アガサ・クリスティ
ポワロ参上! 5
目 次
死人の鏡
厩街の殺人
◆死人の鏡
登場人物
ジャーヴァス・シュヴェニクス・ゴア……偏執狂の老人
ヴァンダ……その妻
ルス……その養女
ユーゴ・トレント……その甥
ゴドフレイ・バロウズ……ジャーヴァスの秘書
バリイ大佐……ジャーヴァスの旧友
オスワルド・フォーブス……顧問弁護士
スーザン・カードウェル……ユーゴの女友だち
ミス・リンガード……ジャーヴァスの資料係
スネル……執事
リドル少佐……地方警察の署長
エルキュール・ポワロ
第一章
モダーンなフラットだった。飾りつけも、また、モダーンだった。四角ばったアーム・チェアに、しゃちこばった高椅子。モダーンな机が窓の前にキチンとおいてある。そして、その机に向って、小柄な老人が坐っていた。ただひとつ、彼の頭だけが、この部屋の中で、四角ばっていなかった。それは卵型をしていた。
エルキュール・ポワロ氏は手紙を読んでいるのだった。
ウェストシア
ハンボロー・セントメリー、ハンボロー荘
一九三六年九月二十四日
エルキュール・ポワロ殿
拝啓――慎重に、しかも極秘|裡《り》に解決しなければならない問題が出来《しゅったい》した。私は貴君の評判を聞いているので、この問題を貴君にまかせることに決めた。詐欺《さぎ》にあっていると信ずる理由があるのだが、ある家庭的事情のために、警察沙汰にはしたくない。私はいま、この事件を解決するため、あるキッカケを作ろうとしている。貴君は電報が届きしだい、すぐ来られたし、なお返書無用のこと。匆々《そうそう》
ジャーヴァス・シュヴェニクス・ゴア
エルキュールーポワロ氏の眉は、危うく髪の毛の中に隠れるかと思うほど上にあがった。
「いったい全体、このジャーヴァス・シュヴェニクス・ゴアというのは何者なのだろう?」彼は独り言を言った。
そして、書棚に近よると、大きくて厚い本をとり出した。
彼は求める名前をすぐにみつけた。
シュヴェニクス・ゴア――サー・ジャーヴァス・フランシス・ザヴィア第十代准男爵。元第十七槍騎兵連隊長。生年月日、一八七八年五月十八日。第九代准男爵サー・ガイ・シュヴェニクス・ゴア及び第八代ウォリンフォード侯二女レディ・クローディア・アブレザートンの長子として生れる。一九一二年、フレデリック・アーバスノット大佐長女ヴァンダ・エリザベスと結婚。出身校、イートン。ヨーロッパ戦争に従軍一九一四〜一八年。趣味、旅行、狩猟。住所、ウェストシア、ハンボロー・セントメリー、ハンボロー荘……
ポワロは少しがっかりしたように首をふった。そして、しばらくの間、もの思いにふけっていたが、やがて机のそばへよると、ひき出しを開けて、招待状の束をとり出した。彼の顔が明るく輝いた。
「これは、ちょうどよかった! 願ってもないことだ! きっと、あの男はあそこへ行ってるに違いない」
公爵夫人は、しちっくどい調子でエルキュール・ポワロ氏に挨拶した。
「やっぱり、都合していらして下さいましたのね、ポワロさん! まあ、なんて素敵なんでしょう」
「いえ、奥様、わたしのほうこそお礼を申し上げなければなりません」頭をさげながら、ポワロはつぶやくように言った。
彼は、何人かの重要かつ素敵な人物――有名な外交官、同じように有名な女優、そして著名な冒険好きの貴族――と顔を合せるのをさけ、とうとう目的の人物を探し当てた。彼がわざわざ探し出しにやってきた人物とは、どこのパーティにも『……も出席』という言葉をつけられて、招待客リストのどんじりにその名を連ねているサタスウェイト氏だった。
サタスウェイト氏は温厚な口ぶりでしゃべりまくっていた。
「ええ、ええ、この公爵夫人のところのパーティはいつも楽しいですよ……なにしろ、ああいったお人柄ですからね。何年か前、コルシカ島で、わたしは夫人の人柄のよさをまざまざと見せつけられましたっけ……」
サタスウェイト氏の話は、ことあるごとに称号のある人物の名前が出てくるので、人々の悩みの種になりがちだった。彼だって、時にはジョーンズとかブラウン、またはロビンスンなどという連中と一緒に楽しく時をすごしたことだってあるのだろうが、そんな時のことはおくびにも出さなかった。だがしかし、サタスウェイト氏のことをただ単に紳士ぶる俗物と描写してそのままにしてしまうのだったら、それは不公平なことと言わなければならない。彼は人間性というものに対して鋭い観察眼を持っており、もしゲームの傍観者が一番ゲームにくわしいという説が正しいのなら、サタスウェイト氏は人生を知りつくしていると言ってもよかった。
「やあ、これはこれは、あなたにお眼にかかってから、もうずいぶん経ちますな。あのクローズ・ネスト事件〔『三幕の悲劇』参照〕の時には、あなたの活躍ぶりを間近かに拝見できて非常によかったと思っています。あれ以来、わたしの知識が増えたなどとも思っていますよ。それはそうと、先週、マリー夫人を見かけましたよ。まったく魅力的な人ですな」
子爵の娘の不行跡とか伯爵たる男の悲しむべき言行など、とりとめもないスキャンダルに話の華をさかせた後で、ポワロは、やっと、ジャーヴァス・シュヴェニクス・ゴアの名前を話題にすることに成功した。サタスウェイト氏は打てば響くといったように、すぐに話にのってきた。
「ああああ、あれは変りものですよ。最後の准男爵――というのが彼の仇名です」
「申しわけないが、わたしにはよくわからんのですが」
サタスウェイト氏は、理解力の低い外国人にもよくわかるように、噛んでふくめるように説明した。
「冗談なんですよ。おわかりでしょう――ジョークです。もちろん、本当に彼がイギリスにおいての最後の准男爵であるわけはありません――しかし、彼は、こういった時代の末期をしょって立ったような人物なのですよ。鉄面皮で悪党の准男爵――十九世紀の小説などによく出てきた、気の変になったそそっかし屋の准男爵――まあ、そういったタイプなんですよ。とても実現不可能なカケをして、まんまとせしめてしまったりしてね」
彼は、知っていることを、詳細に話し出した。若いころ、ジャーヴァス・シュヴェニクス・ゴアは帆走商船に乗って、世界中をまわり歩いた。南極探険隊にも参加した。競馬好きの貴族と決闘したこともあったし、かけをして自慢の名馬を公爵邸の階段の上に追い上げてみせたこともあった。一度などは、客席からステージヘとび上り、有名女優を芝居の途中でひきさらったりなどもした。
彼の逸話はおよそ尽きることがなさそうだった。
「古い家柄なのですよ」サタスウェイト氏は話を続けた。「ガイ・ド・シュヴェニクス卿は第一回の十字軍に参加しています。それなのに、ああ、その血統がいまや尽きようとしているのです。ジャーヴァス老人がシュヴェニクス・ゴア家の最後の一人なのですよ」
「財産をなくしたのですか?」
「とんでもない。ジャーヴァスは途方もない金持です。高価な家作や炭田を持ち、それに加えて、彼が若いころ、幸運を掘り当てたペルーだかどこだか南アメリカの金坑の所有権まで持っていますよ。なにしろ不思議な男です。いつも彼の行くところ、幸運がついてまわるのですからね」
「もちろん、もう相当の年齢でしょうね?」
「そうですね。ああ、可哀そうなジャーヴァス」サタスウェイト氏はため息をついて首をふった。「多くの人が、彼のことをひどく気が狂っているのだと言っているのですよ。ある意味では、それは真実です。彼は気が狂っています――と言っても、精神病院に入院する資格があるとか、妄想を抱くとかいう意味ではなく、アブノーマルだという点においてなのです。彼はいつも奇想天外な性格の人間でした」
「奇想天外な人間というものは年をとるにしたがって、アブノーマルになりがちなものですがね」ポワロは、そっと誘いの水を向けてみた。
「いや、まったくです。その通りのことが可哀そうなジャーヴァス老人に起こったのです」
「多分、彼は自分より偉い者はないという高ぶった考えを持ったのではありませんか?」
「その通りです。わたしの考えるところでは、ジャーヴァスの心の中では世界は二つに分けられているのです――シュヴェニクス・ゴア家の側と他の人間どもの側との二つにね」
「家柄というものを大きく考えすぎたのですな」
「そうなのです。シュヴェニクス・ゴア家の人間はみな、ひどく傲慢です。同家の生き残りの一人であるジャーヴァスに、一層それが強く出たのです。彼は――そうです、彼のしゃべっている言葉をお聞きになったら、彼がまるで――万能の神なのではないかとお思いになりますよ」
ポワロはゆっくりと、考え深げにうなずいた。
「なるほど、そんなこともあるかもしれませんね。わたしは彼から手紙をもらったのですよ、ひどく変った手紙でした。来て下さいと言うのではなくて、是非とも来いと言うのですからね!」
「まるで王様の命令ですね」サタスウェイト氏はクスクス笑った。
「まったくです。このジャーヴァス卿なる人物には、このわたし、エルキュール・ポワロが重要人物であり、忙しい人間であることがわかっとらんようですな! このわたしが、飼いならされた犬みたいに――いや、命令を受けるのを光栄に思っている名なしの権兵衛みたいに――あらゆることをほおり出して急いで飛んで行くなんて、およそあり得ようはずがないじゃありませんか!」
サタスウェイト氏は笑いを噛み殺そうとして、一生懸命、下唇を噛んでいた。ことエゴイズムに関する限り、エルキュール・ポワロもジャーヴァス・シュヴェニクス・ゴアも大差ないという考えが彼の心中に浮かんでいたのかもしれない。
彼は咳《つぶや》くように言った。
「もちろん、もしその呼び出しの原因が急を要することだったのなら――」
「そんなはずはない」ポワロは、力強く拳を宙にふりまわした。「彼がわたしを必要とした場合に、わたしは彼の意のままにされる、というだけなんです! 坊や、言うことをお聞き、なんて工合ですよ!」
再び、拳が雄弁にとび上り、エルキュール・ポワロ氏の発する怒りの言葉よりも、もっとよく彼の心中の怒りを物語った。
「つまり、おことわりになる、ということなのですね?」とサタスウェイト氏。
「まだ、その機会がないのです」ポワロはゆっくりと言った。
「しかし、おことわりにはなるのでしょう?」
小男の顔にまた別な表情が浮かんだ。困惑したように、彼は眉を八の字にしかめている。
やがて、彼は言った。
「わたしの気持をどう言い現わしたらいいのでしょう? 拒絶する――そう、確かに最初はそうするつもりでした。しかし、わたしにはわからなくなった――時々、人間には予感がすることがありますね。どうも、かすかに魚の匂いがしてきたようです――」
サタスウェイト氏は、この最後の言葉を聞いても決して茶化したりはしなかった。
「ほう?」と彼は言った。「それは面白そうですな――」
「わたしには」とエルキュール・ポワロは言葉を続け、「あなたの話して下さったような人物には非常に弱点があるように思えるのです――」
「弱点ですって?」一瞬、サタスウェイト氏はびっくりしたようだった。その言葉は、普通、ジャーヴァス・シュヴェニクス・ゴアとくっけて考えることはできないものである。しかし、彼は理解力のある、のみこみの早い男だった。彼はゆっくりと言った。
「なるほど――あなたの仰言る意味がわかるような気がしますよ」
「そういった人物は鎧の中に身をこじこめているものです――鎧の中にね! 十字軍兵士の鎧などではありません――傲慢という鎧、自尊心という鎧、徹底したうぬぼれという鎧。こういった鎧も、ある意味では保護になります。毎日の人生の矢は、それをかすって行くかもしれません。しかし、そこには危険がある。そういった鎧に身を包んだ人は、時には、自分が攻撃されているのだということを知らない時があるのです。眼に入った時には既に遅く、耳に聞いた時には既に遅く――知覚に感じた時にはなお遅いのです」
彼は言葉を切った。そして、態度を変えて聞いた。
「ジャーヴァス卿の家族にはどんな人たちがいるのですか?」
「まず、ヴァンダ――彼の細君です。アーバスノット家の出ですが、とてもきれいな娘でした。いまでも、とてもきれいな奥さんです。しかし、おそろしく煮えきらぬ人ですよ。ジャーヴァスに惚れきっています。それから、たしか神秘学の信者です。魔よけの護符と甲虫石を身につけていて、自分はエジプトの女王の生れ変りだと触れまわっています……それから、ルス――この女性は彼らの養女です。彼らには自分の子がないのでね。モダーンなスタイルの、とても魅力的な娘ですよ。それが家族のすべてです。他に、ユーゴ・トレントがいます。ジャーヴァスの甥《おい》ですよ。ジャーヴァスの妹のパメラがレジー・トレントと結婚したのですが、ユーゴ・トレントは、二人の間にできた一粒だねでしてね。一人ぽっちのみなしごですよ。もちろん、彼には爵位はつげません。しかし、ジャーヴァスの金の大部分は、最後には、彼の手に入るようになるのでしょうね。とてもいい男で、近衛騎兵に入っていました」
ポワロはゆっくりとうなずいた。そして、聞いた。
「彼の名をつぐ息子がいないのでは、ジャーヴァス卿はさぞ悲しいでしょうね?」
「ひどい痛手だと思いますがね」
「由緒正しい家名は、彼のもっとも大事にしているものなのでしょうな?」
「そうですね」サタスウェイト氏はしばらく黙りこんだ。彼は非常に好奇心をそそられた。そこで思い切って聞いた。
「あなたがハンボロー荘へ出かけて行かねばならない、はっきりした理由がみつかりましたか?」
ゆっくりとポワロは頭をふった。
「いや、わたしにわかる範囲では、まったくなんの理由もありませんな。しかし、どっちみち、行くことになるでしょうね」
第二章
エルキュール・ポワロは、イギリスの片田舎を疾走する一等車の片隅に腰をおろしていた。黙考にふけりながら、彼はポケットから、きちんとたたんだ電報をとり出すと、それを展げて読み直した。
四時三十分発セント・パンクラス行き急行に乗り、フィンパレイにて列車を停車させるよう、車掌に指示されたし
シュヴェニクス・ゴア
読み終ると、またもとのようにたたんで、ポケットにしまった。
その列車の車掌はひどく柔順だった。
「お客様はハンボロー荘へいらっしゃるのですか? はい、シュヴェニクス・ゴア卿のお客さまでしたら、フィンパレイに急行を停車させることになっておるのです。一種の特権というものでございましょうな、はい」
その後、車掌は二度、彼の車室へやってきた――一度めは、なんでも用があれば申しつけてもらいたいと言うためであり、二度めは、列車が十分ほど遅れていることを告げるためであった。
その急行列車は七時五十分着の予定だったが、ポワロが小さな田舎駅のプラットフォームヘおり立ち、車掌の手に半クラウン銀貨を握らせたのは八時二分すぎだった。
汽笛を鳴らすと、ノーザーン・エクスプレスは再び動きはじめた。ダーク・グリーンの制服を着た背の高い運転手がポワロのそばへ近よってきた。
「ポワロ様ですね? ハンボロー荘へいらっしゃるのでは――?」
彼はポワロの小さな旅行鞄を手にさげると、先きに立って駅の外へ出て行った。大きなロールス・ロイスが待っていた。運転手は車のドアを開け、ポワロを乗せると、豪華な毛皮の膝かけでポワロの膝をおおった。そして、自動車は走り出した。
田舎道を十分ほど走ったあげく、その車は急角度にまがり、細い道を下ると、両側に大きな石像の立ちならんだ、幅の広い自家用道路へ入って行った。
車は広壮な庭を通り抜けると、家の前に横づけになった。車がとまると同時に、その家の玄関のドアが開いて、立派な風采の執事が正面の石段の上に姿を現わした。
「ポワロ様でいらっしゃいますか? こちらへどうぞ」
彼は先きに立って広間をななめに横切り、右手のドアを大きく開けた。
「エルキェール・ポワロ様がいらっしゃいました」彼は大声で告げた。
その部屋にはなん人かの夜会服を着た人たちがいたが、彼の到着がその人たちにとっては予期せざるものであったらしいことを、ポワロはすばやく見てとった。その部屋にいたすべての人が、驚きの表情をあらわにして、ポワロをみつめているのだった。
すると、黒い髪に白髪のまざりかけた背の高い婦人が、おずおずと彼のほうに近よってきた。ポワロはうやうやしく頭をさげた。
「大変失礼いたしました、奥様、汽車が遅れたものでございますから」
「いえ、かまいませんのよ」とシュヴェニクス・ゴア夫人はあやふやな答え方をした。「かまいませんのよ、ほんとに、ミスタ――ええと――わたし、お名前がよく聞きとれなかったのですけれど――」
「エルキュール・ポワロでございます」
彼ははっきりと名を名乗った。
彼の背後で、誰かの息を呑む音が聞こえた。
同時に、ポワロは、彼をまねいた当の主人がこの部屋にいないことを知った。彼は穏かな口調で言った。
「わたくしが参りますことは、ご承知でございましたでしょう、奥様?」
「えっ――ええ――」彼女の態度はなにか煮えきらなかった。「つまり、その――承知しているはずなんですけど、わたしって、とっても役立たずなんですのよ、ポワロさん。なんでも忘れてしまうんです」彼女は憂うつそうな笑顔を見せ、「いろいろ言われますでしよ。たしかにわかったような気がするんです――でも、それは右の耳から左の耳へ通り抜けてしまいます! もう、まったくなにも聞かなかったみたいに忘れてしまうんですよ」
それから、いやでたまらなくてそれまでずっとひきのばしていた義務を果たすような感じで、彼女は、まわりの人たちをぼんやり見まわし、咳くように言った。
「みなさん、ご存知ですわね」
この場合、そうでないのは明らかなのだが、この言葉は、めんどうくさい紹介の労をはぶき、人の名前を正確に思い出さないですませようとするため、シュヴェニクス・ゴア夫人がいつも使いなれていた慣用句なのだった。
この困難きわまる特殊事態に遭遇したので、彼女は大いに努力して、次の言葉を続けた。
「これはわたしの娘――ルスです」
彼の前に立っている娘も、やはり背が高く、髪が黒かった。しかし、母親とはまったく異ったタイプの女性だった。シュヴェニクス・ゴア夫人が平べったい、どこと言って特徴のない顔立ちをしているのにひきくらべ、彼女のほうは、鷲鼻と言ってもよさそうなととのった鼻の持ち主で、顎の線もくっきりときわだっていた。額から後ろへなでつけられた黒い髪の毛はきれいにカールしている。その顔はほんのりと赤味をおびて輝いているが、あまりお化粧はしていない。これはいままでお眼にかかった女性の中でも特に可愛らしい人だな――エルキュール・ポワロはそう思った。
また、彼は、この娘が美しいばかりでなく、頭もよさそうなことを見てとった。適度な自尊心のある、落ち着いた性格の娘らしい。口を開くと、その娘は気どった話し方をしたが、彼にはそれがとってつけたもののように思えた。
「エルキュール・ポワロさんにお出で願って、とっても嬉しゅうございますわ。老人はきっと、わたしどもを驚かすつもりだったんだと思いますわ」
「すると、お嬢さま、あなたも、このわたくしがこちらへうかがうことをご存じなかったのですか?」彼は口早やに聞いた。
「まったく存じませんでしたのよ。ですから、わたし、サイン帳をとってきてサインしていただきたいんですけど、晩餐が終るまで待たなきゃならないってわけですわ」
その時、広間のほうから、ドラの音が聞こえてきたかと思うと、執事がドアを開けて言った。
「晩餐の用意がととのいました」
だが、その「ととのいました」と言う最後の言葉が執事の口から出るか出ないかのうちに、奇妙なことが起こった。ちっとやそっとのことではものに動じそうにない大司教のような態度の召使いが、ほんの一瞬間、驚きの色をあらわにしたただの人間の姿にかえったのだ。
だが、その変化はほんの一瞬間だった。彼の顔は、すぐに、またもとのよく馴らされた召使いの表情にもどったので、その時、偶然、執事のほうに眼を向けた者でなければ、その変化には気がつかなかったに違いない。だが、ポワロは、偶然、執事のほうに眼を向けた一人だった。彼は召使いの変化をいぶかしく思った。
執事は戸口でためらっていた。その顔は再びもとの無表情なものに戻っていたが、緊張したように身体をこわばらしている。
シュヴェニクス・ゴア夫人が口ごもりながら言った。
「あらあら――まったく、おかしいわね。ほんとに、わたし――どうしたらいいのか、わかりませんわ」
ルスがポワロに向って言った。
「ポワロさん、みんながあわてているのはね、わたしの父が晩餐に遅れたからなのですのよ。少くとも、ここ二十年間、こんなことって一度もありませんでしたわ」
「まったく変だわ」シュヴェニクス・ゴア夫人が嘆くように言った。
「ジャーヴァスは決して!」
姿勢の正しい年よりの男が夫人のそばによった。その男は快活な笑い声を立てた。
「いやはや、ジャーヴァスのやつ! ついに時間に遅れたな! ひとつ、われわれで彼を叱ってやろうではありませんか。カラーのボタンでもはまらないでまごついているのですかな? それとも、ジャーヴァスは遅れても、われわれみたいにあわてたりしないのかな?」
シュヴェニクス・ゴア夫人が、当惑したように低い声で言った。
「でも、ジャーヴァスは一度も遅れたことありませんでしたわ」
このような些細な不慮のできごとのために、一同が狼狽するなんて馬鹿らしいことだった。だが、エルキュール・ポワロにとっては、それが馬鹿げたことだというだけではすまなかった。みなのこの狼狽の背後には不安が隠されている――それはただならぬ雰囲気と言ってもよいかもしれない。そして、彼もまた、あんな奇妙な方法で呼んだ客が到着したというのに、ジャーヴァス・シュヴェニクス・ゴアがいまだに姿を現わさないのを不思議に思っていたのだった。
とは言うものの、どうしたらよいかは誰にもわからなかった。いかに処理したらよいか誰にもわからないような前代未聞の状況にたちいたっているのだ。
遂に、シュヴェニクス・ゴア夫人がイニシアティヴをとった。だが、非常に落ち着かなげな態度だった。
「スネル、一体、あの人は――」
彼女は最後まで言わず、答えを予期するように執事を見た。
スネルは、女主人のものの聞き方に馴れていたので、このはっきりしない質問にも即座に返答した。
「ジャーヴァス様は八時五分前に階下へお降りになり、まっすぐ書斎へお入りになりました」
「あら、そう――」夫人は口をポカンとあけ、遠くをみつめるようなまなざしをしている。「あの人、ドラが聞こえなかったのではないかしらね?」
「いえ、お聞きになったはずだと思いますが、なにしろ、ドラは書斎のドアのすぐ外にあるのでございますから。もちろん、ジャーヴァス様がもう書斎にいらっしゃらないのでしたら、お探しして晩餐の仕度がととのいましたことをおしらせしなければならなかったのですが。そういたしてまいりましょうか?」
執事のこの言葉にシュヴェニクス・ゴア夫人は救われたような表情を浮かべた。
「そうね、スネル。行ってきてちょうだい。しらせてきてよ」
執事が部屋を出て行くと、彼女は言った。
「スネルはよくできた召使いですわ。彼に頼りきっていますの。スネルがいなかったら、わたし、どうしたらいいか、わかりませんものね」
誰かが同情したような言葉を呟いたが、誰も口をきこうとはしなかった。エルキュール・ポワロは部屋の中にいる人たちを見まわしながら、誰もかれも緊張しているなと思った。彼は、部屋の中の一人一人に素早い視線を走らせて、頭の中に大ざっぱな人物一覧表を作ろうとした。年よりが二人、一人は今しがた夫人としゃべっていた軍人ふうの男、もう一人は痩せた、白髪の男で、口をきちんと結び、どうも弁護士らしい。若い男が二人――二人ともまったくタイプが違っていた。口髭をはやし、横柄な感じのするほうは、ジャーヴァス卿の甥らしい。もう一人のほうは、光沢のある髪の毛をキチンとなでつけた、なかなかの美男子だが、育ちが悪そうだった。それから、鼻眼鏡をかけ、利巧そうな限を光らせた中年婦人が一人と、燃えるような赤い髪の娘が一人いた。
スネルが戸口に姿を現わした。彼の態度にはなんの乱れもなかったが、ものに動じぬふうをしていても、それは表面だけで、内心では相当に狼狽しているのがよくわかった。
「奥様、書斎のドアには鍵がかかっていて、あかないのでございますが」
「鍵がかかっているって?」
それは男の声だった――若い男の、興奮を内に秘めた、キビキビした声だった。声の主は、髪をきれいになでつけた美青年だった。彼は急《せ》きこみながら言葉を続けた。
「僕が行って、見てきましょうか――?」
しかし、エルキュール・ポワロが静かに進み出た。彼の態度が非常に自然だったので、この家についたばかりの新来者のくせに出しゃばりな奴だなどと思ったものは一人もいなかった。
「さあ、書斎へ行ってみましょう」
彼は言葉を続けて、スネルに言った。
「案内してくれませんか」
スネルは言われた通りにした。ポワロは執事のすぐ後に従った。すると、他の連中もみな、羊の群れのようにその後を追った。
スネルは広間を通り抜け、大時計のそばを通り、ドラのつるしてある凹所からせまい通路に入った。その通路のつきあたりにドアがあった。
ドアのところまでくると、ポワロはスネルを押しのけて、静かにハンドルをまわしてみた。ハンドルはまわるのだが、ドアは開かなかった。ポワロは拳を固めると、ドアの鏡板をそっと叩いた。そして、なお音高く叩き続ける。が、急にノックする手をとめて、彼は膝をついて、鍵穴に眼をあてがった。
彼はゆっくり立ち上ると、まわりを見まわした。その顔にはいかめしげな表情が浮かんでいる。
「みなさん! ただちにこのドアを打ち破らなければなりません」
彼の指示のもとに、背が高くガッチリした体格の青年が二人、ドアに突進した。それはなかなか厄介な仕事だった。ハンボロー荘のドアはひどく頑丈にできていた。
だが、遂に鍵がはずれ、大きな音をさせて、ドアは内側に開いた。
その瞬間、一同は、ゴチャゴチャと戸口にかたまったまま、部屋の中の光景を見て立ちすくんだ。電灯がついていた。左手の壁にそって、どっしりしたマホガニー製の大きな机がおいてある。その机のそばの椅子に、一同に背を向け、大きな男が坐っていた。彼の頭と上体は椅子の右手にたれさがり、右手をだらんとたらしている。その手のま下のカーペットの上には、小さなピストルが光っていた。
なにも考えをめぐらす必要はなかった。その場の光景がすべてを物語っていた。ジャーヴァス・シュヴェニクス・ゴアはピストル自殺をとげたのだ。
第三章
一、二瞬間、人々は一団となって、戸口に立ちすくみ、現場の様子に眼を見張った。やがて、ポワロが大股に前に進み出た。
と、同時に、ユーゴ・トレントが歯切れよく言った。
「なんてことだ、『じいさん』が自殺したぞ!」
すると、シュヴェニクス・ゴア夫人の口から、長い、身の毛のよだつような呻き声がもれた。
「ああ、ジャーヴァス――ジャーヴァス!」
ポワロは肩ごしにきびきびした声で言った。
「シュヴェニクス・ゴア夫人を向うへお連れになって下さい。奥さんがここにいらしても、なんにもなりませんから」
年輩の、軍人らしい男がポワロの言葉に従った。
「さあ、ヴァンダ。向うへ行きましょう。ここにいてもどうにもなりませんよ。さあ、ルス、一緒に来て、お母さんの面倒を見てあげなさい」
しかし、ルス・シュヴェニクス・ゴアはその場を動こうとはしなかった。彼女は、椅子にぶさまに身を投げ出した死体――ヘラクレスのように頑丈な身体に海賊髭を生やした男の死体の上に身をかがめるポワロの傍らに、じっと立っていた。
彼女は低い、緊張した声で言った。不自然なほど、感情を押し殺した含み声だった。
「本当に――本当に、死んでますの?」
ポワロは眼を上げた。娘の顔には、ポワロには理解できない、ある種の感情がみなぎっていた。じっと抑圧された、なにかの感情だった。悲しみではない――半ば恐れおののきながらも、ひどく興奮しているような表情だった。
鼻眼鏡をかけた、小柄な女性が呟いた。
「ねえ、あなた、お母さんをどうにかしないと――?」
赤毛の娘が、甲高い声で、ヒステリックに叫んだ。
「じゃあ、車のエンジンのバックファイアやシャンパンの音じゃなかったんだわ! ピストルの音だったのよ、さっき聞こえたのは――」
ポワロはくるっと振り向いて、一同と向い合った。
「どなたか、警察にご連絡下さらんと――」
ルス・シュヴェニクス・ゴアが荒々しい声で叫んだ。
「いけませんわ!」
法律家のような顔をした年輩の紳士が、それをたしなめた。
「いや、止むを得んことでしょうな、君が連絡をとってくれないかね、バロウズ君。ユーゴ君は――」
「あなたがユーゴ・トレントさんですね?」とポワロは、口髭を生やした、背の高い紳士に向って言った。「あなたとわたし以外の皆さんには、この部屋を出ていただいたほうがよろしいようですな」
今度も、一同は彼の言葉通りに行動した。弁護士の先導で一行は部屋から出て行った。ポワロとユーゴ・トレントの二人だけが現場に残った。
すると、ユーゴ・トレントがじっとポワロをみつめて言った。
「それはそうと――あんたはどなたですか? わたしにはとんとわかりません。一体、あんたはここでなにをなさっておられるのです?」
ポワロはポケットから名刺入れを取出すと、名刺を一枚選り出した。
ユーゴ・トレントは受取った名刺をじっとみつめた。
「私立探偵――ですか? なるほど、あなたのお名前はうかがったことがあります……しかし、そのあなたが、ここでなにをなさっているのかは、とんと見当がつきませんね」
「すると、伯父さんは――この方はあなたの伯父さんですな――?」
ユーゴはチラッと死人に眼をやった。
「『じいさん』が、ですか? ええ、たしかに、わたしの伯父です」
「あなたは、伯父さんがわたしをお呼びになったのをご存じないのですか?」
ユーゴは首をふりながら、ゆっくりと言った。
「全然、聞いておりませんでした」
彼の声音には、なんとも判別しがたい感情がこめられていた。その顔は表情がなく、無感覚だった――感情を表に出さないようにするにはおあつらえ向きの顔だな、とポワロは思った。ポワロは静かな口調で言った。
「ここはウェストシアでしたな、わたしは、こちらの警察署長のリドル少佐をよく存じ上げておりますよ」
「リドル少佐は半マイルばかり離れたところに住んでいます。彼は、きっと、自分でやって来てくれるでしょう」
「それは好都合ですな」とポワロ。
彼は静かに部屋の中をうろつきまわりはじめた。窓のカーテンをわきへ押しのけると、フランス窓を調べ、ちょっと手で押してみる。窓はどれもしまっていた。
机の後ろの壁には丸い鏡がかかっていたが、割れてこなごなになっていた。ポワロは身をかがめると、小さな物体を拾い上げた。
「なんです?」とユーゴ・トレントが聞く。
「弾丸ですよ」
「じゃあ、その弾丸は伯父の頭を貫通して、この鏡に当ったのですね?」
「そうらしいですな」
ポワロは弾丸を、また、もとの場所に戻した。そして、机のそばに寄った。机の上には、書類が何組か、きちんと積み上げてあった。吸取紙の上には一枚の紙がおいてあり、その上には、大きな、ふるえた書体で、『すまぬ』と書いてある。
「伯父はこれを書いてすぐ――自殺したのですね」
ポワロは考えにふけりながら、うなずいた。
そして、また、こわれた鏡に眼をやると、すぐ死体に視線を移した。困惑したように、彼の眉は八の宇を描いていた。彼は、打ち破られたドアのほうに近寄った。ドアには鍵はささっていなかった。それは、彼にも前からわかっていたことだった。鍵がささっていたら、鍵穴から中の様子が覗けたはずはないからだ。床の上にも鍵は落ちていなかった。ポワロは死人の上に身をかがめると、死体を手で探った。
「ほう。鍵は死体のポケットにありましたよ」
ユーゴはシガレットケースを出すと、煙草に火をつけた。そして、しゃがれ声でしゃべり出した。
「至極はっきりしていますね。伯父はここへ閉じこもると、遺書を書き、それから、自殺したんでしょう」
ポワロはなにか考えながらうなずいた。ユーゴは言葉を続けた。
「だが、伯父がなぜあなたを呼んだのか、そのわけがわかりませんね。いったい、どうしたわけなんです?」
「いや、それはちょっと説明しにくいことですな。それよりも警察が来るのを待っている間に、今晩、わたしがお眼にかかった方たち、みなさんのことを説明していただけませんか?」
「誰のことですか?」ユーゴはぼんやりと言った。「あっ、そう、そうでしたっけ。失礼しました。まあ、お掛けになりませんか?」彼は死体から一番遠くにある長椅子を指さした。「ええと、まず、ヴァンダ――ご存知でしょうが、わたしの伯母です。それに、いとこのルス。この二人は、あなたもご存知ですね。それから、もう一人の娘はスーザン・カードウェルと言います。彼女はいま、ここに泊っているのです。それに、バリイ大佐、古くからつき合っている人です。それから、フォーブス氏。やはり古くからの友人ですが、弁護士なので、家の顧問になってもらっています。この二人のお年よりは若いころ、ヴァンダ伯母に夢中になった人たちでしてね、いまだに、つき合っていて、なにかと面倒を見てくれているのですよ。馬鹿げてますが、いじらしいことですね。ほかに、『じいさん』――というのは、伯父のことですが――の秘書のゴドフレイ・バロウズに、シュヴェニクス・ゴア家の歴史を書くのに助手として使われているミス・リンガード。彼女はいろいろと歴史的な資料を集めています。まあ、大体、これだけだと思いますが」
ポワロはうなずいた。
「たしか、あなたがたはピストルの音をお聞きになったとか――?」
「ええ、聞きました。でも、シャンパンの音だと――いえ、少くとも、わたしは、そう思いました。スーザンと、ミス・リンガードは、道路を通った自動車のエンジンのバックファイアだ、と言ってましたよ――なにしろ、家のすぐそばが道路だものですからね」
「いつごろです?」
「ええと、八時十分すぎごろのことでした。スネルがちょうど、最初のドラを鳴らした時でしたから」
「その音をお聞きになった時、あなた方はどこにいらしったのですか?」
「広間です。笑いさんざめきながら、どこから聞こえたのだろうかとみなで言い合ったものです。わたしは、食堂からだと言ったのですが、スーザンは居間からだと言うし、ミス・リンガードは二階らしいと言いました。スネルは道路の外の音だ、と言い、ただ、それが二階の窓を通して聞こえてきたのだ、と言いました。するとスーザンが、『他に意見はない?』と聞きましたので、わたしは笑いながら、殺人事件かもしれないよ、と言ったのです。いまから考えると、ゾッとしますよ」
彼の顔が、神経質そうに歪んだ。
「ジャーヴァス卿が自殺なさったのだ、とお考えになった方はいらっしゃらなかったのですな?」
「ええ、もちろん、誰もそんなことは考えませんでした」
「実際、なぜ、卿が自殺なさったのか、あなたには心当りがありませんか」
「え? いや、あるとも言えないのですが――」
「なにか考えがおありになるのですね?」
「え、ええ――でも、ちょっと説明しにくいことなんです。もちろん、わたしは、伯父が自殺するのを予想していたわけではありません。しかし、それと同時に、こうなってみても、別にひどくびっくりしているわけでもないのです。ということは、ポワロさん、わたしの伯父というのが、途方もない変人だからなんですよ。それは、誰でも知っていることでしてね」
「それだけで、今度の一件が説明しつくせるとお思いですか?」
「そうですね――でも、人間というものは、ひどく頭が変になったりすると、自殺したりするものでしょう」
「また、なんと単純な解釈の仕方ですな」
ユーゴーは眼を丸くした。
