アガサ・クリスティ/能島武文訳
スタイルズ荘の怪事件
目 次
第一章 スタイルズへ
第二章 七月十六日と十七日
第三章 悲劇の夜
第四章 ポアロ、捜査す
第五章 ストリキニーネじゃないでしょうね?
第六章 検屍審問
第七章 ポアロ、借りを返す
第八章 新たな容疑
第九章 バウエルスタイン博士
第十章 逮捕
第十一章 公判
第十二章 最後の環
第十三章 ポアロ、説明す
解説
登場人物
エミリー・イングルソープ……スタイルズ荘の主
アルフレッド・イングルソープ……エミリーの二度目の夫
ジョン・カヴェンディッシュ……エミリーの先夫の連れ子
メアリー・カヴェンディッシュ……ジョンの妻
ローレンス・カヴェンディッシュ……ジョンの弟
イヴリン・ハワード(エヴィ)……アルフレッドのいとこ
シンシア・マードック……エミリーが後見している娘
ドーカス……スタイルズ荘の老女中
バウエルスタイン博士……毒物学の大家
ジェームズ・ジャップ……ロンドン警視庁の警部
サマーヘイ……ロンドン警視庁の刑事部長
エルキュール・ポアロ……ベルギー警察の元探偵
ヘイスティングズ(わたし)……本編の語り手
わが母上に
第一章 スタイルズへ
ひところ、『スタイルズ事件』として評判になったあの事件が、世間にまきおこしたはげしい好奇心も、いまではもう、どうやら下火になってしまったらしい。といっても、この事件にともなって、あまり広く世間に悪評が流布しているので、事件の全貌を書きとめておいてくれるようにと、友人のポアロや、当の一族の人々からも、わたしはたのまれていたのだ。そうすれば、いまだに跡を絶たない無責任な噂《うわさ》を、封じてしまうのにも効果があると、わたしたちは信じているというわけなのだ。
そこでまず、わたしが、この事件にまきこまれることになったいきさつを、簡単に述べることにしよう。
わたしは、その時、傷病兵として、前線から後送されていた。そして、ちょっと気の滅入るような陸軍病院で数か月を過ごしたのち、一か月の療養休暇をあたえられたのだ。近い関係の親戚も友だちもなかったので、どうしたものだろうかと心をきめかねていたとき、ジョン・カヴェンディッシュに、ふと行き会ったのだ。もう何年か、ほとんど会ったこともなかったし、じつのところ、とくによく、彼を知っていたというわけではなかった。ひとつには、見たところ、彼は四十五そこそこにしか見えなかったが、わたしよりは十五は年上だったからでもある。もっとも少年時代には、エセックスにある、彼の母親の邸《やしき》の『スタイルズ荘』に、たびたび、泊めてもらったものだった。
わたしたちは、長いこと昔のことを語り合ったが、最後に彼は、スタイルズに来て、休暇を過ごすようにと招いてくれた。
「おふくろも、きみにまた会えたらよろこぶだろうし――それに、久しぶりだからね」と、彼はつけ足した。
「お母さんは、お元気なんだろうね?」と、わたしはたずねた。
「ああ、おかげさまで。おふくろが再婚したことは、知ってるだろうね?」
わたしは、自分の驚きを、ちょっとあからさまに示しすぎたのではないかと、気になった。カヴェンディッシュ夫人という人は、二人の息子をかかえて、やもめ暮らしをしていたジョンの父親と結婚したのだが、わたしがおぼえているそのころの彼女は、中年の美しい女性だった。だが、いまではもう七十になっているはずだ。わたしは、婦人の精力的で、専横な支配者じみた性格のことや、バザーを開いたり、婦人慈善家を気取ったりするのが何より好きな、どこか慈善とか社交とかに身を入れたがる、夫人の気性を思い出した。おそろしく気前のいい婦人で、自分でもかなりの財産を持っていた。
夫妻の別荘のスタイルズ荘は、結婚早々、カヴェンディッシュ氏が買い入れたものだった。彼は、あらゆる点で夫人の尻に敷かれていたので、臨終にのぞんで、その財産からはいる収入の大部分とともに、この別荘を、彼女の生涯の隠居所として遺《のこ》したのだった。このとりきめは、二人の息子にとっては、明らかに不当なことだった。だが、継母は、いつも二人の息子にとてもやさしかったし、事実、父親が再婚をした時には、ふたりともほんの子どもだったので、二人は、いつも彼女を、ほんとの母親だと思っていたほどだった。
弟のローレンスは、生まれつきデリケートな若者だった。医者としての資格をとったのだが、さっさとそんな職業はすててしまって、家にひきこもって、文学的野心を追いつづけていた。もっとも、その詩は、まだ一度も成功したことはなかった。
ジョンのほうは、しばらく弁護士をやっていたが、これも結局、田舎地主として、自分の性分に似合った生活に、身を落ち着けてしまった。彼は、二年前に結婚して、妻を連れて帰って、スタイルズに住まっていた。が、わたしは、自分の家を持てるぐらいに手当を増やしてもらいたいと、母親に申し出ていたのではないだろうかと、そんないたずらっぽい疑いを、ひとりたのしんでいた。だが、カヴェンディッシュ夫人は、自分で計画を立てることの好きな婦人で、他人がみんな、それに従ってくれるものと思いこんでいた。で、こんな場合には、いうまでもなく、彼女の人を制する力こそ、つまりは、財布の紐というわけだった。
ジョンは、母親の再婚の話を聞いて、わたしが驚いたのを見て、ちょっと悲しそうな微笑を浮かべた。
「まったく、いやらしいみだらな話さ!」と、彼は、荒っぽい口調でいった。「ねえ、ヘイスティングズ、おかげで、われわれも、毎日がおもしろくなくなっているのさ。それに、エヴィにしたところで――きみ、エヴィをおぼえているだろう?」
「いいや」
「ああ、そうか。きみがよく来ていたころより、後だったんだな。おふくろの世話役というかな、なんでも屋というやつさ。よろず屋だよ! 大したもんさ――エヴィ婆さんというのは! まさに若くもなけりゃ、美人でもないんだが、これが、なかなかのしたたかものなんだな」
「それで、いま、いいかけていたのは――?」
「ああ、あの野郎のことだったな! 奴はどこからともなくあらわれて、エヴィの|またいとこ《ヽヽヽヽヽ》だとかなんだとかいうんだが、そのくせエヴィのほうじゃ、親戚関係を認めるほど、特別に親しそうなようすもないんだ。奴がまったくの赤の他人だってことは、だれにだってわかるさ。大きな、黒いあごひげをはやしていて、降っても照っても、エナメル革の長靴をはいてるんだ! ところが、問題は、おふくろがすぐに、そいつが気に入って、秘書にしたことなんだ――ねえ、きみ、おふくろが、しょっちゅう、いろんな会にかかりあって忙しい目をしていることは、きみも知ってるだろう?」
わたしは、うなずいた。
「それが、もちろん、戦争のおかげで、その会というやつが、以前の十倍にもなったんだ。その男が、おふくろにとって重宝だったにはちがいないさ。ところが、三か月前に、おふくろが、突然、そのアルフレッドと婚約したと発表した時のわれわれときたら、きみが、一本の羽根でちょいとさわっても、ぶっ倒れてしまっただろうね! だって、そいつときたら、どう見たって、おふくろより二十は年下にちがいないだろうからね! まったく、見えすいた、恥知らずの財産目当てさ。だが、ね、そうだろう――おふくろは、人のいうことなんか聞く人間じゃないし、それに、そいつと結婚しちまったんだからね」
「じゃあきみたちみんなにとっちゃ、きっと厄介なことになるわけだね」
「厄介どころか! 万事おしまいさ!」
そういうわけで、三日後に、緑の野っ原と田舎道のまん中に、あってもなくてもいいようにぽつんと置いたような、ばからしいほど小さなスタイルズ・セント・メアリー駅で、わたしは汽車を降りた。ジョン・カヴェンディッシュは、プラットフォームに待っていて、わたしを車のところへ案内して行った。
「それでも、まだ、ガソリンの一滴や二滴は手にはいるよ、ねえ」と、彼はいいながら、「それが、ほとんど、おふくろの働きのおかげときているんだ」
スタイルズ・セント・メアリーという村は、その小さな駅から二マイルほどのところに位置していて、スタイルズ荘は、その村からさらに一マイルほど離れたところにあった。七月の初めの、静かな、暑い日だった。午後の陽ざしの下に、緑したたるばかり平和に横たわっている平坦なエセックスの田園を眺めると、さほど遠くはなれていないところで、大戦争が決定的な段階に進みつつあるということが、ほとんど信じられないほどだった。わたしは、突然、自分が別の世界に迷いこんだような気がした。車が、番小屋の門の方へ曲がりこんだとき、ジョンがいった。
「ここは、きみには静かすぎるんじゃないだろうかね、ヘイスティングズ」
「いやあ、きみ、それこそ、ぼくが望んでいたところですよ」
「ああ、まあ、きみがぶらぶら過ごしたいと思うんなら、おあつらえ向きだね。ぼくは一週に二回、勤労奉仕の人たちの訓練を受け持っているのと、農園の手助けだ。ぼくのワイフは、きちんと『百姓仕事』をしているよ。毎朝、五時には起きて、乳しぼりにかかると、昼飯の時間までずうっとつづけるんだ。まったく、何もかもすてきな楽しい生活さ――ただ、あのアルフレッド・イングルソープの野郎さえいなけりゃね!」そういったと思うと、急に車をとめて、ちらっと腕時計を見て、「シンシアを迎えに行ってやれるといいんだがな。いいや、もういまごろは、病院を出かけてしまったろうな」
「シンシアって! 奥さんじゃないんですね?」
「そう、シンシアというのは、おふくろが後見人になっている娘なんだ。彼女の母親というのは、おふくろの昔の学校の友だちなんだが、たちのよくない弁護士と結婚しただけならいいが、その男が大しくじりをやらかしてね、娘は、一文なしの、みなし児として取り残されたんで、おふくろが救いの手をさしのべたというわけさ。それで、シンシアは、もうかれこれ二年、ぼくたちのところにいっしょにいるんだ。いまは、七マイルばかり離れた、タドミンスターの赤十字病院で働いているのさ」
彼がそういいおわった時、車は、立派な古めかしい邸の前にとまった。でっぷりした、ツイードのスカートをつけた婦人が、花壇にかがみこんでいたが、わたしたちの近づくのを見て、身をおこした。
「やあ、エヴィ、これがわれわれの傷つける勇士だ! ヘイスティングズ君――こちらは、ミス・ハワード」
ミス・ハワードは、心のこもった、痛いほどの力で、わたしの手を握った。その陽に焼けた顔の、深い青い目の色が印象的だった。彼女は、四十ぐらいの快活そうなようすの婦人で、太い声には、ほとんど男性的と感じられるほどの力強い調子があり、大柄の、きびきびした体つきに、脚もその体つきにふさわしく――その脚の先は、見事な厚い長靴の中におさまっていた。彼女の話し方は、わたしはすぐに気がついたが、電報式にいい表わされるのだった。
「雑草が火事のように燃えひろがります。綺麗にしておくのは、ことです。手伝わせるかもしれませんからね。用心なさいね!」
「いやもう、お役に立てば何よりです」と、わたしはこたえた。
「そんなこと、いいっこなし。けっしてできっこないんですから。後で、後悔しないでね」
「皮肉だね、エヴィ」と、大きな声を立てて笑いながら、ジョンがいった。「きょうは、お茶はどこ――中でかい、表でかい?」
「外で。こんなすてきな日に、とじこもってなんかいられません」
「じゃ、来たまえ。もうきょうは、庭いじりは、それでたくさんだろう。『働く者は、自分にふさわしいだけ働け』さ。さ、来て、休みなさい」
「そうね」と、ミス・ハワードは、庭仕事用の手袋をぬぎながら、いった。「おっしゃる通りにしましょうかな」
彼女は、先に立って、邸の横をまわって、大きな大|楓《かえで》の木陰に用意のできた、お茶のテーブルのところへ行った。
一人の人が、柳の枝でつくった椅子の一つから立ちあがって、二、三歩近づいて、わたしたちを迎えた。
「ぼくのワイフだよ。ヘイスティングズ」と、ジョンがいった。
メアリー・カヴェンディッシュを見た時の印象を、わたしは、生涯忘れることはないだろう。明るい陽ざしに向かってくっきりと浮かび出た、彼女のすらりとした丈高い姿。彼女の、美しい褐色の瞳の中にだけあらわれたような、眠れる焔《ほのお》とでもいうべきあざやかな感覚。わたしがいままでに会った、どの女性の瞳ともちがった、すばらしい瞳だった。彼女は、激しい力といったものを、落ち着いた態度の中にひそめていたが、それにもかかわらず、優雅な洗練された肉体に宿る、あらあらしい野性の精神といった印象をあたえるのだった――こういうことがみんな、わたしの記憶の中で、いまもなお燃えている。わたしは、それらをけっして忘れることがないだろう。
彼女は、低い澄んだ声で、二言、三言、歓迎の言葉を述べて、わたしに挨拶した。わたしは、ジョンの招待に応じてよかったと思いながら、柳の枝で編んだ椅子に身をしずめた。カヴェンディッシュ夫人は、わたしにお茶をすすめてくれたが、彼女の物静かな言葉は、すばらしい婦人だというわたしの第一印象を、いっそう高めるばかりだった。理解ある聴き手というものは、いつでも刺激をあたえてくれるもので、わたしは、ユーモラスな態度で、陸軍病院でのいくつかの出来事を話して聞かせ、女主人を大いに喜ばせたろうと得意になっていた。ジョンは、もちろん、好人物ではあったが、才気のある座談家とはいえなかった。
その時、すぐそばの開けはなったフランス窓から、聞きなれた声が聞こえてきた。
「じゃ、お茶の後で、妃殿下にお手紙を書いてくださるわね、アルフレッド? わたしは、タドミンスター夫人にお手紙を書いて、二日目のことをお願いするわ。それとも、妃殿下からお返事があるまで、待ってましょうか? おことわりがきたら、タドミンスター夫人に初日を開けていただいて、二日目がクロスビー夫人よ。それから、公爵夫人がいらっしゃる――学校の園遊会のことですものね」
つぶやくような男の声がして、それから、イングルソープ夫人の声が、高く返事した。
「ええ、そうねえ。お茶の後で結構ですとも。あなたは、ほんとうに考え深いわね、アルフレッド」
フランス窓が、前よりすこし広く開いて、美しい白髪の老婦人が、いくぶん見識張った態度を見せながら、芝生に現われた。その後から現われた一人の男は、おつきという態度をにおわせていた。
イングルソープ夫人は、あふれ出るような感情をうかべて、わたしに挨拶した。
「まあ、なんてうれしいんでしょう、またお目にかかれるなんて、ヘイスティングズさん、ほんとうに久しぶりですわね。ねえ、アルフレッド、こちらはヘイスティングズさん――こちら、あるじですの」
わたしは、多少の好奇心をもって、『ねえ、アルフレッド』氏をながめた。彼には、たしかに、やや異国人らしい印象をあたえるものがあった。この男の|あごひげ《ヽヽヽヽ》を気にしているジョンの気持ちを、わたしは、無理もないと思った。これまで見たうちでは、一番長く、一番まっ黒な|あごひげ《ヽヽヽヽ》だ。金ぶちの鼻眼鏡をかけていて、妙に無神経な風貌をしている。舞台に立てば自然に見えるだろうが、実生活では、変に場違いだという感じが、わたしにはぴんときた。彼の声は、ちょっと深みがあって、うわべだけのものやさしい調子があった。彼は、ごつごつした手を、わたしの手にかさねて、いった。
「ようこそおいでになりました、ヘイスティングズさん」それから、夫人の方を向いて、「かわいい、エミリー、そのクッションは、すこし湿っているんじゃないかね」
彼が、このうえなしの心づかいを見せて、かわりのクッションを取り替えていると、夫人は、さもいとしげな微笑を、夫に投げていた。ほかのことにはあくまでも分別のある夫人にしては、不思議なほどののぼせ方だ!
イングルソープ氏が現れたので、気まずさと、かくれた敵意との感じが、一座におおいかぶさったような気がした。中でも、ミス・ハワードは、その気持をかくそうともしなかった。だが、イングルソープ夫人は、そんな異常なものには、まるきり気づいたようすもなかった。昔からおぼえている彼女の饒舌《じょうぜつ》は、この長い年月にも、いささかも衰えずに、彼女は、おもに近く開かれるはずの自分の主催するバザーを問題にして、たてつづけにしゃべりまくるのだった。時々、日付や時間についての質問を、彼女は夫に向けるのだった。彼の注意深く、心をこめた態度は、けっして変わらなかった。そもそもの最初から、わたしは、彼に対して強い、根強い嫌悪感をいだいたが、自分の最初の判断が、いつもかなり鋭いものだと、わたしはうぬぼれているのだ。
やがて、イングルソープ夫人が向きなおって、イヴリン・ハワードに手紙のことで指示をあたえていると、彼女の夫は、骨を折ったわざとらしい声で、わたしに話しかけた。
「あなたは、職業軍人でいらっしゃるのですか、ヘイスティングズさん?」
「いいえ、戦前は、ロイド保険にいました」
「すると、戦争が終われば、そちらへおもどりになるのですね?」
「たぶんね。もどっても、新しい仕事で出なおしても、同じことですよ」
メアリー・カヴェンディッシュが、身を乗り出した。
「もしも、あなたの好みにしたがってえらべるとしたら、職業として、ほんとうは何をおえらびになりまして?」
「そうですね。いちがいにはいえませんね」
「こっそり道楽がおありじゃないんですの?」と、彼女はたずねた。「ねえ――何かに心を惹かれていらっしゃることがおありなんでしょう? どんな人だって――なにか、とほうもない夢があるものですわ」
「いったら、お笑いになるでしょう」
彼女は、にっこり笑いを浮かべた。
「そんなことはありませんわ」
「そうですね、わたしは、探偵になりたいという、ひそかな望みを持ちつづけているんです!」
「まあ、ほんとう――スコットランド・ヤードですの? それとも、シャーロック・ホームズ?」
「そりゃ、むろん、シャーロック・ホームズですよ。ですが、ほんとうのところ、真剣に、わたしは、それにすごく心を惹かれているんです。いつか、ベルギーで一人の男に会ったことがあるんですが、非常に有名な探偵でしてね、すっかり熱中させられてしまったんです。驚くべき小男でしたがね。彼は、口癖のように、立派な探偵の働きというものは、たんなる理論的な方法の問題だといっていました。わたしの組織的な方法は、彼の方法を基礎にして――といっても、もちろん、それよりもずっと進んでしまったんです。彼は、奇妙な小男で、たいへんおしゃれで、だが、すごく頭のよい男でしたよ」
「好きよ、よい探偵小説は、わたしだって」と、ミス・ハワードが口を出した。「うんとばかばかしいことが書いてあるわね、でも。犯人が、最後の章で見つかる。みんな、あきれてものもいえない。ほんとの犯罪なら――すぐに、わかってしまいますよ」
「迷宮入りの事件も、非常にたくさんありますね」と、わたしは反ばくした。
「警察のことじゃなく、事件の渦中の人。家族よ。その人たちの目はくらませません。知ってますもの」
「それでは」と、わたしは、ひどく興を催していった。「たとえば、あなたが犯罪に、そうですね、殺人事件にまきこまれたら、すぐに犯人を指摘できると思っていらっしゃるんですね?」
「むろん、できますとも。裁判官の前では証明できないかもしれません。でも、たしかに自分にはわかるわ。犯人がそばへ寄って来れば、指先にピリッと感じますわ」
「『女』かもしれませんよ」と、わたしはそれとなくいった。
「かもしれませんね。でも、殺人といえば、暴力犯です。ずっと男のほうを、連想させますわね」
「毒殺の場合は違いますわ」という、カヴェンディッシュ夫人の澄んだ声が、わたしを驚かせた。「きのう、バウエルスタイン博士がおっしゃってましたわ。医薬関係の専門家のあいだでも、ごく稀にしか使われない毒薬については、一般に知られていないから、全然疑われない毒殺事件が、おそらく、数えきれないほどあるだろうって」
「まあ、メアリー、なんて気味の悪いお話!」と、イングルソープ夫人が、叫ぶようにいった。「まるで、阿呆にお墓の上を歩かれているような気がするじゃありませんか。おや、シンシアが来たわ!」
従軍看護婦の制服を着た若い娘が、身軽に芝生の上を走って来た。
「まあ、シンシア、おそかったね、きょうは。こちらは、ヘイスティングズさん――これが、ミス・マードックです」
シンシア・マードックは、生気と力とに満ちあふれた、新鮮な感じの若い娘だった。彼女が小さな従軍看護婦の制帽をぬいだとたん、わたしは、大きくゆるやかに波を打った彼女の褐色の髪の毛と、お茶をとろうとさし出したその手の、白いのと、小さなのに感嘆した。黒い瞳とまつ毛とがあれば、彼女は美人だったにちがいない。
シンシアは、ジョンのそばの地面に、さっと腰をおろしたが、わたしがサンドイッチの皿を手渡してやると、わたしを見上げて、にっこりと笑った。
「草の上におすわりなさいよ、ねえ。このほうが、ずっと気持がよくってよ」
わたしは、いわれるままに腰をおろした。
「あなたは、タドミンスターで働いていらっしゃるんですってね、ミス・マードック?」
彼女は、うなずいた。
「罪のつぐないですわ」
「すると、みんながいじめるというんですか?」と、にっこり笑いながら、わたしはたずねた。
「いいえ、そんな目に会ってみたいもんだわ!」と、シンシアは、もったいぶって、叫ぶようにいった。
「わたしにも、一人、看護婦をしている|いとこ《ヽヽヽ》がいますけどね」わたしはいった。「それが、『婦長《シスター》』をとてもこわがっているんです」
「そうですわ。姉妹《シスター》なんて、おわかりでしょう、ヘイスティングズさん。ただ、名前だけ! ほんとうはどんなものだか、あなたなんか、おわかりにはならないわ! でも、あたしは、看護婦じゃないんですの、ありがたいことに、薬局で働いているんですの」
「すると、何人ぐらい毒殺なさるんです?」と、わたしは、微笑を浮かべながら、たずねた。
シンシアも、微笑を浮かべて、
「ええ、何百人もよ!」といった。
「シンシア」と、イングルソープ夫人が呼びかけた。「手紙を、二、三本、書いてもらえるかい?」
「ええ、ええ。エミリーおばさま」
彼女は、すばやく立ち上がったが、その態度の中には、彼女の立場がかかりうどの身であり、イングルソープ夫人が、だいたいには親切にしてやってはいるだろうが、そのことを彼女に忘れさせないようにしているのだということを、わたしに思い起こさせるものがあった。
夫人は、わたしの方を向いて、
「ジョンが、あなたのお部屋へご案内しますよ。夕食は、七時半ですよ。おそくなってからのお夜食は、もうあきらめてから、しばらくたちますの。わたしたちの協会の奥さんの、タドミンスター夫人――おなくなりになったアポッツベリー卿のお嬢さんなんですけど――あの方も、やっぱりそうしていらっしゃるんですの。経済的なお手本を示さなくちゃいけないという点で、わたしと意見が一致しましたのよ。ほんとうに戦時下の家庭生活ですものね。いっさい、無駄使いはしませんの――反古《ほご》紙一枚だって、ちゃんととっておいて、包みにして送り出すんですよ」
ジョンは、わたしをおいて出て行ったが、しばらくすると、シンシア・マードックと腕を組んで、静かに草の上を横切って行く彼の姿が、わたしの部屋の窓から見えた。イングルソープ夫人がいらいらした声音で、「シンシア」と呼ぶのが聞こえると、娘はとびあがって、家の中へ駆けもどった。と、同時に、一人の男が木の陰から現われて、ゆっくりと、同じ方向へ歩き出した。年のころは四十ぐらいで、綺麗にひげを剃った、憂鬱《ゆううつ》そうな顔の、ひどく暗い感じの男だった。なにか凶暴な感情が、彼を支配しているような気がした。彼は、通りがかりに、わたしの窓の方を見上げたが、わたしには、すぐにだれだかわかった。もっとも、最後に会ってから過ぎ去った十五年のあいだに、ひどく変わってはいた。それこそ、ジョンの弟の、ローレンス・カヴェンディッシュだ。それにしても、あんな奇妙な表情を顔に浮かべているのはどうしてだろうと、わたしはいぶかった。
が、やがて、わたしは、彼のことなど忘れて、わたし自身の身の上の物思いにもどった。
その夜は、十分楽しく過ごした。そしてその夜、わたしは、謎のような女、メアリー・カヴェンディッシュの夢を見た。
明くる日の朝は、晴れて輝かしく明けた。そして、わたしは、この訪問が楽しいことになるだろうと、胸をふくらませていた。
昼食の時間まで、カヴェンディッシュ夫人の姿を見かけなかったが、その時になって、彼女は、わたしを散歩に誘い出し、わたしたちは森の中を歩きまわって楽しい午後を過ごし、五時ごろ邸にもどった。
わたしたちが大きなホールへはいって行くと、ジョンが、わたしたち二人を喫煙室へ招き入れた。その顔つきで、何か厄介なことが起きたなと、すぐにわかった。彼につづいて喫煙室にはいると、彼はすぐうしろのドアをしめた。
「ねえ、メアリー、厄介なことになったよ。エヴィが、アルフレッド・イングルソープといい合いをして、出て行くというんだ」
「エヴィが? 出て行くんですって?」
ジョンが、陰気にうなずいた。
「うん。おふくろのところへ行ったんだよ、彼女、そして――ああ、エヴィがやって来た」
ミス・ハワードがはいって来た。唇をきっと結んで、小さなスーツケースをさげていた。興奮して、もう心をきめてしまって、ちょっと、なんにも寄せつけないというようすだった。
「とにかく」と、彼女は、どなるようにいった。「わたしは、胸の中をぶちまけてしまったんですからね!」
「まあ、イヴリン」と、カヴェンディッシュ夫人が、叫ぶようにいった。「そんなことって、ないわね!」
ミス・ハワードは、ものものしくうなずいて、
「ほんとですとも! すぐに忘れたり、許したりしてもらえないようなことを、エミリーにいってしまったらしいわ。かまわないわ、ちょっといいすぎかもしれないけど。でも、たぶん、カエルの面《つら》に水でしょうけどね。わたし、あけすけにいってやったんです。『あなたはお年寄りなのよ、エミリー、それに、ばかな年寄りほど、ばかなものはいないのよ。あの人は、あなたより二十も年下ですよ。なんのためにあなたと結婚したのか、あんまり自分をばかにするもんじゃなくってよ。みんなお金ですよ! そうよ、あんまりたくさん、あんな男にやることはありません。百姓のレイクスが、とても綺麗な若いおかみさんをもらったでしょう。あなたのアルフレッドにきいてごらんなさい。なん度、あすこで過ごしたかって』あの女《ひと》、ひどく怒ったわよ。あたり前ね! わたしは、もっといってやりましたわ。『あなたに気に入ろうが入るまいが、わたしは注意してあげるんですよ。あの男は、あなたに寄り添って寝ながら、平気であなたを殺す男ですよ。たいへんな悪党よ。お好きなだけ、わたしにいったって構わないけど、わたしがいったことはおぼえていてちょうだい、あの男は、大悪党よ!』って」
「おふくろは、なんといいました?」
ミス・ハワードは、ひどく凄い表情をした。
「『いとしいアルフレッド』――『最愛のアルフレッド』――『ひどい中傷だわ』――『意地の悪い嘘よ』――『ひどい女だわ』――『愛する夫』の悪口をいうなんて! こんな家から、さっさと出て行けば行くほどいいのよ。だから、出て行くの」
「でも、いますぐじゃないんでしょう?」
「たった、いまよ!」
一瞬、わたしたちは腰を下ろしたまま、彼女を見つめた。最後に、いくら説きつけても無駄だとさとって、ジョン・カヴェンディッシュは、汽車の時間を調べに出て行った。彼の妻も、イングルソープ夫人に考えなおすように説きつけてみようとかなんとかつぶやきながら、夫の後を追って行った。
彼女が部屋を出て行くと、ミス・ハワードの顔色がかわった。彼女は、真剣な色を浮かべて、わたしの方に身を乗り出した。
「ヘイスティングズさん、あなたは正直なお方でしょう。ご信頼できる方ですわね?」
わたしは、ちょっと面くらった。彼女は、わたしの腕に手をおき、声を落としてささやいた。
「奥さんに気をつけてあげてくださいね、ヘイスティングズさん。かわいそうな、わたしのエミリー。あいつらは、みんな人食い鮫ですわ――だれもかれもみんな。ええ、わたし、何をしゃべっているか、自分のいっていることはわかっています。あの連中ときたら、だれもかれもお金につまっていて、あの女《ひと》からお金をせしめようとしていない者は、一人もいないんです。わたし、できるだけのことはして、あの女《ひと》を守ってきました。これで、わたしがいなくなれば、みんな、つけこむにきまっていますわ」
「おっしゃるまでもありません、ミス・ハワード」わたしはいった。「わたしにできることなら、どんなことでもします。しかし、あなたは興奮して、思いすごしていらっしゃるんだと、わたしは思いますがね」
彼女は、ゆっくりと人差し指を動かして、わたしをさえぎった。
「お若い方、わたしを信じてちょうだい。わたしは、あなたよりずっと長いこと、この世に生きてきたんですよ。わたしがあなたにお頼みすることは、よく注意していてくださいということですのよ。いまに、わたしのいうことが、きっとおわかりになりますわ」
開けはなしの窓から、車の響きが聞こえてきたので、ミス・ハワードは立ち上がって、ドアの方へ歩いて行った。ジョンの声が、外で聞こえた。手をドアの把手《とって》にかけて、肩ごしにふり返って、ミス・ハワードは、わたしに会釈した。
「何よりも、ヘイスティングズさん、見張っていてくださいね、あの悪魔を――あの女《ひと》の夫を!」
それ以上、何をいう時間も、何をする時間もなかった。ミス・ハワードは、抗議とお別れとの、熱烈なコーラスの中にのみこまれてしまった。イングルソープ夫妻は、姿を現わさなかった。
車が行ってしまったとたん、カヴェンディッシュ夫人が、突然、われわれの群れからはなれ、車道を横切って、芝生の方へ進んで行った。明らかにこの家を目がけて来る、一人の丈の高い、あごひげの男を迎えるためだった。相手の男に手を差し出したとき、彼女の頬は、強く紅潮していた。
「あれはだれです?」と、わたしは、鋭くたずねた。本能的に、その男が信じられなかったからだ。
「バウエルスタイン博士さ」と、そっけなく、ジョンがいった。
「バウエルスタイン博士とは?」
「保養のために、この村に滞在しているのさ、ひどい神経衰弱の後でね。ロンドンの専門医なんだ。非常に頭のいい男でね――毒物の研究にかけては、現存の大家の一人といっていいだろうね」
「そして、メアリーの大の仲良しなんですよ」と、シンシアが口をはさんだ。なんでも、だまっていられない人だ。
ジョン・カヴェンディッシュは、にがい顔をして、話題を変えた。
「さ、そこらをぶらぶらしよう、ヘイスティングズ。まったく不愉快きわまりないことだったな。あの女は、いつも口は悪いが、イギリスじゅうをさがしたって、イヴリン・ハワード以上に信頼できる友だちはいないんだからね」
彼は、植込みのあいだの小道を進み、わたしたちは、所有地の一方の境になっている森をぬけて、村の方へ下って行った。
帰り道に、一つの門を通りぬけようとすると、反対の方角から、ジプシイ型《タイプ》の美しい若い女がやって来たが、にっこりしながらおじぎをした。
「かわいらしい娘ですね」と、感嘆するように、わたしはいった。
「あれが、レイクスの細君さ」
「あの、ミス・ハワードがさっきいった――」
「そうだよ」と、ちょっと不自然なほどぶっきら棒に、ジョンがいった。
わたしは、大きな邸の中に住んでいる白髪の老夫人の姿と、いま、わたしたちにほほえみかけた、溌剌《はつらつ》とした、いたずらっぽい、小さな顔とを、思いふけった。すると、漠然とした、ぞっと寒気のするような予感が、全身をはうように走った。はっとして、わたしは、それをはらいのけた。
「スタイルズは、まったく昔ながらの、すてきなところですね」と、わたしは、ジョンに話しかけた。
彼は、むしろ陰気に、うなずいた。
「うん、立派な財産だよ。いつかは、ぼくの物になる――いまだって、当然、ぼくの物になるはずなんだ、|おやじ《ヽヽヽ》があたり前の遺言を残してさえくれてりゃね。そうすりゃ、いまほど、ひどく金にこまってやしないはずなんだ」
「こまってるって、あなたが?」
「ねえ、ヘイスティングズ、きみだから話すが、ぼくは、途方にくれてるんだ、金に」
「弟さんは、助けてくれないんですか?」
「ローレンスかい? あいつも、持ってたものは、すっかり使い果たしてしまったんだ。くだらない詩を、装幀《そうてい》だけはすばらしい自費出版というやつで出してね。われわれは、文《もん》無しの集まりさ。おふくろは、いつもぼくたちに、すごくよくしてくれたと、いわなくちゃなるまい。つまり、いままではね。それが、結婚してからというものは、もちろん」と、額に皺《しわ》を寄せて、彼は、ぷつんと言葉を切った。
この時はじめて、わたしは、イヴリン・ハワードといっしょに、何かはっきりしないものが、あたりから消え去ったのを感じた。彼女の存在は、安全をもたらしていたのだ。いまや、その保障は、取り除かれてしまった――そして、大気は、猜疑《さいぎ》で満ち満ちているようだった。バウエルスタイン博士の邪悪な顔つきが、気味悪く、わたしの心にふたたび浮かんだ。あらゆる人々と、あらゆる事柄に対する漠然とした疑惑が、わたしの心を満たした。ほんの一瞬、わたしは近づいて来る悪魔の予告を受けたのだった。
第二章 七月十六日と十七日
わたしがスタイルズに着いたのは、七月の五日のことだった。さてこれから、その月の十六日と十七日の出来事を述べよう。読者の便宜のために、できるだけ正確に、その二日間に起こった事柄をくり返してみよう。それらのことは、後に公判廷で、長い、退屈な反対尋問の過程で明らかにされたものだ。
イヴリン・ハワードが出て行ってから、二日の後に、わたしは、彼女から一通の手紙を受け取ったが、それには、スタイルズから十五マイルほどはなれた工業都市の、ミドリンガムの大きな病院で、看護婦として働くことになったと書いてあって、また、イングルソープ夫人が、機嫌をなおす気配があるかどうか知らせてくれるようにと、わたしにたのんでいた。
わたしの平安な日々の中で、ただ一つ、玉に傷といっていいのは、バウエルスタイン博士との交際に対する、カヴェンディッシュ夫人の、異常なまでの打ち込み方が、わたしとしてはなんとも合点がいかないことだった。彼女が、あの男に何を感じたのか、わたしには考えもつかなかったが、彼女は、いつも彼を邸によんだり、またたびたび、彼といっしょに遠くまで出歩いたりするのだった。わたしには、彼のどこに魅力があるのか、まるきりわからなかったといわなければならない。
七月の十六日は、月曜日にあたった。その日は、ごたごたした日だった。評判のバザーは土曜日に行なわれたのだが、同じ慈善事業に関係のある演芸会が、その月曜日の夜、催されて、そこで、イングルソープ夫人が、戦争をうたった詩を朗読することになっていた。わたしたちは、その演芸会が行われるはずの村の公会堂の用意をしたり、飾りつけをしたりするので、午前中はあわただしい思いをした。それで、おそい昼食をしてから、午後は、庭で休んで過ごした。わたしは、ジョンのようすが、いくらかいつもと違うのに気がついた。ひどく気が立っていて、落ち着きがないようだった。
お茶がすむと、イングルソープ夫人は、夜の大役の前に休んでおこうと、横になるために座をはずし、わたしは、メアリー・カヴェンディッシュを相手に、シングルのテニスをいどんだ。
七時十五分前ごろ、イングルソープ夫人がわたしたちに、今夜は夕食を早目にするからおくれないようにといった。わたしたちは、時間に間に合うように、ちょっとあわてて食事をしたが、食事のおわらないうちに、車が玄関に来て待っていた。
演芸会は大成功で、イングルソープ夫人の朗読は、大変な喝采を博した。シンシアが一役買っている活人画もあった。彼女は、ほかの晩餐会によばれていて、活人画で共演した友人たちといっしょに一晩を過ごすことになっていたので、わたしたちといっしょには邸にもどらなかった。
つぎの朝、イングルソープ夫人は、少々疲れすぎだとかで、朝食もベッドでとった。ところが、十二時半ごろになって姿を見せた時は、この上なしというほどの元気で、ローレンスとわたしを引っ張って、ある昼食会に出かけて行った。
「ほんとにすばらしいご招待なんですよ、ロールストン夫人からの。夫人は、タドミンスター夫人の妹さんなのよ、ね。ロールストン家といえば、ノルマンジー公ウィリアム一世について渡っておいでになった――この一国での一番古い家柄の旧家なんですよ」
メアリーは、バウエルスタイン博士との約束を口実にして、辞退してしまった。
わたしたちは、楽しく昼食の時を過ごした。帰りの車が走り出すと、ローレンスが、ほんの一マイルほど回り道をするだけだから、タドミンスターヘ寄って、シンシアの薬局を訪ねてからもどろうといい出した。イングルソープ夫人は、それはいい思いつきだが、自分は書かなくてはならない手紙が五、六通あるから、向こうでお前たちをおろして行くから、お前たちは、シンシアと馬車で帰るがいいとこたえた。
わたしたちは、病院の取次ぎに、うさんくさい目で見られて手間取ったりしたが、ようやくのことでシンシアが出て来て、二人の身分を証明してくれた。彼女は、長い、まっ白な上っ張りを着て、ひどく冷静に、美しく見えた。彼女は、わたしたちを私室へ案内して、仲間の薬剤師に紹介した。なんだかおそろしいような気のおこる人物で、シンシアは、『ペン先』さんと陽気に呼んでいた。
「ずいぶんたくさんの瓶《びん》だな!」と、わたしは感嘆の声をあげて、その小さな部屋のまわりに目を走らせた。「あなたは、あの中に何がはいっているか、みんな知っているんですか?」
「もっと気のきいたことをいってよ」と、シンシアは、不平そうにいった。「ここへ来る人といえば、だれもかれも一人残らず、そんなこというわね。あたしたち、ここへ来て、『ずいぶんたくさんの瓶ね』っていわなかった最初の人に、賞をあたえようかと、本気に考えているところなのよ。それから、そのつぎには、『これでいままでに、何人の人を毒殺しましたか?』というんでしょう、わかっててよ」
まさにその通りだったので、わたしは、声を立てて笑った。
「間違って人を毒殺することが、どのくらい簡単なことかおわかりになってらしたら、そんな冗談などいえなくなりますわよ。さあ、お茶でも飲みましょう。その食器棚には、あらゆる種類の秘密の貯蔵品がはいってるのよ。そうよ、ローレンス――毒薬の戸棚よ。大きいほうの戸棚――そう、それよ」
わたしたちは、とても楽しくお茶を飲み、シンシアに手伝って後の洗い物までした。最後のスプーンをしまいおわったとたん、ドアにノックの音がした。シンシアとペン先さんの顔色が急に堅くなって、しかつめらしい厳格な表情になった。
「どうぞ」と、鋭い事務的な調子で、シンシアがいった。
一人の若い、ちょっとおどおどしたようすの看護婦が現われて、手にした瓶をペン先さんにさし出した。彼女は、手をシンシアの方に振って、なんだか謎のようなことをいった。
「わたしは、ほんとうは、きょうはここにいないのよ」
シンシアは、瓶を手にとって、判事のようなきびしさで、それを調べた。
「これは、けさ、持って来るべきはずだったのね」
「婦長《シスター》が、大変すまないといっています。忘れておしまいになってしまったんですの」
「婦長さんは、ドアの外にはってある規則を、よく読まなくちゃいけないわね」
わたしは、このいじらしい看護婦の顔つきから、彼女が、おっかない『婦長』さんのところへ、こんな挨拶を持って行くようなことは、まずまずあるまいと思った。
「だから、あすまではできませんよ」と、シンシアがいいきった。
「こん夜、いただけないでしょうか?」
「そうね」と、シンシアは、やさしくいった。「あたしたち、とても忙しいんですけど、ひまがあったら、つくっておくわ」
あわれな看護婦が引きさがると、シンシアはすぐに、棚から大きな瓶を取り出して、今の瓶にみたし、ドアの外のテーブルの上においた。
わたしは、声を立てて笑った。
「規律は、守らなくちゃいけないんですね?」
「その通りよ。あたしたちの小さなバルコニーヘ出てみましょうよ。外の病棟がすっかり見られますわよ」
わたしは、シンシアとペン先さんの後について行った。二人は、よその病棟をわたしに指し示して教えてくれた。ローレンスは、後に残っていたが、しばらくすると、シンシアは振り返って、彼にも仲間にはいったらと声をかけた。それから、彼女は腕時計を見て、
「もう用事はないわね、ペン先さん?」
「ええ」
「ようし。じゃ、鍵をかけて、帰りましょう」
その午後、わたしは、ローレンスをまったく違った目で見なおした。ジョンにくらべて、彼は、驚くほど理解しにくい人物だった。ほとんどあらゆる点で、兄とは正反対で、おそろしいほど恥ずかしがりで、内気だった。だが、その態度には、ある種の魅力があったので、だれかがほんとうによく、彼を理解するようになれば、彼に深い愛情を持つようになるだろうと、わたしは考えた。わたしはまたいつも、シンシアに対する彼の態度が、むしろぎごちなくて、シンシアのほうでも、彼に対しては恥ずかしがっているようだと、考えていた。ところが、その日の午後は、二人ともすっかり陽気で、まるで子ども同士のようにしゃべり合っていた。
車が、村を通りぬける途中で、わたしは、切手がいるのを思い出したので、郵便局の前で車をとめてもらった。
切手を買って出て来ると、出会いがしらに、ちょうどはいろうとしていた一人の小男とぶつかった。わたしが身をよけて、あやまると、この小男は、大きな喜びの叫び声をあげて、わたしを抱きしめ、あたたかく接吻をするのだった。
「|わが友《モナミ》、ヘイスティングズ!」彼は、叫ぶようにいった。「まさに、わが友、ヘイスティングズだね!」
「ポアロ!」と、わたしも喜びの叫び声をあげた。
わたしは、馬車の方を向いて、
「とても愉快な再会ですよ、シンシアさん。わたしの旧友の、ポアロ氏ですよ。もう何年も会わなかったんですよ」
「まあ、ポアロさんなら存じてますわ」と、陽気にシンシアもいった。「でも、あなたのお友だちだとは思いもよりませんでしたわ」
「そう、まったく」と、ポアロはまじめくさっていった。「わたしも、マドモアゼル・シンシアをよく知っています。わたしがこの土地にいるのも、あのご親切なイングルソープ夫人のおかげですよ」それから、わたしが物問いたげに、彼を見ているので、「そうですよ、わが友、夫人は、そう、故郷をはなれて避難して来た、七人のわたしたち同国人のために、ご親切に救いの手をさしのべてくだすったのです。われわれベルギーの人間は、いつまでも感謝をこめて、夫人の名を思い出すでしょう」
ポアロは、非常に変わった風采の小男だった。身の丈は、せいぜい五フィート四インチしかなかったが、おそろしくもったいぶったようすをそなえていた。頭の恰好は、まさに卵の形そっくりで、その頭を、いつも心持ち一方に傾けていた。口ひげは、ぴんとこわばった軍隊ふうだった。服装のきちんとしていることは信じられないほどで、ほんの|ちり《ヽヽ》一つのほうが、弾丸《たま》の傷よりも、はるかに彼には苦痛をもたらすにちがいないと、思うほどだった。しかも、いまは見るも気の毒なほど、ひどくびっこを引いている。この風変わりなお洒落《しゃれ》な小男が、かつては、ベルギー警察の、もっとも有名なメンバーの一人だったのだ。探偵としての、彼の第六感は驚くべきもので、現代において、もっとも困難だといわれた事件のいくつかを解決して、その声望をかち得たのだった。
彼は、自分と仲間のベルギー人たちの住んでいる小さな家を、わたしに指し示し、わたしは、近いうちに会いに行こうと約束した。それから、彼は、派手にシンシアに帽子をあげて挨拶をし、わたしたちの車は走り去った。
「人なつっこい、いい人ね」と、シンシアはいった。「あなたがご存じだとは、思いもよらなかったわ」
「気がつかずに、あなたは名士をもてなしていたわけですね」と、わたしはこたえた。そして、それから邸へ帰りつくまでのあいだ、わたしは、エルキュール・ポアロの、さまざまの功績や手柄を、二人に話して聞かせた。
わたしたちは、とても愉快な気分で、邸に帰った。ホールへはいって行くと、イングルソープ夫人が居間《ブードア》から出て来た。顔を赤くして、取り乱したようすだった。
「ああ、あなたたちね」と、彼女はいった。
「どうかなすったの、エミリーおばさま?」と、シンシアがたずねた。
「いいえ、なんでもないのよ」と、鋭く、イングルソープ夫人はいった。「どうしてなの?」それから、食堂へ行く小間使いの、ドーカスの姿を目にとめて、居間へ切手を持って来ておくれと、声をかけた。
「はい、奥さま」と、年とった召使いは、もじもじしていたが、やがて、おずおずとつけ加えていった。「あの、奥さま、おやすみになったほうが、よくはございませんでしょうか? ひどくお疲れのように拝見いたしますけど」
「そうだろうね、ドーカス――そうね――でも――いまは駄目。郵便局がしまるまでに、書いてしまわなくちゃいけない手紙があるからね。いいつけた通り、わたしの部屋に、火をたいておくれだったかい?」
「はい、奥さま」
「それでは、お夕食がすんだら、すぐベッドにはいることにしましょう」
彼女がふたたび居間へはいって行く後姿を、シンシアは、じっと見つめていた。
「まあ! いったい、どうしたんでしょう?」と、彼女は、ローレンスにいった。
彼は、彼女の言葉など聞いていないようなふうだった。というのは、ひと言もいわずに、くるっとまわれ右をすると、邸を出て行ってしまったからだ。
わたしは、夕食の前に、急いでテニスを一勝負しようといってみた。そして、シンシアが承知したので、ラケットを取りに二階へかけ上がった。
カヴェンディッシュ夫人が、階段をおりて来るところだった。気のせいだったかもしれないが、彼女もまた、妙に取り乱しているようすだった。
「バウエルスタイン博士との散歩はいかがでした?」できるだけ無関心らしくしようとしながら、わたしは、そうたずねた。
「わたし、まいりませんでした」と、ぶっきら棒に、彼女はこたえた。「イングルソープ夫人は、どこにおいででしょう?」
「居間ですよ」
彼女の手が、手すりの上で、ぎゅっと固くしまった。それから、何かいやな争いに飛びこむので、勇気をふるい起こそうとしているようだったが、あわただしく、わたしのそばをすりぬけて階段をおりると、ホールを突っ切って老夫人の居間へはいり、うしろ手に、そのドアをしめた。
それからしばらくして、テニスコートへかけ出して行く時、開けひろげた夫人の居間の窓の前を通らずにはいられなかったので、いやおうなしに、つぎのような会話の断片を、小耳にはさまないわけにはいかなかった。必死に自分を押えようとする女の声で、メアリー・カヴェンディッシュがいっていた。
「では、見せてくださいませんのね?」
すると、イングルソープ夫人がこたえた。
「メアリーや、これは、そのこととはなんの関係もないものなんですよ」
「では、見せてくだすってもいいじゃありませんか」
「あなたの想像している物とは違うといっているでしょう。あなたとは、ぜんぜん関係のないことです」
すると、メアリー・カヴェンディッシュが、きびしい調子を一段と強めて、こたえた。「もちろん、あの人をおかばいになることぐらい、わたしにもわかっていましたわ」
シンシアは、わたしを待っていて、懸命な顔つきで、
「ねえ、え! とてもすごい喧嘩があったんですって! ドーカスから、みんな聞いたわ」
「どんな喧嘩?」
「エミリーおばさまと、|あの男《ヽヽヽ》とのあいだでですって。おばさまにも、やっと、あの男の正体がわかってくだすったのだと、いいんだけど!」
「ドーカスは、その場にいたんですか、じゃ?」
「まさか。『偶然、ドアのそばを通りかかった』んですって。ほんとに古くさいどたばただわ。どんなようすだったか、あたし、すっかり聞きたいわ」
わたしは、レイクスの細君のジプシイのような、いたずら好きらしい顔と、イヴリン・ハワードの警告を思い出して、わざと黙っていることにした。ところが、シンシアは、あれこれと考えつくかぎりの臆測をならべたてて、楽しげに希望を述べたてるのだった。「エミリーおばさまは、あの男を追い出してしまうわ。そして、もう二度と、あの男にものなどいわないわよ」
わたしは、ジョンをつかまえようと気にしていたが、彼の姿は、どこにも見あたらなかった。たしかに、その日の午後、何か非常に重大なことが起こったのだ。わたしは、ふともれ聞いた言葉を、忘れようとつとめた。しかし、追っぱらおうとすればするほど、どうしても、それを心から追っぱらうことができなかった。メアリー・カヴェンディッシュがこだわっていた問題とは、いったいなんだろう?
わたしが夕食に降りて来た時、イングルソープ氏は、客間にいた。彼の顔つきは、相変わらず無感動で、その現実離れをしたところが、あらためて、わたしを強く打った。
イングルソープ夫人は、最後に降りて来て食卓についた。まだ気のしずまらないようすで、食事のあいだじゅう、なんとなくぎこちない沈黙がただよっていた。イングルソープは、いつになく黙っていた。ただ、こまかく気をつかって夫人をいたわり、クッションを彼女の背にあてがってやったりして、献身的な夫の役割をはたしてはいた。夕食がすむとすぐ、イングルソープ夫人は、またその居間へしりぞいた。
「わたしのコーヒーは、こちらへ持って来てちょうだい、メアリー」と、彼女は声をかけて、「郵便の集配までに、五分しかないからね」
シンシアとわたしは、客間の、開けはなした窓のそばに腰をおろした。メアリー・カヴェンディッシュが、わたしたちにコーヒーを持って来てくれた。彼女も、興奮しているようだった。
「あなた方お若い方は、明かりをおつけになりますか、それとも、たそがれのほうをおたのしみになります?」と、彼女はたずねた。「あなた、イングルソープ夫人のところへ、コーヒーを持って行ってくださる、シンシアさん? わたしが、おつぎしますから」
「いいですよ、メアリーさん」と、イングルソープがいった。「わたしがエミリーのところへ持って行きます」彼は、コーヒーをついで、注意深く手に持って、部屋を出て行った。
ローレンスもその後を追って行き、カヴェンディッシュ夫人は、わたしたちのそばに腰をおろした。
わたしたち三人は、すわったまま、しばらく黙っていた。よく晴れわたった夜で、暑く、静まりかえっていた。カヴェンディッシュ夫人は、シュロの葉の団扇《うちわ》で、静かにあおいでいた。
「暑すぎるくらいね」彼女は、つぶやくようにいった。「雷雨でも来そうだわ」
ああ、このなごやかな憩いのひとときは、長くつづくわけにはいかなかった! わたしの楽園は、ホールにひびきわたる、あの聞きなれた、心から虫酸《むしず》の走る声で、だしぬけにぶちこわされた。
「バウエルスタイン博士だわ!」と、シンシアが叫ぶようにいった。「妙な時刻にいらしたものね」
わたしは、ちょっとねたましく、メアリー・カヴェンディッシュを見た。しかし、彼女は、まったく心を動かしたようすもなく、上品な蒼白い頬の色さえも変えてはいなかった。
「何をしていらしたんですの、先生?」とカヴェンディッシュ夫人がたずねた。
「おわびをしなけりゃなりません」と、博士はいった。「ほんとうに、お邪魔をするつもりはなかったのですが、イングルソープさんが、どうしてもとおっしゃるんで」
「やあ、先生、約束じゃありませんか」こういいながら、ジョンが、ホールからはいって来た。
「コーヒーをどうぞ。それから、何をしておいでだったのか、話してくださいよ」
「ありがとう、お話しましょう」と、情けなさそうに、声高く笑いながら、非常に珍しいシダの一種を、手のとどきそうもないところで見つけたのだが、それを取ろうと苦心しているうちに足をすべらして、かたわらの沼へ、あわれにも滑り落ちた顛末《てんまつ》を話して聞かせた。
「太陽が、すぐに乾かしてはくれましたがね」と、彼はつけ加えた。「ですが、こんな恰好では、とてもみっともないと思いましてね」
ちょうどその時、イングルソープ夫人が、ホールからシンシアを呼んだので、シンシアは走って行った。
「ちょっと、わたしの文箱を、二階へ持ってあがってくれないかしら、あんた? わたしは、もう休みますからね」
ホールヘ通じるドアは、横幅の広いドアだった。シンシアが出て行った時から、わたしは立っていた。ジョンは、わたしのすぐそばにいた。だから、その時、イングルソープ夫人が、まだ口をつけていないコーヒーを手に持っていたと誓言のできる証人が、三人いたわけだ。
わたしの一夜は、バウエルスタイン博士の出現で、すっかり台なしになってしまった。わたしには、この男が、まるきり帰る気がないような気がした。だが、とうとう、彼が立ちあがったので、わたしは、ほっとため息をついた。
「ごいっしょに、村までお供しましょう」と、イングルソープ氏がいった。「この地所のことで、代理人に会わなくちゃならないんです」それから、ジョンの方を向いて、「誰も起きてるには及びませんよ。掛け金の鍵を持って行きますから」
第三章 悲劇の夜
わたしの物語の、この部分がはっきりわかるように、スタイルズ荘の二階の構造を簡単に説明しておこう。まず二階は中庭を挟んで左右対称の造りになっている。そして、一階奥の突き当たりにある中央階段で左右二つの翼に出るようになっている。それぞれの翼には中央に廊下が走っていて、その外側部分(つまり、窓から外が見渡せる部屋)に住人たちの居室が三つずつ並んでいる。そして右翼の三室はイングルソープ夫人の部屋を真ん中にして手前にアルフレッド・イングルソープの部屋、奥がシンシア・マードックの部屋になっている。もう一方の左翼には手前からジョン・カヴェンディッシュ、メアリー・カヴェンディッシュ、ローレンス・カヴェンディッシュの部屋が並んでいる。また召使いたちの部屋はこの建物の奥にあって、左翼に設けられたドアを通って行けるようになっている。したがって、イングルソープ夫妻の部屋のある右棟には、召使いたちは直接には往来ができない。
わたしが、ローレンス・カヴェンディッシュに起こされたのは、真夜中ごろだったような気がする。彼は、蝋燭を手にしていたが、その興奮した顔つきから、何か重大なことが起こったなと、すぐにわかった。
「どうしたんです?」わたしは、ベッドに起きあがって、こうたずねながら、ぼんやりした思考力をまとめようとしていた。
「母がひどく悪いらしいんだ。何か発作でも起こったらしい。まずいことに、中から鍵をかけてしまっているんだ」
「すぐに行きます」
わたしは、ベッドからとびおりて、ドレッシング・ガウンを引っかけると、ローレンスについて、廊下と回廊を通って、建物の右棟へ行った。
ジョン・カヴェンディッシュが、途中でいっしょになった。一人か二人、召使いが恐怖に打たれてすっかり取り乱したようすで、うろうろしていた。ローレンスは、兄に向かっていった。
「どうしたらいいだろう?」
彼の優柔不断の性格が、こんなにはっきりあらわれたこともないと、わたしは思った。
ジョンは、イングルソープ夫人の部屋のドアの把手を握って、あらあらしく動かしたが、開きそうもなかった。明らかに、中から鍵がかかっているか、閂《かんぬき》がおりているのだった。その時には、邸じゅうの騒ぎになっていた。部屋の中からは、なんともたとえようのない気づかわしい物音が、はっきり聞こえて来るのだった。たしかに、なんとかしなければならない。
「イングルソープさまのお部屋からおはいりになったら、若旦那さま」と、ドーカスが叫ぶようにいった。「ああ、おかわいそうな大奥さま!」
不意に、わたしは、アルフレッド・イングルソープが、わたしたちといっしょにいないのに気づいた――彼一人だけが、影も形も見せていないのだった。ジョンが、彼の部屋のドアを開けてみた。まっ暗闇だった。ローレンスが蝋燭を手にしてつづいたので、その弱々しい光で、ベッドには人の寝たようすもなければ、室内に人のいたらしいようすもないのがわかった。
わたしたちは、まっすぐに、つぎの部屋へつづくドアのところへ飛んで行った。そこもやはり、内側から鍵か閂がかかっていた。どうすれば、いいのだろう?
