アガサ・クリスティ/西川清子訳
ナイルに死す
目 次
第一部 登場人物――順を追って
第二部 エジプト
あとがき
登場人物
リンネット・リッジウェイ……イギリスの大富豪の女相続人
チャールズ・ウィンドルシャム……リンネットと結婚することを望んでいる貴族
ジョアンナ・サウスウッド……宝石すりかえを常習とするグループで一役かっている女
ジャクリーン・ド・ベルフォト……リンネットの学友
サイモン・ドイル……ジャクリーンの婚約者
エルキュール・ポワロ……探偵
レース……ポワロの知人
ティム・アラトン……ジョアンナの知合いで、母親のアラトン夫人と一緒に旅行中の青年
サロメ・オッタボーン……小説を書く中年の女性で、ロザリーの母親
マリー・ヴァン・スカイラー……アメリカ人で金持ちの老嬢
コーネリヤ・ロブソン……ミス・ヴァン・スカイラーの親類の娘
バワーズ……看護婦
アンドルー・ペニングトン……リンネットの受託人になっているアメリカ人
カール・ベスナー……医者
ファガソン……貴族で進歩的な青年
ジェイムズ・ファンソープ……リンネットの顧問弁護士になっている叔父の事務所で働く青年
リケッティ……イタリア人で、自称考古学者
ルイーズ・ブールジェー……リンネットの小間使
フリートウッド……ルイーズと恋仲だった男
第一部 登場人物――順を追って
リンネット・リッジウェイ!
「あの女だ」
こう言って、スリー・クラウンズという宿屋の主人、バーナビィ氏は相棒をつついた。二人は田舎者らしい目を丸くして、口をちょっぴりあけたまま、じっと見ていた。
真赤な大型のロールス・ロイスがたった今、町の郵便局の前でとまったところだった。
車からさっと降りたったのは、帽子もかぶらず、見たところ無造作らしい(|らしい《ヽヽヽ》のは見かけだけに過ぎなかったが)ワンピースを着た一人の若い娘だった。金髪、横柄なところのある整った顔だち、見事な身体つき、ここ、モールトン・アンダー・ウォドではめったに見られないような女だ。
女はつんとして、足早やに郵便局の中へ姿を消した。
「あの女だ」
バーナビィ氏はもう一度くりかえした。そして、小声で感心したようにつづけた。
「あの女、何億という金を持ってるんだぞ。ここの屋敷に何百万もかけようとしているんだ。プールが出来るんだそうだ。それでイタリアふうの庭と舞踏室と家の半分がとりこわしになり、建て直しだとさ」
「町に金を落すだろうね」
と、言ったのは、やせて貧相な相手の男だった。羨《うらや》ましくてたまらないというような口調だった。
バーナビィ氏はうなずいた。
「そうさ。町のためにはすばらしい事だよ、まったく」
彼はこの点については、満足に思っていた。
「みんな、ガーンと目をさまされるぜ」
と彼はつけ加えた。
「ジョージ様とはちとばかり違うね」
と相手は言った。
「ありゃ馬のせいだよ。ちっとも運が向いて来なかったんだ」
とバーナビィ氏は鷹揚に言った。
「ジョージ様はここのお屋敷をいくらで手放したんだい」
「大枚六万ポンドだとさ」
やせた男はヒューと口をならした。
バーナビィ氏は得意になってつづけた。
「噂によると、あの女は屋敷の手入れをすっかりすませるのに、あと六万ポンドつぎこむだろうという事だ」
「けしからん。あの女、どこからそんな大金を手に入れたんだ」
と、やせた男は言った。
「アメリカからだとさ。あの女の母親がどこかの億万長者の一人娘だったんだ。まるで映画にでもありそうじゃないか」
この時、例の女が郵便局から出てきて、車にのりこんだ。車が走り去ると、やせた男は目で女を追いながら、つぶやいた。
「まったくけしからんと思うよ。あんなに様子がよくてさ。金があって、おまけに姿がいいなんて、ぜいたくな話だ。あれほど金に恵まれていたら、美人になるには当らん。それなのに、あの娘ときたら、美人なんだから。無いもの無しとは、どうも不公平な気がする」
デイリー・ブラーグ紙の消息欄所載の記事から。
シェ・マ・タントに於て夕食をとっていた人びとに交って、リンネット・リッジウェイの美しい姿が見受けられた。ジョアンナ・サウスウッド嬢、ウィンドルシャム卿、ドビー・ブライス氏らと同席であった。人も知る通り、リッジウェイ嬢は、アンナ・ハルツと結婚したメルウィシ・リッジウェイの令嬢である。嬢は祖父のレオポルド・ハルツ氏から莫大な財産を相続することになっている。リンネット嬢は目下話題の中心になっており、遠からず婚約の発表があるものと取り沙汰されている。ウィンドルシャム卿は相当熱をあげているように見うけられた。
ジョアンナ・サウスウッド嬢が言った。
「何もかもすっかり素晴らしくなるわね」
ここはウォド・ホールのリンネットの寝室である。窓からは庭ごしに広々とした平地が眺められ、林が青い影を落している。
「まあ申し分ないでしょ」
とリンネットは言った。彼女は窓に腕をもたせかけて、いきいきとはち切れそうな顔つきをしている。かたわらにいるジョアンナ・サウスウッドはやや影がうすれて見える。ジョアンナは二十七歳になるやせて丈の高い女性で、面長の利口そうな顔つきだが、眉毛は妙な形に抜いてある。
「ちょっとの間にずいぶんはかどったじゃない! 建築関係の人手は十分あって?」
「三人よ」
「建築家ってどう? 私は一人も知らないんだけど」
「あの人たちよくやってくれたわ。時どきやる事が実際的でないなと思うこともあったけど」
「早速あなたが自分でやり直せばいいわ。あなたときたら凄いやり手なんだから」
ジョアンナは化粧台から一連の真珠をつまみあげた。
「これ天然真珠なんでしょう、リンネット」
「もちろんよ」
「そりゃああなたにはもちろんでしょうけど、大抵の人はそう行かないわ。ひどい養殖ものか、ウルワースの安物のことだってあるのよ。これ粒がとてもよく揃っていて、天然物とは思えない程だわ。目の玉がとび出るような値段でしょうね」
「悪趣味だと思って?」
「どういたしまして、――ほんとに見事だと思うわ。いったい、いくらぐらいなの?」
「五万ポンドぐらい」
「何という大金! 盗まれる心配はないの」
「大丈夫よ。いつでも身につけているし、それに保険がかけてあるんですもの」
「食事の時まで私にかけさせてね。いいでしょう? 身体がムズムズするわ」
「よかったらどうぞ」
とリンネットは笑いながら言った。
「ねえ、リンネット、ほんとにあなたが羨ましいわ。あなたったら無いもの無しなんですもの。まだ二十歳で、何でも自分の思うようにする事ができ、お金はいくらでもあって、美人でピチピチしているんですもの。おまけに頭もいいんですからね。満二十一歳になるのはいつ?」
「六月よ。ロンドンで盛大な成人式のパーティを開くことになっているの」
「それからチャールズ・ウィンドルシャムと結婚するんでしょう。うるさいゴシップ記者たちが大さわぎしているわ。あの人、まったく夢中になっているわね」
リンネットは肩をすくめた。
「どうかしら。私まだ誰とも結婚する気はないのよ」
「それがいいわ。結婚するとすっかり変ってしまうんですものね」
電話のベルが鳴ったので、リンネットはそちらへ足をむけた。
「え? え?」
召使頭の声がきこえてきた。
「ベルフォト様からでございます。おつなぎいたしましょうか」
「ベルフォト? そう、つないでちょうだい」
カチリと音がして、はずんだ柔い声が伝わってきた。
「もしもし、リッジウェイさんでいらっしゃいますか。リンネット?」
「まあ、ジャッキイ! ずいぶんしばらくね」
「そう、とても、御ぶさたしてしまったわ。ねえ、リンネット、ぜひお会いしたいのよ」
「じゃ、ここへ来られない? 私の新しいおもちゃよ。あなたにお見せしたいわ」
「願ったりかなったりだわ」
「それじゃ、汽車か車にとび乗んなさいよ」
「そうするわ。おそろしくガタガタの二人乗りなのよ。十五ポンドで買ったんだけど、ずっと調子のいい事もあるわ。でも御機嫌屋なのよ。お茶の時間までに行かなかったら具合が悪いんだと思ってね。じゃさよなら」
リンネットは受話器をおいて、ジョアンナの方へ戻った。
「私の古い友だちよ。ジャクリーン・ド・ベルフォトと言って、パリの学校で一緒だったの。とても運の悪い人でね。フランスの貴族出のお父さんは女を作ってかけ落ちしてしまうし、アメリカ人のお母さんは南部出身だったけど、例の株の暴落の時スッテンテンになってしまったのよ。ジャッキイも文無し同然で放り出されるという始末よ。あの人、この二年間どうやってきりぬけてきたのかしら」
ジョアンナは真赤な爪をリンネットの爪磨きで磨いていた。そして、首をかしげてその仕上り具合を調べていたが、ゆっくりと口をきいた。
「ねえ、それ、うんざりしやしない? 私はね、友だちが不幸になったらあっさりつき合いをやめることにしているの。冷たいみたいだけど、結局あとの面倒がなくてたすかるわ。お金を貸して下さいとか、仕立物を始めましたとか、言われるにきまっているんですもの。とんでもない服を作らせられるのが落ちよ。さもなけりゃ、電燈の傘に絵をかきますとか、ろうけつ染のスカートを作りますとか言うことになるのよ」
「それじゃ、私がすっかり財産をなくしてしまったら、明日にも絶交する?」
「そうよ、絶交するわ。冗談に言っているんじゃないわよ。とんとん拍子に行っている人が好きなだけの話よ。みんな口に出して言わないだけで、大抵の人はそう考えているのよ。誰それは苦労したら気むずかしくて偏屈になってしまって、とてもつき合って行けないなんて言い方をしてますけどね」
「あなたってあきれた人ね」
「私は世間の人たちと同じようにお金がほしいだけよ」
「私はそうじゃないわ」
「そりゃそうよ。風采のいい中年のアメリカの受託人達が三カ月ごとに大したお手当を送ってよこすんですもの。さもしくなる事ないわ」
「ジャクリーンの事はあなた誤解しているわ。あの人は人を当てになんかしないのよ。何とかしてあげたいと思ってもさせてくれないんですからね。とても自尊心が強いの」
「何だってそんなに急いであなたに会いたがっているんでしょう。きっと何かしてもらいたいのよ。そのうちにわかるわよ」
「何だか興奮してはいるようだったけど」
とリンネットは言った。
「ジャッキイったら、何かというとカッとなるくせがあって、一度なんか誰かをナイフで刺したことがあったわ」
「まあ、こわい!」
「男の子が犬をいじめていたの。ジャッキイがやめさせようとしたけどきかなかったのね。それでその子を引っぱってゆすぶったのよ。でも男の子がずっと強かったもんだから、あの人、とうとうナイフをとり出して、ぐさりとやってしまったのよ。凄いけんかだったわ」
「凄かったでしょうねえ。とてもいやな気がするわ」
リンネットの小間使が室へ入ってきた。「すみません」と小声で言ってから、衣装だんすのドレスをとり出して、室を出て行った。
「マリー、どうしたの。泣いてたわ」
とジョアンナはたずねた。
「あの子ったら、かわいそうに、エジプトで働いている人と結婚したがっていたのよ。そのことお話したことがあるでしょう? 相手のことがよくわかっていないようだったから、大丈夫かどうか確めてやろうと思ったの。そしたら、何と細君持ちだったのよ。おまけに子供が三人」
「あなたはまあ、たくさん敵を作るのね、リンネット」
「敵ですって」
リンネットは意外だと言わぬばかりの顔をした。
ジョアンナはうなずいて、タバコを一本とりあげた。
「そうよ。あなたはほんとにやり手だから。それも人の図星を指すのが実に見事なんですもの」
「あら、私には敵なんか一人もいないわ」
とリンネットは笑った。
ウィンドルシャム卿は松の木の下に腰を下して、美しく均斉のとれたウォド・ホールに目を注いでいた。新しく建て加えた部分は陰になって見えないので、昔ながらの美しさをそこねるものは何もなかった。秋の陽ざしをあびて、美しくのどかな風景であった。しかし、つくづく見れば、ここはもはやウォド・ホールではなかった。目の前にあるのは、はるかに堂々としたエリザベス朝式の館、細長い庭園、以前より荒れた背景のように思われて来るのだった。ここは自分の屋敷、チャールトンベリーだ、そしてその前景には人が立っている、――明るい金髪の、自信にみちあふれたような顔付の女が……チャールトンベリーの女主人としてのリンネットが立っている。
彼は大いに有望だと思った。彼女の拒絶は決定的なものではなかった。もう少し待って下さいというのと大差ありはしない。よろしい、少しくらい待つのは何でもない。
何から何まで釣合いのとれていることは、驚く程であった。金持ちと結婚するのは、たしかに得策であるけれども、だからと言って、自分の気持をおさえてまでそうする必要はない。ところで、自分はリンネットを愛している。彼女が英国有数の金持ち娘でなくて、ほんとうの一文なしであったとしても、自分は彼女と結婚するつもりになったであろう。幸せなことに、たまたま、彼女が英国有数の金持ち娘であったに過ぎない。
彼は未来のすばらしい計画を思い浮かべて楽しんだ。ひょっとすると、ロックスデールを自由に出来るかも知れない。家の西翼を元通りにしよう、スコットランドの猟場を貸さずにすむだろう……
チャールズ・ウィンドルシャムは真昼の夢を見つづけた。
おんぼろの二人乗りの車が、じゃり道にはげしい音をきしらせてとまったのは四時だった。一人の若い女がおり立った。黒髪をもじゃもじゃさせた、小柄でほっそりしたその人は、階段をかけ上ると、かねを引っぱった。
二、三分後に、その少女は細長いりっぱな客間に招じ入れられた。そして、牧師じみた召使頭が、いかにもその人らしいしめっぽい調子で取り次いだ。
「ベルフォト様でございます」
「リンネット!」
「ジャッキイ!」
ウィンドルシャムは少しはなれたところから、この小さな火のかたまりが両手をひろげてリンネットに抱きつくのを、好意をもって見守っていた。
「ウィンドルシャムさん、ベルフォトさんよ、私の親友」
かわいらしい子だな、とウィンドルシャムは思った、――ほんとの美人というわけではないけれども、黒いちぢれ毛、大きな目で人を引きつけることは間違いない。彼は二言三言、如才ない事を言ってから、目立たないように二人のそばをはなれた。
ジャクリーンは攻めたてるように問いかけた、――この人は昔からこんな風だった、とリンネットは思い出した。
「ウィンドルシャム? ウィンドルシャム? あの方がしょっちゅう、あなたの結婚相手だって新聞に書かれる人ね。ほんとに結婚するつもりなの、リンネット。ねえ、ほんと?」
リンネットはつぶやくように言った。
「多分ね」
「まあ、よかったわね。素敵な人じゃない」
「そんな風に決めてしまわないでよ、私の気持がまだはっきりしていないんだから」
「そりゃそうでしょうとも。女王様が背の君をお決めになる時はいつも慎重ですものね」
「おかしなことを言わないで」
「でも、あなたは事実、女王様よ。リンネット。昔からそうだったわ。リンネット女王陛下、金髪のリンネット! そして私はというと――女王様の腹心の友、信頼する侍女よ」
「つまらないことばかり言うのね、ジャッキイ。あなた、ずっと何処にいたの? 姿を消してしまったきり、手紙一本よこさないんだから」
「手紙を書くのは大きらいなの。何処にいたかって。仕事仕事できゅうきゅうしていたの。おそろしい女の人たち相手のつらい仕事よ」
「私、あなたが……」
「女王様の御下賜《ごかし》金をもらえと言うの? 正直なことを言いますとね、こうしてお伺いしたのはそれが目当なのよ。お金を借りるんじゃないのよ。まだそこまでは行かないの。でも、とても重大なお願いをしに来たのよ」
「言ってごらんなさいな」
「あのウィンドルシャムっていう方と結婚なさるつもりなら、多分、わかって下さると思うけど」
リンネットはしばし、とまどったような顔付をしていたが、やがてわかったらしい。
「ジャッキイ、あなた……」
「そうなのよ。私、婚約したの」
「そうだったの。どうも格別はりきっていると思ったわ。いつだってそうだけど、今日はまた、特別そうよ」
「実際その通りよ」
「その人のこと話して」
「サイモン・ドイルという名前よ。大きくがっちりしていて、とてつもなく単純で、子供っぽくて、ただもうかわいい人なの。貧乏で財産は全然ないのよ。地方の『旧家』出というのかな。すっかり落ちぶれた旧家の次男坊よ。デヴォンシャー出身なの。だから田舎と田舎のものが好きなのよ。ここ五年ばかりは都会で息のつまりそうなお勤めをしていたんだけど、今度そこで事業を縮小することになって、あの人、失業してしまったわけよ。ねえ、私あの人と結婚できないくらいなら死んじまうわ。私、死ぬわ、ほんとに死ぬわ」
「ジャッキイ、おかしなこと言わないで」
「私ほんとに死ぬわよ。私、あの人に夢中なのよ。あの人も私に夢中よ。おたがいに相手なしでは生きて行けないわ」
「ひどく打ちこんだものね」
「わかってるわ。こわいようでしょう? 恋のとりこになると手がつけられないものよ」
ジャッキイは一瞬、口をつぐんだ。黒い目を大きく見開いて、突然悲しそうな顔つきになった。そして、かすかに身をふるわせた。
「時にはおそろしいこともあるのよ。私たちはお互いのために作られたのね。私、他の人には一切、心をよせないわ。ねえ、それであなた、私たちをたすけてほしいのよ。ここのお屋敷をあなたがお買いになったときいた時、ひょいと思いついたことなの。ねえ、管理人が要るでしょう。二人いるかも知れないわね。サイモンをそれにやとってほしいのよ」
「まあ!」
リンネットはびっくりしてしまった。
ジャクリーンはなおもまくしたてた。
「あの人はそういう仕事がお得意よ。家屋敷についてくわしいのよ。育ちの故ね。仕事もたたきこまれているわ。ねえ、リンネット、お願いだから、あの人を働かせて。仕事ぶりが悪かったらやめさせてもいいわ。でも、あの人、ちゃんとやるわ。私たち、小さな家に住むことになって、あなたにも度たび会えるでしょう。そして、お庭のものはとても、とても素晴らしくなるわ」
ジャッキイは立ち上がった。
「リンネット、うんと言って。お願いよ、リンネット。丈の高い、金色のリンネット! 私の親友のリンネット! うんと言って」
「ジャッキイ!」
「きいてくれるわね」
リンネットは吹きだしてしまった。
「おかしな人ね。あなたの恋人をつれてきてごらんなさいよ。一目お会いしてからの話にしましょう」
ジャッキイはリンネットにとびついて、やたらと接吻をした。
「リンネット、あなたはほんとに友達がいのある人ね。思っていた通りだわ。私を見すてるなんてことなさらないわね。あなたみたいにすばらしい人ってないわ。さよなら」
「あら、ジャッキイ! まだいいんでしょう」
「あたし? ううん、こうしてはいられないの。ロンドンに引返して、あしたサイモンをつれてくるわ、そしてすっかり話をきめましょう。あなたもあの人のこと好きになるわ。ほんとにかわいい人ですもの」
「お茶ぐらい飲んでいってもいいでしょう」
「リンネット、ゆっくりしてはいられないのよ。胸がワクワクするわ。すぐ帰って、サイモンに知らせなくちゃ。気がたっていることは自分でもわかってるのよ。でもどうしようもないわ。結婚したらおさまると思ってるのよ。結婚って人をすっかり落ちつかせるものらしいから」
ジャッキイはドアの所でふりかえりざま、ちょっと立ち止まり、急いでもう一度、元の場所へ戻って、リンネットを抱きしめた。
「あなたみたいな人って他にないわ。リンネット!」
当世ふうな小さなレストラン、シェ・マ・タントを経営しているギャストン・ブロンディン氏は、進んで多くの常連を優遇するというような人ではなかった。金持ち、美人、有名人、家柄のいい人でも、さんざん待たされたあげく、何ら特別の扱いをされないことがあった。ほんの時たま、客に対しブロンディン氏がいとも丁寧に挨拶し、特別席に案内して、場合に応じた言葉をかわすようなこともある。
その特別な晩、ブロンディン氏はとっておきの手をすでに三回使っていた、――一度は侯爵夫人のため、一度は有名な競馬好きの貴族のため、もう一回は、まっくろな濃い口ひげを生やした、ひょうきんな顔の小柄な男のために。その男はうち見たところ、店にあらわれたからとて、このシェマタントのためになりそうには思われなかった。
それにもかかわらず、ブロンディン氏はその男のために度をこえた気の配り方をしていた。
客たちは三十分も前からテーブルが空きそうもないからと断わられていたのに、この時どこからともなく一脚のテーブルが現われていい場所にすえられた。ブロンディン氏は先ほどの男を、熱心そのものの様子でそのテーブルへと案内した。
「むろん、あなた様のためには何時でも席がございます、ポワロさん。もっと度たびおこし願えるとよろしいんですが」
エルキュール・ポワロはニッコリした。死体と給仕とブロンディン氏と非常な美人がかかり合いになったある事件を思い出したのである。
「愛想がよすぎますな、ブロンディンさん」
「お一人でございますか」
「ええ、一人です」
「それでは、ここにおりますジュールにちょっとしたものを作らせましょう。気のきいたものでございます。御婦人というものは、どんなに魅力があっても、一つ困った点がありますな。つまり、食物から人の気持をそらせてしまいますからね。ここではおいしく召上れますよ。その点、保証いたします。ところでお酒は?……」
ここで、給仕長ジュールの知恵をかりての専門的な話になった。
ブロンディン氏は、すぐにはテーブルの側をはなれずに、あたりをはばかるように声をひそめた。
「重大な事件でも抱えていらっしゃるんで?」
ポワロは首をふった。
「ところがね、暇をもてあましているんですよ。働ける間につましくしておきましたからね、今はのらりくらりしていられますが」
「羨ましいですなあ」
「いやいや、決しておすすめできることではありませんよ。はたで見るほど楽なものじゃありません。人間というものは考えごとをしないですむように仕事を作り出したんだと申しますが、その通りですよ」
ポワロはため息をもらした。
ブロンディン氏は両手をあげた。
「しかし、いくらでもすることがありましょう、たとえば旅行とか」
「そう、旅行はできますね。もうかなりやってみましたよ。この冬はエジプトへ出かけることになっているんです。気候がいいそうですからね。霧や陰鬱《いんうつ》さや降りつづく雨の単純さから逃れられますよ」
「はあ、エジプトですか」
と、ブロンディン氏はほっと息をついた。
「今じゃイギリス海峡を除けば、あとはずっと汽車で行けますからね」
「海はいけませんか」
エルキュール・ポワロはうなずいて、軽く身ぶるいをした。
「私もだめなんですよ。どうも胃の具合が変になるのは妙ですね」
と、ブロンディン氏は同情をこめて言った。
「しかし、それも胃によるんでね。ゆれても一向に平気な人もあるし、そういう人たちは愉快な旅行ができるんだがね」
「神様も不公平ですよ」
とブロンディン氏は言った。悲しそうに首をふり、とんだところへ神様を持ち出してしまったと思いながら引きさがった。足さばきのいい手なれた給仕たちが食卓の世話をしてくれ、薄切りのトースト、バタ、氷入れなど上等の料理につくもの一切が運ばれた。
黒人のオーケストラが異様に不調和な騒がしさで、興奮をもりあげて行った。誰も彼も引き入れられるように踊った。
エルキュール・ポワロはその整然とした頭に印象をきざみこみながら、見守っていた。
疲れて退屈したような顔が何と多いことだろう。しかし、中には愉快そうに踊っている元気な男もいる。ところが、その人たちのパートナーの表情には辛抱していることがうかがえるのだ。紫ずくめの肥った婦人は輝いて見える。肥った人は人生に於て何かの代償を持つもののようだ。より当世ばやりの容姿の人びとには持てないような熱意とか楽しみとか言ったものがあるにちがいない。
若い人たちもかなり交っていた。ある者は虚無的な顔付をしており、また、ある者は疲れているらしい、また、はっきりと不幸だと思われる者もいた。青春を幸せの時代というのはとんでもないことだ、青春こそ一番傷つきやすい時代なのに。
ポワロの目はある一組に注がれると、やわらかな表情になった。丈が高く肩幅の広い男とほっそりときゃしゃな女という似合いの一組だった。幸福そのものといわんばかりのリズムで動く二つの肉体。この場所《ヽヽ》、この瞬間《ヽヽ》、そしてお互いの中にも幸福がみちあふれていた。
いきなりダンスがやんだ。拍手がおこり、またダンスがはじまった。もう一度アンコールがあってから、先ほどの男女はポワロの近くの席へ戻った。女は上気した顔で笑った。腰をおろして、連れの男に笑いかけながら上を向いた時、ポワロはよくその顔を見た。その目は笑っているだけではなかった。
エルキュール・ポワロは、「はてな」というように首をふった。
「心配ごとがあるんだな、あの娘。あぶないぞ、どうもあぶない」
とポワロは思った。
その時、エジプトという言葉が彼の耳に入った。
二人の声がはっきりときこえてきた。女の声は生き生きとして若々しく、ちょっと外国なまりがあるため横柄に聞えた。男の方は耳ざわりのいい、低音の上品な英語であった。
「あたし、取らぬ狸の皮算用しているんじゃないわ、サイモン。大丈夫、リンネットはあたし達を見すてるようなことはしないわ」
「僕があの人をがっかりさせるかも知れないよ」
「ばかなことおっしゃい。あなたには打ってつけのお仕事よ」
「ほんとのところは僕もそう思うんだ。自分の能力については全然不安を感じていないよ。うまくやるつもりだ。君のためにね」
女は静かに笑った。幸福そのものの笑い方であった。
「三ヵ月たってみないと首がつながるかどうかわからないわ。その上で……」
「その上で汝にわがこの世の財を与えんというんじゃなかったかい」
「それから新婚旅行にエジプトへ行きましょうよ。ばかばかしくかかるわね。エジプトへ行くのはあたしのかねてからの念願なのよ。ナイル河とピラミッドと砂地と……」
男が何か言ったが、はっきりとききとれないところがあった。
「ジャッキイ、いっしょに見よう。いっしょに……、すばらしいだろうね」
「どうでしょうね。あたしにとってと同じくらいあなたにとってもすばらしいかしら。あなた、ほんとにあたしぐらい望んでいて?」
女の声は急に鋭くなり、その目は大きく見開いた――恐怖におそわれたみたいに。
男の答えも同じように鋭かった。
「ばかなことを言うなよ、ジャッキイ」
しかし、女は同じことをくり返した。
「どうでしょうね……」
それから肩をすくめて言った。
「踊りましょう」
エルキュール・ポワロはつぶやいた。
「愛する人と愛される人。そう、僕もどうかと思うな」
ジョアンナ・サウスウッドが言った。
「その人すごく頑固だったら」
リンネットは首をふった。
「そんなことないわ。ジャクリーンの好みを信頼しているの」
「でもね、人間って恋愛のことになると型通りには運ばないものよ」
リンネットはがまん出来ないというように首をふって、話題をかえた。
「いろいろの計画のことでピアスさんと会わなければならないわ」
「計画?」
「そうよ、とても非衛生的な古い小舎がいくつかあるの。それを取りこわして、住んでいる人たちには引越してもらうつもりなのよ」
「あなたは何てきれい好きで、公共心に富んでいるんでしょう」
「その人たち、どっちみち立ち退かなければならないのよ。それらの小舎から新しいプールが見下ろせるようになるものだから」
「その人たち、出て行きたがっている?」
「大体はよろこんでいるわ。一人二人はわけのわからないことを言っていて、正直のところ面倒くさいわ。生活条件がずっと改善されることがわからないらしいのね」
「あなたが高圧的に出たんじゃないかしら」
「あの人たちのためになることなのよ」
「それはそうでしょうとも。押しつけの利益ね」
リンネットは顔をしかめ、ジョアンナは笑った。
「ほら、あなたは暴君よ。それはみとめるでしょう。お好みとあれば、慈悲深き暴君と言ってもいいわ」
「私は暴君なんかじゃない」
「でも、あなたは思い通りにしたいでしょう」
「そうとも限らないわ」
「リンネット・リッジウェイ、私の顔を見ながら、これまでに何から何まで思い通りにならなかった例を何か一つあげることができて?」
「いくらもあるわ」
「そう、『いくらも』ね、それだけでしょ。具体的な例は一つもあげられないでしょう。どんなに思い出そうとしたって、一つも思いつきっこないわ。黄金の車に乗ってリンネット・リッジウェイの勝利の行進!」
リンネットは鋭く言った。
「私が身勝手だと思うの」
「いいえ、止むを得ないんでしょうね。お金と魅力の結合した効果ですもの。あらゆるものがあなたの前にひれ伏すのよ。お金で買えないものは笑顔で買うことができる。その結果はリンネット・リッジウェイ、あらゆるものを持った女ということになるのよ」
「ばかなことを言わないでよ」
「だってあなたは何でも持っているでしょ」
「そうね。何だか胸がむかつきそうだわ」
「むろん、むかむかすることよ。やがては退屈しきってうんざりするでしょうよ。今のうちに黄金の車に乗って勝利の行進を楽しんでおきなさい。ただ、私が気になるのはね、ほんとに気にかかるのよ、あなたが立入禁止の立札のある通りを進みたいと思った時にはどうなるかしらということよ」
「ばかばかしいことを言わないでよ、ジョアンナ」
この時ウィンドルシャム卿が加わったので、リンネットはそちらを向いて言った。
「ジョアンナがとてもひどいことを言っているところなの」
「みんなひがみからですよ」
ジョアンナは椅子から立ち上りながら、あいまいに言った。彼女は挨拶もせずに二人のそばをはなれた。ウィンドルシャムの目がキラリと光るのを見たからである。
一、二分だまっていたが、そのあとでウィンドルシャムはいきなり要点にふれた。
「決心はつきましたか、リンネット」
リンネットはゆっくりと答えた。
「私、ひどい女でしょうか。はっきりするまではお断わりすべきだと思うんですが」
ウィンドルシャムがさえぎった。
「そう言わないで下さい。時間はいくらかかってもかまいません。急ぐことはないのです。僕たちいっしょになったら幸せだと思うんです」
「ねえ」
リンネットは、まるで子供のような、言いわけめいた調子で言った。
「私、今とても面白いんです、特にここのものが」
彼女は手をふった。
「ウォド・ホールをほんとに理想的な別邸にしたいと思ったのです。そしてうまく運んだと思うのですけれど、どうお思いになる?」
「見事ですよ。見事な設計です。何もかも申し分ありませんよ。あなたは上手ですね」
彼はちょっと休んで、また、話をつづけた。
「チャールトンベリーはお好きでしょう。むろん、手を入れて当世風にしなければなりませんがね。しかし、あなたはそういうことがうまいから、楽しめますよ」
「もちろん、チャールトンベリーは実にすばらしいわ」
リンネットは即座に力をこめてこう言ったものの、内心ひやりとするのを覚えた。何やら耳なれぬ音がひびいて、彼女のみちたりた感情を乱したのだった。すぐにはその気持を検討してみなかったけれども、しばらく経ってウィンドルシャムが家の中に入ってしまってから、リンネットは自分の心の奥をさぐってみた。
チャールトンベリー! そうだ、その言葉だったんだ。チャールトンベリーの名が出たので面白くなかったのだ。しかし、それは何故だろう。チャールトンベリーはある程度、人に知られている。ウィンドルシャムの先祖がエリザベス女王の時代から持っていたものだ。そのチャールトンベリーの奥方になるというのは、社交界でも人にひけをとらぬ地位である。ウィンドルシャムは英国で最も望ましい結婚相手の一人だ。
あの人はウォド・ホールのことを本気で考えるはずはない。どっちみち、チャールトンベリーとは比べものにならないんだから。
でも、ウォド・ホールはあたしの物なんだ。この目でしらべて、買って、手を入れたんだわ。うんとお金をかけて建て直したんだわ。これはあたし自身のもの、あたしの王国だわ。それでも、もしあたしがウィンドルシャムと結婚したら、ある意味では、ウォド・ホールはどうでもいいことになってしまう。別邸が二つなんて必要ないもの。そうなると、当然ウォド・ホールの方を手放すことになるだろう。
あたし、このリンネット・リッジウェイはいなくなってしまうだろう。あたしは、チャールトンベリーとその主人のところへ莫大な持参金を持って行って、ウィンドルシャム公爵夫人になるんだわ。あたしは女王ではなくて、王妃になってしまう。
「あたし、おかしなことを考えている」
とリンネットは思った。
しかし、妙なことに、彼女はウォド・ホールを手放すという考えがどうしても気にくわなかった。
その他にも何かリンネットを悩ましているものがありはしなかっただろうか。「|もしあの人と結婚しないくらいなら《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|あたし死ぬわ《ヽヽヽヽヽヽ》。|ほんとに死んでしまうわ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》」と言ったジャッキイの妙にぼやけたような声。
あの人はあくまでも積極的で真剣だ。自分はウィンドルシャムに対して、あれと同じような気持をもっているだろうか。明らかに持っていない。おそらく誰に対してもあのような気持を抱くことは出来ないだろう。あんな風になれたら、どんなに愉快だろう。
開け放した窓から車の音がきこえてきた。
リンネットは待ちかねたように、身体を動かした。ジャッキイとその青年にちがいない。出て行って迎えてやりましょう。
玄関のドアをあけて立っていると、ジャクリーンとサイモン・ドイルが車から降りてきた。
「リンネット!」
と呼びかけて、ジャッキイが走りよった。
「この人、サイモンよ。サイモン、こちらリンネット。ほんとにすばらしい方よ」
リンネットの目にうつったのは、黒みをおびた青い目、ちぢれた茶色の頭髪、角ばった顎の、丈が高く肩幅の広い青年だった。その子供っぽい、邪気のない笑い顔は人をひきつけずにはおかなかった。
リンネットは手をさしのべた。それを暖かな手ががっしりとにぎった。彼女はその青年が自分を見る時の、心から感心したような飾り気のない態度が気に入った。
ジャッキイから自分のすばらしいことをきかされていて、今、なるほどと思ったにちがいないことは疑いなかった。
ほのぼのとした、酔ったような気持がリンネットの血管をかけめぐった。
「ようこそ、ようこそ。さあ、中へどうぞ、サイモン。新しい管理人さんに御挨拶させていただきますわ」
案内をしようと向きをかえながら、彼女は考えた。
「あたし、とても、とても嬉しい。ジャッキイの恋人が好きだわ。凄くあの人が好き」
それから、急に苦しそうに、
「幸せなジャッキイ」
ティム・アラトンは籐椅子《とういす》に身体をもたせかけて、海の方に目をやりながら、あくびをした。それから、母親の方を素早く横目で見た。
母親のアラトン夫人は五十歳になる白髪の美しい人である。息子を見る度に口もとをきゅっとすぼめて、きつい顔をすることによって、なみなみならぬ愛情をかくそうとするのであった。しかし、全くの赤の他人でも、それにごまかされる者はなかった。そして、誰よりもティムがそれを見抜いていた。
ティムが言った。
「お母さん、ほんとにマジョルカが好きなんですか」
「そうねえ、安っぽいわね」
「おまけに寒い」
と言って、ティムはちょっと、身ぶるいをした。
ティムは髪の黒い、背の高い青年で、胸囲がややせまく、やせていた。いかにもやさしそうな口もと、憂いをおびた目、優柔不断らしい顎をもったこの青年の手は、ほっそりときゃしゃであった。
数年前には、結核ではないかと心配された程で、ほんとの健康体らしくなったことは一度もなかった。世間では「著述」しているということになっていたけれども、友人たちの間では、作品についてあれこれと彼にきくのは禁物とされていた。
「あなた、何を考えているの」
アラトン夫人は注意をおこたらなかった。そのはっきりした濃い茶色の目は、何かを懸念しているようであった。
ティム・アラトンはニヤリとした。
「エジプトのことを考えていたんですよ」
「エジプト?」
アラトン夫人は本気にしないような調子で言った。
「ほんとに暖かですよ。物憂げな金色の砂地。ナイル河。ナイル河をさかのぼってみたいんだ。お母さん、どう?」
「そりゃ、やってみたいわ。でもね、エジプトはお金がかかりますからね。僅かなお金の出し入れにも気をつかわなければならない人の行く所じゃないわ」
ティムは笑った。身をおこして背のびをすると、急に生き生きと真剣な顔付になった。声もはずんだ。
「費用は僕が持ちますよ。ねえ、お母さん、株を少しやって、大いに当ったんですよ。今朝きいたばかりなんですけど」
「今朝ですって?」
アラトン夫人は鋭くききかえした。
「今朝は手紙が一通だけだったでしょう。その手紙……」
終りまで言わずに、彼女は唇をかんだ。
ティムは、面白がったらいいか、うるさがったらいいかと一瞬、迷ったらしいが、結局面白がることに決めた。
「その手紙はジョアンナからでしたよ」
と、彼は落ちついて言った。
「お母さんの推測どおりです。お母さんは腕ききの探偵になれますよ。有名なエルキュール・ポワロだって、お母さんがそばにいたら、恥をかかないように気をつけなければならないでしょうよ」
アラトン夫人は怒ったような顔をした。
「ちょっと、筆跡が目に入っただけですよ」
「それで株屋からのものじゃないとわかったんですね。その通りです。ほんとのことを言うと、株屋から手紙がきたのは昨日です。気の毒に、ジョアンナの字はすぐわかってしまうんだ。まるでよっぱらった蜘蛛《くも》みたいに、封筒一面に書きなぐってあるんだから」
「ジョアンナが何て言ってよこしたの? 何か変ったことでも?」
アラトン夫人は、なるべくさり気ない調子になるようにつとめた。自分の息子とそのまたいとこに当るジョアンナ・サウスウッドとのつき合いは彼女にとって、癪《しゃく》のたねだった。彼女の言葉をかりれば、「二人の間に何か」があったというわけではなかった、何もないことを彼女は確信していた。これまでに、ティムがジョアンナに対する感傷的な興味を示したことは一度もなければ、ジョアンナがティムに対しても同様だった。お互いの興味は、もっぱら、ゴシップと数多い共通の友人、知人にあるらしかった。二人の好きなのは人間であり、人間を論ずることだった。ジョアンナの言うことは、辛辣《しんらつ》ではあるが面白かった。アラトン夫人が、ジョアンナの居合せた時とか、ジョアンナから手紙がきた時に、きまって固くるしい態度になるのは、ティムがジョアンナと恋におち入るのをおそれるためではなかった。それは説明しにくい別の気持のためだった。ティムがジョアンナといっしょにいる時に楽しそうな様子を見せつけることに対して覚える嫉妬、自分では嫉妬とは思っていないのだが、その気持のさせることだった。この親子は大変に仲がよかったので、息子が他の女性に夢中になったり、興味をもったりするのを見ると、アラトン夫人はいつも、少しあわててしまうのだった。そういう場合、自分がそばにいると、若い二人の仲を邪魔するようにも思われるのだった。現に、二人が何か話に夢中になっているところへ行き合せたことが何回かあるが、彼女の姿を見ると、二人の会話の調子がだれてきて、止むを得ないというように、わざとらしく彼女を仲間に入れるように思われたからだ。アラトン夫人がジョアンナ・サウスウッドに好意を抱いていないことは明らかだった。彼女はジョアンナを誠実さがなく、見栄坊で、根っから浅薄な女と思っていたが、それをはげしい口調で言うまいとするのは、なかなか骨の折れることだった。
母親の問いに答えるために、ティムはポケットから手紙をとり出して目を通した。長い手紙だな、とアラトン夫人は目をとめた。
「大したことは書いてない。デヴィニッシ夫妻が離婚しそうなんだって。モンティの奴、酔っぱらい運転で訴えられたらしい。ウィンドルシャムはカナダへ行ってしまったんだって。リンネット・リッジウェイに断わられたんですっかり参ったようだ。リンネットは屋敷の管理人と結婚することにきまったんだって」
「まあ大変だ。その人、とんでもない男かしら」
「いやいや、そんな事ないですよ。デヴォンシャーのドイル一族の者ですよ。むろん、金はありませんけれどね。リンネットの親友の一人と婚約していたんですよ。とても親しい間柄のね」
「全くひどいと思いますよ」
アラトン夫人は興奮して言った。
ティムは、ちらりと暖かい目で母親を見た。
「わかっていますよ、お母さん。人の亭主をぬすんだりするのに反対なんでしょう」
「あたしの若いころには、きまりというものがありましたよ。それはいいことですよ。このごろの若い人たちときたら、何でも自分のやりたい事はやってさし支えないと思っているみたいなんだから」
「そう思っているだけじゃありませんよ。実際にやるんです。リンネット・リッジウェイをごらんなさい」
「とんでもないことだと思いますよ」
「がんばって下さい、頑固やさん。僕はお母さんと同意見なんですよ。とにかく、人の奥さんだの婚約者だのに手を出したことは一度もありませんからね」
「あなたは絶対にそんなことはしませんとも」
と言ってから、アラトン夫人は気負ってつけ加えた。
「あたしはあなたをちゃんと育てたんですからね」
「だから、感心なのはお母さんで、僕じゃない」
ティムはいたずらっぽく、母親に笑いかけながら、手紙をたたんでしまいこんだ。アラトン夫人はふと考えた。
「この子は大抵の手紙は見せてくれるのに、ジョアンナからのは、拾い読みしてきかせてくれるだけだ」
しかし、こんな考えは胸にしまって、やはり、彼女らしくふるまうことに心を決めた。
「ジョアンナは楽しくやっているの」
「まあ、どうやらね。メイフェアに食堂を開こうかと言っているんです」
「困っているというのは、あの子の口ぐせですよ。そのくせ、あちこち出歩いているんだから、衣装代が大変でしょうよ。いつもおしゃれをしているからね」
「そうですね。でもおそらくお金は払っていないんでしょう。いや、お母さんの考えていられるのとは違うんですよ。文字通り支払いをしていないんだろうと言ったまでです」
アラトン夫人はため息をついた。
「どうしてそんなことができるんでしょうねえ」
「まあ、一種の特技ですね。非常なぜいたく好みで、金銭の観念がなかったら、世間の人はいくらでも信用貸をしてくれますよ」
「なるほどね。でも、結局はジョージ・ウォド卿みたいに破産を宣告されるのが落ちでしょう」
「お母さんはあの馬喰《ばくろう》には甘いんですね。きっと、一八七九年にダンス・パーティでお母さんのことをバラのつぼみだとでも言ったんでしょう」
「あたしはそのころ生れてやしませんよ」
とアラトン夫人ははげしく言い返した。
「あの方は身だしなみのいい人ですよ。馬喰だなんて言わないでもらいたいわ」
「あの人について色々とおかしな話をきいているものですから」
「あなたやジョアンナときたら、人のことをあれこれ言って平気なんだから。ひねくれてさえいれば、どんなことでもいいんでしょう」
ティムは眉毛をあげた。
「まあ、まあ、お母さんたら興奮しちまって。あのウォド卿がそれほどお母さんのお気に入りとは知らなかった」
「あの方がウォド・ホールを手放さなければならなくなって、どんな辛い思いをなさったか、あなたにはわからないんですよ。あの屋敷がとても気に入りだったんですからね」
ティムは軽々しい口答えをぐっとおさえた。結局、自分はとやかくの評判をのべるべき人間じゃないと考えたからだった。その代りに、彼は気をつけてしゃべった。
「その点では、お母さんの考えは間違っていないでしょう。リンネットがあの屋敷に手を入れたから見にきてくれと言ったら、あの人、失礼な断わり方をしたそうですよ」
「当り前ですよ。リンネットも考えが足りないわね。そんなことを言うなんて」
「ウォド卿はリンネットを大分うらんでいるんだと思いますよ。顔さえ見れば何かブツブツ言ったりして。あんな虫食いだらけの屋敷に最高値をつけたので怒っているんですよ」
「その気持がわからないというのね」
と、アラトン夫人の語調ははげしかった。
「率直に言うと、わかりませんね。どうして過去にとらわれているんですかね。何故すんでしまったことにばかりしがみついているんでしょう」
「過ぎ去ったものの代りに何を補うつもりなの?」
ティムは肩をすぼめた。
「刺激的なものかな。物珍しさ。日ごとに何がおこるか予知できないよろこび。役にも立たない土地を相続するかわりに、自分で、自分の頭と腕をつかってお金をつくる楽しみ」
「株でうまく当てる!」
ティムは笑った。
「いけませんか」
「株で損をしたらどうするの」
「それはへまですよ。それに、今の場合ふさわしい話題じゃありませんよ。エジプト行きの計画はどうします?」
「そうねえ」
ティムは笑いかけながら、あとを引きとって言った。
「きまった。お母さんもかねがね望んでいたことですからね」
「それで何時にするの」
「ええと、来月。あっちじゃ一月が一番いい時でしょう。もう二、三週間、このホテルで楽しいつき合いの仲間入りをしていることにしましょう」
「ティム!」
アラトン夫人は非難するような口調で言った。それから、気がとがめるようにつけ加えた。
「リーチ夫人に、あなたが交番までいっしょについて行ってあげるってお約束してしまったんですよ。あの人、スペイン語が全然わからないものだから」
ティムは顔をしかめた。
「指輪のことですか。あの欲ばり女の真赤なルビーですね。まだ、あれを盗まれたと思っているんですか。行けと言われるならお供しますがね。時間の無駄ですよ。誰か気の毒な女中さんを騒ぎに巻きこむくらいのものだ。あの日、海へ入る時に指にはめていたのを、僕ははっきり見ましたよ。水の中で抜けたのに気がつかなかったんだ」
「たしかにはずして、衣装だんすの上においたと言ってますよ」
「そんなことはない。僕はこの目で見たんだから。あの人、ぬけていますよ。陽がカンカン照っているからって、水が温いと思って十二月の海にとびこむような女は、誰にしろ、ぬけているんだ。肥った女は、どっちみち、泳ぐものじゃない。水着姿ときたら見られたものじゃありゃしない」
アラトン夫人はつぶやいた。
「あたしは泳ぎをやめなければと思っているんですよ」
ティムは大声で笑った。
「お母さんがですか。お母さんは大抵のことは若い人にまけませんよ」
アラトン夫人はため息をついた。
「あなたのために、ここにもう少し若い人たちがいるといいんだがねえ」
ティム・アラトンは断固、首をふった。
「僕はそう思いませんよ。他に気を散らさなくとも、お母さんと僕とで楽しくやって行けるんですから」
「ジョアンナがいればと思うでしょう」
「いいえ」
ティムの答えは意外な程はっきりしていた。
「その点では、お母さんが思いちがいをしているんですよ。ジョアンナは面白いけど、僕、好きじゃないんだ。あんまり側にばかりいられたら癇《かん》にさわりますよ。ここにいなくてありがたいと思っているんです。仮にもう二度と彼女に会えないとしても、僕はいっこう平気ですよ」
ティムは声をひそめるようにつけ加えた。
「僕が心からの尊敬と讃美をささげる女性はこの世にたった一人です。お母さん、それが誰であるかは、よく御存じでしょう」
アラトン夫人はさっと顔を赤らめて、うろたえたような顔をした。
ティムはまじめに言った。
「世の中には、ほんとにすばらしい女性はそうざらにありません。お母さんはその数少ない中の一人なんですよ」
ニューヨークのセントラル・パークの見下せるアパートの一室で、ロブソン夫人は言った。
「こんなすばらしいことってあるかしら。あなたほど幸せ者はありませんよ、コーネリヤ」
コーネリヤ・ロブソンはそれに応ずるように上気していた。茶色っぽい、犬のような目をした大柄で不格好な娘である。
「ほんとに素敵でしょうね」
彼女はやっとそれだけ言った。
ひとり者のマリー・ヴァン・スカイラーは、貧しい身内の者たちの、この当を得た態度に満足したように、うなずいていた。
「あたし、ヨーロッパへ行きたい、行きたいと思ってたんです。でも、まさか行けるとは思わなかったわ」
とコーネリヤはため息をもらした。
「むろん、いつものように、看護婦のミス・バワーズはつれて行くけどもね。あの人は話相手にはどうも話題がせまくてこまるんだよ。ほんとに何も知らないんだから。コーネリヤには色々とこまかいことをしてもらいましょう」
と、ミス・ヴァン・スカイラーは言った。
「マリーおばさま、あたし、よろこんで御用をいたします」
「さあ、さあ、これで話がきまった」
と、ミス・ヴァン・スカイラーは言った。
「ミス・バワーズのところへちょっと行ってきておくれ。エッグノッグを飲む時間だから」
コーネリヤが立ち上ると、母親のロブソン夫人が言った。
「ほんとにありがとうございます。コーネリヤはうまく社交界に出られないのが、とても辛いらしいのです。残念なんでしょう。あちこち連れて行ってやれたらと思うのですけど、ネッドが死んでからというもの、御存じの通りの有様なものですから」
「よろこんで連れて行きますよ。あの子は嫌がらずに用事をしてくれて、なかな重宝ですよ。それにこのごろの若い者にあり勝ちな身勝手なところもないし」
ロブソン夫人は立ち上って、この裕福な従姉の黄色みをおびた、しわだらけの顔に接吻をした。
「ほんとにありがたいと思っています」
階段の上で、ロブソン夫人は、あわだった黄色い液体の入ったコップをもってやって来る、丈の高い、見るからにテキパキした女性に出会った。
「バワーズさん、ヨーロッパへ行くんですってね」
「そうなんですよ、奥様」
「すばらしい旅行でしょうね」
「そうですわ。楽しいだろうと思いますよ」
「これまでにも外国へ行かれたことがありましたわね」
「ハイ、去年の秋、こちらの奥様とごいっしょにパリへ参りました。エジプトはまだ行ったことがありませんけど」
「何も面倒なことがおこらないといいですがね」
ロブソン夫人は、ためらいがちに、声をひそめて言った。
しかし、ミス・バワーズの声は平生と変らなかった。
「大丈夫ですわ。十分気をつけます。油断のないようにいたします」
この言葉にもかかわらず、ゆっくりと階段をおりてゆくロブソン夫人の顔からは、不安の影が消えなかった。
下町にある事務所で、アンドルー・ペニングトン氏は親展書の封を切っていた。
突然、彼はこぶしを握り、机をドンとばかりにたたいた。顔は赤くなり、額には太い青すじが二本たっている。
机の上のブザーを押すと、こざっぱりとした秘書があらわれた。
「ロックフォドをよんでくれ」
「かしこまりました」
数分後に事務所へ入ってきたのは、相棒のスターンデール・ロックフォドであった。この二人は、背が高く、白くなりかけたうすい頭髪、よくかみそりの当っている利口そうな顔と、共通した点が少なくなかった。
「何がおこったんだ、ペニングトン」
ペニングトンは、読み直していた手紙から目をあげた。
「リンネットが結婚した」
「何だって?」
「いま言ったこと、きこえただろう。リンネット・リッジウェイが結婚したんだよ」
「どうやって? いつの事なんだ。なぜ、おれたちの耳に入らなかったんだろう」
ペニングトンは机の上の暦に目をやった。
「この手紙を書いた時には、まだ結婚していなかったんだが、今はもうしている。四日の朝だ、というのは今日だ」
ロックフォドは椅子に身をしずめた。
「へえ! 予告も何もなしにか。相手の男は誰だ」
ペニングトンは、もう一度、手紙を見た。
「ドイルだ。サイモン・ドイルという男だ」
「どんな奴だろう。君、そいつのこと、きいた事があるかい」
「いや、ない。リンネットの手紙にもあまり書いてないんだ」
と言いながら、ペニングトンははっきりとした、真直ぐに立った筆跡で書かれた手紙をじっと見つめた。
「これには何か厄介な事情があるらしいぞ。まあ、それはどうでもいいや。大事なのは、リンネットが結婚したことだ」
二人の目が合い、ロックフォドはうなずいた。
「これは一考を要するね」
「どうしたらいいのかね」
「こっちがきいているんだ」
二人はだまってしまった。やがて、ロックフォドが言った。
「何か方法があるのか」
ペニングトンはゆっくりと答えた。
「ノルマンディ号が今日出帆する。乗る気なら、君かおれか、どっちかがそれに乗れる」
「途方もないことを言う人だ。いったい、何をもくろんでいるんだい」
「英国人の弁護士連中が……」
と、ペニングトンは言いかけて、言葉をきった。
「連中がどうしたと言うんだ。まさか、連中と渡り合うつもりじゃないだろうな。君、どうかしてるぜ」
「英国へ行くなんて言ってやしないよ」
「じゃ何をもくろんでいるんだ」
ペニングトンは、机の上の手紙のしわをのばした。
「リンネットはエジプトへ新婚旅行に出かける。一月余り滞在のつもりのようだ」
「エジプトか。ふうん」
ロックフォドは考えこんだ。やがて、顔をあげると、相手の視線とぶつかった。
「君の考えているのはエジプトか」
「そうだ、偶然の出会いさ、旅先で、リンネットと婿さんは新婚気分だ。うまく行くかもしれん」
ロックフォドは不安そうに言った。
「敏感だからな、リンネットという女は。しかし……」
ペニングトンは静かに言った。
「それは何とかなると思う」
二人の目がもう一度、合った。そしてロックフォドはうなずいた。
「よかろう」
ペニングトンは時計を見た。
「どっちが行くにしても、大急ぎだ」
「君が行ってくれ」
ロックフォドはとっさに言った。
「君はリンネットのお気に入りだからな。アンドルーおじさんさ。おあつらえ向きだ」
ペニングトンの表情はこわばった。
「うまくやれるといいがね」
相手は言った。
「うまくやらなくちゃだめだ。事は重大なんだから」
十一
何事かというようにドアを開けた、やせたひょろひょろした青年に向って、ウィリアム・カーマイケルは言った。
「ジムをここへ呼んでくれないか」
ジム・ファンソープは室に入ると、「御用は?」というように叔父の顔を見た。見上げた叔父はうなずいて、つぶやくように言った。
「ふん、来たな」
「お呼びになったんでしょう」
「これにちょっと目を通してごらん」
青年は腰を下して、一束の書類を手もとへ引きよせた。年長のほうは青年をじっと見守った。
「どうだね」
青年はすぐに答えた。
「怪しいようですね、叔父さん」
カーマイケルは、もう一度、くせになっているブツブツをくり返した。
ジム・ファンソープは、たった今、エジプトから航空便で着いたばかりの手紙をよみ返した。
「今日のような日に、事務的な手紙を書いているのは悪いみたいです。私たちはミーナ・ハウスで一週間すごし、ファイユーム〔エジプト北東部にある地名〕まで行ってみました。明後日には、ナイル河をさか上って、ルクソールとアスワン、ひょっとしたら、ハルトウムまで行くつもりでおります。今朝、切符のことでクック商会に行きましたが、そこで先ず誰に会ったとお思いになりますか。アメリカで私の受託人をしているアンドルー・ペニングトンさんでした。彼が二年前に英国へきた折にお会いになられたと思います。まさか、彼がエジプトにきていようとは夢にも思いませんでしたが、先方でも私に会おうなどとは考えていなかったようでした。私が結婚したことも意外だったようです。結婚通知の手紙は出したのですが、ちょっとのところで、彼の手に渡らなかったのにちがいありません。彼は私たちと同じ船でナイル河のぼりをすることになっています。全く偶然ですね。御多忙の折に、私のために色々とお骨折り下さって、まことにありがとうございます。私は……」
青年がページをめくろうとした時に、カーマイケル氏はその手紙をとりあげてしまった。
「そこまででいいんだ。あとは関係がない。ところで、お前はどう思うかね」
甥はちょっと思案してから答えた。
「そうですね。僕は偶然じゃないと思うな」
叔父はうなずいた。そして大きな声で言った。
「エジプト行はどうだ」
「行くのがよいと思われますか」
「一刻もぐずぐずしてはいられないと思う」
「それにしても、なぜ僕が?」
「頭を使いなさい。いいかい、頭を使うんだ。リンネット・リッジウェイは一度もお前に会ったことがない。むろん、ペニングトンもだ。飛行機で行けば間に合うだろう」
「僕、僕いやだな。何をするんです、いったい?」
「目を使いなさい。耳を使いなさい。その両方ともだめなら、脳味噌を使いなさい。そして必要とあれば、行動に移るんだ」
「僕、僕いやです」
「いやかもしれん。しかし、どうしても行かねばならん」
「どうしてもですか」
「わしの考えるところでは、是が非でも行く必要がある」
十二
オッタボーン夫人は、この土地で作られたターバンのかぶり具合を直しながら、怒ったように言った。
「エジプトに行ったって、いっこうかまわないわけだわ。わたし、エルサレムにあきあきしてしまった」
娘が何とも答えないので、彼女は言った。
「話しかけられたら、せめて返事ぐらいしてもよさそうなものだわ」
ロザリー・オッタボーンは新聞にのっている写真をじっと見ていた。それには次のような説明がついていた。
「サイモン・ドイル夫人。夫人は結婚前の名前をリンネット・リッジウェイ嬢といい、社交界の花形として知られた人である。ドイル夫妻はエジプトへ新婚旅行中」
ロザリーは言った。
「お母さん、エジプトへ足をのばしてみたいと思わない?」
「そうね、行ってみたいね。ここではずいぶんとそっ気なくあしらわれているからね。わたしがここに滞在していることは、いい宣伝になるのに。特別割引してもらっていいくらいですよ。それとなくそう言ってやったら、ここの人たちの無礼なこと、――ほんとに無礼だと思いましたよ。だから、わたし、思っている通りのことを言ってやった」
娘はため息をついた。
「お母さん、どこだって同じことよ。すぐにもここを出て行きたいわ」
「今朝はマネジャーが、お室は全部、予約ずみだと言いましたよ。失礼にも程があると思うわ。わたし達の室も二日であけて下さいだって」
「じゃ、あたし達、どこかへ行かなければならないわ」
「かまうことありゃしない。わたしはどこまでも、自分の権利を主張するつもりですよ」
ロザリーはつぶやくように言った。
「エジプトへ移ったっていいわ。どうせ、違いはないんだから」
「全く、生きるとか死ぬとか言った問題じゃないからね」
しかし、オッタボーン夫人は間違っていた。それは全く生死にかかわる事柄だったのである。
第二部 エジプト
第一章
「あれは探偵のエルキュール・ポワロだわ」
とアラトン夫人が言った。彼女は息子のティムといっしょに、アスワンのカタラクト・ホテルの屋外で、けばけばしく真赤に塗った柳枝製の椅子に腰をかけていた。
親子が見守っているのは、遠ざかってゆく二つの人影だった、――白い絹のスーツを着た背の低い男と、背の高いほっそりとした若い女である。
ティム・アラトンはいつもにない機敏さで身をおこした。
「あのおかしな小男がですか」
信じられないという調子であった。
「あのおかしな小男がそうですよ」
「いったい、ここで何をしているんだろう」
母親は笑い出した。
「あなたは興奮しているみたいね。男の人って、どうして犯罪がそんなに好きなんだろうね。わたしは探偵小説が嫌いで全然読みもしないけど、ポワロは深い目的があってここへきているんではないと思いますよ。うんとお金を貯めこんだので、世の中を見て歩いているんでしょうよ」
「女を見る目があるらしい」
アラトン夫人は、ポワロと連れの女性の後姿を見ながら、ちょっと首をかしげた。女性の方が三インチばかり背が高い。かたくもならず、だらしなくもならず、ちゃんとした歩きぶりだ。
「あの女は相当の器量のようだねえ」
と、アラトン夫人がちらりと息子の方を横目でみると、面白いことに、この変人はすぐに立ち上がった。
「相当どころじゃない。おしいことに怒ったような、機嫌の悪そうな顔をしているけど」
「それはそういう顔付をしているだけの事かもしれないよ」
「いやな女だろうな。しかし、美人だ」
話題の主、ロザリー・オッタボーンはポワロとならんでゆっくりと歩きながら、閉じたままの日傘をくるくるとまわしていた。そして、その表情には、たしかに、今ティムが言ったようなところがあった。怒こったように不機嫌であった。眉毛を寄せてしかめ顔をし、赤い唇をへの字にむすんでいた。
ポワロとロザリーは宿の門を出ると左へ曲って、公園の涼しい木陰へ入って行った。ポワロはいかにも楽しそうな様子で静かにしゃべっていた。きちんとアイロンのかかった白い絹のスーツを着て、パナマ帽をかぶり、まがいもののコハクの柄のついた装飾用|蠅《はえ》たたきを持っていた。
「……それは僕をひきつけるんですよ。エリファンタインの黒い大岩、太陽、河に浮かぶ小舟。全く、生きていることはすばらしい」
ここで間をおいてから、また、つけ加えた。
「あなたはそう思いませんか、お嬢さん」
ロザリー・オッタボーンは簡単に答えた。
「多分そうでしょう。私にはアスワンが陰気くさい所のように思えるけど。ホテルはがら空きだし、誰も彼も百ぐらい……」
ロザリーは話すのを止めて唇をかんだ。エルキュール・ポワロの目が輝いた。
「その通りだ。僕は棺桶に片足をつっこんでいる」
「私、あの、私あなたの事を考えていたんじゃないんですよ。ごめんなさい、失礼なことを言ってしまって」
「かまいませんよ。同年輩の若い相手がほしいと思うのが当然です。そうだ、少なくとも一人は若い男がいますよ」
「しょっちゅう、お母さんといっしょにいる人のことですか。あのお母さんは好きだけど、息子の方はにくらしいみたい。とてもうぬぼれているんですもの」
ポワロは笑いを浮かべた。
「僕もうぬぼれていませんか」
「そんなことありませんわ」
ロザリーがこの問題に関心のないことはわかったが、ポワロは平気なもので、満足げに落ちついて言った。
「僕の親友に言わせると、僕は大いにうぬぼれているそうだ」
「そうですか」
ロザリーはあいまいに言った。
「自慢の種がおありになるんでしょう。でも、あいにく、私はぜんぜん犯罪には興味がないんです」
ポワロはまじめな調子で言った。
「かくし立てするようなやましい秘密を持っていられないことを知って、嬉しく思いますよ」
ほんの一瞬、ロザリーの不機嫌な表情が変って、もの問いたげな一瞥《いちべつ》がポワロに注がれたが、ポワロはそれに気づかないように話をつづけた。
「あなたのお母さんは、今日お昼の食事に出て来られませんでしたね。御病気ではないんでしょう」
「この土地が母には合わないんです。私はここを出たらほっとする事でしょう」
「僕たちは同じ船に乗るんでしょう? ワディ・ハルファや第二の滝まで河をさかのぼって行くんでしょう?」
「ええ」
二人は公園の木陰を出ると、河に沿った埃《ほこり》っぽい道にやってきた。抜目のないガラス玉売りが五人、絵葉書売りが二人、玉虫石売りが三人、|貸ろば《ヽヽヽ》を商売にする少年が二人、一人はなれてはいるが、物ほしげな浮浪児、……これらが忽ち二人をとりかこんだ。
「旦那、首飾りはどうです? とても上等だ。とても安いよ」
「お嬢さん、玉虫石はいりませんか。運が向くよ」
「ねえ、旦那、本物の宝石ですぜ。上等で大へん安い」
「旦那、|ろば《ヽヽ》に乗りませんか。おとなしい|ろば《ヽヽ》だよ。こいつはウィスキー・ソーダーというんだ」
「大理石の石伐場はどうです? こいつはいい|ろば《ヽヽ》だ。旦那、他の|ろば《ヽヽ》はだめ。あいつは転ぶよ」
「絵葉書はどうですか。とても安くて、とても上等」
「お嬢さん、たった十円だ。安いよ、石も象牙も」
「この上等の蠅たたきは総コハクだ」
「旦那、ボートはどうです。いい船がありますよ」
「ホテルまで|ろば《ヽヽ》で帰りませんか、お嬢さん。一等の|ろば《ヽヽ》だ」
エルキュール・ポワロは、蠅のように寄って来るそれらの人達から逃れるために、何という事なしに身体を動かした。ロザリーは夢遊病者のように、人びとの間をさっさと歩いた。
「耳も聞えず、目も見えないふりをするのが一番だわ」
と彼女は言った。
浮浪児たちは、あわれっぽい声を出して追いすがってきた。
「ご祝儀、ご祝儀。ばんざーい。すごいぞ、すてきだ」
けばけばしい色のボロ服を引きずっている子供たちの目の上には、蠅が群るようにたかっていた。他の人たちは引き返して次の客めがけて押しよせるのに、この子供たちは一番しつこく、ポワロとロザリーについてきた。
次に二人を待ちうけていたのは、店々からの攻撃であった。これはまた愛想のいい調子ですすめるのだ。
