そして誰もいなくなった
アガサ・クリスティー
清水俊二訳
さまざまな職業、年齢、経歴の十人がU・N・オーエンと名乗る富豪からインディアン島に招待された。しかし、肝心の招待主は姿を見せず、客たちが立派な食卓についたとき、どこからともなく客たちの過去の犯罪を告発してゆく声が響いていた。そして童謡のとおりに、一人また一人と……ミステリの女王の最高傑作! 解説 赤川次郎
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『そして誰もいなくなった』によせて
[#地付き]マシュー・プリチャード
『そして誰もいなくなった』は一九三九年、アガサ・クリスティーがその絶頂期に書いた名作のひとつです。この作品は彼女がプロット作りにいかに長けていたかを示す好例で、南デヴォンの海岸沿いにある島に足止めされた十人を中心に物語は進みます。この島は実在のバー・アイランドをモデルにしており、実際には物語の舞台の島ほど本土から離れているわけではありませんが、クリスティーの生誕の地トーキイからさほど遠くないこともあって、ファンには格好の観光地となっています。アガサはトーキイで生まれただけでなく、後年トーキイとバー・アイランドの間のダート川沿いにグリーンヴェイ・ハウスと呼ばれる物件を買いました。この地は『死者のあやまち』の舞台ともなりました。アガサは自分の馴染みの土地を舞台に物語を作ることに居心地のよさを感じていたようです。
それにしても、『そして誰もいなくなった』の見事なプロットといったらどうでしょう! 十人の男女が偽の口実でデヴォンの孤島に呼び出され、週末を過ごすことになります。最初の夜、どこからともなく録音の声が流れ、そこに集まった人々全員が過去において殺人を犯したと糾弾し、彼らが殺した犠牲者≠フ名まで読み上げます。いずれの場合も、はっきりとした殺人ではなく、目撃者がいなかったために事故や不注意による過失致死、または自殺として片付けられていたというのです。このような殺人≠ヘ通常の場合、白日の下にさらされることはなく、殺人≠ニも呼べないものです。しかし、厳密に正義の観点から考えると、トーキイの町の真ん中で白昼堂々他人を射殺するのと、人の命を奪うという点ではなんら変わりありません。ここに本書の道徳的なテーマ──狂信的な法の信奉者が、過去に不正を働いた者を一堂に集め、正義の裁きを下す──があります。
本書の優れている点は、島にいる作中の人物たちや読者に、これから起こりつつある事が徐々に明らかになっていくことにあります。暖炉の上に置かれた十体の陶器のインディアンの人形が、殺人が起こるたびにひとつまたひとつと消えていくことや、額に入れられた古い童謡の歌詞──パーティが終わって、少年が一人、また一人と去っていき、最後に「そして誰もいなくなった」となる──が、さらに緊張感を高めています。本書は強烈なドラマ性をもっているがゆえに、演劇としても大変成功を収め、後には映画化もされました。しかし、正直に申し上げると、小説が紡ぎだす耐えられないほどの緊張感は、他のメディアには到底太刀打ちできないものです。
アガサ・クリスティーの創作活動は大変長きに渡るものでしたし、執筆当時は今日のテクノロジーの多くがまだ発明されていませんでした(携帯電話などはその最たるものと言えるでしょう)。そのために批判されたり、現実味のないありえない話として嘲りの対象となることもあります。『そして誰もいなくなった』はそうした批判を受けた作品のひとつと言えるでしょう。
なぜ、十人はもっと早く島を後にしなかったのか? 客たちは自分たちの身の安全についてあまりにも無頓着だったのではないか? そもそも彼らが招待に応じて島にやってきたこと自体が配慮が足りなかったのではないか? もしアガサ・クリスティーが生きていたとしたら彼女は二つのことを言うに違いありません。まず、リアリティの面ではある程度罪を認めることでしょう。しかし(少なくともわたしの考えでは)、「ありえない設定」はなんら作品の緊張感を損ねるものではなく、むしろほとんどの読者は冒頭からクライマックスまで物語に没入し、なんの疑問も抱くことがないでしょう。第二に、作者のアガサ・クリスティーと犯人は巧妙にこの事件を仕掛けており、本書を読み終えたときに、「ありえない設定」さえもあらかじめ予定されていたことに気づくだろうということです。しかし、もしも一九三九年にEメールやヘリコプターが存在していたとすれば、本書が「ありえな」かったことだけは認めるといたしましょう。
いずれにしても、本書の魅力は現代においてもなんら色褪せることはありません。テクノロジーのもっとも進んだ国である日本やアメリカでも本書がベストセラーになっていることがその証左と言えるでしょう。テクノロジーに支配されない社会もまた乙なものなのです。
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付記:わたしが初めて読んだ祖母アガサ・クリスティーの作品は、本書『そして誰もいなくなった』でした。あれはわたしが十歳だった一九五三年か五四年のことだったでしょうか。恐ろしくて震え上がったことをよく覚えています!
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[#地付き](編集部訳)
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マシュー・プリチャードは、アガサ・クリスティーの娘のロザリンドの息子で、一九四三年生まれ。クリスティー財団の理事長を長く務めている。
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そして誰もいなくなった
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登場人物
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ローレンス。ウォーグレイヴ …… 高名な元判事
ヴェラ・クレイソーン …………… 秘書・家庭教師の娘
フィリップ・ロンバード ………… 元陸軍大尉
エミリー・ブレント ……………… 信仰のあつい老婦人
マカーサー将軍 …………………… 退役の老将軍
アームストロング ………………… 医師
アンソニー(トニー)・
マーストン ………… 遊び好きの青年
ブロア ……………………………… 元警部
トマス・ロジャース ……………… オーエン家の執事
エセル・ロジャース ……………… トマスの妻、コック
オーエン夫妻 ……………………… インディアン島の持ち主
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第一章
1
最近現職から引退したウォーグレイヴ判事は一等喫煙車の隅で葉巻をくゆらせ、≪タイムズ≫の政治記事を熱心に読みふけっていた。やがて、彼は新聞をおいて、窓の外を眺めた。列車はいまサマセットを走っていた。彼は時計を眺めた──あと二時間だ。
判事はインディアン島について新聞に現われたすべての記事を心の中でくりかえした。ヨット好きのアメリカの富豪が島を買い取って、このデヴォンの海岸に近い島に贅を尽くした近代邸宅を建てた記事が最初だった。ところが、アメリカの富豪の三番目の妻が船に弱かったので、邸宅と島とが売りに出されることになった。人目を引く広告が何回も現われた。そして、オーエン氏なる人物が買い取ったという簡単な記事が掲載された。それから、さまざまな噂が飛びはじめた。インディアン島を買ったのは実はハリウッドの映画スター、ゲブリエル・タールである! 彼女は一年のうち数カ月をこの島に人目を避けて暮らそうとしている! (うわさ雀)欄の筆者はさる高貴な方の別邸として買われたとしるした。(気象台)欄は新婚旅行のためである、と書いた。若い──卿がついにキューピッドに射とめられたのである、と。「ジョナス」は確実な情報として、海軍省が買ったと伝えた。極秘の実験をするためである、と。
たしかに、インディアン島は大きなニュースだった!