ポワロは再び立ち上ると、なんということなしに、部屋の中を歩きはじめた。住み心地のよさそうな部屋で、ヴィクトリア朝ふうのかざりつけがしてあった。どっしりした本棚に、大きなアームチェア、それに本物のチッペンデールの椅子〔十六世紀の有名な家具職人の手になる椅子〕などがおいてある。置物の数はあまり多くなかったが、暖炉棚の上の青銅の置物がポワロの注意をひいた。彼は、賞讃の気持で、ひとつひとつを手にとって眺めてから、また、そっともとの場所に戻した。そして、一番左の端の置物のところから、彼は爪でなにかをつまみあげた。
「なんですか、それは?」あまり興味もなさそうに、ユーゴが聞いた。
「大したものじゃありません。鏡の銀ぱくのかけらですよ」
「まったく、鏡がこわれたというのは、奇妙なことですね。よく、鏡がこわれると不幸が起こると言います。可哀そうな伯父さんだ――あの人の幸運も、結局は永続きしなかったんです」
「伯父さんは幸運な方だったのですか?」
ユーゴは短く笑った。
「ひどく運のいい人でしたね。あの人がさわるものはなんでも金になってしまうのです。人気のない馬を後援すれば、それが楽勝してしまうし、あまり見込みのない鉱山に手をつけると、すぐに正真正銘の金鉱を掘り当てるといった工合でしてね、まるで、無から有をひねり出す名人でした。あの人の生涯には、一再ならず、奇蹟が起こっているのですよ」
ポワロはさりげない調子で咳くように言った。
「あなたは伯父さんのことを好いていらっしゃったのですかね、トレントさん?」
「えっ――ええ、もちろんです」彼は少しあやふやな言い方をした。「まあ、時には気むずかしくなることもありましたがね。なにしろ、一緒に暮らしてゆくには、ひどく骨の折れる人でした。もっとも、わたしは、あまり伯父の世話はやかずにすんだのですが」
「彼はあなたのことを好いていましたか?」
「そうでもありませんでした。まあ、どちらかと言えば、わたしの存在を不快に思っていたかもしれませんね」
「どういうことです、それは?」
「ええと、つまり、彼に自分の子がなかったからですよ――それをひどく気に病んでいました。彼は家系とかなんとか、そういったものに夢中でしたからね。きっと、自分が死んだら、シュヴェニクス・ゴア家は絶えてしまうのだということを知って、伯父はなんとも言えぬ気持だったんでしょう。なにしろ、シュヴェニクス・ゴア家はノルマン征服以来続いた家柄なのですからね。『じいさん』が死ねば、その由緒ある家は絶えてしまうのです。あの人にしてみれば、堪えられぬことでしたでしょう」
「あなたはその感慨をお感じにならんのですか?」
ユーゴは肩をすくめた。
「なにしろ、そんな考えは古くさいですよ」
「財産のほうはどうなるのです?」
「よくは知りません。わたしの手に入るのかもしれません。そうでなければ、ルスに残したか、ですが、少くとも、ヴァンダには、一生食えるだけの分が行くはずです」
「伯父さんは、その点に関して、ご自分の意志を明らかにはされたことはなかったのですか?」
「ええ、彼にはひとつ考えがありました」
「それはどういうのですか?」
「わたしとルスを一緒にさせようというのです」
「それはなかなかよい考えじゃありませんか」
「ええ、よい考えはよい考えです。しかし、ルスは――いや、その――ルスには、自分自身の確固たる人生観がありましてね。なにしろ、あの娘は魅力的な娘です。それに、自分でそれをよく心得ているのですよ。ですから、急いで結婚して身を固めたりはしないでしょう」
ポワロは身をのり出した。
「しかし、あなたは乗り気なんでしょう、トレントさん?」
ユーゴはうんざりしたような声を出した。
「いや、近ごろは誰と一緒になったって、そう大した違いはありませんよ。離婚が簡単ですからね。うまくゆかなければ、別れて、もう一度出直せばいいんですから」
この時、ドアが開いて、フォーブス氏が、背の高い、いかめしい顔つきの男と一緒に入って来た。
その男はトレントに会釈をした。
「やあ、ユーゴ君、なんともお気の毒なことでした。みなさん、お力落しでしょう」
エルキェール・ポワロが前に進み出た。
「やあ、ご機嫌よう、リドル少佐。わたしを覚えておいでですか?」
「ええ、覚えていますとも」警察署長はポワロと握手を交した。「あなたがこちらにおいでなんですか」
彼は怪訝《けげん》な眼でポワロを見た。
第四章
「どうだね?」とリドル少佐が言った。
二十分後のことである。警察署長の「どうだね?」という疑問の言葉は、やせた、髪の半白な警察医に向って投げかけられたものだった。
医者は肩をすくめた。
「死後三十分ですな――まだ一時間とはたっちゃいません。専門的な言葉を使っては、あなたのお気に入らんだろうからざっと説明しましょうかな。故人はピストルで頭を打ち抜いたのですよ。ピストルは右のこめかみから数インチ離れたところで発射されている。弾丸は脳を貨通して、また外へ出ていますね」
「明白な自殺だね?」
「ええ、はっきりしたもんです。死体は、そのまま、ドスンと椅子に落ち込み、ピストルは手からすべって落ちたのです」
「弾丸は入手したね?」
「ええ」医者は弾丸を差し出して見せた。
「ああ、結構。後で、弾道検査に廻そう。はっきりした事件で、面倒がないから助かったよ」
エルキュール・ポワロが静かに口をはさんだ。
「医師《せんせい》、たしかに面倒なところはありませんかな?」
医者はゆっくりと答えた。
「いや、ちょっと妙なことがひとつだけありますな。彼は自殺した時に、少し右に身体を倒していたらしいのですよ。そうでなければ、弾丸は鏡のまん中ではなくて、鏡の下の壁に当っているはずですからね」
「自殺するにはちと妙な姿勢ですな」とポワロ。
医者は肩をすぼめた。
「まあ、そう言えばそうですが――」彼はあいまいに語尾をにごした。
「死体は動かしていいね?」リドル少佐が言った。
「ああ、結構です。検屍審問までにはどうにかすませておきますよ」
「君のほうはどうかね、警部?」リドル少佐は私服を着た、背の高い、鈍感そうな顔つきの男に向かって聞いた。
「OKです。必要なものは全部手に入れました。ピストルについていた指紋は、故人のものばかりです」
「じゃあ、君はそれで進めたまえ」
ジャーヴァス・シュヴェニクス・ゴアの死体が運び出されて行った。警察署長とエルキュール・ポワロだけ後に残った。
「さて、あらゆることがはっきりしていて、極めて明々白々な事件のようですな」とリドル少佐が言った。「ドアには鍵がかかっていて、窓は閉っており、ドアの鍵は死人のポケットの中にあった。なにもかも明らかです――だが、ただひとつ気になることがある」
「それはなんです?」とポワロが聞いた。
「あなたですよ」リドルはぶっきらぼうに言った。「あなたはここでなにをしてらしたのです?」
返事のかわりに、ポワロは、一週間前に死人から受けとった手紙と、遂に彼におみこしを上げさせた電報とをリドルに手渡した。
「フーン」と警察署長は言った。「面白いですな。これはとことんまでつきとめてみなけりゃなりません。彼の自殺に大いに関係がありそうです」
「わたしもそう思いますよ」
「われわれは、この家の中にいる連中を調べねばなりませんな」
「名前だけなら申し上げられますよ。トレントさんから聞き出しておきましたから」
彼はこの家にいる人々の名前をくり返した。
「多分、リドルさん、あなたはこれらの人たちについて、なにかご存じなんじゃありませんか」
「もちろん、少しは知っています。シュヴェニクス・ゴア夫人という人は、あれで彼女なりに、相当変っているんです。ジャーヴァス卿を女にしたみたいなものですね。彼らはお互いに愛しあっていて――二人とも、とても変ってました。あの女性はまったく正体がわからんですよ。時々、気味が悪くなるほど頭の冴えを見せて、驚くような効果を上げるんです。世間の人は彼女のことを笑いものにしています。彼女もそれはよく知っていると思うのですが、全然気にもしませんね。あの女性にはユーモアのセンスなどこれっぽっちもないんです」
「ミス・シュヴェニクス・ゴアは彼らの養女なのだそうですね?」
「ええ」
「とてもきれいな娘さんですね」
「非常に人をひきつけるところのある娘ですな。この近辺の青年を片っぱしからおもちゃにしたんですよ。あるところまでひきずってきて、それからポンとほおり出し、笑いものにするといったふうにね」
「まあ、それはいまのわれわれには大して関係のなさそうなことですな」
「え――ええ、まあ、そうですな――じゃあ、他の人物に移りますか。もちろん、バリイ老人も知っていますよ。彼はほとんどこの家に入りびたりです。まあ、飼いならされた猫みたいなものですな。いわばシュヴェニクス・ゴア夫人のお付き武官ですよ。彼は非常に古くからの友人です。彼らはバリイ老人をずっと以前から知っているようですな。彼とジャーヴァス卿は二人とも、バリイが社長になっているなにかの会社から利益を得ていたんだと思います」
「オスワルド・フォーブスのことは、なにかご存じですか?」
「たしか、前に一度会ったことがあります」
「ミス・リンガードは?」
「全然聞いたことのない名ですな」
「ミス・スーザン・カードウェルは?」
「赤毛のちょっと可愛い娘でしょう? ここ二、三日、ルス・シュヴェニクス・ゴアと一緒にいるところをよく見かけましたよ」
「バロウズ氏は?」
「ええ、知っています。シュヴェニクス・ゴアの秘書です。ここだけの話ですが、あの男は、わたしはあんまり好きじゃありませんね。彼は美男子で、自分でもそれをよく承知しています。あまり上等の人間じゃありませんよ」
「彼はどのくらい前からジャーヴァス卿のところにいるのですか?」
「たしか二年前くらいからでしょう」
「で、他には――」
ポワロは途中で言葉を切った。
背広を着た、背の高い金髪の男が急ぎ足で入ってきた。ひどく息をきらしており、疲れはてているような様子だった。
「お早うございます、リドル少佐。ジャーヴァス卿が拳銃自殺をしたという噂を聞いたので、急いでやってきたんです。スネルが、その噂は本当だと教えてくれましたよ。しかし、そんな馬鹿な! わたしには信じられませんよ」
「それが本当なんだよ、レイク君。そうそう、紹介しよう。これはジャーヴァス卿の不動産の管理をやっているレイク大尉。こちらはエルキュール・ポワロさんだ。君もお名前ぐらいは聞いたことがあるだろう」
思いもかけぬ人物に会えたので、レイクの顔が輝いた。
「エルキュール・ポワロさんですか? あなたにお眼にかかれて、こんなに嬉しいことはありません。少くとも――」と言いかけて絶句し、その顔から人なつっこそうな微笑が消えた――彼はどぎまぎと狼狽したようだった。「まさか、彼の自殺に――その――おかしなふしがあるってわけなんじゃないでしょうね?」
「なぜ、君は、その『おかしなふし』があるのではないかと考えたのかね?」警察署長が鋭く言った。
「つまり、ポワロさんがここにいらっしゃっているからです。いや、それに、まったくこの事件が信じられないからなんです!」
「いやいや」とポワロは急いで言った。「わたしがここへやって来たのはジャーヴァス卿の死を調べるためではなかったのですよ。この家にやってきていたんですよ――客として」
「ああ、そうですが。いや、おかしいな。今日の午後、彼と会ったんですが、あなたがお見えになることなど話しませんでしたよ」
ポワロは静かに言った。
「あなたは、二度も、『信じられない』という言葉をお使いになりましたね、レイク大尉。すると、ジャーヴァス卿が自殺したのを聞いて、あなたはそんなに驚かれたのですか?」
「ええ、その通りなんです。もちろん、彼はひどい変り者でした。そのことでは、誰も異論をとなえる者はありますまい。しかし、それと同時に、あの男が、自分がいなくなっても世界はうまくやって行けると考えたとはどうしても想像できないのです」
「なるほど」とポワロ。「それもひとつの観点ですな」そう言って、彼は、青年の率直そうな、知性のある顔を、値ぶみするようにじっとみつめた。
リドル少佐がせき払いをした。
「せっかくここへやってきたのだから、こっちへ坐って、二、三質問に答えてくれたまえ」
「かしこまりました」
レイクは、二人のま向いの椅子に腰をおろした。
「君がジャーヴァス卿を最後に見たのはいつかね?」
「今日の午後、三時ちょっと前です。帳尻の照合があり、農場のひとつの新規の借り主のことで問題があったのでやって来たんです」
「どのくらい彼と一緒にいたのかね?」
「多分三十分くらいですね」
「よく思い出してくれたまえよ。彼の態度にいつもと違った点があったかどうか、なにか気がつかなかったかね?」
青年はじっと考えこんだ。
「いえ、そんな点はなかったと思います、彼はちょっと興奮していました――しかし、そんなことは、彼にとって、少しも珍らしいことではなかったのです」
「なにか意気消沈しているようなところはなかったかね?」
「いいえ、彼はとてもご機嫌がよかったようでした。彼は、いま、自分の家の歴史を書いているので楽しくて楽しくって仕方のないところだったのです」
「その仕事を彼はどのくらい前からやっていたのかね」
「六カ月前から始めました」
「その時、ミス・リンガードがここへやってきたのかね?」
「いいえ、違います。彼自身ではどうしても必要な資料を揃えることができないとわかったので、二カ月ほど前に来てもらったのです」
「で、君は、彼がその仕事で楽しんでいたと思うんだね?」
「ええ、非常に楽しんでましたよ。実際、彼は、自分の家族を除いたら、この世界になんのできごともありはしないと考えているんですからね」
一瞬、青年の語調が強くなった。
「じゃあ、君の知っている範囲では、ジャーヴァス卿には、なにも思いわずらうことはなかった、というのだね?」
ちょっとした間《ま》――本当に、ほんのちょっとした間をおいてから、レイク大尉は答えた。
「ありません」
急にポワロが口をはさんで聞いた。
「ジャーヴァス卿は、お嬢さんのことでは、なにも悩んでいなかったとお思いなのですね?」
「お嬢さんのこと?」
「そうです」
「わたしの知っている限りではありません」青年は強く言いきった。
ポワロはもうなにも言わなかった。リドル少佐が言った。
「いや、ありがとう、レイク君。なにかまた聞きたいことが出てくるかもしれないから、近くにいてくれたまえ」
「かしこまりました」彼は立ち上った。「なにか、わたしでできることがありますか?」
「そうだね、執事をここへよこしてくれたまえ。それから、シュヴェニクス・ゴア夫人の様子を見てくれないか。聞きたいことがあるのだが質問ができるかどうか、それともまだとり乱してだめかどうか知りたいんだ」
青年はうなずくと、確固たる足どりで足早やに部屋を出て行った。
「魅力的な性格の持ち主ですね」とエルキュール・ポワロ。
「ええ、いい奴ですよ。仕事もよくやりますしね。みんなに好かれています」
第五章
「椅子にかけたまえ、スネル君」リドル少佐は友だちに話しかけるような口調で言った。「君に聞きたいことがたくさんあるんだ。こんどのことは君にとってはずいぶんのショックだったろうね」
「はい、まったくでございます。では、お言葉に甘えまして」とスネルは腰をおろしたが、控えめな態度を少しもくずさないので、まるで立つたままでいるのと同じようなものであった。
「ここには相当前からいるんだろう?」
「はい、十六年前からでございます。ジャーヴァス様がつまり、その腰を落ち着けられてからずっと、というわけでございまして」
「ああ、なるほどね。彼は、その昔、旅がひどく好きだったんだっけね」
「はい。南極探検や、その他いろいろと面白い場所へいらっしゃいました」
「ところで、スネル君、今夜、君が君の主人を最後に見た時のことを話してもらえないかね?」
「わたくしは食堂におりまして、食卓の用意がすっかりととのっているかどうか点検していたのでございます。その時、広間へのドアが開いておりまして、ジャーヴァス様が階段をおりてこられ、広間を横切って、書斎に通ずる廊下へ入って行かれるのをお見かけしたのでございます」
「それは何時ごろだったね?」
「八時ちょっと前でございました。八時五分前ごろでしたのでしょう」
「で、それが彼を見かけた最後の時なのだね?」
「はい」
「君はピストルの音を聞いたかね?」
「はい、聞きました。しかし、もちろん、その時には、ピストルの音だなどとは思いませんでした――わかるわけがございませんでしょう?」
「なんだと思ったかね?」
「車の音だと思いました。塀のすぐ外に道路が通っておりますのでね。でなければ、林の中で誰か――密猟者かなにかが射った銃の音かもしれないと思ったのでございます。まさか、あれが――」
リドル少佐が執事の長話をさえぎった。
「それは何時ごろのことだったかね?」
「きっちり八時八分すぎでございました」
警察署長は鋭く言った。
「どうして、そんなに分まではっきりわかっているのかね?」
「それはなんでもないことなのでございます。ちょうど、わたくしが最初のドラを打つた時のことでしたから」
「最初のドラ?」
「はい。ジャーヴァス様のおいいつけで、いつも正式の食事のドラの七分前にドラを打つことになっておりましたのです。旦那様は、二度めのドラが鳴った時にはどなたも客間に集っていなければならないとやかましく仰言っておいででした。わたくしは、二度めのドラを打ち終えるとすぐに、客間に行って、食事の用意ができたことをおしらせするのでございます」
「わたしにもわかりかけてきましたよ」とエルキュール・ポワロが言った。「今夜、君が食事をしらせに来た時、なぜあんなにびっくりしたかがね。普通だったら、ジャーヴァス卿は客間にいなければならないはずだったのですね?」
「いままでに、旦那様がいらっしゃらなかったことは一度もなかったのでこざいます。わたくしはびっくりいたしました。しかし、まさか――」
再び、リドル少佐が巧みに執事の話の腰を折った。
「で、他の人たちもいつもそこにいたのだね?」
スネルは咳払いをした。
「どなたでも、晩餐に遅れられた方は、二度とお招きにはなりませんでした」
「フーン、ずいぶんきびしいんだね」
「ジャーヴァス様は、もとモラヴィア皇帝のところにいた料理長をお雇いでした。旦那様は、いつも、晩餐は宗教の儀式のように重大なものだと仰言っておいでだったのです」
「で、家族の人たちはどうだったね?」
「奥様は、いつも、旦那様にさからうまいととても気を使っておいででした。ルスお嬢様だって晩餐に遅れられたことはございません」
「それは面白い」エルキュール・ポワロが呟いた。
「なるほど」とリドル少佐。「すると、食事が八時十五分に出されるので、君は、いつも、八時八分すぎに最初のドラを打つことになっていたのだね?」
「さようでございます――しかし、いつもそうだったわけではございません。いつもですと、晩餐は八時ということになっております。しかし、今夜はお招きしてあるお客様の列車が遅れたので、晩餐を十分遅らすようにというジャーヴァス様のおいいつけがあったのでございます」
そう話しながら、スネルはポワロに向って軽く目礼した
「君のご主人が書斎へ入って行った時、彼はなにかとり乱していたり、イライラしたりしていなかったかね?」
「それはわたくしにはなんとも申しかねます。相当距離がございますので、わたくしのところからでは旦那様のお顔色まではわかりませんでした。旦那様をお見かけした、ただそれだけでございます」
「書斎へ入って行った時、彼は一人だったかね?」
「はい」
「その後、書斎へ入った者があったかね?」
「それもわたくしにはわかりかねます。わたくしは、その後、食器室に入り、八時八分すぎに最初のドラを打ちますまで、そこにおりましたからでございます」
「それは君がピストルの音を聞いた時間だね?」
「はい」
ポワロが静かに口をはさんで聞いた。
「他にも、そのピストルの音を聞いた人がいたはずですね?」
「はい。ユーゴ様にカードウェル様。それからリンガード様もお聞きになりました」
「その人たちも、やはり、広間にいたのですか?」
「リンガード様は客間を出てこられたところで、カードウェル様とユーゴ様はちょうど階段をおりていらしったところでした」
ポワロは聞いた。
「そのことについて、なにか話し合いましたか?」
「はい、ユーゴ様は晩餐にシャンパンが出るのかとお聞きになりました。わたくしは、シェリーにホック〔ドイツ産の白ワイン〕、それにバーガンディをお出しすると申し上げました」
「彼はシャンパンの栓を抜く音だと思ったのですね?」
「はい」
「しかし、誰もその音を重大視しなかったのでしょう?」
「はい、さようでございます。みなさま、笑いながら客間へお入りでした」
「他の人たちはどこにいたのです?」
「わたくしにはわかりません」
リドル少佐が言った。
「このピストルのことをなにか知っているかね?」そう言いながら、彼はピストルを手にとった。
「はい、存じております。ジャーヴァス様のものでございます。旦那様はそれをこの部屋の机のひき出しに入れておいででした」
「いつも弾丸《たま》はこめたままかね?」
「わたくしにはわかりかねますでございます。はい」
リドル少佐はピストルをおいて咳払いした。
「さて、スネル君、重要な質問があるんだ。できるだけ忠実に答えてくれたまえよ。なにか君のご主人が自殺するような動機を、君は知っていたかね?」
「いいえ。わたくしはなにも存じません」
「ちかごろ、ジャーヴァス卿の態度におかしなところはなかったかね? ふさいでいたとか、いらいらしていたとか?」
スネルはばつが悪そうに咳払いした。
「これはわたくしなどの口にすることではございませんが、ジャーヴァス様をよくお知りにならぬ方は、旦那様が非常におかしなことをなさる方のように思っておいでだったことでございましよう。旦那様は非常に人と変ったところのある方でございました」
「そうそう、それは僕も承知しているよ」
「外部の人には、ジャーヴァス様はおわかりならないのです」スネルは声を強めて力説した。
「わかってる、わかってる。だが、君が見ても異常だと思えるようなことはなかったのかね?」
執事は返事をためらった。
「わたくしの拝見しましたところ、ジャーヴァス様はなにごとかを気にかけておいででした」彼は遂にそう答えた。
「気にしていたのかね、気を落していたのかね?」
「気を落しておられたのではございません。しかし、なにかを気にかけておいででした」
「その原因をなにか思い当らないかね?」
「なにも思い当りませんです」
「例えば、誰か特定の人間に関連したことだったとかなにか?」
「まったくなにもわかりません。なんにいたしましても、それはわたくしがそう感じたというだけでございますから」
ポワロが再び口を開いた。
「君はご主人が自殺されたのを知って驚きましたか?」
「とても驚きました。わたくしにとりましてひどいショックでございました。こんなことになろうとは夢にも思っておりませんでした」
ポワロはゆっくりとうなずいた。
リドルはポワロに眼を走らせ、やがて言った。
「さて、スネル君、わたしたちの聞きたいことは、これで全部だ。君のほうで話すことはもうないんだね――例えば、ここ数日間のうちでいつもと違ったできごとがあったとかいうことはないんだね?」
執事は立ち上りながら頭をふった。
「なにも――まったくなにもございません」
「じゃあ、行ってよろしい」
「有難うございます」
戸口のところまで行って、スネルは立ちどまり、わきへ身をよけた。シュヴェニクス・ゴア夫人がよろよろと部屋へ入って来たからだった。
彼女は、紫色とオレンジ色の絹の服をぴったりと身にまとっていた。その顔には一点のくもりもなく、落ち着いた静かな態度だった。
「これは奥さん」リドル少佐はスックと立ち上った。
夫人は言った。
「なにか、わたしとお話しなさりたいとか仰言っておられると聞きましたので、やって参りました」
「よその部屋へ参りましょうか? この部屋にいると悲しみが増しておいやなのではありませんか?」
シュヴェニクス・ゴア夫人は首をふると、チッペンテール風の椅子に腰をおろした。そして呟くように言った。
「いえいえ、なんてこともありませんわ」
「あまり感情的になられずにすんでよろしゅうございましたね。いやまったく、この事件があなたにとってショックだったのはよくわかりますし――」
夫人が少佐の言葉をさえぎった。
「最初はショックを受けました」と彼女は少佐の言葉を是認した。気楽な、愛想のいい話し方だった。「しかし、本当は『死』などというようなものはないのです。ただ『変形』するだけです」夫人はなおもつけ加えた。「事実、ジャーヴァスはいま、あなたの左うしろに立っています。わたしにはあの人の姿がはっきりと見えます」
リドル少佐の左肩がビクッと動いた。彼は疑わしげに夫人をみつめた。
彼女は微《かす》かに幸福そうな笑みを浮かべた。
「もちろん、あなたはお信じにならないでしょう! あまり信じる人はありません。わたしには、霊界は現世とまったく同じように実在しているのです。わたしになにをお尋ね下さっても結構です。わたしが気を落しているのではないかなどとお気になさらないで下さい。わたしはまったく気を落してなどおりません。なにもかも運命なのです。人間は誰も自からの宿命を逃れることはできません。鏡が――すべてを現わしています」
「鏡がですか、奥様?」ポワロが聞いた。
彼女はぼんやりとうなずいた。
「そうです。鏡がくだけましたね。あれは象徴です! あなたはテニスンの詩をご存知ですか? わたしは娘時代によく読んだものでした――もちろん、そのころはその詩に含まれた深い意味などはわかりませんでしたけれど。『鏡がピシリと横に割れ、≪ああ、わが身|呪《のろ》われし≫と、シャロット夫人はいたく叫びぬ』――それが、ジャーヴァスの身に起こったのです。突然、呪いが襲ったのです。あなたがたも、古い家柄の家族に呪いがつきまとっているのはご存知ですわね……鏡が割れました。呪いがやってきたのです!」
「しかし、奥様、鏡をくだいたのは呪いなんかではありません――ピストルの弾丸ですよ!」
シュヴェニクス・ゴア夫人は、依然として甘ったるい態度をくずさずに言った。
「結局、それは同じことですわ――宿命なのです」
「しかし、ご主人は自分で自分をお射ちになったのですよ」
夫人はやさしく微笑《ほほえ》んだ。
「もちろん、あの人はそのようなことをすべきではありませんでした。ですけれど、ジャーヴァスはなにごとにもせっかちだったのです。待ちきれなかったのでしょう。彼の定めの時がやって来ました――彼はそれを進んで出迎えたのでしょう。ただ、それだけのことなんですの」
リドル少佐はいらだって咳払いをし、鋭い口調で言った。
「すると、ご主人が自殺なさっても、あなたはびっくりなさらなかったのですね? こういったことが起こるかもしれないと予期していらしったのですか?」
「いえ、違いますわ」夫人は眼を見ひらいた。「未来は見通せるものではございません。もちろん、ジャーヴァスは変った人でした。世の常の人とは違ったところがありました。他の誰とも違っていました。あの人は偉人の生まれ変りだったのです。ある時、わたしはそれをしりました。あの人は自分でも知っていたと思います。あの人は日常生活の馬鹿げた規範に従うことはどうしてもできませんでした」夫人はリドル少佐の肩ごしに遠くをみつめながら、言葉を続けた。「あの人、笑ってますわ。わたしたちがなんて馬鹿なんだろうと思っているのですわ。本当にそうですわね。まるで子供みたい。人の世というものが現実で、それが重大なことだなんて考えて――人の世なんてものは、大きな幻想のひとつにすぎないのですわ」
まるで負け戦《いくさ》を進めているような気がして、リドル少佐はやけになって言った。
「では、ご主人がご自分の命をちぢめられた理由については、なにも話していただけないわけですか?」
彼女は痩せた肩をすぼめた。
「どうすることもできない大きな力にわたしたちは動かされています――その力がわたしたちを動かしているのです――あなたにはわかっていただけませんね。あなたは、物質面においてのみ活動していらっしゃるのですから」
ポワロが咳をした。
「では、物質面のことをとりあげまして、奥様、ご主人がお金をどのようにお残しになったか、なにかお考えはございませんか?」
「お金ですって?」彼女はポワロをみつめた。
「わたし、お金のことなど考えたことございません」
さげすむような口調だった。
ポワロは質問の矛先《ほこさき》をきりかえた。
「今夜、奥様は何時ごろ、晩餐におりておいででしたか?」
「時の問題ですか? 時とはなんでしょう? 時とは無限なるもの――それが答えですね。時は無限です」
ポワロは咳くように言った。
「しかし、奥様、あなたのご主人は時間にはとてもうるさかった――晩餐の時間に関しては特にそうだったとうかがっていますが」
「ああ、ジャーヴァス」夫人は寛大な笑みを浮かべた。「あの人は、その点では馬鹿みたいでした。でも、それで、あの人は幸福だったのです。ですから、わたしたちは遅れないようにしていました」
「最初のドラが鳴った時、奥様は客間にいらしったのですか?」
「いいえ、自分の部屋にいました」
「奥様がおりていらしった時、客間に誰と誰がいたのか、覚えておいでですか?」
「ほとんどみなさんいらしったように思います」シュヴェニクス・ゴア夫人は漠然と答えた。「それがどうかいたしまして」
「いえ、なんでもございません」とポワロ。「では、他のことをうかがいます。ご主人は、なにか盗難にあったらしいというようなことをお話しになりませんでしたか?」
シュヴェニクス・ゴア夫人は、その質問にあまり興味を持たなかったようだった。
「盗難ですって? いいえ、そんなことなかったと思います」
「盗難なり詐欺《さぎ》なり――なにかの形でペテンにひっかかったというような?」
「ありません――ありませんわ――わたし、そんなこと聞いたことないと思いますわ――もし誰かがそんなことをしようものなら、ジャーヴァスはまっ赤になって怒ったはずですわ」
「なんにしても、ご主人はそのようなことに関してはなにも仰言らなかったのですね?」
「ええ――なにも言いませんでした」シュヴェニクス・ゴア夫人は、相変らずなんの興味も見せず、首をふった。「もしそうだったら覚えているはずです……」
「あなたがご主人の生きていらっしゃるのを最後にごらんになったのはいつです?」
「あの人は、いつものように、晩餐におりる途中で、わたしの部屋をのぞきこみました。わたしの部屋には女中がいました。あの人は、ただ、階下へ行くよと言っただけでした」
「ここ数週聞、ご主人はなんのことについて一番よくお話しでしたか?」
「ああ、シュヴェニクス・ゴア家の歴史のことですわ。非常に順調にいっているようでした。主人は、ミス・リンガードが非常に有能だと言っていました。彼女は大英図書館やなにかで、彼のために調べものをしていたのです。マルカスター侯が本をお書きになった時、手伝った人ですわ。とても機転のきく人です。――つまり、決していやなことをほじくり出したりしないのです。なにしろ、どこの家にだって、あまりくわしく詮議立てしたくない祖先だっているわけですからね。ジャーヴァスはとてもそういうことをいやがる人でした。また、彼女はわたしのことも助けてくれましたわ。ハッシュプストのことを調べてくれたのです。ご存じのように、わたしはエジプトの女王ハッシュプストの生まれ変りなのです」
シュヴェニクス・ゴア夫人は重大宣言をするように落ち着きはらった声で言った。
「その前は」と夫人は言葉を続けて、「アトランティス大陸の尼僧でした」
リドル少佐が椅子に坐ったまま、モゾモゾと身動きした。
「なるほど――その――いや、興味深いお話ですな。さて、奥さん、お尋ねすることはこれぐらいです。どうも有難うございました」
シュヴェニクス・ゴア夫人は絹ずれの音をさせて立ち上った。
「お休みなさい」そう言うと、彼女はリドル少佐の背後のあたりに眼を向けた。「お休みなさい、ジャーヴァス。一緒に来ていただきたいのですけど、あなたはここにとどまっていらっしゃらなければいけないのでしょ」それから、説明するように言葉を加えた。「あなたはお亡くなりになった場所に少くとも二十四時間はとどまっていなければいけないのね。もうしばらくしないと、あなたは自由に動きまわったり、話したりできないのね」
そして、夫人は部屋から出て行った。
リドル少佐は眉をしかめて呟いた。
「やれやれ、彼女は、考えていたよりずっと気が変だな。あんな馬鹿なことを、本当に信じているのでしょうかね?」
ポワロは考え深げに首をふった。
「ああいうふうに考えていれば、気持が楽ですからね。なにしろ、いまのところ、彼女には幻想の世界を作り上げることが大いに必要なのですよ。そうすれば、ご亭主の死という悲惨な現実を直視しないですみますからね」
「わたしには、精神病院に入る資格のある女性のように思えましたがな」とリドル少佐。「いろいろ、たわいのないことばかりくだくだ並べて、ひとつも本当のことを言わないのですからね」
「いや、そうでもありませんよ。面白いことに、ユーゴ・トレント氏がうっかり口をすべらして言った通り、あの一見わけのわからないごたくにまじって、時々辛らつな言葉が出ましたからね。彼女がリンガード夫人は機転がきくので、あまり好ましくない祖先のことは強調せずにおくと言った時の様子を想像してごらんなさい。なにしろ、シュヴェニクス・ゴア夫人は馬鹿じゃありませんよ」
彼は立ち上ると、部屋の中を行ったり来たりしはじめた。
「この事件にはどうもわたしの気に入らないところがある。いや、まったく気に入りませんな」
リドルは奇妙な眼をしてポワロを見た。
「すると、彼の自殺の動機のことを仰言っているのですか?」
「自殺――自殺ね! わたしがそれが大間違いだと申し上げたいのです。心理的に見て間違っています。いったい、シュヴェニクス・ゴアは自分のことをなんだと考えていたでしようか? 偉人、非常に重要な人物、宇宙の中心――自分のことをこんなふうに考えている人物が自殺などするでしょうか? 明らかにノーです。それよりも、彼は、他の人間――みじめったらしく蟻のようにはいまわり、彼に、嫌悪の念をひき起こさせるような人間――そんな人間を消すといった手段をとりそうな男です。そういった行為を、彼だったら、必要行為と呼ぶかもしれません。しかし、自殺するとは?――そのような自我を滅ぼすとはね?」
「よくわかりましたよ、ポワロさん。しかし、証拠は極めて明白ですな。ドアには鍵がかかっていて、その鍵は彼自身のポケットにあった。窓もしまって、ボルトがおりている。わたしは、こんなふうなことが、小説の中で起こることは知っています――しかし、まだ現実に出くわしたことはありませんよ。他になにか?」
「あります、あるのです」ポワロは椅子に坐った。「いいですか、わたしがシュヴェニクス・ゴアだとしましょう。わたしは机に向って坐っています。わたしは自殺をする決意を固めました――というのは、そうですね、家族の名誉をいちじるしく汚すような不祥事があることがわかったためです。人を信服させるに足る動機じゃありませんが、これで一応満足しておきましょう。
さて、わたしはどうするでしょうか? 紙の上に『すまぬ』と書きます。そうです、それは有り得ることです。それから机のひき出しを開けて、そこへしまってあるピストルを出し、弾丸が入っていなかったら、弾丸をこめる。そして――こめかみにピストルをあてて射つ――? いや、その前に椅子をまわさなければいけませんね! そして、身体をちょっと右にかたむけ――そして――そして、ピストルをこめかみに当ててひき金をひく!」
ポワロは椅子からとび上り、椅子をぐるりとまわして聞いた。
