アガサ・クリスティ作/赤冬子訳
茶色の服を着た男
目 次
プロローグ
第一章
以下、第三十六章まで本文
訳者あとがき
登場人物
アン・ベディングフェルド……考古学者ベディングフェルド教授の娘、この物語の女主人公(私)
ナディナ……パリで人気を博している踊り子
L・B・カートン……地下鉄で死んだ男
サー・ユースタス・ペドラー……イギリスの下院議員、ミルハウスの持ち主
レイス大佐……秘密警察に関係しているという噂の男
スザンヌ・ブレア……魅力的な有閑マダム
チチェスター氏……宣教師
ガイ・パジェット……サー・ユースタスの秘書
ハリー・レイバーン……サー・ユースタスの第二の秘書
ペティグルー嬢……サー・ユースタスの第三の秘書
『茶色の服を着た男』?
プロローグ
パリじゅうをたちどころに魅了してしまったロシアの踊り子ナディナは、拍手の嵐にこたえて幾度も幾度も頭をさげた。彼女はその細い黒い目をいっそう細め、くっきりとした真紅のくちびるに笑みをうかべていた。さっと幕がおろされ、赤や青や色とりどりの舞台装置がみえなくなってもまだ、熱狂したフランス人たちは感激して床をふみならしていた。水色とオレンジ色のうすものをひるがえして踊り子は退場した。あご髯《ひげ》をはやしたひとりの紳士が、感激のおももちで彼女を両腕に抱きとめた。マネジャーであった。
「すばらしかったよ、きみ、すばらしかった。今夜はまた特によかったじゃないか」彼はそう叫んで踊り子の両頬にいんぎんな、しかしおざなりのキスをした。
マダム・ナディナはなれっこになっていたからさりげなくその賞賛を受けいれて、それから楽屋へ入っていった。そこいらじゅう無造作に花束が積まれ、未来派のような奇異な衣裳が壁にかかっているその部屋は、おびただしい花の香りやら、それに加えて人工的な香水の匂いやらでむーんと甘い香りがたちこめていた。衣裳方のジャンヌが着替えを手伝いながら口をおかず話しかけ、みえすいたお世辞を述べたてた。
ドアを叩く音がしてジャンヌのおしゃべりはさえぎられた。応待に出た彼女は名刺を手に戻ってきていった。
「いかがなさいます、お会いになりますか?」
「だれなの」
踊り子はめんどうくさそうに名刺を手にとった。だが『セルギウス・パウロヴィッチ伯』という名前をみるとたちまち気が動いたようであった。
「お目にかかるわ。黄色い部屋着をとってちょうだい、ジャンヌ、いそいで。それからお通ししたらあんたはもうさがっていいからね」
「かしこまりました、マダム」
ジャンヌは部屋着をもってきた。とうもろこし色のシフォンに白貂《しろてん》の毛皮のついた優美なものであった。ナディナはそれをさらりと羽織るとほほえみながら化粧台の前に坐《すわ》った。そして白い手をのばして鏡をかるく叩いた。
伯爵はすぐに入ってきた。中背で痩《や》せ型、優雅で色青白く、ひどくもの憂げな男だった。容貌はどこといって特徴がなく、もう一度会っても容易に思い出せないような顔である。ただなんとなく癖があった。彼は踊り子の手をとり、大げさな身ぶりでいんぎんに頭をさげた。
「マダム、お目にかかれて光栄のいたり」
ドアをしめて出て行くジャンヌの耳にそれだけ聞こえた。客と二人だけになるとナディナの微笑に微妙な変化がおきた。
「お互い同国人なんだけれどロシア語は話さないでおきましょうね」
「二人とも国語はひとことも知らないんですから、まあそういうことでしょうな」客も同意した。意見が一致して二人は英語で話しはじめた。そして伯爵の癖はいつしかとれて、今やその流暢《りゅうちょう》な英語は誰の耳にも母国語を話しているとしか思えなかった。事実彼は、もともとロンドンの早替りの寄席芸人だったのだ。
「今夜は大成功だったじゃありませんか。おめでとう」
「そんなことはどうでもいいのよ。あたしはおもしろくないの。あたしの立場は以前とは違ってきているわ。戦時中にかけられた嫌疑がいまだに尾をひいてるの。相変わらず監視されてるのよ」
「しかしあなたはスパイ罪に問われたことは一度だってないでしょう?」
「その点はわれらが首領《チーフ》にぬかりはないけど」
「『隊長《ボス》』に幸あれ」伯爵はにやりとしながらいった。「驚くじゃありませんか、引退するんだっていうんですからね。引退とはね! 医者とか肉屋とか鉛管工──」
「とか、あるいは実業家かなんかじゃあるまいしねえ」ナディナがひきとっていった、「でもべつに驚くこともないじゃないの。『隊長《ボス》』はつねにそういう人だったわけよ──ひとりの秀れた実業家だわ。製靴工場を経営するみたいに犯罪を組織してきたのよ。あの人はとほうもないことを次々と計画しては指揮だけしてるのよ、自ら手を下すことはしないでね。いわば彼の『職業』でしょうね。それもあらゆる分野にわたってるわ、宝石泥棒、偽造、スパイ──これは戦争中はずいぶんともうかりますからね、それから破壊行為《サボタージュ》、慎重な計画にもとづく暗殺、あの人の手がけてないものはないぐらいだわ。だけどなにより頭のいいところはやめる潮時を心得ていることよ。そろそろ危なくなってきたかな?──というわけで静かに引退する、巨万の富をものにしたあげくね!」
「ふむ!」伯爵は不安げにいった。「しかしこれはちょっとね。われわれにとっちゃ大恐慌ですよ。ほうり出されるようなもんだ」
「でもちゃんと報酬はもらってるじゃないの、それもたんまりと」
こういったナディナの声にはどこか嘲けるようなひびきがあった。相手は思わずその顔を鋭くみつめた。ナディナはひそかに思い出し笑いをしているふうで、それが伯爵の好奇心をかきたてた。だが伯爵はさりげなく会話を続けた。
「そう、『隊長《ボス》』は決してけちけちしたことはありませんからね。成功の秘訣はそこにあるんですな──それといつの場合も恰好《かっこう》な身代わりを用意しておくというやり方のおかげなんだ。大した頭脳《あたま》です、まったく大した頭脳《あたま》ですよ! その上、『安全に事を運びたければ自ら手を下すな』という格言を身をもって実行しているというわけだ、おかげでわれわれはひとり残らず下手人にさせられ、完全に彼の思いのまま、しかも誰ひとり彼の弱味を握ってるものはないんですからな」
彼は、てっきりナディナが反対を唱えるものと思ってかちょっと言葉をきった。だが相手は依然ほほえんだままなにもいわなかった。
「誰ひとりですからね」彼は考えこむような調子でいった、「とはいうもののあの人は、そら、迷信家でしょう。何年か前ですが占《うらな》い師なるもののところへ行ったことがあるんですよ。その占い師の予言に曰《いわ》く、一生は成功だが、ひとりの女がもとで破滅がくるかもしれない」
今度はナディナも興味をそそられたようすできっと顔をあげた。
「ふしぎねえ、それはふしぎだわ! ひとりの女が|もと《ヽヽ》で、ですって?」
伯爵はにやっとして肩をすくめた。
「引退はしたことだし、むろんここらで結婚する気でしょうからね。社交界の若き麗人というところかな、粒々辛苦《りゅうりゅうしんく》の巨万の富もたちまちにしてその女が使い果たすというわけか」
ナディナは首をふった。
「いえいえ、そうじゃないわ。まあおききなさいな。あたしはあしたロンドンへ行くつもりなの」
「でもこことの契約は?」
「行くのはひと晩だけよ。それもやんごとない方たちみたいにおしのびでね。あたしがフランスをぬけ出したなんて永久に誰にもわかりゃしないわ。それで、いったい何のために行くとお思いになる?」
「この季節じゃ遊びってわけはなし、一月は霧のひどいいやな時ですからね! とするともうけ話にちがいない、そうでしょう?」
「ご名答」ナディナは立ちあがると伯爵の前に立った。その艶然《えんぜん》とした容姿のすみずみに、自信にみちた尊大さがにじみ出ていた。「あなた今、誰ひとり彼の弱味を握ってるものはないっておっしゃったわね。それはまちがいよ。あたしが握ってるわ。『ひとりの女』であるわたしにはその才覚があったのよ、そうですとも、それから彼を裏切るだけの勇気もね──なんたって勇気がなくちゃできることじゃないわ。デビアスのダイヤモンド事件のことは覚えていらっしゃる?」
「ああ覚えてますとも。キンバレーで起きたやつでしょう。戦争の始まる直前に? わたしは関係しなかったんで詳しいことはきいてませんがね、なんかわけがあってもみ消されたとかいうんじゃなかったかな? あれもいずれ大儲《おおもう》けだったんでしょう」
「まあ十万ポンド相当のダイヤね。あたしの他にもう一人いて二人でやった仕事なの、もちろん『隊長《ボス》』の指揮のもとにね。あたし、これはチャンスだと思ったわ。だいたい、そのデビアスのダイヤモンドの一部を、そのころある二人の若い試掘者が南アメリカから持ち帰った見本のダイヤモンドとすりかえようというのが計画で、その二人は当時たまたまキンバレーに居たから嫌疑は当然かれらにかかるという寸法よね」
「全く抜け目がない」なるほど、といったおももちで伯爵は口をはさんだ。
「『隊長《ボス》』はいつだって抜け目がないわ。それでね、あたしはいわれたとおり役目を果たしたわ。ところがあたしはその他にもう一つ仕事をしたの、『隊長《ボス》』もそこまでは気がつかなかったというわけよ。つまりその南アメリカの石を少しだけとりのけておいたの──そのうちの一つ二つは独特のものだから、デビアスの手に渡ったことは一度もない石だってことはすぐわかるのよ。それを握っている限りは、さしもの『隊長《ボス》』もあたしの思いのままになるはずでしょ。その二人の青年が潔白だとなれば当然|隊長《ボス》の立場が危なくなりますもの。でもあたしは何年間も黙っていたわ、この切り札をもっているんだと思うだけで満足だったから。でもこうなったら違うわ。もらうものはもらわなきゃ──それもどかんとね、目の玉のとび出るような額を要求してやるわ」
「驚きましたね。それで、もちろんそのダイヤはどこへ行くにも持ち歩いているんでしょうね?」
伯爵の目はその乱雑な部屋の中をゆっくり見回した。ナディナは静かに笑っていった。
「おあいにくさま。あたしだって馬鹿じゃありません。誰にも想像もつかないような安全な場所へかくしてあるわ」
「あなたが馬鹿だとは決して思っておりませんが、しかしどんなものでしょうね、いわせていただくならそれは少々無謀というものではありませんか? 『隊長《ボス》』はおめおめとゆすられるような人物じゃありませんからね」
「『隊長《ボス》』なんか恐くないわ」ナディナは笑っていった。「あたしがこれまで人を恐れたとしたらたった一人──その人ももう死んでしまったわ」
伯爵は好奇心をそそられたかのように彼女を見ていった。
「ではその男が二度と生き返らないことを祈りましょう」
「それどういう意味?」踊り子はきっとなって聞き返した。伯爵はちょっとびっくりしたらしかった。
「いや、生き返るなんていうのはあなただって気味が悪いだろうと思っただけです。つまらぬ冗談ですよ」
ナディナはほっとしたようにためいきをもらしていった。
「ああそんなんじゃないのよ、彼はたしかに死んだの、戦争でね。昔あたしを──愛してくれたひとだわ」
「南アフリカで?」
「ええ、南アフリカで」
「あなたの生まれた国でしたね、たしか?」
ナディナはうなずいた。客は立ちあがり、帽子を手にとった。
「まあご自分のことはご自分が一番よく知っておいでのわけですからな。しかしね、わたしなら、夢と消えた恋人よりは『隊長《ボス》』のほうをはるかに恐れますね。なかなかどうしてあなどりがたい人ですよ」
ナディナは嘲るように笑っていった。
「これだけ長いつきあいなのにまだまだあたしにはあの人がわかっていないとでもおっしゃるの!」
「さてどうですかね、わかっておいでかどうか、はなはだ疑問に思えますがね」
「あら、あたしだって馬鹿じゃありませんよ! 第一、あたしひとりでやろうってわけじゃないんですもの。あした南アフリカの郵便船がサウサンプトンに入るんですけどね、その船には、特にあたしの要請でアフリカからやってくる人が乗ってるの。彼はあたしの指図どおりのことをちゃんとやってくれたのよ。だから『隊長《ボス》』はひとりだけ相手にしてもだめなのよ。あたしたち二人が相手なんですから」
「賢明なことですかね?」
「必要なことなのよ」
「その男、信用できるんですか?」
いささか奇妙な微笑が踊り子の顔にうかんだ。
「だいじょうぶ。頭はよくないけど全幅の信頼をおける男だわ」ナディナはそういって口をつぐんだが、やがてなにげない調子でつけ加わえた。
「その人あたしの夫なんですけどね」
第一章
誰もかれもが、私にこの話を本に書けとすすめる──大はナズビー卿から、小はかつてわが家にいた女中、エミリーにいたるまで。(エミリーには、この前イギリスへ帰ったとき会った。彼女はいった、『まあ、お嬢さま。そのおはなしをみんなお書きになったらすてきな本がおできになりますですよ──まるで映画のような!』)
事実、そういう仕事をする資格が私にあることはたしかだ。私はまさに発端からその事件にまきこまれ、終始その渦中に身を投じていたばかりか、意気揚々、ちゃんと結末までみとどけたのだから。その上まったく幸いなことには、私自身の知識が埋めることのできない空白の部分は、サー・ユースタス・ペドラーの日記がじゅうぶん補ってくれる。サー・ユースタスは、自分の日記をどうか使ってくれと親切にも申し出たのだ。
というわけで、これよりアン・ベディングフェルドの冒険談が始められる。
私はつね日ごろ冒険というものに憧れていた。そう、私の生活は、くる日もくる日も同じでおそろしく単調な毎日だった。父のベディングフェルド教授は、原始人類にかけてはイギリスきっての学者だった。たしかに父は天才だった──そのことは誰しも認めている。父の心は旧石器時代に住んでいた。だが、なんといっても肉体の方は現代に生きているのだから具合悪かった。パパは現代の人類にはいささかの関心ももたなかった──いや、新石器時代の人類をさえ、家畜の番人にすぎないといって軽蔑した。しかも、パパが夢中になるのは旧石器時代でもムスティエ期に入ってからの人間なのだ。
だが残念ながら、われわれは現代の人間を完全に無視することはできない。どうしたって、肉屋だのパン屋だの牛乳屋だの八百屋だのといった人たちとなんらかの交渉をもたざるを得ないのだから。だけど、パパは過去の時代に没頭しているし、ママは私が赤ん坊のころに死んでしまっているものだから、家事いっさいをとりしきるのは私の役目になっていた。正直にいって私は旧石器時代の人類なんぞ大嫌いだ、たとえそれがオーリニャック期の人間だろうとムスティエ期だろうとシェル期だろうと同じこと。パパの『ネアンデルタール人』とその祖先はおおかた私がタイプして校正もしたのだけれど、私はネアンデルタール人そのものがいやでいやでたまらない。彼らがもう遠い昔に絶滅してしまったとはなんという幸いか、とつくづく思う。
パパに私のそういう気持がわかっていたかどうかは知らない。たぶんわかってはいなかったろう。だいたいパパはそんなことに関心をもとうとしなかった。パパは他人の考えに少しでも関心をもったことなど一度だってないのだ。そこがパパの偉いところなのかもしれない。それと同じことで、パパは日常の生活に当然ついてまわることどもにも超然として暮していた。食事にしても、自分の前におかれたものをゆうゆうと食べる、だがいざその代価を支払うだんになってもちょっと困ったような顔をするだけで大して苦痛に感じないらしかった。うちにはいつまでたったってお金が入りそうにもなかった。パパの名声はお金になって戻ってくるような種類のものではなかった。パパは重要な学会にはほとんどどれにも名を連らねていたし、名前にはいろんな肩書きが幾列にもついてはいたけれど、一般の人々はパパの存在などほとんど知ってはいなかった。パパの多年の研究成果である著書の類だって従来の知識を大幅に補うものなのだけれど、一般大衆の関心を惹《ひ》くようなものではなかった。
たった一度だけ、パパが世間の注目を浴びたことがある。パパはある学会でチンパンジーの子供に関する論文を発表した。それは、人間の子供はある程度類人猿的特徴を有しているが、チンパンジーの子供は成長したチンパンジーにくらべて、より人類に近い。このことは、われわれ人類の祖先が現在のわれわれにくらべて、より類人猿に近いのに反し、チンパンジーの祖先のほうは現存の種類よりも高等であったことを示す。すなわち、チンパンジーが退化したことを示している、というのであった。このとき、かの進取の気象に富むデイリー・バジェット紙がビッグ・ニュースとばかりとびついて大見出しでこれを掲載した。曰《いわ》く、『人類は猿の子孫ではなく、猿のほうがわれわれ人類の子孫か?さる有名教授、チンパンジーは人類の退化せるものと発表』。そのすぐあと、新聞記者がやってきてパパに、この説についてやさしい読みものを連載で書いてほしいと頼んだ。
パパがあんなに怒ったのは初めてだった。パパはその新聞記者をすげなく追い返してしまった。私は大いに悲しかった。そのときはことさらお金に窮していたのだから。私はよほどその青年を追いかけていって、父が気を変えたから注文の原稿を送りますといおうかと考えた。私が自分でその原稿を書くぐらいのことは簡単だったし、デイリー・バジェットをとっているわけじゃないからパパには知れやしない。しかしやっぱり危険だったからこの手段はあきらめた。その結果、私は一張羅の帽子をかぶってみじめな気持を胸に抱きながら、町の食料品屋へお金の払えないいいわけをいいに行くより仕方がなかったのである。
デイリー・バジェット紙のその記者はかつてわが家を訪れたただ一人の青年だった。私は女中のエミリーを羨《うらや》ましく思ったことがたびたびある。彼女は機会さえあればしょっちゅう婚約者の船乗りと『出歩いて』いた。その合間には、彼女にいわせれば『練習のために』八百屋の若い衆と出歩いたり薬屋の小僧と出歩いたりしていた。自分には『練習する』相手も居ないと思うと私は淋しかった。パパの友だちはみんな年輩の教授で長いあご髯なぞ生やしてるような人ばかり。いつだったかピーターソン教授が私をひしと抱きしめ、『かわいい小さな腰』をしているといってキスしようとしたことはある。だがそのひとことでお年がわかってしまった。自尊心のある女性で『かわいい小さな腰』をしているひとなんて私がまだ赤ん坊だったころからすでにいなかった。
私は冒険や恋愛やロマンスに憧れた。だが私という人間は単調な端役の生活に甘んじるよう運命づけられているようであった。村には図書館があってぼろぼろにすりきれた小説本がいっぱいあったから、私はそれらの本で間接に冒険や恋をして楽しんだ。そして厳しく寡黙《かもく》なローデシア人や、つねに、『一撃のもとに敵をうち倒す』逞《たく》ましい男たちを夢にみながら眠るのだった。村には一撃はおろかどれだけやったって『敵をうち倒す』ことのできそうな者なんか一人もいなかった。
村には映画館もあって『パメラの冒険』の続きものが週がわりでかかっていた。パメラというのはすばらしい若い女性で何事にもひるまない。顔色ひとつ変えずに、飛行機から飛び降りる、潜水艦に乗って危険を冒す、摩天楼によじ登る、はては暗黒街にもぐり込む。かならずしも賢いわけではないからいつも暗黒街の大ボスにつかまる。大ボスは頭をぶんなぐってあっさり片づけるのはいやと見えて、下水ガスの充満した部屋に送り込むとかなにかしら新奇な手を考えては毎回彼女を死にいたらしめようとするが、きまって次の週の物語の始めにはヒーローが救い出す。私はいつも興奮してボーッとなって映画館を出る――そして家へ帰ると、未払いの料金を払わないとガスを止めるぞというガス会社からの通知が待っているのだった。
それでも、自分では気づいてもいなかったのだけれど、冒険は刻一刻と私に迫ってきていたのだった。
世の中には、北ローデシアのブロークン・ヒル鉱で古代人の頭蓋骨が発見された話など知らない人が多いかも知れない。ある朝起きてみると、パパがまるで発作をおこしたかと思うほど興奮していた。パパはまくしたてるようにしてその一部始終を私に話してきかせた。
「わかったかね、アン? つまりジャワ頭蓋との類似点がいくつかあることは確かなんだがね、ところがそれは外見だけなんだ。そうさ、わしがこれまで主張してきたこと、つまりネアンデルタール人の原始形態がいまみつかったわけなのだよ。これまでに発見されたネアンデルタール人のうちで最も原始的なものはジブラルタル頭蓋だろう? なぜかというとネアンデルタール人の揺籃《ようらん》の地がアフリカだったからだ。それがヨーロッパに渡って──」
「くん製にママレードなんかつけちゃだめよ、パパ」私はあわてて父のうわの空の手をおさえていった。「ええ、それで?」
「ネアンデルタール人はヨーロッパへ──」そういいかけて父はひどくむせた、くん製を口いっぱいに詰めこんだからだ。
「とにかくすぐ出発せにゃならん」食べ終ると立ちあがりながら父はいった。「ぐずぐずしてはいられん、現地にいかなくては。付近にはまだ無数にみつかるはずだからね。石器類がムスティエ期の特徴をもってるかどうかも調べたいし──それからたぶん原牛の化石は出るかと思うが、長毛サイは出んだろうな。うん、調査団がまもなく出かけるようだがわしたちはその前に行かなくてはならん。アンや、クックの旅行社に手紙を書いてくれるね?」
「費用は、パパ?」私はなにげないふうにいった。
父は詰《なじ》るような目で私をみていった。
「おまえはどうしてそうわしを憂鬱にさせるようなことしか考えられんのかね。けちけちしてはいかんのだよ。そうだとも、学問のためにはけちけちしてはいかんのだ」
「クックはきっとけちけちすると思うけど」
パパは腹立たしげだった。「アンや、クックに金を払えばいいじゃないか」
「でも現金なんて一銭もないのよ」
パパはすっかり絶望的な顔になった。「いいかね、金がどうのこうのいうようなくだらんことでわしは煩わされたくないのだ。銀行はどうなんだね──たしか昨日知らせがきてたようだ、二十七ポンドあるとかなんとか」
「それは借金の分じゃないのかしら」
「ああ! そうか。じゃあ出版社に手紙を書いてくれ」
それだってあぶないものだとは思ったけれど、だまっていわれたとおりにした。パパの本なんて評判にはなってもお金にはならない。だが、ローデシアへ行くという考えは私にも大いに気に入った。『きびしく、寡黙な男たち』私は恍惚《うっとり》としてそう呟いた。そのときふと、父の外観がなんだか変てこなのに気がついた。
「パパ、靴が片ちんばよ。その茶色の方ぬいで黒いのをはくの。それからマフラーをお忘れにならないでね。今日はとっても寒いんですから」
二、三分後、パパは左右揃った靴をはき、マフラーをしっかり巻きつけて大またに出かけていった。そして夕方遅く帰ってきたが、マフラーもオーバーもなくなっていたのには、私もがっかりした。
「やれやれ、おまえのいうとおりでね、アン。あそこへ行くとひどく汚れるから、オーバーもマフラーもぬいでほら穴へ入ったのさ」
いつだったか、パパがそれこそ文字通り、頭のてっぺんから足のつま先までべったり洪積世の泥にまみれて帰ってきたことがあったのを思い出して、私はなるほどと思ったのだった。
そもそも私たちがリトル・ハンプスリに住むことにしたのも、この村が、オーリニャック文化の遺物がたくさん埋蔵されているほら穴、ハンプスリ洞窟に近いということのためだった。村には小ちゃな博物館があり、そこの館長さんとパパとは、土の中をほじくり返しては長毛サイやほら穴グマの骨のかけらを掘り出すことで毎日をおくっていたのである。
その晩中ひどく咳《せき》こんでいたと思ったらパパは翌朝発熱した。私は医者をよんだ。
かわいそうなパパ、回復しないままパパは四日後に死んだ。肺炎だった。
第二章
まわりの人たちみんながとてもやさしくしてくれた。茫然としていたとはいえその親切はよくわかった。とはいっても私はそうひどく嘆き悲しみはしなかった。パパは私のことをかわいいと思ってくれたことなど一度だってなかったのだもの。そんなことはようくわかっていた。もしかわいがってくれていたら、私のほうだってパパを好きだと思ってあげられたかもしれない。そう、私たち父娘《おやこ》のあいだには愛情なんてなかったのだ。でも二人はやっぱり親子だった。そして私はパパの身のまわりの世話をやきながらひそかにその学識を尊敬し、学問に対するその一途《いちず》な情熱に敬服していた。だからパパがその最盛期であるべきときに死んでしまったのが残念でたまらない。パパを、トナカイの絵や石器類といっしょに洞窟へ埋葬することができたなら、私だってもう少し安らいだ気持になれたことだろう。でも世論の力におしまくられて大理石のお墓なんかが教会の墓地につくられてしまった。牧師さんの慰めの言葉だって私には少しの慰めにもならなかった。もちろん善意でいってくれたのではあるけれど。
私がつねづね切望していたもの──つまり自由──はついに私のものになったのだということを認識できたのはしばらくたってからであった。私はみなし児であり、文字通りの一文無しであった。だが自由だった。同時に私は、気のいい村人たちが驚くべく親切であることを知った。牧師は、彼の妻が助手を一人至急求めているといい、それはもう一生懸命になって私を説きつけにかかった。村の小ちゃな図書館は、突如として図書館員補佐を一人おくことに決心した。かと思うとパパを診《み》てくれた医者がやってきて、請求書を送るのを忘れていて申しわけなかったなどとこっけいな弁解をくだくだしく述べたあげく、しきりと口ごもっていると思ったらやぶからぼうに、私は彼と結婚すればいいのだといった。
これには私もすっかり驚いた。その医者というのは三十よりは四十の方へ近く、ずんぐりと丸っこい小男なのだ。『パメラの冒険』の主人公《ヒーロー》のおもかげはさらになくましてやきびしく寡黙なローデシア人とは似ても似つかぬ男だった。私はちょっと考えてから、なぜ私と結婚したいのかときいてみた。この質問は医者を大いにあわてさせたとみえ、彼は、内科外科一般の開業医にとって妻というものはたいへん有用なのだと口ごもりながら呟いた。いよいよもってロマンチックならざる話とはなった。にもかかわらず、受け入れよとけしかけるなにものかが私の心のうちにあった。安泰──私に提供されようとしているのはそれなのだ。安泰──そして『安住の家』。いま思い返してみて、私はあの小柄な男性に悪いことをしたような気がしている。彼はほんとうに私を愛してくれていたのだ。それなのに、心遣いをしてくれたつもりがかえって仇《あだ》になってあれ以上強く求婚できなくなってしまったにちがいない。ともあれ、そのときは私のロマンチックな精神が反対を唱えた。
「ご親切はとても嬉しいんですけど」私はいった。「でもだめですわ。あたし、死ぬほど好きなひととでなきゃ結婚する気になれませんもの」
「じゃあなたは……?」
「ええ、残念ながら」私はきっぱりといった。彼はためいきをついた。
「しかし、お嬢さん、それじゃいったいどうなさるおつもりです?」
「いろいろ冒険をしたり、世界中を見たりします」私はなんの躊躇《ためらい》もなく即座に答えた。
「アンさん、あなたはまるきり子供なんですねえ。あなたにはまだわかってないんだな──」
「現実は厳しいものだってことが? いいえ、先生わかってますわ。センチメンタルな女学生とはちがいます──あたしって実際的でぬけめのないじゃじゃ馬よ! あたしと結婚なさってみればよくおわかりになるでしょうけどね」
「もう一度考え直してみて下さらないかな」
「だめですわ」
医者はまたもやためいきをついた。
「別なお願いもあるんですがね。じつはウェールズにいる伯母が若いお嬢さんをひとり話し相手に望んでいるんです、この話のほうはいかがです?」
「だめですの、先生。あたしロンドンへ行くつもりなんですもの。何かおもしろいことがあるとすればそれはロンドンですものね。あたしようく目をあけて注意してるつもり、そうすればきっと何か起きるわ! 先生、この次は中国かそれともティンブクトゥーあたりからあたしの消息が聞こえてきますわよ」
次にやってきたのは、父の代理人をしていたフレミング氏だった。私に会うためにわざわざロンドンから来たのだ。彼自身、熱心な人類学者で、パパの仕事に対してはなみなみならぬ敬意を抱いているという、白髪で細面の、痩せた背の高い人だ。私が部屋に入っていくと、立ちあがってそばへ来て私の両手をとり、やさしくたたきながらいった。
「かわいそうに、かわいそうに」
意識してそうしていたつもりではないのだけれど、いつのまにか私はいかにも哀れなみなし児らしくふるまっていた。フレミング氏の態度につりこまれてしまったのだ。彼はやさしく親切で、まるで父親のようだった──そして私のことを、ひとりとりのこされて西も東もわからず、ただおろおろしている女の子だときめてかかっていた。だが私は最初から、実際はその正反対なのだということをこの人にわからせようとしたって無駄だと感じていた。結果からみても、そんな努力をしなかったのはよかったようだ。
「お嬢さん、少し知っておいていただきたいことがあるのですがね、しばらく辛抱して聞いてくださいますか?」
「ええ、どうぞ」
「お父さまは、あなたもご存じのようにたいへんお偉い方でした。そのことは後々《のちのち》までも忘れられることはないでしょう。ですが、お父さまは事務的な方面についてはさっぱりだめな方だったのですよ」
そんなことはフレミングさんよりよっぽどよく知っている。そう口に出かかるのを私はやっとのことで我慢した。彼は続けていった。
「こんなことはあなたにはよくおわかりにならないんじゃないかと思いますがね、まあできるだけわかりやすく説明してみましょうね」
フレミング氏は必要以上にながながと説明した。要するに結論は、私は全財産八十七ポンド十七シリング四ペンスで世の中にほうり出されたのだということらしかった。あの長たらしい説明の結論としては妙に物足りない感じだった。私は次にどんなおそろしいことがきり出されるのかとビクビクしながら待った。きっとフレミングさんにはスコットランドに伯母さんが一人居て、利溌な若い娘を話相手にほしがってるにちがいない。だがそんな伯母さんは居なかったようだ。
「そこで問題は」フレミング氏は続けた。「これからのことですよ。たしかご親戚もひとりもいらっしゃらないんでしたね?」
「あたし天にも地にもたったひとりになりましたの」そういったとき、私はあらためて自分が映画のヒロインになったような気持におそわれた。
「お知りあいの方は?」
「皆さんがとても親切にして下さいますけど」私は感謝するようにいった。
「こんなに若くてかわいらしいお嬢さんに誰が不親切にできるものですか。さてそうだなあ、どうしたらよいか」フレミング氏はためらっていたが、ややあってこういった。「たとえば──どうでしょう、しばらく私のうちへいらしてみるのなんかは?」
私はチャンスとばかりとびついた。ロンドン! なにか面白いことのありそうなあのロンドン。
「ほんとにありがとうございます。でもよろしいんでしょうか? もちろん、慣れるまでしばらくの間で結構ですけれど。あたし何か仕事みつけて働かなくちゃなりませんものね?」
「ええ、ええ、よくわかってますよ、お嬢さん。なにか探してみましょう──あなたに合いそうな仕事をね」
『あなたに合いそうな仕事』といったときフレミング氏が何を考えているか、私にはすぐピンときた。ところがこちらの考えている『合いそうな仕事』はたぶんそれとは大違いだ。しかし今はそのような見解を披露《ひろう》すべき時ではない。
「じゃあ決った。どうです、今日いっしょに帰ろうじゃありませんか?」
「まあ、ありがとうございます。でも奥さまが……」
「家内だってあなたがいらっしゃればそりゃ喜びますとも」
いったい夫というものは、自分で思っているほど実際には妻のことを理解していないのじゃないだろうか。私だったら、事前に何の相談もなしに突然孤児なんかつれて帰ってきたら、機嫌を悪くする。
「駅から電報を打っておきましょう」フレミング弁護士はいった。
わずかばかりの持ち物はすぐ荷造りできた。私は帽子を頭にのせる前に、しばらくそれをかなしげに見つめた。最初、『メアリー帽』と私が名付けていたものだ。女中が外出する時かぶるべき──でも実際はかぶりたがらない帽子、というぐらいの意味だった! ぐにゃとした黒い麦藁《むぎわら》で、それにふさわしくつばもしおれた代物《しろもの》だったが、あるとき天才がひらめいて、私はそれをまず一度蹴飛ばし、次に二度ほどげんこつで叩き、それからてっぺんをへこましてそこへ立体派《キュービスト》のよくやるような妙な飾りを人参《にんじん》でこしらえてくっつけた。見事にシックなものができあがった。だがその人参はもちろんとうの昔にとり去ってある。私のほどこした他の細工も今もとの状態に戻した。『メアリー帽』は再び最初の様相を呈してきたばかりか、ますますくたくたになって前よりいっそう情《なさけ》ないものになった。だが、できるだけ、孤児というものの概念にそうような恰好をしたほうがいいのだろう。突然行ってフレミング夫人がどう思うかと考えると、不安な気持がしないでもなかったが、きっとこの外観を見ればむこうさまだって腹立たしい気は起きなかろう、と私は思ったのである。
フレミング氏も少々不安げだった。静かなケンジントン・スクウェアにある家の段をのぼって行くとき、それが私に感じられた。夫人は喜んで迎えてくれた。太って穏やかそうな、良妻賢母型のひとだった。彼女は清潔な更紗で飾られた寝室へ案内してくれて、ほしいものは何でもいうようにといい、十五分ほどしたらお茶にするからといった。そしてどうぞ自由に楽になさいといって出て行った。
彼女が階下の居間へ入りかけながら、少々声高に何かいうのが聞こえてきた。
「ああ、ヘンリー、いったいなんだって……」あとは聞きとれなかったが、たしかにその声には棘《とげ》があった。ややあってまた聞こえてきた。もっとぷりぷりした声だった、「おっしゃるとおりよ! たしかにあの娘は美人だわ」
なるほど世の中はきびしいものだ。美人でなければ男は親切にしてくれないし、美人だと女が親切にしてくれない。
深いためいきをもらしながら、私は髪をいじりはじめた。私はいい髪の毛をしている。黒い毛、──濃い茶ではない。ほんとの黒だ。額《ひたい》からゆたかにかきあげられたその髪は耳を覆っている。私は容赦なくひっつめにしてしまった。髪が仕上がってみると、私は、よく小さな帽子《ボンネット》をかぶって赤い外套を着て列になって歩いている孤児たちそっくりになっていた。
階下へおりて行った私は、フレミング夫人の目がまったくやさしいまなざしで、私の露《あら》わになった耳のあたりを見るのを感じた。フレミング氏の方は、狐《きつね》につままれたような顔をしていた。きっと心の中でこういっていたにちがいない、「おやおや、この子はいったいどうしたっていうんだ?」
そのあとは、一日じゅう大体においてうまく運んだ。結局早速にもなにか仕事を探したほうがよいということに決った。
寝室へしりぞいてから、私はつくづくと自分の顔を鏡にうつしてみた。ほんとに美人なのだろうか? 正直なところ、そう思うとはとてもいえない! だいいち私の鼻はまっすぐなギリシア型の鼻じゃないし、それにバラの蕾《つぼみ》のような口もとでもない。美人の備えているべきものは何にもありゃしない。いつだったかある副牧師が私の目のことを、『暗い暗い森の中に幽閉された陽《ひ》の光』のようだ、なんていったことはある──だけどだいたい副牧師というものは引用句をやたらと知っていて、勝手なときにそれらを乱発させるものなのだ。私としては黄色い斑点のある濃緑色《ダークグリーン》の目より、アイルランド人のような青い目のほうがずっといい! でも冒険に挑む女には緑色も悪い色ではない。
私は黒い衣裳を、腕と肩を露わに出してピッチリとからだに巻きつけた。それからブラシで髪をすっかり後へなでつけ、前のように耳の上へおろした。そしてふだんより色白にみえるようにと白粉をたっぷりはたきつけた。あちこち探してみつけ出した古いくちびる軟膏をごってり唇に塗りつけ、目の下には消し炭でくまどりをした。最後の仕上げとして素肌の肩から赤いリボンをたらし、髪に真紅の羽根をさして、唇の片隅にたばこをくわえた。そのでき栄えに私は大いに満足した。
「女流冒険家アンナ」私は声に出してそういい、鏡の中の自分に一礼した。「女流冒険家アンナ。插話《エピソード》その一『ケンジントンの家』!」
女の子というのは馬鹿なものである。
第三章
それからの数週間はひどく退屈だった。フレミング夫人やその友だち連は、私からみるとまるきり面白くなさそうな人たちだった。長時間なにをしゃべっているかと思えば、自分たちのことや子供たちのことばかり。そして子供のためにいい牛乳を手に入れるのがむずかしい話だとか、牛乳がよくなかった時に牛乳屋にどういってやったかという話、かと思うと、話題は使用人のことに移って、よい使用人を手に入れることのむずかしさに及び、紹介所の女事務員にかれらが何といったか、そうしたらその女事務員がかれらに何といったか、話題はそんなことばかりだった。新聞などは全然読まないらしく、また世の中の情勢がどうであろうといっこうに関心がないらしかった。旅行は嫌いだという。すべてがイギリスとまるで違ってるからだそうだ。でもリヴィエラはいいわね、あそこなら知り合いみんなに会えますもの、ということだった。
私は最大の努力をはらって我慢しながら傾聴していた。これらの婦人たちはみな金持だ。この美しい広い世界をいつだって漫遊できる立場にありながら、わざわざうす汚れた退屈なロンドンに腰を据えて牛乳屋だの使用人だのの話なんかしている! いま思い返してみると、私の考え方は少々寛容さに欠けていたかも知れない、とも思う。だがそれにしても、かれらは愚かだった──それもお得意のはずの主婦業においてすらである。なにしろこの奥さん連は、ひどくいい加減ででたらめな家計簿をつけていたのだから。
ところで私の身辺はそう急速には進展しなかった。家と家財は売られたが、その代金は、負債の穴うめにあてたらちょうどなくなった。それなのに私はまだちょうどいい仕事がみつからないでいた。でもほんとうは仕事なんか望んでいたわけじゃない! 私は、冒険を求めて出て行けば冒険のほうから途中まで迎えにくる、という絶対の確信をもっていた。誰でも、望むものは必ず手に入れられる、というのが私の説なのだ。
この説は事実証明されようとしていた。
一月の上旬だった──精確にいえば八日のことだ。私は秘書兼話相手を求むというある婦人と会見したものの、不成功に終って帰る道すがらだった。この婦人はどうやら年俸二十五ポンドで一日十二時間働く頑丈な雑役家政婦を求めていたようだ。お互い心の中で失礼なやつと感じながら別れたあと、私はエッジウェア通りを(会見はセントジョンズ・ウッドの家で行われた)歩いてきて、それからセントジョージ病院のほうへむかってハイドパークを横切った。そしてそこの地下鉄の入口をおり、グロスター通りまで切符を買った。
プラットホームに出ると私は一番はじまで歩いて行った。私のなんでも見究めたい心が、ダウン街側にある二つのトンネルの間に、ほんとに転轍機《てんてつき》と開口部があるかどうか確かめて満足を得たいと思ったからだ。馬鹿げた話ながら、私は思ったとおりであることを発見して満足した。プラットホームには人はあまり居らず、一番はじのところに私のほかには男が一人居るきりだった。この男のそばを通ったとき、私の鼻がおや、というようにひくついた。何が嫌《きら》いといってナフタリンの臭いほど嫌いなものはない! なんのことはない、その臭いは、この男の厚いオーバーから発しているのだ。だがたいていの人は一月になる前からオーバーを着始めているはずだ。したがって防虫剤の臭いは今ごろまでにはもう消えていていいはずなのだ。男は私から少し離れてトンネルの縁に近いほうに立っている。なにか考えこんでいる様子なのでじろじろ見ることができた。小柄の痩せた男で大そう日焼けした顔だ。目は青く、小さな黒いあご髯をはやしている。
「外国から来たばかりなんだわ」私は推論した。「だからオーバーがあんなににおうんだ、たぶんインドから来たばかりなんだわ。役人じゃない、役人ならあご髯なんかはやさないもの。きっと紅茶の栽培をやってる人だわ」
このとき、男はプラットホームを引き返そうとでもするようにこちらに向きなおった。私をチラと見てから彼の視線は私のうしろの何物かにとまった、と思うと顔色が変わった。その顔は不安げに歪んだ──というより恐怖におののいていた。なんらかの危険に気づいて思わずひるんだかの如く、ホームのはじに立っていることも忘れて男は一歩あとずさりした。そして転がり落ちた。線路がパッと眩しい光を放ち、バリバリッという音が響いた。私は悲鳴をあげた。人々が走ってきた。駅員が二人いずこからともなく現われて処置をとりはじめた。
私はさっきからの場所に根が生えたように立ちすくんでいた。恐ろしい魔力のようなものに魅せられてしまったのだ。私は突然の災害にどぎもを抜かれた一方、他方では電流の通じているレールから男をホームの上にあげる作業のやり方に興味を感じてしごく冷静に見まもっていた。
「ちょっと通してください、わたしは医者ですから」
茶色のあご髯をはやした背の高い男が私を押しのけて出てきて動かぬ男の上にかがみこんだ。診察しているあいだ、私はなんとなく、これは真実《ほんとう》じゃない、という気持におそわれた。真実《ほんとう》じゃない──真実《ほんとう》であるはずがない。そのうちやっと医者は立ちあがって首をふった。
「死んでますね、手のほどこしようもありません」
物見高くとり囲んでいた人々に、一人の駅員が辟易《へきえき》してどなった。「さあみんなさがった。さがった。こんなに集まってどうするんです?」
私は急に吐気を感じ、夢中でエレベーターのあるほうへと階段をかけあがった。あまりにも恐ろし過ぎる、という気がしたのだ。早く新鮮な空気の中へ出たかった。さっきの医者が前を歩いていた。エレベーターはいま昇りかけたところだったが、次の|はこ《ヽヽ》が降りてきたのを見ると医者は走り出した。そのとき彼は一枚の紙きれを落した。
私はちょっと立ちどまってそれを拾い、彼を追いかけた。だがエレベーターの扉は私の鼻先でカチンと閉まり、私はその紙きれを手にしたままとり残された。次の|はこ《ヽヽ》が地上に達したときには私の目ざす相手の姿はもう見えなかった。私は彼の失くしたものがたいせつなものでないことを願い、そのときはじめてその紙きれをあらためた。それはただのノートを破いたものに数字と文字を鉛筆で書きなぞったものだった。これはそれを複写したものである。
1 7 -1 22 Kilmorden Castle
一見したところ、とりたてて重要なものとは思えなかった。にもかかわらず、捨てさる気にもなれなかった。それを手にして立っているうちに、私は不快を感じて思わず鼻にしわをよせた。またしてもナフタリンの臭い! 私はその紙きれをおそるおそる鼻のところへもっていった。やっぱりそうだ、ナフタリンの強烈な臭いがする。だが、そうだとすると……。
私はその紙きれを注意深くたたむとハンドバッグにしまい、あれこれ考えをめぐらしながら家まで歩いて帰った。
フレミング夫人に、地下鉄でいやな事故を目撃して少々気が転倒しているから、部屋へ行って横になるといったが、この親切な婦人は熱いお茶を一杯ぜひとも飲めといってきかなかった。そのあとは放免されたので、私は帰るみちみち考えてきた計画を実行にうつすことにした。さっき医者が死体を検べるのを見ていたとき私を襲った『真実《ほんとう》じゃない』という奇妙な感じは、いったい何に由来するのか知りたかったのである。さっきの死体と同じように床に横になってみた。それから代わりに長枕をおいて、医者の一挙手一投足を思い出すかぎり再現してみた。その結果私は望んでいたものを手に入れた。私は膝を折って床に坐ると顔をしかめて向かいがわの壁を睨《にら》んだ。
夕刊には男が地下鉄で変死したという短い記事が出、自殺か事故死かわからぬと書かれていた。この記事で私の義務がはっきりしたように思われた。私の話を聞いたフレミング氏も全面的に賛成した。
「むろん当局は証人がほしいところでしょうからね。あなた以外にはすぐ近くで見ていた人はひとりもなかったといいましたね?」
「あたしの後へだれか近づいてきたような気配は感じたんです、確かとはいえませんけど、でもいずれにしてもあたしよりもっと近いところに居た人はありませんでしたわ」
調べがはじまった。フレミング氏は手続きを全部やってくれた上、いっしょに行ってくれたが、このことが私にとってたいへんな試練であるにちがいないと心配しているらしかった。だから実は全く落ち着いていたのだけれどそんなそぶりは見せないようにしなければならなかった。
死んだ男はL・B・カートンと判明した。そのポケットから発見されたものは、マーロウに近い川っぷちの家をみるようにと指示したある家屋周旋屋の紹介状だけであり、それはラッセル・ホテル内、L・B・カートン名儀に宛ててあった。呼ばれてきたホテルの事務員は、その男が前日着いてその名前で部屋をとった客であることを認めた。宿帳には南アフリカ、キンバレー、L・B・カートンと書いたとのことで、明らかに船からおりてまっすぐホテルへ来た様子だったということだった。私はこの事故を多少なりとも目撃した唯一の人間であった。
「あなたは事故死だとお思いですか?」検屍官《けんしかん》はきいた。
「確かにそうだと思います。あの人は何かに驚いたんです、それで思わず知らず後ずさりしたんですわ」
「しかし驚かすようなものっていったい何がありましたかね?」
「それがわからないんです。ですけど、何かあったんですわ。急に慌《あわ》てた顔になりましたもの」
頭の悪そうな陪審員のひとりが、猫におびえる人もあるからその男もきっと猫を見たのだろう、といい出した。私にはこの思いつきがたいへんすぐれたものとは考えられなかったが、陪審員たちの考えには合格したもののようであった。なにしろ彼らは早く家に帰りたくてじりじりして居り、自殺ではなく事故死であるという評決を下すことができるのをひどく喜んでいたのだから。
「不思議なのは」検屍官がいった。「最初に死体を診たという医者が名乗りでてこないことです。ほんとはその医者の名前と住所がその場で明らかにされなくちゃいかんのに、そうしなかったというのは全くもって異例なことですよ」
私は心中ひそかににやりとした。あの医者については私は私なりの説をたてている。それを追求するために、私は近いうちに警視庁へ行こうと決心した。
ところが翌朝、びっくりするようなことが待ちかまえていた。フレミング家でとっているデイリー・バジェット紙が得たりとばかり次の記事を掲げていたのだ。
地下鉄変死事故に奇怪な続篇
空家で婦人の絞殺死体発見さる
私はむさぼるように読んだ。
『昨日マーロウのミルハウスにおいて若い女性の死体が発見された。ミルハウスというのは下院議員サー・ユースタス・ペドラー所有の貸家で、さきに地下鉄ハイドパーク・コーナー駅で送電軌条に身を投げて自殺したものと考えられていた男のポケットから発見された周旋屋の紹介状に書かれてあった家である。そしてこの家の二階の一室で若い美人の絞殺死体が発見されたというわけである。被害者は外国人と推定されるが身許は今のところまだ判明していない。ミルハウスの持ち主、サー・ユースタス・ペドラーは目下リヴィエラに避寒中』
第四章
死んだ女の身許を明らかにするような人物は誰ひとり現われなかったが、調べが進められて次のような事柄が判明した。
一月八日の一時すこし過ぎ、いくぶん外国|訛《なま》りのある、身なりのよい婦人が、ナイツブリッジのバトラー・アンド・パーク家屋周旋所を訪れた。彼女は、テムズ河畔にあってロンドンに行くにも便利なような家を一軒、借りるか買うかしたいと申し出た。問題のミルハウスもふくめて何軒かの候補があげられた。彼女はド・カスティナ夫人と名乗り、住所はリッツ・ホテルだといったが同ホテルにはそのような止宿人はなかったことが判った。またホテルの従業員たちもその死体が誰であるかみわけられなかった。
ミルハウスの管理人として街道に面した小さな家に住んでいるサー・ユースタス・ペドラーの庭師ジェームズのおかみさんは次のような証言をした。その日の三時ごろ、ひとりの婦人が家を見たいといってたずねてきた。そして周旋屋からの紹介状をさし出したので、彼女はいつもの習慣どおり鍵の束をその婦人に渡した。ミルハウスはジェームズの家からは少々離れたところにあるので、彼女は同道しない習慣となっていた。その数分後、こんどは若い男がやって来た。ジェームズのおかみさんによると、この男は背が高く肩幅が広くて、顔は茶色く日に焼けており、目は明るい灰色をしていたという。そしてきれいに髯をそっており、茶の背広を着ていた。彼は、自分は今しがた来た婦人の連れなのだが、電報を打つために郵便局へ寄っていたのでおそくなったといった。そこでおかみさんはミルハウスの場所を教え、それ以上べつだん気にもとめなかった。
五分ほどすると男が戻ってきて鍵を返し、あの家は自分たちには向かないようだといった。おかみさんは、婦人のほうは見かけなかったがたぶんひと足先に歩いているのだろうと思った。ただ彼女は、その男が何かにひどく驚いて慌てているように見えるのに気づいたという。「まるで幽霊でも見たような様子でしたよ。あたしゃどこか急に具合でも悪くなったのかと思ってました」
翌日べつの婦人と紳士が家を見にやって来て、二階の一室の床に死体が横たわっているのを発見した。ジェームズのおかみさんは、それが前日訪れた婦人の死体であることを認めた。また周旋屋も『ド・カスティナ夫人』にまちがいないといった。検屍の結果、死後約二十四時間と推定された。デイリー・バジェット紙は一足跳びに、地下鉄で死んだ男が犯人で、女を殺したあと自殺したのだという結論にとびついた。しかし地下鉄で男が死んだのは二時であり、婦人のほうは三時にはまだ立派に生きていたのだ。だから論理的結論としては当然、二つの事件はなんら関係ないのであり、男のポケットからマーロウの家に対する紹介状が発見されたことは、よくある偶然の一致の一つにすぎない、ということになるのだ。
陪審は『故意の殺人』を評決して答申した。その結果警察(及びデイリー・バジェット紙)は、『茶色の服を着た男』の行方を探すこととなった。ジェームズのおかみさんが断固として、ミルハウスには、婦人が入ったときには他に誰も居なかったはずであり、また、翌日の午後までは問題の若い男以外入ったものは居ないはずだといったため、その男が不運なド・カスティナ夫人を殺したものと結論するのが当然と思われたからだ。死体は丈夫な黒い紐《ひも》で絞め殺されており、ふいをつかれて声をあげる暇もなかったらしいことが一見して明らかだった。彼女の持ち物である黒い絹のハンドバッグには、いっぱいつまった財布と小銭が多少のほか、美しいレースのハンケチが一枚と一等往復切符のロンドンまでの半分などが入っていたが、手がかりとなりそうなものはあまりなかった。
以上がデイリー・バジェット紙によって広く公けにされた事件の詳細であり、また『茶色の服の男を探せ』というのが同紙の日ごと掲げるスローガンであった。その男をみつけたといって知らせてくる者は日に平均五百人にのぼり、また背が高く若くてよく日に焼けた男は、かつて洋服屋にすすめられるまま茶の背広をつくったことを呪《のろ》った。地下鉄の事故の件は単なる偶然の一致として人々の心から忘れ去られた。
ほんとうに偶然の一致だったのだろうか? 私はそういいきれない気がした。もちろん私の偏見かもしれない──あの地下鉄での出来事は私だけの大事な謎《なぞ》なのだから。だがそれにしても、あの二つの事件の間にはなんらかのつながりが確かにあるように思われた。どちらの場合にも日に焼けた顔の男──明らかに海外暮しの英国人──が登場している。それ以外にもまだある。そしてこの、それ以外の事どもについていろいろ考えているうちにとうとう、どうしても思いきった手段に出ないではいられなくなった。私は警視庁に出かけて行き、ミルハウス事件担当の人に会いたいと申し入れた。最初うかつにも傘の忘れものの係へとびこんだものだから、私の要求はなかなか理解されなかった。それでもやがて小さな部屋へ通され、メドウズ警部に紹介された。
メドウズ警部は小柄な人で、鈍そうな上、妙に人をいらいらさせるところがあった。やはり私服を着た部下がひとり、片隅にでしゃばらずに控えていた。
「こんにちは」私は神経質に挨拶した。
「いらっしゃい。どうぞ坐ってください。なにか私どもに役に立ちそうなこととやらを教えにきてくださったそうですが?」
その調子はまるで、そんな馬鹿なことがあるものかといっているようだった。私は気持が乱されたように感じた。
「あの、地下鉄で死んだ男の人のことはもちろんご存じでしょう? マーロウのあの家を見るようにという紹介状をポケットにもってた人のことです」
「ああ! あなたはあの時証言してくださったベディングフェルドさんですね。ええ、たしかにあの男はポケットに紹介状をもってましたな。他にも同様な紹介状をもってた人はたくさんいるでしょうな──ただたまたま死ななかっただけでね」
私は気をとり直していった。
「あの人が切符をもってなかったこと、変だとお思いになりません?」
「切符をなくすなんてよくあることですからね。わたしにしてからがよく落す」
「それにお金だって」
「ズボンのポケットに小銭は少しありましたよ」
「でもお財布はありませんでしたわ」
「財布とか紙入れとかは全然もたないっていう人がよくあります」
私はもうひと押し試みた。
「あの時の医者が名乗り出ないのも変だとはお思いになりませんの?」
「忙がしい医者だと新聞など読む暇もない人が多いですからね。きっとあの事故のことはきれいに忘れちゃってるんでしょう」
「警部さんは変な点はなんにも発見しないことに決心なさってるようですのね」私は愛想よくいった。
「なるほどあなたはその言葉がお好きとみえますな、ベディングフェルドさん。若いお嬢さんはみんなロマンチックですからね──変だとか謎めいてるとかいうのがお好きだ。しかしわたしは忙がしいからだですから……」
相手の意図がわかったので私は立ちあがった。そのとき、隅にいた男がおだやかな声で口をきいた。
「お嬢さんのお考えを手みじかに聞かせていただいてはどうでしょう、警部?」
警部はこの提案にすぐ同意した。
「そうだな、まあ怒らないでください、ベディングフェルドさん。あなたはいろいろ質問したり仄《ほの》めかしたりされたが、考えておいでのことを率直に話してくれませんか」
私は傷つけられた尊厳と、話したいという抑えがたい慾望との板ばさみになった。だが傷つけられた感情のほうが敗退した。
「あのときあなたは、確かに自殺ではないといわれましたね?」
「ええ、今でもその点には確信がありますわ。あの人はなにかにびっくりしたんです。なにに驚いたのでしょうか? でもあたしにではないんです。ホームのむこうから誰かがあたしたちのほうへ歩いてきたんじゃないでしょうか──その誰かをあの人は知っていたんですわ」
「あなたは誰も見なかったんですね?」
「ええ、あたしはふりむきませんでしたから。そのあと、死体が線路から引き上げられるとすぐ、ひとりの男が自分は医者だといいながらみんなを押しわけて出てきて診《み》たんです」
「それだけのことならべつにおかしな点はありませんな」警部は冷やかにいった。
「でもその人はお医者さんじゃありませんでした」
「え?」
「その人お医者さんじゃなかったんです」私はくりかえした。
「どうしてわかります、ベディングフェルドさん?」
「うまく説明するのはむずかしいですけど、あたし、戦時中病院で働いていましたから、お医者さんが死体を扱うのはたびたび見たことがあるんです。なんていうか、もっと手なれた職業的な非情さがあるものなのに、あの男の人にはそういうところがありませんでしたわ。それにお医者はふつう、心臓に触ってみるのに体の右側をさわったりしませんわ」
「その人は右側にさわったんですか?」
「ええ、でもあたしそのときはべつに気づかなかったんです──ただなにかおかしいなと思っただけで。ですけど家へ帰ってからようく考えたらわけがわかったんです。そうしたら、あのときなぜ、あの出来事全体が私の目にあれほど不自然に映ったのかわかりましたの」
「ふむ」警部はやおらペンと紙のほうへ手をのばしかけた。
「死体の上体に手を触れて診てるあいだに、欲しいものをポケットから抜きとる暇は十分にあったと思うんです」
「わたしにはそうは思えませんがね、しかし──そうだな、その男の人相は覚えてますか?」警部はいった。
「背が高くて肩幅が広くて、黒っぽいオーバーに黒い長靴をはいて、それから山高帽子をかぶってました。そうして黒いとがったあご髯をはやしていて、金縁のめがねをかけてました」
「オーバーも髯もめがねもとってしまえば見わける手がかりはほとんどなくなっちまいますな」警部はうなるようにいった、「ものの五分もあれば変装できちまいますよ──その男があなたのいうように紳士を装ったすりだとしたらね」
私はなにもそんなことをいおうとしていたのではない。だがこの瞬間から私はこの警部のことをもうすくいがたいとみてあきらめた。
「その男に関してはもう話すことはないんですか?」私が帰ろうとして立ちあがったとき、警部はきいた。
「ありますわ」私はすかさず捨てぜりふを投げてやった。「あの人の頭は顕著な短頭型《ブラキケファリック》でした。あれを変えるのはかなり苦労しますでしょうね」
メドウズ警部のペンがとまどっているのを、私はしてやったりとばかり観察していた。警部が短頭型《ブラキケファリック》のつづりを知らないのは目に見えていた。
第五章
最初の段階で頭がカッカとなってしまったおかげで、次の段階に取り組むのは意外にやさしかった。私は警視庁の門をくぐったときすでに計画をなかばねってあった。警視庁での会見が不満足なものだった場合にとるべき行動の計画である(事実、会見ははなはだ不満足なものだった)。すなわち、あくまでもやり通す勇気が私にあれば、ということだ。
ふつうの状態ではしりごみしてしまいそうなことでも、怒り心頭に発している時にはたやすくやれるものだ。よく考え直す時間を自らに与えもせずに、私はまっすぐナズビー卿の家にむかった。
ナズビー卿というのは大金持でデイリー・バジェット紙の所有者である。彼は他にもいくつか新聞社をもっているが、一番の秘蔵っ子がデイリー・バジェット紙だった。彼が英国全土の各家庭にその名を知られているのはデイリー・バジェット紙の所有者としてなのだ。この大人物の日々の行動記録が出版されたばかりだったから、私はいまどこへ行けば彼が見つかるか精確に知っていた。いまこの時間には、自宅で秘書に口述しているはずだ。
もちろん私だって、彼に会いに行こうと決心した若い女がだれでもただちに御前に罷《まか》り出ることが許されるとは思わなかった。しかしそのへんのことはあらかじめよく考えてあった。フレミング家のホールの名刺受けに、有名な狩猟好きの貴族、ロームズレイ侯爵の名刺があるのを知っていたから、それをとってきてパン屑で注意ぶかく拭ってから、鉛筆で『ベディングフェルド嬢をご紹介申しあげます』と書いておいたのだ。冒険に挑む女はその手段において臆病であってはいけない。
事はうまく運んだ。お仕着せを着た従僕がその名刺を受けとって持ち去った。やがて青白い顔をした秘書があらわれたが、私が要領よく彼の質問を受け流したので尻尾をまいて奥へひっこんだ。そしてまた出て来るとどうかこちらへ、といった。ついていくと大きな部屋へ通された。おびえたような顔つきの速記タイピストが、まるで霊の世界からでもきたもののようにさっとすりぬけて出ていった。そしてドアがしまると、私はナズビー卿と向かい合っていた。
大きな男だ。大きな頭。大きな顔。大きな口髯《くちひげ》。大きなおなか。私は勇気を奮いおこした。ここへ来たのはナズビー卿のおなかについてかれこれいうためではない。むこうさまは早くも私にむかってわめき始めたではないか。
「何のご要件です? ロームズレイは何をしろというんです? あなたは秘書なんですな? いったいどうしたというんです?」
「最初に申しあげておきますが」私は能《あた》うかぎりの冷静さを装っていった。「あたしはロームズレイ卿を存じあげてはおりませんし、ロームズレイ卿のほうでもあたしをご存じではないはずです。あたし、いま泊めていただいている方のお家の名刺受けから、ロームズレイ卿のお名刺をとってきたのです。そこに書いてある言葉はあたしが書きました。ぜひともお目にかからなくてはなりませんでしたので」
一瞬、私は、ナズビー卿は卒中をおこしたのかしら、と思いかけた。やがて、二度ばかり生つばを飲みこんでどうやら卒中をおこすのをこらえたようだった。
「あんたの落ち着いているのには敬服しました。お嬢さん。よろしい、会ってあげよう! あときっかり二分間だけ会見を続けてもよろしい。ただしあんたの話がわたしの興味をひけばのことですぞ」
「それだけあれば十分ですわ。かならずあなたの興味をそそってみせます。お話というのはミルハウス事件のことなのです」
「『茶色の服の男』をみつけたという話なら編集部へ投書しなさい」彼はいそいでさえぎった。
「途中で口をおはさみになるんでしたら、二分間以上お邪魔させていただきます」私は手きびしくいった。「『茶色の服の男』をまだみつけてはおりませんが、みつける可能性が十分にあるのです」
できるだけ手短かに、私は地下鉄事故のありのままとその事からひき出した結論とを話してきかせた。話し終ると相手は思いがけなくこういった、「短頭型《ブラキケファリック》についてはどれだけ知っているのです」
私はパパのことを話した。
「あの猿の先生ですか? え? なるほどあなたの肩の上にも何型かの頭がのっかってるようですな。ところでそれだけじゃ根拠が薄弱だ、第一われわれには役に立ちませんよ──いまの様子ではね」
「そのことはよく承知しております」
「じゃあいったい、どうしたいというんです?」
「あなたの新聞でこの事件を調査する仕事をいただきたいのです」
「そりゃだめだ。うちの新聞にはそのためにわが社自身の特別の人間をおいてある」
「ところがあたくしのほうにはあたくし自身の特別な情報があるんですわ」
「さっきあなたの話してくれたことですかね?」
「いいえ、ナズビー卿、違います。まだ他にも持ち合わせているのです」
「ほう、まだあるとね、まだあるんですか? あんたはなかなか利口ですな。それでいったい何なんです?」
「その医者と称する男の人がエレベーターに乗ったときに、紙きれを落したのです。あたしはそれを拾いました。その紙きれはナフタリンのにおいがしたんですが、あのとき死んだ男の人もナフタリンくさかったのです。医者はにおいませんでした。ですから、その医者が死体から紙きれを抜きとったにちがいないとすぐわかりました。紙きれには言葉が二つと数字が少し書いてあったんです」
「どれどれ」
ナズビー卿はなにげなく片手をさし出した。
「お目にかけないつもりですわ」私はにこにこしてみせながらいった。「あたしのみつけた物ですもの」
「思ったとおりだ。あんたはなかなか利口じゃよ。その紙きれを死守しているのはまことにもっともだ。しかしまさか警察へ渡さない気ではないでしょうな?」
「そのつもりでけさ警察へまいりましたわ。でも警察ではがんとしてマーロウ事件とは関係ないという見方を変えないんです。ですからあたし、この情況でならその紙きれをあたしがあたためていたって不当じゃない、と思いましたの。それに、その警部さん、あたしを怒らせちゃったんですから」
「馬鹿な男だな。よろしい、お嬢さん、これだけのことはしてあげよう。あんたの考えにしたがって仕事をつづけなさい。そしてもし何かわかったら──新聞にのせる価値のあるようなことがですよ──送ってよこしなさい、つまりあんたのチャンスだ。デイリー・バジェットにはいつでもほんとに才能のある者を迎える用意がある。といっても、とにかくあんたがまずやってみせなくちゃだめだ、いいですね?」
私はお礼をいい、私のとった手段のことを詫びた。
「いやどういたしまして。小癪《こしゃく》なやりくちは嫌いじゃない──きれいな娘さんのすることならね。ところであんたはさっき二分間といったが、わたしが口をはさんだ分を差し引いてもまだ三分にしかならない。女性にしては驚くべきことだ! きっと科学的な訓練ができてるせいですな」
私はふたたびおもての通りに立った。かけっこでもしたあとみたいにハアハア息を切らしていた。新しい知人としては、ナズビー卿は少々くたびれる相手だと思った。
第六章
私は歓喜にうちふるえながら家へ帰った。計画は、望み得たよりもはるかに成功であった。ナズビー卿はたしかに親切なひとだった。私はあと、彼のいうように『やってみせ』さえすればよいのである。部屋に閉じこもると私は私の大事な紙きれをとり出し、注意深く研究した。謎を解く鍵はここにあるのだ。
まず、この数字は何を意味するものか? 数字は五つあり、はじめの二つの次に点が一つある。「17──122」私はつぶやいてみた。べつになんの手がかりにもなりそうもない。
次には全部の数字をたしてみた。この方法は小説ではよく使われる、そしてしばしばすばらしい結果をもたらす。
「一たす七は八、それに一たして九、二をたして十一、も一つ二をたして十三」
十三! 不吉な数! 私に手をひけという警告だろうか? 大いにそうかもしれない。だが、警告とみる以外には全然役立ちそうにない。それにしても、小説ではあるまいし、陰謀者が十三をあらわすのにこんなふうに書いたりするとは考えられない。十三をあらわすつもりならきっと『13』というふうに書くだろう。
一と二のあいだが少しあいている、それで百七十一から二十二をひいてみた。すると百五十九になる。もう一度やり直したら百四十九になった。こんな計算は算術の練習にはたいへんよいにちがいないが、謎の解明には全く効果のないもののようだった。私はそれ以上割り算や掛け算を試みることはやめ、算術は放擲《ほうてき》して言葉のほうを検討することにした。
|Kilmorden Castle《キルモーデン・カースル》。これは何か限定されたものだ。場所だ。ある貴族のお城かもしれない。(相続人が行方不明なのかしら? 称号の主張者の問題かしら?)それとも絵のような廃墟だろうか。(宝物が隠されているのかな?)