ウォーグレイヴ判事はポケットから一通の手紙を取り出した。ほとんど文字の判別のつかぬ筆蹟だったが、ところどころに、思いがけないほどはっきりとわかる懐旧の文句があった。おなつかしきローレンスさま……あなたの消息を聞かなくなってから、長年……ぜひインディアン島へ……非常に美しいところで……お話ししたいことがたまって……懐かしいむかしのことを……自然に親しみ……日光を浴び……パディントンを十二時四十分……オークブリッジでお待ちして……。そして発信者はあなたのコンスタンス・カルミントン≠ニ美しい筆蹟で署名していた。
ウォーグレイヴ判事はレディ・コンスタンス・カルミントンに最後に会ったのはいつだっただろう、と回想した。七年──いや、八年もむかしのことだ。そのとき、彼女は日光を浴び、自然と農民とに親しむためにイタリアへ旅行しようとしているところだった。その後、彼女はさらに強い日光を浴び、自然と遊牧の民とに親しむためにイタリアへ行ったということだった。
たしかに、コンスタンス・カルミントンは島を買い取って謎の生活を送ろうとするような女だった。ウォーグレイヴ判事は自分が下した結論にみずからうなずきながら頭をたれた……彼は眠りはじめた……。
2
他の五人の乗客とともに三等車に乗っていたヴェラ・クレイソーンは頭をうしろにそらせて、目を閉じた。列車で旅をするにはなんという暑い日であろう! 海に着いたら、どんなに気持ちのいいことであろう! まったく、こんどの仕事が見つかったことは大きな幸運だった。休暇のシーズンの仕事といえば、たいてい、大勢の子供たちの世話をすることだった。秘書の仕事はほとんどなかった。職業紹介所へ頼んでも、ほとんど望みはなかった。
そこへ、手紙が来たのだった。
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──私はあなたの名前を職業紹介所から聞き、同時に推薦状を受け取りました。紹介所では、あなたをよく知っていて推薦してきたものと思います。あなたのお望みの給料で八月八日から働いてください。パディントン発十二時四十分の列車にお乗りになればオークブリッジ駅に迎えを出します。なお、旅費その他として五ポンド同封しました。
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[#地付き]親愛なる
[#地付き]ユナ・ナンシー・オーエン
そして、便箋の上端に(デヴォン州スティクル、ヘヴン、インディアン島)とスタンプで押してあった。
インディアン島! ちかごろ、しじゅう新聞に出ていた島だ! さまざまの噂がとんでいたが、どの噂も、根も葉もないものだったのであろう。しかし、邸宅はたしかにある富豪によって建てられたもので、贅沢きわまりないものであるといわれている。
はげしい教師の勤めに疲れきっていたヴェラ・クレイソーンはいつも考えるのだった──「三流学校の教師をしていても、うだつはあがらない……もう少しましな学校に口があるといいのだが」そこまで考えると、いつも、心の中に冷たいものを感じるのだ。
「しかし、この学校に勤められただけでも、運がいいのだ。検死審問によばれたということは、どこへ行っても嫌われる。たとえ、検死官は無罪の判定を下したとしても!」
彼女は、検死官に沈着な態度と勇気とを賞讃されたことを思い出した。検死官に審問されたものがこれほど有利な判定をあたえられることはめったにない。そして、ハミルトン夫人も彼女に親切であった──ただ、ヒューゴーだけは──「しかし、ヒューゴーのことは、もう考える気にはならない!」
突然、車室の中はうだるように暑いのに、ヴェラはからだを震わせて、海に行くことはよせばよかったと思った。あのときの光景がはっきり彼女の心に浮かんできた。シリルの頭が浮きつ沈みつ、岩に向かって泳いでいる。浮いたり沈んだり──浮いたり、沈んだり……そして、彼女自身は正確なストロークで彼のあとから泳いでいる──水を切って進みながら、間に合うはずのないことをはっきりわきまえて……。
海──その深く温かみのある青さ──砂の上に一緒に横たわってすごした朝のこと──ヒューゴー──彼女を愛していると言ったヒューゴー……。
いや、ヒューゴーのことを考えてはならない……。
ヴェラは目をあけて、向かい合って腰をかけている男の顔をちらっと眺めた。浅黒い顔、薄い色の眼。背が高く、口もとが冷酷に見えるほどふてぶてしかった。彼女はひそかに考えた。しじゅう旅行をしていて、さまざまのおもしろい経験を持っている男にちがいない」
3
フィリップ・ロンバードは向かい合って腰をかけている娘を一目見て、こう考えた。
「なかなか魅力がある──少しばかり女教師のようなところがあるがおそらく、冷たい心の持ち主であろう──自分というものを失うことのない女だ──恋においても、戦いにおいても。友だちになれたら、おもしろいだろうが……」
彼は渋い顔をした。いけない、こんなことを考えてはいけない。仕事なのだ。仕事に精神を集中させるのだ。
いったい、どういうことなのだろう、と、彼は改めて考えた。モリスが言ったことは謎であった。
「きみが引き受けようと、引き受けまいと、ぼくはどっちでもいいんだよ、ロンバード大尉」
ロンバードは気持ちを落ち着けようとしながら、言った。
「百ギニーだって?」
百ギニーの金など大して重要でないといった何げない口調で、彼は訊き返した。食事も満足にできないほど困っていたときの百ギニー! しかし、彼はモリスを偽ることはできまいと思った──金のことでモリスを偽ることはとうていできることではなかった──彼は知っていたのだ。
ロンバードはおなじように何げない口調で言った。
「そして、それ以上詳しいことは話せないんだね?」
アイザック・モリス氏は禿げた小さな頭をはっきり横に振った。
「話せないんだ、ロンバード大尉、いま話したことだけで決めてもらうんだ。このことを私に依頼した人間は、きみがいざというときに頼りになる男であることをよく知っている。きみがデヴォン州スティクルヘヴンへ行くことさえ承知してくれれば、私はきみに百ギニーの金を渡すことになっている。いちばん近い駅はオークブリッジで、出迎えのものがそこからスティクルヘヴンまで送り、さらに、モーターボートの渡船でインディアン島へ運んでくれる。そこで、きみは私の依頼人に一切をまかせればいいのだ」
ロンバードはいきなり訊いた。
「期間は?」
「どんなことがあっても、一週間以上にはならない」
小さな口ひげをひねりながら、ロンバード大尉は言った。
「不正なことなら、お手伝いはできないぜ」
彼はそう言いながら、相手に鋭い一瞥をあたえた。モリス氏は厚い唇にかすかな微笑を浮かべて、重々しい口調で答えた。
「もし、不正なことを要求されたら、いつでも、引き上げてきてよろしい」
一筋組ではいかない奴だ、と、モリスは微笑した。ロンバードの過去の行動がいつも正直であったとはかぎらぬことを知っている微笑だった。
ロンバード自身も唇をかすかにひらいて、薄笑いをもらした。
たしかに、おれは一、二度、危ない橋を渡ったことがある。しかし、いつもボロを出さずにすんだ。たとえ、不正なことでも、あまり気にしていないことは事実だった……。
いや、むしろ、危ない橋を渡ってみたいのだ。彼はインディアン島におもしろいことが待っているような気がして、胸をおどらせた。
4
ミス・エミリー・ブレントはいつものようにからだをまっすぐにして禁煙車両に座っていた。彼女は六十五歳、列車の中で気ままにくつろぐことなどは心から反対だった。頭の古い大佐だった彼女の父は行儀作法についてやかましかった。
ちかごろの若いものはだらしがない──列車の中の行儀についても、そのほか、いろいろの意味でも──
ミス・ブレントは自分が正しいと信じている主張をかたく持して、混みあっている三等車にきちんと座り、不快と暑さをじっとこらえていた。ちかごろのものは誰でも何でもないことを騒ぎたてる! 歯を抜くときに注射を要求する──眠れないと、薬をのむ──すぐ、やわらかい椅子やクッションを求め、娘たちはだらしがない恰好をしても平気であるし、夏になると、はだか同様の姿で海岸に横たわっている。
ミス・ブレントの唇はかたく引き締められていた。みずから模範を示しているつもりなのだった。
彼女は昨年の夏休みを考えた。しかし、ことしはまったく事情がちがっていた。インディアン島……。
彼女は、すでに何回も読みなおした手紙を頭の中でもう一度読みかえした。
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ブレントさま
私を覚えていらっしゃるでしょう。私たちは数年前の八月、ベルヘヴンの海岸のホテルで一緒になって、お互いに多くの共通点を持っていることを見いだしました。
私はいま、デヴォン州のある島で家族的なクラブのような宿をはじめようとしているのです。簡単なおいしい食事をお出しし、昔風のものしずかなお客さまだけをお迎えしたいと思っています。必要以上に肉体をあらわしたり、夜おそくまで蓄音機をかけたりするものは、ここには来ないはずです。もし、あなたがこの夏の休暇をインディアン島ですごして下さったら、これに越した喜びはございません。もちろん私のお客としておいで下さればいいので、費用のご心配はありません。八月のはじめでは、いかがでしょうか。八日においで下さると好都合なのですか。
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[#地付き]あなたの誠実なる
[#地付き]U・N・O──
何と読むのであろう。字が読みにくいのである。エミリー・ブレントはいらいらしながら、思った。「ちかごろ、読めないサインを書くものが多くて困る」
彼女はベルヘヴンで会ったひとびとを思い浮かべた。そこへは、二夏つづけて行ったのであった。たしかに中年の婦人が一人いた。あの婦人は──何という名前であったろう──父親がたしか大聖堂参事会員であった。そのほかにもミセス・オルトン──オーメンだったろうか──いや、たしかオリヴァーというのだった。そうだ──オリヴァーだ。
インディアン島! ちかごろ、インディアン島についてさまざまのことが新聞に出ている──映画スターがどうしたというようなこと──それとも、アメリカの富豪だったかしら。
もちろん、こういうところはひじょうに安く手に入る場合もある──島は誰にでも向くというわけにはいかない。はじめは、ロマンティックだと思って買うのだが、住んでみると、不便なことが多く、手放したくなるのだ。