「旦那様、今日は手前どもへお越しで?」
「あの象牙のワニはいかがでございますか」
「まだ手前どもへお出になられたことはございませんでしたか。美しいものを色々とお目にかけましょう」
ポワロたちが入ったのは、五番目の店であった。そこでロザリーはフィルムを数本渡した。実はこれが散歩の目的であった。
店を出ると、二人は河岸の方へ歩いて行った。折しも一隻の観光船が停泊するところだったので、ポワロとロザリーは面白そうに船客を眺めた。
「なかなか大勢じゃありませんか」
といったのはロザリーだった。ティム・アラトンが近づいてきていっしょになったので、ロザリーはふりかえった。ティムは大急ぎで歩いてきたように息を切らしていた。
やがて、ティムは降りてくる船客たちを指さして、ばかにするように言った。
「例によっておそろしい人だ」
「いつも凄いのよ」
とロザリーは相づちを打った。この三人には、すでにおさまるべき所を得た人たちが新参者をじろじろ見る時に示すあの余裕があった。
「あれっ」
とティムは急に興奮したように言った。
「あれはリンネット・リッジウェイにちがいない」
この言葉をきいて、ポワロは平気だったとしても、ロザリーの興味はかき立てられずにはいられなかった。身体を乗り出すようにして「どこに? 白い服の人?」ときいた時には、不機嫌さは消えてしまったようだった。
「そうだ。背の高い男とつれだっている。今上陸するところだ。あれが婿さんだろう。今の名前は何と言ったかな」
「ドイルよ。サイモン・ドイル。どの新聞にも出ていたわ。あの奥さん、凄い金持ちなんですってね」
「英国一の金持ち娘というだけの事さ」
とティムは明るく言った。
それから、三人は無言のまま、船客が上陸するのを見守っていたが、話題の主を興味深く眺めていたポワロがつぶやいた。
「美人だ」
「何から何まで持っている人もあるんだわ」
と苦々しくつぶやいたロザリーの顔には、何やらくやしそうな表情が浮かんだ。
一方リンネット・ドイルは、レヴュウの舞台の真中に現われでもするように、すっかり着飾っていた。それに著名な女優の持つ落ちつきといったものをそなえている。行く先々で、人から見られ、感心されて、自分が舞台の中心になることになれっこになっている故である。自分に注がれる鋭い目を意識しておりながら、同時に、それがあまりにも日常の事なので、取りたてて気にとめるでもなかった。
リンネットは無意識に芝居の役割を演じながら上陸した。新婚旅行中の、金があって美しい花嫁という役だ。にっこり笑って、一言二言話しながら、かたわらの長身の青年の方を向いた。その男の答える声をきいた時、エルキュール・ポワロは注意を引かれたらしく、目をキラリと光らせて、額にしわをよせた。
夫妻はポワロのそばを通りすぎた。サイモンのしゃべる声がきこえた。
「何とか時間を都合することにして、君がいたいんなら、ここで、一、二週間すごすのは何でもないよ」
男は愛情のこもった、少しばかり遠慮したような真剣な顔を妻の方に向けた。
ポワロは注意深く、男の角ばった肩、陽やけした顔、黒みがかった青い目、子供っぽい笑いに目を走らせた。
「運のいい奴だ」
ティムが二人の通りすぎたあとで言った。
「アデノイドでも扁平足でもない女相続人をさがし当てたんだからな」
「凄く幸福そうだわ」
ロザリーは羨ましそうな口ぶりであった。
「公平じゃないわ」
あとの言葉は低い声だったのでティムにはききとれなかったが、ポワロはききつけて、こまったように顔をしかめ、す早くロザリーの方を見た。
「さあ、僕はおふくろのために取って来なくちゃならないものがあるんだ」
と言って、ティムは挨拶して立ち去った。ポワロとロザリーは、また新たに寄ってきた|ろば《ヽヽ》屋たちを払いのけながら、ホテルの方へ引き返した。
「公平じゃないというんですね」
とポワロが言うと、ロザリーは怒って顔を赤くした。
「何のことを言っていらっしゃるのか、私にはわかりませんわ」
「あなたがたった今、小さな声で言ったことをくり返したんですよ。たしかに言いましたよ」
ロザリーは肩をすくめた。
「全く、一人の人間が持つにしては多すぎると思うんです。お金と美貌《びぼう》と姿のよさと……」
ロザリーの言葉がとぎれると、ポワロが言った。
「そして愛もですか。ええ? 愛も? しかし、相手は彼女の財産を目当てに結婚したのかもしれませんよ」
「あの男が彼女を見る時の様子をご覧にならなかった?」
「むろん見ましたとも。すっかり見ましたよ。あなたが気づかなかった事までも」
「それ何ですの」
ポワロはゆっくりと答えた。
「彼女の目の下の黒いくまを見たのです。それから、指が血の気を失うほど、ぎゅっと日傘をにぎりしめている手もね」
「とおっしゃると?」
「輝くものが必ずしも金とは限らないということですよ。つまり、あの婦人は金があって、美人で、愛されてはいるけれども、何か困っている事があるんだ。その他にも僕は知っていることがある」
「はあ」
「いつか、どこかで、たしかにあの声、ドイル氏の|声をきいた《ヽヽヽヽヽ》ことがある。いったい、どこであったか思い出せるといいんだが」
とポワロは顔をしかめた。しかし、ロザリーはそれを聞いていはしなかった。彼女はピタリと立ち止まって、日傘の先で柔らかい砂に模様を描いていたが、いきなり、激しい口調でわめき出した。
「あたしはいやな女だわ。とてもいやな女よ。全く畜生みたいな女なのよ。あのひとの着ている物をはぎとって、あのきれいで高慢ちきな、自信満々の顔をふみつけてやりたいわ。あたしは嫉妬に狂った猫よ。でも、これがあたしのほんとうの気持なの。あのひとったらとてつもなく幸運で、落つき払っているんですもの」
エルキュール・ポワロはこのわめきをきいて、驚いたようだった。彼は静かにロザリーの腕をつかんで、やさしくゆすぶった。
「さあ、それだけ言ってしまったら、さっぱりするでしょう」
「ただ、あのひとが憎らしいんです。一目みただけで、こんなに人を憎らしく思うのははじめてだわ」
「すごい」
ロザリーは、いぶかしそうにポワロを見た。それから、口もとがピクリと動いたと思うと、笑顔になった。
「結構」
といって、ポワロも笑った。
二人はなごやかに、ホテルへとって返した。
「あたし、母を探さなくちゃ」
ひんやりとする暗いホールに入ると、ロザリーは言った。
ポワロはホールを抜けて、ナイル河を見渡せるテラスに出た。お茶のための小テーブルがいくつか並んでいたが、まだ時間が早かった。ポワロはしばらく河を眺めていたが、やがて、庭におりてぶらぶら歩き始めた。
暑い陽の照りつける所でテニスをしている人もある。立ち止まってそれをちょっと眺めたと思うと、彼は急な小道をおりた。そして、ベンチに腰をかけてナイル河を見渡していた時に、シェ・マ・タントで見かけたことのある若い女に会ったのである。一目で彼女とわかった。というのは、あの晩、見た顔がしっかりと記憶にきざみつけられていたからだ。彼女の表情はあの時とはまるで違っていた。顔色は青ざめてげっそりしてしまい、大きな不安と心配を示すしわが見られるのだった。
ポワロは少し退いた。先方ではこちらに気がつかなかったので、ポワロはさとられないように、しばらく見守った。小さな足はじれったそうに地面をトントンとふみつけており、くすぶっている火のような黒い目には、異様な苦しみのかげが浮かんでいた。彼女は白帆の行きかう河面を見渡していた。
顔、そして声。その二つともポワロは思い出した。あの女の顔と、さっき聞いたばかりの声、新婚ホヤホヤの花婿の声……
自分に気づいていない女のことをポワロが思いめぐらしているうちに、早くも劇の次の場面がはじまっていた。
上の方で人声がすると、腰かけていた女は立ち上った。リンネット・ドイルとその夫が小道をおりてきた。リンネットの声は楽しそうで自信に満ち、緊張にこわばっていた表情が消え去って、幸福そうだった。
立っていた女は一、二歩前へ進んだ。
二人づれはピタリと足を止めた。
「今日は、リンネット」
ジャクリーンは声をかけた。
「あなたたち、ここにいたのね。よく出会うわね。サイモン、今日は」
リンネット・ドイルは小さな叫び声をあげて、岩のそばまで後ずさりした。サイモン・ドイルの端正な顔は急に怒りで引きつった。ほっそりした少女っぽい身体をなぐってやりたいとでもいうように、前に乗りだした時、ジャクリーンがすばやく小鳥のように首を動かして、そばに人がいることを知らせた。ふり向いてポワロに気づいたサイモンは、間が悪そうに言った。
「やあ、ジャクリーン、ここで君に会おうとは思わなかったよ」
その言葉はいかにもおざなりにひびいた。
「おどろいた?」
と女は二人づれに白い歯を見せて言うと、軽くうなずいて小道を上って行った。ポワロは気を配って反対の方向をたどったが、立ち去る時、リンネット・ドイルの言葉が彼の耳に入った。
「サイモン、ねえ、サイモン、いったい、どうしたらいいの?」
第二章
夕食後である。
カタラクト・ホテルのテラスには静かに灯がともり、滞在客の多くはそこへ来て、小さなテーブルに向って腰をかけていた。
サイモンとリンネット・ドイルは、アメリカ人らしい背の高い、えらそうな白髪の男とつれ立ってやってきた。三人が入口でまごまごしていると、ティム・アラトンが近くの席から立ち上り近づいた。
「覚えてはいらっしゃらないと思いますが、僕はジョアンナ・サウスウッドのいとこです」
とティムはリンネットに向って愛想よく言った。
「そうでしたわね。わたし、うっかりしていましたわ。ティム・アラトンさんね。これ主人ですの。こちらは財産の管理をお願いしているアメリカ人のペニングトンさん」
「主人」と言った時には、得意さのためか、あるいは恥かしさのためか、声がかすかにふるえた。
ティムは言った。
「母に会って下さい」
やがて、皆いっしょになり、隅に腰を下ろしたリンネットの左右にはティムとペニングトンが陣どった。二人はさかんにリンネットに話しかけ、自分の方へその注意をひこうとするのだった。一方、アラトン夫人はサイモン・ドイルを相手に話していた。
回転ドアがまわると、二人の男性にかこまれて隅っこにいた美しいすらりとしたひとは急に緊張した。しかし、小柄な男が入ってきて、テラスを横ぎって行くのを見ると、緊張がとけた。
アラトン夫人が言った。
「まあ、まあ、ここではあなただけが有名人というわけではないんですから。あの変な小男はエルキュール・ポワロですよ」
もたもたした話のと切れをつなごうと、ごく軽い気持で何気なくもらした言葉であったのだが、リンネットはびっくりしたようだった。
「エルキュール・ポワロ? その人のことなら聞いたことがありますわ」
リンネットが上の空になってしまったので、両脇の男たちはとっさにはどうしたらいいかわからなかった。
テラスの端まで歩いて行ったポワロは、追いかけるように呼びとめられた。
「ポワロさん、おかけなさいましよ。すばらしい夜じゃありませんか」
ポワロは言われた通り腰をかけた。
「おっしゃる通りきれいな晩です」
彼はオッタボーン夫人に礼儀正しく笑いかけながら考えた。
「黒い絹をやけに使ったんだな。何てゴテゴテと巻きつけたもんだ」
オッタボーン夫人は大きな声でつづけた。
「ここにはずいぶんたくさん名士がいますね。そのうちに新聞にその事が出るでしょうよ。社交界の美人たち、著名な小説家……」
夫人は心にもない謙遜な笑いをかすかに浮かべて話を中断した。
ポワロは、自分の前にいる不機嫌な顔をした娘が身をひいて、いっそう、不機嫌に口もとをゆがめるのを感じた。
「いま、小説を書いていらっしゃるのですか」
とポワロがたずねると、オッタボーン夫人はまた、得意のわざとらしい笑い方をした。
「わたし、すっかり怠けてしまっているんですよ。ほんとうに仕事にとりかからなければいけないんですのに。愛読者の方たちはもう待ちかねていますし、出版社にも気の毒で。手紙の度に催促なんですよ。電報まで来るんですからね」
この時また、暗がりで娘の動くのが感じられた。
「ポワロさん、あなたにはお話してもかまわないんですが、わたしがここに来たのは、一つには地方色をもとめてなのです。『砂漠の雪』というのが、わたしの今度の小説の題なのですが、迫力があって、暗示的なものをねらっていますのよ。雪、砂漠のですが、雪がもえるような情熱の最初の息吹きに溶けたというわけ」
ロザリーは何かつぶやきながら、立ち上って暗い庭へ出て行った。オッタボーン夫人は、ターバンを巻いた頭を強くふりながら、更に話をつづけた。
「強烈でなければいけませんわ。不消化な肉というのが、わたしの本のねらいなのです。図書館からは閉め出されるかも知れないけれど、かまうもんですか。わたしは本当のことを言うんですから。セックス! ねえ、ポワロさん、どうして世間ではセックスをあんなにこわがるんでしょう。宇宙の中心なのに。あなた、わたしの本お読みになられたことございまして?」
「残念ながら、どうも。何しろ、わたしときたらあまり小説を読みませんのでね。わたしの仕事は……」
オッタボーン夫人ははっきりと言った。
「『いちじくの木の下で』というのを一部さし上げますわ。何かを言おうとしていることがおわかりになると思います。思いきった言い方をしていますけど、本当の事なんですよ」
「御好意ありがとう。よろこんで読ませていただきましょう」
オッタボーン夫人はしばし無言のまま、首のまわりに二重にかけた長い首飾りをまさぐっていた。それから、す早く左右に目をやった。
「ちょっと行って、取ってきてあげましょう」
「いや、わざわざそんなになさらないで下さい。またあとで……」
「いいえ、何でもありませんわ。お見せしたいんですから」
「何のこと、お母さん?」
ロザリーが突然そばに腰をかけて言った。
「何でもないのよ。ポワロさんに本を一部もってきてあげようと思ったの」
「『いちじくの木の下で』のこと? わたしが取って来るわ」
「どこにおいてあるかわからないでしょう。わたしが行きます」
「わかっていますよ」
娘は足早やにテラスを通って、建物の中へ入った。
「奥さん、大変きれいなお嬢さんを持たれて結構ですね」
とポワロは首をさげて言った。
「ロザリーですか。ええ、あの子はきりょうはいいんですが、なかなかきつくて。病気にはぜんぜん同情がないんですよ。自分が一番よく物事がわかっていると思いこんでいましてね。わたしの健康のことだって、本尊のわたしよりよくわかっているつもりなんですから」
ポワロは通りかかった給仕に合図した。
「奥さん、リキュルにしますか。甘くち? それともハッカ入りですか」
「いいえ、わたしは全然飲めないんです。お気づきでしょうが、水かレモネードの他は何も飲まないんですよ。お酒の味はとても我慢できないんです」
「それじゃレモン・スカッシをたのみましょう」
ポワロはレモン・スカッシとリキュルを一つずつ注文した。この時、回転ドアがまわって、ロザリーが本を持って近づいてきた。
「ハイ、持ってきましたよ」
とロザリーは極めて事務的に言った
「ポワロさんがレモン・スカッシをとって下さったところよ」
「お嬢さんは何にしますか」
「何も」
と答えてから、ロザリーはぶっきらぼうだったのに気づいて言い直した。
「結構ですわ」
ポワロはオッタボーン夫人のさし出した書物をうけ取った。まだカバーがかかったままだった。頭をさっぱりと刈りあげにして、爪を真赤にぬった婦人が虎の皮の上にすわっている絵がけばけばしく描かれており、その頭の上には樫の葉のついた木があって、大きな現実ばなれした色のりんごがなっていた。サロメ・オッタボーン著の『いちじくの木の下で』と題されていて、カバーの裏には出版者の広告文がのっており、近代婦人の恋愛生活に関する研究の大胆さとリアリズムについて書きたてていた。大胆、伝統にとらわれない、現実的、と言うような形容詞がつかわれていた。
ポワロは頭をさげて、つぶやいた。
「光栄です」
頭をあげた時、ポワロの目はこの作家の娘の目と合った。われにもなく、ポワロは身体を少し動かした。相手の目の示した生なましい苦痛の色に驚き、且つ心を痛めたからである。ちょうどこの時、飲みものが運ばれ、うまくその場を救った。
ポワロは丁寧にコップをさしあげた。
「奥さん、お嬢さん、御健康を祈って」
オッタボーン夫人はレモネードをすすってつぶやいた。
「まあ、すーっとしておいしい」
三人はだまってしまった。ナイル河のキラキラ光る黒い岩を見下している三人は、月光をあびて何やら異様なおもむきがあり、水から半身を出して横たわっている、巨大な有史前の怪物に似ていた。突如としてそよ風がおこり、突如としてやんだ。
エルキュール・ポワロはテラスにいる人たちへ目をむけた。すると、そこでも何かを待ちのぞむようにしいーんとしていた。舞台に主役女優が現われるのを待つ瞬間のようであった。
あたかもその時、回転ドアがまた動きはじめたが、今度は何やら特別もったいぶっているような動き方だった。おしゃべりを止めていた人たちは一斉にそちらへ目をやった。
入って来たのは、ぶどう酒色のイーヴニングドレスを着た、ほっそりとした浅黒い若い女であった。しばし立ち止まってから、ゆっくりとテラスを横切り、あいたテーブルに向って腰をおろした。その態度には、これ見よがしなところや異常なところがあるわけではないのに、舞台に登場する時のような計画された効果があった。
「なるほどね」
とオッタボーン夫人は、ターバンを巻いた頭をふって言った。
「あの娘さん、いっぱしのつもりでいるらしいわ」
ポワロはそれに答えず、じっと見守っていた。その女は、リンネット・ドイルをゆっくりと斜めに眺められる場所に席をとっていた。やがて、リンネットは身体をかがめて何か言ったと思うと席をかえた。今までとは反対の方向に向ってすわることになったわけだ。
ポワロは考え深く、ひとりうなずいた。
五分も経つと、さっきの女がテラスの反対側に移った。タバコを吸いながら、静かに笑いを浮かべているところは、会心を絵にしたようだった。
十五分ばかり経つと、リンネット・ドイルは突然立ち上って、建物の中へ入ってしまった。彼女の夫もすぐそれにつづいた。
ジャクリーン・ド・ベルフォトはニコリとして、椅子をくるりと回した。タバコに火をつけ、ナイル河に目を注いだ。彼女はひとりほほえんでいた。
第三章
「ポワロさん」
考えこんだまま、すべすべとつややかな黒い岩にじっと目を注いでいたポワロは、自分の名前を呼ぶ声に我にかえり、急いで立ち上った。他の人たちはすっかり引きあげてしまい、テラスに残っているのは自分一人だった。
それは育ちのよさを思わせる自信のある声だった。幾ぶん横柄なところはあるにしても、美しい声だった。エルキュール・ポワロは急いで立ち上り、リンネット・ドイルの高圧的な目をのぞきこんだ。
白サテンのガウンの上に紫色のビロードの肩かけを羽織ったリンネットは、ポワロが考えていたよりも、はるかに美しく堂々としていた。
「エルキュール・ポワロさんでいらっしゃいますね」
とリンネットは言ったが、それはたずねるという調子ではなかった。
「さようでございます、奥様」
「私が誰であるかは御存じでしょう」
「はあ、お名前は伺っております。どなたであるかよく存じております」
リンネットはうなずいた。彼女が期待していたのはそれだけだった。独特のあやしくも高びしゃな態度で、彼女は話をつづけた。
「ポワロさん、娯楽室まで御一緒にきて下さいません? ぜひ聞いていただきたいことがあるんですの」
「かしこまりました」
彼女は先に立って、建物の中へ入った。ポワロは後につづいた。人けのない娯楽室へポワロを導き入れると、リンネットはドアを閉めるようにと身ぶりで示した。それからリンネットは一つのテーブルに向って腰を下し、その向い側にポワロがすわった。
彼女は単刀直入に思うことを話しはじめた。何らためらうことなしに、言葉はすらすらと出てきた。
「ポワロさん、あなたの事は色々と伺っております。あなたはずいぶん、賢くていらっしゃるんですね。いま、私はどうしてもどなたかの力をお借りしなければならない立場にあるのですが、あなたこそそれをして下される方だと思うのです」
ポワロは首をかしげた。
「奥様はお愛想がよくていらっしゃる。しかし、わたしは休暇中なのでして。休暇をとっている時は、事件を扱わないことにしておりますが」
「それはどうにかなりますわ」
彼女はそれを無礼に言ったのではなかった。常日頃、自分の思いのままに物事を運びつけてきた若い女性の静かな自信をもって言ったのに過ぎなかった。
リンネット・ドイルは言葉をつづけた。
「ポワロさん、私は堪えられないような迫害を受けているのです。その迫害を止めさせなければなりません。私としては警察にとどけたいのですけれど、主人は警察ではどうしようもないだろうと思っているらしいのです」
「あのー、もう少しよく説明していただけるといいのですが」
ポワロは丁寧に言った。
「ええ、申しあげますわ。とても簡単な話なんですのよ」
この時も何らためらったり、口ごもったりすることはなかった。リンネット・ドイルは至ってテキパキとした人であった。事実をできるだけ要領よく伝えるために、ほんの一瞬、考えたと思うと語りはじめた。
「主人は私とめぐり会うまで、ベルフォトさんという人と婚約しておりました。その人は私の友人でもありました。主人は彼女との婚約を解消しました。どっちみち、二人はうまく合わなかったんですけれど。ところでその人は気の毒に大変それを悲観してしまったのです。ほんとにお気の毒だと思いますけど、こういう事は止むを得ませんわね。彼女は事を確めてから、そう――脅迫してきました。でも私それをちっとも気にとめませんでした。あちらでも実行に移すこともありませんでした。ところが、そのかわりにとんでもない事をはじめたのです。私たちの行く先々へ追いかけて来る事になったのですから」
ポワロは眉をあげた。
「はああ、変った仕返しですな」
「とても変っていますわ。それにとてもばかばかしくて。でも、うるさいこともうるさいんですの」
「そりゃそうでしょうとも。ところで奥様は新婚旅行中でいらっしゃるそうで」
「はあ。最初はヴェネチアでした。あのひと、ヴェネチアのダニエリ・ホテルにいたんですけど、私はただ偶然だとばかり思いましたわ。大変ばつは悪かったんですが、それだけのことでした。その次はブリンディジィで船に乗っているのを見かけました。パレスチナへ行くのだろうと思って、私たちは船を降りました。あのひとは船に残っているものとばかり思っていましたのに、ミーナ・ハウスに行くと、そこにまた、あのひとがいるじゃありませんか。私たちを待ち伏せてたんですわ」
ポワロはうなずいた。
「そして、今は?」
「私たち船でナイル河を上ってきましたの。あのひと、また船に乗ってやしないかと思っていました。でも姿が見えないので、あんな子供じみたことは止めたんだなと思ったのです。ところが、ここへ来てみると、あのひとがここで私たちを待っていました」
ポワロはしばし、彼女を鋭く見た。リンネットはまだ、落着きはらっていたが、指の関節が白くなるほど強くテーブルをつかんでいた。
ポワロがきいた。
「それで、奥様はこんな状態がいつまでもつづいたら困ると思われるわけですね」
「そうなんです。むろん、ばからしい事なんですけれど。ジャクリーンは自分から笑いものになっているようなものですわ。あのひと、もっと自尊心――威厳があると思っていたのに意外でしたわ」
ポワロはちょっぴり身体を動かした。
「奥様、自尊心や威厳なんか忘れてしまう時もあるものですよ。それよりも強い感情だってありますからね」
「そりゃそうでしょう。でも、あのひと、こんなことをして、いったい、どんな得があるんでしょう」
リンネットはもどかしそうに言った。
「物事は損得だけじゃありませんからねえ」
といったポワロの調子には、リンネットを不快にさせるものがあった。彼女は顔を赤くして、早々に言った。
「おっしゃる通りですわ。動機をあれこれ詮議立てするのは見当ちがいというものです。要はあれを止めさせる事なんですから」
「どういう風にそれを運ばせようというおつもりですか」
「そうですね。私たちはいつまでもこんなわずらわしい思いをさせられるのはまっ平なのです。そういう事を止めさせる法律手段が何かあるにちがいありません」
リンネットがいらだたしそうに言うのを注意深く見ながら、ポワロはたずねた。
「あのひとは人前で実際に口に出して脅迫しましたか。侮辱的な言葉でも使うとか、身体に危害を加えるとかしましたか」
「いいえ」
「奥様、それじゃ正直のところ、どうしようもありませんね。どこか旅行するのがある若い女性の楽しみであって、たまたま、それがあなた方夫妻の行く所と同じであったとしたら、どうだというのです? 空気は皆のものですからね。あのひとはあなたの私生活をおびやかすわけではないのでしょう。出会うのはいつも人中でのことでしょう」
「それに対して私はどうする事もできないとおっしゃるのですか」
リンネットは信じられないという調子で言った。
ポワロはおだやかに言った。
「わたしの見る限りではどうしようもありませんな。ベルフォトさんは権限内の事をしているのですから」
「でも、いらいらさせられますわ。それを我慢しなければならないなんて忍びがたい事ですわ」
ポワロはそっ気なく言った。
「奥様、同情いたしますよ。あなたは我慢ということをあまりされたことがないでしょうから、とりわけお気の毒です」
リンネットは顔をしかめて言った。
「止めさせる方法が何かあるにちがいありませんわ」
ポワロは肩をすくめた。
「あなた方はいつでも立ち去る事ができるでしょう。どこか他の所へ移ればいいのです」
「そしたら、あのひと、ついて来るでしょう」
「ええ、多分ね」
「ばからしいわ」
「その通りです」
「とにかく、なぜ、私が、私たちが逃げ出さなければならないんでしょう。まるで――まるで……」
リンネットは言葉を切った。
「その通りなんですよ、奥様。まるで! そこなんですよ。そうじゃありませんか」
リンネットは首をあげて、ポワロをじっと見た。
「とおっしゃるのは?」
ポワロは口調を変えた。身体を乗り出し、自信に満ちた訴えるような声で、物静かに言った。
「奥様、あなたはなぜそんなに気になさるのですか」
「なぜですって。だって、気が変になりそうなんですもの。ほんとうにいらいらさせられますよ。理由はもう申しあげました」
ポワロは首をふった。
「全部じゃありませんね」
「とおっしゃると?」
ポワロは、身体をそらせ、腕をくんで、つきはなしたような調子でしゃべり出した。
「奥様、これからちょっとした話をおきかせしますからきいて下さい。一月か二月前の事ですが、わたしはロンドンのあるレストランで食事をしていました。隣りのテーブルには二人づれの若い男女がいました。とても愛し合っていて、いかにも幸せそうでした。自信たっぷりに将来のことを語り合っていました。わたしは他人の話に耳を傾けたわけではないんですが、むこうはきかれていようがいまいが、気にとめていなかったのです。男はわたしの方へ背を向けていましたが、女の顔はよく見えました。真剣な顔付でした。全身を打ちこんで恋をしているというタイプでした。度たび、いいかげんな恋をするような人ではなさそうで、彼女にとっては、恋は生死の問題であることが見てとれました。察するところ、その二人は婚約の約束をしていたようで、新婚旅行に行く土地のことを話し合っていました。エジプトへ行く計画だったのです」
ポワロが言葉を切ると、リンネットは鋭く言った。
「それで?」
「あれから一月か二月になるのですが、その若い女の顔は忘れられません。もう一度会えばそれとわかるでしょう。それから、その男の声も覚えています。わたしが何時その女にまた会い、男の声をまた聞くか、奥様はもうおわかりでしょう。このエジプトです。そうです、その男は新婚旅行にきています。でも、それは別の女との新婚旅行です」
リンネットがはげしい調子で言った。
「それがどうしたというのですか。私はすでに本当の事を申しあげたではありませんか」
「本当のこと――まあ、そうです」
「それで?」
ポワロはゆっくりと言った。
「その女はある友人の事も話していました。その友人は絶対に自分を見すてるような事はしないと言っていましたがね。その友人というのは、奥様、あなたのことでしょう?」
リンネットは顔を赤らめた。
「ええ。私たち友達だったと申しあげましたわ」
「そのひと、あなたを信じていたんですね」
「はあ」
リンネットは唇を噛みしめながら、しばらく、躊躇《ちゅうちょ》していたが、ポワロが何も言い出したくなさそうなのを見て、自分の方から口をきった。
「もちろん、何もかも間が悪かったのですわ。でも、こういうことはよくありますわね」
「そう、おっしゃる通り、こういう事はよくあります。ところで、奥様は英国国教派でいらっしゃいますね」
「はあ」
リンネットはちょっぴり、まごついたようだった。
「じゃ、教会で聖書の一部を朗読されるのをおききになったことがお有りでしょう。ダビデ王と、羊や牛をたくさん持っている金持ちの男と、雌羊の仔一頭しか持っていない貧しい男の話をおききになったと思います。その金持ちの男が、貧しい男のたった一頭の仔羊をも奪ってしまった話です。それと同じ事が起ったわけですよ、奥様」
リンネットは身体をおこした。その目は怒りにもえていた。
「あなたの考えていらっしゃること、よくわかりましたわ。俗な言い方をすると、私が友人の男を奪ったというのでしょう。感傷的な見方をすれば、――あなたの年代の方々はどうしてもそうなるらしいのですけれど――多分、それは本当でしょう。でも、真相は違うのです。たしかに、ジャッキイはサイモンに夢中でしたわ。しかし、サイモンの方ではそれ程でもなかったかも知れないということを、あなたは考慮に入れていらっしゃらないようです。サイモンもジャッキイを非常に好きだったのですけれど、私に会う前からすでにしまったと思いはじめていたのではないかと思います。その点をはっきり、ご覧になって下さい。サイモンは、ジャッキイではなく、私が好きなんだという事に気がついたのです。サイモンはどうしたらよいのでしょう。あっぱれなところを見せて、好きでもない女性と結婚し、三人の一生をめちゃくちゃにしてしまうべきでしょうか、こういう事情の下では、ジャッキイを幸福にすることができるかどうかは疑問ですもの。私と出会った時に、あのひとがすでに結婚していたのだったら、どこまでもジャッキイを守るのがサイモンの義務かも知れません。どこまで守れるかはわからないけれど。片方が不幸なら相手も苦しみます。しかし、婚約にはほんとうの束縛力はありません。もし間違っていたら、手おくれにならないうちに事実に直面するのがよいにきまっています。ジャッキイの辛い立場は認めます。そして、ほんとにお気の毒に思いますけれど、この通りで、どうしようもなかったのです」
「どうですかなあ」
リンネットはポワロをじっと見た。
「とおっしゃるのは?」
「あなたの言われることは、いちいち大変ごもっともで、筋も通っています。ただし、一つだけわからない点があるんです」
「何がでしょう」
「あなたの態度ですよ、奥様。あなたをそのように追いまわすことですがね。御友人が世間のしきたりを無視してそんなことをする程傷ついた事は、あなたにとって迷惑、――あるいは気の毒に思うかの二つの取り方があります。ところがあなたはそのようには思っていられない。あなたはこの迫害がたえられないとおっしゃる。それはなぜでしょう。その理由は一つ、つまり、あなたに罪の意識があるからです」
リンネットはすっと立ち上った。
「何ということをおっしゃる。ポワロさん、それはほんとに言い過ぎですわ」
「わたしはあえて申しますよ。率直にお話したいのです。あなたはその事実をご自分にごまかそうとして来られたかも知れないけれど、わたしはあなたが故意に友人からあなたの夫を奪い取る気になったのだと言いたい。あなたは一目で彼に引きつけられたでしょう。しかし、あなたがためらいを覚えた時、自制するか、乗り出すか、その何れかをえらぶ事ができるのだと思った瞬間があったでしょう。主導権はドイルさんでなく、あなたの方にあったと思います。奥様は美人で、金持ちで、かしこく、しかも魅力がある。あなたはその魅力を発揮させることも、おさえることも出来たでしょう。あなたはあらゆるものを持っていらっしゃる。あなたの友人は一人の男だけを頼りにしていた。あなたはそれを知っていた。そして、一度は迷ったけれども、ついに手を引かなかった。あなたはダビデ王のように、手をさしのべて貧しい人の羊をとってしまった」
「みんな的外れですわ」
「いや、そんな事はない。ベルフォトさんの突然の出現がなぜあなたをそのように当惑させたかを説明しているんですよ。あのひとのやっている事は女らしくなく、また、品位がないかもしれないけれども、あのひととして当然なのだと、あなたは心の中で考えているからなんです」
「そんなことはありません」
ポワロは肩をすくめた。
「あなたは自分を偽ろうとしていらっしゃる」
「とんでもありませんわ」
ポワロは静かに言った。
「奥様、あなたは幸せな方だ。そして、他の人に対しては鷹揚《おうよう》で思いやりのある態度をとって来られたでしょう」
「そうしようと努めてきました」
いらいらとした怒りは彼女の顔から消えた。その話しぶりは簡潔で、淋しそうでさえあった。
「だから、故意に誰かを傷つけたと思う気持が、あなたをそのようにうろたえさせるのだし、あなたがその事実を認めようとしたがらないのもそのためなんです。さし出がましかったらゆるしていただきたい。しかし、心理はこう言った場合、最も重要な要素なんです」
リンネットはゆっくりと言った。
「仮にあなたのおっしゃることが本当であるとしても、――私はそう思っていませんけど――今さらどうすることができましょう。過ぎ去ったことを変えるわけには行きませんものね。現在あるがままの状態と取組まなければなりません」
ポワロはうなずいた。
「あなたは頭がいいですね。おっしゃる通り、過ぎた事をやり直すわけには行きません。物事をあるがままに受け入れなければなりません。時にはそれ以外に方法がないことがあります。つまり、自分の過去の行いの結果を甘受すより他ない場合ですね」
「どうしようもないとおっしゃるのですか」
リンネットは信じられない風だった。
「奥様、勇気をお出しなさい。わたしにはそう思えるのですがね」
リンネットはゆっくりした口調で言った。
「ジャッキイ……ベルフォトさんに話しかけてみて下さいません? あのひとに事をわけて話して下さいません?」
「そりゃできますとも。お望みならやってみましょう。しかし、結果はあまり期待なさらないで下さい。ベルフォトさんはどんな事があっても止めまいと固く思いこんでいるようですから」
「でも、何か逃れる方法があるはずですわ」
「むろん、英国へ帰って、自宅に落ちつくという手があります」
「それでもジャクリーンは村へやってきて、私が屋敷の外へ出れば必ず顔を合せることになりそうですわ」
「そうでしょうな」
「それにサイモンは逃げ出すことに同意しませんわ」
「この事について、御主人の態度はどうなのですか」
「ただもう怒っております」
ポワロは考えごとをしているようにうなずいた。
リンネットは訴えるような調子で言った。
「あのひとに話して下さいません?」
「はあ、やってみましょう。しかし、わたしの力では何もできないと思いますよ」
リンネットの語調ははげしかった。
「ジャッキイは当り前じゃないんですよ。何をやり出すかわかりゃしない」
「あのひとが言ったという脅迫のこと、今しがた話されましたね。どんなことだったのですか。きかせていただけませんか」
「私たち二人を殺してやると言ったんです。ジャッキイは時によるとかっとなる事があります」
「なるほど」
ポワロはまじめだった。
リンネットはポワロの方を向いて、頼むように言った。
「私に代ってやって下さる?」
「いや、奥様、あなたの御依頼に応じるわけには参りません。私は人類のために出来るだけの事をするつもりです。極めて危険で難しい事が持ち上りました。それを解決するために全力を尽しますが、結果については自信が持てません」
リンネット・ドイルはゆっくりと言った。
「私の代りにやって下さいません?」
「いいえ、奥様」
とエルキュール・ポワロは言った。
第四章
エルキュール・ポワロが行って見ると、ジャクリーン・ド・ベルフォトは真直ぐナイル河を見下せる岩に腰を下していた。彼女が寝るために室にまだ引っこんでしまっていないこと、ホテルの構内のどこかにいるだろうということに、ポワロは確信を持っていたのである。
ジャッキイは両手で顎を支えるようにして坐っていた。ポワロが近づいても、首を動かすでもなければ、見まわしもしなかった。
「ベルフォトさんですね。ほんのしばらく、お話したい事があるのですが、よろしいでしょうか」
とポワロが言った。
ジャクリーンはわずかに首を動かした。その口もとにかすかな微笑が浮かんでいた。
「どうぞ。エルキュール・ポワロさんですね。当ててみましょうか。ドイル夫人の代理でしょう? あのひと、仕事がうまく行ったら、お礼をたくさん出すと言ったでしょう」
ポワロはそばのベンチに腰を下した。
「あなたの推理は一部、あたっています。わたしは今ドイル夫人と別れてきたところです。しかし、わたしは夫人から謝礼を全然、もらうつもりはありません。やかましく申せば、わたしは夫人の代理をしているのではありません」
とポワロは笑いながら言った。
「へーえ」
ジャクリーンはポワロをしげしげと見てから、突然言った。
「じゃ、どうしてここへ来られたのですか」
それに対するポワロの答えはまだ、質問の形になっていた。
「お嬢さん、このわたしを前にごらんになった事がありますか」
ジャクリーンは首を振った。
「いいえ、お目にかかったことはないと思いますが」
「ところがわたしの方ではあなたをお見かけした事があるんですよ。シェ・マ・タントで隣りの席にいたことがありましてね。あなたはサイモンとご一緒でした」
奇妙なお面のような表情がジャクリーンの顔にあらわれた。
「あの晩の事は覚えていますわ」
「あれから色々の事が起りましたね」
「ほんとにたくさんの事がありましたわ」
その声は悲痛に満ちた低音で、重くるしかった。
「お嬢さん、わたしは味方として申しあげるんですよ。亡き者は葬っておしまいなさい」
ジャクリーンはびっくりしたようだった。
「それはどういう事ですの」
「過ぎた事はあきらめなさい。未来に目を向けるのです。すんだ事は仕方がありません。どんなに嘆いても、元に戻すことはできませんからね」
「リンネットならそれがピタリでしょうけど」
「今はあのひとの事を考えているんじゃない。あなたの事を考えているんですよ。なるほどあなたは辛い思いをした、しかし、今あなたがやっていることは、その苦しみを長びかせるだけですよ」
ジャクリーンは首を振った。
「あなたは考えちがいしていらっしゃる。私は楽しいとさえ思うこともあるんですから」
「それが一番こまるんですよ、お嬢さん」
ジャクリーンは素早く目を上に向けて言った。
「あなたは物のわからない方ではない。親切にして下さるおつもりなのだと思います」
「お国へお帰りなさい。あなたは若いし、賢くもあるんですから、前途は洋々としています」
ジャクリーンはゆっくりと首を振った。
「あなたはおわかりにならない。わかろうとなさらないのです。サイモンは私のすべてなんです」
「愛がすべてではありませんよ、お嬢さん。そう思うのは若い時だけです」
とポワロは静かに言った。
それでもなお、女は首を振った。そしてポワロの方をちらりと見た。
「あなたはおわかりにならない。むろん、一切を御存じなのでしょう。リンネットとお話しになりましたわね。そしてあの晩、あなたはレストランにいらっしゃった……サイモンと私は愛し合っていました」
「あなたがあの人を愛していた事は知っております」
「私たち愛し合っておりましたのよ。そして私はリンネットが好きでした。あの人を信じていました。私の親友であったのです。あの人はいつも、欲しい物は何に限らず買うことができました。一度だって自分の欲をおさえた事はありません。サイモンに会うと自分のものにしたくなり、あの人を取ってしまったのです」
「そして彼はされるがままになっていたのですか。つまり、買われたわけですね」
ジャクリーンは黒い髪の毛をゆっくりと振った。
「いいえ、そういうわけじゃありません。もしそうだったら、私は今ごろこんな所に来ていませんわ。サイモンは問題にする程の男じゃないとおっしゃるんでしょう。あの人がお金のためにリンネットと結婚したのだったら、おっしゃる通りでしょうけど、別にお金に目がくらんでの事ではないのです。もっとずっとややこしいんですのよ。ポワロさん、魅惑ということがありますわね。それにはお金が物を言います。リンネットにはある雰囲気がありました。贅沢《ぜいたく》の限りをつくした女王さま、若い女王さまというところでした。まるで舞台装置のようでした。彼女は何でも思いのままにする事ができました。英国有数の金持ちで、世間からもてはやされている貴族の一人が結婚したがっていたのですけれど、リンネットは名もないサイモン・ドイルに膝を屈したのですわ。サイモンがうぬぼれても不思議じゃないでしょう」
ジャクリーンは突然、手を動かした。
「あの月をごらんなさい。はっきりと見えるでしょう。たしかにあそこにありますわね。でも、もし太陽が輝き出したとしたら、月はぜんぜん見えなくなります。それと同じような具合だったのです。私は月でした。太陽が現われると、私はもうサイモンの目に入らなくなってしまいました。あの人の目がくらんでしまったのですわ。太陽――リンネット――以外のものは何も目に入らなくなってしまったのです」
ジャクリーンは一休みしてから、また、つづけた。
「ね、つまり、魅惑されたのです。リンネットがサイモンをぼうっとさせたのですわ。それからまた、彼女には強い自信があって、何でも思いのままにするのがお得意なんです。いかにも自信たっぷりなので、他の人にもそれがうつってしまうんですよ。サイモンは弱かったかも知れません。でも、あの人、とても単純なものですから。リンネットが現われて、黄金の車にのせてつれ去らなかったら、サイモンは私を、私だけを愛していたところですわ。リンネットがさそわなければ、サイモンは絶対にあのひとを愛すようにはならなかったと思うのです」
「あなたはそう思っていられるわけですね」
「私にはそれがわかっているんです。サイモンは私を愛していました。これからも愛してくれますわ」
「今でもですか」
ジャクリーンはすぐにもそれに答えそうになったが、言葉にはならなかった。じっと、ポワロを見つめているうちに、ジャクリーンはみるみる真赤になった。彼女は頭をたれて目をそらし、低い重くるしい声でいった。
「よくわかっていますわ。あの人、今は私を憎んでいます。そうなんです……あの人、気をつけた方がいいわ」
素早い仕草で、ジャクリーンは席においてあった小さな絹の袋をまさぐった。それから手をひろげた。その上には、小さな真珠の柄のついたピストルがのっていた。それは精巧なおもちゃのように見えた。
「かわいいでしょう? ばからしいみたいですけど、これは本物なんですよ。この弾丸一発で人一人殺せますわ。私は撃つのがうまいんです」
彼女は遠いことを思い出すように、にっこりした。
「子供のころ、母につれられてサウス・カロライナに行った時、祖父が射撃を教えてくれたんです。祖父は旧式な人で、射撃は覚えておけという主義でしたの。事、名誉に関する場合など、特にそうでした。父も若いころは何度か決闘をしました。父は剣が達者で、人を殺したこともありました。女の事が原因でした。ねえ、ポワロさん……」
ジャクリーンはまともにポワロの目を見た。
「私には熱い血が流れていますのよ。このピストルはそもそも問題がおきた時に買い求めました。二人のうち、どちらかを殺してやろうと思ったのですが、困ったことに、どちらにしたらいいか決めかねました。二人とも殺してしまってはつまらないし。リンネットがこわがっているようならとも思いましたが、あのひとは十分体力があるから、攻撃されれば立ち向うでしょう。そのうちに待ってやろうと考えはじめました。その方が益々よさそうに思われてきました。いつだって殺すことはできるんですから。それよりも延ばして考えていた方が面白そうだと思えてきました。そうしているうちに、二人のあとをつけてやろうという考えが頭に浮かびました。二人がどこか遠くへ行って揃って楽しそうにしている時に私に気がつくという趣向です。それが図に当りましたわ。他の方法ではとてもできないほど、リンネットを閉口させることになりました。あのひと、すっかりいらいらしてしまって。私の方はうれしくなりました。向うじゃどうしようもないんですからね。私はいつも愛想よく礼儀正しくしていますわ。しっぽをつかまれるような事は一言も申しませんし。二人にとっては何もかもめちゃくちゃになりそうというわけ」
ジャクリーンの澄んだ笑い声があたりにひびいた。
ポワロは彼女の腕をつかんだ。
「静かに! さあ、静かに」
「それで?」
ポワロを見てジャクリーンは聞きかえした。その笑いにはつっかかるようなところがあった。
「お嬢さん、後生だから今やっていることを止めて下さい」
「リンネットをそっとしておけとおっしゃるの?」
「それより深い意味があるのです。悪に心を開くなということです」
ジャクリーンは口を開けて、目に当惑の色を浮かべた。
ポワロはまじめにつづけた。
「というのは、そんな事をすると悪いことが生じるから。ほんとに悪いことがおこりますよ。悪があなたの中に巣食うことになって、やがてはそれを追い出せなくなりますよ」
ジャクリーンはポワロをじっと見た。不安におののき、動揺しているような目付だった。
「私にはわからないわ」
それからジャクリーンは敢然《かんぜん》と叫んだ。
「私に止めさせようたってむりよ」
「そうです。止めさせるわけには行かない」
ポワロの声は悲し気であった。
「たとえ私が彼女を殺すとしても、あなたは私を止めることはできません」
「あなたがその代償を払うつもりでいられるとしたら、わたしにはどうしようもない」
ジャクリーン・ド・ベルフォトは笑って言った。
「私、死ぬことなんかおそれていません。どうせ生きていたって仕方がないんですもの。人を傷つけた上、その持っている物を全部とりあげてしまった相手でも、殺すのはとても悪いと思っていらっしゃるようね」
ポワロはゆっくりと言った。
「その通りです。人を殺すということは許しがたい罪だと思っています」
ジャクリーンはまたしても笑った。
「それじゃ、あなたは私が今やっている復讐計画を認めて下さるべきですわ。だって|その計画が行われている間は《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、私ピストルを使いませんから。でも、時どきこわくなることがあるんですよ、あのひとを傷つけてやりたくなって――ナイフで刺して、私のちいちゃなピストルをあの女の頭につきつけ、指で押しさえすればいい、なんて考えてしまうのです。あら!」
その叫びはポワロを驚かした。
「どうかしましたか」
ジャクリーンはふり向いて、暗がりをのぞいていた。
「誰かがそこに立っていたんです。でも、もういなくなってしまったわ」
エルキュール・ポワロは油断なくあたりを見まわした。人影はないようだった。
「お嬢さん、わたし達二人の他には誰もいないようですよ」
ポワロは立ち上った。
「とにかく、わたしは用事は全部しゃべりました。おやすみなさい」
ジャクリーンも立ち上った。そしてまるで哀願するように言った。
「あなたが私におっしゃった事、お引受けできないのわかって下さいますわね」
ポワロは首をふった。
「いや、あなたはできるはずです。何事にも時というものがあります。御友人のリンネットさんにも、手を引こうと思えば引く事のできる時機があったのに、それを逃してしまった。一度それを逃してしまうと、自分のやっている事にしばられてしまい、二度とチャンスは来ないものです」
「二度とチャンスは来ない……」
とジャクリーン・ド・ベルフォトは言って、しばらく考えていたが、頭を昂然とあげた。
「お休みなさい、ポワロさん」
ポワロは悲し気に頭をふって、ホテルの建物までジャクリーンの後からついて行った。
第五章
その翌朝、エルキュール・ポワロが町の方へ出かけようとしていると、サイモン・ドイルがやって来た。
「お早うございます、ポワロさん」
「お早うございます、ドイルさん」
「町の方へお出かけですか。お供してもよろしいでしょうか」
「どうぞ」
二人は並んで歩いた。門を通り抜け、遊園地の涼しい木陰に入ると、サイモンは口からパイプを離して言った。
「昨夜、家内があなたとお話したそうですね」
「ええ、お話しました」
サイモン・ドイルは少々にがい顔をしていた。彼は思う事をすらすらのべたり、はっきり言い表わしたりすることの不得手な、活動家タイプの男だった。
「一つだけ喜んでいる事があるんです。あの問題については、僕たちは全く手も足も出ないのだということを、あれにわからせて下さったので」
「法律的な解決策は全くありませんな」
「おっしゃる通りです。家内にはその事がのみこめなかったようでして」
サイモンはかすかな笑いを浮かべた。
「あれは面倒な事は何に限らず警察へ自動的に持ちこまれるもの、と思いこむように育てられてきましたのでね」
「そういけば楽なのですがね」
とポワロは言った。
しばらくすると突然、サイモンがしゃべり出した。話しているうちに、その顔はすっかり赤くなった。
「家内がこんな目に会うとはけしからん話です。あれは何もしてやしないんだ。僕が紳士らしくない振舞いをしたと言いたがる人があるんなら、いくら言ってくれても結構だ。それは事実なんだから。しかし、一切を家内のせいにされてはかなわない。あれにはかかわりない事なんだから」
ポワロは真顔で頭を下げただけで、何とも言わなかった。
「あのう、ジャッキイ、いや、ベルフォトさんにお話しになられたでしょうか」
「はあ、お話しました」
「うまく理屈をのみこませられたでしょうか」
「どうですかな」
サイモンはいら立たし気にしゃべり出した。
「自分がばかな事をしているのが、あの女にはわからないんでしょうか。ちゃんとした女だったら、あんなまねはしないという事に気がつかないのかなあ。いったい、誇りとか自尊心がないのかしら」
ポワロは肩をすくめた。
「あのひとの持っているのは、傷害の観念だけ、とでも言うところですかな」
「そうなんだ。全くいまいましいったらありゃしない。ちゃんとした娘のやる事じゃない。僕が悪かったことは認めますよ。ひどい仕打ちをしてしまったんだから。僕にうんざりしてしまって、二度と僕の顔を見たくないというんなら話がわかりますよ。しかし、人を追いかけ回すなんて、普通の女のする事じゃない。いい物笑いだ! いったい、そんな事をして何の得があるんだろう」
「まあ、仕返しでしょうな」
「あほらしい! 何か芝居がかったこと、たとえば僕をねらい撃ちでもするというんなら、まだしも話がわかるけど」
「その方があのひとらしいというわけですか」
「そうなんですよ。短気でカッとなるたちですからね。ひどく怒ったとなると、何をしでかすかわかったもんじゃない。しかし、このスパイ行為は……」
サイモンは首を振った。
「わけがわからないというんでしょう。考えていますよ」
ドイルはポワロを見つめた。
「あなたにはわからないんだ。あんな事をして、リンネットの神経をめちゃくちゃにしようというんですよ」
「あなたの神経もでしょう?」
サイモンはハッとびっくりしたように、ポワロを見た。
「僕ですか、僕はあのいたずら娘の首をねじってやりたいくらいですよ」
「もう、もとの気持は全然残っていないわけですか」
「ポワロさん、何と説明したらいいかなあ。太陽の前の月みたいなものなんですよ。その存在がわからなくなってしまうんです。リンネットに会ってから、ジャッキイは消えてしまいました」
「ほう、妙だな」
「え?」
「あなたのたとえが面白かったのでね、何でもないんです」
サイモンはまた、顔を赤らめて言った。
「ジャッキイは僕が金のためにリンネットと結婚したと言ったでしょう。しかし、それはとんでもない嘘だ。僕は誰とだって、金のために結婚するような事はしやしない。ジャッキイみたいなほれ方をされると、男は持て余すものだっていうことが、あの女にはわからないんですよ」
「え?」
ポワロはキッと目をあけた。
サイモンは、口ごもった。
「こんな……こんな事をいうと下品なようですが、ジャッキイは僕にほれ過ぎていたんですよ」
「ほれる人とほれられる人と」
ポワロはフランス語でつぶやいた。
「え? 何とおっしゃいました? 男というものは、相手の愛情の方が深いと思いたくありませんからねえ」
サイモンの声は興奮してきた。
「自分が完全に人のものになってしまったと思いたくないんですね。あの女の、自分のものだという態度が気にくわないんだ。この男は私のものでござい! っていうのがね。全くやりきれませんからね。誰だってがまんできませんよ。逃げだして自由な身体になりたくなりますよ。女を自分のものにはしたくとも、その逆はまっぴらというわけです」
サイモンは話を止めて、かすかにふるえる指先でタバコの火をつけた。
ポワロが言った。
「すると、あなたがジャクリーンに対して抱いていたのは、そういう気持なんですね」
「え?」
サイモンはじっと見つめてから言った。
「ええ、まあそうです。むろん、向うじゃそれに気がつきませんでしたけど、こっちからはそんなこととても言えませんしね。それで落ちつかない気持でいた時にリンネットに会って、すっかり夢中になってしまったんです。それまであんなすばらしいことは見たことがありませんでしたからね。全く凄かったんですよ。みんなが彼女にペコペコしているのに、その彼女が僕みたいな気のきかない貧乏人をえらび出したんですからね」
その声は子供っぽいおそれとおどろきにはずんでいた。
「なるほど、わかりました」
ポワロは考えるようにうなずいた。
「ジャッキイはどうしてそれを男らしく甘受することができないんだろう」
サイモンは腹立たし気に言った。
かすかな笑いがポワロの上唇に浮かんだ。
「だって、ドイルさん、第一、あのひとは男じゃありませんからね」
「いや、いや、僕の言うのは堂々とやれって事なんです。やはり、苦い薬も自分にまわってくれば飲まなければなりませんからね。罪は僕にあります。それは認めます。しかし、そこですよ、問題は! 女に愛情を覚えなくなってから結婚するとしたら、そりゃ酔狂というものです。ジャッキイの正体がわかり、しでかしそうなことを考えると、逃げたのは運がよかったと思っているんです」
「しでかしそうな事か! ドイルさん、そのしでかしそうな事って、見当がつきますか」
「いいえ。何の事をおっしゃってるんですか」
「あのひとはピストルを持っていますよ」
「今それを使うことはないでしょう。使うならもっと前だったでしょうね。もうその段階は通りこしていると思います。今は腹いせに意地悪をしているだけでしょう」
「そうかも知れないが」
ポワロは信じかねるように言った。
「僕が心配しているのはリンネットの事なんです」
サイモンは言わでもの事を言った。
「そりゃそうでしょうとも」
「ジャッキイが芝居もどきにピストルをふり回したって、ちっともこわい事なんかないけれど、あとをつけねらわれるのにはリンネットが全く参っているんです。ある計画をねったのですが、それをおきかせしたら、何かいいお知恵を拝借できるかも知れませんね。先ず第一に、僕たちはここに十日間、滞在すると公表しています。しかし、明日、シェラールからワディ・ハルファ行きのカーナック号が出帆するので、変名でその船室を予約しようというのです。明日はファイリーへ遠足に行きますから、リンネットの女中が荷物を運び出します。そして、僕たちはシェラールでカーナック号に乗りこみます。僕たちの帰って来ないことにジャッキイが気づくころには、もう手おくれというわけです。僕たちはずっと先の方へ行ってしまっているでしょう。ジャッキイは、僕たちが彼女の目をかすめてカイロへ舞い戻ったと思うでしょう。実のところ、給仕にいくらかつかませてそう言わせようと思えば、そうもできます。旅行案内所をたずねまわったところで何の役にも立たないでしょう。僕たちの名前は表面に出ないようになっていますから。この計画はどうお思いになりますか」
「なるほどうまく考えましたね。ところで、もしジャッキイがここであなた方の帰りを待っていたら、どうします」
「僕たちは戻って来ないかもしれません。ハルトゥームへ行き、それから飛行機でケニヤまで飛ぶんです。あのひとだって僕たちを何処までも追いまわすわけにも行かないでしょう」
「そうです、経済的な事情から出来なくなる時がきっと来るでしょう。金は大して持っていないようだから」
サイモンは感心したようにポワロを見た。
「なる程ね。そいつは思いつきませんでしたよ。ジャッキイはほんとに困っているんだ」
「でも、よくこんな所まで追いかけて来ましたね」
「そりゃ、多少の金は入りますよ。年に二百ドル足らずだったと思いますがね。僕の考えるところじゃ、僕たちを追いかけるために、元金に手をつけてしまったのに違いありません」
「それじゃ、あるだけ使ってしまって、ピーピーになる時が来ますね」
「そうです」
サイモンは落着かない様子で、身体を動かした。考えると不安になるらしい。ポワロは注意深く見守った。
「いや、愉快な考えじゃないな」
それを聞くと、サイモンはむっとしたようであった。
「僕としてはどうしようもありませんからね。ところで、僕の計画はどうお思いになりますか」
「そうですね。うまく行くでしょう。しかし、そいつは退却《ヽヽ》ですね」
サイモンの顔が赤くなった。
「僕たちが逃げ出すというのですか。それはそうですが、リンネットが……」
ポワロはサイモンの様子を見てうなずいた。
「まあ、それが一番いい方法かも知れません。しかし、忘れてはいけませんよ。ベルフォトさんは頭がいいことを」
「自分の立場を守るために、いつかは黒白をはっきりさせなければならないと思います。あの態度は分別がないですよ」
「分別か!」
「女が物をわきまえた人間らしくふるまってはならない、という理屈はありませんからね」
「そんなのは別に珍しい事じゃありません。その方がもっとずっと不穏当ですよ。ところで、わたしもカーナック号に乗船します。旅程の一部なものですから」
それを聞くと、サイモンは当惑したように口ごもった。
「そ、それはあのー、僕たちのためではないのでしょうね。そうだと困りますので」
「いや、そうではありません。ロンドンを発つ前にすっかり手はずを整えたんです。わたしはいつもずっと先まで計画を立てることにしております」
「気の向くままに転々と歩くという事はなさらないのですか。その方が面白いんじゃないでしょうか」
「そうかも知れません。しかし、世間で一かどになるためには、万事、前もって手を打たなければなりませんからね」
サイモンは笑った。
「そいつは気の利いた殺し屋のやり方ですな」
「さよう。とは言うものの、わたしの知る限りでは、最もはなばなしくて、解決の難しかった犯罪は、とっさの勢いで行われたものであることを認めなければなりませんがね」
サイモンは子供っぽく言った。
「カーナック号の船内でのお仕事を少しきかせて下さいよ」
「いや、いや、それは何と言うかな、専門の事になりますから」
「そりゃそうですが、あなたのような御専門はスリルがありますよ。アラトン夫人も同意見で、一度あなたにくわしくききたがっているんです」
「アラトン夫人というと、あの親思いの息子さんを持った美しい、白髪の婦人ですか」
「そうです。あの婦人もカーナック号に乗船するでしょう」
「あなた方のことを知っているんですか」
「むろん、知りません。誰も知ってやしません。僕は人を当にしない方がいいという主義でやってきましたからね」
「りっぱなお考えです。わたしもその主義ですがね。ところで、あなた方一行のもう一人の人、背の高い白髪の紳士は……」
「ペニングトンですか」
「そうです。あの人も同行するのですか」
「新婚旅行らしくないと思われるんですね。ペニングトンはリンネットの受託者なんですが、カイロでばったり出会ってしまいましてね」
「なる程。一つ尋ねさせて下さい。奥様は成年に達していられますね」
「実際にはまだ二十歳にはなっていません。しかし、僕と結婚するのには、誰の許可も受ける必要はありませんでした。だから、ペニングトンにとって、僕たちの結婚は寝耳に水でした。僕たちの結婚のしらせが着く二日前に、カーマニック号でニューヨークを発っていたので、あの男は何も知らなかったのです」
「カーマニック号か……」
ポワロはつぶやいた。
「カイロで出会った時に、あの男の驚いたことったらありませんでした」
「全く偶然という奴ですね」
「そうなんです。きいてみると、あの男もナイル河上りをするというので、自然、行を共にすることになりました。結局、そうするより他なかったわけですが、それがある意味では、よかったと言えましょう」
サイモンの顔にはまた、困惑が浮かんだ。
「というのは、ジャッキイが何処に姿を現わすかもしれないというので、リンネットがすっかり興奮していますからね。僕たち二人きりでいると、その話ばかりになりますが、ペニングトンがいるとたすかります。他の事を話題にしなければなりませんから」
「奥様はペニングトンさんには事を打ちあけておられないのですか」
「いいえ。他の人には何の関係もない事ですからね。それに、ナイル河上りに出発した時には、面倒もこれで終りと思ったものですから」
「ところが、まだ終らなかったわけですね。それどころか、なかなか終りゃしませんよ」
「がっかりさせないで下さいよ」
ポワロは、じれったいような気持でサイモンを見た。アングロ・サクソンの男というのは、競技以外の事には本気にならないんだな。大人にならないのさ、とポワロは心の中で思った。
リンネット・ドイルにしろ、ジャクリーン・ド・ベルフォトにしろ、本気で考えているのに、サイモンの態度には男のあせりと困惑しか見られないのだ。そこで、ポワロは言った。
「差出がましい事を伺いますが、新婚旅行にエジプトをえらんだのは、あなた御自身の考えからですか」
サイモンは顔を赤らめた。
「むろん、そうじゃありません。実のところ、僕は何処か別の所へ行きたかったのですが、リンネットがぜひというものですから、それで……」
サイモンは途中で言葉を切ってしまった。
「なる程」
と言って、ポワロはリンネットがぜひと言い張れば、何事もその言う通りになるのだなと思った。そして、心の中で考えた。
「さて、これで三人からそれぞれ説明をきいたわけだ。リンネット・ドイル、ジャクリーン・ド・ベルフォト、サイモン・ドイル。三人のうち、誰の話が一番、真相に近いのだろうか」
第六章
次の朝十一時ごろ、サイモンとリンネットはファイリーへ向けて出発した。二人が絵のような帆船に乗って出かけるのを、ジャクリーン・ド・ベルフォトはホテルのバルコニーから眺めていた。しかし、一台の車がホテルの正面から出て行くのには気がつかなかった。荷物をつんだその事は、気どった召使をのせて、右へ曲ると、シェラールへ向った。
エルキュール・ポワロは、昼食前の二時間をホテルのまん前にあるエリファンタインという島で過すことにした。
船着場におりて行くと、二人の男が一|艘《そう》のホテルの船に乗りこもうとしていたので、ポワロもそれに加わった。その男たちが見知らぬ者同士であることは一目でわかった。若いほうの男は前の日に汽車でやってきたのだった。平べったい顔、けんか好きらしい顎をもった背の高いその男は、よごれ切った鼠色のズボンをはき、ここの気候には不似合いな衿《えり》のつまったジャンパーを着ていた。もう一人の方は、ややずんぐりした中年男で、さっそくポワロとおしゃべりをはじめたが、その英語はでたらめながら、慣れたものだった。若い方の男はぜんぜん、会話の仲間入りをしなかった。それどころか、二人をにらみつけるようにしたかと思うと、わざとらしく背を向けて、黒人の水夫が手で帆をあやつりながら、足ですばやく舵をとるのを、面白そうに眺めはじめた。水の上はいかにもおだやかだった。大きなすべすべした黒い岩が次々とあとになり、静かな風が一同の顔をなでるのだった。船はたちまち、島に着き、ポワロとおしゃべりな男は上陸すると真直ぐ美術館へ向った。その男が軽く身をこごめながらポワロに渡した名刺には「考古学者、ギ・ド・リケッティ」と記されていた。イタリア人だった。ポワロも負けじとばかりに一礼して、自分の名刺をとり出した。一応の儀礼がすむと、二人はつれだって美術館へ入った。イタリア人はさかんに博識をひけらかした。もうこの頃は、二人はフランス語でやりとりしていた。
