ハーゼルムアの殺人
アガサ・クリスティ作/能島武文訳
目 次
第一章 シタフォード山荘
第二章 霊のお告げ
第三章 午後五時二十五分
第四章 ナラコット警部
第五章 エバンス
第六章 スリー・クラウン館
第七章 遺言状
第八章 チャールズ・エンダービー氏
第九章 ローレル館
第十章 ピアスン家の人々
第十一章 エミリー、乗り出す
第十二章 逮捕
第十三章 シタフォード
第十四章 ウイレット母娘
第十五章 バーナビー少佐を訪ねる
第十六章 ライクロフト氏
第十七章 ミス・パースハウス
第十八章 シタフォード山荘の訪問
第十九章 推測
第二十章 ジェニファー伯母
第二十一章 噂話
第二十二章 夜の冒険
第二十三章 ハーゼルムアにて
第二十四章 ナラコット、事件を検討する
第二十五章 カフェ・デラーにて
第二十六章 ロバート・ガードナー
第二十七章 ナラコット、活躍す
第二十八章 長靴
第二十九章 二度目の神おろし
第三十章 エミリー、説明する
第三十一章 幸運な人
訳者あとがき
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登場人物
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トレベリアン大佐…金持ちの退役軍人、シタフォード山荘の持ち主
バーナビー少佐…同じく退役軍人、大佐の親友、一号コテージの住人
ワイヤット大尉…二号コテージの住人
ライクロフト…犯罪学、心霊学の研究者、三号コテージの住人
ミス・パースハウス…病気の老嬢、四号コテージの住人
カーチス夫妻…近隣の動静に詳しい、五号コテージの住人
デューク…謎の人物、六号コテージの住人
エバンス…トレベリアン大佐の下男
ウイレット夫人…南アフリカから来た金持ちの女
バイオレット…その娘
チャールズ・エンダービー…新聞記者
ジェニファー・ガードナー夫人…大佐の妹
メアリー・ピアスン…ガードナー夫人の妹。以下三人の母親
ジェームズ・ピアスン…大佐の甥
シルビア・ピアスン…大佐の姪。マーチン・ダーリングの妻
ブライアン・ピアスン…大佐の甥
マーチン・ダーリング…ポルノ作家
エミリー・トレフュシス…ジェームズの婚約者
ロナルド・ガーフィールド…ミス・パースハウスの甥
ナラコット警部…事件の担当者
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第一章 シタフォード山荘
バーナビー少佐は、ゴムの長靴《ながぐつ》をはき、オーバーコートの襟《えり》を立てて首までしっかりボタンをかけ、戸口のそばの棚《たな》から防風ランプをとって、住んでいる小さなバンガローの表戸を、用心深くそっとあけて、外をのぞいてみた。
目にはいるかぎり、どこもかしこも、雪だった。深い吹きだまりで――一インチか二インチの深さしか雪をつけていないところなどは、どこにもなかった。この四日ほどというもの、雪は、イギリス全土に降りつづいていたので、ここ、ダートムア高原のはずれでは、雪の深さは、数フィートにも達していた。まして、ふだんでも、この世の中から遠くかけ離れているのが、いまでは、ほとんど完全に切り離されてしまっている。ここ、シタフォードの小さな村では、冬期のきびしさは、まったく重大な問題だった。
けれども、バーナビー少佐は、勇敢な、気魄《きはく》に満ちた人だった。かれは、二度ほど、鼻息荒く呼吸をし、一度、のどの奥でうなり声を出してから、決然と、降りしきる雪の中へ飛び出した。行く先は、あまり遠くではなかった。うねった小径《こみち》を数歩行ってから、門をはいり、ところどころ、風に吹き飛ばされて雪の積もっていない自動車道を登りかげんに行くと、かなりの大きさの花崗岩《かこうがん》造りの館《やかた》がある。その表戸を、少佐はたたいた。
こざっぱりした服をまとった小間使が、ドアをあけた。少佐は、オーバーコートといっしょに、イギリス軍人好みの厚地の短外套《たんがいとう》をぬぎ、ゴムの長靴につづいて古びた襟巻もとった。さっと、奥のドアがあけられた拍子に、すっかり早変わりしてしまったのかと感ちがいしてしまったほど、その場の様子の一変した部屋《へや》へ、かれは、はいって行った。
まだわずかに三時を三十分すぎただけだったが、カーテンは、すっかり降ろされ、電灯という電灯には、すっかり明かりがつき、暖炉には、大きな火が、盛んに炎をあげていた。ワンピースのアフタヌーン・ドレスを着た二人の婦人が立ちあがって、肚《はら》の底まで軍人といった感じの老勇士を迎えた。
「こんな日に外へ出ておいでになるなんて、ほんとに、あなたはすばらしいお方ですわね、バーナビー少佐」と、二人のうちの年上のほうの女がいった。
「いや、とんでもない、ウイレット夫人、なんでもありませんよ。お招きいただいて、ほんとにありがとうございます」といって、少佐は、二人と手を握り合った。
「ガーフィールドさんもいらっしゃいますのよ」と、ミセス・ウイレットが言葉をつづけた。「デュークさんも。それから、ライクロフトさんも、伺うつもりだとおっしゃってました――けど、あのお年ですもの、こんな荒れ模様じゃ、どうでしょうかしら。ほんとに、なんてひどいんでしょう。こんないやな日は、なんとかして楽しくでもしていなくちゃ、いられませんわ。ねえ、バイオレットや、もっと薪《まき》を火にくべてちょうだい」
その仕事は、男のすることだといわんばかりに、少佐は、男らしく立ちあがって、「わたしがします、ミス・バイオレット」
少佐は、物慣れた手つきで、適当なところに薪をおいて、改めて、この家の女主人公がすすめた肘掛椅子《ひじかけいす》にもどった。かれは、そっと素速く、部屋じゅうに視線を走らせて、いつの間にか、この部屋全体の感じを――これといって指摘できるほどの、目だったことはなんにもしないで、部屋のふんい気を変えてしまった二人の女性の、そのすばらしい頭の働きに驚嘆した。
このシタフォード館というのは、十年ほど前に、イギリス海軍大佐ジョセフ・トレベリアンが、予備役に編入されて海軍から退役したのを機会に建てたものだった。かれは、かなりの資産家で、つねづね、このダートムアに住みたいものだと、強く望んでいたので、その隠退の場所として、このシタフォードのごく小さな部落に、その居を定めることになったのだった。その部落は、たいていの村や農場のように渓間《たにま》にあるのではなくて、シタフォード灯台のすぐ近くの、荒れ地の一角に位置していた。かれは、そこに広大な土地を買い入れて、居心地《いごこち》のいい家を建て、自家用の発電装置を設け、手押しのポンプで井戸水を汲みあげる労を省くために、電動ポンプを備えつけた。それから、投資として、小さなバンガローを六軒建てた。各バンガローは、このシタフォード館への小路に沿っていて、おのおの一エーカーずつの広さの土地がついていた。
まず、そのバンガローのうちの最初の一軒を、つまり、かれの家の門に近い一軒を、古くからの友だちで親友の、ジョン・バーナビー少佐に分け与え――ほかのバンガローは、だんだんに売り払って、いまでは、世間から離れて暮らしたいという、好みなり、なんらかの必要なりのある人たちが住んでいた。村そのものには、見た目には美しく絵のようではあるが、ひどく荒れ果てた三軒のいなか家《や》と、一軒の鍛冶《かじ》工場と、一軒の郵便局を兼ねた菓子屋とがあるきりだった。この村に一番近い町といえば、六マイルほど離れたところにあるエクザンプトンで、そこまでは、ダートムア街道では、だれにでもなじみになっている「自動車運転者は、エンジン・ギアを最低にすべきこと」という看板が必ず立っているほど、下り一方の急坂だった。
前にもいったように、トレベリアン大佐は、なかなかの財産家だった。それにもかかわらず――いや、それだからといったほうがいいかもしれないが――かれは、極端なほど、金というものが好きな人だった。ちょうど、この十月の末ごろだった。エクザンプトンのある不動産周旋業者が、大佐あてに手紙をよこして、シタフォード館をお貸しになってはいただけまいかと問いあわせてきた。借り手は、冬の間じゅう、借りたいというのだった。
最初、その手紙を読んだときには、トレベリアン大佐は、ことわろうと考えたが、そのつぎには、もっと詳しく事情を聞きたいと思った。その結果、借り手というのは、娘が一人《ひとり》あるウイレット夫人という未亡人だということがわかった。その夫人は、最近、南アフリカから来たばかりの人で、冬の間だけ、ダートムアに家を一軒借りて住みたいというのだった。
「驚いたね、きっと、その女は気が狂っているんだよ」と、トレベリアン大佐はいった。「え、バーナビー、そう思わないかね?」
バーナビーも、たしかにそう思ったので、その友だちの口吻《こうふん》をまねて、強い調子で、「とにかく、きみは、貸したくないんだろう」といった。「凍死でもしたいという人なら別だが、まあ、どっかほかのところへ行かせるんだね、そのばかな女に。おまけに、南アフリカくんだりからやって来てさ!」
ところが、そのとたんに、トレベリアン大佐の持ち前の拝金熱が、むくむくと頭を持ちあげたのだ。この真冬の最中に、おまえさんの家を貸せるなんて、そんな幸運なチャンスが、百に一つもなかったじゃないか。そこで、借り手が、どれくらいの家賃を払うつもりなのかと、大佐はたずねてみた。
一週につき十二ギニー払うという申し出で話がきまった。トレベリアン大佐は、一週二ギニーで、エクザンプトンの町はずれに小さな家を借りて、そこに移り、シタフォードの家は、家賃の半額を前金で受けとって、ウイレット夫人に明け渡した。そして、「ばかな女だ。どれだけ持ってるかしらんが、持ってる金もじきになくなってしまうぞ」と、大佐は、口の中でつぶやくようにいった。
しかし、この午後、バーナビーが、ひそかに、ウイレット夫人を観察したところによると、ばかな女なんてとんでもないという気がした。背の高い女で、どちらかといえば、態度などは間が抜けているようだ――が、その顔つきには、どうしてどうして、間が抜けているどころか、ゆだんのならない鋭さを感じさせるものがあった。いささか身なりを飾りすぎていて、まぎれもなく植民地風な訛《なま》りが、言葉のはしばしにまじるのが気になったとはいうものの、見受けるところ、こんどの借家の取り決めのことについては、心から満足しているようだった。が、明らかに、夫人は、ひどく裕福だったので、こんどの、この冬の最中に、こんなところに家を借りるといったいっさいのいきさつは、まったく妙なことだとか、風変わりだとかいっていられないほどおかしいことだと、一再ならず、バーナビーは、考えていたものだった。孤独を愛する|たち《ヽヽ》の婦人とは、どうしても思えなかったからだ。
近所づきあいにしても、夫人は、ほとんど相手がとまどうほどに、なれなれしい親しみを示すのだった。人さえ見ればだれかれの区別なしに、シタフォード館においでくださいと、お世辞をあびせかけた。トレベリアン大佐などは、「わたくしたちに貸しているなどとお思いにならないで、どうぞお気軽においであそばして」といったぐあいに、顔を合わせるたびに、しきりに勧誘されていた。ところが、トレベリアンのほうでは、あまり、女というものが好きではなかった。世間の評判では、若い時に、好きな女に捨てられたからだということだったが、そのせいかどうか、大佐は、かたくなに、どんな招待でも、招待というものはみんなことわっていた。こうして、ウイレット家の人たちが引っ越して来てから、二か月も経つと、この一家の転居について、最初の物見高い好奇心も、どうやら静まっていった。
生まれつき無口で、さきほどからこの女主人公を観察しつづけていたバーナビーは、くだらない世間の噂話《うわさばなし》などに耳をかすことなど、とかく忘れがちだった。自分をばからしく見せるのが好みらしいが、実は、そうではないのだというのが、バーナビーのくだした結論だった。で、こんどは、娘のバイオレット・ウイレットに、少佐は、目を移した。美しい娘だ――むろん、やせてはいるが――それが、当節の流行なのだ。
少佐は、我れに返って、すこしは話でもしなければいけないなと思った。
「わたくしたち、はじめは、あなたがいらっしゃらないんじゃないかと案じていましたのよ」と、ウイレット夫人がいった。「そう、おっしゃいましたでしょう。でも、最後には、いらっしゃるとおっしゃったんで、わたくしたち、とてもうれしゅうございましたわ」
「金曜日ですからな」と、隠し立てはしていられないという調子で、バーナビー少佐がいった。
ウイレット夫人は、とまどったような顔つきで、「金曜日とおっしゃいますと?」
「金曜日ごとに、トレベリアンのところへ行くことになっているのです。火曜日には、かれが、わたしのところへ来る。もう何年も、わたしたち二人は、そうやっていたのです」
「あら! そうですの、むろん、ごくお近くに住んでいらして――」
「習慣のようなもので」
「でも、いまでもおつづけになっていらっしゃいますんですか? だって、そうじゃございません、いまでは、あの方も、エクザンプトンにお住まいになっていて――」
「まったく残念なのは、習慣を破って」と、バーナビー少佐がいった。「二人とも、ここのところ、その夕方ごとの楽しみをしぞこなっていることです」
「勝負ごとをなさりにいらっしゃるんでしよう?」と、バイオレットがたずねた。「詩の字合わせだの、クロスワードだの、いろいろそんなことを」
バーナビーは、うなずいて、「わたしは、クロスワードを、トレベリアンは、字合わせをします。二人とも、自分自分の領域に夢中です。先月、わたしは、クロスワードの競技会で、賞品に本を三冊もらいましたよ」と、自慢そうにいった。
「あら! ほんとう。すてきじゃありませんか。おもしろい本ですの?」
「どうですかね、まだ読んでないのです。どうもおもしろそうじゃありませんね」
「賞品なんでございましょう?」と、ウイレット夫人は、あたりさわりのない調子でいった。
「エクザンプトンへは、どうやっていらっしゃいますの?」と、バイオレットがたずねた。「自動車は持っていらっしゃらないんじゃありませんか」
「歩くんですよ」
「なんですって? ほんとじゃないんでしょう? 六マイルもあるのに」
「いい運動ですよ。往復十二マイルが、なんです? 丈夫にしてくれますよ、人間を。丈夫でいるってことは、大したことですからね」
「まあすごい! 十二マイルなんて。あなたもトレベリアン大佐も、すごい運動家でいらしたんでしょう?」
「いっしょに、よくスイスへ行ったものですよ。冬は、ウインタースポーツ、夏は、登山、トレベリアンは、スケートの名手ですよ。そういっても、もういまじゃ、二人とも、そんなことをするには年をとりすぎてしまいましたがね」
「あなたは、軍のテニス選手権もおとりになったんですってね?」と、バイオレットがたずねた。
少佐は、若い女の子のように頬《ほお》を染めて、「だれが、そんなことをいったのです?」と、口の中でつぶやくようにいった。
「トレベリアン大佐ですわ」
「ジヨーは、口を慎しむといいんだな」と、バーナビーがいった。「すこし、おしゃべりがすぎますよ。ところで、この天気はどうですか?」
どぎまぎと、少佐が照れてしまっているのをいたわるように、バイオレットは、かれのあとを追って窓ぎわに近づいた。二人は、カーテンを引きあげて、外を見た。「ますます、雪は降ってくるようですな」と、バーナビーがいった。「こりゃまた、ひどく積もりますよ、きっと」
「まあ! 胸がどきどきするようだわ」と、バイオレットがいった。「あたし、雪って、とてもロマンチックなものだとばかり思ってましたわ。こんなすごい雪なんて、いままで一度も見たこともないわ」
「パイプまで凍ってしまうんだから、ロマンチックなんて騒ぎじゃありませんよ、おばかさんね」と、かの女の母親がいった。
「あなたは、これまでずっと、南アフリカでばかり暮らしておいでだったのですか、ミス・バイオレット?」と、バーナビー少佐がたずねた。
そのとたんに、かの女の身のまわりから、若々しい生気が、すうっと消えていった。なにかぎごちなさの読みとれるような様子で、こたえた。「ええ――はじめてですわ、こんな遠くへ来るなんて。もうほんとに、恐ろしいほどぞくぞくするようですわ」
こんなに、人里離れて荒涼とした寒村に閉じこめられているのが、ぞくぞくするほどこわいというのだろうか? おかしな考えではないか。この人たちの肚《はら》をどうとっていいのか、少佐にはわからなかった。
そのとき、ドアがあいて、小間使が、「ライクロフトさまと、ガーフィールドさまがお見えでございます」と告げた。
やがて、小柄な、ひからびたような感じの老人と、健康そうな顔色の、子供子供した感じの若者とがはいって来た。まず、その青年がしゃべり出した。「わたしが、この人を引っぱって来たんですよ、ウイレット夫人。吹雪《ふぶき》の中に生埋めになんかさせませんからって、そういってね。は、は、は。こりゃ、まったくすばらしい。クリスマスの大薪が燃えてるようじゃありませんか」
「いや、この人のいうとおりですよ。わが親愛なる若い友人が、親切にも、ここまで案内してくれましたのでね」といって、ライクロフト氏は、いくぶん、大げさに握手をしながら、「今日は、バイオレットさん、ご機嫌はどうですかな? 冬らしい季節だといえば、それまでだが――どうも、すこし寒すぎるようじゃありませんか」
それから、ライクロフトは、ウイレット夫人に話しかけながら、火の方に歩み寄った。一方、ロナルド・ガーフィールドは、バイオレットを引きとめて話しこんだ。
「ねえ、二人で、どこかへスケートにお伴ができませんか? 近くに池でもないもんでしょうかね?」
「そうね、あなたにお似合いのスポーツなら、道の雪掻きじゃないかしら」
「雪掻きなら、午前中、やってましたよ」
「あら! まあ、男らしい方ね!」
「からかわないでくださいよ。両手にすっかり霜やけができちゃったほどですからね」
「叔母《おば》さまは、いかがですの?」
「ああ! いつでも同じことですよ――きょうは、ぐあいがいいといってるかと思うと、あしたは、どうかすると悪いというんですからね。だが、ほんとうのところは同じだと思うんです。いやな生活ですからね。毎年毎年、ぼくは、いったいどうしたら、冬が越せるかしらと思うんですがね――でも、なんのことはない、ちゃんとやっているんですからね。まあ、あんな海千山千の年寄りは、クリスマス時分にでもちやほやしなけりゃ、そうですよ、虎《とら》の子の財産を、猫《ねこ》の病院にでも寄付してしまうくらいのことはやりかねませんからね。五匹も猫を飼ってるんでしょう。ぼくはいつも、あのいやな畜生どもをなでてやっては、いかにも可愛がってるふりをしているんですよ」
「あたし、猫なんかより、ずっとずっと犬のほうが好きですわ」
「ぼくもそうですよ。いつだってですよ。というのは、犬は――そう、犬は犬ですからね」
「あなたの叔母さまは、いつだって、猫を可愛がっていらっしゃるの?」
「ぼくは、女が年が寄ると、あんなふうになるんだと思いますよ。ああ、たまらない! ぼくは、あんな畜生は、大嫌いですよ」
「でも、あなたの叔母さんは、とてもおきれいね。だけど、ちょっとこわいみたい」
「ぼくもこわいという気がすることがありますよ。ときどき、がんと頭の上でどなるんですからね。脳味噌がふっ飛んでしまったかという気がしますよ」
「ほんと?」
「ああ! ねえ、そんなふうに、いわないでくださいよ。世間には、間抜けな顔をした男がずいぶんいますけどね、そんな連中だって、肚の中では笑っているんですよ」
「デュークさんがお見えになりました」と、小間使が告げた。
デュークは、ごく最近、こちらへ来たばかりの人だった。この九月に、六軒のバンガローのうち、最後に残っていた一軒を買ったのだった。大柄な、ひどく物静かな男で、もっぱら庭造りに傾倒していた。小鳥を飼うのに熱をあげているライクロフト氏は、デューク氏についてのここらの人々の噂話を、自分の目で見きわめようと、氏の身辺を見守っていた。もちろん、噂どおりデューク氏は、ひどくきちょうめんな、まったく謙虚な人だったが、やっぱり、ほんとに――そうだ、ほんとにそうだろうか? もしかしたら、隠居した商人というんじゃないのじゃないか?
だが、だれも、ご本人にたずねようとはしなかった――実際、そんなことは、知らないほうがいいという気がしたのだ。だって、もし、知ってしまえば、かえって気ぶっせいになりかねないからだった。がほんとうのところは、こんな狭い土地でのつきあいでは、だれかれとなくみんなのことを知っているほうがよかったのだ。
「こんな荒れ模様じゃ、エクザンプトンまで歩いちゃ行けませんね?」と、デュークが、バーナビー少佐に問いかけた。
「そうですな、今晩は、トレベリアンといえども、わたしが来るとは思っていないでしょう」
「すごいじゃありませんか?」と、ウイレット夫人が、身ぶるいしながらいった。「来る年も来る年も、こんなところに閉じこめられているなんてことになったら――きっと、たまらないでしょうね」
デューク氏は、素速く、かの女に視線を走らせた。バーナビー少佐も、不思議そうに、じっと夫人を見つめていた。
が、そのときお茶が運ばれてきた。
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第二章 霊のお告げ
お茶がすむと、ウィレット夫人が、ブリッジをしようといい出した。「六人ですから、二人は、あとからはいれますわ」
すると、ロニー・ガーフィールドが目を輝かして、「あなたたち、四人でおはじめなさい」といった。「ミス・ウイレットとぼくとは、あとから入れてもらいますよ」
ところが、デューク氏が、自分はブリッジをやったことはないといった。ロニーは、失望した色を顔に浮かべた。
「ラウンド・ゲームをなすったら」と、ウイレット夫人がいった。
「それとも、『こっくりさん』はどうです」と、ロニーがいった。「なにしろ、幽霊でも出そうな気味の悪い晩ですからね。ほら、いつか話していたじゃありませんか。今晩ここへ来る間も、ライクロフトさんと、そのことを話していたんですよ」
「わたしは、心霊研究会の会員なんですから」と、気取った口ぶりで、ライクロフト氏は説明した。「若いガーフィールド君のような人の心は、一度か二度で、ぴたりと当てることができますよ」
「たわけたことを」と、はっきりと聞こえるほどに、バーナビー少佐がいった。
「あら! でも、ずいぶんおもしろそうじゃなくって?」と、バイオレット・ウイレットがいった。「というのはね、信じようと、どうだろうと、おもしろいってことなの。どう、デュークさん?」
「どちらでも、お好きなように、ミス・ウイレット」
「電気を消さなくちゃ、それから、つごうのいいテーブルを見つけなくちゃいけませんわ、あら、だめ――それはだめよ、お母《かあ》さん。そうよ、そのテーブルは重すぎるわよ」
やがて、とうとうみんなの気に入るように、万端の用意がととのった。表面がぴかぴか光っている、小さな円形のテーブルが、隣の部屋から運ばれてきた。それを暖炉の正面におくと、電灯を消して、みんながテーブルをかこんで、席についた。
バーナビー少佐は、女主人公とバイオレットの間にすわった。娘の向こう側には、ロニー・ガーフィールドがすわった。少佐の唇《くちびる》には、冷笑するような微笑のかげが浮かんでいた。かれは、胸の中で、「若いころは、|銭回し《アップ・ゼンキンス》をして遊んだものだったな」と考えていた。そして、その遊びの最中に、テーブルの下で、かなり長い間手を握りあっていた、あのやわらかい金髪の少女の名前を思い出そうとしていた。あれも、もうずいぶん遠い昔のことになってしまったな。だけど、アップ・ゼンキンスというやつは、おもしろいゲームだった。
みんなの間では、こういう場合によくおこる笑い声や、ひそひそとささやき交わす声や、きまりきった言葉などが交わされていた。「霊魂は永遠ですわ」「でも、やって来るのには、時間がかかりますよ」「しっ――しんけんでなくちゃ、なんにも現われやしませんよ」「ちょいと! お静かにねがいます――みなさん」「なんにも起こらないじゃありませんか」「むろんですとも――いきなり、起こりゃしませんよ」「みなさん、静かにさえしてくだされば、そうすれば起こります」
とうとう、しばらくするうちに、ひそひそしゃべりあっていた声が、だんだん静まった。
静寂。
「このテーブルときたら、まったく死んだようで、うんとも、すーともいいませんな」と、あきれたというように、ロニー・ガーフィールドが、小声でいった。
「しいっ」
かすかな震動が、みがきたてたようなテーブルの表面を走った。と、テーブルが、揺れはじめた。
「さあ、質問してください。だれがお聞きになります? ロニー、きみ、どうです」
「ああ――ええと――ぼくですか――なにを聞くんです?」
「霊魂は、あるんですか? そうおっしゃいよ」と、バイオレットが教えた。
「ああ、ね? もしもし――霊魂というものは、存在するのですか?」
テーブルが、鋭く揺れた。
「それ、あるということなのよ」と、バイオレットがいった。
「ああ! ええと――だれですか、あなたは?」
こたえがない。
「名前を聞いてごらんなさいよ」
「どうやって、聞くんです」
「テーブルの揺れる音を、ABC順に数えるのよ」
「ああ! なるほど。霊よ、あなたの名前の綴《つづ》りを教えてください」
テーブルが荒々しく揺れはじめた。
「ABCDEFGHI――ねえ、いまのは、Iでしたか、それとも、Jでしたか?」
「聞いてごらんなさいよ。いまのは、Iですか?」
一つ揺れた。
「わかりました。では、つぎの字を、どうぞ」
こうして、霊魂の名前は、「アイダ」だとわかった。
「あなたは、ここにいるだれかに、お告げを授けにおいでになったんですね?」
そのとおり。
「だれにです? ミス・ウイレットにですか?」
ちがう。
「ウイレット夫人ですか?」
ちがう。
「ライクロフトさんですか?」
いいえ。
「わたしですか?」
そうです。
「あなたにですって、ロニー。さあ、もっとつづけて聞いてごらんなさい。一字ずつ、綴りを聞いてみるのよ」
テーブルは、順に揺れて、「ダイアナ」とつづった。
「だれ、ダイアナって? あなた、ダイアナって名前の人をご存じなの?」
「いや、知りません。すくなくとも――」
「でも、ご存じのはずよ。霊が告げているんですもの」
「聞いて、ごらんなさい、未亡人かどうかって」
こういうふうに冗談ごとの遊びがつづいた。ライクロフト氏は、おうように、にこにこと笑いを浮かべていた。若い連中は、めいめい遊びが必要なんだ。そのとき、不意に、暖炉の火がぱっと燃えあがった光で、女主人公の顔が、ライクロフトの目に、ちらっとはいった。なにか悩みごとでもあって、すっかり心を奪われているという様子で、どこか、ずっと遠くに、物思いが行ってしまっているというふうだった。
バーナビー少佐は、雪のことばかりを考えていた。今夜もまた、雪が降り積もりそうだ。これまでに一番きびしかった冬のことを、かれは思い出していた。
デューク氏は、ひどくしんけんに、「こっくりさん」をしていた。ところが、なんということだろう、霊アイダは、まるきり、かれのことを気にもとめてくれないのだった。お告げというお告げはみんな、バイオレットとロニーとに授けられるらしいのだ。
バイオレットは、近くイタリアに行くことになるというお告げを受けた。だれかが、いっしょに行くということで、しかも、それは男で、名前は、レオナルドというのだった。
それでまた、わっと、みんなが声を立てて笑った。テーブルは、がたがたと揺れて、バイオレットが出かける街《まち》の名前を告げた。ところがどうだろう、その街の名前ときたら、なんだか変てこなロシアふうで――ちっともイタリアらしくなかった。
おかしいじゃありませんかというとがめるような声が、口々にあがった。
「やあ、バイオレット。あんたが、テーブルを押していたんじゃないのか」
「あたし、そんなことしていないわよ。ほら見てごらんなさいよ。あたし、ちゃんとテーブルから手をはなしているのに、やっぱり同じように揺れているじゃありませんか」
「この、ことことと鳴る音は、好きだな。もっと鳴ってもらいたいですな。大きな音で」
「きっと鳴りますよ」と、ライクロフト氏の方を向いて、ロニーがいった。「鳴るのが当然でしょう、ねえ?」
「こんな様子じゃ、とてもほんとうとは思えませんね」と、ライクロフト氏が、そっけなくいった。
しばらく、みんなが口をつぐんでいた。テーブルも、勢いよく動かず、なにをたずねてもこたえもしなかった。
「アイダ嬢も、行ってしまったのかな?」と、また一つ、がたんと鈍く揺れた。
「どうぞ、別の霊が現われてくださるのでしょうか?」
が、なんの返事もなかった。と、突然、テーブルが、がたがたと振動したと思うと、はげしく揺れはじめた。
「フレー! あなたは、いままでの霊とはちがう、新しい霊ですか?」
「だれかに、お告げを告げにおいでになったのですか?
そのとおり。
「わたしにですか?」
ちがいます。
「バイオレットにですか?」
ちがいます。
「バーナビー少佐にですか?」
そう。
あなたにですよ、バーナビー少佐、どうぞ、名前を教えてください」
テーブルが、ゆっくり揺れて鳴りはじめ、順次に、一つずつ文字をつづっていった。
「TREVと――たしかにVですか? そんなはずはないんだがな。TREVと、――どうも、これだけじゃ、意味がわからないな」
「トレベリアンですよ、もちろん」と、ウイレット夫人が、口をはさんだ。「トレベリアン大佐のことですよ」
「霊よ、トレベリアン大佐のことですか?」
そう。
「では、トレベリアン大佐にお告げがあるんですね?」
ちがいます。
「それじゃ、なんですか?」
テーブルが、揺れはじめた――ゆっくりと、規則正しく。ひどくゆっくり揺れたので、音を数えて、ごく簡単に文字をつづることができた。
「シ――」と鳴ってから、間をおいて、「ン――ダ」
「シンダって」
「だれかが死んだというんですね?」
そう、とか、ちがう、というかわりに、またテーブルが揺れはじめて、ト、という字になるまで揺れつづけた。
「ト――トレベリアンのことですか?」
そうです。
「トレベリアンが死んだというのじゃないでしょうね?」
とても強く揺れて、そうだ、とこたえた。
だれかが、驚いて、あっと息をのんだ。テーブルのあたりに、なにかかすかに動くような気配がした。気をとりなおして質問をつづけるロニーの声には、それまでとちがった――なにかおびえるような、不安な調子が漂っていた。
「というと――トレベリアン大佐が死んだというんですね?」
そのとおりです。
そこで、話のやりとりはとぎれてしまった。そのつぎに、なんとたずねていいか、この予期してもいなかった事の成行を、どうとっていいか、だれにもわからないと迷っているかのようだった。そして、一座の者がためらっているうちに、再び、テーブルが揺れはじめた。
規則的に、ゆっくりと、その揺れる音を数えて、ロニーが、声を出して、言葉になおしていった、コ=ロ=サ=レ=タ。
ウイレット夫人が、ひと声、衣《きぬ》を裂くような叫び声をあげて、テーブルから手をはなして、「こんなこと、つづけていられないわ、なんて恐ろしいんでしょう。こんなこと。わたし、ごめんですわ」
デューク氏が、部屋じゅうに響き渡るように、はっきりとした声でどなりたてた。テーブルに向かって問いかけているのだった。「すると――トレベリアン大佐が殺されたというんですか?」
その最後の言葉が、かれの唇から出たか出ないうちに、返事が返ってきた。もうすこしで引っくり返るかと思うほど、激しく、はっきり告げ知らせるというように、テーブルが揺れた。しかも、ただ一度、そうです、と。
「ねえ」と、ロニーは、テーブルから手をはなして、「こんなことは、くだらん冗談ですよ」といいながらも、その声はふるえていた。
「電気をつけてください」と、ライクロフト氏がいった。
バーナビー少佐が立ちあがって、明かりをつけた。不意についたまぶしい光が、青ざめた、不安そうな一座の人たちの顔をさらけ出した。
だれもかれも、お互いに顔を見合わした。どういっていいか――なにをいっていいか、まったく、だれにもわからなかった。
「たわごとですよ、むろん」といって、ロニーが、不安そうな笑い声をたてた。
「ばかばかしいナンセンスですわ」と、ウイレット夫人がいった。「とんでもないことですわ――こんな冗談をするなんて、とんでもないことですわ」
「ひとが死ぬなんてこと」と、バイオレットがいった。「こんなこと――ああ! あたし、きらいだわ」
「ぼくが、動かしたんじゃありませんよ」と、無言の非難が自分に向けられているのを感じながら、ロニーがいった。「誓って、ぼくがやったんじゃありません」
「わたしも、同様にいえます」と、デューク氏がいった。「そして、ライクロフトさん、あなたは?」
「絶対に、わたしはしません」と、熱っぽい口調で、ライクロフト氏がいった。
「いくらあなたがただって、このわたしが、こんなばかばかしい冗談ごとをすると、お思いにはならんでしょうな?」と、バーナビー少佐が、うなるようにのどの奥でいった。「まったくくだらない悪趣味だ」
「バイオレット、まさか、おまえ――」
「あたしじゃないわ、母さん。ほんとに、なんにもしなかったわよ、あたし。こんなこと、しろったって、あたし、しないわよ」かの女は、いまにも泣き出しそうだった。
だれもかれも、当惑しきっていた。突然、暗い影が、この陽気な、上機嫌のパーティの上に襲いかかってきたという感じだった。
バーナビー少佐は、椅子をうしろに押しやると、窓ぎわに歩み寄って、カーテンを引きあけた。その場に立ったまま、部屋の方に背中を向けて、外をながめた。
「五時二十五分か」といいながら、ライクロフト氏は、ちらっと時計を見あげ、自分の時計と合わせてみた。と、どういうものか、だれもかれも、そのライクロフトの動作を、なにか意味ありげに感じた。
「さあ、みなさん」と、ウイレット夫人が、ことさららしく陽気な調子でいった。「カクテルでも召しあがったほうがよかないでしょうか。ちょっとベルを鳴らしていただけません、ガーフィールドさん?」
ロニーが、いわれたとおりにした。
やがて、酒やグラスやミキサーなど、カクテルの材料が運び込まれ、ロニーが、カクテルをつくることになった。その場の重苦しいふんい気も、いくらかくつろいできた。「さあ」と、自分のグラスをあけながら、ロニーがいった。「みなさん、いかがです」
ほかの者たちは、それに応じた――みんな、ただ、窓ぎわに立っている無言の人物を除いて。
「バーナビー少佐、あなたのカクテルですわ」
はっとしたように、少佐は、我に返った。ゆっくり向き直って、「ありがとう、ウイレット夫人、わたしにでしたら結構です」そういったかと思うと、少佐は、もう一度、外の夜の闇《やみ》を見つめてから、ゆっくり、暖炉のそばのみんなのところへもどって来た。「まったく愉快な時間をすごさせていただいて、大変ありがとうございました。では、お休みなさい」
「まさか行っておしまいになるのではないのでしょう?」
「行かなくちゃならないでしょうね」
「そんなにすぐでなくともいいんじゃございませんこと。それに、こんな晩ですのに」
「すみません、ウイレット夫人――だが、しなくちゃならんことがありますんで。電話さえあればね」
「お電話?」
「そうです――実をいいますと――わたしは――そう、ジョー・トレベリアンが無事かどうか、確かめてみたいと思いましてね。ばかげた迷信だとは思うのですが――ですが、お聞きのとおりですから。いや、おっしゃるまでもなく、こういうたわごとを信じてはいません――ですが――」
「でも、どこからも電話なんか、おかけになれないじゃありませんか。シタフォードには、ないんですもの、そんな電話なんか」
「そうですなあ。電話がかけられんとすると、出かけて行かなくちゃならんでしょうな」
「出かけていらっしゃるんですって――ですけど、あの道を、自動車じゃ、降りられやしませんわ! エルマーも、こんな吹雪の晩じゃ、車を出してはくれないと思いますわ」
エルマーというのは、この部落でのたった一台の自動車の持ち主で、その年代物のフォードを、エクザンプトンに行きたいと思う人に、かなりのいい値で賃貸しをしていた。
「いや、いや――自動車なんて問題外です。この二本の脚《あし》が、わたしを向こうまで運んでくれますよ、ウイレット夫人」
いっせいに、反対の言葉がおこった。
「まあ! バーナビー少佐――そんなこと、できっこありませんわ。この雪は、もっと降りつづくって、あなたご自身でさえおっしゃっていらしたじゃありませんか」
「一時間じゃどうでしょうか――もうちょっとかかるかもしれませんが、行けますとも、けっしてご心配には及びません」
「あら! とてもご無理ですわ。そんなこと、黙って見てはいられませんわ、わたくしたち」と、夫人は、しんけんにとめようとして、無我夢中だった。
だが、どのような言葉を尽くした説得も、懇願さえも、相手が岩かと思うほどに、バーナビー少佐には、なんの効果もなかった。まったく頑固《がんこ》な男だった。一度、こうとかれが心に思いきめた以上は、この世のどんな力でも動かすことができないという人間だった。
かれは、歩いてでもエクザンプトンまで行って、自分の目で、老友の無事な姿を見定めようと、固く心に決していた。そして、六度も繰り返して、出かけますという、簡単な言葉をいいはった。とうとう最後には、みんなも、ほんとうに少佐の決心が固いのだと、そう感ぜざるをえなくなった。少佐は、オーバーコートに身を固め、防風ランプに灯をつけて、吹雪の夜の中へ足を踏み出した。
「水筒をとりに、わたしの家へちょっと寄ります」と、少佐は、元気にいった。「それから、まっすぐに出かけますよ。わたしが行けば、トレベリアンも、今晩は泊めてくれるでしょう。とほうもない騒ぎだとは承知していますが、無事だとわかれば結構ですからね。ご心配はご無用ですよ、ウイレット夫人。雪が降っても降らなくても――二時間もあれば、向こうに着きますよ。じゃ、お休みなさい」
少佐は、大股に去って行った。ほかの人たちは、暖炉の前にもどった。
ライクロフトは、空を見あげていたが、「まだまだ降りつづきますなあ」とつぶやくように、デューク氏にいった。「この分じゃ、エクザンプトンまで着くには、かなりかかることになりそうですね。どうか――どうか、無事で着いてくれればいいが」
デュークは、眉《まゆ》を八の字に寄せて、「そうだ。わたしも、少佐といっしょに行くべきだったという気がする。とにかく、だれか一人、ついて行くべきだったなあ」
「とても心配ですわ」と、ウイレット夫人が、いいつづけていた。「とても心配ですわ。バイオレットや、もう二度と、こんなばかげた遊びを、わたしはしませんよ。お気の毒にバーナビー少佐は、もしかしたら、吹雪の吹きだまりの中にはまり込んでいらっしゃるかもしれないわ――それとも、雪の吹き寄せの中にはまっていらっしゃらなけりゃ、寒気と吹きさらしとで、死んでおしまいになるかもしれないわ。それに、あのお年で、ほんとに、こんな夜に出かけておいでになるなんて、ほんとにどうかしていらっしゃるわ。もちろん、トレベリアン大佐がご無事なことは、ようくわかりきっているのに」
だれもかれも、「もちろんですよ」と、口々にいった。
しかし、そうはいっても、みんな、ほんとうは、あまり気持ちよくは感じていなかった。もしかしたら、トレベリアン大佐に、なにか変わったことが起こったのではないだろうか……もしかしたら……
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第三章 午後五時二十五分
それから二時間半ほどたって、ちょうど八時になろうというころ、バーナビー少佐は、防風ランプを手に持ち、目もあけていられないほど、すさまじく吹きつけてくる吹雪を避けて、頭をさげ、前のめになりながら、トレベリアン大佐が借りている、「ハーゼルムア」という名の小さな家の玄関への小径《こみち》を、よろめきよろめき歩いていた。
雪は、一時間ほど前から、強く降りはじめていた――目もあけていられないほどの、猛烈な吹雪だった。バーナビー少佐は、すっかり疲労|困憊《こんぱい》した人間が吐き出す、ため息のような息を、大きく、はあっ、はあっ、と吐きながらあえいでいた。寒さのために、感覚をうしないかけていた。足を、どすんどすんと、大きく踏みつけ、あえぐように荒い息を吐き、ふうと鼻息をならしてから、凍《こご》えきった指先を持ちあげて、玄関のベルを押した。ベルは、けたたましく鳴りわたった。
バーナビー少佐は、待っていた。ややしばらく、そのままで待っていたが、ドアがあかなかったので、もう一度、ベルを押した。
またもや、かたっという物音もしなければ、人の動く気配もなかった。
バーナビーは、三度目のベルを押した。こんどは、じっとベルに指を押しつけたままでいた。ベルは、けたたましく、いつまでも鳴りつづけた――が、家の中には相も変わらず人の気配さえもなかった。
見ると、ドアにはノッカーがついていた。バーナビー少佐は、それをつかむと、荒々しくドアの羽目板にたたきつけて、雷鳴のような音をたてた。だが、依然として、小さな家は、死人のように静まり返っていた。
少佐は、戸をたたくのをやめてしまった。とほうにくれてしまったように、しばらく立ちつくしていた――それから、ゆっくり小径を引き返して、門の外に出、エクザンプトンに向かってやって来た街道を、とぼとぼとたどって行った。百ヤードほど行くと、小さな警察の駐在所があった。しばらくためらっていたが、とうとう意を決して、その中へはいって行った。
少佐の顔をよく知っている、巡査のグレイブスは、びっくりして椅子から立ちあがりながら、「こりゃこりゃ、こんな晩にやっておいでになるなんて、夢にも思いませんでしたぜ」
「ねえ、きみ」と、バーナビーは、単刀直入にいった。「大佐の家のベルを鳴らしても、ドアをたたいても、うんともいわなければ、がたっという物音もしないんだがね」
「なるほど、おっしゃるまでもなく、きょうは金曜日ですね」この少佐と、大佐との間の、お互いにたずね会うことになっている習慣をよく知りつくしているグレイブスが、そういった。「ですが、まさかこんな晩に、シタフォードから、ほんとにおりておいでになったなんて、おっしゃるんじゃないでしょうね? いくら大佐だって、あなたがおいでになるなんて、けっして思っちゃいらっしゃらないでしょう」
「かれが、待っていようがいまいが、わたしは、このとおり来ているのだ」と、バーナビーは、つっけんどんにいった。「しかも、はっきり、きみにいうが、中にはいれないのだ。ベルを鳴らしても、ドアをノックしても、だれも返事ひとつせんのだ」
少佐の不安に満ちた様子が、おのずから、この巡査にも伝わったようで、「そいつは、おかしいですね」と、眉をひそめながらいった。
「むろん、おかしいよ」と、バーナビーがいった。
「まさか、お出かけになる大佐でもないでしょうからね――こんな晩に」
「むろん、外出するような、かれじゃない」
「おかしいですな」と、また、グレイブスがいった。
バーナビーは、相手ののろのろした反応ぶりに、すっかりいらいらした心持ちをさらけ出して、「きみは、なにか手を打とうとはしないのかね?」と吐きすてるようにいった。
「なにか手を打つというんですか?」
「そうだ、なにか手を打つんだ」
巡査は、じっと考え込んでいたが、「大佐に、悪いことでも起こったのじゃないかとお考えになるんですね?」そういうと、かれは、顔を輝かして、「ひとつ、電話をかけてみましょう」電話は、かれのすぐ目の前にあった。かれは、その受話器をとりあげると、番号を告げた。
しかし、その電話にも、玄関のベルを鳴らしたときと同じように、トレベリアン大佐は、出てこなかった。
「どうやら、おかげんでも悪いようですね」と、受話器をもとにもどしながら、グレイブスがいった。「それに、たったおひとりで家の中にいらっしゃるんですからね。ワーレン先生にお願いして、いっしょに行ってもらうのが一番いいと思いますね」
医師ワーレン博士の家は、ほとんど駐在所のすぐ隣といってもいいくらい、近い所にあった。博士は、ちょうど夫人といっしょに、夜の食卓についているところで、警察からのお迎えに、あまりいい顔色を見せなかった。けれども、しぶしぶ同行することを承諾して、着古したイギリス軍隊式の短外套を羽織り、ゴムの長靴をはき、毛糸編みの襟巻を首にまきつけた。
雪は、相も変わらず降りつづけていた。
「くそいまいましい晩だな」と、医師は、口の中でつぶやくようにいった。「こんな雲をつかむようなことに、わしを引っぱり出してもらいたくないもんだな。トレベリアンといえば、馬のように頑丈なんだからな。あの先生にゃ、どんな病気だって、けっしてとっつきゃせんよ」
バーナビーは、ひと言の返事もしなかった。
あらためて、ハーゼルムアにたどり着くと、もう一度、ベルを鳴らしたり、玄関のドアをたたいたりしたが、なんとしても、応答はなかった。
医師は、その様子を見て、裏手へまわって、どこか窓でもたたいてみたらどうだろうといい出した。「窓なら、このドアをこじあけるよりずっと楽でしょう」
グレイブスも賛成したので、三人は、裏手の方へまわって行った。途中に、サイド・ドアがあったので、あけようとしてみたが、それにも鍵がかかっていた。やがて、三人は、裏窓につづいている、雪におおわれた芝生へ踏み込んで行った。と、出しぬけに、医師のワーレンが叫び声をあげた。
「あの書斎の窓が――あいているじゃないか」
まさにそのとおりだった。フランス式の窓が半開きになったままだった。三人は、足を速めた。こんな吹雪の晩に、窓をあけておくなんて、正気の人間なら、そんなことはしないはずだ。しかも、部屋の中には、明かりがついていて、弱い黄色の光の帯がさしていた。
三人は、ほとんど同時に、窓のところに着いた――バーナビーが、まっ先に、部屋の中に飛び込み、巡査が、すぐそのあとにつづいた。二人は、中に飛び込むなり、ぴたっとその場に立ちどまった。と同時に、退役軍人の口から、なにか、はっきりしない叫び声のようなものがほとばしった。すぐつづいて、ワーレンが、二人のそばに着いて、二人が見たとおりの有様を目にした。
トレベリアン大佐は、顔を下にして、床《ゆか》に倒れ、両腕をいっぱいに広げていた。部屋の中は、乱雑そのもので――箪笥《たんす》の引出しという引出しは、引き出されているし、いろいろな紙が、床の上に散乱していた。三人が飛び込んで来た窓は、粉々に割れていて、鍵の近くを力まかせにぶち割った、ということがわかった。トレベリアン大佐のそばには、太さ二インチほどの、暗緑色のラシャの巻き芯用の管が落ちていた。
ワーレン医師は、おどるように前に出ると、倒れている人のそばにひざまずいた。一見しただけで十分だった。かれは、立ちあがったが、その顔はまっ青《さお》だった。
「死んでいるんですね?」と、バーナビーがたずねた。
医師は、うなずいただけだった。それから、グレイブスの方を向いて、いった。
「どういう処置をとったらいいか、それをいってくださるのは、きみの役目だ。わたしにできることといえば、死体を調べるだけで、ほかにはなにもできないが、それも、検屍官がやって来るまでは、手を触れないほうがいいんじゃないでしょうかな。もっとも、死因は、いまでもお知らせできますがね。頭蓋骨骨折です。それに、凶器も推定できると思います」
そういって、医師は、緑色のラシャ巻き用の管を指さした。
「トレベリアンは、そいつをいつも、ドアの下に差し込んでいましたっけ――すき間風を防ぐのにね」と、バーナビーがいった。
かれの声は、変にかすれていた。
「そうですな――まったく砂嚢《さのう》そっくりで、おあつらえ向きの凶器というわけだ」
「なんというこった!」
「そうすると、これは――」と、やっと、頭の回転が問題の要点に達してきた巡査が、口をさしはさんだ。「なんですね――殺人ということですね」
そういうと、巡査は、電話ののっているテーブルに近寄って行った。
バーナビー少佐は、医師のそばに寄って、「どうです」と、荒い息使いでいった。「死後、どれくらいたっています?」
「二時間ぐらい、ことによると、三時間はたっているでしようね。もっとも大ざっぱな判断ですがね」
バーナビーは、乾いてかさかさになっている唇を舌でしめしてから、「すると」といった。「五時二十五分ごろに殺されたろうとおっしゃるんですね?」
医師は、不思議そうに、相手の顔を見ていった。
「明確に、時間をおこたえするとすれば、その時刻にあたると申しあげねばならんでしょうな」
「ああ! なんということだ」と、バーナビーがいった。
ワーレン医師は、まじまじと、相手の顔を見つめた。
少佐は、やみくもに椅子に近寄って行くと、くず折れるように腰をおろし、ぶつぶつと口の中でつぶやいてた。恐怖を目の前にしているといったふうな色が、顔じゅうに広がっていた。
「五時二十五分――ああ! どういうんだ、じゃ、ほんとのことだったんだ、つまり」
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第四章 ナラコット警部
惨事のあったあくる朝、二人の男が、「ハーゼルムア荘」の、あまり広くない書斎に立っていた。
ナラコット警部は、ぐるっと、身のまわりに目を走らした。額《ひたい》に、すこし皺《しわ》を寄せて、「うーむ」と、考え考えいった。「うーむ」
ナラコット警部は、非常に有能な警察官だった。その内に秘めた根気強さと、論理的な頭の働きと、細部にまで行き鋭い注意力とは、他の多くの同僚なら失敗に終わるような難事件においても、みごとに、かれに上首尾の結果をもたらしてきたのである。
背は高く、挙止動作はおちついていて、目は、夢見るような灰色、声は、デボンシャー人特有の、のろのろとした、軟音だった。
こんどの事件を担当するためにエクセターから派遣されたナラコット警部は、その朝、一番の列車で到着したばかりだった。ひどい吹雪と積雪のために、道という道はどの道も、たといタイヤに鎖をつけても、自動車では通行不可能だった。でなければ、ゆうべのうちに到着していたところだった。で、いま、ナラコット警部は、死体の横たわっていたトレベリアン大佐の書斎の検証を終わって、その場に立っていたところだ。いっしょにいるのは、エクザンプトン警察のポロック巡査部長だった。
「うーむ」と、ナラコット警部は、またのどの奥でいった。
弱い、冬の太陽の光線が、窓からさし込んでいた。外は、見渡すかぎり雪景色だった。窓から百ヤードほどのところは垣根《かきね》で、その向こうは、丘の斜面が急勾配をなしてそそり立っていた。
ナラコット警部は、検視のために、ゆうべからそのままにしてあった死体に、もう一度、かがみこんだ。かれは自分でも運動家だったので、死体の広い肩幅、ぐっと細くなった横腹、よく発達した筋肉から見て、死者が運動家タイプの人間だなと思った。頭は小さくて、両肩の上にしっかりと支えられているし、ぴんとはねあがった海軍ひげは、よく手入れがゆきとどいている。調べたところでは、トレベリアン大佐の年齢は、六十歳だったが、見たところ、五十一歳より上とは思えなかった。
「どうも妙な事件だ」と、ナラコット警部がいった。
「そうですね!」と、ポロック巡査部長がいった。
相手は、巡査部長の方を向いて、「きみの意見はどうだね!」
「はあ――」といって、ポロック巡査部長は、頭をかいた。慎重な人間だったので、必要以上に、お先走りすることは、あまり気が進まなかった。「そうですね、わたしが見たところでは、犯人は窓に忍び寄り、鍵をこじあけて、部屋を物色《ぶっしょく》しはじめたと思うのです。トレベリアン大佐は、きっと二階にいたんでしょうな。疑いもなく、泥棒は、家にはだれもいないと思って――」
「トレベリアン大佐の寝室は、どこだね?」
「二階です。この部屋の上ですが」
「きょうこのごろじゃ、四時といえば暗くなっているものだが、トレベリアン大佐が寝室にいたのなら、電気もついていただろうし、泥棒にしたって、この窓に忍び寄ったときには、その明かりを見ただろうがね」
「すると、大佐は、だれかを待っていたとおっしゃるんですね」
「正気の人間なら、明かりのついている家の中へなんか押し入ったりなんかしないよ。だから、もしだれかが、この窓をこじあけてはいり込んだとすれば――犯人は、家の中にはだれもいないと思ったから、窓をこじあけたんだね」
ポロック巡査部長は、頭をかいた。
「たしかに、ちょっとおかしいと、わたしも思いますね。だけど、事実は、窓をやぶってはいっているのですからね」
「その問題は、しばらくそのままにしておこう。それで、その先は」
「どうでしょう、これはまあ想像ですが、二階にいた大佐は、階下の物音を聞きつける。なんだろうと思って、調べに降りて来る。泥棒は、その降りて来る足音を耳にして、さっと、その当て物をひっつかんで、ドアの陰に身をひそめる。そして、大佐が部屋にはいって来るのを待ち構えていて、うしろからなぐり倒した、というのはどうでしょう」
ナラコット警部は、うなずいて、「そうだ、まったくそのとおりだ。窓の方に顔を向けていたところを、大佐は、なぐりつけられたんだ。しかし、どうも、ポロック、わしには、その話が気に入らないんだな」
「お気に入らんといいますと、警部どの?」
「気に入らんのだ。そうだろう、午後の五時という時間に、家の中へ押し入ったなんて、とうてい信じられんじゃないか」
「さーあ、そう思ったかもしれませんよ、絶好のチャンスだと――」
「チャンスの問題じゃない――犯人は、窓に掛け金がかかっていないということがわかったものだから、忍び込んだのじゃないのだ。計画的に家の中に押し入ったのだ――見たまえ、このいたるところ、どこもかしこも散らかしっぱなしの様子を――泥棒なら、まず最初に、なにに飛びつくと、きみは考えるかね? 銀器のしまってあるところは、食器室だろう」
「まったく、そのとおりです」と、巡査部長は相槌《あいづち》を打った。
「それだのにどうだ、この狼藉《ろうぜき》――このめちゃめちゃな様子は」と、ナラコットは言葉をつづけた。「引出しという引出しは引っ張り出して、中身はみんな、ぶちまけてある。ちえっ! まったく見せかけの狂言だ」
「狂言ですって?」
「窓を見てみたまえ、巡査部長。その窓は、鍵がかかっていなかったのに、無理にこじあけたものじゃないか! ただ単に、しめてあっただけなのを、外からぶち割って、無理にこじあけたような体裁をつくったというだけだ」
ポロックは、仔細《しさい》に、窓の掛け金を調べながら、思わず嘆声をもらした。
「おっしゃるとおりです、警部どの」というポロックの声には、相手の機嫌をとるような匂いがあった。「いったいだれが、こんなことを思いついたんでしょうな!」
「だれか、われわれの目をごまかそうという人間のしわざだろうが――うまくいかなかったというわけさ」
ポロック巡査部長は、その「われわれ」という警部の言葉に、すっかりうれしくなった。こういうちょっとした言葉使いや、気の配りようで、ナラコット警部は、部下から慕われていた。「すると、これは泥棒のしわざじゃないのですね? 内部の人間のしわざだとおっしゃるんですね?」
ナラコット警部はうなずいて、「そうなんだ」といった。「だが、ただ一つ奇怪なことは、犯人が、実際に窓からはいって来たと考えられることなのだ。きみもグレイブスも報告したことだし、なおわしもこの目で見うることだが、犯人が長靴で踏み歩いたところは、雪がとけて、しめった跡が、いまでもはっきりと目に見える。しかも、このしめった足跡は、この部屋にだけしかついていない。グレイブス巡査も、ワーレン博士とホールを通った時には、こういう種類の足跡は一つもなかったと、はっきり断言している。この部屋にはいるなり、グレイブスは、即座に、この足跡に気がついたのだ。そうしてみると、犯人は、トレベリアン大佐にはいれといわれて窓からはいったのだということが、はっきりわかる。したがって、犯人は、トレベリアン大佐の知っている誰かに相違ないということになる。きみは、この土地の人間だが、どうだね、巡査部長、トレベリアン大佐という人は、簡単に敵を作るような人物だったのかね?」
「いいえ、大佐には、この世の中に、一人も敵はなかったといってもいいくらいです。もっとも金のことになると、すこしきびしすぎましたし、それに、軍人らしく、すこし規律に口やかましくて――怠慢だの、無作法だのには、我慢ができないというたちでしたが――しかし、そのために、かえって、世間から尊敬されてはいましたね」
「敵もないというんだね」と、ナラコットは、思案顔でいった。
「つまり、この土地にはないということですがね」
「しかし、ほんとのところ海軍時代に、大佐に敵があったかどうか、われわれにはわからんわけだ。わしの経験では、一か所で敵を作るような人間は、ほかの所へ行っても敵を作るものなんだ。そうはいっても、その点の見込みを、すっかりすててしまうというわけにもいかんとは、わしも思うがね。じゃ、当然、こんどは、つぎの動機ということになる――ところで、あらゆる犯罪において、最も共通の動機は、なんだといえば――金を手に入れるということだ。ところで、わしの聞いているところでは、トレベリアン大佐は、金持ちだったということだね」
「だれの話を聞いても、暮らしが非常に楽だったということは、ほんとらしいですが、けちはけちだったらしいです。寄付なんかに金を出すような、しまりのない人間じゃなかったようですね」
「そうか!」と、考え深そうに、ナラコットがいった。
「雪が降ったというのは残念でしたね」と、巡査部長がいった。「もっとも、そのおかげで、犯人の足跡を見つけることはできたんですけど」
「大佐のほかには、家にはだれもいないんだね?」
「はあ。この五年ほどというもの、トレベリアン大佐は、召使を一人、使っていただけです――予備の海軍の者ですが。シタフォードの山荘の方へは、毎日、女が一人、通いで行っておりましたが、料理をこしらえたり、主人の世話をしたりしていたのは、この海軍上がりのエバンスという男でした。ところが、ひと月ほど前に、このエバンスという男が、結婚してしまいましてね――大佐も、だいぶ困っていたようでした。大佐がシタフォード山荘を、例の南アフリカから来た婦人に貸した理由の一つも、そんなところにあるんじゃないかと思っているんですがね。どんな女だって、家の中に住まわせるような人じゃなかったんですからね。エバンスという男は、すぐここの近くのフォア通りに、細君といっしょに住んでいて、毎日、主人の用を足しに通っているんです。あなたがお会いになるだろうと思って、いま、ここへ連れて来ています。陳述によりますと、きのうの午後二時半すぎに、大佐がもう用がないとおっしゃるので、帰ったということです」
「そうか、その男に会ってみたいね。なにかしゃべるかもしれない――役に立つようなことを」
ポロック巡査部長は、好奇に満ちた目で、上役の顔を見た。警部の語調に、ひどく妙な響きがあったからだ。
「すると、警部どののお考えでは――」と、ポロックがいいかけた。
「わしの考えでは」と、ナラコット警部がおちついた口調でいった。「この事件には、見かけよりもはるかに多く、いろいろなものがからみ合っていると思うのだ」
「どんなふうにですか、警部どの?」
しかし、警部は、その誘いに乗らなかった。「きみはいま、そのエバンスという男が、ここに来ているといったね?」
「食堂に待たしてありますが」
「よし。いますぐ会ってみよう、どんな男だね?」
ポロック巡査部長は、人間の様子を正確に説明することよりも、事実を報告するほうがお得意だった。「予備になった海軍の軍人です。くずのようなおもしろくもない男というんでしょうね」
「酒を飲むのかね?」
「酒癖が悪いとは、一度も聞いたことはありません」
「細君というのは、どうだね? 大佐の情婦とかなんとか、そんなようなことはないのか?」
「いやいや! とんでもありません。トレベリアン大佐にかぎって、そんなようなことは全然ありません。女嫌いで通っているくらいですから、どちらかといえば」
「それで、エバンスは、忠実に主人に仕えていたと思うんだね?」
「みんなは、そう考えているようです、警部どの。もし、そうでなかったら、すぐに知れ渡ってしまったろうと思います。なにしろ、エクザンプトンというところは、狭い土地ですからね」
ナラコット警部はうなずいて、「よし」といった。「ここで、もう調べることもないね。じゃ、エバンスに会って話を聞くことにしよう。それから、この家でまだ見ていないところを見て、そのあとで、『スリー・クラウン館』へ行って、例のバーナビー少佐に会うことにしよう。どうも、少佐のいった時間のことが、変だ。五時二十五分といったんだね? きっと、口には出さないが、なにか知っているにちがいない。でなけりゃ、そうまではっきり犯行の時間をにおわせるはずがないからだ」
二人は、ドアに向かって歩き出した。
「実に奇妙な事件ですね」と、ひどく取り散らかした床に、目を向けながら、ポロック巡査部長がいった。「これじゃ、狂言強盗ですよ!」
「おかしいという気のするのは、その点じゃない」と、ナラコツトがいった。「事件には、こんなことは当然のことかもしれない。いや――妙だという気がするのは、窓だよ」
「窓といいますと、警部どの?」
「そうだよ。いったい犯人は、なぜ、窓へ忍び寄って来たんだろう? 犯人が、トレベリアンと知り合いで、なんのいざこざもなく内へ通されるような人間だと仮定した場合、どうして、玄関へ行かなかったんだろう? ゆうべのような吹雪の晩に、表の路から、わざわざ回り路をしてこの窓へ来るなんてことは、やっかいなばかりじゃなしに、こんなに深く積もった雪の中をやって来るのは、うれしいことでもないじゃないか。だから、それにはなにか、なにか理由があったはずだ」
「たぶん」と、ポロツクが、なにかを暗示するようにいった。「犯人は、表の路から家へはいって来るのを、人に見られたくなかったんじゃないでしょうか」
「きのうの午後のような吹雪じゃ、あまりたくさん、その男を見かけた人もあるまい。戸外にいて、見かけたなんて証言のできる人間もないだろう。いや――たしかに、なにか理由があるな。まあいい。たぶん、そのうちには、はっきりするだろう」
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第五章 エバンス
エバンスは、食堂で待っていた。警部と巡査部長の二人がはいって来るのを見ると、かれは、うやうやしく立ちあがった。
かれは、背が低くて、そのくせ、これ以上はふとれないというほどふとった男だった。両腕がおそろしく長くて、立っているときには、その両手をちょっと握りしめるのが、癖だった。さっぱりとひげをそった顔に、小さな、どちらかといえば豚に似たような目をしていたが、陽気さと働き者らしい感じとが、ブルドッグのような風采《ふうさい》を、どうにか救っていた。
ナラコット警部は、胸の中で、自分の受けた印象を並べたててみた――気がきいていて、抜け目がなくて、実利的だ。どうやら、すこしぺちゃぺちゃとしゃべるおしゃべりだな。
やがて、ナラコットが口を開いた。「きみがエバンスだね?」
「はい、さようです」
「洗礼名は?」
「ロバート・ヘンリーでございます」
「なるほど! ところで、こんどの事件について、きみの知っていることを話してみたまえ」
「なんにも存じません。まったく打ちのめされたようでございます。旦那が殺されたなんて、考えただけでもぞっといたします!」
「最後に、主人に会ったのは何時だね?」
「二時だったと思います。お昼の食事の跡かたづけをしまして、このテーブルに、晩のお食事の用意をいたしましたのです。すると、旦那さまが、もうもどって来る必要はないからとおっしゃいましたんで」
「いつもは、どうすることになっているんだね?」
「いつものしきたりでは、七時ごろもどって来まして、二時間ほどご用をすることになっております。いいえ、いつもというわけではございません――おりおりは、用はないからもどって来なくてもいいと、旦那が、おっしゃるときもございます」
「それじゃ、きのう、もう用はないからと、主人にいわれたときにも、別に意外にも思わなかったというんだね?」
「はい、そうでございます。それに、どちらにしましても、ゆうべはやっては来られませんでした――あんな天気でございますから。おそろしくよく気のつくお方でございました、旦那さまは。そのことは、よくお調べになればすぐおわかりでございます。あの方のことや、あの方のなさり方でしたら、わたしは、ようく存じておりますんで」
「それで、正確にいって、主人はなんといったんだね」
「そうなんです。窓から外をごらんになって、おっしゃるには、『きょうは、バーナビーも来られまい。無理だろうね』それから、『たとえ、シタフォードが、雪の中で孤立してしまわないまでもね。わしが子供の時以来、こんなひどい冬なんかおぼえがないね』と、おっしゃるんです。旦那さまのおっしゃるバーナビー少佐という方は、シタフォードにお住まいの旦那さまのお友だちでして、いつもきまったように、金曜日になりますと、こちらへお見えになって、その方と旦那さまとは、チェスや語呂合わせをなさるんでございます。それから、火曜日には、うちの旦那さまが、バーナビー少佐のお宅へいらっしゃるのがおきまりで、毎日のことから何から、なさることがきちんきちんと、おそろしく規則正しい旦那さまでございました。それで、旦那さまが手前に向かって、『もう帰ってもいいよ、エバンス。あすの朝までは、来るような用はないからね』と、そうおっしゃったのでございます」