エミリー・ブレントは考えた。「とにかく、ただで休暇を楽しめるのだ」
収入が減っているうえに、受け取るべき金でも払ってもらえないことが多いというときに、まことに耳よりな話だった。ただ、あの婦人──ミセスだったか、それともミス・オリヴァーだったか──彼女について、もっと思い出せるといいのだが。
5
マカーサー将軍は車室の窓から外を眺めた。列車は乗り換え場所のエクセターに着くところだった。どうも、支線の列車は遅れてかなわない……距離からいえば、インディアン島などは目と鼻の先なのだ。
彼はオーエンという男がどんな人物であったか、はっきり頭に浮かべることができなかった。明らかにスプーフ・レガードの友だちであり──ジョニー・ダイアーの友だちであるにはちがいないが。
──閣下の御旧友もお見えになります──昔ばなしをなさるのも一興と存じ……。
たしかに昔ばなしは悪くない。ちかごろ、ひとびとはつとめて彼を避けているように思われる。それもあのいまいましい噂のせいなのだ! もう三十年も昔のことなのに! おそらく、アーミテイジがしゃべったのであろう。いまいましい若僧だ! 彼が、何を知っているというのだ。いや、しかし、気にしたところで、何にもならん。人間は気にしないでいいことを気にするものだ──妙な目つきで見られると何でもないことを気にすることもあるのだ。
ところでインディアン島というところは、彼も行ってみたいと思っていたところだ。さまざまの噂がとんでいる。海軍か陸軍か空軍が手に入れたという噂も、まんざら根も葉もないことではないかもしれない。
アメリカの若い富豪エルマー・ロブスンが邸宅を建てたということは事実である。多額の建築費をかけたということだ。あらゆる贅を尽くしてあるということだ。
エクセター! ここで一時間待つのだ! 彼は待ちたくなかった。一刻も早く目的地に行き着きたかった。
6
アームストロング医師はソルズベリの平野にモーリス(英国の乗用車)を走らせていた。彼は疲れきっていた……現在の名声を得るまでの生涯がこの疲労を生んだのである。かつて、ハーレー街の診療室に白い診療衣をきちんと着て、最新式の器具と、ぜいたくな調度にとりかこまれながら、成功か失敗かの二筋道をたどっていた時代があった。
結局、彼は成功した。運がよかったのだ。もちろん、腕もたしかだった。しかし医師として成功するには、腕だけでは充分でなかった。運も必要であった。彼はその運をつかんだのだ! 正しい診断──婦人患者からは感謝される──財産と地位のある婦人患者から──そして、噂がひろまる。「アームストロングに診てもらうといいわ──まだ若いけれど──とてもしっかりしたお医者よ──パムはながいあいだ、いろいろの医者にかかってきたのに、あの医者は一度で病気の原因をつきとめたわ!」ボールは転がりはじめたのだ。
かくて、アームストロング医師はついに宿望を達した。患者は門前市をなした。ほとんど、暇はなかった。したがって、数日のあいだロンドンを離れて、デヴォンの海岸の島に八月の暑さを避けることは悪いことではなかった。休暇といえるものであるかどうかは、明らかではなかった。彼が受け取った手紙では、どういうことであるのか、はっきりしたことはわからなかった。しかし、同封の小切手は疑いのない現実だった。しかも、法外な額だった。このオーエンという人物は金がありあまっている人間にちがいない。妻の健康を気づかっている夫が妻に気づかせずに診察をうけさせようとしているのだ。妻は医者に診せることをいやがっている。神経が──
神経! 医師は眉をぴくりとさせた。婦人患者にはありがちのことだ! しかし、医師にはこういう患者がいちばんありがたい。診察を求めてくる婦人の半分はからだに少しも異常がなく、ただ、退屈なのであった。しかし、はっきりそう言ってしまっては、彼女たちは喜ばない! そして、彼が病気を見つけることはわけのないことだった。
「ちょっと異常をきたしておりますね──(そこで、長い難しい名前を言って)──しかし、大したことではありません──このままにしておいてはいけませんが。……なに、処置は簡単ですよ」
薬は信念をよびもどす手段だった。それに、彼の態度は相手に信頼をあたえた──希望と信念をうえつけることができた。
しかし、あの十年──いや、十五年前の事件の後で、彼が立ち直ることができたのは、運のいいことだった。一時はもう立ち上がれないかと思われたのだ。しかし、彼は奮《ふる》いたった。酒も断った。まったく、危ないところだった。
耳をつんざくような警笛が聞こえて、スポーツ型の大きなダルメインが時速八十マイル[#約時速130キロ]ほどのスピードで彼を追いこした。アームストロング医師はもう少しで道路の柵に自動車をぶつけるところだった。平気で乱暴な運転をする若いものにちがいない。医師は、そういう若いものがきらいだった。もう少しで、自動車をぶつけるところだった。向こう見ずな奴だ!
7
トニー・マーストンは自動車を走らせて、ミアに入りながら、考えた。「どうして、のろのろ走っている自動車が多いのだろう。邪魔になって、仕方がない。しかも、そういう連中にかぎって、道路の真ん中を走っているのだ! とにかく、英国ではドライヴ旅行はできない……フランスのようなわけにはいかない」
ここで自動車を停めて、のどをうるおそうか、それとも、このまま先へ進もうか。時間はまだたっぷりある! あと百マイルと少しなのだ。ジンとジンジャー・ビアを飲んでいこう。まったく、暑い日だからな!
この島の邸宅というのは、きっと愉快なところだろう──天気さえつづけば。……それにしても、オーエン夫婦というのは、どんな人間なのだろう。おそらく、金はあるが、あまり愉快ではない人間だろう。バジャーは、そういう人間をかぎ出すのがうまいのだ。もちろん、自分は金がないので、そういう人間をつかまえなければならないのだが……。
とにかく、酒だけはたっぷり飲ませてもらいたいものだ。金はつくったが、使い方を知らない人間だ。ゲブリエル・タールがインディアン島を買ったという話が嘘だったのは残念だ。映画スターの仲間と一緒に遊ぶのはおもしろいにちがいない。
それにしても、若い娘がいるといいのだが……。
彼はホテルを出て、からだをのばしてあくびをしてから、青い空を見上げて、ダルメインに乗った。数人の若い娘が彼の姿を惚れぼれと見つめていた──均整のとれた六フィートの体躯[#表示不能に付き置換え]、こまかくちぢれている髪、陽にやけた顔、深みある青い瞳。
彼は自動車をスタートさせ、狭い往来を猛烈なスピードで走らせていった。老人や使い走りの少年があわてて道をあけた。少年は走り去ってゆく自動車をうらやましそうに見つめた。
アンソニー・マーストンは勝ちほこる凱旋将軍のように自動車を走らせていった。
8
ブロア氏は、プリマスから来るのろい列車に乗っていた。車室には、彼のほかに、眼のくもった船乗りらしい老人が乗っているだけだった。老人はいま、眠っていた。
ブロア氏は小さな手帳に何ごとか書きとめていた。
「これで全部だ」と、彼はひとりごとを言った。「エミリー・ブレント、ヴェラ・クレイソーン、アームストロング医師、アンソニー・マーストン、ウォーグレイヴ老判事、フィリップ・ロンバード、マカーサー将軍、執事のロジャース夫妻」
彼は手帳を閉じて、ポケットにおさめた。それから、車室の隅で眠っている老人を眺めた。
「酔っているな」と、ブロア氏は観察を下した。
彼は心の中で、抜かりがないかどうかを綿密に考えた。
「わけのない仕事さ」と、彼は自分に言い聞かせた。「やりそこなうはずはない。怪しまれなければいいんだ」
彼は立ち上がって、鏡の前に立った。鏡にうつった顔は、口ひげを生やしていてかすかに軍人らしい面影が残っていた。表情はほとんどなかった。瞳は灰色で、目と目のあいだがどちらかというと狭かった。
「少佐ということにするかな」と、ブロア氏は言った。「いや、忘れていた。老将軍がいたんだっけ。すぐ見破られてしまうだろう。やはり、南アフリカがいい。南アフリカに関係のあるものは一人もいないし、こっちは旅行案内を読んだばかりだから、どんな話でもできる」
幸いなことに、植民地の人間にはさまざまのタイプがある。南アフリカで事業をしていた男ということにしておけば、どんなひとびとのあいだに入っていても、怪しまれることはあるまい。
インディアン島──彼は少年時代にインディアン島を知っていた。岩だらけの島で、鴎《かもめ》がいっぱい集まっていた。海岸から|一マイル《約1.6キロ》ほどの距離だった。その由来は人間の頭に似ているところからきていた──アメリカ・インディアンの横顔に似ているのだった。
あの島に邸宅を建てるなどとは、物好きな人間もいるものだ! 海が荒れると、ひどいところなのだ。しかし、金持には物好きな人間が多いのだ。
隅の老人が目を覚まして、言った。
「海のことはわからねえ──わかるもんじゃねえ!」
ブロア氏は怒っている人間をなだめるように言った。
「そうだ。わからないよ」
老人は二度しゃっくりをして、暗い表情を見せながら言った。
「嵐が来るぜ」
「そんなことはあるまい。いい天気じゃないか」
老人は怒ったように言った。
「きっと嵐が来る。わしにはわかるんだ」
「あるいは、お前さんの言うとおりかもしれん」と、ブロア氏はさからわずに言った。
列車は駅に着き、老人は危うい足つきで立ち上がった。
「ここで降りるんだ」彼は手を震わせて、窓のあたりを探った。ブロア氏は手を貸して、彼のからだを支えた。
老人は通路に立って、ものものしく片手を上げ、くもった眼をしばたたいた。
「祈るがいい」と、彼は言った。「祈るんだよ。審判の日が近づいている」
老人は降車口でつまずいてプラットフォームに倒れこんだ。そして、倒れたままの姿でブロア氏を見上げながら、威厳を加えた口調で言った。
「お前さんに言っているんだよ、お若いの。審判の日はすぐそばまで来ているのだ」
ブロア氏は席へ戻った。「自分のほうが審判の日に近づいているじゃないか!」
しかし、ブロア氏の考えかたはまちがっていた。
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第二章
1
オークブリッジ駅の外に、わずかなひとびとが一団になって、どうしていいかわからないように立ちつくしていた。彼らの背後にはスーツケースを持った数人のポーターが立っていた。その中の一人が「ジム!」と叫んだ。
タクシーの運転手の一人が進み出てきた。
「インディアン島に行くんですかい」と、彼はやわらかいデヴォン訛《なま》りでたずねた。四つの声がその質問に肯定の返事をして──そして、すぐ、お互いの顔をこっそり盗み見た。