「ああ、どうしましょう、若旦那さま」と、両手をしぼるようにして、ドーカスが叫ぶようにいった。「いったい、どうしたらよろしいのでしょう?」
「ドアをぶち破ってでも、はいるようにしなくちゃならないだろうね。大変な仕事だがね。そうだ。誰か女中を一人、下へやって、ベリーを起こして、すぐにウィルキンズ先生を呼びに行けといってくれ。さあそれじゃ、ドアにあたってみよう。だが、ちょっと待った。ミス・シンシアの部屋にも、ドアはなかったか?」
「はい、若旦那さま、でも、あすこも、いつも閂がかかっていて、一度も開けたこともございません」
「うむ。見るだけは、見てみよう」
彼は、あわただしく、シンシアの部屋へと廊下を走って行った。そこでは、メアリー・カヴェンディッシュが、シンシアをゆすって――いつになく、ぐっすり眠りこんでいたにちがいない――起こそうとしていた。
一分か二分で、ジョンはもどって来た。
「だめだ。やっぱり閂がかかっている。ドアを破ってはいらなくちゃ。このドアのほうが廊下のよりは、いくらか弱いだろう」
わたしたちは、力を合わせてドアにぶつかった。ドアの|かまち《ヽヽヽ》はがっしりしていて、長いこと、わたしたちの努力をはねつけた。が、ついに、わたしたちの力にまけたのが感じられ、とうとう、めりめりと響きわたる音をたてて、ドアは、ぱっと開いた。
わたしたちは、なだれを打ってころげこんだ。ローレンスは、まだ蝉燭を持っていた。イングルソープ夫人は、ベッドに横たわっていたが、全身が激しい痙攣《けいれん》におそわれていて、そのひょうしに倒したとみえて、そばのテーブルが引っくり返っていた。しかし、わたしたちが飛びこむと、彼女の手足はぐったりとなって、枕の上へ仰向けに倒れた。
ジョンは、大股に部屋を横切って、ガス灯をともした。女中の一人のアニーの方を向いて、階下へ行って、食堂からブランディを取って来いといいつけた。それから、わたしが廊下へのドアの閂をはずしているあいだに、彼は、母親のそばへ飛んで行った。
わたしは、ローレンスの方を向いて、これ以上、わたしがすることもないようだから、さがったほうがいいだろうねといいだそうとしたが、言葉が唇に凍りついて出なかった。あんな恐ろしい表情は、それまでどんな人間の顔にも、一度だって見たこともなかった。チョークのように蒼白な顔色で、ぶるぶる顫《ふる》える手に持った蝋燭は、ぽたぽたと絨毯《じゅうたん》の上に蝋をたらしていた。そして、その目は、恐怖か、何かそれに似た感情からか、石のようになってしまって、わたしの頭の上を通り越して、ずっと向こうの壁の一点を、吸いつけられたように凝視していた。何かを見て、化石してしまったようだった。わたしは、本能的に、彼の視線をたどったが、何も変わったものは見えなかった。炉格子の中で、まだ弱々しくくすぶっている|おき《ヽヽ》や、マントルピースの上にきちんとならんだ飾りなどは、どう見てもなんでもないものだった。
イングルソープ夫人の激しい発作は、おさまったように見えた。せわしい呼吸にあえぎながらも、口をきくことができるようになった。
「もうよくなった――あんまり急で――わたしがばかだった――自分で鍵なんかかけてしまって」
ベッドに人の影がさしたので、見上げると、メアリー・カヴェンディッシュが、シンシアの体に腕をまわして、ドアのそばに立っていた。彼女は、シンシアを支えているようだったが、シンシアは、すっかり茫然《ぼうぜん》としてしまっていて、まるでシンシアらしくもなかった。彼女の顔は、ひどく赤味を帯びていて、つづけざまにあくびをしていた。
「かわいそうに、シンシアは、すっかりびっくりしてしまったの」と、カヴェンディッシュ夫人が、低い澄んだ声でいった。彼女自身は、白い仕事着を着ているのに、気がついた。すると、わたしが考えていたよりも、ずっと時間がたっていたのにちがいない。見ると、窓のカーテンを通して、かすかな夜明けの光がさし、マントルピースの上の時計は、五時近くを指していた。
絞め殺されるような叫び声がベッドから起こって、わたしを驚かせた。また新たな発作の苦痛が、不幸な老夫人を襲ったのだ。痙攣《けいれん》は、見ていられないほど猛烈な物凄いものだった。何もかもが混乱してしまった。わたしたちは、彼女のまわりに集まったが、手をかすことも、苦痛を軽くすることもできるわけのものではなかった。最後の痙攣でもきたように、彼女は全身を宙に浮かせてしまった。そして、とうとう、並はずれた状態に、体を弓なりにそらせて、わずかに頭の先とかかとをつけた恰好になってしまった。メアリーとジョンは、もっとブランデーを飲ませようとしたが、無駄だった。時が、飛ぶように流れた。また、夫人の体が、あの奇怪な恰好に、弓なりにそり返った。
そのとたん、バウエルスタイン博士が、厳然としたようすで、部屋の中にはいりこんで来た。一瞬、彼は、死んだように突っ立って、ベッドの上の姿を見つめた。その同じ瞬間、イングルソープ夫人は、その目をきっと博士に据えて、絞め殺されるような声で叫んだ。
「アルフレッド――アルフレッド――」そして、ばたっと枕の上に倒れて、動かなくなってしまった。
ひとまたぎで、ベッドに近づくと、博士は、夫人の両腕をつかんで力強く動かした。人工呼吸の手当をしているのだとは、わたしにもわかった。彼は口数少なく、いくつかの命令を召使いたちにいいつけた。彼が尊大に振る手が、わたしたちみんなを、ドアの方へ追いやった。わたしたちは、うわのそらで彼を見守っていた。もっとも、もうみんな胸の中では手おくれで、どうしようもないのだと知ってはいるのだろうと、わたしは思った。博士の顔色で、博士自身も、いささかも望みを持っていないのが、わたしにもわかった。
とうとう博士は、重々しく首を振りながら、手当をやめた。そのとたん、部屋の外に、足音がして、イングルソープ夫人の主治医の、でっぷりとふとった、気むずかしそうな小男の、ウィルキンズ医師がせかせかとはいって来た。
あまり言葉数を使わないで、バウエルスタイン博士が、車が出て来た時、偶然、屋敷の門のそばを通りかかったこと、そして、車がウィルキンズ医師を迎えに行ったあいだに、できるだけ早く邸の中へかけこんだ事情を説明した。かすかに手を振って、彼は、ベッドの上の姿を指さした。
「ひ、じょ、うに、悲しいことです。ひ、じょ、うに悲しいことです」と、ウィルキンズ医師はつぶやきながら、「おかわいそうな、おなつかしい奥さん。いつもちっとも――ちっとも――わたしの忠告を聞いてくださらなかった。わたしは、ご注意申しあげておいたのです。心臓がかなり弱っておいでだったのです。『のんきにしておいでなさい』と、わたしは、奥さんに申しあげたのです。『のんきに――して――おいでなさい』と。ところが、そうじゃなかった――立派な仕事への奥さんの熱意が、強すぎたのです。自然が反逆したのです。し、ぜ、ん、がそむいたのです」
バウエルスタイン博士が、この田舎医者をじっと見つめているのに、わたしは気がついた。口を開いた時も、まだ、じっとその目をウィルキンズ医師につけたままだった。
「痙攣は、とくにひどいものでしたよ、ウィルキンズ先生。あなたが間に合わなくて、その痙攣を目《ま》のあたり見られなかったのが、残念でした。まったく――硬直性のものでした」
「ああ!」と、ウィルキンズ医師は、抜け目なくいった。
「内々で、あなたにお話したいと思うのですが」バウエルスタイン博士は、そういってから、ジョンの方を向いて、「ご異存はないでしょうね?」
「ありませんとも」
わたしたちは、二人の医師だけを残して廊下に出たが、うしろで鍵のかかる音を、わたしは聞いた。
わたしたちは、そっと階段を降りた。わたしは、激しく興奮していた。少しは推理の才能を持っていたので、バウエルスタイン博士のようすから、わたしの心には、さまざまな激しい推測が生まれていたのだ。カヴェンディッシュ夫人が、わたしの腕に手をおいた。
「どうしたんでしょう? なぜ、バウエルスタイン博士は、あんな――変な顔をなすったんでしょう?」
わたしは、彼女に目をやった。
「わたしがどう思っているか、おわかりですか」
「どうって?」
「ちょっとお耳を」わたしは、まわりを見まわした。ほかの人たちは、話の聞こえないところにいた。わたしは、声をひそめてささやいた。「老夫人は、毒殺されたのだと思います! バウエルスタイン博士は、それを疑っているにちがいありません」
「なんですって?」彼女は、瞳孔をはげしくひろげながら、よろよろと壁によりかかった。つづいて、わたしをぎょっとさせるほどの声で、突然、叫んだ。「いいえ、いいえ――そんなことはありません――そんなことは!」そして、わたしからとびはなれて、飛ぶように階段を上がって行った。わたしは、彼女が気絶でもしやしないかと心配して、後を追って行った。わたしは、死んだように蒼ざめて、手すりに寄りかかっている彼女を見いだした。彼女は、いらだたしそうに、行ってくれと、わたしに手を振った。
「いえ、いえ――ほっておいて。わたし、一人でいたいんです。一分か二分、ただ、そっとしておいてください。ほかの人のところへ、降りていらして」
わたしは、しぶしぶ、彼女のいう通りにした。ジョンとローレンスとは、食堂にいた。わたしも、二人といっしょになった。わたしたちは、みんな黙っていた。しかし、とうとう、わたしがこういって沈黙を破った時には、みんなの胸の中を口にしたのだろう。
「イングルソープ氏は、どこにいるんです?」
ジョンが首を振って、
「家の中にいないんだ」
わたしたちの目が会った。アルフレッド・イングルソープは、どこに|いた《ヽヽ》のだろう? 彼がいないというのは、不思議でもあり、わけがわからなかった。わたしは、イングルソープ夫人の断末魔の言葉を思い出した。あの言葉には、どんな意味があるのだろう? もしも時間があったら、何かもっと、わたしたちにいい残す言葉でもあったのだろうか?
やっと、医師たちが階段を降りて来るのが聞こえた。ウィルキンズ医師は、興奮して、もったいぶった顔つきをしてはいるが、内心の喜びを、上品ぶった冷静さの態度でかくそうとしていた。バウエルスタイン博士は、目立たぬようにうしろにいたが、その沈んだ、あごひげをはやした顔には、なんの変化もなかった。ウィルキンズ医師が、二人を代表して口をきいた。彼は、ジョンに呼びかけた。
「カヴェンディッシュさん、解剖のご承諾をいただかなければなりませんのです」
「どうしてもでしょうか?」と、沈痛に、ジョンがたずねた。苦悩で、彼の顔がゆがんだ。
「絶対に」と、バウエルスタイン博士がいった。
「とおっしゃると――?」
「ウィルキンズ先生もわたしも、この状態では、死亡診断書をさしあげることができないのです」
ジョンは、軽く頭を下げて、
「そうおっしゃるのでしたら、承諾するほかはありません」
「ありがとう」と、元気よく、ウィルキンズ医師がいった。「あすの晩――いや、今晩、やらせていただくことに致しましょう」といってから、ちらっと日の光を見て、「事情によっては、検屍審問《インケスト》もさけられないのではないかと思います――こういう形式ばったことも必要ではありますが、あまり気にしないでいただきたいのです」
しばらくあいだをおいてから、バウエルスタイン博士が、ポケットから鍵を二つ取り出して、ジョンにわたした。
「あの二つの部屋の鍵です。鍵をおろしておきましたが、いまは、かけたままになすっておいたほうがいいだろうと思います」
そうして、医師たちは帰って行った。
わたしは、さっきから頭の中で、一つの考えを、くり返し考えていたが、いまこそ、それを口にする時が来たと感じた。しかしまだ、いうのを控えていた。ジョンは、どんな種類のことでも、こんな事件が世間に知れわたるのをおそれていて、けっして厄介なことにはかかわり合おうともしない、のんきな楽天家だということを、わたしは知っていた。わたしの計画のいいかげんなものでないことを、彼に納得させるのはむずかしいかもしれない。反対にローレンスのほうは、それほど因襲的でもないし、多分に想像力も待っていたので、味方としてあてになるだろうと感じた。もう、進んで口を切る時が来ていることは疑いもなかった。
「ジョン」と、わたしはいった。「あなたに、頼みたいことがあるんですがね」
「なんだね?」
「わたしが、友だちのポアロのことを話したのをおぼえているでしょう? ここにいるベルギー人の? あれは、とても評判の探偵なんですよ」
「うん」
「彼を、ここへ呼んだらどうだろう――この事件を調べるために」
「なんだって――いまかい? 解剖の前にかい?」
「そうです。早ければ早いほど、有利なんです。もしも――もしも――犯罪がからんでいるとしたら」
「ばかな!」と、ローレンスが腹立たしそうにどなった。「ぼくの考えじゃ、いっさいが、バウエルスタインの妄想だよ! バウエルスタインが、大将の頭に吹きこまなけりゃ、ウィルキンズは、あんなことを考えつきもしなかったんだ。だが、専門医という奴はみんなそうだが、バウエルスタインも頭がおかしいんだ。毒薬が、あの男の道楽だから、なんでも毒だと思うのさ」
ローレンスの態度に驚かされたと、わたしはいわなければならない。どんなことでも、こんなに激しいいい方をすることなど、めったにないことだった。
ジョンは、もじもじしていた。
「ぼくは、そうは思えないね、ローレンス」と、やっとのことで、彼はいった。「ぼくは、ヘイスティングズにまかせてみようかと思うんだ。もっとも、ぼくとしては、もう少し待つほうがいいと思うんだが、役にも立たない評判なんか立ててもらいたくないからね」
「いや、違う」と、わたしは懸命に、叫ぶようにいった。「そんな心配はいりませんよ。ポアロという男は、慎重そのものですからね」
「それならいいよ。きみのいいようにしてくれたまえ。きみにまかせるよ。もっとも、ぼくたちが思っている通りなら、なんら怪しい事件じゃないがね。ぼくが間違っていたら、勘弁してくれたまえ!」
わたしは、腕時計を見た。六時だった。ぐずぐずしてはいられないと、わたしは思った。だが、わたしは、五分間をさくことにした。その五分間を、図書室へ行って、ストリキニーネによる毒死の記述の出ている医学書をあさるのに使った。
第四章 ポアロ、捜査す
村で、ベルギー人たちが借りている家は、大庭園の門のすぐ近くだった。ぐるっとまわっている自動車道を迂回するよりも、丈の高い草の中の小道を通って行くほうが、時間がかからずに行けるのだった。それで、わたしも、その道を通って行った。もうすぐ、その家に着くというところで、わたしの方に向かって走って来る一人の男の姿に、わたしの注意はとらえられた。よく見ると、イングルソープ氏だった。どこへ行っていたのだろう? 家をあけたいいわけを、なんといって説明するつもりだろう?
彼は、懸命に、わたしに話しかけてきた。
「大変です! おそろしいことです! かわいそうなわたしの妻! たった今、聞いたばかりです」
「どこへ行っておいでになったのです?」と、わたしはたずねた。
「デンビーに、ゆうべ、おそくまで引きとめられてしまったんです。話がおわったのは一時過ぎでした。そのうえ、表戸の鍵を、すっかり忘れてきたのに気がついたんです。家の者を起こしたくなかったものですから、デンビーのところに泊めてもらったのです」
「どうして、ニュースをお聞きになったんです?」と、わたしはたずねた。
「ウィルキンズが、デンビーに知らせに来たんです。かわいそうなエミリー! 彼女は、ほんとに献身的でした――とても高潔な人でした。あんまり体を働かせすぎたんです」
ある急激な感情の波が、わたしを襲った。なんという徹底的な偽善者だろう、この男は!
「急いで、行かなくちゃいけませんから」といいながら、どこへ行くのか聞かれないのをありがたいと思った。
すぐに、わたしは、リーストウェイズ・コテージのドアをたたいていた。
返事がないので、わたしは、いらいらしながら、たたきつづけた。すると、頭の上の窓が用心深く開いて、当人のポアロが顔を出した。
彼は、わたしを見て、驚きの声をあげた。わたしは、手短かに、惨劇が起こったことを説明して、助力をしてほしいのだと話し聞かせた。
「待ってください、あなた、中へ通ってください。そして、わたしが着かえるうちに、もう一度、詳しく事件を、わたしに話してください」
すぐに、彼は、ドアの閂をはずしてくれたので、わたしは、彼の後について二階へあがった。部屋へはいると、彼は、わたしに椅子をすすめた。そして、彼が念入りに、ゆうゆうと身ごしらえをしているあいだに、わたしは、いっさいをかくさず、どんなにつまらないことでも落とさないように、くり返して事件を話した。
夜中に起こされたことから、イングルソープ夫人の断末魔の言葉、彼女の夫の不在だったこと、一昨日のいい争いのこと、わたしが小耳にはさんだ、メアリーと姑のあいだの会話の断片、イングルソープ夫人とイヴリン・ハワードとの、その以前のいい争いのこと、イヴリンのあてこすりの言葉などを、わたしは、彼に話して聞かせた。
わたしは、いいたいと思っているほど、なかなかはっきりとはいえなかった。何度も自分でくり返したり、折々は、忘れていた事柄へもどったりした。ポアロは、温い目で、にこにこと、わたしを見ていた。
「心持ちが混乱しておいでですね? そうじゃありませんか? 落ち着いてくださいよ、あなた。動転していらっしゃるんですね。興奮しておいでなんですよ――しかし、それも当然ですよ。すぐに、われわれが冷静になったら、事実を、きちんと、あてはめてみましょう。調査して――不必要なものはすてる。重要なものは取っておいて、いらないものは、プーッと!」――彼は、天使のような顔をあげて、滑稽な口もとで、プーッと吹いて――「吹きとばしてしまいましょう!」
「それは、大変結構ですけど」と、わたしは、異議をとなえた。「どうして、重要か、重要でないかをきめるんです? それこそ、わたしにはむずかしいことですよ」
ポアロは、力強く首を振った。今、彼は、非常に苦心をして、ひげの手入れをしているところだった。
「そんなことはありませんよ、あなた! 一つの事実から、別の事実へと導いていくのです――そうやって、つづけていくんですよ。そのつぎの事実が、それにあてはまるだろうか? こりゃ、どうだ! よろしい! つづけていけるぞ。このつぎの小さな事実は――いや、だめだ! うむ、こりゃ、おかしいぞ! 何か足りない――鎖の一つがないのだ。そこで調べて、さがす。そうだ、あのおかしな小さな事実を、ほら、あのうまく合わないつまらない些細な部分を、ここへおくのだ!」彼は手で、おおげさなジェスチュアをした。「意味深長だ! すばらしいぞ!」
「なあ――るほど――」
「おう!」と、ポアロは、人さし指をわたしに向けて、激しく振ったので、わたしはちぢみあがった。「注意なさいよ! こういう探偵は、あぶないんですぞ。『些細なことだ――そんなことは、どうでもいいことだ。一致しない。忘れよう』こういうやり方では、混乱が起こりますぞ! 何から何まで関係しているんですよ」
「わかっています。いつもそう、わたしにおっしゃっていましたからね。ですから、わたしには関係がありそうに見えることも、見えないことも、あらいざらいお話したんです」
「その点は、わたしも大変おもしろく感じました。あなたは、すばらしい記憶力をおもちですし、忠実に、事実を聞かせていただきました。あなたがおっしゃったようなしだいなら、わたしには、何も申し上げることはありません――まったく、みじめなことです。しかし、そりゃやむを得ないことで――あなたは、興奮していらっしゃる。そのために、何よりも重大なことをぬかしておしまいになったんですな」
「なんでしょう、それは?」と、わたしはたずねた。
「イングルソープ夫人が、ゆうべ、よく食事をあがったかどうか、わたしに話してはいただけませんでしたね」
わたしは、まじまじと、彼を見つめた。たしかに、戦争がこの小男の頭を、おかしくしてしまったのだ。彼は、上表を着る前に、丹念にブラシをかけていて、すっかりそれに気を取られているようだった。
「おぼえていませんね」と、わたしはいった。「それに、とにかく、そんなことは――」
「おわかりにならないんですね? ところが、それが、第一に重要なことなんですよ」
「わけがわかりませんね」と、むしろ腹立たしくなって、わたしはいった。「わたしがおぼえているかぎりでは、たくさんはあがりませんでした。たしかに、気が転倒しておいでだったんですね。ですから、食欲もなかったんでしょう。当然ですよ」
「そう」と、つくづくとポアロはいった。「当然ですね」
彼は、引き出しを開けて、小さな手提げ鞄を取り出してから、わたしのほうを向いた。
「さあ、支度ができました。|お邸《シャトウ》へ行って、現場で事件を調べましょう。失礼ながら、|あなた《モナミ》、急いで服を着なすったとみえて、ネクタイが曲がっていますよ。ごめんなさい」と、器用なジェスチュアでなおしてくれた。
「これでよしと! さあ、出かけましょうか?」
わたしたちは、急いで村をぬけ、番小屋の門からはいった。ポアロは、ちょっと立ちどまって、まだ朝露の光り輝いている、美しい広々とした大庭園をいたましそうに眺めた。
「美しい、まったく美しい。しかし、お気の毒な家族たちは、不幸に打ちひしがれて、悲嘆にくれていることでしょうな」
そういいながら、彼は、鋭くわたしを見た。わたしは、彼にあまり長く見つめられて、赤くなったのに気がついた。
あの一家は、悲しみに打ちひしがれていただろうか? イングルソープ夫人の死に対する悲しみは、それほど大きかっただろうか? わたしは、四囲の雰囲気に、感情的なものが欠けているのに気がついた。亡くなった婦人は、生まれつき立派な愛情というものを持っていなかったのだ。彼女の死は、一家には衝撃であり嘆きの種でもあったろうが、心から惜しまれることはないのではあるまいか。
ポアロは、わたしの胸の中の思いを追っているようだった。彼は、重々しく頭を振った。
「そう、あなたの思っている通りです」と、彼はいった。「血のつながりがあったようじゃありませんね。夫人は、カヴェンディッシュ家の二人に、やさしく親切にはしたが、彼女は、あの人たちの本当の母親ではなかったのですね。血が、ものをいうのです――つねに忘れちゃいけませんよ――血が、ものをいうのです」
「ポアロ」と、わたしはいった。「ゆうべ、イングルソープ夫人がよく食べたかどうか、おたずねになったわけを聞かしていただけないでしょうか? わたしは、そのことを胸の中で、考えめぐらしていたんですが、それが事件と、どう関係があるのか、考えがつかないんですがね」
彼は歩きながら、一、二分黙っていたが、やがていった。
「あなたに話すのはさしつかえがありませんよ――もっとも、ご存じのように、最後になるまで説明しないのが、わたしの癖ではあるんですがね。現在の意見では、イングルソープ夫人が、おそらくコーヒーの中にまぜられたストリキニーネで毒殺されたということでしょうね」
「そうですか?」
「それで、コーヒーを持って行ったのは、何時ごろでした?」
「八時ごろでした」
「すると、夫人は、それから八時半までのあいだにお飲みになったのでしょうね――きっと、あまりおそくはなかったでしょう。ところが、ストリキニーネは、かなり早くきく毒薬なんです。そのきき目は、非常に早くて、おそらく、一時間ほどのうちにはあらわれるにきまっているのです。だのに、イングルソープ夫人の場合には、翌朝の五時まで、その徴候があらわれなかった。九時間もたっているじゃありませんか! しかし、大量の食事を、毒物とほぼ同じ時刻にとれば、そのきき目がおくれるということもあるかもしれない、もっとも九時間もおくれるということはないでしょうがね。しかしながら、それくらいは考慮すべき可能性にはちがいない。ところが、あなたの話によると、夫人は、夕食にごく少ししか食べなかったという。だのに、翌早朝までは、徴候があらわれなかった! さあ、そこが奇妙な点ですよ、あなた。まあ、解剖の時に、何かその理由を明らかにするようなことがあらわれるでしょう。それまでは、それをおぼえておいてくださいよ」
わたしたちが邸に近づくと、ジョンが迎えに出て来た。彼の顔は、疲れてやつれているようだった。
「これは、非常にいやな事件です、ポアロさん」と、彼はいった。「わたしたちが世間の評判にならないようにと案じていることは、ヘイスティングズ君が申し上げたでしょうね?」
「ようく、わかっております」
「おわかりでしょうが、いまのところは、ただ疑わしいというだけなのです。何も根拠はないのです」
「まったくその通りです。ただ用心をしておくだけのことです」
ジョンは、わたしの方を向き、シガレットケースを取り出してたばこをすすめながら、自分もたばこに火をつけた。
「あのイングルソープの奴が帰って来たのは、知ってるだろうね?」
「ええ、会いました」
ジョンは、近くの花壇にマッチをすてたが、これはポアロの気持には大変なことだった。彼は、そのマッチをひろって、きちんと土の中にうずめた。
「あいつをどう扱ったらいいのか、なかなか厄介で、わからないよ」
「そんな厄介なことも、いつまでもつづきませんよ」と、おだやかに、ポアロがいった。ジョンは、この神秘がかった言葉の意味がまったくわからないので、とほうに暮れたような顔つきをしていた。彼は、バウエルスタイン博士から渡された二つの鍵を、わたしに渡した。
「ポアロさんの見たいとおっしゃる物は、なんでも見せてあげてくれたまえ」
「部屋には、鍵がかかっているのですね?」と、ポアロがたずねた。
「バウエルスタイン博士が、そうしたほうがいいと考えたのです」
ポアロは、考え深くうなずいた。
「じゃ、彼は、非常にしっかりした人物でしょう。そうです。おかげで、わたしどもにとって、事が簡単になりましたよ」
わたしたちは、いっしょに、悲劇の部屋へあがって行った。
ポアロは、内側からドアに鍵をかけ、この部屋の綿密な点検にとりかかった。彼は、イナゴのように身軽く、一つの物からつぎの物へと飛んで行った。わたしは、何かの手がかりでも消すのをおそれて、ドアのそばに立っていた。ところが、ポアロは、このわたしの慎しみをうれしいと思っているようすもなかった。
「何をしているんです、あなたは?」と、彼は叫ぶようにいった。「そんなところに突っ立って――なんとかいいましたっけ――ああ、そうそう、澄ました豚でしたっけ?」
わたしは、足跡でも踏みつけて消してしまうのじゃないかと、案じていたのだと説明した。
「足跡ですって? だって、なんということです! この部屋はもう、実際には一連隊ほどの人間がはいっちまったんですよ! いったい、どんな足跡が見つかるというんです? いいや、そんなことよりも、こっちへ来て、わたしの捜査を手伝ってください。必要になるまで、この小さな鞄はおいておきますよ」
彼は、窓のそばの丸テーブルの上に、それをおいた。しかし、こいつは思慮のないやり方だった。というのは、その上がぐらぐらだったので、あっと思うと、かしいで、その手提げ鞄を床の上におっことしてしまったからだ。
「とんだテーブルだ!」と、ポアロは叫ぶようにいった。「ああ、あなた、人間というものは、こんな大きな家にだって住めるでしょうが、なお、安心というものはできないものですよ」
こう、ひと言のお説教をいってから、彼は捜査をつづけていった。
書物机の上の、鍵穴に鍵をさしこんだままになっている小さな紫色の小箱が、しばらくのあいだ、彼の注意をひきつけていた。彼は、鍵穴から鍵をぬいて、よく調べてごらんなさいと、わたしにわたした。けれど、わたしには、変わったところは見あたらなかった。ハンドルにねじった針金がついている、普通のエール型の鍵だった。
つぎに、わたしたちがぶち破ってはいったドアの枠組みを調べて、閂がほんとうにかかっていたことを確かめた。それから反対側の、シンシアの部屋へ通じているドアのところへ行った。そのドアも、前にいった通り、閂がおりていた。けれど、彼はその閂をはずして、何度も開けたりしめたりすることまでやった。これを彼は、どんな音も立てないように、極度の注意をはらってやった。突然、閂のどこかに、彼の注意が釘づけになったようだった。彼は、注意深くそれを調べた。それから、すばやく小さなピンセットを、手提げ鞄から取り出すと、何か小さな物を抜き出して、ていねいに、小さな封筒の中に入れて封をしてしまった。
いくつも引き出しのある箪笥《たんす》の上には、お盆がおいてあって、アルコールランプと小さなシチュー鍋がのっていた。シチュー鍋の中には、黒っぽい液体が少しばかり残っていて、そのそばには、その液体を飲んだらしい空のコーヒー茶碗と受け皿とがおいてあった。
こんな物を見落とすとは、なんという不注意な人間だろうと、わたしは自分のことをいぶかった。これこそ、立派な手がかりじゃないか。ポアロは、慎重に指を液体にぬらして、気をつけてなめてみた。彼は、しかめ面をした。
「ココアです――どうやら――ラムが――はいっているらしい」
彼は、ベッドの脇の、テーブルが引っくり返っている床の、こわれた物のところへ足を運んで行った。読書用のランプ、何冊かの本、マッチ、一束の鍵、それからコーヒー茶碗のかけらなどが、そこらに散らばっていた。
「ああ、こりゃ、おかしい」と、ポアロはいった。
「べつに、これといって、おかしいと思う物は見当りませんね」
「見当りませんか? ランプを見てごらんなさい――ホヤがまっ二つに割れているでしょう。これは、落ちたように、おいたものです。ところが、ねえ、コーヒー茶碗は、粉みじんにこわれているでしょう」
「そうですね」と、わたしは、うんざりしていった。「きっと、誰かが踏んづけたんでしょう」
「その通りです」と、ポアロは、おかしな声でいった。「誰かが踏んづけたんです」
彼は、ひざまずいていたのを、立ち上がって、ゆっくりマントルピースの方へと歩いて行って、棚の上の飾り物にさわってみたり、まっすぐに立ててみたりしながら、まるで放心したように立ちつくしていた――興奮した時の、彼のごまかす手だ。
「|あなた《モナミ》」と、彼はいって、わたしの方を向いた。「誰かが、あの茶碗を踏んづけて、粉々にしたんですね。そして、その踏んづけたわけは、その中にストリキニーネがはいっていたからか――こいつは、いっそう重大なことだが――ストリキニーネがはいっていなかったからか、なんです!」
わたしは、なんとも返事をしなかった。あっけにとられて、途方に暮れていたのだが、わけを聞くのは無駄だと承知していた。すぐに、彼は元気を出して捜査をつづけた。彼は、床の上から、鍵束を捨い上げて、指の中でぐるぐるまわしていたが、やがて、ようやくぴかぴかと光っているのを選び出して、紫色の小箱の鍵穴にあててみた。うまく鍵穴に合った。彼は、箱を開けたが、一瞬ためらっていてから、蓋をしめて、また鍵をかけた。最初に鍵穴にさしてあった錠といっしょに、その鍵束を、自分のポケットにそっと入れた。
「わたしには、この書類を調べる権限はないが、調べなくちゃならない――すぐに」
彼はそれから、洗面台の引き出しを開けて、非常に注意深く中を調べた。左手の窓のところへ部屋を突っ切って行く時、黒っぽい茶色のカーペットの上の、ほとんど目に見えないほどの丸いよごれが、ひどく彼に関心をいだかせたようだった。彼は膝をついて、仔細にそれを調べ――匂いまでもかいでみた。
最後に、二、三滴のココアを試験管の中についで、注意深く封をした。つぎの手は、小さな手帳を取り出すことだった。
「わたしたちは、この部屋で見つけましたよ」と、彼はいいながら、あわただしく書いて行った。「おもしろい物を六点。わたしが列挙しましょうか、それとも、あなたがおやりになりますか?」
「おお、あなたが、ぜひ」と、わたしはあわてていった。
「よろしい、では、いいましょう。一つ、粉々にくだかれたコーヒー茶碗。二つ、鍵のさしこんだままの手箱。三つ、床のしみ」
「あれは、いつか前についたのかもしれませんよ」と、わたしはさえぎった。
「違います。というのは、まだ目につかないほどしめっていますし、コーヒーの匂いがしますからね。四つ、濃い緑色の布のきれはし――ほんの一本か二本の糸ですが、見わけはつきます」
「ああ!」と、わたしは叫ぶようにいった。「封筒にお入れになったのは、それなんですね」
「そうです。イングルソープ夫人の服のきれはしで、全然、重要なものでないということになるかもしれません。いまに、わかるでしょう。五つ目は、これです!」と、芝居気たっぷりのジェスチュアで、書物机のそばの床に、蝋燭の蝋が大きくたれているのを指さした。「きのうから以後に、たれたものにちがいありません。その前だったら、いい女中なら、すぐに、吸取紙と熱いアイロンで取ってしまっているはずです。わたしの一番いい帽子の一つが――おっと、こいつは問題じゃない」
「けさ、ついたものでしょうね。わたしたち、ひどくあわてていましたからね。それとも、たぶん、イングルソープ夫人自身が、蝋燭から落としたんですよ」
「あなた方は、一本の蝋燭だけを持って、部屋へおはいりになったんでしたね?」
「そうです。ローレンス・カヴェンディッシュが持っていました。しかし、彼は、ひどく気が転倒していました。何か、ここで見たらしくて」――と、わたしはマントルピースを指さして――「すっかり、呆然自失というていでしたよ」
「そいつはおもしろい」と、すぐにポアロはいった。「なるほど、暗示的ですね」――といいながら、彼の目は、壁のはしからはしまで、走っていた――「しかし、この大きなしみをつくったのは、ローレンスの蝋燭じゃなかったんですよ。だって、これが白蝋だということはおわかりでしょう。だのに、まだ化粧台の上にのっかっているローレンスさんの蝋燭は、ピンクですよ。反対に、イングルソープ夫人は、部屋では燭台は使っていなくて、読書用のランプだけを使っていたんですよ」
「すると」と、わたしはいった。「どう推論なさるんです?」
それには、わたしの友人は、ややいらいらしたようすをして、生まれつきの腕を働かせろといっただけだった。
「それで、六つ目は?」と、わたしはたずねた。「ココアのことでしょうね」
「いいや」と、ポアロは、考え深そうにいった。「あれを六番目に入れてもいいでしょうが、わたしは入れなかったんです。いいや、六番目の問題は、当分は、胸にしまっておきますよ」
彼は、すばやく部屋の中を見まわした。「ここでは、もうすることは何もないと思いますね、ただ」――彼は、暖炉の中の火の消えた灰を、長いこと、熱心に見つめていた。「火が燃えて――焼き捨てる――だが、ひょっとして――わからせてくれる――かもしれないな!」
器用に、四つんばいになって、彼は、暖炉の灰を灰止めの中へ、細心の注意をはらってよりわけはじめた。突然、彼は、かすかな叫び声をあげた。
「ピンセットを、ヘイスティングズ!」
わたしが急いで、それを彼にわたすと、彼は、手ぎわよく、半焦げになった、小さな紙の切れはしを引き出した。
「ほら、|あなた《モナミ》」と、彼は、叫ぶようにいった。「これを、どう思います?」
わたしは、その紙きれを、つくづくとながめた。わたしには、なんだかわからなかった。紙は、ばかに厚くて、普通のノートの紙とは、まるきり違っていた。突然、一つの考えが、わたしの胸に浮かんだ。
「ポアロ!」と、わたしは叫ぶようにいった。「これは、遺言状のきれはしですよ!」
「その通り」
わたしは、きっと、彼の顔を見上げた。
「あなたは、驚かないんですね?」
「ええ」と、彼は、重々しくいった。「そうだろうと思っていましたよ」
わたしは、紙きれをわたして、彼が、どんな物にでもするのと同じような、整然とした注意深さで、手提げ鞄にしまうのを見守っていた。わたしの頭は、ぐるぐると目まいがしそうにまわっていた。この一枚の遺言状についての、こみ入ったもつれはなんだろう? 誰が燃やしてしまったのだろう? 床の上に蝋燭の滴りを残して行った人間だろうか? それにちがいない。だが、誰にしても、どうして部屋にはいる許しを得たのだろう? すべてのドアは、中から閂がおりていたのではないか。
「さ、あなた」と、きびきびと、ポアロがいった。「行きましょう。わたしは、二つ三つ質問をしたいのです、女中に――ドーカス、とか、いいましたね?」
わたしたちは、アルフレッド・イングルソープの部屋を通った。ポアロは、簡単だが、かなりの範囲にわたって調査をしたので、そのあいだだけ手間どった。わたしたちは、その部屋のドアも、イングルソープ夫人の部屋も、前の通りに鍵をかけて、その部屋のドアから出た。
わたしは、彼が見たいといった夫人の居間《ブードア》へ、彼をつれて降りてから、自分は、ドーカスをさがしに行った。
ところが、彼女をつれてもどってみると、居間はからっぽだった。
「ポアロ」と、わたしは叫んだ。「どこにいるんです?」
「ここにいます、あなた」
彼は、フランス窓から外へ出て、いろいろな形につくった花壇の前で、うわべは、感心してうっとりしたように立っていた。
「見事ですね!」と、彼はつぶやいた。「見事だ! この調和! あの三日月の形を見てごらんなさい。それから、そのダイヤモンドの形を――あの整然とした形は、目を楽しませてくれますねえ。植物の間隔も、完璧ですね。最近つくったもんでしょうね?」
「そう、きのうの午後だと思いますね。だが、こっちへおはいりになりませんか――ドーカスが来ているんです」
「さて、さて! ちょっとのあいだ、目を休ませているからって、ねたまないでくださいよ」
「ええ、ええ。ですが、こっちのほうが、もっと大切ですからねえ」
「そして、このすばらしいベゴニヤが、それと同じくらい大切でないと、どうして、あなたにわかります?」
わたしは、肩をすくめた。彼がそういうやり方をいいと思う時には、彼といい合っても、ほんとに無駄だった。
「賛成してもらえないんですね? だが、こんなこともあったんですね。さて、中へはいって、勇敢なドーカスに会いましょう」
ドーカスは、両手を前で握り合わせて居間《ブードア》に立っていた。ごま塩の髪の毛は、白い女中帽の下で、固く波形にふくらんでいた。彼女は、立派な古風な女中の絵であり、すばらしい標本だった。
ポアロに対する彼女の態度には、不審をいだいているような傾きがあったが、彼は、すぐに、彼女のかたいからをおしつぶしてしまった。彼は、椅子を引き寄せて、すすめた。
「どうぞ、お掛けなさい、マドモアゼル」
「ありがとうございます、旦那さま」
「大奥さまには、長年、おそばに仕えておいでだったんですね?」
「十年でございます、旦那さま」
「そりゃ長いあいだですね。しかも、とても忠実につとめてね。奥さまを、ひどく慕っていたんでしょうね?」
「わたくしには、大変にいい奥さまでございました、旦那さま」
「それでは、二つ三つ、質問にこたえていただけるでしょうね。これは、カヴェンディッシュ氏に、すっかりご了解を得て、おたずねするんですが」
「ええ、もちろんですわ、旦那さま」
「では、きのうの午後の出来事からはじめましょう。奥さまは、口論をなさいましたね?」
「はい、旦那さま。ですが、わたくしは、よく存じませんので、わたくしは――」と、ドーカスは口ごもった。
ポアロは、鋭く、彼女の顔を見た。
「ドーカスさん。その口論について、できるだけ詳しく、どんなこまかいことまでも、わたしは知る必要があるんです。奥さまの秘密をもらすなどと考えちゃいけませんよ。奥さまはお亡くなりになったんですよ。そして、わたしたちは、ぜひすっかり知らなくちゃいけないのです――もし、奥さまのかたきをうとうというんならね。奥さまをよみがえらせることはできないが、卑劣な行為があったのなら、その人殺しを法律にてらして罰しようと、わたしたちは思っているのです」
「おっしゃる通りでございます」と、ドーカスは、言葉強くいった。「名前は申しませんが、このお邸には、だれだって我慢のできない人が、|ひとり《ヽヽヽ》いるんでございますよ! そして、そいつが、はじめてこのお邸の戸口に立って、日影をさえぎった日こそ、厄日《やくび》でございました」
ポアロは、彼女の憤りがひくのを待っていた。それから、事務的な調子に返って、たずねた。
「で、その口論というのは? 一番はじめに聞いたのは、どんなことですか?」
「その、旦那さま、きのう、ひょっこり、ホールの外へまいりますと――」
「それは、何時ごろでした?」
「はっきりとは申しあげられません、旦那さま、ですが、お茶の時刻よりは、ずっと後でございました。たぶん、四時か――もうちょっと、おそかったかもしれません。で、旦那さま、いま申し上げましたように、偶然、通りかかりますと、大変に大きな、腹をお立てになった声が聞こえてまいりましたんですよ。わたしは、ほんとうに聞くつもりはございませんでした。ですが――はい、そんなようすでございましょう、わたしは、立ちどまってしまいました。ドアはしまっておりましたが、奥さまは、とてもきつく、はっきりとおっしゃってでございましたので、おっしゃっておいでのことが、とてもはっきりと聞きとれました。『あなたは、わたしに嘘をついていたんですね。わたしをだましたんですね』と、おっしゃいました。イングルソープさまのご返事は聞こえませんでした。奥さまよりも、非常に低い声で話しておいででした――でも、奥さまは、ご返事あそばしました。『どうして、そんなことをするんです? わたしは、あなたをここにおいて、服も上げていたし、食べ物も上げていたんですよ。何から何まで、あなたは、わたしのおかげをこうむっているんですよ! そして、これが、わたしへのお返しなんですね! わたしたちの家名に、汚名を着せてね!』とね。また、旦那さまがなんとおっしゃったのか聞こえませんでした。でも、奥さまはつづけておっしゃいました。『あなたがなんといったって、どうにもなりはしません。わたしには、どうすればいいか、はっきりわかっています。わたしの決心はきまっています。世間の評判をおそれたり、夫と妻のあいだの醜聞が、わたしを思いとまらせるだろうなんて、あなたは考える必要なんかありませんよ』そのとたん、お二人が出ていらっしゃるのが聞こえたと思いましたので、わたくしは、急いで、その場をはなれてしまったのでございます」
「あなたが聞いたのは、イングルソープ氏の声にちがいないのですね?」
「はい、旦那さま、ほかにどなたのはずがございましょう?」
「それで、そのつぎにはどうなりました?」
「後で、ホールにもどってまいりましたが、すっかり静かでございました。五時に、奥さまはベルを鳴らして、わたくしにお茶を一杯――食べ物はいらないから――居間へ持って来るようにとおっしゃいました。奥さまはおそろしいお顔つきで――とてもまっ青で、興奮しておいででした。『ドーカス、ひどいショックを受けたわ』と、おっしゃいますので、『いけませんでございましたね、奥さま。おいしい、熱いお茶を一杯おあがりになれば、ずっとお気分がよくおなりなさいますよ、奥さま』と、わたくし、申し上げたのでございます。奥さまは、何か手にお持ちでございました。手紙だったのか、ただの紙きれだったのか存じませんが、それに何か書いてございまして、まるで書いてあることが信じられないとでもいうように、見つめつづけておいででございました。わたくしのいるのもお忘れになったように、ひっそりと独り言をおっしゃるんでございますよ。『この一言二言で――何もかもか変わってしまった』と。それから、わたくしにおっしゃるんでございます。『けっして、男なんか信用してはいけないよ、ドーカス。男なんて、信用する値打ちもないんだよ!』わたくしは、急いで出まして、濃いお茶を一杯持ってあがって、召しあがれば、気分がよくおなりなさいますよと申し上げました。『どうしていいかわからない』と、おっしゃるんですよ。『夫と妻のあいだのスキャンダルは、おそろしいことだね、ドーカス。できることなら、もみ消したいくらいだよ』と。ちょうどその時、カヴェンディッシュ夫人が、はいっておいでになりましたので、奥さまは、もうそれ以上おっしゃいませんでした」
「奥さまは、まだ手紙だか、なんだか知らないが、それを手に持っていたんですね?」
「はい、旦那さま」
「それを、奥さまは、後で、どうなすったろうね?」
「さあ、存じませんですね、旦那さま。あの奥さまが大切にしておいでの、紫色の小箱にしまいこんでおしまいになったんでございましょうねえ」
「大切な書類は、いつでも、あれにお入れになっていたんだね?」
「はい、旦那さま。毎朝、お持ちになって、おりておいででした。そして、毎晩、持っておあがりでございました」
「いつ、その鍵をおなくなしになったんだね?」
「きのう、お昼食の時に、おなくしでした。旦那さま、そして、よく気をつけて、さがすようにとおっしゃいました。そのことで、とてもお困りでございました」
「しかし、予備の鍵は、お持ちだったんでしょう?」
「あら、そうでございました、旦那さま」
ドーカスは、とても不思議そうに、彼を見た。じつをいうと、わたしもそうだった。なくした鍵とは、なんのことだろう? ポアロはにっこりした。
「心配はいらないよ、ドーカス、物事を知っているのが、わたしの商売だからね。これが、なくなした鍵ですか?」彼は、ポケットから鍵を取り出した。さっき、二階の小箱の鍵穴にあったのを、見つけた鍵だった。
ドーカスの目が、顔から飛び出しでもしそうなようすだった。
「それが、そうでございます、旦那さま。たしかにそうでございます。でも、あなたさま、どこでお見つけになりました? わたくしは、どこもかしこもさがしたんでございますよ」
「ああ、だが、今日あったのと同じところに、きのうなかったのはおわかりだろう。ところで、べつの問題に移るとして、奥さまは、衣装箪笥に濃い緑色のドレスを、入れておいでになりましたか?」
ドーカスは、思いもかけない質問に、ちょっとびっくりしたようだった。
「いいえ、旦那さま」
「たしかですね?」
「はい、間違いございません、旦那さま」
「誰かほかに、家の方で、緑色のドレスを持っていた方がありますか?」
ドーカスは、じっと考えて、
「ミス・シンシアが、緑色のイブニング・ドレスをお持ちでございます」
「淡い緑ですか、濃い緑ですか?」
「淡緑でございます、旦那さま、シフォンと申しておりますあれでございます」
「ああ、それじゃ、わたしのさがしているのじゃない。すると、ほかには、緑の物を持っている方はないんですね?」
「はい、旦那さま――わたくしが存じているところでは、ございませんです」
彼が、がっかりしたのか、その反対なのか、ポアロの顔は、どんな色も浮かべなかった。彼は、ただ、こういった。
「よろしい。それはおいといて、つぎへ移りましょう。昨夜、奥さまが睡眠薬をお飲みになったろうと信じるような理由が、あなたにはありますか?」
「昨夜はお飲みになりませんでした、旦那さま。お飲みにならなかったのを、わたくし、存じております」
「どうして、そうはっきりと知っているんです?」
「箱がからだったからでございます。二日前に、最後の分をお飲みあそばして、後の補いはお持ちではございませんでしたのです」
「それは、ほんとに間違いないんですね?」
「たしかでございます、旦那さま」
「それでは、それは、はっきりした! ついでながら、奥さまは、きのう、何か書類にサインをしてくれと、あなたにおたのみにならなかったでしょうね?」
「書類にサインでございますか? いいえ、おたのみにはなりませんでした、旦那さま」
「きのうの夕方、ヘイスティングズさんと、ローレンスさんが帰って来た時、奥さまが何通か手紙を書くのに気を取られておいでだったのを見たというんですが、誰にあてた手紙だったか、あなたにはわからないでしょうね?」
「わかりませんですねえ、旦那さま。わたくしは、夕方、外へ出ておりましたのですよ。たぶん、アニイなら、申し上げられますでしょう。もっとも、あの子は、気のつかない子ですけど。昨晩のコーヒー茶碗も片づけてはございませんのですよ。わたくしが、ここのお世話をしないでいますと、そういうことになりますんですよ」
ポアロは、片手を上げて、
「茶碗がそのままになっていることなら、ドーカス、もうちょっと、そのままにしておいてください。それを調べてみたいんですから」
「よろしゅうございますとも、旦那さま」
「昨晩は、何時ごろ出かけました?」
「六時ごろでございました、旦那さま」
「ありがとう、ドーカス、あなたにたずねたかったのは、それだけです」彼は、立ち上がって、窓の方へぶらぶらと歩いて行った。「この花壇に、わたしは感嘆していたんですよ。ときに、庭師は何人ぐらい、ここにやとわれているんです?」
「ただの三人でございます、いまは、旦那さま。五人おりましたんですよ、戦争前には。そのころをお見せできたらと存じますよ、旦那さま。見事な眺めでございました。でも、いまは、年よりのマニングと若いウィリアムと、それに、あんなズボンだのをはいた、新しい流儀の女の庭師とだけでございます。ああ、いやな時節でございますね!」
「また、いい時節が来ますよ、ドーカス。すくなくとも、そう望んでいますよ。ところで、アニイをここへ寄こしていただけますか?」
「はい、旦那さま。ありがとうございました、旦那さま」
「どうして、イングルソープ夫人が、睡眠薬を飲んでいたことがわかったんです?」ドーカスが部屋を出て行くと、わたしは、強い好奇心にかられてたずねた。「それに、なくなった鍵だの、予備の鍵のことなど?」
「一度に一つのことにしてください。睡眠薬のことは、これでわかったんです」そういって、彼は、だしぬけに、薬剤師が粉薬に使う、小さなボール紙の箱を取り出した。
「どこで見つけたんです?」
「イングルソープ夫人の寝室の、洗面台の引き出しの中でですよ。これが、わたしの目録の第六条ですよ」
「でも、二日前に、最後の薬を飲んでしまったんですから、そいつはあまり重要じゃないでしょう?」
「十中八九は、ないでしょうね。ですが、この箱について、何かおかしいと気のついたことがありませんか?」
わたしは、一心にそれを調べた。
「いや、おかしいとはいえませんね」
「レッテルを見てごらんなさい」
わたしは、レッテルを注意深く読んだ。『服用の場合は、就寝前に一服服用のこと。イングルソープ夫人殿』と書いてある。「いいえ、変なところは、何もありませんね」
「薬剤師の名前がなくても、おかしくはないんですか?」
「ああ!」と、わたしは叫び声をあげた。「たしかに、おかしいですね!」
「印刷した名前のない、そんな箱を出す薬剤師のことを聞いたことがありますか?」
「いいや、そんな例は聞いたことがありませんね」
わたしは、すっかり興奮してきた。しかし、ポアロは、こういって、わたしの熱をさました。
「そうはいっても、説明はごく簡単です。ですから、まどわされちゃいけませんよ、あなた」
床のきしむ音が、アニイのやって来たことを知らせたので、わたしは、返事をするひまもなかった。
アニイは、きれいな大柄の娘で、明らかに、悲劇をおもしろがるある残忍さのまじり合った、強い興奮に支配されて動いていた。
ポアロは、事務的なきびきびした調子で、すぐに要点にはいった。
「あなたに来てもらったのはね、アニイ、昨夜、イングルソープ夫人が書いた手紙について、教えてもらえることがあるかもしれないと思ったからなんです。何通でした? それから、宛名や住所も教えてもらえますか?」
アニイは、じっと考えていた。
「手紙は四通でした、旦那さま。一通は、ミス・ハワードに、一通は、弁護士のウェルズさんに、後の二通は、おぼえていないんですけど、旦那さま――ああ、そうでした、一通は、タドミンスターのまかない屋のロス宛でした。もう一通は、おぼえていません」
「考えてください」と、ポアロはうながした。
アニイは、頭をひねったが、だめだった。
「すみません、旦那さま、すっかり忘れてしまいました。気にとめていなかったものですから」
「いいでしょう」といったポアロは、失望の色など、どこにも浮かべていなかった。「それでは、もう少しほかのことを聞きましょう。奥さまの部屋には、ココアのはいったシチュー鍋があるんですが、毎晩、あがったんですか」
「はい、旦那さま、いつも夕方、お部屋へおいておきますと、夜分、ご自身であたためていらっしゃいました――いつでも、気のお向きになった時に」
「どんなのでした? ただのココアですか?」
「はい、旦那さま、ミルクと、おさじ一杯のお砂糖と、それから、おさじに二杯、ラム酒をお入れになるんですよ」
「だれがお部屋へ持って行ったんです?」
「わたくしが持ってまいったんですの」
「いつも?」
「はい、旦那さま」
「何時に?」
「きまって、カーテンを引きに行く時でございます、旦那さま」
「じゃ、台所から、じかに持って行くんですね?」
「いいえ、旦那さま、ガス・ストーブの上があまり広くございませんでしょう、ですから、夕食のお野菜を乗せる前に、いつも料理人が早目につくるんですよ。それから、わたくしがそれを持って行って、開き戸のそばのテーブルの上においておきますんです。そして、後で、お部屋へ持ってあがることになっていましたの」
「開き戸というのは、左の棟にあるんですね?」
「はい、旦那さま」
「それからテーブルは、ドアのこちら側ですか、向こう側――つまり、召使いの部屋の側ですか?」
「こちら側でございます、旦那さま」
「昨夜は、何時に持ってあがりました?」
「七時十五分ごろ、と、思います、旦那さま」
「それから、いつ、奥さまのお部屋へとどけました?」
「戸締まりにまいった時。八時ごろでございました。わたくしが戸締まりをおわらないうちに、奥さまがお休みにあがっていらっしゃいました」
「すると、七時十五分から八時までのあいだ、ココアは、左棟のテーブルの上においてあったんですね?」
「はい、旦那さま」アニイの顔が、だんだん赤くなってきていた。そして、だしぬけにわめくように叫んだ。
「そして、その中にお塩がはいって|いた《ヽヽ》って、旦那さま、わたくしのせいじゃございません。わたくしは、けっして、その近くにお塩なんか持って行きはしなかったんです」
「その中に、塩がはいっていたなんて、どうしてそんなことを、あんたは思うんだね?」と、ポアロがたずねた。
「お盆の上に見たんです、旦那さま」
「お盆の上に、塩があるのを見たんだね」
「はい、あらい、料理用のお塩のようでした。お盆を持ってあがった時には、ちっとも気がつかなかったんですけど、奥さまのお部屋へお持ちしようと思って来て見ますと、すぐに目にはいったんです。それで、もう一度、下へ持って降りて、料理人に新しいのをつくるようにたのもうと思ったんですけど、急いでおりましたもんで、というのは、ドーカスが留守でございましたものですし、それに、まあココアはなんでもないんで、ただお塩が、お盆の上にこぼれたんだろうと思ったんです。それで、エプロンではらって、中へ持って行ったんです」
興奮をおさえるのに、わたしは、ひどく困った。自分ではそれと知らずに、アニイは、重大な証拠の一端を、わたしたちに与えてくれたのだ。もし、彼女のいった『あらい料理用の塩』が、人類に知られている最も恐ろしい毒薬の一つの、ストリキニーネだったと知ったら、どんなに、彼女は仰天するだろう。わたしは、ポアロの冷静さに驚嘆した。彼の自制力は、驚くべきものだった。わたしはじりじりしながら、彼のつぎの質問を待ったが、その問いは、わたしをがっかりさせた。
「奥さまの部屋へ行った時、ミス・シンシアの部屋へのドアは、閂がかかっていましたか?」
「まあ! もちろんでございますわ。あれは、いつもかかっていますの。一度だって、開けたこともございませんでしたわ」
「そして、イングルソープ氏の部屋へのドアは? そこも閂がかかっていたのを知っていましたか?」
アニイは、口ごもった。
「はっきりとは申し上げられませんわ、旦那さま、しまってはおりましたが、閂がかかっていたかどうかは、わかりませんわ」
「最後にお部屋を出た時、奥さまは、あなたの後から、ドアに閂をかけましたか?」
「いいえ、旦那さま、その時はおかけになりませんでした。ですが、後で、おかけになったんでございましょう。いつも、夜になってからおかけになるのがおきまりでございました。廊下へ出るドアのことでございますよ」
「昨日、部屋を掃除した時、床に蝋燭の蝋がたれているのに気がつきませんでしたか?」
「蝋涙《ろうるい》でございますか? いいえ、いいえ、旦那さま、奥さまは、蝋燭はおつけになりませんでした、読書用のランプだけでございます」
「すると、大きな蝋燭のしみが床についていたら、きっと目についたはずだと思うでしょうね?」
「はい、旦那さま、そして、吸取紙か、熱いアイロンで取ってしまいますわ」
それから、ポアロは、ドーカスにした質問をくり返していった。
「奥さまは、緑のドレスを、これまでにお持ちでしたか?」
「いいえ、旦那さま」
「マントも、ケープも、それから――英語で、なんというんだったかな?――そうそう、スポーツ・コートも?」
「緑のはございません、旦那さま」
「だれか、お邸のほかの方でもありませんか?」
アニイは、考えこんだ。
「ございません、旦那さま」
「それは、たしかですね?」
「ほんとに間違いございません」
「結構! 知りたかったのは、それだけです。大変ありがとう」
臆病そうに、くすくすと笑いながら、アニイは、足音荒く部屋から出て行った。こらえていたわたしの興奮が、爆発した。
「ポアロ」と、わたしは、叫ぶようにいった。「おめでとう! 大発見ですね」
「何が大発見です?」
「何がって、そら、毒のはいっていたのはコーヒーじゃなくて、ココアだったんですね。それで、何もかもわかるじゃありませんか! もちろん、早朝まで、きき目があらわれなかったんですよ。真夜中に、ココアを飲んだばかりなんですから」
「すると、あなたは、そのココアに――わたしのいうことを、よく頭に入れてくださいよ、ヘイスティングズ、その|ココア《ヽヽヽ》に――ストリキニーネがはいっていたと思うんですね?」
「もちろんですよ! あの盆の上の塩ですよ。ほかに、どう考えられるんです?」
「塩だったかもしれないでしょう」と、ポアロは、おだやかにいった。
わたしは、肩をすぼめた。そんなふうに、彼が事件を考えようというのなら、議論をしても無駄だった。あわれな老ポアロも、モウロクしかけているという考えが、はじめてではなく、わたしの心をかすめた。ひそかにわたしは、彼がはるかに感受性の強い人間と組んだのは、仕合わせだったのだと考えた。
ポアロはおだやかな目をぱちぱちさせながら、わたしを眺めていた。
「わたしがお気に入らないようですね、|あなた《モナミ》?」
「親愛なるポアロさん」と、わたしは、ひややかにいった。「あなたに指図をするのは、わたしのすることじゃないんです。あなたには、あなたの考えがおありなのは当然です。わたしには、わたしのがあるように」
「すばらしく結構なご意見です」といって、ポアロは、さっと立ち上がった。「さて、この部屋の調査はすみました。そりゃそうと、この隅にある小さな机は、だれのです?」
「イングルソープ氏のですよ」
「ああ!」と、彼は、ためしに、机の鎧ぶたに手をかけた。「鍵がかかっている。だが、ことによると、イングルソープ夫人の鍵のどれかで開けられるでしょう」彼は、馴れた手つきで、ねじったり曲げたり、何度か試していたが、とうとう、満足そうな嘆声をあげた。「ほうら! 鍵はかかってないんだが、|つまみ《ヽヽヽ》で開くんだ」彼は、机の鎧ぶたを奥へ押しこんで、すばやく、きちんと積み重ねた書類に、目を走らせた。驚いたことに、彼は、その書類を調べなかった。ただ、机にまた鍵をかけながら、なるほどというように、こういっただけだった。
「たしかに、几帳面《きちょうめん》な男だな、このイングルソープ氏は!」
『几帳面な男』というのは、ポアロの評価の中では、彼が人に与える最高の讃辞だった。
彼がとりとめもなく、何かぶつぶつといい出した時、わたしは、わたしの友だちが以前の彼のようではなくなったと感じた。
「彼の机の中には切手がなかったが、しかし、あったかもしれませんね、え、|あなた《モナミ》? あってもいいはずですね? そうだ」――彼は、部屋じゅうに目を向けて、「この居間では、もうわたしたちに知らしてくれることもないようですね。大した収穫もありませんでした。これだけです」
彼は、ポケットから、しわくちゃになった封筒を取り出して、ぽんと、わたしに投げてよこした。ちょっと奇妙な書きつけだった。粗末な、汚ない古封筒で、四つ五つの言葉がなぐり書きしてあった。明らかに出たらめに書いたものだ。
第五章 ストリキニーネじゃないでしょうね?