フランネルのズボンをはいた青年はあくびを連発しながら、美術館のまわりをぼんやりとぶらついていたが、表の方へ出て行ってしまった。ポワロたちもしまいには表へ出た。イタリア人はしきりと遺跡を調べていたけれど、ポワロは川の近くの岩の上に緑色の日傘を見かけると、これ幸いとそちらへ足を向けた。
アラトン夫人はスケッチブックをかたわらに、本を膝にのせて、大きな岩の上に腰を下していた。ポワロがていねいに帽子を脱ぐと、夫人はさっそく、しゃべりだした。
「お早うございます。とてもこの子供たちを追っぱらえそうもありませんわ」
一かたまりの小さな黒い人たちが夫人のまわりに群り、申し合わせたように歯をむきだして、気どった笑い方をしていた。そして、時どきもらうのが当然とばかりに「金おくれ」と言いながら、拝むような格好に手を差し出すのだった。
「この人たち、倦きるだろうと思ったんですけどね。もう二時間以上もあたしを見ているんですよ。少しずつ側へよって来るものですから、『シッ』ってどなって、日傘をふりかざしてやるんですの。そうするとちょっと離れるんですけれど、また、じろじろと人を見るんです。あの目付、ほんとに嫌ですわ。それから鼻も。子供って、さっぱりとしてお行儀がよくないと好きになれそうもありませんわ」
夫人は悲しそうに言った。ポワロは侠気を出して、子供たちを追い散らしてやろうとしたが、うまく行かなかった。一度は散っても、また集まって近づいて来るのだ。
「エジプトがもう少し静かだったら、もっと好きになれるのに。どこへ行っても一人きりでいることはできないんですからね。お金をくれとか、ろばはいかが、首飾りはいかが、土人部落へ行きませんか、鴨撃ちは? と言った具合に、誰かが絶えず人を悩ませるんですもの」
「全く困りものですな」
ポワロは岩の上に注意深くハンケチをしいて、腰を下した。
「けさは御令息が御一緒ではないのですか」
「ええ、出発前に出さなければならない手紙があると申しましてね。わたしたち、第二の滝まで行ってみることになっているんですの」
「わたしもですよ」
「まあ、よかった。あなたにお目にかかれてとても喜んでおりますのよ。マジョルカにおりました時、リーチさんという方があなたについてすばらしい話をきかせてくれましたの。その方、泳いでいるうちにルビーの指輪をなくしてしまって、ポワロさんがいたら探してくれるのにって嘆いていましたわ」
「そうでしょうとも。しかし、わたしは水にとびこみはしませんよ」
二人は笑った。それから、夫人は言った。
「けさ、あなたがサイモン・ドイルさんと一緒に通りを歩いて行かれるのを室から見ておりましたのよ。あの方のことどうお思いになります? みんな、大騒ぎなんですの」
「そうですか」
「ええ。リンネット・リッジウェイと結婚したのは全く意外でしたからね。ウィンドルシャム卿と結婚するものとばかり思われていたのに、いきなり、誰も名前をきいたこともないドイルさんと婚約したんですもの」
「リンネットの事はよく御存じなのですか」
「いいえ。でも、いとこのジョアンナ・サウスウッドがあの人の親友なもんですから」
「その名前なら新聞で見かけたことがありますよ。よく新聞に出る女性ですね」
「宣伝がうまいんですのよ」
アラトン夫人は吐き出すように言った。
「おきらいなんですか」
「はしたない事を口に出してしまいましたわ。何しろわたしは旧式でしょう。だから、あの娘は好かないんです。でも、ティムとあの娘は大の仲よしなんですよ」
「なる程」
アラトン夫人はポワロを素早く一瞥すると、話題をかえた。
「ここでは若い人はめったに見かけませんね。栗色の髪のかわいらしい娘さんがいますね。ターバンをかぶった、おそろしい母親と一緒にいる、あの娘ぐらいじゃないかしら。あなたはずいぶん、話をしていらっしゃったようにお見受けしましたけど、わたし、あの娘さんに興味を持っていますよ」
「どういうわけで?」
「気の毒な気がしましてね。若い時には感じ易いと苦しむものですわ。あの娘さん、悩みがあるようですね」
「そうなんです。かわいそうに、幸せとは言えません」
「ティムとわたしはあの娘さんのことを『気難しやさん』と呼んでいるんですよ。一、二度、話しかけようとしてみたんですけど、とり合ってくれませんでしたわ。でも、あのひとも今度の河上りに行くようですから、少しはおつき合いをしなければならないでしょうね」
「そんなことになるかもしれませんね」
「わたしは本当に人づき合いのいい方なんですよ。人間にとても興味があるものですから。色々のタイプがあって面白いんです」
ちょっと息を入れてから、また、夫人は話をつづけた。
「ベルフォトという色の浅黒い娘さんがドイルさんの婚約者だったのだって、ティムがきかせてくれましたけど、あんな風に出会うのはばつが悪いものでしょうね」
「そうですよ、全く」
「おかしな話ですけど、あの娘さんを見たらこわくなりましたわ。あんまり思いつめた顔をしているんですもの」
「むりもありませんよ。はげしい感情というものはこわいですからね」
「ポワロさん、あなたも人間に興味をお持ちになります? それとも、犯罪の素質のある人だけに限りますか」
「その素質のない人なんて、ざらにありゃしませんよ」
アラトン夫人は、少しばかりドキリとしたようだった。
「それ本当ですの」
「特別な誘因のあった場合の事ですがね」
「それは人によって違うわけですね」
「むろん、そうです」
アラトン夫人は口もとにちょっと笑いを浮かべて言った。
「わたしでも?」
「母親というものは、子供が危いとなると、とりわけ残酷になるものですよ」
「そうでしょうね。おっしゃる通りですわ」
一、二分、間をおいて、夫人は更に続けた。
「このホテルにいる人の一人一人に向きそうな犯罪の動機を考えてみてるのですが、面白いですよ。たとえば、サイモン・ドイルには?」
「至って単純な犯罪でしょうね。目的に向って単刀直入に進むというような。たくらみなど少しもなくてね」
「すぐに発覚してしまうというわけですね」
「そうです。あの人には巧妙な事などできませんよ」
「リンネットは?」
「『不思議の国のアリス』物語に出てくる女王というところかな」
「その通りですわ。王の神髄ですね。ちょっぴり、ナボテのぶどう園を思わせますわ。あの危険な娘。ジャクリーン・ド・ベルフォトは殺人がやれるかしら」
ポワロはややためらってから言った。
「そうですね。やれると思いますよ」
「確信はないのでしょう?」
「ええ。どうも私にはあの娘がわからない」
「ペニングトンさんはやれそうもないように思えますけど、どうでしょう? かさかさして、気力がなさそうに見えますね」
「しかし、おそらく、自衛本能は強いですよ」
「同感ですわ。ところで、ターバンをかぶったオッタボーン夫人はどうでしょう?」
「虚栄心というものがありますよ」
「殺人の動機としてですか」
アラトン夫人は信じかねる風だった。
「ごくつまらない事が殺人の動機になる場合もありますからね」
「一番ありふれた動機は何ですか」
「一番多いのは金銭です。それから、復讐、愛情、恐怖、それに憎しみ、恩恵……」
「まさか」
「いや、ほんとですよ。私の知っている例では、仮にAとしますが、そのAがCの為になるというだけの事でBに片づけられました。政治的な殺人はこの部類に入ることがよくあります。文明のためにならぬと思われた人がそのために除かれてしまうんですね。生死は神がつかさどるものだということを、その人たちは忘れてしまうのです」
「そうおっしゃるのを伺って安心しましたわ。でも、神様は道具をおえらびになります」
「そういう考え方をなさるのは危険ですよ」
「こんなお話をしていると、生き残る人なんかなくなりそうな気がしますわ」
アラトン夫人は前よりも明るい調子で言ってから立ち上った。
「もう帰らなくちゃ。お昼がすんだらすぐ出発しなければなりませんもの」
船着場へ行ってみると、ボロジャンパー姿の青年が船中の席を取ろうとしているところだった。イタリア人はまだ待っていた。黒人の水夫が帆を張っていよいよ船が出ると、ポワロは青年に向って丁寧に話しかけた。
「エジプトではすばらしい物が見られますね」
青年は何だか嫌な臭いのするタバコをくゆらせていたが、それを口から離して、驚くばかりに上品な口調で、簡単にはっきりと言った。
「僕はうんざりですね」
アラトン夫人は鼻眼鏡をかけて、面白そうに青年を眺めていた。ポワロが聞いた。
「そうですか。どうしてでしょうね」
「ピラミッドの事を考えてごらんなさい。無用の長物ですよ。横暴でうぬぼれの強い王の利己心を満足させるために建てられたものです。あれを作るためにさんざん汗を流し、死んで行った多くの人の事を考えてごらんなさい。その人たちの苦しみ、悩みを考えるとたまらないんです」
アラトン夫人が明るい口調で言葉をはさんだ。
「あなたはピラミッドもパルテノンも見事なお墓や寺院もいらないとおっしゃるのね。それより人びとが一日に三度の食事をし、自分の家で死んだということがわかれば、十分、満足なのでしょう」
青年は苦い顔を夫人の方へむけた。
「僕は石より人間の方が重要だと思うんです」
「しかし、人間は石ほど長持ちしないよ」
とポワロが言った。
「僕は芸術品なんて物より栄養のいい労働者を見たいんだ。大事なのは過去じゃなくて、未来なんだ」
この言葉はリケッティ氏にとっては我慢がならなかった。そこで、何やら難しい事を滔々《とうとう》とまくしたてた。青年は資本主義について自分が考えていることをみんなに述べて、リケッティ氏への答弁とした。はげしい毒舌をふるっての長広舌が終るころには、一同はホテルの船着場へ着いていた。
アラトン夫人が元気に「さあ、さあ」と言いながら岸へあがるのを、青年は憎しみに満ちた目付で見送っていた。
ホテルの広場で、乗馬服姿のジャクリーンはポワロを見かけると、皮肉らしく、ちょっとお辞儀をした。
「ろばに乗るところなんです。土民の部落がいいとお思いになる?」
「今日はそっちの方へお出かけですか。なかなか景色がいいですよ。ただ、この土地の骨董品はあまり買いこまぬ事ですな」
「ヨーロッパから送られてきた物でしょう。あたしはそんな物にだまされやしませんわ」
軽く頭をさげて、ジャクリーンはまぶしいような日向へ出て行った。
ポワロは荷物をすっかりつめた。と言っても、所持品はいつもきちんと整頓してあるので、至って簡単だ。それから、食堂で早目の昼食をすませると、ホテルのバスに乗りこんだ。滝見物の客はバスで駅まで行き、そこからカイロ、シェラール間を走る急行に乗る予定だった。汽車で十分の距離である。
客はというと、アラトン親子、ポワロ、よごれたズボンの青年、及びイタリア人である。オッタボーン母娘はダムとファイリーに出かけていて、シェラールで一行に加わるはずであった。汽車は二十分ばかりおくれたけれども、いよいよ到着すると、例によってワアワアと大変な騒ぎである。汽車の荷物を運び出すポーターと、運び入れるポーターがぶつかり合うからだ。
ポワロがやっと、息を切らしながら気がついてみると、仕切りのある座席におさまっており、自分とアラトン親子の荷物の他に、誰の物やら見当もつかぬ荷物が運びこまれていた。一方、ティムとその母親とは残りの荷物と一緒に他の席にいた。ポワロの側の席にはしわだらけの老婦人が腰かけていたが、白の固い衿をつけ、ダイヤモンドをいくつも身につけたその婦人は、いかにも世間の人を軽蔑しているような顔をしていた。
ポワロに見くだしたような一瞥《いちべつ》をくれると、老婦人はアメリカの雑誌をひろげて、そのかげに顔をかくした。その向いに腰をかけているのは、あまり格好のよくない大柄な女性で、年のころは三十前というところだ、犬の目を思わせる茶色の目をして、髪はぼさぼさだ。御機嫌をとろうと懸命な様子だが、老婦人は時おり雑誌ごしにがみがみと用事を言いつけていた。
「コーネリヤ、毛布をまとめるんだよ。着いたら、わたしの化粧カバンに気をつけておくれ。絶対に他の人に持たせてはいけないよ。紙切りナイフを忘れないようにね」
汽車はあっという間に着いて、十分後にはみんなカーナック号の待っている桟橋までやってきた。オッタボーン母娘はすでに乗船していた。
カーナック号は、「第一の滝」行のパピラス号やロータス号に比べると小型であった。大型ではアスワン・ダムの水門が通れないからだ。船客は乗りこむとそれぞれの船室へ案内された。船は満員でなかったので、ほとんどの人が遊歩甲板《プロムナード・デッキ》に面した船室がとれた。そのデッキの前面は総ガラス張りの展望室になっていて、船客はそこで河が目の前に展開して行くのを眺められるようになっていた。下のデッキは喫煙室と休憩室になっており、更にその下のデッキには食堂があった。
自分の荷物が船室に運びこまれるのを見とどけてから、ポワロは再びデッキに出て出帆の模様を見ることにした。手すりから身を乗り出すようにしているロザリー・オッタボーンを見つけると声をかけた。
「いよいよヌビヤへ入るんですね。あなたは嬉しそうですね」
「ええ、いよいよ色々のものからほんとに逃れて行くような気がするものですから」
とロザリーは身ぶりを入れて言った。前面の水にも、水際まで迫っている無数の岩、草木一本生えていないそれらの岩にも、荒涼たる趣があった。貯水池の水を堰きとめた結果、見すてられ、くずれ落ちた家屋の跡がそこかしこに残っている。全体が物悲しく、不気味とも思われるような光景であった。
「人びとから逃れて」
とロザリーはつけ加えた。
「仲間の者は除いてでしょう」
「この国にはわたしを不快にさせるものがあるんです。心の中で煮えたぎっているものをすっかり表面にさらけ出させてしまうようなものが。何もかもあんまり不公平で、不正ですもの」
「そうでしょうか。物的証拠だけでは判断できませんからね」
「よその母親を見て下さい。それから、わたしの母を。母にとって、性以外の神はなく、サロメ・オッタボーンはその予言者なのです」
ロザリーはこう言ってから、つけ加えた。
「これは言わない方がよかったようだわ」
「このわたしに言うのはかまわないじゃありませんか。わたしは色々の事を耳にする男です。心の中が煮えたぎるというんなら、ジャムみたいに滓《かす》を表面に浮かせるようにして、それをスプーンですくい取ってしまえばいい。ほら、こんな具合に」
ポワロは河へ何かをすてる仕草をしてみせた。
「ほら、なくなってしまった」
「まあ、変った方ね」
ロザリーの気難しそうな口もとがほころびた。と思うと突然、固くなって叫んだ。
「あら、ドイル夫人と御主人だわ。あの人たちがこの船に乗ろうとは思いがけなかったわ」
リンネットは船室から姿をあらわして、甲板を中ごろまで行ったところだった。サイモンはあとにつづいた。リンネットのはればれと安心しきった顔はポワロを驚かした。尊大と思える程に幸福に満ちみちていたからだ。サイモンも人が変ったように破顔一笑しているさまは嬉しそうな小学生さながらだ。手すりに身をのり出して、サイモンは言った。
「すばらしいね。この旅に期待をかけていたんだ。君だってそうだろう。まるで、エジプトの奥地へ出かけたような気分だ」
「そうね。ずっと荒涼としてくるみたい」
リンネットがサイモンの腕に手をかけると、サイモンは自分の方へ引きよせた。
「さあ、船が出たよ、リン」
船は突堤をはなれはじめていた。第二の滝まで往復七日の旅へ出発したのである。この時、二人の後で明るい金属的な笑い声がひびいた。リンネットがふりむくと、そこに立っているのは誰あろう、ジャクリーン・ド・ベルフォトだった。しかも愉快そうな顔をしている。
「今日は、リンネット。あなたがここにいらっしゃるとは思わなかったわ。あと十日アスワンにいるって言っていらっしゃったでしょう。ほんとにびっくりしたわ」
「あなたは、――あなたは……」
リンネットは舌がもつれてうまく言えなかった。蒼白の顔に作り笑いを浮かべて、やっと言った。
「わたくしもあなたにお会いしようとは思わなかったわ」
「そうですか」
ジャクリーンは反対側の舵の方へ歩き去った。リンネットは夫の腕にしっかりとつかまっていた。
「サイモン……サイモン!」
サイモンの顔からは嬉しそうな様子がすっかり消え、けわしい形相になっていた。自制しようとつとめても、手をおのずとにぎりしめてしまうのだった。
二人は少し遠ざかった。じっとしているポワロの耳には切れぎれの言葉がとびこんできた。
「かえる……できない……できる…」
ドイルの打ちのめされたような声が、やや高くきこえた。
「いつまでも逃げまわることはできないよ。こうなってはあとへは引けない」
それから何時間か経って暗くなりはじめる頃、ポワロはガラス張りの展望室に立ちつくして、まっすぐ前方に目を注いでいた。船はせまい渓谷を通りすぎようとしているところで、両岸からは岩が深く流れの早い河に向って、おそろしいほどせまっていた。船はもうヌビヤに入っているのだ。
人の気配がしたかと思うと、リンネット・ドイルがポワロのかたわらに立っていた。無意識に指をくんだり、ほぐしたりしているリンネットの様子には、これまでとは全く違い、途方にくれた子供のようなところがあった。
「ポワロさん、あたし、こわいんです。何もかもおそろしくなりました。こんなことはじめてですわ。この荒けずりの岩、おそろしいほど荒涼とした風景、あたしたち、何処へ行くんでしょう、これから何がおこるんでしょう。あたし、ほんとにこわい。みんながあたしを憎んでいる。こんな気持になったことははじめてなんです。あたし、人に親切にし、人のために色々の事をやってきたのに、みんながあたしを憎んでいるんだわ。サイモンを除けば、まわりの人はみんな敵なんです。自分を憎んでいる人たちがいると思うと、とてもたまらないわ」
「いったい、何の事ですか」
「神経のせいだと思いますけど、まわりの物が何もかも不安なように思えて」
肩ごしにちらりとおびえたように一瞥すると、リンネットは突然言った。
「どういう結末になるんでしょうね。ここで|わな《ヽヽ》にかかってしまって逃げ出せないんだわ。先へ進む他仕方がない。あたしには今、自分の立場がわかりません」
リンネットがすべるように腰かけるのを、ポワロは真剣に見守っていた。その目にはあわれみのかげが浮かんだ。
「あたしたちがこの船に乗ることがどうしてあの人にわかったのでしょう。わかるはずはないのに」
ポワロは首をふって答えた。
「彼女は頭が働きますからね」
「あたし、あのひとから逃れられないような気がします」
「一つだけうまい方法があるんですがね。どうしてそれを思いつかなかったのかなあ。あなたにとっちゃお金は問題じゃないんですから、専用の屋形船を借り切りにすればよかったんですよ」
リンネットはあきらめたように首をふった。
「この事がわかっていればね、――でも、あたしたち、知らなかったんですもの。それにとてもだめでしたわ」
リンネットは突然、我慢できないように、怒りをぶちまけた。
「あたしの困っていることがあなたにはちっともおわかりにならないのよ。サイモンに気をつかわなければならないんです。あの人、お金の事にはとてもピリピリしているものですから。あたしがお金をたくさん持っている事を気にするんです。あの人、スペインのつまらない所へ行こうと言ったんですのよ。新婚旅行の費用は全部、自分で持つつもりだったんですわ。まるで大事件みたいに。男ってばかですわ。あの人、楽な暮しに慣れなくちゃいけないんですのに。屋形船の事を言っただけでも、無茶な費用だって、あの人、カッとしてしまって、だんだんに教えて行かなければなりませんわ」
リンネットは顔をあげて、腹立たしそうに唇をかんだ。うっかり、自分の悩みをしゃべらされてしまったと思ったように。
彼女は立ち上った。
「服を着かえなければなりませんので。つまらないおしゃべりをしてしまって、失礼いたしました」
第七章
あっさりした黒いレースの夜会服という、落ちついた中にも人目につく装いで、アラトン夫人は食堂へ下りて行った。ちょうど、その入口で息子のティムが追いついた。
「すみません。おくれるかと思いましたよ」
「どこに坐ろうかしら」
室内には小さなテーブルがあちこちに置いてあった。夫人は、席の割りふりに忙しい給仕頭が自分達の席を見つけてくれるまで、じっとしていた。
「あのね、エルキュール・ポワロさんを同じテーブルにお誘いしたのよ」
「お母さん、ほんとですか」
ティムはびっくりしたように言った。
母親も、いつもは至って呑気な質なのにと思って、あっけにとられて息子の顔をじっと見つめた。
「まあ、いけないの?」
「いけませんとも。あいつ、とんでもない不作法者ですからね」
「そんな事を、お前。あたしはそう思いませんよ」
「とにかく、何だって下品な奴とつき合う必要があるんです? 小さな船に閉じこめられている時にそんな事をするとやりきれませんよ。朝も昼も夜も、顔をつき合せる事になりますからね」
「困ったわね」
アラトン夫人は当惑したように言った。
「お前が面白がるだろうと思ったんだけど。あの人は変った経験の持ち主だし、お前は探偵小説が好きだから」
「お母さんはそんなよけいな事を考えないといいのに。今更、逃げるわけには行かないでしょう?」
「ほんとに困ったわね」
「いいですよ。がまんするしかありませんね」
この時、給仕頭が近づいて、二人を席に案内した。その後をついてゆく夫人の顔には、困惑の色が浮かんだ。こんなに騒ぎたてるなんて、いつも呑気で気さくな息子にも似合わない。あの子が、英国人によくある外国人ぎらいというわけではないし。それどころか、コスモポリタンなのに。ああ、男ってわけがわからないわ。一番親しい、大事な人でも、全く思いもつかないような事をしたり、考えたりするんだから。こう考えて夫人はため息をもらした。
親子が席につくとやがて、エルキュール・ポワロが急ぎ足でそっと、食堂へやってきて、三つ目の椅子の背に手をかけて立った。
「お言葉に甘えてよろしいでしょうか」
「さあ、さあ、どうぞおかけになって」
「御親切にどうも」
ポワロが腰を下すとティムに素早い一瞥をくれたことと、ティムが気むずかしい表情をかくしきれなかったことを、アラトン夫人は見てとって、落ちつかない気持だった。
先ず、楽しい雰囲気をもり立てなくてはと、スープを飲んでから、夫人はそばにあった船客名簿を取りあげた。
「一人一人当ててみましょうよ。ちょっと、面白いものですよ」
と言いながら、夫人は名簿を読みはじめた。
「アラトン夫人、T・アラトン氏、これはわかり過ぎる程ね。ベルフォト嬢。オッタボーン母娘と同じテーブルにされたんだわ。あのひととロザリーはお互いに相手をどう思うかしら。その次は誰かな。ベスナー氏。ベスナー氏って誰だかわかる方あります?」
夫人は、男の人が四人すわっているテーブルの方をちらりと見た。
「あの頭を短く刈って、ひげを生やした肥った人にちがいないわ。ドイツ人だと思うけど。いかにもおいしそうにスープを飲んでいるようね」
何やら啜《すす》る音がこちらまで聞えてきた。
「バワーズ嬢というとどの人だろう。女の人は三、四人いるけれど、この人は後まわしにしましょう。ドイル氏夫妻。間違いなくこの旅行中の立役者というところね。あの奥さんは全く美人だし、それに何てすばらしい衣装を着ているんでしょう」
ティムは腰かけたまま、向きをかえた。ドイル夫妻とアンドルー・ペニングトン氏の席は隅の方だった。リンネットは白いドレスを着て、真珠をつけている。
「とても簡単な服みたいに見えるけどなあ。布を適当に切って、真中ごろに紐か何かつけただけじゃないか」
と、ティムは言った。
「そうなのよ。八十ポンドもする衣装も、男の人にかかってはたまらないわね」
「女って、なぜ着物にそんなに金をかけるんだろう。ばかばかしいと思うがな」
アラトン夫人は、更に船客の調査をつづけた。
「ファンソープ氏というのは、あのドイツ人と同じテーブルで、ぜんぜん、口をきかない静かな青年にちがいないわ。なかなかいい顔付をしているわ。用心深そうだけど、頭もよさそうね」
すると、ポワロも同意した。
「そうですね。あの青年は頭がいいですよ。しゃべらないけど、人の言う事をよくきいているし、観察もしています。目をよく働かせていますね。こんな所へ遊びに来るようなタイプじゃありませんな。ここで何をしているのかな」
「ファガソン氏というのは、きっと、あの反資本主義者ですよ。オッタボーン夫人とオッタボーン嬢。この二人のことは先刻承知として、ペニングトン氏というのは? またの名をアンドルーおじさん。容貌《ようぼう》のりっぱな人だと思うけど」
「ところで、お母さん」
「さっぱりとした、いい男前だと思うわ。きつそうな顎をしているわね。新聞に出て来ることのある、株屋街で思惑買いをする人というのは、多分、ああいう人よ。物凄い金持ちに違いないわ。次はエルキュール・ポワロ氏。せっかくの腕も遊んでいます。ねえ、ティム、何か犯罪をポワロさんに提供できないこと?」
この善意をこめた冗談も、息子にとっては迷惑としか思われなかったらしく、いやな顔をしたので、夫人はあわてて次の名前をつづけた。
「リケッティ氏。あのイタリア人の考古学者だわ。次はロブソン嬢。そして最後に、ヴァン・スカイラー嬢。この人のことは何でもなくわかるわ。ぶきりょうなアメリカの老婦人ですよ。この船の女王気どりでいるらしくて、貴族趣味をふりまわして、ある一定のやかましい水準に達しない人とは口もきかないつもりのようなんですよ。あきれた人でしょ。時代おくれなのね。あの人といっしょにいるのが、ミス・バワーズとミス・ロブソンにちがいないわ。眼鏡をかけた、やせ型の方は多分、秘書で、もう一人の若い方は貧しい親類関係の人らしいわ。黒人の奴隷のように扱われてもよろこんでいるみたいですもの。ロブソンが秘書で、バワーズが親類の娘だと思いますよ」
「ちがいますよ、お母さん」
ティムはニヤニヤして言った。急に機嫌を直したところだった。
「どうしてわかるの?」
「だってね、僕、夕飯前に休憩室にいたら、あのお婆さんがつれに向って、『ミス・バワーズはどこにいるの。すぐ呼んでおいで、コーネリヤ』って言っていましたよ。そしたら、コーネリヤが飼いならされた犬みたいに、ちょこちょこ走って行きましたっけ」
「ミス・ヴァン・スカイラーに話しかけてみなくちゃ」
と、アラトン夫人が考えていると、ティムがまた、ニヤリとした。
「鼻であしらわれますよ、お母さん」
「大丈夫ですよ。先ず、近くに腰かけて、小声で(但しよく通る声で)上品に、誰かれかまわず思い出すまま、貴族の称号をもった親類、知人の事をしゃべるのよ。お前のいとこにあたるグラスゴウ侯爵のことを何気なく口にすれば、多分、うまく行きますよ」
「お母さんたら図々しいんだなあ」
食後の出来ごとは、人間性を研究する者にとっては、面白い面がないでもなかった。
社会主義者の青年――推察通り、ファガソン氏であったが――は、喫煙室に退いて、上甲板の展望室に集まった船客たちに、白い目を向けていた。
オッタボーン夫人が、「ちょっと失礼。私、ここへ編物をおいといたと思うのですけど」と言っているのに、ミス・ヴァン・スカイラーは押し強くそのテーブルに身体を乗り出して、当然のように、一番すき間風の来ない、いい場所をとってしまった。
ミス・ヴァン・スカイラーの目ににらまれると、まるで催眠術にかかったように、ターバンを巻いた婦人は立ち上り、席をゆずることになった。ミス・ヴァン・スカイラーはどっかりと落ちつき、十分な席を確保した。オッタボーン夫人は近くの席に腰をかけて、あれこれと話題を口にしてみたが、いんぎん無礼にあしらわれるので、やがて、あきらめてしまった。こうして、ミス・ヴァン・スカイラーはいよいよ、名誉ある孤立を味うことになった。ドイル夫妻はアラトン親子と一緒にいるし、ベスナー医師は無口なファンソープを話し相手に引き止めていた。ジャクリーンは一人で読書だ。ロザリー・オッタボーンは落ちつかないらしく、アラトン夫人が仲間に入れようとして二、三回話しかけても、そっ気ない返事をするばかりだった。
エルキュール・ポワロは、その夜、もっぱらオッタボーン夫人が作家としての使命を語るのを聞いて過したあと、船室に引き上げる途中、ジャクリーンの姿を見かけたが、手すりにもたれていた彼女がこちらをふり向いた時、オヤッと思わずにはいられなかった。ジャクリーンの顔は悲痛に満ち、呑気さも、意地の悪い反抗も、ひそかに勝ち誇ったところも、全く見られなかったからだ。
「今晩は」
「今晩は、ポワロさん」
と挨拶してから、ジャクリーンはためらいがちにつけ加えた。
「こんな所にいて、びっくりなさったでしょう」
「びっくりしたというより、お気の毒で、とてもお気の毒で……」
「私がですの?」
「そうです。あなたは危険な道をえらびましたね。わたし達がこの船で旅路に上ったように、あなたもひそかな旅路についた、流れの早い川を、危険な岩の間を縫って、とんでもない災難に向って……」
「なぜそんな事をおっしゃるのですか」
「ほんとの事だからですよ。あなたは自分を安全にしばりつけていた紐をたち切ってしまった。今となっては、戻ろうと思っても戻れないでしょう」
「おっしゃる通りです……」
ゆっくりと言ってから、ジャクリーンは首を後へそらせた。
「でも、人間は自分の星に従う他ないわ。行先は何処であろうと」
「それがほんとの星かどうか、気をつけて下さいよ」
ジャクリーンはフフと笑って、ろばを連れていた少年たちの合言葉をまねて言った。
「あの悪い星だよ、旦那、あの星が落ちる……」
ポワロはねむりかけた時、室内の人声で目がはっきりしてしまった。それはサイモンの声で、船がジェラールを出る時に言った言葉をくり返していた。
「こうなったら、あとへは引けない」
「そうだ、何とかしなくてはならない」
と考えて、エルキュール・ポワロは浮かぬ気持だった。
第八章
船は翌朝早く、エスセブアに着いた。顔をかがやかせ、へりのたれ下った大きな帽子をかぶったコーネリヤ・ロブソンは、真先に上陸した一人だった。気だてがやさしくて、誰にでも好意をもつコーネリヤには、人をばかにするような事はできなかった。エルキュール・ポワロの白いスーツに、ピンクのワイシャツ、大きな黒い蝶ネクタイ、白ヘルメットという姿を見てもひるむような事はなかった。貴族趣味のミス・ヴァン・スカイラーだったら、それこそたじたじとなったにちがいないところだ。
スフィンクスのある通りを一緒に歩きながら、コーネリヤはポワロのありふれた挨拶の言葉に進んで答えていた。
「あなたのお連れはお寺見物に上陸しないんですか」
「ええ、マリーおばさん――ミス・ヴァン・スカイラーの事ですけど――は、朝がとてもおそいものですから。おばは身体を大事に大事にしなければならないんです。ミス・バワーズ――看護婦さんなんですよ――に用事はたのむんですけど。このお寺は特にいいお寺じゃないからとも言っていましたわ。でも、私が見に行くのはかまわないって言ってくれたものですから」
「そりゃ寛大な話だ」
無邪気なコーネリヤは、ポワロの皮肉をも素直に受けとった。
「とても親切ですわ。私をこうして旅につれてきてくれるなんて、ほんとに素晴らしい人だわ。私は全く運がいいんですね。おばが私も一緒に旅に行かないかって、母に言ってくれた時、私、とても信じられなかったんですよ」
「旅は面白いですか」
「そりゃもう。イタリアを見物しました。ヴェネチアとパドアとピサを見てから、カイロへ行きましたけど、カイロではおばが具合が悪くなったものですから、あまり出歩けなかったんですが、今度はワディ・ハルファまで往復する素晴らしい旅ですもの」
「あなたは良い性質の人だ」
こう言って、ポワロは考えるように、コーネリヤから、顔をしかめ、ただ一人だまって先の方を歩いているロザリーへ視線を移した。
「とてもきれいな方ですわね」
と、コーネリヤはポワロの視線を追いながら言った。
「ちょっと人を馬鹿にしたようなところもありますけどね。英国人らしい人ですわ。ミセス・ドイルほど美人じゃないけれど。一番きれいなのは何と言ってもミセス・ドイルでしょうね。私、あんなにきれいで、品のある人ってはじめてですわ。あの旦那さんたら、奥さんの歩いた地面までありがたがっているんではないかしら。あの白髪の方は人目に立つような格好をしているとお思いになりません? 侯爵と親類のようですわ。ゆうべ、私たちのすぐそばでその人の事をしゃべっていましたもの。御自分には爵位があるわけじゃないんでしょうね」
こんな調子でコーネリヤがおしゃべりをつづけていると、やがて、係りの通訳が「お静かに」と言って、調子をつけて説明をはじめた。
「このお寺はエジプトのアマン神と太陽神とに献じられたものでございまして、鷹の頭がその象徴になっております……」
説明は単調につづく。ベスナー医師は文字の方が興味があるらしく、ベデカを手にして、ドイツ語で何やらつぶやいていた。
ティム・アラトンはこの見物の一行に加わらなかったが、母親のアラトン夫人は、無口なファンソープ氏としゃべる糸口をみつけようとしていた。リンネットと腕をくんだアンドルー・ペニングトンは、見たところ、ガイドの暗誦《あんしょう》するような調子の説明を興味あり気に聞いていた。
「高さ六十五フィートだって? そんなにありそうに思えないがなあ。ラムゼスというのはえらい奴だ。活動家なんだな」
「大実業家ですよ、アンドルーおじさん」
ペニングトンは感心したように、リンネットを見た。
「今日は元気そうですね。このところ、やつれていられるようなので、少々、案じていたんですよ」
一同がガヤガヤしゃべりながら船に戻ってきたのを機に、カーナック号はまた、河を上りはじめた。風景は前ほどけわしくなくなり、ヤシの木や耕された土地も見えてきた。こうした風景の変化が、船客の間に立ちこめていたわけのわからぬ重くるしさを取り除きでもしたように、ティムは気むずかしいところがなくなり、ロザリーも明るい気分をとり戻した。リンネットに至っては、うきうきしているようだった。
「新婚旅行中の花嫁に事務的な話を持ちかけるのは気のきかない事ですが、ほんの一つ二つ……」
と、ペニングトンはリンネットに言った。
「あら、そんな事なんでもないわ。私が結婚したために変化が起ったでしょうからね」
リンネットはたちまち、事務的な態度になった。
「そうなんです。いつか、二、三の書類に署名をお願いしたいんです」
「今でもかまいませんよ」
ペニングトンはあたりを見まわした。展望室のこの一隅には他に人影はなかった。大部分の船客は、展望室と船室にはさまれた甲板に出ていて、今ここに残っているのは、両足をつき出して、室のまん中にあるテーブルでビールを飲んでいるファガソン氏、前面のガラスのそばに陣どって、次々と変ってゆく景色に見とれているエルキュル・ポワロ、エジプトに関する本を向うの隅の方で読んでいるミス・ヴァン・スカイラー、以上の三人だけだった。
「それは好都合だ」
といって、ペニングトンは展望室を出て行った。
リンネットとサイモンは顔を見合せて、ゆっくりと笑った。
「大丈夫かい」
「ええ、まだ、大丈夫よ。不思議ね、もうちっとも心配でないの」
「感心だ」
と、サイモンは確信に満ちた調子で言った。
この時、ペニングトンが、ぎっしり書きこんだ書類の束を持って戻ってきた。
「まあ、これ全部に署名しなければならないんですか」
リンネットが叫んだので、ペニングトンは弁解をはじめた。
「大変な事とは思いますが、あなたのかかり合いの事件をきちんとしておきたいので、第一が五番街にある地所の賃貸契約、次が西部土地会社……」
しゃべりながらも、ペニングトンは書類をパラパラとめくって、区分けして行った。サイモンはあくびをした。
甲板へ通じるドアが開いて、ファンソープ氏が入ってきた。漫然とあたりを見まわしてから、ブラブラと、真青な水と両岸の黄色い砂地に見入っているポワロのそばへ近づいた。
「そこへだけ署名して下さい」
ペニングトンはリンネットの前に一通の書類をひろげ、空所を指さした。
リンネットはそれを取りあげて目を通してから、最初のページに戻り、ペニングトンがそばにおいた万年筆で、リンネット・ドイルと署名した。ペニングトンはそれを片づけると、もう一通の書類をひろげた。
ファンソープはぶらぶらとこちらの方へやってきて、横の窓から何やらのぞきこんだ。岸に面白いものを見つけたらしい。
「それはほんの譲渡証書ですから、読むには及びません」
と、ペニングトンは言ったが、リンネットはざっと目を通した。もう一通さし出されると、今度はていねいに読んだ。
「みんな極く簡単で、いっこうに面白いものじゃありません。法律用語ばかりで」
と、ペニングトンは言った。
サイモンはあくび交りに言った。
「まさか全部に目を通すつもりじゃないだろうね。お昼までかかっても終りゃしないよ」
「私は何でも目を通す事にしているんですよ。父からそうするように教えこまれたものですから。父は書き誤りがあるかもしれないからと言っていました」
ペニングトンは耳障りな笑い方をした。
「あなたは大した事務の腕があるんですね」
「僕など及ばない程、良心的ですよ。僕は法律的な書類なんて読んだ事もないんですからね。署名しろと言われた場所へ名前を書くだけ、それでおしまいです」
と、サイモンが笑いながら言うと、リンネットが異議をさしはさんだ。
「それはずさん極まる話だわ」
「僕には事務的才能がないんでね。昔からそうなんだ。誰かが署名しろと言えば署名するさ。それが一番簡単だもの」
明るく答えるサイモンをじっと眺めて、ペニングトンは上唇をなでながら、皮肉に言った。
「時にはあぶない事があるでしょう?」
「とんでもない。僕は、世間の奴らはみんな、やっきになって自分をねらっていると思いこんでいるような男じゃありませんからね。人を信頼するたちなんですが、それだけの事はありますよ。現に、今までほとんど裏切られた事はありませんからね」
この時いきなり、無口なファンソープ氏がくるりと向きをかえて、リンネットに話しかけたので、みんなはびっくりしてしまった。
「差出口をしてすみませんが、僕はあなたの実務の才に全く感服してしまったんです。職業がら――実は弁護士なんですが――御婦人がいかに事務的でないかを知っておりますので。目を通さないうちは、絶対に署名しないというのは感心な事ですよ。全く感心です」
首を軽く下げると、その弁護士は顔を赤らめて、また向きをかえ、河岸をじっと見入った。
「どうも……」
とあやふやに言ったきり、リンネットは笑いをぐっと噛みしめた。青年弁護士の様子が異常なまでにまじめだったからだ。
アンドルー・ペニングトンは迷惑至極という様子だったが、サイモン・ドイルは迷惑なのやら、面白いのやら、きめかねているような顔つきだった。
ファンソープの耳の後は真赤だった。
「お次をどうぞ」
と、リンネットが笑いかけたけれども、ペニングトンははっきりと怒りを顔に表わして言った。
「また別の時の方がよさそうです。御主人が言っていられる通り、ここにあるものを全部見ていただかなければならないとすると、お昼すぎまでかかりますからね。景色を見落すと困ります。どっちみち、急を要するのは最初の二つだけなんですから。仕事のことはあとで落着いてからにしましょう」
「ここは暑いから出ましょうよ」
と、リンネットが言い、ドイル夫妻とペニングトンは回転ドアから表へ出て行った。エルキュール・ポワロはふり向いて、ファンソープの背中に目を注いだ。何か考えるところがあるらしい。それから、ぶらぶらしながらまだ、一人で口笛を吹いているファガソンに視線を移した。その目は最後に、隅っこにいるミス・ヴァン・スカイラーのしゃんとした身体のところで止った。老婦人はファガソンをじっとにらんでいるところだった。
左舷側の回転ドアが開いて、コーネリヤ・ロブソンが急ぎ足で入ってきた。
「随分長かったんだね。何処にいたんだね」老婦人はがみがみと言った。
「すみません。毛糸がおっしゃった場所になかったものですから。全部、別の入れ物に入っていました」
「全く、あんたときたら物を探すのが下手なんだから。やる気のあることはわかっているけれどもね。もっと利口に、手早くなるようにしなければだめですよ。気さえ散らさなければいいんだがね」
「ほんとにすみません。私、とてものろまなものですから」
「その気になれば、誰だってのろまにならずにすみますよ。せっかく、こうしてつれて来て上げたんだから、少しは気をつかってもらいたいね」
コーネリヤは顔を赤らめた。
「ほんとにすみません」
「それで、ミス・バワーズは何処にいるんだね。薬の時間が十分すぎてしまった。すぐ呼んで来ておくれ。お医者から、時間を正確に守るようにと言われているんだから」
しかし、この時、ミス・バワーズが小さな、薬のコップをもって入って来た。
「お薬でございますよ」
「十一時に飲む薬だったんですよ。わたしは何が嫌いと言って、時間の不正確な程きらいなものはないんだから」
「全くでございます。ただ今、十一時三十秒前でございます」
ミス・バワーズは腕時計をちらりと見た。
「わたしの時計じゃ十分過ぎですよ」
「私の時計の方が正しいと思います。とても正確で、絶対に進んだり、おくれたりいたしません」
ミス・バワーズは動じなかった。
ミス・ヴァン・スカイラーはコップの中の薬を飲みこんでから言った。
「気持が悪くなった」
「それは困りましたわね」
と、ミス・バワーズは言ったが、ちっとも困ったような口調ではなかった。内心どうでもよいと思っているのだが、機械的に適当な受け答えをしたに過ぎない事は瞭然としていた。
「ここは暑すぎるから甲板の椅子をさがしておくれ。ミス・バワーズ。コーネリヤ、あんたはわたしの編物を持ってきておくれ。へたに扱うとおっことすよ。それから毛糸を巻くのに、あんたの手を貸してもらうよ」
三人は出て行った。
ファガソンはため息をもらして、歩きながら誰にともなく言った。
「あの婆さんめ、首をひねってやりたいようだ」
「ああいうのは嫌いですか」
と、ポワロは面白そうにきいた。
「嫌いですかって。その通りですよ。あの婆さんは、これまで誰かのために、あるいは何かのために役に立った事がありますか。何一つ働いた事も、指一本、上げた事もありゃしない。他人を犠牲にして懐を肥してきただけなんだ。寄生虫、それも不愉快千万な寄生虫だ。この船にはごくつぶしがいっぱい、乗っているんだ」
「そうですかね」
「そうですとも。ついさっき、ここで株の名義の書替えに署名して、威張り散らしていた女だってそうだ。あの女に絹の靴下をはかせ、無用の贅沢をさせておくために、多数のあわれな労働者が、僅かの金であくせく働いているんだ。英国の大金持ちの一人だと誰かが言っていたけれど、縦の物を横にした事もないそうだ」
「大金持ちだってことは、誰が言っていました?」
ファガソンはけんかでも吹っかけるような目付で、ポワロを見た。
「話しかけているところを人に見られては困るような男ですよ。手を使って働き、それを恥かしがらない男だ。君たちのような、身なりのよいろくでなしとは違う」
こう言いながら、ファガソンの目は、気に食わぬとばかりにポワロの蝶ネクタイとピンクのワイシャツをにらんでいた。
「僕か、僕も頭脳労働者だが、それを恥かしいなんて思っていないよ」
ポワロはファガソンの目を見かえすように言った。
「奴らは撃ち殺しちまうといいんだ」
「君はばかに暴力が好きなんだな」
「暴力を使わずにできる善い事があったら、教えてもらいたいもんです。作り直すのには、先ず、こわしてたたきつぶさなければなりませんからね」
「そうすればたしかに、ずっと容易で、にぎやかで、はなばなしいな」
「あなたは何をして暮しているんですか。何もしていないじゃありませんか。仲買人とでも言うところでしょう?」
「僕は中くらいの人間じゃない。上位の人間だ」
ポワロは少しばかり威張って言った。
「何の職業です?」
「探偵ですよ」
その調子は、「わたしは王だ」と名乗る人は、こうもあろうかと思われるような謙遜なものだった。
「へーえ?」
青年はたじたじとなったようだった。
「あの女はほんとに下らぬ男をしょいこんだと言うのですか。わが身をそんなに大事にしているんですか」
「僕はドイル夫妻とは何の関係もありません。休暇でここへ来ているだけの事です」
ポワロは固くるしい調子で言った。
「休日を楽しんでいるというわけですか」
「君は? 君も休暇中とはちがいますか」
「休暇か!」
ファガソンは「ふん」とばかりに言ってから、謎のような言葉をつけ加えた。
「僕は情勢を研究中です」
「そいつは面白い」
と、つぶやくように言って、ポワロは静かに甲板へ出て行った。
甲板では、ミス・ヴァン・スカイラーが一番いい席におさまり、その前にはコーネリヤがすわって、両腕をのばして、ねずみ色の毛糸のかせをかけていた。ミス・バワーズは真直ぐな姿勢で、新聞を読んでいるところだった。
ポワロは静かに右舷デッキの方へ歩いて行った。船尾を回ろうとした時に、あやうく女の人にぶつかりそうになったが、ギョッとしたようなその人は、浅黒くきびきびしたラテン系の顔をふりむけた。黒い服をきちんと着ていたが、様子から察すると、機関士と思われる制服の大男と話していたところらしい。二人は後ろめたさと驚きの入り交った妙な顔をした。いったい何を話していたのだろう?
ポワロは船尾を回って左舷へやってくると、船室のドアが開いて、オッタボーン夫人がポワロの腕に転げこまんばかりに飛び出してきた。真赤なサティンの化粧着姿だ。
「どうも失礼。ほんとにご免下さいましよ。揺れたので、――ちょっとしたはずみでしたの。どうしてもよろけてしまうんですよ。船が揺れないといいんですのに」
オッタボーン夫人はポワロの腕につかまった。
「上下に揺れるのが困りますの。海は閉口ですわ。何時間もひとりぼっちでしたの。娘ときたら、ちっともこの年寄りの母親に同情も理解もなくて……」
オッタボーン夫人は泣き出した。
「あの子のために、身体がすり切れる程あくせく働き通してきたのに。わたしはすばらしい恋人になれたかも知れなかったのに。何もかも犠牲にしてしまった。それなのに誰もかまってくれやしない。わたしは言いますよ、言いますとも。娘がわたしをさんざんないがしろにする事を世間の人にきかせてやるんだ。あの子ときたら無情で、わたしをこんな所へつれて来て、退屈な思いをさせて……みんなにきかせてやるんだ」
と、いいながら、身を乗り出してきたので、ポワロは静かに押しとどめた。
「お嬢さんを呼んであげましょう。お室にお入んなさい。それが一番です……」
「いやです。みんなに、船に乗っている人全部にきかせてやります」
「あぶないですよ、奥さん。海がこんなに荒れてるんですから、下手すると投げ出されてしまいますよ」
「そうですか。ほんとにそうお思いになる」
「ほんとですとも」
これでうまく行った。オッタボーン夫人はよろめきながら、自分の船室へ入って行った。ポワロは鼻孔をピクピク動かして、何やらうなずいた。それから、ロザリー・オッタボーンが、アラトン夫人とティムの間にはさまれてすわっている方へ歩いて行った。
「お母さんが呼んでいますよ、お嬢さん」
それまで楽しそうに笑っていたロザリーは、それを聞くと顔を曇らせた。いぶかるように、急いでポワロに一瞥をくれると、あわてて甲板の方へ向った。
「わたしにはあの娘がさっぱりわからない。今日親しそうにしていたと思うと、次の日には実にそっ気ないんだから」
と、アラトン夫人は言った。
「甘やかされ放題のところへ持ってきて、怒りっぽいんだ」
ティムの言葉にアラトン夫人は首を横に振った。
「そうじゃないわ。楽しくない事があるんだと思いますよ」
「ふーん、誰だって悩みはあるさ」
ティムは肩をすくめた。その声はきつかった、。
急にあたりが騒がしくなった。
「お昼よ。わたし、お腹がペコペコよ」
と、アラトン夫人は嬉しそうに言った。
その晩、夫人がミス・ヴァン・スカイラーに話しかけている側をポワロが通ると、彼女は片目をつぶって見せた。
「むろん、カーフリス城ではあの侯爵が……」
と、言っているところだった。
おかげで、コーネリヤは放免されて甲板に出ていた。そこではベスナー医師が、ベデカ仕込みのエジプト学を考え考えきかせてくれるのに、コーネリヤは熱心に耳を傾けていた。
手すりによりかかって、ティム・アラトンは言った。
「どっちみち、腐敗した世の中さ」
「不公平よ。何もかも揃っている人たちもあるんですもの」
答えたのは、ロザリー・オッタボーンだった。
ポワロはため息をもらした。
「おれは若くなくてよかったよ」
第九章
月曜日の朝になると、カーナック号の甲板では感嘆の声がしきりだった。船が岸につながれているところから、二、三百ヤードはなれたあたりに、岩をくり抜いた大きなお寺があって、折しも朝陽がそれに射しはじめようとしていた。岸に刻まれた四つの巨大な人間像は、永遠にナイル河を見渡し、朝陽に顔を向けているのである。
コーネリヤ・ロブソンは、わけのわからぬ事を口ばしっていた。
「ポワロさん、すばらしいじゃありません! 何て大きくておだやかなんでしょう。あれを見ていると人間なんてつまらないもののように見えて来るわ、まるで虫けらみたい。何もかもどうでもよいような気がしません?」
側にいたファンソープ氏がつぶやいた。
「実に印象的だ」
「壮大ですな」
と言ったのは、サイモン・ドイルである。歩きまわりながら、彼は親し気にポワロに話しつづけた。
「僕はお寺だの、名所見物だのには大して興味はないんですがね。こういう場所にはひかれますよ、全く。昔のエジプト王はすばらしい人たちであったにちがいありませんな」
他の人たちがいなくなると、サイモンは声をひそめた。
「ここまで出かけて来てほんとによかったと思うんですよ。おかげで万事さっぱりしましたから。どうしてだか不思議なんですが、とにかく、うまく行きましたよ。リンネットが元気をとり戻しましてね。実際に事にぶつかったのがよかったんだと思っています」
「そうかもしれませんね」
「あれが言うには、船でジャッキイを目のあたり見た時にはこわかったけれど、そのうち突然、平気になってしまったのだそうです。あの女を避けるのは止そうという事になりました。今度、顔を合せたら、そんな馬鹿らしい芸当をしてもちっとも困らないという事を見せてやるんです。無作法の骨頂ですよ。それだけの事です。僕たちをうんと困らせてやろうと思ったんでしょうが、もう、ちっとも困りゃしませんよ。その事をあの女にわからせてやらなくちゃ」
「そうですね」
「そうすればすばらしいでしょう?」
「そうですとも、そうですとも」
リンネットが甲板へやって来た。くすんだあんず色の麻の服を着て、にこやかな顔をしている。ポワロにはいいかげんな挨拶をして、ちょっと頭を下げたきり、夫を引っぱって行ってしまった。
ポワロは、自分が批判的な態度をとるので喜ばれないんだなと思って、おかしくなった。する事、なす事、無条件に感心されるくせがついているリンネットにとっては、エルキュール・ポワロがとんでもない悪い事をしたわけだ。
この時、アラトン夫人がポワロの側へやってきて、ささやいた。
「あのひと、すっかり変ってしまいましたわね。アスワンでは、あんなに心配そうな、面白くなさそうな顔をしていたのに、今日の楽しそうな事ったら、まるで生きかえったみたいですわ」
ポワロが返事をかえす間もないうちに、一同は勢ぞろいさせられ、通訳につき添われて、アブ・シンベルを見物するために上陸する事になった。
ポワロは、アンドルー・ペニングトンと足並を揃えて歩いた。
「エジプトは初めてですか」
「いや、一九二三年に当地へ来たことがあります。当地と言ってもカイロの事で、この河のぼりは全く初めてです」
「カーマニック号で来られたんでしたね。ドイル夫人からたしか、そういうふうに伺っていました」
ペニングトンは鋭い目付でポワロの方を見て言った。
「ええ、そうです」
「あの船には、僕の知人が乗っていたんですが、お会いになったでしょうかね。ラッシングトン・スミス夫妻ですが」
「そういう名前の人は思い出せませんねえ。何しろ船は満員で、天気は悪いときてましたから。ほとんど姿を見せない船客も大勢いましたよ。短い旅ですと、誰が乗っていたのやら、いなかったのやら、わかりませんからね」
「そりゃそうですな。ドイル夫妻とバッタリ出会った時は、びっくりなさったでしょうね。二人が結婚しているとは思いもしなかったわけですね」
「そうなんです。ドイル夫人がわたしに手紙をくれるにはくれたんですが、それは転送されてきたので、カイロで思いがけない出会いをしてから数日経って、私の手に入りました」
「随分古くからのお知合いのようですね」
「そう、もう随分になりますな。リンネット・リッジウェイがまだこれくらいの背丈の子供の時から知っているんですから」
背丈の高さを手で示しながら言った。
「あの子の父親とは一生の友達でした。非凡な人でしたよ。メルウィッシ・リッジウェイと言いましてね。非常な成功者でした」
「娘さんは大した財産を相続したようですね。いや、これは失礼。こんな事を口にするのははしたない次第で」
「そんな事は誰でも知っていますよ。リンネット・リッジウェイは金持ちで――」
「しかし、それでも最近の不景気は株にひびかずにはいないでしょう。どんなに安全な株にしたところで」
ペニングトンは、一、二分かんがえていた末、やっと返事をした。
「ある程度までは、たしかにそう言えます。この頃は立場がとても骨が折れます」
「しかし、ドイル夫人は事務にかけては頭がよく働くようですね」
「そう、その通りです。リンネットは頭のいい、実際的な女です」
二人は話を止めた。案内人が偉大なラムセス王の建てたお寺のことを説明しはじめたからだ。天然石にきざまれた王自身の巨大な像が四つ、入口の左右に二つずつならんで、バラバラな旅行者の一団を見下していた。
リケッティ氏は通訳の説明を無視して、せっせと自分で、入口の両側にならんでいる巨像の土台にきざまれた黒人やシリヤの捕虜の浮彫りをしらべていた。
一行は寺に入ると、うす暗く、落着いているという印象を受けた。内部の壁に今もなお、色あざやかに残っている浮彫りをさし示されても、みんなはてんでに幾つかのグループにわかれてしまった。
ベスナー医師は声を出しては、ドイツ語でベデカを読み、時どき止めては、おとなしくついて来るコーネリヤのために訳してやっていた。しかし、これは何時までもつづけるわけには行かなかった。何故なら、冷静なミス・バワーズの腕につかまって入ってきたミス・ヴァン・スカイラーが命令するように言ったからだ。
「コーネリヤ、ここへ来ておくれ」
これでいや応なしにお講義は中止となったが、ベスナー医師は分厚い眼鏡ごしに、ぼんやりとコーネリヤのあとを追いながら、ポワロに向って言った。
「なかなかいい娘さんだ、あの子は。近頃の若い女に見かけるような、ペシャンコのお腹じゃない。いや、曲線美がありますね。よく人の話もききます。なかなか理解力があって、教えるのが楽しみです」
どうやら、馬鹿にされるか、教えられるかが、コーネリヤの生れ合せらしいと、ポワロはちらりと考えた。いつも聞く側であって、しゃべる方にまわる事のない女だ。
コーネリヤが呼びつけられたおかげで、一時、手のあいたミス・バワーズは寺の中央に立って、例の如く、面白くなさそうにまわりを眺めていた。過去の驚嘆すべき物を見てもこの女は淡々たるものだった。
「神だか女神だかの一つに|マット《うすのろ》という名前のがある、と案内人が言っていたけれど。そんな途方もないことってあるかしら」
中には更に至聖所があって、そこには四つの像があり、うす暗く高い所でポツンと異様な威厳をたたえて、永遠に支配していた。像の前に立っているのは、リンネットとサイモンである。夫と腕を組み、上を向いているリンネットの顔は、まさしく、新しい文明の象徴とも言うべく、知的で好奇心に満ち、過去の物を見ても動ずる気色はなかった。
いきなり、サイモンが言った。
「ここを出よう。僕はこの四人を好かないが、中でもシルク・ハットをかぶった奴は嫌いだ」
「それはアモンでしょう。あれはラムセスよ。なぜあの人達を嫌いなの? とても印象的だと、あたしは思うけど」
「印象が強すぎて、うす気味が悪いんだよ。日向へ出よう」
リンネットは笑いながら、その言葉にしたがった。
お寺の中から地面のむっとするような明るい場所へ出ると、リンネットは笑い出した。すぐ足もとに、まるで胴から切りはなされたみたいに、六人の黒人の子の頭が一列にならび、一瞬間ギョッとさせられたからだ。子供たちの目はギョロギョロ回り、頭は調子よく左右に動き、口は新しいお題目をとなえていた。
「ヒップ、ヒップ、フレー。ヒップ、ヒップ、フレー。大へん結構、大へん上等。大きにありがとう」
「おかしいこと。どういう風にやるんでしょうね。ほんとに深く埋っているのかしら」
サイモンは小銭をいくつか取り出して、子供たちの口まねをした。
「大へん結構、大へん上等、大へん高い」
すると、見世物がかりの子が二人で、お金をていねいに拾いあげた。
サイモンとリンネットは子供たちを通りすぎると、船へ帰る気にもならず、見物にも飽きてしまっていたので、岩に背をもたせかけて、熱い太陽に焼かれるままになっていた。
「太陽はほんとに素晴らしいわ。温かくて安全で。幸福であることは何て素晴らしいんでしょう。自分、つまり、リンネットである事はすばらしい……」
こんな事を考えながら、リンネットは目を閉じた。半ば眠り、半ば目覚めて、砂のように吹きつもる考えのまにまに押し流されていた。
見開かれたサイモンの目にも、満足がうかがえた。最初の晩、不安にかられたのは、ばからしい事だった。何もおそれる事はありゃしない。何も悪い事なんかなかったんだ。つきつめれば、ジャッキイは信頼のおける女なんだ……
突然、叫ぶ者がある。誰かがどなりながら、こちらへ手をふってかけて来る。
サイモンは一瞬、間の抜けたように眺めていたが、たちまち、立ち上ってリンネットを引っぱった。危機一髪! 大きな石が岩をころがり落ち、二人を通りこして砕けた。リンネットがそのまま動かずにいたら、粉々になるところだった。
顔面蒼白になって、二人はたがいにしがみついた。エルキュール・ポワロとティム・アラトンは二人の方へかけよった。
「驚きましたねえ、奥さん。危いところでした」
四人は思わず、崖に目をやったが、何も見えなかった。しかし頂上には道があって、最初にみんなが上陸した時には土民がそこを歩いていた事を、ポワロは思い出していた。ドイル夫妻の方を見ると、リンネットはまだ呆然としている様子だった。サイモンは憤慨のあまり、口もきけないでいた。
「あん畜生奴」
と叫んだだけで、ティム・アラトンに素早く一瞥をくれると、ぐっと自分をおさえた。
「ちぇっ、危なかったなあ。誰か馬鹿野郎があの石を転がしたんだろうか。それとも、自然に転がって来たんだろうか」
と、ティムが言うと、リンネットは青ざめた顔をして、やっと言った。
「誰か馬鹿者がやったに違いないと思うわ」
「あなたは卵の殻みたいにつぶされるところでしたね。むろん、敵なんかないんでしょうね」
リンネットは二度、ゴクリと唾を飲み込んだ。ティムの呑気な冗談に答えるどころではなかった。
ポワロが早口に言った。
「さあ、船へ帰りましょう。気付け薬をお飲みなさい」
一同はだまり勝ちに歩いた。サイモンはまだ、やり場のない怒りにもえているし、ティムはリンネットの気を紛らそうと、明るく話しかけようと努め、ポワロはまじめな顔をしていた。
ちょうど、船への渡り板のところまで来た時、サイモンはばったりと足を止めた。その顔には驚きの表情がさっと広がった。
ジャクリーン・ド・ベルフォトが上陸しようとしているところだった。ブルーのギンガムの服を着て、今朝の彼女は子供っぽく見えた。
「あれっ、してみると、やっぱり偶発事故だったんだ」
サイモンの顔から怒りが消え、いかにも、ほっとした表情が浮かんだので、ジャクリーンは何かあったぞと思った。
「お早うございます。少しおくれてしまって……」
と言って、みんなに首をさげ、上陸してお寺の方へ向った。
サイモンはポワロの腕をつかんだ。ティムとリンネットはもう大分、先の方へ行ってしまっていた。
「ああ、これでほっとしましたよ。僕は、僕はてっきり……」
「そうでしょうとも。あなたの考えていらっしゃった事、わかりますよ」
ポワロはそう言ったものの、まだ、真面目な顔をして何かしきりと考えていた。
向きをかえて、一行中の他の人たちはどうなったかを注意深く見守った。
ミス・ヴァン・スカイラーはミス・バワーズの腕に支えられて、ゆっくりと船にかえるところだった。そこから少しはなれて、アラトン夫人が小さな黒人の首の列を見て、笑いながら立っていた。オッタボーン夫人がいっしょだった。他の人たちの姿は見当らない。
ポワロはゆっくりとサイモンの後につづきながら、首をかしげていた。
第十章
「奥さん、fey という言葉の意味を説明して下さいませんか」
と、ポワロから言われて、アラトン夫人は少々、意外だという顔をした。
彼女はポワロといっしょに、第二の滝を見下せる岩に向ってゆっくりと坂道を上っているところだった。一行のうち、大部分の者はラクダに乗って出かけてしまったけれど、ポワロはラクダの動作が船の動きを思わせるような気がしていたし、アラトン夫人は体裁を考えて、歩く事になったのである。
一行は前夜、ワディ・ハルファに着いたのだが、朝になると、二艘のランチがリケッティ氏を除いた全員を、第二の滝まで運んだ。リケッティ氏はセムナという遠く離れた場所へ一人で行くと言ってきかなかった。その説明によると、セムナはアメネムヘット三世の時代にヌビアの戸口であったから極めて興味深いし、また、そこには黒人がエジプトへ入る際に関税を支払わなければならなかった事実を記録した石碑があるという。彼の独自な行動を止めさせようと、あらゆる手段が講じられたけれども、きき目がなかった。リケッティ氏は、断固として反対論を悉《ことごと》く一蹴してしまったのである。反対論とは、(1)それは試みるに価するような探検でないこと。(2)車を手に入れる事ができないから、探検はむりであること。(3)旅に使える車は一台もないこと。(4)車があったとしても、法外な金をとられること、などであった。これに対し、リケッティ氏は、(1)を冷笑し、(2)は信じられないとし、(3)は、自分で車を探し出すと言い、(4)に対しては、アラビア語で達者にかけ合って、とうとう、出発にこぎつけたのであった。もっとも、その出発はこっそりと手はずを整えられた。予定の見物を取り止めて、こちらの方へ迷いこみたいなどと考える人でも出て来はしないかとおそれての事である。
「fey の意味ですか」
アラトン夫人は何と答えたらいいものかと思案しながら、首をかしげた。
「そうですねえ、ほんとはスコットランドの言葉なんですよ。凶事の前に訪れる有頂天の喜びというような意味です。善すぎて信じられないと言いますわね」
更に委しく説明するのを、ポワロは熱心に聴いていた。
「どうもありがとうございました。のみこめました。昨日、奥さんがその言葉をつかわれたすぐ後、ドイル夫人が命びろいしたのは不思議ですね」
アラトン夫人はかすかに身ぶるいをした。
「ほんとに危機一髪だったにちがいありません。あの黒いいたずらっ子たちの仲間が、面白半分にあの石を転がしたようにお思いになって? どこの男の子でもやりかねない事ですわね。ほんとに悪意があっての事ではないでしょうけど」
ポワロは肩をすくめた。
「そんな事かも知れませんね」
ポワロは話題をかえて、マジョルカ島の事を持ち出し、ひょっとして、そこを見物にゆく場合に必要な事をあれこれとたずねた。