そうだ。いろいろな点から考えて、私は埋められた宝物説に傾いた。埋められた宝には数字がつきものである。右へ一歩、左へ七歩、一フィート掘る、二十二段おりる。そんなふうにやるのだ。これはあとでやってみればよい。それよりも、肝心なのはできるだけ早くキルモーデン・カースルなる場所へ行くことだ。
私は籠城《ろうじょう》中の部屋から戦略上出撃し、参考書のたぐいをどっさり抱えて戻った。名士録、年鑑、地名辞典、スコットランド旧家の歴史、それに誰やらの著した『英国諸島』等々。
時間がたった。せっせと調べつづけたが、しだいにいらいらしてきた。とうとう私は最後の本をパタンと閉じた。キルモーデン・カースルなどという場所はどこにもない。思いがけないところで行きづまってしまった。しかしそういう場所がないはずはない。いったい誰がそんな名前を意味もなく発明して紙きれに書きつけたりするだろう? 馬鹿げてる!
べつの考えがうかんだ。どこかの郊外にあるお城みたいな|つくり《ヽヽヽ》のへんてこな建て物かもしれない。きっと持ち主が仰々しくもそんな名前をつけたのだ。しかしもしそうだとしたら、みつけ出すのは至難のわざだ。私は憂鬱な顔で膝を折って坐ると(たいせつな問題を考えるときには私はいつも床にこうして坐る)どこから手をつけるべきか考えた。
ほかにやれそうなことはないものだろうか?一心不乱に考えているうちに、私ははたと膝をうって跳びあがった。そうだ! 『事件の現場』へ行ってみなくてはならない。優れた探偵はかならずそれをやる。かれらはたとえどれだけ時間がかかろうとも、いつかは必ず警察の見落したものをなにかしら発見してみせるではないか。私のとるべき道は決った。マーロウへ行かなくてはならない。
しかしどうやったらその家へ入れるだろう? 冒険的方法はいくつかあったが、私はそれらは棄ててもっぱら簡易さをむねとして考えた。その家は貸家であったのだ──おそらく今でも貸家のままだろう。では借り手ということで行くとしよう。
私はまた、その付近の周旋屋を試みることに決めた。中央の周旋屋にくらべてリストにのっている家が少ないはずだと思ったからだ。ところがそうは問屋がおろさなかった。
愛想のよい事務員は手ごろな家の候補を六つもあげて詳しく説明した。それらにいろいろ難癖をつけるのに私は大汗をかき、しまいにはもうだめかとさえ思った。
「ほんとにほかにはもうありませんの?」私は困り果てたように相手の目をじっとみつめていった、「川っぷちにあってかなり広い庭があって、小さな門番小屋がついてる家がいいんだけど」新聞で得た知識をもとに、私はミルハウスの主な特長をつけ加わえた。
「はあ、サー・ユースタス・ペドラーの家ならあるにはありますがねえ」相手は自信なさそうにいった、「ミルハウスですよ、ご存じでしょう」
「まさかあの、あの……」私は口ごもった。(まったくこのころには口ごもることがだいぶじょうずになっていた)
「その家ですよ! 殺人のあった家です。しかしおそらくおいや……」
「あら、あたしは平気ですわ」私はさも勇気を奮い起こしてそういっているような顔をしたが、われながら真に迫った演技が身についているのを感じた。「それに安く借りられるんじゃないでしょうか──そういうわけなんでしたら」
堂に入ったものだ、と私は思った。
「そうですな、可能かもしれません。ああいうことがあっちゃ家を借りてもらうのも容易じゃないでしょうからね。ごらんになってお気に召したら交渉してみたらいかがです。紹介状お書きしましょうか?」
「お願いしますわ」
十五分後には、私はミルハウスの管理人小屋にいた。ノックすると、ドアがぱっと開いて背の高い中年の女が文字通りころがり出てきた。
「あの家へは誰も入れませんよ、いいですか?あんたがた記者連中にはもううんざりだ。サー・ユースタスのご命令で……」
「貸家だときいてきたんですが」私は紹介状をさし出しながらひややかにいった、「でももうお決りなんでしたらもちろん……」
「まあ、これは失礼しました、お嬢さん。まったく新聞記者どもがうるさくて閉口なんですよ。一分だって休まるひまもありゃしない。いいえ。家はお貸しできないんですよ──今のところはだめだと思いますねえ」
「下水でも具合悪いんでしょうか?」私は気がかりそうに声を低めてきいた。
「いいえいいえ、下水はなんともありませんとも! あなた、ここで外国人の女が殺されたってお聞きになりましたでしょう?」
「そういえば新聞にそんなようなこと出てたようですわね」私はなにげなくいった。この無関心さが人のよいおかみさんの気持を傷つけた。もし私が少しでも関心を示したなら、きっと黙りこくってなにもしゃべらなかったにちがいない。しかし私の無関心の様子におかみさんはそっくり返ってしゃべり出した。
「お読みになったはずですよ! 新聞という新聞に出たんですからね。デイリー・バジェットなんかは犯人を捕まえるんだってやっきになってますよ。新聞でみると警察はさっぱりだめらしいですねえ。とにかく捕まえてくれるといいんです──なかなか男前の若い人でしたがねえ。軍人みたいな感じで──そうだ、きっと戦争で負傷したんですよ。負傷するとそのあと少しおかしくなる人がいますからね、あたしの妹の倅《せがれ》もそうですよ。きっと女が邪険《じゃけん》にしたんでしょう、悪いやつがいますからね、ああいう外国人には。きれいな女にはちがいなかったが……、そら、そこのいまあんたが立ってるところに立ってねえ」
「黒い髪でした? それとも金髪? 新聞に出てる写真じゃわかりませんものね」私は大胆にもきいてみた。
「黒い髪でしたよ、そして顔色がばかに白くて──あんまり白いんで不自然な感じがしましたよ。そしてひどくまっ赤に口紅を塗ってね。あたしゃああいうのはいやですね、たまにちょっとお白粉をはたくぐらいならかまいませんがね」
もう私たちふたりは十年の知己のごとくにしゃべっていた。私は別な質問をしてみた。
「その女の人、いらいらしたり興奮したりしてるような様子はありませんでした?」
「ええ全然。なにかおもしろいことでもあるのか、ひとりでにこにこしてました。だから、次の日の午後になってあの人たちが誰か殺されてる、お巡りさんを呼べといって駈けもどってきた時には、あたしゃ仰天《ぎょうてん》しちまったんです。驚いたのなんのって。日が暮れたらもうあの家へは一歩だって入るものですか、もういやですよ。この小屋にだって居たかありません、サー・ユースタスが七重のひざを八重に折って頼んだんでなかったらね」
「サー・ユースタス・ペドラーはカンヌにいらっしゃるんじゃなかったんですの?」
「そうなんですけどね、知らせを聞いて戻ってらしたんですよ。七重のひざを八重にというのは実は言葉のあやですがね、秘書のパジェットさんが来て給料を倍にするからずっと居てくれないかっていったんですよ。そしたらうちのジョンが、当世じゃ金は金だからなっていうもんで」
私はジョンの決して目新しくない意見に心から共鳴する意を表した。
「ところで若い男のほうですがね」ジェームズのおかみさんは突然会話の前半へ立ち戻っていった、「男のほうは興奮してました。明るい目をしていてね、ふつうと違うようなんで気づいたんですが、いやにキラキラしてました。興奮してるな、ってあたしゃ思いましたよ。でもまさか悪いことするとは夢にも思いませんでしたからね。鍵を返しにきたときだってぎこちない様子でしたが、まさかそうとはねえ」
「その人、その家に何分ぐらいいたんでしょう?」
「ちょっとですよ、五分かそこらでしょうかね」
「背はどのぐらい? 六フィートぐらいかしら?」
「そんなところでしょうね」
「髯はきれいにあたってあったんでしたわね?」
「そうなんですよ、小さな口髯ひとつ生《は》やしてませんでしたね」
「あごがテカテカ光ってませんでした?」私はふいの思いつきでたずねた。おかみさんは畏敬のまなざしで私をみつめた。
「まあ、それをおっしゃるんですか、はい、光ってましたよ。だけどどうしてあなたがそれを?」
「おかしな話だと思いますけどね、でも人殺しってよくテカテカしたあごをしてるもんなのよ」私は乱暴にもそう説明した。おかみさんはそれを簡単に信じてしまった。
「なるほどそうなんですか。ちっとも知りませんでしたよ」
「その人、どんな頭をしてたかは覚えてないでしょうね?」
「ごくふつうの頭でしたよ。鍵おもちしましょうか?」
私は鍵の束をもらい、ミルハウスのほうへ歩いていった。これまでのところはうまくいったと思った。私は、ジェームズのおかみさんのいう男と、私の見た地下鉄の『医者』とのあいだの相違点はどれも本質的なものではないことに最初から気づいていた。オーバー、あご髯、それに金縁のめがねなどだ。『医者』は中年に見えたが、思い出してみると、死体の上にかがみこんだときの挙措《きょそ》が比較的若いひとのような感じだった。あの身のこなしには関節が若いことを物語る柔軟さがあった。
事故の犠牲者(つまり私のいわゆる『ナフタリンの男』)とその外国人の女(ド・カスティナ夫人なり本名何某夫人なり)とは、ミルハウスで会う約束をしていた。これは私がいろいろ総合して考え至ったことである。二人は人に見られるのを恐れたか、あるいは他に理由《わけ》があるかして、それぞれが同じ家の紹介状を手に入れるという凝《こ》った方法をとったのだ。そうすれば二人が会ったのは全くの偶然のように見える。
ナフタリンの男が突然『医者』をみかけたことや、その邂逅《かいこう》がナフタリンの男にとっては全く予期せざる、かつ驚くべき事態であったことは、私がはっきりと確信を抱くことのできるもう一つの事実である。次に起きたのはどういうことであったか? 『医者』は変装をとり去って女のあとをつけ、マーロウまで行った。しかし髯をはぎとるときに多少あわてていたとすれば、ゴムのりがあごに残っていることもあり得る。そう考えたからジェームズのおかみさんにあの質問をしたのだ。
考えに耽《ふけ》りながら歩いているうちに、ミルハウスの低い古風なドアの前に来ていた。鍵をあけて私は中へ入った。ホールは天井が低く、暗くて、あたりは人気《ひとけ》のないかび臭いにおいがした。思わず背すじが寒くなった。つい三、四日前、『にこにこしながら』ここへ来たその女は、中へ入った時予感のようなものを感じて背すじが寒くならなかったのだろうか? 唇からは微笑が消えて、いいようのない恐怖に胸をしめつけられたのではなかろうか? それとも死が目の前に迫っているとも知らず、微笑をうかべたまま二階へあがったのだろうか? 私の心臓はドキドキしてきた。この家にはほんとに誰も居ないかしら? 死は私のこともやっぱり待ちうけているのかしら? この時はじめて『雰囲気』といういい古された言葉の意味を私は理解した。この家の中にはある種の雰囲気がある、残虐、脅迫、邪悪の雰囲気がある。
第七章
重苦しくのしかかったこれらの感情をはらいのけて、私は大急ぎで二階へ上った。悲劇のあった部屋はすぐわかった。死体が発見された日は大雨が降っていたので、泥靴の大きな足跡が敷物のない床にやたらとついていた。私は、その前日犯人は足跡を残していかなかったかしらと考えた。もし残していったとすれば、警察はそのことを隠しておくにちがいない。だがよく考えてみて、私はそんなことはなさそうだと判断した。あの日は晴天で道は乾いていたのだ。
その部屋には特に興味をひくようなものはなかった。張り出し窓が二つついた、ふつうの白い壁の、ほぼ正方形の部屋で、床には敷物がなかった。床板は敷物が敷いてあった部分を境にまわりが汚れていた。私は注意深く調べてみたがピン一本ころがっていなかった。才能ある若き探偵も、警察の見落した手がかりを発見できそうになかった。
私は鉛筆とノートを持参していたが、書きつけるほどのものはないようであった。しかし、探索が失敗に終ったことにたいする失望を補うために、その部屋を簡単にスケッチした。そうして鉛筆をハンドバッグの中へしまおうとしたとき、指をすりぬけてそれは床に落ち、ころがっていった。ミルハウスは実に古い建物なので床はかなり傾いている。鉛筆は速度を増しながらころがりつづけ、一方の窓の下でやっと止った。それぞれの窓の張り出している部分には深い腰かけがしつらえてあって、その下は戸棚になっている。私の鉛筆は戸棚の戸のすぐ前に横たわった。戸はしまっていたが、ふとそのとき、もしあいていたら鉛筆は中までころがりこんだにちがいない、という気がした。戸をあけてやると、果せるかな鉛筆はただちにころがりこんで、一番向こうの隅にかしこまって隠れた。私はそれを取り出そうとしながら、光が入らないのと、戸棚が独特の形をしていることのために目で見て探すわけにはいかず、手でさぐるよりほかないことに気づいた。その戸棚には私の鉛筆以外には何もなかったが、生まれつき徹底的にやらなければ気のすまぬ性分なので、反対側の窓の下の戸棚も調べてみた。一見、そこもからっぽのように見えた。しかし根気よくさぐりまわしているうちに努力は報いられ、私の手は固い紙の筒にさわった。それは戸棚のむこうの隅の、細長い凹《くぼ》みのようなところに横たわっていた。手に握った瞬間、私にはそれが何であるかすぐわかった。コダックのフィルムである。一つ発見があったわけだ!
もちろん、このフィルムはサー・ユースタス・ペドラーのもので、むかしたまたまここへころがりこんだまま、戸棚を片づけるときにも気づかれなかったのかもしれない。しかし私はそうは思わなかった。赤い紙がまだ新しいし、ほこりだって、二日か三日そこに置かれてあった程度にしかついていない──つまり殺人のあった日以来だ。もしもっと長いことそこにあったのなら、厚くほこりをかぶっているはずだ。
誰が落したのだろうか? 女のほうか、男のほうか? 私は女のハンドバッグの中身が手を触れられていない様子だったことを思い出した。もし、もがいている最中にバッグの口があいてフィルムが落ちたのだとしたら、バラで入っていた小銭だって散らばったにちがいない。そうだ、フィルムを落したのは女のほうではない。
突然、私は訝《いぶか》しげに鼻をひくつかせた。ナフタリンの臭いの脅迫観念にとらわれているのだろうか? 私はそのフィルムがやっぱりナフタリンの臭いがすることを断言できた。鼻の下へもっていくとフィルム自身の強い臭いがしたが、それ以外に私は私のあれほど忌《い》み嫌っている臭いをはっきりと嗅ぎわけることができた。原因はすぐわかった。木の芯のギザギザした縁にごく小さな布のはしがからみついており、その布にナフタリンの強い臭いがしみこんでいるのだ。どれくらいかの時間、このフィルムは地下鉄で死んだ男のオーバーのポケットに入ったまま持ち歩かれていたのだ。ここでこれを落したのはあの男だろうか? まさか。彼の行動はすべて明らかにされている。そうではない、もう一人の男、『医者』である。『医者』はあの紙きれをとったときフィルムもとったのだ。女との格闘のあいだにここで落したのは彼だ。
手がかりがみつかった! このフィルムを現像させよう、そうすればもっといろいろなことがわかる。
意気揚々と私はその家をひきあげて鍵をおかみさんに返し、できるだけ急いで駅にむかった。ロンドンへ帰るみちみち、私は例の紙きれをとり出しあらためて研究した。すると突然、数字が別の意味をもっているように見えてきた。日付と考えてはどうだろう? 17 1 22つまり一九二二年一月十七日。それにちがいない! 今までそれを考えなかったなんてなんという馬鹿だ。だがそうだとしたら、とにかくキルモーデン・カースルのありかを探さなくてはならない、なぜなら今日はもう十四日だ。あと三日しかない。日|にち《ヽヽ》がなさすぎる──どこを探すあてもないとあってはほとんど絶望だ!
フィルムを現像に出すには今日はもう時間がない。夕食に遅れないようにケンジントンの家へ帰らなければならない。私は自分のひき出した結論のいくつかが正しいものかどうかを確かめる簡単な方法があることに思いあたった。私はフレミング氏に、死んだ男の所持品の中にカメラがあったかどうかきいてみた。フレミング氏がこの事件に関心があって、詳しい点に精通していることを私は知っていたからである。だが驚いたことに、そしておもしろからぬことに、フレミング氏はカメラはなかったと答えた。カートンの所持品はすべて、彼の精神状態を少しでも説明できるものはないかとの希望のもとに、注意深く一つ一つ調べられたということだった。フレミング氏は、カメラに関するものは、何一つなかったと断言した。
これでは私の説に反することになる。もしカメラをもっていなかったのなら、なぜフィルムなどを持ち歩いていたのだろう?
翌朝、私は現像してもらうために早く家を出た。ひどくやきもきしていたから、リージェント・ストリートのコダックの大きな会社まで出かけていった。私はそれを渡し、一枚一枚全部焼きつけてくれるよう頼んだ。男は熱帯地方むけに黄色いカンにつめられたフィルムの山をまとめて積みあげてから、私のフィルムを手にとった。そして私を見てにこにこしながらいった。
「おまちがえになりましたようですね」
「あら、いいえ。そんなはずはありませんけど」
「ちがうようですよ、こちらはまだ写してないフィルムです」
私はあらん限りの威厳をよそおって外へ出た。ときどき、自分はなんたる馬鹿であるか! と悟ることはおそらくいいことにちがいない。だが誰だってその過程は好まない。
そのうち、ある大きな船会社の前を通り過ぎようとして私は突然立ち止まった。ショーウィンドウの中にこの会社の船の美しい模型が飾られてあって『ケニルワス・カースル』という名札がついていた。無謀な考えが頭にひらめいた。私はドアを押して中に入り、カウンターの前まで行った。そして口ごもりながら(このときはほんとうに)、小さな声でいった、
「あの、キルモーガン・カースルは?」
「十七日サウサンプトン出航です。ケープタウンまでですか? 一等? 二等?」
「いくらですか?」
「一等は八十七ポンド……」
私はみなまでいわせなかった。偶然にも一致したとあればいたしかたない。私の相続した遺産とまさに同額ではないか! 全財産を投入しよう。
「一等」私はいった。いまや私は決定的に冒険に身を投じたのだ。
第八章
──下院議員サー・ユースタス・ペドラーの日記より抜萃
寸時も身心の休まるひまがないとは驚くべきことだ。わたしは静かな生活を好む男なのだ。クラブを愛し、ブリッジを愛し、うまい料理と酒を愛する。夏はイギリス、冬はリヴィエラがいい。センセーショナルな出来事にかかわりをもちたいとは思わない。もちろんたまには、気持よく燃えさかる暖炉の前で、そのような出来事を新聞で読んだりするのも悪くはない。しかしそれが限度だ。人生におけるわたしの目的は、完全に快適な状態で暮すということである。その目的を遂げるために、これまである程度の頭を使い、かなりの額の金を費《ついや》してきた。しかし、いつでもうまくいくとはいい難いようだ。たとえ実際にわたしの身には起きなくとも、物事はわたしのまわりで起きる。そしてしばしば、心ならずも巻きこまれる。巻きこまれるほど嫌なことはない。
こんなことを書いたのも、もとはといえば、けさパジェットのやつが葬式の雇われ参列者みたいに陰気な顔で、一通の電報をもってわたしの寝室に入ってきたからなのだ。
ガイ・パジェットというのはわたしの秘書である。物事に熱心で骨惜しみするということを知らず、よく働く男で一点の非のうちどころもない。ところがこの男ほどわたしを悩ますやつも珍しいのである。長いあいだ、わたしはこの男をいかにしてやめさせるか、脳みそをすりへらして考え続けてきた。しかし遊ぶより働くほうが好きで、朝は早く起きるのが好き、おまけに絶対にどこといって欠点がないからという理由で秘書を解雇することなど、できない相談である。この男に関してたった一つおもしろい点は、その顔だ。やつは十六世紀の毒殺者のような──いわばボルジア家が暗殺の手先に使っていた男、ちょうどそんな顔をしている。
パジェットが過度にわたしを働かせさえしなければ、こうまで気にはしないのだ。仕事というものは、わたしの概念によれば軽くなさるべきものである──軽く適当に扱っておけばよいのだ! だいたいガイ・パジェットというやつは、生まれてからこのかた何事によらず適当に扱ったためしはないのではないか。やつは何事でも重大に考える。だからあいつと一緒に暮すのは骨が折れるのだ。
先週、わたしは彼をフィレンツェへ行かせるという素晴らしいことを思いついた。パジェットはフィレンツェの話をし、一度行ってみたいものだといったのだ。
「おお、きみ」わたしは叫んだ、「あす行きなさい。費用は全部わたしがもとう」
一月というのはフィレンツェへ行くような季節ではない。しかしパジェットにとっては同じことだろう。わたしは、案内書片手に、馬鹿正直に一つ一つの絵画館をくまなくみてまわっているやつの姿を想像できた。おかげでわたしは一週間自由を得られたのだから安いものだ。
それはまことに快い一週間であった。わたしはやりたいことはみんなやり、やりたくないことは何一つしなかった。しかしけさ、九時というとんでもない時間に、自分と窓の明りとの間にパジェットが突っ立っているのにねぼけまなこで気づいたとき、この自由な境遇は終ったのだと悟った。
「ああ、きみ、葬式はもう始まったのかね、それともこれからかね?」
パジェットはかかるユーモアを理解しない。やつはただ目を丸くした。
「ではご存じで?」
「何をご存じだと?」わたしは不機嫌《ふきげん》にいった。「きみの顔つきをみて、てっきりきみの身内かなんかがけさ埋葬されるとこなんだろうと思ったのだ」
パジェットはこの揶揄《やゆ》を必死になって無視した。彼は電報をたたいていった。
「ご存じのはずはないと思いました。早朝に起こされるのがお嫌いなことはよく存じております──しかしもう九時ですし」──パジェットはあくまで午前九時を昼日中《ひるひなか》であるとみなしている──「それにこのような事態とあれば、と考えましたので……」彼はもう一度電報をたたいてみせた。
「何なんだね、そりゃ?」わたしはきいた。
「マーロウの警察からの電報です、マーロウのお宅で女が殺されたというのです」
これにはわたしも本気で目を覚まされた。
「なんたるあつかましさだ!」わたしは叫んだ。「どうしてわたしの家なんかで? 誰が殺したんだ?」
「そういうようなことは書いてありません。すぐイギリスへお帰りになったほうがいいのではないかと思いますが?」
「さようなことは思わなくて結構だ。どうして帰らなくてはいけないんだ?」
「警察が……」
「いったいわたしが警察となんのかかわりがあるというのだね?」
「しかし、あなたの持ち家なんですから」
「それはなにもわたしの罪ではなくて、むしろわたしの不運ではないのかね」
ガイ・パジェットは憂え顔でかぶりをふった。
「選挙区に悪い影響を及ぼします」
なぜそんなことになるかわたしにはわからない──にもかかわらず、こういうことにかけてはパジェットの直感はつねに正しいという気がする。べつに、国会議員の持ちものであるところの空家へ女が迷いこんでそこで殺されたからといって、その議員の有能さが減ずることはなさそうに思われる──しかしそこが尊敬すべき英国国民の|ものの見方《ヽヽヽヽヽ》のふしぎなところであるのだ。
「それにその女は外国人ですからなお悪いわけです」パジェットは暗い顔でつけ加えた。
これについてもわたしは彼が正しいのだと信ずる。もし自分の家で女が殺されたことが世間の評判を悪くすることであるならば、その女が外国人であった場合はもっと評判を落すことになるのだ。ふいにわたしはべつの事に気づいた。わたしは叫んだ。
「ああ! キャロラインが落ち着いていてくれるといいが」
キャロラインというのはわたしのために料理を作ってくれるご婦人である。たまたま彼女はわたしの庭師の細君でもある。細君としてどんなふうであるかは知らないが、なかなか腕のいい料理人であるのだ。これに反し、ジェームズはいい庭師ではない──が、ただキャロラインの料理のゆえにわたしはのらくらなこの男に給料を与え、住いも与えているのである。
「こうなっては居つかないだろうと思いますね」パジェットはいった。
「きみはいつでも嬉しいことをいってくれる男だよ」
イギリスへ帰らなくてはなるまい。パジェットがわたしを帰らせるつもりでいるのは明らかだし、第一キャロラインというものをなだめなくてはならない。
三日後
冬のイギリスをのがれようと思えばのがれられる人たちがすべてそうするとは限らないとは、信じられない話だ! まったく厭な気候だ。このごたごたのおかげで煩わしいことこの上ない。周旋屋の話では、こう天下に知れわたってしまってはミルハウスを貸すことは不可能に近いだろうということだ。キャロラインは給料を倍にするということで慰留された。これはカンヌから電報でそういってやればすんだことである。まったくの話が、わたしが最初からいっていたとおり、われわれが来なければ用が足りないというような問題はどこにもなかったのだ。わたしはあす帰る。
一日後
はなはだ驚くべきことが二、三起きた。まずその一つは、現政府の産んだ大馬鹿者の最も完璧《かんぺき》な見本ともいうべきオーガスタス・ミルレイに会ったことだ。クラブで、静かな一隅へわたしを誘いこんだときの彼の素ぶりがすでに外交上の秘密をじくじく滲み出させていた。彼は大いにしゃべった。南アフリカとその産業的立場について、ランドのストライキの噂が広まってきたことについて。そのストライキを扇動している秘密の原因について、等々。わたしはできるだけ辛抱して拝聴していた。最後に彼は声を落し、囁《ささや》き声で、スマッツ将軍の手に渡すべきある書類のことを説明した。
「そりゃあきみのいうとおりだとも」わたしはあくびをかみ殺しながらいった。
「しかしどうやって彼の手に届けたものだろうね? この問題におけるわれわれの立場は微妙だからね──ごく微妙なのだよ」
「郵便ではいけないのかい?」わたしは陽気にいった。「二ペンス切手をはって一番手近のポストへ入れるのさ」
彼はこの提案にひどくびっくりしたようだった。
「ペドラー! 普通の郵便でだって!」
わたしは日ごろ、なぜ政府は特別の文書送達吏などを雇って、かれらの機密文書がことさら人々の注意をひくように仕向けているのか、ふしぎに思っているのだ。
「郵便が嫌いなら、きみの手下の若いのをひとり遣わせばいいじゃないか、旅行できて喜ぶぜ」
「できない相談だ」ミルレイは老人くさく頭をふりながらいった。「これには理由《わけ》があるんだ、ペドラー──理由《わけ》があるんだよ」
「なるほど」わたしは立ちあがりながらいった。「非常におもしろい話だね。だがわたしはもう行かなくてはなら……」
「待ってくれ、ペドラー、あと一分だけ、たのむ。さあ、わたしにだけ教えてくれないか、きみが近々南アフリカへ行くつもりだという話はうそじゃないんだろう? きみはローデシアになみなみならぬ関心をもってるからね。それにローデシアの連邦加盟問題はきみの重大関心事の一つでもあることだし」
「まあね、一か月以内には行こうかと考えていたんだがね」
「それをもっと早くにするわけにはいかないのかね? 今月中とか、いや今週はどうだろう?」
「できないことはないがね」わたしは多少の興味を感じて彼をみつめながらいった。「しかし特にそうしたいといういわれもないことだし」
「きみは政府に大きな貢献をすることになるわけだ──非常に大きな貢献をね。政府だってなにぶんのお礼はするだろうと思うよ」
「つまり、わたしに郵便屋になれというのかい?」
「そのとおり。きみは非公式の立場で行くのだから純粋に旅行するわけだ。なにもかもまことにうまい具合だよ」
「ああ」わたしはゆっくり答えた。「行ってもいいよ。とにかくいまわたしの望んでいる唯一のことは、なんでもいいからできるだけ早くイギリスから逃げ出すことなんだから」
「南アフリカの気候は快適だよ、とても快適だ」
「きみ、あそこの気候については先刻ご承知だよ。わたしは戦争直前にいたことがあるんでね」
「大いに恩にきるよ、ペドラー君。後刻包みを使いの者にもたして届ける。スマッツ将軍の手にじきじきに渡してくれ給えよ、わかってるだろうね? キルモーデン・カースルが土曜日に出航する、なかなかいい船だよ」
わたしはペルメル街をいっしょに少し歩いてから彼と別れた。ミルレイはわたしの手をぎゅっと握りしめ、もう一度心からの感謝の意を表した。わたしは政府の奇妙な裏道について考えながら家へ帰った。
個人的要件でわたしに会いたいが、名前はいいたくないという客が来ている、と執事のジャーヴィスが告げたのは翌日の晩のことであった。わたしは日ごろ、保険の勧誘員については激しい見解を抱いているので、会うことはできないとジャーヴィスにいわせた。運悪くガイ・パジェットは、やつが真に役立つのは今しかないというこの時に、胆石の発作をおこして寝こんでいた。やつのごとき、胃弱のくせに熱心で働き者の青年はえてして胆石にかかりやすいのだ。
ジャーヴィスは戻ってきていった。
「お客さまは、ミルレイさんの使いだというようにとおっしゃっておいでです」
それならば事の趣きは変わってくる。二、三分後、わたしは書斎で客と相対していた。大そう日に焼けた、体格のよい青年で、一方の目のはじからあごにかけて切傷のあとが斜めに走っている。これがなければ、多少無鉄砲そうな表情ながらなかなかの男前であるにちがいない。
「それで、ご要件は?」わたしはきいた。
「ミルレイさんからいわれて参りました。あなたの秘書として南アフリカまでご一緒申し上げることになっております」
「きみ、すでに秘書はいますよ、これ以上必要ありません」
「わたくしはご必要かと存じます、サー・ユースタス。あなたの秘書は今どうしていますか?」
「胆石をおこして寝こんでますがね」
「たしかに単なる胆石でしょうか?」
「もちろん。持病ですからね」
客はにやりとしていった。
「胆石かもしれず、そうでないかもしれず、いずれそのうちわかるでしょう。ですが、サー・ユースタス、これだけは申しあげられます、もしあなたの秘書を遠ざける細工がなされたと知っても、ミルレイ氏はべつに驚かれないだろうということです。ああ、あなたご自身のことはご心配には及びません」──一瞬驚きの表情がわたしの顔に浮かんだものとみえる──「あなたは大丈夫です。秘書が居ないほうがあなたに近づきやすいものですからね。いずれにせよ、ミルレイ氏はわたくしがあなたのお伴をすることを望んでおいでです。船賃はもちろんわたくし共のほうの問題ですが、旅券については、第二の秘書を必要とするというようなことであなたのほうでしかるべき手続きをとっていただきたいと思います」
彼は断固とした性格の青年のようであった。われわれはおたがいに相手の顔をみつめ合った。そして彼はわたしをじいっと見おろした。
「けっこう」わたしは弱々しくいった。
「わたくしがお伴することは誰にもおっしゃらないでください」
「けっこう」わたしはもう一度いった。
結局この男を連れていくのはいいことかも知れない。しかしわたしは、深みにはまりつつあるのではないかという予感を感じた。やっと平和な境地に達したと思ったばかりなのに!
帰ろうとした客を呼びとめて、わたしは皮肉な調子でいった。
「わたしの新しい秘書の名前を知っておくのも悪くないようだが」
相手はちょっと考えてから、
「ハリー・レイバーンというのが適当な名前のようです」といった。奇妙な名乗り方であった。
「けっこう」わたしは三たびいった。
第九章
──ふたたびアンの手記より
女主人公《ヒロイン》たるものが船酔いをするとは沽券《こけん》にかかわること甚だしい。小説では船が揺れれば揺れるほど女主人公《ヒロイン》は嬉しがることになっている。ほかの人たちみんなが酔って具合の悪いときに、ただひとり彼女だけは風雨をまともに受けながら甲板をつたい歩き、大いに嵐を楽しむというわけである。残念ながら私は、キルモーデンの最初のひと揺れでまっ青になって船室へかけおりたことを白状しなければならない。スチュワデスが親切にしてくれて、バタのつかないトーストやジンジャエールがいいといってくれた。三日間というもの私は自室にひきこもってうめき声をあげていた。捜査のことなどうち忘れた。謎を解くことにはもうこれっぽちの関心もなかった。船会社からあれほど胸おどらせてケンジントン・スクウェアまで急ぎ帰ったときのアンとは、全く別人のアンになってしまった。
いま、だしぬけに居間へ入っていったあのときのことを思い出すとおかしくなってくる。居間にはフレミング夫人しか居なかった。私が入っていくと彼女はふりむいていった。
「あなただったの、アン? 少しお話したいことがあったのよ」
「何でしょうか?」私はじれったいのを我慢してきいた。
「エメリーさんがやめるんですけどね」エメリーさんというのは家庭教師だ。「あなたまだお仕事がみつからないようだから、どうかしらと思ったのよ──ずっとここに居てくださったらとてもありがたいんですけどねえ」
私は感動した。彼女は私に居てほしくはないのだ、私にはわかっている。この提案をなさしめたのはクリスチャンとしての博愛心に他ならない。私はひそかに彼女を非難していたことを悔いた。そして立ちあがると感情に駆られてやにわに部屋を横切り、彼女の首に両腕で抱きついた。
「親切な方! いい方だわ、いい方だわ! ほんとにありがとうございます。でももういいんですの、あたし土曜日に南アフリカへ出発します」
私の突然の猛攻撃にひとのよい奥さんはすっかりびっくりしていた。ふだん、このような突然の愛情の表現に慣れていないのだ。その上私の言葉にますます驚かされたというわけである。
「南アフリカですって? アンさん、そういうことはよくよく慎重に考えなくてはいけないことですよ」
そんな気はさらさらなかった。私はすでに船の予約もとったし、むこうへ着いたら小間使の職につくつもりであると説明した。とっさにやっと思いついた口実であった。南アフリカでは小間使の需要が大きいのだ、と私はいった。自分のことは大丈夫自分でやれますからと何度もいうと、ついにフレミング夫人は私に対する責任を解かれることにホッとしてためいきをもらしながら、それ以上は何も訊かず計画に賛成してくれた。いよいよ別れるとき、彼女は一枚の封筒を私の手におしこんだ。中には、手の切れるような五ポンド紙幣が五枚と次の言葉があった。『どうか怒らないで、私の愛情のしるしとして受けとってくださいね』。ほんとうに親切ないいひとだった。これ以上いっしょに同じ屋根の下に住むのは苦手だけれど、本質的にはいいひとなのだ。
そういう次第で、私は二十五ポンドをポケットに世の中へ出、冒険を追い求めているのである。
四日目になると、スチュワデスがどうしても甲板へ出ろとしきりにすすめた。船室に居た方が早く死ねるような気がしたので、私はそれまで頑強に寝棚から離れることを拒んでいたのだ。スチュワデスはマデーラ群島が近づいたといって私を連れ出そうとした。希望が湧《わ》いてきた。船から離れられる、上陸してそこで小間使になってもいい。乾いた陸地へさえ上れるなら何だっていい。
コートやら膝《ひざ》かけやらにくるまり、仔猫のように頼りない足どりで、私は自分では動けない物体かのごとくに甲板まで引きずり上げられ、デッキチェアの上に置かれた。私は人生を呪《のろ》いながら目を閉じてそこに横たわっていた。金髪で、丸い童顔の事務長《パーサー》がそばへ来て横へ坐った。
「いかがです、少々ご自分が情けないと思っておいでなんじゃありませんか?」
「ええ」私は彼を呪いながら答えた。
「ああ、もう一日二日すれば別人のようになりますよ。これまでは湾の中で少々揺れましたがね。これから先は天候がよくなります。あしたは輪投げのお相手でもしてさしあげましょう」
私は答えなかった。
「永久に元気になれないと思っておいでですね、そうなんでしょう? しかしあなたよりもっとひどい人がいくらでも居るんですよ。ところが二日もすればもうそういう人が船中の中心人物になってます。あなただって同じですとも」
私には、嘘ばかりいうなといって喧嘩するだけの気力もなかったから、せめて目つきでそれを伝えようと努力した。彼はなお二、三分陽気にしゃべっていたが、やがてありがたいことにむこうへ行ってくれた。人々がそばを行き過ぎ、また戻る。体操をしている元気な二人連れ、はねまわる子供たち、笑いさんざめく若い人々。私と同様、デッキチェアに横たわっている数人の蒼ざめた病人。
空気は快くさわやかで、冷たすぎもせず、太陽は明るく輝いている。ほんの少うし、元気が出てきたような気がした。私は人々を観察しはじめた。ひとりの婦人が特に私の興味をひいた。年のころ三十歳ぐらい、中背で金髪、えくぼのある丸顔でたいそう青い目をしている。着ているものは、ごくあっさりしたデザインながらどことなくパリの仕立てと知れる。そうして彼女は、快活に、しかし落ち着きのあるものごしですでにこの船を支配しているようだ!
デッキボーイたちは彼女の命令に従って右往左往している。彼女は特別のデッキチェアを占領し、クッションは無尽蔵にいくつでももらっている様子だ。そしてデッキチェアの位置をきめるのにああでもないこうでもないと三度も気を変えた。それでもなお彼女はどこからどこまで魅力的だった。世の中には稀に、自分の欲するものを思いどおりに手に入れるのに決して人を怒らせることなくやれる人がいる。彼女はそういう珍しい人のひとりであるらしい。私は、もし元気になったら──いや、もちろんなるはずもないけれど──彼女に話かけてみたらおもしろいだろうと思った。
昼ごろマデーラに着いた。私はまだ無気力で動く気はしなかったが、絵にあるような商人たちが乗りこんできてデッキの上に品物をひろげるのを見てたのしんだ。水々しい菫《すみれ》の大きな束に鼻を埋めると、よほど気分がよくなったように感じた。事実、この分なら残りの航海もなんとか全うできそうだと思ったのである。例のスチュワデスがひなどりのスープのおいしいことを話したときもちろん私は力なく抵抗したのだったけれど、いざそれが運ばれてみると結構おいしく食べた。
私の魅力的な婦人は上陸した様子だったが、背の高い軍人らしい男をお伴に帰ってきた。髪の黒い日焼けした顔のこの男が、朝のうち甲板を行きつ戻りつ大股に歩いていたのは知っていた。私はただちにこの男を、屈強な、寡黙なローデシア人のひとりとみなした。四十歳ぐらいで両のこめかみに白いものが混っている。そしてもちろん船一番の好男子と思われた。
スチュワデスがもう一枚膝かけをもってきてくれたとき、私はその魅力的な婦人を知っているかどうかきいてみた。
「クレアランス・ブレアさまの奥さまで、社交界の有名な方ですわ。あの方のこと、新聞でごらんになったことおありでございましょう?」私はうなずきながら、新たな興味をもって彼女を眺めた。ブレア夫人といえば当代における最もスマートな婦人としてよく知られている。私は彼女が人々の注目の的になっているのをおもしろく思いながら観察していた。船なればこそ許される気やすさで彼女になんとか近づこうと試みている人たちがいる。それらの人たちを適当にあしらうブレア夫人の丁重なやりかたに、私は感心した。夫人はあの屈強な、寡黙な男を特別の護衛者として採用した様子であり、また彼のほうも自分に許された特権をよく心得ているようであった。
翌日の朝、ブレア夫人はそのいんぎんなお伴をつれてデッキを二、三回ぐるりと散歩したあと、驚いたことに私の椅子のところで立ちどまった。
「けさは少しはおよろしい?」
私はお礼をいい、いくらか人間らしい気分になったといった。
「きのうは重病人にみえたわ。レイス大佐と二人でてっきり水葬が見られるものと期待してたのに、あなたあたしたちを失望させたわ」
私は笑っていった。
「起きて風にあたっていたのがよかったようですわ」
「新鮮な空気にまさるものはありませんからね」レイス大佐がいった。
「あんな息のつまりそうな船室に閉じこもっていたら誰だって死んじまうわ」ブレア夫人はそういって私のそばの椅子に身を埋め、軽いえしゃく一つでお伴を追いやった。そしていった、「あなた外側の船室《キャビン》でしょ?」
私は首をふった。
「まああなた! どうして変えてもらわないの? お部屋はたくさんあるのよ。マデーラで大ぜい降りたんですもの、船はほとんどからっぽだわ。事務長《パーサー》に話してごらんなさいよ。なかなかいい子よ──あたしが前のお部屋気に入らないっていったらとてもいいお部屋に変えてくれたわ。お昼に食堂へおりた時に話してみるといいわ」
私は身震いしていった。
「あたし動けませんわ」
「馬鹿おっしゃい。さ、あたしと一緒にちょっと歩きましょうよ」
彼女ははげますように深い|えくぼ《ヽヽヽ》をつくって私を見た。私は最初のうちこそふらついたが、行ったり来たり早足に歩いているうちに前よりよほど生き生きとして人間らしい気分になってきた。一、二度行ったり来たりしたところへレイス大佐が来てまた一緒になった。
「あちら側へいらっしゃるとテナリフのグランド・ピークが見えますよ」
「ほんとう? 写真とれるかしら、とれるとお思いになる?」
「さあね──といったところで思いとどまるようなお方じゃありませんからね」
ブレア夫人は笑った。
「ひどい方。あたしの撮った写真の中にだって傑作はございましてよ」
「三パーセントぐらいはね」
私たち三人はむこう側の甲板へまわってみた。すると雪のように白い高峰が、やわらかなバラ色の霧の中からキラキラと輝いてそそり立っていた。私は思わず嘆声をはなった。ブレア夫人はカメラをとりに走った。レイス大佐の皮肉にもめげず彼女は撮りまくった。
「あらあら、これでこのフィルムおしまいだわ。あら!」急に無念そうな声になった。「あたし、これ全部バルブにしてたわ」
「新しいおもちゃをもらって夢中になってる子供というのはいつ見ても楽しいものですな」レイス大佐が呟いた。
「なんて意地悪なんでしょう。でももう一本あるんですもの」
ブレア夫人は得意げにスウェーターのポケットからフィルムをとり出した。その時ふいに船が揺れ、彼女はバランスを失って手すりにつかまった。その拍手にフィルムは舷側のむこうへ落ちていってしまった。
「ああ!」ブレア夫人はおどけた様子ですくんでみせ、手すりから乗り出すようにしていった、「船の外へおっこっちゃったかしら?」
「いやあ、おそらく下甲板の運の悪いボーイの脳天を粉砕しただけでしょうよ」
いつのまにか私たちのすぐ二、三歩後へ近づいていた小さな少年が、ラッパを耳も聾《ろう》せんばかりに吹き鳴らした。
「お昼ごはんだわ」ブレア夫人が夢中になっていった。「あたしビーフティー二杯のほかは朝ごはん以来なにもいただいていないのよ。お昼ごはんよ、ベディングフェルドさんは?」
「そうですわね」私はためらいながらいった。「ええ、いくらかおなかが空《す》いたような気もしますわ」
「それはすてき。あなたは事務長《パーサー》のテーブルにつくのよ。お部屋のことうまくやるのよ」
私は食堂へおりて行き、おそるおそる食べはじめた。そして結局、たっぷりのご馳走をきれいに平らげてしまった。昨日の友人は私の回復に祝意を表してくれた。彼は、きょうはみんなが部屋を変えるのだといい、私の荷物もただちに外側の部屋へ移すと約束してくれた。
私のテーブルには、私と二人の老婦人と、『われらが黒い兄弟』の話ばかりする宣教師との四人しかいなかった。他のテーブルを見まわしてみると、ブレア夫人は船長のテーブルについて居り、レイス大佐が夫人の隣りに坐っていた。船長のむこう隣りには白髪の、特徴のある容姿の男が坐っていた。私はこれまでに、甲板でかなりたくさんの人を見たつもりだったが、ひとりだけ今まで姿を現わさなかった男がいた。もし今までにも姿を現わしていたのなら、私の目にとまらないはずはまずないのである。この男は背が高く色が浅黒くて、ひどく陰険な顔つきをしているので思わずぎょっとしたほどだった。私は多少好奇心を感じて事務長《パーサー》にあれは誰かときいてみた。
「あの男ですか? ああ、サー・ユースタス・ペドラーの秘書ですよ。気の毒にひどい船酔いで今まで出てこなかったんです。サー・ユースタスは秘書を二人連れてましてね、ところがその二人ともが海は苦手らしくって、もうひとりのほうはまだ出て来ませんよ。こっちのほうの秘書はパジェットというんです」
それではミルハウスの持ち主、サー・ユースタス・ペドラーがこの船に乗っているのか。偶然にちがいないが、それにしても……。
「あれがサー・ユースタスですよ、船長の隣りに坐ってるでしょう。もったいぶったやっこさんだ」
その秘書の顔を観察すればするほど、私はその顔が嫌いになった。血色が悪くてこそこそした感じで瞼《まぶた》が腫《は》れぼったくて、そして妙に平べったい顔で──つまりすべてが私にいやな、不安な感じを与えるのだ。食堂を出るのがちょうどいっしょだったので、私はその男のすぐあとからついて甲板へあがった。彼はサー・ユースタスになにか話しかけていたが、その断片が一つ二つ私の耳に入った。
「ではその部屋のことすぐ手配してよろしいですね? あなたさまの部屋で仕事することはとてもできませんから。なにしろああトランクだらけでは」
「きみねえ」サー・ユースタスが答えた。「わたしの部屋は(1)わたしが寝るため、(2)着替えをするため、にあるんだぜ。きみがタイプライターを一日中カタカタいわせてあの場所にのさばることは絶対にさせないつもりだ」
「それを申し上げているのですよ、サー・ユースタス。どこか仕事をする場所がなくては……」
ここで私は彼らとわかれ、私のひっこしが進行しているかどうか見に下へおりた。すると私の係りのボーイがその仕事をやっているところだった。
「お嬢さん、とてもいい部屋ですよ。Dデッキの十三号室です」
「あら、だめよ! 十三号なんてだめ」十三という数字は私が縁起上敬遠するものの一つだ。なかなかいい部屋で、一応しらべてみた私はためらった。しかし愚かな迷信が邪魔をした。私は涙を浮かべんばかりにしてボーイに懇願した。
「ほかにはあたしの使えるお部屋はないの?」
ボーイは考えてからいった。
「そうですね、右舷側に十七号室がありますが。けさまで空いてたんですが、もうどなたかに決まったようなんですよ。しかしその紳士《かた》の荷物はまだ移してませんし、男の方はご婦人方ほど縁起をかついだりなさいませんからきっと代わってくださると思います」
私はこの提案にとびついた。事務長《パーサー》の許可をもらいに行ったボーイはにこにこして戻ってきた。
「オーケーです、お嬢さん、だいじょうぶですよ」
ボーイはそういって十七号室へ案内してくれた。十三号室ほどは大きくなかったがいい部屋で、私は大いに満足した。
「すぐお荷物を持ってまいりますから」ボーイがそういったとき、さっきの陰険な顔の男(私はそう呼ぶことにしてあった)が戸口へ立ち現われていった。
「失礼ですが、この部屋はサー・ユースタス・ペドラーが予約してあるのですが」
「だいじょうぶでございます、お客さま、代わりに十三号室を用意いたして居りますから」ボーイが説明した。
「いや、こちらが予約したのは十七号室です」
「十三号のほうがよいお部屋なんでございますよ──広うございますし」
「こちらは特に十七号を頼んだのです、事務長《パーサー》もいいといったのですからね」
「お気の毒ですけど」私はひややかにいった、「十七号室はあたしに決まっておりましたのよ」
「承服しかねます」
ボーイがおせっかいに口を出した。
「あちらの部屋だって同じことでございます、なおいいだけのことで」
「わたしは十七号がいいんです」
「これはいったい何です?」別の声が割って入った。「ボーイ、わたしの荷物をここへ運んでくれたまえ。ここはわたしの部屋です」
それは昼食のとき私の隣りに坐った宣教師のエドワード・チチェスターだった。
「あのう、ここはあたしの部屋なんです」私はいった。
「ここはサー・ユースタス・ペドラーに決まっているのです」パジェット氏がいった。
三人ともしだいに興奮してきた。
「ひと悶着しなけりゃならんとはまことに困りましたな」チチェスターは、柔和な微笑をうかべていったが、その実、あくまで我意をおし通す気でいるのがうかがわれた。柔和な人というのは強情なものなのだ。
彼はからだを斜めにしてじわじわとドア口から入ってきた。ボーイがいった。
「お客さまは左舷側の二十八号室になっているんでございますが。たいそうよいお部屋でございますよ」
「申しわけないがあくまで主張させてもらいます。十七号室はわたしの予約した部屋なのです」
どうしようもなかった。三人ともだれひとりゆずろうとしないのである。ほんとうのところ、少なくとも私は争いからぬけてもよかったのである。二十八号室でもよいと申し出ることによって険悪な事態をやわらげることもできたのだ。十三号室でさえなければ、何号室だろうとかまわないのだから。だが私は頭へ血がのぼっていた。最初に折れて出る気は毛頭なかった。それにチチェスターはいけすかなかった。チチェスターは入れ歯で、それが食事のときカチカチいう。あれほどいやなものはない。
三人は同じことを何度もくりかえしいい合った。ボーイは他の二つの部屋が十七号よりよほどよいことをますます強調したが、われわれ三人はだれひとり耳をかそうともしなかった。パジェットはかんしゃくを起こしかけていた。チチェスターは静かに自分を抑えていた。私もまた努力して自分を抑えていた。だが依然としてだれひとり一歩もゆずろうとはしなかった。
そのときボーイが目くばせして私の耳になにか囁いたのがきっかけで、私はそうっとその場を離れた。すると幸いにも、すぐ事務長《パーサー》とばったり会った。
「ああ、お願いよ」私はいった。「さっき、十七号室に移っていいって確かにおっしゃったでしょ? それなのに他の二人がどうしてもゆずらないんです。チチェスターさんとパジェットさんなんですけど。ねえ、あたしに十七号室を使わしてちょうだい、ね?」
私の意見では、船乗りほど女性に親切な人種は居ないようである。この事務長《パーサー》もみごと期待にこたえてやってくれた。彼はつかつかと歩いていって二人の論争者に、十七号室は私のものであることを告げ、彼ら二人はそれぞれ十三号室と二十八号室を使うなり、今のままもとの部屋に居るなりお好きなように、といった。
私はあなたってほんとに英雄だわ、と目顔で事務長《パーサー》に告げた。それから私の新しい領分に身を落ち着けた。事務長《パーサー》にばったり出会ったことが幸いしたのであった。海はおだやかだし、日ごとに暖かくもなってきた。船酔いなんぞとうの昔の出来事だ!
私は甲板へ出て輪投げの秘訣を教わりもしたし、いろいろなスポーツにも参加した。甲板でお茶が饗され、私は何でもおいしく口へ運んだ。お茶のあとは、快活な青年たちと|円盤突き《シャフルボード》にうち興じた。青年たちはみな親切にしてくれた。人生は楽しくいいものだとしみじみ思ったことだった。
やがて着替えの合図のラッパが突如として鳴りひびき、私はあわてて新しい部屋へ戻った。するとスチュワデスが困りぬいたような顔で待ち受けていた。
「お部屋がとてもひどい臭いがいたしますの。何の臭いだか見当もつかないんですが、これじゃとてもおやすみにはなれないと思いますわ。たしかCデッキにお部屋があるはずですからそちらへお移りになっては……、とにかく今夜だけでも」
なるほどものすごい悪臭でムカムカするほどだった。私はスチュワデスに、部屋を移るかどうか着替えをしながら考えるといい、急いで身支度をした。そしてその間中、不快な臭いに鼻をひくつかせて考えた。何の臭いだろう? ねずみの死骸? 違う、もっと悪い──第一全然ちがう臭いだ。だけど知ってる臭いだわ! 前に嗅《か》いだことのある臭いだわ。何かの──ああわかった、|アギ《ヽヽ》だ! 私は戦時中、ある病院の薬局で働いていたことがあるから、いろいろ変な臭いの薬品を知っている。
|アギ《ヽヽ》だ、たしかにそうだ。でもどうやって──
ただごとではないと気づいて、私はソファに沈みこんだ。誰かが|アギ《ヽヽ》をひとつまみこの部屋へ入れたのだ。何のために? 私にこの部屋を明け渡させるためにか? なぜそんなにまでして私を追い出したいのだろう? 私は、昼間の論争の場面を別の観点から考えてみた。十七号室をこうもみんなが獲得したがるのには何かわけがあるのだろうか? 他の二つの部屋はここよりもっといいのだ。なぜあの男たちは二人とも十七号室に執着を示したのだろう?
十七。またこの数字だ! サウサンプトンを出航したのが十七日だった。こんども十七──私は思わず息をのんだ。大急ぎでスーツケースの鍵をあけ、隠し場所である丸めた靴下《ストッキング》の中から大切な紙きれをとり出した。17 1 22──私はこれを日付、キルモーデン・カースル号の出航の日付と解釈していた。まちがいだったとすればどうだろう。一般に日付を書くときに月の他に年まで書く必要を感じるものだろうか? 十七という数字が十七号船室の意味だとするとどうだろう? そうして一は何だろう? 時間だ──一時だ。すると二十二は日付にちがいない。私は小ちゃな暦を見た。二十二日はあすだ!
第十章
私は激しく興奮した。ついに正しい手がかりをつかんだのだ。この際はっきりしていることは一つ、とにかくこの部屋を出てはいけないということだ。|アギ《ヽヽ》のことは我慢しなくてはならぬ。私は私の得た事実をもう一度検討してみた。
あすが二十二日だ。そして午前一時か午後一時かに何事かが起きるのだ。たぶん午前一時だろう。今は七時、六時間後にはわかるのだ。
その時までどうやって過したらよいのだろう。私はたいそう早めに部屋へひっこんだ。スチュワデスには鼻かぜをひいてるので臭いは気にならないといっておいた。彼女はそれでもなお気の毒がっている様子だったが、私は動じなかった。
その夜の長かったこと。私はいつもの通り床に入りはしたが、いざという時に備えて厚いフランネルのガウンを着こみ、足にはスリッパもはいていた。これだけのいでたちをしていれば、何が起きようとすぐとびおきて行動に移れるというものだ。
いったい何が起きようとしているのだろう? 皆目《かいもく》わからない。漠然とした想像のようなものはあれこれ脳裡をかすめたが、そのどれも甚だしく奇想天外なものばかり。だが一つだけ私が断固確信をもっていたのは、一時に何事かが起きるということだった。
私は船客たちが部屋へ帰ってくる物音をたびたび耳にした。会話の断片やおやすみなさいといい合う声が笑いさざめきと共に開け放しの欄間《らんま》から入ってくる。やがてしんと静まりかえり、明りのほとんどが消えた。しかし廊下にはまだ一つだけ灯《とも》っているので、私の部屋には多少の光が洩れこんでいる。八点打(船の時鐘、三十分ごとに打鳴らす。零時に八点、零時半に一点、一時に二点、……)が聞こえた。そのあとの時間ほど長く感じられたことはない。私はもしや肝心の時間を過ぎてやしないかと秘かに何度も腕時計をのぞきこんだ。もし私の推理がまちがいなら、もし一時に何事も起きないなら、私は大馬鹿をみたことになる。しかもあり金《がね》全部を架空の大発見につぎこんでしまったというわけだ。私の心は痛んだ。
二点打が上の方で鳴っている。一時だ! だが何事もない。あ? あれは何だろう? そっと小走りに走る足音が聞こえる──廊下を走ってくる足音だ。と思ったとたん、突如私の部屋のドアがパッと開いてひとりの男が倒れこむようにとびこんできた。
「助けてくれ」男はかすれ声でいった、「追われてる」
わけを聞いたり問答をしたりしている時ではなかった。ドアの外に足音がしている。何かする暇は四十秒とないだろう。私はすでにとび起きて、部屋のまんなかにその見知らぬ男と相対して立っていた。船室というものには六フィートの男を隠す場所はそうたくさんはない。私が片手でベッドの下のトランクを引き出すと、男はそのうしろへもぐりこんだ。私はトランクの蓋《ふた》をあけ、同時にもう一方の手で洗面台を引きおろした。ものなれた手さばきと共に私の髪はねじり上げられ、頭のてっぺんに小さくまとめられた。この髪はみかけという点では非芸術的だが、別の観点からすれば甚だ芸術的である。ひとりの婦人が髪の毛を不体裁にねじり上げて、明らかに頸すじを洗うために石けんをトランクからとり出そうとしているという図は、逃亡者をかくまっている疑いをまねくことはまずあり得ない。
ドアを叩く音がした。そして私が『どうぞ』ともいわないうちにドアはおしあけられた。そのとき何者が入ってくると思ったか、いまもってわからない。ピストルをかまえたパジェット氏を漠然と予期したような気もする。あるいは砂袋《サンドバッグ》かそれとも他の凶器をふりかざした例の宣教師を思いうかべたのだったかもしれない。だが、夜勤のスチュワデスが礼儀正しさそのもののような様子でけげんそうな顔をのぞかせると思わなかったことだけは確かである。
「失礼いたします、お呼びになりましたでしょうか」
「いいえ、呼ばないけど」
「お邪魔いたしまして申しわけございませんでした」
「いいのよ。眠れないもんで顔でも洗ったら少しはいいかと思って」こういうと、ふだんはめったにやらないことをやってるかのようにひびいた。
「申しわけございませんでした。ただ酔っぱらったお客さまがいらっしゃいまして、もしやその方がご婦人のお部屋へ入ったりなさるといけないと思いましたものですから」
「まあこわいわ!」私はおびえたような顔をしていった。「まさかここには来ないでしょうね?」
「ええ、だいじょうぶでございますわ。もし来ましたらどうぞベルをお鳴らしください。ではおやすみなさいまし」
「おやすみなさい」
私はドアをあけ、廊下を眺めわたした。帰っていくスチュワデスの姿のほかには、誰の影も見えなかった。
酔っぱらいですって! そうだったのか。私の役者的才能は無駄づかいされたというわけだ。私はトランクをちょっと引き出してきつい声でいった、「すぐ出てきてくださいな」
答えがない。私はベッドの下をのぞきこんだ。客人は身動きもせずに横たわっている。眠っているようだ。私は肩をぐいとひっぱった。だが動かない。
「酔いつぶれてるんだわ。どうしたらいいかしら?」私は弱ってしまった。そのとき、はっと息の根がとまりそうになった、床に小さな真紅のしみを見たからである。
あらん限りの力を出して、私はどうやらこうやら男を部屋のまんなかへ引きずり出した。紙のように白い顔をしているところをみると気を失っているらしかった。その原因はすぐわかった。左の肩甲骨の下を刺されているのだ──ぞっとするほどの深い傷だった。私は上着をぬがせ、手当てしにかかった。
冷たい水の刺激で男は気がつき、起きあがった。
「じっとしてて」私はいった。
彼は急速に機能を回復する|たち《ヽヽ》の青年であった。気をとり直すと少しふらつきながらその場に立ちあがった。
「どうも。なにもしてもらわなくて結構です」
その態度たるや傲慢《ごうまん》で喧嘩腰でさえあった。いっぺんの謝意も──ありきたりの感謝の言葉すらも述べない!