「どこでお見つけになりました、これを?」強い好奇心にかられて、わたしは、ポアロにたずねた。
「紙屑寵の中でです。その筆蹟がおわかりでしょう?」
「ええ、イングルソープ夫人のです。だが、いったい、どういうことなんでしょう?」
ポアロは、肩をすぼめた。
「なんともいえませんね――しかし、なにかありそうですね」
とんでもない考えが、さっと、わたしの心にひらめいた。イングルソープ夫人の心が狂っていたというようなことが有り得るだろうか? 悪魔にとりつかれたような異様な考えを、彼女はいだいたのだろうか? そして、もしそうだとしたら、彼女が自殺したということも、あったのではなかろうか?
そういう意見をポアロに述べようとしかけた時、彼の言葉が、わたしをそらしてしまった。
「さあ、来たまえ」と、彼はいった。「コーヒー茶碗を調べよう!」
「ポアロさん! そんなことが、いったい、なんの役に立つんです。もうココアのことを知ってしまったというのに?」
「おや、おや! あのみじめなココアか!」と、ポアロは、ぶしつけに叫んだ。
彼は、どうにもならんとあざけるように、両手を天にあげながら、いかにもおもしろそうに声を立てて笑った。それには、わたしも、たまらないほどの苦い思いを味わわずにはいられなかった。
「それに、とにかく」と、わたしは、いっそう冷たい調子でいった。「イングルソープ夫人が、自分用のコーヒーをその手で持って上がったんですから、あなたが何を見つけようと思っているのか、わたしにはわかりませんね。コーヒー盆の上に、ストリキニーネの包みを見つけようとでも考えていられるのでなければね!」
ポアロは、すぐ真顔になった。
「さあ、さあ、あなた」と、彼はいって、するっと、わたしの腕の中に腕を通した。「おこらないでくださいよ! わたしがコーヒー茶碗に興味をもつのを許してくださいよ。わたしも、あなたのココアに敬意をはらいますから。ねえ! いいでしょう?」
彼は、とてもおかしいほどユーモラスだったので、わたしも笑わずにはいられなかった。それで、わたしたちはいっしょに客間へ行った。そこには、コーヒー茶碗とお盆が、元のままに手をつけずにおいてあった。
ポアロは、わたしに昨夜の情景のあらましをくり返させて、とても注意深く聞きながら、いろいろな茶碗の位置を、正しくおきなおした。
「すると、カヴェンディッシュ夫人は、お盆のそばに立って――注いだんですね。なるほど。それから、あなたがマドモアゼル・シンシアとすわっていた窓際へ、彼女は来た、と。なるほど、ここに三つの茶碗がある。それで、マントルピースの上の、半分飲みかけの茶碗は、ローレンス・カヴェンディッシュ氏のだろうね。そして、お盆の上のは?」
「ジョン・カヴェンディッシュのです。彼が、そこへおいたのを見ましたよ」
「よろしい。一つ 二つ、三つ、四つ、五つと――それじゃ、イングルソープ氏の茶碗は、どこにあるんです?」
「彼は、コーヒーを飲まないんです」
「それじゃ、全部、説明がつきますね。ちょっと待ってくださいよ、あなた」
非常に注意をはらって、それぞれの茶碗の底から一、二滴ずつを、別々の試験管の中に入れて封をした。そうしながら、一つ一つ、順になめていた。彼の人相は、奇妙な変化をした。半ば当惑、半ば安堵とだけいえるような表情が、そこに浮かんだ。
「よろしい!」と、最後に彼はいった。「はっきりしている! わたしはある想像を持っていたんです――ですが、明らかにわたしの間違いでした。そうです。まるきり間違っていました。それにしても、おかしい。だが、かまわん!」
そして、彼特有の肩のすぼめ方をして、なんだか知らないが、彼を悩ましていたものを心からすててしまった。このコーヒーについて、彼につきまとってはなれない妄念は、袋小路に行きあたるだけだと、はじめからいおうと思えばいえたのだが、わたしは口を噤《つぐ》んでいた。年をとってしまったとはいっても、ポアロといえば、なんといっても大探偵だったのだ。
「朝食の用意ができました」と、ジョンがホールからはいって来て、いった。「わたしたちといっしょに召し上がりますでしょう、ポアロさん?」
ポアロは、黙って従った。わたしは、ジョンを注意して見た。もうほとんど、普段の自分を取りもどしたようだった。昨夜の出来事のショックは、一時的に、彼の気持を転倒させたのだが、彼の平静な構えが、すぐに常態にかえったのだ。彼は、弟とは正反対で、非常に想像力に欠けた男だった。弟のほうは、ことによると、想像力がありすぎるほうだった。
早朝から、ジョンは、仕事できりきり舞いだった。何通も電報を打ったり――はじめの一通は、イヴリン・ハワード宛だった――新聞に出す死亡公告を書いたり、一人の人間の死亡につきものの憂鬱な仕事に、ほとんどかかりきりだった。
「どんなぐあいでしょうか?」と、彼はいった。「あなたの捜査では、母の死は自然死ということになりましたでしょうか――それとも――それとも、最悪の場合の覚悟をきめなければならないでしょうか?」
「わたしの考えでは、カヴェンディッシュさん」と、沈痛な声で、ポアロはいった。「あやまった希望で元気づけるということは、よくないと思いますね。ご家族のほかの方たちの意見は、どうなんですか?」
「弟のローレンスは、何も大騒ぎすることはないのだと、確信しているようです。何もかもいっさいが、心臓麻痺の病症を示しているといっています」
「あの方がですか? そいつは非常におもしろい――まったくおもしろい」と、ポアロは、静かに口の中でいった。「そして、カヴェンディッシュ夫人は?」
かすかな憂愁の雲が、ジョンの顔をよぎった。
「妻がこの事件をどう考えているか、わたしには、まるきりといってもいいくらいわかりません」
この返事は、その後に、ちょっとぎごちなさを残した。ジョンは、間のわるい沈黙を破ろうと、かすかに骨を折っていった。
「イングルソープ氏がもどっていると、申し上げなかったでしょうか?」
ポアロは、うなずいた。
「ぐあいの悪い立場ですね、われわれみんなは。もちろん、普通の通りに、彼をあしらわなくちゃいけないでしょう――しかし、くそ、殺人犯かもしれない男と食卓をともにするというのは、胸がむかむかしてきますね!」
ポアロは、同情するようにうなずいた。
「ようくわかります。あなたにとっても、非常にむずかしい立場ですね、カヴェンディッシュさん。一つ、伺いたいことがあるんですが。昨夜、イングルソープ氏がもどらなかった理由は、鍵を忘れたとかいうことでしたね。そうじゃないんですか?」
「そうです」
「鍵を忘れたというのは、ほんとに確かでしょうね――彼が、全然、持って行かなかったというのは?」
「わかりませんね。見てみようとも思いませんでしたから。いつもわたしたちは、ホールの引き出しに入れてあるんです。今、あるかどうか、見てきましょう」
ポアロは、かすかに微笑を浮かべて、彼の手を押えた。
「いや、いや、カヴェンディッシュさん。もう遅すぎますよ。きっとあるでしょう。イングルソープ氏が待って行ってたって、いままでに、もとへ入れておく時間が、たっぷりあったでしょうからね」
「でも、あなたが――」
「わたしは、何も考えてやしません。もしも、けさ、彼がもどらないうちに、偶然、だれかがそこにあるのを見ていれば、そいつは、彼のために大したことになったことでしょうがね。それだけです」
ジョンは、途方に暮れたような色を浮かべた。
「ご心配はいりませんよ」と、ポアロは、すらすらといった。「あなたが鍵のことなんか苦に病む必要はありませんよ。お言葉にあまえて、ごいっしょに朝食をいただきましょう」
食堂には、みんな集まっていた。こういう事情だったので、当然、愉快な食事ではなかった。ショックの後の反動は、つねに耐えられないもので、わたしたちみんなが、それに悩まされているようだった。礼儀作法と良いしつけとは、わたしたちの態度を普段の通りにしろと、ひとりでに命ずるのだったが、しかも、この克己心《こっきしん》は、ほんとうに大変困難なことだったろうと、わたしは思わずにはいられなかった。目を赤くしているものもいなければ、ひそかに悲嘆にふけっているようすもなかった。この悲劇の個人的な面で、もっとも強い影響を受けた人間は、ドーカスだったろうというわたしの考えは、誤ってはいなかった。
わたしは、アルフレッド・イングルソープには、目を合わさないようにして通り過ぎた。彼は、胸が悪くなるような偽善的な態度で、妻を不慮になくなした夫の役割を演じていた。彼は、わたしたちが彼を疑っていることを知っているのだろうかと、わたしは思った。できるだけ隠していたとはいうものの、たしかに彼が、その事実に気がつかなかったというはずはない。恐怖のひそかな動きを感じていたろうか? それとも、自分の犯罪は、罰せられずにすむと落ち着いていたのだろうか? たしかに、この場の空気にただよう疑惑の色は、もはや、彼が注意人物だという警告を、必ずや彼に与えていたにちがいない。
だが、だれもかれもが、彼を疑っていたろうか? カヴェンディッシュ夫人は、どうだろう? わたしは、テーブルの上座に、しとやかに、落ち着いて、謎のようにすわっている彼女を見守った。手首からきゃしゃな手へとかぶさっている、白いひだ取りのあるやわらかい灰色地のドレスを着た、彼女の姿は非常に美しかった。だが、なろうと思えば、彼女の顔は、その不可思議さの点でスフィンクスのようにもなれるのだった。彼女はひどく黙っていて、ほとんど唇を開かなかった。しかも、奇妙なことに、彼女の個性の持つ大きな力が、わたしたちすべてを支配しているのを、わたしは感じた。
そして、かわいいシンシアは? 彼女は、疑っていたのだろうか? 彼女は、ひどく疲れて、気分もすぐれないようだと、わたしは思った。彼女の態度の不活発さと無気力さとが、ひどく目についた。わたしは、気分でも悪いのではないかとたずねた。すると、彼女は、率直にこたえた。
「ええ。あたし、とてもたまらないほど頭が痛いの」
「もう一杯、コーヒーをいかがです、マドモアゼル?」と、心をこめて、ポアロがいった。「元気がつきますよ。頭痛にはすばらしくききますよ」彼は、急いで立ち上がって、彼女に茶碗をすすめた。
「お砂糖は入れないでちょうだい」彼が砂糖挾みをとり上げたのを見て、シンシアはそういった。
「砂糖なしで? 戦時だから、おやめになったんですか?」
「いいえ。あたし、コーヒーにお砂糖を入れることがないんですの」
「畜生!」つぎなおしたコーヒーを、持って帰りながら、つぶやくように、ポアロは口の中でいった。
わたしだけが、それを耳にはさんだ。それで、不思議そうに、ちらっとこの小男を見ると、彼の顔は、押しかくした興奮に輝き、彼の目は、猫の目のように青光りがしていた。彼を強く動かした何物かを、聞くか見るかしたのだ――だが、いったいなんだったのだろう? わたしは、自分をべつに鈍感な人間とは思っていないが、普通以上に、何物もわたしの注意をひかなかったと、告白しなければならない。
その時、ドアが開いて、ドーカスが現われた。「ウェルズさんがお見えでございます、旦那さま」と、彼女は、ジョンにいった。
その名前は、昨夜、イングルソープ夫人が手紙を書いた弁護士の名前だなと、わたしは思い出した。
ジョンは、すぐさま立ち上がった。
「わたしの書斎へお通ししておくれ」それから、彼は、わたしたちの方を向いて、「母の弁護士なんです」と、説明した。それから、低い声で、「検屍官でもあるんです――ね。たぶん、ごいっしょにいらしていただけるでしょうね?」
わたしたちは黙って、彼について部屋を出た。ジョンは、大股にずんずんと歩いて行ったので、わたしは、ポアロにささやく機会をつかんだ。
「じゃ、検屍審問があるんでしょうね?」
ポアロは、ぼんやりしたようにうなずいた。彼は、何かを夢中で考えふけっているようだった。彼が考えこめば考えこむほど、わたしの好奇心も高まった。
「なんです? あなたは、わたしらのいうことを聞いていないのですね?」
「その通りですよ、あなた。ひどく心配しているんです」
「なぜです?」
「マドモアゼル・シンシアが、コーヒーに砂糖を入れないからなんです」
「なんですって? 真剣になれないというんですね?」
「いや、とても真剣ですよ。ああ、わたしにはわからない何かがある。わたしの勘は、間違いなかったんです」
「どんな勘です?」
「どうしても、あのコーヒー茶碗を調べると、頑張らした勘ですよ。しっ! もう黙って!」
わたしたちは、ジョンの後から、彼の書斎へはいって行った。彼は、わたしたちがはいってしまうと、うしろのドアをしめた。
ウェルズ氏は、中年の快活そうな男で、鋭い目と、典型的な弁護士の口つきをしていた。ジョンは、わたしたち二人を引き合わせて、わたしたちの立会いの理由を説明した。
「わかってくれるね、ウェルズ」と、彼は、つけ加えていった。「これはいっさい、厳重な秘密だからね。どんな種類の捜査も不必要になればいいと、まだ、ぼくたちは望んでいるんだから」
「まったくそうだ、まったくそうだ」と、なだめるように、ウェルズ氏はいった。「検屍審問などという、頭の痛くなるような、公開のことは、なしにしてさしあげられればと思うんですが、しかし、もちろん、医師の死亡診断書なしでは、どうにもならないのですからね」
「ええ、そうでしょうね」
「頭のいい人ですね、バウエルスタインという人は。毒物学の大家なんでしょう」
「まったく」といったジョンの態度には、あるぎこちなさがあった。それから、やや、ためらいがちにつけ加えた。「ぼくたちは、証人として出廷しなくちゃならないんでしょうか?――われわれ、みんなということですが」
「そうもちろん――それから、あの――ええと――イングルソープ氏も」
わずかな沈黙がつづいた後、弁護士は、なだめるような態度で話しつづけた。
「どんな証拠も、確かめるだけのことです。ただ形式だけの問題です」
「なるほど」
かすかに、ほっとした表情が、ジョンの顔をかすめた。わたしはわからなくなった。
「おさしつかえがなければ」と、ウェルズ氏が追っかけていった。「検屍審問は、金曜日にと予定しておりました。それなら、医師の報告にも、たっぷり時間がとれますでしょう。解剖は、今夜、執行のはずでしたね?」
「そうです」
「では、そういうことで、よろしいですね?」
「結構です」
「申し上げるまでもないことですが、カヴェンディッシュさん、わたしは、この大きな悲劇に、どれくらい悲嘆にくれておりますかわかりません」
「それを解決するのに、お力を貸してはいただけませんでしょうか、ムッシュウ?」と、わたしたちが部屋へはいってからはじめて、ポアロが口をさしはさんだ。
「わたくしがですか?」
「そうです。わたしたちは、昨夜、イングルソープ夫人が、あなたに手紙を書かれたと聞きました。けさ、それをお受け取りになったはずですが」
「受け取りました。が、べつに何も書いてはありませんでした。ただ、けさ、訪ねてくれるように、重大事について、わたしの助言がほしいからという、短いお手紙でした」
「その重大事がどんなことかは、匂わしてはなかったんですね?」
「あいにく、ありませんでした」
「そりゃ残念だな」と、ジョンがいった。
「大変残念です」と、沈痛に、ポアロも相づちを打った。
だれも、ものをいうものもなかった。ポアロは、しばらく考えにふけって、われを忘れているようだった。やがて、彼はまた、弁護士の方を向いて、
「ウェルズさん、一つお聞きしたいことがあるんです――これは、もしかすると、職業上のエチケットに反することかもしれませんが。イングルソープ夫人の死によって、どなたが、彼女の財産を相続されるのですか?」
弁護士は、一瞬ためらっていたが、やがて、こたえた。
「それにつきましては、もうすぐ公表されることですから、カヴェンディッシュさんさえご異議がなければ――」
「わたしにはいささかも」と、ジョンが口を入れた。
「それなら、あなたの質問に、ご返事をこばむ理由もありません。昨年の八月付の最後の遺言状で、召使いその他に対する、いろいろ重要でない遺贈のつぎに、全財産を義子のジョン・カヴェンディッシュ氏にお譲りになっておいでになります」
「それはちょっと――こんな質問をしてすみません、カヴェンディッシュさん――もう一人の義理のお子さんの、ローレンス・カヴェンディッシュさんに不公平じゃないでしょうか?」
「いや、そうは思われませんね。二人の父君の遺言状の項目には、ジョンが財産を継ぐとともに、ローレンスは、義理のお母さんの死によって、相当額の財産がはいることにきまっています。イングルソープ夫人は、お兄さんが、スタイルズ荘を維持していかなければならないということを考えて、お兄さんに財産を残されたのです。これは、わたくしにも、非常に公平で、正当な分配だと考えられます」
ポアロは、考え深そうにうなずいた。
「わかりました。しかし、こんなことをいって正しいかどうかわかりませんが、このイギリスの法律では、その遺言は、イングルソープ夫人の再婚と同時に、自動的に効力を失ったわけじゃないんですか?」
ウェルズ氏は、頭をさげた。
「申し上げようと思っていたところですが、ポアロさん、あの遺言状は、今では無効になっております」
「なんですって!」と、ポアロはいった。彼は、一瞬考えてから、たずねた。「イングルソープ夫人ご自身も、その事実はご存じでしたか?」
「わたしは存じませんが、たぶん、ご承知だったかもしれませんね」
「知っていました」と、思いがけずジョンがいった。「ほんのきのう、遺言状の内容が再婚によって、無効になっているということを話し合ったばかりなんです」
「ああ! では、もう一つ、伺います、ウェルズさん。『最後の遺言状』とおっしゃいましたね。すると、イングルソープ夫人は、これまでにも、いくつか遺言状をおつくりになっていたのですか?」
「平均して、年にすくなくとも一通はおつくりになりました」と、平然と、ウェルズ氏はいった。「その時々で、遺言状の内容を、家族のある一人のためになるように、つぎにはべつの一人というふうに、気を変える向きがおありでしたから」
「たとえば」と、ポアロはいいだした。「あなたには知らせずに、つまりある意味で、家族の一員ではない人――たとえば、ミス・ハワードのような人にといいましょうか――そういう人の利益になるように、新しい遺言状をおつくりになっていたとしたら、あなたは意外にお思いでしょうか?」
「べつにすこしも」
「ああ!」ポアロは、質問をしつくしたようだった。
ジョンと弁護士が、イングルソープ夫人の書類を調べるについての問題を話し合っているあいだに、わたしは、ポアロに近づいた。
「イングルソープ夫人が、全財産をミス・ハワードに残す遺言状をつくったと思いますか?」と、わたしは、ある好奇心から、声をひそめてたずねた。
ポアロは、にっと微笑を浮かべた。
「いいえ」
「じゃ、なぜ、あんなことをたずねたんです?」
「しっ!」
ジョン・カヴェンディッシュが、ポアロの方を向いていた。
「いっしょに来ていただけますか、ポアロさん? 母の書類を調べようと思うんです。イングルソープ氏が、心よくウェルズ氏とわたしに、すっかり任せてくれたんです」
「おかげで、事が非常に簡単になりました」と、弁護士はつぶやいた。「法的には、もちろん、彼には資格が」――彼は、最後までいい終らずにしまった。
「まず居間《ブードア》の机を、最初に調べましょう」と、ジョンがいった。
「新しい遺言状があるんです」そういったのは、ポアロだった。
「なんですって?」ジョンと弁護士とは、驚いて、彼を見た。
「というよりも」と、冷静に、わたしの友だちは間をおいて、「|あった《ヽヽヽ》のです」
「というのは、どういうことです――あったというのは? 今は、どこにあるのです?」
「燃されてしまいました!」
「燃されてしまったって?」
「そうです。これをごらんなさい」彼は、わたしたちが、イングルソープ夫人の部屋の暖炉の中で見つけた、半焦げの紙きれを取り出して、いつ、どこで見つけたかという簡単な説明をつけ加えて、弁護士に手渡した。
「しかし、ひょっとしたら、これは古い遺言状かもしれませんね?」
「そうは思われませんね。じつをいうと、きのうの午後より前につくられたものでないことは、ほとんど確かだといってもいいでしょう」
「なんですって? そんなはずはない!」と、同時に、二人の口からもれた。
ポアロは、ジョンの方を向いて、
「もし、庭師を呼んでいただければ、それもご説明します」
「ああ、もちろん、呼びますが――でも――わたしには、よく――」
ポアロは、手をあげて、
「お願いしたように、してください。その後で、ご満足のいくまで質問してください」
「結構です」彼は、ベルをならした。
やがて、ドーカスが出て来た。
「ドーカス、マニングに、話があるから、ここへ来るようにいってくれ」
「はい、かしこまりました、旦那さま」
ドーカスは、引きさがった。
わたしたちは、緊張して、ものもいわずに待っていた。ポアロ一人だけが、すっかりくつろいでいるようなふうで、本箱の隅のはらい忘れた塵をはらっていた。
外の砂利を踏む、鉄を打った長靴のどしんどしんという音が、マニングのやって来たことを知らせた。ジョンは、物問いたげにポアロを見た。ポアロはうなずいた。
「おはいり、マニング」と、ジョンがいった。「話したいことがあるんだ」
マニングは、そろそろと、ためらいがちに、フランス窓からはいって来て、できるだけ窓近くに立った。彼は、両の手に帽子を持って、くるくると、ひどく用心深くまわしていた。おそらく見かけほどには年をとっていないのだろうが、彼の背中はひどく丸くなっていた。しかし、彼の目は、鋭く気が利きそうに光っていて、のろのろとした、やや用心深いしゃべり方を裏切っていた。
「マニング」と、ジョンがいった。「この方が、お前に何かおたずねになるだろうが、それに、おこたえしてもらいたいんだ」
「はい、旦那さま」と、マニングは、口の中でいった。
ポアロは、威勢よく前に出た。マニングの目がかすかに軽侮の色を浮かべて、さっとポアロの上を掃くように走った。
「あんたは、昨日の午後、お邸の南側にぐるっと、ベゴニヤの苗床を植えていたんだね、マニング?」
「へえ、旦那、わしとウィラムとでね」
「すると、大奥さまが窓のところにおいでになって、あんたをお呼びになったんだね?」
「へえ、旦那、さようで」
「それから、どうなったか、あんたの口で、正確に話してください」
「ええ、旦那、大したことはなにもないんで。ウィラムに、自転車で村へ行って、遺言状っていったっけか、そんなようなものの――どんなもんだか、はっきりとは、わしも知らないんです――用紙を一枚もって来いとおっしゃって、書いたものを、ウィラムにおわたしになったんでさ」
「それで?」
「それで、奴は、その通りにしましたんで、旦那」
「それから、つぎに、どうしたんです?」
「わしらは、ベゴニヤの仕事をつづけましたんで、旦那」
「大奥さまは、またあんたたちをお呼びにならなかったかい?」
「へえ、旦那、わしとウィラムの二人を、お呼びになりましたんで」
「そして、それから?」
「わしら二人にはいって来て、名前を書けとおっしゃったんで、細長い書類の一番下に――大奥さまが名前をお書きになった下へ」
「名前の上に書いてあったことを、何か見たかね?」と、鋭くポアロはたずねた。
「いいや、旦那、そこのところには、吸取紙がのってましたんで」
「そして、あんたたちは、大奥さまのおっしゃったところへ、名前を書いたんだね?」
「へえ、旦那、はじめに、わしが書いて、それから、ウィラムがね」
「その後で、大奥さまは、それをどうなすったね」
「さよう、旦那、細長い封筒へお入れになって、机の上においてあった、紫色の箱のようなものにお入れになりましたんで」
「はじめに、大奥さまが、あんたたちをお呼びになったのは、何時ごろだったね?」
「四時ごろでしたよ、旦那」
「もう少し早くはなかったかね? 三時半ごろだったのじゃないかね?」
「いいや、そんなことはないんで、旦那、どっちかというと、四時をちょっとすぎておりましたろうな――四時前ということはないんでさ」
「ありがとう、マニング、それで結構」と、ポアロは愛想よくいった。
庭師は、ちらっと主人の方を見たが、主人がうなずいたので、マニングは、額に一本の指をあてて、小声でぶつぶつといいながら、用心しいしい、窓から引っ返して行った。
「こりゃ驚いた!」と、ジョンが呟《つぶや》いた。「なんと驚くべき偶然だろう」
「どう――偶然とは?」
「母が、死の当日に遺言状をつくったなんて!」
ウェルズ氏は咳ばらいをして、冷やかにいった。
「たしかに偶然だとお思いですか、カヴェンディッシュさん?」
「どういう意味です?」
「お母さんは、はげしい口論をしたと、あなたは、わたしにおっしゃいましたね――だれかと、きのうの午後――」
「どういうことです?」と、またジョンが叫んだ。彼の声は顫えていて、顔つきはまっ青になっていた。
「その口論の結果、お母さんは、ひどく急に、急いで新しい遺言状をおつくりになっているのです。その遺言状の内容は、わたしたちには、けっしてわからないでしょう。その条項については、奥さまは、だれにもおっしゃらなかった。今朝、疑いもなく、その問題について、わたしとご相談なさるおつもりだったのでしょう――だが、その機会をお持ちになれなかった。遺言状は消滅して、ご自分といっしょに、その秘密を墓場へお持ちになっていらっしゃる。カヴェンディッシュさん、これは偶然でもなんでもないでしょうね。ポアロさん。あなたも、この事実が非常に暗示的だというわたしの考えに、きっとご同意くださるだろうと信じます」
「暗示的であろうと、なかろうと」と、ジョンが口を挾んだ。「わたしたちは、この問題を明らかにしてくださったことに対しては、ポアロさんに心から感謝いたします。しかし、氏には、こういう遺言状のことを、けっして知らせるべきじゃなかった。こんなことを伺っちゃいけないんでしょうが、あなた、何が最初に、あなたに、この事実を疑わせるようなことになったのです?」
ポアロは、にっこりして、こたえた。
「走り書きをした古い封筒と、植えたばかりのベゴニヤの苗床ですよ」
ジョンは、もっとたずねようとしたのだろうが、その時、車の大きな音が聞こえたので、わたしたちはみんな、車が走り過ぎた窓の方を向いた。
「エヴィだ!」と、ジョンが叫ぶようにいった。「ちょっと失礼、ウェルズさん」といって、彼は急いで、ホールへ出て行った。
ポアロは、物問いたげに、わたしを見た。
「ミス・ハワードですよ」と、わたしは説明した。
「ああ、来てくれてよかった。才智もあり、愛情もゆたかな女性がいるものです、ヘイスティングズ。もっとも、神は、彼女に美はおさずけにならなかったが!」
わたしは、ジョンにならって、ホールヘ出て行った。ミス・ハワードは、顔を包んだとてもたっぷりしたヴェールから抜け出そうと、骨を折っているところだった。彼女の目が、わたしに落ちたとたん、不意に、罪の意識に似た苦痛が、わたしを突き通った。これこそ、あんなに懸命に、わたしに警告した女性だ。そして、その人の警告に、わたしは、ああ、なんの注意もはらおうともしなかったのだ! なんとすぐに、なんと軽蔑的に、わたしは、その警告を、念頭からすててしまったのだろう。彼女の正しさが、このような悲劇的な形で証明されてしまった今、わたしは恥ずかしさを感じないではいられなかった。彼女は、アルフレッド・イングルソープを、あまりによく知りすぎていただけだったのだ。彼女が、もしスタイルズ荘にとどまっていたら、悲劇は起こっていただろうか? それとも、あの男は、彼女の油断のない目を恐れたろうか? と、わたしはいぶかった。
彼女がわたしの手をとって、あのよくおぼえている痛いくらいの力で握りしめた時、わたしはほっとした。わたしの目と合った目は、悲しんではいたが、非難の色はなかった。彼女が悲嘆の涙を流したということは、そのまぶたの赤さでわかったが、彼女の態度は、以前のぶっきら棒な無愛想さから変わってはいなかった。
「飛び出したの、電報を受け取ったとたんに。帰ったばかりのとこだったの、夜勤から。やとったの、車を。一番早い方法なのよ、ここへ来るのに」
「今朝、何か食べたの、エヴィ?」と、ジョンがたずねた。
「いいえ」
「そうだろうと思った。こっちへ来なさい。まだ朝食も片づいていないようだし、お茶を入れ代えさせるよ」彼は、わたしの方を向いて、「彼女の相手をしてくれるね、ヘイスティングズ? ぼくには、ウェルズが待っているからね。ああ、ポアロさんが見えた。ぼくたちを助けてくだすっているんだ。知っているだろう、エヴィ」
ミス・ハワードは、ポアロと握手をしたが 肩越しにけげんそうに、ちらっとジョンを見た。
「どういうことなの――助けていてくださってるって?」
「手伝って、捜査していただいているんだ」
「捜査するったって、何もないでしょう。もう彼を逮捕したんでしょう?」
「逮捕したって、だれを?」
「だれって? アルフレッド・イングルソープじゃないの、もちろん!」
「エヴィ、気をおつけよ。ローレンスは、ぼくの母は、心臓の発作で死んだという意見なんだからね」
「大ばかだわ、ローレンスは!」と、ミス・ハワードは、しっぺ返しにいった。「もちろん、アルフレッド・イングルソープが、かわいそうなエミリーを殺したのよ――わたしが、いつもいっていたでしょう、彼がそうするだろうって」
「エヴィ、そんなに大きな声を出さないでおくれよ。どんなことを思っても、どんなことを疑っても、今のところでは、できるだけ小さな声でいうほうがいいよ。検屍審問のある、金曜日まではだめなんだからね」
「ばかばかしいことは、だめ!」ミス・ハワードの鼻息は、まったくすばらしかった。「みんな、気が変になってるのね。その時にはもう、あの男は国外へ行っちまってるわ。あの男に神経があれば、おとなしくここにいて、絞首刑になるのを待ってなんかいるもんですか」
ジョン・カヴェンディッシュは、どうにも手のつけようがないというように、彼女を見ていた。
「わかってますよ」と、彼女は、彼を責め立てた。「医者のいう通り、はいはいと聞いていたんでしょう。絶対に、そんなことをしちゃだめ。あの人たちに、何がわかるんです? 全然、零よ――それどころか、あぶない目に会わせるだけよ。わたしは、知ってるわけがあるの――わたしの父が、医者だったんですからね。あのちびのウィルキンズなんて、ばかもばか、あんな大ばかになんか、これまで会ったこともないわ。心臓麻痺ですって! そんなようなこと、いうでしょうよ。神経のある人間ならだれだってすぐに、旦那さんが奥さまに毒を盛ったぐらいわかるわ。わたしが、しじゅういってたでしょう。あの男は、寝床の中で、あの女《ひと》を殺すって。かわいそうに、とうとう、あの男はやっちまった。それだのに、あなたたちみんなときたら、『心臓麻痺です』とか、『検屍審問は金曜日です』とか、ばかみたいなことしか、ぶつぶついえないのね。少しは恥を知ったらいいわ、ジョン・カヴェンディッシュ」
「だから、ぼくにどうしろというんだい?」といったジョンは、かすかに浮かぶ微笑をどうすることもできなかった。「ちえっ、エヴィ。ぼくには、あの男の首根っこをつかまえて、警察へ引っ張って行くこともできないんじゃないか」
「ふん、何かできるでしょう。あの男が、どういうふうにしてやったか、さぐりだすのよ。あの男は、悪だくみにたけた乞食よ。おそらく、蝿取《はえとり》紙を煮込んだのよ。料理番に聞いてごらんなさい、なくなっていないか」
そのとたん、ミス・ハワードとアルフレッド・イングルソープを同じ屋根の下に住まわせて、二人のあいだに平和を保たせるのは、非常に困難な問題だろうなという考えが、とても強く、わたしの胸に浮かんだので、わたしは、ジョンが羨《うらや》ましくもなくなった。わたしは、彼の顔の表情から、その立場のむずかしさを、十分に味わっているのがわかった。さしあたり、彼は、逃げるにこしたことはないと考えて、まっしぐらに部屋から出て行った。
ドーカスが、入れたてのお茶をはこんで来た。彼女が部屋から出て行くと、ポアロは、それまで立っていたフランス窓からはいって来て、ミス・ハワードに向かい合って腰をおろした。
「マドモアゼル」と、沈痛な調子で、彼はいった。「おたずねしたいことがあるんですが」
「なんでも聞いて下さいまし」と、この婦人はいったものの、いくらか気に入らないように、彼に目を向けていた。
「あなたのご援助をお願いしたいのです」
「アルフレッドを絞首刑にするんだったら、喜んでお手伝いしますわ」と、声荒く、彼女はこたえた。「あの男には、絞首刑でもよすぎます。大昔のように、腹わたを抜いて、八裂きにしてもあきたりませんわ」
「では、わたしたちの気持は一つですね」と、ポアロはいった。「というのは、わたしもまた、犯人を絞首刑にしてやりたいと思っているのです」
「アルフレッド・イングルソープを?」
「彼でも、だれでも犯人なら」
「ほかの人間のはずがないじゃありませんか。あの男さえ来なかったら、かわいそうなエミリーは、けっして殺されることなんかなかったんです。あの女《ひと》が強欲なサメのような人間に取りまかれていなかったとはいいませんわ――取りまかれていましたとも。でも、そいつらの狙っていたのは、あの女《ひと》の財布だけでした。命だけは、まあまあ安全でしたわ。ところが、アルフレッド・イングルソープ氏はやって来るなり――二か月も経たないうちに――たちまちじゃありませんか!」
「わたしを信じてください、ミス・ハワード」と、ポアロは、とても情熱をこめていった。「もし、イングルソープ氏が犯人なら、逃がしてなんかやるものですか、わたしから。わたしの名誉にかけても、高々と絞首台にぶらさげてやりますよ!」
「それこそ、なおさらですわ」と、ミス・ハワードは、いっそう熱中していった。
「ですが、わたしを信用してくださいと、あなたにお頼みしなくちゃなりません。というのは、今、あなたのご援助が、わたしにとって、非常に貴重になるだろうということです。そのわけを申し上げましょう。そのわけは、この悲嘆にくれている邸じゅうで、濡れていた目は、あなたの目だけだったからです」
ミス・ハワードは、ぎらりと目を光らした。そして、彼女の荒らっぽい声に、新しい調子が加わった。
「あなたのおっしゃるのが、わたしがあの人を好きだったという意味なら――ええ、好きでしたわ。ご存じでしょうが、エミリーという人は、ある点では、わがままなおばあさんでした。ひどく気前はよかったんですけど、いつでも、そのお返しを望んでいましたわ。人にしてやったことを、人にもけっして忘れさせない人でした――それで、そのために、あの人は、愛されなかったのね。でも、あの人が、それに気づいていたとか、愛されないと感じていたとか、思っちゃだめ。愛されようなんて望んでもいなかったわ。どのみち、わたしは、べつの立場に立っていたんです。はじめから、わたしの立場をゆずらなかったんです。『わたしは、あなたにとっては、年に何千ポンドというほどの値打ちがあるんですよ。結構よ。でも、そのほかには、びた銭一文だってもらってはいなくても――手袋一つだって、芝居の切符一枚だって』とね。あの女《ひと》にはわからなかったわ――時には、ひどく感情を害してました。わたしがばからしく高慢だって、いっては。そうじゃなかったの――でも、説明はできなかった。とにかく、わたしは、自尊心を守っていたんです。だからこそ、あの連中の中で、わたしだけが、あの女《ひと》を愛してあげられたんです。わたしは、あの女《ひと》に気を配っていたんです。あのみんなから守ってきたんです。すると、おべんちゃらのやくざがやって来て、へんだ! わたしの長年の献身も水の泡よ」
ポアロは、心から同情するように、うなずいた。
「わかります、マドモアゼル、あなたの気持は、よくわかります。これは、とても普通じゃありません。あなたは、わたしたちが、生ぬるいと思っていらっしゃる――熱もなければ、気力もないと――だが、わたしを信じてください、そうじゃないんですから」
その時、ジョンが顔を出して、ウェルズ氏と二人で、夫人の居間の机を調べおわったから、わたしたち二人に、イングルソープ夫人の寝室へ来るようにと誘った。
わたしたちが階段を上がって行くと、ジョンは、食堂の方を振り返って、人に聞かれないように、声をひそめていった。
「ねえ、あの二人が会ったら、どうなるだろうね?」
どうにもならないさというように、わたしは、首を振った。
「できれば、二人をはなしておけって、メアリーにはいっといたけど」
「あの人にできるでしょうか?」
「わからんね。ただ一つのたのみは、イングルソープ自身が、一生懸命、彼女に会わないようにしているんでね」
「あんたはまだ、鍵を持っていましたね、ポアロ?」鍵をかけた部屋の戸口に着いた時、わたしはたずねた。
ポアロから鍵束を受け取って、ジョンは、ドアを開けたので、わたしたちみんなは、中へはいった。弁護士がまっすぐ机のところへ行ったので、ジョンが後を追った。
「母は、重要な書類はたいてい、この小箱の中に入れていました」と、彼はいった。
ポアロは、小さい鍵の束を取り出した。
「失礼。わたしが鍵をかけてしまったんです、用心のために、今朝」
「でも、今は、かかってませんよ」
「とんでもない!」
「ほら」といいながら、ジョンが蓋をあけた。
「大変だ!」と叫んだだけで、ポアロは、あきれてものもいえなかったが、「そして、わたしは――どっちの鍵もポケットに入れているのに!」彼は、箱のところへ飛んで行ったが、急に、ぎょっとなった。「なんということだろう! この鍵はこじあけたんだな!」
「何?」
ポアロは、また、手箱を下においた。
「だが、だれがこじあけたんだろう? どうして? いつ? だが、ドアには鍵がかかっていたじゃないか!」こういう絶叫が、ばらばらに、わたしの口から順序もなく飛び出した。
ポアロは、それらの問いに、はっきりと――ほとんど機械的に、こたえた。
「だれが? それが問題ですよ。どうして? ああ、それさえわかればね。いつ? 一時間前に、わたしがここにいた以後です。ドアがしまっていたということについては、あれは、ごくありふれた鍵です。おそらく、この廊下の鍵なら、どれでも合うんでしょうな」
わたしたちは、ぽかんと、おたがいに顔を見合わせた。彼は、うわべは平静だったが、わたしは、彼の手が、長い習慣の力から、マントルピースの上の倒れた花瓶をおこしてはいたが、ひどくふるえているのに気がついた。
「ねえ、こういうことだったんですね」と、とうとう、彼は口をきった。「その箱には、何かがはいっていたんですね――何か証拠のはしくれで、それだけでは、おそらく取るに足らん物でしょうが、人殺しにとっては、十分、犯行と深い関係のある手がかりとなる物だったのでしょう。彼にとっては、発見されて、その重要性を認められないうちに破毀《はき》することが、絶対に必要だったのです。だから、彼は、危険を冒して、大変な危険を冒して、ここへやって来たのです。箱に鍵がかかっていて、こじ開けなければならなかったので、ここへ来たことを示すことになってしまったのです。彼にとって、危険を冒すことは、非常に重要なことだったにちがいないのです」
「しかし、なんだったのでしょう、それは?」
「ああ」と、おこったようなジェスチュアをして、ポアロは、叫ぶようにいった。「そんなこと、わたしにわかるもんですか! 何か文書だったんですね。疑いもなく、おそらく、昨日の午後、夫人が手にしているのをドーカスが見た紙片でしょう。そして、わたしという人間は」――と、彼の怒りが、どっと、噴き出した――「なんという情けない動物でしょう! 何一つ、推理もできない! 低能のような始末だ! あの箱を、ここへ残しておくべきではなかったのです。自分で持って行くべきだったのです。そして、もうなくなってしまった。破毀されてしまった――だが、破毀されたろうか? まだ、チャンスがあるのじゃないだろうか――きっとまだ掘り返さない草木の根が残っているのでは――」
彼は、気違いのように部屋から飛び出して行った。わたしは、はっと気がつくと同時に、彼の後を追った。しかし、わたしが階段の上まで行った時には、彼の姿は視界にはなかった。
メアリー・カヴェンディッシュが、階段の別れ目に立って、彼が姿を消したホールの方を見おろしていた。
「どうなすったんですの、あなたのすばらしい小さなお友だちは、ヘイスティングズさん? まるで気の違った雄牛のように、あたしの横をすっ飛んでいらしてよ」
「何かで、気が転倒しているんですよ」と、わたしは、そっといった。どの程度、打ち明けるのをポアロが望んでいるかは、わたしには、ほんとうにわからなかった。メアリー・カヴェンディッシュの意味ありげな口許に、かすかな微笑が浮がぶのを見て、わたしは話題を変えようとしていった。「まだ、あの二人は会わないんでしょう?」
「だれのことですの?」
「イングルソープ氏とミス・ハワードですよ」
彼女は、ちょっと、まごまごしたようなようすで、わたしを見た。
「二人が顔を合わせたら、そんなにひどいことになると、お思いですの?」
「え、あなたは、そうじゃないんですか?」と、ちょっとびっくりして、わたしはいった。
「思いませんわ」と、彼女は、彼女らしく穏やかにほほえんでいた。「わたくし、すごく、ぱっと燃え上がるのを見たいものですわ。空気がすっとするでしょうね。今のところじゃ、わたくしたちみんな、むやみに考えてばかりいて、ちっとも口に出さないんですもの」
「ジョンは、そう思っていませんよ」と、わたしはいった。「彼は、二人をはなしておこうと気にしているようですよ」
「あら、ジョンがね!」
彼女の調子に含まれた何かが、わたしを興奮させた。わたしは、だしぬけに口を滑らせた。
「ジョンは、昔ふうの、おそろしくいい奴ですよ」
彼女は、一分か二分ほどのあいだ、物珍しそうに、わたしを、じっと見つめた。それから、驚いたことには、こんなことをいった。
「あなたってば、友だちに忠実な方ですのね。だから、わたくし、あなたが好きですわ」
「あなたも、わたしの友だちじゃないんですか?」
「わたくしは、とても悪いお友だちよ」
「どうして、そんなことをいうんです?」
「だって、ほんとうのことですもの。わたくしってば、今日、お友だちを、すっかりうれしがらせたと思うと、あくる日は、そんな人のこと、忘れてしまう女なんですもの」
何がわたしをかり立てたのか知らないが、わたしは、むかむかとなった。そして、おろかにも、上品なことではないが、いってしまった。
「でも、バウエルスタイン博士には、いつも変わらず、親しくしておいでのようですがね!」
とたんに、わたしは、自分の言葉を後悔した。彼女の顔色が、きつくなった。鉄のカーテンがおりてきて、真実の女を消してしまったという印象を、わたしは受けた。一言もいわずに、彼女は、くるっと振り向くと、すばやく階段を上がって行った。わたしは、大ばか者のように、その場に立って、ぽかんと、彼女の後姿を見ていた。
下の方で起こった大変な騒ぎで、わたしの心は、ほかの問題へと呼び返された。ポアロがどなったり、わけを話したりしているのが聞こえた。わたしは、自分のかけひきが無駄だったと思うと、いらいらしてきた。あの小男は、邸じゅうに自分の腹の中を聞かせようとしているらしかったが、すくなくも邸の中の一員としてのわたしは、そのやり方をおかしいと思った。またもや、わたしの友だちは興奮するとうろたえるほど耄碌《もうろく》したのかと、惜しまずにはいられなかった。わたしは勢いよく、階段を降りて行った。わたしの姿を見ると、ポアロは、ほとんどすぐに静かになった。わたしは、彼を脇へ引っ張って行った。
「ねえ、|あなた《モナミ》」と、わたしはいった。「これが利口なやり方でしょうか? たしかに、邸じゅうに、この事件を知らせたくないんでしょう? これじゃ、実際は、わざと犯人に勝たせるようなものじゃありませんか」
「そう思うんですね、ヘイスティングズ?」
「たしかに、そう思いますよ」
「ふん、ふん、あなた、あなたのいう通りにしますよ」
「よろしい。ただ、どうも、少し遅すぎましたね」
「まったく」
彼は、ひどくしょんぼりして、きまり悪そうなふうだったので、わたしは、ほんとに気の毒な気がした。もっとも、わたしは、自分の小言は正しく、利口なやり方だと、まだ思っていた。
「そう」と、やっと、彼はいった。「行きましょう、あなた」
「ここはもうすんだんでしょう?」
「さしあたっては、すみました。いっしょに村まで歩いてくださるでしょうな?」
「行きますとも」
彼は、自分の小さな手提げ鞄を取り上げた。わたしたちは、客間の開けひろげた窓から出た。シンシア・マードックが、ちょうどやって来るところだった。ポアロは脇にのいて、彼女を通した。
「失礼ですが、マドモアゼル、ちょっと待っていただけませんでしょうか」
「はあ?」と、彼女は、いぶかしそうに振り向いた。
「あなたは、これまでイングルソープ夫人の薬を、おつくりになったことがおありでしょうか?」
やや、ぎこちなくこたえる彼女の顔に、かすかに血の色がのぼった。
「いいえ」
「粉薬だけですか?」
シンシアがこたえた時、血の色は、いっそう濃くなった。
「ああ、そうでしたわ。いつか睡眠薬をおつくりしたことがありましたわ」
「これですか?」
ポアロは、粉薬のはいっていた、からの箱を取り出した。
彼女は、うなずいた。
「なんだったか、教えていただけますか? ズルフォン剤ですか? ヴェロナールですか?」
「いいえ、臭化物の粉末ですわ」
「ああ! ありがとうございました、マドモアゼル、ごめんなさい」
元気よく邸から歩き出しながら、わたしは、たびたび、彼に目を向けた。わたしはこれまでにも、何かが彼を興奮させると、彼の目が、猫の目のように青光りになるということに、たびたび気がついていた。いま、その目が、エメラルドのように輝いているではないか。
「あなた」と、とうとう、彼はいいだした。「わたしは、ちょっと思いついたことがあるんです。非常に不思議な、そしておそらくは、全然有り得べからざる思いつきなんです。ところが、――あたるんです」
わたしは、肩をすぼめた。わたしは、ポアロは、そのとりとめもない思いつきに、すこしおぼれすぎているのだなと、ひそかに思った。この事件では、疑いもなく、真相は、明白そのものだったのだ。
「すると、薬剤師の名前のないレッテルが箱に貼ってあったわけは、それだったんですね」と、わたしはいった。「あなたがいったように、ごく簡単なことだったんですね。自分で、それを考えなかったのが、ほんとにおかしいですね」
ポアロは、わたしのいうことに耳を傾けているようすもなかった。
「あの人たちは、もう一つ発見をしたんです。あすこの下で」彼は、親指を肩越しにスタイルズ荘の方へ、ぐいと曲げて、いった。「わたしたちが二階へ上がって行った時、ウェルズ氏が、わたしにいったんです」
「どんなことでした?」
「居間の机に鍵がかかっていたんですが、アルフレッド・イングルソープに遺産を贈るという、結婚前の日付のイングルソープ夫人の遺言状が見つかったんです。きっと、二人が婚約した当時、つくったんでしょうね。ウェルズには、まったく驚きだったんです――それから、ジョン・カヴェンディッシュにもね。普通の印刷した遺言状の用紙に書いてあって、召使い二人が、ドーカスじゃなく、召使い二人が、保証人として署名しているんです」
「イングルソープ氏は、そのことを知っていたんでしょうか?」
「知らなかったというんですよ」
「そのままには信じられないですね」わたしは、怪しいものだと思った。「こういう遺言状ってものは、みんな、ひどくごたごたするものですからね。ねえ、どうして、あの封筒の走り書きの文字が、遺言状が、昨日の午後つくられたってことを発見する役に立ったんです?」
ポアロは、にっこりした。
「あなた。あなただって、手紙を書いている最中に、ふっと、ある文字をど忘れするということにぶつかったことがありませんでしたか?」
「ええ、たびたびありますよ。だれだって、あるでしょう」
「そうです。そうして、そんな時、正しいかどうか調べようと、吸取紙のはしだとか、余分の紙に、一度か二度、書いてみたことがありませんか? そう、イングルソープ夫人のしたのも、それなんです。『所有』Posessed という字を、はじめにはSを一つで書いてあって、つぎには二つで――正確に、書いてあるのに気がつくでしょう。そいつを確かめるために、文章で、もう一つ、夫人は書いてみたんです。『わたしは所有している』I am Posessed とね。ところで、これが、わたしに何を知らしていたか? イングルソープ夫人が、その午後、『所有』という字を書いたのだということを、わたしに知らしていたということです。そうして、暖炉の中で見つけたのが、紙きれだということが、わたしの心の中で生きいきと生き返って来て、遺言状という可能性――そういう言葉を含んでいるにちがいない書類のことが、たちまち、わたしの心に浮かんだのです。この可能性は、それから先の事情で確実なものとなりました。その日の騒ぎで、あの朝は、居間は掃除をしてなかったので、机のそばには、茶色っぽい土の跡がいくつも残っていたのです。ここ四、五日は、天気はすっかり晴れていたので、普通の長靴では、あんな、ひどい跡を残したりしなかったはずです。
わたしは、窓のところへ行ってみました。苗床の土は、居間の床に残っていた土と、まったく同じようでした。それにまた、あなたからも、昨日の午後、植えたのだと聞かされたのです。そこで、庭師の一人か、ことによると二人とも――というのは、二組の足跡がありましたからね――居間へはいったと信じたわけです。というのは、イングルソープ夫人が、ただ二人に話しかけようとだけ思ったのなら、おそらくは、夫人は、窓のところに立っていただけで、彼らは、全然、部屋の中へははいらなかったはずです。そこで、わたしは、夫人が、新しい遺言状をつくって、夫人の署名の証人に、二人の庭師をよんだのだと、確実に信じたのです。わたしの推測が正しかったことは、いろいろな事件が証明してくれました」
「それは、すばらしく頭のいい推測ですね」と、わたしも認めないわけにはいかなかった。「あの書きちらした文字から引き出したわたしの結論は、まったく誤りだったといわなくちゃなりませんね」
彼は、にっこりした。
「あなたは、あまり自分の想像に支配されすぎていますよ。想像はいい召使いですが、また悪い主人でもありますからね。もっとも単純な解釈が、つねに一番もっともらしいということですね」
「もう一つの問題ですが――あの小箱の鍵がかかっていたということが、どうしておわかりになったんです?」
「知らなかったんですよ。想像があたったというだけのことです。曲げた針金がハンドルに通してあったのを、ごらんになったでしょう。それで、それがおそらくは、もろい鍵輪から、ねじり取った物だろうと、すぐに、わたしに思いつかせたんです。ところで、もしなくなって見つかったものなら、イングルソープ夫人は、すぐに鍵束へもどしておいたでしょう。ところが、夫人の鍵束には、明らかに予備の鍵と思われる、ひどく新しくて、ぴかぴかしたのを見つけたんですから、それが、だれか他の人間が、手箱の鍵穴に、もとの鍵をさしておいたのだという仮定へ、わたしを導いてくれたのです」
「そうだ」と、わたしはいった。「アルフレッド・イングルソープですよ。疑いもなく」
「彼の犯行だと、はっきり信じておいでなんですね?」
「そりゃ、当然ですよ。新しく事情がわかるたびに、いっそうはっきりと証拠立てているようじゃありませんか?」
「反対に」と、穏やかにポアロはいった。「彼の有利になる点が、いくつかあるようですね」
「ああ、わかった!」
「そう」
「一つだけ、わかりますよ」
「それで、それは?」
「昨夜、邸にいなかったということですよ」
「はずれ! と、あなた方イギリス人がおっしゃるようにね! あなたは、わたしの胸には、彼に不利だといっている点を、わざわざ、より出したというわけですね」
「どうしてです?」
「そのわけは、もし、イングルソープ氏が、昨夜、夫人が毒殺されると知っていたのなら、確かに、邸からはなれているように用意をしたにちがいないからです。彼の言いわけは、明らかにうそっぱちですよ。それで、二つの可能性がわたしたちに残りました。何が起こるかを知っていたか、留守にする彼自身の理由があったか、どちらかです」
「そして、そのわけは?」と、わたしは、疑わしそうにたずねた。
ポアロは、肩をすぼめた。
「どうして、わたしにわかるんです? 疑いもなく、不名誉な事柄ですよ。あのイングルソープ氏、いくらかやくざというべきでしょ――しかし、それだからといって、彼を人殺しにする必然性はありませんね」
わたしは、首を振った。納得がいかなかったのだ。
「意見が合わないようですね?」と、ポアロがいった。「じゃ、それは、そのままにしておきましょう。どちらが正しいか、時が示してくれるでしょう。では、事件の他の面に移りましょう。寝室のドアが全部、内側から閂がかかっていた事実を、どうお考えです?」
「そうですね――」と、わたしは考えた。「論理的に考えなくちゃいけませんね」
「まったくです」
