アガサ・クリスティ/能島武文訳
ABC殺人事件
目 次
一 手紙
二 (この部分はヘイスティングズ大尉の手記ではない)
三 アンドーバー
四 アッシャー夫人
五 メアリー・ドローワー
六 凶行の現場
七 パートリッジ氏とリデル氏
八 第二の手紙
九 ベクスヒル海岸の殺人
十 バーナードの家族
十一 ミーガン・バーナード
十二 ドナルド・フレイザー
十三 会議
十四 第三の手紙
十五 カーマイケル・クラーク卿
十六 (この部分はヘイスティングズ大尉の手記ではない)
十七 準備期間
十八 ポワロの演説
十九 スウェーデン経由で
二十 クラーク夫人
二十一 犯人の人相
二十二 (この部分はヘイスティングズ大尉の手記ではない)
二十三 九月十一日、ドンカスター
二十四 (この部分はヘイスティングズ大尉の手記ではない)
二十五 (この部分はヘイスティングズ大尉の手記ではない)
二十六 (この部分はヘイスティングズ大尉の手記ではない)
二十七 ドンカスターの殺人
二十八 (この部分はヘイスティングズ大尉の手記ではない)
二十九 ロンドン警視庁にて
三十 (この部分はヘイスティングズ大尉の手記ではない)
三十一 エルキュール・ポワロの質問
三十二 そして狐を捕えろ
三十三 アレグザンダー・ボナパート・カスト
三十四 ポワロ、理由を述べる
三十五 ――
解説
登場人物
アリス・アッシャー……煙草屋の老婆
フランツ・アッシャー……アリスの夫
メアリー・ドローワー……アリスの姪
ベッティ・バーナード……カフェの給仕女
ミーガン・バーナード……ベッティの姉
ドナルド・フレイザー……ベッティの婚約者
カーマイケル・クラーク卿……中国美術の蒐集家
フランクリン・クラーク……クラーク卿の弟
ソーラ・グレイ……クラーク卿の秘書
ジョージ・アールスフィールド……理髪師
アレグザンダー・ボナパート・カスト……婦人靴下の行商人
マーベリー夫人……カストの下宿の主婦
リリー・マーベリー……その娘
トム・ハーティガン……リリーの恋人
クローム警部……ロンドン警視庁の警部
エルキュール・ポワロ……私立探偵、ベルギー人
ヘイスティングズ……ポワロの友人
イギリス帝国陸軍大尉リチャード・ヘイスティングズによるまえがき
この、わたしの物語では、わたし自身が現場にいた出来事や場面だけを語るという、いつもの、わたしのやり方から離れてみた。だから、いくつかの章は、三人称で書かれている。
それらの各章で述べている出来事は、わたしの確証できるものだということを、この物語の読者に申しあげておきたい。いろいろな人物たちの考えや感情を述べるさいに、いくぶん、わたしが詩人の特権を用いたとしても、それは、かなりな正確さをうしなわずに書きとめていると信じるからである。また、それはすべて、わたしの友人、エルキュール・ポワロの「審査」を経《へ》たものだということを、いいそえてもいいだろう。
おわりにあたって、この一連の奇怪な犯罪の結果として起こる、ある種の二次的な人間関係について、わたしは、多くを語りすぎたかもしれないが、それは、人間的、個人的要素というものを、無視することができないからである。エルキュール・ポワロも、かつて、ロマンスというものは、犯罪の副産物であることがある、と、ひどく芝居がかった身振りをしながら、わたしに教えてくれたことがあった。
ABCの奇怪な謎の解決についていえば、わたしの考えでは、エルキュール・ポワロは、これまで、かれが解決してきたどの事件とも全然ちがったやり方で、問題と取り組み、そのほんとうの天才を発揮したものであると、わたしにはいえるだけである。
一 手紙
一九三五年の六月のことであったが、わたしは、南アメリカの自分の農場から、約六か月の滞在の予定で、故郷に帰って来た。当時は、南アメリカでも、わたしたちには、困難な時代だった。ほかのどの人たちとも同じように、わたしたちも世界的な不況に悩まされていた。イギリスには、わたし自身が手をつけなければ、うまくゆきそうにもないと思う用事が、いろいろとあった。農場の管理のためには、妻が残ることになった。
イギリスに着いて、最初に、わたしがしたことのひとつは、旧友のエルキュール・ポワロを訪《たず》ねることであったということは、ことさら、いう必要もないだろう。
かれは、ロンドンの、最新型のアパートのひとつにおさまっていた。わたしは、非難めかしく、(いや、かれもその事実を認めたが)この特別な建物をえらんだのは、まったく、この建物の厳密な幾何学的な外観と、大きさの比率のせいだろう、といった。
「だけどね、うん、きみ、じつに気持ちよく均斉《きんせい》がとれている、とは思わないかい?」
わたしは、どうもすこし四角張りすぎているように思うといった。そして、それとなく古い洒落《しゃれ》を持ち出して、この超モダーンな邸宅では、牝鶏《めんどり》に四角な卵をうませられそうじゃないか、といった。
ポワロは、心からおもしろそうに、大声で笑った。
「ああ、きみは、まだあんなことをおぼえているんだね? やれやれ! とんでもない――科学は、まだ牝鶏を現代の趣味に適合させることに成功してはいないのさ。あいもかわらず、牝鶏どもは、大きさや色のちがう卵をうんでいるよ!」
わたしは、親愛の気持ちをこめた目で、じっと旧友を見た。かれは、すばらしく元気そうな様子で――ほとんど、この前に会った時から、すこしも年をとっていないように見えた。
「きみは、まったく元気いっぱいらしいね、ポワロ」と、わたしはいった。「ほとんど、すこしも年をとっていないじゃないか。まったくのところ、そういうことがありうるとしての話だが、この前に会った時よりも、白髪《しらが》がすくなくなったといってもいいくらいだね」
ポワロは、にっこり、わたしを見て笑った。
「しかし、どうして、そんなことがありうることじゃないというのかね? まったく、ほんとうなんだよ」
「というと、きみの髪が黒から灰色に変わらないで、灰色から黒に変わったというのかい?」
「まさに、そのとおりだよ」
「だけど、そんなことは、まったく科学的に不可能だよ!」
「どういたしまして」
「しかし、そりゃ、ひどく妙だね。自然の法則に反しているようじゃないか」
「あいかわらず、ヘイスティングズ、きみは、人を疑わない、美しい心を持っているんだね。年月も、きみのその心を変えないんだね! きみは、自分では、そんなことをしているとは気がつかずに、一つの事実を見ると、ほとんど同時に、その解答を口にするんだね!」
わたしは、すっかりとほうにくれて、かれを見つめた。
ひと言もいわずに、かれは、寝室へ足を運んで行ったと思うと、瓶《びん》を一つ、手にしてもどって来て、わたしに渡した。
わたしは、なんのことやらわからないまま、その瓶を受けとった。
瓶には、こう書いてあった。
ルヴィヴィ――毛髪に自然の色合《いろあい》を持ち来たす。ルヴィヴィは、染料にあらず。灰色、栗色《くりいろ》、赤黄色《チチアン》、褐色《かっしょく》、黒色の、五種の色調に生かす。
「ポワロ」と、わたしは、叫ぶようにいった。「きみは、髪を染めているんだね!」
「ああ、やっと、きみにもわかったようだね!」
「すると、それで、この前に、ぼくが帰って来た時よりも、きみの髪がずっと黒く見えるというわけなんだね」
「まったく、そのとおり」
「やれやれ」と、わたしは、驚きから立ちなおって、いった。「じゃ、このつぎ帰って来たら、つけひげをつけているきみにお目にかかるのじゃないかな――それとも、もうつけているのじゃないのかい?」
ポワロは、がっかりした顔をした。かれの口ひげは、いつも、かれが気にしている急所で、おそろしく自慢にしていた。つまり、わたしの言葉が、その痛いところに触れたわけだ。
「いや、いや、とんでもない、|あなた《モナミ》。そんな日は、まだまだ、ずっと先のことに願いたいですね。つけひげなんて! なんて恐ろしいことを!」
かれは、本物だということを示すために、勢いよく、そのひげを引っぱってみせた。
「なるほど、まだなかなかたっぷりしているね」と、わたしはいった。
「だろう? ロンドンじゅうを捜したって、わたしのに匹敵するほどの口ひげには、お目にかかったことがないんですからね」
そいつはまた、いい気なもんだ、と、わたしは、ひそかに思った。しかし、そんなことをいって、ポワロの気持ちを傷つけようなどと、けっして、わたしは思わなかった。
その代りに、いまでもまだ、時々は、元の仕事をしているのかとたずねてみた。
「そうだったね」と、わたしは、「きみは、何年か前に、まったく引退して――」
「そうさ。カボチャをつくるためにね! ところが、たちまち殺人事件が起こってね――おかげで、カボチャどもには滅亡への行進をさせてしまったというわけさ。それで、それからというものは――きみがなんというか、よくわかるがね――わたしは、確かに引退興行をやっているプリマ・ドンナのようなものでね! その引退興行ときたら、何度でも無限に繰り返されるんだ!」
わたしは、大声で笑った。
「実際、まったくそのとおりなんだから。そのたびに、わたしはいうんだ、これが最後だ、と。ところが、だめ、ほかのやつが起こるんだ! だからね、わたしは認めるよ、きみ、わたしは、まるきり引退なんてことを望んでいないんだ、と。もしも、この小さな灰色の細胞を働かせていないと、錆《さ》びついてしまうからね」
「なるほど」と、わたしはいった。「適当に、運動させるというわけだね」
「そのとおり。なんでもいいというわけじゃない。より好みをするのさ。このごろのエルキュール・ポワロには、犯罪の精髄ともいうべきものだけしか、意味はないのさ」
「その精髄というやつが、たくさんあったのかね?」
「かなりあったね。ついこの間なんか、きわどいところで命びろいをしたよ」
「しくじったのかい?」
「いや、とんでもない」ポワロは、ぞっとした顔つきで、「しかし、わたしが――この、エルキュール・ポワロが、あやうく完全にやっつけられるところだったよ」
わたしは、ひゅうと口笛をならした。
「大胆な犯人だね!」
「それほどひどく大胆というのじゃない、無謀なんだな」と、ポワロはいった。「まったく、そう、――無謀だ。だが、その話はよそう。それよりも、ねえ、ヘイスティングズ、いろいろな点で、わたしは、きみを、わたしのマスコットと思っているんだぜ」
「ほんとかい?」と、わたしはいった。「どんな点で?」
ポワロは、直接には、わたしの問いにはこたえなかった。かれは、話をつづけた。
「きみが帰って来るということを聞くとすぐに、わたしは、ひとり言をいったものだ。なにか起こるんだな、と。また以前のように、いっしょに捜査しようじゃないか、われわれ二人で。しかし、やるのなら、平凡な事件じゃいけない。なにか、ぜひ」――かれは、興奮して、両手を振りながら――「なにか、趣向をこらした――微妙な――|手のこんだ《フイーヌ》やつでないと……」と、このフイーヌという、最後の翻訳しにくい言葉に、いっぱいに味をつけるようにして、いった。
「これはこれは、驚いたね、ポワロ」と、わたしはいった。「人が聞いたら、まるで、リッツで晩めしを注文でもしていると思うだろうね」
「犯罪というものは、注文するわけにはいかないのにか? まったく、そのとおりだ」かれは、ため息をついて、「しかし、わたしは、運を信じるよ――運命といってもいいがね。わたしのそばについていて、わたしが許しがたい誤りを犯さないようにしてくれるのが、きみの運命なのだ」
「いったい、許しがたい誤りというのは、なにをいうんだね?」
「明白なものを見のがすことさ」
わたしは、それを胸の中で繰り返してみたが、その要点はわからなかった。
「ところで」と、やがて、わたしは、にっこりしながら、「そのとびきりの犯罪というやつは、もうはじまってるのかい?」
「まだだ。すくなくとも――というのは――」
かれは、口をつぐんだ。その額《ひたい》には、困ったような皺《しわ》が深くなった。その両手は、わたしがうっかりして押しまげた物を、ただ機械的に伸ばしているようだった。
「はっきり、わからないんだ」と、かれは、ゆっくりといった。
その調子には、ひどく妙な響きがあったので、わたしは、驚いて、かれの顔を見た。
皺は、まだ消えてはいなかった。
と、いきなり決心したように軽くうなずいて、かれは、部屋《へや》を突っ切って、窓ぎわの机のところへ行った。机の中の物は、みんな、きちんと整理して、それぞれ一括されていたから、すぐに、必要な物が取り出せるようになっていたなどとは、いまさら事新しく、いう必要もないだろう。
かれは、一通の開封した手紙を片手にして、ゆっくり、わたしのところへもどって来た。かれは、もう一度、それを読み返してから、わたしに手渡した。
「ねえ、|あなた《モナミ》」と、かれはいった。「きみは、これをどう思うかね?」
わたしは、ある興味を持って、それを受けとった。
それは、厚手の白い便箋《びんせん》に、活字体で書かれていた。
エルキュール・ポワロ氏よ――きみは、哀れむべき鈍物《どんぶつ》の、わがイギリス警察がもてあますような難事件を解決するのは、自分だと、うぬぼれているのじゃないだろうね? 明敏なるポワロ氏よ、きみの明敏のほどを見せてもらいたいものだ。おそらく、この胡桃《くるみ》は、くだくには固すぎるということに気がつくにちがいない。今月の二十一日、アンドーバーを警戒したまえ。草々。
A・B・C
わたしは、ちらっと封筒に目をやった。それも、活字体で書いてあった。
「消印は、西中央第一局だ」と、わたしが消印に注意を向けるのを見て、ポワロはいった。「ところで、きみの考えは、どうだね?」
わたしは、肩をすぼめて、かれに手紙を返した。
「まあ、気ちがいか、なにかだろうね」
「それだけかい?」
「ふん――きみには、気ちがいだと思えないのかい?」
「そうだね、きみ、そう思われるね」
かれの声は、ゆゆしい調子を帯びていた。わたしは、好奇心をそそられて、かれを見つめた。
「きみは、この手紙をひどく真剣にとっているんだね、ポワロ」
「気ちがいというものは、|あなた《モナミ》、真剣に取り扱うべきものなんだ。気ちがいというものは、とても危険な代物《しろもの》だからね」
「そうだ、むろん、それはほんとうだ……その点は、わたしも考えていなかった……しかし、わたしのいうのは、どうもばかげたいたずらのような気がするということなんだ。おそらく、誰《だれ》か、八つよりも一つ多い、ひどく陽気なばかだろうね」
「というわけは? 九つということかい? 九つがどうしたんだ?」
「なんでもない――ただのいいまわしだけさ。酔っぱらった奴《やつ》という意味だよ。いや、ちがう、ひどく酔っぱらった奴という意味だよ」
「ありがとう、ヘイスティングズ――その『酔っぱらう』といういいまわしなら、わたしも知っているよ。きみがいうとおり、それ以上、なんにもないかもしれないが……」
「ところが、きみは、あると思うんだね?」と、不満足そうな、かれの調子に打たれて、わたしはたずねた。
ポワロは、どっちともつかず、曖昧《あいまい》に首を振ったが、ものはいわなかった。
「きみは、この手紙について、どういう処置をとったのだね?」と、わたしはたずねた。
「どうできるというのだね? ジャップ警部には見せたがね。かれも、きみと同じ意見だった――ばかげたいたずらだ、と――それが、かれの用いたいいまわしだった。|ロンドン警視庁《スコットランド・ヤード》では、毎日のように、こういったものを受けとるそうだ。わたしも、そのお相伴《しょうばん》にあずかったというわけさ……」
「しかし、きみは、この手紙を真剣に考えているんだろう?」
ポワロは、ゆっくりこたえた。
「どうもこの手紙には、なんかがあるんだよ、ヘイスティングズ、わたしの気に入らないものが……」
はっと思うほど、かれの調子は、わたしを強く打った。
「きみは――なんと思うんだね?」
かれは、首を左右に振って、その手紙を取りあげると、また、元の机の中にしまいこんだ。
「もしも、ほんとうに真剣に取っているのなら、なんとかしたらどうだね?」と、わたしはたずねた。
「あいかわらず、行動の人だね、きみは! しかし、いったいどうできるんだね? 地方警察にも手紙を見せたんだが、かれらも、本気になって取りあげはしない。指紋もなければ、差出人の手がかりもないのだからね」
「実際のところ、きみ自身の勘だけというわけだね?」
「勘じゃないよ、ヘイスティングズ。勘というのは、よくない言葉だよ。わたしの知識だよ――わたしの経験だよ――それが、わたしに教えているんだよ、あの手紙には、なんかあるって、おかしなところが――」
かれは、うまく言葉がいえないで、手まねでいってから、また、首を左右に振った。
「針のように小さなものを、棒のように大きくいっているのかもしれないがね。いずれにしても、待ってみるしか、どうしようもないんだ」
「ふむ、二十一日というのは、金曜日だね。もしも、あっというような凄《すご》い強盗事件でも、アンドーバーの近くで起こったら、それこそ――」
「ああ、そんなことなら、どんなに気楽だか――!」
「気楽だって?」と、わたしは、まじまじと見つめた。そんな言葉を使うなんて、とても異常な気がした。
「強盗は、スリルかもしれないが、気楽とはいえないよ!」と、わたしは文句をいった。
ポワロは、力をこめて首を振った。
「きみは、思いちがいをしているよ、きみ。きみには、わたしのいう意味がわからないんだ。強盗なら、わたしの懸念《けねん》も軽くなるよ。だって、わたしの心を占めているのは、もっとほかの怖《おそ》ろしいことなんだから」
「どんな怖ろしいこと?」
「殺人だよ」と、エルキュール・ポワロはいった。
二 (この部分はヘイスティングズ大尉の手記ではない)
アレグザンダー・ボナパート・カスト氏は、自分の席から立ちあがって、近視のような目つきで、みすぼらしい寝室を見まわした。窮屈な恰好《かっこう》ですわっていたので、かれの背中は、こちこちになってしまっていた。それで、いっぱいに背を伸ばしたかれを見た人は、実際は、かれが背の高い男だということに気がついただろう。かれの猫背《ねこぜ》と、かれの近視らしく、じっと見つめるような様子とが、人にはまるきり反対の印象を与えていた。
ドアの内側にかかっている着古した外套《がいとう》のところへ行って、かれは、そのポケットから、安|煙草《タバコ》の包みとマッチとを取り出した。一本の煙草に火をつけると、いままですわっていたテーブルにもどった。かれは、鉄道案内を取りあげて、調べていたが、やがて、また、タイプで打った人名簿に目を向けて、じっと考えにふけった。ペンを取って、その人名簿の最初の名の一つにしるしをつけた。
それは、六月二十日、木曜日のことだった。
三 アンドーバー
わたしは、かれが受けとった差出人不明の手紙に対する、ポワロの不吉な予感を聞いた時、強い印象を受けた。しかし、二十一日という日が実際にやって来て、スコットランド・ヤードの警部長のジャップが、わたしの友人を訪《たず》ねて来て、はじめて思い出すまで、そのことが、すっかりわたしの頭から消えてしまっていたといわなければならない。この犯罪捜査課の警部は、長年の知り合いだったので、わたしを見ると、かれは、心から懐しそうに声をかけた。
「やあ、これはこれは」と、かれは、大声でいった。「ヘイスティングズ大尉じゃありませんか、あなたのおっしゃる蛮地とやらからお帰りになったのですね! こうして、ムッシュー・ポワロとごいっしょのあなたにお目にかかるなんて、まったく昔のようじゃありませんか。それにまた、お元気そうですね。ほんのちょっと、てっぺんが薄くなったようですかな? そうですよ、誰でもそうなるもんですよ。わたしだって、ご同様ですよ」
わたしは、いささか忸怩《じくじ》とした。わたしは、注意深く、頭のてっぺんに髪がかかるようにブラッシをかけておいたので、ジャップのいう薄いところが、うまく誰の目にもつかないだろうと思っていたのだ。しかし、ジャップは、わたしが気づかっているほど、その点について気のきくほうではなかったから、わたしは、うわべを取り繕って、われわれは、誰だって若くなる者はないのだからと、愛想よくいった。
「この、ムッシュー・ポワロだけは別ですよ」と、ジャップはいった。「まったく、ヘヤー・トニックのいい広告になりますよ。顔のきのこ類が、前よりもずっと見事に芽を出してきましたからね。老年になるといっしょに、脚光を浴びてきたというわけですよ。現代の有名な事件には、すべて、首を突っこんでおられます。列車事件、空の事件、社交界の殺人事件――そうですよ、ここにいられるかと思えば、あちらにいられる、いや、どこにもかしこにも顔を出しておいでです。引退してからほど、以前は有名ではなかったと思うくらいです」
「この間もヘイスティングズ君にいったところなんだけど、わたしは、いつでも、もう一度、最後の舞台に登場するプリマ・ドンナというところですよ」と、微笑を浮かべながら、ポワロがいった。
「ご自分の死を探偵しておわりということになっても、おかしくはありませんね」と、ジャップはいって、心からおもしろそうに、大声で笑った。「こいつは、いい思いつきだ、まったく、本に書いておくべきですね」
「それをしなければならないのは、ヘイスティングズ君ということだな」といいながら、ポワロは、おもしろがっているような目を、ちらっと、わたしに向けた。
「は、は! 冗談ですよ、冗談ですよ」と、ジャップも声をたてて笑った。
そんな考えが、どうしてそんなにおもしろいのか、わたしにはわからなかった。そして、どんな場合でも、冗談なんてくだらない趣味だと、わたしは思った。かわいそうな老人、ポワロもだんだん年をとってゆくのだ。その死期が近づくことについての冗談など、かれに愉快なはずがないではないか。
おそらく、わたしの態度に、わたしの気持ちがあらわれたのだろう。ジャップは、話題を変えた。
「ムッシュー・ポワロが受けとった匿名の手紙のことをお聞きになりましたか?」と、かれはたずねた。
「この間、ヘイスティングズ君に見せましたよ」と、友人はいった。
「もちろんだが」と、わたしは叫ぶようにいった。「すっかり忘れてしまっていたよ。待ってくれよ、何日と書いてあったのだっけな?」
「二十一日です」と、ジャップがいった。「だから、不意にお訪ねしたんです。きのうが二十一日でしたので、好奇心にかられて、ゆうべ、アンドーバーへ電話をしてみたんです。やっぱり、いたずらでしたよ。なんにも事件などなしです。ショー・ウィンドーが一つこわされたのと――子供が石を投げたんだそうです――それと、酔っぱらっての乱暴が二つです。だから、こんどだけは、われわれのベルギーの友人も、見当ちがいをなすったというわけでした」
「それで、ほっとしました、正直なところ」と、ポワロも認めた。
「ほんとに緊張しておられたようでしたね?」と、同情したような口振りで、ジャップはいった。「ありがたいことに、われわれは、あんなのは、毎日、何十通となく受けとるんですからね! ほかに気のきいたことをすることもなくて、頭のてっぺんの働きのすこし弱い連中が、ぽかんとすわっていると、あんなものを書くんです。べつに害をするつもりはないんです! ただ、一種の興奮状態なんですね」
「それを、あんなに真剣に取りあげるなんて、まったく、わたしもばかでしたな」と、ポワロはいった。「わたしがかぎまわっていたのは、馬の巣だったというわけですね」
「馬と蜂《はち》とをごちゃまぜにしていらしたんですよ」と、ジャップがいった。
「なんですって?」
「ただの諺《ことわざ》ですよ。さて、もう出かけなくちゃなりません。隣りの町に、ちょっと用事があったものですからね――盗品の宝石を受けとりにね。ちょっと途中でお寄りして、安心させてあげようと思ったので。灰色の細胞をむだに働かせるのは、惜しいですからね」
そういって、腹いっぱいに笑い声をたてて、ジャップは出て行った。
「人のいいジャップ、かれもたいして変わっていないだろう?」と、ポワロがたずねた。
「ずいぶん老《ふ》けたね」と、わたしはいった。「あなぐまのように灰色になったね」と、仕返しでもするように、つけ加えていった。
ポワロは、咳《せき》をしてから、いった。
「ねえ、ヘイスティングズ、ちょっとした仕掛けがあるんだがね――わたしの床屋は、おそろしく器用な男でね――その仕掛けを頭の地《じ》にはりつけて、その上に、自分の髪の毛を撫《な》でつけておくと――かつらじゃないんだ、よく、おわかりだろうが――しかし――」
「ポワロ」と、わたしは大声でいった。「はっきりというが、きみのけしからん床屋のいまいましい発明なんかを、どうしようとも思わないよ。わたしの頭のてっぺんが、どうかしたというのかね?」
「なんでもない――いや、ぜんぜん、なんでもない」
「わたしが禿《は》げてきたというつもりじゃないだろうね」
「むろんさ! むろん、そんなことはないよ!」
「向こうの暑い夏が、いくらか髪をうすくするのは当然だがね。ほんとうの上等なヘヤー・トニックを持って帰ることにするよ」
「まったくそうだ」
「それにしたところで、とにかく、ジャップとどういう関係があるというんだ? あの男は、いつだって、いやな、癪《しゃく》にさわる奴だった。それに、ユーモアのセンスもない。人がすわろうとしている時に、椅子《いす》が引っぱりのけられると、大声で笑うようなたちの男だ」
「たいていの人間が、それには笑うだろうね」
「まったくセンスのないことだ」
「すわろうとしている人間の立場からいえば、確かに、そうだね」
「そうそう」と、いくぶん機嫌《きげん》をなおして、わたしはいった。(髪の毛が薄いことについて、過敏になっているということは、わたしも認める)「匿名の手紙がなんでもないことになったのは、残念だったね」
「あれは、まったく、わたしの間違いだった。あの手紙には、どうも生《なま》ぐさい匂《にお》いがしたように思ったんだがね。ところが、ただの間抜けだけだった。ああ、わたしももうろくして、なんでもないのに吠《ほ》えつく、めくらの番犬みたいに、疑い深くなってしまった」
「わたしが協力するとしたら、なんかほかの『粋の粋なる犯罪』というのに、目をつけなくちゃいけないね」といいながら、わたしは、声をたてて笑った。
「きみはおぼえているだろう、いつか、いったことを? もし、晩めしを注文するように、犯罪を注文できるとしたら、どんなのを、きみは選ぶね?」
わたしは、かれの気まぐれにまきこまれてしまった。
「さて、待ってくれたまえよ。まず、メニューをよく見ようじゃないか。強盗かな? 貨幣の偽造か? いやいや、こんなものじゃいけないと思うな。ちょっと精進《しょうじん》料理すぎる。やっぱり、人殺しでなくちゃいけない――まっ赤《か》な血の出る殺人事件だ――添《そ》え物のついたね、もちろん」
「むろん。オードーブルをね」
「被害者は、誰にしよう――男か、女か? やっぱり、男がいいな。誰か大立物《おおだてもの》で、アメリカの百万長者とか、総理大臣とか、新聞社の社長だな。凶行の現場は――立派な、古風な図書室なんかはどうだろう? 雰囲気《ふんいき》として、これに越したものはないね。凶器はといえば――そう、妙な形に曲がった短刀か――でなけりゃ、なにか鈍器のようなものか――彫刻した石像とか――」
ポワロは、大きなため息をついた。
「でなけりゃ、もちろん」と、わたしはつづけて、「毒薬だが――しかし、こいつは、常に専門的すぎるからね。それとも、深夜にこだまするレボルバーの一撃だな。それから、若い美人が、一人か二人、いなくちゃいけないな――」
「赤毛のね」と、友人は、口の中でいった。
「お得意の古い冗談だね。美人の娘の一人には、むろん、不法な嫌疑《けんぎ》がかけられなくちゃいけない――そして、かの女と青年との間には、誤解がある。それから、むろん、ほかにも何人か嫌疑者がいなくちゃいけない――一人は、年のいった女だ――色の黒い、危険なタイプのね――それから、殺された男の、友人か、競争相手――それから、おとなしい秘書――思いがけない嫌疑者だ――それから、ぶっきらぼうな態度だが、心は親切な男――それから、解雇された召使いとか、猟場の番人とかなんとかいうのが幾たりか――それから、ちょっとジャップそっくりの大間抜けの探偵――それから、そう――まあ、それくらいだな」
「それが、きみの粋の粋なるという趣向だね?」
「きみは、賛成しないだろうとは思うがね」
ポワロは、なさけなさそうに、わたしを見た。
「きみは、これまでに書かれた、ほとんどすべての探偵小説の、ひどくすてきな梗概《こうがい》をつくってくれたね」
「じゃ」と、わたしはいった。「きみなら、どんな注文をするというんだね?」
ポワロは、目をとじて、ぐっと椅子によっかかった。その声は、唇《くちびる》の間から、いかにも悦に入っているように流れてきた。
「ごく単純な犯罪だな。複雑なところのすこしもない犯罪だ。静かな家庭生活の犯罪……ひどく激したところのない――ごくうちわなね」
「どうして、犯罪にうちわなんてことが、ありうるんだね?」
「こうなんだ」と、ポワロはつぶやくように、「四人の人間がすわって、ブリッジをしていて、一人、仲間はずれになっているのが、暖炉のそばの椅子にかけているんだ。夜が更《ふ》けたころになって、気がついてみると、火のそばの男が死んでいる。四人のうちの一人が、ダミーで手札をさらして宣言者にやらせている間に、その男のそばへ行って殺してしまったのが、ほかの三人は、勝負に熱中していて、気がつかなかったんだ。さあ、犯罪だよ、きみ! 四人のうちの誰だ、犯人は?」
「ふん」と、わたしはいった。「ぼくは、そんなものに、ちっとも興奮を感じないね!」
ポワロは、ちらっと非難するような目を、わたしに向けた。
「そうだ、妙な恰好に曲がった短刀もなければ、脅迫《きょうはく》もないし、神像の目から盗んで来たエメラルドもないし、由来のわからない東洋の毒薬もないからね。きみは、メロドラマの愛好者だね、ヘイスティングズ。きみは、一つの殺人なんかじゃなくて、つぎからつぎとつづく殺人事件の方が気に入るんだろう」
「そうだ」と、わたしはうなずきながら、「本の中で、二度目の殺人が出てくると、しばしば、いろいろなことを活気づけるからね。第一章で殺人が起こって、最後のページの一つ前まで、みんなのアリバイをどこまでも追って行かなくちゃいけないなんてのは――そう、ちょっと退屈になるよ」
その時、電話のベルが鳴ったので、ポワロは立って行った。
「もしもし」と、かれはいった。「もしもし。そうです。エルキュール・ポワロです」
かれは、一分か二分、じっと耳をすましていた。そのとき、かれの顔色の変わったのが、わたしにはわかった。
かれの方の返事は、短かくて、きれぎれだった。
「そうですとも……」
「そう、もちろん……」
「しかし、そう、行きましょう……」
「当然だね……」
「きみのいうとおりかもしれないね……」
「そう、持って行こう。じゃ、じきに」
かれは、受話器をおくと、部屋を突っ切って、わたしのそばへもどって来た。
「ジャップからだ、ヘイスティングズ」
「それで?」
「警視庁へ帰ったばかりなんだが、連絡があったというんだ、アンドーバーから……」
「アンドーバー?」と、わたしは、興奮して、叫ぶようにいった。
ポワロは、ゆっくりといった。
「アッシャーという名の、小さな煙草と新聞を売る店をやっていた老婆が、殺されたというんだ」
わたしは、ちょっとがっかりしたような気がしたと思う。アンドーバーという声でかきたてられたわたしの興味は、いささかたじたじとなった。わたしは、なにか空想的な――なみはずれた事件を期待していたのだ! 小さな煙草店をやっていた老婆殺しなんていうのは、どうも、けちけちして、おもしろくもないような気がした。
ポワロは、同じように、ゆっくりとした、重々しい声でつづけた。
「アンドーバーの警察では、加害者を逮捕できると思っているらしい――」
わたしは、もう一度、がっかりした。
「女は、その夫と仲が悪かったらしい。夫というのは酒飲みで、いやな奴だったらしい。一度ならず、殺すといって、女をおどしていたというのだ」
「だけど」と、ポワロは言葉をつづけて、「事件の性質から考えて、向こうの警察では、わたしが受けとった匿名の手紙を、もう一度見たいというのだ。それで、わたしは、すぐに、きみといっしょにアンドーバーに行くといっておいたのさ」
わたしの気持ちは、いくらか活気づいた。とにかく、けちな犯罪のような気はするが、犯罪は犯罪だ。わたしが犯罪とか犯人とかいうものとつき合い出してから、もうかなり長いことになる。
わたしは、ポワロがいったつぎの言葉を、ほとんど聞いていなかった。しかし、後になって、重要な意味をもって、わたしの胸によみがえってきた。
「これが、はじまりだ」と、エルキュール・ポワロはいった。
四 アッシャー夫人
わたしたちがアンドーバーに着くと、グレン警部が出迎えた。背の高い、金髪の男で、気持ちのいい微笑を浮かべていた。
話を簡潔にするために、飾り気のない事件の事実だけを、手短かに大要を述べておいた方がいいだろう。
事件は、二十二日の午前一時、ドーバー巡査によって発見された。受持ち区域の巡回中に、その店のドアにさわってみると、鍵《かぎ》がかかっていないことに気がついた。中へはいってみて、はじめは、誰もいないのだなと思った。けれど、懐中電燈をカウンターの方に向けてみると、老婆の丸く身をこごめた死体が、かれの目にはいった。警察の係り医が現場に到着して取り調べてみると、老婆は、おそらく、カウンターのうしろの棚《たな》から煙草の包みを取り出そうとしているところを、ひどく後頭部に一撃をくらったものだろうということが明らかになった。死後、九時間ないしは七時間がたっていた。
「しかし、それよりももうすこし正確に、時間を推定することができました」と、警部は説明した。「五時三十分に、店へはいって行って、煙草を買ったという男がいるのです。それから、二番目の男は、六時五分すぎに店へはいって行ったのだが、誰も店にはいないのだなと思って、出て来たというのです。それで、凶行の時間は、五時三十分から六時五分までの間と推定することができるわけです。いままでのところ、そのアッシャーという男を、現場近くで見かけたという者は、まだ見つけ出せません。しかし、もちろん、まだこれからです。かれは、九時ごろ、『スリー・クラウンズ』という酒場で、かなり酔っぱらっていたそうです。かれを逮捕し次第、容疑者として留置するつもりです」
「あまり好ましい人物じゃないんですね、警部?」と、ポワロがたずねた。
「いやな野郎です」
「かれは、細君といっしょに住んでいなかったんですね?」
「そうです。何年か前に、二人は、別れたのです。アッシャーは、ドイツ人で、以前は、給仕をしていたこともあるのですが、酒を飲む癖がついてから、だんだん雇い手がなくなったのです。それで、しばらくの間、細君が働きに出ていました。最後の勤め先は、ミス・ローズという老婦人のところで、料理人兼家政婦をしていました。おやじには、給料からかなりの金をやってめんどうをみていたようですが、奴《やっこ》さんは、しょっちゅう、べろべろになるまで飲んでしまっては、細君の働いているところにやって来て、活劇を演じていたものです。そんなわけで、細君は、農場《グレンジ》のミス・ローズのところで働くようになったらしいのです。そこは、アンドーバーから三マイルほど離れた、静かな、火の消えたような田舎《いなか》なんで、奴さんも、そうたびたびは、行けなかったようです。そのうちに、ミス・ローズが死んで、すこしばかり遺贈を受けたものですから、それで、アッシャー夫人は、この煙草と新聞の店を――まったく、ちっぽけな店で――ほんの安煙草と、すこしばかりの新聞といった――そんなような店をはじめたわけです。まあどうやら、やって行けるという程度だったんですね。アッシャーは、しじゅうやって来ては、時には、口汚《くちぎたな》く罵《ののし》っていましたがね。かの女の方は、わずかの金をやっては追っ払っていましたっけ。週に十五シリングを、きまってやっていたようです」
「子供はなかったの?」と、ポワロがたずねた。
「子供はないが、姪《めい》が一人あります。オーバートンの近くで働いています。なかなか立派な、しっかりした娘です」
「それで、そのアッシャーという男は、しじゅう、その細君をおどしていたというんですね?」
「そうです。酔ってる時は、手に負えない奴で――かの女の頭をぶんなぐってやるなどと、悪態の限りをつくんです。ひどい目にあったものです、アッシャー夫人は」
「その女は、いくつだったんです?」
「もうすぐ六十で――立派な、働き者でした」
ポワロは、重々しい口振りで、いった。
「それで、警部、そのアッシャーという男が、その殺人を犯したという、あなたの意見なんですね?」
警部は、用心深く、咳をした。
「そういってしまうには、すこうし早いでしょうね、ポワロさん、ですが、わたしは、昨夜、どういうふうにしてすごしたか、フランツ・アッシャー自身の説明を聞いてみたいと思うのです。満足のいく、十分、立派な申し開きができればですが――もしできなければ――」
かれは、そこで口をきったが、それは、なかなか意味深長な区切りようだった。
「店からは、なにもなくなっていないのですね?」
「なんにもなくなっていません。金は、ちゃんと手をつけずに、帳場の引出しの中にあります。物をとったという形跡もありません」
「あなたは、そのアッシャーという男が酔っぱらって店へ来て、はじめは細君を罵ったあげく、殴《なぐ》り殺したと思うというんですね?」
「一番妥当な解釈でしょうね。ですが、実をいうと、ポワロさん、わたしは、あなたがお受けとりになった、例のひどく妙な手紙というのを、ぜひもう一度拝見したいと思うんです。そのアッシャーという男が出したものなのかどうか」
ポワロが手紙を渡すと、警部は、眉《まゆ》を寄せて、それを読んだ。
「これは、アッシャーの手らしくはありませんですね」と、やがて、かれはいった。「『わが』イギリスの警察などという言葉を、アッシャーは使わないだろうと思うのですがね――よほど特別に抜け目なくやろうとすれば別ですが――それに、奴には、それほど頭がないだろうと思うのです。それからまた、あの男は、残骸《ざんがい》で――すっかりだめな男ですからね。手も、ひどく顫《ふる》えていて、こんなにはっきりした書体では書けないでしょう。便箋もインクも、上質のものですしね。それにしても、手紙に、今月の二十一日といっているのは、妙ですね。もちろん、偶然の一致ということもあるでしょうがね」
「そういうこともありうることですね――そう」
「しかし、わたしは、こういう偶然の一致は気に入りませんね、ポワロさん。あんまりぴったりしすぎますからね」
かれは、一分か二分ほど、黙っていた――額の皺が深くなった。
「ABCとね。いったい、ABCとは、どんな奴でしょう? メアリー・ドローワー(姪ですがね)――なら、なんか役に立つことをいってくれるかもしれませんね。片手間仕事ですから。しかし、この手紙さえなければ、間違いなく、わたしは、フランツ・アッシャーにかけますがね」
「アッシャー夫人の経歴は、わかっているんですか?」
「ハンプシャー生まれの女でしてね。娘のころは、ロンドンに出て勤めていました――だから、そこでアッシャーにあって、結婚したんですがね。戦争中は、いろいろ、きっと困難な目にもあったでしょう。かれと実際に別れたのは、一九二二年でしてね。そのころは、ロンドンにいたのでした。そして、かれからのがれるために、ここへ帰って来たのですが、かれは、すぐにかぎつけて、ここへ、かの女を追っかけて来て、金をせびっていたというわけで――」その時、一人の巡査がはいって来たのを見て、「うん、ブリッグ、なんだ?」
「アッシャーを連行しました」
「よし。ここへ連れて来い。どこにいたのだ、奴は?」
「引込線の貨車の中にかくれていました」
「ほう、そんなところにいたのか? 連れて来たまえ」
フランツ・アッシャーというのは、まったくみすぼらしい、感じの悪い代物だった。かれは、おいおい泣いているかと思うと、ぺこぺこしてみたり、かと思うと、威張ってどなり散らすというありさまだった。そのただれた目を、きょろきょろと、顔から顔へと動かしていた。
「おれをどうしようてんだ? おれは、なんにもしやしねえ。ひでえじゃねえか、おれをこんなところへ連れて来て、けしからんじゃねえか! お前たちは豚だ――どうしようってんだ?」急に、その態度を変えて、「いや、ちがうんですよ、おれは、そんなつもりじゃねえんで――この哀れな年よりを痛めつけるようなことはしねえでしょう――ひどくなんかしねえでしょう。誰もかれも、このかわいそうなフランツじじいに、つらくあたるんでさ。かわいそうなフランツじじいに」
アッシャー氏は、しくしく泣き出した。
「もうたくさんだ、アッシャー」と、警部はいった。「しっかりしろ。べつに、なんの罪を犯したといって、お前を責めてやしない――いまのところは。それに、いやなら、なんにもいわなくてもいいんだよ。そういっても、もし、お前が細君の殺しに関係がないのなら――」
アッシャーは、警部の言葉をさえぎった――その声は、悲鳴のように高くなった。
「おれは、あれを殺しやしねえ! おれは、殺しやしねえ! みんな、でたらめだ! お前たちは、べらぼうなイギリス野郎だ――みんな、おれをやっつけようとしやがるんだ。おれは、けっして、あいつを殺しやしねえ――けっして」
「お前は、しょっちゅう脅《おど》かしていたじゃないか、アッシャー」
「いや、ちがう。お前さんたちには、わかりゃしねえ。ありゃ、ただの冗談だ――おれとアリスの仲だけの楽しい冗談なんだ。あいつは、ようくわかってたんだ」
「おかしな冗談だな! それじゃ、お前は、ゆうべ、どこにいたかいえるかい、アッシャー?」
「ああ、いえるとも――なんでもかんでも、いうよ。おれは、アリスのとこのそばへなんか行かなかったよ。いっしょにいたんだ、仲間たちと――いい仲間たちとよ。おれたちは、『セブン・スター』にいて――それから、『レッド・ドッグ』にいて――」
かれは、早口でしゃべりつづけたので、言葉がもつれた。
「ディック・ウイローズ――あいつも、いっしょにいたし――カーディじいさんも――ジョージも――それから、プラットも、ほかの奴らもうんといたんだ。おら、はっきりいうけど、アリスのそばへなんか、けっして行きゃしねえ。ああ、神さま、おれは、ほんとうのことをいってるんだ」
かれの声は、悲鳴に似た金切り声になった。警部は、部下にうなずいて、
「こいつを連れて行け。容疑者として留置しておけ」
「どう考えたらいいのかわかりませんな」と、身をふるわしながら、悪意をまる出しにして、口汚くわめきちらす、このいやな老人が連れて行かれると、警部はいった。「手紙さえなければ、奴がやったというところですがね」
「奴がいう男たちは、どうですか?」
「悪い仲間ですよ――奴らのうちの一人だって、偽証なんかへとも思ってやしません。おそらく、昨夜、大部分は、奴は連中といっしょにいたでしょう。問題は、五時半から六時までの間に、誰か、店の近くで、あの男を見かけた人間がいるかいないかにかかっているわけです」
ポワロは、考え深そうに、頭を振った。
「店からなんにも盗《と》られてないというのは、確かですね?」
警部は、肩をすぼめて、「物によりますよ。煙草の一包みや二包みは盗られてるかもしれません――が、そんなことのために、誰も、人殺しをしないでしょうからね」
「それで、なんにも――なんといったらいいか――店に持ちこんだ物もなかったんですね。その場にしちゃ、おかしな――不似合な物もなかったんですね?」
「鉄道案内が一冊ありました」と、警部がいった。
「鉄道案内が?」
「そうです。開いたままで、カウンターの上に、伏せておいてありました。ちょうど、誰かがアンドーバー発の列車を調べていたとでもいったふうにね。あの婆《ばあ》さんか、お客さんでもが」
「そういうものも売っていたのですか?」
警部は、首を左右に振って、
「一ペニーの時間表は売っていましたが。それは、大判ので――スミスの店か、大きな文房具屋だけでおいているような種類のです」
さっと、ポワロの目に光りがさした。かれは、ぐっと身を乗り出して、
「鉄道案内といいましたね。ブラッドショーのですか――それとも、ABCのですか?」
警部の目にも、さっと、光りが浮かんだ。
「まったく、そうです」と、かれはいった。「ABCのでしたよ」
五 メアリー・ドローワー
この事件に対して、わたしの関心がほんとうに湧《わ》いたのは、ABC鉄道案内のことが、はじめて口にのぼった時からのような気がする。それまでは、わたしは、あまり熱意をかきたてられなかった。裏通りの小さな店で、老婆が殺されたというだけの、こんなつまらない事件は、毎日のどの新聞にも報道されているような、紋切り形の事件だったので、重大な注意を喚起するほどのものでもなかった。わたし自身の心の中では、匿名の手紙が二十一日という日をあげていることなどは、たんなる偶然の一致とみなしていた。アッシャー夫人は、その夫の泥酔《でいすい》したあげくの暴行の犠牲になったものと、わたしはかたく信じていた。ところが、いまや、鉄道案内(すべての鉄道の駅をアルファベットの順に並べてあるところから、ABCという略語で、よく知られている)の名が挙げられたとたん、興奮の戦慄《せんりつ》が、わたしの全身を走った。確かに――確かに、これは、もう一つの暗合といえないだろうか?
けちな犯罪が、新しい相貌《そうぼう》を呈しはじめた。
アッシャー夫人を殺して、その後に、ABC鉄道案内をおいて行った、奇怪な人間は誰だろうか?