アラトン夫人はこの小柄な男に非常な好意をよせるようになっていた。一つには反抗の気持からそうなったと言えよう。ティムはポワロを「この上なしの無作法者」ときめつけて、母親をなるべく近づかせまいとしているようであったが、母親はポワロを無作法者とは思っていなかった。息子がポワロを毛嫌いするのは、どことなく異国的な服装の故だと、アラトン夫人は思っていた。話してみると、ポワロは知力のすぐれた面白い男で、また、人の気持もよく汲んでくれるので、思わずジョアンナ・サウスウッドを嫌いだなどと打ち明けてしまったのである。その事を口に出してしまうと気が軽くなったが、それで一向に差支えないわけだ。ポワロはジョアンナを知らないんだし、おそらく、会うことなど決してないだろうから。たえずつきまとっている重くるしい嫉妬を払いのけて、何が悪いことがあろう。
同じころ、ティムとロザリー・オッタボーンはアラトン夫人の噂をしていた。
ティムは半ばふざけて、自分のめぐり合せを毒づいていたところだった。この情けない身体ときたら、思いきり悪いんならそれも面白いが、そうでもないし、と言って、好きな暮しをして行けるほど丈夫でもないから困ってしまう。おまけに、金もなければ、性に合った仕事もないときているんだから。
「全く、ぬるま湯につかっているような平凡な人生だ」
ティムは不満そうに言葉をむすんだ。すると、ロザリーがいきなり言った。
「あなたには、たくさんの人が羨ましがるようなものがあるわ」
「何のことだい」
「あなたのお母さんよ」
ティムにとっては嬉しい驚きであった。
「おふくろだって? そうだね、あれは特異なる存在だ。それがわかってくれるとはありがたい」
「とてもすばらしい方だと思うわ。きれいだし、あの落着きぶりと言ったら、どんな事があっても動じないみたい。そのくせ、何かというとおどけてみせるのね……」
熱心があまって、ロザリーは言葉がつかえてしまった。そういう彼女に対して、ティムは暖かな気持が湧き上るのを覚えた。そしてこちらからも同じようなお世辞を言いたいところだったが、悲しい事に、オッタボーン夫人は彼が世にもおそろしいと考えているものの典型だった。ほめ返す事ができないので、ティムはばつの悪い思いをせずにはいられなかった。
ミス・ヴァン・スカイラーは、ラクダに乗って登る勇気も、歩いて行く勇気もないまま、ランチに残っていたが、看護婦に言ったところだった。
「すまないけど、側にいてもらいたいんだよ、ミス・バワーズ。コーネリヤを残して、あんたに行ってもらいたかったんだけど、若い娘たちって身勝手だからねえ。あの子はわたしに一言も断らずにとび出してしまったんですよ。そしてファガソンという育ちの悪い、不愉快な若い男と話しているんだから。それはこの目で見たんですよ。全く、コーネリヤには失望しましたよ。全然、社交というものがわからないんだからねえ」
ミス・バワーズは例によって、事務的に答えた。
「よろしいですよ、奥様。登るのは暑いでしょうし、私はあのラクダの鞍の格好を好きませんから。ノミもいるかもしれませんしね」
ミス・バワーズは眼鏡のかけ具合を直してから、目を細めて坂を下りて来る一行を眺めた。
「ミス・ロブソンはもうあの若い男と一緒じゃありませんよ。ベスナー先生と一緒にいますわ」
それをきくと、ミス・ヴァン・スカイラーはブツブツ言った。ベスナー博士がチェッコ・スロヴァキアに大きな診療所をもち、ヨーロッパにきこえた、よくはやる医者である事を知ってからというもの、彼女は博士に対して愛想よくしたいと思っていた。おまけに、旅が終らないうちにその医術のたすけを借りなければならないかも知れない。
カーナック号に一行が戻ってきた時、リンネットがびっくりして叫んだ。
「わたしへ電報がきているわ」
そして、それを取り上げるが早いか、封を切った。
「あら、わからないわ。ジャガイモ、ビートの根、何の事でしょうねえ、サイモン」
サイモンがリンネットの肩ごしにのぞこうとして近づいた時、おそろしい声がきこえた。
「失敬。その電報は僕あてなんだ」
リケッティ氏は、乱暴にリンネットの手から電報を引ったくって、おそろしい目付でにらみつけた。
あっけにとられたリンネットは、封筒をしらべた。
「まあ、あたし、ばかねえ。リッジウェイじゃなくて、リケッティなんだわ。どっちみち、あたしの名前はもうリッジウェイじゃないんだけど。言いわけをしなくちゃならないわ」
こう言って、リンネットは小柄な考古学者のあとを追って、船尾の方へ行った。
「リケッティさん、どうも失礼いたしました。御存じでしょうけど、わたくし、結婚前の名前がリッジウェイだったものですから。それに、まだ結婚したばかりなものですから、つい……」
途中で言葉を切ったリンネットは、若い花嫁のしくじりを笑ってすませてもらおうと、満面に微笑をうかべた。しかし、リケッティ氏は面白くもないという様子で、その苦虫を噛みつぶしたような顔付は、ヴィクトリア女王がもっとも不興な時でも、これほどではなかったろうと思われるばかりだった。
「名前は気をつけて読むものですよ。こういう事に不注意なのはゆるしがたいものだ」
リンネットは唇を噛んで、顔には血が上ってきた。言いわけをこんなふうに受けとられる事になれていないリンネットは、くるりと向きをかえた。そして、サイモンの側へ戻ると、腹立たしそうに言った。
「ああいうイタリア人は全くがまんがならないわ」
「まあいいさ。君の好きな象牙の大ワニを見に行こうよ」
二人はそろって、岸へ上った。ポワロが桟橋を歩いてゆく二人の姿を見ていると、はげしく息を吸いこむ音が耳に入った。ふりかえると、すぐそばでジャクリーン・ド・ベルフォトが両手でしっかりと手すりにつかまっていた。こちらを向いた拍子にあらわれたその顔の表情は、ポワロを驚かせた。それは最早、楽しそうでもなければ、意地悪そうでもなくて、内面の焼きつくすような火に亡《ほろぼ》されてしまったように見えた。
「もう、あの人たち何とも思っていないんだわ」
と、ジャクリーンは小声で早口に言った。
「あたしの手のとどかない所へ行ってしまったんです。あたしがここにいようといまいと、あの人たち一向にかまわないんです。もう……もう、あの二人を傷つけてやることはできない……」
手すりにつかまっていた手がふるえた。
「お嬢さん……」
ポワロが言いかけると、ジャクリーンが口をさしはさんだ。
「もう、手おくれですわ。今さら忠告されても間に合いません。あなたのおっしゃる通りだったんです。あたし、この旅に来なければよかったんだわ。何とおっしゃいましたっけ。心の旅でしたかしら。とって返すわけにはいきません。旅をつづけなければ。それで、あたし、つづけるつもりです。あの二人を幸福にさせておけるもんですか。そのうち、サイモンを殺してやりたい」
こう言って、ジャクリーンはいきなり、顔をそむけたので、ポワロがその後姿に目を注いでいると、肩に手をかけた人がある。
「君の女友だちは少しばかり興奮しているようだね」
そういう声にふりむくと、顔なじみの男がいたので、ポワロはびっくりして、その顔に見入った。
「レース大佐!」
背の高い、赤銅色にやけたその人はにっこりした。
「少しびっくりしただろう」
エルキュール・ポワロとレース大佐の出会いは、一年前にロンドンに於てであった。二人とも非常に風変りなある晩餐会に招ばれたのであったが、招んでくれた人――というのは変った人だったが――がその席で死ぬという事件がおこったのである。
レースという男は人目につかないように行動している事をポワロは知っていた。英帝国の辺境で面倒のおこりかけている所には、いつもこの男の姿が見られるのであった。
「君はここ、ワディ・ハルファにいたのか」
ポワロは考え深くたずねた。
「この船にいるのさ」
「というと?」
「シェラールまで君たちと一緒に帰るというわけだ」
エルキュール・ポワロは眉をあげた。
「そいつは面白い。一杯やろうじゃないか」
二人はもう人気のなくなっている展望室へ行き、ポワロは大佐のためにウィスキーを一杯、自分のためには砂糖がいっぱい入ったオレンジエードの大を注文した。
「僕たちと一緒にかえるのか」
ポワロは飲物をすすりながら言った。
「夜も運行を止めない官営船に乗った方が早く帰れるんじゃないか」
レース大佐はポワロの真意がわかったように、顔をくしゃくしゃにした。
「例によって、君の言うことは図星だ」
「じゃ船客か」
「そのうちの一人だ」
「さて、どの人かな」
ポワロは凝った天井を見あげて言った。
「あいにく、僕自身にもわからないんだ」
とレース大佐が言うと、ポワロは興味を覚えたようだった。
レース大佐が言った。
「君にはかくしておく必要がないから言うが、ここではさんざん面倒なことがあったんだ。あれやこれやとね。われわれが探しているのは、表面に立って暴徒を指導している奴らじゃなくて、実に巧妙に火薬に点火する奴らなんだ。そういうのが三人いたんだが、一人は死に、一人は服役中、残る一人がお尋ね者というわけだ。五、六件の冷酷な殺人をやってのけた男だ。おそろしく利口な、やとわれ扇動屋なんだ。そいつがこの船に乗っている。われわれの手に入った一通の手紙の文章からわかったんだがね。暗号を解くと『Xは二月七日から十三日にかけて、カーナック号で旅行する』というんだ。Xがどういう変名をつかっているかわからないがね」
「その人相はわかっているの?」
「いや。アメリカ人とアイルランド人とフランス人の血をひいている。かなりの混血だ。そのことは大してわれわれの役にはたたないがね。何か思い当るところがあるかね」
「まあね。一つ考えてみよう」
ポワロは考えこむように言った。
お互いの気持のよくわかり合った仲だったから、レースはそれ以上しつこく聞くような事はしなかった。エルキュール・ポワロは、確信がなければ決して口に出さないことが、レースにはよくわかっていたからだ。
ポワロは鼻をこすってから、不愉快そうに言った。
「この船には、何やら僕を非常に不安な気持にさせるものがある」
レースがけげんそうな顔をするので、ポワロは説明した。
「Bという人物に対して、ひどく不当なことをしたAという人物を想像してみたまえ。Bは仕返しをすることを望み、脅迫する」
「AもBもこの船に乗っているんだね」
「その通り」
「Bは女だろう」
「いかにも」
レースはタバコに火をつけた。
「僕は心配しないな。やろうとしていることをしゃべって歩く人というのは、言ったことを実行しないのが普通だからね」
「婦人は特にそうだと君はいいたいんだろう。それはその通りだ」
しかし、ポワロの顔はまだ晴れなかった。
「その他には?」
レースがきいた。
「ああ、あるよ。昨日、Aは危いところで命拾いをしたんだ。うまい具合に事故とみなされてしまいそうな死をあぶないところで逃れた」
「Bがたくらんだのか」
「いや、そこのところなんだがね。Bはそれに何のかかり合いもなかったと思われるんだ」
「それじゃ、事故だったんだろう」
「そうだろうと思うんだがね。そんな事故は好かないね」
「君は、Bがそれにぜんぜん関係がなかったと確信しているんだね」
「絶対だ」
「そうか。偶然の類似事件という事もあるよ。ところで、Aとは誰なんだい。特別に不愉快な奴かい」
「それどころか、Aはチャーミングで、金があって、美しい若い婦人だ」
レースはニヤリと笑った。
「まるで短編小説みたいだね」
「そうかもしれん。ところが、僕は楽しくないんだ。もし僕が正しいならば、僕はいつも正しいんだが……」
このきまり文句をきくと、レースは微笑をうかべた。
「……非常に案ずべき事がある。そこへ君がまた別の面倒を持ちこんだ。このカーナック号には殺し屋が乗っているというんだね」
「そいつはチャーミングな若い婦人を殺すような事はしないよ」
ポワロは不満足そうに首をふった。
「僕は心配なんだよ。今日、僕はその婦人、というのはミセス・ドイルだが、その婦人に夫といっしょにカルトウムへ行きなさいと注告したんだ。この船に戻って来ないようにと言ったんだが、きかないんだ。シェラールへ無事に着けるよう祈ってるんだ」
「君の見方は悲観的すぎやしないか」
ポワロは首を横にふった。
「僕は心配なんだ。このエルキュール・ポワロは気がかりなんだ……」
第十一章
コーネリヤ・ロブソンはアブ・シンベルの寺院の中に立っていた。翌日の夕方のことである。むしむしする静かな夕方だった。カーナック号はもう一度、船客にお寺の見物をさせるために、再びアブ・シンベルに停泊したのだった。今回はあかりがついていたので、前回に比べると格段の相違であった。コーネリヤは側にいるファガソン氏に、感心してその事をしゃべっているところだった。
「まあ、今度の方がずっと、ずっとよく見えますわ。王様に首を切られたという敵兵達がくっきりと浮きぼりになっているんですよ。あんなかわいいお城には前には気がつきませんでした。ベスナー先生がいらっしゃるといいのに。あのお城のことをきかせて下さるところだわ」
「何だってあんなばかな年寄りをがまんしていられるんだ」
「とてもやさしい方ですもの」
「仰々しい退屈なじいさんだ」
「そんな言い方をなさるものじゃないと思うわ」
青年はいきなりコーネリヤの腕をつかんだ。二人はお寺の中から月の光のさす所へ出て来るところだった。
「君はどうして脂ぎった老人に退屈させられたり、意地の悪い婆さんに威張りちらされたりしても平気でいられるんだ」
「何ですって?」
「君には根性というものがないのかい。君はあの婆さんと同等なんだという事を知らないのかい」
「だって、あたし、同等じゃないわ」
コーネリヤはほんとにそう思いこんでいるようだった。
「あれほど金持ちじゃないさ。それだけじゃないか」
「そんなことはないわ。マリーおばさんはとても、とても教養が高いのよ。それに……」
「教養がね……」
青年は相手の腕をいきなり離した。
「その言葉をきくと胸が悪くなる」
コーネリヤはびっくりして、青年をじっと見つめた。
「君が僕と話すのを、あの婆さん、いやがるだろう」
そういわれて、コーネリヤは顔を赤らめ、当惑の態だった。
「なぜかというと、僕の身分が低いからだ。しゃくにさわるじゃないか」
コーネリヤは口ごもった。
「そんなに腹を立てない方がいいわ」
「君は、君たち、アメリカ人は、人間は誰でも自由、平等に生れついていると思わないのかい」
「そんな事ないもの」
コーネリヤは落ちついて断言した。
「あきれた事を言う人だね。君の国の憲法に書いてある事だよ」
「政治家は紳士じゃないって、マリーおばさんは言ってるわ。人間は平等でないにきまっているわ。そんなこと理屈に合わないもの。あたしは自分がみにくい方だということを知っているから、前にはよくそれを恥かしいと思ったものだけど、このごろは平気になったわ。ミセス・ドイルみたいに美人で、品がよく生れついたらよかったと思うわ。でも、そうじゃないんだから、くよくよしてもはじまらないと思うの」
「ミセス・ドイルか!」
ファガソン青年はひどく軽蔑したように言った。
「あの人は見せしめのために射殺されてもいいような女だ」
コーネリヤは心配そうに、ファガソンを見た。
「そんな事を言って、あなたの胃のせいだと思うわ。マリーおばさんが一度、つかったことのある特別のお薬を持っているんだけど、あなたもいかが?」
「君ときたら、手のつけられない人だな」
こう言って、ファガソンはくるりと向きを変え、大股に立ち去った。コーネリヤは船の方へずんずん歩いて行ったが、渡り板にかかろうとした時、ファガソンがまた、追いついた。
「君はこの船で一番いい人だ。その事を覚えておきたまえ」
コーネリヤは嬉しさに頬をそめて、展望室へ戻ってきた。
ミス・ヴァン・スカイラーはベスナー医師としゃべっているところだった。話題は博士の高貴な身分の患者についてであった。
コーネリヤは悪いことでもしたみたいに言った。
「あたし、ゆっくりし過ぎなかったでしょうか、おばさん」
すると、老婦人は時計をのぞいてから、がみがみと言った。
「時間通りに帰って来なかったね。それに、わたしのビロードの衿巻《えりまき》をどうしてしまったの」
コーネリヤはあたりを見まわした。
「船室の中を見てきましょうか」
「ありゃしないよ。わたしは夕飯のすぐあと、ここで使ったんだからね。それっきり、ここから動かないんですよ。あの椅子の上にあったんだがね」
コーネリヤは行きあたりばったりに、探しまわった。
「どこにもないんですけど」
「ばかな! 探しなさい」
まるで犬にでも命令するような調子であった。そしてコーネリヤは犬のように従った。すぐ側でテーブルに向っていた無口なファンソープ氏が立ち上って、コーネリヤといっしょに探してやったけれど、衿巻はどこにもなかった。
その日は一日中むし暑かったので、大部分の人はお寺見物から帰ると早目に自室へ引き上げてしまっていた。ドイル夫妻は隅の方でペニングトンとレースを相手にブリッジをやっていた。それ以外に、この展望室にいるのはエルキュール・ポワロだけだった。ポワロは入口に近い小さなテーブルに向って、思いきり大きなあくびをしているところだった。折しも、コーネリヤとミス・バワーズをしたがえて、行啓さながらにベッドへ向う途中のミス・ヴァン・スカイラーがポワロの椅子のそばで立ち止ったので、ポワロは行儀正しく、さっと立ち上り、特大のあくびをかみころした。
ミス・ヴァン・スカイラーが声をかけた。
「あなたがどなただか、ついさっき、知りましたんですよ。昔から知り合いのルーファス・ヴァン・オールディンからあなたのことをきいておりましたがね。いつか、あなたの扱った事件のことをきかせて下さいよ」
ていねいではあるが、もったいぶった一礼をして、老婦人は通りすぎた。
ポワロはねむい目をパチパチさせて、大げさなお辞儀をした。それから、改めてあくびをし直した。もうねむくって身体が自由に動かず、目をあけていられないほどだった。ブリッジに夢中になっている連中を眺めてから、本を読み耽っているファンソープ青年に目を移した。それ以外には、展望室には誰もいなかった。
ポワロが回転ドアから甲板へ出て行くと、急ぎ足でこちらにむかってきたジャクリーン・ド・ベルフォトが、あぶなく、ぶつかりそうになった。
「どうも失礼」
と、ポワロは言った。
「ねむそうね、ポワロさん」
「そうなんだ。ねむくて、くたくたですよ。目をあけていられない程なんだ。むしむしと、おさえつけられるような一日でしたからねえ」
「そうですわ。物がプツンと切れてしまうような日でした。このままではいられない様な」
その声は低いが、熱っぽかった。ジャッキイはポワロの方を見ないで、砂地の岸に目をやった。にぎりしめた手は固かった。
急に緊張がゆるんだ。
「お休みなさい。ポワロさん」
「お休みなさい」
ジャッキイの目がポワロの目とほんのしばし、かち合った。次の日、この事を思い出して、ポワロは、あの目は何かを訴えようとしていたんだ、と思いあたった。彼はその目付をあとで思い出すめぐり合せになっていたのである。
そのあと、ポワロは自室へ、ジャクリーン・ド・ベルフォトは展望室へと、それぞれ歩を移した。
ミス・ヴァン・スカイラーの数多い用事やら、気まぐれ仕事やらを処理してしまうと、コーネリヤは針仕事をかかえて、展望室へ戻ってきた。ちっとも、ねむいとは思わなかったどころか、目がさえて、少し興奮ぎみだった。
ブリッジをやっていた四人は、まだ、そのままだった。別の椅子では、無口なファンソープが本を読んでいた。コーネリヤは針仕事にとりかかった。
突然、ドアが開いて、ジャクリーン・ド・ベルフォトが入ってきた。首をそらせて、入口に立っていたが、やがて、ベルを押してから、コーネリヤの側へぶらりとやってきて、腰を下した。
「上陸したの?」
ジャクリーンは、コーネリヤに聞いた。
「ええ。月が照っていて、ほんとにすばらしいと思ったわ」
「そうね、いい晩……。ほんとの蜜月の夜」
ジャクリーンの視線は、ブリッジ・テーブルのところへ行き、一瞬間、リンネット・ドイルの上に留った。
ジャクリーンの鳴らしたベルに応じて、ボーイが姿を現わした。ジャクリーンはジンの大コップを一杯、注文した。その時、サイモン・ドイルがちらりと彼女の方に目をやったが、その眉間にはかすかな心配の影が浮かんだ。リンネットがサイモンの注意をうながした。
「サイモン、あなたがコールするのを、みんなが待っているのよ」
ジャクリーンは小声で鼻歌をくちずさんだ。
飲物が来ると、それをとり上げて、
「犯罪に乾杯!」
と言いながら一気にのみほし、お代りを注文した。
ブリッジ・テーブルから、またしてもサイモンがジャクリーンの方へ目を走らせた。ブリッジの方は上の空らしい。相棒のペニングトンがそれをとがめた。
ジャクリーンはまた、鼻歌をはじめた。最初は声をひそめて、やがて大きな声になって行った。
「あの人は彼女のものだった、
そして、あの人は彼女を裏切った……」
「失敬! ちゃんと札を出さないなんて、僕も抜けてますな。こんなことをすると三番勝負に持ち込みだ」
リンネットが立ち上った。
「わたし、ねむくなったわ。もう、やすみますわ」
「そろそろ、寝る時刻だ」
レース大佐が言った。
「そうだね」
ペニングトンが合づちを打った。
「サイモン、あなたは?」
ドイルは、ゆっくりと答えた。
「まだ、ちょっと。一杯やってからにしよう」
リンネットはうなずいて、立ち去った。つづいて、レースが出て行き、ペニングトンは、一杯のんでから、あとを追った。
コーネリヤも刺しゅうを片づけはじめた。すると、ジャクリーンが言った。
「あなたは、寝ちゃだめよ。ねえ、お願いするわ。今夜は陽気に飲み明したいのよ。あたしをおいてきぼりにしないで」
コーネリヤは、また、腰を下した。
「あたしたちは、ピタリとくっついていなくちゃだめよ」
ジャクリーンは首をそらせて笑ったが、かん高いばかりで、陽気なところがなかった。
二度目に注文した飲物がきた。
「何かお飲みなさいよ」
と、ジャクリーンがさそったが、コーネリヤは辞退した。
「いいえ、結構ですわ」
ジャクリーンは椅子によりかかって、鼻歌を口ずさんだ。今度は声が大きかった。
「あの人は彼女のものだった、
そして、あの人は彼女を裏切った……」
ファンソープ氏は「内から見たヨーロッパ」という本のページを繰った。
サイモン・ドイルは雑誌をとりあげた。
「ほんとに、あたし、もう寝ます。ずいぶんおそくなりましたから」
「まだ、ねてはだめよ。さあ、あたしの命令よ、あなたのこと何もかも聞かせて」
「そうねえ、あたし、知らないのよ。大して話す事がないの」
コーネリヤはためらいがちに言った。
「あたし、うちにばかりいて、あまり、あちこち行ったことがないもんだから。ヨーロッパの旅行は、今度がはじめてなんですよ。毎日が楽しくて、楽しくて」
それをきいて、ジャクリーンは笑った。
「あなたって、幸せな方ね。あなたみたいになってみたいわ」
「ほんと? でもねえ、あたしのつもりでは……あたしは確信しているんですけれど……」
コーネリヤはうろたえて言った。
ミス・ド・ベルフォトの酒が度を過していることは明らかだった。コーネリヤにとっては、それは別に珍しいことではなかった。禁酒法の行われたころにも、いくらも、よっぱらいを見ていたから。しかし、ジャクリーン・ド・ベルフォトはただ酔っぱらっているだけではなかった。このひとは自分に話しかけ、自分を見ているようではあるけれども、どうやら、自分以外の誰かに話しかけているみたいだとコーネリヤは思った。しかし、そこに居合せた者といえば、ファンソープ氏とドイル氏の二人だけだった。そのファンソープ氏は熱心に本を読んでおり、ドイル氏は異様に用心深い表情を浮かべ、様子が変だった。
ジャクリーンがもう一度いった。
「あなたのこと、何もかもきかせて」
コーネリヤは人の言うなりになるたちなので、一生懸命、その言葉に応じようとした。日常生活の、どうでもいいような、つまらない事などにもふれながら、もそもそと話して行った。いつも聞き手の役にばかりまわっているので、話すことには全く不慣れだった。
それでも、ジャクリーンは聞きたがっているようすで、コーネリヤがつかえると、たちまち、せっついた。
「さあ、もっときかせて」
そういわれて、コーネリヤは「むろん、母は大変からだが弱くて――時には穀類食の他には何にも手をつけないで」というように、話をつづけて行ったけれども、自分の言っていることは面白くも何ともないのに、ジャクリーンが面白そうなふりをして聞いていることに気づいていた。ジャクリーンは面白がっているのだろうか。どうやら、誰か他の人の言うことに、あるいは、何か他の物をきこうとしているのではないだろうか。たしかに、(自分)の方を見ているけれども、ほんとは、誰か他の人がこの室にいるのではないだろうか。
「そして、とてもいい美術の講習会があるので、去年の冬は、あたし、あるコースを……」
(もう何時かしら。ずいぶん、おそいにちがいないわ。もう、さんざん、しゃべったんだから。何か具体的なことがおこってくれるといいんだが)
すると、たちまちコーネリヤの願いに応じるように何事かがおこった。その時には、至って自然に見えたのではあるが。
ジャクリーンはふりむいて、サイモン・ドイルに言った。
「サイモン、ベルを押してちょうだい。もう一杯飲みたいから」
サイモン・ドイルは雑誌から目をはなして、静かに言った。
「給仕は皆、寝てしまったよ。もう、真夜中過ぎだ」
「ねえ、あたし、もう一杯飲みたいのよ」
「もう、いいかげん飲んだじゃないか」
「それがあなたと何の関係があるの」
ジャクリーンは、くるりと身をひるがえして、サイモンと向い合った。
「何の関係もないさ」
サイモンは肩をすくめた。
ジャクリーンは一、二分の間、サイモンをじっと見てから言った。
「サイモン、どうしたの。こわいの」
サイモンはそれには答えず、注意深くもう一度、雑誌をとりあげた。
「あら、こまったわ、もうこんなにおそいのね――あたし、もう……」
コーネリヤはこうつぶやいて、手さぐりで片づけはじめたが、指ぬきを落してしまった。
「寝ないでよ。女の人にいてもらいたいのよ。力づけてほしいの。あそこにいるサイモンは何をこわがっているか、あなた知ってる? あの人はね、あたしがあなたに自分の身の上話をしやしないかと心配しているのよ」
ジャクリーンが言った。
「まあ……」
とコーネリヤは短く言った。
「あの人とあたし、婚約していたのよ」
「まあ、ほんと?」
コーネリヤは二つの異った感情をおさえることができなかった。一方では大いに当惑しながら、同時にわくわくと嬉しさがこみあげてくるのだった。サイモン・ドイルのむっとした顔つきったらなかった。
「そうよ、ほんとに哀れな物語よ。サイモンはあたしをひどい目に会わせたんだわ。ねえ、そうでしょう、サイモン」
ジャクリーンは低い声で言った。
サイモンは乱暴な口をきいた。
「もう寝ろ、ジャッキイ。あんた、よっぱらってるんだ」
「ばつが悪かったら、この室を出ていけばいいのに」
サイモン・ドイルはジャクリーンをじっと見た。雑誌をにぎりしめた手は小きざみにふるえていたが、サイモンはそっ気なく言った。
「僕はここにいるよ」
コーネリヤは小声でつぶやいた。これで三度目だ。
「あたし、ほんとに……もう、ずいぶんおそいから」
「行っちゃだめよ」
ジャクリーンはそう言って、手をついと出し、コーネリヤの椅子をおさえつけた。
「ここにいて、あたしの言うことをきいてちょうだい」
「ジャッキイ、みっともないぞ。後生だから寝てくれ」
ジャクリーンはいきなり、椅子に身をおこした。言葉が怒りをこめて、よどみなく、口をついて出た。
「あなたは騒ぎがこわいんでしょう。英国人意識が強いせいよ。ほんとに何も言わないんだから。あたしに変なまねをするなというんでしょう。でも、あたしはみっともなくとも何でもかまやしない。早くここを出て行きなさいよ、あたし、これからうんとしゃべるんだから」
ジム・ファンソープは注意深く本を閉じてあくびをした。それから、時計をちらりと見て立ちあがり、出て行った。それはいかにも英国人らしい、そして、とってつけたような態度であった。
ジャクリーンは椅子にかけたまま、くるりと向き直り、サイモンをにらんだ。
「あなたったら、大まぬけだわ。あたしをこんなひどい目に会わせておいて、それで平気でいられると思うの」
ジャクリーンの言葉は、はっきりしなかった。
サイモン・ドイルはいったん口を開いたが再び閉じてしまった。これ以上怒らせるようなことを何も言わずにいれば、ジャクリーンの爆発はおさまるだろうと考えているように、サイモンはじっとすわっていた。
ジャクリーンの声は不明瞭であったが、むき出しの感情にぶつかったことのないコーネリヤはそれにひきつけられた。
「あなたが他の女のひとへ移るのを見るくらいなら、殺してしまいたいって、あたし、言ったでしょう。あたしが本気じゃないと思うの? 本気じゃないと思ったら、間違いよ。あたしは待っているだけなんだから。あなたはあたしのものよ。よくって? あなたはあたしのものなんだから」
それでもサイモンはだまっていた。ジャクリーンは二、三分間、手で膝の上をまさぐり、身をのり出した。
「あたしがあなたを殺してやりたいと言ったのは、ほんとにそのつもりよ」
突然ふりあげられたジャクリーンの手には、何やら光るものがにぎられていた。
「犬みたいに――あなたはけがらわしい犬だわ――撃つわよ」
ここでやっと、サイモンは行動にうつった。彼は急いで立ち上ったのだが、それと同時にジャクリーンは引金を引いた。
サイモンは半ば身をよじらせて、椅子の上にたおれた。コーネリヤは悲鳴をあげて入口の方へかけ出した。ジム・ファンソープが甲板で手すりによりかかっていた。
コーネリヤはよびかけた。
「ファンソープさん、ファンソープさん」
ファンソープがかけよって来ると、コーネリヤはしがみついた。
「撃っちゃったわ。撃っちゃったわ」
サイモン・ドイルは椅子の上にたおれかかったままの姿勢でじっとしていた。ジャクリーンは麻痺《まひ》したように、つっ立っていた。身体をはげしくふるわせ、恐怖のあまり、大きく目を見ひらいて、サイモンのズボンに少しずつ滲《にじ》み出てくる鮮血をじっと見つめていた。傷口は膝のすぐ下で、サイモンはしっかりとハンケチでおさえていた。
「あたし、そういうつもりじゃなかったんだわ。ああ、ほんとに、そういうつもりじゃなかったのに」
ピストルはジャクリーンの震えている指から、音をたてて床に落ちた。ジャクリーンがそれを蹴とばした拍子に、ピストルは長椅子の下にするりと入ってしまった。
サイモンは弱々しい声でつぶやいた。
「ファンソープ君、お願いだ、――誰かやって来るようだ。大丈夫だと言ってくれたまえ。事故だとか何とか言いつくろって。この事で物議をかもすとこまるから」
ファンソープは心得てうなずくと、ドアの方をむいた。そこには黒人がびっくりして顔を出していた。
「いいんだよ、いいんだよ。ふざけただけの事なんだ」
はじめはいぶかっているようだった黒い顔は、やがて、安心したらしい。歯を見せてニッと笑うと、黒人の少年は立ち去った。
ファンソープがふりむいた。
「これでよしっと。他には誰にも聞こえなかったと思いますよ。コルクを抜くような音がしただけでしたからねえ。さて、次は……」
といいかけて、ファンソープはびっくりした。ジャクリーンが急にヒステリックに泣きだしたのだ。
「ああ、神様、あたし死んでしまいたい。あたし死んじゃうわ。死んだ方がいいんだわ。あたしは、何ということをしてしまったのかしら。ほんとに、何ということを……」
コーネリヤが急いでそのそばへ行った。
「しっ! ねえ、静かになさいよ」
サイモンは額に汗をうかべ、顔を苦痛にゆがめながらも、せきたてた。
「そのひとをつれてってくれたまえ。たのむから、ここからつれ出してくれないか。ファンソープ君、船室へつれて行ってやってくれたまえ。ミス・ロブソン、君のところの看護婦をつれてきてくれないか」
サイモンはファンソープとコーネリヤを見くらべて、訴えた。
「ジャッキイのそばを離れないように。看護婦にしっかり、預けてもらいたいんだ。それから、ベスナー博士をつかまえて、ここへつれてきてほしいんだ。後生だから、このことを家内の耳には入れないで下さい」
ジム・ファンソープは承知した。この無口な青年はこんな騒ぎの時に、大へん落ちついて、テキパキと役に立った。
ファンソープとコーネリヤは泣きさわぐジャクリーンを両方からおさえて、展望室からつれ出し、甲板を通って、船室へと送りこんだ。ところが、そこへ行ってからがまた、大変だった。ジャクリーンは自由になろうとしてもがくやら、前に倍するはげしさで泣くやらして、二人をてこずらせるのだった。
「あたし、水にとびこんで死ぬわ。あたしには生きている資格はないんだから。サイモン、サイモン!」
ファンソープはコーネリヤに言った。
「ミス・バワーズをつかまえてくるといい。その間、僕がここにいるから」
コーネリヤはうなずいて、急ぎ足で出て行った。すると、すぐにジャクリーンはファンソープをつかんだ。
「あの人の足、砕けて、出血して……。死んじゃうかも知れないわ。あの人のところへ行かなくちゃ。サイモン、どうして、あたし、あんなことを……」
ジャッキイの声が大きくなったので、ファンソープはなだめた。
「静かに! 静かに! サイモンは快くなるよ」
ジャクリーンはまた、もがきだした。
「はなしてちょうだい。あたし、水にとびこむんだから。あたしを死なせて」
ファンソープはその肩をおさえて、ベッドの所へむりにつれ戻した。
「ここにいなくちゃだめですよ。そんなに騒がないで、元気を出しなさい。大丈夫ですよ」
取り乱したジャクリーンがどうやら少し落ちついたので、やれやれと思っているところへ、カーテンを押しわけて、やり手のミス・バワーズがコーネリヤと一緒に現われたからファンソープはほっとした。
ミス・バワーズはテキパキと言った。
「いったい、何事なんですか」
そして、別に驚いたふうもなく、ミス・バワーズは仕事についた。興奮しているジャクリーンを、その手に託すと、ファンソープはベスナー博士の船室へ急いだ。ドアをノックし、つづいて中へ入って、声をかけた。
「ベスナー先生」
大きないびきが止んで、びっくりしたような声が答えた。
「何だね」
すでにファンソープがスイッチをひねっていたので、博士は大きなフクロウのような目つきで彼を見あげて、目ばたきをした。
「ドイルさんが撃たれたんです。撃ったのはミス・ド・ベルフォトです。ドイルさんは今、展望室にいます。ちょっと、きて下さいませんか」
でっぷりとした医者はたちまち、反応を示した。二つ三つ質問をしてから、寝室用スリッパをつっかけ、部屋着をきて、必要な道具の入ったカバンをかかえ、博士はファンソープと一緒に展望室へかけつけた。
サイモンはそばの窓をどうやら開けて、頭をそれへもたせかけ外気をすっていた。その顔は青ざめていた。
ベスナー医師はそのそばへ寄った。
「何が起ったんですかな」
床の上には血だらけのハンケチが落ちているし、じゅうたんにはどすぐろいしみがついている。博士はドイツ語で不満やら感嘆詞やらをさしはさみながら、診察した。
「これは具合が悪いぞ……骨折だ。出血多量。ファンソープ君、二人でこのひとを僕の船室へつれて行こう。こんな具合にやるんだ。歩けないんだから、こういうふうに運ばなくちゃならんのだ」
二人でサイモンを立ち上がらせた時に、コーネリヤが入口に姿を現わした。それを見ると、博士は満足そうに言った。
「あんただったか。ちょうどいい。僕たちと一緒に来てくれたまえ。手伝いが必要なんだ。ここにいる友人よりあんたの方が役に立ちそうだよ。この人はもう青い顔をしているんだからね」
ファンソープは病人のような笑い方をした。
「僕、ミス・バワーズをよんで来ましょうか」
ベスナー医師は思案顔にコーネリヤへ目をやった。
「あんたはうまくつとまるよ。気を失ったり、へまをやったりはしないだろうな」
「あたし、先生のおっしゃる通りにしますわ」
コーネリヤの言葉をきくと、ベスナー博士は満足げにうなずいた。そして、一行は甲板を通り抜けた。
それからの十分間は、もっぱら、傷の手当が行われたが、ジム・ファンソープにとっては、さっぱり面白くなかった。コーネリヤの勇敢さを見るにつけ、わが身が不甲斐なく思われるのだ。
「さあ、あたしとしてはこの程度しかできないな。君はあっぱれだった」
博士は満足そうに、サイモンの肩を軽くたたいた。それから、袖をたくしあげて、皮下注射の針をとり出した。
「さあ、ねむれるようにしてあげよう。奥さんはどうかな」
「朝まで知らせる必要はありません」
サイモンは更に言葉をつづけた。
「ジャッキイを責めないで下さい。みんな、僕が悪いんだ。僕が恥知らずな態度に出たものだから……かわいそうに、あの人は、自分が何をやっているかわからなかったんです」
「なるほど、わかりました」
「僕が悪いんだ」
と言って、サイモンはコーネリヤに目をやった。
「誰かあの人のそばにいないと、自殺でもはかるかも知れない……」
博士は注射をした。
「大丈夫でございます。ミス・バワーズが、今晩ずっとついていてくれますから」
コーネリヤが落ちついて言うと、サイモンの顔には感謝の表情がパッと浮かんだ。身体を楽にして、目を閉じたと思うと、いきなり、ピクピクと、また、目が開いた。
「ファンソープ君」
「はあ」
「ピストルだがね。おきっ放しにするとまずいから。あしたの朝、給仕たちの目にふれたりすると……」
「よろしいです。今とってきましょう」
ファンソープは船室を出て、甲板の方へ行った。ちょうど、ミス・バワーズがジャクリーンの室から姿を現わした。
「モルヒネを注射したところですが、間もなく、快くなりますわ」
「しかし、ついていてやって下さるんでしょう」
「もちろんですわ。モルヒネで興奮する人もありますからね。今晩はずっと、ついていますわ」
ファンソープは展望室の方へ行った。それから三分も経ったころ、ベスナー博士の船室のドアをたたく人があった。
「ベスナー先生」
「何だね」
といいながら、かっぷくのいい博士が顔を出すと、ファンソープは甲板の方へまねきよせた。
「あのピストルが見つからないんです」
「何のことだね」
「ピストルです。ジャクリーンの手から落ちて、あの人がけとばした拍子に、長椅子の下に入ってしまったんですが、今みたら、そこにないんです」
二人は顔を見合せた。
「誰がとったのかなあ」
ファンソープは肩をすくめた。
「そいつはおかしいな。さて、どうしたものか、僕にはわからんが」
どうしたらいいかわからないままに、二人は不安にかられながら、わかれた。
第十二章
エルキュール・ポワロがひげそりのあとの石けんを拭きとろうとしていると、ドアを気忙しくたたく音がして、直ぐにレース大佐がずかずかと入ってきた。そして、ドアを閉めてから言った。
「君の直感が当ったよ。事件だ」
ポワロは身体を真直ぐにのばして、鋭くたずねた。
「何があったんです?」
「リンネット・ドイルが死んだ。昨夜、頭を撃ち抜かれたんだ」
ポワロはしばし、声も出なかった。二つの事が記憶に生々しかったからだ。一つは、アスワンのある庭園で、「この小ちゃなピストルをあの人の頭に当てて引き金を引いてみたいわ」と、かすれた声でつぶやいていた若い女のこと。もう一つはそれよりもあとの事件だが、やはり同じ声のつぶやき、「このままつづくとは思われないわ。何かが起りそうな日だわ」そして、その女はちらりと何かを訴えるようなまなざしをしていた。あの訴えを受けとめてやらなかったのは何としたことだったろう。ただもう、無性にねむくて、ぼんやりしていたんだ……
レースの言葉がつづいた。
「僕の立場は少し公けなんだ。この事件をまかされた格好なんだよ。船は三十分以内に出帆する予定なんだが、僕が指図するまでは、延期されることになるだろう。犯人は岸の方から来たのかもしれない」
ポワロが首をふると、レースもそれに同意した。
「同感だ。その説は除外してさし支えない。さて、君の働く番だ。腕の見せ所だよ」
手早く身づくろいをしていたポワロが答えた。
「君の言う通りに動くよ」
二人は甲板の方へ出て行った。
「ベスナーが来ているところだ。給仕頭を使いにやっておいたところだ」
この船には、バスつきの特等室が四つある。左舷の二室はそれぞれ、ベスナー博士とアンドルー・ペニングトンが占めており、右舷の一室にはミス・ヴァン・スカイラー、その隣りにはリンネット・ドイルがいた。それにつづいて、サイモンの化粧室があった。
リンネット・ドイルの室の外には、顔の青白い給仕頭が立っていた。その男がドアを開けてくれたのでレースとポワロは室の中に入った。ベスナー博士はベッドにのしかかるようにしていたが、二人がつづいて入って行くと、目をあげてボソボソと言った。
「先生、この事件についての御意見はいかがですか」
とレースがきいた。
ベスナー医師はひげの生えた顎をこすりながら言った。
「撃たれたんですな。極く近距離からやられたんですよ。丁度、耳の上の所を見てごらんなさい。たまがここから入ったんですよ。非常に小さなたまです。二十二口径でしょう。ピストルを頭にぴったりとつけたから、ほら、ここが黒くなって皮膚がこげています」
ポワロの頭には、またしてもアスワンでささやかれた言葉の記憶がよみがえってきた。
ベスナーの言葉がつづいた。
「ねむっていたんですな。抵抗のあとが全然ありません。犯人は暗闇の中をしのび寄って、ねているところを撃ったんだ」
「ちがう」
とポワロが叫んだ。ジャクリーン・ド・ベルフォトがピストルをにぎって暗い室へしのびこむなんて、およそ、考えられない図だ。
ベスナーは厚い眼鏡ごしにポワロを見た。
「しかし、それが起った事なんですからね」
「さよう、さよう。僕の言おうとしたのは、あなたの考えていらっしゃるような事ではなかったんですよ。あなたに反対したんじゃありません」
ベスナーは満足したように、もぐもぐ言った。ポワロはベスナーのそばへ近よって立った。リンネット・ドイルは横をむいていたが、極く自然でおだやかな様子であった。しかし、耳の上に、かわいた血のこびりついた小さな穴があった。
ポワロは悲しそうに首をふった。その視線がすぐ前の白い壁に行ったとき、彼は深く息を吸いこんだ。そのまっ白な壁に赤茶色で大きくJの字が書きなぐってあったからだ。ポワロはその字をじっと眺めてから、死んだリンネットの上に身をのり出して、その右手を静かに持ちあげた。指の一本に赤茶色のものがくっついていた。
「畜生!」
エルキュール・ポワロが口ばしった。
「おや、ありゃなんだろう」
ベスナー博士が目をあげた。
「あ、ほんとだ」
「ポワロ君、君はあれをどう思うかね」
とレースがたずねた。
「どう思うかって。そりゃ簡単至極じゃないか。ミセス・ドイルが死に瀕していて殺害者を知らせたいと思い、指に自分の血をつけて犯人の名前を書くという全く単純な事ですよ」
「なるほど! しかし……」
ベスナー医師が言いかけると、レースが身ぶりで強くおさえた。
「そういうふうに思えるかね」
レースがゆっくりと言うと、ポワロはそちらをむいてうなずいた。
「思えるとも。驚くほど単純だと言うんだ。よくある手だね。犯罪物語の本ではしばしば使われる奴だ。正直の話、少し古くさい手法だけれど。どうやら、犯人は旧式な人じゃないかな」
レースは深く息を吸った。
「なるほどね。僕ははじめ……」
といいかけて止めると、ポワロがかすかな笑いをうかべて、言葉のあとを引きうけた。
「僕がメロドラマの常套手段を何でも是認すると思ったわけか。ところで、ベスナー先生、失礼しました。あなたが言いかけられたのは……」
ベスナーはぜいぜい声でしゃべり出した。
「僕が言いかけた事ですか。ばからしいと言うんです。およそ無意味だ。この婦人は即死したんですからね。血に指をひたしてJという字を書くなんて。第一、血なんかありゃしません。ばかばかしい話ですよ。芝居がかったばからしさだ」
「子供じみている」
とポワロは同意した。
「しかし、目的があって書いたんだ」
と、レースが言った。
「そりゃ……当然……」
ポワロの表情はけわしかった。
「Jは何の略字だろう」
「Jはジャクリーン・ド・ベルフォトの略字ですよ。その若い婦人は、つい五、六日前に、何かやってみたいと言って『このちっちゃなピストルをあの人の頭にピタリとくっつけて指で押してみること』ほどやってみたいことはない、と僕に宣言しているんだ」
「天なる神様」
ベスナーが叫んだあと一瞬間、誰も口をきく者がなかったが、やがて、レースが深く息を吸いこんでから言った。
「それがここで起ったわけだね」
ベスナーがうなずいた。
「そうなんだ。口径の極く小さなピストル、――二十二口径だろうと思うがね。弾を取り出してみないことにははっきりしたことは言えないけれども」
「死亡の時刻は?」
「あまりはっきりした事は言えないけれど。今は八時ですね。ゆうべの気温を考慮に入れると、死んでからたしかに六時間は経っているようだ。おそらく、八時間以上たっていることはあるまい」
「と言うと、真夜中から午前二時の間ということになるね」
「そうだ」
そこで話がとぎれたので、レースはあたりを見まわした。
「夫の方はどうです? 隣りの船室で寝ているんでしょう」
「今はわたしの室で寝ている」
とベスナーが言うと、ポワロとレースはあっけに取られたようだった。ベスナーは七、八回もうなずいて見せた。
「ああ、そうか。あなた方はあの事をきいていないんですね。ドイル氏はゆうべ展望室で撃たれたんですよ」
「撃たれた? 誰に?」
「ジャクリーン・ド・ベルフォトという若い女に」
「傷はひどいんですか」
レースが鋭くたずねた。
「そう、骨折だ。とりあえず、できるだけの手当はしましたがね。なるべく早くX光線でしらべてもらうことと、この船では無理な治療を早く受けられるようにする事が必要なんだ」
「ジャクリーン・ド・ベルフォトか」
ポワロはつぶやいて、壁の上のJという字にまた、目をやった。
レースが、突然言った。
「一応、ここではこれ以上することがないようなら下へ行きましょう。喫煙室を自由に使わせてくれるそうだから。ゆうべの出来ごとの逐一を調べる必要がある」
三人は船室を出た。レースがドアの鍵をかけ、鍵は自分で持った。
「あとで戻ってくればいい。第一にしなければならないのは、あらゆる事実をはっきりさせることだ」
下の甲板に下りて行くと、カーナック号の支配人が喫煙室の入口で不安そうに待っていた。気の毒に、この男は気も転倒せんばかりに興奮してハラハラしており、万事をレース大佐に任せたがっているのだった。
「あなたの地位から考えて、あなたにお任せするのが最上策と思われます。もう一つの方の事でもあなたの思う通りに使っていただくようにと命令されておりましたのですが。引き受けて下さいますならば、何なりとお望み通りに取りはからうようにいたします」
「あっぱれだ。まず第一に、取調べ中はこの室に僕とポワロさん以外の人は入れないでもらいたい」
「かしこまりました」
「さし当ってはそれだけだ。君は仕事をつづけていたまえ。君のいる所はわかっているから」
支配人はやや、ほっとしたような様子で室を出て行った。
「ベスナーさん、腰をかけて、ゆうべの出来ごとをすっかりきかせて下さい」
と、レース大佐は言った。レースとポワロは無言で博士のがらがらした声にきき入っていたが、話が終ると大佐が言った。
「これではっきりした。その娘は一、二杯の酒の力を借りてむりに興奮をかり立て、そのあげく、口径二十二のピストルで近距離からねらい撃ちをやったんだな。それから、リンネット・ドイルの室へ行き、彼女をも撃ったというわけだ」
しかし、ベスナー医師は首をふった。
「いや、いや、僕はそう思わない。そんなことはあり得ないと思うんだ。一つには、彼女は自分の頭文字を壁に書くような事はしないだろう。そんな事をしたらおかしいじゃないか」
「書くかもしれないよ。もし見かけ通りやきもちで見さかいないほどカッとしていたとすれば、まあ言ってみりゃ自分の犯罪に署名するようなことをやってみたいと思ったかも知れん」
ポワロは首をふった。
「いや、あの娘はそれほど露骨ではないと思うな」
「すると、あのJという字には、一つしか説明のしようがないな。つまり、彼女に嫌疑がかかるように誰かがわざとあの字を書いたというわけだ」
これに対して博士が言った。
「そういうことだ。しかし犯人は運が悪かった。だって、その若い娘さんは人を殺し|そうもない《ヽヽヽヽヽ》ばかりでなく、そんな事をするのは不可能だと思えるからね」
「それはまた、どうして?」
ベスナーはジャクリーンのヒステリーぶりとミス・バワーズにつき添ってもらうに至った事情を説明した。
「一晩中、ミス・バワーズがそばについていたと思うよ。それは確かだ」
と博士はつけ加えた。
「そうだとすると、事はずっと簡単になる」
とレースが言った。
「犯罪を発見したのは誰なんです?」
ポワロはたずねた。
「ミセス・ドイルの小間使、ルイーズ・ブールジェだ。いつもの通り主人をおこしに行ったら死んでいるというので、とび出して給仕頭の腕にたおれかかったまま、気を失ってしまったんだ。給仕頭は支配人のところへ行き、支配人は僕のところへやってきたというわけだ。僕はベスナー先生をつかまえてから、君を呼びに行ったんだよ」
ポワロはうなずいた。
「ドイルに知らせなければならないが、まだねむっているんだね」
とレースが言った。
「ああ、僕の室でねむっている。昨夜、強い催眠剤を飲ませたからね」
レースはポワロの方を向いた。
「さて、医者をこれ以上引き止めておく必要はなさそうだな。先生、ありがとうございました」
ベスナーは立ち上った。
「それじゃ朝飯を食べるとしよう。それから室へ戻って、ドイルが目を覚ましそうかどうか見て来よう」
「ありがとう」
ベスナーが立ち去ると、レースとポワロは顔を見合わせた。
「ポワロ君、さて、どんなもんだろう。君が責任者だよ。僕は君の指図を受けるから、何をしたらいいか言ってくれ」
「よろしい。審査裁判所を開くことが必要だ。第一に、昨夜の事件の話を立証しなければならない。つまり、事件の目撃者であるファンソープとミス・ロブソンにきくことだ。ピストルがなくなったことは重大な問題だ」
レースはベルを鳴らして給仕頭を呼び、伝言を頼んだ。ポワロはため息をもらして、首をふった。
「これは厄介だ。全く厄介だ」
「何かいい考えは?」
レースは聞いた。
「頭の中がこんがらかって、考えがまとまらない。あの娘がリンネット・ドイルを憎んでいて、殺したがっていた事は動かせない事実ですよね」
「あの娘がそれを実行できると思うかね」
「できるでしょうね」
ポワロは確信がなさそうだった。
「しかし、方法がおかしいというんだろう。暗がりで室にしのびこみ、眠っているところを撃つような事はしないだろうというわけか。冷酷なところが信じられないんだろう」
「まあ、そういう面もある」
「ジャクリーン・ド・ベルフォトという娘は計画的に残酷な殺人などやれないと、君は思うんだね」
「それはわかりませんがね。計画する頭はありましょうよ。しかし、実際問題として、果してそんな事ができるかどうか……」
「そうだね。ベスナーの言う通りだとすると、実際に不可能だったろうね」
「ベスナーの言葉がほんとうならば、かなり疑いがはれる。その通りだといいね」
ポワロは一休みしてから、つけ加えた。
「そうだと嬉しいがね。僕はあの娘に大いに同情しているんだ」
ドアが開いて、ファンソープとコーネリヤが入ってきた。そのあとからベスナーもつづいた。
コーネリヤがあえぐように言った。
「ただもうおそろしいようですわ。ほんとにお気の毒なドイルさんの奥様。あんなにきれいな方だったのに。あの方に危害を加えるなんてほんとに悪魔《ヽヽ》にちがいないわ。それから、ドイルさんもお気の毒ですわ。奥様のことをきかれたら、気狂いみたいになられることでしょう。御自分の事故のことが奥様に知られると困るととても気にしていらっしゃったのが、つい昨夜の事でしたもの」
「あなたにききたいのはその事なんですがね。昨夜おこったことを、正確に知りたいと思うので」
とレースが、コーネリヤに言った。
コーネリヤははじめは少しまごついたけれど、ポワロが一つ二つ質問しているうちに、うまく答えられるようになった。
「はい、わかりました。ブリッジをやめてから、ドイルさんの奥様は御自分のお室へ行かれました。ほんとうに行かれたかどうかは、わかりませんけれど」
「それは間違いない。僕がこの目で見ているんだから。室の入口で、お休みなさいって挨拶したんだ」
とレースが言った。
「ところで、時刻は?」
「さあ、わかりません」
とコーネリヤは答えた。
「十一時二十分過ぎだった」
とレースが言った。
「よろしい。すると、十一時二十分過ぎには、ドイル夫人はピンピンしていたわけだ。その時、展望室にいたのは?」
「ドイル氏がいました。それから、ミス・ド・ベルフォト。自分とミス・ロブソン」
とファンソープが答えた。
「そうでした。ペニングトンさんは、お酒を一杯のんで、就寝されました」
とコーネリヤが言った。
「それはどのくらいたってから?」
「三、四分」
「それじゃ、十一時半にはならなかったんだね」
「なりませんでした」
「すると、展望室に残ったのは、ミス・ロブソン、ミス・ド・ベルフォト、ドイル氏、ファンソープ氏ということになりますね。みんな、何をしていたんですか」
「ファンソープさんは本を読んでいましたし、あたしは刺しゅうをやっていました。ミス・ド・ベルフォトは、あの――」
ファンソープが、たすけ船を出した。
「かなり、酒を飲んでいました」
「そうなんです。主にあたしに話しかけては、いろいろ、あたしの家のことをきいていました。ずっと、しゃべっていて、主として、あたしに向って言っていたのですけれど、実際は、ドイルさんにというつもりだったのだと思います。ドイルさんは腹を立てているようでしたけれど、何も言いませんでした。自分がだまっていれば、むこうもおさまると思われての事でしょう」
「しかし、おさまらなかった?」
コーネリヤは首を振った。
「あたしは二度ばかり、その場を去ろうとしたのですが、ミス・ベルフォトが止めるものですから、もう、いらいらしていました。その時、ファンソープさんが立ち上って、出て行きました……!」
「少し間が悪かったんですがね。僕はそっと出て行こうと思いました。ミス・ベルフォトが、一騒ぎおこそうとしていることがはっきりしていましたから」
とファンソープは言った。
「それから、ミス・ベルフォトがピストルをとり出したものですから、ドイルさんが、それを奪おうとして、とび上りました。その時に、ピストルが発射されて、ドイルさんの足に貫通しました。すると、彼女は泣いたり、わめいたりしはじめたので、あたし、すっかり、おそろしくなってファンソープさんのあとを追いかけました。そして、いっしょに、元の場所へ戻ってみますと、ドイルさんが事を荒立てないでくれと言いました。音をききつけて、黒人の給仕が一人やって来ましたけれど、ファンソープさんが『大丈夫』と言って、引き取らせました。それから、ジャクリーンを自室へつれて行き、あたしが、ミス・バワーズをよびに行ってる間、ファンソープさんがついててくれました」
コーネリヤは息を切らして、話を中断した。
「それは何時ごろだったね」
レースがきいた。
「さあ、わかりませんけど」
とコーネリヤは言ったが、ファンソープがすぐ引きとって、答えてくれた。
「十二時二十分ぐらいだったにちがいありません。僕が最後に自分の室へ戻ったのは、たしかに十二時半でしたから」
「一つ二つたしかめたいことがあるんだが。ミセス・ドイルが立ち去ってから、君たち四人のうち、展望室を離れたものがあったかしらん」
ポワロがきいた。
「いいえ」
「たしかに、ミス・ベルフォトは、展望室を離れなかったというんだね」
「たしかです。ドイル氏も、ミス・ベルフォトも、ミス・ロブソンも、この僕もあの室をはなれませんでした」
ファンソープが、急いで答えた。
「なるほど。それで、ミス・ベルフォトは、そうだな、十二時半前に、ミセス・ドイルを撃つことは出来なかったはずだということが成り立つ。ところで、あんたはミス・バワーズを呼びに行ったわけだが、その間、ミス・ベルフォトはたった一人で室にいたのだろうか」
「いいえ、ファンソープさんが、ついていてくれました」
「よろしい。これまでのところでは、ミス・ベルフォトには、完全なアリバイがあるようだ。この次は、ミス・バワーズに会う番だが、彼女を呼ぶ前に先ず、一つ二つの点で、君の意見をききたいと思う。ドイル氏は、ミス・ベルフォトを一人置きっ放しにしないようにと心配していたというんだね。彼女が何かもっと無謀なことを目論んでいるとでも思ったのだろうか」
「僕はそう思いますね」
ファンソープは言った。
「ミセス・ドイルを襲いはしないかと、心配していたと言うんだね」
「いいえ。そんなことを考えていたんじゃないと思います。彼女が自分自身に何か無謀なことをしやしないかと心配したのだと思います」
「自殺でも?」
「そうです。ミス・ベルフォトは、自分のしでかした事をみて、すっかり、酔いがさめ、悲嘆にくれていましたからね。自責の念にかられて、死んだ方がましだと、言いつづけていましたから」
「ドイルさんはミス・ベルフォトのことを心配していられたように思います。話しぶりが、大変やさしくて、みんな自分が悪いんだ、自分がひどい仕打ちをしたからだ、と言っていられましたわ。ほんとに、とても思いやりのある態度でした」
とコーネリヤがおずおずとして言うと、ポワロはうなずいた。
「ピストルの事だが、どうなったんだね」
「ミス・ベルフォトがおっことしました」
「それから?」
ファンソープは、それをさがすために、展望室へとって返したけれども、見つからなかった事情を説明した。
「結論が出そうだ。正確を期さなければならないから、おこったことを、そのまま、僕に話して下さい」
「ミス・ベルフォトがそれを落した。それから、それを蹴とばした」
「ピストルがいやになったんでしょう。その気持、よくわかりますわ」
とコーネリヤは説明した。
「それから、長椅子の下にころがりこんだんだね。その次をよく注意してもらいたいんだが、ミス・ベルフォトは、室を出る前に、そのピストルをまた、手にするようなことはなかったんだね」
ファンソープもコーネリヤも、その点については確信をもっていた。
「僕は正確であるようにつとめているんでね。結論は次のようなことになろうか。ミス・ベルフォトが室を出た時にはピストルは長椅子の下にあった。ミス・ベルフォトは、ファンソープか、ミス・ロブソンか、ミス・バワーズか、そのうちの誰かがつき添っていたのだから、ピストルを取りに戻る機会はなかった。ファンソープ君、君がそれを探しに戻ったのは、何時ごろだったかね」
「十二時半ちょっと前だったにちがいありません」
「ベスナー先生といっしょにドイル氏を運び出してから君がピストルを取りに引返すまでに、どれくらい時間が経つだろうか」
「ひょっとすると五分、あるいは五分とちょっと」
「すると、その五分の間に誰かが長椅子の下から、人目にふれずにおかれてあったピストルを動かしたことになる。そしてその誰かと言うのはミス・ベルフォトではない。さて、誰だろうか。ピストルを取り除いた人がミセス・ドイルを殺したという公算が強そうだ。その人はまた、直前におこった出来事を多少ききつけたか、見たかしたと思ってよさそうだ」
「どうしてそういうことになるのか、僕にはわかりません」
とファンソープが異議を申したてた。
「だって、君はピストルは長椅子のしたに、人目にふれずにおいてあったと、たった今、言ったじゃないか。そうすると、ピストルが偶然発見されたとは信じ難い。長椅子の下にあることを知っている人が、取ったんだ。そうすると、その人は騒ぎの場に居合せたにちがいない」
「ピストルが発射される直前に僕が甲板へ出た時には、誰も見かけませんでしたよ」
「そりゃ、君は右舷の方のドアから出たからだ」
「そうです、僕の室の側でした」
「そうすると、誰かが左舷側のドアから、ガラスごしにのぞいていたとしたら、君の目にはつかなかったはずだろう」
「そうですね」
「黒人の給仕以外にも、ピストルの音をきいた人はあったかね」
「僕の知っている限りでは、ないようです」
ファンソープは更に言葉をつづけた。
「ここの窓は全部、閉っていたんです。宵のうちに、ミス・ヴァン・スカイラーが、すき間風が入ると言ったので、回転ドアも閉めてしまいました。だから、ピストルの音は、近くでも聞えたか、どうですか。聞えたとしてもコルクのポンをいう音みたいだったろうと思います」
この時、レースが口をはさんだ。
「僕の知る限りでは、もう一つの音、ミセス・ドイルを撃った音を聞いた者は一人もいないらしい」
「そのことは、すぐ調べるとしよう。今は、とりあえず、マドモワゼル・ベルフォトのことだけに限ることにして、ミス・バワーズに話す必要がある。しかし、先ず君たちは立ち去る前に――と言ってポワロはファンソープとコーネリヤを手で押しとどめた――それぞれ自分のことをきかせて下さい。そうすれば、あとでもう一度、呼ばなくともすむから。先ず、ファンソープ君から、姓名は?」
「ジェイムズ・レッシデール・ファンソープ」
「住所は?」
「ノースハンプトンシャー・マーケット、ドニングトン・グラスモア、ハウス」
「職業は?」
「弁護士」
「この国を訪問の理由は?」
ここで間があった。受身だったファンソープ氏がはじめて自分をとりもどしたらしく、ややあって、つぶやくように言った。
「遊山です」
「はあ、休暇をとったんですね」
「まあ、そうです」
「結構です。ところで、簡単に話していただきたいのだが、今まで話題になっていた事件のあと、君はどうしました?」
「すぐに床へ入りました」
「時間は?」
「十二時半すぎたばかりでした」
「君の室は、右舷側の二十二号室、展望室に一番近い室ですね」
「そうです」
「もう一つおききするが、自室に引きとってから、何か、ちょっとでも、聞えませんでしたか」
ファンソープは、思案してから答えた。
「すぐ寝てしまったんですが、ねむりかけた時に、水のはねるような音が聞えた気がします。それ以外には何も」
「水のはねるような音がした? 近くで?」
ファンソープは、首をふった。
「何とも言えないな。半ばねむっていたんですから」
「それは何時ごろだったろうな」
「一時ごろだったかもしれない。何とも言えないけれども」
「どうもありがとう。これで終りました」
ポワロは、コーネリヤに注意を向けた。
「今度はあなたの番です。ミス・ロブソン。姓名は?」
「コーネリヤ・ルース。住所は、コネティカット州ベルフィールド、レッドハウス」
「どうしてエジプトへ来ました?」
「親類のミス・ヴァン・スカイラーが、この旅行につれてきてくれました」
「この旅行にくる前に、ミセス・ドイルに会ったことは」
「全然ありません」
「ゆうべは、何をしました?」
「ベスナー先生が、ドイルさんの足の手当をなさるのを手伝ってから、すぐ寝ました」
「あなたの船室は?」
「左舷側の四十一号。ミス・ベルフォトの隣りの室です」
「何か聞えましたか」
「何にも」
「水のはねる音も?」
「いいえ、あたしの室は岸の側ですから、音がしても、聞えなかったでしょう」
ポワロはうなずいた。
「ありがとう。次はミス・バワーズにここへ来るように言ってくれませんか」
ファンソープとコーネリヤは出て行った。
「これではっきりしたようだ」
とレースが言った。
「三人の目撃者が嘘をついていないとすると、ジャクリーン・ド・ベルフォトは、ピストルをにぎることは出来なかったはずだ。誰かがやったんだ。誰かが騒ぎをききつけたんだ。誰かが、壁に大きくJという字を書くような馬鹿なまねをした」
ドアをたたく音がして、ミス・バワーズが入って来た。この病院看護婦はいつもの通り落ちついて、テキパキした様子で腰を下し、ポワロにきかれるままに、自分の名前、住所、資格などを言ってから、つけ加えた。
「もう、二年以上も、ミス・ヴァン・スカイラーのお世話をしています」
「彼女の健康状態はひどく悪いのですか」
「いいえ、いいえ、そうではございませんが、もう若いとは言えませんし、からだのことを気にしまして、看護婦を身近に置きたがっております。別にどこも心配なところはないのですが、うんと世話をしてもらうのが好きで、そのためには金を惜しみません」
ポワロはわかったと言わぬばかりに、うなずいた。
「ゆうべ、ミス・ロブソンがあなたを呼びに行ったそうですね」
「そうでございます」
「あったことを、正確に話して下さい」
「そうですね。ミス・ロブソンが事件を手短かに話してくれましたので、いっしょについて行きました。行ってみると、ミス・ベルフォトが、非常に興奮して、ヒステリー状態でした」
