ファニー・ヒル
ジョン・クレランド/江藤 潔(訳)
目 次
第一の手紙
第二の手紙
解 説
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第一の手紙
奥さま
たってのご希望にしたがい、何もかもしたためさせていただきます。もとより心たのしきわざとは申し上げられませんけれども、ひとまず恥多い過去をふりかえってみることにいたします。恥多しとは申せ、ともかくそうした日々を経たすえに、愛情にも健康にもめぐまれた今日の境遇をたのしんでいる次第。さりとて花咲く春はなおつづいておりますし、持って生れた知恵の実をはぐくみ育てるゆとりも十分すぎるほど、まだまだ遅すぎるはずはございません。こう申しては何ですが、かつて身をしずめておりました歓楽の巷《ちまた》にあってさえ、わたくしは人さまざまの性格やマナーをくまなく観察いたしてまいったのでございます。だいたい、わたくしどものような不幸な職業にしたがう者のつねとして、深く考えたり反省を試みたりすることは、最も忌み嫌わなければなりません。そんなふうなことはなるべく避けるか、てんから念頭におかないようにするのが普通でございます。
さて、だらだらとした長口上はわたくしの好むところではありませんから、その点だけはどうかご安心くださいませ。ひたすら過ごしてまいりましたままに筆をすすめてゆくつもり、それでわたくしの奔放な過去の暮らしぶりを見ていただくほか、もはや何も申すべきことはございません。
真実! つつみかくさぬ生のままの真実こそすべてでございますもの。ことさらその上にヴェールなどをかける徒《あだ》な努力をいたすつもりは毛頭なく、ただほんとうに身に起こった事実を、ありのまま描きつくせればよいと存じております。いまさら淑徳の婦道をとりたてて申す要もございますまい。わたくしと奥さまのあいだにそんな分け隔てが、今まで一度だってあったためしはございませんもの。それにあなたはその道に関しては、人一倍の知識とセンスをお持ちになっていらっしゃいますし、どんな場面がわたくしの話の中に出てこようと、けっしてあわてふためいたり、ひんしゅくなさる気づかいもない。たとえて申せば、趣味教養のいちだんと高い殿方たちが、ご自分の部屋に裸体画を飾られるのに何とも思われないようなもの。もっとも、俗世間の偏見にしたがい、そういう額を客間だの階段のあたりに掲げられようとはなさらないでしょうけれども。
このへんで前口上は十分なようです。さっそく話をわたくしの半生に移すことにいたしましょう。娘時代はフランシス・ヒルと申しました。ランカシャー州リヴァプール市近在の小さな村で、ひどい貧乏人の子として生れ、信心ぶかい底ぬけの正直者として育ちました。父は手足に大怪我をしてから、田舎のつらい力仕事に従事するわけにいかなくなり、網などを織ってほそぼそと生計をささえておりましたが、母は母で近隣の女の児たちをあつめて学校のまねごとをし、わずかながら世すぎの足しにいたしておりました。わたくしの下になお数人の子供が生れましたが、どの子供も数年を出ずに亡くなり、わたくしだけが生れつき丈夫な質《たち》だったせいか生きのこったのでございます。
十五歳になるまでわたくしが受けた教育といえば、ごくありふれた世間一般のものにすぎなく、読み書き、といってもおもに文字のつづりを書くことで、それすらお粗末きわまるものでした。そのほかに習ったといえるのはどこも同じ、平凡な手仕事が少々、根っきり葉っきりそれっきりでございます。ですから倫理観があったとしても、世の悪徳などについてはまるで無知|蒙昧《もうまい》。おりから物ごとに感じやすい年ごろですし、何ごとにもおずおずびくびく、とりわけ目新しいことにはおどろかされるいっぽうでした。けれども、そうした物おじも知恵の芽が育つにつれしだいに影をうすめ、いつか一人前の若い娘として、だんだん男というものを、女を餌食《えじき》にするたんなる獣としか見ないようになるのでございます。
母はかわいそうに、その生活が全く学校とささやかな自分の家とに二分されており、したがってほとんどわたくしの教育にかかずらっている暇はありませんでした。もともと世の中の悪などとはおよそ無縁でしたから、さしずめそれに対する心構えといっても、別にこれという考えも助言もなかったようです。
さて、十五歳になった年に、わたくしどもは最悪の事態に見舞われ、生活が根底からくつがえされてしまいました。やさしい父母をふたりとも疱瘡《ほうそう》で失ったのでございます。父も母も数日たたぬうち相ついで亡くなりました。まず最初に父が、あとを追うように母が死にました。そんなわけで、わたくしは身寄りのない孤児として、たった一人取り残されたのです(父がこの地に居をかまえたのは、ふとしたいきさつからで、もともとはケント州の出身者だったからです)。両親の命をうばった恐ろしい病気に、わたくしもまた襲われはしましたけれど、さいわいごく軽い症状でしたので、ほどなく危地を脱することができ、あばたも残らずにすみましたが、それがいかほどありがたいことなのか、当時はとんとわからずじまいでした。それやこれやの重なる不幸のうちで、わたくしが感じた人間の悲しみや苦しみを、取り立ててここにしたためるのは差し控えましょう。まもなく、気もそぞろな年ごろのせいか、かえらぬ損失にくよくよすることもなくなり、ふと思いついたロンドンへ出て職をさがすという考えが、いっさいを忘れさせてくれました。それについては、たまたま知人を訪ねて田舎にきていたエスター・デヴィスという若い婦人が、何ごとによらず相談にのり世話をする約束をしてくれましたが、彼女は数日滞在してまたもどることになっていたのです。
こんな計画に反対をしたり、わたくしの身の行くすえを案ずる者は、そのころ村には誰ひとりおりませんでしたし、両親の死後わたくしを引き取ってくれた女の人などは、むしろ出かけることに賛成でしたから、やがて、すべてをロンドン行きに賭け、世の荒海に乗り出そうと決心がつきました。もっとも、一旗あげようと田舎から出て行って身を滅ぼした者のほうが、成功する者よりずっと多いとは耳にいたしておりましたけれど。
エスター・デヴィスは同行するわたくしに、ロンドンで見物できるさまざまなもの――大寺院とか、ライオンとか、国王ならびにそのご一家とか、お芝居とかオペラとかいったようなものの話をきかせ、まだ子供っぽいわたくしの好奇心をかきたて、少なからず励ましなぐさめてくれましたが、言ってみればどれもこれもロンドンに出た彼女の見たものばかり、それでもどの話もあどけないわたくしをすっかり夢中にさせたのです。
思い出してもおかしくなりますのは、無邪気な目を見はらしてエスターが着ていたぴかぴか光るサテンの服だの、一インチ幅のレースつきの帽子だの、けばけばしいリボンだの、銀のかざり紐のついた靴だのをひどくうらやましく思ったことで、わたくしたちのような貧しい娘は、教会へ行く晴着もせいぜい麻のごわごわした下着にウールの服がいいところだったからです。きっとロンドンに行けばそんなものはごろごろしているにちがいない、一つ出かけてどっさり手に入れてみようという気になってしまいました。
けれども、いっしょに都会暮らしができようなどという考えはあまいものだったのです。エスターのつもりでは、ただわたくしを都まで連れて行く面倒をみようとしたまでで、彼女の語り口をかりて言えば、「田舎出の娘だってもう何人も家族ともども立派になってるのがいるわよ。人によっては慎み深いばかりに、ちゃんとした旦那に見込まれ、結婚までして馬車つきの大邸宅に住み、恵まれた暮しをしているわ。時と場合によっちゃ、侯爵夫人にもなりかねないしね。すべて運よ。あたしだってあなただっていつ何時そうならないとも限らないんじゃない?」あれこれ話を聞いていると、もうわたくしは出かけたくていても立ってもいられません。生れ故郷とはいえ、別れを惜しむ身内もおりませんし、両親の暖かい手から急に冷たい他人の手にうつされ、おまけにたった一人のお友だちの家にも、もうあまりお世話になれる見込みのないありさまでは、そろそろいづらくなってきたところでした。それにエスターもとても親切で、両親の死後、借金やお葬式の費用を払ったあと、まだ残っていたわずかばかりの家財道具をお金にかえてくれた上、出発にあたって全部わたくしの手に渡してくれたのです。新しく買った衣類の少々はいった手提げカバン、それに財布には八ギニーと銀貨で十七シリング。でも、それまで手にしたこともない大金で、そんなお金はたちまち費い果たすことなど想像もできません。大金持ちになったようなつもりで、わたくしはまったく有頂天になりました。ですから、エスターがお金といっしょに与えてくれた貴重な忠告にもうわの空だったのです。
ともかく、わたくしたちは乗り合い馬車の人となりました。別れにつきもののつまらぬお話ははしょります。悲喜こもごものうちに涙が数滴こぼれたとだけ申しておきましょう。それから、おなじ理由で道中に起こったことなども省略いたします。たとえば、馭者がいやらしい眼つきでわたくしを見たとか、乗客の一人がわたくしに手を出しかけたものの、後見役エスターが目を光らせて未然に防いだとか、そういったていのものです。公平に見て、彼女は親代りと言ってよいほどよく面倒をみてくれ、それと同時に道中の世話代ならびに保護料として馬車賃を払わせましたが、わたくしは喜んでそれを出しましたし、むしろその程度でよいのかとすっかり感謝したくらいです。
ほんとうによく気をつけて、よけいな出費をしたり、つけこまれたりしないようにしてくれ、お食事などもなるべく質素に心がけてくれました。もともと贅沢なたちでなかったのです。
六頭立てとはいえ、馬車はのろのろ走っていたものですから、わたくしたちが市内に着いた時は、夏の宵もかなりまわったころで、目的の旅館へつづく大通りを馬車がすすむにつれ、そうぞうしい車の波、せわしげに往来する人たち、お店や建物のいっぱいたてこんだ光景、ざっと見ただけで、もううれしくなり胸をおどらせました。
しかしまあ、どうしたことでしょう。宿に着いて荷物がおろされ、めいめいの手に渡された時、それまでずっとやさしくしてくれていた後見人で道づれのエスターが、こんな見知らぬ都会のただ中で誰ひとり頼る者とてないわたくしに、何の予告もなく、ふいに冷たいよそよそしい態度を取るではございませんか。まるでこちらが足手まといだと言わんばかりのそぶりです。その場のわたくしの気の落としよう、驚きようをご想像ください。
ともかく、わたくしは引きつづき何かと彼女の口添えやら助言を得られるものと思っておりましたし、それ以上はけっして望んでもいなかったのですが、どうやら相手は無事に目的地まで送りとどけたことで、約束はすべて果たしたとでも思っていたらしく、ごくあたりまえの様子でお別れの抱擁をするではありませんか。わたくしはすっかり動転して何が何だかわからなくなり、せっかく連れてきてもらったこの街についての知識や経験やらを、じつは「あなたに期待しているのだ」と言うことをさえ、ついつい言いそびれるほど気落ちしてしまいました。
こんな始末で、わたくしがただぼんやりと口もきけずにたたずんでおりますと、どうやらそれが別れのつらさとでも単純に考えたらしく、いくぶんでもわたくしをなぐさめるつもりか、次のようなことをべらべらとまくし立てたのです。「さあ、こうして無事にロンドンに着いたことだし、あたしはお勤め先へもどらなくちゃね。まあ、できるだけ早く勤め口を見つけることだわ。見つからない心配なんてないわよ。教会をさがすよりたくさんあるもの。口入れ屋さんへ行ってみるのも手ね。何かいい話があったら知らせてあげるわよ。当座は下宿にでも入ったほうがいいわ、居場所が決まったら知らせといて。幸運を祈るわよ。いつも正直にしてたしなみを忘れないように、ご両親の名を汚さないようにね」こう言うと彼女は別れを告げ、はじめに出会ったときのように、気軽にわたくしを残して立ち去って行きました。
ひとりぼっちです。全く突きはなされてひとりぼっちです。取り残された身のつらさが、しだいにひしひしと胸をしめつけてまいります。宿の小部屋でしょんぼりとしています。エスターが行ってしまえば、もう頼りにする人とてない悲しい自分の境遇に思いわずらい、ただもう涙にかきくれるばかり。どうやらそれで胸のつかえは取れましたが、そのままぼんやりとすわりきりで、どうしてよいのかとんと見当もつきません。
そこへ困ったことに番頭の一人が入ってきて、ぶっきら棒にお呼びでなかったかとたずねます。わたくしは無邪気に「いいえ」と答えましたが、その晩、泊まれるところはないかときいてみたのです。女将《おかみ》さんに話してみようと言って出て行きましたが、入れかわり女将がやってきて冷たく、部屋の入口に立ったままこちらを見て、一晩一シリングで泊めてあげるが、いずれ市中に知人もいることだろうし(ここでわたくしは思わずため息をついてしまいました。誰もいないんですもの!)、朝になったら身のふりかたを決めるがいい、と申します。
不思議なことに人間の心というものは、大変な苦境に立つと、どんなささいなことにもなぐさめられるものなのです。その晩はベッドにゆっくり寝られると保証されただけで、わたくしの不安もおさまってまいりました。そして市内に知人がひとりもいないことを女将に知られるのが恥ずかしいので、翌朝はまっすぐ口入れ屋へまいることにしたのです。場所はエスターが流行唄《はやりうた》の文句の裏に書いておいてくれました。さあ、わたくしのようなぽっと出の田舎娘でもよかったならどこでもかまわない、わずかばかりの財布の中味がなくならないうちに、どんな仕事にもつくつもりでした。身許保証のことならいつでも頼まれていいと、エスターはなんどもくり返し言ってくれたのです。あんなふうにさっさと立ち去られて内心おもしろくなかったのですが、やはり彼女を頼りとする気持はぜんぜんなくなっていたわけではありません。いえ、生来お人よしのせいか、ああされるのが当たりまえで、最初のように悪く受け取るのは、わたくしが世間知らずだからだと思い込みはじめる始末でした。
そんなわけで翌朝は田舎くさい服ですけれど、なるべく小ざっぱりと身じまいよく着こなして、持っていた手提げカバンはくれぐれも女将さんに頼んであずかってもらい、ひとりで外へ出ました。十五歳になったばかりの若い田舎娘にありがちな、街の看板やお店に目をうばわれるほか別に問題もなく、目的の口入れ屋さんにたどりついたのです。
経営者は年輩の婦人で、帳場の向こうに坐っていて、手前には大きなどっしりとした帳簿がひらかれており、幾枚かの紹介状はすでにでき上あがっています。
ともかく、わたくしはそのえらそうな女の人につかつかと近寄りました。もっとも眼はふせたままで、その場に居合わせた人たちの姿もよく目に入らないありさま。わたくしと同じ用向きでみなさんも来ているふうで、ただもう深々とおじぎをするいっぽうなのです。どもりがちながら、わたくしは何とか用件を述べ立てました。
このマダムは聞きおわると、まるで一国の大臣かなんぞのようなもったいぶった様子で、じろりとわたくしの全身をながめわたしてから、否も応も言わせず、一シリングの申し込み金を出すように命じ、それを受け取ると女の働き口はなかなか少ない、ことにあんたのような力仕事にそぐわぬ躰つきではと申すのです。けれども、帳簿をひとわたり見てみよう、何か似合いのものでも見当たるかもしれない、ほかの人たちを片づけてしまうまで、しばらく待っていてもらいたいと。
そう言われて、わたくしは思わずたじろぎました。はっきりそうと決めつけられると、その場の状況ではとても耐えきれない不安がさっとひろがり、すっかりショックを受けてしまったのです。
やがて気を取り直し、いくぶんでも沈んだ心をまぎらそうと、思いきって顔を少しあげ、ぐるりとお部屋を見わたしてみました。すると不意に一人の貴婦人(まだとても初心《うぶ》な時分でしたから、そんなふうにしか見えなかったのです)の眼と合ってしまったではないですか。お部屋のすみに腰をおろし、ビロードの外套を着て(真夏だというのに)、帽子はぬいだままの姿で、ずんぐりふとった赤ら顔の、五十そこそこと思える年輩の方です。
その方はまるでむさぼるような眼つきで、頭のてっぺんから爪先までわたくしを見つめ、あまり見られて落ち着きをなくし、顔を赤らめているわたくしなどに少しも頓着しないところを見ると、きっと自分の眼鏡にわたくしがこの上なくかなったのにちがいありません。とかくするうちに、わたくしの物腰や態度、躰つきなどくまなく調べ上げた様子、こちらはこちらで気取ったふうに口をへの字に結んでみたり、あごを上げて澄まし顔をしてみたり、これはと思われる格好はみんなやってみて、なるべく有利になるように心がけたのです。すると、あちらは歩み寄って、たいそうしかつめらしい様子でわたくしに話しかけました。
「あなた、どこか働き口をおさがしのこと?」
「はい、どうぞよろしく」(わたくしは床にとどくほど頭を下げました)
するとその婦人は女中をさがしにおりよくこちらに立ち寄ったのだと言い、さらに、少し教育すればわたくしなら十分と思う、それに様子から推して保証人の必要もなさそうだ、ロンドンというところはこわい所で悪党がたくさんいる、よく言うことを聞いて悪い仲間と付き合わないようにしてくれ、などと付け加えましたが、いわば彼女の話はその道の海千山千の業者が考えつくかぎりのもので、手練手管《てれんてくだ》もわきまえず経験もない田舎娘をまるめるには十分すぎるくらい。おまけにこちらは明日から路頭に迷うかも知れぬ不安におびえていた矢先ですから、雇う人が現われれば喜んで飛びつくのは当然で、その人がまた大変格式のありそうな立派な貴婦人とあっては、勝手な想像をめぐらしてすっかり信じこんでもしかたがないではございませんか。といった次第で、わたくしはそのお店のマダムの見ている前で雇われたわけなのですが、マダムがわけ知り顔ににこりと笑ったり肩をすくめた姿はいやでも目にはいってしまいます。けれども、わたくしはただ無邪気に、それはきっと働き口が早く決まったのを喜んでくれているのだと合点しました。あとでわかったことですが、したたか者の女は二人ともぐるになっていたのです。それで、ブラウン夫人――つまり、わたくしの雇主は、しょっちゅう口入れ屋の店先へ出向いて、自分のお客にあてがって利益のあがるような、新鮮な商品をあさっていたわけでした。
とにかく夫人は自分の買物にたいそうな喜びようでしたが、何かちょっかいでも出はしまいか、ひょんなことでわたくしにするりと逃げられるようなことでも起こらないかと、たぶん心配だったのでしょう、ご親切にもどうでも自分の馬車に乗せて宿まで行き、あずけてあったカバンを取り寄せたのです。目の前にわたくしがおりますことですし、宿の者はいささかのためらいもなく、どこへ行くのかもきかずにカバンを手渡しました。
それがすむと、こんどは馭者にセント・ポール寺院あたりの一軒のお店まで行くように命じ、そこで手袋を一つ買うとそれをわたくしにくれましたが、それからあらためて行先を**街にある自宅へと伝えたのです。家の前に馬車が着くまでのあいだ、道々ずっとわたくしは、まことしやかな作り話に酔わされてすっかりうれしくなってしまいました。どの言葉をとってみても、わたくしが幸運そのもので、世界一親切なご主人にひろわれたとしか思えない、とても友だちなどからは聞かれないほんとうに親身の者の言葉でした。ですから、ドアを入るときには心から信頼しきって、うれしくて天にものぼるここち、少しでも落ち着いたならさっそくエスターに、このまたとない幸運を知らせましょうと、固く心に誓ったものです。
すてきな応接間に通されてみると、わたくしの考えの正しかったことがいよいよはっきりしてきたのは言うまでもありません。場末の宿屋の部屋しか知らない者にとって、それはまるで夢のようなお部屋に見えます。縁《ふち》が金の大きな姿見が二台、それに食器棚といったぐあいで、そこには幾組かの銀のお皿が飾られてあり、眼がくらむほどで、これはきっと相当有名なお邸に雇われたのにちがいない、とそう思わないではいられません。
マダムはしつけの手はじめとして、もっと元気を出して打ちとけた態度をするように言います。だいたい世間一般の女中として雇ったのではないから、下働きなどさせない、自分の話し相手だと思っていてよろしい。お行儀をよくしてくれるなら、母親以上の世話をみてあげましょうとも言うのです。それにはただもう、深々とぎごちなく頭を下げるばかりで、「はい」とか、「いいえ」とか、「かしこまりました」とかしか口に出ません。
やがてマダムが呼鈴をならしますと、さきほど出むかえた大柄の女中がやってきました。「ちょっと、マーサ」とブラウン夫人は言います。「下着の世話を頼もうと思って、こんどこの若い方を雇ったのよ。連れてってお部屋を見せてあげてちょうだい。それから、お断わりしておくけど、この方をあたし同様に扱ってくださいよ。とにかく、ひどくこの方が気に入っちゃって、何をしてあげようかと迷っているくらいだからね」
このマーサは悪ずれのしたしたたか者で、こうしたからくりには長《た》けていて、そつのない口先を弄《ろう》していかにも親切ごかしに、わたくしにいっしょにくるように誘うのでした。そして三階までのぼって小ぎれいな部屋に案内してくれましたが、そこには立派なベッドがそなえられており、マーサの話では、わたくしがマダムの従妹と寝ることになっているとかで、その人もまた大変好い方であると受けあいます。それからとうとうと、自分の主人について見えすいた賛辞を並べ立てたものです。「あんなやさしい人はない! そんな人に見出されたあんたがどれほど幸福か、とてもこれ以上の人は望むべくもなかったのだ」とか、といったあんばい。どれもこれも眉つばもののことばかりだったのですが、こちらはぽっと出の世間知らずのお馬鹿さん、心からわたくしのためを思って言ってくれたものとばかり受け取りました。そこは相手もすばやくわたくしの扱い方を見抜き、ぴたりとこちらに調子を合わせた笛を吹いて、籠に入れられながら格子も知らず、籠の鳥で満足するように手なずけたのです。
こうした今後のわたくしの仕事についてのまことしやかな説明を聞いている最中に、呼鈴が鳴ってまた下へ呼びもどされ、先ほどの応接間に連れて行かれました。テーブルには三人分の食事の用意がしてあって、マダムは一家を取りしきるお気に入りの女ともう席についておりましたが、この女の仕事というのがほかでもなく、わたくしのような若い牝馬を調教して、立派な乗馬に仕立て上げることだったのです。ですから、この何やら専門学校だかのれっきとした校長先生ともいえるマダムから、少しでも肩書に権威をもたせるため、彼女は従妹という称号をもらって、わたくしの床相手にえらばれたわけでした。
ここでまたあらためてわたくしは調査され、フィービ・エヤース――わたくしの調教師の名前です――の全面的な賛同をも得て、それからはこの人のお世話になってなにくれと教えてもらうことになったのです。
お食事のお皿が出てまいりますと、マダムは話し相手にするのだといった手前もあるのか、こうした貴婦人がたと席を同じくすることを平に辞退するわたくしを、断固として許してくれません。いくらぶしつけのわたくしでも、物事にけじめをつけねばならぬことぐらい察しがつきますもの。
食卓では、会話はおもにこの二人の婦人のあいだで行なわれ、その内容は二様に取れる表現でつづけられましたが、ときおり中断してはわたくしにもやさしく言葉をかけてくれます。それでわたくしはもう、自分がおかれているその場の境遇にすっかり満足しきって、その上さらに何も要《い》らないと思ったほど、当時はまったく初心《うぶ》な娘でした。
さて話は、マダムの話し相手としてお目見えするのにふさわしい服ができ上がるまで、数日のあいだわたくしは部屋にとじこもって顔を出さないほうがいい、ということに決まりました。それに何といっても最初の印象が大事だからとも注意されたのです。二人のねらいは正しく、田舎くさい服をロンドン仕立てに替えるという話は、いやでもわたくしを部屋の中に釘づけにいたしました。とはいえ、ほんとうのところは、生娘《きむすめ》のままわたくしが自分たちの手もとにとび込んできたものと見て取り、せっかくの宝を高く買うお客がつくまで、一般のお客やお店の牝鹿たち(と、こう娘たちは呼ばれていたのです)に、姿を見られたり話しかけられたりしたくなかったようなのです。
さしずめ重要と思われない事柄は省かせていただきますが、ともかくその時わたくしは、ベッドにつくまでのあいだじゅう、こんな好い人たちにひろわれ、こんな楽しい思いをさせてもらって、ただもううれしさがつのるいっぽうだったのでございます。お夕食も寝室まで運び込まれるありさまで、それがすみますとフィービは、寝間着に着替えるのを恥ずかしがってもじもじしているわたくしを見て、さっと近寄り、手をさしのべ、スカーフやら服についていた留めピンをはずしてくれ、やがてわたくしにすすんでぬぐ気を起こさせたのでした。それでも、いざ肌着だけの姿になってみますと顔が赤らみ、人目をはばかって急いでベッドにもぐり込みます。それを見てフィービは笑いましたが、やがて自分もわたくしの横へ入ってまいりました。この女は二十五歳とかいう話ですが、相当あやしいもので、うち見たところ少なくとも十年はごまかしているようです。たとえ乗馬として長年ならした末にこうなった、そのあいだの労苦が躰にひびいて、早くも衰えのきざしを見せているのだと割り引いて考えてもです。こういう職業の女が衰えを来たしたときには、もう自分から舞台に立つ気力はうせ、ただ仲間の紹介をするだけになり下がるものです。
さて、このマダムのお気に入りの女は据え膳されたあそびのチャンスを見逃すはずもありません。ベッドに入ってくるや、いきなりわたくしにかじりつき、はげしくキスをあびせたのでした。こんなことは生れて初めてでしたし、思いがけないことでした。けれども、きっとやさしさのあまりそうするのだろう、ロンドンではこんなふうに表現するのかも知れない、それならわたくしも知っておかなければならないし、そう考えて後れを取るまいと決心をすると、ひたすら無邪気な情熱をかたむけて、相手に抱きつきキスのお返しをしたものです。
このわたくしの態度に力づけられたのか、フィービはその手を自由にはたらかせます。わたくしのからだじゅうをなでたりつまんだり押してみたり、はっといたしましたが物珍しさも手伝って、全身に血がたぎってまいります。別にショックも受けなければ恐怖も感じませんでした。
そうこうする合い間に、ときどきわたくしをほめそやしたりするものですから、それにはこちらもつい言うままになってしまいます。また、まだ世間ずれもしていないので、何もこわいとは思いません。ことに相手は大きくだらりとたれ下がった乳房にわたくしの手を添えさせ、疑いもなく女であることを示してくれています。いくらわたくしが何の経験もなかったとはいえ、もうそれで十分でした。
すっかり相手の思うようになっておりますと、不思議なえもいわれぬ快い気分になってまいります。からだじゅうどこもかしこも気ままな手さぐりのなすにまかせていたのですが、それはまるでめらめらと燃え立つ炎のようにわたくしの全身をかけめぐり、みるみるかたくなに凍えていたものをぜんぶ解かしてしまいました。
花のつぼみのようにふくらみかけてまだ固い両の乳房をおりた手は、やがてやわらかな絹の褥《しとね》にそえられます。うら若い絹糸のほのかな感触を指先にからませて楽しんでおりましたが、とてもそれだけでは満足できなかったのでしょう、とうとう褥の中までうかがうようになりました。そのあらあらしい手さばきは否応のないもので、本来ならわたくしもそんな目にあわされたら、ベッドをとび出し誰かに救いをもとめるところです。
ところがどうでしょう、そんないやらしい手にさわられながら、わたくしの全身に不逞な血がうずき、あたらしい炎が燃え立ったのでございます。と申しましても、はじめての体験におのずと身はちぢまりました。そのうち、あまりの痛みに思わず「あっ」と声が出ます。それ以上はもうとてもがまんができませんでした。
とはいえ、唇はいつしかものうくひらいて、いくらか持ち上がりぎみになり、ため息さえもれてしまいます。それを見てフィービはくり返しキスをあびせ、さもさも感嘆したように、「ああ、ほんとにすばらしいわ、あんたという女は!……あんたみたいな女を最初に抱く男はどんなに幸福でしょう!……ああ、あたしが男だったら!……」などといかにも取り乱した様子で叫びました。まるで男みたいなはげしい情のこもったキスが合の手にはいります。
こちらもこちらで何が何だかわからなくなり、すっかり夢中になって我を忘れたほどです。なにせ生れて初めてのことなので、どうしてよいのやら。びっくりして血が頭にのぼったありさまでは、考えも混乱してとても正常にもどれません。ただ喜びのあまりどっと流れ出る涙が、躰全体に荒れ狂っている火を多少はおさえてくれましたけれども。
いっぽうフィービは、楽しむことにかけてはありとあらゆる手管をこころえているサラブレッドの牝馬ですから、若い娘を一人前にすることにその気ままな嗜好を満足させていたにすぎず、別に他意があったわけではございません。男性が嫌いなのではなく、いやむしろどちらかといえば男性のほうに惹《ひ》かれていたようなのですが、わたくしたちのような場面に遭遇いたしますと、ありきたりの楽しみ方には食傷ぎみのおりとて、ふだん隠されていた異常性がむくむくと頭をもたげ、男女の見さかいなく手あたりしだいに快楽を追い求めるのです。そんなわけで、フィービは自分の手さばきでわたくしを思いどおり夢中にさせたと見て取るや、こんどはそっとふとんをまくりましたが、すでに下着が首のあたりまでたくし上げられていたこととて、こちらはほとんど何一つまとわぬ姿のまま。それでもわたくしには逆らう気力がありません。顔がまっかになりましたけれども、それは恥ずかしさのせいというより欲望がこうじたもので、そんな姿をなにげなく消し忘れたロウソクの灯が、ありありと隈なく照らしだしていました。
「だめ!」フィービは申します、「いけないわよ、あんた、こんなすばらしい宝がありながらかくそうとしちゃ。目の保養もさせてちょうだい……こんなきれいに咲いた春の花を……キスさせてね……もう一度……なんてやわらかで、それでいてまっ白に締まったからだだこと!……すてきな形をしているわ! それにこの線! ね、もっとよく見させてちょうだい! ほんとに、あたし、たまらないわ……ほんとに……ほんとに……」そう言うとフィービはわたくしの手を取り、どなたにもご想像のつくところへみちびきました。でも、ところは同じでも、人さまざまに異なるものでございます。慈母の懐袍と申しましょうか、おおらかなひろがりに限りなく身のしずむ褥《しとね》。みちびかれたままになっておりますと、かすかな思い出にあるゆりかごのようにゆれうごきました。やがてしっとりと露にうたれて外へ出ます。フィービはさもさも満足したように吐息をつき、わたくしにキスしてくれましたが、その唇からは何かたましいでも抜け出したようなありさま。そしてふとんを元どおりになおしました。相手がどれほど喜んでくれたのか、わたくしにはわかりません。ただその夜、わたくしが女としての自覚に火をともされ、禁断の実に思いを馳《は》せたことはたしかでございます。このように悪い女と知り合いになり交際をすることは、男の誘惑にかかることと同じで、汚れを知らぬ身にとっては往々取り返しのつかぬ破目になってしまいます。それはともかく、話を先へすすめましょう。さて、わたくしはまだとても興奮からさめやらぬ始末でしたが、フィービはひとまず落ち着きを取りもどしますと、言葉たくみにマダムの思惑に必要と思われる点をききただし、こちらも包みかくさず無邪気にそれに答え、少くとも無知でくみしやすく、また誘いにすぐ応じる体質であるなど、すべて相手にお誂えむきのことばかりであったようです。
こんな受け答えをながながとつづけた後、やっとわたくしは休ませてもらい、ぐっすり眠りこけました。はげしい心の動揺にくたくたに疲れていましたので(また、あまりにも血がさわぎ気も立っていましたので)、おのずと夢の中に先刻のなまめかしい行ないが現われて、さらにわたくしをなぐさめてくれたのでした。
翌朝目をさましたときは、かれこれ十時になっており、まったくすっきりとして好い気分でした。フィービはわたくしより早く起きていて、どうだったか、よく眠れたか、朝食にしてもいいかなどと、いかにもやさしい態度でたずねます。また、まともに顔を合わせてわたくしに昨夜の光景を思い出させ、まごつかせないように、気もつかってくれます。それにこたえて、よろしければ起きて何でも仕事をするから、どうか申しつけてくれと言いました。するとフィービはにっこり笑います。まもなく下女が朝のお茶のセットを運んできました。わたくしが起きて服を着終わったとき、申し合わせたようにマダムがふらりと入ってきましたので、これはきっとお寝坊をしていたので何かお小言をくうのではないかと思っておりましたところ、意外にもわたくしがとても美しくみずみずしく見えるとか、うれしいおほめの言葉だったのです。「あなたは美しい花のつぼみだわ」(こういう表現を彼女はします)、「世の中のすてきな男という男があなたを賛美してやまないでしょう」などと言われては、とても気のきいた答えなどできはしません。けれども、そのほうがかえってよかったのです。初心《うぶ》で間のぬけたそんな返事こそ相手の願うところ、物なれたおりこうさんの言葉より、正直、はるかに喜ばれたようでした。
朝食がすんでお茶の器などが下げられますと、すぐに衣類が二包み運び込まれました。それは二人のお説のように、まったく当座をしのぐものばかりでした。
でも奥さま、まだやんちゃだったわたくしが、銀糸で花模様のついた白い絹地やら――といってもほんとうは洗いざらしで、それを新品だと手渡されたのですが――ブラッセル・レースづきの帽子やら、ブレイドのついた靴やらを一目見て、どれほどうれしくうきうきしましたことか、まあ、ご想像くださいませ。すべての品はどちらかと申しますと中古が多く、とっさのあいだにブラウン夫人がせっせと取りそろえたものばかりで、実を言うともうすでに夫人は、わたくしがお目見えする相手を家に呼んでいたのでございます。その男はただ下検分をするだけではなく、なりゆきでわたくしが気に入れば、すぐにでもものにするつもりで臨んでいたわけで、こんな家でいつまでも処女を守り通せないことなど先刻ご承知だったのです。
着付けの世話や商品としてのわたくしの仕上げはすべてフィービにまかされ、うまくはありませんが彼女はてきぱきと仕事をすすめ、ともかく見られる程度に仕上げてくれたのですが、わたくしは早く衣裳をつけた自分の姿が見たくて気が気でなりませんでした。おめかしがすんで鏡に姿をうつしてみますと、その変わりように思わず子供らしい喜びをかくせません。でも、じっさい、そんな姿は以前にくらべてはるかに悪いものです。それまでのような簡素で質朴な服装のほうが、ぶざまでけばけばしい着なれないものより、わたくしにはずっと似合っていたにちがいありません。
フィービは自分の腕まえによることも一言忘れずにそえて、わたくしの姿をほめてくれましたが、そんなふうに言われたのは何しろはじめてでしたので、まんざらでもございませんでした。別にしょって言うわけではありませんが、まあこれなら人さまに好かれて不思議はないと思えました。ですから、ここで奥さまに当時のわたくしの容姿をいつわらずお伝えするのも、あながち本筋をはずれたことではございますまい。
わたくしは背が高うございましたが、前に申し上げたとおり、もう十五歳にもなっておりましたから、年からすれば別に高すぎたわけではありません。からだの線はすらりと伸びて、ウエストなど何も締めたりしないでも自然にほっそりとしていました。髪はとび色でつやつやしており、絹のようにやわらかく、生れついた巻き毛のまま頸のあたりまでたれ、白いなめらかな肌をいちだんと引き立たせていました。顔はどちらかといえば血色がよすぎるほうでしたが、きゃしゃで丸味をおびた卵形の面立ち、あごのへんにちょっとしたくぼみがありましたものの、特にさしさわりがあったとも思われません。瞳はとても黒いほうで、きらきら輝いているというよりむしろ愁《うれ》いをふくんだものでしたが、時とばあいによって火のように燃えているとも言われました。歯はかねがね手入れを怠りませんでしたから、小さかったとはいえまっ白に光っております。胸は快く盛り上がっていて、当面の発育はともあれ、いずれはむっちりとした立派な乳房になることを、一目でそれとわからせていました。いいえ、じっさいほどなくそのとおりになったのです。一口に申し上げますと、一般に要求される美しさの条件が、すべてわたくしの一身にそなわっていたわけですが、少なくとも存じよりの男の方たちはどなたも高く評価してくださいましたし、その人たちの権威ある裁定をくつがえすことなど、とうてい自尊心がゆるしません。それに同性の中にも、高く評価してくれる人もございまして、ひときわ目立つわたくしの容姿をことさらけなしてみる手合いもおりましたが、それは心ならずもかえってほめてくれる結果になったのです。多少うぬぼれ過ぎているきらいはございますが、もしわたくしがお行儀のよいところを見せて、天与の価値ある容姿について一言も申し上げなければ、奇蹟のような現在の幸運と喜びをもたらしてくれた神から授かった躰に対し、忘恩のともがらとなりましょう。
それはともかく、わたくしは着替えをすましましたが、こんなおめかしがただ生贄《いけにえ》に供されるためのものとは、露ほども念頭にうかびませんでした。それどころか、やさしいブラウン夫人の友情と親切とばかり無邪気に考えていたのです。うっかり書き忘れておりましたが、夫人は旅費を払ったあとに残ったわずかばかりのお金(と、今では申せますが)を、なくなさないようにしまっておいてあげると言って、さっさとわたくしからまき上げたものです。
さて、ほんのしばらく鏡の前で、わたくしは自分の姿というより着替えた新しい衣裳に見ほれて立っておりましたが、やがて呼ばれて応接間へまいりますと、夫人がちょっと会釈して、新しい衣裳でうれしいだろう、ぴったり板についていてまるで今までずっとよい服装をしてきたようだ、などとぬけぬけと申します。しかし、彼女にしてみれば、何を言ったところで真《ま》にうけるお馬鹿さんだぐらいにしか、わたくしを見ていなかったのでしょう。そう言いながら、またしてもでっち上げた従兄《いとこ》なる年輩の紳士を紹介いたします。この男はわたくしが部屋に入ってくると見るや立ちあがり、こちらが丁寧におじぎをしますと、ちゃんとそれにこたえてくれましたが、キスする段になってわたくしが頬だけさし出しますと、いささか気を悪くしたようなのです。一ぺんぐらいのまちがいですから、すぐにやり直しをして、こんどはいやに熱っぽい唇をぴたりとわたくしの口へ押しつけてきましたが、男の姿を見ただけでとても感謝のできるしろものではございません。その様子ときたら世の中にこれほどぞっとするいやらしいものはないくらい。醜いとか不快感をもよおす、などという言葉では十分意をつくせないほどです。
まあ一つ、ずんぐりして不格好な六十過ぎの老人をご想像なさってください。どす黒く黄いろ味がかった顔、ぎょろりとした眼はまるで締め殺されかけた人間のように飛び出しているのです。口端からは牙《きば》といっていいような歯が二本突き出ていますし、唇はなまり色で、その息のくさいことといったらありません。おまけに白い歯を見せてにやりとしたときの独特のすごみは、全く人をぞっとさせるもので、おなかの大きな婦人などにはだんじて見せられません。こんな世にもみじめな躰に生れながら、この老人は誰が見てもあきらかなおのれの醜さに全然気づいていず、ひとかどに女にもてるものと思い込んでいるようで、まさか自分がまともに見られていないなどとは、疑ってもみなかったのです。そんな考えですので、いかにも彼が好きなふりをして泣く泣くサーヴィスする女たちには、莫大なお金を与えておりましたが、いっぽう、一目見てぞっとしたあまり、その恐怖をかくすすべも辛抱《しんぼう》もない女たちには、野獣のごときふるまいさえ、あえていたしたものです。この男が何かと意をみたす刺激的なことをもとめましたのも、自然の欲求というよりもすでに不能だったからで、いま一息の力が足らず、思うようにいかないことはよくございまして、そんなおりはいつでも手に負えないほどかっとなり、その怒りを目前の罪もないかりそめの相手へぶつけるのでした。
こんな化けものの手へわたくしを渡したのは、ほかでもなく信頼しきっていた恩人のマダムです。彼女はひさしいあいだ一手に生贄を提供しつづけてきたわけで、その時わたくしを下に呼んだのも化けものへの試供品としてだったのです。ですから、わたくしを相手の前に立たせますと、ぐるりと一回りさせてからスカーフを取りのけ、ふくらみかけてきた肌白の胸の起伏や曲線がよく見えるようにいたしました。ついでわたくしに歩かせてみせ、その田舎っぽい風情《ふぜい》までも売りつける口実にしたものです。要するに彼女は、牝馬をあつかうつぼをすべて心得ている調教師と申せましょう。それにこたえて、男はいかにもといったふうにうなずいてみせ、一方でさかりのついた山羊か猿のような視線をわたくしにあびせました。それがわかりましたのも、ときどきちらっと男の様子を盗み見ているうちに、その恐ろしい鋭い眼にぶつかってしまい、心からぞっと震えて目をそらしたからで、それなのに相手は、わたくしのそんな様子を、まあ娘じみたはにかみか、せいぜいそのふりをしているにすぎないぐらいに受け取ったようです。
もっとも、まもなくわたくしはさがらせられ、フィービにもとの部屋まで連れてこられましたが、彼女はぴたりとわたくしに付きそったまま、いっこうに立ち去りません。おそらくひとりにしておいたら、よほどのお馬鹿さんでないかぎり、暇にまかせて、さいぜん過ごした妙な光景をいやでも思い起こさずにはいないとみたからでしょう。でも、お恥ずかしい話ですけれど、ありていを申し上げれば、わたくしはその当時よほどの間抜けか世間知らずの愚か者だったのでしょう、そんな目にあってもまだブラウン夫人の魂胆に気づかないありさまで、彼女のいとこだかはとこ[#「はとこ」に傍点]に対しても、身ぶるいするほどのいやらしさを覚えながら、恩人への手前その身内には敬意を表しておかなければと思うほか、べつだん何の関心もいだかなかったのでございます。
ところがフィービときたら、あんな立派な紳士なら夫にもっていいではないか、などとしきりに話しかけて、わたくしの心を例の化けものへ仕向けようと試みます。(立派な紳士というのは、男がやたらとレースで服を飾りたてていたからだと思います)わたくしはそれにきわめて当たり前な答えをいたしました。つまり、結婚などまだ念頭にないこと、よしたとえ婿えらびをするにしても、きっと分相応の相手にするでしょうと。とにかく、えたいの知れないぞっとするようなお化けはもうこりごりで、およそ立派な紳士≠ネどと称されている連中は、きっと誰もあの男の同類にちがいない、そう思うとうんざりしました。けれどもフィービはそんなことで引きさがるはずもなく、わたくしをこの家の仲間に引き入れようとして、根気よくなだめたりすかしたりしつづけます。まあ、男全般について話しているかぎり、わたくしを納得させる理由にこと欠くわけもなく、たやすくわたくしの関心を買えた次第。とはいえ、いくら海山千年の彼女でも、例の驚くべき従兄に対する一種異様な嫌悪の情が、自分たちの取り引きに歩調を合わせて、うまくわたくしの心から消えうせるとは見ておりません。
そうこうしている暇に、ブラウン婆さんは薬草くさい狸爺さんと手をうっていたのです。後ほど聞いたところでは、そっくりわたくしの躰をあずける代償に五十ギニー、すっかり望みがかなえられた暁(つまり、わたくしの処女の砦が陥落したばあい)にはさらに百ギニー、といったあんばいだったようです。そしてわたくしに関するかぎり、すべて爺さんの好悪の判断にまかされていたというわけ。こんな不当な契約でもいざ結ばれたとなりますと、さあもう爺さんは矢も楯もたまらぬ催促、さっそく午後にでもいっしょにお茶を飲みたいと言いはります。もちろん、二人きりでということでした。そうなると、やり手婆さんのマダムが、まだ十分に準備もととのっていない、性急に仕かけるには成熟しきってもいない、それにここへ来てまだ二十四時間たつかたたないかだし、場所になじんでもいない、早すぎると、いったぐあいに忠告をするのですが、聴く耳を持たばこそでした。気ぜわしいのは欲望にかられた者のつねで、こんなばあい、生娘が一応の抵抗をすることぐらい先方は先刻計算ずみでしたから、自尊心にかけても延期は絶対に承服できなかったのです。それで結局、わたくしの知らぬうちに、恐ろしい試練はその夜実行にうつされることに決まりました。
お昼の食卓では、ブラウン夫人もフィービもただもう恐るべき従兄をほめそやすばかりで、あんな人に気に入られる女はどんなに幸福だろうかと語りかけます。かいつまんで申し上げますと、二人は弁舌のかぎりをつくしてわたくしの説得にかかり、「あの方は一目見ただけであなたにぞっこんほれこんだのよ……すなおに言うことをきいてくれれば……あの方の面目を立ててくれれば……あなたは一生面倒をみてもらえるのよ、それに専用の馬車にも乗れて外出できるのよ……」どれもこれもわたくしのような愚かで無知な娘をぼうっとさせるには十分ですが、さいわい嫌悪の情がすでに根ぶかくはびこっておりましたので、直感的にわたくしの心は固く守りをかためた次第です。それにそうした感情をかくす術《すべ》もぞんじませんでしたので、かんたんにはお客の望みどおりにいかないことが、二人にもわかったようです。どしどしお酒もグラスに注がれましたが、おそらくそれは差し迫った戦いにそなえ、生来の熱しやすいわたくしの素質を、いくぶんでも助長させておくつもりだったのでしょう。
こんな調子で二人はながながと食卓にわたくしをしばりつけておりましたが、かれこれ夕方も六時ごろになりましたでしょうか、やっと自分の部屋にもどりますと、お茶が一そろい運び込まれるとともに、マダムが入ってきて、つづいてあの醜い半獣神も独特のうすら笑いをもらしながらついてまいるではありませんか。そのいやらしい様子を見て、最初に受けた嫌悪感があらためて確かめられました。
どっかとわたくしの前に腰をおろした老人は、お茶のあいだじゅう妙な色目で人を見ます。わたくしがまったくやりきれない思いでそわそわいたしますと、それに気づいて、まだ不馴れのためにはにかんでいるのだと勝手に決めてかかりました。
お茶がすむと、やり手婆さんのマダムは、急用があるから出かけてこなければと言って(これはほんとうでした)、それからいかにも真顔で、留守のあいだここにいる従兄のいいお相手になってちょうだい、お互いにためになることだからと言いそえ、こんどは老人に向かって、「どうかうちの可愛い娘にうんとうんとやさしくしてくださいな」と頼みました。思いがけないマダムのとっさの出発に、異をとなえることもできず、ただぽかんと口をあけているわたくしを後に、彼女はさっさと部屋を出て行きました。
残ったのはわたくしと老人だけ。そう考えると急にがたがた全身がふるえてまいります。理由はさだかでございませんが、とにかくとてもこわくなり、煖炉《だんろ》のそばの長椅子に身うごきもせず、生きた心地もないまま化石のようにじっとうずくまります。どこに目を向けてよいのやら、どう躰をうごかしてよいのやら、とんと見当もつきませんでした。
でも、いつまでもそんな状態にしておいてはくれません。年老いた怪物がそばへきて腰をおろしたのです。そして何の前ぶれもなく、いきなり両手をわたくしの頸へかけ、ぐいとばかり自分のほうに引き寄せると、逃れようともがくわたくしを無視して、むりやりそのいやな臭いを放つ口をなんべんも押しつけました。わたくしはほとんど気を失いかけたくらいです。ぐったりして抵抗もしなくなったわたくしの姿を見ながら、こんどは頸にまいてあったスカーフを引きちぎり、のぞいた肌をためつすがめつ手にふれたりいたします。物を言う力もなくなったわたくしが、ただじっとたえ忍んでおりますと、それに勢いを得たのか相手はもう何の遠慮もなく、わたくしを長椅子に寝かせにかかります。やがて男の手がしっかり組み合わせていたわたくしの膝へ、じかにふれるのがわかりました。一生懸命閉じている膝をひらこうといたします……はっとしたわたくしは起きあがって、相手がまさかと思うほどの勢いでとびすさり、その足もとに身を投げだすと、切々とした口調で、どうかもう乱暴をしないでくれ、わたくしのからだを苛《さいな》まないでくれと頼みました。――「苛むだって?」野獣は申します、「痛い目にあわせるつもりはないよ……婆さんからわしがお前にほれとることを聞いてなかったのか?……十分金は払うんだよ」「たしかにそうは聞いております」わたくしは答えました。「でも、わたくしあなたが好きになれません、ほんとになれません!……どうかひとりにさせてくださいませ……どうか!……ひとりにさせてくださって、この場をお引き取りいただければ、きっとわたくし、心からあなたが好きになれます……」けれども、何を申したところで風に向かってほえるようなもの。そして、涙にくれるわたくしの姿を見てか、乱れた裾のなまめかしさに刺激されてか、それとも今やおさえきれなくなった情欲にかられてか、鼻息もあらく口からあわさえふいて、ふたたび襲いかかり、わたくしをつかまえるとまた長椅子におさえこもうとします。こんどはどうやらそれに成功いたしますと、裳裾《もすそ》を頭ごしにはねのけ、両足もあらわなていにまでいたしました。わたくしはかたくなに膝を閉じます。いくら男がひらかせようとしても、けっして大道でわがもの顔をさせるつもりはございません。さあ、男が服をぬいでいたかどうか、わたくしにはただ体の重みばかりが感じられ、憤りにかられてもがきつづけるだけ、もう恐ろしさで息もたえだえです。すると急に男の力がぬけてしまい、わたくしは椅子からとびおりて、はあはああえぎながら何べんも口ぎたなくののしりました、「けがらわしい爺いめ!」必死の抵抗のすえ、そんな言葉がおのずと口をついて出たのです。
のちほどわかったことですが、どうやらこの野獣のようなお爺さんは、懸命にわたくしと争っている最中に、ついにせっぱつまってしまったらしいのです。おしまいまで果たしおえるにはその能力があまりにもはかなすぎたようです。そんなわけで、わたくしの下着はいつのまにか汚されていました。
すんでしまうと老人は、吐き出すようにわたくしに向かって言いました。「もう二度とお前のことなんぞ考えてやらんぞ……あの婆あ、ほかの百姓娘をつれてくればいいんだ……このおれさまはそうそう猫かぶりの田舎娘に馬鹿にされんぞ……お前なんぞはとうの昔にどこかの田舎っぺえが手をつけて、そのあまりかすをロンドンくんだりまで切り売りに来たという寸法だろう……」と悪口雑言の連発です。それを聞いたわたくしのうれしさは、恋人に口説かれている女の比ではありません。なぜかと申しますと、もうこのうえ身の毛のよだつ思いをしないですむからです。これだけ文句を並べた以上、あの何ともいやらしい愛撫を二度とくり返さない保障と見ていいでしょう。
ブラウン夫人の意図がこんなにはっきりとしたのに、なおもわたくしは自覚する意志と勇気に欠けておりました。それほどの悪女なのにひたすら頼みとして、なかなか手を切ることにふみきれません。身も心も彼女に一任したつもりでございました。というよりも、みずから欺《あざむ》いて初対面の好印象をしいてずっと持ちつづけていようとしたのです。そして、今すぐ家を追われて路頭にまようよりも、そのまま最悪の事態にいたるまで手を束ねて待つ道をえらびました。無一文で助けてくれるお友だちもないありさまでは、心配のあまりそんなばかげた考えしかうかびません。
あれこれ頭の中をとりとめのない考えがかけめぐり、そのあいだわたくしは煖炉のそばでしょんぼり腰をおろしていました。涙がにじんでまいります。襟《えり》ははだけたままになっておりました。帽子もさきほどの騒ぎでどこかへ飛んでしまって。お察しください、そのため髪はもうめちゃめちゃでございます。このような花も咲きごろの娘の取り乱した姿を目前に見て、暴漢の欲望はむらむらとふたたび首をもたげたようでした。なにせ花はまだ手折っておりませんし、もちろん、手折ることが別してむずかしくもなかったのでございますから。
すこし間をおいてから、老人は思いきりやさしい声を出して、婆さんが帰ってくるまでに話がまとまれば、万事うまくゆくんだがと申します。そう言ってわたくしにキスをし、胸をまさぐりながら、うんと可愛がってやるぞとも付け加えました。けれども、その時はもう、わたくしの嫌悪感も恐怖感も憤りも絶頂にたっしておりましたので、われにもあらぬ勇気が出て、男の手をふりきると、いっさんに呼鈴にかけ寄り、相手に気づかれぬ間にそれをはげしく鳴らしましたが、女中に来てもらって何を老人がしでかそうとしているか知らせるつもりでした。女中のマーサがあわてて飛び込んできたのは、野獣のような老人がさらに乱暴をはたらこうとする直前です。鼻血をながし髪をふり乱したわたくしが床にころがされている姿が目にはいります。それはなんとも凄惨《せいさん》な光景で、おぞましい迫害者はなおもその野蛮な手を引こうとしません。泣こうとわめこうとさらに動じないのです。マーサはどうしてよいのかわからず、ただおろおろしておりました。
つねづねこんな光景には鍛えられて、ややもすれば女の心を欠くマーサにせよ、黙って見ているわけにいかなかったようです。それに、その場の様子から、どうやら筋書もこの家のしきたりどおりほぼ終わって、それでわたくしがこんな始末になっているのだと察したらしく、即座にこちらの肩をもってくれ、この娘を少し休ませるため下に行かせたらどうか、そうすればじきに元気をとりもどすだろうし、外出しているブラウン夫人やフィービが帰ってくれば、またご満足をいただけるようにはからうだろうから……哀れなか弱いこの娘をしばらくそっとしておいてもよいではないか……とにかく驚きました、こんなふうになさって……まあ、女将《おかみ》さんがもどるまで、あたしがこの娘をあずかっておきましょう、といったあんばいで老人を説き伏せてくれました。それも断固として取りつくしまもない口調です。怪物のような老人はいつまでいてもらちがあかないと見て取ったのか、帽子を手にするとぶつぶつ言いながら、まるで年寄りのひひ[#「ひひ」に傍点]みたいな皺を眉に寄せて、部屋を出て行きましたが、おかげでわたくしも胸の悪くなるようなお化けの姿に、ぞっとせずにすんだ次第です。
老人がいなくなりますと、マーサはとてもやさしくなにくれとなく面倒をみてくれ、元気をつけるように鹿角精などという強精剤まで持ってきてベッドで寝るようにさえ申します。でも、ひょっとしてまたあの化けものがもどってきて、むごい目にあわされるのではないかと心配でしたから、横になることはどうしても断わりました。けれども、少なくとも今日のところはもう大丈夫だからと受け合ってくれましたので、わたくしもその言葉を信じて横になりました。さいぜんの騒ぎでほんとうにぐったりしていましたし、ひどいショックを受けて不安のどん底につき落とされておりましたので、もう起きあがる力もなく、好奇心でいっぱいのマーサが根ほり葉ほりいろいろときいても、ろくろく返事もできなかった始末です。
あまりにも残酷すぎる運命です。それでもわたくしは自分に罪でもあるかのように、ブラウン夫人と顔を合わせるのが恐ろしゅうございました。きっと夫人の心を傷つけるにちがいない。いいえ、こう考えましたのもじつは、わたくしがいくら懸命に身をまもりましたにせよ、それは決して貞節の徳とか立派な主張によるものでなく、はじめて相対した野獣のような恐ろしい男がいやでいやでならなかったからで、動機は単にそれだけにすぎなかったのです。こう申し上げれば、あながちご不審に思われますまい。
とにかくわたくしは夫人が帰ってくるまで、ずっと恐怖と絶望にかられどおし、その心中はお察しくださいませ。
夜もふけてかれこれ十一時ごろ、二人の女は帰ってまいりました。出迎えに出たマーサからおよその話を聞き、クロフツさん(例の野獣の名前です)はマダムを待ちくたびれてお帰りになったと知ると、二人はあらあらしく階段を踏みならしてやってまいりましたが、血にまみれてまっさおな顔をし、精も根もつきはてたわたくしの様子に、叱りつけようとした勢いをそがれ、かえってなぐさめたり元気づけたりする始末。こちらこそほんとうは二人にうんと文句を言いたいところなのですが、何だかそれも空恐ろしく気がくじけた次第です。
ブラウン夫人が引き取りますと、やがてフィービがわたくしのそばへ横になりましたが、なにくれと聞きただしたり、みずから手でふれて確かめたりしているうちに、どうやら実際に傷つけられたのではなく、たんに驚かされたにすぎないのがわかったらしく、それでほっとして眠気がさしたのか、お説教や講義は翌朝までおあずけにして、わたくしにかまわずさっさと眠ってしまいました。残されたわたくしはおちおち眠れません。転々と寝返りをうったりして一晩中ほとんど、あらぬ思いや恐怖にさいなまれて悶々と過ごしました。疲れも手伝って半ば錯乱状態のまま、うつらうつらしておりました。それやこれやの果て、翌朝おそくわれにかえってみますと、大変な熱です。おかげで、とてもこのままではただですみそうになかったわたくしの運命でしたが、少なくともしばらくのあいだ、死ぬよりつらいあの老人の魔手を逃れられたのでございます。
病いに臥しておりますうちは、家じゅうの者がみな親切に世話をやいてくれました。早く元気にさせてお客とのいかがわしい取り決めを果たさせたいためなのか、それとも新規のお客でも仕向けたいのか、そのへんはわかりませんけれど、あいかわらず人のよいわたくしのこととて、一生懸命看病してくれる食わせ者の連中に、すっかり感謝いたしておりました。でも、何はともあれ、病いのもとになったあの野獣のような乱暴者に会わせないようにしてくれたことはほんとうにありがたく、それもこれも名前を聞いただけでわたくしが震えあがったからかも知れません。
若いうちは病気の回復も早く、数日もたたずに熱はすっかりひきました。しかし何といっても、人心地がつくように治してくれたのは、おりからクロフツさんに関して入った次のようなニュースでございます。彼はかなり手広く取り引きをしていた商人でしたが、密売品をあつかったかどで四万ポンド近い罰金を科せられ、それが払えずに警察に逮捕されたとかで、とても再起のめどは立たず、もう破産したも同然で、わたくしに何かする力など二度と生ずるはずもありません。否応なしに牢に入れられてしまっては、そうそう出られるわけがないでしょう。
老人がブラウン夫人に払った五十ギニーは結局役立たずにおわり、残りの百ギニーは夫人ももらえずじまいとなりましたが、事件のおかげでわたくしが老人にいたしました仕打ちも、どうやら好意の眼で見られるようになりました。それに元来わたくしが、この家の仕事を格別に嫌がってもいないのだとわかると、住み込んでいるほかの女たちとも話すのが許され、そうなると皆もぞろぞろやってきて、べちゃくちゃおしゃべりをしながら、マダムに旨をうけたとおり、わたくしを丸め込みにかかるのでした。
こんなわけで女たちはわたくしの所へやってまいりましたが、さすがは尻軽な連中の暇つぶし、その上っ調子のにぎやかさときたらありません。ところがわたくしにはそんなはなやかさだけが目について、何となくうらやましく思われてなりません。いえ、そればかりか、連中の一員になりたいとさえ考えるようになりました。全く堂に入った勧誘ぶりです。わたくしはもう一日も早く全快して、みんなの仲間入りができればよいと願いました。
おしゃべりをしているうちに、人に教えられたものではない生れつきの純心さが失われていきました。それにわたくしのような年ごろでは、焚きつけられるとすぐに悦楽の炎が燃え立ちやすく、それが妙に作用して、言われないでも自然に身にそなわっていた羞恥心が、まるで日の光を受けた露のように、みるみる消え失せるのでした。しょせん、いつ追い出されて路頭に迷うか、そんな絶え間ない不安がわたくしをして何もかも必要悪だと思わせた、と申し上げるほかにございません。
病気はまもなく全快いたしました。時間によっては家じゅう歩きまわることも許されました。けれども、バースのB**卿がお見えになるまでは、一般客の目にふれないよう注意がはらわれたのです。ブラウン夫人のこのB**卿の洗練されたおうようさに期待をかけ、相当の値ぶみを受けていたわたくしの取っておきのしるしを、一つお試しにならないかと申し込んでいたわけです。それでは二週間以内にと先方も約束いたしましたので、夫人もまあそれまでにはわたくしもすっかり元気になり、従前どおりの美しさと新鮮さを取りもどすものと判断し、これならクロフツ氏の時よりずっといい取り引きになると見たようです。
そうこうするうちに、わたくしはもう全く連中の思うつぼにはまり、丸め込まれてしまっていましたから、いくら籠の蓋があいていようとどこへも飛び出さず、むしろその場にじっとしているほかは何も考えない小鳥さながら。おまけにそんな境涯を苦にする心はみじんも起こらず、ひたすらおとなしく夫人が何か言いつけるのを待っているばかり。向こうは向こうで腹心の女ともども、必要以上に気をくばって、ちょっとでもわたくしが自分の運命に気づかぬように、そっとあやして寝かしつけようとします。
そうなると道徳なんぞはそっちのけ、悦楽に彩られた人生ばかりが語られます。愛撫を受け、うれしい約束をし、甘い言葉に酔い、という調子で、早い話がわたくしを完全に手なずけて、どこの誰にも真剣に相談させまいとする腹、ただそれだけでした。ところがわたくしときたら、夢にもそれと気づかなかったのです。
わたくしの初心《うぶ》な心を堕落させたのは、それまではおもに集まってくる女たちでした。羞恥心などはどこ吹く風といったあんばいで、みだらな話に打ち興じ、男との交渉などもこと細かに話すものですから、この種の職業の実態や秘密は大づかみながらわかりましたものの、同時にわたくしの全身の血管はすみずみまで刺激をうけ、あつい血潮はいやが上にもわきたちます。けれども、何と申しましてもわたくしが師事いたしましたのは同衾《どうきん》相手のフィービで、その全力をかたむけて最初の喜びを味あわせてくれました。さあ、そうなるとその楽しさに目くるめいて血がのぼり、フィービのたくみな誘いも手伝って、好奇心がおのずと首をもたげたところで、なお暗示をかけてはわたくしに次々と質問をさせ、ついにはヴィーナスの神秘をことごとく説明してくれたのです。でも、わたくしは説明だけでは満足できず、この眼で実際に確かめずにはいられませんでした。
ある日のこと、正午ごろでしょうか、熱もすっかり下がって元気を回復していたわたくしが、たまたまブラウン夫人の寝室につづくうす暗い小部屋で、女中用のベッドで休んでおりますと、たしか三十分もいなかったのですが、そのうち向こうの寝室で衣ずれの音がするではありませんか。こちらとの境は二つの扉だけで、その扉にはめ込まれたガラスには黄色いどんすのカーテンが二枚かかっていましたものの、とくにこちら側から中の様子を見せないようにさえぎっているわけでもございません。
さっそくわたくしは足音をしのばせて近寄り、向こうからは姿を見られないように身を隠し、中の様子をくまなくのぞき込みました。入ってきましたのはなんと尊敬するわたくしの主人ではありませんか! 連れてきたのは背の高いたくましい体躯の騎兵さんで、まるでヘラクレスさながらのいで立ち。その美事さは、さすがロンドンきっての腕達者のマダムがえらんだだけのことはございます。
わたくしは息をひそめてじっと立っておりました。少しでも音を立てたらせっかくの苦心も水のあわ、おまけにマダムに見つけられてしまいます!