警察署を出てから、わたしたちは、死体仮置場へ行って、殺された女の死体を見た。奇妙な感情が湧きあがってくるのをおぼえながら、わたしは、わずかばかりのごま塩の髪の毛を、こめかみのところから、きちんと、うしろの方になでつけた。皺の寄った老婆の顔を、じっと見おろした。その顔は、ひどく温和な、暴力などとは、およそ関係などありそうにもない顔をしていた。
「誰が、なんで自分を殴ったか、知らないという顔です」と、巡査部長がいった。「カー医師もそういっています。わたしもそれでよかったと思っています、かわいそうな年よりです。身だしなみのいい婦人でしたのにね」
「昔は、美人だったのにちがいないね」と、ポワロがいった。
「ほんとかね?」と、信じられないような気がして、わたしは、口の中でいった。
「だが、そうだよ。顎《あご》の線や、肩の工合《ぐあい》や、頭の形を、ようく見てみたまえ」
かれは、大きくため息をつきながら、元のとおりおおいをかけ、わたしたちは、死体置場を後にした。
そのつぎの、わたしたちの行動は、ちょっと、警察医と会見することだった。
カー医師は、有能らしい様子の、中年の男だった。かれは、きびきびと、断定的な口振りで話した。
「凶器は、見つかりませんでした」と、かれはいった。「それがなんだったかということも、いえません。重いステッキとか、|棍棒《こんぼう》とか、小砂嚢《しょうさのう》のような形状の物――こういうような物なら、どれでもあてはまるでしょうね」
「そういう打撃を与えるには、非常に力が必要でしょうか?」
医師は、するどい一瞥《いちべつ》を、ポワロに向けた。
「おっしゃる意味は、七十にもなる、ふるえているような老人でも、そういう凶器で打てるかということですね? ええ、そうですとも、完全にできます――凶器の先端部に十分な重みを与えれば、まったく力のない人間でも、望むだけの結果が得られます」
「すると、犯人は、男でもあれば、女でもありうるというわけですね?」
この示唆《しさ》に富んだ言葉は、いくらか医師をびっくりさせた。
「女ですって? そう、こういう種類の犯罪に婦人が関係があるという考えは、一度も、わたしには起こらなかったと申しあげなければなりませんね。しかし、むろん、そういうことも可能で――完全にありうることです。ただ、心理学的にいって、婦人の犯罪とはいえませんですね」
ポワロも、心から同意するように、うなずいた。
「まったく、まったく。外見から判断すれば、とてもありそうにもないことです。ですが、あらゆる可能性を考慮しなければなりませんからね。死体が倒れていた状態は――どんなふうでした?」
医師は、被害者の倒れていた状況を、注意深く、わたしたちに話して聞かせた。かれの意見によると、かの女がカウンターに背を向けて立って(だから、加害者にも背を向けて立って)いるところを、強く打撃を加えられたものだというのだった。かの女は、カウンターのかげにくず折れてしまったので、不用意に、店へはいって来た人の目には、まったくつかなかったというわけだった。
カー医師に礼をいって、その場をはなれると、ポワロはいった。
「きみは、ヘイスティングズ、これで、すでに、アッシャーの無罪という点に、一歩進んだということがわかるだろう。もし、かれが細君にわめき散らしていて、脅かしていたものだったら、かの女は、カウンターの向こう側から、かれと|向かい合って《ヽヽヽヽヽヽ》いたはずだ。ところが、そうでなくて、かの女は、加害者に|背を向けて《ヽヽヽヽヽ》いた――明らかに、かの女は、|お客《ヽヽ》の注文で、刻み煙草か紙巻煙草を取り出そうとしたわけだ」
わたしは、軽く、ぞっとした。
「まったく気味が悪いね」
ポワロは、重々しく、首を振った。
「哀れな女だ」と、かれは、つぶやくようにいった。
それから、かれは、ちらっと時計を見た。
「ここからオーバートンまでは、そんなに遠くはない、と、思うがね。向こうまで一走りして、死んだ婦人の姪に会ってみようじゃないか?」
「それよりも、まず、凶行現場の店へ行った方がいいだろう?」
「それは、後にしたいんだ。わけがあってね」
それ以上、かれは、わけをいわなかった。しばらくして、わたしたちは、ロンドン街道《かいどう》を、オーバートンに向けて、車を走らせていた。
警部が教えてくれた家は、その村のうちでも一マイルほどロンドンの方に寄った、相当に大きな家だった。
わたしたちが玄関のベルを鳴らすと、髪の毛の黒い、きれいな娘が出て来たが、その目は、つい、いましがたまで泣いていたように、まっ赤《か》だった。
ポワロは、やさしくいった。
「ああ、あなたが、こちらの小間使いの、ミス・メアリー・ドローワーですね?」
「はい、さようでございます。メアリーでございます」
「では、ご主人の方でおさしつかえがなければ、二、三分、お話ができますね。おばさんの、アッシャー夫人のことについてなんですが」
「奥さまは、いま、お留守《るす》でございますの。おはいり下すっても、奥さまは、お気になさらないだろうと存じますの」
かの女は、狭い居間のドアをあけた。わたしたちが、その居間にはいると、ポワロは、窓ぎわの椅子に腰をおろして、鋭く娘の顔を見あげた。
「おばさんのなくなられたことはお聞きになっているでしょうね、むろん?」
娘は、うなずいた。涙がまたもや、その目に浮かんできた。
「けさがた、警察の方がいらっしゃいました。ああ、なんておそろしいことをするんでしょう! かわいそうなおばさん! いままでだって、あんなつらい毎日をすごしてきて、そして、またこんなことになるなんて――ひどすぎますわ」
「警察では、あなたに、アンドーバーへもどるようにとはいわなかったんですね?」
「検屍審問に出なければいけないとおっしゃいましたわ――月曜日に。でも、わたし、行くところがありませんわ、あすこでは――あの店にいられるとも思えませんわ――いまでは――それに、女中が出かけて行ったりして、奥さまに、ご迷惑をおかけしたくはありませんわ」
「あなたは、おばさんが好きだったのでしょう、メアリーさん?」と、ポワロは、やさしくいった。
「ほんとうに好きでしたわ。いつも、わたしに、とてもよくしてくれましたわ、おばさんは。わたし、お母《かあ》さんが死んでから、十一の時でしたけど、ロンドンのおばさんのところへ行きましたの。十六の時から、働きに出たんですけど、休みの日には、きまって、おばさんのところへ行きましたわ。あのドイツ人といっしょにいて、いろいろひどい目にあっていましたわ。『悪魔のじじい』と、口癖のように、あの人のことをいっていましたわ。あの人は、どこへ行っても追っかけて来て、おばさんを安らかにさせてはおきませんでしたわ。海綿のようにお金を吸い取る、乞食《こじき》みたいなけだものですわ」
娘は、激しい口振りで話した。
「おばさんは、法律に訴えてでも、そういう悩みからのがれるという気はなかったんですね?」
「そりゃ、ねえ、夫でしょう、誰だって、夫からは逃げられないんですもの」
娘は、あっさりと、しかし、きっぱりと、いった。
「ねえ、メアリーさん、あの男は、おばさんを脅かしていたんでしょう?」
「ええ、そうですわ。それはそれはおそろしいことばっかり、いっていましたわ。のどをかき切ってやるとか、そんなことばっかりいって。それからまた、悪口雑言をいったり、のろったり――ドイツ語と、英語の両方でね。そんなにされながらも、おばさんは、あの人も結婚した時は、とても立派な人だったというんですの。人間があんなにまでなるかと思うと、ほんとにおそろしいことですわ」
「そうです、まったくですね。でも、そんなふうに、メアリーさん、実際に脅かすのを聞いていたから、こんどの出来事を知っても、それほど、あんたはびっくりしなかったでしょうね?」
「おお、でも、びっくりしましたわ。ねえ、そうですわ。いっとき、いっていらっしゃることがほんとうとは思えませんでしたわ。ただ、ひどいお話だなあとだけ思って、それ以上には、なんにも思いませんでしたわ。それに、おばさんだって、あの人をこわがっていなかったようなんですの。だって、おばさんがあの人に食ってかかると、犬が脚《あし》の間に尻尾《しっぽ》をまいて逃げて行くように、こそこそと逃げて行くのを見たんですもの。あの人の方が、おばさんをこわがっていたともいえますわ」
「それでも、おばさんは、あの人にお金をやっていたんですね」
「そりゃ、夫なんですもの、ね」
「そう、前にも、あなたはそういいましたね」かれは、一分か二分、間をおいてから、またいった。「すると、つまり、あの人は、おばさんを殺さなかったということなんですね」
「おばさんを殺さなかったんですの?」
かの女は、目を丸くして見た。
「そりゃ、わたしがいってることなんです。誰かほかの人間がおばさんを殺したとして……誰か、ほかの人間が殺すというような、心あたりはありませんか、あなたに?」
かの女は、いっそうびっくりしたように、目を丸くして、かれを見つめた。
「ありませんわ。でも、そんなこと、ありそうにもないでしょう?」
「おばさんがおそれていた人間はなかったんですね?」
メアリーは、首を左右に振って、
「おばさんは、世間の人をおそれてなんかいませんでしたわ。誰にでも、ずけずけものをいうし、誰にでも負けてなんかいませんでしたわ」
「誰か、おばさんに恨みを抱いている人間のことを、おばさんから聞いたこともありませんね?」
「いいえ、まったくありませんわ」
「おばさんが匿名の手紙を受けとったこともありませんでしたか?」
「どんな手紙のことをおっしゃっているんですの?」
「発信人の名前のない手紙というんでしょうかな――ただ、ABCとかなんとかいったような署名だけのある手紙ですよ」かれは、じっと娘の顔を見つめた。が、娘の方は、明らかにとほうにくれていた。かの女は、不思議そうな顔つきで、首を左右に振った。
「おばさんは、あなたのほかに親戚《しんせき》がおありですか?」
「いまは、ありませんの。十人きょうだいだったんですけど、育ったのは三人だけでしたわ。おじのトムは、戦争で死にましたし、おじのハリーは、南アメリカへ行ってしまって、それ以来、消息がないんです。それから、母は死んでしまったものですから、もちろん、ですから、わたしだけなんですの」
「おばさんには、貯えがおありでしたか? お金をためておいででしたか?」
「貯蓄銀行に、すこしは持っていましたわ――お葬式の費用に足りるくらいあればいい、と、いつもいっていましたわ。そのほかは、借金をしないで暮らすというだけのことでしたわ――あの老いぼれの悪魔なんかがいるんですもの」
ポワロは、考え深くうなずいた。かれは、いった――おそらく、娘に向かってというよりも、ひとり言といった方がよさそうだった。
「いまのところは、なんにもわからない――方向もわからない――いろいろなことが、もっとはっきりしてくれば――」かれは、立ちあがって、「もし、あなたに用事ができたら、こちらへ手紙を出します」
「ほんとのところを申しあげますと、わたし、おひまをいただこうと思っていますの。田舎は好きじゃないんです。わたしがここにいましたのは、近くにいるのが、おばさんには慰めになると思っていたからなんですの。でも、もう」――と、また、涙をその目に浮かべて――「ここにいなくちゃいけないという理由もありませんものですから、ロンドンへもどろうと思うんですの。娘にとっては、向こうの方が、ずっと楽しいんですもの」
「では、向こうへお出でになったら、住所を知らせていただけると結構ですね。これが、わたしの名刺です」
かれは、名刺をかの女に渡した。かの女は、眉の間に、とほうにくれたような皺を寄せて、それを見て、
「では、あなたは――警察とは関係がおありにならないんですのね?」
「わたしは、私立探偵です」
かの女は、その場に立ったまま、しばらく、ものもいわずに、かれを見つめていた。
やがて、かの女はいった。
「なにか――怪しいことがあるんですか?」
「そうです、お嬢さん。あるんです――なんだか怪しいことがね。いずれ、あなたに手をかしていただけることになるかもしれません」
「わたし――わたし、どんなことでもしますわ――まとものことじゃないんです、おばさんが殺されるなんて」
妙ないい方だった――しかし、深く心を打ついい方だった。
しばらくして、わたしたちは、アンドーバーに向かって車を走らしていた。
六 凶行の現場
惨劇の起こった通りは、表通りからそれたところだった。アッシャー夫人の店は、その中ほどの、右側にあった。
その通りへ曲がると、ポワロは、ちらっと腕時計を見た。それで、わたしは、いままで、凶行の現場へ行くのを、かれがのばしていたわけがわかった。ちょうど、五時半だった。かれは、できるだけ、きのうの情況を再現しようと望んでいたのだ。
ところが、それがかれの意図だったとすれば、それは失敗だった。疑いもなく、いま、その通りの様子は、きのうの夕方の情況とは、まるきり似ても似つかないものだった。あたりには、ごく貧しい階級の家々の間に、小さな商店が何軒か、ところどころに目についた。いつもなら、かなりの人々が――たいていは、貧しい階級の人々がいそがしげに通りを往《ゆ》き交《か》い、舗道や車道では、あっちにもこっちにも、子供たちが遊んでいるのだろうなと、わたしは考えた。
ところが、その時は、一団の人々が立ちどまって、その一軒の家というか、その店を、じろじろと見ていたので、どこだろうと頭をめぐらすこともないほどすぐにわかってしまった。わたしたちの目にしたのは、一人のよその人間が殺された場所を、強烈な興味をもって眺《なが》めている世間一般の人間の一団だった。
近づいてみると、まったくそのとおりだということがわかった。いまは店をしめている、うすぎたない小店の前には、困りきった顔つきの若い巡査が立っていて、「さっさと向こうへ行っちまえ」と、無神経にどなっていた。同僚の手をかりて、人々を追っ払った――かなりの数の人々が、いやいやながらため息をついて、自分自分の平常の仕事に帰って行った。すると、ほとんどすぐに、ほかの人たちがやって来て、かわってその場に立って、殺人が行われた場所を腹いっぱいに眺めるのだった。
ポワロは、群集の中心から、ちょっと離れたところに立ちどまった。わたしたちが立っているところから、ドアに書いた文字がはっきり読みとることができた。ポワロは、小声でそれを繰り返した。
「A・アッシャー。そうだ、ことによると――」
かれは、後をいうのをやめた。
「さあ、中へはいってみよう、ヘイスティングズ」
わたしは、早くはいろうと、待ちかまえていたところだった。
わたしたちは、群集をかきわけて行って、若い巡査に話しかけた。ポワロは、警部からもらっていた身元証明書を取り出して見せた。巡査はうなずいて、ドアの鍵をあけて、わたしたちを中に入れた。わたしたちは、見物人たちの強い好奇心の目の中をはいって行った。
わたしは、身のまわりを見まわした。
うすぎたない、狭い場所だ。すこしばかりの安雑誌が散らばり、きのうの新聞には――一日分のほこりがたまっていた。カウンターのうしろには、天井までとどく棚がならんでいて、刻み煙草や巻煙草の包みが、いっぱいに詰まっている。ペパーミント入りの砂糖菓子や、飴《あめ》菓子のはいっている瓶もあった。ありふれた小さな店で、どこにも何千とあるような店だった。
巡査は、のろのろとしたハンプシャーなまりで、現場の状況を説明して聞かせた。
「そのカウンターのうしろに、へたへたと倒れたようにして、かの女はいました。医師の話では、ぶん殴られるのを知らなかったにちがいないということでした。きっと、どの棚かに手をのばしたところだったにちがいありません」
「手には、なんにも持っていなかったんですね?」
「持っていませんでした。しかし、そばに『プレイヤーズ』の包みが一つ落ちていました」
ポワロはうなずいた。その目は、狭い場所をぐるっと見まわし――目をそそいでいた。
「それで、鉄道案内のあったのは――どこです?」
「ここです」巡査は、カウンターの上の、一点をさした。「アンドーバーのある、そのページをあけて、伏せておいてありました。ロンドン行きの列車を調べていたにちがいないとでもいうようなふうで。そうとすれば、まったくアンドーバーの人間ではなかったということです。しかしまた一方では、もちろん、その鉄道案内は、殺人とは全然関係のない、誰かほかの人間のもので、ただ、ここへ忘れて行っただけのものかもしれません」
「指紋は?」と、わたしは、いってみた。
相手は、首を振って、
「すぐに、この場所を全部調べてみました。なんにもありませんでした」
「カウンターその物の上にもなかったのですか?」と、ポワロがたずねた。
「よく見れば見るほど、多すぎるのです! みんな、いっしょで、ごちゃごちゃになってしまっているのです」
「アッシャーのも、その中にありましたか?」
「まだ、なんともいえません」
ポワロは、うなずいてから、死んだ婦人は、店の奥に住んでいたのか、と、たずねた。
「そうです。奥のドアを通って、おいでになれます。ごいっしょに行けばよろしいのですが、わたしは、ここにいなければなりませんので――」
ポワロは、問題のドアを通ってはいって行った。わたしも、その後について行った。店の奥は、ごくごく狭い居間とでもいうようなもので、台所がついている――こざっぱりと清潔ではあるが、ひどく陰気で、家具もほんのわずかしかなかった。暖炉の上には、数枚の写真が飾ってある。わたしがそばへ寄って見ていると、ポワロも寄って来た。
写真は、全部で三枚あった。一枚は、その日の午後、わたしたちが会った娘の、メアリー・ドローワーの安っぽい肖像だった。かの女は、一番いい着物を着ていることが一見してわかった。そして、こうしたよそ行きの姿勢をした写真では、しばしば表情を台なしにしてしまって、スナップ写真の方がむしろいいと思わせるような、意識しすぎた、ぎごちない微笑を、その顔に浮かべている。
二番目のは、もっと高価な型の写真で――わざとらしく不鮮明にした、白髪の、かなりの年輩の婦人の、複製のものだ。毛皮の襟《えり》が、頸《くび》のまわりに高く立っている。
これは、おそらく、アッシャー夫人に遺産を残してくれたおかげで、かの女が商売をはじめられるようになったという、ミス・ローズのだろうと、わたしは思った。
三番目のは、非常に古いもので、いまでは褪色《たいしょく》して、黄色くなっている。若い男と女とが、いくらか旧式な服装をして、腕を組み合って立っている写真だ。男は、ボタン穴に花をさして、全体の様子に、過去のお祝いごとという感じがある。
「おそらく、結婚式の記念写真だろうね」と、ポワロはいった。「見てみたまえ、ヘイスティングズ、かの女は、かつては美人だったと、わたしがいったろう?」
かれのいうとおりだった。時代おくれの髪型と、おかしな服装のせいで、幾分損をしてはいるが、目鼻立ちのはっきりした容貌《ようぼう》と、元気いっぱいな態度とは、この写真の娘の美しさを間違いなくあらわしている。わたしは、もう一人の人物をよく見た。この軍人らしい態度の、スマートな青年の姿の中に、あのみすぼらしいアッシャーを認めることは、ほとんど不可能だった。
わたしは、あの流し目で見る、酔っぱらいの老人と、弱り切って、苦労にやつれた、死んだ婦人の顔とを思い出した――そして、時というものの無慈悲さに、いささか、ぞっと寒気をおぼえた……
居間からは、二階の二つの部屋に、階段が通じていた。一つの方の部屋は、からっぽで、家具もなかったが、もう一つの部屋は、明らかに、死んだ婦人の寝室だった。警察が取調べをした後、そのままになっていた。ベッドの上には、古い、すり切れた毛布が二枚――一つの引出しには、よくつぎのあたった下着がすこしばかり――もう一つの引出しには、調理法を書いたもの――「緑のオアシス」という題の紙装本――新しい靴下《くつした》が一足――安光りがしていたましい――陶器の飾り物が一対《いっつい》――ひどくこわれた、ドレスデン焼きの羊飼いと、青と黄のぶちの犬と――木釘《きくぎ》にかかっている、黒のレインコートと、毛のジャンパー――こういったものが、故アリス・アッシャーの、この世においての財産だった。
なにか一身上に関係した書類でもあったとしても、警察で持って行ってしまったろう。
「気の毒な女だね」と、ポワロは口の中でつぶやくようにいった。「さあ、ヘイスティングズ、ここには、もうなにもないよ」
わたしたちが再び通りへ出ると、かれは、一、二分、ためらっていたが、やがて、道をわたった。ほとんどアッシャー夫人の店のま向かいに、八百屋《やおや》の店が――店内よりも、たいていの品物が店先に並んでいるといった種類の店があった。
低い声で、ポワロは、わたしにある指示を与えた。それから、かれは、その店へはいって行った。一、二分、待っていてから、わたしは、かれの後から店へはいって行った。かれは、レタスを買おうとして値段の話をしているところだった。わたし自身は、苺《いちご》を一ポンド買った。
ポワロは、相手になっている肥《ふと》ったおかみさんと、元気よく話をしていた。
「お宅のま向かいだったんですね、殺人事件があったというのは? えらいことでしたね! びっくりなすったでしょうな!」
肥ったおかみさんは、いかにも人殺しの話にうんざりしているようだった。きっと、その話で、一日がきりがないような気がしていたのにちがいない。かの女は、いった。
「あのぽかんと見ている人たちも、いっそのこと片づけてくれるといいんですがね。いったい、なにを見るものがあるんでしょうね?」
「ゆうべは、きっと、とても違っていたでしょうね」と、ポワロはいった。「たぶん、あんたは、犯人が店へはいって行くのを見かけたんでしょう――背の高い、ひげをはやした、金髪の男じゃなかったんですか? ロシア人だとかって、聞いたけども」
「なんですって?」女は、きっと目をあげた。「ロシア人がやったんですって?」
「警察が逮捕したとかって聞きましたがね」
「ほんとですか?」女は、興奮して、口が軽くなった。「外国人がね」
「そうですよ。わたしは、あなたがゆうべ、たぶん、その男に気がついたかもしれないと思っていたんですがね?」
「さあ、あんまり他人のことに目を向けているひまがないんですよ。それがほんとのとこですよ。夕方というのは、わたしたちの店のいそがしい時間ですからね。いつでも、仕事をすまして家へ帰る人たちが、大勢通りますからね。背の高い、ひげのある、金髪の人ですって――いいえ、そんなふうの人が、そこらへんにいるのを見たとはいえませんね」
そこで、わたしがきっかけをつかんで、口を入れた。
「失礼ですが」と、わたしは、ポワロに向かっていった。「あなたは、間違った話を聞いていらっしゃるように思いますよ。背の高い、髪の黒い男だと、わたしは聞きましたがね」
肥ったおかみさんに、痩《や》せた亭主と、しわがれ声の小僧までが加わって、なかなかおもしろい議論がはじまった。背の低い、髪の黒い男が四人以上も、目についているかと思うと、しわがれ声の小僧は、背の高い、金髪の男は見たが、「ひげはなかった」と、残念そうにつけ加えるというありさまだった。
やっと、買物がすんで、嘘《うそ》はそのままにして、わたしたちは、その店を離れた。
「それで、いったい、あれは、なんの狙《ねら》いだったのだね、ポワロ?」と、いくぶん咎《とが》めるように、わたしはたずねた。
「そうさ、わたしは、見馴《みな》れない人間が、向かいの店にはいって行くのに気がついたかどうか、あたってみたかったのさ」
「それなら、ただ簡単に聞けなかったのかい――あんな嘘っぱちをいわないで?」
「いいや、|あなた《モナミ》、きみのいうように、『ただ簡単に聞いて』いれば、全然、わたしの質問に返事なんか得られやしないんですよ。きみ自身もイギリス人だが、だのに、率直な質問に対して反撥するイギリス人の気質というものを、よくのみこんでいないようだね。それはもう誰でもきまって、猜疑心《さいぎしん》を起こさして、その当然の結果は、沈黙ということになるんだ。もし、わたしがああいう人たちから、なにか情報を得ようとして聞いたとすれば、きっと、連中は、牡蠣《かき》のように口をとじてしまうだろうよ。ところが、なにか一つ意見を(それも、ちょっと並はずれた、とんでもないことを)いって、そして、きみが反対のことでも、いえば、たちまち、舌がほぐれるんですよ。わたしたちにも、あの特別な時間が『いそがしい時間』だったということはわかっているさ――ということは、誰でも、自分自分のことだけにしか余念のない時間だということも、かなりの人間が舗道を通る時間だということもわかった。われわれの殺人犯人は、うまい時をえらんだというわけだよ、ヘイスティングズ」
かれは、一息ついてから、強い、咎めるような調子でつけ足した。
「きみは、常識というものを、まるきり持っていないらしいね、ヘイスティングズ? わたしは、きみにいったろう、『なにか買物をしたまえ』って――そうしたら、きみは、わざわざ苺なんかえらぶんだからね! ほら、もう袋からしみ出して、きみの上等な服を台なしにしかけているじゃないか」
あっと思ったが、まったくそのとおりだった。
わたしは、あわてて、その苺を一人の子供にやった。その子供は、ひどく仰天するとともに、いささかけげんそうなふうだった。
ポワロも、レタスをおまけしてやったので、子供は、すっかり困ったような顔つきをしていた。
かれは、お説教をつづけた。
「安物の八百屋では――苺なんか買っちゃだめだよ。苺というものは、摘み立てでなければ、きっともう汁《しる》が出ることになっているものなんだ。バナナとか――林檎《りんご》とか――キャベツでもいい――だが、苺は――」
「しょっぱなに思いついたものだから」と、わたしは、いいわけのつもりで、わけを説明した。
「それは、きみの想像力がくだらないということなんだよ」と、ポワロは、手きびしくこたえた。
かれは、舗道に立ちどまった。
アッシャー夫人の家の右側の家も、店も、空《あ》き家《や》になっていた。「貸家」という貼《は》り紙が、どの窓にも出ている。反対側の家には、ちょっとよごれたモスリンのカーテンがかかっていた。
その家の方へ、ポワロは進んで行ったが、ベルがないので、つづけざまに、ノッカーではでにドアを叩いた。
しばらくしてから、鼻をたらした、ひどくきたない子供がドアをあけた。
「こん晩は」と、ポワロがいった。「お母さんは、おうちかい?」
「あい?」と、子供はいった。
その子供は、むっつりと、ひどく怪しそうに、わたしたちを見つめていた。
「お母さんだよ」と、ポワロがいった。
これだけのことが頭へはいるのに、十二秒ほどかかった。やがて、子供は、奥を向いて、「母ちゃん、お客だよ」と、階段の上に向かって、どなってから、うす暗い奥の方へ、ちょっと急ぎ足で引っこんで行った。
きつい顔つきの女が欄干《らんかん》ごしに見おろしてから、階段をおり出した。
「つまらないじゃないか、あんたの時間をむだ使いしたって――」と、かの女がいいかけたのを、ポワロがさえぎった。
かれは、帽子をぬいで、いともていねいにお辞儀をした。
「こん晩は、奥さん。わたしは、『イブニング・フリッカー』の記者なんです。あなたに、ぜひ、五ポンドのお礼を受けとっていただきたいと思うんです。それで、なくなったお隣りのアッシャー夫人のことで、記事になるようなことを聞かしていただきたいんですがね」
腹立ち声を、その唇《くちびる》から引っこめてしまって、髪をなでたり、スカートをぐっと引っぱったりしながら、女は、階段をおりて来た。
「中へおはいりください、どうぞ――左の方へどうぞ。おかけになりません」
その小さな部屋は、大きな、まがい物のジャコビン式の家具で、ひどく足の踏み入れようもないほどだったが、わたしたちは、やっとのことで、その中にはいりこんで、固いソファに腰をおろした。
「ごめんなさいね」と、女はしゃべっていた。「いましがたは、あんなきつい口をきいて、ほんとにすみません。でもね、あなたなんかとてもお信じにならないくらい、片づけなきゃならない厄介事《やっかいごと》があるんですのよ――いろんな連中が売りに来るんですからね、なんだの、かんだの――真空|掃除器《そうじき》だの、靴下だの、香料入りの袋だの、そんなばかばかしい物をね――しかも、どの人もこの人もみんな、ていねいにもっともらしい口をきくんですのよ。名前だってもね、一度聞けば、すっかりおぼえてしまってね。こちらはファウラー夫人で、あちらがどうとかこうとかといいましてね」
抜け目なく、その名前を頭へ入れて、ポワロがいった。
「ところで、ファウラー夫人、お願いしたことを引き受けてくださいますでしょうね」
「知らないんですわ、ほんとに」しかし、誘惑するように五ポンドが、ファウラー夫人の目の前にぶらさがっているのだった。「アッシャー夫人は、ようく知っていましたわ、もちろん、でも、なにか書くってことになると」
いそいで、ポワロは、安心させるようにいった。かの女の方は、なんにも骨を折るようなことはしなくてもいいのだということ。自分の方から、いろいろ事実をかの女の方から聞き出すようにして、会見の記事は、こちらで書きあげるということを話した。
それに力を得て、ファウラー夫人は、思い出したことや、当てずっぽうなことや、噂話《うわさばなし》などを、すすんで話し出した。
アッシャー夫人は、人とはあまり交際をしない人だった。ほんとに|仲がいい《ヽヽヽヽ》というような人もなくて、しかも、心配事が山ほどある、かわいそうな人だということは、誰でも知らない人はなかった。それに、当然、フランツ・アッシャーという男は、ずっと何年も前に、牢屋《ろうや》にぶちこまれていてもいい男だった。といっても、アッシャー夫人が、あの男をおそれていたというようなことはないので――あの女《ひと》が怒《おこ》った時ときたら、ほんとに手に負えぬくらい気が強くなるのだった! いつでも、負けてなんかいないで悪口をいい返したものだった。でも、あんなことになってしまって――いいにしろ悪いにしろ、長くつづけばいいんだけどね。何度も何度も、あの女《ひと》に、ファウラー夫人が、いったものだった。「いつか、あの男があなたをひどい目にあわせますよ。わたしの言葉をようくおぼえていらっしゃい」と。そして、とうとう、やっちまったじゃないの? そして、かの女、ファウラー夫人は、すぐ隣りにいたのに、物音ひとつ聞こえなかったのだ。
しばらく間をおいて、ポワロは、やっと、質問をはさんだ。
アッシャー夫人は、なにか妙な手紙を――きちんとした署名のない――ただABCとかなんとか、そんなサインだけの手紙を、受けとりでもしたようなことがなかったろうか?
残念そうに、ファウラー夫人は、否定的な返事をした。
「あなたのおっしゃっているようなことは、わたしも知っていますわ――匿名の手紙といっていますわね――大部分が、大きな声でいえば、恥ずかしくて顔が赤くなるようなことが、いっぱい書いてある手紙でございましょう。ええ、フランツ・アッシャーがそんなものを書いたことがあるかどうか、ほんとに、わたし知りませんわ。もし、あの男が書いたとしても、アッシャー夫人が、わたしなんかにけっしていうはずがありませんわ。なんですって? 鉄道案内ですって、ABCの? いいえ、そんなもの、一度だって、見たこともありませんわ――それに、そうですとも、アッシャー夫人が、そんなものをもらったことがあったのなら、わたしだって、きっと、そのことを聞いていたにちがいありませんわ。わたし、こんどのいきさつを聞いた時、ほんとにびっくりして、もうちょっとで倒れそうだったんですよ。わたしに知らせて来たのは、娘のエディだったんですの。『母ちゃん、お隣りに、とてもたくさんお巡《まわ》りさんがいるよ』っていうんですの。ほんとに、びっくりさせられちゃいました。それを聞いて、わたしはいったんですよ。『そうだよ。わかるだろう、あの女《ひと》は、ひとりで家の中にいちゃいけなかったのだよ――あの姪がいっしょにいなくちゃいけなかったのさ。酔っぱらいの男なんてものは、がつがつした狼《おおかみ》みたいになるもんだからね。野獣ってものは、あの女《ひと》の亭主の古悪魔と似ったり寄ったりなんだよ』ってね。わたしは、たびたび、あの女《ひと》に注意したんだけどね。とうとう、わたしのいうことがほんとうになっちまった。『あの男は、あんたをひどい目にあわせるわよ』っていったんだのにね。それだのに、あの男は、あの女《ひと》をひどい目にあわせてしまった! 男なんて酔っぱらったらなにをするか、誰にも先のことは、ちゃんとわかりゃしないんですからね。この人殺しが、そのいい証拠ですわ」
かの女は、大きく息を切らして、話をおわった。
「そのアッシャーという男が店にはいるのを見た者は、誰もなかったんでしょう?」と、ポワロが、いった。
ファウラー夫人は、相手をばかにしたように、ふんと鼻をならした。
「あたりまえですよ、あの男が見られるようなことをするものですか」と、かの女はいった。
どうして、アッシャー氏が、人に見られないようにしてはいりこんだかということは、かの女は、説明してはくれなかった。
かの女は、あの家には裏口がないということも、この界隈《かいわい》では、アッシャーの顔を知らない者がないということも認めた。
「でもね、あの男にしたって、そのためにしばり首になりたくはなかったでしょうからね。うまく人の目からかくしちゃったんですよ」
ポワロは、もうしばらく、話が途切れないようにしていたが、ファウラー夫人が知っていることを、一回どころか、何度も何度も繰り返していっているのだということがわかると、この会見をおわりにして、はじめて約束の金額を払った。
「五ポンドは高すぎたね、ポワロ」と、通りに出ると、わたしは、思い切って、そういった。
「あれだけではね、そうだよ」
「きみは、あの女が、話した以上にもっと知っていると思うんだね?」
「きみ、わたしたちは、|なにを質問していいかわからない《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》という、妙な位置におかれているんだよ。わたしたちは、暗やみの中で隠れん坊をしている子供たちみたいなものさ。両手をひろげて、暗中を摸索《もさく》しているのさ。ファウラー夫人は、自分が知っていると|思う《ヽヽ》ことを、そっくり、わたしたちに話したのさ――それも、相当に臆測《おくそく》を入れてね! けれど、将来、あの女の証拠が役に立つことになるかもしれない。わたしが、あの五ポンドを投資したのは、その将来のためなんだよ」
わたしは、その要点がよくわからなかった。しかし、ちょうどその時、わたしたちは、グレン警部に出会った。
七 パートリッジ氏とリデル氏
グレン警部は、ちょっとふさぎこんだ顔色をしていた。かれは、その日の午後じゅうかかって、煙草店へはいったとわかる人々の、完全なリストをつくったらしかった。
「それで、誰《だれ》かはいって行くのを見かけたという者もいなかったんですね?」と、ポワロがたずねた。
「ああ、そうですとも、見かけた者はあったのです。うさん臭い顔色をした、背の高い男が三人――黒い口ひげをはやした、小柄の男が四人――あごひげが二人――肥った男が三人――みんな、見馴れない者ばかりで――そして、みんな、証言を信用するとすれば、悪い人相だというのです! 誰か、マスクをつけて、レボルバーを持ったギャングの一団がいるのを見かけなかったかと、不思議に思うくらいです!」
ポワロは、同情するように、微笑を浮かべた。
「アッシャーという男を見かけたとは、誰もいわないのですね?」
「ええ、誰もいわないのです。そして、それが、あの男の有利な点です。さきほども署長にいったところなんですけど、こいつは、スコットランド・ヤードのやる仕事だと思いますね。地方的な犯罪だとは、わたしには思えないんです」
ポワロは、重々しくいった。
「わたしも、あなたの説に賛成ですね」
警部はいった。
「ねえ、ポワロさん、これは、いやな事件ですね――いやな事件です……どうも、わたしには気に入りませんね……」
わたしたちは、ロンドンに帰る前に、もう二人の人に面会をした。
はじめに会ったのは、ジェームズ・パートリッジ氏なる人物とだった。パートリッジ氏というのは、アッシャー夫人が生きているうちに最後に会ったといわれている人だ。かれは、五時三十分に、かの女のところで買物をしていたのだ。
パートリッジ氏は、痩せた小柄の男で、職業は銀行員だった。鼻眼鏡《はなめがね》をかけた、ひどく愛想の悪い、けちけちした様子の男で、その話しぶりといったらどこからどこまで、おそろしく几帳面《きちょうめん》だった。かれは、自分自身とそっくりの、こざっぱりとした、小さな家に住んでいた。
「ええ、と――ポワロさんですね」と、かれはいいながら、わたしの友人が渡した名刺を、ちらっと見て、「グレン警部から聞いておいでになったのですね? どんなご用でしょうか、ポワロさん?」
「わたしは、パートリッジさん、あなたがアッシャー夫人が生きているうちにお会いになった最後の方だとうかがいましたのでね」
パートリッジ氏は、両手の指先を合わして、怪しい小切手でも見るように、ポワロを見た。
「そこが、非常に議論の余地のある点でしてね、ポワロさん」と、かれはいった。「わたしの後で、たくさんの人がアッシャー夫人から買物をしてるかもしれませんね」
「かりに、そうだとしても、いまのところ、そういう申し出でをしている人はないのです」
パートリッジ氏は、咳《せき》をした。
「人によると、ポワロさん、公共の義務という観念を持っていない人がいましてね」
かれは、眼鏡ごしに、しかつめらしい顔をして、わたしたちを見た。
「まったく、そのとおりですね」と、ポワロは、小声でつぶやくようにいった。「あなたは、ご自分から進んで警察へお出でになったのだそうですね?」
「ええ、そうなんですよ。あのおそろしい事件のことを耳にするとすぐに、申告をした方が役に立つかもしれないと感じたので、それで、すぐに申し出たわけなんです」
「非常に立派なお心掛けです」と、ポワロは、真面目《まじめ》くさっていった。「たぶん、わたしにも、そのお話を繰り返して聞かせていただけますでしょうね」
「よろしいですとも、わたしは、この家へ帰るところだったのですが、ちょうど、五時半に――」
「失礼ですが、どうして、そんなに正確に、時間がおわかりだったのです?」
パートリッジ氏は、話の腰を折られたので、いくらか気を悪くしたような顔色だった。
「教会の鐘が鳴ったからなんです。自分の時計を見て、一分おくれているのに気がつきました。ちょうど、その時が、アッシャー夫人の店へはいる前だったのです」
「いつも、あそこで買物をなさるんですか?」
「まあ、しじゅうといってもいいでしょう。家へ帰る道だものですからね。一週間に一度か二度、ジョン・コットンの甘い方を二オンスずつ、買うのがくせでした」
「アッシャー夫人を、よくご存知だったのですか? あの婦人の境遇とか、過去とかについて、なにか?」
「どんなことも、まるきり知りません。買物以外には、おりおり、お天気のことについて話すだけで、そのほかには、一度も、あの女《ひと》に話したこともありませんでした」
「あの女《ひと》には酔っぱらいの亭主があって、いつも、あの女の生命をおびやかしていたということは、ご存知でしたか?」
「いいえ、あの女のことについては、どんなことも知りません」
「ですけど、あの女の顔は、よくご存知だったわけですね。きのうの夕方、あの女の様子がいつもと違うのに、お気がつきませんでしたか? 心が動揺しているとか、なんか怒っているような様子はありませんでしたか?」
パートリッジ氏は、じっと考えていたが、
「どうも、わたしの気のついたかぎりでは、まったく、いつもと同じようでした」と、かれはいった。
ポワロは、立ちあがって、
「ありがとうございました。パートリッジさん、いろいろ質問にこたえていただいて。ところで、ひょっとすると、お宅に、ABCがございましょうか? ロンドンへ帰る汽車の時間を見たいのですが」
「あなたのうしろの棚《たな》の上にあります」と、パートリッジはいった。
いわれた棚の上に、ABCも、ブラッドショーの鉄道案内も、株式年鑑も、ケリーの人名録も、紳士録も、地方紳士録もならんでいた。
ポワロは、ABCを取り出して、汽車の時間を調べるようなふりをしていた。それから、パートリッジ氏に礼をいって、別れを告げた。
つぎに、わたしたちが会見した人は、アルバート・リデル氏で、ひどく変わった人物だった。アルバート・リデル氏は、線路工夫で、われわれの会話は、明らかに神経質な、リデル氏の細君の、皿をかちゃかちゃといわせる音や、リデル氏の飼い犬のうなり声や、リデル氏自身のむき出しの敵意などを伴奏にして、行われた。
かれは、大きな顔に、小さな、疑い深そうな目をした、大柄な、不恰好《ぶかっこう》な巨人といった男だった。かれは、肉入りパイを、物凄《ものすご》く濃いお茶で流しこみながら、食べているまっ最中だった。かれは、飲んでいるコップの縁から、腹立たしそうに、わたしたちをじっと見つめた。
「いわなくちゃならねえことは、そっくりいっちまったろう?」と、かれは、うなるようにいった。「おれになんの関係があるというんだ、いったい? いまいましい警察の野郎にいったじゃねえか、知ってることは。だのに、また、いまいましい外国人なんかにはき出さなくちゃならねえというのか」
ポワロは、素早く、おもしろがっているような目を、ちらっとわたしの方に向けてから、いった。
「まったく、あなたには同情しますよ。でも、仕方がないでしょう? なにしろ、殺人という問題でしょう? ごく、ごく、慎重にしなければなりませんからね」
「この方の聞きたがってることを話した方がいいよ、バート」と、女が神経質そうにいった。
「いまいましい、手前の口なんかふさいでいろ」と、巨人はわめいた。
「あんたは、自分の方から警察へ出かけて行ったのじゃなかったと、思っていましたがね」と、ポワロは、うまく言葉をはさんだ。
「いったいなんだって、おれの方から、警察へ行かなくちゃいけないんだ? おれの知ったことじゃねえじゃねえか」
「いろいろに意見のわかれる問題ですね」と、ポワロは、冷淡にいった。「人殺しがあった――警察は、誰が店にはいったかということを知りたかったというわけですよ――わたしなら――なんといったらいいか?――そう、あんたが進んで申し出た方が、ずっと無理がなかったろう、と、わたし自身は思いますね」
「おれには、しなけりゃならねえ仕事があるんだ。おれが進んで申し出なかったなんていってもらいたくねえ。わざわざ、おれの仕事の時間のうちに――」
「ところが、事実は、警察ではアッシャー夫人の店へはいって行くのを見られた人間として、あなたの名前があがってきたので、あんたのところへやって来なければならなかったというわけですね。警察は、あんたの申し開きに満足していましたか?」
「どうして、満足しねえんだ?」と、バートは、あらあらしく聞き返した。
ポワロは、ただ肩をすくめただけだった。
「なにをかぎつけようというんだい、お前さん? なにか、おれのためにならねえことをかぎ出した人間は、誰もねえんだろう? 誰だって知ってらあ、誰があの婆さんをやったかぐらい、あの――あの女の亭主じゃねえか」
「ところが、あの男、あの男は、あの町にいなかったのに、あんたはいた人だからね」
「おれに罪をなすりつけようというんだね? ふん、うまくいきっこねえよ。いったい、どんなわけがあって、おれがそんなことをしなけりゃならなかったってんだい? おれが、あの婆さんの血なまぐさい煙草を一鑵《ひとかん》、盗もうとしたと思うってのかい? おれが世間でいう血の好きな殺人狂だって思うのかい? このおれが――?」
かれは、脅《おど》かすように、席から立ちあがった。細君が機先を制するように、いった。
「バート、バート――そんなことをいっちゃいけないよ。バート――そんなことをいうと、みんなが思うじゃないか――」
「気を落ちつけてくださいよ、あんた」と、ポワロがいった。「わたしは、あんたがあの店へ行った話を聞いているだけなんですよ。それを、あんたが拒むというところをみると、わたしには――なんていったらいいか――ちょっとおかしいという気がするんですがね?」
「誰が、おれが拒むといったんだ?」リデル氏は、またもとの席に腰をおろした。「話したって、おれは、かまわねえよ」
「六時に、あんたは、店へはいって行ったんでしたね?」
「そうさ――一、二分すぎていたね、実際のところは。ゴールド・フレークを一箱、買おうと思ってね。おれがドアを押すってえと――」
「しまっていたんですね、それじゃ?」
「そうだよ。ことによると、店はしまっているのかなと、おれは思ったんだ。ところが、しまってねえ。それで、はいって行ったんだが、誰もいねえじゃねえか。カウンターをたたいて、ちょっと待っていた。誰も出て来ねえんで、おれは、また出て来た。それだけよ。後は、あんただって、とっくり考えられるだろう」
「カウンターのかげに倒れている死体は、見なかったんですね?」
「見なかったよ。お前さんだって見なかったろうよ――捜していりゃ別だがね」
「鉄道案内はありましたか?」
「ああ、あったよ――伏せてね。それで、あの婆さんは、あわてて汽車で出かけなけりゃならねえことがあったんで、店をしめ忘れて行ったのかもしれねえ、と、ふっと、おれは思ったんだ」
「ことによると、あんたは、鉄道案内を手にとるとか、カウンターで置き場所を動かすとかしたでしょうね?」
「さわらなかったさ――そんな物に。いまいったことだけしか、おらあ、しなかったよ」
「それで、そこへはいる前に、店から出て行く人間は見なかったんですね?」
「そんなものは、なんにも見なかったね。おれのいいたいのは、なんだって、かってにおれを――」
ポワロは、立ちあがった。
「誰も、あなただときめてやしませんよ――まだ。じゃ、さようなら、あんた」
かれは、ぽかんと口をあけている相手を後にして、その場をはなれた。わたしは、その後につづいた。
通りに出ると、かれは、時計を見た。
「大急ぎで行けば、きみ、七時二分の汽車に乗れるかもしれない。さあ、急いで行こうじゃないか」
八 第二の手紙
「それで?」と、わたしは、熱意をこめてたずねた。
わたしたちは、わたしたちだけで、ほかには誰も乗っていない一等車に腰をおろしていた。汽車は急行で、アンドーバーを離れたばかりのところだった。
「犯罪は」と、ポワロは、「中背《ちゅうぜい》の、髪の赤い、左の目が軽い斜視の男がやったのだね。その男は、右の脚《あし》がほんのすこしびっこで、肩胛骨《けんこうこつ》のすぐ下に痣《あざ》がある」
「ポワロ?」と、わたしは、叫ぶようにいった。
一瞬、わたしは、すっかりだまされてしまった。やがて、おもしろがっている友人の目の光りが、わたしの誤りを悟らせてくれた。
「ポワロ!」と、こんどは、非難するように、わたしは、またいった。
「|あなた《モナミ》、どうしようっていうんです? きみは、じっとわたしの上に、犬のような献身的な目を向けて、シャーロック・ホームズのような意見を、わたしに望んでいるんでしょう! ところが、ほんとうのことをいうと――殺人犯人がどんな男か《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|どこに住んでいるのか《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|どうすれば犯人をつかまえることができるのか《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|わたしには《ヽヽヽヽヽ》、|さっぱりわからない《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》のさ」
「もしも、その男がなにかの手がかりだけでも残していたら」と、わたしは、つぶやくようにいった。
「そう、手がかりね――いつでも、きみの心をひくのは、手がかりだ。ああ、情けないことには、その男は、煙草《タバコ》を吸って、灰を残して行ってくれなかったし、変わった形の釘《くぎ》を打った靴《くつ》をはいて、はいりこんでも来なかった。そうだ――かれは、そんな好意は示しはしないさ。しかし、きみ、すくなくとも、鉄道案内というものがある。あのABCこそ、きみの手がかりじゃないか!」
「それじゃ、きみは、その男が誤って、あれを残して行ったと思うのかい?」
「もちろん、そうは思わない。わざと残して行ったのさ。指紋の工合を見れば、それがわかるからね」
「しかし、あれには、指紋はなかったじゃないか」
「わたしのいうのは、そこなんだよ。ゆうべは、どんな晩だった? 暖かい六月の夜じゃないか。そんな晩に、手袋をはめて歩きまわる男がいるかい? そんな男がいれば、きっと、人の目についたにちがいない。だから、あのABCに指紋がないという以上、念には念を入れて拭きとったものにちがいない。害意のない人間なら、自分の跡を残しているだろうが――罪を犯した人間は、けっして残さないものだ。だから、われわれの殺人犯人は、ある目的があって、あれを残して行ったのだ――だが、それにもかかわらず、あれはなお手がかりなのだ。あのABCは、誰かが、わざわざ買ったものだ――誰かが、わざわざ持って来たものだ――そういう可能性があるわけだ、そこには」
「その方法で、なにかわかると、きみは思うんだね?」
「率直にいって、ヘイスティングズ、わたしは、特別に望みを抱いているわけじゃない。この男、この未知のXなる男は、明らかに、自分の腕を鼻にかけているのだ。かれは、一本道に跡をつけられるような、しるしを残しておくような人間じゃなさそうだよ」
「すると、ほんとうは、あのABCには、まるきり望みが持てないというのだね」
「きみのいう意味ではね」
「どういう意味なら、あるんだね?」
ポワロは、すぐには返事をしなかった。やがて、かれは、ゆっくりといった。
「それに対してのこたえは、イエスだよ。われわれは、いま、未知の人物と直面している。かれは、秘密の中にいて、いつまでも秘密の面をかぶっていようとしている。しかし、事物の本質から考えて、|かれは《ヽヽヽ》、|自分自身を明らかにせずにはいられないのだ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。ある意味では、われわれは、かれについては、なんにも知らない――が、別の意味では、もう、かなりのことを知っているのだ。わたしには、かれの姿がぼんやりと具体化してくるのがわかる――はっきりと、上手《じょうず》に活字体の書ける男――上質の便箋《びんせん》を買う男――そして、自分という人間を、強くあらわしたがっている男だ。わたしには、かれは、子供のころには、誰にも相手にされず、仲間はずれにされて――心の中に、劣等意識を育てあげてきた人間で――不正の意識を抱いて闘《たたか》ってきた男という気がする……その内心の衝動が――自分をはっきりと現わし――自分の上に、他人の注意を向けさせようという衝動が、だんだんに強くなってくるのに、いろいろな事件や、さまざまな環境が――その衝動をつぶしてゆくために――おそらく、いっそう卑屈な感情を蓄積していった人間だという気がする。そして、心の中で、マッチが火をつけたのだ、その火薬を積んだ列車に……」
「そんなことは、みんな、たんなる臆測じゃないか」と、わたしは、反対をした。「実際には、なんの役にもたちゃしないよ」
「きみは、マッチの燃えさしとか、煙草の灰とか、釘を打った靴とか、むしろ、そういった物があればいいと思うのだね! いつでも、きみはそうだ。しかし、すくなくとも、われわれは、自分に向かって、もっと実際的な質問をしてみなくちゃならない。なぜ、ABC鉄道案内があったのか? なぜ、アッシャー夫人が殺されたのか? なぜ、アンドーバーで事件が行われたのか? と」
「あの女の過去は、ごく単純だという気がする」とわたしは、つくづくといった。「あの二人の男との会見も期待にそむいたね。二人とも、われわれがそれまでに知っている以上のことを、なんらいえなかったからね」
「ほんとのことをいうと、わたしは、あの線からは、たいしたことが得られるとは期待してはいなかったのさ。しかし、だからといって、二人の殺人可能な参考人を見のがすわけにはゆかなかったのだよ」
「すると、きみは、ほんとうに――」
「すくなくとも、犯人は、アンドーバーか、その近くに住んでいるという見込みはある。それが、『なぜ、アンドーバーで事件が行われたか?』という、われわれの疑問に対して、一応考えられるこたえだ。ところで、ここに、犯行当日のぬきさしのならぬ時間に、あの店にいたとわかっている男が二人いる。二人のうちのどちらかが犯人である|かもしれない《ヽヽヽヽヽヽ》。そして、二人のうちのどちらかが犯人では|ない《ヽヽ》ということを明らかにするようなものは、まだなにもないのだからね」
「あのおそろしい不恰好な畜生の、リデルだろうね、おそらく」と、わたしは認めた。
「いやいや、リデルは、すぐに放免してもいいと、わたしはいう気がするね。あの男は、いらいらして、どなり散らしたり、一見して落ちつきはないが――」
「しかし、それこそ、確かに――」
「あのABCの手紙を書くような性質とは、まったく正反対のものだよ。自負心と自信とが、われわれの捜さなくちゃならない性格なのさ」
「自分の重要性を振りまわそうという、誰かなんだね?」
「おそらくね。ところが、ある種の人間は、神経質な、控え目な態度のかげに、非常な虚栄心や、おそろしいひとりよがりをかくしているものなんだ」
「きみは、まさか、あの小男のパートリッジ氏について――?」
「あの男の方が、はるかにそのタイプだ。まあそれ以上は、誰にもいえないがね。あの男は、あの手紙を書いた男ならするような行動をしている――すぐに警察に行っているし――自分から出しゃばっているし――自分の立場をおもしろがって味わっているしね」
「ほんとに、そう思うのかい、かれが――?」
「いいや、ヘイスティングズ。わたしとしては、犯人は、アンドーバー以外の土地から来たと思っているのだが、どんな方面の捜査も軽視してはいけない。それに、わたしは、しょっちゅう『かれ』といってはいるが、女が関係しているという可能性だってぬきにするわけにはいかないよ」
「まさか、そんなことはないだろう!」
「襲いかかった手口は、男のものだ、と、わたしも思う。しかし、匿名の手紙というものは、男よりもむしろ女の書くものだからね。そのことは、頭に入れておかなくちゃいけない」
わたしは、しばらく黙っていてから、いった。
「つぎは、どうするんだね?」
「精力家のヘイスティングズだね」と、ポワロはいって、にっこり、わたしに笑顔《えがお》を向けた。
「いや、でも、なにをするんだね?」
「なんにもしないよ」
「なんにもしないって?」わたしの失望は、はっきり、声にあらわれていた。
「わたしが手品師だというんですか? 魔法使いだというんですか? わたしに、なにをさせようというんです?」
胸のうちで、事態を熟考してみた結果、それにこたえるのがむずかしいということが、わたしにもわかった。とはいいながら、わたしは、はっきり、なにか手を打たなければならないし、われわれの目の前でかってなことをさせておいてはならないと、強く感じた。
わたしは、いった。
「ABC鉄道案内もあるし――それに、便箋も、封筒もあるし――」
「もちろん、その線では、あらゆる手を打っている。警察では、その種の捜査には、思いのままに使える機関をにぎっている。だから、そういう線で、なにかが発見されるようなことがあれば、必ず警察では発見するだろうから、それを心配することはないよ」
それで、わたしもまた満足するしかなかった。
その後二、三日の間、妙なことに、ポワロが事件について、進んで論議をする気がないらしいのに、わたしは気がついた。わたしがその問題をもう一度むし返そうとすると、かれは、気短かそうに手を振って、話をそらしてしまうのだった。
内心、残念ながら、わたしは、そういうふうにする、かれの動機がどこにあるのか、探るのをおそれていたのだ。アッシャー夫人殺害事件について、ポワロは、敗北を是認していた。ABCが、かれに挑戦《ちょうせん》し――そして、ABCが勝ったのだ。打ちつづく成功に馴《な》れていた、わたしの友人は、自分の失敗に敏感になっていた――それだけに、問題の論議に、かれは耐えられないほどなのだった。それは、おそらく、非常な大人物の中にある卑小さのしるしであったのだろうが、しかしまた、われわれのうちのもっとも冷静な人間でさえ、成功によって頭がおかしくなりがちなものなのだ。ポワロの場合は、頭のおかしくなる過程が、長年にわたってつづきすぎていたのだ。その結果が、やっとのことで目につくようになったとしても、さほど不思議ではないだろう。
そう感じたので、わたしは、わたしの友人の弱点を尊重して、それ以上、事件に触れないようにした。検屍審問の記事は、新聞で読んだ。記事は、ごく短かいもので、ABCの手紙についても、なんにも載せていなかった。そして、陪審員の評決は、一人または二人以上の、未知の人間による殺害ということになっていた。事件は、紙面でもほとんど目につかなかった。一般受けのするところも、めざましいところもなかった。裏通りでの老婆殺しなどは、もっとぞくぞくするような話題のために、すぐに見落とされてしまった。
実をいうと、事件は、わたしの頭の中からも消えてしまいかけていた。その一半の理由は、なんとしてもポワロの失敗に関係があると思うのが気に入らなかったからだと、わたしは思っていると、突然、七月二十五日になって、事件がよみがえってきたのである。
その週末、わたしはヨークシャーに行っていたので、二、三日、ポワロには会う機会がなかった。わたしが月曜日の午後、帰って来ると、六時の便で、その手紙がとどいた。わたしは、ポワロがその独特の封筒をさっとあけたとたんに、いきなり、鋭く息をしたのをおぼえている。
「来たよ」と、かれはいった。
わたしは、かれを見つめた――なんのことだか、わからずに。
「なにが来たんだい?」
「ABC事件の第二章さ」
一瞬、わたしは、なにをいっているのかわけがわからないまま、かれに目をそそいでいた。事件は、ほんとうに、わたしの記憶から消えてしまっていたのだ。
「読んでみたまえ」と、ポワロはいって、その手紙をわたしにわたした。
前と同じように、その手紙は、上質の便箋に、活字体で書いてあった。
親愛なるポワロ氏よ――さあ、どうですか? 最初のゲームは、わたしの勝ちだ、と、思うのですが。アンドーバー事件は、まったくうまくいったじゃありませんか?