「バーナビー少佐のこととは別に、きのうの午後、だれかを待ってるようなことはいわなかったんだね?」
「いいえ、そんなことは、ひと言もおっしゃいませんでした」
「主人の様子に、ふだんと違うとか、どこか変わったというようなところはなかったんだね?」
「はい、わたしの見たところでは、そんなようなところはございませんでした」
「なるほどね! ところで、エバンス、きみは、最近結婚したばかりだということだったね」
「はい、スリー・クラウン館のベリング夫人の娘でして、ふた月ほど前のことでございます」
「ところが、トレベリアン大佐は、あまり喜ばなかったというじゃないか」
ごくかすかに、にやっと薄笑いのかげが、一瞬、エバンスの顔に浮かんだ。「遠慮なくさんざんにおっしゃいましてな、旦那さまは。手前の新女房のレベッカは、わたしの口からいうのもなんですが、なかなか綺麗な女でして、その上に、料理もなかなかうまいんです。ですから、旦那のお世話も、いっしょにして差し上げられるんじゃないかと思っていたんですが、あの方は――旦那は、そんなことに耳をかそうともなさらないんです。自分の家には、女の召使はおかないことになっているんだとおっしゃいましてね。ほんとをいうと、あの南アフリカからやって来たご婦人が、こちらへおいでになって、冬の間、シタフォード荘を借りたいとおっしゃった時だって、もうちょっとで、話がこわれそうになったくらいでした。でも、旦那が、この家をお借りになったんで、わたしが、毎日やって来て、お世話をすることになったわけなんですが、正直なところを申しますと、冬がおわるまでに旦那のお考えが変わって、わたしとレベッカとが、旦那のお供をしてシタフォードにもどることになればいいんだがと、肚《はら》では思っていたってわけなんです。それってのが、旦那はちっとも、ご存じなかったんですけど、女房は、この家にはいり込んでいたってわけなんで、あの女は、台所を離れないように、うまくやってたもんで、旦那は二階にばかりおいでになったもんだから、女房は一度もお目にとまらなかったと、こういうわけなんです」
「トレベリアン大佐の女嫌いの裏には、なにか訳があるんじゃないか、きみには思い当たることはないかね?」
「思い当たることはございませんね。ただ、そういう|たち《ヽヽ》というだけじゃないんでしょうかね。これまでにも、そういう殿方をたくさん見ておりますよ。しいて申しあげれば、ただの|はにかみ《ヽヽヽヽ》じゃないんでしょうか。若い時分に、若い婦人かなんかにひじ鉄砲をくらって――それで、そういった|くせ《ヽヽ》がつくという、あれじゃないんですかね」
「トレベリアン大佐は、結婚はしていなかったんだね?」
「はい、まったくそうで」
「親戚《しんせき》はどうだね? 知らないかね?」
「なんでも、エクセターに妹さんが住んでいらっしゃるように思っていましたがね。それから、甥《おい》ごさんたちのお話を聞いたように思うんですが」
「その人たちは、だれも訪ねて来たことはないんだね?」
「はい、エクセターにいらっしゃる妹さんとは仲たがいをしておいでになったように思うんです」
「その妹さんの名前は、知ってるかね?」
「ガードナーとおっしゃったと思うんですが、はっきりは存じません」
「住所は知らないだろうね?」
「どうも存じませんのですが」
「うんまあ、トレベリアン大佐の書類をすっかり調べれば、きっと見つかるだろう。ところで、エバンス、きみは、きのうの午後の四時以後、なにをしていたんだね?」
「家におりました」
「家はどこだね?」
「すぐ近くで、フォア通りの八十五番地です」
「一歩も外には出なかったんだろうね?」
「出ようにも出られませんですからね。そうでしょう、あんなにすごく雪が降っていたんですからね」
「そうか、そうか。それで、きみのいうとおりだと立証できる人間は、だれかいるんだろうね?」
「女房がいますが」
「きみと細君と、二人きりで家にいたんだね?」
「そうです」
「よし、よし、それに違いないだろう。いまのところは、それだけだね、エバンス」
元の水兵は、しばらくもじもじしていた。片方の足から片方の足へ、からだの重味を移しかえて、「なにか、ここでしてよろしいでしょうか――かたづけるとかなんか?」
「いいや――この場は、現在のままにしておかなくちゃいかん」
「そうですか」
「だが、すっかり調べがすむまで、待っていてくれたほうがいいね」と、ナラコットがいった。「きみに聞きたいことができるかもしれないからね」
「よろしゅうございます」
ナラコット警部は、エバンスから室内に視線を移した。
面接が行なわれたのは、食堂の中でだった。テーブルの上には、夕食の用意が並べたてたままになっていた。|冷製の牛の舌《コールド・タン》の料理、ピクルズ、スティルトン・チーズ、ビスケットなどが、主待ち顔に並び、炉のそばのガス台には、スープのはいったシチュー鍋《なべ》がのせたままになっている。食器棚には、酒壜台《さけびんだい》と、ソーダ水のサイホン、それにビールが二本載っている。さらにまた、すばらしい銀のカップが、数えきれないくらいに、ずらりと並び、それらといっしょに――ちょっと不似合な物だが――新刊の小説本が三冊、のっかっていた。
ナラコット警部は、その銀のカップを、一つ二つ、手に取って仔細《しさい》に調べ、カップに刻まれている文字を読んで、「どちらかというとスポーツマンなんだね、トレベリアン大佐は」といった。
「はい、ほんとにそうなんです」と、エバンスがいった。「亡くなるまで運動家でいらっしゃいました」
ナラコット警部は、三冊の小説本の題名を読んでみた。『恋の合鍵』『リンカーンの従者たち』『恋の虜囚《とりこ》』。
「ふうむ」と、ナラコットがいった。「大佐の文学趣味というのは、ちょっと軍人らしくないんだね」
「ああ! それは」と、エバンスは、声をたてて笑いながら、「それは、読むためじゃないんです。それは、鉄道写真の題名募集に応募して、旦那がおもらいになった賞品なんです。十種類もの解答を、旦那は、それぞれ違った名前でお出しになったんです。その中には、わたしの名前もはいっていたんですが、フォア通り八十五番地というわたしの番地は、賞に当たりそうな番地だとおっしゃいましてね! 名前だの番地だのというものは、ごくあたりまえなものほど、懸賞に当たるものだというのが旦那のご意見なんです。それで、まったくそのとおりで、わたしが賞を取るには取ったんで――ですけど、二千ポンドという一等じゃなくて、ただの新刊本を三冊というわけなんですけど――わたしの考えでは、だれだって、お金なんて出して買いそうにもないたちの小説ばかりですよ」
ナラコットは、思わず微笑をもらしながら、もう一度、待っているようにとエバンスにいってから、部屋の調査をつづけていった。部屋の片隅《かたすみ》には、食器戸棚に似た大きな戸棚のようなものがあった。その戸棚の中は、それだけで、ほとんど小さな部屋といってもいいくらいの大きさだった。その中には、スキーが二組、スカールと櫂《かい》が一揃《ひとそろ》い、十本か十二本の河馬《かば》の歯、竿《さお》や釣糸から、蚊針《かばり》入れまで含んでいる釣道具類、ゴルフのクラブのはいったバッグ、テニスのラケット、台付きの象の足の剥製《はくせい》、虎の皮などが、乱雑に荷造りしてはいっていた。明らかに、シタフォード山荘を家具付きで貸すことになったときに、トレベリアン大佐は、女たちの手でいじくり回されるのを嫌って、なによりも自分の愛着している品物を、この家へ移したらしかった。
「おかしな考えだね――こんなものをみんな、いっしょに持って来るなんて」と、警部がいった。「あの山荘は、ほんの二、三か月の間、貸しただけなんだろう?」
「そのとおりです」
「それなら、こういう品物は、シタフォード山荘に、鍵でもかけてしまっておけるはずじゃないか?」
この面接がはじまってからこれで二度目だったが、エバンスは、にやっと薄笑いを浮かべて、「そうするのが、一番めんどうがなくていいんです」と相槌を打った。「ところが、シタフォード山荘には、戸棚がたくさんあるとはいえないんでして。それで、旦那は大工をお呼びになって、戸棚をつくることも相談なすったんです。ところが、新しい戸棚なんてものは、えてして、なにか大事なものでもはいっているんじゃないかという気を、女たちにおこさせるものなんで。まあそういっても、あなたのおっしゃるとおり、山荘の戸棚にでもしまっておくのが普通の考えなんでしょうがね。これだけの品物を、ここまで車で運ぶというのは、ひと仕事でしたよ――ほんとに大仕事でした! ところが、まあね、旦那ときたら、ご自分の大切な品物を、見ず知らずの、だれだかわからない人間に、むやみにいじりまわされると思うと、我慢がおできにならなかったというわけなんです。それに、あなたのおっしゃるように、戸棚に鍵をかけてしまっておけばとでもいえば、女なんてものは、いつでも、なんとかしてはいり込む手だてを見つけ出すもんだと、こうおっしゃるんです。それが、女の詮索好きというやつだ、と、こうなんです。女にいじられたくないのだったら、はじめから鍵なんかかけないほうがずっといい、そうおっしゃいましてね。しかし一番のいい方法は、その品物類を運んで、安全なところにおいとくことだというんで、それであのとおりに運んだわけなんですけど、まったく、大変な仕事で、そのうえにまた、お金もうんとかかりました。しかし、また考えてみますと、この品物は、旦那にとっちゃ、まるでご自分の子供といってもいい物なんですからね」
エバンスは、息が切れたように、口をつぐんだ。
ナラコット警部は、考え深げにうなずいた。警部には、ほかに聞き出してみたいと思っている問題があったのだが、ちょうどいま、話題が、自然とそのほうに触れてきたので、これこそ願ってもないよいチャンスだという気が、警部にはしてきた。
「ところで、例のウイレット夫人のことなんだが」と、警部は、さりげない調子でいった。「あの女は、大佐の古くからの友だちとか、知り合いとかいうのかね?」
「いいえ! ちがいます。まったくの見ず知らずの人ですよ」
「そりゃ確かなんだね?」と、警部が、鋭い語調でいった。
「はあ、その――」警部の語調の鋭さが、老水兵の度胆を抜いたようだ。「その、旦那は、一度も、知り合いだとかなんとか、そんなことは、ほんとにおっしゃらなかったんです――ですけど――ええ! そうですとも。間違いありませんです」
「わしが聞いたのはだね」と、説明するように、警部はいった。「家を貸すにしちゃ、この冬というのは一年のうちでも、とても変な時期だからなんだよ。それに反して、そのウイレット夫人が、トレベリアン大佐と知り合いで、山荘のことも知っていたとしたら、夫人のほうから大佐あてに手紙を書いて、家を貸してもらえないかといってきたのかもしれないと思ったんでね」
エバンスは、首を振って、「周旋屋なんですよ――ウィリアムスンで――手紙をよこしたのは。ある婦人が、山荘を借りたいといっていると、そういってきたんです」
ナラコット警部は、眉間《みけん》に八の字を寄せた。このシタフォード山荘を人に貸すということ自体が、まぎれもなく変だという気がしたのだ。「トレベリアン大佐とウイレット夫人とは、会ったんだろうね?」
「ええ! そうですとも。夫人が、山荘を見においでになって、大佐が、そこでお貸しになることになったんです」
「それで、きみは確かに、二人は、以前に会ったことはなかったというんだね?」
「ええ! まったくそのとおりです」
「で、二人は――ええと――」と、警部は、質問を、いかにも自然らしく見せかけようと、ちょっと言葉をきってから、「話はうまくまとまったのかね? つまり、二人は、好意を持ってたようだったかい?」
「ご婦人のほうは、そうでしたね」そういったとき、弱い微笑のかげが、エバンスの唇を横切った。「おっしゃるとおり、すっかり旦那にほれこんでおしまいになりましてね。山荘をほめるかと思うと、ご自分で設計してお建てになったのかとたずねたりしてね。そういってよければ、まったく、むやみやたらにお世辞をいってましたよ」
「それで、大佐のほうは?」
エバンスの顔じゅうに、微笑がひろまった。「そんなふうに、ご婦人が大げさにお世辞たらたらまくしたてたって、うちの旦那には、まるきり効《き》き目はなかったらしいですね。丁寧至極なんですけど、ただそれだけでね。そのあげく、婦人の招待も、ていよくことわっておしまいになりましたよ」
「招待というと?」
「そうなんで、いつでも、ご自分の家だと思って、遠慮なしにお寄りになってくださいませ、なんてね、夫人はいっていましたっけ――お寄りになってくださいましね、って。まさか六マイルも離れたところに住んでいちゃ、そう、ちょいちょい寄るわけにもいかないじゃありませんか」
「夫人は、なにか――つまり、そう大佐のことを、なにか知りたがっているようだったというんだね?」
ナラコットには、不審でならないことがいっぱいにあった。山荘を借りた理由は、いったいなんだったんだろう? トレベリアン大佐と知り合いになるということは、なにかの前提にすぎなかったのではないだろうか? 山荘を借りるだけが、ほんとうの狙《ねら》いだったのだろうか? 大佐が六マイルも離れた遠くのエクザンプトンに移ってしまうという考えなどは、たぶん、夫人の頭には一度も浮かばなかったのではあるまいか。夫人の胸の中では、大佐は自分の小さなバンガローのどれか一軒に、ことによると、バーナビー少佐と同居することにして引っ越すのじゃないか、とそう腹づもりしていたのではあるまいか。
ところが、エバンスの返事は、ひどく見込み違いだった。「あの方は、ひどくお客をもてなすのが好きなご婦人でしてね。だれにでも聞いてごらんになればわかりまさ、来る日も来る日も毎日毎日、だれかかれか、昼食か晩食に呼ばれて来ているんですからね」
ナラコットは、うなずいた。もうこれ以上、聞き出そうと思ったって、ここでは、なにも聞き出せそうもなかった。しかし、そのウイレット夫人なる女には会ってみようと、固く心にいいきかせた。その女が出しぬけにこの地に来たということについては、調べてみる必要がある。
「さあ、ポロック、こんどは二階へ行ってみよう」と、警部はいった。二人は、エバンスを食堂に残して、二階へのぼりかけた。
「大丈夫でしょうな?」と、ぴったりしめた食堂のドアの方へ、ぐいと、肩越しに頭を動かして、巡査部長が、小声でたずねた。
「だろうね」と、警部がいった。「もっとも、神さまのほか、だれにもわからないがね。とにかく、ばかじゃないよ、あの男は、ほかはとにかく、それだけは確かだ」
「いや、気がきくって|たち《ヽヽ》の男ですよ」
「あの男の話には、まったくいかがわしいところはないという気がするね」と、警部は言葉をつづけた。「一点非の打ちどころがないほどはっきりしているし、公明なもんだ。とはいうものの、いまもいうとおり、正しいかどうかは、神さまのほかはだれにもわからないよ」
いかにも慎重そのもの、とことんまで相手を疑ってみなければ気がすまないといった、この人の物の考え方の見本といったような言葉を吐きながら、警部は、部屋部屋の捜査を進めていった。二階には、寝室が三部屋と、浴室が一つあった。寝室のうち二部屋はあいていて、明らかにこの数週間、人が寝た様子はなかった。三番目の、トレベリアン大佐自身の寝室とおぼしい部屋は、きわめて凝《こ》ったもので、整然としていた。ナラコット警部は、その寝室の中を歩きまわって、引出しという引出しをあけてみたり、戸棚をひらいてみたりしたが、なにからなにまで、みんなきちんと整頓していた。まったく、ほとんど病的といってもいいほど綺麗好きな、趣味のいい性癖をもった人間の部屋だった。ナラコットは、その寝室の調査を終わって、その隣の浴室をのぞいてみた。ここもまた、なにからなにまで整然としていた。
見終わって、警部は、首を振りながら、「なんにも怪しいものはないね、ここにも」といった。
「いやあ、なにからなにまで、非の打ちどころがないほど整然としているようですね」
「下の書斎のデスクに、書類があるんだが、あれを、すっかり調べるといいね。ポロック。エバンスには、帰ってもいいといおう。あとで、あの家へ寄ってみるかもしれんが」
「それがいいですね」
「それから、死体は動かしてもいい。ところで、わしは、ワーレンに会いたいと思うんだが、どこか、この近くに住んでいるはずだったね?」
「そうです」
「スリー・クラウン館の手前かい、先かい?」
「先です」
「じゃ、まずスリー・クラウン館に行くことにしよう。すぐ来いよ、巡査部長」
ポロックは、食堂へ降りて行って、エバンスを家へ帰らせた。警部は玄関から出て、急ぎ足に、スリー・クラウン館の方へ歩いて行った。
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第六章 スリー・クラウン館
ナラコット警部は、スリー・クラウン館の営業主であるベリング夫人との、長時間にわたる会見がすむまで、会いたいと思うバーナビー少佐に、なかなか会えなかった。ベリング夫人というのは、脂肪ぶとりの、すぐにのぼせあがる|たち《ヽヽ》の女で、そのうえ、おそろしいほど弁舌さわやかなおしゃべりだったので、大河のように流れ出るおしゃべりの川が乾上がってしまうまで、じっと我慢強く聞いているよりほかには手のほどこしようもなかった。
「ほんとにあんな晩なんて、いままで一度だって、あったこともござんせんでしたわね」と、ようやく、ベリング夫人は、話を終わりにしかけた。「それに、わたしたちだれだって、まるっきり思いもしませんでしたよ、あのお気の毒な、いい旦那があんな目にお会いになるなんてね。ああいう手に負えない浮浪者なんて手合いはもうなんべんもなんべんも、口が酸っぱくなるほどいっていることを、またいうようでござんすけど、ああいうこぎたない浮浪者どもときたら、我慢できない相手でござんすよ。どいつもこいつも遠慮なしに、ずかずかとはいり込んで来るんでござんすからね。あの旦那にしたって、あまり番犬を置くって気はおありなさらなかったようでござんすがね。犬が苦手なんでござんすからね。浮浪者どもも、犬には手が出せないってわけでね。でもまあ、目の前になにが起こるか、人間なんてだれにもわからないものでござんすねえ」
「はい、ナラコットさま」と、ベリング夫人は、はじめて警部の質問にもどってこたえた。「少佐は、いま朝のお食事を召しあがってでございますのよ。喫茶室にいらっしゃればおいででございますわ。だけど、ゆうべは、パジャマもなんにもお召しにならないでお過ごしになるなんて、なんてひどい夜でござんしたわね。でも、わたしときたら|やもめ《ヽヽヽ》暮らしで、貸してさしあげるような物もないんでござんすからね。ご挨拶のしようもございませんわ、ほんとでございますよ。でもね、かまわんかまわん、と、おっしゃいましてね――すっかり取り乱して、おかしいほどでいらっしゃいましてよ――でも、無理もござんせんわ、いちばん仲のいいお友だちが、人手にかかっておしまいになったんでござんすからね。とても感じのいい殿方でいらっしゃいますものね、お二人とも。もっとも、大佐のほうは、噂ではちょっとお金に細かいということでござんすけどね。ええ、ええ、それはもう、わたしも、しじゅう心にかかっていたんでございますよ、あんな、どこからも何マイルも離れたシタフォードなんかにお住まいになって、あぶなくないのかしらとね。ところが、どうでしょう、こんなエクザンプトンのようなところで、大佐が殺されておしまいになるなんてね。ほんとに、この世にはなにが起こるか思いもかけないのが、世の常でございますわね。ナラコットさま?」
警部は、まったくそのとおりですなといってから、つけ加えていった。「きのうは、どんな人が、ここには泊まっていたのですか、ベリング夫人? だれか、なじみのない人がいませんでしたか?」
「はて、そうでございますね――モレスビーさんとジョーンズさんとがお泊まりで――お二人とも商人の方で、それからロンドンから、おいでになったという、若い方がお一人お泊まりで、ほかには、どなたもいらっしゃいませんでした。まあこんな寒い時節でございますから、それも当然のことでございますけどね。ほんとに冬の間は、ここはおそろしいほど閑静なんでございますのよ。ああ、そうそう、もう一人、若い方がいらっしゃいました――最終の列車でお着きになって。鼻のでっかい方、と、わたし、かげでいっているんですけど、でも、まだお起きになりませんのよ」
「最終の列車で?」と、警部はいった。「そいつは、十時に着くはずでしたね? その男のことなら、かれこれ気を使う要はないと思うね。それよりも、ほかの人間はどうです――そのロンドンから来たとかいう男のことは? 前から知っていた人ですか?」
「いままでに、一度も会ったことのない人なんですよ。商人というんじゃないでしょうね、ええ、もちろん――それよりはもう一段上って気がしますわ。ちょっといま、その方の名前が思い出せないんです――ですけど、宿帳を調べてごらんになれば、おわかりでございますわ。けさの一番列車で、エクセターへおたちになりましたの、その方。六時十分ので。ちょっと変じゃござんせんこと。とにかく、どんなご用で、ここへいらしたんでございましょうね、わたしも、そのわけを知りたいと思っていたんでござんすよ」
「なんの商売だか、その男はいわなかったんでしょうね?」
「ひと言もおっしゃいませんでしたわ」
「外へ出かけたかね?」
「昼食時分にお着きになり、四時半すぎごろお出かけになって、六時を二十分ほどすぎた時分に帰っておいでになりましたわ」
「外出して、どこへ行ったんでしょう?」
「さっぱり見当がつきませんわ。ただの、散歩てなとこじゃなかったのでしょうか。まだ雪が降り出す前でしたけど、でも、散歩向きな気持ちのいい日じゃありませんでしたわね」
「四時半すぎに出かけて、六時二十分すぎごろに帰って来たんですね」と、警部は、考え深げにいった。「そいつは、ちょっとおかしいね。その男は、トレベリアン大佐のことを、なにかいわなかったでしょうか?」
ベリング夫人は、強く首を振って、「いいえ、ナラコットさん、どなたのことも、まるきり口にはお出しになりませんでしたわ。ずっとひとりきりでいらっしゃいました。なかなかの好男子で――でも、なんだか思いわずらっていたというんでしょうね」
警部はうなずいて、帳場に近づいて宿帳を調べて、「ジェームズ・ピアスン。住所ロンドンか」といった。「ふん――これだけじゃ、なんにもわからん、まあ、このジェームズ・ピアスンについて、すこし調べてみよう」
そういってから、警部は、バーナビー少佐をさがしに、大股で喫茶室へはいって行った。
喫茶室には、少佐が、たった一人いるだけだった。ちょっと濃すぎるかと思うほどのコーヒーを飲みながら、『タイムズ』を目の前に広げていた。
「バーナビー少佐ですね?」
「わしの名前は、そうですが」
「エクセターからまいりましたナラコット警部です」
「今日は、警部。その後の様子はどうですか?」
「ええ、すこしははかどっていると思います。それだけは、確かにいえましょうね」
「それを伺って、大変うれしく思います」と、少佐が、そっけなくいった。とても信じられんといった、なげやりな様子だった。
「ところで、一、二、あなたに伺いたいことがあるのですが、バーナビー少佐」と、警部がいった。「あなたなら、わたしの知りたいと思っていることを、たぶん、教えていただけると思うのです」
「できることなら、申しあげますよ」と、バーナビーがいった。
「トレベリアン大佐には、敵がありましたでしょうか?」
「敵というものは、この世に一人もいなかったね」と、バーナビーは、きっぱりといい放った。
「例のエバンスという男のことですが――信用のできる人間とお考えでしょうか?」
「できるだろうね。トレベリアンは、信用していたと思うがね」
「エバンスの結婚について、悪い感じはなかったんでしょうね?」
「悪感情なんてものはなかったね、まったく。トレベリアンは、いやがってはいた――長年の習慣がこわされるのは好まなかったようだね。なんといっても年寄りのひとり者だからね」
「独身者とおっしゃいましたが、その点についてもおたずねしたいことがあるのです。トレベリアン大佐は、結婚していらっしゃいませんでしたね――それで、遺言状をお作りになっていたかどうか、ご存じでしょうか? それから、遺言状がない場合、大佐の遺産をどなたが相続なさるか、考えはおありでしょうか?」
「トレベリアンは、遺言状を作っていましたよ」と、即座にバーナビーがこたえた。
「ああ――では、ご存じなんですね」
「ええ、わたしを遺言執行人にしたと、そう、わたしにいっていました」
「では、遺産の分配方法をご存じなんですね?」
「さあ、わたしの口からはいえないね」
「大佐は、何一つ不足なしに暮らしておいでになったということですね?」
「トレベリアンは、金持ちだったよ」と、バーナビーがこたえた。「ここらの連中が、あれこれと勘ぐっているよりも、はるかに裕福だったといわなければなるまいね」
「ご親戚はおありなんでしょうね――ご存じでしょうか?」
「妹が一人と、甥や姪《めい》がいくたりかいたと思うがね。ほとんどだれとも会わなかったようだが、かといって、仲たがいもしていなかったようだ」
「その遺言状ですが、どこに保管されているかご存じでしょうか?」
「ウォルター・カークウッド法律事務所に――このエクザンプトンの弁護士のところにあるはずです。そこで、作製したのですから」
「それでは、たぶん、バーナビー少佐、あなたは遺言執行人でいらっしゃるのですから、いまから、ウォルター・カークウッド事務所まで、ご同行願えますでしょうな。とにかく、できるだけ早く、遺言状の内容を知りたいと思うのですが」
バーナビーは、ゆだんのない目つきで、相手を見あげて、「どうしたんです?」といった。「なんか、遺言状が事件と関係があるのですか?」
ナラコット警部は、そうやすやすと手の内をさらけ出したくはなかったのだろう。「この事件は、わたしどもが考えているように、そう順調にははかどらないのです」といった。「それはそうと、もう一つおたずねしたいことがあるのです。聞くところによりますと、バーナビー少佐、あなたは、ワーレン博士に、死亡時刻が五時二十五分かどうかとおたずねになったということですね?」
「それで?」と、少佐は、声荒く聞き返した。
「どうして、ぴたりと正確な時間を、お当てになることができたのでしょう、少佐?」
「当ててはいけないのかね?」と、バーナビーがいった。
「そうですね――なにかが、あなたの頭の働きに力を与えて、ぴたりと当てさせたのに違いないと思うのです」
バーナビー少佐は、ややしばらく口をつぐんだまま、こたえようとはしなかった。ナラコット警部の胸の中に、むくむくと職業的な関心が持ちあがった。なにかを、少佐は隠したいと思っているのだな。じっと口をつぐんで考えふけっている少佐を見つめていると、むしろおかしいくらいだった。
「五時二十五分といっちゃいけないのかね?」と、少佐は、突っかかるように聞き返した。「六時二十五分前とか――四時二十分といったかもしれないが、それでもいけないというのかね?」
「いや、おっしゃるとおりです」と、ナラコット警部は、なだめるようにいった。
かれは、この際、少佐につむじを曲げられたくなかったし、それに、きょうという日が暮れないうちに、事件の真相をつかまなければならんと、ひそかに心に期していたので、「どうもおかしいという気のすることが、一つあるのです」と言葉をつづけた。
「というのは?」
「このシタフォード山荘を貸したということなのです。そのことについて、あなたがどう思っておいでになるか存じませんが、ことのいきさつが、どうもわたしには、変だという気がするのです」
「きみが、わしの胸の内を聞くからいうが」と、バーナビーがいった。「ひどく変だよ」
「あなたのお考えもそうなんですね?」
「だれもかれも、そう思っている」
「シタフォードの人たちがですか?」
「シタフォードの人間も、エクザンプトンの人間もだ。あの女は、きっと気でも狂っているのだ」
「好みなんということでは理由にはならないでしょうからね」と、警部がいった。
「ああいった女にありがちな、まったくくだらない妙な趣味だよ」
「すると、あの婦人を、よくご存じなんですね?」
「ああ知ってますよ。そりゃそうさ、あの女の家にいたのだから、あの時――」
「あの時というと?」と、少佐が、出しぬけに言葉をきったので、ナラコットがたずねた。
「なんでもない」と、バーナビーがいった。
ナラコット警部は、鋭く相手を見つめた。この言葉の裏には、なにかがある、それをどうしてもつかみたい、と、かれは思った。少佐の明白な狼狽《ろうばい》と、困惑のさまを、警部の目は見のがさなかった。相手は、いまにも、なにかをいおうとしていたのだ――いったい、それはなんだろう?
|時期を待つことだ《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》、と、ナラコットは、胸の中で自分にいいきかせた。|いまは《ヽヽヽ》、|変なことを《ヽヽヽヽヽ》|して《ヽヽ》、|相手をおこらす時じゃない《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。
それで、大きな声で、別に気にもとめないふりをしていった。「シタフォード山荘にいたとおっしゃいましたけど、その婦人は、いまも、あすこにずっといらっしゃるんでしょうが――来てから、どのくらいになるんです?」
「ふた月だね」
少佐は、思わず不用意にもらしてしまったさっきの言葉を、なんとかごまかそうと気を使っていた。そのためか、ふだんよりもずっと多弁になった。
「未亡人で、娘さんといっしょということでしたね?」
「そうですよ」
「ことさら、あの山荘に住むことにしたわけを、夫人は話しましたか?」
「そうだね――」と、少佐は、なんといったものかというように、鼻をこすって、「むやみにいっていたが、なんにしたって、ああいうたちの女だろう――自然の美がどうとか――世間から離れてどうとか――なんだかんだと、そんなふうなことをね。だが――」
少佐は、どういっていいかわからないとでもいうように、言葉をきった。それで、助けを出すように、ナラコット警部が、わきから口を出した。「言葉どおりには受けとれなかったと、いうわけですね」
「うん、そうなんだ、あの女と来たら、現代風の流行に浮身をやつすというたちの女でね。衣装ときたら、一点非の打ちどころのないほど凝った物を着飾る――娘も、スマートな、美しい女の子だ。まあなんだね、リッツとかクラリッジとか、どこか、そういった一流の大ホテルに滞在しているほうが、あの二人には似つかわしいというもんだろうね」
ナラコットはうなずいて、「人と交際をしないというのじゃないんですね?」とたずねた。「なにか――そう――人目を避けている、とはお思いにはならないでしょうか?」
バーナビー少佐は、きっぱりと首を振って、「いやいや、そんなことはない。ひどく社交家で――いささか社交家すぎるくらいだ。ということはだね、シタフォードのような狭い土地では、あらかじめ約束しておくなんてことはできることじゃないのだが、そのうえ、招待、招待と、雨あられのように招待されるとなったら、いささかありがた迷惑だよ。そりゃ、あの夫人たちは、おそろしく親切で、まことにもてなしもいい人たちだが、イギリスふうの考えにしちゃ、いささかもてなし方がすぎるんだな」
「植民地流というんでしょうかな」と、警部がいった。
「ええ、そうでしょうな」
「あの二人が、前からトレベリアン大佐と知り合いだったと、なんか、そんなふうにお考えになる理由はないでしょうな?」
「絶対に、そんなことはないね」
「ひどく確信がおありになるようですね?」
「それなら、ジョーが、わしに話しているはずだからね」
「それじゃ、あなたには思いつかないとおっしゃるんですね――その――二人が、大佐と知り合いになろうとする動機を?」
この警部の問いかけた内容は、少佐には、明らかに新しい思いつきだった。それで、しばらくの間、そのことをよく考えていたが、「なるほど、その点は、わしも、いままで一度も考えてもみなかったね。そういえば、あの二人は、ひどく大佐に好意を示してはいたね、まったく。ジョーからなんか金を取ったとかなんとかじゃないがね。だが、そう、わしは、あれが、あの連中の普通のやり方だとだけ思っていた。むやみに人なつっこくて、めったやたらに相手に好意を示す、ね、わかるだろう、植民地の人間によくあるやつさ」と、この人一倍島国根性の軍人はつけ加えた。
「なるほど、ところで、山荘のことですが、あれはトレベリアン大佐がお建てになったということですね?」
「そうだ」
「それで、ほかにはどなたもお住まいになったことはなかったんですね? つまりですね、これまで、人に貸したことはなかったんですね?」
「一度もなかったね」
「とすると、山荘そのものには、人を引きつける力はなかったということになるようですね。どうも、こりゃむずかしいな。そうすると、十中九まで、あの山荘は、事件とは関係がないわけですが、どうもわたしには、妙な暗合という気がするんです。ところで、例のトレベリアン大佐が借りていたハーゼルムア荘は、だれの持ち物なんです?」
「ミス・ラーペントという、中年の女の持ち物なんだがね。その女は、冬の間だけ、チェルテナムの寄宿舎へ行っているんだよ。毎年行ってるんだがね。ふだんはしめきって行くんだが、しょっちゅうというわけではないが、たまには貸すこともあるんだ」
それでもう見込みのあることは聞き出せそうにもなかった。警部は、がっかりしたというふうに首を振って、「ウィリアムスンというのが、家屋の周旋人だそうですね?」といった。
「そうだ」
「事務所は、エクザンプトンにあるんですね?」
「ウォルター・カークウッド法律事務所の隣です」
「ああ、そうですか! じゃ、よろしかったら、少佐、途中でちょっと立ち寄っていただけますでしょうな」
「かまいませんとも、いずれにしろ、十時前には、カークウッドは来ていないからね。弁護士なんて、みんなそうしたものさ」
「じゃ、まいりましょうか」
もうしばらく前に朝食を終わっていた少佐は、よかろうというようにうなずいて、立ちあがった。
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第七章 遺言状
抜け目のない顔をした若者が、椅子から立ちあがって、不動産周旋業ウィリアムスン氏の事務所へはいって来た二人に挨拶をした。「おはようございます、バーナビー少佐」
「やあ、おはよう」
「おそろしい事件でしたね、こんどのことは」と、いかにもおしゃべり好きらしい口ぶりで、若者がいった。「こんなことは、もう何年というもの、エクザンプトンにはないことでしたね」
若者は、いかにもおもしろくてたまらないというように、しゃべりたてたので、少佐は、いささかたじたじとなりながら、「こちらは、ナラコット警部です」と紹介した。
「これはこれは! そうでいらっしゃいますか」と、いかにもうれしそうに若者は興奮して、叫ぶようにいった。
「きみなら聞かしてもらえるだろうと思うようなことを、すこし聞かしてもらいたいと思ってね」と、警部がいった。「例のシタフォード山荘を貸す話は、きみがまとめたとかいうことだったね」
「ウイレット夫人にですか? そうです、そのとおりです」
「その話を、もっとすっかり、いちぶしじゅうを聞かしてもらえないだろうか、どうだったかということを。あの婦人は、自分からやって来て申し込んだのかね、それとも、手紙でいってきたのかね?」
「手紙でいってきたのです。その手紙は、ちょっと待ってください――」そういって、若い男は、引出しをあけ、綴込《とじこ》みをくりながら、「そうです。ロンドンのカールトン・ホテルからお出しになった手紙です」
「シタフォード山荘と、名ざしでいってきたのかね?」
「いいえ、ただ、冬の間だけ、家を一軒借りたいとだけいっておいでになったのです。ただダートムアで、寝室が最低八室ある家というのが条件でした。停車場や、街の近辺にあるということは、さして重要ではないということでした」
「シタフォード山荘のことは、きみのところの帳簿にのっていたのかね?」
「いいえ、のってはいなかったのです。ですが、実際のことを申しあげますと、先方の希望にあてはまるような家といいますと、この近辺では、あの山荘だけしかなかったというわけなんです。そのご婦人のお手紙によりますと、十二ギニーまでは出してもいいとおっしゃいますんで、まあそういうわけなら、トレベリアン大佐にお手紙をさしあげて、貸していただけるかどうか伺ってみるだけのことはあると、まあそう思ったわけでございます。ところが、いいあんばいに、大佐から承知したというご返事をいただきましたので、拝借するように取りきめましたようなわけで」
「ウイレット夫人が、山荘も見ないでかね?」
「夫人のほうで、見ないでもいいから借りたいとご承知になりまして、契約書にサインをなさったのでございます。それからあとで、一日、夫人がこちらへお見えになりまして、車でシタフォードへおいでになって、トレベリアン大佐にお会いになりまして、食器や寝具や、そのほかのいろいろな物についてご相談をなすったり、山荘を検分なすったのでございます」
「夫人には、すっかり気に入ったんだね?」
「大変うれしいと、そうおっしゃっておいででした」
「それで、きみは、どう思ったんだね?」と、ナラコット警部は、鋭い目つきで相手を見ながら、たずねた。
若い男は、肩をすぼめて、「家の周旋をやっていて、いちいち驚いたりしていちゃ商売にはなりませんよ」といった。
こういう商売哲学を聞かされてしまって、警部は、若い男に礼を述べて出かけることにした。
「どういたしまして、すこしもお役に立ちませんで」
若い男は、戸口まで丁重に、二人を送って来た。
バーナビー少佐がいったとおり、ウォルター・カークウッド法律事務所は、不動産周旋業者のすぐ隣にあった。二人がそこへはいって行くと、カークウッド氏はいま事務所へ出て来たばかりだというところで、二人は、氏の事務室に案内された。
カークウッド氏は、温厚な顔つきの、かなりの年輩の人物だった。生えぬきのエクザンプトン人で、祖父から父と、代々この弁護士の仕事を継承してきた人だった。
かれは、悲しみの色を顔に浮かべて、椅子から立ちあがると、少佐と握手しながら、「おはようございます、バーナビー少佐」といった。「ほんとにとんだことでした。まったく、お話にもなんにもならない、ひどいことでした。ああ、痛ましいトレベリアン」
かれは、もの問いたげにナラコットの方に目を向けたので、バーナビー少佐は、ひと言ふた言、簡単に、ナラコットがここへ来たわけを説明して聞かせた。
「では、あなたが、この事件を担当なさるのですね、ナラコット警部?」
「そうです、カークウッドさん。それで、調査の順序としまして、二、三、おたずねしたいと思ってあがったわけなんです」
「わたしでなければいけないというようなことでしたら、よろこんで、おこたえいたしましょう」と、弁護士がいった。
「実は、亡くなったトレベリアン大佐の遺書のことについてなんですが」と、ナラコットがいった。「その遺言状は、こちらに保管されているというお話ですが」
「そのとおりです」
「だいぶ前に作製されたのだそうですね?」
「五、六年前でした。いまちょっと、正確な日付けは、はっきりとは申しあげられませんが」
「なるほど! 実は、カークウッドさん、できるだけ早く、その遺言の内容を知りたいと思っているのです。きっと、この事件に重要な手がかりを与えてくれるのじゃないかと思っているのです」
「そうでしょうかね?」と、弁護士がいった。「なるほどね? わたしは、その点については考えてもみなかったが、もちろん、あなたは、ご自分の仕事のことはご自分で、一番よくご存じでしょうからね、警部。ところで――」と、弁護士は、ちらっと、少佐の方に視線を走らせて、「バーナビー少佐とこのわたしとが、連名で遺言執行人になっているのです。で、少佐にさえご異存がなければ――」
「ありません」
「それなら、わたしにも、あなたの要求をおことわりする理由はありません、警部」
そういうと、卓上の電話をとりあげて、弁護士は、ふた言み言、なにかいいつけた。二、三分もすると、事務員が部屋にはいって来て、弁護士の前に、厳封をした封筒をおいて出て行った。カークウッド氏は、その封筒をとりあげ、ペーパーナイフで封を切ると、いかにも重要書類らしい、大きな文書を抜き出し、咳《せき》ばらいをしてから、読みはじめた。
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余、デボン郡シタフォード村、シタフォード山荘の住人である、ジョセフ・アーサー・トレベリアンは、以下のとおり遺言する。
(一)シタフォード村、一号コテージ住人のジョン・エドワード・バーナビーと、エクザンプトン住人のフレデリック・カークウッドを、余の遺言の執行人および管財人とする。
(二)長年にわたって忠実に仕えたるロバート・ヘンリー・エバンスに百ポンドを与え、その実収益に対する遺贈税を免除するものとする。ただし、余の死去の日まで仕えていること、ならびに、それ以前に解雇されざることを条件とする。
(三)前記ジヨン・エドワード・バーナビーに対して、その友情と愛情と、かつは感謝のしるしとして、各種目のスポーツで余が獲得した優賞カップと賞品、ならびに、狩猟で受賞した鳥獣の頭、皮革のコレクションを含む、すべての記念品を贈与するものとする。
(四)余は、余の動産および不動産のすべてを、前記の管財人に委託し、管財人は余の遺言書、また遺言付属書によって、これを処理し、売却、回収して、現金に換えることとする。
(五)管財人は、前条の売却、回収した金によって、余の葬祭費および遺言執行費、ならびに債務、および遺言書もしくは遺言付属書によって定められる遺産相続税、その他の金銭を支払うこととする。
(六)管財人は、前記の支払い後、残余額を保管し、それを均等に四分するものとする。
(七)管財人は、前記のごとく四等分した残余額の一を、余の妹、ジェニファー・ガードナーに与え、その自由なる使用に委ねるものとする。
なお、管財人は、残余の四分の三を、余の亡き妹、メアリー・ピアスンの三人の子供たちに等分に与え、その自由なる使用に委ねるものとする。
余、前記ジョセフ・アーサー・トレベリアン、右のごとく宣誓、署名する。
前記遺言人は、わたしたち二名の立会いのもとに遺言書に署名し、同時にわたしたち二名は、遺言人の要求により、証人として署名する。
[#ここで字下げ終わり]
読み終わったカークウッド氏は、その文書を警部に手渡して、「この事務所の事務員が二人、証人になりました」といった。
警部は、丹念に遺言書に目を通して、「余の亡き妹、メアリー・ピアスン」とつぶやいてから、「このピアスン夫人という人について、なにか、ご存じですか、カークウッドさん?」
「ほんのすこししか知りません。十年ほど前に亡くなったように聞いています。かの女の夫というのも、株式仲買人でしたが、かの女より先に亡くなっています。わたしの知っているかぎりでは、一度も、かの女は、トレベリアン大佐をたずねて来たことはありませんでした」
「ピアスン」と、また警部はいった。それから、つけ加えていった。「もう一つ、おたずねしたいのですが。トレベリアン大佐の遺産の総額が明記してありませんですな。どのくらいになるとお考えでしょうか?」
「正確に申しあげるとなると、なかなかむずかしいですね」と、カークウッド氏はいったが、その口吻は、すべての弁護士がそうであるように、簡単な質問にむずかしくこたえるのが、いかにも、楽しいといったふうだった。「動産とか不動産とかの問題ですからね。シタフォード山荘のほかにも、トレベリアン大佐は、プリマスの近くに若干の地所を持っていましたし、いろいろな投資をしていて、時価の変動で、しじゅうもうけていましたからね」
「概算だけでも伺いたいのですが」と、ナラコット警部はいった。
「はっきり明言はできないのですが――」
「ほんの見積もりでいいのですが。いかがです、二万ポンドぐらいのものですか?」
「二万ポンドですって! とんでもない! トレベリアン大佐の財産は、すくなく見積もっても、その四倍にはなるでしょうな。八万、いや、九万ポンドというほうがいいんじゃないでしょうかな」
「トレベリアンは、金持ちだと、あなたにいったじゃありませんか」と、バーナビーがいった。
ナラコット警部は、立ちあがって、「どうも大変ありがとうございました」といった。「いろいろと教えていただいて」
「お役に立つことがつかめたとお考えでしょうな?」
弁護士が、ひどく好奇心をたかぶらせていることははっきりわかったが、いまの段階では、その好奇心を満たすような気は、ナラコット警部にはなかった。「こういう事件では、なにからなにまで考慮に入れなければならないのです」と、あたりさわりのないように、警部はいった。「ところで、例のジェニファー・ガードナーさんと、ピアスンさんの家族の、名前と住所をご存じでしょうか?」
「ピアスンさんの家族のことは、なんにも知りません。ガードナー夫人の住所は、エクセターのワルドン通り、ローレル館です」
警部は、手帳にそれを記入して、「なんとか、うまくゆきますでしょう」といった。
警部は、手帳をしまってから、もう一度、弁護士に礼を述べ、その事務所を出た。通りへ出ると、警部は不意に振り向いて、まっすぐに、連れの少佐の顔を見て、
「さて、少佐」と、警部はいった。「あの五時二十五分の件ですが、あれについての真相を聞かしていただきたいのですが」
いかにも当惑したというように、バーナビー少佐は、顔を赤らめて、「もう前に、いったと思うのだが――」
「あれでは、どうも納得がゆかないのです。なにか隠していらっしゃる、そうでしょう、バーナビー少佐。ワーレン博士に、はっきり五時二十五分とおっしゃったのには、きっと、訳がおありになったにちがいないのです――それに、このわたしにだって、それがなんであるかぐらいのことは見当がついているんですよ」
「じゃ、わかっているのなら、なぜ、このわたしに聞くんだね?」と、少佐は、どなるようにいった。
「わたしは、ある人間がその時間に、トレベリアン大佐とどこかで会う約束をしていたのを、あなたはご存じだったのだと思うのです。どうです、そうじゃありませんか?」
バーナビー少佐は、びっくりして、まじまじと相手を見ながら、
「そんなことじゃない」と、どなるようにいった。
「ねえ、大事なことですよ、バーナビー少佐。ジェームズ・ピアスンという男をご存じじゃありませんか?」
「ジェームズ・ピアスン? だれだね、その男は? トレベリアンの甥のことかね?」
「甥だろうと思うんです。ジェームズという名を、大佐が、口にしたことがあるんじゃないんですか?」
「全然頭にないね。トレベリアンに甥がある――ということは知っていたが、なんという名前か、まるきり知らないね」
「問題の青年は、ゆうべ、スリー・クラウン館に泊まっていたのです。きっと、お会いになったでしょう、あすこで」
「いや、だれにも会わなかったよ」と、少佐は、吐き出すようにいった。「あたりまえだろう、なんといったって――トレベリアンの甥なんという男は、生まれてから一度も見たこともないんだから」
「しかし、きのうの午後、甥がたずねて来るのをトレベリアン大佐が待っていたことは、ご存じだったんでしょう」
「知らなかったよ」と、少佐は、どなるような声をあげた。
通りを歩いていた人たちが、びっくりしたように、くるっと振り向いて、二人の方を見た。
「けしからん、そんなわかりきったことが信じられんのか、きみは? 会う約束のことなんか、いっこうに知らん。わしの知っていることといえば、トレベリアンの甥が、ティンブクトーにいたことがあるというぐらいのことだ」
荒い言葉に、ナラコット警部は、いささかびっくりした。少佐の激しい否定の口吻には、疑いなどはさむ余地のないほど、きびしい響きがこもっていた。
「それじゃ、その五時二十五分というのは、どういうのですか?」
「うん! そうだね――こりゃ、いってしまったほうがいいかもしれんな」と、少佐は、いかにも困ったというように咳ばらいをして、「だが、いいかね、きみ――話というのが、まったくばかばかしすぎるんだ! お話にならんのだよ、きみ。正気の人間で、いったいだれが、こんなナンセンスなことを信じられるというんだね!」
ナラコット警部は、ますます驚きあきれた顔つきになった。バーナビー少佐は少佐で、いっそう困りきった顔つきになり、恥ずかしくて、一刻もじっとしていられないという様子だった。
「なんだかわかるだろう、警部。レディを喜ばせるために、あんなことの仲間に加わらなきゃならなかったってことがさ。むろん、こんなことになろうなんて、わしは、夢にも思ってはみなかったのだよ」
「なんの仲間にです、バーナビー少佐?」
「こっくりさんだよ」
「|こっくりさん《ヽヽヽヽヽヽ》ですって?」
どんな話を待ち構えていたかしれないが、さすがのナラコットも、こんなことは思ってもみなかったろう。少佐は、自分から進んで、話をつづけていった。ときどき口ごもったり、たびたび、自分でもそんなことは信じないのだがとつけ加えたりしながら、前日の午後の出来事や、こんなことにまで発展した、|こっくり《ヽヽヽヽ》さんのお告げのことを話した。
「すると、なんですね、バーナビー少佐、そのテーブルが、かたかたと鳴って、トレベリアンの名前をいって、大佐が死んだ――殺されたと、あなたに告げたとおっしゃるんですね?」
バーナビー少佐は、額の汗を拭いて、「そう、そのとおりだったんだ。わしは、そんなことは信じなかった――もちろん、そんなことは信じはしなかったがね」と、きまり悪そうな顔をして、いった。「でも――金曜日だったし、なんにしても、無事かどうか、出かけて行って、確かめてみようと思ったのだよ」
警部は、膝《ひざ》まで没するほど積もった雪の中を、さらには、ひどく吹きつのる大吹雪の中を、六マイルも歩くのは、さぞ困難だったろうと考えた。と同時に、その困難さをおかして歩いたことは、バーナビー少佐が、精霊のお告げに、深く心を動かされたのにはちがいないが、ただそれだけとは思えないという気がした。ナラコットは、繰り返し、心の中で考えてみた。おかしなことがあったものだ――まったく、奇怪としかいいようのないことが起こったものだ。こういうことというものは、だれにだって満足がゆくように説明できるものじゃない。つまりは、例の心霊現象のなかにあるなにかによるのかもしれない。とにかく、これは、かれが最初にぶつかった立派に実証された事件だった。
まったく、ひどく奇怪な事件だ、が、かれが思考を働かせたかぎりでは、バーナビー少佐の、いままでとってきた動静は、その心霊に動かされた結果だといえば、説明にはなるだろうが、警部の立場からいえば、なんら実際的な意味を、この事件に持つものではなかった。警部が相手にしなければならないのは、現実の世界であって、心霊の世界ではなかったのだ。
とにかく、警部の仕事は、殺人犯人をさがし出すことだった。そして、その仕事を遂行するためには、霊界からの援助をあてにするわけにはゆかないのだ。
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第八章 チャールズ・エンダービー氏
腕時計をちらと見ながら、急げば、エクセター行きの汽車に、まだ間に合うなと、警部は思った。できるだけ早く、亡くなったトレベリアン大佐の妹という人に会って、なんとかして、大佐の甥や姪たちの住所を聞き出したいものだと思っていた。それで、あわただしくバーナビー少佐に別れの言葉をかけると、停車場に向かって、かれは駆け出した。少佐は、スリー・クラウン館に向かって、足をもどした。ところが、玄関の戸口に足をかけたと思うと、髪の毛をてかてかと光らせた、丸顔の、少年のような顔つきの、元気のいい若い男に声をかけられた。
「バーナビー少佐ですね?」と、若い男はいった。
「そうです」
「シタフォード・コテージの一号にいらっしゃる方ですね?」
「そうだよ」と、バーナビー少佐はこたえた。
「わたし、デイリー・ワイヤー紙のものですが」と、若い者がいった。「実は、わたしは――」
それ以上、若者はいえなくなってしまった。まったく、古い軍人|気質《かたぎ》まる出しにして、少佐は破《わ》れ鐘《がね》のような声をあげて、「いらんおしゃべりは結構だ」と、ほえるようにどなった。「きみらの人間の手のうちは、百も承知だ。無礼千万で、むやみにしゃべりさえすればいいかと思っとる。まるで死体のまわりにたかる禿鷹《はげたか》のように、殺人事件のまわりをうろちょろとほっつき歩く。だが、いっとくがな、若いの、このわしからはなんにも聞き出せないぞ。ひと言もな。くだらん新聞になぞのせる話なぞはない。なにか聞きたいというのなら、警察へでも行って聞くがいい。殺された男の友人ぐらいは、せめて一人にしておくぐらいの礼儀があってもよかろう」
そういわれても、若い男は、いささかもたじろぐ気配もなかった。それどころか、いままでよりも愉快そうに、にこにこと笑いを浮かべて、「いや、ちがいますよ、少佐、そうですよ、あなたは誤解していらっしゃるんですよ。わたしは、そんな殺人事件のことなんか、全然知らないんですよ」
厳密にいって、これはほんとうのことではなかった。この静寂そのもののような町中を、とことんまでふるえあがらせるような大事件を、エクザンプトンにいるほどの人間で、まるきり知らないなんて、そんなことはないはずだ。「わたしが、デイリー・ワイヤー紙を代表してまいったのは」と、若い男は言葉をつづけた。「わが社のフットボール競技会の勝敗予想の、唯一の正解者であるあなたに、五千ポンドの小切手をお贈りするとともに、お祝いを申しあげるためなのです」
バーナビー少佐は、この思いがけない言葉に、すっかり面くらってしまった。
「間違いなく」と、若い男は、言葉をつづけた。「このよいニュースをお知らせするわが社からの手紙を、きのうの朝、お受け取りになっているものと思っていましたのですがね」
「手紙だって?」と、バーナビー少佐がいった。「ねえ、きみ、シタフォードに十フィートも雪が積もっているのを、きみは知らないというのかね? いったい、この二、三日、きちんきちんと手紙が配達されているとでも、きみは思っているのかね?」
「ですけど、けさのデイリー・ワイヤーに、受賞者として、あなたのお名前が出ていたのは、確かにご覧になったのでしょう?」
「いや」と、バーナビー少佐がいった。「けさは、新聞も見なかったのだ」
「なるほど! むろん、そうでしょうね」と、若い男がいった。「あんな悲惨な事件があったのですからね。被害者は、あなたのお友だちだそうですね」
「親友だよ」と、少佐はいった。
「まったくひどいことでしたね」と、若い男はいって、如才なく目を伏せた。つづいて、ポケットから小さく折り畳んだ藤色《ふじいろ》の紙片を取り出し、軽く頭を下げて、それをバーナビー少佐に手渡して、「デイリー・ワイヤー紙の賞金です」
バーナビー少佐は、その紙片を受け取って、こういう場合に、だれでもいいそうなことをいった。「酒でもどうですか、えーと――?」
「エンダービー、チャールズ・エンダービーと申します。ゆうべ、こちらへ着きまして」と、青年は、いいわけでもするようにいった。「シタフォードまでおたずねするつもりでおりました。親しく受賞者に、小切手をお渡しするつもりで、いつも、ちょっとしたインタビューをのせることになっておりますものでして、まあ、読者も、あなたのお話を聞きたがっているからと申しあげたほうがよろしいでしょうか。ところが、だれもかれも、もってのほかだといわれますんでね――ご存じのように、あの雪でございましょう、とても、出かけられたものではございませんでした。でも、なによりの幸運でした、あなたが、このスリー・クラウン館にお泊まりになっていらっしゃるのがわかって」そういいながら、青年は、にっこり笑って、「まったく、わけなく、あなたをおさがしすることができました。実際、ここらでは、だれもお互いに知らない人っていうのはないようですからね」
「なにを飲むかね?」と、少佐がいった。
「ビールをいただきましょう」と、エンダービーはいった。
少佐は、ビールを二杯注文した。
「村じゅうが、こんどの殺人事件で、すっかり気が変になっているようですね」と、エンダービーがいった。「どう考えても、奇怪な事件ですからね」
少佐は、鼻をならした。なにか困りきっている様子だった。新聞記者というものについて抱いているかれの考えは、すこしも変わってはいなかったが、五千ポンドの小切手をくれたこの男だけは、どうやら特別の人間のような気がした。いくらなんでもこの男に、さっさと行っちまえとはいえるものじゃない。
「敵はなかったんですか、大佐には?」と、若い男がたずねた。
「ないね」と、少佐がいった。
「でも、警察では、強盗のしわざとは考えていないということですね」と、エンダービーが言葉をつづけた。
「どうして、きみは、そんなことを知っているんだね?」と、少佐がたずねた。
しかし、エンダービー氏は、どこから聞き出したともいわないで、「死体を見つけたのは、あなただそうですね、少佐」と、青年はいった。
「そうだ」
「きっと、ひどくびっくりなすったでしょうね」
こんなふうに会話は進んでいった。バーナビー少佐は、なおも情報など提供してやるものかと決心してはいたのだが、とうてい、エンダービー氏の如才なさにはたち打ちなどできなかった。若者は、少佐がどうしても、そうだとか、そうじゃないとか返事をしなければならないように話をもっていって、それで聞き出したいと思っていることを、うまく少佐にしゃべらせてしまうのだった。ところが、聞き手の口のきき方も態度も、とても感じがよかったので、しゃべっていても、いやな感じなどまるきりしなかったばかりか、少佐は、この純真な若者に好感を持ったくらいだった。
やがて、エンダービー氏は、椅子から立ちあがると、郵便局へ行かなけりゃなりませんからといって、「小切手の受取りをいただけましょうか、少佐」
少佐は、書き物机のところまで行って、受取りを書き、若者にそれを渡した。
「たぶん、きみは」と、バーナビー少佐はいった。「きょう、ロンドンへ帰るんだろうね?」
「いや! そうじゃありません」と、若者がいった。「二、三枚、写真をとりたいと思っているのです。シタフォードのあなたのコテージだの、あなたが豚に餌をやっていらっしゃるところだの、タンポポをむしっていらっしゃるところだとか、いかにもあなたらしいとお思いになっていらっしゃることをしておいでになるところだとかをね。あなたには想像もおつきにならないでしょうが、読者というものは、そういったことを、とても喜ぶものなんです。それからまた、その五千ポンドで、なにをしようと思っておいでになるか、それについて、あなたから二、三、お考えを聞かしていただきたいのです。なにか気のきいたことを伺いたいのです。そういったことを伺えないと、読者がどれくらい物足りない気がするか、あなたにはご想像もつかないと思うんですが」
「そうだね。だが、ねえ、きみ――こんな天候じゃ、シタフォードまで行くなんて、とうていできないことだね。とにかく、お話にならないくらい、ひどく雪が降ったんだからね。まあ二、三日は、どんな乗り物だって通らないだろうし、雪が解けるのにも、もう三日はかかるだろうからね」
「なるほど」と、若者はいった。「そいつは弱りましたね。まあいいでしょう。エクザンプトンで、なんとかやっつけるしかしかたないでしょう。スリー・クラウン館にいらっしゃるところで、うまく間に合わせられますよ、では、後ほどまたお目にかかります」
そういって少佐に挨拶をすると、かれは、エクザンプトンの表通りへ飛び出した。それから、まっすぐ郵便局に駆けつけると、最大の幸運のおかげで、エクザンプトン殺人事件の独占的な特種《とくだね》をものにできる、と、新聞社に電報で知らせた。
それから、つぎの行動を考えて、かれは、なくなったトレベリアン大佐の下男のエバンスに会ってみることにきめた。エバンスの名前は、バーナビー少佐が、さきほど話をしているうちに、不用意に口からもらしたものだった。
二、三度、人にたずねるだけで、フォア通りの八十五番地はわかった。殺された大佐の下男だったというだけで、いまでは、すっかり有名な人物になってしまっていたので、だれに聞いても、得々として、エバンスの家を教えてくれるというわけだった。
エンダービーが威勢よくドアをたたくと、ひと目で元水兵とわかる男がドアをあけたが、エンダービーには、即座に、これがその男だなとわかった。
「エバンス君だね?」と、陽気に、エンダービー氏がいった。「いま、バーナビー少佐のところから来たところですよ」
「ああ!――」といったまま、一瞬、エバンスは逡巡《しゅんじゅん》していたが、「まあ、おはいりになりませんか」
いわれて、エンダービーは、中へはいった。髪の毛の黒い、赤い頬の、丸ぽちゃの若い女が、奥の方でうろうろしていた。最近、一緒になったばかりのエバンスの細君だなと、エンダービーは思った。「ご主人は、ほんとにお気の毒でしたね」と、エンダービーがいった。
「びっくりしました、あんなことになって」
「だれがやったと思います?」と、エンダービーは、単刀直入に、話を聞き出しにかかった。
「下司《げす》な浮浪者じゃないでしょうか」と、エバンスがいった。
「とんでもない! そんなことはないよ。そんな推測はだめだね」
「えっ?」
「すべて、計画的な仕事だよ。警察じゃ、ひと目で見破ったんだよ」
「だれが、そんなことを、あなたにいったんです?」
実際に、そんなことをエンダービーにささやいたのは、姉が巡査のグレイブスの細君にあたる、スリー・クラウン館の女中だった。だが、かれは、「捜査本部から、ちょっと耳に入れたのさ。そうさ、こんどの強盗は、計画的な犯罪だったんだよ」
「じゃ、だれがやったと、警察では考えているんですの?」と、エバンスの細君が進み出てたずねた。目には、恐怖の色が浮かんでいた。
「おい、レベッカ、そう騒ぎ立てるな」と、かの女の亭主がいった。
「大まぬけだわ、警察なんて」と、エバンスの細君がいった。「だれをとっつかまえようと、知っちゃいないわ」といって、かの女は、ちらとエンダービーに目をやった。
「あなた、警察の関係の方ですか?」
「ぼくが? とんでもない! ちがいますよ。デイリー・ワイヤーの記者ですよ。バーナビー少佐に会いに来たんです。フットボール競技会の五千ドルの賞金を、少佐がとったんでね」
「なんですって?」と、叫ぶようにエバンスがいった。「へえ、じゃ、インチキじゃないんですね」
「インチキだなんて思ってたのかね?」と、エンダービーがたずねた。
「そうさ、いやなことだらけの世の中だからね」エバンスは、思わず大きな声をあげてしまったのに気がついて、いささかまごついていた。「ずいぶんインチキがあると聞いていたもんだからね。亡くなった旦那は、賞金なんてものは、当たった人間のところへはけっして来ないものだと、よくおっしゃってたんでね。だもんだから、何度も、わたしの名前を使っておいでになったもんだったよ」
それから、エバンスは、なんの邪気もなしに、大佐が新刊の小説本を三冊も、賞にとったことを話して聞かせた。エンダービーは、さらにエバンスをおだてて、話をつづけさせた。エバンスからなにか特種が聞けるかもしれないと考えたのだ。忠実な下男だ――古風な船乗り気質だ。エンダービーは、どうしてエバンスの細君が、そんなに神経過敏になっているのかと、ちょっと気になったが、つまりは、こういう社会の女の邪推深い無知によるものだろうとみなした。
「ああいう鼻持ちのならねえ野郎がしたってことぐらい、あなたたちならすぐかぎ出すにきまってますよ」と、エバンスがいった。「新聞なら、犯人をつかまえる力が、とてもあるって、みんないってまさあ」
「泥棒よ」と、エバンスの細君がいった。「そうにきまってるわ」
「もちろん、泥棒ですよ」と、エバンスがいった。「そうさ、旦那を殺そうなんて思うような人間は、このエクザンプトンには一人だっていやしないですよ」
エンダービーは、椅子から立ちあがって、「さてと」といった。「ぼくは、行かなくちゃならん。できれば、時おりお寄りして、いろいろお話ししたいと思ってますよ。大佐が、デイリー・ワイヤーの懸賞で新刊本を三冊もとったということになると、その意味からも、犯人をつかまえるのは、デイリー・ワイヤーの私的な任務のはずですからな」
「いや、ほんとうにいいことをいってもらってありがたいでさ。まったく、それ以上のいいことは、いってもらおうたって、いってもらえるものじゃねえよ」
元気よく、さようならの挨拶をして、チャールズ・エンダービーは出て行った。