「たいへんな傷ですわ。手当させてくださらなくちゃ」
「そんなことはしないでもらいたいですね」まるで私のほうがお情けを乞いでもしたかのように、彼はそういう返事を投げつけてよこした。私はむらむらとなった。
「あなたの態度には感心できないわ」私はひややかにいった。
「あなたの目ざわりにならないようにだけはしよう」そういうと彼はドアのほうへ歩き出したが、たちまちよろめいた。私はあらあらしくソファへ坐らせた。
「ばかね、船中を血だらけにしたいとでもいうの?」
彼はそれもそうだと思ったらしく、私が一生懸命繃帯を巻くあいだおとなしく坐っていた。
「さ」私は巻いた繃帯の上を軽くなでていった、「これでしばらくはいいでしょう。少しは気分がよくなったでしょう? いったいどういうわけなんだか話してくださる気になったかとおもうけど」
「まことにもっともな好奇心だが、残念ながらそれを満してあげることはできませんね」
「なぜよ?」私はくやしく思いながらきいた。彼は意地の悪い笑いをうかべていった。
「吹聴したいことがあったら女に話せ、ってね」
「あたしが秘密を守らないとでもお思いなの?」
「思いますね、きまってますよ」彼は立ちあがった。
「しようと思えば」私は意地悪くいってやった。「あたしは少なくとも今夜の出来事だけでも吹聴できるんだわ」
「ぼくも、まちがいなくあなたは吹聴するだろうと思う」彼は平然といった。
「よくもそんなことが!」私は腹を立てて叫んだ。
二人はおたがい怨みかさなる敵《かたき》同士のごときすさまじい表情で睨みあっていた。このときはじめて、私は相手の容貌をくわしく見たのだった。短かくかりこんだ黒い髪、こけた頬、日焼けした頬の傷痕、むこうみずな嘲笑とでもいうか、一種名状しがたい表情でこちらの目をみつめている薄い灰色の奇妙な目。なにかしら危険な感じがこの男のまわりには漂っている。
「命を救ってあげたことに対して、あなたはまだあたしにお礼をおっしゃってないわね!」私はわざと優しくいった。これは相手の弱みをついたらしく、彼がたじろいだのを私ははっきり見てとった。私に命を救ってもらったことを思い出させられるのがこの男は何よりもいやらしい。私はそう直感した。だがかまうものか、私は彼を傷つけてやりたかった。それほどまでに人を傷つけたいと望んだことなど、これまで一度だってありはしないのだけれども。
「助けてなどくれなきゃよかったんだ!」彼は爆発したように叫んだ。「死んで逃《のが》れたほうがよかった」
「あたしに借りがあることは認めたわね。逃れることはできないわ。あたしはあなたの命を助けたのよ、だから『どうもありがとう』といっていただきたいわね」
睨みつけることで人を殺すこことができるものなら、そのとき彼はさぞかし私を殺してしまいたかったことだろう。彼は乱暴に私を押しのけてドアのところまで行くと、ふり返って肩ごしにいった。「きみに感謝する気はない──今はもちろん、また今後もだ。しかし借りがあることは認める、いつか返すよ」
そして出ていった。私は両手を握りしめ、心臓がはげしく搏《う》つのを感じながら立っていた。
煮えくりかえる思いで両手を握りしめている私を尻目に、彼は出ていった。
第十一章
その晩はそれ以上は何事も起きなかった。翌朝、私は床の中で朝食をとり、遅くなってから起き出した。デッキへ出て行くとブレア夫人に呼びかけられた。
「おはよう、ジプシーお嬢さん。あたしのそばへおかけなさいな。あんまりよく眠れなかったようなお顔ね」
「なぜそんな呼びかたなさいますの?」私はすなおに腰をおろしながらきいた。
「いけない? なんとなくあなたに似つかわしいからよ。あたしは最初からあなたのことを心の中でそう呼んでたの。あなたが他の人と違って見えるのはそのジプシー的なところがあるせいだわ。船の中は死ぬほど退屈な人ばかり、あたし、話相手にするに足る人はあなたとレイス大佐の二人しかいないと秘かに決めていたのよ」
「ふしぎですわ。あたしもあなたのこと同じように考えていましたの──ただこちらの場合は当然の理由があるわけですけど。だってあなたはそれはもうすばらしいお方ですもの」
「ま、いいわ」ブレア夫人はうなずきながらいった。「あなたのこと全部お話してちょうだい、ジプシーお嬢さん。なにしに南アフリカへ行くの?」
私はパパの生涯をかけた研究のことなど話してきかせた。
「それじゃああなたはチャールズ・ベディングフェルドのお嬢さんなの? どうりでただの田舎娘じゃなさそうだと思ったわけだわ! それで、もっともっと頭蓋骨を掘り返しにブロークン・ヒルまで行こうというわけ?」
「たぶんね」私は用心深くいった、「でも他にも計画はありますの」
「たいそう不可解なおてんばさんね。それにしても今朝のあなたは疲れてるみたいだわ。よく眠れなかったの? あたしは船に乗ってると目がさめてることができないの。馬鹿は十時間眠るっていうけど、あたしは二十時間でもいいわ!」
彼女は眠たげな仔猫のようにあくびをした。「気のきかないボーイが、昨日落したフィルムを届けにきて真夜中に叩き起こされちゃったわ。そのボーイときたらなにしろ換気窓からニュッと腕を突き出してフィルムをあたしのおなかのまんなかへ命中させるんですもの、てっきり爆弾がおっこったんだと思ったわ」
「ほら、あなたの大佐がいらっしゃいましたわ」レイス大佐のいかにも軍人らしい背の高い姿がデッキに現われたのを見て私はいった。
「精確にいうとあたしの大佐じゃありませんよ。実際の話、あの方はあなたにそりゃご執心なのよ。だから逃げちゃだめ、ジプシーお嬢さん」
「頭になにか巻きつけてきたいんです、そのほうが帽子かぶってるより気持よさそうだから」
私はいち早く逃げ出した。レイス大佐といっしょに居るとなんとなく落ち着かない気分になるのだ。私は人にびくびくすることはめったにないのだけれど、大佐は私にそう感じさせることのできる数少ない人間のひとりであるようだ。私は部屋へ帰り、いうことをきかない髪の毛を抑えるのに適当なものはないかと探しはじめた。ところで私は元来きちんとした性格の人間であり、持ちものは常にあるやりかたに従って整頓されているのが好きだから、いつもきちんとしてあるのだ。私はひきだしをあけたとたんにすぐ、誰かが中身をかきまわしたことに気づいた。一つ一つみんなひっくり返され、めちゃくちゃにされている。他のひきだしも小さい吊り戸棚の中も、いずれも同様であることを物語っていた。何者かが大急ぎで何かを捜し出そうとしてうまくいかなかった、というような感じだった。
私は深刻な表情でベッドのふちに腰をかけた。いったい、誰が私の部屋で探しものをしたのだろう? そして何を探そうとしたのだろう? 数字と文字の書かれたあの紙きれかしら? 私は不満げに首をふった。あの紙きれの件は今となってはもうすんだ事だ。でもそれならば他に何があり得るだろう?
私は考えようと思った。昨夜の一件は、興奮させられた事件ではあったけれど、何一つ物事を説明してはくれなかった。私の部屋に突然とびこんできたあの青年は何者だろう? 船の上ではデッキでもサロンでも一度も見かけたことのない男だ。乗組員か、それとも船客か? 彼を刺したのは誰なのか? 刺した理由は? そしていったいぜんたい、なぜ、十七号室だけ特に変わったことが起きるのだろう? すべてが謎だ。だが、なにか非常に特別のことがこのキルモーデン・カースル号上で起こりつつあることは確かだ。
私は要注意人物を指折りかぞえてみた。昨夜の訪問客のことは今日中にも探し出そうと心に誓ったが、今はひとまず別にして、次の人々を私は要注意人物としてえらび出した。
(1)サー・ユースタス・ペドラー。この人物はミルハウスの持ち主であり、しかもその彼がキルモーデン・カースル号に乗っているということは何となく符号するものを感じさせる。
(2)パジェット氏。陰険な顔つきの秘書。十七号室を獲得したがった彼の執拗《しつよう》さはまことに著しいものであった。|注意《○○》=サー・ユースタスがカンヌに行ったとき彼も同行したかどうかを|探《さぐ》り出すこと。
(3)エドワード・チチェスター牧師。彼を怪しいとみる理由は要するに、十七号室を頑強に主張したあの強情さにある。これはもっぱら彼の妙な気性によるものと思われる。強情ということは往々にして驚くべきことをやってのけるものだ。
しかしチチェスター氏と少ししゃべってみることはべつにまずい結果をもたらすことになりはしない、私はそう判断した。ハンケチで手早く頭をしばると、私は目的をたくさん抱えて再びデッキへ上がっていった。ついている。目ざす相手は手すりにもたれてビーフティーを飲んでいる。私はつかつかとそばへ行き、最上の笑顔をつくって話しかけた。
「十七号室のこと、お怒りになっていらっしゃらないといいんですけど」
「恨《うら》みを抱くというのはクリスチャンのすることではありませんからな」チチェスター氏はひややかにいった。「しかし事務長《パーサー》ははっきりわたしにあの部屋を約束してくれていたのですよ」
「事務長《パーサー》ってのはいそがしい仕事ですものね、忘れることがあっても無理もないんじゃないかしら」私はあいまいにそういった。
チチェスター氏が答えないので、私は話を運ぶために質問した。
「アフリカへはこれが初めてでいらっしゃいますの?」
「南アフリカへは初めてですがね、しかしこれまで二年間、わたしは東部アフリカの奥地の人食い人種のなかで仕事をしてたんですよ」
「まあこわい! さぞかし危ない目に何度もお会いになったでしょうね?」
「危ない目?」
「食べられそうになったでしょう、ということですわ」
「ベディングフェルドさん、神聖な行事をそう軽率に考えちゃいけませんな」
「人食いが神聖な行事とは存じませんでしたわ」私は腹立たしく感じていい返した。そしてそういったとたんにある考えがひらめいた。もしほんとにチチェスター氏が過去二年間もアフリカ奥地に居たのなら、もっと日焼けしているべきではないか? 彼の肌は赤ん坊のようにピンク色をしている。たしかにそのへんのところがあやしいようだ。でも態度や声はまことに完全な牧師だ。いや完璧すぎるかもしれない。なんだか芝居の中にでてくる牧師のようじゃないかしらん?
私はリトル・ハンプスリ時代の牧師たちを思い出してみた。好きでない牧師も好きな牧師もいたけれど、少なくともチチェスター氏のようなのはひとりも居なかった。みんなもっと人間味があった。チチェスター氏は少々できすぎている感じだ。
これらのことを思いめぐらしていると、サー・ユースタス・ペドラーがこちらへ歩いてきた。彼はちょうどチチェスター氏の横へきたとき、かがんで一枚の紙きれを拾うと、『何か落しましたよ』といってそれをチチェスター氏に渡した。
サー・ユースタスは立ちどまらずに行ってしまったから、チチェスター氏の慌てぶりには気づかなかったはずだ。だが私は気づいた。何を落としたのやらわからないが、それが手に戻ったことでよほど慌てているようだ。みるまに青ざめ、その紙きれを小さく丸めてしまった。私の疑念は百倍にふくれた。
私の視線を感じたチチェスター氏はいそいでいいわけをした。
「いや、なに、説教の原稿の一部ですよ」力のない微笑をうかべて彼はそういった。
「そうでしたの」私はいんぎんに答えておいた。
説教の原稿ですって! いいえ、チチェスターさん──そんなのへたないいわけよ!
まもなく彼は弁解がましいことを呟きながらそばを離れていった。ああ、あの紙きれを拾ったのがサー・ユースタス・ペドラーでなくてあたしだったら、とどれほど思ったことだろう! 一つだけはっきりしたことは、私の要注意人物の表からチチェスター氏をはずしてはいけないということである。むしろ三人の要注意人物のトップにおくべきかと思う。
昼食のあと、コーヒーを飲みにラウンジへ行くと、サー・ユースタスとパジェット氏がブレア夫人とレイス大佐といっしょに居るのが目についた。ブレア夫人がにっこりして歓迎してくれたので、私はそばへよって仲間入りした。みんなはイタリアの話をしているところだった。
「でもそりゃ変じゃありませんか、Aqua calda は冷たい水でなくちゃいけないわ──あたたかくちゃおかしいわ」ブレア夫人が主張した。
「奥さんはラテン語がお得意ではありませんな」サー・ユースタスが微笑しながらいった。
「殿方はラテン語にかけては優秀でいらっしゃいますよ。ところがその殿方に古い教会の碑文なんかの意味を教えてくださいとお願いしたって、だれひとり教えてくだすったためしがありませんわ! みなさんあのうとかそのうとか口ごもったあげくに、何とかかんとかいってごまかしておしまいになりますからね」
「まさにそのとおり」レイス大佐がいった。「わたしはいつでもそうですな」
「でもイタリア人は好きですわ」ブレア夫人は続けた。「それは親切ですもの──もっともそこが困った一面ともいえますけどね。道でもきこうものなら、右へ行って左へ曲ってというふうにわかりやすく説明するかわりに、とうとうとまくしたてるから困っていると、こんどは親切に腕をとって目的地までいっしょに来てくれたりしますわ」
「きみもフィレンツェでそんな経験をしたかね、パジェット君?」サー・ユースタスはにこにこしながら秘書にむかってきいた。
この質問はなぜかパジェット氏を困惑させたとみえ、彼は顔を赤くしてどもりながら答えた。
「はあ、さようで、はい──あの、そのとおりで」そうしてなにやらいいわけを呟いて立ちあがり、テーブルをはなれていった。
「どうやらパジェットのやつ、フィレンツェでなにかよからぬ事をやってきたんじゃないかと思うんですよ」秘書の後姿に目をやりながらサー・ユースタスがいった。「フィレンツェとかイタリアとかの話になると話題を変えるんですからね、さもなきゃ急拠逃げ出す」
「誰かを殺したのかも知れませんわね」ブレア夫人が嬉しげにいった。「こんなこと申し上げたらお気を悪くなさるかしら、サー・ユースタス、でもあのひとまるで殺人でもやったみたいな顔してますもの」
「ほんとです、まさに十六世紀的人物ですよ。しかしあの男が本質的にはいかに遵法《じゅんぽう》精神に富んだまじめな人間であるかを知っているだけに、わたしは時々おかしくってしょうがないんです」
「だいぶ長いことあなたのところに居るんですね?」レイス大佐がきいた。
「八年ですよ」サー・ユースタスは深い吐息とともに答えた。
「さぞかし貴重な存在でしょうね」ブレア夫人がいった。
「え、貴重ですって! そうですよ、まさに貴重な存在です」まるでパジェット氏が貴重な存在であることが秘めたる悩みででもあるかのように、サー・ユースタスはいよいよ悲痛な声を出した。が、やがて少し明るい声でいった。「しかし奥さん、それならあの男はもう少し信頼の念を起こさせるような顔をしているべきです。いやしくも自尊心のある殺人犯人なら、見るからに人殺しに見えるような顔などしていないでしょう。たとえばクリッペンなんていう男はおそらくひどく感じのいい人間だったにちがいないと思いますよ」
「クリッペンはたしか汽船の中で捕まったんでしたわね?」ブレア夫人が呟くようにいった。そのとき背後でかすかにカチャンという音がした。私はすばやくふり返ってみた。チチェスター氏がコーヒー茶碗《ちゃわん》をとり落したのだった。
やがておひらきになって、ブレア夫人は自分の部屋へおりて行き、私はデッキへ出た。レイス大佐がついてきた。
「逃げるのがお上手ですね、ベティングフェルドさん。ゆうべダンスのときどこを探しても見えなかった」
「早めに床へ入ったものですから」
「今夜も逃げるおつもりなんでしょうか? それともいっしょに踊ってくださるおつもりですか?」
「ごいっしょに踊っていただけるんでしたら嬉しゅうございますわ」私ははにかんで小声でいった、「でもブレア夫人が──」
「あの奥さんはダンスなんかに関心ないですよ」
「あなたはおありですの?」
「わたしはあなたと踊ることに関心があるんです」
「まあ!」私は神経質になりながらいった。
私はレイス大佐が少々恐かった。にもかかわらずなんだか楽しかった。堅苦しい老教授連を相手に、化石化した頭蓋骨について討論するのにくらべたらはるかにいい! レイス大佐は、私のきびしく寡黙なローデシア人の理想像にまさにピッタリだった。もしかしたら私は彼と結婚するかもしれないのだ! そりゃあ、まだ申し込まれたわけじゃない。でもボーイ・スカウトの合言葉ではないが、『心構えがたいせつ』なのだ! それに女というものは、本気では毛頭ないくせにどの男性のことでも一応、自分もしくは親友の結婚の対象として考えてみるものなのだ。
その晩は彼と数回踊った。彼はダンスがうまかった。終わって私がもう部屋へ帰ろうかしらと考えているとき、大佐はデッキをひとまわりしようといい出した。私たちは三回まわったあげくに二つのデッキチェアにそれぞれ身を投じた。あたりには誰の姿も見えなかった。そうやって私たちはしばらくの間とりとめのない話をしていた。
「あなたはご存知ないかもしれないが、わたしはお父さまにたしか一度お目にかかったことがあるんですよ。ご専門の研究の上ではたいそう特異なかただった。実はわたしもその方面の研究にはすこぶる魅力を感じていましてね。わたし自身、まあ自慢できるほどのことではないが多少かじったこともあるのです。そうそう、わたしがドルドーニュ地方にいたときのことですが……」
私たちの話はしだいに専門的になっていった。レイス大佐の知識は自慢するだけのことはあった。が、実によく知っていると同時に、一つ二つおかしな間違いもやってのけた。たぶん言い間違いだろう、と思っていると、私の話し方からすぐ気づいて上手にごまかしてしまうのだ。一度などはムスティエ期はオーリニャック期のあとにくるかのごとき話し方をした。多少ともこの方面の知識をもっている人にしてはずいぶんと愚かな間違いである。
部屋へ帰ったのは十二時だったが、私はまださっきの奇妙なくいちがいのことがふしぎでならなかった。すべて『にわか仕込み』なのだ──つまりレイス大佐はほんとうは考古学のコの字も知らないのだ、と考えるべきなのだろうか? 私は頭をふった。なんとなくそういう解答では満足できなかった。
まさに眠りに落ちようとしたとき、別の考えが頭にひらめいて私はパッと起きあがった。大佐は私に|かま《ヽヽ》をかけていたのではないだろうか? いくつか些細な間違いをしたのは、私が自分でしゃべっていることをほんとうによく知っているかどうか試すためだったのではないだろうか? つまり、彼は私がほんとうのアン・ベディングフェルドではないらしいと疑っていたのだ。
なぜだろう?
第十二章
──サー・ユースタス・ペドラーの日記より
船の上の生活についても少し書いておこう。快適な毎日である。ありがたいことにこの銀髪のおかげでわたしは、糸につるしたリンゴに食いつこうとしたり、ジャガイモだの卵だのをもって甲板をかけまわったりという屈辱的行為、はては『ブラザー・ビル』だのボルスター・バーのごとき、精神的苦痛も甚だしい競技に参加しなくてもすむのだ。いったいぜんたい、人々はかかる屈辱的行為のどこがおもしろいのか、わたしはいつも不思議でたまらない。しかし世の中に愚か者は多いのだ。まあ彼らの存在を神に感謝しておいてこちらは避けていればよい。
幸いわたしは船酔いはしないけれども、かわいそうにパジェットのやつはそうではない。ソレントを出るや出ないに、もうまっ青な顔になった。もうひとりの自称わたしの秘書のほうもどうやらご同様のようだ。とにかくまだ一度も姿を見せない。いやもしかしたら船酔いではなくて、慎重な外交的配慮であるのかもしれぬ。いずれにせよ、彼によってこのわたしが少しも煩わされないというのはすばらしいことである。
見渡したところ、この船の客たちはみな垢《あか》ぬけしないやつばかり。わずかにブリッジをやる品のよいのが二人と垢ぬけしたご婦人が一人──すなわちクレアランス・ブレア夫人が居るのみである。もちろん夫人とはロンドンで面識がある。彼女はわたしの知るかぎり、ユーモアのセンスをそなえているといって差しつかえない数少ない女性の一人だ。彼女と話をするのはなかなか楽しい。カサ貝みたいに彼女にくっついて離れないあのむっつりした足なが先生さえ居なけりゃ、もっと楽しいはずなのだが。あのレイス大佐という男を、はたして夫人はおもしろいと思っているのだろうか。なるほど男前にはちがいないが、きわめて退屈な人間である。女流作家や若い娘たちがえてしてのぼせあがる無口で逞しい男性の一人なのだ。
マデーラを出港したころ、ガイ・パジェットが甲板をよろよろしながらやってきて力のない声で仕事の話をやり始めた。いったい船に乗ってまで仕事をしたい人間が居るだろうか? そりゃあ、夏の初めに『回想録』を書くと出版社に約束はした。だがそれがどうだというのだ? 実際の話、回想録など読むのはどういう人たちだ? 郊外に住むばあさんたちぐらいのものだろう。だいたいわたしの思い出の記がどうなるというのだ? わたしはこれまでにかなりたくさんのいわゆる著名の士に出会っている。パジェットの助力のもとに、わたしはこれらの人々についておもしろくもない逸話を考えては書いている。ところが実はパジェットときたらこの仕事に対して誠実すぎるのだ。彼は、会うはずだったが実際には会わなかった人物については逸話を書かせてくれないのである。
わたしは彼にやさしい言葉をかけてみた。
「きみ、まだ憔悴《しょうすい》しきってるような顔をしてるよ。いまきみに必要なのはデッキチェアで日光浴することだ。いいんだよ、なにもいわなくていい。仕事はあとまわしだ」
次にわたしは、彼がもう一つ余分の部屋の心配をしていることを知った。
「あなたさまのお部屋には仕事をする場所なぞありません、サー・ユースタス。なにしろトランクだらけですので」
彼の口ぶりではまるで、それらのトランクがゴキブリかなにか、とにかくその場所にあるまじきもののごとくに聞こえる。そこでわたしはこう説明してやった、旅行する時は誰でも着替えを持ち歩くのが普通なんだよ、きみはご存じないかもしれないがね。彼はわたしのユーモアの試みを受けながす時のつねで、青ざめた微笑を浮かべた。そしてまた当面の問題へと立ちかえっていった。
「それにわたくしの狭くるしい部屋ではとうてい仕事はおできになりますまいし」
パジェットのいう『狭くるしい部屋』のことなら承知している──やつはいつでも船の中で最上等の部屋を占めるのだ。
「今回は船長がうまくとり計らってくれなかったようで気の毒したね」わたしは皮肉った。「きみんとこの余分な荷物をわたしの部屋へほうり込みたいとこなんだろう?」
だがパジェットのような男を相手に皮肉るのは危険なことなのだ。やつはたちまち顔を輝かせていった。
「はあ、あのタイプライターと大トランクをどけていただけると……」
その大トランクというのはたっぷり二、三トンもあろうかという代物で、運搬人たちとの間に必ずゴタゴタを起こす|もと《ヽヽ》なのである。そしてパジェットはそれをわたしに押しつけることを終生の目的にしている。それがわたしと彼との間の果てしない争いというわけだ。どうやら彼はそのトランクをわたしの特別の個人的所有物とみなしているらしいのだが、こちらはどういたしまして、そういうものの面倒をみてくれてこそ秘書の秘書たる所以《ゆえん》だと考えているのだ。
「もう一つ部屋をとろうじゃないか」わたしは大急ぎでいった。
事はまことに簡単、と思われた。ところがパジェットという男はなんでも謎めかして考えることが好きとみえ、翌日になるとあたかもルネッサンスの陰謀家のごとき顔つきでやってきた。
「仕事部屋として十七号室をとるようにおっしゃいましたね?」
「ああ、それがどうした? 大トランクが入口につかえでもしたのかね?」
「入り口はどの部屋も同じサイズにできております」パジェットは大まじめで答えた、「ところがですね、サー・ユースタス、あの部屋については大そう奇妙なことがあるのです」
むかし読んだ『上段寝台』の話が脳裏にうかんだ。
「幽霊が出るというのかい、しかしわれわれはその部屋で寝るわけじゃなし、ちっとも困ることはないと思うがね。おばけが出たってタイプライターは恐がりゃしないよ」
パジェットは、幽霊の問題ではないのだといった。そして、とにかく十七号室を獲得できなかったのだといい、そのいきさつを自分の都合のよいように改ざんして長々と述べた。要するに彼とチチェスター氏なる人物とベディングフェルドという娘さんの三人が、十七号室をめぐって殴り合いにもなりかねまじい喧嘩をやったらしいのだ。娘さんが勝ったのはもちろんである。パジェットは忿懣《ふんまん》やるかたないとみえ、くり返しいった。
「十三号室にしろ二十八号室にしろもっといい部屋なんですよ。それなのにあの二人は見むきもしないんです」
「なるほど」わたしはあくびをかみころしながらいった。「そしてきみもまた見むきもしなかったとね、パジェット君」
彼は非難するようなまなざしでわたしを見ていった。
「十七号室をとれとおっしゃったではありませんか」
パジェットには『燃えるデッキに立つ少年』のようなところがある。私はいらいらしていった。
「いいかね、きみ。わたしはたまたま十七号室があいてるのを見たからそういったまでなんであって、なんでもかんでもあの部屋をとれなどといったつもりはない。十三号室だろうと二十八号室だろうとわれわれにとっちゃ同じじゃあないか」
パジェットは気を悪くしたようだった。
「しかしそれ以外になにかあるんです」彼はいいつのった。「ベディングフェルドさんがあの部屋をとったのですが、ところがけさ、チチェスターがその部屋からこそこそ出てくるのを見かけたんです」
わたしはきっとなって彼の顔を見た。
「いくらきみが宣教師のチチェスターと──もっともあれは全くいやなやつにちがいないがね──アン・ベディングフェルドという魅力的な娘に関して、汚らわしい噂をたてようとしたところで、わたしはひとことも信じないぞ」わたしは冷やかにいった。「アン・ベディングフェルドは実によい娘《こ》だ──あの脚線美はとびきりだよ。船中で一番のすばらしい脚の持ち主だ」
パジェットはわたしがアン・ベディングフェルドの脚の話をもち出したのを喜ばなかった。彼は脚線美に注意にふりむけたことなど一度もないといった種類の男なのだ。いや、もしあるにしろ、そんなことを口に出すぐらいなら死んだほうがましだと思うことだろう。そしてまた、わたしがそのような事に関心を示すのを、軽薄な、と思っているのだ。わたしはパジェットを悩ましてやるのが好きなので意地悪く続けた。
「きみ、あの娘さんと知り合いになったのなら、あすの晩わたしたちのテーブルで食事するよう誘ったっていいんだぜ。あすは仮装舞踏会だ。そうだ、きみ、床屋へ行ってわたしの着る衣裳を選んでおいたほうがいいよ」
「まさか仮装なさるおつもりではないでしょう?」パジェットは恐怖にみちた声でいった。仮装するということはあきらかに、わたしの威厳というものに対して彼のもつ概念と矛盾したのである。彼はショックを受け、苦痛を感じている様子であった。むろんわたしは珍妙な衣裳をまとうつもりなど毛頭《もうとう》なかった。ただ、パジェットを完全に当惑させてやりたい慾望に駆られ、その誘惑をしりぞけることができなかったまでである。
「それはまたどういう意味だね? もちろんわたしは仮装するんだよ。きみだってさ」
パジェットは身ぶるいした。わたしはいった、
「だから床屋へ行って見てきてくれたまえよ」
「特大サイズはないんじゃないかと思いますが」彼はわたしの体を目測しながらつぶやいた。パジェットはどうかすると、無意識にひどく人の気を害《そこ》ねることのできる男である。
「それからサロンに六人分のテーブルを予約してくれないか。船長と、あの脚線美の娘さんと、ブレア夫人……」
「ブレア夫人はレイス大佐もいっしょでなければ来ていただけませんと思いますが」パジェットは口をはさんだ。「大佐があの方にいっしょに食事してほしいと誘っておられましたのを、わたくし存じております」
パジェットは全く何でも存じている男だ。わたしはいらいらした。あたりまえである。
「レイスとは何者だ?」わたしはじりじりして詰問した。さっきもいったように、パジェットは全く何でも知っている──もしくは知っていると思っている。彼はまたしても謎めいた顔つきになっていった。
「なんでも秘密警察の者だということです。かなりの大物だそうですが、もちろん確かなことはわたくしも存じません」
「政府のやることはこれだ!」わたしは叫んだ。「秘密書類を運ぶのが役目の人間がちゃんと乗船しているのに、わたしのような局外者に頼むのだからね。こちらはほうっておいてもらいたいというのに」
パジェットはいっそうわけありげな顔になり、ひと足わたしのほうへ近づくと声をおとしていった。
「それなら申し上げますが、サー・ユースタス、すべてがずいぶんと奇妙なのです。出発前のわたくしの病気のことを……」
「きみ」わたしはあらあらしく遮《さえぎ》った。「あれは胆石じゃないか。きみの持病なんだからね」
パジェットはわずかにたじろいだ。
「それがいつもの胆石と違っていたのです。今度のやつは……」
「お願いだよ、パジェット、きみの健康状態をそう詳しくいうのはやめてくれないか。そんなことは聞きたくない」
「わかりました、サー・ユースタス。ですが、わたくしはあのとき故意に毒を盛られたのだと確信しているのですよ!」
「ああ! きみはレイバーンと話をしたのだね」
彼は否定しなかった。
「少なくともあの男はそう思っているのです──彼は当然知っていてもいい立場にあったのですし」
「ところであの男はどこに居る? 船に乗って以来わたしは一度もお目にかかっていないぞ」
「病気と称して部屋にひきこもっています」パジェットはまたしても声をおとしていった。「しかしあれはカムフラージュにきまっていますよ。そのほうがなおよく見張れますからね」
「見張るだと?」
「あなたの身の安全をです、サー・ユースタス。もしあなたが襲われでもした場合のためです」
「きみは全く愉快なやつだよ、パジェット君。それは想像をたくましゅうしすぎたというものだよ。わたしがきみだったら、|しゃれこうべ《ヽヽヽヽヽヽ》か死刑執行人の仮装でダンスへ行くよ。きみのその悲痛な様子によく合うことだろう」
これでしばらくの間パジェットの口を封じることができた。デッキへ出てみると、例のベディングフェルドという女の子が宣教師のチチェスターとしきりに話しこんでいた。女というものはよく牧師のまわりをうろちょろするものだ。
わたしのような体格の者はかがみこむのが苦手である。にもかかわらず、わたしは親切にも牧師の足もとにヒラヒラしていた紙きれを拾ってやった。その骨折りに対して一片の感謝の言葉もきかれなかったが、実はその紙に書かれてあることをわたしはつい見てしまった。そこにはただこう書いてあった。
『勝手な真似をするな、お前のためにならないぞ』
牧師の持ち物としてはまことに結構なしろものではないか。いったいこのチチェスターというのは何者なのだろう? 大そう柔和な人物に見えるが、外観というのはあてにならないものだ。パジェットに聞いてみるとしよう、やつは何でも知っているのだから。
わたしはブレア夫人の隣りのデッキチェアに品よく深々と腰をおろして夫人とレイス大佐との密談にわりこんだ。そうして、近ごろは聖職というものもどうなってきてるのやらさっぱりわかりませんなあ、などといった。それから夫人に仮装舞踏会の晩餐《ばんさん》はどうかわたしのテーブルでごいっしょに、と誘った。レイス大佐も何とかかんとかいっていつの間にやらわたしの招待の仲間入りをしてしまった。
昼食のあとベディングフェルド嬢がやってきてわたしたちといっしょにコーヒーを飲んだ。彼女の脚はわたしのいったとおりだった。確かに船中で一番の脚だ。やっぱりどうしてもあの娘《こ》も晩餐に招《よ》ぼう。
パジェットはいったいフィレンツェで何をやらかそうとしたのだろう。わたしは知りたくてたまらぬ。イタリアが話題にのぼるとやつはきまってへどもどする。彼がいかに品行方正な人間であるかを知っていなければ、いかがわしい情事を疑うところだが……
いや、わからんぞ! 非常に品行方正な人間でも……、もしそうだとしたらこれは実に愉快だ。
パジェット──にうしろめたい秘密! こりゃいい!
第十三章
奇妙な晩であった。
床屋の倉庫にあった仮装用の衣裳のうちで、わたしの体に合うものはぬいぐるみの熊ただ一つであった。これがイギリスの冬の夜ででもあるならば、若くて素敵なお嬢さんを相手に熊を演じることぐらいわたしとて意に介さぬ。しかし赤道直下で着用する衣裳としてはどうも理想的とは申しかねる。とはいえ、おもしろおかしく大いに楽しんで、その結果『船内持ちこみ賞』なる一等賞を獲得した。借りものを着用して持ちこみ賞とは理屈に合わぬ。しかしこしらえたものやら持ちこんだものやら誰も考えやしなかったらしいからそんなことはどうでもよいのだ。
ブレア夫人は仮装することを拒否した。この問題についてはパジェットと同意見とみえる。レイス大佐まで彼女に右へならえした。アン・ベディングフェルドは自分で工夫したジプシーの扮装《ふんそう》をしていたがそれがひどくよかった。パジェットは頭痛がすると称して姿を見せないので、リーヴズといういっぷう変わった小男をやつのかわりに招待した。この男は南ア連邦の労働党の重鎮である。いやな小男ではあるが、わたしとしてはわたしの必要とする情報を与えてくれるので彼との友好関係を保っておきたいのだ。このたびのランドのストライキについてわたしは双方の立場をよく知りたいと思っているのだから。
ダンスは暑苦しい仕事だった。アン・ベディングフェルドとは二度踊ったが、気の毒に彼女はさも楽しかったような顔をしなければならなかった。ブレア夫人とも一度踊ったが、彼女のほうは無理して楽しかったようなふりなどしたりはしなかった。そのほか感じがよさそうに見える娘さんたちが幾人もわたしの犠牲になった。
そのあとみんなで食事に下へおりた。わたしはシャンパンを注文しておいたのだが、給仕の曰《いわ》く、一九一一年のクリコがいま船にあるうちで最上等品だがそれでどうか、という。だからよかろうといった。ところがどうやらこれがレイス大佐の舌をときほぐす絶好のしろものであったようだ。無口どころかこの男はしだいに饒舌《じょうぜつ》になっていった。最初のうちわたしはこのことをおもしろがっていたのだが、そのうちふと、一座の中心がこのわたしではなくてレイス大佐になりつつあることに気がついた。あげくに彼は、日記をつけていることに対してわたしをあげつらった。
「日記なんかつけてるといつか悪事がみんなばれちまいますよ、ペドラーさん」
「レイス君」わたしはいった。「あえて申しあげるが、わたしは君が考えているほど馬鹿ではありませんぞ。そりゃ悪事はやらかすかもしれんですよ、しかしそれを書きつけるような真似《まね》はしませんな。わたしが死んだら、遺言執行者たちはずいぶんと多くの人々に対するわたしの見解を知ることはできるでしょうが、わたしに対するかれらの見解を変えるような材料は何一つみつけられないはずです。日記というものの効用は他人の特質を記録することにあるのですよ──書いた当人のではなくってね」
「それにしても無意識に自分を暴露するということがありますよ」
「精神分析学者の眼から見ればどんなことだってよろしくありませんからな」わたしはわざとらしくそう答えた。
「レイス大佐はさぞかしいろいろおもしろい経験をなさっていらしたんでしょうね、これまでに?」ベディングフェルド嬢が大きな目を星のようにキラキラさせながら彼をみつめていった。女の子というものはいつでもこうだ! オセロは自分の話をしてきかせることによってデズデモウナを魅了したのである、だが、おお、デズデモウナのほうは彼の話にどのように耳を傾けるかによってオセロを魅了したのではなかったか?
ともあれあの娘はレイスに話の端緒を与えた。彼はライオンの話をはじめた。しかし、ある男が数多くのライオンを射ち殺したからといって、そのことのためにひとりだけ|もてる《ヽヽヽ》というのは不公平である。わたしは今度はわたしが話を──それもやはりライオンの話を──する番だと思った。しかももっとおもしろいやつをである。
「それで思い出しましたがね」わたしは始めた。「少々ハラハラさせられるような話を聞いたことがありますよ。ある友人がアフリカ東部のどこだかへ狩りをしに出かけていたのです。ある晩その男がなにか用があってテントから出たところ、低い唸《うな》り声がしたんでびっくり、ハッとふり返ると一匹のライオンが今まさに跳びかからんとして身構えていた。鉄砲はテントの中にある。とっさに男はヒョイと身をかがめた。それでライオンは男の頭上を跳び越えてしまった。やりそこなったものだから猛獣はいらいらして唸り声をあげ、もう一度跳びかかろうと身構えた。男はまたもやヒョイと身をかがめた。ライオンはまたもや男の頭上を跳び越えてしまった。これが三度くり返されたのです。ところがその間にテントの入口近くまで来ていたので、男は中へ転げこんで銃をひっつかみ、もう一度出て来ました。ところがどうでしょう、ライオンの姿が見えない。男は大いに訝《いぶか》り、テントの裏手へそろそろとまわってみました。そこは森の木を伐《き》りたおして少し広くなっているのですが、居た居た、ライオンはまさしくそこに居ました。一心不乱で低く跳ぶ練習をしていたんです」
この話はやんやの喝采を博した。わたしはシャンパンを少々飲み、また始めた。
「これはまた別の時の話ですが、この同じ友人はもう一度変わった経験をしているのです。ある時ラバで旅していた時のこと、暑くならないうちに目的地へ着きたいと思ったので、彼はまだ日の昇らぬうちから下男たちにラバを車につけろと命じたのです。下男たちはラバどもがなかなかいうことをきかないのでしばらく手間どっていたようでしたが、やっとどうにか車につけたので出発しました。ラバは風のごとくに疾駆《しっく》しました。やがて日が昇って明るくなったときはじめて、なぜあんなに速く走ったかそのわけがわかりました。というのは、暗かったものだから下男たちは、後馬(四頭立てまたは縦並びの二頭立ての馬車の後の馬)として一匹のライオンを車につけてしまっていたのです」
この話も大いにうけてテーブルは賑やかにどよめいた。しかし例の労働党の友人が最大の賛辞を呈してくれたのではないかとわたしは確信する。彼はそのときまっ青な顔をしたまま、真剣なおももちで心配そうにきいたものである。
「おやおや! それで馬具はいったいどうやってはずしたのです?」
「あたしどうしてもローデシアへ行かなくちゃ」ブレア夫人がいった。「ねえレイス大佐、あなたのお話うかがったからにはとにかく行ってみなくちゃ。といっても汽車で五日間の旅は考えるだにゾッとしますわね」
「わたしの専用車でいらっしゃるべきですな」わたしはいった。
「まあ、サー・ユースタス! なんてご親切な! ほんとうにそのおつもりですの?」
「おつもりですとも!」わたしはとがめるように叫び、シャンパンをもう一杯のんだ。
「あと一週間もたてばあたくしたちもう南アフリカに居ますのね」ブレア夫人がためいきと共にいった。
「ああ南アフリカよ」わたしは感傷的な声でそういい、さきごろ植民地協会でわたしがぶった演説の一部を引用しはじめた。「南アフリカが世界に誇示できるものは何でありましょうか? え? その果物その農場、その羊毛その皮革、その黄金そのダイヤモンド──」
わたしは口早にいい続けた。なぜならもし一息入れようものならたちまちリーヴスがわって入り、動物どもは有刺鉄線にひっかかって死ぬんだから皮革は役に立たないとか、その他のものについても何だかだとけちをつけ、あげくにランドの坑夫たちの窮状を訴えるにきまっていると思ったからである。わたしは資本家として糾弾《きゅうだん》されたくない気分だった。ところが、ダイヤモンドという言葉の魔力で妨害は別の方面からはいった。
「ダイヤモンド!」ブレア夫人が恍惚としていった。
「ダイヤモンド!」ベディングフェルド嬢が声にならぬ声でいった。そうして、二人ともレイス大佐にむかってきいた。
「大佐はたしかキンバレーにいらしたことおありでしたわね?」
わたしだってキンバレーに居たことがある。だが、そういおうとした時はすでに遅く、レイス大佐が質問攻めにあっていた。曰く、ダイヤモンドの鉱山てどんなところですの? 曰く、土人たちはその囲いの中へ閉じこめられっぱなしだっていう話ですけど、それほんとうですの? 曰く、……?
レイス大佐は二人の質問に答えたがなかなかの博識ぶりを示した。彼は、土人たちを収容しておく方法や、デビアスのとったあらゆる警戒手段などを細かく述べた。
「じゃあどんなに少しでもダイヤモンドを盗むってことは不可能なんですの?」まるでその目的ではるばる旅行中ででもあるかのように、ブレア夫人ははげしい落胆のいろをみせてきいた。
「不可能なことなどというものはありませんからね、奥さん。盗難は実際にあります──このあいだお話したように自分の傷口の中に石を隠していたカフィル人の場合なんかがそうですよ」
「ええ、でももっと大がかりなのは?」
「一度あります。つい近年、つまり戦争の直前にね。あなたは覚えておいでのはずですな、ペドラーさん、当時南アフリカにいらしったから?」
わたしはうなずいた。
「お話して!」ベディングフェルド嬢が叫んだ。「ああ、どうぞお話してくださいな!」
レイスはにっこりして話し始めた。
「けっこうですとも、お話ししましょう。たぶんみなさんは、南アフリカの大鉱山王サー・ローレンス・アーズレイの名はご存じですね? 彼の持ち山というのは全部金鉱なんですが、この話とは彼の息子を通じて関係があるわけなんです。さて戦争の直前のことですが、南米の英領ギアナのジャングルのどこかで第二のキンバレーともいうべきダイヤモンド鉱がみつかった、という噂が拡まったことがあったでしょう? なんでも二人の若い探検家がみごとな原石を収集して南米のそのあたりから帰ってきたのだそうです。中にはかなり大きな石もありました。小さなダイヤモンドなら以前にもエセキボ河とマザルニ河の付近でみつかったことがあるのですがね、この二人の青年ジョン・アーズレイとその友だちのルーカスは、二つの河の合流している付近に巨大な鉱床を発見したと主張したんです。ピンク、青、黄、緑、黒、純白とあらゆる色のダイヤモンドがありました。アーズレイとルーカスは自分たちの宝を鑑定してもらうためにキンバレーへ来ました。ところがそれとちょうど時を同じうして、デビアスで大々的な盗難が起きたことがわかったのです。じつはイギリスへダイヤモンドを送るにはまず小さな包みにして、それを大きな金庫へ入れておくのですが、その金庫の二つの鍵はそれぞれ二人の人間がもたされていてしかもその二つの鍵の組合わせは第三の人間しか知らない、ということになっているのです。それらの包みはイングランド銀行に渡され、イングランド銀行が本国へ送るわけですが、一つの包みがそれぞれざっと十万ポンドというところでしょうな。
この盗難の場合は、銀行で封印の具合がいつもと少し違うのに気づいたんですよ。開けてみると入っていたのは砂糖の塊りでした!
どういうことでジョン・アーズレイに嫌疑がかけられることになったのか、詳しいことは知りません。ただ、彼はケンブリッジに居たころ相当でたらめをやったらしく、父親がその尻拭いに負債を払ってやったことも一度や二度ではなかったということでした。とにかく南米のダイヤモンドの話はぜんぶ作り話だという噂が拡まり、ジョン・アーズレイは逮捕されました。彼の持ちものの中から、デビアスのダイヤモンドの一部が発見されたんですよ。
しかし、サー・ローレンス・アーズレイがなくなったダイヤモンドに相当する額を支払ったため、デビアス側は告訴しませんでしたから裁判にはなりませんでした。実際にどのようにして盗みがなされたのかはいまだに誰にもわかっていないのです。ですが、わが子が泥棒であったと知った老アーズレイは悲嘆のあまり、その直後に発作を起こしました。ジョンについてはある意味で運命の女神が慈悲深かったといえるでしょうな。彼は軍隊に入って大戦に参加し、勇敢に戦って名誉の戦死を遂げたのです、つまりそうやって汚名をそそいだというわけです。父親のサー・ローレンスはつい一か月ほど前、三度目の発作を起こして亡くなりました。遺言状は作ってなかったのでその莫大な財産は一番近い血族のものになりました、といっても全然つき合ったこともない男なんですがね」
大佐がひといき入れるとたちまちワイワイガヤガヤと質問が殺到した。そのときなにかベディングフェルド嬢の注意をひくものがあったとみえ、彼女は椅子にかけたまま後をふりむいた。そして小さく息をのんだのでわたしもつられてそちらをふり返った。
わたしの新しい秘書のレイバーンが入口に立っていた。その褐色に陽やけした皮膚の下に、まるで幽霊でも見た人のような蒼白さが感じられた。明らかにレイスの話が彼をひどく驚かしたのである。われわれがじっと見ているのに気づくと、彼はさっとむこうをむいて姿を消した。
「あれ誰だかご存じでいらっしゃいますの?」アン・ベディングフェルドがだしぬけにきいた。
「わたしのもう一人の秘書ですよ。レイバーン君です。気分が悪くて今までひっこんでいましたんでね」
彼女は皿の上でパンをもてあそびながらいった。
「もう長いことあなたの秘書をやってるんでしょうか?」
「そう長くもありませんよ」わたしは用心深く答えた。しかしご婦人が相手の時は用心なぞするのは無駄というもので、こっちがためらえばためらうほどしつこく聞いてくるものなのだ。アン・ベディングフェルドもいっこうにひるまなかった。
「どのぐらい?」ぶっきらぼうに彼女は聞いた。
「ええ──それがその、船に乗る直前に雇ったんですよ。わたしの古いつきあいの友人が推せんしてくれましたのでね」
彼女はそれ以上なにもいわず、黙りこくってなにか考えに耽《ふけ》りはじめた。わたしは今度はわたしがレイスの話に関心があることを示す番だという気がしたので、彼のほうをむいてたずねた。
「そのサー・ローレンスの一番近い血族というのは誰なのです、レイス君? ご存じですか?」
「知っていますとも」レイスは微笑して答えた。「このわたしです!」
第十四章
──ふたたびアンの手記より
誰かを味方にして秘密をうちあけるべき時がきたと決心したのは、仮装舞踏会の夜のことである。それまでは、私はひとりでやっていて、むしろそれを楽しんでいた。だが今や突然すべてが一変した。私は自分の判断に自信がもてなくなった。そしてこの時はじめて孤独感と心細さをひしひしと感じたのである。
私はジプシーの衣装をまとったまま、寝台のふちに腰かけてよく考えてみた。まずレイス大佐を考えた。大佐は私のことを好いてくれているようである。きっと親切にしてくれるにちがいない。それに頭も悪くはない。だが私はいろいろ考えているうちに躊躇《ちゅうちょ》しはじめた。彼は人を指揮するようなタイプの男だから、きっと私の手からみんなとり上げてしまうだろう。だけどこの秘密は私のものなのだ! それに他にもいくつか理由がある、それは私自身にもよくわからない理由なのだけれど、とにかくレイス大佐にすべてをうちあけることを阻《はば》むのである。
次にブレア夫人を考えてみた。彼女も親切にしてくれる。でもその親切が私に好感をもっているためなのかどうかはわからないと思う。一時の気まぐれにすぎないのかもしれない。でも私には彼女の関心を惹くだけの武器があるのだ。ブレア夫人ともなればたいがいのおもしろい出来事は経験ずみで普通のことでは驚かないだろうけれど、そこへ私がとびきりのを一つ教えてあげようというのだ! それに私はあの夫人が好きだ。気安くて、やたらと感傷をとらわれず、全く気取りのないところが好きなのだ。
心はきまった。私はただちに彼女を探しに行こうと思った。まだ寝てはいないだろう。そう思ったとき彼女の部屋の番号を知らないのに気づいた。例の夜勤のスチュワデスなら知っているかもしれない。私はベルを鳴らした。しばらくたってベルに答えてやってきたのは男の給仕だった。彼はブレア夫人の部屋は七十一号室だと教えてくれた。そしてすぐ来られなくて申しわけなかったといい、なにぶん全部の部屋を一手にひきうけているもので、と弁解した。
「じゃあ、あのスチュワデスはどうしたの?」と私はきいた。
「スチュワデスはみんな十時で勤めが終わりますので」
「いいえ──あたしのいってるのは夜勤のスチュワデスのことよ」
「夜勤のスチュワデスはひとりも居りませんが」
「でも──この間の晩来てくたれんですよ、一時ごろ」
「きっと夢をごらんになったんでございましょう。十時過ぎますとスチュワデスはひとりも働いていないんでございますよ、お嬢さま」
彼がひきさがったあと、私は今聞かされたことをよく考えてみた。二十二日の夜この部屋へ来た女はいったい何者なのだろう? 未知の敵のその狡猾《こうかつ》さ、不敵さを悟れば悟るほど、私の顔は厳粛になっていった。やがて私は気をとり直し、部屋を出てブレア夫人の七十一号室を探した。そしてその部屋のドアを叩いた。
「どなた?」中から夫人の声がした。
「あたしです、アン・ベディングフェルドです」
「まあジプシーお嬢さん、お入りなさいな」
中に入ると、そのへん一面にさまざまな衣裳がひろげられていた。そしてブレア夫人その人は橙色《だいだいいろ》と金と黒の目もさめるような美しいキモノを身にまとっていた。私は思わずためいきが出た。
「あたし」私はだしぬけにいった。「身の上話をきいていただきたいんですの──でももう夜中ですし、それにご退屈なさるようならいけないんですけど……」
「ちっとも。あたしは床へ入るのが大嫌いなの」ブレア夫人はいつもの感じのよい微笑を顔中に浮かべていった。「それにあなたの身の上話ぜひともうかがいたいわ。ほんとに変わった子ね、あなたは。自分の半生記を語りに真夜中の一時に飛びこんで来るなんて他の人なら誰も考えないことだわ。それもひとの好奇心を何週間も無視しておいたあげくにね! あたしは無視されることに慣れてないの、だからおもしろい経験だったわ。さあそのソファにでもかけてぜんぶうちあけてごらんなさい」
私はなにもかも話してきかせた。細かい点にいたるまで嘘のないように気をつけて話したのでだいぶ手間どった。話が終わると夫人は深いためいきをもらしたが、私の予期していたようなことはひとこともいわなかった。そうして私の顔を見、ちょっと笑っていった、
「アン、あなたは自分がとっても変わった子だってこと知っている? これまで不安というものを感じたことはないの?」
「不安?」何のことだかわからず、私はきき返した。
「そうよ、不安、不安、不安! 一文無しだというのにたった一人で出かけるだなんて、知らない国であり金を使い果してしまったらどうするつもり?」
「そうなった時に考えればいいんですわ。あたしまだ沢山もっていますもの。フレミングさんの奥さんが下すった二十五ポンドがまだそっくりありますし、きのう大勝して十五ポンド増《ふ》えたでしょう。あたしずいぶん沢山《たくさん》もっているんだわ、四十ポンドも!」
「ずいぶん沢山ですって! まあ!」ブレア夫人は呟いた。「アン、あたしだって相当に勇敢なほうだけど、とてもそんなことはできないわ。たった二、三十ポンドをふところに、しかも何をしどこへ行くかというあてもなしに陽気に船出するなんて、とてもできないわ」
「だってそこがおもしろいんじゃありませんか」私はすっかり興奮して叫んだ。「すばらしい冒険の気分が味わえますわ」
ブレア夫人は私をじっと見、二度ばかりうなずいた。そしてやがてにっこりしていった。
「しあわせな子! あなたのように感じることのできる人ってそういないものよ」
「それで」私はしびれを切らしていった。「このお話どうお思いになりますの、ミセス・ブレア?」
「これまで聞いたこともないほどスリルに富んだ話だと思いますよ。だけどその前にまず、ミセス・ブレアと呼ぶのはやめること、スザンヌのほうがいいわ。よくって?」
「あたしもそのほうが好きですわ、スザンヌ」
「よろしい。それじゃ大事な話にうつりましょう。あなたは、サー・ユースタスの秘書──あの長い顔のパジェットじゃなくてもう一人のほうの秘書が、刺されてあなたのお部屋へかくまってくれといって来た男と同じだといったわね?」
私はうなずいた。
「そうなるとこの不可解な事件とサー・ユースタスとを結びつける環が二つあるわけだわ。|彼の《ヽヽ》家で女が殺されたということ、それから夜中の一時という時間に刺されたのは|彼の《ヽヽ》秘書であるということ。あたしはサー・ユースタス自身のことは疑わないけど、単なる偶然の一致だとはいえないと思うわ。たとえサー・ユースタス自身は気づいてなくってもどこかで関係しているんだわ。それからその妙なスチュワデスのこともあったわねえ。その女どんな様子だったの?」彼女は一生懸命考えるふうでそうきいた。
「あたしよく見なかったんです。すっかり興奮して夢中だったもんで──それによもやスチュワデスが入って来るとは思わなかったから。でも、そうだわ、どっかで見たような顔だと思ったんでしたわ。もちろん船で一度でも見かけたことがあるとすれば見覚えがあるわけですけどね」
「見たことのあるような顔だったのね」スザンヌはいった。「絶対に男ではなかったといえる?」
「そういえば背はとても高かったけれど」
「ふうん。サー・ユースタスとは考えられない、パジェットさんでもなしと──ちょっと待って!」
彼女は紙きれをつかむと夢中になってなにか絵を描き出した。そしてできあがると首をちょっとかしげてその描いたものを点検した。
「宣教師のエドワード・チチェスターさんにそっくりだわ。細かいところをもうちょっと描いて、ほら」スザンヌは紙きれを渡してよこしながらいった。「あなたのいうスチュワデスとちがう?」
「まあ、そうだわ! なんて頭がいいんでしょう、スザンヌ!」私は叫んだ。彼女は私の賞賛を軽いしぐさでそらしていった。
「あたし前からあのチチェスターなる人物には疑いを抱いていたのよ。この間クリッペンのことが話題になったとき、あの人がコーヒー茶碗をとり落してしかも蒼白になったのを覚えてるでしょう?」
「それに十七号室をとろうとしましたわ!」
「そう、これまでのところはみんな符合するわ。だけどそれらのことが何を意味するのでしょうね? 実際には十七号室で一時に何が起きるはずだったのかしら。秘書が刺されるなんていうことではなかったはずよ。そんなことをある特定の場所で特定の日の特定の時間にやることにするなんて意味ないわ。そうじゃありませんとも、きっとなにか約束があったのよ、それでその約束を果しに行く途中で刺されたのよ。でも約束の相手は誰だったんでしょうね? あなたでは確かにないし、チチェスターかもしれないわね、それともパジェットかもしれない」
「そんなことはありそうもないわ」私は反対した。「あの秘書同士はいつだって会いたければ会えるんですから」
私たちは二人ともちょっとの間口をつぐんで坐っていた。やがてスザンヌが別の方向からきり出した。
「あのお部屋に何か隠されていたっていうことはあり得ないかしら?」
「それなら考えられますわ、次の朝あたしのものがひっかき回されてたことがそれでうなずけますものね。でも実際には隠されてたものなんてなにもありませんでしたわ、それは確かですわ」
「その青年がその晩ひきだしのどれかへ何かを忍ばせていった、ということはあり得ない?」
「そんなことしようとすればあたしに見つかるはずですもの」
「かれらが探していたのはあなたのたいせつな紙きれだったのではないかしら?」
「そうかもしれないんですけど、でもちょっとおかしいでしょう。日付と時間が書いてあるだけのものだし、しかもあの時にはもうその日付も時間も過ぎてしまっていたんですもの」
スザンヌはうなずいた。
「そりゃそうだわ。そうね、それではなかったのね。ところであなたその紙きれいま持っているの? ちょっと見たいものだけど」
私はその紙片を証拠物件第一号として持ってきていたから彼女に手渡した。スザンヌは眉根をよせて綿密に調べてからいった。
「十七のつぎに点があるわね。でもどうして一のつぎには点がないんでしょう?」
「間《あいだ》があいてますわ」
「ええ、間があいてるわね、でも──」
突然スザンヌは立ちあがると、その紙を明りの下へできるだけ近づけて見つめだした。その様子には興奮を抑えているといったふうがあった。
「アン、これは点じゃないわ! 紙の|しみ《ヽヽ》なのよ! 紙自体の|しみ《ヽヽ》よ、わかった? だから点のことは無視して間隔を問題にすべきなのよ、間隔をね」
私はすでに立ちあがり、彼女と並んで立っていた。私はそれらの数字をあらためて目に映るままに読みあげた。
「一、七十一、二十二」
「そうら、同じようだけどすっかり同じではないでしょう。やっぱり一時でそれから二十二日だけど──今度は七十一号室なのよ! あたしの部屋よ、アン!」
私たち二人はこの新発見に有頂天《うちょうてん》になり、すっかり興奮してお互いに見つめ合いながら突っ立っていた。他人が見たら事件全体が解決したのかと思ったことだろう。が、そのうちに私はしおれていった。
「でもスザンヌ、二十二日の一時にここでは何も起きなかったでしょ?」
スザンヌの顔も曇った。
「そう──何も起きなかったわ」
そのとき別の考えが私の頭にうかんだ。
「このお部屋あなたのじゃないでしょう? つまり最初にあなたが予約なさったお部屋と違うんでしょう?」
「ええ、事務長《パーサー》が変えてくれたのよ」
「もしかしたらこのお部屋、出港前には誰か他の人が予約してあったんじゃないのかしら、そしてその人は姿を見せなかったのよ。それ調べればわかることだと思うけど」
「調べる必要はないわよ、ジプシーお嬢さん」スザンヌは叫んだ。「知ってるの! 事務長《パーサー》がいってたわ、この部屋はグレイ夫人という名前で予約がとってあったんですって。でもグレイ夫人ていう名はあの有名なマダム・ナディナの変名らしいわ。知ってるでしょ、有名なロシア人の踊り子よ。ロンドンにはまだ一度も来たことないけれど、パリではみんな夢中だわ。戦時中ずっとパリで凄《すご》い人気を博したらしいわね。したたか者らしいけど、それはそれは魅力的なひとなんだわ。彼女の予約してた部屋をあたしにくれるとき、あの事務長《パーサー》ってばそれこそ衷心《ちゅうしん》から彼女が乗船しないことを残念がっていましたからね。そのあとレイス大佐からいろいろ聞いたわ。パリではとても妙な噂がとんでたらしいの。彼女はスパイの嫌疑をかけられてたんですって、でも証拠が掴めなかったということよ。あたし、レイス大佐はそのことのためにパリに行ってたんじゃないかと思うのよ。大佐はとてもおもしろい話を教えてくだすったわ。当時、あるきちんと組織されたギャング団があってその首領はつねに『隊長《ボス》』と呼ばれているんだけど、その人はイギリス人らしいということなの。でもそれが誰であるのかはどうしても手がかりすら掴めなかったんですって。それにもかかわらず、その首領が大がかりな国際的ギャング団をあやつってたことは確かなんだそうよ。強盗、スパイ、暴力行為、なんでもござれで、しかも何の罪もない人間を身代わりにちゃんと用意しておいてその人に濡《ぬ》れ衣《ぎぬ》をきせてしまうの。よほど悪がしこい悪魔みたいな奴にちがいないわ。そしてこのマダム・ナディナというひとも彼の手先の一人と目されていたのよ、でもそうと断定する証拠が得られなかったというの。そうよ、アン、あたしたちの考えは正しいのよ。ナディナという女はこの事件にたしかに関《かかわ》りがありそうよ。二十二日の早朝の約束の相手というのは、この部屋に居るべきはずだった彼女なのよ。でも彼女はいったいどこに居るんでしょうね、なぜ船に乗らなかったんでしょう?」
私の頭の中であることがパッとひらめいた。
「乗るつもりだったんだわ」私はゆっくりといった。
「じゃあなぜ乗らなかったの?」
「|すでに死んでいたから《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。スザンヌ、ナディナはマーロウで殺された女なのよ!」
私はあの空《あ》き家《や》のガランとした部屋を思い出していた。同時にあの時の、危険と邪悪を感じさせる名状しがたい戦慄《せんりつ》が再び私を襲った。そしてまたそれと共に、鉛筆が転がったこととフィルムをみつけたこととを思い出した。巻いたフィルム──まてよ、このほうはもっと記憶に新しいような気がする。フィルムのことをいつ耳にしたんだったかしら? 第一、私はなぜこのことをブレア夫人と結びつけて考えるのかしら?
突然私はスザンヌにとびついて興奮のあまり彼女をゆすぶった。
「あなたのフィルムよ! 換気窓からあなたに届けられたフィルムよ。あれは二十二日ではなかったかしら?」
「あたしが失くしたフィルム?」
「失くしたのと同一物だとどうしていえます?第一、わざわざあんな方法で返す人なんてあるかしら?──しかも真夜中に。そんなの変だわ。そうですとも──あれはなにか伝言だったんだわ、黄色い罐からフィルムはとり去ってしまって中へなにか他のものを入れてあったのよ。まだそれ持っていらっしゃいます?」
「使ってしまったかも知れないわよ。あ、そうじゃないわ、ここにあるの。あたし寝台の横の網棚へほうりこんだ覚えがあるわ」
スザンヌはそれを私のほうへよこした。それはフィルムを入れるための、ごくありふれた熱帯向けの円い細長い罐であった。私は震える手でそれを受けとったが、それだけで心臓がドキドキッとした。ただのフィルムが入っているにしては確かに重すぎたからである。
震える指で私は密封してある粘着テープをはがした。蓋をとったとたん、ザラザラと曇ったガラスみたいな小石がベッドの上へこぼれ出た。
「小石だわ」完全に失望して私はいった。
「小石ですって?」スザンヌは叫んだ。その声のひびきに私はハッとした。
「小石ですって? いいえ、アン、小石じゃないわ! ダイヤモンドよ!」
第十五章
ダイヤモンド!
私はぼうっとなって寝台の上のガラス屑みたいなものの小山をみつめた。ひと粒手にとってみたが、重さを別とすればこわれた瓶《びん》のかけらと思えないこともなかった。
「確かなの、スザンヌ?」
「ええ、確かですとも、アン。ダイヤモンドの原石は何度も見たことがあるからまちがいないわ。やっぱりきれいね。それに中には珍しいのもあるようよ、アン。このダイヤモンドの背後にはなにか|いわく《ヽヽヽ》があるのね」
「さっき聞いたあの|いわく《ヽヽヽ》だわ」私は叫んだ。
「っていうと?」
「レイス大佐のお話よ。あれは偶然とは思えないわ。大佐はわざとあのお話なさったんだわ」
「反応を見るために、という意味?」
私はうなずいた。
「サー・ユースタスの反応をみるため?」
「そう」
だがそういっているうちにも疑念がわいてきた。テストの対象は果してサー・ユースタスだったのだろうか? それともあの話をしたのは私がめあてだったのではなかろうか? せんだっての晩大佐に『故意にかまをかけられた』ような印象を受けたことを、私は思い出した。ともかくレイス大佐にはあやしいふしがある。でもぴったりこない。いったい大佐とこの事件との間にどういう関係があり得るだろう?