「こういうことになるでしょうね。ドアには、閂がかかっていた――それは、わたしたちが自分の目で見ましたね――しかも、床の上に蝋涙があることや、遺言状の破毀という事実は、だれかが、夜のあいだに部屋にはいったと、証明しています。ここまでは、あなたも同意するでしょう?」
「まったくその通りです。あっぱれな正確さです。それから」
「そこで」と、わたしは元気づいていった。「はいった人間は、窓からはいったのでもないし、魔術を使ったわけでもないのですから、ドアは、イングルソープ夫人自身が、中から開けたに相違ないということになります。すると、問題の人間は、彼女の夫だったという確信を強めます。彼女は、当然、自分の夫にドアを開けたんでしょうね」
ポアロは、首を振った。
「どうして、夫人がそんなことをするわけがあるんです? 夫人は、彼の部屋へ行くドアに、閂をかけた人ですよ――彼女にしては、はなはだ変わったことですが――その当日の午後、凄くすさまじい口論を、彼としていたんですからね。いいや、彼だけは、とても夫人には中へ入れてもらえない人物だったんですよ」
「しかし、ドアは、きっとイングルソープ夫人自身が開けたのにちがいないという、わたしの説に、あなたは同意なすったんでしょう?」
「ほかにも可能性はありますよ。ベッドヘ行く時に、廊下へのドアに閂をかけるのを忘れて、後になってから起きて、明け方近くに、閂をかけたのかもしれませんよ」
「ポアロ、それは真面目に、あなたの意見ですか?」
「いいや、そうだといってるのじゃないんです。しかし、そうかもしれないといってるんです。ところで、別の問題に移るとして、あなたが耳にはさんだ、カヴェンディッシュ夫人と老夫人とのあいだの会話の断片を、あなたは、どう思います?」
「それを、すっかり忘れてしまっていましたね」と、わたしは、考え考えいった。「これも、やっぱり謎ですね。カヴェンディッシュ夫人のような、このうえなく自尊心が強くて無口な婦人が、自分に関係のないことに、あんなに激しく口出しするなんてことは、信じられないようですね」
「まったくですね。ああいう教養のある婦人のすることとしては、信じられないようですね」
「たしかに変ですよ」と、わたしも同意した。「でも、あんなことは大して重要でもないし、考えに入れる必要はないでしょう」
ポアロがうなり声を出した。
「いつも、わたしがなんといっていました。なにからなにまで考慮にいれなくちゃいけませんよ。もしも、事実が、理論と合わないようなことになったら――理論はすてるんですね」
「まあ、いずれ、わかるでしょう」と、わたしは少し腹を立てていた。
「そうですね、いずれ、わかるでしょう」
わたしたちは、リーストウェイズ・コテージに着いた。ポアロは、二階の、自分の部屋に、わたしを通した。彼は、自分が折々吸っている、小さなロシアたばこを一本、わたしにすすめた。わたしは、彼が、使ったマッチを、おそろしく注意深く小さな陶器の壺に片づけるのに気がついておもしろかった。わたしのさっきのいやな気分は、たちまち消えてしまった。
ポアロは、村の通りを見おろす開けはなった窓の前に、二人の椅子を据えた。新鮮な空気が暖く、気持よく流れこんできた。暑くなりそうな日だった。
突然、わたしの注意は、急ぎ足で通りを走って来る、やせた若い男の姿にとまった。異常なのは、その男の顔の表情だった――恐怖と興奮とが、奇妙にまじり合っているのだ。
「ごらんなさい、ポアロ!」と、わたしはいった。
彼は、身を乗り出して、「おや!」といった。「メイス氏ですよ、薬屋の。ここへ来るんですよ」
若い男は、リーストウェイズ・コテージの前でとまった。一瞬、ためらってから、はげしくドアを叩いた。
「ちょっと待ってくださいよ」と、ポアロは、窓から叫んだ。「今、行きます」
ついて来るようにと、わたしに身ぶりでいってから、彼は、す早く階段をかけ降りて、ドアを開けた。メイス氏は、すぐに話しはじめた。
「ああ、ポアロさん、お邪魔をしてすみません。でも、伺ったら、今、お邸からお帰りになったばかりだというんでございましょう?」
「ええ、今、帰って来たところです」
若い男は、乾いた唇をしめした。彼の顔は、奇妙に動いていた。
「イングルソープ夫人が急に亡くなったと、村じゅうの評判です。みんなは――」と、慎重に、声をひそめて――「毒殺だといっていますんですが?」
ポアロの顔は、まったく無感覚のままだった。
「お医者さんだけがいえることですね、そんなことは、メイスさん」
「ええ、その通りで――もちろん――」と、若い男は、口ごもった。が、心の動揺のほうが大きすぎたのだ。彼は、ポアロの腕をぎゅっとつかんで、声を低くしてささやいた。「ただ、わたしにだけいってください、ポアロさん、ポアロさん、まさか――ストリキニーネじゃないでしょうね?」
ポアロがなんとこたえたか、わたしには、ほとんど聞こえなかった。何か、あたりさわりのない、あいまいな返事だったことは、たしかだ。若い男は立ち去った。ドアをしめると、ポアロの目が、わたしの目と合った。
「そう」と、重々しくうなずきながら、彼はいった。「彼は、検屍審問のさいの証人になりますよ」
わたしたちは、ゆっくりと、また二階へ行った。わたしが口を開こうとすると、ポアロが手を振って、とめた。
「今でなく、今でなく、あなた。わたしは、熟考してみなくちゃなりません。だいぶ、気持が乱れているんです――こいつは、よくないんです」
十分ほどのあいだ、彼は、死んだようにものもいわず、完全に身動き一つせずにすわっていた。ただ、眉毛だけが、ぴくぴくと動いて、いろいろな表情を浮かべた。そのあいだに、彼の目は、じりじりと青光りを増していった。最後に、一つ、深いため息を、ふうっと吐いた。
「もうよくなりました。ひどい瞬間が過ぎました。もうすっかり、頭の中が、整理も分類もできました。けっして混乱させちゃいけません。事件は、まだ明瞭とまではいきません――まだです。というのも、このうえもなく複雑だからです! わたしの脳味噌を絞らせましたよ。この、エルキュール・ポアロをね! 意味深長な事実が、二つもあるんですよ」
「で、どんなことですか?」
「第一は、昨日の天候の状態です。これがとても重要なんです」
「しかし、昨日は、すてきな日でしたよ!」と、わたしは口を入れた。「ポアロ、ぼくをからかってるんですね!」
「とんでもない。寒暖計は、日陰でも二十八度を示しました。それを忘れちゃいけませんよ、あなた。これが、すべての謎を解く鍵です!」
「そして、二番目の論点は?」と、わたしはたずねた。
「重要な事実は、イングルソープ氏が非常に変わった服を着ているということ、まっ黒なあごひげをはやして、眼鏡をかけているということですよ」
「ポアロ、どうも、あなたが真面目だとは思えませんね」
「わたしは、絶対に真面目ですよ、あなた」
「でも、そんなこと、子どもじみてますよ」
「とんでもない、非常に重大ですよ」
「それで、検屍陪審員が、故意の殺人だと、アルフレッド・イングルソープに不利な評決をだしたとするんです。そうしたら、あなたの説はどうなります?」
「十二人の愚か者が、間違いを犯すようなことをしたからといって、わたしの説はびくともしません! しかし、そんなことにはならないでしょう。一つの理由としては、地方の陪審員というものが、その評決そのものに責任をとりたがらないということです。それに、イングルソープ氏は、事実上、この地方の大地主としての地位のある人ですからね。それにまた」と、彼は、静かにつけ加えた。「わたしが、そんなことは許しません!」
「あなたが、許さないというんですね?」
「許しません」
わたしは、こもごも困惑と興味を味わいながら、この風変わりな小男を見つめた。彼は、すさまじいほど自信たっぷりだった。わたしの胸中を読んだかのように、彼は、おもむろに、うなずいた。
「ああ、そうですとも、あなた、口でいったことは、きっと、わたしは実行します」彼は立ち上がって、わたしの肩に手をおいた。彼の顔の相は、すっかり変わっていた。目には、涙が浮かんでいた。「ねえ、あなた、わたしは絶えず、亡くなった、あのお気の毒なイングルソープ夫人のことを思っているんです。夫人は、とくに人に愛されたという人ではありませんでした――そうではなかったのです。しかし、わたしたちベルギー人には、非常にご親切でした――わたしは、あの方に借りがあるのです」
わたしは、口をはさもうとしたが、ポアロはさっとつづけた。
「これだけはいわしてください、ヘイスティングズ。もし、今わたしが、あの方の夫の、アルフレッド・イングルソープを逮捕させるようなことをすれば、あの方は、けっして、わたしを許してはくださらないでしょう――わたしの一言が、彼を救えるという時に!」
第六章 検屍審問
検屍審問までのあいだ、ポアロは、一刻の間《ま》も惜しむかのように、絶えず活動をつづけていた。二度、彼は、ウェルズ氏とこっそり話し合った。彼はまた、たびたび田舎の方へ遠出をした。わたしは、彼が秘密を打ち明けてくれないのが、ちょっと恨めしかったが、そうすればそうするほど、彼が何をするつもりでいるのか、まるきり見当がつかなかった。
ふと、わたしの頭に、彼がレイクスの農場を探っているのかもしれないという考えが浮かんだ。それで、水曜日の夕方、リーストウェイズ・コテージを訪ねたところ、彼が留守だったので、彼に会えるだろうと思って、畑道を農場の方へと歩いて行った。ところが、そこらには、彼の姿もなかったので、まっすぐ農場へ行くのを、わたしはためらっていた。わたしが帰りかけると、一人の年とった田舎者に出会った。その男は、ずるそうに、わたしを横目で見た。
「別荘から来なすったんだね、あんたは?」と、彼はたずねた。
「さよう。友だちを探しているんだが、こっちの方へ歩いて来なかったかと思ってね」
「小さな人でごわしょう? しゃべる時、手を振りまわす? 村にいる、ベルギー人の一人の?」
「そうだ」と、わたしは懸命にいった。「じゃ、こっちへ来たんだね?」
「ああ、うん、こっちへ来なすったよ、たびたび。一ぺんやそこらじゃねえね。あんたの友だちですかい? ああ、あんたは別荘にいる旦那だね――たくさんいなさるだね!」そして、前よりももっととぼけたように、横目で見た。
「そうかね、別荘の紳士たちが、ちょいちょい、こっちへ来るのかねえ?」と、できるだけぞんざいに、わたしはたずねた。
彼は、知ったかぶりをして、わたしにウィンクをした。
「一人、来なさるわね、旦那。名前はいわねえように、気をつけてやすよ。それに、おそろしく気前もいい旦那さ! ああ、どうも、ありがとうごわす。旦那、ほんとのことでごわすよ」
わたしは、急いで歩き出した。では、イヴリン・ハワードは正しかったのだ。そして、ほかの女の金で気前のいいところを見せているアルフレッド・イングルソープのことを思うと、むかむかと強く胸がうずく思いがした。犯罪の底には、あのきびきびしたジプシーの顔がかくれていたのだろうか? それとも、金が主要な動機だったのだろうか? おそらく、両方が適当にまじっているのではあるまいか。
一つの点で、ポアロは、奇妙な観念に取りつかれているようだった。彼は、一、二度、口論の時間について、きっとドーカスが間違っているにちがいないと思うと、わたしに、そういう考えを述べた。彼は、話声を聞いたのは四時ではなくて、四時半だろうと、くり返してドーカスにいいだしたりした。
しかし、ドーカスは動じなかった。彼女が話し声を聞いた時と、五時に、奥さまのところへお茶を持って行った時とのあいだには、絶対に一時間か、それ以上の時間がたっていたというのだった。
検屍審問は、金曜日に、村のスタイルズ・アームズで行なわれた。ポアロとわたしは、証人として呼ばれていなかったので、いっしょにすわっていた。
予審は、滞りなく終った。陪審員たちは、死体を実地検証し、ジョン・カヴェンディッシュは、母の死体に相違ないと証言した。
さらに問われて、彼は、その朝早く、寝ているところを起こされたことからはじめ、母の死の状況を陳述した。
医学的証言が、つぎに行なわれた。法廷は、かたずをのんで静まり返り、目という目は、有名なロンドンの専門医にそそがれた。彼こそは、毒物学について、当代最大の権威者の一人として知られていた。
簡潔に、言葉少なく、彼は、解剖の結果をかいつまんで述べた。医学的な術語や専門語をぬきにすれば、その要点は、イングルソープ夫人の死が、ストリキニーネによる毒殺の結果だというのだった。死体から回収した量から判断して、夫人は少なくも四分の三グレイン程度のストリキニーネを、いや、ことによれば、一グレインか、あるいは、それよりもやや多く、飲んだものに相違ないと述べた。
「誤って、夫人が、その毒薬を飲んだということもあり得るでしょうか?」と、判事がたずねた。
「ほとんど考えられないことですね。ストリキニーネというものは、他の毒薬のように、家庭的な目的には使われておりませんし、販売には、制限が設けられているものなんです」
「調査の結果、毒薬を飲ました方法について、これだと、あなたに判定させるようなものもありましたでしょう?」
「いいえ」
「あなたは、ウィルキンズ医師よりも前に、スタイルズ荘にお着きになりましたのですね?」
「そうです。ちょうど門の外で、車に会いましたので、できるだけ急いで駆けつけたというわけです」
「それからどうなすったか、ありのままにお話し願えませんでしょうか?」
「わたしは、イングルソープ夫人の部屋にはいりました。夫人は、その時、典型的な、硬直性の痙攣を起こしていました。夫人は、わたしの方を向いて、あえぎながら『アルフレッド――アルフレッド――』と、いわれました」
「ストリキニーネというものは、イングルソープ夫人の夫が持っていった、夫人の食後のコーヒーに入れて飲ますことができるものですか?」
「できるかもしれません。しかし、ストリキニーネというものは、その作用が、かなり急速な薬品です。服用後、一時間から二時間のうちに、症状が現われるものなのです。もっとも、ある種の健康状態のもとではおくれることもあります。しかしながら、そのようなものは、この場合には、ぜんぜん見当りません。イングルソープ夫人は、八時ごろ、食後のコーヒーを飲まれたものと推定いたします。ところが実際には、症状は、翌早朝まで現われなかったのです。その事実にもとづけば、前夜、非常におそくなってから、薬品が服用されたということになります」
「イングルソープ夫人は、夜中に、ココアを一杯、飲むのが習慣だったということですが、その中に、ストリキニーネを入れたということはありませんか?」
「いいえ、わたし自身、シチュー鍋に残っていたココアを取って分析してみましたが、ストリキニーネは、ぜんぜん含まれていませんでした」
そばで、ポアロがくつくつと忍び笑いをするのが聞こえた。
「どうして、知っていたんです?」と、わたしはささやいた。
「しっ、お聞きなさい」
「わたしは」――と、博士は、言葉をつづけて――「いくらかべつの結果に、かなり驚かされたといわなければなりません」
「どうしてですか?」
「率直にいえば、ストリキニーネというものは、非常に苦い味を持っているということです。七万倍の溶液の中でさえも検出することができるほどで、何か強烈な匂いのする質のものでなければ消すことはできません。ココアでは、その点、まったく効果がありません」
一人の陪審員が、コーヒーにも同様の説が成り立つかとたずねた。
「そうです。コーヒーは、コーヒー特有の苦い味を持っていますので、たぶん、ストリキニーネの味を消したでしょう」
「では、薬品は、コーヒーの中に入れられたらしいが、何か不明の理由で、その作用がおくれたというお考えなんですね?」
「そうです。ですが、コーヒー茶碗が完全にこわれていますので、その内容物を分析することができないのです」
これで、バウエルスタイン博士の証言は終った。ウィルキンズ医師が、すべての点にわたって、バウエルスタイン博士の証言を確認した。故人は、心臓病を患ってはいたが、その他の点では、完全に健康を享受していて、快活な、よくバランスのとれた性質であったと、彼はいった。夫人が、自殺をするなどということは考えられないともいった。
ローレンス・カヴェンディッシュが、つぎに呼び出された。彼の証言は、兄の証言のまったくのくり返しで、ほんとに取るに足りないものだった。ちょうど、証言台からおりようとしかけた時、彼はとまって、ややためらいがちにいった。
「一つ申し上げたいことがあるのですが、よろしいでしょうか?」
彼は、ちらっと懇願するように、検屍官の方を見た。検屍官は、勢いよくいった。
「もちろんです。カヴェンディッシュさん。わたしたちは、事件の真相をつかむために、ここに集まっているんです。これ以上の解明に役立つことなら、なんでも歓迎します」
「これは、ほんのわたしの考えなんですけど」と、ローレンスははっきりいった。「もちろん、まったく間違っているかもしれませんが、やはり、わたしには、母の死は自然死だったように思われるんです」
「どうして、そうだといわれるんですか、カヴェンディッシュさん?」
「母は、死んだ時にも、またその以前にもしばらくのあいだ、ストリキニーネのはいった強壮剤を飲んでいたのです」
「ああ!」と、検屍官はいった。
陪審員たちは、興味いっぱいの、顔を上げた。
「わたしは」と、ローレンスはつづけた。「相当の期間投与されて、蓄積された薬の効果が、死の原因になった場合も、いくつかあったことだろうと思うんです。それからまた、偶然のことから、母が、適量以上に薬を飲んだということも考えられるのではないでしょうか?」
「故人が死亡の時に、ストリキニーネを用いていたということを聞いたのは、はじめてです。大変ありがとうございました、カヴェンディッシュさん」
ウィルキンズ医師が、もう一度呼ばれたが、その考えをあざ笑った。
「カヴェンディッシュ氏の申されたことは、まったく不可能なことです。どの医者でも、同様にいうに相違ありません。ストリキニーネというものは、ある意味では、蓄積する毒物ですが、今度のような急死を招くようなことは、まったく不可能なことだと思われます。その以前に、長いあいだにわたって慢性の症状が現われ、わたしがすぐに気がついていたはずです。そんなことは全部、不合理なことです」
「それでは、二番目の提議は? イングルソープ夫人が、誤って、通量以上に飲みすぎたかもしれないということについてはどうですか?」
「三日分、いや、四日分を一度に飲んでも、死に至ることはけっしてありません。イングルソープ夫人は、タドミンスターの現金取引きのクート薬局に調剤させておいででしたので、つねに一度に多量の薬をつくらせておいででした。解剖によるストリキニーネの量から考えますと、夫人は、ほとんど一瓶全部を飲まれたに相違ありません」
「では、強壮剤については、どの点から考えても、夫人の死の原因とはならないものとして、われわれの念頭からすてていいというお考えなんですね?」
「もちろん、あのような推定は、ばかけています」
前に口をはさんだのと同じ陪審員が、ここでも、その薬を調剤した薬剤師が過ちをしたのではなかろうかといいだした。
「それは、もちろん、つねに可能なことです」と、医師はこたえた。
しかし、つぎに証人として立ったドーカスは、その可能性をさえ一蹴した。その薬は、作らせたばかりのものではなかった。それどころか、イングルソープ夫人は、死の当日、最後の一回分を飲んだのだった。
それで、強壮剤の問題は、ついに打ち切りとなり、検屍官は、審問をつづけた。ドーカスから、夫人の部屋のベルが激しくなったので目をさまされたことや、つづいて家じゅうが起こされたことを聞き出してから、検屍官は、前日の午後の口論の問題に移った。
この点についてのドーカスの証言は、だいたいにおいて、ポアロとわたしがすでに聞いたものと同じだったから、ここでは、くり返さないでおくことにしよう。
つぎの証人は、メアリー・カヴェンディッシュだった。彼女は、ほんとうにまっすぐに立って、低い、はっきりとした、申し分のない作り声で話した。検屍官の質問にこたえて、いつもの通り四時半に、目覚し時計に目をさまされたので、服を着ていた時に、何か重い物が倒れる音がしたので驚いたということを、彼女は語った。
「それは、きっとベッドのそばのテーブルだったんでしょうね?」と、検屍官がいった。
「わたくし、ドアを開けて」と、メアリーはつづけていった。「耳をすましました。すこしして、ベルがけたたましくなったと思いますと、ドーカスがかけて来て、夫を起こしました。わたくしたちみんなは、お母さまのお部屋へまいりました。ところが、錠がかかっておりまして――」
検屍官は、彼女をさえぎった。
「その点については、あなたをわずらわさなくてもいいと、ほんとに思います。そのつぎに起こったことも、みんなよくわかっていますから。だが、その前の日の口論についてお聞きになっていることを、みんな聞かしていただけるとありがたいのですが」
「わたくしがでございますか?」
彼女の声には、かすかに横柄な響きがあった。彼女は、片手をあげて、襟のレースのひだをつくろいなから、ほんのわずか、顔を振り向けた。すると、まったく思わず知らず、『彼女は、時を稼いでるのだな!』という考えが、さっと、わたしの頭をかすめた。
「そうです。わたしの承知しているところでは」と、検屍官は、落ち着きはらってつづけた。
「あなたは、居間の細長い窓のすぐ外のベンチに腰をかけて、本を読んでおいでになったということですね。そうですね、違いますか?」
これは、わたしには耳新しいことだったので、ちらっと横目でポアロを見ながら、同じように彼にとっても、真新しいことだろうなと思った。
ごくわずかのあいだ、言葉が途切れた。ほんのひとときのためらいの後、彼女はこたえた。
「ええ、そうですわ」
「そして、夫人の居間の窓は開いていたのですね?」
確かに、彼女は、ほんの少し顔に蒼味を増しながら、こたえた。
「はい」
「それでは、中の話し声を聞きそこなうはずはありませんね。とくに、腹を立てて声が高くなった時にはね。実際、ホールにいるより、あなたがおいでになった場所のほうが、ずっと聞きとりやすかったはずですね」
「そうかもしれませんね」
「その口論について、お聞きになったことを、わたしたちにくり返して聞かしていただけますまいか?」
「何を聞いたのか、わたくし、ほんとにおぼえておりませんのですよ」
「話し声を聞かなかったと、おっしゃるんですね?」
「いいえ、いいえ、話し声は聞こえましたんですけど、何をいっていらしたのか聞きもしませんでした」かすかな色が、彼女の顔に浮かんだ。「わたくし、内緒のお話を聞く癖はございませんのですよ」
検屍官は、なおも追求の手をゆるめなかった。
「それで、ぜんぜん何もおぼえていないとおっしゃるんですね? |何一つ《ヽヽヽ》ですね、カヴェンディッシュ夫人? 内緒話だと、あなたに気をつかせるような、ふっとした言葉も文句も、聞かなかったというんですね?」
彼女は、口をつぐんで、回想するようだった。しかも、うわべは、これまで通り落ち着きはらっていた。
「そうです。思い出しました。イングルソープ夫人がおっしゃっていましたわ――はっきりとはおぼえていませんけど――夫と妻のあいだの醜聞のことについて、おっしゃっていました」
「ははあ!」検屍官は、満足して、椅子の背にぐっとよりかかった。「それは、ドーカスが聞いたことと一致しますね。しかし、失礼ですが、カヴェンディッシュ夫人、あなたは、その会話が内緒の会話だと感じながら、その場を立ち去らなかったんですね? それまでのところに、そのままおいでになったんですね?」
彼女がその目をあげた時、その褐色の瞳の一瞬のぎょっとした閃きを、わたしはとらえた。その瞬間、彼女は、このあてこすり屋の、小男の検屍官を、八つ裂きにしてやりたいと思ったにちがいないと、わたしは感じた。しかし、彼女は、あくまでも物静かにこたえた。
「ええ、わたくしのいましたところが、大変気持のいいところでございましたの。ですから、すっかり、本のほうに気を取られておりましたの」
「それで、いえるのは、それだけだとおっしゃるんですね?」
「それだけでございます」
尋問はおわった。もっとも、検屍官がすっかり満足したかどうか、わたしは、あやしいものだと思った。メアリー・カヴェンディッシュがその気になれば、もっと告げられるはずだと、彼が、うすうすは感づいているだろうという気が、わたしにはした。
店の助手のアミイ・ヒルが、つぎに証人台に立って、スタイルズ荘の下働きの庭師のウィリアム・アールに十七日の午後、遺言状の用紙を一枚売ったと証言した。
ウィリアム・アールとマニングが、彼女につづいて、書類の証人になったと証言した。マニングは、その時刻を四時半ごろといい、ウィリアムは、もう少し早かったという意見だった。
シンシア・マードックが、そのつぎに証人台に立った。しかし、彼女は、ほとんどいうことも持っていなかった。彼女は、カヴェンディッシュ夫人に起こされるまで、悲劇について何一つ知らなかった。
「テーブルが倒れるのも、耳にはいらなかったんですね?」
「はい、あたし、ぐっすり眠りこんでいましたので」
検屍官は、にこっと笑いを浮かべた。
「やましい心がなければ、安眠ができるというわけですね」と、彼はいった。「ありがとう、ミス・マードック、それで結構です」
ミス・ハワードは、十七日の夕方、イングルソープ夫人が、彼女にあてて書いた手紙を提出した。ポアロもわたしも、もちろん、すでにそれを見ていた。この悲劇について、わたしたちの知っている事柄に、つけ加えるものは、何一つなかった。
七月十七日、エセックス・スタイルズ荘にて。
親愛なるイヴリン。
いやなことは葬れないものでしょうか? あなたが、わたしの夫に対していったことは、なかなか許せないという気がしますが、わたしは、もう年をとった女ですし、あなたがとても好きですから。
エミリー・イングルソープ
その手紙は、陪審員に渡されて、注意深く吟味された。
「これじゃ、たいして役には立たないでしょうな」と、一つため息をついて、検屍官がいった。「あの午後の出来事については、なんにも書いてはありませんね」
「わたしには、ごくはっきりしています」と、ミス・ハワードがそっけなくいった。「わたしの可哀そうな旧友が、ずっとばかにされていたことに、やっと気がついたと、はっきり示していますよ!」
「手紙には、何もそういうようなことは書いてはありませんね」
「ええ、書いてはありません。それは、エミリーが自分の間違っていたことを書けない人だったからなんです。でも、わたしには、あの人のことがようくわかっています。あの人は、わたしに帰ってほしかったんです。でも、わたしが正しかったとはいえなかったんです。遠まわしにいったんです。たいていの人がそうなんです。わたし自身は、そうじゃないんですけど」
ウェルズ氏は、かすかに笑みを浮かべた。陪審員の何人かも微笑したのに、わたしは気がついた。ミス・ハワードは、たしかにあけすけな性格の女だった。
「とにかく、こんなばかな真似は、時間の浪費です」見くびったように、陪審員をちらちらと見ながら、この婦人は言葉をつづけた。「話せ――話せ――話せ! なにからなにまで、よく知っているのに――」
検屍官は、いささか恐れをなしたふうで、彼女をさえぎった。
「ありがとう、ミス・ハワード。それまででよろしい」
彼女が引きさがったので、検屍官が、ほっとため息をついたような気が、わたしにはした。
つづいて、その日の一番のお目あての番になった。検屍官が、薬剤師の助手のアルバート・メイスを呼び出した。
蒼白い顔色をした、問題の若者だった。検屍官の問いにこたえて、彼は、はっきりといった。自分は、有資格の薬剤師だが、前にいた助手が召集されたので、ついこのごろ、この個人の薬局に来たばかりだといった。
こういう前置きがおわると、検屍官は、職務にかかった。
「メイスさん、あなたは最近、だれか許可のない人にストリキニーネを売ったことがありますか?」
「はい、あります」
「いつでしたか?」
「先週の月曜日の夜です」
「月曜日? 火曜日じゃないんですか?」
「いいえ、十六日の月曜日でした」
「だれに売ったのか、いっていただけますか?」
廷内は、針の音さえも、聞こえるほどだった。
「はい、イングルソープ氏でした」
あらゆる目という目が、平然と無表情にすわっているアルフレッド・イングルソープの方に、いっせいに向いた。そののろうべき言葉が、若者の唇からもれたとたん、彼は、かすかに身を動かそうとした。椅子から立ち上がるのだなと、わたしは、半ば思った。しかし、彼は、そのまま腰を上げなかった。だが、その顔には、はっきり目につくほど、うまくやってのけたという驚きの表情を浮かべていた。
「その言葉に間違いはありませんね?」検屍官が、手きびしい調子でたずねた。
「ほんとに確かです」
「あなたは店先で、だれかれ構わず、やたらにストリキニーネを売る癖があるのですか?」
哀れな若者は、検屍官の渋面の下に、目に見えてしょげ返った。
「いいえ、違います――もちろん、やたらに売ったりなどいたしません。しかし、別荘のイングルソープ氏でしたので、お売りしてもべつに差し支えはないと思ったのです。犬を毒殺するのだとおっしゃいましたものですから」
ひそかに、わたしは同情した。『別荘』のお方のご機嫌をとろうとつとめるのは、人間としてのごく自然なことだったのだ――ことに、クート薬局から、その田舎の薬局に、おとくいさまを取れることになるかもしれないという時だったから、なおさらだったのだ。
「毒薬を買う人には、台帳に署名をしてもらう慣例じゃないのですか?」
「はい、イングルソープ氏も署名なさいました」
「その台帳を、ここに持って来ていますか?」
「はい、持って来ております」
台帳が取り出された。きびしい、とがめる言葉を、二言三言はいてから、検屍官は、哀れなメイス氏をしりぞけた。
つづいて、法廷じゅうがかたずをのむような沈黙の真っ只中に、アルフレッド・イングルソープが、証人台に呼び出された。わたしは、ひそかにいぶかり考えた。彼は、自分の首のまわりに絞首用の縄が、いまにもしまろうとしているのを知っているのだろうか? と。
検屍官は、単刀直入に、要点にはいった。
「先週の月曜日の夕方、犬を毒殺する目的で、あなたは、ストリキニーネを買いましたか?」
イングルソープは、申し分のないほど冷静に、こたえた。
「いや、買いませんでした。スタイルズ荘には、犬はいません。ただ、戸外で飼っている羊の番犬がいるだけですが、それも、まったく健康です」
「あなたは、先週の月曜日、アルバート・メイスからストリキニーネを買ったということを、絶対に否認なさるんですね?」
「否認します」
「これも否認しますか?」
検屍官は、彼の署名の書きつけてある台帳を、彼に渡した。
「もちろん、否認します。この筆跡は、わたしのものとは、まったく違っています。わたしの署名をお目にかけましょう」
彼は、ポケットから一枚の古封筒を取り出し、自分の名前を書いて、陪審員に手渡した。それは、たしかにぜんぜん違っていた。
「では、メイス氏の陳述についての、あなたの釈明はどうですか?」
アルフレッド・イングルソープは、平然とこたえた。
「メイス氏が、きっと間違えたのに相違ありません」
検屍官は、ちょっと躊躇《ちゅうちょ》してから、いった。
「イングルソープさん、ほんの形式上のことですが、七月十六日の月曜日の夜、あなたは、どこにおいでになったか、いっていただけるでしょうか?」
「実際のところ――おぼえておりません」
「それはおかしいですね、イングルソープさん」と、鋭く、検屍官がいった。「もう一度、考えてください」
イングルソープは、首を左右に振った。
「申し上げられません。散歩に出かけていたという気がします」
「どの方角ですか?」
「ほんとに思い出せません」
検屍官の顔は、しだいに厳粛になった。
「だれかといっしょでしたか?」
「いいえ」
「散歩の途中、だれかと会いましたか?」
「いいえ」
「それは残念ですね」と、検屍官は、冷淡にいった。「では、あなたが、ストリキニーネを買いに、メイス氏の店へはいって行った時に、メイスが店のどこにいたかを、あなたはいう気持がないと、そう、わたしはとらなくちゃなりませんね?」
「そういうふうにおとりになりたければ、そうですと、おこたえするより仕方がありません」
「気をつけて答弁を。イングルソープさん」
ポアロは、神経質にもじもじしていた。
「ちえっ!」と、彼は口の中でいった。「この大ばか者は、逮捕してもらいたがっているのだろうか?」
イングルソープは、いかにも悪い印象をつくりあげていた。彼のくだらない否認は、子どもをさえ納得させないにきまっている。だが、検屍官は、きびきびと、つぎの問題に移ったので、ポアロは、ほっと、安堵の息をはいた。
「あなたは、火曜日の午後、あなたの夫人と議論をしましたね?」
「失礼ながら」と、アルフレッド・イングルソープはさえぎった。「あなたは、間違ったことを聞かされていらっしゃるようですね。わたしは、愛する妻と口論などしませんでした。いっさいの話は、絶対に嘘です。その日の午後はずっと、わたしは、家にはいなかったのです」
「だれか、それを証言できる人がおありですか?」
「わたしの言葉があるじゃありませんか?」傲然《ごうぜん》と、イングルソープはこたえた。
検屍官は、こたえようともしなかった。
「あなたが、イングルソープ夫人と言い争っていたのを聞いたと、誓っていう人が二人、いるのですぞ」
「その証人たちは間違っているんです」
わたしは当惑した。この男は、わたしが迷うくらいの、びくともしない確信をもってしゃべっているのだった。わたしは、ポアロを見た。彼の顔には、わたしには理解できない狂喜の表情が浮かんでいた。とうとう、彼は、アルフレッド・イングルソープを有罪と確信したのだろうか?
「イングルソープさん」と、検屍官はいった。「あなたは、あなたの妻の臨終の言葉が、ここでくり返されるのをお聞きになったでしょうね。それについて、なんとか説明できますか?」
「もちろん、できます」
「できるというんですね?」
「わたしには、ごく簡単に思われます。あの部屋には、ぼんやりとしか明かりがついていなかったのです。バウエルスタイン博士は、背の高さも体つきも、ほぼわたしと同じくらいで、わたしと同じようにひげを生やしていられます。薄暗い明かりの中で、また苦しんでいましたので、かわいそうな妻は、氏をわたしと間違えたのです」
「ああ!」と、ポアロがひとり口の中で呟いた。「だが、それも一つの考え方だ、そうだ!」
「その通りだと思うんですね?」と、わたしはささやいた。
「そうとはいってませんよ。しかし、ほんとに、巧妙な推測ですね」
「あなた方は、妻の最後の言葉を、非難の意味にとっておいでのようですが」――イングルソープがつづけていた――「反対に、あの言葉は、わたしに訴えていたのです」
検屍官は、一瞬、考えてから、いった。
「イングルソープさん、あの夕方、あなたは、自分でコーヒーをついで、奥さんのところへ持って行かれたのでしたね?」
「つぐのは、わたしがつぎました。間違いありません。しかし、わたしは、妻のところへ持って行きませんでした。持って行くつもりだったのですが、友人がホールの戸口に来ているといわれたものですから、コーヒーを、ホールのテーブルにおいたのです。数分の後、またホールへ来てみますと、もうなくなっていました」
この陳述は、本当かもしれないし、そうではないかもしれない。しかし、イングルソープのためには、たいして事態を有利にすることだとは、わたしには思われなかった。どちらの場合でも、彼には、毒物を入れる時間が十分にあったのだ。
その時、ポアロは、そっとわたしの脇腹をつついて、ドアの近くに並んですわっている二人の男を示した。一人は小柄で、鋭い、浅黒い、いたちのような顔の男で、もう一人は、背が高くて、金髪だった。
わたしは、無言で、ポアロにたずねた。彼は、わたしの耳に口をあてて、
「小男が、だれだか知っているでしょう?」
わたしは、首を左右に振った。
「あれが、|ロンドン警視庁《スコットランド・ヤード》のジェームス・ジャップ警部――ジミイ・ジャップですよ。もう一人も、スコットランド・ヤードの人間です。万事、速かに進んでいるんですよ、あなた」
わたしは、二人をじっと見つめた。二人には、警官らしいところは、まったくなかった。どう見ても、役人とは夢にも考えられなかった。
わたしが、なおも見つめている時、評決文が読み上げられたので、わたしは、はっとしてわれに返った。
「一人、または二人の人物による、謀殺殺人と認める」
第七章 ポアロ、借りを返す
スタイルズ・アームズから出て来ると、ポアロは、そっと腕を押さえて、わたしを脇へ引っ張った。わたしは、彼の目的がよくわかった。彼は、|ロンドン警視庁《スコットランド・ヤード》の二人を待っていたのだ。
間もなく、二人が現われると、ポアロは、すぐに進み出て、二人の中の背の低い方に話しかけた。
「わたしをおぼえていらっしゃらないでしょうな、ジャップ警部」
「やあ、ポアロさんじゃありませんか!」警部は、叫ぶようにいった。彼は、もう一人の男の方を向いて、「ポアロさんのことを話したのを聞いていたろう? 一九〇四年のことだったよ、この人といっしょに働いたのは――アーバークロンビイの偽造事件でさ――おぼえておいででしょう、奴がブラッセルへ逃げこんだんでしたな。ああ、すばらしい時代でしたな、ムッシュー。それから、アルタラ『男爵』のことをおぼえておいでですか? あなたでなきゃ、ものにできない、すばらしい奴でしたな! ヨーロッパ中の刑事の半分の手にもつかまらない奴でしたな。ところが、われわれは、アントワープに奴を追いつめて――このポアロさんのおかげでね」
こういう懐しい思い出にふけっているところへ、わたしが近寄ると、ジャップ警部に紹介された。と、つぎには、警部がわたしたち二人を、つれのサマーヘイ部長刑事に紹介した。
「あなた方が、ここで何をしておいでか、伺うまでもありませんね」と、ポアロがいった。
ジャップは、のみこみ顔に片目をつぶって見せた。
「いや、まったくですよ。かなり明瞭な事件というべきでしょうな」
しかし、ポアロは、重々しくこたえた。
「さあ、わたしの考えは、あなたとは違いますね」
「ほほう!」と、サマーヘイが、はじめて口を開いた。「確かに、万事、白日のようにはっきりしていますよ。あの男は、現行犯を押えられたようなものですよ。あんなばからしいことで、わたしをだませると思っているんですかね!」
しかし、ジャップは、注意深くポアロを見ていた。
「いいきるのはやめろよ、サマーヘイ」と、ジャップは、冗談めかしていった。「おれとこのムッシューとは、前にも会ってるんだ――おれが人の判断を聞くとしたら、この方より先に聞くことはないんだ。おれの勘に大した狂いがなけりゃ、この方には、何かちゃんと考えがあるんだ。そうでしょう、ムッシュー?」
ポアロは、にっこりして、
「ある結論を得たつもりです――はい」
サマーヘイは、まだいくらか疑わしそうな顔つきだったが、ジャップは、ポアロの腹をさぐりつづけた。
「こうですよ」と、彼はいった。「今までは、われわれは、外側から事件を見ていただけなんです。それがこの種の、いわば、検屍審問がすんでから犯人が出て来るような事件での、警視庁《ヤード》の人間の不利なところでしてね。みちは、なりよりも現場にかかっているんですからね。ポアロさんが、われわれよりも一歩先んじていられるのは、そこなんです。われわれは、こんなに早く、ここへ来るはずじゃなかったんで、ただ、検屍官の手を通して袖の下を使って来た、如才のない医者が現場にいたという事実さえなければ、来もしなかったんですよ。ところが、あなたは、はじめから現場においでになったんですから、何かちょっとしたヒントでも拾っておいでのことでしょう。検屍審問の証言から見れば、イングルソープ氏が夫人を殺害したということは、わたしがここに立っているのと同じほど確実なんです。あなた以外のだれが反対だといったって、笑いとばしてやりますよ。陪審員が、すぐに彼に対して故意の殺人と評決を与えなかったのに驚いたくらいですからね。検屍官さえいなかったら、そうしただろうと思いますね――どうも、検屍官が押えていたようですな」
「たぶんね。だが、あなたは、彼に対する逮捕令状を、ポケットにお持ちなんでしょう」と、ポアロはいい出した。
官僚気質の無表情の戸のようなものが、ジャップの表情に富んだ顔におりた。
「ことによると持っているかもしれないし、ことによると持っていないかもしれませんね」彼は、ひややかにいった。
ポアロは、つくづくと彼を見た。
「わたしは、ひどく気にしているんですよ、あなた、彼を逮捕すべきじゃないと」
「しかしですねえ」と、皮肉に、サマーヘイがいった。
ジャップは、滑稽な当惑顔で、ポアロを見ていた。
「もう少し先をいっていただけませんか、ポアロさん? ウィンク一つ、首一つ動かしていただいても結構です――あなたからね。あなたは、現場にいた人なんだ――そして、ヤードは、どんな誤りも犯したくないんですからね」
ポアロは、重々しくうなずいた。
「わたしの考えていたことも、それなんです。では、こう申し上げましょう。令状をお使いなさい。イングルソープ氏を逮捕なさい。しかし、それは、あなたには何の光栄ももたらさないでしょう――彼に対する容疑は、たちどころに消えるでしょう! まあ、そんなものですな!」そして、彼は、意味ありげに、パチンと指をならした。
ジャップの顔が、容易ならぬ色になった。サマーヘイは、信じられぬというように鼻をならした。
わたしはというと、驚いて、文字通りものもいえなかった。ただ、ポアロが気が狂ったのだと判断するほかはなかった。
ジャップは、ハンカチを取り出して、おもむろに額にあてていた。
「どうしても、そんなことをしようというのじゃないんですよ、ポアロさん。あなたのおっしゃる通りにやりたいんですが、上役というものがいましてね、いったい、どういうつもりなんだって聞くでしょうからね。もう少しつづけて、いっていただけませんでしょうかね?」
ポアロは、一瞬、考えこんだ。
「そりゃ、できますがね」と、やがて、彼はいった。「いいたくないとは思います。わたしの手に無理が出ますからね。さし当っては、陰にいて働くほうがいいと思うんです。しかし、あなたのおっしゃることも、まことにごもっともです――過去の人間となったベルギーの警官の言葉など、取るにたりないでしょう! そして、そのわたしが、アルフレッド・イングルソープは逮捕すべきではない。そう、わたしが誓っていったのです。ここにいる友人のヘイスティングズが、よく知っています。さあ、それでは、ジャップさん、すぐにスタイルズ荘へおいでになるでしょうね?」
「ええ、三十分ほどのうちにね。まず、検屍官と医師に会うつもりです」
「結構です。お通りがかりに、わたしに声をかけてください――村の一番はずれの家です。ごいっしょにまいりましょう。スタイルズ荘では、イングルソープ氏があなたたちに申し上げるか、拒絶するか――たぶん、そうでしょうが――わたしが、彼に対する容疑がどうしても立証し得ないと、ご満足のいくような証拠を申し上げましょう。それで、いいでしょう?」
「それで結構です」と、心からジャップはいった。「そして、ヤードを代表して、あなたに、心からお礼を申し上げます。もっとも、現実のところでは、あの証言にほんのわずかでも穴があろうとは思えないと申し上げずにはいられませんが、しかし、あなたはいつも驚くべき方でした! では、後ほど、ムッシュー」
二人の刑事は、大股に歩み去ったが、サマーヘイは、信じられないように、にやにやと薄笑いを顔に浮かべていた。
「さあ、あなた」わたしが、ひと言もいわないうちに、ポアロが叫ぶようにいった。「どう思います? ああ! わたしは、あの検屍廷で、折々はらはらしました。あの男が、どんなこともいっさいいうのを拒絶するほど、ばか強情だろうとは、思いもしませんでしたからね。あれは、断然、大ばか者の策だったんでしょうね」
「うむ! ばかだというほかに、まだ解決のつけようがありますよ」わたしはいった。「というのはね、彼に対する容疑が真実だったら、沈黙以外には、どうして身が守れるんです?」
「それどころか、うまい方法がしこたまありますよ」と、ポアロは叫ぶようにいった。「ねえ、たとえば、わたしがこの殺人事件の犯人だとすれば、わたしなら、このうえなしのもっともらしい筋書きを、七つは考え出せますよ! イングルソープ氏の石のような否認よりも、はるかに納得させるようなのをね!」
わたしは、笑わずにはいられなかった。
「ポアロさん、あなたなら、間違いなく、七十は考え出せるでしょうよ! だが、真面目な話、わたしは、あなたが刑事に話していらっしゃるのを聞いていましたが、あなたはほんとに、アルフレッド・イングルソープが無罪だなんて、思っていらっしゃるわけじゃないんでしょうね?」
「どうして、いまと前と違うんです? 何も変わってやしないじゃありませんか」
「でも、証拠は、とても争う余地がありませんね」
「そう、決定的すぎますね」
わたしたちは、リーストウェイズ・コテージの門をはいって、もうすっかり馴染になった階段を上がって行った。
「そう、そう、決定的すぎますよ」と、ほとんどひとり言のように、ポアロはつづけた。「ほんとうの証拠というものは、たいてい漠然として、不満足なものです。よく吟味して――ふるいにかけなけりゃならないものなんです。ところが、ここでは、万事、切れすぎ、乾からびすぎていますよ。そうです、あなた、あの証拠は、非常に器用に作りあげたものです――あんまり器用すぎて、自分から失敗する結果になったんですよ」
「どう解釈をおつけになるんです?」
「どうしてかといえば、彼に対する証拠が、漠然として捉《つか》みにくいものなら、反証をあげるのがひどくむずかしかったでしょう。ところが、不安のあまり、犯人は、あまりにきちんと綱をはりすぎたんで、一撃のもとにイングルソープを自由にすることになったんです」
わたしは黙っていた。すると、一分か二分すると、ポアロがつづけた。
「こういうふうに、事件を考えてみましょう。ここに一人の男がいて、夫人を毒殺しようとしていたとするんです。彼は、いわゆる、やりくり算段で世の中を渡ってきたんです。ですから、まあ、機転はあるんで、ぜんぜんばかではないんです。それで、どういうふうに、彼はやるでしょう? 彼は、堂々と村の薬局へ行って、犬をどうとかと、すぐにおかしいとわかるにきまっているようなつくり話をして、自分の名前でストリキニーネを買うんです。彼は、その晩は毒を使わないんです。いいや、それどころか、夫人と大喧嘩をして、家じゅうに知れわたるまで待っているんです。すると、当然、みんなの疑いが、彼にかかるというわけです。彼は、弁護も用意しない――アリバイのかけらも用意しない。しかも、薬局の助手が、その事実を必ず証言をするにちがいないということを知っているんです。ふふん! そんな大ばか者かいるってことを、わたしに信じろというんですか! 絞首刑にされて自殺したと思っている気違いだけですよ、そんなことをするのは!」
「でも――わたしには、どうも――」と、わたしはいいかけた。
「わたしだってわかりませんよ。ねえ、あなた、わたしも途方に暮れているんです。このわたしが――エルキュール・ポアロがですよ!」
「でも、メイスは、彼を見ているんですよ!」
「失礼ですがね、彼は、イングルソープ氏のような、黒いあごひげをはやして、イングルソープ氏のような眼鏡をかけて、イングルソープ氏のような、ちょっと目につく服を着た男を見たんですよ。おそらく遠くから見たことがあるだけの人など、わかるはずがないでしょう。しかも、そうでしょう、彼自身は、村へ来てから、わずか一週間にしかならない。イングルソープ夫人は、もっぱら、タドミンスターのクートから買いつけていたというんですからね」
「|あなた《モナミ》、わたしが強調した二つの問題をおぼえておいででしょう? 第一の問題は、しばらくおいて、第二の問題はなんでしたっけ?」
「重要な事実は、アルフレッド・イングルソープが、独特の服を着、黒いあごひげをはやし、眼鏡をかけているということ」と、わたしは、彼の言葉を引用した。
「まさにその通りです。ところが、だれかが、ジョンかローレンス・カヴェンディッシュになりすまそうとしたと考えてごらんなさい。易しいでしょうか?」
「いいや」と、わたしは、つくづくといった。「もちろん、それになろうという人間たるもの――」
しかし、ポアロは、容赦なくさえぎった。
「そして、なぜ、易しくないんでしょう。わたしがいいましょう、あなた。そのわけは、二人とも綺麗にひげを剃った男だからです。真っ昼間、この二人の中のどちらかにうまくなりすますということは、天才的な俳優術と、そもそもから、よく似た容貌とを必要とするでしょう。ところが、アルフレッド・イングルソープの場合には、すべて一変してしまうのです。彼の服装、彼のひげ、目をかくしている眼鏡――これらが、彼の風采でとくに目立つ点です。さて、犯罪人の一等最初の本能はなんでしょう? 自分から嫌疑をそらすこと、そうではないでしょうか? そうして、そのためには、どうするのが一番好いでしょう? だれか他の人間に、嫌疑をなすりつけることでしょう。この場合は、身近かにおあつらえ向きの男がいたんです。だれもが、イングルソープ氏を有罪と信じこむように、あらかじめなっていたんです。彼が疑われるだろうということは、予定されていることだったんです。ところが、それを確実なものにするために、明白な――たとえば、現実に毒物を買うとかという証拠がなくてはならない。そして、イングルソープのような風采をした人間が買うとしたら、それもむずかしいことではなかったのです。ねえ、このメイスという若者は、イングルソープ氏と実際に話をしたことは一度もなかったんですよ。どうして、彼の服を着て、彼のあごひげ、彼の眼鏡の男を、彼ではないと疑えるというのでしょうか?」
「そりゃ、そうかもしれませんが」ポアロの能弁にうっとりとなっていたわたしは、いった。「しかし、それなら、何故、日曜日の夕方六時に、どこにいたか、彼はいわないんでしょう?」
「ああ、まったく、そうでしょう?」ポアロはいったが、平静にかえって、「逮捕されたら、おそらくはいうでしょう。しかし、わたしは、そこまでいってほしくないのです。わたしは、彼の立場の重大さを、彼にわからせなくちゃならないんです。もちろん、彼の沈黙の陰には、何かいかがわしいことがあるんでしょう。夫人を殺さなかったとしても、それでも、彼は悪党で、殺人とはまったくかけはなれているが、何か彼自身だけのかくさなければならないことを持っているんです」
「なんでしょう、それは?」わたしは、さしあたりポアロの考えに引きつけられて、そういった。とはいっても、まだあの明白な推理こそ正しいのだという、かすかな信念は持っていた。
「想像ができませんか?」そうたずねて、ポアロはにっこりした。
「わかりませんね、あなたは?」
「ええ、できますとも。しばらく前に、ちょっとしたことを思いついたんです――そして、正しいということがわかりましたよ」
「今まで話していただけませんでしたね」わたしは、責めるようにいった。
ポアロは、弁解でもするように両手をひろげた。
「ごめんなさい、|あなた《モナミ》、あなたは、まったく思いやりがない方ですね」彼は、熱心にわたしの方を向いて、「どうです――彼が逮捕されちゃならないということがおわかりでしょう?」
「たぶんね」わたしは、あやふやにいった。というのは、アルフレッド・イングルソープの運命については、実際はまったく無関心だったし、うんと驚かしても、彼には害にもなるまいと思ったからだった。
わたしをじっと見つめていたポアロは、大きなため息をついた。
「ねえ、あなた」と、彼はいって、問題を変えた。「イングルソープ氏のことはべつにして、検屍審問での証言はどうでした?」
「ええ、ほとんど想像していた通りでしたね」
「特別に、気になったものは、何もありませんでしたか?」
わたしの考えは、メアリー・カヴェンディッシュに飛んで行ったが、わたしは、はっきりしたことはいわなかった。
「どんなふうにです?」
「さよう、たとえば、ローレンス・カヴェンディッシュの証言は?」
わたしは、ほっとした。
「ああ、ローレンスね! いいえ、そうは思いませんね。あの人は、いつも神経質な男ですよ」
「お母さんが飲んでいた強壮剤のために、偶然に毒死したのかもしれないという彼の言葉は、おかしいという気がしませんでした――え?」
「いいえ、そういう気がしたとはいえませんね。もちろん、医師たちは一笑に付してはいましたがね。しかし、しろうとなら、まったく当然な思いつきですね」
「しかし、ムッシュー・ローレンスは、しろうとじゃないんでしょう。あなただって、彼が最初は医学を修めて、開業医の資格までとったとおっしゃったでしょう」
「ええ、それはほんとうのことです。そのことは、考えてもみませんでしたね」わたしは、むしろ驚いた。「おかしいですね」
ポアロは、うなずいた。