――いったい、だれがほんとうにやったんだろう?――と、エンダービーは、胸の中でつぶやいた――われわれの友人のエバンスがやったとは思えない。たぶん、泥棒だろうな! だが、そうなると、まったくがっかりだな。事件に女が関係していないらしいのは残念だな。早いとこ、なんとかあっといわせるような新事実でもつかまんことには、この事件はつまらないままで立ち消えになってしまうぞ。つかめたら、おれの運がひらけるというもんだ。こういう事件の現場に居合わせたなんて、生まれてはじめてだからな。うまいことやらなくちゃいけないぞ。おい、チャールズ、一生一度のチャンスが来たんだぞ。しっかりしろ。わが軍人さまの友だちなら、大いに敬意を払ってやって、ときどき「閣下」とでも呼んでやることを忘れさえしなけりゃ、もうすぐに、こっちのもんだ。そりゃそうと、少佐は、インド原住民の暴動には出馬したのかな。いや、そうじゃないだろう、それにしちゃ若すぎる。うん、そうだ、南ア戦争だ。一つ南ア戦争のことでも、少佐に聞いてやろう、きっとうれしがるにちがいない。
そう胸の中で、このすばらしい思いつきを考えめぐらしながら、エンダービー氏は、スリー・クラウン館に向かって、ふらふらともどって行った。
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第九章 ローレル館
エクザンプトンからエクセターまでは、汽車で三十分ほどの距離である。十二時五分前に、ナラコット警部は、ローレル館の表玄関の呼び鈴を鳴らしていた。
ローレル館は、いくぶん、荒れ果てた感じのする家で、どうしても、新しくペンキを塗りかえなければならないという気がした。家をとりまく庭は、手入れが届いていないままに雑草がぼうぼうと生い茂り、門の扉《とびら》はひん曲がったままだ。
――ここじゃ、あまり金がないんだな、と、ナラコット警部は、胸の中でそう思った――こりゃ、たしかに生活が苦しいんだな。
警部は、非常に公平な、物わかりのいい人物だったが、いままでの捜査では、大佐が、かれを憎んでいる人間に殺されたとは、どうみても考えられないように思われた。だが、一方、警部が確かめえた範囲では、あの老人の死によって、かなりの額の金を手に入れる立場の人物が、四人いる。この四人の人間ひとりひとりの動静は、ぜひとも調べてみなけりゃならない。ピアスンという名前が、ホテルの宿帳に記入してあったということは、一応考慮に入れていいことだったが、そういっても、ピアスンというのは、あまりにもありふれた名前だ。ナラコット警部は、急いで結論を出すことはしないで、さしあたっては、全然偏見を持たないようにしながら、できるだけ早く傍証を固めたいと思っていた。
呼び鈴を聞きつけて、ちよっとだらしない様子の女中が出て来た。「今日は」と、ナラコット警部はいった。「ガードナー夫人にお目にかかりたいのですが。夫人のお兄《にい》さんにあたる、エクザンプトンのトレベリアン大佐が亡くなったことについて、お話にうかがいに来たのです」
警部は、わざと職務上の名刺を、女中に渡さなかった。いままでの経験で、警察の人間だというそれだけのことで、相手を警戒させることになり、口を閉ざされてしまうことになるからだった。「夫人は、お兄さんが亡くなったことはご存じでしようね?」と、女中がホールに、かれを通したとき、なにげなく、警部はたずねた。
「はい、電報が来たものですから。弁護士のカークウッドさんから」
「そうでしたか」と、ナラコット警部はいった。
女中は、警部を応接室に通した――部屋は、この家の外回りと同じで、もうすこし金をかけたらどうかと思うほどお粗末なものだった。が、とりたててどこがどうとはいえないが、なにか魅惑的なふんい気が漂っているのを、警部は感じた。
「さぞかし夫人は、びっくりなすったでしょうね」
女中は、そんなこと大して感じていないらしいと、警部が思ったほど、「でも、奥さまは、あまりお兄さまとお会いにもなりませんでしたから」と、あっさりこたえただけだった。
「ドアをしめて、こちらへ来たまえ」と、ナラコット警部がいった。不意に凶報を伝えたら、どんな反応を示すか、ちょっと試してみたいと思って、「その電報には、殺されたと書いてありましたか?」とたずねてみた。
「殺された!」と、女中は、目をまん丸くした。その目には、恐怖といっしょに、ひどく好奇心をかきたてられた色とが入りまじっていた。「殺されたんですか、お兄さまが?」
「そうですよ!」と、ナラコット警部がいった。「まだ、あなたがたは聞いていないだろうと、ぼくも思っていた。カークウッド氏だって、出しぬけに、そんなことをご主人に知らせたくなかったでしょうからな、だが、ね、そうでしょう――それはそうと、きみの名前はなんというの?」
「ベアトリスです」
「じゃあ、ベアトリスさん、今晩の夕刊には出るだろうね」
「まあ、知らなかったわ」と、ベアトリスがいった。「殺されたんですって。なんて恐ろしいんでしょう? 頭をなぐりつけられたんですか、それとも、ピストルでうたれたんですか、え、どうしたんですの?」
警部は、こまかく事件の模様を話して、女中の好奇心を満たしてやったが、やがて、さりげなく、「きのうの午後、ご主人は、エクザンプトンへ出かけるおつもりだったと思うんだが、それにしちゃ、天気がひどすぎたようだね」
「そんなこと、あたし、伺ってませんでしたわ」と、ベアトリスがいった。「きっと、なにかと間違えていらっしゃるんだと思いますわ。奥さまは午後、買物にお出かけになって、それから、映画を見にいらっしゃいましたのよ」
「何時ごろ、お帰りになったね?」
「六時ごろでしたわ」
そうすると、ガードナー夫人は、関係なしということになる。
「ぼくは、こちらのご家族のことはあまり知らないんだが」と、なにげない調子で、警部は、言葉をつづけた。「ガードナー夫人は、未亡人なのかね?」
「いいえ、とんでもない、旦那さまがいらっしゃいますのよ」
「ご主人は、なにをしているんだね?」
「なにもしていらっしゃいません」と、ベアトリスは、じっと相手を見つめながら、いった。「なんにもおできにならないんです。ご病人なんですもの」
「ご病人かい? そりゃ、お気の毒に、ちっとも聞いていなかったんでね」
「お歩きになれないんです。一日じゅう、ベッドに寝ていらっしゃるんです。ですから、このお宅では、いつでも看護婦がいるんです。どんな女中でも、四六時中、病院の看護婦なんかと同じ家の中にいられるというわけにはいきませんわ。いつもいつも、やれ、お茶を沸かせだの、二階へ持って行けだのというんですからね」
「骨が折れることだろうね」と、なだめるように、警部がいった。「さあ、それじゃ奥へ行って、奥さんにいってもらえないかね、エクザンプトンのカークウッドさんのところから来ましたがって」
ベアトリスが引きさがって、しばらくすると、ドアがあいて、背の高い、いささか威風堂々とした婦人が、部屋にはいって来た。ちょっと一風変わった顔つきの女で、広い額に、こめかみのあたりには白い物が見えているが、まっ黒な髪の毛を、額からまっすぐうしろへ梳《くしけず》っている。さぐるように警部の顔を見ながら、「エクザンプトンのカークウッドさんのところからお見えになったそうですね?」
「はっきり申しあげるとそうじゃないのです、ガードナー夫人。女中さんには、そう申しましたが、実は、あなたのお兄さんのトレベリアン大佐が、きのうの午後、殺害されたのです。わたしは、事件を担当している地方警察のナラコット警部という者です」
ほかの面ではどうかはわからないが、ガードナー夫人は、まったく鉄のような神経の持ち主だったといわなければならない。夫人は、目を細めると、はげしく息を吸い込んだ。それから、身ぶりで警部に椅子をすすめ、自分も椅子に腰をおろしてから、いった。「殺されたんですって! まあ、なんてことでしょう! いったいどこのだれが、ジョーを殺そうとなんかしたんでしょう?」
「それこそ、わたしの知りたいと思うことなんです、ガードナー夫人」
「もちろんでございますわ。なにかお役に立つことができれば、いたしたいと思いますんですけど、でも、どうでしょうか。兄とわたくしとは、この十年ほどというもの、ほとんど会ったこともないんでございますよ。兄のお友だちのことも、そのほかの関係のことなど、なんにも知らないしまつでございます」
「このようなことをおたずねして失礼ですが、ガードナー夫人、あなたとお兄さんとは、仲たがいでもなすったのですか?」
「いいえ――仲たがいなどいたしませんわ。わたくしたちの仲を説明するんでしたら、なんとなく疎遠になったとでも申すのが、よろしいかと思うんでございますよ。あまり身内のことなどこまごまと申しあげたくないんですけど、兄は、どちらかといいますと、わたくしの結婚のことを快く思っていなかったのでございます。だいたい兄というものは、妹の選んだ夫を、めったに喜んでくれないものだと思うんでございますけど、でも、わたくしの兄のように、あけすけに見せるものではないんじゃございますまいか。たぶん、もうご存じでございましょうが、わたくしの兄は、叔母《おば》の遺産で大変な金持ちでございました。わたくしの妹もわたくし自身も、二人とも、貧乏な人間と結婚いたしました。わたくしの夫が、大戦後、傷病兵として軍から除隊になりました時、ほんのわずかばかりの経済的な援助がございましたら、どれくらい助かったことでございましょう――一度ことわられた高価な治療も、十分に受けさせることができましたのでしょうがね。わたくし、兄にお金を貸してもらいたいと頼んでみたんでございますよ、でも、ことわられてしまいました。そりゃ、もちろん、兄には貸そうと思えば、貸せるだけのものはあったんでございますからね。でもそんなわけで、それ以来というもの、わたくしどもは、ほとんど顔も合わせなくなり、便りというものも、全然しなくなってしまったというわけでございますの」
それは、はっきりとした、どこにも疑いを挾む余地のない話だった。
なかなかおもしろい人間だな、このガードナー夫人という女は、と、警部は思った。とはいっても、かれには、すっかりこの女を理解することはできなかった。夫人の様子を見ると、不自然なほどおちつきはらっているし、いろいろな事実をこまごまと話すのを聞いても、不自然なほど、あらかじめ用意していたかのようだ。それからまたもう一つ気がついたのは、殺されたと聞いてあんなに驚いたくせに、その兄の死について、こまごましたことを全然たずねてみようともしないことだ。警部には、それがどうも変だという気がしたので、
「いかがです、事情を――エクザンプトンでの事件の模様をお聞きになりたいとは、お思いになりませんでしょうか」と、話を切り出してみた。
夫人は、眉に八の字を寄せて、「お聞きしなくちゃなりませんでしょうか? 兄は殺されたんでございましょう、でも、苦しまなければよかった――と、祈るばかりですわ」
「まったく苦しんだご様子はなかった、と、申しあげていいと思います」
「でしたら、どうかもう、胸の悪くなるようなお話はなさらないでいただきますわ」
どうも普通じゃないぞ、たしかにおかしいぞ、と、警部は思った。
すると、まるで警部の心中を読んだかのように、夫人は、ナラコットが胸の中でつぶやいたとおりの言葉を使って、「あなたは、わたくしの態度が、ひどく普通じゃないとお思いでございましょう、警部さん、でも――わたくし、身の毛のよだつようなお話を、とてもたくさん、主人から聞かされておりましたものですから、主人のあぶないというときに――」そういって、夫人は、ぞっとするように身を震わせながら、「わたくしの事情を、もっとよくご承知になってくだされば、あなたも、きっとおわかりになっていただけると思いますわ」
「いや! そうでしょう、そうでしょう、ガードナー夫人。いや、わたしがお伺いしたほんとのわけは、あなたからご親戚のことなど、あれこれと伺おうと思ったからなのです」
「はあ?」
「といいますのは、お兄さんには、あなたのほかに、どれくらいご親戚がおありなんでしょうか?」
「近い身内としては、ピアスン家ぐらいのものですわ。わたくしの妹のメアリーの子供たちですけど」
「その子供さんといいますと?」
「ジェームズと、シルビアと、それからブライアンでございます」
「ジェームズさんというのは?」
「長男でございます。保険会社に勤めております」
「おいくつですか?」
「二十八です」
「結婚しておいでですか?」
「まだでございます。もっとも、婚約はいたしております――とても綺麗な娘さんだとか。わたくしは、まだ一度も会ってはおりませんのですけど」
「それで、ジェームズさんの住所は?」
「ロンドンのサウス・ウエスト三区のクロムウェル通りの二十一番地です」
警部は、手帳に書きとめて、「それから、ガードナー夫人?」
「つぎは、シルビアですわ、シルビアは、マーチン・ダーリングと結婚しています――ダーリングの書いた本は、お読みになっていらっしゃいましょう。かなり売れている作家ですわ」
「よくわかりました。それで、お二人の住所は?」
「ウインブルドンのサレイ通りのヌーク館ですの」
「それで?」
「それから、一番若いのがブライアンですの――でも、あれは、オーストラリアにおります。あの子の住所は、知らないんですけど、兄か姉のほうならきっと知っていますでしょう」
「ありがとうございました、ガードナー夫人。ところで、これはほんの形式だけにおたずねするので、気になさらないでいただきたいんですが、あなたは、きのうの午後はどうしていらっしゃいました?」
夫人は、驚きの色を顔にうかべて、「そうですね。買物にまいりましたわ――そう――それから、映画を見に行きましたわ。六時ごろ、家に帰って来て、晩のお食事まで、ベッドに横になっておりました、映画を見たら頭が痛くなってきたものですから」
「どうもありがとうございました、ガードナー夫人」
「ほかに、なにかございまして?」
「いいえ、もうおたずねすることもないと思います。これから甥ごさんや姪ごさんたちにお会いしてみましょう。カークウッドさんから、まだお知らせが来ていないかと思いますが、あなたとピアスン家の三人の若い方たちとは、トレベリアン大佐の、共同の法定遺産相続人になっておいでです」
夫人の顔に、すこしずつ赤味がさしてきて、やがて、まっ赤になった。「まあ驚きましたわ」と、夫人は、静かな声音《こわね》でいった。「気むずかしい――とっても頑固でした――しょっちゅう、けちけちして、お金をためることばかり、お金がほしいほしいと考えていた人でしたのに」
夫人が、はっとしたように椅子から腰をあげると同時に、やや短気らしい男の声が、階段を伝わって聞こえてきた。「ジェニファー、用があるんだ」
「ちょっと失礼」と、夫人は、警部にいった。
夫人がドアをあけると、男の呼ぶ声がまた前よりも大きく、いっそうはげしく聞こえてきた。「ジェニファー、どこにいるんだ? 用があるといってるじゃないか、ジェニファー」
警部は、ドアのところまで夫人について行った。そのままホールに立って、階段を駆けあがって行く夫人の後ろ姿を見ていた。
「いま行きますわ、あなた」と、夫人は駆けあがりながら、大声をかけた。
階段をおりて来た病院からの看護婦が、途中で立ちどまって、あがって来る夫人をよけながら、「どうぞ早く、ご主人のところへ行ってあげてくださいましな、すっかり興奮していらっしゃるんですの。奥さまなら、いつでも、旦那さまをうまくなだめていただけるんですもの」
看護婦が、階段の下までおりて来ると、ナラコット警部は、ことさら、その行く手に立ちふさがって、
「ちょっと、お話ができますか?」といった。「ガードナー夫人とのお話がきれたものですから」
看護婦は、さっさと応接室にはいって、「殺人のお話で、ご病人がすっかり気を転倒させて、おしまいになったんです」と説明しながら、よく糊のきいた袖口《そでぐち》を引っぱり引っぱり、「あの間抜け女のベアトリスったら、駆けあがって来るなり、みんな、大きな声でしゃべっちまったんです」
「すみません」と、警部がいった。「どうやら、ぼくの不注意だったようですね」
「あら、もちろん、こんなことになるなんて、あなたは夢にもご存じないことなんですもの」
「ガードナー氏は、ひどくお悪いんですか?」と、警部が質問した。
「症状は、とてもひどいんです」と、看護婦はいった。「そりゃまあ、いってみれば、ほんとうにどうこうということはないんです。ただ、あの方は、神経|麻痺《まひ》で、すっかり手足がきかないんです。外からは見えない不具なんです」
「きのうの午後、特に緊張したとか、ショックを受けたとかいうことはないんですね?」と、警部はたずねた。
「そんなこと、気がつきませんでしたわ」と、看護婦は、驚いた顔色でこたえた。
「午後はずっと、あなたがそばについていたんですね?」
「そうするつもりだったんです。でも、そうなんです――ほんとのことをいうと、ガードナー大佐が、図書館から借りている本を二冊、取り換えてきてくれないかと、ひどく気にしておいでになったもんですから。奥さんがお出かけになる時に、頼むのをお忘れになってしまったんです。それで、わたし、おっしゃるとおりにしてあげなくちゃならなくなって、取り換えに図書館へ出かけて行ったんです。その時、一つ二つ、ちょっとした買物をしてきてくれと――ほんとは、奥さんへの贈り物なんですけど、それを買ってきてくれとおっしゃったんです。ほんとにいいご主人ですわ。それから、金をあげるからブーツの店でお茶でも飲んでこいなんておっしゃったんですよ。看護婦さんというものは、お茶なしじゃいられないんだからなんておっしゃって、ほんとに、旦那さまのご冗談ですわね。でも、四時までは出かけなかったんですよ。だって、クリスマス前でお店がいっぱいなんですものね。それから、ほかにも一つ二つ買物をして、六時すぎにはもどって来たんですよ。でもね、お気の毒な旦那さまは、ほんとに気持ちがよかったらしいんですよ。だってね、それまでぐっすり眠っていたって、そうおっしゃってましたもの」
「ガードナー夫人は、それまでに、帰っていたんですね?」
「ええ。横になっていらしたんだと思いますわ」
「夫人は、ご主人を心から愛しているんですね?」
「尊敬してらっしゃるわね。あの方なら、ご主人のために、この世の中でどんなことでも、きっとなさると、わたし、ほんとに信じてますわ。ほんとに、ぐっときちゃうわ。わたしがこれまでに付き添ったどの患者の場合とも、まるきり違うんですもの。そうそう、先月のことだったんですけど――」
だが、ナラコット警部は、まさにはじまろうとする先月の話を、まことにうまいことはずした。かれは、腕時計にちょっと目をやって、ことさら大きな声をあげて、「やあ、大変だ」と、叫ぶようにいった。「汽車に遅れそうだ。駅は遠くないんですね?」
「セント・ダビッド駅でしたら、歩いて、ほんの三分ですわ、セント・ダビッド駅なんでしょう、それとも、クイーン・ストリートですか?」
「走らなくちゃ」と、警部がいった。「お目にかかって、ご挨拶もしないで失礼しますと、ガードナー夫人にいってください。あなたとお話ができて、とてもうれしかったよ、看護婦さん」
看護婦は、ほんのすこし、つんと顎《あご》をあげて。――ふん、ちょいといい男だわね――警部が出て行ったあとの表戸をしめながら、かの女は、胸の中でつぶやいた。――ほんとに、いい男だよ。それに、なかなか思いやりもあるわね。それから、軽くため息をついて、二階の病人のところへあがって行った。
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第十章 ピアスン家の人々
ナラコット警部のつぎの行動は、上官のマックスウェル署長に、結果を報告することだった。署長は、深い関心を示して、警部の話を聞いていたが、「大事件になりそうだね」と、しかつめらしい顔をしていった。「新聞の特種にはなるぞ」
「わたしもそう思います。署長」
「とにかく細心の注意を払わなくちゃいかん。いかなる間違いもおかしたくはないからね。が、きみの捜査方針は正しいと思うよ。きみは、できるだけ早く、そのジェームズ・ピアスンをさがし出して――きのうの午後、どこにいたかさぐり出さなくちゃいかんね。もっとも、きみのいうとおり、きわめてありふれた名前だが、洗礼名というものもあるからね。むろん、その男が、そんなに大っぴらに自分の名前を書いたということは、計画性のものではなかったということを示しているのかもしれない。でなけりゃ、そんなばかげたことはしなかったろう。わしには、けんかのようなことでもはじまって、いきなり一撃をくらわしたという気がするね。かりに、泊まったのが当の本人だったとすれば、その晩のうちに、伯父の死を聞いたにちがいあるまい。そして、かりにそうだとすれば、どうして、だれにもひと言も声をかけずに、朝の六時の汽車で、こっそり逃げ出すようなことをしたのかね? そうだ、|くさい《ヽヽヽ》という気がするぞ。かりにそれを認めるとしても、なにからなにまで、つじつまの合うところがないじゃないか。まあできるだけ早いとこ、解決しなくちゃいかんぞ」
「わたしも、その考えでおりました。とにかく、一時四十五分の列車で、ロンドンに行ってみるのがいいと思います。いつかそのうちに、大佐の山荘を借りている、そのウイレットという女とも、話してみたいと思うんです。なんだかいかがわしいところがあるんです。ところが、いますぐはシタフォードへ行けないんです。どの路も、雪ですっかり通れなくなっているものですから。が、それはとにかく、かの女は、犯罪とは直接関係があるはずはないのです。かの女もその娘も、事実――そうです――犯罪が行なわれた時には、『こっくりさま』なんかやっていたんですから。しかし、そりゃそうと、ずいぶん変なことが起こったものですね――」と、その後につづいて、警部は、バーナビー少佐から聞いた話を、もう一度、おさらえをした。
「変てこなことがあったもんだね」と、署長も思わずいった。「その少佐という老人が、ほんとうのことをいってると思うかね? 幽霊だのなんだのを信じるような人間たちが、後になってでっちあげたって話じゃないのかね?」
「間違いなくほんとうでしょうね」と、ナラコットは、薄笑いを浮かべながらいった。「その話を、少佐から聞き出すのに、おそろしく骨を折ったんですから。少佐は、迷信家なんてものじゃありません――全然、反対で――老兵というんでしょうね」
署長は、わかったというようにうなずいて、「なるほど、おかしいね。だが、それだけじゃ、どうにもならんね」というのが、署長の結論だった。
「では、一時四十五分の汽車で、ロンドンへまいります」
相手は、うなずいた。
ロンドンへ着くと、ナラコットは、まっすぐクロムウェル通り二十一番地へ行った。ピアスン氏は、会社へ行っていて、七時ごろには間違いなく帰って来るだろうという話だった。
ナラコットは、そういう返事を聞いても、自分にはどうでもいいことだといいたげに、無造作にうなずいて、「できれば、またお寄りします」といった。「別に大した用事じゃないんですから」とそういって、名前も告げずに、急いで立ち去った。
警部は、保険会社へは行かないで、かわりに、ウィンブルドンへ行って、以前のシルビア・ピアスン嬢こと、マーチン・ダーリング夫人に会うことにしようと思った。
ダーリング夫人は、家にいた。ちょっと生意気そうな顔つきの、ライラック色の服を着た女中が、いやにごたごたした応接室へ、警部を通した。警部は、奥さんにお会いしたいといって、公用の名刺を女中に渡した。
すると、ほとんどすぐにダーリング夫人が、かれの名刺を手にしたままはいって来て、「不幸な目にあったジョセフ叔父《おじ》のことでいらしたんでございましょうね」と、そう挨拶をするのだった。
「びっくりいたしましたわ――ほんとに驚きました! わたくし、泥棒というと、自分ながら恐ろしいほどぞっとしますんですよ。ですから、先週なんか裏のドアに、余分な掛け金を二つもつけたり、窓という窓には、新しい特許かんぬきをつけたぐらいなんですのよ」
シルビア・ダーリングは、警部がガードナー夫人から聞いたところによると、やっと二十五歳だということだったが、見たところ、どうしても三十すぎとしか思われないような様子だ。小柄で、なかなか綺麗な顔だちだが、貧血症らしく、そのうえ、なんとなく心配ごとか悩みごとでもあるような色が、顔に翳《かげ》を投げている。その声には、かすかに、なにかを訴えるような響きがこもっているといおうか、こうまで人間の声が暗い感じを持てるものかと怪しむほどのものだった。しかも、警部にひと言も口を入れさせないで、かの女は、しゃべりつづけた。「わたくしで、なんなりとお役に立つようなことがございますんなら、もちろん、喜んでいたしますわ。でも、ジョセフ伯父には会ったことさえないくらいでございますからね。伯父は、まるきり気持ちにやさしいところのない人でしたわ――たしかに、やさしくなれなかったんでしょう。いつも口やかましく人のあらさがしばかりしていて、人のめんどうなんかみられるような人じゃありませんでしたし、文学とはどういうものか知ろうとも思わないような人でしたわ。成功、真の成功というものはつねにお金だけではかれるものではありませんわね、警部さん」
やっと、夫人が口をつぐんだ。いまの話から、一つの推測をつかむようになっていた警部は、ようやく口をきくきっかけをつかんでいった。「ずいぶん早く、事件をお聞きになったんですね、ダーリング夫人」
「伯母のジェニファーが、電報で知らせてくれましたのよ」
「なるほど」
「でも、夕刊にも出ているんでしょう。ほんとに恐ろしいことですわね?」
「伯父さんには、最近は何年もお会いにならなかったんですね」
「結婚して以来、会ったのは二度だけですわ。しかも二度目の時なんか、夫のマーチンに、ほんとにひどい無作法なことをしたんです。そりゃまあ、伯父ときたら、どの点から見ても、徹底的な俗物で――ただスポーツにばかり熱をあげている人でしたからね。いまも申しあげたように、全然、文学に理解なんかないんです」
夫が、トレベリアンに借金を申し込んでことわられたんだなと、ナラコット警部は、ひそかに胸の中で考えた。
「これはほんの形式だけに伺うのですが、ダーリング夫人、きのうの午後のあなたの行動をおっしゃっていただけませんでしょうか?」
「わたくしの行動ですって? まあ、ほんとにおかしなことをお聞きになりますわね、警部さん、午後はずうっと、ブリッジをしていましたわ。それからお友だちがいらしたので、いっしょに夜をすごしましたわ。夫が外出していたものですから」
「外出しておいでだったんですか、ご主人は? ずっと家から離れておいでだったんですか?」
「文学の会があったんですの」と、もったいぶった口調で、ダーリング夫人は説明した。「お昼は、アメリカの出版社の方といっしょにお食事をしましたし、夜は夜で、その文学の会だったんですの」
「なるほど」そりゃまあ、ありそうなことだ。警部は、話をつづけて、「あなたの弟さんは、オーストラリアにおいでになるとかいうことですね、ダーリング夫人?」
「そうですの」
「住所は、おわかりになっていますでしょうな?」
「ええ、知っていますわ、お望みでしたら、お知らせしますわ――ちょっと変な名前のところで――わたくし、ちょっと忘れてしまったんですけど。なんでも、ニューサウス・ウェールズのどこかでしたわ」
「それから、ダーリング夫人、あなたのお兄さんは?」
「ジムですか?」
「ええ、あの方にもお会いしたいと思っているのです」
ダーリング夫人は、急いで、警部に住所を教えてくれた――それは、ガードナー夫人がすでに教えてくれたのと同じだった。
やがて、もうどちらのほうにも話すこともないと感じたので、警部は、話を打ち切ることにした。時計をちらっと見て、かれは、いまからロンドンにもどれば、七時になる――家に帰っているジェームズ・ピアスンに会うには、おあつらえ向きの時間だと思った。
前のときと同じの、品の良い様子の中年の女が、クロムウェル通り二十一番地のドアをあけてくれた。こんどは、ピアスン氏は帰っていた。部屋は二階にあったので、歩いてあがって行った。女は、警部の先に立って案内してその部屋の前に立つと、軽くドアをノックして、つぶやくように口の中で、いいわけでもするような声で、「ご面会の方がおいでです」といった。
夜会服を着た若い男が、部屋の中央に立っていた。かなり美貌《びぼう》の男で、ちょっと弱々しい口もとと、優柔不断らしい目つきを気にさえしなければ、ほんとに美青年といっていいくらいだった。憔悴《しょうすい》した、なにか心にわだかまりがあるといった面持ちで、近ごろは夜もろくろく眠れないといった様子だった。かれは、警部の顔を物問いたげにながめた。
「ナラコット警部と申しますが」と、警部は口を開いた――が、そのまま、あとはつづけなかった。
すると、ひと声、しゃがれたような叫び声をたてたと思うと、その若い男は、どさっと椅子に腰をおとし、両腕をテーブルに投げ出し、その上に頭をうずめたまま、ぶつぶつとつぶやくように、「ああ! もうだめだ! とうとうやって来た」
やがて、一、二分すると、若い男は頭をもたげて、いった。「さあ、どうして黙っているんです。きみ?」
ナラコット警部は、まるきりなにも感じないような、ぽかんとした様子で、「わたしは、あなたの伯父さんのジョセフ・トレベリアン大佐の殺害事件を調査しているのですが、なにかおっしゃることがおありなら、伺いたいのですが?」
若い男は、ゆるゆると椅子から立ちあがると、低いが、緊張した声でいった。「あなたは――ぼくを逮捕するんですか?」
「いやいや、そんなことじゃありません。逮捕するんだったら、逮捕状を出します。わたしは、きのうの午後のあなたの行動をお聞きしているだけなんです。おこたえになるもならぬも、あなたの自由ですが」
「そして、こたえなかったら――不利だということになるんでしょう。ええ、そうですとも、あなたがたのやり方ぐらい、ちゃんとわかってますよ。きのう、ぼくが、あすこへ行ったことは、ちゃんと調べ出したんでしょう?」
「あなたは、ホテルの宿帳にサインをしておいでですからね」
「なるほど、そうじゃないといっても役に立たんでしょうね。ええ、行きましたよ――行っちゃ、なぜ、いけないんです?」
「なるほど、ほんとにそうですかね?」と、警部は、穏やかにいった。
「ぼくは、伯父に会いに行っただけですよ」
「約束があってですか?」
「どういうことです、約束というのは?」
「伯父さんは、あなたが来るってことを知っていたのですか?」
「ぼくが――いいえ――知らなかったでしょう。ただ――ただ、不意の出来心だったんです」
「理由はなかったんですね?」
「ぼくに――理由ですって? ええ――理由なんかありませんよ、どうして、理由がなくちゃいけないんです? ぼくは――ぼくはただ、伯父に会いたかっただけなんです」
「そうでしょう、そうでしょう。それで、伯父さんに会ったんですね?」
返事がなかった――非常に長い間だった。若い男の顔の、目にも口にも筋肉にも、どうしようかと、心を決めかねる色がありありとうかんでいた。それを見つめていながら、ナラコット警部は、一種の同情の念を感じさえしたほどだった。こんなに目に見えるほど決断しかねている様子が、事実を認めることになるということが、この青年にはわからないのだろうか?
とうとう、ジム・ピアスンは、深く息を吸い込むと、「ぼく――すっかり打ち明けるほうがいいんでしょうね。そうです――ぼくは、伯父に会いました。駅に着くと、シタフォードに行けるだろうかと聞いてみたんです、すると、そんなことは話にならない、どんな車だって、この路は通れないと、みんな、いうんです。ぼくは、火急の用事だといったんです」
「火急って?」と、警部は、つぶやくようにいった。
「ぼくは――とても伯父に会いたかったんです」
「なるほど」
「それでも赤帽は、首を横に振って、だめだといいつづけていたのです、が、ふと、ぼくが伯父の名前を口にすると、赤帽は、急にはればれとした顔をして、ほんとうは伯父がエクザンプトンに住んでいるのだといって、伯父が借りている家へ行く道を詳しく教えてくれたんです」
「それは、何時ごろのことでした?」
「一時ごろだったと思います。ぼくは、その旅館へ行きました――スリー・クラウン館へね――そして、部屋をとって、まず昼食をとりました。それから、そのあとで――伯父に会いに出かけました」
「昼食をとってから、すぐあとでですか?」
「いいえ、すぐあとじゃありません」
「何時ごろでした?」
「さあ、はっきり何時とはいいかねるんですが」
「三時半ですか? 四時ですか? 四時半ですか?」
「さあ――ぼくは――」と、若者は、前よりもいっそう口ごもって、「それほど遅くはなかったと思うんです」
「でも、旅館の主人のベリング夫人は、あなたが四時半に出かけて行ったといってましたよ」
「ぼくがですか? ぼく――それは、旅館の主人の間違いだと思います。そんなに遅いはずはありませんよ」
「で、それからどうしました?」
「伯父の家を見つけて、話をしてから宿へもどって来ました」
「どうやって、伯父さんの家へはいりました?」
「玄関のベルを鳴らしたら、伯父が、自身でドアをあけてくれたのです」
「あなたを見て、伯父さんは驚きませんでしたか?」
「ええ――そうです――ちょっと驚いたようでした」
「それで、どれくらいの間、伯父さんのところにいました、ピアスンさん?」
「十五分か――二十分ぐらいです。でもねえ、ぼくが、伯父の家を出た時は、伯父はピンピンしていたんです。ほんとに、伯父は元気だったんです、ぼく、誓います」
「それで、何時ごろ、伯父さんの家を出たんです?」
若い男は、目を伏せた。また躊躇《ちゅうちょ》の色が、その声音にありありとあらわれた。「はっきりとは、おぼえていないんですが」
「おぼえていると、わたしは思っているんですがね、ピアスンさん」
自信のある警部の口吻が、効き目をもたらした。若者は、低い声でこたえた。「五時十五分すぎでした」
「きみは、六時十五分前に、スリー・クラウン館にもどって来ているじゃありませんか。伯父さんの家から歩いたにしても、せいぜい、七分か八分しかかからないはずじゃありませんか」
「ぼくは、まっすぐに帰らなかったんです。町の中を歩いていたんです」
「あの寒い気候の中を――しかも、雪が降ってるというのにね!」
「でも、その時は、雪は降ってはいなかったんです。それからあとで降り出したんです」
「なるほど、それで、伯父さんとはどんな話をしたのです?」
「いや! 別に特別な話はなにも。ぼくは――ぼくはただ、伯父と会って、なんということもない、ただ話がしたかっただけです」
哀れな嘘《うそ》つきめ、と、ナラコット警部は思った。ふん、おれの方が、ずっとうまくつけるぞ。
それから、大きな声で、警部はいった。
「結構です。ところで、もう一つ伺いたいんですが、あなたは、伯父さんが殺されたことを聞きながら、どうして、被害者とあなたとの関係を明らかにしないで、エクザンプトンを立ち去ったのですか?」
「こわかったのです」と、若い男は、率直にいった。「ぼくは、ちょうど伯父と別れた時間ごろに、伯父が殺されたということを聞きました。だから、はっとして、だれだってこわくなるのは当然じゃありませんか? ぼくは、すっかりあわてて、なんでもいい間に合う朝の一番の列車で逃げ出したのです。ああ、はっきりいえば、あんなまねをするなんて、ぼくは、ほんとにばかでした。でも、あなたでも、あんな騒ぎにぶつかったらどうしたか、よくわかっていただけるでしょう。そうです。だれだって、あんな場合にぶつかればあわててしまったにちがいありませんよ」
「それで、あなたのいいたいことは、それだけですね?」
「ええ――そうです、むろんそれだけですよ」
「それじゃ、たぶん、あなたに異議はないと思いますが、わたしと署まで同行していただけるでしょうな。あなたの陳述を書き留めてみますから、それを読んだうえで、署名をしていただけるでしょうな」
「その――それだけですか?」
「さあ、ピアスンさん、検屍審問がすむまで、あなたを留置することになるかもわかりませんね」
「ああ! なんてことです」と、ジム・ピアスンがいった。「だれも、わたしに力をかしてくれることはできないのか?」
その時、ドアがあいて、若い女が部屋の中にはいって来た。物を見る目の確かなナラコット警部が、ひと目で見てしまったように、かの女は、若い女としては非常に並はずれた女性だった。人目を集めるような美人ではなかったが、一度見たら忘れることのできないような、人の目をひかずにはおかない、珍しい顔をしていた。そのうえに、常識は豊かに、駆け引きはじょうずで、しっかりとした意志と、しかも人を魅せずにはおかないといったふんい気が漂っていた。
「あら! ジム」と、女は声をあげた。「いったいどうしたの?」
「なにもかもだめなんだよ、エミリー」と、若い男はいった。「ぼくが伯父を殺したものときめているんだ」
「だれが、そんなことを思ってるの?」と、エミリーが聞いた。
若い男は、手ぶりで来訪者を指さしながら、「ナラコット警部さんだ」と紹介してから、気の進まない様子で、「エミリー・トレフュシス嬢です」と紹介した。
「まあ!」と、エミリー・トレフュシスはいった。
エミリーは、鋭い薄茶色の目で、ナラコット警部を注視しながら、「ジムは」といった。「おそろしいばかかもしれませんが、人殺しをするような人じゃありませんわ」
警部は、なんにも口を出さなかった。
「あたし、思うんだけど」と、エミリーはいいながら、ジムの方を向いて、「あなたは、とてもばかげた軽はずみなことをしゃべったんでしょう。もうすこし新聞をよく読んでいれば、ジム、いい弁護士さんがそばにいないところで、警官に、なにからなにまで口から出まかせに異議を申し立てちゃいけないってことぐらいわかってそうなものよ。いったい、どうしたんですの? ジムを逮捕なさるというんですの、ナラコット警部さん?」
ナラコット警部は、ジムがとった行動を、警察用語を使って明確に説明して聞かせた。
「エミリー」と、若い男は、叫ぶようにいった。「ぼくが、そんなことをしたなんて、きみは信じやしないだろう? けっして、そんなことを信じやしないね?」
「ええ、あなた」と、エミリーは、やさしくいった。「むろん、信ずるもんですか」それから、穏やかな、物思いにふけるような口調でつけ加えた。「元気を出すのよ」
「ぼくには、世界じゅうに一人も友だちがないような気がするんだ」と、ジムがうなるようにいった。
「いいえ、持っていらっしゃるわ」と、エミリーがいった。「あたしがいるじゃありませんか。さあ、元気を出してちょうだい、ジム。あたしの左の手の薬指に光っているダイヤモンドをよく見てちょうだい。あなたの忠実なフィアンセが、ここにいるのよ。さあ、なにもかも一切をあたしにまかして、警部さんと一緒に行っていらっしゃい」
ジム・ピアスンは、まだ呆然《ぼうぜん》とした色を顔に浮かべたまま、立ちあがった。オーバーコートは、椅子の上に投げかけたままになっていたのを、身にまとった。ナラコット警部は、かたわらの衣装|箪笥《だんす》の上においてあった帽子を、ジムに手渡した。二人は、ドアの方に歩き出し、警部は、丁寧に挨拶した。「さようなら、ミス・トレフュシス」
「またお目にかかりますわ、警部さん」と、やさしく、エミリーも挨拶した。
だが、警部が、エミリー・トレフュシスという女性を、もっとよく理解していたなら、なにげないこの挨拶の中に、挑戦《ちょうせん》の叫びを聞きとったはずだったのだが。
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第十一章 エミリー、乗り出す
トレベリアン大佐の死の検屍法廷は、月曜日の朝開かれた。センセーションの点からいえば、これはまったく面白味《おもしろみ》のないことだった。というのは、開廷と同時といってもいいほどすぐに、一週間先に延期されてしまって、大部分の人たちをすっかりがっかりさせてしまったからだった。土曜日から月曜日までの間は、エクザンプトンでは、大変な評判だったのだ、被害者の大佐の甥が、殺人容疑者として抑留されたというニュースは、この全事件を各新聞のつまらない雑報欄から、一躍大見出しを飾るところにまでしてしまった。月曜日には、おびただしい新聞記者たちがエクザンプトンに乗り込んで来た。なかでも、チャールズ・エンダービー氏は、例のフットボール競技会懸賞というまったく思いがけない機会につかんだ、ほかの記者連中よりも有利な地位を、自分ながら、もう一度祝福したいような気持ちになっていた。
新聞記者連中の狙《ねら》いは、なんでもかんでも蛭《ひる》のようにバーナビー少佐にくいさがって、少佐のコテージの写真を撮影するというのを口実にして、シタフォードに住んでいる人たちや、その連中とトレベリアン大佐との関係を、洗いざらい聞き出そうというのだった。
ところで、そういう虎視眈々《こしたんたん》たるエンダービー氏の目がとらえたのは、ホテルでの昼食時に、ドアの近くの小さなテーブルに向かっている、ひどく魅力的な女性の姿だった。いったい、あの女性は、このエクザンプトンでなにをしているのだろうと、エンダービー氏は考えた。とりすました服装を見事に着こなした、挑発的なスタイルのこの女性は、亡くなった人の親戚《しんせき》という様子ではなかったし、まして、物好きなやじ馬とはとても考えられなかった。
いったい、この女は、どのくらい滞在しているのだろう、と、エンダービー氏は考えた。残念だが、今日の午後は、おれはシタフォードまで行かなくちゃならないし、ちえっ、いやになっちゃうな、二兎を追う者は一兎をも得ずとは、まったくいやなことをいったものじゃないか。
ところが、昼食をおわってすこしすると、エンダービー氏は、思いがけない意外なことにぶつかった。スリー・クラウン館の階段に立ちどまって、どんどん融けて行く雪をながめながら、冬の陽《ひ》の鈍い光をたのしんでいると、呼びかけられている声に気がついた。しかも、それは心もうっとりするようなチャーミングな声で、「失礼でございますが――ご存じでいらっしゃいましょうか――なにか、このエクザンプトンで見物するようなものがございましょうか?」
チャールズ・エンダービーは、たちどころに、この機会をとらえて、「お城があると、思うんですがね」といった。「たいしたものじゃないが――あるにはありますね。よろしかったら、ご案内しましょうか」
「まあ、ほんとにご親切でいらっしゃいますこと」と、娘はいった、「お忙しくなければ――」チャールズ・エンダービーは、即座に仕事の忙しさなど放棄してしまった。二人は、いっしょに外に出た。
「エンダービーさんとおっしゃるんでしょう?」と、娘がいった。
「そうですが、どうしてご存じなんです?」
「旅館の主人のベリングさんが、教えてくれましたの」
「ああ、なるほど」
「あたし、エミリー・トレフュシスと申しますの。エンダービーさん――実は、あたし、あなたに助けていただきたいんですの」
「助けるって?」と、エンダービーがいった。「そりゃ、まったく――ですが」
「ねえ、あたし、ジム・ピアスンと結婚をすることになっていますの」
「ええっ!」といったエンダービー氏の胸には、新聞記者としての興奮がむくむくとわき出していた。
「そしてね、警察では、ジムを犯人として逮捕しようとしているんです。警察がどんな考えでいるか、あたしにはよくわかります。エンダービーさん、あたし、ジムがそんなことをしなかったってことは、よく知っています。あたし、かれが殺人なんかけっして犯さなかったってことを証明しようと思って、ここへやって来たんです。でも、どなたかに助けていただかなくちゃなりません。男の方の力がなければ、なんだってできやしません。だって、男の方たちは、とてもいろんなことを知っていらっしゃるし、女にはとてもできないようないろいろな方法で、情報を集めたりすることができるんですもの」
「なるほど――ぼくは――そうですね、そりゃおっしゃるとおりでしょうね」と、エンダービー氏は得意そうにいった。
「あたし、けさ、新聞記者たちをみんな、じっと見ていたんですの」と、エミリーがいった。「ずいぶんたくさんの方でしたけど、みんな、なんといったらいいかしら、間の抜けたような顔をしていらっしゃる方ばかりだと思いましたの。そんな人たちの間で、ほんとうに頭のいい方はあなただけだと、あたし、目をおつけしたんですの」
「へえ! こりゃ驚いた。どうも、ぼくにはそうは思えませんがね」と、エンダービー氏はいったが、いよいよ得意満面という様子だった。
「それで、あなたにお願いしたいことは」と、エミリー・トレフュシスがいった。「あたしと力を合わせて、ごいっしょに仕事をしていただきたいことなんです。そうなれば、あなたにとっても、あたしにとってもつごうがいいんじゃないかと思うんですの。あたし、どうしても調べてみたい――いいえ、見つけ出してみたいと思うことがあるんです。それには、あなたのような、新聞記者|気質《かたぎ》の方なら、きっとあたしを助けていただけると思うんです。あたし、お願いしたいのは――」
そこで、エミリーは言葉をきった。ほんとうにエミリーが希望していたことは、エンダービー氏に、自分の私立探偵のような役目をしてもらうということだった。かの女がここと思うところへ、かれに行ってもらったり、聞き出したいと思っていることを聞き出してもらう、いってみれば、自分の手足になってもらいたかったのである。だが、エミリーもこういうことを頼み込むのに、お世辞をいったり、愛想のいい言葉でいう必要があるということは気がついていた。が、問題は、自分がエンダービーの主人の立場になるということだった。それだけに、なによりも如才なくふるまう必要があった。「あたし」と、エミリーがいった。「あなただけが頼りだと思ってるんですのよ」
かの女の声は、甘ったるいほど愛らしく、流麗で、相手の心をとかしそうだった。だから、かの女がその最後の言葉をいいおわったとたん、エンダービー氏の胸の中には、この美しい、頼りなさそうな娘が、窮地に陥って自分を頼りきっているという実感がわきあがってきた。「きっとご心配でしょうね」といいながら、エンダービー氏は、かの女の手をとって、情熱をこめて握りしめた。
「でも、おわかりでしょうが」と、かれは新聞記者特有の反発的な調子で、言葉をつづけた。「ぼくの時間というものは、全部が全部、ぼくの時間ではないのです。つまり、社からどこそこへ行けといってくれば、ぼくは行かなくちゃいけない、まあ、そういったわけなんです」
「わかりますわ」と、エミリーがいった。「あたしも、そのことは考えていましたの。ですから、こうしてお話してるんですわ。ねえ、そうでしょう、あなたがたがおっしゃる『特種』ね、それはつまり、あたしのことじゃなくて? あなただったら、毎日、このあたしにインタービューができるわ。読者が喜びそうなことを、あたしにしゃべらせることだってできるじゃありませんか。ジム・ピアスンのフィアンセ。かれの無罪を心から信じる娘。かの女が語るジムの少年時代の追憶。かれの少年時代のことなんか、ほんとうは、あたし知らないの」と、かの女はつけ加えていった。「でも、そんなことどっちでもいいじゃありませんか」
「いや、あなたっていう人は」と、エンダービー氏はいった。「驚くべき人ですな。まったく、すごい人ですな」
「それから」と、自分の有利な地歩に追い打ちをかけるように、エミリーはいった。「あたしは、ジムの親戚の人たちに、ごく自然に、近づきになるでしょう。そうすれば、どんな手を使ったって、とうていはいり込めないところへだって、あたしの友だちだといえば、あなたを連れて行けるじゃありませんか」
「気がつかなかったな、そんなすばらしいことに」と、これまでさんざん門前払いをくわされたことを思い出しながら、エンダービー氏は、心から興奮していった。
栄光に満ちた前途が、かれの前にひらけてきたのだ。こんどの事件では、全面的に、幸運に見舞われどおしだ。まず第一に、フットボール競技大会懸賞の幸運のチャンスがあったかと思うと、こんどはこれだ。「よろしい、ひとつやりましょう」と、エンダービーは、熱っぽくいった。
「いいわ」といったエミリーは、威勢よく事務的な調子になって、「それで、最初の行動は、なにからかかりましょうか?」
「ぼくは、きょうの午後、シタフォードに出かけることにします」
エンダービーは、バーナビー少佐とのことについて、偶然のことから思わぬ有利な立場を得た、幸運ないきさつについて話して聞かせた。「というのはね、こうなんですよ。あの大将ときたら、新聞記者ときたら、まるで毒薬かなんかのように毛嫌いする老いぼれ軍人なんですよ。だがなんといったって、たったいま自分に五千ポンドくれたばかりの男に、面と向かい合って帰れというわけにはいかんでしょう?」
「そりゃ、ちょっと困ったわね」と、エミリーがいった。「いいわ。あなたがシタフォードへいらっしゃるのなら、あたしもごいっしょに行きますわ」
「そいつはすてきだ」と、エンダービー氏はいった。「でも、泊まるところがあるかどうか、ぼくにはわかりませんがね。ぼくが知っているかぎりでは、シタフォード山荘と、バーナビー少佐のような人が住んでいる、風変わりなコテージが何軒かあるだけだそうですがね」
「泊まるとこぐらい、なんとか見つかりますわ」と、エミリーがいった。「あたし、いつだって、なんか見つけるんですの」
エンダービー氏は、エミリーのそんな言葉にも十分に信頼が持てた。エミリーという女は、どんな障害だろうと、悠々と飛び越えてしまうという性格のようなものを持っていた。
そんな話をしながら、二人はいつか、荒れはてた城に着いた。が、その城址《じょうし》などには全然目も向けず、陽光といえるほどもない日の光のさしている城壁のところに腰をおろすと、エミリーは、自分の考えをあとからあとからと話しつづけた。「あたしはね。エンダービーさん、絶対に感傷的にならずに、事務的に、この事件を考えていきたいんですの。それで、まず最初に、ジムが人殺しなんかしなかったという、あたしの言葉を信じていただきたいんです。ただ深い考えもなく、あたしがジムを愛しているからとか、ジムの美しい性格を信じるからとか、そんなようなことだけで、そんなことをいってるんじゃないんです。それはね――そう――認識の結果なのよ。おわかりでしょうけど、あたし、十六の時から、ちゃんと自分のことには責任を持って暮らしてきましたの。あまりたくさん、女の方とは交際をしなかったものですから、女の方のことは、ほんのわずかしか知らないんです。でも、男の人のことだったら、ほんとにどっさり知っているつもりなんです。だって、男と交際して、その男を正確に見抜けないで、相手をどう扱っていいかわからないような女の子は、もうこれからは暮らしてはいけないわ。あたしは、これでもちゃんとやって来ているのよ。あたし、ルーシーでマネキンをして働いているんです。それで、あなたにはっきりといえることは、エンダービーさん、こういう結論に達することができたのは、あたしのすばらしいお手柄よ。
で、いまもいったように、あたしは、間違いなく男の人を見抜くことができるんですの。まあ、あらゆる点から考えて、ジムという人は、どっちかというと性格的に弱いところがあると思うの」と、一瞬、強い男の礼讃者であるという自分の役割を忘れてしまって、エミリーはそういった。「でも、あたしがジムを好きなのは、その弱さのせいじゃないんです。あの人になにかやらせて、きっと一人前にしてみせることができるという気持ちよ。数えきれないほどたくさん、仕事がありますわ――そうよ――罪になるようなことだって、人にしいられれば、やりかねない人だという気がしますわ――でも、人殺しだけはだめね。あの人には、サンドバッグを持ちあげて、老人のうしろから頭をなぐりつけるなんて、とてもできっこありませんわ。たとえ、ジムがそんなことをしたとしても、あべこべになぐり倒されるのが関の山ですわ。あの人は――ジムは、ほんとうにおとなしい人間なんですわ、エンダービーさん。蜂《はち》だって殺すのは気が進まないような人ですわ。殺すどころか、いつでも窓から逃がしてやろうとして、きまって刺されるって人ですわ。けれど、あたしがこんなこといくらしゃべっても無駄ですわね。あなたは、あたしの言葉を信じて、ジムが無罪だという仮定のもとに、着手していただきたいんですの」
「じゃあ、あなたは、だれかが計画的に、ジム君に罪をなすりつけようとしていると、そう考えているんですね?」と、チャールズ・エンダービーは、腕ききの新聞記者らしい態度でたずねた。
「そうは思いませんの。そうでしょう。ジムが伯父さんに会いに来るなんてことを知っていた人間は、だれもなかったんでしょう。むろん、だれにだってはっきりしたことはわかりませんけど、あたしは、偶然の一致で、ジムは、ほんとに運が悪かったのだとにらんでいるんです。ですから、まずさぐり出さなければいけないことは、トレベリアン大佐を殺す動機を持っているのはだれかということですわ。警察でさえ、いわゆる『外部の人間のしわざ』じゃないと、確信しているようですわ――つまり、強盗のしわざじゃないというんですの。窓がこわれていたのは、あれはごまかしなんですわ」
「警察では、そんなことをみんな、あなたにしゃべったんですか?」
「実際にね」と、エミリーがいった。
「『実際に』というのは、どういうことなんです?」
「宿屋の部屋係の女中さんの話なんです。女中さんの妹が巡査のグレイブスと結婚しているんです。それで、むろん、女中さんは、警察の考えていることなら、なんでもかんでも知っているんです」
「なるほど」と、エンダービー氏はいった。「外部の人間のしわざじゃないとすると、内部の人間のしわざということになるわけですね」
「そのとおりなの」と、エミリーがいった。「警察では――というのは、担任のナラコット警部という人は、とてもしっかりした人だと、あたしも思っていたんですけど――その警部が、トレベリアン大佐の死によって利益を受ける人たちを調べはじめたんです。ところが、ジムのところへ来ると、どこまでもつきっきりで、いってみれば、ほかのいろいろなことを調べようともしないんです。ですから、あたしたちが自分たちの仕事にしてやらなくちゃいけないと思うんです」
「それこそ特種になりますよ」と、エンダービー氏がいった。「もしも、あなたやぼくの手で、真犯人を見つけ出したらね。デイリー・ワイヤー紙の敏腕犯罪記者――なんて、ぼくは書かれるでしょうね。でも、それにしちゃ話がすこしうますぎるな」それから、すこしがっかりしたように、つけ加えていった。「そういうことってのは、探偵小説の本に出てくるだけだからな」
「ばかなことをいっちゃだめ」と、エミリーがいった。「あたしをごらんなさいよ」
「あなたは、ほんとにすてきな人ですよ」と、再びエンダービーはいった。
エミリーは、小さな手帳を取り出して、「さあ、順序を追って書いてみましょうよ。ジムその人。ジムの弟と妹。それから、ジムの伯母さんのジェニファー、この人たちは、トレベリアン大佐の死によって、等しく利益を受ける人たちよ。むろん、シルビアは――ジムの妹のことよ――蝿《はえ》も殺せないような人だけど、あのひとの夫は見のがせないわ。動物的な感じのするいやな男なのよ。あなただってご存じだわね――芸術家ぶった不潔な、女と問題ばかり起こしたり――そんなことばかりしていて、経済的にもとても困っているらしいのよ。はいって来るお金は、実際にはシルビアの物になるんでしょうけど、そんなことはあの人の眼中にはありませんわ。きっとすぐに、シルビアの手からまきあげてしまうにきまってますわ」
「実に不愉快な人物らしいですね」と、エンダービー氏はいった。
「ええ! そうなの。厚顔《こうがん》で、ちょっといい男だものだから、女たちは、こそこそと、あの男をとっつかまえてセックスの話なんかするんですよ。でも、ちゃんとした男の人たちは、みんなあの人を嫌っていますわ」
「なるほど、容疑者第一号というところですな」といいながら、エンダービー氏も小さな手帳に書いた。「金曜日のかれの行動を調べること――流行作家に犯罪に関して意見を聞くというインタビューの口実をもうければ容易である。これでいいですね?」
「名案だわ」と、エミリーがいった。「そのつぎには、ジムの弟のブライアンがいますわ。オーストラリアにいるということになっているんですけど、とっくに帰っているかもしれませんわ。だって、人というものは、黙ってなんでもするもんですからね」
「海外電報を打ってみましょう」
「そうしましょう。それからジェニファー伯母さんという人、この人が問題なの。あたしが聞いているところによると、ちょっと不思議な人なんですの。変わり者というのね。そのうえに、なんといっても、遠く離れて住んでいたわけじゃないでしょう。ほんの近くのエクセターに住んでたのよ。大佐に会いに行ったかもしれないし、尊敬している夫の悪口でもいわれ、思わずかっとなって、サンドバッグを振り上げ、一撃のもとに大佐をなぐりつけたかもしれないわ」
「ほんとに、そう思うんですか?」と、エンダービー氏がいった。
「いいえ、冗談よ。でも、だれにもわからないことよ。それから、もちろん、下男がいますわね。遺書でほんの百ポンドだけもらって、すっかり満足しているらしいわ。でも、これだってまた、だれにもわからないわ。下男の細君というのは、ベリング夫人の娘なの。ほら、ベリング夫人て、スリー・クラウン館のお内儀《かみ》さんのことよ。きょう帰ったら、あたし、あの人の肩に頭をのせてさめざめと泣いてみようと思ってるの。あのお内儀さん、母性的で、ロマンチックな心を持ってる人らしいじゃないの。だから、恋人が刑務所に送られてしまうかもしれないあたしの身の上に、とっても同情してくれると思うの。そうしたら、なにか役に立つことを、あの人の口から聞き出せるかもしれないでしょう。それから、もちろん、問題のシタフォード山荘よ。怪しいという気がしてること、おわかりでしょう?」
「いいえ、なにがです?」
「あの山荘の人たち、ウイレット家の母娘《おやこ》よ。トレベリアン大佐の山荘を借りて、冬のさ中に造作をした人たちのこと、やることがおそろしく変てこじゃありませんか」
「そう、変ですね」と、エンダービー氏は相槌《あいづち》を打った。「底になにかありそうですね――トレベリアン大佐の過去の生涯《しょうがい》と関係があるなにかがね」
「それから、あの霊媒の一件もふにおちないな」と、エンダービーはつけ加えていった。「ぼくは、新聞に書いてみようかと思っているんです」
「霊媒の一件て、なんですの?」
エンダービー氏は、すっかり夢中になって、その霊媒の一件というのを詳しく話して聞かせた。この殺人事件に関係したことで、かれが、なんとかやりくりして聞かないことは何一つなかった。「ちょっと変でしょう?」と、かれは話を打ち切るようにいった。「まあ、いろいろと考えてみてください。なにかあるかもしれませんよ。とにかく、ぼくとしちゃ、こんなことにぶつかったのは生まれてはじめてですよ」
エミリーは、かすかにからだをふるわせて、「あたし、超自然的なことなんて、ごめんですわ」といった。「でも、この話だけは、あなたがおっしゃるように、なにかあるような気がするわ。でも、なんて――なんて気味が悪いんでしょう!」
「この霊媒の件だけは、どうしても、ひどく実際的な気がしないでしょう? かりに、大佐の霊があらわれて、殺されたと告げられるものとしたら、なぜ、殺した人間の名前を告げられないんです? そんなことは簡単なはずじゃありませんか」
「あたし、シタフォードの山荘へ行けば、きっと手がかりがあるという気がしますわ」と、エミリーは、考え込みながらいった。
「そうですね。とにかく徹底的に、山荘を調べてみる必要があると思いますね」と、エンダービーがいった。「じゃ、ぼくは車を借りて来て、三十分ばかりのうちに出発します。あなたもいっしょに行ったほうがいいでしょう」
「そうしますわ」と、エミリーがいった。「バーナビー少佐は、どうなさるのかしら?」
「あの人は、歩いて行くんだそうです」と、エンダービーがいった。「検屍法廷がすむと、すぐ出かけましたよ。まあいってみりゃ、少佐は、ぼくと道づれになるのがいやだったんでしょう。だれだってこんな雪どけの道を、てくてく歩いて行くなんて、ごめんのはずですがね」
「車なら、大丈夫、上まで登れるんでしょうか?」
「ええ! 登れますとも。最初の日から、車は通っていましたよ」
「さあ」と、エミリーは、腰をおろしていた城址の石から立ちあがっていった。「スリー・クラウン館にもどる時間ですわ。あたしはスーツケースをまとめて、それから、ベリング夫人の肩に頭を寄せて、お涙頂戴の一幕を演じてきますわ」
「心配することはありませんよ」と、むしろぼんやりと、エンダービー氏がいった。「なんでも、かんでもぼくにまかせておおきなさい」
「あたしもそのつもりですわ」と、エミリーはいったが、それは心からそう思っているふうではなかった。「心から頼りになる方ができて、あたしほんとにすてきですわ」
エミリー・トレフュシスという娘は、娘どころか、まったく一人前の女以上にできあがった女だった。
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第十二章 逮捕
エミリーは、スリー・クラウン館にもどると、いいあんばいに、玄関に立っていたベリング夫人の前へ、まっすぐ走り寄って、「あら! ベリング夫人」と、大きな声で呼びかけた、「あたし、午後、出発するのよ」
「そうなの、お嬢さん、四時十分のエクセター行きの列車でですか、お嬢さん?」
「いいえ、シタフォードへ行くんですのよ」
「シタフォードへ?」
ベリング夫人は、たちまちその顔に、強い好奇の色をうかべた。
「そうなの。それで、おたずねしたいんですけど、あちらに、あたしを泊めてくれるようなところを、ご存じないかしら?」
「あちらへ、泊まるおつもりなんですね?」ベリング夫人の好奇心はますますたかまっていった。
「そうなの、それというのが――あら! ベリング夫人、ちょっと、どこか二人だけでお話のできるところありません?」
それを聞くとベリング夫人は、てきぱきと先に立って、自分の私室にエミリーを案内した。こぢんまりとした、気持ちのいい部屋で、暖炉の火が大きく燃えていた。
「この話は、だれにも内証にしておいてくださるわね?」と、相手の興味と同情をそそるには、こういういいかけをするのが世の中で一番であることを心得ながら、エミリーは、話をはじめた。
「ええ、ほんとですとも、お嬢さん、口外なんかしませんとも」と、ベリング夫人は、黒味を帯びた目を、いっぱいの興味で輝かしながらいった。
「ねえ、ピアスンさんという人――ご存じですわね――」
「金曜日に、ここへお泊まりになった若い方でしょう? 警察が逮捕したとかっていう方でしょう?」
「逮捕ですって? ほんとに逮捕したっておっしゃるの」
「そうなんですよ、お嬢さん、まだ三十分もたっていない前ですけど?」
エミリーは、ひどくまっ青《さお》になって、「それ――ほんとなんでしょうね?」
「ええ! そうなんですよ、お嬢さん。うちのエイミーが、巡査部長から聞いてきたんですよ」
「まあひどい!」と、エミリーがいった。予期していたものの、そうでないほうがいいことはいうまでもなかった。「ねえ、ベリングさん。あたし――あたし、あの人と婚約をしているんです。あの人は、そんな、人を殺すなんてことしない人ですわ。ああ、あたし、とてもたまらないわ」
そして、エミリーは、声を立てて泣き出した。かの女は、泣いて話してみるとチャールズ・エンダービーに、自分の考えを話したばかりだった。だが、ぎょっとするような話を聞いた今は、なんと楽々と涙があふれ出てくることだろう。わざと泣いてみせるということは、なかなかそうやすやすとできることではない。しかし、この涙には、ひどく実感がこもっていた。たしかに、お内儀さんの話が、かの女をおびえさせたのだ。ほんとうは、かの女は、くじけてはならない。くじけることは、けっして、ジムのためにはならないのだ。あくまでも明晰《めいせき》に、論理的に、決然としていること――これこそ、この勝負に勝つためには、ぜひ必要な資格だった。女々しく泣くことは、いまだかつて、だれをも助けたことはないのだ。
しかし、こうして感情を解放すると、やっぱり心の底から気が晴れてくるのだった。いずれにしろ、計画どおりにいったのだから、この際心ゆくまで泣いてしまおうと、かの女は思った。泣くことは、ベリング夫人の同情と助力とに、申し分なくはいり込んで行けるのだから、泣ける間は泣いていけないということがあるものか。それに、ほんとうに泣いているうちに、あらゆるかの女の悩みや疑い、それにいいしれぬ恐怖なども、すっかりぬぐい去ってくれるかもしれないのだから。
「さあ、さあ、お嬢さん、もうそんなに泣かないで」と、ベリング夫人はいって、大きな母親のような腕をエミリーの肩にかけて、慰めるようにやさしくたたいた。「わたしもはじめから、あの人がやったんじゃないっていってたんですよ。気持ちのいい、いい若い方ですものね。警官なんて、むやみにばかばっかりそろっているって、ついさっきもいったばかりなんですよ。なにしろ物を盗んで歩く浮浪者が多いらしいんでね。さあ、そんなにくよくよして泣いてばかりいちゃだめ、お嬢さん。きっといまに、なにもかもよくなる時がきますからね」
「あたしは、とてもたまらないほど、あの人が好きなの」と、エミリーは、泣きながらいった。
いとしいジム、いとしく、やさしい、子供のような、頼りない、実際にうといジム。よりによって悪い時に、まちがったことばかりするなんて。そんなジムが、あの不撓《ふとう》不屈のナラコット警部に、どうやって対抗していけるだろうか?