「レイス大佐ってどういう方ですの?」私はきいた。
「よくはわからないわ。あの方は猛獣狩りをなさるんで有名なのよ。そしてあなたもさっき聞いてたように、サー・ローレンス・アーズレイの遠縁にあたるらしいわね。あたしもあの方に実際にお目にかかったのはこの旅行ではじめてなのよ。アフリカへはたびたび行き来してるんですって。なんでも世間じゃ秘密警察の仕事をしているっていわれてるようだけど真偽のほどはわからないわ。たしかに多少謎の人物にはちがいないわね」
「サー・ローレンス・アーズレイの相続人ならたいへんなお金持になったわけでしょうね?」
「そりゃうなるほどもってるにちがいないわ、アン。そうねえ、あなたとはまさにお似合いかもしれないわね」
「でもこの船にあなたがいらっしゃる限り自信がないわ」私は笑いながらいった。「ああ、人妻というものは!」
「あたしたち人妻ってのは得なのよ」スザンヌは満足げに呟いた、「それにあたしがクレアランス──もちろん主人のことですよ──を熱愛しているってことは誰でも知ってますからね。貞淑な人妻に言い寄ることほど安全でしかもおもしろいことはないんだから」
「あなたみたいな方が奥さまで旦那さまはさぞおしあわせでしょうね」
「さあね、あたしは一緒に暮してると人を疲れさすらしいわ。でもあのひとは疲れたらいつでも外務省へ逃げ出して行けるんですもの、そこで片めがねをかけて大きな安楽椅子で昼寝してるのよ。そうだわ、あのひとに電報うってレイス大佐のこときいてみるって手もあるんだわ。あたし電報うつのが大好きなの。それがクレアランスには閉口らしいんですけどね。あのひといつも、手紙ですむことだったのにっていうのよ。だけど電報うったところで大して知らせてもらえないかもしれないな。あのひとそれはそれは慎重な男なの。そういうふうだからあのひととは長いこと一緒に暮すのがむずかしいのよ。そんなことより縁組みのお話だったわ。レイス大佐があなたにご執心なのは確かよ、アン。あなたのそのいたずらっぽい二つの目でながし目をおくってごらんなさい、それで事は成就よ。船の上ではみんな婚約しちゃうものなの、ほかにすることがありませんからね」
「あたし結婚なんかしたくないわ」
「したくない? なぜ? あたしは結婚していてよかったと思ってるわ──たとえ相手がクレアランスでもね!」
私はそんな浮薄さを軽蔑した。
「あたしが知りたいのは」私は決然としていった。「レイス大佐がこの事件とどういう関係にあるのかということなの、あの方はどこかで関係してるのよ」
「それじゃあなたは、大佐があのお話をなさったのはただの偶然ではないと考えてるのね?」
「ええ、偶然じゃありません」私はきっぱりいった。「大佐はあたしたちみんなを注意深く見ていましたもの。あのとき、そのダイヤモンドの一部分《ヽヽヽ》は戻った、っておっしゃってたわね、全部じゃなく。たぶん、これがそのなくなった分のダイヤモンドなんだわ──それとももしかしたら──」
「もしかしたら?」
私はすぐに答えなかった。
「もうひとりのほうの青年はどうなったのか知りたいわ。アーズレイではないほうの──なんて名前でしたっけ? そうそうルーカス!」
「とにかくあたしたちには少しわかりかけてきているわ。みんなが探し求めているものはこのダイヤモンドなのよ。『茶色の服を着た男』がナディナを殺したのはダイヤモンドを手に入れるためだったにちがいないわ」
「彼は殺さないわ」私は鋭くいった。
「彼が殺したのよ、もちろん。他にそんなことのできた人が居るかしら?」
「わからないわ。でも彼が殺したんじゃないことは確かだと思うわ」
「だってナディナがその家へ入った三分後に彼も入ったのよ、そしてまっ青な顔をして出て来たというのよ」
「それは彼女が死んでいるのを発見したからよ」
「でも他には誰も入らなかったのよ」
「それなら犯人はその前から既に家の中に居たんでしょう、あるいはなんか別の方法で入ったんだわ。犯人としては管理人を通す必要はないんですもの、塀《へい》をのりこえることだってできたでしょう」
スザンヌは私を鋭く見ていった。
「『茶色の服を着た男』か」彼女は考えるようにいった。「いったい何者かしらね? 少なくとも地下鉄の『医者』と同一人物ではあるのね。彼には変装を解《と》いてナディナをマーロウまでつけていく時間があったと思うわ。ナディナとカートンとはマーロウで会う約束になっていて、二人とも同じ家を見せてもらうための周旋屋の紹介状をもっていた、そして、二人がそのような手のこんだ細工をしていかにも偶然出会ったかのように見せかけようとしたからには、自分たちが尾《つ》けられているらしいと知ってたにちがいない。でもカートンは自分を尾けているのが『茶色の服を着た男』だとは知らなかった。その男が誰であるかわかると、カートンはショックのあまり気も転倒して思わず後ずさりして線路の上へ落ちた。どう、すべて明白のようじゃない、アン?」
私は答えなかった。
「そう、こうなのよ。彼はその死んだ男から紙きれをとった、ところが早く行こうとしてあわてていたのでそれを落していった。それからマーロウまで女をつけて行った。さてそこを出てから彼はどうしたんでしょうね? つまり女を殺したあと──あるいはあなたの説によれば女が殺されているのを発見したあと、どこへ行ったんでしょう?」
まだ私は答えなかった。
「ね、どうかしら、サー・ユースタスにうまくもちかけて秘書として船に乗せてつれてってくれるよう頼んだというふうには考えられない?国外へ無事に脱出して追跡をのがれられる唯一のチャンスですもの。それにしてもどうやってとりいったのかしら? なにかしらサー・ユースタスの痛いところを握っているとみえるわね」
「あるいはパジェットの痛いところをね」私は思わずいってしまった。
「パジェットが嫌いのようね、アン。サー・ユースタスは、とても有能でよく仕事をする青年だっておっしゃってるわ。実際、案外そうなのかもしれませんよ。それはともかく、あたしの推測を続けるとね、レイバーンこそ『茶色の服を着た男』なのよ。彼はその紙きれを落す前に書いてあったことを読んでいたのよ。だから、あなた同様、この点《ヽ》に惑わされて二十二日の一時になんとかして十七号室へ行こうとしたの、その前にパジェットを通じて十七号室を手に入れようと試みて果さなかったのね。それでその部屋へ行く途中で誰かに刺された……」
「誰に?」
「チチェスターに。そうよ、すべて符合するじゃないの、さ、『茶色の服を着た男』をみつけたってナズビー卿に電報お打ちなさい、それであなたの運は開けたわ、アン!」
「あなたが見落してらっしゃることがまだいくつかあるわ」
「どんなこと? そりゃレイバーンの顔には傷痕があるわ──でもにせの傷痕ぐらい簡単につけられるわ。背の高さも体つきもぴったりなんでしょ。ええと、あなたが警視庁の連中をペシャンコにしてやったというその頭の型の名前は何ていうんでしたっけ」
私は気が気ではなかった。スザンヌは教育もあるしなかなか博識なひとだけれど、人類学の専門用語にまでは精通していないであろうことを私は願った。
「|長 頭《ドリコケファリック》」そ知らぬ顔で私はいった。
スザンヌは疑わしげな顔になった。
「そうだったかしら?」
「そうよ。長い頭、幅が長さの七十五パーセント以下の頭よ」私はよどみなく説明した。
一瞬、間《ま》が感じられた。それでほっと安心しかけたとき、スザンヌがふいにいった。
「その反対はなに?」
「なんのこと──反対って?」
「だって、反対もあるにちがいないでしょ。つまり、幅が長さの七十五パーセント以上ある頭のことはなんというの?」
「|短 頭《ブラキケファリック》」私はしぶしぶ答えた。
「それよ。たしかあなたはさっきそういったと思うわ」
「そう? じゃあいいまちがえたんだわ、|長 頭《ドリコケファリック》といったつもりだったのよ」私は必死で確信があるふりを装っていった。
スザンヌは探るような目つきでみていたが、やがて笑い出した。
「嘘つくのがなかなかお上手ね、ジプシーお嬢さん。でもこの際はすっかり話してしまったほうが時間と手間が省けるというものよ」
「お話することなんてないんですもの」
「ないかしら?」スザンヌはやさしくいった。
「どうせいずれはお話しなくちゃならないんですものね」私はゆっくりといった、「あたしべつに恥かしいことだとは思っていないの。誰だってたまたまこういうことになった場合それを恥じたりはしないはずよ。それっていうのは彼の態度なの。無礼で、恩知らずでなんとも嫌なひと──でもあたしには理解できるような気がするのよ。ちょうど鎖につながれた──あるいはいじめられた犬と同じで、誰にでも噛みつくんだわ。あのひとはちょうどそんなだったの、とげとげして、唸り声をあげて。なぜあのひとに関心があるのか自分でもわからないわ──でも気になるの、おそろしく気になるの。あのひとに会ったというだけであたしの人生は百八十度転回したわ。彼を愛しているの。彼をあたしのものにしたい。彼をみつけるまではアフリカ全土を素足で歩くことだってするわ、そして彼のほうもあたしのことを愛するようにさせてみせる。彼のためなら死んでもいいわ。彼のためなら働きもする、奴隷にもなる、泥棒だってするわ。乞食だって、借金だってなんだってするわ! さあ、これでおわかりでしょう!」
スザンヌは長いこと私をみつめていたが、ついに口を開いた。
「あなたってほんとにイギリス人らしくないひとなのね、感傷的なところがみじんもないわ。あなたのように実際的でしかも感情の激しいひとみたことないわ。あたしにはそんなふうに人を愛することなんてとてもできない──あたしにとっては幸いなことだけれど。でも──でもそういうあなたが羨《うらや》ましいと思うわ、ジプシーお嬢さん。愛することができるというのはたいへんなことですもの、たいがいの人にはできないものよ。それにしてもあなたに申し込んだ小男のお医者さんはあなたと結婚しなくてよかったこと。だって、家の中に高性能爆弾をおいといて楽しむような人物ではとうていなさそうですものね! さて、そういう次第でナズビー卿に電報をうつ必要はないというわけ?」
私はうなずいた。
「それでやっぱり彼は無実だと信じているのね?」
「と同時に、無実の人が処刑されることもあるってことも信じてるの」
「ふうん、そうね。でもね、アン、事実というものがあるのよ、目の前にあるのよ。あなたはいろいろなことをいったけれど、彼はその女を殺したのかもしれないのよ」
「ちがうわ」私はいった、「彼は殺さないわ」
「それは感傷というものよ」
「いいえ、そうじゃないわ。あのひとはあるいは殺したかもしれないし、マーロウまでつけていったときすでにそういう意志を抱いてもいたかもしれない、でもあのひとは、黒い紐をつかって絞め殺すようなことはしなかったはずだわ。もしあのひとがやったんなら、素手で絞め殺したことと思うわ」
スザンヌはかすかに身を震わせた。そして理解したかのように目をなかば閉じていった、
「なるほどね、アン、なぜあなたがその青年にそれほど惹かれているのかわかってきたわ!」
第十六章
レイス大佐をつかまえて話をする機会は次の朝得ることができた。航行マイル推定競技がちょうど終わったので私たちは甲板を行ったり来たりしながら話をした。
「けさはジプシーさんのご機嫌はいかがです、キャラヴァンが恋しくて早く陸地《おか》にあがりたいんじゃないかな?」
私はくびをふった。
「こんなに海がおとなしいと、このままいつまでもいつまでも海の上に居たいぐらいですわ」
「それはまたご執心ですね!」
「ええ、けさは美しいとお思いになりません?」
ふたりは並んで手すりにもたれた。海は鏡のように静かで、油を流したかのように見えた。青、薄緑、エメラルド色、赤紫、濃《こ》いオレンジ色の大きなまだら模様が浮かんでちょうど立体派《キュービズム》の絵のようだ。ときおり銀色のしぶきがあがって飛び魚が姿をあらわす。湿りけをおびた空気は暖かいというよりは暑いぐらいで、芳《かんば》しいそよ風が頬をなでていく。
「ゆうべのお話、とてもおもしろうございましたわ」沈黙を破って私は口をきった。
「どの話です?」
「ダイヤモンドの」
「ご婦人がたはダイヤモンドの話っていうと必ずおもしろがる」
「それはそうですわ。それで、もう一人の青年はどうなりましたの? 二人の青年がいたっておっしゃいましたけど」
「ルーカス君ですか? それはね、片一方だけ起訴するわけにはもちろんいきませんから、彼も刑罰は免れたというわけですよ」
「そうしてどうなったんでしょう? つまりそのあとですわ。誰かそれを知ってる人はいますかしら?」
レイス大佐はまっすぐ前方の海をみつめていた。その顔はお面のようにいっさいの表情を欠いていたが、私は彼が今の質問を喜んでいないことを感じとった。だがそれにもかかわらず彼は即座に答えた。
「戦争に行って勇敢に戦ったのですが、負傷して行方不明と伝えられました──おそらく戦死したものと思われているんですよ」
知りたかったことはそれでわかったので、それ以上はたずねなかった。しかしいったいレイス大佐はどれだけのことを知っているのか私はますますわからなくなった。この事件で彼はどういう役割を演じているのだろう。
私はもう一つの事もやった。つまり夜勤の給仕と話をすることである。少しばかりチップを握らせると彼はすぐ話し出した。
「あの奥さまはべつにびっくりもなさらなかったんじゃございませんか? 悪気のないいたずらかなにかのようでございましたよ、|かけ《ヽヽ》とかそんなもののように私はきいておりましたが」
私は少しずつ聞き出してついにみんな話させた。それによるとこういうことであった。ケープタウンからイギリスへむかう航海の途中、一人の客から一本のフィルムを渡され、この次イギリスを出港したら二十二日の午前一時にそのフィルムをある婦人客が使っている七十一号室の寝台の上に落下させるようにいわれた。給仕は、これは|かけ《ヽヽ》なのだといわれたということだった。私は、この取り引きで給仕はかなり|貰った《ヽヽヽ》らしいとにらんだ。婦人客の名前は聞かなかったとのことだが、もちろんブレア夫人が乗船と同時に事務長に交渉してまっすぐ七十一号室に入ったのだから、給仕はそれが問題の婦人客ではないとは夢にも思わなかったのである。彼にこの仕事を頼んだ船客の名前はカートンであり、その人相書きは地下鉄で死んだ男の人相書きとピタリ一致した。
こういう次第《しだい》で、とにかくも謎の一つは解け、あのダイヤモンドがすべてに通じる鍵であることが明らかとなった。
キルモーデン号の旅も終わりに近づき、毎日があっという間に過ぎるように思われ出した。ケープタウンに近づくにつれ、私はこれからの計画を周到にねらなくてはならなくなった。監視したい人物はたくさんある。チチェスター氏、サー・ユースタスとその秘書、それから──そう、レイス大佐もだ! どうすべきなのだろう? まっ先にチチェスターを考えるのは当然のことである。事実私はサー・ユースタスとパジェット氏の二人を疑わしい人物の列からしぶしぶながら除外しようとした。ところがちょうどその時、ふとした会話から新たな疑惑が私の胸にわいたのだった。
私は、フィレンツェのことが話題にのぼるとパジェット氏が不可解な動揺を示すのを忘れてはいなかった。船で過ごす最後の晩、みんなが甲板に坐っていたときサー・ユースタスが秘書にむかって全く他意のない質問をした。どういう質問であったか詳しいことは忘れたが、なんでもイタリアでは汽車がよく遅れるというようなことだった。ところがパジェット氏はたちまちこの前の時と全く同様、もじもじと不安そうな様子を示し始めたのである。それで私は、サー・ユースタスがブレア夫人をダンスに誘って行ってしまうと早速パジェット氏の隣の椅子に移動した。この件を徹底的に調べようと心を決めたのである。
「あたし一度イタリアへ行ってみたいと思ってますの」私はいった。「殊にフィレンツェへね。あちらはさぞよかったでしょうね?」
「実に結構でした。しかしベディングフェルドさん、申しわけありませんがサー・ユースタスの手紙を……」
私は彼の上着をギュッとつかんで叫んだ。
「あら、お逃げになってはだめ! 他にお話し相手もないのにあたしを一人ぼっちにして行っておしまいになるなんて、サー・ユースタスがお許しになりませんわよ。ねえパジェットさん、あなたはきっとなにかやましい秘密をおもちなのね!」
そのとき私はまだ相手の腕をつかんでいたので、彼がぎくりとしたらしいのを感じとることができた。
「とんでもない、ベディングフェルドさん、とんでもない」彼はやっきになっていった。「いくらでも喜んでお話したいところなんですが、ただほんとに電報が……」
「まあパジェットさん、そんなみえすいた嘘なんかおっしゃって! サー・ユースタスにいいつけま……」
パジェットはまたしても慌《あわ》てた。彼の神経はいまやショック状態に陥っているとみえた。
「いったい何がお知りになりたいのです?」こういった彼の声の調子に観念した様子をありありとみてとって、私は内心ほくそ笑《え》んだ。
「それはもうなにもかも! 絵や、オリーヴの木や……」そのあと何というべきかわからなくなって私はちょっといいよどんだ。そしてこういった。
「イタリア語はお話しになれるんでしょ?」
「残念ながらひとことも。しかしむろんポーターやそれからええと──ガイドが居ますからね」
「そりゃそうですわ。それで、どんな絵が一番お気に召しました?」
「はあ、その──マドンナ──つまりラファエロですね」
「ああ古きフィレンツェよ」私はセンチメンタルな声で呟いた。「絵のようなアルノの岸辺、美しい川。それからドゥオモ、あなたドゥオモも覚えていらっしゃる?」
「もちろんですとも」
「それもやっぱり美しい川ね、そうでしょう?」私はいちかばちか思いきっていった。「むしろアルノ川より美しいぐらいじゃありませんの?」〔ドゥオモという川はない。duomo とはイタリアの大教会堂をいう〕
「そのとおりです、そうですとも」
しかけた小さなわなが功を奏したのに気をよくして私は先を続けた。もう疑いをさしはさむ余地はなかった。パジェット氏はなにかいえばいうほどこちらの思うつぼにはまってくるのである。この男はフィレンツェに行ったことなど一度だってありはしないのだ。だがフィレンツェに行っていたのでないとすると、いったいどこに居たのだろう? イギリスに居たのだろうか? ミルハウスの事件の起きた時にイギリスに? 私は大胆にいってのけた。
「おかしいんですけどね、あたし前にどこかであなたをおみかけしたような気がするんですの。でも思いちがいにきまってますわね──だってあのころあなたはフィレンツェにいらしたんですもの。だけど……」
私はあからさまに相手を観察した。その目には追いつめられたような表情があった。彼は乾いた唇をなめまわしていった。
「どこで──あの──どこで──」
「あなたをみかけたかって? マーロウですわ。マーロウご存じ? あら、あたしなんてばかなんでしょう、サー・ユースタスはあそこにお家もってらっしゃるんでしたわね!」
だが私のいけにえは支離滅裂《しりめつれつ》ないいわけをのこして逃げていってしまった。
その夜興奮に胸をほてらして私はスザンヌの部屋へ入っていった。
「ね、スザンヌ」すっかり話し終わったあと私は熱心にいった。「パジェットはあの殺人のあった当時イギリスに居たのよ、それもマーロウにね。これでまだあなたは『茶色の服を着た男』が犯人だと確信なさるの?」
「あたしの確信してることが一つあるの」スザンヌは目をキラキラさせながら思いがけなくもそういった。
「どんなこと?」
「『茶色の服を着た男』はあわれなパジェット氏よりずっと男前らしいっていうこと。いいのよ、アン、まあ怒りなさんな。ちょっとからかってみただけよ。さ、お坐りなさい。冗談はとにかく、あなたはとても重大な発見をしたようだわ。いままではあたしたち、パジェットにはアリバイがあると思ってたのだけど、これでそうじゃないことがわかったわけね」
「その通りよ。彼を監視しなくっちゃ」
「他のみんなのこともね」スザンヌはちょっと困ったようにいった。「ねえ、そのことについてもあなたと少しお話したいと思ってたとこなのよ。そのことと──それから資金のこと。そう怒らないで聞いてちょうだい。確かにあなたはおかしいほど自尊心と独立心に富んでいるわ。でもね、この際は常識論にも耳を傾けてもらわなくちゃ。あたしとあなたはお互いに仲間でしょ、あたしは、あなたを好きだからとかあなたが一人ぽっちだからとか、そんな理由では一銭だって提供しようとは思っていないわよ、でもあたしが欲しいのはスリル、だからスリルを手に入れるためにお金を払ってもいいと思っているの。いくらかかってもいいから二人してこの事件を追求するのよ。その手はじめとしてあなたはあたしと一緒にマウント・ネルソン・ホテルへ泊るの、費用はあたしもちでね。その上で今後の作戦計画をねりましょう」
二人はこのことでいい争ったがついに私が折れた。しかし私はおもしろくなかった。私は自分の責任においてすべてをやりたかったのだから。
「じゃ決ったわね」スザンヌは大きなあくびとのびをしながら起きあがっていった。「あんまりおしゃべりしてくたびれちゃったわ。さてこんどはわれらが犠牲《いけにえ》のことを検討するとしましょうか。チチェスターさんはダーバンまでこのまま行く。サー・ユースタスはひとまずケープタウンのマウント・ネルソン・ホテルに泊ってそれからローデシアへむかう。あのかた、汽車に専用車をひと箱とるおつもりらしいの、それでこの間の晩四杯目のシャンパンを飲んでご機嫌になったとき、あたしにも一緒にどうぞっていってらしたわ。どうせ本気じゃないとは思うけど、約束だってがんばればいまさら撤回もできないでしょう」
「いいわ」私は容認した。「あなたはサー・ユースタスとパジェットを監視なさる、あたしはチチェスター。でもそれじゃレイス大佐はどうしましょう?」
スザンヌは不審そうに私を見ていった。
「アン、あなたまさかあのかたまで疑っているんじゃ……」
「疑ってるわ、どの人のことも疑ってるわ。あたしは一番疑わしくない人に気をつけてみたいような気がしているのよ」
「レイス大佐もローデシアへ行くのだけれど」スザンヌは考えこむようにいった。「サー・ユースタスがあのかたのことも専用車に誘うようにあたしたちで仕向けることができればね……」
「あなたならおできになるわ、あなたはなんだっておできにならないことないんですもの」
「どうもありがと」スザンヌは満足そうにいった。
スザンヌがなんとかうまくサー・ユースタスにもちかけてみるということに話がついて私たちは別れた。私はあまりに興奮していてすぐ寝る気にはなれなかった。船で過ごす最後の晩なのだ。明朝早くにはテーブル・ベイに入っているはずなのだから。
私はそっとデッキへ上がっていった。そよ風が冷くさわやかだった。海は波立っていて船は少しローリングしていた。デッキは暗く、誰ひとり居ない。もう真夜中を過ぎていた。
私は手すりにもたれ、青白く光る泡の航跡をみつめていた。行くてにはアフリカ大陸が横たわっているのだ。船はいま、その大陸へむかって暗い海の中をまっしぐらに進んでいる。私はすばらしい世界の中にただ一人ふみこんだような気がした。かつて体験したことのない不思議なやすらぎの気分に包まれて、私は時のたつのもうち忘れ、夢見心地でそこに立っていた。
そのうち突然、以前にも感じたことのある奇妙な予感──危険が迫っているという予感がした。何の物音を聞いたわけでもなかったが、私はさっと振りむいた。一つの黒い影が背後に忍びよっていたのだ。私が振りむいたとたんその影が跳びかかってきた。声を上げさせまいとして一つの手が私ののどもとをつかまえた。必死でもがいたがどうにもならなかった。私は半ば窒息しかけながらも、女の力の能《あた》うかぎり噛みついたりひっかいたりした。相手の男も、私に声を出させまいとして苦労していた。しかしもしあの時私が気づきさえしなかったなら、やにわに私をかつぎあげて一気に海にほうりこむことぐらい容易にできたのだ。後の始末はサメがやってくれる。
必死で抵抗したものの、私は自分がだんだん弱っていくのを感じた。加害者のほうもそれと知って渾身《こんしん》の力をこめた。その時もう一つの影が足音を忍ばせて小走りに近づいてきた。握りこぶしの一撃で彼は私の相手をデッキの上へまっさかさまにのしてしまった。急に放たれた私は手すりへ倒れかかった。気分が悪く、震えていた。私の救助者はすばやい動作で私のほうをふりむいていった。
「怪我《けが》したろう!」
その声には荒々しいものがあった──それは私を傷つけようとした者への威嚇《いかく》ととれた。私には、彼が声を出す前からそれが誰であるかわかっていた。私のあのひと──傷痕のある男だ。
だが彼が私のほうへ注意をそらした一瞬、倒れていた敵はパッととび起きるやデッキをかけ出した。この野郎! と叫んでレイバーンはあとを追った。私は何事によらずのけ者にされるのを好まない。私もその追跡に加わった。デッキをまわってわれわれは右舷へ行った。すると食堂の入口に男がくず折れたようにのびていた。
「またなぐったんですの?」私は息をきらせながらいった。
「その必要はなかった」彼はにこりともせずいった。「ここまで来たらドアのそばに倒れていやがった。それともドアがあかないもので倒れたふりをしてるのかもしれないな。どっちなんだかはじきわかるさ。こいつが誰であるのかもね」
胸をドキドキさせながら私は近づいた。チチェスターより大柄な男であることは最初からわかっていた。第一あんな軟弱な男は、せっぱつまれば刃物は使うかもしれないが、素手で勝負できるほどの力はもっていないはずだ。レイバーンがマッチをすった。二人とも思わずアッと声をあげた。なんとガイ・パジェットだったのだ。レイバーンは完全にあいた口がふさがらないといった様子だった。
「パジェットか、へええ、パジェットか」
私は少しばかり優越感を感じた。
「驚いてらっしゃるようね」
「ああ」彼はおしだすようにいった。「おれはまさか……」レイバーンはいいかけてふいにこちらへくるりと向いていった。「きみはどうなんだ? きみは驚いていないのか? じゃあやつが飛びかかったときからわかってたんだな?」
「いいえ、わかってなかったわ。とにかくあなたほどは驚いちゃいないだけ」
レイバーンは疑わしげに私をじっと見ていった、
「いったいきみはどういう関係があるのだ? どれだけ知っているのだ?」
私はほほえんだ。
「それはもういろいろとね、ルーカスさん!」
彼は私の腕をつかんだ。無意識にぐいとこめたその力に私は顔をしかめた。彼はしゃがれ声できいた。
「どこでそんな名前を聞いた?」
「あなたのお名前じゃありません?」私は甘たるい声できいた。「それともこう呼ばれるほうがお好きかしら、『茶色の服を着た男』って?」
この言葉に相手はたじろいだ。そして私の腕を離し、一、二歩後ずさりした。
「きみはただの女の子なのか、それとも魔女なのか?」
「お友だちよ」私は一歩つめよっていった。「私はこの前一度あなたに救いの手をさしのべたわね。もう一度さしのべるわ、お受けになります?」
彼の答えのすさまじい調子に私は思わずびっくりした。
「いやだ。きみであろうと誰であろうと女とはいっさいかかわりをもつ気はない。やれるものならやってみたまえ」
以前の時と同様、私はむらむらとなってきた。
「たぶんあなたは、ご自分の運命があたしの心一つでどうにでもなるんだってことに気がついていらっしゃらないのね。あたしからひとこと船長に……」
「ああどうぞ」彼は冷笑し、それからさっと一歩つめよっていった。「気づいているとかいないとかおっしゃるが、お嬢さん、あんたは現在この瞬間、自分の運命がぼくの心一つでどうにでもなるってことに気づいておいでですかね?やろうと思えばこうしてきみののど元をしめつけることもできる」いうが早いか彼はその言葉を行動に移した。私は彼の両の手がのど元をおさえ、しめつけるのを感じた──ほんのかすかに。「こうやってさ──それできみは命とおさらばだ! そのあとはここに気絶してるやっこさんが考えていたのと同様、きみの死体をサメにくれてやるだけさ──ただしやつのようなへまはしない。さあどうです?」
私は何もいわず、声をたてて笑った。とはいえ事実その危険があることを知っていた。いまこの瞬間、彼は私を憎悪しているのだから。しかし、自分がその危険を愛していることを、のど元に触れた彼の手の感触を愛していることを、そしてこの瞬間を生涯の他のどの瞬間ともとりかえたくないと思っていることを、私は知っていた。
短く笑って彼は手を離した。
「きみ、名前は?」唐突にきいた。
「アン・ベディングフェルド」
「きみは恐いものは何もないのかい、アン・ベディングフェルドさん?」
「あら、あるわ」私は心とはうらはらの冷静さを装っていった。「気むずかしや、皮肉屋の女、うんと若い男、油虫、横柄《おうへい》な店員」
レイバーンはまたさっきのように短かく笑い、気絶しているパジェットの体を足でこづいた。
「こいつをどうする、海にほうりこむとするか?」彼は気軽にいった。
「お望みならばね」私も落ち着きはらって答えた。
「きみの思いこんだらなんでもやる冷酷な本能には感心するよ、ベディングフェルドさん。だがまあこの男はごゆるりと自分で気がつくまでほうっておこう、致命傷ではないようだから」
「第二の殺人を犯すのが恐いのね、わかってるわ」
「第二の殺人?」
彼はしんから意味がわからないふうだった。
「マーロウの女よ」私はそういって反応やいかにと注意深く相手を見守った。思いに耽るような、苦しそうな表情がその顔にあらわれた。目の前に私がいることも忘れたかのようであった。そしていった。
「おれはあの女を殺していたかもしれない。ほんとに殺すつもりだったと思うこともある……」
すさまじい感情、死んだ女に対する憎しみの感情が奔流のように私をおそった。そのときもしその女が目の前に立っていたら、この私がその女を殺すことだってしたかもしれない……。なぜならかつて彼はその女を愛したにちがいないのだから……、そうにちがいない──そうでなければあれほどの感情は示すはずがない!
私は落ち着きをとり戻して平常の私の声で話しかけた。
「おたがいにいうだけのことはいったようね──あとは『おやすみなさい』だけ」
「おやすみ、そしてさよなら、アン・ベディングフェルドさん」
「|ではまたね《オルヴォワール》、ルーカスさん」
ルーカスという名前にまたも彼はたじろいだ。そしてそばへよってきいた。
「なぜそんなことをいう──|またねなど《オルヴォワール》と?」
「またいつかお目にかかるような気がするから」
「そんなことはごめんだ!」
その語調は烈しかったが腹は立たなかった。それどころか私は秘かな満足を感じて喜んでいた。私は馬鹿じゃない。
「それでも」私はまじめな声でいった。「あたしたちまた会うわ」
「どうして?」
私はかぶりをふった、私をしてそういわしめた感情を説明することはできなかった。
「二度と再びきみとは会いたくない」
突然、そして烈しく彼はいった。それは無礼きわまるいい草にちがいなかった。しかし私は静かに笑っただけであった。そして闇の中へそっと去った。
私は彼が後を追って来かけたのを聞いた。が、まもなく立ち止まった気配がし、一つの言葉がデッキの上から聞こえてきた。それは『魔女!』という言葉であったと思う。
第十七章
──サー・ユースタス・ペドラーの日記より抜萃
ケープタウン、マウント・ネルソン・ホテルにて
キルモーデン号を下船して全くほっとした。船に乗っている間中、わたしはなにか陰謀の網にとりまかれているような気がしていた。そしてさまざまな出来事のしめくくりとして、昨夜ガイ・パジェットが酔っぱらいの喧嘩にまきこまれた──にちがいない。いいのがれも結構だが、他に考えようがない。頭に卵大のコブをつくり、片目のまわりを虹の七色にそめて現われたのだから。
むろんパジェットはその顛末《てんまつ》について例によって謎めかした考えを主張してやまない。彼のいうことをきいているとまるで、彼が目のまわりにあざをこしらえたのはわたしに対する献身の結果であるといわんばかりに聞こえる。やつの話ははなはだ曖昧《あいまい》かつでたらめであり、わたしがやっと事の次第をのみこめるまでには相当の時間を要した。
まずこういうことらしい、彼は挙動不審の男を目撃した。これはパジェットの言である。やつはドイツのスパイ小説かなにかからそれらの言葉をそのまま借用したのだ。挙動不審の男というとき何を意味しているのか自分でもわかっていないにきまっている。わたしはそういってやった。
「そいつはひどくこそこそと歩いていたんです、しかもそれが真夜中なんですよ、サー・ユースタス」
「それできみは何をしていたんだね? なんだってベッドに入っておとなしく眠ってなかったんだい?」わたしはいらいらしてきいた。
「あなたの電報を略号にしたり、日記をタイプに打ったりしていたんです」
常に公正たらんとしてパジェットを信頼しているとかくのごとくひどい目に会う!
「それで?」
「寝るまえにひとまわりしようと思っただけなんですよ、サー・ユースタス、ところがその男があなたの部屋のあたりから廊下をやってくるんです。その男の様子からみて、わたしはすぐ何か変だぞと思いました。そいつは食堂の脇の階段を忍び足で上がって行くのであとをつけたのです」
「パジェット君、なぜその気の毒な男はデッキへ出るのを尾行されなくてはいけないのだい?デッキで眠る人だっていくらもあるんだぜ──ずいぶん寝心地の悪いものだろうがねえ、わたしはいつもそう思ってるんだ。なにしろ朝の五時にはもう水夫どもにデッキのごみもろとも洗い流されちまうんだからね」わたしはそれを想像して身震いした。
「とにかく、誰やら知らんが不眠症に苦しんでいる気の毒なご仁《じん》をきみが悩ましたとしたら一発くらったのも無理ないだろうね」
パジェットはこらえているふうだった。
「しまいまで聞いてくださればわかります。わたくしはそいつが何の用もないはずのあなたの部屋の付近をうろついていたと確信したのです。あの通路にはあなたの部屋とレイス大佐の部屋があるきりなんですよ」
「レイスは」わたしは注意深く葉巻に火をつけながらいった。「きみの助けがなくとも自分の面倒ぐらいみれるよ、パジェット」そしてそういってから思いついたようにつけ加わえた。「わたしもだよ」
パジェットは更に近づいてきてしかつめらしく息を吸いこんだ。これから秘密をうちあけようというときにはいつもこうだ。
「いいですか、サー・ユースタス、わたくしはゆうべもそう思ったんですが、今は確信をもっていえるのです、その男はレイバーンだったんですよ」
「レイバーンだと?」
「そうなのです、サー・ユースタス」
わたしは首をふった。
「レイバーンは分別のあるやつだから真夜中にわたしを叩き起こすような真似はせんだろう」
「その通りです。ですからあいつはレイス大佐に会いに行ったんではないかと思うんです。つまり秘密会談ですよ──指令を受けとるための!」
「そう耳のそばでヒソヒソやらんでくれ、パジェット」わたしは少し後ずさりしながらいった。
「呼吸《いき》をも少しなんとかできんかね。きみの想像はばかげてるよ。どうしてえりにえって真夜中なんぞに秘密会談をするのかね? お互いになにか話があるのだとしたら肉スープでも飲みながら親しげにやりゃあいいじゃないか、そのほうがよっぽどなにげなくて自然にやれるぜ」
わたしはパジェットが確信など少しもないことをみてとった。
「でもゆうべは|なにか《ヽヽヽ》があったんですよ。そうでなかったらなぜレイバーンはわたくしをこれほどなぐったりなんかしたんです?」
「きみはたしかにレイバーンだったという確信があるのかい?」
パジェットはそのことについては完全に確信があるらしかったが、彼の話の中でそれがただ一つの曖昧でない部分だった。
「この件にはどうも非常に妙なところがあります、まずレイバーンはいったいどこへ行ったんでしょう?」
なるほど上陸以来あの男を一度も見かけないのは事実だ。われわれといっしょにホテルへも来なかった。しかしわたしは、あの男がパジェットを恐れているのだとは信じたくない。
とにかくすべてが全くおもしろくない。秘書の一人は消え失せ、もう一人はまるで不面目なプロボクサーそこのけといった有様だ。あのざまではやつを連れ歩くわけにはいかぬ。ケープタウン中の笑いものになるばかりだ。今日遅くミルレイめの恋文を渡す約束があるのだがパジェットは連れないで行こう。馬鹿め、うろうろ歩いたりしやがって。
要するにわたしは心底腹が立っているのだ。不快なやつらといっしょに不快な朝食をとった。足首の太いオランダ人の給仕女はうまくもない魚をもってくるのに半時間もかかった。第一、上陸だというので朝の五時に叩き起こされて、検疫の医者に両手を頭の上まであげさせられるなどというあの道化芝居、こちらはくたびれるばかりだ。
追記
容易ならぬことが起きた。ミルレイの封書をもってわたしは約束通り首相に会いに出かけた。その封書は、みたところはべつだん開けられた様子もなかったのに、入っていたものはなんと一枚の白紙だったのである!
どうやらわたしは大混乱の渦中にあるようだ。なぜミルレイめの泣き言などに耳をかしてこんなことにおめおめ巻きこまれるようなことをしたのか、自分でもわからぬ。パジェットはいわずと知れたヨブの慰安者(慰さめるふりをして悩みをつのらす人)である。やつは不届きにもある種の満足げな様子を見せるから、こちらはなお気が狂いそうだ。さらにやつはわたしの動揺につけこんで例の大型トランクをおしつけてよこした。パジェットめ、気をつけないとお前がこの次参列する葬式はお前自身の葬式ってことになるんだぞ。
とはいうものの、結局はやつのいうことをきかなければならなかった。
「サー・ユースタス、もしかしたらレイバーンはあなたが往来でミルレイ氏と話していたのを小耳にはさんだんではないでしょうか? あの時ミルレイ氏からのちゃんとした紹介状はお受けとりになりませんでしたね。あなたはあの男の自己推薦だけでお雇いになったんですから」
「ではレイバーンはいかさま師だときみは思うのだね」わたしはゆっくりといった。
パジェットはそう思っている。目のまわりのあざのための憤りが彼の見解によほどの影響を及ぼしたものとみえる。レイバーンにとって不利な、全く見事な論拠を彼は主張したわけだ。それにレイバーンもあの風貌では不利だ。とにかく私としてはこの件について何もしないつもりだった。おめおめと馬鹿な真似を演じさせられた者はその事実を吹聴したくはないものである。
ところがである。パジェットは昨夜の災難にいささかのエネルギーも害われることなく、活発そのものであった。むろんやつは思い通りにした。あわただしく警察へ出かけ、数えきれぬほどの電報をうち、あげくにイギリス人とオランダ人の役人共を大ぜいつれてきてわたしの出費においてウィスキー・ソーダをふるまった。
その夕方ミルレイから返電が届いた。わたしの新しい秘書のことは全く知らないとのことだった! だがわたしはわたしのおかれた立場にもただ一つ慰めを見つけることができた。すなわちわたしはパジェットにいった。
「ともかく、きみは毒を盛られたのじゃなかったね。あれはやっぱりいつもの胆石の発作だったのさ」
わたしはパジェットがたじろいだのを見た。わたしのただ一つの得点である。
追記
パジェットはその本領を発揮している。やつの頭の中にはたしかにすばらしい考えがいろいろひらめいているようだ。こんどはレイバーンこそ他ならぬ『茶色の服を着た男』だと主張している。やつのいう通りだろう。やつは常に正しいのだ。だがどうもおもしろくなくなる一方だ。ローデシアへ出発するのが早ければ早いほどいいのではないか。わたしはパジェットにおまえはいっしょに行かないのだということをいいきかせた。
「いいかねきみ、きみはここにちゃんと残ってなくてはならんのだ。いつレイバーンの確認を求められるかわからんだろう。それにそれはべつとしても、わたしにはイギリスの国会議員としての体面がある。つい最近低級な喧嘩に耽ってたことが一見して知れるような秘書をつれ歩くわけにはいかんじゃないか」
パジェットはたじろいだ。世間体を気にする男だからあの外観は苦痛の種なのだ。
「しかし通信関係はどうなさいます、それに演説のメモなども?」
「自分でやるさ」わたしは陽気にいった。
「あなたの専用車はあす水曜日の朝十一時の汽車に接続されることになっています。手配はすっかりしておきましたが、ブレア夫人は小間使いをおつれになるんでしょうか?」
「ブレア夫人だって?」わたしはあえぐようにいった。
「あなたに誘われたといっておいでです」
そうだった、いま思い出した。仮装舞踏会の晩のことだ。わたしはぜひともお乗りなさいとまでいったのだった。しかしまさか彼女がその気になるとは思わなかった。好ましい婦人にはちがいないが、はたしてローデシアへの行き帰りずうっとおつき合いするのはどんなものだろう。女というものはいんぎんであることを非常に要求する。それにどうかするとはなはだ邪魔になることがある。
「わたしは他にも誰か誘ったかな?」わたしは神経質になってきいた。酔っぱらってるときはよくこんなことをやるものだからである。
「ブレア夫人はあなたがレイス大佐もお誘いになったと思っておいでのようです」
わたしはうなった。
「レイスまで招待したとはよほど酔っぱらっていたにちがいない。よほど酔ったのだな。パジェット、よくききたまえよ、きみもその目のふちのあざをいましめとして二度と飲んで騒いだりするでないぞ」
「ご存じのようにわたしは禁酒主義者ですよ、サー・ユースタス」
「あざをこしらえるほど酒が好きなればこそだな。禁酒を誓うのは賢明なことだ。他にはもう誘わなかっただろうね、どうだ、パジェット」
「わたくしの知るかぎりではお誘いになりませんでした」
わたしはほっと安堵《あんど》のいきをもらした。
「そうだ、ベディングフェルド嬢がいる」わたしは考えこみながらいった。「たしかローデシアへ骨を発掘に行きたいといっていたようだ。秘書として臨時に仕事を提供したらいいと思うんだ。タイプライターもうてるしね、いつかそういっていたから」
ところが驚いたことにパジェットが猛烈に反対した。やつはアン・ベディングフェルドが嫌いなのだ。目のふちにあざをつくった夜以来、彼女が話題にのぼると必ず抑えがたい感情を示す。最近のパジェットは謎だらけだ。
やつを悩ますためにのみ、あの娘も誘うとしよう。前にもいったがあの娘はまことにすばらしい脚をしている。
第十八章
──ふたたびアンの手記より
テーブル・マウンテンを初めてふり仰いだときのことを、私は生涯忘れることはないと思う。私はひどく早く床をぬけ出してデッキへ出た。そしてまっすぐにボートデッキへ上がった。そんなところへ上がるのは大変いけないことであるのは知っているが、独りになるためにはそれもやむを得ないと思ったからだ。船はいまやテーブル・ベイへ入ろうとしている。テーブル・マウンテンのいただきには白い雲がふんわりと浮かび、その山裾に海を見下ろすように静かに横たわる町は、朝の光の魔法にかかったのようにいまだ眠りから覚めないまま、朝日を浴びて金色に輝いている。
その光景に私は息をのんだ。そして格別美しいものに出会ったとき往々にして経験する、あの飢えたような奇妙な心の痛みを感じた。それらのことをうまく表現することはできないけれど私にはよくわかった、リトル・ハンプスリをあとにして以来ずうっと探し求めていたものを、たとえ束《つか》の間《ま》であろうともいまここに見出したのだということが。なにか新しいもの、なにかこれまで夢想だにしなかったもの、ロマンスに対するうずくばかりの渇望を満足せしめるなにものかを、私は求めていたのだ。
音もなく──少なくとも私にはそう思われた──すべるようにキルモーデン号はいよいよ近づいていく。まだまるで夢を見ているようだ。しかし夢見る人がすべてそうであるように、私も夢のままにしておくことはできなかった。あわれにも人間というものは何ものをも失うまいとする。
「これが南アフリカなのよ」私は懸命に自分自身にそういいつづけた。「南アフリカ、南アフリカ。アン、あなたはいま世界を見はじめているの。これが世界なのよ、考えてもごらん、アン・ベディングフェルドのおばかさん、あなたは世界を見ているのよ」
ボートデッキにいるのは私ひとりだと思っていた。だが、急速に真近に迫ってくる町に心を奪われていたにもかかわらず、私はいまもう一つの人影が手すりにもたれているのに気がついた。それが誰であるのか、そのひとがこちらへ顔をむけなくても私にはわかった。この平和な朝の光の中では、昨夜のことが非現実的なそしてまるでメロドラマかなにかのようなことに思われる。あのひとはあたしのことをいったい何と思っているだろう? ゆうべ私がいったことを思い出すと思わず顔に血が上る。私はあんなことをいうつもりはなかったのだけれど……、いやいうつもりはあったのだったろうか?
私は決然として顔をそむけ、テーブル・マウンテンを一心にみつめた。レイバーンも独りになることを望んでここへ上がってきたのだとしたら、少なくとも私は、私が居ることをわざわざ知らせて彼の邪魔をすることはないのだ。だが全く驚いたことには、私は背後に軽い足音を聞いた。そして明るいふだんの彼の声がした。
「ベディングフェルドさん」
「え?」私はふりむいた。
「おわびをいいたかった。ゆうべはほんとに乱暴な口をきいちゃって」
「ゆうべは──変わった晩だったわ」私は大いそぎでいった。それは少々おかしな答えだったけれど、どうしてもそれしか考えつくことができなかったのである。
「許してくれるだろうか?」
私は無言で手をさし出した。彼はそれを握っていった。
「まだいいたいことがあるんだよ」彼はますます真剣な顔になった。「きみは知らないかもしれないが、きみはあるとても危険な事件に巻きこまれているんだ」
「そのぐらいの見当はついてるわ」
「いや、そんなことはない。きみが知ってるわけはないんだ。ぼくは警告する、手出ししないで放っておくこと。ほんとにきみには関係あるはずがないんだから。好奇心にかられて他人のことに余計なおせっかいするものじゃない。いや、どうかもう怒らないでくれないか。ぼくは自分のためにいってるんじゃないんだ。きみが対決するかもしれぬ相手がどういう相手であるのか、きみは知らないんだよ──なにごとがあろうとたじろぐようなやつらじゃない。情け容赦《ようしゃ》もないんだ。すでにきみには危険が迫っている──ゆうべがいい例じゃないか。やつらはきみが何かを嗅ぎつけたと思っているんだ。それは間違いだということをなんとかしてやつらにわからせることしか道はないんだよ。しかしくれぐれも気をつけなくてはいけない、警戒を怠ってはいけないよ。そして、いいかい、万が一やつらの手中に落ちても、決してうまくやろうなんて気をおこしちゃいけない──ありのままをすっかり話すんだ、それがただ一つの道だよ」
「あなたのお話きいてると背すじがゾーッとするわ、レイバーンさん」私はいった。いくぶん真実でもあった。「でもなぜわざわざあたしに警告なんかなさるの?」
彼はちょっとの間返事をしなかったが、やがて低い声でいった。
「たぶんこれがきみにしてあげられる最後のことになると思うからさ。上陸さえしてしまえば大丈夫なんだが──たぶん、ぼくは上陸できないかもしれないんだ」
「なんですって?」私は叫んだ。
「ぼくが『茶色の服を着た男』だということを知っている人間はきみの他にもこの船にいると思われるからね」
「あたしがしゃべったなんてお思いなら……」私はむきになっていった。
彼はにっこりしてみせて私を安心させた。
「きみを疑ったりするものか、ベディングフェルドさん。疑ってるといったとすりゃ嘘をついたことになる。そうじゃないんだ、この船にはすべてを知っている人間がひとりいるんだよ。彼がしゃべれば──ぼくはもうおしまいだ。といってもそいつがしゃべらないという可能性もいちかばちかでなきにしもあらずなんだ」
「なぜ?」
「そいつとしてはひそかに考えるところがあるからだよ。それに警察につかまってしまったらぼくはもうその男にとって役に立たないんだからね。自由の身、そうなれればなあ! まあむこう一時間のうちにわかるさ」
彼は嘲けるように笑ってみせたが、私はその顔がこわばっていくのを見た。もし運命を賭《か》けているのだとしたら、たとえ失敗に終わっても彼なら笑って敗北を認めるだろう。
「いずれにしてももう再び会うことはないと思うね」彼はなにげなくいった。
「そうね、あたしもそう思うわ」私はゆっくりといった。
「じゃ──さよなら」
「さよなら」
彼は私の手をぎゅっと握りしめた。ほんの一瞬、彼のあの独特な明るい色の目が焼きつくように私の目をみつめたような気がした。と思ったとき、くるりとむこうをむいて彼は行ってしまった。デッキにひびくその足音を私はきいていた。いつまでもいつまでもひびいていた。いつまでも私の耳に残るだろう──私から離れていくその足音は。
その後の二時間というもの、正直にいって私は心楽しまなかった。ばかばかしい煩雑な手続きをどうにかすませたのち、波止場に立ってはじめてほっと息をつくことができた。誰ひとり逮捕されたものはなかった。そしてその時やっと、私は上天気であること、そしてひどくお腹がすいていることに気がついたのであった。私はスザンヌに同行することにし、とにかくその晩はスザンヌといっしょにホテルへ泊ることになった。キルモーデン号がポート・エリザベスやダーバンにむけて出港するのは翌朝ということであった。私たちはタクシーに乗りこみ、マウント・ネルソン・ホテルへむかった。
すべてがすばらしかった。太陽も、空気も、花も! 膝《ひざ》までつかる泥んこ道、しとしととふり続く雨、そんな一月のリトル・ハンプスリを思い出すと、私は喜びに胸がいっぱいになる思いだった。スザンヌは少しも夢中になどならなかった。むろんこれまでにたびたび旅行しているからだが、それはべつとしても彼女は朝食を食べないうちははしゃぐ気になどなれないタイプの女なのだ。大輪の青い朝顔を見つけてキャアキャア歓声を発したら、彼女にぴしりとたしなめられた。
ところで、このものがたりが南アフリカのお話をするわけではないということをここでお断りしておきたいと思う。この地のほんとうの特色をお伝えすることは私にはできない。とてもすばらしいとは思うのだけれど、できないのである。南太平洋諸島というとすぐベシュドメールが引き合いに出されるが、私はそのベシュドメールがどんなものだか知らない。これまでも知らなかったし、またおそらくこれからも知ることはないだろう。一、二度想像したことはあるけれど間違っていた。南アフリカというと誰でもすぐストゥープの話をはじめるようだ──ストゥープがどんなものであるかはわかった。それは家のまわりにめぐらしてあるものでそこへ坐るためのもの──つまり他の国々ではヴェランダとかピアザとかハーハーとか呼ばれているものである。それからポーポーがある。ポーポーのことはたびたび本で読んだことがあった。これは朝食として目の前へどすんと置かれたから、いかなるものであるかはたちどころに知ることができた。最初はメロンの腐ったのだと思った。だがオランダ人のウェイトレスがレモン汁とお砂糖をかけてもう一度試してごらんなさいというのでやってみた。そうして私はポーポーにめぐり会えたことを非常にうれしく思った。これまで私はずっとなんとなくフラ=フラと結びつけて考えていたのである。フラ=フラとはつまり、あるいは間違ってるかもしれないが、ハワイの娘たちがダンスする時に腰へつける藁《わら》のスカートみたいなものである。いや、やっぱり違うようだ、あれはラヴァ=ラヴァというのだった。
とにかく、イギリスの生活に較べるとこれらすべてのことはひどく美しく楽しく感じられる。私たちも朝ごはんにベーコン=ベーコンを食べ、ジャンパー=ジャンパーを着て出かけるものであったら、あの寒い島国の毎日もどんなにか楽しいものになるだろうにと考えずにはいられない。
朝ごはんがすんだらスザンヌはいくらか扱いやすくなった。私には彼女の隣りの、テーブル・ベイの絶景を一望のもとに見わたせる部屋があてがわれた。私がその景色にみとれている間、スザンヌはなんとかいう特別の化粧クリームがみつからないといってしきりと探していたが、それがみつかって顔へつけはじめるとようやく私の話も身を入れてきいてくれるようになった。
「サー・ユースタスをごらんになった?」私はきいた。「あのかた、あたしたちが食堂へ入っていったときちょうど出てきたのよ。お魚かなにかが変だったかしてそのことで給仕頭に文句をいってるとこだったの、そして桃だってこの通りこんなに固いじゃないかってんで床へ一つ投げつけてみせたの──ところがね、その桃はサー・ユースタスが思ったほど固くなくてペシャッとつぶれちゃったのよ」
スザンヌはにやっとしていった。
「あのかたもあたし同様朝早く起こされるのが嫌いなのよ。それはそうとね、アン、パジェットには会った? あたしはさっき廊下でぱったり出会ったんですけどね、目のまわりにあざをこしらえてるのよ。いったい何をやらかしたのかしら?」
「あたしを海へほうりこもうとしただけよ」私はさもなんでもないことのようにいった。これはあきらかに私の得点だった。スザンヌは顔のクリームは半分ぬったままにして私に詳しい話をしろと迫った。それですっかり話してきかせると彼女は叫んだ。
「いよいよもって奇怪なことになってきたわね。あたしはサー・ユースタスにくっついてるというのんびりした仕事をやればいいんだし、あなたのほうはエドワード・チチェスター師について歩いていろいろ面白い目が見られるだろうぐらいに気楽に考えていたんだけど、この分じゃあやしくなってきたわね。パジェットがあるまっ暗な夜あたしを汽車から突き落とすんじゃないかしら」
「いまのところはあなたはまだ疑われてないから大丈夫よ、スザンヌ。でも万が一そんなことになったら旦那さまに電報打ってあげるわね」
「それで思い出したわ、頼信紙とってくださらない。ええと、なんて打ったらいいでしょうね、『ある重大な事件にまきこまれた、至急一千ポンド送られたしスザンヌ』これでいいかしら」
私は彼女の手から頼信紙をとって見た。そして、『ある』だの『一』だのはとってもいいし、ていねいにしなくてもいいのなら『送られたし』としないで『送れ』でいいだろうといった。しかしスザンヌは事お金に関しては全々気にかける様子はなく、私の経費節約の提案に耳をかすどころか『当方とてもおもしろし』という三語をつけ加わえた。
スザンヌは友人たちと昼ご飯を食べる約束がしてあって、その友人たちが十一時ごろホテルへ迎えにきた。それで私のほうは勝手気ままにできるというわけでホテルの庭をぬけ、電車通りを横切って涼しい並木道の木蔭をどんどん歩いていって大通りへ出た。そしてその辺をぶらぶらして陽光を楽しんだり、黒い顔をした花売りや果物売りを見て歩いたりした。すばらしくおいしいアイスクリームソーダを飲ませてくれるところもみつけた。そして最後に六ペニーの桃の籠《かご》を買ってホテルへ戻った。
帰ってみると一通の手紙が私を待っていた。びっくりもしたがとても嬉しくも思った。博物館の館長さんからきたものだったからである。その手紙によると、彼は故ベディングフェルド教授の娘がキルモーデン号で着いたという記事を読んで私の到着を知ったのだった。私の父とかつては面識もあり、父に対しては絶大な尊敬を抱いている由であった。そして更に、ミューゼンバーグにある別荘でお茶をさし上げたいが今日の午後来て頂けたら家内も喜ぶことでしょう、と書いてあって地図も入れてあった。
かわいそうなパパが今でも忘れられていないで、しかも高く評価されているのだと思うと嬉しかった。この分ではケープタウンに居る間に博物館へ案内されることになるだろうと予測できたが、でもまあいいやと思い館長の招待を思いきって受けることにした。博物館を見ることは大ていの人にとっては大変な楽しみであろうけれど、私みたいに子供のときから年中そういうものの中で暮してきた者にとっては実はもう沢山といいたいところなのである。
私は昼ごはんのあと、一番いい帽子(スザンヌのお古の一つだが)をかぶり、なるべくしわのよってない白麻の服を着て出かけた。ミューゼンバーグ行きの快速列車に乗ると三十分ほどで着いたが、しごく快適な小旅行だった。汽車はテーブル・マウンテンの裾野に沿ってゆっくりとまわった。窓外の花が美しかった。私は地理に弱いものだから、ケープタウンのあるところは半島になっているということをこれまではっきり認識していなかった。だから汽車から降りてみたらまた海のそばだったのにはいささか驚いた次第だった。そこでは思わずみとれるほど楽しそうな海水浴が行なわれていた。みんな湾曲した短い板をもって波乗りをしているのだ。お茶の時間にはまだまだ早い。私はテントのほうへ行ってみた。すると波乗り板が欲しいのかと聞かれたので『ええください』といったものである。波乗りは見ているとしごくやさしそうに見える。実はそうじゃない。もうなにもいうまい。私はすっかり腹を立て板をほうり出してしまった。にもかかわらずできるだけ早い機会にもう一度来てまたやって見ようと決心したのである。今度はうまくやれるだろう。その時はなにかのはずみでうまく乗れて、嬉しさに狂喜乱舞するのだ。波乗りとはまあそんなものである。はげしく悪態をつくか、さもなきゃバカみたいに嬉しがるかどちらかというわけだ。
私は少し迷ったがなんとかメジー荘を探しあてた。それは他の家や別荘からだいぶ離れた山の中腹に建っていた。ベルを鳴らすとにこにこしたカフィル人のボーイが出てきた。
「ラフィニさんの奥さまはいらっしゃいますか?」私はきいた。
ボーイは私を招じ入れ、廊下を案内して一つのドアをあけた。入りかけたとたん、私はためらいを感じた。ふいに悪い予感が襲ったのである。しきいをまたぐやいなや、ドアは私の背後でピシャリと閉じられた。
テーブルのむこうに坐っていた男が立ち上がり、手をひろげて近づいてきた。
「来ていただくことができて大そう喜んでいますよ、ベディングフェルドさん」
背の高い男が焔のようなオレンジ色のあご髯《ひげ》を生《は》やしている。あきらかにオランダ人だ。どうみたって博物館長には見えない。私は愚かなことをしてしまったとすぐ気がついた。
敵の手中におちたのである。
第十九章
私は映画『パメラの冒険』のエピソード第三をしきりと思い出していた。六ペニー席に坐って二ペンスのミルクチョコレートをかじりながら、わが身にもあんなことが起こらぬものかと憧れたことが幾たびあったことだろう! いまやそれがまさしく起きたのである。しかし想像していたほどおもしろいものでは決してないようだ。映画ならいいのだ──エピソード第四でハッピーエンドになるという安心感があるのだから。しかし現実では『女流冒険家アンナ』の話はエピソード第……でめでたく終わるという保証はどこにもないのだ。
そう、私は窮地に陥っているのだ。朝レイバーンにいわれた事がみんな不愉快な鮮明さで甦《よみがえ》ってきた。ありのままをいえ、とレイバーンはいった。そうすることはいつでもできる、しかしそれで果して助かるだろうか? 第一、私の話を信用してくれるだろうか? ナフタリンの臭いのするたった一枚の紙きれだけを根拠にこの気違いじみた行動に出たと話したって、敵はなるほどと思ってくれるだろうか? われながらひどくとっぴな話に聞こえるものを。こうして無情にも冷静な頭になってみると、自分はなんたる愚か者であったことかとわが身を呪《のろ》いたくなるのだった。そして退屈なリトル・ハンプスリの平穏無事な生活がむしょうに恋しく思われた。
もちろんこれらのことは、書けば長いが実際は一瞬のあいだに私の心をよぎったのである。私がまず本能的にやったことは後ずさりしてドアのノブを探したことであった。男はにやりと笑い、おどけていった。
「せっかくいらしたんだから、どうぞごゆっくり」
私はできるだけ平然とした顔を装っていった。
「あたしケープタウン博物館の館長さんのお招きで参りましたんですけど、もしかしてあたし間違って……」
「間違って? ああ、そのとおり、大間違いだよ!」
男は下品にカラカラと笑った。
「何の権利があってあたしを拘束するんです?警察に訴えますよ……」
「キイキイキイキイとまるでオモチャの仔犬だね」彼はまた笑った。
私は椅子に腰をおろし、冷やかにいった。
「要するにあなたはぶっそうな狂人なんですわね」
「そうですかね?」
「はっきり申し上げますが、あたしの友人たちはあたしがどこへ出かけたかちゃんと知ってますから、もしあたしが夕方までに帰らなければ探しに来るにきまってるんです。おわかりになりまして?」
「友だちがあんたの居所を知っているとおっしゃるが、どの友だちですかね?」
そう挑《いど》まれて、私は大急ぎで頭の中で計算した。サー・ユースタスの名をあげるべきか? 彼なら有名人だからにらみがきくかもしれない。でももし敵方がパジェットと通じているとしたら、嘘だということがばれてしまう。これは危険だ。
「ブレア夫人ですわ、たとえば。いまあたしその方といっしょにホテルに泊ってるんですの」私はなにげない様子でいった。
「そんなことはあるまい」男はずるそうにオレンジ色の頭をふりながらいった。「あんたはけさの十一時以後彼女とは会っていないはずだ。そしてここへ来るようにというおれたちの手紙をあんたが受けとったのは昼飯の時だからな」
この言葉で、私の動静が一から十まで知られているということがわかった。しかし私は一戦も交えずに降参する気はなかった。
「頭がおよろしいこと。でもあなたも電話という文明の利器が存在することぐらいご存じでしょう? お昼ご飯のあと部屋で休んでたら、ブレア夫人が電話をかけてきましたの。そのとき午後はこれこれの場所へ行くって話しましたわ」
男の顔に一瞬不安そうな影がよぎったので私は大いに満足した。あきらかに彼は、スザンヌが私に電話をくれたかも知れないという可能性があることを見おとしていたのだ。スザンヌがほんとに電話をしてくれていたらよかったのに!
「今はこれだけだ」男は立ちあがりながらあらあらしくいった。
「あたしをどうするつもりなんですの?」私は相変わらず落ち着いてるふりをみせながらたずねた。
「友だちとやらが探しにきてもどうにもできないような所へ入れておくのさ」
全身の血が凍る思いがしたが、次の瞬間男の言葉にいくらかほっとした。
「あす少し質問に答えてもらうが、その答えを聞いた上であんたをどうするか決めるつもりだ。しかしね、お嬢さん、強情っぱりのお馬鹿さんをしゃべらせる方法はいくらでも用意してあるんだから、そのつもりでいたほうがいいだろうよ」
嬉しくない話だったが、それでもとにかく明日までは延期になったわけだ。あきらかにこの男は手下であって親分の命令どおりに動いているのだ。果してその親分すなわちパジェットということがあり得るだろうか?
男が合図するとカフィル人が二人現われた。私は二階へつれていかれ、必死の抵抗もむなしくさるぐつわをはめられた上、両手足を縛られてしまった。私がつれこまれた部屋は屋根裏部屋のようなところで、埃だらけであるところをみると長いあいだ空《あ》き部屋だったにちがいない。例のオランダ人は馬鹿にしたようなおじぎを一つすると出て行った。そしてドアが閉まった。
全くどうしようもなかった。体をねじまげようと何しようと結び目はこれっぱかりだってゆるむものではない。おまけにさるぐつわをかまされているので声をあげることもできないのだ。たとえ万が一誰かがこの家まで探しに来ることがあっても、この有様ではここに居るということを知らせることもできない。階下でドアの閉まる音がした。オランダ人が出かけたにちがいない。
なにもできないということは気が狂いそうにつらいことであった。私はもう一度がんばってみたが結び目はビクともしなかった。ついにあきらめ、そのうちに気が遠くなったのか眠ってしまったのかしらないが、気がついたときは体じゅうがずきずきしていた。まっ暗になっていた。すでに月が空高く上がって埃だらけの天窓からその光がさしこんでいるところをみると、もう夜もだいぶ遅いらしいと判断できた。さるぐつわのせいで息がつまりそうな上に、体じゅうがこりと痛みで耐えがたかった。
そのときふと、部屋の隅にガラスの破片が落ちているのが目にとまった。ちょうど月光があたって光っていたので私の注意をひいたのであった。それを見たとたんある考えが頭に浮かんだ。
手も足も使うことはできないが転がることなら確かにできる。少しずつ不器用に私は動きはじめたが容易なわざではなかった。体じゅうがひどく痛いということもあったが、それだけでなく顔を手で保護することができないから、一つの決まった方向へだけ進もうとするのは著しく困難なのである。まるで私の行きたい方でない方角へばかり転がるようだったが、それでもとうとう目的のもののところへ達した。もうちょっとで縛られた両手でそのガラスに触れられる。
そうはいってもそれからがまた大変だった。なわの結び目をこすりつけるのに都合がいいように、そのガラスの破片をうまく壁ぎわまでもっていくまでにどれだけの時間を費《ついや》したことか。それは根気のいる、胸もはりさけんばかりの仕事であった。何度か絶望しかけながら、それでもついに私は両手首のなわを切ることに成功した。あとは時間の問題である。手首をはげしくこすって手先の血液の循環を回復させると、あとはもうさるぐつわをはずすことも簡単であった。ひと息かふた息深呼吸しただけでどれだけホッとしたことか。
私はたちまち全部のなわをほどいてしまったが、すぐには立つことができなかった。それでもとうとうまっすぐ立ちあがって、血液の循環をよくするために両手をぶんぶんふりまわした。そうして何はともあれ空腹を満たすものを手に入れたいと思ったのだった。
私は力が出てくるまで十五分ばかりじっとしていたが、やがてドアのところまで音を立てないようにつま先で歩いていった。期待通りドアには掛金がかかっているだけで錠はおりていなかった。私は掛金をはずし、そうっと外をのぞいた。
あたりはしーんと静まりかえっている。窓からさしこむ月の光で埃をかぶった階段が見えた。注意深くそろりそろりと私はその階段をおりた。相変わらずなんの物音もしない。しかし踊り場まできたとき、低い声がかすかに聞こえた。私は思わず立ちどまった。そしてしばらくその場所に立っていた。壁の時計が夜中過ぎであることを示していた。
更に下へおりたりすれば危険なことはよくわかっていたが好奇心のほうが強かった。細心の注意を払って私は探検にかかった。そろそろと全部の階段をおりきって四角いホールに立った。私はあたりを見まわした──そしてハッと息をのんだ。カフィル人のボーイがひとりホールのドアのそばに坐っていた。だがこちらに気づきはしなかった、いや、その息づかいからおして彼がぐっすり寝こんでいることはすぐわかった。
後退すべきか、進むべきか? 人声は私が最初招じ入れられた部屋から聞こえてくる。そのうちの一方の声はあのオランダ人の声であり、もうひとりの声はその時はよくわからなかったがそれでもどこかで聞き覚えのある声であった。
ついに私はできるだけ聞き耳を立てることがどうしても私の義務であると判断した。カフィル人の目を覚まさせる危険はあったが仕方がなかった。私はそうっとホールを横切り、その部屋のドアの前にひざまずいた。しかし最初のうちはさっきと同じでさっぱり聞きとれない。声は大きく聞こえるが話の内容が聞きとれないのである。
鍵穴に耳でなく目をあててみた。思った通り、ひとりはあの大柄のオランダ人であった。もうひとりは私の限られた視野の外に坐っているようであった。そのうちふいにその男が飲みものをとろうとして立ちあがった。黒い服を着た端正な背中が見えた──こちらをむかずとも私にはそれが誰であるかすぐわかった。
チチェスター氏だ!