「はじめから、彼の振舞いは、変でしたよ。家内じゅうで、彼一人だけが、当然ストリキニーネの中毒症状を認めるはずなのに、その彼が、家族の中でたった一人、死因は自然死だという論を、頑強に主張しているんです。それがジョンさんだったのなら、よくわかりますがね。専門的な知識は持っていないんだし、生まれつき想像力がないんですからね。しかし、ローレンスさんは――違います! しかも、今日は、自分でもばかげていると考えていたにちがいないような説を持ち出しているんです。ここに考えるべきことがあるんですよ、あなた!」
「ひどくまごつかせますね」と、わたしも同意した。
「それからカヴェンディッシュ夫人です」と、ポアロはつづけた。「あの人も知っていることを、みんないわない一人ですね! 彼女の態度を、どう思います?」
「どう考えていいかわかりませんね。彼女がアルフレッド・イングルソープをかばうなんて、信じられないことですがね! でも、見たところはそう見えますね」
ポアロは、考えこむようにうなずいた。
「ええ、おかしいですね。一つ確かなことは、彼女は、証人として認めた以上に、『内緒話』をよほどたくさん、耳にはさんでいるということです」
「それにしても、彼女は、立ち聞きなんかするような人じゃありませんよ!」
「その通りですよ。ただ一つだけ、彼女の証言で教えられました。わたしが誤っていたので、ドーカスが正しかったんです。あの口論は、ドーカスがいった通り、午後早く、四時ごろにあったんですね」
わたしは、強い好奇心で、彼を見た。その点について、彼が強くいい張るのが、わたしには、ちっともわからなかった。
「そうですね。今日は、変わったことが、ずいぶんたくさん出て来ましたね」ポアロはつづけた。「まず、バウエルスタイン博士ですよ。いったい朝のあんな時間に、起きて、ちゃんと服を着て、何をしていたんでしょうね、彼は? だれも、その事実をいわなかったというのは、わたしには驚くべきことですよ」
「不眠症なんでしょうね」と、わたしは、あいまいにいった。
「そいつは、非常にいい解釈か、非常に悪い解釈ですね」と、ポアロはいった。「そういってしまえば、何もかも片づきますが、何一つ解きはしませんね。わたしは、あの頭のいいバウエルスタイン博士から目をはなさないことにしますよ」
「もうほかには、証言にあらは見つかりませんでしたか?」わたしは、皮肉にたずねた。
「|あなた《モナミ》」と、ポアロは、ものものしくこたえた。「人が、あなたに真実をいっていないということがわかった時は――気をおつけなさいよ! ところで、わたしがひどく誤っていないとすれば、今日の検屍審問では、たった一人か――せいぜい二人の人間だけが、隠し立てとかごまかしなしに、真実を語っていましたね」
「さあ、ねえ、ポアロ! ローレンスや、カヴェンディッシュ夫人のことはいいませんよ。でも、ジョンに――それからミス・ハワードですよ。あの二人は、確かに真実を語っていたでしょう?」
「あの二人ともですか、あなた? 一人は、そうかもしれません。しかし、二人ともというのは――」
後の言葉は、わたしに不愉快なショックを与えた。ミス・ハワードの証言は、重要なものではなかったが、その真実さを疑う気など一度も起こらなかったほど、率直な、真正直な態度で述べられたものだった。しかし、わたしは、ポアロの明敏な頭には、非常に敬意をはらっていた――ただ、わたしが『ばかばかしい強情もの』といった時の彼だけはべつではあるが。
「本当にそう思うんですか、あなたは?」と、わたしはたずねた。「ミス・ハワードは、いつでも真底から正直に――ほとんど不愉快なほど正直に、わたしには見えましたがね」
ポアロは、奇妙な目つきを、わたしに向けたが、わたしには、その真意がまったくわからなかった。彼は、何かいいかけようとして、それを思いとどまった。
「ミス・マードックもそうですよ」と、わたしはつづけた。「彼女にも、不誠実なところは何一つありませんよ」
「そうですね。しかし、となりの部屋で寝ていて、物音一つ聞かなかったというのは不思議ですね。別棟にいたカヴェンディッシュ夫人が、テーブルの倒れる音をはっきり聞いているというのにね」
「いや、彼女は若いんですからね。それに、あの人は、評判の眠り屋なんでしょうよ!」
わたしは、彼の声の調子が、まったく気に入らなかった。しかし、その時、強いノックの音が二人の耳にはいったので、窓からのぞいて見ると、二人の刑事が下で待っているのが見えた。
ポアロは、帽子を手にし、口ひげをぎゅっとひねった。そして、ついてもいないほこりを袖から注意深く払って、ついて来るようにと身振りでわたしに合図をして、階段をおりた。そこで、わたしたちは刑事といっしょになって、スタイルズ荘へと向かった。
警視庁から二人の人間が来たということは、ややショックだったようだ――とくにジョンにとってはショックだったらしい。もっとも、もちろん、あの評決の後では、ただもう時間の問題だと覚悟をきめてはいたのだろうが。しかし、刑事が来たことは、何にもまして、彼にしみじみと真相を感じさせた。
ポアロは、道々ジャップと低い声で話し合っていた。そして、召使いたちをのぞいて、家内じゅうの者を客間に集めるように頼んだのは、ジャップだった。わたしは、この深長な意味をさとった。それは、ポアロがいよいよその自慢の種を、大いに吹きまくる時が来たということだった。
自分のことをいえば、わたしは、心もとなかった。ポアロは、イングルソープは無罪だという彼の信念に、すばらしい理由を持っているのかもしれないが、サマーヘイのようなタイプの人間は、明白な証拠を要求するにきまっているのだが、はたして、ポアロがその要求にそえるかどうか、わたしは淋しいものだと思った。
やがて、わたしたちみんなが客間に集まると、ジャップが、そのドアをしめた。ポアロは、誰にもかれにも椅子をすすめた。警視庁の二人は、一同の注目の的となった。はじめて、わたしたちは、この事件が悪夢ではなくて、明白な現実だということを身にしみて感じたようだ。こういうことは、これまで本で読んだことはあった――しかし、今は、わたしたち自身が、この芝居の俳優だった。明日になれば、イギリスじゅうの新聞が、人の目に立つ大見出しをつけて、このニュースを大げさに報じるにちがいない。
『エセックスにおける奇怪な惨劇 富豪の夫人、毒殺さる』
スタイルズ荘の写真や、『検屍審問廷を出る家族』のスナップショットも出るだろう――村の写真師は、なまけてはいなかったのだ! そんなことはみんな、何百回となく読んだことであり――他の人々に起こったことで、自分に起こったことではなかった。ところが今は、この家の中で、殺人が犯されたのだ。わたしたちの前には、『事件担当の刑事たち』がいた。ポアロがこの集まりの司会にとりかかる前の短い時間のあいだに、あの馴染みの筆達者な新聞のいいまわしが、さっと、わたしの心を通りすぎた。
最初に口をきったのが官職にある刑事ではなくて、彼だということに、誰もかれもちょっと驚いたようだった。
「紳士ならびに淑女の皆さま」ポアロは、まるで講義をはじめる名士のようにお辞儀をしながら、いい出した。「わたしは、ある問題のために、皆さんにごいっしょに、ここへお集まりいただくようにお願いしました。その問題といいますのは、アルフレッド・イングルソープ氏に関係したことでございます」
イングルソープは、一人だけ少しはなれてすわっていた――無意識のうちに、誰もかれもが自分自分の椅子を、ほんのわずかずつ、彼から引きはなしたようだ――そして、ポアロが彼の名前を口に出すと、彼は、かすかに身を動かした。
「イングルソープさん」そういって、ポアロは、直接彼に呼びかけた。「ひどく暗い影が、この家には宿っています――殺人の影です」
イングルソープは、悲しそうに首を振った。
「かわいそうな妻」と、彼は口の中でいった。
「かわいそうなエミリー! おそろしいことです」
「しかし、ムッシュー」と、ポアロは辛辣《しんらつ》にいった。「あなたは、それがどんなおそろしいことになるか――あなたの身にとってですよ――それを、あなたはほんとうに悟っておいでになるとは、わたしには思えません」そして、イングルソープには、その意味がよくわかったようなようすではなかったので、彼は、つけ加えていった。「イングルソープさん、あなたは、非常に重大な危機に立っておいでになるんですよ」
二人の刑事は、もじもじしていた。わたしは、サマーヘイの唇に、『お前が口にすることはどんなことでも、お前に不利な証拠になるんだぞ』という官僚的な警告が、実際にうごめいているのを見た。
「おわかりですね、もう?」
「いいや、どういうことですか?」
「それはですね」と、ポアロはゆうゆうといった。「あなたが奥さんを毒殺したという、容疑をかけられているということです」
この率直ないい方に、小さなあえぎが一同の口から流れた。
「えっ!」と叫んで、イングルソープは立ち上がった。「なんという、途方もない考えだろう? わたしが――最愛のエミリーを毒殺したなんて!」
「わたしは」――ポアロは、じっと彼を見守って――「検屍審問の席での、あなたの証言の不都合な性質を、ほんとうに、あなたが感じていられるとは思えないのです。イングルソープさん、わたしが今申し上げたことをお聞きになっても、それでもなお、月曜日の午後六時においでになったところを、いうのを拒絶なさいますか?」
うめき声をあげて、イングルソープ氏はまたどっかり腰をおとすと、両手に顔をうずめた。ポアロは近づいて、彼のそばに立った。
「いいなさい!」おどすように、ポアロはいった。
ようやく、イングルソープは顔をあげた。それから、ゆっくりと、首を左右に振った。
「いわないとおっしゃるんですね?」
「ええ。わたしは、だれも、今あなたがおっしゃったようなことで、わたしを責めるほどおそろしいことができるとは思いません」
ポアロは、決心をした男のように、考え深くうなずいた。「よろしい!」と、彼はいった。「では、わたしが、あなたに代わって、いわなくちゃなりません」
アルフレッド・イングルソープが、また跳ねあがるように飛び上がった。
「あなたが? どうできるんです? あなたは、何もご存じない――」突然、彼は言葉を切った。
ポアロは、わたしたちの方に顔を向けた。「紳士ならびに淑女方! わたしがお話します! 聞いてください! わたし、このエルキュール・ポアロがはっきりと申し上げます。先週の月曜日の午後、薬剤師の店へはいって行って、ストリキニーネを求めた人物は、イングルソープ氏ではありません。といいますのは、その日の午後六時には、イングルソープ氏は、近くの農場からレイクスの細君を自宅へ送って行ったからです。わたしは、六時もしくはその少し過ぎに、その二人を見かけたという証人を、少なくも五人は連れて来られます、そして、みなさんもご存じのように、アベイ農場、つまりレイクスの細君の家は、少なくも村から二マイル半は離れております。アリバイとして、絶対に疑問の余地はないのであります!」
第八章 新たな容疑
一瞬、茫然として言葉もなかった。わたしたちの中で一番驚きの少なかったジャップが、口を開いた最初の人間だった。
「いやはや」と、彼は叫ぶようにいった。「あざやかなもんですね! 大丈夫でしょうな、ポアロさん! その証人というのは、間違いないでしょうね?」
「もちろん! その連中のリストを作ってあります――名前も住所も。ごらんにならなくちゃいけません、もちろん、だが、大丈夫だということは、すぐにおわかりになりますよ」
「それは信じています」と、ジャップは、声を低めた。「あなたには、大変感謝いたします。彼を逮捕していたら、泰山鳴動鼠一匹というところだったでしょう」彼は、イングルソープの方を向いて、「しかし、失礼ですが、あなた、どうして、そのことを検屍審問廷で、すっかりおっしゃらなかったんです?」
「そのわけは、わたしが申し上げましょう」と、ポアロがさえぎった。「ある噂が流れていましてね」
「非常に悪意のある、まったく根も葉もないことです」と、興奮した声で、アルフレッド・イングルソープが口を入れた。
「そして、イングルソープ氏は、今、その上に醜聞が立たないようにと望んでいた、と、そうですね?」
「まったくその通りです」と、イングルソープはうなずいた。「かわいそうなエミリーの埋葬がまだすまないのに、これ以上根も葉もない噂を立てられたくないと、わたしが思ったのも不思議ではないでしょう?」
「わたしとあなたのあいだでも」と、ジャップがいった。「殺人罪で逮捕されるよりは、噂の主になったほうがいいと思いますね。そして、あなたのお気の毒な奥さんも同じようにお考えになるだろうと、あえて、わたしも思いますね。そして、もしも、ここにポアロさんがいらっしゃらなかったら、疑いもなく、あなたを逮捕していたでしょうね!」
「わたしはばかでした、たしかに」と、イングルソープは、ぶつぶつと呟くようにいった。
「しかし、あなたはご存じないんですよ、警部さん、わたしがどんなに迫害されていたか、どんなに悪くいわれていたか」そして、彼は、うらめしそうな目を、ちらっとイヴリン・ハワードに向けた。
「さて、あなた」といって、ジャップは、勢いよくジョンの方を向いた。「どうぞ、奥さんの寝室を見せていただきたいのです。その後で、召使いたちと、少々話をします。あなたにはご面倒をおかけしません。ここにいるポアロさんが案内をしてくれましょうから」
一同が部屋から出ると、ポアロは、わたしの腕をつかんで、いっしょに二階へついて来いと合図をした。二階へ行くと、彼は、わたしの腕をつかんで、脇へ引っ張って行った。
「急いで、別棟へ行ってください、そこに立っていてください――仕切りカーテンのこちら側に、わたしが行くまで、動かずにいてくださいよ」それから、急いで向きなおって、二人の刑事といっしょになった。
わたしは、彼の指図通りに、仕切りカーテンのそばに位置をしめて、いったい、どうしてこんなことを頼んだのだろうと考えていた。何故、こんな変てこな場所に立って、見張りをしなくてはならないのだろう? わたしは目の前の廊下を、じっと見つめた。はっと、一つの考えが、わたしに浮かんだ。シンシア・マードックの部屋だけのほかは、どの部屋も左の方の棟にあった。それが、何か関係があるのではなかろうか? だれか出たりはいったりしたら、知らせなくちゃならないのだろうか? わたしは忠実に、自分の位置に立っていた。何分か経った。だれも来なかった。何も起こらなかった。
たっぷり二十分は経ったにちがいないと思うころ、ポアロが、わたしのところへやって来た。
「動きまわらなかったでしょうね?」
「いいえ。石みたいに、ここに釘付けになっていましたよ。何も起こりませんでしたよ」
「ああ!」彼は喜んだのだろうか、がっかりしたのだろうか? 「ぜんぜん、何も見なかったんですね?」
「ぜんぜん」
「だけど、たぶん、何か聞いたでしょう? 大きなどしんという音を――え、|あなた《モナミ》?」
「いいえ」
「そんなことがあるでしょうか? ああ、しかし、自分に腹が立って来るな! いつもいつも、わたしは、こんなにへまじゃないんですがね。ほんのちょっとジェスチュアをしただけなんですね」――わたしは、ポアロのジェスチュアというのが、どんなのか知っていた――「左の手で。ところが、ベッドのそばのテーブルを引っくり返してしまったんです」
彼は、子どものように腹を立てたり、しょげ返ったりしているので、わたしは、あわてて彼をなぐさめた。
「気にしなさんなよ、おじいさん。それがどうしたっていうんです? 階下でのあなたの大手柄が、あなたをわくわくさせたんですよ。あれは、わたしたちみんなには驚異でしたぜ、本当に。きっと、イングルソープとレイクスの細君とのあいだには、わたしたちが思っている以上に、彼の舌をしっかり動かなくしてしまうものがあるんですぜ。ところで、どうするおつもりです? 警視庁の奴さんたちはどこにいるんです?」
「下へ行ってますよ、召使たちに会いに。二人に、すっかりわたしたちの証拠品を見せてやりましたよ。ジャップにはがっかりしましたね。あの先生には、組織的な方法がないんですよ!」
「やあ!」窓から外を見たわたしは、いった。「バウエルスタイン博士が来ますよ。あなたのおっしゃった通りですよ、あの男は。ポアロ、わたしは、彼が好きじゃありませんね」
「彼は、賢明な男ですよ」ポアロは、考えにふけるようにいった。
「ああ、悪魔のように賢明ですよ! ですから、火曜日の時のように醜態な彼を見ると、すっかりうれしくなっちまったといわなくちゃなりませんよ。あんなすばらしいみものは、あなただってごらんになったことはないでしょう!」そこで、わたしは、博士の向こう見ずな行動の話をくわしくした。「まるで、生えぬきのかかしでしたよ! 頭の先から足の先まで、泥んこをぬり立てたようでね」
「じゃ、あなたは、その彼を見たんですね?」
「ええ、もちろんですとも。彼は、はいって来たくはなかったんでしょう――ちょうど、夕食の後でね――ところが、イングルソープ氏が無理に引きずり込んだんです」
「なんですって?」ポアロは、あらあらしく、わたしの肩をつかんだ。「火曜日の夕方、バウエルスタイン博士が、ここにいたというんですか? ここに? そして、あなたは、一度もわたしにいいませんでしたね? どうして、わたしに教えてくれなかったんです? 何故です? 何故です?」
彼は、まったく逆上でもしそうなようすだった。
「ポアロさん」と、わたしは、いさめるようにいった。「あなたに興味があるとは思いもしなかったものですからね。重要なことだとは思わなかったんです」
「重要? 最高の重要事ですよ! すると、火曜日の夜、バウエルスタイン博士はここにいたんですね――殺人の夜。ヘイスティングズ、あなたにはわからないんですか? それで、あらゆる事情が変わってきますよ――何もかも」
わたしは、これほど気の転倒した彼を見たことがなかった。わたしをつかんでいた手をゆるめて、一対の燭台を機械的にまっすぐにしながら、まだ、ぶつぶつと、ひとりつぶやいていた。
「そうだ、それで万事が変わる――万事が」
突然、彼は、決心をしたようだった。
「さあ!」彼はいった。「すぐに行動に移らなくちゃならん。カヴェンディッシュ氏はどこです?」
ジョンは、喫煙室にいた。ポアロは、ずかずかと、彼のところへ行った。
「カヴェンディッシュさん。わたしは、ちょっとタドミンスターに重大な用事があるんです。新しい手がかりです。車をお借りしてもよろしいでしょうか?」
「ええ、もちろんですとも。いま、すぐですか?」
「ええ」
ジョンは、ベルをならして、車をまわすようにいいつけた。十分の後には、車は、大庭園を走りおりて、公道をタドミンスターに向かっていた。
「ねえ、ポアロ」と、わたしは、彼の意にまかせながら、いった。「こりゃなんのことだか、たぶん、いってくださるでしょうね?」
「さあ、|あなた《モナミ》、うんと、ひとりで見当をつけてください。もちろん、はっきり気がおつきになってるでしょう。イングルソープ氏がもう問題外になったので、事件の全貌が大きく一変したということを。ぜんぜん新しい問題に直面しているんです。今では、毒薬を買わなかった人物が、一人いるということはわかっているんです。でっち上げの手がかりは、きれいに追っぱらってしまいました。今度は、本物の手がかりです。あの家族の中の人なら、あなたとテニスをしていたカヴェンディッシュ夫人以外はだれでも、月曜日の夕方、イングルソープ氏にばけることができたはずだということを確かめました。同じようにして、ホールにコーヒーをおいたという、彼の陳述も確かめました。検屍審問では、そのことにあまり気をつけた者は一人もなかったようです――ですが、今は、非常に違った深い意味を持っているのです。わたしたちは、だれが最後に、あのコーヒーをイングルソープ夫人のところへ持って行ったのか、コーヒーがそこにおいてあったあいだに、だれがホールを通ったのか、調べ出さなくちゃなりません。あなたの話から、コーヒーのそばに行かなかったと、はっきりいえるのは 二人だけ――カヴェンディッシュ夫人と、マドモアゼル・シンシアだけです」
「ええ、そうですね」わたしは、口にはいえないほど、心が軽くなるのをおぼえた。メアリー・カヴェンディッシュは、たしかに嫌疑などかけられるべきではないのだ。
「アルフレッド・イングルソープの無罪をはっきりさせるために」と、ポアロはつづけた。「わたしは、思っていたよりも早く、わたしの手の中を、余儀なく早く見せてしまったようです。わたしが彼に嫌疑をかけていると思われていればいるほど、真犯人も気を許したでしょう。今となっては、彼は、二重に用心深くなっているでしょう。そう――倍も注意深くね」彼は、不意にわたしの方を向いて、「いってみてください、ヘイスティングズ、あなた自身は――あなたは、だれか疑っていない人がありますか?」
わたしは躊躇した。本当のことをいえば、ある一つの考えが、まことに気違いじみた、途方もない考えだが、その日の朝から一度か二度、わたしの頭の中をさっと通り過ぎたのだ。わたしは、ばかげたこととして受けつけなかったのだが、にもかかわらず、しつこくその考えはねばりつづけていた。
「疑いとはいえないのですがねえ」と、わたしは、小声でいった。「まるきりばかげている」
「さあ、どうです」と、励ますようにポアロはうながした。「怖れることはありませんよ。胸の中をいってごらんなさい。直感には、つねに敬意を払うべきですよ」
「ええ、では」と、わたしはもらした。「ばかげているんです――しかし、わたしは、彼女が知っていることをすっかりいわないので、ミス・ハワードを疑っているんです!」
「ミス・ハワードを?」
「そうです――お笑いになるでしょうが――」
「いや、いや、とんでもない。どうして、わたしが笑うんです?」
「わたしは、どうしてもそういう気がせずにはいられないんです」わたしは、ぎこちなくつづけた。「つまり、彼女が、たんに現場から遠く離れていたというだけで、彼女を容疑からはずしていたのじゃないかということです。しかし、それにしても、わずか十マイル離れていただけなんですからね。車なら、三十分で飛ばせるでしょう。殺人のあった夜、彼女がスタイルズ荘から離れていたと、絶対にいえるでしょうか?」
「そうです、あなた」と、不意に、ポアロがいった。「いえますとも。わたしが最初にした行動の一つは、彼女が働いていた病院に電話をかけることでした」
「それで?」
「それで、ミス・ハワードが火曜日の午後は当番だったということを聞き出しました。それから――護送患者が不意に来たので――親切にも、夜勤にも残ろうと申し出たので、よろこんで、その申し出を受けたということも聞き出しました。それで、そのことは片がつきますね」
「ああ!」といったわたしは、ちょっと途方に暮れた。「ほんとうは」と、わたしはつづけた。「わたしに彼女を疑う気を起こさせたのは、イングルソープに対する、彼女の異常な激情なんです。彼女なら、彼に対する反感のためには、なんでもしかねないと思わずにはいられませんよ。そして、遺言状の破毀《はき》についても、何か知っているなと思いついたんです。彼のためにはなったが、以前のと間違えて、彼女が新しいのを燃してしまったんでしょうね。なにしろ、おそろしく、彼を憎んでいるんですからね」
「彼女の激情を、不自然だと思うんですね?」
「え――ええ、彼女は激しすぎますよ。その点では、ほんとに正気かどうかと思いますね」
ポアロは、強く首を左右に振った。
「いや、いや、あなたは、間違った手がかりを追っているんですよ。ミス・ハワードが低能だとか、変質者だとかいうことは、どこにもありませんよ。彼女は、よく調和のとれたイギリス人の体力と筋肉をそなえた、すばらしい見本ですよ。彼女は、正気そのものですよ」
「でも、彼女のイングルソープに対する憎悪は、ほとんど狂気の沙汰ですよ。わたしの考えは――ひどくばかげたものですけど、疑いもなく――彼女が、彼を毒殺しようとしていた――そして、どうかして、イングルソープ夫人が誤って、それを飲んでしまったというんですがね。しかし、どうやって飲まされることになったのかは、まるきりわからないんです。この事件は、このうえもなくばかげたおかしなものですよ」
「しかし、一つだけ、あなたのいうことは正しいですよ。論理的に、そして自分で満足が行くまで、無罪だと証明がつくまで、誰彼なしにいちおうみんなを疑ってみるということは、つねに賢明なことですよ。ところで、ミス・ハワードが、計画的にイングルソープ夫人を毒殺したとは考えられないというのは、どういう理由なんですか?」
「それはね、彼女が夫人に献身的だったということですよ!」と、わたしは強くいい切った。
「ちえっ! ちえっ!」と、ポアロは、いらいらしたように叫んだ。「子どもみたいな論法ですね。もしも、ミス・ハワードが老夫人を毒殺できるような人間だったら、献身的なふうをすることぐらい、それこそ同じようにできたでしょうよ。いや、どこかほかのあらゆる面を見なくちゃいけません。アルフレッド・イングルソープに対する彼女の感情が、自然のものとしては激しすぎるというあなたの仮説は、完全に正しいものですよ。しかし、そこから引き出した推理は、まったく誤っていますね。わたしは自分の推理を引き出して、正しいと信じていますが、今は、それをいわずにおきます」彼は、しばらくあいだをおいてから、話しつづけた。「ところで、わたしの考え方からいうと、ミス・ハワードが殺人犯人だという説に、一つだけ、どうにも手に負えない反論があるんです」
「で、それは?」
「それはね、どう考えても、イングルソープ夫人の死が、ミス・ハワードに利益をもたらさないということですよ。動機のないところに殺人なんかありませんからね」
わたしは、じっと考えこんだ。
「イングルソープ夫人は、ミス・ハワードのためになるように、遺言状が作れなかったでしょうか?」
ポアロは、首を振った。
「でも、あなた自身が、その可能性について、ウェルズ氏に考えをいっておいでだったでしょう?」
ポアロは、にっこりして、
「あれには理由があったんです。名前はいいたくなかったんですが、実際は胸の中に一人の人があったんです。ミス・ハワードも同じような意味で、非常に心の中にあったので、それで、代わりに彼女の名前を使ったんです」
「それでも、イングルソープ夫人は、そういう遺言状を書いたかもしれませんね。そうですよ、死んだ日の午後に作った遺言状は、もしかすると――」
しかし、ポアロの首の振り方があまり強かったので、わたしは、口をつぐんだ。
「いいや、あなた、その遺言状について、わたしは、ちょっとした、ある思いつきがあるんです。しかし、そのことは、うんとお話ができますよ――あれは、ミス・ハワードのためになることは書いてなかったと」
わたしは、彼の確信を承認した。もっとも、どうして、彼がその問題についてそれほど確信があるのか、ほんとうにはわからなかった。
「やれやれ」と、わたしはため息をついていった。「ミス・ハワードは除きましょう、それでは。わたしが、彼女をあやしいと思うようになったのも、一部は、あなたのせいなんですぜ。わたしにあんなことをいわせたのも、検屍審問での彼女の証言について、あなたがいったことからなんですよ」
ポアロは、途方に暮れたようすだった。
「どんなことを、わたしがいったんです、検屍審問での彼女の証言について?」
「おぼえていないんですか? わたしが、容疑のない人間として、彼女とジョン・カヴェンディッシュをあげた時にいったことを?」
「おお――ああ――そうか」彼は、ちょっとめんくらったようだったが、すぐに冷静に返った。
「ときに、ヘイスティングズ、一つ、わたしのためにやってほしいことがあるんですがね」
「いいですとも。なんです?」
「このつぎ、ローレンス・カヴェンディッシュと二人だけになることがあったら、彼にこういってもらいたいんです。『ポアロからことづけがありますよ』とね。それは、こうです。『余分のコーヒー茶碗を探し出しなさい。そうすれば、地下の人も安らかに休めます!』って。それ以上のことをいうこともないし、それ以下のこともいっちゃいけませんよ」
「『余分のコーヒー茶碗を探し出しなさい。そうすれば地下の人も安らかに休めます!』それでいいんですか?」わたしは、ひどく煙にまかれて、たずねた。
「大変結構です」
「でも、どういうことなんです?」
「ああ、そいつは、あなたにまかせますから、考え出してください。あなたが、事実に近づくことができるというわけですよ。それだけを彼にいって、彼がどういうかを考えてごらんなさいよ」
「よろしい――しかし、ひどく謎にみちていますね」
車は、もうタドミンスターにはいっていて、ポアロは、『分析専門の薬局』へと車を向けた。
ポアロは、勢いよく車から飛びおりると、中へはいって行った。二、三分すると、彼は、またもどってきた。
「さあ」と、彼はいった。「仕事はみんなすみました」
「何をしてきたんです、あすこで?」と、強い好奇心にかられていたわたしはたずねた。
「分析をしてもらうように、ある物をおいておいたのです」
「そうですか、でも、なんの分析です?」
「寝室のシチュー鍋から取ったココアですよ」
「でも、あれはもう分析ずみでしょう!」わたしは、茫然として叫ぶようにいった。「バウエルスタイン博士が調べたはずでしょう。そして、あなた自身だって、あの中にストリキニーネがはいっているだろうなんて考えを、一笑に付したじゃありませんか」
「バウエルスタイン博士が調べたことは、わたしも知っていますよ」と、静かにポアロはこたえた。
「ええ、それで?」
「でも、もう一度、分析してみようと思ったんです。それだけですよ」
そして、この問題についてそれ以上の言葉は、彼から引き出せなかった。
このココアについてのポアロのやり方は、ひどく、わたしを途方に暮れさせた。考えても、まるきりわけがわからなかった。しかし、一時はやや衰えたこともあったが、彼に対するわたしの信頼は、アルフレッド・イングルソープの無罪についての彼の確信を、あれほど意気揚々と立証してからは、すっかり元通りになっていた。
イングルソープ夫人の葬儀は、つぎの日に行なわれた。それから二日経って月曜日に、わたしが遅い朝食に降りて行くと、ジョンがわたしを脇へ呼んで、イングルソープ氏が午前中に邸を引きはらうことになったと知らせた。身の振り方をきめるまで、スタイルズ・アームズに居を構えるということだった。
「ほんとに、彼が行くと思うと、ひどくほっとしたよ、ヘイスティングズ」と、この正直な友人はつづけた。「彼がやったと、ぼくたちが思っていた時は、まったくひどいものだったからね。ところが、今は、われわれみんな、あの男をひどく憎んでいたのを悪かったと気がとがめているんだから、そんなことしなくてもいいと思うんだがね。事実、われわれは、彼を憎んでいたさ。もちろん、万事が、彼を黒と指していたからだがね。だれだって、われわれがそう早合点をしたからといって、われわれを非難するというのはわからないよ。しかし、まああの通りで、われわれは間違っていたんだから、今では、改めなくちゃいけないと、いまいましいが感じているさ。そりゃ、むずかしいことだがね。ことに、前より以上に、ぽっちりともよくあの男のことを好いていないんだからね。万事、ひどいことおびただしいよ! だから、気をきかして彼が行ってくれるというので、ぼくは、ありがたいと思っているんだ。スタイルズ荘が、おふくろから彼へ遺されなかったのは、いいことだったよ。奴が、ここの主人になるなんて考えただけで、たまらないことだったよ。おふくろの金ぐらいですめば、ありがたいことだよ」
「ちゃんと、この邸は維持していけるんでしょうね?」と、わたしはたずねた。
「ああ、そうさ。相続税はとられるだろうが、もちろん。しかし、父の遺産の半分は邸についていることだし、ローレンスも、当分はいっしょに住むだろうから、維持費も助けてくれるさ。はじめは、困るだろうがね。もちろん、というのは、前にもいったように、ぼくは、経済的に、ちょっと窮地に落ちこんでいるんでね。だが、今度は、連中も待ってくれるだろう」
イングルソープが近く出て行くというので、誰彼となくほっとした思いの中で、わたしたちはあの悲劇が起こってから、はじめてなごやかな朝食をとった。若々しい気分で、当然、浮き浮きしていたシンシアは、またすっかり、元の愛矯のいい彼女になっていた。そして、相も変わらず、陰気で神経質そうなローレンスのほかは、新しく希望にみちた前途のはじめに、わたしたちみんなは、ひそかに喜んでいた。
もちろん、新聞は、悲劇の記事で一杯だった。けばけばしい見出しをつけ、家族の一人一人の経歴や、陰険なあてこすりや、警察には手がかりがつかめているなどという例のきまり文句などを並べ立てていた。わたしたちのことといえば、何一つすててはおかなかった。うっとうしい日々だった。戦争は、一時的に不活発な状態にはいっていたので、新聞は、この上流社会の犯罪に貪欲にくらいついていた。『スタイルズ荘の怪事件』は、絶好のトピックだった。
当然、これはカヴェンディッシュ家にとっては、大変迷惑なことだった。邸は、はじめから通して面会を断わりつづけられている新聞記者連中に、絶えず包囲されていた。しかもその連中は、村やそのへんをうろうろとほっつきまわって、気を許した家族の誰彼が出て来るのを、カメラを手に待ち構えていた。わたしたちはみんな、世評のひどいあらしの中で暮らしていた。警視庁の二人の人間は、出たりはいったり、捜しまわったり、質問攻めにしたり、目を光らしたり、口を封じたりして行った。どんな結末に向かって彼らが動いているのか、わたしたちにはわからなかった。何か手がかりをつかんだのだろうか? それとも、迷宮入りの部類にはいってしまうのだろうか?
朝食がすむと、ドーカスが、ちょっと変な顔色をしてわたしのところへやって来て、ちょっとお話をしたいのですがよろしゅうございましょうかとたずねた。
「もちろんだよ。なんだね、ドーカス?」
「はい、こんなことでございます、旦那さま。今日、たぶん、ベルギーの旦那さまにお会いでございましょうね?」わたしがうなずくと、「それで、旦那さま、あの方が、奥さまか、どなたかほかのお方が、緑色のドレスをお持ちではなかったかと、ひどく念を押しておたずねになったことを、あなたさま、おぼえておいででございましょう?」
「そう、そう。それを見つけたのかね?」わたしの興味は高まった。
「いいえ、そうではございません、旦那さま。ですが、わたくし思い出しましたのです、『お坊ちゃま方が』――ジョンとローレンスも、ドーカスにとっては、まだ『お坊ちゃま方』だった――衣装箱といっておいでになる箱のことを。それは、表側の屋根裏においてございますんですよ。大きな箪笥で、古いお洋服や仮装の服や、ない物がないくらい一杯につまっておりますんです。それで、その中に緑色のドレスもありはしないかと、そんな気がふっと、わたくしにしましたんでございます。それで、もしも、あのベルギーの旦那さまにおっしゃっていただければ――」
「話しておこう、ドーカス」と、わたしは引き受けた。
「どうもありがとうございます、旦那さま。あの方は、とてもご立派なお方でございますね、旦那さま。あのロンドンからいらしたお二人の刑事さんたちとは、まるきりお人柄が違いますね。あの方たちときたら、そこらをせんさくしてまわったり、うるさいことをたずねまわったりしていますのですよ。わたくしは、どうも外国のお方には気が許せませんのですが、新聞のいっておりますところからしますと、ああいう勇気のあるベルギーの方たちは、並の外国人とはなさることが違いますし、たしかに、あの方は、とても上品にものをおっしゃる紳士の方だと、そう、わたくしは存じましたのですよ」
かわいい老ドーカス! 正直な顔をわたしの方に向けて、そこに立っている彼女を見て、もうすぐに滅びようとしている古風な召使いの、なんとすばらしい見本だろうと、わたしは思った。
わたしは、すぐに村へ行って、ポアロをさがすほうがいいと思った。ところが、途中で、邸へやって来る彼に会った。それで、すぐにドーカスのことづけを伝えた。
「ああ、勇敢なドーカス! 二人で、その箪笥を調べましょう、そういっても――いや、構わない――とにかく、調べてみましょう」
わたしたちは、一つの窓から建物の中へはいった。ホールにはだれもいなかった。それで、わたしたちは、まっすぐ屋根裏へ上がって行った。
確かに、箪笥があった。立派な古風な品で、すっかり真鍮《しんちゅう》の鋲《びょう》で飾りがしてあって、ありとあらゆるタイプの豪華な衣装が、あふれるほどにつまっていた。
ポアロは、遠慮なく、中のものをすっかり、床の上にさっさと引っ張り出した。色合いの変わった緑色の織物が一つか二つあった。しかし、ポアロは、そのどれにも首を振った。彼は、まるで大した結果も予期していないかのように、どうやらこの捜査に冷淡なようだった。と、突然、彼は、叫び声を上げた。
「なんです?」
「ほら!」
箪笥は、ほとんど空になりかけていたが、その底に眠ってでもいるように、すばらしいまっ黒なひげがはいっていた。
「おおう!」と、ポアロはいった。「おおう!」彼は、手の中で引っくり返し引っくり返しして、仔細に調べた。「新しい」と彼はいった。「そうだ。まったく新品だ」
ほんの一瞬、躊躇してから、彼は、それを箪笥へもどして、前のように、その上にいろんな物を全部積み重ねると、さっさと階下へ降りて行った。まっすぐ台所へ行くと、せっせと銀器を磨いているドーカスがいた。
ポアロは、フランスふうな慇懃《いんぎん》さで、おはようと彼女にいってから、つづけていった。
「あの箪笥の中を、すっかり探さしてもらいましたよ、ドーカス。教えてくだすって、大変ありがとうございました。まったく、すばらしいコレクションですね。たびたびお使いになるのでしょうか?」
「はい、旦那さま、このごろでは、あまりたびたびはお使いにもなりません。もっとも、時々、お坊ちゃんたちが『着飾った夜』というのをなさいます。それが、とてもおもしろうございますのですよ、時々は、旦那さま。ローレンスさまは、そりゃ、お見事でございますよ。一番の喜劇役者でね! あの晩は、忘れもいたしません。あの方はペルシャのシャーになっておりていらっしゃいましてね。そうおっしゃったようでございましたが――あの東洋の王さまのようでございました。大きな紙のナイフを、手にお持ちになりましてね、『こら、ドーカス、わしのいうことを、よく聞かなければならんぞ。これは、わしの特別によくといだ三日月じゃ。わしの気に入らぬことをすれば、お前の首をはねるぞ!』と、おっしゃいますんですよ。ミス・シンシアは、アパッシュとかなんとか申しますでしょう――フランスのごろつきにおなりで、そっくりだと思いましてよ。本物そっくりにお見えでした。お綺麗な若いご婦人が、あんなごろつきにおなりになれるなんて、信じられないくらいでございましたよ。あの方とは、どなたにもおわかりになりませんでしたでしょうよ」
「そんな晩は、きっと大変おもしろかったでしょうな」と、ポアロは、にこやかにいった。「ローレンスさんは、ペルシャのシャーになった時は、あの二階の箪笥にある、見事な黒いひげをおつけになったんでしょうね?」
「ひげをおつけになりましてございますよ、旦那さま」にこにこしながら、ドーカスはこたえた。「それはよく、わたくしおぼえております。だって、あの方は、わたくしの黒いウールの糸の束を二つも、それを作るのに貸せとおっしゃいましたんですものね! それこそ、遠くからでは、すばらしいほど、本物に見えましたんですよ。ひげがあの中にあるとは、ちっとも、わたくし存じませんでしたよ。きっと、ごく近い中に入れたものにちがいございませんでしょうね。赤いかつらのあることは存じておりますが、ほかには髪の毛の物はございませんでしたがね。燃やしたコルクを、たいていはお使いで――もっとも取るのか大変でございますがね。一度、ミス・シンシアが黒ん坊におなりで、まあ、おこまりになりましたことといったら」
「すると、ドーカスは、あの黒いひげのことは、なんにも知らないんですね」またホールへ歩み出て来ると、ポアロは、思案顔でいった。
「例のやつだと、あなたは思うんですか?」と、わたしは懸命にささやいた。
ポアロは、うなずいた。
「思います。きちんと手入れがしてあったのに、気がついたでしょう?」
「いいえ」
「そうだ。イングルソープ氏のひげの形とそっくりに、刈りこんだんですよ。わたしは、一本か二本、切れはしの毛を見つけました。ヘイスティングズ、この事件は、思っていたよりもよほど深いものですよ」
「だれが箪笥へ入れたものでしょうね?」
「だれが非常に知能のある人ですね」ポアロは冷淡にいった。「家じゅうで、一番目につかない場所をえらんで隠したということが、わかったでしょう? そう、その男は、頭の働く男です。だが、わたしたちは、もっと頭を働かさなくちゃいけません。われわれは、ぜひ、頭を働かして、その男が、われわれの頭がいいと怪しまないようにしなくちゃなりませんぞ」
わたしは、黙ってうなずいた。
「ねえ、|あなた《モナミ》、あなたは、わたしの大助手になってくださるんですね」
わたしは、このお世辞ですっかりうれしくなった。これまでにはたびたび、ポアロが、わたしの真価を認めていてくれないらしいと思ったものだった。
「そうです」と、じっと考え深そうにわたしを見つめながら、彼はつづけた。「あなたは貴重な人なんですよ」
これは、当然、ありがたい言葉だったが、ポアロのつぎの言葉は、あまりありがたい代物ではなかった。
「わたしは、家の中に一人、味方を持たなくちゃいけないんです」と、彼はじっと考えながら、いった。
「わたしがいるじゃありませんか」と、わたしは文句をいった。
「まったく。でも、あなたではだめなんです」
わたしは、むっとして、頬をふくらました。ポアロは、あわてていいわけをした。
「あなたは、わたしのいう意味を、ちゃんとわかっていないんですね。あなたが、わたしといっしょに働いていることは、知れわたっているんです。わたしは、どこから見ても、わたしたちと無関係な人がほしいんです」
「ああ、わかりました。ジョンではどうです?」
「どうも感心しませんね」
「いい男だが、おそらく、あまり気が利かないでしょうね」わたしは、考えながらいった。
「ミス・ハワードが来る」と、不意にポアロがいった。「彼女こそ、打ってつけだ。しかし、わたしは、あの人の注意人物ですからね、イングルソープ氏の罪を晴らしてからというもの。でも、やるだけはやってみましょう」
かろうじて礼儀正しいといえるような会釈をして、ミス・ハワードは、二、三分のあいだ、お話がしたいというポアロの頼みに同意した。
わたしたちは、小じんまりとしたモーニング・ルームにはいり、ポアロは、ドアをしめた。
「さあ、ポアロさん」と、ミス・ハワードは、気短かにいった。「なんですの? 早くしてちょうだい。わたし、忙しいんですのよ」
「おぼえておいででしょう、マドモアゼル、いつか、あなたにご援助をお願いしたことを?」
「ええ、おぼえてますわ」と、婦人はうなずいた。「そして、わたしはあなたに申し上げましたでしょう。喜んでお手伝いいたしますって――アルフレッド・イングルソープを絞首刑にするためならって」
「ああ!」ポアロは、真剣に彼女を見つめた。「ミス・ハワード、一つお伺いしたいことがあります。どうぞ、正直にこたえていただきたいのです」
「嘘など、けっしてつきません」と、ミス・ハワードはこたえた。
「こうなんです。あなたは今でもまだ、イングルソープ氏が、奥さんに毒を盛られたと信じていらっしゃるんですか?」
「どういうおつもりなんですの?」と、彼女は、鋭くたずねた。「このあいだの、あなたのすばらしいご説明が、ほんの少しでもわたしを動かしたろうなんて、お考えになることはいりませんのよ。薬剤師の店で、ストリキニーネを買ったのが、彼ではなかったとは、わたしも認めますわ。それがどうだというんです? 最初にお話した通り、あの男は、蝿取紙だって煮つめかねない男ですよ」
「あれは砒素《ひそ》ですよ――ストリキニーネじゃありませんよ」と、ポアロは、控え目にいった。
「それがどうだっていうんです? 砒素だって、ストリキニーネと同様に、かわいそうなエミリーを片づけてしまえますよ。彼がやったということさえ、わたしが確信を持っていれば、どうやって彼がやったかなんてことは、わたしには、ちっとも問題じゃないんです」
「その通りです。彼がやったと、あなたが確信を持っておいでになるのならね」と、ポアロは穏やかにいった。「では、別の形で、質問をさせていただきましょう。あなたは、心の底から、イングルソープ夫人は、ご主人に毒殺されたと、これまで信じておいでだったでしょうね?」
「まあ!」と、ミス・ハワードは叫ぶようにいった。「あの男は悪党だって、わたしがいつもあなたにいわなかったとおっしゃるんですか? あの男が、ベッドの中で、あの女《ひと》を殺しますよって、わたしがあなたにいつもいいませんでしたか? わたしがいつも、あの男を毒のように憎んでいなかったっておっしゃるんですか?」
「その通りです」と、ポアロはいった。「それこそ、わたしのささやかな考えを、すっかり証明してくれますよ」
「ささやかな考えって、なんですの?」
「ミス・ハワード。あなたは、わたしの友だちがここへ着いた日の会話をおぼえておいででしょう? 彼がわたしにくり返していってくれましたが、その中で、わたしに強い印象を与えた、あなたの言葉があるんです。あなたは、もし犯罪が行なわれて、だれでもあなたの愛する人が殺されたら、だれが犯人か、はっきり証明することはできなくても、直感でわかるとおっしゃったのをおぼえていらっしゃいますか?」
「ええ、そういったのをおぼえています。その通り、信じてもいます。あなたは、そんなこと愚にもつかない考えだと思っていらっしゃるんでしょう?」
「とんでもない」
「それだのに、あなたは、アルフレッド・イングルソープに対するわたしの直感には、なんの注意もおはらいにならないんですね?」
「そうです」と、ポアロは、そっけなくいった。「というのは、あなたの直感は、イングルソープ氏を指しているのではないからです」
「なんですって?」
「そうです。あなたは、彼が罪を犯したと信じたがっていらっしゃるんです。それをやってのけられる男だと信じていらっしゃるんです。ところが、あなたの直感は、彼がそれをやらなかったと、あなたにささやくのです。それどころか、それ以上のことを、まだ、あなたにささやくのです――つづけましょうか」
彼女は、呆然となって、彼を見つめていた。そして、かすかにそうだというように、手を動かした。
「どうしてそんなに、あなたがイングルソープ氏に対して悪感情をいだいておいでになったのか、いってみましょうか? それはね、あなたが信じたいと思っていることを、信じようと努めていたからなんです。あなたにべつの名前をささやく直感を――」
「いいえ、違います、違います!」ミス・ハワードは、両手をふり上げて、あらあらしく叫ぶようにいった。「そんなこと、いわないでちょうだい! ああ、いわないでちょうだい! 嘘です! ほんとうなもんですか。どうしてそんな気違いじみた――そんなおそろしい――考えが浮かんだのか、わたしは知りません!」
「わたしのいう通りですね?」と、ポアロがたずねた。
「ええ、ええ、そんなこと考えるなんて、きっと、あなたは魔法使いのような方ね。でも、そんなはずがありません――ひどすぎますわ、不可能すぎますわ。アルフレッド・イングルソープに違いありませんわ」
ポアロは、重々しく首を振った。
「そんなこと、わたしに聞かないでちょうだい」と、ミス・ハワードはいいつづけた。「だって、わたしはいいませんから。わたしは、自分自身にだって、そんなこと認めないんですから。そんなことを考えるだけで、わたし、きっと気が狂っちまいますわ」
ポアロは、満足したように、うなずいた。
「何もおたずねしないでおきましょう。わたしには、自分が考えていた通りだというだけで、結構です。それに、わたしは――わたしにも直感があります。わたしたちは、共通の目的に向かって協力しているんですよ」
「協力しろなどといわないでください。だって、わたしにはできないんですもの、わたしは、指一本もあげはしませんわ――そんなことのために――」彼女は、いいよどんだ。
「それでも、あなたは、わたしに協力することになりますよ。わたしは何もお頼みはしません――しかし、あなたは、わたしの片腕になってくれますよ。あなたは、自分自身を助けることなどはできませんよ。あなたは、ただ、わたしがお願いすることだけをしてくださるでしょう」
「そして、それは?」
「見張っているのです!」
イヴリン・ハワードは、首を下げた。
「ええ、わたし、そうしないではいられないんです。いつも見張っていたいんです――いつでも、わたしが間違っているというあかしが立つのを望みながら」
「もし、わたしたちが間違っていれば、結構です」と、ポアロはいった。「こんなにうれしいことはありません。しかし、わたしたちが正しかったら? もし、わたしたちが正しかったら、ミス・ハワード、あなたは、どちら側に、おつきになります?」
「わかりませんわ、わかりませんわ――」
「さあ、いってください」
「口をつぐむだけですわ」
「口をつぐむなんて、そんなことはいけません」
「でも、エミリー自身だって――」と、彼女はいいやめた。
「ミス・ハワード」と、ポアロは、重々しくいった。「あなたらしくもありませんね」突然、彼女は、顔から手をはなした。
「そうですわ」と、彼女は穏やかにいった。「いま、ものをいっていたのは、イヴリン・ハワードではありませんでしたわ!」彼女は誇らしげに顔を振り上げて、「これこそ、イヴリン・ハワードですわ! そして、彼女は、正義の味方ですわ! たとい、どんなものを犠牲にしてもやりますわ」そして、こういう言葉をいいきるといっしょに、彼女は、しっかりした足取りで、部屋から出て行った。
「あれなら」と、ポアロは、彼女の後姿を見送りながら、いった。「とても立派な味方になりますよ。あの女性はね、ヘイスティングズ、心も頭もしっかりした人ですよ」
わたしは、こたえなかった。
「直感というやつは、すばらしいものですよ」と、ポアロは感慨をこめていった。「はっきりということもできないし、そうかといって、無視するわけにもいきませんね」
「あなたとミス・ハワードには、なんのことを話しているのかわかっているらしいですね」わたしは冷ややかにいった。「わたしには、まだ何がなんだかわからないということは、たぶん、気がおつきになっていないでしょうね」
「ほんとうですか? そうなんですか、あなた?」
「ええ、話していただけますか?」
ポアロは、一瞬、じっとわたしを見つめていた。それから、意外にも、はっきり首を振った。
「よしましょう、あなた」
「ああ、ねえ、どうしてよすんです?」
「秘密を守るには、二人で結構です」
「えっ、わたしにだけ事実を隠すというのは、ひどく不当だと思いますね」
「事実を隠しているのじゃないんです。わたしの知っている事実は、一から十まで、あなたもご存じですよ。その事実から、あなたの推測が引き出せるでしょう。思考力の問題ですよ」
「でも、知ることはおもしろいですからね」
ポアロは、ひどく本気に、わたしを見た。それからまた、首を左右に振った。
「ねえ」彼は、悲しそうにいった。「あなたには、直感がないんですよ」
「今、あなたが望んでいたのは、理知だったんでしょう」と、わたしは指摘した。
「両者は、しばしば相伴うものなんです」と、ポアロは、謎のようにいった。
この言葉は、まったく見当違いのような気がしたので、わたしは、わざわざ返事をしようともしなかった。しかし、何か興味のある、重要な発見をしても――きっと、するはずだが――その発見を自分の胸にかくしておいて、最後の結末で、ポアロを驚かしてやろうと、わたしは心に決めた。
たまには、強く自己を主張するのも、人間の務めだ。
第九章 バウエルスタイン博士
わたしはまだ、ポアロのことづけを、ローレンスの耳に入れる機会がなかった。ところが、今、まだ友人の高飛車な態度をうらみながら芝生へおりて来ると、ローレンスがクロケットの芝生で、ひどく古ぼけたボールを、これももっと古風な打球槌で、あてもなく打っているのが目にはいった。
ことづけを伝えるには、絶好の機会だという考えがひらめいた。まごまごしていれば、ポアロ自身が、わたしからその仕事を取り上げてしまうかもしれない。ほんとうは、その伝言にどんな狙いがあるのか、わたしにはまったくわかってはいなかった。しかし、ローレンスの返事と、ことによると、二つ三つうまい反対尋問をすれば、すぐにその意味がつかめるだろうと、ひとり腹の中でうぬぼれた。それで、わたしは、彼に話しかけた。
「きみを、深していたんですよ」わたしは、出まかせにいった。
「きみが?」
「そう。じつは、きみにことづけがあるんです――ポアロからの」
「それで?」
「きみと二人きりになるまで待っていろといわれたんです」と、意味ありげに声を落としていって、わたしは、目の隅から、じっと彼を見つめた。わたしは、いつも、いわゆる雰囲気をかもしだすのは、うまいものだと思っていた。
「それで?」
その暗い、憂鬱そうな顔の表情には、なんの変化もなかった。わたしがいおうとしたことを、彼は知っていたのだろうか?