けれども、いずれもわたくしの思いすごしで、マダムはもう目前の大事に手いっぱい、ほかのことなどにかかずらっている騒ぎでございません。
ぶざまにふとった躰で、ベッドのすそにどっかと腰をすえたマダムの格好のこっけいなこと、それもちょうど境の扉の真正面でしたから、こちらを向いてすてきな姿はまる見えです。
彼氏がかたわらに腰をおろしました。むっつり屋のくせに意欲は旺盛らしく、たちまち本論に入るつもりか、二、三回はげしく女に平手打ちをくわせますと、さっそく両手を胸元にくぐらせ、左右の乳房をとりだしましたが、出てきたのはとてもとてもお行儀のわるいしろもの、だらりとおへそのへんまでたれ下がっております。こんな大きなしろものにはついぞお目にかかったためしがございません。しかも色つやは悪いし、たるんでぶよぶよで、左右がくっついて離れないのです。そんな乳房でも、食欲さかんなこのむっつり屋さんは渇《かわ》いたように手をのばし、なんとかつかもうとするのですが、片手ではちょっと無理でした、羊の背をつかむのとおっつかっつの始末でしたから。しばらくそんなことをくり返しておりましたが、やがて男はいきなりマダムをベッドにたおし、ペチコートをさっと裏返しにします。どうやらそれで、わずかなブランデーでまっかになったマダムの大きな顔はかくれたようです。
かたわらに立った男は身じたくをととのえにかかりましたが、マダムのほうはだらりと寝たままです。大変なながめが全部わたくしの眼にうつります……。陰翳をやどしてゆたかにひろがる山あいは、何ものをも誘い込まずにはおかない風情。
けれども、やがてわたくしは思わずはっとするような光景に、全く気をうばわれてしまいました。たくましい彼氏がいよいよ身じたくをすませて、りんりんたる勇姿を見せたからです。そんなすばらしい光景に一度だって出会ったことはございません。いやでもわたくしは目をみはらざるをえませんでした。胸をときめかせて呆然と立ちすくむばかり。しだいにからだの中が燃えあがります。とにかくすばらしいものでした。話に聞いていたとは雲泥の相違です。見ているあいだにわたくしはすっかり圧倒されてしまいました。
待つ間もなく、この若い粋な騎兵は、まるで剣を振りかざして突撃をするあんばいで、二、三度からだを揺すると、マダムに襲いかかったのです。あいにくこちらからは後姿しか見られませんので、前のめりになったところまでしかわからず、まあ、その動きから見て、よもや目標をたがえたとは思われませんでした。つづいてこんどはベッドがきしみ、その上のカーテンがもつれあい、二人の吐息やささやきはほとんど聞き取れません。それらの伴奏は終始鳴りやまず、この鳴り物入りの光景にわたくしは魂をうばわれ、ぞくぞくして全身の血が煮え立つ思いでした。あまりの感動に呼吸も止まりかけたほどです。
仲間の女たちの話や、微に入り細をうがったフィービの解説などで、お膳立てもだいたいととのっておりましたから、消えかかっていた無垢の灯火が目前の光景ですっかり吹き消されたとしても、さして不思議ではございますまい。
二人のお熱い様子を垣間《かいま》見ているうちに、いつしかわたくしも指先まで火のように燃えてしまい、おのずと五感の緊張がたかまり、胸はまるで張り裂けんばかりにどきどきいたしてまいります。わたくしは苦痛にあえぎました。身もだえいたしました。いまだ清浄無垢なからだを手で押さえてみます。それからフィービに教えられたとおり、できるかぎりのことをいたしました。とうとう陶酔の波がおとずれ、身も心もながれのままに漂わせます。からだが溶けて消えてしまいそうな気がいたしました。
やっとすませますとわたくしも気がしずまり、あらためて幸せそうな二人の様子をぞんぶんにながめました。
若者がベッドから降り立ちますと、ほとんど同時にマダムが年寄りのくせにぴょんと跳び起きました。彼女の最近の元気さから推して、この若者からその精気を吸収していることはほぼまちがいございません。さてこんどは若者をすわらせて、こちらからキスをしたり頬をつまんだり髪をなでたりしはじめます。ところが若者のほうは、最初自分からしかけた時とは打って変わった無関心な冷静さで、マダムの愛撫を受けるのでした。
ところがマダムもさるもの、ちゃんと助太刀の用意はしてあり、ベッドのかたわらの戸棚をあけると、何やら薬をどっさり取り出し、二人して飲みました。それから睦言《むつごと》をしばらくかわしたりして、やがてマダムはベッドのさいぜんと同じ位置につきます。まあ、何というあつかましさでしょう、そばに立っている若者のボタンをはずしてやり、シャツをはねのけたのです。男はもうしょんぼりとうなだれていて、つい今しがたの面影もない変わりよう、頭をあげかねているありさまでした。けれども、何と申してもマダムは海千山千のつわ者、さっと手をのばすと按法をこころみます。みるみる若者は元どおりのたくましい姿にかえりました。
この時わたくしは男というものを、あらためてつくづく観察いたしました。何もかぶらず、顔を赤らめて立つ姿。からだは色白く、巻き毛の髪はふさふさとのび、つねにわたくしどものぞんじよらぬものをたずさえております。いずれも、わたくしには見るも珍しいものばかり、知らず知らず五体が熱してまいります。それはさておき、マダムのまめなはたらきが効を奏したのか、どうやら満足すべき状態に達したとみるや、せっかくの努力をむだにする手もないだろうと考えたのでしょう、彼女はベッドへ横になり、やさしく彼氏をまねきました。といった次第で、二人はさっきとまったく同じしぐさで、終幕を演じてくれたのです。
すべてが終わって、二人は仲よく部屋を出て行きましたが、わたくしの見るかぎり、マダムは彼氏に金貨を三、四枚わたしたようでした。だいたいこの若者はマダムの燕であるばかりか、常連の一人でもあったわけで、したがって、それまでも、わたくしにはできるだけ眼をつけさせまいと気をつかっていたのです。もし見つかれば、B**卿のご到着までなどと悠長なことは言っておれず、お毒味をさせてもらおうと言い出すにきまっていました。そんなことになれば、マダムにしろ、むげに断われる立場になかったのです。つまり、彼はこの家の女たちを片っぱしから陥落させていたわけで、いくらマダムでもそんなありさまでは合い間の順番をまつほかになく、また、マダムの払ったお金がとくに多いとは、男のすばらしい能率からみて考えられません。
階段を降りて行く二人の足音を確かめると、わたくしはすぐさま自分の部屋へ忍び足でもどりました。さいわいに誰からも見とがめられません。はじめてほっとして、今しがたの緊張感から解きほぐされたかっこうです。ベッドに横たわり思いきり身を伸ばし、腕をくんで、すっかり火の手をあげてしまった欲望を、なんとか静めて消し止める方法はあるまいかと、必死になって考えました。頭の中は男を強く求める気持でいっぱいでした。ベッドのあちこちを手さぐりいたします。まるで溺れたものが藁《わら》でもつかむように。何もないとわかると、いらいらして叫び声をあげたくなりました。情欲の炎がからだ全体を包んでいたのです。とうとうたった一つ残された手段に訴えました。でも、そんなはかない試みをいたしますには、舞台はせますぎて活動の余地がございません。そこを無理して演じたためか、苦痛すらおぼえました。とにかく、当面はささやかながら満足を与えてくれましたものの、不安もやはりつきまとい、事の次第をフィービに話してその説明を聞くまでは、とても安心できるものではございませんでした。
ところが、フィービがベッドに入ったのはわたくしが熟睡したあとでしたので、話す機会は翌朝までおあずけのかたち。そんなわけで、翌日目をさますとすぐに二人がかわしたおしゃべりは、やはりわたくしの心配ごとにつきたような次第です。なお前置きとして、わたくしはたまたま自分が見たラブシーンの始終を語ってきかせました。
話しおわるまでに、フィービは何べん吹き出したかわかりません。きっと、わたくしの無知な説明がよほどこっけいに思われたのでしょう。
さて、こんどはフィービからそんな光景を見てどうだったかと聞かれ、わたくしは正直につつみかくさず大変喜びを感じたと答え、なお付け加えて、どうしてもわからないことが一つあると申しました。「へえ、それなあに?」と彼女が言うものですから、わたくしはそれに答えて次のように話したのです。つまり、どうしても不思議でならないのは、少なくともあの手首にも匹敵すべき大きなものが、わたくしのような弱々しいものに受け止められるのかどうかということで、指先ですら先日みたいにつらい目にあっているのだから、あんなものに襲われたらとても生きてはいられないはず……マダムにしろ、あなたにしろ、一目でそれとわかるほど、わたくしとはできがちがうし、だから、つまり、どんなに楽しいことが約束されていようと、とてもわたくしには苦痛にたえきれまい――と。
こうした疑問はフィービが真剣に解きあかしてくれるものと思っておりましたところ、彼女はいちだんと声を高めて笑いだし、ただ次のようにしか説明してくれません。つまり、彼女の知るかぎり、いくらものすごいものでも、相手に死ぬほどの傷を負わせたものはなく、かつて知り合いにわたくしぐらいひ弱な若い娘がいたけれど、べつだん死にもしなかったとか。わたくしの場合なら、せいぜい人より苦しい思いを多くするぐらいだろう。また事実、人さまざまな相違があって、生れつきによることもあるし、妊娠によることもあるし、たび重なる行為によることもあるが、一定の年齢に達してそれ相応の躰になっていれば、それとわかるしぐさでもせぬかぎり、いくら達者な男たちでもおいそれと処女の見分けはつかないものだ。それはともかく、偶然にせよ、そんな光景を見てしまったのなら、こんどは自分がもっと情こまやかな場面を見せてあげよう。そうすれば勝手な想像でくよくよすることもなくなるだろう。……ざっとまあこんな調子です。
話し終わってフィービはたずねます。「あなた、ポリー・フィリップスごぞんじ?」「ぞんじてますとも」とわたくしは答えました、「きれいな方、病気で寝ているとき、とてもやさしくしてくだすったわ。あなたから聞いたんですけど、来てまだ二ヵ月なんですってね」
「そうよ」フィービは申します。「でも、こういうことも知っておかなくちゃ、あの娘《こ》はね、ジェノワの若い商人の方だけのものなのよ、その人はね、伯父さんが大変なお金持ちで、その伯父さんに可愛がられていて、こちらのお知り合いの商人の方のところへ派遣されて来ているの。というのは表向きで、ほんとうは根が旅行好きなもんだから、伯父さんに世界一周させてもらっているんだわ。あるとき偶然ポリーのお客になったんだけど、すっかり気に入っちゃって、自分一人をお客にしていればいいくらいのお金を出してるのよ。一週に二、三度来るかしら、一階の小部屋に二人して入ってよろしくお楽しみをしているわ。お国の暖かい気候風土の関係なのでしょうね、とにかくあつあつのようよ。あまり詳しく知らないけれど、とにかく明日はやって来る日だから、どんなふうにあの人たちがするか見てごらんなさい。マダムとあたしのほかは誰も知らないのぞく場所があるのよ」
妙なくせがついていましたこととて、わたくしはその申し出を断わるどころか、むしろ喜び勇んで同意したくらいです。
その翌日、夕方の五時にフィービは約束どおり、ひとり部屋の中にすわっていたわたくしを呼びにまいり、手まねでついてくるよう合図をいたしました。
わたくしたちは裏|梯子《ばしご》をつたってそっと下に降り、古家具やお酒類のしまってあるまっくらな小部屋のドアをひらきます。フィービがわたくしを引っぱり込んでうしろ手にドアをしめますと、中はまっくら、ただ隣部屋との仕切りにすきまがあり、そこから一条の光がさし込んでいるばかりです。その向こうでドラマが始まるわけですが、手ごろなお酒の箱に腰をかけ、すきまに目をあてがいますと、こちらは気づかれぬまま、らくに何もかも手に取るようにながめられます。すきまは中仕切りの板が反《そ》ったため、多少片方にずれてできたものでした。
最初にわたくしの目に入ったのは若い紳士です。背中をまっすぐこちらに向け、版画か何かをながめております。ポリーはまだ来ていません。待つ間もなくドアがあいて、彼女が姿を現わしました。ドアの音に若い紳士はふり向いて、ポリーのほうへ近寄ります。いかにもやさしく満足しきったようすです。
挨拶がすむと、ちょうどわたくしたちの真正面にある長椅子へ、紳士は彼女をみちびきました。二人は並んで腰をかけ、彼氏はお盆にのせたナポリのビスケットをそえて、ブドウ酒を一杯ポリーにすすめます。
さて、二、三回キスをくり返し、たどたどしい英語で一言二言何か聞いてから、紳士は服のボタンをはずし、やがてシャツとズボンだけの姿になりました。
これがすっかり服をぬぐきっかけになったようで、それに暑い時節がら部屋はむんむんしておりましたから、ほかにしかたもございませんでしょう。ポリーもピンなどをはずしはじめ、コルセットはつけていませんでしたから、小まめに手伝う彼氏の手でたちまち下着だけの姿になりました。
その姿を見ると、時をうつさず彼のほうもズボンやチョッキや靴下の紐をゆるめます。そしてきれいさっぱり足もとにぬぎすてたのです。ついでカラーのボタンもはずし、それからポリーを元気づけるようにキスすると、その下着をはぎ取ってしまいました。娘のほうはどうやらこういう扱いに馴れていたらしく、さっと頬を赤らめましたものの、その光景に驚いたわたくしの赤さにくらべればまだしもで、そのまま一糸まとわぬ姿で立ちつづけます。ほんとうに清らかな自然の手で、たったいま造られたよう。ほつれたみどりの黒髪は、まばゆいほど白い襟足や肩にふんわりとかかっております。いっぽう、ほのかに頬をそめる紅はしだいに色合いをうすめて、雪のように白く光った顔全体にいつしか溶け込んでおります。こんなふうに彼女の肌は、色つやがほどよくブレンドされていたのでした。
この娘は十八歳を越しているとは思われません。ととのったやさしい顔立ち、ひときわ美しいからだつき。ことにその二つの乳房はむっちりとふくらみながらも丸味を失わず、しかもぴんと引きしまっているのです。わたくしはうらやまずにいられませんでした。コルセットをつける必要がなかったはずです。つぼみのような乳首はたがいに向きを違えて、それぞれに喜びを現わしていました。おなかは乳房の下からかぐわしい野原となってひろがり、はるかな野ずえはもやにかくれて、その中から白いすらりとした両脚がまっすぐにのびております。ふと見れば、喜びあふれる女のいのちが、ゆたかに燃えるかげろうのうちにございまして、ひと口で申し上げれば、この娘こそ画家という画家がこぞって、女の美しさのかがみとして、その誇り高い華麗な裸体を、ぜひとも描こうと願う対象にほかならなかったのです。
若いイタリヤ人はシャツとズボン姿のままその場にじっと立ちつくし、枯死しかかった高徳の隠者でさえも、はっと精気を取りもどしかねないそのあまりの美しさに見とれます。むさぼるような視線が、注文どおりにポーズを変えてくれるポリーの姿にそそがれます。いつしか両手は気高い美の宴《うたげ》の範を越え、楽しみをもとめて、ひろがる裸体をくまなくさすらうのでしたが、いずこもその喜びに価せぬところはなかったようです。
とかくするうちに、カーテンの向こうで男のすがたのゆれ動くのが、それとわかりました。やがて彼はすっぽりとシャツを首からぬぎすて、二人は同じ姿でお互いに相まみえたのです。
フィービが見たところでは、この若い紳士は二十二歳ぐらいだとか。背が高く、しっかりした体格です。すばらしい輪郭、たくましい発育、がっしりとした肩、ひろい胸。顔は取りたてて特徴はないものの、ローマ人特有の鷲鼻で、両眼は大きく黒く輝き、赤くそまった左右の頬がいちだんと好感を与えます。と申しますのも、その茶色っぽい顔がいかにも新鮮そのもの、オリーブ色につやつやしていたからです。それは一般にハンサムといわれる男の人にくらべて、けっして見劣りするものでなく、どちらかと申せば、むしろ男性的な魅力に富んでいると言えるかもしれません。
髪は短いほうで、襟足のあたりまでしかたれておらず、いくぶん巻き毛になっています。胸毛が少しはえていて、そのひろい胸部をさらに男らしく力強く見せております。やがて、大きな動きがはじまりました。すっくと立ち上がった男の姿は、ひ弱で小さなわたくしを驚かすに足るもので、今や目前にその全貌はくりひろげられております。ポリーはあわやという間もあらばこそ、長椅子の上に倒されてしまいました。何もかもまる見えです。
この光景に、フィービはそっとわたくしを肘《ひじ》でつつき、耳もとに口を寄せてたずねました。「どう、まだ自分のがずっと小さいと思って?」けれども、わたくしは目の前の光景にすっかり気をうばわれ夢中になっておりましたから、とても返事をするどころではございませんでした。
おりしも男はポリーを抱いて、長椅子へ横向きに寝かせかえます。しかし、彼女のからだはあいかわらずの状態なので、相手もずっと目標をマークしつづけ、そのまま前にひざまずいたものですから、こんどは情熱に燃えた形がすっかり真横から眺められました。その形は長椅子の上でやさしくほほえんでいる美しい生贄《いけにえ》を、まるで脅迫しているようなあんばいです。彼はしばらく満足げにおのれの姿に目を落としておりましたが、相手の招きに応じてしずかに身をしずめます。けれども、道なかばにしてはかどらなくなりました。どうやら前途は多難のようです。再三再四懸命な努力がようやくみのります。あたかも刃を柄もとまですっぽり収めた感慨でございましょう。ポリーが深い吐息をもらしました。べつだん苦痛によるものではないようです。二人はなおも努力をつづけます。はじめはものやわらかに規則正しく、しかししだいに激情の波に調子は乱れだします。速度がはやまり、キスがはげしくかわされ、もはや尋常の姿ではなく、とてもいつまでもつづけられるとは思えません。二人ともどうかしてしまった、その証拠に、どちらの眼も火のようにまっかに燃えている、わたくしにはそんなふうにしか受け取れません。ポリーは、死んでしまうとか、もうたくさんだとか口走りましたが、それはうれしさの表現だったのでしょう。相手の表現はずっとおだやかなものでしたが、そのうちに何かとぎれがちにつぶやくと、はらわたをふり絞るようなため息をもらし、掉尾の一振りでポリーのからだを思いきりはね上げるようなていを見せると、やがて力なく全身をじっと横たえました。彼がはかなくなったことはこれでよくわかりました。かたわらではポリーが、それに調子を合わせて両腕を投げだし、眼をつぶったまましきりにむせび泣いております。そのさまは至福の感動に息をつまらせている風情と見受けられました。
若いイタリヤ人がすべてを終えてポリーから身をはなしますと、彼女のほうはそのまま身うごきもせずじっと横になって、まるで喜びのあまり息もたえだえといったふうです。彼はそのポリーを長椅子の上で、また前のような姿勢にもどしてやりましたが、なかなか彼女は起き直れません。さながら、股間に狩人の矢を受けて傷つきたおれた牝鹿のようでございます。ようやく起き上がった彼女は、両のかいなを相手に投げかけ、彼が与えた試練を少しも苦にしていない様子。愛情のあまい露にうるんだ眼もとを見ても、それと察せられます。
それではわたくしはどうなのか、こんな光景をながめているあいだじゅう、はたしてどんな気持でいたのだろうか、でも、それはちょっとしたためるわけにまいりません。けれども、これだけは申し上げておきましょう、以来、わたくしの男性に対する恐怖感は、いっさい雲散霧消したと! そればかりか、一転して抑えきれない欲望がわきおこり、誰でもいい、最初に会った男を袖をつかんででも誘い込み、今となっては一日も早くなくしたくなったつまらぬものを、きれいさっぱり与えてやりたい、なろうことなら人手も借りずにそうできないものかしらと。
さてフィービですが、だいたいこんな光景にはたびたび接していて、先刻馴れっこのはずだとぞんじておりましたが、どうして、彼女もやはりお熱い情景にまいってしまったようなのです。やがて、感づかれないように、そっとわたくしの手を引いてその場をはなれ、できるだけ出口のドアに近いあたりまで誘います。こちらはいっさい彼女のするがままにしたがうばかり。
だいたい腰を下ろしたり横になったりする物などない小部屋のこととて、わたくしはドアにもたれたなりで立たされます。いきなりフィービが下着に手をかけ気ぜわしくはたらきかけました。じつはとうに胸がいっぱいになっておりましたので、そんなふうにされるともうたまりません、激しい感動の炎がぱっと燃えあがります。炎の勢いをじかにその手で確かめた彼女は、自分がながめさせた光景でどのくらいわたくしが焼きつくされたか、ほぼわかった様子です。作戦の成功に気をよくしたフィービは、お熱い二人にあてられたわたくしが、どうやら正気にもどったのを確かめると、ふたたび先ほどの興味ぶかいすきまの前に連れて行ってくれました。
ほんのしばらくお留守にしたはずですのに、立ち返ってみますと、舞台はだいぶ進行したもようで、優雅な戦《いくさ》がまたしてもはじめられるところでした。
若い外国人はわたくしたちの真正面の長椅子に腰を下ろしています。膝の上にはポリーがのっていて、両腕を恋人の頸《くび》にからませております。まっ白な彼女の肌が、若者の男らしい茶色っぽい皮膚にうれしいほどよくうつりました。
雨あられとあびせかけられる接吻の数は、とてもかぞえきれません。時おりなめらかな舌が互いにかわされるのが見えますが、そんな時は双方二つずつ舌があるようで、そういう交歓を無上の喜びとしているふうに見受けられました。
とかくするうちに、つい先刻|鉾《ほこ》をおさめたばかりの戦士が、いつのまにか精気をとりもどして、はつらつと立ち上がりました。勇み立つその戦士が、女王さまのようなポリーの前に額《ぬか》ずきますと、彼女はやさしくそのひたいにキスをして、はやる心をしずめてやります。さあいったい、彼女がこの戦士を戦《いくさ》の庭に立たせたいのかどうか、そのへんはちょっとわかりかねました。けれども、ひたいに受けたキスはやはり何といっても若きますらおを鼓舞したようで、感激に光るその瞳を見てもあきらかです。彼は起きあがると、しっかりポリーを抱きしめて聞き取りにくい小声で何かささやきます。それから長椅子まで彼女をさそいましたが、やがてその引き締まった弾みのある立派な筋肉をぴしぴしふれ合わせながら、二人でいたずらっぽい遊びをはじめたようです。
しかし、何といっても驚かされましたのは、若者が気だるそうに仰向けに寝たかと思うと、ポリーを引き寄せたことです。彼女は言うままになって順逆もわきまえず、何でもいたしました。まさに衝動にかられてひたすら快楽を求めてやまぬていです。乳房をもまれるままにまかせましたし、何べんかは、みずから身をかがめて接吻も受けました。しだいに刺激が強まりましたのか、いちだんと動きはすさまじくなります。まもなくすべての回転が止まり、うっとりとした時間がやってきたのが、わたくしたちにもわかりました。
もうこれ以上はとても見ていられません。二幕目を見てまたまた全身の血が荒れさわぎ、がまんしきれなくなりました。夢中でフィービに取りすがりましたが、彼女なら何とかしてくれるはず、そう思えたからです。わたくしの姿を見て喜びながらも、事ここにいたっては哀れとも見たのでしょう、出口のドアをさがすとできるだけ音をしのばせてそれをひらき、気づかれないようそっと外に出ます。まもなくわたくしたちの部屋に着いたものの、わたくしは興奮しきって立っていることもおぼつかないありさま。さっそくベッドに身を投げだし、酔いしれたように横たわりました。まことにお恥ずかしい次第だとぞんじます。
フィービはかたわらに腰をおろし、いたずらっぽくたずねました。「どう、気がかりな敵さんにお目にかかった感想は? まだこわいと思う? それともいっちょう戦ってみる気が起こって?」ちょっと答えに窮しました。ため息ばかり出て、息苦しいくらいです。フィービはわたくしの手を取ると、裾をあげながらまっすぐみちびいてくれましたけれど、ほしいものの影ひとつ見当たらぬそんなところにいまさら未練はなく、ただべた一面の平地にくぼみがある程度では、いらいらするだけが関の山でしたから、むしろ手を引きたいくらい。けれども、彼女の不興を買うのもどうかと思われ、そのままにいたしておりました。すると、彼女は思いどおりにこちらの手をつかって用をすませましたが、それは喜びと申すにはあまりにもはかない、うらさびしい影法師のあそびにすぎませんでした。わたくしといたしますれば、今となっては歯ごたえのあるものがほしく、ブラウン夫人が一日も早くこの渇《かつ》をいやしてくれなければ、女同志のばかばかしいあそびなどこれ以上してやるものかと、心中ひそかに誓ったものです。数日うちにはお見えになるそうでしたが、もうとてもB**卿のご到着など待てる状態でなかったのでございます。事実わたくしは待ちませんでした。そんなお金目あてや単なる情事のかわりに、ほんとうの愛がわたくしを訪れてくれたからです。
のぞき見をしてから二日ばかりたった朝、珍しく六時に起きたわたくしは、まだぐっすりやすんでいるフィービをそのままにし、何となく戸外の新鮮な空気にふれてみたくなって、足音をしのばせて裏庭に通じる階段をおりて行きました。お客のみえているときに、そこへ立ち入ることはわたくしに許されておりません。まだみんな眠っているのでしょう、あたりはしいんと静まりかえっています。
なにげなく応接室のドアをあけてみましたが、思わずはっといたしました。消えかかった煖炉のそばで、一人の青年がマダムの肘かけ椅子でぐっすり眠っているではありませんか。投げ出した足は別の椅子へのせております。きっと心ない友だちに飲みつぶされ、一人ぼっちで置いてきぼりにされたのでしょう。仲間の連中は思い思いの相手を見つけて姿をかくし、この青年だけが取り残されていたのです。真夜中のことでは怒りもならず追い出しもならずで、マダムもかわいそうに思ったにちがいありません。といって、ベッドもおそらく満員で一台の余裕もなかったのでしょう。テーブルの上には飲みさしのポンチの瓶とグラスが、いかにも酔っぱらいがいたのを物語るかのように、だらしなく取りちらかっておりました。
けれども、近寄ってこの酔いつぶれた青年を見ると、まあ、なんというすばらしさでしょう! いいえ、それ以来今日まで何年たっておりましょうが、どんなに生活が変わっておりましょうが、わたくしの心に刻まれたその場の光り輝くような印象はぬぐいきれるものでございません……そうでございますとも、若い娘ごころが慕いに慕った方なのですもの。目を見はって初めて拝見いたしましたお姿は、いつまでもわたくしの胸のうちにございます……それは今すぐにでも甦らせられます、だからいつでも、わたくしはお会いすることができるのでございます。
奥さま、ひとつ十八か十九のほれぼれするような美青年が、巻き毛の髪が乱れかかった顔を椅子の肘にもたせかけている図をご想像願います。その顔ときたら、ばら色の青春がまっさかり、おまけに男性的な魅力に満ちあふれたもので、わたくしはわれにもあらず心も眼もうばわれてしまいました。夜ふかしをしたせいでしょう、今はばらの花のような両頬も百合のようにうつり変わっておりましたが、そのあお白い疲れた顔色が、ととのった面立ち全体にまたとない優雅さをそえております。夢見る瞳はとざされて、長いまつ毛が美しい縁どりをしています。いかなる画家の筆をもっていたしましても、この青年のひいでた純白の皺ひとつない額や、またその上をさらに彩る二つの眉のアーチの美しさを、十分に描きつくせはしないでしょう。朱の唇はたったいま蜂に刺されたようにふっくりはれあがっていて、そんな姿を見ていると、この眠っている方がいとおしくてたまらなくなり、抱きしめたい衝動にかられます。けれども、男にせよ女にせよ、ほんとうに愛情が生じれば、おのずと互いに慎み合い尊敬し合うもので、わたくしの場合もやはり、それがはやる心を抑えてくれたのです。
シャツのカラーがはずれて、雪より白い肌がのぞいておりましたが、そうそう楽しい思いにひたりつづけるわけにゆかなくなりました。からだに障るのではないかという心配のほうが先立ったからです。恋は人をつつましやかにさせ、また、やさしくふるまわせます。ふるえる手でわたくしは彼の手を取り、精いっぱいしとやかに揺り起こしますと、はっと目をさましていささか驚いたふうにあたりを見まわし、うっとりするような声で申しました。「すまないが君、いま何時だろう?」時刻を教えてあげてから、まだおやすみになるのなら、こんなに胸をはだけたままでは、冷たい朝の空気できっと風邪をひいてしまいます、とわたくしは付け加えました。すると、ありがとうと言ったその声のきれいなことといったら瞳や顔立ちの美しさに劣らぬくらいです。それからぱっちり両眼を見ひらいて、しげしげとわたくしを見つめましたが、生き生きとしたその光は、まるで稲妻のように、まっすぐわたくしの胸へ突きささるかと思われました。
どうやら、昨夜はしたたかにお飲みになってから、この家へお仲間といらしたようで、そのせいで、みなさんといっしょにサーベルを提げて小部屋にしけ込むわけにいかなかったのでしょう。ですから、はしたないわたくしの寝間着姿を見ると、これはきっと昨夜のうめ合わせに差し向けられた女にちがいない、そう踏んだようでございます。そのつもりですから別にためらった様子もなかったのですが、ただこれは常の女と違うとごらんになったのか、生れつきの礼儀正しさからなのか、まだわたくしを売女の一人と思われているくせに、きわめていんぎんな態度で話したのです。そして最初のキスをしてくださいましたが、それまでこれほどうれしいキスを男の方から受けたことがございません。それからわたくしに、一つ自分と付き合ってもらえないだろうか、そうしてくれれば必ず十分なことはしてあげるからとたずねます。けれども、その場で身をまかすのはお断わりいたしました。べつにみだらな欲望をぬぐい去った清純な愛が芽ばえていたばかりではありません、この家でそんなことをすれば、見つかる恐れが多分にあったからで、わたくしも二の足を踏んだ次第なのでございます。
そこでわたくしは愛情をこめた口調で、理由は今くわしく説明していられないけれども、とにかくここにこうしてごいっしょにいるわけにはいかない、ひょっとするとこのまま二度とお会いできないかもしれない、と申し上げましたが、言い終わると思わずため息が出てしまいました。このわたくしを囚《とりこ》にした方が、後日話してくださったところでは、一目見てはっとしたとかで、わたくしのような世すぎをする者のうちでただ一人好きになれた女だそうでございます。そのせいか即座にその場で、どうだろうひとつ自分のものになってみないか、そうならすぐにでも家を見つけてあげてもいいのだが、また、前借などもあると思うけれど、それはみんなきれいにしてくれるとも言ってくださいました。あまりに唐突すぎて、一瞬まごつきます。第一申し出をされた方が見ず知らずの全くの他人で、おまけにまだあどけない青年では何かとあやぶまれます。けれども、すでに恋に心をうばわれていたわたくしは、声を聞いただけでうっとりとなり、あえて反対するいわれも見いだされぬまま、ついつい盲従するはめになってしまいました。事実、せっかくのお誘いをお断わりするくらいなら、その場で死んだほうがましだったのです。プロポーズを受けたわたくしは胸を高鳴らせて、一瞬の思案の後、きっぱりとお答えいたしました、お申し出はお受けいたしましょう、どこへなりともごいっしょにまいりましょう、すべてあなたにおまかせいたします。あとから考えますと、こうもかんたんに承知してしまってよく嫌気を起こさせなかったものだ、よく安っぽく見られなかったものだと、つくづく不思議でなりませんでした。けれども、そうなるのが運命だったのでしょう、紅灯の巷の女のあやうさを恐れて、おりあれば娘を一人囲うつもりでいたところへ、ちょうどイメージにぴったり合ったわたくしが姿を現わしたわけで、おまけに互いに生じた恋心の奇蹟も手伝ったのか、話し合いはすらすらとまとまったのでした。合意のしるしにキスが何べんもかわされます。じきに水入らずの楽しみができると思っていたからでしょう、その場はキスだけで満足しきっておりました。
何と申しましても、この若い青年ほど女の心を惹《ひ》きつけ、すべてを忘れさせてつきしたがわせる人はございません。
外見に現われた非の打ちどころのない男らしさに加えて、この人にはどことなくきりっとした品のよさがあり、その動作のスマートさときたら、頭をちょっとかしげるだけでも、世の常の男性とはちがいました。かがやく瞳は教養の深さをしめし、全体にやさしさと同時に犯しがたい何ものかがございます。顔は愛らしいばら色に燃えていましたが、その生き生きとしたありさまは、同じ愛らしさでも何か初心《うぶ》で弱々しいものとは歴然たる相違を見せておりました。
わたくしたちの計画では、翌朝七時にわたくしが家を抜け出し(鍵のありかはぞんじておりましたから、まず大丈夫でした)、一方彼は通りのはずれに馬車を待たせておき、そのままわたくしを連れ去るといったあんばい。事がすみしだい彼は立ちもどってブラウン夫人と借財の清算をするとか、それは、この上もない上玉を、どうして、なまなかなことでは手離すまいと見て取ったからです。
そこで、わたくしの姿を見たなどということはけっして口にしないように頼み、理由は後日ゆっくり説明するからと言いおいて、いっしょにいるところを誰かに見つけられたら大変だと思い、せつない気持ながらひとまずお別れをして、足音をしのばせて部屋へもどりました。フィービはまだぐっすり眠っております。いそいで服をぬぎ、わたくしはそのそばへもぐり込みましたが、喜びと不安が相半ばして何とも言えない心地でした。
ブラウン夫人に計画を見破られ、絶望と悲惨と破滅の淵におちいる危険すら、今はもう燃える希望の灯のまえで影をうすくしております。ふたたびお会いして、肌をふれ合い、ごいっしょにいられる、よしそれがたった一晩にせよ、乙女の心がせつにお慕い申した方なら、その幸せをあがなうために、自由も、命も、けっして惜しいとは思われません。その人がいじめるのなら、いじめられるままになりましょう、大事な旦那さまなのですもの。いっそあのやさしい手で殺されても、それでも幸せ、とても幸せだとさえ考えるのでした。
一日じゅう前途にさまざまな思いをめぐらしておりますと、一分一分がかぎりなく長いものに思われます。何べん柱時計を見に行ったことでしょう! なかなか進まない針に業《ごう》をにやし、よほど自分の手で進めようかと、そんなことでもすれば時間が早くたつのではないかと思ったくらい。ですから、どうしてもわたくしはそわそわしてしまいます。家の中の者が少しでも注意してみれば、きっといつにないわたくしの様子をおかしいと思ったにちがいありません。ことに昼のお食事のときなど、すばらしい青年のことで話はもちっきり、朝食を召し上がって行ったとか、あんなきれいな人はいないだとか、あんな人のためなら死んでもいいだとか、奪い合いをしても自分のものにしたいだとか、一通りの騒ぎではなく、せっかくわたくしが抑えに抑えていた火の手も、おかげでぱっと油をそそがれた始末です。
一日じゅうこんなありさまだったせいか、その日はすっかり疲れてしまい、ぐっすり寝込んで目がさめたのは翌朝の五時、起きるとさっそく着替えをすまし、時間のくるのを待ちます。そして、今か今かとはやる気持と不安で、二重の責め苦のうちに過ごしました。なんとか気をとりしずめておりますと、やがて待ちに待った運命の時がやってまいりました。ただひたすら愛にかられた勇気で、わたくしは第一歩を踏み出します。爪先立ちでそっと階段をおりました。カバンは残して行くことにしました。そんなものを持っていて、見とがめられたら事でしたから。
表玄関までたどり着きます。鍵はわたくしがいた部屋のベッド脇の台にいつでも置いてありました。フィービがあずかっていたのですが、まさかわたくしが逃げ出そうなどとは夢にも考えていなかったようで(たしかに、前の日まではそのとおりでした)、台の上に出しっぱなしで隠そうともしなかったのです。ですから、それを持ち出し、わたくしはいともかんたんに表扉をひらきました。恋こそすべての者を勇気づけ、守ってくれるものです。とうとう無事に路上へ立ちますと、今日からのわたくしの守護神が、すでに扉をあけて馬車のかたわらで待っているではございませんか。それからどうしてそこまでたどり着けたのか、もうわたくしにはわかりません、たぶん飛んで行ったのでしょう。あっというまにわたくしは馬車に乗っていて、あの方のそばにおりました。そしてやさしくわたくしを抱いて、よく来たとキスしてくださいました。馭者は出発の命令を受け、馬に一鞭くれます。
たちまち涙がいっぱいこみあげてまいりました。けれどもそれは、とてもあまいあまい喜びの涙でございます。すてきな青年の腕に抱かれていることだけで、もう天にものぼるうれしさです。過去や未来はどうでもいいのです。現在の幸福をしっかりつかんで、気を失わずについて行くだけでわたくしは精いっぱいだったのです。その人はとてもやさしく抱きしめてくださり、ほんとうに愛している、いつまでもいっしょにいよう、こうなったからにはけっしてわたくしに後悔させるようなまねはしない、一つ大船に乗った気持でいてくれと、じゅんじゅんとお話しになります。けれども、いったいわたくしはそれに価する女でしょうか! ただはげしい情熱の流れに抗するすべもなく、ここにおよんでしまったわけで、どうしようもなかっただけなのですもの。
時間の観念などなくなっていたのでしょう、あっというまにわたくしたちはチェルシーにある旅館に着きました。アベック客にはサーヴィスがいいので定評のあるお店で、チョコレートなどの朝食のしたくがもうできておりました。
宿の主人はいわば酸《す》いもあまいも噛みわけた陽気な通人で、朝食をいっしょに取りながら、ちらりちらり横目でわたくしをながめては二人を祝福してくれました。「なかなかおそろいだ、いや全く! うちはいろいろな殿方やご婦人にご利用いただいておるが、あなた方のようなすばらしいカップルは初めて……こちらはどうやら純なお嬢さんのようだな……うむ、まだ都会ずれしていない、まことにあどけない方だ! こんな方を相手にもってあんたは幸運な男じゃの……」。旅館の主人なら誰でも言うようなこんな月並みの文句も、その時のわたくしにはうれしく、落ち着きも取りもどせました。そればかりか、はじめて二人きりになって固くなっていた気持をほぐしてもくれたのです。いよいよ最後の瞬間も近づいておりましたことですし、なんとなく二人だけでいてはこわかったとも申せましょう。それは娘ごころの恥ずかしさというよりも、正真恋したものだけが味わう臆する気持でした。
あれほど死んでもいいくらいあこがれていたくせに、なぜかしらわたくしは、いちばん待ち望んでいたことが恐ろしくなってしまい、やたらに脈ばかり早くなります。しかもいっぽうでは、情欲の血がすさまじいほど全身にたぎっています。こうした恐怖と欲望という二つの感情のあらそい、また、恥ずかしさと思い焦がれる気持との戦い、わたくしはその渦の中でまた涙にむせびました。その涙をさっき馬車の中でしてくれたように、彼はふいてくれましたが、きっとそれは自分の手もとへ飛び込んで急に環境が変わったせいだと考えたのでしょう、いろいろとなぐさめの言葉をかけてわたくしを元気づけようとしたのです。
朝食後、チャールスは(もうそろそろわたくしの大好きなアドニスの名前をお明かしせねばなりますまい)、思い入れたっぷりにほほえんで、わたくしの手を取るとこう申しました、「さあ、いらっしゃい、庭の見えるながめのいい部屋に案内してあげるから」。そう言うと、こちらの返事も待たないで、いえ、かえってそのほうがよかったのですが、ひろびろとした明るいお部屋へわたくしを連れて行ってくれました。中に入るとあるものはベッドだけといってもいいくらい、それがまたこのお部屋を取った理由ともうなずけます。
ドアに鍵をかけますと、チャールスはすぐに駆け寄ってわたくしの体に腕をまわし、いきなり抱きあげて唇をぴったり合わせました。ほのかなおそれと甘美な心地にからだがふるえ、息がつまります。死にそうです。せき込んでいるチャールスは服をぬがすのももどかしそうで、スカーフと上衣を取りのぞくと、コルセットをしたなりのわたくしをベッドへ運びました。
胸がひろげられます。のぞいた乳房は早鐘のような脈をうち、彼はその若い二つの固く締まったふくらみを手に取ります。十六歳にも満たない、田舎から出たての、男もまだ知らない娘の胸ならそんなものです。けれども、花ならばほころびかけたその雪より白いすがたも、快い肌ざわりも、移ろいやすい彼の手をいつまでも引き止められなかったのです。そして、なすがままになっておりますと、やがてペチコートも下着も取りはらわれ、おもむくところ、さらにいちだんと心を惹《ひ》く光景がひろがっていた次第でございます。それでも、わたくしは恐怖感が先走って、無意識に両膝を合わせてしまいましたが、やはりこれがチャールスその人の手だと思うと、いつか力もぬけてしまい、行く手をはばむ気もしなくなりました。
そのあいだわたくしは妖精のようにおとなしく、全身をさらして彼のなすままにまかせていたのです。すると、わたくしがもうこんな姿には馴れっこになっているのだと、勝手に思い込んでしまったようです。巷《ちまた》のありふれたお女郎屋さんから連れ出した女ですし、おまけにわたくしがまだ自分が生娘であることなど何ひとつ話していないのですから、そう思われてもしかたがありません。いいえ、たとえ話したところで、しょせんうそ八百を並べて人をだます女ぐらいにしか思われず、よもやわたくしが大切な乙女の宝を、幾たびかあくなき男の掘鑿と破壊の手をのがれて、いまだにそっと抱いているなどと信じてももらえますまい。
さて、チャールスもいよいよ待てなくなったようで、愛のあかしをさし出しますと、いきなりわたくしの中にはいりかけました。まるで何の障害もありえないといったふうに……ところが、ところがです、まず第一歩でつまずいてしまいました。いくらつづけざまに体あたりをしても、とんと通じないのでございます。そのときの彼の驚きようといったら、奥さま、ご想像くださいませ。何べん精いっぱいくり返してみても、わたくしを傷つけるばかりで、さらに効果のあがらないことがようやくわかったようでした。
そこでわたくしはそっと訴えてみました、とてもがまんできません、ほんとうに痛うございます……と。それでもまだ、きっとこれはわたくしが若すぎるせいか、自分の体格が大きすぎるせいで(まだ彼に匹敵する男の方をぞんじていないほどのものでした)、すべての原因はそこにある、また、自分ほどの男にまだ出会っていないのではないか、そんなふうにしか考えなかったようです。ですから、わたくしの乙女の花がまだ手折られていないなどとは、夢にも思わなかったわけで、まさかそんな馬鹿な話がと、全然問題にもしなかったのです。
くり返し彼は試みます。しかし、どうしてもはかどりません。そのうえ、わたくしの苦痛は倍加するいっぽう。深い愛情がかろうじて、その痛みに耐えさせてくれます。声ひとつ立てませんでした。はかない試みが幾たびかくり返された後、とうとう彼は息をあえがせてわたくしのかたわらに横たわりましたが、あふれる涙にキスをしながら、やさしくたずねます、「なぜ君はそうつらがるの? ほかの男のばあいはこんなことなかったのじゃないか?」。けれども、わたくしはできるだけ卒直に、からだを許すのはあなたが初めてなのだと答えました。真実は何よりも力強いものです。人間というものは、かくあれかしと思っていることでも、かならずしも信じないわけではないのです。
チャールスは、処女であると訴えるわたくしの言葉が、けっして空ごとでないのを見きわめると、息づまるようなキスをあびせてから、愛しているのなら多少の辛抱をしてくれと頼みます。そして、わが身を傷つけるつもりで、きっと手あらなまねはしないからとも付け加えました。
とんでもございません、彼がそう望んでいるのなら、どんな苦しみでも甘んじて受けるつもりでございます。
こんどは彼も慎重にことを運びます。なるべくらくにさせるつもりらしく、いろいろのものをあてがってくれました。やがて、ささやかなわたくしのからだに、ふたたびつらい定めがめぐってまいります。ものすごい圧迫が感じられますと、からだが二つに裂けそうな気がいたしました。あやうく救いをもとめて声を立てるところでしたが、じっとこらえます。たまたま顔をおおっていた下着の布はしが口に入りましたが、苦しまぎれにそれを噛み切ったくらいです。ようやく尋ねあぐねていた道が見つかったのでしょう、彼はしだいに熱気をたかめ、男性本来のすがたにかえります。すさまじい気合いで容赦なくわたくしは一刀のもとに切りすてられます…………あっと叫んで、わたくしはそのまま気を失ってしまいました。
ふとわれにかえりますと、わたくしは裸のままベッドで、乙女のいのちを奪った犯人の腕に抱かれておりました。心やさしいその犯人は、身をかがめて今は亡き乙女のいのちに弔意を表し、わたくしに薬を飲ませようとしています。こんなつらい目にあわされたとは申せ、大好きな人からすすめられては、お断わりするわけにまいりません。涙にうるんだ眼を力なく彼のほうに向けましたけれど、こんなむごい目にあわせて、いったいこれが愛にむくいる道なのかとなじるあんばいでした。しかし、何と申しても処女を捧げた相手はいとしいものです。そのチャールスは、ふとしたことで知り合ったわたくしをひどい目にあわせ、自分ばかりが楽しい思いをしたことに心をいためた様子で、しきりにやさしく温かい言葉をかけ、愛撫しながらいたわりなぐさめてくれました。わたくしといたしましても、けっして恨みつらみを申しているわけではございません。今はもうチャールスのすがたを見ているだけで、自分はこの人のものだと思うだけで、痛みなぞどこかへ消えてしまいます。わたくしの幸福はおろか運命さえも、すべてこの人にかかっていたのですから。
傷口はまだとてもうずいておりましたし、チャールスもこれ以上わたくしを苦しめまいと思ったようです。とにかく、わたくしは躰が動かせませんから、床に下り立つわけにもいかず、昼のお食事は彼が注文してベッドまで運んでもらいました。鳥の手羽とブドウ酒が二、三杯のお食事をいただきましたのも、愛する愛するチャールスのたってのすすめで、おまけに食べさせてもくれたおかげでございます。
お食事がすんでお酒だけ残してお膳が下げられますと、チャールスはぬけぬけと、わたくしのそばに入っていいかとききます。そして承諾のしるしをわたくしの目の色で読み取り、さっそく服をぬぎにかかりました。その様子をわたくしは、恐ろしいやらうれしいやら、たいそう妙な気持でながめます。
こうして初めてわたくしたちはベッドでいっしょに寝たのですが、もう表は昼日中になっております。けれども、彼がシャツをあげ、わたくしの下着もはずしますと、燃えるような肌がふれ合いました。その喜びはとても言葉などでは言い現わせません。その喜びの前にはどんな苦痛も消えてしまいます。さきほど受けた傷のことなど忘れて、わたくしは自分のからだをブドウ蔓のように相手のからだへからませます、どこかまだふれていないところがあるのではと、そんな不安にせき立てられたかたちでした。相手のはげしい抱擁と熱い口づけにわたくしも十分こたえましたけれども、それは真実の愛のみが知る味わいで、肉欲をのみ追い求めるともがらのよく解さぬところだとぞんじます。
そうでございます、すっかり情熱の炎も消えて、冷えきった血潮がただ静かに流れる今日このごろのからだでも、娘時代の心を燃やしたこのような思い出をたどりますと、いまだに若返ってはなやいだ気分になってまいります。それではお話をさらにつづけさせていただきましょう。さて、愛する美しい青年はあらんかぎりにからだを動かし、ぴったりとわたくしに寄り添います。そのうちに手綱をさばききれなくなったのでしょう、元気を取りもどした若駒なりにまかせます。燃えるキスでわたくしをおさえ、みごとな差し脚を見せます。ゴール前のデッド・ヒートになりますと、その苦痛は最初のときに勝るとも劣らぬものでした。けれども、出かかる声をわたくしは牝の名馬のようにじっとがまんいたします。相手はいよいよ必死です、頬をすっかり紅潮させ、両眼は熱病にかかったよう、吐く息もあらく、全身をふるわせ、あたかも勝利の瞬間が――わたくしには苦痛ばかりで味わうことのできないその瞬間が、近づいているのを告げ知らせているかのようでした。
さあ、こんなことが一、二度くり返されたでしょうか、いつか苦痛の感覚がにぶってきて、バルサムの樹液の香たかい滴《したた》りが、そこはかとない喜びを与えるばかり、その喜びはめぐり帰ってふたたび馥郁《ふくいく》とあたりにただよいます。わたくしは情熱のかぎりをつくします。とうとう苦痛はその限界にきて、一変して、無限の喜びとなりました。さらに引きつづいて行なわれますと、わたくしもしだいになれてまいりましたのか、純粋な喜びが味わえるようになり、そのさなかにひたりはじめたのでございます。温かい流れがさっと身内にはしりますと、至福の世界がおとずれます。全身は情熱の炎に焼きつくされ、苦しいほどの喜びに襲われます。そのはげしい圧倒的な力の前で、神さまからいただいたこの躰はもはや耐えられません。けれども、神さまはちゃんと、一時的な仮死状態という救いの道をひらいておいてくださいました。その前兆として意識はぼうっとかすみ、快い麻痺に襲われます。このような夢幻の靄《もや》の中にいつしか至上の喜びもその姿を没し去るわけでございます。
あれさわぐ官能の波がしずまり、ぐったりして身を横たえますと、しきりに反省の言葉がうかんでまいります、こんな幸福を味わっていて、いったい人間としてよいものか、どうかと。そうかと思うと、あんなすばらしい立派な青年をわがものとして、心ゆくまで一夜の楽しみをつくしたとなれば、先行きの不安などいまさらどうでもよいのではないかとも。
その日の午後はずっとこんなあんばいで、お夕食の時間がくるまで愛の宴《うたげ》がつづきます。キスを取りかわしたり、ふざけ合ったり、ここを先途と楽しみました。やがてお夕食が運ばれましたが、どういうわけかぞんじませんが、その前にチャールスは身じたくをととのえます。そしてベッドをテーブルがわりにして、ボーイの役をみずからが買って出た次第です。彼はさかんに食べましたが、うれしそうにわたくしのいただく姿もながめております。こちらはただもう、味気ない過去の生活にひきくらべ、あまりにも幸せすぎる現在に酔いしれた気分でした。ですから、いくら貞操を代償として差し出したにせよ、その値段はけっして高くないと思われたのです。
その晩もわたくしたちは、ベッドをともにいたしました。またしても幾たびか歓楽をつくしたすえ、身も心も満足感にひたったまま、こんこんと眠り込んだのです。愛する青年の腕に抱かれたわたくしは、夢の中でもうっとりとしつづけました。
翌朝はだいぶ遅くなってから、まずわたくしが目をさましました。愛する人はまだぐっすり眠っております。安眠をさまたげないように息をころして、そっとその腕から抜け出します。髪はほつれ、帽子やら下着やらがあたりに散らかり、一夜の乱行を物語っておりました。せっかくの機会だから、今のうちに片づけておこうと思います。とかくするうちにも眠りつづける青年の姿をながめておりますと、無上の喜びがわいてまいります一方、この人から受けた苦痛のかずかずもふりかえらずにはいられません。けれどもやはり、受けた喜びのほうがはるかに苦痛をしのぐものだったことは否めない事実でございます。
陽はすでに高くのぼっておりました。ベッドの上で起き直りますと、汗ばむほどの暑さのせいか、二人の寝返りでふとんもシーツも端のほうにはねのけられ、丸められております。いやでもわたくしの眼に、またとない光景のくりひろげられているのが入ります。それはわたくしに喜びを与えてくれた若く美しい宝石のようなからだです。シャツもはだけて、ほとんど素裸に近い姿を目の前に横たえております。おりから暖かい季節ですし、このままにしておいても別にさしさわりはございますまい。すっかり心をうばわれたわたくしは、その上に身をかがめます。二つの眼を皿のようにして、この魅力あふれる男性の裸体をむさぼりながめましたが、心ゆくまで見つめるには、じっさい百ぐらいの眼があればと思えたくらいです。
ああ、今でもありありとうかぶその姿を、そっくりそのまま絵筆で描きつくせたなら! 一点の非のうちどころもない男らしい美しさがさえぎるかげもなく横たわっているのです。そのととのった顔立ちだけでもご想像くださいませ、いまをさかりの青春のみずみずしい輝き、その美しさは男女の性を忘れさせますが、かろうじて上唇に見える生毛が、男のあかしとなっております。
すこし突き出た紅の唇のあいだからは、吸われた空気がさらに浄化されおいしくなって吐き出されているかのよう。むしょうにキスしたい気持をおさえるつらさを、どうかお察しくださいませ!