そのころには言葉が聞きとれるようになっていた。
「とにかく危険だ。あの娘の仲間が探しにきたらどうするんだ?」
大男の声がし、チチェスターが答えている。いつもの牧師のような話し方はすっかりかげをひそめている。私が最初わからなかったのも道理だ。
「はったりだよ。やつらには娘の居所などわかっちゃいないさ」
「しかしいやに自信ありげだったぞ」
「だいじょうぶだよ。よく調べてあるんだから恐れることはないんだ。第一『隊長《ボス》』の命令なんだからな、おまえだって『隊長《ボス》』にさからう気はなかろう、どうだ?」
オランダ人は思わずオランダ語でなにか叫んだが、たぶんそれはあわてて相手の言葉を否定したのであったろう。
「それにしてもどうしてあの娘をがんとやっちまわないんだ?」彼は不満げにいった。「簡単なことじゃないか、ボートの用意はできてるんだから海へもってっちまえばいいんだぜ」
「そうなんだ」チチェスターは考えこむようにしていった。「おれならそうするところだ。あの娘はいろんな事を知っているからな。それは確かなんだ。しかし『隊長《ボス》』は自分の好きなようにやりたい男だからなあ──他人には絶対好きなようにさせないくせに」チチェスターはその自分の言葉でなにか苦い記憶を思い起こしたようであった。「『隊長《ボス》』はあの娘からなにか情報をひき出そうとしているんだ」
かれは『情報』という言葉を発音する前にちょっとためらった。オランダ人はそれをみのがさなかった。
「情報だって?」
「まあ一種のね」
『ダイヤモンドのことよ』私は自分にいった。
「さてそこでだ」チチェスターは続けた。「そのリストを見せてくれ」
それからあとの彼らの会話の内容はさっぱり理解できなかった。なにか大量の野菜の取り引きの話らしく、日付けや値段や私の知らないさまざまな場所の名前があげられた。その照合や勘定がすっかりすんだのは三十分もたってからであった。
「いいだろう」チチェスターの声がし、椅子を後へひくような音がした。「これは『隊長《ボス》』に見せるためにもっていく」
「何時ごろ出かけるかね?」
「あすの朝十時でいいだろう」
「行くまえにあの娘に会うか?」
「いや、『隊長《ボス》』が来るまでは誰も会ってはいかんという厳命だからな。娘はだいじょうぶだな?」
「夕食に帰ったときちょっとのぞいたんだが眠ってるようだった。食事はどうする?」
「少々腹がへるのも悪くなかろう。あすになって『隊長《ボス》』がきたとき、腹がへってりゃ答えるのになおいいだろうからな。それまでは誰も近づかないほうがいい。しっかり縛ってあるんだな?」
オランダ人は笑っていった。
「どう思うね?」
二人とも笑った。私もひそかに笑ってやった。やがて二人が出てくる気配がしたので私はあわてて逃げ出し、危いところで間に合った。階段のてっぺんまで来たとき部屋のドアのあく音がし、それと同時にカフィル人も目を覚ましてもそもそ動き出したようであった。ホールのドアから逃げ出すということは無理であった。私は慎重に考えて屋根裏部屋まで戻り、ひょっとしてあの二人がのぞいてみる気を起こさないものでもないと思ったから、なわを体に巻きつけて再び床に寝ころがった。
しかし二人はやって来なかった。一時間ほどたってから私はまたそうっと階下へおりかけたが、例のカフィル人が目を覚ましていて低く鼻歌をうたっていた。私はなんとかしてこの家から逃れ出たかったがその術を知らなかった。そして結局屋根裏部屋へ帰らざるを得なかったのだ。あのカフィル人が夜じゅう見張っているにきまっていた。朝早く忙しげに食事の支度《したく》の音などが聞こえてきても私はそのままじっとしていた。男たちがホールで食事をしながら喋っている声がはっきり聞こえた。私はもう気力もなにもなくなりかけていた。いったいどうしたらこの家からぬけ出すことができるのか?
あせるんじゃない、と私は自分にいいきかせた。急《せ》いては事を仕損ずる。食事がすむとやがてチチェスターの出て行く音が聞こえてきた。しかもありがたいことにオランダ人もいっしょに出て行った。私は固唾《かたず》をのんで待っていた。食事の後片付けの音や掃除の音などがしばらくの間聞こえていたが、ついにすべての活動は停止したもののようであった。私は三たび屋根裏部屋をぬけ出し、細心の注意を払いながら階段をおりていった。ホールは空《から》っぽだった。サッとばかりに私はホールを横切り、ドアの掛金をはずし、陽光のふりそそぐ戸外へ出た。そして門まで気が狂った者のように走った。
通りへ出ると私は普通に歩きはじめた。みんながじろじろこちらを見たが無理もない。屋根裏でころがったのだから顔も着物も埃だらけでまっ黒だったにちがいないのだ。やっと自動車屋をみつけて私は入った。
「ちょっと事故にあっちゃって。ケープタウンまで大至急お願いできないかしら、ダーバン行きの船に乗らなければならないんですけど」
待たされる必要はなかった。十分後にはもうケープタウンへむかって一路|驀進《ばくしん》していた。チチェスターが乗船するかどうかをぜひとも知らなければならない。私自身も同じ船に乗るかどうかは決めかねたが、結局乗ることに決心した。チチェスターはミューゼンバーグの家で私に見られたことは知っていまい。もちろんまたわなにかけようとするにちがいないが、こちらだってもう油断はするものか。それにチチェスターこそ私の追い求めている男、謎の隊長《ボス》の手先となってダイヤモンドを探している男なのだ。
残念、せっかく計画をたてたのに! 波止場に着いてみると『キルモーデン・カースル号』はすでに外海へ出ていくところであった。チチェスターが乗っているか否かを知るすべはなかった。
第二十章
私はタクシーでホテルへ帰った。ラウンジには知った顔は一つもなかったので二階へかけあがり、スザンヌの部屋のドアを叩いた。『どうぞ』という彼女の声が聞こえた。入ってきたのが誰だかわかるとスザンヌは文字通り私の首に抱きついた。
「アン、どこに行ってたのよ、死ぬほど心配したわ。いったい何をやってたの?」
「冒険よ、『パメラの冒険』の插話《エピソード》第三のような」
私はすっかり話してきかせた。聞き終わるとスザンヌは深い吐息をもらした。
「どうしてあなたにばかりそういうことが起きるんでしょうね? どうしてあたしのことは誰もさるぐつわをはめたり手足をしばったりしてくれないんでしょう」彼女は不平そうにいった。
「実際にされてみたらそう嬉しくはないものよ。ほんとのところ、今度のような冒険は二度とごめんだっていう感じだわ。ああいう種類のことっていうのはちょっとでもずいぶんこたえるものよ」
スザンヌにはわからないらしかったが、一、二時間でもさるぐつわをはめられて手足を縛られてみればいいのだ、たちまちにして考えを改めるだろう。彼女はスリルのあることは好きでも不愉快な目にあうことは大嫌いなのだから。
「そこでこれからのことはどうしたらいいんでしょうね?」スザンヌがきいた。
「それがわからないの。あなたはもちろんローデシアへいらっしゃればいいわ、そしてパジェットを見張って……」
「あなたは?」
それが問題であった。チチェスターはキルモーデン号に乗って行ったのだろうか、それとも乗らなかったのだろうか。ダーバンへ行くという最初の計画を実行したのだろうか? チチェスターがミューゼンバーグを出た時間がこれらの疑問に肯定的な答を与えているように思われる。そうだとすれば私は汽車でダーバンへ行けばよいのだ。おそらく船よりも先に着くのではあるまいか。だがその一方、もし私の逃亡や、私がダーバンへむけてケープタウンを出発したことがチチェスターに打電されるとすれば、彼としてはポート・エリザベスなりイーストロンドンなりで船をおりてしまえばいいのであってこれほど簡単なことはないだろう。私は完全に肩すかしをくうというわけだ。
かなりの難問である。
「とにかくダーバン行きの汽車を調べてみることにしましょうか」私はいった。
「それにちょっと遅いけど朝のお茶もわるくないわね、ラウンジへ行って飲みましょうよ」スザンヌもいった。
ダーバン行きの汽車は夜の八時十五分に出ると事務所で教えてくれた。それでさしあたり決心はあとまわしにして私はいささか遅い『十一時のお茶』をスザンヌといっしょに飲んだ。
「あなたチチェスターをだいじょうぶ見破れると思う? どんな変装をしていても?」スザンヌがいった。
私は悲しげに首をふった。
「スチュワデスに化けてたときだって、あなたが絵に書いてくださるまでわからなかったんですものね」
「あの男はほんものの役者なんだわ、きっと。あのメイキャップは完全ですもの。きっとこんどは土方かなんかになりすまして船からおりてくるわよ、そうするとどれがあの男だかあなたには絶対わからない」
「悲観させるようなことおっしゃらないで」
そのときレイス大佐が入ってきて仲間に加わった。
「サー・ユースタスはどうしていらっしゃいまして? きょうはまだお見かけしないけど」スザンヌはたずねた。
レイス大佐の顔にちょっと奇妙な表情が浮かんだ。
「なにかめんどうが起きたとかで忙しいようですよ」
「そのお話聞かせてくださいな」
「他人の秘密をしゃべるわけには参りませんのでね」
「じゃあなにかお話して──あたしたちのために特別こしらえた作り話でもよろしいわ」
「それではこういうのはいかがです、かの『茶色の服を着た男』がわれわれと同じ船に乗っていた、という話は?」
「なんですって?」
私は顔からサッと血のけがひいたと思うと、ふたたびカッと血がのぼるのを感じた。だが幸いなことにレイス大佐はこちらを見てはいなかった。
「ほんとの話らしいんですよ。港という港で見張っていたんですが、なんとその男国外へ逃げるためにペドラー氏をだましこんで秘書になりすましていたのです!」
「パジェットさんじゃないんですのね?」
「ああ、パジェットじゃありませんよ、もう一人のほうです。レイバーンとか称していましたな」
「それで捕まりましたの?」スザンヌはそうききながら、心配するなというように、テーブルの下で私の手をギュッと握った。私は固唾《かたず》をのんで答を待った。
「それが煙のごとく消え失せてしまったらしいんですよ」
「サー・ユースタスはそのことどう思っていらっしゃるんでしょう?」
「自分に対する運命の神による侮辱だといってますよ」
この件に対する見解をサー・ユースタス自身の口から聞く機会はその日もう少ししてから訪れた。午後の昼寝をたのしんでいた私とスザンヌは一通の手紙をもった給仕に起こされた。それはサー・ユースタスからで、彼の居室でお茶をつき合ってほしいということがいかにも哀れっぽく書かれてあった。
かわいそうにサー・ユースタスは全く気の毒な状態だった。スザンヌの同情するような合づちに喜んで彼は悩みごとのかずかずをすっかりうちあけた。(スザンヌはこういうことにかけては実にうまい)
「まず、全く見も知らぬ女が失敬にもわたしの家で殺されるなどということをしてくれた──きっとわたしを困らせるためです。しかしなぜわたしの家をえらんだんです? 大英帝国には他にいくらでも家はあるのになぜミルハウスをえらんだんですかね? 是が非でもわたしの家で殺してもらわなければならないとは、いったいわたしがその女にどんな悪いことをしたというんです?」
スザンヌがまた同情的な声を発したので、サー・ユースタスはいっそう憤慨のおももちで続けた。
「しかもそれだけじゃない、その女を殺したやつがずうずうしくもわたしの秘書になってしまった、全くずうずうしいにも程がある。わたしの秘書になるとはね! もう秘書というものにはつくづく愛想がつきました。秘書はもうごめんです。なにしろ逃走中の殺人犯人かさもなきゃ喧嘩好きの酔っぱらいかどっちかなんですからね。パジェットの目のあざごらんになりましたか? そりゃもちろんごらんになったはずですな。あんな秘書を連れて歩くわけにいくものですか。第一、あの男の顔はあのとおり黄色っぽい変な色してますからね、黒あざの目とは配色がよくないです。秘書をもつことはきっぱりやめます──女の子ならともかくね。目もとの涼しいすてきな娘さんで、わたしが機嫌の悪いときには、手を握ってくれるようなひとでもいればね。そうだ、あなたどうです、アンさん?この仕事やってみませんか?」
「なんべんぐらいお手を握らなくてはいけませんの?」私は笑いながらきいた。
「一日じゅう」色男めいた口調でサー・ユースタスは答えた。
「そんなことしてたらタイプライターのお仕事するひまがないじゃありませんか」
「そんなことはかまわない。だいたいこの仕事なんてみんなパジェットの考えたことなんで、あの男ときたら死ぬほどわたしを働かせるんですからね。わたしは早くパジェットをケープタウンに残して出かけたくてうずうずしてるんです」
「じゃ、パジェットさんはここへ残るんですの?」
「ええ、あの男さぞかし喜んで思う存分レイバーン探しをやることでしょう。全くパジェットにはピタリの仕事ですからな。やつは陰謀みたいなことが大好きなんです。いやところでさっきの件、わたしは大まじめなんだが、どうです、秘書になりませんか? りっぱな付添人《シャプロン》としてはブレア夫人も居られることだし、それに骨を掘りたけりゃときどき半日ぐらいの暇はあげますよ」
「ありがとうございます、サー・ユースタス。でもあたし今夜ダーバンへ発つつもりなんですの」
「そう強情をはるもんじゃない。ほら、ローデシアにはライオンがいっぱい居ますよ。あなただってきっとライオンが好きだ、女の子は誰でも好きですからな」
「低く跳ぶ練習やってますかしら?」私は笑いながらきいた。「いえ、ご親切は嬉しゅうございますけど、どうしてもダーバンへ行かなくてはなりませんから」
サー・ユースタスは私の顔を見、深いためいきをついた。それから隣室のドアをあけてパジェットを呼んだ。
「きみ、もし午後のひと眠りがちょうどすんだところなら、気分転換にちょっとした仕事をやってくれないかね」
ガイ・パジェットはドアのところへ姿を現わし、われわれに会釈をしたが、私が居るのを見て少々驚いたようだった。そして沈鬱な声でいった。
「わたくしは午後じゅうずっとあのメモをタイプに打って居りましたが」
「そうか、ではタイプを打つのをやめなさい、やめて貿易委員会なり農業会議所なり鉱山局なりどこかそんなところへ行って、ローデシアへ連れていく婦人をひとりお貸し願いたいと頼んできてくれたまえ。ただし目もとが涼しくて、わたしが手を握っても異議を唱えない女でなくてはだめだぞ」
「承知しました。ちゃんとした、速記のできるタイピストを探してまいりましょう」
「パジェットは意地の悪いやつですからね」秘書が行ってしまうとサー・ユースタスはいった。「きっとわたしを悩ますためにわざとぼってりした顔の女を選んでくるにちがいない、賭けてもいいぐらいです。そうだ脚もきれいでなくちゃいけないんだがそのことをいうのをうっかりしちまった」
私はスザンヌの手をひっつかむと引きずるようにして彼女の部屋へつれて帰った。
「ねえスザンヌ、計画をねらなくちゃ、それも大急ぎよ。パジェットはここへ残るのよ──聞いたでしょ?」
「聞いたわよ。つまりあたしはローデシアへ行けないってことなんでしょ、ほんとにいやんなっちゃう。だってローデシアへは行きたいんですもの、ああつまらない」
「元気を出して、だいじょうぶあなたは行くのよ。だってどたんばになって行くのをやめたりしたら疑われるにきまってますもの。それはともかくとしても、パジェットはきっとサー・ユースタスに急によばれることがあると思うの、そうなったときずっとパジェットにくっついてローデシアまで行くほうがはるかに難しいわ」
「そりゃあまり感心しないわね」スザンヌはえくぼをつくりながらいった。「口実としてパジェットにすっかり熱をあげてるようなふりでもしなきゃならないんではちょっとね」
「ところが、パジェットがローデシアへやってきたときあなたがすでにむこうにいれば全然簡単だし自然でしょ。それに他の二人からも目を離すべきじゃないと思うわ」
「まあアン、まさかレイス大佐やサー・ユースタスのことは疑ってないんでしょう?」
「あたしは誰のことでも疑うわ、だってねスザンヌ、探偵小説を読んでごらんなさい、どれみたって一番そうらしくない人が悪漢じゃありませんか。たいがいの犯人はサー・ユースタスみたいに陽気で太った男だわ」
「レイス大佐は特別太ってはいないわよ、特別陽気でもないし」
「中には痩《や》せたのや陰気なのもいるわ」私はいい返した、「あたしだって本気であの人たちを疑ってるんじゃないの、でもとにかく例の女が殺されたのはサー・ユースタスの家なんだし──」
「わかったわかった、その話はもうくり返さなくてもいいわ。あたしあなたの代わりに彼を監視してあげるわ、アン。そしてもしあの人がもうちょっとでも太ったり陽気になったりしたらただちに電報打ってあげる、『サー・ユいよいよ疑わしすぐ来い』ってね」
「スザンヌ」私は声をあげた。「あなたってばこれをみんな遊びと考えてるみたいね!」
「そうのようだわ」スザンヌは恬然《てんぜん》としていった。「そんな感じがするんですもの。だってあなたがいけないのよ、アン。あたしはあなたの『さあ冒険をやりましょう』精神に感染しちゃったんですもの。現実っていう感じは全くしないわ。ああどうしよう、あたしが兇悪犯人を追っかけてアフリカ中をかけまわってるなんて知ったら、クレアランスは卒倒しちゃうわ」
「なぜ電報でお知らせにならないの?」私はからかうようにきいた。ところが電報を打つ話になると必ずスザンヌのユーモアのセンスは影をひそめる。彼女は私の提案を大まじめに検討した。
「打ってもいいわね。長い長い電報になるでしょうねえ」その考えに彼女の瞳は輝いた。「でもやっぱりやめたほうがいいわ。夫ってものは全く害のないただの楽しみごとにでさえ干渉したがるものなんだから」
「それではと、あなたはサー・ユースタスとレイス大佐の監視を続ける……」私が状況を要約しかけるとスザンヌはさえぎった。
「サー・ユースタスを監視する必要があることはわかりましたよ、あのかたはデブだしユーモラスなおしゃべりをなさるから。だけどレイス大佐を疑うっていうのは少々行き過ぎじゃないかしら。だってあのかたは秘密警察に関係してるのよ。いい、アン。あたしはね、あのかたを味方にしてすっかりうちあけてしまうのが最上の策だと信じるわ」
私は猛反対を唱えた。この卑怯な提案のかげには結婚ということによる悪影響がはっきり認められる。これまでにも、ちゃんと知性のそなわった婦人がさも議論の決着をつけるといった口吻《くちぶり》で『主人《たく》が申しますには……』というのを何度聞かされたことだろう。しかもその主人《たく》たるやきまって大変なお馬鹿さんときているのだ。スザンヌもそのご多分にもれずというわけで、誰か男性によりかかりたいのである。しかし結局レイス大佐にひとことももらさぬことをまじめに約束してくれたので、二人は更にその先の計画をねった。
「あたしがここにふみとどまってパジェットを見張らなくちゃならないことはもう明らかだし、それが最上の策でもあるわ。だから今夜あたしはダーバンへむけて出発するふりをして荷物やなんか持って出るの。それに実際どこか小さなホテルにでも移らなくちゃ。そうして、ちょっと変装すればいいでしょ──金髪のかつらをかぶって白い厚手のレースのヴェールでもすればいいんだわ。そうすれば、あたしという邪魔者が居なくなったと思ったパジェットが何をやるつもりなのか見ることができますもの」
スザンヌもこの計画に心から賛成した。それで二人してもう一度汽車の発車時刻を確めたり鞄をつめたりなど、見せかけの出立準備をあれこれやった。
私はスザンヌといっしょに食堂で夕食をとった。レイス大佐の姿は見えなかったが、サー・ユースタスとパジェットは窓ぎわのいつものテーブルについていた。だがパジェットは食事の途中で席を立ってしまったので、彼にさよならの挨拶をつげるつもりでいた私はいらいらした。しかしサー・ユースタスに挨拶しても効果は同じはずだ。私は食事がすむと彼のそばへ行った。
「ごきげんよう、サー・ユースタス。あたし今夜ダーバンへ発《た》ちますの」
サー・ユースタスは深いためいきをもらしていった。
「そうだそうですな。あなたはわたしといっしょに旅行するのはおいやなのかな?」
「できれば喜んでお伴したいとこなんですけど」
「いい子だ。しかしそれではぜったい決心を変えない、ローデシアのライオンも見に行かないとおっしゃるんですな?」
「ええぜったいに」
「よほどいい男にちがいない」サー・ユースタスはうらみがましくいった。「ダーバンの青二才めが。おかげでわたしの中年の魅力さえかたなしだとは。それはそうと、パジェットがもう間もなく車で出かけるところなんですがね、駅まであなたをお送りできると思いますよ」
「あら、結構でございますの」私はあわてていった。「ブレア夫人とふたりでもうタクシーを頼んでありますから」
ガイ・パジェットといっしょに出かけるなどもってのほかだ! サー・ユースタスは私の顔を注意深くみつめながらいった。
「あなたはパジェットをお好きじゃないようだ。無理もない。あれほどおせっかいな奴もありませんからな──まるで殉教者みたいな顔をしてうろうろしてそのくせわたしを悩ますようなことなら何でもやってのける!」
「今度はなにをやりましたの?」私は多少好奇心もあってたずねた。
「秘書をみつけてきたんですがね。あれでも女ですかね! 少なくとも四十にはなっている、そして鼻めがねなぞかけ、分別くさく長靴をはいていかにもきびきびとして有能そうだ、そのきびきびがきっとわたしの命とりになりますぞ。とにかくじつにぼってりした顔の女でしてね」
「あなたのお手を握ることもしませんの?」
「こちらのほうからご免蒙りますよ! たださえたまらないのにこれ以上手なぞ握られた日にはね。さてと、ではごきげんよう、涼しいお目々さん。たとえライオンを仕とめたってあなたには皮もわけてあげませんぞ──わたしを|ふる《ヽヽ》なんてひどいしうちをしたんですからな」
彼は私の手を熱をこめて握った。そして私たちは別れた。スザンヌはホールで待っていた。彼女は私を駅まで見送ることになっていたのだ。
「すぐ出かけましょう」私は急いでそういってボーイにタクシーをつかまえるよう合図した。そのとき背後から声がかかって私はどきっとさせられた。
「失礼ですがベディングフェルドさん、わたくしちょうど車で出かけるところですのでブレア夫人もごいっしょに駅までお送りいたしましょう」
「まあありがとうございます、でもあなたにご迷惑おかけしないでもあたしたち……」
「迷惑なんてとんでもない。ポーター、その荷物のせてくれたまえ」
絶望だった。私はなおもいいはってもよかったのだが、スザンヌが用心しろというようにそっと肱《ひじ》で突いたのだった。
「ありがとうございます、パジェットさん」私はひややかにいった。
三人は車にのりこんだ。町へむかって走りはじめると私はなにかいわなくてはと一生懸命頭をふりしぼっていたのだが、やがてパジェットのほうが先に沈黙を破った。
「わたくしサー・ユースタスの秘書にたいそう有能な人物をみつけてきました。ペティグルー嬢というんですが」
「そのかたのことなら、サー・ユースタスは激賞はしていらっしゃいませんでしたわよ、たったいまのことですけど」
パジェットは私をひややかに見た。
「ペティグルーさんは速記もできる熟練したタイピストです」彼は自分を抑えているふうだった。
車は駅の正面へ横づけになった。ここでパジェットは私たちとわかれて行ってしまうにちがいない。私は握手の手をさしのべながら彼のほうをむいた──だが、いけない。
「わたくしもお見送りいたしましょう。今ちょうど八時ですからあと十五分ほどで汽車は出ますね」
彼はてきぱきとポーターに指図した。私はスザンヌの顔を見る勇気さえ失って途方にくれて立っていた。この男は疑っているのだ。私が汽車にのって行ってしまうまで見届けるつもりなのだ。いったいどうしたらよいのだろう? どうしようもこうしようもない。十五分後には、ホームにつっ立って手を振っているパジェットをあとに私はシュッシュッポッポと出て行くのだ。この男は巧妙に形勢を逆転させてしまったのだ。更に私に対する態度も変わったではないか。ちかごろの彼の態度たるやひどく愛想がよく、それが彼には似つかわしくないものだからいたってぎごちなくて、こちらは胸くそが悪くなるばかりだ。この男はおべっか使いの偽善者だ。最初は私を殺そうとしたくせに、今はこの通りおせじたらたらだ! いったいあの晩私が彼だと気づかなかったとでも思っているのだろうか? そんなことはない、これはポーズなのだ、心とはうらはらにうわべだけ愛想よくして私をしゃにむに従わせようというのだ。
どうしようもないままに、私は彼の手慣れた指図に従った。荷物は寝台車に積みこまれた。八時十二分過ぎ──あと三分で汽車は出る。
しかしパジェットはスザンヌというものを勘定に入れていなかった。彼女はふいにいった。
「道中はうんと暑いだろうと思うわ、アン、殊にあしたはカルーを通ることだし。あなたオードコロンかラヴェンダー香水か持ってきたでしょうね?」
どう答えるべきかは明白だった、私は叫んだ。
「あら大変、オードコロンをホテルの化粧台の上に忘れてきちゃったわ」
常に命令するように物をいうスザンヌの習慣が役に立った。パジェットにむかって傲然と彼女はいった。
「パジェットさん、大急ぎ。まだ間に合うわ、駅のむかい側に薬屋があります。アンはオードコロンがなくちゃ困るんですから」
パジェットはためらった。しかしスザンヌの命令的な態度には手も足も出なかった。スザンヌは生まれながらの専制君主である。パジェットは買いに行った。スザンヌはその姿が見えなくなるまで目で追っていた。
「アン、急いで。むこう側から降りるのよ、パジェットが行ったふりしてホームのはじからこっちを見てるかも知れないから。荷物のことなんか心配しないで、あした電報で手配すりゃいいんだから。ああ、定時に発車してくれさえすればいいんだけど!」
私は反対側の戸をあけて降りた。見ていたものは居なかった。さも私と汽車の窓越しに話しているかのような恰好でスザンヌがさっきのままの場所に立っているのが見えた。汽笛が鳴り、汽車は動きはじめた。そのとき猛烈な勢いでホームを駈けてくる足音が聞こえた。私は恰好な売店のかげに隠れてじっと見守った。
遠ざかる汽車にむかって手を振っていたスザンヌはふりむいて陽気にいった、
「間に合わなかったわ、パジェットさん。行っちゃったわ。それ、オードコロン? もっと早く気がつけばよかったのになんて残念なんでしょう!」
二人は駅を出て行くとき私のそばを通って行った。ガイ・パジェットは大汗をかいていた。薬屋への往復を駈けどうし駈けてきたにちがいない。
「タクシーをお探しいたしましょうか、奥さま?」
スザンヌは役目を心得ていた。
「え、お願いするわ、さきほどのお返しにこんどはあたしがお送りさせていただけません? サー・ユースタスのご用ってたくさんおありになるの? ほんとに、アンもあすあたしたちといっしょに行くんだといいのにね。若い娘がああしてたったひとりでダーバンまで行くなんて感心しないわ。でもアンは断固としてまげないんですからね、きっとあちらに何かいいことがあるんでしょ……」
二人の声は通り過ぎて行った。頭のいいスザンヌ。私を救ってくれた。
なお一、二分待ってから私も駅を出ようとした。そのときひとりの男に衝突した──顔に対して桁《けた》はずれに大きな鼻をした、感じのよからぬ男だった。
第二十一章
計画を実行する上においてあとはもう難しいことはなかった。私はとある裏通りに小さな宿屋をみつけて部屋をとった。荷物が全くないので保証金を支払い、落ち着いて眠りについた。
翌朝は早く起きて町へ最少限度の衣類をととのえに出かけた。一行を乗せたローデシア行きの十一時の汽車が発車してしまうまでは何もしないつもりであった。パジェットも一行を追い払ってしまうまでは邪悪な行動を始めはしまいと思われた。だから私は汽車で郊外へ出て散歩を楽しんだ。町中に比べると涼しく、長い船旅やミューゼンバーグでの監禁のあとだけに手足を思いきり伸ばせるのが嬉しかった。
ごく些細なことに意外に大きな事態がつながっているものである、靴の紐がとけたので私は結ぼうとして立ちどまった。ちょうど角を曲がったところだった。靴の上にかがみこんでいるとひとりの男が角を曲がってきて私に危うく突きあたるところだった。男はちょっと帽子をとると失礼といって通りすぎて行った。なんとなく見たことのあるような顔だとは思ったが、そのときはそれ以上気にもかけなかった。腕時計をみるともうだいぶ時間もたっていたので私はケープタウンの方へ足をむけた。
電車が発車寸前だったので私は駈けだした。背後にも走ってくる足音が聞こえた。私がとび乗ると、後から走ってきた人もとび乗った。私はすぐ気がついた。それはさっき靴の紐がとけた時私にぶつかりそうになって追い越して行った男だった。しかも私はなぜその男の顔に見覚えがあるのかはっと気がついたのである。昨夜駅を出るときぶつかったあの鼻の大きな小男だ。
こう偶然が重なるのには少々ぎょっとした。はたしてこの男が故意に私を尾《つ》けているということがあり得るだろうか? 私はすぐさまそれを試してみようと決心し、ベルを鳴らして次の停留所で電車を降りた。男は降りなかった。私はある店の出入口の影へ身をひそめて見守った。男は次の停留所で降りるとこちらの方向へ戻ってきた。明白である。私は尾《つ》けられているのだ。勝ち名乗りをあげたのも束の間でパジェットに対する勝利は別の局面を展開した。私が次の電車に乗りこむと、案の定、尾行者も乗ってきた。私は真剣な考えごとに没入した。
自分が知り得ている以上に大きな事件に私は出くわしているのだということはもう明らかだった。マーロウの殺人事件は単独犯による独立した事件ではないのだ。私はギャングを相手にしているのだ。そしてレイス大佐がスザンヌに洩らした話やらミューゼンバーグで立ち聞きした話やらを総合すると、私にはそのギャング団の広範囲にわたる活動の幾分かがわかりかけてきた。手先たちから『隊長《ボス》』と呼ばれている男による組織的犯罪! 私は船で聞いたいろいろな話、ランドのストライキのこと、そのかげにひそむ原因、そしてある秘密組織がかげで煽動しているにちがいないという話などを思い出した。それはいわゆる『隊長《ボス》』の仕事であり、その部下のスパイたちが計画通りに行動しているのだ。『隊長《ボス》』は組織して指図をするだけで実際的な行動はいっさいしない、という話は私も幾度も聞かされた。頭脳的な仕事をするだけで、危険な労働には関与しないのである。とはいってもきっと絶対安全な位置で指揮をとりながら、彼自身もその場には居るのではなかろうか。
とすると、レイス大佐がキルモーデン・カースル号に乗船していたわけもうなずける。彼はその主犯を追っているのだ。こう仮定するとすべてが符合する。大佐は秘密警察の高官であって、『隊長《ボス》』を逮捕することがその役目なのだ。
私はひとりうなずいた──すべてはだんだんとはっきりしてきた。ではこの事件における私の立場は? 彼らが追い求めているのは単にダイヤモンドなのだろうか? 私は頭をふった。いかにダイヤモンドの値うちが大きいとはいえ、それだけのことであれほど必死になって私を抹殺しようとするわけがない。そうではない、私はそれ以上のものであるのだ。私自身は知らないとはいえ、彼らにとってこの私は何らかの形での脅威《きょうい》であり、危険であるのだ! 私のもっている、あるいはもっていると彼らが思っているある知識、そのために彼らはどんな犠牲をはらってでも私を抹殺しようと必死になっているのだ。そしてその知識は例のダイヤモンドと切っても切れぬ関係にあるのだ。それを私に教えてくれることのできる人はたったひとり──ああ彼が居て教えてくれられるものなら! 『茶色の服を着た男』──ハリー・レイバーン。彼はこの話の別の半面を知っている。しかし彼は闇の中へ姿を消してしまった、追われる身なのだから。どう考えても彼と私が再会することはありそうもないのだ……。
私はふいに我に返った。ハリー・レイバーンのことなど感傷的に思い出してもしょうがない。彼は最初の時からものすごい反感を私に示したではないか。いや少なくとも……、ああまた私はぼんやり考えている! 現実の問題はたったいまどうすべきかということなのだ!
見張るつもりでいた私が見張られるほうになってしまった。しかも怖気づいている! はじめて気おくれというものを感じかけている。私は巨大な機械の円滑な働きを妨げている小さな砂粒なのだ。そしておそらく、その機械は砂粒に対する手っとり早い扱い方を心得ているにちがいない。一度はハリー・レイバーンが救ってくれ、一度は自分で自分を救った──しかしいまふいに私は旗色が悪いのをひしひしと感じた。敵はあらゆる方角から私をとり囲み、追ってきているのだ。これ以上ひとりでやろうとするならば私は殺されるに決まっている。
私はなんとか気をとり直した。彼らに何ができるというのか。ここは文明都市だ、どちらをむいても手近なところに警官は居る。私だって今後は油断はしない。ミューゼンバーグの二の舞いなどふむものか。
あれこれ黙想してここまで考えたころ電車はアダレー通りについた。降りて、どうしようというあてもないまま私は通りの右側をゆっくり歩き出した。尾行者が尾けてくるかどうかふり返って確かめるまでもなく、私にはわかっていた。私はカートライトの店に入ってコーヒー・アイスクリームソーダを二つ注文した──心を落ち着けるために。男ならさしずめ強いのを一杯というところだろうが、われわれ女の子はアイスクリームソーダによって多くの慰めを得る。私はストローの先に口をつけてそのおいしさを味わった。冷たい液体が実に心地よくのどをくだっていった。からになったコップを私は横へ押しやった。私はカウンターの前に並べられた小さな高い椅子の一つに坐っていた。尾行者が入ってきて入口近くの小さなテーブルにそっと坐るのを私は横目で見ていた。二杯目のコーヒーソーダを飲み終わった私はメープルのクリームソーダを注文した。クリームソーダなら私はいくらでも飲むことができる。
突然入口のそばの男は立ち上がり、出て行った。これにはびっくりした。もし外で待とうというつもりならなぜはじめから外で待たなかったのか? 私は腰かけからすべりおりるとそっと戸口の方へ行ってみたが、すぐ急いでものかげに隠れた。例の男はパジェットに話しかけている。
なるほどそうであったのか。パジェットは時計をとり出して見ている。二人は二言三言《ふたことみこと》言葉をかわしていたがやがてパジェットは駅のほうへむかって勢いよく歩いて行った。彼はなにか指令を下したにちがいない。いったいどういう指令なのだろう?
そのとき突然、私はアッとばかりに驚いた。尾行していたその男がつかつかと道を横切ったかと思うと警官に話しかけたのだ。私の居るカートライトの店のほうを指さしながらしゃべっている。何か説明しているふうだ。わかった。私はスリかなにかのかどで逮捕されようとしているのだ。ギャングにしてみればそのような小細工をすることぐらいお茶の子さいさいだろう。無実を主張したところでどうなるものか? 敵はちゃんと先の先まで考えてあるにちがいない。ずいぶん以前、彼らにデビアスのダイヤモンド泥棒の罪をきせられたハリー・レイバーンは、いまだに無実を証明できないでいる。あの人は絶対に無実だと私は信じているのだけれど。『隊長《ボス》』の企《たくら》むそのような陰謀に対して、私はどうすれば勝目があるのか?
機械的に時計を見上げた私は、事件の別の一面をハッと思い出した。パジェットが時計を出して見ていた意味がわかった。まもなく十一時になろうとしている。すなわち十一時にはローデシア行きの列車が出るのだ──ほんとなら私を救ってくれるはずの有力な仲間たちを乗せて。これまで私が無事だったのはそのためだ。昨夜から今朝の十一時までは安全だったがいまや敵の網はぐっとまわりに迫っているのだ。
急いでハンドバッグをあけ、クリームソーダの代金を払った私は思わず息の根が止まりそうになった。ハンドバッグの中にお札のつまった男物の財布が入っている! 電車を降りるときに入れられたにちがいない。
私はあわてた。急いでカートライトの店を出た。鼻の大きなくだんの小男と警官はまさに道を横切ってやってくるところだった。二人はこちらを見、小男が興奮して私を指さしている。私は走りに走った。警官は足が遅いようだ。かなりの差をつけることはできるとみたが、この先どうしたらよいのか。私はただひたすらアダレー通りを死にもの狂いで走った。人々が振り返りはじめた。私は今にも誰かに抱きとめられてしまうと感じた。そのときある考えがひらめいた。
「駅はどっちでしょう?」私はハアハアいいながらたずねた。
「そこを行ってすぐ右手ですよ」
なおも走った。汽車に乗るために走るならおかしくはない。私は駅の中へ駈けこんだが、そのときすぐ背後に足音が聞こえた。鼻の大きな小男は短距離の選手とみえる。目的のホームへ到達しないうちに捕まってしまいそうであった。時計を見上げた──あと一分で十一時。おもわく通りにさえいけばうまくいくのだが。
私はアダレー通りに面した正面入口から駅に駈けこんだのであったが、今度は横の出口からとび出した。するとすぐ目の前に郵便局の入口があった。その郵便局の正面入口はやはりアダレー通りに面している。案の定追手はあとを追って入ってこないで、郵便局の正面入口から私が出てきたら捕まえようと道をそのまま走っていった。私はさっと回れ右してまた駅の中へ駈けこんだ。気ちがいのように走った。まさに十一時。めざすホームへ達したときには長い列車はもう動きかけていた。とめようとする駅員をふりきって私はとび乗った。二段のステップをのぼって扉をあけた。もう大丈夫! 汽車は速度を上げはじめた。
ホームのはじにひとりの男が突っ立っていた。私は彼に手をふって大声で叫んだ。
「さよなら、パジェットさん」
あんなにめんくらった顔を私は見たことがない。まるで幽霊にでも出会ったかのような顔をしていた。
一、二分後、車掌との間にいざこざが起きたが私は尊大にかまえていった。
「あたしはサー・ユースタス・ペドラーの秘書ですのよ、あのかたの専用車に案内していただきたいわ」
スザンヌとレイス大佐は後部の展望台に立っていたが、私を見るや二人とも驚きの声をあげた。
「やあ、アンさん、いったいどこからふってわいたんです? ダーバンへいらしたものとばかり思っていましたよ。全くあなたってかたは思いがけないことをなさる!」
スザンヌは黙っていたがその目はいろいろなことを問いかけていた。
「あたし先生にご報告しなくては。どこにいらっしゃいまして?」私はとりすましていった。
「事務室にいらっしゃるわ──まんなかのコンパートメントよ。すさまじいスピードで不運なペティグルー嬢に口述しておいでよ」
「お仕事にそんなに熱心とは珍しいことですわね」私はいった。
「ふむ!」レイス大佐はいった、「おそらくそうやって山ほど仕事を与えておけば、あと一日じゅう彼女をタイプライターに縛りつけておけるからでしょうよ」
私は笑った。それからサー・ユースタスを探しに出かけたがあとの二人もついてきた。サー・ユースタスは限られた狭いスペースの中を行きつ戻りつしながら、不運な秘書嬢に言葉の洪水を浴びせかけていた。はじめてお目にかかるその秘書嬢はくすんだ色の服を着た、背の高いがっちりした体格の女だった。鼻めがねをかけ、いかにもきびきびしている。鉛筆をとぶように走らせ、またその顔をひどくしかめているところからみて、私は彼女がサー・ユースタスの速度に合わせるのに苦労しているのだなと思った。私はそのコンパートメントの中に入っていき、すましていった。
「ただいま参りました」
労働者問題の情勢に関するむずかしい文章の中途でサー・ユースタスははたと口をつぐんだ。そして私をまじまじと見た。ペティグルー嬢はまるで撃たれでもしたかのように跳びあがった。有能そうなみかけとちがってよほど神経質な人物とみえる。
「これはいったい!」サー・ユースタスは叫んだ。「ダーバンのお若いかたはどうしました?」
「あなたのほうがいいんですの」私はやさしくいった。
「いい子だ、わたしの手を握ることをすぐにも始めてよろしいですぞ」
ペティグルー嬢が咳ばらいしたのでサー・ユースタスはあわてて手をひっこめた。
「ああ、そう、ええとどこまでだったかね? ああ、タイルマン・ルーズはその演説の中でこう……どうしたんだね? なぜ速記をとらんのだ?」
「どうやら」レイス大佐が静かにいった。「ペティグルーさんの鉛筆が折れたようですな」彼はペティグルー嬢から鉛筆をとって削ってやった。サー・ユースタスはびっくりして見ていた。私もご同様であった。レイス大佐の口調には私には理解できないなにかがあった。
第二十二章
──サー・ユースタス・ペドラーの日記より
回想録を書くのはもうやめたくなってきた。かわりに『私の雇った秘書たち』と題して短い読みものを書こうかと思う。秘書に関する限りわたしは|ついて《ヽヽヽ》いないようである。ひとりも秘書が居ないときがあるかと思うと次の瞬間には大勢居すぎたりする。いまわたしは一連隊の女をひきつれてローデシアへの旅を続けているのだが、最もきれいな二人はもちろんレイスが占有してしまって、わたしにはかすがあてがわれている。わたしはいつでもこういった具合だ。しかも何がどうあろうとこれはわたしの専用車なのであってレイスの専用車ではないのだが。
アン・ベディングフェルドもわたしの臨時の秘書という名目でローデシアへの旅を共にしている。ところが彼女はこの午後中レイスといっしょに展望台へ出ていて、ヘクス・リヴァ・パスの景観に歓声をあげたりなぞしている。もちろんわたしが、彼女の主たる義務はわたしの手を握ることである、といったのは事実だが、彼女はそれすらも実行しない。しかしペティグルー嬢に恐れをなしているのかも知れぬ。そうだとしても無理もない。ペティグルー嬢には魅力というものが一つもない──女というよりはむしろ男のような、大足の不愉快な女性である。
アン・ベディングフェルドにはひどく不可思議な点がある。まるで蒸気機関車みたいにハアハアいいながら最後の瞬間に汽車にとび乗った。徒競走でもやってきたみたいな様子だった。しかもパジェットは、昨夜彼女がダーバンへ発つのを見送ったといったではないか! パジェットがまたしても酒を飲んでいたか、さもなくばあの娘が霊体《ヽヽ》をもっているかのいずれかだ。
しかも彼女はひとことも説明しない。誰ひとり何の説明もしない。そうだ『私の雇った秘書たち』を書くのだ。その一、逃走中の殺人犯。その二、イタリアにおいて怪しい陰謀をはたらいている、かくれて酒を飲む男。その三、一時に二か所に存在することができるという便利な機能をそなえた美少女。その四、ペティグルー嬢、これは変装しているがその実は危険きわまる悪漢にちがいないとわたしは信じる! もしかしたらパジェットにイタリアの仲間のひとりをつかませられたのかも知れぬ。いつの日か世界中がパジェットによって完全に欺かれていたことが判明しても、わたしはおどろかないであろう。結局のところ連中の中ではレイバーンが最上であったかと思う。あの男はわたしを悩ますようなことや邪魔するようなことは一つもしなかった。ガイ・パジェットは例の大トランクをここに置くことを主張し、頑としてゆずらない。おかげでそれにけつまずかないものはない。
いま展望台へ行ってみた。歓声をあげて迎えられるものと思いきや、二人の女はレイスの|ほら《ヽヽ》話に夢中で耳を傾けていた。いっそこの専用車に『サー・ユースタス・ペドラーとその一行』ではなくて『レイス大佐とそのハレム』という札をさげようか。
やがてブレア夫人はばかげた写真をどうしても撮るといい出した。汽車がしだいに登りにかかってきて、殊に肝《きも》を冷やすようなカーブにさしかかるとそのたびに彼女は機関車の写真を撮った。
「わかるでしょ」彼女は嬉しげに叫ぶのだ。「汽車の前部を後から撮るとしたらカーブのとこでなくちゃだめなのよ。それに山が背景になってるとものすごく危険そうに見えると思うの」
わたしは、それが汽車の後部から撮られたものだということが他人にはわからないであろうといってやった。彼女は憐むようにわたしを見ていった。
「下に書いておきますわ、『カーブを行く機関車、車中より撮影』って」
「汽車の写真ならどんなのにだってそう書けますよ」わたしはいった。女というものはこういう簡単なことに気がつかないのだ。
「明るいうちにここまでこれてよかった」アン・ベディングフェルドが叫んだ。「もしゆうべダーバンへ発《た》っていたらこの景色を見ることはできなかったわけでしょうね?」
「そうですよ」レイス大佐がにっこりしながらいった。「あしたの朝目を覚ますとカルーに居るはずだったんです、石ころと岩だらけの暑苦しくて埃っぽい砂漠ですよ」
「変更してよかったわ」アンは満足げな吐息をもらしてあたりを眺めた。
たしかにすばらしい眺めだった。どちらを見ても巨大な山々が聳《そび》えていて、われわれの汽車はその山あいをあちらへ曲がりこちらへくねりしながらあえぎあえぎ登っていく。
「ローデシア行きの昼間の汽車ではこれが一番いいんでしょうか?」アン・ベディングフェルドがきいた。
「昼間のですって?」レイスが笑った。「アンさん、だいたい汽車なんて一週間に三本しかないんですよ、月曜と水曜と土曜とね。こんどの土曜日にならなきゃヴィクトリヤ滝にだって着かないのはご存じですか?」
「そのころにはお互いにさぞかし親しくなっちまうことでしょうね」ブレア夫人が意地悪そうにいった。「サー・ユースタス、滝にはどのぐらいご滞在の予定でいらっしゃいます?」
「事情によりけりですな」わたしは用心深くいった。
「どんな?」
「ヨハネスブルグでの情勢がどうかということです。はじめは滝に二日滞在し──アフリカへ来たのはこれで三度目なんですが、あの滝はまだ知りませんのでね──それからヨハネスブルグへ行ってランドの情勢を研究するつもりでいたんです。なにしろ本国ではご承知のようにわたしは南アフリカ行政の権威のような顔をして居りますからね。ところが聞くところによるとここ一週間ばかりヨハネスブルグは訪問するには特に適さない状態にあるらしいのですよ。わたしとて烈しい革命騒ぎのまっただ中へ行ってまで情勢研究したくはありませんしね」
レイスが多少高慢な態度でにやにやしていった。
「あなたのご心配ぶりは少々大げさのようですな、サー・ユースタス。ヨハネスブルグではたいした危険はありませんよ」
女どもはたちまち『なんて勇敢なかたでしょう』といわんばかりの顔でレイスを見た。わたしは大いにおもしろくなかった。わたしだってレイスに劣らず勇敢なのだが──ただ容姿に欠けている。彼のようにほっそりと長身で浅黒い男はなんでも思いどおりにできるのだ。
「あなたもヨハネスブルグへいらっしゃるおつもりなんですな」わたしはひややかにいった。
「おそらくね。またごいっしょに旅行することになりますかな」
「わたしは滝にもっと滞在するかどうかまだわからんのです」わたしはあいまいに答えた。
レイスはなぜそうわたしをヨハネスブルグへ行かせたがるのだろう。きっとアンに気があるにちがいない。
「アンさん、あなたのご計画は?」
「事情によりけりですわ」彼女は私の真似をしてすまして答えた。
「あなたはわたしの秘書だったはずですがね」わたしは抗議した。
「あら、だってあたしは敗かされたんですもの。あなたは午後じゅうペティグルーさんの手を握ってらしたじゃありませんか」
「なにをしていたにせよ、誓ってそれだけはしていませんでしたとも」わたしはきっぱりいった。
木曜日の夜
いましがたキンバレーを過ぎた。レイスはまたしても例のダイヤモンド盗難事件の話を初めからしまいまでさせられていた。女というものはダイヤモンドに関することとなるとなぜああまで興奮するのであろうか?
アン・ベディングフェルドはついに謎のヴェールをぬいだ。どうやら新聞の通信員であるらしい。けさディアールから膨大な電報を打っていた。昨夜ブレア夫人の部屋でほとんど一晩じゅうなにやら早口にしゃべっていた事実から判断するに、彼女は今後何年間分かの特別記事をすっかり読んできかせていたにちがいない。
どうやら彼女はずっと『茶色の服を着た男』を追っていたらしい。もちろんキルモーデン号上では犯人の目星をつけられなかったようだ──事実彼女にはそのチャンスはまずなかったのだから。しかし今彼女は本国へ『殺人犯と共に旅して』を打電したり、また『私が犯人から聞いたこと』などといった作り話を製造するのに大忙がしである。そういったことが行なわれるいきさつはわたしも知っている。わたし自身、回想録を記すときパジェットが許してくれればそのようなことをやるからである。それにむろん、ナズビーの有能なスタッフのひとりが更に手を入れて絢爛《けんらん》たるものに仕上げるにきまっているから、デイリー・バジェット紙に掲載されたときにはレイバーンはよもや自分のこととは気がつかないことだろう。
しかしながらあの娘は頭がいい。わたしの家で殺された女の身元を、全く自力で嗅ぎだしたらしい。その女はナディナという名のロシアの踊り子だというのだ。アン・ベディングフェルドにほんとに確かなのかときいたら、まさにシャーロック・ホームズ的な態度で、推論にすぎませんと答えたものだ。しかしどうやら彼女は本国のナズビーには証明ずみの事実として打電した様子だ。女というものはそういった直感にすぐれている。わたしは彼女の憶測が正しいであろうことにいささかの疑いも抱きはしないが、それにしてもこれを推論と称するのはばかげている。
どうやって彼女がデイリー・バジェット紙とわたりをつけたのか、わたしには想像も及ばない。しかしあの娘はそういったことをやってのけそうな娘である。彼女に抗《あらが》うことは不可能だ。人のごきげんをとることがうまく、それによって心に秘めた不屈の決心を覆い隠している。わたしの専用車にどうやって乗りこんできたかを見るがいい!
わたしにもどうやら少しわけがわかりかけてきた。警察はレイバーンがローデシアへむかうだろうと考えている、というようなことをレイスはいった。レイバーンは月曜日の汽車で出発したかもしれぬ。警察は汽車の路線に沿って電信でくまなく手配したらしいが、彼の人相書に符合する人物は発見されなかった。しかしそれだけではなんともいえぬ。レイバーンはこざかしい青年であるばかりでなく、アフリカをよく知っているのだ。おそらくカフィル人の老女にでもみごと変装しているのではあるまいか。ところが間抜けな警察は最新流行の背広を着た、顔に切傷の痕のあるハンサムな青年ばかり探しているのだ。わたしは最初からあの傷痕はあやしいと思っているのだが。
とにかくアン・ベディングフェルドはレイバーンを追っている。彼女はレイバーン発見の栄誉を彼女自身とデイリー・バジェット紙のために手に入れたいと思っているのだ。近ごろの若い娘は冷酷無比だ。そんなのは女らしくない行為だとそれとなくいってやったのだが、一笑に付されてしまった。彼女は、もし彼を追いつめればお金がもうかるのだといった。このことはレイスも快からず思っているようだ、それははっきりわかる。レイバーンはあるいはこの汽車に乗っているやもしれぬ。そうだとするとわれわれみんな眠っているうちに殺《や》られるかもしれない。私がそういったら、ブレア夫人はむしろそうであることを望んでいるかのような顔をした。そしてこういったものだ、もしあなたが殺されたらそれこそアンにとってはすごい特ダネになりますわね! アンの特ダネか!
あすはベチュアナランドを通るはずだ。埃がひどいことだろう。そして駅ごとに、カフィル人の子供たちが自分で彫った木彫りの動物を売りに来るはずだ。とうもろこしの穂で編んだ鉢や籠も売りに来る。ブレア夫人が夢中になって買いまくらなけりゃいいが。こういったおもちゃ類には素朴な趣きがあってどうやらあの奥さんの気に入りそうだから。
金曜日の夕方
恐れていたとおりである。ブレア夫人とアンは木彫りのおもちゃを四十九コ買いこんだ!
第二十三章
──ふたたびアンの手記より
私はローデシアへの旅を心ゆくまで楽しんだ。毎日毎日、目新しいもの、珍しいものを見ることができた。まず最初がヘクス・リヴァ渓谷の景観、その次が荒涼としたカルー高原の壮大さ、そして次がベチュアナランドのすばらしい直線コース、それから土人たちが売りにくるかわいらしいおもちゃ。スザンヌと私は駅ごとにおいてきぼりにされそうになった──もっともあれを駅と呼べるならばであるが。汽車はまるで気がむいたときだけどこででも停まる、といった感じだった。そしてひとたび汽車がとまるや、原地人の一団がとうもろこしの鉢やさとうきびや毛皮のチョッキやかわいい木彫りの動物などを手に手にかかげて、建物もなんにもないところからいつの間にかあらわれる。スザンヌはたちまち木彫りの動物の収集を始めた。私も真似したわけだが、たいていどれも一コ一ティキ(三ペンス)で一つ一つがちがっている。キリンもあればトラもヘビもあり、憂わしげな顔をしたオオカモシカもあれば黒くて小ちゃなおかしな兵隊もある。スザンヌと私はおもしろがって夢中で買いこんだ。
サー・ユースタスがとめようとしたが無駄だった。私は今でも、あの時二人とも砂漠のどこかにおいてきぼりをくわなかったのは奇蹟だと思っている。なにしろ南アフリカの汽車は発車に際して汽笛一つ鳴らすわけではなく、落ち着きはらってただ静かにすべり出て行くのだから。従って買物をしていてふと目を上げたとたん死にもの狂いで駈けだすということになるのだ。
ケープタウンで私が発車まぎわにとび乗ったのにはスザンヌもよほどびっくりしたらしい。私たちはその晩ほとんど徹夜で事件の状況をあらゆる角度から検討した。敵を攻撃することを考えるだけでなく防禦措置もとるべきだということは明らかであった。サー・ユースタスの一行と旅行している限りは私の身は安全である。サー・ユースタスもレイス大佐もどちらも有力な保護者であるし、敵にしたって私のまわりのそういううるさい連中をわざわざつつくような真似はしたくないだろうと思う。それにサー・ユースタスにくっついているかぎり、ガイ・パジェットとのつながりを多少とも保っていられるわけである。そしてそのガイ・パジェットこそこの謎の事件の中心なのだ。私はスザンヌに、パジェットこそ『隊長《ボス》』と呼ばれる謎の人物であるとは思わないかときいてみた。もちろん彼がひとに雇われている立場にあることを考えるとこの仮定はおかしいように思われる。しかし私は、サー・ユースタスがあれほど独裁的な日常にもかかわらず、自分の秘書に少なからず左右されているらしいと感じたことが何度かある。彼はのんきな男であるのだ。だから巧妙な秘書なら彼を好き勝手にあやつることだってできるのだ。秘書という比較的目立たぬ地位にいることはパジェットにとって実際好都合なのではあるまいか。なぜならなるべく世間の注目を浴びないようにしたいところであろうから。
しかしスザンヌはこの考えを強く否定した。彼女はガイ・パジェットが首脳だと思うことはできないといい、真の首脳すなわち『隊長《ボス》』はどこか背後にかくれているのだという。そしてわれわれが着くまえから彼はすでにアフリカに来ているのではないかというのである。
私は彼女の意見にもっともな点が多くあることを認めたが、しかし必ずしもうなずくことはできなかった。これまでなにかおかしなことが起きるときまってパジェットが首謀者のような形で登場したのだから。人柄からするとなるほどパジェットは悪漢の首領たるにふさわしい自信と決断に欠けているかにみえる。しかしレイス大佐によればこの謎の首領は頭脳的な部分しか分担していないということだし、知能犯は往々にして肉体的に弱々しく小心そうな外見をそなえているものである。私がここまで議論をすすめてきたとき、スザンヌが口をはさんだ、
「教授のお嬢さんのいうことはやっぱり違うわね」
「だってその通りよ。それともパジェットは回教国の首相みたいなものかしら」私はちょっとの間だまっていてから物思いに耽るようにしていった。「サー・ユースタスはどうやって財産をきずいたのかなあ」
「またあのひとを疑ってるのね?」
「スザンヌ、あたしは誰かを疑わずには居られないような気持になっちゃってるのよ。そりゃほんとにあのひとを疑ってるわけじゃないけど……、でもなんといってもパジェットの雇い主でもあるし、ミルハウスの持ち主でもあるしするんですもの」
「なんでもどうやって財産をきずいたのか絶対いいたがらないという話よ。でもそれだからって必ずしも犯罪と結びつけるわけにはいかないわ、錫メッキの鋲《びょう》とか毛生え薬とかでもうけたのかもしれないわね!」
残念だったけれど同意しないわけにもいかなかった。
「どうかしら」スザンヌがいった。「あたしたち見当違いなことやってるのじゃない? つまり、パジェットをあやしいとみなしたばかりに何もかもわからなくなっちまったのとちがうかしら、パジェットを潔白と考えたらどうかしら?」
私はちょっと考えてみたがやはり首をふった。
「そんなこと信じられないわ」
「でもとにかくあのひとはすべての行動を釈明できたわ」
「それはそうだけど……、でもあまり納得のいくものじゃないわ。例えばキルモーデン号からあたしを海に投げこもうとした晩のことなんか、レイバーンを甲板まで追いかけていったらレイバーンがふりむいてなぐり倒した、っていってるけど、それが事実と違ってることはあたしたちにわかってますもの」
「そうね」スザンヌはしぶしぶいった。「でもサー・ユースタスを通じてきいた話ですからね。パジェット自身から直接きいたらそうでもないかもしれないわ。また聞きっていうものは必ず少しずつ違ってくるものよ」
私は心の中でくり返し検討してみたあげく、やっぱりいった。
「そうじゃないわ。どう考えてもだめ、パジェットはあやしいわ。私を海へ投げこもうとした事実は無視できませんもの。それに他の事もすべてつじつまが合いますもの。なぜその新しい思いつきにそんなに固執なさるの?」
「あのひとの顔つきのためよ」
「顔つきですって? だって……」
「ええ、あなたのいいたいことはわかるわよ、陰険な顔つきだっていうんでしょう。その通り。だけどああいう顔つきしてる人で実際心の中も陰険な人っていないものだわ。まさに造化の神のいたずらにちがいないわ」
私はそんな議論は信用しない。造化の神のことなら古代のことからよく知っている。造化の神にユーモアのセンスがあるならば、もっといろいろな面で示されていていいはずだ。スザンヌは造化の神のことも自分と同じような性質だと思っているのだろう。
私たちは次に、さしあたってどうするかということを検討しはじめた。私がなんらかの立場をとらねばならないことははっきりしている。いつまでも説明を避けているわけにはいかないのだから。だがそういった問題を一挙に解決してくれるてだてはすぐ手の届くところにあったのである。しばらく忘れていたが『デイリー・バジェット紙』だ! 今となっては私が沈黙を守っていようとおしゃべりをしようとハリー・レイバーンに影響が及ぶことはない。私は何も洩らさないのに、彼が『茶色の服を着た男』であることはすでに知られている。彼を助ける最上の方法は彼に敵対しているように見せかけることだ。『隊長《ボス》』やその手下のギャングどもは、マーロウの殺人犯人の身代わりとして彼らが選んだ男と私との間に多少とも友好的感情が存在しようとは思ってもいない。私の知る限りでは、殺された女の身許はいまだに判明していないようであった。だから私からナズビー卿に、被害者はあのパリじゅうの人気をさらった有名なロシアの踊り子、ナディナに他ならないことを電報で知らせてもよいのである。いまだに彼女の身許が判明しないとは私には信じられないくらいだった、──しかしずっと後になっていろいろなことを知るに及んで、彼女の身許がなかなかわれなかったのも当然だということが私にもわかったのだが。
ナディナはパリで人気を博していたもののイギリスへは一度も来たことがなかったから、ロンドンでは知られていなかったのである。新聞にのった被害者の写真はとても不鮮明なものだったから、誰ひとりわかるものがいなかったのも無理はないのだ。また一方、ナディナはイギリスへ旅行することを誰にも絶対秘密にしていた。殺人のあった翌日、彼女のマネジャーは、私的な急用でロシアへ帰ることになったから破棄しなければならぬ契約に関してうまくやってほしいという意味の手紙をナディナから受けとっている。
もちろんこれらのことはみんな後になってから聞いたことである。私はスザンヌの全面的な賛成を得てディアールから長い電報を打ったが、それはまことにうまい時機に届いた(むろんこれも後で知ったことだが)、つまりデイリー・バジェット紙が特ダネを探している時だったからだ。私の推測は調査の結果正しいことが立証され、デイリー・バジェット紙は空前の大スクープをやった。曰く、『ミルハウス事件の被害者の身許判明・本紙特派員のお手柄』、『本紙特派員、犯人と同船』、『茶色の服を着た男とはどんな人物か』等々。
主だった記事はもちろん南アフリカの各紙にも報道されたが、私は何日もおくれて手に入ったデイリー・バジェット紙の自分の書いた長い記事しか見なかった! 私を記者として認可する旨の電報と今後の指示などを私はブラワヨで受けとった。これでデイリー・バジェット紙のスタッフになれたのだ。そしてナズビー卿自身からは個人的に祝辞もよせられた。これで私は犯人をなお追跡することをはっきり認められたわけだが、その私は、いやその私だけが、犯人はハリー・レイバーンではないことを知っているのだ! しかし世間には彼が犯人だと思わせておこう──今のところはそれが一番いいのだ。
第二十四章
われわれの一行は土曜日の早朝ブラワヨに着いた。私はこの土地に失望した。ひどく暑いし、ホテルも気に入らない。サー・ユースタスの様子もまた、まさにご機嫌ななめとしかいいようがない。彼の不機嫌のもとは私たちの木彫りのおもちゃ──殊にあの大きなキリンではないかと思う。そのキリンというのはとてつもなく大きくて、首がとほうもなく長いという代物だが、やさしい目としょぼついたしっぽをしていて、なんとなく趣きがあり、魅力がある。だから、それが誰の所有に属するのか──つまり私のものかスザンヌのものかというのでひと悶着起きているぐらいなのである。それを買うとき二人ともがそれぞれ一ティキずつ出したのであった。スザンヌは年長で既婚者であるということを理由に所有権を主張し、私は私で、そのキリンのよさを先に認めたのは私なのだからといってゆずろうとしなかった。
一方正直なことをいってそのキリンは、われわれのまわりの三次元の空間をおびただしく占領した。だいたい、極度にもろい木でできている、さまざまな形の動物を四十九匹も持ち歩くことからして問題であった。二人のポーターにそれぞれひと抱えずつ持たせたのであったが、ダチョウの一群をもたされたほうの一人がたちまちとり落として首を折ってしまった。これにこりてスザンヌと私が持てる限り持つことにし、レイス大佐にもてつだってもらった。そして私はサー・ユースタスの腕にもむりやり例のキリンを持たせたのである。またまじめくさったペティグルー嬢といえども私は容赦はしなかった。彼女には巨大なカバと黒い兵隊二つとがわりあてられた。彼女は私を好いていないようだった。おそらくずうずうしいおてんば娘だと思っていたのだろう。とにかく彼女はできるだけ私を避けているふうだった。そしておかしなことだが、私はなんとなく彼女の顔に見覚えがあるような気がしたのである。しかしどこで会ったのかはどうしても思い出せなかった。
その日は午前中はみんな部屋で休み、午後はローズ首相のお墓を見にマトポス山へドライヴに出かけた。といっても、ほんとはそういう予定だったのがいざという時になってサー・ユースタスがやめるといい出したのであった。彼はこの前ケープタウンに上陸した日の朝──つまり床へ桃を叩きつけたらペシャッとつぶれてしまったとき──と同じぐらいにご機嫌が悪かった。どうやら早朝にどこかへ到着することが彼の体質に合わないとみえる。ポーターにどなりちらし、朝食のときには給仕にどなりちらし、ホテルの従業員みんなにどなりちらした。鉛筆とメモ帳を手にうろうろしているペティグルー嬢のことだって、どなりちらしたいところだったにちがいない。しかしさすがのサー・ユースタスもペティグルー嬢には罵詈雑言《ばりぞうごん》をあびせる勇気はなかったのだと思う。なにしろ彼女は典型的な有能な秘書なのだから。私は危いところで私とスザンヌの大事な大事なキリンを救ったのだった。サー・ユースタスはきっと、あのキリンも床に叩きつけたいぐらいの気持だったろうと思う。
さてマトポス山遠征のことに話を戻すが、サー・ユースタスが不参加を唱えると、ペティグルー嬢も主人が用があるといけないからホテルに残るといい出した。そしていよいよというときになったらスザンヌまで頭痛がするからやめるといってきた。そこでレイス大佐と私と二人だけで出かけたのだった。
レイス大佐というのは奇妙な男である。大勢の人といっしょの時は気がつかないが、二人きりになるとその人柄を強く感じさせられるのだ。彼は口数が少なくなる。しかしその沈黙は実際に口に出してしゃべるよりももっと多くのことを語っているようである。黄褐色の雑木林を通ってマトポスへドライヴした日もちょうどそんなふうだった。すべてが妙に静かな感じだった。例外は私たちの車の音だけ──この自動車は人類の作った最初のフォードではなかったろうか! 内部の装飾はわかめのように裂けているし、機械のことは知らない私にさえエンジンが正常な状態にないことがわかるほどだった。
進むほどにあたりの特徴が変わってきた。大きな玉石がさまざまなおもしろい形に積まれているのが見えてくると、私は急に自分が原始時代に生きているように感じた。瞬間的にではあったけれど、ネアンデルタール人がパパにとってそうであったと同じように私にも現実的な存在と感じられたのである。私はレイス大佐に、夢を見ているような気持でいった。
「ここには巨人たちが住んでたにちがいありませんわ。そしてその子供たちは現代の子供たちと同じだったんでしょうね、小石を積みあげたりくずしたりして遊んだんですわ、そしてくずれないようにうまく積めると喜んだりしたんです。ここにあたしが名前をつけるとしたら『巨人の子供の国』ってつけますわ」
「あなたのおっしゃることは案外的を射てるかもしれませんよ」レイス大佐はまじめな顔でいった。「素朴で原始的で大きい──それがアフリカですからね」
私はうなずいていった。
「あなたはそういうアフリカがお好きなんですのね?」
「そうです。しかしここに長く住んでいると──、なんというか冷酷な人間になってしまいます。生も死も軽んずるようになってしまいますからね」
「そうですわね」ハリー・レイバーンもたしかにそんなふうだった、と考えながら私はいった。「でも弱いものに対しては冷酷じゃありませんわね?」
「何が弱いもので何がそうでないかは人によって考え方が違いますからね、アンさん」
レイス大佐のいい方には真剣さがあったので私はいささか驚いた。私は、自分がレイス大佐についてなんにもわかっていないことを感じた。
「あたしのつもりでは子供とか犬とかのことですわ」
「子供や犬に対して冷酷にしたことは私は誓って一度もありません。それであなたは女性のことは弱いものの部類に入れないのですか?」
私は考えてみた。
「ええ、入れないつもりです。でも実際は弱いもののようですわね。つまり最近では女性は弱いものになっているんですわ。でも父はいつもいってましたわ、昔は男も女も力において同等でいっしょに世界をさまよっていたんだ、って、ライオンやトラみたいに……」
「それからキリンみたいにね」レイス大佐がいたずらっぽく口をはさんだ。
私は笑った。あのキリンのことは誰でもからかうのである。
「キリンもですわ。古代の人間は遊牧の民だったわけでしょう。女が弱くなったのは人間がそれぞれ地域社会を作って住むようになり、男と女の仕事が分業になってからのことなんですわ。でももちろん本質は変わっていないんです、だから感じ方も変わっていないんです──女が男の肉体的な力を崇拝するのはそのため、いいかえれば、かつてはもっていたのに今はなくしてしまったからこそあこがれるんですわ」
「祖先崇拝のようなものですな?」
「そうですわね」
「それであなたもほんとにそうだと思っておいでなんですか、つまり女は力に憧れていると?」
「ほんとだと思っていますわ──正直にいえば、だれだって、道徳《モラル》を重んじているつもりでも、いざ恋におちれば肉体的な力だけを尊しとする原始人に立ちかえるんですもの。でもあたしはそれでおしまいだと思いませんの。原始社会に住んでいるんならそれでいいでしょうけれど、そうじゃないんですから。結局勝利を得るのは道徳《モラル》なんですわ。一見征服されたかに見えるものが常に勝利を得るんです、そうじゃありません? そういうもののただ一つの勝ちかたで勝つんです。ちょうど、生命《いのち》を失うことによって生命《いのち》を得るっていうようなことが聖書《バイブル》にもありましたわね」
「つまり」大佐は考えこむようにしながらいった、「恋におちて──そして失恋する、という意味ですか?」
「というのとも少し違いますけど、でもそうおとりになってもかまいませんわ」
「でもあなたはまだ一度も失恋したことはおありじゃないですね?」
「ええ、ございません」私は正直にいった。
「恋愛をしたこともね?」
私は答えなかった。
やがて車が目的地へ着いたので二人の会話もおしまいになった。私たちは車から降り、ゆるい上り坂を上っていった。私はまたしてもレイス大佐といっしょにいるとなんとなく落ち着かなくなるのを感じた。彼が、なにを考えているのかも、その不可解な黒い瞳がなにも語ってくれないからわからなかった。私は彼が少し恐かった。それまでもいつも恐《こわ》いように思っていたのだが。彼といっしょにいると自分がわからなくなってしまうのだ。
私たちは無言で登って行き、やがて大きな玉石に守られてローズが眠っている場所へついた。それは人里離れた気味の悪い場所であった。私たちはそこにしばらく腰をおろしていたが、やがてこんどは少し道をそれて歩きながら下りはじめた。足もとが悪くて難儀し、一度などはほとんど垂直な崖のようなところへ出てしまった。レイス大佐は先におりて私に手を貸そうとふり返ったが、「抱きおろしたほうが早い」というなりすばやい動作でいきなり私をもち上げた。地面へおろされ彼の手から放たれたとき、私は彼の強さを感じた。はがねのような筋肉をもった鉄の男。私はまた恐れを感じた。殊にそのときはそのまままん前に立ちはだかって私の顔をじっとみつめたからなおさらであった。彼はふいにいった。
「ほんとにあなたはここへ何しにいらしたんです、ベディングフェルドさん?」
「あたしはただ世界を見て歩いているジプシーですわ」
「ああ、それはたしかにそうですな。新聞の特派員は口実にすぎない。ジャーナリストらしくありませんからね。あなたは自分自身のために旅に出てきたのでしょう──人生をつかもうとして。しかしそれだけじゃないな」
いったい私になにをしゃべらせようというのだろう? 恐かった。私はまっすぐに彼の顔を見上げた。私の眼は彼の眼とちがって秘密を隠すことはできないが、相手を逆襲することはできる。
「あなたはここへ何しにいらしたんですの、レイス大佐?」
一瞬私は、彼は答えないつもりではないかと思った。しかしめんくらっているのはたしかであった。そしてついに口を開いたが彼は自分の言葉に不気味な楽しみを感じているようだった。
「野望を追っているんですよ、ただそれだけです。『その罪により天使たち、陰府《よみ》に堕《お》ちたり』というようなものですな」
「噂によると」私はゆっくりといった。「あなたは政府のお仕事──つまり秘密警察に関係していらっしゃるという話ですけど、ほんとうですの?」
ほんの一瞬大佐がためらったように見えたのは私の思いすごしだろうか?