「あたしたちは、どうしてもあの人を救わなくちゃいけないんです」と、エミリーは、泣きじゃくりながらいった。
「そうですとも、お救いしなくちゃなりませんわ。もちろんですとも」と慰めるように、ベリング夫人がいった。
エミリーは、強く目をこすって、最後に一つ鼻をたらし、涙をのみ込むと、頭をもたげて、きっぱりとたずねた。
「シタフォードで、どこか泊まるところがありますかしら?」
「シタフォードへいらっしゃるの? お出かけになるつもりなんですね?」
「ええ」と、エミリーは、力をこめてうなずいた。
「そうですねえ」と、ベリング夫人は、しばらく思案していたが、「お泊まりになるんだったら、一か所しかありませんわね。なにしろ、シタフォードというところには、ろくに家もないんですからね。大きな家といえば、あのトレベリアン大佐がお建てになったシタフォード山荘だけですけど、いまは、南アフリカから来たという夫人に貸していらっしゃるし、コテージを六軒お建てになっていらっしゃるけど、五番のコテージには、シタフォード山荘の庭師をしているカーチスさん夫婦が住んでいるんですよ。でも、毎年夏になると、カーチス夫人は、大佐のお許しを得て、部屋貸しをしているんですよ。そのほかにお泊まりになれるところってば、ありませんね。それは、もうほんとうですよ。そのほかといえば、鍛冶屋《かじや》と郵便局ですけど、メアリー・ハイバートは、六人の子供がいるうえに、義理の妹さんというのがいっしょに住んでいるし、鍛冶屋のお内儀さんには、近く八人目の子供が生まれるというしまつですからね。あすこにはどう考えても、両方ともほんの片隅だってあいてないでしょうね。でも、どうやって、シタフォードまでおいでになるつもりですの、お嬢さん? 車でもお雇いになったんですか?」
「エンダービーさんの車に乗せて行っていただくつもりですの」
「あらそう。エンダービーさんは、どこへお泊まりになるつもりかしら?」
「あの人も、カーチスさんのところへ泊めていただくことになるんでしょう。二人が泊まれるお部屋があるでしょうか?」
「さあ、あなたのような若い方のお気に召すかどうかね」と、ベリング夫人がいった。
「あの人、あたしのいとこなんですのよ」と、エミリーがいった。エミリーは、ベリング夫人の心に訴えるには、なにをおいてもまず正当な関係だということをはっきりしておかなければならないと感じた。
それを聞いて、旅館の女主人の顔は、さっと明るくなった。「まあそうなの。それなら大丈夫でしょうよ」と、しぶしぶ、かの女は納得した。「それに、カーチスさんのところがお気に召さないようなら、山荘のほうへ泊めてくれるかもしれませんよ」
「すみません、あたし、こんなみっともないばかで」と、エミリーはいって、もう一度目がしらをこすった。
「あたりまえのことですよ、お嬢さん。さあそれで、気分もよくなりますよ」
「ええ」と、エミリーは、ほんとうらしくいった。「あたし、ずっと気持ちがよくなりましたわ」
「たっぷり泣いて、おいしいお茶を飲むこと――悲しみを追っ払うには、これに越したものはありませんよ。いますぐ、おいしいお茶を用意しますからね、お嬢さん。寒いドライブに出かけるんですから、それを飲んでからになさいね」
「ああ、ありがとう。でも、ほんとにもう結構ですわ、あたし――」
「ほしいかほしくないか、そんなことは問題じゃありません、お飲みにならなくちゃいけません」といいながら、ベリング夫人は、意を決したように立ちあがって、ドアの方へ歩いて行った。「それから、アメリア・カーチスに、わたしの紹介で来たとおっしゃれば、あなたのお世話をしてくれますし、おいしいお料理もつくってくれるでしょうし、気兼ねもいりませんわ」
「ほんとにご親切にありがとう」と、エミリーはいった。
「そのうえ、わたしもここで、できるだけ人の噂《うわさ》に気をつけていますからね」と、このロマンスに自分もひと役持てることにうずうずして、ベリング夫人はいった。「ごく小さな事柄で、警察の耳には届かないようなことが、ずいぶんたくさんありますからね。そんなことが耳にはいりしだい、さっそく、あなたにお知らせしますよ。お嬢さん」
「ほんとに、そうしてくださいます?」
「しますとも。ご心配はいりませんよ、お嬢さん、わたしたちの手で、あなたの大事な若い方を救い出すまで、もうほんのちょっとのしんぼうですよ」
「じゃ、あたし、荷造りをしなくちゃなりませんから」といって、エミリーは立ちあがった。
「すぐに、お茶はお持ちさせるようにしますから」と、ベリング夫人はいった。エミリーは、二階の自分の部屋へあがり、持ち物をスーツケースに詰め込んでから、つめたい水で目を洗い、たっぷりと白粉《おしろい》をつけた。
「綺麗に見えるようにしなくちゃいけないわよ」と、鏡にうつっている自分の顔にいい聞かせた。それから、もっと白粉をつけ、ルージュを濃くぬって、「まあおもしろい」といった。「なんていい気持ち、ちょっと自慢したいほどだわ」
エミリーがベルを鳴らすと、すぐに部屋付きの女中がはいって来た。この女中は、グレイブス巡査の細君と姉妹で、なかなか親切な女だったので、エミリーは、一ポンド札を握らせて、警察関係からはいってくるニュースなら、どんなニュースでも教えてくれるようにと熱心に頼んだ。娘は、すぐに承知した。
「シタフォードのカーチス夫人のところへですか? ええ、お教えいたしますとも、お嬢さん。なんでもお教えいたしますわ。わたしたちみんな、心から同情しておりますの、お嬢さん、口ではいえないほどでございますよ。しょっちゅう、自分にいっているんでございますよ、『もしこれが、わたしとフレッドの身の上に起きたことだったら、どうだろう』って。いつも、そういってるんでございますの。わたしだったら、きっと気が狂っていますわ――いいえ、ほんとうですとも。どんな小さいことだろうと、耳にしたことは、あなたにお知らせいたしますわ、お嬢さん」
「ほんとに、あなたご親切ね」と、エミリーがいった。
「ついこないだ、ウールワースの店で六ペンスで買った探偵小説とそっくりですわ。シリンガ殺人事件って、いう題なんですけどね。どんな糸口から真犯人が見つかるようになったかおわかりですか、お嬢さん? ほんのすこしばかりの、ごくありふれた封蝋《ふうろう》なんですのよ。あなたの恋人っていう方は、美男子でいらっしゃるんでしょう。お嬢さん? 新聞にのっていた写真は、まるきり似ていませんでしたわね。わたし、あなたとあの方のためなら、お嬢さん、どんなことでも、わたしにできることならいたしますわ」
やがて、ロマンチックな注目の中心人物、エミリーは、ベリング夫人がいれてくれたお茶を飲みほすと、スリー・クラウン館をあとにした。
「そりゃそうとね」と、古ぼけたフォードの自動車が走り出した時、エミリーは、エンダービーにいった。「あなたは、あたしのいとこということになっているのよ、忘れないでね」
「どうして?」
「いなかの人は、とても|うぶ《ヽヽ》なんだから」と、エミリーがいった。「そのほうがいいと思ったの」
「すてきだ。それじゃあ」と、その機をのがさず、エンダービー氏はいった。「ぼくは、きみのことをエミリーって呼びすてにしたほうがいいんですね」
「そうよ、いとこですもの――あなたの名前は?」
「チャールズ」
「いいわ、じゃ、あたしもチャールズって呼ぶわ」
自動車は、シタフォードへの街道を登って行った。
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第十三章 シタフォード
エミリーは、シタフォードの景色をひと目見るなり、すっかり心を奪われてしまった。エクザンプトンから約二マイルほど行ってから本街道を離れ、凹凸《おうとつ》のはげしい荒れ地の路を登りつめると、その荒れ地の果てにある一寒村に、車は着いた。村には、一軒の鍛冶屋と、お菓子屋を兼ねた郵便局とがあった。そこから小径《こみち》をはいって行くと、新しく建てた小さな石造りのバンガローが数軒立ち並んでいた。二番目のバンガローの前で車をとめて、運伝手は、ここがカーチス夫人の家ですと教えてくれた。
カーチス夫人というひとは、小柄で、やせていて、髪の毛には白髪がまじってはいるが、なかなかに元気|旺盛《おうせい》で、口やかましそうな感じの女だった。そして、その朝、やっとこのシタフォードに伝わってきたばかりの殺人事件のニュースに、すっかり夢中になっているところだった。「ええ、もちろんおっしゃるまでもなく、お泊めいたしますとも、お嬢さま。いとこさんもね。すこしばかり|ぼろ《ヽヽ》を移し変えるまで待っていてくだされば、もちろんお泊めいたしますよ。でも、特別になにもおかまいできないんですけど、ようござんしょうね? ええ、ほんとにだれにも信じられやしませんわね! あのトレベリアン大佐が殺されなすって、検屍審問が開かれたの、なんだのってね! 金曜日の朝からというもの、わたしたち、まるきり世間とは切り離されていたようなものでございましょう。そこへ、けさになって、ニュースが来たばかりで、でなかったら、あなたがたがいらして、いきなりそんなことをひと言おっしゃったりしたら、わたし、びっくりしたあげく、引っくり返ってしまったところでございますよ。『大佐が亡くなったのよ』と、わたし、カーチスに申しましたんですよ。『いまの世の中にも、まだこんなひどいことが、あるんだってことがおまえさんにもわかったろう』ってね。だけど、まあ、わたしとしたことが、こんなとこでおしゃべりをして、あなたをおとめしとくなんてね、お嬢さま。さあ、部屋へおいでになって。殿方もどうぞ。湯沸しをかけてございますから、すぐにお茶をお持ちいたしますよ。車でおいでになったんじゃ、きっとお疲れになりましたでしょうね。といいましても、きのうまでにくらべれば、きょうは、ずいぶん暖こうございますがね。八フィートか十フィートも、雪が積もったんでございますからね」
うんざりするほど長話しを聞かされたあとで、エミリーとチャールズ・エンダービーは、自分たちの部屋に、はじめてお目にかかることになった。エミリーがあてがわれたのは、こぢんまりした四角な部屋で、念入りに掃除《そうじ》もゆきとどいているうえに、窓から外を見れば、ずっと上の方は、シタフォード山荘のうしろの、シタフォード山の斜面まで見渡せた。チャールズの部屋は、この家の玄関と小径に面した細長い、ちいさな部屋で、ベッドとひどくちいさな箪笥と洗面台がついていた。
「すてきだな」と、運転手がスーツケースをベッドの上に置き、十分に金をもらい、礼をいって出て行くと、エンダービーはいった。「ぼくたちが、ここへ来たってことはね。これから十五分もするうちに、シタフォードに住んでいる人間の、だれもかれも、みんなのことがわからなけりゃ、ぼくは、帽子でも食べてお目にかけますよ」
それから十分ばかりして、二人は、階下の気持ちのいいキッチンにすわって、カーチス氏に紹介された。カーチス氏は、ちょっと気むずかしそうな、白髪の老人で、濃いお茶に、バタつきのパン、濃厚なデボンシャー特産の固形クリームに茹《ゆ》で卵をごちそうしてくれた。二人は、ごちそうを食べたりお茶を飲んだりしている間、じっとカーチス夫婦の話に耳を傾けた。三十分もたたないうちに、この狭い土地の住人たちについて聞いておかなければならぬことは、なにからなにまでいっさい聞いてしまった。
まず話に出たのは、四号コテージに住んでいるパースハウス嬢のことだった。カーチス夫人の話によると、かの女は、六年前に、死に場所を求めてやって来たのだが、年のほども、性質もはっきりしない未婚の女だった。
「でもねえ、嘘だとお思いになるかもしれませんけど、お嬢さま、シタフォードの空気ときたら、とても健康にいいもんでございますからね、あのひとは、ここに来たその日から元気になりましてね。ほんとに、肺のためにはいい、びっくりするほど澄んだ空気なんですよ。パースハウスさんには、甥ごさんが一人おありでね、おりおり、会いにいらっしゃるんですよ。ほんとのところは、今も、あのひとのところに泊まっていらっしゃるんですよ。家族の方からお金が来ないところをみますと、その甥ごさんが持って来るんでしょうね。こんな寒い時なんぞ、若い男の方には、おもしろくないでしょうがねえ。でもねえ、ご自分は楽しまなくても、またなかなかいいこともあるもんでね、あの方のこちらへいらっしゃるのが、シタフォード山荘の若いご婦人には、神さまのおぼしめしかなんかのような気がなすったんでございましょうね。いじらしいじゃありませんか、冬の間だけでも、パースハウスさんを、あの大きな山荘のほうへ連れて行こうという考えまで出てきたってわけですからねえ。自分かってなのは、母親ばかりかと思っていたんですけど、とても綺麗な若いご婦人も、そうなんですからねえ。そんなわけで、ロナルド・ガーフィールドさんも、パースハウスさんをほっとくわけにもいかないで、ちょくちょく、つごうさえつけば、いらっしゃるというわけなんですよ」
チャールズ・エンダービーとエミリーは、ちらっと目を見合わせた。ロナルド・ガーフィールドという若い男が、あの「こっくりさん」に居合わせていたという話を、チャールズは思い出した。
「わたしどもの並びの六号コテージには」と、カーチス夫人は、言葉をつづけた。「デュークさんとおっしゃる、紳士の方が、ついこのごろになっておはいりになりましたばかりでね。つまり、あの方を紳士とおっしゃるんでしたら、むろん、そうかもしれませんし、そうじゃないかもしれません。なんと申したらいいんでしょうか――当今では、だれもかれも変わっていないとは申せませんけど、デュークさんほど、腹の底から変わっている方もございませんわね。とても内気な方でね――見たところは、陸軍の方らしくもあるんですけど、それにしては、なんとなく、そんな物腰でもないんですよ。バーナビー少佐なら、ちらっとごらんになっただけで、ははあ、軍人だなとおわかりになりますでしょうけど、それとはまるきりちがっていらっしゃるんですよ。
三号コテージに住んでいらっしゃるのは、ライクロフトさんという、小柄な中年すぎの方でね。みんなの話では、大英博物館のために、変わった小鳥をとって送っていらっしゃるとかで、みんなは、ライクロフトさんのことを博物学者と、そういっているんですの。ですから、お天気さえ許せば、しょっちゅう野原を歩きまわっていらっしゃるんですよ。それに、立派なご本をどっさりお持ちになっていらして、コテージが、本箱といってもいいくらいですわ。
二号コテージは、ご病人の方で、ワイヤット大尉といって、インド人の召使がごいっしょにおりますのよ。気の毒に、きっと寒いでしょうね。いいえ、わたしのいうのは、大尉のことじゃなく、召使のことなんですけど、暑い外国からやって来たんですもの、別に不思議でもありませんわね。ですから、お家《うち》の中の暖かくしてあることといったら、びっくりなさるくらいですわ。まるで、窯《かま》の上を歩くみたいですわ。
一号は、バーナビー少佐のコテージですの、おひとりで住んでいらっしゃるもんですからね、朝早く、わたしが行って、いろんなことをしてさしあげるんですよ。とても|きちん《ヽヽヽ》とした方なんですよ、あの方は。でも、とても気むずかしいんです。あの方とトレベリアン大佐とは、水も漏らさぬほど親しい仲で、まあ生涯の友とでもいうんでしょうねえ。それに、お二人とも、お部屋の壁に、同じような変わった獣の首なぞをおかけになっていらっしゃるんですよ。
山荘に住んでいらっしゃるウイレット夫人と、お嬢さんのミス・ウイレットのことは、だれにも見当がつかないんですよ。お金はたっぷり持っているようですわ。エクザンプトンのアモス・パーカーと、取引をしていらっしゃるようで、パーカーの話ですと、一週間のお勘定が、八ポンドから九ポンドを上まわるんですって。あの家でお取りになる卵の数だけでも、どんなにたくさんか、そんなことを申しあげたって嘘だとおっしゃるでしょうね! 女中たちも、エクセターからいっしょに連れておいでになったんですけど、みんな、いやがって出たいというんです。でも、ほんと、無理もありませんわ。それで、ウイレット夫人は、週に二回も、ご自分の車に乗せてエクセターに連れて行ったり、それにまあ、そこはそれで、生活も悪くありませんからね、どうやら、女中たちも、我慢して残っていることを承知したらしいんですけど、でも、お聞きになれば、変なことじゃありませんか、こんな山奥に、あんな綺麗なご婦人が、自分から埋もれているなんてね。さあ、それはそうと、もうお茶の道具はかたづけたほうがよろしいでしょうね」
そういって、カーチス夫人が大きくため息をつくと、チャールズとエミリーも、大きくため息をついた。立板に水を流すように、つぎからつぎとあふれ出る噂話に、二人は、もういまにも気が遠くなりそうになっていた。が、チャールズは、思い切って自分のほうから質問をした。「バーナビー少佐は、もう帰っておいでになりましたか?」
カーチス夫人は、盆を手にしたまま、すぐに立ちどまって、「ええ。お帰りになりましたとも。あなたがたがお見えになる三十分ほど前に、いつものとおりに歩いてお帰りになりました。『まさか、旦那さま』と、わたし、大きな声で申しあげたんですよ。『エクザンプトンからずっと歩いておいでになったんじゃないんでしょう?』ってね。そうしたらね、持ち前の荒っぽい調子でおっしゃるんですよ。『どうして歩いちゃいけないのだね? 脚《あし》が二本あれば、車などに用はない。とにかくあんたも知っとるように、一週間に一回は歩いとるんだからね。カーチス夫人』『ああ、そりゃそうでございますとも』と、わたしはいったんですよ。『でも、きょうは、いつもとは違うじゃありませんか。あんなひどい事件だの、審問だののあったあとで、お歩きになるなんて、なんてお強いんでしょうね』ってね。でも、あの方ったら、なにやらぶつぶつおっしゃるだけで、そのまま歩きつづけておいでになりましたっけ。でも、お顔色はよくありませんでしたね。まったく奇蹟ですわ、金曜日の夜、ずっと歩き通しておいでになったなんてね。あの年にしちゃ、大したもんだと、わたしいうんですよ。あんな吹雪《ふぶき》の中を三マイルも、歩いておいでになったんですからね。そりゃ、あなたがたにもご意見はおありでしようけど、なんといっても、近ごろの若い人たちときたら、昔の人たちとはくらべものになりませんよ。たとえば、あのロナルド・ガーフィールドさん、あの方なんか絶対に、そんなことはしないでしょうからね。わたしは、そう思うんですけど、いいえ、わたしだけの意見じゃなく、郵便局のヒバートさんの奥さんの意見も、鍛冶屋のパウンドさんも同じ意見なんですけど、ガーフィールドさんは、あんなふうに少佐を一人で行かせるべきじゃありません。いっしょについて行かなくちゃいけませんよ。もしも、バーナビー少佐が、吹雪の中で行方不明にでもおなりになったとしたら、きっと、みんなはガーフィールドさんの責任だといってとがめたでしょうよ。ほんとのことですよ」
夫人は、お茶の道具をがちゃがちゃいわせながら、意気揚々と台所の方へ引きあげて行った。カーチス氏は、考え深そうに、使い古したパイプを、口の中で右から左へと動かしていたが、「女ってやつは」といった。「まったくよくしゃべる」かれは、ちょっと言葉をきってから、またつぶやくようにいった。「そのくせ半分も、なにをしゃべってるのか、自分でしゃべっている意味もわからんのだ」
エミリーとチャールズは、黙って、その言葉を受けとめていた。けれど、それ以上はもうなにも出てこないのを見て、同感だというように、チャールズがつぶやいた。「ほんとにそのとおりです」
「やあ!」と、カーチス氏はいって、またたのしそうに、瞑想《めいそう》にふけるために、沈黙に逆もどりした。
チャールズは立ちあがって、「ちょっとひとまわりして、バーナビー老に会って来ようと思うんだ」といった。「写真は、あすの朝とるからといいにね」
「あたしもごいっしょに行くわ」と、エミリーがいった。「ジムのこと、ほんとうに、どう少佐が思っているか知りたいし、一般に犯罪というものに、どういう意見を持っているかも聞きたいの」
「ゴム長かなんか、きみは持ってるかい? 恐ろしい雪どけだからね」
「エクザンプトンで、膝までくるウェリントン長靴《ブーツ》を買って来たわ」
「頭のよくはたらくひとだな、きみは。なにからなにまで考えてるんだな」
「ところが残念なことには」と、エミリーがいった。「犯人を見つけようというあなたの役には、大して立たないときているんですわ。人殺しの役には立つかもしれないけど」と、かの女は、やり返すようにつけ加えた。
「でも、ぼくだけは殺さないでくださいよ」と、エンダービー氏はいった。
二人は、いっしょに出かけた。カーチス夫人は、二人を送り出すとすぐに部屋にもどって来て、「二人は、少佐のところへ行ったよ」といった。
「ねえ!」と、カーチス夫人がいった。「ところで、あんた、どう思う? あの二人、恋仲かしら、そうじゃないのかしら? いとこ同士の結婚には、いろいろ悪い結果が生まれるっていうじゃないの。|おし《ヽヽ》に|つんぼ《ヽヽヽ》、低能、そのほかにも、いろいろよくない子供が生まれるって。男のほうが女に夢中なのは、あなたにもよくわかるわね。女のほうは、うちの大伯母《おおおば》のサラのところのベリンダのように、ちょっと物尺《ものさし》の当てはまらない女ですよ、あの女は。自分のこともちゃんと心得てるし、男たちのことだって心得たもんですよ。いったい、あの娘《こ》は、だれに気があるんだろうね、ねえ、あんた、どう思う、カーチス?」
カーチス氏は、のどの奥で、なんだかうなっただけだった。
「あの若い男ね、殺人事件で警察につかまってるっていうの、あの娘が首ったけになってるのは、その男だと、わたしは思うんだけどね。それで、なにかかぎ出せないか、さぐり出せないかと思って、ここまでやって来たのさ。ね、いいかい」と、茶碗《ちゃわん》をがちゃがちゃさせながら、カーチス夫人がいった。「なにかさぐり出せるようなことがあるとしたら、きっと、あの娘が見つけ出すよ!」
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第十四章 ウイレット母娘
チャールズとエミリーが、バーナビー少佐を訪《たず》ねに出かけたちょうどそのころ、ナラコット警部は、シタフォード山荘の応接間に腰をおろして、ウイレット夫人の印象を、はっきりつかもうとしていた。
けさまで道路が不通だったので、警部は、もっと早く夫人に会おうと思ったのが、会えなかったのだ。それで、調べ出そうと思っていたことも十分にさぐり出せなかったし、いままでに調べ出したことを確かめることもできなかった。というのは、当面の鍵を握っているのはウイレット夫人で、かれではなかったからだ。
夫人は、いかにも事務的に、要領よく物事をさばいてゆくといった調子で、せかせかと部屋にはいって来た。かれは、背の高い、細面《ほそおもて》の、鋭い目つきをした女性を見た。夫人は、ちょっと凝《こ》りすぎたかと思うくらいの絹編みのジャンパー・スーツを着ていたが、そのはでな縁飾りは、こんな山奥で着るには、まさに場違いという感じがした。指輪も、高価な物をいくつもはめていたし、そのうえに、賛沢《ぜいたく》な人造真珠の大粒がずらりと並んだネックレスをつけていた。
「ナラコット警部さんですね?」と、ウイレット夫人はいった。「当然、山荘へいらっしゃるだろうと思っておりました。ほんとに恐ろしい惨事でございましたわね! どう考えても、ほんとうとは思えませんでしたわ。それも、けさになって聞いたばかりでございますの。ほんとに驚きましたわ。さあ、どうぞお掛けになっていただけません、警部さん? こちら、娘のバイオレットで、ございます」
娘が、夫人のあとからはいって来たのを、警部は、ほとんど気がつかなかった。しかも、その女性たるや、大きな青い目の、すらりとした、なかなか美しい娘だった。
ウイレット夫人は、自分も腰をおろして、「なにか、あなたさまのお役に立つようなことがございますかしら、警部さん? トレベリアン大佐のことと申しましても、ごくわずかしか存じませんのですよ。ですが、なにかあるとお考えでございましたら――」
警部は、のろのろとした口ぶりでいった。「ありがとうございます、奥さん。もちろん、なにが役に立つか、だれにもわからないことです」
「よくわかりますわ。この悲しい事件を明らかにするような手がかりが、この山荘にあるかもしれませんけど、さあ、どうでしょうかね。トレベリアン大佐は、ご自分の物を全部お移しになってしまいましたんですよ。ご自分の釣竿を、わたしがいじるとでもお思いになったんでしょう、お気の毒な方」と、夫人は、ちょっと声をたてて笑った。
「大佐とは、前からのお知り合いじゃなかったのですね?」
「山荘をお借りする前からということですか? ええ、存じませんでしたの! お借りしてから何度かお招きしたんですけど、一度もいらっしゃいませんでしたわ。珍しいくらい内気な方ですわ。まあ、あの方とのおつきあいといえば、それぐらいのことでしたわ。わたくし、ああいったふうな方をたくさん存じあげています。世間では、女嫌いとかなんとかばかげたことをいっておりますようですけど、ほんとうのところは、ただの内気なんですわね。わたくし、なんでもいえるほど、あの方とお近づきになっていましたら」と、ウイレット夫人は、きっぱりといった。「そんなばかばかしい考えを、すぐになおしてさしあげていましたことよ。ああいうふうな方は、肚《はら》の底ではもっと世の中へ顔を出したがっていらっしゃるんですわ」
ナラコット警部は、トレベリアン大佐が、自分の借家人に対して、ひどく受け太刀であったということがわかりかけてきた。
「わたくしたち二人で、大佐をお招きしたわね」と、ウイレット夫人は言葉をつづけた。「ねえ。バイオレット?」
「ええ、そうよ、お母《かあ》さん」
「心の底から、ほんとうに純粋な船乗りね」と、ウイレット夫人はいった。「女という女はだれでも、船乗りが好きなんですよ。ナラコット警部さん」
この時、いままでのところ、この会見は、すっかりウイレット夫人にうまいことあやつられていたと、ナラコット警部は気がついた。この女は、おそろしく頭のきれる女だなと、警部は信じた。いままでの様子では、後暗いところはないかもしれない。が、反対に、そうではないかもしれない。「わたしがどうしても知りたいと思っている問題点は、こうなんです」といって、警部は、言葉をとめた。
「それで、警部さん?」
「バーナビー少佐が、ご承知のように、大佐の死体を発見したのですが、そのきっかけになった元はといえば、この山荘で起こったある出来事のせいなんです」
「とおっしゃると?」
「つまり『こっくりさま』のことなんです。こんなことをいって、なんですが――」といって、警部は、くるりと向き直った。と、かすかな叫び声が、バイオレットの口からもれた。
「可哀そうなバイオレット」と、母親はいった。「この子は、おそろしく気が転倒してしまったんですよ――いいえ、ほんとに、わたくしたちみんな、ぞうっとしましたわ! ほんとに、なんといっていいかわからない不思議ですわ。わたくしは、迷信なんか信じない人間なんですけど、ほんとうに、あれだけは、どう説明してよいかわかりませんわ」
「すると、そういうことがあったんですね?」
ウイレット夫人は、おそろしく目を大きく見ひらいて、「あったかっておっしゃるんですか? むろん、あったんでございます。その時は、わたくしは、冗談だと思ったんですの――とても感じの悪い冗談で、とても悪趣味ないたずらだと。きっと、若いロナルド・ガーフィルドさんが――」
「あら、違うわ、お母さん! あの人は、間違いなく、そんなことしなかったわ。絶対に、あの人はしなかったわ、ほんと」
「わたしは、その時、思ったことをいってるだけだよ、バイオレット。冗談以外に、どう考えられるというの?」
「妙なことがあればあるものですな」と、警部は、ゆっくりとした口調でいった。「あなたはひどく気が転倒なすったんですね、ウイレット夫人?」
「わたくしたちみんなが、おびえてしまったんですの。その時まで、陽気にばか騒ぎを、そう、していたんです。おわかりでしょう、いろんなこと、冬の夜のたのしいまどいを。すると、突然――あんなことでしよう! わたくし、すっかり腹が立っちまいましたわ」
「お怒りになったのですか?」
「そりゃあ、あたり前ですわ。わたくし、だれかが計画的にやってるんだなと思いましたわ――まあいたずらからでしょうけど」
「で、いまは?」
「いまといいますと?」
「ええ、いまは、どうお考えなんです?」
ウイレット夫人は、意味深長に両の手をひろげて、「なんと思っていいかわかりませんわ。ただ――気味が悪いですわね」
「それで、あなたは、ミス・ウイレット?」
「あたし?」娘は、口をきった。「あたし――あたしにだってわかりませんわ。でも、一生忘れないでしようね。夢にまで見ますわ。あたし、もう二度と『こっくりさま』なんか、絶対にしようとは思わないわ」
「ライクロフトさんなら、ほんとの霊が現われたのだとおっしゃるでしょうね」と、母親のほうがいった。「あの方は、ああいったことは、なんでも信じていらっしゃるようですわ。ほんとは、このわたくしでさえ、信じそうになりそうですもの。だって、霊魂のお告げだというほかに、なんと説明したらいいんでしょう」
警部は、頭を左右に振った。「こっくりさま」のことで、かれの頭は、ただ混乱するばかりだった。警部がつぎに発した言葉は、ひどくなにげない調子のものだった。「この冬は、ひどく寒いでしょうな、ウイレット夫人?」
「ああ、でも、わたくしたち、気に入ってるんですのよ! すばらしい変化じゃありませんか。なにしろ、南アフリカにいましたでしょう」そういう夫人の口調は、きびきびと、ごく尋常だった。
「ほんとですか? どの辺ですか、南アフリカは?」
「ああ! ケープタウンですの。バイオレットは、これまで一度も、イギリスに来たことがございませんでしたでしょう。ですから、すっかり夢中になって――雪が、とてもロマンチックに見えるらしいんです。そのうえ、この山荘は、ほんとにこの上もないほど気持ちがよろしいもんでございますから」
「ですが、どういうことから、こんなところへおいでになることになったのです?」その声には、穏やかな好奇の響きがただよっていた。
「わたくしたち、デボンシャーのことを書いた本を、とてもたくさん読んだんでございますよ。とりわけ、ダートムアのことを書いたのをね。船の中で読んだのには――ウイドコームの祭礼のことが詳しく書いてありましたわ。ですから、つねづねダートムアに行きたいとあこがれていましたのよ」
「でも、なんでエクザンプトンをお選びになったのです? まったく世間に知られていない小さな町じゃありませんか」
「ええ――さきほども申しあげたとおり、そういう本を読んでおりましたところへもってきて、船の中で、エクザンプトンのことを話してくれた少年がいましてね――ひどく熱を入れて話してくれたんですの」
「で、その少年の名前は、なんというんです?」と、警部がたずねた。「この地方の者だったんですか?」
「さあ、なんという名前だったかしら? カーレン――だったと思うんですけど、いいえ――スミスだったかしら。わたくしとしたことが、なんて頭が悪いんでしょう。はっきり思い出せないんですよ。航海中の船の中の様子がどんなものだか、よくおわかりでしょう、警部さん、いろいろな人たちが、永年の知り合いのように親しくなって、また会おうと思うものなんですけど――上陸して一週間もすると、もうその人たちの名前さえ、はっきりおぼえてはいないんでございますからねえ!」と、夫人は、声をたてて笑いながら、「でも、ほんとに感じのいい少年でしたわ――赤毛で、美貌ではございませんでしたけど、いつもたのしそうな笑《え》みを浮かべていましたわ」
「それで、その少年の話に動かされて、この土地に来ることにおきめになったというわけですね?」と、警部も、微笑しながらたずねた。
「ええ、でも、わたくしたち、すこし頭がどうかしていたんじゃなかったでしょうか?」
頭がいい、まったく頭のいい女だ、と、ナラコットは思った。かれは、ウイレット夫人の戦法というものがわかりはじめた。つねに、敵の領地の中で戦いを遂行するというのが、かの女のやり方だ。「それで、貸家周旋人のところへ手紙をお出しになって、家のことを問い合わせたというわけですね?」
「そうなんです――そうしますと、シタフォードの詳しいことを知らせてくれましたんですよ。それが、わたくしどもの希望とぴったりでございましたの」
「わたしだって、こんな寒い時は、ごめんですな」と、警部はいって、声をたてて笑った。
「わたくしたちだって、イギリスに住んでいましたのなら、きっとごめんこうむっていましたでしょうね」と、ウイレット夫人は、はればれとした口調でいった。警部は、椅子《いす》から立ちあがりながら、「エクザンプトンへ手紙をお出しになるのに、どうやって周旋屋の名前をお調べになったのです? ずいぶんお困りになったでしょうな」
返事がとぎれた。すらすらと流れていた話がとぎれたのは、はじめてのことだった。警部は、ウイレット夫人の目に、いらだたしさというよりも、むしろ怒りといった色が浮かんだのを、ちらっと目にしたと思った。かれは、なにごとか、あらかじめ返事を考えめぐらしていなかった夫人の虚をついたのだ。夫人は、娘のほうを向いて、「どうしたんだっけね、バイオレット? わたし、思い出せないんだけど」
娘の目には、母親とはまるきり違った色が濃かった。かの女は、おびえているような面持ちだった。
「あら、そうそう」と、ウイレット夫人がいった。「デルフリッジよ。あのよろず案内屋でしたわ。とても便利な店ですわ。わたくし、いつもあすこへ行って、なんでもかんでも聞いたり調べたりするんです。あすこで、ここの一番いい周旋屋の名前をたずねたんですよ、そうしたら、いまのところを教えてくれたんですのよ」
素早い。まったく素早い頭の回転だ、と、警部は思った。だが、ちょっとご返事が遅くはありませんでしたかな。そうでしょう、奥さん。
警部は、ざっと山荘の中を調べた。が、手がかりになるようなものは、なにもなかった。書類のようなものもなかったし、どの引出しにも鍵《かぎ》はかかっていなかったし、どの戸棚《とだな》にも鍵はかかっていなかった。ウイレット夫人は、朗らかにおしゃべりをしながら警部についてまわった。やがて、警部は、慇懃《いんぎん》に挨拶《あいさつ》をして、別れようとした。
別れ際に、夫人の肩越しに、ちらっと娘の顔を見た。その顔には、まぎれもなくある表情が浮かんでいた。かれが、娘の顔に見たのは、恐怖の色だった。娘自身は、それほどはっきり観察されたと思っていなかったろうが、その時ありありと娘の顔にあらわれていたのは、恐怖の色だった。
ウイレット夫人は、まだしゃべりつづけていた。「ああ、わたくしたち、とても困っていることがあるんですよ。家庭内の問題ですけどね、警部さん。召使たちが、こんな山奥のいなかでは我慢ができないというんですよ。ここしばらくの間というもの、みんな、いまにも出て行きそうだったんですが、そこへもってきて、こんどの殺人事件のニュースで、すっかり浮き腰になっているらしいんです。もうどうしたらいいか、わたくしには、さっぱりわかりませんの。まあ男の召使だったら、いいんでしょうがね。エクセターの職業紹介所でもそういっているんですよ」
警部は、ただ機械的に、うわの空で返事をしていた、かれは、立て板に水のように流れ出る夫人の話に、てんで耳を傾けていなかったのだ。警部が頭の中で考えていたのは、娘の顔を見て、意外に思った恐怖の色のことだった。たしかに、ウイレット夫人は、頭のきれる女だ――が、そうかといって、ほんとに頭がいいというのではない。もしも、このウイレット家の者たちが、トレベリアン大佐の死と関係がなかったのなら、いったい、バイオレット・ウイレットが、あのように恐れおののくのは、なぜだ? かれは、最後の一矢《いっし》を報いてみようと思った。玄関の敷居に足をかけたとたん、くるりと振り返って、「そりゃそうと」といった。「ピアスンという青年をご存じでしょうね?」
こんどは、明らかに逡巡《しゅんじゅん》の色が見えた。一瞬、恐ろしい沈黙が落ちた。やがて、ウイレット夫人が口をひらいて、「ピアスン?」といった。「さあ、いっこうに――」
といいかけた夫人の言葉が、さえぎられた。奇妙な、ため息のような、息を吐く声が、夫人の背後の部屋から聞こえたと思うと、つづいて、なにか倒れる物音がした。警部は、敷居を踏み越えて、さっとその部屋の中へ飛び込んだ。そこには、バイオレット・ウイレットが気を失って倒れていた。
「まあ、可哀そうな子」と、叫ぶように、ウイレット夫人はいった。「みんな緊張とショックのせいですわ。あんな恐ろしい『こっくりさま』の上へもってきて、また人殺しでしょう。この子は、あまり丈夫じゃないんですからね。ありがとうございました、警部さん。ええ、どうぞ、そのソファへ寝かせてくださいまし。ベルを押していただけません? いいえ、もう結構でございます。どうも大変ありがとうございました」
警部は、唇をぐっとかみしめながら、車道をおりて行った。ジム・ピアスンは、かれが知っているところでは、ロンドンで会ったひどく魅力的な娘と婚約の間柄だった。とすれば、ピアスンの名前を聞いたとたんに、バイオレット・ウイレットが気絶する理由は、いったいなんだろう? ジム・ピアスンとウイレット一家との間には、どんな関係があるのだろうか?
山荘の表門から出たとたん、警部は、どうしたものだろうかと足をとめた。それから、ポケットから小さな手帳を取り出した。その手帳には、トレベリアン大佐が建てた六軒のバンガローの住人の名前が書いてあり、それぞれの名前に、簡単な意見が書き込んであった。ナラコット警部のずんぐりとした人差指が、六号コテージのところでとまった。そうだ、かれに会ってみたほうがいい、と、かれは胸の中でいった。
警部は、小径を大股に勢いよくおりて行くと、六号コテージの――デューク氏の住んでいるバンガローのノッカーを強くたたいた。
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第十五章 バーナビー少佐を訪ねる
先に立って、バーナビー少佐の家の表玄関に通じている小径を登って行ったエンダービー氏は、元気に表戸をノックした。ドアは、ほとんどすぐに、さっと開いて、顔をまっ赤《か》にしたバーナビー少佐が、戸口に姿をあらわした。「なんだ、きみか?」と、少佐は、いかにも気ののらないといった声でいい、同じ調子で言葉をつづけようとしかけたが、そのとたん、エミリーの姿を目にとめると、その表情が変わった。
「トレフュシス嬢です」と、まるでトランプのエースを相手に示すときのような得意の調子で、チャールズがいった。「とても、あなたに会いたがっているのです」
「おじゃましてよろしいでしょうか?」と、せいいっぱい、愛嬌《あいきょう》のあふれた微笑をたたえて、エミリーがいった。
「やあ、どうぞ! おっしゃるまでもない。むろん――やあ、ええ、むろんですとも」と、どもりどもりいうと、少佐は、コテージの居間にもどって、椅子を引き出したり、テーブルをわきに押しやったりした。
エミリーは、持ち前のやり方で、まっすぐ要点にはいっていった。「ご存じでいらっしゃるかと存じますが、バーナビー少佐、あたくし、ジムと婚約をいたしておりますの、ジム――ご存じでございましょう、ジム・ピアスンです。で、当然でございますが、あたくし、あの人のことを非常に案じておりますのです」
テーブルを押しやりながら、少佐は、口をぽかんとあけたまま、しばらく逡巡していたが、「ああ、そうですか」といった。「それはどうも、とんだ災難でしたな。お若い方、わたしも口にいえないほど、お気の毒に思っております」
「バーナビー少佐、どうぞ嘘偽《うそいつわ》りのないところをおっしゃっていただきたいのです。あなたさまご自身は、あの人が有罪だとお信じになっていらっしゃるのでしょうか? もしそうお思いなら、ご心配はご無用にして、おっしゃってくださいまし。気休めに嘘をいわれるよりも、ずっとずっとましなのです」
「いいや、わたしは、有罪だとは思っておりません」と、少佐は、大きな、断定するような口吻でいった。一、二度、クッションを強くたたいてから、エミリーに面と向かって腰をおろした。「あの男は、立派な若者です。いいですか、あの男は、すこし気の弱いところがあるかもしれない、まあ、こういってもおこらないでいただきたいが、ああいう性質の若者というものは、誘惑が自分の目の前に来ると、簡単に道を誤るおそれがある。だが、殺人など――とんでもない。しかし、お嬢さん、わしは、自分のしゃべっておることについては、よくわかっております――わしが軍隊におった時には、大ぜいの部下の少尉中尉などの若者を、この目で見ましたからね。いまじゃ、退役の将校を笑いものにするのが流行だが、とはいっても、わしたちは、多少は若い者について知っていますからな、トレフュシスさん」
「ほんとにそうでございましょうね」と、エミリーはいった。「ほんとにありがとうございました、そういっていただいて」
「いかがかな――ウィスキーとソーダをあがりますか?」と、少佐がいった。「ほかには、なにもないのでね」と、少佐は、弁解するようにいった。
「いいえ、結構でございます、バーナビー少佐」
「じゃ、プレーン・ソーダでも?」
「ほんとに結構ですわ」と、エミリーがいった。
「お茶でもさしあげなければならんのだが」と、少佐は、ちょっと気を使った様子でいった。
「ぼくたち飲んで来ましたから」と、チャールズがいった。「カーチス夫人のところで」
「バーナビー少佐」と、エミリーがいった。「では、だれがやったとお思いですの――なんか、お考えがおありでしょうか?」
「いや、とんでもないことだ――ええ――そんなことを口にすることは、たとえ、わしに考えがあってもね」と、少佐はいった。「むろん、だれかが窓をぶち破ってはいったものと考えるのだが、現在、警察では、そんなことはありえないことだといっとるようですね。まあしかし、犯人を突きとめるのは警察の仕事だから、あの連中が一番よく知ってるのじゃないだろうかね。警察では、外から押し入った者はだれもないというのだから、まあ、外から侵入した者はないのでしょうな。だが、そうはいうものの、わしにはよくわからないのですよ、トレフュシスさん。トレベリアン大佐には、わしの知るかぎり、この世に敵というものは、一人もなかったのですからな」
「でも、あなたなら、だれがやったか、おわかりになるんじゃないでしょうか」と、エミリーがいった。
「そう、トレベリアンのことにかけては、かれの身寄りのだれが知ってるよりもよく、わしのほうが知ってるでしょうな」
「それでも、なにも思いうかばない――なにかの点で、役に立つようなことが、思いうかばないとおっしゃるのでしょうか?」と、エミリーがたずねた。
少佐は、短い口ひげをひっぱって、「あなたのお考えはよくわかります。探偵小説だと、解決の手がかりになるような、なにか小さなことを、わしが思い出すといったことになるはずなのだが、残念ながら、そういったことはなにもないのです。それに、トレベリアンは、ごく平凡な、ありふれた生涯を送ってきた男です。手紙というものも、ごくわずかしか受け取らなかったし、まして、自分のほうから書くということも、ごくごくすくなかった。女とのいざこざも、生涯に一度もなかった。それは、保証します。まったく、わしには、わからない」
三人とも、しばらく沈黙に沈んでいた。
「大佐の下男は、どうです」と、チャールズがたずねた。
「もう何年も、大佐に仕えていた男で、まったく忠実な男です」
「最近、結婚したんでしたね」と、チャールズがいった。
「申し分のないほど適当な、立派な娘と結婚しましたよ」
「バーナビー少佐」と、エミリーがいった。「こんなことを申しあげて、ごめんなさい――ですけど、少佐は、こんどの事件をご覧になって、あまり驚愕《きょうがく》なさらなかったのじゃないのですか?」
少佐は、『こっくりさま』の話が出ると、きまってするように、当惑しきった様子で鼻をなでながら、「そう、そうじゃないとはいわない。いったい、わしは、あんなことは実にばかげたことだと思っているのだが、だが――」
「でも、胸の中では、そうではないと思っておいでになるというんですね」と、相手の肚の中を口ぞえするように、エミリーがいった。
少佐は、うなずいた。
「あたしが気にかかるのは――」と、エミリーがいいかけた。
二人の男は、かの女の方に目をそそいだ。
「あたし、いいたいと思ってるふうには、申しあげられないんですけど」と、エミリーがはじめた。「こうなんですの。少佐は、あんな『こっくりさま』なんか信じてはいないとおっしゃいましたわね――しかも、あんな恐ろしい天候なのに、そのうえ、いっさいのことがばかげていると、お思いになったにちがいないと思うんです、それだのに――大変、不安にお感じになって、天候の状態などものともせずに、トレベリアン大佐のご無事な姿を、ご自分の目で確かめようと、お出かけにならずにはいられなかったということなんです。ねえ、そうお思いにはなりません? というのは――というのは、その時のその場のふんい気の中に、なにかがあったのじゃございません?」
「といいますのは」と、よくいうことが胸に落ちないという色を少佐の顔に見て、エミリーは、必死の思いで言葉をつづけた。「その時の、少佐のお心の中に浮かんでいたと同じようななにかが、どなたかほかの方の心の中にもあったのじゃないかということなんです。そして、それをどうしてだかは存じませんけど、少佐がお感じになったのじゃないでしょうか」
「さあ、わしにはわかりませんな」といって、少佐は、また鼻をなでた。「いうまでもないだろうが」と、少佐は、なにかを期待するように、つけ加えていった。「どうも女の人というものは、こういうことをきまじめに考えるものですからな」
「女の人たち!」と、エミリーがいった。そうだわ、と、エミリーは、自分にいいきかせるように、胸の中でつぶやいた。|なんとなく《ヽヽヽヽヽ》、|そこ《ヽヽ》|がくさいという気が《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|あたしにはする《ヽヽヽヽヽヽヽ》。かの女は、不意に、バーナビー少佐の方に顔を向けて、「あのウイレット家の人たちって、どういう方なんですの?」
「ええ、さあ――」と、バーナビー少佐は、胸の中で思案をめぐらした。たしかに、人のことを口で説明したりすることには、かれは不得手だった。「さよう――なかなか親切な人たちで――よくなんでもしてくれる、まあそんな人たちですな」
「どうして、よりによって、一年じゅうのこんな時節に、シタフォード山荘のような家を借りたいなどとお思いになったんでしょう?」
「わしにも想像がつきませんな」と、少佐はいってから、「だれにもつかんでしょう」とつけ加えていった。
「ひどくおかしいとお思いになりません?」と、エミリーは執拗《しつよう》にくいさがった。
「むろん、おかしいですな。けれども、人の趣味をどうこうはいえませんからな。警部もそういっとったが」
「そんなこと意味のない言葉ですわ」と、エミリーがいった。「人間というものは、理由なしに、なにかをしないものですわ」
「さあ、わしにはよくわからんが」と、バーナビー少佐は、用心深くいった。「人によっては、そうとばかりはきまらんでしょう。あなたは、そうじゃないだろうが、トレフュシス嬢。だが、人によっては――」少佐は、ため息をつき、首を左右に振って見せた。
「あの人たちが、以前に、トレベリアン大佐に会ったことはないと、確かに信じておいでなんですね?」
少佐は、その考えをふんと鼻で笑った。かりに会ったことがあったとすれば、トレベリアンのことだ、自分にひと言ぐらいはいうはずだ。いいや、大佐自身が驚いていたくらいじゃないか。
「そうしますと、大佐も、おかしいと思っておいでになったんですのね?」
「むろんですとも。われわれみんなおかしいと思っておると、いまもいったじゃありませんか」
「トレベリアン大佐に対するウイレット夫人の態度は、どうだったんですの?」と、エミリーがたずねた。「大佐を避けるようにしておいでだったでしょうか?」
少佐の口から、かすかな笑い声がもれた。「いいや、まったくそうじゃなかったね。かれを悩ましておったね――始終といってもいいくらい、来てくれとか、会いたいとかせがんでおったね」
「まあ、そうですの!」と、エミリーは、なにか考えるようにいった。そして、しばらく間をおいてから、いった。「そうすると、もしかすると――そうでしょう、トレベリアン大佐と近づきになるのが目的で、シタフォード山荘を借りたとも取れますわね」
「うむ――」と、少佐は、しばらく、そのことを心の中で考えめぐらしているふうだった。「なるほど、そうかもしれんが、それにしちゃ、ちょっと金がかかりすぎるな」
「あたし、よく存じませんけど」と、エミリーがいった。「トレベリアン大佐という方は、そうでもしないと、そうやすやすとお近づきになれない方じゃないんじゃありませんの」
「そうだ、あの男はそういう男だった」と、故トレベリアン大佐の親友は賛成した。
「そうなんでしょうね」と、エミリーがいった。
「警部も、そんなふうに考えておったね」と、バーナビーがいった。
エミリーは、突然ナラコット警部に対して、怒りとも焦燥ともつかぬものを感じた。なにからなにまで、かの女が考えつくことはみんなもうすでに、警部が考えついてしまっているらしかった。ほかの人間よりはずっと頭が鋭いという自負を持っている若い女にとって、そのことは、いらいらさせるに十分のことだった。
エミリーは、椅子から立ちあがって、手を差しのべて、「どうも大変ありがとうございました」と、簡単にいった。
「もっとお役に立てばなによりだったんですがな」と、少佐はいった。「わしは、どっちかというと明からさまなたちの人間で――もともとが、そうなんだね。もっと頭の切れる男だったら、なんか手がかりになるようことでも思いつけたかもしれないのだが。それはとにかく、ご用のことがあれば、いつでもおいでなさい」
「ありがとうございます」と、エミリーがいった。「お願いいたします」
「さようなら、少佐」と、エンダービーもいった。「あすの朝、カメラを持って伺いますから」
バーナビーは、のどの奥でうなるように声をたてた。
エミリーとチャールズは、カーチス夫人の家へもどった。「あたしの部屋へおいでになって。お話ししたいことがあるんですの」と、エミリーがいった。
エミリーは、椅子の上に、チャールズは、ベッドの上に、腰をおろした。エミリーは、ぐいと帽子をとると、部屋の片隅にほうりなげて、「ねえ、聞いてちょうだい」といった。「あたし、第一のヒントらしいものをつかんだと思うの。それが間違っているか正しいかは別にして、とにかく一つの考え方よ。あたし、あの『こっくりさま』に、かなりの鍵があると思うの。あなた、『こっくりさま』をおやりになったことあって?」
「ああ、ときどきね。でも、まじめじゃありませんがね」
「ええ、むろん、そうでしょう。まあ、雨の降って退屈している午後なんかに、やるような遊びでしょう。そして、ひどくテーブルをゆすぶったりすれば罰になるのね。そう、おやりになったことがあるんなら、どうなるのかおわかりだわね。テーブルがかたかた鳴り出すと、そう、その音の数で名前が出てくるわね。そうよ、しかもたいがいは、だれかの知っている名前よ。たいていの場合、すぐにそれに気がつくと、自分の知っている人の名前にならないようにと思って、たいてい無意識に、例のゆすぶりってやつをやってしまうのね。というのは、知っている人の名前が出てくると思うと、つぎの文字が出てくるときに思わず知らずテーブルをぐいと引いて、とめてしまうというわけなの。自分でやらないでおこうと思えば思うほど、かえってやってしまうものなの」
「そう、そのとおりですね」と、エンダービー氏は相槌を打った。
「あたし、その瞬間、そんな心霊が働くなんてこと信じないわ。でも、あの時、『こっくりさま』をやっていた人の中のだれかが、トレベリアン大佐が殺されるのを知っている人があったとしたら、どうでしょう。その瞬間に――」
「そんなばかな」と、チャールズが異議をとなえた。「それは、とんでもない|こじつけ《ヽヽヽヽ》ですよ」
「まあ、そんなひどいことおっしゃらなくてもいいわ。そうよ、あたしは、そうにちがいないと思うの。あたしたち、ただ仮説を立てている――それだけなんですからね。あたしたちは、だれかが、トレベリアン大佐が殺されていたのを知っていて、それをうまく隠すことができなかったといってるのよ。『こっくりさま』のテーブルが、それを裏切って教えてくれたというわけよ」
「ひどく巧妙な考えですな」と、チャールズがいった。「だが、ぼくには信じられませんな、そのとおりだとは」
「そうだと仮定してみましょうよ」と、エミリーは、断固としていった。「犯罪の捜査に際して、仮説を立てることを恐れていてはいけないと、あたし、信じますわ」
「ああ、それはまったく賛成です」と、エンダービー氏はいった。「じゃあ、そのとおりだと仮定しましょう――あなたのお気のすむように」
「そこで、あたしたちのしなければならないことは」と、エミリーがいった。「いいこと、『こっくりさま』をやった人たちのことを、ごく慎重に考察してみることなのよ。まず第一に、バーナビー少佐とライクロフト氏のことよ。そう、この二人のうちどちらかが殺人の共犯者だとは、どう考えてみてもそうらしくはないわね。そこで、こんどはデューク氏よ。いまのところ、かれについては、知るところなしってわけね。かれは、ごく最近、この土地に移って来たばかりだし、むろん、考えようによって、来たばかりのよそ者ではあるが、なにかよくない人間――たとえば、ギャングの一味かなにかかもしれないわ。とにかく、デュークの名前には、Xをつけておくべきね。さてつぎはいよいよ、ウイレット母娘の番よ。ねえ、チャールズ、このウイレット一家には、なにかおそるべき秘密があってよ」
「だけどいったい、トレベリアン大佐が死んだからって、あの連中に、なんの得があるんです?」
「ええ、外見からだけ判断すれば、なんにもないわ。でも、あたしの判断が正しければ、どこかに関連がなくちゃならないはずよ。その関連がなんであるかを、あたしたちが発見しなくちゃならないと思うの」
「よろしい」と、エンダービーがいった。「もっともあの山荘は、あの女たちの、ただの|ねぐら《ヽヽヽ》かもしれませんがね」
「いいわ。もう一度、はじめからやり直しましょうよ」と、エミリーがいった。
「しっ!」と、不意にチャールズが叫んで、手をあげた。そして、さっと窓ぎわへ飛んで行って、窓をあけた。エミリーもまた、チャールズが聞きつけた物音を耳にした。それは、遠くの方で鳴り響いている大きな鐘の音だった。
二人が立ったまま耳をそばだてていると、カーチス夫人の声が、興奮の響きを下から伝えてきた、「鐘が聞こえますか、お嬢さん――聞こえますか?」
エミリーは、ドアをあけた。
「聞こえますでしよう? あんなにはっきりと聞こえるでしょう? こりゃあ、大変だわ!」
「なんですの?」と、エミリーがたずねた。
「プリンスタウンの町の鐘ですよ、お嬢さん。かれこれ十二マイルほど先の。囚人が逃げ出した知らせですよ。ジョージ、ねえ、ジョージ、あなた、どこ? 鐘が聞こえるかい? 囚人が脱走したんだよ」カーチス夫人が台所の方へ行ったとみえて、その声は聞こえなくなった。
チャールズは、窓をしめて、またベッドに腰をおろして、「残念だな、世の中のことってうまくゆかないもんだ」と、気が抜けたようにいった。「その囚人が、金曜日に脱走してくれていさえしてたらな、まったく、ぼくらの殺人事件は、立派に説明がついたのになあ。これ以上、考える必要もなかったのさ。飢えたる脱獄囚、自暴自棄の押込み強盗、トレベリアン、イギリス紳士の城を防御し――凶悪脱獄囚、一撃の下に大佐を倒す。これで万事、解決というわけさ」
「ほんとにそうだったわね」と、エミリーがいって、大きなため息をついた。
「ところが、どっこい」と、チャールズがいった。「囚人のやつ、逃げ出すのが三日違いときてやがる。つまり――どうにも、話にもなんにもならないというわけさ」
チャールズは、悲しげに首を振った。
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第十六章 ライクロフト氏
つぎの朝、エミリーは、早く目をさました。若い女にしては物わかりのいい娘だったので、まだ十分に夜が明けきらないうちから、エンダービー氏に力を合わせていっしょに出かけてもらうのもどうかという気がした。それで、なんだか眠れないような気もするし、かといって、じっと横になってもいられなかったので、かの女は、元気よく散歩に出かけた。足は、ゆうべ、チャールズと二人でもどって来た方角と反対の小径に向かった。
シタフォード山荘の門を右に見てしばらく行くと、小径は、右の方に鋭く折れて、そこから径は険しい勾配になって丘の方に登りになっていた。その径を登りつめると広々とした荒れ地になっていて、径も荒くなって草の中の小道になり、すぐに、その踏み跡もわからなくなってしまっていた。朝の大気は晴れ渡って、冷気は肌《はだ》を刺すようで、空気はすがすがしく、眺望《ちょうぼう》は、実にすばらしかった。エミリーは、珍しい形の灰色の岩山になっている、シタフォードの丘の頂上に登った。その頂上に立って見おろせば、わずかばかりの家と道のほかは、目に入るものといってはなにもない、荒涼とした荒れ地がどこまでも広がっている曠野《こうや》だけだった。かの女が立っている下の方、丘の反対側は、がらがらの花崗岩《かこうがん》と大きな岩との灰一色の塊《かたま》りとなっていた。一、二分、考え深そうな目を、その場の様子に向けてから、その目を返して、いま登って来た北の方の景色に向けた。かの女のすぐ足もとには、シタフォードの村が静まり返り、丘の側面にすがりつくようにして、四角い灰色の点のようなシタフォード山荘と、その向こうに点々とコテージが散らばっていた。そのはるか下の方の谷間に見えるのは、エクザンプトンの町だった。
|そうだわ《ヽヽヽヽ》、と、なにか狼狽するようなものを感じながら、エミリーは思った。物事というものはこういう高い所からよく見るべきものなんだわ。人形の家の屋根を取り払って、中をのぞき込むようにしなくちゃいけないのだわ。
かの女は、たった一度でもいいから、生前の大佐に会っていたかったと、心の底から思った。一度も会ったこともない人の考えをつかむのは、困難なことだった。だから、他人の判断に頼らなければならなかったが、エミリーは、他人の判断が、かの女自身のそれにまさっていると思ったことは、ただの一度もなかった。他人の印象などというものは、役に立たないものばかりだ。それらは、自分自身の印象と同じように正しいかもしれないが、それにのっとって行動することはできないものだ。他人の印象をそのまま受け入れて、他人の攻撃角度を、自分の攻撃角度とすることはできないものなのだ。
こうした問題を、困惑した気持ちで考えめぐらしていたエミリーは、いかにももどかしげにため息をついて、その居場所を移した。自分自身の考えに、すっかり夢中になっていたので、自分がいまどこにいるかということさえ、かの女はすっかり忘れてしまっていた。だから、小柄の、中年すぎの紳士が、自分から数フィートほど離れたところに立っているのに気がついて、エミリーは、思わずぎくっとした。紳士は、はあはあと息をはずませながら、うやうやしく手に帽子をとった。
「失礼」と、紳士はいった。「ミス・トレフュシスですね?」
「はい」と、エミリーがいった。
「わたしは、ライクロフトというものです。ぶしつけに言葉をかけたりして許していただきたいのですが、こんな狭い土地では、ごく小さなことでも知れ渡ってしまうものでして、きのう、あなたがこちらへお着きになったことも、もちろん、みんなに行き渡ってしまったというわけです。わたしたち、この土地の人間はだれもかれも、あなたの立場に深い同情の念を抱いていると、はっきり申しあげることができますよ、ミス・トレフュシス。わたしたちはみんな、だれもかれも、なんらか自分たちにできる方法で、あなたに力をお貸ししたいと心を砕いているのです」
「ご親切にありがとうございます」と、エミリーはいった。
「とんでもない、そんなにおっしゃられるほどのことではありません」と、ライクロフト氏がいった。「悩める麗人――こんな古風ないい方をお許しください。ですが、本気で申しあげるのですが、わが親愛なるお若い方、なにか、わたしでお手助けできることがありましたら、なんなりおっしゃってください。ああ、ここからの眺《なが》めは、実に美しいじゃありませんか?」
「すてきですわね」と、エミリーも言葉を合わせた。「この曠野は、すばらしいところですわね」
「ゆうべ、囚人がプリンスタウンから脱走したことはお聞き及びでしょうな」
「ええ、もうつかまったのでしょうか?」
「まだだと思いますがね。ああ、ですが、可哀そうに、すぐにつかまってしまうに相違ありません。この二十年間に、あのプリンスタウンから脱走に成功した者はないと、申しあげても過言ではないと思います」
「どっちの方角ですの、ブリンスタウンって?」
ライクロフト氏は腕をのばして、曠野の向こう、南の方をさして、「あちらの方です。この何一つさえぎるものもない、鴉《からす》が飛ぶだけの曠野を越して行って約十二マイル、普通の道から行けば十六マイルもあるのです」
エミリーは、かすかに身をふるわした。死物狂いになって、追いつめられている囚人の姿が、かの女の心に強く浮きあがってきた。ライクロフト氏は、そのかの女の姿を見守っていてから、ちょっとうなずいて、
「そうです」といった。「わたし自身も、同じような気がしますな。あの追いつめられている囚人のことを考えてみると、人間の本能がどんなふうに反逆するものかと思いますね。しかも、このプリンスタウンにいる囚人といえば、そろいもそろって、危険きわまる、凶暴な犯罪人ばかりですからな。かれらを元の刑務所に閉じ込めるためには、あなたといわずわたしといわずだれでも、全力をあげずにはいられないような連中ですからな」
かれは、弁解でもするように、ちょっと声をたてて笑いながら、「こんなことをいって申しわけありませんが、ミス・トレフュシス、実はわたしは、犯罪の研究に深い興味を持っているのです。なかなか魅惑的な学問ですよ。鳥類学と犯罪学の二つが、わたしの主たる問題なのです」かれは、ちょっと言葉をきってから、またつづけた。「そういうわけなものですから、もしお許し願えるなら、こんどの事件で、わたしにもごいっしょにやらせていただけるとありがたいと思うのです。まず犯罪そのものを研究することが、長い間、実現できなかったわたしの夢だったのです。どうか、わたしを信用して、ミス・トレフュシス、そして、あなたの思うままに、わたしの経験を利用していただけませんか? この問題については、わたしも、相当深く書物も読みましたし、研究もしてきた者です」
エミリーは、しばらく黙っていた。いまや事件の成行きは有利になりつつある、そう感じると、かの女は、うれしくなってきた。まるでこの自分が、長年シタフォードで暮らしてきたかのように、この生きた知識が力を貸してくれようというのだ。攻撃角度《ヽヽヽヽ》、ついさきほど、心に浮かんだこの文句を、エミリーは、心の中で繰り返してみた。かの女はすでに、バーナビー少佐の観点――実際的で――単純な――かつ直接的なものの考え方については頭に入れていた。明白な事実だけを認めて、微妙な、裏の裏はすっかり忘れてしまっているのが少佐のものの考え方だ。ところが、いま、別の角度からの観点が、自分の前に提供されようとしているのだ。それを受け入れれば、もしやと心に思っていた、いままでとは全然異なった視野が開けてくるかもしれないではないか。この小柄で、皺《しわ》だらけの、ひからびてしまったような紳士は、長年の間、書物を読み研究に研究を重ねるとともに、人間の本性に精通しており、行動的な人間とは反対に、思索的な人間に特有の、人間生活に対する貪欲《どんよく》な探究心を示していた。
「どうぞお力を貸してくださいまし」と、エミリーは、率直にいった。「あたし、とても心配で、とてもみじめな気持ちなんですの」
「きっとそうでしょう、お嬢さん、きっとそうでしょう。ところで、情況について、わたしが承知するところによりますと、トレベリアンの甥《おい》ごさんが逮捕されたとか留置されたとかいうことですが――どうもその甥ごに対する証拠というものは、いささか単純で、明白すぎる性質のもののような気がするのです。わたしは、申すまでもないことですが、わだかまりのない心で他意あるわけではないので、その点、お許し願いたいのですが」
「おっしゃるまでもありませんわ」と、エミリーがいった。「でも、あなたは、あの人のことをなんにもご存じないのに、どうして、無罪だとお信じになるんですの?」
「いや、ごもっともです」と、ライクロフト氏がいった。「ほんとうのことを申しあげると、ミス・トレフュシス、あなたご自身がもうすでに、非常に興味ある研究課題ですよ。そりゃそうと、あなたのお名前は、われわれの気の毒な友人トレベリアンのように、コーンウォール系ですな?」
「そうなんですの」と、エミリーがいった。「父はコーンウォールの人間で、母は、スコットランド人なんですの」
「ほほう!」と、ライクロフト氏はいった。「非常におもしろい。さて、それでは、われわれの小さな問題にかかりますかな。まず第一に、こう仮定してみるのです、ジム青年が――たしか、ジムという名前でしたね? そう、ジム青年は、さし迫った金の必要に迫られていて、伯父さんに会いにやって来て、金を貸してもらいたいと頼んだが、ことわられたために、とたんにかっとなって、ドアのところに落ちていた砂嚢をつかんで、伯父さんの頭をなぐりつけたと、こう仮定してみるのです。この犯罪は、偶発的なもの――なげかわしいものではあったが、実に、ばかげた、理性のないしわざだったのです。まあ、すべてが、いまお話ししたとおりだったかもしれません。ところが一方、ジムが腹を立てたまま、伯父さんと別れて行ってしまうと、しばらくしてそのあとから、何者かが押し入って、犯行をおかしたかもしれないのです。それが、あなたの信じているところで――そして、それとはちょっと意味が違うのですが、わたしの望んでいるところもそれなのです。わたしは、あなたのフィアンセが犯行をおかしたとは思いたくないのです。というのは、わたしの観点からしますと、ジム青年が犯行をおかしたということになると、この事件は、実につまらないものになるからなのです。わたしは、ですから、後者の説に賭けるのです。犯罪は、だれか他の人間がおかした。こう仮定してみると、すぐに、わたしたちは、きわめて重要な問題点にぶつかるのです。だれか他の人間で、ちょうどその時起こったジムと伯父さんとのいさかいを知っていた者があったのではないでしょうか? そのいさかいが、実際には、殺人を早めさせることになったのではないでしょうか? わたしの問題にしている点が、おわかりでしょうね? だれか、以前からトレベリアン大佐をやっつけてしまおうとねらっていた者があったのだが、いまやれば、殺人の容疑が、必ずジム青年にかかるということを感じとって、その機会をとらえたのだということです」
エミリーは、その角度から問題を考えめぐらしていたが、やがて、「その場合には」と、ゆっくりとした口調で、いいかけた――
ライクロフト氏は、エミリーの言葉をそのまま受けついで、「その場合には」と、勢いよくいった。
「犯人は、トレベリアン大佐と、ごく近しい関係にある人間でなければなりません。かつ、エクザンプトンに住んでいる男でなければなりません。十中八九、そのいさかいの間か、またはそのあとで、大佐の家にいた者と思わなければなりません。ところで、わたしたちは、法廷にいるわけではないのですから、自由に、いくつかの名前を数えあげることができるわけですが、いま、わたしたちがあげた条件にぴったり当てはまる人間として、わたしたちの心にすぐ浮かびあがってくるのは、下男の、エバンスの名前です。この男なら、おそらく大佐の家にいて、いさかいを立ち聞きし、その機会をとらえることは十分にできたかもしれなかったろうということです。で、つぎの点は、主人である大佐の死から、なんらかの利益をエバンスが得るかどうかということを、発見することですね」
「たしか、わずかばかりの遺産を受けることになっているだけだと思いますけど」と、エミリーがいった。
「それだけでは、十分な動機になるか、どうでしょう。わたしたちは、エバンスが、さし迫って金に困っていたかどうか、調べなくちゃなりませんね。それからまたエバンスの細君のことも――エバンスの細君というのは、最近結婚したばかりだということですが――それも考えに入れておかなければならないでしょうね。もし、あなたが犯罪学というものを、これまでにご研究になっておいでになれば、ミス・トレフュシス、近親の者がふえると、ことにこういういなかでは、妙な影響が現われるということに気がつかれるはずです。現にいまも、ブロートムアの刑務所には、すくなくとも若い女性が四人はいっています。この女性たちは、愛想のいい、快活な態度なのですが、まったく珍しいとしかいいようのない奇矯《ききょう》な性癖の持ち主でして、人を殺すことなど、いささかというより、なんとも思っていないのです。そうです――ですから、エバンスの細君を考慮の外においちゃいけません」
「あの『こっくりさま』のことは、どうお考えなんですの、ライクロフトさん?」
「いや、あれはまったく不思議です。この上もない不思議です。白状しますが、ミス・トレフュシス、わたしは強い感銘を受けました。わたしは、たぶんお聞きになっていることと思いますが、心霊というものを信じているものでして、またある程度まで、神おろしというか、交霊をも信じているものなのです。もうすでに――あの一件を詳細にしたためて、心霊研究会の方へ送っておきました。十分にこの目で見きわめた驚嘆すべき事件です。五人の人間がその現場に立ち合っていながら、トレベリアン大佐が殺されたなどということを、だれ一人として、疑念も持たなければ、いささかも考えられなかったのですからね」
「でも、あなたは――」といいかけて、エミリーは、やめてしまった。あの五人の中のだれか一人が、殺人が行なわれるのを予知していたのかもしれないという自分自身の考えを、たとえ遠まわしにでもライクロフト氏にいうのは、相手のその人も五人の中の一人だったので、容易なことではなかったのだ。もっともライクロフト氏が、こんどの事件となんらかの関係があろうなどとは、一瞬でも、エミリーは、疑ったことはなかった。が、そういっても、そういうことをいい出すのは、あまり利巧なことではないかもしれないと感じた。それで、もっと婉曲《えんきょく》に、自分の狙《ねら》いを進めて行くことにした。
「お話には、とてもあたし、深い興味を感じましたわ、ライクロフトさん。おっしゃるように、ほんとに驚くべき出来事ですわね。それで、その場においでになった五人の方たちの中で、もちろん、あなたご自身を除いてですけど、その中でどなたか、心霊作用を受けやすい方がいらしたと、お思いになっていらっしゃるんじゃないでしょうね?」
「お嬢さん、わたし自身だって、そんな心霊作用を受けるような人間じゃありません。そんな方面にはなんの力も持ってはいませんよ。わたしはただの、深い興味を抱いている観察者というだけですよ」
「あのガーフィールドさんはどうなんですの?」
「なかなか感じのいい青年ですよ」と、ライクロフト氏はいった。「だが、どこからみても、とりたてて注意すべきほどの人間ではありませんね」
「裕福なんでしょうね」と、エミリーがいった。
「文なしだと思うんですがね」と、ライクロフト氏がいった。「その文なしという言葉の意味を、正確に使っていると結構ですがね。あの青年は、伯母さんにあたるパースハウスさんのご機嫌とりに、ここへやって来るんですが、それというのも、わたしの言葉でいえば『相続する見込みのある財産』を、伯母さんからはっきりもらおうというためですよ。パースハウスさんという人は、なかなか鋭い婦人で、なんのために、そんなに気をつかうのか承知しているのだと、わたしは思います。しかし、あの人らしい皮肉たっぷりな笑いを浮かべながら、あの男にご機嫌を取らせつづけているというわけなんでしょうね」
「いっぺん、パースハウスさんにお会いしてみたいわね」と、エミリーがいった。
「そう、たしかにお会いになったほうがいい。パースハウスさんのほうでも、きっと、ぜひあなたにお会いしたいというにきまっていますよ。好奇心ですよ――ああ、ねえ、ミス・トレフュシス――それも、好奇心からなんですよ」
「ウイレット家の方たちのこと、お話ししてくださいな」と、エミリーがいった。
「チャーミングな一家です」と、ライクロフト氏がいった。「まったくほれぼれするようですよ。もっとも、植民地の人たちですから、おわかりでしょうが、真実の釣合いというものはとれていませんがね。お客に対するもてなしにしても、すこし大げさすぎますし、家の飾りつけにしたって、なにからなにまで派手ずくめですがね。ただ、バイオレット嬢は、なかなか魅力のある娘さんですよ」
「冬いらっしゃるにしちゃ、ちょっとおかしいところじゃありません」と、エミリーがいった。
「そう、とても変ですね? ただし、結局のところは、筋道は通っているんですよ。わたしたちは、もう長いことこの国に住んで、太陽がさんさんと輝き、椰子《やし》の木の茂る、暑い気候をあこがれているように、オーストラリアや南アフリカに住んでいる人たちは、雪と氷の古風なクリスマスのことを考えて、その夢にうっとりとしているのですよ」
夫人か娘さんかどちらが、そういったのだろう、と、エミリーは、胸の中でつぶやいた。雪と氷の古風なクリスマスが送りたいのなら、こんな荒涼とした山奥の村に、身をうずめる必要なぞなかったのだわと、かの女は考えた。ライクロフトさんが、ウイレット一家が寒地として、この土地を選んだことに対して、なんらの疑念を持っていないことは明らかだ。しかし、と、かの女は思い返してみるのだった、鳥類学者で犯罪学者である氏には、それもたぶん自然なことだろう。ライクロフトさんにとっては、シタフォードは、たしかに理想的な住まいの場所だろうが、他の人にとっては、不適当な環境だと想像することさえできないのだわ、と。
二人は、丘の斜面をゆるゆると降りて来ていて、ちょうどいま、丘の下の小径に出たとたん、「あのコテージには、どなたが住んでいらっしゃいますの?」と、不意に、エミリーがたずねた。
「ワイヤット大尉です――病人でしてね。あまり人とつき合いたがらないんじゃないんでしょうかな」
「トレベリアン大佐のお友だちですの?」
「どうも親友ではないらしい。トレベリアンは、おりおり、ただ形式的にたずねて行っていたらしいが、ほんとうのところをいうと、ワイヤットは、訪問客をあまり歓迎しないのでね。まあ気むずかしい男というんでしょうね」
エミリーは、黙っていた。どうしたら、自分がワイヤット大尉の訪問客になれるだろうかと思いめぐらしていた。とにかくどんな手がかりであろうと、未調査のままで残しておくという気はなかった。そのとき不意に、あの神おろしの仲間で、まだ一度も口に出さなかった名前を、エミリーは思い出した。「デュークさんは、どうなんですの?」
「どうって?」
「ええ、どういう方なんですの、あの方?」
「そうですね」と、ライクロフト氏は、ゆっくりとした口調でいった。「だれにもわからないのです」
「まあ変じゃありませんか」と、エミリーがいった。
「ほんとうのところは」と、ライクロフト氏がいった。「それほどのこともないのです。ねえ、デュークという男は、まるきり謎《なぞ》に包まれている人物というわけでもないのです。まあかれについてのただ一つの謎といえば、つまりかれの素姓だと思うのです。いや、わからない――まったくわからないのです。しかし、なかなかどうして物堅い、善良な男ですよ」
エミリーは、黙っていた。
「これが、わたしのコテージです」と、立ちどまって、ライクロフト氏がいった。「いかがです、ちょっとお立ち寄りになって、中をごらんになっては」
「よろこんで寄せていただきますわ」と、エミリーがいった。
二人は、狭い道を登りぎみに通って、コテージにはいった。家の中は、ほれぼれするようだった、壁という壁には、書棚が並んでいた。エミリーは、物珍しそうに書物の背文字を見ながら、つぎからつぎと書棚の前に立った。一つの区切りのところには、心霊現象を扱った書物があつめられているかと思えば、他の区画には、現代の探偵小説類が並べられていたが、書棚の大部分は、犯罪学と、世界の有名な裁判記録の書物が占めていた。本職の鳥類学の書物は、わりあいにすこしの部分しか占めていなかった。
「あたし、とても楽しいものばかりだと思いますわ」と、エミリーはいった。「でも、もう帰らなくちゃいけませんわ。もうエンダービーさんも起きて、あたしを待っていらっしゃるだろうと思うんです。ほんとのことをいいますと、あたし、まだ朝のご飯をいただいていないんですの。九時半にお願いしますとカーチス夫人にお頼みしておいたのに、もう十時でしょう。すっかり遅くなってしまいましたわ――だって、あなたのお話がとてもおもしろかったんですもの――それに、ずいぶんためになることをいっていただきましたわ」
「できることなら、なんでもしますよ」と、エミリーが、うっとりさせるような目を向けると、ライクロフト氏は、笑いながらいった。「どうか、わたしを|あて《ヽヽ》にしてください。われわれは協力者ですからな」
エミリーは、相手に手を差しのべて、心をこめて握りながら、「ほんとにすばらしいことですわ」と、これまでの短い生涯に、非常に効果的だということを知った文句を使って、エミリーはいった。「ほんとうにおすがりできる方がいらっしゃると思うことは」
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第十七章 ミス・パースハウス
エミリーが帰ってみると、べーコンと卵の料理がちゃんとできていて、チャールズは、かの女の帰りを待っていた。カーチス夫人は、まだ囚人の脱走事件の興奮から、しきりに騒いでいた。「この前の囚人が脱走してから、もう二年なんですよ」と、夫人はいった。「そして、三日目につかまったんです。モートンハンプステッドの近くに隠れていたんですよ」
「あなたの考えでは、こっちの方へ来るとおっしゃるんですか?」と、チャールズがたずねた。
この地方のことに詳しい夫人は、その問題を頭から否定して、「けっしてこっちには来ないでしょうよ、どこをみたって、隠れるところもない荒野ですからね。それに、なんとか荒れ地を越えたところで、小さな町がいくつかあるだけですからね。プリマスの方へ逃げるのが、一番いいんでしょうが、でも、そこへ行く前に、つかまってしまいますよ」
「でも、シタフォードの丘の向こう側の岩の間には、いい隠れ場所があるじゃありませんか」と、エミリーがいった。
「そのとおりですよ、お嬢さん、あすこには、隠れ場所があるにはありますねえ、みんな、妖精の洞穴《ほらあな》なんていってますがね。ごらんになったでしょうけど、岩と岩との間の入り口は狭いんですけど、中へはいると、ずっと広くなっているんですよ。なんでも、みんなの話では、チャールズ王の部下の一人が、二週間もその洞穴に身を隠して、待女に、農家から食べ物を運ばせたとかいうことですよ」
「その妖精の洞穴というのを、どうしても見てみなくちゃならんな」と、チャールズがいった。
「でも、見つけるのにとても骨が折れて、きっとびっくりなさいますわ。夏なんか、ピクニックの人たちが幾組も、午後いっぱい、さがしてまわったんですけど、とうとう見つからなかったんですから。ですけど、もしお見つけになったら、間違いなく、幸運が来るように、その洞穴の中にピンを一本置いていらっしゃらなくちゃいけませんよ」
「どうしますかね」と、朝食が終わって、エミリーと二人、こぢんまりした庭へ散歩に出ると、チャールズがいった。「プリンスタウンへ行ったもんでしょうかね? まったく驚きますね、ほんのちょっと幸運に出会ったと思うと、またたく間に、山のように仕事がたまっちまうんですからね。ぼくが、ここへやって来た――そのはじめといえば、ただ単にフットボールの懸賞予想の賞金を持って来たというだけなんですからね。ところが、まだ自分の身のおき場所もわからないうちに、殺人事件と脱獄事件のまっただ中に飛び込んでいる。まったくすばらしいじゃありませんか!」
「例のバーナビー少佐のコテージを写真にとるのは、どうなさるの?」
チャールズは、空を見あげて、「ふむ」といった。「天気が感心しませんな。それに、できるだけ長くシタフォードにいる理由をつくりあげなくちゃなりませんからな。ほら、霧が出てきましたよ。ええと――気をわるくしないでいただきたいんですけど、ぼく、あなたとのインタビューの記事を社に送ったばかりなんですが、いいでしょう?」
「ええ、結構ですわ」と、エミリーは、機械的にいった。「あたし、なんてしゃべったことになっているんですの?」
「ああ、新聞の読者が聞きたがるふうな、ありふれたことですよ」と、エンダービー氏がいった。「本社特派員は、トレベリアン大佐殺害の容疑者として当局に逮捕された、ジェームズ・ピアスン氏のフィアンセ、エミリー・トレフュシス嬢と会見――その後で、熱血にあふれた美貌の淑女としての、ぼくの印象をつづったわけですよ」
「おそれ入ります」と、エミリーがいった。
「すばらしいインタビュー記事ですよ。あなたが、彼氏の味方に立って、いかに立派に、女性らしく、愛情をこめて語ったかは、あなたにも想像がつかないでしょうな。たとい、全世界がジムを白眼視したところで、もはや問題はないでしょう」
「あたし、ほんとにそんなこといったんですの?」と、エミリーは、いささかたじろいだようにいった。
「いけませんか?」と、不安そうに、エンダービー氏がいった。
「いいえ、とんでもない!」と、エミリーがいった。「心から楽しめるでしょう、あなた」
エンダービー氏は、いささか忸怩《じくじ》とした顔つきをした。
「大丈夫よ」と、エミリーがいった。「いまのは、引用句なの。あたしのエプロンに、そう書いてあったの、小さいころの――日曜日のエプロンに。ふだんの日のには、|食べすぎちゃだめ《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》ってね」
「ああ――そうですか。それから、ぼくは、トレベリアン大佐の海軍生活についても、かなりたくさん盛りこみましたよ。略奪された異国の偶像と、それにまつわる不思議な僧侶《そうりょ》の復讐のことなど――ほんの暗示だけですがね」
「そう、じゃ、きょうのお仕事は立派になすったというわけね」と、エミリーがいった。
「ところであなたは、いままでなにをしていたんです? おそろしく早起きをなすったじゃありませんか」
エミリーは、ライクロフト氏に会ったことを話した。
話していたエミリーが、不意に言葉をきったので、エンダービーが、そのかの女の肩越しに視線を追うと、赤味を帯びた健康そうな顔色の青年が、門から身を乗り出して、なにやらしきりにいいわけじみたことをいいながら、二人の注意を引こうとしているのに気がついた。「あの」と、その青年はいった。「こんなところからおじゃましたりなんかして、まったくすみません。なにしろ、まったくどうもお詫《わ》びのしようもないんですが、伯母が行ってこいというものですから」
エミリーとチャールズが、「はあ?」と、聞き返すような口調で、口をそろえていった。
「はい」と、青年がいった。「実をいうと、ぼくの伯母は、ちょっと手に負えないほどの強情者なんでして、行ってこいといい出したら、ぼくのいうことがおわかりでしょうが、もう聞かないんです。こんな時にお伺いするなんて、ほんとによくないことだと思うんですけど、ご存じのように、伯母ときたら――ええ、会っていただけば、わかっていただけると思うんです、二、三分もすれば――」
「あなたの伯母さまって、パースハウスさんのことですの?」と、エミリーが口を入れた。
「そうです、そうです」と、ひどくほっとしたように、青年はいった。「すると、伯母のことはご存じなんですね? カーチスの奥さんがお話ししたんでしょう。あの人なら、なんとでもいえますからね? もっとも悪い人というんじゃないんですが。ええ、実は、伯母が、あなたにお会いしたいといっているんです。それで、ぼくがお伺いして、その旨を申しあげたかったというわけなんです。ご挨拶したいというだけなんでしょう。大変ご迷惑でしょうが伯母は病身で、外出することができないものですから、来ていただけば、大変ありがたいんですが――そう、事情はよくおわかりでしょうが。こんなこと、ぼくから申しあげる必要はないと思うんですが、ほんとの好奇心からなんです、もちろん。でも、もし、頭痛がするからとか、手紙を書かなくちゃいけないからとかおっしゃれば、それで結構なんです。気にかけていただかなくて結構なんです」
「ああ、でも、よろこんで伺いますわ」と、エミリーがいった。「いまからすぐ、ごいっしょに伺いますわ。エンダービーさんは、バーナビー少佐に会いにお出かけにならなくちゃいけませんのですけど」
「ぼくが?」と、エンダービーが小声でいった。
「ええ、そうよ」と、エミリーは、きっぱりといった。
エミリーは、ちょっとうなずいただけで、エンダービーのことは忘れてしまったように、新しい友だちといっしょに出かけながら、「あなたは、ガーフィールドさんでしょう?」といった。
「そうです。名のらなくちゃいけなかったのですが」
「どういたしまして」と、エミリーがいった。
「別に骨も折れませんでしたわ、あてるのに」
「こんなふうにして来ていただいて、すてきでした」と、ガーフィールド氏がいった。「たいがいの若い女の方なら、おそろしく気持ちを悪くなさるところなんですが、あなたには、年寄りの女の気持ちがよくおわかりになるんですね」
「あなたは、ここに住んでいらっしゃるんではないのでしょう、ガーフィールドさん?」
「おっしゃるとおり、間違いなく住んではいません」と、熱を帯びた口調で、ロニー・ガーフィールドがいった。「こんな荒れ果てた土地を、これまで、あなたはごらんになったことがおありですか? 絵にだってなるとは思いませんね。いったい、だれが人殺しなんか――」
ガーフィールドは、自分の言葉にぎょっとして、口をつぐんだ。「いや、どうもすみません。ぼくは、なんて気のきかない人間なんでしょう。いつでも、つまらないことばかりをいっちまうんです。その癖、ちょっとだって、そんなこと思ったこともないんですが」
「ええ、ご心配はご無用ですわ」と、エミリーは、相手をなだめるようにいった。
「さあ着きました」と、ガーフィールド氏はいった。かれが門を押しあけたので、エミリーは、その門を通って、ほかのコテージと同じような小径を登り気味に歩いて、小コテージにはいった。庭に面している居間には、寝椅子が一台あって、そこには中年すぎの婦人が横たわっていた。細面の皺《しわ》だらけの顔で、これほどまでに鋭くとがって、物問いたげな鼻は、エミリーもかつて見たことがなかった。かの女は、やっとの思いで、肘《ひじ》を突いて上半身を起こした。
「そうかい、よくお連れしておくれだったね」と、かの女はいった。「ほんとうにご親切に、あなた、ようこそ、こんな年寄りに会いに来てくださいましたね。でも、あなたがご病気におなりになったら、病人の気持ちがどんなものか、よくわかってくださいますわ。とにかく、どんなことにでも、なんでもかでも手をおつけにならなくちゃいけませんよ。うまくゆかなくても、そのうちには、いいことが向こうからあなたのところへ来ずにはいません。それを、みんな好奇心だとお思いになることはいりません――もっと、それ以上のものですわ。ロニーや、外へ出て、お庭の物にぺンキでも塗っておくれ。籐《とう》椅子を二つと、ベンチにね。ペンキは、ちゃんと用意がしてあるからね」
「わかりました、カロリン伯母さん」素直な甥は、部屋から出て行った。
「さあ、お掛けなさい」と、パースハウスさんがいった。
エミリーは、さされた椅子に腰をおろした。こういってはおかしいようだが、相対して向かい合うとすぐに、エミリーは、この、ちょっと鋭いもののいい方をする中年の病人に、ある特別な好意と同情の念が心にわき起こるのを感じていた。いやそればかりか、実際に血のつながっているようなものを感じた。
|ここにも《ヽヽヽヽ》、|こういう人がいるんだわ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、と、エミリーは思った。そう、目的に向かって、まっこうに進んで行くタイプの人なんだわ。つまり、自分だけの生き方を持っていて、だれもかれも思いのままにする人なんだわ。あたし、そっくり。ただ、あたしには美貌という武器があるだけだけど、この人は、性格の強さで押し通さなければならないんだわ。
「あなた、トレベリアン大佐の甥ごさんと婚約していらっしゃるとかいうことですね」と、ミス・パースハウスがいった。「あなたのことは、すっかり聞いていましたし、いまお目にかかって、あなたがなにをしていらっしゃるかも、はっきりのみこめました。あなたのご幸福を、心からお祈りしますわ」
「ありがとうございます」と、エミリーはいった。
「めそめそ泣いているような女は、わたし、嫌いですよ」と、ミス・パースハウスがいった。「わたしは、飛び出して行って、なんでも仕事をする人が、大好きです」
相手は、きっとエミリーを見据えて、「あなた、わたしを哀れんでいらっしゃるでしょう――こんなところに横になったままで、起きることも、歩くこともできないわたしを?」
「いいえ」と、エミリーは、考え深そうにいった。「そうは思いませんわ。心さえしっかりしていれば、人は、いつでも、この人生から、なにか成し遂げられるんじゃないでしょうか。あなたにしても、一つの手段ではやりとげられなくても、別のやり方でおやりになれる方ですわ」
「そのとおりです」と、ミス・パースハウスがいった。「あなたにしたって、違った角度から人生を受け入れなくちゃいけません」
「攻撃の角度ね」と、エミリーは、口の中でぶつぶつといった。
「なんておっしゃいましたの?」
エミリーは、できるだけはっきりと、その朝、頭の中で展開させた理論と、それを当面の問題に、いかに適用させたかということを、ざっと話して聞かせた。
「悪くない考えです」と、うなずきながら、ミス・パースハウスがいった。「さあ、ではお嬢さん――用件にはいりましょう。生まれつきのばかでもないんですから、わたしにだって想像はつくんです。あなたがここへいらしたのは、ここの人たちのことについて、できるだけたくさんのことを聞き出して、殺人事件に関係のあることが、なにかさぐり出せやしないかというためでしょう。ええ、よろしい。では、ここの人たちのことで、なにか知りたいと思っておいでのことがあれば、わたしにできることなら、なんでもお話ししますよ」
エミリーは、時間を無駄にしなかった。簡潔に、てきぱきと、問題の要点にはいって、「バーナビー少佐はどういう方なんですの?」と、まずたずねた。
「典型的な退役軍人で、狭量で、外見はあれだけの人ですけど、とても性質は嫉妬《しっと》深い人です。そのくせ、お金のことには、すぐだまされるたちで、先のことはまるきりわからないもんだから、|から《ヽヽ》の宣伝だけに乗っかってつまらない事業や会社に投資するって、|たち《ヽヽ》の人なの。自分の借金はすぐ払わないと気がすまないが、その代わり、自分で自分のことの尻拭《しりぬぐ》いをしないような人は、大嫌いという人ですわ」
「ライクロフトさんは?」と、エミリーがいった。
「変わったちびさんのくせに、大変な勝手者。臍曲《へそま》がりですね。自分じゃ、すばらしい人間だと考えるのが、好きらしいわね。きっと、自分の犯罪学に対するすばらしい知識で、この事件を間違いなく解決してあげると、あなたに申し出たでしょう」
エミリーは、そのとおりだと認めてから、
「デュークさんは?」とたずねた。
「あの人のことは、なんにも知りません――とっくに知っていなくちゃいけないんですけどね。まあ、ごくありふれたタイプの人ですよ。とっくに、よく知って「なけりゃならなかったんですけど――まだ、よくわからないんです。変ですわね。舌の先まで出かかっていて、どうしても思い出せない名前のような人ですわね」
「ウイレット家の人たちは?」と、エミリーがたずねた。
「ああ! ウイレットさんね!」ミス・パースハウスは、いくらか興奮した様子で、ふたたび肘でささえるように身を起こした。「ほんとに、ウイレットさん一家というのは、どうでしょう? では、あの人たちのことで、あることをお話ししましょうね、あなた。まあお役に立つかどうかわかりませんけど。おそれ入りますけど、そこの、わたしの書物机の、一番上の小さな引出しをあけて、白い封筒をとって来てくださいな」
エミリーは、いわれたとおりに封筒を持って来た。
「これが重要な物だとはいいません――まあ、そうじゃないでしょう」と、ミス・パースハウスがいった。「人間というものはだれでも、なんのかんのと嘘をつくもので、あのウイレット夫人も、ほかのだれかれと同じように、そういわれてもしかたがない人でしょう」
そういいながら、パースハウスは、封筒を受け取ると、中へ手を差し込んだ。
「そのことについてお話ししましょう。ウイレットさん親子が、流行のしゃれた服装で、女中たちやトランクをいくつも持って、ここに着いた時、夫人とバイオレットさんは、フォードの自動車で、女中たちやトランクは、駅のバスでやって来たんですの。ところで、こんなこというまでもないことでしょうけど、そんなことは、ここでは大事件ですからね、通りすぎるのを見ていますと、一つのトランクから色のついたラベルが、はがれたんでしょう、風に吹き飛ばされて、うちの花壇に落ちて来たじゃありませんか。わたしの性分として、紙だのなにかが散らかっていることぐらいいやなものはないんですの。それで、ロニーにいいつけて、それを拾わせてすてようと思ったんですが、そのラベルが、あんまり、ぴかぴかと綺麗なんで、ふっと、子供の病院に送るのに作っているスクラップ・ブックにはろうと思って、残しておこうと、こう思ったんです。ところで、ウイレット夫人が、ことさら二度も三度も、やれ、娘のバイオレットは、南アフリカ以外のところには一度も行ったことがないだとか、ご自分はご自分で、南アフリカとイギリスとリビエラにいただけだとかいいふらすようなことがなかったら、わたしは、ラベルのことなど、二度と思い出したりはしなかったでしょうよ」
「それで?」と、エミリーがいった。
「そうですとも。ほら――これをごらんなさい」
ミス・パースハウスは、エミリーの手に、トランクのラベルを渡した。それには、「メルボルン・メンドルホテル」という文字がはいっていた。
「オーストラリアは」と、ミス・パースハウスはいった。「南アフリカじゃありません――いや、わたしの若いころは、すくなくとも、南アフリカじゃありませんでしたよ。別に大したことではないんですけど、でも、これがまあ有りのままのことなんですの。それから、もう一つ申しあげますとね、わたし、ウイレット夫人が、お嬢さんを呼ぶのに、『クウーイイ』と呼んだのを聞いたことがあるんですけど、これがまた、南アフリカよりもオーストラリア独特の方言です。ですから、わたしは、変だというんですの。いったいなんだって、オーストラリアから来たのに、そうだといいたがらないんでしょう?」
「確かに妙ですわね。それに、あの人たちが、来るにことを欠いて、冬、こんなところへ来るなんていうのも、妙ですわね」
「まず一番に気がつくのは、それですね」と、ミス・パースハウスがいった。「もう、お会いになりましたか?」
「いいえ。けさ、伺ってみようかと思っていたところですの。でも、なんといっていいか、口実がわからなかったものですから」
「じゃあ、わたしが、その口実をつくってあげましょう」と、ミス・パースハウスは、勢いよくいった。「その万年筆と紙と封筒とをとってくださいな。そうそう。さて、それではと」夫人は、しばらく慎重に構えていたが、いきなり、どきっとするほどの金切り声を張りあげた。
「ロニー、ロニー、ロニーったら! つんぼかしら、あの子は? どうして、呼ばれたら、すぐ来ないんだろうね? ロニー! ロニー!」
ロニーは、片手にペンキのブラシを持ったまま、勢いよく走り込んで来た。
「どうかしましたか、カロリン伯母さん?」
「どうもするわけがないだろう? おまえを呼んだだけだよ。おまえ、きのう、ウイレットさんのところでお茶をいただいた時、なんか珍しいケーキを食べたかい?」
「ケーキですって?」
「ケーキでもサンドイッチでも――なんでもさ。どうして、そうのろいんだろうね、おまえは。お茶の時に、なにをいただいたんだよ?」
「コーヒーケーキが出ましたよ」と、ロニーは、すっかり面くらっていった。「それから、ペーストのサンドイッチ――」
「コーヒーケーキだね」と、ミス・パースハウスがいった。「よろしい」いうと、かの女は、勢いよく書きはじめた。「おまえは、もうペンキ塗りに帰っていいよ、ロニー。そんなとこにうろうろしてないで、そんなふうに口をあけて、突っ立ってるんじゃない。おまえは、八つの時に、アデノイドを取ってしまったんだからね」
そういうと、かの女は書きつづけた。
[#ここから1字下げ]
ウイレットの奥様
きのうの午後は、大変おいしいコーヒーケーキを、甥がごちそうになりました由、ほんとにありがとうございました。つきましては、そのケーキの作り方を教えていただけませんでしょうか、こんなことをお願いして、どうぞお気を悪くなさいませんように――病人というものは、食べるもののほかには、まるきり変化がございませんので、よろしくお願いいたします。けさはロニーが忙しいので、代わりにトレフュシスさんが、ご親切にこの手紙をお届けくださるといってくださいました。囚人脱走のニュースは、ほんとに恐ろしいことではごさいませんか?
