三幕の殺人
アガサ・クリスティ作/赤冬子訳
目 次
第一幕……疑惑
第二幕……確信
第三幕……発見
訳者あとがき
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登場人物
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サタスウェイト……美術・演劇などのパトロン
チャールズ・カートライト……引退した舞台俳優
バーソロミュー・ストレンジ(トリー)……神経科の医師、チャールズ・カートライトの友人
ハマイオン・リトン・ゴア(エッグ)……若い活発な娘
メアリ・リトン・ゴア……エッグの母親
スティーヴン・バビントン……ルーマスの教区牧師
マーガレット・バビントン……その妻
アンジェラ・サトクリフ……女優
アントニー・アスター(ミス・ウィルズ)……劇作家
オリヴァー・マンダーズ……美青年、エッグの友人
フレディ・デイカズ……競馬狂の大尉
シンシア・デイカズ……その妻、婦人服店を経営
ミス・ミルレイ……カートライトの秘書
エリス……ストレンジの執事
エルキュール・ポワロ……探偵
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第一幕 疑惑
第一章
サタスウェイト氏は烏荘《クロウズ・ネスト》のテラスに腰をおろして、この家の主人《あるじ》、チャールズ・カートライト卿《きょう》が海岸から通じる小径《こみち》をのぼってくるのをじっと見おろしていた。
烏荘《クロウズ・ネスト》はかなりよい部類の近代的なバンガローである。横木もなければ破風《はふ》もなく、三流どころの建築屋の心にうったえるような余計なものは何一つついていない。それはすっきりと白い、頑丈そうな建物で、実際はみかけよりはるかに大きかった。そしてルーマスの港を一望に見わたせる高い位置にあるためにこの名がついていた。事実、テラスの一端には欄干《らんかん》がしつらえてあって、その下は海まで垂直にきり立っていた。ちゃんとした道を通れば烏荘《クロウズ・ネスト》は町から一マイルほどはある。道はいったん内陸へ向かって伸びてから、海を望む高みまでつづら折りに曲っていた。徒歩なら、漁師の通る細い急坂を上ってくるのが近道で七分とはかからない。今しもチャールズ・カートライト卿がのぼってくるその小径である。
チャールズ・カートライト卿は体格のよい、陽やけした中年の男だった。古びた灰色のフランネルのズボンに白いスウェーターを着ている。幾分からだをゆするような足どりで、両の手は軽く握っている。十人の中《うち》、九人までが、「海軍の退役軍人――まさにあのタイプだ」という。もう少し鑑識眼のある十人目は少しためらう。どこか本物らしくないふしがあって迷うのだ。そのうちに、おのずとある一つの光景が目に浮かんでくる。船の甲板――ただし本物の船ではない、厚地の豪奢《ごうしゃ》なカーテンに半ばかくれた船だ。そのデッキに立っているひとりの男、チャールズ・カートライト。彼の上にふりそそぐ人工の光、軽く握られた両のこぶし、かろやかな足どり、そして声――イギリスの船乗りかつ紳士《ジェントルマン》のあのきさくなあかるい声、それがいちじるしく誇張されて響く。
「いいえ」チャールズ・カートライトが喋《しゃべ》っている、「そのご質問にはお答えいたしかねるかとぞんじます」
厚地のカーテンがさっと下り、照明がパッとついてオーケストラがシンコペーションに入った。頭にばかでかい蝶結《ちょうむす》びをつけた女の子達が「チョコレートはいかが? レモネードはいかが?」といって歩く。艦長ヴァンストーンをチャールズ・カートライトが演ずる「海の呼び声」第一幕の終わりである。
有利なその位置から下を見下ろしながら、サタスウェイト氏は微笑していた。
ひからびた小さな土瓶《どびん》といった感じのサタスウェイト氏は、美術や演劇のパトロンで、純然たる、とはいっても人好きのする俗物《スノブ》だ。ちょっと重要なハウス・パーティや社交的な会合には必ず顔を出している(招待客のリストの最後にはきまって「及びサタスウェイト氏」という文字がある)。そしてまた、著しい知性の持ち主でもあれば、森羅万象《しんらばんしょう》に対する実に鋭い観察者でもあるのだ。
首をふりながら彼はつぶやいている、「意外だったなぁ、うん、全く意外だ」
テラスに足音がして、サタスウェイト氏はふり返った。椅子《いす》を前へひき寄せて腰をおろしたその銀髪の大柄な人物は、鋭いが親切そうな中年の顔に、自分の職業を明瞭に刻みこんでいた、「医師」しかも「ハーレー街」と。バーソロミュー・ストレンジ卿は医者というその職業で成功していた。彼は神経病の著名な専門医で、最近の国王誕生日にナイトの称号を受けたのである。
サタスウェイト氏の傍《かたわ》らに椅子をひき寄せてきて彼はいった、「何が意外だったんです? え? うかがいましょうよ」
にっこりしてサタスウェイト氏は、急ぎ足に小径をのぼってくる人影の方へ目をやった。
「私はね、チャールズ卿がこんなにいつまでも、そのう――隠遁生活に満足していようとは思わなかったんですよ」
「全くだ! 私もですよ」相手は頭をそらして笑った、「私はチャールズを子供のころから知っていますがねえ。オックスフォードでいっしょだったのです。あの男は昔からああいう風でした――舞台でよりもふだんの生活での方がよっぽど役者なんだ! チャールズは常に演技をしているのです。せざるを得ない――彼の第二の天性です。チャールズは部屋から出るんじゃなくて――『退場する』。そしてそのためには、いつも何か気のきいたせりふをいわなくちゃならない。しかも色々な役を演じるのが好きなんです――何よりもね。二年前にあの男は舞台から引退した――人目を避けて簡素な田園生活をし、海への年来の憧《あこが》れを満すのだといいましてね。ここへやって来てこの家を建てた、彼の理想の素朴《ヽヽ》な田舎家です。三つも浴室があって最新式の設備のある! サタスウェイトさん、私だってこれが長続きするとは思いませんでしたよ。チャールズも所詮《しょせん》は人間です――観客が必要なはずです。二人か三人の退役軍人と少しばかりのおばあさん連に牧師が一人――これじゃあ演技するにも観客がお粗末すぎる。私はね、『海を愛する素朴な男』なるものも半年とふんでいました。そして正直なところ、いずれその役にも飽きて、次の出しものはモンテカルロの退屈男か、さもなきゃハイランズの領主ぐらいに考えてたのです――気まぐれですからね、チャールズは」
医者は口をつぐんだ。長いおしゃべりだった。何も知らずに下からのぼってくる男をじっと見ているその目には、親愛の情と楽しげな様子が溢れていた。一、二分もすればチャールズもここにいっしょになるのだ。
「ところが」バーソロミュー卿は続けた。「どうやら我々はまちがっていたようですな。素朴な生活の魅力は持続している」
「常に演技している人間は誤解されることがありますよ。本気のつもりのことでも他人《ひと》はまともに受けとりませんからね」サタスウェイト氏がいった。
医者はうなずいた、「左様、たしかにそうです」
陽気に声をかけながらチャールズ・カートライトがテラスの段をかけ上ってきた。
「ミラベル号は上々の首尾《しゅび》だったぜ、君も来ればよかったんだ、サタスウェイト」
サタスウェイト氏は首をふった。たびたびイギリス海峡を渡ったことのある彼は、船に乗った時の我が胃袋の耐久力についていささかも錯覚を起こすようなことはなかったのだ。朝、彼は自分の部屋の窓からミラベル号をよく観察してあった。ヨットにお誂《あつら》えむきの強い風が吹いていて、サタスウェイト氏は陸地の有難さをつくづくと天に感謝したのだった。
チャールズ・カートライト卿は客間の窓のところへ行って飲みものを命じた。
「君も来ればよかったんだ、トリー」友人に向かって彼はいった、「君はハーレー街に腰を据《す》えて、患者に海の生活がいかによいかということを説いて半生を費《つい》やしているのじゃなかったかね?」
「医者たることの最大の恩典はだね」バーソロミュー卿はいった、「自分の与える忠告に自分は従わなくてもいいということさ」
チャールズ卿は笑った。相変らず無意識に自分の役割――飾らない快活な海の男――を演じている。彼は細面のほがらかな顔立ちと、美しく均斉のとれた体をそなえた稀《まれ》にみる好男子である。そしてこめかみの銀髪の兆《きざ》しがいやが上にも彼を品よくみせていた。それはつまり、第一に紳士、第二に役者という彼の人柄そのままであった。
「ひとりで行ったのかい?」医者がきいた。
「いや」チャールズ卿はふり返って、盆をささげて立っている小ぎれいな女中から飲みものを受けとった、「助手がいたんだ。エッグっていう女の子さ、はっきりいうとね」その声に何やらかすかながらこだわりのひびきを感じて、サタスウェイト氏ははっと顔をあげた。
「リトン・ゴア嬢か? あのお嬢さんはヨットはうまいとかいうんだろう?」
チャールズ卿は少々くやしそうに笑っていった。
「彼女にあっちゃ、こっちは完全に新米水夫だよ。だけど僕も大分上達してきたんだぜ――彼女のおかげだな」
サタスウェイト氏の頭の中でさまざまな思いが現われては消えた、「ふむ――エッグ・リトン・ゴアか、なるほどそれでまだ飽きないというわけか――だが年齢がね――危険な年齢だ――人生この時期には誰の場合も若い女の子なんだなあ……」
チャールズ卿はまだ喋っていた、「海だよ――こんないいものはない、太陽、風、海――そして憩《いこ》うべくは素朴なる我が小屋だ」
そういって彼は背後の白い建てものを満足そうに見やった。三つも浴室があってしかもどの部屋にも冷水、温水が出るばかりか、最新式の中央暖房及び電気器具が設備され、客間女中、掃除女中、料理頭に台所女中と揃っているのだ。どうやらチャールズ卿の素朴な生活の解釈は少々大げさのようだった。
その家から背の高い、まことに不細工な婦人が立ち現われて、まっすぐ三人の方へやってきた。
「おはよう、ミス・ミルレイ」
「おはようございます、チャールズ様。おはようございます」(他の二人へはわずかに頭を下げ)「こちらがお夕食のメニューでございます。何か変更致すところはございませんでしょうか」
チャールズ卿は手にとるとつぶやいた。
「どれどれ、メロン、ボルシチ、さばにグラウス、スフレ・スリュプリーズにカナッペと……うん、大変結構、ミス・ミルレイ。みんな四時半の汽車できますよ」
「ホルゲイトにもうすっかり命じましてございます。それからチャールズ様、もしよろしければ、今夜のお食事は私もごいっしょいたした方がよろしいかと存じますが」
チャールズ卿は驚いた様子だったがすぐていねいにいった。
「もちろん喜んで、ミス・ミルレイ。しかし、そのう……」
ミス・ミルレイはおちつきはらってわけをいった。
「そういたしませんと、チャールズ様、十三人でお食事なさることになります。縁起《えんぎ》をかつぐ方は多うございますからね」
そのいい方からすると、彼女自身は十三人で夕食のテーブルを囲むのが毎晩であろうといささかも気にしないと見える。彼女はなおも続けた。
「すべて手配は致したつもりでございます。ホルゲイトにお車でメアリ夫人とバビントンご夫妻をお迎えに上がるよう申しました、それでよろしゅうございましたね?」
「結構。ちょうどそれを訊《き》こうと思ってたところです」
勝ち誇ったような微笑を、そのいかつい顔にかすかに浮かべてミス・ミルレイはひき下がった。
「あれはね」チャールズ卿はおそれ多いとでもいうようにいった、「実に大した女でね。そのうち僕んところへやってきて歯まで磨いてくれるんじゃないかとおそれをなしているのさ」
「能率の権化《ごんげ》か」ストレンジがいった。
「僕のところにもう六年もいるんだ、初めはロンドンで秘書としてさ、それからここへ来て、そうだな、いわば彼女は一種の家政婦の神様さね。この家も規則正しくとりしきってくれる。ところがどうだ、今度やめるというのさ」
「どうして?」
「彼女の曰《いわ》く」――チヤールズ卿はどうだかねというように鼻をこすっていった――「彼女の曰くだね、病身な母親がいるというのさ。僕としちゃ信じないよ。ああいう女に母親なんぞいるもんか。発電機《ダイナモ》から機械的に発生したのさ。他に何かわけがあるんだよ」
「たしかにそうらしいね、人は噂《うわさ》してるよ」バーソロミュー卿がいった。
「噂?」チャールズ卿は目をみはった、「噂――いったい何の?」
「チャールズ君、噂なんてどんなものか位は知ってるだろう」
「じゃあ、君は、彼女と――僕の噂だというのかい? あのご面相でか? おまけにあの年で?」
「恐らくまだ五十にはなっていまい」
「そうかも知れない」チャールズ卿はその事態を考えてみた。「だがねトリー、まじめな話、君はあの女の顔をよっく見たのかい? そりゃ、目が二つに鼻と口が一つずつはあるさ、だけどあれは顔と申すものじゃないよ、女の顔とはね。この界隈《かいわい》きってのスキャンダル好きの婆さんだって、本気であの顔と色気とを結びつけることはできないよ」
「君はイギリスの老嬢の想像力をみくびってるんだよ」
チャールズ卿は首をふった。
「僕は信じない。ミス・ミルレイには何かぞっとするような品位がある。イギリスの老嬢といえどもそれには気がつく筈だよ。彼女は徳と品位の権化だ――そして恐ろしく有能な女だよ。僕はいつも秘書にできるだけ器量の悪い女をえらぶんだ」
「利口なやつだよ」
チャールズ卿はしばし思いに沈んだ。その彼の気をそらすようにバーソロミュー卿がきいた。
「午後からはどういう人が来るんだい?」
「まず、アンジイ」
「アンジェラ・サトクリフ? そりゃいい」
今夜のハウス・パーティのメンバーを知りたいものと、サタスウェイト氏は身をのり出した。
アンジェラ・サトクリフは有名な女優で、すでに若くはなかったが非常な人気があり、その機智と魅力とは広く世に知られていた。そしてエレン・テリーの後継者ともいわれていた。
「それにデイカズ夫妻も来る」
もう一度、サタスウェイト氏は心中ひそかにうなずいた。デイカズ夫人といえばアンブロジーヌ商会、つまりなかなか繁昌《はんじょう》の婦人服屋である。プログラムなんかにはよく『第一幕ブランク嬢の衣裳は、ブルック街アンブロジーヌ商会製作』などと見かける。その夫デイカズ大尉は、彼の得意の競馬用語でいうならまずダークホース的存在だ。彼は大半競馬場で日を暮している──往年にはグランド・ナショナルに彼自身出場していたくらいだ。誰もくわしくは知らないがかつて何かトラブルがあったとかでその噂は拡まっていた。別に取り調べがあったわけでもなし、何らおもてだったことはなかったのだが、ともかくフレデリック・デイカズの名が出ると誰しもちょっとばかり眉《まゆ》をつり上げるのである。
「それからアントニー・アスター、劇作家の」
「いうまでもなく」サタスウェイト氏がいった、「『一方交通』を書いたのは彼女だ。私はあれは二度見たよ。ずいぶんヒットしたものね」
彼はどうやら、自分はアントニー・アスターは女だということを知ってるぞ、といいたかったようだ。
「そうなんだ」チャールズ卿がいった、「本名は何といったかな──ウィルズだっけ。僕は一度しか会ったことはないけど、アンジェラが喜ぶだろうと思って招《よ》んだんだ。これで全部だよ、ハウス・パーティはね」
「土地の人たちは?」医者がきいた。
「ああそうだった! 土地の人たちだ! ええと、バビントン夫妻──牧師だ、実にいい人物だよ、あまり牧師臭くもなくてね。その奥さんがまた何ともいいひとなんだ、僕に庭造りを教えてくれるんだ。その二人と──それからメアリ夫人とエッグ。それで全部だ。ああそうだ、マンダーズという若い男も来る、ジャーナリストか何かだ、若い好男子だよ。これで全部だろう」
サタスウェイト氏というのは几帳面《きちょうめん》な性格の持ち主だったから、すぐ頭数をかぞえ出した。
「サトクリフ嬢、一人、デイカズ夫妻で三人、アントニー・アスターで四人、メアリ夫人と令嬢で六人と、牧師夫妻で八人、若い青年で九人、我々で十二人。君かミス・ミルレイかどっちかが間違えてるんだな、サー・チャールズ」
「ミス・ミルレイの筈はない」チャールズ卿は断固としていった、「あの女は絶対に間違いはやらないんだ。ええと、そうか、まさに君のいう通りだ。僕が一人ぬかしちゃったんだよ、度忘れしてたんだ」
それから彼はくっくっ笑い出した、「そう聞いたらあの男もおもしろくあるまいな、やっぱり。そいつはおそろしくうぬぼれの強いやつなんだから」
サタスウェイト氏の目がきらりと光った。万物の中で役者ほどうぬぼれの強いものはないというのが彼の持論なのだ。もちろんチャールズ・カートライト卿も例外ではない。だから自分のことを棚に上げてとやかくいっているのが、彼にはおかしかったのである。
「誰だね、そのエゴイストは?」彼はきいた。
「少々変わったやつさ、だがかなり有名なちょっとした男だよ。きいたことあるだろう、エルキュール・ポワロさ、ベルギー人の」
「あの探偵か、会ったことはあるよ、ちょいと驚くべき人間だね」
「人物だよ彼は」
「僕は会ったことはないが」バーソロミュー卿がいった、「その男の話はずいぶんきいてるよ。少し前に引退したんだろう? まあ僕のきいた話は大部分伝説かもしれないがね。ところでチャールズ、この週末に犯罪はごめんだよ」
「なぜだい? 探偵が来るっていうんでかい?どうもそれじゃ本末転倒のようだな、トリー」
「いや、それは僕の説だからなんだ」
「そのお説というのは、ドクター?」サタスウェイト氏がきいた。
「事件が人の方へやって来る、というのです──人が事件の方へ来るのではなくですよ。多事多端な人生を送る人もあれば、平凡な人生を過ごす人もあるのはなぜです? 環境のせいですか? そうじゃない。ある者は地の果まで旅行して廻っても何事も起こらない。その男が着く一週間前には大虐殺があったかも知れない、そしてその男が立ち去った翌日地震が起きるかも知れないし、危うく乗るところだった船が難破したかも知れない。またある者はバラムに住んでいて毎日ロンドンの旧市内へ出かける、そしていろんな事に出会う。ゆすりの一味に巻きこまれるかも知れないし、きれいな女の子や自動車強盗に巻きこまれるかも知れない。それから船の難破にぶつかりやすい人だっている──そんな人にはほんの飾りみたいな池に舟を浮かべてさえも何事か起きるんです。同様に、君のエルキュール・ポワロのような人たちは、犯罪を自ら探す必要はない──向こうからやって来る」
「そうだとすれば」サタスウェイト氏がいった、「ミス・ミルレイが加わって晩餐の席に十三人つかないようにするのも結構なことらしいな」
「じゃあ」チャールズ卿が気前よくいった、「君のいう殺人があったっていいさ、トリー、君がそんなにご執心ならね。僕はたった一つしか条件はつけないよ、つまり僕は死体にはならないんだ」
笑いながら三人の男は家の中へ入った。
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第二章
サタスウェイト氏の日ごろの主な関心は人間にあった。
それも概して男よりも女の方に興味を感じていた。男らしい男としては、彼は女性について知り過ぎるほど知っていた。彼の性格には女性的な一面もあって、そのために女の心の中までも見抜くことができたのである。いつも女性から打ちあけ話の相手にはされても、決して愛されることはなく、時にそれを味気なく感じることもあった。いつも前方の一等|桟敷《さじき》でじっと芝居を見ているばかりで、決して舞台に上って仲間入りすることはないのだ。彼は自らそう感じていた。しかし、本当のところサタスウェイト氏には観客の立場がまことにふさわしかったのである。
豪華な船のキャビンをかたどって見事にデザインされた、テラスに続く大きな部屋で、その晩、彼の主な関心はシンシア・デイカズの染めた髪──そのたしかな色合いに向けられていた。それは全く斬新《ざんしん》な色調で、──パリ直輸入だろうとサタスウェイト氏は思うのだが──緑色がかったブロンドのかもし出すふしぎな、しかしいわば快い色だった。このデイカズ夫人をどう形容したものだろう。彼女は背が高く、修練を積んだその容姿はその場の要求にぴたりと応じていた。頸《くび》すじと腕は田舎で陽やけしたような小麦色をしているが、それが陽やけなのか技巧的なものなのかは判断がつき兼ねる。緑色がかったブロンドの髪はロンドン一の美容師ででもなければとても出来ないような斬新で美しい型にまとめてあった。抜いた眉、かげをつけたまつ毛、精巧に化粧された顔、本来の形を無視して描かれた唇、それらがみな彼女のイヴニング・ドレスを完璧《かんぺき》にするための添えもののごとくに見える。深い藍色《あいいろ》のそのドレスは一見単純なスタイルで(実際はそれどころではなかったが)、その生地がまためったに見かけないような、さえない、だがどこか光沢《つや》のある生地なのだ。
「頭のいい女だな」感心したように彼女を見やりながらサタスウェイト氏は呟《つぶや》いた、「ほんとにどういう女といったらいいのかな」
だが今いった意味は内面についてであって、外見のことではなかった。
今はやりの言葉で喋《しゃべ》っている彼女の声がまだるっこい調子で聞こえてくる。
「それは無理でしたわ。と申しますのは出来ることと出来ないこととございますでしょ、それは駄目でしたのよ。まるきりペネトレイティングでしたわ」
これはまさに当今はやりの新語だった──なんでもかでも『ペネトレイティング』なのである。
チャールズ卿はカクテルをはげしく振りながらアンジェラ・サトクリフに話しかけていた。すらりとした、灰色の髪のこの女性は人を惑《まど》わすような唇と美しい眼をしている。
デイカズ大尉はバーソロミュー・ストレンジ卿と話していた。
「ラディスボーンのやつの一件は誰でも知ってますよ、競馬の方じゃもっぱらの噂でね」
彼は語尾を落としたかん高い声で喋っていた──赤ら顔で短い口髯《くちひげ》をつけ、少々ずるそうな目をしたきつねのような男である。
サタスウェイト氏の横にはミス・ウィルズが坐っていた。この人の書いた戯曲『一方交通』は、ここ数年間にロンドンで上演されたところの最も機智に富み、かつ大胆な芝居の一つとして評判が高かった。彼女はあごの引っこんだ、背の高い痩《や》せぎすの女で、何ともお粗末にウェーブのかかった金髪の頭をしていた。そして鼻めがねをかけ、おそろしくしなやかな緑色のシフォンのドレスを着ていた。かん高いが格別特徴もない声で喋っている。
「私、南フランスへ行って来ましたの、でもちっともおもしろくありませんでしたわ。まるきり親しめないんですもの。ですけどそりゃ、私なんかの仕事にとっては有益なことですわ──あらゆることをこの目で見ますのはね」
サタスウェイト氏は思った、『気の毒に。成功したばっかりにボーンマスの下宿屋を離れなくちゃならなかったんだ──精神的な安住の地だったろうに。そのままあそこにいたかったことだろう』彼は、書かれた作品とその作者との間の相違に今更のごとくに目を瞠《みは》った。アントニー・アスターの作品に滲《にじ》み出ているあの洗練された通人のおもかげがこれっぽっちでもこのミス・ウィルズのうちに認められるというのだろうか? そのうち彼は、鼻めがねの奥の薄青い眼が不思議に知的なのに気がついた。その眼が今こちらを向いて評価するようにじっと見たのにはサタスウェイト氏もいささかあわてた。まるでミス・ウィルズは彼のことを一生懸命心に刻み込もうとしてるかのようなのである。
ちょうどチャールズ卿がカクテルを注《つ》いでいるところだった。
「カクテルを持ってきましょうか」サタスウェイト氏は急いで立ち上がった。
ミス・ウィルズはクスクス笑っていった。
「どちらでも」
ドアがあいて、テンプルがメアリ・リトン・ゴア夫人、バビントン夫妻及びリトン・ゴア嬢の来訪を告げた。
サタスウェイト氏はミス・ウィルズにカクテルをもって来てから、メアリ・リトン・ゴア夫人の方へ寄っていった。前にもいったように、彼は称号とか爵位《しゃくい》とかに弱いのである。かつまた、そんな俗物趣味をぬきにしても、彼は貴夫人というものが好きなのであり、このメアリ夫人こそまさに文句なしの貴夫人だったのだ。
三歳の子供を抱え、ひどく貧乏な状態で未亡人になって以来、彼女はルーマスへ来て小さな家を借り、ひとりの献身的な女中にかしずかれてずっと暮してきたのである。すらりと背の高い婦人で、その五十五歳という年齢よりは老けて見えた。しとやかでやや内気そうな表情だ。彼女は我が娘を好ましくも誇らしくも思う一方、その娘のやることに少々はらはらさせられているのだった。
どういう謂《いわ》れか通称エッグと呼ばれているハマイオン・リトン・ゴアは母親に少しも似ていなかった。もっと精力的なタイプである。美人ではない──とサタスウェイト氏は断定した──が、魅力的なことは否めない。そしてそれは彼女の溢れんばかりの活力のせいだ、と彼は思った。彼女はこの部屋にいる誰よりも優に二倍は生き生きとしている。黒い髪に灰色の瞳《ひとみ》、背は中位だった。そのうなじに縮れている髪、まっすぐにこちらを見る灰色の眼、頬の輪郭、人もつり込まれるようなその笑い方、そんなものの中に彼女の奔放な若さと生気を感じさせるなにものかがあった。
彼女は立ったまま、今やって来たばかりのオリヴァー・マンダーズに話しかけていた。
「舟遊びがどうしてそんなに退屈かしらん。あなただって前はあんなに好きだったじゃないの」
「誰だっておとなになるからね、エッグ」
彼は眉をつり上げながらゆっくりとものをいった。
二十五歳ぐらいだろうか、ハンサムな青年である。そのすぐれた容姿には何かしら人ざわりのよさがある。それだけではない、まだ何かあるようだ──外国人ということだろうか? 何かしらイギリス的でない雰囲気《ふんいき》があるのだ。
オリヴァー・マンダーズをじっと見ている者が他にもあった。卵形の頭をして、ひどく外国風の口髯をつけた小柄な男である。サタスウェイト氏の心にエルキュール・ポワロ氏の記憶が甦《よみがえ》ってきた。この小柄な男はひどく愛想がいいのだ。サタスウェイト氏はこの男は外国人的な癖をわざと大げさにやってるのではあるまいか、と思った。彼のキラキラした小さな目がこういっているようだ、「私に道化師をやれとおっしゃるので? あなたのために喜劇を演じろと? |よろしい《ビアン》──お望み通りになりますよ」
ところが、ポワロの目のキラキラしたかがやきはもう消えていた。彼は厳粛《げんしゅく》なしかも何やら悲しげな様子をしている。
ルーマスの教区牧師であるスティーヴン・バビントンがやって来て、メアリ夫人とサタスウェイト氏の話に加わった。六十過ぎの、生気のない目をした人で、物腰もなにかおどおどとしていた。彼はサタスウェイト氏にいった。
「チャールズ卿がこちらにお住い下さってるんで、私どもほんとに幸せいたしております。実にご親切な、やさしいお方でしてな。全く気持のよい隣人でいらっしゃる。メアリ夫人もそうお思いのはずですよ」
メアリ夫人はにこやかにいった。
「私もあの方は大好きでございます。あれだけ有名におなりでもちっともスポイルされてらっしゃいませんのね。いろんなところが」一層にこやかに彼女はいった、「まだ子供みたいでいらっしゃいますわ」
カクテルの盆をもって女中が傍《かたわ》らへ来たとき、サタスウェイト氏は女というものは全くどこまで母性的なものなんだろうと考えていた。だがヴィクトリア時代の人間だったから、彼はこの特質を大いにかったのである。
「カクテルを召し上るといいわ、ママ、一杯だけ」グラスを手にエッグがさっとやって来ていった。
「ありがとう」メアリ夫人がやさしく答えた。
「私も一杯|頂戴《ちょうだい》しますかな、家内も怒りはしますまい」バビントン氏はそういっておだやかな牧師らしい笑い方をした。
サタスウェイト氏はバビントン夫人の方を見やった。彼女はチャールズ卿と熱心に肥料の話をしていた。
「なかなか美しい眼だ」彼は思った。
バビントン夫人は大柄な、あまりきちんとしない感じの婦人だった。いかにも精力的で、こせこせと細かいことにとらわれたりはしそうにない。チャールズ・カートライトのいった通り、なるほど感じのいい人だった。
「あのう」メアリ夫人が身をのり出していった、「私どもが参りました時、あなた様とお話してらした若い婦人《かた》、どなたですの? あの緑色の服をお召しになったかた」
「劇作家のアントニー・アスターですよ」
「えっ? あの、あの貧血症みたいな若い婦人《かた》が? まあ!」はっとしたように彼女はいった、「まあ、私……ですけど思いがけませんでしたわ。あの方そうは見えませんわね──いえ、あの、まるであのかた、無能な家庭教師かなにかのようなんですもの」
サタスウェイト氏が思わず笑ったほど、それはミス・ウィルズの風貌《ふうぼう》にぴったりの表現だった。
バビントン氏は、人の好さそうな近眼の眼で部屋のなかを眺め廻していた。彼はカクテルをひと口すすってちょっとむせた。カクテルは飲みつけてないな、とサタスウェイト氏は思った。おそらくこういうものはあの人にとっちゃ、当世風なものの典型に見えるんだろう──好きじゃないらしいな。バビントン氏はちょっと顔をしかめながら、意を決したようにもうひと口すするといった。
「あそこにいるあの婦人《かた》がですか? ほう、それは……」
彼は喉元へ手をやった。
エッグ・リトン・ゴアの大きな声がした。
「オリヴァー、このずるいシャイロック──」
『それそれ』サタスウェイト氏は思った『それだ、外国人というのじゃない、ユダヤ人だ!』
あの二人は何とまあ申し分のないカップルなんだろう。二人とも若いし、容姿はいいし……おまけに口喧嘩をしている──っていうのはやっぱり、健全なしるしだよ……。
傍らの物音に彼はふと気がついた。バビントン氏が立ち上っていた、前後にふらふらしている。その顔がひきつっていた。
メアリ夫人が立ち上って気遣わしげに手をのべた時には、もうエッグのよく通る声が一座の注意を喚起していた。
「大変、バビントンさんが変よ」
バーソロミュー・ストレンジ卿が慌《あわた》だしくとび出してきて病人を支《ささ》えると、抱えるようにして部屋の隅の長椅子に連れていった。他のものはみな、なんとかしたいと思いながらもなす術もなく、ただ周りに集まっていた。
二分の後、バーソロミュー卿は立ち上って首を振った。婉曲にいったところで無駄だと知って、彼はぶっきらぼうにいった。
「お気の毒です、亡くなられました……」
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第三章
「ちょっと入ってくれないか、サタスウェイト、いいだろう?」
チャールズ卿がドアから首を出した。
一時間半が経過していた。騒ぎも一段落して静まり返っている。すすり泣くバビントン夫人を、メアリ夫人が部屋から連れ出し、とうとう牧師館まで送って行った。ミス・ミルレイはきびきびと電話をかけた。土地の医者がやって来て、必要な処置をすませた。簡略にした夕食が饗された後、ハウス・パーティの面々は相談の結果、それぞれの部屋へ退いた。さっき災難のあった、あの船室のような部屋からチャールズ卿が呼びかけた時、サタスウェイト氏も自分の部屋に退こうとしているところだった。
サタスウェイト氏は何となく身うちが震えるのを抑えながらその部屋に入った。彼もいい加減な年齢に達していたから、死の光景に接するのはあまりうれしくはなかったのだ……。やがては、恐らくこの自分だって……だがなぜそんなことを考える?
「まだ二十年は大丈夫だ」サタスウェイト氏は元気よく我が身にいってきかせた。
その船室のような部屋にはもう一人、バーソロミュー・ストレンジがいた。彼はサタスウェイト氏を見ると、この人ならというようにうなずいていった。
「ああ、サタスウェイトさんならいいよ。酸いも甘いもご存じだからね」
いささかたじろぎながら、サタスウェイト氏は医者の傍らの肱《ひじ》かけ椅子《いす》に腰をおろした。チャールズ卿は行きつ戻りつ歩き廻っていたが、手を軽く握るのを忘れていた。しかもどう見てもいつもに比べて海軍らしく見えなかった。
「チャールズはおもしろくないんですよ。バビントン氏の亡くなられたことがね」バーソロミュー卿がいった。
サタスウェイト氏は、ずいぶんおかしないい方をするものだと思った、こんなこと誰だっておもしろくないのが当たり前じゃないか、バーソロミュー卿がああいったのには何か別の意味があるのだな、と彼は気づいた。
「どうもとんだことでしたな」サタスウェイト氏はいうべきことばを用心して考えながらいった。さっきの戦《おのの》きを再び感じながら彼はもう一度いった、「全くどうもとんだことでしたよ」
「ふむ、そうです。どうもお気の毒でしたよ」
そう答えた医者の声には一瞬例の職業的な響きがひそんでいた。
カートライトは歩みをとめた。
「あれと全く同じような死に方って見たことあるかい、トリー?」
「ないね」バーソロミュー卿は考えこむようにいった、「あるとは申し難い」
「しかしだね」ちょっと間をおいてから彼はつけ加えた、「君が思うほど僕は、死というものに立ちあってないんだよ。神経科の医者なんてものは患者をあんまり死なせないもんなんだ。なるべく生かしといて、金をしぼるのさ。マクドーガルの方が僕よかよっぽど人の死ぬのには立ち会ってると思うよ、それはたしかだぜ」
マクドーガルというのは、ミス・ミルレイがよんだ、ルーマスでは一番の医者である。
「マクドーガルはあの人の死んだ時は見てなかったわけだな、来た時はもう死んでたんだから。我々が話したことしか、いや君が話したことしかわからない筈だ。あの医者は、なにかの発作《ほっさ》だ、バビントンは年が年だし、あまり健康とはいえなかった、といってたがねえ。どうも僕には納得《なっとく》がいかないんだよ」
「恐らくあの医者だって納得なんぞいってはいないさ」相手はうなるようにいった、「だが医者というものは何とかいわなくちゃならんからね。発作ってのは都合のいい言葉だよ──全然意味はないのに、しろうとはそれで満足するんだから。それに、どっちみち、バビントンは年をとってるし、最近はからだにも何かと故障が多かったんだろ、奥さんの話だが。どこか思いがけないところにあるいは病気があったのかも知れないよ」
「今日のは発作だか卒中だか、君たちの方じゃなんというのか知らないがとにかく典型的なものなのかい?」
「何の典型だって?」
「何かよくある病気のさ?」
「君がもし医学を修《おさ》めていればだね、典型的な症状などと申すものはまずないということがわかるんだがね」
「何をいいたいのだい、はっきりいうと、チャールズ卿?」サタスウェイト氏がきいた。
カートライトはそれには答えず、片手で曖昧《あいまい》なジェスチュアをしてみせた。ストレンジがくすくすと小さく笑っていった。
「チャールズは自分でもわからないんですよ、ただ無意識にドラマチックな可能性を考えてるというだけなんでしょう」
チャールズ卿は非難するような様子をした。そして何か一心に思いに耽《ふけ》った顔つきで、放心したようにかすかに首をふった。
誰かに似てるな、という思いが頭をかすめてサタスウェイト氏はいらいらした──が、やがて思い当たった。アリスタイド・デューヴァルである。機密調査部の長で、『秘密通信』の入り組んだ謎《なぞ》を解《と》いている男だ。これは確かだ。チャールズ卿は歩きながら無意識にびっこをひいている。アリスタイド・デューヴァルは『びっこをひく男』で通っているのだ。
チャールズ卿が疑いの念をうまくまとめかねているのには一向におかまいなくバーソロミュー卿は相変らずありきたりの意見を述べつづけていた。
「それでチャールズ、君は何を考えているんだい? 自殺か? 殺人か? おとなしい老牧師なんかを誰が殺すと思うかね? そりゃばかげてるじゃないか。じゃあ自殺か? 左様、そこが問題だ。自ら命を断ちたいと望む何らかの理由がバビントンにだって無きにしもあらず──」
「どんな?」
バーソロミュー卿はおだやかに首をふった。
「人の心の秘密がどうしてわかるもんか。ただ一つの仮定だよ──バビントンは不治の病、例えば癌《がん》を宣告されていた、というようなね。そんな種類のことも動機にはなるだろう。奥さんに自分の長患《ながわずら》いを看とる苦労をさせたくなかったのかも知れないさ。もちろんこれは一つの仮定に過ぎないよ。どう考えたってバビントンが自殺を望んでいたとは思えないからなあ」
「僕は自殺ってことはあんまり考えてなかったんだ」チャールズ卿がいうと、バーソロミュー卿はまたもやくすくすと低い声で笑った。
「なるほどね。きみはありそうな事を考えてどうのこうのいってるんじゃないんだな。センセーショナルなことを望んでるんだろう──カクテルの中に、証拠の残らないような何か新しい毒物が入っていたとかさ」
チャールズ卿は大げさに顔をしかめていった。
「そういうわけでもないさ。ちぇっ、トリー、あのカクテルは僕がふったんだぜ」
「殺人狂の突発的発作かな? どうやら我々の場合はまだ徴候が現われてないようだな、しかしいずれ明日の朝までにはみんなお陀仏か」
「畜生《ちくしょう》、茶化《ちゃか》すなよ、だがねえ……」チャールズ卿は苛立たしげにふっと口をつぐんだ。
「本気で茶化してるわけじゃない」医者の声は前と違っていた。冷淡な響きが消え、まじめな声になっていた。
「バビントン氏の亡くなられたのを茶化してるわけじゃない。チャールズ、僕は君のいい出したことに対してふざけてみたんだ、なぜかといえばだね──うん、なぜかといえば、不用意に人を傷つけるようなことはしてもらいたくないからなんだ」
「傷つける?」
「多分あなたは私のいう意味がおわかりでしょうな、サタスウェイトさん?」
「わかるような気がしますな」サタスウェイト氏は答えた。
「君はわからないかなあ、チャールズ」バーソロミュー卿はつづけた、「君がそういうつまらない疑いを抱くことが、明らかに人を傷つけ得るってことがだよ。こういうことは、すぐ拡まるんだ。何の根拠もないのに殺人だなどとちょっとほのめかしただけで、バビントン夫人にえらい打撃を与えることになるかもしれないんだよ。前にも似たようなことがあったのを私は知ってるんだ。誰か急死する、根も葉もないことをいいふらすやつが出てくる、噂はたちまちそこいら中に拡まる、だんだん大げさになってね、──しかも誰もそれをくい止めることはできないのさ。いかんよ、チャールズ、どれほど残酷なことか、そして不必要なことかわからないかい? 君は全然あやふやなコースを疾駆《しっく》することによって、自分の活発な想像力を満たしてるだけなんだ」
役者の顔にためらいの色が浮かんだ。
「僕はそんな風には考えもしなかった」彼はすなおにいった。
「君は大したお人好しだよ、チャールズ。だが君はどうも想像力に引きずられてしまうんだなあ。いいかい、君はあの全く無害な老人を殺したいなどと思うものがひとりでもいたなんて、本気で考えてるのかい?」
「そうじゃないと思う、そうじゃないよ。仰せの通りそれはばかげてる。悪かったよ、トリー。しかしね、僕のつもりでは、ただ、人目をひくためにいい出したわけじゃなかったんだ。何か変だ、という気がほんとにしたんだよ」
サタスウェイト氏が軽く咳《せき》ばらいをした。
「私にいわせてもらいますかね? バビントン氏は部屋に入って間もなく、そしてカクテルを飲んだとたんに具合が悪くなった。で、私はあの人が飲みながら顔をしかめたのをたまたま見ていたんですがね。ああいうものは飲みつけてないせいだと私は思ったんです。ところがバーソロミュー卿の仮説──つまりバビントン氏は何かわけがあって自殺を望んでいたという──を正しいと考えてみましょう。私にはそれはまさにあり得ることに思われる、しかるに他殺説の方は全くばかげてる。私にはね、バビントン氏がいつの間にかグラスに何か入れた、ということが、『ありそうな』ことではないが『あり得る』ことではある、という気がしますな。そこでです、この部屋の中はまだ何ものも手を触れられてないようだ。カクテルグラスはみんなたしかに元のところにある。これがバビントン氏のです、私はここに坐ってあの人としゃべってたんだからわかります。それで私の提案ですが、バーソロミュー卿にこのグラスを分析して頂いてはどうですかね。これなら全くそうっとできることだから、何ら『噂』をひき起こすことはないでしょう」
バーソロミュー卿は立ち上がってそのグラスを手にとった。
「よろしい。チャールズ、そこまでは君に譲歩する。ただし、僕は君の一ポンドに十ポンド賭《か》けるとしよう、正真正銘のジンとベルモット以外この中には何もないってことにね」
「よかろう」
そう答えてから、チャールズ卿はちょっとくやしそうに笑みを浮かべていった。
「ねえ、トリー、僕が想像をたくましゅうしたといっても、なかばは君に責任があるんだぜ」
「僕にかい?」
「そうさ、けさ君が犯罪の話なんかしたからさ。君はいったろう、あのエルキュール・ポワロなる人物はまるで海燕《ストーミイ・ペトラル》[その人が来ると何かいやなことが起こると想像される人のこと]だ、彼が現われると犯罪が起こるんだ、とね。あの男が来るなり、どうも釈然としない急死事件が起こった。とすれば、僕がただちに他殺に飛躍して考えるのも無理ないじゃないか」
「どうでしょうね……」いいかけてサタスウェイト氏は口をつぐんだ。チャールズ卿はいった。
「うん、僕も考えてたんだけど、君どう思う、トリー? あの男の意見をきくわけにはいかないかな、エチケット上はどうかなという意味だが?」
「微妙なところだな」サタスウェイト氏がつぶやいた。
「医者のエチケットは心得てるがね、探偵のエチケットなんかおれは知らんよ」
「本職の歌手に気やすく歌をうたってくれとは頼めませんよね。本職の探偵になれなれしく探偵をやってくれとは頼めますかな? 左様、実に微妙なところだ」サタスウェイト氏がそうつぶやいた。
「ほんの意見だけさ」チャールズ卿はいった。
ドアを静かに叩く音がしてエルキュール・ポワロの顔がのぞいた。いいわけがましい顔つきで部屋の中をのぞきこんでいる。
「どうぞどうぞ、さあ」チャールズ卿は急いで立ち上るとそう叫んだ。「ちょうどあなたのお噂をしてたところですよ」
「おじゃまではございませんでしたかな」
「とんでもない。まあ一杯いかがです」
「いや、せっかくですが。ウィスキーはどうも不調法でして。シロップでもどうぞ。ところで……」
だがシロップはチャールズ卿の飲みものの概念には含まれていなかった。客を椅子に坐らせると、チャールズ卿はすぐ要点をきり出した。
「率直に申しましょう。ポワロさん、僕たちはちょうどあなたのお話をしてたんですよ。それから、そのう、今夜の出来事の話をね。どうです、そのことですがあなたは何かおかしい、とお思いなりますか?」
ポワロの眉がつり上がった。
「おかしい? どういう意味ですかな、その──おかしいと申されるのは?」
バーソロミュー・ストレンジ卿がいった、「彼はね、バビントン氏は殺されたんじゃないか、と考え始めたんですよ」
「で、あなたはそうはお考えにならない──ですね?」
「私たちはあなたのご意見がうかがいたいんですよ」
ポワロは考えこむようにいった。
「いうまでもなく、あの方は全く突然に病気になられた──、全く突然でしたな」
「そうなんですよ」
サタスウェイト氏が、自殺説の根拠と、グラスを分析してもらったらという自分の出した提案とを説明した。
ポワロはうなずいた。
「それはやってみても、少くとも害はないでしょうな。しかし、ああいう愛すべき、おだやかなご老人を片づけてしまおうという人がいるなんて、人間性を知ってる者にはどうも考えられませんねえ。自殺という解答は私にはもっと考えられませんな。ですが、ともかくそのグラスで何かわかるでしょう」
「それで、その分析の結果はどうだとお考えになるんです?」
ポワロは肩をすくめた。
「私がですか? 私は推測しかできませんよ。分析の結果をどう推測するか、とおたずねになるのですかな?」
「そうです──で?」
「それでしたら、私の推測は、極めて上等のドライ・マルチニの残り以外、何も見つからないだろうということです」(ここでポワロはチャールズ卿に向かって一礼してみせた)「盆にカクテルをたくさんのせてとり廻す中のたった一つに毒を入れて人を殺そうというためには、それはそれは難しい技術を要します。それから、たとえあのやさしい老牧師さんが自殺をお望みだったとしても、あの方はパーティの席上でそんなことをなさるとは思えません。他人に対する思いやりが全く欠如している証拠ですからね。ところがバビントン氏は、私の目にはまことに思いやりのある方としてうつりましたよ」ちょっと間をおいて彼はいった、「というのが、お訊ねとあらば、私の意見ですな」
一瞬みなおしだまった。そのうちにチャールズ卿が深いためいきをつくと、窓の一つをあけ、外を見ていった。
「風向きが少し変わったな」
再びいつもの海の男に戻って、機密調査部の捜査係は姿を消していた。
だが、観察力の鋭いサタスウェイト氏には、チャールズ卿が、結局は自分の役柄ではない役に多少の未練を抱いているらしいと思われたのだった。
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第四章
「さあ、サタスウェイトさん、あなたはどうお考えになるの?」
サタスウェイト氏はあたりをきょろきょろ見まわした。だがどこにも逃れる道はなかった。
エッグ・リトン・ゴアが魚釣り用の桟橋の端まで追いつめて彼をしっかとつかまえてしまったのだ。無慈悲なもんだ、近頃の若い娘というのは──、おまけにおそろしく活発ときてる。
「あなたの頭にそんなことを吹き込んだのはチャールズ卿だな」
「いいえ、そうじゃないわ。私の頭にはずっと前からあったのよ、最初っからよ。だってずいぶん思いがけないことでしたもの」
「あの人はご老体だったんだし、からだもあまり良くは……」