運転手は一団のなかの年長者であるウォーグレイヴ判事に話しかけた。
「タクシーは二台あるのです。一台はエクセターから普通列車が着くまで待っていなければなりません──五分ばかりなんですがね──その列車で来る男の方が一人いるんです。どなたか、それまでお待ちになっていただけませんか。そのほうがずっと楽ですよ」
もうオーエン夫人の秘書になったつもりのヴェラ・クレイソーンがすぐ口を切った。
「私が待ちましょう」と、彼女は言った。「みなさん、先においでになって下さい」彼女はそう言って、他の三人を見つめた。彼女の目つきと声には、そういう仕事をしているものの命令するような調子がわずかながら認められた。女の生徒たちにどのテニス・コートを使うかを指示しているような調子だった。
ミス・ブレントはしかつめらしく「ではお先に」と言って軽く頭を下げ、運転手がドアを開いて待っているタクシーに乗りこんだ。
ウォーグレイヴ判事がその後からつづいた。
ロンバード大尉は言った。
「ぼくは待とう。その……」
「クレイソーンです」とヴェラは言った。
「ぼくはロンバードというんです。フィリップ・ロンバード」
ポーターたちは荷物をタクシーに積みこんだ。車内では、ウォーグレイヴ判事が職業柄の注意ぶかい調子で言った。
「いいお天気ですな」
ミス・ブレントは言った。「ええ、ほんとうに」
なかなか立派な老紳士だ、と、彼女は考えた。海浜の旅館で見かける男たちとはだいぶちがっている。ミセス・オリヴァーであったか、ミス・オリヴァーであったかは忘れたが、相当のつきあいをしているらしい……。
ウォーグレイヴ判事はたずねた。
「このへんを、よくご存じなのですか」
「コーンウォールとトーキーには行きましたが、デヴォンのこのへんに来たのははじめてです」
判事は言った。
「私もこのへんは不案内でしてね」
タクシーは走り去った。
二台日のタクシーの運転手が言った。
「お待ちになるあいだ、中におかけになりますかね」
ヴェラははっきりした口調で言った。「いいえ、外にいますわ」
ロンバード大尉は微笑した。
「外にいるほうが気持ちがいいですよ。それとも、駅の中に入りましょうか」
「ここにしましょう。せっかく、暑苦しい列車の中から解放されたんですもの」
「まったくです。この暑さに列車の旅はかなわない」
ヴェラは言った。
「でも、お天気がつづくといいですわね。英国の夏はお天気が変わりやすくて」
ロンバードは自分でも平凡なことを言うと思いながら、会話をつづけるために、ヴェラにたずねた。
「このへんをよくご存じなんですか」
「いいえ、はじめてですわ」彼女は自分の地位をはっきりさせておこうと思って、急いでつけ加えた。「まだ、私の雇い主にも会っていないんです」
「雇い主ですって?」
「ええ、私はオーエン夫人の秘書なんです」
「そうですか」彼の態度が目につかぬほどではあるが、変わったようだった。相手がどういう人間であるかがわかって──言葉に気安さが生まれたようだった。彼は言った。
「しかし妙な話ですね」
ヴェラは笑った。
「いいえ、そんなことありませんわ。夫人の秘書が急に病気になって職業紹介所へ電報が来たもんですから、私が来ることになったんです」
「そうですか。もし、向こうへ行ってみて、仕事が気に入らなかったらどうするんですか」
ヴェラはふたたび笑った。
「どっちみち、臨時の仕事なんですのよ──休みのあいだだけの。私は女学校に仕事を持っているんです。それに、インディアン島へ行くことが楽しみなんですわ。新聞にいろいろのことが出ていましたわね。ほんとうに美しいところなんでしょうか」
「ぼくは知りませんよ。行ったことがないんです」
「まあ、ご存じないんですの。オーエンさんご夫婦はとても気に入っているらしいですわね。どんな方なんでしょう。教えて下さいませんか」
ロンバードは考えた。困ったことになった──知っていることにしたほうがいいか、正直に知らないと言ったほうがいいか。彼はいきなり、早口で言った。
「腕に蜂がとまっていますよ。いや──じっとしていらっしゃい」彼はもっともらしく彼女の腕を手ではらった。「ほら。もうだいじょうぶ」
「ありがとう。ことしの夏は蜂が多いんですのね」
「ええ、暑さのせいでしょう。ぼくたち、誰を待っているのか、ご存じですか」
「知らないんですの」
汽車が近づいてくるらしく、長く尾をひいた汽笛が聞こえた。ロンバードは言った。
「来たようですよ」
2
駅の出口から現われたのは背の高い軍人らしい老人だった。白髪が短く刈りこまれ、手入れの行きとどいた白い口ひげを生やしていた。頑丈な革のスーツケースを重そうに持ったポーターがヴェラとロンバードのほうをさし示した。
ヴェラは、事務的な態度で進み出た。
「私、オーエン夫人の秘書ですの。自動車が待っておりますわ」そして、彼女はつけ加えた。「こちらはロンバードさんです」
年齢《とし》をとっていながら鋭さの失われていない碧《あお》い目がロンバードを観察した。一瞬、彼の目の中で一つの判断が下された──しかし、それは誰にも読みとれなかった。
(なかなかの好男子だ。どこかに、うしろぐらいところがあるが……)
三人は待っていたタクシーに乗った。彼らは小さなオークブリッジの町の眠っているような往来を通りぬけて、プリマス街道を一マイルほど進んだ。それから、せまい田舎道へ入った。
マカーサー将軍は言った。
「デヴォンのこのへんはまったく知らんのですよ。ドーセットとの境に近い東デヴォンに小さな家を持っているのだが」
ヴェラは言った。
「ほんとに美しいところですわね。丘があって、地面は赤くて、一面に美しい緑が見えていて」
フィリップ・ロンバードは彼女の観察を批評するように言った。
「少々せせこましい感じですな。ぼくはひろびろとしたところが好きなんです。遠くまでずっと見渡せるところが……」
「だいぶ旅行をなさったらしいな」と、マカーサー将軍は言った。
ロンバードは肩をすくめた。
「ただ、歩きまわっただけなんです」
彼は考えた。(こんどは、この前の戦争へ行ったかどうか、訊《き》かれるんだろう。こういう年寄りは必ずそう訊くのだ)
しかし、マカーサー将軍は戦争のことを口にしなかった。
3
彼らは険しい丘の坂道をのぼりきって、まがりくねった道をスティクルヘヴンへ下っていった。小さな家がわずかばかりかたまっていて、海岸に漁船が二隻ひきあげられていた。
南の方角に当たって、沈んでゆく太陽の光を浴びたインディアン島が、はじめて彼らの眼にうつった。
ヴェラは驚いたように言った。
「ずいぶん、海岸から離れているんですのね」
彼女は海岸に近い、美しい白い邸宅の見える島を想像していた。しかし、邸宅の姿は見えず、巨大なインディアンの頭に似ている岩だらけの島が黒い影を浮かべているだけだった。どことなく気味の悪い姿だった。彼女はかすかにからだを震わせた。
〈セブンスターズ〉という小さな宿の表に、三人の人間が腰をおろしていた。背中をまるくした老判事と姿勢の正しいミス・ブレント──三人目の男は無骨な大男で、その男は彼らのほうへ進んできて、名を名乗った。
「お待ちしていたほうがいいと思いましてね」と、彼は口を切った。「一回で行けますからね。私はデイヴィスというものです。南アフリカのナタルにいたものです。あそこで生まれたのですよ。はっはっ」
彼は声をあげて笑った。
ウォーグレイヴ判事は明らかに不愉快そうな様子を見せて、その男を見つめた。男の粗野な態度が気に入らないようだった。ミス・エミリー・ブレントは植民地育ちのものにどういう態度を示すべきか、はっきり決めかねているようだった。
「船が出るまえに一杯お飲みになりたい方はいますかね」と、デイヴィスは一同の顔を見まわしてたずねた。
誰も答えるものがないと、デイヴィスは指を一本突き出して、言った。
「では、すぐ出かけましょう。オーエン氏も、オーエン夫人も、お待ちかねでしょう」
一同の顔に思わずいいしれない緊張の色が浮かんだ。それはデイヴィスも気がついたはずだった。彼らを招いた人間は彼ら一同の上に不思議な力を持っているようだった。
デイヴィスに指で招きよせられて、近くの壁に寄りかかっていた男が彼らのそばへやってきた。からだを左右にゆすって歩くので、船乗りであることがわかった。顔は潮風にやけ、眼は黒くて、つかまえどころのない表情だった。彼はやわらかいデヴォン訛りで口をきった。
「出かけますかね、みなさん。ボートは用意ができているんです。自動車でお見えになる男の方が二人いるんですが、オーエンさんは待っていないでいいとおっしゃいましたよ。いつ着くか、わからないんです」
一同は立ち上がった。案内者は彼らを石を積み重ねた船着場へ導いていった。一|艘《そう》のモーターボートが横づけになっていた。
エミリー・ブレントが言った。
「ずいぶん小さな船ですのね」
船の持ち主は説得するように言った。
「これで立派なもんですよ、奥さん。プリマスへだって、わけなく行けますぜ」
ウォーグレイヴ判事が鋭い声で言った。
「こんなに大勢乗るのだよ」
「この倍の人間が乗っても平気ですよ」
フィリップ・ロンバードが陽気な声でのんきそうに言った。
「大丈夫ですよ。天気はいいし──波はありません」
ミス・ブレントはまだ信じられないような様子で、ひとびとの手を借りて、こわごわポートに乗った。他のものが後からつづいた。ひとびとのあいだには、まだうちとけた気分はなかった。互いに相手がつかめないでいるようだった。
ボートが出発しようとしたとき、網を握っていた案内者が突然頭をめぐらせた。
一台の自動車が急な坂を村のほうへ下ってきた。大きな美しい自動車の姿が突然出現した幻のように見えた。頭髪を風になびかせてハンドルを握っている青年は夕暮れの太陽の強い光線を浴びて、スカンジナヴィアの伝説の中に出てくる若い武神のように見えた。
彼は警笛を鳴らした。大きな音が湾の中の岩にこだました。
現実とは思えない一瞬だった。このときのアンソニー・マーストンは、人間以上の存在のように見えた。後になって、この場にいたものの幾人かが、この瞬間の彼の姿を思い出した。
4
フレッド・ナラカットはエンジンのそばに腰をおろして、おかしな組み合わせの一行だと思った。彼が想像していたオーエン氏の客とはだいぶちがっていた。彼は美しく装った女たちとスポーツ服を着こなした紳士を想像していたのだった。
エルマー・ロブスン氏のところへ来た客とはまったくちがう。フレッド・ナラカットはロブスン氏の客を思い出して、かすかな微笑を浮かべた。あのひとたちはずいぶん陽気だった──そして、酒を飲んだ!