「ミセス・ドイルに対する脅迫めいたことを言っていましたか」
「いいえ、そんなことは何も。やたらと自分自身を責めていました。かなり、アルコールを飲んでいましたから、酔いがさめかけていたのでしょう。一人でおくのはいけないと思い、麻酔を注射して、看護していました」
「次のことを答えて下さい。ミス・ベルフォトは、ちょっとでも自分の室から出ましたか」
「いいえ、出ませんでした」
「あなたも」
「あたしは、今朝方までそばについていました」
「それはたしかですね」
「絶対にたしかです」
「どうもありがとう」
看護婦は出て行った。二人の男は、たがいに顔を見かわした。
ジャクリーン・ド・ベルフォトは、はっきりと嫌疑がはれたのである。すると、誰がリンネット・ドイルを撃ったのだろうか。
第十三章
「誰かがピストルを運びだした。それはジャクリーン・ド・ベルフォトの仕わざではない。よくよく事情を知っていて、ジャクリーンが罪をきせられるだろうと思いこんだ者がある。ところが、その人は看護婦がジャクリーンに麻酔薬を注射し、一晩中つき添うことには気がつかなかった。もう一つ付けくわえるならば、その人は以前にも、岸から大きな石をころがして、リンネット・ドイルを殺そうとしたことがある。そして、その人は、ジャクリーン・ド・ベルフォトではない。するとそれは何者だろう」
とレースが言うと、ポワロが答えた。
「当てはまりそうもない人の名をあげる方が手っとり早いですよ。ドイル氏も、ミセス・アラトンも、ティム・アラトンも、ミス・ヴァン・スカイラーも、ミス・バワーズも、その事件にはかかり合いがなかったはずだ。この人たちはみんな、僕の見えるところにいたんだから」
「ふーん、嫌疑をかけられる人はまだ大分あるな。動機は何だろう」
「その点では、ドイル氏が助言してくれると思うんだ。これまでに、いくつかの事故があったことだし……」
ドアが開いて、ジャクリーン・ド・ベルフォトが入ってきた。顔は青ざめて、少しよろめくような歩き方をしていた。
「あたしがやったんじゃない」
ジャクリーンの声はおびえた子供の声のようであった。
「あたしがやったんじゃないわ。それ、ほんとうなんです。誰でも、あたしがやったと思うでしょうけれど、あたしじゃないわ。あたしがやったんじゃない。おそろしい事だわ。あんな事がおこりさえしなかったらよかったのに。ゆうべ、あたしはひょっとしたら、サイモンを殺したかもしれない。あたし、夢中になっていたから。でももう一つの方は、あたしがやったんじゃない……」
ジャクリーンは腰をおろすと、わっとばかりに泣き出した。
ポワロは軽くその肩をたたいた。
「まあ、まあ。君がミセス・ドイルを殺したのでないことはわかっている。そのことは証明されているんだ。君がやったんじゃない」
ジャッキーはぬれたハンケチを握りしめて、いきなり立ち上った。
「でも、誰がやったんですか」
「それを今、考えているところなんだが、何か知恵をかしてもらえないだろうかね」
ジャクリーンは首をふった。
「あたし、わからないわ、想像もできないわ、全然、考えもつきません」
顔をしかめて、更に言葉をつづけた。
「彼女が死ぬのを願っていた人なんて考えつかないわ。あたしは別として」
この時、レースが言った。
「ちょっと失礼。思い出したことがあるので」
そして急いで、室をとび出して行った。
ジャクリーンは落着かなそうに指をねじりまわしながら、下をむいていた。
「死っておそろしい、おそろしいわ。考えるのもいやだ」
とジャクリーンはいきなり、叫んだ。
「そうだとも。誰かが、自分の計画がうまく行ったと思ってよろこんでいることを考えるといい気持じゃないね」
とポワロが言った。
「言わないで! そんなふうに言われると、ぞっとするわ」
「ほんとうの事だ」
ポワロは肩をすくめた。
「あたしは彼女が死ねばいいと思った。そして、彼女は死んだ。こまった事に、あたしが言った通りの死に方をしてしまった」
「そうなんだ。頭を打ちぬかれて死んでしまった」
「あら、それじゃ、あの晩、カタラクト・ホテルで、あたしが思った通りだったんだわ。誰かが聞いていると思ったのだけれど」
ポワロはうなずいた。
「その事を覚えているかしらんと思ってたんだが、全く偶然すぎるよ、ドイル夫人が、君の言った通りの方法で殺されるなんて」
「あの晩の男は誰だったのかしらん」
ポワロは、一、二分の沈黙のあと、全く声の調子をかえて言った。
「それはたしかに男だったと思う?」
ジャクリーンはびっくりして、ポワロの顔を見た。
「そうね、もちろん。少なくとも――」
「それで?」
ジャクリーンは、顔をしかめ、目を半ば閉じて、思い出そうとした。
「男だと思ったんですけれど」
「今はそれがはっきりしないんですね」
「断定はできません。男だと思ってしまったんですが、実際は人かげに過ぎなかったんです」
ジャクリーンが話を止めても、ポワロは無言のままなので、彼女はきいてみた。
「あなたは、それが女だったにちがいないとお思いになるんですね。しかし、この船に乗っている女でリンネットを殺したいと思った人なんてあるはずがありません」
ポワロは首を左右に動かしただけであった。ドアが開いて、ベスナーが姿を現わした。
「ポワロさん、ドイル氏が会いたがっていますから、話しに行ってやって下さい」
とベスナーが言うと、ジャッキイは立ち上って、その腕をつかんだ。
「どんな様子ですか。あの人、大丈夫ですか」
「むろん、大丈夫じゃない。骨折ですからね」
ベスナーの口調は非難めいていた。
「でも、死ぬようなことはないんでしょう」
「死ぬなんて、誰が言いました? 便利な所へつれて行けば、X光線と適当な治療が受けられるでしょう」
「おお!」
と言って、ジャッキイは両手をピクピクさせてにぎりしめ、椅子に腰を下した。
ポワロは医者といっしょに、甲板の方へ出て行ったが、この時、レースも加わり、三人はベスナーの船室へ向った。
サイモン・ドイルはクッションや枕を支えにして、足の上に間に合せの枠をのせ、やすんでいた。顔はまっさおで、おまけに苦痛のためみにくくゆがんでいた。しかし、そこに見られるのは、当惑――子供が病気の時に示すあの当惑の表情が主だった。
「どうぞお入り下さい。医者からリンネットの事を聞きましたがとても信じられません。どうしても、ほんとうだとは思えません」
「そうでしょうとも」
とレースが言った。
サイモンはどもり勝ちにつづけた。
「あれはジャッキイの仕わざではありません。ジャッキイがやったのでないことはたしかです。ジャッキイにとっては、情勢が不利なようですが、彼女がやったんじゃない。ゆうべは、少し酔ってすっかり興奮していたので、僕をやっつけたりしましたが、人殺しなどはやりません。冷酷な殺人などは……」
ポワロは静かに言った。
「心配しない方がいいですよ。誰かが奥様を撃ったとしても、それはミス・ベルフォトではありませんから」
サイモンは信じられないというふうに、ポワロを見た。
「それ、本当ですか」
「しかしね、ミス・ベルフォトでないとなると、誰であったか、多少でも見当がつきますか」
「途方もない話です。有り得ない事だ。ジャッキイを除いて、家内を殺そうと思った人なんてあるはずがない」
とサイモンは首をふって答えた。当惑の色は、ますます濃くなった。
「考えてみて下さい。奥さんには敵がなかったでしょうか。恨んでいる人はなかったでしょうか」
再び、サイモンは途方にくれたように、首を振った。
「そんな事は考えられません。なる程、ウィンドルシャムという男はいますがね。リンネットは僕と結婚するために、あの男を振り捨てたような格好になりましたけれど、あんな礼儀正しい人が殺人を犯すなんて考えられないし、どっちにしろ、遠くにいますからね。ジョージ・ウォド卿だって、同じ事です。家屋の事でリンネットを快く思っていなかったんですが、何しろ、遠くロンドンにいることですし、殺人と結びつけて考えるのはおかしいと思う」
「まあ、きいて下さい」
とポワロが熱心に言った。
「カーナック号に乗船した最初の日に、奥様とのちょっとした話のやり取りで、非常に印象を受けたことがあるのです。奥様は大変興奮していらして、みんなが自分を憎んでいると言われたんですよ。まわり中の人が敵みたいに思われて不安だとも言われました」
「ジャッキイが船に乗っていたので、とても興奮したんです。それは僕も同じことでした」
「それはその通りですが、それだけでは、奥様の言葉の説明にはなりません。敵にかこまれていると言ったのは、大げさな言い方だったでしょう。しかし、一人以上の人を指していたことはたしかです」
「あなたの言われる通りでしょう。その点は説明できると思います。彼女を興奮させたのは、船客名簿の中のある名前でした」
「船客名簿の中の名前? 何という名前ですか」
「妻は僕にはそれを実際に言ったわけではありません。よく聞いていなかったというのがほんとのところですが。僕はジャクリーンの事を考えるのに忙しかったものですから。僕の記憶する限りでは、仕事で人を負かすことについて何か言っていました。それから、自分たち一族に怨みを抱いている人に会うのは面白くないとも言いました。妻の家系についてはよく知らないのですが、リンネットの母親は大金持ちの娘だったようです。父親の方は、極く普通の金持ちに過ぎなかったのですが、結婚後は、自然と相場に手を出しはじめました。そのためにひどい目にあった人も何人かあるというわけで、今日は大尽、明日は乞食というあれですね。僕の察するところ、リンネットの父にさからって、ひどい打撃をうけた人の子供が船に乗っていたというようなことではないですか。『見ず知らずの人から憎まれるというのは、おそろしい』とリンネットが言っていたのを覚えています」
「それで、奥様が僕に言っていられたことの説明がつきます。遺産相続の利点よりも、むしろその重荷を、奥様はあの時、はじめて、感じていられたんですね。その男の名前は口にされなかったんですね、たしかに?」
サイモンは残念そうに首をふった。
「僕は大して気にもとめなかったので、『親父さんたちの時代におこった事を気にかける人なんてありゃしないよ。こんな忙しい時代に』とか何とか言っただけでした」
ベスナーが皮肉に言った。
「しかし、僕の観測するところ、たしかに若い不平分子が乗船しているよ」
「ファガソンのことですか」
ポワロがきいた。
「そうだ。一、二度、ミセス・ドイルの悪口を言っているのを僕もきいたことがある」
「どうしたらわかるかな」
とサイモンが言うと、ポワロが答えた。
「レース大佐と二人で乗客全部に面接しなければならないんだが、みんなの話をきき終えるまでは、あれこれ説を立てない方が利口というものだ。そうだ、小間使の娘がいたっけ。あの娘から面接をはじめることにしよう。ここの場所でやってもよいだろう。ドイル氏がいることも役に立つかもしれない」
「そう、それはいい考えだ」
とサイモンが言った。
「あの娘は大分前から奥様のところで働いていたんですか」
「ほんの二、三ヵ月ばかり前からです」
「たった二、三ヵ月!」
とポワロが叫んだ。
「まさか、あなたは……」
「奥様は貴重な宝石をお持ちでしたか」
「真珠を持っていました。四万ポンドか五万ポンドするものだときかされたことがあります。まさか、あの凄い真珠が……」
「盗みは動機として考えられますよ。しかし、どうもそうではなさそうに思われますがね。まあ、様子を見るとして、小間使を呼びましょう」
ルイーズ・ブールジェは、ポワロがいつぞや注目したあの快活な、ラテン系のブルネットの娘だった。が今日の彼女には、快活なところはみじんもなかった。それまで泣いていて、おびえたような顔付をしているにもかかわらず、ずるそうなところが見えて、レースもポワロも、好感が持てなかった。
「ルイーズ・ブールジェだね」
「はい」
「生きている奥様を最後に見たのは、いつだったね」
「ゆうべです。着替えの手伝いをするため、お室で奥様を待っていました」
「何時ごろだったね」
「十一時少し過ぎでした。正確な時間はわかりませんけれど。奥様が着替えをすませ、お寝みになるのを見とどけてから、室を出ました」
「それまでにかかった時間は?」
「十分です。奥様は疲れていらっしゃって、わたしが室を出る時には、灯を消すようにとおっしゃいました」
「そのあと、何をしたかね」
「下甲板にある自分の室へ行きました」
「僕たちの役に立つようなことは、何も見たり聞いたりしなかったかね」
「そんなことするはずありませんわ」
「あんたはそれでいいが、こちらはそれではすまないんだ」
とポワロが言いかえしたので、ルイーズは、彼の方をぬすみ見た。
「でも、わたしは近くにいたわけじゃないんですもの、何も見たり聞いたりするはずがありませんわ。わたしは下の甲板にいて、しかも、わたしの室は反対側になっているんですから、何かを聞くことは不可能です。わたしが寝つかれなくて、階段を上って行くような事でもしたのなら、|そりゃ《ヽヽヽ》、その悪漢が奥様の室に入るところか、出るところかを見つけたかもしれませんけれど、実際は……」
ルイーズは、訴えるように、サイモンの方へ両手をさし出した。
「旦那様、お願いですわ。事情がおわかりでございましょう。わたし、何と言えばいいのでしょう?」
「まあ、まあ、馬鹿なことを言っちゃいけないよ。お前が何かを見たとか聞いたとかなんて誰も思ってやしない。お前は大丈夫だよ。僕が面倒みてあげるよ。誰もお前をとがめてやしない」
と、サイモンが言うと、ルイーズはつぶやいた。
「旦那様は、とても、親切にして下さるわ」
ルイーズはしとやかに、下をむいた。
「それじゃ、あんたは何も見たり聞いたりしなかったと思っていいね」
レースは、いらいらした調子だった。
「わたしはそう申しあげました」
「奥さんに恨みをもった人がいたということは、きいていないかね」
ルイーズが大きくうなずいたので、居合せた人びとはびっくりしてしまった。
「はい、その事なら知っていますわ。はっきりと、そう答えることができます」
「マドモワゼル・ド・ベルフォトの事かね」
とポワロが口をはさんだ。
「あの方もたしかにそうですけど、わたしが話しているのは、あの方の事じゃありません。他にも奥様を嫌いな人が、この船に乗っていました。その人は、奥様からひどい事をされたのを根にもっていたのです」
「おやおや、いったい、何の事だね」
と、サイモンが言った。
ルイーズは強くうなずいて、話をつづけた。
「そうですとも、あたしの申し上げる通りですわ。わたしの前に奥様の小間使だった人に関係があるんです。この船の機関士の一人が、その人と結婚したがったので、その人も(マリーというんですが)、結婚してもよいと思うようになりました。しかし、奥様が調査してご覧になると、男にはすでに妻があることがわかったんですね。黒人、つまり、この国の女が妻だったのです。その時はもう身内のもとへ帰ってはいましたけれど、二人はやはり結婚していたわけで、奥様は、この事をすっかり、マリーにお話しになったものですから、マリーははかなんでしまって、二度とその男に会おうとしなくなりました。それで、フリートウッドという男は立腹しましてね。奥様がもとはミス・リンネット・リッジウェイだったことを知ると、奥様を殺してしまいたいと言いだしたんです。奥様のお節介で一生を台なしにされたと言っていました」
ルイーズは得意そうだった。
「面白いな」
とレースが言った。
ポワロはサイモンの方を向いた。
「何か思い当ることがありますか」
「いや、全然ありません」
サイモンの言葉は本当らしかった。
「その男が船に乗っている事を、リンネットが知っていたか、どうかも怪しいですね。おそらく、その事件はすっかり忘れてしまっていたのでしょう」
サイモンは小間使の方を向いて、鋭く言った。
「お前は奥様に、何かその事について言ったのかい」
「いいえ、むろん、何も申しませんでした」
「奥様の真珠については何か知っているかね」
ポワロがたずねた。
「奥様の真珠ですって。ゆうべ、つけていらっしゃいましたよ」
ルイーズは目を丸くした。
「奥様が床に入られた時にそれを見たんだね」
「はい」
「奥様はそれを何処に置かれたの」
「いつもの通り、そばのテーブルの上に」
「そこで見たのが最後だね」
「はい」
「けさ、そこに見かけたかね」
ルイーズは、驚いたような顔をした。
「まあ、わたし、そちらの方へは見向きもしませんでした。ベッドの所へ行ったら、奥様が目に入ったものですから、わたし、わっと言って、外へとび出し、気を失ってしまいました」
エルキュール・ポワロはうなずいた。
「あんたはそちらを見なかったそうだが、僕の目はよく気がつく。今朝、ベッドのそばのテーブルの上には、真珠がなかったよ」
第十四章
エルキュール・ポワロの観察に誤りはなくて、リンネット・ドイルのベッドの脇のテーブルの上には真珠はなかったのである。
ルイーズ・ブールジェが言いつけられて、リンネットの所持品をしらべてみると、全部きちんと整理された中で真珠だけが姿を消していることが判明した。
レースとポワロが船室から出て行くと、外で待っていた給仕が朝食は喫煙室に用意されていることを告げた。甲板を歩いているうちに、レースは立ち止って手すりごしに眺めた。
「ははあ、何かいいことを思いついたようだね」
「そうなんだ。ファンソープが水しぶきの音をきいたように思うと言った時に突然、僕もゆうべそんなことがあったような気がしだしてね。犯行のあとで犯人がピストルを河に投げこむ事は十分あり得るからね」
「そんなことがあり得るとほんとに思う?」
とポワロはゆっくりときいた。
「思いつきを言っただけさ。結局、ピストルは船室のどこにもないんだからねえ。真先に探したのにさ」
「それにしても、河に投げすてられたとは思われないよ」
「それじゃ、何処にあるんだろう」
「ミセス・ドイルの室にないとすれば、理屈から言うと、ありそうな場所は一ヵ所だけだ」
と、ポワロは考えこむように言った。
「それは何処だね」
「マドモワゼル・ド・ベルフォトの室だ」
「なるほど、わかったよ……」
と、レースは急に言葉を切った。
「彼女はいま室にいない。一つのぞいてみようじゃないか」
「いや、それはせっかち過ぎるよ。|まだ《ヽヽ》、|あそこには置いてないかもしれない《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》からね」
「船全体を直ちに検査するのはどうだろう」
「そんな事をすればわれわれの手の中を見せるようなものだ。十分、注意して動く必要がある。さし当ってのわれわれの立場は頗《すこぶ》る微妙だからね。食事をしながら話すとしよう」
レースも同意したので、二人は揃って喫煙室へ入って行った。
「ところで」
と言って、レースは自分のコーヒーをついだ。
「われわれは二つのはっきりした手がかりを持っている、真珠の紛失と、フリートウッドという男の事だ。真珠の方は盗みとられた事があきらかなようだ。もっとも君は何と思うかわからないが」
「変な時をえらんだものだ」
「全くだ。このような旅行の際に真珠を盗めば、|船客全部が念入りに取りしらべられる《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》ことになる。そうなったら、泥棒は盗んだ品物をうまく持ち出すことなぞ出来やしない」
「犯人は上陸してそれを処分してしまったかもしれない」
「会社ではいつも番人を岸においているよ」
「それじゃだめだな。盗難事件から目をそらせるために殺人が行われたのだろうか。いや、それは理屈に合わないな。問題にもなりゃしない。しかし、ミセス・ドイルが目をさまして、現行犯を捕えたとしたら!」
「そこで泥棒が彼女を撃ったというのか。しかし、彼女は睡眠中に撃たれたんだからね」
「じゃこれも筋が通らないというわけか。あの真珠については、僕は少し考えがあるんだが、――いや、それはむりだ。僕の考えが正しいとすれば、真珠はなくなるような事はなかっただろう。ねえ、君はあの小間使をどう思うかね」
「しゃべった事以外にも何か知っているんではないかしらん」
とレースが、ゆっくりと言った。
「やはり、そう思うか」
「たしかに、いい娘じゃない」
「僕は、あの娘を信用しないよ」
「あの娘が、殺人事件と関係があると思うのか」
「いや、そういうわけじゃない」
「じゃ、真珠の盗難とは?」
「その方が可能性があるようだ。ミセス・ドイルの所へ来てから、まだ、いくらも日が経っていないんだから、あるいは、宝石専門の泥棒の一味かもしれない。そんな場合に、りっぱな身許保証人のある女中が出てくることは、よくある例だ。都合の悪いことに、僕たちは、そういう点を調べる立場ではない。それにしても、この説明では、どうも納得ができない。あの真珠は……僕の考えが正しいはずなんだが。しかし、いくら間ぬけでも……」
ポワロは言葉を中断した。
「フリートウッドという男はどうだろう」
「本人に当ってみないことにはわからないが、そこに解決の鍵があるかもしれない。ルイーズの話が本当ならば、その男にははっきりした復讐の動機があるんだから。ジャクリーンとドイル氏との騒ぎをききつけて、二人が室をはずしたすきにとびこんでピストルを確保する事もできただろう。やれない事ではないはずだ。それから、血で書いたJという字。あれも単純で粗野な人間がやりそうな事だ」
「われわれの探しているのはほんとにその男だろうか」
「そう、しかし……」
ポワロは鼻をこすり、ちょっと顔をしかめて言葉をつづけた。
「僕は自分の欠点は認めているんだがね。僕が好んで事件を難しくするように言われているけれど、君の言う解釈はあまりにも単純で安易だと思うんだ。僕の偏見かもしれないが、そんな事が実際にあったとは思われないんだ」
「まあ、その男をここへ呼んでみよう」
レースはベルを鳴らして言いつけた。
「他に可能性は?」
「うんとあるよ。たとえば、アメリカ人の受託人だ」
「ペニングトンか」
「うん、ペニングトンだ。先ごろ、ちょっとした面白いやりとりがここであったんだ」
ポワロはその折の出来事をレースに話してきかせた。
「ね、重要な事なんだよ。奥さんは、署名する前に、書類全部に目を通すと言うもんだから、ペニングトンは、別の日にしようと、言い抜けたんだがね。その時、御亭主の方が、重大な事を言ったんだ」
「どんな事をだね」
「それはだね、『僕は決して、何も読まないよ。書名しろと言われた場所へ名前を書くだけだ』と言ったんだよ。その意味、わかるだろう。ペニングトンがそれをさとった事はその目つきで知れた。全く新しい考えを思いついたとばかりに、ドイルの顔を見ていた時の目つきでね。大金持ちの娘の財産管理をずっと引きつづいて頼まれていたとしたら、その金を相場に使うかもしれないだろう。それだよ。推理小説ではいつも使われる手だ。毎日の新聞紙上でも見かけるように、よくあることなんだ。実際にある事だよ」
「それに異論はないよ」
「当て推量で上の説を立証するだけの時間はまだあるね。被後見人は未成年であるとする。そして、結婚すれば管理権は直ちに後見人から本人へ移る事になる。さあ、大変だ。しかし、まだ機会は残っている。被後見人は新婚旅行中だ。多分、彼女はある書類を他の書類の間へ紛れこませてしまったり、読みもしないで署名をしたりという具合に、事務のことには無頓着だろう。ところが、リンネット・ドイルはそういう女ではなかったのである。新婚旅行中であろうとなかろうと、リンネットは事務的な女だった。そこで、彼女の御亭主がもらした言葉から、窮地を抜け出そうとしている絶体絶命の男が新しい事を思いつく。もしリンネット・ドイルが死ぬような事があれば、その財産は彼女の夫のものになるだろう。夫の方は扱い易くて、アンドルー・ペニングトンのような抜け目のない男の手にかかったら、子供に等しいだろう。アンドルー・ペニングトンの頭に、この考えがひらめいたことを、僕がこの目で見たんだよ。『交渉の相手がドイルだったら』というのが、ペニングトンの考えている事なんだ」
「さもありなん。しかし、証拠はないんだろう」
「残念ながら、ないんだ」
「次はファガソンだ。あの男は毒々しい物の言い方をする奴だ。口のきき方で判断するわけではないが、ひょっとすると、あの男の父親がリッジウェイのために没落したのではあるまいか。少しむりな推測だが、あり得ない事じゃない。以前に受けた不当な仕打をいつまでも根にもつ人も時にはあるからね」
レースは一休みして、また、言葉をつづけた。
「それから、僕の探している男がある」
「そうだ、『君の男』がいたっけ」
「その男は殺人犯だ。それはわかっているんだが、あいつがリンネット・ドイルと出くわすなんて、全然、考えられないね。二人はまるで異った世界にいるんだから」
「偶然に、リンネットがその男の正体を示す証拠を手に入れていたら、話は別だが」
「あり得る事だが、先ず考えられないね」
ドアをたたく音がした。
「ほら、重婚未遂者がやってきた」
フリートウッドは野蛮な顔つきの大きな男だった。室に入ると、レースとポワロをうさんくさそうに見くらべた。ルイーズ・ブールジェが話していた男だな、とポワロは気がついた。
男はうさんくさそうにきいた。
「わたしをお呼びになったんですね」
「呼んだ。昨夜この船で殺人が行われたことは知っているだろう」
フリートウッドはうなずいた。
「君は殺された婦人に対して腹を立てる理由を持っていたことは本当だろう」
フリートウッドの目には驚きの色がうかんだ。
「誰がそんな事を言ったんですか」
「君は、ミセス・ドイルが君と若い娘との間によけいな干渉をしたと思っているんだろう」
「誰がしゃべったかわかりましたよ。あの嘘つきのフランス娘だ。あれはとんでもない嘘つきなんだから」
「しかし、この特別の話はほんとの事だよ」
「大嘘だ」
「何の事だかききもしないうちに、よくそんな事が言えるね」
こう言われて、フリートウッドは顔を真赤にして、ゴクリと唾を飲みこんだ。
「君はマリーという娘と結婚するつもりだったのに、君が妻帯していることを知って、向うが破談にしたのは事実だろう」
「それが彼女に何の関係があったんです?」
「ミセス・ドイルの知った事じゃないというのかね。そりゃ、君、重婚は重婚だからね」
「それとは異うんです。そりゃ、僕はこの土地の住民の一人と結婚はしましたが、うまく行かず、その女は身内の許へ帰ってしまいました。その後、六年間も会っていません」
「それでも君はその女と結婚しているんだよ」
フリートウッドは無言だった。レースが言葉をつづけた。
「ミセス・ドイル、つまり、当時のミス・リッジウェイが、すっかり、調べ出したわけだね」
「そうなんです。誰も頼みもしないのに、せんさくして、よけいなお世話だ。マリーには、手をつくして、何でもしてやるつもりでいたのに。あのお節介さえなかったら、マリーは何も知らずにすんだのにと思うと、あの奥さんを恨みましたよ、たしかに。だから、この船で真珠やダイヤモンドで飾りたてた彼女が、一人の男の一生をぶちこわした事など考えもしないで、えらそうにふるまっている姿を見かけた時には、苦々しく思いました。たしかにそう思いました。しかし、この僕が人殺しをやったと思われるなら、――僕が彼女を撃ったと思われるなら、それはとんでもない嘘です。僕はあの女にさわったこともないんだから。神かけて、間違いないことです」
話をやめた時、男の顔には、玉のような汗が流れていた。
「ゆうべ、十二時から二時までの間、君はどこにいたかね」
「自室のベッドで寝ていました。同室の友人にきいてくれれば、わかることだ」
「きいてみよう。君はこれでよろしい」
レースは、軽く首をさげて、フリートウッドを帰らせた。
「なるほど」
ポワロは、フリートウッドが出たあと、ドアが閉まるのを待って言った。レースは肩をすくめた。
「あの男は、なかなか、正直にしゃべるよ。興奮はしているが、それは無理もないだろう。アリバイを調べる必要がある。それが決め手になるとは思わないがね。同室の男がねむっていただろうから、その気になれば、抜け出したり、戻ったりすることが出来ただろう。誰か他の人があの男を見かけたか、どうかということになる」
「さよう、それは調べなければならないね」
「次は、犯罪の時間の手がかりとなるようなことを、誰かがききつけたか、どうかという問題だね。ベスナーは、十二時から二時の間におこったと推定している。船客中の誰かが、たとえ、何のためだかは見当つかないとしても、ピストルを発射する音を聞いたかもしれないと考えるのは、無理ではなさそうだ。僕はというと、そのような音は何もきかなかったが、君はどうだった?」
「僕か、僕はまるで、丸太のようにねてしまったからね。何も、何一つ聞かなかったね。麻酔でもかけられたみたいに、ぐっすり、ねむってしまった」
「それは残念。ところで、右舷側の船室の人たちからは、何かきき出したいものだ。ファンソープはすんだから、お次は、アラトン夫人と息子だ。給仕に呼んで来させよう」
アラトン夫人は、元気よくやってきた。しなやかな、ねずみ色の縞のドレスをきている。当惑したような顔付だ。
「ほんとにおそろしくて。とても信じられないんですのよ。何もかもそろった、あんなきれいな人が死ぬなんて。ほんとうとは思われない気がしますわ」
「そうでしょうともね」
と、ポワロは、同情するように言った。
「あなたがこの船に乗っていて下さってよろしゅうございましたわ。誰がやったか、探し出して下さるでしょう。あの気の毒な娘さんがやったのではなくて、ほんとによかったと思います」
「マドモワゼル・ド・ベルフォトのことですか。あの娘がやったのではないと、誰が言ってました?」
「コーネリヤ・ロブソンですの。あの娘は、もうすっかり、夢中になってしまいましてね。こんなはらはらするような事件は、おそらく、後にも先にも、あの子にははじめての事でしょうからね。でも、ああいういい子だものですから、面白がっているのを、ひどく恥じて、自分は何ていう女だろうと考えているんですよ」
アラトン夫人はポワロに目をやってから、つけ加えた。
「こんなおしゃべりしててはいけませんわ。何か私におききになりたいんでしょう」
「それでは、何時におやすみになりましたか」
「ちょうど、十時半すぎていました」
「すぐ、ねむられましたか」
「はあ、ねむかったものですから」
「何か、何でもいいんですが、夜の間にきこえませんでしたか」
アラトン夫人は額にしわをよせた。
「そう、ポチャンと水のはねる音がして、誰かが走って行くのが――あるいは、その逆だったかしら――聞えたような気がします。あまり、はっきりしないんですけど。誰かが河に落ちたんだなと、ぼんやり考えました。むろん、夢だったんですわ。目をさまして、たしかめようとしましたけど、あとはひっそりとしていました」
「何時ごろだったか、おわかりですか」
「いいえ、わかりません。とにかく、ねてからいくらも経っていなかったと思います。一時間かそこらだったでしょう」
「残念ながら、それではあまり、はっきりしませんね」
「そうなんです。でも、ぼんやりとも思い出せないことを、推定しようとしても無理じゃありません?」
「話して下されるのはそれだけですね」
「そうですね」
「以前にミセス・ドイルにお会いになった事はおありでしたか」
「いいえ。息子はお会いしていましたけど。いとこのジョアンナ・サウスウッドから、いろいろと夫人のことはきかされていましたが、口をきいたのは、アスワンでお会いした時がはじめてでした」
「もう一つおききしたいのですが、もしお差支えなければ」
「立ち入った質問をなさっても結構ですよ」
「実はこういうことなのです。あなたが、あるいは御家族の方が、ミセス・ドイルのお父さんにあたる、メルウィシ・リッジウェイの仕事のために、何か経済的な損失をこうむったことはありませんか」
アラトン夫人は、ほんとに驚いたようだった。
「いいえ、いいえ。うちの財政は、次第に細ってきたという以外には、打撃を受けたことはありません。利子が以前に比べ少くなりましたからね。何も大がかりないわくがあって貧乏しているんではありませんのよ。夫の残してくれた僅かばかりのものは、いまだに持っているんですけれど、以前のように利子を産みませんのでねえ」
「ありがとうございました。すみませんが、御令息にここへ来られるようにとお伝え下さい」
ティムは、母親が戻ってくると、気軽に言った。
「お取調べはすんだんですか。今度は僕の番? どんなことをきかれたんですか」
「ゆうべ、何か物音をきいたかどうかということだけ。あいにくなことに、あたしは何もきかなかったんだけど、どうして、聞えなかったのかねえ。リンネットの室は、一つおいて隣りなんだから、どうしても、ピストルの音がきこえたはずだと思うけど。さあ、行ってごらん。あっちで待ってますよ」
ティム・アラトンに対しても、ポワロはさきと同じ質問をした。
ティムは答えた。
「僕は早寝をしました。十時半かそこらでした。ちょっと、本を読んでから、十一時すぎに、灯りを消しました」
「そのあと、何かきこえましたか」
「男の声で、『お休みなさい』と言っているのがきこえました。あまり、離れた所ではなかったと思います」
「それは、僕がミセス・ドイルに挨拶をしていたんだ」
とレースが言った。
「そうですか。そのあと、ねむってしまいましたが、また、あとになって、ガヤガヤいうのがきこえました。誰かがファンソープを呼んでいたのを覚えています」
「ミス・ロブソンが展望室から、とび出した時のことでしょう」
「そうだろうと思います。それから、いろんな人の声がしました。そして、誰かが甲板を走り去り、つづいて、ポチャンという水音。その次は、ベスナー先生が『気をつけて』とか、『あまり、急がないで』とか、どなっていました」
「水音をきいたんですね」
「何かそんなような音でした」
「ピストルの音ではなかったかね」
「そうだったかもしれません。コルクがポンというような音はたしかに聞きましたから、あれがピストルの音だったかもしれません。コルクと、コップに液体を注ぐこととの連想から、水音と思ったのかもしれません。ぼんやりと何かのパーティなんだと思ったんです。みんなが早く引っこんで、静かにしてくれればいいのに、と思いました」
「その後は、他に何か?」
「ファンソープが隣りの室で、乱暴に歩きまわっている音だけでした。いつになったら寝るんだろうと思いました」
「その後は?」
ティムは、肩をすくめた。
「そのあとは、忘却です」
「他に何もきこえなかった?」
「一切、何にも」
「どうもありがとう」
ティムは、立ち上って、室から出て行った。
第十五章
レースはカーナック号のプロムナードデッキの図面をじっと見つめていた。
「ファンソープ、アラトン青年、アラトン夫人、空室、そしてサイモン・ドイルの室。ところで、ミセス・ドイルの室の反対側は誰だったかな。アメリカの老婦人だ。誰かが何かをきいたとすれば、あのお婆さんもきいたはずだ。おきているようなら、ここへ来てもらおう」
ミス・ヴァン・スカイラーが室へ入ってきた。いつもより一段とふけて黄色く見えた。その小さくて黒い目には、針をふくんだ不興の色が浮かんでいた。
レースは立ち上り、お辞儀をした。
「お騒がせして申しわけありません。よく来て下さいました。どうぞおかけ下さい」
「この事件にまきこまれるのは、まっぴらですよ。憤慨にたえません。こんな不愉快な事件に、ちょっとでも、かかり合うのはご免です」
「ごもっとも、ごもっとも。あなたの陳述を伺うのは、早ければ早いほどいいだろうって、ポワロと話していたところなんです。そうすれば、あとの面倒がありませんからね」
ミス・ヴァン・スカイラーは、何やら好意に近いものを示して、ポワロを見た。
「お二人とも、わたしの気持をわかって下さって、よかった。こういうことには、不慣れなものですからね」
ポワロは慰め顔で言った。
「全くです。ですから、できるだけ早く、不愉快な思いから解放してさしあげたいと思うんです。ところで、ゆうべは何時におやすみになりましたか」
「十時がきまった就寝時間なんですが、ゆうべは、少しおそくなりました。コーネリヤ・ロブソンが、人の立場も考えないで待たせるものですから」
「はい、結構です。ベッドに入ってから、何かきこえましたか」
「わたしは、眠りが浅いんですよ」
「そいつはいい。こちらにとっては、まことに好都合です」
「あのいやに派手な娘――ミセス・ドイルの小間使――におこされてしまってね。『お休みなさい』って、あんな大きな声を出さなくともよさそうなものなのに」
「それから」
「また、ねむりました。誰かが室へ入って来たような気がして、目がさめたんですが、隣りの室の事だったのに気がつきました」
「ミセス・ドイルの室ですか」
「そうです。それから、誰かが甲板にいる気配がして、ポチャンという音がきこえました」
「それは何時ごろだったか、おわかりになりませんか」
「はっきりした時刻を申しますと、一時十分過ぎでした」
「たしかですか」
「ええ。ベッドのそばの小さい時計を見ましたから」
「ピストルを発射する音は、きこえませんでしたか」
「いいえ、何もそういった音は……」
「しかし、あなたの目をさましたのは、ピストルを撃つ音だったかもしれないでしょう」
ミス・ヴァン・スカイラーはがま蛙のような頭をかしげて、きかれたことを思いめぐらしてから、しぶしぶと同意した。
「そうかもしれませんね」
「おききになった水音は、何が原因だったかわかりませんか」
「わからないどころじゃない。大知りですよ」
レース大佐は、素早く身をおこした。
「知っていらっしゃるんですって?」
「知ってますともね。ぶらぶら歩きまわる音が嫌だったものですから、起きだして、ドアのところまで行ってみました。オッタボーンさんのお嬢さんが、舟ばたから体を乗り出していました。水中へ何かを落したところでした」
「ミス・オッタボーンが?」
レースはいかにも驚いたようだった。
「ええ」
「オッタボーンさんのお嬢さんに間違いないでしょうな」
「はっきりと顔をみたんですからね」
「むこうじゃあなたに気づかなかったでしょうね」
「気がつかなかったと思いますよ」
ポワロが身をのり出すようにした。
「それで、どんな顔をしていました?」
「ひどく興奮していましたよ」
レースとポワロは素早く目くばせをした。そしてレースがさいそくした。
「それから?」
「ミス・オッタボーンは船尾の方へ行き、わたしはベッドへ戻りました」
ドアをノックする音がして、支配人が入ってきた。その手にはボタボタと雫のたれている包みがにぎられていた。
「大佐、こんなものが手に入りました」
レースがその包みを受けとり、幾重にもまるめられたぬれたビロードを取り除いてみると、出てきたのはかすかに桃色のしみのある粗末なハンケチに包まれた真珠の柄の小型ピストルだった。
レースは勝ちほこったように、少しばかり意地の悪い一瞥をポワロにくれた。
「ほら、僕の考えが正しかったよ。やっぱりピストルは水中へほうりこまれたんだ」
レースはピストルを掌にのせて、言葉をつづけた。
「ポワロ君、君の意見はどうだね。君がその晩、カタラクト・ホテルで見たというのはこのピストルかね」
ポワロは入念にしらべてから、静かに答えた。
「これだ。装飾的な細工がしてあり、J・Bという頭文字が書いてある。上等な品で、いかにも婦人向きに出来ているけれども、人は殺せる」
「二十二口径だ」
と、つぶやいて、レースは挿弾子をとり出した。
「二発撃ってある。そうだ、それに間違いなさそうだ」
ミス・ヴァン・スカイラーはもったいらしく、咳をした。
「わたしの衿巻はどういうことになるんですかね」
「あなたの衿巻?」
「そうですよ。あなたが今、もっていられるのは、わたしのビロードの衿巻です」
レースは雫のたれている丸められた布を拾いあげた。
「これがあなたのですって?」
「たしかに、わたしのものですよ。ゆうべ、それが見えなくなったので、誰か見かけはしなかったかとみんなにきいたんですよ」
ポワロが目でレースに聞くと、レースは軽くうなずいて同意を示した。
「それを最後にご覧になったのはいつでした?」
「ゆうべ、展望室にいた時はあったのですが、寝ようと思って室に戻った時には、どこにも見当りませんでした」
「何につかわれたか、おわかりでしょう」
レースは布をひろげて、小さな焼けこげの跡をいくつか、指し示した。
「犯人は、ピストルを発射する音を消そうとして、この布でピストルをくるんだんです」
「ばかにしてること!」
ミス・ヴァン・スカイラーのしわだらけの頬に血が上った。
「ミセス・ドイルとのおつき合いの程度をきかせていただけるとありがたいのですが」
「前には、全然つき合いがありませんでした」
「でも、何か聞いて知っていられたでしょう」
「むろん、どんな人であるかは知っていました」
「御家庭同士、お知り合いではなかったんですか」
「わたしども一族といたしましては、貴族的であることを誇りにしてきたんでございますよ。わたしの母だったら、ハルツ家の誰かを訪ねるなんて考えもしなかったことでしょうよ。財産をとってしまったら、とるにたらない人たちですものね」
「おっしゃりたいことは、それだけ?」
「今、申しあげたことにつけ加えることは何もありません。リンネット・リッジウェイは、英国育ちでしたから、わたしはこの船に乗るまで、一度も会ったことがありませんでした」
ミス・ヴァン・スカイラーは、こう言って、立ち上った。ポワロがドアを開けてやると、老婦人は元気よく、出て行った。
レースとポワロは目を見合せた。
「以上は、あのお婆さんの陳述だ。これからも、あの通り言い張るだろうよ。ほんとうかもしれん。僕にはわからん。しかし、ロザリー・オッタボーンとは! 夢にも思わなかったがなあ」
と、レースが言った。
ポワロは思いまどったように、頭を振っていたが、やがて、突然、手をテーブルにドシンと置いた。
「それじゃ筋が通らない。畜生! わけがわかりゃあしない」
レースはポワロの顔を見た。
「何の事を言っているんだ」
「ある点までは、全く造作ないと言ってるんだ。誰かがリンネット・ドイルを殺したいと思っていた。誰かがゆうべ、展望室でのさわぎをききつけた。誰かがそこへこっそりしのびこんで、ピストルをもち去った。――それはジャクリーン・ド・ベルフォトのピストルなんだ。誰かがそのピストルでリンネット・ドイルを撃ち、壁にJという字を書いた。実にはっきりしてるじゃないか。ジャクリーン・ド・ベルフォトが犯人だと指摘することばかりだ。そして、そのあと、犯人は何をしたか? そのピストル、ジャクリーン・ド・ベルフォトのピストルを、たやすく人目につくように放りだしておいたかというと、そうではない。その男――あるいは女――は、ピストルを水中にすててしまった。その特別な証拠品を、いったい、どういうわけなんだろう、ねえ、大佐」
「おかしいね」
「おかしいどころじゃない。そんな事は不可能だ」
「実際におこったところをみれば、不可能じゃない」
「いや、僕の言うのは、そういう意味じゃないんだ。事件の筋道はそう運べっこないというのさ。何かが間違っているんだ」
第十六章
レース大佐は、不思議そうに同僚をちらりと見た。エルキュール・ポワロの頭を尊敬していたのだが、――それには理由があった――今の場合はポワロの推理に従わなかった。と言って質問するでもなかった。もっとも、レースは、めったに質問しない男だった。彼は、まっすぐに手近な事にとりかかった。
「次にすることは? オッタボーンという娘を尋問するか」
「そうだね、それで少しは進展するかもしれない」
ロザリー・オッタボーンは不愛想に入ってきた。心配したり、おそれたりしている様子はさっぱり見られず、ただ、しぶしぶと不機嫌そうであった。
「あのう、何の用事ですか」
「ミセス・ドイルの死を取調べ中なんです」
と、レースが答弁者となって説明すると、ロザリーはうなずいた。
「ゆうべの行動について、話してくれませんか」
「母とあたしは、早く――十一時前に――床に入りました。ベスナー先生のお室の外が少し騒がしかった以外には、特に何も聞えませんでした。老先生のドイツ語がだんだん遠くなるのは聞えましたが、今朝になるまで、何の事か知りませんでした」
「銃声は聞えませんでしたか」
「いいえ」
「ゆうべは、ちょっとでも、お室を出られたことがありますか」
「いいえ」
「たしかですね」
ロザリーはレースの顔をじっと見た。
「どうして、そんな事をおっしゃるの? むろん、たしかですわ」
「たとえばですね。船尾の方へ行って、水中に何かを投げこむというようなことはしませんでしたか」
ロザリーの顔が赤くなった。
「水中に物を投げこんではいけないという規則でもありますか」
「いいや、ありゃしませんよ。すると、あなたは、投げこんだのですね」
「いいえ。室を出た事はないと申しあげたでしょう」
「それじゃ、もし、誰かがあなたを見かけたと言ったら……」
ロザリーはレースの話をさえぎった。
「誰がそんな事を言うのですか」
「ミス・ヴァン・スカイラーです」
「ミス・ヴァン・スカイラーが?」
ロザリーは心から驚いたようであった。
「そうです。ミス・ヴァン・スカイラーは、船室からのぞいたら、あなたが船ばたから、何か投げこんでいたというのです」
「大嘘だわ」
ロザリーははっきりと言ったが、急に思いついたように尋ねた。
「何時ごろだったんでしょう」
「一時十分過ぎでしたよ」
ポワロが答えるとロザリーは考え深くうなずいた。
「他にも何か見たんでしょうか」
ポワロはけげんそうにロザリーの顔をみて、顎をなでた。
「見たかって? いや、いや。ただ、何か聞いたそうだ」
「何を聞いたんでしょう」
「誰かがミセス・ドイルの室を歩きまわっていたのを……」
「わかりましたわ」
ロザリーの顔は青ざめて――もう、まっさおだった。
「あなたは、水中へ何も投げこまなかったと、あくまで言うのですね」
「いったい、何だって、あたしが真夜中に、かけまわって、水の中へ物を投げこむような事をする必要があるんでしょう」
「何か理由が、たわいない理由があるかもしれない」
「たわいないですって?」
ロザリーは鋭くきき返した。
「そうです。ゆうべ、ある物――たわいがないとは言えないものですがね――が、水中へ投げこまれたんですよ」
レースはしみのついたビロードの包みを、無言のままさし出して、中味を見せようとして、解いた。
ロザリー・オッタボーンは後ずさりした。
「それで殺されたんですか」
「そうです」
「そして、あたしが、あの、あたしがやったと思ってらっしゃるのね。ばからしいにも程がありますわ。何だって、あたしがリンネットを殺したがりましょう。あの人を知りもしないというのに」
ロザリーは笑ってから、苦々しそうに立ち上った。
「はじめから終までばかばかしくて、話にもなりませんわ」
「いいですか、ミス・ヴァン・スカイラーは、月あかりであなたの顔をはっきり見たという証言をする用意があるんですよ」
ロザリーは、また、笑った。
「あの意地悪婆さんめ。半分めくらなんでしょうよ。あの人が見たというのはあたしじゃありませんからね」
間をおいてロザリーはきいた。
「もう帰ってよいでしょうか」
レースがうなずいたので、ロザリー・オッタボーンは室を出て行った。
レースとポワロの目が会った。レースはタバコに火をつけた。
「やれ、やれ、あれでおしまいと。真向からの否認だ。どっちの言うことがほんとうなんだ」
ポワロは首をふって、言った。
「どちらも、ほんとのところを言わなかったのじゃないかな」
「それが何より困るんだ。全くつまらない理由で本当のことをかくしておく人がいかにも多いんでね。さて、次の手段は? 船客の尋問をつづけるか?」
「それがいいね。順序、筋道をたててやれば、間違いない」
レースはうなずいた。
オッタボーン夫人が、ひらひらとした、蝋染めの服をきて、やってきた。
ロザリーの陳述を裏書きするように、オッタボーン夫人は自分たちは十一時前に床に入ったと言った。そして、自分は夜の間に何も面白い音を耳にしなかったけれども、ロザリーが室から出て行ったかどうかは、わからないと述べた。犯罪については、弁じたくてたまらないところだったから、まくしたてた。
「痴情沙汰ですよ。人を殺すのは、性本能と密接な関係のある原始的本能ですわ。ジャクリーンという娘さんはラテン系で熱しやすいから、本能の動くがままにピストルを手にして、こっそりしのびこんで……」
「でも、ジャクリーン・ド・ベルフォトが、ミセス・ドイルを撃ったんじゃないんですよ。それは確かなんだ。証明ずみで……」
ポワロが説明すると、オッタボーン夫人はくつがえされた自信をとり戻して言った。
「それじゃ、御主人ですよ。情欲と性本能――性犯罪ですわ。いくつも有名な例がありますけど」
「ドイル氏は足を撃たれて、とても動けなかったんですよ。骨折です。それで、夜中、ベスナーさんといっしょにいました」
レース大佐が説明した。それをきいて、一層、失望したミセス・オッタボーンは何かよい考えはないかと、思いめぐらした。
「そうでしたわ。あたしときたらぼんやりして、ミス・バワーズですよ」
「ミス・バワーズが?」
「そうですわ。当然至極。心理学的にはっきりしていますもの。抑圧ですよ。抑圧された処女! 若い夫婦がはげしく愛し合っているのを見て、血迷ったんですね。ミス・バワーズですよ。いかにも、そう言ったタイプですわ。性的な魅力にかけていて、生れつき、品行がよいというのですから。『実を結ばぬ蔓《つる》』という、わたしの著書に……」
レース大佐が上手に話をさえぎった。
「きかせて下さったことは大へん参考になりました。仕事をつづけなければなりませんのでこの辺で。どうもありがとうございました」
レースはミセス・オッタボーンをいんぎんに入口まで見送り、額の汗をふきながら戻ってきた。
「何という毒のある女だ。あきれたよ。あいつこそ、誰かが殺せばいいのに」
「これからそんな事になるかもしれないよ」
ポワロはこう言って慰めた。
「そうなっても無理はなさそうだね。残っているのは誰だ? ペニングトンか、これは一番あと回しにしよう。リケッティ、ファガソン」
リケッティ氏はひどく興奮して、ペラペラとまくしたてた。
「それにしても何というおそろしい事だ。破廉恥だ。あんなに若く、美しい女のひとを……非人道的な犯罪だ」
リケッティ氏はしゃべりながら、手をさかんにふり回し、きかれた事は次々と答えた。
「ゆうべは早くからベッドに入ってしまいましてね。夕食後すぐでしたよ。最近、出版された面白いパンフレットをしばらく読んでいました。アナトリヤの丘陵から出た色つきの土器に全く新しい説明を加えている本です。十一時少し前に灯りを消しました。音ですか? いいえ、何もきこえませんでしたよ。コルクを抜くような音など何も。きこえたことといったら――ずっとあとになって、真夜中の事でしたけど、ポチャンという音、それも大きな音が、自分の室の舷窓の近くできこえました」
「あなたのお室は、下甲板の船尾寄りでしたね」
「そうです。それで水のはねる大きな音がきこえたんです」
「何時ごろのことか教えて下さいませんか」
「僕がねてから、一時間、二時間、三時間、経っていましたかな。二時間かもしれない」
「と言うと、一時十分ごろでは?」
「そう、そんなところかもしれません。しかし、何というおそろしい犯罪なんだろう。何と非人道的な……。あんなにかわいらしい婦人が……」
リケッティ氏は出て行った、尚も、手ぶりをつづけながら。
レースは、ポワロの顔を見た。ポワロは、ことさらに、眉をあげ、肩をすくめた。次は、ファガソンに移った。
ファガソンは、扱いにくかった。彼は、横柄に、足をつき出して腰をかけたが、冷笑するように言った。
「とんだ騒ぎですな。いったい、どうしたというんです。世の中には、うんとよけいな女がいるのに」
「ゆうべのあなたの行動を説明してくれませんか」
「何でそんな必要があるんです? まあ、どうでもいいや。かなり、ぶらつきました。ミス・ロブソンと岸へ上り、彼女が船へ戻ってからは、しばらく、ひとりでぶらつきました。それから、船へ戻り、真夜中ごろ、床に就きました」
「お室は下甲板の船首寄りでしたね」
「さよう、えらい方々といっしょではありませんのでね」
「銃声はきこえませんでしたか。コルクを抜くような音ぐらいにしか響かなかったかもしれませんが」
ファガソンは思案してから、答えた。
「そうですね。コルクを抜くような音がきこえたような気がします。何時ごろかは覚えていませんが、寝つく前だったでしょう。そのころはまだ、たくさんの人がいて、上の甲板では、ガヤガヤいう音や、走りまわる音がきこえていましたよ」
「それは、おそらく、ミス・ベルフォトが撃った音だったのでしょう。もう一つの音はきこえませんでしたか」
ファガソンは首をふった。
「水音も?」
「水音? そういえば、たしかにきこえたように思うけど、何しろ騒がしかったので、はっきりとは言えません」
「夜の間に室をはなれましたか」
「いや、はなれませんでした。あいにく、とんだ仕事にはかかり合いませんでしたよ」
「さあ、さあ、そんな子供っぽいことは止めて」
ファガソン青年は憤慨して、食ってかかった。
「何故おもっていることを言ってはいけないんです? 僕は暴力を肯定しているんだ」
「しかし、まさか、口で言っていることを、実行に移しやしないでしょう」
ポワロはこうつぶやいてから、身をのり出した。
「リンネット・ドイルが英国有数の金持ちだと言ったのは、あのフリートウッドという男でしょう」
「フリートウッドとこの事件と何の関係があるんです?」
「あの男にはリンネット・ドイルを殺害する格好な動機があるんですよ。ドイル夫人にひどい恨みを持っているんでね」
ファガソンはゼンマイ仕かけの人形のように、椅子をはなれた。
「なるほど、それがあなたたちの卑怯な手なんだな。自分の立場を弁じる事が出来ず、弁護士を頼もうにも金のないフリートウッドのような気の毒な奴に、罪をおっかぶせるなんて。しかし、僕はこれだけは言っておきますよ。この事件をフリートウッドの故にするんなら、この僕が相手になりますから」
「そんな事を言って、君はいったい、何者なんです?」
ポワロが静かにきくと、ファガソンは顔を赤くして、ぶっきらぼうに答えた。
「僕は、とにかく、友人を裏切る事は出来ないんだ」
「うむ、われわれが目下、必要とするのは、正にそれだと思うな、ファガソン君」
レースが言った。
ファガソンが室を出てしまってから、レースが口に出したのは、意外な言葉だった。
「なかなか好もしい若僧だ」
「星はあの男ではないと思うんだね」
「どうもあの男とは思えないね」
第十七章
アンドルー・ペニングトンは、こう言った場合に見られるありきたりの悲しみと驚きを、あますところなく示していた。例によって、服装に気を配り、ネクタイは黒いのにかえていた。きれいに剃った、細長い顔には、当惑の表情が浮かんでいた。
「今度の事件には全く参りました。リンネット譲さんはほんとにかわいらしい子供のころを覚えているので、ついこんな言葉が出ましたが、お父さんのメルウィシ・リッジウェイの御自慢だったものです。そんなことを言い出しても仕方がありませんがね。わたしはどうすればよいのか、お教え願いたいもので――伺いたいのは、そこです」
と、ペニングトンが悲しそうに言うと、レースが答えた。
「先ずはじめに伺いますが、ゆうべ、何かきこえましたか」
「いいえ、そんなことはありませんでした。わたしの室はベスナー博士の三十八号――九号室のすぐ隣りですが、真夜中ごろ、隣りで騒ぎがきこえました。しかし、その時は、それが何なのか知りませんでした」
「他に何かきこえませんでしたか。銃声は?」
アンドルー・ペニングトンは首をふった。
「そういった音は何にも」
「お休みになったのは?」
「十一時少し過ぎだったにちがいありません」
それからペニングトンは身をのり出した。
「いろいろの噂が船客の間に流れていると聞いても、珍しくは思われないでしょうが、あのフランス人のあいの子、ジャクリーン・ド・ベルフォトには、怪しいところがありますよ。リンネットはわたしに何も言いませんでしたが、わたしだって、めくらやつんぼに生れついたわけではありませんからねえ。リンネットとサイモンとの間には、何か事件があったんではありませんか。『女を探せ』というのは、もっとも至極な方針ですが、探しまわるには及ばないんじゃありませんか」
「というと、ジャクリーン・ド・ベルフォトがミセス・ドイルを撃ったと思っていられるんですね」
ポワロがきいた。
「そんなふうに思われますね。むろん、わたしは何も知らないんですけれど」
「あいにく、われわれにはわかっていることがあるんですよ」
「ええ?」
ペニングトンは、びっくりしたようだった。
「ミス・ベルフォトが、ミセス・ドイルを撃つことは不可能だったという事情がわかっているんです」
ポワロはこう言って、その事情を注意深く説明したが、ペニングトンはそれを信じたくないようだった。
「上べだけ見ると、その通りらしいけど、その看護婦というのが、一晩中、目を覚ましていたとは思えませんがね。うとうととしている間に、娘はこっそりとぬけ出し、また、舞い戻ったというところでしょう」
「それはむりだ。ジャクリーンには強い麻酔がかけてあったんだから。とにかく、看護婦という者は目ざとくて、患者が目を覚している間は、自分もおきているくせがついているものですよ」
「わたしにはその話がどうやら、怪しく思えますがねえ」
レースは静かな厳とした態度で言った。
「われわれが、あらゆる可能性を注意深く調べてみたということを、わたしの口から申しあげましょう。その結果は、ジャクリーン・ド・ベルフォトがミセス・ドイルを撃ったのではないことがはっきりしました。したがって、それ以外の所へ目を向けなければならないわけですが、そこであなたの力をお借り出来たらと思うのです」
「わたしの?」
ペニングトンはハッとして言った。
「そうです。あなたは亡なった夫人と親しくしていられたのですから、おそらく、彼女の夫よりもよく、その境遇を御存じでしょう。ドイル氏は、彼女を知ってから、まだ、ほんの数ヵ月しか経っていないんですから。たとえば、彼女に恨みを抱いていた人とか、彼女の死を望む動機を持っていた人とかを知っていらっしゃるでしょう」
アンドルー・ペニングトンはかわいたような唇をなめた。
「全く見当もつきませんが。リンネットは、英国で育てられたものですから、彼女の環境や交際については、さっぱりわからないんです」
「しかし」
と考えながら、ポワロは言った。
「ミセス・ドイルを除きたいと思う人がこの船に乗っていたんだ。ちょうど、この場所で彼女が危く命拾いしたことがありましたね。大石が落ちてきた時ですが。あの場には、あなたは居合せませんでしたかね」
「わたしは、あの時、寺院の中にいたものですから。あとでは、むろん、その事をききましたけれど。危い所でしたね。でも、あれは事故だったとお思いになるのでしょう」
ポワロは肩をすくめた。
「あの当時はそう思いましたがね。今は果してどうかしらと思っています」
「そうでしょうな」
ペニングトンはうすい絹のハンケチで、顔をふいた。
レース大佐が言葉をつづけた。
「この船には、彼女個人に対してではなく、彼女の一家に恨みを抱いている人が乗っていると、ドイル夫人がちらりともらしたことがあるんですがね。それが誰であるか、おわかりでしょうか」
ペニングトンはほんとに困ったような様子だった。
「いいえ、見当もつきませんが」
「ドイル夫人はその事を、あなたにもらされた事はありませんでしたか」
「いいえ」
「あなたは、夫人のお父さんと親しくしていられたんだが、その事業の中で、商売仇を失脚させるもとになったと思われるものを、覚えていらっしゃいませんか」
「特に目立った件は、覚えがありませんね。むろん、そういう事業はいくつもありましたがね。脅迫などした人は思い出せません」
「つまり、力をかしていただけないわけですね」
「非力で残念ですが、お手伝いできそうもありません」
レースはポワロと目くばせしてから、答えた。
「こちらも残念に思います。期待していたものですから」
面接の終ったしるしに、ポワロは立ち上った。
ペニングトンが言った。
「ドイル氏が床についているとすると、わたしが万事とりはからうことを望んでいるのではないでしょうか。大佐、すみませんが、予定ははっきりしたところ、どうなっているのでしょうか」
「ここを発ってから、シェラールまで直行し、明日の朝、着くはずです」
「遺体は?」
「冷蔵室のどれかへ移します」
アンドルー・ペニングトンはお辞儀をして、室を出て行った。ポワロとレースは、また、視線を交わした。
「ペニングトンは落着きがなかったな」
と、レースがタバコに火をつけながら言うと、ポワロはうなずいた。
「それに、大分、心が動揺していたとみえ、つまらぬ嘘を言ってたな。石がころがってきた時には、あの男は、アブ・シムベル寺院にはいもしなかったのに。それは、僕が証言できる。僕はそこから帰ったばかりだったのだから」
「全くばかな嘘だ。すぐばれてしまう嘘だ」
「しかし、差当っては、慎重な扱いをしておくんでしたね」
「その通り」
「君と僕とは、不思議なくらいお互いの気持がわかるね」
かすかな、きしるような音がして二人の立っている床がゆれた。カーナック号がシェラールへ向って、帰路についたのである。
「次に解決しなければならないのは、真珠だ」
と、レースが言った。
「計画でも?」
「うん」
と、レースは腕時計をチラリとのぞいて言った。
「三十分もすれば、お昼だ。食事がすんだところで、僕が声明を発表する、――真珠が盗まれた事だけを述べて、捜査がすむまで、誰も食堂から出ないで下さいと言ってみよう」
「なるほどね。よく考えたね。真珠を盗んだ人は、まだ、それを持っているだろうが、前ぶれなしにやれば、あわてて、水中へ投げる機会もないだろう」
レースは何枚かの紙を自分の方へ引寄せて、弁解がましく、つぶやいた。
「僕は経過につれて、事実の簡単な要約を作るのが好きでね。そうしておくと、頭がこんぐらからないですむものだから」
「それは結構だ。方法と順序が何より大事だからね」
レースは、しばらくの間、きれいな、こまかい字でかいていたが、最後にその書いたものをポワロの方へ押してよこした。
「何か君と意見のちがうところがあるかな」
ポワロが紙をとりあげてみると、
ミセス・リンネット・ドイルの
殺害事件
と、題がついていた。
生前のミセス・ドイルは、小間使のルイーズ・ブールジェが見かけたのが最後だった。時刻、十一時半ごろ。
十一時半から十二時までの間のアリバイのあるのは、コーネリヤ・ロブソン、ジェイムズ・ファンソープ、サイモン・ドイル、ジャクリーン・ド・ベルフォト。以上の者のみ。しかしながら、犯行の行われたのは、その時刻以後であることは、ほとんど、確実と思われる。理由は、使用されたピストルがジャクリーン・ド・ベルフォトのものであって、それはその時刻には、彼女のハンドバックの中にあったことが、ほぼ間違いないからである。彼女のピストルが使用されたということは、検死と鑑定がすむまでは絶対に確実とはいえないが、十中八、九まではそうらしく思われる。
事件の予想される経路。犯人Xは、展望室でのジャクリーンとサイモン・ドイルのさわぎを目撃し、ピストルが長椅子の下のどの辺にあるか、気づいていた。室に誰もいなくなると、Xはピストルを手に入れた、――ジャクリーン・ド・ベルフォトに嫌疑がかかるだろうというのが、Xの考えであった。この論で行くと、自動的に嫌疑をまぬがれる人がある。つまり、コーネリヤ・ロブソン。ジェイムズ・ファンソープがピストルを探しに戻る前に、それをとる機会がなかったから。
ミス・バワーズ。同じ理由。
ベスナー医師。同じ理由。
注、ファンソープは、ピストルが見つからないと言っていた時に、実際は、取ろうと思えば取れたのであるから、決定的に嫌疑をまぬがれるわけではない。
以上の者以外は、その十分間に、ピストルを取る事が出来たはずである。
殺人の動機として考えられるのは、
アンドルー・ペニングトン。以前にも詐欺的行為があったと想定しての事である。この想定を支持する証拠はあるが、彼に不利なように申し立てるには、十分でない。大石をころがしたのがペニングトンであったとしたら、彼は、とびこんで来るチャンスをつかむのがうまい人だ。大ざっぱには考えてあったとしても、今度の犯罪は計画的なものではない、ゆうべのピストル発射さわぎは、おあつらえむきのチャンスだった。