また、ひときわ優美な頸すじには、生れつきの巻き毛の髪が無造作にかかっており、それにつづいて全く美事な胴体が見られますが、その比類なくたくましい男特有の骨格も、繊細な面立ちやなめらかな肌、それにゆたかな肉付きなどで、そっと包みかくされていました。
ぐんと張り出した男性的な色白の胸には、小さな朱色の乳首が二つぽつんとついており、ばらのつぼみを連想させます。
シャツはこのような均勢のとれた四肢五体の観察に、少しもじゃまになりませんでした。胴はいちだんと低い腰くびへとつづき、その先に丸みをおびた大きなお尻がひかえております。なめらかな皮膚はまばゆいほど白く、発育しきった固ぶとりの肉体をすっぽりとおおっています。ちょっと押してみますと、えくぼのような凹みがすぐにできましたが、へたをすると指がすべって押すわけにまいりません。まるで磨きぬかれた象牙の面のようでした。
両脚のすばらしさはまた格別です。丸みをおびて血色がよく、膝へゆくにしたがい細くなり、立派なからだを支えるに足る二本の柱とも見受けられます。その奥にあるもの、わたくしはその恐ろしいものを、まだ消えやらぬ恐怖と愛情のいりまじった感慨をもって見つめないではいられません。つい先ほど、それはたけり狂ったように乱入し、か弱いわたくしごときものを引き裂き踏みにじったあげく立ち去りましたが、その痛手はなおまだ残っております。けれど、ごらんください! 今はすっかり力をなくし、おとなしく帽子のかげから赤ら顔をのぞかせて眠っているではございませんか。こんなものしずかですなおなものに、なんであんな残酷なふるまいができたのでしょう。やわらかにカールした髪はふさふさとほどよく伸び、また、自然の恵みをたくわえる魔法の宝袋は、美しい襞《ひだ》におおわれております。ながめはこれでつきましたが、一場の光景はおのずと一幅の最も感銘深い絵になっておりました。まちがいなくこれは、画家や彫刻家などの手になる高価なヌード作品よりもはるかにすぐれたものです。もっとも、こうした画面はきわめて少数の者のみに理解されるわけで、その人たちはゆたかな想像力にめぐまれ、美の本質を正しく判断できなければなりません。つまり、自然のうちに形造られた美しさこそ、すべての人工的な芸術――あるいはまた、それらに高価な値段を支払う財力などよりずっとすぐれていると申せましょう。
それはともかく、何ごとにせよ終わりにならぬものはございません。天使のような青年が目ざめかけたなりに寝返りを一つ打つと、シャツもシーツも元どおりになってしまい、せっかくのながめもそれきりになりました。
そこでわたくしも横になり、たったいま目にしたばかりのものが、かつて叛旗をひるがえした跡をたどってみます。なにせ戦《いくさ》の余燼もなお消えやらぬありさまでしたから、そっと手さぐりでたどり着いた次第です。けれども、戦いの跡は歴然たるもので、むかしの面影がすでにないのがじきにわかりました。まもなくチャールスが目をさまし、こちらを向いて、よく眠れたかとやさしくきいてくれましたが、返事をするまもなく、やにわに火のように燃えるキスでわたくしの唇をふさいだのです。キスが放った閃光はさっと心臓につきささり、そこから火花がまたからだじゅうに飛びちりました。ややあって、こんどはまるで、先ほどまで彼の裸の美しさをこっそりのぞき見していたわたくしに復讐でもするかのように、さっとシーツをはねのけると、下着を胸いっぱいに引き上げて、天から授ったままのわたくしの姿を、むさぼるようにながめはじめたのです。いいえ、ながめるばかりではなく、両手を気ぜわしくはたらかせ、手あらく体じゅうにまわしました。固いながらも熟《う》れかけておいしそうな乳房、色白で肉付きのひき締まった躰、均整の取れたみずみずしい足腰、どれもこれも彼の満足感を満たすものばかりだったようです。とかくするうちに彼の眼はぎらぎらと火のように光りだし、両手のうごきも熱っぽくなります。喜びにふるえる吐息、思わずもらすかすかな叫び、そのほかにもう何ひとつ彼の口からは聞かれません。この時でございます、彼はすっくと立ち上がって、そのりりしい姿を余すところなく見せてくれたのです。自分でもそのからだをなでながら、得意満面の様子でした。そして、にこにこしながらわたくしの手を取りますと、その天与の自慢の傑作へやさしくみちびいたのでございます。
多少尻ごみはいたしましたものの、わたくしにせよ、この純白の象牙の柱を手にしないわけにまいりません。美しい藍の縞模様、いただきはいとしいくらい朱にそまっております。角笛のようなしっかりとした固さ、そのくせいかなるビロードにも見られないなめらかさと快さが残ります。さてこんどは、さらにわたくしの手をその先へ導きましたが、そこは自然が悦楽を願う心と協調して財をたくわえる部署だったのです。国家機構にたとえますれば、あたかも首相の下の専任大臣といったところ。首相のスタイルも配下をしたがえるにふさわしい堂々たるものでした。わたくしは直接この大臣にお会いいたしましたが、お役人らしい固苦しさは全然感じられません。
やわらかな温かい手をしたわたくしが、どちらかと申せば神経過敏なこれらのお役所を訪問いたしましたので、やがてあたりは騒然となり、おりよくわたくしがお誂えむきの姿勢でおりましたこととて、彼は事前の手続きをはぶいていきなり、別にそんなつもりでもなかったわたくしを荒れ狂うあらしにまき込んでしまいました。あらしのさなかで何か固いものが当たりましたが、もう特にがまんできぬ痛みではございません。わたくしが懐をかき合わせ、暖かく彼を介抱いたしますと、ようやく落ち着いたからだをぴったり寄せてくれました。そのうれしさはたとえようもなく、息苦しいくらいです。なんべんキスをしてくれたことでしょう、でもその一つ一つが無上の喜びを与えずにはおかなかったのです。いいえ、その喜びすらさらに大きな幸福の雲間がくれに消えてしまいました。それにしてもあらしはあまりにもはげしく、とてもいつまでもじっとしていられません。吹きつのる風に船はもてあそばれ、船内の熱気は高まるいっぽう、やがて限界に達してしまいますと、しばらくは消火作業です。こんなありさまで、船は風のまにまに身をまかせ、午前中ずっと当てのない航海をつづけました。おかげでお昼の食事は朝食をかねたものになってしまいました。
とはいえ、途中で何回かは息抜きをいたしまして、そんなおりには、チャールスが包み隠さず身の上話をしてくれたものです。彼は一人息子だとか。父親は税務署づとめの小役人のくせに分不相応な暮らしをして、そのため息子をろくろく教育もしなかったようです。これといった職を身につけさせるでもなく、まあ軍隊にでも入れて、いずれは連隊旗手の口でも見つけてやろうと考えたらしいのですが、それも先立つものができた場合か、借りられでもした場合のことで、どちらも空念仏にすぎなかったのです。そうかといって、場当たり主義の父親にいい考えが別にあるはずもなく、あたら将来有望な青年をこの年になるまで放ったらかし、みすみす遊ぶにまかせていたわけで、おまけに、何も知らない若者がむざむざ都会の悪や危険にさらされるのを見ながら、警告ひとつ与えなかったのです。いっしょの家には住んでいたものの、親子それぞれ勝手な暮らしで、父親のほうは女を囲っておりました。したがってお金でもねだられないかぎり、いっさい息子の自由気ままにまかせたのです。なんでも言いなりほうだい、めったに叱ることもなく、少しぐらいのあやまちなら見て見ぬふり、しいて止めだてすることもしないのだとか。しかしお金が入用になると、母親のいないチャールスは、自分を眼に入れても痛くないと思っている祖母のもとへ出かけたのです。この母方の祖母はかなりの年金をもらって暮らしており、余分のお金はなるべく割いて可愛い孫へ与えてやっておりました。父親としてはそれがおもしろくなかったわけですが、何も息子の浪費癖を助長させるからというのではなく、祖母が自分より息子を大事にしたからにほかなりません。こうした金銭ずくの嫉《ねた》みが、父親にどういう行動を取らしたかは、おいおいわかってまいります。
いずれにせよチャールスがその祖母の溺愛を利用すれば、わたくしのような愛ひとすじの女を囲うことぐらい何でもなかったのです。ですから、ちょうど彼が女を一人さがしている時にわたくしはぶつかった次第で、やはり幸運だったと申せましょう。
人にやさしくて、生れつき礼儀正しく、お行儀もいい、こうした温和なチャールスの気質なら、幸福な家庭を築けるにちがいありません。仲たがいすることがあっても、悪いのは彼であるはずがなく、もめごとが起こっても彼ならきっとうまく収めてくれましょう。たしかに世の中に光彩をはなつ偉大な才能の持ち主でもなければ、世間をあっと言わせる人でもございませんが、ささやかな平和な暮らしを送るには十分の素質があり、すぐれた常識、人一倍慎み深く親切な性格など、たとえほめられないまでも、誰からも愛され尊敬されることはまちがいありません。ではございますが、何といっても最初にわたくしが惹かれましたのは、彼の美しい姿ばかりで、内にかくされた長所を見抜けたのはずっと後々のことになります。まあ、おりしも軽はずみな年ごろのことでしたから、たとえそんな長所を持った人がいたところで、見た目がきれいで思わずぼうっとでもしないかぎり、全然関心などいだかなかったでしょう。それはさておき、お話を前へもどさなければなりません。
お昼の食事をベッドの中でがむしゃらにいただきましてから、チャールスは立ち上がり、心残りだが二、三時間待っていてくれと言って、外へ出てまいりました。若い腕ききの弁護士に事情を相談して、いっしょにブラウン夫人のもとへ出向いて行くためで、そう言えばもう飛び出してから二日はたっております。彼としては、清算すべきものがあれば全部きれいにし、すっぱり連中との腐れ縁を切るつもりだったのです。
そんなわけで彼は弁護土とつれ立って行ったのですが、歩きながらテンプラーというその弁護士は、前後のいきさつをきいて作戦を変えてしまいました。つまり、こちらから頼むのではなく、先方から頼ませることにしたのです。
先方に着きますと、家じゅうの娘たちがまだ覚えていて、彼のまわりを取りかこみましたが、昨日かおととい逃げ出したわたくしを彼が知っているなどとは露考えず、まして彼が逃亡の片棒をかついでいることにいたっては、およそ想像もつかなかったようです。娘たちは例によってお愛想たらたら、連れの弁護士のことも鼻の下を長くした新顔ぐらいに見て取ったのでしょう。けれどもテンプラーはすぐにそういう娘たちをおし止め、判事然とした重々しい顔つきをして、所用の筋があり、この家の主人に会いたいと申し出たそうです。
呼ばれたマダムがすぐに降りてきますと、娘たちは部屋から追い払われました。弁護士はいかめしい口調で、田舎から出て来たばかりの娘でフランシスまたはファーニィと呼ばれる者を、召使いとして雇うと称し営利誘拐しなかったかどうかとたずねたのですが、チャールスから聞いたわたくしの面立ちなどをできるだけくわしく説明におよんだようです。
悪徳をはたらいている者はこと法律におよぶとおじけだつもので、ブラウン夫人の場合もその例にもれず、わたくしのことでは良心がとがめないわけにゆかなかったようでした。ですから裏街の事情を知りつくし、多少の危険はかねがね承知でごまかしてきた古狸でも、話が治安判事とか、ニュー・ゲイト監獄とか、中央刑事裁判所とか、売春業の摘発とか、手枷首枷《てかせくびかせ》をかけての引きまわしなどにおよぶと、もうてんでたじたじにならざるをえないのです。マダムにしてみれば、おそらくわたくしがその家の様子をしゃべってしまったと思ったのでしょう、顔色をなくして弁解のかぎりをつくしたとか。そんなわけですから、わたくしの荷物もらくらく取りもどすことができたので、もしこうもマダムが狼狽しなかったら、なかなかただではすまなかったはずです。荷物ばかりではありません、わたくしに関するかぎり、マダムの家の勘定は、ポンチ酒一杯分の代金のほか、すべて清算されたことで手を打ったのです。いいえ、そのポンチの代金も結構、おついでにひとつ遊んでいらしたら、もちろん無料でとも言われたそうですが、そればかりは辞退したとか。また、交渉のあいだじゅう、ずっとそしらぬ顔で通していたチャールスは、たまたま自分がこの家の場所を知っていたので付いてきたというふうによそおっていたとか。けれども、さしさわりのない程度にはマダムもわたくしについて語ったし、それがほぼ直接わたくしから聞いた話と一致しているので、はたで聞いていてもおもしろかったそうです。
わたくしの親切な家庭教師だったフィービは、おりあしく外出中だったとか、たぶんわたくしをさがしに出ていたのでしょう。さもなければ彼女がいて、二人の男が作り話をそうかんたんに通せたかどうかあやしいものです。
それはともかく、交渉がだいぶ手間どったので、その間わたくしは初めてきた宿屋でひとりぼっちでしたから、チャールスがくれぐれも頼んで行ったとはいえ、親切なその家の女将が来て話でもしてくれなかったら、どれほど待ちどおしかったかしれません。いっしょにお茶をいただき、おしゃべりをいたしましたが、話題はどうしても彼のことになるので、大変楽しく時間をつぶせたわけです。けれども、そのうちに日が暮れてあたりが暗くなってまいりますと、帰ってくる約束の時間もだいぶ過ぎましたことですし、何となく胸さわぎがしてなりません。女というものは、愛すれば愛するほど相手の身が心配になってたまらないものなのです。
でも、そんな不安な気持はいつまでもつづかずにすみました。彼がもどってきた姿を見ると、もうそれで十分、帰ってきたら一言言ってやろうと思っていたことも、口にのぼらずじまいです。
わたくしはまだベッドに入ったきり、歩くのがおぼつかなく、せいぜい起き上がれる程度です。チャールスは飛び込んでくると、わたくしを抱き起こし、作戦成功の一部始終を話しながら、合い間をみては何度も何度もやさしくキスしてくれました。
話がおどかされたお婆ちゃんのあわてぶりの段になりますと、わたくしは思わず吹き出してしまいました。ほんとうに無邪気で何も知らなかったわたくしは、よもやそんな条件がつきつけられるなどとは考えもおよばなかったのです。どうやらお婆ちゃんは、自分たちのしうちが気に入らなくなったわたくしが、思い立ってロンドンにいる親戚のもとにでも身を寄せ、それでこんな申し出をしてきたのではないかと気をまわしたようです。逃げ出した朝、馬車に乗るわたくしの姿を誰も見ていない、少なくとも彼には気がついていない、というチャールスの判断は正しかったわけで、マダムにしろ娘たちにしろ、家にいた連中は誰ひとりとして、わたくしが全く見ず知らずの彼と言葉をまじえたり、あげくのはてには駆け落ちしたなどとは考えてもみなかったのです。このように、とても起こりそうに思えないことでも、かならずしも起こらないと決めるわけにゆかないのではないでしょうか。
何もかもうまくまいりましたので、わたくしたち二人はすっかりはしゃいでお夕食をいただきました。将来の幸福はいっさいチャールスにまかせた気でおりましたから、その場はもう彼といっしょにいられるうれしさでいっぱい、ほかのことは何も考えなかったのです。
とかくするうちに、チャールスがベッドに入ってまいりました。第二夜は痛みもすっかり取れ、わたくしは申し分のない楽しみにひたりきることができました。無上の幸福の波間にただよううちに、燃えさかる欲望の炎もいつしか消え、安らかな眠りにおちいります。そして、朝、目ざめればすぐにまた悦楽の流れに身をまかすばかりでした。
こんなぐあいに、わたくしたちはそのチェルシーの宿屋に十日あまりいつづけ、愛のかぎりをつくしたわけでございますが、その間、チャールスは外泊について父親の手前をうまく言いつくろったうえ、入用な費用は例のかわいがってくれる祖母のもとへ行き、しょっちゅう十分にもらってきました。と申しましても、それまでのめちゃな遊興費にくらべれば、きわめて些細な額であったのです。
まもなくチャールスはセント・ジェームスのD**街にある家具付きの貸間を見つけてくれ、三階の小部屋付き二間で週に半ギニーの家賃を払いましたが、かねがねそんな家の心当たりをさがしていたわけなのです。まあ、それまでの宿屋暮らしにくらべれば、たびたび通ってくるにしてもずっと都合がいいのでしょうけれど、わたくしにすれば初めてチャールスにからだを許した思い出の場所なのですから、旅館からは去りがたい気がしきりでした。いわば、ひとたび失えば永久に二度とかえらぬ大切な宝を、彼にわたした記念すべき家だったからです。ですけれど、宿の主人としてみれば別にどうこう言う筋合いのあるはずがなく、ただお金の払いのよかったお客がいなくなることがいくらか残念だったようです。
忘れもいたしません、あたらしい住居にまいりました時には、ほんとうにすてきな家だとぞんじました。もっとも、値段からすればまあまあといったところだったのでしょう。でも、たとえ地下牢のような場所であったにせよ、チャールスさえ来てくれればどんな小さな家でもわたくしには宮殿と変わらないはずです。
大家さんはジョーンズ夫人と申しましたが、わたくしたちを部屋へ案内すると、とうとうと、この家のよさを並べ立てました。自分のところの女中に世話もさせようとか、この家には相当の暮らしの人たちばかりが住んでいるとか、二階はさる国の大使館におつとめの書記官夫妻に貸してあるとか、あなたはお見受けするところ、とても気立てのやさしそうな奥さまだとか、ざっとこんな調子です。奥さまなどと呼ばれますと、わたくしはうれしいやら恥ずかしいやら、くすぐったい気持で思わず顔を赤くしてしまいましたが、わたくしのような出が出の女ではいたしかたございません。もちろんチャールスは逃げ出した当座のけばけばしい服装をやめさせ、地味であまり目だたない格好にしてくれましたけれど。また、古めかしい口実ですが、妻は妻でも人目を忍んで結婚した仲、誰にも知られたくないのだとも言ってくれましたけれど。しかし、巷の事情に通じたこの家の女将《おかみ》のような者には、どれもこれもでたらめに見えたにちがいありません。ですけれど、たとえそうであっても彼女には何の関係もないこと、知らぬ顔をしていればすむまで、ただ部屋代のあがりがあればいいのです。ほんとうのことがわかったところで、別に驚きもしなければ、契約を取り消すこともなかったでしょう。
ここでジョーンズ夫人について、かんたんにその人がらやら経歴をしたためさせていただきますが、何かとその後のわたくしの身の上に彼女がかかずらうことになったからです。
四十五、六の年輩で、背が高くやせぎすで、髪は赤毛です。どこにでも見かけられる別にこれといった特徴のない至極平凡な顔立ち。若いころはさる紳士にかこわれていたものの、その人が死んでしまうと産まされた娘の養育費に、生涯四十ポンドの年金を支給されることになったのです。娘が十七歳になると、お話にならないほどの金額で売りとばし、買った相手は海外に派遣されるれっきとした紳士で、娘を手に入れるとたいそうのかわいがりよう、噂ではひそかに結婚をしたとか。といっても血肉をわけた子供を売りに出すような性悪の母親とは、ついぞ手紙一本取りかわさなかったそうです。ところが、彼女ときたらお金以外にまったく興味のもてない女で、そうなったからといって特にくよくよするわけでもなく、ただせっかくできた取り引き先からびた一文しぼれないのが残念といった程度。ですから楽しみといったらお金をせっせと貯め込むことぐらい。そのほかのことにはいっさい無関心で、目的のためには手段をえらばず、私娼の斡旋業をはじめたわけですが、表面なかなか上品な様子をしておりますので、案外それがうけたのでしょう、時には仲人役まで買って出ることさえあるとか。手短に申せば、割に合わない仕事にはおよそ手を出さなかったのです。街中のことなら裏の裏まで知りつくしていて、自分もその道のしたたか者であったばかりでなく、たえず情報をあつめて男女の仲を取りもつようにしておりましたし、そのほか、もぐりの質屋をやってみたり、お金になることなら何でもしたようです。また、借家ずまいのくせにそれを幾部屋かに仕切って又貸しをし、財産も三、四千ポンドになっているのに、それにはけっして手をふれず、生活費はがっちり室代のあがりだけでおさえていたのです。
さて、わたくしたちのようにまだ子供っぽい二人連れが入ってくれたとなると、とっさに彼女の頭にうかんだのは、言うまでもなく、いかにすればわたくしたちからうんとまき上げられるか、お金になるチャンスならどんなチャンスも見のがすまいということで、その判断はまさに正しく、こちらは立場が立場なうえ、そろいもそろってねんねでしたから、ほどなく彼女の思うつぼになるわけです。
とにかくこんな禿鷹《はげたか》のような女の爪の下でも、わたくしたちは希望に胸をふくらませて隠れ家の人となったのです。さて、この女がどんな細工をしてお金をまき上げたか、そんな枝葉末節の話をこまごまとしたためましても、あまり本題に関係ございませんし、わたくし自身たまらなくいやな気がいたします。チャールスにしろ、めんどうな引っ越しをするより黙ってがまんすることにしましたし、およそ物を切りつめるといったような経済観念のない若者と、何も知らない土くさい田舎娘とでは、お金の使い道さえほとんどわからない始末でした。
いずれにせよわたくしはこの家で、心から愛する人の手に抱かれて、生涯でもいちばん楽しい日々をおくったわけです。チャールスの中にこそわたくしの願いも望みもすべてあったのです。お芝居やオペラ、それに仮面舞踏会など、どんな催し物にも連れて行ってくれましたし、そのどれもが楽しいものでしたが、やはり何と申しても彼がいっしょだということほどうれしいものはございません。いろいろと説明もしてくれましたし、それにわたくしみたいな田舎娘には何もかも目新しく初めて見るものばかりでしたから、ただ驚くやら感心するやら。そんないかにも自然でたくまない風情にも、彼は喜んでくれたようです。でも結局わたくしには、ただ一つの情熱だけが自分の心を力づよく支配している、それがはっきりしたまででした。そうした情熱に身も心も焦がれに焦がれ、もう愛すること以外どんな想念もはいる余地がなかったのでございます。
また、出歩きましたこれらの場所やそのほかで、どういう男の方を見かけましても、わたくしの美しいアドニスにくらべたら全然問題になりませんでした。ですから、わたくしといたしましても、一度だって彼を裏切るような考えをいだいたはずもございません。チャールスこそわたくしの全宇宙だったのです。彼がいなければ、この世はむなしすぎました。
このように愛情が極度になると、あれこれ疑ってみたり、嫉妬の炎を燃やしたりする余裕は全く影をひそめます。つまり、少しでもそうした考えが頭にうかびますと、ひどく苦しむ破目におちいるのは目に見えておりましたし、したがって、自分がかわいいので死んだほうがましなくらいの恐怖感が先立って、けっして妙な想像は永久にすまいと心に誓った次第です。もちろん、じっさいにそんなことは起こりませんでしたけれど。その証拠にここでいくつかの例をあげて、チャールスがわたくしなどよりずっと身分の高い婦人でさえ歯牙にもかけず(彼ほどの美男子なら、言い寄られても不思議でございません)、わたくしに対し変わらぬ愛をいだいていた次第を、はっきり奥さまに申し上げてもよろしいのですけれど、もうとうの昔に虚栄心を満足させたそんなおのろけ話を、いまさら蒸し返してみてもはじまらないのではないでしょうか。
愛の喜びにひたる合い間をみて、チャールスは何くれとなく熱心にいろいろのことを教えてくれたものです。それも、わたくしのようにろくろく教育を受けていない無知|蒙昧《もうまい》なものにも、できるだけわかるようにしてくれましたから、こちらも最愛の恋人が語る言葉を一言も無にしないように心がけました。彼の口をついて出る一語一語が、まるで神さまのお告げのように思われます。中断いたしますのはキスをしてくれるあいだだけですが、またそのうれしさはかくしきれるものではございません。いとしい唇からはアラビヤの夜のそよ風が吹いてくるような気がいたしました。
わずかの間にわたくしの教育の成果はいちじるしく、いかに一生懸命耳をかたむけていたかがわかろうというもので、ほとんど教えられたとおりにそのまま復誦できるくらいでした。それもただおうむ返しをしているのではなく、内容をよくつかんで理解もしていることを知ってもらうため、自分の意見もさしはさみましたし、疑問の点はなおよくきいて説明をもとめたのです。
田舎なまりの発音や、身のこなし、お行儀態度などの泥くささは、みるみるうちに抜けてまいります。ほかでもなく、一日も早く彼にふさわしい女になろうと、いたいたしいほどの努力をかたむけて習いおぼえたかいがあったわけです。
お金に関するかぎり、手にはいりしだい全部届けてくれましたが、いくら衣裳をいっぱい買えと言われても、そうはできません。衣裳などというものは、わたくしが身ぎれいにして彼に喜んでもらえれば、もうそれでたくさん。その上さらによけいなものはほしいとも思われません。彼のためならよろこんで、骨身惜しまずはたらき、うんと苦労してこそうれしいのです。ですから、たとえ少しでも自分が相手の重荷になっていると考えただけでも、それこそ心からやりきれない気持になるはずで、チャールスにしろそれを感じないわけにいかないでしょう。かりに、わたくしが愛するほど彼が愛していてくれなくとも(この問題だけが仲のよいわたくしたちのあいだで、たえず口論のもとになりました)、彼ほど誠実でやさしい男の人はいない、少なくともそう信じ込まずにはいられない態度を彼は取ったのです。
大家さんのジョーンズ夫人はたびたびわたくしたちの部屋へ顔を見せました。チャールスがいっしょでないかぎり、けっしてわたくしが部屋から出なかったからでございます。教会でちゃんと式もあげていないわたくしたちの秘密やら、目下の暮らしぶりなどをあらいざらいかぎ出すのに、この女はたいした手間ひまをかけずにすみました。状況はまさしく彼女のめぐらした企みにお誂えむきだったのです。そしてどうでしょう! あまり待ちもしないうちに彼女の企みが実現しようとは。何はともあれ当面は、彼女もそのゆたかな人生経験から、少なくとも妙な手出しなどをして二人の仲をぶち壊したりすることは避けていた様子。それもこれも、二人の心がまだしっかりと結ばれていましたからで、へたに動けば結構もうかるお客二人に逃げられるのが落ちだったのです。また、さるお得意さまからいくらかかってもいいからと頼まれたわたくしの誘拐計画まで、ひょっとすると感づかれるかもしれないと思ったのでしょう。
けれども、むごい運命は、やがてこの女に二人のあいだを割く手間をはぶかせたのでした。わたくしが人間らしい生活をはじめましてから、十一ヵ月はたちましたでしょうか、とにかく、それは喜びあふれる奔流のような月日でした。しかし、何ごとでもはげしい勢いの長つづきしたためしはございません。すでにわたくしは身ごもって三月のからだでした。そのままの暮らしがつづいておれば、彼がどれほどやさしい言葉でいたわってくれたかわかりません。でも突然、予想もしないつらい別れがやってまいったのでございます。その詳しい内容ははぶかせていただきます。考えるだけでもぞっといたしますし、いまだにわたくしは、あの時いったい自分はどうしたのか、どうやって生き抜いてこられたのか、さっぱりわからないのでございます。
チャールスから何の音沙汰もないままにおくった二日間の長かったこと。彼がいたからこそわたくしは生きて呼吸してこられたのです。彼の姿も見ず声も聞かずに丸一日過ごすなど、それまでにはなかったことでした。三日目になりますと、いよいよ辛抱も限度にきて、不安はつのるいっぽう、そのためにすっかりやつれて病人のようになりました。もう起きていることもおぼつかなくなり、ベッドにはいって呼鈴をならし、ジョーンズ夫人にきてもらいましたが、そんなさびしい思いをしていたわたくしを放っておいて、夫人はついぞなぐさめにきてくれたことさえなかったのです。夫人が現われましたので、わたくしはかすれる声で、やっとの思いで頼んでみます。どうか助けてくださるつもりなら、何とかしてすぐにでもチャールスをさがしてください、いまはもうそれだけが頼りだし、なぐさめだと申しました。夫人は不安を消すどころか、むしろ倍加させるような言葉を残し、それでも依頼したことを引き受けて出て行きました。
チャールスの家はコヴェント・ガーデンに通じる路にあり、ごく近所でしたので、夫人はすぐに出かけて行き、付近にある居酒屋へはいって、そこからわたくしが教えた先方の女中さんを呼び出したのです。
いそいで出てきた女中に、夫人がチャールスのその後の様子、あるいはもうロンドンにいないのかなどと問いただしますと、父親が息子に取った処置はすでに事件の翌日、家じゅうの召使いたちにすっかりわかっていたそうです。つまり、チャールスのお父さんは祖母が自分より息子をかわいがるのに業をにやし、ちょっと考えられないむざんなお仕置きを、ぬかりなくやってのけたとかで、そんな陰険な行動をするのにももっともらしい口実はちゃんと作っておき、せっかくお膳立てのととのった息子の洋行を、孫かわいさにおばあさんがじゃましないようにしたのだそうです。口実というのはほかでもなく、父親の兄弟でお金持ちの商人の方が、南洋の在外商館で亡くなった知らせを遺言状ともども最近受け取ったとか、そのためかなりな遺産を相続する手続きをぜひとも取らなければならないということでした。そうと決まるとお父さんは、息子を追い出すために、そっと必要な渡航手続きをすませ、船主とはかねて関係があるところから、乗船する船長とうまく交渉して注文どおりに事を運ばせることにしたのです。事実、細工は内々のうちにはかどって、数時間テームス川を下るつもりの息子はそのまま船に乗せられ、手紙を書くことはおろか、国事犯さながら厳重な看視のもとに置かれてしまったとか。
こんなふうにわたくしの最愛の人は、生木を裂かれるように引きはなされて、ただ一人の友だちにも見送られず、餞《はなむけ》の言葉も受けず、そのまま父親のあじけない説明と着いてからの行動の指示、それに先方の商館の支配人あての紹介状を懐に、遠い船路へと旅立ったのでございます。もちろん、わたくしがこんな詳しい話を聞いたのは、数日たってからのことでした。
なお、女中はそのおりジョーンズ夫人に、若旦那さまがこんなむごい目におあいになったと聞けば、おばあさまはきっと死んでしまわれるでしょう、とも付け加えたそうですが、ほんとうにそのとおりになったのでございます。お年寄りはニュースを聞いてから一月もたたずにお亡くなりになったのです。財産といっても年金だけで、それに貯金などなさっていませんでしたから、あれほどかわいがっていた孫にも何ひとつ残さぬまま、でも、チャールスのお父さんにだけは死ぬまでけっしてお会いにならなかったそうです。
帰ってきたジョーンズ夫人が案外平気な顔で、しかもうれしそうな様子さえうかがえましたので、これはきっと何かいい知らせでもあって、わたくしもいくぶん楽になれるのではないかと半信半疑ながら喜んだのですが、全くとんだぬか喜びでした。この残忍きわまる女は冷酷むざんにあっさりと、チャールスが海のかなたへ追い払われ、四年間は帰ってこない(これは女がわざと悪意でそう言ったのです)、だからもう二度と会うことはあるまいと、とどめを刺すように言います。身重のからだでもございましたし、どれもほんとうだと信じないわけにまいりません。
夫人の残酷な報告を聞き終わらないうちに、わたくしは気を失ってたおれてしまいました。その後何べんか発作がくり返され、気も転倒してわけもわからないまま、チャールスとのあいだにできたいとし子を流産してしまったのです。けれども、死んだほうがましだと思う者ほど死ねないもので、ことに女は恥さらしの身を生きながらえることになっております。
冷酷なくせに、ただ打算的な考えから、夫人はわたくしの看病をし、惜しくもない命を取りとめてくれました。かつては幸福と喜びでいっぱいだった人生のかわりに、あるのはただ底知れぬみじめさ、恐ろしさ、それにぞっとするいやらしさだけです。
こうしてわたくしは六週間というもの寝たきりでした。若さと丈夫なからだが、ほほえみかける死神とたたかうのですが、わたくしとしては安らかに永遠の眠りにつきたいと、たえず願っていたのでございます。けれども、その願いもむなしくなり、ついに病のいえる日がまいりました。とは申せ、絶望のあまり精神もうろうの状態でしたから、五官のはたらきもなくなり、気違い病院へ行く一歩手まえだったようです。
しかし、時の流れがやはり一番心のなぐさめとなるのでしょう、あれほどつらかった苦痛もおさまりはじめ、いつしか人ごとのように感じなくなってきたのです。元気にはなりましたものの、まだがっくりとしてものうい無気力な状態がつづき、そのせいか田舎娘の生き生きとした色つやはなくなってしまいましたが、そのほうがむしろわたくしを美しく、人目を惹《ひ》く存在にさせたようでした。
病気のあいだ、夫人はずっとまめまめしく世話をやいてくれ、何不自由もさせませんでしたが、どうやらこれで大丈夫と見てとるが早いか、さっそくある日、お昼の食事をいっしょにしたあとで、ひとまず全快のお祝いを述べてから、これもひとえに自分が一生懸命看病したからだと前口上を言いながら、何とも恐ろしい恥知らずなことを並べ立てたものです。「ファーニィさん、あなたもそろそろよくなってきたようですけど、よかったらいつまでもここにいていいのよ。それでね、お金のことはいままで何も言わなかったけれど、どうしても都合しなければならないことができたの」というわけで、室代とか食費とか薬代とか、看護婦の代金とか、その他いろいろとどこおっていた金額の請求書を出したのですが、しめて二十三ポンド十七シリング六ペンスになっております。ところがわたくしの手もとには、たまたまチャールスが置いて行った七ギニー(約七・七ポンド)しかございません。彼女はそれをよく承知しております。ですからすぐに、どうしてこの支払いをすますかと迫ってまいりました。思いあまって涙がこぼれ、泣きながら窮状を訴えました。少しある服もみんな売ってそれにあてます、残りはできるだけ早くお払いしますからと申しましたけれど、相手にしてみればわたくしの窮状こそつけ目ですから、ますます態度を硬化させるいっぽうでした。
彼女はとても冷やかな口調で言います。「それはあなたを気の毒だとは思うわよ。でもね、筋は通さなければならないわ、あなたみたいなか弱い娘さんを、監獄にまで入れる気はしないけど…」。監獄! この言葉を聞いて、わたくしはからだじゅうの血が凍る思いでした。あんまりびっくりしてしまったので、もうまるで処刑場に引き出された囚人のよう、まっさおにふるえあがり、すんでのことに気絶するところでした。夫人としては少しおどかしてやれと思っただけでも自分の計画が台なしになるまでわたくしを痛めつけるつもりはなかったのです。ですから、こんどは一転してわたくしをなだめにかかり、さも気の毒そうにやさしい口調で、「まあ、そんな非常手段をあたしに取らせるも取らせないも、すべてあなた次第なのよ。とにかく、あたしにいい知り合いが一人いるから、その人に相談すればきっとお互いに納得できる線を出してくれると思うわ。そうと決まれば早いほうがいいし、午後にでもお茶にお誘いしてみましょう」と言います。何と言われましても、一言もございません。わたくしはただ黙って混乱した頭をかかえ、すっかりおじけづいてすわっておりました。
ジョーンズ夫人はわたくしがだいぶこたえたのを見て、しばらくそっとしておくにしかずと思ったのでしょう、わたくしを後に残し部屋から出て行きましたが、何と申しましても監獄に入れられるという恐怖感が重くのしかかり、助かる道はないものかと藁《わら》にもすがりたい気持でした。
そんなふうにして三十分ばかりすわっておりましたでしょうか、絶望のあまり悲嘆にくれていますと、やがて夫人が入ってきて、まるで死人のようにあおざめたわたくしの顔色を見ながら、あいかわらず策略をめぐらせているくせに、さも気の毒そうに親切めいた口ぶりで申すのです、「あなたが考えているほど悪くはなりませんよ、あたしの知り合いの人と相談すれば」、それからこう結びました、「その人は大変立派な紳士ですからね、ごいっしょにお茶でも飲みながら、きっといい知恵を貸してくださるわ、どうすればあなたが急場をきり抜けられるかというね」。言い終わると、わたくしの答えも待たず、そそくさと出て行きましたが、やがて立ちもどりますと、その推薦する立派な紳士を連れてまいりました。じつはこの立派な紳士のご用命を、今回にかぎらず、これまでもたびたび彼女はうけたまわってきていたのです。
部屋に入ると紳士はわたくしに向かい、たいそうていねいに会釈されましたけれど、こちらにはそれに答える体力も気力もほとんどございません。夫人は初対面の取り持ちをしながら(わたくしがその方と一度も面識がなかったのはたしかです)、お客と自分の椅子をそろえます。そのあいだ、どちらからも一言も口をきかず、わたくしはただ馬鹿のようにぽかんとした顔をして、不意のお客さまを迎えるだけでした。
お茶がはいりますと、夫人はいかにもぐずぐずしていられないというふうに、全く見も知らぬお客さまの前で口もきけず、おどおどしているわたくしの姿を見ながら、「ちょっとこちらへいらっしゃいな、ファーニィさん」と、身内の者にでも対するようなぞんざいな口調で、いばって申します。「さあ、顔をあげて、めそめそしているとせっかくのお顔がだいなしになるわよ。そういつまでもくよくよするんじゃないの、こっちに来てらくになさい。こんな立派な方があんたの話を聞いて、何とかしてあげようとおっしゃってるのよ。さあ、そんなにしゃちこばっていないで、もっと打ち解けた態度をなさい。自分をいい値に売れるのもいまのうちなんだからさ」
あまりきわどいことをべらべらと言うものですから、それにわたくしがただもう驚いて返答にも窮しているありさまでしたから、その紳士は夫人に、そうずけずけ言ったのではぶち壊しになる、せっかく何とかしてあげようという自分の善意もくんでもらえないばかりか、むしろ逆効果だとたしなめますと、こんどはこちらを向いてわたくしに話しかけました。「あなたがお困りになっていらっしゃるお話は、全部ぞんじ上げておりますよ。あなたのようにお若くて美しい方がひどい目におあいになるなんて、ほんとうにお気の毒にたえません。かねがねあなたには好意を寄せておりましたので、その旨はここにいるジョーンズ夫人にも伝えておきました。しかし、深い契りをかわされた方もいらしたことですし、こんどのような運命のいたずらが起こるまで、とてもかなわぬ望みだと思っていましたが、お困りのご様子を聞いて何かと不自由なさらないよう、こちらの奥さんを通してお取り計らいしたわけなのです。おりあしくどうしてもハーグに行かねばならなくなり、そんなことがなければ、ずっとあなたの看病をさせていただいたはずです。……それはともかく、昨日やっと帰ってまいりますと、ご全快になったとかで、さっそくあなたにご紹介していただくことにしたのですが、ただいまのようなひどい紹介のしかたはありません。思わず腹が立ったくらいです。まったくふざけた言いぐさです、だいたい人の弱味につけ込んでうまい汁を吸うのは、わたしの趣味にあいません。ですから、あなたにきっと喜んでいただけると思い、いますぐ目のまえで、あなたの借金を全部きれいに払いましょう。そして証文などいっさいあなたにお渡しいたします。その上でわたしの申し出をお断わりになろうがなるまいが、すべてあなたのご自由におまかせしたいとぞんじます。無理じいなどする気はさらさらないのですから」
こんなふうに自分のお気持をるるお述べになっているあいだに、わたくしはちょっと顔をあげてどんな方かと拝見いたしました。大変ご様子のよろしい紳士で、立派な体格をなさっております。さあ、四十ぐらいになられましょうか、服装は地味でございますが、大きなダイヤの指輪をして、それがお話をしながら手を振るたびに、きらりきらりとわたくしの眼にまぶしく光ります。なんだかたいした方のような気がいたしてまいりました。一口で申せば、よく言われる男ざかりの方で、氏素姓もいやしくないさまがおのずとうかがわれます。
でも、いくらお話しくだすってもわたくしはこみ上げる涙にむせぶばかり、声がつまってご返事もできません。でもそれで幸いでした、何とお答えしてよいのかわからなかったのですもの。
後日この方が話してくれましたけれど、わたくしのそんな様子にとても心を動かされたので、いくらかでも悲しみが軽くなればと、財布を取り出し、夫人にペンとインクを持ってこさせると、要求通りの金額を支払ったうえ、それとは別に相当の礼金を、わたくしにはわからないように手わたしたのだそうです。さて証文を受け取ると、しまっておくようにとわたくしの手に握らせ、その手をやさしくポケットの中に押し込んでくださったのです。でも、わたくしはあいかわらず呆然自失の状態で、ふさぎ込んだまま、まだまだとても先ほどのショックから立ち直れません。やがて気をきかせた夫人が部屋から出て行きますと、あとにはわたくしと初対面の紳士の二人きりです。そんなことはわかっておりましたし、別に驚きもしませんでした。もう生ける屍《しかばね》も同然のわたくしには、何がどうなろうとかまわなかったのでございます。
けれども、紳士はこういう場面になれておいでのようで、わたくしに近寄りますと、なぐさめの言葉をかけながら、ひとまずハンカチをとり出して、頬にこぼれる涙をぬぐってくださいました。それから思いきってキスをなさいましたが、わたくしとしてはそれをいやだともいいとも申し上げられません。黙ってすわりつづけます。目のまえで取り引きされ、お金で買われた身ですもの、もうこんな役たいもない躰がどうなろうとかまわないのです。生命力も、精神力も、さからってみる勇気も、いいえ、女の羞恥心すら、すでになくしておりました。何をされようとその紳士の言うなりほうだいです。相手はしだいに大胆になってきて、片手をスカーフのあいだから胸にまっすぐさし入れてまいりましたが、ぜんぜん拒絶されないと見てとると、もう何をしてもいいと思ったのでしょう、欲望のおもむくままの行動に移ってきました。ぐったりして身動きもしないわたくしを両腕で抱き上げますと、ベッドまで運び、そっと寝かせてから思うままに楽しんだのですが、どういうことをされていたのかは、生ける屍の状態からわれにかえるまで、とんとわからずじまいでした。気がつくと相手はわたくしの中にからだを埋めておりまして、こちらは楽しくもなんともなく、ただその場に横たわっていたにすぎません。血の気をなくした死人のようなからだでは、何も感じるわけもなかったのです。また、そんなありさまをいいことにして、相手はさっさと欲望を果たしおえますと、ベッドから降り立ち、乱れた裾をなおしてくれながら、今はもう悔恨のあまり気も狂わんばかりのわたくしを、思いきりやさしい言葉でなぐさめにかかります。いくら悔んだところで今さらはじまりません。初めて会った見ず知らずの他人とベッドをともにし、その腕に抱かれたのですから。わたくしは髪をかきむしり、こぶしをにぎりしめ、胸をとんとんたたいて、もうまるで気違い女でした。ところが、わたくしの新しい主人は(すでにそう考えられたのです)、自分自身に腹を立てているわたくしを、とにかくなだめたりすかしたりするのですが、何もその人のせいなどとは思わないつもりでしたから、ひとまず怒りをおさめて、おとなしくどうかひとりきりにしておいてくれないか、そのほうが少なくとも思うさま悲しめるからと、ひたすらお願いしてみました。でも、それだけははっきりと断わられてしまったのです。どうやらわたくしをひとりおいてゆくと、何か間違いでもしでかすのではないかと案じたようでございます。
激情というものはそう長つづきするものではありません。女にあってはなおさらのことでございます。あれ狂う嵐が去りますと、死のような静寂がおとずれました。ただ涙ばかりが止めどもなく頬にこぼれます。
こんな目にあう前でしたら、チャールスのほかにも男を作れるだろうなどと人に言われれば、面とむかってつばでもはきかけてやりましたものを。またたとえ、たったいま目の前で支払われた大枚の金子より、もっとたくさんの金額を与えられたところで、冷たく突き返してやれましたものを。とにかく、なにが徳、かにが不徳と申しましても、すべてその場の状況次第だとぞんじます。わたくしのように長患いをして心身ともに疲れはてた者が、いきなり、刑務所に入れられるなどとおどかされ、うむを言わさず犯されたのですから、こんな始末になりましてもそこは許されてよろしいのではないでしょうか、何もみずからすすんでいたしたわけでもございませんし。とは申せ、身をまかせたからにはもはや他人ではなく、とった方法の是非はともかく、このうえ、相手の愛撫を拒否することはできないとぞんじました。そんなわけで、もう相手のものになってしまった以上、キスをされようが抱かれようがもがいたり怒ったりせず、じっとがまんしたのです。ですから、楽しい思いなどとても味わえません。第一、そんな気持になるには嫌悪感が先に立ってどうにもならなかったのでした。一にも辛抱、二にも辛抱、窮地から脱することができたと思えば感謝するほかにございませんもの。
それはともかく、彼はつい先ほどわたくしが目をまわしたような激しい行ないを、またくり返し行なうつもりはないようでした。もう自分のものになってしまったことだし、おいおい気持もほぐれるだろう、時間をかけてご馳走の果物が熟するのを待とう、とこう考えたのでしょう。後日の話ですが、彼はときおり思い出しては、なぜあの時、欲望をおさえきれず、無抵抗なわたくしの様子についふらふらと迷い、自他ともに楽しみも何も感じないような、いわば死人にも似たわたくしの躰に熱血をそそぎ、まるで青いままの果実をむさぼるようなまねをしたのだろうかと、そのあさはかさをみずから責めたものです。もちろん、そのとおりです。わたくしは心のうちでいつまでも、ああいうやりかたでわたくしを手に入れた彼の態度を、けっして許せませんでした。けれども、たんなる利害関係から考えれば、かんたんにわたくしを手に入れた反面、そうかんたんには別れられないのですから、その点は喜んでいいと申せました。
とかくするうちに宵も深まり、女中が夕食を運んでまいります。うれしいことに、もう姿を見るのもいやになった夫人は、同席しないようです。
やがてなかなか上等の夕食が、ブルゴーニュのブドウ酒一本なども添えて、サイド・テーブルにならべられました。
女中が部屋を出て行きますと、相手の紳士はものやわらかに、食欲がなくてもこちらへ来て、まあ一つ、炉辺の肘掛け椅子にでもすわらないかと申します。いやいやながら言うとおりになりましたけれど、かつて最愛の人と互いに頬を寄せあい、あまい言葉をかわしたことを思うと、無理やり求められてするこんなぶざまな格好が、ほんとうにやりきれなくなります。
お食事をとりながら、不運なわたくしにいろいろとなぐさめの言葉をかけてくれましたが、やがて、自分はH**といい、L**伯爵とは兄弟の仲、ジョーンズ夫人のすすめでわたくしを垣間見たけれど、自分の好みにぴったりだと思ったとか。それで斡旋料はいくらでも出すからと彼女にたのみ、やっと今日のところまでこぎつけられた、ともかく自分はいま満ちたりた気持でいるが、わたくしにもぜひそうなってもらいたい、心からのぞんでやまない、それに、いっしょになったらけっして後悔させるような目にあわせないからなどと、つけくわえます。
そこでわたくしも、山うずらを半分ほどと、元気が出るからとすすめられたブドウ酒を三、四杯いただきました。そのお酒の中に何か特別のお薬でもはいっていたのか、それとも元気を取りもどすのにはお酒だけでも十分であったのか、それはわかりませんが、とにかくH**さんに嫌悪感ともいえる固苦しさをいだいていたのが、いつのまにかなくなっていたのです。とはいえ、いくら感情がなごやかになったと申しましても、愛情などは爪のあかほどもわいたわけではございません。わたくしにとりましては、H**さんであろうとなかろうと、こんな場合同じようなことをしてくれる人がいれば、ほんとうに誰でもよかったのでございます。
世の中に終わりにならぬ悲しみなどはあろうはずがなく、わたくしの悲しみにせよ、これでおしまいでないかも知れませんが、少なくとも一時の安らぎは得ました。ながい不安と焦燥にくたくたに疲れてしぼんでいたわたくしの心は、何かしらなぐさめと楽しみをもとめて、急にひろがりはじめたのです。ちょっと泣くたびに涙が苦しみを洗い落とし、ため息をするたびに胸につかえていたものが、しだいに軽くなるような気がいたします。顔色も晴ればれとしないまでも、少なくとも落ち着いたらくなものになってまいりました。
そうなるだろうと思っていたH**さんは、わたくしの変化に目をつけますと、そっと中を隔てるテーブルを脇にどけ、椅子をこちらへ引き寄せましたが、すぐに思いのたけの愛情をこめていろいろとかきくどき、それから手を取ってキスをしたかと思うと、またもわたくしの乳房にさわります。ただでさえ締まりのないふだん着がだいぶはだけておりましたから、どうともしほうだいのありさま、まだ親しみもわいておりません他人からそんなふうにされて、腹立たしさというより恥ずかしいやら恐ろしいやらで、胸がどきどきして息苦しくなりました。しかも、つづいてさらにはっとするようなことをされたのです。両手を下におろし、ガーターの上へくぐらせますと、やがて元きた道をふたたびたどろうといたしました。先ほどはとがめる者もなく、まったく放置されたままだったからでしょう。でも、こんどは両膝の扉が固く閉ざされて、なかなかあけるわけにまいりません。わたくしはおだやかにそれを断わり、躰のぐあいがよくないから、そっとしておいてくれないかと頼みました。どうやら彼はわたくしのそんな抵抗が本心というより、多分に物事の順序にこだわっているせいだと見たようです。とりあえず差し控えることにしたらしく、わたくしにはすぐベッドに入って寝るように言いますと、夫人を呼んで後をよく頼み、一時間以内には帰ってくるつもりだ、そのぐらいすれば今よりずっと打ちとけた気分になれるだろうとも付け加えました。わたくしはいいとも悪いとも返事をしませんでしたが、顔色や態度でその言うままになることは、ほぼ彼にも見当がついていたようです。
そういう次第で、彼はわたくしを置いて出て行きましたが、さてゆっくり考えようと思う矢先に、夫人からだと言って、女中が小さな銀の器に花嫁のお酒≠ニ呼ばれる牛乳酒を入れて持ってきたのです。そして、ベッドにはいるまえに飲むようにとすすめるものですから、ともかくいただいてみますと、たちまちかっかと熱くなりまして、なんだか躰じゅうの血がむらむらと騒ぎはじめたぐあい。もう全身が燃えて、どんな男の人でもいい、ほしくてたまらない気持にさえなりました。
わたくしがベッドに横たわりますと、女中はすぐに燭台を持って出て行き、うしろ手にドアをしめましたが、きっとわたくしがよく眠れるように計らったのでしょう。
さて、女中が階段を降りきったかどうかと思われるころ合いに、H**さんがそっとドアをあけてはいってきました。すっかり着替えをすまし、寝間着とナイト・キャップ姿です。ともしたロウソクを二本もって、ドアに鍵をかけます。かねて覚悟はしておりましたものの、やはり何となく不安でなりません。爪先立ちでベッドに近寄りますと、やさしい声でささやきます、「君、驚かないでおくれ……こんどこそやさしくしてあげるからね」。そして大いそぎで着ているものをぬぎ、ベッドにはいってきましたが、そのたくましい筋肉、がんじょうな骨格、男らしい毛むくじゃらの胸など、あますところなくわたくしに見せつけたのです。
ベッドはこの新来のご主人が乗ったため、またまたはげしく揺れうごきました。彼は自分が立てたロウソクのそばに横たわりましたが、おそらく官能のすべてを満足させるつもりだったにちがいございません。その証拠に、キスをするが早いか、ふとんをはねのけ、すっかり姿を現わして横たわるわたくしの裸身を、あくことなくながめましたが、やがて全身残るくまなくキスの雨を降らせたものです。それからこんどは、わたくしの前にひざまずき、シャツをたくし上げますと、男らしい毛ずねや、おへそのあたりまでうっそうとしているおなかを、すべてあらわにいたしましたが、そのありさまはまるでなま身のブラシといったあんばい。まもなくわたくしはその茂みにからまれて、のがれるすべもなくなりました。
とうとう来る時がきたのでございます。わたくしはそれを感じました。進行がはじまり、やがて否応なしに官能が呼びさまされ、好むがままの道をあゆみます。もはや行く手をさえぎるわけにまいりません。からだじゅうにひそんでいた野性がいっせいに目ざめて、歓楽のただ中へいっさんにかけ寄るのです。するともう身内はかっとなり、それ以上はがまんがならなくなって、すっかり自制心をなくしてしまいました。情感の力には勝てません。わたくしはただもう一個の女として、悦楽の流れに身をまかせるばかりでございます。それにしても、愛する人にはなお忠実たらんとしておりましたのに。
ああ、しかし、両性の接触により受動的に生じる動物めいたよろこびと互いに愛しあう心がふれあって散らす歓喜の火花とでは、あまりにもその相違は大きすぎます。愛する二人にあっては、心と心はいたわりあい、しっかりと結ばれて、ひときわ喜びも高まるもので、気だかい魂すらおのずとそなわり、たんに一時の欲望をみたすだけですべてが終わることはありません。
こうした相違をH**さんは別に意に介していませんようで、つぎからつぎへと自他ともに息を入れるひまも得ないありさま。まるでそのたくましい体格を伊達《だて》に持っているのではないと証拠立てているふうでした。数分間もすれば次のセットにはいれる状態になれるのです。まず、前奏にキスの雨をふらせて、前と同じコースにはいるわけですが、そのするどさは少しも変わりません。こんな調子でくり返しくり返しいたしますものですから、とうとう明けがた近くなってしまい、その間ずっと彼は身をもってわたくしに、ひきしまった体つきだの、がっしりした両肩だの、幅広い胸だの、りゅうりゅうとした筋肉だの――つまり一口で申せば、あこがれの中世のたくましい騎士さながらだったのでございます。よく考えてみますと、そういう騎士たちの子孫も、今日ではもうすっかりあかぬけてしまい、なよなよと当世ふうにふやけた躰をさらしているばかり、なま白くひ弱で、ほとんど小娘同然のやわらかな肌になってしまいました。
どうやらH**さんは勝利の暁をむかえて満足したらしく、自分も眠いしで、やっとわたくしに一息入れさせてくれました。二人ともすぐにぐっすり眠りこんでしまいます。
H**さんはわたくしより多少早く目がさめたようですが、せっかく寝ている者を起こすことはしないで、十時過ぎにやっと目をあけたわたくしを、否応なくもう一度男性の試練にたえさせたのです。
さて、十一時ごろになりますと、ジョーンズ夫人が長年の経験で、濃いスープをつくって持ってきてくれました。そして、こういう商売の女にありがちな見えすいたおせじをふりまきましたけれども、そんなことは省略させていただきます。ともかく、この女の姿を見るとかっと血がのぼりましたが、おなかの虫をおさえてわたくしは、ひたすら今後の身の上がいったいどうなるか、あれこれ思案することにいたしました。
けれども、H**さんもそれを察してか、わたくしにいつまでも不安をいだかせないように、ほんとうに好きで好きでならないから、一つ愛情のしるしの手はじめとして、こんな場所から(いずれにせよ、わたくしはその家がいやでいやでならなかったのです)すぐに引っ越しをして、もっと住み心地のよい家を見つけてあげよう、そして何でも面倒をみてあげよう、ここの女将さんには詳しく話す必要がないし、自分がもどるまではゆったりと構えていなさい、そう言うと彼は身じたくをととのえて出て行きました。出がけに二十二ギニー入った財布を置いて行ってくれましたけれど、自分でも言うように、有り金はそれで全部だったわけで、当座の費用にしまっておくようにとのことでした。
彼が立ち去りますと、たちまちわたくしは、堕落の道に第一歩をふみこんだ者なら誰しも覚えのある感慨にふけりました(もちろん、チャールスとの愛のいとなみをそんなふうに考えたことはございません)。なんとわたくしはそうそうに流れに身をまかせ、岸にかえろうともしないのです。追いつめられた恐ろしさ、それに助けてもらった感謝の気持などがはたらいたからでしょうが、なお白状いたしますと、わたくしはこの新しいお知り合いとの遊蕩に楽しみをおぼえはじめていたのです。チャールスがいなくなりましてからというもの、ずっと暗い気持でおりましたこととて、もはや反省をするいとまもありませんでした。わたくしにいたしましても、初めて愛したたった一人の恋人のことを想いますと、いまだにいとしさがつのるいっぽうでございますが、あの人に値せぬ身となり果てました今では、ただ後悔のほぞをかむばかりです。彼といっしょなら、乞食をして世界じゅうをめぐるのもいといませんのに、ああ、なんと愚かな女なのでしょう、わたくしは! 仲を断たれておめおめと生きながらえようとは、ほんとうに節操も勇気もない女です。
でも、もしわたくしの心が最初の人にこうもとらわれていなかったならば、たぶんH**さんだけを頼りにしたにちがいありません。しかし、あいにくと心は先客で占められております。たまたまわたくしを襲った危機感で、からだばかりが与えられたにすぎないのです。ちなみに申し上げますと、H**さんにとりましてはわたくしのからだの魅力のみが、その目的であり情熱の対象だったわけで、もちろん、情こまやかな永遠の愛などという考え方はどこにも見あたらなかったと言えます。
H**さんは夕方の六時に帰ってきて、見つけてきた家へわたくしを連れて行くことにしました。荷物はすぐにまとめられ、馬車に積まれます。いくら好きになろうとしても好きになれないジョーンズ夫人になど、さらさら未練はございませんでした。先方にしてみても、わたくしがいようと出て行こうと、別に大差はなく、ただもうかりさえすればそれでよかったのです。
まもなく準備された家に着きました。そこはH**さんに目をかけられているある商人のお宅で、その二階を借りたわけですが、なかなか優雅な調度品がそろっており、週二ギニーの家賃、わたくしは女中を一人やとってそこへ住むことになったのです。
H**さんはその晩、わたくしと過ごすことにきめました。近所の食堂から夕食を取り寄せ、一、二杯お酒を飲んでから、下女に床の用意をさせます。わたくしが横になりますと彼もつづいて入ってきました。昨晩の疲れもものともせず、またもやおちおちさせてくれません。いかにも得意そうに引っ越し祝いの行事だとか申すのでございます。
翌朝はだいぶ遅くなってからお食事をとりました。どうやら胸のしこりもほぐれ、あまり愛情のあるなしにこだわらなくなりましたので、すっかり気もらくになり、せっかく取りそろえてくれたくだらぬもの――つまり、女の虚栄心をくすぐるような品々にも歓声をあげることができました。絹ものとか、レースとか、イヤリングとか、真珠のネックレスとか、まあ一口で申せば、すべてこれ女の装身具ばかり、それがまたうず高くわたくしの前に積まれたのです。ですから、わたくしにいたしましても、たとえ愛情はわかないにせよ、感激の気持から愛に似た好感がしみじみと生じてまいりました。ですが、そんな区別が女の心にあるとわかれば、町なかで女を囲う男性たちの十中八九の方が興ざめてしまうにちがいありません。おそらく、ほとんどの方が見分けがつかないのではないでしょうか。
ともかくわたくしはれっきとしたお妾《めかけ》さんとなり、小ぎれいな家に住み、お金に不自由もせず、きらびやかな衣裳で着飾れる身となりました。
H**さんはいつも親切にやさしくしてくださいます。けれど、それでもやはり幸福とは申せませんでした。時には忘れてしまったり、あるいは人ごとのように思われる恋人に対する悔恨の情さえ、気がめいっていたりしますとことさらにはげしく甦《よみがえ》ってまいります。それに、わたくしとしても、もっと外に出て存分に楽しみたかったのでございます。
H**さんといえば、どの点でもわたくしなどおよびもつかないすぐれた方でしたから、感謝の気持ぐらいでは太刀打ちできないことはわかっておりました。それで、別に趣味教養を高めてくださらなくても、尊敬の念は失わなかったのでございます。一つの例外はありましたが、その他のお話ときたら全然わたくしもついてまいれません。愛情でもなかったら、しょせん退屈な時間の連続です。
その道にかけてはかなりの経験者で、たくさんの女を手がけてきている彼のことですから、むろんすぐさま、そんなわたくしの不満にも気づいたわけですが、さて、それをよしと認めはしないものの、とにかく気がすむように取り計らってはくれました。
晩のお食事はわたくしの所でとることになりましたが、数人の遊び仲間の方を婦人[#「婦人」に傍点]同伴でお誘いしたのです。そんなわけで皆さんの仲間入りをしましたが、まだ多少残っておりました内気で恥ずかしがりやの素朴な田舎気質も、おかげでたちまちなくしてしまいました。おそらく、そんな素朴さこそ、風流を解する都会の方に、もっとも大きな魅力だったはずなのですが。
あらためてお互いに行き来するようになりますと、そろいもそろって上流婦人のふしだらでくだらない生活の見よう見まねにうき身をやつしておりまして、そんなことでただ漫然と時を過ごしているにすぎません。ですから、この世の中でこれほど馬鹿らしく、月並みで味気なく、無意味な生活がほかにあろうかなどとは、そうした浅はかな女たちの頭に、ついぞ浮かんでこないのでございます。もしこんなくだらない生活が男にしいられたものなのなら、そんな男こそ暴君だと呼んでやるべきですわ、まったく!