エッグがさえぎった。
「くだらないわ。あの方は神経痛と軽いリューマチがおありになったわ、でもそんなことで発作をおこして倒れるなんてはずないでしょ。それにバビントンさんは発作なんて一度も起こしたことなかったのよ。弱い人ほど長生きするっていうタイプで、九十位までは生きた筈だわ。検屍のことはどうお思いになる?」
「全然──そう、変わったことはなかったと思いますがね」
「マクドーガル先生の診断はどう? ものすごく専門的だったわね、いろんな内臓器官の細かい説明があって──、でも、ああいう言葉の羅列《られつ》のかげには何か隠してるようだってお気づきにならなかった? あの先生のおっしゃることは要するに、死因が普通の病死ではないということを示すものは何もない、ということになるのよ。ごく普通の病死だ、とはおっしゃってないわ」
「細かいことを少し気にし過ぎやしませんかな、お嬢さん?」
「肝心《かんじん》なのはあの先生がおっしゃったことなのよ──つまり先生もわけがわからないのだけど証拠にするものがないものだから、医者としての慎重さってものに逃避せざるを得なかったんだわ。バーソロミュー・ストレンジ卿はどんなご意見だったんでしょう?」
サタスウェイト氏はストレンジ卿の見解を一部復誦してきかせた。
「じゃ、全然とり合わないのね、そう」エッグは考えこむようにいった、「そりゃあの方は用心深い方ですものね、──ハーレー街の大物ともなればそれも無理ないかもしれないわ」
「しかし、あのグラスにはジンとベルモットの他なんにもなかったんですよ」サタスウェイト氏はエッグに思い出させようとした。
「それで解決がつくかに見えるわね。でもとにかく、私が腑《ふ》におちないのは検屍《けんし》の後であったことなんだわ──」
「バーソロミュー卿があなたに何かいいましたか?」サタスウェイト氏は次第におもしろくなってきた。
「私にじゃなく──オリヴァーになの。オリヴァー・マンダーズ──って、あの晩もいたんですけど、きっと覚えていらっしゃらないでしょうね」
「いや、よく覚えてますよ。親友ですか?」
「だったの。いまじゃ大がい喧嘩ばかりしてるわ。あの人、ロンドンの叔父《おじ》さんの事務所に勤め出したのよ。だんだん──そうね、なんていうのかしら、口先ばかり達者になってきたみたいよ、そしてね、あんなとこはやめてジャーナリストになるんだってそんなことばかりいってるわ──わりに筆は立つのよ。でも私はそんなのは口先だけだと思うの。あの人お金持ちになりたいのよ。誰もかれもお金のことになるといやらしくなるようね、そうじゃない? サタスウェイトさん」
この時、サタスウェイト氏には彼女の若さ──まだ青くさくて、ものおじしないおさなさがしみじみと感じられた。
「お嬢さん、大がいの人間が大がいの事に嫌な面をみせるものですよ」
「人間なんて大ていみんな意地汚いもんですものね」勢いを得たようにエッグは同意した、「だからこそ、私はバビントンさんのことが、ほんとにお気の毒なのよ。だってあの方はほんとに皆に好かれてたんですもの。私の按手式やなんかのことで準備して下さったんですけれど、そういうのっておよそつまらない仕事でしょ、それなのにまるで嫌な顔なさらないのよ。ねえ、サタスウェイトさん、私、キリスト教というものをはっきり信じてます──でもママのように、やれ聖書だ賛美歌だ、早朝礼拝だっていうのとは違うの──もっと理知的に歴史的な事実としてなのよ。教会の組織なんてものはパウロの伝統でこり固ってるでしょ。実際、教会の組織はごたごたしてるわ。でもキリスト教の精神そのものは立派だわ。だから私はオリヴァーのように共産主義にはなれないの。実際問題としては、両方とも信念は結局似たようなものね、すべての人による共有の精神ていうんだから。だけどその間の相違点は──ええと、そんなこといってもはじまらないわね。とにかくバビントン御夫妻はほんとのクリスチャンだったのよ、お二人とも他人のことをほじくり廻したり悪くいったりはなさらないし、不親切なことは決してなさらなかったわ。みんなのお気に入りだったのに。それにロビンだって……」
「ロビンって?」
「息子さんよ……インドに行って殺されたの。私、私、ロビンのことは好きだったのよ……」
エッグは目をしばたたいた。その視線は海のかなたをじっと見つめている……。
やがて我にかえってサタスウェイト氏の存在に気づくと彼女はいった。
「ですから、ね、私には今度のことは特に印象が強いのよ。普通の死に方じゃないと仮定してごらんなさい……」
「何をいうのです」
「全然変よ! あなただって全然おかしいと思うはずよ」
「しかしそういうあなただって、バビントン夫妻にはひとりも敵はなかったとはっきり認めたばかりじゃないですか」
「そこがこの事件のいよいよ奇妙なところよ。どう考えても思い当たるような動機がないんですもの……」
「ばかげてるなあ! カクテルには何もなかったんですよ」
「誰かが注射器でずぶりとやったかも知れないわよ」
「南アメリカのインディアンの矢毒《やどく》ですかね」おだやかにからかうような調子でサタスウェイト氏がいった。
「それよ。昔からある痕跡を留めない優秀なやつだわ。ああ、あなた今度のことについてずいぶんえらそうになさってるけど、いいわ、今にきっと私たちの方が正しいってことおわかりになるわ」
「私たち?」
「チャールズ卿と私よ」エッグはかすかに顔をあからめた。
サタスウェイト氏は引用句集がどこの家の本棚にも見かけられた時代の詩を思い出した。
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齢《よわい》は己《おの》が倍にして
頬には古き刀疵《かたなきず》
唐金色《からがねいろ》の丈夫《ますらお》に
想いを寄せにき女子《おみなご》は
運命《さだめ》哀しき愛をもて
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サタスウェイト氏は詩など想い出してものを考えたことが少しばかり恥かしくなった、──しかもテニスンなど近ごろはまるきりはやらないのだ。それに、チャールズ卿は日にやけてこそいるが傷痕はないし、エッグ・リトン・ゴアにしたところで、健全な情熱に駆られることはありそうだが、恋のために朽ち果てて、小舟に揺られて河をたゆとうている図などどう見ても似つかわしくない。彼女には『アストラッドの百合《ゆり》の乙女』的な要素は何もないのだ。『あの若さを除いては……』そう彼は思った。
女の子というものは、はなやかな過去をもった中年の男に惹かれるものだ。エッグとてもその例外ではないようだ。
「どうしてあの方は今まで結婚なさらなかったんでしょう?」不意にエッグがきいた。
「そう……」サタスウェイト氏はいいよどんだ。彼としてはただぶっきらぼうに『慎重さだな』と答えたいところだった。だがそんないい方ではエッグ・リトン・ゴアには気に入るまい、と思われた。
チャールズ・カートライト卿はこれまでに女優その他を相手に幾多のロマンスを経験していた。しかし彼はいつの場合も結婚という事態をうまく避けてきたのだ。エッグがもっとロマンチックな解釈を求めているのは明らかだ。
「あの肺病で死んだひと──女優で、Mではじまる名前のひと──チャールズ卿はそのひとを好きだったっていうんじゃあないの?」
サタスウェイト氏はその女を思い出した。なるほど噂が二人の名前を結びつけたことはあった。しかしそれもほんの取るに足らない程度で、チャールズ卿が彼女の思い出に操《みさお》を立てるために独身を守っている、などとはサタスウェイト氏は考えたこともなかったのだ。彼はそれとなくその意を伝えた。
「あの方はきっとずいぶんロマンスがあったのね」エッグがいった。
「ええ……まあ……でしょうね」サタスウェイト氏はヴィクトリア時代的な自分を感じた。
「私、男の人がいろいろロマンスがあるのは好きよ、そういう人は唐変木《とうへんぼく》でもなんでもないって証拠ですもの」
サタスウェイト氏のヴィクトリア時代的信念はいよいよもってはげしい苦痛にさいなまれた。彼は返事に窮した。だがエッグはそんなことには一向気づかず、何か物思いに耽《ふけ》りながらまた喋りだした。
「ねえ、チャールズ卿はあなたが思ってらっしゃるよりずっと利口よ。そりゃもちろん、ずいぶん気取ってるところもあるし、芝居じみたふるまいもしてるわ。でもそれはみんなちゃんと頭を使っての上でなのよ。船を操《あやつ》ることだって、あの方のいうのを漫然と聞いて想像するのよりははるかにうまいのよ。あなたはちゃんと聴いたところであれはみんな気取りだと思うんでしょうね、でもそうじゃないわ。今度のことだってそれと同じよ。あなた方は、何もかも効果を狙《ねら》ってやってることだと考えてるのね──つまり、彼は名探偵の役を演《や》りたがってるのだ、って。私は、あの方はかなりうまく演《や》るでしょう、とだけいっておくわ」
「おそらくね」と、サタスウェイト氏は同意したが、その調子には彼の心の中が明瞭すぎるほどはっきりとあらわれていた。エッグはすかさずそれを捉《とら》えて言葉に表現してみせた。
「でもあなたのお考えは、『ある牧師の死』はスリラーではない。これは単に『ある晩餐会での痛ましき事件』であって、社会的な一つの破局にすぎない、というのね。ポワロさんはどうお思いになったかしら? あの人はわからなくちゃね」
「ポワロ氏は、カクテルの分析の結果を待つのがよかろうといいましたよ、しかし何もかも異常なかろうという意見でしたがね」
「まあ、かれも耄碌《もうろく》してきたわね、もうバックナンバーだわ」
サタスウェイト氏はすっかりたじろいだが、エッグはそれが無慈悲な言動とも思わぬらしくまだしゃべっていた、「うちへいらして、ママとお茶を召し上がれ。ママはあなたが好きですって」
お世辞に気をよくしてサタスウェイト氏は招待に応じた。
家につくとエッグは自分からいい出してチャールズ卿に電話をかけ、彼の客人の失踪のわけを話した。
サタスウェイト氏は小さな居間に腰をおろした。色褪《いろあ》せた更紗《さらさ》、つやの出た古めかしい家具、それは彼が心ひそかに貴夫人の部屋と名づけたところのヴィクトリア朝の部屋であった。彼は気に入った。
メアリ夫人とのおしゃべりは楽しかった。はなやかな雰囲気こそなかったが、気持よく話がはずんだ。チャールズ卿が話題にのぼった。サタスウェイトさんはあの方とお親しいんですの? いや親密というほどではありません、とサタスウェイト氏は答える。チャールズ卿とは数年前、ある芝居のことで財政的な交渉があって以来つき合っているのだ。
「とても魅力のある方ですわ」メアリ夫人はにこやかにいった、「私もエッグに劣らずそう思っておりますの。あなた様もエッグがすっかり英雄崇拝のとりこになってるのはお気づきでいらっしゃいましょう?」
サタスウェイト氏は、メアリ夫人はこの英雄崇拝を母親として少しでも不安に感じていないのだろうか、と考えた。だがその気配はなさそうだった。
「エッグはまるで世間を知らないのですよ」ためいきをつきながら夫人はいった、「私共は貧乏なんですのよ。親戚の者が一度、あの子を社交界に出そうとしてくれたり、ロンドンを見せてくれたりしたことはございますけれど、その後はたまに出かける位で殆んどこの土地から出ないのでございます。私、若いうちは人間でも場所でもいろいろ知らなくちゃいけないと思っておりますわ、殊に人間をですわね。そう致しませんと、──何と申しますかしら、あまり近い関係というのは危険なことがございますもの」
チャールズ卿と舟遊びのことを考え合わせて、サタスウェイト氏はうなずいた。しかしメアリ夫人の次の言葉で、彼女の心にあるのは別なことであるのがわかったのである。
「チャールズ卿がいらしたことは、エッグにとってはとてもよいことでございました。おかげであの子の視野がずっと開けましたわ。ご承知の通りにここには若い人たちというのがほとんどいないんでございますよ、殊に男の方がね。私がいつも心配しておりますのは、エッグが、他の方を誰も知らないばかりに、たった一人の人しか知らないで、その人と結婚してしまうのではないかということなのでございます」
サタスウェイト氏はすぐピンときた。
「オリヴァー・マンダーズという青年のことをおっしゃってるのですね?」
メアリ夫人は率直に驚きの色を示して顔を赫《あか》らめた。
「まあ、サタスウェイトさん、よくおわかりですのね! たしかに私あの青年のことを考えておりました。あの二人は一時はいつもいっしょにいたんでございます。私、自分の考え方が古風なことは存じておりますけれど、でもどうもあの青年の考え方の中に、好きになれないところがあるんでございますよ」
「若いうちというのは奔放さも必要なのですよ」
メアリ夫人は首をふっていった。
「私、とても心配なのでございます──それは、とてもうってつけではあるのですけれど。あの人のことは何もかも存じておりますし、その叔父様という方──その方の会社へ先日あの人は入ったのですが──はとてもお金持でいらっしゃるのです。でもそんなことではございませんの──私がばかなんですわね──ですけれど……」
それ以上うまくいい表わせないで彼女は頭をふった。
妙に親しみを感じ始めて、サタスウェイト氏はおだやかに、だが率直にいった。
「ですが奥さん、やっぱりお嬢さんの倍も年のあるような人とは結婚させたくないでしょう」
ところが彼を驚かしたのはその答えだった。
「その方がまだ安心かもしれませんわ。あなた様だってもしそういうことにおなりになれば、少なくともご自分の立場はおわかりになりますでしょ。そういう年齢にあれば、その方の過《あやま》ちは明らかにみんな過去のことになってしまっております。若い人たちはそうじゃございませんわ──まだこれから……」
サタスウェイト氏が何かいういとまもなく、エッグが来て加わった。
「おそかったのね、ずいぶん」母親がいった。
「チャールズ卿とお話してたのよ、ママ。あの方全然ひとりっきりなんですって」彼女はサタスウェイト氏の方を向くと詰《なじ》るようにいった、「ハウス・パーティが解散したなんておっしゃらないんですもの」
「みんな昨日帰ったのですよ──バーソロミュー・ストレンジ卿以外はね。あの人は明日までいる筈だったのですが、けさ至急電報でロンドンに呼び戻されましてね、患者が一人危篤なんだそうですよ」
「それは残念、ていうのは、私あのハウス・パーティの面々を研究するつもりだったのよ、手がかりが得られたかもしれないのに」
「手がかりって、何の? エッグ」
「サタスウェイトさんにお聞きなさいよ。まあいいわ、かまわないわ。オリヴァーはまだいるんだから、あの人を掴まえちゃいましょう、彼はその気になれば頭がはたらくわ」
サタスウェイト氏が烏荘《クロウズ・ネスト》に帰ってみると、チャールズ卿はテラスに坐って海を眺めていた。
「やあ、サタスウェイト。リトン・ゴア家でお茶を招ばれてたんだって?」
「うん、悪かったかな?」
「いやいや。エッグが電話をかけてよこしたよ……。おかしな子だよ、エッグってのは」
「魅力的だな」
「うむ、そうなんだ、僕もそう思うよ」
彼は立ち上がると、何となくその辺をあるいていたが、突然、苦しげにいった。
「こんなろくでもない土地にほんとに来なきゃよかったんだ」
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第五章
サタスウェイト氏は思った、『あの男も気の毒になあ』
急に彼はチャールズ卿があわれに思われ出した。幾多の人の心に失恋の悲哀を味わせてきた陽気な浮気者、チャールズ・カートライトが五十二歳という年齢で恋におちているのだ。しかもこの場合、当人も知っているように望みのないことは明らかなのだ、所詮、若いものは若いもの同士なのだから。
『若い娘というものは心の中を表に出さないものだ。エッグはチャールズ卿に対して大いに心情を披瀝《ひれき》しているが、もし本気だとしたらああいう態度には出まい。相手はマンダーズ青年なんだ』サタスウェイト氏はそう思った。
彼の推測の確かさは常に見事なものがある。だがもう一つ彼が考慮に入れるべきことがあったようだ。ただ彼自身それに気づいていなかったのである。それは年のせいでもあろう、若さに対する過大評価である。初老に至ったサタスウェイト氏にしてみれば、エッグが若い青年よりも中年男により魅力を感じるなどということは、正直なところ信じ難いのだ。それほどに若さということは、彼にとっては何にもまして魅力のある資質だったのである。
夕食後エッグから電話があって、オリヴァーを連れて『相談』に行ってもいいか、といってくるに及んで、彼の確信は一層強まった。
まぶたの厚い黒眼がちの目をした、なるほどハンサムな若者で、その物腰もおっとりと品がある。彼はエッグのエネルギーの現われとして仕方なしに連れて来られた感があったが、その態度には全体に何かもの憂げな懐疑的なものがあった。
「いい加減やめるようにあなたからおっしゃっていただけませんか?」チャールズ卿に向かって彼はいった、「彼女がこんなに活発なのはいつにこの驚くべき健全な田舎の生活のせいですよ。ねえ、エッグ、君は全くいやんなるほど元気がいいんだなあ、それに君の趣味ときたら子供じみてるよ……やれ犯罪だ、大事件だのってくだらないことばかりいってさ」
「君は懐疑派だね、マンダーズ君?」
「ええ、そうですとも。あのボソボソものをいってたご老人のことにしたってね、ばかげてるじゃないですか、自然死以外のことが考えられるなんて」
「君のいう通りだといいがね」チャールズ卿がいった。
サタスウェイト氏はちらと彼を見た。今夜のチャールズ・カートライトは何の役を演《や》っているのだろう、元海軍でもなし、国際的探偵でもない。ちがう、何か今までにない新しい役柄だ。
その役柄が何だか思い当たった時、サタスウェイト氏はまさにショックを受けたほどの感じがした。チャールズ卿は端役を演じているのだ、オリヴァー・マンダーズに対する端役をである。
彼は深く腰をかけ、顔がかげになるようにしてエッグとオリヴァーをじっと見ているのだ、むきになっているエッグと気のりしない様子のオリヴァーの二人を。
チャールズ卿はいつになく老《ふ》けてみえる……老けてしかも疲れた様子だ。
エッグはむきになり、確信をもって何度もチャールズ卿に同意を求めようとしていたが彼は返事もしなかった。
若い二人が帰っていったのは十一時だった。チャールズ卿はいっしょにテラスまで出て、石ころだらけの道を降りる二人に懐中電灯を貸そうとした。だがその必要はなく、外は美しい月夜だった。いっしょに帰っていく二人の声が、下へ行くにつれて遠くなっていった。
月夜であろうとなかろうと、わざわざ寒い外気に触れたい気はなかったから、サタスウェイト氏はさっさと船室のような部屋へ戻ったが、チャールズはまだしばらくテラスに出ていた。やがて入ってくると、彼は窓の鍵をかけてから大股にサイドテーブルのところへ行ってウィスキーソーダをこしらえた。
「サタスウェイト、僕はあしたここを引き払うよ、永久にね」
「何だって?」サタスウェイト氏は驚いて叫んだ。
その反応に対する満足の色が一瞬チャールズ・カートライトの憂鬱《ゆううつ》そうな顔に浮かんだ。
「『とるべき道はただ一つ』さ……僕はここを売るよ。僕にとってこれがどれだけ大事なものだったかは、誰にもわかるまいよ」彼は声をおとした、その声が余韻《よいん》を残して効果満点にひびいた……。
端役に甘んじた一夕を過ごした後、チャールズ卿の自負心はそのうめ合わせにかかったのだ。これこそまさに『あきらめの一幕』、幾多の芝居の中でたびたび彼が演じてきたシーンだ、曰く、『人妻との悲恋』曰く、『愛する乙女との別離』等々……。
彼の声にははでな軽薄ささえ感じられた。
「見切りをつけろ──だ、とるべき道はそれだけさ、若いものは若いもの、あの二人はうってつけだ、おれは消えるよ……」
「どこへだい?」
役者は無頓着な様子をした。
「いずこへなりとさ。どこだっていいじゃないか?」幾分声の調子を変えて更にいった、「多分モンテカルロだな」そういってから、彼の繊細な感覚からすれば少し竜頭蛇尾のような気がしてきて、それをとり返すべく更につけ加えた、「砂漠の果てだろうと、雑踏の中だろうと──それがなんだ? 人の心の奥底は孤独なものさ、独りぽっちだ、おれは常に孤独な人間さ……」
まさに退場のセリフだ。
彼はサタスウェイト氏の方に軽くうなずくと部屋を出ていった。サタスウェイト氏も寝室へ行くべく立ち上がった。
『だが砂漠の果てではあるまいよ』彼はそう考えて小さく笑った。
翌朝、チャールズ卿は自分がその日出かけてしまっても悪く思わないでほしいとサタスウェイト氏に頼んだ。
「どうか予定は切り上げないでくれ、君は明日までいる筈だったね、そしてタヴィストックのハーバートン家へ行くんだったろう。車でそこまで送るようにしてある。僕は決心したからには前のことはふり返っちゃいけないという気がするんだよ、そうなんだ、ふり返らぬことだ」
チャールズ卿は男らしい決意のほどを見せて肩を怒らせると、サタスウェイト氏の手をしっかりと握った。そして例の有能なるミス・ミルレイに彼のことを托したのである。
ミス・ミルレイはこの事態を特別に扱う気は一向にないらしかった。チャールズ卿が一晩かかって決心したことに対しても彼女は何ら驚愕《きょうがく》の色も見せなければ、感動の色も表わさなかった。サタスウェイト氏が水を向けてさえ、その話にはのってこないのである。誰が急死しようといかなる予定変更が起ころうと、ミス・ミルレイは決してあわてたりしないのだ。そしていかなる事態が起ころうと、ただそれを一つの事実として受け入れテキパキと処理して行くのである。彼女は家屋周旋屋に電話をかけ、方々へ電報を打ち、きびきびとタイプライターを叩いた。この息苦しいまでに能率的な光景にいたたまれなくなって、サタスウェイト氏は波止場《はとば》の方へぶらぶら出かけていった。
あてもなく歩いていくうちに背後から腕を掴《つかま》えられ、ふり返ってみると蒼白《そうはく》な顔をした若い娘が立っていた。
「いったい全体何なの、これは?」エッグはかみつかんばかりにつめよった。
「何がです?」サタスウェイト氏は白ばくれようとした。
「チャールズ卿がいなくなるってもっぱらの噂よ、──烏荘《クロウズ・ネスト》も売るんだとかいって」
「まさにその通りですよ」
「あの方《かた》、行っておしまいになるの?」
「もう行きましたよ」
「えっ!」エッグは掴んでいた手を放した。急にエッグはじゃけんにされた幼い子供のようになった。サタスウェイト氏は何といっていいのかわからなくなった。
「どこへいらしたの?」
「外国。南フランスでしょう」
「まあ!」
サタスウェイト氏はますますどうしてよいかわからなくなった。単に英雄崇拝にとどまらぬものがあるのはもう明らかだったからである……。
かわいそうになって、心の中であれこれ慰めの言葉を考えていると、エッグが再び口をきいた──ところが驚いたことに、
「いったいどっちの女なのよ?」と烈《はげ》しい語気でいったのだ。あいた口のふさがらぬまま、サタスウェイト氏はまじまじと彼女の顔を見た。エッグはまたもや彼の腕を掴むとはげしく揺すぶって声をはり上げた。
「あなたはご存じの筈よ。どっちなのよ? 灰色の髪の方? それともそうじゃない方?」
「お嬢さん、いったいあなたは何をいってるんです?」
「わかってらっしゃるくせに。わかってる筈よ。もちろん女のしわざだわ。あの方《かた》は私のこと好きだったのよ、私知ってたわ。この間の晩の二人の女だって、どっちの人だか知らないけど、きっとそれがわかって私から早くひき離した方がいいと思ったんだわ。私、女って大嫌い。いやらしいったらありゃしない。あの人のドレスごらんになった? あの緑色の髪の毛した方《ほう》の? あのドレスが私歯ぎしりするほど羨《うらや》ましいわ。あんな着物もってる人って人目をひくわよ──あなただってそれは否定できないでしょ。あの人なんておばあさんで、美人でもなんでもありゃしないわ、でもそんなこと問題じゃないのね。ああいう人のそばにいれば誰だってやぼったい牧師の奥さんかなんかにみえちゃうんですものね。あの人なの? それとも灰色の髪の毛の方なの? そりゃ、あの女はおもしろいでしょうよ、あなたもそう思うでしょ。すごいお色気があるんですもの。それにチャールズ卿はあの人のことアンジイなんて呼んでたのよ。あのしなびたキャベツみたいな女であるわけはないわね? ねえ、あのしゃれた女の方? それともアンジイ? どっちなのよ!」
「あなたもずいぶん大へんなことを考えたものだなあ。彼は──チャールズ卿はあの二人のどっちにだって、これっぽっちも関心はないですよ」
「うそばっかり。あの二人のほうはあの方《かた》に関心があるわよ、少なくとも……」
「いや、いや、いや、あなたの思い違いだ、みんな妄想《もうそう》ですよ」
「いなや女! 二人共!」
「そんないい方するもんじゃない」
「もっと悪いいい方だっていくらでもできるわ」
「そうでしょうとも。だけどお願いだからおやめなさい。私は断言するが、あなたは誤解してるものだから要らない心配をしてるんですよ」
「そんならいったいどういうわけであの方は行っておしまいになったのよ? こんなに急に?」
サタスウェイト氏は咳払いしていった。
「私の思うには、彼は──そのう──彼がそれが一番いいと考えたからだろうな」
エッグはじいっと突き刺すように彼を見た。
「という意味は──私が原因で、ということ?」
「ええ、──まあそんなところでしょうな、多分」
「それで逃げ出したのね。少し手のうちを正直に見せすぎたのかしら、私……。男の人って追っかけられるといやなのね、ちがう? ママのいう通りだったわ、やっぱり……。ご存じないかも知れないけどママが男の人のこと話す時ってとてもすてきなのよ。いつも三人称でね……それはもうヴィクトリア時代的でお品がいいんだわ。『男というものは追いかけられると嫌気がさすのよ、女の子は男に追いかけさせなくちゃいけないわ』っていうの。『追いかける』ってすてきないい方だとお思いにならない? 反対の意味にもとれるわ、まさにチャールズはそれをやったのよ、あの方は私から逃げ出したんですもの。彼は怖くなったのね。しかも癪《しゃく》なことに私は追いかけることはできないのよ、もしそんなことしたらチャールズ卿は舟にのってアフリカの奥地かどっかへ行ってしまうでしょうし」
「ハマイオンさん、チャールズ卿のことは本気で考えてるんですか?」
苛ら立たしげな一瞥《いちべつ》をくれて彼女はいった。
「あたりまえよ」
「オリヴァー・マンダーズのことは?」
エッグはじれったそうに頭をふっただけでマンダーズのことなど斥《しりぞ》けてしまい、自分の勝手な考えに耽っていた。
「あの方にお手紙を書いたらいいと思う? おどかすようなことは何も書かないわ、ただこまごまとおしゃべりだけ……。ね、あの方が気が楽になるようにしてあげるのよ、びくびくしなくてもいいように、ね?」
エッグは顔をしかめていった。
「なんてばかだったんでしょう、ママならもっとうまくやれたんだわ、どういう手を使うべきか、ああいうヴィクトリア時代の人たちは心得ていたのよ。みんなはにかんだようにして出しゃばらないのね。その点を私は全くあやまったわ。私ほんとに、あの方ははげましてほしいんだと思ってたの。そうよ、助力を求めてるように見えたわ。あのね」だしぬけに彼女はサタスウェイト氏にいった、「ゆうべオリヴァーとキスしてたのあの方見てたかしら?」
「さあどうかな、いつ?」
「月明かりの中でずうっと。あの小道を降りて行く時よ。あの方はテラスで見てるだろうと思ったの、もし私とオリヴァーの様子を見れば──そうすれば──少しは勇気をふるい起こすだろうと思ったのよ、だってあの方は私のことを好きなんですもの、それは誓っていえるわ」
「それじゃ少しオリヴァーに気の毒じゃなかったの?」
エッグはきっぱりと首を振った。
「ちっとも。オリヴァーはどの女の子だって自分にキスしてもらえれば名誉だなんて思ってんのよ。だからそのうぬぼれには大分こたえるでしょうよ、もちろん。だけどそうあっちもこっちも考えて行動できないわよ。私はチャールズをはげますつもりだったのよ、この頃あの方は変だったの──だんだんよそよそしくなってきたのよ」
「ね、お嬢さん、チャールズ卿がなぜあんなに急に立ち去ったか、あなたはよくわかっていないらしいな。彼は、あなたはオリヴァーを好きなんだと思ってるんですよ。これ以上苦しみたくないばかりに姿を消したんです」
エッグはくるりとふり向くとサタスウェイト氏の肩を掴んでその顔をのぞきこんだ。
「ほんと? それほんとう? ばかね! 間抜けだわ! ああ!」
彼女はサタスウェイト氏から不意に離れるとピョンピョン跳ぶようにして並んで歩き出した。
「じゃあ帰ってくるわ、あの方は帰ってくる、もし帰らなきゃ……」
「え? もし帰らなきゃ?」
エッグは笑った。
「とにかく私が帰らせてみせるわ、みてらっしゃい」
言葉の差こそあれ、エッグとアストラッドの百合の乙女とはやっぱり共通点があるらしい。しかしエッグの手段はエレーヌのそれに比べたら遙かに実際的なものだろうし、失意の果てに死をえらぶなどということは彼女の手段には含まれていないであろう。サタスウェイト氏はそう思うのだった。
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第二幕 確信
第一章
サタスウェイト氏は日帰りの予定でモンテカルロに来ていた。ハウス・パーティめぐりも終ったことだし、それに九月のリヴィエラはいわばお気に入りの場所でもあったのだ。
今、彼は庭に出て陽の光を楽しみながら、二日も前の『デイリー・メール』を読んでいた。
突然、一つの名前が彼の注意をひいた──ストレンジ──バーソロミュー・ストレンジ卿死去。その記事を彼は読んでいった。
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神経科医として著名なバーソロミュー・ストレンジ卿は、ヨークシャの自宅で友人知己を招いてパーティを開催中だった。心身共に変ったところはみうけられなかった由であるが、晩餐《ばんさん》の終り近くに急逝《きゅうせい》したもので、客と話しながらポートワインを飲んでいる時に突然発作を起こし、手当を施《ほどこ》す間もなく死去されたという。まことに惜しむべき人を失ったものであり、深く哀悼《あいとう》の意を表する次第である。卿は……
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バーソロミュー卿の経歴と業績とがそのあとにつづいていた。
新聞はサタスウェイト氏の手からすべり落ちた。彼は何ともいやな気分にとざされた。この前会った時のあの医者の面影《おもかげ》が心をよぎった──大柄で、陽気で、健康そのものだったのに。それが今──死んだとは。いくつかの言葉がその新聞記事から抜け出して、不愉快にも彼の心につきまとった、『ポートワインを飲んでいる時に』、『突然発作を』、『手当を施す間もなく……』
カクテルでなくポートワインか、だがそれを除けばあのコンウォールで起こった死と妙に似ているではないか。サタスウェイト氏はあのおだやかな老牧師のひきつった顔を思い浮かべた。
そうだとすればやはり……。
目を上げると、芝生《しばふ》を横ぎってチャールズ卿がやって来るのが見えた。
「サタスウェイト、こりゃよかった! 君に会いたいところだったんだ。かわいそうにトリーのこと聞いたかい?」
「今ちょうど読んでたところだよ」
チャールズ卿は傍らの椅子にどっかと腰をおろした。一分の隙もないヨット・スタイルである。もはや灰色のズボンでもなければ、古ぼけたスウェーターでもなく、南仏海岸の俗っぽいヨットマンであった。
「ねえサタスウェイト、トリーは健康そのものだったんだよ、どこもおかしいところはなかったんだ。僕の全くの思いすごしなのかね、それとも君も思い合わせているのかい、あの……なにを……?」
「ルーマスのことかい? うん、そりゃあ。しかしもちろん我々の間違いさ、似てるのはうわべだけだよ。とにかく急死なんてことは、あらゆる原因でいつだって起こり得るんだからね」
チャールズ卿はじれったそうにうなずいていたが、やがていった。
「今手紙が来たんだよ──エッグ・リトン・ゴアからだ」
サタスウェイト氏はひそかに微笑した。
「彼女からは初めてかい?」
チャールズ卿は疑う風もなくいった。
「いや、ここへ来てすぐ一通もらった。僕のあとを追っかけるようにして届いたんだ。ただニュースやなんかを知らせてきただけだよ。返事は出さなかった……、ちぇっだ、サタスウェイト、僕はわざと書かなかったんだよ……、あの娘《こ》はもちろんなにも知らないさ、だけど僕はばかをみたくなかったからね」
サタスウェイト氏はまだ微笑の浮かんでいる口元を手でかくしてきいた。
「で、こんどのは?」
「今度のは違うんだ、助力を乞うてる……」
「助力?」サタスウェイト氏の眉がつり上がった。
「彼女はね──君、あの家にいたんだよ──つまり、その時にさ」
「バーソロミュー卿が死んだ時に彼女がその家に滞在していた、というのかい?」
「そう」
「で、それについちゃ、なんて書いてあるんだい?」
チャールズ卿はポケットからその手紙をとり出した。彼はちょっとためらってからそれをサタスウェイト氏に渡した。
「君が自分で読んだ方がいいよ」
サタスウェイト氏は好奇心にかられながら開いてみた。
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チャールズ卿へ──
いつお手もとに届くことやらわかりませんが、一刻も早くと念じつつ。私は悩みぬいています、どうしてよいかわかりません。今頃は、ストレンジ卿のお亡くなりになったことを、新聞でご覧になっていることと思います。そうです、あの方はバビントンさんとまるで同じ死に方をなさったのです、偶然だなんて筈はありません──決して、決して。私は死ぬほど悩んでいます……。
ですから、ね、ここへ帰ってらして何とかして下さるわけにはいかないでしょうか? こんな風に書くのは少し不躾《ぶしつけ》のようですけれど、でもあなたはこの前の時も疑いをおもちだったでしょう。誰もとり合わなかったけれど、今度はあなた自身のお友達ですものね、殺されたのは。それに、もしあなたが帰っていらっしゃらなければ、きっと永久に誰も真相を発見することはできないと思います、あなたならそれができます。私には確かにそういう気がしますもの……。それからまだ他にもあるのです。ある人のことで私はひどく心配しています。彼はそのこととは完全に無関係なのです、私は知っています、でもどうもいろんな事がおかしく思われるようなのです。ああ、手紙ではとても説明できません、どうかお帰りになっていただけません? あなたなら必ず真相を解明なさることができますわ、それはたしかよ。
とり急ぎ右のみ エッグ
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「どう?」チャールズ卿は待ちかねたようにきいた、「そりゃ、多少矛盾してるところもあるがね、急いで書いたんだから。だがどう思う?」
サタスウェイト氏はゆっくりと手紙をたたんだ、返答する前に一、二分、時をかせぐためである。矛盾したところがあるという点では彼も同意見だったが、それが急いで書かれたものだとは思わなかった。彼のみるところ、これは極めて周到に考えて書かれたものであった。つまりチャールズ卿の自負心、騎士道精神、かつは彼の冒険心に訴えるべく画策されたものである。サタスウェイト氏の知る彼の人柄からすれば、この手紙はたしかにチャールズ卿の気を惹《ひ》くしろものであるのだ。
「『ある人』とか『彼』とかっていうのは誰を意味してると思うんだい、君は?」
「マンダーズだろ、多分」
「じゃ、あの青年もそこにいたのかね?」
「いたことになるね。理由はわからんよ。トリーがあの男に会ったのは、僕の家で例の時一回きりだろ、なんでトリーがあの男を招んだか、僕にはさっぱりわからん」
「こういう大がかりなハウス・パーティを彼はしょっちゅうやってたのかい?」
「年に三、四回だな。セント・レジャー[ダービー、オークスと並んで英国の三大競馬の一つ、九月に行われる]の日にいつも一回やるんだよ」
「ヨークシャにいることは多かったのかね?」
「大きなサナトリュウム──療養院、とでもいうのかな、そんなのをやってたからね。メルフォード寺院《アベイ》──古いところだが──を買って建て直して、その敷地にサナトリュウムを作ったんだよ」
「なるほどね」
サタスウェイト氏はちょっと黙っていたが、やがていった。
「件《くだん》のハウス・パーティにはその他どんな人が出席してたのかねえ?」
チャールズ卿が他の新聞を探してみたらどれかに出てるかも知れない、といい出して、二人は新聞という新聞を探しにかかった。
「あったあった」チャールズ卿がそういって声を出して読み上げた、「バーソロミュー・ストレンジ卿は例年通り、セント・レジャーのハウス・パーティを開催中。出席者はイーデン御夫妻、メアリ・リトン・ゴア夫人、ジョスリン卿並びにキャムベル夫人、デイカズ大尉夫妻、それに女優アンジェラ・サトクリフ嬢等である」
二人は顔を見合わせた。
「デイカズ夫妻にアンジェラ・サトクリフね、オリヴァー・マンダーズのことは何も書いてない」チャールズ卿がいった。
「今日の『デイリー・メール』大陸版を見てみよう、何か出てるかもしれない」とサタスウェイト氏。
チャールズ卿はその新聞をひとわたり見ていたが、突然きっとなっていった。
「おいおい、サタスウェイト、読むぜ、
『バーソロミュー・ストレンジ卿。
故バーソロミュー・ストレンジ卿の死因は、本日の検屍陪審において、ニコチンによる中毒死と評決された。ただしいかなる方法で、もしくは何びとによって服用せしめられたかは明らかではない』」
チャールズ卿は顔をしかめた。
「ニコチン中毒か。それほど大変なことにも聞えないね。人が発作を起こして倒れるほどのものじゃない。全然わからないなあ」
「君、どうするつもりだね?」
「どうする? 僕は今夜のブルー・トレインに寝台をとるよ」
「そうか、私もご同様にしても悪くないな」
「君が?」チャールズ卿はくるりとサタスウェイト氏の方に向き直った、驚いた表情である。
「こういうことは私の柄でないこともないんだよ」サタスウェイト氏は遠慮がちにいった、「私は──いや、その──前にちょっとした経験もあるしね。それに、あの辺の警察部長ともまあ懇意なんだよ──ジョンソン大佐だがね。ちょうど役に立つというものさ」
「ほんとかい」チャールズ卿は叫んだ、「さっそく寝台車会社《ワゴンリ》へ行こうぜ」
サタスウェイト氏はひそかに思った、『あの娘はやっぱりやった、とうとうこの男を呼び戻したんだ。そうしてみせるといってたからな。しかしあの手紙はどこまでが本当なのかなあ』
たしかにエッグは御都合主義《ごつごうしゅぎ》ではある。
チャールズ卿が寝台車会社《ワゴンリ》へ出かけて行くと、サタスウェイト氏は庭の中をぶらぶら歩きまわった。彼は、心にまだこびりついているエッグ・リトン・ゴアの問題を楽しんでいた。エッグの知謀《ちぼう》に、そして積極性に感服し、かつまた、愛情問題でイニシャティブをとるような女性を快からず思うややヴィクトリア時代的な一面が、頭をもたげようとするのを彼は抑えつけていたのだ。
サタスウェイト氏は観察眼の鋭い男である。だから広く女性一般について、いや特にエッグ・リトン・ゴアについて思考をめぐらしている真最中だというのに、『はて、あの独特な形の頭はどこで見たっけな』とつぶやかずにはいられなかった。
その頭の持ち主は、椅子に腰をおろしてじっと前方をみつめながら、何か考えている風だった。小柄な男で、口髯が不釣合に大きかった。
その近くに、イギリス人の女の子が一人、いかにもつまらなそうな様子で立っていた。片足ずつ代わる代わる一本脚で立ってみたり、時々ぼんやりと花壇の縁をけってみたりしている。
「およしなさいな、いい子だから」スタイルブックに読み耽っていた母親がいうと、子供はいった。
「あたし、すること何にもないんですもの」
小柄な男がその子の方へ顔を向けたので、サタスウェイト氏はそれが誰だか知ることができた。
「ポワロさん、これはお珍しいところで」
ポワロ氏は立ち上がって頭を下げた。
「これはこれは、ムッシュー」
握手をかわすとサタスウェイト氏は腰をおろした。
「どうやら誰もかれもモンテカルロにおいでと見えますな。つい三十分前、チャールズ卿に行きあったと思ったら、今度はあなただ」
「チャールズ卿ですか、あの方もやはりこちらに?」
「ヨットですよ。彼がルーマスの家を手放したことはご存じでしょうな?」
「ああ、いや、存じませんでした、それは意外でしたな」
「私は驚かんですよ、カートライトはそういつまでも娑婆《しゃば》を離れて暮らせるような男じゃありませんからねえ」
「ごもっとも、私もその点は同感です。意外と申したのはもう一つ別の理由があるからですよ。チャールズ卿がルーマスにいらしたのには特別なわけがある、と私はみていたのですがね──大そう粋《いき》な理由、ね? ちがいますか? あの若いご婦人でしょう、おもしろいことにご自分のことを卵《エッグ》と呼んでいらしった?」そういって彼は柔和な目をキラキラさせた。
「ほう、じゃあお気づきでしたか?」
「たしかに気づいておりました。私の心は恋人たちのこととなると大そう敏感でしてね──あなたもそのようですな。それに、青春、これはいつの世にもいじらしいものですな」ポワロはためいきをついた。
「まさにそれなんですよ、チャールズ卿がルーマスを去った理由は。彼は逃げ出したんですよ」
「エッグ嬢から? ですが、あの方があのお嬢さんに傾倒してたのはたしかじゃありませんか、いったいなぜです、逃げたなんて?」
「ああ、あなたには我々アングロサクソンのコンプレックスはおわかりにならんのでしょうな」
ポワロは一心に理由を考えていた。
「もちろんうまいやり口ではありますな。女から逃げる──女はすぐ後を追う。経験豊かなチャールズ卿なら当然その位のことは心得ておいでのわけだ」
サタスウェイト氏は何だかおもしろくなってきた。
「そういうわけでもないでしょうが。ところでポワロさん、こちらへはなんで? 休暇ですか?」
「昨今は毎日が休日ですよ。私は功成り名遂げました。金もできました。そして引退しました。目下私は世界漫遊中なのですよ」
「それはすばらしい」
「|でしょう《ネ・ス・パ》?」
「マミー」例のイギリス人の女の子がいった、「なんかすることないの?」
「よそのお国へ来て、こんな気持ちのいい日なたぼっこしてるんだからいいじゃないの?」
「いいけど、でもなんにもすることがないんですもの」
「その辺かけ廻っておもしろく遊んでごらんなさいよ。あそこへ行って海をみてらっしゃい」
「ママン」突然現われたフランス人の子供がいった、「遊んでちょうだい」
「そのまりでおもしろくお遊びなさいな、マルセル」
その子はつまらなさそうな顔をしたままおとなしくまりつきを始めた。
「私は|おもしろく遊んで《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》いるのです」ポワロはいった、その顔には何とも奇妙な表情が浮かんでいた。
そしてやがて、まるでサタスウェイト氏の表情を読みとってそれに答える、とでもいうように話し出した。
「いや、あなたはおわかりだ、お考え通りです──」
ポワロはちょっと口をつぐんでいたが、やがて喋り出した。
「そうです、子供のころうちは貧乏でした。兄弟が多かったものですからそれぞれ何とか身を立てなくてはなりませんでした。私は警察に入り一生懸命働きました、だんだん地位も上り、名を成し始めました。そして遂に国際的な名声さえ得るに至ったのです。そして引退する時が来ました。そこへ戦争です、私は傷つき、寂しく疲れ果てた避難民としてイギリスへやって来たのですが、ある親切な婦人が私をやさしく迎えてくれました。彼女はしかし死にました──病死ではなかった、そうです、殺されたのですよ。さあそこで私は頭を使い出したのです、小さな灰色の脳細胞を働かせたんですよ。犯人はみつかり、私はまだやればできることを悟りました、いやそれどころか私の実力は以前にもまして強くなっていたのです。その時から、イギリスにおける私立探偵という私の第二の人生が始りました。非常におもしろい代りに難解きわまる問題をいくつも解いてきたのです。ああムッシュー、私は充実した日々を送ってきました! 人間の心理というものはふしぎなものですな。私は金持ちになりました。心に誓っていたのですよ、いつか自分は欲しいだけの金を手に入れよう、そして夢を全部実現させるんだ、とね」
そういうと彼はサタスウェイト氏の膝《ひざ》に手をおいた。「あなた、|夢がかなった時にこそお気《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》|をおつけなさいよ《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》。そこにいる子供ね、あの子も外国へ来ることをどれほどか夢に見ていたに違いない、どんなおもしろいことがあるんだろう、どんな珍らしいことがあるんだろう、とね。おわかりですな?」
「わかりますとも、あなたが|おもしろく遊んで《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》|おいでじゃない《ヽヽヽヽヽヽヽ》、ということがね」
「その通りです」
サタスウェイト氏は時に小悪魔《パック》のように見えることがある。今もそうだった。しわの寄った小さい顔がいたずらっぽくピクピクしている。彼はためらっていた、いおうか? いうまいか?