「こういうことづけなんです」わたしは、いっそう声を低くして、「余分のコーヒー茶碗を探しだしなさい。そうすれば、きみは楽に休めるというんです」
「いったい、どういうつもりなんだろう?」ローレンスは、ほんとうに心から驚いて、わたしを見つめた。
「わかりませんかね?」
「ちっともわからない。きみにはわかるの?」
わたしも、やむを得ず、首を振った。
「余分のコーヒー茶碗て、なんだろう?」
「コーヒー茶碗のことが知りたければ、ドーカスか、他の女中にたずねるほうがいいんだがな。彼らの仕事で、ぼくの仕事じゃないんだものな。ぼくは、コーヒー茶碗のことなんか、何も知らないよ。ただ、一度も使ったことのない茶碗があるが、それだけは別だがね。でも、そいつは、完全な夢さ! 古いウースター焼きでね。きみは、その道の目利きじゃないんだろう、ヘイスティングズ?」
わたしは、首を振った。
「きみは、運がないな。実に完全な時代物の陶器なんだ――手に触れるのも、いや、見るだけでさえ、大変な喜びなんだぜ」
「それで、ポアロにはなんといっておきましょう?」
「彼がなんのことをいっているのか、ぼくにはわからないといってくださいな。ぼくには、ちんぷんかんぷんだって」
「承知した」
わたしがまた建物の方へ行きかけると、突然、彼が、わたしを呼びとめた。
「ねえ、その伝言の最後は、なんというんだっけ? もう一度、いってくれないか?」
「『余分のコーヒー茶碗を探しだしなさい。そうすれば、きみは、安らかに休める』というんですよ。たしかに、どういう意味だか、きみにはわからないんですね?」わたしは、懸命に、彼にたずねた。
彼は、首を左右に振った。
「いいや」と、彼は、物思いにふけりながらいった。「わからないね。わかれば――わかればいいがね」
家から銅羅の音がひびいてきたので、わたしたちは、いっしょに中へはいった。ポアロは、昼食まで残っていてくれとジョンにいわれていた。それで、もうテーブルにすわっていた。
暗黙の同意から、悲劇に関する話は、すべて禁物になっていた。わたしたちは、戦争のことや、その他のあたりさわりのないトピックスを話し合った。しかし、チーズやビスケットがぐるっと渡って、ドーカスが部屋から出て行ってしまうと、ポアロが、不意にカヴェンディッシュ夫人の方へ身を乗り出した。
「失礼ですが、奥さま、不愉快な記憶を思い出させてすみません。しかし、ちょっと思いついたことがあるものですから」――ポアロの『ちょっとした思いつき』は、完全にお笑い草になっていた――「一つ二つおたずねしたいと思うんですが」
「わたくしに? どうぞ」
「あなたは、ほんとうにご親切ですね、奥さま。わたしがおたずねしたいというのは、こういうことなんです。マドモアゼル・シンシアのお部屋から、イングルソープ夫人のお部屋へ行くドアに、閂がかかっていたとおっしゃいましたね?」
「確かに、閂がかかっていましたわ」と、やや驚いて、メアリー・カヴェンディッシュがこたえた。「検屍審問で、わたくし、そう申しましてよ」
「閂がかかっていましたか?」
「そうですわ」彼女は、途方に暮れた顔つきだった。
「わたしのいう意味は」と、ポアロは、はっきりいった。「確かに、閂がかかっていたのでしょうね? ただ鍵がかかっていただけではないでしょうね?」
「ああ、おっしゃる意味は、よくわかりましてよ。さあ、よくわかりませんわ。わたくし、締まっていて、開けられなかったという意味で、閂がかかっていたと申しましたの。でも、わたくし、どのドアもみんな、内側から閂がかかっていたと思いますけど」
「でも、あなたのごらんになったところでは、そのドアは、同じように鍵がかかっていたのかもしれませんね?」
「ええ、そうですわ」
「あなたご自身は、イングルソープ夫人のお部屋へおはいりになった時、ドアに閂がかかっていたか、いなかったか、奥さま、気がおつきにならなかったんですね?」
「わたくし――わたくし、かかっていたと思いますわ」
「でも、ごらんにならなかったんでしょう?」
「ええ、わたくし――一度も見ませんでしたわ」
「でも、|ぼく《ヽヽ》は見ましたよ」と不意に、ローレンスが口をはさんだ。「ぼくは、偶然、閂がかかっていたのに気がつきました」
「ああ、それで片がつきますね」そして、ポアロは、しょんぼりした顔つきになった。
わたしは、一度だけ、彼の『ちょっとした思いつき』の一つが無駄になったのを、喜ばずにはいられなかった。
昼食がすむと、ポアロは、いっしょに家までつき合ってくれと、わたしに頼んだ。わたしは、ちょっといやいや承知した。
「ご迷惑じゃなかったんでしょうか?」大庭園をぬけて歩きながら、彼は、気にしてたずねた。
「いいえ、ちっとも」わたしは、冷ややかにいった。
「それなら結構ですが。それで、胸の荷が軽くなりましたよ」
これは、わたしの狙いとは、すっかり違っていた。わたしは、彼がわたしの態度の不自然さに気づけばいいと思っていたのだ。しかし、熱のこもった彼の言葉が、わたしの今しがたまでの心の不快さを、しだいに柔らげて行くのだった。わたしの気持も打ち解けた。
「あなたのことづけを、ローレンスにいいましたよ」と、わたしはいった。
「そして、なんと彼はいいました? 彼は、すっかり途方に暮れたでしょう?」
「ええ、確かにあなたのいうことが、まるきりわからなかったようですよ」
ポアロががっかりするだろうと、わたしは予期していた。ところが、驚いたことには、思っていた通りでまことにうれしいと、彼はこたえたのだ。わたしの自尊心が、説明を求めるのを許さなかった。
ポアロは、べつの問題に切り換えた。
「マドモアゼル・シンシアは、今日は昼食にはいませんでしたね? どうしたんでしょうね?」
「また病院に行ってるんです。今日から、仕事に返ったんですよ」
「ああ、勤勉なお嬢さんですね。それにまた可愛らしいですね。イタリアで見た絵とそっくりですよ。ちょっとあの人の薬局を見てみたいものですね。わたしに見せてくれるでしょうかな?」
「喜んで見せると思いますよ。なかなかおもしろい小じんまりしたところですよ」
「毎日、行ってるんですか?」
「水曜日はいつも休みですし、土曜日には、昼食に帰って来ますよ。休みはそれだけです」
「おぼえときましょう。このごろは、女の人も、よく働きますね。それに、マドモアゼル・シンシアは利口で――そうです。あの人は頭がいい、あんなに可愛らしい人だのに」
「そうですね。ほんとにむずかしい試験を通ったんですからね」
「確かにそうですね。つまり、非常に責任の重い仕事だからですよ。いろいろ、強い毒薬があるでしょうね?」
「そうですよ。わたしたちに見せてくれましたっけ。みんな、小さな戸棚の中に、しまいこんであるんです。非常に慎重に扱わなくちゃいけないんでしょうね。部屋をはなれる時には、いつも鍵を持って出かけていますね」
「そりゃ、そうでしょう。窓の傍にあるんでしょう、その戸棚は?」
「いいえ、部屋の正反対側です。どうしてです?」
ポアロは、肩をすぼめた。
「そんな気がしたんです。それだけですよ。おはいりになりませんか?」
わたしたちは、リーストウェイズ・コテージに着いていた。
「ありがとう。帰ろうと思うんです。森をぬけて、遠まわりをして行きます」
スタイルズのまわりの森は、非常に美しかった。広々とした大庭園をぬけた後では、涼しい林間の空地をぶらぶらとさまようのは、いい気持だった。そよ吹く風さえもなく、小鳥のさえずりもかすかだった。わたしは、小道をふらふらと歩いて、やがて、堂々たるブナの古木の根元に身を横たえた。わたしの人間としての感情は、やさしくなごんでいた。ポアロのばかげた秘密主義さえも、今は許していた。じつのところ、わたしの心は平和だった。そこで、わたしは、あくびをした。
わたしは、事件を考えたが、ひどく現実離れがして、遠いことのような気がした。
わたしは、またあくびをした。
おそらく、あんなことは、実際には二度と起こらないだろうと、わたしは考えた。もちろん、あれはすべて、悪夢だったのだ。事の真相は、クリケットの打球槌でアルフレッド・イングルソープを殺したのは、ローレンスだったということだ。だが、それをそんなに騒ぎ立てるなんて、ジョンもばかげているじゃないか。そこで、『そんなことはいやだと、ぼくがいってるじゃないか!』と、どなり立てようとした。
わたしは、はっと目をさました。
すぐに、わたしは、自分がおそろしく困った立場にいることに気がついた。というのは、わたしから十二フィートぐらいのところに、ジョンとメアリーのカヴェンディッシュ夫婦が向かい合って立っていて、明らかに口論をしていたからだ。そして、わたしがすぐそばにいることに二人とも気がついていないのも、また明らかだった。というのは、わたしが動きも、口をきく間もないうちに、わたしの夢をさまさした言葉を、ジョンがくり返していったからだ。
「ぼくがいったろう、メアリー、ぼくは、そんなことはいやだって」
メアリーの声が、冷静に、流れるように聞こえてきた。
「あなたは、わたくしの行動を非難する権利を持っていらっしゃるんですの?」
「村の評判になるっていうんだ! お母さんの葬式が、土曜日にすんだばかりだというのに、もうあの男と遊び歩いている」
「まあ」と、彼女は、肩をすぼめた。「あなたが心配していらっしゃるのは、村の噂だけじゃありませんか!」
「いいや、遠う。ぼくは、あいつがここらへんをうろついているのを、いやというほど見ているんだ。とにかく、あいつは、ポーランド種のユダヤ人だぞ」
「ユダヤ人の血がまじっているからって、悪いことはありませんわ。そのおかげで」――と、彼女は夫を見て、「平凡なイギリス人の頑固なばかさかげんが、少しはなおりますわ」
彼女の目は、火のように燃えていた。声は氷のようだった。血がまっ赤な潮のように、ジョンの顔に昇ったのも不思議ではなかった。
「メアリー!」
「なんですの?」彼女の声は、変わってもいなかった。
懇願するような調子が、彼の声から消えた。
「お前は、ぼくがこれほどいっても、バウエルスタインと会いつづけるというんだね?」
「わたくしの自由にさせていただきますわ」
「ぼくを無視するんだね?」
「いいえ、ですけど、わたくしの行動をとやかくいう権利は、おことわりいたします。あなただって、わたくしのいやなお友だちを持っていらっしゃらないとおっしゃるの?」
ジョンは、一歩後ずさった。顔から血が引いていった。
「なんだって?」彼は、ふるえる声でいった。
「おわかりでしょう!」と、穏やかにメアリーはいった。「ようく、おわかりになっているんでしょう? あなたは、わたくしがお友だちを選ぶことにまで、口をお出しになる権利はないんですのよ」
ジョンは、打ちひしがれた色を目に浮かべて、懇願するように、ちらっと彼女を見た。
「権利がないって? ぼくには権利がないのか、メアリー?」彼は、頼りなげにいって、両手を拡げた。「メアリー――」
一瞬、わたしは、彼女が動揺したかと思った。優しい表情が、彼女の顔に現われたと思うと、いきなり、荒々しいくらいに、身をひるがえした。
「権利なんかありませんわ!」
彼女が歩み去ろうとすると、ジョンは飛ぶように、彼女を追って、その腕をつかんだ。
「メアリー」――今は、彼の声は、ひどく静かだった――「お前は、あのバウエルスタインの奴を愛しているのか?」
彼女は、ちょっと逡巡《しゅんじゅん》した。が、不意に、ある奇怪な表情が、彼女の顔をかすめた。非常に古いが、しかも何物か永遠の若さを含んだ表情だ。そうだ。エジプトのスフィンクスが微笑したようだった。
彼女は、静かに彼の腕を振りほどいて、皮肉にいった。
「ことによるとね」そして、化石したように立ちつくしているジョンを残して、さっさと、狭い林間の空地から、彼女は立ち去って行ってしまった。
わざと足音高く、枯れ枝などをばりばりと踏みくだきながら、わたしは出て行った。ジョンは振り向いた。幸いにも、彼は、わたしが今その場へ来たばかりだと考えたようだ。
「やあ、ヘイスティングズ。あの小男を、無事にコテージまで送ってくれたかい? 風変わりなおもしろいおじさんだね! でも、本当にえらいのかい?」
「盛んなころには、もっともすばらしい探偵の一人と思われたものですよ」
「ああ、ねえ、じゃ、これには、きっと何かあるんだね。だが、なんていやな世の中だろうね!」
「それに気がついたんですね?」と、わたしはたずねた。
「まあね、そうだよ! まず第一に、こんなおそろしい事件だ。警視庁の人間どもが、びっくり箱のように家を出たりはいったりする! つぎはどこへ姿を現わすやら、けっしてわかりはしない。国じゅうの新聞という新聞は、センセーショナルな大見出しだ――ジャーナリストなんて奴はみんな、罰当りだよ、ほんとに! 今朝、番小屋のところで、大勢の野次馬がのぞきこんでいたのを知ってるだろう? まるで、無料で見られるマダム・タッソウの恐怖の部屋の有様さ。ひどいもんだろう?」
「元気をお出しなさいよ、ジョン!」なだめるように、わたしはいった。「いつまでも、つづきはしませんよ」
「そうかね? 二度と顔を見せられないほどつづきそうな気がするよ」
「いや、いや、事件で、病的になってるんですよ」
「行く先々で、不快きわまるジャーナリストにつきまとわれたり、大きな口をあいた、まん丸い顔のばかどもにじろじろ見られちゃ、人間、病的にもなるさ! しかし、そんなことより、もっといけないことがあるんだ」
「なんです?」
ジョンは、声をひそめた。
「きみは、考えたことがあるかい、ヘイスティングズ――ぼくには悪夢なんだが――だれが、やったんだろう? 何か偶然の事故だったにちがいないと、時々は、思わずにはいられないんだ。というのは――というのは――だれが、あんなことができるというんだ? イングルソープをのけてしまった今では、だれもありはしないじゃないか。だれも、というのは、ぼくたちの中の一人を除いてはさ」
そうだ、まったく、だれにも悪夢だったのだ! われわれの一人か? そうだ。きっと、そうにちがいない、ただ――
一つの新しい考えが、わたしの心に浮かびでた。あわただしく、わたしは、それを考えてみた。光明が増してきた。ポアロの奇怪な行動、彼のヒント――みんな、ぴったり合うじゃないか。この可能性を前に考えなかったというのは――わたしは、なんというばかだろう。なんと、わたしたちみんなが安心していたのだろう。
「いや、ジョン」と、わたしはいった。「われわれの中の一人じゃないよ。そんなはずがないよ」
「わかっているよ、だが、しかし、ほかにだれがあるんだ?」
「想像がつきませんか?」
「つかないね」
わたしは、用心深くまわりを見まわして、声をひそめた。
「バウエルスタイン博士ですよ!」と、わたしはささやいた。
「とんでもない!」
「ちっとも」
「でも、いったい、彼がどんな得をするんだい、ぼくの母が死んで?」
「それは、わたしにもわかりませんよ」と、わたしは打ち明けていった。「しかし、ポアロもそう思っているということは、わたしもいえますよ」
「ポアロが? 彼が思っているって? どうして、きみは知っているんだ?」
わたしは、バウエルスタイン博士が、あの事件の夜、スタイルズ荘にいたということを聞いた時の、ポアロの烈しい興奮のようすを、彼に話して聞かせた。それから、こうつけ加えた。
「彼は、二度もいったんですよ。『それで、万事が変わってくる』って。それで、わたしは考えていたんですよ。あなたは、イングルソープがコーヒーをホールにおいたといったのを知っているでしょう? ね、ちょうどその時だったんですよ。バウエルスタイン博士が着いたのは。イングルソープが、彼をホールヘ通した時、通りがかりに、博士がコーヒーの中へ何かを入れたということも可能ではないでしょうか?」
「ふうん」と、ジョンはいった。「非常にきわどい仕事だったろうな」
「そう、でも、不可能じゃなかったでしょうな」
「だが、どうして、母のコーヒーだと、彼にわかったろう? いいや、大将、そいつは当てにならないと思うね」
しかし、わたしはべつのことを思い出した。
「あなたのいう通りですね。これじゃ説明になりませんね。ねえ、ちょっと」と、そこで、わたしは、ポアロが取って来て、分析をさせたココアのことを、彼に話した。
わたしがいい終わるとすぐに、ジョンは、さえぎっていった。
「だが、ねえ、バウエルスタインが、もうすでに、分析したんだよ」
「ええ、ええ、そこが問題ですよ。わたしは今まで、どちらも気がつかなかったんです。あなたに、わかりませんか? バウエルスタインが、それを分析した――そこが肝心のところですよ! もし、バウエルスタインが犯人なら、普通のココアを見本にすり換えて、試験にだすくらい、彼にとって、それ以上簡単なことはないでしょう。そして、もちろん、それには、ストリキニーネは発見されないにきまっている! だが、だれ一人、バウエルスタインを怪しいなどと夢にも思わないでしょうし、べつのココアをだしたなどと思うものもないでしょう――ポアロを除いて」わたしは、遅まきながら、それを認めるとともに、こうつけ加えていったのだ。
「うん。だが、ココアではかくせないという、苦い味はどうなんだね?」
「ああ、その点については、彼から聞いたというだけですからね。そして、他にも可能性はあるでしょう。彼は、あまねく認められている、世界最大の毒物学者《トキシコロジスト》の一人だし――」
「世界最大のなんだって? もう一度、いってくれたまえ」
「ほとんどだれよりも、彼は、毒物について詳しいんです」と、わたしは説明した。「つまり、わたしの考えでは、おそらく、彼は、ストリキニーネの味を無くす方法を見つけたろうということなんです。それとも、ストリキニーネではぜんぜんなくて、同じような症状をもたらす、これまでに聞いたこともない不明の毒薬かもしれないですね」
「ふうん、なるほど、そうかもしれないね」と、ジョンもいった。「しかし、ねえ、どうして、彼がココアのところへ行けたろう? ココアは、階下になかったんだぜ」
「そう、下にはなかったですね」わたしは、しぶしぶ認めた。
その時、突然、おそろしい可能性がわたしの心にひらめいた。わたしは、そんなことがジョンにはないようにと、願い、祈った。わたしは、ちらっと横目に、彼を見た。彼は途方に暮れたように、渋面を寄せていたので、わたしは、ほっと安堵の深い吐息をはいた。というのは、こうだった。バウエルスタイン博士には、共犯者がいたのかもしれない、という考えだった。
だが、確かに、そんなこと、あるはずがない! メアリー・カヴェンディッシュのような美しい女が、殺人犯などということがあるはずはない。だが、美しい女が、毒を盛るというのは、よく知られていることだ。
すると、突然、わたしが着いた日のお茶の席での最初の会話を、毒薬は女の武器だといった時の、彼女の目のきらめきを、わたしは思い出した。あの運命の火曜日の夜、なんと、彼女は興奮していたことだったろう! イングルソープ夫人が、何か彼女とバウエルスタインとの仲のことを見つけて、彼女の夫に告げると脅かしたのだろうか? 犯罪が行なわれたのは、その口を封ずるためだったのだろうか?
つづいて、わたしは、ポアロとイヴリン・ハワードのあいだの、謎のような会話を思い出した。彼らのいっていたことは、このことだったのだろうか? イヴリンが信じようとしなかったのは、このおそろしい可能性だったのだろうか?
そうだ、みんな符合するじゃないか。
ミス・ハワードが、『口をつぐんで』と遠まわしにいったのも、もっともだ。今、『エミリー自身が――』とだけで、おしまいまでいわなかった彼女の言葉がわかった。そして、心の中で、わたしは、彼女に同意した。イングルソープ夫人は、そのような不名誉がカヴェンディッシュの家名にふりかかることよりも、むしろ復讐せずにすませるほうを選んだのではなかろうか?
「ほかにもあるよ」と、不意にジョンがいった。そして、その彼の声の思いもよらない響きが、悪いことでもしたように、わたしをびっくりさせた。「きみのいうことがほんとうなら、ぼくには、怪しいなと思えてくることがあるんだ」
「なんです、それは?」と、わたしはたずねた。心の中では、どういうふうに、毒がココアの中へ入れられたかという問題からはなれたのを、ありがたいと思った。
「それはね、バウエルスタインが解剖が必要だといった事実さ。彼には、そんなことをする必要はなかったんだ。ちびのウィルキンズは、心臓麻痺で見のがしたって満足したんだろうがね」
「そうですね」と、わたしは、あいまいにいった。「だが、わかりませんね。おそらく、長年のうちには、そのほうが安全だと、彼は思ったんでしょうね。だれかが、後になってなんとかいうかもしれない。そうすれば、国務省が死体の発掘を命じるでしょう。その時になって、事の真相が明らかになれば、彼は、困難な立場に立つことはきまっています。というのは、彼ほどの令名のある学者が心臓病といわれてだまされたとは、だれも信じるものもないでしょうからね」
「そう、それもそうだね」と、ジョンも認めた。「だが」と、彼はつけ加えていった。「彼の動機がなんだったかわかれば、いいんだがな」
わたしは、ふるえあがった。
「ねえ」と、わたしはいった。「わたしのいったことは、全部、間違っているかもしれませんよ。それに、忘れちゃいけませんよ。みんなこれは、ないしょですよ」
「ああ、もちろんさ――いわないよ」
わたしたちは話しながら、歩きつづけて、ちょうど庭にはいる小さな門を通ったところだった。すぐ近くで人の声が聞こえた。わたしが着いた日もそうだったように、大楓の木の下にお茶の支度がひろげられていたからだ。
シンシアも、病院からもどっていた。わたしは、彼女のそばに椅子をならべて、薬局を訪問したいとポアロがいっていたと、彼女に告げた。
「どうぞ! ぜひ見ていただきたいわ。いつか、お茶に来ていただくほうがいいわ。きっと、お待ちしててよ。あの方、ほんとうにいい方ね! でも、おかしな方よ。いつぞや、あたしのネクタイからブローチを取って、つけ直してくだすったのよ。曲がっていたんですって」
わたしは、声を立てて笑い出してしまった。
「あの男の癖なんですよ」
「そうお、そうなの?」
わたしたちは、一、二分、黙っていた。それから、ちょっとメアリー・カヴェンディッシュの方を見ながら、声をひそめて、シンシアはいった。
「ヘイスティングズさん」
「え?」
「お茶の後で、あたし、あなたとお話がしたいの」
彼女が、ちらっとメアリーを見たことが、わたしを考えさせた。この二人のあいだには、ほんのわずかの同情もないのだなと、わたしは考えた。はじめて、この娘の将来はどうなるのだろうという考えが、わたしに浮かんだ。イングルソープ夫人は、彼女にはなんの遺産も残してはいなかった。しかし、ジョンとメアリーは、おそらくいっしょに住むようにというだろう――少なくとも戦争がすむまでは、そうさせるだろうと、わたしは思った。ことに、ジョンは、ひどく彼女を好いていたのだし、行かれれば残念がるだろうと、わたしも思っていた。
家の中へはいっていたジョンが、その時、また現われた。彼の人の好い顔が、珍しく渋面をつくって憤怒をあらわしていた。
「うるさい刑事どもったら! いったい、何を捜しまわっているんだ! 家じゅうの部屋という部屋へはいりこんで――中の物はほうりだすわ、ひっくり返すわ。まったく、めちゃめちゃすぎるよ! みんなが外に出ているのにつけ込みやがったんだな。このつぎ、あのジャップという奴を見つけたら、やっつけてやるぞ!」
「せんさく好きのおせっかい屋ばかりがいるのね」と、ミス・ハワードが不平をいった。
ローレンスは、彼らだって、何かしているように見せかけておかなくちゃいけないのさ、という考えだった。
メアリー・カヴェンディッシュは、何もいわなかった。
お茶の後で、わたしは、散歩に行きませんかとシンシアを誘った。そして、わたしたちはいっしょに、森の中へぶらぶらと出かけた。
「それで?」木の葉の幕で、せんさく好きな目から守られているところへ来るなりすぐに、わたしはたずねた。
ため息をつくといっしょに、シンシアは、さっと腰をおろして、帽子をほうり投げた。枝のあいだからさして来る日の光が、赤褐色の彼女の髪の毛を、きらきらと黄金色に変えた。
「ヘイスティングズさん――あなたは、いつでも、とてもご親切で、それに、なんでもご存じでしょう」
その瞬間、シンシアという娘は、ほんとうに、ひどくチャーミングな娘だという思いが、わたしの心を打った。こんなふうなことはけっしていったこともないメアリーより、はるかにチャーミングだ。
「それで?」彼女が口ごもっているので、わたしは、やさしくたずねた。
「あたし、あなたのご意見が伺いたいの。あたし、どうしたらいいんでしょう?」
「どうしたらとは?」
「ええ、ねえ、エミリーおばさまは、いつも、あたしにも遺産を残してあげるっておっしゃっていらしたのよ。おばさまはお忘れになったのね。それとも、死ぬなんてお考えになっていなかったのかしら――とにかく、あたしには、なんにも下さらなかったの! ですから、どうしていいか、あたし、わからないの。すぐに、ここから出て行かなくちゃいけないと、お思いになって?」
「とんでもない、いけませんよ! みんなが放しはしませんよ、間違いありませんよ」
シンシアは、小さな手で草を抜きながら、一瞬口ごもっていたが、やがて、いった。「カヴェンディッシュ夫人は、そうしてよ。あの人、あたしを憎んでいるんですもの」
「あなたを憎んでいるって?」驚いて、わたしは、叫ぶようにいった。
シンシアは、うなずいた。
「そうなの。何故だかわからないけど、彼女、あたしに我慢できないらしいの。それに、彼もそうなの」
「そりゃ、あなたの間違いですよ」わたしは、暖かくいった。「それどころか、ジョンは、とてもあなたを好いていますよ」
「ええ、そうよ――ジョンはね。あたしのいうのはローレンスのことよ。もちろん、ローレンスが、憎もうと憎むまいと、あたしは、気になんかしないの。でも、だれにも愛してもらえないなんて、おそろしいことじゃなくって?」
「だって、みんな愛しているんですよ、シンシア」わたしは、心をこめていった。「あなたは確かに誤解しているんですよ。ねえ、ジョンがいるでしょう――それから、ミス・ハワードに――」
シンシアは、むしろ陰気にうなずいた。「ええ、ジョンは、あたしが好きだと、あたしも思うわ。それから、エヴィも、あんなぶっきら棒だけど、だれにだって不親切じゃないわね。でも、ローレンスは、用がなければ、けっしてあたしにものなんかいわないわ。それから、メアリーは、あたしと仲よくするなんてことは、ほとんどできないらしいの、彼女は、エヴィにはほっといてもらいたいって、彼女に頼んでもいるわ。でも、あたしにはいわないの。それで――それで――あたし、どうしたらいいかわからないの」不意に、かわいそうな子どもは、泣きだしてしまった。
わたしには、何がわたしにとりついたのかわからない。おそらく、その髪の毛を日の光にかがやかせて、そこにすわっている彼女の美しさのせいだったのだろう。ことによると、今度の事件とは明らかに関係のない人間と向かい合っている安堵感からだったかもしれない。あるいは、彼女の若さと孤独に対する虚偽りのない同情だったかもしれない。とにかく、わたしは、身を乗り出すと、彼女の小さな手をとって、不器用にいった。
「ぼくと結婚してください、シンシア」
はからずも、わたしは、彼女の涙に対する特効薬を見つけたのだ。彼女は、たちまち身を起こして、手を引っこめると、いくぶん不愛想にいった。
「ばかなことをいわないでよ!」
わたしは、少々あわてた。
「ばかなことなんかいってませんよ。わたしの妻になってくださいと、お願いしているんです」
ひどく驚いたことには、シンシアは大声で笑い出して、『おかしな方』と、わたしのことをいった。
「ほんとうに、あなたはやさしいのね」彼女はいった。「でも、そんなこと思ってもいないとわかっていらっしゃるのに!」
「ええ、思っていますよ。わたしは、あの――」
「なんでもいいわ。あなたには、そんな気持は、ほんとうはないのよ――あたしだって、そんな気持はないわ」
「そう、もちろん、それじゃ仕方がありません」わたしは、ぎこちなくいった。「しかし、笑うことはないと思いますね。求婚をしたからといって、おかしいことはないでしょう」
「そう、ほんとね」シンシアはいった。「このつぎには、だれかが、ええというかもしれないわ。さようなら、あなた、あたしをとても、元気づけてくだすってよ」
そして、最後は、押えきれないように、おもしろそうに大きな笑い声をあげて、木立の向こうへ消えて行った。
この会見のことを考えると、わたしは、心からの不満に打たれた。
その時不意に、村へ行って、バウエルスタインに会ってみようという考えが、わたしの心に浮かんだ。だれかが、あの男には目をつけていなければいけないのだ。同時に、疑われているなど、彼に気づかせないようにするのが賢明なやり方だろう。わたしは、ポアロが、わたしの掛け引きの腕をあてにしているのを思い出した。それで、わたしは、彼の住まいだと知っていた、窓に『アパートメント』という札の出ている小さな家へ行って、ドアを叩いた。
一人の年よりの女が出て来て、ドアを開けた。
「今日は」わたしは、快活にいった。「バウエルスタイン博士はおいでですか?」
彼女は、わたしをじろじろと見た。
「お聞きじゃなかったんですか?」
「何を聞くんです?」
「あの方のことを」
「あの人がどうしたんです?」
「いなくなっちまったんです」
「いなくなった? 亡くなったんですか?」
「いいえ、警官が来て、連れて行かれてしまったんです」
「警官が来て!」わたしは息がとまりそうになった。「逮捕されたというんですか?」
「ええ、そうなんです。そして――」
わたしは、待っていて、それ以上聞こうともしなかった。それどころか、ポアロを探しに、夢中で村をかけた。
第十章 逮捕
まったく困ったことには、ポアロは不在だった。わたしがノックすると出て来た年よりのベルギー人は、ポアロはロンドンへ行ったと教えてくれた。
わたしは、あきれてものもいえなかった。いったい、ロンドンに、ポアロがなんの用事があるというのだろう? 急に思いたったのだろうか? それとも、二、三時間前に、わたしと別れた時に、もうその決心をしていたのだろうか?
いくらかがっかりして、わたしはスタイルズ荘へともどって来た。ポアロがいなくては、どうしていいか、わたしにはわからなかった。彼は、この逮捕を予期していたのだろうか? ことによると、この逮捕のもとも、彼ではなかったのだろうか? こういう疑問も、わたしには解くこともできなかった。しかし、こういうあいだも、わたしは、どうすればいいのだろう? あからさまに、この逮捕のことをスタイルズ荘で伝えてもいいだろうか? いけないだろうか? もっとも、自分では気がついていなかったが、メアリー・カヴェンディッシュのことが、わたしの胸に重くのしかかっていたのだ。その逮捕の知らせは、彼女にはおそろしいショックにはならないだろうか? さし当りは、彼女への疑いなど、わたしは度外視した。彼女が関係しているはずがない――さもなければ、何かヒントを聞いているはずだ。
もちろん、バウエルスタイン博士の逮捕を、いつまでも彼女に隠しておくことはできそうもなかった。明日になれば、どの新聞も、いっせいに書き立てるだろう。しかし、わたしは、そのことをもらすのに二の足を踏んだ。ポアロさえいてくれれば、彼の助言を聞けるのだが。この大切な場合に、急にロンドンへ飛んで行くなんて、何が彼にとりついたのだろう?
自分では気がつかなかったが、彼の聡明さに対するわたしの評価が、おそろしく高くなった。ポアロさえ、わたしの頭に吹きこまなかったら、博士を疑うことなど、夢にもわたしはしなかったろう。そうだ、断然、あの小男は、頭がいい。
しばらく考えてから、わたしは、ジョンだけに、わたしの秘密を打ち明けて、彼が適当だと思うように、このことを公表するもしないも、彼にまかすことにした。
わたしがニュースを伝えると、彼は、びっくりするほど大きな口笛を吹いた。
「凄い警視庁だな! きみが正しかったんだ、それじゃ。あの時には、ぼくは信じられなかったが」
「いや、驚くべきことですよ。馴れてしまって、なにからなにまで符合するとわかってしまえばべつですがね。ところで、わたしたちは、どうします? もちろん、明日は、一般にわかってしまうでしょうがね」
ジョンは、考えていた。
「構わないよ」やがて、彼はいった。「今は、何もいわずにおこう。いう必要はないよ。きみもいうように、すぐにわかるさ」
だが、驚いたことには、つぎの朝早く降りて行って、夢中で新聞を拡げて見たのだが、逮捕については一言も出てはいないのだ! 『スタイルズ荘の毒殺事件』についての埋め草はあったが、その他には何もなかった。ちょっとわけがわからなかったが、何かわけがあって、ジャップが新聞の記事をとめたのだろうと、わたしは想像した。わたしは、ちょっと気になった。というのは、まだこれからも逮捕があるという可能性を暗示しているからだった。
朝食をすますと、わたしは村へ行って、ポアロがもうもどって来たかどうか、見てみる気になった。ところが、わたしが出かけないうちに、あの親しい顔が窓のところに現われて、あの馴染みの声で呼びかけた。
「おはよう、モナミ!」
「ポアロ」と、わたしは大きな声でいうと、ほっとするといっしょに、両手で彼をとらえて、部屋の中へ引っ張りこんだ。「だれに会うより、こんなうれしいことはありませんよ、いいですか。ジョンのほかには、だれにもなんにもいいませんでしたよ。それで、いいでしょう?」
「あなた」と、ポアロはこたえた。「なんのことをいってるんだか、わたしには、まるでわからないけど」
「バウエルスタイン博士の逮捕のことですよ、もちろん」わたしは、いらいらしてこたえた。
「じゃ、バウエルスタイン博士が逮捕されたんですか?」
「知らなかったんですか?」
「いや、ちっとも」しかし、ちょっと息をついてから、彼はつけ加えた。「しかし、べつにびっくりもしませんね。なにしろ、海岸から、たった四マイルしかないところにいるんですからね」
「海岸?」わたしはわけがわからなくなって、たずねた。「それがどうしたんです?」
ポアロは、肩をすぼめた。
「ええ、はっきりしてるじゃありませんか!」
「わたしには、はっきりしませんね。確かに、わたしは、頭の働きがひどくにぶいんですけど、海岸に近いことと、イングルソープ夫人の殺人事件と、どんな関係があるのかわかりませんね」
「ぜんぜん関係なんかありませんよ、もちろん」にこにこしながら、ポアロはこたえた。「だが、話しているのは、バウエルスタイン博士の逮捕のことでしょう」
「そう、彼が逮捕されたのは、イングルソープ夫人殺害の容疑で――」
「なんですって?」彼は、目に見えてびっくりして、叫ぶようにいった。「バウエルスタインが、イングルソープ夫人殺害の容疑で逮捕されたんですって?」
「そうですよ」
「とんでもない! ばかにもほどがありますよ! だれが、そんなこといったんです、あなた?」
「ええ、だれもはっきりとはいいやしませんでしたけど」と、わたしは打ち明けた。「でも、逮捕はされてるんです」
「ああ、そうですか。それならありそうなことですよ。でも、スパイ行為ででしょう、あなた」
「スパイ行為?」わたしは息をのんだ。
「そうですよ」
「イングルソープ夫人毒殺の容疑じゃなくですか?」
「われわれの友人のジャップが正気をなくさない限り、そんなことはありませんよ」と、静かにポアロはこたえた。
「でも――でも――わたしは、あなたも同じように思うだろうと思いましたがね?」
ポアロは、わたしに一瞥を与えたが、それは不思議そうな同情と、こんなばかばかしい考えに対する嘲笑の色とを浮かべていた。
「すると、あなたは」と、ゆっくり、新しい考えに自分を適応させながら、わたしはたずねた。
「バウエルスタイン博士がスパイだというんですね」
ポアロは、うなずいた。
「一度も、そんなことを疑ったこともなかったんですか?」
「一度も、考えたことさえもありませんでしたね」
「有名なロンドンの医師が、こんな小さな村にうずもれて、しかも、夜じゅう時を選ばず、きちんと服を着けて歩きまわる癖があるなどということを、変だとは思いませんでしたか?」
「いいえ」と、わたしは白状した。「そんなこと考えたこともありませんでした」
「彼は、もちろん、生まれながらのドイツ人です」と、彼はつくづくといった。「もっとも、久しくこの国で開業していたので、イギリス人ではないなどと、彼のことを思う人は一人もなかったでしょう。彼は、十五年ほど前に帰化した人です。非常に頭のいい男で――もちろん、ユダヤ人ですよ」
「悪漢!」と、わたしは腹立たしく叫んだ。
「とんでもない。それどころか、愛国者ですよ。彼の立場がなくなることを考えてごらんなさい。わたしは、自分ではあの人に感心していますよ」
しかし、わたしは、ポアロのような哲学的な見方で、それを見ることはできなかった。
「そして、それがカヴェンディッシュ夫人といっしょに、そこらじゅうを歩きまわっている男なんですよ!」と、わたしは、腹立たしく叫ぶようにいった。
「そうです。彼は、彼女を非常に便利だと考えたというべきでしょうね」と、ポアロはいった。
「人の噂が、二人の名前をいっしょにして騒いでいるうちは、いつまでも、あのドクターのほかの物好きは、人に気づかれずにすんでいるでしょうからね」
「すると、彼は、彼女のことなどけっして本気になって考えてはいなかったと、思っているんですね?」わたしは、懸命に――この場にしては、おそらく、懸命すぎるくらいにたずねた。
「それは、もちろん、なんともいえません、が、しかし――わたし自身のひそかに考えている意見をいいましょうか、ヘイスティングズ?」
「ええ」
「そう、それはこうです。カヴェンディッシュ夫人は、バウエルスタイン博士のことなど、ほんのぽっちりとも、気にかけたこともなかったし、今も気になどしてはいないということです!」
「ほんとに、そうお思いですか?」わたしは、自分の喜びをかくすことができなかった。
「わたしは、そう信じていますよ。そして、そのわけを話しましょう」
「それで?」
「そのわけは、彼女は、他の人のことを愛しているからですよ、あなた」
「えっ!」どういうつもりでいったのだろう? 思わず知らず、気持のいい暖かみが、わたしの内部にひろがった。わたしは、こと女に関しては、けっしてうぬぼれの強い男ではないが、わたしは、確かな証拠を思い出した。おそらく、その時には、ほんのかるく気づいただけだったが、しかし、確かに、そうだといえるような――
わたしの楽しい思いは、ミス・ハワードが不意にはいって来たのでさえぎられた。彼女は、あわただしく、ぐるっと見まわして、だれもほかには部屋にはいないのを見定めてから、急いで、一枚の茶色の古い紙片を取り出した。これを、彼女はポアロに渡しながら、謎のような言葉をつぶやいた。
「衣装箪笥の上で」それから、急いで、部屋から出て行った。
ポアロは、懸命に、その紙片をひろげた。そして、満足そうな叫び声をあげた。彼は、それをテーブルの上にひろげた。
「ほら、ヘイスティングズ。さあ、いってください、この頭文字はなんです――Jですか、Lですか?」
それは、中くらいの大きさの紙で、うす汚れていて、どう見てもしばらくしまってあったとしか思われなかった。しかし、ポアロの注意を引いているのは、それについているレッテルだった。その一番上に、有名な演劇用衣装屋パークスン商会の商標が刷りこまれていて、宛名は『――(ここに問題の頭文字があって)・カヴェンディッシュ殿、スタイルズ・セント・メアリー・エセックス』となっていた。
「Tかもしれないし、Lかもしれませんね」一、二分それを見つめてから、わたしはいった。
「確かにJじゃありませんね」
「よろしい」と、ポアロはいって、また、その紙をたたんだ。「わたしも、そう思います、Lですよ、確かに!」
「どこから来たのです? 重要なんですか?」
「ある程度、重要です。わたしの推測を固めてくれるんです。こいつがあるはずだと考えたので、ミス・ハワードに探してもらったのです。ごらんの通り、彼女は、探し出してくれたわけですよ」
「『衣装箪笥の上で』といったのは、なんのことです!」
「それは」と、すばやくポアロはこたえた。「彼女が衣装箪笥の上で見つけたということなんですよ」
「こんな茶色の紙きれがあるところとしては、おかしなところですね」わたしは、つくづくといった。
「とんでもない。衣装箪笥の上というのは、茶色の紙やボール箱には、格好の場所なんです。わたしも、そんな物はそこにおいておきますがね。きちんと片づけておけば、目の邪魔にもなりませんからね」
「ポアロ」と、わたしは懸命にたずねた。「あなたは、この犯罪について、見通しがおつきになったんですか?」
「ええ――ということは、どういうふうにして犯行が行なわれたか、わかっていると思うんです」
「ああ」
「ただ、残念ながら、わたしの推測を裏づける証拠がないのです、ただ――」不意に力一杯に、彼は、わたしの腕をつかんで、フランス語で興奮したようにどなりながら、わたしをホールへつれこんで、「マドモアゼル・ドーカス、マドモアゼル・ドーカス、ちょっと来てください、どうぞ!」
ドーカスは、この物音にすっかりあわてて、急いで台所から出て来た。
「ドーカスさん。思いついたことがあるんです――ちょっとした思いつきで――これが正しいとなったら、すばらしい出来事です! いいですか、月曜日ですよ、火曜日じゃありませんよ、ドーカスさん、月曜日ですよ、事件の前の日の、その日に、イングルソープ夫人のベルに、どこか故障がありませんでしたか?」
ドーカスは、ひどく驚いたようすだった。
「はい、旦那さま、おっしゃる通りですわ、故障していました。でも、どうしておわかりになりました。鼠か何かでございましょう、きっと線をかじったにちがいないんでございます。火曜日の朝には、職人が来て直しましたのですが」
長い有頂天になった叫び声をあげて、ポアロは、モーニング・ルームへと引っ返した。
「ねえ、わかったでしょう。皮相の証拠を探したってだめです――そう、推理は、十分でなくちゃいけません。しかし、人間というものは、弱いもので、自分が間違いない道を歩いているとわかると慰めになるんですね。ああ、あなた、わたしは、元気を回復した巨人のようですよ。走るぞ! 飛びはねるぞ!」
そして、まさにその通り、走り、飛びはねて、細長い窓の外にひろがっている芝生の上を、めちゃくちゃに跳ねまわって行ってしまった。
「あなたのひどく小さなお友だちは、何をしていらっしゃいますの?」わたしの背後で声がした。振り向くと、すぐ近くにメアリー・カヴェンディッシュが立っていた。
彼女は微笑をした。わたしもにっこりした。「いったい、どうなすったんですの?」
「じつは、わたしにもわからないんです。彼は、ドーカスに、ベルがどうとかとたずねていたんですが、返事を聞くと、ひどく喜んでしまって、ああしてはねまわっているんです!」
メアリーは、声を立てて笑った。
「まあおかしな方! 門から出て行っておしまいになるわ。今日は、もう帰っていらっしゃいませんの?」
「わかりませんね。彼がこのつぎ、何をやりだすのか、考えるのはやめにしましたよ」
「ほんとうにお頭《つむ》が変じゃありませんの、ヘイスティングズさん?」
「正直なところ、わたしにもわかりませんね。時々、確かに、彼は大変な気違いだという気のする時があるんです。ところが、その気違いぶりが絶頂に達した時、その気違いぶりに筋道が立っているような気がするんです」
「わかります」
声を立てて笑っているのに、今朝のメアリーは、考えあぐねているような顔つきだった。沈みきって、ほとんど悲しそうなようすだった。
シンシアの問題で、彼女にぶつかるにはいい機会だという気が、わたしに浮かんだ。わたしは、如才なくきりだしたと思ったのだが、たいして話を進めないうちに、彼女は、厳然とわたしをとめた。
「あなたは、すばらしい弁護人ね。確かにそうだと思いますわ、ヘイスティングズさん、でも、そのことでは、その腕もすっかり無駄ね。シンシアは、わたくしに辛く当たられるような心配をすることなんかありませんわ」
わたしは、そんなふうにとらないでいただきたいと、おどおどと口ごもりかけた――しかし、また、彼女は、わたしを押しとどめた。そして、彼女の言葉がひどく思いがけなかったので、シンシアのことも、シンシアの悩みまでも、わたしの胸から追っぱらってしまった。
「ヘイスティングズさん」彼女はいった。「わたくしと夫のあいだが幸福だとお思いになりまして?」
わたしは、ちょっと不意を打たれて、そんなことを考えるのは自分のすることではないとかなんとか、ぶつぶつ口の中でいった。
「そうね」と、彼女は、落ち着いていった。「あなたのなさることでも、なさることでなくても、わたくし、わたくしたちは幸福ではないと申し上げますわ」
わたしは、何もいわなかった。彼女がまだいい終ってはいないのだなと思ったからだ。
彼女は、部屋の中をあちこちと歩きまわりながら、ゆっくりと話しはじめた。頭を心持ちうなだれて、そのほっそりとした、しなやかな姿は、歩くにつれて、おもむろに揺れた。彼女は、ふと立ちどまって、わたしを見上げた。
「わたくしのことは、何もご存じないのでしょう?」と、彼女はたずねた。「わたくしの生まれたところも、ジョンと結婚するまでは、どういう女だったかも――何もご存じないでしょう、ほんとうに? ええ、お話しますわ、あなたを懺悔聴聞《ざんげちょうもん》僧だと思って。あなたはご親切なんですもの――そうですわ、あなたは、ほんとうに、おやさしいんですもの」
どういうものか、わたしは、前のような得意の気分ではまったくなかった。わたしは、シンシアも同じような調子で、打ち明け話をはじめたのを思い出した。それに、懺悔聴聞僧などというものは、年とった人間でなくてはいけないもので、若い男の役どころではまったくないものなのだ。
「わたくしの父はイギリス人でした」カヴェンディッシュ夫人はいった。「ですが、母はロシア人でした」
「ああ」と、わたしはいった。「それで、わかりました――」
「何がおわかりになりまして?」
「何かしら異国的な感じ――何か違ったものが――あなたのまわりに、いつもあったんです」
「母は、とても美人だった、と思いますわ。ほんとうはよく知りませんの、だって、一度も見たことがなかったんですもの。母は、わたくしが、ほんとうに小さい子どものころに亡くなりましたの。なんだか悲劇的なものがあったと思いますの。母の死については――誤って、何かの睡眠薬を飲みすぎたんですわ。それがどんなことだったにしても、父は、すっかり悲嘆に沈んでしまったのですわ。その後、間もなく、父は領事勤務になりましたの。父の行くところへはどこでも、わたくしもいっしょにまいりましたわ。わたくしが二十三になったころには、ほぼ世界じゅう、わたくし、知らないところはないほどでした。すばらしい生活でしたわ――わたくし、大好きでしたわ、あの生活」
彼女には、微笑が浮かんでいた。そして、頭は、昂然《こうぜん》ともたげられていた。彼女は、そういう昔の楽しかった日々の思い出にひたっているようだった。
「やがて、父が死にました。遺産らしいものは、何一つ残してはくれませんでした。ヨークシャにいた、年とった伯母のところへ行って、いっしょに住まなければなりませんでした」彼女は、身をふるわせた。「わたくしのようにして育ってきた娘にとっては、おそろしい生活でしたと申し上げたら、わかっていただけますでしょうね。せせこましさ、息もつまりそうな単調な生活、ほとんど気も狂いそうでした」彼女は、ちょっと息を切ってから、違った調子でつけ加えた。
「そこで、ジョン・カヴェンディッシュに会いましたの、わたくし」
「それで?」
「ご想像がおつきでしょう、伯母たちの見方からすれば、わたくしには、とてもいい似合いの相手だったのですわ。でも、わたくしをひきつけたのは、そんなことではなかったのだと、正直に申し上げられますわ。ええ、そうなんですの。彼はただ、わたくしの我慢のできないほどの単調な生活から逃げ出す手段にすぎなかったということですの」
わたしは、一言もいわなかった。すると、ちょっと間をおいて、彼女は話しつづけた。
「わたくしを誤解なさらないでくださいましね。わたくしは、彼には、ほんとに誠実にしましたわ。ほんとうのこと、非常に彼が好きだということも、もっともっと好くようになりたいと思っているということも、でも、どうしても、世間でいっているように、彼を『愛して』はいないということも、彼に申しましたの。彼は、それで満足だといいきりましたわ――それで、わたくしたち、結婚しましたの」
彼女は、長いこと待っていた。かすかな皺が、その額に寄っていた。彼女は、そういうころの過ぎ去った日々のことを、懸命に振り返っているようだった。
「わたくし――確かに――はじめは、彼は、わたくしのことに気を配ってくれたと思いますわ。でも、わたくしたち、いい配偶者ではなかったんでしょうね。彼は――わたくしの自尊心には愉快なことではないんですけど、でも、ほんとうのことですの――彼は、すぐに、わたくしに倦《あ》きてしまったんです」わたしはきっと、何か、そんなことはないとでも、口の中でいったのにちがいない。というのは、彼女は、すぐに、こうつづけていったのだから。「いいえ、そうなんです。倦きてしまったんですわ! もう今では、そんなことはどうでもいいんです――今はもう、別れるというところまできてしまっているんですもの」
「それは、どういう意味です?」
彼女は、静かにこたえた。
「わたくしが、スタイルズに、とどまっているつもりはないということですの」
「あなたとジョンとが、ここに住まないということなんですね?」
「ジョンは、ここに住むでしょう。しかし、わたくしは、住まないつもりですの」
「彼をおいて、行くとおっしゃるんですね?」
「ええ」
「でも、どうしてです?」
彼女は、長いこと黙っていた。それから、最後にいった。
「たぶん――わたくし――自由になりたいからでしょうね!」
そして、彼女が話している時、わたしは突然、広い広い場所を、森の処女地を、人の足で踏まれたことのない土地の幻影を見た――そして、メアリー・カヴェンディッシュのような性格の女にとって、自由とはどういうものかと、身にしみて感じた。わたしは、一瞬、彼女を見ていると、高原のおどおどとした小鳥のように、文明の手の加わっていない、誇り高い野性の生物のような気がした。すると、小さな叫びが、彼女の唇からもれた。
「あなたには、おわかりにならないわ。おわかりにならないわ。このいまわしいところが、わたくしにはどんなに牢獄だったかは!」
「わかります」と、わたしはいった。「ですが――ですが、早まったことをなすってはいけません」
「まあ、早まるですって!」彼女の声は、わたしの分別くささをあざけっていた。
その時、ふっと、わたしは、舌でも噛み切ってしまいたくなるようなことをいった。
「バウエルスタイン博士が逮捕されたことはご存じでしょう?」
さっと、仮面のようなつめたいものが、彼女の顔をよぎって、すべての表情を拭き消してしまった。
「ジョンが今朝、親切にもいってくれました」
「そうですか、どうお思いです?」と、わたしは、力なくたずねた。
「何をですの?」
「逮捕のことをですが?」
「わたくしが、何を思うんですの? 明らかに、あの人はドイツのスパイです。庭師がジョンにそういっていました」
彼女の顔も声も、まったくよそよそしく、無表情だった。彼女は、気にしていたのだろうか?
それとも、していなかったのだろうか?