「一体、こんなことがあるでしょうか? なぜ椅子をまわしたのでしょう? 例えば、壁に絵でもかかっていたというのなら、それで説明がつくかもしれません。死ぬ間際に見ておきたいと思った肖像画でもかかっていたのなら、わけはわかります。しかし、そこは窓のカーテンでした――ああ、だめです、意味をなしません」
「彼は窓の外を見たいと思ったのかもしれませんよ。自分の地所でも最後に一目見たかったんじゃありませんかね」
「そうは仰言いますが、確信はお持ちじゃありませんね。実際、そんなことが馬鹿げているのは、よくおわかりでしょう。八時八分すぎといったら、外はもうまっくらですよ。それに窓のカーテンもしまっていました。だめです。他になにかわけがなければなりません――」
「あったにしても、わたしに見当がつくのはたったひとつですな。ジャーヴァス・シュヴェニクス・ゴアは気狂いだった」
ポワロは不満足そうに首をふった。
リドル少佐が立ち上った。
「さあ、それじゃあ、他の連中に会ってみましょう。そうすればなにかわかるかもしれませんよ」
第六章
シュヴェニクス・ゴア夫人からまともな答えを引きずり出そうと苦労した後だったので、リドル少佐はフォーブス氏のような機敏な弁護士を相手に迎え、少なからぬ安心感を抱いた。
フォーブス氏は非常に慎重な答え方をしたが、彼の返答はみな核心をついていた。
彼は、ジャーヴァス卿の自殺は非常なショックであったことを認めた。ジャーヴァス卿は決して自分で自分の命をちぢめるような性格の男ではなかったというのだった。彼は、自殺の原因になるようなことはなにも知らなかった。
「ジャーヴァス卿はわたしの依頼人であったばかりでなく、昔からの友達でもありました。わたしは彼を子供の時からよく知っているんです。彼が人生というものをたのしんでいたのは確かなことですからね」
「このような場合には、卒直にお答え願わなければなりませんな。あんたはジャーヴァス卿の生活になにかないしょの心配ごとや、悲しみがあったようにはお思いになりませんか?」
「そんなことがあったとは思えませんね、そりゃ、彼にだって他の男性と同じように、小さな悩みごとはありましたよ。しかし、それは大して重要なものではありませんでした」
「持病などはありませんでしたか? また、奥さんとの間のもめごとかなにかは?」
「ありませんでしたね。ジャーヴァス卿と奥さんとはお互いにとても愛し合っていましたからね」
リドル少佐は用心深く言った。
「シュヴェニクス・ゴア夫人はいっぷう変ったお考えをもっておいでになるのですがね」
フォーブス氏は微笑を浮かべた――寛大な、男らしい微笑だった。
「ご婦人方というものは、とかく勝手な空想をなさるものですよ」
警察署長は言葉を続けた。
「ジャーヴァス卿の法律問題はすべて、あなたがとり扱っておられたのでしょう?」
「ええ、わたしの事務所では、百年も前からシュヴェニクス・ゴア家の法律顧問をしておりました」
「で、シュヴェニクス・ゴア家には、何か――スキャンダルのようなものはありませんでしたか?」
フォーブス氏はキッと眉をあげた。
「どうも、あなたの仰言ることの意味がよくわかりませんな?」
「ポワロさん、ひとつ、例の手紙をフォーブスさんに見せてあげてくれませんか」
ポワロはだまって立ち上ると、フォーブス氏に手紙を渡して一礼した。
フォーブス氏がそれを読み終ると、彼の眉がなお一層あがった。
「これは変った手紙ですな。なるほど、やっと、あなたの質問の意味がわかりました。しかし、わたしの知っている範囲内では、このような手紙が書かれなければならない理由はなにもないのですが」
「ジァーヴァス卿はこういったふうなことをなにもお話しにはなりませんでしたか?」
「まったくなにも話しませんでしたね。本当なら一番先にわたしの所へ相談しに来なければならないのに、おかしいですね」
「彼はいつもあなたを信頼していたわけなんですね?」
「わたしの下す判断をとても頼りにしていたように思うのですがね」
「それなのに、あなたには、この手紙がなにを意味するか、おわかりにならないのですか?」
「わたしはあまり軽率な判断は下したくないのですよ」
リドル少佐は彼の巧妙な返事のしかたに舌をまいた。
「ところで、フォーブスさん、ジャーヴァス卿が財産をどのように分けることになっていたか、それはご存じでしょうな?」
「ええ、よく知っておりますよ。そういった問題なら、お話しても差支えはありますまい。ジャーヴァス卿は奥さんに不動産からあがる六千ポンドの年収と、この家なりローンズ区の家なり、好きなほうを選択する選択権を与えることにしていました。その他にこまごました遺贈分やかたみがありますが、それは大したものはありません。残余財産は、結婚した場合、その夫にシュヴェニクス・ゴアの名前をつがせるという条件で、養女のルスに残されています」
「甥のユーゴ・トレント氏には何も残されなかったのですか?」
「いえ、残されていますよ。五千ポンドの遺産です」
「するとジャーヴァス卿は金持だったんですね?」
「ええ、とても金持でしたね。普通の意味の財産のほかに隠し財産が相当にあります。しかし、昔ほどは順調にいっていません。あまり投資なさりすぎたんですよ。それに、ある会社の件で、ずいぶん損をなさいました。パラコン合成ゴム商会というのですが、バリイ大佐が彼に相当の金額の金を出資するようにと無理強いしたのですよ」
「取引状態が工合悪くなったのですね?」
フォーブス氏はため息をついた。
「退役軍人が会社経営に乗り出すと、大ていひどく失敗するもんでしてね。なにしろ、彼らの馬鹿正直さかげんといったら、それこそおかみさん連中よりひどいのですからね」
「しかし、そのくらいの投資に失敗したからといって、ジャーヴァス卿の収入に大した影響があるわけではないでしょう?」
「ええ、大したことありませんよ。なにしろ彼はとても金持ですからね」
「彼の遺言状ができたのはいつのことです?」
「二年前です」
ポワロは呟くように言った。
「そのとり決めは、ジャーヴァス卿の甥のユーゴ・トレント氏にとって、少しアンフェアなものではありませんかな。彼はジャーヴァス卿の一番近い血縁ではないのですか」
フォーブス氏は肩をすくめた。
「そこには、いろいろと家庭内のゴタゴタなどがありましてね」
「例えばどんな――?」
フォーブス氏はその先はあまり言いたくないらしかった。
リドル少佐が言った。
「われわれはいたずらに過去のスキャンダルや何かをかき集めたりしているわけではないのですよ。ジャーヴァス卿からポワロ氏へあてたこの手紙の謎をとかねばならないのですからね」
「ジャーヴァス卿が甥に対してなぜそんな態度に出たか、それにはなにもスキャンダルめいたものなどありません」フォーブス氏はあわてたように言った。
「それというのは、ジャーヴァス卿が家長の位置というものを常に重くみていたというだけのことなのです。彼には弟と妹がありました。弟のアンソニーは戦争で死にました。妹のパメラは結婚しましたが、ジャーヴァス卿はその結婚を大いに不満に思っていました。つまり、彼は、妹が結婚するなら、その前に、自分の所へ同意と承諾を求めに来るべきだったと考えたのですな。それに彼はトレント大尉の一家は、シュヴェニクス・ゴア家と縁組するには不適当な家柄だとも思っていました。その結果としてジャーヴァス卿は自分の甥をあまり心よく思わなくなったのです。わざわざ養女を迎えることにしたのも甥が嫌いだったせいなのだと思いますがね」
「自分の子のできる望みはなかったのでしょうね」
「ええ、ありませんでした。結婚後一年してから奥さんが死産したのです。その時医者に、もう子供のできる望みはないと言われました。そこで二年ほどたってから、彼はルスを養女に迎えたのです」
ポワロがきいた。
「それで、ルスお嬢さんとは、どのような方だったのですか? どうして彼女に白羽の矢がたったのです?」
「彼女は遠い親戚に当る、誰とか氏の子供だと聞いています」
「やはりそうでしたか」とポワロ。彼は家族の写真のかかっている壁を見上げた。「血筋は争えないものですね――お嬢さんの鼻だの顎の恰好は、壁にかかっている先祖の写真にそっくりじゃありませんか」
「彼女は気質までも受けついでいますよ」フォーブス氏は冷淡に言い放った。
「なるほど、あり得ることですね。ところで養父との間はうまくいっていたのですか?」
「あなたがお考えになるよりはずっとうまくいっていましたよ。一度ならず感情を激突させたことはありました。しかし、そんな風に喧嘩しながらも二人の間はなかなか緊密でした」
「それでも、ジャーヴァス卿にとって、彼女は心配の種だったのではありませんか?」
「そりゃあ、いつも心配の種でした。しかし、それがもとで彼が命をちぢめるようなたぐいのものではありませんでした」
「ああ、それはそうでしょうね」とポワロは同意した。「普通、じゃじゃ馬娘を持ったからといって、それを苦に病んで脳味噌を吹き飛ばすような人もありますまい。そこで、お嬢さんが遺産を受けることになるわけですか。ジャーヴァス卿は遺言状を書き変えるような気持はなかったのですかね?」
「エヘン!」フォーブス氏は自分が動揺したのを隠すように大きく咳ばらいをした。「実を申しますと、わたしは、遺言状を書き変えたいからと言われて二日前にここへやって来たのです」
「なんですって?」リドル少佐は思わず椅子を近づけた。「そのことはなにもお話しにならなかったじゃないですか」
フォーブス氏は早口に言った。
「あなたがお聞きになったのはジャーヴァス卿の遺言状がどんな内容のものかということだけだったじゃないですか。わたしは、聞かれたことだけにご返事したのです。それに新しい遺言状はまだ正式に発効してはいません――まだサインもすんではいないのです」
「内容はどうなのです? ジャーヴァス卿の精神状態を知る手がかりになるかも知れませんからね」
「大部分は元のままでした。しかし、ルスお嬢さんはユーゴ・トレント氏と結婚しない限り財産は受けられないことになったのです」
「ほう」とポワロが言った。「だがずいぶん思い切った変えかたですな」
「わたしはその条項は認可しませんでした」とフォーブス氏は言った。「そして、わたしは、その条項が遺言状の有効性に関しての論議の争点となる可能性が多分にあることを指摘しておく必要があると思いました。法廷ではそういうふうな条件つきの遺贈は認めませんからね。しかし、ジャーヴァス卿はすっかり心を決めておいででしてね」
「それで、もしルスお嬢さんが(もしくは偶然、トレントさんが)その条件に応ずるのがいやだと拒絶したらどういうことになります?」
「もしトレント氏がお嬢さんと結婚するのを嫌がったなら、その時は遺産は無条件でお嬢さんのものになります。しかし、もし彼が乗り気なのにお嬢さんが反対したのなら、その時は財産はトレント氏のほうへいくのです」
「それはまた変っていますね」とリドル少佐。
ポワロが身を乗り出して弁護士のひざをたたいた。
「しかし、その背後にあるものはなんです? その規定を作った時、ジャーヴァス卿はなにを考えていたのでしょう? なにかあるに違いありませんね――多分、別の男が現われたから――ジャーヴァス卿のもっと嫌いな男が――フォーブスさん、あなたにはそれが誰だかおわかりなんじゃありませんか?」
「いえ、ポワロさん、わたしにはわかりませんな」
「しかし、推察はつくのではありませんか?」
「わたしは推察などはいたしません」フォーブス氏は怒ったような声でいった。彼は鼻眼鏡をはずすと、絹のハンカチでふいて聞いた。
「ほかに何かお知りになりたいことがありますか?」
「いまのところはございません」とポワロはいった。「わたしのほうはね」
フォーブス氏は警察署長に視線を投げた。
「ありがとうございました、フォーブスさん。それだけだと思います。それから、時を見はからってお嬢さんとお話したいのですが」
「かしこまりました。彼女は奥さんと一緒に二階にいると思います」
「ああ、それから――なんと言いましたっけね、そうそう、バロウズさん――まず、あの人と、そのあとで、この家の歴史を書いていた女性にお会いしたいですね」
「二人とも書斎にいます。わたしが呼んできましょう」
第七章
「なかなか厄介ですね」フォーブス氏が部屋を出て行くと、リドル少佐が言った。「ああいった旧弊な法律屋からものを聞き出すのは並大抵の業じゃありませんよ。だが、どうも、この事件はあの娘をめぐってまき起こされたもののようですな」
「そうらしいですね」
「ああ、バロウズがやって来ましたよ」
なにかの役に立ちたいという熱心さをあらわにして、ゴドフレイ・バロウズが入ってきた。笑みを浮かべているのだが、憂わしげな表情のために中和されて、白い歯は見えなかった。その笑みは自然に浮かんだというよりは機械的に浮べかたもののようだった。
「さて、バロウズさん、少しあなたにお聞きしたいことがあるのです」
「わかりました。なんでもお聞き下さい」
「では、まず最初にお尋ねしますが、ジャーヴァス卿の自殺に関して、あなたにはなにかお考えがおありですか?」
「全然ありませんね。ずいぶんびっくりしましたよ」
「ピストルの音はお聞きになりましたか?」
「いいえ。いま考えてみますと、その時間にわたしは図書室にいたらしいんです。わたしは少し早めに階下におりてきて、ちょっと調べたいことがあったので図書室へ入りました。図書室は書斎と正反対のところにありますので、なにも聞こえませんでした」
「どなたか図書室にいらっしゃいましたか?」ポワロが聞いた。
「誰もいませんでした」
「その時、他の人たちがどこにいたか、おわかりですか?」
「大抵の人は二階で着替えの最中だったんじゃないですか」
「客間へ入っていらしったのは何時ごろです?」
「ポワロさんがお着きになるちょっと前です。もうみんな集っていました――もちろん、ジャーヴァス卿はいませんでしたけれど」
「彼がいないので、妙だな、とお思いになりましたか?」
「ええ、実のところ、そう思いました。いつもなら、彼は最初のドラが鳴る前から客間に入っているのですからね」
「最近、ジャーヴァス卿の態度になにか変った点があるのにお気づきにはなりませんでしたか? なにかを気にかけていたとか、がっかりしていたとか?」
ゴドフリイ・バロウズは考えこんだ。
「気がつきませんでしたね――なにも変ったところなどなかったように思います。そう、少し放心気味でしたかな」
「しかし、なにかひとつのことを特に気にやんでいるということはなかったのですね?」
「ええ」
「経済的な心配ごとはありませんでしたか?」
「ある会社――はっきり言うと、パラコン合成ゴム商会のことであわてているようなところはありましたけれど」
「そのことについて、彼はどんなふうに言っていましたか?」
再び、ゴドフレイ・バロウズの顔に機械的な笑みが浮かんだ。やはり、わざとらしい微笑だった。
「そうですね――彼はこんなふうに言っていました。『バリイの奴は馬鹿なのか悪人なのか、どっちかだな。きっと馬鹿なんだろう。ヴァンダのために、あまり彼に手きびしい態度はとれんな』とね」
「その『ヴァンダのために』とはどういうことなのですか?」とポワロが聞いた。
「ええ、シュヴェニクス・ゴア夫人はとてもバリイ大佐が好きだったのです。大佐のほうでも、奥さんに尽くしていました。奥さんの後を犬のように追っているのです」
「ジャーヴァス卿は全然――嫉妬しなかったのですか?」
「嫉妬ですって?」バロウズは大きく目をみはり、やがて笑い出した。「ジャーヴァス卿が嫉妬ですって? 彼はそんなこと考えたこともありませんよ。たとえ誰にせよ、彼より他の人間を好きになるなんて、彼にはまったく思いも及ばぬことだったでしょう。そんなことはあり得ないことだったのですよ」
ポワロが静かに言った。
「あなたは、あまりジャーヴァス卿を好いていらっしゃらなかったようですね?」
バロウズは顔を赤らめた。
「いえ、とんでもない、そんなことありませんよ。少なくとも――いや、はた目にはひどく馬鹿げたことだと思えたかもしれませんがね」
「とは、どういうことです?」ポワロは聞いた。
「そう、言うなれば封建的色彩の濃さですね。家系だの尊大な人間を崇拝することですよ。ジャーヴァス卿はとても有能な人で、興味ある生活を続けてきました。しかし、ああいうふうに自分のからの中にとじこもり、エゴイズムを発揮しなければもっとよかったのでしょうがね」
「娘さんもその点ではあなたの意見に同調しているのですか」
バロウズは再び顔を赤らめた――今度は紫色に近い顔色になっていた。
彼は言った。
「ルスお嬢さんは本当にモダーンな人です。ですから、お嬢さんとジャーヴァス卿のことを論じ合ったことなどありません」
「しかし、モダーンな娘というものはよく父親を議論の対象にするものですよ」とポワロ。
「近代的な連中はよく両親の非をつくものです」
バロウズは肩をすくめた。
リドル少佐が聞いた。
「で、他にはなにか――例えば経済的なごたごたのようなものはなかったですか? うまく一杯喰わされたなどとジャーヴァス卿が言ったりしたことはありませんか?」
「うまく一杯喰わされた、ですって?」バロウズはひどくびっくりしたような声を出した。「いえ、ありませんよ」
「あなた自身、彼とうまくやっていましたか?」
「もちろんですとも。うまくゆかないはずはないでしょう?」
「わたしのほうでお尋ねしてるのですよ」
青年は不機嫌そうな顔をした。
「われわれはとてもうまくやっていましたよ」
「ジャーヴァス卿がポワロさんに、ここへ来てくれるようにとの手紙を書いたことを、あなたはご存じでしたか」
「いいえ」
「ジャーヴァス卿はいつも自分で手紙を書いていたのですか?」
「違います。わたしに口述筆記させていました」
「しかし、この場合はそうしなかったのですね?」
「ええ」
「それはなぜだと思いますか?」
「わかりません」
「彼がこの特別な手紙に限って自分で書いたのはなぜか――思い当ることはありませんか?」
「ありませんね」
「ほう? それはおかしいですな。あなたがジャーヴァス卿を最後に見かけたのはいつでした?」
「晩餐のために着替えに行く前でした。彼のところへ、署名してもらわなくてはならない手紙を二、三通持って行ったのです」
「その時の彼の様子はどんなふうでした?」
「いつもと変りありませんでした。それどころか、なにかのことで喜んでいるように見えましたよ」
ポワロは椅子に坐ったままモジモジと身動きした。
「ほう? あなたはそんなふうに感じたのですね? なにかのことで喜んでいたと。それなのに、それから大して経たぬうちに、彼は自殺しましたね。おかしいですね!」
ゴドフレイ・バロウズは肩をすくめた。
「わたしは、ただ、自分の印象をお話ししたまでですよ」
「なるほど、なるほど。いや、これは大変重要なことですな。で、結局、ジャーヴァス卿の生前の姿を見た最後の人はどうもあなたということになりそうですね」
「彼を最後に見たのはスネルですよ」
「スネルは彼を見てはいますが、口はきいていません」
バロウズは答えなかった。
リドル少佐が言った。
「あなたが着替えに二階へ上ったのは何時ごろでした?」
「七時五分すぎごろでした」
「ジャーヴァス卿はどうしていました?」
「わたしは彼を書斎に残して出て来たのです」
「普通、彼は着替えるのにどのくらいかかりましたか?」
「たっぷり四十五分はかかっていましたね」
「とすると、晩餐は八時十五分なのですから、遅くとも彼は七時半には二階へ上ったはずですね?」
「そうなりますね」
「あなたは早めに着替えなさったのですか?」
「ええ、着替えをすませてから図書室に行って調べものをしようと思っていたのです」
ポワロがゆっくりとうなずいた。
リドル少佐が言った。
「さて、いまのところはこれくらいです。あの――ミスなんとかにこっちへ来てくれるように言ってもらえませんか?」
小柄なミス・リンガードはすぐにやって来た。何本かの鎖を身につけていて、椅子に腰をおろす時に、それがチリチリと鳴った。彼女はもの問いたげな眼で二人の男を交互に見くらべた。
「大変悲しいできごとですな、リンガードさん」とリドル少佐が口をきった。
「まったく悲しいことでございます」ミス・リンガードはていねいな口調で言った。
「あなたがこの家へいらっしゃったのは――いつです?」
「二カ月ほど前でございました。ジャーヴァス卿が、博物館にいるわたしの友だち――フォザリンゲイ大佐というんですが――にお手紙をお出しになり、フォザリンゲイ大佐がわたしを推薦して下さったのです。いろいろと歴史の調査のお仕事をさせていただいていました」
「ジャーヴァス卿は一緒に仕事のやりにくい人でしたか?」
「いえ、そんなことはございません。もちろん、あの方に調子を合わせなければならないといったところはありましたけれど。でも、男の人と一緒にやる時はいつだってそうじゃございませんかしら」
この瞬間にも、ミス・リンガードは自分に調子を合わせているのかと落ち着かぬ思いを抱きながら、リドル少佐は言葉を続けた。
「この家でのあなたの仕事は、ジャーヴァス卿の本を書く手伝いでしたね?」
「はい」
「それはどのような仕事だったのですか?」
一瞬、ミス・リンガードは非常な人間らしい態度を示した。彼女は眼を光らせながら答えて言った。
「ええ、つまり、本を書く仕事でした! いろいろと調べてノートをとり、それをまとめます。そして、後で、ジャーヴァス卿がお書きになったものを訂正したりするのです」
「なにかと機転がいったでしょうね」とポワロが言った。
「機転もいりましたけれど、はっきりさせるところははっきりさせませんとね。機転と確固たる態度、これは両方とも必要欠くべからざることですわ」
「ジャーヴァス卿は怒ったりしませんでしたか――あなたの確固たる態度を」
「ええ、そんなことありませんでした。もちろん、彼にこまごましたことで気をもませたりはしないようにしていましたけれど」
「なるほど、そうですか」
「非常に簡単なことでしたわ。扱いようさえ心得ていれば、ジャーヴァス卿はとても扱いやすい方でした」
「ところで、リンガードさん、あなたは、この悲劇に光明を投げかけるようなことをなにかご存じじゃありませんでしょうか?」
ミス・リンガードは首をふった。
「どうも、なにもお役に立てそうにもありませんわ。あの方は大してわたしに気をゆるしたりなさいませんでしたからね。なにしろ、わたしは赤の他人だったのですから。どんなことが起こったにせよ、あの方はとてもプライドが高くて、自分の家のもめごとを他人にしゃべったりはなさらないと思いますわ」
「しかし、あなたは、彼の自殺した原因が家庭内のごたごただと思っているのですね?」
ミス・リンガードは少なからずびっくりしたようだった。
「そりゃそうでございましょう! 他になにか考えられますの?」
「あなたは、彼を悩ましていた家庭内のごたごたがあったと考えているのですね?」
「精神的にとても悩んでいらしったのは、わたしも存じておりますもの」
「ほう、あなたがご存じだった?」
「ええ、もちろんですわ」
「じゃあ、彼はそのことをなにか、あなたに話しましたか?」
「はっきりとは仰言いませんでしたけど」
「どんなことを言いました?」
「そうですね。わたしの申し上げていることも耳に入らないようなご様子なので――」
「ちょっと待って下さい。それはいつのことでした?」
「今日の午後でした。いつものように三時から五時までご一緒に仕事をしたのです」
「どうぞ続けて下さい」
「いまも申し上げましたように、ジャーヴァス卿は仕事に心を打ちこめないご様子でした――事実、あの方は、二、三の重要な問題が心にわだかまっているのだと仰言いました。そして、あの方は――ええと――こんなふうに仰言いました――(もちろん、この言葉通りにではありませんけれど)『リンガードさん、この土地随一の家柄になっているというのに、こんな不名誉なことが起こるとは、まったく恐しいことだよ』こんなふうに仰言ったのです」
「それで、あなたはなんと言いました?」
「ただ、ちょっとおなぐさめしただけでした。わたし、どこの家にだって一人くらいは弱い人がいます――それは大家につきものの悩みです――でも、そういった失敗は子孫の連中はめったに覚えていないものです、というようなことを申し上げました」
「で、その慰めの言葉は効果がありましたか?」
「まあまあでしたわ。わたしたちはロージャー・シュヴェニクス・ゴアの問題に戻りました。わたし、当時の記録からその人に関する興味ある事実を発見したのです。でも、ジャーヴァス卿の注意力はまた散漫になりました。そして、とうとう、今日は仕事はこれでやめだと仰言いました。いやなことを耳にしたのでね、と仰言るのです」
「いやなことを?」
「そう仰言いました。もちろん、わたし、それ以上はお尋ねしませんでした。ただ、『それはまあ、とんだことで』と申し上げただけでした。すると、あの方は、ポワロさんがお出でになるから晩餐を八時十五分までのばし、七時五十分着の汽車に間に合うように車を迎えに出すよう、スネルに伝えてくれと仰言いました」
「そういった手配は、いつもあなたに頼むのですか?」
「いえ、それは、本来なら、バロウズさんのお仕事でした。わたしは本を書くお手伝い以外のことはいたしません。なんにしても、わたしは秘書ではございませんのですからね」
ポワロが聞いた。
「ジャーヴァス卿がそういった手配をバロウズさんに頼むかわりに、あなたに頼んだのには、なにかはっきりした理由があったとお思いですか?」
ミス・リンガードは考えこんだ。
「そうですね、あったのかもしれません――わたし、その時にはなんとも思いませんでした。ただ、わたしがその場にいたから、わたしにお頼みになったのだろうと考えただけでした。でも、いまになって考えてみますと、ポワロさんがいらっしゃることは誰にも言わないようにと仰言っておいででしたから、なにかそのようなことがあったのかもしれません。あの方は、人をびっくりさせるのだと仰言っておいででしたが」
「ほう! 彼はそんなことを言ったのですか。こりゃあ面白い。で、あなたは誰かにしゃべりましたか?」
「もちろん、しゃべりはいたしませんよ、ポワロさん。スネルに、晩餐のことと、七時五十分の汽車でお客様がお着きになるから車をさし向けるようにと言っただけです」
「なにか、この状況を打破するたしになるようなことを、ジャーヴァス卿は言いませんでしたか?」
ミス・リンガードは考えにふけった。
「いいえ――仰言らなかったと思います――あの方はなにか思いつめておいででした――わたしが部屋を出ます時、こう仰言っていたのを覚えています。『いま彼が来てくれたところで、どうにもならん。遅すぎる』」
「その言葉がどんな意味を持っているのか、なんのお考えもありませんか?」
「え――ええ」
ミス・リンガードがごく簡単な否定の答をためらったのに軽い疑惑を抱きながら、ポワロはその言葉をくり返した。
「『遅すぎる』ですか。彼はそう言ったのですか?『遅すぎる』とね」
リドル少佐が言った。
「ジャーヴァス卿を悩ませていたのがどのようなことなのか、あなたにはおわかりになりませんか?」
ミス・リンガードはゆっくりと言った。
「ユーゴ・トレントさんになにか関係があるんじゃないかと思いますけど」
「ユーゴ・トレントと? なぜそうお思いになるのです?」
「別にはっきりした理由はないんですけれど、昨日の午後、ユーゴ・ド・シュヴェニクス・ゴア卿(バラ戦争の時、不名誉な行いをなさった方なのですが)のお名前が出た時、ジャーヴァス様はこう仰言ったのです。『わしの妹は、生れてきた子供にユーゴという名をつけおった。わが家ではユーゴと名のつくやつにロクな奴はおらん。ユーゴという名をつけたりしたらよい人間に育たんということは、妹も肝《きも》に銘じておかにゃならんことだったのだ』と」
「あなたの仰言ったことは非常に意味深いですね」とポワロ。「そう、あなたのお話をうかがって、わたしにはまた新しい考えが浮かびそうですよ」
「ジャーヴァス卿はそれ以上はっきりしたことは言いませんでしたか?」とリドル少佐が聞いた。
ミス・リンガードは首をふった。
「ええ。それに、いま申し上げたことだって、わたしに話されたんじゃありませんのよ。ただのひとりごとだったのです。わたしに話しかけられたのではないのです」
「そりゃそうでしょう」
ポワロは言った。
「リンガードさん、あなたは第三者として、二カ月間、この家にいらっしゃいましたね。その間にあなたがごらんになったこの家の家族の人たちやこの家の状態について、あなたの印象を話していただけると、大変参考になると思うのですが」
ミス・リンガードは鼻眼鏡をはずして、眼をしばたたいた。
「そうですね、最初のうちは、率直なところ、まるでまっすぐ気狂い病院へ足をふみ入れたような気がしました! 奥様はいつも見えないものが見える見えると仰言ってますし、ジャーヴァス卿は、まるで――王様のように大げさなふるまいをなさるのです。それで、わたし、いままでにお眼にかかったこともない奇妙な人たちだと思いました。もちろん、お嬢さんは完全にノーマルな方でした。それに、奥さんが本当はやさしくて親切な人だということもじきにわかりました。いままでに、奥様ほど、わたしにやさしく親切にして下さった方はございません。ジャーヴァス卿は――――わたし、あの方は気が狂っているのではないかと思いますの。あの方の病的な自負心は日に日に度が強くなってゆくのです」
「で、他の人たちは?」
「バロウズさんはジャーヴァス卿にずいぶん手を焼いておいでのようでした。あの人は、わたしたちが本の仕事をしている間は息が抜けるので、それを喜んでいたようでした。バリイ大佐は素敵な人です。彼は奥さんを敬愛していて、ジャーヴァス卿のことも、とてもうまく操縦していました。トレントさん、フォーブスさん、それにカードウェルさんは、数日前からいらしった人たちなので、あまりよく知りません」
「有難うございました、リンガードさん。で、管理人のレイク大尉はどうです?」
「ああ、あの人はとてもいい人ですわ。誰にも好かれています」
「ジャーヴァス卿にもですか?」
「ええ、そうですわ。あの方は、レイクさんはいままでの管理人の中で一番いいと仰言っているのを聞いたことがあります。もちろん、レイク大尉もジャーヴァス卿にはてこずっていました。でも、結構うまくやっているようでした。並大抵のことじゃありませんわ」
ポワロはゆっくりとうなずいて、呟くように言った。
「あなたに、その――ちょっとうかがいたいことがあるのですが――どうも出てきません――ううん、なんでしたっけかな?」
ミス・リンガードは彼のほうを向いて辛抱強く待った。
ポワロは当惑したように頭をふった。
「チェッ! もう舌の先まで出かかっているのですがね」
リドル少佐は一、二分待っていたが、ポワロが途方に暮れたように顔をしかめたままなので、もう一度質問をした。
「あなたがジャーヴァス卿を最後にごらんになったのは、いつでした?」
「お茶の時間に、このお部屋でです」
「その時の彼の様子はどうでした? ノーマルでしたか?」
「前と同じ程度にノーマルでした」
「この家の人たちの間に、なにか妙な空気はありませんでしたか?」
「ええ、みなさんいつもの通りだったと思います」
「お茶がすんでから、ジャーヴァス卿はどこへ行きました」
「いつもの通り、バロウズさんを連れて、書斎へお入りになりました」
「それがあなたの彼を見かけた最後の時ですか?」
「はい、そうです。わたしは仕事場になっている小さな居間に入り、ジャーヴァス卿と一緒に研究したノートをもとにして、タイプを打って原稿を作っていました。そのうち、七時になったので、二階へ行って一服し、晩餐の着替えをしました」
「あなたはピストルの音を聞きましたか?」
「ええ、わたし、この部屋にいたのです。で、ピストルの音のようなものが聞こえたので広間へ出て行きました。トレントさんとカードウェルさんがいらっしゃいました。トレントさんは、スネルに、晩餐にはシャンパンが出るかとお聞きになって、なにか冗談を仰言っていました。まさか、こんなことになっていようとは思ってもみなかったのです。わたしたちは、その音が自動車のエンジンのバックファイアだということにしてしまいました」
ポワロが言った。
「あなたは、トレントさんが『殺人事件かもしれないぞ』と言ったのをお聞きになりましたか?」
「あの人はなにかそんなようなことを――もちろん冗談でですけど、そんなようなことを仰言ったと思います」
「それからどうしました?」
「みな、この部屋に入りました」
「他の人たちがどんな順序で階下へおりてきたか、覚えていらっしゃいますか?」
「お嬢さんが一番最初だったと思います。それからフォーブスさん、その後でバリイ大佐に奥さんがご一緒でした。そのすぐ後からバロウズさんがおりてきました。そんな順序だったと思います。でも、みなさん、ほとんど同時にいらっしゃったもんですから、あまりはっきりしませんわ」
「最初のドラの音を聞いて集ったのですね?」
「はい、みな、最初のドラを聞くと急ぐことになっていました。ジャーヴァス卿は晩餐の時間にはことにやかましかったのです」
「いつもだと、彼は何時ごろおりてくるのですか?」
「大抵、最初のドラが鳴る前に客間にいらしってます」
「今夜は、彼が姿を見せていないのでびっくりなさいましたか?」
「とてもびっくりいたしました」
「ああ、そうだ!」とポワロが叫んだ。
他の二人がもの問いたげにポワロを見たので、彼は言葉を続けた。
「お尋ねしたかったことを思い出しましたよ。今夜、スネルに書斎のドアに鍵がかかっていると言われたので揃って出かけた時、あなたは身をかがめて、なにか拾い上げられましたね」
「わたしがですか?」ミス・リンガードはひどくびっくりしたようだった。
「ええ、書斎への通路へまがろうとしたところでです。小さくて光ったものでした」
「おかしいですわ――覚えておりません。ちょっと待って下さい――そうそう、拾いました。なんの気もなく拾い上げたのです。ええと――この中にあるはずですわ」
黒いハンドバッグの口を開いて、彼女は中味をテーブルの上にあけた。ポワロとリドル少佐はそれらのものを興味深そうに眺めた。ハンカチが二枚にコンパクト、小さな鍵の束、眼鏡のケース、それからもうひとつ――ポワロは手をのばして、それをつまみ上げた。
「弾丸じゃありませんか!」リドル少佐が言った。
それは弾丸とまったく同じような恰好をしていた。だが、それは小さなシャープペンシルだった。
「それを拾ったのです」ミス・リンガードが言った。「そのこと、すっかり忘れていました」
「リンガードさん、これは誰のものか、ご存じですか?」
「ええ、知っています。バリイ大佐のです。彼は、それを南亜戦争で彼に当った――本当は当らなかったのかもしれませんけど――弾丸の恰好に作らせたのです」
「彼がこれを持っているのを最後に見たのはいつですか?」
「そうですね、今日の午後、他の人たちとブリッジをした時に持っておいででした。わたし、お茶に入って行った時、彼がそれでスコアを書いていたのを覚えていますが」
「ブリッジをやったのは誰と誰ですか?」
「バリイ大佐にシュヴェニクス・ゴア夫人、トレントさん、それにカードウェルさんです」
「これはわたしたちが持っていて、わたしたちの手から大佐に返すことにしましょう」
「ええ、どうぞそうなすって下さい。わたし、忘れっぽくて、そうしなくちゃいけなかったのに忘れてしまっていました」
「では、リンガードさん、恐れ入りますが、バリイ大佐にすぐこの部屋へ来てくれるようにお伝え願えないでしょうか?」
「かしこまりました。行って、すぐ探します」
彼女は急ぎ足に行ってしまった。ポワロは立ち上ると、あてどなしに部屋の中を歩きまわりはじめた。