彼は手にしていた新聞をゆっくりとひろげ、例の記事を指さしていった。
「これごらんになりましたか、ポワロさん?」
小柄なベルギー人はその新聞を手にとった。サタスウェイト氏はじっと見ていたが読んでいるポワロの表情には何の変化も起こらなかった。しかし、その体はねずみの穴を嗅《か》ぐテリヤのように|きっ《ヽヽ》となった、とこの英国人は感じたのだった。
ポワロは二度読んでからその新聞をたたむとサタスウェイト氏に返した。
「これはおもしろそうですな」
「そうなんです、まるで、そうじゃありませんか、まるでチャールズ卿が正しくて我々が間違っていたみたいです」
「そうですな、いかにも我々が間違っていたように思われますな……それは私も認めますよ、あなた、私はあんな穏かなやさしいご老人が人に殺されるなんてとても考えられなかったのですよ……さよう、多分私の間違いでしたろう……まあ今度の事件は偶然符合しただけのことでしょうがね。偶然の一致ということはたしかにあるのですよ──しかもまことに驚くべく符合するのです。私はね、このエルキュール・ポワロはあなたが驚嘆するような偶然の符合を今までにもみてきました……」
ちょっと言葉をきって彼はまたつづけた。
「チャールズ卿の直感は正しかったのかもしれませんね。あの方は芸術家だ──感覚が鋭い──というか、感受性が強いというか、物事を理屈で考えるのじゃなく、感じとるのでしょうな……。そういう風だと往々にして悲惨なことになり兼ねないのですが、時にはそれでよいこともあるんですな。で、いったい、チャールズ卿は今どこにいるんでしょうねえ」
サタスウェイト氏はにっこりしていった。
「知ってますよ、寝台車会社《ワゴンリ》の事務所ですよ。私どもは今夜イギリスへ帰りますのでね」
「ははあ!」ポワロは大いに意味深長な声を発した。いたずらっぽい目がもの問いたげに光っている、『我がチャールズ卿の何と熱心なことよ。じゃああの方はその役を、つまりしろうと刑事の役を演《や》ることに決めたんですな? それとも他に理由があるんですかな?』
サタスウェイト氏が黙りこくっているのを見てポワロは答えを引き出した様子である。
「なるほど、あのお嬢さんの美しいお目々も関係してますな、引力は犯罪事件だけじゃありませんね?」
「帰ってきてくれと彼女から手紙がきたんですよ」
ポワロはうなずいた。
「どういうのでしょうね、私はどうもよくわから……」
サタスウェイト氏がさえぎった。
「近ごろのイギリスの若い娘が理解できない、とおっしゃるんでしょう? いやあ、驚くことはないですよ、私なんか理解できたためしはないですからね。リトン・ゴア嬢のような女の子っていうのは……」
今度はポワロがさえぎった。
「失礼ですが、あなたは誤解しておいでです、私はリトン・ゴア嬢のことはよく理解してますよ。ああいう娘さんは他にも知ってますしね──たくさん知ってますよ。あなたはああいうタイプをモダーンとおっしゃるが、しかしなんといいますかね──いつの世にもあるタイプですよ」
サタスウェイト氏はいささかおもしろくなかった。自分は、いや自分だけが、エッグを理解できるんだのにと思った。この途方もない外国人にイギリスの若い娘のことなど何がわかるものか。
ポワロは喋りつづけている、夢でもみているような──もの想いにでも耽《ふけ》っているような調子だった。
「人間性についての知識か──これほど危険なものはない」
「有用なもの、ですよ」サタスウェイト氏が訂正した。
「恐らくね。見解の相違でしょう」
「さて──」サタスウェイト氏はちょっとためらっていたが、やがて立ち上がった。彼はいささか失望の体《てい》だった、餌《えさ》を投じたのに魚は釣れなかったのだ。彼はつくづくと自分の人間性についての知識が誤っていたことを感じた。「ではどうぞよいご休暇を」
「ありがとうございます」
「今度ロンドンへおいでの節はどうぞお立ち寄り下さい、こちらが住所ですが……」彼は名刺をさし出した。
「いやありがとう存じます、サタスウェイトさん、喜んでお伺いいたします」
「では、またいずれ」
「さようなら、どうぞお気をつけて」
サタスウェイト氏は立ち去った。その後姿をポワロはしばらく見ていたが、やがて再び前方へ目を向けた。紺碧《こんぺき》の地中海を眺めわたしているのだ。
十分ばかりもそうやって坐っていたろうか。
さっきのイギリス人の女の子がまた現れた。
「マミイ、あたし、海みてきたわよ、こんど何したらいいの?」
「全くすばらしい質問だ」エルキュール・ポワロは口のなかで呟いた。
立ち上がると彼はゆっくりと歩み去った──寝台車会社《ワゴンリ》の事務所の方角へである。
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第二章
チャールズ卿とサタスウェイト氏は、ジョンソン大佐《たいさ》の部屋に腰をおろしていた。赫《あから》ら顔で大柄なこの警察部長はガラガラ声の磊落《らいらく》そうな男だった。
彼はサタスウェイト氏を大喜びの体《てい》で迎え入れたのだが、一方、かの有名なるチャールズ・カートライトの知遇を得たことが嬉しくてたまらない風でもあった。
「うちの女房《やつ》は大変な芝居きちがいでしてね、あなたの──なんていいましたっけな、アメリカ人のよくいう、ええと、ファンですか、それそれ、あなたのファンなんですよ。私ぁいい芝居が好きでね、ちゃんとしたやつがいいですよ。この頃上演されるやつのなかにはどうもね──いやはや!」
チャールズ卿は、彼自身『大胆な』芝居には決して出たことはなく、こういう考え方の正しさを認識していたので、もちまえのくったくのない態度をできるだけ動員して上手に相手になった。
二人がわざわざやって来た理由を話し出すと、ジョンソン大佐は知ってる限りのことを喜んで話してくれた。
「あなたのお友だちでしたか、それはそれは……。いやあ、あの人はこの辺じゃ人気がありましたよ。サナトリュウムってのが評判が高くてね、それにバーソロミュー卿といえば、医者としてもトップクラスでしょうが、人物としても誰がみたって第一級の人物でしたからね、親切で大様《おおよう》で人望がありました。あの人が殺されるなんておよそ考えられませんよ、ところがそれが他殺としか思えないんですからね。自殺を証明するものは何もないし、事故ってなことは問題にならんようですからなあ」
「僕たちは外国から帰ってきたばかりでしてね。それで、新聞でちょこちょこっと読んだきりなんですよ」チャールズ卿がいった。
「ああそれでこの件について詳しいことを知りたいというわけですな。よろしい、事の次第を正確にお話ししましょう。私の考えではですな、捜査の対象は執事《しつじ》であることは間違いないですよ。その執事ってのが新顔でしてね、バーソロミュー卿が雇ってから二週間にしかならんのです、そいつがしかも事件の直後に行方知れずになったんですからね、煙のごとくに消え失せちまった。どうもくさいじゃないですか。え? なんです?」
「その男がどこへ行ったかわからないわけですか?」
ジョンソン大佐はそれでなくても赤い顔を一そう紅潮させていった。
「われわれ警察側の怠慢、そうお考えですな。そう思われても仕方ありませんがね。もちろんその男のことは監視してたわけです──他の人たちと同様にね。そいつはこちらの訊問《じんもん》にまことにすらすらと答えたですよ、バーソロミュー卿のところへ世話してくれたロンドンの職業紹介所の名前もちゃんといいました。前の雇主はホレース・バード卿だともいいました。すべてが非常にていねいな話っぷりで、あわててる様子などさらになかったですよ。と思ってたら消え失せたんですからね──しかもあの家も充分監視されてたというのにね。私は部下どもに大目玉をくらわしてやったんですが、やつらは、断じてまばたき一つしなかったというですよ」
「実に妙だな」サタスウェイト氏がいった。
「何にしても」チャールズ卿は考えこむようにいった、「ずいぶんとんまなことをやったもんだな、その男は疑われてなかったんでしょう。逃げたりすりゃ、人の注意を惹くばかりじゃないですか」
「そうなんですよ、しかも逃げおおせる望みはないですよ、人相書が全国に配られてますからね。やつが捕まるのもここ数日の問題です」
「おかしいなあ、どうもわからない」チャールズ卿はいった。
「いやあ、理由はいたって明瞭、やつはこわくなって、急に怖気づいたんですよ」
「殺人を犯すような神経の持ち主ならその後、平静にしてるぐらいの神経はあるんじゃないですかね?」
「ごもっとも、ごもっとも。私は犯罪者はよく知っとりますがね、彼らの大半は気が小さいもんですよ。やつは自分が疑われてると思って、慌てて逃げたんでしょう」
「その男が自分でしゃべったその事柄はちゃんと確かめてみられましたか?」
「もちろんですよ、チャールズ卿。捜査上のごく当たりまえの定石ですからな。ロンドンの職業紹介所に照会したところ、やつのしゃべったことも確認できたです。ホレース・バード卿からの思いやりのある推薦状《すいせんじょう》がありましたからね、ホレース卿その人は今アフリカ東部ですがね」
「とすれば、その推薦状はまやかし物かも知れないですね?」
「そうですとも」ジョンソン大佐は、出来のいい生徒を賞める校長先生よろしく、チャールズ卿に対してにこにこしてみせた、「もちろんホレース卿には電報を打ってあります、しかし返事が来るのにはもう少しかかりましょうな。卿は狩猟旅行に出てるんですよ」
「その男が消えたのはいつなんです?」
「亡くなった翌朝です。その晩餐の席にはちょうど医者がおられたんですよ、ジョスリン・キャムベル卿といって、毒物学者でもあるそうですがね。その人とデイヴィス──これはこの土地の医者ですが──の意見が一致して警察がすぐ呼ばれたってわけなんですな。我々はその晩全部の人を訊問したですよ。エリスは──その執事ですよ──いつものように自分の部屋へひっこんだんですが、朝になってみたらいないんですな。ベッドも寝た形跡がないんです」
「闇に乗じてこっそりぬけ出したんですね?」
「そうらしいですな。あそこにいらしてたご婦人方のなかにサトクリフ嬢、というのが──女優だからあなたご存じでしょうな?」
「よく知ってます」
「そのサトクリフ嬢がある事を思いつかれたのですよ、つまり、その男は秘密の通路を通ってあの家からぬけ出したのじゃないか、とね」大佐は弁解でもするように鼻をかんだ。「いささかエドガー・ウォレスばりに聞こえますがね、しかし実際そんなものがあるらしいですな。バーソロミュー卿はそれが自慢でもあったんで、サトクリフ嬢にみせたそうです。その向う端ってのがなんでも半マイルほど離れたところにある壊れた石の建物の中に出るようになってるんです」
「それは考えられることですね、たしかに。ただ……その執事がそんな抜け道の存在を知ってましたかねえ?」
「そこが問題ですがね、もちろん。うちのやつは口癖のように、使用人というものは何もかも知ってるもんだといってますが、どうも女房のいうことはほんとのようですな」
「その毒というのはニコチンだったように聞いてますが……」サタスウェイト氏がいった。
「その通りです。こんなことにはまず使われないしろものですな。比較的|稀《まれ》というんですかね。あの先生のようなたばこのみの場合だと、どうかすると事が面倒になりますよ、というのはですよ、たとえ殺されなくたって、ニコチン中毒で命を落とすことだってあるんですからな。ただ、もちろん今回のことはそれにしちゃあまり急ですがね」
「どうやって盛られたんでしょうね?」
「それがわからんです」大佐は素直にいった、「そこがこの事件の難点となりそうですな。検屍の結果では、死ぬ直前ほんの二、三分前に呑み下されたことになるんです」
「みんなでポートワインを飲んでいた、というんでしたね?」
「そうです。従ってそのポートワインの中に入ってたんじゃないかと思うでしょう、ところがそうじゃない。そのグラスも分析しました。ポートワインは認められたがそれ以外のものは何もない。他のグラスはもちろん片づけられちゃってましたよ、しかし全部一つの盆にのったまま食器室に洗わないでおいてあったです、だがどれ一つだって怪《あや》しげなものは全く入ってませんでしたな。食べたものの方は、他の連中と全く同じものですよ。スープ、舌平目、きじ、チョコレート・スフレ、しらこをのせたトースト、です。あそこのコックはもう十五年からあの家にいるんです。そうですよ、どう考えたってどうやってそんなものを飲まされたかわからんのですよ、だけどもとにかく胃の中にはあるんですからな。こりゃ厄介《やっかい》な問題です」
チャールズ卿はくるりとサタスウェイト氏の方へ向くと興奮した口調でいった。
「同じじゃないか、この前の時とまるで同じだぜ」
彼は警察部長の方へ向き直っていいわけするようにいった。
「お話しなくちゃいけませんね。じつはコンウォールの私の家でも人が急死したんです……」
ジョンソン大佐は興味を示していった。
「そのことはうかがったようですな。若いご婦人からですが──リトン・ゴア嬢でしたかな」
「そうそう、彼女はいた筈だ。そのことを何か話しましたか?」
「聞きました。あの人はずいぶん自分の説に固執《こしつ》してますな。しかしね、チャールズ卿、あの説には何ら根拠はないと私は思いますよ、だって執事の失踪は説明できないじゃないですか、あなたの執事はいなくなりはしないですな、ひょっとして?」
「男は使ってませんのでね、ただの小間使いだけです」
「その娘は男が変装していただなんてわけはないですな?」
あの小ぎれいなどう見ても女らしいテンプルを思い浮かべてチャールズ卿はにやにやした。
ジョンソン大佐も弁解するように笑いながらいった。
「ちょっと思いついただけですよ。さよう、どうも私はリトン・ゴア嬢の説にはあんまり信頼はおけんです。問題のその亡くなられた方ってのは年とった牧師さんと聞いてますが、いったいそんな老牧師をなきものにしようなんぞと思う人がいますかね?」
「そこがその不思議にたえないところですよ」チャールズ卿がいった。
「いずれ、そのことは単なる偶然の一致だとわかりますよ。たしかに執事が犯人《ほし》ですよ。どうもやつは常習犯くさいです。残念ながら、やつの指紋は一つとして見つからんのですからな。我々は指紋の方のベテランにやつの寝室から食器室からすっかり調べさせたんですが、うまくいかなかったです」
「もしその執事だとしたら、どういう動機が考えられますか?」
「そこがいうまでもなく、難問の一つですよ。やつは泥棒の目的であそこに入りこんでたのかもしれんですな、そしてバーソロミュー卿がそれを見抜いた……」
チャールズ卿もサタスウェイト氏も遠慮がちに黙り込んでしまった。大佐自身もそうはいってみたもののあまりうがった思いつきではないと感じたらしかった。
「ま、事の真相はですよ、理論を立てて考えて見ること位しかできんのですな。いったんジョン・エリスのやつをとり押えて正体がわかりさえすりゃあ、そしてやつが前科者かどうかわかりさえすりゃあ、そうすりゃ動機なんかすぐわかるんですがね」
「バーソロミュー卿の書類なんかはもう目を通されたんでしょうね、多分?」
「そりゃそうですよ、チャールズ卿。そういったことにはあらゆる注意をはらってやってます。そうだ、この事件担当のクロスフィールド警部をご紹介しなくてはね。非常に信頼のおける男です。私はね、バーソロミュー卿のような職業では犯罪に何らかの関係をもつようなこともあり得るんじゃないかといったんですがね、彼はすぐ賛成しましたよ。医者ってのはずいぶん職業上の秘密を握ってるわけですからな。バーソロミュー卿の書類はすべてきちんと綴《と》じて、摘要を記したものがつけてありました、それを、バーソロミュー卿の秘書のリンドン嬢がクロスフィールドといっしょにすっかり調べたですよ」
「で、何もなかったのですか?」
「手がかりになるようなものは何にも、ですな、チャールズ卿」
「あの家で何かなくなったものでもありますか、銀製品とか宝石とかいったものなど?」
「一つも」
「正確なところどういう人たちがあの家に滞在してたんでしょう?」
「リストがありますよ、……ええとどこへいったかな? ああそうか、クロスフィールドのとこだな。とにかく彼にお会わせしなくちゃね。実のところ、今にもあの男が報告に来る筈だと待ってるんですよ」──ベルが鳴った──「多分彼でしょう」
クロスフィールド警部は全体に大きな感じでがっしりしており、口調もゆっくりしていたが、その青い眼は鋭く澄んでいた。
上官に敬礼すると、彼は二人の客に紹介された。
もしサタスウェイト氏一人だったとしたら、このクロスフィールドに胸襟《きょうきん》を開かせるのは難しかったかも知れない。この男はロンドンから来る紳士、つまり『思いつき』をもってやって来るしろうと探偵など認めなかったのだ。しかし、チャールズ卿とあれば話は別だ。クロスフィールド警部は芝居の魔力に無邪気な崇敬の念を抱いていた。チャールズ卿の舞台も二度見ている。だからこうしてその舞台の英雄に目《ま》のあたりに接し、すっかり興奮し、有頂天《うちょうてん》になったおかげで、この男がうちとけて多弁になってくれたのはそれこそこちらの望むところだった。
「私はロンドンであなたの舞台を見たことがあるんですよ、そうなんです。家内と行ったんです。『エイントリー卿窮地に陥る』という芝居でした。土間の席でしたが、なにしろ劇場はすごい混みようでその前二時間も立って待ってたんですからね。それでも家内は他のことじゃ承知しないんです、『私はどうしても『エイントリー卿窮地に陥る』のチャールズ・カートライトを見なくっちゃ』っていうんですよ。ペルメル劇場でした、あれは」
「そうですか。私はご承知のようにもう舞台を退きましたのでね。しかしペルメル劇場ではまだ私の名前は通りますから」チャールズ卿は名刺をとり出すと二た言三言書きこんでいった、「今度奥さんといっしょに上京されることがあったらこれを切符売場の者にお渡し下さい、一番良い席をくれますから」
「いやあ、これはご親切に、チャールズ卿、ほんとに忝《かたじ》けない。家内のやつ、この話をしたらすっかり興奮しちまいます」
こうなったらもうクロスフィールド警部は元役者の思いのままであった。
「これはどうも変った事件ですよ、今までの経験を通じてニコチン殺人なんて一度もぶつかったことがありません。ここのデイヴィス医師もそういってますが」
「僕はニコチン中毒っていうのはタバコののみ過ぎからくる一種の病気みたいなもんだと思ってましたよ」
「白状しますとね、私もそう思ってたんですよ。ところが医者にききますとね、純粋のアルカロイドというのは無臭の液体でほんの数滴もあれば人一人即死させるに十分なんだそうです」
チャールズ卿はヒューッと口笛を吹いた。
「強力なもんなんだな」
「そうなんです。しかもそいつがごく一般に使われてるわけですよ。その溶液はバラに噴霧するんです、そして無論、そこいらのタバコからだって抽出できるんですね」
「バラか」チャールズ卿はいった、「さて、どっかで聞いたようだな……?」彼は顔をしかめ、頭を振った。
「何か新しい報告はあるかね。クロスフィールド君?」ジョンソン大佐がきいた。
「たしかなことは何もありません。肝心のエリスをダーラム、イプスウィッチ、バラム、ランズエンドその他十か所ばかりで見かけたという報告はありました。一応みんなふるいにかけてみなくちゃなりません」ここで他の二人に向かって彼はいった、「いったん誰かの人相書を配るとその途端にその男が全国至るところで誰かに見かけられるんですよ」
「その執事の人相書というのはどんなんです?」チャールズ卿がきいた。
ジョンソン大佐が一枚の紙をとり上げていった。
「ジョン・エリス、中背、約五フィート七インチ、多少猫背、頭髪は灰色、小さな頬髯あり、目の色は黒く、しゃがれ声、上の歯が一本欠けており、笑うと見える、特記すべき特徴その他なし」
「ふむ。頬髯と歯の他ははなはだ漠然としてますな。その髯だってもう今頃はそっちゃったでしょうし、笑うのなんかあてにしちゃいられませんしね」チャールズ卿がいった。
「困るのは」クロスフィールドがいった、「人相でもなんでもちゃんと見てる人がいないことですよ。あの修道院《アベイ》の女中たちから何か聞き出そうとずいぶん骨も折ったんですが、結局ひどく曖昧《あいまい》なことばかりです。そりゃ毎度のことですけれどね。いろんな人から人相書を集めてみると、同一人物なのにその男は背が高くて、痩せて、背が低くて、肥ってて、中背で、ずんぐりしてて、ほっそりしてるってなことになるんです──五十人に一人だってちゃんと目を使ってる人はいないもんですよ」
「警部さん、あなたご自身はエリスが犯人だと信じてるんですね?」
「でなかったらなぜあいつは逃げました? それを無視することはできないですよ」
「そいつが障害だなあ」チャールズ卿は考えこむようにいった。
クロスフィールドはジョンソン大佐の方を向くと、今講じている方策を報告した。大佐はうなずいてから、事件の夜|件《くだん》の修道院《アベイ》にいたもののリストを出すようにいった。リストは二人の新米調査官に渡された。それは以下のごとくである。
マーサ・レッキー(料理人)
ビアトリス・チャーチ(女中頭)
ドリス・コーカー(下働き)
ヴィクトリア・ボール(仲働き)
アリス・ウェスト(客間女中)
ヴァイオレット・バシントン(台所女中)
(以上はすべてここ数年故人に仕えていたもので、まじめな者ばかりであり、特にレッキーは十五年勤続である)
グラディス・リンドン(秘書)三十三歳
(三年間バーソロミュー卿の秘書を務めていたものであるが、犯罪の動機に関しては同人からは何らの情報も引き出し得ず)
客
イーデン卿夫妻…カドガン街一八七番地
ジョスリン・キャムベル卿夫妻…ハーレー街一、二五六番地
アンジェラ・サトクリフ嬢…カントレル館二八号S・W・三
デイカズ大尉夫妻…聖ジョン・ハウス三号W・一(デイカズ夫人はブルートン街にアンブロジーヌ商会を経営)
メアリ・リトン・ゴア夫人及びハマイオン嬢…ローズ・カテジ、ルーマス
ミューリエル・ウィルズ嬢…アパ・カスカートロード五番地、トゥーティング
オリヴァー・マンダーズ氏…スパイア・アンド・ロウ商会、オールドブロード街E・C・二
「ふうむ、トゥーティングの女史は新聞には出てなかったな。そうか、マンダーズ君はやっぱりいたのか」チャールズ卿はいった。
「たまたま事故があったからですよ」クロスフィールド警部が答えた、「その若い方《かた》はちょうどあの修道院《アベイ》のところで塀に車をぶつけたんです、それでバーソロミュー卿が──顔みしりだったんだそうですが──その晩泊まれといったんですよ」
「そそっかしいこったな」チャールズ卿は愉快そうにいった。
「そうなんですよ」警部がいった、「実際のところ、私の想像ですがその若い方は大分きこしめしてたんじゃないですか。もししらふだったとしたら何だってあんなとこへぶつけたもんですかね」
「いい機嫌だったんでしょうな、恐らく」
「一杯機嫌だったんですよ、私の考えじゃね」
「いやどうもいろいろとありがとうございました、警部さん。ところでジョンソン大佐、我々が修道院《アベイ》へちょっと行ってみちゃいけませんか?」
「もちろん結構ですとも。いずれ私が申し上げたこと位しかおわかりにならんとは思いますがね」
「誰かいるんでしょうか?」
「女中たちだけですよ」クロスフィールドがいった、「ハウス・パーティの連中は検屍がすんだらすぐ引き上げましたし、リンドンさんもハーレー街へ帰りましたからね」
「医者の、ええと──デイヴィス先生ですか、その方にもお目にかかれるでしょうな?」サタスウェイト氏が思いついていった。
「そりゃいいところに気づかれた」
医者の所番地を教えてもらうと、二人はジョンソン大佐に厚く好意を謝してそこを辞した。
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第三章
道を歩きながらチャールズ卿がいった。
「何かわかったかい、サタスウェイト?」
「君はどうなんだね」サタスウェイト氏は聞き返した。彼はなるたけ最後の時まで判断を下さないでおくのが好きなのだ。
チャールズ卿はそうではない、彼は語気を強めていった。
「かれらは間違ってるよ、サタスウェイト、全然間違ってる、かれらはその執事《しつじ》に固執《こしつ》してるんだ。執事が逐電《ちくでん》した──故に、その執事が犯人である。そりゃおかしいぜ、そうさ、それは合わないよ。もう一つの急死事件──僕の家で起きたあのことを度外視するわけにはいかんよ」
「君は相変わらずあの二つは関係がある、という意見なんだな?」
サタスウェイト氏はそう訊《たず》ねてはみたものの、自分も心中すでに肯定的な答をしていたのだった。
「君、あの二つは関係あるに|決まってる《ヽヽヽヽヽ》さ。どの点から見てもそうじゃないか……、共通点を考えてみなくちゃならんな、──両方共に出席していた人物とか──」
「そうさ、しかもそれはちょっと考えるほど簡単な事柄じゃなさそうだぜ。すでに共通点はたくさんあるさ、カートライト君、君の家のパーティにいた連中がみんなここのパーティにも出席してるってことに気がついているかい?」
「もちろん気がついてるさ、──しかしそのことからいかなる推論をひき出すことができるか、君はわかるか?」
「どういう意味だね、カートライト」
「わからんかな、君。君は偶然だと思うのかい? そうじゃないさ、作為なんだよ。なにゆえに最初の死の場面にいた人間がみんな二度目の場合にも出席していたのであるか? 偶然なのか? どういたしまして。計画されてたんだ──作為だよ──トリーの計画したことなのさ」
「ははあ! なるほどね、あり得ることだ……」
「確かなことだよ、サタスウェイト、君は僕ほどトリーをよく知らないからね。あいつは考えをいわない男だ、しかもおそろしく辛抱強い男だ。長年つき合ってきたが、かつて一度もトリーが早まった意見や判断を口にするのは聞いたことがないんだよ。そこでこう考えてみ給え、すなわち、バビントンは殺された──そうさ、殺されたんだ、僕はかくしもしないし婉曲《えんきょく》ないい方もしないよ──ある晩僕の家で殺された。トリーは、僕がそういう疑いを抱いたことをからかいはしたがあいつ自身じつはずっと疑いを抱いているとする。しかし誰にもそんな話はしない──あいつのやり方に反するからね。だが黙々として彼は心の中で一つのケースを作り上げている。何に基づいたものかはわからない。だが恐らく、ある特定の人物に対するものではあり得ない。あいつはあのパーティにいた人たちの中に犯人がいると信じた、そこでそれがどの人間であるか発見すべく計画をねった。まあ一種のテストを試みたんだな」
「他の客はどうなんだい、イーデン夫妻とかキャムベル夫妻とか?」
「カムフラージュさ。そうすれば見破られる可能性が少なくなるもの」
「その計画ってどういうものだと君は考えるんだね?」
チャールズ卿は肩をすくめた、──大げさな外国人的なジェスチュアだ。例の機密調査部の大立物、アリスタイド・デューヴァルになっているのである。左の足をびっこをひいて歩いている。
「わかるもんかい、魔法使いじゃあるまいし。見当もつかんよ。だがとにかく計画は存在したんだ……。それが失敗した、というのは、その犯人はトリーの思惑《おもわく》より一枚うわ手だったからさ……、その男が先手を打った……」
「その男?」
「もしくはその女。毒薬ってのは男性のみならず女性の武器としてもふさわしいやね、──よりふさわしいかもしれない」
サタスウェイト氏は何もいわない。チャールズがいった。
「どうだい、賛成できないかい? それとも、君は世論の側に立ってるのか?『執事が犯人である、殺《や》ったのは彼だ』」
「執事についてはどう説明するんだね?」
「僕はそいつのことはあまり考えてないんだ、僕の考えではやつは別に関係ないのさ……説明がつかないことはないがね」
「どういう風な?」
「そうさね、警察がまあ正しいとしよう──エリスなる男は常習犯で例えばギャングの一味と通じている。エリスは偽の証明書で執事の職についた、ところでトリーが殺された、エリスの立場はどうなる? ある男が殺される、その家には、警視庁に指紋が登録されていて警察によく知られているやつがいた。当然そいつは仰天《ぎょうてん》して逃げ出すこったろう」
「秘密の通路を通ってだね?」
「秘密の通路なんかくそくらえさ。なあに、見張りに立ってたとんまな警部殿が昼寝してる隙《すき》にうまいこと逃げたんだよ」
「なるほどその方がありそうなことだな」
「それで君、君の意見はどうなんだ?」
「僕かい? ああ、僕の意見は君と同じだよ。はじめっからそうさ。その執事はどうも注意をそらすための囮《おとり》らしいがずいぶんまずいね。僕はバーソロミュー卿とバビントン老人を殺したのは同一犯人だと信じるよ」
「ハウス・パーティの中の一人か?」
「ハウス・パーティの中の一人だ」
しばらく沈黙が続いたが、やがてサタスウェイト氏が何気ないように訊ねた。
「あの中の誰だと思うかね?」
「そりゃあ、サタスウェイト、僕にわかるもんか」
「そりゃあそうだね」サタスウェイト氏はおだやかにいった、「ただ君が何か思うところがあるかと思ってさ──もちろん科学的にとか論理的にとかいうことじゃない。ただほんの推測だよ」
「うん、ないね……」チャールズ卿はちょっと考えていたが、やがて突然いい出した、「ねえサタスウェイト、考え出すとその途端に、どの人物にしろそんなことは出来ないって気がしてくるぜ」
「君の説は正しいようだな」考えこむようにサタスウェイト氏はいった、「容疑者を集めるっていう説のことだがね、僕のいうのは。はっきり除外すべき人物がいることも考えに入れなくてはならないね。例えば君自身、この僕、それにバビントンの細君。マンダーズ青年もそうだ、あの男は関係ない」
「マンダーズもか?」
「そうさ、あの場面に彼が登場したのは偶然のことだもの。招待もされてなかったんだし、来る予定もなかったんだ。だから容疑者には含まれないよ」
「あの女の戯曲家もそうだね、アントニー・アスターさ」
「ちがうよ、彼女はいたんじゃないか。トゥーティングのミューリエル・ウィルズ女史だよ」
「そうかいたんだな、……あの女史の名前がウィルズだってことを忘れてた」
チャールズ卿は顔をしかめた。サタスウェイト氏は他人の心を読みとることにかけてはすぐれた才能をもっている。彼はこの役者の心によぎったものを精確に読みとった。相手が喋《しゃべ》り出した時、サタスウェイト氏はそうらねというように心の中で自分の背中を軽く叩いたのだった。
「なるほどサタスウェイト、君が正しいよ。トリーが招待したのはたしかに疑わしい人たちばかりだとは思えないね。だってなにしろメアリ夫人もエッグもいたんだもの。うん、恐らくあいつは最初の時の状況を再演してみたかったんだ……誰かを疑っていたんだが、確認するために他にも証人が欲しかったのじゃないか、そんなところだろうな……」
「そんなところだろう」サタスウェイト氏も同意した、「この段階じゃあ一般的なことしかいえないね。いいかい、リトン・ゴア母娘《おやこ》は除外、君と僕、それにバビントン夫人にオリヴァー・マンダーズも除外。残るのは誰だ? アンジェラ・サトクリフか?」
「アンジイだって? おいおい、彼女はトリーとは古い友だちなんだぜ」
「とすると結局残るのはデイカズ夫妻だ……ほんとうのところ、カートライト、君はデイカズ夫妻を疑ってるね。さっき聞いた時そう答えるべきだったんじゃないか」
チャールズ卿は相手の顔を見た。サタスウェイト氏はいささか勝ち誇ったような顔をしている。
「あるいは」カートライトはゆっくりといった、「そうかも知れない。疑ってはいないが少なくとも──他の人に較べると、どの人よりも可能性があるように見えるんだよ。まあ一つには僕があの人たちをよく知らないからだろうがね。しかしねえ、あの競馬、競馬であけくれているフレディ・デイカズにしろ、べらぼうに高い女の着物のデザインにあけくれてるシンシアにしろ、どうすれば、別に重要人物でもない愛すべき老牧師を片づけようという気になるのかね、どうしてもわからない……」
彼は頭をふった、が、やがてにこにこしだした。
「ウィルズ女史がいたっけ、また忘れてたよ。すぐ忘れさせるものがあの女史には何かあるのかね? あんな得体の知れない人間もないもんだぜ、初めてお目にかかったよ」
サタスウェイト氏はにやりとしていった。
「彼女はあのバーンズの有名な詩にある『若者がメモをとっている』を地でいってるんじゃあるまいかね。ウィルズ女史は年がら年中何かメモをとって暮らしてるんじゃないのかな。あの眼鏡の奥の二つの目玉は鋭いぜ。きっとこの事件についちゃ肝心《かんじん》なところはすべてウィルズ女史がちゃんともう気がついているんだと思うよ」
「そうかねえ」チャールズ卿は疑わしげにいった。
「さて次なる仕事は」サタスウェイト氏がいった、「昼飯を食うことだ。それから修道院《アベイ》へ行こう、あそこで何を発見できるか、ということだよ」
「この事件に君はばかにご執心のようだね、サタスウェイト」チャールズ卿は愉快そうに眼を輝かせていった。
「犯罪捜査はこれが初めてじゃないもの、いつか車が壊れちゃってある片田舎の宿屋に泊まっていた時に……」
彼に皆までいわせず、チャールズ卿が高く澄んだ役者の声でいった、「覚えてるよ、一九二一年に僕が旅行してた時だ……」
チャールズ卿の勝だった。
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第四章
その日の午後二人が訪れた時、九月の陽ざしを受けてメルフォード修道院《アベイ》の佇《たたずま》いは世にも平和であった。この修道院は大部分が十五世紀の建築である。それが修復され、新しい翼が一つ建て増されていた。新築のサナトリュウムはこの家から見えず別の敷地にある。
チャールズ卿とサタスウェイト氏を迎えたのは料理人のレッキーだった。でっぷり太ったこの女は、きちんと喪服《もふく》に身を包み、眼に涙を浮かべて喋りまくった。チャールズ卿のことは前から知っていたせいか、彼女が主に相手にして喋ったのは彼であった。
「私にとりましてはどんなに大変でしたことかあなた様はおわかり下さいましょうね。旦那様《だんなさま》がお亡くなりになったことや何やかやでございますよ。あっちもこっちもお巡《まわ》りだらけでそこいら中どこでも首を突っこんで調べて──まああなた、ごみためまで覗《のぞ》いてみなくちゃならないなんてどうでしょう。それからあの訊問! いくら訊問してもまだ足りないようなけんまくなんでございますよ。ああ、こんなことに会うために今まで生きてきたなんて──先生はいつでもほんとにおだやかな紳士でいらっしゃいましたのに。それにナイトの称号をお受けになって、それはもう私共奉公人一同にとっても誇らしい日でございました。ええ、ビアトリスも私もようく覚えております。ビアトリスはここへ参りましたのが私より二年後でございますけれどね。そうしてあの警察のやつの訊問ときたら──方《かた》などと呼ぶ気はございません、私、紳士の方はよく存じ上げてますし、ものの道理をわきまえておりますから──やつでございますよ、警部だか何だか存じませんですがね……」レッキーはひと息ついた、そしてすっかりこんぐらがらせてしまった話の糸口をやっと見つけ出すとまた続けた、「訊問、それでございますよ、女中たちみんなのことを訊くんですよ、それがみんないい娘《こ》たちばかりでしてね、どの娘もでございますよ──そりゃドリスは朝起きるべき時間にちゃんと起きるなどとは申しません、私は少なくとも週に一度は、それを注意しなくちゃならないのですよ。それにヴィッキーなぞは近頃少し出しゃばるようになりましてね、ですがまあ、近頃の若いものに躾《しつけ》など期待する方が無理でございますよ──、この頃の母親がちゃんと躾をしないんですものね、──ですがとにかくみんないい娘なんでございます、どんな警部だろうと私にそれ以外のことをいわせようってのは無理ですよ。私はいってやりましたよ『そうですとも、私があの娘たちの悪口などひとことでもいうと思ったら間違いですよ。いい娘たちばかりですとも、それを人殺しにちっとでも関係あるなぞと口にするだけでもけしからないじゃありませんか』とね」
レッキーはひと息ついてまたいった。
「エリスさんのことは、そうですねえ、あの人は違いますですよ。エリスさんのことは私は何にも存じませんのでね、あの人のことはよくも悪くもお答えできませんでしたよ。ベイカーさんのお留守の間ロンドンから寄こされたんですから、ここには馴染《なじみ》がありませんでしたのでね」
「ベイカーというのは?」サタスウェイト氏がきいた。
「ベイカーさんはここ七年ばかりずっとバーソロミュー卿の執事をしてた人でございますよ。たいがいロンドンにおりましてね、あのハーレー街に。あなた様お思い出しになりましたでしょう?」彼女がうったえるようにいうと、チャールズ卿はうなずいた。「バーソロミュー卿はパーティをなさる時はいつもあの人をここへ連れておいでになりました。ところがバーソロミュー卿のお話では近頃は身体の具合が悪かったんだそうでございますよ、それで旦那様は二か月のお休みをおあげになって、費用も出してブライトンの方の海に近いところへおやりになったんでございます、──ほんとに旦那様はおやさしい紳士《かた》でいらっしゃいましたよ──それでエリスさんをその間の臨時に連れておいでになったんですから、あの警部にもいいましたが、私にはエリスさんのことは何にも申し上げられないんでございます。まああの人が自分でいってたことからすると大そう上流の方々のところにいたようでございますがねえ。それにたしかに態度などは紳士らしいところがございましたですよ」
「何かその男には、そのう──変ったところは見受けられなかったですか?」チャールズ卿が期待するようにたずねた。
「そうでございますね、そうおっしゃられると困るんでございますよ、と申しますのは、見受けられたとも、られなかったともいえますのでね、私のいう意味がおわかりになればですが」
チャールズ卿ははげますように相手を見た。レッキーはいった。
「それがどういうところとはっきりはいえないんでございますが、でも|何か《ヽヽ》がございましたんです──」
いつもあるんだ──事件の後にはね──とサタスウェイト氏は心ひそかに思った。レッキーは警察をどれほど侮《あなど》っているにしろ、水を向けられれば案外他愛ないのだ。もしエリスが犯人だということになれば、そうだ、レッキーはきっと|何か《ヽヽ》に気づいていたということだろう。
「第一あの人はうちとけたところがないんですよ。ええそれはもう礼儀正しくてたしかに紳士でございましたよ。さっきも申しましたように上流家庭に慣れておりましたんですからね。ですがあの人は自分の殻に閉じこもってるというんですかね、たいがい自分の部屋にばかりおりました。そしてあの人は──そうですねえ、何と申し上げたらいいんでございましょうねえ、たしかにあの人は──そのう|何か《ヽヽ》ございましたんですよ……」
「その人はほんとは執事じゃないらしい──とは考えてみませんでしたか?」サタスウェイト氏はそう訊いてみた。
「あら、あの人はずっと執事だったんでございますよ、たしかに、いろいろな事を心得ておりましたし、それに社交界の有名な方々のこともよく知っておりましたんですから」
「例えば?」チャールズ卿がおだやかにうながした。
ところがレッキーははっきりしたことはいわずはなはだ曖昧な態度になった。使用人部屋での噂話を持ち出す気はないらしいのである。そんなことは彼女のセンスに反することであるらしい。そのレッキーの気持ちをほぐすようにサタスウェイト氏がきいた。
「その男の人相はきかせてもらえますね?」
レッキーは元気づいて答えた。
「はいはい。あの人はたいそう上品にみえる人でございました、頬髯《ほおひげ》を生《は》やして銀髪でちょっと猫背で、それから近頃肥り始めたようでそれを気にしておりました、とても。それからあの人は手が少し震えるんでございますよ、いいえご想像なさるような原因じゃございません、とても節度のある人でございますからね、私の知ってる人たちとは違いましてね。それから眼が弱いんですねえ、光線に弱いらしくて──特にまぶしい光にあうとひどく涙が出るらしくて、私共といっしょの時はいつも眼鏡をかけておりました、でも仕事の時ははずしておりましたが」
「何か特別目立つ特徴は? 傷痕とか、指がないとか?」チャールズ卿がきいた。
「いえいえ、そのようなものは何にも」
「現実は探偵小説とは大違いだねえ、小説なら必ず何か著しい特徴があるんだがなあ」チャールズ卿が溜息まじりにいった。
「歯が一本欠けてたんですね」サタスウェイト氏がいった。
「そうらしゅうございます、私がこの目で見たわけではございませんが」
「あの悲劇のあった夜、その男はどんな様子でしたかね?」
「さようですねえ、ちょっとわかり兼ねます。台所の方が忙がしゅうございましたから、とても他のことに気をとられてる暇はございませんでしたのでね」
「なるほどなるほど」
「旦那様がお亡くなりになったと聞いた時には私どもびっくりしてへなへなとなってしまいました。私はおいおい泣いてどうしてもやめられませんでした、ビアトリスもそうでございましたよ。若い娘たちはもちろんすっかり興奮して取り乱しておりました。エリスさんは新参でしたからもちろん私どもほど取乱したりはしませんでしたが、とても思いやりのあるところを見せましたよ、そしてビアトリスと私にはショックが少しでも直るから葡萄酒《ぶどうしゅ》を一杯飲めといってききませんでした。それがあの男だと思うと──あの悪党が……」
レッキーは言葉が続かなかった、目が憤《いきどお》りに燃えている。
「その男はその晩いなくなったというんだね?」
「さようでございます。私共と同様自分の部屋へ引き退りましたのです、そして朝になってみましたらいなかったんでございますよ。それで警察があの人を探し始めたわけでございます」
「なるほどなるほど、全くばかなことをしたもんだ。で、どうやってこの家から逃げ出したかわかりますか?」
「全然わかりませんでございます。警察がひと晩中この家を見張っていたらしゅうございますが、あの人が出て行くのは絶対に見てないのです──ですが、まあそこが警察も人間ですからねえ、他人《ひと》の家へのりこんでそこいら中嗅ぎ回ったりして威張《いば》っていたくせにね」
「なにやら秘密の通路があったとか聞いていますがね」チャールズ卿がいった。
レッキーはふんといった調子でいった。
「警察のいうことですからね」
「そういうものがあるんですか?」
「そんな話をしているのは聞いたことがございますが」レッキーは用心深く考えながら肯定した。
「その口がどこにあるか知ってますか?」
「いいえ存じませんでございます。秘密の通路なぞというものは大そう結構なものでございますが、女中部屋ではあまり感心しない代物《しろもの》でございますのでね。そんなものがありますと女中たちによくない気を起こさせます。そこから脱け出すことを考えないとも限りません。ここの女中たちは裏口から外出して裏口から帰ります。ですから私どもはみんな誰がどこにいるかちゃんとわかりますのです」
「大したもんですな、レッキーさん、あなたは頭のいい人だ」
レッキーはチャールズ卿の賞讃につんと威張ってみせた。チャールズ卿は続けた。
「どうでしょう、他の女中さんたちにもちょっとだけ訊いてみたいんですがね」
「もちろん結構でございますよ。ですけれど私がお話しいたしましたこと以外はあの娘《こ》たちも何もお話しできませんですよ」
「ああ、そりゃそうでしょう。私はエリスのことよりもバーソロミュー卿自身のことが問題でね──あの晩の彼の様子やなんかをね。知っての通り彼は私の友だちなんだから」
「そうでございますね、よくわかりますでございます。ビアトリスもおりますし、アリスもおります、あの娘《こ》はテーブルでお給仕をつとめていたんでございますから」
「そうそう、アリスに会わせてもらいたいな」
ところがレッキーは年の順を重んじていたので、まず現われたのは女中頭のビアトリス・チャーチだった。
彼女は口をとんがらせた背の高いやせぎすの女で、圧倒的な品がある感じだった。
二、三さりげない質問をしてからチャールズ卿はあの運命の日の客たちの行動に話題を移していった。彼らはみんなひどく取り乱していたか? どんな話をしてたか? あるいは何をしたか? ビアトリスの態度が生き生きしてきた。悲劇に対するよくある残忍な興味を彼女ももっているのだ。
「サトクリフさんですか、あの方はすっかり打ちひしがれておいででした。以前にもここへお泊まりになっていらしたことがあるんですけど、とてもお心のやさしい方ですわ。私がブランディーをひと口か、それともおいしいお茶でもおもちしましょうかと申し上げてみたんですけれど、耳もおかしにならず、眠れそうもないからとおっしゃってアスピリンをおのみになりました。でも次の朝、朝のお茶をもって参りましたら、赤ちゃんのようにすやすやおやすみでしたわ」
「じゃあデイカズ夫人?」
「あの方は何が起こったってあわてるような方じゃございませんですね」この口調ではビアトリスはシンシア・デイカズを好かないらしい。「ただもう早く帰りたがっておいででした。仕事に影響するとおっしゃるのです。エリスさんから聞いたんですが、あの方はロンドンで有名な婦人服店をなさってるそうですね」
ビアトリスにとっては大きな婦人服店すなわち商売であり、商売は彼女の軽蔑《けいべつ》するところだったのだ。
「で、そのご主人の方は?」
ビアトリスはふんとばかにした調子で、
「ブランディーで気をおちつけておりましたっけ。いえ、かえってふらふらになったという方がいいかもしれません」
「メアリ・リトン・ゴア夫人はどうだったね?」
「とても立派な奥様でいらっしゃいます」ビアトリスの口調がおだやかになった、「私の大伯母がお城で、あの方のお父様にご奉公していたんでございます、とてもお綺麗《きれい》なお嬢様だったといつも聞かされておりました。お金持ちではないかもしれませんけれど、でも誰でも見ればすぐ、あの方はただの人じゃないとおわかりになりますわ。それにとても思いやりがおありで、ひとを困らせるようなことは決してなさいませんし、それは楽しそうにお話しなさいます。あの方のお嬢様もやっぱりいい方でいらっしゃいます。お二人とももちろんバーソロミュー卿とはそれほどお親しくないのにとても悲しんでおいででした」
「ウィルズさんは?」
ビアトリスのぎこちないところがまた現われてきた。
「ウィルズさんがどうお考えだったかなんて、とてもわかりませんでございます」
「じゃあ君はその人をどう思ったんだね? さあ、ビアトリス、きかせてくれよね」
ビアトリスのかたい頬が思いがけずほころんだ。チャールズ卿の態度にはまるで小学生のようなうったえるものがあったのだ。彼女とても、夜毎の観客を魅了したこのチャールズ卿の魔力には勝てなかったのである。
「ほんとうでございます、何をいえとおっしゃるのか私にはわかりません」
「ウィルズ女史についてただ君がどう思ったかとか、どう感じたかとかだけいえばいいんだよ」
「何にも、全然でございます、そりゃもちろんあの方は……」
ビアトリスはためらった。
「うん、それで? ビアトリス」
「はい、あの方は他の方々と違って上流の方ではございません、致し方ないんでしょうけれど」ビアトリスはとりなすようにいった、「とにかくあの方はほんとうの貴夫人なら決してしないようなことをいろいろなさったんでございます。せんさくなさるのです、つまりあっちこっちつつきまわって歩くのです」
チャールズ卿はこの陳述をもっと詳《くわ》しくきこうとやっきになったが結局、ビアトリスは曖昧なことしかいえなかった。ウィルズ女史はあれこれせんさくしたというが、例えばどんなことをやったのか、と聞かれると、ビアトリスには例を挙げることはできないようだった。彼女はただ、ウィルズさんは自分に関係のないことをあれこれせんさくしていた、と繰り返すのみなのだ。
二人は遂にそのことはあきらめてしまった。そしてサタスウェイト氏がきいた。
「マンダーズという青年は思いがけなく来たんだったね?」
「そうでございます。あの方は車の事故で──ちょうど門番の家の門のそばだったんでございます。ちょうどここだったのは不幸中の幸いだったとおっしゃっていました。もちろんお客様で一杯だったのですが、リンドンさんが小さいお書斎にベッドを用意するようにおっしゃったんでございますわ」
「彼を見てみんなびっくりしていたかね?」
「ええそれはもう、もちろんでございます」
エリスのことに及ぶと、ビアトリスはまたはっきりしなくなった。自分はあの人とはほとんど顔を合わせたことがない。急に逃げ出したところを見ると悪者らしいが、しかしなんだって旦那様に手をかける気になったのか、皆目《かいもく》わからない、誰だってわかりませんわ、というのだ。
「彼はどんな風だったね? 彼というのはバーソロミュー卿のことだが……。ハウス・パーティを待ち望んでるようだったかね? 何か気がかりなことでもあるようだったかね?」
「旦那様は特別うれしそうにしていらっしゃいました。まるで何か冗談でも企《たくら》んでらっしゃるみたいにひとりでにやにやなさったりして……。エリスさんに冗談をおっしゃってることさえありました。ベイカーさんには決してなさらなかったことですわ。旦那様はいつもは使用人には不愛想《ぶあいそう》な方《ほう》でいらしたんです、もちろんいつだっておやさしい方ですけれど、でもほとんど話しかけたりはなさらない方だったんです」
「なんていったの?」サタスウェイト氏が膝《ひざ》をのり出してきいた。
「はい、もうはっきり覚えておりませんが、なんでもエリスさんが電話の伝言をもってきたのです。そうしましたらバーソロミュー卿が名前を正確にきいたかとお尋《たず》ねになりました、エリスさんは確かですといいました──もちろんていねいにいいました。そうしたら旦那様はお笑いになっておっしゃったのです『君は大したやつだよ、エリス、第一級の執事だ。なあビアトリス、お前はどう思う?』私はもう旦那様がそんな風におっしゃるなんてすっかりびっくりしてしまって、──いつもの旦那様とはまるで違うので──なんてお返事してよいかわかりませんでした」
「それでエリスの方は?」
「あの人は少し不服そうな顔をしていましたわ、そんなこと今までなかったとでもいうような。何だかぎこちなくしていました」
「その電話の用件は何だったのかね?」チャールズ卿がきいた。
「電話の用件でございますか? ああそれはサナトリュウムからでした、ちょうどサナトリュウムへ着いた患者さんのことで、旅行の間も無事だったということでした」
「君はその名前を覚えてるかね?」
「とても変った名前でございましたわ」ビアトリスは少し考えてからいった「ド・ラッシュブリジャーさん──とかいうような名前です」
「ああそう、電話じゃききとりにくい名前だね。いやどうもありがとう、ビアトリス。今度はアリスに会いたいんだがね」チャールズ卿がいたわるようにいった。
ビアトリスが引き退がると二人は顔を見合わせて所感を述べ合った。
「ウィルズ女史はせんさくして歩き、デイカズ大尉は酔っ払った、デイカズ夫人は何の感情も示さなかった、とね、これで何かわかるかい?役に立ちそうなことはまるでないぜ」
「全くだ、何もない」サタスウェイト氏も同意した。
「あとはアリスに期待するんだな」
アリスは三十歳、黒目がちの真面目《まじめ》そうな女で、ためらうことなく喜んで話し出した。
自分としてはエリスさんが少しでもあの事件に関係があるとは信じられない。あの人はそれは立派な紳士だった。警察はよくあるただの詐欺師《さぎし》だろうといったが、自分はあの人は決してそういうような人じゃないと思う、というのである。
「君はその男が、当たり前の正直この上ない執事だと確信するんだね?」チャールズ卿がきいた。
「当たり前ではございません。あの人はこれまで私がいっしょに働いてきたどの執事とも違っておりました。あの人は仕事のやり方が違うのです」
「しかし君はその男がご主人を毒殺したとは思わないんだろう?」
「あらそれは、そんなことができる筈がないんでございます。私はあの人といっしょにお給仕していたんですから、あの人が旦那様のお皿に何か入れたりすれば必ず私にわかるのですもの」
「じゃ飲みものの方は?」
「あの人はお酒のお盆をもって回りました。最初にスープといっしょにまずシェリーで、それから白と赤の葡萄酒《ぶどうしゅ》でした。でもあの人にそんなことが出来ますでしょうか? もしお酒の中に何か入れたらどの人も──飲んだ人ならみんな──殺すことになりますわ。旦那様だけ他の人が飲まないものを召し上がったとは思えません。ポートワインも同じことでございます。男の方はみんな召し上がりましたし、ご婦人方の中にも召し上がった方がいらっしゃるんですから」
「そのワイングラスは一つの盆にのせてさげられたんだね?」
「そうでございます。私がお盆を持っていて、エリスさんがその上にグラスをのせてくれました。私はそれを食器室へもって行ったんですが、警察がそれを調べに来た時もそのままそこにありました。テーブルの上に置いたままになっていて、警察が調べても何にも変なものはなかったのです」
「バーソロミュー卿はその食事で他の人が口にしなかったものは何ひとつ食べも飲みもしなかった、と断言するんだね?」
「そんなことは見かけなかったんでございます。事実、旦那様がそんなことはなさらなかったのは確かですわ」
「客の中の誰かがご主人に何かあげたりは──」
「そんなことはございません」
「秘密の通路のことは何か知っているかね、アリス?」
「園丁の一人からそんなことを聞いたことがございます。なんでも森の中へ通じていて、その出口のところは古い城壁みたいなものがくずれているとか。でも私はこのお家の中のその入口はまだ見たことがございません」
「エリスはそのことについては何も口にしたことはなかったの?」
「はい、あの人はそんなことは全然知らなかったと思います、きっとそうですわ」
「君はご主人を殺したのはほんとに誰だと思ってるの、アリス?」
「わかりませんでございます、誰のこともそんなことしたなんてとても信じられませんわ……私は何か事故のようなものに違いないという気がいたします」
「ふうむ。いや、ありがとう、アリス」
その女中が出て行ってしまうと、チャールズ卿はいった。
「もしバビントンの死ってことさえなけりゃ、我々は彼女を犯人とみなすことも出来るよ、あの女は器量よしだ。それにお給仕もしてたんだからな……いや、そんなはずはないか……、バビントンも殺されてるんだ、それにいずれにしろトリーは器量よしの女の子だからって目もくれたこともないんだからなあ。あの男はそんな風にはできちゃいない」
「だが彼は五十五だったろう」サタスウェイト氏が考えこむようにいった。
「なんでそんなこというんだい?」
「男が若い娘に夢中になる年齢だからだよ──たとえ今までそんなことのなかった男でもだ」
「ばかな、サタスウェイト、おれだって──もうじき五十五なんだぜ」
「そうさ」
サタスウェイト氏がそういっておだやかな眼をきらきらさせて見つめると、チャールズ卿は眼を伏せた。
彼が頬を赫《あか》らめているのは一目瞭然《いちもくりょうぜん》だった……。
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第五章
「エリスの部屋を調べてみるのはどうだね?」チャールズ卿の赤面した有様を十二分に楽しんだサタスウェイト氏がいった。
相手の役者はその方向転換にすぐさまとびついた。
「結構、結構、ちょうど僕もそういおうとしたところだよ」
「もちろん警察がきれいに捜査した後だろうがね」
「警察か……」
アリスタイド・デューヴァルはさもばかにしたように警察を一笑に付した。ついいましがたの慌《あわ》てぶりを忘れようと懸命になった彼は、新たな活力をみなぎらせてその役にとびついたのだ。
「警察のやつらなんてでくのぼうばかりさ。やつらはエリスの部屋で何を探したんだ? 彼の有罪の証拠かい? 僕たちは彼の無罪の証拠を探すんだからねえ──全く相反する話さ」
「君はエリスの無罪を完全に信じているんだね?」
「バビントン事件に対する推理が正しいとすれば、やつは無罪でなくてはならんよ」
「そうだ、それに……」