オーエン氏という人間はひじょうに変わっている人物らしい。おかしなことに、フレッド・ナラカットはまだオーエン氏に会ったことがなく、夫人を見かけたこともなかった。夫妻が村へ来たことは一度もなかった。すべての用事はモリス氏を通して果たされ、支払いもモリス氏が行なった。いつも明確な指示があたえられ、支払いもきちんとされていたが、不思議なことには変わりがなかった。新聞に〈謎の人物オーエン〉と出ていたのをナラカットは読んだが、たしかに謎の人物であった。
あるいは、島を買ったのは実はゲブリエル・タールなのかもしれない。しかし、彼が乗せている船客を見わたすと、そうとは信じられなかった。映画スターとかかわりのありそうなものは一人もいなかった。
ナラカットは船客たちを冷たい眼で見まわした。
老嬢が一人──口やかましい女にちがいない──見ただけでわかる。彼はこういう女が苦手だった。軍人らしい老紳士──顔つきから見ると、ほんとうの軍人であろう。美しい容貌をした娘──しかし、どこでも見られる美しさで、ハリウッド風のはでな美しさではない。からだのがっしりとした陽気な紳士──この男はほんとうの紳士ではない。おそらく、セールスマンのようなことをしていた男であろう。もう一人の男は眼が鋭く、油断のなさそうな人間で、まったく正体はわからない。あるいは、この男は映画と何か関係があるかもしれない。
いや、オーエン氏の客らしい船客が一人いた。最後に自動車をとばしてきた青年だ(そして、何とすばらしい自動車だったろう! スティクルヘヴンでは見たこともない自動車だった。値段もすばらしく高いにちがいない)。この男は充分資格がある。財産もあるにちがいない。一行が彼のような人間ばかりなら……話もわかるのだが……。
考えてみると、妙な話だ、何から何まで──不思議なのだ──信じられないほど不思議なのだ……。
5
ボートは岩の鼻をまがった。やっと、邸宅が目にうつった。島の南側はまったく風景がちがっていた。土地はゆるやかな勾配を見せて、海に下っていた。邸宅はそこに建てられ、南を向いていた──低い四角な建物で、まるい窓がすべての光線をとりいれている近代的建築だった。
すばらしい邸宅だった──みんなが期待していたとおりの家であった。
フレッド・ナラカットはエンジンを停めた。ボートは岩と岩のあいだの自然の水路をしずかに進んでいった。
フィリップ・ロンバードは言った。
「海が荒れたら、船をつけるのに骨が折れるだろうな」
フレッド・ナラカットは何げない口調で言った。
「東南の風が吹くと、インディアン島には上陸できません。一週間以上も交通が途絶することがあります」
ヴェラ・クレイソーンは考えた。
(料理人の苦労は大抵ではあるまい。島ではどこでもそうで、家事を預かっているものは、楽ではない)
ボートは岩のあいだに舳《へさき》を突っこんだ。フレッド・ナラカットはボートから飛び降り、ロンバードと一緒に他のものを上陸させた。ナラカットは岩にうちこまれた輪にボートをしっかり繋いだ。それから一同を案内して岩に刻まれた階段をのぼっていった。
マカーサー将軍は言った。
「なかなか結構なところだ!」
しかし心の中では落ち着かない気持ちだった。
一同は階段を上がって邸宅の前のテラスへ出ると、ほっとしたように息をついた。家の正面にきちんとした服装の執事が彼らを待っていて、その男の落ち着いた物腰が彼らを安心させた。それに、邸宅そのものが感じのよい建物であったし、家の前のテラスの眺めもすばらしかった。
執事はわずかに頭を下げながら、進み出てきた。背の高い、やせた男で、髪は白く、気品があった。彼は言った。
「どうぞ、こちらへおいで下さい」
ひろびろとした大広間に、飲みものが用意されてあった。瓶がならんでいた。アンソニー・マーストンはやっと機嫌がよくなった。彼はおもしろくない人間ばかりじゃないか、と思っていたのだった。つきあえそうなものは一人もいない! 自分をこんな仲間に入れるなんてバジャーは何を考えていたのだろう。しかし、酒は上等らしい。それに、氷も充分ある。
何だって? 執事の奴が何か言っているぞ。
オーエンさまは──あいにくでございますが少々おくれまして──明日にならなければ、お見えになれないのでございます。ご指示がありました──何でも、お客さまのおっしゃるとおりにせよと……まずお部屋にご案内したほうがよろしければ……食事は八時ということに……。
6
ヴェラはミセス・ロジャースの後について二階へ上がった。彼女の部屋は廊下の端《はし》にあって、ドアがあいていた。ヴェラは海に向かっている窓と東側にもう一つの窓がある居心地のよさそうな部屋に足をふみ入れた。そして、思わず喜びの声をあげた。
ミセス・ロジャースは言った。
「何かご用がございますでしょうか」
ヴェラは部屋の中を見まわした。トランクが運ばれ、中の品物がきちんとならべてあった。部屋の一方にドアがあいていて、淡青色のタイルを敷きつめた浴室が見えていた。
彼女は早口で言った。
「べつにありませんわ」
「ご用がありましたら、鈴をお鳴らし下さい」
ミセス・ロジャースは、抑揚のない単調な声の持ち主だった。ヴェラは好奇心を抱いて、彼女を見つめた。何という血の気のない女なのであろう! まるで幽霊のようだ! 髪をぴったりうしろに撫でつけ、黒い服を着て、一分のすきもない身なりであるが、落ち着きのない瞳をしじゅう動かしている。
ヴェラは考えた。この女は自分の影に怯《おび》えている。
そうだ──怯えている!