「今日の午後のことを整理してみましょう」と彼は言った。「ちょっと面白いですよ。二時半にジャーヴァス卿はレイク大尉と帳尻を合わせました。この時、彼は少し上の空でした。三時に、彼は、自分の書いている本のことでリンガードさんと議論しました。大きな精神的悩みがあったようです。リンガードさんは、その時フトもらした彼の言葉から、彼の精神的な悩みにはユーゴ・トレントが関係があると考えました。お茶の時間、彼の態度は平静でした。お茶の後、彼はなにかのことで上機嫌だったとゴドフリイ・バロウズは言っています。八時五分前、階下へおりてきて、書斎に入り、紙の上に『すまぬ』と書いて、自殺しました!」
リドルはゆっくりと言った。
「あなたの仰言ろうとすることの意味はわかりますよ。なるほど、それはぴったりしませんな」
「ジャーヴァス・シュヴェニクス・ゴア卿の不可思議なる気分の変化! 彼は上の空であったのが、とり乱し、平静になり、上機嫌になった! 非常におかしなところがありますな! それから、彼は『遅すぎる』とも言っています。それは本当です。わたしがここへ着いた時は遅すぎました――生きている彼には会えなかったのです」
「わかりました。つまり、あなたのお考えは――」
「いまとなっては、ジャーヴァス卿がなぜわたしを呼んだか、そのわけは永久にわからなくなりました。それは確かです」
ポワロはなお部屋の中を歩きまわった。彼は暖炉の上のひとつふたつのものの位置を直した。そして、壁のそばのカード・テーブルを調べ、ひき出しをあけて、ブリッジのスコアを手にとった。それから、机のそばへより、紙くずかごをのぞいた。中に入っていたのは紙の袋だけだった。ポワロはそれをとりだして匂いを嗅ぎ、『オレンジか』と呟いた。そして、その皺《しわ》をのばすと、その上の文字を読んだ。『果実商、カーペンター商会、ハンボロー・セントメリー』と刷ってある。彼がその袋をキチンと四角にたたみ終えた時、バリイ大佐が入って来た。
第八章
大佐はどっかりと椅子にかけると、首をふってため息をついた。そして言った。
「いやな仕事ですね、リドルさん。だが、シュヴェニクス・ゴア夫人はまったく見上げたものですよ――素晴らしい。偉大なる女性だ! とても元気がある!」
静かに自分の坐っていた椅子に戻りながら、ポワロは言った。
「あなたは奥さんをずっと以前からご存じなのでしたね?」
「ええ、そうです。彼女がはじめてダンスをしに来た時、わたしはその場におりました。髪にバラの蕾をつけていたのを覚えていますよ。フワフワした白いドレスを着ていました――その時いた者は誰も彼女の身体に手をふれようとはしませんでした」
彼の声には情熱が満ちあふれていた。ポワロはさっきのシャープをさし出した。
「これはあなたのですね?」
「え? なんです? ああ、ありがとうございました。今日の午後、ブリッジをした時に失くしてしまったのです。いや、面白かつたですよ。三度続けて、スペードの百点役が入ったのです。あんなことは始めてでしたな」
「お茶の前にブリッジをなさったのですね?」とポワロが言った。
「お茶に入って来た時のジャーヴァス卿の機嫌はどうでした?」
「いつもと同じでした――まったく同じでした。まさか、自殺しようなどとは夢にも思いませんでしたよ。いまになって考えてみれば、いつもより少し興奮気味だったかもしれませんな」
「あなたが最後に彼を見かけたのはいつです?」
「その時ですよ! お茶の時間です。それから後は、生きているジャーヴァスの姿は二度も見かけませんでした」
「お茶がすんでからは、一度も書斎へはいらっしゃいませんでしたか?」
「ええ、二度と彼は見かけませんでした」
「何時ごろ階下へおりていらっしゃいました?」
「最初のドラが鳴ってからです」
「あなたはシュヴェニクス・ゴア夫人とご一緒におりていらしったのですね?」
「いや、わたしたちは――その――広間で会ったのですよ。彼女は花かなにかを見に食堂に入っていたのだと思いますが」
リドル少佐が言った。
「バリイ大佐、少し立ちいった質問をしますが、お気を悪くなさらんで下さい。あなたとジャーヴァス卿との間で、パラゴン合成ゴム商会の件に関して、なにかトラブルがあったのではありませんか?」
バリイ大佐の顔が急に紫色に変った。彼は口角《こうかく》泡をふかんばかりの勢いでしゃべり出した。
「ありませんよ。そんなトラブルなどまったくありません。ジャーヴァスという男は道理のわからん奴でした。そのことは覚えておいていただかんと困りますな。彼はいつも自分のさわったものが切札になると思っていたのです。全世界が危急のどん底にあるなんてことはわからないらしいんですな。株式資本や株はどうしたって影響を受けますよ。それがわからんのです」
「それで、あなた方の間に、トラブルがあったのですな?」
「トラブルじゃありません。ただ、ジャーヴァスの奴がわけのわからんことを言っただけなんです!」
「彼は自分のこうむった損害のことで、あなたを責めたのでしょう?」
「ジャーヴァスはノーマルな人間ではありませんでした! それはヴァンダも知っています。だが、彼女は彼のことをうまく操縦できたのです。ですから、わたしは、彼のことをヴァンダにまかせてしまったのです」
ポワロが咳をした。リドル少佐は彼のほうを見て、話題を変えた。
「あなたは、この家の昔からの友人でしたね。ジャーヴァスがどんなふうに金を遺《のこ》したか、おわかりですか?」
「大部分がルスに行くのでしょう。ジャーヴァスがチラッとそんなことを言ったことがありました」
「それはユーゴ・トレントにとって不公平だとはお思いになりませんか?」
「ジャーヴァスはユーゴが嫌いでした。彼にがまんがならなかったのです」
「しかし、ジャーヴァス卿は家系を重く見る人だったでしょう。なんと言っても、ルスお嬢さんは養女にすぎないじゃありませんか」
バリイ大佐はモジモジしていたが、やがて口の中でモゴモゴ言ったあげくしゃべり出した。
「どうも、これはお話しておいたほうがよさそうですな。だが、これは絶対に秘密なんですよ」
「わかってます――わかってますよ」
「ルスは、私生児です。しかし、シュヴェニクス・ゴア家の者には違いないのです。ジャーヴァスの弟で、戦争で死んだアンソニーの娘なんです。彼はタイピストと間違いを起こしたらしいんです。彼が死ぬと、その娘はヴァンダに手紙を書きました。ヴァンダが娘に会いに行ってみると――娘は妊娠していました。ヴァンダはジャーヴァスと相談しました。彼女は、もう子供はできない身体だと言われていたのです。その結果、彼らは、子供が生まれたら引きとり、正式に籍を入れて養女とすることに決めました。赤子の母親は、すべての権利を放棄しました。二人はルスを自分たちの子として育てました。彼女はあらゆる意味で、ジャーヴァス夫妻の子なのです。あなた方もルスをごらんになれば、彼女がシュヴェニクス・ゴア家の一員に違いないことはおわかりになりますよ」
「ああ、そうですか」とポワロ。「それでジャーヴァス卿のとった態度がよくわかります。しかし、彼がユーゴ・トレントを嫌っていたのなら、なんだって、ルスとユーゴとの縁組をまとめようとしたのでしょう?」
「家族の位置を調整するためですな」
「あの青年を嫌っていて、信用していなくてもですか?」
バリイ大佐は鼻を鳴らした。
「あなた方にはジャーヴァス老人の性質がおわかりにならんのですよ。彼は家族の連中を人間扱いしてはいません。彼は王室での結婚のように、この縁組をまとめようとしたのです。ルスがユーゴと一緒になって、ユーゴがシュヴェニクス・ゴアの名をつぐのが一番よいと考えたのです。ユーゴやルスがなんと思おうと、そんなことは少しも気にかけませんでした」
「で、ルスお嬢さんは、その縁組を進んで受けるつもりだったのですか?」
バリイ大佐はクスクス笑った。
「そうじゃありませんよ。あれは手に負えん娘です!」
「彼の死の直前に、遺言状を、ルスお嬢さんがトレント氏と結婚しない限り、財産は相続できないというふうに書き変えようとしていたのを、あなたはご存じですか?」
バリイ大佐は口笛を鳴らした。
「すると、彼はルスとバロウズとの問題にケリをつけたのですな」
そう言ったとたん、彼は唇を噛んで後悔したが、もう遅かった。ポワロが早速つっこんできた。
「では、ルスお嬢さんとバロウズ青年との間にはなにかあったのですか?」
「多分、なにもありません――まったく、なんにもありませんよ」
リドル少佐が、咳ばらいして言った。
「バリイ大佐、ご存じのことはなにもかも話していただいたほうがいいのですがね。ジャーヴァス卿の心の秘密を解く鍵になるかもしれませんからね」
「そうかもしれませんな」とバリイ大佐は疑わしげに言った。「その真相というのはこうなのです。バロウズ青年は醜い男ではありません――少くとも女どもはそう思っています。そのバロウズとルスが最近、水ももらさぬ仲になっているらしいのです。ジャーヴァスはそれが気に入りませんでした。やがて起こるかもしれないできごとを恐れて、バロウズを首にするのも嫌でした。彼はルスの性格をよく知っていました。彼女は命令しても絶対言うことはききません。そこで、彼は今度のようなことを思いついたのです。ルスは恋のためになにもかも犠牲にするような娘ではありません。彼女はぜいたくが好きで、金が好きなのです」
「あなたご自身ではバロウズ君をいい青年だと認めておられますか?」
大佐は、バロウズ青年は少し育ちが悪いという意見を吐いた。その言葉を聞いて、ポワロはびっくりし、リドル少佐は微笑を浮かべた。
なお、二、三、質疑応答があった後でバリイ大佐は部屋を出て行った。
リドルは放心したような恰好で椅子に坐っているポワロを眺めた。
「一体、どんなふうにお考えですか、ポワロさん?」
小男は両手を上げた。
「ぼんやり輪かくが見えてきたような気がします。――なかなかイミシンですね」
リドルは言った。
「厄介ですよ」
「そう厄介です。しかし、あの言葉がなにげなく吐かれたものであればあるほど、わたしには意味ありげなことのように思えるのですよ」
「なんのことです?」
「ユーゴ・トレントが笑いながら言った言葉ですよ。『人殺しかもしれないぞ』――」
「ええ、あなたが最初からその方向を目指しておられるのは、わたしにはわかっていましたよ」
「こうやって調べれば調べるほど、自殺の動機が少くなって行くような気がするのですがね。ところが、殺人となると、驚くほど動機があるのです!」
「あなたは覚えておいででしょうな――ドアには鍵がかかり、その鍵は死人のポケットの中に入っていたのですよ。いや、その点に関してはいろいろの手口や方法があるのは知っています。曲げたピンや糸などを使うのですね。それは可能かもしれませんよ。しかし、現実にうまくゆくかどうか? それが大いに疑わしいと思いますね」
「とにかく、自殺ではなくて殺人だという見解のもとに、現状を調べてみましょう」
「まあ、いいでしょう。あなたがいらしっているんだから、多分殺人かもしれませんよ」
一瞬、ポワロは微笑を浮かべた。
「それはいやなお言葉ですな」
それから、彼は再び気むずかしい顔つきになった。
「それでは、殺人という見地から事件を調べてみることにしましょう。ピストルの音がした時、広間には四人の人がいました。ミス・リンガード、ユーゴ・トレント、ミス・カードウェル、それにスネルです。他の人たちはどこにいたのでしょう?」
「バロウズは、彼自身の話によれば、図書室にいたことになっています。この証言を裏づけるものは誰もいません。他の人たちは、それぞれ自分の部屋にいたようです。しかし、本当にそこにいたかどうか誰が知っているでしょう? 誰もが別れ別れに階下へおりてきたようです。シュヴェニクス・ゴア夫人とバリイ大佐も、広間で会ったのです。夫人は食堂から出て来ました。バリイはどこから来たのでしょう? 階上からではなく、書斎からだとするのは不可能でしょうか? 例のシャープペンシルの件もありますからね」
「そうです。シャープの件は面白いですね。わたしがあれを出しても、彼はなんの感情も示しませんでした。しかし、それは、わたしがそれをどこでみつけたかを知らず、落としたことも知らなかったせいかもしれません。ええと、あのシャープが使われた時、ブリッジをやっていたのは誰と誰でしょう? ユーゴ・トレントとミス・カードウェル。この二人は問題ありません。ミス・リンガードと執事にもアリバイがあります。残る四人めはシュヴェニクス・ゴア夫人です」
「あの人を本当に疑うことはできませんよ」
「なぜです? わたしは全員を疑います! 彼女は夫を愛していたように見えても、彼女が本当に愛していたのは誠実なるバリイ大佐だとしたらどうします?」
「フーン」とリドル少佐。「見方によれば、ずいぶん前からの三角関係とも言えます」
「それに、ジャーヴァス卿とバリイ大佐の間に、例の会社関係のごたごたがありますしね」
「ジャーヴァス卿が本気でヘソを曲げたということも考えられますな。その内幕はわかっていませんからね。あなたを呼んだことも、それで説明がつきますよ。つまり、ジャーヴァスは、バリイに詐取されているのではないかと疑ってはいたが、ひょっとすると彼女の妻がそれに関係しているのかもしれない恐れがあって、公けにはできない。うん、可能性がありますね。そうなれば、シュヴェニクス・ゴア夫人が夫の死を知ってもあんなに平然としていたことの説明がつくわけです。あの霊魂の話はみなお芝居だったことになります」
「それから、別の一組も考えられますよ」とポワロは言った。「ルスお嬢さんとバロウズです。ジャーヴァス卿が新しい遺言状にサインしなければ、大変二人の利益になります。そうなれば、ルスと結婚する相手がシュヴェニクス・ゴアの名を継ぐだけで、すべてがもらえる――」
「そうです。それに、ジャーヴァス卿の夕方の態度についての彼の話はちょっとおかしなところがある! われわれが聞いた他の話とうまく一致しないのですからね」
「それに、フォーブス氏もいますよ。古くから名声の高い法律事務所の清廉潔白な弁護士です。しかし、たとえ、信用のある弁護士でも、自分が窮地に陥《おちい》ったた時には依願人の金をごまかすことがないでもありません」
「あまり煽情的すぎやしませんかね。ポワロさん」
「あなたは、わたしの考えていることが、まるで映画の筋かなにかのようだと思っておいでなのですね? しかしですね、リドル少佐、事実が映画より奇なる場合だってあるのですよ」
「いままで、ウェストシアではそんなことはありませんでしたよ」警察署長は言った。「それより、残りの人たちと会ってしまったほうがいいんじゃありませんか? もう遅くなりますからね。まだ、ルス・シュヴェニクス・ゴアにも会っていません。彼女は一番の重要人物ですよ」
「そうしましょう。それに、ミス・カードウェルもいますね。先きにそっちのほうをすませましょうか。あまり長くはかからないでしょうから、その後でミス・シュヴェニクス・ゴアと会うことにしましょう」
「それはいい考えですな」
第九章
その夜早く会った時は、ポワロはスーザン・カードウェルのことをチラッと見ただけだった。そこで、彼は注意深く彼女をみつめた。とり立てて美人というのではないが、知性のある顔だった。そして、ただ美しいだけの女性がうらやみそうな魅力があった。その髪の毛はすばらしく、顔はきれいに化粧してあった。彼女の眼は油断のならない光を放っていた。
予備的な質問を二、三した後で、リドル少佐は言った。
「あなたはこの家の人たちとどの程度お親しいのですか?」
「この家の人たちは全然知りませんわ。ユーゴが、わたしも招待してくれるようにと頼んでくれましたの」
「すると、あなたはユーゴ・トレントのお友だちですか?」
「ええ、そうなんです。ユーゴのガール・フレンドです」彼女はまだるっこしい口調でそう言うと微笑を浮かべた。
「あなたは彼をずっと前から知っているのですか?」
「あら、いいえ、一カ月ぐらい前からですわ」
彼女はちょっと言葉を切って、やがて続けた。
「わたし、彼と結婚するつもりですの」
「それで、彼は、あなたをこの家の人たちに紹介するつもりで連れてきたのですか?」
「いえ、違います。そうじゃないんです。わたしたちはそれをごく内々に伏せていました。わたしはただ、敵状偵察にやってきたんですの。ユーゴは、この家がまるで気狂い病院だって話してくれました。そこでわたし、自分で行って自分の眼で見てきたほうがいいと思いましたの。ユーゴはとっても可愛い人なんですけどあまり頭がよくありません。いまはとってもピンチなんですわ。ユーゴも、わたしも、お金を持ってないし、ユーゴの唯一の望みであるジャーヴァス卿はユーゴをルスと娶《めあ》わせるせるつもりなんです。ユーゴはとっても弱いんです。彼は、後で別れられるだろうということを当てにして、この縁組を承知するかもしれません」
「その考えは、あまり、あなたのお気に入らないのですね?」ポワロが優しく聞いた。
「全然気に入りません。ルスがつむじをまげて、彼と離婚するのがいやだとかなんとか言い出すかもしれないじゃありませんか。そこで、わたしは度胸をきめたのです」
「度胸をきめて、ここへご自分で様子を探りにいらしったのですね?」
「そうです」
「素敵ですね!」とポワロ。
「でも、やはり、ユーゴの言った通りでした。誰も彼もみな気狂いですよ。ただ、ルスだけは違って、彼女には思慮分別がありそうです。彼女にはちゃんと自分のボーイ・フレンドがいて、大してユーゴとの結婚には気がなさそうです」
「ボーイ・フレンドとはバロウズさんのことですか?」
「バロウズですって? もちろん、違いますよ。ルスは、あんなイカサマ師には夢中になりません」
「じゃあ、彼女の愛情の対象は誰なんですか?」
スーザン・カードウェルは一息ついて煙草をとり、火をつけると、口を開いた。
「それは彼女にお説きになるとよろしいわ。なにしろ、それはわたしの知ったことじゃありません」
リドル少佐が聞いた。
「あなたがジャーヴァス卿を最後に見たのはいつです?」
「お茶の時です」
「どこか彼の態度におかしなところがありませんでしたか?」娘は肩をすくめた。
「普通でしたわ」
「お茶の後で、あなたはどうなさいました?」
「ユーゴと球つきをしました」
「それから後はジャーヴァス卿の姿は見かけませんでしたか?」
「見かけません」
「ピストルの音はどうです?」
「それがちょっと変なことがあったんですよ。わたし、最初のドラが聞こえたと思ったので、急いで着替えをして部屋をとび出したところ、二度めのドラが聞こえたような気がして、あわて階段を駈けおりたんです。ここへやって来た最初の晩に、わたし、晩餐に一分遅れちゃったところ、ユーゴに、そんなことすると伯父が怒って折角のチャンスがだめになっちゃうよと言われたもんで、今日は一目散に駈けおりました。ユーゴがわたしの前にいたんですけど、その時、あのバーンって妙な音がして、ユーゴがシャンパンのコルクを抜く音だって言ったんです。スネルは『違います』って言いました。でも、どっちにしろ、あの音は食堂から聞こえたはずはありませんわ。リンガードさんは、二階から聞こえたようだと言いましたけれど、結局自動車のバックファイアだってことになり、みんなして客間へ入り、それっきり忘れてしまったんです」
「その時ジャーヴァス卿が自殺したのではないかとお思いにはなりませんでしたか?」
「そんなこと、思うはずがないでしょ? じいさんはえばりちらして暮らす人生が楽しくつてしかたなかったんだもの。彼がそんなことするなんて想像するはずないわ。なぜ、あんなことしたのかもわからないわ。やっぱり、きっと気が変だったのね」
「不幸なできごとでしたね」
「本当ですよ――ユーゴとわたしにとっては特にね」
「結局、ユーゴにはなにも、ほとんどなにも遺《のこ》さないままだったのでしょう?」
「誰からお聞きになりましたか?」
「ユーゴがフォーブス老人から聞き出しました」
「さて、カードウェルさん」リドル少佐は一息ついた。「おうかがいするのはこれだけのようです。ところで、ルスお嬢さんの気分はどうでしょう? おりてきて、話をきかせてもらえますか?」
「大丈夫だと思いますわ。わたし、話してみます」
ポワロが口をはさんだ。
「ちょっとお待ち下さい、お嬢さん、これを、前にごらんになったことありますか?」
彼は、弾丸型のシャープペンシルを出した。
「ええ、今日の午後、ブリッジの時、使いましたわ。たしか、バリイ大佐のものです」
「勝負が終って、大佐はこれを持って行きましたか?」
「さあ、全然わかりませんわ」
「有難うございました。それだけです」
「じゃあ、わたし、ルスを呼びますわ」
ルス・シュヴェニクス・ゴアは女王のように部屋に入ってきた。顔色は生き生きしており、頭を高く持ち上げていた。しかし、その眼は、スーザン・カードウェルの眼と同じように油断のない光を放っていた。彼女はポワロが着いた時と同じフロックを着ていた。それは薄い杏《あんず》色だった。肩には、サーモンピンクのバラをつけていた。一時間前だったら、新鮮で美しかっただろうが、いまは萎れていた。
「なんですの?」とルスは言った。
「あなたにご面倒をおかけしてすみませんね」とリドル少佐が話しはじめた。
彼女はその言葉をさえぎった。
「でも、それはしかたがないじゃありませんの。みなに面倒をかけるのが、あなたのお役目でしょう。でも、わたしは、あなたのお時間を節約してさしあげますわ。『じいさん』がなぜ自殺したか、わたしには全然わかりません。わたしから申し上げられるのは、自殺するなんて、全然彼らしくないと思うということだけです」
「今日、彼の態度におかしなところがあるのにお気づきになりませんでしたか? 悩みがあったとか、ひどく興奮していたとか――」
「そうは思えません。わたし、なにも気づきませんでした」
「彼と最後にお会いになったのは?」
「お茶の時でした」
ポワロが言った。
「後で――書斎へは、いらっしゃらなかったですか?」
「いいえ。この部屋で見たのが最後でした。そこへ坐っていました」
彼女はひとつの椅子を指さした。
「なるほど。あなたは、このシャープをご存じですか?」
「バリイ大佐のです」
「最近ごらんになったことがありますか?」
「覚えていません」
「あなたは、ジャーヴァス卿とバリイ大佐との間の不和についてなにかご存じでしたか?」
「パラゴン合成ゴム商会のことでの不和という意味ですの?」
「ええ」
「知ってました。『じいさん』はそのことをひどく怒っていました」
「じゃあ、ジャーヴァス卿はだまされて金をかたりとられたと考えていたのですか?」
ルスは肩をすくめた。
「彼は財政学の第一歩も知らなかったんです」
ポワロが言った。
「お嬢さん、大変ぶしつけな質問をしてもよろしゅうございますか?」
「どうぞ、ご随意に」
「つまり、その――あなたは、お父さんが亡くなって――その――お嘆きになりましたでしょうか?」
彼女は眼をみはって彼を見た。
「もちろん、嘆きました。涙にふけるなんてことはしませんでしたけどね。でも、彼がいなくなってしまったんですもの――わたし、『じいさん』が好きでした。ユーゴやわたしなどは、『じいさん』って呼んでましたの。失礼な呼び名かもしれませんけど、愛情をこめてなんですわ。もちろん、彼は、いままでこの世にいなかったような石頭の年老いたロバでしたけどね」
「お嬢さん、あなたって方は面白い方ですね」
「『じいさん』は蚤《のみ》の脳味噌ぐらいしか持ってませんでした。そんなこと言うのいやなんですけど、本当なんです。彼は頭脳のいる仕事にはまったく無能力でした。いいですか。彼は想像もできないほど勇敢だっただけなんです! 南極までノコノコ出かけてみたり、決闘をやったりしましたわ。わたし、彼がいばりちらしていたのは、自分の頭脳が弱いことを自覚していたためだったと思いますの。誰だって彼を追い越そうと思えば、追い越せるんですものね」
ポワロはポケットから手紙をとり出した。
「これをお読み下さい」
彼女はその手紙を一読し、彼に返した。
「それで、あなたがここへいらしったのですか!」
「この手紙から、なにかおわかりになることがございましたか?」
彼女は頭をふった。
「いいえ。でも、その手紙は本当かもしれませんわ。誰だって、あの可哀そうな老人のお金をちょろまかすことはできましたからね。ジョンの前にいた管理人など、好き勝手にごまかしていたんだって、ジョンが言ってましたわ。『じいさん』は偉らぶって尊大なだけで、決してこまかいことに気のつく人ではなかったんです! 悪人にとってはもってこいの人でした」
「あなたは、一般に認められているのとはまったく違ったジャーヴァス卿の人間像を描き出して下さいましたね」
「彼はずいぶんカモフラージュをほどこしていたのですわ。わたしの母のヴァンダがその後ろ楯《だて》だったのです。彼は、自分が万能の神になったような気持で、気どって歩くのがなにより好きでした。ですから、ある意味では、わたし、彼が死んだのを喜んでいるのです。彼にとっては一番よいことですものね」
「どうもあなたのお考えにはついてゆけませんな」
ルスは憂わしげな口調で言った。
「近ごろ、段々ひどくなってきていたんです。そのうちには、どこかへ閉じこめなければならない――みんながそう言い出していたのです」
「あなたは、トレント氏と一緒になるのでなければ遺産はもらえなくなるという遺言状を彼が作りかけていたのをご存じでしたか?」
彼女は大声を上げた。
「そんな馬鹿な? でも、どの道、わたし、法律に片をつけてもらうつもりですわ――。誰それと結婚しなければならないなんて人を強制することはできないはずですもの」
「もし彼がそのような遺言状に実際に署名していたなら、あなたはその条項に応じられますか?」
彼女は眼をみはった。
「わたし――わたし――」
そのまま、彼女は口をつぐんだ。そして、二、三分の間、決心のつかぬままに、ブラブラ動くスリッパをじっとみつめていた。かかとから土くれがカーペットの上に落ちた。
突然、ルスは言った。
「ちょっと待って下さい!」
彼女は立ち上ると、部屋から走り出て行った。が、すぐにレイク大尉を連れて戻って来た。
「すっかり申し上げてしまいますわ」彼女は息を切らせて言った。「もうお知りになってもいいころでしょう。ジョンとわたしとは、三週間前に、ロンドンで結婚したのです」
第十章
彼ら二人のうち、レイク大尉のほうがルスより当惑したような表情を浮かべていた。
「これは驚きましたな、ミス・シュヴェニクス・ゴアじゃなかった、レイク夫人ですな」とリドル少佐が言った。「あなた方の結婚のことは誰も知らなかったのですか?」
「知りません、まったく伏せておいたのです。こういったやり方は、ジョンはあまり好まなかったんですけど」
レイクは少し口ごもりながら言った。
「僕――僕は、こういうやり方はちょっと卑怯なような気がしたんです。それより、まっすぐにジャーヴァス卿のところへ行って」
ルスが口をはさんだ。
「あなたの娘を下さいなんて言ったら、頭から蹴とばされるわ。そして、彼は多分、わたしを相続人からけずり、家中に大騒ぎをまき起こすわ。それで、ああ、いいことをした、って言えると思うの! ねえ、信じてちょうだい、わたしのやり方が一番よかったのよ。それに、もうこうなってしまったんだもの、しかたないじゃないの」
それでもレイクは釈然としない顔つきだった。ポワロが聞いた。
「ジャーヴァス卿には、そのニュースをいつ打ち明けられるおつもりだったのですか?」
ルスが答えた。
「わたしがその準備工作をしていましたの。彼はわたしとジョンとの仲を疑いかけていたので、わたし、ゴドフレイに夢中になってるようなふりをしました。自然、彼はひどく興奮するはずです。そこを狙って、ジョンとわたしが結婚したことをしらせれば、まだそのほうがいいと思って彼は安心する――それがわたしの計略でした」
「全然、誰にもこの結婚のことはお話しにならなかったのですか?」
「いいえ、最後にはヴァンダに話しました。彼女はわたしの味方になってもらいたかったのです」
「それで、成功しましたか?」
「ええ。彼女はわたしとユーゴの結婚にはあまり乗り気ではありませんでした――きっと、わたしたちがいとこ同志だからですわ。いまでも気の狂ったような人間がいるのに、この上、わたしたちが近親結婚したら、なお気の狂った子供が生まれると思ったのでしょう。でも、わたしは養女なんですから、その考え方は馬鹿げていますわ。なんでもわたしは遠いいとこの子供だそうですもの」
「ジャーヴァス卿は確かに真相を知らなかったのですか?」
「ええ、知るはずありませんわ」
ポワロは言った。
「それは本当ですか、レイク大尉? 今日の午後、あなたが彼と会った時、確かにその話は出なかったのですか?」
「ええ、出ませんでした」
「なぜかと言いますとね、あなたと会った後、ジャーヴァス卿が非常に興奮されており、不名誉な事件が起こったと二度か三度、口走ったという証言があるからなんですよ」
「この問題は話に出ませんでした」レイクはくり返した。彼の顔色はまっさおだった。
「生前のジャーヴァス卿に会われたのは、それが最後ですか?」
「ええ、前にもそう申し上げたじゃありませんか」
「今夜、八時八分すぎには、あなたはどこにいらっしゃいました?」
「わたしがどこにいたかですって? 自分の家にいましたよ。村のはずれで、半マイルほど離れています」
「その時間にハンボロー荘へは来られませんでしたね?」
「ええ」
ポワロは娘のほうを向いた。
「お嬢さん、あなたはお父さんが自殺なさった時に、どこにいらっしゃいました」
「庭です」
「庭? ピストルの音はお聞きになりましたか?」
「ええ、でも特にどうって感じたわけじゃありません。誰かが兎でも射っているのだろうと思いましたの。ただ、それにしては近すぎたなって感じただけでしたわ」
「あなたがお家へお戻りになった時にはどういう道順をたどられましたか?」
「この窓から入りました」
彼女はくるっとふり向いて、背後の窓に顎をしゃくってみせた。
「誰かここにいましたか?」
「いいえ。でもユーゴにスーザン、それからミス・リンガードがほとんど同時に広間から入って来ましたわ。彼らは鉄砲のことや人殺しのことなどしゃべっていました」
「わかりました」とポワロは言った。「ええ、いまわかったような気がします――」
リドル少佐は疑わしそうに言った。
「ええ、――ありがとうございました。いまのところはこれくらいです」
ルスとその夫はきびすを返すと、部屋を出て行った。
「一体全体――」と言いかけて、リドル少佐は絶望したように言い淀《よど》んでしまった。「だんだん事態が混乱してわからなくなってくるじゃありませんか」
ポワロはうなずいた。そして、ルスの靴から落ちた土くれを拾い上げ、そっと手の平にのせた。
「こわれた鏡のようなものですね」とポワロは言った。「死人の鏡です。新しい事実に出っくわすたびに、死人の違った面が明らさまにされました。彼のいろいろな角度の姿が写っているのです。すぐに完全な画像ができ上りますよ……」
彼は立ち上ると、土くれをきちんとくずかごの中に入れた。
「あなたにひとつだけお話しておきましょう。この事件のすべての謎を解く手がかりは鏡です。わたしの言うことが信じられなかったら、書斎へいらしって、自分でごらんになって下さい」
リドル少佐は断乎として言った。
「もし殺人だとお思いなら、それを解決なさって下さい。わたしにやれと仰言るのなら、わたしは自殺説をとります。前の管理人がジャーヴァス老人の金をごまかしていたという、あの娘の言ったことにお気をとめになりましたか? わたしは、レイクが我が身可愛さにそんな話をしたのだと思います。彼は自分でごまかしていたところ、ジャーヴァス卿がそれを疑い、まだレイクとルスの間がどの程度に進行しているかわからなかったのであなたを呼んだのです。そして、今日の午後レイクが二人の結婚の話をしました。それでジャーヴァスはすっかり参っちまったのです。いまとなっては、なにをするにも『遅すぎる』わけですよ。そして、彼はあらゆることから逃がれる決心を固めた。と言うよりは、大してよくもなかった脳髄が言うことを聞かなくなったというところなのでしょう。これが、この事件に対するわたしの結論です。なにか反対意見をお持ちですか?」
ポワロは、まだ部星のまん中に立ったままだった。
「なにか言わなければなりませんな? それでは言いますが、わたしはあなたの仮説に対してはなにも言うことはありません――しかし、それでは充分とまでは言えませんな。考慮に入れられてないことがまだあるではありませんか?」
「どんなことです?」
「ジャーヴァス卿の気分の食い違いとか、バリイ大佐のシャープが発見されたこと、ミス・カードウェルの証言(これは重要ですよ)、それからミス・リンガードの降りてきた人の順序に関する証言、ジャーヴァス卿の椅子の位置、オレンジの入っていたらしい紙の袋、最後に一番重要なこわれた鏡の手がかりなどです」
リドル少佐は目をみはった。
「そんなたわごとに意味があると仰言るおつもりなのですか?」と彼は聞いた。
エルキュール・ポワロは静かに答えた。
「そうしたいものだと思っていますよ――明日までにはね」
第十一章
翌朝、エルキュール・ポワロは朝日が昇るとほとんど同時に目をさました。彼に与えられた寝室は東側の一室だった。
ベッドをおりて、窓のブラインドを開けたポワロは既に朝日が昇りきっており、すがすがしい朝なのを見て満足感を味わった。
彼は、いつものように細心の注意をこめて、服を着はじめた。そして顔を洗うと、オーバーを着て、首にマフラーを巻く。
それから、爪先立ちで部屋を脱け出すと、静まり返った家の中を通って客間へ入った。フランス窓を音もなく開けると、そっと庭へおりる。
日が照りはじめたところだった。すがすがしい朝の霧を含んで、空気は湿っぽかった。彼は段庭道を通って、家の横手へまわり、ジャーヴァス卿の書斎の窓のところまで行った。そこで、立ちどまると、あたりを見まわした。
窓のすぐ外には、細長い草の道が一筋、家と並行して走っていた。その前には広い花壇がある。うらぎくがきれいに咲きほこっていた。花壇のその前は、いまポワロの立っている敷石道である。花壇のうしろの草の道から一筋の草の道が敷石道へと走っている。ポワロはそこを注意深く調べた。そして首をふった。次ぎに、彼はその両側の花壇に注意を向けた。
非常にゆっくり、彼はうなずいた。右手の花壇の柔らかな沃土《よくど》の上にくっきりと足跡が残されていた。
眉をしかめながら、その足跡に見入っていると、もの音がしたので彼は頭を上げた。
彼の頭上の窓が押し上げられている、そして、赤い髪の頭が見えた。燃えるようなまっ赤な髪の毛にかこまれてスーザン・カードウェルの知的な顔があった。
「こんな時間になにをなさっていらっしゃるのですか、ポワロさん? 探偵ですか?」
ポワロは慇懃《いんぎん》に頭をさげた。
「お早うございます、お嬢さん。仰言る通り、探偵が――それも偉大なる探偵が――探偵稼業のまっ最中なのでございます!」
なんとも大げさな言葉だった。スーザンは首をかたむけた。
「わたし、今日のことを忘れないようにしなくっちゃ。階下へおりてお手伝いしましょうか?」
「それはまた光栄でございます」
「最初は泥棒かと思いましたのよ。どこからお出になりましたの?」
「客間の窓からですよ」
「ちょっと待ってね。すぐ行きますわ」
彼女はその言葉通りすぐおりて来た。ポワロは彼女が最初見た時と同じ場所にいた。
「ずいぶんお早いんですな、お嬢さん?」
「本当いうと、眠れなかったんです。誰でもが朝の五時に感じるようなやけっぱちな気持になってましたの」
「おや、そんなに早くはありませんよ」