サタスウェイト氏はいいかけて口をつぐんだ。彼はすんでのことに、もしエリスが前科者でそれをバーソロミュー卿に見破られたがために彼を殺した、というのだとすると、この事件はおよそ陳腐なものになるといおうとしたのだ。危ういところで彼はバーソロミュー卿がチャールズ・カートライトの友人であったことに気づき、もう少しでずいぶん冷淡な口をきくところだったと思うと慄然《りつぜん》としたのだった。
エリスの部屋は一見しただけでは、新たな発見はあまり期待できそうになかった。ひきだしの中の衣類も、戸棚にかかっている衣服もすべてきちんとなっていた。それらの衣類は仕立てもよく、それぞれ違った洋服屋のマークがついていた。それぞれ違う勤め先で貰ったお古に違いない。下着類も同じようなことであった。靴はきれいに磨《みが》かれ、木型をはめてあった。
サタスウェイト氏は靴を片方とり上げてつぶやいた、「九インチか、ちょうど九インチだ」だがこの事件では足跡があるのではなし、これが何かの鍵になるとも思えなかった。
エリスが執事の服装で脱け出したことは、それが見当たらないことから推して明らかと思われた。それでサタスウェイト氏はチャールズ卿に向かって、これはかなり重視すべき点だと指摘した。
「当たり前の男なら誰だって普通の背広に着替えるところだがね」
「そうだ、変だよ……そんな筈はないんだが、まるで外へは一歩も出てないように見えるじゃないか……そんな筈はないんだがね、もちろん」
二人は捜査を続けた。手紙も書類も一切なく、あったのは|うおのめ《ヽヽヽヽ》の治療法に関する新聞の切りぬきと、ある公爵令嬢《こうしゃくれいじょう》が近々結婚するという新聞記事の切りぬきだけだった。サイド・テーブルの上には小さい吸取帳とインクの小瓶《こびん》があった。ペンはない。チャールズ卿は吸取帳を鏡に写してみたが、何の結果も得られなかった。その中の一枚はさんざん使われてあって、ごちゃごちゃと無意味な字で埋まり、しかも二人が見たところインクの跡は古かった。
「この男はここへ来てから全然手紙も書かなければ、従って吸取紙も使用しなかったわけだ」サタスウェイト氏が推論した、「これは古い吸取紙だよ。ほら、そうだよ──」彼は、そのごちゃごちゃの字の中にかろうじて『L・ベイカー』と判読できるところを幾らか得意げに指し示した。
「エリスはこれをまったく使用しなかったといえるね」
「少し変だよ、そうじゃないか?」チャールズ卿がゆっくりといった。
「どういう意味だね?」
「いいかい、誰でも普通手紙ぐらい書くもんだ……」
「犯罪者なら書かないさ」
「そうだ、君のいう通りかも知れん……あんな風に逃げ出すからには何かやましい点があったには違いないからね。とにかく僕たちの主張はそいつがトリーを殺したのではないということなんだから」
二人は絨毯《じゅうたん》をめくり、ベッドの下まで覗《のぞ》いて床を調べてみたが、暖炉の脇にインクのしみがあっただけで、何も発見できなかった。この部屋は全くがっかりするほど何もなかったのだ。
二人は何やらわり切れない気持でその部屋を出た。探偵としてはり切っていた彼らは一時意気|阻喪《そそう》した。小説では物事はもっとうまくできているのに、という考えがそれぞれの心をかすめたことであろう。
二人の他の女中たち、つまりレッキーとビアトリスに頭をおさえられておどおどしている若い女中たちとも少し話をしてみたものの、目新しいことは何も聞き出せなかった。
遂に二人はその家を辞した。
「それでサタスウェイト」広い庭を横切りながらチャールズ卿はいった(サタスウェイト氏の車は門番小屋のところで二人を待っているようにあらかじめいわれていた)「何か感じたことでもあるかい──何か少しでも?」
サタスウェイト氏は考えこんだ。彼は慌てて返事をしたくなかった、殊に今は何か感じなくてはならないという気がするからである。こうしてわざわざやって来たことがすべて時間の浪費に過ぎなかったなどと白状するのも癪《しゃく》だった。彼は心の中で女中たちの証言を一つ一つとり除けていった──資料はあまりにも乏しかった。
チャールズ卿がさっき要約したごとく、ウィルズ女史はせんさくし、サトクリフ嬢はひどく取り乱し、デイカズ夫人は全く取り乱さず、デイカズ大尉は酔っ払っていた、ということだが、これでは全く何もない。ただフレディ・デイカズの泥酔の事実はやましい気持を紛らわすための行動ともとれるが、しかし彼が泥酔するのは珍しいことではないのだ。それはサタスウェイト氏も知っている。
「どうなんだい?」チャールズ卿がじれったそうにうながした。
「何にもないんだ」サタスウェイト氏がしぶしぶ白状した、「ただ──まああの切り抜きから判断してエリスが|うおのめ《ヽヽヽヽ》に悩んでいたってことがわかった。我々にいえるのはその位だ」
チャールズ卿は苦笑した。
「それはまことにもっともな推論のようだ。それが──何かの手がかりになるかねえ?」
サタスウェイト氏はならないと白状した。そして「ただもう一つ……」といいかけてやめてしまった。
「うん、何だい、先をいえよ。どんなことが役に立つともわからんから」
「バーソロミュー卿が執事をからかったというのが少し奇妙だと思うんだ。あの女中の話は君も聞いてたろう。彼らしくないよ」
「彼らしくないことだ」チャールズ卿は語気を強めていった、「僕はトリーをよく知ってる──君よりよく知ってる──あの男はひょうきんなところのないやつだったといってもいい。何かわけがあってその時少し頭がどうかしていたのででもなけりゃ──あいつは決してそんな話し方はしない男だ。君のいう通りだよサタスウェイト、そこが大事なところだ。それで、どういうことになるかな?」
「それでだね」サタスウェイト氏はいいかけたが、チャールズ卿の今の質問が言葉のあやに過ぎないことは明らかだった。チャールズ卿はサタスウェイト氏の意見を聞きたいわけではなく、自分の見解を表明したくてうずうずしているのだ。
「サタスウェイト、君は、それがいつのことだか覚えてるね?『エリスが電話の伝言を彼に伝えた直後』だ。トリーがいつになく突然はしゃぎだした原因がその電話の内容にある、とする推論は正当なものだと思うよ。僕があの女中にどんな伝言だったかと聞いたのを覚えてるね?」
サタスウェイト氏はうなずいた、「ド・ラッシュブリジャー夫人という女がサナトリュウムに着いた、というのだった」自分だってその点にちゃんと注意を払っていたんだぞ、ということを示すために彼はそういった、「格別興奮するようなことでもなさそうだが」
「たしかにそうだ。だがね、もし我々の推測が当たってるとすれば、その伝言に何か重要な意味がかくされてるに違いないよ」
「そう──だね」サタスウェイト氏は疑わしげにいった。
「疑う余地はないさ。その重要な意味がなんであるか究明しなくてはならない。一種の暗号かも知れんという気もする──当り前のなんでもないことに見せかけてその実全く違ったことを意味してるんだよ。もしトリーがバビントンの急死のことを調査してたとすれば、これは何かそれに関係のあることだったかも知れない。一つの事実を究明するために私立探偵を雇ったといってもいいだろう。彼はその探偵に、万が一その推測が間違いでないことがわかったら電話するように、そしてその時には、電話をとり次いだ人に本当の意味が全然知られないですむようなこの文句《ヽヽ》を使うように、といってあったんだよ。これはあいつがはしゃいでたことの説明になるよ。エリスに、名前は確かかと訊ねたことの説明にもなる──彼自身は本当はそんな人物はどこにも存在しないことは百も承知してるくせにさ。実際、とても容易じゃないと思われる企《くわだ》てが見事成功した時なんてものは、人間多少は心の均衡を失うもんさ」
「ド・ラッシュブリジャー夫人という人間は存在しないというのか?」
「うん、確実なところ調べてみなくちゃね」
「どうやって?」
「今すぐサナトリュウムまで行って婦長に訊いてもいい」
「ずいぶん変だと思われるぜ」
チャールズ卿は笑っていった。
「まあまかしておき給え」
二人は車道をそれてサナトリュウムの方へ向かった。サタスウェイト氏がきいた。
「カートライト、君の方はどうなんだい? 何か少しでも気がついことはあるのか? さっきあの家を訪問した結果さ」
チャールズ卿はゆっくりした調子で答えた。
「うん、何かあったんだ──困ったことにそれが何だか思い出せないんだよ」
サタスウェイト氏は驚いて相手の顔を見た。チャールズ卿は顔をしかめた。
「どう説明すればいいかなあ? 何かあったんだよ──何かその時おかしいぞ、こんなことってあるかな、と思ったことがあるんだ。ただその時はそれを考えてる暇がなかったから心の中でわきへのけておいたんだが」
「それで君は今思い出せないんだね?」
「だめなんだ──とにかくどの時だったか『こりゃおかしいぞ』と思ったんだがね」
「それは女中たちに訊いてる時だったかい? どの女中だね?」
「思い出せないといってるじゃないか。考えれば考えるほどわからなくなるんだよ……ほっといたらかえって思い出すかも知れないな」
二人はサナトリュウムの見えるところへ来た。それは白い大きな近代的な建物で柵がめぐらされていた。門があって二人はそこからはいると正面のドアのベルを鳴らし、婦長に面会を乞うた。
やがて出てきた婦長は背の高い中年の婦人で、知的な顔をしていてなかなか有能そうだった。チャールズ卿のことは、亡くなったバーソロミュー・ストレンジ卿の友人として名前だけははっきりと知っていた。
チャールズ卿は、外国から帰ったばかりであること、友人の死、しかもそれについて恐ろしい疑惑がもたれていることを聞いて驚愕《きょうがく》したこと、また、できるだけ詳しい話を聞きたいと思って邸宅の方へ行って来たところであること、などを説明した。婦長はバーソロミュー卿の死が自分たちにとってどれだけ大きな損失であるかとか、医者としてどんなに輝かしい業績があったかなどを感動させるような調子で語った。チャールズ卿はサナトリュウムがどういうことになるのかそれをぜひとも知りたいのだがといった。婦長はバーソロミュー卿には協力者が二人居て、二人共有能な医者であり、かつその中の一人はサナトリュウムの中に住んでいるのだ、と答えた。
「バーソロミューはこのサナトリュウムをずいぶん自慢にしてましたからねえ」チャールズ卿はいった。
「はい。先生の治療は大変な成功でございました」
「大部分が神経病でしたね?」
「さようでございます」
「それで思い出したが──モンテカルロで会った男で、たしかここに親戚かなんかが来ることになってる、というのがいましたよ。名前を忘れてしまったが──変った名前だったなあ、ラッシュブリジャー、ラッシュ・ブリガー、なんでもそんな名前と思ったが」
「ド・ラッシュブリジャーさんですか?」
「そうそう、その人はもう来てますか?」
「はあいらしております。ですけれど、お会いにはなれないんでございますよ──ここしばらくの間は。大変厳格な安静療法をとっておりますので」婦長は心なしかずるそうに笑っていった、「手紙も、面会者も謝絶で……」
「いやね、それほど重いわけではないんでしょう?」
「わりに強度の神経衰弱で──記憶喪失で極度の神経疲労なんでございます。いいえ、そのうちには私共の力でよくおなりになりますわ」婦長は慰めるように微笑んでみせた。
「ええと、たしかトリーが、いやバーソロミュー卿がその婦人の話をしてたことがあったなあ。患者であると同時に彼の友だちでもあったんでしょう? 違いますか?」
「そうではなかったと思いますが、チャールズ卿。少なくとも先生はそうはおっしゃっていらっしゃいませんでしたわ。あの患者さんは最近西インド諸島からいらしたばかりで──それがとてもおかしゅうございました。女中たちには覚えにくい名前らしくて──こちらの客間女中なんですが少し足りない娘《こ》なものですから。その娘がやってきまして、『|西インド夫人《ウエスト・インディアふじん》がお着きになりました』と申しましたのです。もちろん、ラッシュブリジャーというのが|西インド《ウエスト・インディア》というように聞えるんでございましょうね──ですけれど、あの患者さんがちょうど西インド諸島からいらしたばかりというのは偶然の一致でしたわ」
「なるほど──それはおもしろい。ご主人もこちらへ来てるんですね?」
「ご主人はまだあちらにいらっしゃるのです」
「ああ、なるほどなるほど。誰か他の人と混同したらしい。その人の症状にはバーソロミュー卿が特に興味を持ってたんじゃありませんか?」
「記憶喪失症というのは別に珍らしくはないのです。ですけれど、どの場合でもお医者様には興味のある対象なんでございますね、人によって差がありますから。同じ症状というのはまずございません」
「私には何もかもずいぶん妙に思われるんだが。いや、婦長さん、ありがとうございました。お話がうかがえてありがたかったです。トリーがあなたのことをほめていたのを私は知ってますよ。あいつはよくあなたの話をしていましたからね」チャールズ卿は最後にそんな嘘《うそ》っぱちをいった。
「まあ、それは嬉しゅうございますわ」婦長は頬を染めてちょっと得意そうになった、「ほんとに立派なお方でしたわ──私どもにとってどんなに大きな損失でしたでしょう。みんな完全にショックを受けました、いいえ、茫然自失したという方が当たっておりますわ。殺人だなんて! いったい誰がストレンジ先生を殺す気になったんでしょうって私いったんでございますよ。信じられません。恐ろしい執事ですわ、警察が早く捕まえるといいのですが。それに動機も何もわからないのですからね」
チャールズ卿は愁《うれ》い顔で首をふった。そして二人はそこを辞して、車を待たせてある方へぐるっと道を回って行った。
婦長とのインタヴューの間中沈黙を強いられていたサタスウェイト氏は、その埋め合わせとばかりに、オリヴァー・マンダーズの事故現場に対して活発な興味を示し、血のめぐりの悪い中年の門番に質問の矢を浴びせかけた。
はあここですよ、その塀《へい》のこわれてるところで。若い男の方《かた》がオートバイに乗ってたんでさ、いやぶつかった時見てたわけじゃない、音が聞こえたんで出て見たんですよ。その若い人はそこに立ってた、ちょうどそのそちらの方《かた》が今立ってるところでさあ。怪我《けが》はしてないようだった。ただそのバイクを残念そうに見てたです。実際めちゃくちゃだったからね。それからここはどこだと訊いて、バーソロミュー・ストレンジ卿の家とわかると『せめてもの幸いだ』といってお屋敷の方へ行ったですよ。ずいぶんおとなしそうな若い方に見えたね、くたびれてたようだった。どうしてそんな事故を起こしたものかわしはわからないが、時々物事はうまくいかないことがあるからね。というのが門番の答えだった。
「奇妙な事故だ」サタスウェイト氏が何か考えるようにいった。彼はその広いまっすぐな道を見わたした。曲ってもいないし危険な四つ辻もない、オートバイに乗っていて急に方向を転じて十フィートの塀にぶつかるような要因は何も見当たらない。そうだ、奇妙な事故なのだ。
「何を考えてる、サタスウェイト」チャールズ卿が興味あり気に訊ねた。
「何にも。なにも考えちゃいない」
「奇妙だな、たしかに」チャールズ卿はそういうと、彼もまた、その事故のあった場所をさっぱりわからんという風にじっと見つめた。
二人は車に乗ってその場を立ち去った。
サタスウェイト氏は頭の中で忙しく思いめぐらしていた。ド・ラッシュブリジャー夫人──カートライトの理論はうまくいきそうもない、暗号文ではなかったのだ、そういう人は実在したのだ。だが、その女性自身には何かあると考えられないだろうか? もしかしたら彼女は証人というようなものであるかもしれぬ、それとも単に彼女が興味ある症状だったためにバーソロミュー・ストレンジがいつになく嬉しそうな様子を見せたというだけのことなのか? それとも恐らくは彼女は魅力的な女性だったのではなかろうか? 五十五歳で恋に落ちたということが(サタスウェイト氏はその例を沢山知っている)一人の人間の性質を完全に変えたのだ。恐らくそのために彼はおどけたりするようになったのだろう、以前はそんなとき超然としていたのに──
チャールズ卿がのり出して話しかけたので、サタスウェイト氏の考えは中断された。
「サタスウェイト、引き返してもいいかね?」
返事も待たずにチャールズ卿は送話管をとり上げて指示を与えた。車は速度を落とし、やがて停まった。そして運転手は適当な小径で方向転換をした。一、二分の後、彼らの車は反対の方向へすべるように走っていた。
「どうしたんだね?」
「さっき変だと思ったことが何だかわかったんだよ」チャールズ卿はいった、「執事の部屋の床にあったインクの|しみ《ヽヽ》だった」
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第六章
サタスウェイト氏はあっけにとられて友人の顔を見つめた。
「あのインクの|しみ《ヽヽ》だって? どういう意味だね、カートライト?」
「あれを覚えているだろう?」
「インクの|しみ《ヽヽ》があったことは覚えてるよ、うん」
「場所は覚えているかな?」
「そうだなあ──あんまりはっきりとは覚えてないな」
「暖炉のそばの羽目板に近いところだよ」
「ああそういえばそうだった、思い出したよ」
「君はどういう原因であの|しみ《ヽヽ》ができたと思う、サタスウェイト?」
サタスウェイト氏は一、二分ばかりの間あれこれ考えていたが、ついに口を開いた。
「大きな|しみ《ヽヽ》ではなかった。インク瓶《びん》をひっくり返したということではあり得ないな。恐らくはその男が万年筆をそこへ落としたんではないかね──あの部屋にペンがなかったことは君も覚えてるだろう」(この私だって君と同じくらいいろんなことに気がついてるんだぜ、とサタスウェイト氏は思った)「だから、その男がもし一字でも何か書いたとするならば、彼は万年筆を持っていたに違いない、それは明らかと思われる──ところが、彼が何か書いたという証拠は何もないんだ」
「いやあるよ、サタスウェイト、あのインクの|しみ《ヽヽ》がある」
「書きはしなかったかも知れんじゃないか」サタスウェイト氏がぴしゃりといった、「その男はただ床にペンを落としただけなのかも知れん」
「しかしだね、キャップがはずしてないかぎり|しみ《ヽヽ》ができるわけはないだろう」
「君のいう通りだとしてもいいさ。だがそれのどこが変だというのかわからんね」
「多分何も変なことはないかも知れない、とにくかもう一度行ってよく見てみるまでは何ともいえないさ」
二人の車は門番小屋のそばの門をはいり、数分後にはさきほどの邸へ着いた。またやって来たというので皆が不審顔をするのをチャールズ卿が、執事の部屋に鉛筆を忘れたなどといい加減なことをいってごまかした。
「さて、と」いっしょに手伝おうとするレッキーをなんとかふり切って、エリスの部屋の戸を後手に閉めるとチャールズ卿はいった、「僕が途方もないとんまなことをやってるのか、それともこの思いつきが無意味じゃなかったのか、見るとしようや」
サタスウェイト氏の意見としては、前者の方がはるかに蓋然性《がいぜんせい》があると思ったのだが、彼は礼儀をわきまえていたからそんなことはおくびにも出さず、ベッドの端に腰をおろして相手のすることをみまもっていた。
「これが問題の|しみ《ヽヽ》だ」チャールズ卿は足先でそこを示しながらいった、「書きもの机のちょうど反対側の羽目板のすぐそばだ、ちょうどこの場所へペンを落とすというのはどういう状況の場合かな?」
「どこへだって落ちるさ」
「そっちの端からほうることだってできるものね。しかし普通自分のペンをそんな風に扱う人はいない。しかしわからないぜ。万年筆ってのはしょうのないしろものだ。ペン先が乾いちゃって書きたい時に書けなくなったりする。それが答かも知れないな、エリスは癇癪《かんしゃく》を起こして『畜生め』ってんでこっちの端まで投げつけたんだ」
「説明はいくらでもつくと思うよ」サタスウェイト氏はいった、「その男がただ暖炉の上に置いただけかもしれん、そうしたら転がり落ちたのさ」
チャールズ卿は鉛筆で実験してみた。暖炉の上の端において転がるままにしておくと、鉛筆はその|しみ《ヽヽ》から少なくとも一フィート離れた場所に落ち、ガスストーブの方へ転がった。
「さあてね、どう説明するかね?」サタスウェイト氏がいった。
「だからそいつを考え出そうとしてるところさ」
ベッドにこしかけたまま、サタスウェイト氏は今やこの興味深い演技を見まもることになった。
チャールズ卿は暖炉の方へ歩きながら手に持った鉛筆を落としてみた。次にはベッドの端に腰かけたまま何か書いてみてから鉛筆を落とした。しかし、ちょうどその場所へ落ちるようにするためには、壁にぴったりとくっついて立つか坐るかしなくてはいけない、それはずいぶん不自然な恰好《かっこう》である。
「こりゃだめだよ」チャールズ卿は大きな声でいうと、立ったままその壁と|しみ《ヽヽ》と小さな冷たいガスストーブを仔細に検討していた。
「もしその男が書類を燃やしたとするとだな、いや、ガスストーブで紙は燃やせないか──」
突然彼は大きく息を吸いこんだ。
一分の後、サタスウェイト氏はチャールズ卿の役者ぶりをいやというほど見せられていた。
チャールズ・カートライトは執事エリスになりきっている。書きもの机に向かい、こそこそした様子で始終目を上げては左右を盗むようにうかがっている。突然、何かの音が聞こえたような様子をした──サタスウェイト氏にそれが何の音か見当がついたぐらいであった──廊下をやって来る足音だ。男は心にやましいところがあるからその足音に何らかの意味を結びつけて考える。彼はとび上がった。片手には書いていた紙を、もう一方の手にはペンを握ったままだ。彼は部屋を横切って暖炉へ突進した。顔は半分ふりむいたままだ、警戒するように耳をそばだて、びくびくしている。手にした紙をガスストーブの下へおしこもうとした、両方の手を使おうとして彼はいら立たしげにペンを投げ捨てた。チャールズの鉛筆──このドラマにおけるペン──は正確に問題の|しみ《ヽヽ》の個所へ落ちた……。
「でかした!」サタスウェイト氏は拍手かっさいした。その演技のすばらしさに、彼は、エリスがまさに今の様にやったのだ、いやそれ以外にないと思ったほどだった。
「ね?」再び元の自分にかえりながらチャールズ卿はいった。謙遜《けんそん》しながらも得意げな声である、「もしその男が、刑事あるいは刑事とそいつが思ったものの足音を聞いて書きかけてた紙を隠すとなればだ、さあどこに隠すことが可能かね? ひきだしも駄目、マットの下も駄目、もし警察に部屋を捜査されれば簡単に見つかってしまう。床板を上げるだけの暇もない。そうだ、唯一の可能性はガスストーブのかげだけだよ」
「次になすべきことはそのガスストーブのかげに何かあるかどうか調べることだな」
「まさにその通り。もちろん、誰か来たと思ったのはその男の誤りで、あとでまたひっぱり出したかも知れない。しかし悲観するのは早い」
上着をぬぎすて、腕まくりをするとチャールズ卿は腹ん這《ば》いになってガスストーブの下をのぞき込んだ。
「この下に何かあるぜ、白っぽいものだ、どうやって出すかなあ? よく女が使うハットピンみたいなものがあるといいんだが」
「近頃はハットピンなんか使わないよ」悲嘆にくれたようにサタスウェイト氏がいった、「ペンナイフならどうかな」
だがペンナイフもみつからない。とうとうサタスウェイト氏がビアトリスから編棒《あみぼう》を一本借りてきた。ビアトリスは何のためにそんなものが要るのか聞きたくてたまらなかったが、礼儀作法に厚い彼女のことだからとうていそんなことはできなかった。
その編棒は役に立った。チャールズ卿は五、六枚のくしゃくしゃになった便箋《びんせん》をひっぱり出した。慌《あわ》てて丸めて押し込まれてあったのだ。
昂《たか》まる胸を押さえながら二人は一枚一枚ひき伸ばした。明らかに、幾通りにも書かれた手紙の下書きで、事務員のような細かいきちんとした筆跡である。
『この手紙を書くにあたり、この手紙の筆者は何ら不愉快な事態をひき起こすことを望んでいるものではありません。また、筆者が今夜目撃したと信じていることも恐らくは筆者の誤解によるものであるかも知れません、しかし……』
ここまで書いて気に入らなくなったことは明らかで、やめて書き直してある。
『執事ジョン・エリスは謹《つつし》んで敬意を表し、かつ次のことが可能ならばしごく欣快《きんかい》とするでありましょう。すなわち、今夕の事件に関しある種の情報を持って警察に赴く前に、彼は面談を望んでおり……』
まだ気に入らず、また書き直してある。
『執事ジョン・エリスはかの博士の死に関し、いくつかの真相を握っています。彼は現在まだそれらを警察に提供していませんが……』
次の下書きでは三人称をやめている、
『小生は金の必要に迫られている。千ポンドあれば大いに助かる。小生、ある事実を警察に提供することもできるが、面倒なことをひき起こすのは好ましくない……』
最後のはますます無遠慮なものである。
『小生は博士の死因を知っている。警察にはひとことも喋っていない──ただし現在のところは、である。もし小生と会う気があるならば……』
この手紙だけ他のと違って『あるならば』のあとがくしゃくしゃと書きなぞってあり、しかも最後の一行はインクが滲《にじ》んでいた。エリスが物音を聞いてぎくりとしたのは明らかにこれを書いていた時だ。彼はその便箋を丸めると、隠そうとして突進したのだ。
サタスウェイト氏は大きく溜息をついた。
「おめでとうをいうよ、カートライト君、インクの|しみ《ヽヽ》についての君の直感は正しかったんだ。立派なもんだよ。そこで我々は今やどうするべきかを考えてみよう」
彼はそういってちょっと考えていた。
「エリスは、我々の睨《にら》んだ通りならず者だった。やつは殺人の下手人ではなかったが、誰が下手人であるかを知っている。そしてその彼もしくは彼女をゆすろうとしていた……」
「彼もしくは彼女か」チャールズ卿がさえぎった、「どっちだかわからないのが困るんだ。なんだってこいつはどれか一つぐらい貴君とか貴女とか書かなかったものかな、そうすれば、方針が立つのになあ。エリスというやつはなかなか芸の細かい男らしいぜ、脅迫状《きょうはくじょう》一つ書くのにこれだけ苦心してるんだからね。やつが一つでいいから手がかりを残しておいてくれればなあ、誰に宛《あ》てた手紙かというごく簡単な手がかり一つさえありゃいいんだが」
「くよくよするなよ」サタスウェイト氏がいった、「だんだんわかってきたじゃないか。この部屋で我々が探すのはエリスの無実の証拠だっていったのは君なんだよ。いいかい、それはみつかった。これらの手紙は彼の無実の証拠だ、──もちろん殺人についてのだがね。別の方面じゃあこの男は悪党もいいところだ。だがバーソロミュー・ストレンジ卿を殺したのはこいつではない、やったのは誰か他のやつだ。バビントンをも殺した人間だ。こうなれば警察だって我々の意見に同調せざるを得ないだろう」
「君はこのことを警察に知らせるつもりなのかい?」チャールズ卿の声は不満そうだった。
「それ以外にないじゃないか。どうしてだね?」
「いいかね──」チャールズ卿はベッドに腰をおろし、眉根を深く寄せて考えながらいった、「どういったら一番いいかなあ? 他の誰も知らないことを今我々だけが知っているんだ。警察はエリスを探している、やつらは彼が犯人だと思ってるんだ。彼が犯人だと警察が思ってるってことはみんなが知っている。だから真犯人はきっとかなりほっとしてるに違いない。彼は(あるいは彼女は)おさおさ油断はしていまいが、しかしまあなんというかな、気持が安んじてるんじゃないか。こういう状態を今乱すのは惜しいだろう? まさに我々のチャンスじゃないかね? つまり、バビントンと、パーティの出席者の中の一人との関係を見つけ出すチャンスなんだよ。今度の急死事件とバビントンの急死事件とを結びつけた者がいるなんてことは誰も知らないし、疑ってもみないだろうよ。千載《せんざい》一遇《いちぐう》のチャンスだ」
「わかったよ。たしかにその通りだ、チャンスだよ。だがね、やっぱりそれを利用するわけにはいかないと思うよ。この発見をただちに警察に報告するのが我々国民の義務だ。警察に隠しておく権利はないんだよ」
チャールズ卿はひやかすように相手を見ていった。
「君は善良なる国民の鑑《かがみ》だね、サタスウェイト君。もちろん僕だってそういうことは守られなくちゃいけないと思うが、ただ君ほど善良な国民ではないんだね。僕はこの発見を一日か二日胸にしまっておいたって良心はとがめない、ほんの一日か二日だけだよ、ね? 駄目かい? そうか、負けたよ。さあ我々は法と秩序の柱石《ちゅうせき》となるとしよう」
「まあ聞きたまえ」サタスウェイト氏は弁明した、「ジョンソンは私の友人だ、あの男はこの事件についちゃずいぶん親切にしてくれたんだよ。警察のやってることはみな教えてくれたし、情報もすべて提供してくれた、それ以外にもいろいろやってくれたんだ」
「ああ、君のいう通りだ、まさにその通りだよ。ただ、僕以外の人間は誰もガスストーブの下をのぞいてみることを考えつかなかったんだぜ。あの頭の鈍い警官共なんか一人として思いつかなかったんだ……だがまあ、君の思うようにやってくれ。ところでサタスウェイト、エリスは今どこにいると思う?」
「恐らく、彼は望みのものを手に入れたろうよ。消え失せる代償にたんまりせしめたんだ、そして実際に消え失せた、──その効果は十分あったんだ」
「そうなんだ、そういうところだろう」
チャールズ卿はかすかに身をふるわせた。
「僕はこの部屋が嫌いだよ、サタスウェイト、もう行こう」
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第七章
チャールズ卿とサタスウェイト氏は、翌日の晩ロンドンに帰ってきた。
ジョンソン大佐との会見をうまくやるのは非常に骨が折れた。クロスフィールド警部にとって、自分やその部下が見のがしたことを素人《しろうと》の『紳士たち』が見つけた、などということはおもしろからぬことであった。彼は面子《めんつ》を失うまいとかなり苦心していた。
「全く大したもんですねえ、ほんとに。正直なところ、私はガスストーブの下を見るなんて思いもよりませんでしたよ。実際の話、いったいどういうわけでそんなとこをご覧になる気になったんでしょうな」
こちらの二人は、インクの|しみ《ヽヽ》から推理を進めてどのようにして発見までもっていったかという詳細な話はしなかった。「なにそこいら中嗅ぎ回っただけですよ」というのがチャールズ卿の返事だった。警部は重ねていった。
「しかし、あなたはちゃんと見つけ出したわけです、しかもあなたの推理が正しいことがわかったんですからね。いや、あなた方の発見なさった結果のことをそれほど驚いてるわけじゃありませんよ。だってもしエリスが下手人でなかったとすれば当然何かしら理由があって姿をくらましたに違いないですからね。それに私もゆすりってのはどうもやつのやりそうなことだって気が前からしてましたよ」
二人の発見によって一つの事態がもち上がったわけで、ジョンソン大佐はルーマスの警察に連絡をとることになった。スティーヴン・バビントンの急死事件ははっきりと究明される必要がある。
「これでバビントンの死がニコチン中毒だってことが判れば、クロスフィールドといえども二つの死を結びつけざるを得ないだろうよ」ロンドンへ向かって車を飛ばしながらチャールズ卿はいった。警察に自分の発見を渡してしまったことに、彼はまだ少し不満を抱いていた。
サタスウェイト氏は、しかしあの情報はまだ公《おおや》けにされない筈だし、新聞記者にも洩《も》らさない筈なんだから、といってなだめた。
「真犯人は気づかないだろうよ、エリスの捜索はまだ続けられるだろうからね」
チャールズ卿もそれはその通りだと認めた。
彼はサタスウェイト氏に、ロンドンに着き次第エッグと連絡をとりたいがどうだろうといい出した。エッグの手紙はベルグレイヴ街で書いて出したものなので、彼女はまだそこにいるかもしれないのだ。
サタスウェイト氏はこの計画にまじめに賛成の意を表した。彼自身もエッグに早く会いたかったのだ。それでロンドンへ着いたらすぐチャールズ卿が彼女に電話をかけることになった。
エッグはまだロンドンにいた。母親といっしょに親類の家に滞在していてここ一週間ほどはまだルーマスに帰らない予定だった。彼女は簡単に誘いに応じ、二人の男性と食事することになった。
「彼女がここへ来るわけにはいかないなあ、とても」チャールズ卿は自分の豪奢《ごうしゃ》なアパートの室内を見回していった、「母親が嫌がるだろうね? もちろんミス・ミルレイにいてもらうことはできるんだが、僕はやっぱりいやだな。ほんとのこといってあの女がいると僕は分《ぶ》が悪いんだよ、あんまり有能でこっちは劣等感に悩まされるんだ」
サタスウェイト氏が彼の家ではどうか、といったが、結局バークレイで食事し、その後もしエッグが望めばどこか他へ席を移してもよいということになった。
サタスウェイト氏は一目みてエッグが少し痩《や》せたようだと気がついた。眼は一層大きくなり、ますます熱っぽい表情をたたえ、顎はいよいよもって決意にひきしまっていた。顔は青ざめ、目の下にくまができていたが、その絶大な魅力と子供っぽい熱心さは以前にも劣らなかった。
エッグはチャールズ卿にいった、「来て下さると思ったわ……」だがその声の調子はこういっていた『さああなたがいらしたからには何もかもうまくいくわ……』
サタスウェイト氏はひそかに考えていた、『だがエッグは彼が来るという確信はなかったんだ、全然なかったんだ。やきもきして死ぬほどいらいらしてたんだ』またこうも考えた、『この男は気がつかないのかねえ? 役者なぞというものは大体うぬぼれが強いものなんだが……彼女が首ったけなのが気がつかないのかねえ?』
彼は思うのだが、これは奇妙な状態だ。チャールズ卿は彼女を死ぬほど愛している、これは疑うべくもない。エッグも同様に彼を愛している。そして二人を結びつけている環は、──各々が必死になってしがみついている環は──犯罪なのだ──忌《いま》わしい二重犯罪なのだ。
食事の間は話がはずまなかった。チャールズ卿は外国の話などして聞かせ、エッグはルーマスの話をした。二人の会話が途切れそうになるとサタスウェイト氏が助け舟を出した。そして食事がすむと三人はサタスウェイト氏の家へ行った。
彼の家はチェルシー・エンバンクメントにあった。大きな家で見事な美術品が沢山あった。絵画、彫刻、シナの磁器、有史以前の土器、象牙細工、細密画の他、本物のチペンデールやヘッペルホワイトの家具などが沢山あって、円熟した知的な雰囲気《ふんいき》が漂っていた。
エッグは何も見ていなかった、何物にも目をとめなかった。そしてコートを椅子《いす》の上に脱ぎすてるといった。
「ああやっと。さあ全部お話しして頂戴《ちょうだい》」
チャールズ卿がヨークシャでの冒険談を聞かせている間、彼女は活発な関心を示して耳を傾けていた。そして脅迫状の下書き発見のくだりになると烈しく息をのんだ。
「その後のことは憶測するより他ないのだがね。恐らくエリスは口止め料を貰《もら》い、うまく逃げおおせたのだろうよ」チャールズ卿はそういって話を結んだが、エッグは首を振っていった。
「あら、そうじゃないわ、おわかりにならないの? |エリスは死んだんだわ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》」
二人の男はすっかり驚いてしまったが、エッグはもう一度くり返し断言した。
「もちろん死んだのよ。誰にも影も形も見つけられないほどうまく消え失せたわけだわ。エリスはいろんなこと知り過ぎてたのよ、だから殺されたんだわ。エリスは第三の殺人よ」
チャールズ卿もサタスウェイト氏もそういう可能性は今まで考えもしなかったのだが、全面的にまちがいないとはいいきれないものがあるのは認めざるを得なかった。
「だけどねえ、君」チャールズ卿は反論した、「エリスは死んでいるという説は大変結構だが、死体はどこにあるというの? 逞《たく》ましい執事の目方が十二ストーンかそこらもあるってことも考えなきゃいけないよ」
「死体がどこにあるかわからないけれど、いくらでも隠す場所はあるでしょう」
「まず考えられないな」サタスウェイト氏がつぶやくようにいった、「まず考えられん……」
「沢山あるわ、そうねえ……」エッグはちょっと考えていたがやがていった、「屋根裏よ、誰も行ってみないような屋根裏なんて山ほどあるわ。もしかしたらエリスは屋根裏のトランクの中かもしれないわよ」
「そんなとこじゃなさそうだなあ」チャールズ卿がいった、「しかしむろんそうかも知れないけれどね。発見されずにすむかもしれない──当分の間はね」
エッグは不愉快なことだからといって避けるようなたちではない。彼女はチャールズ卿が心の中で思っている点にすぐ触れてきた。
「臭いは上へ上がるのよ、下には来ないものよ。地下室の腐乱《ふらん》死体の方が屋根裏の場合よりずっと早く気がつくわ。それにいずれにしろ、当分は誰でもねずみが死んでるんだろうぐらいに考えるわ」
「君の説が正しいとすると、その殺人犯は男であることは決定的だね。女じゃ家の中を死体を引きずって歩けないもの。実際の話が男にとったってそりゃ相当な芸当だよ」
「じゃあ他にもいくらでも考えられるわ。あの家には秘密の通路があるのはご存じね。サトクリフさんもそのこと話して下さったし、バーソロミュー卿も私に見せて下さるっておっしゃってたの。犯人はエリスにお金をやってあの家からぬけ出す道を教えたのよ、そしていっしょに通路まで行ってそこの中で殺したんだわ。それなら女にもできるわね。後から刃物で刺すかなんかしたのよ。そうしておいて死体を残したまま戻ってくれば誰にもわからないじゃないの」
チャールズ卿は疑わしげに首を振ったが、もうそれ以上はエッグの説に異を唱えなかった。
サタスウェイト氏は、エリスの部屋で例の手紙を発見した時、今のエッグと同様の疑惑がチャールズ卿の胸を一瞬かすめたに違いないと確信した。彼はチャールズ卿があの時かすかに身震いしたのを思い出した。エリスは死んでるかも知れぬという考えはあの時すでに彼の心をかすめていたのだ……。
サタスウェイト氏は思った、『もしエリスが死んでるとすれば、我々はまことに危険な人物とわたり合っているわけだ……そうだ、実に危険きわまる人物だ……』彼は突然冷たいものが背すじを走るのを覚えた……。
三度も人を殺した人間が再び殺人を犯すになんで躇《ためら》うものか……。
みんな危険にさらされているのだ、三人とも全部──チャールズ卿もエッグも、それにこの私も……。
もし我々がいろいろ知り過ぎているとすれば……。
チャールズ卿の声に彼は我に返った。
「エッグ、君の手紙の中で一つわからないところがあるんだよ。君はオリヴァー・マンダーズが危機に瀕《ひん》しているといってたろう──警察が彼を疑ってるって。警察が彼に少しでも疑いをかけるわけはないんだが」
サタスウェイト氏には、エッグがほんのちょっと動揺したように思われた。彼はエッグが顔を赫《あか》らめたようにさえ思ったのだった。
『ははあ』サタスウェイト氏は心中ひそかに呟いた、『どうやってこの場を切り抜けますかね、お嬢さん』
「私ばかだったのよ」エッグはいった、「私気が転倒してたの。オリヴァーがあんな風にでっち上げとも見えるような口実でやって来たんで、──そうよ、私警察はきっとあの人を疑うと思ったの」
チャールズ卿はそのいいわけをあっさりと受け入れた。
「そうか、わかった」
サタスウェイト氏がいった。
「でっち上げの口実だったんですか?」
エッグは彼の方を向いていった。
「どういう意味?」
「ちょっと奇妙な事故ですからね、もしでっち上げの口実だったとすれば、あなたはわけをご存じかと思ったんですよ」
エッグは首をふった。
「知らないわ、考えてみたこともないのよ。だけど実際事故を起こしたんじゃないとしたらオリヴァーはどうして起こしたようなふりをするかしら?」
「多分理由はあったんだよ、当然至極な理由がね」チャールズ卿がそういってエッグににやにやして見せた。エッグはみるみる真赤になった。
「あら、違うわ、違うわよ」
チャールズ卿はため息をもらした。サタスウェイト氏には、この友人がエッグの赤面を誤解していることがわかった。再び口を開いた時チャールズ卿はいつになく老《ふ》けて悲しげな男にみえた。
「さて、その若い友だちが安全だとあれば、僕の役目はもうないね?」
エッグはすばやくかけ寄ると彼の上着の袖をつかんでいった。
「また行ってしまっちゃ駄目よ、あきらめるつもりじゃないわね? 真相を発見するのよ、真相よ。あなた以外に真相を発見できる人なんていないと思うの、あなたならできるわ、できますとも」
ひどく真剣《しんけん》な調子だった。彼女の活力が、この部屋の古めかしい雰囲気の中に波のように押し寄せて渦《うず》まいているようだった。
「君は僕を信頼するんだね?」チャールズ卿は動かされたのだ。
「ええ、ええ、もちろんよ。私たちは真相を発見するのよ、私とあなたとで」
「それからサタスウェイト君とね」
「もちろん、サタスウェイトさんもよ」エッグは気のなさそうな声でいった。
サタスウェイト氏は内心微笑した。エッグが自分を仲間に入れることを喜ぼうと喜ぶまいと、彼自身は仲間はずれにされるつもりは毛頭なかったのである。彼は不可解な事件を解くのは大好きだったし人間性を観察するのも好きだった、その上愛し合っている者たちを見ているのは楽しかった。今度の事件はこの三つの趣味を満たすのには申し分なく思われたのだ。
チャールズ卿は腰をおろした。声の調子がガラリと変った。監督となって一つの芝居を演出し始めた。
「何よりもまず現在の状況をはっきりさせる必要がある。我々はバビントンとバーソロミュー・ストレンジを殺害したのは同一人物であると信じるか、否か?」
「信じます」エッグがいった。
「信ずる」サタスウェイト氏もいった。
「我々は、第二の殺人は第一の殺人と直接のつながりをもって生じたと信じるか、否か? すなわち、犯人は第一の事件が露見するのを恐れて、あるいはその事で嫌疑がかかるのを恐れてバーソロミュー・ストレンジを殺害した、と信じるか、否か?」
「信じます」エッグとサタスウェイト氏は今度は異口同音《いくどうおん》にそう答えた。
「とすると、我々が究明しなくてはならないのは第一《ヽヽ》の殺人であって、第二の殺人ではない──」
エッグがうなずいた。
「僕の考えでは、第一の殺人の動機がわからないうちは、犯人をみつけ出すことは容易に望めないと思う。その動機を掴むのがまたひどく厄介な仕事だ。バビントンは邪心のない、おだやかな老人で、誰しもいうようにこの世に一人の敵もない人物だ。しかるに彼は殺されたんだ──そして人を殺すからには何らかの理由が存在する筈だ。我々はその理由をみつけ出さなくてはならない」
チャールズ卿はちょっと口をつぐんでから、今度は普通の声でいった。
「まあ落ちついてそれを考えてみよう。殺人をするにはどういう理由が考えられるだろう? 第一に、利害関係だな」
「恨み」エッグがいった。
「殺人狂。痴情関係はこの場合まず当てはまらないだろうね。だが恐怖説がある」
紙きれに書きつけながらチャールズ・カートライトはうなずいた。
「大体こんなところだな。まず利害関係だが、バビントンの死によって利害を蒙《こうむ》る人物がいるかな? バビントンは金もしくは金のはいる見込みがあったろうか?」
「あたしはまずそんなことは考えられないな」
「僕もだ。しかしその点についてはバビントン夫人になんとかうまく聞いてみた方がよさそうだ。
次は怨恨《えんこん》説だ。バビントンは他人を傷つけたことがあるのだろうか、──恐らく昔まだ若いころにでも? 他人の恋人を横取りしたのか?これもよくつっ込んで調べる必要がある。
それから殺人狂説。バビントンもトリーも気ちがいに殺されたのであるか? 僕はこの説は論拠が確実でないと思うな。気ちがいといえども自分の犯罪に何らかの理由づけをもっている。つまり僕のいうのは、気ちがいは医者なり牧師なりを殺害するよう自分は神に指名されているんだと思うかもしれないが、両方とも殺すようにとは考えないだろう。僕はこの殺人狂説は除外してもいいと思う。後は恐怖説だ。
さて、正直にいってこの説は他の説にくらべてはるかに考えられうる答だと僕には思われるんだ。バビントンはある人物について何事かを知っていた、もしくはある人物を見知っていた。その何事かをもらされては困るので彼は殺された」
「あの晩の出席者の誰にしろ、その人の弱点をバビントンさんみたいな方が握っていたなんてとうてい考えられないわ」
「あるいは知ってるということをバビントン氏は自分じゃ気がついてなかったのかもしれないよ」
チャールズ卿は自分のいう意味をはっきりさせようと努めながら続けた。
「僕の思ってることをうまくいい表すのは難しいが、例えばだね(これはあくまでも『例え』だよ)バビントンはある時、ある場所である人物を見たと仮定する。彼にとっちゃ、その人物がなぜその場所にいてはいけないか、そんなことはわからない。しかし、もう一つ仮定して、その人物は何らかの理由でちょうどその時間には百マイルも離れた別の場所にいたことを示す非常に巧妙なアリバイを仕組んでいたとしよう。いいね、バビントン老人はそんなこととはつゆ知らないから、いつ何時《なんどき》全く悪気なくその内幕を暴露しないとも限らない」
「わかったわ。つまりロンドンである殺人事件が起こった、そしてバビントンはその殺人を犯した人物をパディントン駅で見かけた、ところがその人物はその時間にはリーズにいたというアリバイをもち出して無罪を証明した。とすればバビントンはそのアリバイをぶちこわす可能性がある」
「僕のいう意味はまさにその通りだ。もちろんあくまでも一つの例に過ぎないがね。どんなことだっていいんだよ。あの晩バビントンが会ったある人物を、彼は以前には別の名前で知っていたとか──」
「結婚に関係あることかもしれないわ、牧師さんてずいぶん結婚は扱うものですもの。誰か二重結婚してる人かもしれない」
「あるいは出生か死亡に関することかも知れないね」サタスウェイト氏がいった。
「ずいぶん範囲が広いんだなあ」エッグは顔をしかめていった、「別の方法をとらなくちゃ駄目よ。もう一度、その場に居合わせた人たちのことからやり直しましょうよ、リストを作るのよ、あなたの家にいたひとは誰々か、バーソロミュー卿の家にいたのは誰々か」
彼女はチャールズ卿から紙と鉛筆をとると書き出した。
「デイカズ夫妻、この二人は二度とも出席してたわね。それからしなびたキャベツみたいな女、なんて名前だっけな──ウィルズか。それからサトクリフさんと」
「アンジェラは除外してもいいさ」チャールズ卿がいった、「僕は何年もつき合って知ってるからね」
エッグは反抗的に眉根を寄せていった。
「そういう事はできないわ。自分たちが知ってる人だからって除外するなんて。事務的にやらなくちゃ。第一この私はアンジェラ・サトクリフのことなんて何一つ知っちゃいないわよ。あの人だって他のみんなと全く同様、やった可能性はあるわけよ、私の見たとこじゃ──他の人よか可能性があるわ。女優はみんな過去があるんだから。大体においてあの人が一番あやしいと思えるわ」
彼女は挑《いど》むようにチャールズ卿を睨《にら》みつけた。チャールズ卿の眼も応ずるように燃え上がった。
「そんならオリヴァー・マンダーズも除外しちゃいけないよ」
「なんでオリヴァーの筈があるの? あの人はバビントンさんには昔から何度も会ってるじゃありませんか」
「彼は両方の場所にいた、それにトリーのところへ行った時の様子はどうも──疑いを免れないね」
「大変結構よ」エッグはちょっと口をつぐんでからまたつけ加えた、「それならママもそれからあたしも書いといた方がよさそうね……これで容疑者は七人よ」
「僕は何も……」
「公平にやりましょう、でなけりゃ全然やめるんだわね」エッグの眼が燃えていた。
サタスウェイト氏が何か飲んで一服しようといい出して和解をはかった。ベルを鳴らして彼は飲みものを持って来させた。
チャールズ卿は向うの隅へぶらぶら行って、ニグロの彫刻の首を嘆賞していた。エッグはサタスウェイト氏のそばへ来て片手を彼の腕にすべりこませると小さな声でいった。
「ばかね、あたし、腹を立てたりして。あたしがばかだったのよ。だけどどうしてあの女《おんな》は除外されるの? どうして彼はあの女《ひと》のことだとあんなに夢中になるのかしら? おおいや、どうしてあたしはこんなみっともなくやきもちを妬《や》くの?」
サタスウェイト氏はにっこり笑ってエッグの手をかるく叩きながらいった。
「嫉妬《しっと》しても損するだけですよ、お嬢さん、やきもちを妬いてもいいが、それを表わしちゃいけません。ところで、あなたはほんとうにマンダーズ青年が疑われるかもしれないと思ったの?」
エッグはにやりとした──人なつっこい、無邪気な笑い方だった。
「そんなこと思うもんですか。あたし、あの人がびくびくしなくてもいいようにあんなことを書いたの」そういって彼女はちょっとふり返った。チャールズ卿はまだ不機嫌《ふきげん》な顔でニグロの彫刻を観察している。「ねえ、あたし、彼が追いかけられてるように感じたら困ると思ったのよ、だけど、あたしが本当にオリヴァーに首ったけだなんて思われるのも嫌なの。何もかも難しいことだらけね! チャールズ卿ってば、この頃はまた子供扱いするようになっちゃったのよ、あたしそれが嫌《いや》でしようがないの」
「辛抱することだな。おしまいには何もかもうまくいきますよ、ね」サタスウェイト氏がさとすようにいった。
「あたしは辛抱強くないの、何でもすぐでなくちゃ嫌《いや》なの、それでもまだじれったい位だわ」
サタスウェイト氏は笑った。するとチャールズ卿がふり向いて二人の方へやって来た。
三人はグラスを傾けながら捜査活動のプランをねった。チャールズ卿はまだ買い手のついていない烏荘《クロウズ・ネスト》に帰ること。エッグとメアリ夫人はなるべく予定よりも早くローズ・カテジに帰ること。バビントン夫人は相変らずルーマスに住んでいるから、彼女から聞き出せるだけ聞き出して、その上でそれに従って行動を続けるとしようということ。
「うまくいくわね。成功するに決まってるわ」エッグは熱っぽい目をしてチャールズ卿の方へからだをのり出し、彼のグラスに自分のグラスをつけた。
「あたしたちの成功を祈って乾杯」有無をいわさぬ口調だった。
ゆっくりと、ごくゆっくりとチャールズ卿の目がエッグの目に向けられた。グラスを口へ持っていきながら彼はいった。
「成功と、それから、『未来』を祈って……」
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第三幕 発見
第一章
バビントン夫人は、港からほど近い小さな漁師の家に移り住んでいた。半月ほど待てば妹が日本から帰って来ることになっており、夫人はその妹が帰って来てから身のふり方を決めるつもりでいた。それで偶然空いていたその家を六か月間借りたのだった。あまりにも急に夫に先立たれた彼女はどうしてよいかわからず、ルーマスを去る気にもなれないでいた。スティーヴン・バビントンはルーマスの聖ペトロッチ教会に十七年も暮らして来たのである。つまり息子のロビンの死という悲しみはあったにせよ、バビントン夫妻は十七年間というもの平和な毎日を送ってきたのだった。あとの子供たちについては、エドワードはセイロンに、ロイドは南アフリカにおり、スティーヴンはアンゴリア号の三等航海士をしていた。三人はたびたび情愛のこもった手紙をよこしたが、三人共母親に安住の家を与えることも、共に住むこともできなかった。
マーガレット・バビントンはひどく寂しかった……。
だが思いに沈んで時を過ごしていたわけではなかった。彼女は、新任の牧師が独り者だったので、今でも教区の仕事に力を貸していたし、大かたは家の前の小さな畑でせっせと働いて時を過ごしていた。彼女は花が生活の一部であるような女だったのだ。
ある午後、門のかけ金がカタカタいうのを聞いたのもその畑にいる時だった。目を上げるとチャールズ・カートライト卿とエッグ・リトン・ゴアが立っていた。
マーガレットはエッグを見ても別に驚かなかった。エッグ母娘が間もなく帰って来る筈であることは知っていたからである。しかしチャールズ卿の方は、永久にこの地を去ったともっぱらの噂だったから、夫人はびっくりした。新聞には彼の南フランスでの近況が他の新聞から転載されたりしていたし、烏荘《クロウズ・ネスト》の庭には『売家』の札が立てられていたから、チャールズ卿が帰って来るとは誰も予期していなかったのである。にもかかわらず彼は帰ってきた。
バビントン夫人は乱れた髪を汗ばんだ額《ひたい》からかき上げると、泥だらけの手を困ったようにみつめながらいった。
「握手するわけにも参りませんわね。土いじりは手袋をはめてすればいいことはわかってるんですけどねえ。手袋をして始めることもあるんですが結局いつもとってしまいますの。なんでも素手で触る方がずっとようございますもの」
彼女は先に立って家へはいった。更紗《さらさ》で飾られた小じんまりとした居間は居心地《いごこち》がよく、写真や菊を生《い》けた鉢が飾ってあった。
「あなた様にお目にかかるなんてほんとにびっくり致しましたわ。私、もう、烏荘《クロウズ・ネスト》は永久にお見捨てになったのかと思っておりました」
「私もそのつもりだったのですが」チャールズ卿は率直にいった、「しかし奥さん、運命というものは時に我々を圧倒することがありますからね」
バビントン夫人はそれには答えず、エッグの方へ向き直ったが、エッグの方が機先を制していった。
「あのね、バビントンのおばさま、今日伺ったのはただ遊びに伺ったんじゃないんです。チャールズ卿とあたしはお話ししなきゃならないとても大事なことがあるんですの。ただあたし――あたしおばさまをびっくりさせちゃいけないと思って」
バビントン夫人はエッグからチャールズ卿へと目を移した。その顔は心なしか暗く、ひきつって見えた。チャールズ卿がきいた。
「最初におうかがいしたいのは、内務省から何か連絡がありましたか、ということなんですが?」
バビントン夫人は頭を下げてうなずいた。
「そうですか――それですと今申し上げようと思っていたこともいいやすくなります」
「あなた方がおいでになったのは――その死体発掘命令のことですか?」
「そうです、きっと――いやどんなにかおつらいだろうと思うんですが」
夫人は慰めるようなチャールズ卿の声に心が和《やわら》いだようだった。
「お考え下さるほどは多分気にしておりませんわ。死体発掘なんて考えただけでも恐ろしいことと思う方もおありですが、私には恐ろしくございません。大切なのは生命のない土くれではございませんもの。私の大切な夫はどこか他のところに――誰にわずらわされることなく安らかに眠っております。そうですわ、そんなことではございません。私にとってショックだったのはあの考えですわ――ぞっとするような考え――、スティーヴンは自然死ではなかったなどと。とてもそんなことあり得ないことですもの、絶対ございませんわ」
「奥さんがそう思われるのは無理ないと思いますよ、私も、――私たちもそう思ったのです、最初はね」
「最初は、とおっしゃるのはどういう意味ですの?」
「それはですね、バビントンさん、そういう疑惑がご主人の亡くなられた夜、私の心にちょっとかすめたんですが、しかし奥さんと同じようにとてもそんな筈はあり得ないと思われたんで、まじめに考えなかったくらいなのですよ」
「あたしも変だと思ったんですよ」エッグがいった。
「あなたもやっぱりですか」バビントン夫人は不審そうにエッグの顔をみながらいった、「あなたがたは誰かが殺したのかも知れないなんて考えたんですか――スティーヴンのような人を?」
容易には信じられないといった様子でそういうので、二人の訪問客はどちらも後が続けられなくなってしまったが、やっとチヤールズ卿が話のつぎ穂をみつけていった。
「ご存じのように私は外国に行ってたんですが、ちょうど南フランスにいるときに新聞で友人のバーソロミュー・ストレンジ卿がほとんど同じような状況の中で死んだことを読みましてね。それにリトン・ゴアさんからも手紙をいただいたんですよ」
エッグがうなずいた。
「あたしその時いたんですもの、泊まってたんですから。おばさま、そっくり同じだったんです――そっくりよ。あの方はポートワインを少し召し上がって、そうしたら顔色が変って、そうして――そうして――そうなんです、全く同じだったんですわ、あの方は二、三分後にはお亡くなりになったんですもの」