「ベディングフェルドさん、私は自分の楽しみのために全く個人的な旅行をしているのです、それは断言できますよ」
その言葉をあとになって思い返してみるとどういう意味にもとれるような感じがする。おそらく彼もわざとそういういい方をしたのにちがいない。
二人は無言のまま再び車に乗った。ブラワヨへむかって半分ほど走ったころ、私たちはお茶をのませてもらおうと、道ばたのとある素朴な家のところで車をとめた。庭を耕していたその家の主人は邪魔されるのを喜ばないふうにみえたが、それでも親切になにかあるかどうかみて来ようといってくれた。かなり長く待たされたが、やがてなにやらパサパサのお菓子とぬるいお茶が運ばれた。主人はまた庭仕事へ戻っていったが、彼が居なくなったとみるや、たちまち六匹の猫がむらがってきて哀れっぽい声で一斉に鳴き出した。もう大騒ぎで耳を聾《ろう》せんばかり、お菓子を少し分けてやるとガツガツとむさぼり食べる。そこにありったけのミルクを全部お皿にあけてやったら先を争って大変だった。私は憤りを感じて叫んだ。
「ああ、この猫たちペコペコなんだわ! こんなことってあるかしら。ね、どうかお願い、ミルクとお菓子をもっともらってくださらない」
レイス大佐はいわれたとおりにするべく黙って立っていった。猫どもはまたもやニャアニャア鳴きたてた。大佐がミルクの大きな壷をもって戻ってきたが、彼らはそれをたちまちにして平げた。
私は決意を顔にあらわして立ちあがった。
「あたしこの猫ぜんぶつれて行きます、ここに残して行くことはできませんわ」
「アンさん、ばかなことをいうもんじゃない。五十匹のおもちゃの動物のほかに猫を六匹もつれ歩くことはできませんよ」
「おもちゃなんかどうでもいいわ。この猫たちは生きてるんですよ、あたしはつれて帰ります。あなたはそういうことをしようとはなさらないのね」私は憤慨して彼をみた。しかし大佐はいった。
「冷酷な奴だとお思いでしょう。しかしこういうものにいちいち感傷的になっていては生きていけませんよ。我を張ってもだめです、つれ帰ることは私が許しません。ここは原始的な国ですよ、しかも私はあなたよりも|強い《ヽヽ》」
敗北したときは自分でわかる。私は両目に涙をうかべながら車の方へ戻った。
「きっとたまたま今日だけおなかをすかしてたんですよ」レイス大佐は慰さめるようにいった。「あの家のおかみさんはブラワヨまで買いものに行ったんです、だから大丈夫ですよ。それに世の中にはおなかのすいた猫がいっぱいいるんですからね」
「そんなこといわないで」私は烈しくいった。
「わたしは人生の生き方を教えようとしているのです。冷い無慈悲な人になれと教えているのです──わたしのようにね。それが強さの秘密、ものごとに成功する秘訣ですよ」
「無慈悲な人間になるくらいなら死んだほうがましですわ」私は激昂《げきこう》していった。
車が走り出すと、だんだん気持ちが落ち着いてきた。ふいに大佐が私の手をとった。私はひどく驚いた。
「アン」彼はやさしくいった。「きみが必要だ、結婚してくれますか?」
私はすっかりどぎもを抜かれた。
「あら、いいえ。だめですの」
「なぜ?」
「あなたのことそんなふうに考えたこと一度もありませんもの」
「なるほど。理由はそれだけですか?」
正直にいわざるを得なかった。
「いいえ、それだけじゃありませんわ。だって──あたし、他に好きなひとがあるんです」
「なるほど」彼はまたいった。「それは最初から、つまりキルモーデン号でわたしがあなたと初めてお会いしたときからすでにそうだったんですか?」
「いいえ」私は小声でいった。「そのあとですわ」
「なるほど」彼は三たびいった。しかしこんどは故意にそういったのであるらしい感じがしたので私は思わずふりむいて顔を見た。その顔は今までになくきびしかった。
彼は私を見た。なにを考えているのかわからない、威圧するような表情であった。
「ただ──自分のなすべきことが今わかったということですよ」
私は背すじがゾッとするのを感じた。その言葉には私には測り知れないある決意が秘められているようであった──私は怖かった。
あとはホテルへ帰るまで二人とも口をきかなかった。私はスザンヌのところへまっすぐ行った。彼女はベッドに横になって本を読んでいたが頭が痛そうにはちっとも見えなかった。
「完璧《かんぺき》な付添人《グズベリ》、別名りっぱな付添人《シャプロン》はご休息中よ。おや、アン、どうかしたの?」
私がワッとばかりに泣き出したからである。私は猫のことを話した。レイス大佐のことを彼女にいうのは悪いような気がした。だがスザンヌは頭が鋭い。おそらく何か隠しているとみてとったのだろう。
「あなた風邪ひいてるんじゃない、アン? この暑さに風邪をひくわけもないけど、あなたさっきから震えてるわ」
「なんでもないの。神経よ、なんだかしらないけどぞっとするの。さっきからなにか恐ろしいことが起こりそうな気がしてるのよ」
「ばかなこといわないの」スザンヌはきっぱりいった。「それよりなにか面白いお話しましょうよ。ねえ、アン、あのダイヤモンドだけど……」
「どうかしたの?」
「わたしが保管していても安全とはいえないと思うの。はじめはよかったのよ、誰もあたしの持ちものの中にあるとは考えられなかったでしょうからね。でもこうしてあなたとあたしが仲がいいってことが皆に知れちゃった以上は、当然、あたしも疑われるでしょう」
「でもまさかフィルムの罐に入っているとは知らないわ、すばらしい隠し場所よ、これ以上いい方法はないと思うわ」私はいいはった。スザンヌは一応賛成はしたものの、ヴィクトリア滝へついたらこのことをもう一度検討しようといった。
汽車は九時に出た。サー・ユースタスのご機嫌は相変わらず最悪で、ペティグルー嬢もだまって服従しているようであった。レイス大佐は全くいつもと変わっていなかった。私はマトポス山から帰る途中の彼との会話は全部夢の中の出来事だったような気がした。
その夜私はかたい寝台の上で、何かに脅かされているようなわけのわからない夢にうなされながら眠った。翌朝目が覚めると頭痛がするので展望台へ出てみた。爽やかで気持がよかった。そしてあたりはどちらを見ても目の及ぶ限り、木の生《お》い繁った丘が起伏していた。私はその景色を愛した──これまでに知っているどの場所よりも愛した。そしてこの林のどこかに小さな小屋を建てていつまでもいつまでも住むことができたら……と思ったのだった。
二時半少し前、レイス大佐が呼ぶので行ってみると、彼は林の一角の上に漂っている花束のような形の白い霧を指さしていった。
「滝からくるしぶきですよ。もうまもなく着きますよ」
私はうなされた一夜のあとに展望台へ出て感じたあの夢のような興奮からまだ覚めていなかった。ふるさとへ帰ってきたのだという感じが強くした……、ふるさと! だがここへ来たのはこれが初めてなのに。いや、夢の中で来たことがあるのだろうか?
私たちは汽車から降りるとホテルまで歩いて行った。ホテルは蚊《か》を防ぐために厳重に金網でおおわれた白い大きな建物だった。あたりには道もなければ家もない。みんなでストゥープ(ベランダ)へ出たが、私は思わず息をのんだ。半マイルほどむこうの真正面に滝があった。これほど壮大でかつ美しい眺めは見たことがなかった。これからもないだろう。
「アン、あなた少しどうかしてるのじゃない?」昼食のテーブルに着いたときスザンヌがいった。「そんなふうなあなたって初めてだわ」
興味ありげに彼女は私をまじまじと見た。
「そう?」私は笑ってみせたが、その笑いが不自然であることを自分でも感じた。「ただここが気に入っただけのことよ」
「それだけじゃなさそうね」
彼女はかすかに眉根をよせた──懸念があるというふうに。
その通りなのだ。私は歓喜していたけれど、それ以外に、なにかを待っているのだ、という奇妙な感じを抱いていた──まもなく起きようとしているなにかを。私は興奮して落ち着かなかった。
お茶のあとみんなで散歩に出、トロッコに乗りこんだ。このトロッコは笑顔の黒人たちが細い軌道の上を橋のところまで押してくれるのである。
それは驚異的な景観であった。足下には巨大な割れ目が開け、奔流がうずまいている。そして目の前は霧としぶきのヴェール。そのヴェールは時おりサッと分かれて滝を見せてくれたかと思うとすぐまた閉じてしまう。それは測り知れない神秘であった。私の心を惹きつける滝の魅力──それは、そのとらえがたいところであるのだ。今こそ見られると思うのだが──決して果たせない。
私たちは橋を渡り、峡谷のふちに沿ってぐるっとまわっている小径をゆっくり歩いて行った。その道の両側は白い石でふちどってある。やがて広い場所へ着いたがそこからは更に左の方へ小径がついていて谷へ降りられるようになっていた。
「パーム谷です」レイス大佐が説明した。「降りて行ってみますか? それとも明日にとっておきましょうか、時間もかかるし、また登ってくるのに骨が折れますからね」
「明日にしよう」サー・ユースタスが裁断を下すようにいった。彼は何によらず肉体的な苦労をすることは嫌いなのだ。サー・ユースタスは先に立って道を戻りはじめた。私たちも従ったが、やがてひとりの土人が大股にやってくるのとすれちがった。そのあとからは女がついてきたがなんと彼女は頭の上に家財道具一式をのせているようであった! なにしろフライパンまであったのだから。
「いつも肝心なときにカメラを忘れてきてしまうんだわ」スザンヌがくやしそうな声を出した。
「こんな風景にはこれからいくらでもぶつかりますよ、奥さん、嘆くには及びません」レイス大佐がいった。
橋まで戻ってくると彼はまたいった。
「虹の森へ行ってみますか? それとも濡れるのはおいやかな?」
スザンヌと私は行くことにし、サー・ユースタスはホテルに戻った。しかし虹の森には少々がっかりした。虹などほとんどかかっていなかったしおまけにびしょぬれになったからだ。だが時おり正面に滝をかいま見ることができ、その巨大さに驚かされた。おお滝よ、わたしはおまえをどんなに愛し、崇めていることか!
ホテルへ帰ったときはもう夕方で、夕食のために着替えする時間がやっとあるかないかだった。サー・ユースタスはレイス大佐に対して決定的に反感を抱いている様子だったのでスザンヌと私がやさしくご機嫌をとってみたがそれもあまり効果はないようだった。
夕食がすむと彼はペティグルー嬢をしたがえて自分の部屋へ退いた。スザンヌと私はそのあとしばらくレイス大佐と雑談していたが、やがてスザンヌは大あくびをしてもう寝ると宣言した。レイス大佐と二人とり残されるのはいやだったので、私も立ちあがり部屋へ帰った。
だがひどく興奮していてとても眠る気にはなれなかった。着替えすらもせず、椅子に身を投げると私はぼんやりもの想いに耽りはじめた。そしてそうしている間にも、なにごとかが自分にいよいよ迫りつつあるのを感じていた……。
ドアをノックする音がした。私はびくっとして立ちあがり、ドアのところへ行った。黒人の少年が手紙をさし出した。私の名前が、見覚えのない筆跡で書かれている。私は受けとって部屋の中へ戻り、しばらくそれをもったまま突っ立っていた。ついに開いてみた。ひどく短い手紙だった!
『きみにぜひ会わなければならない。ぼくの方からホテルに行くわけにはいかないのだが、パーム谷のそばの広場まで来てはくれないだろうか? 十七号室の想い出にどうか来てほしい。きみがハリー・レイバーンという名で知っている男より』
私は息がとまりそうだった。あの人はここに居るのだ! ああ、私にはわかっていた、いつだってわかっていた! 彼が身近にいるのを感じていたのだもの。知らず知らずに私はちゃんと彼の隠れている場所のそばへ来ていたのだ。
頭にスカーフを巻きつけると私はそっとドアへ近づいた。慎重にしなくてはいけない。彼は追われている身なのだ。私と彼とが会うところをひとに見られてはならないのだ。スザンヌの部屋へそっと近づいてみたが彼女はぐっすり眠っているようだった。安らかな寝息がきこえていた。サー・ユースタスはどうだろう? 大丈夫だ。ペティグルー嬢を相手に口述している。単調な声で彼女が復誦しているのがきこえる、『しかるが故に私はあえて提案いたすのであります、すなわち、黒人労働者問題と取り組むについては……』ペティグルー嬢はそこでやめて次の言葉を待った。するとサー・ユースタスが怒ったような声でなにかぶつぶついうのが聞こえてきた。
私は更に足音を忍ばせて進んだ。レイス大佐の部屋はからっぽだった。ラウンジにも姿は見えない。彼こそ私が一番恐れている人物だというのに! しかしこれ以上ぐずぐずしてはいられない。私はホテルをすばやくぬけ出ると例の小径を橋の方へと歩いていった。橋を渡るとものかげに隠れてしばらく待った。もし誰かが私のあとから来るとすれば、橋を渡るのが見えるはずだ。数分待ったが誰も来ない。誰もついては来なかったのだ。私はまた歩き出したが五、六歩行って立ち止まった。背後でガサガサいう音がする。ホテルからずっと尾《つ》けてきた人間であるはずはないのだから、誰かが最初からここに待ち伏せしていたことになる。
そう思ったとたん、理屈ではなしにしかし確かな直感として私は何者かに脅かされているのを感じた。いつかの夜キルモーデン号で感じたのと同じ、危険が迫っているという確かな予感だった。
私は肩ごしに鋭く後を見た。何の音もしない。一、二歩あるくとまたガサガサいった。歩き続けながらもう一度ふり返って見た。ひとりの男の姿がものかげから現われた。私に見られたことを知るととび出して追いかけてきた。誰なのか暗いのでわからない。わかったことは背の高い男で、原地人ではなく白人であるということだけであった。私は必死で走った。男がドタドタとついてくるのがきこえた。月のない晩だったので、道をふちどっている白い石をたよりに死にもの狂いで走った。
突然、私の足は空《くう》を蹴《け》った。男の笑い声が聞こえた。悪魔のような、陰険な笑い声──そのひびきを耳に感じながら、はるか谷底の破滅へむかってまっさかさまに私は堕《お》ちていった。
第二十五章
私は少しずつ意識が戻ってきた。体を動かそうとすると頭が痛み、左腕に鋭い痛みが走るのを感じた。すべてが夢の中のことのようで現実感がなかった。そして悪夢におそわれた。またしても谷底へ落ちて行くように感じた。一度はハリー・レイバーンの顔が霧の中から現われたように思った。これは夢じゃない、と思ったとたんその顔は私を嘲《あざけ》るように消えてしまった。一度は誰かが口元へ茶碗を近づけたのでそれを飲んだのを覚えている。まっ黒な顔がこちらを見てニヤリと笑った──悪魔の顔だ、と思い、私は悲鳴をあげた。それからまた夢ばかり見た。長いいやな夢だ。ハリー・レイバーンに警告しなくてはと思って彼を探すがみつからない、彼に警告する──いったい何を? 自分でもわからない。だが危険なのだ、とても危険だ──彼を助けることができるのは私だけなのだ……。そのあとはまた何もわからなくなった。ありがたいことに今度は夢を見ないで眠れたのだった。
やっとはっきりと目が覚めた。長い悪夢は終わった。すべてを思い出した。ハリーに会うためにホテルから急いでぬけ出したこと、待ち伏せていた男のこと、そして最後に墜落したあの恐怖の瞬間……。
奇跡的に助かったのだ。打ち身だらけで体じゅうが痛み、弱り切っていたが、それでも生きていたのだ。それにしてもここはどこだろう? やっとのことで頭を動かして私はあたりを見まわした。小さな部屋でまわりは粗末な板壁だった。その壁には動物の皮やさまざまな象牙がかかっている。私の寝ているのは粗末な寝いすのようなもので、やはり動物の皮で覆《おお》ってある。私の左の腕は繃帯《ほうたい》でぐるぐる巻かれており、つっぱった感じで不自由だった。最初そばには誰も居ないと思った。だがやがて、私と明かりとの間に男がひとり坐っているのに気づいた。その顔は窓の方へむけられていたが、彫像かと思うほどじっと動かなかった。その短く刈った黒い頭のどこかに見覚えがあるように思ったが、私はむりに想像をはたらかせようとはしなかった。ふいに彼がこちらをむいた。私はハッとした。ハリー・レイバーンだった、正真正銘のハリー・レイバーンだった。
彼は立ちあがって私のほうへ来た。
「少しはいい?」少々ぎごちなくそうきいた。
答えることができなかった。溢れ出る涙が頬をぬらした。依然として弱りきっていたけれど、私は両手で彼の手を握りしめた。こうして、その目に今までにない表情をたたえて私を見おろしている彼のそばでこのまま死ねるのだったら、どんなにいいだろう。
「泣くんじゃない、アン。泣かなくていいんだよ。もう安全なんだ、もう誰もきみを襲ったりはしないよ」
彼は茶碗をとりに行き、ミルクをもってきた。
「これを少し飲みなさい」
私はおとなしく飲んだ。彼はまるで子供にいってきかせるように、低い声でなだめるように話しつづけた。
「今はなにも訊くんじゃない。さあ、もう少し眠るんだよ。だんだんによくなるんだからね。なんならぼくはむこうへ行ってようか?」
「いやよ、いやいや」私はせがむようにいった。
「じゃあ居てあげよう」
彼は小さな椅子をもってきてそばに坐った。そして私の手に自分の手を重ねた。やさしくなだめられているうちに私はいつか眠りにおちた。
それはきっと夜だったのだろう。次に目が覚めたときには日が高くのぼっていた。そばには誰も居なかったが、私が目が覚めたのに気づいて年とった原地人の女がかけこんできた。思わずぞっとするような女だったが、彼女は励ますように笑いかけてきた。そしてたらいに水をもってきて顔や手を洗うのを手つだってくれた。それがすむとスープの大きな鉢をもってきてくれたが、私はそれを一滴残さず飲んだのだった! それからいろいろなことを聞いてみたが、彼女はにこにことうなずいたり、よくわからない言葉で話すだけで、どうやら英語は通じないらしかった。
ふいに彼女は立ちあがった。そしてハリー・レイバーンが入ってくるとうやうやしく後へさがった。レイバーンがもういいというようにうなずくと彼女は出ていった。レイバーンはにっこりしてみせながらいった。
「今日はよほどよさそうじゃないか」
「ええ、そうなの。でもまだわけがわからないわ。ここどこ?」
「きみはザンベジ河の小さな島に居るんだよ、滝から四マイルほど上流のね」
「みんな──みんなはあたしがここに居ること知ってるかしら?」
彼は首をふった。
「知らせなくちゃ」
「もちろん知らせたければ知らせてもいいよ。でもぼくならもう少しよくなるまで待つね」
「なぜ?」
彼はすぐには答えなかった。それで私は続けて訊いた。
「あたしどのぐらいここに居るの?」
その答えは私は驚かした。
「約一か月」
「まあ! じゃあスザンヌに知らせなくちゃ。きっとずいぶん心配してるわ」
「スザンヌって誰?」
「ブレア夫人よ。あたしブレア夫人とサー・ユースタスとレイス大佐といっしょにあのホテルに泊ってたんですもの──でもそのことはご存じだったんでしょ?」
彼は首をふった。
「何にも知らないさ。知ってるのはきみをみつけたってことだけだ。きみは腕をひどく挫《くじ》いて気を失って木にひっかかっていたんだよ」
「どこの木に?」
「あそこの谷の上へ張り出している木にさ。着物が枝にひっかかったからよかったようなものの、そうでなかったらきみは叩きつけられてこっぱみじんになってたとこだ」
私は身震いした。そのときふと思いついたことがあった。
「あたしがビクトリア滝に来てるってことご存じなかったっておっしゃったわね? じゃああの手紙はどういうわけ?」
「手紙って?」
「あなたがわたしにくだすった手紙よ、谷のそばの広場で会いたいっていう」
レイバーンは目を丸くした。
「ぼくは手紙なんか書かないよ」
私は髪の毛の根本まで赤くなった。だが幸い彼は気がつかなかったようだった。
「でもいったいどうやってちょうどあの場所へうまい具合に通りかかったの?」私は努めてなんでもないような顔をしながら訊いた。「第一、こんなところであなたは何をしていらっしゃるの?」
「ぼくはここに住んでいるのさ」
「この島に?」
「そうだよ、戦争の終わったあとここへ来たんだ。時々ホテルのお客たちをボートに乗せてやったりもするが、ここに住んでるとほとんど金なんかかからないのさ、だからだいたい気ままに暮してるんだよ」
「たったひとりでここに?」
「他人とつき合いたいとは思わないね」彼は冷たくいった。
「悪かったわね、あたしみたいな邪魔が入って」私はいい返した。「でもなにもあたしが悪いわけじゃないと思うけど」
意外にも彼は目を輝かせていった。
「そりゃそうさ。ぼくはきみを石炭袋かなんかみたいに肩にかついでボートまで運んだんだ、石器時代の原始人みたいにね」
「ただ目的は違ってたわね」
今度は彼が赤くなる番だった。顔じゅうが火のように赤くなった。私は彼の狼狽《ろうばい》をみかねて大急ぎでいった。
「でもまだ、なんであのへんをちょうどうまい具合にぶらぶらしてらしたのかは話してくださってないわ」
「眠れなかったんだよ。落ち着かないんだ──何か起こりそうな気がして胸さわぎがしたんだ。それでとうとうボートに乗って岸まで行ってそれから滝のほうへ歩いて行った。そしてちょうどパーム谷の上まできたらきみの悲鳴が聞こえたんだよ」
「こんなとこまではるばる運んで来ないだってホテルに救援を求めればよかったじゃないの?」
彼はまた赤くなっていった。
「そりゃ越権行為だったかもしれないよ──だけどきみは今だってまだ危険を悟っていないらしいじゃないか! きみの友人たちに知らせればよかったっていうのかい? なるほど立派な友だちだよ、きみをおびき出して殺そうとしたんだからね。そうさ、ぼくはぼくこそ他の誰よりもよくきみを看護できると信じたんだ。この島へは他人は誰も来ない。きみの世話はバタニ婆さんが来てやってくれる。バタニは一度熱病を直してやったんだが忠実な女だ。きみがここに居ることを他人に洩らしたりするおそれはないんだ。だからぼくは、きみを何か月でもここにかくまっておくことができるんだよ、誰にも知られずにね」
ぼくはきみを何か月でもかくまっておくことができるんだよ、誰にも知られずにね! なんと嬉しい言葉なのだろう!
「あなたのなさったことはまちがってなかったわ」私は静かにいった。「あたしも誰にも知らせないことにするわ。いまさら一日や二日余計に心配させたって大した違いはありませんものね。やっぱりあの人たちはほんとの友だちじゃあないようだわ、ゆきずりの知り合いにすぎないんですもの。スザンヌだってそうなんだわ。それにしてもあの手紙を書いた人はずいぶんよく事情を知っていたのね! あれは外部の人間の仕事じゃなかったんだわ」
今度は全然赤面せずに手紙のことを口に出すことができた。
「きみがぼくの忠告をきいていう通りにする気があるなら……」彼はためらいながらいった。
「そんな気はないつもりよ」私はずけずけといった。「でもお話を聞くだけは聞いても悪いことはないわね」
「きみはいつも自分のしたいようにするのかい?」
「まあね」私は用心深くそう答えた。他の相手になら『あたりまえよ』と答えるところである。
「きみのだんなさまに同情するよ」彼は思いがけなくそういった。
「余計なお世話よ」私はいい返した。「あたしは好きで好きでたまらない人とでなきゃ結婚する気は毛頭ないんですから。それに女にとって、自分の好きじゃないことを愛する人のためにやってあげることほど楽しいことはないんですからね。ふだん身勝手な女ほどそういうものだわ」
「ぼくにはそうは思えないね。概して現実はその逆のようだぜ」
「おっしゃる通りよ」私はむきになって声を張りあげた。「だからこそ不幸な結婚が多いんじゃありませんか。それはみんな男性が悪いからなのよ。彼らは、女のいうなりになるか──そうすれば女は男を馬鹿にするわ──さもなきゃ完全に利己主義で我を通すばかりで決して『ありがとう』といわないか、そのどちらかなんだわ。自分の思い通りに奥さんを動かしておいてから、そうやってくれたことに対して大げさにありがたがってみせるのが利口な夫というものよ。女は支配されることが好きなの。だけど払った犠牲に対して感謝されなくちゃいやなのよ。ところが奥さんがいつでもあんまりいいと男はその良さに気がつかないのね。だからあたしは結婚したらふだんはうんと悪妻になっていて、時々だんなさまが全然思いもかけてないような時を狙って、あたしだってどんな良妻になれるかみせてやるつもりよ!」
ハリーは無遠慮にゲラゲラ笑った。
「さぞかし夫婦喧嘩が絶えないこったろうね」
「愛し合ってる者同士は喧嘩するものよ。なぜかというとお互いに相手をよくわかっていないからなの。よくわかったころにはすでに愛情はさめてるわ」
「その逆もまた真ですかね? 喧嘩ばかりしてる同士は愛し合っているのかな?」
「知ら──ないわ」私は一瞬あわてた。
彼は暖炉のほうを見てなにげない調子できいた。
「スープもう少し飲む?」
「ええ、いただくわ。とってもおなかがすいてカバだって食べかねないぐらい」
「そりゃよかった」
ハリーがせかせかと火加減をみているのをじっとみつめながら私は約束するような口調でいった。
「起きられるようになったらあなたのためにお料理してあげるわね」
「きみは料理のことなんてなんにも知らないのとちがうかい」
「罐から出してあたためるだけのことならあなたにひけはとらないわ」暖炉の上にずらりと並んだ罐詰の列を指さしながら私はいい返した。
「こりゃいかん」ハリーはそういって笑った。彼が笑うと表情がすっかり変わる。少年のような、幸福そうな顔になって別人のようだ。
私はスープをおいしく飲んだ。そして飲みながら、まだ私に対する忠告とやらを聞いていないといった。
「ああ、そうだった。ぼくがいおうとしたのはこういうことなんだ。もしぼくだったら体がすっかり元通りになるまでここにじっと隠れている。敵どもはきみは死んだものと思うだろう。死体がみつからなくたってべつに驚きはしないさ、岩に当たってこっぱみじんになった上、急流にさらわれたんだと思うだろうからね」
私は身震いした。
「体がすっかりよくなったらベイラまでそうっと行ってそこからイギリス行きの船にのって帰ればいいんだ」
「そんなふがいないこと」私はさげすむような声で反対した。
「やっぱりしょうのない女学生だな」
「女学生なんかじゃないわ」私は憤然として叫んだ。「あたしは一人前の女だわ」
私が興奮に頬を赤くして起きあがると彼はじっと私を見た。その顔には私にはおしはかることのできない表情が浮かんでいた。
「困ったな、ほんとにそうなんだ」ハリーはそう呟くとふいに部屋を出ていった。
私の回復は早かった。受けた傷は二か所で、頭を打ったことと腕をひどくねじったことだった。腕の方は重傷で最初はハリーも骨折していると思ったほどだった。しかしよく調べた結果、彼は骨折じゃないようだといった。そして、もちろんひどく痛みはしたけれど、どんどんよくなってしだいに使えるようになった。
奇妙な毎日だった。さながらアダムとイヴのように世間から隔絶されて二人っきりで暮していた。といってもアダムとイヴとはだいぶ違っていた! バタニがいたけれど犬がうろついているようなもので物の数には入らなかった。私は料理を作ることを主張し、片手でできる限りの料理をこしらえた。ハリーは外へ出かけていることが多かったが、それでも二人でシュロの葉かげに寝そべってしゃべったり喧嘩《けんか》したりしながら何時間も過ごすことがあった。高い青天井の下でいろいろなことを討論し、喧嘩してはまた仲直りした。私たちは実によくいい争いをしたが、その間に二人のあいだには、私には絶対不可能と思われていたほんとうの、不変の友情が芽生えていた。不変の友情とそして──その他にもなにかが……。
私が十分に回復してここを立ち去るべき時がしだいに近づいていた。それを思うと心は重かった。ハリーは私を行かせるつもりなのだろうか? 何もいわずに? それとなく何かいうこともしないで? 彼はじっと黙りこくっていたり、不機嫌になったり、つと立ちあがったかと思うとひとりで大股にどこかへ出かけて行ったりということが多くなった。ある夕方危機が訪れた。私たちは簡単な食事を終わって小屋の戸口に腰をおろしていた。太陽が沈みかけていた。
ヘヤピンは生活必需品だったがハリーもこればかりは用意してくれることができなかった。それで黒いまっすぐな私の髪は膝までたれていた。頬杖をついて瞑想にふけっていた私は、彼に見つめられているのを感じていた。
「そうやってると魔女みたいだよ、アン」ついに彼はいった。その声にはこれまで決して感じられなかった響きがあった。
彼は手をのばして私の髪に触った。私は身を震わせた。するとだしぬけに彼はちきしょうといって跳びあがった。
「きみはあした発《た》たなくちゃいけない、いいか?」彼は叫んだ。「おれは、おれはもうこれ以上堪えられない。おれは結局は一人の男にすぎないんだ。行かなくちゃいけないよ、アン。行かなくてはだめだ。きみだって馬鹿じゃない、いつまでもこんなことを続けていられないぐらいのことはわかるだろ」
「そうかもしれないわ。でも──楽しかったじゃないの、ちがう?」
「楽しいだって? 地獄だよ!」
「そんなにひどいかしら!」
「なんだってきみはそうおれを苦しめるんだ?なぜおれを嘲笑する? その髪の毛の中で笑いながらなぜそんなことを口にする?」
「笑ったりなんかしてないわ。嘲笑もしないわ。あたしにここに居て欲しくないとおっしゃるなら行きます。でもあなたがここにいて欲しいとおっしゃるなら──あたしは居ます」
「だめだ!」ハリーは激しく叫んだ。「だめだ。おれを誘惑しないでくれ、アン。おれがどんな人間かきみはほんとにわかっているのか? 二度も罪を犯した罪人なんだ。お尋《たず》ね者なんだ。ここではハリー・パーカーという名で通っている。みんなはこの国を旅行して歩いている男だと思っているんだが、いつかはあやしいと思いはじめるかもしれない。そうなったら危ない。アン、きみは若い、そして美しい──男を夢中にさせる美しさをもっている。世界はきみの前途にある──恋も人生もなにもかも。ぼくの人生は過ぎ去った──焼けただれ害《そこな》われてひと握りの無情な灰が残っているだけだ」
「あたしに居てほしくないのなら……」
「居てほしいことはわかっているくせに。きみは、ぼくがどんなにしてでもきみをしっかり掴まえて世間の目を逃れてここにおいておきたいと思ってることも知っている。知っていてきみはぼくを誘惑する。アン、その魔女のような長い髪と、口もとはたとえ厳粛でも絶えず笑っているその金色と茶と緑の眼とできみは誘惑する。しかしぼくはきみをきみ自身からもぼくからも救うつもりだよ。今夜行きたまえ。ベイラへ行くんだ、そして……」
「ベイラなんか行かないわ」
「行くんだ。どうあってもベイラへ行かせるよ、たとえ首に綱をつけてひっぱってでもベイラまでつれていって船にのせる。いったいぼくが堪えられると思うのか? きみが敵につかまりゃしないかと心配しながら毎晩毎晩眠らずに居られると思うのか? 僥倖《ぎょうこう》をたのみにするわけに行くものか。きみはイギリスへ帰らなくちゃいけないよ、アン。そして──そして結婚して幸せに暮したまえ」
「平和な家庭を与えてくれる堅実な男性とね!」
「まだましだろう──ひどい災難に遭《あ》うよりは」
「あなたはどうなるの?」
彼は厳しい、そして決然とした顔つきになっていった。
「ぼくにはここですぐにもやるべき仕事がある。それが何であるかは訊かないでくれ。きみには見当はつくだろうが。ただこれだけは教えよう、ぼくは汚名をそそぐつもりなのだ。命を賭けることになるかもしれない。そしてあの晩きみを殺そうと知恵をしぼった奴の息の根をとめてやる気だ」
「でも公平に考えなくちゃ。あの男は実際に手をくだしてあたしを突き落としたわけじゃないんですもの」
「そうする必要がなかったからさ。もっと巧妙な手口だったんだ。ぼくは後であの道へ行ってみた。べつだん変な点はないように見えたが、地面についている跡から察して、道のふちに並べてある石がいったんもち上げられて少しずれた場所に戻されているのがわかったんだよ。道のほんとの際《きわ》には丈の高い灌木が生えている。犯人は石をその灌木の上へそうっとのせたんだ、きみがまだ道の上を走っているつもりで実際は空中へ足を踏み出すという寸法さ。おれがその犯人をとっつかまえたらただではおかんぞ!」
彼はちょっと口をつぐんだがやがて全く違った調子でいった。
「これまでこういう話をしたことはなかったね、アン、そうだろう? しかしその時が来たんだ。きみに全部聞いてもらいたいんだ、そもそもの最初のところからね」
「昔のことをむし返すのがつらければ話さなくてもいいのよ」私は低い声でいった。
「しかし、きみには知ってほしいんだよ。ぼくの人生のその部分のことは生涯だれにも決して話すことはないと思っていたんだが、おかしいなあ、運命のいたずらということなのかな」
ハリーはしばらく無言でいた。すでに日は沈んで、ビロードのようなアフリカの夜の闇が私たちをマントのように包みはじめていた。
「少しはあたしも知ってるのよ」私はやさしくいった。
「どんなことを?」
「あなたの本名はハリー・ルーカスだっていうこと」
彼はまだためらっていた。私のほうは見ないでじっと前方をみつめていた。その心に何が去来しているのか私には見当もつかなかった。だがついに彼は彼自身の下した無言の裁断に従おうとするかのように強くうなずいた。そして話しはじめた。
第二十六章
「そうなんだ。ぼくの本名はハリー・ルーカスだよ。親父は退役軍人でローデシアへ来て農場をやっていたんだが、ぼくがケンブリッジの二年のときに死んだ」
「お父さまのこと好きだった?」私はふいにきいた。
「さあ──どうかな」
そういうと彼はパッと頬を染め、それから急に激情に駆られたように話し出した。
「いや、ぼくは親父を愛していたんだ。最後に会ったときはお互い激しいことをいい合った。ぼくがでたらめをやったり借金を作ったりするんでそのことで何度口論したか知れない。しかしぼくは親父のことを愛していたんだ。今になってどんな愛していたかわかったんだ、だがもう間に合わない」彼はおだやかな調子になって続けた。「彼に遭《あ》ったのはケンブリッジ時代だった……」
「アーズレイの息子さんね?」
「うん、アーズレイの息子だ。彼の親父はきみも知ってるように南アフリカでなかなかに腕をふるった人物だった。ぼくと友だちはすぐいっしょに放浪をはじめた。二人とも南アフリカが好きだという点で共通していたし、人跡未踏の地を訪れてみたいという趣味においても一致していたんだ。アーズレイはケンブリッジを出てから、父親と最後の喧嘩をした。というのは、父親はそれまでにすでに二回も息子の借金の尻ぬぐいをやっていたんだがもうこれ以上はご免だといったんだよ。親子の間に激しい言い争いが展開された。サー・ローレンスは、とうとう堪忍袋《かんにんぶくろ》の緒が切れて、今後はいっさいなにもしてやらぬと宣言したんだ。それでアーズレイは自力で暮さなければならなくなった。その結果、二人の青年がダイヤモンドを掘りあてようと南アフリカへ出かけたというわけだよ。今はそのことについては触れないが、とにかくわれわれ二人は南アフリカですばらしい毎日を送った。むろんずいぶん困難な目にはあったよ、しかしすてきな生活だった──生きるためにその日その日を一生懸命に苦労して暮した。そしてそこでおたがいを知ることができたのも幸いだった。南アフリカにいる間にわれわれ二人の間には生涯やぶられることのない友情が培《つちか》われていたんだよ。ところでレイス大佐からきみも聞いたとおり、ぼくたちは努力が実って遂に成功の栄冠をかちとった。英領ギアナのジャングルの奥に第二のキンバレーを発見したんだ。二人がどんなに得意であったかはとても口で伝えることなどできないぐらいだ。だが金に評価して喜んだというのではないんだよ、わかるだろう、アーズレイは金なんか珍しくない男だし、第一父親が死ねば自分が億万長者になれることも知っていた。一方ルーカスは昔から貧乏で貧乏には慣れっこになっていた。そうとも、それは純粋に新発見の喜びだったんだ」
ハリーは言葉を切った。そしてまるで弁解でもするような調子でいった。
「こんな話しかたをして気にさわる? ぼくはまるで他人事みたいに話してるが、今こうしてふり返ってみるとそういう気になるんだよ。その二人の青年のうちの一人がハリー・レイバーンだったってことをほとんど忘れているんだ」
「どんなふうでもあなたのお好きなように話してちょうだい」私がそういうと彼は先を続けた。
「ぼくたち二人は意気揚々としてキンバレーへやってきた。専門家に鑑定してもらうためにすばらしいやつをいくつか選んで持ってね。そのとき、キンバレーのホテルで──ぼくたちは彼女に遭った……」
私は思わず身を固くした。そして戸口の柱に触れていた手に無意識に力が入った。
「アニタ・グリュンバーグ──という名だった。女優で、若くて凄い美人だった。南アフリカ生まれだが、たしか母親はハンガリー人だったと思う。彼女にはなんとなく謎を秘めているような雰囲気があり、それが未開地から帰ったばかりの二人の青年をいっそう惹きつける結果となったんだ。あの女にとっては赤児の手をひねるようないともたやすい仕事だったにちがいないさ。われわれは二人ともたちまち彼女の魅惑のとりこになってしまった。そして二人とも苦しい思いをした。二人の間にはじめて翳《かげ》がさした、といってもその時でさえ友情はいささかもゆがめられはしなかったのだ。ぼくたちはお互いに相手のためならば喜んで身を引いて声援をおくろうとした。ほんとうだよ。しかし彼女の意図はそんなところにはなかったのだ。サー・ローレンス・アーズレイのひとり息子なら結婚の相手として不足はないはずだ。それなのに彼女にそういう気がないというのは不思議だとぼくはその後たびたび思ったものだ。だが真相は彼女は人妻であったのだ、相手はデビアスの鑑別師だ。むろん誰もそんなことは知らなかったんだがね。彼女はわれわれの発見に大いに関心があるような顔をしたので、ぼくたちはその発見の経緯を話してきかせ、ダイヤモンドも見せてしまったんだ。デリラだよ──あの女はそういう名前であるべきだったんだ。そしてあの女は見事にその役を演じたのだ!
デビアスで盗難があったことがわかると突然警官がわれわれのところへやってきた。まさに青天の霹靂《へきれき》だった。そしてわれわれのダイヤモンドをおさえたのだが、あまりにも馬鹿馬鹿しい話だったからぼくたちは一笑に付していた。ところがそれらのダイヤモンドが法廷にもち出されてみると、それが紛うかたなくデビアスで盗まれたダイヤモンドであったのだ。アニタ・グリュンバーグは姿をくらましていた。彼女が見事すりかえてしまっていたのだ。われわれは、それらのダイヤモンドがぼくたちが最初に持っていたものとは違うことをいくら力説しても嘲笑をかうばかりだった。
サー・ローレンス・アーズレイは多大な勢力をもっていたから訴訟をとりさげることはできた。しかしあたら二人の若い青年が一生をめちゃめちゃにされ、盗人《ぬすっと》の汚名をきせられるという恥辱をうけたのだ。そして老人の心はうちのめされた。彼は息子と一度だけ悲痛な会見をし、考えつく限りの非難の言葉を浴びせた。家名を救うために彼はすでにできるだけの手はうってあった。しかしその日を最後に彼の息子はもはや彼の息子ではなくなった。完全に息子を見捨てたのだ。そして息子のほうは、自尊心の強い若者の愚かさから、自分を信じてくれようとしない父親にあえて無実を訴えることは潔《いさぎよ》しとしないで、ひとことの弁解もしなかった。彼はその会見の部屋から怒りに身を震わせて出てきた。友だちが待ちうけていた。一週間後戦争が勃発し、二人の友は相携えて志願した。そしてどうなったかはきみも知っているとおりだ。親友は戦死した、といっても半ばは彼自身の狂気じみた無謀さに駆りたてられて不必要な危険に突進していったからだ。汚名を雪《そそ》がぬまま彼は死んだ……。
アン、誓っていうが、ぼくがあの女に対してこれほどまでに激しい怨みを抱くのは彼ゆえになんだよ。彼のほうがぼくよりももっと真剣だったんだ。ぼくも一時は夢中であの女を愛した、時には激しい愛情で彼女をおびやかしたことさえあったろう──だが彼の場合はもっと静かな、深い感情であったのだ。彼女は彼の世界の中心であったんだ、だからその裏切りは彼の命を根こそぎにしたも同然だった。打撃はあまりに大きく、彼は呆然自失した」
ハリーはちょっと黙った。そして、一、二分のちまた話しはじめた。
「きみも知っているようにぼくは『行方不明、戦死と推定』と伝えられた。ぼくはその誤りを正そうともしなかった。そしてパーカーと名乗り、昔からよく知っていたこの島へ来たんだ。戦争の始めのころは必ずや無実を証明してみせるという強い気持を抱いていたぼくだったが、すでにもうそんな意気ごみは消えていた。そんなことをしてなんになる? という気持しかなかったんだ。親友は死んでしまった。そして彼の身内もぼくの身内も死んでしまってだれひとりぼくの身を案じてくれるわけではない。ぼく自身も死んだものと思われているのだ、それならそう思わせておけばいいではないか。ぼくはここへ来て幸福でもない不幸でもない平和な生活を送っていた──すべての感情に無感覚になっていたんだ。そのときは気がつかなかったけれど、今考えてみるとそれは半分は戦争というもののせいだと思うんだ。
そんな暮しをしているとき、ある日再びぼくの感情をよびさますようなことが起きた。ぼくは一団の見物客をボートに乗せて河を案内することになり、桟橋に立って客たちが乗りこむのに手をかしていた。そのとき客の一人がアッと驚いたような声を出した。そちらのほうを見ると、声の主はあご髯を生やした小柄の痩せた男で、まるでぼくが幽霊ででもあるかのようにぼくの顔を穴のあくほど見つめている。ひどく驚いている様子なのでふしぎに思い、あとでホテルへ行ってきいてみた。男はカートンといい、キンバレーからきた客でデビアスのダイヤモンド鑑別師だということがわかった。とたんにかつての不当な扱いに対する怒りの念が再びむらむらと燃えあがった。ぼくは島を出てキンバレーへ行った。
しかしその男についての詳しいことはよくわからなかった。それでついに是が非でもその男と会ってやろうと決心した。ぼくは拳銃をもって出かけた。相手が小心者であることはこの前ちょっと見ただけでわかっていた。むこうがぼくを恐れていることは顔を合わせたとたんに見てとれたから、ぼくはすっかり泥を吐かせた。奴はデビアスのダイヤモンド泥棒に加担した一人で、アニタ・グリュンバーグはその妻だったのだ。彼はぼくたち二人があの女といっしょにホテルで食事をしているのを見かけたことがあったんだそうだ。その後ぼくが戦死したというふうに新聞で読んでいたからヴィクトリア滝でピンピンしているぼくを見かけてひどく驚いたというわけだ。アニタとはごく若いときに結婚したんだがまもなく彼女は離れていった。カートンによれば、ある悪党に近づいていたんだそうだ、そしてぼくは『隊長《ボス》』のことをそのときはじめて耳にしたんだ。カートンは、自分自身はこの事件以外は絶対にどの事件にも関係していないとまじめで断言したが、ぼくもそういう気がした。奴はどう見ても巧妙な犯罪者という柄ではなかったからね。
しかしまだ何か隠しているなという気がしたから、ためしてやろうと思って、おれは捨身だ、白状しないならこの場で射ち殺すぞ、とおどかした。奴は恐怖のあまり半狂乱になってさらに詳しい話をした。それによるとアニタ・グリュンバーグは『隊長《ボス》』をあなどっていたらしい。ホテルでぼくたちのダイヤモンドをとって彼に全部渡すふりをしてその実一部分をくすねたのだ。そのときどれをとったらいいかを教えたのがカートンだ。いつでもそれさえもち出せば、すぐ見分けがつくような色や質のものばかりを選び、従って、デビアスの専門家が見ればすぐ、それらの石はデビアスのものでないことはわかるというわけだ。これで、ダイヤモンドはすりかえられたのだというぼくの主張にも裏づけができ、汚名は雪《そそ》がれ、嫌疑はしかるべき方向へ転じられることになるわけだ。ぼくはこの事件に限って『隊長《ボス》』はいつものやりくちとちがって彼自身手をくだしているらしいと察した。だからこそアニタは必要とあればいつでも彼を脅迫することができると喜んでいたのだ。それでカートンはぼくにアニタ・グリュンバーグ──いやそのころはもうナディナと称していたが──と取り引きをしろとすすめた。相当な額を出すといえばあのダイヤモンドを手放してかつての雇い主を裏切るだろう、というのだ。カートンはすぐ彼女に電報を打つといった。
だがぼくはまだカートンを疑っていた。ああいう男はおどかすのは簡単だがおどかされると怖じけづいたあまりにやたらと嘘をつくものだ。そうなるとどこまでが本当なのか見分けるのは容易じゃない。ぼくはホテルへ帰って待っていたが、翌日の夕方もう電報の返事を受けとったころだろうと思ったから彼の家へ行ってみた。するとカートン氏は今留守だが明日は戻ります、といわれた。とたんに疑念がわいた。そしてすぐさま、彼が二日後にケープタウンを出るキルモーデン・カースル号でイギリスへ行こうとしていることを探り出した。ぼくはケープタウンまで辿りつき、同じ船にかろうじて間に合った。
しかし船の上でカートンの前に姿を現わして驚かせるようなことはしたくなかった。ぼくはケンブリッジ時代ずいぶん演劇をやったから、あご髯を生やしたしかつめらしい中年の紳士に化けるぐらいのことは簡単にできた。そして病気と称してなるべく船室に閉じこもり、カートンに会わないようにしていた。
ロンドンへ着いてからはあとを尾《つ》けるのは難しいことではなかった。カートンはまっすぐホテルへ行き、そのまま外出しなかったが翌日の一時ちょっと前にホテルを出た。尾けて行くと、ナイツブリッジの不動産屋へ直行し、テムズ河畔の貸家をあれこれ物色しはじめた。それでぼくも隣のテーブルへ坐って貸家のことを訊ねているとふいにアニタ・グリュンバーグ、いやナディナでもいいが、とにかくあの女が入ってきた。華やかで、尊大で、そして以前に劣らず美しかった。ちきしょう! ぼくはどんなにその女を憎んだかわからない。ぼくの一生を──そしてぼくよりももっと優れた一生をメチャクチャにした女が今そこに居る。今ここで彼女の首に手をかけ、じわじわと絞め殺すことだってできるのだ! しばしの間ぼくは怒りにふるえていた。周旋屋の言葉など耳に入らなかった。やがてあの女の甲高い、はっきりした声が聞こえた。大げさに外国|訛《なまり》をひびかせてこういっていた。『マーロウのミルハウスね、サー・ユースタス・ペドラーの持ち家なのね。あたしの希望に合いそうな感じだわ、とにかく行って見ることにしましょう』
紹介状を書いてもらうと、彼女は例の尊大な様子で店を出ていった。カートンには言葉もかけず合図もせず気がつかないふうだったが、ぼくは、きっとここでおちあうよう前から手はずがととのっていたにちがいないと確信した。そして一足とびに結論にとびついた。サー・ユースタスがカンヌに滞在中とは知らなかったから、ぼくはこの家探しはミルハウスで彼と会うための口実にすぎないのだと考えた。デビアスの盗難事件当時サー・ユースタスが南アフリカに居たことも知っていたから、彼に面識のないぼくはサー・ユースタスこそ音にきく謎の『隊長《ボス》』にちがいないと速断したんだ。
ぼくはカートンとナディナをずっと尾けた。ナディナはハイドパーク・ホテルに入ったのでこちらも急ぎ足になってホテルへ入ってみると彼女はまっすぐ食堂へ行った。しかし今あの女にみつかってはまずいと思ったからカートンのほうの尾行を続けることにした。ぼくは、カートンはあのダイヤモンドをとりに行くのだろうと考えた。そして思いもかけていない時にいきなりぼくが目の前に現われたら驚愕のあまり真実をしゃべるかもしれないと期待し、あとを尾《つ》けて地下鉄のハイドパーク・コーナー駅へ入った。カートンはホームの端にひとりで立っていた。近くには若い女がいたが他には誰も居なかった。ぼくは今こそそばへ行って話しかける時だと判断した。そしてどうなったかはきみも知っているね。南アフリカに居るとばかり思っていた男がふいに現われたのを見たショックは大きく、奴は度を失ってあとずさりし、線路へ落ちた。やっぱり小心者だったんだ。ぼくは医者のふりをして奴のポケットを探った。札が少し入った財布とつまらぬ手紙が一、二通とフィルムが一本あったが、フィルムはその後どこかで落っことしたらしい。それからキルモーデン・カースル号上で二十二日に会う約束を記した紙きれがあった。誰かに引きとめられたりしないうちに早く逃げ出さなくてはとあせって急いだので、その紙きれも落としてしまったらしい。しかし幸い数字は覚えていた。
ぼくは手近の洗面所にかけこんで急いで変装を解いた。死んだ男の懐中物を狙ったかどで捕まったりしては大変だからだ。それからまたハイドパーク・ホテルへ戻ってみると、ナディナはまだ昼食の最中だった。マーロウまでどうやってあの女のあとを尾《つ》けたかは話す必要もないと思う。彼女はミルハウスに入って行った。それで門番の女に彼女の連れだと偽ってぼくも中に入った」
ハリーは言葉をきった。緊張した沈黙がみなぎった。
「ぼくを信じてくれるね、アン? ぼくが今いおうとしていることは誓って真実なんだ。ぼくはたしかに殺意に近いものを胸に秘めてあの女のあとから家に入った──ところがあの女は死んでいたんだ! 二階でそれを見つけた──ああ! 恐ろしいことだった。死んでいる、しかもあの女が家に入ってからぼくが入るまで三分とたっていなかったんだ。しかも家の中には他に誰一人居る気配もなかった! むろんぼくは自分がただならぬ立場におかれていることにすぐ気づいた。脅迫されていた男は秀れた機略によって脅迫者を見事とり除き、しかも同時に、罪を被せるべき犠牲者を用意していたのだ。『隊長《ボス》』のやったことにちがいなかった。またしてもぼくは彼の犠牲にされた。やすやすと彼の罠《わな》におちこんだとは全く馬鹿だった!
とにかく無我夢中だった。どうにか何気ないふりを装ってその付近から離れることはできたものの、殺人がじきに発見され、直ちにぼくの人相書が全国に手配されるにちがいないことはよくわかっていた。だから数日の間は潜行して時機をうかがっていたが、やがてついにチャンスが到来した。往来で二人の中年の紳士の会話を小耳にはさんだ。そのうちの一人がサー・ユースタス・ペドラーだとわかると、ぼくはすぐ秘書として彼に雇われようと考えた。そのころには、小耳にはさんだ彼らの会話から推察して、サー・ユースタス・ペドラーが例の『隊長《ボス》』であるとは思えなくなってきていた。彼の家が会合の場所に選ばれたのは偶然のことだったのかもしれないし、あるいはぼくにはわからない何かわけがあったのかも知れないんだ」
「パジェットがその殺人のあった日にマーロウに居たことはご存じ?」私は口をはさんだ。
「そうだとするとつじつまが合う。ぼくはまた、奴はサー・ユースタスといっしょにカンヌに居たんだと思ってたよ」
「フィレンツェに居たことになってるの。ところがあの男、フィレンツェになんか行ったことすらないのよ。そうじゃなくてマーロウに居たんだとあたしは確信できるの、もちろん証明はできませんけどね」
「ぼくだって、きみを海へ投げこもうとしたあの晩まではパジェットがあやしい奴だなんて思いもしなかったんだから、あいつ大した役者なんだなあ」
「ほんとよ、ねえ?」
「それでわかったよ、なぜミルハウスが選ばれたのか。おそらくパジェットなら誰にも知られずにあの家へ出たり入ったりできるだろうものね。奴は、ぼくがサー・ユースタスにくっついて船でアフリカへ来ることに少しも反対を唱えなかったにちがいないよ、奴としたらぼくがすぐ逮捕されては困るからさ。いいかい、ナディナはあの約束の場所へ確かにダイヤモンドを持っては来なかったんだ、奴らは彼女が持って来るものと期待してたんだろうがね。ぼくはね、実際に持っていたのはカートンだと思うんだ、そしてカートンはそのダイヤモンドをキルモーデン・カースル号のどこかに隠したんじゃないのかな──ここで彼が関係してくるわけさ。ところで敵は、ダイヤモンドがどこにあるかについてぼくがなんらかの鍵を握っているんじゃないかと期待したんだ、なにしろあのダイヤモンドを奪《と》り返さない限り『隊長《ボス》』の身は危いわけだからね。だからどんな犠牲を払ってでも奪い返そうとやっきになっているわけだ。カートンだとしたら、あいつ、いったいどこへ隠しやがったのかなあ」
「それはまた別のお話なのよ、あたしのお話。こんどはあたしが話す番だわ」
第二十七章
これまで書き綴ってきた出来事をすべて私が詳しく語って聞かせているあいだ、ハリーは一心に耳を傾けて聞いていた。彼を一番びっくりさせたのは、件《くだん》のダイヤモンドが終始私の──というよりはスザンヌの手許にあったという事実であった。それは彼が思ってもみないことだった。ハリーの話を聞いた私は、むろん、カートンの小細工の意義を悟った。いやカートンのというよりはナディナの、というべきだろう。なぜならその計画を思いついたのは彼女の頭脳であったにちがいないのだから。ナディナなりその夫なりに対してたとえどんな不意打ちの策略を用いたところで、彼らからダイヤモンドをまきあげることはできなかったわけである。その秘密は彼女の頭の中に秘められていたのだ。そして『隊長《ボス》』も、よもやそのダイヤモンドが一介の船のボーイに託されていようとは思い及ばなかっただろう!