「そんな感じがしたんですのよ! ところで、大探偵さん、なにを見てるんですの?」
「ほら、ごらんなさい、足跡です」
「あら、本当だわ」
「四つありますね」とポワロは続けた。「いいですか、指さしてごらんにいれましょう。窓のほうに向って二つ、帰ってくるのが二つ」
「誰の足跡でしょう? 庭師のですか?」
「いやいや、お嬢さん。この足跡は女性の小さくてきゃしゃなハイヒールの靴でつけられたものですよ。いいですか、ためしに、このそばの土をふんでごらんなさい」
スーザンはちょっとためらっていたが、やがておっかなびっくりにポワロに示された地点の沃土の上に足をのせた。彼女はこげ茶色の小さなハイヒールのつっかけ靴をはいていた。
「ほら、あなたのとちょうど同じぐらいのサイズでしょう。よく似てはいますが、同じものではありません。こっちのほうのは、あなたのより少し足が長いですね。多分、ミス・シュヴェニクス・ゴアのか――ミス・リンガードか――さもなければシュヴェニクス・ゴア夫人のですよ」
「奥さんのじゃありませんわ――奥さんの足はもっと小さいんですもの。それに、ミス・リンガードは奇妙な平べったい底の靴をはいています」
「すると、これらの足跡はミス・シュヴェニクス・ゴアのものということになりますか。ああ、そう言えば、昨日の夜、ちょっと庭へ出たというようなことを仰言っていましたっけ」
彼は家のまわりを戻って行った。
「まだ探偵を続けます?」スーザンが聞いた。
「いかにも。今度はジャーヴァス卿の書斎へ行きます」
彼が先きに立って進み、スーザン・カードウェルがその後に続いた。
ドアはまだ陰うつにぶらさがったままだった。中側の部屋も昨夜のままだった。ポワロはカーテンをあけて、朝日を入れた。
彼は一、二分、花壇を見おろしていたが、やがて言った。
「お嬢さん、あなたは強盗などとあまりなじみはないでしょうな」
スーザン・カードウェルは残念そうに赤い髪の頭をふった。
「ないんですのよ、ポワロさん」
「警察署長も彼らと個人的つきあいには恵まれていないようです。彼の犯罪者との結びつきは、いつも必らずお役所的なものですからな。これがわたしとなると、話は違ってきます。わたしは、一度、強盗と仲よく話したことがあります。その時、彼は、フランス窓について、とても面白いことを教えてくれました――しまりが適当にゆるくなっている場合に使えるトリックなのです」
彼はしゃべりながら、左手の窓のハンドルをまわすと、中心の軸が床の穴から出て来て、彼は自分のほうに窓をひき開けることができた。広く開けると、彼はまたそれを閉めた――ハンドルをまわさず、中心の軸をソケットにはめないようにしながら閉めたのだった。そしてハンドルをそのままにして、ちょっと待っていたが、突然、軸の中央あたりの少し高めのところを拳でドシンと叩いた。その一撃の衝撃で、軸は床のソケットにはまり――ハンドルは自然にまわった。
「わかりましたか、お嬢さん?」
「わかりましたわ」
スーザンは、心持ち顔色を青ざめさせていた。
「窓はこの通り閉りました。窓が閉っている時に外から入るのは不可能ですが、部屋から脱け出て、ドアを外側からひき、いまやったように叩けば、ボルトは床に入り、ハンドルは自然にまわるのです。そして、窓はかたくとざされ、この窓を見た人は誰でも、これは内側から閉ざされたものだと言うに違いありません」
「こういったことが」――スーザンの声は、ふるえを帯びていた――「昨夜起こったのですか?」
「どう思います?」
スーザンは荒々しく言った。
「わたし、信じられませんわ、そんなこと」
ポワロは答えなかった。彼は暖炉のそばへ近よった。そして、くるりとふり向いた。
「お嬢さん、わたしはあなたに証人になっていただかなければなりません。わたしには既にトレントさんという証人が一人おります。彼は昨夜、わたしがこの鏡の小さな銀ぱくを発見したのを見ていました。わたしはそのことを彼に話しておきました。しかし、警察の調べにまかせるため、そのままの場所に残しておいたのです。そして、警察署長にもこわれた鏡が重要な手がかりだと言ったのですが、彼はわたしのやったヒントの意味がわかりませんでした。あなたに証人になっていただいて、この鏡の銀ぱく(この場所は、既にユーゴ氏に示してあることを、忘れないでいただきたいですな)を小さな封筒へ入れます――そうれ」彼は言った通りのことをやってみせた。「そして、この上に印しを書き、封をします。お嬢さん、あなたが証人ですよ、いいですね」
「はい――でも――でも、わたしには意味がわかりませんわ」
ポワロは部屋の反対側へ歩いて行った。そして机の前に立ち、彼の正面の壁にかかった割れた鏡を見た。
「それが意味することを教えてあげますよ。もし、あなたが、昨夜、ここに立って、この鏡の中を見ていたら、あなたは、殺人が行われる光景を鏡の中に見ることができたのですがね――」
第十二章
彼女の人生の中でただ一度だけ、ルス・シュヴェニクス・ゴア――現在はルス・レイクだが――は、ちょうど朝食に間に合うように階下へおりた。だが、エルキュール・ポワロが広間にいて、彼女が食堂へ入る前に、わきのほうへひっぱって行ってしまった。
「ひとつお尋ねしたいことがあるのです、奥様」
「なんでしょう?」
「あなたは昨夜、庭にいらっしゃいましたね。あなたは、その時ジャーヴァス卿の書斎の窓の前の花壇に足をお踏み入れになりませんでしたか?」
ルスは目を見はって、彼を見た。
「ええ、二度ほど」
「ほう! 二度も。どうして二度なんです?」
「最初の時はうらぎくを摘みにいきました。七時頃のことです」
「花を摘みに出るにはおかしな時間じゃありませんか?」
「ええ、まったくそうなんです。わたし、昨日の朝、花を生けたのですけれど、ヴァンダがお茶のあとで食卓の花が足りないと言い出しました。わたしは、それでいいと思ったのです。そこで別に変えもしませんでした」
「しかし、お母さんが新しくするようにおっしゃったんですね――そうでしょう?」
「そうなんです。そこでわたし、七時ちょっと前に外へ出ました。そして花壇のあのあたりから摘んできました。あの辺はめったに人がいないから、美観をそこねるようなこともないと思ったからです」
「なるほどなるほど、しかし、二度目は――二度いらっしゃったとおっしゃいましたね?」
「あれは晩餐のちょっと前でした。わたし、ドレスに油のしみをつけちゃったんです――ちょうど肩の所でした。着替えるのはめんどくさいし、といって黄色のドレスに合う飾り花もないのです。わたしは、うらぎくを摘んだ時に遅咲きのバラがあったのを思い出しました。そこで急いで取ってきて肩ヘピンでとめたのです」
ポワロはゆっくりとうなずいた。
「なるほど昨夜あなたが花をつけておられたのを思い出しましたよ。それは何時頃でしたか、あなたがバラをお摘みになったのは?」
「わたし、はっきりとは分りません」
「しかし、それは重要なことですよ。お考えになって思い出して下さい」
ルスは顔をしかめた。ポワロの顔に視線を走らせては、またそれをそらす。
「はっきりとは申し上げられないんですけど」彼女はとうとう口を切った。「あれはきっと――あれはきっと、八時五分前ぐらいのことだったと思います。家の横手をまわって帰ろうとした時にわたしはドラの音を聞きました。それから、あの奇妙なバーンという音がしたんです。わたしは、足を早めました。なぜならそれが最初のではなくて、二番目のドラだと思ったからなんです」
「なるほど。そうお考えになったのですか――で、あなたは花壇の中にお入りになった時、書斎の窓を開けようとなさいましたか?」
「実のところ、開けようとしました。わたし、あすこが開くと思っていたのです。あすこから入っていった方が早いですからね。でもぴったり閉っていて開きませんでした」
「それですべてのことに説明がつきました。奥様、おめでとうございます」
彼女は目を見はって彼をみた。
「どういう意味です、それは?」
「つまり、あなたがすべての事実にぴったり合う解答をお持ちだということですよ。あなたの靴についていた泥、花壇に残されたあなたの足跡、窓の外側についたあなたの指紋。しごく好都合じゃありませんか」
ルスが答えられずにいるうちに、ミス・リンガードが階段を急いでかけ降りて来た。その頬《ほお》は奇妙な紫色に染っていた。彼女はポワロとルスとが立ち話をしているのをみて目をまるくした。
「あのう、失礼ですけど、なにかあったのですか?」
ルスは怒ったように言った。
「ポワロさんの気が違ったらしいのよ――」
彼女は二人の側を通り抜けて、食堂へ入っていった。ミス・リンガードはおどろいたような顔でポワロをみた。
彼は頭をふった。
「朝食が終ったら、ご説明しますよ。みなさん、十時にジャーヴァス卿の書斎に集っていただきたいのですが」
彼は食堂へ入りながらその依頼をくり返した。スーザン・カードウェルは彼にすばやい視線を走らせて、すぐにルスに目交ぜをした。その時、ユーゴが言った。
「え? どうしたんだい?」彼女が彼の横腹をするどくひじでこずいたので、彼は口をつぐんだ。
食事を終ると、ポワロは立ち上って、ドアの方に近ずいた。そしてくるりとふり返ると、旧式な大きな時計を取り出した。
「いま十時五分前です。あと五分したら、書斎へお集まり下さい」
ポワロは周囲を見まわした。興味を浮かべた顔が半円形を作って彼を取り囲み、彼の視線をはね返している。唯一人の人物をのぞいては、みな集まっている。そして、その瞬間に、その場にいなかった唯一人の人物が部屋に入って来た。シュヴェニクス・ゴア夫人はやわらかなすべるような足取りで入って来た。やつれ切った病人のような顔つきだった。
ポワロが彼女のために大きな椅子を引っぱり出してやったので、夫人はそれに腰をおろした。
彼女は目をあげてこわれた鏡をみると、身ぶるいして、椅子のむきを変えた。
「ジャーヴァスがまだそこにいます」彼女はまことしやかな声音《こわね》でいった。「かわいそうなジャーヴァス――もうすぐ自由になれるのよ」
ポワロは咳ばらいをして、大声でいった。
「みなさんにお集まり願ったのは、ほかでもありませんが、ジャーヴァス卿の自殺事件の真相をお聞き願いたかったからなのです」
「あれは宿命ですよ」シュヴェニクス・ゴア夫人がいった。「ジャーヴァスは強い人でしたけど、宿命はそれよりもずっと強かったのです」
バリイ大佐が前に進み出た。
「ねえ、ヴァンダ」
彼女は大佐にほほえみかけて手を差し出した。彼はその手をとった。彼女は静かにいった。「ネッド、あなたっていい方ね」
ルスがするどい声でいった。
「ポワロさん、あなたはわたしの父の自殺の原因を調べあげたっておっしゃるのね」
ポワロは首をふった。
「いえ、違うのです、奥さま」
「じゃあ、さっきのわけのわからない話はいったい何ですの」
ポワロは静かにいった。
「わたしはジャーヴァス・シュヴェニクス・ゴア卿の自殺の原因などは存じません。なぜなら、ジャーヴァス・シュヴェニクス・ゴア卿は殺されたのです――」
「殺された?」何人かの声が異口同音にいった。いくつかのびっくりしたような顔がポワロの方を向いた。シュヴェニクス・ゴア夫人も目をあげて言った。「殺されたんですって――とんでもない!」そしてゆっくりと頭をふった。
「殺されたとおっしゃるんですか?」そういったのはユーゴだった。「そんなことは不可能だ。わたしたちがドアをおし破って入った時、部屋の中には誰もいませんでした。窓はしまって、ドアは内側から鍵がかかっていました。そして鍵は伯父のポケットに入っていたじゃありませんか。どうして殺すことができたのです?」
「それでも、彼は殺されたのですよ」
「すると犯人は鍵穴から逃げたとでもいうのですか?」バリイ大佐が疑わしげな顔をしてきいた。「そうでなければ煙突からとび出したのですか?」
「犯人は窓から逃げだしたのですよ。どういうふうにやったのか、これからごらんに入れましょう」
彼はさっきの窓の実験をくり返した。
「お分かりですか? 犯人はこうして逃げたのです。最初から、わたしには、ジャーヴァス卿が自殺したとはどうしても考えられませんでした。彼は典型的な利己主義者です。そういった人間が自殺するはずはありません。
またほかの証拠もあります。彼は死ぬ前に机に向ってすわり、紙の上に『すまぬ』と書いて自殺したような形になっているのです。しかし、この最後の動作の前に、何かの理由で、彼は自分の坐っている椅子の向きを変えました。机に横向きになったのです。なぜでしょう? なにか理由がなければならないはずです。わたしは重い青銅の小像の底に鏡の小さな銀ぱくがくっついているのをみつけた時に、すべての事がわかり始めたのです……
わたしは自問自答しました。どうしてこわされた鏡の銀ぱくがここについているのだろうか?――答えはしごく簡単でした。鏡はピストルの弾丸で壊されたのではなく、重い青銅像で割られたのです。あの鏡はわざとこわされたのでした。
しかし、なぜでしょう。わたしは、机のそばに戻って椅子を見おろしました。そして、その時、わたしは知ったのです。すべてが間違っている。自殺だったのならば椅子をまわし、ひじかけに寄りかかり、その後で自分をうったりするはずはあり得ません。すべてが仕組まれたことだったのです。自殺は偽装でした!
その時、わたしはある重要なことに思い当りました。ミス・カードウェルの証言です。ミス・カードウェルは、昨夜二度目のドラが鳴ったように思ったので、急いで階下へかけ降りたといいました。つまり彼女は、すでに最初のドラが聞こえたと思っていたのです。
ところで、もしジャーヴァス卿がうたれた時、普通の姿勢で机に向っていたとしたら、弾丸はどこへ飛んだでしょう? まっすぐにとび、ドアが開いていたとすればそのドアの所を通り抜けて、ドラに当ったのです。
ミス・カードウェルの証言の重要さがお分りになりましたか。他の人は誰も最初のドラは聞きませんでした。しかし、彼女の部屋はこの部屋の真上で、その音を聞くには絶好の位置だったのです。
ジャーヴァス卿が自殺したという説はこれで成り立ちません。死人が立ち上ってドアを閉め、鍵をかけ、その後で都合のいいような位置に坐りこむというようなことがあり得ましょうか! 何者か他の人物が関係している。となると、これは自殺ではなく殺人です。ジャーヴァス卿の側に立っていても少しも怪しまれない何者かが、彼のわきで彼に話しかけていたのです。きっと、ジャーヴァス卿は書き物に忙がしかったのでしょう。犯人はピストルを彼の頭の右側に当てて一発射ちました。これで一巻の終りです! あとはすばやく立ち廻ればよいのです! 犯人は手袋をはめていました。ドアに鍵をかけその鍵をジャーヴァス卿のポケットにしまいます。しかし誰かにあのドラの大きな音を聞かれはしなかったでしょうか。聞かれていたとすると、ピストルの打たれた時ドアは閉まっていたのではなく、開いていたということが分ってしまいます。そこで、椅子をまわし死体の位置を変え死人の指紋をピストルに押しつけました。そして、わざと鏡をくだいたのです。その後で犯人は窓から出て、窓を強くしめ、草の上にではなく、後で簡単に土をならして足跡の消せる花壇の上に降りました。それから、家の脇をぐるりと廻って客間へ入りました」
彼は一息ついて言った。
「ピストルが発射された時、庭にいた人物はたった一人です。それと同じ人物が花壇に足跡を残し、窓の外に指紋を残したのです」
彼はルスの前に歩み寄った。
「それに動機もありますね? あなたのお父さんはあなたの秘密の結婚のことをお知りになった。彼はあなたを遺産の相続人から除外しようとしたのです」
「それは嘘です!」ルスの声ははっきりと響きわたった。「あなたの話には真実なんかひとつもありません。始めから終りまで嘘ばっかりです!」
「あなたに不利な証拠が揃っています。陪審員はだませるかも知れませんが、証拠をだますことはできませんよ」
「その人は陪審員の前に出る必要はありません」
みな振り向いてびっくりした。ミス・リンガードがすっくと立ち上っている。その顔色は変っていた。そして全身をブルブルふるわせている。
「わたしが彼を射ったんです。わたしはそれを認めます! わたしには理由があるのです。わたしは――わたしは長いこと待っていたのです。ポワロさんのおっしゃる通りでした。彼の後を追ってここまでやって来たのです。わたしはずっと前に机の引出しからピストルを盗んでおきました。わたしは彼の側に立って本のことを話しながら、彼を射殺しました。八時ちょっとすぎの事でした。弾丸はドラに当りました。わたしはまさか弾丸が彼の頭をあんなふうに貫通しようとは思ってもみませんでした。外へ出て行って弾を探す時間はありません。わたしはドアに鍵をかけて、その鍵を彼のポケットに入れました。それから椅子の向きを変え、鏡をわり、紙の上に『すまぬ』となぐり書きしてから、窓から外へ出、ポワロさんがやってごらんになったように窓をしめました。そして、花壇に降りました。しかし、足跡はそこに用意しておいた熊手で消してしまったのです。それからわたしは客間へ入りました。そこの窓を開けたままにしておいたのです。ルスがそこから外へ出ていようなどとはまったく知りませんでした。彼女はわたしが裏手をまわっている間に正面をまわったに違いありません。わたしは熊手を物置に隠さなければならなかったのです。わたしは、誰かが二階からおりてきて、スネルがドラを鳴らすまで、客間で待っていました。そして、それから――」
彼女はポワロを見た。
「それからわたしがなにをしたか、あなたにはおわかりにならないでしょう?」
「いや、わかりますよ。わたしは紙くずかごの中から紙袋をみつけましたよ。なかなか巧妙なトリックでしたね。子供が大好きなことをおやりになったんですね。紙の袋に息を入れてふくらまし、それを叩いてつぶしたのです。そうすると、とても効果的な大きなバーンという音がします。あなたは紙袋をくずかごに捨て、広間へ走り出ました。これで自殺の時間を作り上げたばかりでなく、あなた自身のアリバイまで作ったのです。しかし、あなたには、ひとつ、気にかかることがありました。時間がなくて弾丸を探せなかったことです。それはドラの近くにあるに違いありません。その弾丸は、本来なら、書斎のこわれた鏡のそばに発見されねばならぬものです。いつ盗《と》ったのかはわかりませんが、あなたはバリイ大佐のシャープペンシルを盗り――」
「それはあの時だったんです」ミス・リンガードが言った。「みんなして広間から客間へ入った時でした。わたしはルスがその部屋にいるのをみてびっくりしました。ルスは庭から窓越しに入って来たのだということが分りました。その時、わたしはバリイ大佐のシャープがブリッジテーブルの上に置いてあるのに気がつきました。わたしはそれをそっとバッグの中にしのばせました。もし、後になって誰かわたしが弾丸を拾う所を見ている人があったならば、拾ったのはシャープだと思わせようとしたのです。事実、弾丸を拾う所を人にみられたとは思ってもみませんでした。わたしは、あなたが死体をしらべている間に、その弾丸を鏡のそばに落としておいたのです。あなたがその事をお尋ねになった時わたしはシャープを拾っておいてよかったとほっとしました」
「いや、まったく巧妙な計画でしたね。わたしも完全にまごつかされましたよ」
「わたしは、本物のピストルの音を誰かに聞かれたのではないかとそれが気がかりでした。しかし、わたしには、みな、晩餐のための着替えの最中で、部屋にとじこもっているはずだということが分っていたのです。召使いたちは自分達の部屋に入っている時間です。ミス・カードウェルには聞こえたかも知れないと思いましたが、彼女は車のエンジンのバックファイアだくらいに考えることでしょう。ところが彼女が聞いたのはドラの音でした。わたしはなにもかも支障なくうまくいったと思っていました――」
フォーブス氏はいつもの堅苦しい口調でゆっくりと言った。
「これは驚くべき話ですな、なんの動機も考えられない――」
ミス・リンガードは、はっきりといった。
「動機はあったのです――」
彼女は荒々しく言葉を加えた。
「さあ早く警察に電話をおかけなさい。なにをぼんやりしているのですか?」
ポワロが静かに言った。
「みなさん方、部屋からお出になっていただけませんか? フォーブスさんはリドル少佐に電話をかけて下さい。彼が来るまでわたしがこの部屋に残ります」
ひとりひとり、ゆっくりと家族の者は部屋から出ていった。みな、キョトンとしたり、びっくりしたり、いろいろな表情を浮かべて、直立不動の姿勢をとっている灰色の髪の女におどおどした視線をあびせた。
ルスは最後まで残っていた。彼女は戸口に立ち止ってためらっていた。
「わたしにはよく分かりません」彼女は怒ったようにポワロをにらみつけながらいった。「たった今まで、あなたは、わたしがやったんだと思っていたんでしょう」
「いやいや」ポワロは頭をふった。「そのようなことは考えたこともありません」
ルスはゆっくりと出ていった。
ポワロは、たった今、巧妙に計画された冷血な殺人の告白をしたばかりの小柄な中年婦人と二人きりでその部屋に残った。
「そうなんですね」とミス・リンガードはいった。「あなたは彼女がやったなどとは考えてもいなかったのでしょう。わたしに告白させるつもりで、あの娘を責めたのですね。そうなのでしょう?」
ポワロは頭を下げた。
「こうして待っている間に」とミス・リンガードはポワロに気安く声をかけた。「どうしてわたしをお疑いになったのか、そのわけを聞かせていただけませんか」
「いろいろな事からですよ。まず、ジャーヴァス卿に関するあなたの話からですね。ジャーヴァス卿のような気位の高い男は、彼の甥のことを外部の人間、それもことにあなたのような立場の人間に話したりしないものです。あなたは自殺説を強めようとなさったのですね。またあなたはユーゴ・トレントに関する不名誉なトラブルが自殺の原因になったとほのめかせようとして失敗なさったのです。これなどもジャーヴァス卿のような男が第三者にむかってする話ではありません。それから、あなたが広間で拾ったものがあり、それにルスが庭から客間に入って来たのを知りながら、それにふれなかったという事実があります。そんな時にわたしは紙袋を発見したのです――これは、ハンボロー荘のような家の客間のくずかごにはいっていそうもない代物ではないですか? あなたは、『ピストルの音』のした時、客間にいた、たった一人の人です。紙袋のトリックは、いかにも女性の思いつきそうなものです。ほら、なにもかも、ぴったりするじゃありませんか。ユーゴに罪をきせてルスを傷つけまいとする努力。犯罪のメカニズムとその動機」
小柄な灰色の髪の女はびっくりしたようだった。
「あなたは動機を知っていらしったのですか?」
「わかっていると思うのですがね。ルスの幸福――それが動機でした。あなたは彼女がジョン・レイクと一緒にいる所をごらんになったのでしょう――あなたは二人の間がどのようなものかをお察しになった。そしてジャーヴァス卿の書類にたやすく近づけるのを利用して彼の新しい遺言状の草案をごらんになった――それによると、ルスはユーゴ・トレントと結婚しない限り財産はもらえないことになっています。それを見たあなたはジャーヴァス卿がわたしの所へ手紙を書いたという事実を利用して、自分の手で法を施行しようとした。あなたはその手紙のコピーもごらんになっているのでしょう。彼がどのような疑惑と恐怖の念であの手紙を書いたのか、わたしは知りません。彼はバロウズかレイクが計画的に彼の金を盗んでいると疑ったのでしょう。ルスの感情がどういうものなのかよく分からないので、彼はわたしにプライベイトな調査を頼んだに違いありません。あなたはその事実を利用して、巧みに自殺の舞台を作り上げ、ユーゴ・トレントに関連した何かのことで彼がとても悩んでいるという話をしてこの事件の裏づけをしようとしたのです。あなたはわたしに電報をうち、一方、ジャーヴァス卿にはわたしが遅れるという報告をなさったのです」
ミス・リンガードは荒々しく言った。
「ジャーヴァス・シュヴェニクス・ゴアは、乱暴で、紳士ぶった、鼻持ちならない男です! わたしは、あの男などにルスの幸福をこわされたくはなかったのです」ポワロは穏やかに言った。
「ルスはあなたの娘さんだったのですね?」
「ええ――あの子はわたしの娘です。わたしはよくあの子のことを考えました。わたしはジャーヴァス・シュヴェニクス・ゴアが家系の歴史を書くための助手を探していると聞いて、早速、そのチヤンスにとびついたのです。わたしは娘――わたしの娘に会いたくてたまりませんでした。シュヴェニクス・ゴア夫人には、わたしのことを見わけられないだろうということがわかっていました。わたしはあの女性は好きです。しかし、シュヴェニクス・ゴアの家族は、わたしは大嫌いでした。彼らはわたしを乞食のように取扱いました。そして、ジャーヴァスがその自負心と紳士気どりのために、ルスの一生をめちゃくちゃにしうとしたのです。わたしは、娘だけは幸福にしてやろうと決心しました。これで、娘は幸福になれることでしょう――わたしのことを知りさえしなかったなら!」
それは、質問ではなく――切なる願いの言葉であった。ポワロは優しく頭をさげた。
「わたしは誰にも話しませんよ」
ミス・リンガードは静かに言った。
「ありがとうございます」
その後、警官たちがやって来て帰ってしまった時、ポワロはルス・レイクが夫と一緒に庭にいるのを見た。彼女は挑戦するような口調で言った。
「ポワロさん、あなたは本当にわたしがやったと思っておいでだったのですか?」
「奥様、あなたではないことはわたしにはよくわかっていました。うらぎくのことからわかっていたのですよ」
「うらぎくですか? わかりませんわ」
「奥様、花壇にあった足跡は四つ、たった四つだけでした。しかし、もしあなたが花をつんだのなら、足跡はもっと沢山残っているはずです。つまり、あなたが最初に行った時と二度めに行った時との間に、誰か足跡を消してしまった者がいるということなのです。それをやったのは罪のある人間にきまっています。そして、あなたの足跡は消えなかったのですから、あなたは罪のある人間ではありません。あなたは機械的にシロになったのです」
ルスの顔色が明るくなった。
「わかりましたわ。まったく恐しいことでしたけれど、あの可哀そうな女の人は気の毒でなりませんわ。結局、わたしを逮捕させないために名乗って出たのですからね。とても気高いおこないですわ。わたし、殺人の罪であの人が、裁判にかけられるかと思うと、どうにもたまりません」
ポワロは穏やかに言った。
「気を落してはいけませんよ。ひどいことにはなりませんからね。医者の話によると、あの女性に重い心臓障害があるのだそうです。あの人はあと何週間も生きられはしないでしょう」
「それをうかがってホッとしましたわ」ルスは秋のサフランをつまみ上げて、放心したように、花を頬に当てた。「可哀そうな人。なぜ、あんなことをしたのかしら……」
◆厩街の殺人
登場人物
バーバラ・アレン……死者
ジェーン・プレンダリース……バーバラと同居している女
チャールズ・ラバートンウェスト……バーバラの婚約者
ユーステス大佐……バーバラの知人
ピアス夫人……通いの女中
ジェームズ・ホッグ夫人……バーバラの近所に住む運転手の妻
フレデリック・ホッグ……その息子
ジェームソン警部
ジャップ主任警部
エルキュール・ポワロ
一
「ガイ・フォークス像のために一文くれませんか?」
顔のよごれた子供が、ご機嫌をとるようにニッと笑った。
「だめだめ!」ジャップ主任警部は言った。
「え、きみ、いいかね――」短かい説教がそれにつづいた。うろたえた腕白小僧は、そうそうに退却しながら、仲間の悪童たちに簡潔に言ってきかせた。
「ちくしょう、あれが着飾ったポリ公でなかったらなあ!」
連中はさっと逃げだしながら呪文をはやしたてた。
思いだせ、思いだせ
十一月の五日
火薬反逆陰謀事件を。
理由はないのだ
火薬反逆事件を
いやしくも忘れ去るべき。
主任警部の連れの、卵形の頭の、大きな軍人風の口ひげをはやした、小柄な年輩の男はひとりでニコニコしていた。
「おみごと、ジャップ」と彼は言った。「とてもうまくお説教しましたね! お祝いします!」
「物乞いにけしからん口実だ。これがガイ・フォークス火薬陰謀事件の記念日とは!」〔火薬陰謀事件とは一六〇五年、ジェームズ一世のカトリック迫害に抵抗する一派が企てた議会爆破未遂事件。ガイ・フォークスはその首謀者で、発覚して処刑された〕
「興味ある遺風ですね」とエルキュール・ポワロは感慨をこめて「花火があがる――ポン――ポン――人々の記念する人物とその事蹟が忘れられた、ずっとあとで」
警視庁の男は同意した。
「あの子供らの多くは、ガイ・フォークスがどんな人間だか、実際に知ってるとは思えませんね」
「それに、そのうち、思想が混乱しますよ、きっと。十一月五日に花火をうちあげるのは、お祝いだからか呪いだからか? 国会を爆破するのは罪悪だろうか、高貴な行為だろうか? と」
ジャップはくすくす笑った。
「ある人々は、疑いなく後者だというでしょうね」
本通りから脇道へそれて、二人は比較的しずかな、厩街《ミューズ》へ入った。彼らは晩食をともにして、エルキュール・ポワロのアパートへ近道をとって帰る途中だった。その街路を歩いているあいだも、爆竹の音が周期的に聞えてきた。ときどき、黄金色の雨が夜空をいろどって降りそそいだ。
「殺人にはもってこいの夜です」職業的関心からジャップが口をすべらした。「たとえば、こんな夜なら、銃声は聞えないでしょう」
「現実を利用する犯罪者がもっといてもいいと、いつもおかしく思っていました」とポワアロ。
「知ってますか、ポワロ。あなたが殺人を犯したらなあと、ときどき私が思ってることを」
「これは、これは!」
「そうなんですよ、あなたがどんな方法でやるのか、それを見たいんですよ」
「ねえ、ジャップ、もしわたしが人を殺したなら――どうしてやったか、きみには絶対わからないでしょう! たぶん、殺人が犯されたことすら気がつかないでしょう」
ジャップは機嫌よく愛情こめて笑い、寛大に言った。
「あなたは、うぬぼれの強い、ちょっとした悪魔ですね、そうじゃないですか?」
翌朝十時半に、エルキュール、ポワロの電話が鳴った。
「|もしもし《アロウアロウ》?」
「もしもし、あなた、ポワロ?」
「|ええ、わたし《ウイ・セ・ムア》」
「ジャップです。昨夜バーズレイ・ガーデンズ・ミューズを通って帰ったことを憶えていますか?」
「ええ、それで?」
「それに、ああいう爆竹や引き玉などがポンポン鳴っているときには、人を射つのがどれほどたやすいか、話していたことも?」
「たしかに」
「じつは、あの厩街に自殺があったんです。十四号で。若いやもめが――アレン夫人という。いまから現場へ出かけるところですが、おいでになりますか?」
「失礼ですが、自殺事件にきみのような高官がいつも派遣されるのですか?」
「鋭い方だ。いや――いつもは違います。じつは、この事件には何か変なところがある、と警察医が考えているらしいのです。おいでになりますか? あなたが関係すべきだという予感がするのです」
「必ず行きます。十四号ですね?」
「そうです」
ポワロがバーズレイ・ガーデンズ・ミューズ街十四号に着くのと、ジャップと警官が三人乗った自動車が停まるのと、ほとんど同時だった。十四号が興味の中心になっていることは一目でわかった。運転手やその細君、使い走りの少年や浮浪者、いい身なりの通行人、それにおびただしい数の子供たちが詰めかけていて、口をぽかんと開けて魅せられたように十四号をみつめていた。
制服の警官がひとり、踏み段に立って野次馬どもを懸命に制していた。すばしっこそうな青年たちがカメラを持って飛び回っていたが、ジャップが降りると、いっせいに押し寄せてきた。
「いまのところは何もないよ」ジャップはあっさり彼らを払いのけると、ポワロにうなずいた。「来ましたね。中へ入りましょう」
彼らは急いで入った。ドアがうしろで締まると、ふたりはハシゴ形の昇り階段の足もとに押し込まれていることが判った。階段の上に男が現われて、ジャップと知って呼びかけた。
「こちらへお上がりください」
ジャップとポワロは階段を昇った。階段の上の男が左にドアを開けると、そこは狭い寝室だった。
「要点をあらまし申しあげましょうか」
「聞こう、ジェームソン。どんな具合だ?」とジャップ。
署つき警部のジェームソンは話をはじめた。
「死者はアレン夫人といいます。ここに友達――プレンダリース嬢――といっしょに住んでいました。プレンダリース嬢は田舎へ行っていて、けさ帰宅しました。彼女は自分の鍵で入ったのですが、誰もいないのでびっくりしました。いつも用足しに女がひとり、九時に来ることになっているのです。彼女は上にあがって、まず自分の部屋(それがここです)に入り、つづいて、踊り場を通って、友人の部屋へ行きました。ドアは内側から錠が下りていました。彼女は把手をガチャガチャやり、ノックして呼びましたが、答えがありません。ついに不安にかられて、彼女は署へ電話しました。それが十時四十五分です。われわれはすぐに駈けつけ、ドアを押し破りました。アレン夫人は頭を射抜かれて、床の上にまるくなって倒れていました。その手に自動拳銃――ウェブリ・二五口径――があり、明白な自殺事件に見えました」
「プレンダリース嬢は、いま、どこにいる?」
「階下の居間にいます。すこぶる冷静で、キビキビした若い女性です。しっかりしたものです」
「彼女と話するのはあとまわしだ。さきにブレットに会ったほうがいい」
ポワロを連れて、彼は踊り場を通って向い側の部屋へ行った。背の高い年輩の男が顔をあげてうなずいた。
「やあ、ジャップ、よくきたね。へんな事件だよ、これは」
ジャップは彼に近寄った。エルキュール・ポワロは素早く探るような視線を部屋中に走らせた。それは、ふたりがいま出てきた部屋よりも、だいぶ大きい部屋だった。張出し窓がついて、片方の部屋が単に寝室専用だったのに対し、ここは同じ寝室でも、明らかに居間兼用だった。
壁は銀色で、天井はエメラルド・グリーンだった。銀と緑のモダンなカーテンが垂れていた。チラチラ光るエメラルド・グリーンの絹の上掛けをかけた低い長椅子には、金と銀との座ぶとんが沢山のせてあった。古風なクルミ材の高い大机や、クルミ材のたんす、クローム製のキラキラ輝くモダンな椅子もいくつかあった。低いガラスのテーブルには、巻きタバコの吸殻でいっぱいの大きな灰皿がのっていた。
そっと、エルキュール・ポワロは空気を嗅いでみた。それから、立ったまま死体を見下ろしているジャップのそばへ寄った。床の上に、二十七才見当の女の死体が、クローム製の椅子の一つから落ちたかのように、まるくなって横たわっている。金髪で、せんさいな顔だちだった。化粧はほとんどしていなかった。愛くるしいが沈うつな、恐らくは少しつまらない顔だった。頭の左側に、血が凝結して固まっていた。右手の指は小型のピストルに捲きついていた。暗緑色の簡単なドレスを首まですっぽり着ていた。
「じゃ、ブレット、何が問題なんだ?」
ジャップは、まるくなった死体を見下したまま訊ねた。
「姿勢はいい」医師が答えた。「自分で射ったのなら、たぶん、その椅子からすべって、その姿勢になるだろう。ドアには錠がおりていたし、窓は内側から締まっている」
「なるほど、それは問題ない。じゃ、なにがいけないんだ?」
「ピストルを見たまえ。私はさわっていない――指紋係を待ってるんだ。だが、私のいう意味はよくわかるはずだ」
ポワロもジャップも、ひざまずいてピストルをつくづく吟味した。