バビントン夫人はゆっくりと首をふった。
「私には理解できませんわ。スティーヴンを!バーソロミュー卿――あんなおやさしい立派なお医者様を! あの二人に危害を加えるなんて誰にできるもんですか。何かのまちがいに決まっています」
「バーソロミュー卿が毒殺されたことは立証されているのですよ」チャールズ卿が念をおした。
「それでは気違いのやったことに違いありませんわ」
チャールズ卿はなおもいった。
「奥さん、私はこのことを徹底的に調べたいのです、真相が知りたいのです。しかも一刻も早くないといけないと思うんです。ひとたび発掘のニュースが流れたが最後犯人は用心しますからね。時間を節約するためにご主人の死体解剖の結果を今推断しますとね、ご主人もやっぱりニコチン中毒で亡くなられた、と私は思うのですよ。まず伺いますが、奥さんなりご主人なり純粋のニコチンの用途について何かご存じでしたか?」
「私はいつもバラにかけるためにその溶液は使います。毒性があるとされてるなんて存じませんでした」
「ゆうべその辺のことを調べてみたんですが、私はどうもどっちの場合も純粋アルカロイドが使われたに違いないと思うんです。ニコチンによる中毒死事件というのはまずあまりないんですよ」
バビントン夫人は首をふっていった。
「私、ニコチン中毒のことなんて本当に何も存じません――ひどい煙草《たばこ》のみの方がなることがあるとは思いますけど」
「ご主人は煙草はお吸いでしたか?」
「はあ」
「さて奥さん、さっきご主人に手をかけようなんて人はいない筈だといって大そう驚かれてた様子でしたが、それはつまりご主人にはひとりの敵もなかったということですか?」
「スティーヴンに敵なぞなかったことはもう確かでございます。どなたにも好かれておりました。あの人を追い出そうとする人もあるにはありましたが」バビントン夫人はちょっと涙ぐみながらほほえんでみせた、「ご承知のようにもう年でしたし、刷新を心配してもおりました。でもどの方もあの人を好いて下さいましたわ。誰だってスティーヴンを嫌《きら》うことはできませんものね、チヤールズ卿」
「奥さん、恐らくご主人はあまりお金は残されなかったでしょうな?」
「はい、全然でございます。スティーヴンは貯金ができない人でしてね。すぐ人にあげてしまいますの、いつもそのことで私が小言をいっておりましたものですわ」
「どこかからお金がはいる予定もなかったんですね? どなたかの遺産相続人ではなかったですか?」
「あら、そんなことはございませんでしたわ。スティーヴンは係累が少ないんでございますよ。妹が一人おりまして牧師に嫁いでノーザンバランドにおりますがあの人たちもとても貧乏ですし、叔父《おじ》や叔母《おば》はみんな亡くなりましたし」
「それじゃあ、バビントンさんが亡くなったからといって得をする人はいないようですね?」
「はあ、もちろんですわ」
「もう一度ちょっと敵という点について考えてみましょう。ご主人には敵はなかったとおっしゃいましたが、あるいは若い時にはあったかも知れませんね」
バビントン夫人は懐疑的な顔になった。
「とても考えられないことですわ。スティーヴンはいさかいは決してしない|たち《ヽヽ》でございましたからね。いつも他人《ひと》様とは仲よくやっておりました」
「どうもメロドラマ的に聞こえても困りますが」チャールズ卿はちょっと神経質に咳払《せきばら》いしていった、「そのう――例えばですが、ご主人と婚約なさった時に、他に失恋した求婚者がいなかったでしょうか?」
バビントン夫人の目が一瞬キラリと光った。
「スティーヴンは私の父のところで副牧師をしていたんでございます。私が学校を卒業して帰ってきて初めて会った青年があの人でしたの。お互いに好きになって四年間婚約しておりますうちに、スティーヴンはケント州で聖職につくことになり、それでやっと結婚することができましたんですよ。私どもの場合なんてごくごく地味なロマンスですわ、チャールズ卿、――でも大そう幸せな、ね」
チャールズ卿は頭を下げた。バビントン夫人の飾らない品位のある態度は実に魅力的だった。
今度はエッグが質問の役に回った。
「おばさま、バビントンさんは、あの晩チャールズ卿のお宅に集まった方々のうちで前にもご存じだった方はあるでしょうか?」
夫人はちょっとわけがわからないという表情でいった。
「そうですねえ、あの時はあなたやあなたのお母様もおいでだったし、それからマンダーズさんもいらっしゃいましたでしょう」
「ええ、ですけど他の方々では?」
「主人も私もアンジェラ・サトクリフは五年前にロンドンの舞台で見たことがありますよ。私どもは二人ともその本物に会えるというのでわくわくしてたんですが」
「それまではお二人ともサトクリフさんには全然お会いになったことはないんですのね?」
「ございませんわ。私どもは女優さんには――いえ男優の方にも一度もお目にかかったことなどないんですよ、実際、チャールズ卿がここへいらしたんで初めてお目にかかったぐらいですから。この方がいらして下さったことは大へんな刺激でございましたわ。チャールズ卿は、私どもにとってそれがどれほどすばらしいことだったかなんておわかりにならないでしょうねえ。私どもの心にとってはロマンチックな息吹きだったのですよ」
「デイカズ大尉ご夫妻にもお会いになったことはないんですのね?」
「あの小柄な方のことですか? 奥様の方はあのすばらしい衣裳をお召しの方のことですか?」
「ええ」
「ありませんねえ。それにもう一人の女の方も存じませんよ――あの戯曲家の方。お気の毒な方ですわね、なんだか一人だけ場違いみたいに感じましたわ」
「確かにあの方たちのどなたにもお会いになったことはありませんのね?」
「確かにでございますよ、私|請《う》け合いますがスティーヴンもですわ。ご承知の通り私どもは何をするにもいっしょでございましたからね」
「それでバビントンさんはあの晩会う筈の方たちについて何もおっしゃいませんでした? あるいはお会いしてから何か?」エッグはしつこくきいた。
「お会いする前にも申しませんでしたし――ただ楽しみにして待ちこがれてはおりましたけれどね。――あちらへ伺ってからは……そうですわ、何ほども経たないうちに……」突然夫人は顔をゆがめた。
チャールズ卿があわてていった。
「お苦しめしてどうぞお許し下さい。しかし私たちはこれには|何か《ヽヽ》あると思うんですよ、それがわかりさえすればいいのですが。こんなどう考えたってむごい、しかも無意味な殺人には何らかの|わけ《ヽヽ》があるに違いないんです」
「わかりますわ、もし他殺だとしたら何か理由がある筈です……でも、私わかりません、とうてい考えられませんわ、いったいどんな理由があるというのでしょう」
一、二分みんなおし黙っていたが、やがてチャールズ卿がいった。
「ご主人のご経歴を少し教えていただけますか?」
バビントン夫人は年月日をはっきり覚えていた。チャールズ卿のメモは最後に次のごとく記された。
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スティーヴン・バビントン
一八六八年 デヴォン州イズリントンに生る。聖ポール校及オックスフォード卒。
一八九一年 助祭に任命され、ホクストンの教区の聖職資格を得。
一八九二年 牧師に昇進。
一八九四―九九年 サレー州エズリントンのヴァーノン・ロリマー氏の副牧師を勤める。
一八九九年 マーガレット・ロリマーと結婚。ケント州ギリングの牧師に任命される。
一九一六年 ルーマス、聖ペトロッチ教会の牧師に転任。
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「これで何かわかるでしょう」チャールズ卿はいった、「最も期待できるのは、ギリングの聖メアリ教会の牧師をしてらした時期じゃないかと思いますな。それ以前のことはずいぶん昔の話だからあの晩私の家に集まった人たちとは関係ないでしょう」
バビントン夫人は身震いしていった。
「あなた様は本当にそう考えていらっしゃるんですか? あの方たちの中に……」
「どう考えてよいかはわかりませんが、バーソロミューは何かを見たか、あるいは何かを察したかしたのです。そしてバーソロミュー・ストレンジはご主人と全く同じような死に方をしたのですからね、しかも五人が……」
「七人よ」エッグがいった。
「私の家に集まった人たちのうち七人が、二度目の時も出席してたんですから、その中の誰かがやったに違いないのですよ」
「でもなぜですの?」夫人は叫んだ、「なぜですの? スティーヴンを殺すなんていったいどんな動機が考えられますの?」
「それなんですよ、私たちが探し出そうとしているのは」
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第二章
サタスウェイト氏は、チャールズ卿と一緒に烏荘《クロウズ・ネスト》に来ていた。チャールズ卿とエッグがバビントン夫人を訪れている間、彼はメアリ夫人とお茶のひとときを過ごしていた。
メアリ夫人はサタスウェイト氏を気に入っていた。あれほど態度のおだやかな夫人だったが、他人に対する好き嫌いの点になると実にはっきりとした見解をもった女性だった。
サタスウェイト氏はドレスデン焼きの茶碗《ちゃわん》でシナ茶を啜《すす》り、超小型のサンドイッチをつまみながらおしゃべりをした。この前訪れた時の話で、二人が共通の友人知己を沢山もっていることがわかっていたので、今日のおしゃべりではまず同じ話題が交されたが、だんだんにもっと親密な方向へと移っていった。サタスウェイト氏は思いやりのある人間で、他人の苦情にはよく耳を傾けた。しかも自分の苦情を無理に人に聞かせるようなことはしなかった。この前の初めての訪問の時でさえ、メアリ夫人は娘の将来についての心配を彼にきいてもらってもおかしくないと思ったのだ。今日は彼女は十年の知己のごとくに話していた。
「エッグはほんとに強情な子ですの。何かあると何もかもうちすててとびこんでしまいます。サタスウェイトさん、私、あの子のやり方が気に入りませんわ、あんなこわいことに自ら巻きこまれたりするなんて。エッグはばかにするに決まってますが、あんなのはレイディらしくございませんもの」
そういいながら夫人は顔をあからめた。やさしい、そして率直な茶色の目が、何か訴える子供のようにサタスウェイト氏を見つめていた。
「おっしゃることはわかりますよ。白状しますと私もあまり好きじゃありません。古くさい偏見に過ぎないことはわかっていますが、やっぱりそう感じるのです。結局、私たちはこういう進んだ時代ではおとなしく家にいて縫いものでもして、凶悪犯罪なんて聞いただけで身震いするようなお嬢さんは期待できないんですよ」
「殺人の話なんて考えるのもいやですわ。こんなことにまき込まれるなんて夢にも考えたことありませんのに。恐ろしいことですわ」メアリ夫人は身震いしていった、「お気の毒なバーソロミュー卿」
「バーソロミュー卿とはあまりお親しくなかったんですね?」サタスウェイト氏は当てずっぽうにきいてみた。
「あの方にお目にかかったのは二回だけだと思いますわ。一度は一年ばかり前にチャールズ卿のところへ週末を過ごしにいらした時で、もう一度はバビントンさんがお亡くなりになったあの恐ろしい晩でございます。ですからバーソロミュー卿から招待状をいただいた時には大そうびっくりいたしましたけれど、エッグが喜ぶだろうと思ってお受けしたのですよ。かわいそうにあの子はおもしろいことはほとんど経験しておりませんし、それに近頃は何事にも興味がわかないらしくて元気がなかったんでございます。それで盛大なハウス・パーティに行けばあの子も元気を出すんじゃないかと思いまして」
サタスウェイト氏はうなずいていった。
「オリヴァー・マンダーズ君のことを少し話して下さいませんか。あの青年にちょっと興味があるんですよ」
「利口なんだと思います。もちろん、あの人にしてみればいろいろ辛いことがあったんですが……」
メアリ夫人はそういって顔を赫らめたが、サタスウェイト氏がうながすように見たので話をつづけた。
「ええ、あの人のお父様とお母様は正式に結婚してなかったんですの……」
「ほほう、ちっとも知りませんでしたな」
「ここでは皆さんご存じなのです、そうでなかったら私こんなこと申し上げたりはいたしませんわ。オリヴァーのおばあ様にあたるマンダーズ夫人という方はダンボインに住んでいらしたのです、あのプリマス街道にあるわりと大きなお家ですわ。そのご主人はここで弁護士をしておいででしたが、息子さんはロンドンの会社へ出ていらして、とても成功してお金持でした。娘さんはとても美人でしたが、奥さんのある人にすっかり夢中になってしまって……私、ほんとにその男を憎みますわ。とにかく、いろいろスキャンダルをまき散らしたあげく二人は駆《か》け落ちしてしまったのです。その男の奥さんは離婚に同意しませんでした。マンダーズの娘さんの方はオリヴァーが生れるとまもなく亡くなり、オリヴァーは子供のなかったロンドンの叔父さんの世話を受けることになって、叔父さんのところとおばあ様のところを行ったり来たりしてました。夏休みは必ずこちらへ来てましたわ」
メアリ夫人はちょっと口をつぐんだが、また話し出した。
「私いつもかわいそうに思っておりました。今でもですわ。あのひどくうぬぼれた態度もうわべだけだと思いますの」
「そううかがっても驚きませんよ。よくあることですからね。自分のことばかり偉《えら》そうにいって絶えず自慢している人を見ると、必ず私はこの人はなにか劣等感を抱いてるなとわかりますよ」
「奇妙なことですのね」
「劣等感というのは非常に妙なものですよ。例えばクリッペンは明らかに劣等感に悩まされてましたね。数々の犯罪のかげにはそういうことがあったのです。自分というものを主張したいという欲望ですな」
「そんなものでしょうか」メアリ夫人は低い声でそう呟《つぶや》いたが、ちょっとひるんだように見えた。その夫人をサタスウェイト氏はすっかり感傷的なまなざしになって見ていた。彼はこのひとのなで肩の優雅なからだつきが、その眼のやわらかな茶色が、そして全く化粧していない点が好きだった。彼は思った『若いときは美しい人だったろうなあ……』
あでやかな美しさ、バラの美しさではない、そうじゃない、美しさをつつましく秘めた一輪のすみれの花だ……。
彼の想念は、若き日によく口にした言葉となってひろがっていった……、彼は自分の青春時代のことを思い出していた。
やがてサタスウェイト氏は、おのがラヴストーリーをメアリ夫人に語っている自分に気がついた――それは彼の経験したたった一つのラヴストーリーで、今日の感覚からすればいささか貧弱なものだったが、サタスウェイト氏にとってはこよなく大切なものだった。
彼は彼女の話をして聞かせた。どんなに美しい娘だったかを、そしてブルーベルの花を見にキューまで二人で行ったときの様子を。その日彼は求婚するつもりだった。自分の気持に彼女も応《こた》えてくれるであろうと想像していた。その時、ちょうどブルーベルを眺めながら二人で立っている時、彼女は秘密を聞いてほしいといったのだった……彼女は他の男を愛していたのだ。それからは、彼はせつない想《おも》いを胸に秘めたまま、忠実な友だちの役にまわったのだった。
この話は活気に満ちたロマンスとはいえなくても、メアリ夫人の客間の色褪《いろあ》せた更紗や薄手の茶碗などの雰囲気の中では快くひびいたのだった。
そのあと今度はメアリ夫人が、自分の生いたちや幸せでなかった結婚生活の話をして聞かせた。
「私はとても愚かな娘でしたの――女の子というものは愚かなものでございますよね、サタスウェイトさん。みんな自分のことは自信があって、自分が一番よく知ってるつもりでおります。よく『女の直感』ということが書かれたりいわれたり致しますけれど、私はそんなものがあるとは信じませんわ。用心しなくちゃいけないタイプの男もいるってことを女の子に教えるものなんてないように思います、女の子自身のうちにはないという意味でございますよ。親は注意しますけれど、何の役にも立ちません、全然信用しませんもの。こんなこと申しますのは恐しいことですけれど、誰かのことをあれは悪い男だと聞かされると女の子は何となく惹《ひ》かれるものですわ。すぐ、私の愛情で立ち直らせてみせる、と考えるのですよ」
サタスウェイト氏はおだやかにうなずいた。
「みんなほんとに何も知っちゃいないんですな、少しわかって来たころにはもう間に合わない」
メアリ夫人はため息をもらしていった。
「みんな私が悪かったんでございます。私がロナルドと結婚するのを家の者はみな反対いたしました。父などは、あれは悪いやつだとはっきり申しましたが私は信じませんでしたの。私のためにきっと心を入れかえてくれると信じておりました……」
彼女はちょっと口をつぐんでその頃のことを考えていた。
「ロナルドはとても魅惑的な男でした。父の申しましたことは正しゅうございました。まもなく私にもわかったのですわ。昔風ないい方でございますけれど、あの人は私に胸のつぶれる思いをさせたのです、そうですわ、あの人は私の心をめちゃめちゃにしたのです、それからというものは、この次はどんなことになるかと心配ばかりしておりました」
他人の人生というものに絶大な関心を抱いているサタスウェイト氏は、それと気づかれないように用心しながら同情するようなあいづちをうった。
「サタスウェイトさん、こんなことを申しましてはなんでございますが、でもあの人が急性肺炎で亡くなりました時には私ほっといたしましたわ。あの人のことなどどうでもよかったというのじゃございませんのよ、私はおしまいまで愛しておりました――でもどういう人かはもうよくわかっておりました。それにエッグもいたことですし……」
声を和《やわ》らげて彼女はつづけた。
「ほんとにおもしろい子でございましたわ。まるっきり太っちょで|立っち《ヽヽヽ》しようとするたんびに転んで――ちょうど卵《エッグ》みたいでしたの。それであんなおかしな呼び名がついてしまったんですけれど……」
再び口をつぐんだ彼女は、また話し出した。
「ここ二、三年に読みました本が私に大そう慰めになりました。心理学の本でございます。人にはいろいろと自分ではどうにもならないことがあるようでございますね。一種の心の歪《ゆが》みですわね。非常に育ちのよい一家にそういうのがままあるのですって。ロナルドは子供の時学校で他人のお金をとったのです――別にお金がなかったわけじゃないんですのに。私、今考えますと、あの人はするつもりがなくてもしないではいられない人だったのだ、という気がいたします。……生まれつきそういう歪みがあったんですわ……」
メアリ夫人はそうっと小さなハンケチを目にあてた。
「こんな風に信じるように私、育てられたわけじゃございませんのよ」いいわけするように彼女はいった、「私は誰でも善悪はわきまえているものだと教えられましたわ。ですけどどうも――必ずしもそうばかりとはいえないと思いますの」
「人間の心なんて実にわからないことだらけですよ」サタスウェイト氏は静かにいった、「それでも何とか理解しようと我々は努めるんですな。れっきとした精神病とまでいかなくても、ブレーキのきかない人というのが時にあります。奥さんなり私なりが『私はあの人が憎い、死んじまえばいい』といったとしたって、我々の場合なら、そんなことは口にしたかしないかにきれいに忘れていますよ。ブレーキがひとりでに働いてるんですな。ところが中にはいったん思ったことは、執念《しゅうねん》というか、つきまとって離れない人がいて、彼らはそれをすぐ実行に移してみる喜びのことしか考えないんですよ」
「なんですか私にはたいそう難しゅうございますわ」
「これは失礼しました、少し固苦しい話をしてしまいましたね」
「近ごろの若い人たちは自制心がないという意味でしょうか? 私、よくそれが心配になりますの」
「いやいや、そういう意味じゃありません。自省し過ぎないということはいいことだと思うんですがね、健全ですよ。エッグ……さんのことをおっしゃってるんですね?」
「どうぞエッグとお呼び下さいまし」メアリ夫人はほほえみながらいった。
「そうですか。卵《エッグ》さんではちょっとおかしいですな」
「エッグはとても衝動的なんでございます、いったんこうと決めたらてこでも動きません。さっきも申しました通り、私、あの子がこんな事件に首をつっこむのが嫌なんでございますけれど、私のいうことなんか聞くものではございませんわ」
サタスウェイト氏はメアリ夫人の心配そうな様子がおかしかった。彼は思った。
『エッグがこの犯罪事件に熱中しているのは、女が男を追いまわすという昔々からあるゲームの新しい型に過ぎないんだが、メアリ夫人には思いもよらないらしいな。そうなんだ、そんなことがわかったら、それこそびっくりすることだろう』
「エッグは、バビントンさんもやっぱり毒殺されたのだと申しますが、あなた様もそれは本当だとお思いでいらっしゃいますの? それともエッグのいつものいい加減な話だとお思いになります?」
「はっきりしたことは死体発掘がすめばわかると思うんですよ」
「それでは、死体発掘があるんでございますか?」メアリ夫人は身震いした、「なんてお気の毒なんでしょう、バビントンさんの奥様。女にとってこれ以上恐ろしいことはございませんわ」
「奥さんは、バビントンさんご夫妻とはかなりお親しいんでしょうな?」
「はあ、それはもう。私どもとはとても親しくしていただいております――いえおりましたんですわ」
「あの牧師さんに恨《うら》みがあったような人はご存じありませんか?」
「いいえ、そんな」
「そんな人の話はしてませんでしたかな?」
「いいえ」
「で、あのお二人は仲がよかったんですね?」
「それはお似合いのご夫婦でいらっしゃいましたわ。お互いに満足し、よいお子さんたちにも恵まれてお幸せそうでした。そりゃもちろん貧乏でいらしたし、バビントンさんはリューマチがおありでしたけれど、あの方たちの悩みといったらほんとにそのぐらいのものでしたのよ」
「オリヴァー・マンダーズ君はあの牧師さんとはどうでした?」
「そうですわね……」メアリ夫人はちょっとためらった、「あまり仲良くはございませんでした。バビントンさんたちは、オリヴァーのことをかわいそうがってましたのよ、オリヴァーも休みになると、バビントンさんの坊ちゃんたちと遊びに、牧師館へしょっちゅう行ってましたわ――あまり仲良くはなかったようですけれどね。オリヴァーは人にあまり好かれない子でしたわ。あの子はお金がたくさんあることだの、寄宿舎へ持って帰るご馳走《ちそう》のことだの、ロンドンのいろんなおもしろい話だのの自慢ばかりしてましたの。男の子ってそういう子には意地悪《いじわる》なものですもの」
「そうですな。しかしその後――大きくなってからは?」
「お互いにあまり行ったり来たりしなかったようですわね。いつでしたかこの私の家で、オリヴァーはバビントンさんに少し失礼なことをいいましたんですよ。二年ほど前ですけれど」
「どうしたんです?」
「オリヴァーが少々不作法にキリスト教の攻撃をしたんでございます。バビントンさんはじっと我慢なすって丁寧に返事をしてらしたんですが、それがオリヴァーにはますます気に入らなかったとみえてこう申しました、『あんた方宗教家は僕の両親が正式に結婚してないというんで見くだしてるんだ、僕のことなんか不義の子と呼んでるにちがいない。いいさ、僕は自分の罪を認めるだけの勇気がある人間、そして、偽善者や坊主共の寝言なんか気にしない人間を尊敬するんだ』バビントンさんがだまっていらっしゃると、オリヴァーはなおも申しました。『返事ができないだろう。世界中をこんな混乱に陥し入れたのは教会主義と迷信尊重なんだ。世界中の教会という教会をとっ払ってやりたいくらいのもんだ』バビントンさんはにやとなさっておっしゃいました、『それに牧師もね?』 私の思いますには、にやとなさったのがオリヴァーにはおもしろくなかったんでしょうね。まじめにとりあってくれないと思ったのです。『僕は教会の象徴してるものは何もかも嫌いだ、ひとりよがり、安全主義、偽善だ。もったいぶった口ばかりききやがる手合いなんか消えてなくなれってんだ!』するとバビントンさんはにっこりなすって――ほんとにおやさしい笑顔でおっしゃいました。『君、ねえ、かりに君が教会を根こそぎにしたところで、それでも神は無視できないのだよ』」
「マンダーズ君それに対してはなんていいました?」
「はっとしたようでしたわ。それから落ちつきをとり戻していつものばかにしたようなものうげな態度になりました。そして『僕が今いったことは不作法だったかもしれません、牧師さん、しかしあなた方の世代の人々にはとうていわかってもらえないんです』と申しましたわ」
「奥さんはマンダーズ君をお好きじゃないんですね、そうでしょう?」
「かわいそうだと思ってますわ」メアリ夫人は弁解するようにいった。
「だがエッグと結婚させるのはお嫌《いや》のようだ」
「あら。それは困りますわ」
「なぜでしょうか? はっきりおっしゃると?」
「なぜって――なぜってあの人やさしいところがございませんもの……それにあの……」
「なんですか?」
「なぜって、あの人には何かあるんですわ、どこか私に理解できないものが。何か冷たいところが……」
サタスウェイト氏はしばし感慨にふけるように夫人の顔を見ていたが、やがていった。
「バーソロミュー卿は彼のことをどう思ってましたかねえ? 何かいってませんでしたか?」
「あの方がマンダーズ青年はおもしろい研究対象になるっておっしゃったのを覚えておりますわ。療養所で扱ってらしたある症例を思い出したっておっしゃいましたので、私が、オリヴァーは特別がっしりして健康そうに見えるけれどと申し上げましたら、『ええ、健康は大丈夫ですが、向こう見ずな男ですよ』とおっしゃいましたの」
メアリ夫人はちょっと考えてからいった。
「バーソロミュー卿って神経科のお医者様として大そう偉い方だったのでしょうね」
「医者仲間でもずいぶん高く評価されてたようですよ」
「いい方でしたわ」
「バーソロミュー卿はバビントン氏の亡くなったことで何かいってましたか?」
「いいえ」
「全然その話はしなかったんですね?」
「なさらなかったと思いますわ」
「奥さんは――あまりよくご存じないんですから無理かもしれませんが――奥さんは、何かあの人が考えてるようだとお思いになりましたか?」
「あの方とても上機嫌でいらっしゃいましたわ――何かおもしろいことがあるというような――何か冗談事をかくしてらしたんでしょうか。あの晩お食事のときに何か思いがけないことで私をびっくりさせてみせるっておっしゃってましたのよ」
「ほう、そういいましたか、そうですか」
帰る道々、サタスウェイト氏は今の話を一生懸命考えていた。
バーソロミュー卿が客をおどろかすつもりだった思いがけないこととはいったい何なのか?
それが実際に行われたとしたら、彼が装っていたほどおもしろいことだったのだろうか?
それともそのはしゃいだ態度は、ある目的をそうっと遂行するための仮面であったのか? それは誰にもわかるまい。
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第三章
「正直いって我々はいくらかでも前進してるのかね?」チャールズ卿がいった。
作戦会議であった。チャールズ卿、サタスウェイト氏、それにエッグ・リトン・ゴアが例の船室のような部屋に集まっていた。暖炉には火が赤々と燃え、窓の外では彼岸嵐《ひがんあらし》が猛《たけ》り狂っていた。
サタスウェイト氏とエッグは同時に答えた。
「していない」とサタスウェイト氏。
「してるわ」とエッグ
チャールズ卿は二人の顔を見くらべた。サタスウェイト氏はいんぎんにレイディファーストをうながした。
エッグはしばらく沈黙したまま考えをまとめていたが、やがて口を開いた。
「私たち前進してるわ。私たちは何ものをも未だに発見しないが故に前進しているのよ。ナンセンスに聞こえるでしょうが、そうなのよ。私のいう意味は、私たちは大体の見当を幾つかつけてみた、その見当のうちあるものははっきり的《まと》はずれだったことがわかった、っていうことなの」
「つまり消去法による前進だな」チャールズ卿がいった。
「そうなの」
サタスウェイト氏が咳払《せきばら》いした、彼は物事を定義するのが好きだ。
「利害関係という見当は明らかに除去してかまわないね。推理小説の口調をかりていうなれば、スティーヴン・バビントンの死によって利益を得る人間は一人もいないようだ。怨恨《えんこん》説も同様に問題外である。平和を愛するあのおだやかな性質を考慮にいれないまでも、バビントン氏は敵ができるほど重要人物だったとは思えない。そこで我々は三番目のおよそ大ざっぱな見当――恐怖説に結局行きつくわけだ。スティーヴン・バビントンの死によって身の安全を得る人間がいる」
「とてもうまくおっしゃったわ」
サタスウェイト氏は大げさな様子こそしないが、いかにも満足の体《てい》だった。チャールズ卿の方はいささかおもしろくない面《おも》もちである。主役は彼のもので、サタスウェイト氏の役ではないはずなのだ。
「要点は」エッグがいった、「我々は次に何をなすべきかということね、――実際の行動のことよ。誰かを尾行しますか? 変装でもしてあとをつけることにしますか?」
「ねえ君」チャールズ卿がいった、「僕は髯《ひげ》など生《は》やした老人の役はこれまで断固としてやらないできたんだよ、それを今更やりたかないな」
「じゃどうする……?」エッグはいいかけたがさえぎられた。ドアが開いてテンプルが告げた。
「エルキュール・ポワロ様でございます」
ポワロは満面に笑《え》みを浮かべて、すっかり度肝《どぎも》をぬかれている三人に挨拶《あいさつ》をした。目をキラキラさせて彼はいった。
「この会議に列席させて頂いてもよろしゅうございますね? 私、当たっておりますでしょう、当たってませんか、つまりこれは会議でございましょうな?」
「これはこれは、ようこそおいで下さった」チャールズ卿はようやくにしておちつきをとり戻すと、新来の客と固く握手を交して大きな肱《ひじ》かけ椅子《いす》に彼を坐らせた。「いったい全体だしぬけにどこから降ってわいたんです?」
「私、私のお友だちサタスウェイトさんをロンドンのお宅にお訪ねしたんですが、今お留守でコンウォールへおいでだとうかがったもんで。ええ、どちらへ行かれたかはすぐわかりましたよ。私はだからルーマス行きの一番の汽車にのりました、それでここにいるわけですな」
「そう、でもなぜいらっしゃいましたの? いえ、あのう」いい方が失礼だったかもしれないと気づいて少し赤くなりながらエッグはいった、「何か特に理由があっておいでになったんですのね?」
「私が来ましたのは、私のまちがいを認めるためですよ」
彼は愛想《あいそ》のよい笑いを浮かべてチヤールズ卿の方に向き直り、外国人的な身振りで両手をひろげてみせた。
「ムッシュー、あなたが不満だとおっしゃったのは、ちょうどこの部屋にいた時でした。それで私は――私はそれはあなたの役者的本能だと思いました。私は思いました、彼は偉大な役者だ、何はさておき彼は芝居なしじゃいられない、とね。正直に申しますが、あんなおだやかなご老人が不自然な死に方をなさるなんて考えられないと思いました。今でも私はあの方がどうやって毒を飲まされたのかもわかりませんし、動機がなんであるかも見当がつきませんよ。ばかげて見えます――不合理です。しかしですよ、あれ以後、また急死事件があった、同じ状況の中で起こった。偶然の一致としてかたづけることはできません。そうじゃない、二つの間にはつながりがあるにちがいない。それでチャールズ卿、私はお詫《わ》びをいいにまいったのです。つまり、この私、エルキュール・ポワロはまちがっておりましたと申し上げ、あなた方の会議に私も参加させていただきたいとお願いに上がったのですよ」
チャールズ卿は少々神経質に咳払いをした。いささか当惑の様子で彼はいった。
「それはそれはどうもわざわざ、ポワロさん。どうもそのう――お忙しいのに時間をおとらせして――」
言葉につまっていいよどんだ彼は、目顔でサタスウェイト氏に相談した。
「どうもご親切に――」サタスウェイト氏はそういいかけた。
「いやいや、親切じゃない、好奇心ですよ。それに、左様、私のプライドが許しませんのでね。自分の誤りは訂正しなくてはいけません。時間をとる――そんなことはかまいません――世界漫遊なんぞどうでもよい、言葉は違うかもしれませんが、どこへ行ったって人間性は同じですからな。ですが、もちろん、もし私、歓迎されませんのなら、もし皆さんが余計な闖入者《ちんにゅうしゃ》とお感じなら……」
二人の男は大急ぎでいった。
「いや、とんでもない」
「それどころか」
ポワロはエッグの方へ目をやった。
「で、|お嬢さん《マドモアゼル》は?」
エッグはちょっとの間何も口をきかなかった、三人の男たちは同じことを感じた、|エッグはポ《ヽヽヽヽヽ》|ワロ氏の助力を望んでいない《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》……。
サタスウェイト氏は自分はそのわけを知っていると思った。これはチャールズ・カートライトとエッグ・リトン・ゴアの二人だけの芝居なのだ、サタスウェイト氏の場合は、重要でない第三者であるというはっきりした了解のもとに大目に見られているのだが、エルキュール・ポワロとなると別だ。ポワロなら主役をやることになるだろう。恐らくはチャールズ卿だって退陣してポワロに譲るだろう。とすれば、エッグの計画はぶちこわしだ。
サタスウェイト氏はその苦境に同情してじっと彼女を見まもった。この二人の男にはわからないのだ、しかし自分は、多分に女性的な繊細さをもっているから彼女のジレンマがよくわかる。エッグは幸福を掴まえようとして奮闘しているのだ……。
エッグは何というだろうか? 彼女は何をいえるというのだ? 心に思っていることをどうしていえるだろう?『帰って、帰って。あなたが来ちゃ何もかも駄目になる、――来てもらいたくないわ……』
エッグ・リトン・ゴアは、彼女のいえるただ一つのことを口にした。
「もちろん私たち、あなたがいらして下さればうれしいわ」小さく微笑して彼女はそういった。
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第四章
「よろしい。私たちは同士です。さてそれでは、よろしかったら現在までの経過を話していただきたいものですな」ポワロがいった。
サタスウェイト氏がイギリスへ帰ってきてからのことをざっと話し出すと、ポワロは熱心に耳を傾けた。サタスウェイト氏はなかなかの語り手で雰囲気《ふんいき》を伝え、情景をまざまざと描き出す才能をもっていた。修道院《アベイ》のこと、女中たちのこと、警察部長のことなど、彼の描写はみごとだった。ポワロは、チャールズ卿がガスストーヴの下から書きかけの手紙を発見した点を大いに賞めそやした。
「ほう、それはすごい!」彼は夢中になってさけんだ。「推論といい、再現してみたところといい、完璧《かんぺき》だ! あなた、名優になるかわりに名探偵になられた方がよかったですな、チャールズ卿」
チャールズ卿はこの賛辞を適度のつつましさをもって受け入れた、――それは彼独特の謙遜《けんそん》の表現であった。長年の舞台生活の間に、チャールズ卿は演技に対する賛辞をありがたく受け入れる際の一つの態度を身につけていたのである。
「それからあなたの観察は至極当を得てますな」ポワロはサタスウェイト氏に向かっていった、「バーソロミュー卿が執事と急に親しげにした点を指摘されたところなんかですよ」
「そのド・ラッシュブリジャー夫人というのに何かありそうだという考え方はどうでしょうね?」チャールズ卿が熱心にきいた。
「それも一つの思いつきでしょうな。暗示――左様、そのことはいろいろな事を暗示してるじゃありませんか?」
そのいろいろな事というのが誰一人よくわからなかったが、三人ともわからないとはいいたくないものだから、ただ『そうだそうだ』というようなことを口の中で呟《つぶや》いていた。
チャールズ卿があとの話をひきうけて、エッグと二人でバビントン夫人を訪れたこと、しかしあまり収穫はなかったことなどを説明した。
「さあこれで今までの経過がおわかりと思います。我々の知ってることはあなたにも全部わかったわけだ。おっしゃって下さい、今までの話でどうお感じになりましたか?」
熱心な少年のように彼は身をのり出してきいた。ポワロはしばらくの間何もいわない、三人はじっとポワロをみつめていた。
やっと彼は口をひらいた。
「マドモアゼル、バーソロミュー卿のテーブルにあった葡萄酒のグラスの型を思い出せますか?」
エッグが苛立《いらだ》たしげに首をふるのと同時にチャールズ卿が口をはさんだ。
「それは僕がお答えできます」
彼は立ち上がって棚から重みのあるカットグラスのシェリー用のものを二つ三つとり出した。
「もちろん、彼のところのは形が少し違います――もっと丸みのあるふつうの葡萄酒用の型ですから。彼はラマスフィールドの売り出しでガラス食器をセットで買ったんです。僕が感心したもんで、必要ないのもあるからって一部分ゆずってくれたんですよ。どうです、いい品物でしょう?」
ポワロはグラスを手にとって仔細に見ていった。
「なるほど、これは立派なものだ。こういう種類のものが使われたんだろうとは思ってましたがね」
「なぜですの?」エッグが思わず叫んだ。
ポワロは彼女にはただ笑ってみせ、話をつづけた。
「そうです、バーソロミュー・ストレンジ卿の死は簡単に説明がつきますが、スティーヴン・バビントンの方は難しい問題です。ああ、もしこれが反対でさえあればね!」
「どういう意味ですか、反対とおっしゃるのは?」サタスウェイト氏がきいた。
ポワロは彼の方を向いていった。
「考えてみて下さい、あなた、バーソロミュー卿は名高い医者です、名高い医者の死因はいくらでも考えられます。医者というものは他人の秘密を――重要な秘密を知っている、医者は権力ももっている。常人と狂人の境い目にあるような患者を考えてごらんなさい、医者のひとことでその人は世間からシャット・アウトされてしまうかも知れないでしょう、そうした場合その不安定な頭にどんな誘惑がもたらされるか!また、医者はある患者の急死に不審を抱くこともあるでしょう――そうですよ、医者の死因にはいくらだって動機は考えられますよ。
ところで、さっきも申しましたように、これが反対でさえあればいいんですがね。つまりバーソロミュー卿が先に亡くなって、バビントン氏がその後だとね、というのは、スティーヴン・バビントンは何かを見てたかも知れない――、第一の死に対して何か不審を抱いたかも知れないですからね」
ポワロはためいきをついてからまた話し出した、「ですが、事実を自分の好きなように考えるわけにはいかない、ありのままに受けとるほかはない。そこでほんのちょっとしたヒントですがいってみたいことがあります。つまりスティーヴン・バビントンの死は偶発的なことだった――すなわち、もし毒殺だったとして、それはバーソロミュー卿を殺すつもりだったのが手違いで別の人間が殺されてしまった、ということもあり得ないことじゃない」
「それはいい思いつきだ」チャールズ卿は顔を輝かせてそういったが、再びうなだれていった、「しかしやっぱり駄目でしょう。バビントンはこの部屋へ入って来てものの四分とたたないうちに具合が悪くなったんですよ、その間にあの人の喉を通ったものといえばグラスに半杯のカクテルだけ、そのカクテルには何も入ってなかったのですから――」
ポワロがさえぎった。
「それは前にもうかがいました――ですがまあ議論として仮定してみて下さい、そのカクテルに何かあったとします。それはバーソロミュー卿に飲ませるはずだったのにまちがってバビントン氏が飲んでしまった、ということはあり得ますか?」
チャールズ卿は首をふった。
「トリーをよく知ってるものならカクテルに毒をいれて殺すはずはありません」
「なぜです?」
「あいつはカクテルは全然飲まないのですよ」
「全然?」
「全然です」
ポワロは弱り抜いたような様子をした。
「ああ、どうもこれは――完全に失敗ですな。筋が通らない……」
「それに」チャールズ卿がいった、「どのグラスにしろ他のグラスとまちがえてとるってことがわからないですな。テンプルが盆にのせて回ったんですが、どの人も好きなグラスを自分でとったんですから」
「なるほど、トランプならある一枚をとらせることはあるが、カクテルではそうはいきませんね。あなたのところのそのテンプルというのはどんな人です? さっき私を案内してくれた女中さんですね、でしょう?」
「その通りです。三年か四年ばかり使ってますがまじめないい娘です、仕事はよくわきまえてますしね。どういうところから来たのか私は知りませんが、ミス・ミルレイが詳《くわ》しいことは知ってます」
「ミス・ミルレイというのは、あなたの秘書ですな? 背の高い――ちょっと近衛歩兵《グレナデイア》みたいな?」
「ちょっとどころじゃなく大いに近衛歩兵《グレナデイア》ですよ」チャールズ卿が同感の意を表した。
「あなたとは今までにいろいろな機会にいっしょに食事しましたが、あの婦人にお会いしたのはこの間の晩が初めてのように思いますが」
「そうです、ふだんは我々とはいっしょに食事しないのです。あの時は十三人になるというのでね」
チャールズ卿がその時の様子を説明するのを、ポワロは注意深く耳を傾けてきいていた。
「では、彼女も列席すべきだといったのは、彼女自身の提案なんですな、なるほど」
ポワロはちょっと何か考えこんでいたがやがていった。
「お宅のそのテンプルとかいう客間女中とちょっと話すわけにはいきますまいか?」
「どうぞ」
チャールズ卿がベルを鳴らすと彼女はすぐ現われた。
「お呼びでございますか?」
テンプルは三十二、三歳の背の高い女で一種のスマートさを身につけており、つやのある髪もよくブラシされていたが、しかし美人ではなかった。その態度は落ちついてきびきびしていた。
「ポワロさんが君に少しききたいことがおありだそうだ」
テンプルは毅然《きぜん》とした態度で視線をポワロの方に向けた。
「今、バビントンさんが亡くなった晩の話をしてるところなんですが、あの晩のことは覚えてますね?」
「はあ、それは」
「カクテルがどのようにしてみなに出されたか正確なところが知りたいんですよ」
「失礼でございますが何とおっしゃいましたのでしょう」
「カクテルのことについて聞きたいのです。君がミックスしたんですか?」
「いいえ。それはチャールズ卿がご自分でなさるのがお好きなんでございます。私はベルモットやジンなどの瓶《びん》を運んでまいりました」
「そういう瓶はどこへおきましたか?」
「そのテーブルの上でございます」
テンプルは壁ぎわのテーブルを指さした。
「グラスをのせたお盆がここでございました。チャールズ卿はカクテルをお作りになるとグラスにお注《つ》ぎになり、それから私がそのお盆をもって回りまして皆様にお渡しいたしました」
「盆の上のカクテルはみんな君が渡したの?」
「チャールズ卿が一つとってリトン・ゴア嬢にお上げになりました。ちょうどあのお嬢様と話していらしたのです、そしてご自身も一つおとりになりました。それからサタスウェイト様が」テンプルはちょっと目を彼の方へ向けていった――「いらして女の方のところへ一つおもちになりました――ウィルズ様だったと存じます」
「その通りですよ」サタスウェイト氏がいった。
「ほかの皆様には私がお渡しいたしました。バーソロミュー卿以外の方は皆様召し上がったと存じます」
「大へんすまないがテンプルさん、その時のようにやってみてくれませんか。お客さんのかわりにクッションをおこう。私はここに立っていた、たしか――サトクリフさんはそこにいたようだ」
サタスウェイト氏が手つだってその晩の情景が再現された。彼はよく物事を観察する人だったから、どの辺にどの人がいたかを一々よく記憶していたのだ。それからテンプルが一人一人のところを回って歩いた結果、デイカズ夫人から始めて次がサトクリフ嬢とポワロ、それから並んで坐っていたバビントン氏、メアリ夫人、サタスウェイト氏のところへ来たことが確かめられた。
この点はサタスウェイト氏の記憶とも一致した。
テンプルがひき下がるとポワロは叫んだ。
「ふうん、これは駄目だ。テンプルはカクテルを扱った最後の人間だが、そのグラスに何か細工することはどうやっても彼女には不可能ですな。それにさっきも申した通り、特定の人間にあるグラスをとらせようとすることはできませんね」
「本能的に自分に一番近いのをとるでしょう」チャールズ卿がいった。
「盆をもって行った最初の人の場合はそうなるかも知れませんな――しかしそれだってどうですかね。グラスが一ぱいかたまってのっていれば、どれが一番自分に近いかなんてわからない。いやいや、そんなあてにならない方法に頼るわけにはいきません。サタスウェイトさん、うかがいますが、バビントン氏は自分のカクテルをテーブルにおきましたか、それとも手にずっと持ってましたか?」
「このテーブルの上におきましたね」
「そのあとで誰かそのテーブルのそばへ行きましたか?」
「いいえ、私があの人のそばにいた最も近い人間でした、で、断言しますが、私はそのグラスに何らいたずらはしませんでしたよ――たとえこっそり何かやれたにしてもですな」
サタスウェイト氏はいささか身を固くしてそういった。ポワロはあわてて弁解にこれつとめた。
「いえいえ、あなたに嫌疑をかけてるわけじゃありません――とんでもない! 私は事実を確かめておきたかったのです。分析の結果ではカクテルの中には変なものは何もなかった――ところで分析のことはさておいても今の実演の結果からも、カクテルの中に何か入れられた筈はなさそうですね。同じ結果が二つの異なったテストから得られました。しかしバビントン氏は他には何も飲みも食べもしていない、そしてもし純粋のニコチンによる毒殺だとすると、死に至るのは非常に迅速《じんそく》である筈ですね。するとこれはどういうことであるかわかりますね?」
「どういうことにもなりませんよ、全然」チャールズ卿がいった。
「私はそう申しませんよ、ええ私はそうはいえません。このことは非常に恐ろしい見方ができることを示しています――こんなことは真実の筈がないと私は望みます、いや信じてますがね。そうですもちろん真実ではない、バーソロミュー卿の死がそれを証明している……、ですが、やっぱり――」
ポワロは顔をしかめ、何か考えこんでいる。他の三人はどうなることかとポワロをじっと見ていた。やがて彼は顔を上げていった。
「私のいうことはおわかりですね、わかりませんか? バビントン夫人はメルフォード修道院《アベイ》には行かれなかった、従ってバビントン夫人には容疑はかかりません」
「バビントン夫人ですって? しかしあの人のことは誰もこれっぽっちも疑っちゃいないですよ」
ポワロは憐《あわれ》むようにほほえんで見せながらいった。
「そうですか? それは妙ですなあ。私はすぐそう考えてみましたよ、すぐです。もしあのお方がカクテルで毒殺されたのでないとすると、この家にはいる直前に毒を飲まされている筈ですよ。どんな方法が考えられますか? カプセルですか? おそらく何か消化しやすいようなものでしょうな。しかしその場合いったい誰ならそれができますか? 奥さんしかありません。他人が疑いもかけないような動機をもち得るのは誰でしょう? やっぱり奥さんです」
「でもあの方たちはお互いにそれは仲がよかったのよ、あなたなんてちっともわかってらっしゃらないんだわ」エッグが憤然として叫んだ。
ポワロはにっこりしてやさしく彼女をみていった。
「わかっていない、それが大切なのです。あなたは知っておいでですが、私は知りません。私は何らの先入主なしに公平な目で事実を見るのです。そこで|お嬢さん《マドモアゼル》、少し聞いていただきたいのですが、今までの経験で私は愛し愛された夫に殺された妻の事件を五つ、同様に愛し愛された妻に殺された夫の場合は二十二件知っているのです。女性の方が見かけを繕《つくろ》うのがうまい証拠ですな」
「あなたってなんてひどい方なの。私はバビントンさんたちはそんな方たちじゃないことを知ってます。そんなのって、そんなのって恐ろしいことだわ!」
「殺人というのは恐ろしいことですよ。|お嬢さん《マドモアゼル》」ポワロはいったが、その声には急にきびしいものが感じられた。少し声を和らげて彼は続けた。
「しかし、私は――事実しか見ないこの私もですよ――バビントンの奥さんがそんなことはなさらなかったということには同意します。ご承知のようにあの方はメルフォード修道院《アベイ》にはいらっしゃらなかった。そうです、チャールズ卿がすでにいわれたように、この犯罪を犯したものは両方の現場にいた人たち――あなた方の作ったリストの七人のうちの一人なのです」
しばし沈黙が流れた。やがてサタスウェイト氏がきいた。
「それで私どもはどういう行動をとるべきだとおっしゃるのですか?」
「もちろんもう計画は立てておいでですね?」ポワロはいってみた。
チャールズ卿が咳払いしていった。
「うまく行きそうなことは一つしかないんですが、それは一つ一つ除外していくやり方だと思うんです。私の考えでは、そのリストの人物を一人一人考えてみて、各々無実が証明されるまでは容疑があるとするんです。つまりですね、それぞれの人物とスティーヴン・バビントンとの間には関係があるものと思うことにして、その関係がいかなるものであるかを全力をあげて探し出すんです。関係がどうしても発見できないとなった時に次の人物に移る、ということにするのです」
「それはうまい考えですな、それでその方法は?」
「まだ検討してみるだけの暇がなかったんですよ。ポワロさん、その点についてあなたのご意見を歓迎したいと思うんですが、おそらくあなたご自身――」
ポワロは片手をあげて制した。
「あなた、実際の行動をどうするというようなことは一切私にお頼みにならないで下さい。どんな問題であろうと頭で考えるのが一番の解決策だというのが私の長年の信念です。たしか『訴訟警戒依頼』とかいう言葉がありましたね、私にはそんなことでも引き受けさせて下さい。あなた方はチャールズ卿が立派に采配をふっておられるこの調査を、そのままお続けになればいい――」
『私はどうしてくれるのだ?』サタスウェイト氏は思った『この役者ども! いつも脚光を浴びて主役を演じるんだ!』
「皆さんはおそらく顧問の意見というようなものが聞きたいことがおありだと思いますよ。私はその顧問になりましょう」
ポワロはにこにこしてエッグの方を向いていった。
「|お嬢さん《マドモアゼル》、これならもっともなやり方じゃありませんか?」
「とてもいいわ。きっとあなたのご経験がずいぶん私たちの役に立つと思うわ」
エッグはほっとしたような顔をしていた。彼女は腕時計をちらりとみて大きな声をあげた。
「帰らなくちゃ、ママがかんかんになるわ」
「僕が車で送って上げよう」チャールズ卿がそういって、二人は出て行った。
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第五章
「そうら、ね、魚は釣《つ》れたでしょう」エルキュール・ポワロはいった。
出て行った二人の背後にぴたりと閉ざしたばかりのドアを見つめていたサタスウェイト氏は、びっくりしてポワロの方へむき直った。ポワロはちょっとからかうようににやにやしていた。
「そうでしょう、否定はなさいますまい。先日モンテカルロであなたはわざと私に餌《えさ》をお投げになったですな。違いますか? 新聞の例の記事を私にお見せになった。あなたは私が興味を起こしてこの事件に一生懸命になればいいと、お思いになったんですよ」
「おっしゃる通りです」サタスウェイト氏は白状した、「しかし、失敗したと思ってたんですがね」
「どういたしまして、失敗なぞなさるものですか。あなたは人間の心の判断にかけちゃ鋭いお方だ。私は退屈をもて余していたんですよ、あの時そばで遊んでいた子供の言葉をかりていえば『することが何にもなかった』んです。まさに心理的な瞬間にあなたがいらしった。いや、心理的な瞬間と申せば犯罪というやつもまたこの心理的瞬間にどれだけ関係あるかわかりませんな、犯罪と心理、これは両々相まっているものです。ところで本題に帰りますが、これは大そう手のこんだ犯罪ですな、私は完全に煙にまかれました」
「どちらの犯罪のことです? 最初のですか、第二のですか?」
「犯罪は一つですよ――あなたが第一の殺人とか第二の殺人とかおっしゃるのは同一犯罪のそれぞれ半分をなしているに過ぎないのです。後の方の半分は単純なものだ――動機といい、手段といい――」
サタスウェイト氏がさえぎった。
「どっちの場合も手段は同じぐらい難しい筈ですよ。どの酒にも毒はなかったんですし、食事の方も一人残らず食べたんですからね」
「いやいや、大へん違いますよ。第一の事件ではバビントン氏に毒を盛ることはどの人にも可能とは思えません。チャールズ卿がもしその気になったとして、誰か一人を殺すことはできても特定の一人を殺すことはできません。テンプルだって、盆の上に最後に残ったグラスに何か入れることはできないこともないが、しかしバビントン氏のグラスは最後のやつじゃなかったでしょう。そうです、バビントン氏の殺害はとても不可能なことに思われるのですよ、私はいまだにひょっとしてそんなことはあり得ないんじゃないか、あの方は結局不自然な死に方をなさったんではないのじゃないか、と思うぐらいです――ですが、それはいずれまもなく判るでしょうね。ところで第二の場合は違います、列席者の誰でも、また執事だろうと女中だろうとバーソロミュー卿に毒を盛ることは可能です。何ら難しいことではない」
「私にはどうもよく――」サタスウェイト氏がいいかけたが、ポワロはお構いなくしゃべった。
「そのうちちょっとした実験をやって証明してお目にかけますよ。さてもう一つ最も大切な問題に移るとしましょう。ご承知のように、他人の楽しみの邪魔をする役を私は演じてはいけない、これは非常に重要なことです」
「そうおっしゃる意味は――」サタスウェイト氏はにやりとしかけながらいおうとした。
「主役はチャールズ卿がやらなくては、ということですよ! あの方はいつもそれをやってきたんですからね。それに彼が主役をやることを願っている人がいる。私は間違ってないですね? 私がこの事件に首をつっこむことを、|お嬢さん《マドモアゼル》は全く喜んでませんからな」
「あなたは我々のいわゆる『ものわかりのよい』お方ですねえ、ポワロさん」
「ああ、そんなことはすぐ気がつきましたよ!私は大そう情にもろい|たち《ヽヽ》でしてね、他人様《ひとさま》の恋愛はなるべく励ましてあげるとも妨害はしたくありません。あなたと私はね、チャールズ・カートライトの名誉と栄光のためにこれを協力してやらなくちゃならない、そうじゃありませんかな? この事件が解決するその時には――」
「もし解決したら、でしょう――」サタスウェイト氏がおだやかにいい直した。
「した時には、です! 私が失敗するものですか」
「絶対にですか?」サタスウェイト氏はいぶかしげに訊いた。
「時にありますよ、あなた方にいわせれば『ものわかりの悪い』こともね、とっくにわかってもいい筈の真相になかなか気づかなかったりしますよ」
「それでも失敗は一度もなさらなかったんですね」
サタスウェイト氏がしつこくしたのは好奇心のため、ただそれだけのためだった、彼はほんとかしらと思ったのだ……。
「さよう、一度だけ。ずいぶん前のことですよ、ベルギーでね。その話は今やめましょう……」
サタスウェイト氏は、好奇心が(そしてちょっと起こした意地悪《いじわる》な心も)満されたので大急ぎで話題を変えにかかった。
「そうですか。さて、この事件が解決するその時は、とおっしゃってたんでしたが――」
「チャールズ卿がそれを解決なさるでしょう。そこが大事なところですよ。私は小さな一つの歯車になりましょう」ポワロは両手を拡げていった、「時々、そこここで、ちょっとひと言いうのです――ほんのちょっとしたこと――ヒントだけ、それ以外は何もしない。私は名誉も名声も欲しくない。欲しいだけの名声はもう手に入れましたからね」
サタスウェイト氏はすっかり興味を感じて相手をしげしげと眺めた。彼はこの小柄な男の天真爛漫《てんしんらんまん》な自負心を、そして大へんなエゴイズムをおもしろいと思ったのだ。しかし、これが単なる高言だなどと軽率に思いこんだりはしなかった。イギリス人はえてして自分がうまくやった時は謙遜して、しかも時には失敗すると喜びさえする。しかしラテン民族は自分の能力をもっと素直に認めるのだ。もし頭がいいならば、その事実を隠す理由は何ら見当たらないのである。