しかし、おもしろい遊びは、ほんのはじまったばかりだ。つぎは、ベクスヒル海岸に、今月二十五日、きみの注意を向けてくれたまえ。
おたがいに、まったく楽しいじゃないか! 草々
A・B・C
「畜生、ポワロ」と、わたしは、叫ぶようにいった。「この悪魔は、また殺人を企てているというのかい?」
「もちろんだ、ヘイスティングズ。ほかにどんなことを、きみは予期していたのだね? アンドーバーの事件は、独立の事件だと思っていたのかい?『これがはじまりだ』と、わたしがいったのをおぼえていないのかい?」
「しかし、おそろしいことじゃないか!」
「そうだ、おそろしいことだ」
「われわれが相手にしているのは、殺人狂じゃないか」
「そうだ」
かれの静かに落ちついた態度は、どんな誇張した雄々《おお》しい態度よりも、はるかに印象的だった。
つぎの日の朝、お歴々の会議が開かれた。サセックスの警察署長、犯罪捜査課の課長、アンドーバーのグレン警部、サセックス警察のカーター警視、ジャップ警部と、クロームという若い警部、それから、有名な精神科医のトンプスン博士などが、一堂に集まった。この手紙の消印は、ハムステッドになっていたが、ポワロの意見で、その事実は、ほとんど重視されなかった。
事件は、十分に検討された。トンプスン博士は、如才《じょさい》のない中年の紳士で、その学識にもかかわらず、職業上の専門語を避けて、よろこんで、平易な日常の言葉を使っていた。
「疑いもなく」と、犯罪捜査課長が口を開いて、「この二通の手紙は、同じ筆蹟です。両方とも、同一の人物が書いたものですね」
「そして、その人物がアンドーバーの殺害事件に関係があるということも、おそらく間違いのないことだと思いますね」
「まったくそうだ。われわれは、いまや、第二の殺人計画を、二十五日――あす――ベクスヒルで遂行するという、明白な予告を受けとったのです。どういう手段をとるべきでしょうか?」
サセックスの警察署長は、部下の警視に目をあてて、
「それで、カーター、どうだね?」
警視は、重々しく、首を左右に振って、
「むずかしいですね、署長。誰が被害者として狙われているかという、最小限度の手がかりもないのですからね。率直にいって、われわれに、どんな手段がとり|うる《ヽヽ》でしょうか?」
「提案」と、ポワロが口の中でいった。
みんなの顔が、かれの方に向いた。
「予定の被害者の名前は、Bの文字ではじまる人だろうと思いますね」
「いくらか、そういうことも考えられますね」と、警視が疑わしげな口振りでいった。
「アルファベットの複合《コンプレックス》ですね」と、トンプスン博士が考え考えいった。
「わたしは、可能性としていい出しただけでして――それ以上ではないのです。こういう考えがわたしの心に浮かんだのは、先月殺されたあの不運な女の店のドアに、はっきりアッシャーという名前が書いてあるのを見た時なんです。ベクスヒルと指定してある手紙を受けとったとたんに、場所と同様に被害者も、アルファベット順に選ばれるのではないかという考えが、一つの可能性として、わたしの心に思い浮かんだのです」
「ありうることですね」と、博士はいった。「反対に、アッシャーという名前は、偶然の一致だったかもしれないので――こんどの被害者は、たとえ、名前は誰でも、また店を持っている老婆かもしれませんね。われわれは、狂人を相手にしているということを忘れちゃいけません。いままでのところ、動機については、相手は、なんらの手がかりも示してはいないのですからね」
「狂人に、動機があるものでしょうか?」と、納得《なっとく》できないような口振りで、警視がたずねた。
「もちろん、ありますよ、きみ。おそろしく論理的だということが、ひどい偏執狂の独特な特徴の一つです。偏執狂は、牧師だとか――医師だとか――煙草屋の老婆とかを殺すことを、自分は神から命じられたものだと信じこんでいるもので――そのかげには、常に、なにか完全に筋の通った理由があるものなんです。ですから、われわれは、アルファベットなどということを早合点しないようにしなければいけません。アンドーバーにつづいて、ベクスヒルと指定しているのも、ほんの偶然の一致にすぎないでしょう」
「すくなくとも、ある程度の警戒だけはできるわけだね、カーター。それから、Bのつくものには、特に小さな商店とか、一人で店番をしている小さな煙草店や新聞の売店にはすべて、見張りをつけてもらいたいね。もちろん、見馴れない人間にはすべて、できるかぎり目を離さないようにしてもらいたい」
警視は、うなり声をあげた。
「学校が休みになって、休暇がはじまっているのにですか? 今週は、あそこには、かなりの人が殺到しているんですがね」
「できることは、やらなければいかん」と、署長は、鋭くいった。
グレン警部が、自分の番だというように、いった。
「アッシャー事件に関係している人間は、わたしが見張ることにします。パートリッジとリデルと、あの二人の参考人に、それから、アッシャー自身はもちろんです。もしも、あの連中が、アンドーバーを離れるような様子をすこしでも見せたら、尾行をさせます」
会議は、それからさらに二、三の提議と、やや散漫な会話があった後、おしまいになった。
「ポワロ」と、川っぷちを歩きながら、わたしはいった。「確かに、この犯罪は予防できるのだろうね?」
かれは、やつれた顔を、わたしに向けて、
「一人の気ちがいじみた行為に対して、人であふれた一つの町の正気が防げるというのかね? どうだろうね、ヘイスティングズ――わたしは、とても心配だね。おぼえているだろう、殺人狂ジャックの、長くつづいたなりゆきを」
「おそろしいことだ」と、わたしはいった。
「狂気というものは、ヘイスティングズ、おそろしいものだ……わたしは心配だ……とても心配だ……」
九 ベクスヒル海岸の殺人
わたしは、いまでも、七月二十五日の朝の目ざめをおぼえている。確かに、七時三十分ごろだったにちがいない。
ポワロがわたしのベッドのそばに立って、静かに、わたしの肩をゆすぶっていた。ちらっと一目、かれの顔を見るなり、わたしは半睡の状態から、いっきに目をさましてしまった。
「どうしたんだ?」と、わたしはたずねながら、すばやく身を起こした。
かれの返事は、ごくあっさりとした調子だったが、おびただしい感情が、かれが吐き出した短かい言葉のかげにかくされていた。
「|起こったよ《ヽヽヽヽヽ》」
「なんだって?」と、わたしは、叫ぶようにいった。「すると――だって、|きょう《ヽヽヽ》が二十五日じゃないか」
「ゆうべ、起こったのだよ――というよりも、けさ早くというべきだよ」
わたしが、ベッドから飛び出して、大急ぎで仕度をすると、かれは、いましがた電話で聞いたばかりのことを、手短かに話して聞かせてくれた。
「若い娘の死体が、ベクスヒルの海岸で発見されたのだ。エリザベス・バーナードという女だとわかった。あるカフェの女給で、最近建ったばかりの小さなバンガローに、両親といっしょに住んでいたということだ。警察医の検証の結果によると、死亡時刻は、十一時三十分から午前一時までということになったそうだ」
「これが、|あの《ヽヽ》犯行だということは確かなんだね?」と、大急ぎで顔に剃刀《かみそり》をあてながら、わたしはたずねた。
「|ベクスヒル行きの列車のところを開いたABC鉄道案内が《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|死体の下から出てきた《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》そうだ」
わたしは、ぞっと身震いした。
「いやな話だね!」
「気をつけることだね、ヘイスティングズ。わたしの部屋で、もう一つ悲劇が起こるなんてごめんだからね!」
わたしは、ちょっとげっそりして、顎《あご》の血を拭きとった。
「われわれの戦闘計画は?」と、わたしはたずねた。
「もうすぐ、車がわれわれを迎えにやって来るはずです。きみのコーヒーは、ここへ持って来てあげますよ。出発を遅《おく》らせるわけにはゆかないからね」
二十分の後には、わたしたちは、速力のはやい警察の車に乗って、テームズ河をわたり、ロンドンの外に向かっていた。
クローム警部がいっしょに乗っていた。この間の会議にも出席していた男で、この事件の担当者だった。
クロームは、ジャップとはすっかりちがったタイプの警官だった。ずっと若い男で、口数のすくない、優等生タイプだ。教養もあり、知識もある男だったが、わたしの好みからいえば、あまりにも自己満足の気味があった。かれは、つぎつぎに起こった幼児殺しの事件で、現在はブロードムアにはいっている犯人を根気よく追いつめて、名声を得たばかりだった。
かれは、確かにこんどの事件を担当するには、うってつけの人物だった。が、すこしばかり、自分でそのことを意識しすぎていると、わたしは思った。ポワロに対するその態度には、いやにもったいぶったところがあった。若い連中が、年長者に対するような――やや自意識過剰な、「パブリック・スクール」式なやり方で、かれに敬意をはらっていた。
「わたしは、トンプスン博士とよくお話いたしました」と、かれはいった。「あの方は、『一連』式とか、『連続』式の殺人事件に、非常に興味を持っていらっしゃいますのです。人間の心理の、特殊な、ゆがめられたタイプの産物だからですね。もちろん、門外漢としては、そういう心理が医学的見地におもしろいと思うものを提示するような、細部の点を十分に理解することはできませんですがね」かれは、そこで咳をした。「事実――わたしがこの前に扱った事件で――お読みになったかどうか存じませんが――メーベル・ホーマー事件といって、マスウェル・ヒルの女学生の事件でございますがね――あの事件の場合、あのカッパーという男は、異常な奴でした。あの犯行を、かれがやったのだときめつけるのは、驚くほどむずかしいことでした――なにしろ、三人目の犯行でしたからね! あなたや、わたしと同じように、まったく正気としか見えないのです。しかし、いろいろのテストがありまして――誘導|訊問《じんもん》というやつでございますね――もちろん、まったくモダーンなやり方で、あなたがご活躍なすったころのようなものではございません。いったん、泥《どろ》を吐くように誘導してしまいさえすれば、もうこっちのものです! こっちがすっかり知っているのだと思うと、もうまいってしまいますからね。相手は、四方八方、泥を吐き出しますよ」
「わたしの時代でも、そういうことはよくあったものです」と、ポワロはいった。
クローム警部は、かれに目をあてていたが、やがて、話し好きの人間のように、ぼそぼそと口の中でいった。
「ほう、そうですか?」
しばらくの間、おたがいに黙っていた。ニュー・クロス駅をすぎたころ、クロームがこういった。
「なにかこの事件について、おたずねになりたいことがございましたら、どうぞおっしゃってください」
「死んだ娘のことはおわかりになっていないでしょうね?」
「年齢は、二十三歳で、『ジンジャー・キャット』というカフェで、給仕をしていまして――」
「いや、そういうことじゃなく。どうでしょう――その娘さんは、美人でしたか?」
「そういうことについては、なにも報告をうけておりませんのですが」と、クローム警部は、ちょっとまいったという調子で、こういったが、その物腰は、「まったく――外国人なんて! みんな、こうさ!」といっていた。
かすかにおもしろがっているような色が、ポワロの目に浮かんだ。
「そういうことは、あなたには重要だとは思えないらしいですね? ところが、一人の女にとっては、それは、第一に重要なことですよ。時とすると、美醜が女の運命を決定することさえあるのですからね!」
クローム警部は、すっかり黙りこくっていた。
「はあ、そうですか?」と、ていねいに、かれはたずねた。
また沈黙が来た。
その沈黙は、セブンオークの近くに来て、ポワロがまた口をきるまで、つづいた。
「ひょっとして、その娘さんが、どういうふうに、それから、なんで首をしめられたか、報告を受けておいででしょうか?」
クローム警部は、手短かにこたえた。
「かの女自身のベルトでです――太い、編んだものだ、と、いうことでした」
ポワロの目が、とても大きく開いた。
「ははあ」と、かれはいった。「とうとう、非常に明確な情報が一つ、手にはいったわけですね。なんかの手がかりにはなりますね?」
「わたしは、まだ、見ていないのです」と、クローム警部は、ひややかにいった。
わたしは、この男の用心深さと、想像力のなさとに、いらいらしてきた。
「それは、十分に犯人の証拠になるじゃありませんか」と、わたしはいった。「娘のベルトなんですからね。犯人の精神状態の、特殊な野獣性をあらわしているじゃありませんか」
ポワロは、底の知れないような目を、ちらっと、わたしに向けた。うわべには、おもしろがっているような、そのくせ、いらいらした色が浮かんでいた。わたしは、たぶん、警部の前で、あまりしゃべりすぎるなという警告だな、と、思った。
わたしは、また黙りこんでしまった。
ベクスヒルでは、カーター警視が、わたしたちを迎えてくれた。かれといっしょに、ケルセイという、快活な顔つきの、頭のきれそうな、若い警部がいた。かれは、クロームといっしょに事件を担当するために派遣されて来たということだった。
「きみは、きみ自身で捜査をしたいだろう、クローム」と、警視はいった。「だから、事件の主要な点をいっておくから、後は、大いにやってくれたまえ」
「ありがとうございます」と、クロームはいった。
「娘の両親には、報告をしておいた」と、警視はいった。「二人には、大変なショックだった。むろん、すこし元気を回復してから訊問をしようと思って、そのままにしておいた。だから、きみは、第一歩からはじめられるというものだ」
「ほかに、家族はあるんでしょう――ね?」と、ポワロがたずねた。
「女きょうだいが一人――ロンドンでタイピストをしています。それにも知らせておきました。それから、若い男が一人――実際をいうと、かの女は、ゆうべ、その男といっしょに外出していたらしい、と、わたしはにらんだのです」
「ABC鉄道案内からは、なにかわかりましたでしょうか?」と、クロームがたずねた。
「そこにある」と、警視は、顎でテーブルの方をさした。「指紋はない。ベクスヒルのページがあけてあった。新しいだろうね――どうも、あまりあけた様子がないらしいから。どっか、この辺で買ったものではないね。売っていそうな文房具店はみんな、あたってみたのだが」
「死体を見つけたのは、誰でしょうか?」
「新鮮な空気を吸いに来る、早起きの連中の一人の、老人の大佐だ。ジェローム大佐だ。六時ごろに、犬を連れて、家を出かけた。海岸にそってクーデンの方に行って、それから、砂浜へおりた。犬がなにかをかぎつけて、飛んで行ってしまった。大佐が呼んでも、犬はもどって来ない。大佐は、それを見て、なにか変わったことがあるなと思ったんだね。行って、見たというのだ。とても正しいふるまいだ。娘には、全然、手を触れずに、すぐに、警察へ電話で知らしたのだ」
「それで、死亡時刻は、昨夜の真夜中ごろということでしたね?」
「十二時から一時にかけての間で――これは、かなり正確だ。われわれの人殺しジョーカーは、言責を重んずる男だ。二十五日といったら、間違いなく二十五日だ――たとえ、ほんの数分のちがいだったとしてもね」
クロームは、うなずいた。
「そうですね。確かに、それが奴の気質ですね。ほかには、なにもありませんでしょうね? なにか参考になることを目撃した者はないのでしょうね?」
「いままでのところはないね。しかし、まだ早すぎるということもあるからね。白い服を着た娘が、ゆうべ、男と歩いているのを見たという連中が、すぐに、出て来るだろう。ゆうべは、若い男と歩いていた白服の娘は、四、五百人もいたろうからね。ちょっと悪くない楽しみだね」
「では、そろそろ出かけた方がよろしいでしょうね」と、クロームがいった。「カフェもありますし、娘の家もありますから。両方とも行った方がいいでしょうね。ケルセイもいっしょに行くだろう」
「それで、ポワロさんは?」と、警視がたずねた。
「ごいっしょにまいりましょう」と、ポワロはクロームにいって、ちょっと頭を下げた。
クロームは、ほんのすこし困ったような顔をしたような気がした。それまで、ポワロに会ったことのないケルセイは、無作法に、にやにやっと笑いを浮かべた。
どうも、わたしの友だちにはじめて会った世間の人たちが、とびきりのお笑い草のように考えがちなのは、まことに遺憾《いかん》なことだ。
「娘が絞め殺されたそのベルトは、どうですか?」と、クロームがたずねた。「ポワロさんは、それを貴重な手がかりだと思っていらっしゃるらしいんですね。ごらんになりたいんじゃないでしょうか」
「その必要はありませんね」と、すぐに、ポワロはいった。「きみは、誤解していらっしゃるようですね」
「あれは、なんにもなりませんよ」と、カーターがいった。「皮のベルトじゃないんです――皮だったら、指紋も残っていたかもしれませんがね。太い、絹編みでしてね――首を絞めるのにはお誂《あつら》え向きの物です」
わたしは、思わず身ぶるいした。
「それでは」と、クロームがいった。「出かけましょう」
わたしたちは、出発した。
最初に、「ジンジャー・キャット」へ行った。海岸通りにある、ごくありふれたタイプの、小さな喫茶室だ。オレンジ色の格子縞《こうしじま》のテーブル・クロースのかかった、小さなテーブルが数脚に、同じオレンジ色のクッションをおいた、ひどくすわり心地《ごこち》のよくなさそうな籠細工《かございく》の椅子《いす》が並べてあった。とくに、朝のコーヒーとか、五種のお茶(デボンシャー風、農家風、果汁《かじゅう》入り、カールトン・クラブ風、砂糖なし)とか、それから、かき卵とか、えびとか、マカロニ・グラタンとかいった婦人向きの軽い食事とかが専門の、そういった店だった。
ちょうど、朝のコーヒーのお客がはいっている最中だったので、女主人は、大急ぎでわたしたちを、おそろしく取り散らかした奥の私室に案内した。
「ミス――ええと――メリオンですね?」と、クロームがたずねた。
ミス・メリオンは、かん高い、困りきった良家の婦人のような声で泣き言をいった。
「わたくしでございます。ほんとうに困ったことでございますわ。とても困ってしまいましたわ。どんなに、わたくしどもの商売にさわるか、ほんとに、わたくしは考えもつきませんわ!」
ミス・メリオンは、薄いオレンジ色の髪の毛の、四十ぐらいの、ひどく痩せた女だった。(まったく、かの女こそ、驚くばかり生薑色《ジンジャー》の猫《キャット》にそっくりだった)かの女は、いやに形式張った衣裳の、にぎやかな襟飾《えりかざ》りや、ひだ飾りを、せかせかといじりまわしていた。
「人気《にんき》が出ますよ」と、ケルセイ警部が元気づけるように、いった。「まあ、いまにわかりますよ! すぐには、お茶が出し切れないくらいになりますよ!」
「いやになりますわ」と、ミス・メリオンはいった。「ほんとに、やりきれませんわ。人間というものが、つくづく、いやになりますわ」
ところが、そういう口の下から、かの女の目は、きらきらと光っている。
「死んだ娘のことについて、なにかお話し願えませんかね、ミス・メリオン?」
「なんにも」と、ミス・メリオンは、きっぱりといった。「ほんとに、なんにもありませんのよ!」
「どれくらい、ここで働いていたんです?」
「これで、二年目の夏ですわ」
「あの娘には、満足しておいででしたか?」
「いい給仕でしたわ――活溌で、親切で」
「美人だったのでしょうね?」と、ポワロがたずねた。
こんどは、ミス・メリオンが「まあ、外国人というものは、こうなんだから」といった目つきを、かれに向けた。
「きれいな、清潔な感じの娘でしたわ」と、かの女は、よそよそしくいった。
「ゆうべは、何時ごろ、番をおわって出かけました?」と、クロームがたずねた。
「八時でした。うちでは、八時に店をしめるんですの。夕食は、出さないんです。ご注文がないもんですからね。かき卵とお茶(そう聞いたとたん、ポワロは、身ぶるいした)を召しあがる方が、七時か、時によると、もうすこし遅くいらっしゃいますけど、いそがしいのは、六時半までですわ」
「あの娘は、ゆうべ、なにをしてすごすつもりか、あなたにいいませんでしたか?」
「いいませんでしたとも」と、ミス・メリオンは、力を入れていった。「そんなことをいう間柄《あいだがら》じゃないんですもの」
「かの女を訪ねて来たとか、呼び出しに来た者はありませんでしたか? なんか、そういったことは?」
「いいえ」
「いつもと変ったところはありませんでしたか? 興奮しているとか、しょげこんでいたとか、そんなことはありませんでしたか?」
「ほんとになんとも申しあげられませんのよ」と、ミス・メリオンは、そっけなくいった。
「給仕の女の人は、何人使っておいでです?」
「ふだんは二人ですけど、七月の二十日から八月の末までは、臨時を二人おきますの」
「しかし、エリザベス・バーナードは、臨時の方じゃなかったんでしょう?」
「ミス・バーナードは、常雇いの方です」
「もう一人の方というのは?」
「ミス・ヒグリーですか? あの娘は、とてもいい娘ですわ」
「その娘さんと、ミス・バーナードとは、仲はよかったんですか?」
「ほんとに、なんとも申しあげられませんわ」
「その娘さんに会って、話ができるといいんですがね」
「いまですか?」
「もし、おさしつかえなければ」
「では、こちらへよこしましょう」といいながら、ミス・メリオンは立ちあがった。「できるだけ早くすませてくださいましね。ちょうど朝のコーヒーで、いそがしいさかりだものですから」
猫《キャット》のような、生薑《ジンジャー》のようなミス・メリオンは、部屋を出て行った。
「なかなか上品ですな」と、ケルセイ警部はそういって、あの婦人の気取った口調《くちょう》をまねて、「|ほんとに《ヽヽヽヽ》、|なんとも申しあげられませんわ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》」
と、その時、髪の毛の黒い、ばら色の頬《ほお》の、ぽっちゃりとした娘が、黒味がちな目を興味でぎょろぎょろさせながら、ちょっと息を切らして、飛びこんで来た。
「ミス・メリオンにいわれて、来ました」と、娘は、息を切らしていった。
「ミス・ヒグリーですね?」
「はい、わたしです」
「エリザベス・バーナードを知っていましたね?」
「ええ、そうですわ、よくベッティを知ってましたわ。おそろしいわねえ? ほんとに、おそろしいわ! とても、ほんとだとは、あたしには思えないわ!『ねえ、みんな、とてもほんとうとは思えないわね』って、あたし、いったのよ。ベッティ! そうよ、ベッティ・バーナードよ。ずっといっしょにいたベッティ・バーナードが殺されたなんて!『とてもじゃないけど、信じられないわ』って、あたし、いったのよ。五へんも六ぺんも、あたし、自分をつねってみたのよ、夢を見ているんじゃないかと思って。ベッティが殺された……ねえ――そう、わかるでしょう――とても、ほんとうとは思えないわ」
「あんたは、死んだ人を、よく知っていたんですね?」と、クロームがたずねた。
「そうよ、あの人、あたしよりずっと長く、ここで働いていたわ。あたしは、この三月に来たばかりなの。あの人は、去年からいたのよ。どっちかといえば、地味な方だったわ、あたしのいう意味がわかるかしら。むやみに、笑ったり、ふざけたりするような人じゃなかったわ。といって、芯《しん》からおとなしいというのじゃないのよ――自分の中に、おもしろいことや、そう、そんなことを、たっぷり持っていたわ――でも、外には出さなかったわ――そうよ、あの人は、おとなしい人だったともいえるし、おとなしくない人でもあったわ。あたしのいう意味がわかるかしら」
クローム警部は、おそろしく辛抱強かったと、いっていいだろう。証人として、このはち切れそうに健康な、ミス・ヒグリーは、しつこく、気が狂いそうになる相手だった。なんでもかんでもいうたびに、繰り返すし、五へんも六ぺんも文句だくさんにいうのだった。が、その正味ときたら、きわめて貧弱だった。
かの女は、死んだ娘とは親密な間柄ではなかったのだ。エリザベス・バーナードは、ミス・ヒグリーよりも一段上だと、自分のことを思っていたらしい。かの女は、仕事をしている時間中は、みんなと仲よくしていた。が、そのほかの時は、娘たちは、あまり、かの女と会いもしなかった。エリザベス・バーナードには、一人、「友だち」があって――駅の近くの、コート・アンド・ブランスキルという、不動産紹介所で働いていた。いや、コート氏でも、ブランスキル氏でもなく、そこの事務員だった。かの女は、その男の名前を知らなかった。しかし、顔だけは、よく知っていた。美貌《びぼう》で――そう、非常な美貌で、いつも、きちんと整った服装をしていた。明らかに、ミス・ヒグリーの胸のうちには、嫉妬《しっと》の炎らしいものが燃えていた。
結局、要約すると、こういうことだった。エリザベス・バーナードは、夜はどうするかなどということを、カフェの誰にでも打ち明けるようなことはしなかった。が、ミス・ヒグリーの意見では、かの女は、その「友だち」に会いに行っていたというのだった。かの女は、「新しい型の襟の裁断の、とっても、すごくしゃれた」作り立ての、白いドレスを着ていた、というのだった。
わたしたちは、ほかの二人の娘たちにも、それぞれ会って話を聞いてみたが、それ以上の結果は得られなかった。ベッティ・バーナードは、かの女のもくろみなどは、なんにもいいもしなかったし、問題の夜の間じゅう、ベクスヒルで、かの女を見かけた者も、誰一人いなかった。
十 バーナードの家族
エリザベス・バーナードの両親は、小さなバンガローに住んでいた。町のはずれに、投機的な建築会社が、最近、五十戸かそこら建てた建物の一つだ。会社の名は、ランダドノーというのだった。
バーナード氏は、五十五ぐらいの、がっしりした体《からだ》つきの、うろたえたような顔つきの男だったが、わたしたちが近づいて行くのに気がついていたとみえて、戸口に立って待っていた。
「どうぞ、おはいりください、みなさん」と、かれはいった。
ケルセイ警部が、まず口をきった。
「こちらが、|ロンドン警視庁《スコットランド・ヤード》のクローム警部です」と、かれはいった。「こんどの事件で、わたしたちの応援においでになったのです」
「スコットランド・ヤードで?」と、たのもしそうに、バーナード氏がいった。「それは、ありがたい。この人殺しの悪漢は、ぜひともつかまえていただかなければなりません。かわいそうな、わたしの娘――」かれの顔は、急にこみあげてきた悲しみで、ゆがんでしまった。
「それから、こちらは、エルキュール・ポワロさんで、やはり、ロンドンからおいでになったので、それから、ええと――」
「ヘイスティングズ大尉です」と、ポワロがいった。
「よくいらっしゃいました、みなさん」と、バーナード氏は、機械的にいった。「さあ、どうぞ中へおはいりください。かわいそうな家内がお会いできますかどうかと思いますが。すっかり弱りきっておりますので、家内は」
とはいっても、わたしたちがバンガローの居間に落ちつくと、バーナード夫人が姿をあらわした。確かに、いままで、ひどく泣いていたらしく、目はまっ赤で、大きなショックを受けた人に見かけるような、よろよろした足取りで歩みよって来た。
「ああ、お母さん、そりゃ、よかった」と、バーナード氏はいった。「もう、大丈夫なんだね――え?」
かれは、かの女の肩を軽くたたいて、椅子にかけさせた。
「警視さんには、大変ご親切にしていただきました」と、バーナード氏はいった。「わたくしどもに、あの知らせをお知らせくださった後で、最初のショックがすぎるまで、なんにも聞かずにおくとおっしゃってくだすって」
「あんまりみじめすぎて。ああ、ほんとに、むごすぎますわ」と、いまにも涙があふれそうに、バーナード夫人は、泣き声でいった。「こんなむごい話って、これまで聞いたこともありませんわ」
かの女の声には、かすかに、単調に歌をうたうような抑揚があったので、ほんのしばらくの間、わたしは、外国人かなと思っていたのだが、ふっと、表札の名前を思い出すのといっしょに、かの女の話の中に、「ありましぇん」という発音を聞いて、間違いなくウェールズ生まれの人だということに気がついた。
「まったくご傷心のことでしょう、奥さん」と、クローム警部はいった。「心からご同情申しあげますが、できるだけ速《すみや》かに仕事にかかれるように、すべての事実を知らなくてはなりませんのです」
「ごもっともです、まったく」と、バーナード氏はいって、そのとおりといわんばかりにうなずいた。
「お嬢さんは、二十三でしたね。ここに、ごいっしょに住んでいて、カフェ『ジンジャー・キャット』に勤めておいでになった、というわけですね?」
「そうです」
「ここは、最近おいでになったばかりでしたね? 以前は、どちらにお住まいでした?」
「ケニントンで、金物屋をやっておりましたが、二年前に店をしめて引っこみました。いつも、海の近くに住みたいと思っておりましたので」
「お嬢さんは、お二人でしたね?」
「はい、姉娘は、ロンドン市内の会社に勤めております」
「ゆうべ、お嬢さんが帰って来ないので、心配なさいませんでしたか?」
「わたくしたち二人とも、あの子が帰らなかったのを知らなかったのでございます」と、涙をいっぱいためて、バーナード夫人がいった。「父さんも、わたくしも、いつも早く休んでしまいますんです。九時になると、休むんです。わたくしたち、ベッティが家へ帰らなかったなんて、ちっとも知らなかったんでございます。すると、警察の方がお見えになりまして、そして――そして――」
かの女は、泣きくずれてしまった。
「お嬢さんは、いつも――ええと――遅く家へお帰りでしたか?」
「当節の娘のことは、よくご存じでございましょう、警部さん」と、バーナードはいった。「自由、自由ですからね、みんな。ことに、こういう夏の夜なんかには、急いでなんか家へ帰るものではございません。やっぱりベッティなども、十一時にならなければ帰らないのが常でございました」
「どういうふうにして、家へはいっておいでになっていました? ドアをあけておいたのですか?」
「マットの下に、鍵《かぎ》を入れておきます――いつも、そうしておきましたので」
「お嬢さんが婚約をしていたという噂《うわさ》があるように、聞いていますが?」
「当節では、そういう形式張ったことはしなくなりましたものですから」とバーナード氏はいった。
「ドナルド・フレイザーというのが、その人の名前でして、わたくしは、あの人が気に入っていました。もう非常に、気に入っていました」と、バーナード夫人はいった。「かわいそうな人。あの人にとっても、大変なことでしょう――この知らせは。もう聞いたでしょうかしら?」
「コート・アンド・ブランスキルに勤めているということでしたね?」
「ええ、不動産の周旋会社ですの」
「かれはお嬢さんとは、お嬢さんの勤めがおわってから、いつも夜、会うことになっていたのですか?」
「毎晩というわけではないのです。一週に、一回か二回というところでしょう」
「ゆうべは、お嬢さんがかれと会うことになっていたかどうか、ご存じでしょうか?」
「あの子は、なんともいいませんでした。なにをするつもりだとか、どこへ行くつもりだとかってことは、ベッティは、けっしていいませんでした。でも、いい娘でした、ベッティは。ああ、ほんとに信じられない――」
バーナード夫人は、またしくしくと泣き出した。
「元気を出しなさい、しっかりするんだよ、お母さん」と、かの女の夫ははげました。「どうしても、見きわめなくちゃならないんだから、この事件の真相というものは……」
「間違いありませんとも、ドナルドがそんな――そんな――」と、バーナード夫人は泣きじゃくった。
「もうちょっとだから、しっかりおし」と、バーナード氏は繰り返していった。
かれは、二人の警部の方を向いて、
「なんとかしてお力ぞえができるといいんですが――でも、率直なところ、わたしは、なんにも――こんなことをした卑劣漢のことで、あなた方のお役に立つようなことを、なんにも知らないのです。ベッティは、ほんとに陽気な、しあわせな娘で――立派な青年といっしょに、あの子は――そう、わたしどもの若いころには、散歩に行くといったものでしたが。どんな奴がなんのために、あの子を殺すなんてことをしたのか、わたしは、ただ胸がはりさけるばかりで――まるで、正気のわざとは思えません」
「まあ、それが一番、真実に近いでしょうね、バーナードさん」と、クロームはいった。「ところで、これはぜひお願いしたいのですが――ちょっとお嬢さんの部屋を拝見したいと思うんです。なにか――手紙とか――日記などというものが、あるかもしれないと思いまして」
「さあさあ、どうぞごらんください」と、バーナード氏は立ちあがりながら、いった。
かれは、先に立って案内した。クロームが、その後に、それから、ポワロ、ケルセイとつづき、わたしがしんがりをうけたまわった。
わたしがちょっと立ちどまって、靴の紐《ひも》をしめなおしていると、タクシーが一台、表にとまって、一人の娘が飛びおりた。かの女は、運転手に金を払うと、小さなスーツ・ケースをさげて、急ぎ足に、この家へ来る小道をやって来た。ドアをあけて中へはいったとたん、わたしを見て、かの女は、ぴたっと立ちどまった。
かの女のその姿勢には、なにか、わたしの好奇心をそそるものがあった。
「どなたですの?」と、かの女がいった。
わたしは、二、三歩、その方へ歩み寄った。が、なんと返事をしていいか、まごまごしてしまった。わたしの名前をいったものだろうか? それとも、警察の連中といっしょに来ているのだといった方がいいだろうか? ところが、娘は、わたしに、どうきめる余裕も与えなかった。
「ああ、そうなの」と、かの女は、うなずいて、「わかったわ」
かの女は、かぶっていた白いウールの、小さな縁なし帽子をぬぐと、それを床《ゆか》の上にほうり出した。その時、かの女がちょっと向きを変えたために、光りがあたるようになったので、ずっとよく、かの女が見えるようになった。
わたしの第一印象は、子供のころ、わたしの女きょうだいたちがよくもてあそんでいた、オランダ人形を見ているという感じだった。髪は、まっ黒で、少年のような短かい断髪にして、額に、前髪が垂れている。頬骨が高く、全体の体つきが、妙に近代的に角張っていたが、それが、なんとなく魅力的でなくはなかった。かの女は、美貌というのではなかった――むしろ、平凡だった――が、どことなくはげしい、まったく、かの女を無視することなどできないような人物にしている強烈なものがあった。
「ミス・バーナードですね?」と、わたしはたずねた。
「あたし、ミーガン・バーナードです。警察の方でしょう?」
「ええ、まあ」と、わたしは、「そのとおりですともいえないのですが――」
かの女は、わたしのいうことをさえぎって、
「あたし、なにも、あなたに申しあげることはないと思うんですの。あたしの妹は、快活な、いい娘で、男の友だちなんかいませんでしたしね。ごめんなさい」
かの女は、そういってしまうと、ちょっと声をたてて笑ってから、いどむように、わたしを見つめた。
「こういういい方がいいんでしょう?」と、かの女はいった。
「わたしは、新聞記者じゃありませんよ、そう思っていらっしゃるらしいけど」
「じゃあ、あなたはなんなの?」かの女は、あたりを見まわして、「母さんや父さんは、どこなの?」
「お父さんは、警察の人たちを案内して、妹さんの寝室にいます。お母さんもそこにおいでです。とても気が転倒しておいでで」
かの女は、決心したように、
「こちらへいらしてちょうだい」といった。
かの女は、ドアをあけて、通りぬけた。後につづいて行くと、そこは、狭いが、小ぎれいな台所だった。
わたしは、うしろのドアをしめようとした――が、思いがけない手ごたえがあった。つぎの瞬間、ポワロがそっと部屋の中へすべりこんで来て、後のドアをしめた。
「マドモアゼル・バーナードですね?」と、かれはいいながら、急いで会釈《えしゃく》をした。
「こちらは、エルキュール・ポワロさんです」と、わたしはいった。
ミーガン・バーナードは、素早く、人を品定めするような目を、ちらっと、かれに向けた。
「お噂は、うかがっていましたわ」と、かの女はいった。「流行《はや》りっ子の私立探偵でいらっしゃいましょう?」
「あまり気のきいたいい方じゃありません――が、それで、結構です」と、ポワロはいった。
娘は、台所のテーブルのはしに、腰をおろした。手提《てさ》げをさぐって煙草を取り出すと、唇にはさんで火をつけた。それから、二息ほど煙を吐き出しながら、いった。
「でもね、なんだって、エルキュール・ポワロさんのような方が、わたしたちのような、こんな取るに足らない犯罪に動いていらっしゃるのか、あたしにはわかりませんわ」
「マドモアゼル」と、ポワロがいった。「あなたのおわかりにならないことや、わたしのわからないことで、おそらく、一冊の本になるでしょう。ですが、そういうことは、実際には重要なことじゃありません。実際に重要なことは、そうやすやすとは発見できない、なにかなんです」
「それは、なんですの?」
「死というものは、マドモアゼル、不幸なことに、偏見をつくりあげるものなのです。死んでしまった人のためになるようにという偏見です。わたしは、ついいましがた、あなたが、わたしの友人のヘイスティングズにおっしゃっているのを聞きました。『快活な、いい娘で、男の友だちなんかいませんでした』とね。あなたは、新聞というものを冷笑して、そうおっしゃったでしょう。そして、それは、確かにほんとうのことです――若い娘が死ぬと、いわれるのは、こういうたちのことです。かの女は快活だった。かの女は幸福だった。やさしい性質だった。この世に、気苦労ひとつなかった。気が進まないような知り合いなんか一人もなかった。そこにはいつも、死者に対する偉大な慈善事業があります。いまこの瞬間に、わたしがなにを望んでいるか、おわかりですか? わたしは、エリザベス・バーナードを知っていて、|しかし《ヽヽヽ》、|かの女が死んだことを知らないでいる人を見つけたいのです《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》! そうすれば、おそらく、わたしの役に立つことが聞き出せると思うのです――つまり、真実をです」
ミーガン・バーナードは、しばらくの間、ものもいわずに、かれを見つめて、煙草を吹かしていた。それから、とうとう、口をきったが、その言葉は、わたしをぎくりとさせた。
「ベッティときたら」と、かの女はいった。「まったく手のつけられないばかでしたわ!」
十一 ミーガン・バーナード
ミーガン・バーナードの言葉が、わたしをぎくりとさせたといったが、言葉そのものというより、その言葉を口から出した時の、歯切れのいい、事務的な調子が、わたしをぎくりとさせたのだった。
けれど、ポワロは、ただ重々しく頭を下げただけだった。
「ありがたい」と、かれはいった。「頭のいい方ですね、あなたは、マドモアゼル」
ミーガン・バーナードは、あいかわらず、同じような偏見のない調子で、いった。
「あたしは、とてもベッティが好きでしたわ。でも、好きだからといって、あっけにとられるほどばかなあの子のことが、ちゃんとわからないほど目がめくらになっていたわけじゃないんです――それに、なんかあるたびに、あの子にいって聞かせてさえいたんです! 姉妹《きょうだい》って、そんなものですわ」
「それで、妹さんは、いくらかでもあなたの意見に、耳をかたむけましたか?」
「まあ、聞かなかったでしょうね」と、ミーガンは皮肉にいった。
「マドモアゼル、もっとはっきり、いっていただけませんか」
娘は、ほんのしばらく、ためらっていた。
ポワロは、かすかに微笑を浮かべて、いった。
「では、わたしが助け舟を出しましょう。わたしは、あなたがヘイスティングズにおっしゃったことを聞きました。妹さんは、快活な、しあわせな娘で、男の友だちなんかいなかったということでしたね。ということは――一口にいえば――ほんとうは、反対だということでしょう?」
ミーガンは、ゆっくりといった。
「ベッティには、悪いところはないんです。それだけは、わかっていただきたいわ。あの子は、いつでもひたむきにやりぬく娘でしたわ。途中でやめてしまうたちじゃありませんでした。まるきり、そういうのじゃないんです。ただ、あの子の好きなのは、散歩に連れ出されたり、ダンスに行ったり、それから――そうね、安っぽいお追従《ついしょう》だの、お世辞だの、そういったものならなんでも好きだったんです」
「それに、きれいだったでしょう――ね?」
この質問を、わたしが聞いたのは、これで三度目だったが、こんどは、役に立つ反響を得ることができた。
ミーガンは、するっとテーブルから離れると、スーツ・ケースのところに行って、ぱちんとそれをあけ、なにか取り出すと、ポワロに手渡した。
革《かわ》の額縁にはいっていたのは、金髪の、にっこり笑いを浮かべた娘の胸像だった。その髪の毛は、一見してパーマをかけたばかりだとわかるほど、ちぢれすぎるほどちぢらした毛がたっぷりと、顔から外向けにひろがっている。微笑も一筋繩《ひとすじなわ》ではいかない、技巧的なもので、確かに、美人といえる顔ではなかったが、きざな、安手なきれいさは持っていた。
ポワロは、それを返しながら、いった。
「あなたと妹さんとは、あまり似ていませんね、マドモアゼル」
「そうなんですの! あたしが家じゅうで、一番不器量ですわ。それだけは、ようく知っていますわ」かの女は、そういうことはあまり重大なことじゃないと、あっさり片づけたいようなふうだった。
「どういう点で、妹さんがばかげたまねをしていると、はっきり考えていらっしゃるんです? たぶん、ドナルド・フレイザー氏との関係をいっていらっしゃるのじゃありませんか?」
「そうですわ、ぴったりですわ。ドンは、とてもおとなしいたちの人ですわ――でも、あの人――そう、あることを恨んでいて――それで――」
「それで、どうしたのです、マドモアゼル?」
かれの目は、とてもしっかりと、かの女の上にそそがれていた。
わたしの思いすごしかもしれなかったが、かの女は、ちょっとためらっているような気がしたが、すぐに、こたえた。
「あたしが気にしていたのは、もしかしたら、かれが――あの子を捨ててしまいやしないかということでしたの。そういうことになったら、かわいそうですもの。あの人は、とてもしっかりした、骨身をおしまないほどよく働く人で、妹のいい旦那さんになるにちがいないんです」
ポワロは、じっと、かの女を見つづけていた。かの女は、そのかれの凝視を受けても顔を赤らめるどころか、同じような、びくとも動かない目つきと、まだそのほかにも、なにか――なにか、最初に目を合わせた時の、挑戦的な、尊大な様子と、わたしに思い起こさせるものを含んだ目つきで、かれを見返していた。
「そういうことでしたら」と、とうとう、かれはいった。「もう、わたしたちは、ほんとうのことを話していないわけですね」
かの女は、肩をすくめて、ドアの方を向いた。
「さあ」と、かの女はいった。「お役に立つことは、みんなお話してしまいましたわ」
ポワロの声が、かの女を立ちどまらせた。
「お待ちなさい、マドモアゼル。お話しておかなければならないことがあります。もどってください」
不本意ながらという様子で、かの女は、かれの言葉に従った。
いくらか、わたしも驚いたのだが、ポワロは、ABCの手紙のいきさつや、アンドーバーの殺人事件や、死体のそばにあった鉄道案内のことなどを、すっかり話し出した。
かの女の方に興味がないだろうなどと心配する必要はなかった。かの女は、ぽかんと口をあけ、目をぎらぎらと光らしながら、かれの話に聞き入っていた。
「それみんな、ほんとのことですの、ポワロさん?」
「そうです。ほんとうです」
「あなたは、ほんとうに、あたしの妹が、誰かおそろしい殺人狂に殺されたとおっしゃるんですね?」
「そのとおりです」
かの女は、深く息を吸いこんだ。
「ああ! ベッティ――ベッティ――なんて――なんて、おそろしいことでしょう!」
「ですからね、マドモアゼル、わたしがあなたにおたずねしていることに、どんどんこたえてくだすっても、誰かを傷つけることになりはしないだろうかなどと案ずる必要はないのです」
「ええ、よくわかりましたわ」
「では、話をつづけましょう。わたしは、そのドナルド・フレイザーという男は、粗暴な、嫉妬心の強い男だという気がしたのですが、そうでしょう?」
ミーガン・バーナードは、おだやかにいった。
「あたし、いまでは、あなたを信用しますわ、ポワロさん。あたし、まじりっ気なしのほんとうのことをお話しますわ。ドンは、さっきもお話したように、とっても物静かな人ですわ――瓶《びん》の中へ密封した人、と、あたしのいう意味がわかってくださるかしら。自分の感じていることを、言葉にいいあらわせない人なんです。でも、その底では、おそろしく物事を気にするんです。それに、嫉妬深いたちで、しょっちゅう、ベッティのことを嫉妬していました。あの人、ベッティを熱愛していましたし――もちろん、あの子も、とてもあの人を好いていましたわ。でも、ベッティは、一人の人が好きになったからといって、ほかの人は気にかけないというたちじゃなかったんです。そんな生き方をする子じゃなかったんです。あの子は――そう、誰でも、ちょっと様子のいい男がいっしょに出かけようというと、すぐに目をつける方なんです。ですから、むろん、『ジンジャー・キャット』で働いていても、しょっちゅう、男たちと出歩いていましたわ――ことに、夏の休暇の間はね。舌のよくまわる子で、人がからかいでもすれば、すぐやり返すんです。そうしちゃ、たぶん、そんな連中と会っては、映画に行ったりなんかしていたんでしょう。本気などということはなくて――そんなようなことは、まるきりなくって――ただ、おもしろおかしく遊ぶことが好きだったんですね。いつでもいっていましたわ、そのうちいつかは、ドンと身をかためるんだから、いまできるうちに遊んでおくんだって」
ミーガンが一息入れると、ポワロがいった。
「よくわかります。つづけてください」
「ドンには、あの子のそういう考え方が理解できなかったのですわ。ほんとうに自分が好きなのに、どうして、ほかの連中と出歩きたがるのか、あの人にはわからなかったんですね。それで、一、二度、それがもとで、二人は、かっとなって大喧嘩《おおげんか》をしましたわ」
「ドン君は、おとなしくしていられなかったというわけですね?」
「ああいうおとなしい人って、みんなそうらしいんですけど、いったん、癇癪《かんしゃく》を起こしたが最後、手がつけられないほど腹を立てるんですね。ドンがあんまり物凄《ものすご》いんで、ベッティはすっかりおっかなくなっちまったんです?」
「それは、いつのことですか?」
「一度は、一年ほど前で、もう一度は――これは、ずっとひどかったんですが――つい一月ほど前でしたわ。週末で、あたし、家へ帰っていましたの――それで、もう一度、二人を仲直りさせようとしたんです。その時ですわ。すこしベッティに意見してやろうと思って――あんたは、すこしばかだって、いってやったんですわ。そしたらね、べつに悪気はなかったんだって、そういうだけなんです。そりゃ、そうにはちがいないでしょうけど、結局、あの子は、むちゃなことをするようになったようですわ、おわかりでしょうけど、一年前の喧嘩からこっち、ちょいちょい都合のいい嘘《うそ》をつくようになりました。頭の知らないことを、心が苦に病むことはないという考え方ですわね。こんどの喧嘩は、あの子がヘイスティングズへ女友だちに会いに行くと、ドンにいっておきながら、ほんとうは、誰か男といっしょにイーストボーンに行ったことが、あの人にわかっちまったことからなんです。それがまた、相手が結婚している人で、こっそりやったんで――それで、よけいに悪かったんです。とにかく、物凄い騒ぎでした――ベッティは、まだかれとは結婚していないんだから、誰とでも気に入った相手と出歩く権利があるなんて、いい出すし、ドンは、まっ青《さお》になって、ぶるぶる震えて、いつか――いつか――」
「そして?」
「殺してやるって――」と、低い声で、ミーガンはいった。
かの女は、いうのをやめて、じっとポワロを見つめた。
かれは、何度も、重々しくうなずいた。
「それで、当然、あなたは心配しておいでになった……」
「ほんとうに、やるだろうなんて思いませんわ――ほんのぽっちりだって、そんなこと思いませんわ! でも、あたし、心配だったんですわ――喧嘩のことや、あの人のいったことなんかが持ち出されるんじゃないかと――だって、そのことを知っている人が、何人もいるんですものね」
もう一度、ポワロは、重々しくうなずいた。
「そのとおりです。ですから、マドモアゼル、犯人の自分本位な虚栄心さえなかったら、ほんとに、そういうことになったかもしれませんね。ドナルド・フレイザーが嫌疑をまぬがれるとしたら、ABCの気ちがいじみたうぬぼれのおかげでしょうね」
しばらく黙っていてから、かれはいった。
「最近、妹さんが、その結婚している男か、誰かほかの男と会ったかどうか、ご存じありませんか?」
ミーガンは、首を左右に振った。
「知りませんわ。こちらに、いなかったでしょう、ですから」
「でも、どう思います?」
「あの問題の男とは、二度と会わなかったのじゃないでしょうか。男の方でも、喧嘩騒ぎがあったりしたと思って、避けていたでしょうね、きっと。でも、ベッティが――また、ドンにいくらか嘘をついていたとしても、あたし、驚きませんわ。そうでしょう。あの子は、ダンスや映画が大好きでしたし、むろん、ドンが、いつでも連れて行ってやれるわけじゃないでしょうからね」
「とすると、誰かに、妹さんが打ち明け話をするというようなことはなかったでしょうか? たとえば、カフェの給仕仲間とかに?」
「そういうことはないと思いますね。ベッティには、あのヒグリーって娘《こ》が我慢ができなかったんです。下品だと思っていたんですね。それに、ほかの娘は新しい子ばかりだったでしょう。どっちみち、ベッティは、人に打ち明け話をするっていうたちではありませんでしたわ」
ベルが、娘の頭の上で、けたたましく鳴った。
かの女は、窓のところへ行って、身を乗り出したと思うと、急に首を引っこめた。
「ドンですわ……」
「ここへ連れて来てください」と、素早くポワロがいった。「わが優秀なる警部殿が片づける前に、ひと言話したいことがあるんです」
まるで電光のように、ミーガン・バーナードは、台所から飛び出して行った。そして、二秒とたたないうちに、ドナルド・フレイザーの手をとって、もどって来た。
十二 ドナルド・フレイザー
この青年を見たとたん、わたしは、気の毒になってしまった。そのまっ青な、憔悴《しょうすい》した顔と、うろたえた目つきとは、かれの受けたショックがどんなに大きなものだったかを物語っていた。
かれは、がっしりとした、立派な様子の青年で、背丈《せたけ》は、ほとんど六フィート近く、美男子というのではないが、愛想のいい、そばかすの多い顔に、頬骨が高く、髪は燃えるような赤毛だった。
「どうしたんだい、ミーガン?」と、かれはいった。「なんだって、ここへ連れて来たんだい? たのむから、わけを話してくれ――ぼくは、いま聞いたばかりなんだけど――べッティが……」
かれの声は、尻《しり》すぼまりになって消えた。
ポワロが椅子を前に押してやると、かれは、ぐったりと落ちこむように、それに腰をおろした。
それから、わたしの友人は、ポケットから小型の瓶を取り出すと、食器|棚《だな》にかかっている手ごろなコップを取って、瓶の中の物をついでやった。
「ちょっと、これを飲みたまえ、フレイザー君。楽になりますよ」
青年は、いわれたとおりにした。ブランデーが、いくらかその顔に赤味をつけた。かれは、まっすぐにすわり直して、もう一度、娘の方に顔を向けた。かれの態度は、まったく平静で、よく自分を抑えていた。
「ほんとうなんだね?」と、かれはいった。「ベッティが――死んだ――いや、殺されたというのは?」
「ほんとうよ、ドン」
かれは、まるで機械的にいった。
「いまロンドンから来たばかりかい?」
「そう。父さんが電話してきたの」
「九時二十分の汽車だろう?」と、ドナルド・フレイザーがいった。
かれの心は、現実に触れるのをおそれて、ただ安全な、こんな平凡な些事《さじ》の上をすべっていた。
「そうよ」
一、二分、沈黙していてから、フレイザーはいった。
「警察だね? なにか、やっているのかい?」
「いま、二階にいるのよ。べッティの物を調べているんでしょう」
「見当がついてないのかい、誰だか――? わからないのかい、連中には――?」
かれは、言葉をきった。
かれは、感じやすい、内気な人間らしく、乱暴な事実を口にするのを好まないようだった。
ポワロは、すこし身を乗り出して、質問をはじめた。かれは、自分のたずねていることがつまらぬ些事ででもあるかのように、事務的な、味もそっけもない声で話しかけた。
「ゆうべ、ミス・バーナードは、どこへ行くか、きみにいいませんでしたか?」
フレイザーは、質問にこたえたが、まるで意識をしないでしゃべっているようだった。
「女友だちと、セント・レオナードへ行くといっていました」
「きみは、それを信じましたか?」
「ぼくは――」不意に、自動人形に魂が生き返った。「いったい、どういうつもりで、そんなことをいうんです?」
かれの顔は、そのとたん、威嚇的《いかくてき》になり、急激な感情から痙攣《けいれん》を起こしていたが、これでは、娘がかれを怒らせるのをおそれていたわけだなと、わたしにも合点がいった。
ポワロは、すかさずいった。
「ベッティ・バーナードは、殺人狂の手にかかって殺されたのです。真実を語ることだけが、犯人を追求するために、われわれに力をかすことになるのです」
かれの目は、しばらく、ミーガンの方に向けられた。
「そのとおりよ、ドン」と、かの女はいった。「自分の感情とか、他人の感情とかを考えている時じゃなくってよ。すっかり、なにもかも打ち明けなくちゃだめよ」
ドナルド・フレイザーは、うさんくさそうに、ポワロに目をあてた。
「どなたです、あなたは? 警察の人じゃないんでしょう?」
「警察よりは、ずっとましな者です」と、ポワロはいった。その口調には、意識した横柄《おうへい》さというものはなかった。かれにしてみれば、ただたんに事実をいったにすぎなかったのだ。
「この方に話すのよ」と、ミーガンがいった。
ドナルド・フレイザーも、かぶとをぬいだ。
「ぼく――ぼくにも、はっきりいえません」と、かれはいった。「かの女がそういった時には、ぼくも信じました。なにか、ほかのことをするなどとは、思いもしなかったんです。後になってから――たぶん、かの女のそぶりに、なにかあったのでしょう。ぼくは――ぼくは、そうです、おかしいな、と、思いはじめたんです」
「それで?」と、ポワロはいった。
かれは、ドナルド・フレイザーの正面に腰をおろした。相手の目にじっとつけたかれの目は、催眠術の魔力をかけているようだった。
「ぼくは、疑ったりする自分が恥ずかしかったんです。でも――でも、ぼくは、邪推したんです……ぼくは、かの女がカフェから出るころに、海岸へ行って、見張っていてやろうと思いました。ぼくは、ほんとうに出かけて行きました。すると、ぼくにはそんなことはできないことだという気がしてきたんです。ベッティがぼくを見たら、きっと怒るだろうと思ったんです。すぐに、ぼくが見張っていたのに気がつくだろうと思ったんです」
「それで、どうしました?」
「ぼくは、セント・レオナードへ出かけて行きました。八時ごろに着いて、バスを見張っていたんです――かの女が乗っているかどうか、見ようと思って……ところが、かの女の影も形もないんです……」
「で、それから?」
「ぼくは――ぼくは、いっそううろたえてしまったんです。てっきり、かの女が誰か男といっしょにちがいないと思いこんでしまったんです。その男が、かの女を自分の自動車に乗せて、へイスティングズに連れて行ったらしいなと、ぼくは思ったんです。それで、向こうへ出かけて行きました――ホテルやレストランをのぞいてみたり、映画館のまわりをうろついてみたり――波止場へも行ってみました。なにからなにまで、ばかばかしいことでした。たとえ、かの女がその場にいても、ぼくには見つけ出せなかったでしょうね。それに、どっちみち、男がかの女を連れて行ったとしても、へイスティングズのほかに、いくらだってほかにあるんですから」
かれは、話をやめた。その調子ははっきりしていたが、その話している最中にも、その底に、あのわれを忘れ、とほうにくれた、みじめさと怒りとが、かれを捕えてはなさないのを、わたしは感じていた。
「しまいには、あきらめて――帰って来ました」
「何時ごろに?」
「わかりません。ぼくは、歩きまわっていたんですから。真夜中か、それより後だったでしょう、きっと、家へ着いたのは……」
「それから――」
そのとき、台所のドアがあいた。
「ああ、おいででしたね」と、ケルセイ警部がいった。
クローム警部がかれを押しのけてはいって来て、ちらりとポワロに目を向けてから、見知らぬ二人の人物に、目を向けた。
「ミス・ミーガン・バーナードと、ドナルド・フレイザー君です」と、ポワロがいって、二人を紹介した。
「こちらは、ロンドンから見えたクローム警部」と、かれは説明した。
それから、警部の方を向いて、かれはいった。
「あなた方が二階で調べている間に、ミス・バーナードやフレイザー君と話をしていたんです。なにか、事件について新しい事実を聞き出せるかと思ってね」
「はあ、そうですか?」と、クローム警部はいったが、ポワロのことなど頭にはいらなくて、二人の新顔の方にばかり気をとられていた。
ポワロは、廊下へ引きさがって行った。ケルセイ警部がかれに道をあけながら、そっといった。
「なにか、つかめましたか?」
しかし、かれは、同僚の方に気をとられていて、ポワロの返事を聞くひまがなかった。
わたしは、廊下でポワロといっしょになった。
「思いあたることがあったかい、ポワロ?」と、わたしはたずねた。
「ただ、犯人の驚くべき度胸だけだよ、へイスティングズ」
わたしには、かれがなんのことをいっているのか、さっぱりわからないと、そういうだけの勇気もなかった。
十三 会議
会議! また会議!
ABC事件の思い出といえば、大部分が会議ばかりだったような気がする。
|ロンドン警視庁《スコットランド・ヤード》での会議。ポワロの部屋《へや》での会議。正式の会議。非公式の会議。会議会議だった。
この特別会議は、匿名の手紙に関するいろいろな事実を、新聞に公表するかどうかをきめるために開かれた。
べクスヒルの殺人事件は、アンドーバーの事件よりも、いっそう世間の注意をひいていた。
もちろん、この方には俗受けをする要素がはるかに多かった。なにしろ、まず第一に、被害者が若い、きれいな娘だったし、その上に、評判の、海岸の行楽地での出来事だ。
事件の詳細を残るくまなく取材しては、毎日のように、でかでかと書き立てた。ABC鉄道案内も、注意のお裾《すそ》わけをもらった。一番人気のあるのは、犯人がどこかある一地方で、その鉄道案内を買ったのだから、それは、犯人の正体を突きとめる貴重な手がかりだという説だった。なおその上に、犯人が汽車で現場へやって来たことも、ロンドンに帰るつもりだということも、示しているというのだった。
鉄道案内のことは、アンドーバー殺人事件の簡単な記事では、ちっとも紙面にあらわれなかったので、一般大衆の目には、この二つの事件が関係があるとは見えなかったのだ。
「方針をきめなければならんね」と、犯罪捜査課担当の副総監がいった。「問題は――どちらの方法が、最良の結果をもたらすか? ということだ。事実を公衆に知らせて――公衆の協力を求めるか――そうなれば、数百万の協力を得られるわけだ、一人の狂人を捜すのに……」
「かれは、狂人とは思えませんね」と、トンプスン博士が口をはさんだ。
「――ABCの販売店の聞きこみ――その他についてだが。それに対しては、秘密に行動するというのは、有利だろうね――われわれの相手に、われわれがなにをしているかわからせないという有利な点はあるだろうが、しかし、事実は、|相手はわれわれが知っているということを《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|よく知りぬいている《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》というのが実状だからね。相手は、あの手紙で、わざと自分に注意をさせているほどだからね。え、クローム、きみの意見はどうだね?」
「わたしは、こう見ています。もし公表なされば、ABCと勝負をなさることになるわけです。それは、奴《やつ》の思う壺《つぼ》にはまることです――評判になり――有名になることです。それこそ、奴の望んでいるところです。そうでしょう、博士? 奴は、世間をあっといわせたがっているんです」
トンプスンは、うなずいた。
副総監は、考え深くいった。
「それで、きみは、相手のじゃまをしようというのだね。奴が渇望している評判を断とうというのだね。いかがです、ポワロさん?」
ポワロは、しばらくは口をきかなかった。話しはじめてからも、一言一言、慎重に言葉を選んでいるような様子だった。
「むずかしいことですね、わたしには、ライオネルさん」と、かれはいった。「わたしは、おっしゃるとおり、利害関係者です。挑戦《ちょうせん》は、わたしに向けられているのです。かりに、わたしが『事実を秘密に――公表するな』といえば、わたしの虚栄心からそういっているのだと思われないでしょうか? わたしが自分の評判を気にしているのだと思われないでしょうか? ですから、むずかしいことです! 打ち明けて話すこと――すべてを公表すること――そうすることは、確かに有利です。すくなくとも、警告にはなります……しかし、その反面、クローム警部も思っていられるように、|犯人の思う壺にはまることだ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》と、わたしも思いますね」
「ふむ!」といいながら、副総監は、顎《あご》をなでた。かれは、トンプスン博士の方に視線をもどして、「もし、かりに、われわれがその気ちがいに、かれの熱望している世間の評判を断ち切って満足させなかったら。奴は、どうするでしょう?」
「またもう一つ、犯罪を重ねるでしょうね」と、即座に博士はいった。「万難を排してでも」
「それでは、もし、われわれが、事件をはでな見出しで公表するとしたら。その反応はどうでしょうな?」
「同じ結果になるでしょうね。その場合は、奴の誇大妄想《こだいもうそう》を助長することになり、もう一つの場合は、それを抑圧することになって、結果としては同じで、もう一つの犯罪が犯されることになるわけです」
「いかがです、ポワロさん?」
「トンプスン博士と同意見です」
「進退きわまる――ですか? いったい、どのくらい殺すつもりなんだろう――この気ちがいは?」
トンプスン博士は、ポワロの方に目を走らせた。
「AからZまでということになりそうですね」と、かれは、愉快そうにいった。
「もちろん」と、かれは、言葉をつづけて、「そこまではいかないでしょう。その近くにもいかないでしょう。それほどにならないうちに、あなたの方でつかまえてしまうでしょうからね。Xという字をどう始末するか、興味|津々《しんしん》たるものですね」かれは、この興味本位の推理に気がとがめて、はっとわれに返った。「しかし、そうならないうちに、あなた方がつかまえてしまうでしょう。せいぜい、GかHというところですかな」
副総監は、どんと、げんこつでテーブルをたたいた。
「冗談じゃない。このさき、まだ五つも殺人があるというのですか?」
「そんなにたくさんはさせません」と、クローム警部がいった。「どうか、ご信頼ください」
かれは、確信をもって、いった。
「アルファべットのどの文字でとまらせようというお考えです、警部?」と、ポワロがたずねた。
かれの声には、かすかに皮肉な響きがあった。警部は、いつもの落ちつきはらった優越感の値打ちを下げるような、むっとした色を浮かべて、かれを見たようだった。
「このつぎには、奴を捕えられるでしょうよ、ポワロさん。とにかく、Fになるまでには、必ず捕えるとお約束しておきます」
かれは、副総監の方に向き直って、
「わたしは、この事件の心理的な面を、かなりはっきりつかんでいると思います。もし間違いがありましたら、トンプスン博士が訂正してくださるでしょうが、奴は、一つ犯罪を立派にやってのけるたびに、百パーセント自信を増していると思います。『おれは頭がいい――奴らに、おれがつかまえられるもんか!』と思うたびに、奴《やっこ》さんは思いあがってきて、軽率になります。自分の頭のよさを過大に考えるとともに、誰もかれもほかの者はみんなばかだと誇張して考えるようになります。もうすぐ、警戒などする気がまるでなくなりますよ。そうですね、博士?」
トンプスンは、うなずいて、
「普通の場合は、そうですね。医学上の用語でなくては、それ以上の説明はつきませんがね。こういうことはご存じでしょう、ポワロさん。いかがです?」
わたしは、トンプスンがポワロに話しかけるのが、クロームには気に入らないのだなと思った。かれは、自分が、そして自分だけが、この問題のエキスパートだと思いこんでいるのだ。
「クローム警部のいうとおりですね」と、ポワロが同意した。
「偏執狂だ」と、博士がつぶやくようにいった。
ポワロは、クロームの方を向いて、
「ベクスヒル事件の方には、なにかおもしろい物的証拠がありますか?」
「これといって決め手になるようなものは、なにもありません。イーストボーンの『スプレンディッド』の給仕が、死んだ娘の写真を見て、中年の、眼鏡《めがね》をかけた紳士といっしょに食事をした、若い婦人だと申しました。それからまた、ベクスヒルとロンドンの中ほどにある、『スカーレット・ランナー』という旅館でも確認しました。そこの話では、海軍の士官らしい男といっしょだったということです。両方とも間違いないとはいえませんが、どちらか一方は、ありそうなことですね。ほかにも証言がたくさんありますが、ほとんどが、たいして役に立ちそうにもありません。ABC鉄道案内の方も、まだ手がかりがありません」
「うむ、きみは、打てるだけの手は打っているらしいね、クローム」と、副総監はいった。「いかがですか、ポワロさん? この捜査の線で、なにか気のおつきになったことはありませんか?」
ポワロは、ゆっくりといった。
「非常に重大な手がかりが一つ、あるような気がします――動機の発見ということです」
「それは、かなりはっきりしているのじゃありませんか? アルファべット・コンプレックス。そうおっしゃったのじゃなかったかな、博士?」
「そうです」と、ポワロがいった。「確かに、アルファべット・コンプレックスです。しかし、特殊な狂人は、常に、自分の犯す犯罪に、きわめて強い理由を持っているものです」
「ちょっと、ちょっと、ポワロさん」と、クロームがいった。「一九二九年のストーンマンのことを考えてごらんなさい。かれは、しまいには、ほんのちょっとでも自分に気に入らない人間は、誰でも殺そうとしたんですよ」
ポワロは、かれの方を向いて、
「まったくそうです。しかし、もしあなたが、十分にえらくて、重要な地位にある人物だとすれば、小さな不愉快なことは我慢しなければならないものなのです。もし、一匹の蠅《はえ》が追っても追ってもあなたの額《ひたい》にとまって、うるさくて仕方がなかったら――あなたは、どうします? その蠅を殺すでしょう。それについて、呵責《かしゃく》など感じないでしょう。あなたは、重要な人だ――が、蠅は、そうじゃない。あなたは、蠅を殺せば、いやな気持ちが静まる。あなたの行為は、健全で、正当なものだと、あなたには思われる。もし、あなたが衛生というものに強い関心を持っていれば、もう一つ、蠅を殺す正当な理由ができるわけですね。蠅というやつは、社会に対する危険のかくれたもとである――だから、蠅は殺されなければならない、とね。精神の狂った犯罪者の心理も、同じような作用をするのです。しかし、いまは、この事件を考えてみましょう――|もし《ヽヽ》、|被害者がアルファベットの順に選ばれるのだということになると《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|かれらが個人的に《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|かれを不愉快にさせるから殺されるというのではないということです《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。この二つを結びつけるのは、あまりにもこじつけすぎますね」
「そこが、問題のポイントですね」と、トンプスン博士がいった。「わたしは、夫を死刑にされた、ある婦人の事件をおぼえています。その女は、その時の陪審員を一人ずつ殺しはじめたのです。そのいくつかの犯罪を関連のあるものだとわかるまでには、かなりの時間がかかりました。というのは、いくつかの犯罪が、まったく、行きあたりばったりのような気がしたからです。が、ポワロさんのおっしゃるように、手あたり次第に、人を殺す犯人などというものはいないものなんです。かれは、(どんなつまらないことでも)自分のじゃまになる人間を殺すか、でなければ、信念を持って殺すか、二つのうちのどちらかなのですね。かれが僧侶《そうりょ》なり、警官なり、娼婦《しょうふ》なりを殺すのは、それらの者は殺されるべきだと固く信じているからなのです。わたしの知る限りでは、この場合、どちらが当てはまるかはわかりません。アッシャー夫人とべッティ・バーナードとを同じ種類の人間としてつなぐことはできませんからね。もちろん、性的コンプレックスがあるということはありそうなことです。両方とも、被害者は女性ですからね。もちろん、つぎの犯罪が起これば、もっとはっきりしたことがいえるでしょうが――」
「冗談じゃない、トンプスン、そうあっさりと、つぎの犯罪などといわないでおいてもらいたいね」と、ライオネル卿《きょう》がいらだたしそうにいった。「つぎの犯罪を防ぐために、われわれは、全力を尽しておるのだからね」
トンプスン博士は、黙りこんでしまって、はげしい勢いで鼻をかんだ。
「どうぞかってに」と、その音は、いっているようだった。「事実に、面とぶつかるつもりがないのなら――」
副総監は、ポワロの方を向いて、
「あなたのおっしゃることはわかりますが、まだ、はっきりよくはわからないのです」
「わたしも自分に聞いているのです」と、ポワロは口を開いて、「いったい、犯人の心の中では、どんなことが起こっているのだろうか? かれは、人を殺しているのですが、それは、かれの手紙からみると、一種のスポーツとして――おもしろ半分に、殺しているようにみえます。ほんとうに、そういうことがありうるでしょうか? かりに、それがほんとうだとしても、いったいどういう原則で、同じアルファべットの中から犠牲者を選び出しているのでしょう? もし、たんにおもしろ半分に人殺しをしているのだったら、その事実を知らせたりはしないはずです。その方が、ずっと無難に殺せるはずですからね。ところが、事実はそうじゃない。われわれみんなが一致して認めるように、かれは、世間の目をあっといわせようとしている――つまり、自分の存在をはっきり認めさせようとしているのです。いったいかれの個性が、いままでにかれが選んだ二人の犠牲者と結びつけられるような、どんな形で圧迫されていたというのでしょう? 最後の、一つの疑問は――かれの動機が、わたくし、このエルキュール・ポワロに対する、直接的な個人的な憎しみか? ということです。かれが公然と、わたしに挑戦してきたのは、わたしの生涯《しょうがい》のどこかで(自分にはそれと知らずに)かれを征服したからでしょうか? それとも、かれの憎しみは、個人的なものではなく――外国人というものに対するものでしょうか? もしそうだとすれば、いったいなにが、かれにそうさせるにいたったのか? 外国人の手によってどんな害を、かれは受けたのでしょうか?」
「みんな、非常に示唆《しさ》に富んだ質問ですね」と、トンプスン博士はいった。
クローム警部は、咳《せき》ばらいをした。
「はあ、そうですか? おそらく、いまのところでは、ちょっとこたえられない問題ですね」
「そうはいいますがね、あなた」と、まっすぐ相手を見つめながら、ポワロはいった。「|こたえは《ヽヽヽヽ》、|いまの疑問のうちにあるのです《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。もしも、正確な理由を――おそらく、わたしたちには、空想的ではありますが――かれには論理的な――なぜ、われわれの気ちがいが、これらの犯罪を犯したかという正確な理由がわかりさえすれば、つぎの犠牲者は誰かということが、おそらく、わかるのではないでしょうか」
クロームは、首を横に振って、
「奴は、行きあたりばったりに選んでいる――わたしは、そう思います」
「この寛大な殺人がね」と、ポワロはいった。
「どういうことですか、あなたのおっしゃるのは?」
「この寛大な殺人――といったのです! フランツ・アッシャーは、妻殺しのかどで逮捕されたでしょうし――ドナルド・フレイザーも、ベッティ・バーナード殺しのかどで逮捕されていたかもしれません――もし、ABCの予告の手紙がなかったとすれば、ね。だとすれば、かれは、他人が無実の罪に問われて苦しめられるのに耐えられないほど、やさしい心の持ち主だというのでしょうか?」
「わたしは、これまでに、いろいろ奇妙なことがあったのを知っています」と、トンプスン博士がいった。「一人の被害者が即座に死なずに、もがき苦しんだという理由で、ばらばらに惨殺《ざんさつ》された半ダースもの被害者を知っています。だからといって、それが、この男の理由だとは、わたしも思いません。かれは、自分自身に名誉と栄光を、これらの犯罪がもたらすことを望んでいるのです。それが一番妥当な解釈でしょうね」
「公表の件は、結論に達しなかったというわけだね」と、副総監がいった。
「わたしに一つ提案をさせていただければ」と、クロームがいった。「つぎの手紙を受けとるまで、待ってみたらどうでしょうか? その時になって、公表するのです――号外か、なんかで。指定されたその町には、すこしは恐慌が起こるでしょうが、Cの字をはじめに持っている人たちには警戒させることになり、ABCを奮起させることになるでしょう。かれは、どうしてもやりとげようとするでしょう。そこですよ。われわれが奴をつかまえる時は」
しかし、将来どうなるかは、誰にもわからなかった。
十四 第三の手紙
わたしは、ABCの第三の手紙が着いた時のことを、ようくおぼえている。
ABCが再び動きはじめた時に、不必要なことに手間どらないように、あらゆる警戒の手が打たれていたといっていい。この家にも、スコットランド・ヤードから若い警官が一人配置されていて、もし、ポワロもわたしもいない時に届いたものは、どんなものでも開封して、時を移さず捜査本部に報告するのが、その警官の任務になっていた。
幾日か日がたつにつれて、わたしたちは、みんな、だんだんといらいらしてきた。クローム警部のひややかで、高慢な態度は、かれが有望だとにらんだ手がかりが一つ一つ消えてゆくにつれて、ますますひややかで、高慢になってきた。ベッティ・バーナードといっしょにいるところを見たといわれる、漠然《ばくぜん》とした男たちの話も、なんの役にも立たないことが判明した。ベクスヒルとクーデンの付近で、人の目についたいくつかの自動車も、アリバイがあるか、でなければ、見つけることができないかどちらかで、だめだった。ABC鉄道案内を買った者の調査は、多くの無実の人たちに、迷惑と騒ぎとをもたらしただけだった。
わたしたちはというと、郵便配達の聞きなれた、かたっという音を戸口に聞くと、不安から、とたんに心臓の動悸《どうき》が早くなるというありさまだった。すくなくとも、わたしは、そうだった。それで、ポワロも同じ気持ちを味わっていると思わないわけにはいかなかった。
かれがこの事件について深く苦慮しているのを、わたしは知っていた。かれは、いざという場合、その場にいられるようにというので、ロンドンを離れようともしなかった。この夏の暑い盛りの何日かの間、かれの自慢の口ひげさえ、だらんと垂れ下がってしまった――はじめて、そのひげは持ち主に無視されてしまったのだ。
ABCの三番目の手紙が来たのは、金曜日だった。十時ごろに、夜の配達が着いた。
聞きなれた足音と、威勢のいい、かたっという音を耳にすると、わたしは立ちあがって、郵便受けのところへ飛んで行った。四、五通の手紙があったようにおぼえている。一番最後に見たのが、活字体で宛名《あてな》が書いてあった。
「ポワロ」と、わたしは、叫ぶようにしていった……わたしの声は、後が消えた。
「来たんだろう? あけたまえ、へイスティングズ。急いで。一瞬も大事だぞ。計画も立てなくちゃならん」
わたしは、封筒をひき破って(ポワロも、この時ばかりは、わたしの乱暴さをとがめなかった)、活字体で書いた紙片をぬき出した。
「読んでください」と、ポワロがいった。
わたしは、声を大きくして読みあげた。
あわれなポワロ氏よ――このささやかな犯罪事件は、きみが思ったほどには、うまくいかないようだね? それとも、おそらく、きみの全盛は、もうすぎてしまったのだろうか? こんどこそ、もっと腕のすごいところを見せてもらいたいものだね。こんどのは、やさしいやつだ。所はチャーストン、日は三十日だ。ひとつ、やってくれたまえ! どうも、いつも独《ひと》り相撲《ずもう》では、いささかやりきれんからね!