「きみのいう意味がわかった」ジャップは立ち上がって「問題は手の曲げ具合にある。彼女が握っているように見えるがじつはつかんでいない。ほかに何か?」
「たくさんある。彼女はピストルを右手に持っている。ところで、傷を見たまえ。ピストルは頭の間近から、ちょうど左耳の上を射ったのだ――左耳だよ、いいかね」
「フム」とジャップは「それは決定的だな。右手では、あの位置からピストルを構えて発射できないんだね?」
「ぜんぜん不可能だといわざるを得ない。腕をまわすことはできようが、発射できるかどうか怪しいものだ」
「それじゃ、判りきったようなものだね。だれか別人が、彼女を射って、自殺に見せかけようとしたのだ。だが、閉ざされたドアや窓はどうなる?」
ジェームソン警部がこの答えを出した。
「窓は閉ざされてボルトで締められていました。だが、ドアに錠が下りていたのに、鍵がまだ見つからないのです」
ジャップはうなずいた。
「うん、そいつは犯人の失態だな。だれがやったにしろ、立ち去る際にドアに錠を下ろして、鍵のないことに気付きやせんと、たかをくくっていたのだな」
ポワロがぶつくさいった。
「そんなバカな!」
「ああ、まあまあ、ポワロ、自分の輝かしい知性を基準にして他人を判断してはいけない! じじつ、こんなごく些細なことは、まったく見落としがちですよ。ドアの錠は下りている。人々が押し入る。女が死んでいる――手にピストル――明らかに自殺――自殺するため自分で錠を下ろしたのだ。だれも鍵を捜そうとはしない。実際、プレンダリース嬢が警察を呼んだのは幸運でした。彼女は運転手を一人か二人呼んで、ドアを破ってもよかったのですが――その場合には、鍵の問題はぜんぜん見落とされてしまったでしょう」
「そう、それは事実でしょうね」とエルキュール・ポワロは「多くの人々は当然そうしたでしょう。彼らはせっぱつまらなければ警察を呼ばない、そうじゃないですか?」
彼は依然として死体をみつめていた。
「なにか不審の点でも?」ジャップが訊ねた。
「彼女の腕時計を見ているのです」
彼は前にかがんで、指先でちょっと腕時計にさわった。それは黒い雲紋の革バンドつきの、しゃれた石入りの時計で、ピストルを持つた手くびに巻いてあった。
「それは高級品のようですね。ずいぶん金がかかったに違いない!」それからジャップは、ポワロに不審そうな顔を向けて、「それが、何か?」
「あり得ることだ――そう」
ポワロは書きもの用の大机に近づいた。垂れ蓋を前に下ろせるようになっている机で、部屋全休の色彩設計と調和するように苦心して配置されていた。重たげな銀のインクスタンドが、机の中央、きれいな緑色のうるし塗りの吸取器の前に置いてあった。その吸取器の左側にはエメラルド色のガラスのペン皿が置いてあって、なかには、銀色のペン軸が一本――それに、緑色の封蝋の棒、鉛筆、二枚の切手などが入っていた。吸取器の右側には、曜日、日付、月を表わした移動できるカレンダーが置いてあった。それに、玉虫色のガラスの小びんがあって、あざやかな緑色の鵞《が》ペンが、そのなかに突立っていた。ポワロは、そのペンに興味を抱いたらしい。手にとって見たが、その鵞ペンにはインクがついていなかった。明らかに飾りであって――それ以上の何ものでもなかった。インクでよごれたペン先がついている銀のペン軸が、使われていたものだった。
彼の眼はカレンダーのほうへ向いた。
「十一月五日、火曜日」とジャップが「きのうだ。ぜんぜん異状なし」
彼はブレットのほうへ向き直った。
「死後どれくらい?」
「彼女の殺されたのは昨夜の十一時三十三分だ」ブレットは素早く答えた。
ジャップのびっくりした顔つきをみると、彼はニヤッと笑って言った。
「ごめん、ごめん。小説中の超人医師だったらなあ! 実際は、十一時ごろ――プラスマイナス各一時間の開きがある――としかいえないね」
「あ、腕時計が止まっていたとか――なにかそんなことかと思った」
「たしかに止まってはいるがね、四時十五分で止まっているよ」
「四時十五分に殺されたんじゃなかろうね」
「そいつは問題外だ」
ポワロは吸取器の表面の吸取紙に視線を戻した。
「いい考えですね」とジャップ。「だが、運が悪い」
表面の吸取紙は全く白紙のままだった。ポワロは一枚一枚めくってみたが、全部同じことだった。彼は紙屑かごに注意を向けた。引き裂かれた二三通の手紙や案内状が入っていた。二つに裂いただけなので、元通りにするのは造作もなかった。ある退役軍人援助団体からの寄付の要請、十一月三日のカクテル・パーティの招待、婦人服屋との予約。案内状はデパートからの毛皮の大売出しの予告とカタログだった。
「なんにもない」とジャップ。
「いや、これはおかしい……」とポワロ。
「自殺なら遺書をのこすのが当然だ、という意味ですか?」
「そのとおり」
「要するに、自殺ではないという証拠が、また一つ!」
彼はそばを離れた。
「さあ、部下に捜査をはじめさせよう。私たちは階下へおりて、プレンダリース嬢と会ったほうがいい。来ますか、ポワロ?」
ポワロは書きもの机とその装具類に、まだ心を奪われている様子だった。
彼は部屋を出たが、ドアのところでもう一度ふりかえって、派手な鮮緑色の鵞ペンのほうを見た。
二
せまい階段の足もとのドアをあけると、そこは広い居間――実際は厩を改造した部屋――だった。あらい漆喰塗りの壁に銅版画や木版画がかかっていて、なかに人がふたり坐っていた。
ひとりは、暖炉の近くの椅子に腰かけて、のばした手を炎にかざしている、二十七八歳の色の浅黒い、キリリとした様子の、若い女だった。もひとりは、細長いバッグを持った年寄りの肥った女で、ふたりの男が部屋へ入ってきたときには、ゼイゼイいいながら、しゃべっていた。
「――それで、いったように、お嬢さん、足もとが崩れて倒れるかと思うくらい驚きましたよ。それで、考えてみると、朝という朝のなかでけさみたいな朝には――」
相手はテキパキとさえぎった。
「そうでしょうね、ピアスさん。こちらの紳士がたは警察のかたらしいですわ」
「プレンダリースさんですね?」ジャップが進みでた。
娘はうなずいた。
「そうです。こちらは、毎日わたしたちの用足しに来られるピアス夫人です」
ピアス夫人が抑えきれずに、またもやしゃべりだした。
「わたし、プレンダリースさんにお話していたように、考えてみると、朝という朝のなかでけさみたいな朝には、妹のルイザ・モードなら発作を起こしたでしょうし、そうなると、手近かの人間はわたしひとりだし、アレン夫人が気にするとは思えないし、もっとも、みなさんがたを落胆させるのは決して好まないんですが――」
ジャップがなかなか巧みに割って入った。「全くそうです、ピアスさん。ところで、ジェームソン警部をお勝手へ連れていって、彼にちょっとお話をしてくださいませんか」
彼女はひっきりなしにしゃべりながら、ジェームソンといっしょに出ていった。こうして饒舌屋のピアス夫人を追い払うと、ジャップは再び注意を娘に向けた。
「私はジャップ主任警部です。さて、プレンダリースさん、この事件について、知っていることをすっかりお話し願いたいのですが」
「承知しました。どこから始めましょうか?」
彼女の沈着ぶりは称賛にあたいした。悲嘆とかショックとかのかげは全然みえず、ただ、その態度が不自然なほど硬張《こわば》っていただけだった。
「けさ、お帰りになったのは何時でした?」
「十時半ちょっと過ぎだったと思います。ピアスさんが、自分ではあんなこといっていますが、見えなかったので、わたしは――」
「よくあることなのですか?」
ジェーン・プレンダリースは肩をすくめた。
「週に二回ぐらいは十二時に現われたり――ぜんぜん来なかったりするんです。九時に来ることになっているのに。実際、週に二回は、彼女の『気分が悪く』なったり、だれか家族のひとりが急病にかかったりするんです。こういう通いの女って、みなそんなものです――ときどき怠けるのです。あのひとはましなほうですわ」
「ながらく彼女をおつかいですか?」
「一カ月ちょっとです。前のひとは物を盗みました」
「あとを続けてください、プレンダリースさん」
「タクシーに料金を払い、スーツケースを持って入って、ピアスさんを探しましたが見当らないので、階上の自室へあがりました。ちょっと片づけて、バーバラ――アレン夫人――の部屋へ行ったのですが、ドアに錠が下りていました。ハンドルをガチャガチャやってノックしましたが、答えがありません。下におりて警察へ電話しました」
「|しつれい《パルドン》!」ポワロがすばやく巧みに質問をはさんだ。「ドアを破ってみようという気は起こりませんでしたか――この街に住んでいる運転手たちのひとりに助けてもらって?」
彼女の眼が彼のほうを向いた――冷静な灰緑色の眼だった。その視線は彼をすばやく値ぶみして通りすぎたようだった。
「いいえ、それは思いつかなかったんです。なにかよくないことがあったら、警察を呼ぶものだと思っていました」
「それでは――失礼ですが、お嬢さん――なにかよくないことがあった、とお考えになったのですね?」
「あたりまえですわ」
「ノックしたのに答えがなかったからですね? でも、お友だちは、睡眠剤かなにか、そんなものを服《の》んだのかもしれず――」
「あのひとは睡眠剤なんか服んでいませんでした」
この返答は鋭かった。
「あるいは、彼女が外出中で、出かける際に自分でドアに錠を下ろしたのかもしれなかったでしょう?」
「なぜ錠を下ろす必要があります? いずれにしろ、あのひとはわたしにメモを残したはずです」
「しかるに、彼女はメモを残していなかったのですね? それは確かですか?」
「もちろん、確かです。あれば、すぐわかったはずです」
彼女の口調はますます鋭くなった。ジャップが口をだした。
「鍵穴からのぞこうとはしなかったのですか、プレンダリースさん?」
「しませんでした」ジェーン・プレンダリースは考えこみながら「それは考えつきませんでした。でも、なにも見えなかったでしょうね? 鍵が内側に差してあったんでしょう?」
無邪気に大きく見開いた彼女の不審げな凝視が、ジャップの視線とかち合った。
ポワロは不意にひとりで微笑した。
「あなたのなされたことは至極当然です、もちろん、プレンダリースさん」とジャップは「お友だちが自殺しそうだった気配はなかったのでしょうね?」
「あら、ありませんわ」
「悩んでいたとか――なにか心配ごとがあったとかいう様子はなかったですか?」
娘はちゅうちょ――ほんのわずか、ちゅうちょして返事した。
「ございません」
「彼女がピストルを持っていたことを知っていましたか?」
ジェーン・プレンダリースはうなずいた。
「ええ、あのひとはインドで手に入れたのです。いつも自室の抽出しに入れてありました」
「フム。許可状はありましたか?」
「あったと思います。確かなことは知りませんが」
「ところで、プレンダリースさん、アレン夫人についてご存知のことをすっかりお話し願いたいのです。知り合ってからどれくらいとか、親類はどこにいるとか――要するに全部を」
ジェーン・プレンダリースはうなずいた。
「バーバラを知ってから五年以上になります。はじめて会ったのは海外旅行中で――正確にはエジプトでです。あのひとはインドから帰国する途中でした。わたしはアテネの英国人学校にしばらくいて、帰国前にエジプトへ数週間きていたのです。ふたりはナイル河の遊覧船で知り合いました。ふたりは親しくなり、たがいに好き合いました。当時、わたしは、貸し間か小さな家にいっしょに住む、同居人を探していました。バーバラはひとりぼっちでした。わたしたちは仲よくいっしょに暮らせると思いました」
「それで、仲よくいっしょにお暮らしになったのですね?」とポワロが訊ねた。
「とても仲よく。わたしたち、おたがいに自分の友達を持っていました――バーバラは好みが社交的でしたし――わたしには芸術的な友人が多かったのです。それだから、たぶん、かえってうまくいったのです」
ポワロはうなずいた。ジャップが続けた。
「アレン夫人の家族とか、あなたに会う前の生活とかについて、どんなことをご存知ですか」
ジェーン・プレンダリースは肩をすくめた。
「本当はあまりよく知らないんです。あのひとの結婚前の姓は、たしか、アーミテジといいました」
「彼女のご主人は?」
「記録しておくほど値打ちのある男じゃなかったようです。酒飲みだったんでしょう。結婚して一年か二年で死んだようです。子供が一人、女の子でしたが、三歳でなくなりました。バーバラはご主人のことはあまり話したがりませんでした。あのひとは十七歳ぐらいのときにインドでご主人と結婚したはずです。それから、ふたりはボルネオかどこか、あなたがたが、やくざ者を追放するような僻地へ行きました。――でも、この話題は非常に苦痛ですから、おはなししたくないのです」
「アレン夫人が金銭上で困っていたかどうか、ご存知ですか?」
「いいえ、あのひとはお金にはちっとも困っていませんでした」
「借金とか――そんなものはなかったのですか?」
「あら、ありませんとも! そんな厄介ごとは絶対にありませんでした」
「ところで、も一つ別の質問をせねばなりませんが――心を乱されないように願います。プレンダリースさん、アレン夫人には特別の男友達がいませんでしたか?」
ジェーン・プレンダリースは冷静に答えた。
「さあ、あのひとは婚約してましたわ。これで、ご質問の答えになりますかしら」
「婚約していた男の名前は?」
「チャールズ・ラバートンウェストです。ハンプシャーのどこかの出身の下院議員です」
「彼女がその男と知り合って、どれくらいになります?」
「一年ちょっとです」
「そして、その男と婚約していた――いつごろから?」
「二――いいえ――三カ月ちかくになります」
「あなたの知っている限りで、喧嘩みたいなものはありませんでしたか?」
プレンダリース嬢は首を横に振った。
「ありません。もしそんなことがあったのなら、きっとびっくりしましたわ。バーバラは人と争うような女ではありませんでした」
「アレン夫人をあなたが見たのは、いつが最後でした?」
「先週の金曜日、わたしが週末旅行に出かける直前です」
「アレン夫人は街に残ったのですね?」
「そうです。日曜日に婚約者と外出する予定でした」
「それで、あなたはどこで週末を過ごしたのですか?」
「エセックスのレーデルスのレーデル館でした」
「いっしょに週末を過ごされた人々の名前は?」
「ベンチンク夫妻です」
「けさ、そちらを立ったばかりなのですね?」
「ええ」
「非常に朝はやく出発されたのでしょうね?」
「ベンチンクさんが自動車で送ってくれました。あのかたが十時に下町へ行かねばならなかったので、早立ちしたのです」
「わかりました」ジャップは納得してうなずいた。プレンダリース嬢の返答はてきぱきして、得心のいくものばかりだった。
かわってポワロが質問をはじめた。
「ラバートンウェスト氏についてのご見解は?」
娘は肩をすくめた。
「それが重大関係がありますの?」
「いいえ、おそらくは重要ではないでしょうが、あなたのご意見をうけたまわりたいのです」
「どんなことにしろ、彼のことを特に考えた覚えはありません。彼は若くて――三十一、二以下でしょう――野心家で――優れた演説家で――出世を目論んでいます」
「それはいい面についてですね! それでは悪い面については?」
「そうですね――」プレンダリースはちょっと考えて「わたしの考えでは、彼は平凡です――彼の考えはとくべつ独創的ではないし――それに少しもったいぶっています」
「そんなことは重大な欠点ではありませんよ、お嬢さん」といって、ポワロは微笑んだ。
「あなたはそうお思いになりませんの?」
こういった彼女の口調は、やや皮肉的だった。
「あなたには欠点に見えるのでしょう」
彼は彼女をみつめつづけていたが、彼女にちょっとひるんだ色が見えた。彼はすかさず追求した。
「しかし、アレン夫人には――いや、彼女は欠点に気付かなかったでしょう」
「おっしゃる通りですわ。バーバラは彼をすばらしい男だと思っていました――彼をまったく額面どおりに受け取っていたのです」
ポワロはやさしくたずねた。
「お友達が好きだったのですね?」
彼女の膝の上の手がキュッと握りしめられ、そのあごの線が硬張つたのがポワロにわかったが、それでも、彼女は激情の色のない、そっけない声で答えた。
「おっしゃる通りです。好きでした」
ジャップが話しかけた。
「もう一つだけおききします。プレンダリースさん。あなたは彼女と喧嘩されませんでしたか? おふたりの間に不和はありませんでしたか?」
「なんにも」
「この婚約のことについても?」
「絶対に。これであのひとが幸福になれると喜んでいました」
ちょっととぎれたが、やがてジャップがたずねた。
「あなたの知っている限りで、アレン夫人には敵がありましたか?」
今度は、ジェーン・プレンダリースが答えるまで、はっきり時間がとぎれた。彼女が答えたときには、その口調がほんの少しだけ変わっていた。
「敵といわれた意味が全然わかりませんが?」
「たとえば、彼女の死によって利益を受ける人々は?」
「あら、ありませんわ、それはバカげたご質問です。どのみち、ごくわずかの収入しかなかったんです」
「それで、その収入を継ぐのは誰です?」
ジェーン・プレンダリースは、かるく驚いたような声で答えた。
「わたし、本当に知らないんです。もし、それがわたしだったとしても、別に驚きはしません。つまり、あのひとがそういう遺書を作っていても」
「ほかの意味でも敵はなかったのですか?」ジャップは素早く別の面ヘホコ先を向けた。「彼女に恨みを抱いていた人などは?」
「あのひとに恨みを抱く人がいたとは考えられません。あのひとはとても優しくて、いつも人を喜ばせようとしていました。本当に優しく愛すべきひとでした」
はじめて、そのかたい、そっけない声が少し乱れた。
ジャップが口をひらいた。
「それでは、結局こうなりますね。――アレン夫人は最近元気がよかった、彼女は金銭問題で困っていなかった、彼女は婚約していて、しかもこの婚約で幸福だった。彼女を自殺に追いやる理由は何もなかった。これでいいんですね?」
ほんのちょっとためらったようだったが、彼女は答えた。
「はい」
ジャップは立ち上った。
「失礼します、ジェームソン警部と話をしなければなりませんので」
彼は部屋を出ていった。
エルキュール・ポワロはジェーン・プレンダリースと差し向いで残された。
三
しばらくは沈黙がつづいた。
ジェーン・プレンダリースはチラッと値ぶみするように小男を一べつしたが、その後は眼前を見つめたきりで口を利かなかった。とはいえ、彼の存在を意識して、あるていど神経を張りつめているのは明らかだった。からだはじっとしていたが、くつろいでいなかった。ついに、ポワロが沈黙を破ったときには、彼の声が聞えただけで、彼女は何となくホッとしたらしかった。ここちよい平常の声で彼は質問した。
「暖炉に火をつけたのはいつですか、お嬢さん?」
「火?」ぼんやりした、上の空みたいな声だった。「あ、けさ、帰ってすぐです」
「上にあがる前ですか、後ですか?」
「前です」
「わかりました。そう、当り前ですね……それから、火をたく用意はしてありましたか――それとも、あなたが用意せねばならなかったのですか?」
「用意は出来ていました。マッチをするだけでよかったのです」
彼女の声は、かすかにいらだっていた。明らかに、彼女は、この会話をはじめた彼を疑っていた。おそらくは、それが彼の狙いだったのだろう。それはとにかく、彼は穏やかな会話口調でつづけた。
「でも、お友達は――彼女の部屋にはガスストーブしか見当りませんでしたが?」
ジェーン・プレンダリースは機械的に答えた。
「石炭をくべるのはこれだけです――ほかは全部ガス火ですわ」
「それでは、あなたもお料理はガスで?」
「今日では、だれもがそうだと思いますわ」
「全くです。よほど労力の節約になりますからね」
短かいやりとりは消えてしまった。ジェーン・プレンダリースは足で床をコツコツ叩いていた。と、不意に彼女は話しかけた。
「あのかた――ジャップ主任警部さん――は腕ききという評判ですか?」
「あの男は非常にしっかりしています。さよう、評判がいいですね。彼は労を惜しまずよく働き、めったにものを見逃がしません」
「どうですか――」娘はつぶやいた。
ポワロは彼女をみつめた。彼の眼は炉火をうけて鮮やかに緑色に見えた。彼はおだやかにたずねた。
「非常なショックだったでしょう、お友達の死は?」
「とても」彼女はそっけないが真心こめて答えた。
「予期されていましたか?」
「もちろん、していませんでした」
「では、たぶん、はじめ、不可能だ――あり得ないことだと思われたでしょうね?」
彼のおだやかな同情に満ちた口調に、彼女の心もいくらか打ち解けてきたらしい。固苦しさが消えて、彼女は熱心に素直に返答した。
「お言葉どおりです。たとえバーバラが自殺するとしても、あんな風に自殺するとは想像もつきませんでした」
「ピストルを持っていても?」
ジェーン・プレンダリースはじれったそうな身振りをした。
「ええ。でも、あのピストルは――あ! 前世紀の遺物ですわ。あのひとは人目につかぬ隅っこに押しこんでいました。あのひとはあれを全く無視していました――どんな意味合いからも。それは確かです」
「なるほど! でも、どうしてそれに確信がもてるのです?」
「あ、あのひとの言葉からです」
「たとえば――?」
彼の声は非常にやさしく親しげで、彼女をたくみに引きこんだ。
「そうですわね、たとえば、あるとき二人で自殺について議論していたら、最もたやすい方法はガスの栓をひねり、すきまを全部ふさぎ、ベッドへ行くだけでいいのだ、と彼女がいいました。それは不可能のように思う、とわたしがいいました。すると、あのひとは、そうじゃない、自分にはピストル自殺はできない、と答えました。失敗したら、おびえきって結局自殺できなくなるし、いずれにせよ銃声が嫌いなのだ、ともいいましたわ」
「わかりました」とポワロは「あなたのいう通り、おかしいですね……なぜなら、いまいわれたように、彼女の部屋にはガスストーブがあるのですから」
ジェーン・プレンダリースは彼をみつめた。ちょっとびっくりしたようだった。
「そう、そうですわね。……わたしにはわかりません……ええ、なぜあのひとがあんな方法で自殺したのか、わたしにはわかりません」
ポワロは首を振った。
「そうですね、あれは――妙です――なんとなく不自然です」
「事件全体が不自然です。いまだに、あのひとが自殺したとは信じられないのです。自殺に違いないのでしょうね?」
「そうですね、も一つ別の可能性があります」
「どういう意味ですの?」
ポワロは彼女をヒタとみつめた。
「これは――殺人かもしれません」
「えっ、まさか?」ジェーン・プレンダリースはしりごみした。「あら、まさか! なんて恐ろしい思いつきでしょう」
「恐ろしいかもしれませんが、それは不可能だと思いますか?」
「でも、ドアには内側から錠が下りていたのです。窓も締まっていました」
「ドアに錠が下りていた――さよう。しかし、錠を下ろしたのは内側からか外側からか、証拠はなにもないのですよ。いいですか、鍵が紛失しているのです」
「でも、それじゃ――なくなっているのなら……」ちょっと間をおいて「それなら、外側から錠を下ろしたことになりますわね。さもなければ、どこか部屋のなかにあるはずです」
「なるほど。しかし、まだわかりませんよ。いまのところ、部屋を徹底的に調べあげたわけじゃないんですからね、いいですか。あるいは、窓から鍵を外へ投げ捨てて、だれかが拾ったのかもしれませんしね」
「殺人!」こういって、ジェーン・プレンダリースはその可能性を熟考した。その浅黒いキリリとした顔は、一心に手掛りを追っていた。
「そうですわ――あなたが正しいと思いますわ」
「だが、殺人なら、動機があるはずです。動機について、なにかご存知ですか、お嬢さん?」
ゆっくりと彼女は首を横に振った。それでも、否定のかわりに、ジェーン・プレンダリースが何かを隠しているという印象を、ポワロはここでも受けた。ドアが開いて、ジャップが入ってきた。
ポワロが立ち上がって言った。
「プレンダリースさんに提案していたのですが。彼女のお友達の死は自殺ではないと」
ジャップはちょっと困った様子だった。彼は非難がましい一べつをポワロに投げた。
「なにごとも断言するにはちょっと早すぎるのですが――」と彼は「われわれは、いつも、あらゆる可能性を勘定に入れることにしているのです。いまいえるのはそれだけです」
ジェーン・プレンダリースはおとなしく返答した。
「わかりました」
ジャップは彼女に近づいて言った。
「ところで、プレンダリースさん、これを見たことがありますか?」
彼は手のひらに暗青色のホウロウの、小さな楕円形のかけらをのせて差し出した。
「いいえ、いちども」
「あなたかアレン夫人のものではないんですか?」
「ちがいますわ。それは、普通、わたしたち女性の身につけるものではありません、そうでしょう?」
「ああ! では、これがおわかりですね?」
「ええ、明らかじゃありません? それは殿方用のカフスボタンの半片ですわ」
四
「あの若い女は、あまりに生意気すぎる」
ジャップが、ぶつくさいった。ふたりは再びアレン夫人の寝室に戻っていた。死体は写真がとられて移され、指紋係は仕事をすませて帰っていた。
「彼女をバカもの扱いするのは不適当でしょう」ポワロは同意した。「あの女は絶対にバカじゃありません。実際、彼女はとくべつ利口で有能な若い女性ですね」
「彼女がやったのだと考えますか?」ジャップはハッといちるの望みを抱いてたずねた。「可能性はありますよ。彼女のアリバイを調べる必要がある。例の若い男――あの少壮下院議員の件で喧嘩したのかもしれません。彼女は彼については、手厳しすぎたようだ! どうも、くさい。むしろ、彼女が彼に恋をして、彼が彼女を振ったかのようです。やりたかったら誰でも殺す、しかも冷静にやってのけられるたちの女ですよ、彼女は。そうだ、あのアリバイを調べねばならない。彼女は自分のアリバイを非常によく知りすぎていたし、エセックスはそう遠い所ではないし、列車は沢山ある。ないしは速い自動車だって。昨夜、彼女が、たとえば頭痛でベッドへ引込んだかどうか、というようなことを探りだす値打ちがありますよ」
「そのとおりですね」ポワロは同意した。
「それはともかく――」とジャップはつづけて「彼女はわれわれに隠しごとをしている。え? あなたもそういう感じがしませんか? あの若い女は何かを知っていますよ」
ポワロは思案しながらうなずいた。
「そう、それは明らかに見受けられました」
「こんな事件では、いつもそれが障害になるのです」ジャップはこぼした。「人々が口をつぐみたがるのです――ときには、全く申し分ない動機から」
「それに対しては、とがめだて出来そうにありませんね」
「ええ。しかし、そのため、われわれのほうは、ますます困難の度を加えるのです」ジャップはぐちをこぼした。
「なあに、そのため、あなたの才智がひときわ引き立つんです」ポワロがなぐさめた。「ついでですが、指紋についてはどうでした?」
「ええ、これは確かに殺人ですよ。ピストルには指紋が一つもありません。彼女の手に持たせる前に、きれいに拭き去ったのです。たとえ、彼女が何か驚くべきアクロバットみたいなやり方で頭をぐるりと回して腕をくねらせ得たとしても、ピストルを握りもしないで射てるはずがないし、死んでから自分で拭くこともできません」
「そうです、そうです、明らかに外部の力が働いたことを示しています」
「さもなければ、指紋が消えるはずがありません。ドアのハンドルにもない。窓にもない。暗示的ですね、え? そこらじゅうにアレン夫人の指紋が沢山のこっているというのに」
「ジェームソンは何か得るところがありましたか?」
「通いの女中からですか? ありません。あの女はずいぶんしゃべりましたが、本当はあまりよく知らないんです。アレン夫人とプレンダリースが仲よしだったことを確認しただけです。この街の聞き込みにジェームソンをやりました。ラバートンウェスト氏とも話をしなければなりません。咋夜、彼がどこにいて何をしていたか、探りだすのです。それまで、彼女の書類に目を通しましょう」
それ以上なにごともなく、彼は捜査にとりかかった。おりおり、彼はぶつくさいいながらポワロのほうへ何かをほおってよこした。捜査は長くかからなかった。机には書類がたいしてなく、あったものはキチンと整理されて付箋《ふせん》がついていた。ついに、ジャップは背伸びをして太息をついた。
「たいしてありませんね?」
「そのとおり」
「たいていは、まともなものです――領収証、未払いの請求書が少し――とくに目立つものは何もありません。社交的なものは――招待状。友人からの短信。それに――」と七八通の手紙の上に手を置いて「――小切手帳と銀行通帳。これで、何か発見しましたか?」
「うん、彼女は借り越しになっています」
「ほかには?」
ポワロは微笑した。
「わたしを試しているのですか? でも、そう、きみの考えていることは判っています。三月まえに二百ポンド自分あてに振出しているし――さらに、きのう二百ポンド引出した――」
「しかも、小切手帳の控えには記入がない。少額――十五ポンドどまり――のものしか、自分あての小切手の控えがない。それに、いっときますが――この家には、そんな大金は置いてないんです。ハンドバッグは四ポンド十シリングと、ほかのバッグに一、二シリングしかありません。かなり明白だと思います」
「彼女はそのお金をきのう支払った、という意味ですね」
「そうです。それでは、誰に支払ったのでしょうか?」
ドアが開いて、ジェームソンが入ってきた。
「あ、ジェームソン、何かあったかね?」
「はい、いくつか。はじめに、実際に銃声を聞きつけた者はひとりもいません。二、三人の女は聞いたそうですが、それは聞いたと思いたいからのことで、要するにそれだけのことです。なにしろ、あの花火や爆竹の音では、ごく僅かのチャンスもなかったわけです」
ジャップはぶつくさいった。
「そうだろうな。あとを続けろ」
「アレン夫人は、きのう午後から夕方にかけて、ちょっとは外出しましたが、おおむね家にいました。五時ごろ外から戻ってきて、六時ごろまで外出しましたが、この街路の端のポストまで行っただけです。九時半ごろ自動車――スタンダード・スワロウのサルーン型――が停まり、男がひとり降りました。四十五歳ぐらいの、パリッとした軍人風の紳士で、紺のオーバーに山高帽をかぶり、歯ブラシみたいな口ひげがあったそうです。十八号に住む運転手のジェームズ・ホッグの話では、その男がアレン夫人を訪れたのを以前に見たことがあるそうです」
「四十五歳か」とジャップは、「ラバートンウェストじゃなさそうだ」
「それが誰だったにせよ、この男は一時間ちょっと足らずのあいだここにいました。十時二十分ごろ立ち去っています。戸口で立ち留まって、アレン夫人に言葉をかけました。子供のフレデリック・ホッグが、そのすぐそばをうろついていて、彼の言葉を聞いています」
「なんて言ったんだ」
「『じゃ、よく考えて知らせてください』すると、彼女がなにかいって、彼がこう答えました。『結構。さようなら』それから、男は自動車に乗って去っていったのです」
ジャップは鼻をこすった。
「じゃ、十時二十分には、まだアレン夫人は生きていたのだ」と言って「次は?」
「もう何もありません、私の知り得たところでは。二十三号に住む運転手は十時半に帰って、子供たちに花火をあげてやろうと約束しました。子供たちは彼があげるのを待ち構えていました――この街のほかの子供も全部。彼は花火をあげてやり、ぐるりに集まった者はみな一心に花火を見ていました。そのあとで、みなベッドにつきました」
「それで、その男のほかには十四号へ入った人間を見なかったのだな?」
「ええ――しかし、彼らは見なかった、とはいえません。そんな人間がいたとしても、気付かなかったでしょう」
「フム」とジャップは「それは本当だ。じゃ、この『歯ブラシみたいな口ひげの軍人風の紳士』をつかまえねばならん。この男が彼女の生きているのを見かけた最後の人間だ、ということは確からしい。いったい、この男は誰だろう?」
「プレンダリース嬢が教えてくれるかもしれません」とポワロが提案した。
「そうかもしれません」ジャップは陰うつに「その一方、教えてくれないかもしれないのです。彼女がその気になれば、ずいぶん沢山話してくれることは疑いないんですが。あなたはどうなんです、ポワロ? あなたはしばらく彼女と差し向いでいました。あの、ときどきヒットを放つ、あなた独特のざんげ聴聞神父みたいな態度は採らなかったのですか?」
ポワロは両手をひろげた。
「ああ、ガス火の話をしただけですよ」
「ガス火――ガス火ですと」ジャップはむかついたような声で「それがどうしたというんです、え? ここへ来てから今までに、あなたが興味を持ったことといったら、鵞ペンと紙屑かごだけじゃないですか。あ、そうだ、あなたは階下でもチリかごをゆっくり見ていましたね。なにか入っていましたか?」
ポワロは溜息をついた。
「球根のカタログが一枚と古雑誌一冊」
「狙いはなんです、いずれにせよ? 自分に不利な書類やら、あなたの考えているものが何であれ、そんなものを棄てるつもりなら、紙屑かごにほおりこむような真似は誰もしませんよ」
「きみのいうのは至極もっともです。かごに棄てるのは、全くつまらぬものだけでしょうね」
ポワロはおとなしく答えた。それでもなおかつ、ジャップは疑わしげに彼をみつめた。
「さあ」と彼は言った。「これから私のやることは判っていますが、あなたは何をします?」
「さあ――」とポワロは「つまらぬものの捜査をやってしまいましょう。まだ、ごみ箱が残っています」
彼はすばやく逃げるように部屋から出ていった。ジャップは、うんざりしたように、彼を見送った。
「くだらん」と彼は言った。「全く、くだらん」
ジェームソン警部は慎しみぶかく、黙ったままでいた。彼の顔つきは、英国人たる優越感から、こう語っていた。「異国人というものは!」声高に彼は話しかけた。
「それでは、あれがエルキュール・ポワロさんですか! 以前から、あのひとのことを聞いておりました」
「私の昔なじみなんだ」とジャップは説明した。
「みかけどおりの間抜けじゃ決してないよ、憶えておきたまえ。とはいうものの、いまは、どうにかやっているといったところだろう」
「すこしボケたようですね」ジェームソン警部は思い切って言ってみた。「とにかく、年が年ですから」
「それでも、やはり――」とジャップは「彼が何をやっているのか、知りたいものだ」
彼は机に近寄って、鮮緑色の鵞ペンを気にかかるもののようにみつめた。
五
やっとこれで三人目の、運転手の細君とジャップが話をしていると、ポワロが猫のように足音もなく歩いてきて、不意に彼のそばへ現われた。
「ウフ――ッ、びっくりしましたよ。なにかありましたか?」とジャップ。
「わたしの捜していたものはありませんでした」
ジャップはジェームズ・ホッグ夫人に向き直った。
「それで、この紳士を以前に見たことがあるのですね?」
「あ、そうなんですの。たくもね。ふたりともすぐ彼がわかりました」
「ところで、ねえホッグさん、あなたは鋭敏な女性でしょう、きっと。あなたなら、この街の住人ぜんぶのことを、きっと何もかもご存知でしょう。それに、あなたは判断力をお持ちだ――きっと、人並以上に優れた判断力を――」赤面もせず、彼はこの評言をこれで三回繰りかえしていた。ホッグ夫人はやや反り身になって、自分がほとんど超人的な理性を備えているかのような表情をつくった。「このふたりの若いご婦人――アレン夫人とプレンダリース嬢とについて教えてください。ふたりはどんな様子でした? はしゃぎましたか? パーティを沢山? そんなことはどうでした?」