カロリン・パースハウス
[#ここで字下げ終わり]
書きおわると、それを封筒に入れ、封をすると、表にあて名を書いた。「さあ、できましたよ、お嬢さん。きっと山荘の玄関が、新聞記者でごった返しているのを見て、びっくりなさるでしょうよ、大ぜいのあの連中が、大型のフォードに乗り込んで小径を登って行くのを、わたしは見たのです。でも、あなたがウイレット夫人をたずねて、わたしの手紙を持って来たとおっしゃれば、中へ入れてくれますわ。しっかり目を見張っていらっしゃいなどと、いまさらいう必要もないでしょうけど、たずねただけのことは、心残りのないようにしていらっしゃいよ。あなたなら、うまくやれるでしようよ」
「ご親切に」と、エミリーはいった。「ほんとにありがとうございました」
「わたしはね、自らを助けることができるような人の、力になりたいのです」と、ミス・パースハウスがいった。「ときに、わたしがロニーをどう思っているか、まだおたずねになりませんでしたね。きっと、あなたのリストに、あの子ものっているでしょうね。あの子は、あの子なりに善良な若者なんですけど、残念ながら弱いところがあるんです。それに、こんなことをいうのは情けないんですけど、お金のために左右されるようなところがあるんです。一度でもいいから、わたしから離れて、独《ひと》り立ちするところを見られたらと思うんですがね! たまには、わたしに楯《たて》をついて、くたばれ、この婆《ばば》あとでもいってくれたら、十倍もあの子が好きになれるのだということが、あの子にはわからないんですからね」
「あともう一人、この村には、ワイヤット大尉がいますけど、この人は、阿片を飲んでいると思うんですよ。それに、イギリスにいる人間としちゃ、これほど最低の人間はないでしょう。ほかになにか、知っておきたいことがおありですか?」
「いいえ、別に」と、エミリーがいった。「とても、いろいろ含みの多いお話を聞かしていただきましたわ」
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第十八章 シタフォード山荘の訪問
元気よく小径《こみち》を歩いて行くと、エミリーは、いつの間にか、気持ちのよかった朝の様子とは、すっかり変わっているのに気がついた。あたりには霧が深く、身のまわりにすっかり立ちこめていた。
なんてイギリスというところは、おそろしく住みにくいところだろう、と、エミリーは思った。雪や雨や風がないかと思えば、この霧はどう。それに太陽が出れば出るで、手足の指の感じがなくなるほど、とても寒くなるんですもの。
こんなことを考えていたエミリーは、かの女の右の耳のすぐそばで、ややしゃがれた声が話しかけるのに、物思いをさえぎられた。「失礼ですが」と、その声はいった。「ブル・テリヤをお見かけになりませんでしたか?」
エミリーは、ぎくっとして振り向いた。門から身を乗り出すようにして声をかけたのは、ひどく日焼けしたような褐色の顔色に、充血した目、ごま塩の髪の毛の、やせた背の高い男だった。一方の腋の下に松葉杖を突き、おそろしく好奇心にあふれた目で、エミリーを見つめていた。ひと目見ただけで、これこそ三号コテージに住んでいる、病人の、ワイヤット大尉だということが、すぐエミリーにはわかった。
「いいえ、見かけませんでしたわ」と、エミリーはいった。
「じゃ、どこかへいってしまったんだ」と、ワイヤット大尉はいった。「可愛がっている犬なんですが、まったくのばかなんです。それに、こんなに自動車がたくさん来るんで――」
「そんなにたくさん、この道に来るなんて思えませんけど」と、エミリーがいった。
「夏場は、大型の遊覧バスがはいって来ますよ」と、重々しく、ワイヤット大尉がいった。「エクザンプトンから午前のに乗れば、三シリング六ペンスですからね。エクザンプトンから途中のとまりまで来てからのシタフォード信号塔への登りというのは、ちょっと軽い楽しみですからな」
「ええ、でも、いまは夏場じゃありませんでしょう」と、エミリーがいった。
「そういったって、いまも大型バスがはいって来たばかりですよ。きっと、新聞記者連が、シタフォード山荘を見に行ったのでしょう」
「あなたは、トレベリアン大佐のことは、よくご存じだったのでしょう?」と、エミリーがたずねた。エミリーは、ブル・テリヤがいなくなったというのは、ごく当然の好奇心から、つい口を突いて出たワイヤット大尉の口実にすぎなかったのだと、思いいたった。かの女は、現在のシタフォードで第一の関心の的になっているのは、自分であること、だから、ワイヤット大尉が、ほかのだれかれと同じように自分をひと目見たいと思うのは、ごくあたりまえなことだということに、よく気がついていた。
「いや、よくは知らないのです」と、ワイヤット大尉はいった。「このコテージを、わたしに売りつけたのは、あの人ですがね」
「そうなんですの」と、エミリーは、後の話を促すようにいった。
「けちんぼうというのが、あの男のことですよ」と、ワイヤット大尉がいった。「契約には、買い手の好みに応じて家を整備しなけりゃならないとなっているのに、ぼくが、チョコレート色の窓枠《まどわく》をレモン色に塗りかえさせたからといって、その費用を半分払えというんです。しかもいうことがいいじゃありませんか、契約には、どの家も同一の色ということになっているというんですからね」
「じゃ、あなたは、あの人がお好きじゃなかったんですのね」と、エミリーがいった。
「いつも、あの男とはけんかばかりしてましたよ」と、ワイヤット大尉がいった。「だが、けんかといえば、だれとでもしょっちゅうですがね」と、あとから思いついたように、つけ足していった。「こういう場所では、一人だけにしておいてくれと、人に教えてやらなくちゃいけません。でないと、しじゅうドアをノックして、のこのこはいり込んで来て、ぺちゃくちゃおしゃべりをするんですからな。ぼくは、機嫌のいい時なら、人に会うのも気にはならない――が、それは、自分の気分の問題で、他人の気分しだいで来られちゃたまりませんよ。トレベリアンときたら、まるで領主のようにふるまって、いつでも気の向いた時にふらふらとやって来るんですからね、まったく言語道断ですよ。おかげで、いまじゃもう、この土地でだれ一人、やって来る者もないというしまつですよ」と、満足そうに、かれはつけ足していった。
「まあ!」と、エミリーがいった。
「それに、異国の召使をおくのが一番ですね」と、ワイヤット大尉はいって、「いうことをよく聞きわけますからな、おーい、アブダル」と、大声でどなった。
ターバンを頭に巻いた背の高いインド人が、コテージから出て来て、主人の命令を待った。
「どうですか、おはいりになりませんか」と、ワイヤット大尉がいった。「わたしの小さなコテージも見ていただけませんか」
「ありがとうございます」と、エミリーがいった。「でも、あたし、急ぎますから」
「いや、いや、そんなことはないでしょう」と、ワイヤット大尉がいった。
「いいえ、ほんとに急いでおりますの」と、エミリーがいった。「あたし、約束があるものですから」
「当節では、ほんとうの暮らし方というものを、だれも理解しないんですな」と、ワイヤット大尉がいった。「やれ、汽車に乗る、やれ、約束をする、なにもかも時間にしばられる――まったく、なにからなにまでくだらない。太陽とともに起きろ、と、わたしはいうんです。食べたい時に食事をし、時間や月日にしばられるな。わたしに耳をかせば、いかに暮らすべきか、人々に教えてやることができるんですがな」
この、大尉の暮らし方についての高遠な意見も、その結果はあまり望みのないものだと、エミリーは思い返した。ワイヤット大尉以上に、ひどく目もあてられないような人を、かの女は、いまだかつて見たことがなかった。けれども、さしあたっての大尉の好奇心が十分満たされたように感じとったので、エミリーは、約束があるからといいはって、山荘への道を登って行った。
シタフォード山荘は、頑丈なオーク材の玄関のドアがしまり、格好のいいベル、きらきらとみがきたてた真鍮《しんちゅう》の郵便箱がついていた。それらは、一見して、エミリーにも見落とすことのないほど、生活のゆとりと格式の高さとをあらわしていた。ベルを鳴らすと、こざっぱりとしたなりの、紋切《もんき》り型の女中が出て来た。
新聞記者連中が押しかけて、無遠慮になんのかんのといったからだなと、エミリーが推しはかったほど、その出て来た女中は、すぐさまよそよそしい口調で、「ウイレット奥さまは、けさは、どなたにもお会いいたしません」といった。
「あたし、パースハウスさんからのお手紙を持って来たのですけど」と、エミリーはいって、女中に手紙を渡した。
それで、様子ががらりと変わった。女中の顔には、どうしようかという色が浮かんだが、やがて、態度を改めて、「どうぞ、おはいりくださいませ」
エミリーは、家屋周旋人がよくいう「設備の整った玄関の広間」に案内され、そこから大きな応接間に通された。暖炉の火はあかあかと燃えあがっていて、部屋の中には、いかにも女世帯らしいふんい気が漂っていた。
その辺においてある物を見まわしながら、エミリーが、暖炉の火の前で手をかざして暖めていると、ドアがあいて、ちょうど同い年ぐらいの娘がはいって来た。とても美しい娘さんで、そのうえに、なかなか粋《いき》に、高価な服装をしているのに、エミリーは気がついた。と同時に、これほどひどく神経質に不安な精神状態にいる娘を、これまでに見たことはないと思った。といっても、その不安は、これといって表立ってあらわれているのではなかった。ミス・ウイレットは、いかにも気楽そうに堂々とした様子をしていた。「おはようございます」と、かの女はいいながら、進み出て、握手をした。「あいすみません、母は加減が悪いわけじゃないのですが、午前中は、ベッドですごすことになっておりますものですから、まだ降りてまいりませんのですよ」
「ああ、こちらこそあいすみません。ご都合の悪い時に伺ったりしたのじゃないでしょうか」
「いいえ、とんでもございません。ただいま、コックがケーキの作り方をお書きしております。パースハウスさんのお気に召せば、こんなうれしいことはございません。あなたは、あの方のところにお泊まりでいらっしゃいますの?」
エミリーは、自分がどういう人間で、どういうわけでここへ来ているか、ちゃんと気がついていないのは、シタフォードではこの家の人たちだけだろうと思って、心の中で微笑を浮かべた。このシタフォード山荘には、雇い主と雇い人の間にはっきりしたけじめがついていたので、雇い人のほうでは、かの女のことを知っていたかもしれないが――雇い主のほうでは、明らかに、なんにも知ってはいなかった。
「あたし、はっきり申しあげると、あの方のところには泊めていただいてはいませんの」と、エミリーがいった。「実を申しますと、カーチス夫人の家に泊まっているんですの」
「そうでしょうね、コテージは、おそろしく狭すぎますし、あの方のところには、甥ごさんのロニーさんもご一緒にいらっしゃるんでしょう? ですから、あなたをお泊めするお部屋といっても、ございませんでしょうからね。あの方は、ほんとにすばらしい方じゃございませんこと? ずいぶん変わった方だと、いつも思っているんですけど、ほんとは、こわいみたいな方ですわね」
「一人天下だからじゃありません?」と、エミリーは、朗らかに、相手に同意した。「でも、ことさら人が楯《たて》つきさえしなければ、一人天下になってみたいと思いますわ」
ミス・ウイレットはため息をついて、「あたし、人に楯つくことができればいいなと思いますわ」といった。「あたしたち、けさぐらいひどい目にあったことはありませんわ、新聞社の人たちにすっかり悩まされちまって」
「ああ、ごもっともですわ」と、エミリーがいった。「ここは、ほんとうはトレベリアン大佐のお家なんでしょう――エクザンプトンで殺害されなすった、あの方の」
エミリーは、なんとかして、バイオレット・ウイレットの不安のほんとうの原因を突きとめようとしていた。明らかに、相手の娘は、びくびくとしている様子だった。なにかが、かの女をおびやかしていた――そして、ひどくおびえていた。エミリーは、ことさらぶっきらぼうに、トレベリアン大佐の名前を口に出してみたのだ。が、相手の娘は、どうみても目につくほどの反応を示さなかった。しかし、そのあとで、なにかそれについての話が出てくるだろうと待ち構える気持ちだった。
「そうなんですの。ほんとに恐ろしいことじゃありませんか?」
「ねえ――よろしかったら、あたしにお話してくださいませんこと?」
「いいえ――とんでもない――むろん、できませんわ――どうして、お話しなんかできるとお思いになるの?」
このひと、なんだか知らないけど、ひどくどうかしているんだわ、と、エミリーは、胸の中で思った。なにをいっているのか、自分でもわからないんだわ。けさ、このひとをこれほどまでにおびえさせたものは、いったいなんだったんだろう?
「あの『こっくりさま』のこと」と、エミリーは言葉をつづけた。「ほんの偶然のことから、あたし、聞いたんですけど、とてもおもしろいことのような気がしたんです――いいえ、ほんとに気味が悪くて、身の毛もよだつようですわね」|若い娘らしくぞっとして見せなくちゃ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、と、エミリーは、肚の中で思った。それが、あたしの役割なんだわ。
「ああ、ぞっとしましたわ」と、バイオレットがいった。「あの晩のこと――あたし、一生忘れませんわ! あたしたち、もちろん、だれかが冗談をしていらっしゃるのだとばかり思ってましたの――ただ、ひどくいやないたずらだなという気がしただけなんです」
「そうですの?」
「あたし、電気がついた時のことを、けっして忘れられませんわ――だれもかれも、とても変な顔つきでした。でも、デュークさんとバーナビー少佐だけは別でした――あの方たちは、鈍感というんでしょうね。あんなふうなことに心を動かされたなんて、どんなことがあったって自分からはおっしゃりはしませんわ。でも、バーナビー少佐がほんとうに、恐ろしいほど驚いていらしたことはわかりますわ。あたし、ほかのどなたよりも、実際にお告げを信じたのは少佐だと思います。ですけど、胸にショックを受けたのは、あのみすぼらしい|ちび《ヽヽ》のライクロフトさんじゃないでしょうか。そういっても、ずいぶん心霊研究をなすっていらっしゃるおかげで、きっと、ああいったことには慣れていらっしゃるにちがいありませんわ。それから、ロニー、ご存じでしょう、ロニー・ガーフィールド――あの人ときたら、まるで幽霊でも――ほんとうに見たように――まっ青な顔でしたわ。もちろん、うちの母ときたら、すっかりびっくり仰天してしまって――あたし、あんなにたまげた母を、いままでに見たこともありませんでしたわ」
「きっと気味が悪かったでしょうね」と、エミリーがいった。「あたし、その場にいて、見てみたかったわね」
「ほんとうに、身の毛もよだつようでしたわよ。はじめは、あたしたちみんな、平気なふうをしてたんですの――ただの冗談ごとのようなふうをね。でも、そういかなくなってしまったんですの。そのうえ、バーナビー少佐が、突然、エクザンプトンへ行ってみると決心なすったんで、あたしたちみんなで、お止めしようとして、吹雪に埋もれておしまいになるからって、口をそろえていったんですけど、どうしても行くって、そうおっしゃるんです。で、少佐が行っておしまいになった後、あたしたち、みんな恐ろしい気はするし、ただただ心配で、すわっているだけでしたわ。ところが、ゆうべ――いいえ、きのうの朝――あの知らせでしょう」
「じゃ、あのお告げは、トレベリアン大佐の霊が現われたのだとお考えなんですのね?」と、エミリーは、恐ろしいといった口調でいった。「それとも、異常な洞察力《どうさつりょく》とか精神感応力のようなものだとお思いになるんですか?」
「さあ、わかりませんわ。でも、けっして、けっして二度と心霊現象をばかにするようなことはしませんわ」
その時、女中が小盆の上に折り畳んだ紙片をのせてはいって来て、それをバイオレットに手渡した。女中が引きさがって行くと、バイオレットは、その紙を開き目を通したうえで、エミリーに手渡しながら、
「はい、ではどうぞ」といった。「実をいうと、ちょうどいい時においでになりましたのよ。この殺人事件で、召使たちはすっかりおじけづいちまったんでしようね。こんな世間から遠く離れた山奥にいたんじゃ、あぶなくてなにが起こるかわからないと思うらしいんですの。それで、うちの母が、きのうの夕方、あの連中にすっかり腹を立ててしまって、すっかり荷をまとめて出て行かせることにしてしまったんです。みんな、お昼の食事がすんだら、出て行くことになっているんですの。でも代わりに、二人ばかり男の人を雇うことになっているんです――給仕を一人と、執事を兼ねた運転手を一人とね。これでずっと良くなると思いますわ」
「召使なんて、単純なものですものね、そうでしょう?」と、エミリーがいった。
「たとえトレベリアン大佐が、この家で殺されなすったからって、別にあの連中に危険なことはないんですものね」
「でも、どうしてまた、ここへお住まいになるなんてお考えになりましたんですの?」と、いかにも無邪気に、娘らしく聞こえるような調子で、エミリーがたずねた。
「あら、かえっておもしろいだろうと思ったんですのよ」と、バイオレットがいった。
「退屈なさいません?」
「いいえ、とんでもない。あたし、いなかが好きなんですの」だが、口ではそういうものの、かの女の目は、エミリーのそれを避けるようにしていた。ほんの一瞬、バイオレットは、なにかうろんな、物おじしたような顔つきをした。
バイオレットは、おちつかない様子で、椅子の中で、身をもじもじしていた。それで、エミリーは、しぶしぶ腰をあげて、「あたし、もうおいとましなくちゃいけませんわ」といった、「どうも大変ありがとうございました、ミス・ウイレット、どうぞお母さまのおからだをお大事になすってくださいませ」
「あら、からだのほうは、ほんとにもうよろしいんですの。ただ召使のことや――いろいろ心配が重なったものですから」
「そうでいらっしゃいましょうね」
機敏に、相手にさとられないように、エミリーは、自分の手袋を小さなテーブルの上に、うまいこと残して置いた。バイオレット・ウイレットは、玄関の戸口までエミリーを送り出し、二人は、楽しげな挨拶の言葉を交わして別れた。
たずねて来た時に、ドアをあけてくれた女中が、また鍵をはずしてくれたが、バイオレット・ウイレットが、帰って行くお客のあとをしめたので、エミリーには、鍵のかかる音が耳にはいらなかった。
エミリーは、シタフォード山荘をたずねてみて、山荘について抱いていた推測が、それまで以上に強くなった。たしかにここには、なにか怪しい気配がにおっている。バイオレット・ウイレットが、直接事件に関係しているという気は、エミリーにはしなかった――もっとも、バイオレットが、非常に頭のいい役者なら、話はまた別のことだ。だが、とにかく、なにか様子の違っているところがある。そのなにかは、きっとこの惨劇と関係があるに相違ない。ウイレット家とトレベリアン大佐の間には、なにかのつながりがあるに相違ない。そして、そのつながりの中に、この謎を解く手がかりがあるのではなかろうか。
エミリーは、玄関の戸口まで引き返して来て、そっとハンドルをまわし、閾《しきい》を通り越した。ホールには、がらんとして人の姿もなかった。つぎにはどうしたらいいものだろうかと心がきまらないまま、エミリーは立ちどまった。口実はもうけてある――前もって考えたあげく、応接間に手袋を残してあった。じっと耳をそばだてたまま、エミリーは、身動きもせずにたたずんでいた。二階からごくかすかな、つぶやくような声が聞こえてくるほかには、どこにも物音一つしなかった。できるだけ静かに足音をぬすんで、エミリーは、階段の下に忍び寄って、上の方をうかがった。それから、用心の上にも用心をして、一足ずつ登って行った。きわどいといえば、これほどきわどいことはなかった。まさか、かの女の手袋に足がはえて二階に登って行ったとは、どんなことがあったっていいくるめることはできないだろう。だが、どうしても、いま上で交わされている話を盗み聞きしたいという、燃えるような欲望を押えることはできなかった。近代の建築家というものは、ドアがぴったりとしまるようにはけっして造っていないというのが、エミリーの意見だった。現に、下のここからでさえ、聞こうと思えば、上のつぶやくような声が聞こえるではないか。だから、ドアのところまでたどりつくことさえできれば、部屋の中で交わされている話も、はっきりと聞きとれるにちがいないだろう。もう一段――さらにもう一段……二人の女の声――疑いもなくバイオレットと、かの女の母親の声だ。
突然、会話がとだえた――足音。エミリーは、さっとあともどりした。
バイオレット・ウイレットは、母親の部屋のドアをあけて、階段を降りて来た時、さきほど帰ったばかりのお客が、ホールフまん中に突っ立って、道に迷った犬のように、うろうろとそこを見まわしているのを見て、すっかりきもをつぶしてしまった。
「あたしの手袋なんですの」と、いいわけするようにエミリーがいった。「きっと忘れて行ったのだと思って、とりにもどって来たんですの」
「きっと、ここにありますわ」と、バイオレットがいった。
二人が応接間にはいって行くと、まさしく、さきほどエミリーが腰をおろしていたそばの小テーブルの上に、忘れた手袋がのっかっていた。
「あら、どうもありがとう」と、エミリーがいった。「あたしって、なんてばかなんでしょう。いつでも、なんかかんか忘れてしまうんですよ」
「でも、こんな気候の時には、どうしても手袋はいりますわ」と、バイオレットがいった。「ほんとに寒いんですもの」再び、二人は、玄関の戸口で別れたが、こんどは、鍵のかかる音が、はっきりエミリーに聞こえた。
エミリーは、車道を降りて行った。考えるあとからあとから、考えることがいっぱいわいてきた。それも、二階の踊り場のドアがあいていて、老夫人のいらだった、哀《かな》しげに訴えるような声でいう言葉をはっきりと聞いたからだ。
「ああ」と、その声は、悲しげにいった。「|わたし《ヽヽヽ》、|もうたまらないわ《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》。|今夜も来ないんだろうか《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》?」
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第十九章 推測
エミリーがコテージに帰ってみると、かの女のボーイフレンドはいなかった。カーチス夫人の話によると、かれは、二、三人の若い男といっしょに出かけたということだったが、電報が二通、エミリーあてに来ていた。エミリーがそれを受け取って開くと、すぐにセーターのポケットにしまい込んでしまったので、カーチス夫人は、その間じゅう、いかにもなんのことか知りたいといった目つきで、その電報の方を見つめていたが、「悪い知らせじゃないんでしょうね?」といった。
「いいえ、そうじゃないの」と、エミリーがいった。
「いつでも、電報と聞くと、わたしはびくっとするんですよ」と、カーチス夫人がいった。
「ほんとう」と、エミリーがいった。「ぎくっとするわね」
その時のエミリーは、たったひとりにならなければ、なんにも手につかないような気がしていた。とにかく自分の考えを整理して、きちんとまとめてみたかった。それで、自分の部屋へあがって行って、鉛筆とノートを取り出すと、自分自身の方式に従って、一応の筋道を立ててみようという仕事にかかった。二十分ほど、この仕事にかかっていると、エンダービー氏がはいって来て、その仕事を打ち切らなければならなかった。
「やあ、やあ、ここにいたんですか。新聞記者連中ときたら、あなたの行き先をさぐろうと思って午前中かかったらしいんですが、どこをさがしても、あなたがつかまらなかったらしいんですよ、とにかく、あなたのことについては心配する必要はないと、ぼくはいってやりましたよ。こと、あなたに関するかぎりは、ぼくが一番有力なんだとね」
チャールズは、くつくつと笑いながら、「うらやましいとか、ねたましいとか、そんなもんじゃあありませんよ!」といった。「だから、ぼくも、あることないこと、さんざっぱらしゃべりまくって、奴さんたちをからかってやりましたよ。ぼくは、奴さんたちをみんな、よく知ってるんです。こういうことにかけちゃ、ぼくは名人なんですよ。ほんとうだといえば、ちょっとうますぎますからね。いまにも目がさめるんじゃないかって気がして、ちょっと自分をつねってみたりしてましたよ。ところで、霧が出てきたのに気がつきましたか?」
「霧が出たからって、きょうの午後、エクセターへ行くのはやめなきゃならないほどじゃないでしょう?」と、エミリーがいった。
「エクセターへ行きたいというんですか?」
「ええ。ダクレスさんにお目にかからなくちゃなりませんの。ご存じでしょう、弁護士の――ジムの弁護をお願いしている方。あたしに会いたがっていらっしゃるの。それから、エクセターに行くついでに、ジムの伯母さんのジェニファーもおたずねしたいと思うの。とにかく、エクセターまでは、ほんの三十分の道のりですものね」
「というと、その伯母さんがすばやいとこ汽車でやって来て、兄の大佐の頭をなぐりつけたが、伯母さんの留守《るす》に気がついた者はだれもいなかったというんですね」
「いいえ、そんなことは、まあありそうもないことだとは思っているんですけど、なんでも一応はあたってみなけりゃいけないと思うんです。ジェニファー伯母さんという人がそうだとは思いたくないんです――そうじゃなく、むしろ、マーチン・ダーリングのほうに重きをおいているんです。あたし、義理の兄になるということにつけこんで、人前で、正面きってなじるようなことをする人、嫌いですわ」
「そういうような男ですか、その男は?」
「まったくそういうような男よ。あの男だったら、人殺しにぴったりよ――しょっちゅう、出版屋から電報で金を受け取ると、たちまち競馬ですってしまうんですって。でもやっかいなことには、アリバイだけは立派にあるのよ。ダクレスさんも、そのことを話してくだすったんだけど、ダーリングが出席した文学関係の晩餐会《ばんさんかい》というのは、立派なものでアリバイは破れそうもないらしいの」
「文学関係の晩餐会ね」と、エンダービーがいった。「金曜日の晩――マーチン・ダーリングと――ちょっと待ってくださいよ――マーチン・ダーリングね――うん、そうだ――間違いなし。畜生、そうに違いないが、カラザースに電報で問い合わせてみれば、はっきりわかるぞ」
「ねえ、いったいなんのことをいってるの?」と、エミリーがいった。
「こうなんです。ぼくが金曜日の晩に、エクザンプトンへやって来たことは、あなたも知っているでしょう。ところが、ぼくは仲間のある新聞記者から、ちょっとしたニュースをもらうことになっていたのです、カラザースという男ですがね。その男が、できれば、六時半ごろ、ぼくに会いに来ることになっていたんです――ある文学関係の晩餐会に行く前にね――この男は、ちょっとまあ名士とでもいうんですかね。カラザースは、その都合がつかない場合には、エクザンプトンの方へ連絡するということになっていたのです。それで、都合がつかなかったものですから、こっちへ手紙で連絡してきたんです」
「だけど、それとこんどのことと、どんな関係があるんですの?」と、エミリーがいった。
「まあ、そうやいやいいわないでくださいよ、これから要点にはいるとこなんですから。それで、あの老いぼれの野郎、ぼくに手紙を書いた時に、いやにひねくれてやがってね――自分は、晩餐会でうまいことやっておきながらね――ぼくに約束の記事を知らせてよこしたあとで、なんだかおもしろくもないことを、いやにだらだらと書きつらねてね。わかるでしょう――有名な小説家や高名な劇作家のテーブルスピーチがどうだったとかこうだったとかね。ところで、その晩餐会で、ひどい席にすわらされたと、かれは書いているんです。会場へ行って指定の席にすわったところが、両側とも空席で、片方ははなばなしいベストセラーの女流作家の、ルビー・マッカルモットがすわることになっているし、もう一方の隣は、セックス専門の作家のマーチン・ダーリングが掛けることになっているので、両側とも空席でぽかんとしているわけにもいかないので、カラザースは、ブラックヒースの有名な詩人の隣に移って、できるだけおもしろい話をして楽しく晩餐をしようとしたと、こう書いてきたんですがね。どうです、要点はおわかりでしょう?」
「まあチャールズ! あなた!」と、エミリーは、すっかり興奮して、感情を押えることができなくなった。「なんてすばらしいの。じゃ、あの野獣のような男は、とうとう、晩餐会には出なかったというのね?」
「まさにそのとおり」
「確かに、その名前、間違いなくおぼえているんでしょうね?」
「確かですとも。手紙を破ってしまったのは、あいにくだったが、いつでもカラザースに電報を打って確かめられますよ。だが、ぼくが間違っていないということは、絶対にいえますよ」
「それに、出版屋さんがいるわ、もちろん」と、エミリーがいった。「午後ずうっと、かれといっしょだった人が。でも、その出版屋さん、アメリカへ帰ってしまったんじゃないかと思うの。もし、そうだとすると、いよいよ臭いわ。ということは、ダーリングが、大変な骨を折らなきゃたずねられないような相手ばかり選んでいるような気がするってことなの」
「すると、あなたは、的《まと》を射たと、ほんとに考えるんですか?」
「ええ、そうらしいわね。あたし、どうするのが一番いいかといえば――まっすぐに、あの頭のいいナラコット警部のところへ行って、この新しい事実を知らせるべきだと思うのよ。だって、あたしたち、航海中のアメリカの出版屋さんをつかまえるわけにはいかないでしょう。これこそ警察の仕事じゃありませんか」
「そうだ、こいつがものになったら、すごい特種だぞ!」と、エンダービー氏がいった。「そうなれば、ぼくは思うに、デイリー・ワイヤー社だって、ぼくをあまり軽く扱うようなことはいい出せないだろうと――」
エミリーは、そのかれの出世の夢を容赦なく破るように、「でも、そんなことで、うろたえてちゃいけないわ」といった。「つまらないことはいっさい、風に吹き飛ばしちゃいなさいよ。それよりまず、エクセターへ行かなくちゃいけないわ。たぶん、あしたまでは、ここへ帰って来られないでしょうと思うんですけど、あなたにしていただきたいことがあるの」
「どんなことです?」
エミリーは、ウイレット家をたずねて行った時に立ち聞きした、あの夫人の奇妙な言葉を話して聞かせてから、「それでね、今晩、どんなことが起こるか、絶対に確かめてみなければならないと思うの。きっと、なにか起こると思うの」
「これはまた思いがけないことですね!」
「でしょう? でも、むろん、なんかの間違いかもしれないわ。それとも、そうじゃないかもしれない――でも、召使たちが一人残らず暇を出されるなんて、確かに注意するだけの価値はあるわ。なにかいかがわしいことが、今晩、あすこで起ころうとしているのよ。だから、あなたには、その現場を見届けていただかなくちゃいけないと思うの」
「じゃ、一晩じゅう、庭の草むらの中で震えていなくちゃいけないというんですね?」
「そうよ、そんなこと気になさらないわね? 新聞記者なら、立派な記事のためなら、なにをするのも気になんかかけないというじゃありませんか」
「そんなこと、だれがいったんです?」
「だれがいったって気になさることないじゃない、あたしは、ちゃんと知っているんですもの。ね、やってくださるわね?」
「ああ、そりゃあね」と、チャールズはいった。「ぼくだって、どんなことだって見落とすつもりはありませんよ。今晩、シタフォード山荘で、なにか奇怪なことがあるというんなら、行ってみますよ」
そこで、エミリーは、トランクのラベルの話をしてきかせた。
「おかしいですね」と、エンダービー氏はいった。「オーストラリアといえば、ピアスン家の三番目の子供がいるところでしょう? 末っ子の。まあそういったって、むろん、なんでもないでしょうが、でもね――そうだ、なにか関係があるかもしれませんね」
「そうね」と、エミリーがいった。「あたしのほうは、それだけだと思うのよ。ところで、あなたのほうには、なにか知らせていただくことはないんですの?」
「そうですね」と、チャールズがいった。「ぼくには、一つ考えがあるんですがね」
「それで?」
「あなたの気に入るかどうかわからないが、一つあるんです」
「どういうこと――あたしの気に入るかどうかわからないとおっしゃるのは?」
「食ってかからないでしょうね」
「と思うわ。つまり、どんなことをおっしゃっても、じっとおとなしく伺えるようにしたいということなの」
「つまり、こういうことなんです」と、チャールズ・エンダービーは、どっちつかずの目つきで、かの女を見つめながらいった。「別に、あなたにいやな思いをさせようとか、なんかそんなことをいうつもりはないんですが、あなたの彼氏が、正真正銘の真実をいっていると、あなたは思いますか?」
「とおっしゃると、つまり、ジムが、トレベリアン大佐を殺したのだとおっしゃるのね? 結構ですわ、どうぞお好きなようにお考えになってちょうだい。あたし、はじめにあなたに、こう申しあげたはずですわ、ジムを犯人だとする見方は、一番ありふれた見方ではあるでしょうけれど、あたしたちは、かれがやったのではないという仮定の上に立って出発しなければなりませんって、そう申しあげましたわね」
「いや、そういう意味じゃないんです」と、エンダービーがいった。「ジムが、あの爺《じい》さんをやったんではないという仮定においては、ぼくもあなたと同意見です。ぼくのいうのはこうです。ジム自身の話が、ほんとうにあったことと、ずれているんじゃないだろうか? ということです。ジムの話によると、ジムは、あの家へ行って、老人と雑談をして帰って来たが、その時には、大佐は元気そのものだったと、こうでしたね」
「そうよ」
「ねえ、ふっとそういう気がしたんですがね、かれがあの家へ行った時には、もう老人が実際には死んでいるのを見たのじゃないかとは思いませんか? つまり、ジムはびっくりして恐ろしくなって、ほんとうのことをいいたくないのじゃないかと、いうことですよ」
チャールズは、この推理を半信半疑のていで口に出したが、エミリーが別に腹を立てるような色も浮かべなかったので、かれは、ほっと胸をなでおろした。その代わりに、エミリーは眉をひそめ、額に皺を寄せてすっかり考え込んでいたが、「あたし、別に虚勢を張るつもりはありませんけど」といった。「そうね、確かにありうることね。いままでは、そんなこと考えてもみなかったけど。あたし、ジムが人を殺すようなことはしない人だとは、よくわかっているつもりですけど、ただ、すっかり興奮してしまって、ばかばかしい嘘をしゃべったあげく、そのあとで、もちろん、どこまでもそれに固執しているのかもしれませんわね」
「やっかいなことには、いますぐ、あなたがジムのところへ行って、それを聞き正せないってことですよ。つまり、警察では、あなたひとりだけでは、かれに会わせないでしょうからね?」
「ダクレスさんに会っていただきますわ」と、エミリーがいった。「弁護士さんだったら、ひとりでも会えるでしょう。なんといってもジムの一番悪いところは、おそろしく強情なとこなの。一度いい出したら、どこまでもそれにかじりついてあとに引かないということなんですの」
「ぼくの話はそれだけですが、ぼくも絶対にあとには引かないつもりですよ」と、よくわかっているといったように、エンダービー氏はいった。
「そう。でも、あたしの気のつかない、あなたの見込みをいっていただいて、とてもありがたいわ、チャールズ。そんなこと、あたしには夢にも思い浮かばなかったんですもの。あたしたちは、ジムが去ったあとからはいって来た人をさがしていたんだけど――けど、もし、はいったのが前だったとしたら――」
エミリーは、物思いにすっかり我を忘れてしまって、言葉をつづけなかった。二つの全然違う推理が、正反対の方向に延びてゆくからだった。その一つは、ライクロフト氏がにおわした推理で、その示唆《しさ》の中では、ジムが伯父さんとけんかをしたということが、決定的なポイントだった。けれども、もう一つの推理となると、ジムは、どのような点からも審理など受けることはなくなるのだ。で、まず最初にしなければならぬことは、大佐の死体を最初に検屍した医師に会ってみることだと、エミリーは感じた。もしも、トレベリアン大佐の殺されたのが――かりに――四時と考えられるということにでもなれば、アリバイの問題にも少なからぬ変化が起こるのを無視することはできない。そのつぎになすべきことは、ダクレス氏に頼んで、真実を語ることが絶対に必要だということを、強くジムに説得してもらうことだ。
エミリーは、ベッドから立ちあがって、「ねえ」といった。「どうやったら、あたしがエクザンプトンへ行けるか、ようく考えてちょうだい。鍛冶屋が、自動車らしいものを持っていると思うけど、あなた、行って話をきめてきてくださらない? 昼のご飯を食べたら、すぐ出かけますわ。エクセターへ行くのは、三時十分の汽車だから、まだお医者さんに会う時間があると思うの。いま、何時かしら?」
「十二時三十分」と、エンダービー氏は、時計を見ながらいった。
「じゃ二人でいっしょに出かけて、その車のことをきめてきましょう」と、エミリーがいった。
「それからシタフォードを出かける前に、あたし、一つだけしておきたいことがあるんです」
「なんです?」
「デュークさんをたずねたいと思うの。シタフォードでまだお会いしてないのは、あの人だけなんですもの、それにやっぱり『こっくりさま』のメンバーですからね」
「ああ、鍛冶屋へ行く途中で、あの人のコテージを通るから、ちょうどいい」
デューク氏のコテージは、山荘からの小径寄りに順々にコテージが並んでいる中の、一番最後にあった。エミリーとチャールズとは、門の閂《かんぬき》をはずして、小道づたいに登りかげんに足を運んで行くと、ちょっと思いもよらぬようなことにでくわした。ドアがあくと、一人の男が出て来たのだが、その男とはだれあろう、ナラコット警部だったのだ。警部のほうでも驚いたらしかったが、エミリーのほうでも、そんなこと、とても考えられないことだったので、どぎまぎしてしまった。
エミリーは、最初のデューク氏をたずねようという考えをすててしまって、「お目にかかれて、ほんとにうれしいですわ、警部さん」といった。「ちょっと一つ二つ、お話ししたいことがあるんですの」
「やあ、こりゃこりゃ、ミス・トレフュシス」と、警部は、時計を出して見て、「残念ながら、あなたはお急ぎらしいが、わたしは、車も待たせてあるくらいで、いまからすぐにエクザンプトンまで引っ返さなくちゃならんのです」
「まあ、なんて運がいいんでしょう」と、エミリーが喜びの声をあげた。「じゃ、ごいっしょに乗せて行ってくださいません、警部さん?」
警部は、むしろ無表情に、喜んでお乗せしようといった。
「急いで行って、あたしのスーツケースを持って来てくださいな、チャールズ」と、エミリーがいった。「ちゃんと荷作りはしてありますから」
チャールズは、即座に走って行った。
「ここで、あなたにお目にかかるとは、ほんとに意外でしたな、ミス・トレフュシス」と、ナラコット警部がいった。
「あたし、またお目にかかりますわ、って、申しあげたでしょう」と、エミリーは、相手に思い出させるようにいった。
「気がつきませんでしたな、その時には」
「あれがけっして最後じゃなかったんですわ」と、エミリーは、無遠慮にいった。「ねえ、ナラコット警部さん、あなたは、間違っていらっしゃるのよ。あなたが追っかけていらっしゃる男は、ジムじゃありませんわ」
「まさか!」
「それどころか」と、エミリー、がいった。「心の中では、あたしと同じことを考えていらっしゃるんだと思いますわ」
「いったい、どんなことから、そんなことを、あなたは思うんです、ミス・トレフュシス?」
「じゃ、デュークさんのコテージで、なにをしていらっしゃいましたの、あなたは?」
ナラコットは、すっかりどぎまぎした顔つきだった。エミリーは、すぐそれにつけこんでいった。
「あなたは、疑っていらっしゃるのよ、警部さん――そのとおりなの――疑っていらっしゃるのよ。最初、あなたは、間違いなく犯人をつかまえたと思っていらっしゃったのに、いまでは、それに確信が持てなくなったものだから、それで、あれこれと捜査をしていらっしゃるんでしょう。ちょうどいい。あたし、あなたのお役に立つと思うことを、お話ししなけりゃならないと思っていましたの。エクザンプトンへ着くまでに、お話ししますわ」
足音が、道路に聞こえて来たかと思うと、ロニー・ガーフィールドの姿があらわれた。その様子には、なにかずるいような、うしろめたいようなふうで、「ねえ、ミス・トレフュシス」と口をきった。「きょう午後、散歩でもしませんか? 伯母が昼寝をしている間に」
「だめですわ」と、エミリーがいった。「あたし、出かけるんですの、エクセターへ」
「なんですって、ほんとじゃないんでしょう――帰っておしまいになるんですか?」
「いいえ、ちがうの」と、エミリーがいった。「あすまた、もどって来ますわ」
「ああ、よかった」
エミリーは、セーターのポケットからなにかを取り出すと、それをロニーに渡して、「これを伯母さまにあげてくださいます? コーヒーケーキの作り方なんですの。それから、ちょうど都合よく行きましたと伝えてくださいね。コックさんもほかの召使たちも、きょう山荘から出て行くことになっていたところでしたとね。忘れないように、そうおっしゃってくださいね、伯母さま、おもしろがるにきまっているのが目に見えるようですわ」
遠くの方から、きいきいと叫ぶような声が風にのって聞こえてきた。「ロニー」と、その声はいっていた。「ロニー、ロニー」
「あれは伯母の声です」と、ロニーは、神経質に行きかけながら、いった。「行ったほうがよさそうです」
「そうよ」と、エミリーがいった。「あら、左の頬にペンキがついてますわよ」と、走り去って行くロニーの背に、エミリーは声をかけた。ロニー・ガーフィールドは、伯母のコテージの門から奥へ消えて行った。
「さあ、あたしのボーイフレンドが、スーツケースを持って来てくれましたわ」と、エミリーがいった。
「どうぞ、警部さん、車の中で、なにからなにまでお話ししますわ」
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第二十章 ジェニファー伯母
二時半に、医師のワーレン博士は、エミリーの訪問を受けた。博士は、たちまち、このてきぱきとした、魅力のある娘に好感を持った。かの女の質問は、率直で、要点に触れていた。
「なるほど、ミス・トレフュシス、あなたのおっしゃることはよくわかります。あなたも了解しておいでだろうが、探偵小説などで一般に信じられていることとは反対に、死亡時刻を決定するということは、きわめて困難なことなのです。わたしが死体を見たのは、八時でした。そのわたしに断言できることは、トレベリアン大佐の死体が、死後すくなくとも二時間はたっていたということです。それ以上、どれくらいたっていたかは、ちょっといいかねます。四時に殺されたのではないかと、あなたがおっしゃるのなら、しいていえば、そういうこともありうるとだけしか、わたしにはご返事できません。もっとも、わたしの意見では、それよりもっと遅い時刻じゃないかというのですがね。反対に、四時よりもずっと前に殺されたものでないことは確実です。まあ四時半というところが、ぎりぎりのところだと思いますな」
「ありがとうございました」と、エミリーがいった。「伺いたかったのは、それだけでございますの」
エミリーは、停車場へ駆けつけて三時十分の汽車に乗って、弁護士のダクレス氏の滞在しているホテルへ直行した。二人の面会は、ごく事務的に、感情など別にまじえないで、すらすらと行なわれた。ダクレス氏は、エミリーが、まだ小さな子供だったころから、よく知っていたばかりでなく、年ごろになってからも、いろいろかの女の身の回りにことが起こるたびに、なにかとめんどうを見てきていたのだ。
「なにがあっても驚かない心構えだけはしておかなければいけないよ、エミリー」と、ダクレス氏はいった。「どうも事態は、われわれが想像していたよりも、ずっと、ジム・ピアスンによくないのだよ」
「よくないんですって?」
「そうなんだ。遠まわしにいっても、なんの役にも立つまいからはっきりいうんだがね。ジムの立場をきわめて悪くするようなある事実が、明るみに出てきたのだよ。ジムを黒と、はっきり警察の決め手になってしまうような事実なのだ。そういう事実を、あんたに隠したりすることになると、かえって、あんたのためにならないと思うのでね」
「どうぞ、おっしゃってくださいな」と、エミリーがいった。
エミリーの声は、覚悟はきめたというように、完全に、冷静だった。心の中では、どんなショックを受けようとも、けっして肚の中の気持ちは、面には出すまいと、固く心に思っていた。ジム・ピアスンを救おうとしているのは感情ではなくて、知力だった。いまはただ、できるだけ頭を働かせて用心をしなければならなかった。
「ジムが、さしあたって金の必要に迫られていたことは、疑いのないことなのだ。そのことの良し悪しを、いまここでいおうとは思わないが、ピアスンは、以前からちょくちょく金を借りていたのだ――とまあ体裁よくいえばそうだが――会社からね――はっきりいうと、無断借用というやつさ。ジムは、株をいじることが好きな男でね、以前に、一度こんなことがあった。一週間すれば、手もとに配当の金がはいって来るのを知って、間違いなく騰《あが》るとにらんだ株を、会社の金を使って、先物買いをしたのだね。その売買は、うまく当たって、金は、元どおり会社へ返した。だもんだから、ピアスンは、株の売買をあぶないなどとは思わなくなってしまったらしいんだ。現に、一週間前に、またそいつをやったのだね。ところが、こんどは、思いもかけないことが持ちあがってしまったのだ。会社の帳簿というものは、ある一定の時期に検査をされることになっているものなんだ、ところが、なんかの理由で、その日が繰上げになったものだから、ピアスンは、にっちもさっちもいかない窮地に陥ってしまったというわけだ。そうなると、使い込みはばれるし、その使い込んだ金も、とうてい埋めることができないとは、自分でもさとったんだね。で、四方八方飛びまわって、手を尽くしてみたんだが、どうもうまくゆかないものだから、最後の手段として、デボンシャーまで駆けつけて、伯父さんの前にいっさいを打ち明けて、ぜひとも助けてくれと頼み込むしかないと、肚をきめたというわけだ。ところが、頼みの綱のトレベリアン大佐が、断固としてその頼みを蹴ってしまったというわけだ。
さあそこなんだがね、エミリー、こういう事実が明かるみに出てしまうことは絶対に、防げないだろうと思うのだ。警察のほうでも、もうすでに、この事実をかぎ出してしまったのだね。だからねえ、ジムにはせっぱつまった、眉に火のつくような犯行の動機があるとは、あんたには思えないかね? つまり、トレベリアン大佐が死ねば、必要なだけの金額を、遺言執行人のカークウッド氏から、前渡しとして手に入れることは、ピアスンにはごくわけのないことだし、災難からも、横領罪に問われることもなくて助かるんだからね」
「ほんとに、ばかな人ね」と、がっかりしたように、エミリーはいった。
「ほんとにそうだよ」と、ダクレス氏は、そっけなくいった。「まあわれわれに弁護できる、ただ一つのチャンスは、ジム・ピアスンが、伯父さんの遺言の内容を全然知らなかったということを証明することだけしかないね」
しばらくの間、エミリーは、じっとそのことを考えていたが、やがて、静かにいった。「それはだめでしょうね。あの人たち三人とも――シルビアもジムもブライアンも――みんな遺言書のことを知っていて、おりおり、そのことを話し合ったり、デボンシャーの金持ちの伯父さんのことを笑ったり、冗談をいったりしていたんですもの」
「うん、うん、エミリー」と、ダクレス氏がいった。「運が悪いね」
「あなたは、あの人のことを有罪だとは思っていらっしゃらないんですのね、ダクレスさん?」
「まったく不思議なことに、有罪とは思えないのだよ」と、弁護士がこたえた。「どちらかというと、ジム・ピアスンは、非常に率直な青年なんだ。こういっちゃ、あんたは気を悪くするかもしれないがね、エミリー、かれは、会社員としての正直さという点では、あまり高い点はつけられないと思うのだね。が、そうかといって、かれの手が砂嚢を振り上げて伯父さんをなぐりつけたとは、ちょっと、信じられないのだ」
「ほんとに、いいことをいっていただきましたわ」と、エミリーがいった。「警察でも同じように考えてくれるといいんですけどね」
「まったくそのとおりだね。わたしたち自身の印象や考えなどというものは、実際には役に立たないものさ。残念ながら、かれにとって情況はきわめて不利なのだ。わたしは、形勢が悪いということを、おまえさんに隠しておきたくない。法廷での弁護には、王室弁護士のロリマーがいいと思うんだがね。世間では、かれのことを、どんな最悪の場合でも決死的にたたかう男だといっているくらいだからね」と、元気よくいい足した。
「あたし、もう一つ、伺っておきたいことがあるんですの」と、エミリーはいった。「もちろん、ジムには会ってくだすったんでしょう?」
「もちろんさ」
「なにかほかの点で、ジムが正直にお話ししたとお思いになることがあったら、はっきり話していただきたいと思うんですけど」そういってから、エミリーは、エンダービーがかの女に遠まわしにいったことを、ざっと話して聞かせた。
弁護士は、返事の言葉を口から出すまでの間、しばらく、そのことをようく考えてから、「これは、わたしの受けた感じなんだが」といった。「ジムが伯父さんと会った時の話は、正直にほんとうのことをしゃべっていると思うね。ところが、ジムが事件についての話をまずく結末をつけていることだけは、いささかも疑いないことなんだね。もしも、ジムが窓の方へ回って行って、そこから家の中へはいって、伯父さんの死体にぶつかったとしたらだよ――すっかり胆をつぶしてしまって、ろくに事実を見ようともせず、いまの話とはちがったほかの話をでっちあげたろうと思うんだね」
「あたしが考えていたこともそのことですの」と、エミリーがいった。「このつぎ、お会いになりましたら、ダクレスさん、正直にほんとうのことをいうように、ジムにおっしゃっていただけません? とてもおそろしいほど事情が違ってくるかもしれないんですもの」
「ああ、そうしましょう。そうはいっても」と、一、二分、間をおいて、ダクレスはいった。「やっぱり、その考えは、間違っていると思うね。トレベリアン大佐が殺されたというニュースが、エクザンプトンじゅうに知れ渡ったのは、午後の七時半ごろのことで、ちょうどその時分に、エクセター行きの終列車は出たわけなんだが、ジム・ピアスンは、あくる日の朝の始発列車に乗り込んでいる――まったく利巧なやり方じゃないよね、そうだろう、ごくありふれた時間の列車で出発してさえいれば、人目について、怪しまれるようなこともなかったのだ。ところが、あんたがいうように、ジムが、伯父さんの死体を四時半ごろに見つけたのなら、一目散にエクザンプトンを逃げ出したろうと思うのだ。六時ちょっと過ぎと、八時十五分前とに出る列車があるんだからね」
「それがポイントですわね」と、エミリーも相槌を打った。
「わたしは、どうやって伯父さんの家へはいったのだと、ことこまかに、ジムにたずねたことがあった」と、ダクレス氏は言葉をつづけた。「ジムの話によると、トレベリアン大佐は、かれに長靴をぬがせると、それを戸口の階段に置いたということだ。それで、ぬれた足跡がホールでは見つからなかったという説明がつくわけだ」
「その時に、ほかにだれかが家の中にいたような、物音というか――なにか人の気配のようなものを――聞いたとはいわなかったんですのね?」
「そんなことはいわなかったね。だが、それも、ジムにたずねてみよう」
「ありがとうございます」と、エミリーがいった。「あたし、手紙を書きますけど、ジムに渡していただけますかしら?」
「検閲は受けるだろうがね、むろん」
「ええ、ごく慎重に書きますわ」
エミリーは、机のところまで行って、短い言葉を書き記した。
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愛するジムへ――万事うまくいっていますから、元気を出してください。真相を発見するために、あたしは、猛烈に活動しています。あなたはほんとにおばかさんだったのね。
エミリーより
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「じゃあ、これをお願いします」と、かの女はいった。
ダクレス氏は、その手紙を読んだが、なんにもいわなかった。
「書き方には骨を折りましたわ」と、エミリーがいった。「これで、拘置所のおえらがたも楽に読めるというものですわ。さあ、あたし、おいとましなくちゃ」
「お茶でも一杯、どうだね」
「いいえ、ありがとうございますが、ダクレスさん、そうしている時間がないんですの。これから、ジムの伯母さんのジェニファーさんにお目にかかりに行きたいんです」
エミリーが、ローレル館に行くと、ガードナー夫人は外出中だが、まもなく帰って来るはずだという話だった。
エミリーは、女中の顔に、にっこり笑顔を向けながら、「じゃ、あたし、はいってお待ちしますわ」
「看護婦のデイビスさんにお会いになりますか?」
エミリーは、いつも、だれにでも会ってみようと思っていたので、「どうぞ」と、即座に返事した。
しばらくすると、看護婦のデイビスが、いやにしかつめらしい顔をしながら、そのくせ、好奇心を満面に浮かべて、やって来た。
「はじめまして」と、エミリーは声をかけた。「あたし、エミリー・トレフュシスというんですの――ガードナー夫人の姪みたいなものですわ。つまり、やがては姪になるということなんですけど、そのあたしのフィアンセのジム・ピアスンが、もうご存じかと思いますけど、逮捕されましたの」
「ええ、ほんとにひどいことですわ」と、看護婦のデイビスはいった。「わたしども、けさの新聞で拝見したんですけど、なんて恐ろしい事件でございましょう。それにしても、ミス・トレフュシス、あなたさまは、よく力もお落としにならないで――ほんとに、よくまあね」
看護婦の声には、かすかに非難めいた響きが含まれていた。病院の看護婦たちは、その性格の強さによって、どんなことにぶつかっても耐え忍ぶことができるのだが、その自分たちよりも気力の劣る人間なら、参ってしまうのがあたりまえだと思っていたとにおわしていた。
「ええ、人間、どんなことにだって、気を落としちゃいけませんわ」と、エミリーがいった。「でも、どうかあまりお気になさらないでくださいましね。だって、こんな殺人犯人の出たような家族とごいっしょにいらっしゃるあなたには、きっと、いろいろお困りになるようなことが出て来ますでしょうからね」
「それは、とてもいやなことでございますわ、もちろん」いかにもおっしゃるとおりだと、ことさら強調するように、看護婦のデイビスはいった。「ですけど、患者に対する義務こそが、万事に優先するんですわ」
「まあすてき」と、エミリーはいった。「心から信頼できるあなたみたいな方を持っていると思うと、ジュニファー伯母さんも、きっと、力強いにちがいありませんわ」
「まあ、ほんとに」と、作り笑いを浮かべながら、看護婦はいった。「あなたは思いやりのある方ですのね。でも、もちろん、わたしだって、これまでいろいろ変わった経験をしてきました。そうですよ、この前、わたしが付き添っていました時なんぞはね――」それからエミリーは、こみ入った離婚と、父親がどうだとかこうだとかの入りまじった、長い、陰口のような話を、じっとしんぼう強く聞いていなければならなかった。聞きおわって、看護婦デイビスの分別にあふれた気転や、すばらしい頭の働きをほめそやしてから、エミリーは、要領よく、ガードナー家の話題の方へ、話の筋道をもどしていった。
「あたし、ジェニファー伯母さんのご主人という方を、全然知らないんですのよ」と、かの女がいった。「一度もお目にかかったことがないんですの。ご主人は、家から一歩も外へお出かけにはならないんですってね?」
「ええ、ほんとにお気の毒な方ですよ」
「ほんとに、どうなすったんですの?」
看護婦のデイビスは、いかにも本職だからといわんばかりに、むしろ楽しげに、とうとうと述べ立てた。
「そうなの、でも、ほんとうは、いつかまた良くおなりになるかもしれないんでしょう?」と、エミリーは、考え深げにいった。
「ひどく衰弱していらっしゃるだけですわ」と、看護婦はいった。
「ええ、そりゃそうでしょうけど。でも、先行きの見込みはおありになるんでしょう?」
看護婦は、いかにもその道の人がだめだというように、はっきり頭を左右に振って、「ご主人さまの、ご病気は、とうていおなおりになるなどとは思えませんですね」
エミリーは、自分の小さな手帳に、ジェニファー伯母のアリバイと名づけた時間表を、書き込んであった。で、いま、ちよっと試すように、そっと口に出してみた。「ちょうど、伯父さんが殺された時間に、ジェニファー伯母さんが映画に行っていらしたと思うと、なんだか目まいでもしそうな気がするわ」
「ほんとにひどいことじゃございませんか?」と、看護婦のデイビスがいった。「もちろん、奥さまも、口に出してはおっしゃれなかったでしょうけど――でも、こういうことというものは、後になってからのほうがショックはひどいものですからね」
エミリーは、あからさまな質問という形をとらないで、なんとか知りたいと思っていることをさぐり出せないものかと、心の中で思案をめぐらしていたが、「なにかまぼろしとか、予感とかいったような変わったことが、伯母さんにはなかったのかしら?」とたずねてみた。「伯母さんが映画から帰って来た時、ホールで会って、ほんとに様子が変だとおっしゃったのは、あなたじゃなかったかしら?」
「いいえ、とんでもない」と、看護婦がいった。「わたしじゃありませんわ。お夕食の席でごいっしょになるまで、わたしは、奥さまにお会いしませんでしたわ。それに、その時は、いつもどおりのご様子でいらっしゃるようでしたわ。まあ、なんておかしなことでしょう」
「じゃ、あたし、なにかほかのことと混同しているのかもしれないわ」と、エミリーがいった。
「きっと、なにか別のことですわ」と、看護婦のデイビスが、ほのめかすようにいった。「実は、わたしもね、すこし帰りが遅くなったんですよ。自分の患者さんを、あんまり長くほっておいて、ちよっと悪いかなと思ったんですけど、患者さんご自身が、ぜひ行って来いとおっしゃったものですから」そういいながら、不意に腕時計を見て、「あら、大変。お湯の瓶を別に持って来るようにって、ご主人にいいつかっておりましたんですよ。見てこなくちゃいけませんわ。では、失礼させていただいてもよろしゅうございましょうか、ミス・トレフュシス?」
エミリーは、どうぞと看護婦にいってから、暖炉のところへ行って、呼び鈴を押した。だらしのない様子をした女中が、ちょっとおびえたような顔をしてはいって来た。
「あなたの名前は、なんというの?」と、エミリーがいった。
「ベアトリスです。お嬢さま」
「あら、ベアトリスというの、あたしね、どうしても伯母さんがお帰りになるまで待っていられないの。あたし、金曜日に、伯母さんがなすった買物のことを、おたずねしたいと思っていたんですけど、あなた、伯母さんが大きな買物の包みを持って帰って来たかどうかご存じない?」
「いいえ、お嬢さま、わたし、奥さまが帰っておいでになるのを見かけませんでしたわ」
「たしか、伯母さんは六時に帰って来たと、あなたがいったと思っていたんだけど」
「はい、お嬢さま、六時にお帰りになりましたわ。ただ、奥さまが帰っておいでになるところは見なかったんです。でも、七時に、奥さまのお部屋へお湯をとりにまいりますと、まっ暗な中で、ベッドでおやすみになっているのを見て、ぎくっとするほどびっくりしてしまって、『まあ、奥さま』と、わたし、声をおかけしたんですよ。『ほんとにびっくりさせておしまいになるじゃありませんか』と。すると、『ずっと前に帰ってきたんだよ、六時に』と、そうおっしゃったんです。でも、どこにも、大きな包みなんか目につきませんでしたわ」と、なんかお役に立ちたいとでも思う様子で、ベアトリスは話した。
「いいわ、ベアトリス、大したことじゃないんだから」
ベアトリスは、部屋から出て行った。エミリーは、ハンドバッグから小さなローカル線の汽車時間表を出して、調べにかかった。
「エクセター発、三時十分と」と、かの女は、口の中でぶつぶつといった。「エクザンプトン着、三時四十二分か。それだけの時間があれば、きょうだいの家へ行って殺してこられるわ――まあなんてひどい、まるで冷血動物みたい――それに、とんでもないナンセンスだわ――でも、三十分か四十五分もあればできないことはない。じゃあ、帰りの汽車はどうかしら? 四時二十五分のと、ダクレスさんが教えてくれた六時十分のとがある。それだと、六時三十七分には着ける勘定だわ。そうだ、どっちの汽車でも、ほんとうにやろうと思えば、やれるんだわ。残念なことに、あの看護婦を怪しいとにらむような材料は、なんにもない。あの人は、午後はずっと外出していたが、どこに行っていたか、だれも知っている者はない。だけど、全然動機がないのに、人を殺すなんてことは考えられないわ。むろん、この家のだれかが、トレベリアン大佐を殺したなんて、あたしには信じられないけど、ある点では、やろうと思えばやれたということがわかっただけでも、ありがたいことだわ。あら――玄関にだれか来たわ」
ホールで人の声がしたと思うと、ドアがあいて、伯母のジェニファー・ガードナーが、部屋へはいって来た。
「あたし、エミリー・トレフュシスですの」と、エミリーは声をかけた。「ご存じでいらっしゃいましょう――ジム・ピアスンと婚約をしていますの」
「じゃ、あなたがエミリーさんなのね」と、ガードナー夫人はいって、握手をしながら、「まあ、いきなりでびっくりさせるじゃありませんか」
不意に、エミリーは、自分がひどく弱点だらけで、けちな人間のような気がした。なにか、ひどくばかげたことをしている小娘のようではないかという気がした。その自分に対して、このジェニファー伯母さんは、なんと驚くべき人物だろう。性格――そう、その性格だった。シェニファー伯母さんという人は、一人どころか、二人にも、いや、三人にも匹敵するほどの、すばらしい性格を持っていた。「お茶を飲んだの、あなた? あら、おいやなの? じゃ、ここで飲みましょうね。ちょっと待っててね――わたし、その前にまず二階へ行って、ロバートの様子を見てこなくちゃ」
夫の名前を口に出した時、見慣れない妙な翳《かげ》が、夫人の面《おも》をかすめた。しっかりとした、美しい声が、ものやわらかになった。ちょうど暗いさざ波の上を、さっと明るい光が過ぎ去って行くのに似ていた。
|伯母さんは《ヽヽヽヽ》、|ご主人を大好きなんだわ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、と、ただひとり応接間にとり残されたエミリーは、胸の中で思った。そうはいっても、ジェニファー伯母さんには、なにかおびえていることがあるんだわ。ロバート伯父さんは、あんなにすごく愛されるのが好きなのかしら。
ジェニファー・ガードナーがもどって来た時、もう帽子はぬいでいた。「あなた、あのことについて話したいんでしょう、エミリーさん、それとも、そうじゃないの? そうじゃないというのなら、わたしも、そうかな、とあなたの気持ちがよくわかりますよ」
「警察のことなんかかれこれいうのは、あまりいいことじゃありませんわね?」
「わたしたちは、ただ」と、ガードナー夫人がいった。「警察が一日も早く、真犯人を見つけてくれることを望むだけです。ちょっと、エミリーさん、ベルを押してくださらない? 看護婦にお茶を持ってこさせますから。でも、わたしは、あの女にここへ来て、ぺちゃくちゃ、おしゃべりしてもらいたくないんですよ。ほんとに、病院から来た看護婦というのは、わたし、大嫌いよ」
「いい看護婦さんじゃありませんこと?」
「そうなんでしょうね。とにかく、ロバートもそういってますわ。でも、わたしは、とても、いつだって嫌いよ。でも、ロバートにいわせると、最上の看護婦どころか、はるかにそれ以上の人にあたったそうなんですけどね」
「ちょっと美人ですわ」と、エミリーがいった。
「ばかな。あんな荒れた、がっしりした手をしていてもですか?」
エミリーは、ミルクの壷《つぼ》や、砂糖挾みに触れる伯母の、細長い、まっ白な手を、じっと見守っていた。
「ロバートは、こんどのことで、すっかり気が転倒してしまいましてね」と、ガードナー夫人はいった。「自分から、そんな妙な病状になるんです。それもこれもみんな、ほんとうに病気のせいなんでしょうけどね」
「伯父さんは、トレベリアン大佐をよくご存じじゃなかったんでしょう?」
ジェニファー・ガードナーは、首を左右に振って、「知りもしないし、てんで頭にもおいていなかったんです。正直なところ、実の妹のこのわたしでさえ、兄の死を、別に悲しいとも思えないくらいですもの。あの人は、残酷で、欲の深い人でしたよ、エミリーさん。あの人は、わたしたちが、とても苦しんでいたのを、よく知っていたんです。ええ、貧乏にですよ! わたしたちがなんとかしてほしいと思っていた時に、金を貸してくれて、特別の治療をロバートに受けさせてやれたら、なにもかも、いまとは違ったことになっていたはずだということも、兄はよく知っていたんです。ええ、因果応報ですよ」夫人は、はげしい、怒りのたちこめるような声で、しゃべった。