ご健闘を祈る。草々
A・B・C
「チャーストンだ」といいながら、わたしは、自分のABC鉄道案内に飛びついた。「いったい、どこなんだ」
「へイスティングズ」ポワロの声が鋭くひびいて、わたしをさえぎった。「いつ書いた手紙だ? 日付があるかい?」
わたしは、ちらっと、手の中の手紙を見た。
「二十七日に書いたものだ」と、わたしはいった。
「間違いないだろうね、へイスティングズ? かれの指定した殺人の日は、三十日だったろう?」
「そうだよ。ちょっと待ってくれ、ええと――」
「なんてことだ、ヘイスティングズ――わからないのか? きょうが三十日だよ」
かれの表情たっぷりな手が、壁のカレンダーをさした。わたしは、新聞を取りあげて、それを確かめてみた。
「だけど、なんだって――どうして――」と、わたしは、どもった。
ポワロは、床《ゆか》からやぶれた封筒をひろいあげた。なにか、宛名がいつものとは違っているという気が、漠然とは胸にしたのだが、なにしろ、早く手紙の内容が知りたかったので、ちらっとしかその方に注意をはらわなかったのだ。
その時、ポワロは、ホワイトヘーブン荘に住んでいた。ところが、手紙の宛名は、|ホワイトホース荘《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|エルキュール《ヽヽヽヽヽヽ》・|ポワロ様《ヽヽヽヽ》となっていて、隅《すみ》の方になぐり書きで、「|ホワイトホース荘にも《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|ホワイトホース通りにも《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|名宛人なし《ヽヽヽヽヽ》――|ホワイトヘーブン荘を問い合わせのこと《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。東中央第一局《ヽヽヽヽヽヽ》」と書いてあった。
「なんてことだ!」と、ポワロは、口の中でいった。「機会までが、この気ちがいに味方するというのか? 早く――早く――スコットランド・ヤードに知らせなくちゃ」
一、二分の後、わたしたちは、クローム警部と電話で話していた。こんどというこんどは、あの自制心の強い警部も、「はあ、そうですか?」とはいわなかった。それどころか、早口の、息をつめたような呪《のろ》いの言葉が、かれの唇《くちびる》をついて出た。かれは、わたしたちの話を聞いてしまうと、できるだけ早く、チャーストンに連絡をつけるために、電話を切ってしまった。
「遅すぎた」と、ポワロが口の中でいった。
「そうともいえないさ」と、たいした望みもなしに、わたしはいいはった。
かれは、ちらっと置時計を見た。
「十時二十分すぎだね? あと一時間四十分しかない。ABCが、そんなに長く手をひかえているだろうか?」
わたしは、棚から取り出していた鉄道案内を開いた。
「チャーストン、デボンシャーと」と、わたしは、読んでいった。「パディントンから二〇四マイル四分の三。人口五四四。かなり小さなところらしいね。これなら、きっと犯人も人目につかずにはいないだろう」
「それにしても、もう一つ生命が奪われてしまうわけだ」と、ポワロは、口の中でいった。「汽車は、どうだ? 汽車の方が自動車よりは早いだろうね」
「夜行列車がある――ニュートン・アボット行の寝台車で――六時八分、ニュートン・アボット着、チャーストンには、七時十五分だ」
「パディントン発だね?」
「そう、パディントンだ」
「それに乗ろう、へイスティングズ」
「たつまでに、報告は来ないだろうな」
「悪い知らせを、今晩聞いたって、あすの朝聞いたって、どうということもないだろう?」
「それもそうだな」
わたしが身のまわりの品をスーツ・ケースにつめている間に、ポワロは、もう一度、スコットランド・ヤードに電話をしていた。
二、三分して、寝室へもどってきたかれは、とがめるような口振りでたずねた。
「いったい、なにをしているんです?」
「きみの物を詰めてやっているんじゃないか。時間が節約できると思ったんでね」
「だいぶあがってるようだね、へイスティングズ。手もどうかしているし、頭もどうかしているね。コートをたたむのに、そんなふうにするものかね? それに、わたしのパジャマをどんなにしてしまったか、見てごらんよ。髪洗いの瓶《びん》がわれたら、どういうことになると思う?」
「冗談じゃないよ、ポワロ」と、わたしは叫ぶように、「生きるか死ぬかの問題じゃないか。衣類なんか、どうなったって、どうだというのさ?」
「あんたには、物事の割り振りという観念がないんだね、ヘイスティングズ。われわれは、汽車が出る時間より早く行ったって、それに乗るわけにはいかないんだよ。それに、衣類をめちゃめちゃにしてみたところで、人殺しが防げるというわけでもないからね」
わたしの手から断乎《だんこ》としてスーツ・ケースを取りあげると、かれは、自分の手で詰めはじめた。
かれは、手紙と封筒とをパディントンまで、持って行くことになっているといった。スコットランド・ヤードからの人間が、そこで会うことになっていたからだ。
わたしたちがプラットフォームに着いて、最初に会った人間は、クローム警部だった。
かれは、ポワロのもの問いたげな目にこたえて、いった。
「まだ、なんの情報もありません。出動できる人間はすべて、警戒についています。Cではじまる名前の人にはみんな、できる限り電話で警告を発しました。まだ見込みはあります。手紙はお持ちですか?」
ポワロは、手紙をわたした。
かれは、それを見ながら、口の中で呪いの言葉をつぶやいた。
「悪運の強い奴だ。星まわりまでが、奴についてやがる」
「どうでしょう」と、わたしが気を引くように、「ことさら、そうしたとは思いませんか?」
クロームは、首を横に振って、
「そうじゃないでしょう。奴は、自分の主義を持っているんです――ばかげた主義ですがね――そいつを固守しているんです。公正な予告です。奴は、その点を強調するんです。奴の誇りは、そこから生まれてきているんです。そうか――間違いなし、奴さんは、ホワイトホースを飲んでいるんだな」
「ああ、そりゃ、すばらしい思いつきだ」と、思わず賞讚の気持ちにかられて、ポワロがいった。「かれが活字体で手紙を書いていると、その前に、ウィスキーの瓶があるというわけだ」
「そうなんですよ」と、クロームがいった。「われわれも、ちょいちょい、同じようなことをやってますよ。思わず目の前にあるものを写してしまってるなんてことがね。奴さん、ホワイトまで書いたところで、うっかりして、ホースとやっちまったんですね、へーブンとつづけるところを……」
警部も、汽車で出かけるところだということに気がついた。
「かりに、信じられないような幸運のために、なにもなかったとしても、チャーストンは、選ばれたところですからね。犯人は、そこにいるか、いないとしても、きょうは、いたんですからね。なにか事があれば、ぎりぎりの時間までにでも、部下の一人がここに電話をかけてくることになっています」
ちょうど列車が駅を離れようとする時、一人の男がプラットフォームを走って来るのが目についた。その男は、警部の窓のところに来て、なにかいっていた。
列車が駅を出てしまうと、ポワロとわたしとは、急いで通路をぬけて、警部の寝台の戸をたたいた。
「知らせが来た――でしょう?」と、ポワロがきいた。
「きわめて悪い報告です。カーマイケル・クラーク卿《きょう》が頭をなぐられて、死んでいるのが発見されたのです」
カーマイケル・クラーク卿というのは、一般には、あまり知られていない名前だが、かなり著名な人物で、かつては、非常に有名な咽喉科《いんこうか》の専門家であった。財産を残して職業をやめてから、生涯の大きな情熱の一つであった――中国陶器や磁器の蒐集《しゅうしゅう》に、ふけっていた。数年して、伯父《おじ》からかなりな遺産を受けてからは、完全に、その情熱に没頭できるようになって、いまでは、中国美術品の著名なコレクションの持ち主となっていた。かれは、結婚していたが、子供はいなかった。デボン海岸の近くに、自分で建てた家に住んでいて、ごくまれに、珍品の売り物がある時だけ、ロンドンに出て来るくらいのものだった。
若い、美人のべッティ・バーナードのつぎに起こった、この人の死が、何年ぶりかのすばらしい新聞の記事になるだろうということは、かれこれ疑う余地もなかった。八月で、新聞が材料に困っている時なので、いっそう大げさなことになりそうだった。
「それならそれで」と、ポワロがいった。「個人が努力してやりそこなったことを、大衆の力がかわってやってくれることになるというものですよ。こんどは、国じゅうがABCを捜してくれるでしょう」
「残念ながら」と、わたしがいった。「それが、あいつの思う壺なんだ」
「そのとおり。しかし、同時に、それがあの男の破滅のもとになるんでしょうよ。成功に有頂《うちょう》天《てん》になって、軽率になる……それが、わたしのつけ目ですよ――あの男が自分の頭のよさに酔いしれてくれるのがね」
「まったく、おかしなことじゃないか、ポワロ」と、不意にある考えが浮かんで、わたしは、大声でいった。「ねえ、こういう犯罪で、きみとぼくとがいっしょに手がけるのは、これがはじめてだね? いままで、われわれが扱った殺人事件は――そう、いわば、個人的な殺人というやつだったね」
「まったくそのとおりですね、あなた。いつも、いままでは、内側《ヽヽ》からとりかかるというめぐり会わせになっていました。重要なのは、被害者の経歴で、主要な点は、『その死によって、利益を受けるのは、誰か? かれのまわりにいる人間が、その犯罪を犯すだけの、どんな機会を持っていたか?』ということでしたね。いつも、『内部的犯罪』というやつだった。ところが、こんどのは、わたしたちがいっしょに仕事をするようになってから、はじめてぶつかった、冷酷|無惨《むざん》な、個人問題とは関係のない殺人。外側からの殺人事件ですよ」
わたしは、ぞっと身ぶるいがした。
「おそろしいというよりも……」
「そうです。そもそものはじめ、最初の手紙を読んだ時から、わたしは、気になったんです、なにかある、調子の狂った――不幸な出来事があると……」
かれは、いらだたしそうな身振りをして、
「神経に負けてはいけない……|これが普通の犯罪より悪いということはない《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》……」
「だって……だって……」
「じゃ、見ず知らずの他人の命を奪う方が悪いというのですか、身近かな親しい人間――信頼して、信用している人間の命を奪うよりも?」
「ずっと悪いさ、狂的《ヽヽ》なんだから……」
「ちがうよ、へイスティングズ。|より悪い《ヽヽヽヽ》ということはありませんよ。ただ、いっそう|むずかしい《ヽヽヽヽヽ》というだけですよ」
「いや、いや、わたしは、きみの説には不賛成だね。非常におそるべきですよ」
エルキュール・ポワロは、つくづくといった。
「気ちがいだというのなら、見つけるのはやさしいはずですよ。利口な、正気の人間の犯した犯罪の方が、はるかにこみいっているにちがいありませんよ。ここで、この観念《ヽヽ》をつかむことさえできれば……このアルファベット事件には、いろいろと食いちがったところがあるんです。その観念《ヽヽ》がわかりさえすれば――そうすれば、なにもかもいっさいが、明瞭《めいりょう》で、単純になるのですが……」
かれは、大きな息をついて、首を振った。
「この犯罪は、どうしてもつづけさせてはいかん。すぐに、すぐに、真相を見つけなければいけない……さあ、ヘイスティングズ、寝るとしましょう。あすは、たくさん、することがあるんですから」
十五 カーマイケル・クラーク卿
チャーストンは、一方はブリクスハム、もう一方はぺイントンとトーケイの間にあって、トーベイ湾が陸地に曲がりこんでいる中ほどのところにあった。十年ほど前までは、ゴルフ場があるだけで、そのリンクの下は、緑一色に塗りつぶされた田舎《いなか》が、海辺《うみべ》までずっと伸びていて、人間の住居といえば、ほんの一軒か二軒、百姓家があるだけだった。しかし、最近では、チャーストンとぺイントンとの間には、大きな建物が立ち並び、いまでは、海岸にも、小さな家や、バンガローや、新しい道路や、そのほかいろいろなものが、ぼつぼつとできていた。
カーマイケル・クラーク卿は、さえぎるものひとつなく海を見晴らせる土地を二エーカーほど持っていた。かれの建てた家は、モダーンな設計で――見る目にも気持ちのいい、まっ白な、矩形のものだった。かれの蒐集品を入れた、大きな美術館を別にすれば、それは、あまり大きな家ではなかった。
わたしたちが着いたのは、午前八時ごろだった。土地の警官が一人、駅に迎えに来ていて、情況をくわしく説明してくれた。
カーマイケル・クラーク卿は、毎晩、夕食の後で、散歩をする習慣があったらしい。警察が電話をかけた時には――十一時ちょっとすぎだったが――まだ、かれは帰っていないという返事だった。かれの散歩は、いつも同じコースを通ることになっていたので、そうたいして長くはかからずに、捜査隊は、かれの死体を見つけ出した。死因は、後頭部をなにか鈍器ようのもので強くなぐられたことによるものだった。|開いたままのABC鉄道案内が《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|死体の上に伏せておいてあった《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。
わたしたちは、八時ごろにコームサイド(その家は、そう呼ばれていた)に着いた。玄関の戸をあけたのは、かなりの年輩の執事だったが、そのふるえている手と不安そうな顔とは、この惨劇がどれほどの打撃をかれに与えたかを、ありありとあらわしていた。
「おはよう、デべリル」と、地方の警官がいった。
「おはようございます、ウエルズさま」
「ロンドンからおいでになった方々だ、デベリル」
「どうぞ、こちらへ」かれは、朝食の用意の整っている細長い食堂へ、わたしたちを案内した。
一、二分すると、陽《ひ》に焼けた顔の、大柄な、金髪の男が、部屋にはいって来た。
これがフランクリン・クラークで、故人のただ一人の弟だった。
かれは、非常事態にはたびたび会った男らしい、てきぱきとした、有能らしい態度をしていた。
「おはようございます、みなさん」
ウエルズ警部が一同を紹介した。
「こちらが、犯罪捜査課のクローム警部。エルキュール・ポワロ氏、それから――ええと――へイター大尉」
「へイスティングズです」と、わたしは、ひややかに訂正した。
フランクリン・クラークは、順々に、わたしたち一人一人と握手をしたが、その握手のたびに、突き刺すような目つきで相手を見つめた。
「どうぞ朝食をおとりになってください」と、かれはいった。「食べながらでも、お話はできますから」
誰も異議をとなえる者はなかったので、わたしたちは、すぐに、おいしい卵とべーコンとコーヒーの食事にとりかかった。
「さて、それでは」と、フランクリン・クラークがいった。「ウエルズ警部が、昨夜、あらましの状況を説明してくださいました――が、まったくいままで聞いたこともない、野蛮きわまる事件でしょうね。クローム警部、気の毒な、わたしの兄が殺人狂の犠牲となったばかりか、これが三度目の殺人で、|いつもそのたびに《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|ABC鉄道案内が死体のわきにおいてある《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》ということを、わたしは信じなければならないのですね?」
「まったく、そのとおりです、クラークさん」
「しかし、なぜでしょう? いったい、こんな犯罪から、どんな実際的な利益が生じるというのでしょう――もっとも病的な想像をするとしてもですが?」
ポワロは、もっともだというように、うなずいた。
「ずばりと的を射ておいでですね、フランクリンさん」と、かれはいった。
「いまの段階では、動機を捜しても無理なんです、クラークさん」と、クローム警部はいった。「まったく精神病の医師の扱う問題ですからね――もっとも、わたしは、精神異常者の犯罪を扱った経験もありますが、たいてい、動機は、きわめて曖昧《あいまい》なものですね。自分の個性を伸ばそう、世間をあっといわせてやろう――つまり、取るに足らぬ人間のかわりに、なにものかになろうという欲望なんです」
「ほんとうですか、ポワロさん?」
クラークは、どうしても信じられないようだった。この年長者に対する、かれの訴えは、クローム警部には、あまりいい感じで受けとられなかった。かれは、額に八の字を寄せた。
「ほんとうですとも」と、わたしの友人はこたえた。
「いずれにしろ、そんな男なら、そう長いこと捜査の網をのがれていることはできないでしょうね」と、クラークは考え深そうにいった。
「そう思いますか? ところが、どうして、奴らは、抜け目がないんです――こういう連中ときたらね! それに、忘れちゃいけないことは、|こういう連中は《ヽヽヽヽヽヽヽ》、|きまって《ヽヽヽヽ》、|これといって目立った外見上の特徴を《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|なにひとつ持っていない《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》のです――いつでも、人の目に見おとされたり、無視されたり、嘲笑《ちょうしょう》までもされているといったような人種に属しているのです!」
「二、三の点について、お聞きしたいことがあるのですが、クラークさん」と、クロームが、話にわってはいった。
「どうぞ」
「あなたのお兄《にい》さんのことなんですが、きのうは、心身ともに平常とお変わりなかったのでしょうね? 思いがけない手紙などは、お受けとりにならなかったのでしょうね? なにかご心配のことはなかったのでしょうね?」
「ええ、いつもと、まったく変わりませんでした」
「なんらかの点で、取り乱したり、気にしておいでになるようなことはなかったのでしょうね?」
「失礼ですが、警部、わたしは、そうは申しあげなかったのですよ。取り乱したり、いらいらと気にしたりするのは、気の毒な兄の平常の状態だったのですから」
「それはまた、どうしてだったのです?」
「ご存じないかもしれませんが、わたしの嫂《あによめ》のクラーク夫人は、非常に健康状態が悪いのです。ここだけの話ですが、はっきり申しあげますと、嫂は、不治の癌《がん》をわずらっていまして、あまり長く持ちそうにもないのです。嫂の病気のことが、兄の頭をおそろしく悩ましていたのですね。わたし自身は、最近、東洋から帰って来たのですが、兄の変わりようにびっくりしたくらいです」
ポワロが口を入れて、たずねた。
「いかがです、クラークさん、あなたのご令兄が崖《がけ》の下で、射ち殺されておいでになったとか――あるいは、そのかたわらにピストルがあるのが発見されたとしたら、あなたは、まず一番にどうお考えになります?」
「率直に申しあげると、わたしは、すぐ自殺したのだと思うでしょうね」と、クラークはいった。
「まただ!」と、ポワロはいった。
「なんのことでしょう?」
「同じことが繰り返されているというのです。なに、たいしたことじゃありません」
「いずれにしろ、自殺ではなかったのです」と、クロームがちょっとぶっきらぼうにいった。「ところで、クラークさん、毎晩、散歩にお出かけになるのがお兄さんの習慣だということでしたね?」
「そうです。いつも散歩していました」
「毎晩ですか?」
「さよう、雨降りには出かけませんでしたがね、もちろん」
「それで、お家の方はどなたも、その習慣をご存じだったのですね?」
「もちろんです」
「それから、外では?」
「外とおっしゃる意味がよくわからないのですが、庭番が知っていたかどうか、わたしにもわかりませんね」
「それから、村では?」
「厳密にいいますと、村というものはないのです。チャーストン・フェラーズには、郵便局と人家がいくつかあります――が、村というものも、店というものもないのです」
「すると、見馴《みな》れない人間が、この辺をうろつけば、すぐに目につくでしょうね?」
「まるで反対ですね。八月には、この辺一帯はふだん見馴れない人の群れで、ごった返しになるのです。毎日のように、ブリクスハムや、トーケイや、ぺイントンから、自動車やバスに乗ったり、歩いたりしてやって来るのです。向こうの下のあたりを(と、かれは指でさして)ブロードサンドといいますが、これは、非常に評判の浜辺ですし、エルべリーの入江もそうです――こっちの方は、有名な景色《けしき》のいいところで、人々がピクニックに来るんです。わたしは、あんなに来てほしくないんですがね! 六月から七月のはじめにかけては、この辺一帯がどんなに美しくて、静かなところか、とてもおわかりにはならないでしょうね」
「すると、見馴れない人がやって来ても気がつかないだろうと、おっしゃるわけですね?」
「つかないでしょうね、その男が一見して――そう、気が変になっているというのでなければ」
「この犯人は、気が変なようには見えないのです」と、クロームが確信を帯びた調子でいった。「わたしのいおうとすることがおわかりでしょう、クラークさん。その男は、あらかじめこの辺を捜し出して、お兄さんが夕方散歩に行かれる習慣を見つけたのにちがいないのです。それはそうと、きのうあたり、ご存じのない人間が、こちらのお宅へやって来て、カーマイケル卿にお目にかかりたいといった者はないでしょうね?」
「わたしの知っているかぎりでは、ありません――が、デベリルに聞いてみましょう」
かれは、ベルを鳴らした。そして、出て来た執事にたずねた。
「いいえ、旦那さま、どなたもカーマイケル卿を訪《たず》ねていらっしゃいませんでした。それに、お邸のまわりをうろついているような者も、見かけませんでした。女中たちにも聞いてみましたが、やはり、誰も気づいた者もございませんでしたようで」
執事は、しばらく待っていてから、たずねた。「ご用は、それだけでございましょうか?」
「いいよ、デベリル、さがってよろしい」
執事はさがって行ったが、ドアのところで一足後へ寄って、若い婦人を通してやった。
かの女がはいって来ると、フランクリン・クラークは立ちあがった。
「ミス・グレイです、みなさん。兄の秘書です」
わたしの注意は、たちまち、その娘の、スカンジナビア人らしい、すばらしい美しさにとらえられてしまった。ほとんど無色といっていい灰色の髪の毛に――明かるい灰色の目――ノルウェー人やスウェーデン人の中に見られるような、透きとおった輝くばかりの白い顔色だった。年のころは二十七ぐらいで、そのはでな美しさと同じくらい有能らしい様子だった。
「なにか、お役に立ちますかしら?」と、腰をおろすと、かの女はたずねた。
クラークがかの女にコーヒーを持って来てやったが、かの女は、なにもほしくないとことわった。
「カーマイケル卿の通信を扱っておいででしたか?」と、クロームがたずねた。
「はい、全部扱っておりました」
「ABCという署名のある手紙を、一度もお受けとりになったことはありませんでしょうね?」
「ABCですね?」かの女は、首を横に振った。「いいえ、確かに受けとったことはございません」
「最近、夕方の散歩の途中に、誰かうろついている人間を見たというような話を、卿はなさいませんでしたでしょうね」
「いいえ、そのようなお話をなすったことは、一度もございませんでした」
「それから、あなた自身も、見馴れぬ人間に気がついたようなことは、おありにならないでしょうね?」
「うろついていたということになりますと、はっきりいえませんわ。もちろん、いまごろの時節になりますと、おっしゃるように、|歩きまわっている《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》人はたくさんございます。べつにこれというあてもないのに、ぶらぶらゴルフ・リンクを通ったり、海辺へ行く道を降りて行ったりする人を、ちょいちょい見かけます。そういうわけですから、一年のうちでも、いまごろに見かける人は、誰もかれも顔馴染《かおなじみ》のない人ばかりということになりますわね」
ポワロは、じっと考えながら、うなずいた。
クローム警部が、カーマイケル卿の夜の散歩の場所へ連れて行ってもらいたいと、たのみこんだ。フランクリン・クラークがフランス風の窓を通りぬけて、わたしたちを案内した。ミス・グレイも、わたしたちといっしょに出かけた。
かの女とわたしとは、ちょっと、みんなの後になった。
「みなさんには、きっと、大変なショックだったでしょうね」と、わたしがいった。
「まったく信じられないようですわ。ゆうべ、わたくしが床へはいりましたところへ、警察から電話がかかってまいりましたんですよ。階下の話し声がいろいろ聞こえましたものですから、じっとしていられなくて降りて行って、なにかあったのかと思って、たずねたんでございますよ。ちょうどデべリルと、クラークさまとが、提灯《ちょうちん》を持ってお出かけになるところでしたの」
「何時ごろ、カーマイケル卿は、いつも散歩からお帰りでした?」
「十時十五分前ごろで。いつも脇《わき》の戸口から、ひとりでおはいりになって、そのまま、まっすぐ寝室へおはいりになることもあれば、蒐集品のおいてございます美術館へいらっしゃることもこざいました。ですから、警察から電話がございませんでしたら、けさになって、お起こしに伺うまで、たぶん、誰も気がつかなかったでございましょうね」
「奥さんには、きっと、大変なショックだったでしょうね?」
「クラーク夫人は、いつも相当の分量のモルヒネを打ちつづけていらっしゃいますんですよ。ですから、まわりで起こっていることがおわかりになるほど、意識がはっきりしていらっしゃらないと思いますわ」
わたしたちは、庭の門をぬけて、ゴルフ・リンクへ出た。その隅を突っ切って、木戸を通り、けわしい、曲がりくねった道へ出て行った。
「この道を降りると、エルベリーの入江へ行けるのです」と、フランクリン・クラークが説明して聞かせた。「しかし、二年前に、本道からブロードサンドを通って、エルべリーに通じる新しい道をつくったものですから、いまでは、この道は、実際には通る人もなくなっているのです」
わたしたちは、その道を降りて行った。降りきったところから、細い道が、茨《いばら》や羊歯《しだ》の生《お》い茂った間を、海の方へつづいている。不意に、わたしたちは、海と、まっ白な小石のきらめいている砂浜を見おろす、草つきの尾根の上に出た。まわりには、濃い緑色の木々が、下の海までつづいていた。うっとりとするようなところだった――白と、濃い緑の色と――サファイヤのような青い色と。
「なんて、きれいなんだろう!」と、わたしは、大きな声でいった。
クラークは、心のこもった目つきで、わたしの方を振り返って、
「そうでしょう? ここに、こんないいところがあるのに、どうして、世間の人は、海を渡ってリビエラなんかに行きたがるんでしょう! わたしも、以前、世界じゅうを歩きまわったこともありましたが、正直なところ、こんな美しいところを、一度だって見たこともありませんでしたね」
それから、いかにも夢中になったのを恥じるように、ずっと事務的な口調でいった。
「これが、兄の夕方の散歩道でした。このあたりまで来てから、小道をもどって、左へ行かずに右へ曲がって、畑のそばを通り、原っぱをぬけて、家へもどるのでした」
わたしたちは歩きつづけて、原っぱを半分ほど突っ切ったところにある生垣《いけがき》のそばの地点に来た。死体が発見されたのは、そこだった。
クロームはうなずいて、
「これならやりやすい。男は、この陰にかくれていたのですね。お兄さんは殴《なぐ》りつけられるまで、なんにも気がつかなかったでしょうね」
秘書の娘は、わたしの脇《わき》で、身ぶるいをした。
フランクリン・クラークがいった。
「しっかりなさい、ソーラ。まったく不快きわまる話だが、事実を避けるわけにはいかないんですから」
ソーラ・グレイ――いかにも、かの女にふさわしい名前だ。
わたしたちは、そこから、邸へ引っ返した。死体は、写真にとって、運び去った後だった。
わたしたちが広い階段をのぼって行くと、黒い鞄をさげた医者が、部屋から出て来た。
「なにか聞かしていただくことがございますか?」と、クラークがたずねた。
医者は、首を振って、
「まったく単純なケースです。専門的なことは、検屍審問の時まで控えておきますが、とにかく、お苦しみの様子はありませんでした。即死だったのにちがいありませんですね」
かれは、行こうとしかけながら、
「これから、クラーク夫人のとこころへまいりますので」
病院からの看護婦が、廊下の奥の部屋から出て来たので、医者は、かの女といっしょになって行ってしまった。
わたしたちは、医者の出て来た部屋へはいって行った。
わたしは、またすぐに出て来た。ソーラ・グレイは、まだ階段のあがったところに立っていた。
妙な、おびえたような色が、その顔に浮かんでいた。
「ミス・グレイ――」わたしは、立ちどまった。「どうかしましたか?」
かの女は、わたしに目を向けた。
「わたくし、考えていたんですの」と、かの女はいった。「Dのことを」
「Dのことを?」わたしは、ぽかんと、かの女を見つめた。
「ええ。つぎの殺人のことですわ。なんか手を打たなくちゃいけませんわ。やめさせなければいけませんわ」
クラークが、わたしの後から部屋を出て来た。
かれはいった。
「なにを、やめさせるというのです、ソーラ?」
「こんな、おそろしい殺人ですわ」
「そうです」喧嘩《けんか》でも吹っかけるように、かれは、顎《あご》をつき出した。「いつか、ポワロさんに話してみたいと思っているんです……クロームは、なにか役に立ちましょうか?」かれは、不意にこんな言葉を吐き出した。
わたしは、かれが非常に頭のいい警官だと思われていると、こたえた。
わたしの声は、たぶん、それほど熱意がこもっていなかったのにちがいない。
「あの男は、ひどく癪《しゃく》にさわる態度をしていましたね」と、クラークはいった。「なんでもかでも知っているといわんばかりの顔をして――いったい、なにを知っているというんです? わたしの聞いたところじゃ、まるきりなんにも知ってやしないじゃありませんか」
かれは、一、二分黙っていてから、いった。
「ポワロさんは、やっぱりそれだけの値打ちのある人ですね。わたしにひとつ計画があるんです。が、後でお話しましょう」
かれは、廊下を歩いて行って、医者がはいった部屋のドアをこつこつとたたいた。
わたしは、しばらく、もじもじとしていた。娘は、じっと目の前を凝視していた。
「なにを考えていらっしゃるんです、ミス・グレイ?」
かの女は、わたしの方に、目を向けた。
「わたくし、考えていたんですの、|かれは《ヽヽヽ》、|いま《ヽヽ》、|どこにいるのかしら《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》と……あの犯人のことですわ。事件が起こってから、まだ十二時間もたっていないのに……ああ、ほんとの千里眼の人っていないのでしょうか、犯人がいまどこにいて、なにをしているかが、はっきり見えるような……?」
「警察が捜して――」と、わたしはいいかけた。
わたしの陳腐《ちんぷ》な言葉が、呪文《じゅもん》をやぶった。ソーラ・グレイは、われに返った。
「そうですわ」と、かの女はいった。「もちろんですわ」
こんどは、かの女は、階段を降りて行った。わたしは、そこに立ちつくしたまま、かの女の言葉を、頭の中でじっと考えていた。
ABC……
|かれは《ヽヽヽ》、|いま《ヽヽ》、|どこにいるのだろう《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》……?
十六 (この部分はヘイスティングズ大尉の手記ではない)
アレグザンダー・ボナパート・カスト氏は、ほかの観客たちといっしょに、天幕張りのトーケイ館から出て来た。かれは、おそろしくお涙頂戴の映画「一羽の雀《すずめ》もいない」を見ていたのだった……
午後のひなたへ出て来て、かれは、ちょっと、まぶしそうにまたたきをしてから、かれ特有の、まい子の犬のようなふうに、じっと、まわりを見まわした。
かれは、ぶつぶつと口の中で、ひとり言をいった。「こりゃ、いい思いつきだな……」
新聞売りの子供たちが、大声に叫びながら通りすぎた。
「最新のニュースだぞ……チャーストンの殺人狂だよ……」
売子たちの持っているプラカードには、こう書いてあった。
「チャーストンの殺人。特報」
カスト氏は、ポケットをさぐって、銅貨を取り出し、新聞を買った。かれは、すぐには、それを開かなかった。
プリンセス公園にはいると、かれは、ゆるゆるとした足取りで、トーケイ港に面したあずまやの方へ歩いて行った。かれは、腰をおろして、新聞を開いた。
大見出しで出ていた。
カーマイケル・クラーク卿殺さる。
チャーストンの恐るべき惨劇。
殺人狂の仕業。
そして、その下に、こう書いてあった。
全イギリスが、べクスヒルにおける、若い娘、エリザべス・バーナード殺害事件によって、衝撃を受け驚愕《きょうがく》させられたのは、わずか一月前のことであった。この事件に、ABC鉄道案内が一つの役割を果たしていたことは、記憶されるところであろう。いまやまた、ABC鉄道案内が、カーマイケル・クラーク卿の死体のそばに発見されるにいたったので、警察当局は、両犯罪が同一人物によって犯されたものであると信ずるにいたっている。わが海岸避暑地帯を一人の殺人狂が横行濶歩《おうこうかっぽ》するなどということがありうることであろうか?……
フランネルのズボンに、はでな紺のエルテックスのワイシャツ姿の若い男が、カスト氏の脇にかけていたが、声をかけた。
「いやな話ですね――え?」
カスト氏は、ぎくっとした。
「ええ、まったく――まったく――」
かれの両手が、ちゃんと新聞を持っていられないほど、ぶるぶるふるえているのに、若い男は気がついた。
「気ちがいなんて、けっして見わけのつくものじゃありませんね」と、若い男は、話好きらしくいった。「奴らが、いつも間抜け面《づら》をしているってわけのもんじゃありませんからね。それどころか、どうかすれば、あなたやわたしと、そっくり同じように見えるものなんでしてね……」
「そうでしょうね」と、カスト氏はいった。
「実際ですよ。どうかすると、かれらの心を狂わしたのは、戦争だってこともありますね――それ以来、元にもどらないんですから」
「そう――そうでしょうな」
「わたしは、戦争はきらいですね」と、若い男はいった。
相手は、かれの方を向いて、
「わたしは、疫病《えきびょう》も、眠り病も、飢饉《ききん》も、癌もきらいです……だが、こういうものは、どうしようもないんですからね!」
「戦争は防止できますよ」と、青年は、確信ありげにいった。
カスト氏は、声をたてて笑った。かれは、しばらく笑っていた。
若い男は、すこしびっくりして、
「ちょっと頭がおかしいんだな」と思った。
それから、大きな声でいった。
「失礼ですが、あなたも戦争においでになったのでしょう」
「行きました」と、カスト氏はいった。「それで――それで――頭をだめにしてしまいました。それからというもの、わたしの頭は元へもどらないんです。痛みましてね。おそろしく痛むんです」
「それはそれは! お気の毒ですね」と、若い男は、ぎごちなくいった。
「どうかすると、まるきりわからないことがあるんです、自分のしていることが……」
「そうですか? さて、わたしは、出かけなくちゃなりませんので」といって、若い男は、急いでそこを離れた。かれは、人間というものが、ひとたび自分の健康のことを話しはじめると、どういうことになるかということを知っていたのだ。
カスト氏は、新聞を手にしたまま、後に残った。
かれは、何度も何度も読み返した。
かれの前を、人々が往《い》ったり来たりした。
たいていの人が、殺人事件のことを話していた……。
「おそろしいね……中国人が関係しているとは思わないかい? その給仕女がいたのは、中国人のカフェじゃなかったのかい?……」
「ほんとうは、ゴルフ・リンクで……」
「わたしが聞いたのじゃ、海岸だとかって……」
「――でも、ねえ、あたしたち、エルベリーへお茶を飲みに行ったばかりじゃないの、ほんのきのう……」
「――警察が、きっとつかまえるよ……」
「――もういまごろは、つかまっているかもしれないわね……」
「――きっと、奴は、トーケイにいるんだよ……もうひとりの女、なんとかいったっけ、あの女を殺した……」
カスト氏は、ひどく手ぎわよく新聞をたたんで、腰かけの上においた。それから、立ちあがると、落ちついて、町の方へ歩いて行った。
娘たち、白や、ピンクや、紺の服を着た娘たち、夏の上衣《うわぎ》や、ゆるいズボンや、半ズボンをはいた娘たちが、かれとすれちがった。みんな、声をたてて笑ったり、くすくす笑ったりしていた。その目という目は、すれちがう男たちの品定めをしていた。
しかし、その目は、一度も、いや、一瞬間も、カスト氏の上にはとまらなかった……。
かれは、小さなテーブルについて、お茶と、デボンシャー・クリームとを注文した……。
十七 準備期間
カーマイケル・クラーク卿の殺人事件があってからというもの、ABC事件は、一足飛びに有名になってしまった。
新聞は、そのことでもちきりだった。あらゆる種類の「手がかり」が発見されては、報道された。逮捕もさし迫ったと伝えられた。わずかでも事件に関係のある、あらゆる人物や場所の写真が出された。記者に会って意見を述べそうな人の会見記も載った。それから、下院での質疑応答なども掲載された。
アンドーバー殺人事件も、いまでは、ほかの二つの事件とひとまとめにして考えられていた。
なにもかも一般に公開するのが、犯人を逮捕するための最善の見込みに通ずるものだというのが、スコットランド・ヤードの見解だった。それで、大英帝国の全国民が、素人《しろうと》探偵の大群となってしまった。
「デイリー・フリッカー」紙は、つぎのような見出しを使うという、すばらしい妙案を考え出した。
≪犯人は、あなたの町にいる!≫
ポワロは、もちろん、事件のまっただ中にいた。かれのところに送られた手紙は、複写して公表された。かれは、犯行を防がなかったといって大々的に非難されるかと思うと、犯人を名ざすところまで来ているのだといって弁護されたりしていた。
新聞記者たちは、インタビューで、絶え間なく、かれを悩ました。
ポワロ氏、本日の見解。
そして、記事の大半は、ばかげた言葉で埋められているのが常だった。
ポワロ氏、事態を重視。
ポワロ氏、成功の前夜にあり。
ポワロ氏の親友、ヘイスティングズ大尉、本社特派員に語る……
「ポワロ」と、わたしは叫ぶのだった。「どうか信じてくれ。わたしは、こんなようなことを、ひと言もいやしなかったんだから」
わが友は、やさしく、こうこたえてくれるのだった。
「わかってるよ、ヘイスティングズ――よくわかっているよ。話した言葉と書かれた言葉と――その間には、びっくりするほどの深淵《しんえん》があるものなんですよ。ちょっと文章を変えただけで、完全に元の意味が反対になってしまうことがあるんですからね」
「わたしがこんなことをいったなんて、きみに、思われたくないから――」
「心配しなくてもいいですよ。こういうことは、みんな、たいしたことじゃないんですよ。こういうばかげたことが、役に立つことだってあるんですからね」
「どういう?」
「いいですか」と、ポワロは、きびしい口調でいった。「もしも、きょう、わたしが『デイリー・ブラグ』紙に話したというものを、わが殺人狂が読んだとしてごらんなさい。かれが敵として、わたしに抱いているあらゆる尊敬の念をうしなうことは明らかですよ!」
わたしは、おそらく、捜査の面では、実際的なことがなにも講じられていないような印象を与えているかもしれない。ところが反対に、|ロンドン警視庁《スコットランド・ヤード》と各地方警察とは、どんな小さな手がかりにも、その追及に不撓不屈《ふとうふくつ》の努力をつづけていた。
ホテル、旅館、下宿屋――犯罪と関係のある広大な地域内にある、これらの業種のものは、すべて、虱《しらみ》つぶしに調べあげられた。
「怪しげな風体《ふうてい》の、目つきのおどおどした男を見かけた」とか、「こそこそと歩いている、人相の悪い男に気がついた」とかという、想像力豊かな人たちのもたらす幾百という話も、最後の点まで、ふるいにかけられた。情報は、この上もなく漠然《ばくぜん》とした性質のものでさえも、いいかげんに見のがすようなことはなかった。汽車、バス、電車、赤帽、車掌、本屋、文房具店――これらのすべてにわたって、訊問《じんもん》と検証とが、たゆみなくつづけられた。
すくなくとも二十人の人間が、問題の夜の行動について、警察が納得するまで、留置されて訊問を受けた。
かけ値のない結果をいうと、全然、零《ゼロ》というわけでもなかった。ある陳述は、まあ価値があるものとして、注意され、記録にも残されたりしたが、それ以上の証拠がないために、つぎの段階へ進んで行くこともできなかった。
クロームやその同僚たちが、たゆみなく努力をつづけているのに、ポワロは、不思議なほどのんびりしすぎているように、わたしには思えた。わたしたちは、何度もいい争いをした。
「しかし、わたしにどうしろというんです、あなた? きまりきった訊問なら、警察の方が、わたしよりずっと上手にやりますよ。いつだって――いつだって、あなたは、犬のように、わたしに走りまわっていてほしいんですね」
「きみが家にすわっているよりは、まるで――まるで――」
「賢者のようにですか! わたしの力は、ヘイスティングズ、わたしの脳味噌の中にあるので、脚《あし》にはないんです! あなたには怠けているように見えるかもしれないが、その間でもしょっちゅう、わたしは、思案しているんですよ」
「思案しているんですって?」と、わたしは叫ぶようにいった。「いまは、熟考する時ですか?」
「そうです。千べん繰り返してもいいが、そうですよ」
「しかしだね、熟考していて、なにが得られるんです? きみは、三つの事件の事実を、なにからなにまで、そらでおぼえているじゃないか」
「わたしが考えているのは、いろいろな事実じゃない――そうじゃなくて、犯人の精神状態ですよ」
「気ちがいの精神状態!」
「そのとおり。だから、すぐにはつかめないんです。|犯人がどんな人間かということがわかれば《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|それが誰かということも発見できるのです《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。そして、わたしにも、すこしずつわかってきているのです。アンドーバー事件のあった後、わたしたちは、犯人について、どんなことを知っていたでしょう? ほとんど皆無に近かったじゃありませんか。ベクスヒル事件の後は? ほんのすこしわかっていた。チャーストン殺人事件の後は? 一段とね。わたしには、わかりはじめてきているんです――あなたが知りたいというような――容貌《ヽヽ》とか、姿《ヽ》とかの輪郭ではなしに――精神状態《ヽヽヽヽ》のあらましなんです。ある一定の方向に向かって、動き、働いている精神状態なんです。そして、つぎの犯罪の後では――」
「ポワロ!」
友人は、冷静に、わたしを見た。
「でも、そうですよ、ヘイスティングズ、もう一つ犯罪が起きるのは、ほとんど確実だと思います。運は、チャンスにかかっているんです。いままでのところは、われわれの未知の男の方が幸運だったのです。こんどは、運がかれにそむくようになるかもしれない。しかし、いずれにしても、つぎの犯罪が起これば、非常に多くのことがわかるでしょう。犯罪は、おそろしくあらわれやすいものです。あなたの思うとおりのやり方で、あなたの嗜好《しこう》や、習慣や、心の持ち方などを変えようとしてごらんなさい。そうすれば、あなたの行動によって、あなたの心があらわれてくるものなんです。混乱した徴候が見えて――時には、まるで二つの知性が活動しているようにさえ見えるでしょう――が、じきに、輪郭がはっきりしてきて、わたしには、わかってしまうでしょうよ」
「それは、誰です?」
「ちがいますよ、ヘイスティングズ、かれの名前や住所がわかるわけじゃないんです! わたしにわかるのは、|かれがどんな種類の人間か《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》ということなんで……」
「それから?」
「それから、わたしは、釣りあげるというわけですよ」
わたしが当惑したような顔でいると、かれは、つづけていった。
「いいかい、ヘイスティングズ、老練な漁夫というものは、どういう魚にはどういう餌がいいかということを、正確に知っているものなんですよ。わたしも、その一番いい餌を試してみようと思うんです」
「それから?」
「それから? それから? あなたはまるで、いつまでも『はあ、それで?』とばっかりいっているクローム先生のように、頭が悪いですね。そうですよ、それから、相手が餌と釣針をのみこむと、わたしたちが糸をたぐり寄せて……」
「その間に、あっちでもこっちでも、人が死んで行くというわけでしょう」
「三人だけですよ。ところが、どうです。毎週、交通事故で――約百四十人が死んでるじゃありませんか?」
「それは、まったく話が別ですよ」
「死んで行く者にとっては、おそらく、まったく同じでしょう。死者以外の、親戚《しんせき》や友人には――そう、ちがいはあるでしょう。しかし、すくなくとも一つだけ、この事件で、わたしを喜ばせることがあるんです」
「喜ばせるなどというものがあるなら、ぜひ、聞かせてもらいたいものだね」
「皮肉をいってもむだですよ。それはね、無実の人間を苦しませるような罪の影が、こんどの場合にはないということがうれしいんですよ」
「かえって悪くないんですか?」
「いや、いや、絶対にそんなことはありませんよ! 世の中に、なにがおそろしいといって、疑惑の満ちた雰囲気《ふんいき》の中にいて――看視されているのがわかったり、愛情が恐怖に変わって行くのを、まざまざと見たり――かと思うと、身近かな者や、ごく親しい者を疑うということぐらい、おそろしいことはありませんよ……それこそ、不愉快というより――毒気の中にいるようですよ。そうです、そういう、無実の人間の生活を毒するものだけは、すくなくとも、ABCの戸口におくわけにはいきませんよ」
「すぐに、きみは犯人の弁護をするようになるだろうな!」と、わたしは、苦々しげにいった。
「どうして、いけないんです? かれは、自分がまったく正しいと思っているかもしれないし、われわれだって、おそらく、最後には、かれの考えに同情してしまうかもしれないのですよ」
「まさか、ポワロ!」
「やれやれ! だいぶ驚かしてしまったようですね。まず、わたしの怠慢ぶりで――それから、わたしの考え方で」
わたしは、返事をしないで、首を横に振った。
「とにかく」と、一、二分して、ポワロはいった。「一つだけ、あなたを喜ばす案があるんです――というのは、それは、積極的で、消極的じゃないからなんです。それに、そいつは、むやみにしゃべることが必要で、実際に考えることがいらないんです」
わたしは、かれのこういう口振りが、まったく気に入らなかった。
「なんです、それは?」と、わたしは、用心深くたずねた。
「被害者の友人や、親戚や、召使いから、知っていることをそっくり、引き出すことですよ」
「すると、きみは、かれらがいろいろなことを隠していると思っているのかい?」
「故意に隠しているというのじゃない。しかし、知っていることをなんでも話すということは、いつでも、暗《あん》に選択を含んでいるということなんだ。もしも、わたしがあなたに、きのうのあなたのことを話してもらえないかと、いうとすると、おそらく、あなたはこたえるでしょう。『九時に起きて、九時半に朝食をとった。卵とベーコンとコーヒーだった。それから、クラブに行った、それから、なになに』というふうにね。ところが、『爪《つめ》をいためたので切った、ベルを鳴らして、ひげ剃《そ》りの湯を持って来いといいつけた、テーブル・クロスの上に、ちょっとコーヒーをこぼした、帽子にブラシをかけてから、かぶった』というようなことは、いわないでしょう。人間は、なにからなにまで、いうということはできないものなんです。ですから、|選択をする《ヽヽヽヽヽ》んです。殺人事件の場合にも、人は、自分《ヽヽ》が重要だと思うことを選ぶんです。ところが、往々にして、その考えていることが間違っているんです!」
「それなら、どうすれば正しいことがつかめるんだい?」
「簡単さ、いまいったように、会話でですよ。しゃべることによってですよ! ある出来事とか、ある人物とか、ある日のこととかを、再三再四、論じ合うことによって、余分なこまかい点が、きっと浮かびあがってくるものなんです」
「どういう種類のこまかい点です?」
「当然、わたしの知らないような、発見したいとも思わないようなものですよ! しかし、いまではもう、普通のことが、その価値をとりもどすだけの十分の時間がたっているんです。この三つの殺人事件に、なんらかの意味をもつような事実なり、言葉なりが、一つもないということは、あらゆる数学の法則に反することですよ。ある些細な出来事、ある取るに足らない言葉の中に、極《き》め手になるようなものがあるに|ちがいない《ヽヽヽヽヽ》のです! それは、乾草の山の中から針を見つけ出すようなものでしょう――|しかし《ヽヽヽ》、|乾草の山の中には《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|針が一本ある《ヽヽヽヽヽヽ》――わたしは、そう信じているんです!」
わたしには、そんなことは、ひどく漠然として、靄《もや》でもかかっているような気がした。
「あなたには、これがわからないんですね? あなたの頭の働きは、ただの女中の頭ほどにも鋭敏じゃないんですね」
そういって、かれは、一通の手紙を投げてよこした。公立小学校の生徒の筆蹟のような斜め書きの字で、きれいに書いてあった。
拝啓――あなたさまに手紙をさしあげる失礼をお許しください。哀れな伯母《おば》のと同じような、おそろしい殺人事件が二度も起こりましてから、わたくしは、いろいろと考えてまいりました。申してみれば、わたくしたちは、みんな同じ舟に乗り合わせているようなものでございます。わたくしは、新聞で若い婦人の写真を拝見いたしました。若い婦人といいますのは、ベクスヒルで殺された方のお姉さんでございます。無遠慮だとは存じましたが、わたくしは、その方にお手紙をさしあげて、ロンドンへ行って仕事に就きたいのですが、あの方か、あの方のお母さんのところで働かしていただけないだろうかと申しあげました。一人の知恵よりは二人の知恵の方がいいということもございますし、このおそろしい悪魔を見つけ出すためだけなのですから、お給金もたくさんはいただこうとは思いません、わたくしたちの知っていることを合わせれば、うまくいくのではないかと、そう書いてさしあげたのです。
あの方は、すぐにいいお返事をくださいまして、ご自分の会社でのお仕事のことや、下宿住まいのことなどを知らせてくださいましたが、わたくしがあなたさまに、お手紙をさしあげた方がよくはないかとおっしゃってくだすって、あの方も、わたくしと同じようなことを考えていたと、そういってくださいました。それからまた、わたくしたちは、同じ苦しみの中にいるのだから、いっしょに立ちあがるべきだともいってくださいました。それで、お手紙を書いて、わたくしがロンドンにまいりましたことと、わたくしの住所をお知らせいたす次第でございます。
失礼の段、お許しくださいませ。かしこ。
メアリー・ドローワー
「メアリー・ドローワーというのは」と、ポワロが、「なかなか利口な娘ですね」といった。
かれは、もう一通の手紙を取り出して、
「これを読んでごらんなさい」
それは、フランクリン・クラークからのもので、これからロンドンに行くところだから、もしさしつかえなければ、あす、ポワロのところを訪ねたいというのだった。
「がっかりしちゃいけませんよ、|あなた《モナミ》」と、ポワロはいった。「行動は、まさに開始されようとしているのです」
十八 ポワロの演説
フランクリン・クラークは、つぎの日の午後三時にやって来ると、遠まわしに様子を探るようなことをしないで、まっすぐに要点にはいった。
「ポワロさん」と、かれは口を開いて、「わたしは、不満なんです」
「どうしたのです、クラークさん?」
「あのクロームという人は、確かに、なかなか有能な警官だとは思いますが、率直にいって、あの人には腹が立ちますよ。あの、おれが一番よく知っているというそぶりときたら! チャーストンへおいでになった時に、ここにいらっしゃるあなたのお友だちの方には、胸にあることをいろいろ申しあげたのですが、兄のことで、いろいろ片づけなければならないことがありましたので、いままで、思うようにならなかったのです。わたしの考えというのはこうなんです、ポワロさん、物事は怠けずに――」
「ヘイスティングズが、いつもそういうんですよ!」
「――前進しなければいけないということなんです。つぎの犯罪に対して、備えなければいけないと思うのです」
「すると、つぎの犯罪が起こると、あなたは思うんですね?」
「あなたは、お思いにならないんですか?」
「思いますとも」
「結構です、それなら。わたしは、用意をしたいと思うのです」
「あなたの考えを、はっきり聞かしてください」
「わたしの提案は、ポワロさん、特別な部隊のようなものを――あなたの指揮のもとで働く――部隊を、殺された人たちの友人や、縁者たちでつくろうということなんです」
「それは、いい考えですね!」
「賛成してくだすって、心からうれしく思います。わたしたちの頭を一つにしてあたれば、きっと、なにかに行き当るという気がするのです。それにまた、つぎの警告が来た場合、わたしたちのうちの一人が、その場に居合わせれば――まあ、そんなことはないとは思います――が、以前の犯罪の現場の近くにいたことのある人間を、それと認めることができるかもしれません」
「お考えは、よくわかりました。わたしも賛成です。しかし、お忘れになってはいけないことは、フランクリンさん、ほかの被害者の縁者や友人たちが、ほとんど、あなたのような身分の人たちではないということです。みんな、勤めている人たちで、あるいは、短かい休暇ぐらいは取れるかもしれませんが――」
フランクリン・クラークは、話をさえぎって、いった。
「そうなんですよ。わたしだけが、勘定を引き受けられる位置にいる、ただ一人の人間です。わたし自身も、特別に金持ちというわけではありませんが、兄が金持ちでしたから、結局は、わたしもそういうことになるでしょう。それで、いまも申しあげたように、特別な部隊を編成して、そのメンバーには、その助力に対して、いままで取っておられたのと同じ額を支払うばかりでなく、もちろん、手当もつけ加えるということを提案したいのです」
「その部隊は、誰々で編成したらいいとお考えでしょう?」
「そのことは、もうかなり考えてあります。実をいうと、わたしは、ミス・ミーガン・バーナードに手紙を書きました――事実、この考えは、一部は、あの人の考えでもあるのです。わたしの案として、わたし自身、ミス・バーナード、死んだ娘さんの許婚者だったドナルド・フレイザー君という人たちではどうでしょう。それから、アンドーバーの婦人の姪《めい》がいますね――住所は、ミス・バーナードが知っています。あのご亭主の方は、役に立たないだろうと思います――いつも飲んだくれているという話ですから。それからまた、バーナード家の――お父《とう》さんとお母《かあ》さんも――積極的な闘《たたか》いには、すこし年をとりすぎているように思うのです」
「ほかに?」
「そうですね――ええと、ミス・グレイがいます」
その名前を口にした時、かれは、すこし赤くなった。
「ほう! ミス・グレイがね?」
この短かい言葉の中に、ポワロほどたくみに、やさしい皮肉のニュアンスをこめることのできる人は、誰もいないだろう。三十五年ほどの年月が、フランクリン・クラークから消えてしまって、かれは、急にはにかみ屋の小学生のようになってしまった。
「そうです。ご存じのとおり、ミス・グレイは、二年以上も兄のところにおりました。あの人は、あの地方のことも、あの辺の人々のことも、なんでも知っています。わたしは、一年半も離れていましたので」
ポワロは、かれが気の毒になったのか、話題を変えて、
「東洋に行っておいででしたか? 中国ですか?」
「はあ、兄のために、いろいろ買う品物を捜して、あちらこちらまわっていました」
「さぞおもしろいことがあったでしょうね。ところで、クラークさん、わたしは、あなたの考えに大賛成です。きのうも、ヘイスティングズに、関係者たちの結合こそ必要だと、いっていたばかりなんです。みんなの思い出したことを集めて、その要点を比較してみること――つまりは、一つのことを話し合って――話して――話して――なんべんでも、繰り返して話すことが必要なんです。ちょっとした、罪のない言葉から、はっと思うようなことが出てくるかもしれないのです」
それから数日して、この「特別部隊」が、ポワロの部屋に集まった。
重役会の会長のように、テーブルの上席についたポワロの方を向いて、みんなが、かしこまって腰をおろすと、わたしは、一座を見渡して、わたしの第一印象を、あらためて確かめたり、改めたりした。
中でも、三人の娘たちは、一番目をひいた。ソーラ・グレイのとりわけすばらしい美しさ、ミーガン・バーナードの、レッド・インディアンのように奇妙に顔の表情ひとつ動かさない、強い暗さ――小ざっぱりと黒のコートとスカートに身を包んで、可愛らしい、利口そうな顔をしたメアリー・ドローワー。二人の男性についていえば、フランクリン・クラークの方は、大柄で、日に焼けた褐色の顔で、話好き、ドナルド・フレイザーの方は、無口で、物静かで、興味ある対照でおたがいを引き立たせていた。