それはともかくお妾さんたちは(おかげでたくさんのお妾さんとも、それを取りもつ腕ききの、やり手婆さんとも知り合いになりました)、ほとんどと言っていいほど自分の旦那さまがいやでいやでたまらず、忠誠心など一かけらもありませんから、いつでも平気で浮気ができたのですが、さすがにわたくしには主人を裏切る気が起こりません。やきもち一つやく気配もありませんでしたし、また、わたくしを嫉妬させるようなまねもしなかったのです。いつもやさしく、礼儀正しく、わたくしに喜んでもらおうと一生懸命気をつかってくれますから、しんそこ愛情を感じないまでも、忠実でありたいと願わざるを得ません。彼に対するそんなわたくしの日常的な好意でさえ、誰ひとり奪える者がいなかったことも事実です。という次第で、ささやかながらわたくしが一生暮らせるだけのものを贈ろうかと、親切心で彼のほうから申し出てくれました矢先に、とんでもないことが起こり、せっかくの話も全部ご破算になってしまいました。
もうそのころはいっしょに暮らしましてから七ヵ月近くたっておりましたが、ある日のこと、いつも長居をしてお邪魔するご近所の家からもどってみますと、玄関のドアをあけたまま家主の女中が誰かと立ち話をしているので、わたくしが黙ってそばを通りぬけ、中へはいりかけますと、H**さんがお見えになっていると教えてくれました。階段をのぼり、まず寝室へまいりましたが、ただなにげなく帽子でもぬいで、それから彼がいるダイニング・ルームに行こうかと思ったまでです。寝室とのあいだにはドアが一つあるきりでした。ともかく帽子の紐をほどいておりますと、下女のハンナの声らしいのが聞こえ、それから何やらもみあうような音がします。好奇心もてつだって、そっとドアに忍び寄りますと、ちょうど節穴が一つあいておりまして、中の様子が手に取るようにのぞけます。二人とも熱烈な演技の最中で、わたくしが階段の踊り場から寝室にはいり、ドアをあけたてした音などにはまるで気がつかなかったあんばいです。
まず目にはいりましたのは、H**さんが山出しの下女を、部屋の一隅に置いてある長椅子のほうへ引っぱって行く姿でした。それに対して小娘はただあいまいにさからって、おし殺したような声をあげるだけでしたから、ドアを隔ててきき耳を立てているわたくしにも、ほとんど何を言っているのか聞きとれません「お願いです、旦那さん、……かまわないでおいてくだ……あたしなんかとても旦那さんには向かないんで……あたしみたいな者を相手になさってはいけませんだ、ほんとに……旦那さんてば! 奥さまがお帰りになるかもしれないし……そんならもう……大きな声を出しますだ……」いくら何を言おうと、下女はじりじりと長椅子のほうへ押しやられるばかりです。そしてたいした力も受けないのに、かんたんに倒されてしまいました。主人が下女の下着の裾を力づくで引き上げますと、相手はもうこのうえさからってもむだだ、黙るにこしたことはないと覚悟を決めたようです。こんどはペチコートがはね上げられて、まっかになった下女の顔がかくされますと、まるまるとふとってたくましい、そして割に色白な両脚が現われました。すると主人はたずさえた一刀を鞘ばしらせ、ぴたりと構えましたが、どうやら案ずるより生むはやすく、さしたる困難もなく万事まるくおさまったようでございます(ちなみに申し上げますが、うちの下女は父なし児を産んだために田舎の奉公先をやめて出てきていたのです)。たしかにその後の様子から推してみても、おさまりぐあいはかなりゆったりしたもののようでした。主人が一段落つけますと、お相手をつとめた下女は起きあがり、ペチコートを下げて、エプロンやらスカーフを直します。その様子を見てH**さんはいくらかのお金を取り出して、いい子だから黙っておいでよと言いながら、下女ににぎらせました。
もしわたくしが主人を愛していたのなら、そんな光景をじっとおしまいまで見ていられるわけがございません。中に割ってはいり、嫉妬のあまり仇をむくいたはずです。ところが残念ながら実際にはそうでなく、ただプライドを傷つけられたにすぎず、ですから冷静に十分なっとくのいくまで、主人がどのへんまで手を出すか、よくこの眼で確かめられたのでした。
およそ泥くさいこんな一幕を見終わってから、わたくしはそっと部屋に引きさがって、さてこれからいったいどうしたものかと考えてみました。まず頭にうかんだのは、当然の情として、飛び込んで行って二人を責めることです。そうすればたしかに即戦即決で、当座の不快感はぬぐわれます。けれども、ひるがえって考えてみますと、そんなことをしてどういう結果になるかは判然といたしません。とりあえずこの場は見て見ぬふりをし、H**さんが約束してくだすったものをちょうだいするまで、そっとしておいたほうがいいのではないかと迷いはじめました。それに全く自信もないのに、あまり強硬な態度を取ったら、元も子もなくすかもしれません。でも、そう考えるいっぽうでは、こんな侮辱はない、ひどすぎる、敵をとらずにいるものかとも思えてまいります。復讐の念がわくにつれ、わたくしはようやく落ち着きを取りもどしました。いろいろプランをめぐらせておりますと楽しくなります。そんな腹のうちを見すかされず、奥さま然としているのはたやすいことです。ともかく、とっさのあいだにこれだけの考えをまとめ、忍び足で廊下に面したドアのところまで行き、音を立ててそれを開き、いかにもたったいまもどって来たふうによそおいました。そしてちょっと着替えにひまどったように間をおき、ダイニング・ルームに通じるドアをあけますと、田舎娘は炉の火をたき、まめまめしい牧童は部屋の中を行き来しながら、何ごともなかったようなとぼけた顔をして口笛を吹いております。でも、そのとぼけかたは、あまりうまいとは思われません。そういう技倆にかけましては女のほうがあかぬけているのです。わたくしはふだんと変わらないうちとけた態度ではいって行き、彼と会いました。ところが、彼のほうは、今晩はいっしょに過ごせないとしきりに弁解をして、そそくさと帰ってしまったのです。
ふしだらな下女について申し上げれば、もうすっかりのぼせ上がって、使いものになりません。H**さんとできたことで、二日とたたぬうちに態度が横柄になり、それですぐにひまを出したのですが、こんなありさまでは当たりまえでございましょう。H**さんにしても一言も文句をいえませんし、ほんとうの原因を臆測するわけにもいかなかったようです。この女のその後の様子はぞんじませんけれど、思いやりのあるH**さんのことですから、きっと悪いようにはしなかったでしょう。けれども、関係をつづけなかったことだけは確かです。どだい、お粗末なお料理に手をつけましたのも、いかにも健康そうではちきれるような躰をした田舎娘を見て、急に欲望が頭をもたげたまでで、おなかがすいていればちゃんとしたお食事のかわりに、牛の頸肉にでもかじりつきかねないのと同じだとぞんじます。
H**さんの脱線をこの程度に考え、下女にもひまを出したし、それで満足していれば、まあ大過なかったわけでございますが、やはりどうにもおもしろくないのは、このまま何の仕返しもせずにほっておいたら、高をくくられはしまいかということです。この際はっきりと同額のお返しをしておこうと思い立ちました。
それ相当のことをしてやれる日は案外早くまいりました。わたくしは内心しめたと思ったのです。かれこれ二週ほど前になりましょうか、彼は小作人の息子を下男にやといましたが、田舎から出たばかりの、なかなかハンサムな若者です。やっと十九になったばかりで、ばらの花のようにみずみずしく、すっきりしたいい体格の持ち主でした。一口に言えば、仕返しのことなどひとまずおいても、女なら誰しも好きになるタイプです。言わせていただければ、身分の高下などに偏見を持たないウィットとエスプリにとんだ婦人なら、妙な誇りなど捨てて若者と楽しむ道をえらぶことでしょう。
H**さんはこの若者にお仕着せの服を着せて、わたくしのもとへ手紙やら連絡を持ってこさせる役をつとめさせたのです。とかくお妾さんという者はあまりいい眼では見られないもので、無知|蒙昧《もうまい》のしからしめるところなのでしょうが、下賤な連中からでさえ白眼視されるものです。ですから、この若者も仲間の口から主人とわたくしとの関係を聞かされていたにちがいありません。顔を赤らめたりしていかにもばつの悪そうな様子が一目でわかります。それがまたわたくしたち女の気持を、どんな口説を聞くよりずっとわくわくさせたのでございます。どうやらわたくしの容姿に惹かれたようなのですけれど、なにせまだ慎み深く、あどけない青年のこととて、わたくしに会ううれしさが恋とか情欲であろうなどとわかろうはずがありません。とはいえ、わたくしを見る若者の眼には、おのずと情がこもり、あたたかい血が燃えさかって、自分で思っているよりはるかに多くのことを語っております。それまでも、たしかに好感はもっておりましたけれど、別にどうのこうのという考えはございませんでした。妙な気を起こすにしてはまだ誇りがありましたから。しかし、わたくしにくらべればH**さんは半分の誘惑も感じないのに、女中に手を出しており、その点からすればまことに危険なお手本を示してくださったことになります。そこでわたくしもこの若者をいつしか、H**さんに対する格好の復讐の道具と見るようになり、その使命を果たすまでは死んでも死にきれないと思いました。
計画を実行するにあたりましては、若者が連絡にやってまいりました時をねらい、二、三度ごく自然にベッドのそばまできてもらったり、着替え中の化粧室に入ってもらったりいたしました。そんなおりにはさりげなく、ふだんよりはだけた胸や、櫛《くし》を入れてふさふさとたれている髪などを見せつけます。また、ガーターがあいにくはずれたりした場合など、ためらわずにさっさと脚をのぞかせ、とめ直して見せます。ねらいがどうやら順調にはかどっているのは、若者が眼をかがやかせ頬を紅潮させてきたのを見ても明らかでした。そこでこんどは、手紙などを受け取る時を見はからい、その手をちょっとにぎりしめてやります。
さて、思うつぼに若者がはまり、だいぶ熱くなってきたのを見とどけ、さらに一段とあおってみることにしたのです。そして気を引くようにたずねてみました。「奥さんおありなの?……あたしよりもおきれい?……あたしのような女、お好きになれて?……」といったあんばいにです。すると何も知らないこの若者は、顔をまっかにいたしまして、ほんとうに純情そのものの素朴さでわたくしの質問に答えましたが、終始田舎者まるだしの訥弁《とつべん》でした。
これならよし、そろそろ機も熟したと見て取りましたわたくしは、ある日のこと、若者のまいります時間を見計らって、計画どおり万事手抜かりないように心がけたのです。いつものように彼はダイニング・ルームの入り口まできて、とんとんとドアをたたきます。中へはいるように申しますと、入ってきてうしろ手にドアをしめました。そこでわたくしは、どうもそのドアはよく締まらないから内側から錠を下ろしておいてくれとつけ足しました。
さてわたくしはといえば、H**さんがお行儀のいいところを見せてくれました例の長椅子で、思いきりあられもない格好をして横になっております。服装もわざとだらしなくいたしました。コルセットもつけず、スカートの支えも入れず、髪もくずれっぱなしというありさま。ところで若者のほうは、少し間をおいてわたくしの前でほれぼれするほどすっきりした健康そうな姿を、みずみずしい青春の息吹きをつたえながら、残るくまなく見せておりました。黒い髪の毛はつやつやと光り、自然のカールを顔のはしにのぞかせながら、頭のうしろにていさいよく丸められています。からだにぴったり合った新しい鹿皮のズボンは、肉づきのよい太ももの形をそのまま現わしていました。白靴下に飾り紐のついた制服といういでたちが、いかにも新鮮そのもの、全然召使いなどという身分の低さを感じさせません。むしろそんなきちんとした服装が、この若者にはかくべつ似合いのように思われます。
そばへ来るように申しますと、H**さんからの手紙を差し出しましたので、その拍子にわたくしはなにげないそぶりで、手にしておりました本を落としたのでございます。若者は顔を赤らめ、すぐ手のとどくあたりまで近寄りましたが、わたくしの胸のへんに視線をとめますと、すっかりどぎまぎしてしまいます。じつは、計画どおり首にまいていたスカーフをずらし、乳房がかくれないようにしておいたからです。
わたくしはその顔にほほえみかけて、手紙を受け取りますと、やにわに袖を引いて近寄せました。すると、もうまっかになっていまにもふるえだしそうです。こんな内気で経験の全くない若者を誘って勇気づけるのには、少なくともそれくらいのことをしなければなりません。どうやらうまいぐあいに、相手はからだをわたくしのほうへかたむけてくれましたので、そのつるりとした髯のないあごをやさしくなでさすってやりながら、「女の人がこわいの?……」ときいてみましたが、それと同時に若者の手をとり、懐のなかに引き込んで、そっと両の乳房に押しあててみたのです。わたくしの乳房はもうそのころ、みごとに発育して盛りあがっておりましたから、若者の手を感じまして、わきあがる情欲にもだえながら、息をあえがせ、はげしく上下にゆれうごきました。すると相手も自然に両眼をぎらぎらと燃え立たせ、両頬を火のようにまっかにしはじめます。うれしいやら夢中やら恥ずかしいやらで、舌もしびれ、もう口もきけないありさまです。その様子を見てわたくしはすっかり満足いたしました。万事思いどおりに運び、失敗する気づかいがなくなったからです。
いやでもキスしないではいられないように、わたくしが唇を突きだしますと、それでもう腹がきまりましたのか、全身を燃え立たせて大胆になってまいりました。ふと目を若者の美しい力がひそむあたりに向けてみますと、あきらかにたくましく躍動しているのがわかります。そうなるとわたくしにいたしましても、時のいたるまで指をくわえ、いつまでもお行儀よく、初心《うぶ》な若者の羞恥心が(たしかに彼は初めてだったにちがいありません)おもむろにとけ去るまで、じっと待っているわけにいかなくなり、そっと手をのばして相手の太ももにさわってみました。きゅうくつなズボンの中で、かたく引きしまった男らしい筋肉が、どこまでもつづいているのがわかります。しだいに好奇心がつのります。何かびっくりするような神秘が現われてくるのではないか、早くあけてみたくてなりません。もういまにもはちきれそうにまっかにうれきった果物のようでございます。そっと手をかけただけでおのずとこぼれ出しました。目のまえに現われました物の形に、わたくしは一瞬ぎょっとなり、われとわが眼をうたがいます。いったいこれは何でしょう? 子供のおもちゃではございません、さりとて大人の殺伐な玩具でもなく、しいて申せば美しい五月の祭りをいろどる飾り柱、中空高くそびえるあのたくましい若者たちの柱です。仰ぎ見て喜びを禁じえません。この生きた象牙のような柱、思わずかけ寄って手にふれてみたくなります。一点非の打ちどころのないたたずまい、しかも雄々しくはりつめたその表面はつやつやとかがやき、とりわけ美しい女の皮膚とくらべても、いささかの遜色もございません。また、その純白の柱をかこんで緑なす草ぐさがあまた植えられ、葉がくれに見える白さをいっそう引き立てておりますが、あたかもそれは美しい夕ぐれ、かなたの丘の頂きに連なりそびえる樹々の枝越しに、すっきりと抜けて見える大空のような印象を与えます。さらに円みをおびた頂きといい、紫紺色の蔓草の枝といい、色形すべてこれ大自然にとけ合って、すばらしいながめをなしております。一口で申せば、自然に対する人間のおそれと喜びを秘めてそびえ立っているのでございます。
それはともかく、さらに一段と驚くべきことがございました。ほかでもなく、この驚異の的となった若者が、きびしいしつけを生家で受け、さて上京したものの日もまだ浅く、これといった機会もないまま、今日までせっかくの男性の気高い宝を持ちぐされにしていたことです。さてそこで、わたくしが最初のお相手をうけたまわることになったのですが、繊細な自分のからだを考えまして、はたしてそんな不釣合いなものを受けてよいものかどうか、負担が重すぎてからだにさわるのではないか、などと心配になりました。
けれども、もうその時は目前の光景に血をたぎらせて、若者は前後の見境もなくなり、それまでおさえにおさえてきた気持もたちまちくずれ去ったようで、やみがたい官能のおもむくまま、燃えつのる欲望にうちふるえる手をわたくしのからだへ滑り込ませたのです。そしておそらく、わたくしの顔に何も拒まない色を読み取ったのでしょう、かねて思い焦れていたものをそっと手にしてみるのでした。ああ、そうなるともう、わたくしも覚悟を決めないわけにまいりません。先ほどまでの心配も、やむにやまれぬ情熱の前にすっかり溶けてしまいます。われ知らずからだがゆるんで、若者のなすにまかせているのです。するとこんどは、まるで注文したようにペチコートがくるりとひるがえり、明るい道がぱっと開けたのでございます。なお進みよいようにと思い、精いっぱい道はひろげることにいたしました。いいえ、それでもこの若者のように大きなからだをした者には、まだまだとてもといった始末で、進みかけてはあちこちにぶつかり、なかなか入れないありさま。しだいにあせりの色が濃くなりますので、わたくしはやさしくその手を引いて、悦楽の最初のレッスンを受けるお教室へみちびいてやりました。こうしてようやく、若者はたどりつきましたものの、さてその門をらくにくぐれるかどうかが問題です。
ともかく、わたくしの案内で、若者はその大きなぎごちない躰をぴったり寄りそえましたから、こちらもほどよく迎え入れるしぐさをし、まあ一つ、できるだけ早く落ち着かせようと懸命に努めてみました。けれども若いだけに、ただがむしゃらに向かってまいります。ですから、わたくしの苦痛はたとえようもなく、やっと楔《くさび》が打ち込まれました時にはその限界に達しておりました。もううれしいやら苦しいやらわけがわからなくなり、そのうちに体を二つに裂かれるのではないかと空恐ろしく感じたほどです。とてもこんな状態はつづけていられません、といってやはり離れる気にもなれないのです。そのうちに、重すぎる負担にたえきれず、苦しさのみが勝ってまいり、とうとうわたくしは悲鳴をあげてしまいました。その声に驚いた若者は、よほどやさしい心の持ち主なのでしょう、まだ中途でしたのにすぐにくびすを返してくれました。また、わたくしの抗議の意味もそくざにわかったらしく、いかにも苦しめて申しわけないとでも言いたげな眼をいたしましたが、やはり、心ならずも居心地よき場所を去らねばならぬ一抹のさびしさがただよっております。いずれにせよ、さきほどまで荒れ狂っていた情欲のあらしはうそのよう、しゅんとなった初心《うぶ》な若者は、わたくしをこんな手ひどい目にあわせた以上、もう二度と相手をしてもらえないのではないかと心配そうです。
けれども、そんな心づかいはわたくしにとりまして、あまりうれしいものではございません。目のまえにたくましい若者が熱い血潮をわき立たせているかぎり、なんでこちらも燃えずにおられましょう。手始めに元気づけるキスをしてやりますと、熱烈なキスが返ってまいりましたが、感謝ともご機嫌とりとも受け取れるものです。たちまちわたくしは危険を覚悟のうえで、ふたたび受け入れ態勢にはいりましたが、こんどは彼もそう手間どりません。さて、いよいよはじまりましたものの、前よりはましだったとはいえ、どうも無理なような気がいたします。あいかわらず苦痛をおぼえますし、でも、彼としたらとても気をつけて、少しずつ駒をすすめるようにしてくれますから、何も言わないようにしました。とかくするうちに、しだいしだいに道なれてきまして、目いっぱいひろがるようになりました。からだの中に何かしっかりした支えが生じたようで、身も心もとけるような喜びが、今にもはり裂けんばかりの苦痛とともにやってまいります。けれども彼のほうは、惜しくも道半ばにしてこときれてしまったのです。それと申しますのも、中途でいたずらにためらったりするものですから、あらぬところで感動にむせぶ破目になったのでしょう。すでにわたくしも胸をいっぱいにしておりましたので、あの大きなからだを耐えに耐えた苦しみも忘れて、ともども涙をそそいだ次第でございます。
さて、べつに望んだわけではありませんが、一応これで若者が身を引くものとぞんじておりましたところ、それはうれしい誤算になったのでございます。このくらいでは彼としたらまだまだなのでした。若々しい力をほとばしらせた元気な青年は、もう思いのままにふるまえたわけです。暫時の陶酔状態から脱しますと(そのあいだは全身をしびれさせ、息もせわしく、純潔を捧げたのでした)、はじめて味わいました喜びをくみつくせぬまま、なおじっと立ち去る気配がありません。とうとう元どおりの姿にかえるまでそのままいつづけてしまいました。やがて再起のときがまいりましたが、すでにバルサムの香高い油もぞんぶんにまかれておりますこととて、またそれに加えて、先ほど流された喜びの涙もまだ地をうるおしておりますこととて、こんどばかりはいささかの困難もございません。それで若者はいっそう力を得ましたようで、わたくしもそれに応じて全身を燃やしたのでございます。わずかに香油にひたされた鍵はすべりもよく、たちまちのうちに錠をはずしてしまいます。思わずわたくしも手を貸すようなことになり、刻一刻と来るべき時が近づいてまいります。互いの髪はもつれ合い、からだはぴったりと離れません。若者は喜びに眼をかがやかせ、わたくしも今や絶え入らんばかりになりました。うれしさも限度を越して、波立ちさわぐ五体にもうこれ以上耐えきれないほどです。こうしてあえぎあえぎ横たわっておりますと、若者のほうもあやしい息づかいになり、両眼をきらきら光らし、いちだんと力を込めはじめ、終焉の近づいたのを知らせます。来るべきものが来ました……かわいい若者はぐったりとわたくしに抱かれて死んだようです。あたかもわたくしのからだの奥ふかくほとばしり出る慈愛の泉に身をしずめ、いまにも溶けさらんばかりの風情でした。泉のみなもとをただせば、いずれもこれ二人の喜びに献げられしもの、混然と相まじわって流れております。なおしばらく、わたくしたちはそのまま放心したように、すべての感覚をなくして横たわっていました。ただ感じられるのは人間が与えられた生きる喜び、すべてがその一点に集中されていたのです。
放心状態からさめますと若者は、いまやまったく復讐の心をわたくしから奪い去り、ひたすら愛のよろこびにむせばせてくれたそのからだを、そっとはなしたのでございます。若者の力づよい腕にうがたれました愛の泉が、こんこんとわいてまいります。まるで初夜がふたたび訪れたような気がいたしました。ハンカチーフを取り出し、泉の水へひたしているあいだに、相手は身じたくをととのえます。
すっかり親しみがわきましたせいか、並んで椅子に腰を下ろしますと、心からの感謝と喜びに燃え、若者は与えられた至上の幸福をあらためてかみしめます。それまでは知るよしもなかった神秘のかなたにある女性のあかしを、彼ははじめてしかと確かめたのです。そればかりではありません、何人も達しなかった深奥にまでいたり、人一倍すぐれた認識を得てきたのです。それはさておき、ふと見れば、若者は落ち着きなくその両手をもじもじさせております。ああ、やはり若さのなせるわざでしょう、あふれ出る想像力をおさえきれず、どうしても手に取って眺めたい気持でいっぱいのようでした。それと察したわたくしは、ういういしい希望をかなえさせてやるのに、もとよりやぶさかではございません。望むがままに、いささかのためらいも見せず、満足のゆくよう身をまかせることにしたのでございます。
さて、わたくしの眼の色ですべてが許されると見て取りました若者は、片手を下着にしのばせて、邪魔になるものをそっくり引き上げましたが、そうしながらも、きっと自分のしていることからわたくしの注意をそらそうと思ったのでしょう、数かぎりなく接吻をするのでした。やがて着ているもの全部が胸のあたりまでたくし上げられ、わたくしはそのまま長椅子に身を投げ出します。喜びに満ちた一帯が、目のまえにくりひろげられ、まことにはなやかな光景を見せます。夢中になった若者はむさぼるように見つめましたが、なおよくほの暗い神秘のとばりを明るみに出そうといたします。
何ごとも目あたらしいものはたいそう強い印象を与えるもので、愛の喜びにおきましてはことにいちじるしいようでございます。ですから、彼のような若者が、生れてはじめて興味あるものをながめたり手にしたりすれば、いやでも気をのまれるのは当然でしょう。わたくしにいたしますれば、この純情な青年の欲するままにみずからの裸身を差し出し自由にさせ、わが身の魅力を確かめながら相手を喜ばせたことで、もう十分にむくいられたわけです。青年の燃えるような眼、紅潮した両頬、ときどき吐く火のような息、どれ一つを取ってみても、満たされなかった欲望が十二分に満足させられたのを示しております。それはともかく、しだいに待ち遠しさがつのりはじめたわたくしを、彼もいつまでも放っておきませんでした。もはや、何でも思いどおりにできる好個の対象が目のまえにあるのですから。やがてあの大きな立派なからだを、まっすぐにわたくしへ向けてまいりました。だまって口もきかず、頭をふりたてて大変な勢いです。わたくしのからだはもみくちゃにされました。こんこんとあふれる泉は、ゆたかな水をはり、自然の喜びをただよわせます。
身のほどをわきまえない奮闘に、わたくしは精も根もつきはて、もう身うごき一つすることもならず、息をきらせてその場に倒れ、じっと興奮のさめるのを待ちます。ふと時を打つ鐘の音に、若者を帰さねばならぬ時刻がきたことに気がつきました。わたくしはやさしくそのことを告げましたが、まだなかなか離れがたい様子で、今ひとたびの楽しみを望んでいるふうです。わたくしにせよ同じ思いであることに違いはございません。けれども危険は増大しています。何べんか心をこめたキスをしてから、くれぐれも気づかれないように念をおし、なるべく早くまた会うからと約束をして一ギニーにぎらせ、つらい思いで帰らせました。お金はそれ以上渡すと、疑いを持たれるもとになりかねません。この年ごろの若者には、とかく軽卒なふるまいをする危険性がございます。そんな欠点がなければ、これほど申し分ない魅力あふれる年代はないかとぞんじます。
心ゆくまで堪能したわたくしは、酔いしれたように長椅子でぐったりと体を休めておりました。快よい疲れに全身が包まれ、復讐を果たした喜びをかみしめます。復讐も復讐、わたくしが受けた心の傷手をそのまま返してやったことになるのですから。先ゆきのことなど少しも気にかけませんでしたし、これが人から見向きもされずうしろ指をさされる転落の第一歩だとも反省しなかったのです。反省などをしたら、せっかく身に受けた果報に対し申しわけがないように思われました。堰《せき》は切って落されたのですから、もう流れのおもむくまま首まで水につかって、恥も外聞もきれいさっぱり忘れることにしたのです。
さて、このようにわれながらあっぱれな覚悟をきめ、ひそかに不貞の誓いを立てておりますと、H**さんが入ってまいりました。ついいましがたまでうつつをぬかしていた余燼が、頬にまだくすぶっていると思うと、先ほどのなまなましい光景がうかび上がり、さっと顔を赤らめてしまいます。ところが、そんなすさんだわたくしの顔を妙にほめまして、さっそくうそではない証拠に実行におよぼうとするのです。いくらなんでもさんざんに荒らされた直後では、気づかれてしまうにちがいありません。わたくしは身の危険を感じて恐ろしさにがたがたふるえました。たくましい若者を抱いたわたくしのからだは異様な広さになっておりますし、互いの愛情に汗ばんだ髪はまだべっとりと肌についたままです。つまり、こんなありさまでは、経験ゆたかなH**さんの眼をごまかせるわけがございません。すぐにほんとうのことを見破られるは必定です。けれども、そこは女のことです、頭がずきずきするだとか、おまけに高い熱まで出たとか言って、とてもお相手はできそうにもないとたくみにのがれました。H**さんは疑いもせず言うままになりましたが、ちょうどそのとき年配の婦人客がおとずれて、うまいぐあいにわたくしの苦境を救ってくれたのです。体に気をつけるように、まあ今日は休んでいなさい、そう言い残してH**さんは出て行きましたが、やっとひとりきりになれて、わたくしはほっといたしました。
その晩、わたくしは香高い薬草のお風呂をたいてもらい、ゆっくりそれにつかってからだを洗いましたが、心身ともにすがすがしく旺盛な意欲を取りもどせました。
一晩ぐっすり眠ったせいか、翌朝はだいぶ早く目がさめました。すぐに昨日若者から受けた破壊的な衝撃を思い出し、か弱いわたくしのような者のからだでは、はたしてどうなっているのか、多少心配せずにはいられなくなりました。
すっかり不安になってしまったわたくしは、こわくてその状態をじかに手で確かめる気も起こりません。
でも、すぐによけいな心配だったことに気がつきました。
丘をめぐる絹なす髪は、やわらかくつねに変わらぬたたずまいを見せ、美しいカールを画いています。踏み荒らされてしとどに濡れた昨日の面影とてございません。巨人のような若者があれほど駆けめぐりました小道も、ふたたび元のしずけさにかえっておりました。なお念入りに細部にわたり確かめましたが、お風呂のあとで多少からだがゆるんでいるにもかかわらず、いささかの変化も認められなかったのです。
男の感涙を誘うわたくしども女に与えられた成り足らざるところは、ことにわたくしにあって恵まれたものらしく、うるおいに満ちてふくよかなうえ、すぐれた弾力性さえございましたから、いくら伸ばされましても、たちどころに元へ返ることができたようでございます。ですから、いかようの方においでいただきましても結構だと申せます。念のため自分でもそれを確かめておきました。
わかってみれば、至極当然のことばかり、先ほどまであれこれ心配していた自分がおかしくなります。もうどんな男の方にでもお役に立てるわけで、復讐を果たすとともに喜びまで味わった昨日の成功に気をよくしたわたくしは、いまはもうその思い出に恍惚と身をひたすばかりでした。多少度を過ごしたふるまいであったとはいえ、そのあまい喜びに今ひとたび身を焦がしたいものと、まざまざとうかぶ光景にたえられず、いくたびか寝返りを打ちます。ところが、待ちこがれる間もなく、さようでございます、朝もまだ十時ごろでしょうか、案の定わたくしの新しい恋人ウィルが、主人のH**さんのお見舞いのことづてをたずさえてやってまいりました。こういうことになると思っておりましたので、女中にはたっぷり時間のかかるお使いを頼み、街まで行ってもらっておいたのです。同居の人たちに関するかぎり、心配は無用でした。みなさんそろって、他人のことなどを気にかける野暮な方たちではいらっしゃいません。
そのほか、準備はすべて手抜かりなくいたしておきました。彼が寝室のドアをあけて入ってきたときには、ちゃんとベッドで横になっていること、ドアの掛け金には針金を結びつけてそれを手もとまでのばしておき、いつでも掛けはずしできるようにしておくことなどです。
ウィルは髪をきれいになでつけ、シャツも取りかえてきたようです。でもそんなことよりやはり、いかにも強健そうな色つやをした田舎育ちの姿こそ彼の身上で、女にとってこれほど食指のうごく対象はほかにちょっとないように思われます。全く自然がこしらえた最高のお料理、それをいただく喜びを願わぬ女が、この世にはたしているでしょうか。
こんな愛すべき人間からわたくしが受けたうれしい印象を、どうしてお知らせしないでいられましょう。わざとらしいところは全然ございませんし、いかにも子供っぽい眼つきで天真らんまんなふるまいをいたします。また、きれいな肌の下には血管がすけて見えますし、それに、ぎごちない田舎者特有のうごきにさえ、たまらない魅力があるのではないでしょうか。でも、いくら何といってもたかが下賤の者ではないか、こう奥さまはおっしゃるかもぞんじません。あるいは、そうかもしれませんけれど、それならわたくしはどうだというのでしょう、元をただせば同じ身分ではございませんか? いいえ、たとえわたくしが彼より身分の高い女だといたしましても、あれほどの喜びを与えてくれる以上、彼もまた同じ身分とみなしてよいのではないでしょうか。画家や彫刻家や音楽家の作品には、わたくしはわたくしなりに、愛情なり尊敬なり感謝の気持を抱いておりました。けれども、当時のわたくしの年令では、持って生れた情欲の強さも手伝って、天与の美しい肢体に加え快楽を与える才能に恵まれた男こそ、最高のもののような気がしたのです。それにくらべれば、地位や身分や名誉など、おしなべてまったくくだらないものとしか思えません。おそらく美しい躰にいたしましても、もしこれが注文されて届けられるものならば、世間からこうも安く見つもられはしないでしょう。わたくしの哲学では、いっさいが感覚の愛すべき中心にあったのです。その強力なはたらきによって悦楽を追求してきました以上、目的にそう人間は彼以外にありえなかったと申せます。
H**さんの生れのよさ、財産、高尚なセンスなど、いずれをとってみても窮屈で圧迫感が残ります。愛の唱和などとはおよそ縁遠いものばかりです。先方でもおそらくその優越感をなくすつもりはなかったでしょう。ところが、こちらの若者となら、ともに愛の喜びにひたりきれるのでした。
言わせていただければ、気楽に自由に話し合える者こそ、いちばん愛し合えるのです。
ただひたすらに愛する技術のみ行なう青年とならば、何の気がねもなく悦楽の淵に身をしずめられますし、思いついたどんな楽しい行為でも実行にうつすことができます。ですから、彼こそすべての点で最もすぐれた相手と言えました。こうなりますと、わたくしの一番の楽しみは、一人前になったばかりの若者の気まぐれな戯れや、わがままを、何でも言うことをきいてやることにつきます。
ウィルはベッドに近寄りまして、主人からのことづてをどもりがちに申し述べましたが、顔をぽうっと赤らめます。そして、まるで注文でもしておいたように、わたくしが彼の望みどおりの格好でいるのを見て、うれしそうに眼をかがやかせました。
わたくしがにっこり笑って片手を彼に差し出しますと、ひざまずいて(お行儀を教えたのは二人のあいだの愛情です)むさぼるようにキスをいたします。とりとめのない質問を一言二言かわしましてから、あまり引きとめる時間はないけれど、ベッドに入ってゆく気はないかときいてみます。これでは飢え死にしかかっている人間に、大好物のご馳走をいらないかときくようなものでした。とやかく考えるまでもございません、若者は見るまに服をぬぎすてました。それにしても、これまた新しい経験にいくぶん顔を赤らめ、わたくしが持ち上げてやりましたふとんの中へはいってまいります。こんなふうに女性と同衾するのは、彼にとり生れて初めてだったからです。
さて、わたくしたちは誰もがまず最初にするように、たがいに愛撫しはじめましたが、それだけでもえもいわれぬ喜びを味わえたような気がいたしました。こうした行ないはともすればあせりがちになり、先を急ぐあまりいち早く終焉に達してしまうので、せっかくの幸福も心ならずも長つづきせず、ひとまず幕を下ろしがちです。
戯れあったり、キスをかわしたり、まるまるとふくらんだ乳房をもてあそんだりして、ともかく一通りのことがすみますと、やがて彼はその情熱に燃える手で、わたくしの溶鉱炉のたき口へふたたび火を点じました。若さにまかせてこんどはわたくしの手を引っつかみ、まったく男性的な魅力にあふれるそのたくましい躰へ持ってまいります。さらに婦人にとりましては、何ものにもかえがたい価値のある例の球形の宝庫にまでみちびきます。まったくすばらしい財産でした。あまりのかさにわたくしの手などではつかみきれません。何となく空恐ろしい心地がいたしました。
どんな手段を用い、どのようにしたら、目の前の財宝を手に入れられるのか、ちょっと見当がつきかねます。とにかくそっとさわってみました。するとかたわらに控えていた乱暴な反逆児が、急にふくれて怒りはじめたようです。これ以上ぐずぐずされてはたまらないといった気配を見せます。わたくしは懸命に頭を撫でてやりました。
ついに機が熟してまいったようでございます。わたくしは精いっぱい躰をひらいて、反逆児をむかえます。渇きをいやすために、わたくしは上下の唇を大きくひろげました。彼はちょっとためらいを見せましたものの、やがて意を決したようにまっすぐ進んでまいります。さしたる困難もなく、やわらかな畑地はしだいに鋤き起こされて行きました。お互いに躰を寄せ合うにつれ、喜びもまたひとしおです。もう彼はすっぽりと、わたくしの生命の泉に身をひたらせております。満たされた満足感は、とうてい言葉では言い表わせないものでした。わたくしたちは互いに一つ身になったようにぴったり抱きあいます。彼はまた力をこめて鋤き起こしにかかりましたが、何だか一時も離れるのがむしょうにこわくなりました。若いぴちぴちした男の腰にしっかりとしがみついて、ぶるぶるふるえます。もう、絶対に離れません。そうしていれば、二人のからだはいつか一つになるように思われます。当然のことながら、喜々としたうごきはとまってしまいます。ただ貪欲なわたくしの口が、むしゃむしゃとご馳走を頬ばって平らげるばかりです。でも、男性とすれば、そういつまでも満たされない喜びに耐えてゆけるものではございません。やがて倍加された力を発揮させて、あのえもいわれぬ終局へ向かうのです。わたくしといたしましても黙って見ているわけにいかず、せいぜい力をふるって、裾の乱れもかえりみずに立ちはたらきました。たくましく鋤を前後にふりかざして進む彼の姿に、わたくしも誘われ身ぶるいします。やがてあのとろけるような陶酔のひとときがまいりますと、愉悦のうちに愉悦は死に、神秘に満ちた男性の力もその限界に近づきまして、暖かい生命の泉をほとばしらせます。時を同じくしてわたくしのからだも、彼が流したバルサムの香油のうちに渾然ととけ込みます。しだいに陶酔の強い刺激もうすれ、ぐったりとして身うごきもならず、互いの腕にもたれて横たわっておりました。それにしても、楽しいことはどうして長つづきしないのでしょう! 味気ない日常茶飯の心配ごとが、たちまち襲いかかってくるのです。抱かれた腕をほどいて、もうそろそろ帰ったほうがいいと注意いたしました。しぶりながらも彼は手早く身じたくをすませましたが、その間にまだ思いきれない様子で、わたくしをキスしたり、手でふれたり、抱きしめたりいたします。わたくしはするままにさせておきました。でも、どうやら無事に帰れたようで、なおわたくしは別れしなに、召使いなら誰しもほしがる銀時計を買えるだけのお金を、なんとか彼に渡そうとしましたが(そういうことを断わる妙に潔癖なところが、彼にはあったのです)、わたくしに愛された思い出として大切にしまっておくということで、やっと受け取ってくれました。
ところで、奥さま、深く心に強い印象となって残っておりますこのような思い出のかずかずを、かくも事こまかに書きしたためるにあたり、何がしかの弁明をさせていただくべきかもしれません。それに、この若者との情事は、いわばわたくしの人生の一大転機ともなったのですから。その事実を隠しおおせるわけもなく、また、いくら下賤の者を相手にしたとは申せ、おかげで味わいました無上の喜びを、わけもなく黙殺したり打ち忘れたりすべきではないとぞんじます。ついでに申し上げれば、自尊心で欺きぬかれている世の上流人士の、うそで固めたばかばかしい高尚さにくらべ、下賤の者のほうが往々にしてはるかに純粋でいつわりがございません。上流人士がいったい何でしょう! 一般の人たちを俗衆などと軽蔑しておきながら、人間の生き方についてはまるで何一つ知りもしなければ、知ろうともしないのです。言わせていただければ、彼らは性の喜びということでさえ、全然はき違えて考えています。つまり、彼らにあって主たる目的はきれいごとを楽しむことなのですが、お金では買えない神さまからいただいたこの喜びは、いずこであろうと、身分や地位にかかわりなく求められるべきものではございませんか。
心からの愛情もわかなかったかわりに、H**さんへの復讐の気持も、この青年といっしょにいるといつしかなくなりました。わたくしはただ、快感を楽しませてくれる彼に惹かれました。たしかに彼は生れつき立派な体格に恵まれ、なかんずくその一部には人並みはずれたものさえあります。ですから、官能に無上の喜びを与えてくれる資質は十分そなえておりますが、何か一つ欠けるものが――言ってみればわたくしの愛情をかき立てるようなものが欠けているのです。そうかと云って性質はきわめてよく、やさしいし、すなおで、その上とても感謝の気持をいだいております。口数の少なさもちょっと類がないくらいで、どんな時でもほとんどものを言いません。けれども、それは行為で補って余りあるものがあったのです。勝手にさせておいてもけっしてむちゃなまねはしませんし、無分別に二人のあいだを吹聴するようなこともしませんから、全く文句のつけようがございませんでした。どうやら恋にも宿命があるようで、さもなければわたくしにしろ、彼を愛したにちがいありません。とにかく女にとりましてはまたとない宝と申せました。たとえ高貴な公爵さまの奥方でも、|口 直 し《ボンヌ・ブーシユ》にちょっとつまんでみたくなるほどです。正直に申し上げますと、わたくしは彼が好きでたまらなかったものですから、それが愛であるかないかはきわめて微妙なところだったのです。
けれども、二人の幸福は長つづきしませんでした。それもわたくしのとんだ不注意からおしまいになってしまったのです。見つからないようにずいぶん気をつけていたのですが、会うたびに無事なもので、つい大胆になって大切な注意を怠ってしまいました。さあ、会いそめて一月ほどたったころでしょうか、運命の朝が(H**さんが朝から見えることはめったになかったのですけれど)おとずれたのです。その時わたくしは化粧室で、寝間着に下着だけのなりでおりました。もちろん、ウィルもいっしょです。二人ともそんな好機をむざむざとむだにしたためしがございません。ふと、目新しい思いつきがうかび、わたくしがその実行を迫りますと、相手に異存のあるはずもなく、そこで肘掛け椅子にふかぶかと腰かけて寝間着の裾をからげ、空ざまに脚《あし》を投げかけました。ウィルに目標をよく見さだめてもらいたかったからです。彼はやおら立ちあがります。しかし考えてみると、その時、うっかりして部屋の鍵をかけ忘れていました。おまけに化粧室に通じるドアはあけっぱなし、H**さんがそっと入ってきたのにも気がつかず、あやまちを犯している最中をすっかり見られてしまったです。
わたくしは悲鳴をあげ、さっと下着をおろしました。びっくりした若者はまっさおな顔をしてふるえながら、死刑の宣告でも待つように立ちつくします。H**さんは怒りと軽蔑のいりまじった顔つきで、しばらくわたくしたちを交互にじっと見つめておりましたが、一言も言わずに、くびすを返して出て行きます。
すっかり気も転倒してしまったわたくしは、それでもはっきりと、鍵のかけられる音だけは耳にいたしました。わたくしたちは閉じこめられてしまったのです。ダイニング・ルーム以外に逃げ道はございません。ところがそのダイニング・ルームで、いかにもいら立たしそうに歩きまわる、怒ったH**さんの足音が聞こえます。おそらく、わたくしたちをどういう目にあわせてやろうかと、あれこれ思案しているにちがいありません。
とかくするうちに、かわいそうなウィルはもうおびえきっております。本来ならわたくしだってそうならなければならぬところですが、いまは少しでも彼をらくにさせてやることが先決でした。わたくしのせいでこんな目にあったかと思えば、いちだんといとしさもつのろうというもの。こうなれば喜んで、どんな罪咎でも彼にかわって受けようと思います。すでに生きた心地もなく、足もともおぼつかないほどおびえている若者の顔を、わたくしはあふれ出る自分の涙でぬぐってやりました。
さてH**さんはふたたび入ってまいりますと、がたがたふるえている二人をダイニング・ルームに呼び、自分の前へ立たせます。椅子に腰を下ろした彼の前で、わたくしたちはまるで裁きを受ける罪人さながらでした。まずわたくしから訊問がはじまります。やさしくもきびしくもない、でも残酷なほど冷静なしっかりとした口調です。彼とその召使いに対してなした下劣な行為に、何か申し立てるべきことがあるか、また、どうして自分に対してかかる恩を仇で返すようなまねをしたのか、といったあんばいです。
それに答えてわたくしは、世間のお妾さんがよくやるような、傷口をひろげかねないふてくされた弁解はいっさいせず、涙ながら控え目がちに大要次のように申し述べました。「あなたを裏切ろうなどとは夢にも考えたことがございませんでしたけれど(ほんとうにそうでした)、家にいた女中と勝手なふるまいをなさってからというもの、(ここで彼はたいそう顔を赤らめました)お恨みにはぞんじ上げながら、さていざというと何一つ咎めだてする気にもなれず、あげくのはてに駆りたてられた道はごらんのとおり、いまさら何も弁解めいたことを言うつもりはございません。でも、若いこの人には何の罪もないのです。あなたへの仕返しに、ただわたくしが利用したにすぎません。わたくしがそそのかして、こんなまねをさせたのでございます。ですから、たとえこの人がどうわたくしのことを考えていようと、どうかわたくしの罪は罪、この人の無知は無知としてお裁きをおつけください」
H**さんはわたくしの言葉をきいて、ちょっとうなだれましたが、すぐに気を取りなおすと、覚えておりますかぎり、次のように申しました。
「いや、わたしとしても恥入る次第だ、正直言って、みごとに仇を取られたようだ。まあ、わたしとお前さんでは育ちもちがうことだし、いまさらここで双方の情事の差異を論じたところで始まらない。お前さんがわたしを責める気持はわからぬでもないが、それはそれとして、お前さんというものをあらためて見直したよ。むろん、この小僧の身をかばうお前さんの態度は立派だし、うそいつわりのないことは認める。しかしだ、覆水盆にかえらず、わたしの受けた屈辱感はひどすぎるからな。一週間の余裕をあげるから、ここから出て行きなさい。わたしのあげたものは、みんな持って行ってよろしい。今後二度と会うつもりはないから、この家のおやじさんを通して五十ギニーお前さんに払わせてもらいますよ、それであとくされないはずだが。お前さんにしてもわたしに拾われた時にくらべれば、いくぶんましだと思ってもらいたい。また、いままでわたしにつとめてくれたお礼としても悪くないはずだ。それで不満なら、自分のしたことを胸に手をあててよく考えてみることだな」
こう言いますと、わたくしには何一つ言わせず、すぐに若者のほうへ向きを変えました。
「いいか、色男、おやじさんとのよしみもあることだし、お前の身のふりかたは考えてやろう。どうやら都会はお前のような間抜けには向いていないようだから、明日にでも田舎へ帰りなさい、誰かうちの者を一人つけてやって、おやじさんによく伝えさせてやろうじゃないか、二度と上京させて不良にさせるなとな」
これだけ話しますと、彼は出て行きました。いくらわたくしがその膝もとへ身を投げ出し、袖にすがって押しとどめようとしてもむだでした。だいぶ心をうごかされたようですが、わたくしの手をふりほどき、ウィルを連れて立ち去ってしまいました。ウィルはウィルでたいした罰も受けず、全くほっとした気持だったにちがいありません。
またしてもわたくしはつき離されて、ひとりぼっちになりました。しょせん、わたくしにはもったいなさすぎる人だったのでしょう。手紙を書いたり、知り合いを通して訴えてみたり、一週間の猶予を利用して、あれこれよりをもどそうと試みてみましたけれど、結局思い直してもらうわけにはまいりませんでした。H**さんの心がうごかぬかぎり、運命にしたがうほか道がございません。ほどへて、彼が家がらにも財産にも恵まれたご婦人と結婚されたと聞きましたが、全く満点のご主人ぶりだったとか。
かわいそうなウィルはすぐさま田舎の父親のもとに返され、まあ百姓といってもわりと裕福なほうでしたから、四ヵ月もしないうちにお金もあり商売も繁盛していた旅籠屋の後家さんに見そめられ、二人は結婚したそうです。おそらく、この若くてむっちりふとった後家さんも、類まれな若者の持ち物に魅せられたことなのでしょう。二人は少なくともその点で、幸福に暮らしているとぞんじます。
ウィルが田舎へ行ってしまう前に、どうしても一目会いたいものと思っておりましたが、H**さんの命令がすぐ実行されたので、それもかなわぬ願いとなりました。さもなければ、わたくしといたしましても、何とか手だてを考えて、彼を引きとめずにはいられなかったはずでございます。それほどわたくしは彼のとりことなっておりましたから、かんたんに忘れられるものではなかったのです。でも、冷静な気持になれば、やはりなんと言っても、事件が結果としてあの程度ですみ、彼としたらまあまあだったのですから、まことに喜ばしい次第と申すほかございません。
H**さんについて申し上げれば、今後の生活のこともありますので、最初のうち、わたくしはご機嫌をなおしてもらうつもりでした。でも、それは少々あまい考えだったようでございます。どのみち、あの人を愛してはいなかったのですから、今となってはむしろ、追い出されてかえってさんざんあこがれていた自由の身になれたのだと、そんなふうに自分をなぐさめるようになりました。なに、まだまだ若いのだし美しいのだから、その気になれば売れ口をさがすのに苦労などするものかと自信もわいてまいります。いよいよ躰を張るところまで追いつめられましたけれど、少しもしめっぽい気分になれません。むしろ、何となくうきうきしてうれしいくらいでした。
とかくするうちにも、じっこんの間がらだった女友だちの面々が、さっそくわたくしの不幸を耳にいたしまして、ひやかしがてらにぞろぞろとなぐさめに来ました。そのほとんどが、かねてから恵まれたわたくしの生活をうらやんでいたわけですけれど、連中にしろ誰が同じ憂き目を見ないと言えるのでしょう、おそかれ早かれ、自分たちだってそうなるはずでございます。さも気の毒そうな顔はしてくれても、腹の底ではひそかにわたくしが棄てられたのを見て喜んでいたのです。ですから、もっとひどい目にあわずにすんだのを知って、内心がっかりしたかもしれません。人の心に巣食う悪意というものは、まことに計りがたいもので、何もこの女たちばかりにかぎったことではございません。
いずれにせよ、そろそろ身のふりかたを決めねばならぬ日も近づいてまいりました。さしあたり身を寄せる先をあれこれ思案しました。そこへコール夫人という中年の分別ざかりの婦人が見えまして、この方は前に一ぺん、わたくしの友だちと連れだってお越しになったことがあるのですが、わたくしの窮状をお聞きになったとかで、ご親切にも何でも相談にのってくださると申し出られたのです。かねがねこの方には、ほかのどの女友だちよりも好感をいだいておりましたから、渡りに舟とご厚意をお受けいたしました。しかし、いざ蓋をあけてみると、身を寄せるのにこれほど悪い相手も、また、これほど良い相手も、ロンドンじゅうに見あたらなかったのではないかと思われました。悪いと申しますのは、だいたい彼女はお女郎屋さんを経営していて、お客の注文となればどんなみだらがましいことでも押しつけ、遊びを楽しむ段になると、どんな自堕落な行為でもすすんで取り計らったからでございます。また、良いと申しますのは、彼女ほどこの種の商売に長《た》けた者もめったになく、つねに危険にさらされている女たちを親身になってかばってくれますが、その点、彼女の右に出る者はなかったからでございます。おまけに彼女のように、自分の生活を支えるだけの利益があがれば、それで満足して、けっしてそれ以上のものを望まない人も、当節めずらしいのではないかとぞんじます。もともとれっきとした家がらに生れ、何かと事情もあったのでしょうが、やがてこの道にはいりこんだ人で、もちろん生活に迫られてのことにちがいありませんけれど、みずからこの道をえらんだ一面もないではないようです。それにしても、こんな商売の発展を願って、彼女ほど喜んで肩を入れている者も、また、その道の表裏に精通している者も、ちょっと見あたりません。ですから、彼女がトップクラスの商売人であることは申すまでもなく、したがってお客も素姓のたしかな者ばかりでした。そういうお客の要望にこたえて、幾人かの娘たちをつねに取りそろえていたのです(自分の娘たちのように彼女が言っていたのも、若くて美しい彼女たちをわが子のように扱っていましたからで、中にはその教育のよろしきをえて、なかなか出世した者さえございます)。
さて、わたくしはこの利用価値のあるご婦人のもとに、いっさい身をまかせたわけでございますが、H**さんとのことも考えたからなのでしょうが、彼女はあまり表面に立たないようにして、引越しのきまった日に自分の友だちをよこして、コヴェント・ガーデンのR**街にある新居に案内してくれました。すぐ隣に彼女の家がありましたが、とりあえずわたくしを容れるゆとりがなかったようです。わたくしの入った家はこのところずっとつづいて商売女が住んでおりましたので、大家さんもなかなか心得たもので、家賃さえきちんきちんと払えば、何でも勝手気ままにふるまえたような次第でございます。
H**さんが約束してくれました五十ギニーも、出がけにちゃんともらい、衣類やら身の回り品やらでざっと二百ポンドばかりの荷物をまとめて馬車に積み込み、わたくしも後から乗りこんで、家主やその家族には通り一ペんの挨拶をして出てきたのです。この人たちとは日ごろあまり親しくしておりませんでしたので、いざ引越しとなっても別段うしろ髪をひかれる思いはいたしませんでしたが、思い出の住まいに別れるのはやはり悲しく、涙がはらはらとこぼれました。H**さんにはお礼の置き手紙をしたためてまいりましたが、これでわたくしたちの縁も切れてしまったわけで、ほんとうにその後、二度とお目にかかることもございませんでした。
使っておりました女中には、前の日のうちにひまを取らせましたが、この女中はたんにH**さんが差し向けた者であるばかりでなく、どうやらわたくしが彼女と主人のあいだを阻《はば》んでいるのを恨み、わざとこちらの情事が見つかるように、何かたくらんだふうに思えたからです。
それはともかく新居に着いてみますと、今までのような見ばえのするお部屋ではありませんでしたけれど、便利にできている点では変わりがございませんでした。それに同じ二階なのにお家賃は半額です。トランク類が運び込まれて部屋の中におさまります。もういまではわたくしの支配人となりましたお隣のコール夫人が、新しい大家さんといっしょに出迎えてくれましたけれど、さかんにわたくしの美しさをほめあげ、これだけの娘なら家賃などためる心配はぜったいにないからと説明します。このばあい、他のどんな長所を言ってもらうより、それにこしたことはなかったのです。
さて、新居に落ち着いたわたくしは、いよいよひとり立ちの身となったのですが、浮かぶか沈むか、ともかく世の荒波に乗りだしてみることにいたしました。さあ、その結果がどんなふうになりましたでしょうか、初めて試みました商売で得たかずかずの体験をもふくめ、あらためてお手紙をしたためさせていただこうかとぞんじます、このたびはあまりにも長くなりすぎたようでもございますので。
では奥さま、これにて失礼いたします。
[#地付き](「第一の手紙」終り)
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第二の手紙
奥さま
つづきのお手紙を差しあげるのが大変おくれております。一息入れたかったのもさることながら、どのみち自尊心が傷つくばかりの告白を、もうこれ以上いたさなくても、あるいはお許しくださるかもしれない、そうぞんじあげたからでもございます。
奥さまにせよ、ほんとうは、この種の話につきものの、きまりきった表現やいきさつに、かなりうんざりなさっておいでのはずです。元をただせば相も変わらぬ同じことのくり返しですもの、いくら話にヴァラエティをもたせてみたところで、しょせんそのイメージにせよ、登場人物にせよ、文章の表現にせよ、似たり寄ったりはまぬがれません。それだけでも不愉快なのに、さらに、いやでも「喜び」とか「陶酔」とか「恍惚」とかいう言葉がくり返されることになり、本来なれば行為そのものが主体であるべき話の中で、それがあまりたび重なって出てくれば、勢い物語のもつ力もそがれてしまう結果となりましょう。ですから、いまはもうそんな不利な条件の下に書かねばならぬわたくしの立場をお察しいただき、奥さまのご判読を待つ以外にないのでございます。