ハリーのダイヤモンド泥棒の汚名はこれで雪辱できる見通しがついたようなものであった。しかしナディナ殺しというもっと重大な嫌疑をかけられていることを思うと、どうしようにも手も足も出なかった。なにしろ今のままではハリーは名乗り出て潔白を証明することができないのだから。彼と私とはあれやこれやと話し合ったが結局行きつくところは『隊長《ボス》』とはいったい誰なのか、ということだった。ガイ・パジェットなのだろうか、そうではないのだろうか?
「奴が『隊長《ボス》』だといいたいところだが一つだけおかしなことがある」ハリーがいった。「マーロウでアニタを殺したのがパジェットだということはまず間違いないと思うんだ。そしてそうだとすると、彼が『隊長《ボス》』であるという仮定が一段と真実味を帯びてくる、なぜかといえばアニタの用件は手下の者とかけ合うような性質のものじゃないからね。しかし──この推測に矛盾することが一つだけある。つまりきみがここへ着いた晩きみを殺そうとしたことだ。きみはパジェットがケープタウンに残ったのを見届けてるわけだろ、とすると奴はどんなことをしたって次の水曜日まではここへ来れるわけがないんだ。アフリカのこんなところまで手先をおいているとは思えないし、第一奴の計画はすべてきみをケープタウンの中でなんとか処理してしまうように仕組まれていたんだからねえ。もちろんヨハネスブルグにいる部下にでも無線で指示を送って、その部下がマフィキングでローデシア行きの汽車に乗りこんだということも考えられるけれど、それにしてもそうするについては、ああいう手紙を場合によっては書けということまではっきり指示しなけりゃいけなかっただろうし、おかしいと思うんだ」
ハリーと私はしばらくの間黙って坐っていた。やがて彼がまた話し出した。「きみがホテルをぬけ出すとき、ブレア夫人は眠ってたっていったね? それからサー・ユースタスがペティグルー嬢に口述している声を聞いたといったね?じゃレイス大佐はどこに居たんだ?」
「どこ探しても居なかったの」
「大佐には、きみとぼくが親密な間柄かもしれないと考えるだけのなにか根拠があったと思うかい?」
「あるいはね」マトポス山からの帰途大佐と交した会話を思い出して私は考えこみながらいった。「レイス大佐ってなかなか人を制する力のある人物よ、でもあたしの考えてる『隊長《ボス》』とは全然違うわ。それに、いずれにせよ彼が『隊長《ボス》』だなんてわけないと思うわ、あのひと秘密警察の人間なんですもの」
「秘密警察の人間だなんてどうしてわかる? そういった類《たぐい》のことを暗に仄《ほのめ》かすほど簡単なことはないじゃないか。誰一人|反駁《はんばく》できないわけだし、そのうちに噂がひろまってみんなが絶対の真実だと思いこむようになる。秘密警察に関係しているとあればどんな不審な行動をとろうといいわけには困らないだろうじゃないか。アン、きみはレイスを好きかい?」
「好き──でもあるし、嫌いでもあるわ、だってあたしあのひとに反撥を感じると同時に惹きつけられてもしまうんですもの。ただね、一つだけわかってることは、常にあたしは大佐をなんとなく恐れているっていうことよ」
「きみも知ってるように、キンバレーの盗難事件当時彼は南アフリカに居たんだよ」
「でもスザンヌに『隊長《ボス》』の話を詳しくしたり、彼をつかまえようとしてパリで活躍した話をしたりしたのは大佐なのよ」
「カムフラージュさ、巧妙きわまるところのね」
「それじゃパジェットはどうなるの? レイスの手下ってわけ?」
「おそらく」ハリーはおし出すようにいった。「パジェットは事件には全然関係ないんじゃないかな」
「なんですって?」
「思い出してみてくれないか、アン。きみはキルモーデン号のあの晩のことについてパジェット自身の釈明を聞いたかい?」
「ええ──サー・ユースタスを通してだけど」私がその話をもう一度するのをハリーは注意深く聞いていた。
「サー・ユースタスの部屋の方から男が来るのを見た、そしてそのあとを追って甲板へ出た、と奴がいったというんだね? そこで、サー・ユースタスのむかいの部屋は誰のかというと、レイス大佐の部屋だ。かりに甲板へ忍び出たのがレイス大佐であるとしよう、そしてきみをやっつけそこねて逃げ出し、甲板をぐるっと回ったところでちょうど食堂の出口から出てきたパジェットに出くわしたんでなぐり倒して自分は食堂へとびこんでドアを閉めた。従ってそこへかけつけたぼくたちが発見したのは倒れているパジェットだった、というのはどうだろう?」
「だってパジェットはあなたになぐられたってはっきりいってるのよ」
「うん、しかし意識をとり戻したときに見えたのが遠ざかっていくぼくの姿だったとすればどうだろう、なぐったのはぼくだと思いこんでしまうんじゃないかな。殊に、サー・ユースタスの部屋の方からきたあやしい奴をずっとぼくだと思って尾《つ》けてきたんだからね」
「そうも考えられるわね、たしかに」私は考えながらいった。「でもそうなると考えをすっかり改めなくちゃいけなくなるわ。それにまだ他にもつじつまの合わないところが出てくるわよ」
「たいがいのことは説明がつけられるさ。例えば、ケープタウンできみを尾けてきた男がパジェットに話しかけた、するとパジェットが時計を見たっていうのだってただ時間を訊いただけのことかも知れないよ」
「つまり偶然の一致にすぎないっていうの?」
「というのとも違う。この事件にはパジェットに関連して一貫したある法則があると思うんだ。なぜ殺人の場所としてミルハウスが選ばれたんだろう。それはダイヤモンドが盗まれた当時パジェットがキンバレーに居たからではないのかな? ほんとはパジェットが罪をなすりつけられることになっていたのではないかな、そこへぼくが飛んで火に入る夏の虫のごとくに現われたというわけだ」
「それじゃあなたは、パジェットは全く潔白かもしれないと思うの?」
「そんな気がするんだ。しかしもしそうだとすると、彼がマーロウで何をしていたのかを探り出さなくちゃならないね。奴がちゃんとした理由を説明できるようならぼくたちの方針は正しいといえるわけだよ」
ハリーは立ちあがった。
「もう十二時過ぎだ、中へ入りなさい、アン、そして少し眠るんだ。夜明け前にぼくがボートで連れてってあげるよ。リヴィングストンで汽車に乗らなくちゃいけないんだが、あそこには友だちがいるから汽車が出るまできみをかくまってくれると思うんだ。そこからブラワヨまで行って今度はベイラ行きの汽車に乗るんだよ。リヴィングストンの友だちに頼めば、ホテルの様子もきみの仲間の連中はどうしたかってことも探り出せるしね」
「ベイラ」私は思いに沈みながらいった。
「そうだよ、アン、きみのすることはベイラへ行くことだよ。これは男の仕事だ、ぼくに任せておけばいいんだ」
形勢を論議しあっているあいだ一時忘れていた感情が再び私たちを襲った。二人はおたがいの顔を見ることすらしなかった。
「わかったわよ」私はそういうと小屋の中へ行った。そして動物の皮で覆った寝台に横になったが眠れなかった。その長い暗闇の数時間のあいだ、外でハリー・レイバーンが行きつ戻りつ歩いている足音がずっと聞こえていた。ついに彼が声をかけた。
「さあ、アン、出かける時間だよ」
私は起きておとなしく外へ出た。まだまっ暗だったが私は夜明けが近いことを知っていた。
「カヌーで行くことにしよう。モーターボートじゃなく……」ハリーはそういいかけてふいに口をつぐみ、制するように手をあげた。
「しっ! なんの音だ?」
私は聞き耳を立てた、だが何も聞こえなかった。しかし未開の地に長く住んでいるハリーの耳は私よりも鋭いのだろう。やがて私の耳にも聞こえてきた──水をかく櫂《かい》の音がかすかに右岸の方角から聞こえてくる、しかもわれわれの島の小さな船つき場めがけてまっしぐらに近づいてくるようだ。
ハリーと私は闇の中に目をこらした。水面上に黒い影がぼんやりと認められた。ボートだ。その時パッと焔があがってすぐ消えた、誰かがマッチをすったのだ。その光で私は一つの人影を見分けた──ミューゼンバーグの家に居た赤髯《あかひげ》のオランダ人だった。あとはぜんぶ原地人だった。
「早く、中へ入るんだ」
ハリーは私を小屋へ押しこみながら自分も入ると壁からライフル銃を二梃と拳銃をはずした。
「ライフルに弾丸《たま》をこめるのできるかい?」
「やったことないわ、やり方教えて」
私は説明を充分のみこんだ。二人で戸口の方へより、ハリーは船つき場の見える窓の横に立った。ボートはもう船つき場に横づけになろうとしていた。
「誰だ?」ハリーがよく通る声で叫んだ。
訪問者の意図はたちまち読みとれた。小さな弾丸《たま》が雨あられと飛んできた。幸い二人とも命中しなかった。ハリーがライフルを構えた。ライフルはすさまじい勢いで火を吹いた。うめき声が二度ばかり聞こえ、水がはねかえる音がした。
「これで少しは思い知ったろう」ハリーは冷やかにそう呟きながらもう一つのライフル銃を手にとった。「アン、頼むからちゃんと後へさがっててくれ。そして手早く弾丸《たま》をつめてくれ」
またしても弾丸がとんできた。一発がハリーの頬をかすった。彼の反撃は敵の攻撃をしのぐすさまじさだった。私は彼がふりむくと弾丸をこめ直して手渡した。その時ハリーは左の腕で私を抱きよせて一度だけあらあらしくキスをしてまた窓の方へ向きなおった。やがてふいに彼は叫んだ。
「退散していくよ、猛攻撃をくらったからな。こっちにとっては彼らは河のまん中でいい標的だったが、むこうさまからはこちらに何人いるのやら見えないものね。しかしいったんは退散してもまた来るにちがいない、それに備えて用心してなくてはならないよ」彼はライフルをほうり出すと私の方へむき直った。
「アン! きみはきれいだ! すてきだ! かわいい女王さまだよ! きみは勇敢だ。黒髪の魔女!」
ハリーは私を抱きすくめて髪の毛に、目に、唇にキスをした。
「さ、仕事だ」突然私をつきはなして彼はいった。「この灯油のかんをみんな外へ出してくれないか」
私はいわれたようにした。彼は小屋の中でなにかせっせとやっていたが、やがて何やら抱えて屋根へ上って行くのが見えた。そしてまもなく降りてきた。
「ボートのところへ行ってなさい、この島の反対側へボートをもってかなくちゃいけないからね」
彼が灯油のかんをもちあげるのを見ながら私はボートの方へ行った。
「またやって来たわ」むかい側の岸からぼんやりとした影がやって来るのを見つけた私はそっとハリーに声をかけた。ハリーは駈けよってきた。
「どうにか間に合ったよ。あれ、ボートはどこへ行ったんだ?」
舟は二隻ともともづなが切れて波に漂っていた。ハリーは低く口笛をならしていった。
「窮地に陥ったんだよ、きみ。だいじょうぶかい?」
「あなたと一緒なら平気」
「ああ、しかし死なばもろともといったところであまり愉快なことじゃないぜ。も少し気の利いたことをやろう。いいかい、奴らは今度は二隻のボートで二た手に分れて上陸しようという魂胆《こんたん》だ。そこでちょっとした舞台効果をお目にかけるとしようか」
ハリーがそういったとたん、小屋からボーッとひとすじの火の手があがった。抱き合ってうずくまっている二つの影が屋根の上に照らし出された。
「古い服にボロをつめたんだよ。あれでちょっとの間は奴らをだませるだろうと思うんだ。さあ、アン、こうなったら死物狂いだよ」
手に手をとって二人は駈け出し、島の反対側へまわった。ここだと島とむこう岸とをへだてているものは細い流れだけであった。
「むこう岸まで泳がなくちゃならないんだが、きみは泳げるのかい? なに泳げなくたってかまわないさ、ぼくがむこう岸まで渡らしてやるよ。こちら側はボートむきじゃないんだ、岩がごろごろしてるからね。だけど泳ぐにはむいてるし、リヴィングストンへ行くにも好都合なんだよ」
「少しぐらいは泳げるのよ──これぐらいはらくだわ。でもなんか危険なことでもあるの、ハリー? サメ?」ハリーがまじめな顔つきをしているので私はそうきいた。
「いや、馬鹿だなあ、サメってのは海にいるもんだよ。しかしきみは勘がいいな、アン、ワニなんだよ、問題は」
「ワニ?」
「うん、考えないことにするんだな。でなかったらお祈りでも唱えるか、どっちでも好きなようにしたまえ」
二人はとびこんだ。無事むこう岸へたどりついたところをみると私のお祈りは効きめがあったとみえる。二人は濡《ぬ》れねずみになって岸へ這いあがり、ボタボタ滴《しずく》をたらして立っていた。
「さて今度はリヴィングストンだ。これはいささか辛い行軍だよ、第一ずぶ濡れだからよけい難儀するだろう。しかしやめるわけにはいかないことだ」
まさに悪夢のような行軍だった。濡れたスカートは足にまつわりつき、ストッキングはいばらにひっかかってたちまち破れてしまった。精も根も尽き果ててとうとう私は立ちどまってしまった。先に立って歩いていたハリーが戻ってきていった。
「辛抱するんだよ。ぼくがしばらく運んでやろう」
とにかくそうやって石炭袋のように彼の肩にかつがれて私はリヴィングストンへついたのだった。あの道のりをハリーがどうやって耐えてきたのかはわからない。夜が明けかけて最初の光がほのかにさしはじめたところだった。ハリーの友人というのは民芸品の店を経営しているまだ二十歳の若い男だった。ネッドという名前だった。おそらく別にちゃんとした名前があるのだろうが私はついぞ聞かなかった。彼は、ボタボタと滴をたらしたハリーが同様に滴をたらしている女の手をひいてズカズカ入って行ってもいっこうに驚いた様子もなかった。男というものは全くすばらしい。
ネッドは私たちに食べるものをくれ、熱いコーヒーを入れてくれた。そして濡れた服も乾かしてくれた。その間私たちはけばけばしい色の毛布にくるまっていた。サー・ユースタスの一行がその後どうしたか、また一行のうちの一人でもまだホテルに滞在しているかどうかを聞き出しにネッドが出かけたあいだ、私たちは裏手の小さな部屋に居た。そこなら他人に見られる心配はなかった。
私がハリーに、何がどうあろうとベイラへ行く気はないことを伝えたのはその時だった。いずれにせよ最初から行く気はなかったのだが、殊にこうなった以上ベイラへ行かなければならぬ理由はことごとくなくなってしまったわけである。ベイラ行きの根拠は、敵が私は死んだものと信じているという点にあったのだ。死んでいないことを彼らが知ったとあれば、ベイラへ行くことは決して得策とはいえないだろう。敵は容易に私を追いかけてきて秘かに殺すことができる。そうなっても私には誰一人守ってくれる人がないのだ。そういうわけでついに、今スザンヌがどこに居ようと私は彼女といっしょになる。そして全力をあげて自分の身を防御するということに話が決まった。どんなことがあっても冒険に挑《いど》んだり、『隊長《ボス》』を仕とめようと力んだりは決してしないということになった。
私はスザンヌのそばに居て、ハリーから指示のあるのをおとなしく待っていることになった。ダイヤモンドはパーカーの名でキンバレーの銀行に預けることにした。
「まだ問題があるわ」私は考えこみながらいった。「あたしたちなにか暗号のようなものでもつくらなくちゃ。また偽《に》せの手紙に騙《だま》されるのは困るわ」
「それはわけないさ。ほんとうのぼくの出す手紙には必ず『そして』という字を棒で抹消したのを書いておくことにするよ」
「この商標のないものはすべて偽《に》せものです、というわけね」私は呟いた。「でも、電報のときは?」
「ぼくからの電報には必ず『アンディ』と署名する」
「もうすぐ汽車が入るよ、ハリー」ネッドが顔を出してそういい、すぐまた行ってしまった。私は立ちあがった。そしてすまして訊いた。
「それであたしはまじめないい男性がみつかったら結婚するのね?」
ハリーはつかつかとつめよってきていった。
「なんだと! アン、もしぼく以外の男なんかと結婚したらそいつの首の骨をへし折ってやるからな。そしてきみのことは……」
「いいわよ」
「ひっさらってあざだらけになるほどぶちのめしてやる!」
「わたしもなんていい旦那さまを選んだものでしょうね。それもひと晩のうちに気が変わったりしない人をね!」私は皮肉るようにいった。
第二十八章
──サー・ユースタス・ペドラーの日記より抜萃
前にも一度書いたと思うが、元来わたしは平和を好む男なのである。わたしは平穏な生活に憧れている。ところがそれこそまさにわたしには叶《かな》えられない望みであるらしいのだ。絶えず騒動に巻きこまれたり慌てさせられたりという有様だ。年中陰謀を嗅《か》ぎつけてばかりいるパジェットから解放されてどんなにホッとしていることか。それにペティグルー嬢はなかなかに有能な人物だ。艶麗《えんれい》な美女とはお義理にもいえないが、彼女のもついくつかのたしなみは貴重なものだ。ブラワヨでわたしが少々|癇癪《かんしゃく》を起こし、その結果熊のごとくに粗暴にふるまったことは事実である。しかしそれというのも前の晩汽車の中で安眠を妨げられたからなのだ。午前三時に西部劇の主人公とも見紛う、寸分のすきもない服装をした若い男がわたしの部屋へ入ってきてどこへ行くところかと訊いた。『お茶をくれ、たのむから砂糖は入れないでな』とわたしがムニャムニャ呟いたのを無視して、その男は同じ質問をくりかえした。そして自分は給仕ではなくて移民局の役人だということを強調した。わたしはやっとのことで伝染病にはかかっていないこと、ローデシアへ行くのだが不純な動機は全くないことを納得させることができた。更に完全な洗礼名と出生地を教えてやってご満足ねがった。それから少しでも眠りたいものと努めていると五時半に誰やらおせっかいな馬鹿者が砂糖湯をもって起こしにきた。奴はそれをお茶だと称しやがった。そいつをその男の顔へぶっかけこそしなかったつもりだが、わたしがそうしたいと思ったことは確かである。男は六時になると石のごとくに冷えきった砂糖なしのお茶をもってきた。くたびれ果てたわたしはそのあとやっと眠りに落ちたが、目が覚めたときはもうブラワヨだった。そしてひょろ長い首と脚だけみたいないまいましいキリンを持たせられて汽車からおろされた。
こういった小さな不幸な出来事にわざわいされたとはいえ、すべては順調に運んでいた。ところがここにまた新たな災難がふってわいたのである。
ヴィクトリア滝についた晩のことであった。ペティグルー嬢を相手に部屋で口述をしていると、いきなりブレア夫人がなんの挨拶もなしに、しかもまことにあられもない服装のままいきなりとびこんできた。
「アンはどこ?」彼女は叫んだ。
結構な訊きかたをするものだ。まるでわたしがあの娘をどうにかしたかのように聞こえるではないか。第一ペティグルー嬢がなんと思うだろう。わたしが真夜中にポケットからアン・ベディングフェルドをとり出す習慣だとでも思わせようというのか。わたしのような地位にある男にとっては信用にかかわること甚だしい。
「おそらく」わたしはひややかにいった。「ベッドの中だと思いますがね」
口述を続行する気でいることを示すために、わたしは咳《せき》ばらいをしてペティグルー嬢を見やった。それと察してくれることを願ったのだったが、ブレア夫人はいっこうに察するふうもなく、それどころか椅子に深々とすわりこんで心配そうな様子でスリッパをつっかけた片方の足を振った。
「それがお部屋に居ないんですよ、あたし行ってみたんですもの。恐い夢──アンがなにか恐ろしい目に遭《あ》ってる夢を見たもんで、あたしアンの部屋へ行ってみましたの、もちろん行ってみさえすれば気がすむぐらいの気持でね。そうしたら居ないんです、ベッドに入った形跡さえないんですの」
ブレア夫人は訴えるような目でわたしを見た。
「どうしましょう、サー・ユースタス?」
『心配することはありませんよ、行っておやすみなさい。アンのような強健な娘なら自分のことは自分で十分注意できますよ』と答えたいのを我慢してわたしは分別くさくしかめっつらをした。
「レイスは何といってます?」
レイスにだけ好き勝手にさせておくという法はない。よろしくあの男にもご婦人方とのおつき合いの利点ばかりでなく不利な点も味わってもらうべきである。
「それがどこにもいらっしゃらないんですよ」
彼女はあきらかに夜を徹して坐りこむことにしたとみえた。私はためいきをつき、椅子に坐った。そして自分を抑えていった。
「そんなにご心配なさることないと思いますがね」
「でもあの夢が……」
「夕食に召しあがったカレー料理のせいですよ」
「まあ、サー・ユースタス!」
夫人はすっかり怒ってしまった。しかし、悪夢にうなされるのは無分別な食事の結果であることは周知の事実であろう。わたしはいいきかせるようにいった、
「まあしかし、アン・ベディングフェルドとレイスがちょっと散歩に出るのにホテル中の人間を起こすこともないじゃありませんか」
「それじゃあの二人がいっしょに散歩に出ただけのことだっておっしゃるんですの? この真夜中に?」
「若い者というのは馬鹿なことをやるものですよ、もっともレイスはも少し分別があってもいい年ごろですがね」
「ほんとにそうお思いになってるんですの?」
「駈け落ちしたんですな」なだめるようにそういったものの、もちろん自分ながら馬鹿なことをいったものだと気づいていた。こんな土地で駈け落ちしようにも行きどころがないではないか。
あとどれだけあやふやな意見を述べつづけなければいけないのかと思っているところへ、当のレイス大佐が立ちあらわれた。少なくともわたしは半分は正しかったのだ。レイスは散歩に行っていたのだから。ただしアンを連れて出たのでなかった。しかしながらわたしはこの状況の扱いを全くあやまっていた。そのことはまもなく思い知らされた。三分とたたぬうちにレイスがホテル中を上を下への大騒ぎにしてしまった。あれほど慌《あわ》てふためいた男をわたしは見たことがない。
全くもって異常な話である。あの娘はどこへいったのだろう? ちゃんと身じまいをして十一時十分すぎごろにホテルを出たあとは誰も見かけていないのだ。自殺ということは考えられない。彼女は、生きることをこよなく愛し、生に暇を告げることなど考えたこともないような生気溢るる若い娘の一人である。汽車はあすの昼まで上りも下りも一本もないのだから遠くへ行けるわけもない。とするといったいぜんたいどこに居るのか?
レイスはもはや気も狂わんばかりの有様である、気の毒に。彼はありとあらゆる手を尽くした。周囲百マイルに及ぶ地域の保安官──と呼ぶのかどうか知らないが──という保安官がすべて動員された上、原地人たちはそれこそ四つん這いになって捜させられた。うつべき手はすべてうたれた──にもかかわらずアン・ベディングフェルドの姿はどこにもない。結局、彼女は夢遊病者なのだという説がたてられた。橋のそばの道にあの娘がふみはずしたと思われるような跡があるのだ。もしそうだとするとむろんはるか下の岩にぶちあたってこっぱみじんになってしまったにちがいない。残念ながら足跡はほとんど月曜の早朝たまたまそこを散歩した一団の旅行者によって消されてしまっている。
しかしこれが最も納得のいく解答であるとは思えない。夢遊病者は第六感が働いて決して怪我《けが》はしないものだと子供のころよく教えられた。ブレア夫人だって決して納得してはいないだろう。それにしてもあのご婦人は少しおかしい。レイスに対する態度がすっかり変わった。このごろではまるでねずみを狙う猫のごとくにレイスから目を離さない。しかも彼に対してことさら丁重にふるまおうと努力しているのがありありとわかる。とにかくいつものブレア夫人らしくない。神経質でヒステリックでかすかな物音にもビクッとしてとびあがる。わたしは今がヨハネスブルグへ行くべき潮時だと考えはじめている。
昨日、この河の上流のある島に一人の男と一人の娘が住んでいるという噂が伝わってきた。レイスはひどく興奮した。しかし結局『つまらぬ大発見』にすぎないことがわかった。その男はその島に何年も前から住んでいるのだそうで、ホテルの支配人もよく知っているのである。なんでもホテルの客を舟に乗せて河を案内し、あれがワニだとかカバだとか教えるのだそうである。思うにその男はよく馴らしたやつを一匹飼っていて、時々、舟から投げられる餌に喰いつくように仕込んであるのではあるまいか。そうして彼がそいつを鉤竿《かぎざお》かなんかで追っぱらうと、客たちはなるほどとうとう世界の果てまで来たのだなという感を深くするのだ。若い娘の方はいつからその島に居るのか、はっきりわからない。しかしそれがアンでないことはきわめて明らかなようである。第一他人の色恋沙汰に干渉するにはよほど慎重にやらねばならぬ。わたしがその青年だったら、もしレイスがわたしの恋愛問題について聞きに来たりしたら島から叩き出してやること必定だ。
追記
わたしがあすヨハネスブルグへ行くことは決定的となった。レイスがそうするようしきりとすすめるのだ。きくところによるとかの地では事態はいよいよ悪化している様子だが、それ以上悪化しない今のうちに行くのもいいかもしれない。ストライキをやってる連中に射ち殺されないものでもないのだが。ブレア夫人も同行することになっていたのだが、いざというときになって気が変わり、このままここに残るといい出した。レイスから目を離す気になれないとでもいうような様子である。さっきやってきて少々ためらいがちに、実はお願いがあるといった。彼女のみやげもの類を預ってはくれまいかというのである。
「あの動物のオモチャじゃないでしょうね?」わたしは大いにあわててきいた。前々からおそかれ早かれいつかあの動物どもに困らせられることになりそうだと感じていたのだ。
結局妥協が成立した。わたしはこわれやすい品物を納めた小さな木箱を二つ預ることになった。動物の方は土地の店に頼んで大きな柳行李《やなぎごうり》につめてもらい、鉄道便でケープタウンまで送ってあとはパジェットに保管を引き受けてもらうことにした。
動物の荷造りを頼まれた人たちは、なんとも厄介な形をしているといい、特別|誂《あつらえ》のいれものを作らせねばなるまいといっている。わたしは夫人に、これらのオモチャが無事イギリスのブレア邸へ届くまでには一匹一ポンドぐらいについてしまうだろうといってやった。
パジェットはヨハネスブルグでわたしと合流したがってバタバタしている。わたしはブレア夫人の荷物を口実に彼をケープタウンにひきとめておくつもりだ。それで手紙を書き、あれは非常に高価な珍しい骨董品《こっとうひん》だからきみがちゃんと受けとって保管の監督をしてくれなくては困るといってやった。
これで全部かたづいた。そこでわたしとペティグルー嬢は手に手をとって雲がくれと相なるわけだが、ペティグルー嬢を一度でも見たことのある人ならば、誰も妙な憶測はしないであろう。
第二十九章
三月六日 ヨハネスブルグにて
この町の状態にはなにか異常なところがある。月並みな表現をするならば、まるで『噴火口のふちに暮しているようなもの』である。ストライキの連中が群をなして町をねり歩き、ものすごい形相《ぎょうそう》で人をにらみつける。思うに彼らは大虐殺に備えて、思いあがった資本家をえり分けているのではあるまいか。タクシーを拾うこともできない。乗ろうものならたちまち彼らにひきずり出されてしまう。ホテルはホテルで、食糧が欠乏してきたら客を外へほうり出すというようなことをうれしげに仄めかす始末だ!
昨夜は、キルモーデン号で知り合った労働党のリーヴズに会った。あんな臆病な男もないものである。政治的な目的のために煽情的な長広舌をふるったものの、あとで後悔するといった手合いの一人である。今あの男は大わらわで、あれはほんとうは自分がいったのではないといってかけずりまわっている。わたしが会ったときはケープタウンへ行こうとしていた。彼はケープタウンで、この前の発言は全く別の意味のつもりであったことを示して身の潔白を証明するために、オランダ語の演説を三日にわたってぶつつもりなのである。わたしは南アフリカの立法会議に出席しなくてもよいことをつくづくありがたいと思う。本国の下院も相当なものだが、それでも少なくともわれわれは一か国語を知っていれば事たりる。それに演説の長さに関してはいくらか拘束もある。ケープタウンを発つ前に立法会議をのぞいてみたが、そのときちょうど『不思議の国のアリス』のモックタートルにそっくりの、口髯を垂らした白髪の紳士が演説していた。彼はひどく陰気な調子で一語一語をポツリポツリとしゃべっていたが、時々急に元気づいて『プラット・スキート』というふうに聞こえる言葉を発した。それがひどく強く発音されるので特に目立った。そして彼がこの言葉を発すると聴衆の半分が『ヒヤヒヤ』という意味だと思うがオランダ語で『フーフ、フーフ!』とわめき、そうするとあとの半分の聴衆が快い居眠りからビクッとして目を覚ますのだった。わたしはその紳士は少なくとも三日間しゃべり続けているのだと教えられた。南アフリカの人々はよほど忍耐強くできているにちがいない。
パジェットをケープタウンに留めておくために、わたしはつぎつぎと仕事を考え出してきたのだったが、さしも豊かなわたしの想像力もついに底をついた。そういうわけでパジェットはあす、飼い主に殉死しようとする忠犬の心意気でわたしのもとへやってくる。またわたしの回想録のほうも大そう渉《はかど》っているのだ! 実は、ストライキの指導者がわたしに話してくれたこと、またわたしが彼に話してやったこと、としてまことに機知に富んだ話を考え出したのだ。
けさある政府の役人に会見を求められた。この男はいんぎんで、そのくせいやに人を説得させようとするところがあった。まず彼はわたしが社会的地位が高く、重要人物であることをそれとなく仄めかし、プレトリアへ移るべき、いや彼によって移らせられるべきだというようなことをいった。
「では動乱を予想しているんですな?」わたしはきいた。
それに対して彼は特別な意味はないということをくどくどと述べた。あまりそういうからわたしはハハア、当局は動乱を予想しているのだなと考えた。わたしが当局は事をわざと長びかせているようだというと彼はいった。
「好きなようにさせておいて結局は自業自得に陥らせる、という手ですよ、サー・ユースタス」
「おお、ごもっともごもっとも」
「騒ぎのもとはストライキをやってる連中自身ではないのです。背後で工作している組織があるんですよ。武器や弾薬がどんどん流れこんでいますが、われわれが手に入れたある書類によって、そういうものがどうやって持ちこまれるかわかったんです。暗号ですよ。ジャガイモは雷管のこと、カリフラワーは、ライフル銃のこと、他にそれぞれいろいんな野菜がいろいろな種類の弾薬を意味しているのです」
「実におもしろい話だ」
「それだけではありません。その総指揮をしている人物が現在ヨハネスブルグに居ると信ずべき根拠があるのです」
そういってじいっと見つめるので、この男はわたしのことをその人物であると疑っているのではないかと不安になってきた。そう考えるとどっと冷汗が出てきて、わたしは小型の革命をじかに視察しようなどと思いつかなければよかったと後悔しはじめた。
「ヨハネスブルグからプレトリアへは汽車は通じておりませんが、車でお送りするよう手配いたしましょう。途中検問されるといけませんからふた通りの通行証をさしあげます。連邦政府発行のものと、連邦とは何の関係もないイギリス人の旅行者だということを記したものと」
「一方はきみたちの仲間に、一方はストライキの連中に見せるというわけだね?」
「さようで」
わたしはあまりぞっとしなかった。こういったことがどういう結末になるかは見当がつく。あわててまごまごして何もかもごっちゃになる。わたしはきっと通行証をとり違えて渡すだろう。その結果は、血に飢えた謀反《むほん》者か、もしくは山高帽をかぶり、パイプをくわえ、脇の下になにげなくライフル銃をかかえて町の警戒に当っている安寧秩序の支持者の一人にあっさり射ち殺されてそれでおしまいということになるだろう。そうならないにしても、プレトリアへ行っていったいどうするのだ? 連邦政府の建物を感心して眺め、ヨハネスブルグ近辺にこだまする銃火の音に耳でも澄ますのか? プレトリアにどれだけ長く閉じこめられることになるかわかったものじゃない。鉄道はすでに爆破されたと聞く。酒すら手に入らないという。二日前に戒厳令がしかれているのだ。
「きみ」わたしはいった。「きみはわたしがランドの情況を研究しているのだということがわからんらしいね。プレトリアなぞへ行ったらどうやって研究ができるかね? 心配してくれるのはありがたいと思いますよ、だがわたしのことはかまわなくてよろしい、大丈夫だよ」
「ご注意申しあげますがサー・ユースタス、食糧事情がもうすでに深刻になっているのです」
「少々断食するのもスタイルがよくなってかえっていいだろう」わたしはためいきと共にいった。そのときわたしあてに一通の電報が届けられて話をさえぎられた。わたしは電報をよんで驚いた。
『アン健在、あたしと共にキンバレーに居ます、スザンヌ・ブレア』
わたしはアンの絶滅をほんとうに信じてはいなかったと思う。あの娘にはいくらたたいても何しても破壊し得ないといったところがある。犬に与える新案特許のボールのようだとでもいおうか。とにかく思いがけない時にニヤニヤしながら姿を現わすという驚くべき特技をそなえた娘だ。わたしには、キンバレーへ行くのになぜ真夜中にホテルを出る必要があったのかわからない。あの時汽車はなかったのだ。天使の羽根でも背中につけて飛んでいったとしか思えない。しかも彼女はそのわけを話してくれようとはしないにきまってる。だいたいわたしには誰も説明してくれようとしないのだ。だからわたしはいつも憶測するより他ないのである。いつもこうではわたしとていやになる。どうやらアンの行動の底にはジャーナリズムの緊迫した事情があるのではあるまいか。『アフリカの急流をくだる』そんな記事がデイリー・バジェット紙にのるにちがいない。
わたしは電報をたたむと、政府の役人を追い返した。空腹に耐えなければならないかと思うと甚だおもしろくないが、身の危険ということの方は別に心配にはならぬ。スマッツ将軍は革命を処理することにかけてはベテランだ。それにしても金はかかってもいいから酒は飲みたいものだ! はたしてパジェットの奴、気を利かしてあす来る時ウィスキーの一本も持ってくるかどうか。
わたしはみやげものでも買いたいと思い、帽子をかぶって外へ出た。ヨハネスブルグのみやげ物屋はなかなか楽しい場所である。原地人の袖なし毛皮外とうがいっぱい並んでいるショーウィンドウをのぞきこんでいたら、店から出てきた男がわたしにつきあたった。なんと驚いたことにそれはレイスだった。
残念ながら、レイスはわたしに会って嬉しそうにはしなかった。あきらかに困惑しているような様子だったが、わたしはホテルまでいっしょに行こうとむりやり誘った。話相手といったらペティグルー嬢しか居ないといった状態にはほとほと飽きている。
「あなたがヨハネスブルグにおいでとは存じませんでしたよ、いついらしたんです?」
「ゆうべです」
「どちらにお泊りです?」
「友人のところにね」
レイスはばかに無口で、わたしの質問に当惑している様子だった。
「鶏を飼ってくれるといいんですがね。食糧事情が悪くなるそうだから、生みたて卵が食べられるとか、時々一羽つぶすとかいうようなことが断然ありがたいことになりますよ」
「ところで」ホテルに戻るとわたしはいった。「ベディングフェルド嬢が生きてピンピンしてることはご存じですか?」
レイスはうなずいた。
「まったく驚かされましたな」わたしは陽気にいった。「いったいあの晩どこへ出かけたんですかね」
「ずっとあの島に居たんですよ」
「島とは? 例の若い男のいる島じゃないでしょうな?」
「その島です」
「どうもけしからんですなあ。パジェットが聞いたら驚きますよ、奴は最初からアン・ベディングフェルドを非難してましたからね。じゃあ、アンがはじめダーバンへ会いに行こうとしてた相手というのがその男だったんですな?」
「そうではないとおもいますね」
「いや、お話になりたくなければ何も教えてくださらんでいい」
「どうやらその男こそ、われわれが捕えようとやっきになっている青年らしいんですよ」
「まさかあの……?」わたしはしだいに興奮しながらいった。
レイスはうなずいた。
「ハリー・レイバーンことハリー・ルーカスですよ、ご承知でしょう、それが本名です。一度はするりと逃げられましたがこんどこそまもなく捕りますよ」
「これはこれは」わたしはつぶやいた。
「いずれにせよ、あの娘さんの方は犯罪には関係していないと見ています。彼女にとっては……単に恋愛事件なんですよ」
わたしは前から、レイスはアンに恋しているなと思っていたが、この終わりの言葉をいったときのレイスの様子でいよいよ確信を深くした。
「彼女はベイラへ行きましたよ」彼はいくぶんあわて気味にそういった。
「ほう」わたしはびっくりしていった。「どうしてわかりました?」
「ブラワヨから手紙をくれたんです。ベイラへ行ってそこからイギリスへ帰ると書いてありました。かわいそうにそうするより他ありませんからね」
「どうも彼女がベイラにいるとは思えんなあ」私は考えをめぐらしながらいった。
「しかしベイラへ発つ寸前にその手紙を書いてるんです」
わけがわからない。あきらかに誰かが嘘をついているのだ。そんな誤解を招くような声明を発表したについてアンは立派な弁明ができるのかもしれない、と落ち着いて考えればよいものを、わたしはレイスをやっつける楽しみに身を投じてしまった。どうもレイスはいつも自信たっぷりだからだ。わたしはポケットから電報をとり出して渡し、無造作にきいた。
「ではこれはどういうことでしょうな?」
レイスは唖然としたようであった。「いまベイラへ発つところだと書いてあったんだが」彼は茫然としたような声でつぶやいた。
レイスは頭がいいと人に思われているが、わたしにいわせればむしろ間抜けな男である。彼は、女の子がいつも本当のことばかりいうとは限らぬなどとは思ってもみないようだ。
「それにキンバレーとは。二人ともあんなところで何をしてるのだろう」彼は呟いた。
「そうですなあ、わたしもそれにはびっくりしました。わたしはまた、アン嬢はデイリー・バジェットに送るためにこの革命騒ぎのまっただ中で取材でもしてるのかと考えてましたよ」
「キンバレーですか」レイスはまたもいった。よほど驚いたとみえる。「見物するようなところは全然ないんですがねえ、ダイヤモンドの採掘坑だって今は仕事をしてないんだし」
「女というものはねえ」わたしはあいまいにいった。
レイスは首をふり、帰っていった。わたしは彼にたしかに考えさせるものを与えてやったと思う。レイスが帰って行くや否や、例の政府の役人がまた顔を出した。
「またお邪魔して申しわけございません。ちょっと一つ二つおうかがいいたしたいことがございまして」
「結構ですよ、きみ、何です?」わたしは陽気にいった。
「あなたの秘書のことなんで……」
「あの男のことは何も知らんのだよ」わたしはあわてていった。「奴はロンドンでわたしをだまして秘書になりすまし、たいせつな書類を盗んで──おかげでわたしは大目玉をくらうことになりそうなんだがね──そうしてケープタウンで手品みたいに消えてしまった。わたしがヴィクトリア滝にいた時あの男もあの辺にいたことは事実ですがね、しかしこっちはホテルに居て奴はある島に居たんだよ。あそこに滞在中一度も見かけなかったことは絶対たしかだよ」
わたしはひと息入れるために言葉を切った。
「誤解しておいでのようですな。わたしの申しあげているのはもう一人の秘書のことです」
「なんだって? パジェットのことか?」わたしはすっかり驚いて叫んだ。「彼はもう八年もわたしの秘書をしているほどで、特別信用のおける人間だが」
相手はにやりとした。
「まだお話がくいちがっているようですね。あの女の方のことを申しあげているのです」
「ペティグルー嬢?」
「はあ、実はあの婦人がアグラサトみやげもの店から出てくるのを見た者があるのです」
「これははや!」わたしはさえぎった。「わたし自身がさっきそこへ行って来たんだよ。じゃあわたしが出てくるところも見てたかも知れんのですな」
ヨハネスブルグでは、なんら他意のない行動でも必ず疑われるものとみえる。
「しかしあの婦人は一度や二度ではないのです──それも少々疑わしい様子がありましてね。サー・ユースタスのことですからうちあけて申しあげますが、あの店は、この革命をかげで煽動している秘密組織の会談の場所に使われているらしいのです。ですからあの婦人についてご存じのことを全部話していただけると大変ありがたいのです。どこでどのようにしてお雇いになったんでしょうか?」
「きみの方の政府にお世話いただいたんですがね」わたしはひややかにいった。
むろん相手はぺしゃんこになった。
第三十章
──ふたたびアンの手記より
キンバレーへ着くとすぐ私はスザンヌに電報をうった。スザンヌは何度も途中から電報で前ぶれをしながらものすごい速さでキンバレーへやってきた。私は彼女が心から私を好いてくれているのを知り、ひどく驚いた。彼女にとって私は単に目新しい存在にすぎないのかと思っていたからである。だが再会したときスザンヌは私の首に抱きつき、涙を流した。
再会の感動がいくらかおさまると、私はベッドに腰をおろして一部始終を話してきかせた。
「あなたははじめっからレイス大佐を疑ってたわねえ」私が話し終わるとスザンヌは考えこみながらいった。「あたしはあなたがあの晩居なくなってはじめて疑いだしたの。だってとてもいい人だと思ってたし、あなたの旦那さまにうってつけだと思ってたぐらいですもの。ああ、でもアン、怒らないで聞いてちょうだい、どうしてその青年のいうことはみんな本当だっていえるの? その人のいうことは何でも信じるみたいね」
「もちろんよ」私は憤然としていった。
「でもそんなにあなたを惹きつけるようなものが彼にあるかしら? ちょっと無鉄砲な感じの好男子のところと、現代ふう石器時代式口説き方とを除いたらなんにもないように思うけど」
私は腹を立ててさんざん反論を浴びせたあげくこういってやった。
「要するにあなたは結婚生活がぬくぬくと快適なもんで、おまけに太ってきて、ロマンスというものの存在を忘れたんだわ」
「あら、あたし太ってなんかこないわ、アン。ここんとこずっとあなたのこと心配していたんだから身も心もずたずたのはずよ」
「格別栄養状態がおよろしいようにお見受けしましてよ」私はひややかにいった。「三キロぐらいは目方が増えてるにちがいないわね」
「それにそれほどぬくぬくした結婚生活を送ってるとも思わないわ」スザンヌは憂鬱そうな声で続けた。「クレアランスから、すぐ帰って来いっていう世にもおそろしい電報を何度ももらってるのよ。あたしとうとう一度も返事をうたなかったわ、そうしたらここ二週間以上も音沙汰がないの」
私はスザンヌの夫婦間のトラブルを大して深刻に考えなかった。彼女のことだからいずれクレアランスをうまく丸めこんでしまうだろう。私は話題をダイヤモンドのことに転じた。
スザンヌは伏し目がちに私をみていった。
「実をいうとね、アン、レイス大佐があやしいと思いだしたら急にあのダイヤモンドのことが不安になっちゃったの。彼があなたをすぐ近辺に隠してるかもしれないからヴィクトリア滝を離れることはしたくなかったし、そうなるとダイヤモンドをどうしたらいいかわからないし……。あたし自分で持ってるのが恐くなったのよ」
スザンヌはまるで壁に耳がありはしないかとでもいうようにあたりを不安げに見まわしてから、私の耳に口をつけて一気にささやいた。
「それはいい思いつきだったわ」私は賛成した。「といっても、こうなったらちょっとおかしいんじゃないかしら。その箱をサー・ユースタスはどうしたの?」
「大きい方のはケープタウンへ送ったわ。あたしがこちらへ来る前にパジェットから手紙が来て保管料の領収書が同封してあったわ。そうそう、パジェットは今日ケープタウンを発ったはずよ、ヨハネスブルグでサー・ユースタスとおち合うんでしょ」
「わかったわ、それで小さい方のは?」
「サー・ユースタスがご自分の荷物といっしょに持ってったと思うわ」
私は心の中でその問題を検討してみてからいった。
「そうね、ちょっとおかしいようにも思うけど、でも大丈夫安全だわ。今のところはあたしたち何もしないほうがよさそうね」
スザンヌはちょっとにやりとして私の顔を見た。
「何もしないでいるなんて嫌いだったんじゃないの、アン?」
「ええあんまり」私は正直に答えた。
私にできる唯一のことは、時刻表をとりよせて、パジェットが何時にキンバレーを通過するかを調べることだった。汽車は翌日の夕方五時四十分に着いて六時に発車することがわかった。パジェットにはなるべく早い機会に会いたいと思っていたので、これはちょうどよかった。ランドの情勢は悪化する一方だったからこのチャンスを逃がしたらいつ会えるかわからない。
その日われわれを活気づかせてくれた出来事はただ一つ、ヨハネスブルグから一通の電報が来たことだった。ごく何でもない電文だった。
『無事着いた。すべて順調。エリックとユースタス居る、ガイはまだ。きみはそこに居ること。アンディ』
エリックというのはハリーと私の間の符牒でレイスのことである。私の一番きらいな名前なので私がそうつけたのだ。パジェットに会うまではどう考えても何もすることがなかった。スザンヌははるかかなたのクレアランスにご機嫌とりの長い長い電報をうちはじめた。旦那さまを思い出してすっかり感傷的になっている。むろんハリーと私の間柄とは違うけれど、彼女は彼女なりにほんとにクレアランスを好きなのだ。
「あのひとがいま居てくれたらいいと思うわ、アン。ずいぶん長いこと会ってないのよ」スザンヌはこみあげる涙をぐっとくらえていった。
「クリームでもおつけなさいよ」私はなだめるようにいった。
スザンヌはその魅力的な鼻のあたまにクリームをちょっとすりこんでいった。
「もうじきまた買わなくちゃならないわ。ところがこの|て《ヽ》のはパリでなくちゃ手に入らないのよ、ああパリ!」彼女はためいきをついた。
「スザンヌ、あなた、いまにも南アフリカも冒険ももうあきあきしたっていい出しそうね」
「うんとすてきな帽子が買いたいわ」スザンヌは思いこがれるようにいった。「あしたガイ・パジェットに会いに行くときあたしも行っていい?」
「なるべくなら一人で行きたいわ。二人も現われたらはにかんであんまりしゃべってくれないと思うから」
そういうわけで、翌日の午後私がホテルの玄関でなかなか開こうとしない強情なパラソルと格闘している一方で、スザンヌは本を片手に果物籠をそばへおいてのんびりベッドに横たわっているという仕儀となったのである。
ホテルのポーターによると、今日は汽車が遅れて居ず、だいたい時間通りに着きそうだが、ヨハネスブルグまで果して行くかどうかはわからぬということだった。なにしろ線路は爆破されてますからね、とポーターは深刻な顔をしていった。そうなら愉快だ!
汽車は十分のおくれで到着した。すべての乗客がホームへまろび出てきて夢中で行ったり来たりしはじめた。パジェットはすぐ見つかったから私はそばへ行って話しかけた。私を見るとパジェットは例によって神経質そうな驚きの色を示したが、それが今回は殊に著しく感じられた。
「これはベディングフェルドさん、失踪なさったとかきいておりましたが」
「また出てきたんですの」私はまじめな顔をしていった。「で、あなたはお変わりありません、パジェットさん?」
「はあおかげさまで。またサー・ユースタスのおそばで仕事ができますのを楽しみにして居ります」
「パジェットさん、あたし、あなたにお訊ねしたいことがあるんですけど。お怒りにならないでね、でもその一事にあなたが想像なさる以上にたくさんのことがからんでいるんです。あたしが知りたいのは、今年の一月八日にあなたはマーロウで何してらしたのかっていうことなんですけど」
パジェットは烈しい声でいいかけた。
「それはベディングフェルドさん……、わたくしは、ほんとに……」
「マーロウにいらしたのね、そうですわね?」
「わたくしは──わたくし個人の用であの近辺に行っていたんです」
「そのご用って何だか聞かせていただけません?」
「サー・ユースタスからまだお聞きになってないんですか?」
「サー・ユースタス? あの方はご存じなの?」
「ご存じにちがいないと思います。あの時わたくしにお気づきでなけりゃいいがと思っていたんですが、その後おっしゃることや仄めかしたりなさることから判断するとご存じにちがいないんです。しかしどっちみちこのことはすっかりうちあけて辞表を出すつもりではいました。あの方は異常なユーモアのセンスをもった、いっぷう変わった方ですが、どうやらわたくしをこうして気をもませておくのがおもしろいらしいのです。ほんとうのことをずっと前からちゃんと気づいておられるんですよ、おそらく何年も前からご存じなんです」
パジェットが何のことをいっているのか、おそかれ早かれ知ることができそうだった。彼はペラペラと先を続けた。
「サー・ユースタスのような地位にある方にはわたくしの身になって考えることは困難なんです。わたくしも自分のやったことがまちがっていることは知っています、しかし欺いたといってもこれは誰の害にもならないことだと思うんです。サー・ユースタスもお人が悪い、それとなくからかって楽しんだりしていないで率直におっしゃって下さった方がよかったんです」汽笛が鳴り、乗客はどっと汽車の中へ戻りはじめた。
「そうね」私はさえぎっていった。「サー・ユースタスについて今おっしゃったことはあたしもその通りだと思うわ。それにしてもあなたはマーロウで何してらしたの?」
「わたくしがいけなかったんですよ。しかし事情からすれば当然だったんです、ええ、わたくしはいまでも事情からすれば当然だったと思ってます」
「何の事情?」私は必死で叫んだ。
パジェットはこの時はじめて、私が彼に質問をしているのだということに気づいたらしかった。彼の心はやっとサー・ユースタスの特異性と自己弁護とから離れて私の方へむけられた。
「失礼ですが、ベディングフェルドさん、この件にあなたがなぜ関心がおありになるのかわたくしにはさっぱり……」
彼はもう車内に戻って、私に話しかけるために前かがみになっていた。私はもうどうしようもない気がした。こんな男はいったいどう扱ったらよいのだろう?
「そりゃもちろん、とても大変なことで恥かしくて話せないっていうんでしたら……」私は意地悪くいってみた。
とうとう私はうまい扱い方を探しあてたのだ。パジェットはまっ赤になり、固くなった。
「大変なこと? 恥かしくて? なんのことでしょう」
「じゃあ話してちょうだい」
三つの短い文章で彼は話してくれた。ついにパジェットの秘密がわかった! だが私が考えていたこととは全く違っていた。
私はゆっくりホテルへ歩いて帰った。一通の電報が待っていた。開いてみると、ただちにヨハネスブルグへむかって出発するように、ヨハネスブルグの一つ手前の駅まで来れば一台の車が待っている、という意味のことがくわしく指示してあった。署名はアンディでなくハリーとしてあった。
私は椅子にかけ、真剣に考えはじめた。
第三十一章
──サー・ユースタス・ペドラーの日記より
三月七日 ヨハネスブルグにて
パジェットがやって来た。もちろんのこと、奴は臆病風にふかれてビクビクしている。すぐにもプレトリアへ行くべきだという。わたしたちはここにずっと居るのだということをやさしく、しかしきっぱりと話してきかせたら、今度は極端から極端へ移って、そういうことならライフル銃をもって来るんだったとぬかした。そして大戦の時何とかいう橋を守ったとかいって自慢をはじめた。おおかたリトル・プドクームの鉄橋かなんかだろう。
わたしはじきその話をさえぎって、大きなタイプライターの荷をほどくようにいった。パジェットをかなり長い時間その仕事にかかりきりにしておけると考えたからである。なぜかというと、そのタイプライターはきっと故障していて──しじゅう故障するのだ──たぶんパジェットはどこかへ修理に出さなければならないであろうからだ。ところがわたしはパジェットの常に的確に事を処する力を忘れていたのだった。
「もう全部の箱をほどいてございます。タイプライターはどこもなんともございませんでした」
「どれとどれのことだね、全部の箱とは?」
「あの小さな二つの箱も含めてです」
「そう余計なおせっかいをしてもらっちゃ困るね、パジェット。あの小さい箱はきみには関係ないのだ。あれはブレア夫人のものだよ」
パジェットはしょげかえった。奴はまちがいをしでかすのが大嫌いなのだ。
「だから元通りきれいに荷造りしなさい。それがすんだら外出してもよろしい、見物してくるといいよ。あすはきっとこの町は廃墟と化してしまうだろうから今日が最後のチャンスだ」
これで少なくとも午前中は彼を追っぱらっておけると考えた。
「おひまの時ちょっとお話し申しあげたいことがあるのですが」
「今はだめだ」わたしは大急ぎでいった。「今現在、ひまは一秒もないのだ」
パジェットはひきさがろうとした。わたしはその後姿に声をかけた。
「ところでブレア夫人のその箱には何が入ってたね?」
「毛皮のひざかけですとか、それから二つばかり毛皮の──たぶん帽子かと思うんですが……」
「そうだよ、汽車の中で買ってたよ。ありゃあ帽子だ、あれでもね。きみがわからんのも無理もない。あの奥さん、きっとアスコット競馬にかぶって行くつもりだぜ。そのほかには何があったね?」
「フィルムが少しと、籠が少し──いや、たくさん……」
「たくさんだろうよ」わたしは請け合った。「ブレア夫人というのは何によらず決して一ダース以下は買わない女だ」
「それぐらいのものかと思います、あとはいろいろ細かいもの──ヴェールとか片方だけの手袋がいくつかとか、まあそういったようなものです」
「きみがもし生まれついての|抜け作《ヽヽヽ》でないならばなあ、パジェット、そんなものがわたしの持ちものであるわけがないことぐらい最初からわかりそうなものじゃないかね」
「ペティグルーさんのものもあるかもしれないと思いまして」
「ああ、そういえばきみ、きみはいったいどういうつもりであんな怪しい人物をわたしの秘書にしてくれたんだね?」
わたしは昨日ペティグルー嬢のことを手きびしく追及された話をしてきかせた。しかしとたんに後悔した。パジェットの目が輝き出したからである。わたしはその意味を知りすぎるほど知っている。それで大急ぎで話題を変えようとしたが遅かった。パジェットはすでに勇み立っていた。そうしてなにやらキルモーデン号について長々と意味のない話を始めてわたしを退屈させにかかった。なんでもフィルムと賭けの話で、あるボーイがそのフィルムを窓から船室へ投げこんだというのだ。わたしはばか騒ぎは嫌いだといったら、パジェットは同じ話をはじめからすっかりやり直しはじめた。だいたい奴の話はいつもひどく要領が悪い。今日のこの話だってどうにかわけがわかるまでにはずいぶんと時間がかかった。
そのあとしばらく見かけないと思っていたら、昼飯の時になってまるで臭いを嗅ぎつけた警察犬のごとくに興奮しきってやってきた。わたしは警察犬は嫌いである。パジェットの話は、つまるところ彼がレイバーンを見かけたということであった。
「なんだと?」わたしはびっくりして大声を出した。
彼はたしかにレイバーンにちがいない人物が道を横ぎるのを見かけ、あとを追ったというのだ。
「そうしてあの男が立ちどまって話しかけた相手がいったい誰だとお思いになります? ペティグルーさんなんですよ!」
「なんだって?」
「そうなんです、サー・ユースタス。しかもそれだけではありません、ペティグルーさんのことを少し調べてみたんですが……」
「ちょっと待て。レイバーンはどうなった?」
「レイバーンとペティグルー嬢はあの角のみやげもの屋へ入って行きま……」
わたしは思わずあっと声を出した。パジェットは何事かというような顔で口をつぐんだ。
「いや、なんでもない。それでどうなった」
「わたしはその店の前で長いこと待って居ました。ところが二人とも出て来ないのです。それでとうとう中へ入ってみたら、どうでしょう、サー・ユースタス、誰も居ないんです! どこかにもう一つ出口があるにちがいありません」
わたしは驚いて彼の顔を見つめた。
「さっきも申しましたように、わたしはホテルへ戻ってペティグルーさんのことを少々調べてみました」パジェットは秘密話をするときの例で声をひそめ、あらい息づかいでいった、
「サー・ユースタス、昨夜ペティグルーさんの部屋から男が出て行くのを見かけた者があるのです」
わたしは眉《まゆ》をつり上げた。そして呟いた。
「わたしはまた大そう品行方正なご婦人だとばかり思っていたが」
パジェットはおかまいなく続けた。
「わたしはあの方の部屋へまっすぐ行って調べてみました。何が見つかったとお思いになります?」
わたしは首をふった。
「これです!」
パジェットは安全かみそりとひげそりクリームをさし出した。
「ご婦人がこんなもので何をするのでしょうか?」
パジェットは上流婦人むけの新聞の広告を読んだことがないのではないだろうか。わたしは読んでいる。この問題で彼と言い争う気はなかったが、しかしそのかみそりの存在をペティグルー嬢の性を決定する絶対の証拠として受け入れることはできなかった。パジェットという男はことほど左様に時勢に遅れているのである。わたしは、彼が自説の裏づけとしてシガレットケースをとり出したのであったとしても少しも驚かなかったであろう。パジェットといえどもその能力に限界があるのだ。
「まだおわかりになりませんか。ではこれはどうお思いになりますか?」
私は彼が得意気に目の前へぶらさげてみせたものを検べた。
「髪の毛のように見えるがね」わたしは不快そうにいってやった。
「髪の毛ですが、これはかつらの飾り毛というやつだと存じます」
「いかにも」
「これであのペティグルーなる女は男性が変装しているのだということがおわかりになりましたでしょう」
「なるほどパジェット君、わかったようだ。そんなことはあの女の足をみただけでもわかってしかるべきだった」
「ではそれはそれでよいといたしまして、実はサー・ユースタス、わたくしの個人的なことでもちょっとお話いたしたいのですが。わたしがフィレンツェに行っていた時のことに関しましてたびたびあてつけをおっしゃるところをみますと、露見したにちがいありません」
ああついに、パジェットがフィレンツェで何をしていたのかという謎が解けようとしている!
「あらいざらい話してしまいたまえ、それが一番いいことだよ」わたしはやさしくいった。
「ありがとうございます、サー・ユースタス」
「彼女のご亭主だね? 厄介なものさ、亭主というものはね。まさかこんな時に、というような時に限ってあらわれるんだ」
「なんのことでございますか、誰のご亭主でしょうか?」
「そのご婦人のさ」
「どのご婦人です?」
「これは驚いた。きみがフィレンツェで会ったご婦人だよ。ご婦人が居たんだろ。まさかただ教会を荒らしたとか、顔つきが気にくわなかったからイタリア人の背中へ斬りつけたとかいうことじゃあるまい」
「おっしゃることがますますわかりません。冗談をいっておいでのようですが」
「めんどうな事があると、たしかにわたしはよく冗談をいうよ。しかし今回は断じてふざけているつもりはないのだ」
「あのときは遠く離れておりましたので、わたしにお気づきにはならなかったものと思っておりましたのです」
「どこできみを見かけたと?」
「マーロウで」
「マーロウで? いったいマーロウで何をしていたんだね?」
「もうわかっておいでかと思っておりましたのです……」
「いよいよもってわからなくなるばかりだ。はじめに戻って最初からすっかり話してくれ。まずきみはフィレンツェへ行ったと……」
「ではなにもご存じではないのですか、わたくしをお見かけになったのではないのですね!」
「どうやらきみはやぶへびだったようだね、良心がとがめてビクビクしているからだ。しかししまいまで聞かせてもらえばもっとよくわかるだろう。さあ、気持を落ち着けてはじめから話してみたまえ。きみはフィレンツェへ行き……」
「しかしわたくしはフィレンツェへは行かなかったのです。そこなのです」
「ほう、ではどこへ行ったのだ?」
「|うち《ヽヽ》に帰りましたのです──マーロウへ」
「いったいぜんたい、何のためにマーロウへなんか行ったのだね?」
「家内に会いたかったのです。家内は身重でもうじき……」
「家内? きみに奥さんがあるとは知らなかったぞ!」
「はい、それを申しあげているのです。このことでわたしはあなたさまをだましておりました」
「結婚して何年になるのだ?」
「八年たったところです。あなたさまの秘書になりましたのが結婚して半年目の時でございましたが、この職をのがしたくなかったのです。住みこみの秘書は妻帯者ではいけないことになっております、それでわたしは事実をかくしておりました」
「あいた口がふさがらん、というところだ。奥さんはここ八年間どこに住んでいるのかね?」
「わたくしども、マーロウの河岸に小さな小屋をもっております、ミルハウスのすぐ近くです、もう五年以上になりましょうか」
「こりゃあ驚いた」わたしは呟いた。「子供はいるのかね?」
「四人おります、サー・ユースタス」
わたしは知覚が麻痺したようになってパジェットの顔をみつめた。パジェットのような男がやましい秘密をもっているはずがないことぐらい最初からわかっているべきであった。奴がまじめこの上もない男だからこそわたしはいつも苦労しているのではないか。妻と四人の子供があった──せいぜいこのぐらいのところが奴のもちそうな秘密なのだ。
「他に誰かに話したかね?」あまりのおもしろい話にしばしの間パジェットの顔をみつめていたわたしは、やっとそう訊ねた。
「ベディングフェルドさんにだけ話しました。キンバレーの停車場までいらしたのです」
わたしはみつめ続けた。彼は凝視されてそわそわと落ち着かなかった。
「お気にさわったのでなければよろしいのですが?」
「きみ、いいかね、きみは何もかも台なしにしてしまったんだぞ!」
わたしはほんとに腹を立てて外へ出た。例のみやげもの屋の前を通った時、突然抗いがたい誘惑を感じてわたしは中へ入った。主人がもみ手しながら出てきた。
「なにかお探しで? 毛皮ですとか、おみやげものですとか」
「ありふれたものじゃないものがほしいのだが」わたしはいった。「特別の場合なんでね。なにか見せてもらえるかね」
「では奥の部屋へお通りくださいますか? 奥にたくさん用意してございますので」
ここで間違いをしでかしたのである。しかもわたしは自分では大いに分別のある行動をしているつもりだった。わたしは主人のあとについて奥へ通じるのれんをくぐった。
第三十二章
──ふたたびアンの手記より
スザンヌと大いにもめた。私が計画を実行しようとするのをとめようとして彼女は説きつけたり、嘆願したり、ついには泣き出したりさえもした。だがとうとう私は思いどおりにすることにした。スザンヌは私の頼んだことをちゃんとやると約束してくれた。そして停車場まで見送りに来て、目にいっぱい涙をうかべてさよならをいった。
私は翌朝早く目的地へ着いた。これまで会ったことのない、短い黒いあご髯をはやしたオランダ人が待ちうけていた。待たせてあった車でその男と私は出発した。遠くでなにか轟くような音が聞こえるのであれは何かときいたら、男は『銃声です』とそっけなく答えた。ヨハネスブルグでは戦闘が続いているのだ!