ポワロは、もちろん、この好機を逃さずに、小演説をやってのけた。
「紳士淑女のみなさん、今日ここにお集まりいただいたわけは、よくご存じのことと思います。警察は全力を尽して、犯人の捜査にあたっております。わたしもまた、別の方法で、最善をつくしております。しかし、わたしには、個人的関心をお持ちの方々――被害者について個人的利害をお持ちの方々と申してもよろしいが――こうした方々が親しく集まるということは、外部の者の皮相な調査からではとうてい得られないような効果をあげると思われるのであります。
いま、わたしどもは、三つの殺人事件を――一人の老婦人と、一人の若い令嬢と、一人の年配の紳士との、三つの殺人事件を持っております。ただ一つの事柄が、この三人の人々を結びつけております――すなわち、|同一の人物が《ヽヽヽヽヽヽ》、|この人々を殺したという事実《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》であります。このことは、|同一の人物が《ヽヽヽヽヽヽ》、|三つの異なった場所にいて《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、必ず多くの人々によって見られているということであります。この男が、かなり強度な段階の狂人だということは、いうまでもありません。かれの外見やふるまいが、狂人であるというなんの暗示を与えないということも、同様に確実であります。この人物――わたしは、|この男《ヽヽヽ》と申しますが、男であるかもしれないし、女であるかもしれないということをお忘れなく――この人物は、狂気の持つ、あらゆる悪魔的な狡猾《こうかつ》さを備えているのであります。この男は、これまでのところ、完全にその形跡をくらますのに成功してまいりました。警察当局は、ある漠然とした徴候はつかんでおりますが、それによって行動しうるようなことは、なにもつかんではいないのであります。
しかしながら、漠然としたものでなく、確実な徴候が実在しなければなりません。ここで、一つ特別な点をあげてみますと――この殺人鬼は、ベクスヒルに真夜中に着いて、都合よく海岸で、Bではじまる娘さんを見つけ出したというわけではなく――」
「その点にはいらなければなりませんか?」
発言したのは、ドナルド・フレイザーだった――その言葉は、なにか心の中の煩悶《はんもん》のために、かれの体から絞り出されたような気がした。
「あらゆる問題にはいってみることが必要なのですよ、ムッシュー」と、かれの方を向いて、ポワロはいった。「あなたがここに出席しておられるのは、細部の点を考えるのを拒否して、あなたの感情をそっとしておくためではなくて、必要ならば、事件の奥底にまではいりこんで、その感情を痛めつけもしなければならないのです。前にも申しましたように、ベッティ・バーナードを、ABCの犠牲者としたものは、たんなる偶然《ヽヽ》ではなかったのであります。犯人の側には、慎重な選択が――したがって、前もって計画があったのにちがいありません。いいかえれば、犯人は、あらかじめ、その土地を偵察したのにちがいないのです。それには、犯人自身、前もって知っていたいろいろな事実――アンドーバーで犯罪を犯すのに一番都合のいい時間とか――ベクスヒルで犯罪を演じたということとか――チャーストンにおけるカーマイケル・クラーク卿の習慣とかいう事実があったのです。ですから、わたしとしては、この男の正体をつきとめるのに役立つ、どんな徴候も――ごくわずかのヒントすらも――ないと信じるわけにはいかないのであります。
ここで、わたしは、一つの仮説を立ててみましょう。それは、誰か――あるいは、みなさんの|すべてが《ヽヽヽヽ》――|知っていることに気がついていない《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|なにかを知っていられる《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、と、いうことであります。
遅かれ早かれ、みなさんの相互の協力によって、なにかが明かるみに出てくるでしょうし、夢にも思ってみなかったような意味を持ってくるだろうと思います。ちょうど、はめ絵のようなもので――みなさんは、めいめい、一見《ヽヽ》、|なんの意味もないようなかけらをお持ちになっているのですが《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|それらを合わせてみると《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|全体の絵の一部分だということがはっきりする《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、そういうようなものを持っておられるということなのです」
「言葉だけですわ!」と、ミーガン・バーナードがいった。
「え?」と、ポワロが聞き返すように、かの女を見た。
「あなたのいまおっしゃったことですの。ただ言葉じゃありませんか。なんの意味もありませんわ」
かの女は、あの一種のすてばちな、暗い熱情をこめていいはなったので、かの女の個性がはっきりわかるようになった。
「言葉というものは、マドモアゼル、観念の着物にすぎないものなのですよ」
「そう、あたし、意味だと思いますわ」と、メアリー・ドローワーがいった。「ほんとにそう思いますわ、お嬢さん。いろいろなことを何度も話しているうちに、進む道がはっきりしてくるということは、よくあるものですわ。どうしてそうなったのか、自分でも気がつかないうちに、気持ちの方がはっきりきまってしまうことだって、よくあるものですわね。話すってことは、いろいろなことを、どこかへ導いてくれるものですわ」
「かりに『言葉すくなければ後累《こうるい》またすくなし』だとしても、われわれは、ここで大いに話し合わなければなりませんね」と、フランクリン・クラークがいった。
「いかがです、フレイザーさん?」
「わたしは、むしろ、あなたのご意見を、どう実地に応用するか、疑問だと思いますね、ポワロさん」
「あなたは、どう思うの、ソーラ?」と、クラークがたずねた。
「あたくし、話し合うという原則は、いつでも正しいことだと思いますわ」
「どうでしょう」と、ポワロが口を開いて、「殺人事件の起こる前の、ご自分の記憶を、みなさんで思い出していただけませんでしょうかね。まあ、さしあたり、クラークさんにお願いしましょうか」
「ええと、待ってくださいよ。兄のカーが殺された日の朝、わたしは、舟に乗って出かけました。鯖《さば》を八匹釣りました。入江は、とてもいい気持ちでした。昼食は、家でとりました。アイルランド式シチューだったようにおぼえています。それから、ハンモックで昼寝をして、お茶を飲みました。手紙を二、三通書きましたが、ポストの締切り時間に間に合わなくて、ペイントンまで、車で出しに行きました。それから、夕食をして、そして――恥ずかしがらずに、いいますが――いつも子供の時に好きだった、E・ネスビットの本を読み返しました。そこへ、電話がかかってきて――」
「それから先は結構です。ところで、よく思い返していただきたいんですが、クラークさん、その朝、海へ出かけて行く途中で、誰かにお会いになりませんでしたか?」
「たくさん、会いました」
「その人たちについて、なにか思い出せませんか?」
「いまは、たった一つも思い出せませんね」
「ほんとうですか?」
「ええと――待ってくださいよ――思い出しました。すばらしく肥《ふと》った女の人で――縞《しま》の絹のドレスを着ていて、いったいどうしたんだろうと不思議に思いました――子供を二人、連れていましたがね――それから、海岸では、フォックス・テリアを連れた青年が二人いて、犬に石を投げてやっていましたっけ――あ、そうだ、黄色い髪の娘が一人、泳ぎながら、きいきい金切り声をあげていました――おかしなものですね、いろいろなことが思い出されてくるというのは――まるで、写真の現像のようですね」
「あなたは、立派な実験の材料ですよ。ところで、その日、もっと遅くなって――庭ではどうでした――郵便局へ行く途中は――」
「庭番が水をやっていました……郵便局へ行く途中ですか? あぶなく自転車に乗った人を轢《ひ》くところでした――ばかな女がよたよたしながら、仲間に大声でわめいているんですよ。それだけだと思いますね」
ポワロは、ソーラ・グレイの方を向いて、
「ミス・グレイ?」
ソーラ・グレイは、澄んだ、はっきりした声でこたえた。
「朝のうちに、カーマイケル卿と手紙の用事をすませまして――家政婦と話しました。午後は、手紙を書いてから、針仕事をしたと思います。思い出すってことは、むずかしいことですわね。でも、ほんとうにふだんと変わらない日でしたわ。床には、早くはいりました」
ちょっと驚いたことには、ポワロは、それ以上たずねようとはしなかった。そして、かれは、いった。
「ミス・バーナード――あなたは、最後に妹さんにお会いになった時のことを思い出せますか?」
「妹の死ぬ二週間ぐらい前だったと思いますわ。土曜から日曜にかけて、あたし、帰っていました。すばらしいお天気でしたので、あたしたち、プールで泳ぎにヘイスティングズまでまいりました」
「その間、おもに、どんなことをお話しでした?」
「あたしの思っていることをいってやりました」と、ミーガンはいった。
「ほかには、どんなことを? 妹さんは、どんなことを話しました?」
娘は、思い出そうとして、眉《まゆ》を寄せた。
「あの子は、お金に困っているといっていました――帽子と、夏の服を二着買ったからですわ。それから、ドンのことをちょっと……ミリー・ヒグリーがきらいだともいっていましたわ――あのカフェにいる仲間の娘のことですわ――それから、カフェの主人の、メリオンという女のことを、二人で笑ってやりましたわ……ほかには、なにもおぼえていませんわ……」
「妹さんは、ほかの――ごめんなさい、フレイザー君――ほかの、会うはずになっている男のことを、いいませんでしたか?」
「あたしには、いわないでしょう」と、冷淡に、ミーガンはいった。
ポワロは、顎の角張った、赤毛の青年の方を向いて、
「フレイザー君――ひとつ、思い出していただきたいんですがね。きみは、あの運命の晩に、カフェへ行ったといいましたね。きみのはじめの考えでは、そこで待っていて、ベッティ・バーナードが出て来るのを見張っているつもりでしたね。そこで待っている間に、きみの注意した人間のことを、誰か思い出せませんか?」
「あの辺ときたら、とてもたくさんの人が歩いていましたのでね。思い出せませんね、誰も」
「失礼だが、思い出そうとしておいでなんですか? どんなに心が夢中になっていても、目は見ているものなんですよ、機械的に――知らず知らずのうちに、しかも、適確に……」
青年は、頑強《がんきょう》に繰り返すだけだった。
「誰も思い出せませんね」
ポワロは、ため息をついて、メアリー・ドローワーの方を向いた。
「あなたは、伯母さんから、たびたび、手紙を受けとっておいででしたね?」
「はい、受けとっていました」
「最後の手紙は、いつでした?」
メアリーは、ちょっと考えていた。
「事件の二日前でした」
「なんと書いてありました?」
「老いぼれの悪魔がやって来たから、耳の痛いことをいって追っ払ってやった――ごめんなさい、こんないい方をして――水曜日に、わたしが来るのを待っているって――その日が、わたしの公休だものですから――そして、二人で映画を見に行こうって、書いてありました。ちょうど、わたしの誕生日のはずでしたから」
なにか――おそらく、そのささやかなお祝いの日を考え出したからだろう、不意に、メアリーの目に涙が浮かんだ。かの女は、ぐっとむせび泣きをこらえて、そのことをあやまった。
「きっと、わたしを許してくださいますわね。ばかなまねはしたくないと思っているんです。泣いたって、どうにもならないんですもの。でも、伯母さんのことを思っただけですわ――それと、わたしのこと――二人ともどんなに楽しかったろうと思うと、どうしても、気が転倒してしまうんです」
「あなたのお気持ちは、よくわかりますよ」と、フランクリン・クラークがいった。「人間の心をとらえるのは、いつも小さなことなんです――それと、とりわけ、なにか楽しいこととか、贈り物とか――なにかすばらしい、自然なことなんですね。わたしは、一度、女の人が轢かれるところを見たのをおぼえています。その人は、新しい靴《くつ》を買ったばかりだったんですね。その人がその場に倒れていて――破れた包みから、おかしな恰好《かっこう》の、踵《かかと》の高いスリッパがのぞいているのを見た時――わたしは、ふっと妙な気になりました――とても、そういったものが哀れに見えたんです」
ミーガンが、不意に、熱にうかされたように話し出した。
「それ、ほんとうだわ――おそろしいほどほんとうだわ、同じようなことが、ベッティにもあったの――死んでから。母さんがあの子に靴下を買って来たんです、贈り物に――それも、事件のあったその日に買ったんです。かわいそうに、母さんは、すっかりおかしくなってしまって、気がついてみると、その靴下に向かって泣いているんです。母さんは、とめどもなくいっているんです。『ベッティに買ってやったのに――ベッティに買ってやったのに――それなのに、あの子は、もうこの靴下を見ることさえできないんだ』って」
かの女自身の声も、いくらかふるえていた。かの女は、身を乗り出すようにして、フランクリン・クラークをまっすぐに見つめていた。二人の間には、突然の同情が――苦しみの中に濃く友愛が生まれていた。
「わかります」と、かれはいった。「ようくわかります。こういうことというものは、忘れようとしても忘れられないことなんですね」
ドナルド・フレイザーは、不安そうに、身をもじもじと動かしていた。
ソーラ・グレイが話題を変えた。
「なにか、計画を立てなくてもよろしいんですの――これから先のために?」と、かの女はたずねた。
「むろんですとも」フランクリン・クラークは、平常の態度にもどって、「わたしの考えでは、その時が来たら――というのは、四番目の手紙が来たら、ということですが――わたしたちは、力を合わせなければいけません。それまでは、まあ、めいめい一か八《ばち》か、やってみちゃどうでしょう。いかがでしょう、ポワロさん、捜査に役立つとお考えになるようなことが、なにかございましょうか?」
「すこしばかり申しあげてみましょう」と、ポワロがいった。
「どうぞ。書きとめておきましょう」かれは、ノート・ブックをひろげた。「どうぞ、おっしゃってください、ポワロさん。第一は――?」
「わたしは、女給のミリー・ヒグリーがなにか役に立つことを知っていそうに思います」
「第一――ミリー・ヒグリー」と、フランクリン・クラークは書きつけた。
「かの女に近づくには、二つの方法があるかと思います。ミス・バーナード、あなたは、攻撃的接近とでもいうのをやってみるんですね」
「それが、わたしの柄に合っているとお思いなんですのね?」と、ひややかに、ミーガンはいった。
「あの娘に喧嘩を吹っかけるんです――あの娘が、妹さんをきらっていたことを、ちゃんと知っていたというんです――それから、妹さんが、あの娘についてあなたに話したことを、みんな、いってやるんです。わたしが間違っていなければ、大変な泥仕合《どろじあい》がはじまることは請け合いです。そこで、あの娘は、妹さんについて頭にあることを、洗いざらいぶちまけるでしょう! そこから、なにか役に立つ事実が飛び出してきますよ」
「そして、第二の方法は?」
「それはね、フレイザー君、あなたがあの娘に、関心を持っているような様子を見せるというのは、どうですか?」
「そんな必要があるんですか?」
「いや、なにも必要だというわけじゃありません。探究の可能な線の一つだというだけです」
「わたしがやってみましょうか?」と、フランクリンが問いをかけた。「わたしは――ええと――かなり広い経験を持っているんですよ、ポワロさん。その若い婦人に、わたしがどんなことができるか、やらせていただきたいですね」
「あら、あなたには、あなたの領分でなさることがおありのはずでしょう」と、ソーラ・グレイが、いくぶん、きつい調子でいった。
フランクリンは、心持ち顔を伏せて、
「そう」と、かれはいった。「ありますね」
「それにしても、いまのところ、向こうで、あなたにやっていただけることは、そうたくさんあるとは思えませんね」と、ポワロはいった。「マドモアゼル・グレイの方が、いまのところでは、ずっと適しておいでのようで――」
ソーラ・グレイが、かれの言葉をさえぎって、
「ですけど、ねえ、ポワロさん、わたくし、もうデボンを引きあげましたのよ」
「え? よくわかりませんでしたが」
「ミス・グレイは、親切にも、後始末の手助けに、残っていてくれたのです」と、フランクリンはいった。「ですが、当然、ロンドンで職につくのを望んでいるので」
ポワロは、鋭い視線を、順々に相手の方に向けた。
「クラーク夫人は、いかがですか?」と、かれはたずねた。
わたしは感心して、ソーラ・グレイの顔がかすかに染まるのを見ていたので、あやうく、クラークの返事を聞きもらすところだった。
「かなり悪いのです。ところで、ポワロさん、デボンまでいらして、嫂《あによめ》に会っていただくわけにはいきませんでしょうか? 嫂は、わたしが出かける前に、ぜひ、あなたにお目にかかりたいといっておりましたのですがね。もちろん、かの女は、二日もつづけて人にお会いできないということも、よくありますが、もし、それでも、おいでいただけるのでしたら――ええ、もちろん、費用は、わたしがお持ちいたします」
「承知しました、クラークさん。明後日では、いかがでしょう?」
「結構です。では、看護婦に知らせておきます。そうすれば、適当に刺戟剤《しげきざい》を用意しておいてくれますでしょう」
「ところで、こんどは、あなたのことだけど」といいながら、ポワロは、メアリーの方を向いて、「あなたには、たぶん、アンドーバーでいい仕事ができるかと思うんですがね。子供たちにあたってごらんなさい」
「子供たちですか?」
「そうです。子供たちは、よそから来た者には、どうしてもしゃべろうとはしないものなんです。しかし、あなたは、伯母さんの住んでいた町では、みんながよく知っているでしょう。あのあたりには、たくさん子供たちが遊んでいたから、伯母さんの店に出入りした人間を見ているかもしれないでしょう」
「ミス・グレイとわたしとは、どうしたらいいでしょう?」と、クラークがたずねた。「というのは、わたしがベクスヒルに行かないとしてですが」
「ポワロさん」と、ソーラ・グレイがいった。「三番目の手紙の消印は、どこになっていましたでしょう?」
「プトニーです、マドモアゼル」
かの女は、考えながらいった。「南西第十五局、プトニー、そうでしたわね?」
「珍らしく、新聞が正確に書きましたね」
「そうしてみると、ABCは、ロンドンの人間ということになりますわね」
「その文面からでは、そうですわね」
「とにかく、奴をおびき寄せなくちゃなりませんね」と、クラークがいった。「ポワロさん、わたしが広告を出してみたら、どうでしょう――まあ、こんなふうに。『ABC、急を要す、HP〔エルキュール・ポワロ〕がきみに向っている。口止め料百ポンド、XYZ』まあ、これほどろこつにしなくても――でも、趣向はおわかりでしょう。これなら、奴をおびき寄せられるかもしれませんよ」
「見込みはありそうですね――そう」
「奴に、わたしを射とうという気を起こさせられるかもしれませんな」
「そんなこと、とても危険で、ばかげていると思いますわ」と、鋭い口調で、ソーラ・グレイがいった。
「どうでしょう、ポワロさん?」
「まあ、やってみても、害にはならないでしょう。ABCは、なかなか悪がしこい奴だから、その手にはのらないだろうと、わたしは思いますよ」ポワロは、ちょっと微笑した。「ねえ、クラークさん、あなたは――こういってはなんだが――心底は、まだ子供みたいな方ですね」
フランクリン・クラークは、ちょっときまり悪そうな顔をした。
「では」と、かれは、ノート・ブックを見ながら、いった。「仕事にかかりましょう。
第一――ミス・バーナードは、ミリー・ヒグリーにあたる。
第二――フレイザー君は、ミス・ヒグリーにあたる。
第三――アンドーバーの子供たち。
第四――新聞広告。
どれも、あまりいい方法だという気もしませんが、なにもしないで待っているよりはましでしょう」
かれは、立ちあがった。そして、二、三分後には、会は解散した。
十九 スウェーデン経由で
ポワロは、自分の席にもどると、腰をおろして、ひとり小声で、口の中で歌をうたっていた。
「あの娘は、あまり頭がよすぎるということが、ふしあわせなんだな」と、つぶやくように、いった。
「誰《だれ》が?」
「ミーガン・バーナード。マドモアゼル・ミーガンさ。『言葉だけですわ』と、たたきつけるようにいったでしょう。わたしのいっていることがまったく無意味だということを、即座に、かの女は見抜いたんですよ。ほかの連中は誰もかれも、よく聞いていたのにね」
「なかなかもっともらしく聞こえたがね」
「もっともらしくね、そうだ。ただ、あの娘が見抜いただけの話ですよ」
「それじゃ、きみは、腹にもないことをいっていたというのかい?」
「わたしの話したことは、まとめようと思えば、一つの短かい言葉にまとめることもできたのさ。それを、わたしは、口から出まかせに、繰り返していたのだが、マドモアゼル・ミーガンをのぞいては、誰もそのことに気がつかなかったというわけさ」
「でも、なぜだね?」
「そうさ――物事をはかどらせるためさ! どうしてもしなければならない仕事があるという印象を、みんなに吹きこむためですよ! まず――なんといったらいいのか――そう、会話の糸口をつけるためですよ!」
「しかし、こういう線から、なにかに到達するとは、きみだって思ってはいないのだろう?」
「ああ、それは、いつだってありうることですよ」
かれは、くすくす笑って、
「悲劇のまっただ中で、喜劇をはじめるということさ。そうだろう?」
「どういう意味だね?」
「人間のドラマだよ、ヘイスティングズ! ほんのちょっと、考えてごらんなさい。ここに、共通の悲劇によって集まった三組の人間がいる。すぐに、第二の芝居がはじまる――まったく別のがね。あなたは、わたしがこのイギリスで、一等はじめに手がけた事件をおぼえていますか? ああ、もう、とても何年も昔のことだ。わたしは、おたがいに愛していた二人の人間をいっしょにしてやった――そのうちの一人を、殺人罪で逮捕するという、簡単なやり方でね! それよりほかに、どうしようもなかったのです! 死のまっただ中で、わたしたちは、生きているのですよ、ヘイスティングズ……わたしは、よく思うのですが、殺人事件は、偉大な結婚|媒酌人《ばいしゃくにん》ですよ」
「いかにもそうだろうがね、ポワロ」と、わたしは、憤慨《ふんがい》して叫ぶようにいった。「確かに、あの人たちのうちで、一人だって、そんなことは考えていないと思うね、ただ――」
「ああ! 親友よ! じゃ、あなたは、どうなんです?」
「わたしが?」
「そうですよ、みんなが帰って行ってから、あなたは、鼻唄《はなうた》まじりで、戸口から帰って来なかったかい?」
「そんなことは、無神経にならなくたって、誰でもするかもしれないよ」
「いかにもそうだ。しかし、あの調子は、あなたが考えていたことを、ちゃんとあらわしていましたよ」
「ほんとか?」
「そう。鼻唄をうたうというのは、非常に危険なことなんですよ。意識下の精神状態をあらわすからね。あなたがうたってた歌がはやったのは、戦争中だったと思うね。こうだったね」ポワロは、ぞっとするようなうら声で、うたいはじめた。
ときにはおれは、赤毛が好きさ
ときにはおれは、金髪《ブロンド》が好きさ
(エデンからスウェーデン経由で来たやつさ)
「これ以上、はっきりわからせるものがあるかしら? もっとも、わたしは、赤毛の女より、金髪の女の方が激しいと思うがね!」
「いや、まったくだ、ポワロ」と、わたしは、いささか赤くなって、叫んだ。
「あたりまえのことですよ。あなたは、フランクリン・クラークが急に、マドモアゼル・ミーガンに、むやみに同情しはじめたのを見たでしょう? ぐっと身を乗り出して、かの女の方を見ていたでしょう? それから、マドモアゼル・ソーラ・グレイが、そのために、どんなにひどくいらいらしていたかにも、気がつきましたか? それから、ドナルド・フレイザー君、かれが――」
「ポワロ」と、わたしはいった。「きみの頭は、手がつけられないほどセンチメンタルだね」
「それこそ、わたしの頭に、一番欠けているものですよ。あなたこそ、センチメンタルですよ、ヘイスティングズ」
わたしがその点について、猛烈に論じようとしかけていたとたんに、ドアが開いた。
驚いたことには、はいって来たのは、ソーラ・グレイだった。
「もどって来て、ごめんなさい」と、かの女は、落ちついて、いった。「でも、お話しておいた方がいいと思うことが、あったものですから、ポワロさん」
「結構ですとも、マドモアゼル。おかけになりませんか?」
かの女は、腰をおろしたが、ほんのしばらく、どう切り出そうかというように、ためらっていた。
「こうなんですの、ポワロさん。さきほどクラークさんは、ご親切に、わたくしが自分の意志でコームサイドを離れたようにいってくださいました。あの方は、ほんとに親切な、誠実な方でございます。でも、ほんとのことを申しますと、おっしゃったとおりじゃないんですの。わたくし、あそこに残るつもりでおりましたんです――コレクションに関係した仕事がたくさんございますのです。わたくしに出てほしいとおっしゃったのは、クラーク夫人だったんでございます! それは、もっともなことだと思いますの。あの方は、大変ご病気が重くて、まわりでさしあげるお薬のために、あの方の頭の方も、いくらか混濁していらっしゃるんでございますわね。それで、猜疑心《さいぎしん》が強くおなりになって、妄想《もうそう》を起こしがちになっていらっしゃいますの。これといった理由もないのに、わたくしを毛嫌《けぎら》いなすって、どうしても、わたくしに家から出るようにと、むりにおっしゃったんでございます」
わたしは、この娘の勇気を感嘆しないではいられなかった。かの女は、たいていの人がそうしたいという気を起こすように、事実を曲げようともしなかったばかりか、驚くほどの率直さで、まっすぐ要点をいってのけたのだ。わたしの心は、かの女に対する賞讚と同情でいっぱいになった。
「あなたは、すばらしい方ですね、こういうことをお話しにおいでになるなんて」と、わたしはいった。
「真実をいうのは、いつでもいいものですわ」と、ちょっと微笑を浮かべて、かの女はいった。「わたくしは、クラークさんの騎士道のかげに、かくまわれていたくないんですの。あの方は、まったく礼儀正しい、寛大な方でございますわ」
その言葉には、温《あたた》かく燃えるものがあった。かの女が、フランクリン・クラークを非常に愛しているのは、明らかだった。
「よく正直におっしゃってくださいましたね、マドモアゼル」と、ポワロがいった。
「わたくしには、まったく打撃でございます」と、悲しそうに、ソーラはいった。「わたくしは、クラーク夫人が、そんなにひどくわたしを嫌っていらっしゃるとは、思いもいたしませんでした。実を申しますと、どちらかといえば、わたくしを好いていてくださるものとばかり、いつも思いこんでおりましたの」かの女は、顔をしかめた。「生きていると、いろいろなことを学びますわ」
かの女は、立ちあがって、
「これだけ申しあげれば、よかったのです。ごめんくださいませ」
わたしは、かの女を階下まで送っていった。
「かの女は、なかなか立派なものだね」と、部屋へもどって来ると、わたしは、いった。「勇気があるよ、あの娘は」
「それから、計算もね」
「どういう意味だね――計算とは?」
「先を見通す力があるという意味ですよ」
わたしは、半信半疑で、ポワロを見た。
「ほんとに、すてきな娘だ」と、わたしはいった。
「それに、まったくすてきなものを着ている。あのモロッコ・クレープの服地と、銀狐《ぎんぎつね》の襟《えり》とは――最新の流行だ!」
「きみは、まるで男の小間物屋だね、ポワロ。わたしは、人が着ているものなんかに、注意したことは一度もないがね」
「あなたは、裸ばかりの植民地に行けばいいでしょうね」
わたしがむっとして、いい返そうとすると、かれは、不意に話題をそらして、いった。
「ねえ、ヘイスティングズ、どうもわたしは、きょうの午後の会話の中で、なにか重要な意味のあることが、もはや出たという印象を振り払うことができないのですがね。妙なんですよ――はっきり、なんだったということはできないんだが……頭の中を、ちらっと、そういう印象が通っただけなんですけど……|これまでに《ヽヽヽヽヽ》、|聞いたか《ヽヽヽヽ》、|見たか《ヽヽヽ》、|書きつけたか《ヽヽヽヽヽヽ》、|したことのような気がするんですがね《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》……」
「なにか、チャーストンでかね?」
「いや――チャーストンじゃない……それよりも前……まあいい、そのうちに、思い出すでしょう……」
かれは、わたしに目を向けたが、(たぶん、わたしがあまりよく注意を払っていなかったのだろう)声をたてて笑うと、また鼻唄をうたいはじめた。
「あの娘《こ》は、天使だ。ちがうかね? エデンから、スウェーデン経由で来たやつさ……」
「ポワロ」と、わたしはいった。「くたばっちまえ!」
二十 クラーク夫人
わたしたちが二度目に訪《たず》ねた時、コームサイドには、深く、こびりついたような憂愁の気が漂っていた。それは、おそらく、ある程度、天候のせいだったかもしれない――それは、じめじめした九月の、あたりにはすでに秋の気配《けはい》がひしひしと感じられる日だったからかもしれないし、ひとつには、確かに、なかばしめ切った、あの家の状態から来ていたのかもしれない。階下の部屋という部屋は、しめ切って、鎧戸《よろいど》までもおろしてあった。そして、わたしたちの通された小さな部屋も、しめっぽい匂《にお》いがして、息がつまりそうだった。
腕ききらしい様子の、病院の看護婦が、糊《のり》のきいた袖《そで》をおろしながら、出て来た。
「ポワロさんですね?」と、かの女は、威勢よく、いった。「看護婦のキャップスティックです。あなたがおいでになることは、クラークさんからのお手紙で承っておりました」
ポワロは、その後のクラーク夫人の容体《ようだい》をたずねた。
「まったく絶望というわけではございません、あらゆる事情を考えてみましても」
「あらゆる事情を考えてみましても」というのは、死の宣告を受けている点を考慮しても、と、いう意味だろうと、わたしは、思った。
「むろん、快方に向かうなどということは望めませんけれど、でも、いろいろ新しい処置ができまして、すこしはお楽にするようにはなっております。ローガン先生も、奥さまのいまのご容体に満足していらっしゃいます」
「でも、ご恢復《かいふく》できないというのは、ほんとうでしょうか?」
「まあ、わたくしどもは、そんなに、はっきり申しあげているわけではございません」といった看護婦のキャップスティックは、こんなぶしつけな口のきき方に、いささか驚いたようだった。
「ご主人のご逝去《せいきょ》は、奥さんには、大変なショックだったでしょうな?」
「でございますけど、ポワロさん、こう申しあげてもおわかりにならないかもしれませんが、健康と精神力とを十分に持っていらっしゃる方がお受けになるほどには、あまりショックをお受けにはなりませんでした。クラーク夫人のご容体では、物事が朦朧《もうろう》としておりますのですから」
「こんなことをうかがって、大変失礼ですが、奥さんもご主人も、どちらも深く愛し合っておいでになったのでしょうね?」
「はい、そうでございますとも。お二人は、大変しあわせなご夫婦でございました。ご主人は、奥さまのことをご心配なすって、気もそぞろでいらっしゃいました。ほんとに、お気の毒な方でございました。それで、先生もいつも困っておしまいでしてね。なにしろ、いいかげんの見込みを申しあげたところで、元気におなりになる方々ではございませんでしょう。ご主人もひどく胸を痛めておいでだったのではないでしょうか、はじめのころは」
「はじめのころというのは? 後では、それほどでもなかったのですか?」
「人は、なにごとにも慣れるものではございませんでしょうか? それに、カーマイケル卿には、あの方のコレクションというものがおありでございました。趣味というものは、男の方には大きな慰めでございますわね。おりおり、売立てがございますと、急いでお出かけになるのが常で、その後では、ご主人とミス・グレイとお二人で、美術館の陳列を新しく変えたり、カタログをつくったり、夢中になっていらっしゃいました」
「ああ、そうそう――ミス・グレイでしたね。あの人は、ここをお出になったのですか?」
「はい――ほんとにお気の毒でございますわ――でも、ご婦人方は、お加減がよくない時には、どうかすると、いろいろとお考えになるものでございます。それに、そういうことは、とやこう申しようもございません。そのまま、おっしゃるとおりに聞いた方が、まだましでございます。ミス・グレイは、その点については、とても物わかりのいい方でございますから」
「クラーク夫人は、前からずっと、あの人がお嫌いだったのですか?」
「いいえ――すくなくとも、お嫌いではございませんでした。実際を申しあげますと、はじめのころは、むしろ、お好きだとばかり思っておりました。でも、むだ話をしていて、あなたさまをお引きとめしてはいけませんわ。わたくしたちがどうしているかと、ご病人がお案じなさいますわ」
かの女は、先に立って階段をのぼり、二階の一部屋に、わたしたちを案内した。以前は寝室だったのを、気持ちのいい居間に変えたものだった。
クラーク夫人は、窓の近くの、大きな|肱掛《ひじかけ》椅子にかけていた。かの女は、痛々しいほど痩《や》せこけていて、その蒼白《あおじろ》い顔は、ひどい病苦に悩んでいる人に特有の、憔悴《しょうすい》した色を浮かべていた。かの女は、ややぼんやりした、夢見るような目つきをしていたが、わたしは、その瞳《ひとみ》がピンの先ぐらいしかないのに気がついた。
「お待ちかねのポワロさんがいらっしゃいましたよ」と、看護婦のキャップスティックが、かん高い、陽気な声でいった。
「まあ、そうかい、ポワロさんがね」と、クラーク夫人は、ぼんやりといった。
かの女は、手をさしのべた。
「クラーク夫人。友人のヘイスティングズ大尉です」
「ご機嫌《きげん》よろしゅうございますか? お二人とも、ようこそ、いらしてくださいました」
わたしたちは、かの女のぼんやりした指示に従って、腰をおろした。物音ひとつしなかった。クラーク夫人は、いつの間にか夢の中に落ちこんでいるようなふうだった。
やがて、つとめて元気を出して、かの女は、いった。
「カーのことについてでしたわね? カーの死のことについて。ああ、そうでしたね」
かの女は、ほっとため息をついたが、あいかわらず、夢見るような様子で、首をふるわせていた。
「あんなことになろうとは、夢にも思いませんでした……わたしこそ、先へ行くものとばかり思っていましたのに……」しばらく、かの女は、じっと考えこんでいた。「カーは、とても丈夫でした――あの人の年にしては、驚くほどでした。病気など一度もしたこともございませんでした。もうかれこれ六十でしたけど――でも、五十くらいにしか見えませんでした……そうです、とても丈夫で……」
かの女は、また、夢の中に落ちこんでしまった。ある種の薬がもたらす効果をよく知っていたポワロには、また、その薬を服用した者に、時間について、いつまでもぐるぐると、永遠に連続しているような印象を与えるものだということも知っていたので、なんにもいわずにいた。すると、不意に、クラーク夫人がいった。
「そうですわ――ほんとに、よくいらしてくださいました。フランクリンに、申しましたんですよ。あの人は、忘れずに、あなたに申しあげるといっておりましたのよ。フランクリンがばかなことをしなければ、いいんですけど……あの人は、とても、すぐにだまされるんですよ、ひどく世間にもまれて来たくせにね。男なんて、あんなものですわ……いつまでも子供っぽくて……フランクリンときたら、とりわけそうなんですよ」
「感情の強そうな方ですね」と、ポワロはいった。
「そう――そうですわ……それに、とても婦人にていちょうで。男というものは、あの道には、とてもばかなものですわ。カーでさえ……」かの女の声は、語尾が消えた。
かの女は、熱病からいらいらするらしく、首を振った。
「なにからなにまで、とてもぼうっとして……人間の体なんて、厄介《やっかい》な物ですね、ポワロさん、とりわけ、重くなりますとね。なんにもほかのことは、頭になくなっちまって……苦しみが遠ざかるか、遠ざからないか、そればっかりで――ほかのことなど、どうでもよくなってしまいます」
「そうでしょうね、クラーク夫人。それも、この世の悲劇の一つですね」
「そのせいで、わたしは、すっかりばかになってしまいまして。あなたに、お話したいと思っていたことさえ思い出せないほどなんですよ」
「ご主人のなくなられたことについてではありませんでしたか?」
「カーのなくなったことで? はい、たぶんそうでございましょう……気ちがい、あわれなやつ……あの殺人犯人のことをいっておりますのですよ。この節は、みんな騒音とスピードで……誰も我慢ができないのですねえ。わたしは、いつも気のちがった人たちを気の毒に思っておりました――あの人たちの頭は、きっと、とても奇妙な感じ方をしていますのでしょうね。それに、閉じこめられていて――きっと、おそろしいことでしょうね。でも、ほかにどうすることができるのでしょう? もしも、あの人たちが人殺しをすれば……」かの女は、首を振った――静かな怒りだった。「まだ、つかまらないのでしょうね?」と、かの女はたずねた。
「はあ、まだです」
「きっと、その男は、あの日、この辺をうろついていたのにちがいありません」
「とてもたくさん、よその土地からの人がおりましたからね、クラーク夫人。夏の休暇の季節ですから」
「そうですね。すっかり忘れてしまって……でも、そういう人たちは、海岸にばかりいて、家の近くへなどまいりませんわ」
「あの日、お宅の方へ来た怪しい者はないのです」
「誰が、そういっております?」と、不意に勢いよく、クラーク夫人がたずねた。
ポワロは、やや驚いた顔で、
「召使いたちだの」と、かれはいった。「ミス・グレイもです」
クラーク夫人は、非常にはっきりといった。
「あの女は、嘘《うそ》つきです!」
わたしが思わず腰をあげかけると、ポワロは、鋭い一瞥《いちべつ》を、わたしに向けた。
クラーク夫人は、いまは、むしろ熱に浮かされたように、しゃべりつづけた。
「わたしは、あの娘など好きじゃなかったのです。一度だって、好きになったこともありません。カーは、あの娘のことを一番大事な宝のように思っていました。なんかといえば、あの娘がみなしごで、世の中でひとりぽっちだなどといって。みなしごだからって、それがどうだというのでしょう? 時には、それこそ、不幸に見えて、実は幸福なんです。ろくでなしの父親だの、飲んだくれの母親だのがいたらどうです――そうすれば、ぐずぐず不平もいいたくなるでしょう。あの娘は、とても勇気があって、いい働き手だといっていました。たぶん、自分の仕事は、よくやったでしょうよ! わたしにさっぱりわからないのは、あの勇敢なのが、どこからきたかということですよ!」
「さあ、そんなに興奮なすっちゃいけませんわ、奥さま」と、なだめながら、看護婦のキャップスティックがいった。「お疲れになってはいけませんわ」
「わたしは、さっそく、荷物を片づけて、出て行ってくれといってやりましたよ! フランクリンたら生意気《なまいき》な、あの娘がわたしのなぐさめになるだろうなんて遠まわしにいうんですよ。ほんとうに、結構ななぐさめですよ! 早く消えてくれればくれるほど、わたしはありがたいって――そういってやりましたよ! フランクリンときたら、大ばかですよ! あれが、あの女と仲間になることなんか、ご免だったんです。あれは、お坊っちゃんですからね! 分別がないんです!『そうしてほしけりゃ、三か月分の給料を払ってあげますよ』っていってやったんですよ。『そのかわり、すぐ出て行ってもらいましょう。一日だって、この家にいてもらいたくないんだから』ってね。病気だと、一つだけいいことがあるんですよ――誰もけっしてさからいませんからね。あれは、わたしのいったとおりにして、あの女は、出て行きました。殉教者のように、出て行ったのでしょうよ――いっそしおらしく、けなげにね!」
「まあ、奥さま、そんなに興奮なさらないで。お体に毒でございますよ」
クラーク夫人は、手を振って、看護婦のキャップスティックを払いのけた。
「あんたも、あの女のことになると、ほかの人たちと似たりよったりのばかだね」
「まあ! 奥さま、そんなこと、おっしゃるものじゃありませんわ。ミス・グレイは、ほんとに、いい娘さんだと、わたし、思っておりますのよ――とてもロマンティックな様子で、まるで小説からぬけ出して来たようで」
「わたしは、あんたのような人たちがみんな、我慢ができないんですよ」と、クラーク夫人は、弱々しくいった。
「でも、もう、あの人は行ってしまいましたわ。すぐに、行ってしまったんですよ」
クラーク夫人は、かすかにいらいらして、首を振ったが、返事はしなかった。
ポワロがいった。
「ミス・グレイが嘘つきだとおっしゃったのは、どういうわけですか?」
「嘘つきだからです。あの女は、怪しい者は、一人もこの家に来なかったと、そう申したのでしょう?」
「そうです」
「だからですよ。わたしは、あの女を見たんですよ――この目で――この窓から――あの女が、正面玄関の階段のところで、まったく見も知らない男と話しているのを」
「いつのことでした、それは?」
「カーのなくなった日の朝――十一時ごろでしたよ」
「どんな様子の男でした、その男は?」
「普通の感じの男で、変わったところは、なんにもありませんでした」
「紳士ですか――それとも、商人ですか?」
「商人じゃないでしょうね。みすぼらしい様子の人間でした。よく思い出せないんですけど」
にわかに苦しそうなわななきが、かの女の顔にあらわれた。
「どうぞ――もう、あちらにいらしてください――すこし疲れました――看護婦さん」
わたしたちは、いわれたとおり、辞去した。
「どうも驚くべき話だね」と、ロンドンに帰る汽車の中で、わたしは、ポワロにいった。「ミス・グレイと見知らぬ男とのことは」
「わかるでしょう、ヘイスティングズ? これが、わたしがいうとおり、|いつでもなにかが発見できるものだ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、ということなんですよ」
「どうして、あの娘は、誰も見かけなかったなんて、嘘をついたのだろう?」
「わたしなら、七通りのちがった理由をあげることができますね――そのうちの一つは、ごく簡単なものですよ」
「それで、わたしをやりこめようというつもりですか?」と、わたしはたずねた。
「おそらく、あなたの才能を発揮してもらうことになるでしょうね。しかし、いまここで、わたしたちがうろたえる必要はありませんよ。一番てっとり早いのは、かの女に聞いてみることですよ」
「そしたら、また別の嘘をつくだろう」
「そうなったら、なかなかおもしろいよ――非常に暗示に富んでるじゃないか――」
「あんな娘が、気ちがいと通謀しているなんて、とほうもない考えだ」
「そのとおり――だから、わたしもそう考えてなんかいませんよ」
わたしは、ややしばらく、考えこんでいた。
「きれいな娘というのも、なかなか辛《つら》いものだね」と、やがてため息をつきながら、わたしはいった。
「そんなことはない。そんな考えは、捨てなくちゃいけませんよ」
「いや、ほんとだよ」と、わたしは、いいはった。「あらゆる人間の手が、ただ、かの女が美人だというだけで、かの女に向かって振りあげられているじゃないか」
「ばかばかしいことをいうもんじゃありませんよ、あなた。コームサイドで、誰があの人を嫌っていたというんです? カーマイケル卿ですか? フランクリンですか? 看護婦のキャップスティックですか?」
「クラーク夫人は、かの女に当たり散らしていたじゃありませんか、まったく」
「|あなた《モナミ》、あなたという人は、きれいな若い娘に向かっては、寛大な気持ちでいっぱいになる人らしいが、まあどちらかというと、わたしは、あの病気の老婦人に同情する方ですね。聡明な、はっきりと物事を見通すことのできるのは、クラーク夫人だけで――あの人の夫も、フランクリン・クラーク氏も、看護婦のキャップスティックも、みんなまったくのめくらかもしれないね――それから、ヘイスティングズ大尉も。
わかるだろう、ヘイスティングズ、いろいろな事件がたどる普通の経過では、|これらの三つの別々のドラマは《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|けっして関係ができるということがないものなんです《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。こういう事件というものは、おたがいに影響を受けないで、事件の経過をたどって行くものなんでしょう。生の交換、結合というものですよ、ヘイスティングズ――そう考えると、わたしは、いつまでも魅了されずにはいられないのですよ」
「さあ、パディントンだよ」というのが、わたしのした唯一のこたえだった。
誰かが、この欺瞞《ぎまん》をあばく時が来たと、わたしは感じた。
ホワイトヘーブン荘に着くと、一人の紳士が、ポワロに会いたいといって待っているとのことだった。
わたしは、フランクリンか、ジャップだろうと思ったのだが、意外にも、それは、ほかならぬドナルド・フレイザーだった。
かれは、ひどく困りきった様子で、その発音のはっきりしない癖も、前よりもずっとひどかった。
ポワロは、しいて、かれの訪問の要点に触れるようなことはしないで、サンドウィッチと、一杯のワインとをすすめた。
それらのきき目があらわれるまで、ポワロは、相手に口を開かせないで、いままで、どこへ行って来たかを話して聞かせたり、あの病気の婦人のことを同情と親切さとをこめてしゃべっていた。
サンドウィッチを平らげてしまい、ワインを飲んでしまうまで、かれは、個人的な話題にはいらなかった。
「ベクスヒルから来たのでしょうね、フレイザー君?」
「そうです」
「ミリー・ヒグリーのことは、うまくいきましたか?」
「ミリー・ヒグリー? ミリー・ヒグリー?」フレイザーは、不審そうに、その名を繰り返した。「ああ、あの娘ですか! いいえ、まだ、なんにもしませんでした。というのは――」
かれは、いうのをやめた。両手を神経質そうに、からみ合わせていた。
「わたしは、なぜ、ここへ来たのかわからないんです」と、かれは、急に大声でいい出した。
「わたしには、わかりますよ」と、ポワロはいった。
「わかるもんですか。どうして、わかるんです?」
「きみが、わたしのところへ来たのは、誰かに打ち明けなければならないことがあるからでしょう。そして、きみは、間違いなんかしませんでしたよ。わたしは、それにふさわしい人間だ。さあ、話してごらんなさい!」
ポワロの自信に満ちた様子が、効を奏した。フレイザーは、妙な、感謝に満ちた、すなおな様子で、かれを見た。
「あなたも、そう思うんですね?」
「もちろん、そうですとも」
「ポワロさん、あなたは、夢のことをご存じですか?」
かれが、こんなことをいい出そうとは、思ってもいなかった。
ところが、ポワロは、驚いたふうも見せなかった。
「知っていますよ」と、かれはこたえた。「夢を見たんですね――?」
「そうです。ごくあたりまえのことだとおっしゃるでしょう――わたしが――わたしが夢を――その夢を見るのは、でも、普通の夢じゃないんです」
「というと?」
「もう、三晩もつづけて見たんです……わたしは、気がちがうんじゃないかという気がして……」
「いってごらんなさい――」
青年の顔は、土気色《つちけいろ》だった。目は、いまにも、顔から飛び出しそうだったし、実際のところ、気ちがいのようだった。
「いつも、同じ夢なんです。わたしは、海辺にいるんです。ベッティを捜しているんです。かの女は、いないんです――いないだけなんです。おわかりでしょう。どうしても、かの女を見つけなければいけないんです。かの女に、ベルトをやらなくちゃいけないんです。それを、手に持っているんです。すると――」
「すると?」
「夢が変わって……わたしは、もう捜してはいないんです。かの女は、わたしの前にいるんです――浜辺にすわって。かの女は、わたしが近づいて行っても見ないんです……というのは――ああ、とても、いえない――」
「つづけなさい」
ポワロの声は命令でもするように――断乎《だんこ》としていた。
「わたしは、かの女のうしろへまわるんです……かの女には、わたしの足音も聞こえないんです。わたしは、かの女の頸《くび》に、そっとベルトをまわして、しめるんです――ああ――しめて……」
その死の苦しみのような声は、ぞっとするようで……わたしは、椅子の両肱にかじりついたほどで……それは、あまりにも真に迫っていた。
「かの女は、息がとまって……死んでいるんです……わたしが首をしめてしまったんです――すると、かの女の頭が、がっくりとうしろに折れて、かの女の顔が、わたしに見えるんです……すると、ミーガンなんです――ベッティじゃないんです!」
かれは、まっ青《さお》になって、ぶるぶる震えながら、椅子に倒れかかった。ポワロは、もう一杯ワインをつぐと、かれの方に出してやった。
「いったい、これは、どういうことなんですか、ポワロさん? どうして、こんな夢を見るんでしょう? 毎晩ですよ……?」
「ワインを飲みたまえ」と、ポワロがいいつけた。
青年は、いわれたとおりにしてから、前よりも落ちついた声で、たずねた。
「どういうことなんでしょう? わたしは――わたしが殺したのじゃないでしょう?」
ポワロがなんとこたえたか、わたしは知らない。というのは、ちょうどその時、郵便配達夫のノックの音を聞いて、すぐに、わたしが部屋を出たからだ。
それどころか、わたしが郵便受けから取り出したものは、ドナルド・フレイザーの異常な打ち明け話に対するわたしの興味を、一ぺんに吹き飛ばしてしまった。
わたしは、居間まで飛んで帰った。
「ポワロ」と、わたしは、叫ぶようにいった。「来たよ、四番目の手紙が」
かれは、飛びあがって、わたしから引ったくると、ペーパー・ナイフをとって、封を切った。かれは、テーブルの上に、それをひろげた。
三人は、いっしょに、その手紙を読んだ。
まだ、うまくいかないんだね? ヒヒ! ヒヒ! きみも警察も、いったい、なにをしているのだ? へ、へ、おもしろいじゃないか? ところで、こんどは、どこにしますかな?
哀れなポワロ先生、まったくお気の毒ですね。
はじめにうまくいかなかったら、何度でも、何度でも、やってみるんだね。
道は、まだまだ、はるかなりだ。
ティツペラリーかい? いやいや――それは、ずっと先のことだ。Tの番になってからさ。
おつぎの、ささやかなる事件は、九月十一日、ドンカスターで起こるのさ。
では、さようなら。
A・B・C
二十一 犯人の人相
ポワロが人間的要素と呼んでいたものが、この事件から、再び消えはじめたのは、そのとたんだったように、わたしは思う。それはちょうど、人間の心が純粋の恐怖に耐えられないために、わたしたちは、普通の人間的関心を抱くことを、一時やめてしまったようなものだった。
わたしたちは、誰もかれも、四番目の手紙が来て、Dの殺人計画の予定の場面を知らせて来るまでは、どう手をつけることも不可能だと感じていた。その待つという気分が、緊張をやわらげていたのだった。
しかし、いまや、白い固い紙面から嘲弄《ちょうろう》している活字体の文字とともに、再び、悪漢の捜査がはじめられたのだ。
クローム警部が、警視庁からやって来た。そして、かれがまだいる間に、フランクリン・クラークと、ミーガン・バーナードとがやって来た。
娘は、かの女もベクスヒルから来たのだと説明した。
「あたし、クラークさんに、ちょっとお聞きしたいことがあったものですから」
かの女は、しきりに気を使って、自分の行動を説明したり、いいわけをしたりしているようだった。わたしは、たいして重要とも思わずに、その事実を心にとめていた。
当然、わたしの頭は、手紙のことでいっぱいで、ほかのことはみんな、頭から追っぱらわれてしまった。
クロームは、どうやらこの事件に、いろいろな関係者が出て来るのを、あまり喜んでいないような気が、わたしはした。かれは、極端にお役人|風《かぜ》を吹かしはじめ、ちゃんとした意見をいわなくなった。
「この手紙は持って行きますよ、ポワロさん。もし、写しを取っておおきになるのでしたら――」
「いや、いや、そんな物はいりません」
「あなたの計画は、どうですか、警部?」と、クラークがたずねた。
「かなり広汎《こうはん》なものですよ、クラークさん」
「こんどこそ、奴をつかまえなけりゃなりません」と、クラークがいった。「実はね、警部、わたしたちは、この事件にあたるために、わたしたち自身の組織をつくりましたよ。関係者たちの部隊というわけです」
クローム警部は、この上もない慇懃《いんぎん》な態度でいった。
「はあ、そうですか?」
「なんですね、あなたは、素人《しろうと》というものをたいしたものと思っていらっしゃらないようですね、警部?」
「あなた方には、われわれと同じようなたよる手が、まあないでしょう、クラークさん?」
「わたしたちには、わたしたちの考えがありますよ――から手じゃありませんよ」
「はあ、そうですか?」
「あなたご自身の職務も、あまり楽ではないようですな、警部。事実、また例のABCの奴に、してやられたという気がするじゃありませんか」
クロームは、その前の方法が失敗したような時には、ともすると、それにあおり立てられて、演説|口調《くちょう》になるということに、わたしは気がついていた。
「今回の、われわれの講じました処置について、公衆が、あまり批評することはあるまいと、わたくしは考えます」と、かれはいった。「あの愚か者は、今回は、十分な警告を与えてくれました。十一日というのは、来週の水曜日までやって来ないのであります。新聞で宣伝戦をやるにも、たっぷり時間があります。ドンカスターは、完全に警戒されるはずです。名前がDではじまるすべての人は、男女の別なく警戒するでしょう――それだけでも、相当に効果があります。その上、われわれは、相当大がかりに、町じゅうに、警官を配置するはずです。これは、すでに、全イギリス警察署長の賛同を得て、準備が整っております。全ドンカスターが、警察当局も市民も一体となって、一人の男を捕えるばかりになっています――ですから、適当な幸運さえあれば、当然、われわれは、奴をつかまえます!」
クラークは、落ちつき払って、いった。
「あなたが競技好きの人じゃないということは、すぐわかりますね、警部さん」
クロームは、じろじろと相手を見つめて、
「どういうことです、クラークさん?」
「おやおや、|つぎの水曜日には《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|ドンカスターで《ヽヽヽヽヽヽヽ》、|セント《ヽヽヽ》・|レジャーの競馬がある《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》ということを、ご存じないのですか?」
警部の顎《あご》が、だらんとさがった。こんどだけは、お馴染《なじみ》の「はあ、そうですか?」も出てこなかった。そのかわりに、かれは、こういった。
「そのとおりでしたな。そうです。そいつは、事態がこみ入りますね……」
「ABCは、ばかじゃありませんね。たとえ、気ちがいだとしてもね」
わたしたちは、状況を考えながら、一、二分の間、みんな黙りこんでいた。競馬場の群衆――熱狂した、スポーツ好きのイギリスの大衆――限りない混乱の場面。
ポワロは、口の中でつぶやいた。
「うまい手だな。やっぱり、よく考えたものだな、こいつは」
「わたしの考えでは」と、クラークがいった。「殺人は、競馬場で起こるでしょうね――たぶん、競馬の行われている最中に」
その瞬間、かれのスポーツ好きの本能が、頭の中で、瞬間的な快楽を味わっているようだった……。
クローム警部は、立ちあがって、手紙を取りあげた。
「セント・レジャーとは、うるさいことですね」と、かれもしぶしぶ認めた。「運が悪いですね」
かれは、出て行った。廊下の方で、なにかしゃべっている人の声が聞こえた。とすぐに、ソーラ・グレイがはいって来た。
かの女は、心配そうにいった。
「警部さんの話じゃ、また手紙が来たということですけど、こんどは、どこですの?」
表は、雨が降っていた。ソーラ・グレイは、黒いコートと、スカートと、毛皮とをつけていた。その金髪の頭の一方に、小さな黒い帽子がのっかっていた。
かの女が話しかけたのは、フランクリン・クラークに向かってだった。そして、まっすぐ、かれのそばへ行って、その腕に片手をかけて、返事を待っていた。
「ドンカスター――しかも、セント・レジャーの日なんです」
わたしたちは、討議をするために席についた。わたしたちみんなが、現場にはりこむつもりでいたのはいうまでもなかったが、競馬のあるということが、前もって練っていた計画をめちゃめちゃにしてしまったことは確かであった。
がっかりした気持ちが、わたしを襲った。いくら事件に対するめいめい個人の関心が強くても、結局のところ、このたった六人というような小さなグループで、いったい、なにができるというのだろう? 慧眼俊敏《けいがんしゅんびん》な、無数の警官が、犯人が事を企てそうな、あらゆる地点を警戒するにちがいない。それに、たかが六人ぽっちの目が加わっても、どれだけのことができるというのだろう?