それに、下品な言葉や露骨な表現をさけ、さりとて気どった思わせぶりの言いまわしもせず、終始一貫気品をなくさず書きつづけるのは至難のわざだと、奥さまもかつて、わたくしを励ますおつもりでおっしゃってくださいましたが、まったくそのとおりだとぞんじます。
では、その後に生じましたことどもを書きしるしますが、ともかくその晩は新居に到着いたしましたのがおそく、コール夫人も荷物の整理などを手伝ってくれましてから、宵のあいだずっとわたくしの部屋におりました。お夕食の席では、わたくしがいよいよ飛び込みました新しい商売の世界について、いろいろ役に立つ助言などをしてくれます。これからは一個人の快楽に熱をあげるべきでなく、大勢の人を相手にそのなかへ溶けこまなければならない、ですから、お金もうけのためであろうと、悦楽のためであろうと、そのいずれのためであろうと、利益はちゃんとあげなければならないのだそうです。「それにしても」と夫人は一言注意しました、「何といってもあなたは新顔なのですから、しきたりにはしたがってもらわないとね、この世界では新顔は生娘ということで通すのよ、どうしても口あけの時には。もっとも、それまで待つあいだにあなたが自分でどうなさろうと、それはかまわないけれど。時間をむだにするほどもったいないことはありませんものね。こちらもせいぜい適当な相手をさがしておきましょう。まあ、あたしの言うとおりにしてくれれば、悪いようにはしませんよ、じっさいは生娘でもないのに、本物とおなじ値段をもらえるようにしますからね」
そのころのわたくしは、あまり細かな神経を持ちあわせておりませんでしたが、正直に申し上げて、あまりいい気持はしなかったようにおぼえています。といって、いまさらすっかり下駄をあずけてしまった夫人に、とやかくさからうつもりであったわけでもございません。何と申しましてもコール夫人は、しかとはそれとわかりかねますけれど、女同志の友情というような強い絆で、完全にわたくしの心をうばっていたからでもございます。彼女に言わせれば、ちょうどわたくしの年ごろに亡くした一人娘が、あまりにも生き写しなので、最初はそれでわたくしに惹かれたそうです。そんなこともあるかもしれません。世の中には往々、はじめはただ好感をいだく程度だった仲が、いつしかほかのどんな強い友情よりも固くむすばれ、生涯変わらぬ交わりをなす例がございます。夫人と知り合いになりましたのは、H**さんに囲われておりましたころで、婦人帽の類を売りにときどき見えたのですが、しだいに気をゆるすようになり、おしまいにはとうとう、ほんとうに好きになって、何でも彼女の言うままにしたがうほどにさえなったのです。彼女もこういう商売の婦人にはめったに見られない誠意をかたむけて、わたくしの面倒を心からみてくれました。わたくしたちはその晩、お互いによく話しあったすえに別れましたが、翌朝夫人はやってくるなり、はじめてわたくしを自宅へ誘ったのです。
その家はともかく上品できちんと整頓された感じです。入ってすぐの広間はお店といってよいくらいの構えで、若い女の子が三人、せっせと婦人帽を造っておりましたが、それはあくまで表向きで、かんじんの取り引きを隠すものにすぎません。けれども、三人ともおいそれとはお目にかかれぬ美人ぞろいでした。中でも二人はとくにきれいで、年上のほうでも十九になるかならぬくらいです。残りの一人もほぼそんな年格好で、ぴちぴちしたブルネット娘、黒い瞳がきらきらと輝き、なかなか均整のとれた体格をしており、前の二人にくらべてさしたる遜色がございません。服装もそろって目立たないながらも、洗練された清楚《せいそ》なものを身につけておりました。こういう若い娘はひとたびルーズになると手に負えなくなるとみた夫人が、きびしくしつけて取り締まった結果、ごらんのようなしとやかな三人ができたのでしょう。ですから、見習い期間が過ぎても一家のしつけにしたがわないような者がいれば、さっさと夫人はやめさせたわけです。こうしていつのまにか、心の結ばれた一家ができた次第で、その一員たる者は誰しも、お金もうけと楽しみ、それにお上品な体裁とひそかな遊び、そういう世にもまれな結びつきをまたとないものと思っておりましたから、三人の娘を顔立ちの美しさともども気立てのよさで拾いあげたコール夫人も、らくに一家を取りしきることができたのです。
さて、夫人が子飼いの三人娘に新しい一員としてわたくしを紹介し、今日からわけへだてない仲間として加えてやるようにと申しますと、美しい三人の娘はそろって歓迎の意を表し、おまけに心からわたくしの姿かたちが気に入ったようすを見せます。ふつう、女というものは、とてもそんなふうなまねはできないものです。けれども、三人とも嫉妬心や競争心はすべてなくして、ただ一家の利益を考えるように仕込まれていたのでしょう、わたくしを全員にとって商売上大切な仲間と思っただけのようでした。三人はわたくしを取りかこんで、いろいろな角度からながめます。ともかく、わたくしが仲間入りしましたので、この日は仕事もお休みになりました。コール夫人はせいぜい歓待するように三人によく頼んでから、自分は家事をしに出て行きました。
女同志のうえ、年も似たりよったり、職業も同じなら見たところだって変わりません。まもなく数年来の旧知のような間がらになりました。家の中も案内してくれます。それぞれの個室は使いよくぜいたくにできておりました。しかし何と言っても広い応接間がすばらしく、そこには定連のお客だけが来て、歓楽のかぎりをつくすとか。つまり、夕食をいただきながら、それぞれの相手と底ぬけの悪ふざけをするのだそうです。尻ごみをしたり、恥ずかしがったり、やきもちをやいたりすることはいっさいご法度。ですから、こういう一家のたてまえにしたがったために、よしんば趣ある楽しみがそこなわれても、それは強烈なヴァラエティや魅力あふれる豪華さで十分に補えるのだということです。この秘密のつどいの提唱者や支持者によれば、自分たちこそ素朴に桑中の喜びにひたった古きよき日を復活させる者と任じているようで、彼らの純粋さにくらべれば、他はすべて罪の意識や羞恥心で烙印されゆがめられたものにすぎないのだそうです。
さて、夕闇もせまるころになりますと、お店の戸はおろされ、本番がはじまります。お体裁をつくろったマスクはかなぐり捨てられ、娘たちは思い思いの相手をえらんで、楽しんだりお金もうけをしに取りかかるのです。相手といっても男なら誰でも入らせるわけではなく、思慮分別、性質などの点で、あらかじめコール夫人のおめがねにかなった者だけが許されるのでした。つまり、この家こそロンドンきっての安全で高級な、それと同時にもっともサーヴィスのゆきとどいた娼家だったと申せましょう。すべてにわたってきちんとしており、上品だといっても自由気ままに遊ぶ妨げをするものはございません。現に遊ぶ場合におきましても、お客さまたちは、洗練された趣味と大胆な官能の満足をみごとに調和させる、まれに見る秘術をお持ちあわせになっていらっしゃるのです。
あたらしい三人の仲間にすっかりかわいがられてうかうかと朝のうちを過ごしましてから、わたくしたちはお昼の食事に出ましたが、どうしてコール夫人が娘たちにこうも愛され尊敬されているのかが、はじめてよくわたくしにもわかるような気がいたしました。固苦しさとか、無用の遠慮とか、とげとげしさとか、それにいささかの嫉妬めいたことさえなく、明るい、くつろいだ気安さがいっぱいだったのでございます。
お食事のあとでコール夫人は、三人の賛同をえて、その晩わたくしに新人の儀式を行なうことを告げ知らせました。それは、わたくしがまだ全然男を知らぬ娘として、最初の正規の取り引き先にゆだねられることなのだそうで、けっしていやな思いはしないから、ちゃんと儀式をすますようにとのことでした。
乗りかかった船ですし、新しい三人のお友だちも気に入ってしまったことですし、せっかくの申し出を妙に勘ぐって断わるいわれもございませんでした。ですから、すぐに白紙委任《カルト・ブランシユ》ということにしますと、皆から気立てがいいとか、すなおだとかほめられてキスをあびせられたのです。「なんて気持のいい人でしょう……快く承知してくれて……変にはにかみもしないで……わが家の誇りになるわよ……」などといったあんばいです。
そうときまると娘たちは出て行きましたが、あとにコール夫人が残って次のように詳しく説明してくれました。「今夜はうちの四人の大切なお客さまに紹介しますけれど、しきたりにしたがってその中の一人の方が、あなたの口あけに選ばれているのですよ」そう言いながらも、なお念をおすように、「いずれも若い立派な体をした申し分ない殿方ばかりですよ。みなさん、お楽しみを求める点では一致なさっていらして、うちはこの方たちだけで支えてもらっているようなものなの。それに、うんと楽しませてくれる娘には、とてもおごってくださるわ。言ってみればこのささやかなハレムも、おかげでやっていけるようなものね。もっとも、ふだんなら、それほど気を使わずにすむお客をお受けすることもあるわ。たとえば、あなたを生娘として押し通せるのも四人の方ではちょっと無理ね。それはよくこの道に通じていらしって、とてもごまかせはしませんよ。第一、そんな大恩ある方たちに妙なまねなど許されるはずがないじゃないの」と語ってくれました。
ほんとうは楽しい期待で胸がどきどきしていたのでございますが、女らしい慎みを忘れず、いかにも夫人のために心にもないことをするようなふりをしたうえ、さらに念入りに、ひとまず家にもどって身なりをととのえ、最初のおめもじに備えたいとまで、わたくしは言いそえたのです。
ところがコール夫人は、そういうわたくしに反対して、「あなたにご紹介する方たちはね、ご身分といい、ご趣味といい、けばけばしい服装とは全然無縁なの。そんな格好をすればせっかくの女の美しさが台なしになるとお思いなのよ。その道にかけてはヴェテランぞろいですもの、むしろ軽蔑されるわ。女の魅力は生れながらの美しさにこそあるというわけね。ですから、いくら高貴な身分のご婦人であろうと、本来色つやの悪い顔へお白粉をぬりたくったのなんかには見向きもなさらないで、丈夫で肉のしまった田舎娘のほうをおえらびになるのよ。ことにあなたなんか、そのままで十分、いまさらおめかしする必要はないわよ」と、こう力説するのです。結論として、今夜のところはほとんど服など着ていないほうがよいのだと、付け加えました。
すなおには受けとれませんでしたけれど、夫人の判断にまかすことにいたしました。やがて、こんどは妙にしんみりとした口調で、男の人たちの気ずい気ままなお遊びに、――つまり、洗練された遊び方をする人もいれば、堕落しきった遊び方をする人もいるけれど、何をされてもただ言うことをきいてさからわないのを旨とするように言いわたされました。春をひさぐ女には、とやかく相手を批判する必要はなく、ただ服従をしていればいいのだそうです。ありがたい講義を拝聴しているうちに、お茶の時間になり、さっきの三人ももどってきてまたいっしょにすわります。
そこでにぎやかに、さんざんおしゃべりをしたあげく、まだ晩まではだいぶ時間もあることだし、ひとつめいめいがはじめて女になった時の話をしてみたらということになりました。この提案は全員の賛成をえました。ただコール夫人は年が年だからということで、わたくしは一応まだ表向き生娘なのだからということで(もっとも、一家のしきたりの儀式がすめばそれまででしたが)、二人とも別格にしてもらったのです。そんなわけでわたくしはただきき役にまわり、口あけはまずこの座興の提案者がすることになりました。
その娘はエミリーといって、肌が抜けるほど白く、すてきなからだの線をしております。難点といえばややふとりすぎで、美人の条件として要求される繊細さに欠けるところがあります。青い眼は何とも言えないやさしさをたたえ、口もとの美しさはまた格別で、よくそろった白い歯並みをそっと包んでいました。その彼女が口をきります。
「生れから言っても、女になったいきさつから言っても、あたしの場合、いくら言い出しっぺだって、虚栄心などひとかけらもないのわかってもらえてよ。父も母もここから四十マイルと離れていない田舎でまだお百姓しているの。二人ともどういうわけか息子ばかりをかわいがって、娘のあたしにはとてもつらく当たったわ。だから、何べん家をとび出してひとりで世わたりしようと思ったかしれません。でも、とうとう十五になったときに、いやでもとび出す破目になってしまったの。両親が大切にしていた瀬戸物鉢をこわしたってわけ。情け容赦なくぶたれるに決まっていたし、悪くすればどんな目にあうかわからなかったから。それに考えも浅はかな年ごろだったでしょう、一思いに家を抜け出し、ロンドンめざして歩き出したの。あとで親たちがどんなに腹を立てたか、それはわからないわ、いまだに手紙ひとつもらってないんですもの。その時のあたしの全財産は、名付け親からもらった金貨二枚と何シリングかのお金、それに靴についた銀のとめ金と銀の指ぬきぐらい。ともかく歩き出したものの、ふだん着のままだったし、うしろから足音がしたり、何か物音がするたびにびくびくしながら先を急いだの。まちがいなく十二マイルは歩いたんですけど、それ以上はもうくたくたに疲れてだめだったわ。とうとう道ばたの石にすわりこんで、わあわあ泣き出してしまった。それでも、自分がいよいよ家出をしたのだと思うと、こわさが先に立ってどうしようもなかったわ。引き返して意地悪な両親に顔を合わせるくらいなら、死んだほうがましですもの。でも、少し休んで泣くだけ泣いたら元気が出てきて、また歩きはじめると、そこへうしろから、あたし同様家出をした田舎のたくましい若者が、やはりロンドンへ働き口をさがしに行くとかで追いついてきました。さあ、年は十七ぐらいだったかしら、見るからに丈夫そうで、髪の毛はぼさぼさのまま。縁《ふち》つきの小さな帽子をかぶり、ごそごその上着をきて、短い毛糸の靴下をはき、一目でそれとわかる百姓姿なの。棒の先に荷物を結んだのをかついだ旅格好で、うしろから口笛を吹きながらきたのを見ると、あたしは物も言わずにしばらく並んで歩いたわ。そのうちに話をするようになり、ロンドンまでいっしょに行くことに決めたわけ。相手がどんなつもりだったのかはわからなかったけど、あたしが何でもなかったのは誓ってもいいことよ。
そのうちに暗くなったので、どこか泊まるところを探すことになったんだけど、困ったことは、もしきかれたばあい、あたしたちのことをどう言ったものかわからなかったのよ。しばらく考えたすえに、その若者は妙案を思いついたわ。どんな妙案だと思って? 夫婦ということで押し通そうというのよ。その結果がどういうことになるかなど、ちっとも考えていなかったのにね。それでいいと話がきまると、あたしたちは徒歩の旅人相手の旅籠屋《はたごや》を見つけて足をとめたの。入り口にもうろくしたお婆さんが立っていて、あたしたちのくたびれた様子を見ると、泊まって行くように誘うの。ほっとして中に入ったけど、連れの若者は何でも自分の勘定にするように言って、その家でいちばん上等のお夕食を注文し、二人で夫婦気どりになっていただいたわ。あたしたちの年格好からすれば、妙に思わない人はなかったんじゃないかしら。やがて床に入る時間がきたけれど、夫婦だと言ってしまったてまえ、取り消すわけにいかなくなったのよ。おかしいの何のって、若者のほうもあたしと同じで、どうして寝たものか困りきった様子だったわ。まあ、困るのが当たりまえなわけね。あたしたちがもじもじしているのもお構いなしに、おかみさんはロウソクを取って部屋へ案内するの。広いお庭の隅で、母屋《おもや》からは離れて建っているお部屋だったわ。ともかく、案内されるままについて行っただけ。うす汚ない部屋で、ベッドもご同様にお粗末。当然のことながら、二人きりで寝るようになったのよ。あたしったら、うそみたいに何にも知らなかったの。若い男とベットをともにしたらどんなことになるかなんて、田舎の牛乳しぼりの女の子といっしょに寝る程度にしか考えてなかったのね。相手のほうだって変な考えが起こるまでは、同じように何も知らなかったはずよ。
ともかく若者は、服をぬぐ前に灯は消したわ。寒さが身にしむ季節だったので、ベッドに入らなければならなかったから、あたしはさっさと服をぬぎすてて、ふとんのあいだへもぐりこんだわけ。すると、もう若者は先に入っているじゃないの。あたたかい肌がふれ合ったけれど、あたしは驚くどころか、むしろいい心もちだと思ったくらい。でも、はじめてそんなぐあいに寝たので、気になってなかなか眠れません。そのくせ少しも危ないとは思わなかったのよ。でも本能の力ってたいしたものなのね、ちょっとしたことで動き出すんですもの! 若者は互いに暖め合うつもりらしく、片手をあたしの体にかけて引き寄せたわ。すると合わさった胸を通して、それまで感じたことがないような不思議な熱さがつたわってきたの。きっとくみしやすいと見て取ったのでしょう、若者は大胆になってキスをしかけてきたわ。あたしも結果がどうなるかなど考えずに、うんとお返しをしてあげたの。それに気をよくしたのか、こんどは胸においていた手をずっとずらせて、いちばん敏感なところまでのばしてきたわ。そうされると何だか急にぱっと火がともされたような気がして、妙なぐあいにからだがうずいたものよ。お互いに楽しんでいるうちに、とうとう若者のほうが少しはめをはずし、あたしに痛い思いをさせたので、少し言ってやったの。するとこんどはあたしの手をとって、自分のからだへみちびこうとするのよ。身をちぢめていたせいか何だかとても暖かいような気がしたけれど、しだいにからだをのばし、ぜんぜんあたしたち女とはできがちがうのを、いばって見せてくれたわ。何せはじめてのことでしょう、びっくりしてしまって思わず手を引いてしまったけれど、えたいの知れないうれしいような気がしきりにするので、いったい何のためにそんなものがあるのか、きかずにいられなかったわ。すると、どういうものなのか実際に教えてやってもいいと言って、こちらの返事も待たずにいきなりキスをあびせてきて、別に悪い気もしないでいると、こんどは一心にからだをからませてくるの。何だかただならないものを感じたものの、初めて味わう恐ろしいような、そのくせもっとほしいような気持にひかれて、されるままになっていると、やがて突き刺すような痛みが走って、思わず悲鳴をあげてしまったわ。でも、もうおそかったのよ、しっかりと腰を落ち着けてしまった相手は、あたしがもがけばもがくほど有利になるばかり。とうとうしゃにむに娘のあたしを葬り去ったわけ。すんでのところであたし自身も殺されかけたような気がしたわ。だから、女がはじめて蜜を味わうには、どうしても刺《とげ》にさされて血を流さなければならないのだと、ここではっきり証言しておくわね。
でも、痛みがひくにしたがってうれしさがわいてきて、相手がくり返し試みるのにまかせていると、夜の白むころにはこのあたしの処女をうばった男が、天にも地にもかけがえがないほどいとしくなってきたの。もう、あたしにとってすべてのような気がしたわ。いっしょになることにきめて、二人で上京してしばらくは暮らしをともにしたけれど、やがてしかたなくなってあたしはこの道に入ってしまったわけ。それでも、もしここのお家に拾われていなかったら、だいたいがのんきで人の言うことをすぐ真に受けるほうでしょう、この年になるまでにはとうの昔にさんざんな目にあっているはずよ。でもね、その話は約束以外のことになるし、このへんでおしまいにしておくわ」
すわっていた順からまいりますと、こんどはハリエットが話す番です。世の中に美人はおりますけれども、後にも先にも彼女ほどすばらしい美人にお目にかかったことがございません。美しいなどというものではなく、美しさそのものの化身のような人でした。小柄とはいえ、まったくみごとに均勢のとれた体だったのです。色白の顔は二つの黒い瞳でいちだんと白く見えますし、またその瞳のかがやきは、ともすれば生気を失いがちな顔色をひきしめております。ほのかに紅にそまった両頬が、あお白い顔になるのをわずかにふせいでいます。その紅も、しだいに色をうすめて、いつしか純白の肌の中へ消え去っているのです。そして小ぢんまりとした顔立ちが、いかにもなよやかな趣をそえるのでしたが、それは愛のよろこびのほかは何ごとにも気だるそうな彼女の一面を物語ってやみません。自分の番だと言われますと、彼女はにっこり笑って、いくぶん顔を赤らめながらもすなおに語り出しました。
「父はヨーク市近在で粉屋をしておりましたの。でも、父も母もわたくしがまだ幼いころに亡くなりましたわ。わたくしは子供のない後家の伯母さんに引き取られましたけれど、その伯母は**州にあるN**卿のご本邸をあずかっていまして、そこでとてもかわいがられて育てられたのよ。そう、わたくしまだ十七だから、十六の時にはもういくつか割にいい縁談がもちこまれましたわ。もちろん財産なんて何もないんですもの、顔かたちだけで望まれたわけね。でも、生れつき女としての発育がおそかったのかしら、それとも、心を惹かれるほどの男の人に会えなくて、全然興味がおこらなかったのかしら、その年ごろまでわたくしほんとうに何も知りませんでしたし、考えてみようともしなかったの。そんなわけで、よくわからないまま、結婚するくらいなら死んだほうがましだと思っていたんです。伯母はとてもいい人で、おどおどしているわたくしをまだ子供なのだからと見てくれ、自分の経験からきっとそのうちにわかるようになると心配もせず、申し込んできた人たちには適当な返事をしてお断わりしてくだすったんです。
お邸の方たちは何年もご領地にお見えになりませんでしたから、もうすっかり伯母と二人の下働きの人たちにまかせきりになっていたのです。ですからわたくしは、半マイル四方にちらほら小屋が建っているほか、あとは家一つないようなひろびろとしたお邸を、わがもの顔にしておりましたの。
そんなところで静かにたあいなく、これといった事件も知らずに暮らしていたのですが、とうとう運命の日が来ましたわ。ある日、いつものように伯母がお昼の食事のあとで寝たものですから、家から少しはなれた所にあります古い東屋《あずまや》の一つへ、編物をしに出かけたんです。腰かけて窓べを流れる小川をながめているうちに、ま夏の午後のけだるさから、何となくうつらうつらしてきましたので、編物を入れたバスケットを枕に、手ごろな籐椅子を見つけて休みましたわ。ところがすぐに、ばしゃばしゃという水の音にはっとして目がさめましたの。なんだろうと思って起き上がってみますと、お隣のご領地の息子さんではありませんか。もっともそれは後でわかったことですが(だって一度もお会いしてなかったんですもの)、とにかく鉄砲を持っていらして、猟でもなさりながら迷い込んだらしいのです。さんざん歩いて汗もかいていらしたし、むしむしする日中のことでもありましたし、きれいな小川の流れで水あびしようと思ったのね、すぐに服をぬいで向こう岸からざんぶと川に飛び込みましたわ。ちょうど森が岸べまでせまっていて、何本かの樹は水にかかっておりましたから、服をぬぐにはお誂えむきの木陰ができていたのよ。
裸のまま水の中にいる青年の姿を見て、それは関心もありましたけれど、とにかくわたくしはびっくりしてこわくなってしまいました。恥ずかしいと思わなかったら、すぐにでも逃げだしたいところだったのですが、あいにく出口も窓もそちらへ向いていて、相手に気づかれずに外に出て、川沿いを家まで走るわけにまいりません。男の人の裸姿なんか見ればまっかになっておかしくなってしまいますわ。外へ出る気など起こりようがないのです。すると、その場へ相手がいなくなるまで釘づけされることになり、ほとほとどうしてよいのかわからなく、困りきってしまいました。しばらくは恥ずかしいやら恐ろしいやらで、窓から外を見るのさえはばかられたくらい。窓といっても昔ふうの両開きのもので、わたくしの背後は暗くなっていましたから、中にいる者の姿は外からわからないはずです。出口の扉もがんじょうにできていましたから、よほど乱暴でもするか、中からあけてもらわないかぎり、外からはあけられません。
ところで、その時の経験でわかりましたけれど、たしかにこわいものほど見たくなるものなのね。わたくし、そのえたいの知れない誘惑に負けて、べつに見ようと思ったわけでもないのに、自然に眼がそちらへ向いてしまいましたわ。それに、すぐには外からわからない、安全だという確信も手伝って大胆になり、わたくしはしだいに視線をその裸の男にそそぐようになりましたの。恥ずかしいさかりの娘心にとっては、ほんとうに恐怖の的でしたのにね。視線をはわせますと、まず最初に全身にしぶきをあびたまっ白な肌がうつりましたが、日光が反射してまぶしいほどに輝いています。顔は、とりのぼせていましたからはっきりわかりませんでしたけれど、とにかくみずみずしい若さでいっぱいだったことはたしかです。水とたわむれて泳ぎまわりながら、ときどき水面に現われてはしゃぎまわる姿に、わたくしはすっかり心をうばわれ、楽しみました。何回かはあおむけに浮かんだままじっとしています。すると、美しい巻き毛の黒髪が、頭の向こうにゆらゆらと水に引かれてただよいます。まっ白なおなかと胸のあいだには水が流れあふれて、双方を隔て、わたくしはなおその果てに眼をうつさずにはいられません。そこにはくろぐろと生い茂った浮き草のあいだに、何かしらやわらかそうな白いものが顔をのぞかせ、しなやかに揺れるともなく揺れうごいておりますの。本能とでもいうのでしょうか、いつのまにかわたくしは、そればかりに気をうばわれて、いくら眼をはなそうとしてもはなせなくなって、でも、特に恐ろしいものとも思えませんし、心配せずに心ゆくまで眺めることにしたのですが、さあそうなってみますと、こんどはむらむらと奇妙な欲望がつのりはじめて、一心不乱に見つめないではいられません。長いあいだ眠っていた本能の火が急に燃えあがり、わたくしは生れてはじめて女であることを自覚したようなわけ。青年は向きをかえて、こんどはうつ伏せになって泳ぎます。両手両脚をのばしたその姿は立派な彫刻のようで、襟《えり》すじから肩ごしにふさふさとただよう髪は、肌の白さをいちだんと浮き立たせます。みごとに盛りあがった筋肉は両肩からはじまって、からだが左右に分かれる太もものあたりまでつづき、水に濡れてまばゆいほどきらきら光っています。
いつのまにかわたくしは気持がすっかり変わって、目の前の光景にうっとりとしてしまいましたわ。ついいましがたまでの恐怖感は、突然と言っていいほど急に、やみがたい欲望へと変化いたしました。夏という暑い季節も手伝ったのでしょう、しだいにつのる欲望に、ほとんど気を失いかけたくらいです。さて、それならいったい何を求めているのか、自分でもはっきりわからないんです。ただ、あの青年のようにすてきな人とならきっと幸福になれるはず、そう考えられただけ。といったところで、とても知り合いになれる見込みはおろか、二度と姿を見かけることすらおぼつかないでしょう。欲望の炎は心をさいなむ業火となりました。なお一心にながめていますと、不意に青年のからだが水に沈みます。泳ぎのうまい人でもけいれんを起こしておぼれることがあるとは、かねがね聞いていましたし、こんなに急に沈んだところをみますと、きっとそうにちがいない、すると、想像もつかないような愛情がこの青年に対していつかわいていて、最悪の事態を考えながら、わたくしはいても立ってもいられなくなりましたわ。反射的にドアに駆け寄り、表に出ますと、川に向かって駆けだしましたが、心配のあまりただ夢中でそうしたので、わたくしには何をどうすればよいのかわからないんです。青年の身を案じて飛び出したとっさのばあいに、考える余裕などございませんもの! とにかく、あっという間の出来事でした。みどりの川べりに着くまでは気がたしかだったのですけれど、いくら青年の姿をさがしても見当たらないので、はらはらするうちに気が遠くなってその場に倒れてしまいました。ふとわれに返ると、何やら突き刺すような痛みがします。おどろいたことに、あれほどさがした青年の腕に抱かれているばかりではありません、相手は無抵抗なわたくしの状態をいいことにして、すでに奥深くからだの中に入っていたわけです。さんざんはらはらした後なのでぐったりしていましたし、それにあんまり驚いてしまったので、声も出なければ振りほどく力も出ません。そのうちにますます青年は力をこめて、とうとうわたくしの乙女の命をうばってしまったのです。からだを離してみてはじめてわたくしが処女であるしるしを見たとか、後日話してくれましたが、その場のやむにやまれぬ情熱のあらしがおさまりますと、思ったよりひどい結果に気がとがめたのでしょう、わたくしを置いてさっさと立ち去るわけにいかなくなったようでした。わたくしはまるで撃たれた山しぎのように、血まみれになってむざんな姿を横たえています。胸がどきどきして口もきけず、逃げることもできません。すっかりおじけづいて、いまにもふたたび気を失いそうです。青年はかたわらにひざまずいて、わたくしの手をとり、キスをしながら、眼に涙をうかべてしきりにあやまります。そして自分にできることならどんなつぐないでもすると申します。元気になって声が出せるようになったら、うんとひどい仕返しをしてやるに決まっておりますわ。こんなむごい目にあわされたのも、元をただせば相手の命を助けようとしたからなので、いくら知らなかったとはいえ、いまいましいにもほどがございます。
でも、人間の感情なんて目まぐるしく変わるものなのね、極端から極端に! どうかと思う人は人間の心を少しも知らないんですわ! 好きだと思っていた矢先に、すぐにいやらしい男になった憎らしい罪人でも、かたわらにひざまずいて、わたくしの手を涙で濡らしていれば、やはりふびんに思わずにいられません。青年はまだ素裸のまま、でも、こちらはもっと恥ずかしい目にあっているのです。そうでもなければ、そんな姿を見ただけでわたくしはショックを受けていたはずです。みるみる怒りの感情が消え去ったかと思うと、またもやいとしさがつのってまいりまして、もう許してやることが自分の幸福につながるようにさえ感じられたのです。ですから、責めるには責めましたがささやくような声になり、眼が合いましても恨みがましく見るというより何となくあまえたものになりました。遠からず許してもらえるのは彼にもわかったはずです。でも、はっきりわたくしの口から許しの言葉を聞くまでは、あいかわらずの姿勢をくずしません。そうまで懸命に懇願されていろいろの誓いを立てられますと、それでも黙っているわけにいかなくなりました。許されても、また機嫌を損じては大変と思ったのでしょう、そっと唇にキスをしてくれましたが、べつに避ける気もいやな気もしません。でも、おだやかに彼の乱暴な行為をたしなめますと、わたくしを犯したいきさつを弁明いたしましたが、判事としていくぶんえこひいきになっておりましたわたくしとしては、それでもって無罪だとしてやれないまでも、罪の軽減は考えられたのです。
泳いでいた青年が水の下に沈んだのを、何も知らないわたくしはとっさに大事が起きたと勘ちがいしたようです。水泳の技術の一つにすぎなかったのですが、そんなこととはつゆ知りませんでした。おまけに、息が長くつづくほうなので、わたくしが助けに駆けつけた時はまだもぐっていて、気を失ってこちらが倒れてから浮かび上がったわけで、彼からはただ岸べに女が寝ころんでいるように見えただけとか、きっと自分と遊ぶつもりか何かで若い女が来たのだろう、さっきまで誰もいなかったんだし眠っているわけはない、まずそう考えたようです。それにちがいないと思った青年は近寄ってみたのですが、気を失っているのがわかるとすっかりあわてて、ともかく大急ぎでわたくしをかかえて、扉が開いたままになっている東屋へ運び込み、籐椅子に寝かせてから正気に返らせようと、真剣にいろいろの方法を講じたそうです。ところが、はだけたわたくしの躰がいやでも眼に入り、あちこち手をふれたりしているうちに、情熱がかき立てられて、もうどうすることもできなくなったということです。それに多少は、気を失ったふりをしているのではないかと最初にぴんときた考えが尾を引いていて、これは有望だと思えたうえ、場所がまた人目につかない一軒家でもあったのをもっけの幸いに、とうとうおさえがきかなくなったんです。そこですぐさま扉を締めに立ち、胸をおどらせてもどったとか。あいかわらず失神状態のままでいるわたくしの姿を見て、思いどおりの位置になおしたのですが、死んだようになっていたわたくしは、彼に名をなさしめるまでぜんぜん気がつかなかったわけ。でも、もうほとんどくやしいとも思いません。彼の話す声はうっとりとするような響きを耳につたえますし、はじめて興味をいだいた男性というものが、こんなにそば近くおりますし、何となくそれまで味わえなかったうれしい気持になれて、過ぎた悪感情はいっさい水に流してしまったんです。ほぐれたわたくしの表情から和解のきざしを読み取ったのでしょう、大いそぎで唇にキスをしてそれを確かめますと、こんどは身も心も溶けるような口づけをいたしましたので、わたくしはじいんと胸がしびれ、はては初めて覚えましたヴィナスのなかにまでそれはつたわってゆき、えもいわれぬ情感のうちにもう拒むいわれはなくなっておりました。愛撫のしかたも堂に入っておりまして、過ぎた痛みを忘れさせてくれるばかりか、うれしい未来さえ夢見させてくれるほどです。でもまだ、わたくしには恥じらいがありましたので、なるべく眼を合わさないように、むしろそらすように心がけておりましたが、ふと見ると、あやまちを犯したご本尊がすぐ目の前にあるではございませんか。元気を取りもどしてたいそうな姿になっていますから、大いに警戒しなければなりませんが、どうしたはずみか彼はそれをふとわたくしの掌中に落としました。いずれにしましても、とてもやさしい魅力的なふるまいをするものですから、わたくしの心にも欲望が甦《よみがえ》ってまいりまして、その場の光景やら、ふれ合う美しい男の肌にすっかりあおられたかたちとなりました。とうとう誘惑に負けたわたくしは、気を失って倒れているうちに踏み荒らされた花園のような、みじめな自分のからだに残る喜びのかぎりを捧げてしまったのです。言葉もなくただ顔を赤らめているわたくしから、彼は満足を得たようでした。
さあ、このへんでお約束にしたがってやめなければ。でも、せっかく油ものっておりますし、もう少し。ともかくわたくしは、起こったことを誰にも勘づかれずに家まで帰りました。その後この青年とは数回会って、心から愛するようになってしまったのです。独立をするにはまだ年が足りませんでしたけど、向こうは本気で結婚するつもりだったんです。それがだめになった事情やら、その結果わたくしが巷に身をしずめたいきさつやらは、今ここでお話しする性質のものではありませんし、これで打ち切りにいたしましょう」
次いで、前に申し上げましたブルネットのルイザが話す番になりました。そのきれいな姿はすでに述べたとおりでございますが、これほど感銘を与える美しさはほかにないかと思われます。感銘と申しますのは、ちょっときれいだなと思うこととは雲泥の相違で、長く人の心に残るものです。まあ、しかし、それは人それぞれの好みにもよりましょうから、ひとまずルイザの話を次にしたためましょう。
「人生の実践訓から言えば、あたしは結婚によらない男女の純粋な愛情から生れたのだから、それを誇りに思うべきかもしれないわ。けれども、それがそのまま性格の強さにつながるとは思われないの。あたしは家具屋の職人がその家の女中に初めて手をつけてはらませた子だったのよ。母はおなかが大きくなって暇を出されたけれど、父の力ではどうすることもできないありさま。母はお産をすますと、生れた子供を貧乏な田舎の親類にあずけ、あらためてロンドンに出て、結構繁盛しているお菓子屋さんといっしょになったけれど、じきに亭主を尻にしいていばりだし、あたしは二人のあいだの実子として引き取られたわけ。この義理の父が死んだのは、あたしがまだ五つのころで、母には十分なものを残し、おまけに子供も生れなかったの。ほんとうの父はその後船乗りになったとかで、あたしがいろいろ知ったころは死んでしまっていて、それもふつうの水夫にすぎなかったものだから、遺産と言えるほどのものもなかったわ。成長するにつれて、母が自分の犯したあやまちをくり返させないように、片時はなれず厳重にあたしを看視しているのに気がつきましたけれど、生れついた性質は顔かたちが変えられないようにどうしようもないんです。快楽を求める気持が人一倍強かったので、母のせっかくの注意も、結局むだになってしまいました。十二歳になるかならないうちに、あれほど母の心配の種だったその部分が、いらいらと一人前になりたがっているのを感じました。見ると、もう一面にやわらかな下草がもえたち、なるほどとうなずけるの。うれしかったわ、くり返し手にふれたり眺めたりしているうち、しだいに伸びてくるのですもの。これでいよいよあたしも女になったかと思うと、ますますうれしくなってきて、だって、日ごろ考えていた楽しみと切っても切れない関係があるのですもの。もうあたしには、その成長と目新しい感覚がいちばん大切なものに思われて、それまでの小娘じみたお遊びや楽しみが全くくだらないものになってしまったわ。神さまはあたしに大人らしい遊びをちゃんと教えてくれたんです。その小さな中心に、欲望をするどく刺激するいっさいのものが集まっているわけね。だから、いやでも遊び相手をお迎えするところは、まちがえっこないはずよ。
こうなるともう、あたしのせつない気持を満たしてくれる人のほかは避けるようになり、自分の殻にとじこもって、ひそかに快楽を夢見るばかりよ。本能のおもむくままに見も知らぬ至福にいたる道を、門を、手さぐりにさがし求めて、ため息をつくだけ。
でも、そんなふうに考えてばかりいると、いらいらしてきて消耗するいっぽう。おしまいには自分を苦しめている小さな妖精にがまんができなくなり、それを指でつまんでみたり、いつまでもいじめてみたりするんだけれど、だめね。時には欲望にかられてべッドに身を投げ出し、両足をひろげて、何でもいいから安らぎを与えたまえと待ちこがれるんだけれど、それがとんだ幻想だとわかってみると、あたしはもうじれにじれて、口をあけたてしてやったものよ。要するに、この悪魔のようなものは、人をからかうように欲望の炎をあおったりして、夜となく昼となくあたしをおちおちさせてくれなかったわ。もっとも、そのうちにすばらしい思いつきをしたの。よく考えてみれば、自分の指があこがれのものと形が似ているじゃないの、すっかりうれしくなってさっそく使ってみることにしたわ。一生懸命になってひとりきりの楽しみをつづけているうち、とうとう息もたえだえになったかと思うと、身も心もとろけるような恍惚の淵にしずんだのよ。
でも、あまりたびたびそんなことをしていると、感覚もにぶってきてしまい、やがて、それは一時しのぎの方便にすぎないのだ、多少はなぐさめられても、味気ない無意味な刺激ではほんとうの満足は得られないのだ、と思うようになったわ。
男だけがいらいらした今のあたしを救ってくれる、ほとんど本能的にそれはわかっていました。婚礼や洗礼式の席で耳にした話でもまちがいのないところ。でも、あたしのようにつねに監視されていたのでは、いったいどうしたらかんじんなことが実現するのかしら、それがちょっと不可能のように思われたのよ。それでも何とかしてあたしは、母の警戒の眼をかすめて、味わったことのない喜びへのあこがれと好奇心を満たそうと、あれこれ知恵をしぼってみたわ。そしてついに願ってもみないチャンスが、降ってわいたようにやってきたの。ある日のこと、うちの二階を借りて住んでいた女の人と母とあたしの三人が、向こう隣の知り合いにお昼をよばれたんですけれど、その女の人と母が急にグリニチまで用ができて出かけなければならなくなったわけ。お食事がすんだ時、何かぴんとひらめいて、あたしは痛くもない頭が痛いと言って、あまり気のすすまない遠出へいっしょに行くことを断わったの。すると母はあたしの言いわけをきいてくれ、しぶしぶひとりで行くことにしたの。でも、心配して家まであたしを送りとどけ、信用している年取った店番の女中にあずけて行ったわ。うちの店では男は一人も雇っていなかったんですものね。
母が出かけてしまうと、さっそくあたしは店番の女中に、自分のベッドがまだ用意できてないから、これから二階に住んでいる女の人の部屋にあがって休ませてもらうと言って、それからただ横になっていたいだけだから、じゃましないようにしておくれ、と念をおしておきました。これだけ言っておけば大丈夫でしょう。寝室にはいるとすぐにコルセットの紐をゆるめ、ベッドの上に身を投げ出し、着ているものを全部かなぐり捨てました。何はともあれ例の味気ない内緒の行為にかかったの。ひとりでながめてみたり、さわってみたり、楽しんでみたり、つまり、あらんかぎりの手をつくしてみたんですが、何かちぐはぐで、どうしても手の届かぬもどかしさにじりじりしてくるの。からだは火のように燃えてくるし、欲望ばかりが猛り狂い、とても女手ひとつではどうしようもないのよ。いまいましくなってその指に噛みつきたくなったわ。まるで影をつかまえるみたいな努力にくたくたに疲れたうえ、かんじんな所がおあずけのままでしょう、なんとかしていつものひとりきりの陶酔にひたりたいと懸命にもがきつづけているうちに、すっかりくたびれてしまい、うとうとしてしまったわ。夢ともうつつともつかない間に、転々とからだをころがして身もだえたようですけれど、見る人がいたらきっと愛情に飢えている姿と思ったでしょうね。ところが、ほんとうに人がそこにいたのよ。ほんの少し眠っただけで目がさめてみると、若い男の人があたしの手をにぎっているじゃないの。ベッドのかたわらにひざまずいて、思いきった行為をしたことをしきりに詫びながら。でもその人は、このお部屋を借りている女の方の息子さんとかで、じつは店番の女中が知らない間に二階へ来てしまい、あたしの眠っているのを見て引き返そうとしたけれど、何となく釘づけにされた格好で動けなくなったと言うんです。
さあ、どう言ったらいいかしら、一瞬びっくりして不安な気持になったけれど、すぐに平静を取りもどすと、こんどは何か期待してよさそうな気がして、急にうれしさでいっぱいになったの。まるでその男の人が、あたしの気持を哀れんで空から舞いおりてきた天使のように思われたわ。だって、その人とても若くて、それまで胸に画いていた人よりずっとすてきだったんですもの。もう眼つきや口先だけではこちらの気持はくんでもらえないと思って、躊躇なく行動にうつりました。そんなまねをして後からどう思われようと、当面の切実なからだの要求にこたえてもらえれば、それでよかったのよ。まず必要なのは相手の行動で、どう思われようとそんなことは関係なかったわ。あたしは顔をあげて、やさしい声で、お母さんは外出していて夜おそくならないとお帰りにならないから、鍵をお渡ししておきましょうかと言ったの。ヒントとすればまんざら悪くないと思ったんですけれど、そんなかけ引きが相手にとって珍しくなかったのは間もなくわかったわ。後日話してくれたことでは、眠りながらあられもない格好で身もだえしているあたしの姿を見て、あまりの印象につい足をとめ、期待を寄せたとかで、そうわかっていれば、何も相手が遠慮しているのじゃないかなどと、よけいな心配もせずに、最初から力いっぱいふるまってもらうつもりになれたのに。それに、わざわざよそゆきの声を出したり眼つきをしないでも、きっかけは向こうから作ってもらえたのよ。いくら手にキスをされても、全然あたしがいやがらないのを見ると、こんどは唇にしたわ。気が遠くなるようなうれしさで、思わずベッドにあおむきざまにたおれると、向こうもいっしょにたおれたので、あたしはからだをずっとまん中に寄せて、場所をたっぷり取ってあげました。やっと男の人がそばに来てくれたかと思うと、つまらない遊びごとで大切な時間をむだにしたくない、そういう若いあたしの気持がせわしい息づかいでわかったんでしょう、躊躇なく彼は取りかかることにしたの。だいたい男の人って、あたしたちの気持がよくわかるらしいのね。ともかく、いよいよ始まるかと思うとわくわくしたわ。心配より期待のほうが大きかったんだけど、いくらなりが大きくてもまだ十三そこそこの娘でしょう、じょうずに何もやれたものではないわ。でもペチコートと下着を上げてもらったら、自然とからだがちょうどいいぐあいにひらいてくれたの。もう羞恥心なんか欲望の前でひとかけらもなくなってよ。顔がまっかになったけれど、恥ずかしさというよりうれしさでそうなったのね。相手が自然に手をのばして、その温かい悪戯を感じたときには、自分だけでやった愚かしい行為と、あんまり違うんでびっくりしたわ。いよいよ彼もチョッキやズボンをぬぎます。すると、あの夢にまで見たあこがれの愛のかたちが、うれしい姿を見せてくれたの。あたしはむさぼるようにしげしげと見つめたわ。喜んでいる間にその姿は、すぐにあたしのからだの中にかくれたけれど、やはりそのほうが眺めているよりずっと楽しい思いをさせてくれたわ。あたしの年からすれば、ずいぶんらくだったようよ。心から望んでいたことだし、初めからとても楽しい思いをしたので、苦痛などはあまり感じなかったわ。こんなすてきなことなら、どんな代償を払ってもいい気持、だから、さんざん傷だらけにされても、血だらけにされても、やはりうれしくてうれしくて、ひどい目にあわせた相手にしがみついたの。まもなく二回目がはじまったときには、多少残っていた痛みも彼がなみなみと注いでくれた美酒で、ほとんど消えていたわ。もう口をきく気にもなれず、喜びのさなかに苦痛も何もとけ去って、ただ恍惚のうちに身も心もまかせるばかり。考えることなど何もなかったわ。ただ感じることだけがすべてだったの。初めて知ったこの驚き、燃えさかるこの感情の炎を、誰がいったい文字で書きあらわせるでしょうか? 長いあいだ飢えていたあたしのからだは、今やっと満たされたわけ。大事なお客さまがおいでになるうちに、全身の生きた感覚をそこへ集めなければ。お客さまもこちらの歓迎にこたえ、昔どこかの女王さまがその愛人をもてなされたよりももっとたっぷり、パールの美酒をあたしのお杯《さかずき》にそそいでくれたから、こちらだって酔わずにいられなかったわ。あたしも自分のお酒を注いであげて、みなさんごぞんじの溶けるような陶酔にひたったわけ。ほんとうに思いがけないことから、かねての望みがすっかりかなったんですけれど、考えてみればそう不思議な話でもなかったのよ。その青年は地方の大学から上京して、自分のお母さんのところへ来たんですもの。前にも一ぺん出てきたことがあって、その時は会ってなかったけれど、お互いに噂は聞いていたようなわけよ。だから、あたしがそのお部屋のベッドに寝ていても、お母さんから聞いて知っていたので、すぐに誰なのかわかったのよ。それから先は今お話したとおり。
この時も別段何も起こらなかったし、その後もちょいちょい会って、見つかったことがなかったわ。でも、あたしのからだって愛の喜びがなければ、どうしても生きてゆけないようにできているのね。そのうちにとうとう運がつきて、とんでもない不始末をやらかしてから、こんな商売に身を落としたのよ。ここみたいな安全で気持のいいお家に落ち着けなかったら、たぶん、さんざんな目にあっていたはずだわ」
これでルイザの話も終わりました。三人三様の話がすむと晩のしたくにめいめいの部屋に帰る時間がきて、わたくしはそのままコール夫人と待っていましたが、やがてエミリーがもどってくると、もうお客さまはお見えで、皆さんお待ちになっていらっしゃると申します。
コール夫人はそれを聞くと、わたくしの手を取り、元気づけるようににっこり笑って案内に立ちました。急いで駆けつけたルイザがロウソクを左右の手にもち、足もとを照らしながら先頭に立って階段を上がります。
二階へ行く途中の踊り場で、なかなか身なりのいい、すてきな青年紳士に会いましたが、この方がわたくしが最初にこちらでお相手をすることになっていた人でした。たいそうていねいなご挨拶をされて、応接間まで手を差し出されます。お部屋の中はトルコ絨毯《じゆうたん》が敷きつめられていて、家具も贅をこらしたものばかり。おまけにこうこうと明かりがともされ、すみずみまでまばゆいほど明かるくなっております。これではま昼の日光よりもずっと快適で、一夜を楽しむのにもってこいのように思われました。
わたくしがお部屋に入りますと、いっせいに賛嘆のどよめきが起こりましたのでうれしくなりました。四人の紳士、その中にはわたくしの特賓(とこの家ではかりそめの旦那さまを、そう陰語で呼ぶのです)も含まれています。それから、さらりと瀟洒な服を着こなした三人の娘、それに夫人とわたくしで全員です。わたくしは歓迎のキスを一わたりされます。男の方たちのキスにいちだんと熱がこもっていたのは、異性ということでいたし方ございますまい。
こんな大勢の人たちにとりまかれてちやほやされれば、いささか固くなりまごつかないわけにまいりません。その場にうずまくはなやかな雰囲気にすぐには溶け込むことができませんでした。
どの方もわたくしがその好みにぴったりだと申されましたが、ただ一つ難点と言えば、それもすぐに直せるものだけれど、ほかでもなく、わたくしが慎みぶかいということです。みなさんの考えでは、そういう点でいっそう刺激を受ける人もいるかもしれないけれど、自分たちにしたら無用の長物で、純粋の快楽をけがすものとしてたたき壊してやりたいとか。ですから、みなさんまるで目の仇みたいにして、見つけしだいに成敗するおつもりのようでした。これはその晩つづいて行なわれましたことを裏書きするような、前口上だったのです。
こんなふうに皆さんがにぎやかに、がやがや騒いでいらっしゃる最中に、食事どきでもあって、ご馳走が運び込まれ、全員食卓につきます。わたくしのお婿さんに選ばれた方はすぐお隣にすわりましたが、そのほかの方たちはそれぞれ思い思いのカップルを組んで席につかれます。おいしいお料理と上等のお酒で、いつか一座は無礼講になりました。言いたいほうだいの会話が活発に取りかわされますが、いっこうに品を落とした露骨なものにしません。楽しみにかけては一流のこの方たちは、あまり言葉が過ぎると、いざ実行の段にいたるまでに、せっかくの印象がうすめられてしまうのをごぞんじだったのです。それでも時おりキスがかわされたり、首にまいたスカーフがじゃまになれば、それには特にこだわらないようにしました。男の方たちの手がだんだんはげしくうごくようになりますと、女もいっしょになってあたりは一段と熱してまいります。わたくしのお相手の方が田園舞曲を始めようではないかと申されますと、たちまちみなさんが賛成なさいました。なお言い出された紳士は大声を立てて笑いながら、諸楽器の調子もそろそろととのったようだからと、付け加えます。それが合図のように、気をきかしたコール夫人はさっそく部屋から出て行きます。これ以上は自分の出る幕でないと考えたのでしょう、それだけお膳立てをこしらえると、あとは元気なわたくしたちにまかせて、思う存分ふるまえるようにしたのです。
夫人が出て行きますとすぐに、まん中にあったテーブルが隅に片づけられ、かわりに長椅子が運ばれましたので、わたくしはそっと相手の方にその理由をたずねました。すると、「今夜のつどいは君のためのものなんだから、これから思い思いの喜びを皆の見ている前でして、それを君に見てもらい、人生を楽しむためには毒としか考えられない遠慮とか羞恥心を、君のからだからきれいに洗い落としてやるつもりなんだよ。わたしたちは快楽の道を説いて、それを実行にうつすかもしれないが、あえてその熱心な伝導者にはならないね。ただ、好きになれる美しい女の人がいて、その人が承諾してくれれば、実地の教育を行なって楽しむだけなのさ。もっとも、初めての人では、あまりのすさまじさにショックをうけるかもしれないので、まず先輩の女に模範を示してもらって、それにならっていやであろうが最初の相手をわたしと務めてもらいたいんだよ。しかし、喜びというものは自然であることが何よりなのだから、けっして無理じいされると思わないで、いやだったらいつでも断わってもらっていいのだよ」
もちろん、わたくしは驚愕の表情をかくしきれません、と同時に、暗黙のうちにこの申し出をお受けしておりました。乗りかかった船ですもの、どんな航海になりましょうとも、いっさい皆さんにおまかせすることに心を決めました。
まず立ち上がったのは騎兵の士官さんと、なまめかしいかぎりのオリーヴ色の美人ルイザです。士官さんは喜び勇んで£央の長椅子へ彼女をみちびき、息せき切りながら待ちきれないように、大変乱暴なふるまいで椅子いっぱいに彼女をたおします。ルイザはなるべく都合がよいようにと肘掛けを枕にしましたが、はたから見られていることなどを全然気にいたしません。ペチコートが下着といっしょに引き上げられますと、想像もおよばないような美事な両足が、あます隈なく一同の眼にうつりまして、喜々とした若草におおわれました丘のかげには、故郷に通じる小道が見えがくれしているのですが、その両端はいかにもふくよかなたたずまいでした。いきなり士官さんは制服のいでたちも気にかけず、さっそうと肌着をひるがえし、鼻たかだかとその力強い姿を示しますと、さっそく演習にかかります。あれよと申すひまもございません、魅力あふれる仮想敵に襲いかかり、必殺の一撃をうけた相手はこれまた一歩もたじろがず、物語のヒロインさながらにそれを受けます。それにしても、戦いの感動をこれほどすなおに現わす女性は、彼女をおいていないのではないでしょうか。士官さんの全権大使をうけたまわったものが彼女をおとずれますと、喜びの色が両眼にありありとうかぶのが傍目にもよくわかりましたし、それにうれしさのあまり、からだがはげしくふるえて、もう何もほかのことは考えられないといった風情、胸を波うたせて大使さんを迎えております。思いあまった深いため息さえはっきり聞こえるくらい。やがてはたもうらやむキスの雨とはげしい愛のまじわり。みるみる二人とも歓喜の炎に包まれ、とろけるような瞬間が近づいたのを知らせます。まもなくその瞬間がやってまいりました。ルイザは感動に声をふるわせ、いつまでもおいでくださいと叫びます。でも、もうアクセントもはっきり聞き取れないくらい、陶酔のあまり死んだように眼をつぶったかと思うと、さっと何かが身内に走ったようなあんばいで、すべての動きが急にやみ、息もかすかになり、あたりは静寂に包まれました。やがて士官さんが身を起こすと、ルイザもはね起きて裾をなおし、わたくしのところへ駆けつけてキスをしてくれます。それから士官さんの手を取りながら、脇によけたテーブルのところまでわたくしを引っぱってゆき、三人でブドウ酒をお杯に注いで、ルイザの健康を祝して乾杯いたしました。
そのころには次のカップルの出る準備ができていて、こんどは若い準男爵さまと、そのやさしさでひときわ人を惹きつけるハリエットの番でした。おやさしいお殿さまはわざわざそれを知らせにおいでになり、わたくしを舞台の袖までお連れくださいます。
きっぱり申し上けられますが、この種の職業をいとなむ女として、ハリエットほど慎み深く従順で、しかも優雅な態度で、これから演じられるような気恥ずかしい舞台にあがる者もいないかとぞんじます。その態度物腰のすべてが、いささかも職業のあつかましさを感じさせないばかりか、なお驚くべきことは、相手の男の方が衆目のうちで喜びの行為をなさいますのに、心底から彼女を愛していらっしゃって、愛しながらも、ご自分もやはり提案者の一人であるため、やむなくこの家のしきたりにしたがうようにお見受けされたことです。
ハリエットはあいた長椅子のほうへ相手の方に連れられてまいりましたが、ちらりとわたくしを見て顔を赤らめ、こんなことをする自分の立場をわかってもらいたいと言いたげなようす。その眼を見ていると、いかにもそのとおりだと思わざるをえません。
彼女の恋人は(いつわりなく恋人でした)、長椅子のはしに彼女をすわらせて、頸に手をまわし、まず最初に熱烈なキスを唇にいたします。あきらかにそれは彼女に生気を与えたようで、それを見ると恋人は、キスをしながらしだいに彼女の頭を準備されている枕のほうへかたむけます。やがて自分もいっしょに横になりましたが、彼女もそれでやっと安心して納得がいったようでした。すると、恋人はわたくしたちの注文をそれと察したのか、それとも、今や掌中にしている自分の喜びでもあり誇りでもある想像を絶する美しさを満喫したくなったのか、一気に彼女の胸をひらいて一同に見せてくれました。まあ、なんとすばらしい愛に献げられた芸術品でしょう! 比類ない美しさ! 丸く小さく引きしまったふくらみ、それに抜けるような色の白さ。肌はあくまでこまやかで、しっとりと手にふれます。その頂きにある乳首はまさに美そのもののつぼみでした。恋人はしばらく視線をとめておりましたが、玉のような双の乳房にくり返し唇をおし当てましてから、やがてその向きを下へうつします。