「あら、そんなことは全然ありませんでしたわ。ふたりはよく外出しました――とくにアレン夫人は。――でも、あのひとたちは高級でした――この意味がおわかりかどうか。わたしがそれと名指しできる正反対のやからとは、ぜんぜん別ものでした。たしかに、スチブンス夫人の暮らし方とは――彼女がいやしくもミセスであるかどうか、あやしいものですわ――そのう、口にしたくないような振舞で――わたし――」
「全くです」とジャップは手際よくおしゃべりを封じて「まことに重要なことを教えてもらいました。アレン夫人とプレンダリース嬢とは人によく好かれていたのですね?」
「ああ、そうなんですよ。とてもいいかたがたで、ふたりとも――とくにアレン夫人は。いつも子供たちに親切な言葉をかけていらっした。ご自分の小さい娘さんをなくされたんですね。可哀そうに。あ、そうそう、わたしも三人葬ったんです。それで、わたしのいうことは――」
「それはそれは、とてもお気の毒でした。それで、プレンダリース嬢は?」
「そうですわね、もちろん、あのかたもいいレディですわ。でも、もっとぶっきらぼうで――この意味がおわかりかどうか。頭を下げて通りすぎるだけで、立ち止まって朝晩の挨拶をしないんです。でも、彼女に対して何も文句はありません――全然ありません」
「そう、わたしたちも彼女と話をしましたよ。アレン夫人の婚約者の顔をご存知ですか?」
「彼女が結婚するはずだった紳士ですか? ええ、知ってますとも。あのかたは、ときどき、こちらへちょっと立ち寄られました。下院議員とかいう話ですわ」
「昨夜来たのは彼ではなかったのですね?」
「いいえ、ちがいますとも」ホッグ夫人は開き直った。ひどくしかつめらしい態度の下に隠されていた興奮が、その語調に現われてきた。「おたずねですが、あなたの考えは完全に間違いです。アレン夫人は絶対にそんな女ではありません。あの家にほかに誰も居合わせていなかったことは事実ですが、わたしはそんなことをちっとも信じません――それで、けさもたくにそう言ってやったばかりです。『いや、ちがうわよ』とわたしは言ってやりました。『アレン夫人はレディだ――本当のレディだよ――だから、へんな連想をするんじゃないよ』――男の考えることなら、よくわかっています、こんなこといって失礼なんですが。男の考えることったら、みだらなことばかりですわ」
この侮辱にはお構いなしに、ジャップは質問をすすめた。
「あなたは彼の来た姿を見かけ、彼の去る姿も見かけた――そうなんですね?」
「そうなんです」
「ほかになにか聞きませんでしたか? なにか喧嘩さわぎの音などを?」
「いいえ。聞こえたはずもなかったですわ。いいかえれば、この街ではそんなものが聞こえるはずがないということではなく――その反対だってことはよくわかってるんですから――この街路の端で、スチブンス夫人が可哀そうなおびえた女中にしょっちゅうガミガミいっていることは有名だし――それで、わたしたちがその女中に忠告できることったら、我慢することはないっていうことだけ。でも、お給料がいいから――あのひとは凄いかんしゃくもちだけれど、それだけの代価は支払っている――週に三十シリングも――」
ジャップは素早く口をはさんだ。
「しかし、十四号では、そんな物音を聞かなかったのですね?」
「そうですの。あちこち、そこらじゅうで、花火なんかがポンポンやかましかったし、うちのエディが眉毛がすり切れるほど目をこすっていましたし、聞こえそうにもなかったです」
「この男は十時二十分に帰った――そうですね?」
「そうだと思います。自分ではハッキリ言えません。でも、たくがそうだと言っていますし、あれはすこぶる信頼するに足る、しっかりした男です」
「彼の立ち去る姿は実際に見かけた。彼の口にした言葉は聞こえましたか?」
「いいえ。それほど近くにいなかったんです。うちの窓から、戸口に立ってアレン夫人と話していた彼を、見かけただけなんです」
「夫人の姿も見えましたか?」
「ええ、彼女はちょうど戸口のうらに立っていました」
「彼女が何を着ていたか、お気付きですか?」
「さあ、じつのところ、お答えできません。とくに注意していたわけではないんですもの」
ポワロが口を出した。
「彼女の着ていたのは普段着か夜会服か、ということぐらい気付きませんでしたか?」
「ええ、気がつきませんでした」
ポワロはつくづくと上の窓を見上げると、十四号のほうへ道を渡った。彼は微笑み、ちらっとジャップに目で合図した。
「それでは、その紳士は?」
「彼は紺のオーバーを着て、山高帽をかぶっていました。たいへんスマートで立派に見えました」
ジャップは更にいくつか質問したのち、次の人間に会うことにした。今度はフレデリック・ホッグ君だった。いたずらっぽい顔の、目のクリクリした男の子で、自尊心にかなりふくれあがっていた。
「はあ。彼らの会話を聞きました。『よく考えて知らせてください』と紳士が言いました。快活そうでした。すると、彼女がなにか言い、彼が答えました。『結構。さようなら』そして彼は自動車に乗り――ぼくがドアを開けてつかまえていたのに、なんにもくれませんでした」とホッグはやや落胆気味の口調で言った。「そして、彼は行ってしまいました」
「アレン夫人の言ったことは聞かなかった?」
「ええ、聞こえませんでした」
「彼女が何を着ていたか知ってる? たとえば、どんな色だったとかいうようなことを?」
「わかりません。実際に見たんじゃないんですもの。彼女はきっとドアのかげにいたんでしょう」
「そうだろうな」とジャップは「ところで、きみ、次の質問はすこぶる慎重に考えて返事してほしいのだが。もし知らなんだり、思い出せなかったら、そう言うんだよ。わかったね?」
「はい」ホッグ君は彼を熱心にみつめた。
「ドアを締めたのはアレン夫人か、その紳士か、どちらだった?」
「玄関のドアですか?」
「もちろん、玄関のドアだ」
子供はじっと考えこんだ。眼をほそくして思い出そうと懸命だった。
「ご婦人が締めたように思います――。いや、ちがいました。男が締めたんです。バタンと少し手荒にドアを引張って、すばやく車に飛びこみました。どこかで人と会う約束があったみたいでした」
「なるほど。きみは利発な若者らしい。この六ペンスをあげよう」ホッグ君を去らせると、ジャップは自分の友人のほうに向いた。ゆっくりと同時に、ふたりはうなずいた。
「いける!」とジャップ。
「有望ですね」ポワロは同意した。
彼の眼は緑いろに輝いていた。猫の眼のようだった。
六
十四号の居間に引き返すと、ジャップはぐずぐずせずに探りを入れた。彼はただちに要点に入った。
「さあ、プレンダリースさん、いまここで、秘密を打ち明けたほうがいいとお考えになりませんか。ついに、事態はそこまで来たのですよ」
ジェーン・プレンダリースはピクリと眉をあげた。彼女は暖炉のそばに立って、しずかに片足を火で暖ためていた。
「どういう意味か、さっぱりわかりません」
「それは本心からですか、プレンダリースさん?」
彼女は肩をすくめた。
「ご質問には、ことごとくお答えしましたわ。これ以上、なにをお話したらいいのか、わかりません」
「わたしの意見では、あなたがその気になれは、まだまだたくさん話が残っているはずです」
「でも、それは単なるご意見にすぎませんわ、そうじゃありません、主任警部さん?」
ジャップの顔が少し赤らんできた。
「わたしの考えでは――」とポワロが口を入れた。「事件の現況をちょっと説明したら、きみの質問の理由がお嬢さんにもっとよく呑み込めるんじゃないか、と思いますね」
「それは何でもないことです。ねえ、プレンダリースさん、事実は次の通りなんです。お友達は手にしたピストルで頭を射たれていて、ドアも窓も締まっていました。一見明白な自殺のように見えました。だが、自殺ではなかったのです。医学的証拠だけでも、それが証明できます」
「どうしてですの?」
彼女の皮肉をふくんだ冷淡さがすっかり消えた。彼女は前かがみになって熱心に――彼の顔をみつめた。
「ピストルは彼女の手のなかにありました――しかし、その指はピストルを握っていなかったのです。そのうえ、ピストルには指紋が一つもなかったのです。それに、傷の角度からみて、あの傷は自分で加えるのは不可能だとわかります。それから、繰り返しますが、遺書を残していない――自殺にしては異例に属します。また、ドアに錠が下りていたけれども、鍵が見つかりません」
ジェーン・プレンダリースはゆっくりと向きをかえて、彼らの真正面の椅子に腰を下ろした。
「やはり、そうでしたか!」と彼女は「はじめから、あのひとが自殺するなんてあり得ない、と思っていました! わたしは正しかった! あのひとは自殺しなかった。誰かに殺されたんだわ」
しばらく、われを忘れて彼女は考えこんでいた。やがて、憤然と顔をあげて、
「なんでも質問してください。せい一杯の返答をいたします」
ジャップは始めた。
「昨夜、アレン夫人に客がありました。四十五歳くらい、軍人風、歯ブラシ形の口ひげ、スマートな身なりで、スタンダード・スワロウのサルーン型の自動車に乗っていたそうです。これが誰だか、ご存知ですか?」
「確かではありません、むろん。でも、ユーステス少佐に似ているようです」
「ユーステス少佐とはどんな人ですか? 知っていることをぜんぶ話して頂けませんか?」
「この人はバーバラが外国――インドで知り合った男です。彼は一年ほど前に姿を現わし、それ以来、わたしたちはときどき彼と会っていました」
「彼はアレン夫人の友人だったのですね?」
「あの男はそのように振舞っていました」ジェーンは冷やかに言った。
「彼女の彼に対する態度はどうでした?」
「あの男を本当に好いていたとは思いません――事実は、たしかに好いてませんでした」
「しかし、彼女は表面上は友人として付き合っていたのでしょう?」
「そうです」
「彼女には――慎重にお考え下さい、プレンダリースさん――彼を恐れていたような気配がありましたか?」
ジェーン・プレンダリースは、しばらく、これをじっくり思案していたが、やがて、
「ええ――そんな様子があったようですわ。あの男が居合わせると、あのひとはいつも神経質になりました」
「彼とラバートンウェスト氏とは、顔を合わせたことがありますか?」
「一度だけあったと思います。彼らはおたがいに余り気に入らなかったのです。いいかえると、ユーステス少佐はできるだけチャールズに愛想よくしようとしましたが、チャールズには全然そんな気がなかったんです。チャールズは、そのう、よくない――ぜんぜん――ぜんぜん――じゃない人間を嗅ぎ分ける鼻が、とても鋭かったのです」
「では、ユーステス少佐は――なんていいましたかな――ぜんぜん――ぜんぜん――じゃなかったんですね?」ポワロがたずねた。
娘はそっけなく答えた。
「ええ、ちがってたんです。すこし|下品な人《ヘアリ・アット・ザ・ヒール》です。絶対に最上級《トップ・ドロウア》の人じゃありません」
「ああ――わたしは、その二つの言葉づかいを知りません。彼は|本当の紳士《パカ・サーイブ》じゃない、とおっしゃるのですか?」
ジェーン・プレンダリースの顔をチラリと微笑がかすめたが、その答えは重苦しかった。
「そうです」
「ひどく驚かれますか、プレンダリースさん、この男はアレン夫人を恐喝していた、と私が言いだしたら?」
ジャップは、前に乗りだして、この提言の結果いかに、と見まもった。彼はたんのうした。娘はハッと前に飛び出した。その頬が紅潮し、ヒシと椅子の腕木を手でつかんだ。
「そうだったんですか! 推量もしなかったとは、わたしはなんてバカだったんでしょう。それに決まってますわ!」
「この思いつきは、もっともらしいとお考えですか、お嬢さん?」ポワロがたずねた。
「それを思いつかなかったとは、わたしは間抜けでした! この半年のあいだに何回も、バーバラはわたしから少額のお金を借りました。それに、あのひとが自分の通帳をじっとみつめながら坐っているのを見かけたことがあります。あのひとが自分の収入の範囲内で生活していたことを知っていたので、気にしませんでしたが、でも、むろん、相当なお金を支払っていたのなら――」
「それで、それなら、彼女の平常の振舞いにピッタリ合う――そうですね?」とポワロがたずねた。
「完全に。あのひとは神経質でした。ときどき、ひどくびくつきました。ぜんぜん、いつものあのひとと違ってしまうのです」
ポワロがやさしく、
「失礼ですが、それでは、まえのあなたのお話と喰いちがいますよ」
「そうではありません」ジェーン・プレンダリースはじれったそうに手を振った。「あのひとは滅入っていたのではないんです。つまり、自殺しそうなとか何とかいった精神状態ではなかったのです。でも、恐喝なら――話は別です。わたしに打ち明けてくれたらよかった。あの男を悪魔のもとへ追っ払ったのに」
「でも、彼は行ったかもしれませんね――悪魔のもとへではなく、チャールズ・ラバートンウェスト氏のところへ?」ポワロが意見を述べた。
「そうですわね」とジェーン・プレンダリースはゆっくりと「そうですわね……ほんとうに……」
「この男が握っていた彼女の弱点は何だったか、思い当ることはありませんか?」ジャップがたずねた。
娘は首を横に振った。
「思い当るふしは、全然ありません。バーバラをよく知っていましたが、そんなに深刻な問題があったとは信じられません。これに反して――」と一息ついて続けた。「つまり、バーバラはいろんな点でどちらかといえば抜けたところがありました。非常におびえやすかったのです。じじつ、あのひとは恐喝にはもってこいの女だったんです! あの、けがらわしい人非人めが!」
彼女がどなりつけたこの最後の言葉には、心底からの恨みがこもっていた。
「不幸にして――」とポワロが「この犯罪はぜんぜん逆の形で起こったように見えます。ゆすりを殺そうとするのはぎせい者のほうで、ゆすりがぎせい者を殺すはずがないのです」
ジェーン・プレンダリースはちょっと眉をひそめた。
「ええ――それは本当ですわ――でも、そのへんの状況の想像はつきます――」
「どんなふうに?」
「バーバラが捨鉢になったとします。あのひとは、あの年代ものの、ちっぽけなピストルで、あの男をおどしたことでしょう。あの男はピストルをもぎ取ろうとし、もみ合っているうちに、あの男が発砲してあのひとを殺す。それから、あの男は自分のやったことにおじけづいて、自殺に見せかけようとする」
「そうだったかも知れませんね」とジャップが「しかし、障害が一つありますよ」
彼女は不審そうに彼をみつめた。
「ユーステス少佐は(あれが彼だったとして)昨夜、ここを十時二十分に立ち去る際に、戸口でアレン夫人と別れの挨拶を交わしていますよ」
「あら!」娘の顔が沈んだ。「わかりました」彼女はしばし思案していたが「でも、あとで引返したのかもしれませんわ」とゆっくり言った。
「そう、それはありうることですね」とポワロ。
ジャップがあとを続けた。
「教えてください、プレンダリースさん、アレン夫人が客の応接に使っていたのは、ここですか、それとも上の部屋ですか?」
「両方でした。でも、この部屋は、どちらかといえば、ふたり共通のパーティとか、わたし個人の特別なお友だちとかに使っていました。バーバラは広い寝室があったので、そこを居間に兼用し、わたしは狭い寝室とこの部屋とを使うように取り決めていました」
「昨夜ユーステス少佐があらかじめ約束があって来たのなら、アレン夫人はどちらの部屋へ彼を招じ入れたでしょうか?」
「たぶん、ここへ入れたんでしょう」やや疑わしげな口調だった。「そんなに親密ではなかったんですから。その一方、もし小切手を書くとか何かそんなことをしたかったのなら、おそらく階上へ彼を招じたでしょう。ここには文房具が置いてないんですから」
ジャップは首を横に振った。
「小切手には問題はありません。アレン夫人はきのう二百ポンド現金で引出しました。しかも、いまのとこ、この家には、そのお金の形跡が見当らないのです」
「じゃ、それをあの人非人にくれてやったのですね? まあ可哀そうに、バーバラ! とてもとても可哀そうなバーバラ!」
ポワロはせきばらいした。
「あなたの思いつかれたように、いやしくも事故でないかぎり、明らかに安定した収入源を彼が枯らしたとは、やはり考えられないことですね」
「事故? 事故ではありません。あの男は腹立ちまぎれにカッとなって、あのひとを射ったのです」
「あなたは、それが実際に起こったことだと考えるのですね?」
「ええ」彼女は烈しく言いたした。「あれは殺人でした――殺人なのです!」
ポワロはおもおもしく言った。
「あなたが誤まっているとは、わたしは申しません、お嬢さん」
ジャップが話しかけた。
「アレン夫人はどんなタバコを喫《す》っていましたか?」
「安ものでした。その函に入っています」
ジャップは函をあけて、巻きタバコを一本とりだしてうなずいた。彼はそのタバコをポケットにそっと入れた。
「それで、あなたは?」ポワロがたずねた。
「同じものです」
「トルコタバコは喫わないんですか?」
「喫いません」
「アレン夫人も?」
「ええ。嫌いでした」
ポワロがたずねた。
「それでは、ラバートンウェスト氏は? 彼は、なにを喫っています?」
彼女は険しく彼をにらみつけた。
「チャールズ? 彼がなにを喫おうが無関係でしょう? 彼があのひとを殺したんだ、とおっしゃりたいんじゃないでしょうね?」
ポワロは肩をすくめた。
「まえに愛していた女を殺した男がいますよ、お嬢さん」
ジェーンはいらだって首を横に振った。
「チャールズは人を殺すような人間ではありません。彼はとても思慮深いひとです」
「同時に、お嬢さん、最も巧妙な殺人を犯すのは思慮深い人間なんですよ」
彼女は彼をにらみつけた。
「でも、いまご自分が言われたように動機がありませんわ、ポワロさん」
彼は頭をさげて一礼した。
「そう、そのとおりです」
ジャップが立ちあがった。
「では、もうここでは、私にできることは余りなさそうです。もう一度、調べて回りたいと思います」
「お金がどこかにしまいこまれていないかどうか? どうぞ、ご遠慮なく、どこでもお調べください。なんでしたら、わたしの部屋も。バーバラがわたしの部屋に隠すなんてありそうにないことですけれど」
ジャップの捜査は早いが効果的だった。居間の秘密はすべて、ごく短時間にさらけだされた。それから、彼は階上へあがっていった。ジェーン・プレンダリースは、椅子の腕木に腰をかけて、たばこを喫いながら、暖炉に向って眉をひそめていた。ポワロは彼女をみつめていた。
しばらくして、彼はおだやかにたずねた。
「いまラバートンウェスト氏がロンドンにいるかどうか、ご存知ですか?」
「ぜんぜん知りません。彼は家族といっしょにハンプシャーにいるように思います。彼に電報を打つべきだったと思います。忘れてしまって、とても気の毒しましたわ」
「なにもかも忘れずにいるのは、やさしいことではないですよ、お嬢さん――大事変が突発した際には。それに、結局、凶報はいつまでも記憶に残ります」
「ええ、そうですわね」娘はぼんやり答えた。
階段を降りるジャップの足音が聞こえた。ジェーンは部屋から出て彼を迎えた。
「いかがでした?」
ジャップは首を横に振った。
「役に立つものは何もありません、プレンダリースさん。もう家中ぜんぶ捜しました。あ、この階段の下の戸棚をちょっと見せていただきたいのですが」
こういいながら、彼は引き手を持って手もとへ引いた。
ジェーン・プレンダリースが言った。「錠が下りていますわ」
その声になにか異常なものを感じて、男は二人ともキッと彼女をみつめた。
「なるほど」ジャップは快活に「たしかに錠が下りていますね。たぶん、あなたは鍵のありかをご存知でしょうね」
娘は石像のように立ちすくんでいた。
「わたし――わたし、どこにあるか、よく知らないんです」
ジャップは素早くチラと彼女をうかがった。彼は快活で無造作な声だがキッパリとあとをつづけた。
「ああ、それはまずいことになりました。むりやり力ずくでドアをこわして開けたくないんです。鍵を一揃い、取りにジェームソンをやりましょう」
彼女はぎごちなく前に進みでて言った。
「あら、ちょっとお待ちになって。たぶん――」
彼女は居間へ引返すと、すぐ、かなり大きい鍵を手にして戻ってきた。
「いつも錠を下ろしておくんです」と彼女は説明した。「こうもり傘やいろんなものが、よく盗まれるものですから」
「まことに当を得た予防策です」ジャップはこういって、快活に鍵をうけとった。
彼は鍵を錠に入れてまわし、ドアを開いた。戸棚のなかは真暗だった。ジャップは懐中電灯を取りだして中を照らした。
そばにいる娘がからだを硬張らし、一瞬、ハッと息を留めたのが、ポワロに感じとれた。彼の眼は、ジャップの懐中電灯の動きを追っていた。
戸棚のなかには品物がたいしてなかった。こうもり傘が三本――うち一本は折れている――ステッキが四本、ゴルフのクラブが一揃い、テニスのラケットが二本、きちんと折りたたんだじゅうたんが一枚、それに破損程度のさまざまな長椅子用の座ぶとん。この座ぶとんの上に、小型のしゃれてみえる手提かばんが置いてあった。
ジャップが手をそれにのばすと、ジェーン・プレンダリースが素早く口をだした。
「それはわたしのです。わたし――けさ持って帰ったんです。ですから、それにはなにも入ってるはずがありません」
「ちょっと確かめたほうがよさそうですね」ジャップが言った。彼の明るい馴れ馴れしさの度が、すこし進んだようだった。
かばんが開かれた。その内側には、シャグリーンのブラシや化粧品のびんが沢山はまっていた。そのほかには、雑誌が二冊はいっていただけだった。
ジャップは細心の注意を払って、中味をぜんぶ調べた。ついに彼がふたをしめて、座ぶとんをそそくさと調べかけると、娘がホッと安堵の息をもらしたのがハッキリ聞きとれた。
戸棚には、明らかに目にみえるもの以外には、なにもなかった。ジヤップの調査はすぐ終った。
彼はドアに錠を下ろすと、鍵をジェーン・プレンダリースに手渡して言った。
「では、これでおしまいです。ラバートンウェスト氏の住所を教えていただけますか?」
「ハンプシャー、リトル・レドバリ、ファールズコム・ホールです」
「ありがとうございました、プレンダリースさん。いまのところ、これだけです、あとで、また、お邪魔するかもしれません。ついでですが、他言は無用です。一般の人々には自殺ということにしておいてください」
「もちろん、充分承知しています」
彼女はふたりと握手した。ふたりが厩街を歩いて立ち去る途中、ジャップが不意に話しかけた。
「いったい――あの戸棚にはなにがあったのでしょう? 何かあったにちがいない」
「ええ、なにかあったのですね」
「しかも、あの手提かばんと関係のある代物であることは、十対一でも賭けますよ! だが、私は底なしの大バカ野郎にちがいない、なにも発見できなかったんですからね。びんも全部のぞきこみ――中身を手探った――いったい、なんでしょうね?」
ポワロは思案顔で首を横に振った。
「あの娘はなにかで関係しているんです」ジャップがつづけた。「あのかばんをけさ持って帰ったと? あなたの命にかけなくても断じて違いますよ! なかに雑誌が二冊はいっていたのに気付きましたか?」
「ええ」
「いやどうも、そのうち一冊は去年の七月号でした!」
七
その翌日、ジャップがポワロの部屋へ入ってきて、つくづく厭になったように、帽子をテーブルに投げつけ、椅子にドスンと身を沈めた。
「やれやれ」彼はうなった。「あの女は無関係でした!」
「だれが無関係なのです?」
「プレンダリースです。深夜までブリッジをしていたんです。招待先の主人、その妻、客の海軍中佐、それに二人の召使までが全面的に誓っています。疑問の余地がまったくなく、われわれは彼女が事件に関係しているという考えを捨てることにしました。とはいうものの、わたしは、彼女が階段の下のあの手提かばんについて、なぜのぼせあがって気に病んだのか、その理由を知りたいものです。これはあなたの縄張りのようですね、ポワロ。なんにもならないような平凡な事件を解くのがお好きでしょう。『小型手提かばんの秘密』これはものになりそうだ!」
「もう一つ、題名を提案しましょう。『巻きタバコの煙の匂いの秘密』」
「題名にしては、もひとつ不恰好ですね――え? それで、はじめに死体を調べたとき、あんなに嗅いでいたのですか? 見ましたよ――というより聞きましたよ! クスン――クスン――クスン。鼻風邪をひいたのかと思いました」
「それはぜんぜん思い違いでした」
ジャップは太息をついた。
「私はいつも小さな灰色の脳細胞のせいだと思っていました。鼻の細胞も人並み以上に優れているとは、うかがっていませんね」
「まあまあ、落着きなさい」
「私には、タバコの煙の匂いはしませんでした」とジャップは疑いぶかくつづけた。
「わたしだって匂わなかったですよ、きみ」
ジャップは疑わしげに彼をみつめた。それから、彼はポケットから巻きタバコを一本とりだした。
「これがアレン夫人の喫っていたタバコ――安ものです。このての吸殻が六本ありましたが、あれは彼女のです。ほかの三本の吸殻はトルコタバコでした」
「そのとおり」
「あなたの驚くべき鼻なら、実物を見なくても判ったでしょう!」
「わたしの鼻が事件に無関係なことは保証します――わたしの鼻はなんにも記録しておりません」
「しかし、脳細胞はたくさん記録したでしょう?」
「さあ――かなり徴候はありました――そう思いませんか?」
ジャップは彼を横目でにらんだ。
「どんな?」
「|そうですね《エ・ビアン》、なにかあの部屋からなくなったものがあることは甚だ明瞭です。同時に、なにか追加されたものがあるようです。……それから、書きもの用の大机に――」
「それはわかってます! あの呪われた鵞ペンでしょう!」
「|ちっとも《デュ・トウ》。鵞ペンは全く正反対の役を果たしています」
ジャップはより安全な話題へ逃げこんだ。
「チャールズ・ラバートンウェストに、半時間以内に警視庁へ私に会いにきてもらうよう手筈しました。あなたも出席されたいだろうと思いまして」
「ぜひとも」
「それに、あなたもご満足でしょうが、われわれはユーステス少佐を追いつめました。クロムウェル街の、まかない付きアパートでつかまえました」
「おみごと」
「そのうえ、この面では更にすこし調査が進んでいます。全然いい人間じゃないですよ、ユーステス少佐という男は。ラバートンウェストに会ってから、ふたりで彼に会いに行こうと思いますが、ご都合はよろしいですか?」
「申し分ないですね」
「それじゃ、行きましょう」
十一時半に、チャールズ・ラバートンウェストがジャップ主任警部の部屋へ案内されてきた。ジャップは立ち上がって握手した。この下院議員は中背の、非常にはっきりした個性の持ち主だった。ひげをきれいにそり、俳優みたいによく動く唇をもち、雄弁家によくあるように、わずかに出目だった。おだやかで育ちのよい、その意味ではいい顔立ちだった。顔色は蒼ざめて、いくらか苦しげだったが、完全に礼儀正しく落着いた態度だった。
彼は椅子に坐ると手袋と帽子をテーブルに置いて、ジャップのほうを見た。
「まずはじめに申しあげたいのですが、ラバートンウェストさん、この事件にさぞ心痛のことと、心からお察しいたします」
ラバートンウェストは手を振って、この言葉を脇へ追いやった。
「私の気持をうんぬんするのはよしましょう。おしえてください主任警部さん、なにがもとで私の――アレン夫人がみずから自分の生命を絶ったのか、見当がおつきですか?」
「あなたのほうでは、われわれの助けになるようなことは、なにもご存知ないのですか?」
「ええ、本当に」
「なにか争いはなかったのですか? おふたりのあいだには、どんな仲たがいもなかったのですか?」
「そんなものはなんにも。この事件は、私には、最大のショックでした」
「こう申しあげても、おそらくは更に不可解でしょうが、実は、あれは自殺ではなく――殺人なのです!」
「殺人?」チャールズ・ラバートンウェストの眼は飛び出さんばかりだった。「殺人なのですか?」
「そのとおりなのです。さてラバートンウェストさん、アレン夫人を殺しそうな人物に心当りはありませんか?」
ラバートンウェストは本当につばを飛ばして答えた。
「知らない――知らない、本当に――そんなもの全然知りません! そんな考えすら思いもつかぬことです!」
「彼女が敵の名をあげたことはなかったですか? だれでも彼女に恨みを抱いていそうな人間を?」
「いちども」
「彼女がピストルを所持していたことは、ご存知でしたか?」
「そんなことは知りませんでした」彼はちょっと驚いた様子だった。
「プレンダリースさんの話では、アレン夫人はこのピストルを、数年前、帰国の際に持って帰ったそうです」
「ほんとうですか?」
「もちろん、これについてはプレンダリースさんの言葉だけです。が、アレン夫人が故あって身の危険を感じ、彼女だけが知っている理由から、ピストルを手許に置いていたということは、まったくあり得ることです」
チャールズ・ラバートンウェストは疑わしげに首を振った。彼はまったく当惑して茫然自失の態《てい》だった。
「プレンダリースさんを、どうお考えですか、ラバートンウェストさん? つまり、彼女を信用のおける誠実な人間だとお考えですか?」
相手はしばらく思案した。
「そう思います――ええ、そう言わねばなりませんね」
「彼女を好かれないんですか?」彼をじっとみつめながら、ジャップが意見をだした。
「そういう意味で言ったのではないんです。私の讃美するタイプの若い女性ではない、というだけです。ああいった辛らつで自主独立的なタイプは、私には魅力がありません。しかし、彼女は全く誠実な人間だ、というべきでしょう」
「なるほど」とジャップは「ユーステス少佐という人物をご存知ですか?」
「ユーステス? ユーステスですか? あ、そうだ、その名前は覚えがあります。いちどバーバラ――アレン夫人の家で遭いました。疑わしい人物のように見受けましたことは、私の――アレン夫人にも告げました。ふたりの結婚後、家へ訪ねてきてもらいたいような男ではなかったのです」
「それで、アレン夫人はなんと言いましたか?」
「ああ! 完全に同意しました。彼女は私の判断を、絶対的に信頼していたのです。男のことなら、女よりも男のほうがよくわかります。しばらく会わなかった人間に無礼はできない、と、彼女は説明しました――気位《きぐらい》が高いと思われるのを、彼女は特に嫌っていたのですね! 当然、私の妻として、彼女にもわかったことでしょう、昔の仲間のうちにも大勢いることが――不適当な人物が、と申しましょうか?」
「あなたと結婚すれば彼女の地位が向上するから、という意味ですか?」ジャップは露骨にきいた。
ラバートンウェストはきれいにマニキュアした手をあげた。
「いや、いや、そういう意味ではないのです。実は、アレン夫人の母親が私の家の遠縁です。家柄は彼女と私とまったく同格です。ですが、もちろん、私の社会的地位からして、私は特に慎重に友人をえらぶ必要があり――私の妻も同様なのです。あるていど、衆目の的になっているからです」
「あ、ごもっともで」ジャップはそっけなく言って、あとを続けた。「それで――われわれの助けになるようなことは、全然なにもご存知ないのですか?」
「ええ、本当に。まったく途方に暮れています。バーバラ! 殺されたのだと! 信じられないほどです」
「ところで、ラバートンウェストさん、十一月五日の夜のあなたの行動をお話し願えませんか?」
「私の行動? 私の行動ですと?」
ラバートンウェストの声がかん高く抗議的になった。
「ほんのおきまりなのです」ジャップが弁明した。「われわれは――ええと――だれにでもきかねばなりませんので」
チャールズ・ラバートンウェストは勿体ぶって彼をみつめた。
「私のような地位にある者は免除さるべきだとは思いますが――」
ジャップは黙って待っていた。
「私は――ちょっと考えさしてください――あ、そうだ。私は下院にいました。十時半に出て、テムズ河沿いの散歩道《エンバンクメント》を散歩しました。花火をいくつか見ました」
「今日ではあんな陰謀事件がなくなったとは結構なことですね」ジャップは陽気に言った。
ラバートンウェストは彼を冷やかにみつめた。
「帰宅されたのは――あなたのロンドンの住所はオンスロウ・スクエアですね――何時でした?」
「正確な時間は知りません」
「十一時? 十一時半?」
「そのころでしょう」
「たぶん、だれかに家へ入れてもらったのでしょうね」
「いや、自分の鍵があります」
「散歩の途中で、だれかに遭いましたか?」
「いや――え――ほんとうに、主任警部、こういった質問には甚だ憤慨しますぞ!」
「私が保証しますが、ほんのおきまりなのです、ラバートンウェストさん。あなた個人がどうこうしたといってるんじゃないんです」
この返答に、下院議員の怒りもなだまったらしい。
「それでおしまいなら――」
「目下のところ、これだけです、ラバートンウェストさん」
「今後もずっと知らせてもらえる――」
「もちろんですとも。ついでですが、エルキュール・ポワロ氏をご紹介します。このひとのことはお聞き及びでしょう」
ラバートンウェストは、もの珍らしそうに小柄なベルギー人に目を注いだ。
「ええ――ええ――お名前はうかがっています」
「|あなた《ムシュー》」こう言ったポワロの物腰が急に外人くさくなった。「あなた、気の毒でなりません。ひどい損失! あなたの受けたに相違ない、ひどい苦悶! ああ、でも、わたし、これ以上は申しません。英国人が感情を押さえる、じつにすばらしい」彼はシガレットケースをひょいと取りだした。「失礼します――あ、からです。ジャップ、あります?」
ジャップはポケットをぴしゃりと叩いて、首を横に振った。
ラバートンウェストは自分のシガレットケースを取りだしてつぶやいた。
「え――私のをどうぞ、ポワロさん」
「ありがとう――ありがとう」ポワロは遠慮なく取った。
「おおせのとおり、ポワロさん」と相手は再び口をひらいて「われわれ英国人は感情をおおっぴらに出しません。忍耐――これがわれわれのモットーです」彼はふたりに一礼して出ていった。
「気取ったやつだ」ジャップはむかついて「おまけに手のつけられん、バカ者だ! プレンダリース嬢の評言はまったく正しかった。とはいえ、見てくれのいい男だ――ユーモアを解しない女となら、うまくいくだろう。タバコはどうでした?」
ポワロはタバコを手渡して首を横に振った。
「エジプトタバコです。高価な代物です」
「それは残念。惜しいことだ、こんなに頼りないアリバイを聞いたのは始めてなんだがなあ! じじつ、あれは全然アリバイになってない……ねえ、ポワロ、事情が違うのならいいのに。彼女があの男を恐喝していたのなら……あの男はゆするのにもってこいのタイプだ……いうなりに支払ったでしょう! スキャンダルを避けるためなら何んでも」
「ねえ、きみ、お好きなように事件を再組み立てするのはたいへん結構ですが、その説はこの事件にピッタリしませんよ」
「そう、ユーステスがホシです。彼について二、三情報を得ています。まったく厭なやつです」
「ついでですが、プレンダリース嬢について、わたしの提案どおりやってくれましたか?」
「ええ。ちょっと、お待ちください。電話で、ホヤホヤをききますから」
彼は電話をとって話しかけた。簡単なやりとりがあって、彼は電話を戻すとポワロを見あげた。