「ちょっとうかがいたいのですが」サタスウェイト氏はいった、「大そう私には興味があるんですが、あなたご自身はいったいこの事件から何を引き出すのがお望みなのです? 追求するおもしろさですか?」
ポワロは首をふった。
「いいえ、そうではありませんな。猟犬のように私は臭跡をつけていきます、そしてだんだん夢中になります。とにかく何か嗅ぎつけたが最後やめろといわれてもやめられない。それはたしかですが、それだけじゃないのです……何といったらいいのでしょうね? 『真実』に到達しようという情熱でしょうか。この世の中に、真実ほどふしぎで、おもしろくて、しかも美しいものはない……」
ポワロがそういったあと、ちょっとの間二人とも沈黙していた。やがてポワロはサタスウェイト氏がていねいに七つの名前を書きとっておいた紙を手にとって、声を出して読み上げた。
「デイカズ夫人、デイカズ大尉、ウィルズ女史、サトクリフ嬢、メアリ・リトン・ゴア夫人、リトン・ゴア嬢、オリヴァー・マンダーズ、ははあ、これは何かを語ってますな、ね?」
「それが何を語ってます?」
「名前の配列順序ですよ」
「そんなことが何を暗示してるとも思えませんがねえ。私どもは別に順序も考えないでただ書いていったんですから」
「そうでしょうな。筆頭はデイカズ夫人になってますが、このことから私は、この人が最も黒らしいと思われている、と推論しますな」
「最も黒らしい、ではありませんよ。最も白らしくない人物、といった方が当たってます」
「それなら三番目の表現の方がもっと当たってるでしょう、つまり、彼女は、他の人たちよりはこの人が犯人であればいいと恐らくみんなが望んでいる人物である」
サタスウェイト氏は思わず口を開きかけたが、ポワロのキラキラした緑色の目が静かにからかうように見ているのにぶつかって、いおうとしたことをやめ、別のことをいった。
「そうでしょうか――いや、ポワロさん、おっしゃる通りかもしれません。意識してませんでしたが、その通りかも知れませんね」
「お聞きしたいことがあるんですよ、サタスウェイトさん」
「どうぞ、なんでも」サタスウェイト氏はよろこんで答えた。
「あなたのお話から察しますと、チャールズ卿とリトン・ゴア嬢は二人でバビントン夫人に会いにいらしたようですな?」
「そうです」
「あなたはごいっしょではなかった?」
「ええ。三人となると大勢ですからね」
ポワロはにやっとした。
「それに、恐らくあなたのお気持が別の方面に傾いていたんでしょうな。あなたには他にやることがおありだった。どこへいらしたんです、サタスウェイトさん?」
「メアリ・リトン・ゴア夫人のところでお茶を頂いてたんですよ」サタスウェイト氏はちょっとぎこちなく答えた。
「で、何のお話を?」
「メアリ夫人が、昔結婚なさったころの苦労話を何かとうちあけて話して下さったのですよ」
サタスウェイト氏はメアリ夫人の話の大意をくり返した。ポワロは同情するようにうなずきながらいった。
「人生はたしかにそういうものですよ――悪い男にひっかかる理想主義の少女、しかも他人のいうことには耳をかそうとしない。ところであなた、他の話は何もなさらなかったですか? 例えばオリヴァー・マンダーズ君のことなんか?」
「たしかに話しましたね」
「それで何か彼のことがおわかりになったですね――どんなことがわかりました?」
サタスウェイト氏はメアリ夫人に聞いた話をしてきかせてからいった。
「私たちがマンダーズ君の話をしたことがどうしておわかりなんです?」
「だってあなたはそれが目的でそこへいらしたんですからな。ああ、いやいや、反対なさることはない、あなたはデイカズ夫人か、あるいはそのご主人かが犯人だといいと|望んで《ヽヽヽ》はいらっしゃるが、ほんとはマンダーズ君が犯人らしいと|思って《ヽヽヽ》おいでなんですよ」
サタスウェイト氏が抗議しようとするのをポワロはなだめるようにいった。
「ええ、ええ、あなたは秘密主義の方だ、あなたにはあなたの考えがおありになるが、それを自分だけにしまっておきたいのでしょう。お気持はわかりますよ、じつは私もご同様ですからね……」
「私はあの青年を疑っちゃいませんよ、ばかばかしいです。ただあの青年のことをもう少しよく知りたかっただけなのです」
「それは私もいいたいところです。あの青年をあなたは直感的にえらんだ、私もじつは彼に興味を感じたのですよ。あの晩、この家で会った時です、というのはあの時見ていると――」
「ほう、どういうことをです?」サタスウェイト氏は身をのり出してきいた。
「演技している人間が少なくとも二人、――いやもっとかも知れませんが――いるのがわかりました。一人はチャールズ卿です」ポワロはにやっとしていった、「海軍将校を演じていらした、どうです、そうでしょう? それはふしぎなことじゃない。名優は舞台を退いたからといって演技をやめはしないのです。ところがマンダーズ青年、あの人も演技していました。あの人は人生に退屈しきった青年の役を演じていた――しかし実際はあの人は退屈も厭世もしてやしない、生きているのがおもしろくてしかたがない。それで私は特にあの青年を見ていたわけですよ、あなた」
「私があの青年に不審を抱いていることはどうしてお気づきになりました?」
「ちょっとしたことばかりですが、いろいろな点で考えられますな。あの青年をメルフォード修道院《アベイ》へ行かせる結果になった例の事故に、あなたは関心を寄せていらしった。それにバビントン夫人のところへ、チャールズ卿やリトン・ゴア嬢と同行なさらなかった。何故でしょう?あなたはご自分のうち出した線に従ってこっそりやってみたかったからですよ。メアリ夫人のところへいらしたのはある人物のことを聞き出したかったからです。誰のことでしょう? 誰かこの土地の人しかありません。オリヴァー・マンダーズだ。それから最もよくあらわれているのは、このリストの一番最後に彼の名が書いてある点ですな。あなたが一番犯人と思えない人は――メアリ夫人とエッグ嬢ですが、その後へあなたはあの青年の名前をお書きになっている、ということは彼はあなたにとってダークホース的存在だからですよ、あなたは自分だけでひそかに彼のことを調べて自分のものにしておきたいのでしょう」
「おやおや、私はほんとにそんな風な男ですか?」
「|正しくそうです《プレシゼマン》。あなたは鋭い判断力と観察力をもってらっしゃる、そしてその結果得たものをひとりじめにしてるのがお好きだ。いろんな人についての評価はあなたの秘密のコレクションで、それを陳列してみんなに見てもらおうとはなさらない」
「私は――」とサタスウェイト氏がいいかけた時、チャールズ卿が帰ったきた。
この役者ははずむような軽い足どりではいって来ていった。
「ふううう、ひどい風だ」
彼はウィスキー・ソーダをやりだしたが、サタスウェイト氏とポワロは二人とも辞退した。
「さてと」チャールズ卿がいった、「捜査活動のプランをねるとしましょう。さっきのリストはどこ、サタスウェイト? あ、これか。さあ、ポワロさん、顧問のご意見をどうか。基礎工作をどう分担したらよいでしょうね?」
「あなたご自身のお考えは?」
「そうですね、我々でこの人たちを分担してはどうでしょう、仕事の分担ですね。まずデイカズ夫人がいる。この人のことはどうやらエッグが引き受けたがってるようだ。エッグは、ああいう一分の隙もない装《よそお》いをしてる女というのは男が公平に扱わない、と思ってるらしいんですよ。あの人に仕事の方面から近づくのはいい考えじゃないですか。サタスウェイト氏と僕は他の駒《こま》をすすめることにしてもいい、それが得策であるならばね。そうすると次がデイカズ大尉だが、僕はこの人の競馬仲間をちょっと知ってるから、そっちの方から何かわかるでしょう。それからアンジェラ・サトクリフだが」
「それも君の仕事のようだね、カートライト?君は彼女とは昵懇《じっこん》なんだろう?」サタスウェイト氏がいった。
「うん。だからこそ誰か他の人がやってくれるといいんだがね……、第一」チャールズ卿はくやしいが、というように笑ってみせながらいった、「僕では身を入れてやらないなんて非難されそうですからね、第二に――そのう――彼女は僕の友だちだからなあ、わかるでしょう?」
「なるほど、なるほど、無理もないお気持です。よくわかりますとも。こちらのご親切なサタスウェイト氏がその仕事を代わりになさいますよ」
「メアリ夫人とエッグ――もちろんこの二人は問題外だな。マンダーズ君はどうでしょうね?トリーが死んだ時に彼が居合わせたのは偶然ですからね。でも僕は彼も容疑者に含めるべきだと思うんです」
「マンダーズ君のことはサタスウェイトさんが引き受けるでしょう。ところでチャールズ卿、あなた、そのリストの名前を一つ落としてますね、ミューリエル・ウィルズさんをぬかしましたよ」
「そうでしたね。じゃあ、サタスウェイトがマンダーズを引き受けるんならぼくはウィルズ女史といきましょう。これでいいですか? 何か思いつかれたことはありませんか、ポワロさん?」
「いいえ、ないようですな。みなさんの結果をうかがうのが楽しみです」
「もちろん、そりゃあおっしゃるまでもないですよ。ところでもう一つ考えたんですが、なんとかしてこの人たちの写真が手にはいれば、ギリングに行っていろいろな人にきいてみる時に使うといいですね」
「それはいい考えですな」ポワロは賛成していった、「ええとさっき何かありましたっけね、そうそう、あなたのご友人バーソロミュー卿のことだ、あの方はカクテルは召し上がらなかった、しかしポートワインは上がったんでしたね?」
「そうです、あいつはポートワインとなったら特別目がなかったんです」
「バーソロミュー卿がその時何か変な味がしなかったというのがおかしいと思うんですがね。純粋のニコチンてやつはピリッと刺激性があってとても嫌な味がするのですよ」
「お忘れになっちゃいけませんよ。あのポートワインの中には恐らくニコチンなんて全然なかったんです。あのグラスに残ってた分は分析したんですからね」チャールズ卿がいった。
「ああ、そうでしたな、私はどうかしてますね。しかしどんな手段で飲まされたにしろ、ニコチンてやつはとても嫌な味がするのですがねえ」
「そんなことは問題じゃないと思いますがね。トリーはこの春ひどい流感にやられましたからね、それ以来味やにおいの感覚がおかしくなっていたんですよ」
「ああ、なるほどね」ポワロは何か考えるようにいった、「そのせいかも知れませんな。そうだとすると問題が大分簡単になる」
チャールズ卿が窓際へ行って外を見た。
「まだ強い風が吹いてる。ポワロさん、あなたのお荷物をとりにやらせましょう。ローズ・アンド・クラウン荘は芸術家気質の人間どもには大そう向いてるようですが、あなたのような方はもっとちゃんとした衛生施設と快適なベッドがお望みの筈だ」
「それはご親切にどうも、チャールズ卿」
「いやいや。どれ、そういって来ましょう」
チャールズ卿は部屋を出て行った。
ポワロはサタスウェイト氏を見ていった。
「一つ提案があるんですよ」
「なんです?」
ポワロは身をのり出して小声でいった。
「マンダーズ青年に、なぜ事故を装ったか訊《き》いてごらんなさい。警察に疑われてるよ、というんです、それであの青年が何というか、ですよ」
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第六章
アンブロジーヌ商会のショールームは非常にすっきりした感じだった。壁は灰色がかった白、厚いパイルの絨毯《じゅうたん》はほとんど無色といいたいような中間色、そして椅子《いす》その他の家具も同色である。ところどころにクロームが銀色に光り、一方の壁には巨大な幾何《きか》模様が鮮やかな青とレモン色で描かれていた。この部屋のデザインは当代きっての新進気鋭のデザイナー、シドニー・サンドフォードによるものだった。
エッグ・リトン・ゴアは現代風なデザインの肱掛椅子――ちょっと歯医者の椅子を連想させるような――に腰をおろして、うんざりしきったような美しい顔の美しい若い女たちが、自分の前を蛇のような身のこなしで行きかうのをじっと見ていた。そして一枚のドレスに五十ポンドや六十ポンド払うぐらいなんでもないといった顔つきをするのに苦心していた。
例によってとても現実とは思えないような身じまいをしたデイカズ夫人は、エッグにいわせれば、例の彼女一流のやり方でふるまっていた。
「ね、こちらはいかが? この肩の結び飾りなんかおもしろいじゃございません? それからこのウェストラインはちょっとペネトレイティングでございましょ。でも私はこの鉛丹色は感心いたしませんわ――新しい色、エスパニョール、とてもすてきな色ですわね、ちょっと赤味がかったからし色のような――あの色ならよろしゅござんすよ。赤葡萄酒色はお好きでいらっしゃいます? おかしゅうございません? 全然ペネトレイティングでこっけいですわね。近頃は地味なのはいけないんですのよ」
「なかなかきめられないものね」エッグはいった、「あのね」うちあけるような口調になって彼女はいった、「私今までドレスなんて一枚も作る余裕がなかったのよ。ずっと昔からうちはおそろしく貧乏だったの。私ね、烏荘《クロウズ・ネスト》でお会いした晩、あなたがとってもすばらしかったのを思い出して考えたんです、『こうして使ってもいいお金が今はあるんですもの、デイカズさんのとこへ行っていろいろうかがってみたらいいんだわ』って。あの晩、私はほんとにあなたのことすてきだと思ったのよ」
「まあ、かわいいことをおっしゃいますのね。私はただ若いお嬢さんの装いのお手つだいをしてれば嬉しいんですよ。若い方たちが生《なま》な感じに見えちゃいけないというのはとても大事なことですものね」
『なるほどあなたには生《なま》なとこはないわ』エッグは心中快からず思った、『ちょうど頃合いに煮えてるわ』
「あなたはとても個性がおありだから」デイカズ夫人はなおもいった、「ありふれたものは全然いけませんわ。あなたのお召し物はあっさりとしててしかもペネトレイティングでなくてはね――それでいて何気なく人目を惹くようなのでなくちゃ。二、三着お作りになります?」
「イヴニングを四着ぐらいと、昼間着るのを二着、それからスポーツ用を一着か二着、と思ってるんですよ」
デイカズ夫人の蜜のような態度がいよいよもってとろけそうなほどになった。幸いなことに彼女は、その時のエッグの銀行預金が十五ポンド二十シリングで、しかもその額で十二月まで持ちこたえなければならないということを、知らなかったのだ。
さまざまなドレスを着た若い娘たちが何人もエッグの前を通り過ぎた。ドレスに関する話の合い間合い間に、エッグは他の話をさしはさんだ。
「あれからは一度も烏荘《クロウズ・ネスト》へはいらっしゃらないんでしょう?」
「ええ。行けなかったんですのよ。あの時はほんとにびっくりしましたわ、それに、そうでなくても私、コンウォールってとこはひどく芸術家好みなところだといつも思ってるんですよ……私芸術家というのに我慢がならないんですの。あの人たちのからだつきときたらそれはおかしな恰好《かっこう》してますからね」
「大変な事件でしたわね? それにバビントンさんってみんなの敬愛をあつめていたのよ」
「なんですか古色|蒼然《そうぜん》とした方でしたわね」デイカズ夫人がいった。
「バビントンさんに以前どこかでお会いになったことがおありでしたわね?」
「あのお年寄りにですか? 私が? 覚えておりませんねえ」
「あの方がたしかそうおっしゃったことがあると思うんですけど。でもコンウォールでじゃなく、確かギリングとかいうところだと思うわ」
「そうですかしら?」デイカズ夫人の目が曖昧になった、「違いますよ。マルセル、プティット・スキャンダルをちょうだいといったんです――ジェニー型よ、それからその後で青いパトゥーをね」
「バーソロミュー卿が殺されたなんて大変なことじゃありません?」
「まったくペネトレイティングで口にもできないほどですわ! おかげで大そう結構なことでしたわ、変な女の人たちがただ好奇心でぞろぞろ私のところへ仕立てを頼みに来ましたんですからね。ところでこのパトゥー型はあなたにぴったりですわね。このまるで無意味で滑稽なようなフリルを見て下さいましな、これのおかげで全体がとてもかわいらしくなってるんですのよ。飽きが来ないでしかも若々しいスタイルですわ。そう、バーソロミュー卿がお気の毒にも亡くなられたことが、私には思いがけない幸いになったんですわ。私が殺したのかも知れないっていうことだって、無きにもしあらずですものね。私、むしろ調子を合わせてやりましたのよ。とっても肥っちょの女の方たちがやって来て目をぎょろぎょろさせて私のこと眺めまわしましたよ。ペネトレィティング過ぎますわね。そうしてそれから、――」
その時、見るからに大切なおとくいらしい堂々としたアメリカ婦人のご到来とあって、話は中断された。
そのアメリカ婦人がぜいたくそうな注文をいっぱい出している間に、エッグはデイカズ夫人のあとをひきついだ若い女に、よく考えてみてからどれにするか決めるから、といって目立たないようにその店を抜け出した。
ブルートン街に出たエッグは時計を見た。一時二十分前。間もなく次の計画を実行できるはずだ。
彼女はバークレイ街まで歩いて行ったが、またゆっくりと戻ってきた。一時になると、シナの美術品を並べてあるショーウィンドーに鼻をおしつけた。
ドリス・シムズ嬢が急ぎ足にブルートン街へやってきてバークレイ街の方へまがった。そこへまだ行きつかないうちに、すぐ横で一つの声が呼びかけてきた。
「失礼ですけれど」エッグはいった、「ちょっとお話があるんですけれど」
相手の娘はびっくりした顔でふり向いた。
「あなたはアンブロジーヌ商会のモデルさんでしょう? 私さっきお見かけしましたの。お気を悪くなさらないで下さいね、私あなたのような完璧なすばらしいスタイルの方、初めてですわ」
ドリス・シムズは気を悪くはしなかった、ただ少しばかりとまどっていた。
「ありがとうございます」彼女はいった。
「それにあなたはとてもいい方のようでしょう、それで私あなたにお願いしようと思いましたの。ごいっしょにバークレイかリッツでお食事して下さいません? そのお願いのことお話しますわ」
一瞬ためらっていたが、ドリス・シムズは承諾した。好奇心もあったし上等な食事にも魅力があったのだ。
テーブルについて食事を注文すると、エッグはすぐ説明を始めた。
「このことはあなただけの事にしておいて下さいね。あのね、私お仕事なんですけど、女の人のいろいろな職業のことを記事に書いてますの。それで婦人服のお仕事のことをいろいろ聞かせて下さいません?」
ドリスはちょっと失望の様子ではあったが、愛想よく応じて、時間のこと、給料のこと、その職業の良い点、悪い点などについてありのままを語った。エッグは手帳に細かく書きこんだ。
「ほんとにありがとうございました。私こういうこと何も知らないんですのよ。初めてわかりました。ごらんのように私とても貧乏でしょ、この雑誌のお仕事でずいぶん助かりますわ」エッグはそういってから、今度は秘密をうちあけるような調子でいった、「アンブロジーヌ商会へはいって行って、たくさんこしらえるふりするなんて、私にはとても勇気がいったわ。ほんとは、私の衣服費なんてクリスマスまで二、三ポンドしかないのよ。デイカズさん、そのことがわかったらさぞかし激昂《げっこう》なさるでしょうね」
ドリスはくすくす笑っていった。
「そりゃあ確かですわ」
「私うまくやったかしら? 私いかにもお金があるように見えたかしら?」
「とてもお上手《じょうず》でしたわ。マダムはほんとにたくさんお作りになるんだと思ってますわ」
「お気の毒に、がっかりなさるでしょ」
ドリスはなおもクスクス笑った。食事は申し分なかったし、何となくエッグに魅力を感じていた。『この方はきっと上流の方なんだわ、でも気取らない人だわ。全然|ぶらない《ヽヽヽヽ》のね』彼女は心の中でそう思った。
ひとたびこういう気のおけないあいだ柄になってしまうと、エッグはもう簡単に相手を誘いこんでその雇い主の話をすらすら聞き出すことができた。エッグはいった。
「私いつも思ってるんですけど、デイカズさんて、いやあな猫みたいじゃありません?」
「私たちみんな嫌ってますわ、それはほんとなんです。でもそりゃあの方は頭がよくてとても商才があるんですよ。よく上流の方なんかでこのお仕事を始めて、お友だちの方たちが注文したはいいが払ってくれないもんで破産した、なんてききますけど、そういうのとは違いますの。がっちりしてますわ、マダムって……、そりゃ正当なことしかしてないに違いないし、たしかにセンスもあるんです――ちゃんと心得ていて、それぞれの人にふさわしいスタイルを考えてあげることにかけちゃ大したもんですわ」
「ずいぶんもうけてるんでしょうね?」
ちょっとずるそうな妙な表情がドリスの目に浮かんだ。
「私なんかのいうことじゃないんですけど……噂にしたところでですわ」
「それはそうよ。でも聞かせて下さいな」
「そうおっしゃるんなら話しますけど……とても経営が苦しいんですの、ユダヤ人の紳士がマダムに会いに来たりしましたわ、そして何か変なこともあったようで――マダムは、きっとお店をたて直す見こみでずっとお金を借りてるんでしょうね、それで首が回らなくなってるんです。実際、マダムがすさまじい顔してることがよくありますの、全然やけになっちゃって。お化粧を落としたらどんな顔になるんでしょうね、夜もろくに眠ってないと思いますわ」
「マダムの旦那様ってどんな方?」
「変人ですわね。悪党っていうんでしょうか。私たちめったに会うわけじゃないんですけどね。誰も私に賛成しないんですけど、でも私は、マダムは今でもあのご主人に相当夢中なんだと思いますわ。もちろん妙なこともずいぶん噂になってますけれど……」
「どんな?」
「でも、私噂をしゃべったりするのいやですわ、私そういうこと嫌いですもの」
「それはそうよ。でも話してちょうだい、何のお話でしたっけ?」
「あのう、女の子たちの間じゃずいぶん噂になってるんですよ。若い男の人のことなんです、とってもお金持で人がよくて、全然足りないってわけでもないんでしょうけど、なんていうのかしら、どっちつかずってとこなんですわね。マダムはその人にすっかり夢中になっちゃってたんですよ。その人がお店の建て直しに一役買ってたんじゃないかしら、なにしろ人がいいんですから。ところがそうやってるうちにその人は船旅に出るようにいわれて行ってしまったんですよ、突然」
「誰にいわれたんですの、お医者様に?」
「ええ、ハーレー街の何とかいう方です。今思うと、きっとヨークシャで殺されたあのお医者様ですわ、毒殺なんですってね」
「バーソロミュー・ストレンジ卿?」
「そういうお名前でしたわね。マダムはそのハウス・パーティに出席してたんです、それで私たちこっそり、冗談ですけどね、いったんです、マダムが腹いせにやったんじゃないかしらって。もちろん冗談にですよ……」
「無理もないわ、女の子の冗談ですもの、よくわかるわ。ねえ、デイカズさんって、ちょうど私の女殺人犯のイメージにぴったりよ――とても冷酷で無慈悲で」
「あの方はほんとに冷酷なんです、それに意地悪ですわ! 怒りだしたら、私たち誰もそばへ寄りつきませんの。旦那様もマダムにびくびくしてるんだってみんないってるんですよ、当然ですわ」
「あなたね、バビントンっていう人のことだとか、ケント州のギリングっていう土地のことなんかの話をマダムがしてるのを聞いたことおありになる?」
「さあ、そういうことあったかしら、思い出せませんわ」
ドリスは腕時計をのぞいて叫んだ。
「あら大変、行かなくちゃ。遅れちゃうわ」
「さようなら、来て下さってありがとうございました」
「楽しゅうございましたわ。さようなら、リトン・ゴアさん。その記事がうまくいきますように。私楽しみにしてますわ」
『たのしみにしても無駄よ』エッグは勘定書をとり寄せながら心の中でそういった。
それから、記事のためと見せかけて書いたメモを消して、彼女は次のように書きこんだ。
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シンシア・デイカズ、財政的に逼迫《ひっぱく》している様子。意地悪な女という評判あり。彼女と特別な関係にあったらしい若い男(金持ち)がバーソロミュー卿の命令で航海に出ている由。ギリングなる土地についても、また、バビントンが彼女を知っていたという話に対しても何ら反応なし。
[#ここで字下げ終わり]
「これじゃ大したことないみたいね」エッグは思った、「バーソロミュー卿殺害の動機がないでもないけど、薄弱だわ。ポワロさんならこれだけのことから何か掴めるかも知れない。私には無理だわ」
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第七章
エッグはその日の予定をまだ全部終ったわけではなかった。次の行動はデイカズ夫妻の住んでいるセント・ジョン・ハウスへ行くことだった。この新しい建て物はひどく高級なアパートで、窓にはぜいたくな植木箱があり、外国の将軍かとも見紛《みまが》うような壮麗《そうれい》な制服をつけたポーターが控えていた。
エッグは中へはいりはせず、通りの向かい側を行ったり来たりしていた。一時間も経ったころ、彼女は数マイルも歩いたに違いないと思った。五時半だった。
その時、一台のタクシーがそのアパートの前へとまり、デイカズ大尉が降りた。エッグは三分間ばかりそのままでいてから、やおら道を横切ってその建て物へはいって行った。
彼女は三号室のベルを押した。ドアを開けたのはデイカズ大尉自身で、まだオーヴァーを脱ぎかけている最中だった。
「あら、こんにちは。お忘れになって? コンウォールでお目にかかりましたわね? それからヨークシャでも」
「そうですとも、そうですとも。二度とも急死事件にぶつかりましたな? どうぞ、はいりませんか、リトン・ゴアさん」
「私、奥様にお目にかかりたいの、いらっしゃる?」
「あれはブルートン街の方へ行ってるんでね、婦人服店ですよ」
「知ってますわ、私今日あちらへ伺ったんですもの。もう帰ってらしてるかと思ったもんですから。それにこちらへ伺ってもきっとお気を悪くはなさらないと思ったのよ――もちろんお邪魔でしょうけど……」
エッグはそこまでいって訴えるような顔つきをした。
フレディ・デイカズは心の中でいった、『いい娘だぞ、こりゃなかなかいい娘《こ》だ』
今度は声を出していった。
「シンシアは六時過ぎなきゃ帰らんですよ。私もたった今ニューベリから戻ったところでね。今日はつまらん日で早く帰ったんだ。セブンティートゥー・クラブへ行ってカクテルでもどうです?」
すでに十分きこしめしているらしいと察しはしたが、エッグは承諾した。
うす暗い地下のセブンティートゥー・クラブに腰をおろしてマルチニをなめながらエッグはいった、「とってもおもしろいわ、私こんなところへ来たの初めてよ」
フレディ・デイカズはおうように笑ってみせた。彼はぴちぴちした美しい娘が好きだった。おそらく他にもっと好きなものがあるにはあるのだが――こういう娘も大いによかった。
「あの時は驚きましたな、え? ヨークシャのことですよ。医者が殺されたってのはちょっと愉快じゃないですか、話が逆だ。人を殺すやつが医者のはずなんだ」
彼はそういって自分から大笑いに笑うと、もう一杯ピンク・ジンを注文した。
「うまいことおっしゃるのね、私そんな風に考えたこともなかったわ」
「冗談ですよ、もちろん」
「ねえ、変じゃない? 私たちお会いするたんびに誰か死ぬんですもの」
「ちょっとばかりね。あなたのいわれるのはあの何とかいったっけな、――何とかいう役者の家に集まった時の牧師の爺《じい》さんのことでしょう?」
「そうよ。あの方の亡くなり方ってとても妙な風だったわ」
「全くありがたくない話ですよ、こうあっちこっちでばたばた人が死ぬんじゃ誰だって嫌な気持になる。そうですよ、『次はおれの番だ』なんて思うと、ぞおうっとしますな」
「あなたは前からバビントンさんをご存じだったんでしょ、ギリングで?」
「そんな場所は知らんです。いや、あのご老体には一度も会ったことありませんぞ。あの奴《やっこ》さんがストレンジと全く同じようにして死んだってのはおもしろい。ちょっとばかり妙ちきりんだ、殺《や》られるわけがないじゃないですか、え?」
「じゃあ、どうお思いになるの?」
デイカズは頭をふって断言するようにいった。
「そんなわけはない。牧師を殺すやつはいないですよ、医者ならともかく」
「そうね、お医者様は別だわ」
「そうですとも。殺されるのも当然だ。医者なんてやつはおせっかいでね」デイカズは多少|呂律《ろれつ》があやしくなってきた、彼は身をのり出していった、「やつらは放っておきたがらないんですよ、わかりませんかね?」
「わかんないわ」
「やつらは他人の生命《いのち》をおもちゃにしやがる。えらい権力をもってやがる、怪《け》しからん」
「おっしゃること全然わからないわ」
「いいですか、お嬢さん。人を閉じこめちゃうってことですよ、まるで地獄《じごく》の沙汰《さた》だ。いやはや、やつらは残酷だ。閉じこめておいて、酒も遠ざけてしまいやがって――どれだけ懇願しようとくれるもんじゃない。こちとらがどんな苦しみをなめていようとこれっぱかりもおかまいなしだ。それが医者ってもんでさ、ね、私は知ってるんだ」
デイカズは苦しそうに顔を歪《ゆが》めた、その針の先のような小さな瞳孔《どうこう》がエッグを射るように見つめていた。
「地獄ですよ、――地獄だ。しかもそれを治療と称してやがる! 親切ごかしにやりやがって、こん畜生《ちくしょう》!」
「バーソロミュー・ストレンジ卿が――?」エッグが用心しながらいいかけるのを、デイカズがひきとっていった。
「バーソロミュー・ストレンジ卿、バーソロミューのペテン師卿さ。あいつのご立派な療養所ってのがどんなことやってんだか拝見したいもんさね。神経病だと。それがやつらのいい草でさ。いったんあそこへはいったらもう出られないんだよ、しかもやつらはあんたは自分の自由な意志で入ったんだとぬかす。自由意志だと!こちとらが発作を起こしてる時に掴まえちゃうんだからな」
デイカズのからだはその時震え始めていた。急に力のぬけたような調子になって彼は弁解がましくいった。
「頭がぼんやりしちまったですよ、すっかり駄目」彼はボーイを呼んだ、そしてエッグにどうしてももう一杯飲めといったが、彼女が断ると自分の分だけ注文した。
「さっきよりいい」デイカズはぐいと飲み干していった、「はっきりした。頭がぼんやりするのってのは嫌なもんだ。シンシアを怒らしちゃいかん。彼女《あれ》は喋《しゃべ》ってはいかんというんだ」彼はひとりでうなずくように一、二度頭をふった、「こんな話は、警察に聞かれちゃよくないね、やつらは、私がストレンジの爺《じじい》を殺《や》ったと思うかも知れんだろ? え? 誰かが殺《や》ったに違いないんだからね、我々のうちの誰かがあいつを殺したんだ。おもしろいね、あのなかのどのやつだ? そこが問題さ」
「多分あなたはおわかりなのね?」
「何を根拠にそんなことをいうんです? どうして私にわかるんです?」
デイカズは怒ったような表情で、そしてさぐるような表情でエッグをじっと見ていった。
「私はそんなことは何も知りやしませんよ。私はあの男の結構な『治療』なんぞ受けに行く気はなかった、シンシアがどういおうと構やしない、私は行く気はなかったんだ。あの医者はしきりと何か企《たく》らんでた――あいつら二人して企《たく》らんでたんだ。だがおれは騙《だま》されやしなかったぞ」
彼は昂然と胸をはっていった。
「私は健康な男ですぞ、リトン・ゴアさん」
「そりゃあそうですとも。ね、デイカズさんはあのサナトリュウムにいるド・ラッシュブリジャー夫人って人のこと何かご存じじゃないの?」
「ド・ラッシュブリジャー? ド・ラッシュブリジャー? ストレンジの爺いが何かいってたようだぞ、さてどんなことだっけね、全然思いだせん」
デイカズはためいきをつき、頭をふっていった。
「記憶力減退だ、そうなのさ。おまけにおれには敵がいる、たぁくさんいやがる。みんなして今もおれのことを探《さぐ》ってるんだろう」
彼はおちつきなくあたりを見回していたが、やがてテーブルごしにエッグの方へ身をのり出して訊《き》いた。
「あの日あの女は私の部屋で何をやってたんです?」
「どの女の人?」
「兎みたいな顔の女さ、芝居を書いてるやつ。ありゃやつの死んだ次の朝だった、おれがちょうど朝飯をすまして上がって来たら、あの女がおれの部屋から出て廊下の端のドアから女中部屋へはいって行った。変だろう? 何だってあの女はおれの部屋へ入ったんだ? 何を探すつもりだったんだ? いったい何を嗅ぎ回って歩いてやがったんだね? あの女に何の関係があるというんだい?」デイカズは一層からだを寄せ、声を低めていった、「それともシンシアのいう通りだとあんた思いますかね?」
「奥様が何とおっしゃるの?」
「女房《あれ》はおれの想像だというんだ、幻覚だっていうんだ」彼はあいまいに笑っていった、「おれはよく幻覚を見るさ、ねずみだとか蛇なんかならね。だけど女を見るってのは話が別だよ……おれはあの女をちゃんと見たんだ。変なやつだね、あの女は。何だか陰険な目つきをしてるぜ、他人の身辺を探《さぐ》りやがる」
デイカズは柔らかいソファに再び背をもたせかけた。今にも眠りに落ちていきそうな様子だった。
エッグは立ち上がった。
「もう行かなくちゃ。ありがとうございました、デイカズさん」
「ありがたいなぞとおっしゃいますな。愉快でしたぞ、全く愉快……」
その声は次第に小さくなって消えてしまった。
「この人がいっしょに来ないうちに行ってしまおう」エッグは思った。
セブンティートゥー・クラブの紫煙のたちこめた雰囲気を出て、彼女は夜のひんやりした空気の中へ立った。
バーソロミュー卿の家の女中、ビアトリスもウィルズ女史があちこちせんさくしていた、といっていた。ところが今、フレディ・デイカズからもその話が出た。いったいウィルズ女史は何を探していたのだろう? そして何を探し出したのだろう? ウィルズ女史が何事かを知っている、ということはあり得るだろうか?
バーソロミュー卿に関するフレディ・デイカズのわけのわからぬ話には意味があるのだろうか? 彼はひそかにバーソロミュー卿を恐れ、憎んでいたのだろうか?
それは考えられることだ。
しかし、今までの話にはバビントン事件に対する手がかりは何もない。
「バビントンさんが他殺じゃないとしたら、ずいぶん変な話だわ」
その時、すぐそばの新聞売りのポスターに目をとめた彼女ははっと息をのんだ。
『コンウォールの死体発掘行なわる』
とるものもとりあえず一ペニー渡すと、エッグはその新聞を一枚ひったくるように受けとった。その時同じようにひったくるようにして買おうとした一人の女とエッグは突き当たった。失礼、といって顔を見るとそれはチャールズ卿の秘書、あの有能なミス・ミルレイだった。二人は並んで立ったままその重大ニュースを探した。ある、たしかに載《の》っている。
『コンウォールの死体発掘の結果』それらの活字がエッグの眼の前でおどっていた。内臓の解剖……ニコチン……。
「やっぱり他殺だったのね」エッグがいった。
「まあどうしましょう、恐ろしいことですわ……恐ろしい……」ミス・ミルレイがいった。彼女のいかつい横顔が興奮にゆがんでいるのである。エッグはびっくりして相手の顔を見ていた。これまで彼女はミス・ミルレイのことは人間でないもののように思っていたのだ。
「ショックですわ」ミス・ミルレイはいいわけするようにいった、「だって私は子供の時からあの方を存じ上げておりましたからね」
「バビントンさんを?」
「ええ、私の母がギリングに住んでるんですよ、あの方は昔あそこの牧師さんをしておいででしたからね、当然ショックですわ」
「あら。ええ、そりゃそうですわね」
「ほんとに、私どうしたらよろしいのでしょう」
エッグが驚いたように顔を見たので、ミス・ミルレイはちょっと赫くなって、慌《あわ》てたようにいった。
「私、バビントンさんの奥様にお手紙でもさし上げましょうかしら。それにしても、とてもそうは思え……ええ、とても……私、ほんとにこれはどうしたらよろしいんでしょう」
エッグは、このいいわけになんだか満足できなかった。
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第八章
「ところで、あなたはお友だちなのかしら、探偵なのかしら? それをうかがわなくってはね」
ミス・サトクリフはそういって、からかうようなまなざしを投げてよこした。灰色の髪の毛をよく似合うように結い上げて、彼女は背のまっすぐな椅子に足を組んで腰かけている。美しく靴を穿《は》いた足先、ほっそりした足首、その完璧さに、サタスウェイト氏は感嘆して見とれていた。実に魅惑的な女であった。それは、彼女が何ごとにも真剣な態度をとらないという事実に負うところが大きいのである。
「そんなことおっしゃるもんじゃありませんよ」サタスウェイト氏がいった。
「あらお聞きしなくっちゃ。あなたがわざわざいらしたのは私の美しい眼のせい? フランス人ならそういってうっとりさせて下さるわ。それともあなたは例の殺人事件のことで私から何か聞き出すのが目的なのかしら? いけすかない方ね」
「前者の方が正しいに決まってるじゃありませんか、そんなことが疑えますか?」サタスウェイト氏はちょっと頭を下げて訊いた。
「疑えますとも、現に疑ってるのよ」相手の女優は語気を強めていった、「あなたという人はみかけによらず血なまぐさいことが好きな人ですもの」
「そんな」
「いいえ、そうですとも。ただね、たった一つだけまだ私が決めかねてることがあるのよ。人殺しをやりかねない女だと思われるってことは、けなされることかしら、賞められることかしら。まあ賞められることでしょうね」
彼女はそういって、ちょっと首をかしげ、微笑してみせた、相手を魅了せずにはおかない微笑である。
『まったくほれぼれするよ』サタスウェイト氏は心の中でそう呟いてからいった。
「バーソロミュー卿が殺されたことに私がかなりの関心をもってるということは否《いな》みませんよ。ご存じでしょう、私は前にもこんな事件にちょっと首をつっこんでみたことがありますからね……」
彼はそういって謙遜するように言葉を切った。当時の彼の活躍ぶりはよく知っている、とでも相手がいうかと思ったのだろう。ところがミス・サトクリフはただこうきいただけだった。
「一つだけ教えてちょうだい。あの女の子のいったことには何か意味があるの?」
「どの子です、その子がなんていったんです?」
「あのリトン・ゴアのお嬢さんよ。チャールズにすっかり夢中になってる子。全くチャールズも恥知らずね――あの人はああいう人なんだわ! で、あの女の子は、コンウォールの例のおじいさんもやっぱり殺されたんだっていうのよ」
「あなたはどうお思いですか?」
「そうねえ、たしかにそっくりな事件ね……、あの子、なかなか利口なお嬢さんだわね。どうなの、チャールズはいったい本気なのかしらん?」
「その問題につきましては私なんぞの意見よりはあなたのご意見の方がよっぽど値打ちがあると思いますがね」
「全く用心深い人だわね、あなたって」ミス・サトクリフはそう叫んでから、溜息まじりにいった、「それなのに私ときては全く不用意なんだからいやになっちゃう……」
サタスウェイト氏にチラリと一瞥《いちべつ》をくれて彼女はいった。
「チャールズのことはよくわかってるわ、男というものはわかってますよ。私には、あの人、身を固めるつもりらしいってことが、ありありとわかるわ。あの人この頃まじめぶってるでしょう。もうすぐ家庭を持つつもりじゃないかしら――というのが私の意見。男って家庭を持つなんていい出すとみんなつまらない人間になっちゃうわ! 完全に魅力がなくなるわね」
「チャールズ卿はなぜ一度も結婚したことがないんでしょうねえ? 時々ふしぎに思うんですが……」
「あの人はね、結婚したいというようなそぶりは決してみせたことのない人よ。いわゆる結婚したがるタイプの男じゃなかったのね。ところが男としてはとても魅力があるんだわ……」ミス・サトクリフは溜息をもらした。目をキラリとさせてサタスウェイト氏を見ながら彼女はいった、「彼と私は一度……そう、誰でも知ってることですもの、否定などしませんとも。その間というものはほんとに楽しかった……今でも私たち二人は一番のお友だちよ。きっとそのせいなのね、あのリトン・ゴアのお嬢さんが私のことあんな怖い顔して睨《にら》みつけるのは……。あの子は私が今でもチャールズに対して気があると思ってるのよ。私、そうでしょうか? そうかもしれないわ。でも、とにかく私はまだ、これまでの恋愛沙汰をあらいざらい事こまかに自叙伝に書いたりはしてないのよ、友だちは大ていそんなの書いたりしてるようですけどね。私がもしそんなもの書いたらあの子はおもしろくないでしょうよ、ショックでしょうね。近ごろの若い娘って簡単にショックをうけちゃうから。あの子の母親なら全然そんなことないと思うわ。ヴィクトリア中期のしとやかなご婦人にショックを与えることは不可能よ。彼らは口にこそ出さないけれど、常に最悪の場合を考えてるから……」
「おっしゃる通りエッグ・リトン・ゴアがあなたを快からず思ってるのはたしかのようですな」サタスウェイト氏はそうしかいえなかった。
「私ね、あの子に全然やきもちをやいてないとはいい切れないのよ。女っていうのはみんなそういう猫みたいなところがありますからね、そうじゃありません? 爪《つめ》を立てて、ニャーオウニャーオウ、フウーッ……」
ミス・サトクリフはそういって声を立てて笑った。
「チャールズはなんだって自分でやって来て問い質《ただ》さないんでしょうね、こんどの事件のことを? 親し過ぎるせいかな。あの人は私が下手人だと思ってるに違いない……、私、下手人でしょうか、サタスウェイトさん? どうお思いになる?」
彼女は立ち上がると片手をさし出していった。
「アラビア全土のいかなる香水を用いんとも、この小さき手を香《かぐわ》しくすること能わじ……」
ミス・サトクリフはそこまでいいかけてやめ、いいなおした。
「ちがうわ、私はマクベス夫人じゃないわ、私の役どころは喜劇ですものね」
「それに動機も見当たらんようですな」
「ほんとにそう。バーソロミュー・ストレンジさんって方、私好きだったわ。いいお友だちだったのよ。あの人を邪魔者扱いにする理由は私にはありませんよ。あれだけ親しかったんですもの、犯人探しに進んでひと役買いたいぐらいのものよ。ねえ、私にも何かお手つだいできることがあったらおっしゃってちょうだい」
「あなたは事件に関係ありそうなことは何一つ見たりも聞いたりもなさってないんですね?」
「私の知ってる限りのことはみんな警察に話しました。なにしろパーティの連中は着いたばかりだったでしょ、パーティの第一夜にあの方は亡くなったんですからね」
「執事のことは?」
「ほとんど注意してなかったわ」
「じゃあ客の方には何か変わった行動は?」
「別に。そりゃもちろん、ほら、あの男の子、なんていいましたっけ? マンダーズ? あの青年の現われ方は少々唐突でしたけどね」
「バーソロミュー卿はびっくりしたような様子でしたか?」
「ええ、そうだと思うわ。晩餐《ばんさん》の席に着く寸前にバーソロミュー卿はこういったわ、妙な話だ、こりゃ、『新手の門壊し(押しかけ客の意)』だよ、もっともあの男が壊したのは門じゃなくて塀だがね、って」
「バーソロミュー卿は上機嫌でしたか?」
「それはそれは上機嫌!」
「あなたが警察にお話になった秘密の通路というのは?」
「それはきっと図書室から出てるんだと思うの。バーソロミュー卿が私に見せて下さるお約束だったのに――お気の毒に亡くなっちゃったから……」
「どういう経緯《いきさつ》でそれが話題に上ったんです?」
「それはね、あの方が最近買いこんだウォールナットの古い机のことを二人であれこれ話し合っていたのよ。それで私が、その机には秘密のひきだしがあるかどうかって聞いてみたの、私は秘密のひきだしなんていうものが大好きなんだっていったのよ。私の秘かな趣味ですよね。そうしたらあの方がおっしゃったのよ、『自分の知る限りじゃ秘密のひきだしはないが、この家には秘密の通路ならあるんですがね』って」
「バーソロミュー卿は患者のド・ラッシュブリジャー夫人という人の話はしてませんでしたか?」
「いいえ」
「じゃあ、あなたはギリング――ケント州ですが――という場所はご存じないですかね?」
「ギリング? ギリングね、いいえ、聞いたことないようね。なぜ?」
「ふうむ。バビントン氏のことは前からご存じだったでしょう、ちがいますか?」
「バビントン氏って誰?」
「烏荘《クロウズ・ネスト》で亡くなられた、いや、殺された人ですよ」
「ああ、あの牧師さん。名前を忘れてたのよ。いいえ、一度も、会ったことすらないわ。私があの人を知ってただなんていったい誰がいったの?」
「当然それを知っている筈のある人ですよ」サタスウェイト氏は大胆にもいってのけた。
ミス・サトクリフはおもしろそうにいった。
「いったいみんなは私があの牧師さんと何かあったとでも思ってるのかしらん? 副司教なんてのにはどうかするととてもよろしくないのがいるわねえ? だから教区牧師にしてもまたしかり、かな。
それはともかく、故人の名誉のためにはっきり申し上げなくちゃ。私は以前には一度もお会いしたことはありませんわよ」
こういわれてはサタスウェイト氏もそれ以上おして訊ねることはできなかった。
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第九章
トゥティングのアパ・カスカート・ロード五番地というのは諷刺劇作家の住居《すまい》としてはおよそ似つかわしくない家だった。チャールズ卿が招じ入れられた部屋は、壁が茶がかったオートミール色で、その上部にはぐるりとラバナムの帯模様がついている。バラ色のびろうどのカーテン、夥《おびただ》しい数の写真と陶器の犬。そしてひだスカートの人形のかげにはにかんだように隠れている電話、たくさんの小さなテーブル、じつはバーミンガムあたりのまがいものと覚しき極東の真鍮細工……。
ミス・ウィルズが全く音もなくはいって来たので、ちょうどその時、ソファの上にこっけいな姿で長々と横たわっているピエロ人形をつくづくと見ていたチャールズ卿は、少しも気がつかなかった。「ようこそ、チャールズ卿、よくいらして下さいましたわ」というかん高い声に彼ははじめてふり返った。
ミス・ウィルズはくたくたのジャンパー・ドレスを着ていたが、それが彼女の骨ばった体にだらりとたれている様はうらぶれた感じだった。そして靴下はたるみ、足にはばかに踵《かかと》の高いエナメルのスリッパを穿《は》いていた。
チャールズ卿は握手をし、差し出されるままに煙草《たばこ》を受けとると、ピエロ人形の傍《かたわ》らに腰をおろした。ミス・ウィルズがその正面に坐った。窓からの光が彼女の鼻めがねに当たって、キラキラと反射した。
「よくここがおわかりになりましたわね」ミス・ウィルズはいった、「きっと母が夢中になりますわ、それは芝居が好きなんですよ、殊にロマンチックなものでしたらなんでもよろしいの。ほら、あなたが『大学の殿下』をお演《や》りになったあの芝居なんかですわ、――母はしょっちゅうそのお話してますのよ。母はね、マチネーに行きますの、そしてチョコレートを食べて――そんな人なんですよ、そういうのが大好きなんです」
「そりゃありがたいですな。人が覚えていて下さるというのはほんとに嬉しいものですよ。みんな忘れるのは早いですからね!」チャールズ卿は溜息をついていった。
「あなたにお目にかかったら母はさぞかしわくわくしますでしょう。サトクリフさんがこの間いらした時、母はすっかり興奮してましたのよ」
「アンジュラが来たんですか?」
「ええ。あの方、ほら私の芝居をお演《や》りになるでしょう、『小さな犬が笑った』という……」
「ああ、そのことなら何かで読みましたよ、もちろん。なかなかおもしろそうな題名じゃないですか」
「そうおっしゃっていただくとうれしいわ。サトクリフさんも、いいっておっしゃいましたけど、まあ一種の童謡の現代版といったところですわね――意味のない言葉を並べてあるんですよ。ハイ、ディドル、ディドル、お皿とスプンのスキャンダル。もちろん、サトクリフさんのなさる役のまわりをみんながぐるぐる回るんですよ、あの方が主役でそれに合わせて踊るんです。そこが|みそ《ヽヽ》なんですけどね」
「悪くないですね。近ごろの世の中はどうも少しばかばかしい童謡みたいなところがありますからねえ。それでそのばか騒ぎを見て小さな犬が笑うというわけですか?」チャールズ卿ははたと思った『ははあ、なるほど、この女がその小さな犬なんだな。この女ははたで見ていて笑ってるんだ』
ミス・ウィルズの鼻めがねに光っていた光線がそれて、うす青い二つの目が知的な光をうかべて眼鏡越しにこちらを見ているのにチャールズ卿は気がついた。
『この女は底意地の悪いユーモアをもってやがる』
そう思いながら彼はいった。
「何の用事で私がこちらへ伺ったか、推測できますか?」
「そうねえ」ミス・ウィルズはいたずらっぽい調子でいった、「私ごとき者にただ会いたいがためにいらしたんじゃあなさそうね」
チャールズ卿は一瞬、口でいわれた時と文章に書かれた時の言葉の相違をはっきりと感じた。書いたものを見ると、ミス・ウィルズは機智や、皮肉に富んでいるが、しゃべるのをきいていると茶目という感じだ。
「そもそもここへ伺うことを思いついたのはサタスウェイトのせいなんですよ。あの男は人を見る目にかけちゃ自分が第一人者だと思いこんでますからね」
「ほんとにその点、あの方は秀でてらっしゃるわ、というよりそれが趣味なんですわね」
「それでね、彼は断固としてこういうんですよ、例の晩、メルフォード修道院《アベイ》で何か目にとまるようなことがあったとすれば、何事であれミス・ウィルズが気がついてるに違いない、とね」
「あの方がそうおっしゃいました?」
「ええ」
「たしかに、あの時私、興味を持ちましたの」ミス・ウィルズはゆっくりといった、「だって、これまで私、殺人なぞというものに身近に出会ったことありませんもの。作家たるものなんでもねたとして心得てなくちゃね、そうじゃありません?」
「なるほどそういうことはよくいわれますね」
「ですから、私はできる限りのことはなんでもいいから知ろうと努力したんですの」
これは明らかに、ビアトリスのいわゆる『あちこち突っつきまわった』という言葉のいい換えに他ならない。
「お客さんたちのことですか?」
「お客さんたちのことですわ」
「それでどういうことがおわかりになったんです?」
鼻めがねが動いた。
「私ほんとのところ何にも新発見などありませんでしたのよ――もしあればとっくに警察に報告してますしね」
「しかしあなたはいろいろ注意してごらんになったんでしょう」
「私はいつだっていろいろなことを注意して見てますのよ。そうせざるを得ないんですわね。私っておかしいでしょ」ミス・ウィルズはクスクス笑った。
「それで――何にお気づきになりました?」
「あら、何にも――っていうのはつまり、あなたのおっしゃるような意味のことは何にも、ですわ。ただいろいろな人の性格についてちょっとしたことがなにかとわかっただけ。人間というのはほんとにおもしろいもんだと思いますよ。類型的なんですよね、おわかりになるかしら、私のいう意味」
「何が類型的なんです?」
「それぞれの人自身が。ああ、うまくいえませんわ。私ってとっても口下手《くちべた》だから」ミス・ウィルズはまたもくすくす笑った。
「あなたは舌よりもペンの方に猛毒をお持ちだからなあ」
「猛毒なんて、チャールズ卿、意地がお悪いわ」
「ウィルズさん、ペンを手にしたらあなたは実に苛酷《かこく》ですよ」
「あなたこそひどいじゃありませんか、苛酷なのはあなたですよ、チャールズ卿」
『冗談はいい加減にしなくちゃな』心の中でそう呟いてからチャールズ卿はいった。
「じゃ、あなたは具体的な発見は何もなかったとおっしゃるんですね?」
「ええ――ともいえないんですけどね。つまり、少なくとも一つだけ気がついたことがありますの。警察に知らせるべきだったんでしょうが忘れてましたのよ」
「なんです、それは?」
「執事のこと。あの執事は左の手首にちょうど苺《いちご》のような|あざ《ヽヽ》がありましたのよ。野菜をとり分けてくれる時に、私気がついたんです。手がかりになりそうなことだと思うんですけどね」
「大いになりますとも。警察はそのエリスなる人物を捕らえようとやっきになってますからね。いや、ほんとにあなたは大した方ですねえ、ウィルズさん、女中だって客だって一人としてそんな|あざ《ヽヽ》の話はしてませんでしたよ」
「人の目なんて大ていふしあな同然ですからね」
「その|あざ《ヽヽ》は正確にいってどのへんにあったんですか? 大きさは?」
「ちょっとあなたの手首をみせて下されば――」チャールズ卿は腕を出した。「あ、どうも。ここですわ」ミス・ウィルズは迷うことなく指をあてていった、「大体、大きさは六ペンス銀貨ぐらいで、オーストラリアみたいな形をしてましたわね」
「よくわかりました」チャールズは卿はそういって手をひっこめ、袖口をおろした。
「私、警察に知らせるべきでしょうかしら?」
「それがいいと思いますよ。捜査上大いに役に立つでしょうからね。いや全くの話が」チャールズ卿は感慨をこめていった、「探偵小説では犯人には必ず何か目印しがある。しかし僕は現実の場合はそううまい具合には運ばなくて残念だと思ってたんですがねえ」
「小説ではふつう傷痕ですわね」ミス・ウィルズは何か考えこむようにいった。
「|あざ《ヽヽ》でも同じことですよ」チャールズ卿は少年のように上気した顔でいった、「ただ困るのはどの人もみんな曖昧なことですよ。みんな掴まえどころがない」
ミス・ウィルズはけげんそうに相手を見た。
「例えばバビントン氏ですよ、あの人の性格というのはどうにも曖昧で正体が掴めない」
「あの方の手はとても特徴がありましたのよ。私が学者の手と呼ぶ種類の手ですわね、関節炎でちょっとびっこにはなってましたけれど、指はすらっと品がよくて、爪がきれいでしたわ」
「よく観察してらっしゃるんですね。ああ、だけどそれも当たり前なんだなあ、あなたは前から知り合いだったんだから」
「バビントンさんとですか?」
「ええ、思い出しましたよ、あの人がいつかそういってたのを。どこっていってたかなあ、あなたと知り合いになられたのは……」
ミス・ウィルズはきっぱりと首をふっていった。
「私じゃありませんわ。あなたは誰かほかの方と混同なさってるんですよ、あるいはバビントンさんの思い違いかもしれませんわね。とにかく私はあの時以前にはお会いしたことなどありませんわ」
「私の間違いでしょう。しかしたしか――ギリングだったと――」そういってチャールズ卿は相手をじっと見つめたが、ミス・ウィルズはいささかも動じる気配もなくいった。
「いいえ」
「ねえ、ウィルズさん、あなたもやっぱり、バビントン氏は殺されたのかも知れないというふうにお考えになったことがおありですか?」
「あなたとリトン・ゴアさんは――というよりもむしろ、|あなた《ヽヽヽ》がそう思ってらっしゃるのね」
「ああ、いや――それでそのう、あなたはどうお思いなんでしょう?」
「ありそうもないことですわ」
この点についてはミス・ウィルズは見るからに無関心の様子なのでいささか拍子抜けしたチャールズ卿は話題を転じた。
「バーソロミュー卿はド・ラッシュブリジャー夫人という人のことを何か話してませんでしたか?」
「いいえ、なさらなかったようですわ」
「その人は彼のサナトリュウムにいた患者なんですがね。神経衰弱と記憶喪失症なんですよ」
「記憶喪失性の話はなさってましたわ。催眠術をかけて記憶を取り戻させることができるんですってね」
「そんな話をしてましたか、はて、それは何か意味があるかな?」
チャールズ卿は眉根を寄せて何か一心に考えこんでいた。ミス・ウィルズも何もいわなかった。
「他にはもう聞かせて下さることはありませんか? 誰か客のことなんかで……」
チャールズ卿は、相手が答えるまでにほんの短い瞬間ではあったが間を感じたように思った。
「ありませんわね」
「デイカズ夫人のことはどうです? デイカズ大尉は? それともサトクリフさんについては? マンダーズ君は?」