ハリエットは足をまだ床につけたままでしたが、あまり気ぜわしいふるまいをしておびやかさないようにとのやさしい心づかいから、恋人がそれとなくおもむろにペチコートの裾をからげますと、まるで合図でも受けたように、ルイザとエミリーが駆け寄って彼女の足を支えます。どんな形でもらくに取れるようにしたのです。こうして最も自然なすがたの女性の美しいパレードがわたくしたちの眼前にくりひろげられました。わたくしは別にいたしまして、みなさんはすでに何べんもごらんになっていらっしゃるはずです。しかし、その美しさは驚くばかりで、目もくらみそう。初めて見る思いをなさらなかった方はいらっしゃらなかったようです。美しさもこれほどになりますと、つねに新鮮さを失わないのでしょう。脚もまたすてきな形をしておりまして、いささかでも肉づきに多寡《たか》がございましたら、とてもそう完全さを誇れません。でも、何と言っても、ひときわその脚を引き立たせておりましたのは、やわらかな丸みをおびた純白の肌が優にやさしくまじわるあたりで、おのずから豊かな翳が左右のふくらみにより刻み込まれています。それがまた、このハリエットにあっては、全身にまたとない均整をもたらしていたのです。全く! これほど美しく刻まれたからだはそうざらにございますまい。それに若草の影を宿したアーチ、これほど心暖まる、たおやかな風景は、もはや筆舌を越えた世界でした。
ハリエットの恋人はこの光景にうっとりと見とれて立ちつくし、わたくしたちも心ゆくまで眼の保養をさせてもらいましたが(見あきるということは絶対ございません!)、いよいよほんとうの喜びをつくす時がまいりまして、それまで一同の目をさえぎっておりました幕はかかげられ、はなばなしく主役が登場いたしました。主役の立派なオーナーであるばかりか、そのほかの点でも彼はなかなかの紳士で、若さの活気に満ちあふれていました。左右から二人の仲間にからだを支えられていたハリエットに近づきますと、片手を差しのべてやさしく彼女のうるんだ唇をひらきます。主役はひとまず待機のかたちで、舞台の袖に立ったまま控えておりました。優雅な愛撫の序奏がはじまります。やがて歓楽をつくした序幕も終わりますと、舞台は一転、おもむろに主役がすすみ出て、しずしずと中央にあるこんもりとした森にはいりました。進行があまりゆるやかなので、一歩一歩の思い入れが手に取るようにわかります。とかくするうちにも、きれいな娘の顔に喜びの色がしだいにうかび上がり、それがまたいちだんと彼女を美しくさせます。いいえ、顔ばかりではございません、さらに全身がいきいきとしてまいりました。ほのかに色白の両頬を染めていた紅が、みるみる燃えるような朱に変わります。両眼はふだんの輝きの十層倍です。どことなくものうげだった彼女は、見ちがえるように溌剌《はつらつ》としてまいります。さていよいよ木がはいって、たおやかな体がしっかりと抱きしめられますと、もう彼女は身うごきもならず、ただ彼のなすままにまかせておりましたが、やがて愛情がいや勝るにつれて、そのからだが許すかぎりせわしく相手にこたえ、悦楽の琴線をかき鳴らしながら、はげしく燃えあがり、空をつかみ、空をけり、ただ陶酔にひたっております。相手の恋人のほうは、しだいに息をあえがせ、身をふるわせ、眼を火のように燃え立たせて、いよいよ喜びが終焉間近なのを告げ知らせています。唇がぴたりと合わされ、ついに来る時はきました。かぎりない至福に達したしるしが彼のからだに現われ、最後の力がふりしぼられます。相和して彼女のからだも心ゆくまで打ちふるえるのがありありとわかりました。やがて歓喜のうちに息もたえだえで、そのまま身うごきもしなくなります。そのすさまじい感動を語るかのように、半ばとじた瞼《まぶた》のあいだには、うっとりと上を向いた黒眼がのぞいていましたし、しどけなく開かれたうるんだ唇のあいだからは、舌の先が真白な歯並びにものうくかかっているのが見えます。ふだんでもルビーのように赤いその唇の色は、いっそう冴《さ》えていました。このような女性を誰が手ばなしましょう? もちろん、恋人はなおそのままうごきません。美酒を最後の一しずくまで献げつくそうと、しっかり抱きしめております。やがて熱烈なキスをして、すっかり満足した表情で(と申してもそれで愛情が消えたわけではありません)、はじめてからだをはなしました。
すぐにわたくしが駆け寄って、長椅子に寝ている彼女の頭を起こしてあげますと、恥ずかしそうに赤らめた顔をわたくしの胸にうずめました。それでもしだいに落ち着いてまいりますと、恋人が持ってきたブドウ酒を一杯わたくしから受け取り、元気をつけます。恋人のほうはそのあいだに身なりをととのえ、やがてぐったりと身をもたせかけたハリエットをかかえて、みなさんのほうへ連れてまいりました。
こんどはエミリーとその相手の番です。この明るい魅力のある女性は、もう立ち上がって待っておりました。ばらもゆりもかないそうもないほどの顔色をして、くっきりとした目鼻立ちです。田舎育ちに特有の愛らしさと健康そうな血色が美人の条件なら、三人の中でこの娘こそもっともうってつけであったようでございます。
さて相手の男の方は、彼女を立たせたまま、まず胸をひろげて、締めつけられている乳房をらくにさせます。たちまち現われたその姿に、部屋じゅうがぱっと明るくなったような感じ。輝くばかりの白さでした。おまけにそのふくらみの豊かさ、すばらしい輪郭が胸部に形作られているばかりか、引きしまった肌は大理石を連想させます。いいえ、青い静脈のうかぶあでやかなその白さは、大理石などのとうてい及ぶべき代物ではなかったようです。これほど魅力にあふれたものに誰が手をこまねいておられましょう? 相手の方がその乳房に最初軽く手を当てられましたが、あまりなめらかなので、ついするりとすべってしまいます。こんどはしっかりと掌でおさえましたが、はちきれるようなぐあいで、ぐいと押しますと、ちょっと凹んでからすぐに、ぴんとはね返ります。乳房ばかりではございません、からだじゅうどこもかしこもぴちぴちしておりまして、いやでもさわってみたくなるのでした。こんなふうに相手の方は存分にお戯れになりましてから、エミリーの下着をウエストのあたりまでからげましたので、美しい裸身をかくすものは何もなくなります。愛くるしい顔がさっと赤らみ、伏し目がちになります。その持ち前の若さと美貌で見る者を圧倒しておきながら、あたかもわたくしたちに許しを乞う風情です。非の打ちどころもないほどすらりと伸びた両足は、ぴたりと左右から合わさり、色白の締まった肌を見せております。思わず手にふれてみたくなるほどで、もちろん彼女の相手もそれを見のがすわけがございません。するとエミリーはそっと手をのばして、きわめて自然な恥じらいを見せて隠します。かすかに走るほそい線、でも、眼にはいりましたのは明るい栗色のカールした前景だけでございました。その絹地のような光沢は、あたりの白地にはえて、喜びのヴァリエーションを奏でております。なおもその美しさをよく見てもらおうと思ったのでしょう、エミリーの足を一歩踏み出させ、あますところなく魅惑の中心をのぞかせましたばかりか、さらに並みいる者の便宜をはかりましてか、こんどは長椅子の端へ連れて行き、しずかに肘掛け越しにうつむかせましたので、躰をささえるために彼女が手を前につきますと、自然に前かがみの姿勢となり、もう何もかも隈なくわたくしたちの眼にはいります。そのふくよかにもりあがった白い肌は、雪かと見まごうばかり、目にもまばゆい光景でした。いわば一幅の雪景色でございます。やわらかく降りつもった山あいの小道をたどれば、やがて暖かく人を迎える家がひっそりとたっておりまして、あかあかと窓べをそめる火影が一面の銀世界に照り映え、あたかも純白の繻子地の服がひるがえり、さっといっせん薄紅色を見せた観がございました。相手をうけたまわった男性は三十あまりの紳士で、多少ふとりぎみではありましたが見苦しいほどではなく、さてエミリーにこんな姿勢を取らせましてからふと思いついたらしく、キスやら愛撫やらで彼女を元気づけ、そのままかねて用意のからだを差し出しました。大変な背丈で、いささか胴まわりとは釣り合いが取れません。この方のようにふとった人にはあまり見かけられない例で、ほんとうにびっくりいたしました。あまり背が高いので身をかがめてエミリーに合わせます。二人は体を一つにいたしました。それを見て取った彼女は、あんばいを見はからって頭を少しもたげ、つらくない程度に頸をねじむけました。けれども、やはり両頬は火のように赤く、満足そうなほほえみをたたえ、しっかりとキスを受けとめております。やがて、求めるに急な相手をおいて、彼女はまた赤らんだ顔を両手でかくし、前のように長椅子へ埋めますと、足音も荒くいどみにいどむ相手のなすがままに、じっとこらえておりました。時おり白皙《はくせき》長身の彼の体が、汗まみれの姿を伸ばすのがうかがえます。また時には、エミリーの胸にある半円を掌中にいたしまして、もみほぐし、喜びをいやが上にも大きくしようとかかります。とうとうせんすべなき喜びがたかまってまいりましたのでしょう、彼女は息をあえがせて消え入るように見えました。身を切るような陶酔の一閃が走りましたのか、がっくりと長椅子の上にくずおれます。この喜びをなおもつづけたければ、彼もまたくずおれてエミリーとともに恍惚の国をさまよわねばなりません。喜びを求めて二人はしばらくそういたしました。
相手が舞台をおりますと、美しいエミリーも身を起こします。わたくしたちはどっと彼女をかこんでお祝いの言葉を述べ、身のまわりの世話をやきます。ここで注目すべき点は、楽しみに遠慮や羞恥心がいっさい無用なのは前に申し上げたとおりでございますが、さればといって、きちんとした礼儀正しい態度は厳重に要求されることです。みだらな言葉や粗野なふるまいは絶対に許されませんし、いくら娘たちが男の言うなりになろうと、これをいやしい眼で見ることも許されないのです。反対に、娘たちがなるべく気らくにできるように取り計らわれておりました。世の男性は、とかく女性に対するやさしさと尊敬を欠き(もちろん殿方相手の職業女も含めまして)、そのためにいかほどご自分の楽しみをそこねておいでか、とんとおわかりになっていらっしゃいません。ところがここにお見えの方たちは皆さまひとかどの通人でいらっしゃりながら、きわめて礼儀正しく、そのお気持をくんでお相手をしているかぎり、けっして不当な扱いをなさいませんから、女たちも内に秘めた珠玉の美しさを差し出し、身にそなわった魅力を存分に発揮するのでございます。どぎつく着飾った服装でびらびらするより、はるかに男性の心にふれるものがあるとさえ断言できます。
さて、ついにわたくしの番となりました。単に選ばれた恋人ばかりにではなく、並みいる方たちにも喜んでいただかなければなりません。**はつかつかとわたくしに近寄りますと、丁重なおじぎをなさり、熱心に、いかに皆さんがわたくしのすなおな心を待ちのぞんでいるかを説かれます。そして次のような言葉をくり返されました。「これだけ模範の舞台を見ても、どうしてもみんなの期待にこたえられないと思うなら、あなたのためのつどいだけれども、そして、わたし自身もがっかりせざるをえないが、今晩はきれいにあきらめましょう、いやがるものを無理じいする役まわりはごめんだからね」
それに対してわたくしは、思わせぶりな態度をせずすなおに答えたのです。「いいえ、たとえいくらお約束をしていなくても、すてきな模範演技を再三拝見したんですもの、それだけでも十分に決心がつきますわ。でもあんなみごとな演技のあとで、わたくしみたいな者が舞台に上がったら、ぶちこわしになるんじゃないかしら、それだけが心配ですの」このわたくしの正直な気持は好感をもって迎えられました。相手の男性はそういうわたくしをほめちぎり、暗におせじの意味をこめて、大仰に皆さんをうらやましがらせたものです。
ついでに申し上げますと、コール夫人は当夜の催しにあたり、わたくしの相手にこの青年紳士を選ぶことで、ひとかたならぬ心配をしてくれたのです。生れのよさや相続する財産の高はしばらくおいて、その躰だけを見てもけたはずれの美丈夫で、背が高く、すらりとしております。顔にはあばたのあとがございましたが、むしろそれは、ややもすれば柔弱に流れがちなその顔立ちを、ぐっと引きしめ男らしくさせていましたし、澄みきった黒い瞳の輝きが、いかにも生き生きとした光彩を放っております。一口で言えば、どこから見てもすばらしいの一語につきる好男子でした。
そんな人に手を引かれて、いよいよわたくしも舞台にのぼります。身につけておりましたのは純白のモーニング・ドレスだけ。すると彼は侍女か腰元のようにかしずいて、服をぬぐいっさいの面倒をみてくださいます。たちまちガウンの紐がゆるめられ、からだからすべります。次いで固く締まったコルセットの番ですが、すぐにルイザが鋏《はさみ》をもって駆け寄り、結び目を裁ち切りました。すっぽりと殻が取れたあんばい。それから肌着がさっとぬがされますと、あとはほんとうに下着だけの姿となります。ぽっかり割れた下着では、並みいる方は存分にごらんになれます。これでもうおしまいかと思いましたのも束《つか》のまで、みなさんのご要望もあり、一糸まとわぬ姿になってもらえまいかと、相手の方にひたすら懇願されてしまいました。元来すなおなわたくしに異議のあるわけもなく、それにそんな下着などないにひとしいものと思われましたから、即座にどうぞご随意にと承知いたしました。たちまち下着は紐がゆるめられ、はらりと足もとに落ち、残った肌着が頭越しにぬがされますと、軽くあご紐をかけておいた帽子もいっしょに取れまして、髪の毛が頸すじや肩にしどけなく振りかかり、肌の白さをいっそう引き立たせたようでございます(自慢するわけではありませんが、そのころわたくしはすばらしい髪をしていたのです)。
これでわたくしは、生れながらの真実の姿をみなさんにお目にかけたわけなのですが、もし奥さまが前にしたためましたわたくしの躰についての記述をお忘れなければ、けっしてひけ目を感じる姿ではなかったはず。むろん当時は年もまだ十八になっておりません。日ごと夜ごとに美しさの失われてゆく今日このごろとはわけがちがい、花ならば満開の姿を誇っていたのです。女が裸になれば乳房はなんといってもその中心でございます。すでに成熟しきって、コルセットなどを必要としないほどぴんと締まった形、思わず手に取りたい気持を男性にいだかせずにはおきません。おまけにわたくしは背も高く、すらりとしていて、みずみずしい肉づきをしておりましたから、ながめてよし手にしてよしの状態で、それもこれも若さと健康の賜物でございました。かと申しても、わたくしとしたことが、その場の空気にすっかり取りのぼせて、何となくうら恥ずかしい気がしないわけでもなかったのです。でも並みいる方たちが、男女の別なくそろって拍手|喝采《かつさい》せんばかりに、満足そうなお顔をなさっているのを見てほっとした次第です。みなさんの賛嘆の声にわたくしは自分の裸身に誇りさえ感じはじめます。相手の男性もきっぱりと、この美しさに比肩するものはないとおっしゃってくださいました。ですから、このように見識ある方たちからこれほどの賛辞を呈せられましたのを、額面どおりにお受けすれば、わたくしも立派に課題を果たして合格したとぞんじてよろしいのでしょう。
ともかく、わたくしの相手の方はもうつききりです。みなさんの好奇心もさることながら、ご自分の好奇心も満たしたかったのでしょう、わたくしにいろいろの姿勢を取らせて、残るくまなくみなさんの観賞に供したのです。合いの手にはキスもお忘れなく、燃えるような手を全身にはわせますので、もう恥ずかしさなどは消え去って、赤らめておりました顔もいつしか興奮からのものへと変わり、われながらある種の興味さえ覚えるほどになりました。
もちろん、いちばん大切な点があからさまにされないわけはございません。その結果、みなさん一致して、わたくしが生娘で通してもおかしくないことをお認めになりました。従来の数多くの経験すらほとんどあとを残しておりませんし、いささか度を過ごした場合がありましても、わたくしの年齢では立ちどころに治っていたようなわけで、あいかわらずささやかな一点を保っておりました次第でございます。
まもなくわたくしの相手は、すっかり見きわめつくしましたのか、それともやみがたい衝動に襲われましたのか、そのへんは定かでありませんが、ともかくさっと服をかなぐり捨てますと、室内も人いきれやロウソクなどでかなり暑くなっておりましたこととて、下着も何もかもぬいでかっかとほてった顔をふりながら、わたくしに立ち向かってまいります。杖とも柱とも頼むべき相手の姿はすぐにそれとわかりました。一般によく見受けられますけれんみあるものとは違い、ひとまず尋常の姿でしたから、扱いにはさほどの苦労は伴いますまい。そのままぴったりとわたくしを引き寄せ、そのアイドルをまごう方なく捧げてくれましたので、刻一刻とこちらも喜びにひたりはじめたような次第。思わず相手の首にしがみつき、その髪の中に、恥ずかしさでもうまっかになりました顔をうずめますと、それなりの姿で相手は長椅子を一まわりしてからわたくしを寝かせ、喜びを紡ぎはじめたのでございます。しかし何と言っても、わたくしたちは当夜の前座の熱演にすっかり酔いしれておりましたので、なおさめやらぬままに、たちまち身も心も溶かさずにはいられませんでした。愛の泉声相和して起こるうちに、二人は束のまの恍惚にひたったのです。でも、これでわたくしたちの相和す調べがすんだわけではなく、情火はなお躰のうちに消えずにございまして、いわば濡らした石炭のようなもの、前にも倍する火勢で燃え立ってまいりますと、不屈の生命力をもって相手もふたたびそれにこたえつづけるのでした。いきおい、こちらも最善の努力をかたむけてその意をむかえることになります。互いにかき抱き、接吻をしてあまい言葉をかわしながら、おいおいと高まり荒れさわぐ愉悦の波に身をまかせていきますと、いつしか喜びあふれる大海原のただ中に置かれて、二人とも陶酔の波間にしずんでしまいます。すると、先ほど見た舞台の熱いシーンのかずかずが思い出され、それがまたその場の炎をさらにかき立てまして、もう胸をかきむしりたいくらい、収拾がつかなくなります。全く熱にうかされて半狂乱のありさまでした。じっくりと楽しむゆとりなどございませんでしたけれど、当夜の催しがわたくしたちの喜びをたかめるのにどれほど役立ったか、計り知れない影響があったことだけは事実です。相手の方がいかに喜ばれていたかは、ひしひしとそのからだを通して伝わりました。らんらんと燃え立つ眼、憑《つ》かれたようなはげしい動き、どれもこれも、さてこそとわたくしを喜ばせるものばかりなのです。こうして、とうとう生身に耐えうる歓喜の限界に達し、深い深いため息をもらしました。二人とも、しばらくは至福のさなかに横たわります。ぐったりとして、身うごきもせず、ものうげに、でもやがてその感動もうすれますと、陶酔の夢からさめた彼は起き上がりさもさも満足した面持でわたくしを抱擁し、やさしいキスをしてから身をはなしたのです。かたずをのんで見守っていた三人の娘は、これでおしまいとわかると、急いで駆け寄って服を着るのを手伝ってくれながら、一回の交際で二度も献呈を受けたわたくしのすばらしさに最敬礼をすると言って、さかんにほめちぎりました。いっぽう、わたくしの相手は元どおりにきちんと服を着て、その喜びのほどを手で合図いたします。娘たちはこもごもわたくしを抱いてキスをし、もう二度と自分から望まないかぎり人前でテストされることはない、これで立派に仲間入りしたことになったと、きっぱり断言してくれました。
その家には、好きな相手を確保するために、また相手が変わったりして不快な思いをしないために、所有権放棄の表明でもないかぎり、決まった相手以外には手出しできない不文律がございまして、当夜は特にそれがやかましかったようでした。ですから夜中の一時というのに、みなさん、ビスケットとブドウ酒、それにお茶とチョコレートの軽いお食事をおとりになってから、それぞれの相手とごいっしょに部屋から出ていらしたのです。コール夫人はわたくしたちのために臨時の寝室を用意してくれましたので、そこへ引き移りましてから、またも歓楽のかぎりをつくして一夜を明かしましたが、倦《う》むことを知らず、いつ果てるともしれぬ、生きてかいあるものでございました。朝になって、ベッドに入ったままお食事をすませますと、彼はやさしい愛の言葉を残して立ち去りましたが、ひとりになってから、わたくしは静かに心ゆくまで休んで元気をとりもどしたのです。目がさめて服を着ながらふと気がつきますと、ポケットに金貨の入った財布があるではございませんか、彼がそっと忍び込ませて行ったのでしょう。思いがけない贈物にとまどっておりますところへ、コール夫人が入ってまいりましたので、さっそくそのことを報告して、どうかお好きなだけお取りくださいと、財布を差し出しました。ところが夫人は夫人で、すでに相当いただいているから、それ以上一文もいらないと言って断わるのです。なお、決して無理はしていないのだからと念をおし、さらに物心両面にわたる親切な注意をいろいろと与えてくれたのですが、おかげでわたくしはその後の商売にさいし、よく気をつけるようになりました。一通りの注意がおわりますと、こんどは話題を変えて、昨夜の楽しい催しにふれ、何もかも特別につくられた場所から人知れず見ていたと言いましたが、そう聞いてもわたくしは別に驚きませんでした。さもありなんと思われたからです。
ひとまず話がすみましたとき、ぞろぞろと三人の仲間が入ってまいりまして、あらためてわたくしをほめあげ抱擁いたしました。よく見ると、うれしいことに誰ひとりとして前夜の疲れを顔に残しておりません。そろってみずみずしい色つやをしています。それもこれも、ひとえに夫人の指導よろしきを得たおかげだとかいう話です。まもなく三人ともいつものようにお店へはたらきに出ました。わたくしも自分の住まいに引き取り、お昼の食事に呼ばれるまで躰を休めました。
お昼からは、美しい三人の仲間とかわるがわる楽しくおしゃべりなどをしながら、夕方五時近くまでその場で過ごしました。ところが、急に眠気がさしてまいりましたので、とりあえず、ハリエットの寝室でしばらく横にならせてもらうことにし、彼女に案内をしてもらうと、そのまま服もぬがずにぐっすり眠りこんでしまったのです。さあ、一時間ぐらいたったころでしょうか、うれしいことに昨晩お相手になってくだすった方が、わたくしをゆり起こしていらっしゃるではございませんか。わたくしをたずねていらして、まっすぐこちらへ案内され、部屋に入ると、わたくしが一人で明かりに背を向けて寝ている姿をごらんになり、そのまま服をぬいで快い肌ざわりを楽しまれたようなのです。そっと下着を引いてみると、喜びあふれる春の衾がいっぱいにひろがっており、こちらがいくぶんえび寝の格好なので、何かとご都合がよろしかったらしく、わたくしの背を見ながらそっと横におなりになってから、つくづくとうしろ姿をごらんになったようで、そのうちにおのずと躰をしずめてこられたのです。わたくしは夢に、何か異様なものが体内に入ったのをおぼえ、思わずはっと目をさましました。けれども、正体がわかって、からだの向きを変えようといたしますと、その方はやさしいキスをなさって、そのままにしていてもらいたいとおっしゃいます。そうして、ぴったりと躰を寄せられまして、いかにもご満足の様子。身うごき一つなさらず、それをお匙《さじ》合わせと呼んでいらっしゃいましたが、なるほどそのようにわたくしたちのからだは、膝を折り曲げたなりの姿で重ねられていたわけでございます。でも、しばらくいたしますと、いかにも不自然な形にいつまでも辛抱しきれなくなり、わたくしは相手の方をせき立てて、ふだんどおりの姿で愛撫やキスをお受けするようにいたしました。やがてこんこんと愛の泉がわきいでましたけれど、けっしてそれはむなしく流されたのではなく、むしろ昨夜くみつくされた泉を満たしてあまりあるものであったのでございます。
この気品があって気持のいい青年と、わたくしはその後ずっと楽しい毎日をおくりました。ともかく蜜月のあいだは、わたくしなしでは一日もいられないありさまだったのですが、やがて彼はロンドンにそういつまでもいられなくなりました。ほかでもなく、彼の父親はアイルランドに赴任しておりまして、急にそちらへ来るように彼を呼びもどしたからでございます。とはいえ、乞われるままにわたくしも別れぬつもりでしたから、彼が向こうで落ち着きしだい、追って後からこちらもアイルランドへ行くことにしていたのです。けれども、たまたまそちらで良縁が持ちかけられると、彼の心もうごき、わたくしを呼ぶことに二の足を踏み、そのかわりに莫大な金額を贈ってくれましたが、そんなことでぽっかりあいた心の傷口がうずまるわけもございません。
この事件はまた、ささやかなわたくしどものつどいにもすきまをつくり、コール夫人はコール夫人で、いつもながらの慎重さで、おいそれとその補充をいたしませんでした。とは申せ、夫人にしても、ふたたびわたくしを処女に取りつくろって取り引きをする考えを棄てたわけでなく、まるで後家さんの身の上のようなわたくしを何とかなぐさめようと懸命だったのでございます。そういう計画は片時も忘れたはずもなく、ただ適当な人が見当たらなかったにすぎません。
しかし、どうやらわたくしは、この道のそもそもの手初めと同様に、またも相手を自分で見つける運命にあったようでした。
そのころは、うかうかと仲間の娘たちと親しみ馴染《なじ》んで楽しい日々を過ごすうちに、すでに一月ちかくたっておりまして、定連の方たちの中には(準男爵さまは別で、まもなくハリエットをお引きになったのです)、その家の空気にも左右されたのでしょうけれど、しきりにわたくしを抱いて、目先の変化をお望みになりたがる向きも現われてきました。けれども、そこはたくみに、さまざまに言いつくろいまして、みなさまの気分をそこねないように柳に風と受け流しておいたのです。何もその方たちがきらいだからでも、なさることがいやだからでもございません。真意はただ、わたくしの心がまだ最初に選ばれた相手の男性に惹きつけられており、それにいくら嫉妬心などないと申しましても、そこは女、それとなく気づかうわたくしの態度に、娘たちもひそかに好感を寄せずにはいられないと見たからです。こうしてわたくしは家の誰からも愛され、楽しく毎日をおくっておりましたが、ある日のこと、さあ夕方の五時ごろでしたでしょうか、コヴェント・ガーデンにある果物屋さんに足をとめ、皆でいただく果物をあれこれあさっておりますと、次のようなことが起こったのでございます。
さて、果物の値段を交渉しながら、ふと気がつくと、若い紳士がすぐうしろに立っております。服装の立派さにはまず眼が惹かれましたけれど、そのほかの点では取り立てて申すほどの方でなく、ただ顔色がとてもあおく、やせていて、ひどく細い足をしているといった程度でした。わたくしを目的にしているらしいのはすぐにぴんときました。じっとこちらに視線をそそぎながら、わたくしの選んでいる籠の前に立ち、値切りもしないで果物を買い、それをしおにずっと身を寄せてきます。こちらはどこから見ても、恥ずかしいさかりの娘然としたいでたちで、商売女のように、けばけばしい服装もしていなければ、お白粉をぬり立てたり香水をふりかけてもいません。麦藁《むぎわら》帽に白地のドレス、洗いたての下着、それに慎しやかな態度(じっさいに商売をしているころでも、わたくしはそうした態度をくずさなかったのです)、どれをとってみてもほんとうの姿は想像できなかったかとぞんじます。紳士が話しかけます。見ず知らずの他人から声をかけられて、わたくしはさっと頬を赤らめ、いかにも困った様子で答えましたから、ますます相手は本気にそう思いこんだようで、それにこちらもまんざらお芝居ばかりでもなかったのです。話すにつれ、固さもほぐれてまいりますと、次々に質問をいたしますので、わたくしはほとんど子供っぽいほどの無邪気さでそれに答えましたから、そういうわたくしがすっかり気に入ったらしく、これ以上の良家の子女は望むべくもないと思いこんだようです。要するに男というものは、ひとたび女に心をうばわれると、せっかくのさかしら心も盲目になり、相当の利口者でも結構わたくしたちのいいカモになるのです。いろいろたずねられたうちには、わたくしが結婚しているかどうかという質問まであったのです! それには、まだまだ結婚を考えるほどの年齢ではないと答えておきました。年をきかれたときには、一つごまかして、まだやっと十七だと答え、身の上については、以前プレストンで婦人帽のお店に奉公していたが、親類をたよって上京したものの、もう死んでしまった後だったので、当地のさる婦人帽のお店にわびしく勤めていると語ったのです。こんな作り話は、とてもすなおに受け入れられるとは思っていなかったのですが、よほどもうわたくしに夢中になっていたのでしょう、案外すんなりと通りました。ついで、これは自分でもうまい手だと考えたようですが(わたくしも別にかくすつもりはなかったのですが)、わたくしから夫人の名前と店の場所をきき出してから、高価な珍しい果物ばかりを選んで買いますと、それをわたくしに持たせて帰したのです。道々、さてこれからいかが相なるものやらと首をひねったものでございました。
コール夫人の家に立ち寄り、すぐに事の次第を報告しますと、次のようにきわめて適確な結論を出してくれました。つまり、追っつけその人が来なければ問題はないけれど、もし来たばあい(夫人の予感ではその公算が多いとか)、はたして罠《わな》にかける値打ちがあるかどうか、よく身もとを確かめなければならない、その間、わたくしの役まわりはきわめてかんたん、おしまいまでただ夫人の指図どおりにしたがっていればよいだけだということです。
この若い紳士は、後日わかったことですが、その日の夕方さっそく隣近所を駆けまわって、コール夫人の人がらなどにさぐりを入れたようで(もっとも夫人の計略にはお誂えむきのことばかりしか聞かされなかったようです)、翌朝は早くから馬車を店先へ乗りつけましたけれど、買物の目的をうすうす承知していたのは夫人だけ。店に入ると婦人帽の注文などをして、口火を切りにかかります。いっぽう、わたくしはすわったまま顔も上げず、一心に帽子の縁かがりなどお店の仕事をしておりましたが、その様子を見て相手が好印象を受けたのを、夫人はいち早く見て取ったようでした。ルイザやエミリーがいっしょにはたらいていても、別にその場の空気にそぐわなくはなかったのです。紳士はしばらくわたくしと視線を合わせようと努めておりましたが(こちらはいかにも彼と外で口をきいたことに、それでこんなふうにたずねてこられたことに、気がとがめてならないといった風情で顔を伏せていました)、やがて注文の品々を希望の時間に家まで届けるよう夫人に依頼すると、ご愛嬌に、値切りもせず細かいアクセサリーなどを買いこんでから帰って行きました。
その時はまだ、仲間の娘たちは誰もこの新来のお客さまの正体を知らなかったものですから、夫人はわたくしたち二人きりになりますと、さっそく長年の蘊蓄《うんちく》をかたむけて、きっぱりと次のように言ってくれたのです。「うまくいったようね、だいぶお熱くなっているのは顔つきや態度でもはっきりわかったわ。残る問題は人がらと身もとだけというわけだけれど、それもあたしが歩いて調べてくれば、じきに何もかもわかってよ」
じっさい数時間もしないうちに、夫人は洗いざらいこの男の話を聞いてまいりました。それによりますと、ノーバードとかいう人で、親ゆずりの大変な財産家だったにもかかわらず、もともと体が弱いところへもってきて、放蕩三昧《ほうとうざんまい》に明け暮れたため躰も財産もだいぶすり減らしてしまったそうです。そうこうするうちに、あたりまえの遊びではあきたらなくなり、素人娘に手を出しはじめ、お金に糸目をつけず、もう何人もの娘がその生贄《いけにえ》になっているとか。つまり、最初のうちはちやほやしてくれても、あきがきて熱がさめるか、新顔でも見つけるかすると、いともかんたんに古手は捨ててかえりみないのだそうで、そんなことができるのも、すべて金銭でけりをつける彼一流のやり方のしからしめるところだったのでしょう。
ざっとこんな調子でしたから、コール夫人も、まあそんな人間からは遠慮なく堂々と、絞れるだけ絞ってやっても気がとがめることはあるまい、といった考え。おまけにわたくしぐらいの女なら、どんな取り引き条件を出してもおかしくないのだとも言いました。
やがて指定された時間がきましたので、夫人は法学院の建物に住んでいる男のもとへまいりました。なかなか贅をこらした住まいだったそうです。そこで待ちかねていた相手と会い、注文品を渡してから、長々と商売談義に花を咲かせたとか。つまり、あまり景気がよくないとか、使っている女中や縫い子も流れ者が多いとか、そのうち自然にわたくしの話も出て、そうなると夫人は世間話の好きなお婆さんのていよろしく、次から次へとしゃべりまくって舌が止まらないといったふう。まことしやかにわたくしの身の上を物語ったそうですが、さりげなく気立てや容姿のよさもほめておいて、思惑ありげなそぶりも見せずに相手を自分のペースにまきこんだとか。するともうすっかりたきつけられてしまった相手は、わたくしを手に入れたい考えをほのめかし、さんざん思いあぐねた末にやっとその意中を明らかにしたのですが(適当と思われるころまで、夫人はじらせておいたのです)、夫人はそれに答えて、いままで何も知らず正直にせっせとはたらいてきたような娘には、いきなりこわがらせたりしないで、言葉たくみにやさしく言って聞かせたほうが、らくに思いどおりにできるはずだと語ったものです。けれども、だからといって、すぐに先方の望みどおりにはうごかず、ことさらになお三、四回会合をかさね、おあずけのままにしておきましたので、待ちきれなくなった相手は、直接わたくしあてに手紙や伝言を何べんとなく書き送ったものの、どれもこれも梨《なし》のつぶて、いよいよこちらの価値は高まるいっぽうでした。
けれども、あまりぎりぎりまで待たせては、かんばしくない事態が起こらぬともかぎりませんので、それではせっかくの夫人の計画も水のあわとなりますから、いかにも熱心さに根負けしたというふうに、それに莫大な手数料にもついふらふらとしたというかたちで、いっさい承知したのですが、思わずお金に目がくらんだようにお芝居をしたことすら、こんな仕事ははじめての女だと、先方を信用させる結果ともなったのです。
こうして夫人は、相手の求めているものの価値を高めるために、適当の困難と障害を設けておき、それを次々に乗り越えさせたのでした。いずれにせよ、わたくしのささやかな美しさにうつつをぬかしたあまり、相手はただわたくしを手に入れるのに急で、その点では夫人がくちばしを入れる余地はなく、がむしゃらに餌をあさるあんばいなのです。しかし、そのほかの点ではノーバードさんといえども明きめくらではなく、街の表裏にもよく通じておりましたし、それにいまわたくしたちがしているようなお芝居でも、さんざ経験なさって知っていたはずです。けれども、わたくしにご執心のあまり先を急がれて前後の見境がなくなり、とんだ悪だくみが隠されていようなどとは夢にも思わなかったのです。こうして夫人の思うつぼにますます深くはまり込み、とうとうわたくしに三百ギニー、夫人に手数料として百ギニー払っても、安い買物をしたと喜ぶくらいにまでなっていました。もっとも夫人からみれば、さんざん苦労をしたあげく、生涯で初めて良心にそむく行ないまでしたのだから、その報酬とすればわずかなもの、ということになります。ともかくこれらの金額は、わたくしのからだと引きかえに支払われることになりましたけれど、交渉の途中で贈られたかずかずの高価なプレゼントとは別でした。時おり交渉の席に呼び出されることもありましたが、自分で驚くほど、いともかんたんにさも生娘らしい態度が取れたのでございます。男の人がひたすら破壊せんがためにお求めになる、乙女の清純無垢といったようなものが、まだわたくしの物腰態度のうちには残っておりましたようで、お気の毒にも、この男性はそんなものに欺《あざむ》かれているとは知らず、一生懸命になっていたのです。
双方の条件がきまり、約束のお金がきちんと支払われますと、あとはもう実行にうつすことだけ。問題はわたくしの身がらを先方の都合のよいようにまかすかどうかなのですが、コール夫人は初夜を相手方の住まいでしないようにたくみに反対をして、男のほうからこちらの家で行ないたいと熱心に主張させるようにしむけたのです。「何と申しましてもね、うちでそんなことをやられたんでは……いくらお金をいただいても、奉公人に勘づかれでもしたら……それこそ正直者の名前に終生傷がつくというもんですわ」まずこんな調子で断わりましたけれど、次々に出る提案も結局だめだとなると、また最初の案に逆もどりして、とうとう双方に都合のよい当家でということに落ち着き、まあひとつ面倒の見ついでに引き受けましょうと承知したのでした。
そこで、さんざん待たされてじりじりしているノーバードさんの気持もくんで、さっそくその晩にということで話が決まりました。時間がくるまでにコール夫人は、忘れずにいろいろな注意をしてくれましたほか、生娘の名誉のしるしを作るお道具の用意までととのえてくれたのです。そんなものがなくても、わたくしはもともとかんじんの場所が小造りにできておりましたから、計画の遂行に支障をきたす恐れはなかったし、第一そんな、お風呂にでも入ったらすぐにわかってしまうような、一時しのぎのお道具のお世話になったことがないのです。けれども、必ず起こるとは言えないまでも、初夜の出血は大方の予想するところなので、手ずから発明した効果てきめんの道具を、コール夫人は用意してくれたのです。詳しくはのちほどふれることにいたしましょう。
お迎えをする準備がとどこおりなくすみましてから、夜も更けて十一時ごろ、あたりもしんと静まりかえった家の中を、コール夫人じきじきの案内で、ノーバードさんは寝室に入ってこられました。わたくしは夫人の時代めいたベッドの中で、寝間着すがたのまま息をはずませております。もちろん、生娘の不安があったわけではございませんが、少なくともにせ者になった者の不安は消えません。でも、いかにも娘らしい恥じらいを見せた様子でしたから、たとえ第三者の冷静な眼でも、なかなかどちらとも見分けがつけにくかったのではないかとぞんじます。ですから、男性に対する悪口として、まぬけ≠ニいう言葉を、かねがねわたくしは用意しているのでございます。
さてコール夫人は、初夜の若い娘に昔ながらの月並みな注意をいたしますと、そそくさとわたくしたちを後に自室へ引きさがってしまいました。室内はノーバードさんの注文もあってすみずみまで明るくされています。おそらく、あらかじめ詳しくわたくしのからだを調べておこうとでも考えていたのでしょう。それはともかく、ノーバードさんは服を着たままベッドに駆け寄りました。わたくしは頭からふとんをかぶって、キスされるのをしばらく防ぎます。こんなばあい、むろん、まがい者ほど節操を守ろうとじたばたするものです。すると相手は乳房に手をのばしてきましたので、わたくしがその手にかみついたり爪を立てたりして抵抗いたしますと、それには手のほどこしようもなく、いっそベッドの中にはいってしまったほうが扱いやすいとでも思ったのでしょう、着ているものを大急ぎでぬぎ捨てまして、飛び込んでまいりました。
けれども、そのからだは一目でそれとわかるほど貧弱で、とても堅固な乙女のとりでなど破れそうにありません。その弱々しいやつれようといったら、まるで病人が無理やりこんなことをやらされているあんばいです。
三十そこそこというのに、すっかり衰えた意欲は何か特別な刺激でもなければはたらかず、体力はほとんど限界にきておりまして、それでもやせ馬に拍車をかけるような度の過ごし方をするものですから、男ざかりの年齢のくせに六十すぎのおじいさんさながら。ところが気ばかりは青春の血に燃えているつもりで、それがまたいちだんと躰にひびき、ますます危地に追いこまれているようでした。
ベッドにはいり込みますと、すぐに腕ずくでふとんをはねのけたものですから、わたくしの躰はあますところなく彼の眼にさらされます。そればかりか、相手の手をのがれようと転々とわたくしがころげまわりましたので、一見してシーツのはしばしまで何の仕掛けもないことがよくわかったはず。もっとも、相当の経験者だろうとこちらが心配していたほど、やかましい人ではなかったようです。わたくしがなおも下着をつかって、乳房やそのほかの場所をかくしておりますと、それも一気に引きちぎってしまいました。もっとも、それからはなかなか思いやりのあるやさしい態度をしてくれたのですが、うっかり調子を合わせてもいられません。裸の男とベッドに寝る生れてはじめての経験に、不安と恐怖でおののいている生娘の役を、わたくしはもののみごとに演じて見せました。ですから、相手とすれば、キス一つするにも容易なことではなく、何べん乳房に手をのばしてもはねのけられたのです。ただし、固く引きしまったその感触から、おそらくまだ誰の手にもふれられていないと見たのでしょう、しごく満足の様子でした。けれども、どうやら気がせいてきたらしく、さっとわたくしに身を投げかけて、何やら暗中模索いたします。そんな行為をわたくしはうんとなじりました。「こんなことをなさろうとは存じませんでした……いけません……どうなりますの……起きあがらせてください……」そう言ってわたくしはしっかり両膝を合わせましたが、弱々しい彼の力ではそれをどうすることもできません。しめたと思いました、これなら自分の動作はおろか、相手の動作だって思いのままになり、かんたんに目をごまかすことができます。お芝居をするにはもってこいの条件でした。とかくするうちに、彼の貧弱なからだがそれでも少しはたらきかけてまいりましたが、わたくしはさらりと足でかわします。とうとう自分の体力ではいかんともしがたいのがわかったのでしょう、こんどは何かとくどきにかかります。それに対し、わたくしはただ恥ずかしそうにおどおどした口調で答えました。「わたくしを殺すおつもりなのでしょう!……そんなことなさらないで……生れてからまだこんな目にあったことございません……こんなことをしてよく恥ずかしくありませんわね……」汚れを知らぬ娘ならおよそかくありなんと思われる、純心な子供っぽい調子でこばみつづけたのです。けれども、おしまいにはいかにもその熱心さに根負けした格好で、固く合わせていた両膝をほどきました。するとさっそく彼ははいってまいりましたが、もうそれまでにだいぶくたびれていましたのか、なまなかの努力ではございません。わたくしはからだをねじってそらせましたばかりか、心臓でもつらぬかれたような悲鳴をあげ、彼の力もおよばないようなはげしさで、のしかかっている相手のからだをふり落としてしまったのです。これにはさすがにまいったようすでしたが、さりとてわたくしに腹を立てたわけでもなく、かんたんにものになりそうもないのを、かえって喜んでいたくらいではないかと思います。ともかくこうなりますと、いよいよ情欲の炎を燃えあがらせて、ふたたびわたくしに襲いかかり、心をこめた愛撫をしながら、約束以上のことをしてあげようなどとかきくどくのです。そこでわたくしもいくぶん心を和らげて怒りをしずめたふうによそおい、おとなしく彼をかたわらに横たわらせて、もう一度チャンスを与えてやりましたが、こんどはよく相手のからだの方向を見定めておきまして、少しでも目標に近づくようですと、別にそれを避けるという風情ではなしに、いかにも痛いといった様子をして、自分のからだをそらしたのです。と同時に、そんな場合におきまりの文句やため息も忘れずに添えておきました。「ひどいわ……殺される……死んでしまう……」こんな言葉がもっともひんぱんに口をついて出たのです。そうこうするうちに彼もやむにやまれなくなってきたのでしょう、わき上がる欲情を一刻もおしとどめておくわけにいかなくなり、しゃにむに接近してまいりました。やがてその肌のぬくもりがわたくしのからだの中に感じられるほどになりましたけれど、残酷とはぞんじながらもそれを外ざまにほうり出して思いをとげさせません。そしてあまりの痛みに耐えかね、もう恥も外聞も考えないような悲鳴も立ててみました。彼にせよ、こんなふうにじゃまされたほうが、何もかも手に入れてしまうより、よほどうれしかったのです。その満足している様子は手に取るようにわかりました。言うまでもなく、こうしたお芝居をしていてこそ喜ばれたわけで、さもなければ相手も全然楽しめなかったのではないかとぞんじます。何はともあれ、一度でも近寄れたことでほっとしたのでしょう、一息入れて鋭気をやしないにかかり、わたくしも次回を今やおそしと待つ身になりました。彼はせっせと次にそなえて力をたくわえはじめます。それにはまず、わたくしの全身をくまなくめでいつくしみ、いたるところ、ほとんどもれなくキスをしてから、むさぼるようにあきずながめたり、もてあそんだりして、要するに考えられる刺激的なことはすべて試みたのです。ところが、おいそれと彼の体力では回復いたしません。かさねて戸をたたくのがわかりましたが、とてもたたき破れるほどの状態ではなく、たとえこちら側から開いてあげても、中にはいれるかどうかも疑わしいありさまです。それでも、わたくしが何も知らないはずと思いこんでいるものですから、よもやこのていたらくでも妙に取られまいと高をくくり、いつまでも長々と徒《あだ》な努力をつづけ、なんとかして立ち直りのきっかけをつかもうと懸命でした。もっとも、わたくしは立ち直りかけたと見るや、すぐに一呼吸入れさしてしばらく待たせましたから、おしまいには汗だくだく、しんから疲れきってしまったようです。それやこれやで、中途はんぱながら彼がやっと思いをとげましたのは、翌朝もだいぶおそくなってからのこと。そのあいだずっとわたくしは、わざと彼のからだが大きすぎるとか、力が強すぎるとか、悲鳴をあげたり苦情を申し立てたりしていたのでございます。ともかくこの騒ぎにはくたびれきったらしく、さすがの名騎手もぐったりとして暫時の休養をとらねばなりません。愛情をこめたキスをしてくれますと、わたくしにも休むように言ってから、ぐっすり眠り込んでしまいました。さて、これですっかり気を落ち着かせましたわたくしは、そっと身を起こして、難なくコール夫人の例の計略を実行にうつしたのです。
ベッドの四隅にある柱には枠がはめられておりまして、そこに小さな引き出しが一つずつついています。一見したところ木彫りの飾りか何かと見まごうくらい、なかなかたくみなこしらえなので、よくよく注意しないとわかりません。この小引き出しはバネ仕掛けを押すだけでかんたんにあけたてできます。中には底の浅いガラスの器があり、血の色をした液がたっぷりスポンジにひたっております。それを取り出して、ちょっとつまんで内ももに当てるだけで、十分乙女のしるしを作れるわけでした。すみましたら、元どおりに収めてバネを押せばいいので、気づかれて見つかる心配はまずありません。それに手間ひまも何秒とかからないことですし、ベッドの四方に取りつけてありますから、どちら側へ寝ることになっても、らくに手をのばせたわけなのです。むろん、そんなことをしている最中に相手が目ざめ見つけられてしまえば、わたくしにせよ大弱りになることはまちがいございません。けれども、じっさいには彼も目をさましませんでしたし、第一わたくしは細心の注意をはらいましたから、万が一にも見つかる心配はなかったのです。
どうやら感づかれた気配もないので、ほっとしたわたくしは、やっとほんとうに眠ることができました。しかし、ものの三十分もしないうちに相手の紳士は目をさまし、こちらに向きを変えます。そしらぬふりをして高いびきをかいておりましたが、いつまでもほうっておいてくれません。やおら腰をあげますと、あらためてなさるおつもりか、キスをしたり愛撫をしたり、しかたなくわたくしはやっと目がさめたふうに両眼をあけ、さんざんひどい目にあわせておきながら休ませてもくれないと、ぶつぶつ不平を並べました。ところが、はやる相手はそんな文句に耳も貸しません。こんどこそ乙女のとりでに勝利の旗をなびかせようと、わたくしの関心を買うようなさまざまの好言を並べ立てます。こちらもすでに出血を証明する準備ができていることとて、いつでも応じられる態勢にあったのですが、もう少しじらせてやったほうが得策のように思われました。ですから、うるさくせがんでくる相手に、ただため息をつき、鼻声でやっと次のように答えたのです。「わたくし、とても苦しくて、これ以上だめですわ……ひどいことをなさいましたのね……なんて悪い人なんでしょう!」そこで相手がふとんをまくり、戦《いくさ》のあとを消えかかった燭台の光で調べてみますと、わたくしの両膝にも、下着にも、シーツにも、処女のしるしが歴然とついております。さてはいましがたの努力が実った結果かと、その喜びよう興奮のしようときたら、ちょっと類がないくらいでした。すっかり幻想に取りつかれた彼の頭には、ついに処女鉱を掘り当てたという考えのほかに何もうかばず、そのうれしさはそれまでに輪をかけたやさしさとなって現われました。そして、いよいよ鉱脈をすべて掘りつくそうという情熱がわきあがってきたこともたしかです。そこで有頂天になってわたくしにキスをしながら、しきりに痛い思いをさせてすまなかったとあやまりますと、いずれにせよ一度は通らなければならないことだし、いちばんつらい試練もほぼ終わったわけだから、もう少しの辛抱で何ともなくなる、そのあとはむしろ喜びのほうが大きいくらいだ、などと付け加えます。それを聞いて、わたくしが少しずつ丸められてゆくふりをしながら、知らず知らずからだをひろげてまいりますと、誘われるように彼は身を寄せてきました。けれども、一気に立ち入ることは許しませんで、たくみに躰をそらせたりいたしまして、一歩一歩困難なことを味わわせながら、あいかわらず苦しみを訴えつづけました。やがて力強い|止めの一撃《クー・ド・グラース》で、とうとう戸は完全にうち破られました。わたくしは恐ろしいほどの悲鳴をあげました。彼ときたら、まるで勝ち誇った雄鶏が翼の下に雌鶏をおさえこむような姿、征服感に酔いしれて心も身をも溶かさんばかりのありさまです。深く傷ついたわたくしはその下で息もたえだえ、処女をなくした躰をおののかせております。
このようにされましたわたくしがはたして満足を得ただろうか、と奥さまはきっとおたずねになることでしょう。はっきり申し上げますが、ほとんどと言ってよいほど何も感じませんでした。もっとも、おしまいまぎわに、かすかではございましたが、なんとなくそんな気分にならなかったわけでもございません。なにしろ、ずいぶん長いあいだ躰のいちばん敏感なところをもてあそばれたのですもの。ともかく、全くの金銭ずくで抱かれたのでは、興味のもちようがありません。それに、いくらまことしやかに弁解したところで、自分が海千山千の女を演じているかと思うと、喜ぶどころのさわぎではなかったのです。またそれだからこそ、お芝居をうっているあいだじゅう、われながら驚くほど、すっかり生娘になりすましていられたわけでした。
さて、ようやく陶酔からさめました相手は、キスをしたり抱擁したり、やさしくわたくしをなぐさめてくれましたが、こちらはこちらでそんな目にあわせた相手をさんざんに責めますと、それがまたおのずと彼の満足感をたかめる結果ともなります。しかしどうやら、だいぶ弱りはてている様子でしたので、さらにこと新しくいたしますのは彼の身のためによくない、ここは一息入れたほうがよいとぞんじましたから、ふたたび襲いかかりました時にはその武勇のほどをたたえながらも、からだの痛みがはげしくなるいっぽう、とてもこれ以上耐えられそうにないと言って、きっぱりこばんだのです。すると、彼も快く猶予を与えてくれましたが、もうまもなく夜も明けるころで、うまくそれでおしまいにすることができた次第です。やがてコール夫人が呼鈴でやってまいりますと、彼は随喜の涙を流さんばかりの調子で、昨夜めでたくわたくしの操をわが手にかけたと告げ、なお付け加えて、その証拠はごらんのとおりこのシーツの上についていると言いました。
世故にたけた夫人のことですから、そこはいかにもわたくしの身を案じる気持と大役を果たした喜びが相半ばするというように、大きく嘆息をいたしました。いいえ、大役を果たした点だけは、うそいつわりのないところでしょう。夫人が初夜を相手の住まいで行なうことを執ように反対したのは(その住まいは男女がひそかに会うとすれば、じつにもってこいのできだったのです)、わたくしのような生娘が男のひとり住まいに出かけてベッドをともにするのを、きっと不安がるのではないかという理由だったのですが、もうこうなった以上、そちらさまの都合もあることだし、いつでもお望みのときにお宅まで行かせるようにする、また、お店のほうにもいままでどおりはたらかせますから、いずれ格好の相手でも見つかればお嫁にも行かせましょう、まあ、そんなところで妙な噂も立たないはず、と申しました。どれもこれもノーバードさんのためを思えばこそと受け取れますので、まさか夫人が、そうたびたび相手にやって来られたのでは、自分の店のからくりがばれてしまう、そうなったら大変だなどと考えていようとは、彼も全く気づかなかったのです。それに第一、夫人の計画は彼にとって、きわめて都合よく思われたのでした。
まだ眠がっているわたくしを残して彼は起きあがり、コール夫人とあれこれ今後のとりきめをしてから、誰にも気づかれずに帰って行きました。やがてわたくしが目をさましますと、夫人ははいってきて、すべてうまくいったとほめてくれたのです。そして、いつもながらの淡白さで、びた一文わたくしの上前をはねるようなことをせず、かえって確実でかんたんな貯金の方法などを教えてくれました。お金はすでに財産と言えるほどまでたまっておりまして、その方法によりますと十歳の子供でも安全に貯金ができたのでございます。
こうしてわたくしはふたたび元のような囲い者になったわけですが、お使いが見えればいつでも、ノーバードさんのお宅まで時間どおりにうかがい、つねに待機の姿勢でおりました。また、たえず気をくばって、コール夫人とのほんとうの関係を絶対に感づかれないようにしたのです。もっとも、向こうも日ごと夜ごとのご乱行に手いっぱい、こまかいことなどとても面倒でかまっていられなかったのでしょう。
それはともかく、わたくしの経験から判断いたしますと、生れつきの弱さとか、度を過ごした放蕩とか、老齢とかのせいで能力が欠けた者に囲われた女は、例外なくよい待遇を受けておりません。つまり、女をなんらかの方法で満足させてやらねばと感じたとき、申し合わせたように彼らは、愚にもつかぬおせじを並べたり、つまらぬ贈物をくれたり、ただもてあそんでみたり、いたずらに精力を消粍させるにすぎないくだらぬ工夫を披露したりするのです。そしてそんなことで体力をすり減らしておきながら、弱まった躰をふるい立たす真の喜びやそのための技術をすててかえりみず、いつまでも卑わいで不自然な行動にふけるのです。いずれにせよ、この人たちの不幸は、かんでみたり、なぶってみたり、あるいは奇怪な姿勢を取らせてみたり、ともかくさまざまなことをさせたあげく、やっと束のまの喜びを手にしながら、相手の心にも情熱の火の手を燃えあがらせ、それを消しとめるすべもない女を、そのままほかの男の胸へ走らせてしまう点にあるのです。いわば、女を満足させるだけの能力をもつ相手をさがし、それを取り持つ女衒《ぜげん》にすぎません。特にわたくしたちのような女は、いくら心ばせがよくても、からだの中にそれ自身つよい支配力をもつところがございまして、実行力を重んじ、意あってもはたらかざるものは受けつけないことになっております。
ノーバードさんはまさしくこの不幸な人間の一人だったのです。わたくしをこよなく好きだと言いながら、長いあいだかかっていろいろなことをして、くたくたに疲れさせるとともに燃えあがらせもしたあげく、めったに本意をとげることはできなかったのです。
何回かは燃えさかっている煖炉の前の絨毯に、一糸もまとわぬわたくしを一時間近く横にならせ、あらんかぎりの姿勢をとらせてながめることもありました。そうしてからだじゅういたるところをキスしましたが、最も神秘なところも例外ではなく、いちばん心のこもったキスを受けたのでございます。おまけにきわめて奔放に手をはたらかせまして、時おり、えもいわれぬ刺激を与えますから、全身はいやでも火をつけられたあんばいになります。なおもつづけますうちに、ようやく相手もふるい立ってまいりますけれど、そのいのちははかなく、流れる汗のうちに消え去りますか、あるいは早まって中途にたおれますか、とにかくわたくしは待ちぼうけをくわされていら立つばかりでございました。今少しと言いますのに、かくもむざんにむなしくなりましたのでは、せっかくわたくしのからだの中に点じてくれた炎も、消すに消されぬ次第ではありませんか!