彼女は、一、二歩はなれると、一つの花瓶をいじった。「すっかり枯れているわ。いけ直さなくては、ちょっと、どいていただけません――どうもありがとう、ヘイスティングズさん」そして、彼女は、もうすんでしまったというように、よそよそしくちょっと会釈をして、静かにわたしのそばを通って、フランス窓から出て行った。
そうだ。確かに、彼女は、バウエルスタイン博士のことなど気にもしていなかったのだ。どんな女でも、あんな氷のような無関心さで、自分の役割を演じられるものではあるまい。
つぎの朝、ポアロは、姿を現わさなかった。そして、警視庁の人間たちの影もなかった。
ところが、昼食の時、新しい証拠が一つとどいた――というよりも、証拠でないものといったほうがいいかもしれない。わたしたちは、イングルソープ夫人が死ぬ日の夕方に書いた、四番目の手紙を、いたずらに探しだそうとしていた。わたしたちの努力のかいもなかったので、いつか自然に出て来るだろうと思って、その問題はすててしまっていた。ところが、それが、あるフランスの楽譜出版社から、その日の第二便でとどいた通信文として、偶然にわかったのだ。文面は、イングルソープ夫人の為替を受け取ったが、残念ながら、ご注文のロシア民謡集はどうしても見つからないという返事だった。これでイングルソープ夫人が最後の夜に出した手紙の手づるで、謎を解こうという最後の望みも諦めなければならなくなった。
ちょうどお茶の前、この新しい失望の知らせをポアロに伝えようと、わたしはぶらぶらと出かけて行ったが、困ったことには、今度もまた、彼は出かけていた。
「またロンドンへ行ったのですか?」
「いいえ、いいえ、ムッシュー、タドミンスター行きの汽車に乗っただけです。『若い婦人の薬局を見に行くのだよ』といっていました」
「ばかだな!」と、思わず、わたしはいってしまった。「水曜日には、あの人はいないといったのに! じゃ、明日の朝、訪ねてくれるようにいっていただけませんか?」
「承知しました、ムッシュー」
ところが、あくる日になっても、ポアロは姿を見せなかった。わたしは、だんだん腹が立ってきた。彼のやり方は、じつに、このうえなくごうまんに、わたしたちを扱っているというものだった。
昼食の後、ローレンスは、わたしを脇へ呼んで、彼に会いに行くのかとたずねた。
「いいや、行こうとは思ってません。ぼくたちに会いたければ、こっちへやって来られるんですから」
「おお!」ローレンスは、心をきめかねているようすだった。何か、彼の態度が、ふだんとは違って神経質に、興奮しているのが、わたしの好奇心をかき立てた。
「なんです?」わたしはたずねた。「特別の用事なら、行きますよ」
「たいしたことじゃないんだが――そう、きみが行ったら、伝えてもらいたいんだ」と、声をひそめてささやく――「余分のコーヒー茶碗を見つけたと思いますって!」
わたしは、あのポアロの謎のような伝言のことは、ほとんど忘れてしまっていた。しかし、今また、わたしの好奇心が新たに燃え上がった。
ローレンスは、もうそれ以上は、いわないだろうと思ったので、わたしは、お高くとまっているのをやめにして、もう一度、ポアロを訪ねに、リーストウェイズ・コテージへ出かけて行った。
今度は、わたしは微笑で迎えられた。ムッシュー・ポアロは在宅だった。上がったかって? もちろん、上がって行った。
ポアロは、テーブルのそばにすわって、両手に顔をうずめていた。わたしがはいって行くと、彼は、飛び上がった。
「どうしたんです?」わたしは気にしてたずねた。「病気じゃないんでしょう?」
「いいえ、いいえ、病気じゃありません。しかし、重大な時期の問題で決心をつけているところなんです」
「犯人を捕えたものか、どうかとですか?」わたしは、ひょうきんにたずねた。
ところが、驚いたことには、ポアロは、重々しくうなずいた。
「『いうべきか、いうべからざるか』と、お国のシェイクスピアのいったように、『それが問題』なんです」
わたしは、ポアロの引用の間違いを訂正してやる気にもならなかった。
「真面目の話じゃないんでしょう、ポアロ?」
「大真面目ですよ。というのは、すべての中で、もっとも重大なことがはかりにかかっているからなんです」
「それで、それは?」
「一人の婦人の幸福ですよ、あなた」と、厳粛な口調で、彼はいった。
わたしは、なんといっていいか、まったくわからなかった。
「その時期が来ているんです」と、ポアロは考え考えいった。「そして、どうしていいか、わたしにはわからないんです。というのは、ね、大きなばくちなんです、わたしがやろうというのは。このエルキュール・ポアロ以外は、だれにもやれないばくちなんです!」 そして、彼は、得意そうに胸をたたいた。
この彼の効果を台なしにしてしまわないように、うやうやしく、しばらく間をおいてから、わたしは、ローレンスの伝言を伝えた。
「はは!」と、彼は叫ぶようにいった。「すると、余分のコーヒー茶碗を見つけたというんですね。そいつはいい、彼は見かけよりは、ずっと頭がいい。あのきみの陰気な顔のムッシュー・ローレンスよりは!」
わたし自身は、ローレンスの頭がそんなにいいとは思っていなかった。しかし、ポアロに反対するのはさし控えた。そして、いつがシンシアの休み日だと、わたしが教えてやったのを忘れていたことを、穏やかにとがめてやった。
「まったくですよ。わたしの頭はざるですよ。でも、もう一人の若いご婦人が、大変親切でしたよ。わたしががっかりしているのを気の毒がって、とても親切に、何から何まで案内して見せてくれましたよ」
「ああ、そうですか。それは、よかったですね。では、いつかシンシアといっしょに、お茶に呼ばれて行かなくちゃいけませんね」
わたしは、手紙のことを、彼に話した。
「それはいけませんでしたな」彼はいった。「わたしはいつも、あの手紙に望みを持っていたのですがね。でも、そうです。そんなものに、望みを持っちゃいけなかったんです。この事件は、内側から解いていかなくちゃいけないんですね」彼は、額をたたいて、「この小さな灰色の細胞ですよ。『これに責任あり』です――あなたが、ここでおっしゃったようにね」それから、不意に、彼はたずねた。「あなたは、指紋のことは詳しいですか?」
「いいえ」わたしは、むしろ驚いて、いった。「二つと同じ指紋がないということは知っていますが、わたしの科学知識はそれくらいの程度ですよ」
「その通りですよ」
彼は、小さな引き出しの鍵をはずして、何枚かの写真を取り出すと、テーブルの上においた。
「一、二、三と番号をつけておきましたが、そいつを、わたしにいっていただけませんか?」
わたしは、その証拠品を注意深く見くらべた。
「みんな、大変に引き伸ばしてありますね。一番は、男の指紋でしょうね。親指と人差指ですね 二番は、女ので、ずっと小さいから、どこから見てもひどく違っていますね。三番は」――わたしは、しばらく口をつぐんだ――「これは、たくさんの指紋がまじっているようですね。でも、この、非常にはっきりしているのは、一番のですね」
「ほかのに重なっているやつですね?」
「そうです」
「間違いなくわかりますね?」
「ええ、そうですとも。寸分違いませんよ」
ポアロはうなずいて、静かにわたしから写真を受け取ると、また元のようにして鍵をかけた。
「また、なんでしょうね」わたしはいった。「いつもの通り、説明はしてくださらないんでしょうね?」
「とんでもない。一番のは、ムッシュー・ローレンスの指紋です。二番のは、マドモアゼル・シンシアのです。この二つは、重要じゃないのです。比較をするために手に入れただけです。三番のは、もう少し複雑なんです」
「それで?」
「あれは、ごらんのように、ひどく引き伸ばしてありますでしょう。写真全体がぼやけているのに、気がおつきだったでしょう。わたしが使った、特別な材料や粉末などのことはいわないことにします。そんなことは、警察にはよくわかっている方法ですし、そんな方法でなら、だれだって、ごく短時間のうちに、どんな物からでも指紋写真がとれるのですから。ところで、あなた、指紋はごらんになったが――その指紋が残っていた、ある特別な品物のことをお話するのが、まだ残っていますね」
「先をいってください――わたしは、すっかりわくわくして来ました」
「よろしい! 三番目の写真は、タドミンスターの病院の薬局の一番上段の、毒物棚にあった小さな瓶の外側を、ごく大きく引き伸ばしたものなんです――まるでお伽話のようですね!」
「なんですって!」と、わたしは大声でいった。「だけど、なんだって、ローレンス・カヴェンディッシュの指紋が、そんな物についていたんでしょう? わたしたちがあすこへ行った時、彼は、毒物棚のそばへなんかけっして行かなかったようでしたがね?」
「ええ、そうですとも、行ったんですよ!」
「そんなことはないでしょう。わたしたちは、ずっといっしょにいたんですから」
ポアロは、首を左右に振った。
「いいえ、あなた、いっしょじゃなかった瞬間があったんですね。いっしょにいられない瞬間があったんです。といって悪ければ、ムッシュー・ローレンスにバルコニーへ出て来ていっしょになるようにと、呼びかける必要もなかったはずですね」
「そいつは、すっかり忘れていました」と、わたしも認めた。「でも、あれは、ほんの瞬間でしたがね」
「それで十分だったんです」
「何をするのに十分だったんです?」
ポアロの微笑は、ちょっと謎のようになった。
「以前に医学を学んだことのある紳士にとって、ごく自然に起こる興味や好奇心を満足させるには十分だというんです」
二人の目がぶつかった。ポアロの目は、気持よさそうにぼうっとしていた。彼は立ち上がって、何か鼻歌をうたった。わたしは、あやしむように、彼を見守った。
「ポアロ」わたしはいった。「その小さな特別の瓶には、何がはいっていたんです?」
ポアロは、窓から外を見ていた。
「塩化ストリキニーネ」肩越しに、彼はそういって、鼻歌をうたいつづけていた。
「へえ、そうでしたか!」わたしは、ごく静かにいった。驚きもしなかった。そのこたえを予期していたのだ。
「純粋の塩化ストリキニーネは、ごく稀にしか使わないもので――ただ、たまに丸薬に使うだけです。たいていの内服薬に使われるのは、薬局方による塩化キニーネの水溶液なんです。だから、それから後も、指紋が消されずに残っていたわけなんです」
「どうやって、その写真をおとりになったんです?」
「バルコニーから帽子を落としたんです」と、ポアロは、簡単に説明した。「外来の人間は、その時間には、下へ降りてはいけないことになっていましたんでね。それで、さんざんあやまって、シンシアの同僚におりていって、取って来てもらったんです」
「では、何が見つかるか、ご存じだったんですね?」
「いいや、まるきり知らなかったんですよ。ただあなたの話から、ローレンス君が毒物棚へ行ったろうと思っただけなんです。可能性は、確かめるか、除去するか、しなければなりませんでしたからね」
「ポアロ」わたしはいった。「そんな陽気な顔をなすってもだまされませんよ。それは、非常に重大な発見ですね」
「よくわかりませんね」ポアロはいった。「しかし、一つだけ、わたしにぴんとくることがあるんです。それは、あなたにも、疑いなくきているはずです」
「なんです、それは?」
「つまり、この事件にはストリキニーネが多すぎるということです。これで三度目ですよ、ぶつかるのは。イングルソープ夫人の強壮剤の中でしょう。スタイルズ・セント・メアリーでは、メイスが売ったでしょう。今度はまた、家族の一人がストリキニーネに手を触れているでしょう。まったく混乱をきたしますよ。そして、あなたもご存じのように、わたしの嫌いなのは混乱なんです」
わたしがまだ返事をしないうちに、一人のベルギー人がドアをあけて、首を突っ込んだ。
「下にご婦人が来て、ヘイスティングズさんにお会いしたいといっておいでですよ」
「ご婦人?」
わたしは、飛び上がった。ポアロは、わたしについて、狭い階段を降りて来た。メアリー・カヴェンディッシュが戸口に立っていた。
「わたくし、村のあるお婆さんを訪ねてまいりましたの」彼女はわけをいった。「そしたら、あなたがポアロさんのところにいらっしゃると聞きましたものですから、お訪ねしてみようと思いまして」
「ああ、奥さま」と、ポアロがいった。「わざわざ、わたしのところをお訪ねくだすったかと思っていましたのに」
「いつか、お訪ねいたしますわ、来いとおっしゃってくだされば」彼女は、にっこりしながら、約束した。
「結構ですね。もしまた、懺悔聴聞僧がご入用の時は、奥さま」――彼女は、かすかに驚きを示した――「いつでも、ポアロ神父がお役に立ちますことを、お忘れなく」
スタイルズ荘に着くまで、メアリーは、早口に、熱にうかされたように話しつづけた。なんとなく、彼女がポアロの目を薄気味悪く思っているなという気が、わたしにはした。
天気は崩れて、烈しい風が、ほとんど秋風のように烈しかった。メアリーは、少し身をふるわせて、黒のスポーツ・コートのボタンを、ぴったりかけた。木々を吹きわたる風は、巨人のため息にも似た、悲しそうな音を立てた。
わたしたちがスタイルズ荘の大玄関に来ると、たちまち何が異変があったなという感じが、ぴんと胸にきた。
ドーカスが、わたしたちを迎えに飛び出して来た。ほかの召使いたちも、うしろにかたまって、目と耳をそば立てているのに、わたしは気がついた。
「おお、奥さま! おお、奥さま! なんと申し上げてよろしいやら――」
「どうしたんだ、ドーカス?」わたしは、じりじりしていった。「早くいいなさい」
「あのいやな刑事どもでございます。あいつらが捕まえて行ってしまいました――カヴェンディッシュ旦那さまを捕まえて行ってしまいました!」
「ローレンスを捕まえたって?」わたしは、あえぐようにいった。
ドーカスの目に奇妙な色が浮かぶのを、わたしは見た。
「いいえ、旦那さま、ローレンスさまではございません――ジョンさまでございます」
わたしのうしろで、金切り声をあげるといっしょに、メアリーがぐったりと、わたしに倒れかかってきた。振り向いて、彼女を抱きとめようとしたわたしは、ポアロの目に、静かな勝利の色が浮かんでいるのを見た。
第十一章 公判
ジョン・カヴェンディッシュの継母殺しの公判は、二か月後に開かれた。
それまでのあいだの数週間については、わたしの賛美と同情とが、心からメアリー・カヴェンディッシュに向けられたというほかは、ほとんどいわないでおこう。彼女は、熱心に夫の肩をもって、彼の犯行だろうというただの思いつきだけだと軽蔑しながら、彼のために必死になって闘った。
わたしは、自分の感激を、ポアロに打ち明けた。彼は、考え深そうにうなずいた。「そうですね。あの人は、逆境に立つと、そのもっとも善いところを見せる女性の一人ですね。逆境が、その人たちの内にある、もっともやさしい、もっとも真実のものを引き出すのですね。彼女の自尊心や嫉妬が――」
「嫉妬?」と、わたしはたずねた。
「そうです。あなたは、あの人が一通り以上に嫉妬深い人だと感じませんでしたか? 今もいった通り、あの人の自尊心も嫉妬も、のけられてしまったんですよ。あの人は、夫のことと、そのうえにのしかかっているおそろしい運命のことだけしか考えていないのですよ」
彼は、非常に感情をこめて話した。そして、わたしは、昨日の午後、話そうか話さずにおこうかと、彼が考えていた時のことを思い出しながら、じっと、彼を見ていた。そして、『一人の女の幸福』に対する彼の思いやりから、決断が、彼の手で取られたのを、わたしはうれしいと感じた。
「今でも」と、わたしはいった。「わたしは信じられないんです。ね、最後のぎりぎりの瞬間まで、わたしは、ローレンスだと思っていたのです!」
ポアロは、にやっとした。
「あなたは、そう思っておいでだったでしょうね」
「だけど、ジョンがねえ! わたしの旧友のジョンがねえ!」
「どの殺人犯人だって、おそらく、だれかの旧友ですよ」と、ポアロは冷静にいった。「理性と感情とを混同しちゃいけませんね」
「それにしても、ヒントぐらいは与えてくだすったらと思いますね」
「それはね、あなた、彼があなたの旧友だったからというので、いわなかったんですよ」
そういわれると、バウエルスタイン犯人説をポアロの見解だと信じて、一生懸命、ジョンに伝えていたことを思い出して、わたしは、少しばかりまごついた。ついでながら、博士は、スパイ嫌疑を逃れて釈放されていた。とはいっても、今度の事件でも、頭のいいところを見せてスパイ嫌疑からは上手に逃れはしたものの、ほとんど完全に翼をもぎ取られてしまったも同じで、今後はどうにもならないことになってしまっていた。
わたしは、ジョンは有罪の宣告を受けるだろうかと、ポアロにたずねた。ところが、ひどく驚いたことには、彼は、それどころか、疑いもなく無罪になるだろうと返事をしたのだった。
「だって、ポアロ――」と、わたしは強くいった。
「ねえ、あなた、ですから、はじめから証拠がないと、あなたにいっていませんでしたか。容疑者だといわれることと、犯人だと立証されることとは、まったくべつのことですからね。それに、この事件では、おそろしく少ししか証拠がないのです。まったく悩みの種なんです。このエルキュール・ポアロにはわかっているのですが、鎖の最後の環がないのです。そして、そいつが見つけだせないと――」彼は、重々しく首を振った。
「一番はじめに、ジョン・カヴェンディッシュをあやしいとお思いになったのは、いつです?」一、二分してから、わたしはたずねた。
「あなたは、ぜんぜん、彼をあやしいと思いませんでしたか?」
「ええ、ぜんぜん」
「カヴェンディッシュ夫人と、老夫人との会話を小耳にはさんでからでもですか? また検屍審問の時に、カヴェンディッシュ夫人に率直さが欠けていると思った時でもですか?」
「ええ」
「あなたは、かれこれ総合して、老夫人と口論したのがアルフレッド・イングルソープではなかったとしたら――おぼえておいででしょう、検屍審問で、彼が極端に否定したのを――そうすれば、口論の相手は、きっとローレンスかジョンのどちらかだろうと、考えて見なかったのですか? ところで、口論の相手がローレンスだったとしたら、メアリー・カヴェンディッシュの振舞いがまったく説明がつかなかったんです。だが、反対に、ジョンだったとしたら、ごく自然に、いっさいの解釈がついたんです」
「すると」と、叫ぶようにいったわたしには、光がさしてくるようだった。「あの午後、夫人と口論したのはジョンだったんですね?」
「その通りです」
「そして、あなたは、はじめからずっと、ご存じだったんですね?」
「知っていました。カヴェンディッシュ夫人の振舞いは、そう説明しない限り、説明のつけようがないんです」
「それだのに、彼が無罪になるだろうとおっしゃるんですね?」
ポアロは、肩をすぼめた。
「まさに、そういいますね。第一審の過程では、読み上げられるでしょう。しかし、どう考えても、彼の弁護士たちは、答弁を保留するように勧告するにきまっています。そのことは、公判の席で持ち出されるでしょうからね。そして――ああ、それはそうと、ちょっとご注意までに申し上げておきますけど、あなた、わたしは、事件の表面に現われてはいけないんですよ」
「なんですって?」
「いけないんです。公式には、わたしは、この事件とは何も関係はないのですからね。最後の極め手が見つかるまでは、舞台の陰にかくれていなければいけないんです。カヴェンディッシュ夫人には、わたしがご主人のために働いているので、敵ではないと、思わせなくちゃいけないのです」
「ちょっと卑劣なやり方ですね」わたしは異議をとなえた。
「とんでもない。わたしたちは、このうえなし頭のきれる無法な男を相手にまわさなくちゃいけないんですから、どんな手段でも、わたしの力でできる限りのことはしなければならないのです。わたしが用心をして、陰にかくれていたのもそのためなんです。発見したことはすべて、ジャップがしたことになっていて、ジャップがすべて責任を負うんです。万一、わたしが証人として証人台に立つことになれば」――彼は、朗らかにほほえんで――「たぶん、被告側証人としてでしょう」
わたしは、ほとんど自分の耳が信じられなかった。
「やましいところは何もありません」と、ポアロはつづけた。「不思議なことに、この起訴状のある論拠を打ちくだくだけの証言が、わたしには述べられるのですからね」
「どの点です?」
「遺言状破毀の点です。ジョン・カヴェンディッシュは、あの遺言状は破毀しなかったのですからね」
ポアロこそは、ほんとうの予言者だった。予審の過程で細かいことは、退屈なことをくり返すばかりだから、ここでは差し控えることにしよう。ただジョン・カヴェンディッシュが答弁を保留して、公判にまわされたことだけを述べておこう。
九月にはいると、わたしたちはみんな、ロンドンに移った。メアリーは、ケンシントンに家を構え、ポアロも、一家に加わった。
わたし自身は、陸軍省に勤務することになったので、始終、彼らに会うことができた。
数週間が過ぎた。それにつれて、ポアロの焦燥は、だんだんに悪くなっていった。彼のいっていた『最後の極め手』がまだ見つからないのだった。内心では、わたしは見つからないでくれと願っていた。というのは、ジョンが無罪にならなければ、メアリーにどんな幸福があるというのだろう。
九月の十五日、ジョン・カヴェンディッシュは、『エミリー・アグネス・イングルソープ謀殺』の容疑で起訴されて、ロンドン中央刑事裁判所の被告席に立って、『無罪』を申し立てた。
有名な、王室顧問弁護士のアーネスト・ヘヴィウェザー卿が、彼の弁護にあたることになっていた。
同じく王室顧問弁護士のフィリップス氏の検察側の起訴事実の開陳で、公判ははじまった。
彼の論旨はこうだった。
この犯罪は、計画的な、もっとも冷血無比な犯罪である。愛情にあふれ、人を信ずることの厚かった一婦人が、産みの母以上に愛してきた継子によって、計画的に毒殺された以外の何物でもないのである。被告の少年時代から、婦人は、被告を扶養してきたのである。被告とその妻とは、婦人の庇護と援助とによって、スタイルズ荘において、あらゆる豪奢《ごうしゃ》な生活を送ってきたのである。被害者こそは、被告夫婦の、親切にして、寛大な恩人であったのである。
検事はまた、放蕩《ほうとう》者であり、浪費家である被告が、どんなに経済的な窮境におちいっていたか、また近隣の農夫の妻のレイクス夫人なる女性と不義な関係を結んでいたかを明らかにするために、証人を喚問することを提案した。この醜聞が、被告の継母の耳にはいり、その死の前の午後、継母は、そのことで被告を非難し、その結果、口論となったことは、その一部が立ち聞きされている通りである。その前日、被告は、変装して、村の薬剤師の店でストリキニーネを買い求めたのであるが、その変装は、べつの人物――すなわち、平素から嫉妬していたイングルソープ夫人の夫に犯行の容疑をなすりつけるのが目的であった。イングルソープ氏にとって、一点非の打ちどころのないアリバイを提出することができたのは、幸運であったといわなければならない。
七月十七日の午後(と、検事は論告をつづけた)息子と口論の直後、イングルソープ夫人は、新しい遺言状を作製している。この遺言状は、翌朝、夫人の寝室の暖炉の中から、焼却されたのが発見されたが、それが夫人の夫の利益となるように作製されたものであることを示す証拠が、明らかになっている。被害者は、その結婚前に、すでに、未来の夫の利益となるような遺言状を作製していたのである。しかしながら――と、フィリップス検事は、表情たくさんに人差指を振り動かしながらいった――被告は、それには気がつかなかったのである。いまだ古い遺言状が残存するのに、何が、故人に新たな遺言状を作製するに至らしめたかは、本官にもいうことはできない。故人は、老齢であったために、おそらくは以前の遺言状のことを忘れてしまったのか――このほうがもっともらしく思われるが――その問題に関して、ある会話もあったことでもあるから、結婚によって、以前の遺言状が無効になったと考えられたものであるかもしれないのである。婦人というものは、つねに法律上の知識には、非常に精通していないものなのである。個人は、約一年以前、被告の利益となるような遺言状に記名調印している。本官は、事件の当夜、継母にコーヒーを最後に手渡したのが被告であったということを立証する証人を呼ぶつもりである。その夜遅く、被告は、被害者の室に入る許しを求めた。その機会に疑いもなく、被告は、その新しい遺言状を焼却する機会を見いだしたのであり、そうすることのみが、被告の知る限りでは、被告に有利な遺言状を有効ならしめる手段であったのである。
被告は、犯行の前日、イングルソープ氏と仮定されたる人物に、村の薬局で販売されたと同一のストリキニーネの瓶を――もっとも有能な刑事――ジャップ警部によって、被告の部屋において発見された結果、逮捕されたものである。これらの憎むべき事実が、被告を有罪とする決定的な証拠を構成するかいなかは、陪審員諸氏の決定するところであります。
そして、そういう決定をしない陪審員があろうとは、まったく考えられないところであるという意味を巧みにほのめかして、フィリップス検事は腰をおろして、額の汗をぬぐった。
医学的証言が、はじめに、もう一度行なわれることになっていたので、検事側の最初の証人は、検屍審問の時に証人台に立った人たちと、ほとんど同じ顔ぶれであった。
無遠慮な態度で、どんな証人たちでもいじめつけるので、イギリス全土に評判のアーネスト・ヘヴィウェザー卿は、二つ質問をしただけだった。
「バウエルスタイン博士、ストリキニーネというものは、薬品として、短時間に作用するものと考えていいのですね?」
「そうです」
「そして、この事件では、遅れた理由が、あなたには説明できないというのですな?」
「そうです」
「ありがとう」
メイス氏は、検事から渡された薬瓶を、『イングルソープ氏』に売った物と同じだと証言した。念をおされて、イングルソープ氏は、面識はないが見知っていただけであったと認めた。一度も話はしたこともなかったのだ。この証人は、反対尋問は受けなかった。
アルフレッド・イングルソープが呼び出されて、毒物を買ったことがないと否認した。彼はまた、妻と口論したこともないと否認した。いろいろな証人が、この陳述の正しいということを証言した。
遣言状の署名人としての庭師の証言がすんでから、ドーカスが呼び出された。
『若旦那さま』に忠実なドーカスは、彼女が聞いたのはジョンの声のはずだったというのを、激しく否認して、あらゆる人の証言などはお構いなしに、大奥さまといっしょに居間にいたのはイングルソープ氏だったと、断固として陳述した。被告席にいた被告の顔を、やや思いに沈んだ微笑がよぎった。彼だけは、彼女の雄々しい抗弁も、なんの役にも立たないということをよく知りすぎていた。というのも、この点を否認するのが弁護の目的ではなかったからだ。カヴェンディッシュ夫人は、もちろん、夫に対する証人として呼ばれるはずもなかった。
その他の事柄についてのさまざまな質間の後、フィリップス検事は、ドーカスにたずねた。
「去る六月中に、パークスンの店から、ローレンス・カヴェンディッシュさん宛に、小包が着いたのをおぼえていますか?」
ドーカスは、首を振った。
「おぼえておりませんです。届いたかもしれませんが、ローレンスさまは、六月のころはお留守でございました」
「留守に小包が着いた時には、どうするのかね?」
「お部屋におおきするか、お出先へお送り申し上げますのです」
「あなたの手で?」
「いいえ。わたくしは、ホールのテーブルの上におおき申すだけでございます。そういう仕事をなさいますのは、ミス・ハワードでございます」
イヴリン・ハワードが呼ばれて、他の点で質問された後で、小包についてきかれた。
「おぼえていません。小包はたくさん来ます。とくに一つだけといっておぼえていられません」
「それが、ウェールズに旅行中のローレンス・カヴェンディッシュに送られたか、彼の部屋におかれたのか、わからないのですね?」
「転送したとは思いません。送ったものなら、おぼえているはずです」
「仮りに、ローレンス氏宛に小包が着いたとして、後でなくなったら、なくなったことに、あなたは気がつきますか?」
「いいえ、そうは思いません。だれかが預かったのだと思います」
「ミス・ハワード。この茶色の紙を見つけたのは、あなたでしたね?」彼は、ポアロとわたしが、スタイルズ荘のモーニング・ルームで調べた、あのうす汚れた紙を差し出した。
「どうして、これを探すことになったのです?」
「この事件に雇われていたベルギー人の探偵が、わたしに探してくれと頼んだのです」
「それで、どこで見つけたのです?」
「上です――衣装箪笥の」
「被告の衣装箪笥の上ですか?」
「そう――思います」
「自分で見つけたのではなかったのですか?」
「自分でです」
「それなら、どこで見つけたか、必ず知っているはずですね?」
「ええ、被告の衣装箪笥の上です」
「それならよろしい」
パークスン劇場用衣装店は、注文によって、六月二十九日に、ローレンス・カヴェンディッシュ殿に、黒いあごひげを発送したと証言した。注文は、手紙で来たもので、郵便為替が同封してあった。いいえ、手紙は保存してはございません。取引きは全部、帳簿に記入してございます。店ではご指定通りに、『スタイルズ荘、L・カヴェンディッシュ殿』宛、つけひげを送りました。
アーネスト・ヘヴィウェザー卿は、重々しく立ち上がった。
「どこから、その手紙は来たのかね?」
「スタイルズ荘からです」
「小包を送ったのと同じ住所かね?」
「そうです」
「そして、手紙もそこから来たのだね?」
「そうです」
猛獣のように、ヘヴィウェザーは、彼に襲いかかった。
「どうして、きみにわかるのだ?」
「わたしには――わたしには、おっしゃることがわからないのですが」
「どうして、その手紙がスタイルズから来たとわかるのだ? 消印を見たのかね?」
「いいえ――しかし――」
「ああ、消印は見なかったのだね! にもかかわらず、きみは、スタイルズから来たと、自信ありげに断言する。要するに、どこかの消印が押してあったのだね?」
「そ――そうです」
「実際は、切手を貼った便箋に書いてはあったが、どこから投函されたのかわからないのだね? たとえば、ウェールズから来たのかもしれないのだね?」
証人は、そういうこともあるかもしれないと認めた。そして、アーネスト卿は満足の意を表した。
スタイルズ荘の下働きの女中のエリザベス・ウェルズは、ベッドへはいった後で、イングルソープ氏に頼まれたように、玄関の戸に插《さ》し錠をかけただけにしておかずに、閂をかけてしまったのを思い出したと陳述した。それで、彼女は手落ちを直すために、もう一度、階下へ降りて行った。西の棟でかすかな物音を聞いたので廊下をのぞいて見ると、ジョン・カヴェンディッシュさまが、イングルソープ夫人の部屋をノックしているのが見えたと、そう彼女は陳述した。
アーネスト・ヘヴィウェザー卿は、彼女を手っ取り早く片づけた。卿の情け容赦もない弱い者いじめにあって、彼女は、どうすることもできないほど矛盾したことをいった。それで、アーネスト卿はまた、満足そうな微笑を頬に浮かべて腰をおろした。
床の上の蝋涙や、被告が、夫人の居間にコーヒーを持って行くのを見たことについては、アニイが証言をした。それだけで、後は、翌日まで延ばされた。
家へ帰ると、メアリー・カヴェンディッシュは、検事のことをにがにがしげにいうのだった。
「あの人、いやな人ね! なんてひどい網を、かわいそうなジョンのまわりに張りめぐらしたんでしょうね! 何から何まで、ほんの小さなことまでねじまげてしまって、とんでもないものにしてしまうんですもの!」
「いや」と、わたしは慰めるようにいった。「明日になれば、明日の風が吹きますよ」
「そうね」と、じっと考えにふけるように、彼女はいったと思うと、いきなり声をひそめて、「ヘイスティングズさん、ねえ、まさか――ローレンスのはずはないでしょう――ねえ、そうでしょう、そんなことありませんわ!」
しかし、わたし自身はなんといっていいか、途方に暮れてしまった。そして、ポアロと二人だけになるとすぐに、アーネスト卿は何を狙っているのだと思うかと、彼にたずねた。
「ああ!」と、ポアロは感嘆したようにいった。「あの人は頭のいい人ですね、あのアーネスト卿という人は」
「ローレンスが犯人だと思っているんでしょうか、あの人は?」
「あの人は、どんなことだって、信じるとか気にするとかしない人でしょうね! いいえ、あの人の狙いは、どちらの兄弟がやったか意見を決しかねている陪審員の心に、混乱を起こさせることなんですよ。ジョンに対するのと同じくらい、ローレンスに対しても不利な証拠が、ほんとにたくさんあるということをわからせようと懸命になっているんです――そして、成功しないとは、はっきりいえませんね」
公判が再開されると、証人台に立った最初の証人は、ジャップ警部で、簡潔に証言をした。事件の当初の模様を話した後で、彼はつづけた。
「報告を受けて行動を起こしました。本官とサマーヘイ部長刑事とは、被告の不在中に、被告の部屋を捜査しました。すると、箪笥の引き出しの下着類の下に隠してあった物を発見しました。第一は、イングルソープ氏のと類似の鼻眼鏡です」――と、それを示し――「つぎは、この小瓶です」
その小瓶は、薬剤師の助手が、すでに確認した青いガラスの小瓶で、白い透明な粉末が少しはいっていて、『塩化ストリキニーネ、毒薬』と札が貼ってあった。
予審から後に、刑事たちの手で発見された新しい証拠品は、細長い、ほとんどま新しい吸取紙だった。イングルソープ夫人の小切手の間から発見されたもので、鏡に映して見ると、はっきりと、『……わたしが死亡の時、所有する物は全部、愛する夫、アルフレッド・イング……』と読むことができた。これで焼き捨てられた遺言状は、亡き夫人の夫の利益になるものであったことが疑いないものとなった。ジャップは、つづいて、暖炉の中から拾い出した半焦げの紙片を示した。
これと、屋根裏でのつけひげの発見とで、彼の証言は終った。
だが、アーネスト卿の反対尋問がまだ待っていた。
「あなたが被告の部屋を捜査したのは、いつでしたか?」
「七月二十四日の火曜日です」
「ちょうど惨劇の一週間後ですね」
「そうです」
「それらの二つの品物を、箪笥の引き出しの中で見つけたと、いいましたね。その箪笥には鍵がかかっていなかったのですか?」
「そうです」
「犯罪を犯した人間が、その証拠物件を、だれにも発見されるような鍵のかかっていない箪笥にしまっておくはずがないと、あなたは思わなかったのですか?」
「被告は、急いでしまいこんだものかもしれません」
「しかし、犯行後、まる一週間経っていたと、今、あなたはいったところですね。持ち出して、処分する時間はたっぷりあったはずですぞ」
「たぶんね」
「たぶんなどということは、証言にはなりませんぞ。持ち出して、処分するだけの十分の時間が、あったのですか、それともなかったのですか?」
「ありました」
「その物件を隠していた下着類は、厚手の物でしたか、薄手の物でしたか?」
「厚手の物でした」
「言葉を換えていうと、冬物ということですな。すると、明らかに、被告は、その箪笥に近づくことはなかったということですね?」
「たぶん、近づかなかったでしょう」
「どうか気持よく、わたしの質問にこたえていただきたい。暑い夏の、とりわけもっとも暑い週に、冬の下着を入れた箪笥に、被告が近づくなどということがあるでしょうか? 近づきますか、近づきませんか?」
「近づきません」
「そうだとすれば、問題の物件が、第三者の手によって、そこに入れられたもので、被告は、その物件があることには、まったく気がつかなかった、ということも可能ではないのですか?」
「本官には、そうらしいとは思えません」
「しかし、そういうことも可能ですね?」
「はい」
「それだけです」
そのほかの証言がつぎつぎと述べられた。被告の七月の終りごろの経済的な窮境についての証言。レイクスの妻との情事についての証言――気の毒なメアリー、彼女のような自尊心の高い女には、聞くのもつらかったにちがいない。イヴリン・ハワードが、情事があるといった事実については、正しかったのだ。ただし、アルフレッド・イングルソープを憎悪するのあまり、彼こそその当人だと、一足飛びにあやまったことをひとりぎめにしてしまったのだった。
ローレンス・カヴェンディッシュが、そのつぎに証人台に立った。低い声で、フィリップス検事の質問にこたえて、六月中に、パークスンに何も注文したことはないと否認した。事実、六月の二十九日には、彼は、ウェールズに滞在していたのだった。
すぐに、アーネスト卿のあごが、噛みつくように、ぐっと突き出た。
「六月二十九日に、パークスンに黒いあごひげを注文した事実を、あなたは否認するんですね?」
「否認します」
「ほう! あなたの兄さんに何か事があった場合には、だれがスタイルズ荘を相続することになるのですか?」
質問の残忍さが、ローレンスの蒼白い顔に、さっと血の気を呼んだ。裁判長も、かすかに口の中でぶつぶつと、たしなめるような言葉をもらした。被告席の被告までが、腹立たしそうに身を乗り出した。
ヘヴィウェザーは、依頼人の怒りなんか気にもかけなかった。
「どうですか、質問にこたえてください」
「それは」と、ローレンスは穏やかにいった。「わたしが継ぐことになると思います」
「『それは』とは、どういう意味ですか? 兄さんには子どもがない。あなたが相続するにきまっているんですね?」
「そうです」
「ああ、それならよろしい」残忍な愛想笑いを浮かべて、ヘヴィウェザーはいった。「そして、多額の金も、あなたは相続することになるんですね?」
「アーネスト卿」と、裁判長は制した。「その質問は適切ではありませんね」
アーネスト卿は頭を下げて、つぎの矢をはなった。
「七月十七日の火曜日に、あなたは、もう一人の客と、タドミンスターの赤十字病院を訪ねましたね?」
「はい」
「あなたは――ほんの二、三分のあいだ、たった一人になった時――毒物戸棚の鍵をはずして、瓶を調べてみましたね?」
「ぼく――ぼくは――そうしたかもしれません」
「そうしたのでしょうと、わたしは聞いているのですがね?」
「しました」
アーネスト卿は、はっきりと二の矢を、彼に放った。
「一つの瓶を、とくに調べましたか?」
「いえ、そうは思いません」
「よく考えてください、カヴェンディッシュさん。わたしは、塩化ストリキニーネの小瓶のことをいっているのですよ」
ローレンスは、体でも悪いかのように蒼ざめた色になっていた。
「い――いいえ――そんなことはしませんでした」
「では、その瓶に、あなたの指紋が、間違いようもないほどはっきり残っていたという事実を、あなたは、どう考えますか?」
弱い者いじめの態度は、神経質な気質にはおそろしく効き目があった。
「わたしは――わたしはきっと、その瓶を取り上げたのでしょうね」
「わたしも、そう思います! 瓶の中の物をとりましたか?」
「とんでもないことです」
「では、どうして、瓶を取り上げたのです?」
「わたしは以前、医師になろうと思って勉強したことがあるのです。そういうことが、自然に、わたしに興味を起こさせるのです」
「ああ! すると、毒物が、『自然に興味を起こさせる』んですね、あなたに? それで、たった一人になるのを待っていて、あなたの『興味』を満足させたんですね?」
「まったくの偶然だったんです。もし、ほかの人たちがその場にいても、同じことをやったでしょう」
「しかし、とにかく、ほかの人たちは、その場にいなかったのですね?」
「はい、しかし――」
「事実、ずっとその午後のあいだじゅうで、その一、二分のあいだだけ、あなたは、たった一人だったので、偶然が――偶然と、わたしはいいます――その二分間のあいだに、塩化ストリキニーネに、あなたの『自然な興味』を表わすことになったというのですね?」
ローレンスは、哀れにも口ごもった。
「わたしは――わたしは――」
満足そうな、意味ありげな顔色で、アーネスト卿はいった。
「もう、あなたにたずねることはありません、カヴェンディッシュさん」
この反対尋問は、法廷に大きな興奮を巻き起こした。傍聴の流行の装いを着飾った多くの婦人たちは、互いに顔を寄せ合った。そして、その囁《ささや》き声があまり大きくなったので、裁判長は、即刻静粛にしなければ、退廷を命じますと怒りを浮かべておどかした。
後は、もうごくわずかしか証人もなかった。筆跡鑑定の専門家が、薬屋の毒物台帳に署名した『アルフレッド・イングルソープ』の署名についての意見を述べるために呼ばれていた。彼らは口をそろえて、これは疑いもなくイングルソープの筆跡ではないと断言した。そして、被告の偽筆ではないだろうかという意見を述べた。そして反対尋問を受けて、これは手際よくみせた、被告の筆跡であると認めた。
アーネスト・ヘヴィウェザー卿の弁論は、長いものではなかったが、力一杯に強調した態度が援けていた。彼は、自分の長い経験の生涯においても、このような取るに足りないほどの証拠によって殺人犯として起訴されたのは、一度も知らないことであると述べた。その証拠というものも、もっぱら情況証拠であるばかりでなく、証拠の大部分が、実際には、確証されていないのである。試みに、その証拠というものを取り上げて、公平に判断してみよう。ストリキニーネは、被告の部屋の箪笥の中から発見された。その箪笥は、前にも指摘した通り、鍵のかかっていない箪笥であり、そこに毒物をかくしたのが被告であったと証明する証拠はどこにもないのである。事実、これは犯行を被告になすりつけようとする、第三者の不正な悪意ある企みである。検察当局は、パークスン商会に、黒いつけひげを注文したのが被告であったという、その論点を支持するに足るわずかの証拠さえ提出することができなかった。被告と、その継母のあいだに取り交わされたという口論も、気軽に認められただけであって、しかも、その事実も、また被告の経済状態も、ともに、ひどく誇張されているものである。
「わが学識ある友人は」――アーネスト卿は、フィリップ検事に、軽く会釈をして――もし被告が潔白であったのなら、口論の相手はイングルソープ氏でなくて、自分であったと、進んで検屍審問のさいに釈明すべきであったと申された。被告は、事実が誤り伝えられたと考えたのである。実際にあったことは、こうだったのである。火曜日の夕方、自宅へもどって来た被告は、イングルソープ夫妻のあいだに激しい口論があったと、絶対誤りのないこととして聞かされたのであった。自分の声が、イングルソープ氏の声と間違われたなという疑いは、被告の頭に浮かびもしなかったのである。被告は、当然、継母は、二度口論をしたものと考えたのである。
検察当局は、七月十七日の月曜日に、被告が、イングルソープ氏に変装して、村の薬屋へはいったと断言された。ところが、被告は、その時刻に、マーストンの林と呼ばれる人気のない地点にいたのであった。被告は、もし要求に応じなければ、被告の妻に、ある事実を暴露するというおどしと、脅迫の意を含んだ無名の手紙によって、その場所に呼び出されたのであった。そのために、被告は、命じられた地点へ赴いたのであって、空しく三十分を待った後、帰宅したのであった。不幸にも、往復ともこの話の真実性を保証することのできる人間には、一人も会わなかったのであるが、幸いにも、その手紙は保存されてあるので、証拠物件として提出されるであろう。
遺言状の焼却に関する公述については、被告は、以前、法廷において弁護士として従事した身であって、一年前、被告の利益になるものとして作製された遺言状が、継母の再婚によって、自動的にその効力を失ったことは十二分に承知していたのである。本弁護人は、何人《なんぴと》が遺言状を焼却したかを明らかにする証人の喚問を請求するつもりであるが、これこそ、事件にまったく新しい考察を展開することの可能なものである。
最後に、ジョン・カヴェンディッシュ以外の人々に対しても、不利な証拠があることを陪審員に申し上げたい。ローレンス・カヴェンディッシュ氏に不利な証拠も、まったく強力であるということ、あるいは、兄に対するものよりは、いっそう強力ではないかという事実に対して、陪審員諸公の注意を促したい。
つぎに、被告を呼ばしていただきたい。
ジョンは、証人台で、立派に振舞った。アーネスト卿の老練な誘導の下に、確実に、上手に、彼の陳述をやってのけた。彼が受け取った無名の手紙が差し出されて、陪審員に渡されて調べられた。彼が進んで、経済状態の困窮と、継母との不和を認めたことは、彼の他の否認をかえって重くした。
彼の陳述の最後にのぞんで、彼は、ちょっとあいだをおいてから、こういった。
「一つだけ、はっきり申し上げておきたいことがあります。アーネスト・ヘヴィウェザー卿が、弟に対して遠まわしに述べられた点だけは、不賛成だと申し上げて、全面的に否定したいのであります。弟は、わたし以上に、この犯罪に無関係であることは、わたしがよく承知しております」
アーネスト卿は、ただ微笑しただけで、ジョンの抗弁が、陪審員の心証を非常によくしたことを、鋭い目で見てとった。
それから、反対尋問がはじまった。
「あなたは、検屍審問廷で、証人たちが、自分の声をイングルソープ氏の声と聞き違えるなどとは思いもよらなかったと、そういわれましたね。それは、非常に驚くべきことではないのですか?」
「いいえ、そうは思いません。わたしは、母とイングルソープ氏のあいだに口論があったと聞かされましたので、そんなことがほんとうにあり得ないという気が、わたしにはけっしてしなかったのです」
「召使いのドーカスが、その会話の一部をくり返した時にも――その一部分は、きっと、あなたも気づいたにちがいないのだが、その時にもそうですか?」
「気がつきませんでした」
「あなたの記憶力は、珍しく貧弱ですね」
「いいえ、ですが、わたしたちは二人とも腹を立てておりましたので、いうつもりもないことをいったと思います。母が実際に口に出した言葉など、わたしは、ほとんど気にもとめていませんでした」
信じられないように鼻であしらったフィリップス検事の態度には、法廷のかけ引きに巧みな者の勝ち誇った色があった。彼は、脅迫状の問題へ移った。
「あなたは、この手紙を、非常に好都合な時に持ち出しましたね。どうです。この筆跡に見おぼえがありませんか?」
「わたしの知らない筆跡です」
「あなた自身の筆跡の特徴を――わざとぞんざいに変えてあると思いませんか?」
「いいえ、そうは思いません」
「本官は、あなた自身の筆跡と判定を下しますがね?」
「そんなことはありません」
「アリバイをつくろうとして、そんなでっちあげの、むしろ信じられないような約束話を思いついて、自分の陳述を裏づけるために自分でこの手紙を書いたものだと判定します!」
「ちがいます」
「人里離れた、淋しい場所で待っていたというその時刻に、実際は、スタイルズ・セント・メアリーの薬剤師の店に現われて、アルフレッド・イングルソープの名でストリキニーネを買ったというのが、事実じゃないのですか?」
「いいえ、そんなことは嘘です」
「イングルソープ氏の背広を着て、彼のひげに似たように刈りこんだ黒いつけひげをつけて、そこへ現われて――彼の名前で、台帳に署名をしたと、本官は判定を下しますがね!」
「絶対に真実ではありません」
「では、手紙と、台帳と、あなた自身の筆跡とのあいだの著しい類似点については、本官は、陪審員の判断にお任せします」フィリップス検事はそういって、務めを果たし終えた人間の態度で腰をおろした。とはいうものの、こんな故意の偽証に、驚きあきれたという顔つきだった。
これがすむと、時刻も遅くなっていたので、審理は月曜日まで延期となった。
ポアロが心から落胆しているのに、わたしは気がついた。彼は、わたしがよく知りつくしている小皺を、目のあいだに寄せていた。
「どうしたんです、ポアロ?」と、わたしは問いただした。
「ああ、あなた、どうも事情が悪いです、悪いです」
思わず、わたしは、安堵で胸が高鳴るのをおぼえた。確かに、ジョン・カヴェンディッシュは、無罪放免になるらしかった。
家へ帰ると、わたしのこの小柄な友人は、メアリーのすすめるお茶をことわった。
「いや、ありがとうございます、奥さま。わたしは、自分の部屋へ失礼します」
わたしは、彼の後を追って行った。まだ眉を寄せたまま、彼は机のところへ行って、一人トランプの小さな箱を取り出した。それから、椅子をテーブルに引き寄せて、驚いたことには、まじめくさってトランプの家を作りはじめた!
思わず、呆然としていると、彼は、すかさずいった。
「いいえ、あなた、わたしは、子ども時代に帰ったわけじゃないんですよ! 神経を鎮めているだけなんですよ。この仕事は、指の正確さがいるんです。指が正確になれば、頭の働きも正確になる。そして、今よりも以上に頭の働きが必要だったことは、これまで一度もないんです!」
「苦労の種はなんです?」と、わたしはたずねた。
パタンと大きな音をテーブルにさせて、ポアロは、念入りにつくり上げた建築物をこわしてしまった。
「これですよ、あなた! 七階建てのトランプの家でも建てられるんですが、だめです」――パタン――「どうも」――パタン――「わたしには見つけられないんです、あなたに話した最後の環が」
わたしには、なんといっていいか、さっぱりわからなかった。それで、そのまま黙っていた。彼は、またゆっくり、トランプの家を建てはじめて、建てながら、ぽつんぽつんと投げつけるようにいうのだった。
「こうやるんだ――そうだ! 一枚の上に――もう一枚を――おくんだ――数学的に――正確に!」
わたしは、彼がひと言いうたびに、一階一階と、彼の手の下で、トランプの家が積み重なっていくのを見守っていた。彼は、逡巡もしなければ、ためらいもしなかった。まったく魔法の手品そっくりだった。
「しっかりした手をしてるんですねえ」わたしはいった。「一度だけですねえ、これまでに、あなたの手がふるえるのを見たのは」
「ひどく腹を立てている時だったんでしょうね、きっと」と、ひどく穏やかに、ポアロはいった。
「そうですよ、まったく! あなたは、ひどくかっとなっていたんですね、おぼえていませんか? イングルソープ夫人の寝室の小箱の鍵がこじあけられているのを発見なすった時のことですよ。あなたは、マントルピースの傍に立って、いつものように、その辺の物をいじっておいででしたが、あなたの手が、葉っぱのようにぶるぶるふるえていましたよ! きっと、あれは!」
しかし、わたしは、急に口をつぐんだ。というのは、ポアロが、しわがれた、わけのわからない叫び声をあげて、またトランプの家をぶっつぶしたと思うと、ひどく苦悶に襲われたかのように、両手を目にあてて、前後に体をゆすぶりだしたからだ。
「ねえ、ポアロ!」と、わたしは叫ぶようにいった。「どうしたんです? どっか悪いんですか?」
「いいえ、いいえ」と、彼は、息をきらして、「その――その――思いついたことがあるんです!」
「ああ!」わたしは、ひどくほっとして、大声でいった。「あなたの『ちょっとした思いつき』ですか?」
「ああ、とんでもない!」と、率直に彼はいった。「こん度は、すばらしい思いつきですよ! 途方もない思いつきですよ! そして、あなたが――あなたがですぜ、わが友、あなたが、わたしに教えてくれたんですぜ!」
突然、彼は、わたしを抱きしめて、両方の頬に心から接吻した。そして、驚いて呆然としているわたしをおき去りにして、部屋を飛び出して行ってしまった。
そこへ入れ違いに、メアリー・カヴェンディッシュがはいって来た。
「どうなすったんですの、ポアロさんは? わたくしの横をすっ飛ぶようにぬけて、大声でどなっていらしたんですよ。『車庫です。後生ですから、ガレージはどっちです、奥さま!』って。そして、わたくしが、まだ返事もできないうちに、通りへ飛び出して行っておしまいになったんですのよ」
わたしは、急いで窓のところへ飛んで行った。その通り、帽子もかぶらずに、表の通りを、むやみに身ぶりをしながら、素っ飛んで行くのだった。わたしは、あきれたというように、メアリーの方を向いた。
「すぐに、巡査に捕まりますよ。ああ、角を曲がって行きますよ!」
わたしたちの目が合った。そして、どうしようもないというように、お互いの目を見合った。
「いったい、どうなすったんでしょう?」
わたしは、首を振った。
「わかりませんねえ。トランプの家を作っていると、いきなり、思いついたことがあるといって、あの通り飛び出して行ったんです」
「そうですの」と、メアリーはいった。「夕食の前には、帰っていらっしゃるのでしょうねえ」
だが、夜が更けても、ポアロはもどって来なかった。
第十二章 最後の環
突然、ポアロが行ってしまったのには、わたしたちみんなは、ひどく好奇心を唆《そそ》られた。日曜日の朝がすぎても、まだ、彼は、姿を見せなかった。ところが、三時ごろになって、意地の悪い、長く引っ張った警笛の音が表でしたので、わたしたちは窓のところへ飛んで行った。見ると、ポアロが車から降り立つところで、ジャップとサマーヘイとがついて来ていた。チビの先生は、別人のようになっていた。彼は、途方もない自己満足をまきちらしていた。彼は、大げさな敬意をあらわして、メアリー・カヴェンディッシュにお辞儀をした。
「奥様、サロンでささやかな集会を開かせていただきたいのでございますが、お許しいただけますでしょうね? ぜひ、皆さまにご出席いただきたいのでございます」
メアリーは、悲しそうににっこりした。
「おわかりでございましょう、ムッシュー・ポアロ、何もかもお任せしてございますのですから」
「ほんとにご親切にありがとうございます、奥さま」
相も変わらずにこやかに、ポアロは、わたしたちみんなを客間に案内して、椅子をすすめた。
「ミス・ハワード――あなたはこちらへ。マドモアゼル・シンシア。ムッシュー・ローレンス。すてきなドーカスさん。それから、アニイと。よろしい! イングルソープ氏がご出席になるまで、もう少し会議を延ばさなくてはなりません。ことづけてやってありますから」
ミス・ハワードが、たちまち席から立ち上がった。
「あの男がこの家にやって来るのなら、わたしは出て行きます!」
「いけません、いけません!」ポアロは、彼女のところへ行って、小声でたのんでいた。
やっとのことで、ミス・ハワードは承知して、椅子にもどった。二、三分して、アルフレッド・イングルソープが部屋へはいって来た。
一同が再び集まった。ポアロは、人気のある講演者のような気どり方で立ち上がると、ていねいに聴衆に一礼した。
「紳士、淑女諸君、皆さまご承知の通り、わたしは、ジョン・カヴェンディッシュ氏によって、この事件を調査するために呼ばれたのでした。わたしは、ただちに、故人の寝室を調べました。寝室は、医師たちの意見によって、鍵がかけられておりまして、その結果、事件が起こった時とまったく同一の状態でありました。わたしの発見しましたものは、第一に、緑色の織物のきれはし、第二に、窓のそばの絨毯のしみで、まだしめっていました。第三に、臭化物《ブロマイド》の粉末のはいっていた空箱でありました。
まず、緑色の織物のきれはしでありますが、それは、その部屋とマドモアゼル・シンシアが住んでおいでになる隣室のあいだの、連絡用ドアの閂に引っかかっているのを見つけたのでした。わたしは、そのきれはしを警察当局に渡しましたが、あまり重要な物とは考えてはいただけませんでした。それがなんであるかも、警察では認識されませんでした――緑色の畑仕事用の手甲からちぎれた物であることも」
興奮のかすかなざわめきが起こった。
「さて、当スタイルズ荘で、畑仕事をなさるのは、ただ一人――カヴェンディッシュ夫人だけであります。ですから、マドモアゼル・シンシアの部屋と連絡するドアを通って、故人の部屋へはいられたのは、カヴェンディッシュ夫人であったということになるのであります」
「でも、あのドアは、内側から閂がかかっていましたよ!」と、わたしは叫ぶようにいった。
「わたしが部屋を調べた時は、そうでした。しかし、第一に、わたしたちが聞いたのは、夫人の言葉だけでした。開けようとしたが、閉っていたとおっしゃったのは、夫人だったのですから。つづいて起こったあの騒ぎにまぎれて、閂をかけるだけの余裕は、夫人にはたっぷりあったはずです。わたしは、すみやかに機会をつかんで、わたしの推測を確かめました。まず第一に、その切れはしは、カヴェンディッシュ夫人の手甲の裂け目と、ぴったりと一致いたしました。また検屍審問廷で、カヴェンディッシュ夫人は、ご自分の部屋から、ベッドの傍のテーブルの倒れる音を聞いたと陳述されました。わたしは、早速、建物の左の棟の、カヴェンディッシュ夫人のお部屋のドアのすぐ外に、友人ヘイスティングズに立ってもらいまして、その陳述を実験してみました。わたし自身は、警察の方々といっしょに個人の部屋にまいりました。その間に、わたしは、問題のテーブルを、わざとやったようには見えないようにして倒したのでございます。ところが、わたしが考えておりました通り、ヘイスティングズ氏には、全然、物音が聞こえなかったのであります。これで、惨劇の時刻には、ご自分の部屋で着換えをしていたと、カヴェンディッシュ夫人が陳述なすったのは真実をおっしゃってはおいでにならないのだという、わたしの信念を確かめることができました。事実、ベルが鳴った時、カヴェンディッシュ夫人は、ご自分の部屋にはおいでにならなくて、じつは、故人の部屋においでになったのだと、わたしは確信をもったのでございます」
わたしは、すばやい一瞥を、メアリーに向けた。彼女は、ひどく蒼ざめてはいたが、ほほえんでいた。
「わたしは、その仮定の下に推理を進めました。カヴェンディッシュ夫人が、お姑さんの部屋においでになる。何か探しておいでになるのだが、まだそれが見つからなかったのだと申しましょう。不意に、イングルソープ夫人が目をさましたと思うと、驚くべき発作に襲われているのです。老夫人が、さっと手を拡げたので、ベッド・テーブルが引っくり返りました。と、つづいて、必死になってベルを押しておいでになる。カヴェンディッシュ夫人は、驚いて、手にしていた蝋燭をお落としになる。絨毯には、蝋涙が垂れました。夫人は、蝋燭を拾うと、あわただしくマドモアゼル・シンシアの部屋に、後のドアをしめて、逃げこんで行く。急いで、廊下へ出る。どこにいるか、召使いたちに見つかってはいけないからです。ところが、遅すぎたのです! もうすでに、両方の棟をつなぐ回廊に、足音が響いているじゃありませんか。どうしたらいいでしょう? とっさに肚《はら》をきめて、夫人はマドモアゼルの部屋に取って返し、マドモアゼルをゆり起こしはじめる。目をさました家じゅうの人々が廊下をかけつけて来る。皆、夢中になってイングルソープ夫人の部屋のドアを、つづけざまに叩いています。カヴェンディッシュ夫人がその場に来ていないことなど、だれにも思い浮かびもしません。しかし――そして、ここが意味深長なところですが――夫人が別棟から出ておいでになるのを見たという人が、一人もないということです」と、彼は、メアリー・カヴェンディッシュを見て、「わたしの申す通りでしょうか、奥さま?」
彼女は、頭を下げて、
「ほんとに、その通りですわ、ムッシュー。あなたはおわかりくださることでしょうが、その事実を話してしまったほうが、夫のためになると思っていましたら、きっと、わたくし、そう申し上げたことでございましょう。ところが、それが夫の有罪か無罪かの問題を支配するとは、わたくしには思えなかったのでございます」
「いちおうごもっともです、奥さま。しかし、そのおかげで、わたしの心にあったたくさんの思い違いがはっきりとして、その他の事実を本当の意味で、自由にわたしにわからせるようにしてくれたのです」
「遺言状だ!」と、ローレンスが叫ぶようにいった。「じゃ、あなただったんですね、メアリー、遺言状を焼いたのは?」
彼女は、首を横に振った。ポアロも首を振った。
「違いますわ」と、彼女は穏やかにいった。「あの遺言状を焼いたと思われる方は、たった一人――イングルソープ夫人ご自身ですわ!」
「とんでもない!」わたしは大きな声でいった。「あの日の午後、夫人は作ったばかりなんですよ!」
「そうはいっても、|あなた《モナミ》、イングルソープ夫人だったんです。そのわけは、どう考えたって、一年じゅうの一番暑い日に、イングルソープ夫人が部屋に火をたくようにといいつけたという事実を、他に判断のつけようがないでしょう」
わたしは、思わずうなった。一度も、あの火のことをおかしいと思いつかなかったというのは、なんというばかだったのだろう! ポアロは、話しつづけた。
「あの日の気温は、皆さん。日陰でも二十八度でした。それだのに、イングルソープ夫人は、火をたけとおいいつけになった! どうしてでしょう? その理由は、夫人が、何か焼きたいと思われたので、他に方法が思いつかなかったからです。みなさんもお忘れにはならないでしょう、スタイルズも戦時経済体制がしかれた結果、反古紙一枚でも捨てられなかったということを。ですから、遺言状のような部厚い書類を破毀する方法がなかったのです。イングルソープ夫人のお部屋に、火がたかれたということを聞いたとたん、何か重要な書類を――おそらくは遺言状を焼くためであったのだろうと、すぐに断定をしたわけです。ですから、暖炉の中から半焦げの紙きれが発見されても、わたしは驚きもしませんでした。わたしは、もちろん、その時は、問題の遺言状がその日の午後、作られたばかりだということは知りませんでした。それから、その焼き捨てた事実を知ってからも、わたしが重大な過ちにおちいっていたということも申し上げましょう。わたしは、イングルソープ夫人の遺言状を焼却してしまおうとの決心は、その日の午後の口論が直接の結果となっておこったので、ですから、口論は、遺言状作製の後で、前ではなかったのだと断定してしまったのです。
これこそ、おわかりのように、わたしが誤っておりました。それで、どうしてもその考えは捨ててしまわなければなりませんでした。わたしは新しい見地からこの問題にぶつかりました。さて、午後の四時に、ドーカスは、大奥さまが怒ったように、こうおっしゃったのを聞いています。『夫婦間の問題が世間の評判になったり、醜聞になるのをこわがって、そんな恐怖がわたしを思いとまらせるなどと思わなくても大丈夫ですよ』と。わたしが推測しましたのは、そして正しい推測だったですが、この言葉は、ご主人に向かってではなくて、ジョン・カヴェンディッシュにおっしゃった言葉だったのです。一時間後、つまり五時に、夫人は、ほとんど同じ言葉をお使いになったのですが、立場は違っているのです。夫人は、ドーカスにこうおっしゃったのです。『わたしには、どうしていいかわからないよ。夫婦間の醜聞というのは、おそろしいものだね』と。四時には、夫人は、腹を立てておいででしたが、完全に落ち着いていらっしゃいました。五時には、夫人は、ひどい心痛をしておいでになって、『ひどいショック』を受けたと口に出しておいでになります。
これを心理的に考察して、わたしは一つの推論を引き出し、それが正しかったとうなずきました。二度目に夫人が口にお出しになった『醜聞』というのは、はじめとは同じではなかったのでして――それは、夫人ご自身に関することだったのです!