ペニングトン犯人説の反対。J・Bにとって不利な手がかりとなる貴重なものを、なぜ水中に投げすててしまったのか。
フリートウッド。動機、復讐。フリートウッドは、リンネット・ドイルに傷つけられたと思っているので、騒ぎをききつけ、ピストルの位置に注目したかもしれない。ジャクリーンに罪をなすりつけるというよりも、手ごろな凶器として、あのピストルを取ったものと思われる。これは、ピストルを水中に投げこんだことと、符合する。しかし、それならば、何故、壁に血でJという字を書いたのだろうか。
注、ピストルと共に発見された安物のハンケチは、裕福な船客の誰かれよりも、フリートウッドのような男の持ちものらしい。
ロザリー・オッタボーン。ミス・ヴァン・スカイラーの証言を取るか、ロザリーの否定を受け入れるか。その時刻に、何かが水中に投げられた、そして、その何かはビロードの衿巻にくるまれたピストルであったと思われる。
注目すべき点。ロザリーに動機があったろうか。リンネット・ドイルを憎み、羨ましいとさえ思っていたかもしれない、しかし、それは、殺人の動機としては、極めて不適当である。妥当な動機が見つからなければ、彼女に不利な証言はうなずけない。われわれの知る限りでは、ロザリー・オッタボーンとリンネット・ドイルの間には、かねてからの面識とか、つながりはなかった。
ミス・ヴァン・スカイラー。ピストルをくるんであったビロードの衿巻は、ミス・ヴァン・スカイラーの所有物である。本人の言うところによると、衿巻は展望室で見たのが最後であったという。宵のうちに、その紛失に気づき、探したが徒労に終った。
衿巻は、どういう経路でXの手に入ったか。Xはそれを夕方、盗んだのであろうか。もしそうだとすれば、なぜであるか。ジャクリーンとサイモンの間に騒ぎがもち上るだろうということは、誰も前もってわかるはずはない。Xは、長椅子の下からピストルを取り出しに行った時に、展望室で衿巻を見つけたのだろうか。だとすると、ヴァン・スカイラーが探した時に見つからなかったのはなぜか。|ミス《ヽヽ》・|ヴァン《ヽヽヽ》・|スカイラーの手もとを離れた事がなかったのだろうか《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。つまり、ミス・ヴァン・スカイラーがリンネット・ドイルを殺したのだろうか。ロザリー・オッタボーンを非難したのは、故意の嘘だったろうか。もし、ミス・ヴァン・スカイラーが下手人とすると、その動機は何であったか。
その他の可能性。
動機としての盗み。あり得る、――真珠が姿を消し、一方リンネット・ドイルがゆうべ、身につけていたことはたしかなのだから。
リッジウェイ一族に恨みを抱く者。あり得る、――これも証拠なし。
船中に危険人物――殺人者――がいることはわかっている。殺人者と死亡者がいるのだが、この二つを結びつけてよいだろうか。しかし、われわれは、リンネット・ドイルが、この男について危険な知識を持っていたことを、示す必要がある。
結論。
乗船者を二つのグループにわけることができる。可能な動機を持つとか、はっきりした証拠のある人たち、及び、わかっている限りでは、嫌疑の外にある人たちにわけられる。その第一群に属するのは、アンドルー・ペニングトン、フリートウッド、ロザリー・オッタボーン、ミス・ヴァン・スカイラー、ルイーズ・ブールジェ(盗み?)、ファガソン(政治的)
第二群は、
アラトン夫人
ティム・アラトン
コーネリヤ・ロブソン
ミス・バワーズ
ベスナー医師
リケッティ
オッタボーン夫人
ジェイムズ・ファンソープ
ポワロは、書類を押し戻した。
「そこに書いてあることは、正にその通り、正確である」
「君もそれに同感するかね」
「するよ」
「ところで、君がつけ加える事のできるのは?」
ポワロは、意味あり気に立ち上った。
「僕は自分に対して一つの疑問を提起する。『なぜ、ピストルが水中に投げこまれたか』」
「それだけかね」
「差し当っては、それだけだ。その疑問に対する満足な解答が得られない限り、全くわけがわからない。そこが出発点にちがいない。君は、現状を取りまとめたものの中で、その点に解答を与えようとしなかったね」
レースは肩をすくめて、言った。
「狼狽」
ポワロは首を横にふった。ぬれて、くしゃくしゃになったビロードをつまみあげ、テーブルの上で平にのばしてから、ポワロは焼焦げのあとと穴を、指先でさがした。そしていきなり、言った。
「ねえ、君、君の方が火器のことはくわしいんだが、こんなものでもピストルをくるむと音を消すのに役立つんだろうか」
「いや、大したことはないね。たとえば消音装置のようにはいかない」
ポワロはうなずいて、話をつづけた。
「男なら――火器をさんざん扱ったことのある男なら、間違いなく、そんな事はわかっているだろうが、女にはわからないだろうね」
「おそらく、そうだろうね」
「そうなんだ。女が推理小説を読むとすれば、こまかい点について、厳密に書いてないようなものでも読むからね」
レースは指先で、小さな真珠の持ち手のついたピストルをはじいてみた。
「こいつは、どっちみち、大した音をたてないよ。ポンというだけだ。何か他のうるさい音が近くにあれば、ほとんど気づかないだろう」
「僕もその事を考えた」
ポワロはハンケチをつまんで、しらべた。
「男持ちだが、紳士向きじゃないな。ウールワース級だろうな。せいぜい、三ペンスというところか」
「フリートウッドのような男の持つハンケチだろう」
「そうだね。アンドルー・ペニングトンは上等の絹のハンケチを使っているよ」
「ファガソンは?」
「使うかもしれないね。一種の見栄だね。但し、それには、模様のある大番のハンケチでなくてはなるまい」
「ピストルをにぎる時に、手袋がわりにして、指紋を残さないようにするつもりだったんだね」
レースはこっけいめかして、つけ加えた。
「『赤いハンケチの手がかり』か」
「そうだね。若い娘の色じゃないか」
ポワロは、ハンケチを下において、衿巻の火薬のあとを、もう一度しらべにかかった。
「やっぱり、おかしい……」
「何がだね」
「気の毒なドイル夫人。あんなに安らかに横たわって……。頭に小さな穴があいている。生きていた時の様子を覚えているかね」
レースは、不思議そうに、ポワロを見た。
「君が僕に何か言おうとしているような気がするんだが、どんな事やら、見当もつかないんだよ」
第十八章
ドアをたたく音がした。
「お入り」
レースが声をかけると、給仕が入ってきた。
「失礼いたします。ドイルさんがあなた様にお会いしたいと言っていらっしゃるのですが」
給仕はポワロに向って言った。
「行こう」
と言って、ポワロは立ち上った。室を出て、昇降口の階段を上って、上甲板へ、そして、ベスナー医師の室へと足を運んだ。
サイモンは熱のため顔を上気させて、枕を支えに身をおこしていた。みれば、ドギマギしたような様子である。
「ようこそ、お出で下さいました。あの――申しあげたいことがございまして」
「ああ、そうですか」
サイモンの顔は一層あかくなった。
「それは、あの――ジャッキイのことなんです。あれに会いたいのですが、ここへ来るように言っていただけましょうか。言っていただいたら、あの人はきてくれるでしょうか。寝ながら考えていたのですが、あのかわいそうな子は、――まだ、ほんとに子供なんです――僕、あの子に、ほんとに悪いことをしてしまって」
つかえつかえしゃべっていたが、しまいにはだまってしまった。ポワロは関心をもって、サイモンを眺めた。
「ジャクリーンに会いたいと言うんですね。よんできましょう」
「ありがとう。ほんとにすみません」
ポワロはジャクリーン・ド・ベルフォトを探しに行った。ジャクリーンは、展望室の隅っこで身体をちぢめていた。膝の上には開いた本がのっていたが、彼女はそれを読んでいたのではない。ポワロは、静かに声をかけた。
「僕といっしょにお出でなさい。ドイルさんがあなたに会いたがっていますよ」
ジャクリーンは驚いてとび上った。さっと顔が赤くなったが、また、青ざめた色になった。途方にくれた様子である。
「サイモンが? あたしに会いたいんですって? このあたしに?」
彼女の懐疑心が動揺するのをポワロは見てとった。
「いらっしゃいませんか」
「あたし、あの、むろん、参ります」
ジャクリーンは子供のように、――それも途方にくれた子供のように――おとなしく、ポワロについて行った。ポワロは室の中へ入った。
「さあ、つれてきましたよ」
つづいて入ったジャクリーンは立ちすくみ、じっとしていた。物も言わずに、つったったまま、目はサイモンの顔に注がれていた。
「やあ、ジャッキイ!」
サイモンもうろたえて、言葉をつづけた。
「よくきてくれたね。言いたいことがあったんだ、実は……」
ここまで言いかけた時、ジャッキイがさえぎるようにして、息をつく間もないほど一気にしゃべった。
「サイモン、リンネットを殺したのは、あたしじゃないわ。あたしがやったんでないこと、わかって下さるわね。ゆうべは、あたし、気ちがいじみた事をしてしまって。ねえ、ほんとにゆるして下さる?」
今度はサイモンも前よりすらすらと物が言えた。
「もちろんさ。あれはいいんだよ。ほんとにいいんだ。僕が言いたかったのは、その事なんだ。君がちょっと、気にかけているだろうと思ってね」
「気にかけてですって? 少し? まあ、サイモン!」
「その事で君に会いたかったんだよ。ほんとに何ともないんだ、いいかい? 君、ゆうべは少し興奮していただけだよ、ちょっぴり、酔ってたからね。みんな、当り前の事だったんだ」
「サイモン! あたし、あなたを殺したかもしれなかったのに」
「いや、それは大丈夫だ。あんな小さなピストルではむりだよ」
「あなたの足! ひょっとすると、もう、歩けるようにはならないかもしれない!……」
「ジャッキイ、めそめそしちゃだめだよ、いいかい。アスワンに着き次第、X光線を使って、弾薬をとり出すことになっている。それで、万事うまく行くよ」
ジャクリーンはこみあげて来るのを、二度、ぐっとおさえた。それから、サイモンのベッドにかけよって、膝をつき、顔を埋めてすすり泣いた。サイモンは固くるしく、ジャクリーンの頭を軽くたたいた。彼の目がポワロの目と合うと、ポワロは止むを得ないと言ったため息をもらして、室を出て行った。とぎれとぎれのつぶやきをききながら。
「あたし、何だって、あんな悪魔みたいな事が出来たんでしょう。ほんとに、申しわけなくて……」
外では、コーネリヤ・ロブソンが手すりにもたれていたが、くるりとこちらを向いた。
「まあ、ポワロさんでしたの? こんないいお天気になるなんて、何だかおそろしいみたい」
そう言われて、ポワロは空を見あげた。
「陽が照っている時には、月は見られない。しかし、陽が沈んでしまうと……」
コーネリヤは口を大きく開けた。
「何とおっしゃいました?」
「太陽が沈んでしまえば、月が見える、と言おうとしたんですよ。そうだろう?」
「むろん、それは、その通りですわ」
コーネリヤがいぶかし気に顔を見たので、ポワロは、静かに笑った。
「僕はくだらない事を口に出すことがあるんだが、気にかけないで下さい」
ポワロは静かに船尾の方へ歩きだしたが、隣室の前を通る時、一瞬、立ち止った。
中からは、とぎれとぎれの言葉がきこえた。
「ほんとに恩しらず――あんなにあんたのためにしてあげたのに――このあわれなお母さんのことは、ぜんぜん考えもしない――あたしがどんなに苦しんでいるか、ちっともわからない……」
ポワロは唇を固くなるほど噛みしめて、手をあげると、ドアをたたいた。
ピタリと話し声が止み、オッタボーン夫人の声がきこえた。
「どなた?」
「ロザリーさんはいらっしゃいますか」
ロザリーが入口に姿を現わした。その様子を見て、ポワロはびっくりした。彼女の目のまわりには、黒いくまができ、口のまわりは、引きつってしわがよっていたからである。
「何ですか。御用は?」
ロザリーは不愛想に言った。
「ほんの四、五分、お話したいと思いましてね。きてくれませんか」
ロザリーはすぐに、口をゆがめ、うさんくさそうにポワロを見た。
「なぜ行かなければならないんですか」
「お願いをしているんです」
「あのー、あたし……」
ロザリーは背後のドアを閉めて、甲板に進み出た。
「それで?」
ポワロは静かにロザリーの腕をとって、船尾の方に向って、甲板を歩き出した。浴室の前を通り、角をまがると、船尾のデッキには、ポワロとロザリーの二人だけになった。二人の背後では、ナイル河が流れていた。
ポワロは肘を手すりにかけ、ロザリーは固くなって、まっすぐに立っていた。
「それで?」
と、もう一度くりかえしたロザリーの声は、やはり不愛想だった。
ポワロは、一語一語に気をつけて、ゆっくりとしゃべった。
「あることを尋ねようとすれば、尋ねられますが、それらに対して、あなたが答えることに同意して下さるとは、どうしても思えないのです」
「それじゃ、あたしをここまで引っぱり出しても無駄なようですね」
ポワロはゆっくりと、指先で木の手すりに線を引いた。
「あなたは自分の重荷に堪えることになれてしまっているけれど、いつまでそれがつづくものじゃない。重い負担はしょいきれなくなるものです。あなたにとって、荷がかちすぎてきている」
「何の事を言っていられるのかわかりませんわ」
「事実、わかりきったみにくい事実を言っているんですよ。はっきりと簡単に言ってみると、あなたのお母さんは酒飲みだ」
ロザリーはそれに答えなかった。一旦、口を開いたが、また、閉じてしまった。この時だけは、ロザリーも途方にくれたようだった。
「あなたはしゃべるには及ばない。僕が引受けるから。アスワンで、あなたとお母さんの関係に興味をひかれてみていると、あなたが一生懸命に親を親とも思わないような口のきき方をしているにもかかわらず、ほんとうはお母さんをあるものからかばおうと努めていることがすぐにわかった。やがて、その『あるもの』の正体もつきとめた。それからずっと経って、ある朝、お母さんが紛《まご》う方なくよっぱらっているのをみかけたことがある。おまけに、あなたのお母さんのは人にかくれて飲みふけるもっとも扱いにくい酒ぐせだということもわかった。あなたがいくら雄々しくその悪癖と戦っても、お母さんはそういう酒飲みの手管を知っていて、こっそりと酒を手に入れては、たくみにあなたの目のとどかない所へかくしていた。だから、昨日になってはじめて、あなたがそのかくしてある場所に気付いたとしても当然だと思う。それで、あなたはゆうべ、お母さんがぐっすり寝こんでしまうのを待って、かくしてあったものをこっそりと持ち出し、反対側の甲板に行って――というのは、あなたの室の側は岸に接しているから――ナイル河へ投げすてたというわけだ」
ポワロは一休みして、言った。
「僕の言った通りでしょう」
「ええ、おっしゃった通りです」
ロザリーは急に激しい調子で言った。
「あたし、その事を言わないでばかでしたわね。でも、みんなに知れるのが嫌だったんです。船中にひろがってしまいそうで。そして、あんまりばからしく思われ――あたしが――」
「殺人の嫌疑をかけられるなんて、あんまりばからしいと言うんですね」
ポワロが代りに言ってやると、ロザリーはうなずいた。
「人に知られないように、あたし、一生懸命だったんです。母が悪いんじゃないんですもの。母は悲観していたんですわ。本がちっとも売れなくなってしまったので。くだらないセックスを扱ったものが、世間であきられてしまったんですね。それで、母はひどく打撃を受けて、お酒を飲むようになりました。長い間、どうも変だと思っても、わけがわからずにいましたけれど、気がついてからというもの、止めさせようとしました。はじめはいいんですけれど、いきなり、発作がおこって、人と凄まじい喧嘩をはじめるのです。おそろしい程でした。あたしは、母をそうさせないように、いつも警戒していなければなりませんでした。そんな事から、母はあたしを嫌うようになって、真向から対立する有様です。今では、あたしを憎らしいと思うことさえあるようです」
「かわいそうに」
すると、ロザリーははげしく抗弁した。
「気の毒がったりしないで下さい。親切にしないで下さい。その方が気が楽なんです」
ロザリーは長い悲痛な嘆息をついた。
「あたし、つかれてしまった。ほんとに、くたくたにつかれてしまったわ」
「そうでしょうとも」
「世間の人はあたしを嫌な女だと思っています。生意気で、意地が悪く、気むずかしいと思われているんです。でも、どうしようもないわ。どうしたら、やさしくなれるかなんて忘れてしまったんですもの」
「僕がさっき言ったのはその事ですよ。自分一人で、重荷を長い間、背負っていたからです」
「話をすると、ほっとした気持になります。いつも親切にして下さったのに、あたし、時々、失礼な事をしてしまって」
「礼儀なんて友達同士の間では必要ありませんよ」
ロザリーの顔には、また、嫌疑の色が浮かんだ。
「みんなにお話しになるつもり? あたしの棄てたビンの事がありますから、話さないわけには行かないでしょう?」
「いいや、そんな必要はありません。ただ、僕のききたい事に答えて下さい。何時ごろだったかな? 一時十分すぎごろ?」
「そのころだったかと思います。はっきりとは覚えていませんが」
「それから、ミス・ヴァン・スカイラーは、あなたを見かけたというんだが、あなたは彼女を見ましたか」
「いいえ、見ませんでした」
「彼女は、自分の室の入口から、のぞいたと言っていますが」
「見かけるはずはなかったと思います。あたしは、デッキと河を眺めまわしただけでしたから」
「デッキを見まわした時に、全然、だれの姿も見かけませんでしたか」
間、それも、かなり長い間があった。ロザリーは顔をしかめて、思いめぐらしている風だったが、ついに、はっきりと首を横にふった。
「ええ、誰も見ませんでした」
エルキュール・ポワロはゆっくりとうなずいた。しかし、その目付は、深刻だった。
第十九章
人びとはぽつりぽつりと静かに、食堂へやってきた。熱心に食卓へつくのは、薄情さをさらけ出すようで具合が悪いというのが、誰でもの感じるところらしく、弁解がましい様子で次々と席につくのだった。
ティム・アラトンは母親が席についてから、二、三分おくれてやってきたが、ひどく機嫌をそこねている様子だ。
「こんな、とんでもない旅行になんぞ来なければよかった」
とティムががみがみ言うと、母親のアラトン夫人は悲しげに頭をふった。
「わたしだって、そう思いますよ。あのきれいなひとが! ほんとにもったいないようだわ。冷然として、あの人を殺すことが出来るなんて。そんな事をやれる人があると考えただけでも、おそろしい気がする。それに、あのもう一人の方のかわいそうな子」
「ジャクリーンのこと?」
「そうよ。かわいそうでたまらないわ。ほんとに、みじめな思いをしている様子ね」
「おもちゃのピストルなんか打ちちらすなって、教えてやったらいいんだ」
ティムはバタをとりわけながら、冷たく言い放った。
「教育が悪かったんでしょうよ」
「お母さん、後生だからあんまり母親ぶらないで下さいよ」
「ばかに機嫌が悪いんだね」
「そうですとも。誰だってそうだ」
「何でそんなに気むずかしくするのか、わたしにはわからないわ。いかにも痛ましいというだけだもの」
ティムはプンプンして言った。
「お母さんたら、現実ばなれのしたことを考えて! 殺人事件のまきぞえをくうなんて、冗談じゃないってことが、わかっていないみたいですよ」
アラトン夫人はびっくりしたようだった。
「だって、たしかに……」
「それだけの事ですよ。『だって、たしかに』なんて、言うことないですよ。この船に乗合せた人は残らず、嫌疑をかけられるんですからね。他の人たち御同様、お母さんも僕もですよ」
「法律的にはそうだろうけど、実際には、それはおかしいわ」
「殺人に関係のあることで、おかしいも何もあるもんですか。すわったまま、美徳や正直をちびちび行ったところで、シェラールやアスワンにいるたくさんの不愉快なお巡りはこちらの言うことをその通りには受け取ってくれやしませんよ」
「多分それまでには、ほんとの事がわかるでしょう」
「どうして?」
「ポワロさんがさぐり出すかもしれませんよ」
「あの老いぼれインチキがですか。あいつには何もわかるもんか。おしゃべりとヒゲだけの男だ」
「それじゃ、あんたの言うことは、みんな本当でしょう。しかし、それにしたところで、わたしたちはそれをきりぬけなければならないんでしょう。それなら、そのつもりになって、出来るだけ愉快にやった方がいいんじゃない?」
それでも、息子の憂鬱は晴れそうもなかった。
「真珠紛失という、とんでもない事件もあるんですからね」
「リンネットの真珠のこと?」
「そうです。誰かが盗んだにちがいないようだ」
「それが犯罪の動機だったようね」
「そんなことわかりませんよ。お母さんは、全然、別個のものをいっしょにしているんですよ」
「真珠がなくなったって、誰からきいたの」
「ファガソンからですよ。彼はそれを機関室にいる友人からきき、その友人はミセス・ドイルの小間使からきいたんだって」
「見事な真珠だったがねえ」
ポワロがアラトン夫人にお辞儀をして、席についた。
「少しおくれてしまいました」
「お忙しかったんでしょう」
「ええ、用事がたくさんありましてね」
こう言ってから、ポワロは給仕にぶどう酒を一本注文した。
「わたしたちの好みは偏っていないわね」
と、アラトン夫人は言った。
「あなたはいつもぶどう酒だし、ティムはウィスキイ・ソーダ、そして、わたしは色々な商標のミネラルウォターを飲みくらべてるんですから」
「なるほどね」
と言って、ポワロはちょっとの間、アラトン夫人をじっと見た。「そいつは思いつきだ」とひそかに思ったのだが、じれったそうに肩をすくめると、ポワロは突然おそってきた放心状態を追いのけて、陽気に他の事をしゃべりはじめた。
「ドイルさんのお怪我はひどいんですか」
と、アラトン夫人がたずねた。
「ええ、かなり、ひどいんですよ。ベスナー博士は、早くアスワンに着いて、足をX光線で調べた上、弾丸をとり除けるようにと言っているんです。しかし、一生ビッコになるような事はあるまいという事です」
「お気の毒ですわね。つい昨日までは、何不足ない幸せ者のようだったのに、美人の奥さんは殺され、自分も寝たっきりとは! でも、わたし、願ってるんですよ……」
「何を願ってらっしゃるんですか?」
「あのかわいそうな子のことを、あまり怒らないでほしいと思っているんです」
「ジャクリーン・ド・ベルフォトの事ですか。それなら、怒ってるどころか、あの娘さんのことをとても案じていますよ」
ポワロはこう言って、ティムの方を向いた。
「ちょっとした心理学上の問題だろうね。ジャクリーンが、あの二人をあちこち追いかけまわしている間はずっと、ひどく腹を立てていたのに、実際に彼女に撃たれ、しかも、ひょっとすると、生涯ビッコになるかも知れない程の怪我をさせられたとなったら、怒る気持は、すっかり、消え失せてしまったらしい。君、その気持わかる?」
「わかるような気がします。はじめは、ばかにされたと思って……」
「そうなんだ。男の威厳を傷つけられたんだな」
「ところが、今度は、物笑いになるのは彼女の方だという見方もできますね。世間が彼女に白い目を向けているから……」
「赦してやろうという、広い気持になれるんですよ。男って子供っぽいものね」
とアラトン夫人が引きとって言った。
「女の人がいつも口にするでたらめな言い草だ」
ティムはつぶやいた。ポワロは笑って、ティムに言った。
「教えてもらいたいんだが、ドイル夫人のいとこというミス・ジョアンナ・サウスウッドは夫人に似ている?」
「あなたはちょっと、思いちがいをしていられますね。ジョアンナは、僕のいとこで、リンネットの友人ですよ」
「失礼。こんぐらかってしまいました。よく世間の噂に上るお嬢さんですね。しばらく前から、興味を持っているんですよ」
「どうしてですか」
とティムは鋭くたずねた。
ポワロは、ちょうど、入って来て自分の席へ着くために、側を通りかかったジャクリーン・ド・ベルフォトにお辞儀しようとして腰を浮かした。彼女の頬は上気して、目は輝きを帯び、呼吸は少し乱れていた。ポワロは腰を落ちつけた時には、ティムのきいた事など、忘れてしまったらしく、あいまいに言った。
「貴重な宝石をもった若い婦人たちは、ドイル夫人と同じように、不注意なものなのかな」
「じゃ、あの真珠が盗まれた事件はほんとうなんですね」
と、アラトン夫人がきいた。
「誰がそんなこと言いました?」
「ファガソンです」
とティムが答えた。すると、ポワロは重々しくうなずいた。
「それは本当です」
「そのために、みんながとても不愉快な思いをさせられるんでしょうね。ティムがそう言うのですけど」
と、アラトン夫人は心配そうに言った。
ティムがしかめ顔をしたが、その時はもう、ポワロが彼の方を向いていた。
「ああ、君、経験があるんだろう。盗難のあった家にいたことでも?」
「ありゃしませんよ」
「うそよ、あの時、あなた、ポーターリングさんの家にいたでしょう。ほら、あの凄い女のダイヤモンドが盗まれた時ですよ」
「お母さんたら、いつも、とんでもない思い違いをするんだから。僕は、あの女が肥った首にかけていたダイヤモンドが、人造宝石に過ぎなかったことが発覚した時に、あそこに居合せたんですよ。実際にすり替えたのは、何カ月も前だったんだろうけど。あの女自身のしわざだろうって言う人が多かったんですよ」
「ジョアンナが言ったんでしょうよ」
「ジョアンナは居やしませんでしたよ」
「でも、あの子はあの家の人たちをよく知っていましたからね。それに、いかにもあの子の言いそうな事ですよ」
「お母さんは、いつも、ジョアンナの事を悪く言うんだから」
ポワロは急いで、話題をかえた。彼はアスワンのある店でうんと買物をするつもりだった。それから、インド人の店では、すばらしい紫色と金色の生地を少し、仕入れたかった。むろん、税金はとられるだろうけれど、それでも……
「急送――と言いますか――してもらえると聞いたんですが。そして、費用も大した事はないとか。どうお思いになります? 無事に着くでしょうかね」
「いま、おっしゃったお店から、直接、イギリスへ品物を送らせた人が、ずいぶん、多いようですけど、みんな無事に着いているそうですよ」
「よし、それじゃ、一つやってみよう。困るのは外国にいる時に、イギリスから小包が来る場合ですね。旅行に出てから、何か小包がきた事がありますか」
「そんな事はこれまでありませんでしたねえ、ティム。本の来ることはありますけれど、それは面倒がありません」
「そりゃ本は別ですよ」
デザートがすむと、レース大佐が何の予告もなしに立ち上って、話をはじめた。
レースは犯罪の状況にふれ、真珠の盗難事件を発表した。これから船中の捜索をはじめるので、それがすむまで全員がこのまま食堂に残っていただきたい。そのあと、みなさんの御同意を得た上で――きっと同意して下さると思うが――身体検査をさせて頂きたいと言うのが、その主旨だった。
ポワロは素早く、レースのそばへ近づいた。まわり中に、低いささやきがおこり、いぶかる声、怒りをふくんだ声、興奮した声とさまざまであった。
ポワロはレースに寄りそって、彼が室を出ようとした時に、何やら、耳打ちした。レースは、それをきくと、合点をし、給仕を手招きした。
給仕に二言三言しゃべってから、レースはポワロとつれ立って、甲板に出て、ドアを閉めた。一、二分、二人は手すりのそばに立っていたが、レースはタバコに火をつけた。
「君の考えは悪くないね。何かあるかどうか、間もなく判明するよ。三分間の余裕を与えることにしよう」
食堂のドアがあいて、先ほどの給仕が姿を現わし、レースに挨拶をした。
「よろしゅうございましたよ。一刻の猶予もなく、直ちに、お話しなければならないと言われる御婦人がございます」
「誰だね、それは?」
と、レースの顔は満足げだった。
「ミス・バワーズです。看護婦の」
レースの顔にはかすかな驚きの表情が浮かんだ。
「喫煙室へつれてきてくれたまえ。他の人は外へ出さないように」
「ハイ、他の者が気をつけております」
と言って、給仕は食堂へとって返し、レースとポワロは、喫煙室へ向った。
「バワーズがねえ?」
レースはつぶやいた。
二人が喫煙室へ入るか入らないうちに、給仕がミス・バワーズを伴って、やってきた。そして彼女を導き入れると、ドアを閉めて出て行った。
「ところで、バワーズさん。何ですか、いったい」
レース大佐はけげんそうに彼女の顔を見た。彼女は平生と変らぬ、ゆっくりと落着いた様子で、顔にはなんら特別の感情は表われていなかった。
「失礼ですが、今の場合、即刻、あなたにお目にかかって、これらをお返しするのが、一番よい方法だと思いまして」
と言って、ミス・バワーズは小ぎれいな黒のハンドバッグから、一連の真珠をとり出し、テーブルの上にのせた。
第二十章
もしもミス・バワーズが人の耳目を驚かせて面白がるような女だったら、彼女は、自分のとった行動の成果によって、十分むくいられたことだろう。
テーブルから真珠をとりあげたレース大佐の顔には、驚愕《きょうがく》の色が見えたのである。
「これはただごとではない。一つ説明してくれませんか」
「むろん、いたしますわ。そのために来たのですから」
と言って、ミス・バワーズは落着いて、椅子に腰をかけた。
「わたしの取るべき最前の方法を決めるのは、むろん、易しい事ではありませんでした。スキャンダルと言えば、どんなことでも、当然、うちのみなさんが嫌がるでしょうし、また、みなさんはわたしの思慮分別を信頼していられるわけですから。でも、ありきたりの事情ではありませんので、迷わずに決めました。船室に何もなければ、むろん、次の手段は船客の身体検査ということになりましょう。もしその時に、真珠がわたしの所持品の中から出て来たら、大へん具合の悪いことになり、結局、事実が明るみに出ることになるでしょう」
「事実って、何の事ですか。この真珠はあなたがミセス・ドイルの室から取ったのですか」
「いいえ、いいえ、とんでもありません。ミス・ヴァン・スカイラーが取りました」
「ミス・ヴァン・スカイラーが?」
「そうなんです。自分でどうにもならなくて、物を取ってしまうのです。殊に宝石類を。わたしがいつも側についているのも、実はそのためなのです。健康のためなんかじゃなくて、この小さな性癖のためなので、わたしはいつも、気をつけています。幸いなことに、わたしが付き添うようになってから、面倒のおこった事は一度もありません。わたしが目を光らせているからですわ。取った物は、いつも、同じ場所に、靴下にくるんで、かくしておくので手数はかかりません。毎朝、わたしが、しらべることにしています。わたしは、寝ていても耳ざといので、ホテルなんかだったら、隣りの室に寝て、間のドアをあけておけば、大抵、物音がきこえます。きこえると、あとをつけて行って、なだめて、ベッドへ戻らせるんですが、船中では、それが厄介なのです。夜、やることはありません。まわりにおき放しになっているものが目に入ると、ちょいと拾いあげてしまうんですね。むろん、真珠は、彼女にとっていつも大きな魅力でした」
ミス・バワーズが話しを止めると、レースがきいた。
「この真珠が盗まれたということに、どうして気付きました?」
「今朝、靴下の中に入っていました。誰のものだか、むろん、直ぐにわかりました。何度も、目をとめて見たことがありましたから。それで、ミセス・ドイルが目をさまして、なくなったものに気がつかないうちにと思って、返しに行きました。ところが、給仕が立っていて、殺人があったので、誰も入れないと言いました。わたしは全くこまってしまいましたが、それでも、気づかれないうちに、後ほど、こっそり返そうと思いました。どうしたら一番いいかしらと思いながら、朝のうちは、ほんとに落ちつかない気持で過しました。ヴァン・スカイラー家というのは、とてもやかましくて、貴族的ですから、この事が新聞に出ようものなら、それは大変ですわ。でも、新聞に出す必要はないんでしょう」
ミス・バワーズはほんとに気がかりなようだった。
「それは事情によりますがね。むろん、出来るだけ、あなたの為をはかりましょう。ミス・ヴァン・スカイラーは何と言うでしょうね」
レースは用心深い答えをした。
「あら、むろん、しらを切りますわ。いつもそうなんですから。誰か悪い奴がそこへおいたんだって言うんです。ですから、先手を打たれると、こそこそとベッドへもぐりこんでしまいますわ。そして、月を眺めに出たんだとか、なんとか言うんですの」
「ミス・ロブソンはこの――弱点を知っているんですか」
「いいえ、知りません。あの人のお母さんは知っているんですが、あの人がとても単純なので、何も知らせない方がいいと思ったんですね。わたしは、何とかミス・ヴァン・スカイラーを相手にして行けますけれど」
やり手のミス・バワーズは最後に、こうつけ加えた。
「さっそく、来て下さって、ほんとにお礼を言わなくては」
とポワロが言った。ミス・バワーズは、立ち上った。
「わたしのとった行動が最善だとよいと思いますわ」
「それは大丈夫ですよ」
「殺人事件もあったりして……」
レース大佐がミス・バワーズの言葉をさえぎったが、その声は厳粛だった。
「一つおききしたいことがあるんだが、ぜひとも、ほんとのところを答えてほしい。ミス・ヴァン・スカイラーは、窃盗狂と言えるほど精神が異常だが、殺人狂の傾向もありますか」
ミス・バワーズは即座に答えた。
「とんでもない。そんな事は、これっぽちもありません。わたしの言葉を絶対に信じて下さって、大丈夫ですわ。蠅も殺そうとなさらない方なんですから」
あまりにも確信のある答えだったので、もうそれ以上、何も言う余地はなさそうに思われたが、ポワロは軽い質問を一つさしはさんだ。
「ミス・ヴァン・スカイラーは耳が遠いというような事は?」
「実際のところ、そうなんでございます。なかなか、と申しますか、話をしていては、わかりませんけれど、人が室の中へ入って来たのに気づかないことがよくあったりいたします。たとえばの話ですが」
「隣りのミセス・ドイルの室で、誰かが歩きまわっていたとしたら、ミス・ヴァン・スカイラーには聞えたと思いますか」
「さあ、ねえ、ちょっと、そう思えませんけど。ベッドはミセス・ドイルのお室とは反対側にあって、仕切り壁にもくっついていないんですものね。そうですわ、何も聞えなかっただろうと思います」
「どうもありがとう」
「では、食堂へ戻って、他の人たちといっしょに、待っていて下さい」
とレースは言って、ミス・バワーズのためにドアを開け、彼女が階段を下り、食堂に入るのを見送った。それから、ドアをしめて、テーブルの所へ帰ってみると、ポワロが真珠をつまみあげていた。
「やれやれ、さっそく、反響があったわけか。なかなか冷静で、抜け目のない女性だね。自分の意に適《かな》うと思えば、まだまだ、ほんとの事をしゃべっているような顔をして、何かをかくしておくだけの腕がある女だ。ところで、ミス・マリー・ヴァン・スカイラーはどうしたもんだろう。被疑者の中から除くわけにはゆくまい。その宝石を取るために、殺人を犯したかもしれないんだからね。あの看護婦の言葉を、そのまま受け入れるわけにはいかないね。一門のために、出来るだけの事をしようと、一生懸命なんだから」
とレースの言葉はきびしかった。ポワロは同意を表するためにうなずいた。そして、せわしく、真珠を指の間にすべらせてみたり、目のそばへかざしてみたりしながら、言った。
「あのお婆さんの話の部分は本当と見なしていいと思うね。自分の室から、実際にのぞき、ロザリー・オッタボーンの姿を見かけているのだから。しかし、リンネット・ドイルの室の物音は何も聞えなかったと思うね。こっそりと出て行って、真珠をぬすむに先立って、自室からのぞいていたところだったんだと思うね」
「すると、そこにオッタボーンの娘がいたというわけか」
「そうなんだ。母親がかくしておいた酒を、水中に棄てようとしていた」
レース大佐は同情するように、首を横に振った。
「そうだったのか。若いのに大変だね」
「全くだ。かわいそうに、ロザリーは暗い日を送ってきたんだ」
「なるほど。でもはっきりしてよかったね。彼女は何か見るか聞くかしなかったのかね」
「それをきいてみたんだがね。二十秒近くも考えた末に、誰も見かけなかったという返事なんだ」
「ふむ?」
レースは警戒の色を見せた。
「そうなんだ。そこがあやしいんだ」
「もしも、リンネット・ドイルが、一時十分過ぎか、あるいは何時にしろ、船が静まりかえってから撃たれたとすると、誰も銃声をきかなかったというのが、どうも不思議に思われていたんだがね。あんな小さなピストルは、大した音を立てないことは君の言う通りなんだが、船がしいんと静まりかえっていたろうから、どんな音でも、小さなポンという音だって、聞えたはずだと思われてね。でも、どうやら、少しのみこめて来たよ。ミセス・ドイルの室の左隣りには誰もいなかった――ドイルはベスナーの室にいたんだから。右隣りは、つんぼのミス・ヴァン・スカイラーだ。すると、残るは……」
とレースはゆっくりとしゃべってから、うなずいているポワロの顔を何か期待するように見た。
「彼女の室と背中合せの室だ。つまり、ペニングトンさ。いつも、ペニングトンへもどって来るみたいだね」
「そのうちに、生ぬるい手段をすてて、あの男へ戻りましょうや。僕はそれを楽しみにしているんだ」
「さし当っては、船の捜査をつづけるとしよう。真珠はもどってきたけれど、まだ、いい口実になるよ。しかし、ミス・バワーズは、そのことを言いふらしそうもないね」
「この真珠」
と言って、ポワロは、もう一度、それを光にかざしてみた。それから、舌を出して、なめてみたり、そのうちの一粒を用心深く、噛んでみる事さえした。それから、ため息をついて、真珠をテーブルの上に放りだした。
「ますます複雑だよ。宝石のことに委《くわ》しいわけじゃないが、盛んにやっていたころは、さんざん扱ったことがあるので、断言できると思う。この真珠は精巧な模造品だ」
第二十一章
レース大佐は強くののしった。
「この厄介な事件め、ますます、こんぐらがってきやがる」
そして、真珠をつまみあげて言った。
「君、間違えているんじゃなかろうな。僕には大丈夫に見えるがね」
「大変よくできた模造品だ、全く」
「ところで、それはどういうことになるのかね。リンネット・ドイルが安全のためにわざわざ、模造品を作らせ、外国へ持ってきたわけじゃあるまい。そういう事をやる女は多いがね」
「もしそうなら、夫が知ってるでしょう」
「話してなかったかもしれないよ」
ポワロは不満足そうに、首をふった。
「いや、僕はそう思わないね。この船に乗った最初の日に、僕はミセス・ドイルの真珠に感心してしまったんだ。すばらしい光と艶だった。あの時には、たしかに本物をつけていたんだ」
「そうすると、二つの可能性が浮かんでくるわけだね。第一は、ミス・ヴァン・スカイラーは誰か他の人が本物を盗んだ後で、模造品を盗んだに過ぎないこと。第二は、窃盗狂の話は、全部作りごとであること。ミス・バワーズが犯人であって、あわてて作り話をでっちあげ、ごまかすために偽の真珠を返したか、あるいは、一味が関係しているか、そのいずれかだ。つまり、貴族的なアメリカの一族とふれこんでいる、巧妙な宝石泥棒の一団だ」
「全く。何とも言い兼ねるが、一つ指摘したい事がある。ミセス・ドイルの目をごまかせるほど見事に、真珠から止金まで一切の完全な模造品を作るには、高度の技術的熟練を要するから、急にやろうたって、むりだ。あの真珠を模造した人は、本物を研究するに都合のいい機会があったにちがいない」
レースは立ち上った。
「今、これ以上、推測してもむだな話だ。仕事をつづけよう。本物の真珠をさがし出さねばならん。やはり、抜け目なく気を配ろう」
二人は先ず、下甲板の船室から片づけて行った。
リケッティ氏の室には、さまざまの国の言葉で書かれた考古学の書物、色々の種類の衣服、香りの高いヘア・ローション、それに手紙が二通――一通はシリアにいる探検隊から、もう一通はローマにいる妹からと思われる――あった。ハンケチは、全部、色ものの絹製だった。
ファガソンの室に移ると、そこには、共産主義の文学書、たくさんの写真、サミュエル・バトラーの「エレホン」、「ビーブスの日記」の廉価本が散らばっていた。身の回りの品は少なく、僅かにあった上着といえば、そのほとんどが破れて汚かったが、一方、下着はほんとに質のいいものばかりだった。ハンケチは高価な麻のものであった。
「矛盾したところがある」
とポワロがつぶやくと、レースはうなずいた。
「個人的な書類とか手紙と言ったものが、一つもないのはおかしいね」
「そうだね。考えさせられるよ。変った青年だね、あのファガソンというのは」
ポワロは手にしていた認印つき指輪を元通り引き出しにかえす前に、考え深く、じっと眺めた。
次は、ルイーズ・ブールジェの室だ。ルイーズは、他の船客のあとで、食事をとることにしていたが、レースは他の人たちといっしょになるようにという言づけを伝えさせておいた。室付きの給仕が二人に近づいた。
「すみませんが、まだ、あの若い御婦人がどこにも見当りませんで。何処へ行ってしまわれたか、考えつきませんのですが」
給仕の弁解をきいて、レースは室の中をのぞいてみた。からっぽだった。
プロムナードデッキに上って、右舷の室からとりかかった。最初の室は、ジェイムズ・ファンソープが占めており、万事がこまごまと片づいていた。ファンソープは、身軽な旅をつづけていたが、持っているものは上等だった。
「手紙は全然、ない。用心深いから、手紙はやぶいてしまうんだろう」
次は、隣りのティム・アラトンの室だ。ここでは、英国カトリック教徒らしい形跡がうかがわれ、精巧にできた小さな三枚絵と、手のこんだ木彫りの大きなロザリオがあった。身の回りの品の他に、半ば出来上った原稿――注がいっぱいついた、書きなぐりのもの――と、かなりの書物があったが、その多くは新刊書だった。引き出しへ無造作に放りこまれた、たくさんの手紙もあった。他人の手紙を読むことに対しては、決して遠慮をしないポワロは、それらの手紙に目を通した。その中には、ジョアンナ・サウスウッドからのものは一通もないことに気づいた。粘着剤のチューブをとりあげ、しばし、ぼんやりとそれをもてあそんでから、ポワロは言った。
「次へ移ろう」
「安物のハンケチはないね」
レースは急いで、引き出しの中のものを、元に戻しながら言った。
その次のアラトン夫人の室は、見事に片づいて、ラヴェンダーの、かすかな床しい香りがただよっていた。
捜査は簡単にすみ、その室を出る時、レースが言った。
「いい人だね、あれは」
その次の室は、サイモン・ドイルが化粧室として使っていたものだった。当面に必要な品々、――パジャマ、洗面具など――は、ベスナーの室へ運ばれていたが、他の所持品はまだ、そこに残っていた。相当な大きさの革スーツケースが二個と旅行カバンが一つ、また、衣装戸棚には何着かの服が残っていた。
「この室はよく調べよう。泥棒が真珠をここへかくしたかもしれないから」
とポワロが言った。
「そんな事がありそうに思うかね」
「思うとも。考えてみたまえ。いずれ捜索が行われるだろうが、その際、自分の室にかくしてあっては、いかにも都合が悪いということは、その泥棒が誰であれ、わかっているはずだし、公共の場所では、また、他の困難が伴うだろう。ところが、ここにその主がどうしても入ってゆく事のできない室がある。たとえ、そこで真珠が発見されたとしても、それから何も引き出せないというわけだ」
しかしながら、念入りな捜索にもかかわらず、紛失した真珠の痕跡は、全然、見当らなかった。
ポワロは、「チェッ」とつぶやいた。そして、二人はまた、甲板へ現われた。
リンネット・ドイルの室は遺体が移されたあと、錠がかかっていたが、レースは鍵を持ち合せていたので、ドアを開けて、二人は中に入った。リンネットの遺体がないということを除けば、その室は朝と全く同じ状態だった。
「ポワロ君、この室で発見できるものがあるとしたら、ぜひ君が探し出してくれたまえ。探し出せる人があるとしたら、それは君なんだから」
とレースが言った。
「真珠のことを言っているんじゃないんだろう」
「うん。殺人の方が主眼だ。今朝、見落した事があるかもしれん」
静かに、手際よく、ポワロは捜索をつづけた。膝をついて、床を少しずつ検査し、ベッドを調べる。衣装ダンスやタンスを急いで調べたと思うと、衣装トランクと高価なスーツケース二個に目を通す。更に、高価な金をはめこんだ化粧カバンを調べ終ると、最後に、洗面器台に目を向けた。そこには、様々のクリームや白粉や化粧水があったが、ポワロの興味を引いたのは、ナイレックスというラベルの貼ってある二つの小さな瓶だけだった。彼は最後にその瓶をとりあげて、化粧台のところへ持ってきた。ナイレックス・ローズと書いてある方は、床に濃い赤の液体が一滴か二滴、残っているだけだった。大きさは同じだが、ナイレックス・カーディナルというラベルのついている瓶には、中味がいっぱいだった。ポワロは、はじめに、空《から》の方を、それから、いっぱいの方の栓をあけて、両方をよく嗅いでみた。梨《ペア》ドロップのにおいが空の中へひろがったので、ポワロは、ちょっと、顔をしかめて、瓶の栓をした。
「何か見つかったかね」
とレースがきくと、ポワロはフランスの諺を、返事の代りにした。
「酢でハエを捕える事はできぬ」
そして、ため息をついた。
「どうもついてないね。思いやりのない犯人だと見え、カフスとか、タバコとか、吸いがらとかを、落しておいてくれないんだから。犯人が女なら、ハンケチとか、口紅とか、毛止めとか言ったものになるがね」
「ネール・ポリッシの瓶だけか」
ポワロは肩をすくめた。
「小間使にきいてみなくちゃ、ちょっと、おかしな事があるから」
「あの娘、いったい、何処へ行っちまったのかな」
レースとポワロはリンネットの室に錠をかけ、ミス・ヴァン・スカイラーの室へ移った。この室でも、金持ちの付属品がずらり、高価な化粧道具や多量の荷物、かなりの手紙や書類が、きちんと片づいていた。
その隣りは二室つづきになっていて、ポワロが占め、その先はレースの室だった。
「このどちらにも、かくしてありそうもないな」
とレースが言うと、ポワロは異議をとなえた。
「かくしてあるかもしれないよ。以前に、オリエント急行で、殺人事件の調査をした事があるんだがね。真赤なキモノの事で、ちょっとした問題があったんだ。そのキモノが見えなくなったんだが、まだ汽車の中にあるにちがいないという時にだね。何処にあったと思う? 何と僕の鍵のかかったスーツケースの中から出て来たんだ。あれは全く、無礼な話だったよ」
「じゃ、ひとつ、今度も君か僕に、無礼な事をした奴がいるかどうか、調べてみよう」
しかし、真珠泥棒は、エルキュール・ポワロに対しても、レース大佐に対しても、無礼をしてはいなかった。
船尾を回って、ミス・バワーズの室へ行き、念入りな捜索をしたが、あやしい点は一つも見当らなかった。ハンケチは頭文字のついた麻無地だった。
その隣りは、オッタボーン母娘の室である。ここでも、ポワロは念入りな捜索をしたが、何も得るところがなかった。
その次はベスナーの室で、サイモン・ドイルが、手のついてない食物のお盆をかたわらに、横になっていた。
「食欲がなくて」
とドイルは弁解するように言った。
彼は熱っぽい様子で、朝に比べると、ずっと悪化しているようだった。なるべく早く病院へつれて行って、熟練した手当を受けさせたがるベスナーの気持もうなずけた。
小柄なベルギー人、ポワロが、自分たち二人のやっている事を説明し、レースはうなずいて、賛意を表した。ミス・バワーズが真珠をかえしてよこしたが、それは模造品であることがはっきりしたときいて、ドイルは、ほんとにびっくりしたようであった。
「奥様はたしかに、本物の首かざりの代りに、模造品を旅行に持って来られるような事はなかったんですね」
サイモンははっきりと首をふった。
「いや、そんな事はありませんでした。それはたしかです。リンネットはあの真珠が好きで、何処へでもつけて歩きました。どんな災難に対しても、保険がかけてあったので、家内は少し油断していたのではないでしょうか」
「それじゃ、捜索をつづけなければ」
と言って、ポワロは引き出しを開けにかかった。レースはスーツケースからはじめた。サイモンはそれを見ていた。
「ベスナーさんが取ったと思っていられるんじゃないんでしょうね」
ポワロは肩をすくめた。
「そうかもしれませんよ。結局、ベスナー博士の事は何もわかっていないんですからね。本人が言っていること以外は」
「しかし、僕の目にふれずに、真珠をこの室へかくすなんて、できっこありませんよ」
「そりゃ、今日だったら、そんなことできなかったでしょうが、すりかえられたのは、何時の事かわからないんですからね。数日前に、まんまとやってのけていたのかもしれない」
「そんな事、全然、気がつかなかったな」
捜索は、しかしながら、徒労に終った。
次は、ペニングトンの室である。ここの捜索には多少、時間がかかったが、ポワロとレースは特に法律や事業に関する書類、その大部分はリンネットの署名を必要とするものであったが、その書類のいっぱいつまったカバンに、目を光らせた。
ポワロは憂鬱そうに首をふった。
「どうもこれは皆、公明正大なものらしいな。どうだろう?」
「全くだ。しかし、あの男だって大馬鹿じゃないんだから、疑惑をうむような書類、たとえば、委任状のようなものがあったとしたら、それを真先に破いてしまったにちがいないね」
「それもそうだ」
ポワロはタンスの一番上の引き出しから、重いコルト銃をとり出し、よく見てからまた、元に返した。
「今でも拳銃を携帯して旅行する人があると見える」
「そうだね、少しあやしいようだけど、リンネットが撃たれたのは、その大きさじゃない」
レースは一息いれてから言った。
「ピストルが河中へ投じられた事についての君の指示に対して、どうやら答えになりそうな事を思いついたよ。真犯人がリンネットの室に残しておいたのを、誰か他の人、つまり第二の人が持ち出し、川へすてたとしたら?」
「そう、それはあり得るね。僕もそれを考えたんだが、疑問が次々と出て来るんだ。第二の人物とは誰か。ピストルを持ち去ることによって、ジャクリーン・ド・ベルフォトをかばおうとするのには、どういう利害関係があるのだろうか。その第二の人物はそこで何をしていたのだろうか。その室へ入ったということのわかっている他の人といえば、ミス・ヴァン・スカイラーだけだ。ピストルを持ち出したのは、ミス・ヴァン・スカイラーと考えることができるだろうか。何故、ミス・ヴァン・スカイラーが、ジャクリーン・ド・ベルフォトをかばってやろうと思ったのだろうか。そして、ピストルを持ち去るには、何か他の理由があったのかしらん?」
レースが口をさしはさんだ。
「ミス・ヴァン・スカイラーは、衿巻が自分のものと知って、ぎょっとしたあまり、一切合財を放り出してしまったのかもしれないよ」
「衿巻はそれでいいとして、ピストルまで、はらいのけようとしただろうか。しかし、まあ、それも一つの解答だ。だが、すっきりしないな。どうもまずいよ。それから、君はまだ、衿巻の事で一つわかっていない点があるんだ」
ペニングトンの室から出て来ると、ポワロは、サイモン・ドイルと少し話したい事があるから、残りの室――ジャクリーンとコーネリヤの室、一番端の空室二つ――は、レースが一人で捜索してくれるようにと申し出た。
ポワロは引き返して、ベスナーの室へもう一度、入って行った。
サイモンが言った。
「僕、考えていたんですがね。この真珠、たしかに昨日は異常がなかったんですよ」
「というわけは?」
「リンネットが夕食のすぐ前に、真珠をまさぐりながら、そのことを話していたので。あれは、真珠について多少、知識がありましたからね。偽物なら気がついたにちがいありません」
「しかし、実によくできていますよ。奥様はあの真珠をよく手放しましたか。たとえば、友人に貸したりされたでしょうか。きかせて下さい」
サイモンは当惑ぎみに、顔を赤らめた。
「さあ、それは僕には何とも言えません。僕、僕がリンネットを知るようになってから、まだ、いくらも経っていませんからね」
「そうでしたね。お二人の間は急に発展したんでしたね」
「それで、僕はそう言うことは、ほんとに、何も知らないんです。ただ、あれは、持ち物に対して大まかでしたから、人に貸すような事もあったかもしれません」
「たとえばですね。奥さんはあの真珠を、ベルフォトさんに貸されたことは、なかったでしょうか」
「いったい、何をおっしゃるのですか」
サイモンは、顔を真赤にして、立ち上がろうとした、苦痛にひるんで、たじろいだ。
「いったい、何をたしかめようというのですか。ジャッキイが真珠を盗んだかって? とんでもありません。彼女が泥棒だと考えるだけでもこっけいですよ。全くおかしい」
ポワロは静かに目ばたきしながら、サイモンを見た。そして、思いがけないことを口走った。
「おや、おや、僕の言葉が、蜂の巣をつついたような結果を引きおこしてしまった」
サイモンはポワロの軽い調子に乗らずに、強情にくりかえした。
「ジャッキイは正しいんだ」
ポワロはアスワンの河のほとりで聞いた、若い女の声を思い出した。
「あたしはサイモンを愛している、そして彼はあたしを愛している……」
あの晩聞いた三人の言葉のうち、どれが真実なのかしらと思ったのだが、どうやら、一番、真実に近いのはジャッキイの言ったことだったようだ。
ドアが開いて、レースが入ってきた。
「何もなかったよ。期待外れだ。船客たちを調べた結果をもって、給仕たちがやってくるぞ」
男女の給仕が入口に現われ、先ず、男の方が言った。
「何もありませんでした」
「だれか騒ぎたてたかね」
「イタリアの方だけ、大変うるさいことを言われました。不名誉だとか何だとか言って。おまけに銃を持っておられて」
「どんな銃かね」
「自動モーゼル銃です」
「イタリア人は気短かでね」
とサイモンが言った。
「電報のことで間違いがあったというだけの事で、リケッティは、ワディ・ハルファでいつまでも怒っていたっけ。リンネットに対して、実に失敬な態度だった」
レースは女の給仕の方を向いた。大柄な美人である。
「御婦人たちからは、何も見つかりませんでした。皆さん、とてもやかましいことをおっしゃいましたが、アラトン夫人だけは例外で、大変ちゃんとしていられました。ついでに申しあげますが、ミス・ロザリー・オッタボーンのハンドバッグの中に、ピストルが入っていました」
「どんなのだった?」
「とても小さくて、真珠の柄がついていました。おもちゃみたいでした」
レースはじっと見つめて、言った。
「こんな事件なんか、悪魔に食われちまえ! あの娘の嫌疑をはらしてやったと思ったのに、また、――この船に乗っている娘は、片っぱしから、真珠の柄のついたおもちゃのピストルを持っているというのか」
そして、レースは給仕に一つの質問をした。
「あんたにそれを見つけられて、何か感情を現わしたかね」
給仕は頭をふった。
「気がつかなかったと思います。ハンドバッグの中味を調べる時、背を向けていましたから」
「でも、君がそのピストルを見つける時は、わかっていたはずだ。どうもわからん。あの小間使はどうだった?」
「船の中をすっかり、探したんですが、何処にも見当りません」
「何の事だね」
とサイモンがきいた。
「奥様の小間使、ルイーズ・ブールジェの事なんですが、姿を消してしまいました」
「姿を消した?」
「彼女が真珠を盗んだのかもしれない。複製を作らせるだけの機会のあったのは、あの女だけなんだから」
とレースが考え深く言った。
「そして、捜索が行われると知って、水にとびこんだというわけか」
とサイモンが言うと、レースはいらだたしそうに応じた。
「ばかな! 女がまっ昼間、こんな船から投身したら、誰かが気がつくはずだ。船の中の何処かにかくれているに決ってる」
それから、レースはもう一度、給仕に話しかけた。
「最後に見かけたのは、いつだったかね」
「昼食のベルの鳴る三十分くらい前でした」
「とにかく、彼女の室をのぞいてみよう。何か手がかりが得られるかもしれないから」
とレースは言って、先に立って下甲板へ下りた。ポワロが後につづいた。二人はドアの鍵をあけ、室内へ入った。
他人の所持品を整理するのが、ルイーズ・ブールジェの仕事であったが、自分のことは放たらかしだった。タンスの上には、いろいろの物がちらばり、大きく開いたスーツケースからは衣類がはみ出していて、閉じることができない程だし、椅子にはだらしなく下着がぶらさがっているのだった。
ポワロが敏捷に、手際よくタンスの引き出しを開けている間に、レースはスーツケースを調べた。
ルイーズの黒エナメル靴は、ベッドのそばにならんでいたが、その片方は今にもひっくりかえりそうな格好であった。それがいかにも異様だったので、レースは注意を引かれ、スーツケースを閉じると、靴の方へ身をかがめてみた。そして、彼の口から、鋭い叫びがもれた。
ポワロはくるりとそちらを向いた。
「何だ?」
レースはきびしい調子で答えた。
「彼女は姿を消したんじゃない。ここに、ベッドの下にいる」
第二十二章
ルイーズ・ブールジェの死体は、自室の床の上に横たわっていた。レースとポワロがその上に身をかがめた。
「死んでから一時間も経つかな。ベスナーに見てもらうことにしよう。心臓を刺されて、ほとんど即死だね。いい死顔じゃないね」
「よくない」
ポワロは肩をすくめて、首を振った。
色の黒い猫のような顔は、驚きと怒りのためであるかのように引きつり、唇は開いている。
ポワロは、もう一度、身をかがめて死体の右手を持ちあげた。その指の間にちらりと見えたものをとって、レースに渡した。藤色がかったピンクのうすい紙の小片である。
「何だかわかるだろう?」
「金だ」
「千フラン札のはじっこらしい」
「ははあ、事情は明らかだね。この娘は何か知っていた。そして、犯人をゆすろうとしたんだ。今朝、どうも口ぶりがおかしいとは思ったんだが」
「僕たちは間抜けだったよ。あの時わかるはずだったんだ。この娘は言っていたんだからね。『|あたし《ヽヽヽ》が何も見たり聞いたりするはずがないじゃありませんか。あたしは下甲板にいたんですから。もし寝つかれないで階段を上って行くような事でもしたんなら、そりゃその悪漢が、奥様のお室へ入るか、出て来るかするところを見かけたでしょうけれど、実際は……』って。むろん、言っていたことは事実だったんだ。実際に階段を上り、誰かがそっと、リンネット・ドイルの室に入りこむところか、あるいは、そこから出て来るところを目撃したんだ。欲の皮をつっぱり過ぎたので、こんな姿になってしまったけれど……」
「誰が彼女を殺したかは、依然として、不明ときてる」
「いや、そんな事はない。大分はっきりしてきたよ。ほとんど、わかっているんだが、そのわかっている事が途方もないんでこまる。やっぱり、そうにちがいないんだが、いったい、どういうわけかな。全く、今朝は馬鹿だったよ。君も僕も、彼女が何かかくしているとは思ったのに、ゆすりということは思いつかなかったんだから」
「口止料をすぐよこせと言ったにちがいない。脅迫したんだよ。犯人は要求に応じなくてはならない羽目になり、フランス紙幣で払った。その時、何かがおこった?」
「僕はそう思わないね。旅行する時には、予備金を持って歩く人が多いが、それは、五ポンド紙幣だったり、ドルだったり、また、フランス紙幣の事も珍しくない。おそらく、犯人は色々の紙幣をごちゃまぜにして、所持金を全部、払ったんだ。さて、先をつづけよう」
「犯人は彼女の室へ入り、金を渡し、それから……」
「そして、それから彼女は金を数える。僕はああいう階級の事を知っているがね、数えただろうと思う。数えている間、すっかり油断していたところを犯人はおそった。それがうまく行くと、そこにあった金をかき集めて、犯人は逃げた。その時、お札の一枚の隅っこがちぎれていることには気がつかなかった」
「それを手がかりに、犯人を捕えられるかもしれん」
とレースは言ったが、確信はなさそうだった。
「それはどうかな。紙幣をしらべれば、やぶけていることに気がつくだろうからね。もし犯人がけちんぼなら、千フラン紙幣を破く気にはなれないだろうけれど、僕にはどうしても、犯人はけちんぼどころか、その正反対の性質のように思えて仕方がない」
「どうしてそういうことになるのかね」
「今度の犯罪といい、ミセス・ドイルの殺害といい、勇気、大胆な実行力、胆力、身軽な行動とかがなければできない事だが、そういう素質は、コツコツと貯めて行く、細心な性質とは矛盾するからね」
「ベスナーを連れて来た方がよさそうだ」
とレースは言った。
ベスナー医師の検査は簡単で、「ああ」とか「そう」とかを連発しながら、仕事を運んだ。
「死後せいぜい一時間ですな。即死だ」
「どんな凶器が使われたと思いますか」
「ああ、それは面白い。非常に鋭くてうすい、精巧なものですね。どんなようなものか、見せてあげよう」
と言って、ベスナーは自室に戻り、カバンから長い精巧な手術用ナイフをとり出した。
「何かこんなようなものですよ。普通のテーブル・ナイフじゃない」
「あなたのナイフは一本もなくなっていないでしょうね」
とレースがきくと、ベスナーはじっと、その顔をみつめてから、真赤になって怒り出した。
「君、何を言うんだ。このわしが、オーストリヤ中に名が知れていて、病院を持ち、上流社会の人を患者に持っているこのカール・ベスナーがあわれな小間使を殺したと思うのかね。ああ、君の言うことはおかしいよ、どうかしている。わしのナイフは一本もなくなっていないよ。全部ちゃんとここにある。自分で見たらいい。自分の職業に対する侮辱は、決して忘れないぞ」
ベスナーは、カバンをパチンと閉めると、それをぶらさげて、荒々しく甲板へ出て行ってしまった。
「なんだ、怒らせちまったじゃないか」
とサイモンが言った。
「残念な事をしたよ」
とポワロは肩をすくめた。
「君は間違っているよ。ベスナーはドイツ人だとしても、実にいい人なんだから」
ベスナー医師がいきなり、また、姿を現わした。
「僕の室から出ていただきたい。患者の足の包帯をしなければならないから」
ミス・バワーズはベスナーといっしょにすでに、室に入ってきていて、きびきびと、看護婦らしく、他の人たちの立ち去るのを待っていた。
レースとポワロはおとなしく、逃げるように室を出た。レースが何かブツブツ言いながら、行ってしまうと、ポワロは左を向いた。若い女の話し声と笑い声がきれぎれに聞えたからである。ジャクリーンとロザリーが、ロザリーの室で、開け放したドアのそばに立っていた。ポワロが近づくと、二人は顔をあげたが、ロザリー・オッタボーンは笑いかけてきた。これまでになかった事だけに、嬉しそうな中にも、照れて自信のない笑い方だった。
「君たち、陰口をきいているんだろう」
「大ちがいですよ。ほんとはね、口紅を較べっこしているだけ」
「最新の流行品!」
とポワロはにっこりしてつぶやいたが、その笑いには機械的なところがあったのを、機敏で注意深いジャクリーンの方は見逃さなかった。持っていた口紅を落して、彼女は甲板へ出てきた。
「あの、何かが――何があったんですか」
「君の推察通り、何かが発生したんだ」
「何がですか」
と言って、ロザリーも出てきた。
「また、死亡だ」
ロザリーがかたずを飲んだ。その目に、しばしの間、驚きとそれ以上のもの――驚愕が現われるのを、ポワロは子細に観察していた。
「ミセス・ドイルの小間使が殺されたんだ」
「殺されたんですって? 殺されたとおっしゃるのね」
とジャクリーンが叫んだ。
「そうですよ。そう言いました」
ポワロの答えはジャクリーンに向けられていたけれども、彼が注目していたのは、ロザリーの方であった。だから、彼がつづいて話しかけたのも、ロザリーに向ってであった。
「あの小間使は、見てはならぬものを見てしまったんだな。だから、口外しないように沈黙させられちまった」
「見たものって何でしょう」
今度も聞いたのはジャクリーンだったが、ポワロの答えもまた、ロザリーに向けられた。
「それはほとんど、疑いの余地がないと思う。つまり、彼女はあの運命の夜、誰かがリンネット・ドイルの室へ出入りするのを目撃したんだ」