忘れもいたしません、ある晩のことです、いつものようにノーバードさんの魔法の杖で、からだの中に妖精たちを踊らせたまま帰る道すがら、とある街角で若い水兵がわたくしに追いすがったのです。こちらはあまり目立たない小ざっぱりとしたふだん着を着ておりましたけれど、おそらくその夜は冷静さをなくして、足もともおぼつかなかったのかもしれません。若者は格好の獲物とばかりわたくしをつかまえ、いきなり腕を首すじにまわし、乱暴に、でも熱い熱いキスをしました。不作法にもほどがありますので、はじめは腹立ちまぎれ、にらんでやりましたけれど、よくその風采を見ているうちに気が変わってまいりました。というのも、背が高く、すばらしい男ぶりだったからで、わたくしはにらむのをやめ、やさしい口調で、何をなさるおつもりかとたずねてみたのです。すると、はじめに抱きついたようにきわめてすなおな生き生きとした態度で、一杯ご馳走したいのだがと申します。もちろん、ふだんのように冷静なわたくしであったら、満たされない欲望に気もそぞろのわたくしでなかったら、そんな申し出はきっぱりとお断わりしていたはずです。けれども、その場の混乱した気持のせいか、状況のせいか、相手の顔かたちのせいか、それともそうしたものすべてのせいなのか、そのへんは定かではありませんが、ともかく降ってわいた冒険の結末を見たい好奇心がうごいたうえ、街に立つ商売女と思われているのも一興でしたから、暗黙のうちに承諾を与えました。要するにもう、頭でどうこう考えられる段階ではなかったわけで、誘われるままにわたくしはこの水兵さんについてまいります。相手はなれなれしく腕をわたくしの肩にかけ、まるで昔からの馴染《なじ》みのように、出会いがしらの居酒屋へ連れ込みまして、通路の片がわにある小部屋に案内します。さて腰をおろしますと、注文したブドウ酒を給仕がとどけるのも待ちきれず、さっそくわたくしに身を寄せてくるではございませんか。まずスカーフを取り接吻をしてから、いきなり胸をひろげますと、いっさいのもどかしい手順をはぶき、せきこむように乳房をむんずとつかみます。さらにあわただしくその手を先へのばしますが、あいにくと部屋には使いものにならない椅子が二つ三つ、それにがたがたのテーブルが一つあるきりで、当座の役に立ちそうなものは全然見あたりません。そんなことにはお構いなしに、わたくしを壁に向かって立たせますと、ぴかぴか光るくるみ割りをとり出し、振りかざして見せます。おそらく長い海上生活で、よほど飢えていたにちがいありません、猛烈な勢いでわたくし目がけて襲いかかりました。なるべくらくにできるように努めまして、まがりなりにも受けとめたのでございますが、相手にとってはなお不十分だったようで、こんどは場所を変えてテーブルに連れて行き、右手でうつむきに寝かせますと、左手を下着にかけ、思いどおりにできるようにいたしました。ところが、いざ蓋《ふた》をあけてみますと尋常の感覚ではございません。部屋をまちがえているとしか考えられなかったのです。そのことを申しますと、「ふふん、あらしのときには港はどこでもいいのさ」とうそぶきましたが、すぐに定められた港に向きを変えてくれ、やがて港内ふかく投錨の場所を求めて前後に移動するものですから、わたくしもすっかり顔をほてらせて夢中になってしまい、いつしかその水兵さんにしっかりと抱きついておりました。
さて終わってみますと、こんどはいかにその場から逃げ出すかが問題です。たしかにわたくしはその水兵さんにたっぷり愛情をそそがれ、ずいぶん楽しい思いをしましたけれど、そこまで追いこまれたのも、ノーバードさんに退屈ないたずらをされて、欲望をかき立てられたまま帰されるからで、いざ冷静な自分にかえってみますと、いくら感じがよいと言っても見ず知らずの人間と関係したことが、やはり心配になってまいります。おまけに相手は一晩いっしょに寝て、ねんごろになろうと決めてかかっているのですから、いくら逃げ出そうと思ってもそうかんたんにいくまいと危ぶまれます。ともかく、わたくしが内心の不安をそっとかくし、ともに一夜を過ごすことを承知したふりをして、ひとまず家に帰って用事を片づけしだい、すぐにまたもどってくると申しますと、相手はおおようにうなずきました。やはり恵まれない街の女の一人と見て、一夜拾われた以上、男を楽しませねばならないのだから、それにまだお金ももらっていないのだし、もどってきてもっと商売をするにきまっていると思ったにちがいありません。この男とはそれきりになってしまいましたが、別れる前にわたくしの分まで夕食の注文をしたのをおぼえております。考えてみれば、ずいぶん残酷なまねをしたものとぞんじます。
さて、家に帰りましてから、コール夫人にわたくしの冒険譚をいたしますと、そんな馬鹿なことをしてどんな危ない結果を招くか、ことに躰でも悪くしたらどうするのかと、たいそう叱られてしまいましたので、もう二度とふたたび軽はずみなまねはすまいと心に誓いましたものの、数日間はたえず不安にさいなまれてなりませんでした。むろん、思い出しては楽しみにふけらないでもなかったのですが、病気でもうつされたのではないかと、当時はそればかりが気がかり、はては水兵さんをうらんだ始末。申しわけないとぞんじますので、そのつぐないはいつでも喜んでいたすつもりです。
ノーバードさんとはこんなぐあいに三ヵ月近くつづきましたでしょうか、そのあいだわたくしはコール夫人の家の団欒に加わるかたわら、きちんきちんと彼のもとにも通い、何をされても言うままになって喜ばせてあげたものですから、惜しげもなくお金を払ってくれました。その語るところによりますと、これまでものにした女のいろいろの面がわたくし一人に求められるとかで、おかげで新しい女をあさる気持がなくなったそうです。しかし何と言ってもうれしかったのは、わたくしを愛しているうちに尊敬の念までいだくようになり、それが健康上にとてもいい結果をもたらしたことです。つまり、節度をもって行なわないかぎり、身をほろぼすもとであるというわたくしの意見を聞き入れて、それまでの過度の耽溺をあらため、しだいに節制ある生活を送るようになりましたので、躰もずっと丈夫になってまいりました。また、そうなれたのもすべてわたくしのおかげと感謝してくれ、ようやく幸運の女神がほほえみかけたと思うまもなく、運命のいたずらはまたしてもわたくしを突き放しました。
ノーバードさんは姉さんに当たるL**夫人をたいそう慕っておりまして、この人にバースまで保養に行かないかと誘われ、どうにも断わりきれなくなり、まあ長くても一週間ぐらいだろうとふみながらも、なんとなく気のすすまない様子で出かけて行きました。いまから思えば虫が知らせたとでも言うのでしょう、分不相応なお金をわたくしに渡して行ったのですが、滞在期の短いことからとても考えられない金額でした。そしてそのまま二度と帰らぬ人となったのです。バースに着いて二日もたたないうちにお仲間の紳士連としたたかにお酒をのみ、高熱を出したあげく、四日間も昏睡状態をつづけたすえに、とうとういけなくなったそうです。遺言でも言える状態でしたら、きっとわたくしにもかなりのものを遺してくれたことでしょう。ともかく、こうしてまたわたくしは相手を失ったのです。けれども、春をひさぐ女というものは、どんな状況にもつねに順応できるものですから、まもなくわたくしも気持を取りなおして、元のように誰からも囲われずに世すぎに精を出すこととなり、昔の仲間のもとへ舞いもどったのでございます。
コール夫人も喜んで迎えてくれ、また相手が見つかるまで、何くれとなく世話をやいてくれました。けれども、すでに懐もだいぶ暖かくなっておりましたので、さしあたりぶらぶらしていても困りはしなかったのです。たとえ自分のからだが要求することがございましても、コール夫人の家に行けばいつでもらくに満足させてもらえたわけで、ルイザもエミリーもあいかわらず商売をつづけておりました。それに大好きなハリエットもときどきやってきては、愛する準男爵さまとの幸福でいっぱいの暮らしぶりを語ってくれます。準男爵さまは彼女を囲っていたにすぎないのですが、二人のあいだは切っても切れないほど、その上、莫大な財産も分けてもらって、家族ともども生活するにも十分すぎるほどなのだそうです。わたくしがこんなふうに、別にこれといった相手も作らずのんびり過ごしておりますと、ある日のこと、コール夫人がいつものざっくばらんな調子で、バーヴィルさんという人について話してくれました。もともとお得意さんだった方で、ちょうどロンドンへ出てきたところだが、似合いの相手をさがすのに四苦八苦している、とにかく残虐趣味があるのでまったく手に負えない人だというのです。つまり、笞《むち》でたたいたりたたかれたりするのがたまらなく好きで、勇気のある相手がいてすなおに言うままにさせれば、めっそうもない大金を惜しげもなく払うかわり、なかなかの面食いで女のえり好みをしますから、相手になる女もからだを大事にしてめったに近寄らないのだそうです。さて、これほど奇癖をもっている変人のくせに、年はまださほどいっていないということで、だいたいそんなまねをする手合いは老人に多く、出のわるさをよくしようとか、ちぢんだからだに活を入れようとか、いずれにせよ、心にもないことをやむをえずしたすえにようやく力をふるい立たせ、望外の満足感を味わっているのではございませんか。
むろんコール夫人にせよ、よもやわたくしが承諾しようなどと夢にも考えていなかったようです。何も生活に困っていたわけでもなし、そんな仕事を引き受けるかぎり、よほど興味があると見られてもいたしかたございません。ところが、じっさいは、そんな苦痛ばかりで楽しさのない刺激に、一ぺんだって好奇心をいだいたことはないのです。では、いったい何がわたくしに、そんな苦しみをすすんで受けさせるようにしたのでしょう? 正直に申し上げまして、その場の気まぐれにすぎなかったのでございます。何か知らないものを味わってみたいという気持のほか、コール夫人に勇気のあるところを見せたい虚栄心も手伝って、危険を覚悟で引き受けてしまいました。これで夫人も相手をさがす苦労がはぶけてほっとしたことでしょう。もっとも、わたくしがこうもかんたんに無条件に自分のからだを提供すると聞いて、彼女は喜びながらもびっくりしておりました。
それでも、母親がわりになっていてくれた夫人は親切にもわたくしを思いとどまらせようとして、いろいろ説得します。でも、それがただわたくしに対するやさしい思いやりからだとわかりましたので、梃《てこ》でも動かぬ決心をしました。けっして夫人におもねるつもりはなく、本心からなのだとよくわかってもらったのです。すると彼女も口には出さずに感謝をこめた面持で、「痛い目にあうことを別にすれば、お金はほしいだけもらえるのですもの、あなたにお相手をお願いしてもちっともかまわなくてよ、それに、秘密は絶対に守られるから、他人さまから物笑いの種にされる心配もないしね。まあ、わたしに言わせれば、どんな楽しみでも行きつくところは同じだと思うのよ。誰にも害がないのなら、何をしたっていいんじゃないの。まるで目に見えない糸でたぐられているように、自分の嗜好にがんじがらめにされている不幸な人たちには、同情こそすれ、とても責める気はしないわ。食べものに人さまざまの好みがあるように、こうした嗜好も結局人によっていろいろ、想像を越えたものと言えるわね。神経質な胃袋だとお肉だけのお料理にはむかつくくせに、味をきかしたぜいたくなお料理なら飛びつくのよ。そうかと思うと、そんなお料理が大きらいの人たちもいますしね」と、こんなぐあいに話してくれました。
すでに承諾を与えた以上、いまさらはげましてもらっても、理屈をつけてもらっても、はじまりません。仕事はちゃんとやりとげる決心でした。ですから夜になりますと、どんなふうにしたらよいか、必要な予備知識を全部教わったのです。食堂はすっかりそのために片づけられ、明かりがともされました。話の若い紳士が、そこでわたくしの連れてこられるのを待っております。
教えられたとおり着ながしのままで、コール夫人に連れられて部屋に入りましたが、身につけましたものは下着といわず靴下といわず、履物といわず、すべてまあたらしい白ずくめでしたから、さながら人身御供といったいでたち。濃いとび色の髪が襟《えり》すじにかかり、全体の服装にくっきりといい対照をなしております。
バーヴィルさんはわたくしの姿を見るとすぐに立ちあがり、いかにも驚いた様子で挨拶をしながら、こんな美しい人がほんとうに自分の苛酷な要求に応じてくれたのかどうかと、夫人にたずねます。もっともらしい返事をいたしました夫人は、いちはやく相手が二人きりになりたがっているのを察し、最初からあまりひどいことをしないようにと言い残して、出て行きました。
夫人から注意をうながされているあいだに、わたくしはこのお気の毒な青年紳士のなりかたちを、それとなく拝見いたします。この人が、学校に学ぶ子供たちのように、笞《むち》で打たれなくてはどうしても快感が味わえない人なのかと。
ぬけるような白いつやつやした肌をして、どう見ても二十歳前後にしか思われませんが、じっさいは二十三になっていたのです。若く見えますのは、おそらくぽってりとした背の低いからだつきのせいでしょう。ふくよかな血色のいいその顔はバッカスそっくりと申してもいいくらい。でも、残念ながらどことなく険がございまして、せっかくの福相をいささか傷《きず》つけております。着ている服も大変すっきりしていて、むしろ財産家のわりには地味すぎると思われましたが、どうやらそれが好みらしく、けちだったわけではないようでした。
コール夫人がいなくなりますと、わたくしをすぐにかたわらにすわらせ、たちまち上機嫌なにこにこした顔つきになりました。その変わりようがあまり唐突なので、妙に目立ってしまいます。まあ、後日いろいろ性格もわかって知ったことですが、この人がふだんしかめ面をしているのも、苦痛を伴う非常手段を講じないかぎり、どうしても快感を味わえない自分の体質の宿命に、自己嫌悪を感じているからなので、そういうやりきれない気持がとうとうぬぐいきれない険となって現われていたのです。ですから、ほんとうは外見とはうらはらに、とても気立てのやさしい方でした。
さんざん弁解をしたあげく、勇気を出してひとつやってみてくれないかと言って立ちあがり、煖炉のそばへまいります。わたくしは閉った戸棚をあけて用意の道具を取り出しました。丈夫な樺《かば》の枝を二三本束ねてつくった数本の笞で、彼はそれを手に取ると、思わずぞっと身ぶるいをしているわたくしを尻目に、うれしそうにながめやります。
それから二人で部屋の隅からやわらかなキャラコのクッションのついた、人一人らくに寝られる台を持ち出しました。これで準備はととのったわけで、上衣とチョッキは自分でぬぎすてましたが、ズボンのボタンはわたくしにはずさせ、シャツを胸のへんまでたくし上げてからげます。こんな騒ぎをまき起こしている気むずかしいご本尊に、わたくしの眼はいやでも向いてしまいましたが、ほとんどからだの中に身をかくし、まるでみそさざいが草むらから、ちょこんと顔をのぞかせているあんばいでした。
さてこんどは、身をかがめてガーターをはずし、それを台の脚に結びつけてからだをとめるように言いつけます。いくらなんでもそんな必要はないとぞんじましたけれども、どうやらそうしないと気分が出ないようでした。
そこでわたくしは教えられた筋書にしたがい、彼を台のところまで連れて行き、無理やり寝かせるふうに演じます。すると相手も型どおりに少々いやいやをしてから、やっと言うことをきくという寸法。枕に顔をうずめて長々と台の上にうつぶせになり、おとなしくしておりますので、その手足をゆるく台の脚に結びつけました。さてそれから、シャツはすでにたくし上げてございますから、ズボンを膝のへんまでさげますと、色白のうしろ姿が一望のもとに横たわります。まっ白なお尻のふくらみが二本のみずみずしい太ももからしだいにクッションのようにもりあがり、背中の末からはじまる割れ目で左右に分れています。笞でねらうには、じつにはっきりとしたいい目標でした。
笞を一本えらんで、わたくしは彼の前に立ちはだかり、その指図によりまして、一気に十回ほどしたたかに打ちすえます。打つたびにふとった肉づきがぶるぶるふるえるほど、腕に力をこめていたのでございますが、相手は蚊にさされたほどにも感じなかったようです。そうこうするうちにも、わたくしはどうなることかと一心に相手のからだを見ておりましたが、何としても少し残酷すぎるように思えてなりません。打つごとに肌の白さは消えて、やがてまっかになってしまい、それが遠くのほうほどひどく、一面みみずばれとなり、血が糸をひいて流れ出し、ところによってはぽたぽたしたたり落ちています。ばあいによりますと、笞《むち》のささくれが肌に食いこみ、それを引き抜かねばならぬほどでした。笞が生木なうえ力いっぱいたたくことを思い合わせれば、すさまじい始末になっても、驚くに当たらないのかもしれません。それに肌が全体にぴんと引きしまっておりましたから、ふりおろす笞の下でまぬがれる所はなかったのです。つまり、たたく場所はいくらでもあったわけで、どんどん肌も破れて行ったのです。
あまりむごたらしいので、それ以上見ていられない気がします。つくづくこんな仕事を引き受けたことがくやまれてなりません。これだけやれば彼にしたって十分なはず、もういいかげんにやめたいと思いました。ところが、さかんにもっとつづけてくれと頼むので、さらに十回ほどたたいてやります。それから一息入れて様子を見ますと、出血はいちだんとひどくなっており、それでも少しも動じない姿を見ているうちに、わたくしも気が強くなって、休み休みまたたたきはじめました。やがて彼はからだをよじってのたうちまわりましたが、それは一目で苦痛からのものではなく、何かはげしい情感によるものであることがわかりました。その情感がどういうものか、しきりに好奇心がつのりましたので、一時たたく手をとめて、なお台の上でうつぶせになってもがいている彼に近寄り、まず手前のほうのあまり笞で打たれていない怪我の少ないお尻をなでて、それからなにげなく太ももの方へ手をすべらせますと、驚くべきものにふれてしまいました。それは先ほどまで草むらに小さく身をちぢめておりましたみそさざい[#「みそさざい」に傍点]だったのでございます。いつのまにやら、数ある鳥を見てまいりましたわたくしさえも、思わずはっとするような大きさになっていました。その首すじの太さときたら、とうていわたくしの手に負えないものです。からだが動くにつれ、しだいにその姿を現わしてまいりましたが、ご主人とそっくりで背丈短くずんぐりとしております。さて、わたくしの手を感じますと、もっともっと打ちつづけてくれ、さもないといつまでもおしまいにならないからと頼みます。
そこでふたたび笞《むち》を取りなおし、たたきはじめましたが、三本もだめにしてしまったくらいです。そのうちに彼ははげしくのたうちまわったあげく、一息二息深くため息をもらしますと、そのままじっと動かなくなりました。そして、もうやめてくれと申しますので、わたくしもすぐに打つ手をとめ、いましめを解いてやります。それにしても彼の辛抱強さには感心いたしました。あれほど白くきれいな肌をしていたお尻が、見るもむざんなべた一面のみみずばれ、血みどろで傷だらけです。起きあがってみたものの、足もともおぼつきません。いわば、いばらの刺の中にいるようなものでしたから。
起きあがったあとのシーツには、おびただしいあとが残されております。先ほどのスラッガーは元の巣にまいもどって、ふたたび機をうかがっています。でも、いかにもその顔を見られるのが恥ずかしそうにしておりました。こんどはさっきと反対側のお尻がひどい目にあう番ですが、しょせん彼の気のおもむくまま、とうてい難をまぬがれそうにありません。
さて、青年紳士は服を着て身じまいを正しますと、わたくしにキスをしてかたわらにすわらせ、自分はそっと片方のお尻を浮かせて腰をおろします。傷だらけのほうは夢にも体重をかけられなかったのです。
ひとまず彼は、おかげで大変楽しい思いをしたとお礼を言いましたが、ふと、わたくしの顔にお返しをされる不安の色が出ているのに気づいたらしく、「何も約束どおりにしてもらうつもりはないですよ。でも、もしあなたがしてもいいとおっしゃるのなら、そこはご婦人のことだし、われわれみたいな痛い目にはあわせないようにしますよ」と断言します。それを聞いてほっとしましたが、よくよく考えてみると、今さら尻ごみしては面目にかかわります。第一、コール夫人が例によって、どこかから一部始終を差しのぞいているのは明らかでした。こうなっては肌がどうなろうと、自分の決意の固さをはっきり示すチャンスこそのがせられません。
そこで承諾を与えてしまったのですが、心底からの勇気があったわけではなく、多分に強がりから出た言葉でした。臆病者ほどこわがっている危険に早く飛びこみたくなるものです。彼が準備を急いでいるのを見て、むしろ喜びたくなりました。
たいした準備ではありません。わたくしのペチコートの紐をゆるめ、下着といっしょにおへそのへんまでたくし上げ、かるく結わえたにすぎません。うれしくてそれ以上は手もとがすべったのでしょう。さて、大変満足そうにわたくしのからだをながめてから、やおら台の上へうつぶせに寝かせます。おそらく同じようにからだをしばるものと思い、おめず臆せず両手をつき出しますと、「しばったりして、よけいな心配をかけるつもりはないですよ。すべてこれからすることはあなたの意志を尊重しますからね。痛くてたまらなくなってきたらいつでも遠慮なく起きあがってください」と申します。さあ、そう言われてみますと、いやでも責任を感じないわけにまいりません。これほどまで考えていてくださるかと思えば、からだがどうなろうと面目にかけてもがんばるつもりです。
うつぶせになったわたくしの背中半分は、肌もあらわに彼の手の下るのを待っています。最初のうち、彼は少し身を引いて立ちどまり、横たわるわたくしの姿をながめて楽しむ風情。眼のまえに、かくされていた美しさが残るくまなくさらされていたからです。やがてつかれたように駆け寄りますと、思いのたけ接吻の雨を、あらわな肌にそそぎかけました。さてそれから、おもむろに笞《むち》を手にいたしますと、やさしくうちふるえているわたくしのお尻に、たたくというよりはなでまわすあんばいに打擲を加えてきましたが、しだいに力がこもってかなり痛みはじめます。まるで火がついたような感じ、おそらくまっかになっていることでしょう。両頬に勝るとも劣らないほどの色だと彼に教えられたことからも、察しはつきます。このように彼は観賞しながら楽しんでいたわけですが、やがてさらにいちだんとはげしくたたきはじめましたので、出かかる悲鳴をおさえるのがやっとのありさま。とうとう一、二度したたかに打ちすえられて血がにじみ出ます。それを見ると彼は笞をほうりだし、わたくしに駆け寄ってしたたる血潮を口にすすって介抱してくれましたが、こんどは膝をつかせて起きあがらせ、両脚を左右にひらかせます。本来ならば苦しみより喜びを受けるべき微妙な場所が、いよいよ試練にさらされることになりました。彼は待ちこがれていたような一べつをそこにそそぎますと、するどい笞の先端でまっすぐねらいをつけて打ちおろします。その痛さと申しましたら、思わずたじたじとなり、身をそらさずにはいられません。こうしてからだを前後左右にくねらせれば、どうしてもさまざまな姿勢を見せることになり、相手の眼を楽しませる結果とならざるをえません。でも、わたくしはなおも弱音をあげず、がんばります。ついに彼はふたたび手を止めますと、走り寄ってわたくしの傷ついたからだに唇をおしあてました。そして、むざんな行ないに気がとがめましたものか、そのつぐないとして、暖かい手を差しのべてやさしくわたしの顔にたわむれます。つまんでみたり、引っぱってみたり、はてはわずかなうぶ毛をそっと引いてみたりいたします。それがじつに無我夢中のありさまなのです。さて、またも笞を取りあげました彼は、わたくしのおとなしくしている姿に元気づき、異様な喜びにむせびながら、哀れなからだに容赦なく立ち向かいます。避けるまもあらばこそ、びしびしとたたきつづけましたので、彼が打つ手をやめたときには、すんでのことで気絶するところでした。それでもわたくしは一言のうめき声も、うらみがましい言葉ももらさなかったのです。ただ、心のうちでもう二度とふたたびこんなむごい目にあうまいと、固く誓ったのでした。
奥さま、どれほどわたくしのやわらかな肌がひりひりしていましたか、ご想像願います。まったく手荒く爪でも立てられたように、傷ついておりました。ですから、快い感覚などとはおよそ縁が遠く、不平の一つや二つ言ってみたくなります。いくらほめてもらっても、いくらやさしく抱いてもらっても、少しも満足感など味わえません。
気がせくままに服を着おわりますと、コール夫人が念入りにつくりあげたご馳走を運んでくれました。とびきり上等のブドウ酒もそえてございます。テーブルにお膳を並べますと、黙ってにこりともせずに出て行きます。他人と話をする気にまだなっていないわたくしたちの微妙な気持をくんで、いたずらにじゃま立てしてまごつかせないようにとの配慮からでした。
ともかくテーブルにつきましたものの、まだこの極悪人(そうとしかどうしても考えられないのです)を許す気にはなれません。さも満足しきったように明るい顔をしているのも、なんだか馬鹿にされているようで、ますますおもしろくございません。けれども、ブドウ酒を一杯、それにいくらかご馳走もいただきますと(そのあいだずっと黙りこくっておりました)、なんとなくらくな気分になってまいり、痛みもうすれてきましたので、すっかり機嫌を取りなおし、もう別に彼をさけるようなまねをしないでおりますと、わたくしをなぐさめようと、思いつくかぎりの言葉を口にしたりします。
ところが、お食事が終わりもしないうちに、とても信じられないほどのからだの変化にわたくしは見舞われました。はげしい、でも何となくうれしいようなせつない気持が全身にあふれます。どうしたらよいのかわからなくなりました。打たれた痛みが突然身をつらぬく刺激となって燃えあがり、わたくしは息をあえがせ、もの狂おしく身もだえしてやみません。隔靴|掻痒《そうよう》の感とでも申しましょうか、胸をかきむしりたいくらいです。生来の慎み深さも欲望の業火のまえではひとたまりもなく、むらむらとわきあがる情欲に眼をかがやかせ、片時も早くこの苦しみを知ってもらおうと彼を見つめても、もはや不思議ではございません。あえて申し上げますけれど、むごい相手は刻々と愛すべきものとなり変わってまいりまして、束のまの渇《かわ》きをいやすためにはこの人をおいてほかにないとさえ思われました。
さすが経験ゆたかなバーヴィルさんは、取り乱しましたわたくしの様子からそれと察し、テーブルをうごかして準備にかかります。ところが、どうやらそれはわたくしの見当はずれのようでした。巣におさまったみそさざい[#「みそさざい」に傍点]をさかんにゆり起こしながら、彼は恥ずかしそうに告白します、まだ傷あともなまなましいが、わたくしの手を借りてもう一度たたいてもらわなければ、とても物の役に立ちそうもないと。彼を助けることが、取りもなおさず自分のためになることだとぞんじましたので、めんどうな手数をはぶき、その場でさっそく実行にうつります。彼がすぐ椅子の背に顔を向けてもたれましたので、遠慮なくびしびしたたきますと、たちまち目あてのところが正気を取りもどすのがわかりました。まるで魔法使いの杖にさわられでもしたように、みるみる気高い姿となります。そこで急いでわたくしに恵みをたれようと、先ほどの台の上に寝かせてくれたのですが、力強い彼のからだを受けるには、まだ腰の傷が痛すぎましてとうてい耐えきれません。やむなく起きあがり、前かがみになって背を向けてみます。ところがやはり、一生懸命彼が努めれば努めるほど、痛さがひびいてままなりません。どうすればいいのでしょう? 双方とも血がたぎって狂い出したいほどでしたのに。けれども、よくしたもので、悦楽はつねに果たし終えるようになっております。彼はとっさにわたくしを一糸まとわぬ姿にさせますと、煖炉の前の敷物の上にクッションをつみ重ね、そっとわたくしに逆立ちの姿勢をとらせました。それからウエストに手をかけただけでわたくしのからだを支えます。こちらもむろん懸命になりまして、両足を彼の頸にかけました。わたくしの頭は両手と敷物でかろうじて床からさえぎられていたにすぎません。敷物の上に髪がさっとこぼれてひろがります。つまり、わたくしは彼に支えられながら、頭と手だけで立っておりましたわけで、したがって、情熱の劇がはじまる舞台は、あますところなく彼の眼にはいりました。それでも、こんな姿勢はいつまでも取っていられませんから、お互いに早く結末をつけようと、まず彼が手をそめます。……まもなくわたくしは、えもいわれぬ安らぎをおぼえます。相和すようにバルサムの香高い泉がこんこんと流れ、あれほどせつない思いをしたからだをやわらかくふんわりと包んでくれました。
ついにわたくしはこのまたとない冒険を、考えていたよりずっとうまくやりとげました。また、よく辛抱してくれたと口をきわめてほめられますと、まんざらでもございません。それかあらぬか、予想をはるかに上まわる大金を、コール夫人への謝礼ともども贈ってくれたのです。
けれども、その後二度とこの方に誘われて、笞《むち》に頼った不自然な行為を重ねることはございませんでした。いわば催淫剤にカンタリスを服用いたすようなもので、危険は薬ほど伴いませんが、痛みはずっとひどうございます。この人には必要であったかもしりませんけれど、わたくしにはまったくの無用の長物、だいたい拍車より手綱のほうが好みにあいます。
この成功がございましてから、コール夫人はすっかりわたくしが気に入って、どんな相手にもめげない勇気のある娘として見るようになり、ますます目をかけてくださいました。印象をよくしましたせいか、それからはことあるごとにわたくしの利益と喜びとなるように計らってくれ、やがてまた新しい相手を見つけてくれましたが、とくに利益の点に重点がおかれていたようです。
こんどは落ち着きはらった重々しい感じの年配の紳士です。その独特の趣味は、ふさふさした女の髪に櫛《くし》を入れて喜ぶということ。わたくしの髪がぴったりお誂えむきでしたので、毎日お化粧の時間には入りびたりで、ばらりと髪をほぐして好きなようにさせますと、櫛を入れてみたり、指先にカールした毛をまきつけてみたり、はてはなでつけるようにキスをしたりなどして、一時間以上も楽しんで行きます。そんなふうにしながら、からだには指一本ふれないのですから、これでいったい男なのかしらと疑いたくなりました。
妙な癖はまだございます。わたくしに一ダースほどまっ白なキッドの手袋を贈ってくれまして、それを手にはめてくれたのはいいのですけれど、指先のところをかみちぎるのです。こんな病的な好みを満足させるために、老紳士はまともに楽しむ人たちよりずっとお金をはずみました。そのうちにひどいぜん息にかかって、このばかばかしい老人は来なくなりましたが、それ以来噂を聞いたこともございません。
こうした妙な仕事にたずさわりましたからといって、日常の生活に支障をきたしたわけではございません。生活はなるべくつつましく控えめにいたしておりました。べつに殊勝な心がけからそうしたのではなく、歓楽もいささか度がすぎますと新鮮味もなくなり、もはやよほど大きな喜びか利益でも結びつかなければ、とんと関心がわかなくなっていたのでございます。いまさら何もあくせくせず、好機がくるのを待てばよいので、その点わたくしはいちばん高い相場で取り引きをしながら、一ぺんも値引きをせず、十分にやってまいりました。それに、一時の衝動に流されることなく、つねに躰を大切にし、容色の美しさを保てたことは、何と言っても心ひそかに誇りとするところです。ルイザとエミリーはわたくしほどに躰を大切にいたしませんでしたけれど、それでもけっして安売りするようなまねはしなかったものです。ですから、これからお話しする二人の出来事は日ごろの性格に矛盾するようでございますけれど、むしろ例外のこととお思いいただいて結構だとぞんじます。まずエミリーの話からはじめましょう。
ある日のこと、エミリーは一夜ルイザといっしょに仮装舞踏会に出かけたのですが、彼女は羊飼いの少年、ルイザは少女になりすましました。二人の仮装姿を出かける前に見せてもらいましたが、エミリーの美少年ぶりといったら、めったに見かけられないほどのすばらしさです。二人は会場でしばらく離れずにいたものの、ルイザがお友だちにばったり出会ったので、ひとまず連れだった少年姿のエミリーに、くれぐれも気をつけるように言ってから別々になったのですが、どうやら思慮が足りなかったようでした。エミリーはひとりぼっちでつまらなくなり、しばらくぼんやりとあたりをぶらついていましたが、なんとなく暑くるしいような気がしたので、とうとうマスクをはずし、模擬店などのあるほうへ行きました。と、とてもすてきな頭布《ドミノ》姿の紳士と目が合い、誘われるままにおしゃべりをはじめたのです。しばらく話し合っているうちに、機知に富んでいるというより気安い感じをエミリーが与えたのでしょう、頭布《ドミノ》姿の紳士は熱心に彼女をくどきはじめ、いつのまにか会場のすみに置いてあったベンチまで引っぱって行き、そこへ彼女を腰かけさせて、手をにぎったり頬をつまんだり、髪がきれいだとほめてなでてみたり、また、その美しい容色をたたえてやみません。まさに風変わりな求婚風景だったようです。それでもエミリーは何も詮索がましいことをせず、きっと自分の仮装がおもしろいからなのだろうぐらいに考えておりました。それに職業がらつれないそぶりもできないでいると、いつか相手の話に身を入れてしまったのです。ところが、とんだお笑いだったのは、相手が彼女を仮装どおりに牧場の少年と思いこんでいたことで、いっぽう彼女も自分の身なりを忘れて、女としてくどかれているものとばかり考えていた次第。とにかく二人とも勘ちがいをしたままですから、エミリーは相手の仮装の下にちらつく服装で、これはてっきりひとかどの紳士とにらみ、おまけにすすめられるままにお杯をかさね、やさしく抱いてもらったりしてるうちに、いかがわしい旅館へ行くことを承知してしまったのです。こうしてつね日ごろのコール夫人の忠告も忘れ、盲目的に男を信用して誘われるままについて行きました。相手のほうもご同様、欲望に目がくらんだのでしょう、まんまと自分の手にのった彼女のあどけなさに、これはてっきりお誂えむきのカモがきたとでも、もしくは、すでに誰かのお稚児《ちご》さんになっているのが、何もかも承知のうえでついてきたとでも考えたようです。そんなわけで、彼女は辻馬車に乗せられて、かなり瀟洒《しようしや》な旅館の一室に案内されました。むろんベッドつきです。それが連れ込み宿であったかどうかは、相手の男のほかに話をまじえなかったので、彼女にはわからないそうです。さて、二人きりになって、いよいよ相手がことを運びにかかりますと、たちまち女であることがわかってしまいました。その時の男の表情ときたら、世にも情けない、当惑しきった、絶望的な、何とも名状しがたいものだったそうで、思わず「ひゃあ、女だったのか!」と、いたましく叫んだようです。さてはと、彼女もそれまでうかつだったことに気がついたのでした。
けれども、誘った埋め合わせのつもりか、男はつづいてなでたりさすったりしますが、どう見てもお義理にしているとしか思われません。エミリーにしろそれに気がつかないわけはなく、いまさらながらコール夫人の忠告を忘れたことがくやまれます。大胆だった気持が急に畏縮してしまって、もう相手のなすがまま、じっとプレリュードがすむまで待ちます。さて相手のほうは、彼女があまり美しいので、まあ女でもいいやとでも思ったのか、それとも、あいかわらず羊飼いの少年姿の彼女に、最初の印象を捨てきれずにいたのか、しだいに元のように上機嫌となり、エミリーのはいていたズボンをはずし、足もとへおろしますと、ベッドの端に向かって身をかがめてくれないかとやさしく申します。言われたような姿勢をとると、二つの道がちゃんと一望のもとにひらけることになりました。どちらの道をえらぶかと見ておりましたら、やはりつねの道ではないほうに向かってまいります。それには彼女も、ものやわらかな口調とはいえ、断固とした態度でこばんだので、相手もはっとわれにかえったらしく、向きを変えて正常の道にもどってくれたとか。おそらく想像をたくましくはたらかせて、自分の趣味に合うようにしたのでしょう、やがて終わりを迎えたそうです。それから二人は外に出ました。しばらく街をいっしょに散歩してから、男は椅子かごを呼びとめてエミリーを乗せ、その時かなりの金額を彼女に贈ると、かご屋にもよく頼んで家まで送り帰してくれたのです。
これらのいきさつをエミリーは翌朝、コール夫人とわたくしに語ってくれたのですが、その顔にはまだありありと不安と困惑の色が残っておりました。コール夫人は、そんな軽はずみなまねをするのも生来の軽薄さからで、何べんもひどい目にあわなければ、とうてい治る見込みはないと指摘します。わたくしとすれば、男性がどうしてそんな、一般から毛ぎらいされているばかりか、不自然で喜びも伴わない妙な趣味に走るのか、とんと理解ができない、これまでの経験に照らしてみても、まったく不自然で調和を破ることもおびただしい、と意見を述べました。コール夫人は無邪気なわたくしにただにこにこするばかりで、何もおっしゃいません。ところが、数ヵ月後に、わたくしは自分の眼でまざまざとその事実を確かめたのです。想像を絶する驚くべき出来事が起こったのです。ともかくそれを以下にしたためましょう、こんないやらしい話にくり返しふれたくございませんもの。
その日、わたくしはハンプトン・コートに住んでいるハリエットをたずねるため、馬車をやとって出かけることにしたのです。コール夫人もいっしょに行く約束だったのですが、急の用事ができて行けなくなり、やむなくわたくし一人ということになりました。道のりの三分の一も行かないうちに車軸が折れてしまい、さいわいけがもなく無事で、ひとまず街道沿いのかなり立派な構えの居酒屋に入って休みました。おそくとも二時間もたてば駅馬車がくるという話なので、せっかくここまで来たのだからと思い、それを待つことにして一室に案内してもらいました。とてもきれいでよい部屋です。時間がくるまで休むことにしました。
さて、このお部屋で窓から外の景色などをながめておりますと、一頭立ての馬車が表にとまりまして、若い紳士が二人降り立ちました。馬をそのままにしておきましたから、きっと一休みするために寄ったのではないかと思います。やがて隣室に足音が聞こえましたが、この二人が案内されたのです。気ぜわしく注文する声がし、注文品が運ばれるとすぐにドアが閉められ、内側から鍵のおりる音がこちらまでとどきました。
わたくしの好奇心の強いのはいまにはじまったことではなく、生れつきで、この時もただなんとなく二人がどんな様子をしているか、むしょうにのぞいてみたくなったのです。お部屋の仕切りは取りはずしのできるタイプで、取りはずしさえすれば一室になってしまいますから、お客の大勢のときにはきわめて便利なものです。ところが、いくらのぞきたいと思っても、節穴らしいものが見当たりません。どうやら向こうでもその点はよく調べ、大丈夫と見てはいった様子。でも、やっとわたくしは、羽目板と同じ色の紙が貼られてあるところを見つけました。しかし、ずっと上のほうなので、椅子を踏み台にしなければなりません。わたくしがそっとヘアピンの先でつつくと、穴はすぐにあきました。これで十分です。片方の眼をぴったり当てますと、お隣の部屋が一望の下です。若者が二人、お互いに引っぱり合ったりしながら戯れていました。どう見てもわたくしには、無邪気にさわいでいるとしか受け取れません。
年上のほうはおそらく十九になるでしょう、背が高くなかなかの好青年で、白いコール天の上衣を着て、緑のビロードのケープを羽織り、小さな下げ髪のついた鬘《かつら》をかぶっていました。
年下のほうはせいぜい十七といったところ、色白で血色がよく、すてきなからだをしております。ほんとうの美少年と申せましょう。こちらもその服装から見るかぎり、やはり田舎の若者らしく、緑のフラシ天の上衣に同じ地のズボン、白いチョッキと靴下といったいでたち、乗馬用の帽子の下からは巻き毛の金髪がはみ出ております。
さて、年上のほうがひとわたり用心深く部屋を見まわしましたが、気がせいてもいたのでしょう、わたくしがのぞいておりました小さな穴はいちだんと高いところにございましたし、それに眼をぴったり押しつけていたので光がもれず、まったく気がつきません。相手に何ごとかささやきますと、がらりと様子が変わってまいりました。
年上の青年が年下の少年を抱いたり、キスしたり、はては胸に手をさし入れたりしはじめました。あきらかに愛情のしるしです。わたくしはてっきりその少年が、娘の変装したものだとばかり思いこんでしまいましたが、よしたとえそれがまちがいでございましても、男の子であること自体そもそもおかしいほどの姿だったのです。
軽卒な年代のこととて、二人は最悪の事態も考えずに、その異様な喜びにひたろうと懸命です。さしあたり見つかる心配もないし、いよいよ実行にうつります。それを見てはじめて彼らの本性がつかめました。
青年は少年のズボンに手をかけ、未熟な中ぐらいの白いからだを誘い出していつくしみます。少年はだまってそれを見ておりましたが、やがてうしろ向きにされて椅子にもたれました。……それ以後の光景はとうてい筆にいたせません。
若者たちが行ないました罪深い光景を、どうやら終わりまでがまんして見られましたのも、できるだけ証拠をにぎって、即座にその筋へ突き出してやるつもりだったからです。ですから、二人が身じまいをあらためて出て行こうとした時には、思わずかっとなって、人を呼ぼうと椅子から一気に飛びおりました。ところが、勢いあまって、まずいことに床の出っぱりか何かを爪先に引っかけ、どっとばかり前のめりに倒れ、したたかに頭を打ってしまいました。そのまま気が遠くなり、誰かが駆けつけて助け起こしてくれるまでは、しばらく動けずにいたのです。若者たちは、おそらく、わたくしが倒れた物音に驚いて、そのあいだにそそくさと逃げ出したのでしょう。二人がなぜそんなにあわてふためいたのか、わたくしが正気にかえり、いっさいのいきさつを説明するまで、誰にもわからなかったのです。
家に帰りましてから、コール夫人にこのことを話しますと、じゅんじゅんと次のように説明してくれました。「よくって。そういう人たちはこんどはうまく逃げられたかも知れないけれど、いつかはきっとむくいを受けることになるものよ。もしあなたが、ちょっとでもそんなことを手伝いでもしたら、想像以上のめんどうな問題にまきこまれてしまってよ。だいたいそのこと自体が、口にしたくもありませんものね。女のひがみと思われるかもしれないけれど、わたくし、ずっとそんなゆがんだ愛情には心から反対してきております。さあ、時代により、お国がらにより、そんな破廉恥きわまる愛情が許されることもあるでしょう、でも、少なくともわたくしたちの国土では、そういう悪習にとらわれた者は烙印を押されています。わたくしのぞんじよりのそういう札つき、ないし、その疑いの濃い人たちは、そろいもそろって下品でいやらしい方ばかりで、全然男らしいところがなく、女の最も愚かな点ばかりをお持ち合わせなのよ。この人たちが女をきらって避けるなんて、とんだお笑いぐさと言うほかはないわ。いくら猿まねをして唇をすぼめたり、小股の切れあがったところを見せても、しょせん似ても似つかぬもの、女のまねなどしないほうがよくてよ」
さて、いいかげんに耳を洗って、話を前にもどし、ルイザのことも書かねばなりません。わたくしも一役買ったことですし、エミリーのしくじりをお話しした手前、片手落ちになりますから。
ある朝のことです。その日はコール夫人とエミリーが一日家をあけて、ルイザとわたくしだけが(女中は勘定に入れません)留守番をしておりました。つれづれなままに、二人でお店の窓越しに外をながめていますと、屋台で靴下の修理などをしてほそぼそ暮らしている貧乏な女の一人息子が、小さなかごに花束を入れたのを差し出します。貧しい男の子はそれを売って、母親の収入の足しにしているのでした。こんなことよりほかにできなかったのも、その少年が白痴と言っていいほどの低能児だったからです。おまけにどもりでしたので、いくら言葉を話しても、まるでけものがうなるようでさっぱりわかりません。
近くの子供たちや女中たちは、この子にお人よしのディック≠ニいうあだ名をつけていましたが、それはこの子が言いつけられると何でもすなおにしたうえ、いたずらめいたことを少しもやらなかったからです。ついでに申しそえれば、なかなか立派なからだをしていて、背も年相応に高く、若駒のように丈夫そうです。おまけにかわいい顔をしていました。ですから、洗ったこともないような顔や、櫛《くし》の入った形跡もないぼさぼさの髪、それにどう見ても賤民じみたぼろぼろの服装などさえ気にしなければ、まんざら捨てたものでもなかったのです。
わたくしたちはかわいそうに思って、ちょいちょいこの少年から花を買ってやっていました。でもその日は、かごを差し出す少年の姿を見て、ルイザが急に気まぐれな思いつきをしたのです。わたくしに相談もせず、少年を呼び込みますと、花をえりわけて二本取り、一本は自分、一本はわたしの分としましたが、半クラウン出しておつりを払わせようとします。いかにも、おつりぐらい持ち合わせているだろうといった調子です。けれども、少年は口のかわりに頭をかいて、おつりがないことを示しました。いくら口で言おうとしても言葉にならなかったのです。
するとルイザは、「そう、そんなら二階に来てちょうだい、こまかいので払ってあげるから」と言って、わたくしにも眼顔でついてくるようにうながします。それに応じて、わたくしは出入り口のドアの錠をおろしましたが、こうしておくとお店も安全ですし、うるさい女中の眼も避けられたからです。
二階にのぼりながらルイザがそっとささやきました。「じつはね、あたし、知恵の足りない児にはちゃんとからだにうめあわせができているということを、どうしてもこの眼で確かめたくなったのよ。それであなたにも応援を頼んだわけ」。頼まれると断われないほうですし、また、この突っ拍子もない思いつきに反対するいわれもないし、それにわたくし自身も急に好奇心をかき立てられて、つい釣り込まれてしまいました。
というわけで、三人でルイザの寝室にはいりましたが、彼女が花をえりわけているあいだに、わたくしがまず最初に手を下したのです。何しろ並みの人間とはちがいましたから、のっけから遠慮せずに手を出してみたところ、ひどくあわてふためいておろおろしております。そればかりか、たじたじと恥ずかしそうに尻ごみさえしました。けれども、ともかくびくびくしないように眼顔で教えてみたり、ふざけて髪を引っぱってみたり、頬をなでてみたり、なるべくこわがらせないようにしていますと、やがてなついてまいりまして、あの甘美な自然の目ざめさえうかがえるほどになりました。こうしておいおいに情感をたかめさせておりますと、たあいなく白い歯を見せて笑いながらも、いつしかその眼の燃えてくるのがわかります。両頬も興奮のきざしを見せて、ちらほら赤く染まり出しました。愚かな少年の顔は、あきらかに動物的な喜びの色を包みかくしません。それでも、生れてはじめてのことなので、どうしてよいのか西も東もわからないありさま。ともかく、うれしそうに口を半分あけたまま、おとなしくにやにやしております。そして、わたくしのすることには何でも従順にしておりました。花を入れたかごがその手からぽとりと落ち、ルイザが拾いあげます。
わたくしはほころびだらけの服のあいだから手を入れ、少年の両膝にさわってみました。その肌は服装がぼろでよごれているせいか、妙に白くなめらかに見えます。ちょうど、黒ん坊の歯が肌の黒さのせいでまっ白に見えるようなものでした。たしかに服装も知能も貧弱の一語につきるのでございますが、体格はじつに豊かな恵れたもので、しっかりとしたすてきな肉づき、そして若さにあふれ、ぴちぴちした手足をしています。さて、わたくしはいつのまにやら、まごうかたなきあのまことの蔓草の、感じやすい肌にふれておりました。この植物は手のうちでしぼむかわりに、喜んですくすくと育ちます。思ったとおり、殻を破ってまさに伸びようとしているところでした。もはや、ぼろぼろの衣類などが、とうてい包みかくせるものではございません。それにしても何というたくましさでしょう。むろん並みはずれたものは期待いたしておりましたが、これほどとは存じませんでした。想像をはるかに越えた姿なのです。いままでつまらぬものを相手にしてこなかったわたくしさえ、ぎょっとしたくらい。これではその上でサイコロをふることもできそう、見世物をひらいても十分にやっていけるにちがいありません。それはまさしくこの少年がむなしく愚かではない立派な証拠でした。広大無辺な特権を天からさずかっていることはたしかです。こんなこともあるので巷間次のように言え伝えられているのでしょう、あほうのおもちゃは貴婦人の友≠ニ。まんざら理にはずれてもいないようです。つまり、愛においても戦さの庭と同様に、武器の優劣がものをいうと申せましょう。少年のばあい、いわば自然は、彼に優秀な武器を与えて、知恵の実の足りなかった埋め合わせにしたつもりかもしれません。
さて、わたくしにすれば、はじめから見るだけのつもり、好奇心は十分それで満足させられるとぞんじておりましたので、目の前に誘惑はございましたけれども、まあ、五月柱《メイ・ポール》に花束をかざるのは他人にゆずることにいたしました。かたわらには、ルイザが意欲的な眼を輝かせているのがわかりましたから、一歩引きさがって応援にまわることにし、せいぜい奮闘するようにはげましましたが、暗にこちらはそのフェア・プレイを見物させてもらうことをほのめかしたのです。それに、こういう白痴のばあい、いったいどんなふうなまねをするのだろうかと、好奇心がまたあらたにわいたことも事実です。
ルイザも意欲十分で、あたかも蜜蜂が蜜をきれいな花からばかりでなく、塵芥に咲く花からも集めるように、待ちかまえてわたくしと交替いたしました。まあ、いやが上に欲望もたかまっていたのでしょうし、わたくしのしぐさにも誘発されたのでしょう、危険を覚悟であえて少年のからだに試みてみることにしたのです。先方もすでに血をたぎらして、彼女の要望にかなう姿になっておりました。若さに胸をはち切れんばかりにふくらませて、すばらしいの一語につきます! 忘れようにも忘れられたものではございません。
やがてルイザは、春に目ざめた少年の美しい差し出された手を取って、後ずさりにベッドへみちびきます。少年は喜んでそれにしたがいましたが、もう官能のおもむくまま、あきらかに欲情に身をまかせている様子でした。
ベッドに着きますと、ルイザは身をしずめて、できるかぎりかがみこみ、みちびいた手をはなさず、そっとうしろ向きになり、注意深く腰をおろします。たちまち両膝が現われ、それを少しずつ持ち上げましたので、今はもう愛のふるさとが一望のもとにのぞめました。ばらの花咲きにおう庭がみごとなたたずまいを見せ、これではいくら白痴でも見落とすわけがございません。ルイザはまた、なおも身をかがめ、いかにもじれったい様子で、先ほどから手にしたものの方向を定めてやろうといたします。そして、はげしい欲望をつのらせますと、みずからすすんで身を挺したのですが、からだが張り裂けんばかりの痛みに、一声高く悲鳴をあげました。とてもがまんするどころのさわぎではなく、まさしく殺される思いだったのです。でも、すでにおそすぎました。あらしがはじまっていたのです。彼女はそのすさまじい力に押しまくられてしまいました。白痴の少年といえども、今は男性の優越感にあふれ、とめどもなく刺激を受ける快感に身をまかせて、狂気の様相すら呈してまいります。それを見て、ルイザのからだが華奢すぎるのにわたくしはぞっとしました。こうなると、少年は人がちがったように、偉大にさえ見えてきます。ぼんやりした表情も、いざとなるとがらりと変わり、とても白痴だなどと思えなくなります。いいえ、それどころか、ものすごい気迫に圧倒されて、一種の尊敬の念すらいだかずにはいられません。顔はまるで人がちがったように熱情のあふれたものとなります。歯をかみ合わせ、全身をおののかせて、止めるすべもなく猛り狂います。すべては本能のしからしめる凄絶《せいぜつ》な光景と申せましょう。行く手をはばむものは怒り狂った猛牛の角にさらされたあんばい。ルイザの叫びに耳も貸さばこそ、やわらかな土をぐんぐんと鋤《す》き起こしていきます。もはやこうなっては、何ものもこの少年の勢いをつなぎとめるわけにまいりません。ひとたび角を立てました牛は、めくらめっぽうにあばれまわり、突き立て押し立て、何もかも打ち壊さねばやみませんでした。深手をうけたルイザはもがきながら、声をからしてわたくしに救いを求めます。また、なんとかこの狂暴な野牛からのがれよう、身をふりほどこうと懸命につとめます。でも、やはりだめでした! 彼女の力ではどうしようもないのです。いいえ、そんなふうにもがけばもがくほど、かえって五体はもつれる格好になり、ますます相手のがむしゃらな腕の中にからまれてゆくばかりです。こうして、打たれた杭にからだをしばられたまま、死を覚悟で、最後まで戦わされたのです。いっぽう、本能にかられた少年は、野獣の形相すさまじく、ぞっとするような感じで、頬といわず首すじといわず、まるでむさぼるようにキスをしましたが、むしろかみついたと言ったほうが正しく、数日たってもそのあとは彼女の肌から消えないくらいでした。
気の毒なルイザは、それでもおしまいまでよく辛抱して、やがて苦しみのうちにも喜びを見いだしていたのです。まもなく角をふりかざした雄牛が、つむじ風のような勢いで砂塵をけたてて突進をし、力いっぱい角を立てますと、もう彼女からは恐怖も何も消え去り、あるのはただ、シェークスピヤの言葉を借りれば、
その口、最愛のものに満たされ
だけでした。
ルイザは横たわったまま、張り裂けんばかりになっている自分のからだを、心から喜んでいるようです。今では身に過ぎたものの具のもたらす、身に過ぎた喜びを喜びとして受け取り、相手とともにあらあらしい悦楽のうずのさなかにあります。思いはただおのが身のいとしい一部にこもり、そこはまた熱い血潮をたぎらせております。いまはもう何もかも打ち忘れて、その点にのみ全存在がかかっているようです。こうしたえもいわれぬ陶酔のありさまは、しばたく両の眼、紅に燃える唇や両頬、感きわまった吐息などで、せつせつと見る者の心をうちました。その姿は少年と少しも変わらず、おさえのきかなくなったからだをただ動かしているだけ。相手はそういう彼女にあらしのような激情を呼び込みました。逆まく怒濤《どとう》がくり返し二人のからだを襲い、全身を波うたせます。やがてひときわ高い大波がうち寄せますと、その頂きから真珠のようなしぶきが降りそそぎ、さすがのあらしもしずまります。純情多感の白痴の少年は、その終末のすばらしさに感激して、思わず涙をそそぎかけ、うれしさのあまりほとんど咆哮《ほうこう》とも言ってよいほどの声さえあげ、その場にうち伏せます。ルイザにしても同様でした。いつしか少年を年来の恋人でもあるかのようにあつかい、うっとりと夢見心地の面持で、息もたえだえの様子。さて、少年が身を起こしますと、ルイザは喜びの涙にかきくれながら、なおもその甘美な余韻をかみしめているあんばい。ともかく精も根もつきはてたありさま、息をあえがせ、歓喜に打ちふるえるその躰でようやく命あるきざしを見せているだけでした。すぐに平静を取りもどすには、あまりにも強いショックを受けたようです。
少年はみごとにその役割を果たしてくれましたけれど、その顔つきといい、様子といい、何かしらこっけいなもの、いいえ、むしろ哀れっぽいものが感じられます。ふだんのうすぼんやりした顔の中に、自分の愚行を悲しげにくやむ色さえうかがわれました。呆然と立ちつくすそのからだには、今はもうすっかりおとなしくなった男性のしるしがしずかにゆれております。それはいやでも、がっくりとうなだれた少年の眼にはいり、やがて悲しげな顔をあげて、心ならずもなくしたものを返してくれとでも言いたそうに、ルイザを見つめます。けれども、おいおいに疲れた躰が回復してまいりますと、こんどは商品の花かごを気にしだしましたので、わたくしはそれをさがして手渡してやりましたが、ルイザはルイザで少年の服装を元どおりになおしてあげたうえ、花を全部言うままの値段で買い取ってやりました。少年はたいそう喜んでいたようです。もっとも、言い値以上に払いでもしたら、この児は勘定にまごついたはずですし、それにへたに大金でも持っていれば、人さまから何と言われるかもしれません。
その後ルイザがまた少年に誘いをかけたかどうかはぞんじません。おそらくそんなことはなかったと思います。あれだけ堪能すれば、好奇心も十分に満たされたはずです。少年も時たまルイザと顔を合わせましたが、一件についてはぼんやりとした記憶があるだけ。そのうちに彼のからだの噂をきいて誘う女も出てきたりしたので、いつのまにか彼女のことは忘れてしまったようです。ルイザ自身、この商売からまもなく足を洗うことになったのですが、少年とのいきさつは差しさわりがないとわかるまで、コール夫人には内緒にしておきました。たまたまルイザはある青年に恋してしまい、いかにも彼女らしくさっさと荷物をまとめますと、言い出して半日もたたないうちに、相手といっしょに外国へ出かけてしまいました。それ以来とんとご無沙汰ですが、噂を耳にするよすがもございません。
さて、ルイザが旅立ちましてから二、三日しますと、コール夫人の上得意の若いすてきな紳士が二人お見えになりまして、エミリーとわたくしを伴い、テームス川を少しさかのぼってサレー州にある自分たちの快適な別荘で、楽しい園遊会をもよおしたいからと同意を得ました。
したくがととのいましたものの、おりしも夏の日ざかり、とても暑うございましたので、お昼をすませてから出かけ、先方に着いた時は四時近くになっておりました。エミリーとわたくしはお集まりの殿方二人にみちびかれて、離れて立つ小高い亭に案内していただきましたが、ながめはよし、お天気はよし、それにお二人とも陽気でやさしいしで、すっかり溶けこんでお茶などをにぎやかにちょうだいいたしました。
お茶のあと、お庭を一まわりしますと、わたくしの相手をなさった殿方(このお邸のご主人でした)は、むろん今日は水遊びをするつもりで集まったのだから、陽気も暑いことだし、ひとついっしょに水を浴びないかと、いかにもコール夫人の家のお客らしく、きわめて卒直に申し出されました。向こうに見える川の入江には、そういうこともあろうかと日除けをちゃんと準備させてあるし、あの亭の脇のドアから抜けて出ればすぐに行ける、あすこならわれわれだけでじゃまもはいらないから、何をしようと全く自由だとか。
エミリーは人に誘われて断わったためしがございませんし、わたくしはわたくしで水浴が大好きときましたから、むろん異存のあるわけがなく、それにどういうおつもりかもすぐにわかりましたので、コール夫人の日ごろの教えもあり、喜んでお申し出をお受けいたしました。時間をむだにしないように、わたくしたちはさっそく亭に引き返しまして、脇のドアを通り、張られた日除けの下に出ます。綾織りの布は強い日ざしを快くさえぎり、おまけに何をしても見られないですみました。布の内側には刺繍がほどこされ、天井から両脇にかけてうっそうとした森が浮かび出ております。正面の壁に当たるところには同じく飾り彫りをした柱が、そのあいだに花瓶をおいて刺繍され、どちらを向いてもはなやかな効果をあげています。
それにこの日除けは水ぎわまでつづいていたうえ、水をかこんで椅子まで取りそろえてありましたから、ぬいだ着物をのせるのにちょうどよく、なおそのほかに何やかやいたしますにも都合がよろしかったようです。おまけに食卓までございまして、その上にはボンボンやらゼリー、リキュールやらブドウ酒の壜《びん》まで、水に冷えたり疲れた時の用意に、また何かのばあいの気つけ薬として置いてありました。ほんとうに憎いくらいな |もてなしぶり《シエール・アンテイエール》 です。この趣味のよさなら(奥さまは感心なさらないかもしれませんけれど)、たとえローマ帝国皇帝の接待役でも立派につとまるかと思われるほど、豪華さといい便利のよさといい全く申し分がございません。
お招きを受けた場所を一通り拝見いたしますと、あとはもう着ているものをぬぐだけ。二人の殿方は思い思いに相手の服をおぬがしになります。ふだんはヴェールにおおわれたからだの秘密も、赤裸々な告白をしいられます。正直に申し上げまして、そうされて不都合なことは何もございませんでした。けれども、わたくしたち二人の手はやはり自然に、いちばん関心のたかまるところへ運ばれて、殿方たちのご希望にそう時がくるまでそれをかくします。………あとのプロセスについては、奥さまも容易にご想像がおつきになりましょう。
さて、わたくしがお相手をする方は、シャツ一枚の姿になられましたが、やがて美しいキューピッドのようなからだをお見せになり、わたくし目がけて愛の矢をおつがえになります。そのすてきなご様子にわたくしは心を射抜かれた思いでしたが、あまりの暑さにまだそのまま涼んでいたい気持、それに何はともあれ水浴がしたかったので、ひとまず気をしずめていただき、しばらくおあずけになさったほうが、いっそうの喜びを感じられますと言いそえました。ご承諾をいただいて、わたくしたちは、すでにあやうい様子のエミリーたちに節制のお手本を示しながら、手に手を取って川にはいります。やがて首まで水につかりましたが、そのひんやりとした快さ、おりからのむし暑さも忘れるすがすがしさ、わたくしはうれしくて蘇生する思いです。むろん、たちまち全身の官能が目ざめてまいりました。
しぶきをあげてわたくしたちは水にたわむれます。エミリーたちには残って好きなようにさせておきました。相手はわたくしの頭をおさえて水に沈めたばかりではございません、はてはいろいろの悪戯を考えてからかったり、水をはねかしたりいたします。もとより、わたくしも黙っていたわけではありません。言ってみれば、二人で底ぬけのさわぎをしたわけですが、ついでわたくしを洗ってやると言いながら、相手は遠慮気がねもなく、襟《えり》すじといわず、胸といわず、おなかといわず、膝といわず、その他いたるところ、いとしいと思われる場所へその手をはわせました。いつのまにやら、わたくしたちは胸から上を水面に出しております。もはや男女のちがいはかくす術もありません。流れの中で手をさしのべられますと、わたくしのからだは水にもめげず燃えたちます。時を同じくして彼のからだも流れに抗して立ちあがり、濮上の楽を奏する用意があることを知らせます。そして片手をわたくしの肩にまわし、ともすれば流されがちのからだをつとめて支えようといたしました。そんなぎごちない姿で楽しむ気にはなれませんでしたけれど、たまたまエミリーたちの熱っぽい場面が眼にとまり、とやかく異議をさしはさむわけにいかなくなります。エミリーの相手は水遊びにあきて、ニンフのような彼女を先ほどの椅子へ連れて行き、冗談と真剣のちがいを、ていねいに教えているところでした。
エミリーを膝にのせ、水のしずくに輝いて磨かれたようになめらかな雪より白い肌を、片方の手でなでさすっておりましたが、その美しさはまさに生ける象牙のよう、特にルビーを二つちりばめた乳房は、見る者の心をとらえてはなしません。さて、もういっぽうの手はと見ますと、愛のやどりを求めて、執ように秘密の花園をさぐりつづけております。でも、エミリーはすぐに許すようなことをせず、やさしい風情でためらいながら、喉《のど》から手の出そうな気持をおさえ、長びかせておりましたが、その様子がいかにも品よくかわいらしいので、ますます相手を夢中にさせたようです。それに、いまにも絶え入りそうな彼女の眼には、ありありとこばむ気配とともにせつない欲望の色がうかがわれ、羞恥をふくんだその美しさはいよいよ人の心をとらえてやみません。相手をさける様子にせよ、とても魅力のあふれたものでしたから、彼はもう矢も楯もたまらず、キスの雨をそそいだのです。むろん、彼女は身をひるがえしてのがれるそぶりを見せたのですが、そうしながらも抜け目なくそっとお返しをしましたので、相手はますます喜んでキスをうばう楽しさにうつつをぬかします。
このようにエミリーは、いずれ恍惚の境地をねがうにしても、ただひたすら、はにかみにはにかんで、いつしかなびくと見せかける技倆を身につけておりました。ですから、いかに相手をふりほどこうと、身をくねらせたり、もがいたりいたしましても、そこはちゃんと限界をこころえており、その証拠に彼女はさからいながらも、明らかにいっそう相手にからだを寄せて、ところきらわずまつわるようにします。ちょうどそれは、二本のぶどう蔓がからみ合っている風情でした。動機は異なるものであっても、結果はやはり、ルイザが白痴の少年からのがれようと必死になったのと変わりません。
ともあれ、二人とも冷たい水からあがったばかりなので、からだはほんのりカーネーションのように赤らんで、そろって色白のなめらかな肌をしております。ですから、このようにからだを寄せてむつみあっていますと、いくぶん栗色のまさった男の髯でもないかぎり、いずれがいずれともほとんど見分けがつきません。
しばらくすると、ほんとうに二人のからだは一体となりました。こうなりますと、もういろいろお芝居などいたしていられません。そんな余裕はもはやないのでございます。全く、いまさら何の技倆を要しましょう。中心のまたその中心まで軍勢が侵入しました以上、誇り高き征服者のじゅうりんにまかせるほかないではありませんか。けれども、まもなく征服者の屈服する時がまいりまして、彼女はみつぎ物をあまた相手に捧げさせました。あたかも決闘をしてその相手を足もとに倒したあんばい。しかし致命傷を与えましても、エミリーは勝利におごるわけにまいりません。彼女もまた一弾をうけて、眼をつむり、声たかく呻吟しながら、手足をのばしてぐったりとしたからです。それは物みなすべてかくあるべき光景を如実に現わしておりました。
わたくしはと申しますれば、そのあいだ水中でただじっとして、このお熱いやりとりをながめていたわけではございません。こちらも相手の男性にそっともたれて、どうごらんあそばして? と眼顔でおたずねしてみたのです。けれども、彼は口より眼よりまず行動でわたくしにこたえようと、せきこんで岸に向かってしぶきをあげましたが、愛情のしるしがすでに大きくふくらんでおりますのが垣間《かいま》見えます。こうなりますと、哀れみの心などとやかく申しているばあいではなく、一時も早くお互いの幸福をはからねばなりません。それに、すぐ眼の前に渇《かわ》きをいやすものがあるのに、このうえ長びかせて相手を待たせるなど酷にすぎましょう。
並んだ椅子の一つにわたくしたちが腰をおろしますと、まだ船旅をつづけておりましたエミリーたちは食卓の前へ行き、わたくしたちの航海の前途を祝って乾杯をしてくれます。その時はもう、こちらも順風に帆をはらませ、腹いっぱい荷を積み込みまして、つつがなく船路についておりました。さしたるひまも取らず、やがてわたくしたちは|愛の女神《シテリヤ》の港に無事到着し、積荷を全部おろします。もっとも、その間の事情はあまり変わりばえもいたしませんので、省略することにいたしましょう。
ここでちょっと思いつきましたまま、わたくしの文章に比喩的な表現が多い点を釈明させていただきます。もちろん、内容が詩的でないかぎり、そんなわがままは許されることではありませんが、ここに書きしたためました内容は、詩的と言うよりむしろ詩そのもの、想像の花咲きにおう男女の愛情の機微にふれますものでございます。たとえ、あからさまな表現が一般に禁じられていなくとも、この手法は変えられません。
それはさておき、その後もくり返しくり返し相も変わらぬ始末(と申しましても、そういうくり返しはやはり万人の好むところです)、そのたびごとに微妙な変化をもたせては、夜のふけるまでわたくしたちは寸陰を惜しんで楽しみのかぎりをつくしました。やがて送られてコール夫人の家まで帰りましたけれど、お二人とも心から感謝してくだすった様子です。
また、これをかぎりにエミリーはわたくしたちから別れることになったのですが、そう、一週間もたたないうちに、取りたてて書くまでもないようなふとしたきっかけで、両親に見つけられてしまったのです。親たちはかなりの暮らしをするようになっていましたが、息子を偏愛してあまやかしすぎた罰を受け、いまではその息子にも死なれておりましたので、長いあいだのかたよった愛情が堰《せき》を切ったように、こんどはいびりぬいて家出までさせた娘の上にふりそそぐ結果となりました。それまでにだってさがす気があれば、とうに連れもどせましたものなのにと思われますが、ともかく娘の帰ったことで大変な喜びよう、何をしていたかなどとやかく詮索する気も起こらなかったふうで、しかつめらしくコール夫人が語る言葉さえすべて真に受け感謝して行きました。ほどなく田舎から、立派なお礼の品が夫人のもとにとどいたようです。
ところで、エミリーに抜けられてみると、おいそれとその補充がつきません。美人である点はさておき、彼女ほどものやわらかですなおな性格の女はそうざらにいないのです。心から感心しないまでも、愛さずにはいられません。いずれにしても相手にして損はない女でした。弱点といえばあまりにも人のよいことで、かんたんに第一印象に支配されてしまいますが、自分でもそういうだらしなさはよく承知しており、身の上を案じて教えみちびいてくれる人があれば、すなおに言うことをきくつもりでいたのです。彼女ならいつでもすてきな、いいえそればかりか、きわめて貞淑な奥さんにさえなれます。身を落としたと言いましても、何も好んでこの道にはいったわけではなく、やはり運命で、そういうチャンスやお手本さえなければ、それに彼女自身が環境に左右されがちな性質でさえなければ、おそらく何でもなかったはず。わたくしの推測のまちがいでないことは、ほどなくはっきりいたしました。と言いますのも、田舎へ帰るとすぐに縁談がもちあがり、とんとん拍子に話がすすんだからですが、相手はご近所の同程度の家の若い生まじめな息子さん。海で夫をなくした船乗りの後家さんというふれこみを信じ(お客の中にそんな人がいたことは事実で、その名前をちょっと借りたまでなのです)、彼女は彼女で例の単純さからごく自然に、まるで一度も足を踏みはずしたことなどないような顔をして、立派な奥さんぶりを発揮したのです。
いずれにしてもこうなりますと、コール夫人の家は閑古鳥が鳴くありさま。残っているのはわたくしきりになりましたから、牝鶏がひな一羽連れて歩いているようなあんばい。人さまはさかんに新兵さんを補充するようにおっしゃってくださいましたけれど、寄る年波にからだも弱り、その上がんこな神経痛に苦しめられていましたので、なおる見込みもなし、いっそ店をたたんで小金をもち、田舎へ引っ込もうと夫人は決めたのです。わたくしもあと少しかせいで、一人立ちできる程度にお金がたまりましたら、すぐに追いかけて夫人のもとへ行くと約束しました。そんな一人前の口がきけるようになれましたのも、ひとえに夫人のおかげだったのです。
こうしてわたくしは、ロンドンの通人のあいだで絶品とまで評された、すばらしい腕前の先生を失ったわけでございます。夫人はお客からお金をしぼるようなまねはけっしてしませんし、ご注文にはいつでも親切に応じておりました。娘たちにだって無理じいして苦しめたことなど一度もなく、ましてや、せっかくのかせぎの上前をはねたり、割り前をよこせなど、ついぞ口にしたためしもございません。夫人はまた絶対に生娘をそそのかすようなことをいたしませんでした。誘うのは、すでに体をけがされた若い不幸な女たちで、しかも同情に値するような手合いです。その中からお眼鏡にかなった者をえらび、自分の庇護の下に置いて、身をほろぼす悲惨な境遇からまがりなりにも救ってやりました。そのいきさつはすでにごぞんじのとおりでございます。さて、いっさいの後始末をつけますと、彼女はわたくしに別れを惜しみながらロンドンを旅立って行きましたが、おしまいにいろいろ忠告までしてくれて、まるで生みの母親のような心配ぶりです。そんなに気にかけていてくれたかと思いますと、どうしていっしょに行くことにしなかったのだろうとくやまれてなりません。けれども、どうやら運命は別の道をととのえていたようでした。
コール夫人とも別れましたので、わたくしはメアリルボーンの近くに小ぢんまりした住み心地のよい家を見つけて借り、家具類はなるべくさっぱりとしたものを入れました。かれこれ八百ポンドはかかりましたでしょうか、むろんコール夫人のおかげで貯めたお金です。それでも、衣類や宝石類や銀の食器類を別にいたしましても、しばらくはあくせくせずに暮らしてゆけるだけのものは残りました。
この家で、わたくしは船乗りの夫を待つ若い人妻というふれこみにし、いかにもそれらしい生活ぶりを心がけながらも、ばあいによってはどうにもなびくそぶりを見せたのですが、それでも上品にお行儀をよくするよう厳に自分をいましめました。言わずもがな、コール夫人のまぎれもない愛弟子ですもの。
さて、家に落ち着いてまもなく、ある朝かなり早く、戸外の新鮮な空気にふれようと、新しくやとい入れた女中を連れて、わたくしが郊外の散歩を楽しんでいた時です。ふいに咳ばらいが聞こえたので、びっくりしてふり向きますと、立派な服装をした年配の紳士がいるではございませんか。よく見ると急に発作でも起こしたらしく、もう一歩も動けぬありさま、木の根もとにしゃがみこみ、顔色をまっさおにして苦しそうに息をつまらせております。思わずはっとして介抱に駆け寄り、見よう見まねでネクタイをゆるめてから、背中をたたいてさしあげますと、さあそれがききましたのか、自然に咳がおさまりましたのか、そのへんはよくわかりませんけれど、発作はすぐになおりました。立ち上がられると、まるでわたくしが命の恩人でもあるかのように、ひどく感激してお礼を申されます。それがきっかけでお話をいたしましたが、お住まいはそこからかなり離れていらしって、やはりわたくし同様ちょっと朝の散歩をなさるおつもりが、ついうかうかとこんなところまで足をのばされてしまったとか。
ふとしたことでお親しくいたしましたこの方は、後日うかがったところによりますと、やもめ暮らしでお年はもう六十を越しているとか。でも血色のいいお顔はどうしても四十五、六にしか見えません。それもこれも身のほど知らずの欲望を固くいましめていらしたからだそうです。
お生れやご身分の点になりますと、ただご両親が正直な一文なしの職人というだけで、幼いときにお亡くなりになってしまいましたから、かいもくわからないのだそうでございます。慈善学校を出てからは、かげひなたなくはたらいて、さる商館にお勤めになったのですが、そこからスペインのカディス在の商館にうつられますと、才能と努力のすえに財産も財産、巨万の富をきずかれて、故国へおもどりになったそうです。ところが、いくらおたずねになっても、お生れがお生れだけにはっきりせず、ただ一人の系累も見当たらなかったとか。そこで引退をなさることにし、ひっそりと余生を貯えのある気安さで送っておいでなのですが、財産などは少しも鼻にかけようとなさいません。いいえ、見せびらかすどころか、むしろ努めておかくしになっているくらい。俗塵をはなれて、人知れず暮らそうというお考えです。
けれども、この方との生涯忘れられない友情については、あらためて詳しくお手紙をさしあげるつもりですので、ここでは、いままでの話のつぎ穂としてちょっとふれさせていただきましょう。さもないと、どうしてわたくしのような生命の喜びのさなかにある女が、三倍も年のちがう老人を恋人にもったか、奥さまもご不審に思われるとぞんじますので。
ですから、どんなふうに関係が深まりましたかは、包まず次のお手紙にしたためることにいたします。むろん、最初はなんでもございませんでしたけれど、やはり自然の情で離れられない仲におちいり、互いに陰陽のエレキとなって火花を散らしてしまったのです。でも、ここでは、まだその方のお年では女性に接しておだやかでいられないこと、能力も多分にお持ち合わせだったこと、たとえ若さの魅力に欠ける点はあっても、それはゆたかな経験やすぐれたマナーなどで十分に補えたことなどを書くにとどめておきますが、とりわけすてきだったのは、知性をはたらかせて人の心をみごとにつかむ点でした。知性などという言葉も、わたくしはその方からはじめて聞いたのです。それまでのわたくしなら一顧に値しなかったそんな言葉も、なんとなくうれしくひびいてなりません。その上、いかに正しく知性を身につけるかということまで、教えていただいたのです。以来わずかなりとも努力をいたしましたので、その成果は多少あがったかとぞんじられます。なおそのほかに、精神的な喜びが肉体的な喜びにまさること、同時に両者が相反するものどころか、むしろ互いにさまざまの変化を見せながら、相補いつつ趣味嗜好をたかめ、やがていっぽうのみでは到達しえない境地にまでいたるとか、そんなふうなこともこの方がはじめて教えてくださいました。
だいたい割りきったお考えの持ち主でしたから、人間本然の喜びをいやしむような愚かなまねをなさらず、心からわたくしを愛してくださいましたが、その愛もけっして品位を落とすようなものではなかったのです。いやらしい年寄りにありがちな厚かましさとか、気むずかしさとか、それによく見かける醜い子供じみた溺愛などとは、およそ縁が遠かったのです。そんな老人の趣味を、この方はよくお笑いになって、はねまわる仔山羊のまねをするおじいさん山羊のようだとおっしゃっていました。
いわば、この方の年齢にありがちないやらしさが、どれもこれも多くの長所でカヴァーされていたわけで、老人でも立派に、血気さかんな若者をまねず養生を心がけて楽しめば、それ相応の能力に欠けてはいないことを、明らかに身をもって証明されたと申せましょう。季節はずれの果物は、よほどの技術と知識がなければ実らせるわけにいかないのと同じでございます。
お知り合いになりましてからまもなく、わたくしはこのご年配の紳士のお宅に引き取られまして、八ヵ月ほどごいっしょに暮らしました。そのあいだずっと、ご信頼とご愛情にこたえ、誠心誠意かげひなたなくお尽くしいたしましたので、わたくしのまごころも通じ、たいそうかわいがってくださいました。そのうち、ほんとうに心をお許しになり、当座一人立ちできる程度の財産を、わたくしの名儀にしてくださいましたが、おしまいにはとうとう、わたくしの行く末を案ずるあまり、全財産のただ一人の相続人にまでご指定くだすったのです。しかし、手つづきを取りましてから二ヵ月もたたないうちに、お亡くなりになってしまいました。ある寒い晩、街中の火事を見ようと窓をあけ、はだけた胸を冷たい夜風にさらしましたのが悪く、肺炎になり、そのまま神のみもとへおたちになったのです。
亡くなった恩人の野辺の送りをすませましたものの、心から悲しみは消えるべくもありません。けれども、やがてその悲しみもやさしかった故人のなつかしい思い出となり、いまもなおわたくしの胸に生きつづけております。相続いたしました財産は、たとえそれで幸福がもどらないにせよ、莫大きわまるものでしたから、少なくとも先行きの不安だけはなくしてくれました。
それにしてもわたくしは、花ならば今をさかりに咲き誇る年ごろ(まだ十九にもなっていなかったのです)、思いがけない大金を手にいたしまして、頭が少しもおかしくならずにすみましたのも、ひとえに亡くなった恩人の日ごろの教訓のおかげでございます。また、恩人がかくも莫大な財産をわたくしに遺そうとお考えになったのも、コール夫人のもとで身につけましたつつましさで、ささやかな貯金をしている姿をごらんになったからにほかなりません。
ああ、けれども、いくらこのようにお金を持って、安逸な暮らしを楽しんでおりましても、恋人のいないさびしさには耐えられません! このさびしさを満たしてくれるのは、ただ一人、心から愛するチャールスをおいてないのです。
むろん、わたくしは彼のことはすっぱりとあきらめておりました。別れてから手紙一つもらっていませんし、いいえ、もらってないといっても、それは彼のせいではなく、いくら手紙を書いてもわたくしまで届かなかったのが、後日になってわかりました。だからといって、片時も忘れたことなどございません。次々の男にからだをまかせましたけれど、ほんとうの愛情をわずかでも感じさせてくれた相手は、チャールスをおいて一人もいなかったのです。
さて、思いがけない財産を手にいたしてみますと、つくづく彼を愛していることがわかりました。彼のいない幸福など考えられません。ともかく、なんとかその消息を得ようとやっきになったのですが、尋ねあぐねたすえにやっとわかりましたのは次のようなことだけ。お父さまは不遇のうちにお亡くなりになり、いっぽうチャールスは目的地の遠い異国の港に着いたものの、伯父さまの荷を積んでいた船が二隻とも沈んだため、遺産といったほどのものはもらえず、わずかばかりの財産を手にして帰国の途についたとか。たしかな筋の話では、二、三ヵ月もすれば英国に着くだろうということです。考えてみれば、出かけてからもう二年七ヵ月もたっておりました。愛する者には千秋の思いです!