恐ろしい恐怖にとらわれているように見える……。
ヴェラは背中を冷たいものが走ったように感じた。この女は何を恐れているのであろう。
ヴェラはつとめて明るい声を出して言った。
「私はオーエン夫人の新しい秘書ですのよ。ご存じでしょうね」
「いいえ。私は何も知らないのです。みなさまのお名前とお部屋の割りあてをうかがっているだけなので」
「オーエン夫人は私のことを話さなかったの」
ミセス・ロジャースのまつげかぴくりと動いた。
「私はまだ奥さまにお目にかかっていないのです。私たちは二日前に来たばかりなのです」
オーエン夫妻という人間は何という変わった人間なのだろう、とヴェラは思った。彼女は言った。
「ここには、どんな人たちがいるの」
「私と夫だけでございます」
ヴェラは眉をひそめた。家には八人の客が来ている──主人夫婦を加えると十人になる──そして、世話をするのは一組の夫婦者だけなのだ。
ミセス・ロジャースは言った。
「私はお料理が得意ですし、夫は家の中のことなら、何でもできるのです。こんなに大勢のお客さまがおいでになることは知りませんでしたが」
「でも、手が足りるの?」
「ええ、足りると思います。もし、しじゅう大勢の方がお見えになるようでしたら、奥さまが手伝いをお雇いになるはずです」
「そうしなければいけないわ」
ミセス・ロジャースは向こうをむいて、立ち去った。彼女は少しも足音をたてなかった。そして、影のように部屋から出ていった。
ヴェラは窓のところへ行って、椅子に腰をおろした。少しばかり落ち着かない気持ちだった。すべてのことがどことなく不思議だった。オーエン夫妻の不在、顔色の悪い、幽霊のようなミセス・ロジャース。そして、客たち! そうだ、客も不思議な組み合わせだった。
ヴェラは思った。一刻も早く、オーエン夫妻に会いたいものだ……どんな人間か、知りたいものだ。
彼女は立ち上がって、部屋の中を歩きまわった。
すっかり近代的なスタイルで飾られた非のうちどころのない寝室だった。磨き上げられた寄木細工の床に敷かれた真っ白な絨毯[#「絨毯」に傍点]──かすかに色のついている壁──電灯でかこまれている長い鏡。白い大理石の熊の置物がおいてあるだけの炉棚──その置物の中には、時計がはめこんであって、その上には、美しく光るクロームの額縁に大きな羊皮紙がおさめられて、かかっていた。書いてあるのは、歌であった。
彼女は暖炉の前に立って、それを読んだ。子供のときから知っている古い童謡だった。
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十人のインディアンの少年が食事に出かけた
一人がのどをつまらせて、九人になった
九人のインディアンの少年がおそくまで起きていた
一人が寝すごして、八人になった
八人のインディアンの少年がデヴォンを旅していた
一人がそこに残って、七人になった
七人のインディアンの少年が薪を割っていた
一人が自分を真っ二つに割って、六人になった
六人のインディアンの少年が蜂の巣をいたずらしていた
蜂が一人を刺して、五人になった
五人のインディアンの少年が法律に夢中になった
一人が大法院に入って、四人になった
四人のインディアンの少年が海に出かけた
一人が燻製のにしんにのまれ、三人になった
三人のインディアンの少年が動物園を歩いていた
大熊が一人を抱きしめ、二人になった
二人のインディアンの少年が日向《ひなた》に座った
一人が陽に焼かれて、一人になった
一人のインディアンの少年が後に残された
彼が首をくくり、後には誰もいなくなった
[#ここで字下げ終わり]
ヴェラは微笑した。なるほど、ここはインディアン島だった!
彼女はふたたび窓ぎわに座って、海を眺めた。
海はどうしてあんなに広いのだろう! 陸地の影はどこにも見えなかった──どこまでも碧い水が夕陽にきらきら光ってひろがっているだけだった。
海──今日はこんなに穏やかだが──ときには、荒れ狂うこともある……人間を底へ引きこんでゆく海。溺《おぼ》れたのだ……溺れて発見されたのだ……海で溺れたのだ……溺れたのだ──溺れたのだ──溺れたのだ……。
いや、彼女は覚えていない……考えてはならない!
すべてはすんだことなのだ。
7
アームストロング医師はちょうど太陽が海に沈むときにインディアン島へやってきた。海を渡っているとき、彼は船の持ち主に話しかけた──土地の男だった。医師はインディアン島を持っている人間について知識を得ようとしたが、ナラカットというその男は不思議に思われるほど何も知らなかった。あるいは、話したくないのかもしれなかった。
そこで、アームストロング医師は天候と釣りの話をはじめた。
彼は長い自動車旅行のあとで疲れていた。目の中が痛かった。西に向かってドライヴすることは、太陽に向かってドライヴすることだった。
まったく、彼は疲れきっていた。海と完全な平和──それが彼には必要だった。彼は長い休暇が欲しかった。しかし、それはできない相談だった。もちろん、経済的には可能であったが、ロンドンをいつまでも離れていることはできないのだった。ちかごろでは、誰でもすぐ忘れられてしまう。いや、成功の岸にたどりついたからには、どんなことがあろうとすがりついていなければならないのだ。
彼は考えた。しかし、今夜は、ロンドンへ帰らないつもりでいよう──ロンドンとも、ハーレー街とも、仕事とも、緑を切ったつもりでいよう。
島というものには不思議な力がある──島という言葉を聞いただけで、幻想的な雰囲気を想像する。世間との交渉がなくなるのだ──島だけの世界が生まれるのだ。ふたたびそこから帰ることはないかもしれない。
彼は考えた。よろしい、人生をおき忘れたつもりにしよう。
そして、彼は微笑しながら、現実を忘れた計画をたてはじめた。岩に刻んだ階段を上っているときも、彼はまだ微笑していた。
テラスの椅子に老紳士が座っていた。アームストロング医師はその姿をどこかで見たような気がした。蛙のような顔、亀のような首、まがった背中──そして、鋭い小さな眼。どこで見たのであろう。そうだ──ウォーグレイヴ判事なのだ。かつて、この判事の前で証言したことがあった。いつも、なかば眠っているようであったが、かんじんのところになると、人間がちがうように鋭い言葉を吐く人間だった。陪審員に対して大きな影響力を持っていた──いつでも、陪審員の判決を自分の思うとおりに導くことができるといわれていた。一、二度、陪審員から意外な判決を引き出したことがあった。〈首吊り判事〉と呼んでいるものもあった。
妙なところで会うものだ……こんな、浮世を離れたところで。
8
ウォーグレイヴ判事は考えた。アームストロングだろうか。証人席で見たことがある。
しっかりした男で、証言も注意ぶかく、すきがなかった。だいたい、医師というものは愚かな人間がそろっている。ハーレー街の医者はことにそうなのだ。彼はその街の医者の一人との最近の会見を思い出した。
彼はアームストロング医師に声をかけた。
「広間《ホール》に飲みものが出ておりますぞ」
アームストロング医師は言った。
「まず、主人夫婦に挨拶をしてきましょう」
ウォーグレイヴ判事はふたたび目を閉じて、爬虫類のような表情を見せながら言った。
「それができんのだ」
アームストロング医師は驚いた。
「なぜできないのですか」
「主人も夫人もいない。不思議なのだ。わしには、ここはどういうところなのか、わけがわからない」
アームストロング医師はしばらく判事を見つめていた。老紳士はほんとうに眠ってしまったようだった。しかし、そのとき、ウォーグレイヴは突然口を開いた。
「コンスタンス・カルミントンという婦人をご存じかね」
「えっ──いや、知りません」
「どうでもよいことなのだか」と、判事は言った。「わしも、はっきり覚えていないのだ──筆蹟もほとんど読めない。まちがったところへ来たのではないかと思っているのだ」
アームストロング医師は頭を振って、家のほうへ歩いていった。
ウォーグレイヴ判事は、コンスタンス・カルミントンのことを考えていた。女はすべて、頼りにならないものだ。
それから、邸内にいる二人の女について考えた。唇をきっと結んでいる老嬢と若い娘。娘のことは気にとめなかった。心の冷たい小娘だ。いや、ロジャースの細君を加えると、三人になる。あの女はいつも怯えているような表情をしている。あの夫婦はきちんとしていて、やることにそつがない。
ロジャースがテラスに出てきた。判事はたずねた。
「レディ・コンスタンス・カルミントンが来るかどうか、知っているかね」
ロジャースは判事を見つめた。
「いや、存じませんが」
判事は眉を上げた。しかし、何か聞きとれぬことをつぶやいただけだった。
彼は考えた──インディアン島か。まき[#「まき」に傍点]の中にインディアンが一人いる(隠れた人物がいる、の意味)。
9
アンソニー・マーストンは浴槽に入っていた。彼は湯気のたつ浴槽の中で手足をのばした。長いドライヴの後で、手足がかたくなっていた。何も考える気にはなれなかった。アンソニーは感覚と行動だけで生きている人間だった。いったん心に決めたことは、どうしても実行しなければならない。そして、その後、すべてを忘れ去るのだ。
温かい湯気がたっている浴槽──つかれた手足──ひげをあたって──カクテル──食事……そしてそれから──。
10
ブロア氏はネクタイを結んでいた。彼はこういうことに馴れていなかった。
服装におかしいところはないであろうか。彼としては、ないつもりだった。
彼にうちとけた態度を示したものは一人もいない……おかしなことだ。お互いに相手の様子をうかがっていた──まるで、事情を知っているように……。