まるで、わたしの考えにこたえるように、ポワロが声をあげた。かれは、適切にいえば、学校の校長先生か、坊さんのような口調でいった。
「みなさん」と、かれはいった。「わたしたちは、力を分散させてはなりません。わたしたちは、わたしたちの考えに秩序と筋道とを立てて、この事件に接近して行かなければなりません。真実の外側ではなく、内側に目を向けなければなりません。わたしたちは、自分に向かって――みんな、めいめいが――自分は、犯人について、なにを知っているか? と、聞いてみなければなりません。そして、捜し求めている男のモンタージュ写真をつくりあげなければなりません」
「わたくしたちは、かれについて、なんにも知っていませんわ」と、どうしようもないというように、ソーラ・グレイがため息をついた。
「いや、いや、マドモアゼル。そうじゃありません。われわれは一人残らず、かれについて、なにかを知っているのです――|もしも《ヽヽヽ》、|わたしたちが《ヽヽヽヽヽヽ》、|自分の知っていることがなにかということに《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|気がつきさえすれば《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|知っている事柄はいまこの場にあるのだと《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|わたしは信じます《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》、もし、それさえ、手に入れられるとしてのことですが」
クラークは、首を振って、
「わたしたちは、なんにも――あの男が年よりなのか、若いのか――色が白いのか、黒いのか――なんにも知らないのです! わたしたちのうち、誰一人として、かれに会ったこともなければ、話したこともないのです! わたしたちは、みんなが知っていることを、洗いざらい、何度も何度も、話し合いました」
「洗いざらいというわけではありません! たとえば、ここにいらっしゃるミス・グレイは、カーマイケル・クラーク卿が殺された日に、誰も見知らぬ人間を見かけもしなかったし、話しかけもしなかったと、そうおっしゃいましたね」
ソーラ・グレイは、うなずいた。
「そのとおりですわ」
「そうですか? |クラーク夫人が《ヽヽヽヽヽヽヽ》、|わたしたちにおっしゃったところによると《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|マドモアゼル《ヽヽヽヽヽヽ》、|あなたが正面玄関の階段のところに立って《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|一人の男と話しているのを《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|窓から見た《ヽヽヽヽヽ》というのですがね」
「あの方が、見馴れない人と話をしているわたくしを、ごらんになったんですって?」娘は、心底から驚いたようだった。確かに、あの清純な、澄んだ目つきは、誠実以外のなにものでもあるはずがない。
「クラーク夫人は、お間違いなすったにちがいありませんわ。わたしは、けっして――あら!」
その叫び声は、いきなり――かの女の口から飛び出した。まっ赤な波が、かの女の頬《ほお》にあふれた。
「思い出しましたわ、いま! なんてばかなんでしょう! すっかり忘れてしまってましたわ。でも、たいしたことじゃないんです。靴下を売り歩いている人がいるでしょう、ああいう人の一人で――ほら、兵隊あがりの人ですわ。とってもしつこいんですの。やっと、追っ払ってやりましたわ。わたくしがホールをぬけようとしていると、戸口のところへ来たんです。ベルも鳴らさずに、わたくしに話しかけたんです。でも、まったく悪いことをするような人じゃありませんでしたわ。それで、わたくしも忘れていたんでしょうね」
ポワロは、両手で頭をかかえて、体を前後にゆすっていた。かれは、激しく、ぶつぶつとひとり言をいっていたので、ほかの者はなんにもいわずに、じっとかれを見つめているだけだった。
「靴下」と、かれは、つぶやいていた。「靴下……靴下……靴下……これだな……靴下……靴下……これが決め手だな――そうだ……三月前、それから、あの日……それから、いま。よし、わかった!」
かれは、しゃんと身を起こして、切迫した目つきで、わたしを凝視した。
「おぼえているだろう、ヘイスティングズ? アンドーバーの店で、二階へあがったね。椅子の上に、|新しい靴下が一足《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》あったね。そして、いま、二日前に、わたしの注意を呼び起こしたものが、なんだったか、わたしにはわかる。あなたでしたよ、マドモアゼル――」かれは、ミーガンの方に顔を向けて、「あなたは、お母さんが泣いていたと話して聞かせたでしょう、|お母さんが新しい靴下を妹さんに買ってやったって《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|しかも《ヽヽヽ》、|殺されたその日に《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》……」
かれは、ぐるっと、わたしたちを見まわした。
「おわかりでしょう? これが三度も繰り返された、同じ手がかりです。これは、偶然の一致ではありません。マドモアゼルが話して聞かせた時、その話がなんかとつながりがあるなという気が、わたしにはしたのです。いま、どういうつながりがあったのか、はっきりしました。アッシャー夫人の隣りのファウラー夫人がいった言葉。しょっちゅう、いろいろな物を売りつけにやって来る人たち――それから、靴下のことも話に出ました。いってください、マドモアゼル、そうでしょう、あなたのお母さんが、その靴下を買ったのは、店ではなくて、戸口へ売りに来た者からだったのでしょう?」
「そうです――そうです――母は、行商の人から買ったのです……いま、思い出しましたわ。母は、足を棒にして歩きまわって、商売をしなけりゃならないみじめな人たちが、かわいそうだとかなんだとか、いっていましたわ」
「しかし、どんなつながりがあるのでしょう?」と、フランクリンが叫ぶようにいった。「そういう男が靴下を売りに来たからといって、なんの証拠にもならないじゃありませんか!」
「確かに、みなさん、これは偶然の一致でなんか|あるはずがありません《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。三つの犯罪――そして、そのたびに、靴下を売って歩きながら、その土地の様子を探っている、一人の男がいるのです」
かれは、くるっと、ソーラの方に向き直って、
「いってください! その男の人相をいってください」
かの女は、ぼう然と、かれを見て、
「いえませんわ……どういったらいいでしょう……眼鏡《めがね》をかけていた、と思います……それから、着古した外套《がいとう》を……」
「もっとくわしく、マドモアゼル」
「前かがみになっていました……わかりませんわ。ほとんど見なかったんです。目につくような種類の人ではありませんでした……」
ポワロは、重々しくいった。
「確かに、あなたのいうとおりでしょう、マドモアゼル。この殺人事件の全秘密は、あなたの、その犯人の人相の描写にかかっているのです――というのは、疑いもなく、その男が犯人だからです!『目につくような種類の男ではなかった』そうです――それに、疑いはありません……あなたがいまおっしゃった、その言葉こそ、犯人の人相なのです!」
二十二 (この部分はヘイスティングズ大尉の手記ではない)
アレグザンダー・ボナパート・カスト氏は、じっとすわりこんでいた。かれの朝食が、手もつけないまま、皿の中でつめたくなっていた。新聞が、ティー・ポットに立てかけてあった。カスト氏が、むさぼるような興味で読んでいたのは、その新聞だった。
不意に、かれは、立ちあがって、しばらく、歩きまわってから、窓ぎわの椅子に腰をおろした。かれは、両の手に顔をうずめて、おしころしたようなうなり声をあげた。
かれには、戸の開く音が聞こえなかった。家主のマーベリー夫人が、戸口に立っていた。
「ねえ、カストさん、もし、あんたが、なにかうまい――おや、どうかしたんですか? 気分がよくないんですか?」
カスト氏は、両手から顔をあげた。
「なんでもないんです。全然、なんでもないんです、マーベリーさん。なんだか――けさは、あまり気持ちがよくないんです」
マーベリー夫人は、朝食の盆を、じろじろと見た。
「なるほど。それで、朝ご飯に、手をつけなかったんですね。また、頭が痛むんですか?」
「いや。ほんのすこし、痛むんです……すこし――すこし、気分が悪いんです」
「そりゃ、いけませんね、ほんとに。それじゃ、きょうは、出かけないんでしょう?」
カスト氏は、いきなり、飛びあがって、
「いえ、いえ、出かけなくちゃいけないんです。仕事ですから。大事なんです。とても大事なことなんです」
かれの両手は、ぶるぶるふるえていた。かれがひどく興奮しているのを見て、マーベリー夫人は、かれをなだめようとして、
「そうね、出かけなくちゃいけないのなら――出かけなくちゃいけないわね。こんどは、遠くへ行くんですか?」
「いや、行くところは」――と、かれは、しばらく、ためらっていたが――「チェルテナムです」
そういったかれのいい方に、なにか、ひどく妙なところがあったので、マーベリー夫人は、びっくりして、かれを見つめた。
「チェルテナムって、いいところですね」と、かの女は、話し好きらしい口振りで、いった。「わたしは、ある年、ブリストルから、あそこへ行ったことがあるんですよ。お店が、そりゃもう、とってもきれいでね」
「そうでしょうね――ええ」
マーベリー夫人は、ぎごちなく、体をかがめた――かがむということが、かの女の体つきに向かなかったのだ――そして、床の上にしわくちゃになって落ちている、新聞をひろいあげた。
「このごろの新聞ときたら、どの新聞も、こんな人殺しのことばかりで、ほかには、なんにも」と、新聞をテーブルにおく前に、ちらっと見出しを見て、かの女はいった。「ぞっとしますよ、ほんとに。だから、わたしは、新聞なんか読まないんですよ。まるでまた、そこらじゅう、人殺しのジャックみたいですよね」
カスト氏の唇《くちびる》が動いた、が、声は出なかった。
「ドンカスターといえば――こんどの人殺しは、あそこであるんですってね」と、マーベリー夫人はいった。「それも、あしたですってね! ほんとに、身の毛もよだつじゃありませんか? わたしがドンカスターに住んでいて、名前がDではじまっていたりしたら、わたしは、一番の汽車で逃げ出しますわ。そうしますとも。わたしは、あぶないことはしないことにしているんです。なんかいいましたか、カストさん?」
「なんにもいいませんよ、マーベリーさん――なんにも」
「競馬もあるんでしょう。きっと、うまい機会だと思ったんでしょうね。何百人のお巡《まわ》りさんだとかって、いってるわね。そのお巡りさんがはりこむんですって、だから――おや、カストさん、顔色が悪いようね。なにか、ちょっとお飲みになった方が、よくはないかしら? ほんとに、きょうは、お出かけにならない方がいいわね」
カスト氏は、しゃんと立ちあがって、
「どうしても行かなくちゃならないんです、マーベリーさん。わたしは、いつでも、きちんと守ってきたんです――約束は。人がみんな――信用してくれるようでなくちゃいけません! わたしは、一つのことをするといった時は、きっと、それをやりとげるんです。それが、たった一つの道ですよ、その――その――仕事をつづける」
「でも、工合《ぐあい》が悪けりゃね?」
「わたしは、病気じゃありませんよ、マーベリーさん。ただ、ちょっとくさくさしているだけなんです――いろいろな、自分一人のことで。よく眠れなかったんです。ほんとに、大丈夫です」
かれの口振りが、あまりきっぱりしていたので、マーベリー夫人は、朝食の物を集めて、しぶしぶ部屋を出て行った。
カスト氏は、寝台の下からスーツ・ケースを引っ張り出して、パジャマや、洗面袋や、替えのカラーや、革《かわ》のスリッパなどを詰めはじめた。それから、戸棚《とだな》をあけて、縦十インチ、横七インチほどの、やや平たいボール箱を一ダースほど、棚からスーツ・ケースの中に入れた。
かれは、テーブルの上の鉄道案内に、ちらっと目をやってから、スーツ・ケースを手にして、部屋を出た。
スーツ・ケースをホールにおいて、外套と帽子を身につけた。そうしてしまってから、大きなため息をついた。そのため息があまり大きかったので、おりから、わきの部屋から出て来た娘が、心配そうに、かれに目を向けた。
「どうかしたの、カストさん?」
「なんでもありませんよ、リリーさん」
「だって、とても大きなため息をついてたわよ!」
カスト氏は、だしぬけにいった。
「あなたは、予感というものを感じやすいたちですか、リリーさん? 虫の知らせというものを?」
「そうね、よくわからないけど、ほんとうは……もちろん、なにからなにまで、悪くいくような気のする日もあれば、なんでもうまくいくような気のする日もあるわね」
「そうですね」と、カスト氏はいった。
かれは、また、ため息をついた。
「じゃ、さようなら、リリーさん。さようなら。あなたは、ここにいる間、いつでも、ほんとに、わたしに親切にしてくれましたね」
「あら、さようならなんて、いわないものよ、まるで、永久に行っちまう人のようだわ」と、リリーは、声をたてて笑った。
「いや、いや、もちろん、そんなことはありませんよ」
「金曜日に会えるじゃないの」と、娘は、声高に笑った。「こんどは、どこへいらっしゃるの? また海岸?」
「いや、いや――ええと――チェルテナムです」
「あら、それもすてきね。でも、トーケイほど、すてきじゃないわね。あすこは、きっときれいだったでしょう。来年の休みには、あたし、ぜひ、行ってみたいと思ってるの。そりゃそうと、あなたは、きっと、人殺しの――ABC殺人事件のあった、すぐ近くにいらしたわけね。あなたが向こうにいたころに、起こったんじゃなかったかしら?」
「ええと――そうです。でも、チャーストンは、六、七マイル離れているんです」
「それにしても、きっと、胸がわくわくしたでしょう! だって、あなたは、町で殺人犯人とすれちがったかもしれないんですもの! すぐその男のそばに、いらしたかもしれないんですものね!」
「そうです。そうかもしれませんね、もちろん」といってから、カスト氏は、ぞっとするような、ゆがんだ笑いを浮かべたので、リリー・マーベリーは、はっと、それを見とがめた。
「あら、カストさん、お顔の色がよくないわ」
「大丈夫です、大丈夫です。さようなら、ミス・マーベリー」
かれは、帽子をあげて、ちょっと挨拶《あいさつ》をすると、スーツ・ケースを持ちあげて、かなり急いで、玄関から出て行った。
「おかしな年より」と、やさしく、リリー・マーベリーはいった。「あたしの頭まで、どうかなったみたいだわ」
クローム警部は、部下にいった。
「靴下製造会社のリストをつくって、まわすんだ。それから、すべての代理商のリストもほしい――わかってるだろう、手数料を取って売っている者も、注文を取って歩く者も、みんなだ」
「このABC事件のためですね?」
「そうだ。エルキュール・ポワロ氏のお考えのひとつさ」警部は、軽蔑《けいべつ》するような口調でいった。「おそらく、どうということもないだろう、が、どんなつまらないものでも、機会をのがすわけにはいかんからね」
「そのとおりです。ポワロ氏は、全盛時代には、かなりいい仕事をやったようですが、いまとなっては、ちょっと老いぼれたように思いますね」
「ありゃ、山師だよ」と、クローム警部はいった。「いつも気取っていてな。人によるとだまされるが、わしは、だまされん。さて、それでは、ドンカスターの手配について……」
トム・ハーティガンが、リリー・マーベリーにいった。
「けさ、きみんとこの、老いぼれの退役軍人に会ったよ」
「誰? カストさん?」
「そう、カストだ。ユーストンでね。いつものとおり、道に迷った雌鶏《めんどり》みたいな恰好《かっこう》でさ。ぼくは、奴《やっこ》さんは、半分キじるしだと思うよ。誰か世話をする人がいり用だな。はじめに、新聞を落としてさ、それから、切符を落としたよ。ぼくが拾ってやったんだけど――まるきり、落としたのに気がつかないんだ。あわてた様子で、礼をいったけど、ぼくだと気がつかなかったろうな」
「そりゃ、そうよ」と、リリーはいった。「廊下ですれちがう時に見かけるだけだし、おまけに、しょっちゅうじゃないんですもの」
二人は、床をひとまわり踊った。
「きみは、なかなかきれいに踊るね」と、トムがいった。
「もっと踊ってよ」と、リリーはいって、くねらせて、ちょっと体を近づけた。
二人は、またひとまわり踊った。
「あなた、ユーストンとか、パディントンとかいったわね?」と、出しぬけに、リリーがたずねた。「カストじいさんに会ったのは、どこだっていってるのよ?」
「ユーストンさ」
「ほんと?」
「もちろん、ほんとさ。どうしてだい?」
「おかしいわ。あの人、パディントンからチェルテナムへ行ったものだと思ってたのに」
「きみが、そう思っただけなんだよ。ところが、カストじいさんは、チェルテナムへ行かなかったんだ。あの人は、ドンカスターへ行ったんだ」
「チェルテナムよ」
「ドンカスターだよ。ぼくは、よく知ってるんだよ、きみ! とにかく、ぼくが切符を拾ってやったんだろう?」
「でも、あの人は、チェルテナムへ行くって、あたしにいったんですもの、確かに、そういってよ」
「ああ、きみは、間違って聞いたんだよ。あの人は、確かに、ドンカスターへ行ったんだよ。運がいい人って、あるもんだね。ぼくは、レジャー競馬で、ファイヤフライに、ちょっと賭けてるんで、とても、あいつの走るのが見たいんだがな」
「カストさんが競馬に行ったとは思えないわ。あの人は、そんなような人じゃないもの。ねえ、トム、あの人、殺されなければいいけどね。ドンカスターでしょう、ABC殺人事件があるのは」
「カストは、大丈夫だよ。あの人の名前は、Dではじまっていないもの」
「この前にも、殺されていたかもしれなかったのよ。あの人がチャーストンの近くのトーケイに行っていた時、この前の殺人事件があったのよ」
「あの人が? そりゃ、ちょっと偶然の一致だね?」
かれは、声高く笑った。
「まさか、その前には、ベクスヒルに行ってたんじゃないだろう?」
リリーは、眉を寄せて、
「あの人、どこかへ行ってたわ……そう、思い出したわ、どこかへ行ってたわ……それというのが、海水着を忘れて行ったんですもの。母《かあ》さんが繕ってあげたのよ、あの人のために。それで、母さんがいったわ。『ほらね――カストさんたら、きのうは、海水着も持たずに、出かけて行ってしまったよ』って。それで、あたし、いったのよ。『あら、そんな古い海水着なんかどうでもいいことよ――とてもおそろしい殺人事件があったのよ』っていったの。『若い娘さんが、ベクスヒルでしめ殺されたのよ』って」
「そうだ。海水着がいり用だったというのなら、あの人は、きっと、海岸に行ったにちがいないんだ。ねえ、リリー」――と、かれの顔に、おもしろそうに、しわが寄った。「きみの、老いぼれの退役軍人が殺人犯だというのは、どうだい?」
「あの哀れなカストさんが? あの人には、蠅《はえ》だって殺せやしないわ」と、リリーが声高に笑った。
二人は、しあわせそうに踊っていた――その心の中では、いっしょにいる楽しさのほかには、なにもなかった。
その意識しない心の中では、なにかが動いていたのだが……
二十三 九月十一日、ドンカスター
ドンカスター!
わたしの一生を通じて、この九月の十一日のことは忘れないだろう、と、わたしは思う。
事実、セント・レジャーという言葉を見聞きするたびに、わたしの心はひとりでに、競馬ではなく、殺人事件の上に飛んで行くのだった。
わたしが、自分自身の気持ちを思い返してみると、まっ先に思い出すのは、自分の思うようにいかなかったという、胸くその悪くなるような気持ちである。わたしたち――その場に集まったのは――ポワロに、わたし自身に、クラークに、フレイザーに、ミーガン・バーナードに、ソーラ・グレイに、メアリー・ドローワーであった。だが、最後の手段として、|わたしたちに《ヽヽヽヽヽヽ》、|いったい《ヽヽヽヽ》、|なにができただろう《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》?
わたしたちは、かすかな望みに――何千という群集の中から、二、三か月前に、行きずりに、それもごく漫然と見たというだけの、ひとつの顔か姿を見わけるという、そういうはかない運をあてにしていた。
だが、現実は、はるかにすばらしいものだ。わたしたちみんなの中で、そういう見わけのできそうなただ一人の人間は、ソーラ・グレイだけだった。
かの女の、あの落ちつきは、緊張のために押しつぶされてしまった。かの女の物静かな、てきぱきとした物腰もなくなってしまった。かの女は、両手を揉《も》み合わせて、いまにも泣き出しそうな顔で、とりとめもなく、ポワロに訴えていた。
「わたくし、一度も、あの人をはっきりと見なかったんです……どうして、見なかったのでしょう? なんて、わたくし、ばかだったんでしょう。あなたたちは、わたくしをあてにしていらっしゃる、みなさんが……だのに、わたくしが、みなさんをがっかりさせてしまうんですわ。だって、たとえ、もう一度あの人を見たって、はっきりそうと見わけがつかないかもしれないんですもの。人の顔というと、ほんとに、わたくしのおぼえは悪いんです」
ポワロは、どんなことを、わたしにいうかもしれないし、どんなに手きびしく、この娘のあらを捜して非難しようとするかもしれないが、いまは、親切さのほかには、なんにも示そうとはしなかった。かれの態度は、きわめてやさしかった。わたしは、ポワロが、この困り抜いている美人に対して、わたしより、はるかに無関心でいられないということがわかって、おどろかされた。
かれは、やさしく、かの女の肩をたたいて、
「さあ、さあ、かわいい人、興奮しちゃいけません。そいつは困りますからね。その男を見れば、きっと、あなたにはわかりますよ」
「どうして、そんなことが、あなたにおわかりになりますの?」
「ああ、それには、たくさんの理由があります――たとえば、黒の後には赤が来るからですよ」
「それは、どういう意味だい?」と、わたしは、叫ぶように、いった。
「勝負事の専門語をいったのだよ。たとえ、ルーレットで、ずうっと黒ばかり出ていてもね――しかし、最後には、きっと、赤が出るものなんです。これが偶然の数学的法則というやつです」
「運が変わるというんだね?」
「まさに、そのとおりですよ、ヘイスティングズ。だから、そこなんだ。ばくち打ちが、しばしば先見の明を欠くというのは。そして、人殺しというものは、結局は、金のかわりに命を賭けるのだから、最高級のばくち打ちというだけのことだからね。つまり、いままで勝ちっぱなしだったからというので、これからも勝ちつづけると思っている人間なんだ! ちょうどいい潮時に、ポケットをふくらまして、テーブルを離れようとはしないのだ。犯罪でもそうなんだ。うまくいっている殺人犯人は、|うまくいかないこともあるということが考えられないのだ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》! どんなことがあっても、自分だけはうまくいくと思いこんでしまっているのさ――しかし、みなさん、犯罪というものは、どれだけ慎重に計画しても、運がなければ、うまくいかないということだけは確かです!」
「どうも、それは、すこしいいすぎじゃないでしょうか?」と、フランクリン・クラークが異議をとなえた。
ポワロは、興奮したように両手を振って、
「いや、いや。それなら、むらのない運といってもいいですが、それには、運がついていなければいけませんよ。考えてもごらんなさい! 犯人が、アッシャー夫人の店を出ようとした時に、誰かが店へはいって来るということはありうることでしょう。そして、その人がカウンターのかげを覗《のぞ》こうという気を起こしていれば、殺された婦人が見えたかもしれないし――そして、その場で犯人を捕えるか、あるいは、犯人の正確な人相を警察に伝えることができて、時を移さず、犯人逮捕ということになったかもしれないでしょう」
「そうです、もちろん、そういうことはありうることです」と、クラークはうなずいた。「そうすると、犯人というものは、一か八かやってみなけりゃならないということですね」
「まさにそのとおり。人殺しというものは、いつでもばくち打ちですよ。そして、多くのばくち打ちと同じように、人殺しも、しばしば、やめる潮時を知らない人間なんです。犯罪を一つ重ねるたびに、自分の腕に対する自信が強まって来て、均衡の観念が歪《ゆが》むんです。『おれは、頭もよかったが、|運も《ヽヽ》よかった!』などとはいいません。いや、それどころか、『おれは、頭がよかったんだ!』というだけです。そして、自分は頭がいいという自信だけが大きくなって……そこで、みなさん、球《たま》はまわり、盤の廻転はおわって……球は、新しい数字の上に落ちて、胴元は、『赤』と大声で叫ぶのです」
「この事件にも、そういうことが起こるとお思いなんですね?」と、眉を寄せて、ミーガンがたずねた。
「遅かれ早かれ、起こらずにはいません! いままでは、|犯人の方に運がついていました《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》――が、遠からず、運が変わって、わたしたちの方につくでしょう。わたしは、もう運は|変わった《ヽヽヽヽ》と信じています! 靴下という手がかりのついたことが、その手はじめです。いまや、なにからなにまで、かれにとって|まっすぐ《ヽヽヽヽ》に行かずに、なにからなにまで、曲がって行くんです! そして、自分でも誤りを犯しはじめるでしょう……」
「あなたは、元気づけてくださっているのでしょうね」と、フランクリン・クラークはいった。「わたしたちみんな、わずかのなぐさめにも飢えていますからね。わたしにしても、けさ起きてから、どうにも手がつけられないような無力感でまいっていたところなんです」
「わたしたちが、実際的に役に立つなにかを仕遂げることができるなどということは、かなり疑問だという気が、わたしにはします」と、ドナルド・フレイザーがいった。
ミーガンが、手きびしい口調でいった。
「だめよ、敗北主義者になっちゃ、ドン」
メアリー・ドローワーが、ちょっと赤くなって、いった。
「あたしにいえることは、誰にもけっしてわからないのだということですわ。あのいやな悪魔は、ここにいるんですわ。そして、あたしたちもいるんです――そして、なんのかんのしているうちに、変てこなことで、人にぶつかるというのは、よくあることですわ」
わたしは、ぶりぶりして、いった。
「もっと、なにかできさえすればね」
「ねえ、ヘイスティングズ、警察では、それ相応にできるかぎりのことをしているということを忘れちゃいけませんよ。特別な警官も動員されている。善良なクローム警部は、いらいらしているかもしれないが、きわめて有能な警察官だし、アンダースン署長も積極的な人物だ。町にも競馬場にも、警戒にパトロールに、万全の処置を講じている。私服もいたるところに配置してある。それに、新聞の宣伝もある。公衆は、十分に警告されているわけだ」
ドナルド・フレイザーは、首を振って、
「かれは、けっしてやらないと、わたしは思いますね」と、いっそう望みがありそうにかれはいった。「いくらなんだって、そんなことをするのは、狂気の沙汰《さた》ですからね!」
「あいにく」と、クラークはひややかに、「かれは、気ちがいなんです! いかがですか、ポワロさん? 奴は、あきらめるでしょうか、それとも、あくまでもやりとげようとするでしょうか?」
「わたしの考えでは、かれの強迫観念は非常に強くて、どうあっても、いったん断言したことは果たそうとするにちがいないと思います! そうしないということは、失敗を認めることであり、かれの病的な自尊心が、けっして許さないでしょう。それはまた、トンプスン博士の意見でもあるといえましょう。わたしたちの望みは、未遂のうちに、かれが捕えられることです」
ドナルドは、また首を振って、
「奴は、なかなかずるく立ちまわるでしょうからね」
ポワロは、ちらっと時計を見た。わたしたちは、その暗示をさとった。わたしたちは、午前中は、できるだけ多くの通りを歩きまわり、その後では、競馬場の見込みのありそうな要所要所に、めいめいが立つということに、その日一日じゅうの行動を、あらかじめ、きめておいてあった。
「わたしたち」といったが、もちろん、わたし自身の場合、わたしには、とうていABCが見つけられそうにもなかったので、こういうパトロールをしてみても、ちょっと役に立ちそうにもなかった。しかし、最初の案では、できるだけ広範囲に及ぼすために、めいめいがばらばらになることになっていたのだが、わたしは、誰か女の人のお伴をしたいのだがと、いい出したのだった。
ポワロは、いいだろうといった――が、その目に、おもしろがっているような光りがきらっとしたのが、わたしは気になった。
娘たちは、帽子をとりに行った。ドナルド・フレイザーは、窓ぎわに立って外を見ながら、思案に暮れているようだった。
フランクリン・クラークは、ちょっと、かれを見てから、相手がすっかり放心状態で、人の話に聞き耳を立てるおそれがないと考えたらしく、ちょっと声を落として、ポワロに話しかけた。
「ねえ、ポワロさん、あなたは、チャーストンへおいでになって、嫂にお会いになりましたね。あの人は、なにか――といいますか、遠まわしに――ということですが――暗示めいたことをいいませんでしたか、まるきり――?」
かれは、まごまごしたように、言葉をきった。
ポワロは、まったく無心のような顔つきで返事をしたので、怪しいぞという気が、強くわたしの胸に湧いた。
「なんですって? あなたのお嫂《ねえ》さんが、遠まわしに、暗示めいたことをおっしゃったっていうのは――どんなことをなんです?」
フランクリン・クラークは、ちょっと赤くなった。
「おそらく、個人的な事柄など持ち出す時ではないとお思いでしょうが――」
「そんなことはありませんよ!」
「でも、わたしは、物事をきちんとしておきたいという気がしますので」
「立派な方針ですね」
こんどは、ポワロが内心ではおもしろがっているのをかくして、空とぼけた顔をしているのに、クラークも気がつき出したなと、わたしは思った。かれは、ぐっと顔をしかめた。
「嫂は、おそろしく立派な婦人です――わたしは、ずっと大好きでした――しかし、むろん、時には、体が悪くて――ああいう病気では――薬やなんかのために――なんとなく――そうです、いろいろと考えがちなものなんですね、人のことを!」
「ほう?」
こんどは、間違いなく、ポワロの目が、きらっと光った。
しかし、フランクリン・クラークは、相手を説得するのに夢中になっていたので、それには気がつかずに、「ソーラのことなんですが――ミス・グレイの」と、かれはいった。
「ああ、あなたがおっしゃっているのは、ミス・グレイのことなんですね?」ポワロの調子は、無心な驚きを含んでいた。
「そうです、クラーク夫人は、一種の偏見を抱いているのです。ご存じのように、ソーラは――いや、ミス・グレイは、そうです、どちらかといえば、きれいな娘で――」
「たぶん――そうですね」と、ポワロは相槌《あいづち》を打った。
「それに、女というものは、どんなに立派な人でも、ほかの女に対しては、ちょっと意地の悪いものなんです。もちろん、ソーラは、兄にとっては非常に大事な人でした――いつも、いままでに会ったうちでは、一番いい秘書だともいっていました――それに、非常に、あの人を好いてもいました、といっても、どこからどこまで間違いのない、公明正大なものでした。というのは、ソーラは、けっして、そういう娘ではないということなんで――」
「でしょうな?」と、助け舟を出すように、ポワロはいった。
「しかし、嫂の頭の中には――そうです――嫉妬心《しっとしん》があったのでしょうね。といっても、これまで、そんなようなことを見せたことなどありませんがね。しかし、カーが死んでから、ミス・グレイに、そのままずっといてもらうかどうか、ということが問題になった時――そうです、シャーロットが怒り出しましてね。もちろん、病気や、モルヒネなどのせいでしょう――看護婦のキャップスティックも、そういっています――あの女がいうには、そういう考えを持ったからって、シャーロットを責めるわけにはいかないと――」
かれは口をつぐんだ。
「それで?」
「あなたにわかっていただきたいのは、ポワロさん、結局、なんにもないということなんです。病気の女の妄想なんです。ひとつ、これをごらんになってください」――と、かれは、ポケットをさぐって――「これは、わたしがマラヤの方にいた時、兄からもらった手紙です。二人がどういう間柄であったか、はっきりわかりますから、これを読んでみていただきたいのです」
ポワロは、手紙を受けとった。フランクリンは、そばへ寄って行って、その一部分を指でさしながら、声を出して読んだ。
――こちらでは、なにごとも平常どおり大した変わりもありません。シャーロットは、いくらか痛みが遠のいています。もっと、いいといえるようになりたいものです。きみは、ソーラ・グレイをおぼえているだろうね? かの女は、まったくいとしい娘で、わたしにとっては大きななぐさめだということは、筆には尽くせないほどです。この苦しい時に、あの娘がいてくれなかったら、どうしていいかわからなかったろうと思います。あの娘の同情と好奇心とは、頼むに足るものがあります。あの娘は、美術品に対して、すばらしい趣味と鋭い鑑識眼とを持っていて、中国美術に対するわたしの情熱をよく理解してくれます。わたしは、あの娘を見つけ出すことができて、まったくしあわせです。自分の娘だって、これほど身近かな、同情ある伴侶《はんりょ》にはなりえないでしょう。あの娘のいままでの半生は、労苦の多いもので、常に幸福だとはいえないものであったらしいが、ここに来て、家庭と真の愛情とにめぐり会えたと感じられて、わたしは、よろこんでいます。
「おわかりでしょう」と、フランクリンがいった。「兄は、あの人に対して、こういうふうに感じていたのです。娘のように思っていたのです。わたしが不当だと思うのは、兄が死んだとたんに、その妻が、かの女を家から追い出したということなんです! 女というものは、まったく悪魔ですね、ポワロさん」
「お嫂さんが病気で、苦しんでいらっしゃるということを、どうぞお忘れにならないように」
「わかっています。それはいつも、わたしが自分にいい聞かせていることなんです。あの人のことを、咎《とが》めちゃいけない、と。とはいうものの、これをあなたにお目にかけようと、わたしは思ったのです。クラーク夫人が申しあげたことから、ソーラについて誤った印象を持っていただきたくなかったのです」
ポワロは、手紙を返して、
「大丈夫ですよ」と、かれは、微笑を浮かべながら、いった。「他人のいったことで、誤った印象を持つようなことは、絶対に、自分に許しませんから。わたしは、自分の判断は、自分で下す習慣ですから」
「でも」と、クラークは、手紙をしまいながら、いった。「とにかく、あなたにお見せしてよかったと思います。さあ、女の人たちが来ました。出かけた方がよろしいでしょう」
わたしたちが部屋を出ると、ポワロがわたしを呼びとめた。
「いっしょに出かける決心がついたんですね、ヘイスティングズ?」
「ああ、そうだよ。なにもしないで、ここにいたってつまらないからね」
「体に劣らず、頭の働きということもありますからね、ヘイスティングズ」
「うん、そういうことなら、わたしより、きみの方が適しているよ」と、わたしはいった。
「それは、議論の余地がないほど、あなたのいうとおりですね、ヘイスティングズ。ところで、あなたは、婦人たちの誰かのお相手になるつもりだったんだね?」
「そのつもりだ」
「それで、どの婦人に申しこむつもりです、仲間にさせていただきたいと?」
「うむ――わたしは――ええと――まだ考えていなかったのだが」
「ミス・バーナードはどうですか?」
「あの人は、どちらかというと独立独歩の型だからね」と、わたしは、異議をとなえた。
「ミス・グレイは?」
「そうだね、あの人の方がいいね」
「なるほどね、ヘイスティングズ、あなたという人は、率直だが、驚くべき不正直な人ですね! あの金髪の天使と、一日じゅういっしょにすごそうと、ずうっと前からきめていたくせに!」
「ああ、まったく、ポワロ!」
「あなたの計画を台なしにして、まことにすまないが、あなたの護衛を、別の方面に変えていただかなくちゃならないんですがね」
「ああ、いいですよ。わたしはまた、きみは、あのオランダ人形みたいな娘が好きだとばかり思っていたがね」
「あなたに護衛してほしいという人は、メアリー・ドローワーだ――そして――けっして、あの人から離れないようにしていてほしいのです」
「でも、ポワロ、どうしてだね?」
「というのはね、あなた、かの女の名前がDではじまっているからです。わたしたちは、万一などということを頼んではいられないのですからね」
わたしは、かれのいうとおりだと思った。はじめは、こじつけのような気がした。しかし、やがて、ABCがポワロに対して狂的な憎悪《ぞうお》を抱いているのなら、かれは、ポワロの行動を、よく知りつくしているのではなかろうか、とわたしは感じるようになった。そして、その場合、メアリー・ドローワーを、この世から消し去るということは、ポワロに加える非常に気のきいた第四打となるわけであった。
わたしは、自分の責任を誠実にはたすと約束した。
わたしは、窓ぎわの椅子にかけているポワロを残して、出て行った。
かれの前には、小さなルーレットの盤がおいてあった。かれは、それをまわしていたが、わたしが戸口から出ようとすると、うしろから、声をかけた。
「赤だ――縁起がいいぞ、ヘイスティングズ。運が、こっちへまわって来ましたよ!」
二十四 (この部分はヘイスティングズ大尉の手記ではない)
小さな声で、リードベター氏は、じれったそうなうなり声を出した。隣りの席にいた男が立ちあがって、かれの前を通る時、ふらふらと不恰好によろめいて、前の席に帽子を落とし、身を乗り出して、それを取ろうとしたからだった。
それは、「一羽の雀も」の最高頂に達した時だった。このオールスターの、哀愁と美の血|湧《わ》き肉|躍《おど》る大ドラマを、リードベター氏は、一週間も前から見ようと、楽しみにして待ち構えていたのだ。
キャザリン・ロイヤル(リードベター氏の意見によれば、世界第一の映画スター)が扮している金髪の女主人公が、ちょうど、荒々しい怒りの叫びをあげているところだった。
「いやだったら、いや。そのくらいなら、いますぐ餓え死にした方が、よっぽどましよ。でも、餓え死になんか、あたし、しないわ。この言葉をおぼえとくがいいわ。一羽の雀も落ちはしない――」
リードベター氏は、いらいらして、首を左右に動かした。なんていう人たちだ! いったい、なんだって、世間の人間どもは、映画のおわりまで待っていられないんだ……それに、こんなに魂をかき立てるようなときに出るなんて。
ああ、よかった。あのうるさい紳士もいってしまった。リードベター氏は、スクリーンを、ニューヨークのバン・シュライナー・マンションの窓辺に立っている、キャザリン・ロイヤルの姿を、たっぷり眺《なが》めることができた。
すると、こんどは、かの女は、汽車に乗っていた――両腕に、子供を抱いて――それにしても、なんと珍らしい汽車がアメリカにはあるのだろう――イギリスの汽車とは、似ても似つかぬものじゃないか。
ああ、またスティーブだ、山の小屋に……
映画は、どんどん進んで、感動的な、なかば宗教的な結末に来た。
ぱっと電燈がつくと、リードベター氏は、満足そうなため息をもらした。
かれは、ちょっと目をぱちぱちさせながら、ゆっくり立ちあがった。
かれは、けっして大急ぎで、映画の世界からぬけ出さなかった。いつでも、平凡な、日常生活の現実にもどるには、しばらく時間がかかるのだった。
かれは、あたりを見まわした。その日の午後は、あまりたくさん見物人がいなかった――まあ当然のことだ。みんな、競馬場に行ってしまっていたのだ。リードベター氏は、競馬も、トランプ札も、酒も、煙草《タバコ》も、いいものだとは思わなかった。だから、映画を見て楽しむ精力が残っているというわけだ。
誰もかれも、出口の方へ急いでいた。リードベター氏は、都合よく後について行こうと身じたくをしていた。かれの前の席の男が、眠りこけていた――すっかり椅子に落ちこんだようになって。リードベター氏は、こんな「一羽の雀も」のような、すばらしい映画がうつっている最中に、眠っていられる人がいるなどと思うと、腹が立ってきた。
一人の紳士が、眠っている男が脚《あし》を大きく伸ばして、路《みち》をふさいでいるので、腹立たしそうに、いっていた。
「ごめんなさい」
リードベター氏は、出口にたどり着いて、うしろを振り返った。
なんだか騒ぎが起こっているようだった。守衛……それから、ひとかたまりの人たち……たぶん、かれの前にいた男は、眠っているのではなくて、泥酔《でいすい》していたのだろう……
かれは、ちょっとぐずぐずしていたが、そのまま、出てしまった……そして、そのために、その日の大事件――セント・レジャーで、八十五対一で勝つなどという大事件よりも、もっともっと大きな大事件を見落としてしまった。
守衛がいっていた。
「大丈夫ですか、お客さん……病気ですよ、この人は……なんだって――どうしたんです、お客さん?」
もう一人の男が叫び声をあげて、手を引いた。そして、まっ赤な、べとべとするしみを、じっとみつめた。
「血だ……」
守衛は、息がつまったような叫び声をあげた。
かれは、席の下からのぞいている、なにか黄色い物のはしに目をとめた。
「や、こいつは!」と、かれはいった。「本だ――ABCだ」
二十五 (この部分はヘイスティングズ大尉の手記ではない)
カスト氏は、リーガル・シネマから出て来て、空を見あげた。
美しい夕暮れだ……まったく美しい夕暮れだ……
ブラウニングの詩の一句が、頭に浮かんできた。
「神は天にしろしめす。すべてこの世はこともなし」
かれは、いつも、この句が好きだった……
ただ、これがほんとうではないと感じる時も、しばしばあった……
かれは、ひとり微笑《ほほえ》みながら、急ぎ足に歩いて、やがて、泊まっている「ブラック・スワン」へ帰って来た。
かれは、階段をのぼって、寝室にはいった。風通しの悪い、二階の狭い部屋で、舗装した中庭と、ガレージとが見おろせた。
部屋にはいると、急に、その微笑が消えた。袖口《そでぐち》の近くに、しみがついているのだ。ためしに、そっとさわってみた――濡《ぬ》れて、赤い――血だ……
片手を、ポケットに突っこんだと思うと、なんかを取り出した……長い、すらっとしたナイフだ。その刀身も、べとべとして、まっ赤だ……
カスト氏は、長いこと、そこにすわりこんでいた。
一度、かれの目は、追い詰められた獣のように、部屋を眺めまわした。
舌が、熱病患者のように、唇をなめた……
「わたしの罪じゃない」と、カスト氏はいった。
誰かといい争っているような――小学生が校長先生にいいつけているような、口のききようだった。
かれは、また、舌で唇をなめた……
また、そっと、上衣の袖に、かれは、さわってみた。
目が、部屋の向こうにある洗面器のところへ行った。
一瞬の後、旧式な水差しから、洗面器に水をついでいた。上衣をぬいで、袖をすすぎ、念入りにしぼりあげた……
うわっ! 水もまっ赤だ……
ドアをたたく音。
かれは、その場に凍りついたように――身動き一つせずに立って――にらみつけていた。
ドアがあいた。まるまる肥った若い女が――水差しを手にしてはいって来た。
「あら、ごめんなさい。お湯を持って来ましたわ」
かれは、やっと、その時、口を開いた。
「ありがとう……水で洗ってしまいました……」
どうして、そんなことをいってしまったのだろう? すぐに、女の目が洗面器へいった。
かれは、すっかり逆上してしまったように、「手を――手を切ったもんで……」
それから、沈黙が――そう、確実に、おそろしく長い沈黙がつづいて――やっと、女がいった。「そうですか」
かの女は、ドアをしめて、出て行った。
カスト氏は、石になってしまったように、突っ立っていた。
来てしまった――とうとう……
かれは、じっと耳をすました。
声だったろうか――叫び声だったろうか――階段をあがって来る足音だったろうか?
自分の心臓の動悸のほかは、なんにも聞こえなかった……
と、不意に、凍りついたような不動の姿勢から、活発な動作に移った。
かれは、さっと上衣を引っかけると、抜き足さし足で、ドアに忍び寄って、それをあけた。バーから聞こえてくる、耳馴《みみな》れたざわめきのほかには、なんの音も聞こえなかった。かれは、はうようにして、階段をおりた……
やっぱり、人っ子一人いない。運がよかった。かれは、階段の下で立ちどまった。どっちへ行こう?
かれは、心をきめると、さっと急ぎ足に廊下をすっ飛んで、庭へ出る戸口から外へ出た。運転手が二人、車の修繕をしながら、競馬の勝負の話をしていた。
カスト氏は、急ぎ足に、庭を通り抜けて、通りへ飛び出した。
最初の角を、右へ曲がって――それから、左へ――また右に……
危険を冒して、駅へ行くのだろうか?
そうだ――あすこには、群衆がいる――臨時列車もある――運さえついていれば、すべて、うまくゆくだろう……
運さえ、ついていれば……
二十六 (この部分はヘイスティングズ大尉の手記ではない)
クローム警部は、リードベター氏の興奮した話し振りに耳をかたむけていた。
「まったくの話、警部さん、考えると、心臓がとまりそうですよ。実際、その男は、映写中ずっと、わたしの脇に腰かけていたにちがいないのですからね!」
クローム警部は、リードベター氏の心臓の働き工合などは、まるきり気にもかけないで、いった。
「はっきり、いっていただきたいですね。その男が、おわりごろに出て行ったというんですね、その大映画の――」
「『一羽の雀も』です――キャザリン・ロイヤルの」と、リードベター氏は、無意識に口の中でいった。
「その男が、あなたの前を通って、そのはずみに、つまずいて――」
「つまずいたようなふりをしたのです、いまになって、わかりました。それから、前の席へ身を乗り出して、帽子をひろいました。その時に、その気の毒な人を刺したのにちがいありません」
「なにか、お聞きになりませんでしたか? 叫び声か? それとも、うめき声とかは?」
リードベター氏は、キャザリン・ロイヤルの、大きな、しわがれたアクセントの強い発音のほかには、なんにも聞きはしなかったのだが、そのあざやかな想像力で、うめき声を一つ、こしらえあげた。
クローム警部は、そのうめき声を額面どおりに受けとって、先を促した。
「それから、その男は出て行って――」
「その男の人相がいえますか?」
「とても大きな男でした。すくなくとも六フィートはあったでしょう。大男です」
「色白ですか、黒い方でしたか?」
「さあ――ええと――はっきりしないんです。禿《は》げていたように思います。いやな人相の奴でした」
「びっこを引いていませんでしたか?」と、クローム警部がたずねた。
「そうです――そうです、いわれてみれば、びっこを引いていたように思います。とても色の黒い男でしたから、あいのこだったかもしれません」
「その前に灯《あか》りがついた時に、その男は、席にいましたか?」
「いいえ、その大映画がはじまってから、はいって来たんです」
クローム警部はうなずいてから、リードベター氏に供述書を渡して、署名をさせて、かれを追っ払った。
「ああいうのは、ひどい証人で、どこにでもいる奴です」と、かれは、がっかりしたようにいった。「ちょっと誘導すれば、なんだっていうんです。問題の男がどういう人相か、ちっとも知ってはいないんです。守衛を呼びましょう」
守衛は、ひどくぎくしゃくと、軍隊式ではいって来ると、気をつけの姿勢で、アンダースン署長に目を向けた。
「さて、それでは、ジェームスンさん、あなたの話をうかがいましょう」
ジェームスンは、お辞儀をして、
「はい、承知しました。映写がおわった時であります。病気のお客がいると聞きました。そのお客は、二シリング四ペンスの席に、落ちこんだようでした、まるで。ほかのお客さんたちがまわりに立っておいででしたが、そのお客さんは、ご病気のようにわたしは思いました。そばに立っていた一人のお客さんが、病気のお客の上衣に手をやって、わたしの注意を促しました。血でありました。そのお客が死んでいることが、すぐにわかりました――刺されて。すぐに、席の下に落ちているABC鉄道案内に気がつきました。正しい処置を講じたいと思いまして、それにも、同じく手を触れずにおきまして、そくざに、事件の起きたことを、警察にお知らせしたのでございます」
「非常に結構でした、ジェームスンさん。まったく正しい行動でした」
「ありがとうございます」
「その五分ほど前に、二シリング四ペンスの席を出て行く人間に気がつきませんでしたか?」
「何人かございました」
「その人たちの人相をいえますか?」
「どうもいえそうにもありません。お一人は、ジョフリー・パーネルさんでした。それから、若い者で、サム・ベーカーが細君といっしょでした。そのほかには、特別に、気がついた人もありませんでした」
「それは、残念でしたな。では、それだけで結構です、ジェームスンさん」
「はい」
守衛は挨拶をして、出て行った。
「医師の報告は、聞いた」と、アンダースン署長はいった。「つぎは、被害者を発見した男を呼んでもらおう」
一人の巡査がはいって来て、敬礼をした。
「エルキュール・ポワロさんと、もう一人の方がおいでになりました」
クローム警部は、顔をしかめて、
「まあ、いい」と、かれはいった。「通してもいいだろう」
二十七 ドンカスターの殺人
ポワロのすぐ後につづいてはいったので、わたしは、クローム警部の言葉の尻尾《しっぽ》の方を耳にはさんだ。
かれも署長も、困り切って、まいっているような様子だった。
アンダースン署長は、うなずいて、わたしたちを迎えた。
「よく、いらっしゃいました。ポワロさん」と、かれは、ていねいにいった。かれは、クロームの言葉が、わたしたちの耳にはいったと思ったのだろう。「また、大打撃を受けましたよ」
「また別のABCの殺人ですか?」
「そうなんです。まったくもって大胆不敵な仕業です。のしかかって、背中から刺したのです」
「こんどは、刺したのですか?」
「そうです。すこしずつ、手を変えるというんですかね? 頭をなぐるかと思うと、首をしめて、こんどは、ナイフというわけです。なかなか多芸な奴ですね――え? ごらんになるのでしたら、ここに、医師の報告書もあります」
かれは、ポワロの方へ書類を押しやって、
「ABCが、被害者の足もとに落ちていました」と、かれは、つけ加えていった。
「被害者の身許は、わかりましたか?」と、ポワロはたずねた。
「わかりました。ABCの奴、こんどは、しくじったようでね――まあ、それが、いくらかでも、われわれの気休めにでもなればですが。殺されたのは、アールスフィールド(Earlsfield)――ジョージ・アールスフィールドという男で、職業は、理髪師です」
「おかしいですね」と、ポワロがいった。
「文字を一つ、飛ばしたのかもしれませんね」と、署長が考えをいい出した。
わたしの友人は、疑わしそうに、首を横に振った。
「つぎの証人を呼びましょうか?」と、クロームがたずねた。「家に帰りたがっているのですが」
「そう、そう――そうしてくれたまえ」
案内されてはいって来たのは、「不思議の国のアリス」に出て来る、蛙《かえる》の下男にそっくりの中年の紳士だった。かれは、ひどく興奮していて、その声は、強い感動から、かん高くなっていた。
「こんなにぞっとするような思いをしたことは、いままでありませんでした」と、かれは、きいきい声でいった。「わたしは、心臓が弱くて――非常に弱いんです。もうすこしで死ぬところでした」
「お名前を、どうぞ」と、警部がいった。
「ダウンズ。ロージャー・エマニュエル・ダウンズです」
「職業は?」
「ハイフィールド男子学校の校長です」
「では、ダウンズさん、あなたの口から、事件をお話し願いましょうか」
「ごく簡単に、お話ができます、みなさん。映写がおわると、わたしは、席から立ちあがりました。わたしの左の席はあいていましたが、もう一つ先の席には、一人の人がすわっていて、眠りこんでいるようでした。その人が脚を前へ突き出していて通れないものですから、通してくれと声をかけたのです。それでも、動かないものですから、わたしは、繰り返して――ええ――もうすこし大きな声で、たのみました。それでも、返事をしないのです。それで、肩をつかんで、ゆり起こしたんです。ところが、いっそう、体が落ちこんで行くので、前後不覚に眠っているか、ひどく病気が悪いか、どちらかだなと、わたしは、気がついたのです。それで、『この人は病気のようですから、守衛を呼んでください』と、どなったわけです。守衛が来ました。その前に、その人の肩から、手を離したとたん、わたしは、手が濡れていて、まっ赤なのに気がついたのです……それで、その人が刺し殺されているのだと、わたしは、感じたのです。と同時に、守衛がABC鉄道案内に気がつきました……わたしは、はっきりいえますが、みなさん、そのショックは、おそろしいものでした! どうなることかと思いました! わたしは、長年、心臓を患っているものですから――」
アンダースン署長は、奇妙な顔つきで、ダウンズ氏を眺めていた。
「あなたは、ご自分がどんなに幸運な方か、おわかりでしょうね」
「わかります。心悸亢進《しんきこうしん》さえも起こしませんでしたしね!」
「わたしの申しあげている意味がすっかりおわかりではないようですね。ダウンズさん。あなたは、一つ席をあけてすわっていたと、おっしゃるんでしょう?」
「ほんとうは、はじめは、殺された人のすぐ隣りにかけていたんです――そのうちに、空席のうしろになるように、席を移したんです」
「あなたは、被害者と、同じ背恰好をしておいででしょう、それに、同じような毛織の襟巻《えりまき》をしておいでだったでしょう?」
「よく、おぼえていませんが――」と、ぎごちなく、ダウンズ氏は、いいかけた。
「わたしが申しあげるのはですね」と、アンダースン署長が、「あなたの幸運は、そこにあったということなんです。とにかく、犯人は、あなたの後をつけて、はいって行ったとたんに、間違えてしまったのですね。|かれは《ヽヽヽ》、|間違えて《ヽヽヽヽ》、|ほかの人の背中を刺した《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》のです。わたしは、なんでも賭けますよ、ダウンズさん、あのナイフが、あなたを狙っていたのでないとすればね!」
ダウンズ氏の心臓は、はじめの試練にはどうやら耐えられたのだが、こんどは、ひとたまりもなかった。ダウンズ氏は、ばたっと椅子の上にへたばると、はっはっと息を切らし、顔が紫色になってしまった。
「水」と、かれは、あえぎあえぎいった。「水……」
コップを持って来てくれて、それをすすっているうちに、かれの顔もだんだん元どおりになってきた。
「わたしを?」と、かれはいった。「どうして、わたしを狙うのです?」
「そうらしいということです」と、クロームはいった。「実際、ほかに説明のつけようがないのです」
「すると、あなたは、この男が――この――この人間の姿をした悪魔が――この血に餓えた気ちがいが、わたしの後をつけて、機会を狙っていたとおっしゃるんですね?」
「そうだったろうと、申しあげなければならないですね」
「でも、いったい、どうして、わたしを?」と、無法に腹を立てた校長先生は、ききただした。
クローム警部は、「どうして、あなたではいけないんです?」といいたかったが、ようやく、その誘惑をしりぞけて、「残念ながら、気ちがいのすることに理由を求めても、どうにもならないでしょうな」といった。
「やれやれ、驚きましたよ」と、ダウンズ氏は、ほっとして小声でいった。
かれは、立ちあがった。急に年をとって、よぼよぼになったようだった。
「もうご用がないようでしたら、みなさん、帰らせていただきたいのですが、わたしは――わたしは、どうも気分がひどくよくないものですから」
「結構ですとも、ダウンズさん。巡査に送らせましょう――間違いがあるといけませんから」
「ああ、いや――いや、結構です。その必要はありません」
「よろしいように」と、アンダースン署長は、ぶっきらぼうにいった。
その目は、そっと脇を向いて、それとなく、警部にきいているようだった。クロームも同じように、それと気がつかないほどにうなずいた。
ダウンズ氏は、ふるえながら出て行った。
「気がつかなくてよかったね」と、アンダースン署長はいった。「二人いるのだろう、え?」
「そうです。あなたの部下のライス警部が手配をしておりました。家の方を監視することになっています」
「あなた方のお考えでは」と、ポワロが、「ABCが間違いに気がついたら、もう一度、やるかもしれないとおっしゃるんですね?」
アンダースンは、うなずいて、
「ありうることですからね」と、かれはいった。「几帳面な奴らしいですからね、ABCは。筋書どおりに運ばないとなったら、うろたえるでしょう」
ポワロは、じっと考えながら、うなずいた。
「奴の人相がわかればね」と、アンダースン署長がいらいらして、いった。「あいもかわらず、なんにもわからないのですからね」
「わかるかもしれませんよ」と、ポワロがいった。
「そうお思いですか? ふん、そうでしょうね。ちくしょう、誰か面《つら》に目をつけている奴はなかったのかね?」
「まあ、ご辛抱なさい」と、ポワロはいった。
「あなたは、ひどく自信がおありのようですね、ポワロさん、そんなに楽観していらっしゃるのは、なにかわけがおありですか?」
「そうですよ、アンダースン署長。いままで、犯人は、間違いをしませんでした。しかし、間もなく、間違いをしでかすはずです」
「それだけのことで、いわれるのでしたら」と、署長は鼻を鳴らして、いいかけたが、じゃまがはいった。
「『ブラック・スワン』のボール氏が、若い女の人といっしょに来ております。なにかご参考になることを申しあげたいといっております」
「連れて来たまえ。連れて来たまえ。参考になることなら、なんでも結構だ」
「ブラック・スワン」のボール氏は、大柄で、頭の働きのにぶそうな、のろのろした男だった。かれは、強いビールの匂いを発散させていた。いっしょに来たのは、まるい目をした、まるまると肥った若い女で、明らかに、ひどく興奮していた。
「貴重なお時間のおじゃまでなければよろしいのですが」と、ボール氏は、のろのろとした、だみ声でいい出した。「でも、このあまっ子の、メアリーが、なにかお耳に入れたいことがあるとか申しますので」
メアリーは、澄ましたふうで、くすくす笑っていた。
「よろしい、娘さん、どんなことだね?」と、アンダースンはいった。「名前は?」
「メアリーです――メアリー・ストラウドです」
「では、メアリーさん、いいなさい」
メアリーは、まん丸な目を、主人の方に向けた。
「お客さまのお部屋にお湯をおとどけするのが、この娘の仕事でございまして」と、ボール氏が助け舟を出した。「ただいま、手前どもには、六人ほどお客さまがお泊まりでございます。競馬のお客さまと、商用のお客とでございます」
「うん、うん」と、アンダースンは、いらいらしていった。
「それから先を」と、ボール氏はいった。「お前のお話をいうんだよ。こわがることはないよ」
メアリーは、あえいだり、うなったりして、息切れのする声で、話しはじめた。
「わたし、ドアをたたいたんだけど、返事がなかったんです。ほかの時は、どんなことがあったって、お客さんが『おはいり』といわなきゃ、はいっては行かないんです。ところが、なんとも、その人はいわなかったんで、わたし、はいって行ったんです。そしたら、その人は、手を洗っているところだったんです」
かの女は、言葉をきって、深く息を吸いこんだ。
「つづけなさい、娘さん」と、アンダースンはいった。
メアリーは、横目で主人の方を見た。そして、かれがゆっくりとうなずくのを見て、そこからインスピレーションを得たかのように、また話しはじめた。
「『お湯を持ってまいりました、旦那さま、ノックをしたんですけど』っていったんです。そしたら、『ああ』といって、『もう水で洗いましたよ』っていうんです。それで、ひょいと洗面器を見ると、まあ! どうしましょう、|まっ赤だったんです《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》!」
「まっ赤?」と、アンダースンが鋭くいった。
ボールが、突然、口を出した。
「この娘の話ですと、その人は、上衣をぬいで、袖のところを持っていたそうですが、それが、すっかり、びしょ濡れだったそうで――そうだな、え?」
「そうです、旦那さま、そのとおりです、旦那さま」
かの女は、話をつづけた。
「それから、その人の顔といったら、旦那さま、おかしい顔で、死人みたいな変な顔をしているんです。わたし、ほんとにびっくりしてしまいました」
「それは、何時ごろだった?」と、アンダースンは、鋭くたずねた。
「五時十五分すぎくらいか、そのころだったと思います」
「三時間以上も前じゃないか」と、ぴしっとアンダースンはいった。「どうして、すぐに来なかったのだ?」
「そのことを、すぐに聞かなかったもんで」と、ボールはいった。「また人殺しがあったというニュースを聞くまで、なんにもいわなかったからで。その時になって、このあまっ子が、洗面器の中のは血だったかもしれないてんで、きゃあきゃあ騒ぎ出したんで、それで、なんのことかと思って、問いつめて、やっと聞き出したような次第で。しかし、わたしには、まっとうな話のような気がしないもんで、自分で二階へ行ってみたんです。ところが、部屋には誰もいないんです。何人かに聞いてみたところが、中庭にいた一人の若い者が、一人の男が、そっちの方から、こっそり抜け出すのを見たというんです。人相を聞いてみると、やっぱり、その男にちがいないんです。それで、わたしは女房に、このメアリーを警察へやった方がいいっていうんですが、女房も、そんなことは好かねえ、メアリーもいやだというんで、それで、わたしがいっしょに行くといって、連れて来たようなわけなんで」
クローム警部は、紙を一枚引っぱり出して、
「その男の人相をいってくれ」と、かれはいった。「できるだけ早くね。ぐずぐずしているような時間がないからね」
「中背でした」と、メアリーがいった。「それから、猫背《ねこぜ》で、眼鏡《めがね》をかけていました」
「服装は?」
「黒っぽい背広で、鍔《つば》のせまい中折れ帽で。どっちかというと、みすぼらしい様子で」
それだけの人相以上には、かの女は、ほとんどつけ加えることができなかった。
クローム警部は、それ以上、しつこくは聞かなかった。すぐに、電話があわただしく八方にかけられた。しかし、警部も署長も、あまり楽観してはいなかった。
クロームは、その男が中庭を抜け出して行く時に、鞄《かばん》もスーツケースも持っていなかった、という事実を聞き出した。
「見込みがあるな」と、かれはいった。
二人の警官が、「ブラック・スワン」に派遣されることになった。
ボール氏は、誇りと、有力者になったような気で、得意満面になり、メアリーは、いくらか涙ぐみながら、みんなについて行った。
十分ほどして、警官はもどって来た。
「宿帳を持ってまいりました」と、かれはいった。「これが、そのサインです」
わたしたちは、そのまわりに集まった。書体は、小さくて、くしゃくしゃしていて――読みにくかった。
「A・B・ケース――それともカッシュかな?」と、署長がいった。
「A・B・Cです」と、意味ありげに、クロームがいった。
「荷物は、どうだった?」と、アンダースンがたずねた。
「大きなスーツ・ケースが一つありまして、小さなボール箱がいっぱいはいっていました」
「箱だと? 中身はなんだった?」
「靴下です。絹の靴下で」
クロームは、ポワロの方を向いて、
「おめでとう」といった。「あなたの予感が正しかったわけですね」
二十八 (この部分はヘイスティングズ大尉の手記ではない)
クローム警部は、ロンドン警視庁の、自分の部屋にいた。
机の上の電話が、用心深い音をたてたので、かれは、受話器を取りあげた。
「ジェーコブスです。若い男が一人来ておりますが、どうもその話をお聞きになっておいた方がいいと思いますので」
クローム警部は、ため息をついた。一日平均二十人ぐらいの人間が、ABC事件について、いわゆる重要な情報というのを持ってあらわれて来るのだった。そのうちのある者は、害のない精神病者だったし、またある者は、善意の人たちで、ほんとうに自分の情報が価値あるものだと信じこんでいた。ジェーコブス巡査の役目は、人間のふるいとして――あんまりひどいのは、自分の手もとで裁いてしまって、選り残したものだけ上官の方へまわしてよこすのだった。
「よし、ジェーコブス」と、クロームはいった。「その男をよこしてくれ」
しばらくすると、警部の部屋のドアをたたく音がして、ジェーコブス巡査が、背の高い、かなり美貌《びぼう》の青年を連れて、はいって来た。
「トム・ハーティガンさんです。ABC事件について、なにか関係のあることをお話したいのだそうです」
警部は、愛想よく立ちあがって、握手をした。
「こんにちは、ハーティガンさん。おかけになりませんか? 煙草は? シガレットはいかがです?」
トム・ハーティガンは、不器用に腰をおろして、自分ひとりで「おえら方の一人」と思いこんでいた人に、いくぶんおずおずとした目をあてた。どこといって取り立ててはいえないが、警部の風采《ふうさい》が、かれをがっかりさせた。警部だなんていったって、ちっとも普通の人間と変わりゃしないじゃないか!