|まあ《ヽヽ》、|なんて変わった女なんだろう《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、と、エミリーは思った。美しいことは美しいが、とても恐ろしい。まるでギリシア悲劇から出て来たようなひとだわ。
「まだ遅すぎるようなことはないかもしれないけど」と、ガードナー夫人がいった。「わたし、きょう、エクザンプトンの弁護士のところへ手紙を書いて、前金で、いくらかお金をもらえないかと頼んでやったところなんですよ。わたしがいっている特別の治療法というのは、ある点では、いかさまな療法だなんていうでしょうけど、でも、いままでにずいぶんたくさんの人の治療で、立派にうまくいってきたんです。ですから、エミリーさん――ロバートがまた歩けるようになったら、まあ、どんなにすてきでしょう」そういいながら、夫人の顔は、ランプに照らされたように輝いて、紅潮した。
エミリーは、すっかり疲れ切っていた。長い一日を、食うや食わずでいて、そのうえ、感情を押し殺していたのとで、すっかりへとへとになっていた。目の前の部屋が、すうっと遠くなるかと思うと、ぐっと近くに迫ったりしつづけるような気がした。
「気持ちがお悪いんじゃないこと、あなた?」
「大丈夫ですわ」と、エミリーは、あえぎながらいったのだが、我ながらびっくりしたのは、困惑と恥ずかしさから、どっと涙があふれ出したことだった。
ガードナー夫人が立ちあがろうとも、慰めようともしなかったのが、かえってエミリーにはありがたかった。夫人は、エミリーの涙がおさまるまで、黙ってすわっていた。やがて、夫人は、考え深そうな声で、ささやくようにいった。
「可哀そうに。ほんとに運が悪いわね、ジム・ピアスンがつかまって――ほんとに不仕合わせね。わたし――なんとかしてあげられるといいんですけどね」
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第二十一章 噂話
チャールズ・エンダービーは、エミリーの好きかってにさせておいて、自分は骨も折らずにぶらぶらしていたのではなかった。シタフォードの村にいる間に、村の人たちのことを、もっと詳しく知ろうと思って、水道の蛇口《じゃぐち》をひねるように、カーチス夫人の口から、できるだけたくさんのことをひねり出そうとしていた。だらだらとカーチス夫人の口から流れ出てくる、いろいろな風変わりな話や、思い出話や、噂話《うわさばなし》や臆測から、さては、ごくささいな世間話に耳を傾けながら、籾殻《もみがら》から穀粒をふるいわけるように、かれは、必死になって、なにか手がかりになるものでもつかもうとしていた。その話に聞き入りながら、かれが、ちょっとでも別の名前を口にすると、たちどころに、話の流れは、その方向にあふれて行くのだった。チャールズは、ワイヤット大尉のことについて、かれがひどい癇癪《かんしゃく》持ちのうえに、おそろしく粗野で、近所の人たちになにかと苦情ばかりいっていることや、そのくせ、いつも器量のいい若い女には、どうかすると、あきれるほど慇懃《いんぎん》丁重な態度を示すことなど、すっかり聞いてしまった。かれは、インド人の召使をおいていて、独特の時間に食事をすることや、そのまた食事たるや、特別に調理した、きちんと定めた規定の物をとる生活を送っているとのことだった。またチャールズは、ライクロフト氏の蔵書のことや、ヘヤートニックをつけていることや、頑固《がんこ》なほど身綺麗にしていること、きちょうめんなこと、他人のすることに極端なほどの好奇心を持っていること、昔、手に入れた自分の所有物を数点、ごく最近、売り払ったこと、口ではいい尽くせないほど小鳥が好きだということ、それから、みんなの評判では、ウイレット夫人が、ライクロフトの心をひきつけようとしてやっきになっていることなど、そんなことを、つぎからつぎと聞かされた。それからミス・パースハウスの言葉使いのひどいことや、甥をいじめ散らすそのやり方や、その甥がロンドンで送っている派手な生活のことなども、チャールズは聞かされた。それからまた改めて、バーナビー少佐が、トレベリアン大佐ととても仲が良かったことや、二人の思い出話や、二人ともチェスが大好きだったことなど、繰り返し聞かされた。それからまた、ウイレット一家について、みんなの間で知れ渡っていることを洗いざらい聞かされた。その中には、ミス・バイオレット・ウイレットが、ロニー・ガーフィールド氏をうまくあやつりながら、その実、ほんとうは、ロニーを本気でものにしようと思っていないのだということもはいっていたし、バイオレットが不思議な遠出を荒れ地にしたということや、そこを若い男といっしょに歩いているのを、人に見られたのだということも、遠まわしににおわせた。だから、カーチス夫人の臆測によると、あの二人が、こういう寂しい土地へ来たのは、そういう理由があったからに疑いないというのだった。母親は娘に『うまくだまさせようと思って』連れて来たのだが、ところが、どうです――『娘たちのほうは、えらいご婦人がたが考えているよりも、ずっとずっとうまいことやれるものなんですよ』と、ほのめかすのだった。デューク氏については、好奇心を抱いて聞くほどのこともほとんどなかった。というのは、ここへ来てからほんのすこしの期間しかたっていなかったし、毎日していることといっても、ただひとりでこつこつと園芸をしてるようだったからだ。
もう三時半になっていて、カーチス夫人の長話のおかげで頭がくらくらしてきたので、エンダービー氏は、ぶらぶら散歩でもしようと外に出た。ミス・パースハウスの甥のロニー・ガーフィールドと、もっと親しくなろうというのが、かれの狙いだった。で、抜け目なく、ミス・パースハウスのコテージの近所をさぐってみたが、得るところはなかった。ところが、幸運のめぐり合わせとでもいおうか、がっかりした様子でシタフォード山荘の門から出て来るお目あての青年と、ばったりぶつかった。
「やあ」と、チャールズは声をかけた。「トレベリアン大佐の山荘というのは、ここじゃないんですか?」
「そうです」と、ロニーがこたえた。
「けさ、写真を一枚とろうと思ってたんですよ。ぼくのところの新聞用にね」と、チャールズは言葉をつけ加えた。「だけど、この天候じゃ、ちょっと写真には無理でね」
ロニーは、この言葉をまっ正直に受けとってしまって、もし、写真が上天気の日でなければとれないものなら、毎日の新聞にはごくわずかしか写真がのらないだろうとは、とくと考えようともしなかった。
「きっと、仕事としちゃ、とてもおもしろいでしょうね――あなたのお仕事は」と、相手はいった。
「みじめな暮らしですよ」と、自分の仕事には、けっして熱意を示さない世間のしきたりに従って、チャールズは、そう吐きすてるようにいった。かれは、シタフォード山荘を、ちらっと肩越しに見やって、「ちょっと陰気なところですね、気のせいかもしれないが」
「ウイレットさん母娘《おやこ》が引っ越して来てから、どこまで変わるか、とどまるところを知らずですね」と、ロニーがいった。「ぼくは、去年の今ごろ、ここへ来たんですが、ほんとに、前と同じところだとは、とても思えないくらいです。そのくせ、あの人たちがなにをしたのか、ぼくにはまるきりわからないんですがね。ただ家具をすこし持って来たくらいでしょうが、それと、クッションだのそんなような物を持って来ただけですがね。あの人たちがここにいるってことは、ぼくにとっては神の賜物《たまもの》だといえるでしょうね」
「一般的にいって、あまり愉快なところとはいえないでしょうな」と、チャールズがいった。
「愉快ですって? もし、ぼくが、ここに二週間も住んでいたら、まったく、死んでしまうでしょうな。ぼくの伯母が、ようやくの思いで生命の火にしがみついているのは、ぼくを踏みつけたたきのめして、やっと余命を保っているんですからね。まだ伯母の家の猫どもをごらんになったことはないでしょう? けさも、その中の一匹にブラシをかけてやらなけりゃならなかったんですがね。どうです、あの畜生が、ぼくを引っ掻いた、その掻きっぷりを見てくださいよ」そういって、かれは、よく調べてみろといわんばかりに、手と腕をさしのばした。
「ちょっとひどいですな」と、チャールズはいった。
「まったくそうですよ。ねえ、あなたは、なにか嗅ぎ出そうとしていらっしゃるんですか? それなら、ぼく、お手伝いできないでしょうか? あなたのシャーロックに、ぼくがワトソンになるといった、そんなようなあんばいにどうですか?」
「なにか、シタフォード山荘に、手がかりになるようなものはないんですか?」と、チャールズは、さりげなくたずねた。「つまり、トレベリアン大佐は、なにか自分の物を残して行ったんでしょうか?」
「そうは思いませんね。伯母の話によると、大佐は、錠前から杭《くい》の類や樽《たる》まで、持って行ったということですよ。象の足から河馬の歯から、狩猟用のライフル銃から、そんな物を飾ってあった飾り棚まで、はずして行ったというんですからね」
「まるで、二度と山荘へ帰って来ないとでもいうようじゃありませんか」と、チャールズがいった。
「そうなんです――そこで考えたんですがね。自殺だとは思いませんか?」
「自分で、自分の後頭部を砂嚢でうまくなぐれるような男は、自殺界の芸術家とでもいうところでしょうな」と、チャールズがいった。
「ええ、それはすこし考えすぎじゃないかと、ぼくも思いました。でも、大佐には予感でもあったようじゃありませんか」そういううちに、ロニーは、ぱっと顔を輝かせて、「ねえ、こういう考えはどうです? 敵が、大佐の跡をつけていたというのは。大佐は、敵が襲って来るのを知って、逃げ出した。そして、代わりに、いわば、ウイレット家の人たちを入れたというのは」
「それにしても、ウイレット家の人たちは、ちょっと不思議な人たちじゃありませんか」と、チャールズがいった。
「そうです、ぼくには、理解することができませんね。こんなに寂しいいなかに埋もれるなんて、考えただけでも気が遠くなるじゃありませんか。バイオレットは、別に気にもしていないようで――実際に、自分でも好きだといってますけど。いったい、きょうはどうしたのか、ぼくにはわからないんですがね、たぶん、家庭内のごたごたなんでしょうな。女って、どうして召使のことでそんなにくよくよするのか、ぼくには考えられませんな。いやなものに心を痛めるくらいなら、追い出してしまえばいいんですよ」
「だから、そうすることにしたんでしょう?」と、チャールズがいった
「ええ、そりゃ、ぼくも知ってますよ。でも、あの人たちときたら、そのことですっかりまいっているんです。母親のほうは、ヒステリーを起こして、ベッドにはいって、なにやらわめき散らしているし、娘のほうは娘のほうで、まるで海亀《うみがめ》のように、ぷっつり口をつぐんでしまっているんですからね。現にいまだって、ぼくを追い出したんですからね」
「警官は、来てはいなかったんでしょう?」
ロニーは、まじまじと相手を見て、「警官ですって、いいえ、どうして、警官が来るんです?」
「さあ、どうってことはないんですがね。ただ、けさ、ナラコット警部をシタフォードで見かけたものですからね」
「ナラコット警部を?」
「そうですよ」
「あの人を――トレベリアン事件を担当している人ですか?」
「そのとおりです」
「あの人が、シタフォードで、なにをしているんでしょう? どこで、お会いになったのです?」
「いや、ただ、そこらをかいでまわっているんでしょう」と、チャールズがいった。「トレベリアン大佐のこれまでの生活をあたって歩いているんでしょうよ」
「それだけだと、お考えなんですね?」
「そうでしょうな」
「だれか、あの事件に関係のある人間が、シタフォードにいるとでも思っているんじゃないでしょうね?」
「そんなことは、とてもありそうにもないでしょう?」
「ええ、とってもね。でも、警察の人間がどんなものだか、よくご存じでしょう――いつだって、見当違いの方面に頭を突っ込んでいるんです。すくなくとも、探偵小説じゃそうなってるじゃありませんか」
「ぼくは、あの連中は、ほんとうは頭の切れる人間だと思いますよ」と、チャールズはいったが、「もっとも、あの連中にとって、新聞はずいぶん役に立ってはいますがね」とつけ足していった。「しかし、あなたが、ほんとうに事件を注意深く見ていれば、実際には証拠らしいものもなくて、一歩一歩犯人を追い詰めて行くといった、あの連中の捜査方法には、驚くべきものがありますよ」
「ああ――そりゃ――そういうことを身近に知るのは、すてきじゃありませんか? あの連中にもすぐに、そのピアスンという人間が無罪だということがわかってきますよ。かなり明白な事件らしいですからね」
「明々白々ですよ」と、チャールズがいった。「しかし、これが、きみやぼくでなくてよかったですね? さあ、ぼくは、電報を打ってこなくちゃいけない。どうもここじゃ、電報を打つなんて、だれもあまり用はないらしいですからね。一度に二シリング半もするような電報を打ったら、きっと精神病院から逃げ出して来た気違いだと思われるでしょうな」
チャールズは、電報を打ってから、コテージに帰って来ると、どすんとベッドに身を投げ出して、あちらでもこちらでも、かれのことや、そのしていること、とりわけ、ミス・エミリー・トレフュシスとのことが、あれこれといわれているのも露知らずに、ぐっすりと眠り込んでしまった。
いま、シタフォードでは、話題にのぼっているトピックが三つだけに限られているといっても、まあ間違いではあるまい。一つは、殺人事件、つぎは囚人の脱獄事件、そしてもう一つは、ミス・エミリー・トレフュシスと、その従兄《いとこ》のことだった。実際、ある場合には、かの女のことが、村の連中の中心の話題となって、四か所も、別々のところで話題になっていた。
噂話の一番目は、シタフォード山荘でだったが、そこでは、召使をみんな、暇を出してしまったので、バイオレット・ウイレットと母親とが、自分たちの茶道具を洗っていた。
「あたしに話して聞かせたのは、カーチス夫人なのよ」と、バイオレットがいった。かの女はまだ、青ざめた、血の気のない顔をしていた。
「あの女のしゃべり方ときたら、頭がおかしいといってもいいくらいですよ」と、母親がいった、
「わかってるわ。でも、あの女の人、従兄だかなんだかしらないけど、男の人といっしょに、あの家に泊まっているらしいわね。けさ、カーチスさんのところに泊まっていると、あの人、そういってたけど、あたしはただ、パースハウスさんのところには部屋がないからだとばかり思っていたの。ところが、どう、あの女の人、けさまで、一度も、パースハウスさんに会ったことがなかったらしいのよ!」
「わたしは、あの女は、大嫌いですよ」と、ウイレット夫人がいった。
「カーチスさんのこと?」
「いいえ、ちがうよ、パースハウスという女ですよ。ああいうたちの女は、あぶないんだよ。他人のあらさがしだけに生きているんだからね。コーヒーケーキの作り方を聞きに、あの女の子をここへよこしたりしてさ! 毒入りケーキでも持たせてやればよかった。そうすりゃ、永久にいらん口出しをすることもなくなったろうにね!」
「そうね、あたし、もうすこし早く気がつかなくちゃいけなかった――」と、バイオレットがいいかけた。が、母親は、それをさえぎって、
「どうして、あんたにわかるはずがないじゃないの! それに、どっちにしたって、なにも損はしなかったんだろう?」
「お母さんは、あの女がここへ来た理由は、なんだと思うの?」
「はっきりしたものは、なんにも胸に持ってないんだろうね。ただ、そっと土地の様子をさぐりに来ただけさ。カーチス夫人は、あの女がジム・ピアスンと婚約しているって、確かにそういったのかい?」
「ライクロフトさんに、あの女がそういったんですってよ。カーチス夫人は、はじめから、うすうす感づいていたっていってたわ」
「なるほど、それなら一切のことがあたりまえじゃないの。ひょっとしたら役に立つことでもないかと、ぼんやりとさがしているだけだよ」
「お母さんは、あの女に会わなかったでしょう」と、バイオレットがいった。「ぼんやりなんかしていなくってよ」
「会いたかったね」と、ウイレット夫人がいった。「でも、けさは、わたしの神経はすっかりまいっていたんだよ。それも、きのう、警部さんと会った|せい《ヽヽ》なんだよ」
「お母さんたら、すてきだったわね。ただ、あたしが、あんな大ばかでなけりゃよかったのにね――気絶してしまったりして。ほんと! あんな醜態《しゅうたい》を見せびらかしたりしちゃって、あたし、恥ずかしいわ。だのに、お母さんときたら、どう、すっかり澄まして落ちつきはらってさ――髪一筋も動かさないんですものね」
「そりゃ、それだけ年期がはいっているからね」と、ウイレット夫人は、激しい、枯れた声でいった。「おまえだって、わたしがこれまでしてきただけの苦労を通りぬけてくればねえ――でも、ねえ、わたしは、おまえにはけっしてさせたくないねえ。わたしはね、おまえはさきゆき、仕合わせに穏やかな暮らしをすると、心から信じて、そう望んでいるんだよ」
バイオレットは、首を左右に振って、「さあ――あたし、どうかしら――」
「ばかなことを考えるんじゃないよ――おまえは、きのう、気絶したりなんかして、みっともないことを見せてしまったとおいいだけど――そんなことは、なんでもないよ。くよくよ気にしなくてもいいよ」
「でも、あの警部さん――きっと、気がつくにきまっているわ――」
「おまえが気絶したのは、ジム・ピアスンの名前が出たからだというんだろう? そうね――確かに、気がつくかもしれないわね。ばかじゃないんだから、あのナラコット警部だってね。でも、気がついたら、どうだっていうのさ? ピアスンとの関係を疑ってみるかもしれないさ――そして調べてみるかもしれないさ――|だけど《ヽヽヽ》、|そんなこと《ヽヽヽヽヽ》、|よう見つけるものかね《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》」
「そうかしら?」
「そうだともさ! どうして、見つけられるというのさ、警部に? わたしを信じておいで、バイオレットや。その点は、びくともしないほど確かだよ。それに、見方を変えれば、おまえが気絶したのも、ことによると、かえってよかったかもしれないよ。そう思うんだね、とにかく」
噂の二番目は、バーナビー少佐のコテージでだった。その噂話の口火は、カーチス夫人から切られたもので、いささか一方的な感をまぬかれなかった。ところで、そのカーチス夫人たるや、洗濯物《せんたくもの》を集めにバーナビー少佐のところへ立ち寄ったのが、帰ろうとしかけて、もう三十分もしゃべりつづけているのだった。
「わたしの大伯母のサラの家のベリンダにそっくりだって、けさもわたしは、カーチスにそういったんですよ」と、カーチス夫人は、勝ち誇ったようにいった。「底の知れない女だって――男という男をみんな、小さい指のまわりにまるめこんでしまうことができる女だって」
バーナビー少佐ののどから、大きな音がもれた。
「あの引っぱられてる若い男と婚約をしておきながら、また、別の男と浮気をしているんですからね」と、カーチス夫人がいった。「まったく、わたしの大伯母のサラのところのベリンダそっくり。おもしろ半分でもなんでもないんです、見ていてごらんなさい。ただの浮気じゃないんです――ずるいっちゃないんです。いまに、あのガーフィールドさんだって――あっという間もないうちに、あの女は、がんじがらめにしちまいますよ。けさだって、あの人は小羊かなんぞのようでしたけど、若い男があんなふうになってるのを、わたしゃ、これまで見たこともありませんよ――ありゃ、確かにその証拠ですよ」といって、夫人は、大きく息を吸った。
「さあ、さあ」と、バーナビー少佐はいった。「もうそれくらいにしてくれないかね」
「カーチスが、お茶をほしいという時間ですわ、ほんとですわ」といったものの、カーチス夫人は、動こうともしなかった。「わたしは、くだらないおしゃべりをして、のんべんだらりと立っているような女じゃないんですよ。さあ仕事だ、仕事だって――自分にいうんですよ。ところで、仕事といえば、いかがです、旦那さま、大掃除《おおそうじ》は」
「いいや!」と、バーナビー少佐は、力をこめていった。
「この前の時から、一か月もたっていますよ」
「いいや、結構だ。わたしは、どんな物でもどこに置いたか、自分にわかるようにしておこうという主義なんだが、あんたの大掃除のあとときたら、一つとして元のところにもどしてないんだから、たまらん」
カーチス夫人は、がっかりしたように大きくため息をついた。かの女こそは、熱狂的な洗濯女、大掃除屋だったのだ。「春の大掃除をどうしてもしなくちゃならないのは、ワイヤット大尉のところですわ」と、かの女はもっともらしくいった。「あの方のところの、あのこぎたない召使はどうでしょう――いったい、あんな召使が、どんな掃除のことを知ってるっていうんでしょう。知りたいもんですわね? あんなこぎたない黒ん坊なんか」
「黒ん坊の召使よりいいものはないね」と、バーナビー少佐はいった。「かれらは、自分のすべき仕事のことは、ちゃんとわきまえているうえに、無駄なおしゃべりはしないからね」
この最後の言葉に含まれていた皮肉も、カーチス夫人には、なんの効き目もなかった。かの女の心は、またもや以前の話にもどってゆくのだった。「あの女は、二本も電報を受け取ったんですよ――三十分ほどの間に、二本も来たんですからね。すっかり、わたしをあわてさせてしまったんですよ。ところがどうです。あの女ときたら、ずうずうしく澄まし返って読んでいたんですよ。それから、わたしにいうことがいいじゃありませんか、これからエクセターへ行って、あしたまでは帰って来ませんですってさ」
「あの青年もいっしょにつれて行ったのかね?」と、少佐は、期待に目を輝かせながらたずねた。
「いいえ、あの人は、まだここにいますよ。話のおもしろい青年ですわね。あの人とあの娘さんなら、いい夫婦になれますよ」
バーナビー少佐ののどの奥から、うなるような音が聞こえた。
「さてと」と、カーチス夫人がいった。「そろそろおいとましなくては」
少佐は、こんどこそ、その夫人の決意をひるがえさせないようにと、息を殺して待ちかまえた。ところが、こんどは、カーチス夫人は、その言葉を守った。かの女が出て行くあとに、ドアがしまった。
ほっとため息をついて、少佐は、パイプを引き寄せ、ある鉱山の設立趣意書を熱心に読みはじめた。ところが、その事業説明書の内容たるや、未亡人や退役軍人を除けば、だれの心にも警戒心を起こさせてしまうほど、ひどく大げさに、楽天的に、宣伝の文句を並べ立てたものだった。「十二パーセントか」と、バーナビー少佐はつぶやくようにいった。「こりゃ、なかなかいいぞ」
その隣の家では、ワイヤット大尉が、ライクロフト氏を相手に、命令的な口調で独断的なことを述べたてていた。「きみみたいな人間は」と、かれはいった。「この世のことなど、なんにもわかっちゃいないのだ。きみは、一度も楽しい暮らしをしたこともないのだ。かといって、一度も不便な生活をしたこともないのだ」
ライクロフト氏は、なにもいわなかった。ワイヤット大尉には、うっかりしたことをいうのは禁物だったので、たいていの場合は、まるきり相手にならないほうが安全だったのだ。
大尉は、椅子の肘掛けに身をもたれかかるようにして、「ところで、あのあばずれ女はどこへ行ったね? なかなか様子のいい娘だが」とつけ加えていった。
こういう二つの考えが連想されるということは、大尉の心の中では、ごく自然なことだったのだが、ライクロフト氏にはそういうことはなかったので、ちょっとけしからんという様子で、相手を見つめた。
「ここで、いったいなにをしているんだね、あの女は? わしが知りたいのは、それなんだがね?」と、ワイヤット大尉はたずねてから、「おい、アブダル!」
「サヒブ(旦那さま)?」
「バリーはどうした? また出かけたのか?」
「台所にいます、サヒブ」
「よし、食べ物をやっちゃいかんぞ」大尉は、また椅子にどっかと身を沈めると、二つ目の質問を、ライクロフト氏に発した。「あの女は、ここでなにをしているんだね? こんなところで、だれに話をしようというんだね? あんたのような旧弊の人間ばかりじゃ、あの女もうんざりするばかりじゃろうな。わしは、けさ、あの女と話をしたがね。こんなところで、わしのような人間に会って、さぞびっくりしたろうね」
大尉は、口ひげをひねった。
「あの娘さんは、ジム・ピアスンのいいなずけなんですよ」と、ライクロフト氏がいった。「ご存じでしょう――トレベリアン殺しの容疑者として逮捕された男を」
それを聞いたとたん、ワイヤットは、ちょうど唇《くちびる》のところまであげたウィスキーのグラスを、がちゃんと床に落とした。グラスは粉みじんに砕けた。かれは、すぐに大声をあげてアブダルを呼びつけると、テーブルをいつもどおりに、自分の椅子に向かい合ったところに据えて置かないといって、口ぎたなくののしった。それから、話を元へもどして、
「そうか、あの女がそうかね。あんな店員にはもったいなさすぎるな。ああいう娘には、もっとれっきとした男でなくちゃいかん」
「ピアスンという青年も、なかなかの美男子ですよ」と、ライクロフト氏がいった。
「美男子だって――美男子か――娘っ子は、床屋の看板のようなのはよろこばんよ。毎日、事務所なんかで、あくせく働いているような若い男なんかに、いったい、人生のなにがわかるというんだね? 現実について、どんな経験をしたというんだね?」
「たぶん、こんどの殺人を企てたことについての経験が、将来、現実として十分に役立つのじゃないでしょうかね」と、ライクロフト氏は、そっけなくいった。
「警察じゃ、かれがやったと確信しているんだね?」
「きっと、かなりの確信があるんでしょう、でなけりゃ、逮捕したりなんかしないでしょう」
「いなか者めが」と、ワイヤット大尉は、軽蔑的な口調でいった。
「そうでもありませんよ」と、ライクロフト氏がいった。「けさ、ばったりナラコット警部というのに会いましたが、なかなか敏腕らしい、有能な人間ですよ」
「けさ、きみは、どこで会ったんだね?」
「わたしの家へたずねて来ましたんでね」
「わしのところへは来なかったな」と、ワイヤット大尉は、いささか気を損じたといった調子でいった。
「それは、あなたがトレベリアン大佐とは親しい友だちじゃなかったとか、そんなことじゃないんですか」
「わしには、きみのいうことがわからんね。トレベリアンは、けちん坊なやつだった。わしは、面と向かって、あの男にそういってやったよ。わしのところにまでやって来て、親方風を吹かそうったって、そうはいかん。このあたりのほかの連中のように、あの男に、わしはぺこぺこ頭を下げたりして、おべっか使うのはごめんだ。しょっちゅうちょっと寄った――ちょっと寄った――すこしやって来すぎるというもんだ。わしが、一週間、いや、ひと月、いや、一年でも、だれにも会いたくないといったって、それは、わしのかってなんだからね」
「そういえば、あなたは、この一週間というもの、だれにもお会いにならなかったようでしたね?」と、ライクロフト氏がいった。
「会わんとも。なぜ、会わなくちゃいかんのだね?」腹を立てた病人は、どんとテーブルをたたいた。ライクロフト氏は、いつもながら、悪いことをいったなと、気がついた。「いったい、なんだって会わなくてはいかんのだ? そのわけを、いってもらおうじゃないか?」
ライクロフト氏が、抜け目なく黙っていたので、どうやら、大尉の怒りもおさまった。「いずれにしても」と、大尉は、うなるような口調でいった。「警察が、トレベリアンのことについて知りたいというのなら、やつらが来なければならんのは、わしのところだ。わしは、世界じゅうを歩いてまわって、判断力というものを持っておるから、人間の価値判断ぐらい、すぐにできるのだ。むやみやたらと、枯れしぼんだ婆さんどものところへ行って、なにになるというのだ。やつらにとって必要なのは、男の判断なのだ」と、また、どんとテーブルをたたいた。
「いやあ」と、ライクロフト氏はいった。「警察の連中にしてみれば、なにを自分たちがねらっているか、ちゃんと知っているつもりなんでしょう」
「連中は、わしのことについてたずねたろうね?」と、ワイヤット大尉がいった。「むろん、たずねたにきまっておる」
「え――ええ――はっきりおぼえていませんね」と、ライクロフト氏が、用心深くいった。
「なぜ、おぼえていられないんだね、きみは? まだ耄碌《もうろく》する年でもないだろう」
「たぶん――ええ――どぎまぎしたせいなんでしょう」と、ライクロフト氏は、相手をなだめるような口調でいった。
「どぎまぎしたって? 警察がこわいのかね? わしは、警察などおそれん。来るなら来てみろ、と、わしはいうのだ。目に物見せてくれる。きみは、この間の晩、わしが百ヤードも離れたところから、猫を射ち殺したことを知っとるかね?」
「あなたがですか?」と、ライクロフト氏がいった。
現実か、それとも幻覚かわからないが、この大尉が、猫を見るとピストルをぶっぱなす癖は、隣近所の人たちの物議の種になっていた。
「やあ、わしは疲れた」と、突然、ワイヤット大尉がいった。「帰る前に、もう一杯どうだね?」
こう遠まわしにいう相手の肚を、ちゃんと見抜いたライクロフト氏は、立ちあがった。ワイヤット大尉は、なおも飲み物をすすめつづけた。「もうすこし飲めると、きみも倍は男をあげるんだがね。酒を楽しめないような男は、男とはいえんよ」
だが、ライクロフト氏は、そのすすめを、重ねて辞退した。もうすでに、おそろしく度の強いウィスキー・ソーダを一杯飲みほしていたのだ。
「どんな茶を、きみは飲んでいるんだね?」と、ワイヤットはたずねた。「わしは、茶のことは、なんにも知らんのでね。アブダルに、買っとくようにいいつけといたんだよ。そのうちに、あの娘が、茶を飲みに来るかもしれんと思ったのでね。すごく美しい娘じゃないか。こんなところで、話相手もなくて、死ぬほど退屈しているにきまっとるからね、なんかしてやらなくちゃいかんよ」
「あの人には、若い男がついていますよ」と、ライクロフト氏がいった。
「近ごろの若い男たちには、へどが出そうになる」と、ワイヤット大尉がいった。「いったい、あの連中のどこがいいんだね?」
これは、なかなかむずかしい質問で、ぴったりした答のしようもなかったので、ライクロフト氏は、あえてこたえようとはしないで、黙って挨拶をしただけで帰って行った。牝のブルテリヤが、門のところまでくっついて来たので、かれは、猛烈な叫び声をあげた。
第四のコテージでの噂話は、ミス・パースハウスが、甥のロナルドにしゃべっていた。「おまえに気のない娘を追っかけてうろつきまわるのは、おまえのかってだがね、ロナルド」と、パースハウスがしゃべっていた。「ウイレット家の娘にかじりつくほうがいいよ。あっちのほうがチャンスがあるかもしれないからね。もっとも、それもあんまり見込みはないと思うけどね」
「だって、ぼくは」と、ロニーはいい張ろうとした。
「もう一つ、いっとかなきゃならんことは、シタフォードに警官が来てたのなら、わたしに知らせてもらいたかったね。わたしから重要な情報を教えてあげられたかもしれないんだよ、だれも知らないことをね」
「ぼくは、警官が帰って行ってしまったあとでも、そんなこと、知らなかったんですよ」
「まったく、おまえらしいよ、ロニー、いかにもおまえらしいよ」
「すみません、カロリン伯母さん」
「それから、庭の椅子にペンキを塗る時には、おまけに、顔にまで塗る必要はないんだよ。そうしたからって、よい男になるわけじゃなし、かえってペンキの無駄だよ」
「すみません、カロリン伯母さん」
「さあ」といって、ミス・パースハウスは目を閉じて、「もうそれ以上、くどくどいわないでおくれ。わたしは疲れたよ」
ロニーは、ずるずると足を引きずって歩きまわりながら、まだ、困ったような様子だった。
「どうしたのさ?」と、ミス・パースハウスが、きつい口調でたずねた。
「いいえ! なんでもないんです――ただその――」
「それで?」
「あの、伯母さんさえよかったら、あした、エクセターまで、ちょっと行って来ようかと思うんですけど?」
「なぜさ?」
「ええ、向こうで友だちに会いたいんです」
「どんな友だちなの?」
「どんなって! ただの友だちです」
「若い男が嘘をつこうと思うんなら、もうすこしじょうずにつくんだね」と、ミス・パースハウスがいった。
「いいえ――ぼくはそんな――でも――」
「いいわけなんかしなくてもいいよ」
「じゃ、いいんですね? 行ってもいいんですね?」
「なにをいってるのか、まるきりわからないね、『行ってもいいんですね?』なんて。まるで、小さな子供みたいじゃないか。おまえは、もう二十一をすぎているんだよ」
「ええ、でも、ぼくがいったのは、ただ――」
ミス・パースハウスは、再び目を閉じて、「くどくどいわないでおくれって、さっき、いったろう。疲れたから休みたいんだよ。もしもだよ、おまえがエクセターで会うその『友だち』が、スカートをはいていて、エミリー・トレフュシスという名前だったら、おまえは、よくよくの大ばかだって――わたしのいいたいのは、それだけだよ」
「でも、ねえ、伯母さん――」
「わたしは、疲れているんだよ、ロナルド。もう十分だよ」
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第二十二章 夜の冒険
チャールズは、今夜の寝ずの番には、たいした結果は得られないだろうと、あまり期待も持たないし、楽しみにもしていなかった。どうやら無駄な企てになりそうだと、心ひそかに考えていた。どうも、エミリーという人は、すこし想像力がたくましすぎると、思っていた。かの女は、ふと立ち聞きしたわずかの言葉に、自分の頭の中でつくりあげたひとつの意味をこじつけてしまったのだと、かれは信じていた。たぶん、ひどい疲労が、ウイレット夫人に、早く夜が来るようにと待ちこがれさせるようなことになったのだろう。
チャールズは、窓の外をながめて、思わず身ぶるいをした。骨身を刺すように冷え込む上に、湿っぽく霧の深い夜だった――しかも、よりによって、こんな夜、はたして起こるかどうか、わからないような出来事を待って、一晩じゅう、戸外をうろうろと歩きまわっていなければならないなんて、なんということだろう。
しかも、チャールズは、気持ちよく暖かい部屋の中にじっとしていたいという、内心の強い誘惑に、あえてまけなかった。かれは、『心から頼れるような、あなたのような方がいらっしゃるということは、すばらしいことですわ』といった時の、エミリーの声の、流れるような、音楽的な美しさを思い出したからだった。
かの女は、かれチャールズを信頼しているのだ。そのかの女の信頼を、無駄に終わらせてはならない。なんだって? あの美しい、無力な娘を見すてるっていうのか? とんでもない、絶対に、そんなことはできない。かれは、ありったけの下着をすっかり着込んでから、頭からセーターを二枚かぶり、さらにその上にオーバーを着ながら、もし、エミリーが帰って来て、かれが約束を果たしていないと知ったら、いっさいのことが、おそろしく気持ちの悪いことになるにちがいないと、考えた。
おそらく、かの女は、おそろしくいやなことをいうだろう、いいや、そんなことは、とてもあぶなくて、やろうったってやれない。だが、なにか起こるといったって――それに、とにかく、いったい、いつ、どんなぐあいに、起こるというのだろう? もし、あちらでもこちらでも起こるとしたら、いちどきに、あちらへもこちらへも、行けるわけのものじゃない。まあたぶん、どんなことかしらんが、起こるとしたら、シタフォード山荘の中で起こるのだろうが、いったいどんなことが起こるのか、かれには、絶対に見当がつくはずもなかった。
「まったく小娘のように」と、チャールズは、うなるように、のどの奥でいった。「自分は踊るようなつもりで、さっさとエクセターへ出かけておきながら、いやなことはみんな、おれにおっつけてしまうんだからな」
その時、かれを頼りにしているといった時の、エミリーの声の流れるように澄んだ調子を思い出して、癇癪をぶちまけた自分を、チャールズは恥ずかしく思った。
かれは、いかにもそれらしく、すっかり身ごしらえをすますと、こっそりコテージから抜け出した。夜の戸外は、思っていたよりも、ずっと寒く、はるかに気持ちが悪かった。かの女のために、こんなにまでつらい目をしているのを、エミリーは、いったい感じているのだろうか。感じてもらいたいものだと、チャールズは思った。
かれは、そっとオーバーのポケットに手を入れて、ズボンのポケットに忍ばせて来たポケット用の酒瓶を愛撫《あいぶ》しながら、
「こいつが、男の子の最上の友だちさ」と、つぶやくようにいった。「特に、こんな晩にはね、もちろん」
用心の上にも用心をして、チャールズは、シタフォード山荘の庭に忍び込んだ。ウイレット家では、犬を飼っていなかったので、ほえたてられたりする心配はなかった。庭番の小屋に灯がついているところを見ると、だれかそこに住んでいるのだ。シタフォード山荘そのものは、二階の窓に一つだけ灯がついているほかは、あとはまっ暗だった。あの二人の婦人だけが、山荘の中にいるのだな、と、チャールズは思った。ぼくだったら、ごめんだな。ちょっとぞっとするな!
チャールズは、エミリーが立ち聞きしたという、『今晩が、待ち遠しいわね?』という言葉をいろいろと考えてみた。ほんとうは、どういうことなんだろう? ひょっとすると、と、かれは、ひとり胸の中で考えた。あの二人、夜逃げでもするつもりかな? まあいいさ。どんなことが起こるかしらないが、このチャールズが、そいつを拝見しようと思って、ここにこうしているんだからな。
かれは、用心深く、あまり近くに寄らないようにして、ぐるっと山荘をめぐってみた。深い夜霧のおかげで、人に見つけられるという心配はまずなかった。見て歩いた限りでは、どこもかしこも、ふだんと別に変わったところもない様子だった。注意深く納屋《なや》も調べてみたが、ちゃんと鍵がかかっていた。
|なにか起こってくれればいいんだがな《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、と、時間がたつままに、チャールズは、そう胸の中で思った。瓶の口から、そっと酒をひと口飲んだ。こんなひどい寒さなんて、まったく知らないな。
かれは、腕時計をちらっと見て、まだやっと十二時二十分前にしかなっていないと知って驚いた。きっともうまもなく夜明けにちがいないと、肚では思っていたところだったのだ。
と、その時、思いがけぬ物音が聞こえてきたので、かれは、どきっとして、耳をそばだてた。それは、閂《かんぬき》を、そろそろと引き抜く音だった。しかも、山荘の方角から聞こえてくる。チャールズは、足音をたてないようにして、灌木《かんぼく》の茂みから茂みへと走り抜けた。そうだ、空耳ではなかった。小さな横手のドアが、そろそろとあいて、黒い人影が、戸口に立った。そして、なにか不安げに、夜の闇《やみ》の中をうかがっている。母親のほうかしら、娘のほうかしら、と、チャールズは、胸の中でひとり言をいった。どうやら、あの美しいバイオレットらしいな。
一、二分、そのままの姿勢でいてから、やがて、人影は、小径《こみち》に足を踏み出して、うしろのドアを、音もたてずにしめると、表の車道とは反対の方へ、山荘から、小径をつたって歩き出した。この問題の小径は、シタフォード山荘のうしろの方へつづいていて、わずかばかりの木の植込みの間を通り抜けて、広々とした荒れ地の方へ出られるようになっていた。
小径は、チャールズが隠れている灌木の茂みのすぐそばを通っているので、目の前を通りすぎた女が、チャールズには、はっきりと見分けがつけられた。思ったとおり、人影は、バイオレット・ウイレットだった。かの女は、長い、黒味を帯びたコートを身にまとい、頭には、ベレー帽をかぶっていた。
かの女が、小径を登りつづけて行くあとから、チャールズは、できるだけ足音を忍ばせてつけて行った。見つかるという心配はまずなかったが、足音を聞きつけられるほうがあぶないと、そのほうに気をつかった。特に、娘を驚かさないようにと、なみなみでなく気をつかった。そのことにばかり、あまり気を使っていたので、かれは、すっかり、かの女との間隔を引き離されてしまった。ほんの一、二瞬、かの女の姿を見失ってしまったかと、チャールズは思ったが、案じながら植林の中を抜けてひとまがりすると、すこし離れた小径に立っているバイオレットの姿が目についた。そこは屋敷を取りまく低い塀《へい》になっていて、門がついていた。バイオレット・ウイレットは、その門のそばに立ち、からだを乗り出すようにして、暗闇の中をのぞきこんでいた。
チャールズは、思いきり近くまで、忍び足で近づいて行って、じっと待っていた。時は、刻々と過ぎて行った。娘は、小さなポケット用の懐中電灯を持っていて、一度、それもほんの一、二瞬、スイッチを押して腕を照らしたのを見て、腕時計を見るためだな、と、チャールズは思った。それからまた、だれかを心から待ちうけるらしく、門にのしかかるような姿勢で立っていた。不意に、低い口笛が二度、繰り返して、鳴ったのを、チャールズは耳にした。
はっとして、目を凝《こ》らす娘の姿を、チャールズは見た。かの女は、前よりもぐっと門から身を乗り出すと、同じようなあいずを――低い口笛を二度繰り返して――唇からもらした。
すると、驚いたことに、不意に、男の姿が、闇の中から、ぼんやりと浮かび出た。感きわまったような低い叫び声が、娘の口からもれた。かの女が、一、二歩、うしろによって、門を中に引きあけると、男は、女のそばへぴったりと寄った。かの女は、低い声で早口に、男に話しかけた。二人の話し合っていることが、はっきり聞きとれないので、チャールズが、うっかり前に乗り出したとたん、足もとの小枝が、ぽきっと音をたてて折れた。とたんに、男は、くるっと振り向いて、
「なんだ?」と、声をあげた。
男は、チャールズの逃げ出す姿を、目にとめると、
「おい、とまれ! ここで、なにをしていたんだ、きさまは?」
そういったかと思うと、飛びあがるようにして、男は、チャールズのうしろから襲いかかった。チャールズは振り向くと、さっと男につかみかかった。と思うと、二人は、しっかり組み合ったまま、上になったり下になったり、ごろごろとのたうちまわった。
この組打ちも、長くつづかなかった。チャールズの相手のほうが、ずっと重量もあり、はるかに強くて、とても相手にならなかった。男は、とっつかまえた相手の手をねじあげて立ちあがると、
「その懐中電灯をつけて、バイオレット」と、いった。「こいつの顔をよく見せてくれ」
びっくりして、二、三歩離れて立ちすくんでいた娘は、そういわれて、前に進み出ると、素直に懐中電灯のスイッチを押して、「この人、村に来ているあの人にちがいないわ」といった。「新聞記者だわ」
「新聞記者だって?」と、相手の男は大声でいった。「ぼくは、そういう人種は、大嫌いだよ。おい、夜の夜中のこんな時間に、人の家の庭を、うろうろかぎまわって、いったい、なにをしていたんだ、このスカンクめ?」
懐中電灯の明かりが、バイオレットの手の中で、ゆらゆらと揺れていた。はじめて、自分の相手の全身が、チャールズの目に映った。ほんのしばらくの間、この不意にやって来た男は、脱獄した囚人じゃないかしらという、とてつもない考えを、チャールズは心の底に抱いていたのだが、相手をひと目見たとたん、そんな妙な考えは吹っ飛んでしまった。その男は、二十四か五にもならないような若者で、とても追われている身の脱獄囚とは似ても似つかない、すらりと背の高い、毅然《きぜん》とした美青年だった。
「ところで」と、青年は、鋭い口調でいった。「きみの名前は、なんというんだね?」
「ぼくの名前は、チャールズ・エンダービー」と、チャールズがいって、「ところで、きみの名前を、まだいわなかったね」と言葉をつづけた。
「生意気なことを、ほざくな!」
不意に、チャールズの頭に、インスピレーションがひらめいた。こういう霊感を受けた推量が、一度ならず、かれを救ってくれたのだ。長いこと見当をつけていたのだ。だが、この男は確かにそうだと、かれは信じた。「だがね」と、かれは、静かにいった。「ぼくには、きみの名前ぐらい当てられると思いますよ」
「えっ?」と、明らかに、相手はびっくりしてしまった。
「どうです」と、チャールズがいった。「ぼくの前にいらっしゃるのは、オーストラリアから来たブライアン・ピアスン君でしょう。そうでしょう?」
沈黙が――いささか長い沈黙がつづいた。チャールズは、これで形勢が逆転したと感じた。
「いったいどうして、ぼくが思い及びもつかないようなことを、きみは知っているんだ」と、とうとう、相手はいった。「だが、きみのいうとおりだ。ぼくは、ブライアン・ピアスンだが」
「それなら」と、チャールズがいった。「どうです、みんなでいっしょに山荘へ行って、いろいろと、よく話し合おうじゃありませんか!」
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第二十三章 ハーゼルムアにて
バーナビー少佐は、金の勘定に夢中になっていた。いや、ディケンズ好みの言葉を借りれば、事務に熱中していた。少佐は、きわめてきちょうめんな男だった。犢《こうし》の皮の表紙をつけた帳簿に、かれは、売った株や、買った株や、それに伴う損益を、そのつど、丹念に記入していたが、たいてい損の場合が多かった。というのは、多くの退役士官の場合と同じく、少佐も、安全に地味な儲《もう》けに満足しないで、一気に大きな儲けにばかり心を奪われていたからだった。
「この石油株は、有望らしいぞ」かれは、ぶつぶつとつぶやくように、「どうやら、先行き、見込みがあるらしいな。あのダイヤモンド鉱山では、ひどい目にあったといってもいい! カナダの土地株か、こいつは、いまのところしっかりしているらしい」
帳簿をにらんでこんなことをつぶやいているところへ、ロナルド・ガーフィールド氏の顔が、あけはなった窓のところへあらわれたので、少佐の思案も立ち切られてしまった。「こんにちは」と、ロニーが元気よく声をかけた。「おじゃまじゃないでしょうね?」
「はいって来るのなら、玄関へまわりたまえ」と、バーナビー少佐はいった。「岩生植物に注意してくれよ。ほら、もう足で踏んでいるだろう」
ロニーは、あわてて飛びのきながら、あやまると、やがて、玄関に姿をあらわした。
「マットで、よく靴をふいてくれたまえよ、いいかい」と、少佐は大きな声でいった。見ると、青年がいわれたとおり、一生懸命に靴をこすっているのが、少佐にはわかった。実際のところ、長年の間で、かれが好感を持った青年といえば、あの新聞記者の、チャールズ・エンダービーだけだった。ロニー・ガーフィールドに対しては、少佐は、あのような好意を全然感じていなかった。事実、この不運なロニーの、いうことなすことのいっさいが、少佐をじりじりといらだたせてしまうのだった。それでも、一応、挨拶は挨拶だから、「一杯、飲むかね?」と、慣例に従って、少佐はいった。
「いいえ、結構です。実は、ごいっしょにお供させていただけるかどうか、ご都合を伺いにあがっただけなんです。ぼくは、きょう、エクザンプトンへ行きたいと思っていたんですが、あなたが、自動車の予約をなすったとエルマーから聞いたものですから」
バーナビーは、うなずいて、「トレベリアンの物をとりに行こうと思ったんだが」と、説明した。「ただいまのところ、あの家は、警察の管理下にあるんでね」
「ああ、なるほどね」と、ロニーは、ちょっとぐあいが悪そうにいった。「ぼくは、どうしても、きょうはエクザンプトンへ行きたいと思っていたもんですから、もしよろしかったら同乗させていただいて、費用の半分を持たせていただけたらと思うんですがね? いかがでしょう?」
「もちろん」と、少佐がいった。「わしはいいがね。きみは、歩いて行くほうが、ずっといいんだがね。運動だよ。きみたち、近ごろの若い者で、運動をする者はまるきりないらしいね。元気に六マイルを歩いて行って、また元気に六マイルを歩いてもどって来るということは、世の中で、これほど健康にいいものはないのだからね。このわしだって、帰りに、トレベリアンの物を持って来るので車がいるというのでなければ、歩いて来るね。なにごとも楽に――これこそ、今日の最もいかんことだね」
「ああ、そうですね」と、ロニーがいった。「ぼく自身も、あんまり勇ましいほうじゃなさそうですね。とにかく、ご承諾いただいてありがとうございました。エルマーは、十一時におたちになるといっていましたが、そうですか?」
「そうだ」
「わかりました。では、その時間にまいります」
ところが、ロニーは、約束を守らなかった。その場についた時は十分も遅れていて、バーナビー少佐は、腹を立ててじりじりしていて、へたないいわけなどしたって、とうてい機嫌がなおりそうにもなかった。車に乗ってからもどうしようもないので、しばらくの間、ロニーは、頭の中で、このバーナビー少佐と伯母とが結婚したらどうだろうと、愉快に、かってな考えにふけっていた。そうしたら、どっちのほうがうわ手になるだろう? きっと、例外なく、伯母さんだろうな、と、考えた。伯母が手をたたき、金切り声をあげて少佐を降伏させる有様は、考えただけでも、なかなか愉快な情景だった。
やがて、こんなばかばかしい夢を頭から追っ払って、ロニーは、元気に話しかけた。「シタフォードも、なかなか陽気な場所になりましたね――どうです? ミス・トレフュシスと、あのエンダービーという男、それに、オーストラリアから来た若い男と――そりゃそうと、あの男は、いつ、ひょっこりやって来たんでしょう? まぎれもなく、けさになって、ひょっこり現われたんですが、あの男がどこから来たか、知ってる者はだれもないんですよ。ぼくの伯母などは、顔色をまっ青にして気をもんでいるんですよ」
「ウイレット母娘といっしょにいるんだね」と、バーナビー少佐は、苦々しげにいった。
「そうです、ですけど、いったいどこから、ひょっこりやって来たんでしょうね? いくらウイレットさんだって、自家用の飛行場を持っているはずはないんですからね。そうでしょう、わたしには、あの若いピアスンという男には、なんかひどく不可解なものがあるような気がするんですがね。あの男の目には、いわゆる、いやな光というやつが――とてもいやなきらめきがあるんです。あの気の毒なトレベリアン老人をやったのは、あの男だというのが、ぼくの印象なんですがね」
少佐は、返事をしなかった。
「ぼくの見るところでは、こうなんです」と、ロニーは言葉をつづけた。「植民地へでも行こうという連中は、まあたいてい|やくざ《ヽヽヽ》ですよ。親戚《しんせき》にも嫌われて、そうした理由で向こうへ追っ払われる。その時は、それでよかった――が、問題はそこですよ。その|やくざ《ヽヽヽ》が帰って来る、金はないときて、クリスマスも近くなったころに、金持ちの伯父さんをたずねて来る。むろん、金持ちの身寄りは、一文なしの甥には、鼻もひっかけないで追い出す――そこで、一文なしの甥は、伯父を一撃のもとになぐりつける。これが、ぼくの推理というやつですよ」
「そんなことは、警察に話すんだね」と、バーナビー少佐がいった。
「ぼくは、あなたがお話しになるかと思ったんでね」と、ガーフィールド氏はいった。「あなたは、ナラコット警部の仲よしでしょう? そりゃそうと、あの人は、また、シタフォードじゅうをかぎまわっていたんじゃなかったんですか?」
「そんなことは知らんね」
「きょう、山荘でお会いにならなかったんですか?」
「いいや」
少佐の返事のいやにそっけないことが、最後には、ロニーの胸にはこたえたようだった。「なるほど」と、かれは、曖昧《あいまい》にいった。「そうなんですか」それから、黙り込んで、考えに落ち込んでしまった。
エクザンプトンへ着くと、車は、スリー・クラウン館の表にとまった。ロニーは、車から降りて、帰りには四時三十分に、少佐とここで落ち合う約束をしてから、エクザンプトン自慢の商店街の方へ歩き出して行った。
少佐は、まずカークウッド氏に会いに行った。氏としばらく話を交わしてから、鍵をもらって、ハーゼルムアの家へ出かけた。前もって、十二時にそこで会いたいと、エバンスに知らしてあったので、行って見ると、忠実な下男は、玄関の階段の前で待っていた。いささか気むずかしい顔をして、バーナビー少佐は、玄関のドアに鍵を差し込んで、その空き家へ、エバンスを従えてはいって行った。少佐は、あの惨劇のあった夜から以後、一度もこの家にはいったことはなかったので、気の弱さを見せまいと、固く決心していたにもかかわらず、応接間を通り抜ける時、ちょっと身震いをしてしまった。
エバンスと少佐は、同じような思いを胸にしながら、黙々と働いた。二人のうちのどちらかが、短い言葉を口に出すと、すぐその意味は、片一方の者に、はっきり通じ、よく納得がいった。「こんなことは、あまり愉快な仕事じゃないが、しなくちゃならんことだからね」と、バーナビー少佐がいうと、エバンスは、短靴下をえりわけて、小綺麗に束ねたり、パジャマを数えたりしながら、こたえた。
「ちよっと不人情なような気がいたしますが、おっしゃるとおり、いたさなければならないことでございますから」
エバンスは、こんな仕事にかけては、器用でもあり、手ぎわがよかった。いっさいの品物がきちんとよりわけられ、整頓されて、それぞれ種類わけにされて積み上げられた。一時になると、二人は、軽い昼食をとりに、スリー・クラウン館へ出かけた。もどって来て家にはいったとたん、少佐は、不意に、自分のあとからはいって来て玄関のドアをしめたエバンスの腕をつかんで、「しいっ!」といった。「二階の足音が聞こえるか? その――その、ジョーの寝室でだよ」
「ああ、確かに聞こえます」
一瞬、なにか迷信にも似た恐怖が、二人を捕えた。が、やがて、そんな考えを振りはなすと、肩をいからせて、少佐は、大股《おおまた》に階段の下まで歩いて行き、大声でどなった。「だれだ、そこにいるのは? 出て来い」
驚いたと同時に、なにがなんだかわからないといったとまどった気がするとともに、一方では、正直にいうと、いささかほっとしないでもなかったが、階段の上に姿をあらわしたのは、ロニー・ガーフィールドだった。かれは、おどおどと困り切ったような顔つきで、「やあ」といった。「あなたをさがしていたんですよ」
「どういうんだ、わしをさがしていたというのは?」
「ええ、実は、四時半に間に合わないということをお知らせしたかったんです。エクセターまで行かなくちゃならなくなったんです。ですから、ぼくをお待ちにならないでいただきたいんです。ぼくは、エクザンプトンから、車をひろいますから」
「きみは、どうやって、この家へはいったのだね?」と、少佐がたずねた。
「玄関のドアがあいてましたよ」と、大きな声でロニーがいった。「ですから、あなたは、ここにいらっしゃるもんだと思ったんです」
少佐は、きっとエバンスの方を振り向いて、「出る時に、鍵をかけなかったのか?」
「ええ。わたしは、鍵を持っていませんでしたので」
「なんて間抜けだ、わしは」と、少佐が口の中でつぶやいた。
「いけなかったんですか?」と、ロニーがいった。「下にはだれも見えなかったんで、それで、二階へあがって、さがしていたんですけど」
「むろん、かまわん」と、少佐は、かみつくような口調でいった。「ただ、ちょっと驚いただけだ」
「そうですか」と、ロニーは、活発にいった。「じゃ、ぼくは、もう行きます。さようなら」
少佐は、のどの奥で、なにやらうなるようにいった。ロニーは、階段をおりて来ると、
「ねえ」と、子供っぽい口調でいった。「よかったら、教えてもらえませんか、あの――その――凶行の行なわれた場所を?」
少佐は、ぐいと親指を、客間の方にあげてみせた。
「ほう、中を見てもいいですか?」
「ご随意に」と、少佐は、うなるような声でいった。
ロニーは、応接間のドアをあけた。かれは、しばらく、その場にはいなかったが、やがてもどって来た。少佐は、階段をあがって行ってしまっていたが、エバンスが、ホールに残っていた。かれは、さながら、ブルドッグが見張っているような物腰で、落ちくぼんだ小さな目は、なんとなく敵意を蔵しているかのように、じっと吟味でもするようにロニーを見守っていた。
「ねえ」と、ロニーが声をかけた。「ぼくは、血痕ってものは、どんなに洗っても洗い落とせないものだと思ってたんだけど。どんなによく洗っても、いつの間にかまた、しみが出てくるもんだと思ってたんだけどな。ああ、そうそう――あの老人は、砂嚢でなぐられたんでしたねえ? うっかりしてた。こんなふうな物でしょう?」かれは、かたわらのドアに寄せかけて置いてある、細長い詰め物を取りあげた。思案顔に重味をはかり、手で平均をとってみて、「ちょっと格好いい玩具だね?」というと、二、三度、試しに宙に振りまわしてみた。
エバンスは、黙ったままでいた。
「さて」と、相手がすっかり黙りこくっているのは、あまりいい気持ちではないのだと感じて、ロニーがいった。「出かけたほうがよさそうだな。ちょっと気がきかなかったんじゃないかな?」かれは、頭をもたげて二階の方をさして、「あの二人が、それほどの仲だということを、すっかり忘れてましたよ。二人は、似た者同士だったんじゃないんですか? さて、こんどは、ほんとに帰ります。すみませんでした、気にさわることばかりいって」
ロニーは、ホールを通り抜けて、玄関から出て行った。エバンスは、無感動の様子で、ホールに立ちつくしていたが、やっと、ガーフィールド氏が出たあと、門の掛け金がしまる音が聞こえると、階段を登って、バーナビー少佐のそばへもどった。かれは、まっすぐ部屋を通り抜けて、靴戸棚の前に膝《ひざ》をつくと、ひと言も、意見らしい意見もいわずに、午前中にし残した仕事にとりかかった。
三時半ごろになって、やっと仕事も終わった。衣類と下着類を入れたトランクが一つ、エバンスに与えられた。それから、もう一つのトランクは、皮紐《かわひも》で荷造りをされて、海員の孤児院へ送られることになった。書類や証券類は、手提《てさげ》鞄に詰められた。さまざまな競技のトロフィーや、珍しい野獣の頭などの保管については、この辺の運送会社にあたってみるようにと、エバンスはいいつけられた。バーナビー少佐のコテージには、そういう物を入れる余地がなかったからだ。ハーゼルムアの家は、家具付きで借りたものだったので、そのほかには問題はなかった。
すっかり仕事がかたづくと、エバンスは、おちつきなさそうに、一、二度、空咳《からぜき》をしてからいった。「失礼ですが、旦那さま、実は――その、わたくしも、いままで、大佐どののお世話をしてまいりましたのと同じように、どなたかのお世話をいたしたいと思っておりますのですが」
「うん、そうか、じゃ、傭い口が見つかったときには、推薦状を書いてあげるから、いつでもそういって来るがいい。そのことは大丈夫、そうしてあげるから」
「まことに失礼でございますが、わたくしが申しますのは、そういうことではないのでございます。家内のレベッカとわたくしとで、旦那さま、なん度も話し合ったのでございますが、いかがでございましょう、もしかいたしましたら、旦那さま――試しに、わたくしどもをお使いになってはいただけませんでございましょうか?」
「ああ、そういうことなのか! だが――ううむ――おまえも知っているように、わしは、身のまわりのことは自分でしているのでね。それに、あのなんとかいう婆さんがやって来て、一日に一度、掃除はしてくれるし、ちょっとした料理ぐらいはしてくれるのでね。つまり――ええと――まあ、それがせいぜいというところなんだ」
「お金のことなぞ、たいした問題ではございませんのです、旦那さま」と、エバンスは素早くいった。「ご存じでございましょうが、旦那さま、わたくしは、亡くなった大佐どのを大変お慕いしておりました。ですから――そのう、あちらさまにしてさしあげたのと同じように、旦那さま、あなたさまにしてさしあげられたら、そのう、同じようなことになるのではないかと思いまして。わたくしの申しあげることが、おわかりいただけるかと存じますが」
少佐は、咳ばらいをして、目をそらすと、「親切にいってくれて、ほんとにありがたい。そうだね――そう、考えてみよう」そういうと、さっとのがれるように、駆けるようにして路を下って行った。エバンスは、そのあとを見送って立ちつくしていたが、ようくわかったというような微笑を顔に浮かべて、
「まったく、亡くなった大佐どのと瓜《うり》二つだ」と、つぶやいた。
するとその時、とほうにくれたような色が、エバンスの顔に浮かんだ。「いったい、あの二人は、どこで知り会ったのだろう?」と、かれは、口の中でぼそぼそといった。「こいつは、ちょっとおかしいぞ。そうだ。あいつが、なんと思っているか、レベッカに聞いてみなくちゃ」
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第二十四章 ナラコット、事件を検討する
「わたしは、その点について、まったくいい気持ちがしないんです」と、ナラコット警部はいった。
署長は、問いただすような目つきを、ナラコットに向けた。
「そうなんです」と、ナラコット警部がいった。「いままでのような、いい気持ちがまるきりしないんです」
「きみは、われわれが逮捕した男を、真犯人だと思わないというんだね?」
「どうしても納得がいかないんです。ご承知のように、最初は、あらゆるものが、一点をさしていたのです。ところが、いまは――どうも違うのです」
「ピアスンに不利な証拠は、同じように生きているじゃないか」
「そうです、ところが、それ以上の証拠がうんと判明してきたのです、署長。ピアスンにはもう一人――ブライアンというのがいるのです。事件当時には、オーストラリアにいたという報告を受けたので、深く調べる必要はないと思っていたのです。ところが、いまになって、その男がずっとイングランドにいたということがわかったのです。どうやら、二か月前にイングランドに帰って来たらしいのです――あのウイレット親娘と同じ船でやって来たらしいのですが、どうやら、航海中に、あの娘と好いて好かれてという仲になったらしいのです。ところで、どういう理由でだかわからないのですが、その男は、家族の者とも文通をしなかったので、姉も兄も、かれがイングランドにいたとは、全然考えていなかったのです。先週の木曜日に、かれは、ラッセル街のオームズビー・ホテルを出て、パディントンまで車で行ったことはわかっているのですが、そこから、火曜日の夜、エンダービーが、かれと出会うまではどこにいたか、どうしてもその行動を明かそうとはしないのです」
「そういうことをしていては重大なことになるぞと、教えてやったんだろうね?」
「そんなことはかまうものかというんです。殺人事件とは関係がないのだが、それでも、関係があったと証明したければ、かってにやってみろといった調子です。自分の時間を、自分がどう使おうと、それは自分だけの問題で、われわれにとやこういわれる筋合いはないといって、どこで、なにをしていたか、あくまで返答を拒否するんです」
「まったく珍しい事件だね」と、署長がいった。
「そうです、署長、まったく珍しい事件です。この犯行の事実から身をくらまそうとしたって、そりゃ無駄なことなんです。というのは、この男は、からだつきからなにから、他の人間とははるかに変わっているんですからね。ジェームズ・ピアスンが、砂嚢で老人の頭をなぐったということには、なんとなく筋道の通らぬところがあるのです――ところが、話しぶりから見ても、ブライアン・ピアスンには、そんなことは朝飯前のことかもしれないんです。かれは、なかなかおこりっぽくて、高圧的な若者なんです――それに、同じ額だけの遺産を受けることになっているのは、おぼえておいででしょう。そうなんですよ――かれは、けさ、エンダービー氏といっしょに、わたしのところへ来たのです。とても元気で快活で、まったくきちょうめんだし、率直な態度でした。がしかし、それだけじゃ、きれいさっぱりというわけにもいきませんよ、署長、さっぱりしませんとも」
「ふうむ――というと――」
「そういうことは、事実によって確認したのではないんです。それなら、いったい、かれは、なぜ、もっと以前に、進んで出て来なかったのでしょう? かれの伯父が死んだということは、土曜日のあらゆる新聞にのっていたのです。月曜日には、かれの兄が逮捕されたのです。だのに、かれは、姿形さえ見せようともしない。いや、そればかりじゃない、ゆうべ真夜中に、あの新聞記者と、シタフォード山荘の庭でぶつかりさえしなかったら、おそらく、姿をあらわしもしなかったでしょうよ」
「かれは、そこで、なにをしていたんだね? エンダービーだがね、わしのいうのは?」
「新聞記者というものについては、よくご存じでしょう」と、ナラコットがいった。「いつでも、かぎまわっているんですよ。まったく薄気味が悪いくらいですね」
「しばしば、たまらないくらいうるさくなることがあるね」と、署長がいった。「もっとも、役に立つこともあるにはあるがね」
「かれにあんなことをさしたのも、若い婦人なんでしょうがね」と、ナラコットがいった。
「若い婦人って?」
「ミス・エミリー・トレフュシスですよ」
「あの娘が、どうして、そんなことを知っていたのかね?」
「あの女は、シタフォードで、うろうろとかぎまわっていたんです。いわゆる抜け目のない娘というやつでしょうね。もっとも、まだたいしてつかんではいないですがね」