そうだ、仕事を忘れてはいけない。
彼は仕事をしくじりたくなかった。
彼は炉棚の上の童謡の額を眺めた。この額をここにかかげたのは、気が利いた思いつきだ……。
彼は考えた。この島は子供のときに覚えている。しかし、この島のこの家でこんな仕事をしようとは夢にも考えなかった。人間が未来を予想できないということは、あるいはいいことかもしれない。
11
マカーサー将軍は自分がとった行動を考えて、不機嫌な顔をした。
すべてがおかしいのだ! 想像していたこととはまるでちがっている……。
できれば、口実を設けて、引き上げたいが……。
モーターボートはもう帰ってしまった。
島にとどまるほかはない。
あのロンバードという男は妙な奴だ。正直な男ではない。正直な暮らしをしていた男ではない。
12
鐘が鳴ると、フィリップ・ロンバードは部屋から出て、階段の降り口へ歩いていった。彼は豹のように足音をたてないで歩いた。からだぜんたいの印象にも、どことなく、豹のようなところがあった。餌食《えじき》──眺めているだけでも、楽しいのだ。
彼は微笑を浮かべた。一週間あるのだ。
一週間、ゆっくり楽しむことにしよう。
13
エミリー・ブレントは食事のために黒い絹の服を着て、聖書を読んでいた。
唇が字を一つずつ追って動いた。
「もろもろの国民《くにびと》はおのがつくれる穽《あな》におちいり、そのかくしもうけたる網におのが足をとらえらる。エホバは己《おのれ》をしらしめ、審判《さばき》をおこないたまえり、あしき人はおのが手のわざなる罠《わな》にかかれ、あしき人は陰府《よみ》にかえるべし」
彼女の唇はかたく閉じられた。彼女は聖書を閉じた。
彼女は立ち上がって、煙水晶の|胸飾り《ブローチ》をピンで襟元にとめ、晩餐に降りていった。
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第三章
1
食事は終わりに近づいていた。
料理は申し分なく、酒は上等だった。ロジャースのサーヴィスにも、文句はなかった。
みんな、機嫌がよくなっていた。お互いにうちとけた態度で話しあうようになった。
ウォーグレイヴ判事は上等の葡萄酒で気持ちをやわらげられ、得意の皮肉をとばして話しこんでいた。聴き手はトニー・マーストンとアームストロング医師だった。ミス・ブレントはマカーサー将軍と話に花を咲かせて、お互いの共感の友だちを見いだした。ヴェラ・クレイソーンはデイヴィス氏に南アフリカについて質問をしていた。デイヴィス氏は詳しい知識を誇るように相手に語った。その会話をロンバードが傍らで聞いていた。彼はときどき目を上げて、その目を細くした。そして、テーブルを見まわし、一同の様子を観察した。
アンソニー・マーストンが突然言った。
「妙なものがある」
まるいテーブルの中央に円形のガラスの台があって、いくつかの小さな陶器の人形がおいてあった。
「インディアンですね」と、アンソニーは言った。「インディアン島だというので、こんなものがおいてあるんだな」
ヴェラが顔を出した。
「そうかしら、いくつありますの。十個ですの?」
「そう──十個ですね」
ヴェラは叫んだ。
「わかったわ! 童謡にある十人のインディアンの少年のつもりなんですわ。私の部屋の炉棚の上にあの童謡が額になってかかっていますのよ」
ロンバードは言った。
「ぼくの部屋にもかかっている」
「私の部屋にも」
「わしの部屋にも」
すべてのものが同時にそう言った。ヴェラは言った。「気が利いているじゃありませんか」
ウォーグレイヴ判事がつぶやくように言った。「ばかばかしい! 子供じゃあるまいし」そして、彼は葡萄酒のグラスに手をのばした。
エミリー・ブレントはヴェラ・クレイソーンの顔を見た。ヴェラ・クレイソーンはミス・ブレントの顔を見た。二人の女は立ち上がった。
応接間のフランス窓はテラスに向かって開かれ、岩にぶつかる波の音が聞こえていた。
エミリー・ブレントは言った。「気持ちのいい音ですね」
ヴェラは鋭く言った。「私はきらいですわ」
ミス・ブレントの眼が驚いてヴェラを見た。ヴェラは顔を赤くした。彼女は落ち着きを取り戻して言った。
「嵐になったら、ここにはとてもいられませんわ」
エミリー・ブレントはうなずいた。
「冬になったら、閉めるのでしょう」と、彼女は言った。「だいいち、召使がいませんよ」
「冬でなくても、召使はなかなか来ないでしょう」
「ええ、あの二人が来てくれて、オリヴァー夫人はしあわせですわ。あの女は料理が上手ですし」
ヴェラは思った。年齢《とし》をとると、どうしてこう名前をまちがえるのだろう。彼女は言った。
「そうですね。オーエン夫人はほんとうにしあわせでしたわ」
エミリー・ブレントは袋の中から小さな刺繍を取り出した。そして、針を動かそうとしたとき、突然手をとめて、鋭い声で言った。
「オーエンですって。オーエンと言いましたか」
「ええ」
「私はオーエンという人には会ったことがありませんよ」
ヴェラはエミリー・ブレントの顔を見つめた。
「でも、たしかに──」
彼女たちはそこで会話を中断された。ドアがあいて、男たちが入ってきたのだ。ロジャースがコーヒーの盆を持って皆の後から部屋に入ってきた。
判事はエミリー・ブレントのそばへ来て座った。アームストロングはヴェラの傍らに来た。トニー・マーストンは開かれている窓のところへ出ていった。ブロアは好奇心をあらわに見せて真鍮の小さな像を見つめた──不思議な形をしている。これでも女なのか。マカーサー将軍は炉棚に背を向けて立ち、小さな白い口ひげをひねっていた。なかなかよい食事だった……将軍はすこぶる上機嫌だった。ロンバードは、壁のそばのテーブルに新聞と一緒に載せられてある〈パンチ〉のページをめくっていた。
ロジャースがコーヒーの盆を持って、みんなのあいだを歩いた。よいコーヒーだった──ブラックで、熱かった。
みんな、充分に食べていた。だれもが、満足して、くつろいでいた。時計の針は九時二十分を指していた。部屋の中は、ひっそりとしていた──心の安まる静寂であった。
突然、その静寂を破って〈声〉が聞こえてきた。何の予告もなく人間のものでないような鋭い声が……。
「諸君、静かにして下さい!」
部屋にいたものはことごとく驚いた。彼らはあたりを見まわした──お互いの顔を見つめ、壁を見つめた。誰がしゃべったのだろう。
〈声〉は先をつづけた──かんだかい、はっきりした声だった。
[#ここから2字下げ]
諸君はそれぞれ、次にのべる罪状で殺人の嫌疑をうけている──。
エドワード・ジョージ・アームストロング、汝《なんじ》は一九二五年三月十四日、ルイザ・メアリー・クリースを死に至らしめる原因をつくった。
エミリー・カロライン・ブレント、汝は一九三一年十一月五日のビアトリス・テイラーの死に責任がある。
ウィリアム・ヘンリー・ブロア、汝は一九二八年十月十日、ジェイムス・スティヴン・ランダーを死に至らしめた。
ヴェラ・エリザベス・クレイソーン、汝は一九三五年八月十一日、シリル・オージルヴィー・ハミルトンを殺した。
フィリップ・ロンバード、汝は一九三二年二月のある日、東アフリカのある村落の住民二十一名を殺した。
ジョン・ゴードン・マカーサー、汝は一九一七年一月十四日、汝の妻の愛人アーサー・リチモンドを故意に死地に追いやった。
アンソニー・ジェイムス・マーストン、汝は昨年十一月十四日、ジョンならびにルーシー・カムズを殺害した。
トマス・ロジャースならびにエセル・ロジャース汝らは一九二九年五月六日、ジェニファー・ブレイディを死に至らしめた。
ローレンス・ジョン・ウォーグレイヴ、汝は一九三〇年六月十日、エドワード・シートンを殺害した。
被告たちに申し開きのかどがあるか。
[#ここで字下げ終わり]
2
声は終わった。
化石したような沈黙の瞬間がすぎ、それから、ものがこわれる大きな音がした。ロジャースがコーヒーの盆を落としたのだった。
同時に、部屋の外から叫び声が聞こえて、人間の倒れる音がした。
ロンバードが最初に行動を起こした。彼はドアのところへとんでいって、勢いよく左右に開いた。そこに、ミセス・ロジャースがくずれるように倒れていた。
ロンバードは叫んだ。
「マーストン!」
アンソニーはとんでいってロンバードに手を貸した。二人は倒れている女を抱えて、応接間にはこんだ。
アームストロング医師がすぐ駈けよって、ミセス・ロジャースをソファに寝かせ、上からかがみこんだ。彼は言った。
「大したことはない。気を失っただけだ。すぐ気がつくだろう」
ロンバードはロジャースに言った。
「ブランディを持ってこい」
ロジャースは顔を蒼白にしたまま、手を震わせて、「はい」と答え、あわてて部屋を出ていった。
ヴェラが叫んだ。
「誰がしゃべったんでしょう。どこでしゃべったんでしょう。まるで──まるで──」
マカーサー将軍は口ごもりながら言った。
「いったい、どうしたというんだ。つまらんいたずらをする奴だ!」
彼の手はわなわな震えていた。肩ががっくり下がっていた。急に十年も年齢《とし》をとったように見えた。
ブロアはハンカチで顔を拭いていた。
ウォーグレイヴ判事とミス・ブレントだけがやや落ち着いていた。エミリー・ブレントは頭を高く上げて、きちんと座っていた。両頬に赤味がさしていた。判事はいつものように頭を首にうずめていた。そして、片手でそっと耳をかいた。ただ、眼だけは何かを探るように、油断なく部屋の中を見まわしていた。
ふたたび、ロンバードが真っ先に行動を起こした。気を失った女をアームストロングにまかせると、からだを起こして、言った。