「さあ、それでは」と、クロームがいった。「事件に関係があると思っておいでになることを、お話しになりたいというわけですね。どうぞ、はじめてください」
トムは、神経質に話しはじめた。
「もちろん、なんでもないのかもしれません。ただ、わたしがふっと思いついただけなんです。もしかすると、あなたの貴重なお時間をむだにするだけかもしれませんが」
もう一度、警部は、それとわからぬくらいにため息をついた。人々を安心させるために、なんとおびただしい時間を空費しなければならないのだろう!
「その点は、わたしどもがよく判断します。とにかく事実をうかがいましょう、ハーティガンさん」
「承知しました。実は、こうなんです。わたしは、ある若い婦人を知っているのですが、その人の母親が、部屋を貸しているのです。カムデン・タウン上通りです。二階の奥の部屋は、もう一年以上も、カストという人に貸しています」
「カスト――ですね?」
「そうです。中年の、ぼんやりした、低能じゃないかと思うような人で――ちょっと、落ちぶれた、と、いった方がいいでしょうね。蠅も殺せないような人というんでしょうかね――ちょっとおかしなことさえなかったら、変だなんて全然夢にも考えなかったろうと思うんです」
ちょっとしどろもどろになった様子で、一、二度、同じことを繰り返して、トムは、カスト氏とユーストン駅で出会ったことや、カスト氏が切符を落としたことなどを話した。
「それで、あなたは、どうお思いになるかわかりませんが、どうもおかしいような気がするんです。リリー、というのが、わたしの知っている若い婦人ですが――リリーは、確かに、かれが行くといっていたのはチェルテナムだと、きっぱりいいますし、母親の方も、そうだというのです――かれが出かける朝、はっきりそういっていたのを、おぼえているというのです。もちろん、その時は、わたしも、そのことにたいして注意を払わなかったのです。リリーは――わたしの知り合いの若い婦人は、ドンカスターなんかに行って、そのABCの奴と間違えてつかまらなければいいが、なんていってたものなんです――それからまた、それは、むしろ偶然の一致だというのは、この前の事件の時にも、チャーストンの方へ行ってたんだからというんです。それで、笑ったようにして、その前の時には、ベクスヒルにいたのじゃないのかと、わたしがたずねると、どこへ行っていたのか知らないが、海岸に行っていたことだけは――ようく知っていると、かの女がいうんです。それで、もしも、あの人がABCその人だったら、おかしなものだろうなと、わたしがかの女にいうと、かわいそうなカストさんには、蠅一匹だって殺せやしないわと、かの女はいったんです――その時は、それだけだったんです。それっきり、そのことを、わたしたちは考えもしなかったんです。でも、すくなくとも、なんとなく気にはかかっていたんです、心の底では。ただ、このカストっていう男は、結局は、見たとおり無害だが、すこし頭が変なんじゃないかという気がし出していたんです」
トムは、一息ついてから、話をつづけた。クローム警部も、いまは、一心に耳をかたむけていた。
「そのうちに、ドンカスターの殺人事件の後で、どの新聞にも、A・B・ケースとか、カッシュという人物について、知っている者があれば、すぐに報告するようにという記事が出たのですが、その書いてある人相が、ぴったりあてはまるんです。それで、最初の非番の夜、リリーのところへ飛んで行って、かの女のところにいるカスト氏の頭文字は、なんというのかと聞いたんです。はじめ、かの女は思い出せなかったのですが、母親がおぼえていまして、確かにA・Bだというんです。それから、わたしたちは額を集めて、最初のアンドーバーの殺人事件のあった時に、カスト氏が出かけていたかどうか、考え出してみようとしたのです。ところが、ご存じのように、三か月も前のことでしょう、なかなか思い出すのが容易なことじゃないんです。なかなか大仕事でしたけど、とうとうわかりました。それというのが、マーベリー夫人に弟さんがあったのですが、その人が、六月の二十一日に、カナダから会いにやって来たことがあるからなんです。それというのも、その人が思いもかけずにやって来たようなわけで、ベッドの支度をしなければということになったところが、リリーが、カストさんがいないんだから、バート・マーベリーは、そこに寝ればいいといったんです。ところが、それでは、下宿人に対していいことだとはいえないし、いつも正直に、きちんとするのが好きなんだからというわけで、どうしてもマーベリー夫人が聞き入れようとしなかったというんです。でも、バート・マーベリーの船がサザンプトンに入港したのが、その日でしたから、日付の方は、はっきりしたわけなんです」
クローム警部は、注意深く耳をかたむけながら、時々ノートに書きとめていた。
「それで全部ですね?」と、かれはたずねた。
「それで全部です。なんでもないことばかり申しあげたと、どうぞ思わないでいただきたいんですが」
トムは、かすかに頬を染めた。
「とんでもない。来ていただいて、ほんとに結構でした。もちろん、ごく小さな証言で――日付の方は、たんなる偶然の一致かもしれませんし、名前の似ているということも、そうかもしれません。しかし、お話のカスト氏には、確かに会ってみる必要がありますね。いま、家にいますか?」
「ええ」
「いつ、もどって来たのです?」
「ドンカスターの殺人の日の夕方でした」
「それ以来、どうしていました?」
「たいていは、家にいたようです。様子がとてもおかしいと、マーベリー夫人もいっています。むやみに新聞を買いこんで――朝早く出かけて、朝刊を買って来るかと思うと、暗くなってから出かけて行って、夕刊を買って来るんだそうです。マーベリー夫人の話では、むやみにひとり言ばかりいっているということで、だんだん、おかしくなってくるように思うといっていました」
「そのマーベリー夫人の住所は、どこですか?」
トムは、それを教えた。
「どうもありがとう。たぶん、きょうじゅうに行けるでしょう。それから、こんなことは念を押すまでもないことですが、そのカストという男に会っても気《け》どられないように、よくあなたの態度に気をつけてください」
かれは、立ちあがって、握手をして、
「あなたは、ここへいらして、正しいことをなすったのですから、いささかもご心配なさることはないのですよ。では、さようなら、ハーティガンさん」
「いかがでした?」と、しばらくたってから、ジェーコブスがもどって来て、いった。「役に立ちそうですか?」
「有望だよ」と、クローム警部がいった。「ということは、もしも、事実が、あの小僧のいうとおりならば、だ。まだ、靴下製造業者の方も、うまくいかんが、もうそろそろ、なんかつかんでもいい時だ。ところで、そのチャーストン事件のとじこみをよこしてくれ」
かれは、しばらく、なにかを捜していた。
「ああ、これだ。トーケイの警察でとった供述書の中にあるのだが、ヒルという名の若者が、『一羽の雀も』という映画を見て、トーケイ劇場を出ようとしたとたんに、変な素振りの男を見たというんだ。その男がひとり言をいっていたというのだがね。『こりゃ、いい考えだ』っていうのを、ヒルは聞いたというのだ。『一羽の雀も』っていうのは――ドンカスターのリーガンでやっていたのも、その映画だね?」
「そうです」
「なんか、そこにありそうだね。その時には、なんにもなかったのだ――が、ふっとその時、つぎの犯罪に対する方法が、奴の頭に浮かんだということも考えられるわけだ。ヒルの名前と住所とは控えてあるな。かれの供述の人相は、漠然《ばくぜん》としているが、しかし、メアリー・ストラウドや、このトム・ハーティガンの供述の人相と、かなり共通のところがある……」
かれは、考え考えうなずいて、
「だいぶ熱くなってきたぞ」と、クローム警部はいった――が、これは、あまり正確だとはいえなかった。というのは、かれは、いつでも、ちょっと寒がりだったからだ。
「なにかご指示は?」
「二人ほどやって、このカムデン・タウンの家を監視させてくれ。しかし、相手をおびえさせたくはないんだ。副総監と話してみなくちゃならんからね。その後で、カストをここへ引っ張って来て、泥《どろ》を吐くかどうか、やってみた方がいいかと思うんだ。すぐに吐いてしまいそうな気もするがね」
表へ出たトム・ハーティガンは、テームズ河の堤防のところで、待っていたリリー・マーベリーといっしょになった。
「うまくいって、トム?」
トムは、うなずいた。
「じかに、クローム警部に会ったよ。この事件の担当の人さ」
「どんな人?」
「ちょっと物静かな、気取り屋で――ぼくの考えているような探偵じゃないや」
「じゃあ、トレンチャード卿《きょう》のような人なんでしょう」と、リリーは、尊敬の念をこめて、いった。「ああいう人たちってものは、いつでもどっしりと威張っているものよ。で、なんといって?」
トムは、会見の模様を、ざっとかいつまんで、かの女に話して聞かせた。
「じゃ、ほんとにあの人だと思ってるのね?」
「そうかもしれないっていうんだ。とにかく、やって来て、一つ二つ、聞いてみるそうだ」
「かわいそうなカストさん」
「かわいそうなカストさんなんていうのは、よくないよ。もし、あの人がABCなら、おそろしい殺人を四つも犯したのだからな」
リリーは、ため息をついて、首を振った。
「おそろしいわね」と、かの女は、しみじみといった。
「さあ、ところで、どっかへ行って、昼食を食べることにしようよ、きみ。もし、ぼくたちの考えたとおりなら、ぼくの名前が新聞に出るんだぜ!」
「あら、トム、ほんと?」
「おそらくね。それから、きみのもだ。それから、きみのお母さんのもだ。それから、みんなの写真も出るかもしれないと、ぼくは思うな」
「まあ、トム」リリーは、うっとりとなって、かれの腕をぎゅっと締めつけた。
「それはそうと、コーナー・ハウスでめしを食うのは、どうだい?」
リリーは、もっと締めつけた。
「じゃ、行こう!」
「いいわ――でも、ちょっと待って。駅から電話をかけなくちゃいけないの」
「誰に?」
「会う約束の女の友だち」かの女は、道路を突っ切って行ったが、しばらくすると、ちょっと上気した顔つきで、かれのところへもどって来た。
「さあ、それじゃ、トム」かの女は、腕をかれの腕の中に、さっと入れた。
「もっと、スコットランド・ヤードのことを話してよ。ほかの人には、会わなかったの?」
「ほかの人って誰さ?」
「ベルギー人の紳士よ。ABCが、いつも手紙を出している人よ」
「いや。あの人は、いなかったよ」
「ねえ、みんな話してよ。あんたが中へはいって行った時、どうだったの? 誰に、あんたが話しかけて、あんた、なんていったの?」
カスト氏は、おそろしく静かに、受話器を元へもどした。
かれが振り向くと、マーベリー夫人が、見るからに全身これ好奇心という様子で、部屋の戸口に立っていた。
「あなたにお電話なんて、あんまりないことですわね、カストさん」
「いえ――ええ――そう、マーベリーの奥さん、あんまりないことですね」
「悪い知らせじゃないんでしょうね?」
「いえ――いえ」なんてしつこいんだろう、女なんて。かれの目が、自分の持っていた新聞の記事にとまった。
出産――結婚――死亡……
「妹が男の子を生んだというんです」と、かれは、口をすべらした。
「あら、まあ! いま――それはそれは、ようござんしたこと。(『そのくせ、この二年間に、一度だって、妹のことなんかいったこともなかったのに』と、かの女は、内心で思った。『男のようじゃありゃしないわ!』)わたし、ほんとにびっくりしましたわよ、だって、女の人がカストさんにお話したいというんですものね、ほんとですよ。はじめは、うちのリリーの声かと思ったんですよ――ちょっと、あの子の声に似ていたもんですからね――でも、おわかりでしょう、ちょっと気取ったようで――高く、空へでもあがって行くみたいでね。でもまあ、カストさん、おめでとうございます、ほんとに、はじめての甥《おい》ごさん、それとも、ほかにもおちいさい甥か姪《めい》がおありですの?」
「たった一人です」と、カスト氏はいった。「後にも、先にも、たった一人です。それで――ええと――すぐに、行ってやらなくちゃいけないと思うんです。みんな――みんな、わたしに来てくれといっているんです。わたし――わたしは、急いで行けば、汽車に乗れると思うんです」
「長いこと、行っておいでですか、カストさん?」と、かれが階段を駆けあがって行く後から、マーベリー夫人は、声をかけた。
「ああ、いや――二、三日――だけです」
かれは、寝室に姿を消した。マーベリー夫人は、台所に引っこんで、涙っぽく、「かわいいちびさん」のことを考えていた。
かの女の良心が、不意に痛みはじめた。
ゆうべ、トムやリリーとみんなして、日付をあさり返したりして! カストさんの頭文字がそうだからって、一つ二つ符合していることがあるからって、カストさんが、あの恐ろしい怪物のABCじゃないかと確かめようとしたりして。
「あの子たちだって、きっと本気じゃなかったんだわ」と、かの女は、気安めに考えた。「きっと、いまごろは、自分で自分が恥ずかしくなっているわ」
なんだか、はっきりとよくわけはいえなかったが、妹さんが子供を生んだというカストさんの言葉は、マーベリー夫人が下宿人の誠実さに対して抱いた疑念を、すっかり取り払ってしまった。
「妹さんがあんまり苦しまずにすんだのならいいんだけどね、かわいそうに」と、マーベリー夫人は思いながら、リリーの絹のスリップにアイロンをかけようとして、頬《ほお》のそばへアイロンを持って行って、熱さをためしていた。
かの女の思いは、もう昔のことになってしまったお産の経過を、のんきに辿《たど》っていた。
カスト氏は、鞄《かばん》を手にして、そっと階段を降りて来た。その目は、一瞬、電話器にとまった。
あの時の短かい会話が、もう一度、頭の中で響き渡った。
「あなたですか、カストさん? あたし、あなたにお知らせした方がいいと思ったんですの、スコットランド・ヤードの警部が、あなたに会いに行くそうですの……」
なんと、おれは、いったんだったかな? どうも思い出すことができない。
「ありがとう――ありがとう、あなた……どうもご親切に……」
なんだか、そんなようにいったっけ。
どうして、かの女は、電話をかけてくれたのだろう? はっきり、わかったのだろうか? それとも、警部の訪問のために、いるかどうか、確かめようとしたのだろうか?
だが、どうして、警部が来るということがわかったのだろう?
それに、かの女の声だ――かの女は、母親にもわからないように、声を変えていた……
どうやら――どうやら――かの女は|知っていた《ヽヽヽヽヽ》らしい……
だが、ほんとに知っていたとしても、まさか……
しかし、かの女かもしれないぞ。女というものは、まったくおかしなものだからな。思いもかけないほど残酷かと思えば、思いもかけないほど親切だったりな。一度、リリーが、鼠捕《ねずみと》りから鼠を逃がしてやるのを見たことがあったな。
親切な娘……
親切で、きれいな娘……
かれは、傘《かさ》や外套《がいとう》のかかっている、玄関のスタンドのそばで立ちどまった。
どうしよう――?
かたという、台所でのかすかな物音が、かれに心をきめさせた……
そうだ、時間がなかったのだ……
マーベリー夫人が出てくるかもしれない……
かれは、玄関のドアをあけ、外へ出て、うしろをしめた……
どこへ……?
二十九 ロンドン警視庁にて
また会議だ。
副総監と、クローム警部と、ポワロと、わたしと。
副総監が、こういった。
「いい勘でしたな、あなたの勘は、ポワロさん、靴下の大きな売り先を調査しろというのは」
ポワロは、両手をひろげて、
「頭の中で、そう指していただけなんです。この男は、正規の代理商のはずはないのですから。注文を取るのじゃなくて、即売していたのですね」
「そこまで、いっさいはっきりしているのかね、警部?」
「そう思います」クロームは、とじこみを調べて、「日付順に地名をあげましょうか?」
「そうだね、あげてもらおう」
「チャーストン、ペイントン、およびトーケイについては、調査ずみであります。かれが靴下を売りに行った人々のリストも、できあがっています。なかなか、ことを徹底的にやっていたと、いわなければならないようです。トール駅のそばの、ピットという小さな旅館に泊まって、殺人事件の夜は、十時三十分に旅館にもどっています。チャーストン発十時五分の列車に乗って、十時十五分ペイントン着というわけです。車中でも駅でも、かれらしい人間を見かけたという人はありません。しかし、その日は木曜日で、ダートマスのボート・レースがあったものですから、キングズウェアからの列車は、かなりいっぱいだったのです。
ベクスヒルの場合も、ほとんど同様です。本名で、グローブに宿泊しています。十二軒ほどの家に靴下を売りに歩いています。その中には、バーナード夫人もはいっていますし、『ジンジャー・キャット』もはいっています。夕方早く、宿を引きあげて、つぎの朝の十一時三十分ごろ、ロンドンに帰って来ております。アンドーバーの場合も、同じような手順で、フェザーズに泊まって、アッシャー夫人の隣家のファウラー夫人ほか、町内で六軒ぐらいに、靴下を売り歩いています。アッシャー夫人が買い入れた一足を、その姪(名前はドローワーです)から、手に入れましたが――それは、カストの扱っているものと同じ製品です」
「そこまでは、よろしい」と、副総監がいった。
「以上の情報にもとづきまして」と、警部は、言葉をついで、「わたしは、ハーティガンから聞き出した下宿へ行ってみましたが、カストは、約三十分ほど前に、家を出てしまった後でした。かれは、電話の連絡を受けたということです。こういうことは、かれにははじめてのことだと、家主のかみさんが申しておりました」
「共犯かな?」と、副総監がいった。
「さあ、どうでしょう」と、ポワロがいった。「おかしいですね――それとも――」
かれが言葉をきったので、わたしたちみんなは、物問いたげに、かれに目を向けた。
しかし、かれは、首を振っただけで、また警部が話をつづけた。
「わたしは、かれが住んでいた部屋を、くまなく調べてみました。その捜査によって、もう疑いの余地はなくなりました。例の手紙に使用したのと同一の便箋《びんせん》が一冊と、多量の靴下とを見つけました――それから、靴下をしまってあった戸棚《とだな》の奥に――形も大きさもまったく同じような包みが一つありましたが、中身は――靴下ではなくて――|新しいABC鉄道案内が八冊《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》もはいっていました!」
「確証だな」と、副総監がいった。
「ほかにも、いろいろと発見しました」と、警部はいった――その声は、意気揚々として、急に人間らしくなってきた。「ただ、けさ、発見したばかりで、まだご報告する時間がありませんでした。かれの部屋には、ナイフの影も形もなかったのです――」
「そんな物を持って帰るなんて、ばかのすることでしょう」と、ポワロがいった。
「結局、かれは、理性のある人間じゃないということなんですね」と、警部が批評をするように述べた。「とにかく、おそらく、かれは、それを家へ持って帰ったのだろうが、(ポワロさんが指摘なすったように)自分の部屋に隠すのは危険だと感じて、どこかほかに隠したのかもしれないという気が、ふっと、わたしには浮かんだのです。家の中で、かれが選びそうなところはどこだろう? そう思うと、すぐに、ぴんときました。玄関の傘立てです――玄間の傘立てを動かした人間の話は聞いたこともありませんからね。それで、さんざん苦労のあげく、壁から動かしてみると――やっぱりありました!」
「ナイフが?」
「ナイフです。疑う余地はありません。乾いた血が、こびりついているんです」
「よくやった、クローム」と、副総監は、満足そうにいった。「後は、もう一ついるだけだ」
「なんですか、それは?」
「その男だよ」
「われわれで捕えます。絶対にご心配はご無用です」
警部の口振りは、自信満々だった。
「いかがですか、ポワロさん?」
ポワロは、夢からさめたように、はっとした。
「なんでしょうか?」
「犯人を捕えるのは、ただ時間の問題だ、といっていたんです。そうでしょう?」
「ああ、そのことですか――そうですね。疑いはないでしょう」
かれの口振りは、いかにも放心したようだったので、ほかの人々は、珍らしそうに、かれを見つめた。
「なにか、工合の悪いことでもおありですか、ポワロさん?」
「ひどく気にかかることがあるんです。それは、なぜか? ということです。動機は、なにかということです」
「しかし、あなた、その男は、気ちがいなんですよ」と、副総監は、じれったそうにいった。
「ポワロさんのおっしゃることも、よくわかります」と、親切にも助け舟を出すように、クロームがいった。「まったくおっしゃるとおりです。なにか、はっきりとした、取りついて離れない観念があるにちがいないのです。わたしは、この事件の本質は、強度な劣等感の中に、見出されると思います。被害|妄想《もうそう》もあるかもしれません。もしそうだとすると、かれは、あるいは、ポワロさんとそれとを結びつけて考えているかもしれません。ポワロさんのことを、自分を迫害するために雇われている探偵だという妄想を、かれは、抱いているのかもしれませんね」
「ふむ」と、副総監はいった。「そりゃ、このごろはやりのたわごとだ。昔は、気ちがいは、あくまでも気ちがいであって、科学用語などを捜しまわって、やわらげなかったものだ。すっかり当世流の医者などは、ABCのような人間を療養所に入れて、四十五日もすれば立派な人間になったといって、社会の責任ある一員として、出してやりかねないと、わたしは思うね」
ポワロは、にっこり笑いを浮かべたが、返事はしなかった。
会議は、打ち切りになった。
「では」と、副総監はいった。「きみのいうとおり、クローム、かれを逮捕するのは、時間の問題というだけだね」
「もうとっくに、かれを逮捕していたはずなんです」と、警部は、「ただ、かれが常人と同じ様子だものですから。われわれも、ずいぶん罪のない市民にいやな思いをさせましたからね」
「いったい、奴は、いまどこにいるのだろう?」と、副総監がいった。
三十 (この部分はヘイスティングズ大尉の手記ではない)
カスト氏は、八百屋《やおや》の店の前に立っていた。
かれは、道路の向こうを、じっと見つめていた。
そうだ、あれがそうだ。
アッシャー夫人、新聞、煙草《タバコ》販売店……
窓にも、文字が書いてある。
貸家。
がらんとしている……
人の気配もない……
「ごめんなさいよ、旦那」
八百屋のおかみさんが、レモンを取ろうとして、いった。
かれは、あやまって、脇へよった。
ゆっくりと、かれは、足を引きずって――町の本通りの方へ引き返して行った……
困って――とても困った――もう金も残っていない……
一日じゅう、なにも食べていないと、ひどくおかしな、ふらふらするような気がする……
かれは、新聞屋の店先にはってあるポスターに、目をやった。
ABC事件。殺人犯人、いまだ逮捕されず。エルキュール・ポワロ氏との会見。
カスト氏は、ひとり言をいった。
「エルキュール・ポワロ。あの人にもわかるかな……」
かれは、また歩き出した。
いつまでも立って、じろじろ、あのポスターを見ていちゃ、まずい……
かれは、思った。
「あまり遠くまでは行けない……」
足の前へ、足を……歩くということは、おかしなことだな……
まったく、ばかげたことだ……
しかし、人間というものは、ばかげた動物だよ、とにかく……
そして、おれ、アレグザンダー・ボナパート・カストという人間は、とりわけばかげているよ……
おれは、いつでも、そうだった……
世間の人間は、いつでも、おれのことを笑ったものだ……
おれには、奴らを責めることはできん……
おれは、どこへ行けばいいのだろう? おれには、わからない。もう最後のどんづまりまで来てしまった。足のほか、もうどこも見えない。
足の前に、足を。
かれは、目をあげた。目の前に灯《あか》りがあった。そして、文字が……
警察署。
「おかしいぞ」と、カスト氏はいった。かれは、ちょっと、くすくすと笑った。
それから、かれは、中へ足を運んで行った。不意に、足を運びながら、かれは、よろめいて、前に倒れた。
三十一 エルキュール・ポワロの質問
よく晴れ渡った十一月のある日だった。トンプスン博士とジャップ警部とが、アレグザンダー・ボナパート・カスト氏の事件に関する、警察当局の審問の結果を知らせに、ポワロのところへやって来た。
ポワロは、軽い気管支炎だったので、それに出席できなかったのだ。さいわいに、かれは、わたしにいっしょに行ってくれとは、いいはらなかったのだ。
「審問に付されましてね」と、ジャップがいった。「それでおしまいというわけです」
「あまり例のないことでしょうね」と、わたしがたずねた。「この段階で、弁護士がつくというのは? 容疑者というものは、常に、最後まで弁護を保留しておくものだと、わたしは、思っていましたがね」
「それは、普通の経過ではそうですがね」と、ジャップはいった。「あの若いルーカスというのが、しゃにむに通せるかと思ったんでしょうね。いわば、あの男にとっては腕だめしですからね。精神異状というのが、唯一《ゆいいつ》の弁護点ですがね」
ポワロは、肩をすぼめて、
「精神異状ということでは、釈放ということはありえないでしょうね。陛下《へいか》の考えが、死刑に反対でいられるかぎり、禁錮ということでしょうね」
「ルーカスは、勝ち目があると思ったんでしょうね」と、ジャップはいった。「ベクスヒルの殺人にすばらしいアリバイでもあれば、事件全体もぐらつくかもしれませんがね。かれは、われわれの起訴事実がどんなに強力かということに、気がついていないのだと思いますね。とにかく、ルーカスは、奇抜なことをしようとしているんです。まだ若いし、大衆の面前で、ヒットをはなちたがっているんですね」
ポワロは、トンプスン博士の方を向いて、
「あなたのご意見は、どうですか、博士?」
「カストについてですか? ほんとうに、なんといっていいかわかりませんね。あの男は、ほとんど正気の人間と同様にふるまっていますが、あの男は、癲癇《てんかん》患者ですよ、もちろん」
「驚くべき大団円でしたね」と、わたしはいった。
「あの男が発作《ほっさ》を起こして、アンドーバーの警察署に倒れこんだことですか? そうですね――あれは、あのドラマにふさわしい、劇的な幕切れでした。ABCは、いつも、効果をあげる潮時を心得ていましたね」
「犯罪を犯しておきながら、それに気がつかないなどということが、あるものなんでしょうか?」と、わたしはたずねた。「あの男の否認には、なにか真実のひびきがあるような気がしますがね」
トンプスン博士は、ちょっと、にっこりして、
「あの芝居がかりの『神に誓って』というような気取りに、だまされちゃいけません。殺人を|犯したことをカストは《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|まったくよく知っている《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》というのが、わたしの意見ですよ」
「熱中していた時のことは、おぼえているのが普通ですね」と、ジャップがいった。
「あなたのご質問に関していえば」と、トンプスンは言葉をつづけて、「癲癇の患者が、夢遊状態の時に、ある行為をしながら、そういう行為をしたということに、全然、気がつかないということは、完全にありうることなんです。しかし、そういう行為は、きっと、『覚めている状態の時の、当人の意志に反したものではない』はずだというのが、一般的な意見なのです」
かれは、大悪とか小悪とかいう問題に触れながら、その事柄を論じつづけたが、実をいうと、学究的な人物が、自分の専門の話題に熱中して意見を述べ立てる時、しばしばそういう思いをするように、わたしは、どうしようもないほど頭が混乱してしまった。
「しかしながら、わたしは、カストが自分の行為を自覚せずに、これらの犯罪を犯したという説には反対です。もしも、手紙のことがなければ、その説を主張することができるかもしれませんがね。手紙が、頭からその説を打ちこわしてしまうのです。あの手紙は、犯罪の予謀と周到な計画性とを示していますからね」
「ところが、手紙については、まだ十分な説明もないのです」と、ポワロがいった。
「それで、あなたは興味を持っておいでなんですね?」
「そりゃそうですよ――あの手紙は、わたしにあてて書かれているのですからね。しかも、手紙の問題になると、カストは、頑固《がんこ》に口をつぐんでいます。あれらの手紙を、わたしにあてて書いた理由がわからないうちは、わたしには、事件が解決したという気がしないのです」
「そうですね――あなたのお考えでは、そうだろうと思いますね。どう考えても、あの男があなたに挑戦《ちょうせん》するに至ったと信じられるような、どんな理由もないとおっしゃるんですね?」
「どんな理由もありません」
「一つ思いつきをいってみましょうか。あなたの名前ですよ!」
「わたしの名前?」
「そうです――カストは、重い物をしょわされているのです――明らかに、母親の気まぐれからで(そこに、エディプス・コンプレックスがありそうですが)――重い荷物というのは、極端に大げさな、アレグザンダーと、ボナパートという、二つの名前です。意味は、おわかりでしょう? アレグザンダーといえば――一般には、もっともっと世界を征服したいと望んだ不敗の将軍と考えられている人物です。ボナパートといえば――偉大な、フランスの皇帝です。かれは、相手を求めているのです――自分と匹敵する相手を。そうです――あなたがそうなんです――強きヘラクレス《エルキュール》というわけなんですよ」
「あなたのおっしゃることは、なかなか暗示的ですね、博士。いろいろな考えが浮かんできますよ……」
「いや、ほんの思いつきにすぎませんよ。さて、そろそろ失礼しなければなりません」
トンプスン博士は、出て行き、ジャップは残った。
「このアリバイで、困っていらっしゃることがあるんですか?」ポワロがたずねた。
「いささかね」と、あっさり、警部はみとめた。「こうなんです。わたしは、信じてはいないのです。だって、ほんとうじゃないってことがわかっていますからね。しかし、そいつを破るのが、なかなか厄介だろうと思うんです。このストレンジという証人は、なかなかねばり強い奴ですからね」
「その男のことを説明してくださいよ」
「四十歳ぐらいの男でしてね。ねばり強い、自信たっぷりな、いい出したら最後、自分の説を曲げようとしないという、鉱山技師です。自分の証言を、いま採用しろといいはっているのはこの男だというのが、わたしの考えですがね。かれは、チリへ出かけたいというので、早いところ、けりをつけてほしがっているのです」
「いままで会ったうちでは、一番きっぱりした男だね」と、わたしはいった。
「自分の誤りを認めたがらないといったタイプの人間だね」と、ポワロが考え深くいった。
「自分のいうことばかりいっていて、質問攻めでまるめこまれるような男ではないのです。かれは、七月二十四日の晩に、イーストボーンのホワイトクロス・ホテルでカストを見つけたと、あらゆる貴族の名にかけて誓っているんです。かれは、たった一人で泊まっていたので、誰か話し相手がほしかったというのです。考えてみても、カストは、申し分のない聞き手だったでしょう。かれは、すこしも相手の話をさえぎったりはしなかったでしょう! 夕食の後で、かれとカストとは、ドミノをやったのですね。ストレンジという男は、ドミノにかけては大物らしいのですが、そのかれが驚いたことには、カストも、かなりな腕前のドミノ好きだというんです。おかしなゲームでしてね、ドミノというやつは、やり出すと、すっかり夢中になって、何時間でも、つづけてやるんですね。このストレンジとカストの場合もご多聞にもれずで、カストが寝に行こうとしても、ストレンジが耳にも入れないといったわけで――すくなくとも、真夜中まではつづけたのにきまっています。とにかく、そうやっていて、別れたのは、午前零時を十分ばかりすぎていたというんです。ですから、もし、カストが二十五日の午前零時十分すぎに、イーストボーンのホワイトクロス・ホテルにいたとすれば、午前零時から一時までの間に、ベクスヒルの海岸で、ベッティ・バーナードの首をしめることはできなかったわけです」
「この問題は、確かに打ち勝てそうにもありませんね」と、ポワロは、考えがちにいった。「確かに、考えさせますね」
「クロームも、その点で頭をひねっています」と、ジャップがいった。
「そのストレンジという男が、ひどく強気なんですね?」
「そうです。まったく強情な悪魔です。それに、どこに弱点があるのか、見当もつかないのです。かりに、ストレンジが間違っていて、その男がカストでないとしても――いったい、なぜ、その男の名前がカストだというのでしょう? それに、ホテルの宿帳の筆蹟は、かれの筆蹟に相違ありません。共犯だともいえません――殺人狂には、共犯なんてないものですよ! じゃ、娘の方がもっと遅く殺されたのでしょうか? 医師は、その死亡時刻に関する証言に確信を持っているようですし、それに、とにかく、カストがイーストボーンのホテルを出て、人の目につかないようにしてベクスヒルに着くのには、相当に時間がかかるはずですし――なにしろ十四マイルも離れているんですから――」
「そりゃ問題ですね――まったく」と、ポワロはいった。
「もちろん、厳密にいうと、そんなことはどうでもいいんです。われわれは、ドンカスターの殺人犯人として、カストをつかまえたのですからね――血痕《けっこん》のついた上衣、ナイフと揃っているんですから――逃げ道はないわけです。どの陪審員に圧力をかけたって、かれを釈放するなんてことはできませんよ。しかし、あの点がちょっとまずいんですね。かれは、ドンカスターの殺人もやった。チャーストンの殺人もやった。アンドーバーの殺人もやった。だから、確かに、ベクスヒルの殺人も、かれがやったのにちがいないんです。だが、どうしてやったかがわからないんです!」
かれは、首を振って、立ちあがった。
「こんどは、あなたのチャンスですよ、ポワロさん」と、かれはいった。「クロームは、五里霧中です。評判の、あなたの、いわゆる細胞組織というやつを働かしてくださいよ。あの男がやった方法を教えてください」
ジャップは、帰って行った。
「どうだね、ポワロ?」と、わたしはいった。「その小さな灰色の細胞は、十分に仕事がやってゆけるかい?」
ポワロは、わたしの問いにはこたえないで、ほかのことをいい出した。
「ねえ、ヘイスティングズ、あなたは、事件はおわったと思っているんですか?」
「そう――そうですね、実際上は。犯人は捕えたし、その上に、大部分の証拠もあがっているのですからね。必要なのは、仕上げだけですよ」
ポワロは、首を振って、
「事件がおわったんですかね! 事件が! 事件の真相は、その男にあるんですよ、ヘイスティングズ。その男について、すべてがわからないかぎり、謎《なぞ》は、あいもかわらず深いのですよ。かれを被告席に立たしたからといって、それだけじゃ勝利にはならないんですよ!」
「あの男のことは、かなりわかっているじゃありませんか」
「全然、なんにもわかってはいないのですよ! かれの生まれたところは知っている。かれが戦争で闘って、頭にちょっとした傷を受けたことも、癲癇のために除隊になったことも知っている。二年近く、マーベリー夫人のところで下宿していたことも知っているし、おとなしい、引込み思案の――人の目につかない男だということも知っている。きわめて手ぎわよく、系統立った殺人計画を考え出して実行したということも知っている。とうてい信じられないような、ばかげた、ある失策を演じたということも知っている。情け容赦もなく、まったく残忍な殺し方をしたということも知っている。それからまた、自分が犯した犯罪のために、他人が迷惑をしないように、親切にも気をくばる男だということも知っている。もしも、かれが、いっさいのものに煩わされないで殺そうと思えば――かれの犯罪のために、他人に苦痛を与えることぐらいは易々《いい》たることだったでしょう。ねえ、ヘイスティングズ、あの男が矛盾《むじゅん》のかたまりだということが、わかりませんかね? ばかで、狡猾《こうかつ》で、残忍で、寛大で――|だから《ヽヽヽ》、|かれの二つの性質を調和させるような《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|なんらかの支配的な因子があるにちがいないんです《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》」
「もちろん、あなたが心理学的な研究の対象として、かれを扱うのなら」と、わたしはいいかけた。
「そもそものはじめから、この事件は、それ以外のどんなものだったのです? ずうっと、わたしは、手探りで進んで来たんですよ――|この殺人犯人を知ろうとしてね《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。そして、いまになって、ヘイスティングズ、|まるきりかれを知らないのだ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》ということをさとったのです! わたしは、まったくとほうにくれているのです」
「権力に対する欲望とか――」と、わたしはいいかけた。
「そう――そういうことも、大いに説明になるでしょうね……しかし、それだけでは、わたしは納得《なっとく》しないのです。いろいろ、わたしの知りたいと思うことがあるのです。|なぜ《ヽヽ》、かれは、これらの犯罪を犯したのでしょう? |なぜ《ヽヽ》、かれは、特別にこれらの人たちを選んだのでしょう――?」
「アルファベットの順に――」と、わたしはいいかけた。
「ベクスヒルで、Bではじまる人間は、ベッティ・バーナードがただ一人だけだったのでしょうか? ベッティ・バーナード――わたしは、あることを考えついたんです……それは、当然真実で――真実でなくちゃならないんです。しかし、かりに、そうだとすれば――」
かれは、しばらく黙っていた。わたしは、かれのじゃまをしたくなかった。
実をいうと、わたしは、眠りこんでしまったらしい。
はっと目をさますと、ポワロの手が肩にかかっている。
「親愛なるヘイスティングズ」と、かれは、親しみをこめていった。「わたしの大事な天才」
この突然のほめ言葉に、わたしは、すっかりとまどってしまった。
「ほんとうのことですよ」と、ポワロは、いいつづけた。「いつだって――いつだって――あなたは、わたしを助けて――わたしに幸運をもたらしてくださる。わたしに霊感を与えてくださる」
「どういうふうに、こんどは、霊感を与えたのだね?」と、わたしはたずねた。
「わたしが、あることを自問自答していると、不意に、あなたの言葉を――その澄んだ洞察力《どうさつりょく》の中から強く光りをはなっているような言葉を思い出したのです。いつだったか、あなたには明白なことを、ずばりという才能があるといいませんでしたかね? わたしが忘れていたのは、その明白なことなんですよ」
「わたしの、その輝かしい言葉というのは、どんなことです?」と、わたしはたずねた。
「それはね、水晶の玉のように、あらゆることをはっきりさせてくれるのです。わたしのすべての疑問に対するこたえが、そこにあるのです。アッシャー夫人殺害の理由(これは、ずっと前に、ちらっとわかったことがあるのです)、カーマイケル・クラーク卿殺害の理由、ドンカスターの殺人の理由、それから、最後にもっとも重要な、|エルキュール《ヽヽヽヽヽヽ》・|ポワロに《ヽヽヽヽ》対する理由」
「どうか説明してもらえないかね?」と、わたしはたのんだ。
「いまはだめです。まず、もうすこし知らなくちゃならないことがあるんです。われわれの特別部隊から聞き出せることなんです。それから――それから、|ある疑問に対するこたえが得られたら《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|わたしは《ヽヽヽヽ》、|ABCに会いに行きます《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。とうとう、対決することになるのですよ、わたしたち――ABCと、エルキュール・ポワロとが――敵と敵とが」
「それから?」と、わたしはたずねた。
「それから」と、ポワロは、「話し会うのです! 確かに、ヘイスティングズ――人と話している時に、|なにかを隠している人間ほど《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》危険なものはありませんよ! あるフランスの老賢人が、いつか、わたしにいったことがありますが、話というものは、考えることを妨げるための、人類の発明品ですよ。そしてまた、人が隠そうと思っていることを発見するための、絶対確実な方法でもあるのです。人間というものはね、ヘイスティングズ、話をする機会をつかめば、どうしても、自分自身をさらけ出したり、個性を表現せずにはいられないものなんです。話をするたびに、人間というものは、自分の秘密をもらすものなんですよ」
「カストがなにをいうと思っているんです?」
エルキュール・ポワロは、にっこり微笑を浮かべて、
「嘘《うそ》を、ですよ」と、かれはいった。「そして、それによって、わたしは、真実を知るのです!」
三十二 そして狐を捕えろ
それから二、三日の間、ポワロは、非常にいそがしい様子だった。どこともなく、謎《なぞ》のようにいなくなってしまうかと思うと、ほとんど話もせず、ひとりで顔ばかりしかめていた。その上、かれの言葉によれば、わたしが過去において示した明敏さに対して、わたしの当然の好奇心をさえ、かたくなに満足さしてはくれなかった。
わたしは、かれの謎のような出入りについて、いっしょに行かないかと誘われもしなかった――この事実を、わたしは、いささかうらめしく思っていた。
ところが、その週もおわりかけたころになって、かれは、ベクスヒルとその近辺へ行くつもりだからといって、わたしにもいっしょに行かないかといい出した。いうまでもなく、わたしは、喜んで承知した。
この誘いを受けたのは、わたし一人だけではなかったということがわかった。わが特別部隊のメンバーたちも誘いを受けていたのだ。
かれらも、わたしと同じように、ポワロの芝居に引っかかったのだ。しかし、その日のおわりごろには、すくなくともポワロの考えが、どの方向に向かっているのか、大体の見当だけはついた。
かれは、まずバーナード夫妻を訪《たず》ねて、夫人から、カスト氏がかの女を訪ねた時間や、かれがいった言葉などを、正確に聞いた。それから、カストの泊っていたホテルへ行って、この紳士の帰る時のことを、こと細かに聞き出した。わたしの考えるかぎりでは、かれの質問からなにも新しい事実は引き出せなかったようだが、かれ自身は、すっかり満足しているようだった。
つぎに、かれは、海岸へ――ベッティ・バーナードの死体が発見された場所へ行った。その場へ行くと、かれは、しばらくの間、注意深く砂を見ながら、ぐるぐると輪をかいて歩きまわっていた。その場所は、一日に二度、潮が満ちてくるたびに洗われていたのだから、そこにどんなポイントがあるのか、わたしには、ほとんどわからなかった。
しかし、わたしは、いままでの経験で、ポワロの行動が――どんなに無意味に見えても――いつも一つの考えにもとづいて動いているのだということを、よく知っていた。
それから、かれは、海岸から、一番近い自動車の駐車場まで歩いた。そこからまた、イーストボーン行きのバスの、ベクスヒル停留所まで行った。
最後に、かれは、わたしたちみんなを、「ジンジャー・キャット」へ連れて行った。わたしたちは、そこで、あのぽちゃぽちゃ肥ったミリー・ヒグリーの給仕で、いくらかかび臭い紅茶をごちそうになった。
ポワロは、かの女の足首が、すらっとしたフランス人のような形をしているといって、ほめた。
「イギリス人の脚《あし》は――一般に、細すぎるんです! ところが、マドモアゼル、あんたは、申し分のない脚を持ってますね。いい形だ――すてきなくるぶしだ!」
ミリー・ヒグリーは、いつまでもくすくす笑いながら、そんなにばかなことをいわないでほしいわといった。フランスの紳士がどんなものか、よく知っているというのだ。
ポワロは、かの女がかれの国籍を間違えたことを、かれこれいう気もしないようだった。かれは、ただ、わたしが驚いて、あやうくぎょっとするほどのやり方で、かの女に色目を使っただけだった。
「さあ、これでよろしい」と、ポワロは、「ベクスヒルは、これですみました。こんどは、イーストボーンへ行きます。そこで、一つつまらないことを調べれば――それでおしまいです。しかし、みなさんがいっしょにいらっしゃる必要はありません。その間、ホテルへもどって、カクテルでもやってください。あのカールトン紅茶は、おそるべきものでしたからねえ!」
わたしたちが、ちびりちびりとカクテルを飲んでいると、フランクリン・クラークが、いかにも好奇心をそそられたように、いい出した。
「あなたがなにを捜していらっしゃるのか、見当がつけられそうですね? あなたは、あのアリバイを破ろうとしていらっしゃるんでしょう。でも、あなたは、あまりうれしそうな様子に見えないところをみると、新しい事実がつかめなかったということですね」
「そうです――そのとおりです」
「それで、これからは?」
「根気よく辛抱するんですね。そのうちには、うまくゆきます、時間さえたてばね」
「とにかく、満足していらっしゃるようですね」
「いままでのところ、わたしの考えと矛盾するものがないのです――それだからですよ」
かれの顔が、しかつめらしくなった。
「友人のヘイスティングズが、いつだったか、青年のころに『真実遊び』というゲームをしたという話を聞かせてくれたことがありました。それは、みんなが順々に、三度ずつ質問をし合うゲームですが――三度のうち二度だけは、正直にほんとうの返事をしなければいけないのです。一度は、例外が認められるんです。当然、質問は、ずいぶんぶしつけなものになるんですが、はじめに、みんなが、必ず真実を、全部真実を、真実だけを話すと誓わなくちゃいけないのです」
かれは、息をついで話をやめた。
「それで?」と、ミーガンがいった。
「そうです――実は、わたしは、そのゲームがやってみたいのです。といっても、三つ質問する必要はないのです。一度で結構なのです。みなさん一人一人に、質問を一つずつです」
「もちろん」と、いらいらしたように、クラークがいった。「どんな質問にでも、おこたえしますよ」
「ああ、でも、それよりも、もっと真面目《まじめ》になっていただきたいのです。みなさんは、必ず真実をいうと誓いますか?」
かれのいい方があまり厳粛だったので、ほかの連中は、どぎまぎしながらも、真面目くさった顔つきになった。みんな、かれのいうとおり、誓った。
「結構です」と、ポワロは、威勢よくいった。「では、はじめましょう――」
「さあ、どうぞ」と、ソーラ・グレイがいった。
「ああ、でも、ご婦人が先では――この場合、かえって礼儀正しいとはいえません。ほかの方からはじめましょう」
かれは、フランクリン・クラークの方を向いて、
「いかがです、クラークさん、今年のアスコットで、ご婦人方のかぶっていた帽子を見て、どうお考えでした?」
フランクリン・クラークは、かれの顔を見つめた。
「冗談ですか?」
「とんでもない」
「じゃ、真面目な質問なんですね?」
「そうです」
クラークは、にやにや笑い出して、
「そうですね、ポワロさん、わたしは、アスコットへは実際には行かなかったのですが、車に乗っている人たちを見たところでは、アスコットの婦人帽は、一般にかぶっている帽子よりも、ずっとふざけすぎていますね」
「風変わりだというんですか?」
「まったく風変わりです」
ポワロは、にっこりして、ドナルド・フレイザーの方を向いた。
「あなたは、今年は、いつ休暇をおとりでした、ムッシュー?」
こんどは、フレイザーが目を見はった。
「ぼくの休暇ですか? 八月のはじめの、二週間です」
かれの顔が、不意に、ぶるぶるとふるえた。その質問が、愛していた娘をうしなったことを思い出させたのだろう。
けれど、ポワロは、その返事にはあまり注意をはらっていないようだった。かれは、ソーラ・グレイの方を向いたが、その声には、ごくすこし変化があるように耳についた。質問は、鋭く、はっきりと突いて出た。
「マドモアゼル、クラーク夫人がなくなられるようなことがあって、もし、カーマイケル卿《きょう》から求められたら、あなたは、卿と結婚なさいましたか?」
娘は、飛びあがった。
「どうして、そんな質問をなさるんですの。そんなこと――失礼ですわ!」
「おそらく、そうでしょう。でも、あなたは、真実をいうと誓われたのですからね。いかがです――イエスですか、ノーですか?」
「カーマイケル卿は、口ではいえないほど、わたくしにご親切にしてくださいました。わたくしを、まるでご自分の娘のように扱ってくださいました。ですから、わたくしも、あの方にそういう――愛情と感謝の気持ちを持っておりましたわ」
「失礼ですが、それでは、イエスかノーかのこたえにはなっていませんね、マドモアゼル」
かの女は、ためらっていた。
「こたえは、もちろん、ノーですわ!」
かれは、なんにも意見をいわなかった。
「ありがとうございました、マドモアゼル」
かれは、ミーガン・バーナードの方を向いた。娘の顔は、ひどくまっ青《さお》だった。かの女は、きびしい試練に向かい合っているように、ひどい息づかいをしていた。
ポワロの声が、ぴしっと鞭《むち》が鳴るように響いた。
「マドモアゼル、わたしの捜査の結果が、どうなればいいとお思いですか? わたしに、真実を見つけ出してほしいと思いますか――それとも、そうならない方がいいと思いますか?」
かの女は、堂々と頭をもたげた。わたしには、かの女のこたえがはっきりわかっていた。ミーガンが真実に対して、狂信的な熱情を持っていることを、わたしは知っていた。
かの女のこたえが、はっきりと口を突いて出た――そして、わたしは、呆然《ぼうぜん》としてしまった。
「いいえ、望みませんわ!」
わたしたちはみんな、飛びあがった。ポワロは、ぐっと体を前へ乗り出して、かの女の顔を見つめた。
「マドモアゼル・ミーガン」と、かれはいった。「あなたは、真実を望まないかもしれないが――真実――ですね、いま、いったことは!」
かれは、戸口の方へ行きかけたが、思い出したように、メアリー・ドローワーのそばへ行った。
「ねえ、嬢《アンファン》や、あんたには好きな男の人がありますか?」
心配そうな様子をしていたメアリーは、驚いた顔で、さっと赤くなった。
「あら、ポワロさん。あたし――あたし――だって、わかりませんわ」
かれは、にっこりして、
「それで結構ですよ、嬢《アンファン》や」
かれは、ぐると、わたしの方を見て、
「さあ、ヘイスティングズ、イーストボーンに出かけなくちゃならん」
車は待っていたので、すぐに、わたしたちは、ペベンシーをぬけてイーストボーンに至る海岸道路を走っていた。
「きみに、たずねてもいいかい、ポワロ?」
「いまは、いけない。わたしのしていることから、あなた自身で結論を出しておいてください」
わたしは、また黙りこんでしまった。
自分だけは機嫌の好いらしいポワロは、低く鼻唄をうたっていた。ペベンシーを通りかかると、かれは、車をとめて、城を見物して行こうといい出した。
車をとめたところへもどって来る途中、わたしたちは、ちょっと立ちどまって、輪になって遊んでいる子供たちを見つめた――身なりで、ガール・スカウトだろうと思ったが――かん高い、調子はずれの声で、民謡をうたっていた。
「なんといってうたっているんです、ヘイスティングズ? 言葉がよく聞きとれないんです」
わたしは、耳をすました――そして、ようやく、繰り返しのところだけ聞きとることができた。
――そして狐《きつね》をつかまえて
そして檻《おり》の中に入れろ
そして逃がしちゃだめよ
「そして狐をつかまえて、そして檻の中に入れろ、そして逃がしちゃだめよ!」と、ポワロは、繰り返していった。
かれの顔が、急に厳粛に、きびしくなった。
「とてもおそろしいじゃないか、ヘイスティングズ」かれは、しばらく黙っていてから、「あなたたちは、この辺で、狐狩りをするんでしょう?」
「わたしは、しないよ。狩りなんかしている余裕はないよ。それに、こんなところじゃ、たいして獲物《えもの》もないだろうと思うね」
「わたしは、一般にイギリスのことをいっているんですよ。不思議なスポーツですね。隠れ場で待っていて――それから、ほうほう、と、どなるんでしょう?――それから、狩りがはじまって――野山を突っ切り――垣根《かきね》や溝《みぞ》を飛び越えて――だから、狐も走り出す――すると、時には、逆もどりをすることもある――が、犬が――」
「猟犬だよ!」
「――猟犬が後をつけて、とうとう、狐をつかまえると、狐は死んでいる――目もさめるほど素速いが、おそろしいね」
「残酷のような気もするだろうが、しかし、実際は――」
「狐もたのしんでいるというんですか? ばかげたことをいっちゃいけませんよ、あなた。それでも――その方がまだいいかな――あっという間の、残酷な死の方が――あの子供たちのうたっているのよりは……
とじこめられて――檻の中に――永久に……いやいや、よくない、そいつは」
かれは、首を振った。それから、調子を変えて、かれはいった。
「あした、わたしは、カストという男を訪ねなくちゃ」といってから、運転手にいった。
「ロンドンへ引っ返してくれたまえ」
「イーストボーンへは行かないのか?」と、わたしは、叫ぶようにいった。
「なんのために? もうわかっているんですよ――十分、狙っただけのことは」
三十三 アレグザンダー・ボナパート・カスト
ポワロと、あの不思議な人物――アレグザンダー・ボナパート・カストとの会見の時、わたしは、立ち会わなかった。かれと警察との関係や、事件の特殊な状況のせいから、ポワロは、なんの苦もなく、内務省の許可を手に入れた――しかし、その許可は、わたしにまでは及ばなかったのと、その上に、いずれにしても、その会見はごく内輪《うちわ》に――二人の人間が顔と顔とをつき合わしてするのが絶対に必要だというのが、ポワロの意見だったからだ。
しかし、二人の間でかわされた話を、かれは、くわしく、わたしに話してくれたので、実際に、わたしがその場に居合わせたかのように、十分の自信をもって、わたしは書きつけることができる。
カスト氏は、ひどくちぢんでしまったような気がした。かれの猫背《ねこぜ》は、一目見てわかるほどになっていた。その指は、なんということなしに、上衣《うわぎ》を引きむしっていた。
しばらくの間、ポワロは、口をきり出せなかったのだと、わたしは思う。
かれは、椅子《いす》に腰をおろして、前にすわっている男に、目をあてていた。
その場の雰囲気《ふんいき》は、静かで――人の心を静めるようで――無限の安らぎに満ちていた……
きっと、劇的な瞬間であったにちがいない――この長い劇的な事件の中での、二人の敵対する相手の会見は。ポワロの立場だったら、わたしは、劇的な戦慄《せんりつ》を感じたことだろう。
しかし、ポワロは、事務的そのものだった。かれは、相手の男にある効果を与えようとして、そのことで頭がいっぱいだった。
とうとう、かれは、おだやかにいった。
「わたしが誰だかわかりますか?」
相手は、首を振った。
「いいえ――いいえ――わかるとはいえません。あなたがルーカスさんの――なんといいましたっけ?――若い方《ほう》の方《かた》でないとすると。でないとすると、メーナードさんのところからおいでになったのですね?」
(メーナード・アンド・コールとは、弁護士事務所の名前だ)
かれの口振りはていねいだったが、たいして関心はなさそうだった。かれは、なにか内心の考えごとに気をとられているようだった。
「わたしは、エルキュール・ポワロです……」
ポワロは、その言葉を、ごく静かにいって……その結果を、じっと見守った。
カストは、ちょっと頭をあげて、
「ああ、そうですか?」
かれは、その言葉を、クローム警部でもいいそうに、ごく自然にいった――が、べつに尊大振ったところはなかった。
それから、一分ほどして、かれは、もう一度、繰り返して、
「ああ、そうですか?」といったが、こんどは、調子が変わって――興味を感じてきたようだった。かれは、顔をあげて、ポワロに目を向けた。
エルキュール・ポワロは、その注視をあびて、一、二度、やさしく、うなずいて見せた。
「そうです」と、かれはいった。「わたしが、あなたから手紙をいただいた当人ですよ」
たちまち、二人の交渉に、急激な変化が起こった。カスト氏は、目を落として、いらいらと、気むずかしそうに、いった。
「わたしは、一度も、あなたに手紙など書いたことはありません。あの手紙は、わたしが書いたものではありません。わたしは、何度も何度も、そのことはいったはずです」
「知っています」と、ポワロはいった。「しかし、あなたが書いたのでないとすると、誰が書いたのでしょう?」
「敵です。わたしには、敵がいるにちがいないのです。みんな、わたしに敵意を持っているのです。警察は――誰もかれも――わたしに敵意を抱いているのです。大がかりな共謀です」
ポワロは、返事をしなかった。
カスト氏は、いった。
「誰もかれも、わたしに敵意を持っていたのです――いつでも」
「あなたが子供の時でもですか?」
カスト氏は、じっと考えているようだった。
「いいえ――いいえ――確かにそのころはちがいました。母は、たいへん、わたしを愛してくれました。しかし、母は、野心家でした――おそろしく野心家でした。だから、こんなばかばかしい名前を、わたしにつけたのです。母は、わたしが世間に名をあらわすというとほうもない考えを持っていました。しょっちゅう、口やかましくいっていたものでした、もっと、出しゃばるようにしろだの――意志の力が大切だのといったり……誰でも自分の運命の支配者になれるのだといったり……しようと思えば、どんなことでも、わたしにはできるのだと、いったものです!」
かれは、しばらく、黙っていた。
「母は、まったく誤っていたのです、もちろん。わたしには、すぐに、そのことがわかりました。わたしは、この世で成功するような人間じゃないのです。わたしは、いつもばかなことばかり――自分をばかに見せるようなことばかりしてきたのです。それに、わたしは、臆病《おくびょう》で――人がこわいのです。学校でもひどい目に会いました――クラスの連中は、わたしのクリスチャン・ネームの意味がわかると――それで、わたしをからかったり、いじめたりしたものでした……学校ではまったくひどいものでした――ゲームでも、勉強でも、なんでも」
かれは、首を振って、
「気の毒な母は、死んでよかったのです。すっかり失望してしまっていました……商業学校にいる時でさえ、わたしは、ばかでした――タイプや速記を習うのにも、ほかの誰よりも、ずっと長く時間がかかりました。それでいて、自分がばかだとは感じなかったのです――わたしのいうことがおわかりかどうかわかりませんが」
かれは、急に、訴えるような目を、相手に向けた。
「あなたの気持ちはよくわかりますよ」と、ポワロはいった。「つづけてください」
「ほかの誰もかれもが、わたしをばかだと思うというのは、ただそう感じるんです。ひどく気力がなくなっちまうんです。後で、会社に勤め出してからも同じでした」
「それから、もっと後になって――戦争の時は?」と、ポワロが促した。
カスト氏の顔が、急に明かるくなった。
「おわかりでしょう」と、かれはいった。「戦争は愉快でした。まず感じたことは、それでした。わたしは、はじめて、ほかの人間と変わらない人間だと感じました。みんな、同じ立場でした。わたしも、ほかの人間と同じように役に立つことができたのです」
かれの微笑が消えた。
「それから、頭に傷を受けました。ごく軽いものでした。しかし、わたしが発作を起こすことがわかりまして……むろん、それまでにも、自分がなにをしたのか、ちっともわからなかったことが何度かあったということは、わたしも知っていました。失神ですね。むろん、一、二度、倒れたこともあります。しかし、そのために、除隊にすべきものとは、まったく思いもよりません。そうです、除隊にしたのは間違いだったと、わたしは思います」
「それから、その後では?」と、ポワロはたずねた。
「わたしは、事務員の職を見つけました。もちろん、当時は、いいお金になりました。それに、戦争後も、そんなに悪くはなかったのです。もちろん、わずかなサラリーでしたが……それから――どうもうまくいかないような気がしてきたのです。いつも昇給は飛ばされてしまうのでした。思うように、うまくいかないんです。それで、だんだん苦しくなってきました――ほんとに、ひどく苦しくなって……ことに、不景気になってきた時はね。ほんとうのことを申しあげると、暮らしを立てるのがやっとで、(それに、事務員というのは、見苦しくないようにしていなければなりませんから)、そういう時に、この靴下の仕事の話があったのです。サラリーと、歩合というわけです!」
ポワロは、おだやかにいった。
「しかし、あなたが雇われているという会社が、そのことを否認しているのは、ご存じでしょうね?」
カスト氏は、また興奮した。
「それは、みんなが共謀しているからです――きっと共謀しているにちがいありません」
かれは、いいつづけた。
「わたしは、書いた証拠を持っています――ちゃんと書いた証拠です。わたしには、どこそこへ行けという指示を書いた会社の手配も、訪ねて行く人たちのリストもあります」
「正確にいうと、書いた証拠ではなくて――|タイプで打った《ヽヽヽヽヽヽヽ》証拠でしょう」
「同じことです。大規模に製造している大きな会社では、文書をタイプで打つのは当然です」
「しかし、カストさん、タイプライターにも見わけがつけられるということを、ご存じじゃありませんか? あの手紙はみんな、ある一つの特定の機械で打ったものですよ」
「それがどうしたのです?」
「そして、その機械は、あなたのもの――あなたの部屋から発見されたものですよ」
「あれは、わたしの仕事のはじめに、会社から送ってくれたものです」
「そうです。ところが、あれらの手紙は、|その後《ヽヽヽ》で受けとったものでしょう。ですから、|あなたが自分で打って《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|自分あてに郵送した《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》ように見えるじゃありませんか?」
「いや、ちがいます! それもみんな、わたしに対する陰謀です!」
かれは、突然、つけ加えていった。
「そればっかりじゃなく、同じ種類の機械で、その手紙が打てるじゃありませんか」
「同じ種類ですが、同じ実際の機械じゃないのです」
カスト氏は、しつこく繰り返した。
「陰謀です!」
「それでは、あなたの戸棚から発見されたABCは?」
「わたしは、なんにも知りません。わたしは、みんな靴下だと思っていたんです」
「では、なぜあなたは、あの最初のアンドーバーの人たちのリストの中で、アッシャー夫人の名前にしるしをつけたのです?」
「あの人からはじめようと思ったからなんです。どこかから、はじめなくちゃならないんですから」
「そう、そのとおりですね。|どこかから《ヽヽヽヽヽ》、|はじめなくちゃならない《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》んですから」
「わたしは、そんなつもりでいったのじゃありません!」と、カスト氏はいった。「あなたのいうような意味で、いったのじゃありません!」
「|でも《ヽヽ》、|わたしのいった意味はわかっているんでしょう《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》?」
カスト氏は、なんにもいわなかった。かれは、ぶるぶるふるえていた。
「わたしがしたのじゃありません!」と、かれはいった。「わたしは、まったく無実です。みんな間違いです。そうでしょう、二番目の犯罪を考えてみてください――あのベクスヒルの事件を。わたしは、イーストボーンでドミノをしていました。あなたも、それはお認めにならずにいられないでしょう!」
かれの声は、勝ち誇ったような調子になった。
「そうです」と、ポワロはいった。かれの声は、じっと考えふけっているようで――ものやわらかだった。「しかし、一日、日を間違えるというのは、ごくやさしいことでしょう? そして、あなたがストレンジさんのような、強情な、きっぱりした人なら、間違えるかもしれないなどというようなことは、けっして考えたりしないでしょう。自分でいったことに、いつまでも固執《こしゅう》するでしょう……あの人は、そういう種類の人です。それに、ホテルの宿帳ね――あなたが署名をした時に、間違った日付を書くことは、ごくやさしいことでしょう――おそらく、その時には、誰も気がつかなかったでしょう」
「あの晩、わたしは、ドミノをやっていたんです!」
「あなたは、ドミノがひどくお上手だそうですね」
カスト氏は、そういわれて、ちょっとうろたえた。
「わたしは――わたしは――まあ、そうでしょうね」
「あれは、非常に熟練を要する、まったく夢中になるゲームですね?」
「ああ、あれには、やり方がうんとあるんです――さまざまのやり方が! 町にいたころ、昼休みによくやったものです。まるっきり見ず知らずの人間が、ドミノのゲームで知り合いになるのには、きっとびっくりなさるでしょうね」
かれは、くすくすと笑った。
「わたしは、一人の男のことをおぼえていますが――その人が話してくれたことのために、わたしは、どんなことがあったって忘れないだろうと思うんですが――ちょうど、コーヒーを飲みながら話していたんですが、そのうちに、ドミノをはじめたんです。そうです。それから二十分もすると、わたしは、その男のことなら一生のことを、ようく知っているような気になりました」
「その人があなたにいったことというのは、どんなことだったのです?」と、ポワロはたずねた。
カスト氏の顔が曇った。
「その話が、わたしの運命を変えてしまったのです――いやな変え方です。その人の運命が手に出ていると、その男はいうのです。そして、自分の手を出して、二度、溺《おぼ》れるのを助かる運命が出ているといって、その筋を見せて――実際に、二度助かったのだというんです。それから、わたしの手を見て、びっくりするようなことをいったのです。死ぬ前に、わたしがイギリスで、もっとも有名な人間になるというんです。国じゅうで、わたしのことを噂《うわさ》するようになるというんです。しかし、かれのいうのには――かれのいうのには……」
カスト氏は、泣きくずれて――ふるえていた……
「それで?」
ポワロの視線は、おだやかな力を持っていた。カスト氏は、かれに目を向けたと思うと、その目をそらし、それからまた魅入《みい》られた兎《うさぎ》のように、元へもどした。
「その人はいうんです――ええ、いうんです――わたしがひどい死に方をしそうに見えるって――それから、大声に笑って、『どうも、断頭台で死にそうに見える』といってから、また大笑いをして、いうんです、ほんの冗談だって……」
かれは、不意に黙ってしまった。かれの目は、ポワロの顔を離れて――左右に、その目を走らせた……
「頭が――頭が、とても痛いんです……時々、なんだかひどく頭痛がするんです。それから、時々、わからなくなる時があるんです――わからなくなる時が……」
かれは、くずおれてしまった。
ポワロは、ぐっと身を乗り出した。かれは、非常におだやかではあったが、確信をもった口のききようで、
「|しかし《ヽヽヽ》、|あなたは知っているんでしょう《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》」と、かれはいった。「|人殺しをしたことは《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》?」
カスト氏は、目をあげた。かれの視線は、まったく無邪気で、率直だった。すべての抵抗が、かれからなくなっていた。不思議なほど平和な顔つきだった。
「そうです」と、かれはいった。「知っています」
「でも――そうじゃありませんか?――なぜ、|そんなことをしたか《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|あなたにはわからないのでしょう《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》?」
カスト氏は、首を振って、
「そうです」といった。「わからないのです」
三十四 ポワロ、理由を述べる
わたしたちは、この事件に対するポワロの最後の説明を聞くために、じっと注意をこらして、すわっていた。
「そもそものはじめから」と、かれは口を開いて、「|なぜ《ヽヽ》、この事件が起こったかということに、わたしは、頭を痛めてきました。ヘイスティングズは、この間、事件はおわったというのです。それで、わたしは、事件は|この男《ヽヽヽ》なのだとこたえたのです! 謎は、|殺人の謎ではなくて《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|ABCの謎《ヽヽヽヽヽ》なんです。なぜ、かれは、こういう殺人を犯さなければならんと思ったのでしょう? なぜ、かれは、わたしを相手として選んだのでしょう?