最愛の恋人にまた会えるかもしれない、そのうれしさをご想像くださいませ。けれども、まだ数ヵ月も間があるかと思うと、待ちどおしくていても立ってもいられません。いくぶんでも気をまぎらそうと、家事の始末などをつけましてから、わたくしはランカシャーへの旅に出かけました。財産相応の旅じたくをととのえ、なつかしい故郷に錦をかざる考えです。それに例のエスター・デヴィスが、わたくしを旅館に置き去りにしたら雲がくれしたので、これはてっきり植民地にでも売りとばされたのだろうと思いこみ、そんなふうに故郷へ伝えていましたから、とんでもない、これこのとおりと無事な姿を見せてもやりたかったのです。また、ひょっとして遠い親類でも見つかったら、多少のことはしてやりたいとも思いました。それから、コール夫人が引きこもっておいでのところが、ちょうど道すじに当たっておりましたので、ついでにお寄りするのも楽しみの一つだったのです。
召使いたちのほかに、話し相手として、たしなみのある上品な婦人を一人連れてまいりました。さて、ロンドンから二十マイルほどはなれたところで、一泊しようと旅館に入りましたら、とたんに大あらしです。もう少しのところで濡れずにすんだので、ほっといたしました。
あらしは三十分もつづいたでしょうか、ふと馭者に言いつけることを思い出し、呼んでこさせました。せっかく裾をよごさないようにきれいに床のみがかれたお部屋を、馭者の靴で泥だらけにしてはいけないと思い、台所に出向いて話をしながらなにげなく眼をそらしますと、このあらしの中を、男の方が二人、馬に乗ってお着きです。どちらも袖をしぼるくらいのびしょ濡れ姿。一人のほうが、乾くまで着替えを拝借したいがとお頼みになりましたが、まあ、どうでしょう、その声のひびき! 思わずはっとしてそちらを見ます。たとえ長い年月の空白がございましても、また、たとえ服装が頭巾つきの乗馬マント、それに縁の広い帽子と、まるで変装でもしたように違っておりましても、恋する者の耳はけっして欺《あざむ》かれません。無我夢中でわたくしは駆け寄り、彼の腕に飛びこんで、首にしがみつきながら、おいおいと声をあげて泣きました。「あなた!……あなた! チャールス!……」それ以上は物を言う力もぬけ、突然のうれしさに気が遠くなりました。
ふとわれにかえりますと、わたくしはチャールスの腕に抱かれて広間におります。まわりには驚いて駆けつけた人たちががやがやと取りまいていました。とっさにチャールスを夫と見た宿の女将さんが、気をきかせて並みいる人たちにその場をはずしてもらい、わたくしたちを水入らずにしてくれたのです。うれしいとは申せ、そのショックの強さは、運命に二人が引き裂かれた日よりもひどうございました。
気がついて最初に眼にはいりましたのは、ほかでもなくあのなつかしいチャールスの姿です。片膝をついて、しっかりとわたくしをかかえ、夢見るような眼ざしでわたくしを見つめております。こちらが正気に返ったのがわかると、あらためて声を聞き、わたくしであることを確かめようと懸命に話しかけます。けれども、あまり不意なことなのでびっくりしてしまい、喉《のど》がつまって言うことをききません。どもりがちにわけのわからない言葉をとぎれとぎれ口走るだけ、むさぼるように耳をかたむけ、わたくしは前後を結びつけながら、言わんとする意味をくみ取ります。「長かった!……ひとりきりで苦しかった!……ファーニィ!……ほんとに……ほんとに君なのか?……」そう言うとキスでわたくしの口をふさぎましたので、何も返事ができません。身も心も溶けてしまいそうな喜びに、しだいに頭も混乱してまいります。でも、こんな幸福のさなかにありながら、ただ一つ恐ろしい疑念がぬぐいきれずにございました。目前の幸福も一瞬にしてくずれ去るような疑念です。ほかでもなく、しあわせすぎて、いったいこれがほんとうに起きたことなのだろうかと空恐ろしくなったのです。しょせん一場の夢にすぎぬとすれば、かならずさめる時もあろう、それを思うと心配でふるえてまいります。すっかり不安になったわたくしは、はかなく夢が消え去ってわびしい思いをする前に、なるべく目前の喜びを心ゆくまで味わって、しっかりと掌中にしておこうと、チャールスにすがりつき、もう死んでも二度と離さないつもりでした。「どこにいらしたの?……わたくしを……わたくしをおいて、いったい?……ねえ、あなたまだわたくしのものなのね……まだ愛していてくださるのね……それなら、さあ、さあ!」まるで唇がついてはなれぬようなキスをしながら、さらにわたくしはつづけました。「あなたのことも許してあげますから……留守中のわたくしのことも許してくださいね、せっかくまた会えたんですもの」
こんなあられもない絶叫も、愛し合う仲では立派な雄弁となります。相手の口から思いどおりの返事が、ちゃんと返ってまいりました。そのままわたくしたちはしばらくのあいだ、抱きあったり、質問をしたり、答えたり、とりとめもないありさまでした。お互いにかけちがったり、ぶつかりあったり、うれしいほどの混乱ぶりですが、眼と眼が合えば気持はまったく通じます。あらためて時間の空白など、わたくしたちの愛にとって、何の影響もなかったことがはっきりいたしました。息一つにせよ、身うごき一つにせよ、手ぶり一つにせよ、二人の愛情の強さを物語らぬものはなかったのです。わたくしたちは情熱をこめて、何べんも手をにぎりあいました。そのたびに、じいんとしびれるものが心に返ってまいります。
こんなふうにまるで夢中になっておりましたので、うっかりチャールスがまだずぶ濡れなのを忘れていました。かぜをひく心配があります。ちょうどいいところへ宿の女将さんが上等の着替えを持って現われました。きっとわたくしの供まわりでも見て(そんなことをチャールスは何も知らなかったのです)、上客と思ったからなのでしょう。おかげでどうやら平静に返れましたので、さっそく厚意を受けて着替えをするようにすすめます。何といっても、彼のからだが心配でなりませんもの。
女将が出て行きますと、彼は黙々と着替えに取りかかりましたが、長いこと会っていないせいか、少々遠慮めいたふうです。それでも下着を取りかえる時には、どうしても裸姿《はだか》にならないわけにいきません。いやでもわたくしの眼は、その昔どおり色つやのよい肌に向いてしまいます。少しの衰えも見せない溌剌《はつらつ》とした面立ちには、あいかわらずやさしい気持がにじみ出ていました。
まもなくチャールスは借着を身につけて出てきます。たぶん似合わないだろう、少なくともわたくしの愛人にはふさわしくないものだろうと思っておりましたが、いざ着た姿を見ると、どうしてなかなかよく似合っています。恋は魔術師、愛する人が身につけていれば何でも魅力を感じさせるのでしょう。それに、じっさい彼のからだならどんな服装をしてもすてきだったのかもしれません。さて、あらためてとくと彼の姿をながめてみますと、久しく会わなかったのに全然変わっておりません。
忘れもしない顔です、生き生きと紅潮したあの顔です。ただ、ばらを思わすその色がいちだんと深まっておりました。旅に日やけして、髯《ひげ》も心なしか濃くなったよう、それでも以前の美しさは少しもそこなわれていません。かえって男らしさが加わったくらいで、本来の色つやとほどよくとけ合い、すてきな均整を見せております。ふれれば快く、ながめれば紅に輝く、みずみずしい豊かなあの肉づきも昔のままです。肩幅はいくぶん広くなった感じ、全体に何となくがっしりたくましくなったようですが、動きの軽快さは昔に変わりません。要するに、まだうら若かったころにくらべ、一まわり大きく立派なからだになっていたのでした。と言っても、まだやっと二十二歳になったばかりです。
こんな観察をしているあいだにも、彼のとぎれがちに語る言葉をつなぎ合わせてみますと、待てばいいのにこんな季節に乗り込んだ船が、アイルランドの沖合いで難破したため、持ち物全部をなくし、かくもさんざんなありさまで、これからロンドンへ向かう途中。ですから、道づれになった船長ともども、うって変わった無一文、ひどい苦労をしながら、ここまでたどりついたのだとか。いずれにしても、これから新規まきなおしに出直さなければならないと申します(お父さまのお亡くなりになった話は知っていました)。また、いくらつらくても別に苦にはしないけれど、こんな始末では思うようにわたしを幸福にさせてやれない、それだけが気にかかるとしみじみ語りますので、思わず胸がじいんといたしました。むろん、わたくしの莫大な財産については、あとで彼をびっくりさせてやろうと考え、しばらくはおくびにも出さずにいたのです。おまけに着ているものといったら喪服で、それもきわめて地味なものをたしなみとして着ていましたから、気づかれる心配はまずございません。やがてチャールスは、好奇心にかられたように、二人の仲を裂かれてから、いったいどんな暮らしをわたくしがしてきたかと、さかんに聞きたがります。けれども、いずれ近いうちにゆっくりお話をいたしますからと、なるべく質問をはぐらかし、うまくその話題からはのがれるようにしました。
何はともあれ、チャールスは待ちこがれていたわたくしの腕の中にもどってきたのです、やさしく、美しく、丈夫なからだで。それだけでもわたくしは幸福すぎるくらいなのに、彼はまさに苦境に立っているではありませんか!……落ちぶれて無一文、全く裸一貫のありさま、心を尽くすとすれば、願ってもない状態です。そう考えると、みるみるうれしさで顔がほころびました。相手が財産をなくしたと聞いて喜ぶなど、不謹慎にもほどがありますが、そういうわたくしを彼はただ、自分がもどったうれしさにはしゃいでいるのだろうと見て取り、別にあやしみもしませんでした。
とかくするうちにも、チャールスのお仲間のめんどうは、わたくしの連れの婦人がよくみてさしあげたのです。夕食の時間になりますと、その方に紹介されましたが、愛する人のお友だちですもの、快くお迎えいたしました。
それから四人そろって楽しく無事を祝い、お食事をいただきましたが、そのにぎやかさはご想像におまかせいたします。わたくしはあまり興奮したせいで食欲が出なかったばかりか、まだまだ最愛の人の姿をあきずながめていたい気持だったのですが、馬に乗りつづけてきた彼がきっとおなかをすかせていることと思い、すすめるつもりで無理にちょうだいしました。思ったとおり、どしどしチャールスは平らげます。でも、食べながらわたくしをふり向き、いかにも恋人らしく話しかけてくれたのです。
やがてお食事がすんで、ベッドに入る時間がきます。チャールスとわたくしは、もう何も言わないでも夫婦とわかっていたらしく、その旅館でいちばん立派な寝室へ通されました。
奥さま、もう一度わたくしの取り乱す姿をお許しくださいませ。ベッドのカーテンも引かず、つつしみも何もうち忘れ、これを最後とふるまったのでございます。思えば、若さにまかせた数ある経験のうちでもまたとない光景を、つぶさにここでしたためさせていただきましょう。
案内された寝室で二人だけになりますと、ベッドのたたずまいに初夜の思い出がほうふつとし、たちまち生娘に返ったような気持になり、ひょっとするとこの人を抱いて声をつまらせ、またも気を失うかもしれない、そんなふうに考えられ、胸がいっぱいになりました。チャールスはただならぬわたくしの様子に気がつくと、自分も似たり寄ったりな状態なのに、わたくしをしずめようと懸命になります。
けれども、どうやらわたくしは純粋な情熱を取りもどせたようです。そのきざしとしてわたくしの心は、ためらい恥じらいつつせつせつたる思いにうちふるえていました。魂の底からあふれ出たものです。長いあいだ、ほんとうに長いあいだ、つまらぬ男たちとつまらぬ交渉をもってまいりましたけれど、ただの一度もこのような気持のわいたためしがございません。過ぎたこととはいえ、身の不徳に悔恨の吐息が出るばかり。犯したあやまちを恥じるこのわたくしの気持は、初夜の床に純潔を失って頬をそめる処女の比ではございません。まことに、チャールスを愛すれば愛するほど、その彼にわたくしの値しないことが痛感されてくるのです。
このようなそこはかとないうれいに思い惑って、わたくしがためらいがちにしておりますと、チャールスは待ちきれないように、手を貸してわたくしの服をぬがせにかかりました。もう胸がどきどきして何が何やらわかりません。コルセットをはずした彼が乳房に手をかけ、うれしそうに感嘆の叫び声をあげたことだけは覚えています。高なる鼓動に息をあえがせておりますと、いささかの衰えも見せず大きく引きしまっているわたくしの乳房を見て、彼は大喜びでした。
まもなくわたくしはベッドに入ります。服をぬぐのももどかしそうに、つづいてふとんにもぐった彼は、腕をまわしてわたくしを抱き寄せ、いかにも感にたえぬというふうにキスをしてくれます。暖かい愛情が唇からつたわってまいりました。そのえもいわれず身も心もとけるかと思われる情感は、不思議とチャールスのみが与えてくれるもの、まことの喜びと申せましょう。
ロウソクが二本、サイド・テーブルで輝き、薪は煖炉に燃えて炎をおどらせ、明るい光がベッドを照らしています。わたくしたちの喜びには欠かせぬ明かりが、ほどよく映えて、一言もさしはさむ余地がございません。事実、待ちに待ったあこがれの人の姿がうつし出されているだけで、いっそ死んでもよいほどのうれしさでした。
やがて、やむにやまれぬ気持がわたくしたちを駆りたて、チャールスはほんのわずかな戯れののち、互いの帯をといて、男らしい広いその胸をぴったりわたくしの胸に寄せました。二人の胸の鼓動が天上の楽をかなで合います。たくましい彼のからだを肌身に感じ、わたくしはもう何を考えるひまもなく、魂の底からかぎりない喜悦のさなかに身をゆだねます。たんに男女であるがゆえにとは申せません。この人だからこその結果で、何よりも心が正直にそれを語っておりました。わたくしの心は、つねにチャールスのもとを去らなかったのでございます。一時の衝動やら気弱さやらお金のためやらで、何べんかは身を捧げた男もありましたけれど、けっして魂まで売ったおぼえはございません。それにしても、喜びにうちふるえる力づよいからだが、いよいよわたくしに迫りました時の気持はどう申したらよいでしょう。過ぎし日の乙女のいのちをうばって勝ちほこりましたトロフィーが、まざまざと甦《よみが》えった感じです。それまではお行儀をよくし、膝をそろえていたわたくしでございますが、もはや何ものをも越えずにはやまない心になりました。
忘れもしないその感触には、余人の追随をゆるさぬ特有の趣がございます。ひとたび手にいたしましたときのなつかしさ、うれしさ、とうていほかにこれを求められません。まあ、奥さま、ひとつお考えくださいませ! これほどわたくしたち女性の中枢を喜びにわき立たせるものがございましょうか、それも愛する人のものなのですもの。ことに長いあいだ引き裂かれていた二人の仲では、全女性を支配する王笏《おうしやく》のもと、心はあらたに燃え立たずにはいられません。しかもその力に満ちた采配ぶり、いやでも喜々としてしたがいたくなります。さて印象をいかにと問われましても、答えるすべがございません。また、その王笏が最愛の人に手にあるかと思えば、心もはずみ感動もいちじるしく、あまねく恵みをお受けして、いっさいを捧げるつもりになります。今はもう、白熱するガラスが放つ光線のように、すべてが一点に集中されて燃えさかるばかり。いちだんと歓喜がたかまりますと、あれほど待ちこがれていた悦楽に身を裂かれる思いで、息もたえだえとなりました。そして、いずれも魅力ある二つの考えが、どうしても頭の中で結びついてくれません。つまり、喜びあふれる王笏を持とうか、それとも大きな愛のしるしを受けようか、どちらもすぐ手のとどくところにございます。この二つの考えは、流れを合わせたように、こんこんと至福に満ちた大海へそそぎかけ、わたくしはもはやその荷に耐えられぬか弱い船のようにただよいます。もう何もできません。吸い込まれるように恍惚の淵へ身をしずめ、ただならぬ喜びに死ぬほかはないように思われました。
すると、チャールスはこのようなありさまのわたくしを揺り起こし、やさしくキスをしながら、このままではいつまでも自分が満足できないと、不平そうにつぶやきます。たしかに彼の言うなりの姿勢を取っていたのでございますけれど、それはただ喜びをより大きくするための方便にすぎず、ただわたくしだけが勝手にこよないものと感じていたにすぎません。それにしても、このようなまちがいをなおす楽しさはまたかくべつでございます。わたくしはすなおに言いつけをきいて、それまで合わせていた両膝をほどき、天上に誘う道をそっとしめしました。すると、どうでしょう! わたくしの視線に真紅の花束の頂きがうつり、二人のからだはいっしょになったのです。……ああ、恍惚としたそのおりの光景は、今もあざやかに脳裏にうかび、思わず筆を置いてしまうほどです。それを描くにはわたくしの筆はつたなすぎます、想像をはたらかせる力もすでにございません。正しく伝えるためには、かつてわたくしの全身をくまなく駆けめぐり燃え立ち、すさまじい愛の火花を両眼に散らしながら、はては一団となって無上の喜びをかき立てたあの激情の炎がなければなりません、その炎に呼びさまされた想像力がなければなりません。
さて、わたくしを射たキューピッドの矢は、まごうことなくふかぶかとささりました。かねて身におぼえのあるなつかしい矢ですもの、わたくしのからだはおのずと温かく迎え、むしろ感謝をこめて肌身深く包みこみます。そして、しっかりと抱いて、忘れられない至福のおとずれをじっと待ちます。
しばらくのあいだ、わたくしたちはそこはかとない喜びにひたり、身一つの夢見心地に遊びます。やがて、より大きな喜びを願う心がさわぎたち、ふたたび行動へと駆りたてます。まず、彼のからだが波うちはじめ、つづいてわたくしも身をふるわせます。そのうちに喜悦の情がいやまさり、舌ももつれるありさま、しだいに何とも言えない甘美で、全くしびれるような陶酔がおとずれ、するどい刺激が全身をはしり、それとともにひたむきな愛情は目的を目がけてまっしぐらです。愛情! この言葉はおもしろい洒落となったようですけれど、ともあれこの愛情がなければ、上は王様から下は乞食にいたるまで、いかほど楽しんでみたところで、しょせん下司《げす》の遊びにすぎません。楽しみに品位を与え高貴なものにするもしないも、ひとり愛をおいて何がございましょう。
こうして、わたくしは身も心も幸福感にあふれておりましたが、ようやく機の熟しかけたより大きな喜びがいかなるものか、もはやそれを頭の中でとりまとめて、考えてみることすらできませんでした。
チャールスもまた全身を随喜にむせばせ、かぎりない愛情をその眼にたたえております。二人の喜びは全くここに相かさなり、愛情は深くからだをつらぬき、力づよく離れません。わたくしはすでにおのれを失い、彼もわたくしのうちにおのれを見いだしているようでした。うっとりとする燃焼のさなかに、魂は互いに相手の中に入りこみ、身も心もついに一体となったように思われます。
けれども、このような喜びも人の一生と同じく、やがてはかなくその甘美な死を迎える時がまいります。そのあわい悲しみが近づきましたことは、いつもながらの兆候でそれとわかりました。たちまちほとばしる愛の泉にむせびながら、わたくしのからだもそれに相和して涙し、ともに陶然と流れに身をまかせ、しばらくは喜びにひたりつづけます。ところが、チャールスはすぐにまた身を起こすではございませんか。おそらく、愛情にもよりましょうし、長い休養のあとにもよるのでしょう、ふたたび火と燃える情熱をそそいでまいりました。むろん、仮寝の部屋を一歩も出ず、きぬぎぬのうらみもなく、わたくしたちはいま一度同じ演目のオペラを奏したのでございます。わたくしたちの愛情のように、この熱演もいつ果てるともしれません。舞台が高潮してまいりますと、あの美しい円形の器にみなぎる妙なる泉が、どっとばかりにあふれます。たかまる喜びに、わたくしも思わず手をにぎりしめ、時をうつさず愛の涙をそそぎました。そして、なおよく泉に身を寄せて、こんこんとわき出る水に渇きをいやします。あたかもそれは、教えられずとも赤ちゃんが母親の乳房にすがり、おのが身をはぐくみ育てる愛のお乳を、かわいい頬をふくらませて吸うのに似ております。
けれども、チャールスはまだまだこれしきのことでは満足いたしません、もの足りない顔をしております。彼の若さでは、欲望はいつ果てるとも知れないのです。どうでしょう、挺でも動かず、三度目のトロフィーを手にしようといたします。ここで彼を心から愛しているわたくしが、そんなむちゃをさせないようにしなければなりません。しばらくお休みしましょうとすすめ、不承不承やっと承知させました。
夜もまだ終わっておりませんでしたし、翌日にかけて、わたくしたちはうまずたゆまず再会を祝う宴《うたげ》をくりひろげます。起きました時はもう昼近いころ合い、十分に体を休めたわけではありませんが、それでも元気にてきぱきと身じたくをととのえました。まあ、わたくしたちにとりまして愛の喜びは、兵士の勝利の喜びにも似て、休息などせずとも精気|溌剌《はつらつ》としていられるのです。
こうなりますと、故郷に錦をかざる旅など問題外になりまして、前夜のうちにロンドンに引き返す旨を全員につたえておきました。朝食を終えますとすぐに、幸福にめぐり会えたこの忘れがたい旅館をあとに、わたくしたちは出発いたしました。
チャールスとわたくしは来たときの馬車に、お仲間の船長とわたくしの連れの婦人は別にやとった馬車に乗りましたが、ちょうどいいあんばいにそれぞれカップルが組めた次第です。
道すがら、わたくしもそろそろ落ち着きを取りもどしましたので、別れて以来身に起こりましたくさぐさを、語ってみる気になりました。それを聞くと、チャールスは心から同情してくれましたけれど、別にショックを受けた様子でもございません。当時のわたくしの状態を考えれば、全く予想できなかったことではないからでしょう。
ところで、わたくしは自分の財産のことをうち明け、二人の仲でもありますので、できるだけ卒直な態度で、どうか受け取ってくれないかと頼んでみました。それに答えた彼の立派な言葉を、もし綿々とここでしたためましたら、おそらく奥さまにはおのろけとうつることになりましょう。ですから、ここではただ、降ってわいたような話を黙って受けるわけにはいかないと、彼がきっぱりと断わり、いくらわたくしがくどいてもむだであった、結局彼の意志にしたがわざるをえなかったということだけに止めておきます。独立自尊の志は大切にしなければなりませんもの。第一、わたくしが無理やりそんなことをすれば、彼の品性を落としかねません。いわば、お金のために魂を売って売女を妻にしたと言われてもしかたがないのです。その妻のわたくしは、妻になれたことだけで満足しておりますのに。
いずれにせよ、愛はすべての障害を越えて行きます。チャールスはわたくしを正妻にし、わたくしは心から彼につくしました。やがてわたくしたちのあいだには、奥さまもごぞんじのあのかわいらしい子供たちが恵まれたのです。
こうして、やっとのことでわたくしは美しい港にたどりつきました。けがれのない明るい生活を待つばかりです。あやまち多き過去をかえりみますと、その破廉恥な姿を、清らかな喜びに満ちあふれた現在と対比せずにはいられません。趣味とは申せ、野卑な感覚にうき身をやつす人たちに、どうして平和な暮らしの美徳がおわかりにならないのか、お気の毒でなりません。しょせん悪徳は悦楽の友とは言えず敵ですのに。節制こそは、ともすれば恣意にながれがちな快楽から人の心をつなぎとめ、明るく健康ないきいきとした躰をつくってくれます。病気とか、衰弱とか、不妊症とか、自己嫌悪とかは、すべて不節制な生活から生れたものと申せましょう。蛇足めいたこのような道徳上の意見に、奥さまは定めしご失笑なさるにちがいありません。それでも、わたくしとすれば、過去のにがい経験にかんがみて、述べずにはいられない真情なのでございます。あなたらしくもない、きっと奥さまはこうお考えあそばすでしょう。ひょっとすると、あつかましくも背徳の身を美徳の衣の下にかくしているとでも、ごらんになるかもしれません。あたかも、仮装舞踏会ですっかり他人になりすました者が、爪先だけ自分の履物をちらつかせているように。あるいはまた、著述家が反逆的な言辞をさんざん弄《ろう》したすえ、おしまいだけ形式的な国王陛下への忠誠で結んでいるように。けれども、うぬぼれかもぞんじませんが、奥さまはまさかそうまでわたくしをお取りにならないのではないか、もしそんなお考えをお持ちなら、わたくしのみならず美徳に対する冒涜ともなりかねませんもの。公明正大で善意につらぬかれ、美徳の裏づけをもった悦楽なら、背徳の快楽などのとうてい及ばぬものなのです。試みにこうこうと輝く誘惑の光にさらしてみましょう、背徳の快楽はたちまちその馬脚を現わし、俗悪な趣味をさらけ出し、低級に走ってやみません。それに反し美徳に発した喜びは、最も高尚な趣味のみなもとともなるのです。背徳はいわば死の翼をはばたかす魔女ハーピーのごときもの、恐ろしい熱病をうつします。背徳の道には時としてばらの花が咲きみだれておりますが、そのかげには幾多の刺と人の命を計る尺取り虫がかくれているのです。けれども、美徳の道に咲きにおうばらの花はいつわりのないもの、そして永遠にしぼむことがございません。
さて、これで奥さまにもわたくしの真意をくんでいただけたとすれば、美徳を重んじ、香をたきこめるわたくしの微衷もおわかりかとぞんじます。よしたとえ、わたくしがこのお手紙の中で、いかほど色あざやかに背徳を描きましたにせよ、また、いかほど言葉の花々をそれに飾り立てましたにせよ、しょせん美徳に捧げる供物をより価値あらしめ、より荘重にする意図にほかならなかったのでございます。
奥さまもごぞんじのとおり、C・O**さんはご身分といい、財産といい、ご趣味といい、申し分のないお方です。そのC・O**さんでさえ、ご子息さまの将来をお考えになり、しっかりとした道徳観を身につけ、いかなる背徳にも惑わされぬようにと、ご自身わざわざご子息さまの手を引かれ、名ある娼家を案内なさって、心ある者ならば吐き気をもよおしかねない遊興のすがたを、つぶさにごらんに入れたそうですが、その教育法がいちがいにまちがっていると申せるでしょうか。たしかに危険きわまりないことかもぞんじません。けれども、それは相手が愚か者のばあいに言えることで、愚か者なら何もそうまで気をつかってやることもないでしょう。
ではいずれお目もじの上、しばらくはぶしつけをおゆるしくださいませ。
[#地付き]かしこ
奥さま
お侍女
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解 説
ジョン・クレランド――人と作品――
文学作品のなかには、往々作者の意に反した評価をうける皮肉きわまるものが多い。泣血の文学は時として等閑に付され、借金返済で苦しまぎれに著した作品が数十百年の光茫をはなつ。「ファーニィ・ヒル」もまたその例外ではなかった。すなわち、心血をそそいだ労作のかずかずは、すべて作者の死とともに葬り去られ、つれづれに筆をはしらせた一編のみが、ジョン・クレランドなる名を不朽ならしめている。さらに皮肉なことは、作者の栄光は二百数十年間、ついに稀代のポルノグラフィ作家の域を出なかったことである。性もとより狷介、鬱勃たる不満をいだく作者の魂が、こうした世の評価を嘉《よみ》したかどうかは知らないが、今日われわれは「ファーニィ・ヒル」を以てポルノグラフィとなす愚を避けなければならない。いささか謎めいたその生涯を辿りながら、作品の成立過程を検討してみよう。
ジョン・クレランド(John Cleland)は一七〇九年に生れた。出生の月日および場所は詳《つまびら》かでない。父ウィリアムはスコットランド人。ただしその家系ならびに母親の何びとたるかも不明である。父については、はじめ、かなりの官職についていたのが、とある政変に際して致仕し、その後は交りを文人仲間に求めていたことが伝えられている。ことに当時の大詩人アレクサンダー・ポープ(Alexander Pope, 1688―1744)とはじっこんの間柄だったらしく、詩人はウィリアムに自分の肖像画とともにホーマーの訳稿を与え、あまねく文を繙《ひもと》かれしクレランド氏、さあれ深き友情より献げる本書を読みたまえ≠ニ記してさえいる。いずれにせよ、父ウィリアムは気骨のある人物であったらしい。当時の新聞紙上に健筆をふるったと思われる筆名ウィル・ハニーコンブ(蜂の巣の意)≠フ声名は、しばらく識者の脳裏を去らなかったようである。もとよりジョンはそうした父を誇りに思っていたのであろう、晩年は父ウィリアムの肖像を書斉の壁に常に掲げていたそうだ。もっとも、父親の影響をはたしてどのくらい受けていたかは判然としないが、少なくとも一種反骨の気性はあきらかに受けついでいた形跡がある。
ジョンの幼少年時代については、今日これを詳かにするよすがもない。一七二二年、十一歳の時、公立校としては屈指のウエストミンスター学校に入ったことだけはわかっている。青春時代もまったく不明であるが、一七三六年、トルコの沿岸都市スミルナの領事ジョン・クレランドが職を辞し、英国東インド商会に入り、ボンベイに赴任した記録が残っている。この点から推測すれば、若き日のジョンは外交官を志し、早くから海外に渡り、二十七歳まで官職に就いていたけれど、さわぎ立つ青春の血は波静かなエーゲ海に飽き足らず、モンスーン湧き起るインド洋を目ざしたのではないか。ところが、十年もたたぬ間に、せっかくの職も上司とともにやめる破目となる。理由は定かではない。おそらく、父親ゆずりの反骨の気性もその原因になっていたと思われる。憤然と辞表を叩きつけてボンベイを去ったのかも知れない。とにかく、故国へ向う船に乗ったときには、相当の窮迫状態にあったようだ。むろん、先行きの暮しに不安はあったけれど、ひとまず海外生活の足を洗いたかったのであろう。しかし、ようやく辿りついた故国の風は冷たく、おいそれとひとかどの生活などはできそうにもない。たちまち借財だらけになってしまう。けれども、そこは才気煥発、おまけに重なる流浪でつちかわれた生活力もたくましい。おそらく一七四七年末から四八年早々のことと思われるが、自己の体験をおりまぜた小説一編を書き、出版商ラルフ・グリフィスに売った。代金はたったの二十ギニー、約二ポンドである。グリフィスはなかなかの教養人であったけれど、出版商としてはかなり狡猾であったらしい。サミエル・ジョンソンなど、当時の文人も数多く出入りしていたが、原稿を叩かれて買われた仲間にはゴールドスミスなどの作家もいたくらいである。
ところで、買いとったジョンの原稿に目を通したグリフィスの当惑は想像に難くない。出来ばえはともあれ、描写のなまなましさは当時としてもはばかられる内容である。何事にも口を出した細君をまじえての編集会議は、カリカチュアの題材ともなったであろう。ともかく初版は一七四八年末に予告され、翌四九年に刊行された。二巻本の扉には、スコットランド、G・フェントン刊≠ニ刻されたが、G・フェントンの何者たるかは知る由もない。おそらくグリフィスが仮空の人物の名にかくれて、出版に踏みきったものと思われる。もっとも、その後一七五〇年、グリフィスははばかられる語句を削除したうえで、自己の刊本として出版している。いずれにせよ、たった二十ギニーで買った原稿が、グリフィスに一万ポンドの収益を与えた。ざっと五百倍の儲けである。その結果、彼は自家用の馬車も、豪荘な別邸も手に入れたそうである。こう見ると、「ファーニィ・ヒル」はいたずらに出版商のみを悦に入らしめたにすぎないと思われがちだが、数年を出ずして作者も奇妙なアクシデントから、終生年金を支給されることになった。
「ファーニィ・ヒル」出版当初は、時の政府も摘発の是非を考えなかったわけではない。しかし、結局は不問に付され、作者も出版者も別段の咎めも受けずにすんだ。ところが一七五七年、ドライバターと名乗る書店が、作品にさらに尾ひれをつけたものを発行したので、たちまち当局の忌諱《きい》にふれ、告発されてしまった。たまたま作者に対する教会筋の非難もあり、枢密院はクレランドを召喚する。結果は作者も作品も罰せられずに終ったが、おそらく取調べに当ったグランヴィル卿がクレランドの経済的な窮状を憐れんだか、すぐれたその文才を惜しんだかであろう。それかあらぬか、二度とこの種の作品を書かぬ約束の下に、百ポンドの年金さえ与えられるよう計らってくれた。いかにも古き良き時代、十八世紀らしい美談ではないか。
もともと世を拗《す》ねた不平家には不遇な者が多い。先天的な性格にもよろうが、報われぬ才能と生活苦がますます彼らを駆り立てる。不満が高じればその捌け口を求めなければならない。嘲笑的戯文を弄して溜飲を下げる傾向は、洋の東西を問わず共通している。あたかもクレランドと時を同じくして、わが国でも平賀源内(1728―1779)が「風流志道軒伝」を上梓している。むろん、「ファーニィ・ヒル」はあからさまに世を諷した作品ではない。しかし、作者があえて前代未聞の obscene 場面を折り込んだ裏には、男根を象《かたど》った木片をふるって講釈をする志道軒先生の心情がなかったとは言えない。さもなければ何ゆえに「ファーニィ・ヒル」のごとき作品を書いたのか、作者の意図が判然としないのである。もっとも、この点については後段で詳述することにしよう。とまれ、年金を貰う身になったクレランドは、その変人奇人ぶりをますます発揮しはじめる。グランヴィル卿との誓約にもとづき、才能ゆたかな好色文学作家は、たちまち熱心な言語学の研究者となり、真剣に世界共通語を考える。アイデアにおいてはザメンホフの先駆をなすものであったが、新語作製の方法は全く思いつきの域を出ていない。いわば、言語を弄《もてあそ》んでいた観がなきにしもあらずだが、かたわら、いくつかの文学作品も書いている。「伊達男回想録」(Memories of a Coxcomb)、「愛のおどろき」(Suprises of Love and The Man of Honour)、それに数編の悲劇と喜劇などである。しかし、これらの作品は彼の身上でもある Obscenity を欠いており、骨抜きの残滓にすぎず、索然たるものであることは言をまたない。これらの文学作品のほか、パブリック・アドヴァータイザー紙¥繧フコラム欄に、貞淑子≠るいはブリトン人≠フ署名で、独特の筆陣を張ったりなどもした。やがて、一七六六年、彼ならではの神秘的な題名を付した著書が上梓される。曰く、「言葉より物へ、物より言葉へ――古代ケルト語及び原始ヨーロッパ語の復活への試み。加うるに若干のサンスクリット並びに婆羅門語の考察。付録として二つのエッセイ――すなわち、クリスマス唱歌隊の起源∞フリーメーソンの秘密について=vと大変長たらしい題名の本であるが、クレランドの口をかりれば、「幸いに何人かの当代一流の文人から絶賛を博した」そうである。一七六八年にはさらに一冊、「古代ケルト語の復活のため、分析的方法によるエッセイ風の言語便覧」なる本を上梓している。
さて、その後の晩年の消息は明らかでない。風変りな言語学は世に認められず、相かわらず不平不満のうちに老境をすごしたのであろう。八十歳になんなんとする彼がこの世を去ったのは、一七八九年一月二十三日、ロンドンのウエストミンスター地区、ペチ・フランスに於てであった。この年、七月十四日、バスティーユの監獄は破壊され、フランス革命の火の手はあがっている。
「ファーニィ・ヒル」について
原題は「ファーニィ・ヒル、またはある娼婦の回想」(Fanny Hill or Memoirs of a Woman of Pleasure)、一七四八年、作者三十九歳の時の処女作である。すでに述べたようにこの作品を発表するまでの作者の半生は、きわめて漠然としていて掴みがたい。遠くトルコ、インドの流浪の果て、中年の身をロンドンの陋巷にひそめた不遇の人士が、いかにして、何ゆえに、かかる作品を著したのであろうか。父ウィリアムに文才ありといっても、天賦の才のみでは突如として首尾一貫した小説をものせるものではない。臆測の域を出ないけれども、おそらくスミルナの領事時代、クレランドはかなりの教養を身につけたのではないか。海外生活の無聊をなぐさめるためにも、多くの文学書を読んだにちがいない。さりとて文人学者になろうなどとは、夢にも考えていなかったはずである。風雲を望んでインドにまで渡った男にとって、書斎の仕事はしょせん老人のすさびと見えたろう。しかし、ひとたび志破れ、敗残の身を故国の秋風にさらしたとき、かたくなな既成社会に余生を送るすべは、文筆を措いて他にないことを悟る。幸いに長年のボヘミアン生活でたくわえたヴァイタリティーはなおその余勢を失っていない。盛年を過ぎたとはいえ、まだ四十そこそこの身である。窮迫する生活、日ごとにつのる不満、一筆以て小成に安んずる上流人士の偽瞞にみちた心胆を寒からしむるも一興、と考えなかったとは言えまい。加うるに、当座の用も不足がちである。時あたかもリチャードソン(Samuel Richardson, 1689―1761)の小説「クラリーサ」(Clarissa or the History of a Young Lady, 1748)は、若い女性を主人公として評判であった。彼が淑徳に報われた女性を説くならば、こちらは身を堕《おと》しに堕したすえ幸運をつかむ女を描いてやろう。事のついでに、既成の社会にあぐらをかく貴族紳商どもの愚劣さを、彼らを寝室に迎える女性の眼をとおして抉《えぐ》ってやろう。体験も見聞も読書の量も人後におちぬ自信がある。原稿が高価に売れれば、借財は返せるし溜飲は下がるし、一石二鳥ではないか………おそらくこんな経緯で「ファーニィ・ヒル」一編が書かれたのではないかと思われる。以上のような推測を是とするならば、世に容れられない不遇の士ジョン・クレランドの執筆の目的は、けっして俗流に媚びるポルノグラフィにあったのではないと言えよう。不幸にして作品は二百年の長きにわたって、為政者ならびに一部の識者の顰蹙《ひんしゆく》を買い、ポルノグラフィの烙印を押されてきた。れっきとした文学書と認められたのは二十世紀もごく最近、一九六三年、はじめてニューヨーク州最高裁判所でわいせつ文書にあらずとの判決が下されて以来である。公に正当な判断がなされるまでの事情は、そのまま近代社会発展の歴史につながる興味ある問題であるけれど、ここにそれを詳述するのは当を得ないかも知れない。しばらく作品の内容を考察してみよう。
小説はフランシス・ヒルなる女性が知己の婦人に書き送った、二通の告白的な手紙からなっており、十八世紀に流行したいわゆる書簡体小説の形態をとっているが、ルソーの有名な「ヌーヴェル・エロイーズ」(Jean-Jacgues Rousseau, 1712―1778 : Nouvelle Eloes)などと比べてもわかるように、書簡体というよりも二部からなる告白体小説に近い。いくら悠長な十八世紀にしろ、こんな長大な手紙が実際に書かれるわけがないだろう。それにしても婉麗な書簡文を、雅致ある語彙を駆使して書き上げた作者の手腕からは、とうてい世を拗《す》ねた変人奇人の姿は浮かびあがらない。いかなる場面に主人公がかかわっても、野卑な言葉(bawdy words)はついに一度も使われていないのである。この点に関しては作者もいささか自負するところがあったらしく、ヒロインの言葉をかりて次のように語っている。
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「……思いつきましたまま、わたくしの文章に比喩的な表現の多い点を釈明させていただきます。もちろん、内容が詩的でないかぎり、そんなわがままは許されることではありませんが、ここに書きしたためました内容は、詩的と言うよりむしろ詩そのもの、想像の花咲きにおう男女の愛情の機微にふれますものでございます。たとえ、あからさまな表現が一般に禁じられていなくとも、この手法は変えられません……」
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たしかに自負するだけのことはあり、クレランドほど巧みな比喩を、文章の雅致をそこねずに用いた例を見かけない。後年、D・H・ロレンスは、「ファーニィ・ヒル」に部分的ながらヒントを得て、「チャタレー夫人の恋人」を書いているが、その露骨な用語をクレランドが見たらはたして何と言うであろうか。ここでその詩的な比喩を一々列記するわけにいかないけれども、因みに興味ある点を指摘すれば、競馬用語がしきりに使われていることで、十七世紀にはじまった競馬が、当時すでに相当盛んだったらしく、ひろく一般の関心をあつめていた様子がわかる。ひょっとすると作者も志を得ぬまま、なけなしの財布をはたいていたのかも知れない。また、航海に関連する用語もひんぱんに比喩として現われる。当時世界一の海運国だったイギリス国民にとって、船舶用語は日常なじみの深い言葉であったのであろう。これらはほんの一例にすぎず、一編を綾なすかずかずの男女の交歓を通して、時代の風俗は生き生きと描きつくされている。すなわち、「ファーニィ・ヒル」は風俗小説としての価値を十分にそなえていたばかりでなく、他の同時代作家、前述のリチャードソンやフィールディング、スモーレットなどの作品には求められない貴重な風俗、十八世紀の性風俗を今日に伝えているのである。言うまでもなく、風俗とは人間が五欲を生活の場に具現した姿である。これを正しく伝えるのは作家の義務であり、これを忌避するのは作家の怠慢である。しかし、現実には多くの作家・詩人は、心ならずも教会や為政者の意を迎えるのに汲々としてきた。ことに「ファーニィ・ヒル」が上梓された時点において、その傾向は強い。あえてこのタブーを破るにはよほどの勇気か、寸土も譲れぬ窮情を必要とする。さきにわたくしはクレランドが性狷介、稀代の変人であることを説いた。また、放浪の果て故国に帰り、被疎外者として恵まれぬ日々を送っていたことを述べた。ともに既成概念を打破するには絶好の条件である。作者の反抗精神は、期せずして「ファーニィ・ヒル」に結晶されたと見ていい。しかも故意か偶然か、時運はまさに絶対君主制崩壊の前夜である。五二年、ディドロ=ダランベールの「百科全書」は発行を開始し、六一年、ルソーは「民約論」を世に問うている。ここに「ファーニィ・ヒル」が他の十八世紀イギリス小説と異なる、重大な要素がある。これを一片の好色文学ときめつければ、みずから鼻もちならぬ偽善者たることを証しかねない。とまれこの作品は、その社会性といい、歴史性といい、今日あらためて見直されるべき内容を持っている。それならば、文学的価値はいったいどうなのか。
文章の婉麗にして雅致に富んだものである点は、すでに指摘しておいた。これは作者の女性体験の豊富さを言わず語らずのうちに表わしている。体験だけにとどまらず、緻密をきわめた観察は、心理の襞《ひだ》の末にいたるまで余すところなくとらえる。絶えなんとしてまたつづく嫋々《じようじよう》たる文章は、感情の起伏のままに移ろう女の気持を、心憎いばかりに活写する。ことに女性の性心理描写はすぐれており、ファーニィ≠前にしたら、レーナル夫人≠熈ボヴァリー夫人≠焉A隔靴掻痒の感を免れがたい。性心理を度外視した近代小説が考えられないことは今日の常識であるが、いち早く十八世紀、この点に着目した作者の慧眼を否定するわけにいかない。じつに「ファーニィ・ヒル」は、心理小説としてもその価値を十分にそなえているのである。しかし、風俗小説といい、心理小説といい、いずれも文学の方式にすぎない。方式の巧拙のみを以て一編の詩文の芸術性を論ずれば俗流である。古来大詩人の作品は、読後何ものかを与えずにはおかないが、その何ものかを強いて言えば、かくあれかしと冀《こいねが》う心であろう。いわば、人間の悲願である。ただし、この悲願はしばしば逆説的に導き出される。「ファーニィ・ヒル」の場合、作者の意図は愛のモラルにあったが、それを描くに最も醜悪な娼婦の世界を以てした。比喩は否定的であればあるほどその効果をたかめる。道徳家の説く清鈍な愛はここにないかも知れないけれど、愛の真実は求められる。主人公ファーニィは性の享楽の空しさを悟りながらも、観念的な愛情のみでは生きられない。性と愛が一致してはじめて喜びが得られると信ずる。愛人チャールスとの交歓の場面は、物語の初めと終りにあるだけで、他はすべて「色あざやかに描かれた悪徳の」世界である。それだけに、チャールスとの出会いは一段と美しく感じられる。むろん、この小説が芸術的に完成されているとは思われない。しかし、二百年ものあいだ、常に新鮮さを失わなかった一事を見れば、文学としてすぐれた要素のあることは否めないだろう。
終りに翻訳について数言お断わりしておかなければならない。原作者の趣旨をくみ、原文の雅馴をなるべく損《そこな》わぬように心懸けたので、わが国の現代文を以てしては移し得ぬ箇所がいくつか出た。あえてこれを訳せば、原作の精神に悖《もと》ることとなる。浅学非才にして割愛のやむなきに至った事情を諒とされたい。
一九六八年 晩夏
[#地付き]訳 者 識
本書には今日の人権意識に照らして不当・不適切と思われる語句や表現がありますが、作品執筆時の時代背景や作品が取り扱っている内容などを考慮しそのままとしました。作品自体には差別などを助長する意図がないことをご理解いただきますようお願い申し上げます。
[#地付き](角川書店編集部)
角川文庫『ファーニィ・ヒル』昭和43年12月25日初版発行
昭和48年7月30日15版発行