ポワロは耳ざとかったから、はげしい息づかいをききわけたし、目ぶたがふるえるのにも気がついた。ロザリー・オッタボーンは、ポワロが期待した通りの反応を示したのだ。
「見かけた人の名前は言ったのですか」
とロザリーはきいた。ポワロは静かに、残念そうに、首を横に振った。
甲板へ上って来る足音がしたと思うと、驚きのあまり、目を円くして、コーネリヤ・ロブソンが現われた。
「ジャクリーン、おそろしい事がおこったわ。また、おそろしい事が」
とコーネリヤが叫んだので、ジャクリーンは、その方を向いた。二人が二、三歩、歩み寄った拍子に、ポワロとロザリー・オッタボーンは、ほとんど無意識に、二人と反対の方向へ動いた。
ロザリーは鋭く言った。
「なぜ、あたしをごらんになるんですか。何を考えていらっしゃるんですか」
「君は僕に二つ質問をしたが、こちらからは、一つだけおききするとしよう。『何故、君は僕に本当の事を言わなかったのか』ということなんだがね」
「何をおっしゃっているのかわかりませんわ。今朝、一切をお話し申しあげたんですもの」
「いや、話してくれなかったこともある。ハンドバッグの中に、真珠の柄のついたピストルを入れて持ち歩いていることは、きかせてくれなかった。ゆうべ見たもので、まだ、話してくれてないものがある」
ロザリーはパッと顔を赤らめた。
「それは嘘ですわ。あたし、拳銃なんか持ってやしません」
「僕は拳銃とは言わなかったよ。君がハンドバッグの中に、小さなピストルをしのばせていると言ったまでだ」
「ばかげたこと、おっしゃって。よかったら、自分でご覧になったらいいわ」
ポワロはハンドバッグの口を開いてみた。中にはピストルなど入っていなかった。それをロザリーに渡すと、彼女は「それ見ろ」とばかりに、いまいまし気に見返した。
「なるほど、入っていなかった」
とポワロは面白そうに言った。
「ほら、あなたが必ず正しいとは限らないでしょう。もう一つおかしな事をおっしゃったけど、それも考えちがいですよ」
「いや、そんな事はない」
「ほんとに癪《しゃく》にさわる方ね。一つ思いこむと、どこまでも言い張るんだから」
とロザリーは腹立たし気に足をふみ鳴らした。
「ほんとうの事をきかせてもらいたいと思うものだから」
「ほんとの事って何ですか。そちらの方がよく御存じのようですけど」
「君が見たものを、僕に言えというんだね。もし僕が正しかったら、それを認めてくれるだろうね。君は船尾を通り過ぎた時、思わず立ち止った、というのは、甲板の中ほどの船室から、――翌日になって、それがリンネット・ドイルの室だったことに気づいたが――一人の男が出てきて、ドアを閉め、甲板を遠ざかって行くのを見かけたからだ。そして、多分その男が一番外れの二室のいずれかに入るところも。どう、僕の言う通りだろう?」
ロザリーは答えなかった。
「だまっていた方が懸命だと思っているんだろうね。もししゃべったら、自分も殺されやしないかと心配なんだろう」
ポワロはロザリーが簡単なわな、つまり、勇気がないといわれたことに引っかかったものと一瞬間かんがえた。もっと難しい議論をならべたら、彼女は引っかかりはしないだろうが。
ロザリーはわなわなと唇をふるわせて言った。
「あたし、誰も見かけませんでした」
第二十三章
ミス・バワーズがカフスを手首の方へのばしながら、ベスナー医師の室から出て来ると、ジャクリーンはいきなり、コーネリヤのそばをはなれて、バワーズ看護婦に話しかけた。
「あの人どんな様子ですか」
ちょうどこの時、近づいてきたポワロの耳に、看護婦の返事がきこえた。
「非常に悪いというわけではありませんが」
と答えたミス・バワーズは心配そうな顔付きだった。
「悪化したというんですか」
「そうねえ、向うへ着いて、ちゃんとX光線で調べてもらい、麻酔をかけて徹底的な手術を受ければ、安心できるでしょうけど。シェラールへはいつ着くんでしょうか、ポワロさん」
「あしたの朝」
ミス・バワーズは口をすぼめて、首をふった。
「まあ、あいにくね。出来るだけの手当はしているんですけど、いつ敗血症になるかしれませんからねえ」
ジャクリーンはミス・バワーズの腕をつかんで、ゆすぶった。
「あの人、死にそうなんですか?」
「いいえ、そんなこと。大丈夫、そんなことないと思いますよ。傷そのものは危険はないんですから。でも、出来るだけ早く、X光線で調べてもらう必要はあるんです。それから、今日一日は絶対安静にしていなければいけなかったんですのに、ひどく心配したり、興奮したりしたものですから、熱が上ったのも当り前ですわ。奥様が亡なられたショックやらその他、あれこれと……」
ジャクリーンはミス・バワーズの腕をはなし、顔をそむけた。そして、ミス・バワーズとロザリーに背をむけ、船ばたによりかかって立っていた。
「あたし達はいつも、悲観してしまってはいけないと思うんですよ。ミスター・ドイルは見るからに頑健な方ですから――おそらく、これまで一日も病気をなさった事がないでしょうね――それがこの際、ずいぶんと物を言いますわ。でも、今のように熱が出るのはたしかに、嫌な徴候ですし……」
ミス・バワーズはこう言って、もう一度、カフスを直してから、勢よく立ち去った。
ジャクリーンは涙で目を曇らせ、手さぐりしながら、自室へ向った。この時、腕をとってからだを支え、導いてくれる者があるので、涙にぬれた目をあげると、それはポワロであった。ジャクリーンは、よりかかるようにして、室の中まで連れて行ってもらった。
「あの人、死ぬわ。死ぬ事があたしにはわかっている。そして、あたしが殺した事になるんだわ」
「すんだ事は仕方がない。やってしまった事を取り消すわけには行かないんだから。いまさら、後悔してもはじまらない」
とポワロが悲し気に言うと、ジャクリーンは一層はげしく泣き出した。
「あたしが殺した事になるんだわ。あたし、あの人をこんなに愛しているのに」
「可愛いさあまって……」
ブロンディン氏経営のレストランで、ずっと以前に考えたのと同じ思いが、今日もまた、ポワロの頭に浮かんでくるのであった。
「何はともあれ、ミス・バワーズの言葉から判断してはいけない。病院看護婦は悲観的なのが普通なんだから。夜番の時は、自分の受持ちの患者が夕方まで生きていると驚くし、日直の時は、朝、患者が生きているのを見ると、意外に思うものなんだ。というのも、大凡の成行がわかりすぎているからなんだが。車を運転している時にだね、横から車がとび出すとか、トラックが急にバックするとか、自分の方へ向って来る車の車輪が外れるとか、あるいは、犬が垣根のところから、ハンドルを握っている手にとびかかって来るとかいうような事があれば、おそらく、自分は死ぬと思うのが当然なんだが、人間というものは、そんな目には一つも会わずに、目的地へ到着できるときめこんでしまうものだ。そして、大抵の場合、それで差支えないのだが、一度、事故にまきこまれたり、目撃したりすると、反対の見解を抱くようになり勝ちだ。それと同じ事だよ」
「あたしをなぐさめようとなさっていらっしゃるの」
とジャクリーンは涙のうちに笑いを見せた。
「僕が何をやってみようとしているかは、誰にもわからないんだよ。君はこの旅行に来なければよかったんだ」
「そうね。来なければよかった。おそろしい旅だったわ。でも、もうすぐ終るわ」
「そうだとも」
「そして、サイモンが病院で適当な治療を受ければ、何もかもよくなるわ」
「子供みたいな事を言うんだね。そしてめでたし、めでたしって言うんじゃないのかね」
ジャクリーンはパッと顔を赤らめた。
「あたし、決してそんなつもりでは……」
「そんな事を考えるのはまだ早いと言うの? そりゃ猫かぶりじゃないか。とにかく、君はラテン系の血が交っているからね。あまり穏当でないと思われる事でも、平気で受け入れられるんだ。先帝崩御――新帝万歳というようにね。陽が沈み、月が昇る。そういうものだろう」
「わかっていらっしゃらないのね。あの人はあたしの事をかわいそうに思っているだけなんです。あんなひどい怪我をさせてしまった事を知って、あたしがどんなに苦しい思いをしているかが、あの人にはわかるものですから、あたしをとてもかわいそうだと思ってるんですわ」
「なるほどね。清らかな同情か、高遠な気持だね」
ポワロは半ばからかうように、ジャクリーンを見て、フランス語を小声でつぶやいた。
いのち空し
愛と憎しみと
それからまた、今日は。
いのち短し
希望と夢と
それからまた、今晩は。
ポワロが甲板にとって返すと、ちょうど、そこで闊歩《かっぽ》していたレースに呼びかけられた。
「ポワロ君、用があるんだ。いい考えがある」
レースはポワロと腕をくんで、上甲板へともなった。
「ドイルが何気なくもらした言葉だがね。その時は気にもとめなかったんだけれども、何か電報のことなんだ」
「そうそう、そんな事があったね」
「何でもない事だろうと思うけれども、調べ残した事が一つでもあるとこまるからね。二つも殺人があったというのに、さっぱり見当がつかないんだから、全くいまいましいよ」
「いや、そんな事はない。はっきりしている」
「何か考えがあるのかね」
「もう、考えどころじゃなく、確信だ」
「いつからだね」
「小間使のルイーズ・ブールジェが死んでからだ」
「僕にはさっぱりわからん」
「非常にはっきりしてはいるんだがね。ただ、色々と困難や邪魔があるんだ。リンネット・ドイルのような人のまわりには、憎み、嫉妬、そねみ、卑劣といったものが、わんわんとうず巻いているからね」
「それでも、君はわかっていると思うんだね? 確信がなけりゃそんな事を言いやしないだろうからね。僕はと言うと、何もわからないんだ。むろん、疑念は抱いているがね……」
ポワロはレースの話をさえぎって、その腕に手をかけた。
「君はえらい。『話せ』とか『どういう事を考えているのか』なんて言わないからね。僕はいま話せるものならよろこんで話すという事が、君にはわかっているんだ。先ず第一に取り除かなければならない事がうんとあるけれども、僕の示す線にそって、暫く考えてくれたまえ。いくつかの点があるが、先ず、アスワンの庭園であの夜、僕たちの話のやりとりを立ちぎきした者があるというジャクリーンの陳述がある。ティム・アラトンは、あの犯罪の行われた夜の自分の行動について述べている。今朝、僕たちがきいた事に対する、ルイーズ・ブールジェの意味深長な答え。アラトン夫人は水を、息子のティムはウイスキー・ソーダを、そして僕はぶどう酒を飲むという事実。更に、ネール・ポリッシが二瓶、僕の引用したことわざ。そして最後は、事件の最重要点、つまり、ピストルが安っぽいハンケチとビロードの衿巻にくるんで、水中にすてられた事になるんだ」
レースは、しばらく考えてから言った。
「いや、僕にはわからん。君が何を考えているかということはおぼろ気にわかるんだが、僕の見る限りでは、それがうまく行きそうもないように思われる」
「そりゃ君が一面しか見ていないからだよ。それから、忘れないでもらいたいのは、また、ふり出しに戻ってやり直しをしなければならない事だ。何しろ、最初に考えた事が間違っていたんだから」
「そんな事は慣れっこだ。探偵の仕事というものは、間違った出発点は一掃して、もう一度、初めからやる事だという気のすることがよくあるからね」
「そうなんだ。そのくせ、それをやりたがらない人があるんだ。そういう人たちは、ある種の理論をもって、何もかもがそれに当てはまらないと承知しない。それに当てはまらない一つの小さな事実があると、退けてしまう。ところが、重要なのは当てはまらないような事実と相場がきまっている。僕は初めから、あのピストルが犯行現場から持ち去られた事を重視しているんだ。何かわけがあるにちがいないことは知っていたけれども、そのわけを覚ったのは、ほんの三十分前なんだ」
「僕にはまだわからないよ」
「いや、わかるよ。僕の示した線に沿って考えさえすれば。ところで、電報の件をはっきりさせよう。医者が許してくれればの話だが」
ベスナー医師の機嫌はまだ直っておらず、ドアのノックに答えて、苦い顔を見せた。
「何の用ですか。患者にもう一度、会いたいと言うんだね。そりゃだめだ。熱があるんだから。今日はすっかり興奮してしまったんでね」
「たった一つだけききたい事があるので。大丈夫、それだけですから」
とレースが言うと、ベスナーはしぶしぶと退いてくれたので、レースとポワロは室の中へ入った。入れちがいにベスナーは二人を押しのけるようにして出て行った。
「三分経ったら戻って来る。そしたら、君たちはちゃんと出てくれ」
サイモン・ドイルはレースとポワロを見くらべた。
「用件は何ですか」
「ちょっとした事なんだが。さっき、給仕達がリケッティ氏のうるさかった話をした時、あの人はおこりんぼなんで、電報の事で『家内に失礼な態度を示した事がある』と言われましたね。その事件を話してくれませんか」
「お安い御用です。ワディ・ハルファで、第二の滝から帰ったばかりの時だったんですが、リンネットはおいてあった電報を自分宛のものと思ってしまったんです。姓がリッジウェイではなくなった事をうっかり忘れたんですね。乱暴な字で書くと、リケッティとリッジウェイは同じように見えますからね。電報を開いては見たものの、さっぱりわけがわからず、首をひねっていた時、あの男がやってきて、その電報を家内の手から引ったくるなり、わめきたてたんです。家内は追いかけてお詫びをしたんですが、それに対して、凄く失礼な言葉を浴せたんです」
「その電報に何が書いてあったか、おわかりですか」
「ええ。リンネットが一部分を声を出して読んだので。それには……」
と言いかけて、サイモンは止めた。室の外が騒がしくなったからである。かん高い声がずんずん近づいてきた。
「ポワロさんとレース大佐はどこにいらっしゃいますか。すぐにお目にかかりたいんですが。重大な事です。重要なおしらせがあるんです。ドイルさんのそばにいらっしゃるんでしょうか」
ベスナー医師がドアを閉めなかったので、甲板への通路にはカーテンが下がっているだけだった。それを一方に押しやって、オッタボーン夫人が凄まじい勢でとびこんできた。顔をまっかにして、足もとが少しふらふらしている。口のきき方も危かしいようだ。
「ドイルさん。誰が奥様を殺したか、あたしは知っていますよ」
「何ですって?」
サイモンも他の二人も彼女にじっと目を注いだ。オッタボーン夫人は、勝ち誇ったように、三人をぐるりと見渡した。彼女は嬉しくてたまらなかったのである。
「やっぱり、わたしの説の正しい事が完全に証明されたんですよ。深く根ざした根源的な衝動――むりで、途方もないように思われるかもしれないけれど、それが真実なんです」
「誰がミセス・ドイルを殺したかを示す証拠は持っていられるんですね」
とレースが鋭くたずねると、椅子に腰かけていたオッタボーン夫人は、からだを乗り出すようにして、大きくうなずいた。
「持っていますとも。ルイーズ・ブールジェを殺した人がリンネット・ドイルの加害者でもある、つまり、二つの犯罪は同一の手で行われたということに同意なさるでしょうね」
「さよう、さよう。おっしゃる事は理屈にあっています。その先を言って下さい」
とサイモンはせっかちに言った。
「じゃわたしの主張がほんとうなんだわ。あたしは、ルイーズ・ブールジェを誰が殺したかを知っています。したがって、リンネット・ドイルを殺したのは誰であるかも知っています」
「誰がルイーズ・ブールジェを殺したかということについての意見を持っていられるわけですか」
レースが疑うように言うと、オッタボーン夫人はおそろしい勢いで、喰ってかかった。
「いいえ、そうじゃありませんよ。はっきりと知っているんです。この目でその人を見たんですからね」
「はじめから聞かせて下さいよ、ぜひ。ルイーズ・ブールジェを殺した人を知っているとおっしゃるんですね」
とサイモンがひどく興奮して言うと、オッタボーン夫人はうなずいた。
「出来事を正確にいお話します」
オッタボーン夫人はこの上なく満足だった――それは疑う余地のない事である。今こそ彼女にとって重要な瞬間――つまり、彼女の勝利だったのだから。自分の著書が売れなくなったって、また、かつてはむさぼるように自分の本を読んでくれた世間の奴らが、もっと新しいものをもてはやすようになったって、それがどうしたと言うんだ。このサロメ・オッタボーンはもう一度、評判になるだろう。わたしの名前がどの新聞にも出るだろう。何しろ、法廷では自分が重要な証人になるのだから。
オッタボーン夫人は、深く息を吸ってから口を開いた。
「食事に下りて行こうとした時でした。ほとんど食欲はなかったのですが、――昨夜の惨劇のおそろしさが、……これはよけいな事ですが。途中まで行って、室に忘れものをしてきた事に気づいたものですから、ロザリーに一人で行くように申しました。あの子は一人で行きました」
オッタボーン夫人がちょっと、一息ついた時、通路のカーテンがかすかに揺れた。しかし、居合わせた三人の男の中で気づいた者はなかった。
「あのー、あたしは……」
オッタボーン夫人はためらった。微妙な点にふれなければならないからである。
「実は、わたし、船員の一人と打合せた事がありましたので、その人がわたしのほしがっているある物を持ってきてくれるはずだったのですが、娘にその事を知られたくなかったのです。あの子はうるさいところがありますので」
あまりうまい弁明にはならなかったが、オッタボーン夫人は、いよいよ法廷で弁じるまでには、もっとましな事を思いつくだろうと思った。
レースはまゆ毛をあげて、ポワロに目でたずねた。ポワロは何度もうなずき、声を出さずに『酒』と言った。
また、カーテンが揺れて、ドアとの間に、何かかすかにキラリと青く光った。
オッタボーン夫人の話はつづいた。
「打合せた事と言いますのは、わたしが下甲板の船尾にゆけば、その男が持っていてくれるはずになっておりました。甲板を歩いておりますと、ある船室のドアが開いて、誰やら表をのぞいた者があります。それがこのルイーズ・ブールジェとやらいう娘だったのですが、誰かを待っていたらしく、わたしだとわかると、がっかりしたように、また、いきなり室の中へ入ってしまいました。むろん、わたしは気にもとめず、さっき申しましたように、船員から品物を受けとり、その代金を支払ってから、二言三言しゃべって、引きかえしたのですが、ちょうど角を曲った時、ある人がルイーズ・ブールジェのドアをノックして入って行くのが見えました」
レースが言った。
「そしてその人が……」
バーンという爆発音が室内に満ち、強い煙の臭がたちこめた。オッタボーン夫人はゆっくりと横を向いたと思うと、前へのめるようにして、バタンと床にたおれた。耳の真後に小さな丸い穴があき、そこから血が吹き出していた。
一瞬間、あっ気にとらえてじっとしていたレースとポワロは、急に立ち上った。オッタボーン夫人の死体のために、自由に歩き回ることは出来なかったが、レースが死体をのぞきこんでいる間に、ポワロは猫のように、ドアから甲板の方へ向って飛んで行った。甲板には人影はなく、敷居のまん前の床に、大きなコルト銃が落ちていた。ポワロは左右を見渡したが、やはり、甲板には人影がない。そこで、船尾へ向って、かけ足で行き、角を曲った所で、反対の方向からまっしぐらに走ってきたティム・アラトンとバタリと出会った。
「いったい、あれは何だったんですか」
とティムは息を切らせて言った。
「ここへ来る途中で誰かに会わなかった?」
とポワロは、鋭くきいた。
「誰かに会ったかって? いいえ、会わない」
「じゃ僕といっしょに来てくれたまえ」
ポワロはティムの腕をつかんで、引きかえしたが、その時にはすでに数人の人が集まっていた。ロザリー、ジャクリーン、それにコーネリヤは室からとび出していたし、展望室からは、ファガソン、ジム・ファンソープ、アラトン夫人がぞくぞくと甲板へ出て来るところだった。
ピストルのそばにはレースが立っていた。ポワロは後をふりむいて、ティム・アラトンにきいた。
「君、手袋を持っている?」
「持っています」
とティムはポケットをさぐって言った。ポワロはその手袋をはめて、ピストルをしらべるために身をかがめた。レースも同じく身をかがめると、人々はかたずをのんで見守った。
「犯人は船首の方へ向って逃げたんじゃない。ファンソープとファガソンがこの長椅子に腰かけていたんだから、そっちへ行けば二人に見つかったはずだからね」
とレースが言うと、ポワロが応じた。
「船尾の方へ行けば、アラトン君とぶつかったはずですよ」
「このピストルは最近、見かけたような気がする。たしかめる必要があるね」
レースはペニングトンの室のドアをノックしたが、答えはなかった。室には誰もいなかった。レースはタンスの右引き出しをガタガタ言わせて開けてみた。ピストルはなくなっていた。
「これで解決。すると当のペニングトンは何処へ行っちまったんだ」
レースたちがまた、甲板に出て行くと、アラトン夫人の姿も見えたので、ポワロはさっと、そのそばへ寄った。
「奥さん、ミス・オッタボーンをお願いします。あの人の母親が殺されたので」
この時、ベスナー医師がわめきながらやってきた。
「おお神様、今度は何事なんだ」
人びとが道をあけたので、ベスナーはレースの指し示した室内へ入った。
「ペニングトンを探すんだ。ピストルに指紋が残っているかね」
とレースはポワロに言った。
「一つもついていない」
ペニングトンは下甲板にいた。小さな休憩室で手紙を書いているところだったが、きれいに剃刀のあたった顔をあげた。
「何か新しい事件でも?」
「銃声がきこえなかったかね」
「そう言われてみると、何かバーンという音をたしかに聞いたように思うけれど、そんな事とは考えもしなかった。で、誰が撃たれたんです?」
「オッタボーン夫人です」
「オッタボーン夫人が? 驚かさないで下さいよ。オッタボーン夫人とは、さっぱり、わけがわからん。みなさん、この船には殺人狂が乗っているんじゃありませんか。防御組織を作る必要がありますよ」
「ペニングトンさん、いつからこの室にいられたんですか」
とレースがきいた。
「そうですね、待って下さいよ。二十分くらい前からでしょうか」
「ずっとこの室から出なかったんですね」
「もちろん、出ませんでした」
ペニングトンは、ふしぎそうに、レースとポワロの顔を見た。
「ペニングトンさん、いいですか、オッタボーン夫人はあなたのピストルで撃たれたんですよ」
第二十四章
ペニングトン氏は肝をつぶしてしまった。レース大佐の言葉は本当と思えなかった。
「これは容易ならぬ事ですな、全く」
「あなたにとっては重大きわまる事です」
「僕にとってとは? そんな事を言っても、僕はそれが発射された時にはここで静かに書きものをしていたんですからね」
「それを証拠だてる証人はあるんでしょうな」
「いいや、ないと思いますよ。しかし、上甲板に行って、その婦人を撃ち、ここへ戻ってくるのに、人目につかないはずはないでしょう。(それに僕が何だってその婦人を殺す必要があるんです?)毎日、今ごろは甲板の長椅子に寝ころがっている人がたくさんいますからね」
「あなたのピストルが使用された事をどう説明しますか」
「そうですね、それについては、僕に責任があるようです。この船に乗って間もなくだったと思いますが、社交室で火器の話が出た時、旅行の際は必ずピストルを携帯すると言った覚えがあります」
「その場に居合せた人は?」
「さあ、はっきりと記憶していませんが、大抵の人がいたように思いますね。とにかく、かなり大勢いました」
ペニングトンは静かに首をふって、言葉をつづけた。
「たしかに、その点は自分に責任があります。先ずリンネット、次にその小間使、そして今度はオッタボーン夫人。その間に何の筋道もなさそうだがなあ」
「ところが理由があったんだ」
「ほんとに?」
「オッタボーン夫人はある人がルイーズ・ブールジェの室へ入るところを見かけたことを話してくれようとしていたんですがね、その人の名前を口に出さないうちに、撃たれてしまった」
「全くおそろしい話だ」
ペニングトンは絹のハンケチで額をふきながらつぶやいた。
「ペニングトンさん、この事でお話したい点があるので、三十分経ったら僕の室へきてくれませんか」
ポワロが言った。
「よろこんで伺いましょう」
と答えたものの、ペニングトンの声の調子も顔付も、うれしそうではなかった。レースとポワロは目配せをすると、いきなり、室を出て行った。
「抜け目のない奴だが、おびえているようだね」
とレースはポワロに言った。
「そうだね、あの御仁、よろこんではいないね」
二人がプロムナードデッキに戻ると、アラトン夫人が室から出てきて、ポワロを招きよせた。
「奥さん、どうしました?」
「あの気の毒な娘さんですけどね、わたしもいっしょにいられるような二人室ありませんかしら。あの母親といっしょにいた室に行かせるわけには行きませんし、わたしのところは一人室なものですから」
「それは何とかなります。気がついて下さってよかった」
「そんなこと当り前ですわ。それにわたし、あの娘さんが大好きなものですから。前から好きだったんですよ」
「ひどく興奮していますか」
「それはもうとても。あのいやらしい母親のためばかり思ってきたらしいんですが、ほんとにいじらしいようですわ。あの母親は酒飲みだったと思うとティムが申しますのですが、ほんとですか」
ポワロがうなずくと、アラトン夫人は言葉をつづけた。
「まあ、気の毒に。とやかくは言えないけれど、娘さんはさぞ辛い思いをしてきた事でしょう」
「そりゃ大変でしたよ。あの娘さんは自尊心が強いところへもってきて、母親に対して忠実をつくしましたからね」
「わたしの好きなのはそこですわ、つまり、忠実なところが。当節ははやらないようですけれど。あの娘さんは変った性格なんですね、自尊心が強くて、内気で強情でいながら、暖かい心を持っているんじゃないかしら」
「あの娘さんを適任者にお預けする事ができたようですな」
「そうですよ。心配は御無用。あの娘さんはわたしにお任せ下さい。いじらしい程、わたしにしがみついていますから」
アラトン夫人が室内へ入ってしまうと、ポワロは悲劇のあった場所へ戻ってきた。
コーネリヤは目を丸くしたまま、まだ、甲板に立っていた。
「ポワロさん、あたし、わからないんですよ、犯人はあたしたちに気づかれずに、どういうふうに立ち去ったんでしょう?」
「ほんとにね、どういうふうに逃げたんでしょう?」
とジャクリーンも言った。
「いや、別に忍術を使って姿を消したわけじゃない。犯人が逃げるには三つの方向があったことは明らかなんだから」
「三つ?」
とジャクリーンが解せぬ面もちできいた。
「右か左へ行ったのはいいとして、もう一つの方向って、あたしにはわからないわ」
コーネリヤは頭をひねった。
ジャクリーンも額にしわをよせていたが、やがて疑問がとけたらしい。
「そうだわ、平面を二つの方向へ動けるのは当然として、その平面と直角にも動けるはずだわ。上には行けないとしても、下には行ける事が出来たわけね」
「あなたは頭がいいね」
とポワロは笑い顔で言った。
「あたし、自分のばかなことはわかっているけれど、まだのみこめないわ」
とコーネリヤが言った。
「ポワロさんのおっしゃるのはね、犯人は手すりをヒラリと乗りこえて、下の甲板へ伝わり降りる事が出来たという事なのよ」
「まあ、そんなこと考えもしなかったわ。でも、それにはずいぶんはしっこくなくちゃだめね。せいいっぱいだったでしょうね」
「楽にやってのけられたさ。こういう場合には必ず、あっ気にとられている瞬間があるものだからね。銃声をきいたあと、ちょっとの間はしびれたようになって動けないものだ」
ティム・アラトンが言った。
「アラトンさん、それは御自分で経験なさったこと」
「そうです。五秒ばかりの間、ぼんやり、つったっていましたからね。それから、甲板をかけ出したんだけど」
レースがベスナーの室から出てきて、おごそかに言った。
「遺体を運び出したいので、皆さん、向うへ行って下さい」
言われた通りに人々は立ち去った。その中に交っていたポワロに向って、コーネリヤが思いつめたように話しかけた。
「この旅行はいつまでも忘れられないと思いますわ。三つも殺人があるなんて。おそろしい夢をみているみたいですわ」
この言葉をききつけたファガソンがけんか腰に言った。
「それはあなたがひらけ過ぎているからだ。死は東洋人のように考えるものですよ。ほんのちょっとした、目にもつかないような出来ごとなんだから」
「東洋の人は教育のない、貧しい人たちだから、それでいいけれど」
「教育のないのは結構な事なんだ。教育のおかげで白人は活力がなくなってしまったんだからね。アメリカを見るがいい、教養教養と騒ぎ立てて、胸くそが悪いったらありゃしない」
「でたらめを言っていらっしゃるのね。あたし、毎冬、ギリシャの芸術と文芸復興のお講義をききに行くんですよ。歴史上の著名な婦人についてというお講義にも出たことがあるわ」
「ギリシャの芸術だの文芸復興だのって、きいただけでもうんざりしちまう。大事なのは過去でなくて未来ですよ。この船で三人の婦人が死んだ、それがいったい、どうしたと言うんだ。何の損もありゃしない。リンネット・ドイルは金を持っていただけさ。フランス人の小間使は寄生虫みたいなもんだし、ミセス・オッタボーンは無用の長物だ。あいつらが死のうが死ぬまいが気にかける人があると思うかい? 僕は思わないね。大いに結構だと思うくらいだ」
「そりゃあなたが間違っているわ。あなたときたら自分以外の者はどうでもいいとばかりに、しゃべりまくるんですもの、きいていてうんざりするわ。あたし、ミセス・オッタボーンのこと、あまり好きじゃなかったけれど、あのお嬢さんはあんなにお母さん思いだったんだから、ほんとにがっかりしているわ。あの小間使の事はよく知らないけれど、あの人を好きな人が何処かにいると思うわ。ミセス・ドイルは、他の事はさておき、とにかく美人だったわ。あの方が入って来ると、胸がいっぱいになる程だったわ。あたしは自分が不きりょうなのでよけい美しさに打たれるの。あんな美人ってめったにありゃしない。美しいものが亡びるのは世界の損失よ。さあ、どう?」
ファガソンは一歩退いて、両手で頭髪をはげしくかきむしった。
「参ったよ。君のような人ってあるもんか。女にはつきものの意地悪なところが、薬にしたくもないんだから」
ファガソンは今度はポワロの方を向いた。
「御存じでしょうか、コーネリヤのおやじさんはリンネット・リッジウェイの父親のために没落したようなものなんですよ。それなのに、リンネットが真珠と流行服に身を飾って旅行しているのを見てもくやしがりもしないんですからね。それどころか『美人だ、美人だ』って感心しているんだからお目出たい話だ。癪にさわったこともないらしい」
コーネリヤは頬をそめた。
「ちょっぴり癪にさわったわ。父は立ち直ることが出来ないのを苦にして、失意の揚句に死んだようなものですから」
「ちょっと癪にさわっただけだって?」
「そうよ、たった今、あなた言ったじゃない? 大事なのは過去じゃなくて未来だって。みんな過ぎた事じゃありませんか、そうでしょう」
「やられたよ。コーネリヤ・ロブソン、君のようなすばらしい女の人に出会ったのは初めてだ。僕と結婚してくれませんか」
「ばかな事、言わないで下さい」
「探偵さんの前で申し込んでも、正真正銘の申し込みですよ。とにかく、ポワロさん、あなたが証人だ。両性間の法律的契約を認めないという僕の主義には反するけれども、熟慮の上、僕はこの女性に結婚の申し込みをしました。そういう形をとらない限り、応じないと思うので、結婚ということにしましょう。さあ、コーネリヤ、うんと言って下さい」
「ほんとにばかばかしい事をおっしゃるのね」
「なぜ、僕と結婚するのが嫌なんです?」
「あなたったら真面目でないんですもの」
「それは、結婚を申し込む事がですか、それとも性格的にそうだと言うんですか」
「どちらもよ、でもあたしの言いたいのは性格の方ね。まじめな事をなんでも茶化してしまうんですもの。たとえば、教育とか教養とか、死とか言った事をね。だから、あなたは信用できないわ」
コーネリヤはこう言うと、顔を赤らめて、急いで自分の室へ入ってしまった。その後姿をじっと見送って、ファガソンは言った。
「いまいましい娘だ! まさか、本気で言っているわけじゃないんだろうけど。頼もしい男がいいと言うのか。頼もしいか! へえ! ところでポワロさん、どうしたんですか。いやに考えこんでいらっしゃるようですが」
ポワロはびっくりして、身をおこした。
「いや、考えているだけです」
「死について沈思黙想。エルキュール・ポワロ著、循環小数――死。彼の有名な論文の一つ」
「君はずいぶん、無遠慮な男だな」
「どうもすみません。つい、既成制度にたてつくのが好きなものですから」
「僕が既成制度だと言うのか」
「その通り。あの娘をどうお思いですか」
「ミス・ロブソンの事かね」
「そうです」
「なかなかしっかりしているね」
「そうなんです。元気者なんだ。上べはおとなしそうだけど、なかなかどうして、芯が強い。あの人は――まあ、いいや、僕はあの娘がほしいんだ。あのお婆さんと渡り合うのも、悪くないかもしれん。お婆さんが僕に対して、徹底的な反感を持つように仕向けることができれば、コーネリヤの事では有効かもしれない」
社交室へ行ってみると、ミス・ヴァン・スカイラーはいつもの隅っこに陣どっていた。いつもにも増して、いばった様子で、編物をしているところだった。
ファガソンはそのそばへ大股に歩いて行った。エルキュール・ポワロはさり気なくその室へ入り、少しはなれた場所に席をとって、雑誌を読み耽っているようによそおった。
「今日は! ミス・ヴァン・スカイラー」
と挨拶されて、老婦人はちらりと目をあげたが、また、すぐ下をむいて、冷淡につぶやいた。
「今日は!」
「実は、重要な問題についてお話をしたいのですが。それはつまり、僕、あなたの従妹さんと結婚したいと思いましてね」
ミス・ヴァン・スカイラーの毛糸の玉がころころと室の向うまで転がって行った。
「あんた、気がどうかしたんでしょう」
という声はとげとげしかった。
「どういたしまして。僕は彼女と結婚するつもりなんです。もう申し込みをしてしまいました」
ミス・ヴァン・スカイラーは珍しい昆虫でも眺める時のような興味を示して、冷やかにファガソンをじろじろと見た。
「へえ! それであの子はあんたを追払ったんでしょうね」
「断わられましたよ」
「当然ですよ」
「当然なもんですか。これからも『うん』というまで言い寄るつもりなんですから」
「はっきりと申しますがね、あの年若な従妹がそんな迫害を受けないように手段を講じますから」
「僕のどこが悪いとおっしゃるんですか」
そう言われても、ミス・ヴァン・スカイラーはまゆ毛をピクリと動かしただけで、毛糸の玉を強くたぐりよせた。話を打ち切って、編物をつづけるつもりだった。
「さあ、僕のどこが悪いとおっしゃるんです?」
「わかりきった事だと思いますがねえ。ええと、何というお名前でしたっけ」
「ファガソンです」
「ファガソンさん、そんな事、問題にするまでもありませんよ」
「とおっしゃるのは、僕では釣合いがとれないということですか」
「それはあなたにもよくおわかりだと思いますがね」
「どういうふうに僕が不釣合いなんですか」
ミス・ヴァン・スカイラーはそれに答えなかった。
「僕には二本の足と二本の腕、健康があり、頭だって悪くない。そのどこが悪いんです?」
「ファガソンさん、社会的地位というものがありますよ」
「社会的地位なんてでたらめだ」
ドアが勢よく開いて、コーネリヤが入ってきたが、その場の空気を見て、立ちすくんでしまった。無法なファガソンは、ニヤリと笑って、大きな声を出した。
「さあ、こちらへいらっしゃい、コーネリヤ。僕はりっぱにありきたりの方法で、あなたに求婚しているんですから」
「コーネリヤ、あんた、この人に気をもたせるような事をしたのかい」
ミス・ヴァン・スカイラーは何ともおそろしい声を出した。
「あたし、いいえ、――むろん、――少くとも、――はっきりとは――あたし……」
「何を言っているんだね」
「コーネリヤが何もしたわけじゃないんで、みんな僕がやったんです。やさしい人だから、真向から僕を押しのけるような事はしないんです。コーネリヤ、あなたのおばさんが、君は僕にもったいないと言われるんだ。そりゃ本当だけれども、おばさんの言われるのとは違う意味での話だ。僕の品性はたしかにあなたにはかなわない。しかし、おばさんの主眼とするのは、僕が社会的にあなたより低くて問題にならないと言うことなんだ」
「それはコーネリヤにもよくわかっていますよ」
とミス・ヴァン・スカイラーが口をはさんだ。
「そうかなあ。それで僕と結婚するのが嫌なの」
「いいえ、ちがいます。もし、あたし、あなたが好きだったら、あなたがどんな人であろうとかまわずに結婚しますわ」
「ところが、嫌いだというんですね」
「あなたったら途方もない事ばかり言うんですもの。しゃべり方も、しゃべる事も……。あたし、あなたのような方に会ったのははじめてですわ」
涙があふれそうになったので、コーネリヤはあわてて、室をとび出して行った。
「まあ、出だしとしては悪くなさそうだ」
ファガソンは椅子に腰をかけて、天井をにらんで言った。そして口笛を吹き、脚を行儀悪く組んでいたが、
「そのうちにはあなたをおばさまと呼ぶような事になるでしょうよ」
と言ったので、ミス・ヴァン・スカイラーは身体をぶるぶるさせて、怒り出した。
「さあ、この室を出て下さい。さもないと、給仕を呼ぶから」
「僕はちゃんと金を払ってあるんですからね。社交室から追い出されるはずはありませんよ。しかし、御機嫌を損じないようにしよう」
ファガソンは、「ヨホウホウ」と歌いながら立ち上ったと思うと、ブラリと出て行った。
ミス・ヴァン・スカイラーが口もきけない程、腹を立てて、立ち上ろうとしているのを見て、ポワロは雑誌のかげから顔を出し、毛糸の玉を拾ってやった。
「すみませんねえ、ポワロさん。ミス・バワーズを呼んで下さいませんか。あの生意気な若い者の事で気分が悪くなってしまって」
「変り者なんですよ。あの一家の者は大体、そうなんですがね。甘やかされている点もむろんあるんですが。いつでも仮想の敵をやっつけようとしているんです。ところで、お気づきになったと思いますが」
「気がついたと言うと?」
「ファガソンと名乗っていて、称号を使いたがらないんですよ。進歩的な思想の故ですが」
「あの人の称号?」
「そうです、ドーリッシの若者ですからね。むろん、金はうなる程あるんですが、オックスフォードに在学中、共産党員になりました」
ミス・ヴァン・スカイラーの顔には複雑な表情が現われた。
「ポワロさん、そのことを何時から知っていられたんですか」
「ここの新聞のどれかに写真が出ていたんです。似ているなと思ったんですが、そのうちに、指輪に紋章がついているのに気がついたんですよ。たしかに、間違いありませんよ」
ミス・ヴァン・スカイラーの顔に次々と現われる相反する表情を読みとるのは面白い事であった。最後に、ミス・ヴァン・スカイラーは丁寧に頭をさげて言った。
「ポワロさん、どうもありがとうございました」
室を出て行く老婦人の後姿を見送って、ポワロはにっこりした。
さて腰を下すと、ポワロの顔はまた、真面目になった。一連の考えを思い返しながらポワロは時折、うなずくのだった。
「そうだ。みんな、うまく当てはまる」
第二十五章
レースが戻ってみると、ポワロはまだ、さっきのところに腰かけていた。
「おい、ポワロ君、どうしたんだい。十分経つと、ペニングトンがやって来るはずだ。これは君に任せるよ」
ポワロは急いで立ち上った。
「その前にファンソープをつかまえてほしいんだ」
「ファンソープ?」
レースは驚いたようにきき返した。
「そうだ。僕の室へつれてきてくれたまえ」
レースはうなずいて出て行った。ポワロが自分の室に戻ると、すぐ後からレースがファンソープをつれて来た。
ポワロは椅子をさし示してから、タバコをすすめた。
「さて、さっそく用件に入るがね。ファンソープ君、君は僕の友人のヘースティングスと同じネクタイをしているね」
ファンソープはとまどったように、自分のネクタイに目をやった。
「これは母校のですから」
「そうだね。僕は外国人だけれど、英国人の物の考え方が多少わかっているから、そのつもりでいてくれたまえ。たとえば、すべき事とそうでない事があるのを知っている」
ジム・ファンソープはニヤリとした。
「この頃はあまりそういう事は申しません」
「そうかもしれないが、習慣はまだ残っているよ。出身校かたぎというものがあって、その面目にかけて、ある種の事はやらないものだ。頼まれもしないのに、知らない人の個人的な話に差出がましい口をきくのも、その中に入るがね」
ファンソープがじっと見ているだけなので、ポワロは更に言葉をつづけた。
「ところが、君はこの間、そういう事をやったんだ。展望室である人たちが静かに個人的な仕事をしていた時、君はその近くへ行った。話の内容を立ち聞きするためであったことは一見して明らかだった。間もなく、君はそっちを向いて、ある婦人、(というのはミセス・サイモン・ドイルだが)に向って、その手堅い取引ぶりをほめるような事までした」
ジム・ファンソープの顔が真赤になったが、ポワロは口をさしはさむ余地も与えずに一気につづけた。
「ファンソープ君、そういう事は、僕の友人、ヘースティングスと同じネクタイをつけた人間のとるべき態度じゃないね。ヘースティングスはこの上なくつつしみ深い男で、そんな事をするくらいなら、恥じて死をえらぶだろう。そこでだね、君はその若さで贅沢な休暇を過していることや、君が田舎の弁護士の事務所で働いていること、したがってそんなに金回りはよくないだろうということ、それから、長く海外旅行をしなければならないような病気に最近かかったらしい様子の見えない事などと、君の先日の行動を考え合せてみると、君がこの船に乗っている理由は何だろうと思うわけなんだ。それで今、君にそれを聞いているんだ」
「一切の返事をお断わりいたします。ほんとに、頭が狂っていらっしゃるんじゃありませんか」
「狂ってはいない。極めて正常だ。君の会社は何処かね。ノースハンプトンといえば、ウォド・ホールからあまり離れていないね。君はどんな話を立ち聞きしようとしたんだ。法律書類に関する事だね。何の目的で、見るからにぎこちなく、あのような言葉をもらしたのかね。それはミセス・ドイルが書類を読まずに署名することを妨げるためであった。この船で殺人が行われ、第二、第三の殺人がやつぎ早やにつづいた。オッタボーン夫人を殺した武器はアンドルー・ペニングトン氏所有のピストルであったという事を知らせれば、おそらく、君は一切をわれわれに話すのが義務だと思うだろう」
ジム・ファンソープはしばらく黙っていたが、とうとう言った。
「あなたは変った仕事のやり方をされるんですね。指摘して下さった点はありがたく思いますが、僕には提供できるような正確な情報は一つもないんです」
「疑惑の域を出ない事件だと言うんだね」
「そうです」
「だから、しゃべるのは無分別だと思うわけか。法律的には、それが本当かもしれないが、ここは法廷じゃないんだ。レース大佐と僕が犯人をつきとめようとしているので、それに役立つ事なら何でも貴重なんだよ」
ジム・ファンソープは考えた後、言った。
「よろしゅうございます。何を知りたいとおっしゃるんですか」
「なぜ、君がこの旅に来たのかということ」
「ミセス・ドイルの英人弁護士をしているおじのカーマイケルから遣わされてきました。おじは夫人の事件を多く扱ってきましたので、ミセス・ドイルの米人受託人、アンドルー・ペニングトン氏とも手紙のやり取りをしております。一々名前をあげる事は出来ませんが、いくつかのちょっとした出来事から、おじは、どうも事情がおかしいと疑いを持つようになりました」
「わかり易く言えば、君のおじさんはペニングトンをいかさまだと思ったんだね」
とレースが言うと、ジム・ファンソープはかすかな笑いをうかべた。
「僕の口からはそんなに露骨には言えませんが、つまりはそういう事なんです。ペニングトン氏がいろいろと口実をもうけたり、公債の処分についてもっともらしい説明をしたりするので、おじが不審の念を抱くようになりました。こうしたもやもやとした疑惑に包まれている時に、ミス・リッジウェイが思いがけない結婚をし、エジプトへ新婚旅行に出かける事になったのですが、おじはこれでほっとした気持になりました。と言うのは、彼女が帰国すれば、財産は正式に彼女に渡されるはずだからです。
ところが、彼女は旅先で思いがけずアンドルー・ペニングトンに出会ったという事を、カイロからの手紙の中に書いてよこしたものですから、おじは疑惑の念を深めるようになりました。のっぴきならぬ立場に追いこまれでもして、ペニングトン氏が使い込みをごまかすためにミセス・サイモン・ドイルの署名を手に入れようとしているのに違いないと思ったのです。と言って、彼女に示せるような確証があるわけではなく、おじの立場は大変むずかしい事になりました。そこで、事情を明らかにするために指図を与えた上、僕を飛行機でここへ乗りこませる以外に手段はなくなりました。僕はたえず目を皿のようにして、必要とあれば、時を移さず行動するという不愉快きわまる仕事を仰せつかったわけです。さっき、おっしゃった時の事ですが、実際、あの時は僕、いやらしい態度に出る事が必要だったんです。見苦しい行動をしてしまいましたが、結果には先ず満足しました」
「ミセス・ドイルに警戒心をおこさせたと言うのか」
「そこまでは行かなかったでしょうが、ペニングトン氏をぎょっとさせる事はできたと思います。これで当分はおかしな事をやる気づかいはないから、その間にドイル夫妻と近づきになって警告めいたものを伝えたいと思っていたのですが。実際のところは、ドイル氏を通してそれをやりたかったんです。ミセス・ドイルはペニングトン氏を慕っているので、直接、氏の事をあれこれ言うのは具合が悪いように思われ、御主人に近づく方が手っとり早やそうでした」
レースがうなずいた。
「ファンソープ君、ある一つの点について、君の正直な意見をきかせてほしいのだが。仮に君がだますとしたら、ドイル夫妻のうち、どちらをその犠牲にするね」
とポワロがきいた。
「そりゃ御主人の方ですね。奥さんは仕事の面ではとても抜け目がありませんが、御主人は仕事のことは何もわからず、自分でも言っているように『点線のところへ署名』をどんどんするといったような、疑うことを知らない方じゃないでしょうか」
「同感だ」
と言って、ポワロはレースの方を見た。
「ファンソープ君、そこが君の動機だろう」
「しかし、これは全部、全くの推理ですからね。証拠ではありません」
「ふん、証拠を手に入れようよ」
「どういうふうに?」
「ペニングトン自身からでも」
「さあ、そんな事ができるかなあ」
レースは時計をちらりと見た。
「そろそろ来る頃だ」
ジム・ファンソープは言葉の裏を敏感に読みとり、室を出て行った。それから二分後にアンドルー・ペニングトンが現われた。その朗らかで、いんぎん極まる物腰にもかかわらず、こわばった顎とつかれた目は、海千山千のつわものが警戒おさおさ怠りないことを示していた。
「やって参りましたよ」
と言って、ペニングトンは腰を下し、レースとポワロの顔を見た。
「ここへ来ていただいたのはですね、あなたが今度の事件に非常に特殊な、そして直接な関係のある事がはっきりしているためです」
とポワロが言った。
「そうですか」
ペニングトンは眉毛をかすかに上げた。
「そうですとも。あなたはリンネット・リッジウェイを子供の時から知っていたでしょう」
「ああ、それは……」
ペニングトンの顔から警戒の色がうすれた。
「はあ? あなたの言葉の意味がよくわからなかったので。けさ申し上げたように、リンネットがほんの子供だった頃から知っています」
「彼女の父親とも親しかったんですね」
「そうです。極く親しくしていました」
「それでその死後はあなたが娘の後見人になり、娘の相続する莫大な財産の受託人になるように指定したわけですね」
「まあ、そんなところです」
ペニングトンはまた警戒をはじめ、用心深い口のきき方になった。
「むろん、自分だけが受託人というわけではなく、他にも自分と共同責任をもった人たちがいましたがね」
「その後に死んだのは誰ですか」
「二人が死に、もう一人のスターンデール・ロックフォド氏は残っております」
「相棒ですね」
「そうです」
「ミス・リッジウェイは結婚した時には、まだ成人に達していなかったんですね」
「今度の七月には二十一歳になっているところでした」
「普通に行けば、その時に財産を自分で管理するようになるところだったんですね」
「そうです」
「ところが結婚したために事情を促進する事になったんでしょう」
「失礼ですが、それがいったい、あなた方とどういう関係があるのですか」
「もしそれに答えるのが嫌ならば……」
「好き嫌いの問題じゃない。何をお聞きなろうとかまいませんが、先程からの事が関連事項と言えるんですか」
「むろんですよ。動機の問題がありますからね。それを考えるには財政上の事柄を考慮に入れなければならないものなのです」
「リッジウェイの遺言で、リンネットは二十一歳になった時か結婚した時に、現金を自由に出来る事になっていました」
「無条件で?」
「そうです」
「何百万ドルという金額だったそうですね」
「その通りです」
「あなたとあなたの相棒の責任は重大だったわけですね」
「わたしたちは責任ということには慣れていますから、心配はいりません」
「そうですかな」
ポワロの調子にはペニングトンの痛いところにふれるものがあった。ペニングトンは憤然として言った。
「いったい、何を言おうとしているんですか」
ポワロの答えはあけすけだった。
「ペニングトンさん、リンネット・リッジウェイが突然結婚したために、あなたの事務所では肝を冷やしたんじゃないかしら」
「肝を冷やす?」
「その通りです」
「いったい、どういうつもりでそんな事を言うんです?」
「極く簡単な事です。リンネット・ドイル関係の事務はきちんと整理できているでしょうな」
ペニングトンは立ち上った。
「それをきけば十分だ。これでおしまいだ」
と言いすてて、入口に向ったが、ポワロが呼びとめた。
「今きいた事に答えてくれたまえ」
「ちゃんとしてますよ」
「リンネット・リッジウェイの結婚の知らせをきいた時にびっくりして、最初の船に飛び乗ってヨーロッパへ急行し、エジプトで偶然出会ったように仕組んだんではありませんか」
ペニングトンは二人の方へ引き返してきた。もうこの時は自分をとり戻していた。
「それは全くの暴言だ。カイロで出会うまではリンネットが結婚した事を知りもしなかったんですからね。寝耳に水でしたよ。リンネットからの手紙は、一日違いで僕の手に渡らなかったようで、その後回送されてきたのを一週間ほど経ってから受けとりました」
「船は『カーマニック号』だったと言われましたね」
「そうです」
「すると、その手紙がニューヨークに着いたのは、『カーマニック号』が出帆してしまってからですね」
「何度同じ事を言えばいいんですか」
「変だな」
「何が変なんです?」
「あなたの荷物にはカーマニック号のラベルが一枚もはってありませんね。大西洋定期船の新しいラベルと言ったら、ノーマンディ号のものだけですよ。あの船はカーマニック号より二日おくれて出帆したように記憶しているんだが」
ペニングトンは一瞬、途方に暮れたように目も落着きを失った。
「さあ、ペニングトンさん、あなたの船は自分で言っていられるようにカーマニック号ではなく、ノーマンディ号だったと思われる理由がいくつかあるんですよ。そうすると、あなたはニューヨークに発つ前に、ミセス・ドイルの手紙を受け取った事になる。否認しても無駄ですよ。船会社をしらべればすぐわかる事なんだから」
レースの持ち出した証拠のきき目はあらたかだった。アンドルー・ペニングトンは呆然として椅子に腰を下したが、その顔は無表情だった。そのポーカー・フェイスのかげから、彼の機敏な頭脳は次の布石をねらっていた。
「いや、おそれ入りました。あなた方のほうが一枚上手だ。しかし、僕には僕なりの理由があっての事だったんですが」
「そうだろうな」
レースがぶっきらぼうに言った。
「その理由を打ち明けるとすれば、その場だけの事ということにしていただきたい」
「僕たちは不都合のないように振るまうものと安心なさってよろしい。もっとも、でたらめに請負うわけには行きませんがね」
「ええとー、ずばり申しましょう。英国で何やらインチキがあったらしく気がかりでしたが、手紙でははかばかしく事が運ばないので、自分でやってきて確める以外に手がなかったんです」
「インチキと言うと?」
「リンネットがだまされていると思われる十分な理由があったので」
「誰に?」
「英国人の顧問弁護士にです。しかし、こんな非難はやたらにあびせられるものではないので、この目で確かめようと決心したわけで」
「あなたの用心深さは見上げたものだ。しかし、何だって手紙を受けとらなかったなどとつまらないごまかしをしたんです?」
「じゃ伺いますがね、何等かさし迫った問題がなく、理由も言わずに、新婚旅行中の夫妻のところへ割り込めますか。それで、偶然に会ったように見せかけるのが一番いいと思ったんです。それに僕は御主人の方の事は何も知らなかったものですから。ひょっとしたら、そのインチキに巻きこまれていたかもしれないと思ったりして」
「あなたのやった事は一切、利害関係をはなれてというわけですね」
とレース大佐が言った。
「そうなんですよ」
暫し、誰も口をきかなかった。レースがポワロの方をちらりと見ると、ポワロは身を前にかがめた。
「ペニングトンさん、僕たちはあなたの話を全然、本当にしないんですが」
「何だって! じゃ何を本当だと思うんだ?」
「リンネット・リッジウェイが不意に結婚したために、あなたは経済的に苦境におち入り、そこから抜け出すためにある方法を探そうとして大急ぎでここへやってきた、その方法とは時をかせぐことである、というふうに僕たちは思うんですがね。その目的で、ある書類にミセス・ドイルの署名をしてもらおうとしたが、それは失敗に終った。そして、ナイル河の上流へ行った時には、アブ・シンベルで崖の上を歩いていて大石をひっくりかえしたところ、それが転がり落ちて、ほんの僅かの差で目的物からそれてしまった……」
「あなたはどうかしている」
「河上りの旅の帰路にも同じような事がおこった。|もしミセス・ドイルが死ねば《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|ほとんど確実に他の人の仕業と見なされそうな時に《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、夫人を除く機会が向うから飛びこんできた。リンネット・ドイルと小間使、ルイーズの殺害者にちがいないと思われる人の名前を僕たちに知らせようとしたある婦人を殺したのはあなたのピストルであったということを僕達は確信しているだけでなく、現に知っているんだから」
「畜生! 何を言うんだ。気でも狂ったのか。僕にリンネットを殺すどんな動機があったと言うんだ。財産は僕のものになるわけじゃないんだから。彼女の夫のものになるんだ。なぜあの男を責めないんだ。利益のあるのは、僕でなく、あの男なのに」
「ドイルはだね、あの悲劇のあった晩、撃たれて脚に傷をおうまで、ラウンジを離れたことは一度もなかったんだ。撃たれてからは歩けなかった事は医師と看護婦から証明ずみだ。この二人はそれぞれの立場から信頼できる証人なんだがね。サイモン・ドイルが細君を殺す事はむりだったろう。ルイーズ・ブールジェを殺す事もできなかったはずだ。オッタボーン夫人に至っては、ドイルが殺したのでない事が決定的だ。それはあなたにもわかると思うが」
レースの声は冷たかった。
「ドイルが殺したのでない事は知っていますがね。僕の言いたいのは、ミセス・ドイルの死で何の利益も受けない僕をなぜ責めるのかという事ですよ」
「しかし、それは結局、見解上の問題ですよ」
ポワロが静かに口をはさんだ。
「ミセス・ドイルはテキパキした人で、自分のまわりの事情にはよく通じていて、少しでも変った点があれば直ぐ気のつく性質だったから、帰国して自分の財産を管理するようになれば、必ず疑惑の念を起すようになっただろう。しかし、彼女が死んでしまい、今あなたが言われたようにドイルが相続するとなると、事情は一変する。あの男ときたら、細君の事についちゃ、金持ちだという以外何も知らないんだから。単純で人を信じる性質なんだ。ややこしい事をあの男の前にならべ立てて、重要な問題は数字にからませた上で、法律上の形式と最近の不景気を口実にすれば、取引の解決を引き延すのは造作ない事だ。あの夫を相手にするか、妻を相手にするかで、あなたには非常な相違があると思われるが」
「あなたの考えは――とんでもない考えだ」
「時が証明するだろう」
「何ですって?」
「『時が証明するだろう』って言ったのさ。三人が死んだ――それも全部他殺だ――事件だからねえ。ミセス・ドイルの財政状態はきびしく調べられる事になるだろう」
ペニングトンの肩が急にがっくりと落ちるのを見て、ポワロは勝ったと思った。ジム・ファンソープの懸念も十分な根拠があったのだ。
「君は勝負をして、負けたんだ。これ以上、虚勢を張っても無駄というものだ」
「おわかりになっていないようだが、事情はほんとにはっきりしているんですよ。ひどい不景気だった事はたしかだが、また盛返しを目論んでいるから、運がよければ、六月半ばまでには万事うまく行くようになると思う」
ペニングトンはふるえる手でタバコに火をつけようとしたが、火は消えてしまった。
「あの石はその場の出来心だったんでしょうな。誰も見ている者がないと思って」
とポワロが言った。
「あれは偶然ですよ、ほんとです。つまずいた拍子に、石にぶつかってしまったんで、ほんとに偶然だったんです」
ペニングトンは身を乗り出し、おびえたような目付になった。レースとポワロは何も言わなかった。
いきなりペニングトンは元気をとり戻した。まだ意気消沈してはいたものの、持ち前の闘志がまた首をもたげかけていた。ドアの方へ歩きながら彼は言った。
「あれを僕の故にするのは無理ですよ。偶然の事だったんだから。それから、あの人を撃ったのは僕じゃありませんからね。いいですか。それも僕の故にするわけには行きませんよ。そうは行かないでしょう」
ペニングトンは出て行った。
第二十六章
ペニングトンが出たあと、ドアが閉まるとレースは深いため息をついた。
「予想以上の収穫だった。欺まんと殺人未遂の告白がきけたんだから。それ以上聞き出すのは難かしいものだ。殺人を企てたところまでは何とか告白するだろうが、肝心の点は白状しようとしないからね」
「白状させる事が出来る場合もあるがね」
夢を見ているようなポワロの目をレースは不思議そうに眺めた。
「案がまとまったのかい?」
ポワロはうなずいて、項目を指で数えた。
「アスワンの庭園。アラトンの陳述。二瓶の爪磨液《ネール・ポリッシュ》。僕のぶどう酒瓶。ビロードの衿巻。しみのついたハンケチ。犯行現場に残されたピストル。ルイーズの死。ミセス・オッタボーンの死。こう見てくると、あれはペニングトンの仕業じゃないね、レース君」
「何だって?」
「あれはペニングトンの仕業じゃないって言うんだ。あの男には動機があった。やろうという意志もたしかにあったし、実際にそれを企てもした。しかし、それだけだった。この犯罪には、ペニングトンに欠けているある物が必要だった。つまり、大胆さ、機敏で完全な実行、勇気、危険を眼中におかないこと、知謀に富んだ打算的な頭が必要なのに、ペニングトンはそういう素質を持ち合せていない。あの男には、安全なことがわからなければ、犯罪をおかす事はできないだろう。ところがこの犯罪は安全ではなかった。きわどい仕事だった。大胆さが必要であったが、ペニングトンには欠けている。あの男は抜け目がないというだけだ」
「うまくあの男をつかんだもんだ」
レースは感心したように言った。
「まあ、そうだね。まだ一つ二つ、はっきりさせたい事があるんだ。リンネット・ドイルが読んだという電報もその一つだ」
「あれあれ、ドイルに聞くのを忘れていた。オッタボーン小母さんがやってきた時に、ドイルがその事を話してくれていたんだ。もう一度、聞くとしよう」
「もうちょっと経ってからにしよう。それより先に話したい人があるんだ」
「誰だい」
「ティム・アラトンだ」
「アラトン? よし、すぐ呼ぼう」
レースはベルを押して、給仕を使いにやった。ティム・アラトンがけげんそうな面もちで入ってきた。
「お呼びになったそうで」
「お話したいことがありましてね。まあ、おかけなさい」
ティムはいんぎんではあったが、うんざりした様子がちらりと見えた。
「何か僕でお役に立つ事がありましょうか」
その調子はていねいだが、おざなりだった。
「多分、ある意味で。僕がほんとに要求するのは、君にこちらの話をきいてもらいたい事だ」
「伺いましょう。僕は聞き上手ですから。タイミングよく『オオ』ということもできます」
「そいつは願ってもない。『オオ』というのは意味深長だからね。よし、はじめよう。アスワンで君と君のお母さんに会った時、僕は強くひかれたんだ。第一に、君のお母さんのようなすばらしい人に会ったのははじめてのような気がしたし……」
ティムの疲れたような顔が一瞬、明るくなった。
「母は珍しい人です」
「僕が二番目に興味をもったのは、君がさる婦人についてしゃべった事だった」
「へーえ」
「ミス・ジョアンナ・サウスウッドの事だ。当時、その名前をよく耳にしていたのでね」
ポワロは一息ついた。
「三年程前からスコットランドヤードが手を焼いてきた宝石盗難事件があるんだがね。上流社会の泥棒とでも言うかな。手口はいつも同じなんだ。本物と模造品をすりかえる手だ。僕の友人、ジャップ主任警部は、こりゃ一人の仕わざじゃない、二人の人間がうまく共謀しているんだという結論に達したんだがね。内部の事情がわかってみると、どうも身分のある者の仕わざだと確信するようになったんだが、ついに警部はミス・ジョアンナ・サウスウッドに深い注意を払うようになった。被害者は残らず彼女の友人か知人であり、どの事件でも彼女は問題の宝石に手を触れるか、あるいはそれを借りるかしていたからだ。その生活ぶりも彼女の収入ではとても賄いきれないようなものだった。一方、実際の犯行、つまり、すりかえをしたのは彼女でない事ははっきりしていた。それどころか、宝石のすりかえが行われた時に彼女が英国を離れていた場合さえあったので、ジャップ主任警部の頭には、徐々にある小さな映像が出来上って行った。一時、宝石組合に関係した事のあるミス・サウスウッドが、問題の宝石を手にとって、それを正確に写生し、名もない、不正直な宝石屋に模造品を作らせたのではないか、そして第三段階として、もう一人の人間がたくみにすりかえをやってのけたのではないかと警部は考えたのであった。もう一人の人間はその宝石に触った事もなく、宝石類の模造には全然何のかかり合いも持った事のない人であることはたしかだが、さてそれが何者であるかは、ジャップにわからなかった。
君の口からもれたある事に僕は関心を持った。君がマジョルカ島にいた時におこった指輪の紛失事件、――あるパーティであったすりかえ事件と、君とミス・サウスウッドとの親しい間柄であるということに興味をひかれたのだった。また、君が僕の近づくことを明らさまに嫌がり、お母さんにもよそよそしい態度を取らせようとした事もあった。そりゃ、ただの毛嫌いだったかもしれないが、僕はそう思わなかった。愛想よく感情をかくしていられないほど君の心配は大きかったのだ。
ところで、リンネット・ドイルが殺された後、彼女の真珠が紛失したことがわかったのだが、僕はすぐに君のことを思い浮かべたんだよ。しかし、納得がいかなかったんだ。僕の推測通り君がミス・サウスウッドと共謀しているとすれば、不敵な盗みなどしないで、すりかえを行うだろうと思われたからだ。しかし、真珠は意外なところから戻ってきたのだが、何とそれは本物ではなく、偽物であったではないか!