彼はじっと相手の顔を見まもりながら、ひとりひとりの名前をあげた。
一度だけ、彼女の鼻めがねがキラッとしたようにも思ったが、確信はもてなかった。
「残念ながらお話しできるようなことはもうありませんわ、チャールズ卿」
「ああ、いやいや」彼は立ち上がった、「サタスウェイトのやつ、がっかりするでしょうな」
「申しわけありませんわね」ミス・ウィルズはとりすましていった。
「いやこちらこそすっかりお邪魔してしまって申しわけありません。執筆中でいらしたんでしょうな」
「じつはそうでしたの」
「新しい戯曲ですか?」
「ええ、ほんとのこと申しますとね、私、メルフォード修道院《アベイ》のパーティに集まった方たちの性格を少し拝借してみようかと思ってますのよ」
「名誉|毀損《きそん》になりませんか?」
「そのことなら大丈夫。案外自分のことだとは誰も気づかないものですわ」ミス・ウィルズはくっくっ笑いながらいった、「さっきあなたがおっしゃったように、ほんとに苛酷であれば、ですよ」
「とおっしゃる意味はつまり、我々は誰でも自分の性格を過大評価しているから、ありのままを一切の手ごころなしに描写されれば自分のこととは気づかない、というわけなんですね。やっぱり私は正しかったじゃありませんか。ウィルズさん、あなたは残酷なお方ですよ」
ミス・ウィルズはクスクス笑っていった。
「ご心配には及びませんよ、チャールズ卿。大体女というものは男には残酷にしませんからね、特定の男性は別として。女が残酷になるのは自分以外の女性に対してだけですのよ」
「ではあなたはその鋭いメスをすでに誰か不運な女性に入れたんですね、どの女性です? いや、大体見当はつきますよ、シンシアは同性には好かれない女性だ」
ミス・ウィルズは何も答えず、ただにやにやと猫のような笑みを浮かべていた。
「原稿はご自分でお書きになるんですか、それとも口述ですか?」
「あら自分で書きますのよ、それをタイプに打ってもらいに出しますの」
「秘書を雇えばいいんじゃありませんか」
「そうかも知れませんわね。あなたのところにはまだあのよく気の利く――ええとミルレイさんでしたっけ、あの人がいますの?」
「ええいます。こないだうち、ちょっと田舎の母親の様子を見に行ってていませんでしたが、もう帰ってきました。全く役に立つ女ですよ」
「私もそのようにお見受けしましたわ。でもちょっと衝動的かもしれませんわね」
「衝動的? ミス・ミルレイが?」
チャールズ卿は思わず目を丸くした。これまでどれほど突飛な発想をしたとしても、衝動的ということとミス・ミルレイとを結びつけたことはただの一度もなかったのである。
「ほんの時たまでしょうけれどね」ミス・ウィルズはいった。
チャールズ卿は頭をふっていった。
「ミス・ミルレイは完璧なロボットですよ。ではウィルズさん、失礼します。お邪魔して恐縮です。それから、さっきのなんでしたっけ、あのなにの|こと《ヽヽ》を忘れずに警察にお知らせになって下さいよ」
「執事の右の手首の|あざ《ヽヽ》ですか? ええ、忘れないつもりですわ」
「では失礼――あ、ちょっと待って下さいよ――今右の手首とおっしゃいましたね? さっきは左とおっしゃった」
「あらそうでした? わたしどうかしてますわね」
「いったいどっちなんです?」
ミス・ウィルズは顔をしかめ目を半ば閉じていった。
「ええと、私がこう坐っていて、そしてあの執事が――チャールズ卿、恐れ入りますけどちょっとその真鍮《しんちゅう》のお皿を野菜のお皿だと思って私に渡してみて下さいません? 左側から」
チャールズ卿はいわれた通りその不恰好《ぶかっこう》な真鍮の打ち出し細工をさし出した。
「キャベツでございますか、マダム?」
「ありがとうございました、わかりましたわ。最初に申しましたように左の手でした。私もどうかしてますわね」
「いやいや、右とか左とかっていうのはよくわからなくなるもんですよ」
チャールズ卿は三度目の挨拶をして部屋を出た。ドアを閉めながらふり返ってみると、ミス・ウィルズは彼の方は見ていないで、別れた時のままの場所に立っていた。じっと火をみつめて立っている彼女の唇には、満足そうな意地の悪い微笑が浮かんでいた。
チャールズ卿はぞっとした。
『あの女は何ごとか知っているんだ。絶対にまちがいない。しかもあの女はいおうとしないんだ……だがいったい全体何を彼女は握っているのだろう?』
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第十章
スパイア・アンド・ロス商会を訪れたサタスウェイト氏は、名刺を差し出してオリヴァー・マンダーズに面会を申し入れた。
間もなく彼は小さな部屋に通された。オリヴァーはそこで事務机に向かって坐っていた。
青年は立ち上がり、握手をしながらいった。
「よくお訪ね下さいましたね」
その声は暗にこういっていた『儀礼上こうはいうものの、ほんとはうんざりですぜ』
ところがサタスウェイト氏はそう簡単には退散しないどころか、どっかと坐りこんでもっともらしく鼻をかみ、おまけにそのハンケチをしげしげと眺めながら切り出した。
「けさの新聞ごらんになったでしょう?」
「財界の新しい動きのことですか? そうですね、ドルは……」
「ドルじゃない、殺人ですよ。ルーマスの死体発掘の結果のことです。バビントンは毒殺だった――ニコチンによる毒殺……」
「ああ、そのことなら――ええ読みました。あの熱心なエッグはさぞかし満足することでしょうね。最初っから彼女はあれは殺人だっていい張ってたんですから」
「しかし君は関心がないんですか?」
「僕の趣味はもう少し高尚ですよ。なんていったって殺人は――」肩をすくめて彼はいった、「あまりにも暴力的で非芸術的でしょう」
「必ずしも非芸術的とは限らない」サタスウェイト氏はいった。
「そうでしょうか? まあ、そうかも知れませんね」
「それはね、誰が殺人を犯すか、によるんですよ、そうでしょう? 例えばですよ、君ならきっと非常に芸術的なやり方で殺人をやると思いますがね」
「恐れ入ります」オリヴァーはものうげにいった。
「しかし正直いって、君、君のあのでっち上げの事故はあんまりうまいと思わないなあ。警察だってそういってますよ、きっと」
一瞬、沈黙がみなぎった――ペンが床にころがり落ちた。
「失礼ですが、おっしゃる意味がわかりませんね」
「メルフォード修道院《アベイ》での君の非芸術的な演技のことですよ。なぜ君はあんなことをしたんです、知りたいものですな」
再び沈黙が続いた、やがてオリヴァーがいった。
「警察が――疑ってるとおっしゃいましたね?」
サタスウェイト氏はうなずいていった。
「そりゃあちょっとあやしげに見えますからね、そう思いませんか? しかし多分君は十分立派な申し開きができるんでしょう」
「できます、立派な申し開きになるかならないかは疑問ですが」オリヴァーはゆっくりといった。
「私がそれを判定しましょうか?」
ちょっと間をおいてからオリヴァーはいった。
「僕があそこへ行ったのは――あんな方法をとったのは――バーソロミュー卿自身の指図なんです」
「何だって?」サタスウェイト氏はあっけにとられて叫んだ。
「ちょっと奇妙でしょう? ですが嘘じゃありません。あの方から、僕にわざと事故を起こしてあの家に庇護《ひご》を求めて来るようにという手紙をもらったんです。その理由は書くわけに行かないが、会ったらすぐ説明すると書いてありました」
「で、説明は聞いたんですか?」
「いいえ……、僕が着いたのは晩餐の直前で、二人きりでは会えなかったんです。晩餐の終りにあの方は――亡くなられましたから」
オリヴァーの態度のものうげなところはすでに消えていた。その黒い瞳《ひとみ》はサタスウェイト氏にじっと注《そそ》がれて、自分の言葉に対する相手の反応を一心に見逃すまいとしている風だった。
「その手紙ありますか?」
「いいえ、破いちゃいました」
「惜しいな」あっさりいってからサタスウェイト氏は続けた「それで君、警察にはだまってたんですか?」
「ええ。どうみたって――だって、少しとっぴですから」
「まったくそうだ」
サタスウェイト氏は頭をふった。バーソロミュー・ストレンジがそんな手紙を書くだろうか? 彼らしくないこと夥《おびただ》しい。今の話は多分にメロドラマ的だがおよそあの医者の磊落《らいらく》な性格には似つかわしくない。
サタスウェイト氏は相手の青年を見上げた。オリヴァーはまだこちらを見つめている。『この青年は、私が今の話を鵜呑《うの》みにするかどうかと思ってみてるんだな』そう感じながらサタスウェイト氏はいった、「それでバーソロミュー卿はそういうことを依頼したことに対して何ら理由をいわなかったんですか?」
「全然です」
「驚くべき話だなあ」
オリヴァーは何もいわない。
「それで君は応じたんですね?」
再びあのものうげな態度に戻ってオリヴァーは答えた。
「ええ。何だかとっぴな話でしたからうんざりした気分にはいい気晴らしになるだろうと思って……。僕、じつは好奇心もあったんです、白状しますが」
「他にまだありませんか?」
「他にってどういう意味でしょうか?」
サタスウェイト氏自身も自分がどういうつもりでそういったのかわからなかった。何だかわからないが直感がそういわせたのである。
「他にまだ何か君に不利――なようなことはないかというんですよ」
ちょっと間が感じられた。やがてオリヴァーは肩をすくめて見せながらいった。
「すっかりお話しちゃった方がよさそうですね。どうせあの女は黙っていそうにもないからなあ」
サタスウェイト氏がうながすように見た。
「あの殺人のあった翌朝なんですが、僕はあのアントニー・アスターとかいう女の人と話してたんですよ。その時僕が財布を出したらその間から何か落ちて、それをあの人が拾って渡してくれたんです」
「何かってなんです?」
「それが運悪くあの人は僕に渡してくれる前にチラッと見ちゃったんですが、ニコチンのことを書いた新聞の切り抜きなんです――いかに猛毒であるかというような記事なんです」
「何だってまたそんなことに関心を持ってたんですか」
「関心なんか持ちゃしませんよ。おそらくいつか僕が財布に入れたに違いないけど、そんなことをした覚えは全然ないんですよ。ちょっと変でしょう?」
サタスウェイト氏は『見えすいた嘘だ』と思った。
オリヴァーは続けた、「きっとあの人は警察にその話をしたんでしょうね?」
サタスウェイト氏は首をふった。
「私はそうは思わないな。私の想像ではあの人は――なんていうかな、いろんなことを自分だけの秘密にしておくのが好きなたちの女ですからね。なんでも知っておきたい人なんですよ」
突然、オリヴァー・マンダーズは身をのり出していった。
「僕は潔白ですよ、絶対に潔白です」
「君があやしいなどとはいってませんよ」
サタスウェイト氏はおだやかにいった。
「あなたはおっしゃらなくても、誰か――誰かがいったにちがいない。誰かが僕のことを警察に密告したんでしょう」
サタスウェイト氏は首をふっていった。
「そんなことはない」
「じゃああなたが今日いらしたのはなぜなんです?」
「半分は私の――まあ現場調査の結果として、それから半分はある友だちの提案に従って、ですよ」
「どのお友だちです?」
「エルキュール・ポワロ」
「あの男か!」オリヴァーは叫ぶようにいった、「あの人はイギリスへ帰って来てるんですか?」
「ええ」
「何のために帰って来たんでしょう?」
サタスウェイト氏は立ち上がった。
「猟犬はなぜ猟へ行くんでしょうね?」
うまくいい返したわい、と得意に感じながら彼は部屋を出た。
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第十一章
ホテル・リッツの豪華な部屋で、エルキュール・ポワロはゆったりと安楽椅子に腰をおろして皆の話を傾聴していた。
エッグは別の椅子の腕に腰をかけ、チャールズ卿は暖炉の前に立っていて、サタスウェイト氏が少し離れたところに坐っていた。
「至るところ失敗だらけね」エッグがいった。
ポワロは落ちついて首をふった。
「いえいえ、それは大げさですよ。そりゃ、バビントンさんとのつながりという線では失敗なさいましたな、たしかに。ですが、他のことでかなり情報をお集めになりましたからね」
「あのウィルズなる女性は何か知ってますよ、僕は誓ってもいい、あの女は何か知っている」チャールズ卿がいった。
「それから、デイカズ大尉、あの人も潔白とはいえないわ。それからデイカズ夫人は経済的にひどく困っていて、しかも、せっかく何とかなりそうなチャンスがあったのにバーソロミュー卿がつぶしてしまったのよ」
「マンダーズ青年の話はどうだとお思いになりますか?」サタスウェイト氏が訊ねた。
「奇異な感じがしますな、それにあのバーソロミュー卿にはおよそ似つかわしくない話だと思います」
「つまり嘘だとおっしゃるんですか?」チャールズ卿がぶっきらぼうにいった。
「嘘にもいろいろありますからね」ポワロはそう答えてからちょっと黙っていたが、やがて続けた、「そのウィルズさんという方はサトクリフさんのために芝居をお書きになったんですね?」
「そうです。今度の水曜日が初日ですよ」
「ははあ!」ポワロはまたしても黙りこんだ。エッグがいった。
「ねえ、それで我々はどうしたらいいんでしょう?」
その小柄な男、ポワロはにっこりしてみせながらいった。
「することはたった一つしかありませんよ──考えるんです」
「考えるですって?」エッグは叫んだ。もはや愛想もつきたというような声だった。
ポワロはその彼女に向かってにこにこしていった。
「ところがまさにそれだけなんですよ。考える! 考えることによってこそ、すべての問題は解決するんです」
「何かできないんでしょうか?」
「あなたのおっしゃるのは実際の行動ですね?左様、あなた方におできになることがまだありますよ。例えば、バビントンさんが長いこと住んでいらしたギリングという場所がある。そこへ行っていろいろ調べることができますな。あなたのお話では、ミルレイさんのお母さんがそこにお住まいで、しかもその方はご病人だそうですね。病人というのはなんでも知ってるものですよ。なんでも聞き集めて決して忘れないんです。その方にいろいろ聞いてごらんなさい、何か手がかりが得られる──かもしれないじゃありませんか?」
「あなたご自身は何もなさらないおつもり?」エッグはしつこく訊いた。
「この私も行動的にならなくちゃいけないと主張なさるんですな? よろしい、お望み通りになりますよ。ただ私はこの場所を動きませんよ、ここは大そう居心地《いごこち》がよろしいですからね。ですが、何をやるつもりかはお教えしましょう。私はパーティを──シェリー・パーティを催すつもりなんですよ。ちょっと気が利いていましょう?」
「シェリー・パーティですって?」
「|その通り《プレシゼマン》。それでデイカズ夫妻、サトクリフさん、ウィルズさん、マンダーズ君、それにあなたのチャーミングなお母様をお招きするんですよ、|お嬢さん《マドモアゼル》」
「私も?」
「もちろん、今ここにいる方は全部ですよ」
「いいわね! 私わかったわよ、ポワロさん。そのパーティで何か起こるんでしょ? そうなんだわ、違う?」
「その時になればわかりますよ。ですが|お嬢さん《マドモアゼル》、あまり期待なさらないで下さいよ。さて、すこしチャールズ卿のお知恵を拝借したいので、チャールズ卿と二人だけにさせて下さいませんか」
サタスウェイト氏と二人でエレベーターを待ちながら、エッグは有頂天《うちょうてん》になっていった。
「すばらしいわね、まるで探偵小説そっくり。みんなが集まるのよ、そうすると、ポワロさんがその中のどの人がやったのかを私たちにわからせるというわけよ」
「どうですかね」サタスウェイト氏はいった。
シェリー・パーティは月曜日の晩に開かれた。
全員が招きに応じていた。例の魅力に溢れた、自称軽率なミス・サトクリフが、あたりを見回していたずらっぽく笑いながらいった。
「まさに蜘蛛《くも》の客間ね、ポワロさん。そうして我々哀れな蠅どもはみんなここへ踏みこんでしまったんだわ。あなたはきっとあの事件の概略を立派に再現してみせて、突然私を指さしておっしゃるんでしょ『汝が犯人なり』そうすると皆が口々にいうの『やったのはこの女だ』私はそういわれると暗示にかかりやすいから、わっと泣き伏して白状するんだわ。ああ、ポワロさん、私とてもあなたがこわい」
「冗談じゃありませんよ」葡萄酒瓶《ぶどうしゅびん》を手に忙がしくグラスに注いでいたポワロはそう叫ぶと、シェリーのグラスを一つ、一礼して彼女に渡した、「今日はなごやかな小パーティなんですよ、殺人だの流血だの毒薬だのというお話はいけません。せっかくの気分をこわすじゃありませんか」
ポワロは険《けわ》しい顔つきをしたミス・ミルレイにもグラスを渡した。彼女はチャールズ卿について来たのだが、ニコリともせずに立っていた。
「さてと」配りおえるとポワロはいった、「最初にお会いした時のことは忘れようじゃございませんか。パーティの気分になって、食べたり飲んだり陽気にやりましょう、明日死なないものでもありませんからな。おっとこれはいけない、またしても死ぬ話をしてしまいました」デイカズ夫人に向かって一礼してポワロはいった、「奥様、あなたのご幸福を祈り、かつ、そのチャーミングなお召物に心からのおよろこびを申し上げます」
「君にも、エッグ」チャールズ卿がいった。
「乾杯」フレディ・デイカズがいった。
みなは口々に何か呟いていた。その雰囲気には強制された陽気さが感じられた、どの人も陽気でのんきそうに見えるようにと努めているのだ。ただポワロだけが心《しん》から楽しそうに見えた。彼は一人で嬉しそうに喋っている……。
「シェリーですが、私はカクテルよりもこの方が好きなんですよ──それからウィスキーに比べたら百倍も千倍も好きですな。ああ、いやですなあウィスキーというやつは。ウィスキーを飲むと味覚を害《そこな》います。完全に害いますよ。フランスのおいしい葡萄酒、あれを本当に味わうには、決して、決して──あ、どうしました──?」
変な物音にポワロは話をやめた──、誰かののどを絞めつけられたような声がしたのだ。目という目がチャールズ卿に向けられている。チャールズ卿は立ってフラフラし、顔をひきつらせていた。その手からグラスが絨毯の上に落ちた。二、三歩フラフラと踏み出したかと思うと、彼はくず折れるように倒れた。
一瞬、呆然と麻痺《まひ》したような沈黙が支配した。その時、アンジェラ・サトクリフが悲鳴を上げ、エッグが走り出した。
「チャールズ! チャールズ!」エッグは叫んだ。彼女は無我夢中で前へ出ようともがいたが、サタスウェイト氏がやさしく引き戻した。
「ああ! もうたくさんですわ!」メアリ夫人が叫ぶと、アンジェラ・サトクリフも大きな声をあげた。
「毒を飲まされたんだわ、また……。おそろしい、ああ、おそろしいことだわ」
そういって急に傍らのソファにくずおれると、彼女は啜《すす》り泣いているのか笑っているのか──気味の悪い声をたて始めた。
ポワロは倒れているチャールズ卿のそばに膝《ひざ》まずいていた。他の者はみな黙って後へひき下った。ポワロは立ち上ると無意識にズボンの膝を払いながら一同を見廻した。アンジェラ・サトクリフのおし殺したような啜り泣きのほかは、咳一つ聞こえなかった。
「皆さん」ポワロがいいかけたが、エッグにさえぎられた。彼女は浴びせかけるように喋り出した。
「ばか。役者ぶってろくでもないことばかりしてばかよ! 自分ばかり偉《えら》くて非凡でなんでも知ってるような顔して……。そしてとうとうこんなことひき起こしちゃったんだわ。第三の殺人じゃないの、しかもあなたの見てる前で……。あなたさえ手出しをしなければこんなことにはならなかったのに……チャールズを殺したのはあなただわ──あなたよ、あなたよ、あなたよ……」エッグはそれ以上言葉が出なかった。
ポワロは沈痛な面持《おももち》でうなずきながらいった。
「その通りです、|お嬢さん《マドモアゼル》。白状いたします、チャールズ卿を殺したのは私です。ですが、この私は、ごく特殊な殺人犯なんですよ。人を殺すこともできますが──生返らせることもできるんです」彼はそういって振り返ると、いつもの恐縮でもしてるような調子に戻っていった。
「すばらしい演技でしたね、チャールズ卿、拍手致しますよ。多分もう皆さんの拍手喝采がほしいころでしょう」
笑いながらその役者はパッと跳び起きると、ふざけた様子で一礼した。
エッグが大きく吐息をもらした。
「ポワロさんの──意地悪」
「チャールズ、なんていう悪魔なの……」アンジェラ・サトクリフが叫んだ。
「でも、どうして──?」
「どうやって──?」
「いったい全体──?」
手を上げて制してやっと静かになるとポワロはいった。
「皆さん、どうかお許しいただきとう存じます。このちょっとした茶番劇はぜひとも必要だったのです、つまり、私の推理からすでに私が得たある事実が正しいものである、ということを皆様方全部に、それから私自身にも──これは付随的なことですが──証明するためにどうしても必要だったのです。よろしゅうございますか。このグラスをのせた盆に、私は一つだけただの水を一さじ入れたグラスをおきました。その水がニコチンのつもりです。これらのグラスはみんなチャールズ・カートライト卿やバーソロミュー・ストレンジ卿のと同じ種類のもので、厚いカットグラスですから少しばかりの無色の液体なら全く怪しまれません。そこで、バーソロミュー卿の葡萄酒のグラスを想い浮かべてみて下さい。それがテーブルに配置された後で誰かがその中へ純粋ニコチンの致死量を入れたんです。これはどの人でもやれます。執事でも、女中でも、あるいは階下へ降りて食堂に忍びこめば客の中の誰にでもできます。デザートが出て、葡萄酒が回され、そのグラスにも注がれます。バーソロミュー卿が飲む──そうして亡くなられる。
今日、私どもは第三の悲劇──こしらえ上げた悲劇を演じました。私が犠牲者《ぎせいしゃ》の役をチャールズ卿にお願いしたのです。チャールズ卿はみごとにお演《や》りになりました。さて、ここでちょっと、ただいまのが狂言ではなくて、実際にあったと仮定してみましょう。チャールズ卿は亡くなられたのです。警察はどういう処置をとるでしょう?」
サトクリフ嬢が叫んだ。
「そりゃもちろん、そのグラスだわ」チャールズ卿の手から落ちてそのまま床にころがっているグラスの方を見やりながら彼女はいった。
「あなたは水をお入れになっただけですけども、もしそれがニコチンだったとしたら──」
「ニコチンと仮定して考えましょう」ポワロは爪先でそっとそのグラスに触れながらいった、「あなたのご意見は、おそらく警察はこのグラスを調べる、その結果ニコチンの痕跡が認められる、というのですね?」
「そうですわ」
ポワロは静かに首をふった。
「それはお間違いです、ニコチンは認められませんよ」
一同は驚いてポワロの顔を見た。
「よろしゅうございますか、|これは《ヽヽヽ》チャールズ卿がお飲みになったグラスではないのです」ポワロは恐縮そうに笑ってみせながら上着のポケットからグラスを一つとり出した、「|こちら《ヽヽヽ》がチャールズ卿のお使いになったグラスです」
更に彼は続けた。
「これは手品のごとく簡単な根本原理なんですよ。人間の注意力というのは同時に二つの場所に集中することはあり得ないのです。この手品をやるためには皆さんが何か他のものに気をとられて下さらなくては困ります。さあそこで、ほんの一瞬ですが、心理的な瞬間というものがあるのです。チャールズ卿が倒れ、亡くなられると、部屋中の注目はその死体に向けられますね。皆がチャールズ卿のところへ殺到しようとします、そして誰も──誰ひとりとしてですよ、このエルキュール・ポワロのことなど見ていないのです。まさにその短い瞬間に私はグラスをすり換えるんですが誰も見てやしない……。
かくして私の主張は証明されるわけです……。烏荘《クロウズ・ネスト》でも、またメルフォード修道院《アベイ》でもこのような瞬間があったのです、そして、カクテルグラスにも何も変なものはなかったし、葡萄酒のグラスにもやっぱりなかったのです……」
エッグが叫んだ。
「誰がすりかえたの?」
彼女の方を見やりながらポワロは答えた。
「その点はまだこれから考えなくては……」
「あなたはわかってらっしゃらないの?」
ポワロは肩をすくめた。
一同は何となく帰りそうなそぶりを見せ始めた。よそよそしい態度だった。みんなひどくばかにされたような感じがしたのである。
その一同をポワロは手をあげて引きとめた。
「もう一分間だけ、どうかお待ちいただきたい、もう一つだけぜひ申し上げたいことがございます。今夜、私たちはたしかに喜劇を演じました。しかしこの喜劇がまじめに演じられるかもしれない──つまり悲劇となるかもしれないのです。状況によっては、犯人は三たびやりかねませんからね……、ここにおいでの皆さんに私は申し上げます。
|どんな形にせよこの事件に関係がありそうな《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》|ことをご存じの方がもしいらっしゃるのなら《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》
、|今どうかお話しして下さるよう《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|切にお願い《ヽヽヽヽヽ》|します《ヽヽヽ》。こういう時に際して隠しておかれることは危険なのです──はなはだ危険です、命にかかわるかもしれません。それ故私はもう一度懇願いたします──|もし何かご存じの方がおい《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》|でになるなら《ヽヽヽヽヽヽ》、|その方は今お話しになって下さい《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》……」
チャールズ卿には、ポワロが特にミス・ウィルズに向かって訴えているように思われた。だがそうであったにしても、何の効果もなかった。誰ひとり、口をきくものも答えるものもいなかった。
ポワロは溜息とともに手をおろした。
「では仕方ありません。私は警告いたしました。これ以上はどうしようもありません。よろしゅうございますか、秘密を隠していることは危険なのですよ……」
依然として誰も無言だった。
一同はそれぞれぎこちなく帰って行ったが、エッグとチャールズ卿、それにサタスウェイト氏はあとに残った。
エッグはまだポワロを許していなかった。じっと身動きもせずに坐っているその頬は上気し、眼は怒りに燃えていた。そしてチャールズ卿の方を見ようともしなかった。
「なかなかどうして、鮮やかな手際でしたな、ポワロさん」チャールズ卿が感心したようにいった。
「驚きましたね」サタスウェイト氏はくすくす笑いながらいった、「グラスをすりかえたのをこの私が気がつかなかったなんて、とても考えられませんよ」
「だから私は誰にも秘密を教えないわけですよ。今日の実験はそれでこそうまくやれたのです」ポワロはいった。
「わざわざこんなことをなさったのは、ただそれだけのため──つまり誰にも気づかれずにやれるかどうかを試してみるためだけだったんですか?」
「まあそれだけでもありませんな。もう一つ目的があったんです」
「ほう?」
「私はね、チャールズ卿が倒れた時のある人の表情が見たかったのですよ」
「どの人の?」エッグが鋭くきいた。
「ああ、それは私の秘密です」
「それであなたはその人の顔を見たんですね?」サタスウェイト氏がきいた。
「はい」
「そうしたら?」
ポワロは答えず、ただ首をふった。
「話していただけませんか?」
ポワロはゆっくりと答えた。
「ひどく驚いたような表情を認めました……」
エッグがはげしく息をのんだ。そしていった。
「つまり、|あなたは誰が犯人かご存じだ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》とおっしゃるの?」
「お望みならそのように解釈なさっても結構ですよ、|お嬢さん《マドモアゼル》」
「でも、それじゃ、それじゃあなたは何もかもおわかりなの?」
ポワロは首をふった。
「いいえ、それどころか私にはまるきりわかっておりません。なぜなら私にはなぜスティーヴン・バビントンが殺されたかわからないですよ。それがわからないうちは私にはなにものも証明できません、なんにもわかるわけがないのです……。すべてはそれに──スティーヴン・バビントンが殺された動機にかかっているのですから……」
その時、ドアをノックする音がしてボーイが一通の電報を盆にのせて持ってきた。
ポワロはそれを開くと顔色を変えた。彼はそれをチャールズ卿に渡した。チャールズ卿の肩越しにエッグが読み上げた。
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スグオイデコウバーソロミュー・ストレンジノシニカンシジュウダイナジョウホウアリ」マーガレット・ラッシュブリジャー
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「ド・ラッシュブリジャー夫人だ!」チャールズ卿が叫んだ、「やっぱり僕たちは正しかったんだ。あの人はこの事件に何か関係があるんだよ」
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第十二章
すぐさま烈しい討論が展開された。旅行案内が持ち出され、車で行くよりは朝の汽車の方がよかろうということに決まった。
「ようやくにして」チャールズ卿がいった、「謎の部分を解明できるところまで来た」
「どんな謎だとお思いになる?」エッグがきいた。
「見当もつかない。だけど、これでバビントン事件解決の糸口が必ず見つかるさ。もしトリーが期するところあってみんなを集めたんだとしたら──いや、僕はそうに違いないと思うよ──そうだとしたら、みんなをびっくりさせることがあるとあいつがいってたその『こと』ってのは、このラッシュブリジャーなる女性と何か関係があるんだ。そう考えてもいいと思うんですが、そうじゃありませんか、ポワロさん?」
ポワロは当惑しきった様子で首をふった。
「この電報でかえって複雑になりましたな」彼は呟くようにいった、「ですがともかく急がなくては──大至急です」
サタスウェイト氏はなにもそう急ぐ必要はないと思ったのだが、おだやかに同意していった。
「そうですな、明朝の始発で参りましょう。ええと──そのう、我々全員行く必要がありますかな?」
「チャールズ卿と私はもうギリングに行く手筈がととのってるのよ」エッグがいった。
「それは延期すればいい」チャールズ卿はいった。
「あら、延期なんかする必要はないわ。なにも四人ともヨークシャへ行くことないわよ。無意味じゃないの、密集隊形なんて。ポワロさんとサタスウェイトさんはヨークシャへいらして、チャールズ卿と私はギリングへ行くのよ」
「僕はどっちかっていうとラッシュブリジャーの方がやりたいなあ」チャールズ卿は未練そうにいった、「だって僕は、──この前あの婦長とも話をしてるし、──要するに一度は足を突っこんだ仕事だからね」
「だからなおさら、あなたは近づいちゃいけないのよ。あなたはさんざんあそこで嘘をついてきたんですもの、ラッシュブリジャーって人が正気に戻ったからには、あなたが大嘘つきだったことがばれちゃうじゃありませんか。あなたがギリングにいらっしゃることはもっともっと意義があるのよ。ミス・ミルレイのお母さんに会うんなら、他の誰が行くよりもあなたがいらした方がよっぽどいろんな話が聞けると思うわ。あなたはその人の娘の雇い主なんですもの、あなたのことなら信用するに決まってるわ」
チャールズ卿はエッグのひたむきな顔をのぞきこむようにしていった。
「ギリングへ行くよ。全く君のいうとおりだ」
「そうですとも」エッグはいった。
ポワロがてきぱきといった。
「大変結構な配役だと私も思いますな。お嬢さんのおっしゃるように、ミルレイ夫人にインタヴューなさるにはチャールズ卿はうってつけのお方です。きっとあなたは、我々がヨークシャで得る情報よりもよっぽど大事なことをその方からお聞きになれるんじゃありませんかな」
すべての手筈がその線で決められて、翌日の朝、チャールズ卿は自分の車にエッグをのせて十時十五分前に出発した。ポワロとサタスウェイト氏とはすでに汽車でロンドンを発っていた。
その日は空気のひやりとした爽やかな上天気だった。テムズ河の南を、チャールズ卿が多年の経験から知っていた近道を通って、あちらへ曲りこちらへ曲りして行くうちに、エッグは次第に気持ちが昂ぶってくるのを感じていた。
やがて二人の車はフォークストーン街道に出て滑るように走り出した。そしてメイドストーンを過ぎると、チャールズ卿は地図を調べ、街道をそれて曲りくねった田舎道を走り出した。目的地に着いたのは大体十二時十五分前だった。
ギリングというのは世間からおき忘れられたような村だった。あるものといえば古い教会が一つに牧師館、二、三軒の店、ひとならびの粗末な家、役場や集会所など三軒か四軒の新しい建物ぐらい、しかし緑の草の共有地が美しかった。
ミス・ミルレイの母親は、教会の芝生の向こう側にある小さな家に住んでいた。
車が止まった時、エッグがいった。
「ミス・ミルレイはあなたがお母さんに会うってこと知ってるの?」
「そりゃ知ってるさ、彼女は母親にそのつもりでいるようにって手紙を出したんだよ」
「そんなことしてよかったかしら?」
「君、どうしていけないの?」
「あら、私わかんないけど……。でもとにかく、あの人をいっしょに連れて来なかったでしょ」
「ほんとのこといって、僕はあの女といっしょじゃまずいと思ったのさ。彼女は僕よかよっぽど気が利くからね──きっと横からせりふをつけてくれるようなことをするさ」
エッグは笑った。
ミス・ミルレイの母親は会って見るとまるでおかしくなるほど娘と似ていなかった。ミス・ミルレイの固い感じのところは、母親では柔らかい感じ、ミス・ミルレイの角ばったところは丸い、という具合だった。彼女はおそろしく太っちょの女で肱かけ椅子にしっかりとくくりついていた。その椅子というのが、窓の外の世界で行われていることがなんでも見えるような位置に具合よく置かれているのだ。
彼女は客が訪れたことに興奮してにこにこしていった。
「ようこそおいで下さいました、チャールズ卿。あなた様のお噂はもうヴァイオレットからたびたび聞いております」(ヴァイオレット! なんとまあ、ミス・ミルレイには不釣合な名前であることよ)「あの子はどれほどあなた様を尊敬しておりますことか。こうしてあなた様のおそばで働いているのがあの子にはとても楽しいんでございますよ。どうぞおかけ下さいまし、リトン・ゴアさん。坐ったままで失礼いたしますよ。私はもう何年も足が立ちませんのでね。これも神様の御意《みこころ》でございますからぐちは申しません。それに人間はどんなことにも慣れるものでございますよ。さあ、ドライヴしていらしたあとですからお疲れ直しに軽いものでもいかがですか?」
チャールズ卿もエッグもその必要はないといったのだが、ミルレイ夫人はおかまいなく東洋流に手を叩いて人をよんだ。そしてお茶とビスケットが出てきた。それを口にはこびながら、チャールズ卿は二人の訪問の目的に話をもっていった。
「奥さん、もうお聞き及びでしょうな、昔ここの牧師をしていらしたバビントン氏がお気の毒な亡くなり方をなさったことは?」
太っちょの女は強くうなずいていった。
「ええ、ええ、死体発掘のことも新聞ですっかり読みました。あの方を毒殺するなんていったい誰にそんなことが出来るんでしょうねえ。ほんとにいい方でしたよ。ここの人たちにもみんなに好かれていましてねえ──それから奥さんだって子供さんたちだってそうでしたよ」
「実際わけがわからないんですよ。今度のことじゃ我々もすっかりお手あげ状態なんですが、じつは、もしかしたら奥さんがなにかしら糸口を与えて下されるんじゃないかと思ったんですがね」
「私が? だってあの方たちにはずっとお目にかかっておりませんのですよ──そうですねえ、十五年は経ってますよ」
「それはわかってますが、しかしもしかしたらずっと過去に、原因となるようなことでもあったんじゃないか、そう考えてる者もあるもんですからね」
「そんなことある筈もございませんよ。あの方たちは大そう平和に暮しておいででしたからねえ。お気の毒にあれだけ子供を抱えてずいぶん貧乏はなすってましたけれどねえ」
ミルレイ夫人は一生懸命昔のことを思い出してくれはしたのだが、今エッグたちが解明しようとしているこの問題に対しては、彼女の昔話は糸口とはならないように思われた。
チャールズ卿は、デイカズ夫妻の写っているスナップ写真の引き伸しや、アンジェラ・サトクリフの若い頃の写真、それに新聞から切り抜いたミス・ウィルズの不鮮明な写真などをミルレイ夫人に見せた。彼女はそれらを見て大いに関心は示したが、誰のことも知らない様子だった。
「どなたのことも思い出せませんねえ──そりゃあもう昔のことですからね。でもここは小さな村でございましょ、あんまり出入りはないのでございますよ。アニューさん──お医者様ですけれどね──の娘さんたちはみんな結婚してよそへ出ましたよ。今のお医者様は独り者でしてね──今度若い助手が参りましたけどねえ。それからケーレーさんのお年を召したご姉妹《きょうだい》もいましたねえ──いつも教会では大きな家族席に坐っておいででしたよ。あの方たちも何年も前に亡くなりました。それからリチャードソンさん──ご主人は亡くなって奥さんはウェールズへいらっしゃいました。あとは村の人たちですがほとんど変っておりませんよ。多分、ヴァイオレットでもこの位のことはお話しできますでしょうよ。あの子はその頃まだ若い娘で、牧師館にはしょっちゅう行っておりましたんですよ」
チャールズ卿は、若い娘としてのミス・ミルレイを想い浮かべてみようとしたが、どうしてもうまくいかなかった。
彼は、ミルレイ夫人にラッシュブリジャーという名前の人を誰か知らないかと訊ねてみたが、なんの反応も喚起できなかった。
とうとう二人は彼女の家を辞した。
彼らの次にとった行動は、パン屋の店で寄せ集めのような昼食をとったことだった。チャールズ卿はしきりと他でもっといいご馳走を食べたいといったのだが、エッグが村人の噂話が聞けるかも知れないから、と主張したのである。
「それに茹卵《ゆでたまご》やホットケーキだって一度ぐらいならどうってことはないわよ。男の人って食べるものにはうるさいこというわね」エッグは手厳しくいった。
「僕は卵っていうと気が滅入るんだよ」チャールズ卿はおとなしくいった。
食事を運んできた女はうまいことに話好きだった。しかも死体発掘の記事も読んでいて、それが『昔の牧師さん』であったということで興奮していた。「その頃は私もまだ子供でした。でも覚えておりますよ」などといった。
しかし、結局その女からもバビントンのことはあまり聞き出せなかった。
食事をすませると、二人は教会へ行き、出生、結婚、死亡などの登録簿に目を通した。しかしここでも、手がかりになりそうなものは見つけられなかった。
二人は墓地へ来てぶらぶら歩いてみた。エッグが墓石の名前を読んでいった。
「変てこな名前があるわ。いい、スティヴペニですって、それからこっちはメアリ・アン・スティックルパスですってさ」
「どっちも僕の名前ほど変じゃないさ」チャールズ卿が呟くようにいった。
「カートライトっての? ちつとも変だと思わないけどな」
「カートライトじゃないんだ。カートライトは芸名だもの、結局は法律的にもそう改めたけれどね」
「じゃ、ほんとの名前はなんていうの?」
「君にはいえないなあ。僕のやましい秘密なんだ」
「そんなにひどい名前?」
「ひどいというよりおかしいんだよ」
「あら……、教えて……」
「いやだよ」チャールズ卿はきっぱりいった。
「おねがい」
「いやだ」
「どうして?」
「笑うもの」
「笑わない」
「きっと笑わないわけにはいかないよ」
「ああおねがいよ、教えてちょうだい、ねえ、ねえ、ねえ」
「なんてしつこい子なんだい、エッグ。どうしてそんなに聞きたいの?」
「教えて下さろうとしないから」
「困った子だね」チャールズ卿は少々ぐらつきだした。
「子供なんかじゃないわよ」
「そうかい? あやしいもんだな」
「おしえてちょうだい」エッグはそっとささやくようにいった。
チャールズ卿はおかしそうな、そしてちょっと口惜《くや》しそうな笑みを口のあたりに浮かべていった。
「ようし、いうよ。僕の親父の名前はマッグ(阿呆)っていったんだ」
「嘘でしょ?」
「ほんともほんと、嘘じゃないさ」
「ふうん」エッグはいった、「いささか悲劇的だわね。一生マッグって名で通すとしたら──」
「とてもこれだけの生涯は送れなかったろうね。僕だってそう思うさ。思い出すよ」チャールズ卿は思い出に耽《ふけ》るようにいった、「昔、ルードヴィック・カスティリオーネなんて名前にしようと思ったこともある。僕もその頃は若かったからね。だけど、結局英国名の頭文字を合わせてチャールズ・カートライトに落ちついたのさ」
「チャールズは本名なの?」
「そう。名付け親がそうつけてくれたんだから」彼はちょっとためらっていたが、やがていった、「君、どうして『卿』なんかとってチャールズと呼ばないの?」
「そうしてもいいけど」
「昨日はそういってたじゃないか。あの時僕が死んだと思った時……」
「あら、あの時は」エッグはつとめて当たり前の声を出そうしていた。
唐突にチャールズ卿がいった、「エッグ、何だかこの殺人さわぎももうほんとらしく思えなくなってきたよ。今日は殊にばかげてみえるんだ。僕は他の──他の何よりも先にこの事件を解決しようと思ってた。縁起をかついでたんだよ。難題解決に成功したら、もう一つの──もう一つのことも成功することにしてたんだ。ああ、どうして僕は率直にいえないんだろう? 愛情の告白なんて始終舞台でやってたものだから、いざ現実となると気おくれする。……エッグ、僕なのか、それともマンダーズ君なのか?教えてくれ。昨日は僕だと思ったんだが……」
「お思いになった通りよ……」
「ああ、エッグ」チャールズ卿は叫んだ。
「チャールズ、チャールズ、墓地なんかでキスしちゃいや……」
「どこだろうと僕はしたい時にするんだよ……」
「私たち何も発見できなかったわね」
しばらくして、エッグはいった。二人の車はロンドンへ向かって走っていた。
「ばかだな、僕たちは発見に価する唯一のことを発見したじゃないか……昇天した牧師だの医者だのに僕が何の関係がある? 僕が関心があるのは君のことだけだ……、ねえ君、僕は君よりも三十も年上なんだよ──ほんとにかまわないかい?」
エッグはやさしく彼の腕をつねった。
「おばかさん……。他の方たちは何かわかったかしらん?」
「彼らは好きなようにやってりゃいいさ」チャールズ卿はおうようにそういった。
「チャールズ──あなたはあんなに熱心だったのに」
しかし、もはやチャールズ卿は名探偵の役を棄てていた。
「うん、あれは僕自身のショーだったんだ。もう口髯先生にバトンを渡したよ、あの先生の仕事だもの」
「あの人、誰が犯人だかほんとに知ってると思う? あの人はそういってたけど」
「おそらく全然わかっちゃいないだろうな、だけど先生、名声をたもたなくちゃならないからね」
エッグは答えなかった。彼はいった。
「君、何を考えてる?」
「ミス・ミルレイのこと考えてたの。前にお話ししたでしょ、あの晩のあの人の様子とっても変だったわ。死体発掘のことが出てる新聞を買って、その途端に、どうしていいかわからないなんていったのよ」
「そんなばかな」チャールズ卿はさも愉快そうにいった、「あの女はいついかなる時だってどうしていいか位わかってるよ」
「まじめにお話ししてちょうだい、チャールズ。あの人の口調──心配そうだったのよ」
「エッグ、僕の大事なエッグ、僕はミス・ミルレイの心配事なんかどうだっていい。君と僕以外のことなんかかまうもんか」
「電車に気をつけてちょうだい! 私奥さんにもならないうちに未亡人になるのはいやよ」
二人はチャールズ卿のアパートまでお茶を飲みに帰ってきた。ミス・ミルレイが出迎えた。
「電報が参っております、チャールズ様」
「ありがとう」チャールズ卿は笑いながらいった。少年のような神経質な笑い方だった。「ミルレイ君、ニュースがあるんだよ。リトン・ゴア嬢と僕は結婚することになった」
ほんの一瞬、間が感じられた。ミス・ミルレイはいった。
「まあ! 私──私きっと、お幸せにおなりと存じますわ」
その口調には妙なひびきがあった。エッグはそれに気がついたが、それがなんであるのかはっきりわからないでいるうちに、チャールズ・カートライトがくるりと向き直ってあわただしく叫んだ。
「あっ、エッグ、これ見てごらん。サタスウェイトからだ」
彼はそういって電報をエッグの手に押しこんだ。それを読んだエッグの眼がみるみる大きくなった。
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第十三章
汽車に乗る前に、エルキュール・ポワロとサタスウェイト氏の二人は、バーソロミュー卿の秘書をしていたミス・リンドンと短い会見をした。ミス・リンドンは喜んで助力を申し出たが、役に立ちそうな情報は何ももっていなかった。ド・ラッシュブリジャー夫人のことは、カルテにも純粋に医学上のことしか書かれていなかったし、そればかりかバーソロミュー卿は、治療上の話以外は彼女の話は一度もしたことがなかったのである。
二人は十二時頃にサナトリュウムへ着いた。ドアを開けた女中は、何やら興奮して赤い顔をしていた。サタスウェイト氏が婦長に面会を申し入れた。
「今日はお目にかかれますかどうかわかりませんが」女中はいった。
サタスウェイト氏は名刺をとり出して何か書きつけた。
「ではこれを渡して下さいませんか」
二人は小さな待合室に通された。五分ほどするとドアが開いて婦長がはいってきたが、いつものきびきびした彼女らしいところは全く見受けられなかった。
サタスウェイト氏は立ち上っていった。「ご記憶でいらっしゃいましょうか、バーソロミュー卿が亡くなられた直後にチャールズ・カートライト卿といっしょにお邪魔した者ですが」
「はあはあ、サタスウェイトさん、もちろんでございます。あの時チャールズ卿はド・ラッシュブリジャーさんのことをお訊ねになりましたが、ほんとに偶然の一致でございました」
「こちらはエルキュール・ポワロ氏です」
ポワロは頭を下げた。婦長はそれには上の空で答えてから、また話し出した。
「あなた様のおっしゃる電報でございますが、どうしてそんなものがそちらへ行きましたのか不思議でございます。何もかもさっぱりわからないんでございますよ。先生がお亡くなりになりましたこととは何の関係もある筈がございませんでしょう? 誰か気違いでもいるにちがいありません──そうとしか考えられませんでございます。警察が来ておりますが、ほんとにおそろしいことでございますよ」
「警察?」サタスウェイト氏が驚いたようにいった。
「はい、十時頃からずっと来ております」
「警察がですか?」ポワロがいった。
「ではそろそろド・ラッシュブリジャーさんにお目にかからせていただけましょうな? あの方から来てくれということだったんですから──」
「あらサタスウェイトさん、ではご存じないんですね!」
「何をです?」ポワロがすばやく訊ねた。
「ド・ラッシュブリジャーさんは、お気の毒に亡くなられたんでございますよ」
「亡くなった?」ポワロは叫んだ、「これはいかん! それでわかった、うん、それでわかった。そのぐらいのことは当然──」急に口をつぐんでから、ポワロはまたいった、「どんなご様子だったんです?」
「それが大そうおかしいんでございます。チョコレートが一箱──お酒のはいったボンボンですが──あの方宛に送って参りまして、それを一つ召し上がったんですね、きっとずいぶん変な味がしたんでしょうが、多分びっくりなさった拍子に飲みこんでしまったらしいのです。なんでも吐き出すのは嫌なものでございますよね」
「そうですな、それにあっという間に液体がのどへ行ってしまえば、吐き出すのは難しい」
「それであの方は飲みこんでから大きな声をお出しになったんです、看護婦がかけつけた時にはもうどうしようもございませんでした。二分位で亡くなられました。それから先生が警察をお呼びになりまして、チョコレートを調べましたんですが、下のはなんでもなくて、上の一列が全部細工がしてございました」
「使われた毒は?」
「ニコチンらしいということでございます」
「ははあ、またニコチンだ。何というやりくちだ! 全く不敵だ!」ポワロはいった。
「手おくれでしたね」サタスウェイト氏はいった、「その方が私たちに何をいいたかったのか、今となっては永久にわからない。もしも──もしかしてその方が誰かに打ちあけてあればいいんですが?」彼は訊ねるように婦長の顔を見ていった。
しかし、ポワロは首をふった。
「そういうことはおそらくないでしょうな」
「看護婦さんにでも訊いてみることはできるでしょう?」
「ぜひとも訊いてみて下さい」ポワロはそういったが、期待はしていないようだった。
サタスウェイト氏が婦長の方へ顔を向けると、彼女はすぐさま日勤と夜勤の二人の看護婦を呼びにやった。二人はド・ラッシュブリジャー夫人を担当していたのだが、どちらもこれまでの情報以上のことは話せなかった。ド・ラッシュブリジャー夫人はバーソロミュー卿の死に関してはひとことも喋ったことはなかったのだ。それに看護婦は二人とも彼女が電報を打ったことさえ知らなかった。
ポワロが頼んで、二人は死んだ夫人の部屋へ案内してもらった。そこに来ていたクロスフィールド警部をサタスウェイト氏はポワロに紹介した。
二人はベッドのそばへ立って、死んだ夫人を見下ろした。四十歳位で髪の毛は黒く、青白い顔をしていた。おだやかな顔とはいえなかった──死の間際の苦痛をまざまざと残しているのである。
サタスウェイト氏がゆっくりといった。
「かわいそうに……」
彼はエルキュール・ポワロの方を見やった。その小柄なベルギー人の顔は妙な表情を浮かべていた。それが何となくサタスウェイト氏をぞっとさせた……。
サタスウェイト氏がいった。
「この人がいおうとしてるってことを知ってたやつがいるんですね、それで殺してしまった……。この人の口を封じるために殺したんですね」
ポワロはうなずいた。
「左様、その通りです」
「この人が殺されたのはこの人が知っていたことをわれわれにしゃべるのを妨げるためだったんだ」
「あるいはこの人の知らないことをね……。いや、時間を無駄にできませんぞ、やることが沢山あります。これ以上死なれては大変です。それに気をつけなくてはなりませんよ」
「これはあなたの考えていらっしゃる犯人の概念と合うんですか?」
「ええ、合いますね……。ところで一つだけはっきりいえますが、この犯人は考えていた以上に危険です……。気をつける必要があります」
クロスフィールド警部は二人といっしょにその部屋を出ると、例の電報の一件を彼らから教えられた。その電報はメルフォード郵便局から打ったもので、調べてみるとある小さい少年が打ったものと判明した。それを扱った若い局員が覚えていたのである。というのは、バーソロミュー卿の死に触れているその文面が、彼女を大いに刺激したからである。
警部ともども昼食をしたため、チャールズ卿に電報を打ったのちも、なお探索は進められた。
夕方の六時になって、電報を打った少年がみつかった。その子はすらすらと一部始終を語った。みすぼらしい服装の男に電報を打つようにいわれたこと、その男は『パークの家』のある『左巻きの奥さん』から頼まれたのだといったこと、その男の話ではその女の人は半クラウン銀貨を二枚包んで窓から投げたのだということ、更に、その男はそんな変てこな話に巻きこまれるのはごめんだし、反対の方角に行くところでもあるからというので、その子に半クラウン銀貨一枚をくれておつりはとっておけといったこと、などを話した。
その男の捜査が開始されることになったが、ともあれそれ以上はすることもないので、ポワロとサタスウェイト氏はロンドンへ帰ることにした。
二人が着いたのは真夜中に近く、エッグは母親のところへ帰ってしまっていたが、チャールズ卿が二人と会った。そして三人は相談を始めた。
「みなさん、私にお任せ下さい」ポワロはいった、「この事件を解くにはたった一つのことしかありません──小さな灰色の脳細胞ですよ。イギリス中をかけずり回って、あの人は知ってるんじゃないか、この人は何か知ってるんじゃないか、と訊ね歩くのはみんな素人のやるつまらぬ方法です。真相は内側からのみ見出されるのですから」
チャールズ卿はかすかに懐疑的な表情を浮かべてきいた。
「とおっしゃると、どうなさりたいんです?」
「考えたいのです。二十四時間のお暇をいただきたい──考える時間です」
チャールズ卿はかすかな笑みを浮かべながら首をふっていった。
「考えることによって、あの夫人が生きていれば何をいうつもりだったか、あなたにはわかるというんですか?」
「そう信じています」
「まず可能とは思えませんな。しかしね、ポワロさん、あなたはあなたのお好きなようになさるべきだ。この謎を解くことはあなたにはできても、僕にはできないことだ。僕は降参しましたよ、白状します。それに、いずれにしろ、僕は他にもっと大事なことがあるんですよ」
おそらくチャールズ卿は、何か聞かれると期待したことだろう、だが、そうだとしたら、その期待は裏切られたのである。サタスウェイト氏はたしかにハッと見上げたのだが、ポワロの方は何か深く考えこんでいたのだから。
「じゃあ、僕はもう帰ります」チャールズ卿はいった、「ああ、もう一つ。ちょっとミス・ウィルズのことが心配なんですがね」
「あの方がどうしました?」
「いなくなったんですよ」
ポワロは彼の顔を見た。
「いない? どこへ行ったんです?」
「誰にもわからないんですよ……。あなたの電報をいただいてから僕はいろんなことを考えてたんですよ。この前お話したように、ミス・ウィルズは何か知ってて秘密にしてる、という気がどうしてもするんです。それでもう一度何とか聞き出してみようと思って彼女の家へ行ったんです。たしか向うへ着いたのが九時半でしたが、彼女は朝出かけたきりでいないんです。今日中に帰るといって出かけたのに、夕方、電報で一日か二日帰らないが心配するなといってきたんだそうですよ」
「それで家の人たちは心配していましたか?」
「心配してたようですね。だって全然荷物は持ってないんですから」
「妙だな」ポワロは呟いた。
「そうですよ。何だか──よくわからない。どうも気になります」
「私はあの方に警告した」ポワロはいった、「皆さんに警告した。お忘れじゃないでしょう、私は皆さんに『今お話し下さい』といいましたね」
「そうですよ。あなたは彼女もやっぱり──?」
「私には考えがありますが、今はそのことは問題にしたくありませんな」
「最初が執事のエリスで、今度はミス・ウィルズだ。エリスはどこへ行ったんでしょうね? 警察がまだ捕まえられないなんて実におかしいなあ」
「警察は彼の死体のないところばかり探してるんですよ」
「それじゃエッグと同意見ですね。もう死んでるとお考えなんですか?」
「エリスは再び生きてる姿は見せないでしょうな」
「ああ全く」チャールズ卿は突然大きな声でいった、「これじゃまるで悪夢だ──何もかも全く不可解なことばかりだ」
「いやいや。反対に、全く正気で理路整然としてますよ」
チャールズ卿はまじまじとポワロを見ていった。
「そうおっしゃるんですか?」
「そうですとも。よろしゅうございますか、私は整然とした頭をもっているのです」
「おっしゃることがわかりませんね」
サタスウェイト氏もまた、好奇心に満ちたまなざしをその小柄な探偵に向けた。
「僕はそれじゃ、どういう種類の頭をもっているんです?」チャールズ卿はいささか憤然として詰問した。
「あなたは役者の頭をもっておいでになる、創造力のある、常に劇的な価値を求める心です。こちらのサタスウェイトさんは、観客の心、この方は種々の性格をよく観察なさる。雰囲気を汲みとるセンスをお持ちですな。ところがこの私の心ははなはだ散文的でして、扮装《ふんそう》も、脚光も除いた、ただ事実のみを見るのです」
「それでは私どもはおいとまして、あなたはそれに専念なさりたいんですな?」
「そうしたいと思いますな、向こう二十四時間」
「ではご成功を祈ります」