今一度、事件の経過を考えてみましょう。四時には、イングルソープ夫人は、ご子息と口論して、メアリー夫人にいいつけるぞとおどかされました。そのメアリー夫人は、途中から、その話の大部分を立ち聞きなすった。四時三十分には、イングルソープ夫人は、遺言状の効果についての話の結果、夫に有利な遣言状をお作りになり、二人の庭師が証人となりました。五時には、夫人がかなり興奮のようすで、手に一枚の紙を――『手紙』だろうとドーカスは思ったのですが――持っておいでになるのに、ドーカスが気づいて、それから、部屋に火をたきつけるようにと夫人がお命じになる。ですから、おそらく、四時三十分と五時のあいだに、何か完全に気持を変えさせるようなことが起こったのです。というのは、その前には、作らなければならなかったほどの遺言状を、今度は、焼き捨てようと気をもんでおいでになるのですからね。いったい、その何かは、なんだったのでしょう?
わたしどもの知っている限り、その三十分間は、夫人は、まったく一人きりでおいででした。だれも、その居間《ブードア》にはいって行った人もなければ、残っている人もありませんでした。とすれば、いったい、この突然の感情の変化は、何が呼び起こしたのでしょう?
われわれは、ただ推察するよりほかにありませんが、わたしは、わたしの想像が正しいと信じるものです。イングルソープ夫人は、机に切手をお持ちじゃなかったのです。わたしたちは、このことを知っております。といいますのは、後で、夫人がドーカスに、切手を持って来るようにとおっしゃったからです。ところで、その部屋の反対の片隅に、ご主人の机があって――鍵がかかっていました。夫人は、ご自分の鍵で、その机を開けようとなさいました。その一つが合ったことは、わたしが知っております。そこで、机を開けて、切手を探しておいでになるうちに、夫人は、ある別の物をふっと見つけたのです――ドーカスが手にしておいでになるのを見た、あの一枚の紙片であり、疑いもなく、イングルソープ夫人の目には、けっして見せるつもりのないものでした。一方、カヴェンディッシュ夫人は、そんなにしっかりお姑さんがにぎりしめている紙を、ご主人にはためにならないことが書き記されてあるものだと信じてしまわれたのです。夫人は、その紙片を見せてくれとイングルソープ夫人に迫ったのですが、老夫人は、ほんとうに心から、そんなことには関係のないものだと、夫人に請け合われたのです。カヴェンディッシュ夫人は、老夫人の言葉を信用なさらなかった。イングルソープ夫人が継子をかばっているのだと、お考えになったのです。ところで、カヴェンディッシュ夫人という方は、非常に果断なご婦人で、控え目な面の陰で、ご主人のことを狂おしいほどに嫉妬しておいでになったのです。夫人は、どんなことをしても、その紙片を手に入れようと決心なすった。そして、こういう決心をしておいでになるところへ、夫人を助けるチャンスが来たのです。というのは、その朝なくなったイングルソープ夫人の小箱の鍵を、偶然、夫人が拾われたのです。そして、お姑さんが大切な物を全部、いつでもその特別な箱にしまっておいでになることも、夫人はご存じだったのです。
そこで、カヴェンディッシュ夫人は、嫉妬にかられて必死になった女性だけがやれるような計画を、お立てになったのです。その日の宵のうちに、マドモアゼル・シンシアの部屋に通じるドアの閂をはずしておしまいになったのです。おそらく、蝶番《ちょうつがい》に油をおさしになったのでしょう。というのは、わたしが開けてみますと、ほんとに音もなく開くのに気がつきましたからです。夫人は、この企てを、安全と見られる明け方まで延ばしておおきになった。というのも、明け方なら、夫人の部屋で夫人がお動きになるのを聞いても、召使いたちもいつものことだと馴れていたからなんで。夫人は、すっかり畑仕事の身なりをととのえて、静かに、マドモアゼル・シンシアの部屋をぬけて、イングルソープ夫人の部屋へとおはいりになりました」
彼は、ちょっと休んだ。すると、シンシアが口をはさんだ。
「でも、だれかがあたしの部屋を通りぬけたりしたら、あたし、目をさますはずじゃないでしょうか?」
「麻酔薬を飲まされていらっしゃれば、目がさめないでしょうね、マドモアゼル」
「麻酔薬ですって?」
「そうですとも、そうなんですよ!」
「みなさんはおぼえていらっしゃるでしょう」――もう一度、彼は、わたしたちみんなに声をかけて――「となりの部屋の騒ぎと物音の間じゅう、マドモアゼル・シンシアが眠りこんでおいでになったことを。あれには、二つの可能性が認められます。狸寝入りをしておいでになったか――わたしは、そうは信じませんでした――それとも、人為的な手段で正体を失っておいでになったか、どちらかです。
この後の考えを胸に持ったわたしは、その前の晩、カヴェンディッシュ夫人が、マドモアゼル・シンシアのところへコーヒーを運んだということを思い出して、コーヒー茶碗全部を、細心の注意を払って調べました。わたしは、どの茶碗からも残りのかすを集めて、分析させました――が、結果は零でした。わたしは片づけてしまったものもあるかと思って、注意深く茶碗を勘定して見ました。六人の方々がコーヒーをお飲みになったので、六つの茶碗が、ようやく見つかりました。わたしは、自分が間違いをしていたことを申し上げなくてはなりません。
すぐに、わたしは、非常に重大な見落としをしていたということに気がつきました。コーヒーは七人の方に運んでいったので、六人ではなかったのです。というのは、その晩は、バウエルスタイン博士が来ていたのですから。これが、事件の全貌を変えてしまいました。というのは、茶碗が一つなくなったことになるからです。召使いの人たちは、何も気がつきませんでした。というのは、七つ茶碗を持っていったアニイは、イングルソープ氏がそのコーヒーを飲まなかったということを知らずに、そのコーヒーを下げてしまったのです。ですから、つぎの朝、その茶碗を片づけたドーカスは、いつものように六つあるのに気がついたというわけです――厳密にいえば、六番目は、イングルソープ夫人の部屋でこわれていたので、五つ、ドーカスはあると思ったわけなのです。
なくなった茶碗というのは、マドモアゼル・シンシアの茶碗だと、わたしは確信しました。そういう事実に対する信念に、その上の推理が、わたしにはありました。つまり、マドモアゼル・シンシアは、けっしてコーヒーに砂糖をお入れにならないのに、どの茶碗にも砂糖がはいっていたということなんです。わたしの注意は、毎晩イングルソープ夫人のところへ持っていくココアの盆に、『塩』があったというアニイの話に引きつけられました。そこで、わたしは、そのココアの残りを手に入れて、分析に出しました」
「しかし、それはもうすでに、バウエルスタイン博士が、分析していますよ」と、すかさず、ローレンスがいった。
「そうともいえません。分析者は、博士から、ストリキニーネがあるかないか、報告するようにいわれたのです。わたしがしたような、麻酔剤の試験はしなかったのです」
「麻酔剤の?」
「そうです。ここに分析者の報告があります。カヴェンディッシュ夫人は、危険性はないのですが、効き目のある麻酔剤を、イングルソープ夫人と、マドモアゼル・シンシアとお二人に飲ませたのです。その結果、夫人は、身の毛もよだつようなおそろしい目にお会いになったのです! 考えてもごらんなさい、どんな気持がなすったか、夫人の気持を! お姑さんが、突然、急死される。しかも『毒』という言葉をお聞きになった直後なんですよ! ご自分のお使いになった睡眠剤は、完全に無害なものだとは信じておいでになったが、イングルソープ夫人の死が自分のせいではないだろうかと恐怖をお感じになった。おそろしい一瞬がおありになったことは疑いもありません。恐怖に取りつかれたように、急いで階下に降りて、マドモアゼル・シンシアの使ったコーヒー茶碗と受け皿を、急いで、大きな真鍮の花瓶の中にほうりこんでおしまいになりました。これは後に、ローレンス氏によって発見されました。ココアの残りには、どうしても夫人は手をつける気にはなれなかったのです。あまりにも人の目が、夫人に集まっていたからです。ストリキニーネだということになって、結局は惨劇は夫人のせいではないということが明らかになった時の、夫人の安堵の思いはどんなだったでしょう。
今になってみると、ストリキニーネの中毒の症状が、あんなに遅くなって現われたことが、よく説明できるわけです。ストリキニーネといっしょに用いた麻酔剤は、数時間、毒薬の働きを遅らせるのです」
ポアロは、口をつぐんだ。彼を見上げたメアリーの顔には、ゆっくり血の気がのぼった。
「あなたのおっしゃったことはみんな、たしかにほんとうですわ。ポアロさん。わたくしの一生でも一番おそろしい時間でした。けっして、忘れるようなことはございますまい。でも、あなたは、お見事でいらっしゃいますわ。今では、わたくしも、よく――」
「ポアロ神父になら、安心して打ち明けられますと申し上げた時の、わたしの意味がおわかりになりましたでしょうね? ですが、あなたは、わたしを信用しようとはなさらなかったのです」
「わたしにも、今は、何から何までわかります」と、ローレンスがいった。「毒入りコーヒーの上に飲んだ、麻酔剤入りのココアが、作用を遅らせた十分な理由なんですね」
「その通りです。ですが、コーヒーには、毒がはいっていたのでしょうか? はいっていなかったのでしょうか? この点で、ちょっと厄介なことにぶつかりますね。だって、イングルソープ夫人は、けっしてコーヒーをお飲みにならなかったのですからね」
「なんですって?」驚きの叫び声が、異口同音に出た。
「そうです。イングルソープ夫人の絨毯についていたしみのことを、わたしが申していたのを、おぼえていらっしゃるでしょうね? あのしみについては、少し変わったところがいくつかありました。そして絨毯のけばの中に深くはいっていた陶器の小さな破片も、いくつか、わたしは見つけました。何があったのか、わたしにはよくわかりました。というのは、二分もしないうちに、わたしは、自分の小鞄を窓の傍のそのテーブルにおいたのです。すると、テーブルはひっくり返って、その小鞄を、床のそっくり同一の個所に落としたのです。まったく同じふうに、前の晩、イングルソープ夫人は、部屋へお帰りになると、コーヒー茶碗をおおきになったのですね。そして、そのあぶなっかしいテーブルが、同じいたずらをしたというわけなのです。
そのつぎにどうなったかというのは、わたしのたんなる想像ではありますが、イングルソープ夫人は、こわれた茶碗をひろって、ベッドの傍のテーブルにおおきになったものでしょうね。何かの興奮剤が必要だとお思いになって、ココアを温めて、即座にお飲みになったのです。そこで、新しい問題に当面することになります。ココアには、ストリキニーネがはいっていないことは、おわかりになっていますね。コーヒーは、飲まれはしなかった。しかも、ストリキニーネは、その晩の七時から九時までのあいだに、お飲みになったのにちがいないのです。どんな第三の手段があったのでしょう――だれにも思いつかないほど非常に特異で、ストリキニーネの味をかくすのに、おそろしくふさわしい手段とは、どんなものでしょう?」ポアロは、ぐるっと部屋を見渡してから、印象的に自らこたえた。「老夫人の常用薬です!」
「犯人は、夫人の強壮剤にストリキニーネを入れたということですか?」と、わたしは叫ぶようにいった。
「入れる必要はなかったのです。もうその中に――調合してあったのです。イングルソープ夫人を死に至らしめたストリキニーネは、ウィルキンズ先生の処方にあるのと同一のストリキニーネだったのです。そのことを、はっきりみなさんにわかっていただくために、わたしがタドミンスターの赤十字病院の薬局で見つけました調剤の書物から、抜き書きして来たものを読み上げてみましょう。
これは、どの教科書にも載せてある、評判の処方です。
硫化ストリキニーネ 一グレン
臭化加里 六オンス
水 八オンス
服用のさいはよく攪拌《かくはん》して用いること
この溶液は、二、三時間以内に、ストリキニーネ塩の大部分を、透明なる結晶状の不溶解性臭化物として沈澱するものである。イギリスの一婦人は同混合液を服用して死亡した。沈殿したストリキニーネが瓶底に集まって、最後の服用量を飲む時、そのストリキニーネのほぼ全量を嚥下《えんげ》したのである!
ところで、もちろん、ウィルキンズ先生の処方には、臭化物はありませんでしたが、臭化物の粉末のはいっていた小箱のことを、わたしが申していたのを、みなさんはご記憶でいらっしゃるでしょうね。瓶に一杯の茶の中に入れたこの粉末の一つまみか、二つまみが、この書物にも書いてあります通り、立派にストリキニーネを沈澱させて、最後の一回分を飲むのといっしょに飲み下されてしまうことになるのです。いずれ後ほど、いつもイングルソープ夫人に茶をおつぎしていた人が、ことさら注意深くつねに瓶をふらないようにして、底の沈澱物をかきまぜてしまわないようにしていたことが、おわかりになっていただけると思います。
事件を通してみてみますと、犯行は、月曜日の夕方、行なわれる予定であったと思われる証拠が、いくつもございました。その日には、イングルソープ夫人のベルのコードが、手際よく切られておりましたし、月曜日の夜には、マドモアゼル・シンシアは、お友だちと外泊しておいででした。ですから、イングルソープ夫人は、右の棟にそれこそたった一人でおいでになって、如何なる救助の手からも完全にしめ出されて、たぶん、医者の手当も間に合わずに亡くなったのに相違ございません。ところが、イングルソープ夫人は村の演芸会に間に合うようにお急ぎになって、薬を飲むのをお忘れになってしまいました。そして、翌日は、外で昼食をおとりになりました。それで、最後の――つまり運命の――一回分は、実際には、犯人が予想していた時より二十四時間遅れて、服用されるということになったのです。そして、決定的な証拠――鎖の最後の一環――が、ただ今、わたしの手に握られていますのも、その遅延に負うところがあるのでございます」
息づまる興奮の最中に、彼は、三枚の薄い縦にさいた紙きれを、ぐっと差し出した。
「犯人自身の筆跡の手紙であります、みなさん! これが、もう少しはっきりした言葉を使っていましたら、イングルソープ夫人は、あぶないと悟って、虎口を逃れることがおできになったのでしょう。事実は、夫人は、危険はお悟りになったのですが、どんなふうにして襲って来るかはおわかりにならなかったのでした」
おそろしい沈黙のうちに、ポアロは、紙きれをつなぎ合わせ、咳払いをして、読み上げた。
最愛のイヴリン。
何も連絡がないので気を揉んでいることだろう。好調にいっています――ただ昨夜の予定が、今夜になっただけです。わかっているね。婆さんが死んでいなくなってしまえば、また楽しい時がやって来るのだ。わたしの犯行など立証し得る者などありっこないよ。臭化物についての、きみの考えは、天才の一閃だね! だが、われわれは、非常に慎重にしなくてはいけないよ。一歩つまづくと――
皆さん、ここで手紙は切れています。疑いもなく、書き手に邪魔がはいったのでしょう。しかし、その書き手の正体には、問題などあり得ようはずがありません。われわれはみんな、彼の筆跡を知っております。そして――」
まるで絶叫に近いうめき声が、沈黙を破った。
「畜生! どうやって、そいつを手に入れたんだ?」
椅子が引っくり返った。ポアロは、すばやく飛びのいた。彼の動き方がすばやくて、襲いかかった人間は、がたんと音を立てて倒れた。
「紳士、淑女の皆さま」と、大袈裟な身振りをして、ポアロはいった。「犯人、アルフレッド・イングルソープ氏をご紹介申し上げます!」
第十三章 ポアロ、説明す
「ポアロ、人が悪いですねえ、あなたは」と、わたしはいった。「首を絞めてやりたいくらいですよ! どうして、あんなふうに、わたしをだましていたんです?」
わたしたちは、図書室で向かい合って腰をおろしていた。熱狂的な数日は過ぎ去った。階下の部屋では、ジョンとメアリーが、また楽しい生活に帰っていた。アルフレッド・イングルソープとミス・ハワードは、収監されていた。そして今、やっとのことで、わたしは、ポアロを独占して、まだ燃えているわたしの好奇心を満足させることができることになったのだ。
ポアロは、ちょっとの間、わたしの言葉にもこたえなかったが、ようやく口を開いた。
「あなたを、だましたりなどしませんでしたよ、|あなた《モナミ》。せいぜい、あなたの誤解をそのままにほっといただけですよ」
「ええ。でも、どうしてです?」
「さあ、そいつは説明しにくいですね。つまりね、あなた、あなたという人は、とても正直な性質をお持ちで、すぐに顔に出しておしまいになる――つまり、肚《はら》にあることをかくすなどということができないんですよ! もしも、わたしが考えていることをお話したら、そのつぎ、あなたがアルフレッド・イングルソープ氏に会えば、あの抜け目のない紳士は――あなた方の意味深長な言葉でいえば――『くさいな!』と感づくでしょうからね。それじゃ、彼をつかまえるチャンスにさよならというわけですよ!」
「あなたの考えているよりは、もうちょっとかけ引きの腕を持っているつもりですがねえ」
「あなた」と、ポアロはたのむようにいった。「お願いだから、おこらないでくださいよ! ほんとになんとお礼をいっていいかわからないほど、助けていただいてありがとうございました。ただ、わたしがちょっと気を配ったのは、あなたの極端に善良な性質だけなんですよ」
「そうですか」と、わたしは、いささか機嫌をなおしていった。「でも、ヒントぐらいは与えてくだすってもよかったのにと思いますね」
「でも、あげたじゃありませんか、あなた、いくつも。あなたが受け取らなかったんですよ。ねえ、ジョン・カヴェンディッシュが有罪だと思うといいましたか? それどころか無罪になることはほぼ確かだといいませんでしたか?」
「ええ、でも」
「それから、その後ですぐに、犯人を法律にてらして罰するのはむずかしいといいませんでしたか? 二人のまるきり違った人間のことをいっていたのだということが、あなたにはわかりませんでしたか?」
「ええ」と、わたしはいった。「わかりませんでしたな、わたしには!」
「それからまた」と、ポアロはつづけた。「はじめに、いまはイングルソープ氏を逮捕したくないと、何度もくり返していいませんでしたか? あれで、何かあなたに伝えたはずですがね」
「そんなにずっと前から、彼を疑っていたというんですか?」
「そうです。まず第一に、イングルソープ夫人の死によって、ほかにだれか利益を受けるものがあるとしても、一番多く利益を受けるのは、夫人の夫でしょう。それ以外に、出発点はなかったんです。あの最初の日、あなたとごいっしょにスタイルズ荘へ行った時、どういうふうにして犯行が行なわれたかということについては、わたしは、白紙だったんです。しかし、イングルソープ氏について知り得たところから、彼と犯行とを結びつける何かを見つけだすのは、とてもむずかしいことだと思っていたのです。邸に着いてみて、即座に、遣言状を焼いたのはイングルソープ夫人だと、わたしは感じたのです。そのことは、話中ですけど、不服はいえないんですよ、あなたは。だって、真夏に寝室に火をたいた意味を、極力、あなたにわからせようとしたじゃありませんか」
「そう、そう」わたしは、じりじりしていった。「それから――」
「ところが、あなた、正直にいうと、イングルソープ氏を犯人だというわたしの見込みは、非常に動揺したのです。事実、彼に不利な証拠が非常にたくさんあったものですから、彼がやったのではないと信じそうになったくらいです」
「いつ、気が変わったんです?」
「わたしが、彼の嫌疑を晴らそうと骨を折れば折るほど、彼が逮捕されようと自分から骨を折っているのに気がついた時です。それから、レイクスの細君とは、イングルソープは関係がないので、実際は、そんな方面に気があったのはジョン・カヴェンディッシュだということがわかった時、わたしは、確信を得たのです」
「でも、どうしてです?」
「簡単にいえばこうです。もし、レイクスの細君と浮気をしていたのがイングルソープだったのなら、彼の黙っている意味がようくわかります。しかし、あの百姓の可愛らしい細君に惹かれているのがジョンだということが村じゅうの評判だとわかってみると、彼の黙っているのが、全然、べつの解釈をもってきたのです。彼が、スキャンダルを恐れているふりをしていたのは、スキャンダルなんか、彼には起こりっこはなかったんですから、ナンセンスでしたよ。この彼の身構えが、強くわたしを考えこませたんです。そして、徐々に、アルフレッド・イングルソープは逮捕されたがっているという結論に達したのです。ところでですよ! その瞬間から、わたしは、彼を逮捕させてはならんと、等しく決心したのです」
「ちょっと待ってください。何故、彼は逮捕されたがっていたんです?」
「そのわけは、あなた、お国の法律ですよ。一度無罪と決定した者は、同一の犯罪で、ふたたび公判に付する能わずという。ははは! しかし賢明でしたね――彼の考えは! 確かに、彼は、組織的な頭の男ですよ。ね、そうでしょう、自分のような立場の人間は、必ず疑われると知っていたんです。それで、自分に不利益な証拠をうんとでっち上げておくという、すばらしい頭のいい考えを思いついたのです。疑われたかったんですよ。逮捕されたかったんですよ。そこで、一点非の打ちどころのないアリバイを出す――そして、はいっと変わると、一生無事だというわけですよ!」
「しかし、片方ではアリバイを作りながら、しかし、どうして、薬剤師の店へ行けたんでしょうね?」
ポアロは、びっくりして、わたしを見つめた。
「そんなことがあるかっていうんですか? あきれましたね、あなた! 薬剤師の店へ行ったのは、ミス・ハワードだってことが、まだ、あなたにはわかっていなかったんですね?」
「ミス・ハワードが?」
「でも、そうなんですよ。ほかにだれがあるんです? あの女には、そんなことはごく易しいことだったんですよ。背は高いし、声は、太くて男性的でしょう。そのうえに、ね、そうでしょう、彼女とイングルソープはいとこ同士で、二人ともよく似ているでしょう、ことに歩きぶりや挙動がね。簡単その物ですよ。達者な一組ですよ!」
「どういうふうに、あの臭化物の件をやってのけたのか、はっきり、わたしには、まだちょっとわかりかねてるんですよ」
「よろしい! できるだけ前にさかのぼって、もう一度やりなおしてみましょう。この事件の中心人物は、ミス・ハワードだという気が、わたしは強く胸の中にあったんです。彼女が、いつか、父親は医者だったといっていたのをおぼえているでしょう? ことによると、父親の薬も、彼女が調剤していたからか、それとも、マドモアゼル・シンシアが試験勉強の時に、そこらにおいていた書物からでも、その考えをつかんだのでしょうね。とにかく、ストリキニーネを含んでいる溶液に臭化物を加えれば、ストリキニーネの沈澱ができるという事実は、よく知っていたのですね。おそらく、その思いつきは、まったく急に浮かんだのでしょう。イングルソープ夫人は臭化物の粉末の箱を持っていて、時々、夜分に飲んでいたのですね。クートの店から届いた時にイングルソープ夫人の大きな薬瓶に、その臭化物の粉末を一つまみか、二つまみ、そっと溶かしておくことなんか、何よりも易しいことでしょう? 危険など、実際に零ですよ。悲劇は、ほぼ二週間後でなければ起こりはしないのですからね。もしも、二人のうちのどちらかが薬に手を触れているのを、だれかが見ても、その時には忘れてしまっていますよ。ミス・ハワードは、わざと口論をして、家から出て行ってしまう。時間が経っていることと、彼女がいないこととで、疑いなどは全部すっ飛んでしまっていますよ。そうですよ、頭のいい思いつきだったんです! もし、二人がそれだけにしておいたら、おそらく、彼らが罪を犯したとは立証できなかったかもしれませんね。ところが、彼らは、それだけでは満足しなかったんです。もっと頭の切れるところを見せようとしたんで――破滅になったんですよ」
ポアロは、小さなたばこをフッと吹いて、天井に目を走らせた。
「彼らは、ジョン・カヴェンディッシュに容疑をなすりつける計画を立てて、村の薬屋でストリキニーネを買ったり、彼の筆跡で、台帳に署名することにしたんです。
月曜日には、イングルソープ夫人が、薬の最後の一回分を飲むはずでした。ですから、月曜日の午後六時には、アルフレッド・イングルソープは、村から遠くはなれた地点で、幾人かの人の目につくように手配をしたんですね。ミス・ハワードは、後になって、彼に沈黙を守らせる肚で、彼とレイクスの細君との荒唐無稽な話を、あらかじめ作り上げたんですね。そして、六時に、ミス・ハワードは、アルフレッド・イングルソープにばけて、薬剤師の店へはいって行って、犬の話をして、ストリキニーネを手に入れ、前から注意して習っておいたジョンの手で、アルフレッド・イングルソープの名前を書いたんです。
しかし、もし、ジョンもアリバイを立証できるようなことになっちゃ、なんにもならないんで、彼女は、ジョンに無名の手紙を――やはり、彼の筆跡を手本にして――書いたので、おそらく絶対に人には会いそうもない人里離れた場所へ、ジョンは連れ出されることになったんです。
ここまでは、万事うまく運んだのです。ミス・ハワードは、ミドリンガムへ帰り、アルフレッド・イングルソープは、スタイルズにもどる。どう見たって、彼があやしいと思われるような物は何もない。だって、ストリキニーネを持っているのはミス・ハワードですし、そのストリキニーネは、つまり、ジョン・カヴェンディッシュに嫌疑をかぶせる手段として買っただけなんですからね。
ところが、そこへきて、思わぬ故障が起こったんです。その晩、イングルソープ夫人が薬を飲まなかったのです。ベルの線を切ったのも、シンシアの外泊――これも、夫人の口からそういわせるように、イングルソープがお膳立てをしたのですが――それもみんな、ほごです。そこであの手紙となったわけです。
イングルソープ夫人は、外出中です。二人の計画がうまく行かなかったのに、あわてているのじゃないだろうかと心配して、彼は腰をおろして、共犯者に手紙を書き出したのです。おそらく、彼が考えていたよりも早く、イングルソープ夫人がもどってみえたのでしょうね。現場をつかまってはと、あわてて、机をしめる、鍵をかけると、いくらかうろたえていたのでしょう。部屋に残っていちゃ、また机を開けなくちゃならないことになって、イングルソープ夫人に手紙を見られるかもしれないという恐れもある。それで、外へ出て、森の中をぶらついていたのです。イングルソープ夫人が、彼の机を開けて、その罪深い手紙を見つけようとは、夢にも考えないでね。
ところが、ご存じのように、そうなってしまったんです。イングルソープ夫人は、それを読んで、夫とイヴリン・ハワードとの裏切りに気がついたのです。もっとも、不幸にも、臭化物についてのくだりが、夫人の胸になんの警告をも伝えなかったのですがね。自分が危険だとはわかった――が、どこに危険があるかはご存じなかったんです。夫人は、ご主人には何もいうまいと心をおきめになったが、明日来てくれるようにという手紙を、夫人の弁護士にお書きになるといっしょに、作ったばかりの遺言状を焼いてしまおうと決心なすったのですね。そして、運命の手紙は、保存しておおきになったというわけです」
「じゃ、イングルソープが小箱の鍵をこじ開けたのは、その手紙を見つけるためだったんですね?」
「そうです。――そして、彼が冒した危険から考えても、彼が、どれほどよくその重要さを感じていたかは、われわれにもわかるわけです。あの手紙をのぞけば、彼と犯罪とを結びつけるものは、絶対に何一つなかったんですからね」
「わたしにはわからないことが一つだけあるんですが、何故、それを取り戻すと、すぐ焼いてしまわなかったのでしょうね?」
「そのわけは、なによりも大きな危険を、あえてよう冒さなかったのですよ――その手紙を、自分の身につけておくようなことはね」
「わかりませんね」
「彼の立場に立って考えてごらんなさい。わたしは発見したのですが、彼が手紙を取りもどすのに、わずか五分間しかなかったんですよ――わたしたちが現場に着く直前の五分間です。というのは、その前には、アニイが階段を掃いていて、だれでも右棟へ通って行けば、きっと目についたでしょうからね、あなた自身で、その場のことを考えてごらんなさい! ほかのドアの鍵でドアを開けて、部屋へはいる――鍵なんて、みんな似たようなものですからね。急いで小箱のところへ行く――鍵がかかっている。鍵はどこにもない。おそろしい打撃です。というのは、部屋にいることが、望んでいたように、かくせないからです。しかし、あののろわれた一片の証拠物のためには、あらゆる危険も冒さなくてはならないと、はっきり、彼は知っているのです。急いで、ペンナイフで鍵をこじ開けて、書類を引っくり返して、捜している物を見つけます。
ところが、そこへ来て、新しいディレンマが持ち上がったのです。どうしたって、そんな紙きれを身につけてはいられないのです。部屋を出て行くところを見られるかもしれない――身体を検査されるかもしれない。手紙を持っているのを見つけられたら、それこそ破滅です。おそらく、その時、ウェルズ氏とジョンとが下の居間《ブードア》を出る音を、聞いたのですね。早くしなくちゃならない。どこに、このおそろしい紙片を隠せるでしょう? 屑籠の中味は、残しておくことになっているから、きっと調べられるだろう。焼きすてる方法はないし、持って行くこともできない。あたりを見まわして、目をつけました――なんだと思います、あなた?」
わたしは、首を左右に振った。
「とっさに、彼は、縦に細長く手紙を裂いて、こよりによって、マントルピースの上の花瓶の中に、ほかの、こよりのまん中へ、急いで押しこんだんです」
わたしは、感嘆の叫び声をあげた。
「そこを探そうと思う人間は、だれもいないにきまっています」ポアロはつづけた。「そして、都合のいい時に、もどって来て、彼に不利益をもたらす、このたった一つの証拠物を破毀してしまうことができるのです」
「それじゃ、その間ずっと、わたしたちのこの鼻の先の、イングルソープ夫人のこより壺の中にあったんですね?」わたしは、叫ぶようにいった。
「そうですよ、あなた。そこで、わたしは、わたしの『最後の環』を見つけたのですよ。しかも、その幸運の発見は、あなたのおかげなんですよ」
「わたしの?」
「そうですよ、あなた。わたしがマントルピースの上の装飾品をなおしている時に、手がふるえていたとおっしゃったのをおぼえていませんか?」
「ええ、ですけど、わたしには」
「いいえ、でも、わたしにはわかったんです。おわかりでしょう、あなた。ごいっしょにあそこにいた時、マントルピースの上の物を、みんなきちんと直した、あの朝早くのことを思い出したんです。そして、もし、すでにきちんとなっていたのなら、もう一度、なおす必要はなかったんです。その間に、だれかほかの人間が手を触れない限りはね」
「なるほど」と、わたしは呟くようにいった。「あなたの、ひどく変わった振舞いは、そのためだったんですね。スタイルズヘ飛んで行って、まだそこにあるのを見つけたというわけですね?」
「そうです。一刻を争いましたからね」
「しかし、まだわからないんですが、どうしてイングルソープは、あれを破毀する余裕がたっぷりあったのに、ばかみたいにほったらかしておいたんですかね」
「ああ。しかし、彼には機会がなかったんですよ。わたしが、そういうふうに骨を折っていたんです」
「あなたが?」
「そうです。この問題について、家じゅうの人に秘密を打ち明けたといって、わたしを非難なすったのをおぼえていらっしゃるでしょう?」
「ええ」
「つまりね、あなた、チャンスはただ一つだと、睨《にら》んだのです。イングルソープが犯人であるかないかは、あの時には、まだ確信はなかったのです。しかし、もし犯人なら、その手紙を身につけていないことは確かだが、どこかに隠していることだけは確かだ。それで、家内じゅうが一致すれば、うまく彼がその手紙を破毀するのを防げると、わたしは考えたのです。彼は、すでにあやしいと思われていたのですから、事情を公表して、わたしは、約十人の素人探偵の助力を獲得したわけで、その素人探偵が四六時中、彼を見張ることになれば、みんなに見張られていると知って、彼も、その書類をあえて処分しようとしなくなるのは確かですからね。それで、彼も、いやでも家から出なければならなくなったんです。壺の中に、あれを残したままでね」
「でも、ミス・ハワードには、確かに、彼を助ける時間がたっぷりあったんでしょうがね」
「そうです。ところが、ミス・ハワードは、あの手紙のあることを知らなかったんです。あらかじめ打ち合わせをした計画に従って、彼女は、絶対にアルフレッド・イングルソープには話しかけなかったんです。二人は、おそろしいかたき同士のように見せかけていて、ジョンが確実に有罪の宣告を受けるまでは、二人は、どちらも会おうともしなかったんです。もちろん、わたしは、いつかは彼が隠匿場所へわたしをつれて行ってくれるだろうと思いながら、イングルソープを見張りつづけていたのです。ところが、彼は、ひどく頭がよくて、そんなチャンスをつかませないのです。手紙は、元の場所にちゃんとそのままでした。だって、はじめの一週間のうちは、そこを探すなど思いついた者もなかったのですからね。後になっても、そんなこと思いもつかなかったでしょうね。しかし、あなたの幸運な一言がなかったら、法律にてらして彼を罰することなど、絶対にできなかったでしょうね」
「それでよくわかりました。でも、いつから、ミス・ハワードをあやしいと、あなたは睨んだんです?」
「検屍審問で、イングルソープ夫人から受け取った手紙について、嘘を申し立てた時からです」
「えっ、何か嘘のようなことがありましたか?」
「あの手紙をごらんになったでしょう? あの手紙のだいたいのようすが思い出せますか?」
「ええ――おおよそはね」
「じゃ、イングルソープ夫人が、非常にはっきりした筆使いで、広いはっきりした空きを残しておいでになったことを思い出せるでしょう。ところが、手紙の一番上の日付のところをごらんになれば、そういう点で、『七月十七日』という書き方がまるきり違っているのに、気がおつきになるでしょう。わたしのいうことがわかりますか?」
「いいえ」と、わたしは白状した。「わかりませんね」
「あの手紙は十七日じゃなくて、七日に――ミス・ハワードが出て行った翌日に書かれたということが、あなたにはわからないんでしょう? あの『十』という字は、『十七日』に変えるために、『七』の前に書き入れたんですよ」
「でも、どうしてです?」
「そいつは、まさに、わたしも自分にたずねたことなんです。どうして、ミス・ハワードは七日に書かれた手紙を隠して、かわりに、このにせの手紙を差し出すのだろうか? とね。そのわけは、七日付の手紙を見せたくなかったんですね。では、そのわけは? すると、たちまち、わたしの胸に疑惑が湧いてきたのです。真実をいわない人には気をつけたほうがいいと、わたしがいったことをおぼえていらっしゃるでしょうね?」
「そのくせ」と、わたしは腹を立てて、叫ぶようにいった。「そういっといてから、ミス・ハワードが犯行を犯すはずがないっていう、二つの理由を、あなたがわたしに教えたんですぜ!」
「そして、とても立派な理由もね」と、ポアロはこたえた。「長いあいだ、非常に意味深長な事実を思い出すまでは、その二つの理由が、わたしには邪魔物でした。というのは、彼女とアルフレッド・イングルソープが、いとこ同士だという事実です。彼女は、独りでは犯行は犯せなかったでしょうが、だからといって、共犯だということまで否定する理由はないんです。それに、そこへもってきて、彼女のちょっと度が過ぎるくらいの憎み方という事実に思いついたんです! あれは、非常に正反対の感情を秘めていたのです。疑いもなく、彼がスタイルズへ来るずっと前から、二人のあいだは強く結ばれていたんですね。二人は、前からこのひどい筋書を練っていたんですね――つまり、彼が、この、金は持っているが、少々お目出たい老婦人と結婚して、女の財産を、彼に残すような遺言状を作るように仕向ける。それから、非常にうまく仕組んだ犯罪で目的を達する。もし、計画通りにうまくいったら、二人はイギリスを離れて、衰れな犠牲者の金で仲良く暮らしたことでしょうね。
あの二人は、とても狡滑《こうかつ》な、不埒《ふらち》な一対ですよ。容疑が彼に向けられることにきまっていたんですから、彼女は、全然別の方向に導くために、ひそかに準備工作をする。あぶなそうな物は、みんな彼女が背負ってしまって、ミドリンガムからやって来る。疑いなどは全然、彼女にはかからない。彼女が家を出入りしたことなどには、全然、注意さえも払われまい。ストリキニーネやコップは、彼女がジョンの部屋にかくす。つけひげは、屋根裏へとね。やがては当然発見されることを、彼女は、ちゃんと見込んでいたんでしょうね」
「どうして、彼らがジョンに罪をなすりつけようとしたのか、わたしには、まるきりわかりませんね」わたしはいった。「ローレンスにおしつけるほうが、ずっと易しかったんでしょうがね」
「ええ。でも、それはほんの偶然だったんですよ。彼に不利な証拠は全部、ほんとの偶然から生まれたんです。じつをいうと、それが二人の悪党にとっちゃ、確かに迷惑だったのにちがいありませんね」
「彼の態度が不幸だったんですね」と、わたしは、考え探くいった。
「そうですね。もちろん、その際に、何があったかはおわかりでしょうね?」
「いいえ」
「マドモアゼル・シンシアが犯人だと、彼が思いこんでいたのが、おわかりにならなかったんですね?」
「いいえ」わたしは、びっくりして、大声でいった。「まさか!」
「まさかどころじゃありませんよ。わたし自身が、同じ考えを持っていたくらいですよ。遺言状のことで、ウェルズ氏に最初に質問をした時には、そう考えていたのです。それから、彼女がこしらえた臭化物の粉末のこともあったし、ドーカスがわたしたちに詳しく話して聞かせた、彼女のうまい男装の話もあったものですからね。実際、だれよりも、彼女に不利な証拠がその上にもあったんですよ」
「冗談でしょう、ポアロ!」
「いいえ、あの事件の夜、お母さんの部屋へはじめてはいって行った時、どうして、ローレンス君があんなに蒼くなったか、お聞かせしましょうか? それは、こうだったんです。お母さんが、明らかに毒を盛られて倒れているというのに、あなたの肩越しに、マドモアゼル・シンシアの部屋へ行くドアの閂がはずれているのを、彼が見たからなんです」
「でも、彼は、閂がかかっているのを見たと陳述したんでしょう!」わたしは、叫ぶようにいった。
「その通りですよ」と、ポアロは冷ややかにいった。「そして、かかっていなかったので、わたしの疑いを確実にしたのですよ。彼は、マドモアゼル・シンシアを庇っていたのですね」
「でも、どうして庇わなくちゃならなかったのです?」
「彼は、彼女を愛しているからなんですよ」
わたしは、声を立てて笑った。
「ねえ、ポアロ、そいつは、まったく間違っていますよ! わたしは、偶然に、彼が、彼女を愛しているどころか、確かに彼女を嫌っているという事実を知っていますよ」
「だれが、そんなことをあなたにいったんです、あなた?」
「シンシア自身ですよ」
「かわいそうな子どもだ! そして、彼女は、気をもんでいたんでしょう?」
「全然、気にしていないと、いっていましたよ」
「じゃ、確かに、とてもひどく気にしているんですよ」と、ポアロはいった。「そんなものですよ――女って!」
「ローレンスについて、あなたのおっしゃることは、わたしには大変な驚きですよ」わたしはいった。
「どうしてです? わかりきったことじゃありませんか。マドモアゼル・シンシアが兄さんと話をしたり笑ったりするたびに、ローレンス君はしぶい顔をしていたじゃありませんか? 彼は、持ち前の聡明な頭で、マドモアゼル・シンシアは、ジョン君を愛していると早合点してしまったんです。ほとんどやけになったのですね。彼女が、前の晩、お母さんといっしょに二階へ上がって行ったことを思い出して、コーヒー茶碗の中の物が調べられることのないようにと、まず、足で踏んづけて、コーヒー茶碗を、粉々にしてしまった。その後で、夢中になって、まったく無駄な、『自然死』説を持ち出したりしたのです」
「それで、あの『余分のコーヒー茶碗』というのはなんのことです?」
「あれを隠したのがカヴェンディッシュ夫人だということは、ほぼ確実にわかっていたのです。しかし、確かめなくちゃならなかったのです。わたしのいうことは、ローレンス君には、まるきりわかっていなかったでしょう。しかし、熟考したうえで、どこかで余分のコーヒー茶碗が見つけられたら、愛する婦人の疑いを晴らすことになるという結論に達したのですね。そして、完全に彼の考えた通りだったのです」
「もう一つあるんですが、イングルソープ夫人は、断末魔の言葉で何をいうつもりだったのでしょうね?」
「そりゃもちろん、夫に対するうらみの言葉だったのでしょうね」
「ああ、ポアロ」と、わたしはため息をついていった。「何もかも説明してくだすったようですね。それにしても、こんなに無事に終って、わたしとしてもうれしいことですよ。ジョンとメアリーも、まるく納まったしね」
「わたしのおかげでですよ」
「どういうことです――あなたのおかげって?」
「ねえ、あなた、二人をまた元のような仲にしたのは、ただただ裁判だったということは感じておいででしょう? ジョン・カヴェンディッシュが、今まで通り奥さんを愛していることは、わたしも確信していました。それからまた、奥さんのほうも、彼を愛していることもね。ところが、二人は、すっかり心がはなればなれになっていたのです。みんな、誤解から生まれたことなんです。奥さんは、愛のない結婚をしたんです。それは、彼も知っていたのです。彼は、彼なりに感情の繊細な人で、愛したくないという彼女に、無理に自分を押しつけようとはしない人ですよ。そして、彼が控え目になると、彼女のほうでは、愛が目をさましてきたのですね。ところが、二人とも並はずれに気位が高くて、その気位の高いのが、容赦なく二人を離してしまうことになったのです。彼のほうは彼で、レイクスの細君との情事に追いやられてしまう。夫人のほうは夫人のほうで、バウエルスタイン博士との友情を、わざと得ようとしていたというわけです。ジョン・カヴェンディッシュが逮捕された日に、わたしが重大問題で迷っていたのをおぼえていらっしゃるでしょう?」
「ええ、ようくわかってましたよ、あなたの悩みが」
「ごめんなさい、あなた。しかし、あなたには、ちっともおわかりにはなっていなかったのですよ。わたしは、すぐに、ジョン・カヴェンディッシュの無罪の証言をしようかしまいか、心を決めようとしていたのです。彼の無罪を証明するのは、しようと思えばできることでした――もっとも真犯人を挙げることはできなかったかもしれませんがね。あの二人には、最後の最後の瞬間まで、わたしの本心は、まったくわからなかったでしょう――それがある点では、わたしの成功をもたらしたのですがね」
「すると、ジョン・カヴェンディッシュを裁判に出さなくても救えたというんですね?」
「そうです、あなた。ですが、『女の幸福』のために、ついに決心をしたのです。あの二人の気位の高い心を、元のように結びつけられるのは、二人がくぐりぬけた、あの大きな危難を除いては何もありませんよ」
わたしは、驚きのあまり、ものもいわずに、ポアロを見つめた。なんというこの小男のすばらしい力だろう! いったい、ポアロのほかにだれが、殺人犯の公判を、『時の氏神』代わりに使うようなことを思いつく人間があるだろう!
「あなたの考えはようくわかりますよ、|あなた《モナミ》」と、にっこりわたしに微笑を向けながら、ポアロはいった。「エルキュール・ポアロでなくてだれが、こんなことをやってのける男がいるでしょう! そして、それを咎《とが》めるというのは、あなたの間違いですよ。一人の男と一人の女のあいだの幸福は、この世の中での最大のことですよ」
彼の言葉は、わたしを、ずっと以前の出来事につれもどした。わたしは、メアリーが真っ青になり、疲れ果ててソファーに横たわって、じっと耳を傾けて、聞きすましていた時のことを思い出した。その時、下のベルの音が聞こえてきた。彼女は、びくっと立ち上がっていた。ポアロがドアを開けて、彼女の苦悩に満ちた目を見て、穏やかにうなずいて、「そうですよ、奥さま。わたしは、あの方をおつれしてきましたよ」といったものだ。彼は脇に立っていた。わたしは、ジョン・カヴェンディッシュが、妻を抱きしめた時の、メアリーの目の光を見て、外へ出たのだった。
「たぶん、あなたのいう通りでしょうね、ポアロ」わたしは静かにいった。「そうですね。世の中で、何よりも大切なことですね」
突然、ドアを叩く音がして、シンシアがのぞき込んだ。
「あたし――あたし――ただ――」
「おはいりなさい」わたしは、飛び上がっていった。
彼女ははいって来たが、腰をおろさなかった。
「あたし――あなたに申し上げたかっただけですの――あることを――」
「それで?」
シンシアは、ちょっともじもじしていた。それから、不意に、「いい方たちね、お二人とも!」そういって、はじめにわたしに、それからポアロに接吻すると、また部屋から飛び出して行った。
「いったい、これはどういうことです?」と、驚いて、わたしはたずねた。
シンシアに接吻されるのは、まったくすばらしいことだった。しかし、こう大っぴらに接吻されちゃ、喜びの値打ちも減るというものだった。
「つまり、思っていたほど、ローレンス君が彼女を嫌っていないということに気がついたということなんですよ」と、ポアロは冷静にこたえた。
「だって――」
「彼が来ましたよ」
そのとたん、ローレンスがドアを通りかかった。
「ああ! ムッシュー・ローレンス」と、ポアロが声をかけた。「おめでとうと申し上げなくちゃならないようですね?」
ローレンスは、さっと赤くなって、つづいて、ぎこちなくほほえんだ、恋をしている男というものは、はたの目からは、気の毒になるような見物《みもの》だ。ところが、シンシアのほうは、ずっとチャーミングな顔をしていたっけ。
わたしは、ため息をついた。
「どうしました、|あなた《モナミ》?」
「なんでもありません」わたしは、悲しげにいった。「ご婦人方は、二人とももっか大よろこびというところですね!」
「それだのに、どちらも、あなたが相手ではないというんですね?」と、ポアロはいってのけた。「くよくよしなくてもいいですよ 元気をお出しなさい、あなた。二人でまた、探し歩きましょうよ、ね? その時はまた――」 (完)
解説
『スタイルズ荘の怪事件』The Mysterious Affair at Styles は、一九二〇年、ボドリー・ヘッド社から出版された、イギリスのミステリー作家、アガサ・クリスティの処女作である。
一九二○年といえば、今年から数えてまさに五○年前、じつに長いあいだ、最初の人気が衰えずよく読まれたものである。
生まれた年は一八九○年代とのみで、正確なことはわからない。『二十世紀著述家辞典』の求めに応じて、クリスティ自身が書いた小自伝にも、一八九○年代とだけで、はっきり生まれた年を記していない。女性のことだから、はっきり記さないことになっているのかもしれないが、いずれにしても八十を越していることは確かだ。だから、この作も、彼女の二十代の後半か、三十代の作になるわけだ。
つい先日も、朝日新聞の海外短信欄に、クリスティが、「八十番目の近作」を発表したと報じられていたのを見ても、彼女の年齢のほども推察できるというものだ。とともに、私は、彼女のうむことを知らぬその旺盛な創作力にいまさらのように、深い敬意と尊敬とを捧げるにやぶさかではないものだ。
しかも、その八十番目の近作の題材が、近ごろはやりのハイ・ジャックというに至っては、どこまでいけば、彼女の創作の泉はかれるのかと、ただただ驚嘆の念を深くするだけである。
彼女のほんとうの名前は、Agatha Mary Clarissa Mallowan 考古学者 Max Mallowan の夫人である。
だが、この作を出版した当時は、後に大佐になった Archibald Christie の夫人で、結婚はそれよりも前、第一次世界大戦の勃発した二、三か月後の一九一四年であった。結婚後間もなく、夫君は従軍してフランスへ行き、彼女は居住地デヴォン州トーケイの病院に特志看護婦として勤め、後には病院の薬局にまわされた。(この作で、ヘイスティングズが傷病兵として前線から後送されて来ていたり、シンシアが赤十字病院の薬局に勤めていたりするのも、当時の生活が背景になっているのではあるまいか)――したがって、この作も、アガサ・クリスティの名で出版された。そして、クリスティ大佐と離婚して、マローワン夫人となった後も、アガサ・クリスティという名前はそのまま筆名として使われて今に至っている。その彼女の離婚については、書き落とすことのできないことがある。
そのころ(というのは一九二七年ごろ)、英米のジャーナリストたちは、彼女のことを「ミステリー・ライターズのガルボ」という渾名《あだな》で呼んだ。かつての銀幕の女王グレタ・ガルボと同じように、この探偵小説界の女王が、頑強に新聞雑誌記者とのインタヴューを拒絶したことからついた渾名だった。
その前年、クリスティは、今もその代表作といわれる『アクロイド殺人事件』を発表して、読書界の人気を集めていた。それが、突如、奇怪な失踪をして、一大センセーションを捲き起こしたのだ。探偵小説界の新星であり、美貌の人妻であるクリスティの失踪《しっそう》は、トップ・ニュースとして連日新聞紙上を賑わし、あらゆる家庭の話題となった。乗り捨てた彼女の車が発見された。が、それから十一日を経たが、彼女の行方はわからなかった。捜査はあらゆる手掛りを求めて八方に伸びた。飛行機までが飛んだ。そして十一日目、ヨークシャーの小さな病院に、偽名で――後に、夫アーチボルト・クリスティ大佐の夫人となった女性の名で――入院しているのが見つかった。医者は、アムネジア(記憶喪失症)と診断した。
しかし、翌一九二八年、彼女が最初の夫クリスティ大佐と離婚したこと、病院での偽名が、大佐の愛人の名前であったことなどから、そこに何か動機があったのではなかろうかと臆測をする人もあった。しかし、真相は、ついにだれにもわからなかった。
しかし、この失踪事件は、探偵小説家アガサ・クリスティの名前にマイナスになるどころか、逆に非常にプラスにさえなった。『娯楽としての殺人』の著者ハワード・へイクラフトが、その著のクリスティの項で指摘している次の言葉は、よくその間の事情を説明している。
「多くの読者はクリスティの盛名は、『アクロイド殺人事件』によって確立されたと考えている。それは間違いではないけれども、ある批評家がこの作を称揚したことのほかに、ちょうど同じ一九二六年の末に、著者のクリスティ自身が、不思議な失踪事件を通こして、計らずも全世界に自己を紹介したことが、彼女を周知せしめるのに大いに役立ったということも、また確かである。この大事件のために、彼女の旧著はことごとく売りつくされ、クリスティとポアロの名は、あらゆる家庭の話題にのぼった」(江戸川乱歩氏の訳による)
旅行好きの彼女が、イラクのウル Ur に旅行して、そこで考古学の発掘に従事していた Max Mallowan と知り合ってから結婚したのは、一九三○年の九月だった。
もう二度目の結婚以来四十年、処女作発表以来五十年の時が流れている。その間、クリスティは、一年一作ないしは二作の探偵小説を書き上げて、今では八十冊に達しようとしている。
これは普通の人間のできることではない。他の芸能では、作者が年をとるに従って円熟し、大成し、後の作品ほど優れたものになるのだが、本格探偵小説だけは例外で、初期の作品ほどすぐれ、晩年は気が抜けてくるのが普通である。
その中で、クリスティだけは、まったく逆で、晩年ほど力の入った優れた作品を書いているのである。彼女より十年もあとから書き出したクイーンとカーの近年の作が、すでに情熱を失いつつあるのと思い合わせれば、いっそうこの事がはっきりする。齢八十にして、最近の「ハイジャック」を題材にして発表したということを聞いた時、わたしは驚嘆を禁じ得なかった。この老婦人はじつに驚くべき作家である。
この言葉は、しかしながら、この『スタイルズ荘の怪事件』が、後期の作品より劣るということではない。なるほど代表作といわれる『アクロイド殺人事件』や、『三幕の殺人』(一九三四年)、『予告殺人』(一九五〇年)には及ばないかもしれないが、これはまた処女作だけが持っている、瑞々しい新鮮さがある。新鮮な力が溢れている。今日、ミステリーの女王と呼ばれて、英米ばかりか、世界じゅうの探偵小説ファンの人気を一身に集めている大作家アガサ・クリスティの萌芽が、はっきりと感じられる作品である。
いや、そういう史的な意味を抜きにして、これはおもしろい作品である。最後まで一気に読ませるおもしろさ――これこそ探偵小説の一番大切な要素だ――それが、この『スタイルズ荘の怪事件』にはある。 (訳者)
◆スタイルズ荘の怪事件◆
アガサ・クリスティ/能島武文訳
二〇〇三年六月二十五日 Ver1