私は目的地はヨハネスブルグの郊外のどこからしいと見当をつけた。車は幾度も角を曲がったりぐるぐる回り道したりし、それにつれて、刻々と銃声は近くなった。息づまるような感じだった。とうとう車はとあるぼろぼろの建物の前にとまった。カフィル人の少年がドアをあけてくれた。私を案内してきた男が中へ入れと合図した。私はうす汚い四角なホールにもじもじと立っていた。男は私のそばを通り抜けて一つのドアをさっと開いた。
「ハリー・レイバーンさまに若いお嬢さんがご面会です」彼はそういって笑った。
こう紹介されて私は中へ入った。家具も飾りつけもほとんどない部屋で安たばこのにおいがしていた。机のむこうに一人の男が書きものをしていたが、ふと顔をあげると眉をつりあげた。
「おやおや、これはベディングフェルドさんではありませんか!」
「あたくし物が二重に見えるようですわ。チチェスターさんでしょうか、それともペティグルーさんでしょうか? お二人とてもよく似ていらっしゃるものですから」
「目下両人格とも停止中です。ペティコートもぬぎましたし、聖服もぬぎました。どうぞおかけになりませんか」
私は落ち着きはらって椅子にかけた。
「どうやらあたくし、間違ったところへ来てしまったようですわ」
「あなたの側から見ればね。まったくの話、ベディングフェルドさん、またしても罠《わな》に落ちたとはね!」
「あたくしもだらしがありませんわね」私はおとなしく同意した。その態度が相手にはふしぎだったらしい。
「あなたはちっとも慌てておられんようですな」
「あたくしが大げさに感情を表わしでもしたら手ごころを加えるおつもりでもありますの?」
「そんなことはない」
「ジェイン大伯母《おおおば》さまはいつも、ほんとうの貴婦人《レイディ》というものはいついかなるときでも慌てたり騒いだりしないものだっておっしゃってたわ」私はうっとりと呟いた。「あたくしもあの伯母さまのお教えを貫くわ」
私はチチェスター・ペティグルー氏の顔を見ただけでその意見がありありと読みとれたので大急ぎでまた話しかけた。
「あなたってメイキャップがとてもお上手なんですのね。ペティグルー嬢でいらしたあいだあたくし全然気がつきませんでしたわ。ケープタウンであたくしが汽車にとび乗ったときあなたはびっくりして鉛筆の先お折りになりましたけど、あの時でさえ気がつきませんでしたの」
彼は手にしていた鉛筆で机をコツコツと叩いた。
「それはそれで結構でしょう。さて用件に入りましょう。おそらくここにきていただいたわけはおわかりでしょうな?」
「失礼ですけれど、あたくし最高責任者の方以外とは取り引きいたさないことにしております」
いつか金貸しの広告ビラでそんなふうな文句を読んだことがある。私はこの文句を口にしたことに満足を覚えた。それはチチェスター・ペティグルー氏に対して圧倒的効果を発揮した。彼はあんぐり口をあけ、それから又しめた。私はにこやかに話しかけた、
「ジョージ大伯父の処世訓なんですの、ジェイン伯母のつれあいですのよ。真鍮のベッドの飾りを作る商売をしておりましたの」
チチェスター・ペティグルーはこれまでじらされた経験がないのではなかろうか。彼はそういうことを喜ばなかった。
「調子をあらためた方が身のためじゃありませんかね、お嬢さん」
私は返事をする代わりにあくびをした──ひどく退屈していることを暗示する小さな微妙なあくびである。
「いったい何を……」彼は声をあららげていいかけた。私はそれをさえぎっていった。
「わめいたって無駄ですわ。時間がもったいないだけです。あたくし下っぱの方とはお話するつもりはありませんの。さっさとサー・ユースタス・ペドラーのところへ案内してくださったほうが時間と手数の節約になりましてよ」
「サー・ユ……」
彼は唖然としたようであった。
「そうよ、サー・ユースタス・ペドラーですよ」
「あの、あの、ちょっと失礼……」
彼は脱兎のごとくに部屋をとび出していった。私はその間を利用してハンドバッグをあけ、鼻のあたまにおしろいをていねいにたたき、帽子を恰好《かっこう》よくかぶり直した。それから椅子にちゃんと坐り直して敵の戻ってくるのをじつと待った。
彼は再びやってきたが心なしかおとなしい感じになっていた。
「こちらへおいで願えますか、ベディングフェルドさん?」
私は彼のあとについて二階へあがった。彼がある部屋のドアをノックすると『どうぞ』というきびきびした声が中からきこえた。私は招じ入れられた。
サー・ユースタス・ペドラーは椅子からとびあがるようにして立ちあがり、愛想よくにこにこと私をむかえた。
「これはこれは、アンさん」彼は心から握手した。「ようこそ、まあおかけなさい。旅行は疲れませんでしたか? それはよかった」
相変わらずにこにこしながら彼は私とむかい合って腰をかけた。私はちょっと当惑を感じた。それほどサー・ユースタスの態度は自然だったのである。
「わたしのところへ直接つれて行けとごねたのは当然ですな。ミンクスは馬鹿ですからね。器用な役者だが、しかし馬鹿だ。あなたが階下《した》でお会いになった男がミンクスですよ」
「ああ、そうですの」私は力なくいった。
「さて、本題に入るとしましょう」サー・ユースタスは陽気にいった。「わたしが『隊長《ボス》』だということはいつわかったんです?」
「カンヌにいらっしゃるはずのあなたをマーロウで見かけた、という話をパジェットさんから聞いてからですわ」
サー・ユースタスは無念そうにうなずいた。
「うん、だからわたしはあの馬鹿者にお前のおかげで何もかも台なしになったといってやったのですよ。奴にはもちろん何のことやらわからない。あの男の頭はわたしがあの男を見かけたかどうかということでいっぱいで、わたしがマーロウで何をしていたかなんてことは訝《いぶか》りもしなかったんですな。全く不運な出来事だった。周到な配慮をしたんですがねえ、奴をフィレンツェへ追いやり、わたしは一と晩かもしかしたら二た晩ニースへ行くとホテルには話しておいた、そうして殺人が発見された頃にはちゃんとカンヌに戻っていた。リヴィエラを離れたなんて誰も考えもしなかった」
相変わらずいつもと同じような自然な話し方だった。私は、これは夢ではないのかしら、私の前にいるこの男がほんとに稀代の悪党『隊長《ボス》』なのかしらと思い、わが身をつねってみなければならなかった。私は心の中でこれまでのさまざまな出来事をたぐってみた。
「そうすると、キルモーデン号であたしを海に投げこもうとしたのはあなたでしたのね」私はゆっくりといった。「あの晩パジェットが甲板まで尾《つ》けていった相手はあなたでしたのね?」
彼は肩をすくめた。
「どうも相すみませんでしたな、ほんとうに。わたしは最初からあなたのことは好きだった。しかしあなたは全くいまいましいくらい邪魔だてばかりするんだ。たかが小娘ひとりのおかげで全計画をぶちこわしにはさせられなかったものでね」
「ヴィクトリア滝でのご計画はほんとに見事だったと思いますわ」私は努めて平然としているふうをしながらいった。「あたしがホテルを出たときあなたは確かにホテルにいらしたってあたし断言できるつもりでした。これからはなんでもこの目で見てたしかめないうちは信じないことにしますわ」
「ええ、ミンクスが最高の役者ぶりを発揮してペティグルー嬢を演じてくれましたからね。しかも彼はわたしの声音《こわね》を実にうまく真似《まね》ることができるんですよ」
「あたしわからないことが一つありますの」
「なんです?」
「パジェットが彼女を秘書として雇うようにどうやって仕向けたんですの?」
「ああ、それは至って簡単。貿易委員会なり鉱山局なりの玄関でペティグルー嬢がパジェットを待ちうけていて、わたしから急に電話があって、自分がその秘書として役所から推薦されたといったんです。パジェットはそれを鵜呑《うの》みにしたんですな」
「あなたってずいぶん率直でいらっしゃいますのね」私は彼をつくづくと見ながらいった。
「率直でいけない理由はどこにもありませんからね」
私はそのいい方が気にくわなかったから、大急ぎで自分の都合のよいように解釈してこういった。
「この革命は成功すると思っておいでなんですのね? 背水の陣のようですもの」
「いつも頭の良いお嬢さんなのにこれはまたずいぶんと頭の悪いことをおっしゃる。いいや、革命の成功を期待してはいませんな。あと二日ばかり騒ぎは続けさせておきますが、そのあとはぶざまに失敗ということになるでしょうなあ」
「こんどばかりはあなたも成功しなかったということですのね?」私は意地悪くいった。
「仕事ってことがわかってないんですな、やっぱり女だ。わたしが引き受けたことは、弾薬や武器を供給することで──むろん莫大な報酬とひきかえにですぞ──その結果不穏な空気が誘発され、ある一部の人々が罪に陥れられるというわけですよ。わたしはこの仕事を大成功裡にやり遂げました。報酬はぬかりなく前金でもらってある。これを最後の仕事にして隠退するつもりですから、殊のほか注意深くやったのです。背水の陣とおっしゃったが、どういう意味ですかね? わたしは暴動の首謀者ではないんで、イギリスから訪れた賓客《ひんきゃく》です。それが運悪くあるみやげもの屋に首をつっこんだばかりに余計なことを知ってしまった──その結果その気の毒な御仁は誘拐された。あしたかあさって、手足を縛られ、飢えと恐怖にさいなまれたあわれな姿のわたしがどこかで発見されますぞ」
「ま! でもあたしのことは?」
「それなんですな」サー・ユースタスはおだやかにいった。「あなたをどうするかな? わたしはあなたを手に入れた──何度もいいたくはないんだが──まことに見事に手に入れた。そこで問題はそのあなたをどうしようかということなんですがね、あなたを処理するもっとも手軽な──かつわたしにとっては最も喜ばしい──方法は、結婚だ。妻は夫を告発することができませんからね。第一若くて美しい奥さんが手を握ってくれて涼しい目でちらちらと見てくれるのはいいものだが──その目でそう見ないでくださいよ! わたしをこわがらせないでほしいな。しかしこの計画はお気に召さんようですな?」
「召しませんとも」
サー・ユースタスはためいきをついた。
「残念しごく! しかしよくあることだ、別の男を愛しているんですな」
「別な人を愛してますわ」
「そんなことだろうと思っていた──はじめはレイスとかいうあの足の長い、尊大ぶったお馬鹿さんが相手かと思っていたんですがね、どうやらあの晩あなたを谷底から釣りあげた若き英雄らしいですな。女は人を見る目がなくていかん。あの二人はわたしの半分の頭脳《あたま》もないんだのに。わたしというのは事ほど左様にみくびられているんだ」
私もそれはその通りだと思う。彼がそういう種類の人間であるということ、そうにちがいないということを十分承知していながら、私にはどうしても実感がわかなかった。私を一度ならず殺そうとし、また事実他の女性を殺したこともあり、それのみか、私は知らないが、数えきれないほどの悪事を働いた男なのだ。にもかかわらず、私はどうしてもそんな悪いことをする男と思うことができなかった。ただ親切でおもしろい旅の道づれとしか思えないのである。恐いとすら思うことができなかった。しかも私は、必要とあれば彼は私を冷然と殺してしまえるのだということを承知していた。似たような人物としてたった一人考えられるのは、『宝島』のロング・ジョン・シルヴァである。きっとあれと似たような人物なのにちがいない。
「いや、まあ」椅子の背によりかかりながらその驚くべき人物はいった。「ペドラー夫人になるという案がお気に召さぬとは残念だが、そうなるともう一つの案はちょっとばかり手あらですぞ」
私は背すじに悪寒が走るのを覚えた。むろん、自分が大きな危険に挑んでいるのだということは最初から承知していた。それだけの危険をおかすに価する報酬が得られると思えばこそである。はたして私の計画どおりにうまくいってくれるだろうか? それともだめだろうか?
「ほんとうのところ」サー・ユースタスは続けた。「わたしはあなたが好きでたまらんのですよ、あまり過激な手段はとりたくない。どうです、そもそもの最初のところからこれまでのことを話してくれませんかね、その上でどうしたらよいのかを考えてみようじゃないですか。ただし誇張しないこと、いいですね、わたしが知りたいのは事実ですぞ」
私は判断を誤りはしなかった。サー・ユースタスの頭の鋭さには敬服していたから、今こそ真実を語るべき時だと考えた。私はハリーに助けられるまでのことを細大もらさず話してきかせた。聞き終わると彼はうなずいた。
「賢いお嬢さんだ。きれいに白状しましたね、もっとも嘘などついたって、わたしにはすぐわかる。しかしたいがいの人は今の話を信用しないだろうな、殊に最初の部分なんかね。わたしは信用しますよ。あなたはそういうお嬢さんだ、ほんのわずかなきっかけで即座に行動を起こすようなね。もちろんこれまでのところはあなたは全く運がよかったのであって、おそかれ早かれ素人《しろうと》は玄人《くろうと》にぶつかればどういう結果になるかははじめからわかりきってる。わたしは玄人です。わたしがこの商売を始めたのはごく若い時分でしてね、いろいろ考えた末、これが金持になるための一番の早道だと思ったんです。わたしはいつの場合も熟慮することを怠らず、巧妙な計画を立てた、そしてその計画を実行に移すにあたって自ら手を下すような愚かなことは決してしなかった。必ず熟練者を雇う──これがわたしのモットーですからね。一度だけこのモットーに従わなかったためにわたしは失敗した。しかしその仕事に関してだけは誰をも信用できなかったのです。ナディナは知り過ぎていましたのでね。わたしという男は仕事を邪魔されさえしなければのんきで心のやさしい人間なんだが、ナディナは邪魔したばかりか脅迫した──それもわたしがこれまで成功を続けてきて今や絶頂という時にです。彼女が死んでダイヤモンドが手に入りさえすればわたしは安全だった。しかし今や仕損じたといわざるを得ない。パジェットの馬鹿めが──女房子供など隠しおって! わたしが悪かったのですよ、あの十六世紀の毒殺者のような顔つきをしてヴィクトリア朝中期の精神をもった男を雇ったら面白かろうとつい思ったものでね。アンさん、格言を教えてあげよう、『自らのユーモアのセンスに負けるなかれ』。実は何年も前からパジェットを追っぱらうほうが賢明だぞと感じてはいたんですがね、しかし正直なところあれだけよく働いて良心的な男では解雇する理由がどうしてもみつからんので、なり行きに任せておいたのですよ。
ところで話がそれましたな。問題はあなたをどうするかということだ。あなたの話はまことに明快だったが一つだけまだわからないことがある。例のダイヤモンドは今どこにあるんです?」
「ハリー・レイバーンが持ってますわ」私は相手をじっと見まもりながらいった。
サー・ユースタスの表情は少しも変わらず、相変わらず上機嫌でせせら笑うような表情をくずさなかった。
「ふむ、わたしはそのダイヤモンドが欲しい」
「あれを手にお入れになれる見込みはまずないでしょうね」
「そう思いますかね? いやそんなことはない。わたしとて不愉快なことは嫌いなんだが、考えた方がいいんじゃありませんか、今この町のこのあたりで女の子の死体が発見されたところで誰も驚きゃしませんよ。そういう仕事にかけては実にすぐれた男が階下《した》で手ぐすねひいているんですぞ。さあ、あなたは分別のあるお嬢さんだ。わたしの提案はこうです、つまり、あなたはここに坐ってハリー・レイバーンに手紙を書く、ダイヤモンドを持ってここに来るように……」
「そんなこといっさいする気ございません」
「年長者を遮《さえぎ》って口を出すもんじゃない。わたしは取り引きをしようといってるんです。ダイヤモンドとあなたの命とひきかえにしよう、とね。そしていいですか、あなたの命は完全にわたしに握られているのですぞ」
「ハリーのことは?」
「わたしは心のやさしい人間でね、若い二人の仲を裂くようなむごい真似はできませんよ。彼も解放します──むろん、あなたがた二人とも今後いっさいわたしに干渉しないという条件つきでね」
「でもその取り引きの契約を守るということをあなたの方ではどうやって保証してくださいますの?」
「保証は何もありませんよ。わたしを信用してベストを期待するんですな。もちろん、あなたが英雄的な気分になって死をも辞さないなんていうんであればまた別ですがね」
こうなることを期待して私は熱演してきたのだった。私は用心してすぐにその餌にとびつくようなことはせず、おどされたりすかされたりしてついに屈服したような形にもっていった。そしてサー・ユースタスのいう通り書いた。
『ハリー
あなたの潔白を証明するチャンスがあるのです、絶対に大丈夫です。どうか精確にわたしのいう通りにしてください。アグラサトみやげもの店に行き、『なにか|ありふれないもの《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》を見せてほしい、|特別の場合だから《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》』というのです。そうすると店の主人が『奥の部屋へどうぞ』といいますからついて行くのです。そうすれば使いの者が居て私のところへつれてきてくれます。その人のいう通りにしてくださいね。ダイヤモンドを持ってくるのを忘れないで。誰にもいわないこと』
サー・ユースタスはここでやめていった。
「あとはあなたの想像力にまかせるから二た言三言書き加えてもよろしい。ただしくれぐれも気をつけて妙な間違いはしないように」
「『いつまでもいつまでもあなたのアンより』だけで結構ですわ」
私はそう書きこんだ。サー・ユースタスは手をのばして手紙をとると目を通していった。
「いいようだな。では所番地をいいなさい」
私は電報や手紙を受けとってくれるよう心づけをやって頼んである、ある小さな店の番地を教えた。サー・ユースタスがテーブルの上の呼鈴《よびりん》を鳴らすと、チチェスター・ペティグルー、別名ミンクスがやってきた。
「この手紙をすぐ届けるよう手配してくれ。いつものルートでな」
「かしこまりました、隊長《ボス》」
ミンクスは封筒に書かれた宛名を見た。鋭く見守っていたサー・ユースタスはいった。
「きみの友人らしいね?」
「わたしの?」ミンクスはぎくりとしたふうだった。
「昨日ヨハネスブルグでその男と長々としゃべっていたじゃないか」
「男が近寄ってきてあなたやレイス大佐の動静を訊ねたのです。それで間違ったことを教えてやりましたが」
「よくやった、きみ、そりゃよかった」サー・ユースタスはおだやかにいった。「わたしの思い違いだった」
チチェスター・ペティグルーが部屋を出て行くときふとその顔を見ると、まるではげしい恐怖に襲われたかのようにまっ青になっていた。彼が出て行くとサー・ユースタスはすぐさま傍らの送話管をとりあげて話しかけた。
「シュワート、きみか? ミンクスに用心してくれ。命令がない限りここから出さんように」
送話管をおくと彼は苦い顔をし、テーブルを小さくコツコツと叩いた。
「少しお訊ねしたいことがあるんですけど」ちょっと黙っていてから私はそういった。
「ああどうぞ。あなたの度胸も大したものだなあ、アン。たいていの娘ならめそめそ泣きじゃくるところだのに落ち着いて物事に興味を示す余裕があるとはね」
「なぜハリーを警察につき出さないで秘書なんかにお雇いになりましたの?」
「ダイヤモンドが欲しかったからですよ。ナディナめ、あなたのハリーとわたしを張り合わせて漁夫の利を占めるつもりだった。ナディナは要求通りの金をよこさないならダイヤモンドはハリーに売るといったんだが、わたしはもう一つ間違いをしでかした──あの日ナディナがダイヤモンドを持ってくるものと思っていたのですよ。ところが彼女もそんなことをするほど馬鹿ではなかった。その上ナディナの夫のカートンも死んでしまったというわけで、いったいダイヤモンドはどこにあるのか全く手がかりがなくなってしまった。そこへ、ナディナに宛てて誰かがキルモーデン号から打った電報の写しがうまく手に入った──打ったのはカートンかレイバーンかのどちらからしかったがはっきりはわからなかった。その写しというのはあなたの持っていたのと同じで、十七、一、二二と書いてあった。わたしはそれをレイバーンとの約束と解したんだが、レイバーンがキルモーデンに乗ろうと必死になっているのを知って、やっぱりそうだと確信したんですよ。そこで彼の話をうのみに信じたふりをして雇った、そしてもっといろいろ探り出したいと思ったから彼の動静については油断なく注意していた。そのうちミンクスがわたしの邪魔をし、ひとりで勝手にやろうとしているのに気づいたのですぐやめさせた。ミンクスは簡単にわたしのいうことをきくようになった。それから十七号室がとれないのにもいらいらしたし、あなたという娘がみかけ通りの天真爛漫《てんしんらんまん》な娘なのかそうでないのか見きわめがつかないのにも閉口した。あの晩レイバーンが約束の場所へ行こうとしたのでミンクスにいいつけて妨害させたが、むろん奴は失敗した」
「でもなぜその電報は七十一でなくて十七になっていたのでしょうね?」
「わたしもそれはいろいろ考えてみましたがね、カートンが打つとき、電文を書いたメモを技手に渡してそのままあとは目を通さなかったんでしょうな、無電技手もわれわれと同じ間違いをやって一・七一・二二と読むべきところを十七・一・二二と読んだんですよ。わたしにわからないのはミンクスがどうやって十七号室ということを嗅ぎつけたのか、ということだが、あれは直感といわざるを得ませんな」
「それからスマッツ将軍宛てのお手紙のことはどうなんですの? 誰が細工したんでしょう?」
「アン、このわたしがたくさんの計画をむざむざ無駄にすると思いますか? 逃亡中の殺人犯を秘書に雇っていれば、白紙とすりかえることに躊躇する必要はない。誰も気の毒なペドラーを疑ったりはしませんからね」
「レイス大佐のことは?」
「うん、あれはどうも不愉快だった。パジェットからレイスは秘密警察の者だと聞かされたとき背すじのあたりがぞうっとした。そういわれると戦時中あの男がナディナのあとをつけまわしていたことを思い出し、今度はわたしを追ってこの船に乗りこんだのではないかと思われ出してねえ。以来、わたしにつきまとう感じがどうもいけすかない。あの男は、常になにか切り札を隠しもっている無口で力の強い人種のひとりですよ」
ピイッという音がした。サー・ユースタスは送話管をとりあげてちょっとの間聞いていたが、やがて答えた。
「結構、すぐ会おう」
「仕事です。アンさん、お部屋にご案内申しあげよう」
彼はカフィル人の少年に私の小さなスーツケースを持たせて私を小さなみすぼらしい部屋に案内した。そして客を迎えた主人のごとくにうやうやしく、しきりとなんでも入り用なものはいいつけてくれといってひきさがった。洗面台の上にはお湯の入った水さしが置いてあった。私はスーツケースからわずかばかりの身の回りのものを出しはじめたが、洗面袋の中になにか固いものがふれたのでおかしいと思い、紐をほどいて中をのぞきこんだ。驚いたことに中から出てきたのは真珠のにぎりのついた小型の拳銃であった。キンバレーを発った時には入っていなかったのだ。用心しながらその品物をあらためてみたが、弾丸《たま》がこめてあるらしかった。
私は手に持って構えてみて快感を覚えた。このような家の中にあっては甚だ有用な品物であった。しかし現代の衣服は拳銃などを持ち歩くにはまことに不便にできている。結局私はストッキングの上のところへそっとおしこんだ。不恰好にふくらみはするし、いつ暴発して足を射ち抜くか知れたものではなくビクビクものだったが、どう考えても他に適当な隠し場所はなかった。
第三十三章
サー・ユースタスの前に呼び出されたのは午後遅くなってからだった。十一時のお茶とたっぷりした食事が私の部屋まで運ばれていたから、目前に闘争をひかえて十分力がついたように感じていた。
サー・ユースタスは一人でいた。部屋の中を行ったり来たり歩き回っていたが、その目が輝き、なんとなくそわそわしているのを私は見逃さなかった。なにか得意でたまらぬことがあるらしく、私に対する態度にも微妙な変化が感じられた。
「ニュースです、あなたの大事な人はやがて来ますよ、数分のうちにね。そうあまり嬉しがらないで──もう少しいいたいことがある。あなたはけさわたしを騙そうとしましたな。ほんとうの事だけいうのが身のためだとわたしはちゃんと警告したでしょう。なるほどあなたはある点まではその通りにしたが途中から道をそれて、わたしにダイヤモンドはハリー・レイバーンが持っていると信じこませようとした。あの時はその方がわたしの仕事──つまりあなたを使ってハリーをここへおびきよせようという仕事が楽になるから黙ってきいていましたがね、ところがねえ、アン、あのダイヤモンドはヴィクトリア滝を発って以来ずっとこのわたしが持っていたんですよ──もっともそのことがわかったのはつい昨日ですがね」
「ご存じでしたの!」私は息をのんだ。
「おもしろいことを教えますとね、その秘密を暴露してくれた張本人はパジェットなんですよ。あの男はわたしがうるさいというのにむりやり賭けとフィルムの罐とやらのつまらぬ話を長々としてきかせたんです。それを聞いたわたしは、ブレア夫人がレイス大佐を疑い出したことや、動揺していること、そして自分に代わってみやげものを持ってってくれとわたしに懇願したことなどと考え合わせてすぐハハンと思った。あの優秀極まるパジェットが仕事熱心のあまりブレア夫人の荷もみんな解いてしまってあったんで、わたしはホテルを出る前にフィルム類をぜんぶわたしのポケットへあっさり移動させたんですよ。そこの隅にみんなありますがね。暇がなくてまだあらためてはいないが、一つだけ他のにくらべてひどく重くて、振ると独特の音がして、その上ニカワで封じてあるらしく罐切りがなけりゃ開かないようなのがある。これで事態は明瞭のようですな、そうでしょう? そうしてわたしは今やあなたがた二人ともを首尾よく生捕《いけど》りにした……。ペドラー夫人になるといってりゃよかったものをねえ」
私は答えなかった。そして彼をみつめて突っ立っていた。
階段を上る足音がしたと思うとドアがさっと開かれて、ハリー・レイバーンが二人の男に両側からおさえられて押し込まれるように入ってきた。サー・ユースタスが勝ち誇ったような視線を私に投げてよこしながら静かにいった。
「計画通りだな。きみたち素人のたたかう相手は玄人だよ」
「これは何の真似だ?」ハリーがわめいた。
「わたしの客間へようこそおいでくださいました、と蜘蛛《くも》は蝿《はえ》にいいましたってことですな」サー・ユースタスはおどけていった。「レイバーン君、きみも全く不運な人ですな」
「アン、きみは、絶対に安全だと書いてよこしたじゃないか!」
「きみ、彼女を非難してもだめだ。あの手紙はわたしが口述して書かせたんであって、このお方としても書かざるを得なかったんですな。もう少し頭がまわれば書かなくてすんだんだが、あの時わたしはそう教えてあげなかったものでね。きみは彼女の指示に従ってみやげもの屋へ行き、奥の部屋から秘密の通路を案内され──そして来てみたら敵の手中に陥ちていた!」
ハリーが私の方を見た。私はその意味を悟り、サー・ユースタスの方へにじり寄った。
「うん、きみはよくよく運の悪い男だなあ。これで、ええと、会うのは三度目ですな」
「その通りだ」ハリーはいった。「これが三度目だ、これまでの二度はおれの負けだった。しかし三度目の正直ということを知ってるだろう。今度はおれの番だ──狙《ねら》え、アン」
用意はできていた。私はストッキングの上部からさっと拳銃をとり出すとサー・ユースタスの頭へつきつけた。ハリーをおさえていた二人の男がとび出そうとしたが、ハリーの声が制した。
「動くな! 一歩でも動けば奴の命はないぞ!アン、こいつらがちょっとでも動いたら引き金を引け、遠慮はいらない」
「いいわ」私は陽気にいった。「でも引き金を引くのちょっと恐いみたい」
サー・ユースタスも恐かったに違いない、彼は小刻みに震えていた。
「そのまま動くな」サー・ユースタスが命令すると二人の男は黙っていうことをきいた。
「出て行くようにいえ」ハリーがいった。
サー・ユースタスが出ろというと彼らはどかどかと部屋を出て行った。ハリーはドアに閂《かんぬき》をかけてからひややかにいった。
「これで話ができる」そして部屋を横切ってきて私の手から拳銃をとった。
サー・ユースタスがほっとしたようなためいきをつき、ハンカチで額の汗をぬぐった。
「ひどく調子が悪い、どうもわたしは心臓が弱ってるようだ。そのピストルがしかるべき人の手に移ってほっとしましたよ。アン嬢が持ってるんじゃ危なくってね。ところでお若いの、きみのいうようにこれでやっと話ができる。きみにだしぬかれたことは潔く認めますよ。いったいどこからそのピストルが出てきたのかな、このお嬢さんの荷物はけさ着いたときすっかり調べさしたんだが。第一、今どっから出したんです。ついさっきまで持ってなかったでしょう?」
「持ってましたわ。靴下《ストッキング》の中に入れてましたのよ」
「ご婦人のことはよく知らないんですよ。もっと研究しておくべきであったなあ」サー・ユースタスは情なさそうにいった。「パジェットなら知ってたでしょうかね?」
ハリーがテーブルをドシンと叩いていった。
「ふざけるのもいい加減にしろ。白髪頭に免じて窓からほうり出さないでるんだぞ。このならず者! 白髪だろうと何だろうとおれは……」
ハリーが二歩ばかりつめよるとサー・ユースタスはテーブルのむこうへすばやくとびのいた。
「若い者はすぐ暴力をふるうから困る。頭を使うことを知らないから腕力にものをいわせようとする。落ち着いて話をしようじゃありませんかね。今はきみたちが優勢だが、その状態はいつまでも続かない。この家にはわたしの手下が大ぜいつめてるんでね、多勢に無勢、とうていだめですな。きみたちがこうして一時的に優勢を誇っているのは全く偶然のおかげであって……」
「そうでしょうかね?」
ハリーの声にひやかすような気味の悪いひびきがあるのに気づいたかして、サー・ユースタスは彼をじっとみつめた。
「そうでしょうかね?」ハリーはもう一度くり返した。「坐るんだ、そしておれのいうことを聞け」拳銃をつきつけたまま彼は続けた。「今度ばかりは貴様に勝ち目はないぞ。まずあれを聞け!」
階下でドアをどんどん叩いている音がし、わめき声や罵声に続いて銃声が聞こえた。サー・ユースタスは青くなった。
「あれは何だ?」
「レイスと部下たちだ。知らなかったろうがね、サー・ユースタス、アンとおれとはあらかじめ、お互いの通信文が本物かどうか区別するための暗号をきめてあったんだ。電報は『アンディ』とサインする、手紙はどこかに『そして』という言葉を使ってそれを棒で抹消する、とね。だからアンはあんたからの電報がにせものであることを承知の上で、自分の自由意志でここへ来たんだ。あんたをあんた自身の仕掛けた罠の中で捕えようと思ってわざとあの電報に応じたのだ。キンバレーを発つ前にアンはおれとレイスに電報で知らせてきた。その後はブレア夫人がわれわれとの連絡をやってくれている。おれは、あんたに書かされた手紙がくるにちがいないと思っていたんだ。あのみやげもの屋から秘密の通路が出ているにちがいないということはその前からレイスと二人で論じていたことで、レイスが秘密の通路の出口もちゃんとみつけてあったんだ」
耳をつんざくような音がしたと思うとドカーンという爆発音が部屋をゆさぶった。
「このあたりも砲撃しはじめたな。アン、きみを連れ出さなくちゃな」
パッと火の手があがった。むかいの家が燃えている。サー・ユースタスが立ちあがって行ったり来たりしているのへ、ハリーはずっとピストルをつきつけたままでいった、
「わかったろう、サー・ユースタス、勝負はついたのだ。他ならぬあんた自身が、あんたの所在をつきとめる手がかりをご親切にも教えてくれたってわけだよ。レイスの部下が秘密の通路の出口を見張っていたんだ。あんたの方じゃずいぶん警戒してたつもりだろうが、みんな首尾よくおれのあとをついてここまで来てるよ」
サー・ユースタスは急にふりむいていった。
「まことに利口だ。あっぱれだ。しかしもうひとこといわせてもらおうか。わたしが失敗したというのなら、きみも同じだよ。きみはわたしをナディナ殺しの犯人だときめつけることは絶対できないんだ。わたしはあの日マーロウに居た、わたしにとって不利なことはそれだけじゃないか。あの女を知っていたかどうかということさえ証明できる人は一人もいないんだからね。それにひきかえ、きみはあの女を知っていたんだし、殺す動機もあった──その上前科もある。きみは宝石泥棒なのだからね、忘れちゃいかんよ、泥棒なのだ。ところで、おそらくきみの知らないことが一つある。あのダイヤモンドはわたしが持っているんだ。そして、それっ……」
かかんだかと思うと目にもとまらぬ速さで彼は腕をふりあげ、投げつけた。カチャンというガラスのわれる音とともにその物体はむかい側の燃えさかる焔の中に消え去った。
「キンバレー事件の容疑を晴らそうにも、これできみは頼みの綱を断たれたわけだな。そこで話し合いと行こうじゃないか。取り引きをしよう。きみはわたしを追いつめた。レイスの欲しいものはみんなこの家の中にあるよ。きみがみのがしてくれればわたしには逃げるチャンスが一つあるんだ。このままここに居ればおしまいだ、だがね、きみだって同じなんだぜ! 隣りの部屋に天窓がある、二分以内に行かせてくれればわたしはもう安全だ。あらかじめちょっとした準備をほどこしてあるのでね。行かせてくれるなら、ナディナを殺したのはわたしですという署名入りの告白書をきみにおいていこう」
「そうよ、ハリー、そうしましょうよ、そうしましょうよ!」私は叫んだ。
ハリーはきっとなってふり返っていった。
「だめだ、アン、絶対にだめだ。きみは自分のいってることがわからないのだ」
「わかってるわ、それでみんな解決するじゃありませんか」
「そんなことをしたら二度とレイスの顔が見られなくなる。いちかばちかおれはやるぞ。このひょうたんなまずを逃がしてたまるか。だめだ、アン、おれはいやだ」
サー・ユースタスはクスクス笑った。彼は敗北を認めるに際して泰然としているのだ。
「なるほどね。あなたにも意のままにならない人がいるようですな、アン。しかしね、お二人にいうが正しい行ないが必ずしも報いられるとは限りませんよ」
板がバリバリと裂ける音がしたと思うと、どやどやと階段をのぼる足音が聞こえてきた。ハリーが閂《かんぬき》をゆるめると、まっ先にレイス大佐が入ってきた。私たちを見るとレイス大佐の顔は輝いた。
「無事でしたね、アン。もしやと……」と彼はサー・ユースタスの方へむき直っていった。「貴様を長いあいだ追っていたが、ペドラー、ついに捕えたぞ」
「誰もかれもみんな気が変になったとみえる」サー・ユースタスは陽気にいった。「このお若いのが二人してピストルをつきつけて脅して世にも恐ろしい罪をわたしになすりつけようとしてるんですよ。何のことやらさっぱりわからん」
「わからないかね。『隊長《ボス》』をつきとめたということだ。いいかえれば貴様は一月八日にはカンヌではなくてマーロウに居たということであり、手先に使っていたナディナが寝返ったと知るや彼女を殺そうと謀ったということだ。そうしてついにわれわれは貴様がその犯人だという確証をあげられるに至ったのだ」
「ほう? それでその愉快な情報はどこのどなたからお聞きになったのです? いまだに警察のお尋ねものになっている男からですかね? そういう男の証言ならさぞかし確かなことでしょうなあ」
「他にも証拠を握っているのだ。ナディナがマーロウで貴様と会う手筈になっていたことを知ってる人間がもう一人いるのだ」
サー・ユースタスは驚いた様子だった。レイス大佐が手で合図すると、エドワード・チチェスターことペティグルー嬢ことアーサー・ミンクスが進み出てきた。まっ青な顔をひきつらせていたが、はっきりといった。
「ナディナがイギリスへ行く前の晩、わたしはパリで彼女に会ったのです。その時はわたしはロシアの伯爵ということにしていました。ナディナから計画をうちあけられたわたしは、相手はあなどりがたい人物だからといって思いとどまらせようとしたんですが、彼女はきき入れませんでした。その時テーブルの上に電報があったのをふと読んだんです。それで後になってから、ひとつそのダイヤモンドを自分が手に入れてみようと考えたんです。ヨハネスブルグへ来たらレイバーンさんに声をかけられ、こっちの方へつかないかと説得されたわけです」
サー・ユースタスはミンクスをじいっと見つめた。ひとことも口はきかなかったのだが、ミンクスはみるみるしおれてしまった。
「難破船からはねずみが逃げるものだ」やがてサー・ユースタスはいった。「ねずみはきらいだ。害獣は遅かれ早かれ退治してやる」
「ちょっとお話ししたいことがあるんですけど」私はいった。「さっき窓からお投げになったフィルムの罐にはダイヤモンドなんか入っていませんわ。ただのガラス玉がつめてあったんです。ダイヤモンドは絶対安全な場所に隠してあります。ほんとうのこといって、あの大きなキリンのお腹《なか》の中なんですわ。スザンヌがお腹《なか》をくりぬいて、音がしないように綿に包んでつめこんで、またふさいでしまったんですのよ」
サー・ユースタスはしばらくの間私をまじまじと見ていた。そして彼らしいことをいった。
「どうもあのキリンは最初からいけすかなかったよ。第六感というやつだな」
第三十四章
私たちはその晩はヨハネスブルグへ帰ることはできなかった。砲火ははげしくなるばかりであったし、反乱軍が郊外の一部をあらたに占拠したということだったから交通も遮断されているだろうと思われたからである。
私たちが避難したのはヨハネスブルグから二十マイルほど離れたところにある百姓家で、まさに草原地帯だった。私は疲れてがっくりしていた。この二日間の興奮と不安とでぼろ布のようにくたくたになってしまったのである。
私はもう何もかもすんだのだということを何度も何度も自分にいってきかせたが、なかなか信じることができなかった。ハリーと私はいっしょに居る。二度と再びわかれわかれになることはないだろう。そう思いながら、私は二人のあいだに何か障害物があるのを感じていた。ハリーが何か私に気がねしているようなのだ。なぜなのか私にはわからなかった。
サー・ユースタスは屈強な護衛をつけられて私たちとは逆の方角へ連れ去られていった。彼は私たちに陽気に手をふって別れて行った。
次の朝速く、私はベランダに出て草原の彼方《かなた》のヨハネスブルグの方を眺めていた。白っぽい朝の光の中に大きなボタ山がキラキラ光っているのが見え、低く轟《とどろ》く砲声も聞こえた。暴動はまだ終わっていないのだ。
泊っている家のおかみさんが出てきて朝ご飯だから入るようにと声をかけてくれた。とても親切な母親のような人で、私はすっかり好きになっていた。ハリーは明け方早くにどこかへ出かけたきりまだ帰って来ない、とおかみさんが教えてくれた。私はまたもや何となく落ち着かない気分におそわれた。こんなに気になるとは、ハリーと私の間に何があるのだろうか?
食事がすむと私はまたベランダへ出て腰をおろした。手に本をもっていたが読んではいなかった。そしてすっかり考えごとに耽っていたので、レイス大佐が馬でやってきてヒラリとおりたのを全く知らなかった。『おはよう、アン』といわれてはじめて気がついたのだった。
「まあ」私は赤くなっていった。「あなたでしたの」
「ええ、ここへ坐ってよろしいですか?」
彼は椅子をひっぱって来て私のそばへ坐った。レイス大佐と二人きりになるのはマトポス山へ行った日以来はじめてのことだった。例によって私は、惹《ひ》きつけられるものと怖れとのいりまじった奇妙な感じにおそわれた。彼はそれを感じさせずにおかないのだ。
「何かニュースがありまして?」
「スマッツ将軍は明日ヨハネスブルグへ来ますよ。完全に鎮まるまでにはまだ三日はかかるでしょう、その間は戦闘が続きますよ」
「あたし、当然殺されるべき人が殺されるんだってわかってたらいいと思いますわ。つまり、戦闘が行なわれる場所にたまたま住んでいる気の毒な人たちが死ぬんじゃなくて、戦いを望んだ人が……」
彼はうなずいていった。
「あなたのいう意味はよくわかりますよ、アン。それが戦争というものの理不尽なところなんです。ところでもう一つあなたに知らせることがあるんですよ」
「なんですの?」
「わたしの無能さを白状しなくてはならないのですがね、ペドラーがまんまと逃げました」
「なんですって?」
「そうなんです、いったいどうやって逃げたのか誰にもわからないんですよ。軍部が接収した農家の二階の一室にしっかり監禁しておいたのに、けさになってみたら部屋はからっぽで小鳥はすでに逃げていました」
私は心ひそかに喜んだ。今日にいたるも私はサー・ユースタスに対するひそかな好意をすてきれずに居るのである。それはけしからぬことかもしれない。しかしどうにもならないのだ。私は彼に敬服していた。全くの悪党であったにはちがいないが楽しい人物だった、あの半分もおもしろい人物に他に出会ったことがない。
私はもちろんそういった感情は表わさなかった。レイス大佐は当然ちがったふうに感じていたことだろう。彼はサー・ユースタスを法に照らして処罰するつもりであったのだ。しかしよく考えてみれば、彼が逃亡したからといってさして驚くにあたらないのではなかろうか。ヨハネスブルグの近辺には彼のスパイや手先が無数に配置されていたにちがいない。そして私は、レイス大佐の意向がどうあろうとも、サー・ユースタスが今後再び捕まるかどうかはなはだあやしいと思ったのである。彼はきっと引退後の方針を周到に考えてあったにちがいない。事実、そんな話を彼は私たちにしたことがあった。
私はそんな自分の考えをあいまいに述べた。するとしだいに会話がとぎれがちになった。やがてだしぬけにレイス大佐がハリーはどうしたのかときいた。私は明け方どこかへ出かけたっきりなので朝起きてからまだ会っていないのだ、といった。
「アン、わかってるんでしょうね、手続きはともかくとして、ハリーはもう完全に青天白日の身なんですよ。もちろんその他法的な面倒はあるが、サー・ユースタスの有罪ははっきりしているんですからね。あなたがたを引き離すものはもうなにもないのですよ」
レイス大佐は私から顔をそむけて、低く震えがちの声でそういった。
「わかっておりますわ」私は感謝するようにいった。
「そして今すぐから再び本名を名乗っていけない理由も全くないのです」
「ええ、もちろんですわ」
「彼の本名をご存じですか?」
その質問は私を驚かした。
「もちろん知っていますわ、ハリー・ルーカスです」
彼は答えなかった。彼が黙って答えないのが私には奇妙に感じられた。
「アン、あの日マトポス山からの帰りみちで、わたしが自分のなすべきことがわかったといったのを覚えていますか?」
「もちろん覚えていますわ」
「わたしはそれを成し遂げたとはっきりいえると思います。あなたの愛している人の容疑は晴れたのですからね」
「そういう意味だったんですの?」
「むろんですよ」
私は根拠もないのに彼を疑ったことを恥じ、頭をたれた。彼はふたたび思いに耽るような声で話しかけてきた。
「まだほんの若者だったころ、わたしはある娘に恋をしてふられました。それ以来仕事のことだけを考えて生きてきたのです。立派な業績をあげることだけがすべてでした。しかし、アン、わたしはあなたに出会った、そして立派な業績など何の価値もなくみえてきたのです。しかし若い人は若い人同士がいいのです……わたしにはまだ仕事がある」
私は答えなかった。二人の人を同時に愛することはできないが、そんなふうに感じることはできると思う。レイス大佐は強く人をひきつける力をもっている。私はふいに顔をあげて彼を見た。
「あなたはきっとうんと成功なさると思いますわ。あなたには立派な一生が約束されているんだと思います。世界でも指折りの偉いかたにおなりになりますわ」
私はまるで予言でもしているように感じた。
「でも、ひとりぼっちです」
「ほんとうに偉いことをなさるかたはみんなひとりですわ」
「そう思いますか?」
「絶対に」
彼は私の手をとり、低い声でいった。
「もう一つの人生を歩みたかった……」
そのとき、ハリーが家の角をまわって大股でやってきた。レイス大佐は立ちあがっていった。
「おはよう──ルーカス君」
なぜかハリーは髪の毛の根元までまっ赤になった。
「そうよ」私は明るくいった。「もう誰からも本名で呼んでいただかなくちゃいけないわ」
だがハリーはまだじっとレイス大佐をみつめていた。
「じゃあご存じだったんですね」やっと彼は口をひらいた。
「わたしは人の顔は決して忘れないのですよ。きみがまだ小さいころに一度会ったことがある」
「いったい何のことですの?」私はわけがわからず、二人の顔を見くらべながらきいた。その二人のあいだで気持がぶつかり合っているようであった。だがレイスの勝ちだった。ハリーはわずかに顔をそむけていった。
「あなたのおっしゃるとおりのようです、ぼくの本名を教えてやってください」
「アン、この人はハリー・ルーカスじゃないんです、ハリー・ルーカスは戦死しました。これはジョン・ハロルド・アーズレイです」
第三十五章
そういったかと思うと、レイス大佐は馬にひらりととびのって私たちを残して行ってしまった。私はじっと彼のあとをみつめて立っていたが、ハリーの声に我に返った。
「アン、ごめんよ、許すといってくれ」
彼はそういって私の手をとったが、私はほとんど機械的に手をひっこめた。
「どうしてあたしを騙《だま》していたの?」
「わかってもらえるかどうかわからないが、ぼくは権力とか財力とかそんなものがみんな恐しかったんだ。ぼくはきみにぼくそのものを、飾りもなにもないはだかのぼくを愛してもらいたかったんだ」
「あたしを信頼していなかったというの?」
「そういいたけりゃそういってもいいさ、しかしそれでは正確じゃない。ぼくはすっかり疑い深くなっていて、誰をみても下心があるのじゃないかと思うようになっていたんだ。だからきみが示してくれたような愛情はぼくにとってすばらしかったんだよ」
「わかったわ」私はゆっくりといった。そしてこの前彼が話してくれた話をもう一度思い出してみた。そしてこの時はじめて、それまで気にとめていなかったいくつかの矛盾、つまりナディナのダイヤモンドを買い戻すだけの財力があること、自分と友だちのことを話すのに第三者的な見方をしたがったことなどに気がついたのだった。彼が『ぼくの友だちは』といっていたのはアーズレイのことではなくてルーカスのことだったのだ。ナディナを深く愛したのはおとなしいルーカスだったのだ。
「どうして名前がとりちがったの?」私はきいた。
「二人ともむこうみずだったのさ──戦死することを願ってたくらいだからね。ある晩、認識票をとりかえっこしたんだ──縁起を祝ってね! 次の日ルーカスは死んだ──砲弾でこっぱみじんにふっとんだ」
私は身震いした。
「でもけさになったらもう話してくださったってよかったんじゃないの? もうあたしの愛情を疑う余地はなくなっていたはずでしょ?」
「アン、ぼくはその愛情を害いたくなかったんだ。きみを島へつれて帰りたかったんだ。金なんてどこがいいんだ? 金で幸せを買うことはできないよ。島にいたときぼくたちは幸せだったじゃないか。金持の生活がぼくは恐いんだよ、ぼくを破滅寸前に追いこんだのだからね」
「サー・ユースタスはあなたがほんとうは誰なのか知っていたのかしら?」
「ああ、知ってたさ」
「カートンは?」
「知らなかった。あの男はある夜ぼくたちがナディナといっしょにいるところを見たんだが、どっちがどっちなのか知らなかったんだよ。ぼくがルーカスだっていったのをカートンはうのみに信じたわけだ。それでナディナはカートンの電報にだまされたんだろう、ナディナはルーカスのことは恐れていなかったんだからね。ルーカスはおとなしい奴だったからさ。だけどぼくは昔から激しい気性だった。だからもしぼくが生き返ったと知ったらナディナはよほどおびえたにちがいないんだ」
「ハリー、もしレイス大佐が何もおっしゃらなかったら、どうする気だったの?」
「だまってたさ、ルーカスで通すつもりだった」
「それでお父さまの財産は?」
「レイスが好きなように使えばいいよ。どうせぼくが持ってるよりは彼がもっている方が有益に使うだろう。アン、何を考えているの? ひどくしかめっつらしてるね」
「レイス大佐があなたに白状させなきゃよかったと思って」私はゆっくりといった。
「いや、彼が正しいんだよ。ぼくはきみに真実をいわなくてはいけなかったんだ」
彼はちょっと口をつぐんだが、やがて唐突にいった。
「わかってるだろ、アン、ぼくはレイスを妬《や》いてるんだ。彼もきみを愛している、しかもぼくよりもずっとできた男だ、これからだってぼくは彼には及ばないだろう」
私は笑いながらいった。
「お馬鹿さんね、ハリー。あたしが必要なのはあなただけ──大事なことはそれだけよ」
私たちはできるだけ早くケープタウンへ向けて出発した。ケープタウンにはスザンヌが待っていて迎えてくれた。そしてみんなでいっしょに例の大きなキリンの臓物をとり出した。レイス大佐はヨハネスブルグの暴動がすっかりおさまってからケープタウンにやってきた。そして彼の提案で、かつてサー・ローレンス・アーズレイの持ちものであったミューゼンバーグの大きな別荘が再開され、みんなはそこに泊りこむことになった。
この家で私たちは今後の計画をねった。
私はスザンヌといっしょにイギリスへ帰り、ロンドンの彼女の家からお嫁入りすることになった。そして結婚衣裳はパリからとりよせることになったのだ! スザンヌはこうしたこまごまとしたことをあれこれ考えるのをひどく喜んだ。私も同じだった。だがそのくせ未来のことがどうも現実感をともなって考えられなかった。そして時々なぜだか知らないが、まるで呼吸ができなくなったかのように息がつまるのを感じた。
あすはイギリスへ向けて船が出るという前の晩のことだった。私は眠れなかった。そしてなぜだか知らないがみじめな気持がした。アフリカを離れるのがいやだった。もう一度帰ってきたとき、アフリカはもとのままでいるだろうか? ちがうものになってはいないだろうか?
そのとき、よろい戸をトントンと叩く音がして私はとび起きた。ハリーがベランダに立っていた。
「何か着て出ておいで、アン。話したいことがあるんだ」
私は急いでなにかひっかけると夜のつめたい空気の中へ出て行った──静かでビロードのような夜だった。家の中の人に聞こえないようにハリーがさし招いた。彼はなにか決意を秘めているような青白い顔をしていた。そして瞳が燃えていた。
「アン、きみはこの前、女は好きな人のためにはいやなことでもするのを喜ぶものだっていったね、覚えているかい?」
「ええ」どうなるのかしらと思いながら私は答えた。
彼は私を抱きしめた。
「アン、ぼくといっしょに来るんだ、今すぐ、今夜だ。ローデシアへ帰ろう、島へ帰ろう。こんなばかげた騒ぎにはもう我慢できないんだ。これ以上待てない」
私はちょっと身をふりほどいてさも嘆かわしそうにいった。
「じゃああたしのパリ仕立ての衣裳はどうなるの?」
私が真面目《まじめ》でいってる時と、からかっている時の区別が、ハリーにはまだわかっていなかった。
「パリ仕立てなんかくそくらえだ。そんな衣裳を着てほしいと思ってると思うか? きみがそんなものを着たらビリビリとひきはがしてやりたいぐらいのもんだ。イギリスへなんか行かせないよ、聞いているのか? きみはぼくの奥さんなんだ。今行かせたらきみを失ってしまうかも知れない。どうしても安心がならないんだ。今すぐぼくといっしょに行くんだ、今夜のうちにだ。他の人なんかどうでもしやがれだ」
ハリーは私をひきよせて息ができなくなるほどキスをした。
「これ以上きみなしでは居られないんだ、アン。ほんとうだ。財産など見たくもない、みんなレイスに使わせればいい。さあ、行こう」
「歯ブラシは?」私は抗弁した。
「買えばいい。おれは気違いかも知れないが、お願いだから来てくれ!」
そういうと彼はすごい速さで大股に歩き出した。私はヴィクトリア滝で見かけた原地人の女のようにおとなしく彼のあとをついていった。フライパンを頭の上にのせてこそいなかったが。あんまり速く歩いて行くので離れないようについて行くのは大変だった。
「ハリー」とうとう私は情ない声でいった。「ローデシアまで歩きどうしで行くの?」
彼はふいに立ちどまってふりむくと大声で笑い出した。そして私を胸の中へ抱きよせた。
「おれは気違いだ、わかってる。だけどそのぐらいきみを愛しているんだよ」
「あたしたち気違い夫婦ね。ああ、ハリー、あなたはちっとも無理をいってるんじゃないのよ、あたしはちっとも自分を犠牲にしてるんじゃないの。あたしは来たかったの!」
第三十六章
あれはもう二年も前のことになってしまった。私たちは相変わらず島に住んでいる。今私の前には、スザンヌから来た手紙が粗末な木のテーブルの上にのっている。
『親愛なる世間知らずの気違いご夫婦へ
私は驚いてはいません──少しも。パリのことや衣裳のことをあなたとあれこれ話し合っていた間じゅう、私はちっともほんとのような気がしていませんでした。いつか煙のように消えて、どこかでジプシー式に火箸でもとびこえて簡単に結婚してしまいそうだと感じていたのです。それにしてもあなたがたは気違いご夫婦ね! あの莫大な財産を放棄するだなんて馬鹿げていますよ。レイス大佐はその問題について議論したがっていましたが、議論するより時にまかせておきなさいと説得しておきました。その間彼がハリーに代わって財産を管理していればいいでしょう──それが一番いいと思います。だって、どうせ新婚気分なんて永久に続くわけがないんですから。アン、あなたがここに居るわけじゃないから小さな山猫みたいにとびかかってくるおそれはなし、安心していわせていただきますけどね、孤島での愛情はかなり長続きはするでしょうが、ある日突然、あなたはパークレインのお屋敷や高価な毛皮やパリ仕立ての衣裳や、世界一大きな自動車や世界一新式の乳母車や、はてはフランス人の女中、ノーランド生まれの乳母なんかのことを夢みるようになるにちがいありません! ええ、そうですとも、きっとそうなりますよ!
でも新婚生活をお楽しみなさい、気違いさんたち、いつまでもそれが続くことを祈っていますよ。たまには贅沢三昧《ぜいたくざんまい》の暮しの中でいい気持に目方を増しつつある私のことも思い出してください。
スザンヌ・ブレア
P・S──結婚のお祝のしるしとしてフライパンをひと揃いお送りしました、それから私のことを思い出していただくためにパテ・ド・フォワ・グラの大きな大きな瓶詰もね』
私が時々とり出して読む手紙がもう一つある。これがきたのはスザンヌの手紙よりもかなりあとだった。そして大きな小包がいっしょに届いた。その手紙はボリヴィアのどこかで書かれたもののようであった。
親愛なるアン・ベディングフェルド殿
一筆書かずにはいられなくて筆をとりました。あなたに書くことが楽しいからというよりは、わたしの消息をきいたらあなたがどんなにおもしろがるか知っているからです。レイス君は彼が思っていたほど利口ではなかったようですね、ちがいますか?
わたしはあなたをわたしの遺稿管理者に指定しようかと思います。日記を送ります。レイスや彼の仲間が喜ぶようなことはたぶん何も書いてないが、ところどころあなたがおもしろがるような記述があるように思いますから、どうにでもあなたのお好きなように役立ててください。デイリー・バジェットに『私の会った犯罪者たち』という読みものでも書いてはどうですか。ただし契約条項として一つだけ、わたしを中心人物として描くこと、を要求します。
今ごろはもうあなたはアン・ベディングフェルドではなくてアーズレイ令夫人としてパークレインの屋敷に君臨していることと思います。あなたに対して何ら悪意を抱いていないことをわたしはお知らせしたかったのです。むろん、この年になってまた新規まき直しというのは辛いことです。しかしここだけの話だが、こういった万一の時に備えて前もって少々準備金を貯えてあったのが折よく役に立っているのです、それにちょっとしたうまい|つて《ヽヽ》も得られそうです。ところで例の愉快な友人アーサー・ミンクスにもし会うことがあったら、わたしが忘れていないということだけ伝えてくれませんか。あの男、さぞかしいやな顔をすることでしょう。
わたしは誰に対してもまことにクリスチャンらしい、寛容の精神を発揮してきたように思っています。パジェットにさえもですよ。この間彼が──というよりはパジェット夫人が六番目の子供を世に送り出したということを偶然耳にしました。そのうちイギリスじゅうがパジェット家の子供で満員になることでしょう。わたしはその赤ん坊に銀のコップと、喜んで名付け親になりましょうと書いたハガキを送ってやりました。そのコップとハガキを持ってパジェットがにこりともしないで警視庁へ赴くさまが目に見えるではありませんか!
幸せを祈ります、涼しい瞳さん。いつかきっと、わたしと結婚しなかったのは間違いだったと気づくときが来ますよ。
敬具
ユースタス・ペドラー
ハリーはカンカンに怒った。この点においてのみ、ハリーと私とはどうしても意見が合わないのである。彼にしてみれば、サー・ユースタスは私を殺そうとした男なのだ。そして親友を死に到らしめた責任もサー・ユースタスにあると彼は信じている。サー・ユースタスが私を殺そうとしたということが、私には今もって不思議でならない。ほんとにあったことのような気がしないのだ。なぜなら、彼が私に対して終始好意をよせていたことを確信できるからである。
ではなぜ二度までも私を殺そうとしたのだろう? ハリーは『そりゃああいつが悪党だからさ』といい、それで説明がつくと信じているようだ。私はスザンヌともそのことを話し合ったが、彼女はもう少し判断力があって、恐怖観念のせいだといった。だいたいスザンヌは心理分析が好きなのだが、彼女にいわせると、サー・ユースタスの生き方の根底にあるものは、安全かつ快適にしていたいという欲望なのであり、彼は強烈な自衛本能の感覚をもっているというのだ。だからナディナを殺すことによって、そうした快適な生活を妨げる一種の邪魔物をとり除いたのであり、したがって私を殺そうとしたのも私に対する悪意のあらわれというよりは、彼自身の身の安全を守りたい気持がこうじた結果なのだという。私も彼女のいうのが正しいと思う。ナディナのような女は殺されるのが当然だったのだ。男は金持になりたいためにどうかと思われるようなことでもやってのける。しかし女は下心のために愛してもいない人を愛しているふりなどしてはいけないのである。
サー・ユースタスのことはなんの抵抗もなく許す気になれる。しかしナディナのことは絶対に許せない!
このあいだ、古いデイリー・バジェットに包んであった罐をとり出していたら、ふと『茶色の服を着た男』という文字が目に入った。もうずいぶん昔のことのように思われる! むろん、デイリー・バジェット紙とのつながりはとうの昔に切れている──むこうさまからお払い箱にされないうちに、こちらからお払い箱にしたのである。私の『ロマンチックな結婚』は当時華々しく報道された。
いま私の息子は強烈なアフリカの太陽の下で足をバタバタさせている。『茶色の服を着た男』がここにいるといってもいい。この子はほとんど丸裸だ、それがアフリカでは最上の装いなのだから。おかげで日に焼けてベリーのようにまっ茶色だ。毎日地面に穴ばかり掘っているのはきっとおじいちゃまに似たのだろう。そのうち洪積世の泥に夢中になるかもしれない。
この子が生まれた時、スザンヌが祝電をくれた。
『気違い島の新入りに心よりお祝辞を申しあげます。おつむの形は|長 頭《ドリコケファリック》なりや|短 頭《ブラキケファリック》なりや』
スザンヌからかかる祝電を受けとっては、こちらも一矢報いずにはいられなかった。早速ただひとこと、経済的にしてかつ要領を得た返電を打った。
『扁平頭《プラティケファリック》!』
(完)
訳者あとがき
本書の女主人公《ヒロイン》である『私』すなわちアンは、著名な考古学者ベディングフェルド教授の一人娘である。旧石器時代の人類にしか関心のないこの考古学者は、北ローデシアで古代人の頭蓋骨が発掘されたと聞くやその話に夢中になって鰊《にしん》のくん製にママレードをつけてしまうような人物である。むろん金銭にも超然としているから、幼いときに母を失って主婦がわりをつとめるアンは常に借金のいいわけに苦労しなければならない。彼ら父娘《おやこ》がリトル・ハンプスリという暗くじめじめした小さな村に住んでいるのも、もとはといえばここが古代文化の遺跡に近いということのためだった。
いうまでもなくアンにとっては単調な毎日だった。そういう環境の中でロマンスや冒険に憧れるアン・ベディングフェルドは、わずかに村の図書館のすりきれた小説本や冒険映画などでその願望をみたしていた。しかし、ある冬の寒い日、遺跡の発掘からオーバーもマフラーも忘れて帰った父親が肺炎をおこしてあっけなく他界したため、彼女は孤児となると同時に自由を手に入れたのである。だが彼女が手に入れたものは自由ばかりではなかった。ふとしたことから、かつてあれほどまでに憧れた冒険に身を投ずることになったのである。
これはそのアン・ベディングフェルドの冒険談というわけである。
本書「茶色の服を着た男」(The Man in the Brown Suit)は、アガサ・クリスティ(Agatha Christie)の一九二四年の作で、長編としては第四番目のものである。この物語には有名な小柄なベルギー人の探偵エルキュール・ポワロも出てこなければ、編みものをしながら人生の機微をつかんで謎を解くミス・マープルも出てこない。探偵の役をするのはもっぱら『私』ことアン・ベディングフェルドである。彼女はもちろんポワロのような専門家ではないし、ミス・マープルのような人生経験ももちあわせていない。だから時にははなはだ危険な状態に陥って読者をハラハラさせる。しかしついには彼女の推理が首尾一貫して真相があきらかになる。たびたび偶然の恩恵をうけるとはいえ、あくまでも勘ではなく推理で結論に到達する。つまり本書は、ポワロものやマープルものなどと同じくいわゆる本格派推理小説なのである。
アガサ・クリスティについては、「アクロイド殺人事件」その他数多くの推理小説の作者としてあまりにも有名であるからすでにご存じの読者も多いことと思うが、念のためその経歴を簡単に記しておく。
アガサ・クリスティは、一八九一年イギリスのデヴォンシャのトーキーに生れた。アメリカ人の父に早く死に別れ、母の手一つで育てられた。はじめ声楽に志したが、それにむかないことを悟って、小さい時から好きだった創作に専念するようになった。その時いろいろ指導してくれたのが、名作「赤毛のレッドメーン家」の作者イーデン・フィルポッツであったという。
一九一四年、アーチボルト・クリスティ大佐と結婚。第一次大戦中であったので夫は従軍してフランスへ行き、彼女は特志看護婦となってトーキーの病院で働いた。彼女の小説における毒薬の知識はこのときの経験にもとづくものと思われる。
一九二〇年、「スタイルズ荘の怪事件」でデビュー、一九二九年、「アクロイド殺人事件」でその名声を確立した。
一九二八年離婚、海外旅行に出かけたりしたが、一九三〇年に、当時小アジアで考古学上の発掘に従事していたマックス・マロウワン博士と知りあい、結婚した。本書の記述からも知られるように、クリスティは元来考古学にかなり深い関心をもっているようである。
その後ミステリーの女王として斯界に君臨、着実に新作を発表し続け、七十歳を越えた今もなおその筆力は衰えていない。
推理小説はなんといっても本格派のものでなくては、というのがおおかたのオールドファンの意見であろう。しかし現在は残念ながら本格派は次第に衰微し、ハードボイルド派ないしは社会派のものが幅をきかせている。この中にあって、クリスティをはじめとしてクイーン、カーなどの巨匠がなお健在であるのはまことに心強いかぎりといわなくてはならない。
尚、クリスティの写真を見ているといかにも『おもしろそうなおばさん』といった感じがする。読者は本書を読んでいて時々ニヤリとされたのではないかと思うが、推理小説としての筋立てのおもしろさに加えて、作者の人柄がにじみ出ているそんな点が、多くのクリスティファンを惹《ひ》きつけているのではあるまいか。(訳者)
[訳者略歴]
赤冬子《せきふゆこ》 札幌市に生まれる。立教大学英米文学科卒業。主なる訳書に、アガサ・クリスティ「三幕の殺人」、E・フィルポッツ「赤毛のレッドメーン家」、スローン・ウィルソン「夏の日の恋」(共訳)がある。