二人並んで帰りながら、チャールズ卿はいった。
「あの男はずいぶんしょってるぜ」かなり冷ややかな口ぶりだった。
サタスウェイト氏はにやりとした。主役の座さ! これなんだ。彼はいった。
「他にもっと大事なことがあるっていったのは何のことだい?」
チャールズ卿の顔にはにかんだような表情が現れた。ハノーヴァー・スクウェア[上流の人の結婚式が多く行われる聖ジョージ教会があるところ]の結婚式にたびたび出席するサタスウェイト氏は、その表情の意味をよく知っていた。
「うん、そのう、僕と──いや、エッグと僕は──」
「そりゃよかった、ほんとにおめでとう」
「もちろん、彼女に対しては年上過ぎるんだが」
「彼女はそうは思わないさ──彼女が最良の審判じゃないか」
「そういってくれると嬉しいよ。ねえ、サタスウェイト、彼女はマンダーズ君を好きなんだと僕はずっと思いこんでたんだよ」
「なんで君がそう思ってたのかわからんよ」
「とにかく」チャールズ卿はきっぱりといった、「そうじゃなかったんだ……」
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第十四章
ポワロが要求した二十四時間にやっぱり邪魔がはいった。
翌朝、十一時二十分過ぎにエッグが案内も乞わずにはいって来た。呆れたことには、名探偵は一心不乱にトランプで家を組立てているところだった。エッグの顔にまざまざと軽蔑《けいべつ》のいろが浮かんだので、ポワロもあわてて弁解をはじめた。
「|お嬢さん《マドモアゼル》、なにもこの年になって子供にかえったわけじゃないのですよ。そうじゃない。ただ、トランプで家を組立てる遊びは、私には一番頭の刺激になりますのでね。長年の習慣です。今朝、私はまず外へ出て一と組買ってきたんですが、残念なことに間違えました。これはトランプじゃなかった。ですがこれでも同じことです」
エッグはもっとそばへ寄ってテーブルの上の建造物を見た。そして笑っていった。
「なあんだ、『家族合わせ』を買わされていらしたのね」
「なんです? その『家族合わせ』というのは?」
「あのね、ゲームなの。子供がよくやるのよ」
「ははあ、いや、これでも家は同じように建てられます」
エッグはテーブルの上のカードを二、三枚手にとって、懐かしそうに見ながらいった。
「バンちゃんね、パン屋の息子──私好きだったな、この子。それからこれはマッグ夫人、牛乳屋のおかみさんよ、ああら、これは私じゃないの」
「そのおかしなのがどうしてあなたなんです?」
「名前がそうだからよ」
狐《きつね》につままれたようなポワロの顔を見て、エッグは笑いながら説明した。それを聞くとポワロはいった。
「なるほど、ゆうべチャールズ卿がおっしゃったのはその事だったんですな。たしか……マッグというのは──ええと、俗語でよく、おまえはマッグだ、つまりばかだっていうあれですな? もちろん改名なさればいい。おそらく、マッグ夫人となるのはお嫌でしょうからね」
エッグは笑った。そしていった。
「ね、幸せを祈るとおっしゃって」
「お祈り致しますとも、|お嬢さん《マドモアゼル》。若いうちだけのはかない幸せじゃなく、いつまでも変らぬ幸せを──岩の上にゆるがぬ幸せをお祈りしますよ」
「チャールズに、あなたが彼のことを岩っておっしゃったって伝えるわね。ところで、私がここへ何しに来たかっていうとね、オリヴァーのお財布から落ちたっていう切り抜きのことが、気にかかってしようがないからなの。ミス・ウィルズが拾ってオリヴァーに渡してくれたという切り抜きのことよ。オリヴァーがそんなところへ入れた覚えはないっていったのは真赤な嘘のような気もするし、あるいは最初からお財布になんかはいってなかったようにも思えるのよ。オリヴァーはなんか別の紙切れを落としたのに、あの人がそれをニコチンの記事だったように見せかけたんじゃないかしら」
「どうしてウィルズさんはそんなことをする必要があったんですかな?」
「自分がもっていたくないからよ。それでオリヴァーになすりつけたんだわ」
「じゃあ、彼女が犯人だとおっしゃるんですか?」
「そう」
「動機は?」
「私にそんなことお聞きになってもだめよ。ただ私のいえるのは、あの人は気違いじゃないかしらってことだけ。頭のいい人ってえてして頭が変なのよ。他に理由は考えられないわ──ほんとにどう考えても動機が見当たらないんですもの」
「たしかに、そこが行き止まりですな。動機はなんですとあなたにうかがうべきじゃなかった。私がその質問を片時もやすまず向けているのはほかならぬ私自身に対してですからな。『バビントン氏殺害の動機は何か?』私にその答えができた時、この事件は解決するんですよ」
「ただの気違いのしわざとはお考えにならない──?」
「いいえ、あなたのおっしゃる意味での気違いのしわざとは思いません。ちゃんと理由があるのです。私はその理由を見つけなければならない」
「じゃあこれで、さようなら。お邪魔してごめんなさい、ただ、さっきのこと思いついたもんですから。さ、急がなくちゃ、私チャールズといっしょに『小さな犬が笑った』の舞台稽古《リハーサル》を見に行くの。ほら、ミス・ウィルズがアンジェラ・サトクリフのために書いたお芝居よ。明日が初日なの」
「ああ、そうだ!」ポワロは叫んだ。
「どうしたの? 何が起きたのよ?」
「左様、たしかに起きました、思いついたんです。とびきり上等の思いつき、ああ、私は今までめくらだった──めくらだった──」
エッグはあっけにとられて彼を見ていた。自分の突飛な言動に気づいたかのように、ポワロは落ちつきを取り戻してエッグの肩を叩いていった。
「気が違ったとお思いでしょうな。大丈夫です。ちゃんと聞いていましたよ。あなたは『小さな犬が笑った』を見にいらっしゃるんでしょう、そしてサトクリフさんが主演なさるんですね。じゃあ行ってらっしゃい、私のいったことなんかお忘れ下さいよ」
何となく曖昧な面持でエッグは帰って行った。ひとりになると、ポワロは部屋の中を歩き回りながら口の中で呟き出した。緑色の眼が猫の眼のように輝いていた。
「うん、これで何もかも説明がつく。変った動機だ――実に変った動機だ、こんな動機なんて初めてお目にかかったなあ。だがすじは通ってる、それにいろいろな状況を考えれば、不自然でもない。とにかく総じて実に変わった事件なんだ」
テーブルのそばを通りがかりざま、ポワロは片手でカードの家を払い落とした。
「家族合わせか、もう要らないね。問題は解ける。あとは実際の行動のみ」
オーヴァーを着て帽子を掴むとポワロは階下へ降りた。門衛の呼んだタクシーに乗ると彼はチャールズ卿のアパートの番地をいった。
やがて着くとタクシーに金を払い、ポワロはホールへはいって行った。ポーターはエレベーターを運転していて見えないので、彼は階段を上がって行った。ちょうど二階へ着いた時にチャールズ卿の部屋の戸があいて、ミス・ミルレイが出てきた。
ポワロを見て、彼女ははっとしたようだった。
「あなたでしたか!」
ポワロはにんまりしていった。
「私です! 要するに、私ですよ!」
ミス・ミルレイはいった。
「チャールズ卿にはお会いになれませんでございます。リトン・ゴアさんとごいっしょにバビロン劇場においでになりましたので」
「私が探してるのはチャールズ卿ではないんですよ。ステッキなんです、たしかこの前忘れたと思いますんでね」
「そうでございますか、ではベルをお鳴らし下さればテンプルが探してさし上げると存じます。私ちょっと急ぎますので、汽車に乗るものですから。ケントまで――母のところへ参りますんです」
「なるほど、いや、お引きとめは致しませんよ」
ポワロが道をあけると、ミス・ミルレイはそそくさと階段を降りていった。彼女は小さな書類鞄をさげていた。
ミス・ミルレイが見えなくなると、ポワロはわざわざやって来た目的を忘れたかのようだった。前へ行くかわりにくるりと向きかえると、彼は階段を降りて行った。ちょうど玄関へ着いたときに、ミス・ミルレイがタクシーに乗りかけているのが見えた。もう一台のタクシーがゆっくりと来るのを、ポワロは手を上げてとめ、乗りこむと、先に行くタクシーのあとをつけるように命じた。
先へ行くタクシーが北へ向かい、おしまいにパディントン駅に止っても、ポワロは一向に驚かない様子だった。ケント州に行くにはパディントンは都合の悪い駅なのである。ポワロは一等の出札口へ行き、ルーマスまでの往復切符を買った。汽車が出るまでに五分しかなかった。寒い日だったので、オーヴァーの襟《えり》を耳のあたりまで立てて、ポワロは一等車の一隅に身を落ちつけた。
ルーマスに着いたのは五時近くだった。すでに日は暮れかかっていた。ポワロはちょっと後に控えて、その小さな停車場の愛想のよいポーターがミス・ミルレイに挨拶しているのを聞いていた。
「やあ、これはこれは。あなたがおいでになるとは思いませんでした。チャールズ卿が来られるんですか?」
ミス・ミルレイが答えている。
「私、急に思いたってやって来たんです。明日の朝には帰ります。ちょっと荷物をとりに来たもんですからね。いえ、車は結構、崖の小径から上がって行きますから」
夕闇が迫ってきた。ミス・ミルレイは険しいジクザクの小径をとっとと登って行った。かなりの間をあけて、ポワロが後から登って行く。そっと猫のような忍び足で小走りについて行く。ミス・ミルレイは烏荘《クロウズ・ネスト》につくとハンドバッグから鍵をとり出し、横のドアからはいって行った。ドアは半開きのままだ。一、二分の後、再び出て来た彼女は錆びた鍵を一本と懐中電灯を手にしていた。ポワロは手近の繁みのかげへちょっと隠れた。
ミス・ミルレイは家の裏手へ回り、草の生え放題生えた小径を登って行った。エルキュール・ポワロもその後を登って行く。どんどん登って行くと急に古い石の塔の前へ出た。そのあたりの海岸にはそんな塔がよくあるのだ。その古い塔は荒れ果ててみるかげもない。にもかかわらず、汚い窓にカーテンがかかっていた。ミス・ミルレイはその大きな木の扉に鍵をさし込んだ。
鍵はさからうような音をたててまわった。蝶番《ちょうつがい》をぎいっといわせて扉が開いた。ミス・ミルレイと彼女の懐中電灯がその中へ吸いこまれた。
足を早めてポワロも追いついた。今度は彼が忍びやかにその扉から入って行く。ミス・ミルレイの懐中電灯の光が、ガラスのレトルトやブンゼン灯など、種々の化学実験器具をチラチラと照らしていた。
ミス・ミルレイは鉄梃《かなてこ》を手にとった。それをふり上げ、ガラスの器具の上にふりかざした時、一本の手が彼女の腕を掴んだ。彼女ははっと息をのんでふり向いた。
ポワロの碧《あお》い、猫のような眼が彼女の眼を射るように見ていた。
「それはいけません」ポワロはいった、「あなたがうち壊そうとしているのは証拠ですからね」
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第十五章
エルキュール・ポワロは大きな肘掛椅子《ひじかけいす》に坐っていた。壁の照明は全部消されて、ただ一つ、バラ色のかさのランプが肘掛椅子のその人影に光を投げかけていた。そこにはなにか象徴的なものがあった──ポワロひとりが明かりの中にいて、チャールズ卿、サタスウェイト氏それにエッグ・リトン・ゴアの三人、つまりポワロの聴衆がそのまわりの薄暗がりの中に坐っているのだ。
エルキュール・ポワロの声は夢みるような口調で響いていた。聴衆に向かってというよりはむしろ空間に向かって話しかけているようにみえた。
「事件をもう一度組立ててみる──それが探偵の狙いです。事件をもう一度組立てるためには、ちょうどカードの家を組立てる時にカードを一枚ずつのせていくように、事実を一つずつ重ねていかなくてはなりません。もしそれらの事実がうまく合わない時──もしカードのバランスが崩れた時には──左様、もう一度初めからやり直さなくてはならない。さもないとその家は崩れてしまいます……。
先日も申し上げましたように、心には三つのタイプがあるのです。すなわち、ドラマチックな心──演出家の心があります、それは機械的な装置によって作り出すことのできる迫真性の効果を知っています。また、ドラマチックな光景にただちに反応する心もあれば、若いロマンチックな心もあります。そして最後に、皆さん、散文的な心があるのです──この心は青い海も、ミモザの花も眼中になく、ただ舞台に描かれた背景幕しか見ないのです。
さて皆さん、ここで去る八月に起こった、スティーヴン・バビントン殺害事件に話を移しましょう。あの晩チャールズ・カートライト卿は、バビントン氏は殺されたのであるという説を主張なさいましたが、私は賛成いたしませんでした。スティーヴン・バビントンのような方が殺されたりするということ、またあの晩のような状況の下である特定の人に毒を盛ることが可能であるなどということ、この二つが考えられないことだったからです。
さて今、私はチャールズ卿が正しく、私が誤っていたことを認めます。私は事件を全く間違った角度から見ていたために誤ったのです。私がしかるべき角度に突如として気づいたのはたった二十四時間前のことです──その角度から見れば、スティーヴン・バビントン殺害は可能でもありますし、理由も思い当たるのです。
さて、この点については後でお話しすることにして、私自身が辿《たど》りました道を皆さんにも一歩一歩辿っていただきましょう。スティーヴン・バビントンの死をこのドラマの第一幕と呼んでもよいと思います。第一幕のカーテンは我々一同が烏荘《クロウズ・ネスト》から解散した時におりました。
第二幕は、モンテカルロでサタスウェイトさんが、バーソロミュー卿の死因に触れた新聞記事を私にお見せになった時に始まった、と申し上げたい。私が誤っていてチャールズ卿が正しいということはこれで明らかでした。バビントン氏もバーソロミュー卿も殺されたのであり、この二つの殺人は一つの犯罪のそれぞれ一部分をなしているのです。その後第三の殺人──ド・ラッシュブリジャー夫人の殺害が第三の部分として加わりました。そういうわけで、我々の求めるものは何かといえば、これら三つの死を結びつけるところのごく常識的でもっともな理屈です。つまり、これら三つの犯罪は同一の人物によって行なわれたものであり、その人物にとって益するところがある筈なのです。
さて、私が一番悩まされた点は、バーソロミュー卿の死がバビントン氏の死よりもあとだったということでした。この三つの殺人を、時期や場所をぬきにして考えますと、バーソロミュー卿殺害がいわゆる主要犯罪であり、あとの二つは付随的なもの──つまり、この二人の人物とバーソロミュー卿との何らかのつながりから起きたものである、と見るのがもっとも確からしい見方でしょう。しかしながら、いつかも申しましたように、我々は犯罪を自分の都合のいいように考えることはできません。スティーヴン・バビントンが先に殺されたのであり、バーソロミュー・ストレンジ卿の殺害はあとなのです。ですから、第二の犯罪は第一の犯罪から必然的に起きたものであり、従ってすべてを解く鍵として調べるべきは第一の犯罪であるごとく思われたのです。
しかし、私は『もっともたしからしい見方』の方にすっかり傾いておりましたため、何か『間違い』があったのではないかと本気で考えたほどでした。じつはバーソロミュー卿が最初の犠牲者となる筈であった、それが間違ってバビントン氏が毒を飲まされてしまった、ということは可能だったでしょうか? しかしながら、私はその考えを棄てざるを得ませんでした。バーソロミュー・ストレンジ卿と多少なりとも交際のある人ならば誰でも、あの方がカクテルを嫌いなことを知っているのです。
もう一つ申し上げてみますと、バビントン氏はあの最初のパーティの誰か他の人の身代りに誤って殺されてしまったのでしょうか? 私はそのような証拠は一つも発見できませんでした。従って私は、スティーヴン・バビントンの殺害はたしかに意図されたものである、という結論に帰らざるを得ませんでした。するとたちまち、完全な障害にぶつかってしまいました、すなわち、そのようなことは明らかに起こり得なかったのです。
一つの調査を始めるには必ず、一番単純な、そして一番明白な理屈から考えて行くべきです。バビントン氏は毒入りのカクテルを飲んだ、と一応考えますと、そのカクテルに毒を入れるチャンスがあったのは誰でしょうか? ちょっと考えると、それをすることができた人──例えばカクテルを扱った人は、チャールズ卿ご自身と客間女中のテンプルの二人と思われました。しかし、たとえその二人のどちらかがグラスに毒を入れることができたにしろ、二人とも、そのグラスを特にバビントン氏に渡すチャンスはなかったのです。テンプルは、巧みに盆を持って回って最後の一つ残したグラスをバビントン氏にとらせるようにすれば、できたでしょう(容易なことではないが、できなくはなかったでしょう)。チャールズ卿も、そのグラスを自分でバビントン氏に手渡せばできた筈です、しかしこれらのことは二つながら起こりませんでした。この特定のグラスがスティーヴン・バビントンに向けられたのは、全く偶然のこととしか思えませんでした。
チャールズ・カートライト卿とテンプルがそのカクテルを扱ったのでした。この二人はメルフォード修道院《アベイ》にもいたでしょうか? どちらもいませんでしたね。バーソロミュー卿の葡萄酒のグラスに手を加えることのできるチャンスがもっともあった人は誰でしょうか。例の姿をくらました執事エリスと、彼を手伝っていた客間女中です。しかし、ここで客の中の誰かがやることもできたという可能性も考慮に入れるべきです。客の中の誰にとっても、食堂に忍びこんでそのグラスにニコチンを入れることは、冒険であるとはいえ、可能であります。
私が烏荘《クロウズ・ネスト》へ伺って皆さん方に参加いたしました時、皆さんはすでに、|烏荘《クロウズ・ネスト》とメルフォード修道院《アベイ》にいらしていた方々のリストを作成しておありになりました。今だから申し上げますが、そのリストの初めに書いてある四つの名前──デイカズ夫妻、サトクリフ嬢、ミス・ウィルズ──を私はその時ただちにとり除いたのであります。
これら四人の方はどの方にしろ、あの晩餐の席上バビントン氏に会う筈だということをあらかじめ知っていた、ということはあり得なかったのです。ニコチンを毒薬として使ったということは、まことに周到な計画であることを──すなわち、急に思い立って実行に移せるような計画ではないことを示しております。あのリストには他に三つの名前──メアリ・リトン・ゴア夫人、リトン・ゴア嬢、オリヴァー・マンダーズ氏──がありました。この方たちは、犯罪を犯すことはありそうもないが可能ではある。三人とも土地の方です。想像してみますに、この三人はバビントン氏をなきものにしたい何らかの理由があって、あのパーティの晩をえらんでかねての計画を実行に移したのかもしれません。
一方、私はこの三人の中のどの方についても、そのようなことを実際にやったという証拠をあげることができませんでした。
サタスウェイトさんは、私とほとんど同じ線で推理をすすめていらしたようです。そしてオリヴァー・マンダーズに疑いをかけていらしたようです。マンダーズ青年は誰に比べても一番容疑者らしく思われるといえましょう。烏荘《クロウズ・ネスト》に集まったあの晩、彼は極度に神経質な様子を示していました。彼は悩みをもっているために人生に対して歪んだ考え方をしています。彼は強い劣等感を持っています──これはしばしば犯罪の要因となるものです──彼は不安定な年齢にあります、彼は実際にバビントン氏といさかいをした、というよりは同氏に対して敵意を示していました。そこへもってきて、彼がメルフォード修道院《アベイ》へやって来た時の事情が奇妙でした。しかも後になって、彼は、それはバーソロミュー卿から手紙をもらったからだ、という信じられないような話をしたのです。更に、ニコチンの毒について書いた新聞記事を彼がもっていた、というミス・ウィルズの証言もあったのです。
そうなると、もちろんオリヴァー・マンダーズがこの七人の容疑者のリストの筆頭に書かれるべき人物であります。
ところが皆さん、その頃私はある妙な感じに襲われたのです。これらの犯罪を犯した人間は|両方の現場に居合わせた人間いいかえれば《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|このリストの七人の中の一人でなければならぬ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、ということは今更いうをまたない明白なことに思われます──ところが私は、その明白さはあらかじめ用意された明白さである、というような感じがしたのです。あたりまえの論理的な頭の人ならば誰でもさっきのように考えるのが普通です。私は真実に注目しないで技巧的に描かれた舞台装置ばかりを見ていた、という気がしました。ほんとうに頭のいい犯罪者ならば、このリストの中の誰かが当然容疑をかけられるであろうということに気がつきます、従って彼は、あるいは彼女はそのリストにはいらないように工夫するのです。
いいかえますと、スティーヴン・バビントン氏及びバーソロミュー・ストレンジ卿殺害の犯人は両方の現場に居合わせた──しかし見かけ上は居合わせなかったのです。
最初の現場にはいて第二の現場にはいなかった人は誰でしょうか、チャールズ・カートライト卿、サタスウェイト氏、ミス・ミルレイ、それにバビントン夫人です。
この四人の方はどなたにしろ、その方本来の資格以外の資格で、第二の現場に居合わせることができたでしょうか? チャールズ卿とサタスウェイト氏は南フランスにおいででした。ミス・ミルレイはロンドンに、バビントン夫人はルーマスにおられました。そうしますと、四人の中ではミス・ミルレイとバビントン夫人が指名されそうです。しかし、ミス・ミルレイは他に居合わせたどの方にも悟《さと》られずにメルフォード修道院《アベイ》に現われることができたでしょうか。ミス・ミルレイは大へん人目につきやすい顔立ちですから簡単には人に忘れられませんし、変装もしにくいでしょう。私は、ミス・ミルレイが誰にも悟《さと》られずにメルフォード修道院《アベイ》に現われることは不可能である、と断定いたしました。バビントン夫人についても同じことでした。
それならば、サタスウェイト氏とチャールズ卿はメルフォード修道院《アベイ》に居合わせることはできたでしょうか、しかも悟られずにいられたでしょうか? サタスウェイト氏はひょっとしたら可能です。しかしチャールズ卿を考えてみますと我々は全く違った事態に考えつきます。チャールズ卿は芝居を演じることには慣れた役者なのです。どんな役を彼はやれたでしょう?
そこで私は執事のエリスを考えてみました。エリスはまことに不可思議な人物です。事件の二週間前にどこからともなく現われて、事件後みごとに消え失せました。エリスがかくもみごとに消え失せたのはなぜでしょうか? それは|エリスは実在しなかったから《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》であります。エリスもまた、ボール紙と糊《のり》と演出法の産物でした──実在のものではなかったのです。
しかしそんなことが可能でしょうか? とにかくメルフォード修道院《アベイ》の女中たちはチャールズ卿を知っていました、そしてバーソロミュー卿とはごく親しい友人なのです。しかし女中たちのことは簡単にわかりました。執事に化けることには何の危険もないのです──もし女中たちに悟られたとしても、何ら困ることはない、すべては冗談として見過されますからね。一方、もし二週間というものが全く怪しまれずに過ぎれば、計画は絶対に安全ということになります。ここで私は、その執事についての女中たちの感想を思い起こしました。それによれば、彼は『全くの紳士』で『上流家庭にいた』ことがあり、何かとスキャンダルを知っていました。チャールズ卿ならばそのような話をするのは簡単なわけです。ところが非常に重大なことが客間女中のアリスの口から語られました。彼女によると『彼は、今までのどの執事とも仕事のやり方が違っていた』のです。この事を聞きまして、私の推理はいよいよ確かになりました。
しかしながら、バーソロミュー卿は別問題です。彼の友人が彼を出し抜くことができたとはとうてい考えられません。彼は友人が執事に化けていることを知っていたに違いない。その証拠はあるでしょうか。あります。
鋭いサタスウェイト氏がかなり初めの頃に一つの点を指摘されています、つまりバーソロミュー卿のちょっとふざけた口のきき方で、これは使用人に対する彼のふだんの態度からは全く考えられないものです。彼はこういったのです。『君は第一級の執事だよ、なあエリス』|もしそ《ヽヽヽ》|の執事がチャールズ卿であり《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|バーソロミュー《ヽヽヽヽヽヽヽ》|卿が冗談事を考えていたのだとすれば《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|この言《ヽヽヽ》|葉も完全に辻つまが合います《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。
なぜならば、バーソロミュー卿は明らかに事態をそのように見ていたからです。エリスに化けていることは冗談でした、おそらくは賭けでさえありました。その最終目的はパーティのお客さんたちをみごとにかつぐことでした──バーソロミュー卿が、今にびっくりさせてみせるといい、いつになくはしゃいでいたのはこのためです。それから、注意していただきたいのは、この時はまだ計画をとりやめるだけの時間があったことです。もしあの晩餐の席で客の誰かがチャールズ卿を見破ったとしても、困るような事態は起こらなかったのです。すべてを単なる冗談事としていいつくろえばいいのです。しかし、眼をくまどり、頬髯をつけ、手首ににせものの|あざ《ヽヽ》をつけたこの猫背の中年の執事に、誰ひとりとして気をとめませんでした。この手首の|あざ《ヽヽ》こそ、まことに微妙な目印しのはずだったのにそうなりませんでした──それほど多くの人が観察力を持ち合わせていないのです! そのあざはエリスの人相書の中で特に比重をしめるようにとの考えでつけられた……だが二週間の間、誰もそれに気づかなかった! ただひとり気づいたのは炯眼《けいがん》のミス・ウィルズだけでした。この方についてはもう少しあとで言及いたします。
さて何が起こったでしょうか。バーソロミュー卿が亡くなられたのです。今回は自然死とはみなされず、警察が呼ばれました。エリスをはじめ他の人たちも訊問を受けました。その後夜になってから『エリス』は秘密の通路から抜け出し、彼の本来の人格に戻って、二日後にはモンテカルロでホテルの庭をぶらぶらし、親友の訃報に接したらいつでも仰天《ぎょうてん》できるようにしていたのです。
よろしゅうございますか、これが私の推論でした。実際的な証拠は何もありませんでしたが、一つ一つの事実がこの推論を支えていました。私のカードの家はうまく建ったのです。エリスの部屋でみつかった脅迫状ですか? しかしあれを発見したのはほかならぬチャールズ卿ご自身なのですよ!
また、バーソロミュー卿がマンダーズ青年にあてて、書いたとされている手紙──わざと事故を起こして来るようにという──はどうでしょう? さあ、バーソロミュー卿の名前でそのような手紙を出すことぐらい、チャールズ卿にとってはお茶の子です。その手紙をもしマンダーズ君が破り棄てなかったとしても、エリスに扮していたチャールズ卿はこのお客様の身の回りの世話をする際にいくらでも破くことができます。同様にしてニコチンの切り抜きもエリスによってマンダーズ君の財布にまんまと入れられたのです。
さて今度は第三の犠牲者──ド・ラッシュブリジャー夫人のことに移りましょう。私どもが同夫人のことを初めて耳にしたのはいつだったでしょうか。それはあのエリスに対していわれたひやかしの言葉──全くバーソロミュー卿らしからぬ発言なのですが──の直後であります。何はともあれ、その執事に対するバーソロミュー卿の態度から人の注意をそらさなければなりません。チャールズ卿は、執事が伝えた電話の内容はなんであったかといち早く訊ねます。それはバーソロミュー卿の患者であったこの婦人に関することでした。チャールズ卿はただちに人の注意を、執事からこの見知らぬ婦人に向けさせることに全力をあげました。彼はサナトリュウムに行き、婦長にいろいろと質問しました。彼は、ド・ラッシュブリジャー夫人を、注意をそらすための囮《おと》りにしようと全力を尽くしました。
さて今度は、このドラマでミス・ウィルズの演じた役割を検討しなければなりません。ミス・ウィルズは一風変った性格の持ち主です。彼女は、周囲の人に印象を植えつけることのできない種類の人物です。容姿もすぐれなければ、機智もなく、頭も切れそうではなく、思いやりさえありません。何とも漠然としています。しかしながら極度に観察力にすぐれ、極度に頭がよいのです。彼女は世間に対しペンで復讐《ふくしゅう》します。性格を紙の上に再現するすぐれた才能をもっています。少し変だなとミス・ウィルズに思わせるものが執事にあったかどうか、それは知りませんが、少なくとも彼女はあの晩餐の席上執事に目をとめた唯一の人物である、と私は考えます。殺人のあった日の翌朝、彼女の飽くことを知らぬ好奇心は、女中の言葉をかりていえば、『あちこち突つき回る』ことに彼女を駆り立てました。何か探し出そうという、おそらくはマングースのごとき本能の赴くままに、彼女はデイカズ夫妻の部屋にも入れば、使用人部屋にも入っていったのでしょう。
ミス・ウィルズは、チャールズ卿に不安な気持を起こさせた唯一の人間でした。だからこそ彼はミス・ウィルズを担当したがったのです。彼女を訪問した結果、彼は大いに安心し、彼女が例の|あざ《ヽヽ》に気づいていたことに満足しました。しかし破局はその後に来ました。ミス・ウィルズはその時まで、執事エリスとチャールズ・カートライト卿とを結びつけて考えてはいなかったと思います。おそらくは、彼女はなんとなくエリスが誰かに似ているという気がしていたに過ぎなかったのです。しかし彼女は観察力の鋭い人です。お皿が置かれるたびに彼女は無意識に──顔ではなく──皿を差し出す手に心をとめていたのです。
エリスはチャールズ卿である、とは彼女は考えてもいませんでした。しかしチャールズ卿と話してるうちに、突然『チャールズ卿がエリスだったのだ!』と思いついたのです。そこで彼女はチャールズ卿に、野菜のお皿を渡すような真似《まね》をしてくれと頼みました。しかしそれは、|あざ《ヽヽ》が右手にあったか左手にあったかということに関心があったためではなかった。それは彼の手を──執事エリスの手と同じ位置に差し出された手を研究する口実が欲しかったためだったのです。
かくしてミス・ウィルズは一足とびに真相に達しました。ところが彼女は一風変った婦人であります。彼女は知識のための知識を楽しんでいました。それに、チャールズ卿がバーソロミュー卿を殺したのであるという確信はなかったのです。チャールズ卿が執事になりすましていたのはたしかです──しかしだからといって必ずしも彼が下手人であるとはいえませんからね。喋れば困った立場に立つことになるというので、沈黙を守る罪のない人間が多いのです。
そういうわけでミス・ウィルズはその知識を一人じめにし、こっそり楽しんでいました。しかしチャールズ卿は気をもんでいました。彼がミス・ウィルズの部屋を出る時にふと見た、彼女の顔に浮かんでいた満ち足りた悪意の表情が彼にはおもしろくありませんでした。ミス・ウィルズは何か知っている。何だろう? 自分に影響があることだろうか? 何とも確信はありませんでした。しかし、それはエリスに関することであるような気はしていました。この前はサタスウェイト氏が……そして今度はミス・ウィルズが……。何としてもこの致命的な一点から人々の注意をそらさなければならない。何か他のことに注目を集める必要がある。そうして彼はある計画を思いついたのです──単純で大胆で、しかも彼が予想した通りまんまと人を欺《あざむ》くような計画でした。
私の開いたシェリー・パーティの当日、チャールズ卿は早朝に起きてヨークシャへ行き、みすぼらしく変装して一人の少年に電報を打つように頼んだのであろうと、私は想像いたします。そうしておいてから、お願いしてあった私の芝居を演ずるのに間に合うように急いで帰って来たのです。なお彼はもう一つ仕事をしました。|会ったこともなければ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|その人について何一つ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》|知りもしない一人の婦人に一箱のチョコレート《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》|を郵送したのです《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》……。
その夜のことはみなさんご存じの通りです。チャールズ卿の不安げな様子から察して、私はミス・ウィルズが何か疑いをかけていると確信し、チャールズ卿が例の死の場面を演じた時に、ミス・ウィルズの表情に注意していました。私は彼女の顔に驚きの表情を見ました。私はその時、|ミス・ウィルズがチャールズ卿を犯人とし《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》|てはっきり疑っていた《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》ことを知りました。彼が他の二人と同じ様にして毒殺されたと思った時、ミス・ウィルズは自分の推論が間違っていたと考えたのです。
しかし、ミス・ウィルズがチャールズ卿を疑っていたとすれば、彼女はまことに危険な状態にあるわけです。二度も人殺しをした人間は更に人殺しをやるでしょう。私は厳重警告を発しました。あの晩遅く私はミス・ウィルズに電話をかけ、私の忠告に従って彼女は翌日突然に姿を消したのです。それ以来彼女はこのホテルに滞在しています。私がその点賢明であったということは、翌日チャールズ卿がギリングから帰ってからトゥーティングへ出かけて行った事実によって証明されます。彼は先んじられました。鳥は一と足先に逃げていたのです。
一方、彼の計画は、うまくいったようにチャールズ卿には思われました。ド・ラッシュブリジャー夫人はある重要な秘密を我々に話したがっていた、ところが話す暇《いとま》もないうちに殺されてしまった。何という劇的な話でしょう! まるで探偵小説か芝居か映画のような話ではありませんか! これもまた、ボール紙や金ピカ細工の衣裳だったのです。
しかし、このエルキュール・ポワロは欺されませんでした。サタスウェイトさんは、ド・ラッシュブリジャー夫人が殺されたのは彼女の口を封じるためだとおっしゃいました。私は同意しました。さらに、彼女は彼女の知っていたことを我々に話さぬうちに殺された、とおっしゃったのですが、私はこう申しました。『あるいは彼女が知らなかったことをね』。サタスウェイトさんはわけがわからなかったようです。しかしその時に真相がわかってしかるべきだったのです。ド・ラッシュブリジャー夫人は我々に話すようなことは現実に何もなかったからこそ殺されたのです。なぜなら彼女はこの事件に何の関係もないからです。チャールズ卿にとってのうまい囮りであるためには、彼女は死ななければならなかった。こうして見も知らぬなんの罪もないド・ラッシュブリジャー夫人は殺されました。
ところが、成功したかにみえたチャールズ卿は途方もない、子供じみた大まちがいをやらかしていたのです。例の電報をリッツ・ホテルのこの私に、エルキュール・ポワロに宛てたのです。しかしド・ラッシュブリジャー夫人は私がこの事件に関係していることを知らなかったのです。サナトリュウムなどにいるような人たちは知らない筈です。全く信じられないほど子供じみたまちがいでした。
さて、その頃には私はもうある段階に達していました。犯人が誰であるかもわかっておりました。しかし第一の殺人に対する動機がわかっていなかったのです。
考え直してみました。
そうしてもう一度、バーソロミュー卿殺害事件が犯人の本来の目的であった、というように考えてみたのです。チャールズ・カートライト卿が友人を殺した理由としてどんなことが考えられるでしょう? その動機を想像できるでしょうか? できる、と私は思いました」
深い溜息がもれた。チャールズ・カートライト卿が立ち上り、暖炉の方へ歩いていった。彼はそこに立つと片手を腰にあて、ポワロを見下ろした。その態度は(サタスウェイト氏に聞けばわかるが)、自分に詐欺師《さぎし》の罪をなすりつけることに成功した狡猾《こうかつ》な弁護士を蔑《さげす》むように見るイーグルマウント卿さながらだった。その態度には気品が溢れ、嫌悪の情が滲み出ていた。彼は卑しい下層社会の人間を見下ろしている貴族であった。
「驚くべき想像力をおもちですな、ポワロさん」彼はいった、「いうさえばかばかしいがあなたのお話にはひとかけらの真実もない。こんな途方もないばかげた嘘をまことしやかに喋りちらすとは、あなたも全く無礼な人だ。しかしお続けなさい、僕は興味がある。竹馬の友を殺した私の動機とはいったいなんです?」
エルキュール・ポワロは──小ブルジョアはその貴族を見上げた。彼は早口に、しかし毅然《きぜん》としていった。
「チャールズ卿、『犯罪のかげに女あり』という諺《ことわざ》があります。私が動機を発見したのもそこでした。リトン・ゴア嬢といっしょにおられるあなたを私はずっと見ておりました。あなたが彼女を愛しておられることは明らかでした。中年の男にありがちな、そして多くは無邪気な若い娘によってかき立てられる情熱──我を忘れた、おそろしいまでの情熱を傾けてあなたは彼女を愛しました。
あなたは彼女を愛した。彼女もあなたに対して英雄崇拝の念を抱いていた。あなたがひと言いいさえすれば、彼女はあなたの胸にとびこんできたことでしょう。だがあなたはいわなかった。なぜです?
あなたはサタスウェイトさんに対して、あなたの愛にこたえようとしている恋人の気持にさっぱり気づかない勘の悪い男を装っていた。あなたは、リトン・ゴア嬢はオリヴァー・マンダーズを好きなのだ、と思いこんでるふりをしていた。しかし、よろしゅうございますか、チャールズ卿、あなたは世故にたけたお方です、女にかけては豊富な体験をおもちのはずだ。あなたが裏切られたりするわけがない。あなたはリトン・ゴア嬢があなたに気があることぐらい百も承知だった。ではなぜ彼女と結婚しなかったのでしょう? 結婚はしたかったのです。
何か障害があったに違いない。どんな障害でしょう? それは、あなたにはすでに妻があるという事実でしかあり得ませんね。しかし今まで誰もあなたのことを妻帯者だといったものはない。あなたはずっと独身者として通してきた。とすれば、ずっと若い時に──まだ新進の若手俳優として世に出る以前に結婚していたわけです。
あなたの奥さんはどうなったのでしょうか? もしまだ生きているならばなぜ誰も彼女のことを知らないのでしょうか? もしあなた方が別居しているなら離婚という手段があったのです。奥さんがカトリック信者であったか、それとも離婚を認めなかったのであるなら、彼女は今でも別居しているものとして皆に知られているはずです。
ところが、法が救ってくれない悲劇的な場合が二つあるのです。あなたの結婚相手はおそらくどこかの刑務所で終身刑に服しているか、さもなければ精神病院に収容されているのです。|このどちらの場合にもあなたは離婚を認められ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》|ないのです《ヽヽヽヽヽ》。そしてこういうことがまだあなたのごく若い時のことだとしたら、誰も知るものはないでしょう。
ほんとうに誰も知らないならば、あなたは真実を知らせないでリトン・ゴア嬢と結婚したかもしれない。しかしあるひとりの人物が知っていた──と考えてごらんなさい──子供の頃からあなたをよく知っている友人です。バーソロミュー・ストレンジ卿は立派な高潔な医者です。彼はあなたに深く同情していたことでしょうし、あなたの不身持も仕方がないと思っていたことでしょう。しかし、何も知らない若い娘と重婚しようとするあなたを、彼は黙って見てはいなかったに違いない。
リトン・ゴア嬢と結婚できるためには、バーソロミュー卿はとり除かれなければならない……」
チャールズ卿は笑った。
「ではバビントン氏はどうなんです? あの人もやっぱり知ってたんですかね?」
「最初はそうかと思いました。しかしまもなく、その推理を支える証拠のないことがわかりました。それに、私が最初につき当たった障害もまだ消えていませんでした。すなわち、たとえあのカクテルグラスにニコチンを入れたのがあなたであっても、あなたはそれを確実にある特定の人に渡すことはできなかったはずです。
そこが難点でした。ところが思いがけずリトン・ゴア嬢がふと口にした言葉で私は糸口をつかみました。
あの毒は特にスティーヴン・バビントンを狙いとしていたわけではなかったのです。三人を除いてあの時の出席者の誰でもよかったのです。三人の例外は、まずリトン・ゴア嬢、この方にはあなたは毒のはいらぬグラスを間違いなくわたしました。それからあなたご自身、それにバーソロミュー卿、この方はカクテルを飲まないことをあなたはご存じだった」
サタスウェイト氏が叫んだ。
「そりゃあ、ばかげてるじゃありませんか! 目的はなんです? 目的がないじゃありませんか」
ポワロは彼の方へ向き直った。ポワロの声には勝ち誇ったような響きがあった。
「ああ、ところがあるのです。奇妙な目的──まことに奇妙な目的です。殺人の動機としてこのような動機にお目にかかったのはこれが初めてですな。スティーヴン・バビントン殺しは実に『舞台稽古《リハーサル》』にほかならないのですよ」
「えっ?」
「左様、チャールズ卿は役者です。彼は自分の役者の本能に従ったのです。彼は実行する前にこの殺人を試してみたのです、どんな嫌疑も彼にかかる筈はありません。出席者のどの人が死のうと彼の利益とならないのです。その上、誰か特定の人物に毒を盛ったという証明はされるわけがないのです。こうしてリハーサルはうまく行きました。バビントン氏は亡くなられましたが、この悪辣《あくらつ》な行為は疑いをすら招きませんでした。チャールズ卿はその疑いをかき立てればよかったのです。その結果我々がまじめにとり合わないので彼は大いに満足したわけです。グラスのすりかえもすらすらと運びました。事実、彼は、本番の時も『うまくいく』であろうと確信できたのです。
ご承知のように、事実は多少違った方向に展開しました。第二の事件の現場には医者が一人出席しており、ただちに毒殺ではないかと疑いました。こうなるとバビントン急死事件を強調するのがチャールズ卿にとっては得策です。バーソロミュー卿の死はその前に起こった急死事件の結果起きたものとされる必要がある。人々の注意は、バビントン殺しの動機に集中されなければならない、バーソロミュー卿抹殺の動機として考えられるような事実にみんなの注意が向けられては困るのです。
しかし、ここに一つチャールズ卿が不覚にも気づかなかったことがあります――ミス・ミルレイの油断のない有能さです。彼女は自分の主人が庭の塔の中で化学実験器具をいじくっていることを知っていた。彼女はバラにかける溶液の代金を払っていますから、それがむやみに紛失しているのにも気づいていました。バビントン氏がニコチンの毒で死んだということを知った時、彼女の明晰な頭脳はたちまち、チャールズ卿はバラにかける溶液から純粋アルカロイドを抽出していたのだという結論に達したのです。
ミス・ミルレイはどうしてよいかわかりませんでした。なぜならバビントン氏のことは子供の時から知っていたのですし、それに魅惑的な雇い主のことは醜女《しこめ》の献身的な愛情をもって深く愛していたからです。
とうとう彼女はチャールズ卿の実験器具を壊すことに決めました。チャールズ卿自身は成功を確信し切っていましたから、そんな必要があるとは考えてもいなかった。ミス・ミルレイはコンウォールへ出かけました。そして私はあとをつけました」
再びチャールズ卿は笑った。いよいよ彼は卑劣漢《ひれつかん》にむかむかさせられている上品な紳士のごとくにみえた。
「古くさい実験器具があなたの唯一の証拠ですかね?」彼は傲然《ごうぜん》とつめよった。
「違います」ポワロはいった、「あなたがイギリスへ帰った時とイギリスから出かけた時の日付を示すパスポートがあります。それから、ハーヴァートン州立精神病院に一人の婦人、グラディス・メアリ・マッグ、すなわちチャールズ・マッグ夫人がおられるという事実もあるのです」
エッグはその時まで口もきかず身動きもせず、凍りついたように坐っていた。しかし今、彼女のからだは震えていた。低いすすり泣きが――うめくような泣き声が彼女の口から洩れた。
チャールズ卿がふり返った。
「エッグ、こんなばかげた話はひとことも信じないだろう?」
彼は笑い、両腕をさしのべた。
エッグは催眠術にかけられたかのように、ゆっくりと前へ出てきた。彼女のすがるような、苦悩にみちたまなざしは、その恋人の瞳にじっとそそがれた。だが、彼のすぐ前まで来ると、彼女はためらった、その眼は彼からそらされて、安心を求めるかのようにあちらこちらと彷徨《さまよ》った。
それから、すすり泣きながらエッグはポワロのそばに膝《ひざま》ずいてたずねた。
「ほんとなの? ほんとなの?」
ポワロはエッグの肩に両手を力強くかけて、しかしやさしくいった。
「ほんとうなのですよ、|お嬢さん《マドモアゼル》」
エッグのすすり泣く声のほかは何の物音もしなかった。
チャールズ卿は急に老《ふ》けたように見えた。老人の顔、色情狂《しきじょうきょう》の顔であった。
「畜生」
彼の役者としての全生涯を通じて、これほどはっきりと激しい憎悪をこめていわれた言葉はなかったであろう。
それからくるりと振り向くと彼は部屋を出て行った。
サタスウェイト氏があわてて立ち上がろうとした。しかしポワロが首をふった、彼の手はすすり泣く少女をまだやさしくなでてやっていた。
「逃げてしまいます」サタスウェイト氏はいった。
ポワロは首をふっていった。
「いや、彼は自分で退場の道をえらぶでしょう。世人の目の前でゆっくりと退場するか、それとも舞台から急いで退場するか」
ドアがそっと開いて誰かがはいってきた。オリヴァー・マンダーズだった。いつものあざ笑うような表情はあとかたもなく、蒼ざめた悲しそうな顔をしている。
ポワロはエッグの方にかがみこんでやさしくいった。
「さあ、|お嬢さん《マドモアゼル》、お友だちがお迎えにきましたよ」
エッグは立ち上った。ぼんやりとオリヴァーを見つめてから、彼の方によろめくように足をふみ出した。
「オリヴァー……ママのところへ連れてって、ママのところへ」
彼はエッグを抱えるようにしてドアの方へ連れていこうとした。
「いいとも、連れて行くよ、さあ」
足が震えてエッグは歩けなかった。オリヴァーとサタスウェイト氏が二人で助けてやった。ドアのところまで来ると、彼女はしっかりと立ち、頭をきっと上げていった。
「もう大丈夫」
ポワロの手招きで、オリヴァーはまた部屋の中に戻った。
「やさしくしておあげなさい」ポワロはいった。
「そのつもりです。この世で僕が大事なのは彼女だけです――あなたはそれをご存じなんですね。僕が世をすねたりしたのも彼女に対する愛情が原因でしたが、これからは違うでしょう。見守ってやるつもりです。そうすればいつかは、きっと――」
「私もそう思いますよ。おそらくあなたに愛情を抱き始めていた時に、あの人がやって来て、彼女は眩惑《げんわく》されてしまったのだと思いますね。英雄崇拝は若いものにとってはほんとに危い、こわいものです。エッグもそのうちにはきっとお友だちと恋をして、岩の上に幸せを築くようになりますよ」
ポワロは部屋を出て行く青年をあたたかいまなざしで見送っていた。
やがてサタスウェイト氏が戻ってきた。
「ポワロさん、あなたは大した方ですね、全くすばらしい方だ」
ポワロは謙遜した態度になっていった。
「なんでもないのですよ――なんでもない。三幕の悲劇だったのです――そして今幕は下りたのです」
「あのう――」
「ああ、何か説明してほしいことがおありなんですな?」
「一つうかがいたいことがあるんですが?」
「おきき下さい」
「なぜあなたは完全に立派な英語をお話しになることもあるくせに、そうでない時もあるのです?」
ポワロは笑って答えた。
「ああ、お話しいたしましょう。私が正しい、慣用語法にかなった英語を喋れることはたしかです。しかしね、あなた、あぶなっかしい英語をしゃべるということはそれはそれは役に立つことですよ。そのおかげで人はあなたを侮ります。彼らは申します、外国人か、あいつは満足に英語も喋れない、とね。私の方針は相手を恐れさせないことです――それどころか私は彼らの嘲笑を促すのです。それからまた私は自慢します! イギリス人はよくいいます、『あんなに自慢するやつが偉《えら》いわけがない』これがイギリス人の物の見方です。それは決してほんとうじゃない。おわかりでしょう、そうやって私は相手を油断させるのですよ。それに、もう習慣になってしまったんですな」
「なるほどねえ」サタスウェイト氏はいった、「まさに蛇のように慧《さと》く、ですな」
彼は事件をふり返って考えているのか、ちょっとの間黙りこんでいたが、やがて残念そうにいった。
「どうも私は今度のことではあまり華々《はなばな》しくなかったようですな」
「どういたしまして。あなたはあの重大な点――執事についていわれたバーソロミュー卿の言葉――を正しくとらえておられたし、ミス・ウィルズの鋭い観察力にも気づいていらした。事実、ドラマチックな効果にすぐ反応するあなたの芝居好きな気質さえなかったら、あなただってこの事件を解決できたはずじゃありませんか」
サタスウェイト氏は嬉しそうな顔になった。しかし、その時、ふとある考えに思い当たって、彼はあごをひいた、そして叫んだ。
「何ということだ。やっと今気がついた、あいつめ、毒を入れたあのカクテル! 誰だって飲まされる可能性があったんだ。この私だったかも知れないんだ」
「あなたはまだ気づかれないがもっとぞっとすることが起きたかも知れないのですよ」ポワロがいった。
「え?」
「それはこの私だったかも知れない」エルキュール・ポワロはいった。(完)
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訳者あとがき
第二次世界大戦を境として、本格派の謎とき探偵小説の黄金時代は去ったといわれる。たしかに、ヴァン・ダイン、クロフツ、クリスティ、クイーン、カーなどによってつくり出された一九二〇年代、三〇年代の豪華さは今はすでにないといえよう。
本格派の謎とき小説に代って、近ごろは社会派、文学派、行動派のものが盛んである。急速度に発展する機械文明のスピードの中では、頭脳の探偵よりは行動の探偵が、プロットのための道具立てよりは迫真性が歓迎されるのも、当然のことかもしれない。
しかし、だからといって本格派の小説が今や全く無意味になったわけではないであろう。
イギリス人の理想は、老後快適な山荘に住み、暖炉の前で探偵小説を読むことだという。ともすれば無味乾燥になりがちなこの文明の時代にあって、イギリス人ならずとも心の片隅にこれに似た夢をひそかにもっている人はないであろうか。さてこのような境遇にたどりついたイギリス人を想像してみる時、彼もしくは彼女の読んでいる探偵小説は、活発な行動派や深刻な社会派のものでは道具立てとして似合わしくない――これはどうしても本格派のものでなくては困る、というのがオールド・ファンの意見ではなかろうか。
このような見方からすると、老境に入り、新作は少なくなったとはいうものの、クリスティー、クイーン、カーなどがなお健在であるのはこの上なく喜ばしいことであり、なかでも本書の作者クリスティ女史が、作風も変えず、終始かわらぬ熱情をもって書き続けているのは頼もしい限りである。
アガサ・クリスティは、考古学者の夫マックス・マロウワン氏及び、先夫との娘ロザリンドと共に、現在デヴォンシャーに住んでいる。一九八〇年代(詳しくは不明)デヴォンシャーのトーキーに生まれたが、父は早く死に、母親の手で育てられた。この母親はなかなかのインテリ女性だったらしく、クリスティの受けた教育はすべてこの母親によるものであったという。また小説を書くことを彼女にすすめたのもこの母親であったらしい。
クリスティはこういっている。
「私は実際上何の勉強もさせられず、庭をぶらぶらしたり、いろいろな空想に耽ったりして大そう幸せな少女時代を過ごした」
「私に書くことをすすめたのは母だった。母は大へん魅力的な、立派な婦人で、常に自分の子供たちはなんでもできると信じていた。ある時私が風邪で寝ているとき、母はこういった『小説を書いてみたら? 書けないわけはありませんよ、書けますとも!』」
「何年かの間、私はいろいろと小説を書いては楽しんでいた。それは登場人物の大半が死んでしまうような救いのない陰惨な話ばかりだった。また、詩もずいぶん書いたし、やたらと人物が登場する小説も書いた。そうして、探偵小説を書いてみたらさぞ面白いだろうな、と思ったりしていたものである」
そのころ、トーキーの隣人に名作『赤毛のレッドメーン』を書いたイーデン・フィルポッツ氏がいて、彼女にいろいろと文学上の指導をしてくれたのは幸いであった。
その間一九一一年、アーチボルド・クリスティ大佐と婚約、一九一四年結婚した。
彼女が探偵小説を実際に書き始めた動機は、姉との論争にあったという。「あなたなんかにいい探偵小説が書けるもんですか」「書けますよ」ということだったらしい。
こうして書き上げられた『スタイルズ荘の怪事件』が出版社に認められ、処女作となった。この作品は第一次世界大戦中、クリスティが調剤士として赤十字病院で働いていた時に書いたものであるという。その後、次々と探偵小説を発表、第六作『アクロイド殺し』で探偵小説家としての名声を確立した。
一九二九年離婚、数年間海外旅行を続けたが、その途中、近東で発掘研究中のマロウワン氏と会い、のちに結ばれることとなった。
本書『三幕の殺人』THREE ACTS TRAGEDY(米国版MURDER IN THREE ACTS)は、一九三五年の作品で長編の第十六作、中期の代表作の一つといわれる。ひとことお断りしておくと、本書にはプロットの異なる版が少くとも三つはあるらしいのであるが、ここでは一九五七年 COLLINS より出版されている英国版によった。
クリスティの作品に登場する探偵のうち、最も有名なのは本書でも活躍する小柄なベルギー人エルキュール・ポワロである。その経歴は本文中にポワロ自身によって語られている通りであるが、そのなかで『避難民として英国に渡った時やさしく迎え入れてくれた婦人が殺された』事件といっているのは、処女作『スタイルズ荘の怪事件』にほかならない。この処女作をはじめとしてクリスティ女史は一九六一年の現在までに約六十の作品を発表している。
なお、女史の作品を読まれる際の参考のために、再び彼女の言葉を引用しておこう。
「私の趣味についていうと、食べるものはなんでもおいしく頂くがアルコールの類は何によらず大嫌い、煙草は何度も試みたが結局だめだった。好きなものは花、海、芝居、ただし映画には死ぬほど退屈する。その他嫌いなものはラジオ、あらゆる騒音、町の中に住むことなど。旅行は好きでよく出かける。特に近東が好きで砂漠には非常に愛着を覚える」
「私はプロットを考えるのに三週間からものによっては九か月位を費す。それを実際に書いたりタイプしたりする時間はほぼ三か月である」
最後に、本書を訳すにあたっていろいろ疑問の点に答えて下さったヘレナ・ハートさん、何かと助言を与えて下さった久保田重子さんに心からお礼を申し上げる。
一九六一年一月三十日
[訳者略歴]
赤冬子(せきふゆこ)
札幌生まれ。立教大学英米文学科卒業。おもな訳書に、クリスティ『茶色の服を着た男』、E・フィルポッツ『赤毛のレッドメーン家』などがある。