「ブライアン・ピアスン自身は、自分の行動について、なんといってるんだね?」
「シタフォード山荘へ来たのは、恋人の、つまり、ミス・ウイレットですが、それに会うためだといっているんです。娘のほうも、母親に知られたくなかったから、みんな寝静まるのを待って、かれに会うために山荘から出て来たと、二人の話は、まあこうですがね」そういうナラコット警部の声には、はっきりそんなことは信じていないという調子がにおっていた。「これは、わたしの考えですがね、署長、もしもエンダービーが、かれを追い詰めなかったら、あの男は、けっして進んで姿をあらわさなかったろうと思うんです。自分は、そのままオーストラリアへ帰って行って、向こうから遺産の取り分を請求したでしょうね」
かすかな微笑が、署長の唇に浮かんだ。「きっと、うるさいほど詮索好きな新聞記者には、かれも音《ね》をあげたろうね」と、署長がいった。
「ほかにもいろいろの事実が、明らかになってきました」と、警部は、言葉をつづけた。「おぼえておいででしょうが、ピアスン家は、三人きょうだいで、姉のシルビア・ピアスンは、小説家のマーチン・ダーリングと結婚しているのです。ダーリングの話によると、あの日の午後は、アメリカの出版業者と昼食を共にしてから、ずっといっしょに過ごし、それから、夕方には、文学者仲間の晩餐会へ行ったというのですが、いまになってみると、どうやらその晩餐会には全然出なかったらしいのです」
「だれが、そういってるんだね?」
「それもエンダービーです」
「わしも、そのエンダービーに会ってみなくちゃいかんらしいね」と、署長がいった。「どうやら、この捜査では、かれは、大いに活躍しているらしいからな。確かに、デイリー・ワイヤー紙が社員に有能な若い人間を集めていることだけは間違いないからね」
「ええ、もちろんですけど、そのことはあまり大したことではないでしょう」と、警部は言葉をつづけた。「トレベリアン大佐が殺されたのは、六時前でしたから、その晩、ダーリングがどこにいようと、ほんとのところは影響はないのです――が、なぜ、かれは、ことさら嘘をつかなければならなかったか? わたしは、それが気に入りませんね、署長」
「うん」と、署長も同意した。「あまり必要のないことだという気がするね」
「そのために、いっさいのことが虚偽じゃないかという気がおきてくるのです。こりゃ、ちょっと無理な推測ですがね、ダーリングが十三時十分発の汽車で、パディントンを出発して、五時すぎにエクザンプトンに到着し、老人を殺害してから、六時十分後の汽車に乗って、真夜中前に自宅へ帰っていたとも考えられるわけです。いずれにしろ、調査はしてみなけりゃならんでしょう、署長。かれの経済状態を調べてみたのですが、ひどく窮迫しているようです。細君のところへ金がはいってくれば、かれが使っているということは――細君に会ったらすぐわかりました。とにかく、あの日の午後のアリバイが正しいかどうか、完全に調べてみる必要があると思うのです」
「いっさいが異常だね」と、署長が、自分の意見を述べた。「だが、ピアスンの犯行であることの証拠は、まず争う余地がないと、いまも、わしは思っているね。きみが、わしの考えに同意じゃないことはわかっとるが――きみは、あやまって無実の人間を逮捕したと思っとるんじゃないのかね」
「証拠は申し分ありません」と、ナラコツト警部は、素直に相手のいい分を認めた。「情況証拠などもそろっているのですから、陪審員は、それに基づいて当然評決するでしょう。ですが、署長のおっしゃることは、すべて正しいのですが――依然として、わたしには、かれが犯人とは思えないのです」
「だから、かれの恋人の娘さんも、この事件に非常に活動しているというわけだね」と、署長がいった。
「ミス・トレフュシスですか、そうです。間違いなく活動家です。ほんとに立派な娘さんです。そして、ピアスンを救おうと、固く決心しているようです。あの新聞記者のエンダービーをしっかりつかまえていて、全力をあげて、かれに働きかけています。ジェームズ・ピアスン氏には過ぎたるものですよ。かれは、美男子はともかくとして、性格のほうではあまり大したものとはいえんようですな」
「だが、あの娘がやりてだというんなら、ああいうのが好きなんだよ」と、署長がいった。
「ああ、まあね」と、ナラコット警部がいった。「蓼《たで》食う虫もすきずきといいますからな。では、署長、ぐずぐずしていないでダーリングのアリバイにとりかかっていいでしょうな?」
「うん、すぐかかってくれたまえ。ところで、遺書におる四人目の遺産相続人はどうなんだね? 四人いるんだったね?」
「そうです。大佐の妹です。これはもう、完全に白です。調査はすませました。かの女は、間違いなく六時には自宅にいたのです。では、ダーリングのことにとりかかります」
ナラコット警部が、ダーリング家の小さな客間にあらわれたのは、それから五時間ほどの後だった。こんどは、ダーリングは家にいた。ご主人は、ただいま書き物をしておいでになりますから、お目にかかることはできませんと、はじめ、女中はそういったが、警部が公用の名刺を出して、すぐに主人のところへ、この名刺を持って行くようにといいつけた。待っている間、警部は、大股に部屋の中を前後左右に歩きまわった。いろいろな考えが、活発に去来していた。おりおり、かれは、テーブルの上のなんでもない物を取り上げて、目をそれにやるのだが、ほとんど目には見えない様子で、また元へもどした。オーストラリア出来のバイオリンの形に似たシガレット・ケース――たぶん、ブライアン・ピアスンの贈り物だろう。かれは、だいぶ痛んだ古びた本を取り上げた。『虚栄と偏見』という表題の物だった。表紙をあけてみると、扉に、ほとんど消えかけたインクで、マーサ・ライクロフトという名前が、走り書きで書いてあるのが目にとまった。なんだか、ライクロフトという名前には、聞きおぼえがあるような気がしたが、ちょっと、その関係が思い出せなかった。ちょうどその時、ドアがあいて、マーチン・ダーリングが部屋にはいって来たので、かれの考えは中断されてしまった。
小説家は、濃いというよりもむしろ陰気な栗色の髪をした中背の男で、なんとなくどっしりとした風采の、なかなかの美男子で、まっ赤《か》な、いささか大きすぎる唇をしていた。
ナラコット警部は、この相手の様子から、あまりいい印象を受けなかった。「おはよう、ダーリングさん、またおじゃまして恐縮です」
「いや、かまいませんよ、警部さん。でも、もうすでに申しあげた以外に、ほんとうに、なにも申しあげられないんですがね」
「先日のお話で、あなたの義弟のブライアン・ピアスン氏はオーストラリアにいらっしゃるとかいうことだったのですが、いまになって、氏が、このふた月ほどの間、イングランドに来ていたということを知ったのです。氏はオーストラリアのニューサウスウェールズにいると、奥さんがはっきりおっしゃったのですがね」
「ブライアンがイングランドに!」と、ダーリングは、正真正銘、驚いた様子で、「はっきり申しあげますが、警部さん、ぼくは、そんな事実は、全然知りませんでした――いや、妻も知らないと信じます」
「どんな方法ででも、あなたがたに知らせなかったとおっしゃるんですね?」
「ええ、ほんとにそうです。ぼくは、そのふた月ほどの間に、妻のシルビアが二度も手紙を書いたことを、よく知っています」
「ああ、そうですか、それでしたら、おわびをいたします。しかし、かれが身寄りの者に文通ぐらいはしたはずだと、わたしが思ったのも当然でしょう。ですから、こりゃあなたがたが、わたしに隠しているのだなと、いささかむっとしたのです」
「しかし、いまも申しあげたとおり、ぼくたちは、なんにも知らなかったのです。まあ、タバコでもいかがですか、警部さん? ところで、それはそうとして、例の逃亡した囚人はつかまったとかいうことですね」
「ええ、せんだっての火曜日の夜、つかまえました。かれには、運が悪かったのですな、霧が降りてきましたからね。ひとつところを、ぐるぐる輪を描いて歩きまわっていたのです。最後にはプリンスタウンから半マイルほどのところにいたかれを見つけてつかまえたのですが、だのに、かれは、二十マイルも歩いて逃げまわっていたってわけです」
「人間は霧の中では、どうかすると円を描いて歩きまわることがあるとは聞いていましたが、まったく珍しいことですね。でも、金曜日に逃亡しなくてよかったですね。そうでしょう、そうなれば、あの殺人の容疑も、確実に、その男にかぶせられてしまったでしょうからね」
「あいつは、どうにも手もつけられない男なんです。蝙蝠《こうもり》のフレディと、世間じゃ呼んでいますがね。強盗はする、暴行はする――まったく異常な二重生活を送ってきた男なんです。これまでの一生のうちの半分は、教育もあり、人からも重んじられる、富裕な人間として送った男だったのです。わたしにも確信を持ってはいえないのですが、ブロードムアの精神病院は、あの男には適当な場所ではなかったのでしょうね。ある種の犯罪マニアの状態が、ときどき、かれを襲うんですね。そうすると、かれは、姿を消して、最も下劣な性格に一変してしまうんです」
「しかし、プリンスタウンから逃亡するなどということは、だれにもできるということではないのでしょう」
「ほとんど不可能でしょうね。しかし、こんどの逃亡だけは、実に驚くほど巧妙に計画されて遂行されたのです。われわれには、まだその真相がつかめていないというのが、偽りのないところです」
「では」と、ダーリングは立ちあがり、腕時計をちらっと見て、「ほかにもうご用がないのでしたら、警部さん――ぼくは、忙しいからだだものですから――」
「いや、ですが、もう一つ伺いたいことがあるのですが、ダーリングさん。あなたは、なぜ、金曜日の晩、セシル・ホテルの文学関係の晩餐会へ行ったと、わたしにおっしゃったのですか?」
「ぼく――ぼくには、あなたのおっしゃることが、よくわからないのですがね、警部さん」
「そうおっしゃるだろうと思っていました。あなたは、あの晩餐会には出席なさらなかったのでしたね、ダーリングさん」
マーチン・ダーリングは、しばらく逡巡していた。その目は、おちつきなく、警部の顔から天井へと走り、それからドアへ、つづいて足もとへと動いた。
警部は、おちつきはらって、頑として待っていた。
「では」と、ついにマーチン・ダーリングは、口をひらいた。「かりに、ぼくが出席しなかったとして、いったい、それがあなたとどんな関係があるのですか? ぼくの伯父が殺されてから五時間ほど後のぼくの行動がどんなものであろうと、それが、あなたや、他のだれかと、どんな関係があるというんです?」
「あの時、あなたは、われわれに出席したと、はっきり陳述なさいましたね、ダーリングさん。それで、わたしは、その陳述の確証を得たいと思っているのです。というのは、あなたの陳述の一部が、真実ではないということが、すでに明らかになったからです。ですから、他の点についても調べておかなければならないんです。あなたは、友人と昼食をしてから、午後をずっといっしょに過ごしたとおっしゃいましたね」
「そうです――アメリカの出版社の人です」
「その人の名前は?」
「ローゼンクラウン、エドガー・ローゼンクラウンです」
「なるほど、で、その方の住所は?」
「もうイングランドから立ち去りました。先週の土曜日に出発しました」
「ニューヨークに向かってですか?」
「そうです」
「それじゃ、現在は航海中のわけですね。なんという船に乗船したのですか?」
「ぼくは――ぼくは、よく思い出せないのですが」
「航路はご存じでしょう?」
「ぼくは――ぼくは、ほんとにおぼえていないのです」
「ああ、そうですか」と、警部はいった。「では、ニューヨークの会社の方へ打電してみましょう。会社なら知っているでしょう」
「船は、ガルガンチュア号でした」と、ダーリングは、陰気な口吻《こうふん》でいった。
「ありがとう、ダーリングさん、思い出そうとしてくだされば、思い出せるにちがいないと、わたしも思っていました。ところで、あなたの陳述によると、あなたは、そのローゼンクラウン氏と昼食を共にし、いっしょに午後を過ごしたというのですね。かれとお別れになったのは、何時ごろでした?」
「五時ごろだと思います」
「それから?」
「その先をいうことはおことわりします。それは、あなたがたとはかかわりのないことです。お知りになりたいことは、すべて申しあげました、はっきりと」
ナラコット警部は、じっと考え深そうにうなずいた。もし、ローゼンクラウンが、ダーリングの陳述を事実だと確証すれば、ダーリングに対する嫌疑は、すべて消えてしまうにきまっている。かれの謎《なぞ》に包まれた行動がどのようなものであったにしろ、この事件にはなんの影響を与えることもできまい。
「これから、どうするおつもりですか?」と、ダーリングは不安そうにたずねた。
「ガルガンチュア号のローゼンクラウン氏に打電します」
「とんでもないことを」と、ダーリングは叫ぶようにいった。「あなたは、このぼくを、世間のあらゆる噂に巻き込もうというのですね。ちょっと待ってください――」
ダーリングは、部屋を突っ切ってデスクのところへ行き、紙片にさらさらとなにかを書き込んでから、それを警部に渡して、
「あなたがなにをなさろうと、それはそれで結構です」と、無愛想な口吻でいった。「しかし、すくなくとも、ぼくのよしと思うやり方でやっていただくのがよくはないでしょうか。赤の他人に、むやみと迷惑をかけるのは、あまり感心した話ではありませんからね」
その紙片には、つぎのように書いてあった。
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『ガルガンチュア号』にて、ローゼンクラウン殿
十四日、金曜日、昼食後五時まで、貴下と共に過ごしたることを証明せられたし
マーチン・ダーリング
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「返電は、直接あなたに打ってもらいます――ぼくはかまいませんが、   |ロンドン警視庁《スコットランド・ヤード》や警察署へ配達するようなことはしないでいただきたい。あなたは、アメリカ人いうものの性質をご存じないらしいが、ぼくが、警察の事件に関係があるらしいという匂いがするだけで、ぼくが相談していた新しい契約が水泡に帰してしまうでしょう。ですから、あくまでも個人的な事柄として秘密を守っていただきたいのです、警部さん」
「それについては、なんら異議はありません、ダーリングさん。わたしの知りたいのは、真実だけです。ですから、これは返信料前納で、エクセターのわたしの自宅へ送ってもらうことにします」
「ありがとう。文学で食うのは、なかなかやさしいことじゃないのです、警部さん。返事さえごらんになれば、ぼくのいうとおりだということがおわかりになるでしょう。晩餐会のことでは嘘をいいましたが、ほんとのことをいいますと、妻にもそこにいたといってあったからなんで、あなたにも同じように話したほうがいいかと思ったからなのです。さもないと、ぼく自身が、いろいろやっかいなことになってしまうからなんです」
「ローゼンクラウン氏が、あなたの陳述を証明してくれれば、ダーリングさん、なにもほかにはご心配のようなことは起こらないでしょう」
不愉快な男だな、と、その家を出ながら、警部は頭の中で考えた。だが、この男は、そのアメリカの出版屋が、自分の話を真実だと証明してくれると確信しているらしいな。
デボン州へ帰る列車に飛び乗ったとたん、さっと、ある記憶が、警部の胸によみがえった。
そうだ、ライクロフトだ、もちろん――シタフォードのコテージに住んでいる、あの老紳士の名前じゃないか。妙な暗合だな。
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第二十五章 カフェ・デラーにて
エミリー・トレフュシスとチャールズ・エンダービーは、エクセターのカフェ・デラーの小さなテーブルに、向かい合ってすわっていた。午後の三時半ごろだったので、その時間には、わりあいに静かでおちついていた。数人の客が、静かにお茶を飲んではいたが、店の内は、がらんとして、人もいないようだった。
「それで」と、チャールズがいった。かれについてあなたはどう考えます?」
エミリーは、眉をひそめて、「なかなかむずかしい問題ですわ」といった。
警官との会見がすんでから、ブライアン・ピアスンは、二人と昼食を共にしたのだ。かれは、かの女が丁重すぎると思うほど、エミリーに対しては、度はずれて丁重だった。頭のよくきれる娘のエミリーには、その態度は、いささかわざとらしいような気がした。この目の前にいたのは、ひそかな恋を胸に秘めて、でしゃばりの口をきくおせっかいな見慣れぬ青年だった。
ブライアン・ピアスンは、子羊のようにおとなしくチャールズのいい出したことに従って、車を駆って警部に会いに出かけた。こんなにおとなしくいいなりになるのは、なぜだろう? かの女が考えているブライアン・ピアスンの持ち前の性質とは、まるっきり違うような気が、エミリーにはした。おれは、まっさきに、きさまを地獄にたたき込んでやる! とでも悪態をつくほうが、よっぽどかれらしいと、エミリーは、肚からそう思った。この子羊のようなおとなしいふるまいは、どうも不審だった。かの女は、なんとかして自分の受けた感じを、エンダービーに伝えようとした。
「あなたの気持ちはわかります」と、エンダービーはいった。「たしかに、あのブライアンには、なにか隠していることがある。だから、いつものあの持ち前の高飛車な自分になれないんですよ」
「そのとおりですわ」
「かれが、トレベリアン老人を殺したかもしれないと思うんですか?」
「ブライアンは」と、エミリーは、じっと考えにふけりながらいった。「そうね――考慮に入れていい人物だわね。でも、あの人は、どちらかといえば、無法者というのかしら。だから、なにかやりたいと思えば、普通のありふれた方法じゃなく、自分かってのやり方でやってしまうのじゃないかという気がするわね。かれは、平凡なお人好しのイギリス人なんかじゃありませんわ」
「個人的な考えをすべてのけても、かれは、ジムよりもはるかに行動派らしいですね」と、エンダービーがいった。
エミリーはうなずいて、「はるかにそうらしいわ。かれなら、事をうまくやってのけるでしょうね――だって、臆病風《おくびょうかぜ》に吹かれるなんてことは、けっしてないでしょうからね」
「正直にいって、エミリーさん、あなたは、かれがやったと考えているんですか?」
「あたし――あたし、わかりませんわ。かれは、条件にぴったり合っている――合っているたった一人の人物だとはいえますわ」
「条件にぴったり合っているとは、どういうことですか?」
「ええ、第一は、動機ね」と、エミリーは、個条ごとに指を一本ずつ折りながら、「ジムと同じ動機。遺産の二万ポンドですわ。第二は、機会よ、金曜日の午後、かれがどこにいたか知っている者は、だれもいないわ。よし、どこにいたか、かれにいえたとしても――そうよ――おそらく、かれはいうでしょう。だから、金曜日には、実際にはハーゼルムアの家の近くに、かれがいたと、あたしたちには推定できるわけよ」
「が、かれをエクザンプトンで見かけたという人間をだれも、警察では発見していませんよ」と、チャールズは指摘した。「が、とにかく、かれは、要注意人物ですね」
エミリーは、軽蔑するように頭を振って、「かれは、エクザンプトンにはいませんでした。おわかりにならないの、チャールズ、もし、かれが殺人でも犯そうとしたら、あらかじめ、それくらいのことは、ちゃんと計画を立てているわ。間抜けみたいに、ひょっこり出かけて行って、泊まり込んだりするのは、気の毒なお人好しのジムだけですわ。ライドフォードだって、チャグフォードだって、でなけりゃエクセターだって、いくらでも泊まるところはありますわ。もしかすると、ライドフォードから歩いて行ったかもしれないわ――それが本街道だし、雪で通れないこともなかったでしょうからね。楽々と行けたでしょうよ」
「そこらじゅうをすっかり、調べてまわらなくちゃいかんでしょうな」
「それは、警察でやっていますわ」と、エミリーがいった。「それに、そういうことは、あたしたちよりも警察のほうがはるかにうまくやってくれますわ。公的なことなら、どんなことでもみんな、警察のほうがずっとよく処理していますわ。カーチス夫人の話を聞いたり、ミス・パースハウスからヒントをかぎ出したり、ウイレットさん親娘を見張ったり、そういうような人目につかない私的なことね――あたしたちが点をかせぐのは」
「でなければ、なんにもしない。事件がどうなるかわからないのだから」と、チャールズがいった。
「ですから、条件にぴったりのブライアン・ピアスンにもどるのよ」と、エミリーがいった。「あたしたち、動機と機会の、二つを考えたわね。ところが、第三があるのよ――ある意味では、あたし、これがすべての中で一番重要だと思うんですけど」
「なんです、それは?」
「そうなの、あたし、そもそものはじめから、あのおかしな降霊術のことは、無視するわけにはいかないと思っていたんです。それで、できるだけ論理的に、頭を働かして調べようと思ってやってみたんです。それについて、三つの解決がありますわ。一つは、超自然的なものだということ。ええ、もちろん、それはそうかもしれないんですけど、あたしとしては、間違っていると思うんです。第二は、計画的だということです――だれかが、故意にやったということですけど、なんにもそれと想像できるような理由に到達することができないので、それもまた除外しなけりゃならないんです。第三は、偶然ということなんです。だれかが、そういうことをするという考えもなしに――全然、自分の意志に反して、それを自分に暗示したんです。つまり、一種の無意識の自己啓示ですわ。もし、そうだとすると、あの六人の中のだれかが、あの日の午後の、ある一定の時間に、トレベリアン大佐が殺されるということか、でなけりゃ、だれかが大佐に会って、暴行が行なわれそうだということを、はっきり知っていたか、どちらかですわ。ですから、あの六人の中のだれかが、真の殺人犯人ではないでしょうか、その中の一人は、殺人犯人と共謀していたにちがいないと思うんです。バーナビー少佐と他のだれかとの間にはつながりはありませんし、かといって、ライクロフト氏と他のだれかとの間にもないし、ロナルド・ガーフィールドと他のだれかとの間にも、つながりというものはないんですけど、ウイレット親娘ということになると、違ってくるんです。バイオレット・ウイレットとブライアン・ピアスンとの間には、一本の糸がつながっているんです。あの二人は、とても近い仲だし、それに、あの娘さんは、殺人のあったあと、なんだかすっかりあたふたしていたでしょう」
「じゃ、あの娘は知っていたと、あなたは考えているんですね?」と、チャールズがいった。
「あの娘さんか母親か――二人のうちのどちらかがね」
「もう一人、あなたが名前をあげなかった人がありますね」と、チャールズがいった。「デューク氏をね」
「知っていますわ」と、エミリーがいった。「どうもおかしいんですの。あの人のことだけは、あたしたち、まるきりなんにも知らないんですのね。あたし、あの人に二度も会おうとしたんですけど、うまくゆきませんでしたわ。でも、どうやら、あの人とトレベリアン大佐との間にも、あの人とトレベリアン大佐の身内の人との間にも、関係はないらしいんですの。とにかく、どこから見ても、あの人には、事件とは絶対に関係がないんです。ところが――」
「それで?」と、エミリーが言葉をとぎらせたので、チャールズ・エンダービーがいった。
「ところが、あの人の家から出てくるナラコット警部に会ったんですの。いったい、ナラコット警部は、あの人のことで、あたしたちが知らないどんなことを知っているんでしょう? あたし、それを知りたいと思うの」
「あなたの考えでは――」
「デュークという人は、なんとなく不審な人で、警察では、それを知っているんじゃないかしら。トレベリアン大佐も、デュークという人について、なにかをさぐり出していたのじゃないでしょうか。大佐が、自分のコテージを借りている人間について気むずかしい人だったことは、おぼえていらっしゃるでしょう。その自分の知っていることを、警察に告げようとしていらしたのではないでしょうか。それで、デュークさんが、共犯者と組んで、大佐を殺す手はずをしたのではないでしょうか。あら、あたしも、そんなふうに考えるなんて、それがひどく大芝居じみているぐらいのことは知ってますわ。でも、結局、そんなこと、ないとはいえないでしょう」
「そういう考えも確かにありえますね」と、チャールズは、ゆっくりといった。
二人とも、黙りこくったまま、めいめい深く考えに沈んでいた。と、不意に、エミリーがいった。
「あなた、だれかが、あなたのことをじいっと見つめている時に、とても変な気持ちがすることを知っていらっしゃるわね。あたし、いま、首筋のところに焼きつくようなだれかの視線を感じるのよ。気のせいかしら、それとも、いま、だれかがほんとにあたしを見つめているのかしら?」
チャールズは、一インチか二インチ、椅子をずらして、なにげないふうを装って、カフェの中を見まわして、「窓のそばのテーブルに、婦人が一人いますよ」と、知らせた。「背がすらりと高くて、浅黒い美人です。その人が、あなたをじっと見つめていますよ」
「若い人?」
「いいや、そんなに若くはない。やあ!」
「なんですの?」
「ロナルド・ガーフィールドです。いま、はいって来て、その婦人と握手して、その人のテーブルにすわりましたよ。どうやら、あの婦人が、なにかぼくたちのことを話しているようですよ」
エミリーは、ハンドバッグをあけた。ことさら派手に、その鼻のあたりに白粉《おしろい》をはたきながら、小さなポケット鏡を、ちょうど、いい角度に合わせていたが、「あの婦人は、ジェニファー伯母さんですわ」と、そっといった。「ああ、立ちあがるわ」
「出て行くようですよ」と、チャールズがいった。「話しかけますか?」
「いいえ」と、エミリーはいった。「あたしは見なかったふりをしたほうがいいと思うわ」
「結局のところ」と、チャールズがいった。「ジェニファー伯母さんが、ロニー・ガーフィールドと知っていて、お茶を飲もうというのが、なぜいけないんです?」
「じゃ、当然だとおっしゃるの?」と、エミリーがいった。
「当然じゃないというんですか?」
「まあ、お願いだから、チャールズ、そんなふうにいうの、やめてちょうだい、当然だとか――当然でないとか――そうだとか――そうでないとか。むろん、そんなことはつまらないことだわ、なんの意味もないことよ――でも、あたしたちは、たったいま、あの降霊術に加わった人たちで、大佐の家族と身寄りになる人は一人もいないといっていたばかりでしょう。それから六分もたたないうちに、ロニー・ガーフィールドがトレベリアン大佐の妹とお茶を飲んでいるのを見かけたんですからね」
「ということは」と、チャールズがいった。「あなたには、まだなにもわかっていないということですね」
「ということは」と、エミリーもいった。「またまた振り出しへまいもどりということね」
「いろいろの意味でね」と、チャールズがいった。
エミリーは、チャールズの顔を見つめて、「それ、どういうことですの?」
「いまは、やめておきましょう」と、チャールズがいった。
チャールズは、エミリーの手の上に、自分の手をおいた。エミリーは、その手を引っこめようとはしなかった。「とにかく、この仕事をかたづけてしまわなくちゃ」と、チャールズ、がいった。「そうしたら――」
「そうしたら?」と、エミリーは、ささやくようにいった。
「ぼくは、あなたのためなら、なんでもしますよ、エミリー」と、チャールズがいった。「ほんとに、どんなことでも――」
「してくださる?」と、エミリーがいった。「あなたって、ほんとにいい方ね、チャールズ」
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第二十六章 ロバート・ガードナー
それから二十分ほどして、エミリーは、ローレル館の玄関のベルを鳴らした。とっさに、思いついてたずねて来たのだった。ドアをあけたベアトリスに、かの女は、明るく笑顔《えがお》を向けて、「また伺いましたわ」といった。「ガードナー夫人はお出かけでしょう、でも、ガードナーさんにはお目にかかれるかしら?」
こんなことを聞かれるのは、ほんとに珍しいことだった。ベアトリスは、いかにもいぶかしそうな面持ちで、「さあ、どうですか。上へ行って、伺ってまいりましょうか?」
「ええ、どうぞ」と、エミリーはいった。
ベアトリスは、二階へあがって行ったが、しばらくするともどって来て、どうぞこちらへお出でくださいとエミリーにいった。
ロバート・ガードナーは、大きな部屋の窓ぎわに寄せた長椅子に横たわっていた。かれは、大柄な男で、目は青く、金髪だった。ワグナーの歌劇「トリスタンとイゾルデ」の第三幕目に出てくるトリスタンにうってつけだわ、どんなワグナーふうのテノール歌手だって、これほどふさわしい柄を持った人にまだお目にかかったことはないわ、と、エミリーは、胸の中で思った。
「やあ」と、相手はいった。「あなたが、あのくくられている青年の妻になるという人なんだね?」
「そうですの、ロバート伯父さん」と、エミリーがいった。「ロバート伯父さんとお呼びしてもいいでしょう?」と、エミリーがたずねた。
「ジェニファーがいいといえばね。刑務所で悩み暮らしている恋人を持っているのは、どんな気持ちだね?」
残酷な人だ、と、エミリーは、心にいいきかせた。人が苦しい思いをしている胸に鋭いあてこすりをいって、意地の悪い喜びを感ずるような人だわ。でも、エミリーは、負けてはいなかった。かの女は、にっこり笑いを浮かべていった。「とてもスリルがありますわ」
「ジム先生にとっちゃ、スリルどころじゃないだろう?」
「そりゃそうですわ」と、エミリーがいった。「でも、これも一つの経験じゃないでしょうか?」
「世の中は、のんきにしちゃ渡れないという教訓だ」と、ロバート・ガードナーは、悪意をこめていった。
かれは、詮索するように、エミリーに目をあてて、「それで、いったいなんの用で、わたしに会いに来たのだね?」その声には、人を疑うような響きが含まれていた。
「結婚しようとする時には、前もって、親威の方々に会っておいた方がよろしいでしょう」
「手遅れにならないうちに、一番いやなものを知っておくというんだね。すると、ほんとにジム青年と結婚しようという気なんだね?」
「なぜ、いけないんでしょう?」
「殺人罪にもかかわらず?」
「殺人罪にもかかわらず」
「ふん」と、ロバート・ガードナーはいった。「いささかも気のくじけぬ人間に、わたしは、これまでにお目にかかったことはないね。まるで楽しんでいるようだと、人は思うだろうな」
「ええ、そうですわ。殺人犯人を調べあげるのは、とてもスリルがありますもの」
「えっ?」
「殺人犯人を捜査するのは、スリル満点だと申しましたの」と、エミリーはいった。
ロバート・ガードナーは、じいっとエミリーを見つめていたが、やがて、どすんと投げかけるように枕に身を寄せると、「ああ疲れた」と、いらいらした声でいった。「もう話はしたくない。看護婦さん、看護婦さんはどこだ? 看護婦さん、疲れたよ」
看護婦のデイビスは、かれの呼び声に、素早く隣の部屋からはいって来た。「ガードナーさまは、すぐにお疲れになるんですのよ。失礼ですが、もうお引取りになっていただくほうがいいかと存じますのですが、ミス・トレフュシス」
エミリーは立ちあがると、快活にうなずいていった。「さようなら、ロバート伯父さま、たぶん、またいつか伺いますわ」
「なんだって?」
「またお目にかかりますわ」と、エミリーがいった。
かの女は、玄関を出ようとして、ふと立ちどまり、「あら!」と、ベアトリスにいった。「あたし、手袋を忘れて来たわ」
「わたくしが取ってまいりましょう、お嬢さま」
「あら、いいわ」と、エミリーがいった。「あたし、自分でとって来ますわ」そういうと、かの女は、敏捷《びんしょう》に階段を駆けあがって、ノックもせずに部屋にはいって行った。
「あら」と、エミリーがいった。「ごめんなさいね。すみません、あたし、手袋を忘れましたの」かの女は、ことさららしくはでな身ぶりで、その手袋を取りあげると、部屋の中で向かいあって、手と手を取りあっている二人の人に、愛らしくほほえみかけて、再び階段を駆け降りると、家の外に飛び出した。
この手袋の置き忘れは、すばらしい計略だわ、と、エミリーは胸の中でつぶやいた。成功したのこれで二度目だわ。気の毒なジュニファー伯母さん、知っていらっしゃるのかしら? きっとご存じないんだわ。さあ、いそがなくちゃ、チャールズが待っているわ。
エンダービーは、約束どおりエルマーのフォードの中で待っていた。「うまく行きましたか?」と、チャールズはたずねた。
「ある意味では、イエスよ。はっきりわからないけど」
エンダービーは、物問いたげに、エミリーの顔を見た。
「いいえ」と、エミリーは、かれのまなざしにこたえて、いった。「そのことは、あなたにはいわないつもりなの。だって、この事件とは、まったく関係がないことかもしれないんですもの。もしそうだとすれば、感心したことじゃないんですもの」
エンダービーは、ため息をついて、「なかなか気むずかしいんですな」といった。
「すみません」と、エミリーは、かたくなっていった。「でも、そうなんですもの」
「どうぞお好きなように」と、チャールズは冷たくいった。
二人は、沈黙のまま、車に身をゆだねていた――チャールズは、腹立たしさからの沈黙を、エミリーは、すっかりぽかんと、なにもかも忘れてしまっているような沈黙を、それぞれつづけていた。
車が、もうエクザンプトンにはいろうというころ、エミリーが沈黙を破って、まったく思いもよらないようなことをいった。
「チャールズ」と、エミリーがいった。「あなたは、ブリッジをなさるの?」
「ええ、やりますよ。なぜです?」
「あたし、いま、考えていたんですけど。ねえ、そうでしょう、ブリッジで自分の手の値ぶみをするときに、よくいうでしょう? 守りにまわるときには――勝ち札を勘定しろって――だが、攻めに出るときには――弱い札に重点をおけって。いま、あたしたちは、この事件では攻撃態勢にあるのよ――だのに、もしかしたら、あたしたちは、間違った方法で攻めていたんじゃないかしら」
「どう間違っていたというんです?」
「そうよ、あたしたちは、勝ち札にばかり重点をおいていたんじゃないかしら? つまり、あたしたちは、どう考えてもそんなはずはないような人でも、トレベリアン大佐を殺害しうる状態にあった人たちばかりを追究していたということなの。おそらく、あたしたちがこんなにひどく混乱してしまったのは、そのせいよ」
「ぼくは、別に混乱なんかしていませんがね」と、チャールズがいった。
「そう、じゃ、あたしだけね。あたしは、すっかり混乱してしまって、まるきり、なにも考えつかないほどなの。だから、こんどは、別の考え方をたどってみたいのよ。ねえ、こんどは、弱い札に重点をおいてみたいのよ――つまり、トレベリアン大佐を殺害しうる可能性のなかった人たちに、目を向けてみたいのよ」
「そんなら、えーと――」と、エンダービーは、思案をめぐらした。「まずはじめに、ウイレットの親子、バーナビー、ライクロフト、ロニー――ああ! それからデューク」
「そうよ」と、エミリーは相槌をうった。「あの人たちはだれ一人として、大佐を殺害することのできない情況にいたことはわかっていますわね。だってそうでしょう、大佐が殺された時刻には、あの人たちはみんなシタフォード山荘にいて、お互いに、みんな顔を合わせていたんですし、あの人たちがみんな、嘘をついているはずがないんですもの。そう、あの人たちはみんな、問題外よ」
「実際のところ、あの時、トレベリアン山荘にいた人は、だれもかれも、問題外ですよ」と、エンダービーがいった。「このエルマーもね」と、かれは、万一にも運転手に聞こえないように、声をひそめていった。「だって、そうでしょう、金曜日には、シタフォードへの道は、車では通れなかったんですからね」
「歩いて行くことはできましたわね」と、エミリーも同じように低い声でいった。「あの晩、バーナビー少佐が行きつけたのなら、このエルマーだって、昼食の時にたって――五時に、エクザンプトンに行きついて、大佐を殺してから、また歩いて帰ることができたはずよ」
エンダービーは、首を振って、「いや、歩いて帰れたとは思えませんね。おぼえてるでしょう。雪は、六時半ごろに降り出したんですよ。とにかく、あなたは、エルマーを犯人だと思っているんじゃないでしょうね?」
「いいえ」と、エミリーがいった。「でも、そうはいっても、殺人狂かもしれないわね」
「しいっ」と、チャールズがいった。「聞かれたら、感情を害してしまいますよ」
「すくなくとも」と、エミリーがいった。「トレベリアン大佐を殺害することができなかったとは、あなたにも、はっきりとはいえないわね」
「まず十中八九は確かですよ」と、チャールズがいった。「いくらかれでも、エクザンプトンへ歩いて行くことも、シタフォードじゅうの人に気づかれずに、帰って来ることもできなかったでしょう。そんなことをしていれば、怪しいって、いまごろはその噂で持ちきりになっているはずですよ」
「確かに、だれかれの差別なしに、あらゆることを、なんでもかんでも知っているというところね」と、エミリーも同意した。
「まったくそのとおり」と、チャールズがいった。「ぼくが、シタフォードじゅうの人間はだれもかれも問題外だというのは、それだからですよ。あの晩、ウイレット家にいなかった人といえば――ミス・パースハウスとワイヤット大尉だけだけど――あの人たちは、病人ですからね。とうてい、吹雪の中を骨を折って行きつくことなんかできっこありませんよ。それから、親愛なるカーチス老人と細君。もし、二人のうちどちらかがやったとしたら、あの連中ならエクザンプトンへ行って、悠々と週末をすごして、ことが終わってから、きっと帰って来るでしょうな」
エミリーは、声をたてて笑いなから、「だれも気づかれずに、シタフォード以外の場所で週末をすごすなんてことはできやしませんわ、ほんとに」といった。
「カーチスの細君が外へ泊まったとしたら、カーチスは、物音のしないことに、たちまち気がつくでしょうからね」と、エンダービーがいった。
「わかった」と、出し抜けに、チャールズがいった。
「なにが?」と、エミリーが、せき込んでいった。
「鍛冶屋の細君だ。近日、八人目の子供が生まれるっていう、あの人ですよ。あの不敵な女なら、自分のからだのことなんかものともせずに、シタフォードまで歩き通して、砂嚢で大佐をなぐり殺すぐらいやってのけますよ」
「まあ、どうして?」
「というわけは、むろん、これまでの七人の子供の父親は、鍛冶屋だったんだけど、こんど、生まれてくる赤ん坊の父親は、トレベリアン大佐だからですよ」
「チャールズ」と、エミリーがいった。「そんなたしなみのないこというもんじゃなくてよ。でも、とにかく、やったとしたら、鍛冶屋のほうで、おかみさんじゃないわ。でも、まったくいいことをおっしゃるわね。あのたくましい腕で砂嚢を振りまわしているところを考えてもごらんなさいな! それに、おかみさんは、七人の子供の世話に追われて、あの人のいないことには絶対に気がつかなかったでしょうからね。一人の男のことに注意するだけの、ほんのいっときの間さえ、きっとなかったでしょうよ」
「こいつはまた、ずいぶんばかげた話に落ちてしまいましたね」と、チャールズがいった。
「どうやら」と、エミリーも相手の言葉に賛成した。「負け札に重点をおくことも、あまりうまくゆかなかったというわけね」
「で、あなたは、どうなんです?」と、チャールズがいった。
「あたし?」
「凶行が行なわれた時、あなたは、どこにいたんです?」
「まあ驚いた! あたし、そんなこと考えてもみませんでしたわ。ロンドンにいましたわ、もちろん。でも、どうしたら、それが立証できるか、あたしにはわからないわ。たった一人で、自分のアパートにいたんですもの」
「そうらごらんなさい」と、チャールズがいった。「動機、その他なにからなにまで、ちゃんとそろっているじゃありませんか。あなたの恋人は、二万ポンドが手にはいるんですぜ。それ以上に、なんの証拠が必要なんです?」
「あなたは頭がいいわ、チャールズ」と、エミリーがいった。「ほんとうは、あたしが最も疑わしい人物だということが、いま、はっきりわかりました。いままで、そんなこと、一度も思ってみたこともなかったけど」
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第二十七章 ナラコット、活躍す
それから二日目の朝、エミリーは、ナラコット警部の事務室にすわっていた。その朝、かの女は、シタフォードからやって来たのだった。ナラコット警部は、相手の気持ちを忖度《そんたく》するように、エミリーの顔に目をあてた。かれは、エミリーの勇気、どこまでもくじけない勇敢な決意と、その果敢にして明朗な態度に、驚嘆の思いを深くした。かの女は、勇敢な闘士だった。そして、ナラコット警部は、闘士を尊敬した。たとえ、あの青年が殺人事件には無罪で潔白だったとしても、ジム・ピアスンにとっては、かの女は、もったいないほどの女性だというのが、ナラコット警部のひそかな考えだった。
「世間では一般に、いろいろな小説を読んで」と、ナラコットがいった。「警察では犯人をあげることに熱中したあげく、その人間を有罪にしうるという証拠さえあれば、その容疑者が無実であろうとなかろうとおかまいなしに、早いとこあげたがると考えているようですがね。そんなことは、ほんとうじゃありませんよ、ミス・トレフュシス。われわれがさがしているのは、罪を犯した人間だけなんです」
「正直なところ、あなたは、ジムを犯人だと信じておいでですの、ナラコット警部さん?」
「それについて公式のご返事を申しあげるわけにはいきません、ミス・トレフュシス。ですが、これだけは、あなたに申しあげましょう――われわれ警察としては、かれに対する証拠だけではなく、その他の人たちに対する証拠をも、きわめて念入りに調べているということです」
「とおっしゃると、ジムのきょうだいの――ブライアンについてもということですのね?」
「ひどく感心しない人物ですね、ブライアン・ピアスン氏は。どんな質問にもこたえようとはしないし、かといって、自分のことについては、いっさい話をしようともしないのですからな。だが、わたしの考えでは――」といいながら、ナラコット警部は、デボンシャー人特有の鈍い笑いを、顔いっぱいに浮かべて、「あの男の行動のあるものについては、かなり確かな想像がつけられると思っています。もし、わたしの想像が当たっていれば、もう三十分もすれば、わかるでしょう。それから、ダーリング氏がいますね」
「あの人にお会いになりましたんですのね?」と、詮索するように、エミリーはたずねた。
ナラコット警部は、エミリーの快活な顔を見て、役目柄の慎重さを振りすてて、ゆったりしたいという気が胸の中に起こるのを感じた。そして、ゆったり椅子に背をもたせかけながら、ダーリング氏との会見の模様をこと細かに話して聞かせてから、すぐそばの書類|綴《つづ》りから、ローゼンクラウンにあてて打った電報の写しを取り出して、「これが、こちらから打ったほうで」といった。「これが、その返電です」
エミリーは、その電文に目を走らせた。
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エクセター・ドライスデール通り二番地、ナラコット殿
ダーリング氏の言葉に間違いなし、金曜日の午後中、氏は小生の会社にいた。
ローゼンクラウン
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「あらいやあね!」と、エミリーがいった。
「そ――う」と、ナラコット警部は、反射的にいった。「いやな返事じゃありませんか?」そういいながら、またもや、デボンシャー人特有の鈍い笑いを浮かべて、「だが、わたしは、非常に疑い深い人間なんですよ、ミス・トレフュシス。ダーリング氏のいう理由は、いかにももっともらしく聞こえたんです――が、すっかり、かれの手にはまるのも残念だと思ったんです。それで、もう一つ別の電報を打ったというわけですよ」
そういって、また二枚の紙片を、かれは、エミリーに手渡した。
はじめの電文には、こう書いてあった。
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トレベリアン大佐殺人事件に関し、再び貴下の証言を得たし、貴下は金曜日午後のマーチン・ダーリングの現場不在の陳述を認められるや。
エクセター警察署、ナラコット警部
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返電は、電報料がかさむことなどにはおかまいなしに、ひどく興奮の気持ちを、ありありと示したものだった。
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犯罪事件に関するものとは夢にも考えなかった。金曜日にはマーチン・ダーリングには面会せず。ただ離婚の訴訟手続きのために、かれの妻が、かれを監視したものと信じ、一友人として第三者にかれの主張を認めただけなり。
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「あら」と、エミリーがいった。「まあ!――あなたって、頭のきれる方ね、警部さん」
警部も、おれは、確かに頭がよかったな、と思った。かれの微笑は、穏やかに、いかにも満足そうだった。
「いったい人間なんて、どうして、ほかのひとと結ばれたりするんでしょうね」と、つくづくと電報をながめながら、エミリーは、言葉をつづけた。「お気の毒なシルビアさん。ある点で、男なんて野獣だと、あたし、ほんとに思いますわ。だからこそなおさら」と、エミリーはつけ加えていった。「心から信頼できる方に出会うなんて、ほんとにすばらしいことですわ」
「ところで、このことはいっさい、ごくごくの秘密に願いますよ、ミス・トレフュシス」と、警部は、注意を促すように、エミリーにいった。「一件について、わたしは、必要以上に、あなたにお知らせしたわけですからね」
「ほんとに、あなたってすばらしい方だと、あたし思いますわ」と、エミリーはいった。「あたし、けっして、どんなことがあったって忘れませんわ」
「ええ、いいですね」と、警部は、エミリーに、もう一度注意を促すようにいった。「どんな人間にも、ひと言もいっちゃいけませんよ」
「じゃ、チャールズに――エンダービー氏にも話しちゃいけないと、おっしゃるんですのね」
「新聞記者は、どこまでも新聞記者ですからね」と、ナラコット警部はいった。「あなたが、あの男を、どれほどすっかり自家薬籠中の物にしていらっしゃったところでね、ミス・トレフュシス――さよう、ニュースは、ニュースじゃないでしょうか?」
「じゃ、あたし、話しませんわ」と、エミリーがいった。「あの人、口のかたい人だと思うんですけど、でも、あなたがそうおっしゃるとおり、新聞記者というものは、どこまで行っても新聞記者でしょうからね」
「つまらぬと思うような、ほんのちょっとした情報のはしくれでも、絶対にもらさないというのが、わたしの主義なんです」と、ナラコット警部がいった。
ちらっと、かすかな光が、エミリーの目に浮かんだ。口にこそ出さなかったが、かの女は、この三十分ほどの間に、ナラコット警部自身が、その主義を、むしろけしからんほど破っていると、ひそかに思ったからだった。というのは、いまのところでは、おそらく、なんのかかわりも、もちろんないのだが、ある一つの考えが、不意に、かの女の心に思い出されたからだった。どうやら、あらゆることが、まったく違った方角に向かっているようだった。だが、これだけは知っておいたほうがいいだろうと思って、「ナラコット警部さん」と、突然、エミリーがいった。「デュークさんという方は、どんな方ですの?」
「デューク氏ですか?」
その出しぬけの質問に、警部さん、ちょっと面くらったらしいわと、エミリーは、肚の中で考えながら、「おぼえておいででしょう」といった。「シタフォードの、あの方のコテージから出ておいでになる時に、お会いしましたわね」
「ああ、そう、そう、おぼえています。ほんとうのことをいうとね、ミス・トレフュシス、あの『こっくりさま』の一件について、独自な立場で考えてみたいと思ったんですよ。バーナビー少佐は、話すことにかけては一流とはいえませんからね」
「それに」と、エミリーは、考え深そうにいった。「あたしがあなたでしたら、そのことで、だれかライクロフトさんのような人のところへ行ってみますわ。だのに、どうして、デュークさんのところへいらっしゃいましたの?」
しばらく、黙っていたが、やがて、警部はいった。「それは、見解の相違ですな」
「そうかしら、警察では、デュークさんのことについて、なにか知っていらっしゃるんじゃないんですか」
ナラコット警部は、なんともこたえなかった。ただ、じっとその目を、吸取紙に据えたままでいた。
「一点非の打ちどころのない生活を送っている方!」と、エミリーがいった。「それが最も正確に、デュークさんにあてはまる言葉ね。でも、いつでも、非難の余地のない生活を送っていらしたというわけじゃないんでしょう? おそらく、警察じゃ、わかっていらっしゃるんでしょう、そのことは?」
微笑を隠そうとして、ナラコット警部の顔が、かすかにふるえたのを、エミリーは、目にとめた。
「あなたは、想像をめぐらすことがお得意のようですね、ミス・トレフュシス?」と、警部は、愛想よくいった。
「どなたも、なんにもいってくださらないときは、想像するしかしかたがありませんわ!」と、エミリーは、しっぺ返しにいった。
「もしも、ある人物が、あなたのおっしゃるように、一点非の打ちどころのない生活を送っているとして」と、ナラコット警部がいった。「その過去の生活を明るみに出されることが、その人物にとって、なんらかの厄介事とか迷惑を持ちきたすとすれば、そうですよ、警察は、その人の秘密を守ってやらなければならないのです。われわれは、個人の秘密を洩らすことは好まないのです」
「よくわかりましたわ」と、エミリーがいった。「でも、まあどっちにしても――あなたは、あの方に会いにいらしたんでしょう? まあそれはとにかくとして、あの方がこの事件に関係しているらしいとは、はじめから、あなたは考えていらしたらしいわね。あたしはね――あたしは知りたいと思っているんですよ、デュークさんという方、ほんとうにどんな方かしら? それに、過去に、犯罪学のどんな特殊な部門に専念していらしたんですの?」
エミリーは、訴えるように、ナラコット警部の顔に目をそそいだが、警部は、無表情な顔の色を動かそうともしなかったので、この問題で、相手を動かすことはできないと思い、ため息をついて、エミリーは、別れを告げた。
エミリーが行ってしまってからも、警部は、じっと吸取紙を見つめたまま、すわっていたが、その唇には、微笑の翳《かげ》がただよっていた。やがて、かれがベルを鳴らすと、一人の部下がはいって来た。
「それで?」と、ナラコット警部はたずねた。
「上首尾でした、警部どの。ですが、プリンスタウンの直轄領ではなくて、ツウ・ブリッジのホテルでした」
「ああ、そうか!」と、警部は、相手が差し出した書類を受け取って、「よし」といった。「それで、万事決定だ。きみは、あのもう一人の若者の金曜日の行動を、徹底的にさぐったかね?」
「やつは、確かに、終列車でエクザンプトンに着いたのですが、何時にロンドンをたったかは、まだ判明いたしません。調査は、目下続行中であります」
ナラコットはうなずいた。
「これが、サマセット・ハウス(ロンドン、ストランド街にあるイギリス・戸籍本署、遺言検認登記本所、内国税収入局などのある官庁建物。元サマセット伯爵の邸宅であったところから、この名で呼ばれる)からもらって来た登記書類の写しです」
ナラコットは、折り畳んであったその書類を開いてみた。それは、ウィリアム・マーチン・ダーリングと、マルタ・エリザベス・ライクロフトとの結婚届書だった。
「ふうむ」と、警部がいった。「その他には?」
「はい、警部どの。ブライアン・ピアスン氏は、オーストラリアからブルー・ファンネル汽船のフィディアス号に乗り込んだのです。その船は、ケープタウンに寄港しましたが、ウイレットなんていう名前の船客は乗船していませんでした。南アフリカからも、母娘らしいものは、全然乗船しませんでした。メルボルンからは、エバンスという母娘と、ジョンスンという母娘とが乗船しました。そのジョンスンという母娘は、ウイレット母娘にそっくりだということです」
「ふーむ」と、警部はうなるように――「ジョンスンね。おそらくジョンスンもウイレットも、本名じゃないな。どうやら、底は見えてきたようだな。その他には?」が、ほかには、なにもないようだった。
「よし」と、ナラコットはいった。「これで洗いつくせるだけは洗ったようだな」
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第二十八章 長靴
「だが、お嬢さん」と、カークウッド氏がいった。「あなたは、ハーゼルムアで、なにを発見できると思っていらっしゃるのでしょう。トレベリアン大佐の所有物はすっかり、もうほかのところへ移されてしまったのですし、警察では、すっかりあの家も捜査してしまったのですよ。わたしは、あなたの立場もようくわかりますし、できれば、ピアスン氏が――ええ――無罪になるようにと、案じていらっしゃることも、よくわかります。ですが、なにができると思っていらっしゃるんです?」
「あたし、なにも発見できるとは思ってもいませんし」と、エミリーがこたえた。「また、警察が見落としたものが、見つけられるとも思ってはいませんの。あたし、口ではご説明できないんですけど、カークウッドさん、あたしはただ――あたし、あの場のふんい気をつかみたいんですの。お願いですから、鍵を貸していただけません? ご迷惑はおかけしませんから」
「いや、迷惑というほどのこともありませんがね」と、カークウッド氏は、もったいぶっていった。
「じゃ、お願いしますわ」と、エミリーがいった。
それで、カークウッド氏は、根が思いやりのある人だったので、寛大な微笑を浮かべながら、鍵をエミリーに渡した。
その朝、エミリーは、一通の手紙を受け取っていた。それは、つぎのような文面のものだった。
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ミス・トレフュシスさま(と、ベリング夫人は書いていた)
あなたは、先日、こんどの事件について、もしなにか変わったことでも起これば、たとえ重要なことでなくても、知らせてほしいとおっしゃっていらっしゃいましたので、あまり重要なことではないかもしれませんが、なんとなく変わっているような気がいたしますので、とりあえずお嬢さまに、今晩最後の便か、明朝最初の便でお手もとに届きますように、至急お知らせいたそうと思いつきました。といいますのは、わたくしの姪がまいりまして、大したことではないが、ちょっと変わったことだと申しますので、わたくしもなるほどと思ったのでございます。先日、警察では、トレベリアン大佐のお家からはなにも紛失してはいないとのお話で、みんなそう思っていましたし、その時には、それほど気にとめるほどの話でもありませんので、なにも申しあげませんでしたが、その時には、あまり大したことでもないと気にも止めなかったものが、なくなっているということなのです。といいますのは、最近になってエバンスが、バーナビー少佐とごいっしょに、大佐の品々をとりかたづけましたところ、大佐の長靴が一足なくなっていることに気がついたのでございます。あまり重要なことではないと存じますのですが、お嬢さまには一応お知らせいたします。その長靴は、油を塗った厚いもので、大佐が雪の中へでもお出かけになったのならおはきになったかとも存じますのですが、大佐は、雪の中へはお出かけにはなりませんでしたので、どうも訳がわからないのでございます。でも、紛失していますことは確かに紛失していますので、だれが持って行ったのかは、全然わからないのです。あまり重要なことでないとは、よく存じておりますが、とにかくお知らせいたさなければと存じ、あなたのお役に立てば幸いと存じます。そして、あなたが、あのお若い方のことにあまり気をお使いにならないようにお祈りいたします。ご機嫌よろしゅう。
J・ベリングより
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エミリーは、この手紙を、何度も何度も読み返した。そして、チャールズと話しあった。
「長靴ねえ」と、チャールズは、考えに沈みながらいった。「どうも、ぴったりこないな」
「きっと、なにか意味があるにちがいなくってよ」と、エミリーが、強調するようにいった。「というのはね――いったいどういうわけで、一足の長靴が紛失しなければならなかったか、ということなのよ」
「エバンスのでっちあげだとは思わないんですね?」
「どうして、エバンスが、そんなことをするとおっしゃるの? それに、でっちあげるんだったら、もうすこし気のきいたことをするわ。こんなばかばかしい、無意味なことはしませんわ」
「長靴というと、足跡が連想されますね」と、チャールズが、考えに沈みながらいった。
「そうね。でも、この事件には、足跡は全然、はいる余地はないらしいわね。おそらく、あの時に、雪がまた降り出さなかったら――」
「そう、おそらくね、でも、その場合でもどうでしょう。大佐は、だれか渡り者にでも、その長靴をやったんじゃないでしょうか」と、チャールズが、におわすようにいった。「そして、その渡り者がはいり込んで、大佐をやったんじゃないでしょうか?」
「ありうることですわね」と、エミリーがいった。「でも、それは、トレベリアン大佐らしいやり方じゃないわね。あの方なら、おそらく、なにか仕事を見つけてやるなり、一シリングぐらいあげるなりしたかもしれないけど、自分の一番上等の冬用の長靴を押しつけるようなことはしなかったでしょうね」
「ああ、ぼくは、もう匙《さじ》を投げますよ」と、チャールズがいった。
「あたしは、あきらめないわ」と、エミリーがいった。「どんな手段でもかまわないから、あたしは、この真相をつきとめてみせますわ」
それで、エミリーは、エクザンプトンにやって来て、まずスリー・クラウン館をたずねると、ベリング夫人が、ひどく気負い込んで、かの女を迎え入れた。
「それで、あなたの恋人の若い方は、まだ監獄にいらっしゃるんですね、お嬢さん! ほんとに、ひどいことですわね。わたしたちだれも、あの方だなんて信じてはいませんわ。すくなくとも、わたしは、そんな噂をする人のことなんか聞きたいとも思いません。それで、わたしの手紙、ごらんになりましたのでしょう? エバンスにお会いになりますでしょう? ええ、あの人は、すぐ近くに住んでいますんですよ、フォア通りの八十五番地なんですの。ごいっしょに行きたいのですけれど、どうしてもここを離れられませんのですよ。でも、お間違いになるようなことはありませんよ」
エミリーは、間違えなかった。エバンス自身は留守だったが、エバンスの細君がいて、かの女を迎えて招じ入れた。エミリーは、腰をおろすと、エバンスの細君にも腰をおろさせてから、すぐさし迫った問題にとりかかった。「あたし、ご主人がベリング夫人にお話しになったことについて、伺いたいと思っておたずねしたんですの。つまり、トレベリアン大佐の長靴が紛失しているということについてなんですけど」
「おかしなことですわね、ほんとに」と、細君はいった。
「ご主人は、確かになくなっているとおっしゃっているんですのね?」
「ええ、そうですとも。あの長靴は、冬の間じゅうほとんど、大佐はおはきになっていましたんですよ。大きな靴でしてね。ですから、おはきになるときには、いつも靴下を二枚おはきになっていたんです」
エミリーは、うなずいて、
「修繕かなにかにお出しになったというようなことはないんでしょうね?」と、エミリーは、さぐりを入れるようにいった。
「いいえ、エバンスに知らせないで、そんなことをなさるようなことはございません」と、細君は、誇らしげにいった。
「ええ、そうでしょうね」
「確かに妙なんですの」と、エバンスの細君がいった。「でも、殺人事件に関係があるとは思えませんわね、お嬢さま?」
「そうじゃなさそうですわね」と、エミリーも同意した。
「警察では、なにか新しいことでも見つけたんでしようか、お嬢さま?」という細君の声には、熱がこもっていた。
「ええ、一つか二つね――でも、あまり重要なことではないんですけど」
「あの、エクセターの警部さんが、きょうもまた、ここへおいでになったのを見かけたものですから、なにか起こったのかと思っていましたんですよ」
「ナラコット警部さんが?」
「ええ、あの方なんですよ、お嬢さん」
「汽車でいらしたんですか?」
「いいえ、自動車でいらっしゃいましたんですよ。いきなりスリー・クラウン館へおいでになって、あの若い方の荷物のことをお聞きになりましたんですよ」
「若い方の荷物って、なんのことですの?」
「あなたとごいっしょの方ですよ、お嬢さま」
エミリーは、まじまじと相手の顔を見つめた。
「警察の方が、トムにおたずねになったんです」と、細君は言葉をつづけた。「ちょうどそのあと、わたくしがそばを通りかかりますと、あの人が、わたくしにそのことを話してくれたんでございます。あの方のことに気づいていたのが、トムなんでございますの。お若い方の荷物に、一つはエクセターあての、もう一つのにはエクザンプトンあてと、ラベルをはった荷物が二つあったのを、トムがおぼえていたのでございますって」
いきなり微笑が、エミリーの顔に明るく浮かびあがった。チャールズが、自分で特種をでっちあげるために、犯罪をおかしたのかと思い描いたからだった。あのチャールズなら、この事件でぞっとするような三面記事が書けるにちがいないと思った。しかし、たとえ犯罪との関係がどれほど薄い人間のことでも、あらゆることを、こと細かに調べずにはおかないナラコット警部の厳密な心構えを、エミリーは、見上げたものだと感嘆した。きっと自分と会ってからすぐあとで、エクセターをたったのにちがいあるまい。スピードの出る車なら、楽々と汽車など追い抜けるだろうし、そうでなくても、自分はエクセターで昼食をとっていたのだから、と、エミリーは心でうなずいた。
「ここでご主人と会ったあとで、警部は、どこへいらしたんですの?」と、エミリーはたずねた。
「シタフォードへですわ、お嬢さん。運転手にそうおっしゃったのを、トムが聞いたっていいますから」
「シタフォード山荘へですか?」
ブライアン・ピアスンが、まだシタフォード山荘で、ウイレット母娘のもとに泊まっているのを、エミリーは知っていた。
「いいえ、お嬢さま、デュークさんのところへですわ」
またデュークだ。エミリーは、裏をかかれたと感じて、いらいらした。なんかといえば、いつでもデュークだ――なんとも測り知れない人だ。証拠さえあれば、どういう人物か、かれを決めつけることができるのだがと、エミリーは思った。が、かれは、だれにでも――尋常で、平凡な、愉快な人物という、同じ印象を与えているらしかった。
|あの人に会ってみなくちゃならないわ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、と、エミリーは胸の中でいった。シタフォードへもどったらすぐに、あの人のところへ、まっすぐに行ってみよう。
それから、エバンスの細君に礼をいうと、その足でカークウッド氏のところへ行き、鍵を借り受けて、いま、ハーゼルムアの家の広間に立ちつくしていた。そして、どのように、なにを感じるだろうかと待ち構えるような気持ちでいたのだった。
エミリーは、ゆっくり階段をのぼると、階段の上の最初の部屋へはいっていった。これこそはまぎれもなく、トレベリアン大佐の寝室だった。カークウッド氏が話したとおり、そこには個人的な印象の残っている物はなんにもなかった。毛布は、畳んで、こぎれいに積み重ねられていたし、どの引出しも空っぽで、食器棚にいくらか自在|鉤《かぎ》が置き忘れられているだけだった。長靴を入れる戸棚には、からになったむき出しの棚が並んでいるだけだった。
エミリーは、大きくため息をついてから、まわれ右をして、階下へ降りて行った。そこは、故人が倒れていた居間で、開いたままの窓からは、雪が吹き込んでいた。
かの女は、その時の情景を、頭の中に再現してみようとした。いったい、だれの手が、トレベリアン大佐をなぐり倒したのだろうか、そして、その理由はなんだったろう? みんなが信じているように、大佐は五時二十五分すぎに殺されたのだろうか――それとも、ジムが気おくれがして、嘘をいっているのだろうか? ジムが玄関でベルを鳴らしたのだが、だれも返事をしないので、窓の方へまわって部屋をのぞきこんだところ、亡くなった伯父さんの死体を見つけて、急に恐怖に襲われて、あわてて逃げ出したのだろうか? それさえわかればいいのだが。ダクレス氏の話によると、ジムは、どこまでも自分の話に固執しているということだが。そうだ――だが、ジムは、気おくれしてしまって、はっきり自分のしたことをいえないのかもしれない。が、それを確かめる手立ては、エミリーにはなかった。
ライクロフト氏が示唆したように、その時、だれか家の中にいて――そのだれかが、二人の言い争いを立ち聞いて、そのチャンスをとらえたのではないだろうか?