その男が精神的に狂っているからというのは、こたえにはなりません。気がちがっているから、気ちがいじみたことをするというのでは、ただ無知と愚かさを示すにすぎません。気ちがいといえども、その行動は、正気の人間と同じように、論理的で、思慮のあるものなんです――|その特別にかたよった物の考え方さえわかれば《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》ね。たとえば、ここに一人の男があって、下帯のほかにはなにもつけないで、表に出て、しゃがみこむのだといいはるとするのです。そうすれば、その男の行為は、極端に突飛なものだと思われるでしょう。しかし、|その男が《ヽヽヽヽ》、|自分はマハトマ《ヽヽヽヽヽヽヽ》・|ガンジーだと《ヽヽヽヽヽヽ》、|固く思いこんでしまっているのだ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》ということがわかってしまえば、かれの行為も完全に論理的で、もっともなものとなるわけです。
この事件で必要なことは、四度《ヽヽ》、|あるいはそれ以上に《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》殺人を犯し、しかも、エルキュール・ポワロあてに手紙を書いて、事前に予告することが、|論理的で《ヽヽヽヽ》、|もっともなことだ《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》と考えているような精神を想像することであります。
友人のヘイスティングズは、最初の手紙を受けとった瞬間から、わたしが、取り乱して、動揺していたと、あなたたちにいうでしょう。わたしには、それを受けとったとたんに、なにかその手紙がひどくおかしいぞという気がしたのです」
「まったく、そうですね」と、フランクリン・クラークが、ひややかにいった。
「そうです。ですが、そこで、そもそものはじめから、わたしは、重大な間違いをしてしまったのです。わたしは、わたしの感じを――手紙についての、わたしの非常に強い感じを、たんなる印象だと思ってしまったのです。わたしは、それを直観だったというように扱ってしまったのです。よく調和のとれた、推理の発達した頭脳には、直観とか――当て推量などというようなものはないのです! もちろん、臆測をすることはできます――そして、臆測というものは、あたるか、はずれるかのどちらかです。あたれば、直観といい、はずれれば、二度とそのことを口に出さないのが普通です。しかし、よく直観といわれるものは、実は、|論理的な推理や経験に基礎をおいた印象《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》のことなんです。その道の専門家が、絵なり、家具類なり、小切手の署名などに、なにかおかしいと感じる時には、実は、微妙な特徴とか、細部の感じに土台をおいているのです。かれは、それをこまかく調べる必要はないのです――かれの経験が、それを必要としないのです――純粋の結果は、|なにかおかしいという明確な印象《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》なのです。しかし、それは臆測《ヽヽ》ではなくて、経験に基礎をおいた印象なのです。
ところで、わたしは、あの最初の手紙を、当然そうしなければならないようには考慮に入れなかったと、認めなければなりません。ただ、ひどくわたしを不安にしただけでした。警察でも、たちの悪いいたずらだと取ってしまいました。わたし自身は、真面目に受けとったのです。わたしは、予告のとおり、きっとアンドーバーで殺人が起こると信じていました。そして、みなさんもご承知のように、殺人は行われたのです。
その当時は、わたしがよく感じていたとおり、それをしたものは誰かということを知る手段はありませんでした。ただ一つ、わたしに開かれている道は、どういう種類の人間がそれをしたかということを、つとめて推理してみることでした。
わたしには、手がかりがいくつかありました。手紙と――犯罪の手口と――殺された被害者です。わたしの発見しなければならないことは、犯罪の動機と、その手紙を書いた動機とでした」
「宣伝ですよ」と、クラークが口を入れた。
「確かに、劣等感がありますわね」と、ソーラ・グレイがつけ足して、いった。
「それは、もちろん、採用していい明白な線です。しかし、|なぜ《ヽヽ》、|わたしに《ヽヽヽヽ》よこさなければならなかったのでしょう? |なぜ《ヽヽ》、|エルキュール《ヽヽヽヽヽヽ》・|ポワロ《ヽヽヽ》を相手にしたのでしょう? スコットランド・ヤードにあてて手紙を送れば、もっと大がかりな宣伝になったはずです。新聞社へ送れば、なおさらでしょう。最初の手紙は、新聞も掲載しないかもしれないが、二度目の犯罪が起きた時には、ABCは、新聞がなしうるあらゆる宣伝をものにできたはずです。なぜ、それなのに、エルキュール・ポワロに送ったのでしょう? なにか、個人的な理由だったのでしょうか? 手紙には、ごくわずかではあるが、排他的な偏見が認められます――しかし、それでは、わたしが納得するほど、事件の十分な説明にはなりません。
やがて第二の手紙がとどきました――そして、追っかけて、ベクスヒルでベッティ・バーナードの殺人事件が起こりました。その時になって、(すでに、わたしは、うすうす感じていたところですが)殺人がアルファベットの順に行われるということが明らかになりました。しかし、この事実は、たいていの人々には決定的なことと思われたでしょうが、わたしの心には、主要な疑問は不変のままで残っていました。なぜ、ABCは、これらの殺人を犯す必要があったのでしょう?」
ミーガン・バーナードが、椅子にかけたままで、もじもじと身を動かした。
「こういったものじゃないんですの――血を渇望するといったような?」と、かの女はいった。
ポワロは、かの女の方を向いて、
「そのとおりです、マドモアゼル。確かに、そういうことはありますね。殺したいという欲望です。しかし、それだけでは、この事件の事実にぴったりあてはまるとはいえないのです。人を殺したがっている殺人狂というものは、いつも、|できるだけ多くの犠牲者を《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》殺したがっているものなのです。それは、何度でも繰り返して起こってくる欲望なんです。こうした殺人者の主要な考えは、|その犯行の跡をかくす《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》ということで――|宣伝する《ヽヽヽヽ》ことではないのです。ここで、選ばれた四人の犠牲者――というよりも、すくなくも、その中の三人(というわけは、ダウンズ氏なり、アルスフィールド氏については、わたしは、ほとんど知らないのですから)について考えてみますと、|もし犯人が選んでおいたのだったら《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、かれは、なんの嫌疑も招くことなしにやってのけられたはずだということが、わかります。フランツ・アッシャーにしても、ドナルド・フレイザーにしても、ミーガン・バーナードにしても、あるいはクラークさんにしてもそうですが――これらの人たちは、もし直接の証拠がなかったら、嫌疑を受けたかもしれない人たちです。未知の殺人者のことなど、思いもしなかったにちがいありません! それでは、なぜ、犯人は、自分に注意を促すのが必要だと感じたのでしょう? 一人一人の死体のそばに、ABC鉄道案内を一冊ずつ残しておく必要があったのでしょうか? あれは、脅迫《きょうはく》だったのでしょうか? それともなにか、|鉄道案内に関連した《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》コンプレックスがあったのでしょうか?
その点で、わたしは、|殺人犯人の心の中へはいって行く《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》手がかりが、まったく想像もつかなくなってしまいました。確かに、太っ腹なところを見せようとしているわけではないでしょう? 無実な人たちに罪をきせる責任をおそれているのでしょうか?
わたしは、この最大の疑問にこたえることはできませんでしたが、この殺人犯人について、いくつかのことがわかってきました」
「たとえば?」と、フレイザーがたずねた。
「まず第一に――かれが、深みのない頭の持ち主だということです。かれの犯罪は、アルファベットの順にきめられていたのです――これは、かれにとっては、明らかに重大なことだったのです。その反面、犠牲者に対しては、かれには、特別な好みはなかったので――アッシャー夫人も、ベッティ・バーナードも、カーマイケル・クラーク卿も、みんな、それぞれ、大いにちがっていたわけで、性的なコンプレックスもなければ――特別な年齢上のコンプレックスもないので、わたしには、ひどく珍しい事実だと思われたのです。一人の人間が、誰かれの差別なしに人を殺す場合が、かりにあったとしても、それは、自分のじゃまになるとか、自分を困らせるから、相手を片づけるというのが普通なのです。|ところが《ヽヽヽヽ》、|アルファベットの順にことを運ぶというのは《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|この事件がそういうものではないということを示している《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》わけです。別の殺人者のタイプは、|特定のタイプの犠牲者《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》――たいていは、男なら女を、女なら男をと、反対の性を選ぶのが普通なんです。ところが、ABCのやり口には、なにか行きあたりばったりの匂《にお》いがするという気が、そのアルファベットの選択と取り組んでいるうちに、わたしにはしてきたのです。
ここで、ちょっとした推理を、わたしはしてみたのです。ABC鉄道案内を選んだということは、鉄道に関心を持つ男ではないかということを、わたしに連想させたのです。これは、女よりも男に多いのが普通です。男の子というものは、女の子よりは汽車が好きなものです。それはまた、どうかして心があまり発達しなかったしるしかもしれません。この『子供らしい』動機が、まだ支配しているというわけなのです。
ベッティ・バーナードの時の手口は、ある別の手がかりを与えてくれました。かの女の殺され方は、特に暗示的でした(すみませんね、フレイザー君)。まず、かの女は、自分のベルトでしめ殺されていました――ということは、かの女が親しい仲か、あるいは深く愛し合っていた間柄の人間の手で殺されたのが、ほとんど確実だといわなければならないでしょう。かの女の性格のあるものについて知った時、一つの場面が、わたしの頭に浮かんできました。
ベッティ・バーナードは、恋愛遊戯の好きな娘さんでした。風采《ふうさい》のいい男性からちやほやされるのが好きでした。ですから、かの女を説きふせて、いっしょに出かけたところをみると、ABCには、きっと、かなりの魅力が――つまり、セックス・アッピールがあるのにちがいありません! かれは、あなた方イギリス人がよくおっしゃるように、『うまくやった』のにちがいありません。かれは、そういうことにかけても、きっと、腕がよかったのでしょう! わたしは、海岸でのこういう場面をありありと思い浮かべることができます。男が、かの女のベルトをほめる。かの女は、それをはずすと、男は、おもしろ半分に、娘の首にまわして――おそらく、『首をしめてみようか』とかなんとか、いう。すると、かの女は、くつくつと笑う――すると、男がひっぱる――」
ドナルド・フレイザーははねあがった。かれの顔は、土気色《つちけいろ》だった。
「ポワロさん――後生《ごしょう》です」
ポワロは、ちょっと身振りをして、
「もうおしまいです。もう、なにもいいません。おわりです。わたしたちは、つぎの、カーマイケル・クラーク卿の事件に移りましょう。ここで、犯人は、最初の――頭をなぐるという方法にもどっています。同じようなアルファベットのコンプレックスですが――しかし、一つの事実が、いささか、わたしには気にかかります。首尾を一貫したものにするために、犯人は、その町を一定の関連をもって選ぶはずであります。
かりに、アンドーバーがAの一五五番目の地名だとすると、Bの犯罪も一五五番目か――あるいは、一五六番目に、したがって、Cは一五七番目ということになるわけです。ところが、ここでもまた、行きあたりばったりなやり方で、町を選んでいるらしいのです」
「それは、きみがその問題を、ゆがめて考えているからじゃないのかね、ポワロ?」と、わたしはいい出してみた。「きみ自身が、杓子定規《しゃくしじょうぎ》のこちこちだからだよ。きみの悪い癖だよ」
「いいや、癖じゃありませんよ! なんてことをいうんです! しかし、まあ、その点は、すこしわたしがいいすぎたかもしれません。先へ進みましょう!
チャーストンの犯罪は、ほとんど参考にはなりませんでした。あの時は、わたしたちには、ついていませんでした。というのは、予告の手紙が間違って配達されたために、なんの準備もできなかったからです。
しかし、Dの犯罪の予告が来た時には、非常に偉大な、防禦《ぼうぎょ》の手段がほどこされました。ABCが、もはやこれ以上、自分の犯罪を遂行することを望めなくなったのは、明らかなことだったのにちがいありません。
その上に、こんどは、靴下という手がかりが、わたしにはわかりました。犯罪のあるたびに、現場付近を、靴下を売って歩く人間がいるということは、たんなる偶然ではないということが、明らかになってきました。そのことから、殺人犯人は、その靴下売りの人間にちがいないと思われました。しかし、この人間も、ミス・グレイのおっしゃった説明では、ベッティ・バーナードを絞殺《こうさつ》した人間として、わたしの抱いている人間とはぴったりしなかったと申しあげておきましょう。
大急ぎで、つぎの段階に進みましょう。四番目の殺人が起こりました――ジョージ・アールスフィールドという名前の人が殺されました――これは、映画館で、その人の近くにかけていた背恰好《せかっこう》の似た、ダウンズという名の男と間違えられたものと思われます。
|そして《ヽヽヽ》、|いまや《ヽヽヽ》、|ついに運は変わってきました《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。事態は、ABCの思う壺《つぼ》にはまらないで、反対の目が出てきているのです。かれは、狙われ――追いつめられ――そして、とうとう逮捕されました。
事件は、ヘイスティングズがいうように、おわりました!
一般世間の人の関心の程度では、まったくそのとおりであります。その男は、牢獄《ろうごく》につながれ、最後には、ブロードムーアに送られることは疑いもありません。もはや、これ以上、殺人は起こりません。退場! 全巻のおわり! ねがわくは安らかに眠れ、であります。
|しかし《ヽヽヽ》、|わたしにとっては《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|そういうわけにはいかないのです《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》! わたしには、なんにもわからないのです――まるきりわからないのです! |なぜ《ヽヽ》かということも、|なんのために《ヽヽヽヽヽヽ》ということもわからないのです。
しかも、もう一つ、小さなことですが、厄介《やっかい》な事実があるのです。カストという男が、ベクスヒル事件の夜のアリバイを持っているということです」
「わたしも、それにはずっと頭を痛めていました」と、フランクリン・クラークがいった。
「そうです。わたしを悩ましていたのも、それです。そのアリバイは、アリバイとして、本物らしい感じを持っているのです。しかし、ある要件が満たされなければ、本物とはいえないので――そして、いまや、わたしたちは、二つの非常に興味ある推理にぶつかることになったのです。
みなさん、カストが三つの犯罪――AとCとDの犯罪は犯したが――Bの犯罪は犯さなかったと推定するのです」
「ポワロさん、それは――」
ポワロは、目つきでミーガン・バーナードを黙らせた。
「静かにしてください、マドモアゼル。真実を知りたいのです、わたしは! 嘘は、もうたくさんです。いいですか、ABCが、第二の犯罪は犯さなかったと仮定するのです。事件は、二十五日の――つまり、かれが犯罪のために到着したその日の――早々に起こったということを忘れないでくださいよ。すると、誰かが、かれの先廻りをしたのでしょうか? そういう情況のもとで、いったい、かれは、どうするでしょう? |第二の《ヽヽヽ》殺人を犯すでしょうか、それとも、じっとして、|一足先に起こった殺人を《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|贈り物として受けいれるでしょうか死霊の《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》?」
「ポワロさん!」と、ミーガンがいった。「そんなのは、気まぐれな考えですわ! この犯罪はみんな、同じ人間が犯したのにちがいありませんわ!」
かれは、かの女を黙殺して、落ちついて話しつづけた。
「こういう仮定は、一つの事実――|アレグザンダー《ヽヽヽヽヽヽヽ》・|ボナパート《ヽヽヽヽヽ》・|カストの《ヽヽヽヽ》(かれは、どんな女の子ともうまくいったためしが一度もなかったのです)|そういう性格と《ヽヽヽヽヽヽヽ》、|ベッティ《ヽヽヽヽ》・|バーナードを殺した犯人の性格との相違《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》を説明するには、まことに都合がいいのです。それに、これまでにも、殺人未遂犯人が、ほかの人間が犯した犯罪までかぶってしまったという例は、よく知られています。たとえば、人殺しジャックの犯罪のすべてが、人殺しジャックの犯したものではなかったというようなものです。ここまでは、いいんです。
しかし、ここで、わたしは、決定的な困難にぶつかったのです。
バーナード殺人事件の時までは、|ABC殺人事件の事実は《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|世間の評判にはなっていなかった《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》のです。アンドーバーの殺人は、ほとんど関心を呼びませんでしたし、ページを開いたままにしてあった鉄道案内のことも、新聞では取りあげてもいなかったのです。ですから、誰がベッティ・バーナードを殺したのかはとにかくとして、その殺した人間は、|ある人たち《ヽヽヽヽヽ》――つまり、わたしとか、警察とか、アッシャー夫人の親戚《しんせき》とか、近所の人たち、|だけしか知らないような事実を知っていたにちがいない《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》ということになるのです。
こういう調査の線が、わたしを出入口一つない壁の前へ追いこんでしまったのです」
かれを見ている人々の顔も、うつろだった。うつろで、その上に、とほうにくれている顔だった。
ドナルド・フレイザーが、考え深くいった。
「警官も、結局は、人間なんです。そして、みんな、いい人ですから――」
かれは、いうのをやめて、問いかけるように、ポワロを見た。
ポワロは、静かに首を振って、
「いいえ――もっとずっと簡単なことです。わたしは、みなさんに、第二の推理があると申しましたね。
カストには、ベッティ・バーナード殺しに罪がなかったとしたら、どうでしょう? 誰かほかの人間が、かの女を殺したものだとしたら。その場合、その誰かほかの人間が、ほかの殺人にも罪を負うべきものだとは考えられないでしょうか?」
「しかし、そんなことは道理に合わないじゃありませんか!」と、クラークが叫ぶようにいった。
「そうでしょうか? わたしは、そこで、|まず最初に《ヽヽヽヽヽ》、|しなければならなかったはずのこと《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》をしました。わたしは、いままでに受けとった手紙を、全然ちがった観点から吟味してみました。わたしは、そもそものはじめから、なんかその手紙には、おかしいところがあると感じていました――絵の専門家が、絵のおかしいところに気がつくように……
わたしは、よく落ちついて考えようともしないで、手紙におかしなところがあるのは、気ちがいが書いた手紙だからだと思いこんでしまっていたのでした。
ところで、もう一度、よく調べ直してみますと――こんどは、まったくちがった結論に達しました。それらの手紙がおかしいと思ったのは、|正気の人間が書いた手紙だったからです《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》!」
「なんだって?」わたしは叫んだ。
「しかし、そうなんだ――まさに、そのとおりだったのです! 絵がおかしいのと同じように、おかしい手紙だったのです――つまり、|いかさまだったからです《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》! 気ちがいの――殺人狂の手紙のように見せかけてはあるが、実は、そんな手紙ではなかったのです」
「そんなことは、道理に合わないじゃありませんか!」と、フランクリン・クラークが繰り返していった。
「いや、合うんです! ちゃんとした理由があるのです――考えてみましょう。いったい、こういう手紙を書く目的というのは、なんでしょう? 書き手に世間の注意を集中し、殺人に注意をひきつけるためなんです! 確かに、一見したところでは、なんの意味もないようでした。ところが、わたしには、光が見えてきたのです。それは、いくつかの殺人といいますか――一団の殺人に、注意を集めるためだったのです……お国の偉大なシェイクスピアも、『森のために木を見ることができない』といっているじゃありませんか?」
わたしは、ポワロの文学上の記憶の誤りを訂正しようとはしなかった。それよりも、わたしは、かれのいおうとするところを知ろうとしていた。おぼろげではあるが、わたしにもわかるような気がしてきた。かれは、話をつづけた。
「あなたたちが、一本の針に一番気がつかない時はいつでしょう? それは、針差しに差してある時ですね! 単独の人殺しに、一番気がつかない時はいつでしょう? それは、|関連のある一連の殺人の中の一つ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》の場合です。
わたしが取り組まねばならなかった相手というのは、非常に賢明で、機略に富んだ殺人者――無鉄砲で、大胆不敵な、徹底的なばくち打ちだったのです。カスト氏ではありません! かれは、けっして、このような殺人など犯せる人間ではないのです! いや、わたしが取り組まなければならなかった相手は、もっともっとちがった種類の人間です――子供っぽい気質の男です。(小学生じみた手紙とか、鉄道案内などがそれです)婦人にとって魅力のある男です、人間の生命に対して残忍な心しか持たない男です。そうして、これらの犯罪の一つに、特殊な関係を持っている男であります!
一人の男か女が殺された場合に、警察がたずねるのは、どんな問題についてでしょう? 機会ですね。犯行の時に、一人一人の人間がいたのは、どこか? つぎは、動機です。被害者の死によって利益を受けるのは、誰か? 動機と機会とが、かなり明白になった場合に考えるべきことは、容疑者はなにをするだろうか? アリバイの偽造――つまり、なんらかの方法で、時間に小細工をしたのではないだろうか? しかし、これは常に危険なやり方です。われわれの犯人は、もっと空想的な予防策を思いついたのです。つまり、一人の殺人狂をつくりあげたのです!
そこで、わたしに残された問題は、いろいろな犯罪をもう一度じっくり振り返ってみて、犯人を発見するだけのことでした。アンドーバーの犯罪は? もっとも嫌疑の濃厚なのは、フランツ・アッシャーでした。しかし、アッシャーが、こんな念入りな計画を考え出して、実行するような人間とは、わたしには想像もできませんでしたし、こんな遠謀深慮な殺人を計画するような人間とも思えませんでした。では、ベクスヒルの犯罪ではどうでしょう? ドナルド・フレイザー君が可能性がありました。この人は、頭もいいし、それだけの手腕もあるし、組織的な頭の持ち主でもあります。しかし、この人がその愛人を殺す動機はといえば、ただ嫉妬《しっと》だけしかないのです――そして、嫉妬というものは、あらかじめ計画を立てることなどには向かないものです。それからまた、わたしは、この人が八月はじめに休暇をとったことを知るとともに、この人がチャーストンの犯罪に関係のないということが、ますますはっきりしてきました。さて、つぎのチャーストンの犯罪に移りますと――ただちに、わたしたちは、非常に見込みのある立場に立ちました。
カーマイケル・クラーク卿は、莫大《ばくだい》な財産家でした。その財産を相続するのは、誰でしょう? 瀕死《ひんし》の床《とこ》についている夫人には、生涯《しょうがい》の保証があります。で、それは、|弟のフランクリンさんに行くことになっています《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》」
ポワロがゆっくり視線を動かして行くと、やがて、フランクリン・クラークの視線と、ばったりぶつかった。
「その時になって、わたしには、はっきりわかりました。それまで長いこと、わたしが心の奥であたためていた人物と、|わたしが一人の人としてよく知っていた人物とは《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|同一の人物だったのです《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。|ABCと《ヽヽヽヽ》、|フランクリン《ヽヽヽヽヽヽ》・|クラークとは《ヽヽヽヽヽヽ》、|同一人だったのです《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》! 大胆で冒険好きの性格、放浪の生活、イギリスに対する偏愛が示す、外国人への軽い侮蔑《ぶべつ》。魅力のある、自由で、気軽な態度――カフェの女の子を引っかけるぐらい、かれにとっては朝飯前です。組織的ではあるが、平板な頭脳――その頭で、ある日、かれは、リストをつくって、ABCの頭文字にしるしをつけました――そして、最後に、子供っぽい心――そのことについては、クラーク夫人の言葉にもありましたし、小説についての、かれの好みでもわかりますし――図書室に、E・ネスビットの『鉄道の子供たち』という本があることも、わたしは確かめました。わたしの心からは、すべての疑いが氷解しました――いくつかの手紙を書き、いくつかの犯罪を犯したABCなる人物は、|フランクリン《ヽヽヽヽヽヽ》・|クラーク《ヽヽヽヽ》だったのです」
クラークは、出しぬけに、大声で笑い出した。
「まったくうまいもんですね! それで、現行犯として捕えられた、われらの友人のカストはどうなんです? 上衣の血痕はどうなんです? それから、下宿にかくしていたナイフは? かれは、自分の犯罪を否認するかもしれないが――」
ポワロは、それをさえぎって、
「大間違いです。かれは、犯罪事実を認めていますよ」
「なんですって?」クラークは、ほんとに驚いた顔色だった。
「そうなんですよ」と、ポワロは、おだやかにいった。「わたしが話しかけるとすぐに、カストは、|自分が有罪だと思いこんでしまっている《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》ことに、わたしは、気がついたのです」
「それでも、ポワロさんは満足しないとおっしゃるんですね?」と、クラークはいった。
「そうです。というのは、かれを一目見るなり、|かれが有罪のはずがないということが《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|同時にわかった《ヽヽヽヽヽヽヽ》からです! かれには、物事を計画するような神経も勇気も――いや、頭もないといった方がいいでしょう! わたしはずっと、犯人の二重人格に気がついていました。いまは、どこがそうなっているか、わたしにはわかります。つまり、二人の人間が、ことを複雑にしていたのです――狡猾《こうかつ》で、機略に富み、大胆不敵な、ほんとうの殺人犯人と――愚鈍で、優柔不断な、暗示にかかりやすい、偽の殺人犯とがいたのです。
暗示にかかりやすい――この言葉の中に、カスト氏の謎があるのです! クラークさん、あなたは、ただ一つの犯罪から注意をそらすために、この一連の殺人計画を考え出しただけで飽きずに、影武者までもつくったというわけですね。
その考えは、町の喫茶店で、あの大げさな洗礼名を持った、おかしな人物に出会った結果として、はじめて、あなたの心に浮かんだものだと思います。ちょうどそのころ、あなたはお兄さんを殺そうとして、いろいろな計画を、頭の中で練っていたところだったのですね」
「ほんとですか? そして、どういうわけでです?」
「なぜかというと、あなたは、本気に未来のことに気をつかっていたからなんです。あなたがそれを意識していたかどうかは知りませんが、クラークさん、しかし、あなたがお兄さんからの、あの手紙を見せてくださった時に、わたしの手にはまりこんでしまったのです。あの手紙の中で、卿は、ミス・ソーラ・グレイに、愛情と夢中になっている気持ちとを、おそろしくはっきり示しておいででした。その関心は、あるいは父親らしい心づかいであったかもしれません――あるいはまた、しいてそう思いこもうとしておられたのかもしれません。けれど、あなたのお嫂《ねえ》さんがなくなった暁には、卿は、ひとりぼっちになられたために、この美しい娘さんに同情となぐさめを求め、ついには――年配の人にはよくあることですが――この娘さんと結婚することになるかもしれないという、まったく事実上の危険があったのです。あなたの不安は、ミス・グレイのことを知れば知るほど、大きくなってきました。あなたは、非常に卓越《たくえつ》した性格の方ではあるが、いうなれば、いくらか皮肉な判断をなさる性格の方だという感じがします。正しいか正しくないかは問題外として、あなたは、ミス・グレイという人を、『打算的な』若い女性のタイプの人だと判断したのですね。あなたは、この人がレディ・クラークになる機会が来れば、きっと、それに飛びつくにちがいないと思いこんでしまったのです。お兄さんは、きわめて健康で、元気のいい方でした。ですから、子供が生まれないとはいえないし、そうなれば、お兄さんの財産を相続するという、あなたのチャンスはなくなってしまうわけです。
要するに、あなたは、これまで失望ばかりを味わってきた人だという気が、わたしはします。あなたは、これまでたびたび仕事をかえて――そのために、ほとんど財産を残さなかった人なんですね。そして、お兄さんの財産を、痛烈にうらやんでいたのですね。
話が前にもどりますが、頭の中でいろいろ計画を練っている時に、思いがけなくカスト氏と出会ったことが、一つの思いつきを、あなたに与えたのです。かれの大げさな洗礼名、かれの癲癇《てんかん》の発作《ほっさ》や頭痛の話、かれの全体が畏縮したような、取るに足らないような存在が、あなたの望みの道具に打ってつけだという気が、あなたの頭にぴんときたのですね。いっさいを含んだアルファベットの計画が、あなたの頭の中に浮かびあがったのです――カストの頭文字がヒントになって――そして、お兄さんの名前がCではじまり、その住まいがチャーストンにあるという事実が、計画の中心だったのです。あなたは、カストに非常に可能性を帯びた最後のことまでも暗示したのですね――その暗示が、あんなに立派な実を結ぼうとは、いかにあなたでも思いもかけなかったでしょうがね!
あなたの準備は、すばらしいものでした。カストの名で、委託販売品として大量の靴下が、かれのところへ送られるように、あなたは、手紙を書きました。あなた自身も、似通った外見の包みにして、何冊かのABC鉄道案内を送りました。あなたは、かれに手紙を――その同じ会社からとして、十分な給料と手数料とを約束するという趣旨の手紙を、タイプで打って送りました。あなたの計画は、前もって立派にお膳立てができていましたから、後日送るべき手紙もみんなタイプで打ってしまってから、|その手紙を打つのに使ったタイプライターを《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|かれに贈ってやったのです《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。
さて、こんどは、それぞれ名前がAとBではじまって、やはり同じ文字ではじまる町に住んでいる、二人の犠牲者を捜さなければならないということでした。
あなたは、アンドーバーを手ごろな土地として選び出し、前もって踏査した結果、最初の犯罪の場所として、アッシャー夫人の店を選ぶことになったのです。かの女の名前が、はっきり戸口に書いてあったし、あたってみると、かの女がいつも一人で店にいるということもわかりました。かの女の殺害には、神経と、勇気と、しかるべき運に恵まれさえすればいいのでした。
Bの文字については、あなたは、手を変えなければならなかったのです。一人で店番をしている女の人たちは、用心をするようにといいわたされていたのでしょう。わたしの想像では、あなたは、二、三軒のカフェや喫茶店へたびたび出入りして、そこの女の子たちと笑ったりふざけたりしながら、都合のいい文字で名前がはじまり、あなたの目的にぴったりという女の子を物色《ぶっしょく》したのです。
ベッティ・バーナードが、あなたの捜しているタイプの娘だということを、あなたは見つけ出しました。あなたは、一、二度、かの女を連れ出したのですが、自分は既婚者だから、出歩くのは、いくらかこっそりしなけりゃならないといいわけをいったりしたのでしょう。
こうして、準備計画が完了したので、あなたは、仕事に取りかかりました! あなたは、アンドーバーのリストをカストに送って、指定した日にそこへ行くように命ずるといっしょに、最初のABCの手紙を、わたしあてに送ったのです。
指定した日に、あなたは、アンドーバーへ行き――アッシャー夫人を殺した――あなたの計画と齟齬《そご》することは、なにも起こらなかった。
殺人第一号は、成功裡に完了しました。
第二の殺人は、実際には、|その前日に《ヽヽヽヽヽ》行うように、あなたは気をくばったのです。おそらく、ベッティ・バーナードは、七月二十四日の真夜中よりもかなり前に殺されたものだと、わたしは信じます。
さて、第三の殺人に進みましょう――もっとも重要な――事実、あなたの立場からいえば、本命の殺人です。
そして、ここで、満腔《まんこう》の讚辞を、ヘイスティングズに捧げなければなりません。というのは、かれは、単純明快な言葉をいったのですが、誰も注意をはらわなかったのです。
|かれは《ヽヽヽ》、|三番目の手紙が計画的に誤送されたのだという暗示的なことをいったのです《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。
そして、かれは、正しかったのです!……
その簡単な事実の中に、長いこと、わたしを悩ましていた問題の解答があったのです。なぜ、これらの手紙が、第一に、私立探偵、エルキュール・ポワロあてになっていて、警察あてになっていなかったのか?
誤って、わたしは、個人的な理由だと想像していたのです。
大違いでした! あれらの手紙が、わたしあてに送られたわけは、あなたの計画の本体が、そのうちの一通が|誤った住所のために誤送される必要があった《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》からです――ところが、いくらあなたが気を配っても、ロンドン警視庁の犯罪捜査課あての手紙が誤送されるなんてことはありえませんからね! どうしても、個人《ヽヽ》の住所でなくちゃならなかったのです。あなたは、かなり有名な人間として、また確実に、その手紙を警察に渡す人間として、わたしを選んだのです――それからまた、やや偏狭な島国根性から、外国人をやっつけておもしろがっていたというわけです。
あなたの封筒の所書きは、まったく賢明でした――ホワイトヘーブン――とホワイトホースと――確かに、自然な誤りです。ただ、ヘイスティングズだけが、そんな小細工を無視して、明白なものを真視する豊かな洞察力《どうさつりょく》を持っていたのです!
もちろん、あの手紙は、誤送させるつもりだったのです! 警察は、殺人が無事におわってしまってから、活動をはじめることになっていました。お兄さんの夜の散歩が、あなたにお誂え向きの機会を与えたのです。そしてABCの恐怖が、うまく世間の人たちの心をとらえてしまったので、あなたがやったのではないかという考えが、誰の胸にも浮かばなかったのです。
お兄さんの死によって、もちろん、あなたの目的は成就しました。もう殺人を犯す気持ちも、あなたにはなくなったのです。ところが、なんの理由もなく、この殺人がとまってしまえば、ほんとうの嫌疑が、誰かにかかってくるかもしれないのです。
あなたの影武者のカスト氏は、目につかない――まったく目立たない人ですからね、かれは――その役割を、まったくうまくはたしたので、それまでは、三つの殺人の付近に同じ人間があらわれたことなど、気がついた者もなかったのです! 困ったのは、かれがコームサイドを訪ねたことさえいい出す者もなかったということです。そんなことなんか、ミス・グレイの頭から、すっかり消えてしまっていたのです。
常に大胆不敵なあなたは、どうしても、もう一度殺人を行わなければならない、が、こんどは、犯跡を残しておかなければならないと、心にきめたのです。
あなたは、その作戦の場所に、ドンカスターを選んだ。
あなたの計画は、ごく簡単だった。当然のことながら、あなた自身も現場に居合わせることになっていました。カスト氏には、会社からドンカスター行きの命令が出ることになっていました。あなたの計画は、かれの後をつけて、機会を狙うことでした。すべてがうまく行きました。カスト氏が映画館へはいりました。すべては、簡単そのものでした。あなたは、かれから二つ三つ離れた席にすわりました。かれが出ようと立ちあがると、あなたも同じようにした。あなたは、つまずいたふりをして、前のめりになって、前列の席で眠っていた男をずぶりとやると、足もとにABC鉄道案内を落とし、それから、薄暗い廊下で、わざと、どすんとカスト氏にぶつかると、かれの袖《そで》でナイフを拭いて、かれのポケットに、そのナイフをするっと入れたのです。
あなたは、Dで名前がはじまる犠牲者を捜し出すことに頭を痛めることなど、もうすこしもなかったのです。誰でもよかったのです! あなたは、それが犯人の手違いと思われるだろうとにらんでいたのです――そして、まったくそのとおりでした。観客席の、それほど離れていないところに、名前がDではじまる人が、確かにいるはずでした。その男が犠牲者になるはずだと思われるにきまっていました。
さて、みなさん、こんどは、偽のABCの立場から――というのは、カスト氏の立場から、事態を考えてみましょう。
アンドーバーの事件は、かれにとっては、なんら重要な意味を持っていません。ベクスヒルの犯罪には、ショックを受けるばかりか驚いています――なぜかといえば、ちょうどそのころ、そこにいたのですから! やがて、チャーストンの犯罪が起こって、新聞に大見出しで書き立てられることになりました。アンドーバーのABCの殺人の時にも、そこにいましたし、ベクスヒルのABCの殺人の時にも、それからまた……三度、殺人事件があるたびに、|それぞれの現場にいたのです《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。癲癇持ちの人には、いったい自分がなにをしたか思い出せない、空白の時期がよくあるものなのです……カストが臆病で、ひどく神経質の人で、極端に暗示にかかりやすい人だということを思い出してください。
やがて、かれは、ドンカスターへ行けという命令を受けます。
ドンカスター! しかも、つぎのABCの犯罪は、ドンカスターで起こることになっているのです。きっと、かれは、それを運命のように感じたにちがいありません。かれは、平静をうしなってしまって、家主の婦人が自分を怪しんでいるように思いこんでしまって、チェルテナムへ行くなどといってしまいます。
かれは、それが自分の仕事ですから、ドンカスターへ行きます。午後になって、映画館にはいります。おそらくは、一分か二分は、とろとろと居眠りでもしたでしょう。
宿屋にかえって、|上衣の袖に血がついているばかりか《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|ポケットには血まみれのナイフ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》があるのを見つけた時の、かれの気持ちを想像してみてください。かれの漠然とした不吉な予感は、一足飛びに確実なものとなります。
|おれが《ヽヽヽ》――|このおれが《ヽヽヽヽヽ》――|殺人者だ《ヽヽヽヽ》! かれは、持病の頭痛のことや――記憶の喪失のことなどを思い出します。かれは、事実だと思いこんでしまいます――|おれが《ヽヽヽ》、|アレグザンダー《ヽヽヽヽヽヽヽ》・|ボナパート《ヽヽヽヽヽ》・|カストが殺人狂だ《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》、と。
それから後のかれの行動は、追われる動物の行動です。かれは、ロンドンの下宿に引っ返します。そこなら、安全です――よく知られているのです。みんなは、かれがチェルテナムに行っていたと思っています。かれは、まだナイフを持っています――まったく、ばかげたことをしたものです、もちろん。しかし、かれは、それを玄関の傘立てのかげに隠します。
ところが、ある日、警官が来るという知らせを受けます。万事休す! 警察には|わかっているのだ《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》!
追われる動物は、最後の逃亡を企てます……
わたしには、なぜ、かれがアンドーバーへ行ったのかわかりません――おそらく、犯罪の――それについては、なんにも思い出せないが、自分が犯した犯罪の現場へ行って、みようという病的な願いだと、わたしは思います……
かれは、残る金もなく――疲れ果てて……ひとりでに、足が、かれを警察署へ連れて行きます。
しかし、追い詰められた獣でも、いざとなれば闘います。カスト氏は、完全に、自分は殺人を犯したと思いこんではいますが、しかし、自分は無実だという主張に強くすがりついています。そして、必死になって、あの第二の殺人に対するアリバイにかじりついています。すくなくとも、あれは、かれに罪を負わせることはできそうもありません。
前にもお話したとおり、わたしは、かれに会った時、すぐに、かれが|犯人ではないということと《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|わたしの名前にもなんの反応も示さない《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》のに気がつきました。なおまた、かれが自分を殺人犯人だと思いこんでいることにも気がつきました!
かれが自分の罪をわたしに告白した後、わたしは、前よりもいっそう強く、わたしの考えが正しいということがわかりました」
「あなたの考えなんて、ばかげてますよ」と、フランクリン・クラークがいった。
ポワロは、首を横に振って、
「いいや、クラークさん。誰もあなたを疑わないうちは、あなたは、まったく安全でした。しかし、一度、あなたに疑いを持てば、証拠が手にはいるのは、やさしいことでした」
「証拠?」
「そうです。わたしは、あなたがアンドーバーとチャーストンの殺人で使ったステッキを、コームサイドの戸棚の中から見つけました。太い握りのついた、普通のステッキですが、木の一部がえぐられていて、その中に、鉛が溶かしこんでありました。それから、あなたがドンカスターの競馬場にいるはずの時間に、映画館から出て来たあなたを見かけた二人の人によって、半ダースほどの写真の中から、あなたの写真が選び出されています。それから、この間はベクスヒルで、ミリー・ヒグリーと、もう一人、スカーレット・ランナー・ロードハウスの女の子とによって、当人だということを認定されています。そのスカーレット・ランナー・ロードハウスというのは、あの運命の夜、あなたがベッティ・バーナードを食事に連れて行ったところです。それから、最後に――なによりも、もっとも致命的ですが――あなたは、きわめて重要な注意を怠っているのです。あなたは、カストのタイプライターに指紋を残していた――あなたが潔白ならば、|けっして手を触れるはずのない《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》タイプライターにですよ」
クラークは、しばらく、そのまますわっていたが、やがていった。
「赤、奇数、負けだ!――あなたの勝ちだ、ポワロさん! しかし、やってみるだけの値打ちはあったんです!」
ほとんど信じられないほどの速さで、かれは、ポケットから小さな自動拳銃を取り出すと、頭にあてた。
わたしは、叫び声をあげると、思わず体をすくめて、轟音《ごうおん》のとどろくのを待った。
しかし、銃声はしなかった――撃鉄が、いたずらに、かちっと鳴っただけだった。
「だめですよ、クラークさん」と、ポワロがいった。「気がついておいでだったかと思いますが、きょう、わたしは、新しい召使いを雇ったのです――わたしの友人で――腕ききのこそどろをね。かれが、あなたのポケットからピストルを取り出して、弾丸を抜き取ってから、あなたがそれと気づかないうちに、元へもどしておいたのですよ」
「この言語道断な、生意気な、ちびの外国人め!」と、怒りのためにまっ赤になって、クラークは叫んだ。
「そう、そう、それが、あなたの胸にあることなんですね。いや、クラークさん、あなたは、そんな楽な死に方はできない人ですよ。あなたはカスト氏に、あやうく溺死《できし》しそうになった話をしましたね。あれはどういうことかおわかりでしょう――つまりね、あなたがもう一つの運命に生まれ変わったということですよ」
「貴様――」
それだけしかいえなかった。顔は、土気色だった。威嚇《いかく》するように、拳固《げんこ》を握りしめていた。
スコットランド・ヤードの刑事が二人、隣りの部屋からあらわれた。そのうちの一人は、クロームだった。かれは、進み出て、昔ながらのきまり文句をいった。「あなたのいうことは、すべて証拠とされることを、ここに警告します」
「いいたいだけのことは、この人は、もう十分にいいましたよ」といってから、ポワロは、クラークに向かってつけ足していった。「あなたは、非常に島国的優越感をお持ちのようだが、わたしにいわせれば、あなたの犯罪は、全然、イギリス的犯罪でもなければ――公明でもなく――スポーティングでもない――」
三十五 ――――
残念ながら、わたしは、フランクリン・クラークの背後でドアがしめられたとたんに、ヒステリックに声をたてて笑ってしまったといわなければならない。
ポワロは、ちょっと驚いて、わたしを見た。
「かれの犯罪がスポーツ的じゃないなんていったからだよ」と、わたしは、息をはずませながら、いった。
「まったく、そのとおりですよ。じつにひどいじゃありませんか――自分の兄を殺しただけじゃなく――不幸な人間を生きながら死に追いやる残忍さは、まったくいまわしいじゃありませんか。|狐をつかまえて《ヽヽヽヽヽヽヽ》、|檻の中へ入れて《ヽヽヽヽヽヽヽ》、|けっして逃がすな《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》! あれは、スポーツというのじゃありません!」
ミーガン・バーナードが深いため息をついて、
「とても信じられませんわ――とても。ほんとのことですの?」
「そうです、マドモアゼル。悪夢はおわったのです」
かの女は、かれを見て、頬を赤くした。
ポワロは、フレイザーの方を向いて、
「マドモアゼル・ミーガンは、ずうっと、第二の犯罪を犯したのは、きみだという不安につきまとわれていたのですよ」
ドナルド・フレイザーは、静かにいった。
「わたし自身でさえ、一時は、そんな気がしましたよ」
「夢のせいでですか?」かれは、ちょっと青年のそばへ寄ると、なれなれしく声をおとして、「あなたの夢には、ごく自然な説明がつけられますよ。それはね、あなたの記憶の中では、もう妹さんの姿が薄れてしまって、かわりに姉さんの姿が後を占めているということなんです。あなたの心の中では、マドモアゼル・ミーガンが妹さんの位置にとってかわっているのです。ところが、あなたは、亡くなった人に対して、自分がそんなに早く不実だと思いたくないものですから、それを押し殺そうとして苦しんでいるわけなんです! 夢を解釈すると、こうなんです」
フレイザーの目が、ミーガンの方へ行った。
「忘却をおそれることはありません」と、ポワロは、おだやかにいった。「あの人には、忘れてはならないほどの値打ちはなかったのです。マドモアゼル・ミーガンこそ、百人に一人の――立派な心の持ち主です!」
ドナルド・フレイザーの目が輝いた。
「あなたのおっしゃるとおりだと思います」
わたしたちみんなは、ポワロを取りかこんで、いろいろな点を明らかにしてもらうために、つぎつぎとたずねた。
「あの質問は、ポワロ? ほら、一人一人に、たずねたろう。あれには、なにか狙いがあったのかね?」
「なかには、ただの冗談もありましたよ。しかし、一つ、わたしが知りたいと思っていたことだけはわかりました――それはね、|最初の手紙を投函した時に《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|フランクリン《ヽヽヽヽヽヽ》・|クラークがロンドンにいた《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》ということです――それから、マドモアゼル・ソーラにたずねている時の、かれの顔が見たかったのです。かれは、油断をしていたのですね。あの時のかれの目には、悪意と怒りとが見えていました」
「あなたは、わたしの気持ちなんか容赦なさいませんでしたわ」と、ソーラ・グレイがいった。
「わたしは、あなたが正直なこたえをなさったとは思いませんね、マドモアゼル」と、ポワロは、そっけなくいった。「それに、こんどは、二度目の期待もはずれてしまいましたね。フランクリン・クラークは、兄さんの財産を相続することはできませんからね」
かの女は、ぱっと頭を振りあげた。
「ここに残っていて、失礼なことをいわれてなくちゃいけないんでしょうか?」
「ちっともありませんね」といって、ポワロは、かの女のために、ていねいにドアをあけてやった。
「あの指紋が、いっさいにけりをつけたんだね、ポワロ」と、わたしは、しみじみといった。「きみがあれをいうと、さすがのかれもへたへたとなってしまったね」
「そう、あれは、便利なものですよ――指紋というものは」
かれは、しみじみといった。
「あれは、あなたを喜ばそうと思って、ちょっといってみたんですよ、|あなた《モナミ》」
「だって、ポワロ」と、わたしは叫ぶように、「あれは、ほんとじゃなかったのかい?」
「全然、嘘ですよ、|あなた《モナミ》」と、エルキュール・ポワロはいった。
それから二、三日して、アレグザンダー・ボナパート・カスト氏の訪問を受けたことを、いっておかなければならない。ぎゅっとポワロの手を握りしめて、ひどくもぞもぞと、不器用に、感謝の言葉をせいいっぱいに述べてから、カスト氏は、しゃんとしていった。
「お聞き及びかと思いますが、ある新聞が、わたしの生涯《しょうがい》と体験との簡単な話に、百ポンド――百ポンドですよ――ほんとうに出すと申すんでございます。わたしは――わたしは、どうしたらいいものかと、ほんとに迷っておりますのです」
「わたしなら、百ポンドなんて受けとりませんね」と、ポワロはいった。「しっかりおやりなさい。五百ポンドといってやるんですね。それから、一つの新聞だけに限らないようにね」
「ほんとうに、そうお思いですか――わたしが――」
「あなたは、自覚なさらなくちゃいけませんよ」といいながら、ポワロは微笑を浮かべて、「あなたは、非常に有名な人なんですからね。実際、今日のイギリスで、もっとも有名な人なんですよ」
カスト氏は、さらにぐっと、姿勢を正した。喜びの色が、きらきらとその顔に輝いた。
「わたしも、おっしゃるとおりだと思います! 有名です! 新聞という新聞に出ております。あなたのご忠告どおりにいたしましょう、ポワロさん。お金は、まったく結構なものでございます――まったくありがたいものでございます。すこし休暇をとろうと思います……それから、リリー・マーベリーに、すばらしい結婚の贈り物をしたいと思います――かわいい娘さんです――ほんとに、かわいい娘さんです、ポワロさん」
ポワロは、元気づけるように、かれの肩をたたいて、
「まったくそのとおりですよ。愉快におすごしなさい。それから――ひと言だけいっておきますが――目医者へおいでになってはいかがでしょう。あの頭痛は、もしかすると、新しい眼鏡《めがね》が必要だということじゃないかと思いますよ」
「ずっとそうだったとおっしゃるんですね?」
「そう思いますよ」
カスト氏は、心からポワロの手を握って、
「あなたは、まったくえらいお方ですね、ポワロさん」
ポワロは、いつものように、こんなお世辞を聞いても、べつに相手を軽蔑もしなかった。いやそれどころか、控え目な顔をしていようとしても、うまくいかなかった。
カスト氏が、もったいぶって、気取って出て行くと、わたしの旧友は、にっこり、わたしの方に微笑みかけて、いった。
「どうです、ヘイスティングズ――わたしたちは、またひとつ狩りをしましたね? スポーツ万歳」 (完)
解説
この『ABC殺人事件』の作者アガサ・クリスティ(Agatha Christie)ほど、いつまでも創作力の衰えぬ探偵小説作家も珍しい。
かの女は、一八九〇年代の生まれだ。女性のことだから、生年をあからさまに記さないことになっているようで、かの女自身が書いた小自伝にも、生年をはっきりとさせていないが、一八九何年といえば、もう六十四、五以上、どうかすれば、七十を越しているのではないだろうか。
かの女が、処女作長篇探偵小説『スタイルズ荘の怪事件』(The Mysterious Affair at Styles)を発表したのは、一九二〇年、その二十代のことだ。それから、昨一九六一年、最近作の長篇探偵小説『蒼白き馬』(Pale Horse)まで、長篇短篇合わせて、六十三冊の探偵小説を書いた。四十二年間に六十三冊、一番多い一九三四年などは、一年間に四冊もの作品を発表した。平均して、一年一冊半の発表だ。その旺盛な創作力と、飽きずに書きつづけるクリスティ女史の情熱には、ただただ、敬服のほかはない。
イギリス探偵小説界、いや、世界の探偵小説界の大御所的存在として、英語を読む人間ばかりでなく、世界中の読書階級の興味を強くひきつけて離さないのも、決して理由のないことではない。
しかも、かつては数々の名作を書いた他の多くの作家が、たとえば、エラリー・クイーンにしても、ディクスン・カーにしても、老来、創作力が枯渇したとでもいうのか、筆力に衰えを見せている中で、クリスティ女史ひとりは、相も変わらず健在で、つぎつぎにすぐれた作品を発表しているのは、まことに偉としなければならない。
この『ABC殺人事件』は、一九三五年発表した女史の二十五番目の作品で、油の乗りきった時代に書かれたものである。
つぎつぎに警告を発しながら殺人を企ててゆくそのサスペンス、そして、最後の意外性――まさに、探偵小説の妙味を、残るところなく味わせてくれる傑作である。
一九六二年六月(訳者)
能島武文《のじま たけふみ》
明治三十一年(一八九八)、大阪府に生る。早稲田大学英文学科に学ぶ。日本文芸家協会会員。〔著書〕「作劇の理論と実際」〔訳書〕クロフツ「列車の死」、クリスティ「スタイルズ荘の怪事件」、ハメット「血の収穫」、ライド「少年少女世界の旅フランス篇」、メイヤー「少年少女世界の旅スイス篇」他。
ABC殺人事件
アガサ・クリスティ作/能島武文訳
二〇〇三年三月二十日 Ver1