それで、真犯人が誰であるかがはっきりした。盗まれて、その後戻ってきたのは模造の首かざりだった。つまり、君がそれより前に本物とすりかえておいたものだった」
ポワロは語りおえて、目の前の青年に目を注いだ。ティムの顔色は変っていた。彼にはペニングトンのような闘志がなかった。体力のない故だ。それでも、小馬鹿にするような態度をくずすまいと懸命だった。
「それで? その通りなら、僕はその真珠をどうしてしまったのでしょう?」
「それも僕にはわかっている」
ティムの顔がくしゃくしゃになった。
ポワロはゆっくりと話をつづけた。
「あの真珠のありそうな場所は一ヵ所しかない。さんざん考えた結果、そう思うんだ。君の室にかかっているロザリオの中にある。あのロザリオの珠は実に巧妙に彫ってあるが、特別に作らせたものだろうね。見ただけじゃ全然わからないけれども、あの珠はゆるめると外れるんだね。球の一つ一つの中ににかわで真珠をくっつけてある。宗教的な意味を持つ物に対しては、特におかしな所がない限り大抵の警察の人たちが敬意を表することを考えてやったことだ。ミス・サウスウッドがどういう方法で君のところへ模造首飾りを送ってよこしたかを、一生懸命にさぐり出そうとしたんだ。ミセス・ドイルが新婚旅行に当地へ来るときいて、君がマジョルカ島からやってきたところを見ると、ミス・サウスウッドが送ってよこしたに違いない。僕の考えるところでは、真中の部分をきりとって四角い穴をあけた本にひそませて送ってよこしたようだ。本は開き封で送れば、先ず郵便局で調べられる心配はない」
長い間どちらも口をきかなかったが、やがてティムが静かに言った。
「あなたの勝ちです。面白い勝負であったが、とうとう勝敗がきまったとなると、罰を甘受するより他、なさそうです」
ポワロは静かにうなずいた。
「あの晩、人に見られた事を知っているかね」
「見られた?」
「そうだ。リンネット・ドイルが死んだ夜、午前一時すぎに、君が彼女の室へ入るのを見かけた人があるんだ」
「まさか、あなたは僕が……。僕が殺したんじゃない。ちかってそうじゃありません。あろう事か、あの晩をえらんでしまって、ほんとに心配でたまらなかったんです。ほんとに何という事だろう」
「さぞ落着かない思いをした事だろうね。しかし、もう事実が明るみに出たんだから、僕たちに力を貸してくれるだろう。君が真珠を盗み出した時、ミセス・ドイルは生きていたかね、それとも死んでいたかね」
「わかりません。ほんとに知らないんです。夜の間、真珠をおいとく場所、つまりベッドのそばの小さいテーブルの上においてある事は、前もってわかっていましたから、そっとしのびこんで、テーブルの上を手さぐりでさがしました。そしてあの真珠だけをつかんで、室を抜け出しました。むろん、ミセス・ドイルはねむっているものと思っていました」
「寝息はきこえなかったかね。それをたしかめるために耳をすましたはずだと思うが」
「とても静かでした。寝息がきこえたような記憶はありません」
「発砲した直後のような煙の臭いがあたりにただよっていなかっただろうか」
「そんな事はなかったように思います。覚えがありません」
「それじゃ、ここいらで」
ポワロはため息をもらした。
「僕を見たというのは誰ですか」
とティムはきいた。
「ロザリー・オッタボーンだ。ちょうど左舷の方から曲った時に、君がリンネット・ドイルの室を出て自室へ行くのが見えたんだそうだ」
「じゃ、ロザリーがあなたにそう言ったんですね」
「いや、あの人からきいたんじゃない」
「それじゃ、どうして御存じなんですか」
「それは、僕がエルキュール・ポワロだからさ。|僕は人から聞くまでもないんだ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。ロザリーが何も言わないから、責めたのさ。そしたら何と言ったと思う?『誰も見かけませんでした』という返事なんだが、それは嘘なんだ」
「なぜ」
「自分の見かけた人が犯人だとロザリーは考えたんだろうね。どうもそうらしいんだ」
「それならなおのこと、あなたにその事を言いそうなものですね」
「ロザリーはそう考えなかったらしい」
「あれは尋常な娘じゃありませんね。あの母親相手ではさぞ手こずった事でしょう」
「そう、呑気にしてはいられなかったようだ」
「かわいそうに」
と言ってからティムは、レースの方を向いた。
「ところで、これからどういう事になるんですか。リンネットの室から真珠を盗み出した事は認めます。そしてその真珠は、おっしゃった通りの場所にあります。僕はたしかに、罪を犯しました。しかし、ミス・サウスウッドに関する限り、僕は何も認めていませんからね。彼女に不利な証拠は何もないでしょう。偽の首かざりをどういう風に手に入れたかは、人の干渉を受ける問題じゃありません」
「あっぱれな態度だ」
ポワロがつぶやくと、ティムはまぜかえした。
「いつでも紳士ですからね」
ティムは更に言葉をついだ。
「母があなたに好意を寄せるようになったために、僕がどんなに困ったかは御想像いただけると思います。危い橋を渡ってのけようという前に、やり手の探偵と、平気で顔をつき合せて坐っていられる程の常習犯じゃありませんからね。中にはそういう事にスリルを味う人もあるかもしれないけれど、僕にはそれはできない。正直のところ、おじけづいてしまいました」
「でも、そのために計画を躊躇する気にはならなかっただろう」
「それ程びくびくしていられる場合じゃありませんでしたからね。いつかはすりかえをしなければならないとして、それにはこの船中でやるのが絶好のチャンスだったんです。一室おいて隣りの室に、当のリンネットが心配事をいっぱい抱えていて、真珠をすりかえられても気がつきそうもないというんですから」
「そんなものかな……」
「何をおっしゃるんです?」
とティムはきらりと目をあげた。
ポワロはベルを押した。
「ミス・オッタボーンがちょっと、ここへ来てくれるかどうか、きいてみよう」
ティムは顔をしかめたが、何も言わなかった。給仕がやってきて、命令をきき、出て行った。
数分後にあらわれたロザリー・オッタボーンは、目を真赤に泣きはらしていた。ティムを見かけてびっくりしたようだったが、以前の疑うような、反抗的な態度はすっかりなくなっていた。腰を下すと、これまでにないようにおとなしく、レースからポワロへと目を移すのだった。
「御迷惑をおかけしてすみません」
とレースが静かに言った。彼は少しばかり、ポワロに対し不愉快な気持を抱いていたのである。
「かまいませんわ」
ロザリーは小さな声で言った。
「一つ二つはっきりさせなければならない事がありましてね。けさ一時十分に右舷に人影を見かけなかったかどうか、とおききした時、あなたは否定しましたね。うまい具合に、あなたの力をかりないでも、真実をつかむ事が出来ましたよ。アラトンさんが昨夜リンネット・ドイルの室にいた事を認めたんですよ」
とポワロに言われて、ロザリーはちらりとティムの方へ目を走らせた。ティムはきつい表情で、ちょっとうなずいた。
「時刻は正確ですね、アラトン君」
「ピタリ合っています」
ロザリーはティムをじっと見つめていた。唇をわなわなとふるわせた。
「でも、まさか、あなたが……」
ティムは急いであとを引き取った。
「いや、僕が殺したんじゃない。僕は盗みをやったけど、人は殺さない。いずれみんな、明るみに出るんだから、あなたにも知ってもらった方がいんだ。僕は真珠をつけねらっていたんですよ」
「アラトン君の言うところによると、ゆうべ、ミセス・ドイルの室へ入って、本物の首飾りと偽物とをすりかえたんだそうですがね」
とポワロが説明した。
「それ、ほんと?」
ロザリーは悲しみをたたえた、子供らしい目で、ティムを見た。
「うん」
そこで話がとぎれ、レース大佐は落着きなく動きまわった。それからポワロが変な声を出した。
「僕に言わせれば、それはあなたの証言によって多少かためられてはいるけれども、アラトン君の作り話だね。言いかえると、アラトン君がゆうべ、たしかにリンネット・ドイルの室に入ったという証拠はあるけれども、なぜそんな事をしたかという事を示す証拠はないんだ」
ティムはポワロの顔をじっと見た。
「でも、わかっていられるでしょう」
「僕に何がわかると言うのかね」
「あの――僕が真珠を取った事、知っていられるでしょう」
「そう、君が真珠を持っていることは知っている。しかし、何時それを手に入れたかは、わからないんだ。ゆうべより以前だったかもしれないからね。リンネット・ドイルはすりかえられても気がつかなかったろう、とたった今、君は言ったが、僕にはその点、よくわからない。仮に彼女がそれに気がついていたとしよう。誰の仕わざであるかさえ、リンネットが知っていたとしよう。ゆうべ、彼女は一切をばらしてしまうぞと君をおどかし、君はそれを真に受けたとしよう。それから、君がジャクリーン・ド・ベルフォトとサイモン・ドイルの言い争いを立ち聞きしたとしてみよう。社交室に人気がなくなるのを待って、君はそこへ忍びこんで、ピストルを手に入れ、一時間後に船が静かになったころ、リンネット・ドイルの室にそっと入って、バレる心配はないと確信した……」
「けしからん事を……」
ティムはまっさおな顔をして、無言のまま、悲痛な目つきでポワロを見た。
「ところが、他にも君を見かけた者があった。ルイーズだ。翌日、ルイーズが君をゆすりにやってきた。十分に金を出さないと、しゃべってしまうと言われて、君はゆすりに屈したら破滅の第一歩だと思った。そこで、言われた通りにするように見せかけ、ちょうど昼の食事前にルイーズの室へ行く約束をした。そして、彼女が札を数えていた時に、グサリと刺した。ところが、又しても運悪く、君がルイーズの室へ入るのを見た人があった」
ポワロは半ばロザリーの方へ向いて、話をつづけた。
「それはあなたのお母さんだった。君はまた、あぶない、向うみずな事をやる以外に方法がなかった。ペニングトンがピストルの事を話していたのを思い出し、彼の室へとんでゆき、ピストルを手に入れて、ベスナー医師の室の外で耳をすましていた。そして、オッタボーン夫人が君の名前を告げないうちに、彼女を撃ってしまった」
「うそ! ティムがやったんじゃないわ」
とロザリーは叫んだ。
「そのあと、君に残された道はただ一つだった。つまり、君は船尾をぐるりとまわって走った。僕が君の後からかけ出した時には、君はすでにくるりと向きをかえていて、反対の方向から走ってきたように見せかけたのだ。君はピストルをにぎる時、手袋をはめていたが、その手袋は、僕が見せろと言った時にポケットの中に入っていた……」
「神に誓って、そんな事はありません。全く嘘です」
こう言ったものの、ティムの声はふるえて、たよりなく、人を納得させるだけの力がなかった。
その時、ロザリーの声がみんなを驚かした。
「むろん、それは本当じゃないわ。ポワロさんも本当でない事を御存じなのよ。何かわけがあって、そう言っていらっしゃるのよ」
ポワロはロザリーを見て、かすかな笑いを浮かべた。そして、降参のしるしに両手をさし出した。
「お嬢さんはお利口すぎて……、しかし、りっぱな証明だったことには異存ないだろう」
「何だって!」
ティムのこみ上げて来る怒りをおさえるように、ポワロは片手をあげた。
「アラトン君、君には不利な、りっぱな証明がある事をわかってもらいたかったんだよ。ところで、もっと愉快な事を教えてあげよう。実は僕はまだ、君の室にあるロザリオをしらべてないんだがね。しらべる頃には、その中には何もないんじゃないかな。そうすれば、ミス・オッタボーンがゆうべ、甲板で人影を見かけなかったと言い張っている以上、君を相手取った事件は何もないわけだ。真珠を盗んだのは窃盗狂の人だが、その後かえしてよこしたんだ。君たち二人で調べてみたければ、その真珠はドアのそばのテーブルの上にある小箱に入っているよ」
ティムは立ち上ったが、暫くは口もきけなかった。やっとしゃべれるようになった時にも、適当な言葉が出て来ないようだった。しかし、聞いている人たちは満足であった。
「ありがとうございました。もうこれ以上、機会を与えて下さらなくて結構です」
ティムはロザリーのためにドアをおさえてやった。そして彼女が出てから、ティムも小さなボール箱をとりあげて、あとにつづいた。二人はならんで歩いて行った。ティムは小箱をあけ、にせ物の首飾りをとり出して、ナイル河へ思いきり放りなげた。
「ほら、沈んだ。この箱をポワロにかえすと、本物の首飾りがおさめられるんだよ。全く僕は馬鹿だった」
「先ず第一、なぜ、あんな事をやるようになったの」
「どういうふうにやりはじめるようになったかって? 僕にもわからないんだ。倦怠、怠惰、その事自体の面白さ。ただせっせと仕事で稼ぐよりはるかに魅力があるからなあ。あなたにはさもしく見えるだろうけど、魅力があるんだ。主に冒険にひかれるんだ」
「わかるような気がするわ」
「でも、やって見ようとは思わないだろう」
ロザリーは一、二分、首をかしげて考えた。
「そうね。あたしはやらないわ」
「あなたはほんとに素敵だ。全く素敵だ。なぜ、ゆうべ僕を見たと言おうとしなかったの?」
「だってあなたが疑われると思ったんですもの」
「あなたは僕を疑った?」
「いいえ。あなたが人を殺すなんて信じられなかったわ」
「そうなんだ。僕は人殺しのできるようながんじょうな男じゃない。せいぜい、こそこそした泥棒だ」
「それは言いっこなしよ」
ティムはロザリーの手をにぎった。
「ロザリー、あなたは……僕の言う事わかるでしょう。それとも僕を軽蔑して、それを僕の目の前で言ってのける?」
「あなたがわたしの目の前でズバリと言ってのける事のできるものもあるわ」
「ロザリー」
しかし、ロザリーはまだ、しりごみした。
「あのー、ジョアンナは?」
「ジョアンナ? なあんだ、お袋と同じだな。僕はジョアンナの事なんか全然思ってもいやしない。あんな馬づらで、目つきの悪い女なんか。あんな魅力のない女ってあるもんじゃない」
やがて、ロザリーが言った。
「あなたのこと、お母様に知らせちゃだめよ」
「さあ、どうだろうか。僕、話しちゃうと思うんだ。お袋はあの通り元気だから、どんな事にも平気だよ。僕に対して抱いている親馬鹿の夢をくだいてやろうと思うんだ。ジョアンナと僕との関係が全く事務的なものだったとわかったら、お袋はよろこんじゃって、他の事は一切ゆるしてくれるだろう」
ティムとロザリーは、アラトン夫人の室の前に行った。ティムが強くノックすると、ドアがあいて、アラトン夫人が入口に立っていた。
「ロザリーと僕……」
と言ってティムは言葉を切った。
「まあ、あなたたち!」
とアラトン夫人は言って、ロザリーを抱きかかえるようにした。
「ロザリー、わたしはかねて望んでいたんですよ。でもティムがうるさくて。あの子ったら、あなたの事を好きでないようなふりをしたりするものですから。むろん、それでもわたしは見抜いていましたけどね」
「いつも、ほんとによくして下さって。わたくし、願っておりましたの」
とロザリーは声をつまらせ、アラトン夫人の肩にもたれて、嬉し泣きに泣くのだった。
第二十七章
ティムとロザリーが立ち去ると、ポワロは申しわけなさそうにレース大佐を見た。大佐は不機嫌そうな顔をしていた。
「僕の段取りに同意してくれるだろうね。たしかに異常な段取りなんだが、僕は人間の幸福を重んじるんでね」
「君は僕の幸福は無視している」
「あの娘だがね。僕はあの娘がかわいいんだ。そして、あれはティムを愛している。こりゃいい縁組だと思うんだ。ロザリーにはティムの必要な芯があるし、ティムの母親はロザリーが気に入っているし、万事おあつらえ向きだ」
「実のところ、この結婚は天とエルキュール・ポワロによって取決められたんだからね。僕の仕事は重罪を見逃すだけ」
「いや、さっきの話は全部、僕が推測したまでの事だ」
「よろしい。ありがたいことに、僕は警官じゃない。多分、あの青年は正直すぎるくらいにやって行くだろう。娘は間違いなしに正直だ。僕があきたらなく思っているのは、僕に対する君の態度だ。僕は辛抱強い男だ。しかし、忍耐には限度がある。いったい、君はこの船で行われた殺人事件の犯人を知っているのか、それとも知らないのか」
「知っている」
「それなら、なんだって、まわりくどい事ばかりやるんだね」
「君は僕がただ、枝葉の問題ばかり面白がっていると思うのかね。それでじれったがっているのか。しかし、そういうわけじゃないんだ。僕は以前に、仕事のことで考古学的な目的をもった遠征隊に加わった事があるんだが、その時にある事を学んだ。発掘している時に何かが地中から出て来ると、そのまわりについているものはすっかり、ていねいにとり除いてしまう。土をふるい落し、ナイフであちこちけずって、やっと、御本尊が引き出され、まぎらわしい物一切をとり去って、撮影ということになる。僕のねらいはそれなんだ。真実、むき出しのかがやくばかりの真実を見るために、まわりについているものを取り除こうとしてきたのだ」
「よし、そのむきだしのかがやくばかりの真実をつかもうじゃないか。ペニングトンでもないし、アラトンでもない。フリートウッドでもないようだ。ここらで一つ誰だか聞かせてもらおうじゃないか」
「今、言おうとしているところなんだよ」
この時、ドアをノックする音がしたので、レースは「チェッ」と言った。入ってきたのはベスナー医師とコーネリヤで、コーネリヤは興奮している様子だ。
「レース大佐、今、ミス・バワーズから従姉のことをきいたのですけど、ほんとにびっくりしてしまいました。ミス・バワーズは一人では責任を持ちきれないから、縁つづきのあたしも事実を知ったほうがいいと言うのです。はじめは、どうしても本当と思われなかったんですけど、ベスナー先生がとてもよく話して下さったんですの」
「いや、いや」
とベスナー医師は謙遜した。
「先生が親切にすっかり、説明して下さり、どうしても盗みをせずにはいられない人があることを教えて下さったんですわ。先生の病院にもそういう患者がいた事があるんですって。一種の根深いノイローゼが原因になる事がよくあるとも話して下さいました。
自分で気がつかないのに、深く根が張っているんですわね。子供の時におこった、ほんのちょっとした事が原因になる場合もあるそうですわ。先生は、患者に過去をふりかえらせ、その小さい事を思い出させる事によって、その病気を直して来られたんですって」
コーネリヤは一息いれて、また、話をつづけた。
「でも、この事が知れたらと思うととても心配なんです。ニューヨークではそれこそ大変なことになりますわ。だって、どの新聞にも出るでしょうからね。マリーおばさんも母も皆、頭を上げられなくなってしまいますわ」
「それは大丈夫です。秘密局ですから」
とレースが言った。
「おそれ入りますが、もう一度おっしゃって下さいません?」
「殺人以外の事はもみ消すと言おうとしたんですよ」
「まあよかった。あたし、ほんとに心配でたまらなかったんですよ」
「あなたはほんとにやさしい人だ」
ベスナー医師はコーネリヤの肩をやさしくたたいた。
「この人は至って感じ易い、美しい性質の持ち主です」
ベスナーは今度はレースとポワロに向って言った。
「あら、そんな事ありませんわ。あなたが御親切なんですわ」
「ファガソンにはあれから会いませんか」
とポワロがきくと、コーネリヤは顔を赤らめた。
「いいえ。でも、マリーおばさんはあの方のことを話していましたわ」
「あの青年は名門の出らしいですね。そんなふうには見えませんがねえ。ひどい身なりをしているし、ちっとも育ちのいい人とは思われません」
とベスナーが言った。
「そしてあなたはどう思います?」
とポワロがコーネリヤにきいた。
「あの方、全く気がおかしいのにちがいありませんわ」
ポワロはベスナー医師の方をむいた。
「患者さんはどうです?」
「ああ、経過は良好ですよ。ベルフォト嬢を安心させてきたところなんです。あの娘さん、がっかりしているものですから。午後、ドイルの熱が少し上ったというだけの事でね。しかし、それが当然でしょう。今は不思議と熱が高くありません。あの男は百姓みたいなんだなあ。牛のようにりっぱな身体をしている。ひどい怪我をしても気にも留めない百姓たちを見てきたが、ドイル氏も同様ですね。脈は正常で、体温はほんのちょっぴり高いくらいのところですからね。娘さんの心配を笑ってやりましたよ。しかし、おかしいですね。今、人を撃ったと思ったら、次の瞬間には、その人が快くならなかったらと心配して、ヒステリーをおこすなんて」
「そりゃ、凄くその人を愛しているからよ」
とコーネリヤが言った。
「しかし、筋の通らない話だな。あなたに愛する人があったとしたら、あなたはその男を撃つような事をするだろうか。いや、いや、あなたは道理をわきまえている」
「あたしはどっちみち、ずどんと爆発するような物は好きませんから」
「むろん、そうでしょう。あなたはとても女らしい人だから」
この時、レースが口をはさんだ。
「ドイルが大丈夫なら、出かけて行って、昼間の話のつづきをやって悪いことはあるまい。電報の事を話してくれてるところだったんだ」
ベスナーは大きな体でのそのそ歩きまわりながら、面白そうに言った。
「ほっほっほ! それが面白いんだ。ドイルが話してくれたんですがね。野菜の事ばかり書いてある電報だったんだそうですよ。ジャガイモ、キクイモ、ニラと言うようにね。え?」
これをきいて、レースは口の中で小さくアッと叫び、身体をおこした。
「やれやれ、そうか。リケッティか」
レースは、腑《ふ》におちない顔をしている三人を見まわした。
「南阿の反乱の時に使われた新しい暗号なんだ。ジャガイモは機関銃、キクイモは高性能爆薬という工合にね。リケッティは考古学者なもんか。危険きわまる政治運動家で、一度ならず人を殺したことがある。あいつ、また、きっと人殺しをやったにちがいない。ミセス・ドイルが間違ってその電報を開いてしまったとすると、万一、彼女がその内容を僕の前でしゃべるような事があった場合、自分はおしまいだと気づいたんだね」
レースはポワロの方をむいた。
「僕の言う事は正しいだろうか。リケッティが犯人だろうか」
「あの男は君の担当だ。僕もあの男はくさいとにらんできた。あんまり芝居がうますぎるからね。考古学者一点ばりで、人間味がかけてるよ」
ポワロは一息いれた。
「しかし、リンネット・ドイルを殺したのはあの男じゃない。この殺人事件の前半とでも言うべきものは、しばらく前からわかっていたんだが、これで後半もわかった。完全な絵になったわけだ。しかし、これこれの事があったにちがいないとはわかっていても、それを証拠だてるものがないのだ。理屈では合点の行く事件なんだが、実際には大きく欠けているものがある。犯人の告白だけが、唯一の希望だ」
「しかし、そんな事は奇跡だ」
とベスナーは懐疑的であった。
「目下の事情では、僕はそう思わないね」
「誰なんですか。教えては下さらないの?」
とコーネリヤが叫んだ。
ポワロは、静かにレース、ベスナー、コーネリヤの三人を見まわした。レースは皮肉な笑いを浮かべ、ベスナーはまだ疑っているようだった。コーネリヤは口を少し開けて、熱心にポワロを見つめていた。
「僕はきいてもらうのが好きなんだ。見栄坊で、うぬぼれの強い男だからね。『エルキュール・ポワロはこの通り利口でござい』って言いたいんだ」
「じゃ、エルキュール・ポワロは実際には、どれくらい利口なんだね」
とレースが言うと、ポワロは悲しそうに大きく首を振った。
「先ず第一に、僕は間抜けだった。とてつもない間抜けだった。僕にとっては、ピストル、ジャクリーン・ド・ベルフォトのピストルが障害物だった。なぜ、あのピストルが犯行の現場に残されていなかったか。犯人としてはジャクリーンに罪をきせるためだったことは明らかだ。それじゃ、なぜ犯人はピストルを持ち去ったのだろうか。僕は愚かしくも、あらゆる理由を考えてみた。ほんとの理由は至って簡単であった。犯人は止むを得ずピストルを持ち去ったのである。そうするより他なかったのである」
第二十八章
「君と僕は、ある先入観をもって取調べをはじめた」
ポワロはレースの方をむいて言った。
「その先入観とは、この犯罪を出来心によるものときめてかかった事だ。リンネット・ドイルを除いてしまいたいと思っていた人が、今ならばほとんど間違いなく、ジャクリーンの犯行とみなされそうな時に、野望を果す機会をつかんだとわれわれは考えた。そこで、問題の人はジャクリーンとサイモン・ドイルの騒ぎを立ち聞きし、他の人たちが室を出て行ってから、そのピストルを手に入れたという事になった。
しかし、その先入観が間違っていれば、事件の全貌は変るだろう。そして、実際にそれは間違っていたのだ。これは、その場で思いついて行われた犯行じゃない。それどころか、慎重に案を練り、正確に時期をはかって行われたものだ。細かい点に至るまで、前もって細心の気を配り、あの晩、エルキュール・ポワロのぶどう酒に麻酔薬を入れる事まで計画に入っていた。
それはほんとなんだ。僕は出来事にかかり合いを持たないように眠らされてしまったんだが、あるいはという気がしなかったわけではない。僕はぶどう酒をのみ、いっしょに食事をしていた他の二人は、それぞれ、ウィスキーと鉱水をのむ事にしているんだが、僕のぶどう酒の瓶へ無害な催眠剤を入れるのは簡単にできるからね。何しろ、瓶は一日中テーブルの上におき放しなんだから。しかし、そんな事はあるまいと思いかえした。暑い日だったし、いつになく疲れていたので、平生ねむりの浅い僕があの晩にかぎって、ぐっすりねこんでしまっても別に不思議はなかった。
僕はまだ先入観にとらわれていた故もある。もし催眠剤をのまされたとすると、それは計画的だった事になり、夕食時刻の七時半前に犯行が決意されたわけだが、先入観からすると、それでは話が合わなかった。
その先入観にとっての最初の打撃は、ピストルがナイル河から拾いあげられたことだった。もしもわれわれの想定が正しいなら、|ピストルは水中に投げ入れられるような事はないはずだったから《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。そして、更につづいて色々の事がおこった」
ここでポワロはベスナーの方を向いた。
「ベスナー先生、あなたはリンネット・ドイルの死体を調べられたが、傷口に焦げた跡があったことを覚えておいででしょう。つまり、発射する前にピストルを頭にピタリとくっつけたわけですね」
「そう、その通りだった」
とベスナーはうなずいた。
「ところがですね。ピストルは、見つかった時ビロードの衿巻にくるまれており、その衿巻には幾重にも重ねたまま、ピストルを発射した跡がはっきり残っていた。おそらく、音をおさえようとしたんでしょうね。しかし、もしビロードの布を当てて発射したのであれば、被害者の皮膚にはやけどの跡がなさそうなものだ。してみると、衿巻を当てて撃ったのは、リンネット・ドイルを殺した弾であるはずがない事になる。衿巻にやけこげを作ったのは、別の弾、つまり、ジャクリーンがサイモン・ドイルを撃った弾であろうか。いや、そんなはずはない。その時には目撃者が二人いて、事情がよくわかっているんだから。そうすると、もう一発、われわれの全然知らないもう一発が発射されでもしたかのように思われる。しかし、あのピストルからは二発、発射されただけで、もう一発については何の手がかりもない。こうして、われわれは、大変おかしな、説明のつかない状況に直面したわけだ。
その次に面白いのはリンネット・ドイルの室で二瓶の爪磨液を見つけた事だ。御婦人方は爪の色をよく変えるものだが、リンネット・ドイルの爪はいつも深紅色だった。もう一瓶の方はローズ色というラベルが貼ってあったが、瓶の底に残っていたのはピンクの液体ではなくて、あざやかな赤い色をしていた。不思議に思って、蓋をあけて臭いをかいでみたところ、いつもの梨《ペア》ドロップの強い香りの代りに、酢の臭いがするではないか。ということは、その瓶に残っていたのは|赤インキ《ヽヽヽヽ》ではないかと思われる。ミセス・ドイルが赤インキの瓶を持っていても不思議はないけれども、赤インキは爪磨液の瓶などに入れないで、赤インキの瓶に入れてあるのが、より当然であろう。その赤インキは、ピストルをくるんであったかすかな|しみ《ヽヽ》のあるハンケチと関係がありそうに思われた。赤インキはさっと洗えば色が流れてしまうけれども、あとにうすいピンクのしみが残るものだから。
以上のような細かな暗示をたよりに、もう真実をつきとめられたかとも思うが、ある事件が発生して、疑問の余地をなくしてしまった。ルイーズ・ブールジェは、殺人犯人をゆすっていたにちがいないと思われるような状況で殺された。千フラン札のきれはしが彼女の手ににぎられていたばかりでなく、彼女がけさ使った言葉は非常に意味深長なものであった。
いいですか、ここが全事件の重要な点ですよ。前の晩に何か見なかったかときいた時に、ルイーズ・ブールジェはこういうおかしな返事をしたのだった。『|むろん《ヽヽヽ》、|あたしが眠れなかったとしたら《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|階段を上って行ったとしたら《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|この暗殺者《ヽヽヽヽヽ》、|この怪物が奥様のお室に入るか《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|出るかするところを見かけたかもしれませんが《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》』いったい、これは正確に何を語っているのであろうか」
「そりゃ彼女が実際に階段を上ったと言っているんだ」
とベスナーが、鼻をうごめかせながら、素早く答えた。
「そうじゃない。あなたは要点をつかんでいないようだ。なぜ、彼女は|われわれ《ヽヽヽヽ》にそう言う必要があったのだろうか」
「暗示を与えるために」
「しかし、なぜ、われわれに暗示《ヽヽ》する必要があったのだろう。彼女がもし犯人を知っているならば、彼女には二つの進路があるはずだ。われわれに真実を告げるか、あるいは、だまっていて、当事者に口止料を要求するかのいずれかだ。ところが彼女はそのいずれもとらなかった。『誰も見かけませんでした。眠っていました』とも言わないし、『人を見かけました。それは誰それです』とも言っていない。何だってあの意味深長な、まわりくどいことを長々とのべたのだろうか。おそらく、その理由はただ一つ。彼女は犯人に向ってそれとなくほのめかしていたのだ。とすると、犯人はその時、居合せたにちがいない。しかし、その場には、僕とレース以外には、サイモン・ドイルとベスナー先生の二人しかいなかった」
これをきいて、ベスナーはとび上ってわめいた。
「な、なんということを言うんだ。また、わしに罪をきせようというのか。ばかばかしいにも程がある」
「まあまあ、静かに! 僕はその時に考えたことを話しているだけなんだから。特別に誰かれとこだわらないことにしよう」
「今はあなたが犯人だと思っていらっしゃるわけじゃないんですよ」
とコーネリヤは慰め顔で言った。
「そこで犯人はサイモン・ドイルかベスナー博士ということになるんだが、博士がリンネット・ドイルを殺さなければならない理由があるだろうか。|僕の知る限りでは《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》、全然その理由は見当らない。では、サイモン・ドイルはどうか。それは不可能だ。ドイルは喧嘩のはじまるまで一歩も社交室から外へ出なかったことを誓える証人があるんだから。そのあとでサイモンは怪我をしてしまったから、そうなっては動こうにも動けなかったであろう。以上の二点についてたしかな証拠があるかと言うと、然りである。初めの点については、ミス・ロブソン、ジム・ファンソープ、ジャクリーン・ド・ベルフォトの証言があり、第二の点については、ベスナー博士とミス・バワーズの専門的な証明があるので、疑う余地はない。
するとベスナー博士が犯人にちがいない。この説を裏づけるように、小間使は手術用ナイフで刺されている。しかし、一方ではベスナー博士はわざわざこの事実に注意を向けている。
その次にもう一つの議論をさしはさむ余地のない事実がはっきりして来たのである。ルイーズ・ブールジェはベスナー博士に向ってほのめかしたのではないはずだ。なぜなら、ベスナー博士にならば、彼女はいつでも好きな時に十分話す事が出来たはずだから。彼女の必要に応ずる人は一人、ただの一人しかなかった。つまり、サイモン・ドイルだ。サイモン・ドイルは怪我をして、医者がつきっきりだった。しかも医者の室にいるときている。そこでルイーズは、もうこれきり機会がないことをおそれて、聞きようによってはどうともとれるような言葉を思いきってならべたてたのだ。彼女がサイモン・ドイルの方をむいて、次のような事を言ったのが耳に残っている。『旦那様、お願いですわ。旦那様は事情を御存じですもの。わたし、何と言ったらいいんでしょう』すると、ドイルは次のように答えたのであった。『ばかな事を言っちゃいけない。お前が何かきいたり、見たりしたなどとは誰も思ってやしないよ。お前の事は大丈夫だ、僕が面倒を見てやる。誰もお前の事を責めてやしないよ』ルイーズが欲しかったのはこの保証だった。そして彼女はそれを得ることが出来たのだ」
「そんなばかな! 骨折で脚に当木をしている男が、船の中を歩きまわって、人を刺すことができるというのか。いいですか、あの男は室を出ることは不可能だったんですよ」
ベスナーが大きく鼻をならした。
「わかってる。あなたの言うことは本当だ。それはむりな事だった。不可能な事であった、にもかかわらず、それも本当なのだ。ルイーズ・ブールジェの言葉の裏には、筋道の通った意味は一つしかない。
そこで、自分はふり出しへ戻って、この新しい知識に基いて犯罪を見直すことにしたのである。喧嘩のはじまる前に、サイモン・ドイルが室を出て行ったのに、他の人がそれを忘れてしまったとか、気がつかなかったとかいう事があり得るだろうか。そんな事はあり得ないように思われる。ベスナー博士とバワーズ看護婦の専門的な証明を無視できるだろうか。そんな事は出来ないにきまっている。しかし、この二つの事の間には時間的な間隔がある。つまり、サイモン・ドイルは五分間ほど、社交室にたった一人でいたし、ベスナー博士の証明はそれ以後に適用されるものだったから。その五分間に関しては、目に映ったものの証拠があるだけだ。それは一見、当てになりそうに思われるが、確実とは言えない。仮定は論外として、実際に目に映ったものとは何であろうか。
ミス・ロブソンはミス・ベルフォトがピストルを発射し、サイモン・ドイルが椅子にたおれかかるところと、ドイルがハンケチで脚をしばると、そのハンケチが赤くにじんでゆくところを目にしたのであった。ファンソープ氏が見たり聞いたりしたのは何であったろうか。銃声がきこえたと思うと、ドイルが朱にそまったハンケチで脚をおさえている姿が目に入ったのだった。すると何がおこったのであろう? ドイルはしきりと、ミス・ベルフォトをつれてゆくように、そして誰かつき添っているようにと主張したのであった。そのあとで、ドイルはファンソープに医者を呼んで来るようにと言ったのである。
そこで、ミス・ロブソンとファンソープ氏はミス・ベルフォトといっしょに出て行ってしまい、それからの五分間は左舷で忙しい思いをしていた。ミス・バワーズ、ベスナー博士、ミス・ベルフォトの船室はいずれも左舷にある。サイモンは二分間あれば充分だった。ソファの下からピストルを拾いあげ、音がしないようにはだしになって、右舷を脱兎のように走って妻の室に入り、そっと近づいて眠っているところを頭に弾を貫通させた。それから赤インキの入った瓶を洗面台の上におき、(自分が持っているところを見つかっては大変だから)かけ戻ってから、ひそかに椅子の横にかくしておいたミス・ヴァン・スカイラーのビロードの衿巻でピストルをくるみ、自分の脚に一発射ちこんだ。今度は本物の痛みで彼がぶったおれた椅子は窓際にあった。彼は窓をあけて、ハンケチをまきつけ、ビロードの衿巻にくるんだピストルをナイル河へ投げすてた」
「そんな事できるもんか」
とレースが言った。
「いや、出来なくはない。ティム・アラトンの証言を思い出して見たまえ。彼はポンという音につづいて水のはねる音をきいているんだ。その他にも彼の耳に入ったものがある。男が自分の室のドアの前をかけぬけてゆく音だ。しかし、右舷を走っている人はいないはずだったのだから、アラトンの聞いたのはサイモン・ドイルが靴下だけでかけて行く足音だった」
「僕はやっぱり、そんな事はできないと思うよ。そんなに何も彼も即座に思いめぐらすなんて、誰だってできやしない。ましてドイルときたら頭の回転がのろい方なんだから」
「しかし動作はきびきびとすばしっこいからね」
「そりゃそうだが。しかし、あの男にはそれ程のことを考え出すだけの才はない」
「ところがあの男が一人で考え出したことじゃないんだ。僕たちが思いちがいしていたのはそこなんだ。出来心の犯罪のように見えるが実はそうじゃなくて、巧妙に案を練り、よく工夫された仕事だ。サイモンがポケットにインクを入れていたのは偶然のはずはない。いや、それは計画されていたにちがいない。彼が無地のハンケチを持っていたのも偶然の事じゃないし、ジャクリーン・ド・ベルフォトがピストルを人目につかぬよう長椅子の下へけとばしたのも、偶然の事ではなかったのだ」
「ジャクリーン?」
「いかにも。犯人の片われだ。サイモンのアリバイを証明したものは何かというと、ジャクリーンがピストルを発射した事だ。ジャクリーンのアリバイはというと、サイモンががんばって一晩中、看護婦を付添わせるようにした事で証明された。サイモンとジャクリーン、この二人をみれば、必要な素質が十分に備わっていることがわかると思う。ジャクリーンの冷静で知謀に富んだ頭脳と、いとも敏捷にタイミングよく実行するサイモンの行動力!
的確に見れば、疑問は全部とけるはずだ。先ず、サイモン・ドイルとジャクリーンは恋人同士だった。二人は今も愛し合っていて、その事は誰の目にも明らかだ。サイモンは金持ちの妻を片づけて、その財産を相続した上で、やがて、かねてからの恋人と結婚するだろう。これはまことにいい思いつきだった。ジャクリーンがミセス・ドイルにつきまとったのも計画の一部だった。サイモンが怒ったふりをしたのも同様だ。しかし、思い違いもあった。サイモンは所有欲の強い女のことを実に苦々しげに、僕に話した事があるが、その時に彼が考えていたのはジャクリーンではなくて、妻のリンネットだった事を、当然さとるべきだったのだが、うっかりしてしまった。それから、人前でサイモンが妻に対した態度だが、彼のような、ごく普通の英国人は、愛情を表わすのに困るものだ。サイモンは芝居がへたで、愛情の表現が大げさすぎた。それから、ジャクリーンと僕がしゃべっていた時、彼女が誰かが立ち聞きしたと言った事だが、僕は人を見かけなかったし、また、実際だれも居やしなかった。しかし、それはあとで人の注意をそらせるのに役立つ事になった。また、ある晩のこと、サイモンとジャクリーンが僕の室の外でしゃべっているのを耳にしたように思った。その時サイモンは、「こうなったら何とかやりとげなくてはならない」と言っていたのだが、その相手はジャクリーンだった。
大詰めの芝居は手落ちなく計画され、絶好の時がえらばれた。この僕には、よけいな手出しをされないようにと眠り薬をのませ、ミス・ロブソンを証人にえらび、あの騒ぎの場面をかもし出し、ジャクリーンが大げさにわめきたてたりしたことは、みんな計画に入っていたのだ。撃つ音がきこえないようにジャクリーンは騒がしい音をたてたわけだが、これはほんとうに巧妙な思いつきだ。ジャクリーンは自分がサイモンを撃ったのだと言い、ミス・ロブソンもファンソープも同じことを言う。そして、サイモンの脚をしらべると、撃たれた事はたしかだ。これでは反駁のしようもなさそうだ。サイモンとジャクリーンはどちらも完全なアリバイがあるのだから。そのためには、サイモンはかなりの痛い目と危い目に会わなければならなかったが、怪我のために動けなくなるということは必要条件だった。
ところが、そのあとがまずかった。ルイーズ・ブールジェが眠れないまま、階段を上ってきた時に、サイモン・ドイルが妻の室にかけこんで、また出て行くところを目撃してしまったのだ。次の日になって、出来ごとの筋をつなぎ合わせるのは造作のないことだった。そこでルイーズは欲ばって口止料を請求したのはいいが、自分の死刑執行命令書に署名する羽目になってしまった」
「でもドイルさんがルイーズを殺すなんてあり得ないわ」
とコーネリヤが異議を申し立てた。
「それをやってのけたのは相棒の方だ。サイモンはさっそく、ジャクリーンと面会させてくれと言ったばかりか、二人きりにさせておいてくれと僕にたのんだ。ドイルは身にせまった新しい危険をジャクリーンに告げたのだ。急いで事を運ばなくてはならないが、ドイルにはベスナーの手術用ナイフのある場所がわかっていた。犯行後、ナイフを拭いて、元に返してから、ジャクリーンはおくれて、息を切らせながら、昼食の席へかけつけた。
しかし、これでも大丈夫ではなかった。と言うのは、オッタボーン夫人が、ジャクリーンがルイーズ・ブールジェの室へ入るところを目撃したからだ。オッタボーン夫人は大急ぎでサイモンのところへその事を告げに行った。犯人はジャクリーンだと言おうとした時、サイモンが彼女に向って大声でどなったことを記憶していられるだろう。興奮しているからだと僕たちは考えたのだが、彼は共犯者に危険を知らせようとしてやった事だった。都合よくその時ドアがあいていたので、ジャクリーンはその声をきき、電光石火の勢いで行動した。ペニングトンが連発銃の話をしたのを覚えていたので、ジャクリーンはそれをつかんで、ドアの外側へそっと近より耳をすましていたが、あわやという時にバーンと一発撃ったのだった。ジャクリーンは射撃の腕前を自慢していた事があるが、それも根拠のないことじゃなかったわけだ。
三番目の犯行のあとで、僕は犯人の逃げ道は三つあると言った。船尾の方へ行くか、(この場合にはティム・アラトンが犯人ということになるが)先ずそんなことはあるまいと思うが、手すりを乗りこえるか、あるいは船室へ入ってしまうかのいずれかだ。ジャクリーンの室は一つおいてベスナーの室の隣りだ。連発銃をなげすてて、室の中へとびこみ、髪の毛をむしゃくしゃにしてベッドにもぐりこめば、それでおしまいだった。危い方法であったが、それより他仕方がなかった」
ややあってから、レースがきいた。
「ジャクリーンがドイルを撃った最初の銃弾はどうなったのかね」
「テーブルの中にめりこんでしまったのではないかと思う。つい最近あいたばかりの穴があるんだがね。ドイルがナイフで弾丸をほじくり出して、窓からすてたんだと思う。予備の実弾はむろん、持合せていて、二発しか発砲されなかったように見せかけているんだが」
「何から何まで考えてあるんだわ。ほんとにおそろしい」
とコーネリヤはため息をもらした。
ポワロは何も言わなかったが、謙遜してそうしたわけではなかった。その証拠に彼の目はこう言っているようだった。
「あなたの言うことは間違っている。あの二人はこのエルキュール・ポワロを考慮に入れなかったんだ」
それからポワロは大きな声で言った。
「じゃ先生、あなたの患者さんとちょっと話をしに行きますよ」
第二十九章
その夜もずっと更けてから、エルキュール・ポワロはある船室のドアをたたいた。
「どうぞ」
という声に、ポワロは中へ入った。そこでは、ジャクリーン・ド・ベルフォトが椅子にすわっており、壁ぎわのもう一脚の椅子には大柄な女給仕がすわっていた。
ジャクリーンは考え深くポワロを眺めわたしてから、女給仕に出てゆくよう身ぶりで示した。
「行かせていいですか」
ポワロがうなずいたので、女は出て行った。ポワロは女のすわっていた椅子を引きよせ、ジャクリーンのそばに腰を下したが、二人とも口をきかなかった。ポワロは楽しくなさそうな顔をしていた。
とうとう、ジャクリーンが口を切った。
「ああ、万事おわりだわ。ポワロさん、あなたはお上手で、こちらはかないませんでした」
ポワロは両手をさし出したが、おかしい程、口をきかなかった。
「でも、大した証拠はお持ちでないようにお見かけしますが。むろん、おっしゃる通りなんですけれど、もしあたし達がごまかしたら――?」
「あれ以外におこるはずはありませんからね」
「論理的な頭をもった人にはそれで十分な証拠になるでしょうけれど、陪審員は納得するでしょうか。まあ、仕方がありませんわ。サイモンにいきなり、一切をぶちまけたりなさったものだから、あの人、降参してしまったんでしょう。かわいそうに、すっかり度を失って、一切を認めてしまったんですわ。負け方がよくないわ」
「あなたは負けても悪びれませんね」
こう言われて、ジャクリーンはいきなり、快活に、いどむような笑い方をした。
「あたしは全くその通りですわ。ポワロさん、あたしの事はあまり心配なさらないで下さい。気にかけて下さってるんでしょう?」
「いかにも」
「でも、あたしを救けてやろうとはお思いにならなかったのね」
「思わなかった」
「そうよ、感傷的になってもはじまらないわ。あたしはまた、同じことをやるかもしれないんですもの。あたしはもう安全な人間じゃないんだわ。自分でそんな気がする。人を殺すのはほんとに造作ない事だわ。どうでもいいような気がしはじめるんだわ。大事なのは自分だけになってしまう! それが危険なんだわ」
ジャクリーンは一息いれてから、にっこり笑った。
「あたしのために出来るだけの事をして下さって……、あの晩、アスワンで心を悪に向って開いてはいけないとおっしゃったっけ。あの時、あたしが何を考えていたかわかっていらっしゃいましたか」
ポワロは首を振った。
「僕には自分の言った事が本当だというだけがわかっていた」
「それは本当でした。あの時、やめようと思えばやめられたのですが。もう少しでやめるところでした。その気になれば、もう続けて行けないとサイモンに言えたんですけれど……でも、そうしたら多分……、はじめから聞いてみたいとお思いになる?」
「聞かせて下さるんなら」
「お話したいような気がするんです。とても単純なことなんですの。サイモンとあたしは愛し合っていました」
極く当り前のことを述べているに過ぎなかったけれども、その何気ない調子のかげにひびくものがあった。
「そして、あなたにとっては愛だけで十分だったが、彼の方ではそうでなかった」
「まあ、そういう言い方もできましょうね。でもあなたはサイモンがどんな男かわかっていらっしゃらないから。あの人はいつもお金をとても欲しがっていたんです。お金で手に入れることの出来る物がなんでも好きなんです。馬とかヨットとか、スポーツとか、みんないいものですけどね。男の人が夢中になる物はなんでも好きなんですが、これまでそのどれ一つ持つ事ができませんでした。あの人はとても単純ですから、まるで子供みたいにそういうものを欲しがるんです。
そのくせ、金持ちの女と結婚しようとはしませんでした。そういうタイプじゃないんですね。そのうちに、あたしたちの出会いとなり、それで一応話はきまったんですが、いつになったら結婚できるか見当がつきませんでした。あの人、いい仕事をもっていたのに、それを失ってしまったところでした。いわば、自分の落度からそうなったのですが。金銭の事でずるをしようとして、忽ち見つかってしまったんです。あの人、本気で不正直をするつもりだったわけではないと思いますけど、都会の人は誰でもやる事だぐらいに考えたんでしょうね」
ポワロは目をキラリとひからせたが、口は慎しんだ。
「そこであたし達、お金にこまってしまったんですが、その時、リンネットと新しい別荘をふと思い出して、さっそく彼女のところへかけつけました。あたし、ほんとにリンネットが好きだったものですから。彼女はあたしの親友だったんです、だから二人の間に何かおころうとは考えもしませんでした。金持ちの親友を持つとは運がいいと思っただけでした。彼女から仕事をもらえれば、サイモンとあたしは大だすかりなんだがと思ったのです。リンネットは大変、親切にしてくれ、サイモンをつれて来るようにと言ってくれました。あなたがシェ・マ・タントであたし達を御覧になったのは、その頃だったのです。出来もしないのに、飲めや歌えの騒ぎをしていたところでした。
あたしがこれから言おうとしている事は本当なんです。リンネットは死んでしまっても、事実は変りません。ですから、あたしは今でも彼女をほんとに気の毒だとは思わないのです。彼女はあたしからサイモンを奪うために全力をつくしました。それは動かすことのできない事実です。これっぽちの躊躇さえしなかったと思います。友だちの事なんかおかまいなく、ただ、がむしゃらにサイモンを自分の物にしようとしました。
ところで、サイモンは彼女の事を何とも思っていませんでした。前に魅力がどうした、こうしたなどとお話したことがありますが、あれは本当じゃありません。サイモンにはリンネットを自分の物にしようという気がなかったのです。美人だが威張っているというのが、サイモンの目にうつったリンネットですが、彼は威張った女は大嫌いでした。だから、好かれて大迷惑に思ったものの、リンネットの財産はまた別でした。
むろん、あたしにはそれがわかっていましたから、あたしなんか棄てて、リンネットと結婚したらいいじゃないかと言ってみました。しかし、彼はそれをてんで受けつけず、財産があろうがなかろうが、リンネットと結婚するのは真平だ、金を持つからには自分で持たなくちゃだめだ、金持ちの細君に財布のひもを握られているんじゃ金を持ったことにはならないと言い出しました。まるでビクトリア女王の旦那様みたいな事になるというんですね。それに、あたし以外の人は嫌だと言ったりして……。
サイモンがいつごろ、今度の計画を思い立ったかはわかっております。『僕に運があれば、リンネットと結婚して、一年くらいで彼女が死に、全財産は僕のものになるんだが』とある日、サイモンが言い出しました。その時、異様なびっくりしたような目付になったのですが、あれが計画を思い立ったはじめでした。
リンネットが死んだらどんなに都合がいいだろうというようなことをしきりに言うようになりましたが、あたしがそんなおそろしい事をと言いますと、その事は口に出さなくなりました。そうしているうちに、ある日のこと、あの人が砒素《ひそ》の事を研究しているのを見つけたものですから、非難してやりました。すると、あの人、笑いながら、『虎穴に入らずんば虎児を得ずだよ。僕の生涯でこの機を外したら、大金に近づくことは先ずないだろう』と言いました。
しばらくして、彼が決心した事を知って、あたしはすっかり、こわくなってしまいました。何故って、あの人には絶対にうまくやり終せないことがわかっていましたもの。あの人は子供みたいに単純ですから、緻密《ちみつ》に考えるなんて事はしないでしょうし、おまけに想像力に欠けています。あの人の事だから、おそらく、砒素を飲ませておいて、医者は死因を胃炎だと言ってくれるだろうくらいに考えるのがせいぜいです。物事はうまく行くものと思いこんでいるんですから。
そんなわけで、あたしもあの人の監視をするために、手を貸さなければならないことになりました」
ジャクリーンは、率直に、誠意をもって話をしたのであった。彼女の動機は自分で言っている通りであったろうという事については、ポワロは何の疑いも持たなかった。彼女自身はリンネット・リッジウェイの財産を欲しがったわけではなく、ただ、サイモン・ドイルを愛していただけなのだ。理屈も正義もあわれみもこえて、ただ、愛していたのだ。
「あたしは、こまかい計画を立てようとして、さんざん頭を使いました。先ずその根本になるのは、二人のアリバイのように思われました。あたしとサイモンが互いに不利な証言をすることができれば、その証言が実際に二人のあかしを立ててくれることになるでしょう。あたしがサイモンを憎んでいるふりをするのは何でもないことでした。当時の事情からすれば、それは有り得ることでしたから。そして、もしリンネットが殺されれば、おそらく、あたしが疑われるでしょう。それならば、いっそ直ちに疑われた方がよろしいと言うので、少しずつこまかい計画を立てて行きました。失敗した場合には、サイモンでなく、あたしが捕まるようにしたいと思いましたが、サイモンはあたしのことを心配しました。
手を下すのはあたしでないという事だけがせめてもの喜びでした。どうしてそんな事ができましょう。眠っているリンネットを平然として殺すなんて事ができるはずがありません。あたしはまだ彼女を恨んでいましたから、面と向ってなら殺せたかもしれません。でも眠っているところなどはとても……
あたしたちは何もかも気を配ってやりましたけれど、それでもサイモンは血でJという字を書くような事をしてしまいました。つまらない事をしたものですわ。いかにもあの人の思いつきそうな事ですけど。それでも、どうやらうまく行きました」
「そう、ルイーズ・ブールジェがあの晩ねむれなかったのはあなたの故じゃないからね。そして、それからあとは?」
「ほんとにおそろしい事ですわ。あたし、自分がやったとは思えません。あなたが、心を悪に向けて開くとおっしゃった意味が、今わかるようになりました。あなたはどうなったかをよく御存じでしょう。ルイーズが自分は知っているとサイモンに言ったので、あの人はあなたにお願いして、あたしを呼びよせたのでした。あたしたち二人きりになると、サイモンは事情を話して、あたしのとるべき手段を示しました。でも、おそろしいという気もしませんでした。ただもう心配で、不安でたまりませんでした。人殺しをするとそういうものなんです。サイモンとあたしは、フランス娘のゆすりさえなければ安全なんだ、こう思って、あたしはかき集められるだけのお金を持って行きました。そして、下を向いているようなふりをして、彼女がお金を数えている時にやってしまいました。何でもなくできました。ほんとにおそろしいような話ですけど、人を殺すのは造作のない事です。
しかし、それでもあたしたちは安全ではありませんでした。オッタボーン夫人があたしを見かけたからです。彼女は得意になって、あなたとレース大佐をさがしに行きました。考えるだけの余裕もなく、あたしは電撃的にやってしまいました。ほんとに際どいところで、ハラハラする思いでした。それで先ず先ずと思えたのですが……
そのあとで、あたしのお室へいらっしゃいましたわね。なぜ来たのか自分でもわからないとおっしゃいましたけど。あたしはもう、情けないやら、おそろしいやら。サイモンは死んでしまうような気がしたものですから」
「僕はそれを願っていた」
「ほんとにそうでした。そのほうがあの人のためだったでしょう」
「それは僕の考えとはちがう」
ポワロの顔つきはきびしかった。
「あたしの事はそんなに心配なさらないで下さい。これまでずっと、苦しい思いをしてきましたけれど、今度のことをうまくやりとげたとしたら、どんなにか幸せになって、楽しい思いをしたことでしょう。そしておそらく何一つ心残りはなかったでしょう。しかし、実際は――最後まで運命を甘受するんですわ。
女給仕が付き添っているのは、あたしが首をつったり、きき目もあらたかな青酸剤をのんだりしないように見張りするためと思いますが、心配なさらなくとも大丈夫です。そんな事はいたしませんから。あたしがそばにいたほうがサイモンも堪え易いでしょう」
ポワロが立ち上ると、ジャクリーンも立ち上った。そして、突然にっこりと笑った。
「あたしが自分の星について行かなければならないと言った時のことを覚えていらっしゃる? それは偽の星かもしれないとあなたはおっしゃいましたわね。それで、あたしは『あの大へん悪い星、あの悪い星が落ちる』と言ったのでした」
甲板に出て行こうとするポワロの耳に、ジャクリーンの笑い声がひびいていた。
第三十章
シェラールについたのは、夜の明けかかる頃だった。岩は水際まで迫っている。
「野蛮な国だな」
とポワロはつぶやいた。そばにはレースが立っていた。
「やれやれ、われわれの仕事は終った。先ずリケッティを上陸させるよう手配をしたところだ。あいつを捕えられてよかったよ。けしからん奴だからなあ。何べん捕えそこなったか知れやしない。
ドイルの担架を用意しなければいけないね。弱り方が普通じゃないね」
「不思議はないよ。あの男のような子供っぽい犯人は非常に見栄っぱりなものだ。自尊心をつぶされたらおしまいさ。子供みたいに参ってしまう」
「絞首刑にされていいんだ。冷酷な悪者だ。あの娘は気の毒だが、どうしようもない」
「愛はあらゆるものを正当化すると言われるがそれは嘘だ。ジャクリーンのように男をかばう女は非常に危険だ。はじめてジャクリーンに会った時、僕が言ったのはその事だった。あの娘は全く心配しすぎる」
コーネリヤ・ロブソンがポワロのそばへ近づいた。
「ああ、もう着いたんですわね。あたし、あの人といっしょにいたんですよ」
「ミス・ベルフォトですか」
「ええ。あの女給仕といっしょに、せまい所に押しこめられているのはやりきれないだろうと思って。従姉はきっと怒っているでしょうよ」
ミス・ヴァン・スカイラーは、意地悪な目付をして、こっちへゆっくりと歩いてきた。
「コーネリヤ、あんたはけしからぬ事をしたね。真すぐにうちへ帰ってもらうよ」
「すみませんが、わたし、うちへは帰りません。結婚するつもりですから」
「やっと物がわかってきたようだね」
とミス・ヴァン・スカイラーはがみがみ言った。
ファガソンが甲板をまわって、大股に近づいてきた。
「コーネリヤ、いったい、どういう事なんだ。まさか、ほんとじゃあるまいね?」
「本当の事です。わたし、ベスナー先生と結婚することにしました。昨夜、申し込まれたんです」
「何故あの男と結婚するんだい。金持ちだからか」
「そうじゃないわ。あの方が好きだからよ。親切で、何でも知っているんですもの。あたし、ずっと病人とか診療所とかに関心を持っていましたから、ベスナー先生のおそばならすばらしい暮しができる事でしょう」
「この僕よりもあのいやらしい爺さんと結婚したほうがいいと言うんだね」
「そうよ。あなたは当にならないんですもの。気持よくいっしょに暮せる人じゃないわ。あの方は年寄りじゃないわ。まだ五十にならないんですからね」
「お腹が出てるぜ」
「そうね。あたしは背中が丸いわ。見かけなんかどうでもいいのよ。先生はあたしがお仕事をたすけて行けると言って下さるの。そしてノイローゼのことを教えていただくことになっているのよ」
こう言って、コーネリヤは立ち去ってしまったので、ファガソンはポワロに言った。
「彼女、本気であんな事を言っているんでしょうか」
「本当だとも」
「僕よりもあの威張りくさった退屈なじいさんのほうがいいんでしょうか」
「その通りだ」
「あの娘、気がどうかしているんだ」
「彼女は独創的な心の持ち主なんだよ。君、あんな人に会ったのははじめてなんだろう」
船は浮き桟橋に横づけになったが、船客のまわりには非常線がはられて、下船を待つよう要請されていた。
浅黒い顔をむっつりさせて、リケッティは二人の機関士にともなわれて上陸した。それからかなりおくれて担架が到着し、サイモン・ドイルはそれにのせられて、渡り板の方へ運ばれた。彼は子供っぽい呑気さをすっかり失ってしまい、おびえきっていて、まるで別人のようであった。
つづいて、ジャクリーン・ド・ベルフォトが女給仕につきそわれて出てきた。顔色こそ青ざめているが、いつもと変らない様子であった。
ジャクリーンはつかつかと担架に近づいた。
「今日は、サイモン」
サイモンは素早く彼女を見上げた。この顔には一瞬、あの子供っぽい表情が戻ってきた。
「へまをやってしまったよ。度を失って、一切を認めてしまった。ごめんよ、ジャッキイ、期待を裏切ってしまって」
「いいのよ、サイモン。むだな勝負をして負けたんだわ。それだけよ」
ジャクリーンがよけると、担架運びの人が取手をもちあげた。
ジャクリーンは身をかがめて、靴のひもを結んだ。それから、彼女は手を靴下の上部にやり、何かをつかんで、身体をのばした。
パーンという鋭い音がしたと思うと、サイモン・ドイルはピクリと身体をふるわせて、そのまま静かになった。
ジャクリーン・ド・ベルフォトはうなずきながら、ピストルをもったまま、暫しの間、立っていた。そしてポワロにちょっと笑いかけた。
レースがかけよった時、ジャクリーンはピカピカする小さなピストルを自分の胸に向けて引金を引き、くずれるように倒れた。
「あのピストルを一体どこで手に入れたんだろう」
とレースが叫んだ。
ポワロの腕にさわる者があった。アラトン夫人だ。
「御存じだったのね」
ポワロはうなずいた。
「彼女はあのピストルを二つもっていたんです。取り調べを行った日に、ロザリー・オッタボーンのハンドバッグから一つ出てきたと聞いた時に、その事に気づきました。同じ食卓だったので、ジャクリーンは取り調べがあると知ると、ピストルをロザリーのハンドバッグへこっそり入れたんですね。そのあと、ロザリーの室へ行って、口紅をくらべることで彼女の注意をそらしておいて、ピストルを取り戻したんです。ジャクリーン自身と彼女の室は前の日に調べがすんでいたので、もう一度調べ直すまでもあるまいと思われたんです」
「ああいうふうにさせてやりたかったんですね?」
「そうです。しかし、自分だけがそうするのはいやだったんですね。おかげでサイモン・ドイルは意外に楽な死に方をする事ができました」
「愛はほんとにおそろしいものですわね」
「だから、大抵のすばらしい恋物語は悲劇なんですよ」
アラトン夫人は、月の光をあびて立っているティムとロザリーに目を注いで、突然、感情をこめて叫んだ。
「ありがたいことに、この世には幸せがあるんだわ」
「奥さん、おっしゃる通り、感謝なさることですよ」
やがて、船客たちは上陸した。
つづいてルイーズ・ブールジェとオッタボーン夫人の遺体が運び出された。
最後にリンネット・ドイルの遺体が岸に運ばれ、世界中にその死が報ぜられた。
ジョージ・ウォド卿はロンドンのクラブで、スターンデール・ロックフォドはニューヨークで、ジョアンナ・サウスウッドはスイスでそれぞれその事を新聞で読んだのであった。モールトン・アンダー・ウォドのバーでも論議の的になった。
バーナビー氏のやせっぽちの友人が言った。
「彼女一人で何もかも独占してしまうのは公平でないようだ」
すると、バーナビー氏がはげしく言った。
「それでも、それが大して役に立たなかったようじゃないか。気の毒な話だ」
しかし、やがて彼等はリンネットの事を話すのをやめて、今度の競馬で勝つのは誰だろうという話になった。なぜなら、ファガソンが言っていたように、大切なのは過去ではなくて未来なのだから。
あとがき
『ナイルに死す』は原名を Death on the Nileといい、『アクロイド殺人事件』その他でわが国にもその名をよく知られているアガサ・クリスティの第二十九冊目にあたる作品で、一九三七年に出版された。
小柄な名私立探偵エルキュール・ポワロが活躍する、いわゆるポワロ物の一つで、題名が示す通り、エジプトを舞台にしている。クリスティはこの作品を友人のシビル・バーネットに献じて、「自分と同じように世界を放浪することの好きなあなたへ」と言っていることからも察しられるように、非常な旅行好きで、エジプトも何度か訪れたことのある土地である。彼女は二度目の夫である考古学者のマックス・マローワンと一九三〇年に結婚して以来、一年の三分の一は発掘などの旅行に費すといわれる。こうした折に見聞した経験がたくみにとり入れられ、この作品にリアリスティックな効果をあげるのに役立っている。たとえば、アブ・シンベル神殿など名所の描写や観光客の心理、行動、あるいは観光客を目がけてしつこく寄ってくる土着民の子供たちの様子など、実際の経験をもとにしてはじめてできることであろう。クリスティには、海外旅行に取材した作品が他にもいくつかあり、作者はそれらを「外国旅行もの」とよんでいる。
クリスティは、自分の好きな作品をえらんでペンギン叢書で出したさい、この『ナイルに死す』をその十篇の中に入れ、解説を附して次のように言っている。
「『ナイルに死す』は、エジプトで一冬すごしたあと、帰国してから書いた作品です。いま、読みかえしてみますと、アスワンからワディ・ハルファへ通う船にまた乗っているような気持になります。その船には、船客がたくさん乗っていましたが、この作品に出て来る船客たちは、私の心の中で旅をつづけ、次第に実際の人物のように思われてきました――ナイル川を行く船という舞台の上でです。この作品は、登場人物も多ければ、筋も非常に手がこんでいます。中心となる場面は、興味をそそり、劇的な要素を持っているように思います。サイモン、リンネット、ジャクリーンの三人は、いきいきとしていて、まるで実際の人物のように私には思えます。
友人のフランシス・L・サリヴァンは、この作品が大いに気に入り、脚色して舞台にのせてはと、しきりにすすめるもので、のちに私はその言葉にしたがって脚色しました。
この作品は、自分の書いた『外国旅行もの』の中でも出来のいい一つだと、私自身かんがえています。探偵小説が『逃避の文学』であるならば――そうであってどうして悪いことがありましょう――読者はきゅうくつな肘掛椅子の犯罪ばかりでなく、太陽のかがやく大空と青い海へと逃避できるというものです」
作者の言葉にもあるように、この作品には数多くのの人物が登場し、ごく自然な日常会話を通して事件が運ばれて行くので、読者は推理の糸をたどるのにとまどう。イギリス、アメリカ、フランス、ドイツ、イタリア、ベルギーなど、各国からの客をのせてナイル川を進む船の上という、世間から隔絶した場所でとつぜん殺人事件がおこり、しかもそれがきっかけとなって、まるで連鎖反応のように次々と殺人が行われて、人びとを驚かせるが、そのいずれにも物的証拠となるものは一つもない。ポワロはレース大佐と力を合せて船客の一人一人をよんで話をきき、その得意の直観と注意深い観察とで犯人を割り出し、自説に確信を持ちながらもこう言わざるを得ない。
「必ずこういう風に行われたにちがいないことはわかっているのだが、それを証拠だてる物はないんだ。頭で考えるとはっきりしているのに、さて実際のところはつかめない。希望はただ一つ、つまり、犯人の自白だ」
ポワロが自分の組立てた犯罪の経路を一気にぶちつけると、完全犯罪をもくろんだ犯人も虚をつかれて一切をみとめてしまう。決め手となる証拠は一つもないのに、
「それ以外の方法であるはずがない」
と断定するところに、ポワロの面目が躍如としている。
この作品についての批評を一、二紹介すると、
「いかにもポワロ向きのすばらしい事件。作者がこの上もなく巧みなアリバイを思いついたことに対して脱帽する」(サンデー・タイムズ紙)
「二度よむべき作品。一度は楽しみのために、そして一度は筋の運び方を味うために」(タイムズ紙)
たしかに、はじめは興味につられ一気に読まされるが、二度目によみかえしてみると、一人一人の人物のさり気ない言葉が事件を複雑化させる上に役立っている場合が多く、全体として、作者の言う「手のこんだ筋」になっていることが改めてはっきりする。
昭和三十九年十二月 (訳者)
◆ナイルに死す◆
アガサ・クリスティ作/西川清子訳
二〇〇三年十一月五日 Ver1