もし、そうだとしたら――そのことは、長靴の問題に、どんな解決を投げるのだろうか? だれかが二階に――おそらく、トレベリアン大佐の寝室にいたとしたら、どうだろう? エミリーは、また広間を通り抜けた。そして、ちらっと食堂に、素早い一瞥《いちべつ》を向けた。そこには、きちんと綱をかけてラベルをはったトランクが二つあった。食器棚は、からっぽだった。銀のカップ類は、バーナビー少佐の、バンガローに運び去られてしまっていた。
けれども、チャールズがエバンスから聞いたといって、おもしろおかしく尾鰭《おひれ》をつけて話してくれた、懸賞の新刊小説が三冊、椅子の上に置き忘れたまま、哀れにものっかっているのに、エミリーは気がついた。かの女は、ぐるっと部屋の中を見まわして、首を振った。ここには、なんにも求めている物はなかった。
かの女は、再び二階へあがって行って、もう一度、寝室へはいって行った。なぜ、あの長靴がなくなってしまったのか、どうしてもさぐり出さなくちゃならない! その長靴の消えてなくなった理由について、自分自身に不満なく、納得できるような理屈がまとまらないうちは、とうてい自分の胸から、その長靴のことを払いのけることはできないだろうと、エミリーは、頼りなく感じた。この事件と関係のあるほかのことは、なにもかもみんな小さく萎縮してしまうほど、ばかばかしい大きさにまで、長靴は、その心の中で大きくふくれあがっていった。ほんとに、わたしを助けてくれるものは、なにもないのだろうか?
かの女は、引出しという引出しを一つ一つ引っぱり出し、そのうしろまで手でさわってみた。棚板にもさわってみたし、床の敷物のはしばしをぐるっと、指でさわってもみた。スプリング・マットレスも調べてみた。そういうところから、なにが見つかると思っているのか、自分にもわからなかったが、執念深いほど根気強く、かの女はさがしつづけた。やがて、かの女は、背をしゃんと伸ばして、立ちあがったが、その時、整然としたその部屋の様子とは似つかわしくない、小さな一塊の煤《すす》が暖炉の火格子《ひごうし》の中にあるのを、目にとめた。
エミリーは、蛇《へび》に見込まれた小鳥のような目つきで、じっとそれを見つめた。それを見つめながら、さらにその近くに引き寄せられて行った。それは、筋道の立った推理でもなかったし、原因や結果の推理の閃《ひらめ》きがあるのでもなかった。ただ、その煤を見つめていると、ある一つの可能性が、心を揺り動かしたからだった。エミリーは、両袖をまくりあげて、煙突の中へ、ぐっとその中の上の方へ、両腕を突っ込んだ。
一瞬の後、かの女は、だらしなく新聞紙に包まれた一個の包みを、容易に信じられないといった、喜びのいっぱいにあふれた目つきで、じっと見つめた。一振りすると、新聞紙は落ちて、どうだろう、目の前に、紛失した一足の長靴があらわれてきたではないか。
「でも、なぜだろう?」と、エミリーは、口に出していった。「こんなところに長靴があるなんて。でも、なぜだろう? なぜ? なぜ? なぜ?」
エミリーは、じっと長靴を見つめた。その長靴を引っくり返してみた。外側も内側も調べてみた。が、同じ疑問が、一本調子に、かの女の頭の中をかきまわした。なぜだろう?
かりに、だれかがトレベリアン大佐の長靴を取って、この煙突の中へ隠したのだとしても、なぜ、そんなことをしたのだろう? 「ああ!」と、エミリーは、すさまじいほどの声で叫んだ。「気が狂いそうだわ!」
エミリーは、その長靴を、注意深く床のまん中に置き、一脚の椅子を引っぱって行って、その長靴の前に据え、腰をおろした。それから、そもそものはじめからのいろいろなことを、慎重に考えにかかった。自分自身で知ったことや、他人の噂で聞き知ったことなど、あらゆる細かいことまで考えてみた。この殺人という大きな劇的な事件の舞台に登場していると思われる人や、また舞台の外に立っていると思われる人など、あらゆる人々のことを、じっくりと考えた。
と、突然、ある奇妙な、ぼんやりと雲をつかむような考えが、形をとりはじめた――それは、黙々と床の上に突っ立っている、ただの一足の長靴からささやきかけるようにして浮かんで来た考えだった。「でも、もし、そうだとしたら」と、エミリーはつぶやいた――「もし、そうなら――」
かの女は、片手に長靴をつかむと、急いで階下へ降りて行った。食堂のドアを押しあけて、片隅にある戸棚の方へ、つかつかと進んで行った。そこには、いろいろの競技で受賞したトロフィやスポーツ用品など、トレベリアン大佐が、女性の借家人に手を触れられるのを嫌って持って来た、いろいろな品物が、雑然と置かれていた。スキー、ボート用のオール、象の足、牙《きば》、釣竿の類《たぐい》――それらのいっさいの品々は、ヤング氏とピーボディ氏とが、その道の専門家の腕をふるって荷造りしてくれるのを待って、まだ元のままに置いてあった。
エミリーは、長靴を手にしたまま、かがみ込んだ。が、一分か二分もすると、すっくと立ちあがった。頬を紅潮させてはいたが、まだ容易には信じられないという目つきだった。
「すると、そうだったんだわ」と、エミリーはいった。「そう、そうだったんだわ」
かの女は、どしんと椅子に身を沈めた。まだ、十分に納得のいかないことがたくさん残っていた。
しばらくすると、かの女は立ちあがった。そして、大きな声を出して、
「わかった。だれがトレベリアン大佐を殺したかが」といった。「でも、なぜかは、わからない。まだ、その理由が考えつかないわ。でも、時を無駄にしてはいられない」
かの女は、あわただしくハーゼルムアの家を飛びだした。シタフォードまでの車を見つけるのは、ほんの二、三分のことで足りた。乗り込むなり、かの女は、デューク氏のバンガローまでやってくれといいつけた。運転手に金を払って、車が走り去ると、小路を登って行った。
かの女は、ノッカーをつかんで、手荒くドアをたたいた。一分か二分もすると、大柄な、たくましい男が、むしろ平然とした顔つきでドアをあけた。はじめて、エミリーは、デューク氏と面と向かいあった。
「デュークさんですね?」と、エミリーはたずねた。
「そうです」
「あたくし、トレフュシスですが、おじゃましてかまいませんでしょうか?」
ほんの一瞬、ためらっていたようだったが、相手は、わきに寄ってかの女を通した。エミリーは、居間へ足を運んだ。かれは、玄関の戸をしめて、かの女について来た。
「あたくし、ナラコット警部さんにお会いしたいのですけど」と、エミリーがいった。「こちらにいらっしゃいますでしょうか?」
また、ちょっと間があいた。デューク氏は、どうこたえていいか決しかねているようだったが、とうとう意を決した様子で、にっこりと笑いを――ちょっと妙な微笑を浮かべて、
「ナラコット警部は、ここにおりますが」といった。「どんなご用で、お会いになりたいのですか?」
エミリーは、持って来た荷物を出して、包み紙をほどいた。そして、一足の長靴を取り出して、相手の目の前のテーブルの上に、その長靴を置いて、
「あたくし」といった。「この長靴のことで、あの方にお会いしたいんですの」
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第二十九章 二度目の神おろし
「もし、もし」と、ロニー・ガーフィールドが声をかけた。
郵便局からのもどりに、急な坂道をゆっくり登って来たライクロフト氏は、立ちどまって、ロニーが追いつくのを待っていた。
「ハロッドへでもお出かけになったんですか?」と、ロニーがいった。「ヒッバード婆さんのところへ」
「いいや」と、ライクロフト氏がいった。「ちょっと散歩してきたんですよ、鍛冶屋のそばを通ってね。きょうは、すごくいい天気じゃありませんか」
ロニーは、青空を見上げて、「そうですね、先週とは、ちょっと違うようですね。ところで、ウイレットさんのところへお出かけになるんでしょうね?」
「そうです。あなたもでしょう?」
「ええ。シタフォードでの、われわれのたのしいところですからね――ウイレット家は。けっして、人の気持ちをめいらせないこと、それが、あの人たちのモットーですよ。いつものとおりに陽気にするということですよ。ぼくの伯母は、葬式が終わるか終わらないうちに、人をお茶に呼ぶなんて、人の心を察しないにもほどがあるというんですが、そんなことは下らないたわごとですよ。伯母がそんなことをいうのも、ペルー皇帝のことで気が転倒しているからなんですよ」
「ペルーの皇帝ですって?」と、ライクロフト氏は、驚いてたずねた。
「いやな猫の名前ですよ。ところが、そいつが女帝だということがわかったので、カロリン伯母は、すっかりいらいらしてるというわけなんですよ。伯母は、こういうセックスの問題は大嫌いでしてね――ですから、いまもいうとおり、ウイレット家の人たちについて意地の悪いことをいって、ちょっと胸のもやもやを晴らしたというわけなんですよ。だけど、あの人たちは、なぜ、人をお茶の会に呼ぶんでしょうね? トレベリアンは、別に親戚でもなんでもないんですからね」
「まったくですな」といって、ライクロフト氏は、振り返って、いましがた頭上をかすめて行った小鳥を、確かに珍しい種類の鳥だったと思いながら、見定めようとしていた。
「いやになっちまうな」と、ライクロフトは、口の中でいった。「眼鏡《めがね》を忘れて来てしまった」
「ねえ、トレベリアンの話なんですがね、ウイレット夫人は、あの人が口に出していっているより、あの老人と、ずっと親しかったはずだと、あなたは思いませんか?」
「どうして、そんなことを聞くんです?」
「というのは、あの夫人が変わってきたからですよ。そんなふうなことが目につきませんでしたか? 先週一週間で、二十も年を取ったようじゃありませんか。あなたも、きっと、そのことに気がおつきでしょう」
「うん」と、ライクロフト氏がいった。「わたしも、それには気がついていた」
「ね、そうでしょう。トレベリアンの死は、なんらかの意味で、あの夫人にとっては、最もひどい打撃だったにちがいありませんね。もし、あの夫人が、大佐が若い時に見捨てて、思い出そうともしなかった老人の久しく行方のわからなかった細君だったということがわかったら、おかしなもんでしょうな」
「そんなことは、ちょっとありそうにも思えないね、ガーフィールド君」
「ちょっと映画の筋書きすぎてるじゃありませんか? それにしても、とてもおかしなことが、いろいろ起こるものですね。ぼくは、デイリー・ワイヤー紙で、ほんとにあきれるほどのことを、いろいろ読みましたよ――新聞にのったものでなければ、とうてい、あなたでも信用なさらないでしょうがね」
「その話は、なんか信用できるようなものなのかね?」と、ライクロフト氏は、気むずかしそうな口吻で問いかけた。
「あなたは、あのエンダービーという青年に、敵意を持っていらっしゃるんじゃありませんか?」と、ロニーがいった。
「わたしは、あまり関係のないことを、無作法にかぎまわるのは嫌いでね」と、ライクロフト氏がいった。
「そうですか。でも、これは、かれと関係があるのですよ」と、ロニーはいい張った。「というのは、かぎまわるのが、あの哀れな男の商売なんですからね。あの男は、どうやらバーナビー老人を、うまいこと手なずけてしまったらしいですね。おかしいと思うのは、あのじいさん、ぼくの顔を見るのも我慢できないらしいんです。ぼくはまるで、あの人にとっては、牡牛《おうし》に赤い布を振るようなものなんですね」
ライクロフト氏は、なんともこたえなかった。
「やあっ」と、ロニーは、また空を見上げながら、いった。「きょうは、金曜日ですね? ちょうど一週間前のきょう、しかもちょうど今ごろ、いまのとおりに、ウイレットさんのところへ行こうと、てくてくと登っていたものなんです。でも、天気は、ちょっと変わっていますがね」
「一週間前ね」と、ライクロフト氏はいった。「おそろしく長かったような気がするね」
「まったくべらぼうな年じゃありませんか? やあ、アブダル」
ワイヤット大尉のコテージの門の前を通りかかると、例の陰気なインド人が、門によりかかっていた。
「今日は、アブダル」と、ライクロフト氏が声をかけた。「ご主人はどうだね?」
召使は首を振って、「主人、きょうは悪い、旦那《サヒーブ》。だれにも会わない。長いこと、だれにも会わない」
「ねえ、そうでしょう」と、門の前を通りすぎると、ロニーがいった。「あの男なら、だれにも知られずに、いともたやすく、ワイヤットさんを殺すことができるでしょう。殺してから何週間も、ああいうふうに首を振りつづけて、旦那はだれにも会わないといいつづけていたって、これっぽっちもおかしいと思う人もないでしょうからね」
ライクロフト氏は、いかにもいうとおりだと認めた。「だが、それでもなおかつ、死体の処理という問題が残るね」と、指摘するように、かれはいった。
「そうです。それがつねに、思いもかけない障害なんですね? 不都合なものじゃありませんか、人間の死体なんてものは」
二人は、バーナビー少佐のコテージの前を通った。少佐は、庭にたたずんで、じゃまになるほど生い茂った雑草を、いかめしい目つきでながめていた。
「今日は、少佐」と、ライクロフト氏が声をかけた。「あなたも、シタフォード山荘へお出かけになりますか?」
バーナビー少佐は、鼻をこすりながら、「行きたくないんだ。もっとも、招待状をもらうにはもらったがね。だが――うむ――あまり気が進まないんでね。あんたがたには、よくわかってもらえるだろうが」
ライクロフト氏は、よくわかりましたというように、軽く頭を下げて、「いずれにしても」といった。「おいでになっていただきたいですね。ある理由がありますんでね」
「理由? どんな理由です?」
ライクロフト氏は、ちょっとためらった。明らかに、ロニー・ガーフィールドが、その場に居合わせるからだった。しかし、ロニーは、そんなことには全然気がつかない様子で、その場に立って、特別な関心もないらしく耳を傾けていた。
「一つ実験をやってみたいと思っているんです」と、ライクロフト氏は、とうとう、のろのろといった。
「どんな実験です?」と、バーナビーは、問い詰めるようにいった。
ライクロフト氏は、またためらいながら、「ちょっと、前もって、お話はしたくないんです。ですが、いらっしゃるのでしたら、どんなことでも、わたしのいい出すことに賛成していただくようにお願いしたいんです」
バーナビーの好奇心が、むくむくと頭をもたげた。「よろしい」と、少佐はいった。「行きましょう。安心して、わたしにまかしておきなさい。はて、わたしの帽子は、どこだ?」
すぐ、かれは帽子をかぶって出て来て、二人といっしょになった。やがて、三人は、シタフォード山荘の門をはいって行った。
「あなたは、お知り合いが来るのを待っておられるという話ですな、ライクロフトさん」と、バーナビーは、通り一遍の挨拶でもするように、そういった。
当惑の影が、老人の顔をさっとかすめた。「だれが、そんなことを話したんです?」
「あのカササギのように、よくさえずるおしゃべり女のカーチスのお内儀《かみ》さんですよ。あの内儀さんは、身綺麗で、なかなか正直者だが、しゃべり出したら、あの舌は絶対にとまるということがない。人が聞いていようといまいと、そんなことにはおかまいなしだ」
「まったくそのとおりですな」と、ライクロフト氏も相槌を打った。「あす、姪のダーリング夫人と、その夫が来ることになっているんです」
その時には、三人は、山荘の玄関に着いていた。ベルを押すと、ブライアン・ピアスンがあけてくれた。三人が、広間でオーバーコートをぬいでいる時、ライクロフト氏は、興味たっぷりの目つきで、背が高く、肩幅の広い青年の姿に、じっと目を注いでいた。|立派な人間だ《ヽヽヽヽヽヽ》、と、ライクロフト氏は思った。まったくすばらしいやつだ。しっかりした気性だ。なんと変わった顎《あご》の線だろう。場合によっては、始末におえない相手かもしれない。いわゆる危険な若者というやつだろうな。
客間にはいって行くと、バーナビー少佐は、現実離れのした妙な気分に襲われたが、ウイレット夫人は、すぐ立ちあがって、かれに挨拶した。
「まあ、ようこそおいでくださいました」
先週も、同じ言葉だった。同じように、炉の中では、火があかあかと燃えあがっている。二人の女性のガウンまでが同じような気がしたが、はっきりそうとはいいきれなかった。
それは、まったく奇妙な感じを与えた。まるで、もう一度、先週の金曜日になったようで――ジョー・トレベリアンが、まだ死んではいないようで――まるで、なんの変事も起こりもしなければ、なんにも変わってもいないようだった。やめろ、あべこべじゃないか。ウイレット夫人は、すっかり変わってしまっている。難破船、これこそ、この女の様子をいい表わす、ただ一つの言葉だ。順風満帆、毅然《きぜん》とした女の感じは、もはやどこにもない。ただあるのは、傷心の、いらいらとした人間が、常に変わらぬふりをしようとして、見え透いた、いたましい努力をしているだけであった。だが、ジョーの死が、かの女にどんな意味をもっているのか見とおすことができれば、わしは首をくくられてもいい、と、少佐は思った。
百回といってもいいほど、かれは、ウイレット家から受けたひどく異常な印象を、心に強く銘記した。いつものように、かれは、黙りこくっているほうがいいと感じていたが、気がついてみると、だれかが話しかけていた。
「もしかすると、これが、わたくしたちの最後の集まりになるかもしれませんの」と、ウイレット夫人がいっていた。
「なんですって?」と、ロニー・ガーフィールドが、不意に、相手の顔に目を向けた。
「そうなんですの」と、ウイレット夫人が、いかにもわざとらしい微笑を浮かべて、首を振った。「わたくしたち、これから先の冬をシタフォードですごすことを断念しなけりゃなりませんの。わたくしとしては、もちろん、気に入っているんですの――雪も、岩山の景色も、ここの荒れ果てた様子も、みんな。でも、家庭の問題がね! 家庭の問題が、とてもむずかしくてね――わたくしは、もうお手あげなんですの」
「運転手も、雑用をさせる男もお雇いになったと思っていましたがね」と、バーナビー少佐がいった。
突然、ウイレット夫人は、身をふるわせて、「いいえ」といった。「わたくし――わたくし、そんな考えを捨ててしまいましたの」
「やれやれ」ライクロフト氏がいった。「それは、われわれみんなにとっては、大変な打撃ですな。ひどい悲しみですよ、まったく。あなたが行っておしまいになると、またつまらない以前の集まりにもどるようなことになるんでしょうな。それで、いつおたちですか?」
「月曜日になると思っていますの」と、ウイレット夫人がいった。「あすは、出かけられないでしょうからね。召使がいないものですから、とても困っているんですの。もちろん、カークウッドさんと、いろいろ取り決めなければなりませんけど、この家も四か月のお約束でございますからね」
「ロンドンへいらっしゃるんでしょうね?」と、ライクロフト氏がたずねた。
「はい、たぶん、とにかく最初はね。それから、リビエラへでも行こうかと思っているんですの」
「まったく残念です」と、ライクロフト氏は、慇懃《いんぎん》に頭を下げて、いった。
ウイレット夫人は、妙なお愛想笑いを浮かべて、「ほんとうにご親切におっしゃっていただいて、ありがとうございます、ライクロフトさん。さあ、お茶でも召しあがりません?」
お茶の用意は、もうすでに整っていた。ウイレット夫人が、茶碗にお茶を注ぐと、ロニーとブライアンとが、それをみんなに手渡した。妙に困惑したような空気が、一座の上に漂っていた。
「きみは、どうなさるんだね?」と、出しぬけにバーナビーが、ブライアン・ピアスンにいった。「きみも、出発されるのかね?」
「ロンドンへ行きます。もちろん、この事件が解決するまでは、船にも乗れないでしょうが」
「この事件というと?」
「ぼくの兄に降りかかっている、このばかばかしい嫌疑が晴れなくては、という意味なんです」かれは、なんといっていいかわからないほど挑戦的な調子で、大胆に、この言葉を投げつけた。
バーナビー少佐は、その場の緊張を救うように、「かれがやったなんて、絶対に信じちゃいませんよ。ほんの一瞬の間だって」といった。
「あたしたち、だれだって、そんなこと考えてもいませんわ」と、バイオレットが、かれに、感謝に満ちた目をちらと送りながら、いった。
ちりちりと鳴るベルの音が、長くつづいていた沈黙を破った。「デュークさんよ」と、ウイレット夫人がいった。「お通ししてちようだい、ブライアンさん」
ピアスン青年は、窓ぎわへ行って、「デュークさんじゃありません」といった。「あの新聞記者の畜生だ」
「あら! あなた」と、ウイレット夫人がいった。「そうよ、あの方も同じように、お通ししなくちゃいけないわ」
ブライアンは、うなずいて出て行ったが、しばらくすると、チャールズ・エンダービーといっしょにもどって来た。エンダービーは、いつものような、はればれとした、いかにも満足げな、飾り気のない様子ではいって来た。歓迎されないかもしれないというような考えは、まるきり、かれの胸には浮かんでもいないようだった。「やあ、ウイレット夫人、お元気ですか。どうしていらっしゃるかと思って、ちょっとお寄りしてみました。シタフォードじゅうのみなさんが、どこへ行ってしまったのかと思っていましたが、いま、わかりましたよ」
「お茶はいかがですか、エンダービーさん?」
「そりゃ、どうもありがとう、いただきます。エミリーは、ここにいないようですが、あなたの伯母さんのところにでもいるんでしょうね、ガーフィールドさん」
「さあ、よく知りませんね」と、まじまじと相手の顔を見ながら、ロニーがいった。「あの人は、エクザンプトンへ行ったと思っていましたがね」
「ああ、そうでしたね! でも、もう帰って来たんですよ。どうして、知っているかとおっしゃるんですか? 例の女の人が教えてくれたんですよ。カーチスという女ですよ、はっきりいえばね。自動車が郵便局の前を通りすぎて、小路を登って行ったと思うと、空車になって帰って来たのを見たっていうんですから。そのくせ、かの女は、五号のコテージにも、シタフォード山荘にもいないんです。どうも、わからない――どこにいるんでしょうね、あの女《ひと》は? ミス・パースハウスのところにいなければ、きっと、あの威張った女たらしのワイヤット大尉のところで、お茶でも飲んでいるんでしょうな」
「日没でも見に、シタフォードの高台へでも登って行ったんじゃないかね」と、ライクロフト氏、がいい出した。
「そんなことはないだろう」と、バーナビーがいった。「それなら、あの女《ひと》が通るのを見かけたはずだ。わしは、この一時間ほどは、ずっと庭に出ていたんだから」
「いいですよ、それほど重大な、命にかかわるほどの問題でもないでしょう」と、チャールズは、元気よくいった。「いや、あの女《ひと》が誘拐《ゆうかい》されたとか、殺されたとか、なんとかしたと思ってはいないということですよ」
「そいつは、きみの新聞という見地からすれば、遺憾なことでしょうな?」と、ブライアンが嘲笑するような口吻でいった。
「新聞の種になんか、ぼくは、エミリーをしませんよ」と、チャールズはいった。「エミリーは」と、かれは、考え深げに、つけ加えていった。「すばらしい唯一の人ですからね」
「非常に魅力的ですよ」と、ライクロフト氏はいった。「とてもチャーミングだ。わたしたちは――そのう――共同の戦線を張っているのですよ、あの女とわたしは」
「みなさん、もうおすみになりまして?」と、ウイレット夫人がいった。「では、ブリッジでもなさいません?」
「ええと――ちょっと待ってください」と、ライクロフト氏がいった。
かれは、もっともらしく咳ばらいをした。みんな、だれもかれも、かれの顔を見た。「ウイレット夫人、わたしは、あなたもご存じのように、心霊現象というものに深い興味を持っています。一週間前のきょう、実にこの部屋で、われわれは、驚くべき、実に恐怖を起こさせるような経験をしました」
その時、ミス・ウイレットの口から、かすかなため息がもれた。かれは、そのかの女の方を振り向いて、「ごもっともです、ミス・ウイレット、よくわかっています。あの経験は、あなたをびっくりさせた。まったく気が転倒するようなことでしたからな。そうじゃないと、わたしはいいません。ところで、あの犯罪が起こってからというもの、警察では、トレベリアン大佐殺人の犯人を割り出そうとして全力をあげています。そして、逮捕しました。しかし、われわれの中でも、すくなくも、この部屋にいる何人かは、ジェームズ・ピアスン君を犯人だとは信じてはいません。そこで、わたしが提議したいのは、こういうことなんです。つまり、先週の金曜日の実験を、もう一度繰り返してみたいということなんです。もっとも、こんどは、あの時とはちがった別の霊魂が近づいて来るかもしれませんがね」
「そんなこと、いけませんわ」と、バイオレットが叫んだ。
「いや、そいつはどうも!」と、ロニーがいった。「そいつはすこし、やりすぎやしませんか。ぼくは、どうしても、その仲間にはいるのはいやですね」
ライクロフト氏は、そういうロニーにはおかまいなしに、「ウイレット夫人、あなたのご意見はどうですか?」
夫人は、しばらくためらっていたが、「率直にいって、ライクロフトさん、わたくしは、そのお考えには賛成いたしかねます。まったく気が向きません。先週のあの悲惨な出来事は、わたくしには、なによりもいやな印象でした。あのことを忘れるためには、ずいぶん長く時がかかるだろうと思いますの」
「はっきりいって、あなたは、なにが起こると思っているんですか?」と、エンダービーが、興味津々といった顔つきでたずねた。「あなたは、霊魂が出て来て、トレベリアン大佐を殺した犯人の名前を告げるとでもおっしゃるんですか? そいつはどうも、とほうもなくすばらしい儀式のようですな」
「あなたがおっしゃるように、先週、トレベリアン大佐が死んだというお告げがあったのは、ほんとうにすばらしいお達しでした」
「おっしゃるとおりですね」と、エンダービーも同意した。「ですが――そう――あなたもご承知のように、そのあなたのお考えが、予想しないような結果におわるかもしれないのですよ」
「といいますと?」
「かりに、ある名前が告げられたとしましょう、ね? その場にいるだれかが、わざとその名前を出したのではないと、あなたは、断言できるかというと――」
そこで、かれが、ちょっと言葉をつぐのをやめたので、ロニー・ガーフィールドが言葉をさしはさんで、「動かす、と、いうんじゃありませんか。だれかが、テーブルを押して動かすと」
「これは、まじめな実験なんですよ、あなた」と、ライクロフト氏が、暖かくいった。「だれも、そんなことをする者はないにきまってるじゃありませんか」
「ぼくにはわかりませんね」と、ロニーが疑わしげにいった。「ぼくは、けっしてそんなことをやりませんよ。そんなけちな考えはありませんよ。ぼくは、誓ってもいいが、けっしてやりません。だが、みんなが、ぼくにおっかぶせて、ぼくがやったなんていわれたんじゃ、とっても困っちまいますよ、ね」
「ウイレット夫人、わたしは、本気なんですよ」と、小柄の老ライクロフト氏は、ロニーには頓着しないで、「お願いだから、実験をさせていただけませんか」
夫人は、ちょっとためらっていたが、「わたくしは、いやなんですの。ほんとに、いやなんです。わたくし――」と、逃げ道を求めるように、不安そうに、身のまわりを見まわして、「バーナビー少佐、あなたは、トレベリアン大佐のご親友だったんでございましょう。あなたのご意見を、おっしゃっていただけませんか?」
少佐の目が、ライクロフト氏の目と、ばったりぶつかった。ライクロフトが、さきほど、それとなくにおわした偶然の事件というのは、これだな、と、少佐は、肚の中で推測しながら、「なぜ、いけないのですか?」と、荒々しい声でいった。
その一言で、まちまちの意見は、一挙に決定してしまった。
ロニーは、さっさと隣の部屋へ行って、この前の時にも使った小さなテーブルを持って来た。かれは、床のまん中にそのテーブルを据え、そのまわりに椅子を並べた。だれも、口をきく者もなかった。明らかに、実験は、人気がなかった。
「あれは、正確だと、わたしは思います」と、ライクロフト氏はいった。「われわれは、先週の金曜日と同じ実験を、まったく同じ状況の下で繰り返すわけですからな」
「まったく同じではありませんわ」と、ウイレット夫人が異議をとなえた。「デュークさんが抜けていますもの」
「ほんとだ」と、ライクロフト氏がいった。「残念だね、あの人がこの場にいないのは。大いに残念だ。では――ええと――ピアスン君を、あの人の代わりということにしようじゃありませんか」
「おはいりになっちゃいけませんわ、ブライアンさん、お願い、どうぞ、はいらないで」と、バイオレットが叫ぶようにいった。
「どうかしたんですか? どうせ、ばかげたことじゃありませんか」
「その気持ちは、まったく間違っていますな」と、ライクロフト氏が、きびしい口調でいった。
ブライアン・ピアスンは、なんとも返事をしなかったが、バイオレットのかたわらにすわった。
「エンダービーさん」と、ライクロフト氏がいいかけたが、チャールズは、相手の言葉をさえぎっていった。
「ぼくは、この事件には加わっていなかったんです。ぼくは、新聞記者だし、あなたは、ぼくを信用していらっしゃらないようですからね。ぼくは、いろいろな現象を――といっても、言葉なんでしょう?――その浮かんでくる現象を、速記にとることにしたいのです」
問題は、そういうことにきまった。他の六人が、めいめい、テーブルのまわりに席を占めると、チャールズは、電灯を消して、ストーブの炉の灰止めの上に腰をおろした。
「ちょっと」と、チャールズがいった。「いま、何時です?」と、暖炉の火の明かりで、腕時計を、じっとすかして見ながら、「こいつは妙だな」といった。
「なにが妙なんです?」
「いまちょうど、五時二十五分ですよ」
バイオレットが、かすかな叫び声をあげた。
ライクロフト氏が、「黙って」と、きびしい口調でいった。
数分間が過ぎた。一週間前のあの時とは、このふんい気は、ひどく違っていた。押し殺したような忍び笑いもなかったし、ささやくような話し声もなかった――ただ、あるのは沈黙だけだったが、ついに、その沈黙を破ったのは、テーブルから起こった、かすかな、かたんという物音だった。
ライクロフト氏の声が響いた。「だれですか、そこにいるのは?」
また、かすかな、かたっという音――そのまっ暗な部屋の中で、なんとなく気味の悪い物音がした。「だれか、そこにいるんですか?」
こんどは、かたっという物音もしなかった。が、代わりに、耳を聾《ろう》するほどの恐ろしく大きな、戸をたたく音がしたので、バイオレットは、きゃっと金切り声をあげ、ウイレット夫人は、泣き声のような悲鳴をあげた。
ブライアン・ピアスンの声が、みんなを安心させるように、力強く響いた。「大丈夫。玄関のドアをたたく音です。ぼくが行って、あけてみましょう」といいおいて、かれは、大股に部屋から出て行った。
でも、だれも口をきく者もなかった。
不意に、ドアがさっと開いて、電気がついた。と、その戸口に、ナラコット警部が、にゅっと突っ立っていた。そのうしろには、エミリー・トレフュシスとデューク氏とが、並んで立っていた。
ナラコットは、一歩、部屋の中にはいって、口をきった。
「ジョン・バーナビー、今月十四日、金曜日のジョセフ・トレベリアン殺害の容疑者として、あなたを逮捕します。よって、前もって注意しておきますが、あなたが申し述べる言葉は、すべて書き止められて、証拠として用いられることになります」
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第三十章 エミリー、説明する
その警部の言葉を聞いて、ほとんど呆然《ぼうぜん》とするほど驚いてしまった人々は、エミリー・トレフュシスのまわりに集まった。ナラコット警部は、犯人を連れて、さっさと部屋から出て行ってしまった。
最初に声を出したのは、チャールズ・エンダービーだった。「お願いだから、すっかり話をしてくれたまえ、エミリー」と、チャールズがいった。「すぐ電報局へ行かなくちゃならん。一刻一刻が重大ですからね」
「トレベリアン大佐を殺したのは、バーナビー少佐だったのよ」
「そりゃ、ナラコットが、かれを逮捕したのを見ましたよ。それに、ナラコットは正気で――突然、頭が狂っちまったなんてことはないでしょうからな。だけど、どうして、バーナビーに、トレベリアンを殺すようなことができたというんです? ぼくのいうのは、人間業として、どうしてそんなことができうるんです? トレベリアンが、五時二十五分すぎに殺されたとして――」
「そうじゃなかったの。大佐は、六時十五分ごろに殺されたんです」
「ふうむ、だが、そうとしたって――」
「わかってますわ。あなたには、とうてい、見当もつかないでしょう、あることに考えつかないかぎり。スキーなのよ――それが、この事件を解く鍵なの――スキーが」
「スキーですって?」と、だれとなくみんなが、おうむ返しに繰り返してたずねた。
エミリーは、うなずいて、「そうなんですの。少佐は、計画的に、テーブルをあやつって、あの神おろしをやってのけたんです。あれは、あたしたちが考えたとおり、偶然に起こったことでも、無意識に動いたのでもなかったんですの、チャールズさん。あたしたちが、問題にならないといって除外した第二の――故意に、ある目的を持ってやったというほうだったんです。少佐には、もう間もなく雪が降ってくるということが、そうなれば、足跡なんぞというものはすっかり消えてしまって、申し分なく安全に、ことが運べるということがわかっていたのです。そこで、少佐は、トレベリアン大佐が死んだという予感をつくりあげて――みんなを興奮させてしまったのですわ。それから、自分でも、すっかり気が転倒したふりをして、どうしてもこれからエクザンプトンに出かけるといい張ったというわけなの。
「少佐は、自分の家へ帰って、スキーをはいて、(そのスキーは、ほかのさまざまな道具類といっしょに、庭の物置の中にしまってあったんですが)それをはいて出かけたんです。スキーは、玄人《くろうと》はだしの腕達者というか、足達者でしたし、そのうえ、エクザンプトンまでは、下り一方のダウン・ヒルですから――すばらしい滑降で、十分とはかからなかったでしょうよ。
少佐が窓のところへ着いて、たたく。トレベリアン大佐は、いささかも疑わないで、少佐を部屋の中へ通す。それから、トレベリアン大佐が背を向けた時、その機会をのがさずに、あの砂嚢をつかんで、そして――そして、大佐を殺してしまったんです。ああっ! その時のことを考えただけでも、あたし、吐き気がするわ」
エミリーは、身を震わして、「まったく容易だったんですわ。時間は、たっぷりあったんです。汚《よご》れをふき落とし、スキーを掃除してから、食堂の戸棚の中へ、ほかのいろんな物の間へ押し込んでしまったのです。それから、たぶん、窓を押しあけて、引出しという引出しだの、いろんな物を引き出して、そこらへばらまいて――だれかが押し込みにはいったように見せかけたんですわ。
それから、ちょうど八時前になると、少佐は、予定どおり外へ出て、回り道をして、ずっと坂の上の方の路へ出て、いかにもシタフォードから一路歩きつづけて来たように、はっはっと息を切らしながら、エクザンプトンへやって来たというわけなんです。だれも、スキーのことを感づかないかぎり、少佐は、完全に安全だったのです。お医者さんが、トレベリアン大佐は殺されてから、すくなくとも二時間はたっているといったのは、間違いではなかったわけです。ですから、いまもあたしがいうとおり、スキーに気のつく人がだれもいないうちは、バーナビー少佐は、完全にアリバイを持っていたといえるわけですの」
「しかし、あの二人は、親友だったんでしょう――バーナビーとトレベリアンとは」と、ライクロフト氏がいった。「古い親友で――いつでも親友だったんじゃありませんか。どうも信じられませんね」
「そうなんですの」と、エミリーがいった。「それは、あたしも考えたことなんですの。あたしにも、そのわけが考えつかなかったんです。あたしは、迷って、とほうにくれたあげく、とうとう最後に、ナラコット警部さんとデュークさんのところを訪れたんですの」
エミリーは、言葉をきって、無感動な面持ちのデューク氏の顔を見て、
「お話ししてもかまいません?」といった。
デューク氏は、にっこり笑みを浮かべて、「どうぞ、ミス・トレフュシス、お好きなように」
「とにかく――いいえ、ほんとうは、あたしよりも、あなたのほうがいいんですけど。とにかく、あたしは、お二人のところへ行った結果、あたしたち、事の次第がはっきりしたんですの。あなた、あたしに話してくだすったことをおぼえていらっしゃるでしょう、チャールズさん、トレベリアン大佐が、懸賞の応募にいつでもエバンスの名前を使っていたと、当のエバンスが話していたということを。シタフォード山荘というのは、所書きとして使うには立派すぎると、大佐は考えていたんですのね。そう――それで、あなたが、五千ポンドの賞金をバーナビー少佐にお渡しになった、あのフットボール競技の懸賞にも、同じやり方を大佐はしたってわけなの。あの応募も、ほんとうはトレベリアン大佐がしたので、それを、バーナビーの名前で出したってわけよ。シタフォード第一号コテージという所書きのほうが、ずっと似つかわしく見えると考えたのね。そう、それから、どういうことになったかは、おわかりでしょう? 金曜日の朝、バーナビー少佐は、五千ドルの賞金を受けることになったという、手紙を受け取ったのです。ところで、その事実をあからさまにいえば、あたしたちが、当然不審を抱くでしょう。だもんで、手紙は受け取っていないだの――こんな天気だから、金曜日にはなんにも着かなかったと、あなたに話したのですわ。でも、それは嘘だったの。金曜日の朝には、もう着いてしまっていたのですわ。あら、どこまで話したかしら? あら、そうだった!――バーナビー少佐が手紙を受け取ったというとこまででしたわね。少佐は、その五千ポンドがほしかったの――とてもほしかったのですわ。つまらない株だのなんだのを買ったあげく、おそろしいほどたくさん、金を失くなしてしまっていたんですわ。
あの考えは、まったく不意に、あの人の頭に浮かんだのにちがいないと、あたし、思うんですの。おそらく、あの晩、雪が降ってくるなと感じたとたん、|もし《ヽヽ》、|トレベリアンさえ死ねば《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》――あの金はみんな、自分のものとして手もとに握っていられるし、だれにも知れっこないんだから、と、そう考えたんでしょうね」
「あきれたね」と、ライクロフト氏が口の中でいった。「まったく驚くべきことだね、夢にも、そんなことを考えたこともなかった――が、それにしても、お嬢さん、どうして、そんなこと、なにからなにまでおわかりになったんです? なにから、こんな立派な手がかりをつかんだのです?」
その答として、エミリーは、ベリング夫人の手紙のことを聞かせてから、どのようにして、煙突の中でその長靴を見つけたかを話して聞かせた。「その長靴を見ているうちに、あたしの胸に浮かんだんです。その長靴は、スキー用の長靴だったでしょう、それで、スキーのことが頭に浮かんだんですの。と、不意に、もしかしたら、と、気になったので階下へ駆けおりて戸棚のところへ飛んで行ったんです。すると、たしかに、あったじゃありませんか、二組のスキーが。一組のほうは、もう一組のよりずっと長くて、長靴が、その長いほうのスキーにぴったり合うんです――けど。|もう一組のほうには《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|合わないんです《ヽヽヽヽヽヽヽ》。爪先のクリップも、小さくて、長靴にはぴったりと合わない。短いほうのスキーは、だれかちがう人の物だったんです」
「少佐ともあろうものが、どこかほかの場所に、スキーを隠すべきですがね」と、ライクロフト氏が、ことさら非難めかした口調でいった。
「いいえ――そうじゃありませんわ」と、エミリーがいった。「ほかのどんなところへ、隠すことができるとおっしゃるんですの? あすここそ、ほんとうに、とても格好な場所だったんですわ。一日か二日のうちには、大佐の持ち物はいっさい、倉庫にかたづけられてしまうでしょうし、その間くらいは、トレベリアン大佐の持っていたスキーが、一組だったか二組だったか、警察でも、そんなこと気にかけそうにもなかったからですわ」
「だが、なぜ、少佐は、長靴を隠したんでしょう?」
「さあ、こうじゃないでしょうか」と、エミリーがいった。「警察でも、あたしが疑念を抱いたとおりに――スキー靴を見たとたんに、スキーを連想するんじゃないかと、少佐は、恐れたんじゃないでしょうか。それで、長靴を煙突の中へ詰め込んだのですわ。そして、いうまでもないことですけど、少佐が思い違いをしたというのが、ほんとうのことなんでしょうね。だって、エバンスが、その長靴がなくなったことに気がつき、あたしが、それをさがしだしたんですから」
「じゃ、少佐は、計画的に、ジムに罪をきせるつもりだったんですね?」と、ブライアン・ピアスンが、腹立たしそうに聞きただした。
「あら! ちがいますわ。それは、ジムのいつもながらのばかげた運のせいですわ。あの人、おばかさんなんですもの、哀れな子羊ですわ」
「かれは、もう潔白だ」と、チャールズがいった。「あなたは、もう、かれのことをあれこれと心配する必要はないでしょう。あなたは、洗いざらい、ぼくに話してくれたんでしょう、エミリー、というのはね、もしそれなら、ぼくは、電報局へ飛んで行きたいんですがね、みなさん、ちょっと失礼しますよ」
チャールズは、部屋から飛び出して行った。
「活動家ね」と、エミリーがいった。デューク氏が、その持ち前の太い声でいった。「あなたご自身のほうが、活動家じゃありませんか、ミス・トレフュシス」
「そうですよ」と、ロニーが、感にたえたようにいった。
「あら、まあ!」と、不意に、エミリーはいって、ぐんなりと椅子に身をおとした。
「あなたに必要なのは、お酒ですよ」と、ロニーがいった。「カクテルでもどうですか?」
エミリーは、首を振った。
「ブランデーでもすこしあげたら」と、ライクロフト氏が、心配そうにそういった。
「お茶でも召しあがったら」と、バイオレットもいった。
「あたし、お白粉をちょっとつけたいんですけど」と、エミリーが、心からお白粉をつけたそうにいった。「あたし、車の中にパフを忘れて来てしまいましたの。興奮したせいか、とても顔が光っているでしょう」
バイオレットは、神経の鎮静剤をさがしに、エミリーを二階へ案内して行った。
「これで結構ですわ」と、エミリーは、鼻の頭を軽くたたきながらいった。「なんていいお白粉でしょう。もうすっかり気持ちがよくなりましたわ。口紅をお持ちですの? どうやら人間らしい気がしてきましたわ」
「あなたって、すばらしい方ね」と、バイオレットがいった。「とても勇敢で」
「ほんとうは、そうじゃないんですよ」と、エミリーがいった。「このうわべをめくってみた下は、まるでゼリーのようにぶるぶるふるえてたんですのよ、腹の中では、いまにも病気になりそうな気がして」
「わかるわ」と、バイオレットがいった。「あたしも、すっかり同じような気がしてたんですよ。この二、三日というもの、とてもびくびくしていたんですのよ――ブライアンのことで、ねえ。トレベリアン大佐の殺人犯人として、あの人が絞首刑になるはずがないのは、もちろんなんですけど、でも、もし、その時に、どこにいたとでも、あの人が口をすべらそうものなら、父の逃亡を助けたのはあの人だったとして、すぐに、警察では、あの人をさがし出すにきまっていたんですものね」
「なんのことですの、それ?」と、エミリーは、お化粧をやめて、たずねた。
「父は、脱走した囚人なんですの。あたしたちが、ここへ来たわけはそうなんですの。母とあたしとが。可愛そうなお父さん。父はいつも――ときどき、妙な精神状態になるんですの。そうなると、いろいろ恐ろしいことをやってしまうんです。あたしたち、オーストラリアから来る途中で、ブライアンに会ったんですの。そして、あの人とあたしは――あの――あの人とあたしは――」
「そうなの」と、エミリーは、助け舟でも出すようにいった。「それで、もちろん、あなたは、おっしゃったのね」
「あたし、なにもかもいっさい、あの人に話したんですの。そして、あたしたちの間で、計画を立てたんです。ブライアンて、すばらしい人でしたわ。いいあんばいに、たっぷりお金を持っていましたの。そして、ブライアンがいっさいの計画を立ててくれましたの。プリンスタウンから逃亡させるのは、すごくむずかしいことですわね。でも、ブライアンがうまくはからってくれましたの。ほんとうに、奇跡といってもいいほどでしたわ。手はずでは、父は逃亡してから、まっすぐこの村へやって来て、妖精《ピキシー》の洞窟に隠れていて、そのあとで、父とブライアンの二人が、あたしたちの召使になることになっていたんですの。ところで、ねえ、あたしたちが、そのずっと前にここに着いてみて、ここなら絶対に怪しまれないということがわかりましたの。ここをあたしたちに教えてくれて、トレベリアン大佐に高い家賃を払うようにとすすめてくれたのも、ブライアンだったんですの」
「ほんとうに残念でしたわね」と、エミリーがいった――「つまり、事がうまくゆかなくてということなんですけど」
「母は、すっかり気を落としてしまっていますわ」と、バイオレットがいった。「でも、ブライアンて、すばらしい人だと思いますわ。だれだって、囚人の娘となんか結婚しようとは望まないでしょうからね。でも、あたし、これは、ほんとうは父の責任だとは思っていませんの。父は、十五年ほど前に、馬から落ちて、ひどく頭を打ったんです。それ以来というもの、父は、ひどく頭がおかしくなってしまったんです。ブライアンの話では、もし、その時、良い手当てさえ受けていれば、なおっていたろうっていうんです。でも、もうこんな話はよしましょうね」
「手当てかなにか、できないんでしょうか?」
バイオレットは、首を左右に振って、「父は、ひどい病気なんです――ほんとのことをいうと、そうなんですの。ひどい風邪《かぜ》で、肺炎なんですの。あたし、父が死ぬんじゃないかと思わずにいられないんです――ええ――ほんとうは、父にとっては、それが一番いいのかもしれませんけど。そんなこというの、恐ろしいような気がするんです。でも、あたしの気持ち、わかっていただけるでしよう」
「お気の毒なバイオレットさん」と、エミリーがいった。「あんまりですわ」娘は、首を振って、「でも、あたし、ブライアンがいますわ」といった。「そして、あなたも――」
エミリーは、とまどったように、相手をとめて、
「そう――ねえ」と、エミリーは、考え深そうにいった。「それはそうね」
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第三十一章 幸運な人
それから十分ほどの後、エミリーは、急ぎ足に小径を降りて行った。すると、自分の家の門によりかかっていたワイヤット大尉が、声をかけて、エミリーの足をとめようとした。
「やあ、トレフュシスさん、ちよっと話を聞きましたが、どういうことなんです?」
「みんなほんとなんですの」と急ぎつづけながら、エミリーがいった。
「そうですか、でも、どうです。おはいりになりませんか――ワインかお茶でもあがりませんか。時間はたっぷりある。そんなに急ぐ必要はないでしょう。そこですよ、あなたがた文明人の最も悪いとこは」
「あたしたちはろくでなしですわ、よく知ってますわ」といって、エミリーは、急ぎつづけた。
かの女は、爆弾が破裂するような勢いで、ミス・パースハウスの家へ飛び込んで行った。「なにからなにまでお話ししようと思って来ましたの」
そういって、一気に、エミリーは、いままでの経緯《いきさつ》を洗いざらい述べ立てた。ただ、おりおり、その相の手に、ミス・パースハウスの口から、「あら、まあ」とか、「まさか、そんなことが?」とか、「まあ、驚いた」とか、いろいろな嘆声がもれるだけだった。
エミリーが、話をおわると、ミス・パースハウスは、片肱を突いて身を起こし、指を一本立てて、気味が悪いほど相手に突きつけながら、「わたしが、なんといいました?」と、聞きただした。「バーナビーって男が、とても嫉妬《しっと》深い男だっていったじゃありませんか。親友じゃありませんか! 二十年以上もの間、トレベリアンは、なにからなにまで、バーナビーよりもずっとうわ手だったのです。スキーもじょうずにすべりましたし、山登りだってずっと達者でしたし、クロスワードパズルのようなものだって、ずっとじょうずでした。バーナビーは、相手になるだけの立派な力のある男じゃなかったのです。トレベリアンは、お金持ちでしたし、バーナビーは、貧乏人でした。
長いこと、そんな関係がつづいたのです。わたし、これだけは、はっきりあなたにいえると思うんですが、だれだって、ちょっとでも自分より優れている人を、ほんとうに好きになるのは、なかなかむずかしいことなんです。バーナビーは、狭量な、けちな心の男だったので、そういうことが、あの男の神経をちくちくと突っついてしようがなかったのですね」
「あなたがおっしゃるとおりでしょうね」と、エミリーがいった。「ですから、あなたにお話ししようと思って伺ったんですの。あなただけ、のけものにするのはいけないと思ったものですから。それはそうと、あなたの甥ごさんが、ジェニファー伯母さんとお知り合いだということをご存じでいらっしゃいますか? お二人は、水曜日に、カフェ・デラーでいっしょにお茶を飲んでいらっしゃいましてよ」
「あの人は、甥の名づけ親なんです」と、ミス・パースハウスがいった。「じゃ、あの子が、エクセターで会いたいといっていた人というのは、あの人だったんですね。お金でも借りに行ったんでしょう、ロニーのことだから。あたし、うんといってやりますよ」
「きょうのような、こんなうれしい日に、だれにでもがみがみおっしゃるのは、おやめになすってくださいましね」と、エミリーがいった。「では、さようなら、あたし、急がなくちゃいけませんし、まだすることがたくさんあるんですの」
「なにをなさるんですの、お嬢さん? あなたの務めだけはすっかりなすったじゃありませんか?」
「まだすっかり終わってはいませんの。あたし、ロンドンへ行って、ジムの勤めていた保険会社の方にお会いして、ジムがお借りしたお金のことで、あの人を告訴したりしないように、ぜひ会社の方々にお頼みしなけりゃなりませんの」
「ふうむ」と、ミス・パースハウスはいった。
「そうなれば大丈夫ですわ」と、エミリーがいった。「ジムも、将来は順調に行くでしょう。授業料を払ったんですものね」
「たぶんね。それで、あなたは、保険会社の人たちを納得させることができると、思っていらっしゃるんですね?」
「ええ」と、エミリーは、きっぱりといった。
「そうね」と、ミス・パースハウスはいった。「あなたならできるでしょうね。それで、それから後は?」
「それから後」と、エミリーがいった。「それでおしまいですわ。あたし、ジムのために、あたしの力でできるだけのことを仕遂げるだけのことですわ」
「それから、どう、あたしたちがこういったら――そのつぎには、なにをなさるの?」と、ミス・パースハウスがいった。
「とおっしゃると?」
「つぎは、なにをなさるの? それとも、あなたが、はっきりお決めになるとしたら、二人のうちのどちらなんですの?」
「あら!」と、エミリーがいった。
「そのとおり。わたしが知りたいのは、そのことですよ。二人のうち、どちらが不幸な男になるんですの?」
エミリーは、声をたてて笑った。身をかがめて、老嬢に接吻《せっぷん》して、「ばかなまねは、けっしてしませんわ」といった。「それだけは、ようく承知しておいてくださいましね」
ミス・パースハウスは、くつくつとのどを鳴らして笑った。
エミリーが、パースハウス嬢の家から走り出て、門のところまで降りて来ると、チャールズが、駆け足で小径を登って来た。かれは、両手でエミリーをつかまえて、「エミリー!」
「チャールズ! なにからなにまで、すばらしいじゃないの?」
「さあ、キスしよう」といって、エンダービー氏は、接吻をした。
「ぼくは、一人前の男として立派に成功した人間だぜ、エミリー」と、チャールズがいった。「ねえ、そうだろう、きみ、どうだい?」
「なにが、どうなんですの?」
「うむ、その――つまり――そのう、もちろん、刑務所にいる気の毒なピアスンとか、そのほかのみんなと勝負をするというつもりはなかったんだが、だが、いまでは、かれもすっかり片がついたんだし、それに――そのう、かれも、ほかの人と同じように、いやなことを我慢しなけりゃいけないということさ」
「いったい、なんのことを話していらっしゃるの?」と、エミリーがいった。
「ぼくが、きみを死ぬほど愛していることは、きみもようく知っているでしょう」と、エンダービー氏がいった。「そして、きみも、ぼくを好いている。ピアスンは、思い違いだったんだよ。つまり、ぼくのいうのは――そのう――きみとぼくと、われわれは、お互いに求め合っていたということです。こんどの間じゅうずっと、われわれは、二人とも、それをよく知っていたのじゃないだろうか? きみは、登記所と教会と、それとも、なにが好きなんです?」
「結婚のことをおっしゃっているのでしたら」と、エミリーがいった。「なにもすることはありませんわ」
「なんだって――でも、ぼくのいっているのは――」
「いいえ」と、エミリーがいった。
「だって――エミリー――」
「どうしても聞きたいとおっしゃるのでしたら」と、エミリーがいった。「あたし、ジムを愛していますわ。とても熱烈に!」
チャールズは、口もきけないほどにうろたえて、まじまじとエミリーを見つめていた。「そんなこと、きみにはできないよ!」
「できますわ! そして、愛しますわ! そして、いつも変わらず愛します! そして、これからも愛しますわ!」
「きみは――きみは、ぼくに、そうだと思わせるようなことを――」
「あたし、いいましたわ」と、エミリーは、真顔でいった。「心から頼れる人があるのは、すばらしいことだって」
「そうだ。だから、ぼくは思ったんだ――」
「あなたがなんとお考えになろうと、あたしには、どうしてさしあげることもできませんわ」
「きみは、とんでもない悪魔だ、エミリー」
「そうでしょうね、チャールズさん、よく承知していますわ。あなたが、あたしを悪魔とおっしゃろうと、なんとおっしゃろうと、あたしは、そういう女なんです。でもね、そんなことはかまいませんわ。それよりも、あなたにはこれからの前途に、どれくらい偉大なものがあるか、ようく考えてちょうだい。あなたは、すばらしい特種をおとりになったじゃありませんか! デイリー・ワイヤー紙のために、独占的なニュースをおとりになりましたわ。あなたは、立派な成功者よ。とにかく、一人の女なんかがなんですの? 塵《ちり》以下のつまらないものじゃありませんか。いいえ、ほんとうに強い男には、女なんか必要じゃありませんわ。女なんて、蔦《つた》みたいに男にからみついて困らせるだけじゃありませんか。あらゆる偉大な男というのは、女に頼らない人のことをいうんです。人間の暮らしなんて偉大な人生のように、それほど立派なものでもないし、完全に男を満足させるものじゃありませんわ。あなたは、強い男性ですもの、チャールズ、一人で立っていける方ですわ――」
「どうかおしゃべりはやめてくれないか、エミリー? まるで、ラジオで青年に話しているみたいじゃないか! きみは、ぼくの心をずたずたに引き裂いてしまった。きみが、ナラコットといっしょにあの部屋へはいって来た時、どれほど美しく、ぼくの目にうつったか、きみは知らないだろう。まったく復讐《ふくしゅう》を仕遂げて、勝ち誇って凱旋門《がいせんもん》をくぐるようだった」
その時、足音が小径に聞こえて、デューク氏があらわれた。
「あら、あなたなのね、デュークさん」と、エミリーがいった。「チャールズ、あなたにお知らせしたいの。この方は、|ロンドン警視庁《スコットランド・ヤード》の前の主任警部のデュークさんですのよ」
「なんですって?」と、有名な名前を思い出しながら、チャールズは、大きな声をあげた。「現職のデューク警部じゃないって?」
「そうなんですの」と、エミリーがいった。「デュークさんは退職なすってから、ここへいらして住みつくことになすったんですけど、お上品な、控え目な方でいらしたので、あまりご近所に名声を知られたくないとお思いになったんですの。あたし、前に、デュークさんがなにか犯罪のようなものを犯したのじゃないかと思って、ナラコット警部さんに、聞かしていただきたいといった時、ナラコットさんが目をぱちぱちとなすったわけが、いまになって、わかるような気がしますわ」
デューク氏は、声をたてて笑った。
チャールズの心は、しばらく動揺していた。恋人たることに心を打ち込むべきか、新聞記者たることに専心すべきか、その二つの間で、ほんのしばらく葛藤《かっとう》が行なわれた。が、ついに新聞記者が勝ちを占めた。
「あなたにお会いできて、大変愉快です、警部」と、チャールズがいった。「ところで、いかがでしょう、トレベリアン事件について、短い論説を、八百語ぐらいで結構ですが、デイリー・ワイヤーにご寄稿願えませんでしょうか」
エミリーは、速足に小径を登って、カーチス夫人のコテージへはいって行った。自分が借りていた寝室へ駆けあがると、スーツケースをあけた。カーチス夫人は、うしろからついてあがって来て、「お出かけになるんじゃないでしょう、お嬢さん?」
「出かけるんですの、たくさん、用事が――ロンドンへ行ったり、あたしの若い方に会ったりしなけりゃなりませんのよ」
カーチス夫人は、かたわらへ近づいて、「ねえ、いってちょうだい、お嬢さん、どちらの方にお決めになりますの?」
エミリーは、手当たりしだいに、着物をスーツケースにほうり込みながら、「刑務所にいる人よ、わかってるじゃありませんか。ほかの人なんか、一度だっていなかったわ」
「あら、まあ! でも、お嬢さん、考え違いをしていらっしゃるとは、お思いになりませんのですね。もう一人のお若い方のほうが、その方よりはずっとお似合いじゃないんでしょうか?」
「あら! とんでもない」と、エミリーがいった。「あの人はちがいますわ。あの人は、立派に成功する人ですわ」といいながら、ちらっと窓から外をながめると、チャールズはまだ、前の主任警部デュークをとらえて、熱心に話し込んでいるところだった。「あの人は、自分ひとりでどんどん物事をうまくやってゆくように生まれついてきた、そういう青年なんですの――ところが、もう一人の人は、あたしが、なにかにつけて気を配っていなければ、どうなるかわからないんですもの。ね、ほら、あたしがいなくても、あの人は、いまだって、ちゃんとやっていけるじゃありませんか!」
「じゃ、もうそれ以上、なにもおっしゃることはありませんわ、お嬢さん」といって、カーチス夫人は、階下へ引きさがって行った。そこには、かの女の善良な夫が、椅子にかけて、放心状態で前を見つめていた。
「あの人は、わたしの大伯母さんのサラのところのベリンダと生き写しだわ」と、カーチス夫人がいった。「あの女ときたら、スリー・カウスの、みすぼらしいジョージ・プランケットに、自分から飛び込んで行ったんですよ。抵当にはいっていて、なんにもなくなったスリー・カウスへね。だのに、二年のうちに、金を払って低当権を取りもどすし、商売は立派に成功させたんですからねえ」
「そうだね!」と、カーチス氏はいって、パイプをかすかに動かした。
「あの人は、なかなかハンサムな男だったわ、ジョージ・プランケットは」と、カーチス夫人は、過去を追憶するような口調でいった。
「そうかね!」と、カーチス氏がいった。
「でも、ベリンダと結婚してからというものは、他の女の顔などけっして見たりなんかしなかったわ」
「そうかね!」と、カーチス氏がいった。
「けっして、ベリンダは、プランケットに、そんなチャンスを与えたりしなかったわ」と、カーチス夫人がいった。
「そうかね!」と、カーチス氏がいった。(完)
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訳者あとがき
この作品は、アガサ・クリスティ(Agatha Christie) の、Murder at Hazelmoor(一九三一年作)の全訳である。
わたしの持っているのは、アメリカ版で、表題のように『ハーゼルムアの殺人』となっているのだが、イギリス版では『シタフォードの謎』(The Sittaford Mystery)となっている。もっとも内容そのものは、どちらも相違がなく、ただイギリス版とアメリカ版と、出版社の都合だけでそうなったものだと思い、わたしも、自分の持っている原書に従っただけである。
作者クリスティについては、いまさら、わたしが喋々するまでもなく、イギリス探偵小説家中の大家として、大先輩として、すでに読者の方々は十分承知されていることであろう。
かの女の生年は、一八九〇年代とのみで、正確なことはわからない。『二十世紀著述家辞典』の求めに応じて、クリスティ自身が書いた小自伝にも、一八九〇年代とだけ書いてあって、はっきり生まれた年は記していない。女性のことだから、はっきり記さないことになっているのかもしれないが、いずれにしても、もはや七十を越していることは確かだ。もう八十に近いのかもしれない。
名前は、Agatha Mary Clarissa Mallowan 考古学者 Max Mallowan の夫人である。
旅行好きのかの女が、イラクのウルに旅行して、そこで考古学の発掘に従事していたマックス・マローワァンと知り合った。そして一九三〇年の九月、二人は結婚した。
だから、この作品は結婚の翌年出版されたものであり、おそらく二人が知り合ったその当時、かの女は、この作の筆を進めていたのではないかとも思われる。
が、この結婚は、かの女にとっては、最初のそれではなかった。
最初の結婚は、それよりも十数年前の一九一四年、第一次世界大戦の勃発した二、三ヵ月後のことで、夫君は、後に大佐になったアーチボルド・クリスティであった。従って一九二〇年、処女作『スタイルズ荘の怪事件』以来、その作品は、アガサ・クリスティの名で発表された。そして、クリスティ大佐と離婚して、マローワァン夫人となってからも、アガサ・クリスティという名前はそのまま筆名として使われて今に至っている。そのかの女の離婚までのいきさつについては、書き落とすことのできないことがある。
そのころ(というのは一九二七年ごろ)、英米のジャーナリストたちは、かの女のことを「ミステリー・ライターズのガルボ」という渾名で呼んでいた。当時の銀幕の女王グレタ・ガルボと同じように、この探偵小説界の女王(当時も、そして、それから四十年を経た今も、この女王は、女王の座をゆずらない!)が、頑強に新聞雑誌記者とのインタービューを拒絶したことからついた渾名だった。
その前年、クリスティは、今もその代表作といわれる「アクロイド殺人事件」を発表して読書界の人気を集めていたのだが、突然、奇怪な失踪をして、非常なセンセーションをまきおこした。探偵小説界の女王であり、美貌の人妻であるクリスティの失踪は、トップ・ニュースとして連日新聞の紙面を賑わし、あらゆる家庭の話題となった。乗り捨てたかの女の車が発見されてから十一日、かの女の行方は杳《よう》として不明だった。捜査はあらゆる手掛りを求めて八方に伸びた。飛行機までが飛んだ。遠く日本の新聞にまで、かの女の行方不明が伝えられたのだから、そのセンセーションの程は推察がつこう。そして十一日目、ヨークシャーの小さな病院に、偽名で――後に、夫アーチボルド・クリスティ大佐の夫人となった女性の名で――入院しているのが見つかった。医者は、アムネジア(記憶喪失症)と診断した。
しかし、翌一九二八年、かの女が最初の夫クリスティ大佐と離婚したこと、病院での偽名が、大佐の愛人の名前であったことなどから、そこになにか動機があったのではなかろうかと臆測する人もあった。が真相は、ついに誰にもわからなかった。
しかし、この失踪事件は、探偵小説家アガサ・クリスティの名声にマイナスになるどころか、逆に非常にプラスになった。『娯楽としての殺人』の著者ハワード・ヘイクラフトが、その著のクリスティの項で指摘している次の言葉は、よくその間の事情を説明している。
『多くの読者は、クリスティの盛名は、「アクロイド殺人事件」によって確立されたと考えている。それは間違いではないけれども、ある批評家がこの作を称揚したことのほかに、ちょうど同じ一九二六年の未に、著者のクリスティ自身が不思議な失踪事件をおこして、はからずも全世界に自己紹介をしたことが、かの女を周知せしめるのに大いに役立ったということも、また確かである。この大事件のために、かの女の旧著はことごとく売りつくされ、クリスティの名は、あらゆる家庭の話題にのぼった』(江戸川乱歩訳による)
時の流れは早い。もうかの女の二度目の結婚三十数年の月日が過ぎた。わたしは、今から十年ほど前に手に入れた、かの女が夫君マックス・マローワァンと共に、そのお気に入りの別荘の庭を散歩している写真を持っている。そこには、学究的な、深い英知をたたえた目に、長年の間、春ごとに中近東の泥の小屋の中に起居して発掘に従事したためにきたえられた精悍な体躯の夫君と、往年の情熱は内に秘められているかもしれないが、今は温顔の、髪にやや白いものを交えたかの女とが、芝生の上に歩を運んでいる。それは、相許し相信じた二人の、今は老境にあるほほえましい姿である。
今では、かの女は、穏かに三軒の家に――一軒はロンドンに、地方に別荘を二軒――暮らしている。そして、春になれば、夫君に従って中近東に、その考古学的な発掘に赴く。そこでは、写真撮影と発掘品の整理分類の仕事が、かの女の受け持ちである。しかも、かの女はまだ探偵小説創作の筆を休めない。一九二〇年処女作出版以来、四十数年の時が流れている。その間、クリスティは一年一作乃至二作の探偵小説を書き上げて、今では七十冊を越えている。
そのクリスティについて、江戸川乱歩氏はこういっている。
「一般の芸能は作者が年をとるに従って円熟し、大成し、後の作品ほど優れたものになるのだが、本格探偵小説だけは例外で、初期の作品ほど優れ、晩年は気が抜けて来るのが普通である。ドイルしかり、ルブランしかり、ヴァン・ダインしかり、クイーンしかり、クロフツしかり、フィルポッツしかり、この原則には全く例外がないと思っていた。ところが、ここにクリスティだけは、その逆を行って、晩年ほど力の入った作品を書いていたのである。かの女より十年もあとから書き出したクイーンとカーの近年の作が、既にして情熱を失いつつあるのと思い合わせれば、一層このことがはっきりする。これに気づいた時、私は驚嘆を禁じ得なかった。この老婦人は、実に驚くべき作家である」(江戸川乱歩、「クリスティに脱帽」より)
まったくクリスティの創作力の旺盛なのには、目を見張るばかりである。旺盛なばかりではない。大抵の作家が老境にはいるとともに、新鮮さを失い勝ちなものだが、クリスティでは、常に新鮮で、みずみずしさに満ちている。
この「ハーゼルムアの殺人」でも、格別新奇なトリックがあるものではない。これまでにも用いられたトリックの巧みな組み合わせ、その組み合わせについての技巧の独創的な点に惹かれるのである。この組み合わせの独創が、トリックそのものの独創と同じくらい人を打つのである。
と同時に、そのサスペンスの設定のすばらしさである。世の中から孤絶された、荒涼たる山中の一寒村――一寒村というよりも、そこは一軒の山荘と六個のコテージが、山の中に置き去られたようなところである。しかも、激しい吹雪に、まったく閉じこめられてしまったようないっとき、そこから六マイルを離れた山麓の小屋で、その山荘の持ち主が、いま殺されたと、それも山中の住人たちが、吹雪の午後のつれづれに集まって遊ぶ『こっくりさま』の神霊によって告げられるのである。
集まるコテージの住人たちは、いずれも一癖も二癖もある人ばかりである。しかし、その人たちは、殺害の行われた時、六マイルも離れた、吹雪に孤立した山中にいたのである。
誰が、犯行を企てたのだろうか?
まったく、これはスリルとサスペンスに満ちた作品である。(訳者)
〔訳者略歴〕
能島武文(のじまたけふみ)
明治三十一年(一八九八)、大阪府に生る。早稲田大学英文学科に学ぶ。日本文芸家協会会員。〔著書〕「作劇の理論と実際」〔訳書〕クロフツ「列車の死」、クリスティ「スタイルズ荘の怪事件」、ハメット「血の収穫」、ライド「少年少女世界の旅フランス篇」、メイヤー「少年少女世界の旅スイス篇」他。