「そうとう非情な女ですね、ゴルフに行ってますよ。きのう親友が殺されたばかりだというのに、こんなことをするとは、さぞ楽しいことでしょうな」
ポワロはなにか感嘆詞を口に出した。
「おや、どうしたんです?」ジャップがたずねた。だが、ポワロは独り言をつぶやいていた。
「もちろん……もちろん……だが当然……わたしはなんて大バカだろう――一目瞭然だったのに」
ジャップが無遠慮に言った。
「ひとりでペチャクチャ言ってないで、ユーステスをつかまえに出かけましょうや」
微笑がポワロの顔じゅうに拡がったのをみて、彼はびっくりした。
「だが、そうです――むろん、彼をつかまえに行きましょう。いまでは、いいですか、わたしには何もかも判っています――だが、その何もかもが問題なんですよ!」
八
ユーステス少佐は俗物らしいゆうゆうたる自信をもってふたりを迎えた。
彼の部屋は狭くて、ホンの仮住居だと彼は弁明したが、そのとおりだった。彼はふたりに飲物をすすめたが断られたので、シガレットケースを差し出した。ジャップもポワロも巻きタバコを受取った。ふたりはすばやく視線をとりかわした。
「トルコタバコをお喫いですね」タバコを指のあいだでひねくり回しながら、ジャップが口をきいた。
「ええ。すみません、普通のがよかったんですか? どこかそのへんにあったはずです」
「いや、これでたいへん結構です」と言って彼は前かがみになった――その口調が変わった。
「ユーステス少佐、私が会いにきた理由は、たぶん、おわかりでしょうね?」
相手は首を横に振った。平気な態度だった。
ユーステス少佐は背の高い男で、いくらか下品な型の男前だった。眼のまわりがはれていた――小さな、悪がしこい眼つきで、気さくな愛想のいい物腰とはうらはらだった。彼は答えた。
「さあ――主任警部さんみたいなお偉方が、なぜぼくに会いに来られたのか、さっぱり見当がつきません。ぼくの自動車に関係したことですか?」
「いや、自動車の件ではありません。バーバラ・アレン夫人をご存知だと思いますが、ユーステス少佐?」
「ああ、その件でしたか! もちろん、推参すべきでした。たいへん悲しむべき事件です」
「この事件はご存知ですね?」
「昨夜、新聞で見ました。あまりにもお気の毒です」
「アレン夫人とはインドで知り合われたのですね?」
「そうです。もう数年まえになります」
「彼女の良人《おっと》もご存知でしたか?」
返事がちょっと――ほんのちょっとだけ――遅れたが、その途切れたあいだに、そのブタのような小さい眼がキラリと光って、ふたりの顔を盗み見た。それから、彼は答えた――
「いいえ。じっさい、アレン氏とは一度も会っておりません」
「しかし、彼については何か知っているのでしょう」
「彼はやくざ者のように聞いています。もちろん、噂にすぎませんが」
「アレン夫人は何も言いませんでしたか?」
「彼のことは一言も洩らしませんでした」
「あなたは彼女と懇意だったのですか?」
ユーステス少佐は肩をすくめた。
「ぼくらは古い友達です。古い友達。しかし、そうたびたび会っていたわけじゃないんです」
「しかし、昨夕、彼女に会ったんですね? 十一月五日の夕方に?」
「ええ、じつは会いました」
「彼女の家へ行ったはずです」
ユーステス少佐はうなずいた。彼の声はやさしく哀惜の情を帯びてきた。
「ええ、投資のことで相談にのってくれと頼まれたのです。もちろん、あなたの目的はわかっています――彼女の、心理状態とか――そんなこと全部を知りたいのでしょう。ところが、ほんとうに、それはお答えしにくいのです。彼女の態度は平常どおりに見えましたが、それでも少し神経質でしたね、いま考えてみますと」
「しかし、これからやろうと企てていたことについて、彼女は何も仄《ほの》めかしませんでしたか?」
「これっぽっちも。じっさい、ぼくは別れを告げたときに、近いうちに電話するからいっしょに芝居を観に行こう、と言ったくらいです」
「あなたのほうから電話すると言ったのですね。それがお別れの言葉だったのですか?」
「そうです」
「おかしいですね。情報によると、あなたは全然べつなことを言われたそうですが」
ユーステスの顔色が変わった。
「それは、もちろん、正確な言葉は憶えていませんよ」
「私の情報では、あなたが実際にいった言葉はこうでした。『じゃ、よく考えて知らせてください』」
「考えさせてください――そう、それが正しいようです。正確ではありませんが。彼女のひまなときを知らせてくれ、と言ったと思います」
「それは同じ意味だとはいえないでしょう」とジャップ。
ユーステス少佐は肩をすくめた。
「ねえ、あなた、そのときどきに口にした言葉を、いちいち憶えきれるものじゃありませんよ」
「それで、アレン夫人は何て答えました?」
「彼女のほうから電話する、と言いました。憶えている限りではそうでしたね」
「それから、あなたはこう言われた。『結構。さようなら』」
「たぶん。いずれにせよ、そんなことでした」
ジャップはおだやかに、
「アレン夫人は彼女の投資のことで相談にのってくれと頼んだそうですが、もしや、その投資のために現金で二百ポンド、彼女があなたに預けなかったでしょうか?」
ユーステスの顔はみるみる黒紫色にかわった。彼は前かがみになって、うなりごえをあげた。
「一体全体、それはどういう意味ですか?」
「彼女は預けたんですか、預けなかったんですか?」
「あなたの知ったことじゃないですよ、主任警部さん」
ジャップはおだやかに、
「アレン夫人は銀行から現金を二百ポンドおろしました。そのなかには五ポンド紙幣が交じっています。その番号は、むろん、辿《たど》れるんですよ」
「彼女が預けたのなら、なんだというのですか?」
「投資の金だったのか――それとも――恐喝の金だったのですか、ユーステス少佐?」
「途方もない当て推量だ。その次には何を言いたいのです?」
ジャップは出来るだけいかめしい公式態度で言明した。
「私としては、ユーステス少佐、このさい、あなたが進んで警視庁に出頭されて供述されるかどうか、おたずねせねばなりません。もちろん、強制はいたしませんし、お望みなら、弁護士の立会いも許されます」
「弁護士? いったい、なんでぼくに弁護士が必要なんです? それに、ぼくになにを警告しているんですか?」
「私はアレン夫人の死の事情の調査にあたっています」
「けしからん、おい、あんたはまさか――。そんなバカな! 実際にあったのはこうなんです。ぼくは約束どおりバーバラに会いに行って――」
「それは何時でした?」
「九時半ごろのはずです。ふたりは坐って話をし――」
「そして、タバコを喫った?」
「そう、タバコを喫った。それになにか悪いことでもあるんですか?」少佐は憤然と詰問した。
「どこで話をしたのですか?」
「居間です。玄関を入って左側です。ふたりはまったく穏やかに話をしました。ぼくは十時半ちょっと前に立ち去った。戸口でしばらく立ちどまって、最後の言葉を――」
「最後の言葉――まったくそのとおり」ポワロがつぶやいた。
「あんたは誰だ、いったい?」ユーステスは彼に顔を向けて、吐きだすようにいった。「くそったれの南欧人かなにかだろう! なんで、でしゃばるんだ?」
「わたしはエルキュール・ポワロです」小男は勿体ぶって答えた。
「あんたがギリシア神話の勇士アキレスの像であろうと構いやしない。ぼくのいうとおり、バーバラとぼくとは全くおだやかに別れたんだ。車でまっすぐ極東クラブへ行った。十一時二十五分前に着いて、まっすぐ階上のカード・ルームへあがった。一時半までブリッジをしていた。さあ、とくと考えてみろってんだ」
「考えてみる必要はありません」とポワロは「その『アリビ』は、はっきりしています」
「なんにしても、はっきりした鋼鉄製のアリバイさ! ところで――」と彼はジャップをみつめて「あなたは満足ですか?」
「訪問中、ずっと下の居間に留まっていたのですか?」
「そう」
「アレン夫人の居間へ上がりませんでしたか?」
「上がりません、絶対に。ふたりはずっとあの部屋にいて、ほかへは行きません」
ジャップは、ややしばし、つくづくと彼をみつめていたが、やがて「カフスボタンはいくつ持っていますか?」
「カフスボタン? カフスボタンですと? それをきいて、どうしようというのです?」
「質問に答える義務はないんですよ、もちろん」
「それに返答しろと? 答えますとも。匿《かく》す必要はないんですからね。あとで謝罪を要求しますよ。ここにこれが――」彼は両腕を伸ばした。金と白金製のを認めて、ジャップはうなずいた。
「それから、これがあります」
彼は立って抽出しをあけ、ケースをとりだして開き、ジャップの鼻先に手荒くつきつけた。
「非常に見事なデザインですね」主任警部は「片方が割れていますね――ホウロウがすこし欠け落ちていますよ」
「それが何です?」
「いつ欠けたのか、憶えてないでしょうな?」
「一日か二日前でしょう、そう古いことじゃない」
「それが欠けたのは、あなたがアレン夫人を訪問していたときだ、と聞いたら驚きますか?」
「それが、なぜ、いけないんだ? あそこへ行ったことは否定してやしません」少佐はごうぜんとうそぶいた。彼は虚勢を張りつづけ、正当に憤慨した男の役を演じつづけていたが、さすがに、その手がふるえていた。
ジャップはかがみこんで、力をこめて話しだした。
「うん、だが、あのカフスボタンのかけらは居間で発見されたのではない。それがみつかったのは階上のアレン夫人の寝室で――彼女の殺されたあの部屋で、しかも、そこでは、男が坐ってあなたのと同じタバコを喫っていたのだ」
矢は命中した。ユーステスは椅子の背にぐったりと、もたれかかった。その眼玉がキョロキョロ行ったりきたりしていた。から威張り屋が崩壊して、臆病者が出現したさまは、あまり見てくれのいいものではなかった。
「ぼくにはなにも着せられないぞ」その声はぐちに近かった。「ぼくにぬれぎぬを着せようとしてるんだ――だが、それは出来ないぞ。ぼくにはアリバイがある――あの夜、ぼくは二度とあの家へは近寄らなんだ……」
ポワロが入れ代りに口をひらいた。
「そう、あなたは二度とあの家に近寄らなかった……その必要がなかったのです――おそらく、アレン夫人はあなたが帰ったときにはすでに死んでいたからです」
「それはあり得ない――あり得ない――彼女はちょうどドアのかげにいて――ぼくと話した――彼女の声を聞いたり――見たりしたものがいるはずだ――」
ポワロは静かに、
「人々が聞いたのは、あなたが話しかけた声です……そして、彼女の返答を待つふりをして、またしゃべったのです……古いトリックですよ、これは……人々は彼女がそこにいると思ったことでしょうが、彼女の姿を見かけていないのです。彼らは彼女が夜会服を着ていたかどうかということすら言えなかったし――着ていた服の色すらも名指しできなかったところをみると……」
「ああ、それは――うそだ――うそだ――」
いまや、彼のからだがふるえていた――参ってしまったのだ。
ジャップは厭な顔つきで彼をみつめた。ジャップはキビキビと話しかけた。
「私といっしょに来て頂かねばなりません」
「ぼくを逮捕するのですか?」
「取調べのため留置する――といったところです」
沈黙が、長い、ぞっとするような溜息で破られた。先刻まで威張りちらしていたユーステス少佐が、いまは絶望した声で言った――
「もうだめだ……」
エルキュール・ポワロは両手をこすり合わせて、上機嫌で微笑していた。彼はひとり面白がっているようだった。
九
「あの男をやっつけた、あのお手並みはおみごとでしたね」その日おそく、ジャップは職業がらの評価をくだしていった。
彼とポワロとは自動車でブロンプトン・ロードを走っていた。
「あの男は万事休したと悟っていました」ポワロはぼんやりこたえた。
「彼に不利な事実をたくさん握りましたよ」とジャップ。「異なった偽名が二つ三つ、小切手|詐取《さしゅ》事件、ド・べース大佐と自称してリッツ・ホテルに滞在していたときの面白いセクハラ事件。半ダースものピカデリーの商人から詐取した事件もあり、さしあたりはこの罪で彼を押えているんです――最終的にこの事件の決着がつくまで。こうやって田舎へ急行するのは、どういう目的なんです?」
「ねえ、きみ、事件というものはきちんと仕上げられねばならない。万事が解明されねばならない。わたしはきみの言いだした秘密を探索しているのです。『消えた手提かばんの秘密』を」
「『小型手提かばんの秘密』――ですよ、私の命名は。私の知ってる限りでは、なくなってはいませんよ」
「お待ちなさい、|わが友よ《モ・ナミ》」
車は厩街に曲がって入った。十四号の玄関前では、ちょうどジェーン・プレンダリースが小型車オースチン・セブンから降りるところだった。
彼女はゴルフの服装だった。彼女はふたりの顔を見くらべてから、鍵をとりだしてドアをひらいた。
「おはいりになりませんか?」
彼女がさきにたった。ジャップがそのあとから居間に入った。ポワロはちょっと玄関で立ちどまって、何かこんなふうなことをつぶやいた。
「|これは厄介だ《セ・タンベタン》――このもつれをほぐすのは、とてもむつかしいぞ」
すぐに彼もオーバーをぬいで居間に入ったが、ジャップの唇が口ひげの下でピクピクひきつっていた。そのまえに戸棚のドアを開けた音がごくかすかに聞こえていた。
ジャップがポワロにもの問いたげな一べつを投げると、ポワロはそれとわからぬほどうなずいてみせた。
「お手間はとらせません、プレンダリースさん」ジャップは活発に「アレン夫人の弁護士をご存知かどうか、うかがいにちょっと立ち寄っただけです」
「あのひとの弁護士ですって?」娘は首を横に振った。「あったかどうかも知りません」
「でも、この家をおふたりで借りたときに、だれか協定書を作成した者がいたはずですが?」
「いいえ、それがいなかったのです。この家を借りたのはわたしでした。わたしの名前で借家契約をしたのです。バーバラはわたしに家賃を半分払っていました。全く変則だったわけです」
「わかりました。ああ! じゃ、もうなにもおききすることはなさそうです」
「お役に立てなくてすみません」ジェーンは丁寧に言った。
「ほんとうに構わないんですよ」ジャップは、ドアのほうを向いた。「ゴルフをしていらっしゃったので?」
「ええ」彼女は顔を赤らめて「さぞ非情な女だとお思いでしょう。でも、じつは、この家にじっとしていると気が滅入りますの。外出してなにかせねば――からだを疲れさせねばと思ったんです――さもないと、息が詰まりますわ!」こう彼女は強く話した。
ポワロがすばやく口をはさんだ。
「わかりました、お嬢さん。それは充分わかります――しごく当然のことです。この家のなかで坐って考える――いけません、気持のいいことではないでしょう」
「わかって頂けましたら」ジェーンはポツリと言った。
「どこか倶楽部にお入りですか?」
「ええ、ウェントワースでやります」
「楽しかったでしょうね」とポワロは「ああ! 木々にはもう葉が少ししか残っていない! 一週間まえには、森はあおあおと茂っていたのに」
「きょうは本当にすてきでした」
「お邪魔しました。プレンダリースさん」ジャップが固苦しく言った。「ことがはっきりしたら、お知らせします。じつは、容疑者として男をひとり拘留しているのです」
「どんな男ですの?」彼女はふたりを熱心にみつめた。
「ユーステス少佐です」
彼女はうなずいて顔をそむけ、身をかがめるとマッチをすって暖炉に火をつけた。
「どうでした?」車が厩街の角を曲がると、ジャップがうながした。
ポワロはにっこり笑った。
「しごく簡単でした。こんどは解決の鍵がドアに差し込んであったのです」
「それで――?」
ポワロは微笑んだ。
「|さあ《エ・ビアン》、ゴルフのクラブがなくなって――」
「あたりまえですよ。あの娘はバカじゃない。すくなくとも。ほかに何かなくなったものは」
ポワロはうなずきながら、
「ええ、ありました――小型の手提かばんが」
加速ペダルがジャップの足の下で躍り跳ねた。
「チェッ!」と彼は「なにかがあったはずなんだ。だが、いったいなんだろう? あのかばんはかなり徹底的に調べたんですよ」
「気の毒に、ジャップ――だが、それは――なんていうんですか、『わかりきったことだよ、ワトソン』とでも?」
ジャップはムッとした眼つきで彼をにらんで、たずねた。
「どこへ行くんです?」
ポワロは自分の腕時計をしらべた。
「まだ四時まえです。暗くならないうちにウェントワースに着けそうです」
「彼女が実際にあそこへ行ったと思っているんですか?」
「そう――そう思いますね。われわれが調べるだろうということは、彼女は知っていたはずです。ええ、そうです、彼女は確かに行っていたにちがいありません」
ジャップはぶつくさいった。
「さあて、まあ行きましょうや」彼は巧みに往来のなかを縫って車を走らせた。「それにしても、この手提かばん問題が、どう、この犯罪と関係しているのか、私にはさっぱりわかりません。いやしくも関係があるようには見えないんです」
「正しくは、わたしも同意見です! あれはなんにも関係がありません」
「じゃ、なぜ――いや、待ってください! 筋道も方法も、なにもかも見事に揃いました! ああ、なるほど、じつにいい日ですな」
速い車だった。四時半ちょっとすぎに、彼らはウェントワース・ゴルフ場に着いた。平日なのでたいして混んでいなかった。
ポワロはまっすぐキャディ頭のもとへ行って、プレンダリース嬢のクラブを請求した。彼女は明日、別のコースでやることになったから、と彼は説明した。
キャディ頭が声高に呼ぶと、ひとりの少年が隅に立ててあるゴルフのクラブを選り分けだした。ついに、少年はJ・Pと頭文字の入ったバッグを選りだしてきた。
「ありがとう」といって、ポワロは立ち去りかけたが、何気なく振り返ってたずねた。「彼女はいっしょに小型の手提かばんを置いて行かなかったですか?」
「きょうは置いていかれませんでした。本館に預けられたのかもしれません」
「きょう、ここへ来たんでしょう?」
「ええ、おみかけしました」
「キャディは誰だったか、知っていますか? 彼女は手提かばんを置き忘れたのだが、最後にどこへ置いたのか、思い出せないのです」
「キャディはお連れになりませんでした。あのかたはここへきて、ボールを二個買われました。鉄のクラブを二本だけ持って行かれました。そのとき、小さなかばんを手に持っていられたように思います」
ポワロは礼をいって少年を帰した。ふたりの男は歩いて本館へまわった。ポワロはちょっと立ちどまって、景色を賞讃した。
「美しいですね、あれは、黒い松林に――湖。そう、湖――」
ジャップはハッとして彼を見た。
「それが目的でしたか?」
ポワロは微笑んだ。
「だれか、何かを目撃した者がいるかもしれません。わたしがあなたなら聞き込みに取りかかりますね」
十
ポワロはうしろへさがると、小くびをかしげて、部屋の配列を検分した。ここに椅子を一つ――も一つはあそこ。うん、とてもよくできた。おや、ベルが鳴った――あれはジャップだろう。警視庁の男はキビキビと入ってきた。
「ねえ、あなたのいうとおりでした! ピタリそのものです。確かにきのう、ウェントワースの湖へ、なにか投げこんだ若い女がいました。その女の人相はジェーン・プレンダリースに符合します。投げこまれた品物はたいした苦労もなしに引き揚げましたよ。ちょうど、アシの茂ったところでしてね」
「それで、その品物は?」
「まさに手提かばんそのものでした! だが、いったいなぜでしょう? じつは、閉口しているんです! なかは空《から》でした――れいの雑誌すらも入っていないのです。なぜ、正気と思われる若い女が、みずから高価な化粧かばんを湖に投げこんだのか――その理由がわからなくて、一晩中あたまを悩ましていました」
「可哀そうに、ジャップ! だが、もう悩む必要はありません。その回答がやってきました。いま鳴ったベルがそうです」
ポワロの申し分ない従僕のジョージがドアをあけて告げた。「プレンダリースさんです」
娘は、いつものとおり、自信に満ちた態度で部屋へ入ってきた。
「ここへお招きしたのは――」とポワロが説明する。「――こちらへおかけください、よろしければ。それから、きみはこちらだ、ジャップ――。ニュースが手に入ったのでお知らせするためです」
娘は腰を下ろした。彼女は帽子を押し動かしながら、かわるがわるふたりの男を見くらべた。彼女は帽子を脱いでしまうと、じれったそうに傍に置いて、話しかけた。
「そのう、ユーステス少佐が逮捕されましたね」
「朝刊でごらんになったのですね?」
「そうです」
「さしあたりは、小さな罪を問われているのですが――」ポワロはつづけて「その一方、われわれは殺人に関連した証拠を集めています」
「やはり殺人でしたか」
娘は熱心にたずねた。
ポワロはうなずいて、
「そうです、殺人でした。別の人間によって故意になされた、ひとりの人間の破壊」
彼女はちょっと身震いした。
「やめてください」と彼女はささやいた。「あなたがそんな風にいわれると、恐ろしく聞こえます」
「そう――でも、ほんとうに恐ろしいことなのです!」
彼女は一息ついた。しばらくして、ポワロは再び口をひらいた。
「ところで、プレンダリースさん、わたしがどんな方法でこの事件の真相に到達したか、これからお話しいたしましょう」
彼女はポワロからジャップに視線を移した。ジャップは微笑していた。
「これが、この男のやりかたなんですよ、プレンダリースさん」と彼は言った。「私はこの男に調子を合わせます。この男の言いたいことを、ふたりで聞いてやりましょう」
ポワロは始めた。
「ご存知のように、お嬢さん、わたしは犯行現場へ、十一月六日の朝、この友人といっしょに行きました。アレン夫人の死体が発見された部屋へ入って、すぐわたしは細かいが、意味深長な事実をいくつか発見しました。あの部屋には明らかにおかしなことがあったのです」
「おつづけになって」と娘。
「まずはじめは――」とポワロが「タバコの煙の匂いです」
「針小棒大ですよ、それは、ポワロ」とジャップ。「私にはなにも匂いませんでしたよ」
ポワロはくるりと彼のほうを向いた。
「まったくそのとおり。きみはムンムンたるタバコの匂いを嗅がなかった。わたしだって嗅いでないのです。そして、それは、たいへん、たいへん、不思議なことでした――というのは、ドアも窓も締まっていて、灰皿には少なくとも十本の吸殻が入っていたからです。おかしい、たいへんおかしいことなんです、あの部屋の空気があのように新鮮だったのは」
「そうか、あなたがつかもうとしていたのはそれでしたか!」ジャップは太息をついた。「ものをつかむには、そんな回りくどい方法をとらねばならないのだね」
「シャーロック・ホームズだって同じことをやったのですよ。いいですか、彼は、夜間、犬に変わったことが起こりはしなかったか、注意させた――が、変わった出来事はなかった、というのがその答えでした。あの犬は、夜間、なにもしなかったのです〔「シルヴァ・ブレイズ失踪事件」のこと〕。さきに進みましょう――次に、わたしの注意をひいたのは、死んだご婦人がつけていた腕時計でした」
「それがどうかしたんですか?」
「格別なことはなにもなかったのですが、それは、右の手くびについていたのです。ところで、わたしの経験では、腕時計は左手くびに巻くのがごく普通なのです」
ジャップは肩をすくめた。彼が口をひらくまえに、ポワロが急いであとをつづけた――
「しかし、きみのいうとおり、それはなにも決定的ではありません。右手につけるほうを好む人だっているのです。そこでやっと、ほんとうに興味津々たる問題に移ります――いいですか、書きもの用の大机の件です」
「そうだろうと思っていました」とジャップ。
「あれは本当にひどくおかしかった――ひどく変わっていたのです! 二つの理由によって。第一の理由は、机上から何かなくなっていたことでした」
ジェーン・プレンダリースが口をきいた。
「なにがなくなっていましたの?」
ポワロは彼女のほうを向いた。
「吸取紙が一枚です、お嬢さん。吸取器のいちばん上の吸取紙は、きれいな未使用のものでした」
ジェーンは肩をすくめた。
「あら、そんなもの、ポワロさん。使いふるした吸取紙は、ときどき剥がすのですよ!」
「それはそうですが、剥がした吸取紙をどう処分します? 紙屑かごに投げ入れる、そうじゃないですか? ところが、紙屑かごのなかには入っていなかったのです。わたしが調べたのですが」
ジェーン・プレンダリースは落着きをなくしたようだった。
「それは、前の日に捨てたからでしょう。吸取紙がよごれていなかったのは、あの日バーバラがなにも手紙を書かなかったからですわ」
「それはほとんど問題にならないのです、お嬢さん。あの夕方、アレン夫人がポストへ行くところを見られているからです。それ故、彼女は手紙を書いたにちがいないのです。彼女は階下では手紙が書けませんでした――文房具を置いてないので。彼女があなたの部屋へ書きに行くことも、まずありえないことです。それでは、彼女の書いた手紙のインクを吸い取った吸取紙はどうなったのでしょうか? 紙屑かごのかわりに、火のなかへものをほおりこむことが、ときどきあるのは事実です。ところが、あなたがマッチで火をつけたときには、すぐ火をつける用意ができていたということですから、その前日には階下では火をたいていなかったことになります」
彼は一息いれた。
「ちょっとした奇妙な問題です。わたしは紙屑かごもごみ箱も調べつくしましたが、よごれた吸取紙は見つかりません――わたしにはすこぶる重大問題に思えてきました。だれかがその吸取紙をわざわざ取り除けたようにみえます。その理由は? それは、その吸取紙に文字がうつっていて、鏡にかざせば、たやすくその文字が読めたからです。
しかし、書きもの机について、第二の奇妙な問題点がありました。たぶん、ジャップ、きみは机上の配列を憶えているでしょうね? 吸取器とインクスタンドが真ん中に、ペン皿が左側、カレンダーと鵞ペンが右側に。さあ、どうです? わかりませんか? 鵞ペンは、いいね、わたしが調べたら、ただの飾りにすぎなかった――一度も使ったことがないのです。ああ! まだ、わかりませんか? もう一度いいます。吸取器が真ん中に、ペン皿がその左に――左にですよ、ジャップ。しかるに、普通は右手でものを書くのに都合がいいように、ペン皿を右側に置くのじゃないんですか?
ああ、もうわかったでしょう、まだですか? ペン皿が左側に――腕時計が右手くびに――片づけられた吸取紙――それに、逆に部屋へ持ちこまれた品物――つまり、巻きタバコの吸殻を入れた灰皿!
あの部屋の空気は新鮮で匂いがなかったのですよ、ジャップ、窓が一晩中締められずに開いていたのです、あの部屋は……。そこで、わたしはある肖像を心に描きました」
彼はくるりと向きを変えて、ジェーンにむかいあった。
「あなたの肖像だったのですよ、お嬢さん。あなたがタクシーで乗りつけ、料金を払って階段をあがり、たぶん『バーバラ』と呼びかけて――ドアを開けると、お友達が死体となって横たわっている。ピストルを手につかんで――当然それは左手です、彼女は左ききでしたから――そして、それだからこそ、弾丸も頭の左側から入っていたのです。あなたにあてた短かい手紙がありました。彼女を自殺に追いつめた理由が書いてあります。その手紙に、ひどく胸を打たれたことと思います。脅喝によって自殺に追いやられた、若くて優しい不幸な女……
ほとんど即座に、あなたの頭に考えがパッときらめいたことでしょう。これは一人の男の仕わざだ。あの男を罰せよ――完全かつ充分に罰するのだ! ピストルを取って拭き、右手に持たせ変える。手紙を取り去り、手紙のインクでよごれた表面の吸取紙を剥がす。階下に降りて火を燃やし、両方とも火に投げこむ。それから、灰皿を持って上がる――人間が二人、そこに坐って、話をしていたかのように見せかけるため――それに、床に落ちていたホウロウのカフスボタンのかけらも持って上がる。好運な拾いものをしたので、これで事情を決定づけようとしたのです。それから、窓を締め、ドアに錠を下ろす。あなたが部屋をいじくったことは感づかれないに相違ない。警察はキチンとあるがままに受け取るにちがいない――それで、あなたはあの街で助けを求めず、直接警察へ電話したのです。
そして、思いどおりに事が運びます。あなたはみずから選んだ役割を、適確かつ冷静にやってのける。はじめはなにも言うのを拒むが、自殺は疑わしいと巧みに仄《ほの》めかす。あとでわれわれにユーステス少佐を追わせる準備は完了した……
そうです、お嬢さん、それは巧妙な――非常に巧妙な殺人でした――まさしく。ユーステス少佐殺害の企てだったのです」
ジェーン・プレンダリースはパッと立ち上がった。
「殺人ではありません――裁きなのです。あの男は可哀そうなバーバラをいじめ殺したのです! あのひとは余りにも優しく、余りにも無力でした。あのひとは、はじめて世間に出たとき、インドである男と関わり合いました。あのひとは当時まだ十七歳で、しかも、相手の男はずっと年うえの妻帯者でした。やがて、あのひとに子供ができました。子供をどこかの家庭に預けることもできたのですが、あのひとは肯《がえ》んじませんでした。あのひとはどこかへんぴな所へ隠れ、アレン夫人と自称して帰ってきました。あとで子供は死にました。あのひとは帰国して恋をしました、チャールズに――あの、もったいぶった気取り屋の明きめくらに! あのひとは彼を敬慕し――彼はあのひとの敬慕を悦にいって受けました。もし、彼が違った種類の人間だったら、すべてを彼に打ち明けるよう、あのひとにすすめていたでしょう。でも、実際は、黙っているように力説したのです。結局、あの件については、わたし以外には、誰ひとり他に知る者はいなかったわけです。
すると、そこへ、あの悪魔ユーステスが現われたのです! あとはおわかりでしょう。あの男は計画的にあのひとを絞りはじめました。でも、あの前の晩まで、チャールズをもスキャンダルの危機にさらしているとは、あのひとは悟っていなかったのです。ひとたびチャールズと結婚すれば、それこそ、あの男の思うツボにはまったことになる――およそスキャンダルと名のつくものを恐れている金持の男と結婚すれば! あのひとがあの男のために都合したお金を持ってユーステスが帰ると、あのひとは坐って考えこみました。やがて、上にあがって、わたしあてに手紙を書きました。あのひとはチャールズを愛していて、彼なしには生きていけない、しかし、その彼のためには彼と結婚すべきではないのだ、と書いてありました。最善の道をえらんで逃れるつもりだ、と書いてあったのです」
彼女は頭を後ろへのけぞらした。
「わたしがあんなことをしたので、驚いているのですか? それでも、あなたは、まだ、あれを殺人と呼ぶつもりですか!」
「あれは正に殺人だからです」ポワロの声は厳めしかった。「ときには殺人も正当化されうるようにみえますが、しかし、やはり殺人は殺人にちがいないのです。あなたは誠実で、心に曇りのないかたです――真実を直視しなさい、お嬢さん! お友達は最後の手段として死を選びました、彼女には生きぬく勇気がなかったからです。彼女に同情するのはよろしい。彼女を哀れに思うのもよろしい。しかし、事実は残ります――これは彼女が自分でやったことなのです――他人のやったことではないのです」
彼は一息ついた。
「それで、あなたはどうします? あの男はいま牢に入っています。別の罪で長期刑に服することでしょう。相手がどんな人間であっても、自己の意志によって、人間の生命――生命ですぞ――を破壊しようと、あなたは心から願っているのですか?」
彼女は彼をみつめた。暗たんたる眼つきだった。不意に彼女はつぶやいた――。
「いいえ。おっしゃるとおりです。願っておりません」
それから、くるりと後ろを向いて、足ばやに部屋を出ていった。外のドアがバタンと締まった……
ジャップは長い――ながながと尾をひいた――口笛を吹いた。
「そうか、そうだったのか」
ポワロは腰を下ろして愛想よく微笑みかけた。ずいぶん長いあいだ沈黙がつづいた。やがて、ジャップが口をひらいた。
「自殺にみせかけた他殺ではなく、殺人にみせかけた自殺だったのか!」
「そう、しかも非常に巧みにやってましたね。強調しすぎもなしに」
ジャップが突然言いだした――
「しかし、れいの手提かばんは? あれはどう関係していたのです」
「でも、ねえ、きみ、あれはなんにも関係がない、と前にいいましたよ」
「じゃ、なぜ――?」
「ゴルフのクラブ。ゴルフのクラブですよ、ジャップ、問題は。あれは左きき用のゴルフクラブだったのです。ジェーン・プレンダリースのクラブはウェントワースに置いてあったのです。あの戸棚にあったのはバーバラ・アレンのクラブでした。わたしたちがあの戸棚を開けたとき、あの娘がギョッとしたのも無理はありません。彼女の計画全体が台なしになるかもしれなかったのです。しかし、彼女は機敏です。すぐ、手の内を見られてしまったことを悟りました。わたしたちに見られたと彼女は見てとったのです。そこで、彼女はとっさに考えうる最善の手段をとりました。彼女はわたしたちの注意を全然別の対象物に集中させようとしたのです。彼女は手提かばんについて、こう言います。『それはわたしのです。わたし――けさ持って帰ってたんです。ですから、それにはなにも入ってるはずがありません』そして、彼女の望みどおり、きみはにせの手掛りを追うようにしむけられてしまったのです。同じ理由で、翌日ゴルフのクラブを処分しに出かけたとき、その手提かばんを引き続いて使いました。それを――なんていうのですか――|にしんの干物《キッパード・ヘリング》」
「人の注意を逸《そ》らすためにわざと置くものという意味なら、|くん製にしん《レッド・ヘリング》です。それは、つまり彼女のほんとうの目的は――?」
「考えなさい、きみ。ゴルフのクラブを処分するのに、いちばん良い場所はどこですか? 焼いたり、ごみ箱へ入れたりはできません。どこかへ捨てても、戻ってくるかもしれません。プレンダリース嬢はゴルフ場へ持っていったのです。彼女は自分のバッグから鉄のクラブを二本だけ取りに行くあいだ、それを本館に置いておいて、そしてキャディを連れずに一巡しに出かける。おそらく、適当な時機を見計らつて、彼女はアレン夫人のクラブを二つに折って深い叢林のなかへ投げこみ、さいごに空のバッグを投げ捨てる。あそこなら、あちこちで折れたクラブがみつかっても怪しまれない。ゲームにひどく激昂すると、みんなクラブを折って投げ捨てることは、だれでも知っています! じじつ、あれはそういう種類のゲームなんです!
しかし自分の行動がまだ目をつけられている、と彼女は悟っていたので、あの有効なにせの手がかり――手提かばん――を、わざとほおりこみました――いくらかこれみよがしに、湖へ――、そして、それが、きみ、『手提かばんの秘密』の真相なんです」
ジャップはしばらく黙って友人の顔をみつめていた。それから立ち上がると、彼の肩をポンとたたいて、急にどっと吹きだした。
「おとしのわりには悪い出来ばえじゃないですな! たしかに、|ご褒美《ケーキ》ものですよ! 外へ出て、ちょっと昼食をたべませんか?」
「よろこんで。だが、ケーキはたべませんよ。全くの話が、|キノコ入りのオムレツ《オムレット・オ・シャンピノン》、|白ソースで調味したこうしのシチュー《ブランケット・ド・ボオ》、|フランス風のえんどう豆《プチ・ポア・ア・ラ・フランセーズ》、それに――その次が――|ラム酒漬けのカステラ《パパ・オ・ラム》と続くのです」
「連れて行ってください」とジャップは言った。
◆ポワロ参上! 5◆
アガサ・クリスティ
「死人の鏡」田中潤司訳
「厩街の殺人」早川節夫訳
二〇〇五年二月二十五日