「あの声はこの部屋の中から聞こえたようだった」
ヴェラは叫んだ。
「誰なの? 誰なの? 私たちではなかったわ」
ロンバードは部屋の中を見まわした。彼はその目を一瞬のあいだ、開かれた窓にじっと注いだが、すぐ、否定するように頭を振った。突然、彼の目が輝いた。そして、暖炉のそばの隣の部屋に行くドアのところへ足早に歩いていった。
彼はすばやい動作でドアの把手《ハンドル》をつかみ、勢いよく開いた。そして、隣の部屋へ突き進むと、大きな声で叫んだ。
「これだ!」
他のものは彼のあとから急いで隣の部屋へ入っていった。ミス・ブレントだけはからだをまっすぐにして椅子に座ったままだった。
隣の部屋の応接間と接している壁に、テーブルが押しつけられてあった。テーブルの上に、一台の蓄音機がおいてあった──大きなラッパがついている旧式のものだった。ラッパの口は壁に向けられ、ロンバードがそれを押しのけると、二つ三つの小さな穴が人目につかぬように壁にあけられていた。
彼は針をレコードに当てた。〈声〉がふたたび聞こえてきた。「諸君はそれぞれ、次にのべる罪状で殺人の嫌疑をうけている──」
ヴェラが叫んだ。
「とめてください! とめてください! 恐ろしい!」
ロンバードは彼女の言葉にしたがった。
アームストロング医師はほっとしたように深い息を吐いて、言った。
「はなはだ性質《たち》のよくないいたずらだ!」
ウォーグレイヴの低いがはっきりした声が聞こえた。
「あんたはいたずらと思われるのか」
医師は判事を見つめた。
「いたずらでなければ、どういうことなのですか」
判事の手はしずかに上唇を押さえた。
「まだ、私には意見が述べられない」
アンソニー・マーストンが横から口を出した。
「しかし、忘れていることが一つある。いったい、誰がレコードをまわしたんだ」
ウォーグレイヴ判事はつぶやくように言った。
「そうだ。まず、それをしらべなければならん」
彼は一同の先に立って、応接間に戻った。他のものは彼のあとにつづいた。
ロジャースがブランディのグラスを持って入ってきたところだった。ミス・ブレントは苦しげにうめいて横たわっているミセス・ロジャースのからだの上にかがみこんでいた。
ロジャースがそのそばへ歩いていった。
「私が話をしてみましょう。エセル──エセル──何でもないんだよ。しっかりしなくてはいけない」
ミセス・ロジャースは荒い呼吸をしはじめた。怯えきっている目がのぞきこんでいるいくつかの顔を見まわした。ロジャースが咳きこんで言った。
「しっかりするんだよ、エセル」
アームストロング医師はやさしく彼女に呼びかけた。
「もう大丈夫だよ、ミセス・ロジャース。ちょっと気を失っただけなんだ」
「気を失ったのですか」
「そうだよ」
「あの声が──あの恐ろしい声が──神の裁きの声のような──」彼女の顔がふたたび蒼白になり、まつげが震えた。
アームストロング医師は鋭い声で言った。
「ブランディは……」
ロジャースはグラスを小さなテーブルの上においていた。一同の中の一人がそれを医師に渡し、医師はグラスを持って、苦しそうな呼吸をしている女の上にかがみこんだ。
「これを飲みなさい、ミセス・ロジャース」
彼女はちょっとのどにつまらせて、むせたが、やがてグラスのブランディをことごとく飲みほした。やがて、顔色がよくなった。
「もう──大丈夫よ。ちょっと──驚いただけなのよ」
ロジャースがすぐつづけて言った。
「お前が驚くのは当たりまえだ。私も驚いたんだ。盆を落としたくらいだよ。あんな大嘘を言いおって! いったい──」
彼はそこで言葉をさえぎられた。それは一つの咳ばらいにすぎなかった──しわがれた低い咳ばらいだったが、ロジャースの興奮している声をさえぎる威力を持っていた。ロジャースはウォーグレイヴ判事のほうを見た。判事はふたたび咳ばらいをした。それから、彼は口を切った。
「誰がレコードを蓄音器にかけたのだろう。お前かね、ロジャース」
ロジャースは叫んだ。
「私は何も知らなかったのです! 誓います! 何も知らなかったのです! 知っていたら、かけるはずはございません」
判事は冷ややかに言った。
「おそらく、それは事実だろう。しかし、一応説明してほしいね、ロジャース」
執事はハンカチで額を拭った。彼は真剣な表情で言った。
「私はただ、ご命令を守っただけなのです」
「誰の命令だ」
「オーエンさまの」
ウォーグレイヴ判事は言った。
「はっきり聞かせてもらおう。オーエン氏の命令というのは──どういう命令だったのだ」
ロジャースは言った。
「私は一枚のレコードを蓄音器にかけておくように言いつけられていたのです。レコードは引き出しの中にあって、私がコーヒーの盆を持って応接間に入ったとき、家内がレコードをはじめるというご命令でした」
「すこぶる妙な話だな」
ロジャースは声を大きくした。
「嘘ではございません。神さまに誓います。私は何も知らなかったのです──まったく知らなかったのです。レコードには、ラベルがついていました──音楽だとばかり思っておりました」
ウォーグレイヴはロンバードの顔を見た。
「ラベルがついていたのかね」
ロンバードはうなずいた。そして、白い歯を見せて、苦笑した。
「ついていましたよ。〈白鳥の歌〉と、ね」
3
マカーサー将軍がやにわに大声をあげた。
「言語道断だ! あんないいがかりをつけおって! 捨てておくわけにはいかん! オーエンという男が何者であるにしても──」
エミリー・ブレントが横から口を出した。彼女は鋭い声で言った。
「そうですよ。いったい、どんな人間なのですか」
判事が言葉をはさんだ。長いあいだ、法廷生活でつちかわれた威厳のある声だった。
「そのことは慎重にしらべなければならない。そのまえに、ロジャース──お前は細君を寝かせてきたほうがよい。そしてここへ戻ってきてくれ」
「はい」
アームストロング医師は言った。
「私が手を貸そう、ロジャース」
ミセス・ロジャースは二人の男に抱かれ、弱々しい足どりで部屋を出ていった。彼らの姿が見えなくなると、トニー・マーストンが言った。
「どうですか。ぼくは一杯飲みたいんだが」
ロンバードは言った。
「賛成だね」
トニーは言った。
「ぼくが徴発してこよう」
彼は部屋から出ていったが一、二秒たつかたたないうちに戻ってきた。
「部屋のすぐ外にちゃんと用意ができていたよ」
彼は重そうに運んできた盆をそっとテーブルにおいた。次の一、二分は酒を注ぐために費やされた。マカーサー将軍は強いウィスキーをえらんだ。判事も将軍にしたがった。みんな、気つけの酒《アルコール》を必要としていた。エミリー・ブレントだけが水を要求して、コップに注いでもらった。
アームストロング医師が部屋に戻ってきた。
「心配はない」と、彼は言った。「睡眠薬をおいてきた。──何だね、酒かね。私ももらおう」
数人の男たちがグラスに二杯目の酒を注いだ。ロジャースが戻ってきた。ウォーグレイヴ判事が座長になって、部屋は急ごしらえの法廷になった。
判事は言った。
「そこで、ロジャース、最初から話をはじめなければならんが、オーエン氏というのは、どういう人間なのだ」
ロジャースは判事を見つめた。
「ここの持ち主です」
「それはわかっている。お前に訊きたいのは、お前が彼について知っていることだ」
ロジャースは頭を振った。
「ところが、私はお目にかかっていないのです」
部屋の中にかすかな動揺が起こった。
マカーサー将軍が言った。
「会ったことがない? それはどういう意味だ」
「私どもは、ここへ来てから一週間にもならないのです。私どもは周旋所[#職業斡旋所]から手紙で雇われたのです。プリマスのレジナという周旋所です」
ブロアがうなずいた。
「古い店だ。信用もある」と、彼は言った。
ウォーグレイヴは言った。
「その手紙を持っているかね」
「いいえ、とっておきませんでした」
「先を話してくれ。手紙で採用されてから……」
「はい。日が手紙に指定してありました。私どもは指定された日にここへ参りました。何もかも、きちんと整っておりました。食糧は充分貯蔵してありますし、家具や調度も、立派なものがそろっていました。ほこりをはらえばいいだけになっていたのです」
「それから……」
「そのほかには、とくに申しあげることはございません。私どもはご命令を受け取りました──これも手紙なのですが──お客があるからお部屋の用意をしておくようにと書いてありました。ところが、きのうの午後の便でまた手紙が参りまして、旦那さまも奥さまも遅れること、失礼のないようにすること、そして、食事とコーヒーとレコードをかけることの指示が書いてありました」
判事は鋭い声で言った。
「その手紙は持っているだろうね」
「はい、持っております」
彼はポケットから手紙を取り出した。判事はそれを手にとった。
「なるほど」と彼は言った。「リッツ・ホテルとしてある。タイプライターで打たれている」
ブロアが判事のそばへ寄ってきた。
「ちょっと見せて下さい」
彼は判事の手からひったくるように手紙をとって、目を光らせた。
「コロネーション・タイプライターだ──まだ新品だ。紙はエンサイン──どこでも使われている紙だ。この手紙からは手がかりはつかめない。指紋があるかもしれないが、おそらく、ないだろう」
ウォーグレイヴは鋭い目つきでブロアを見た。
アンソニー・マーストンがブロアのそばに立って、肩ごしにのぞいていた。彼は言った
「珍しいクリスチャン・ネーム[#洗礼名:キリスト教の信徒が洗礼を受けるときにつけられる名前]ですな。ユリック・ノーマン・オーエン。なかなか口調がいい」
老判事は急に言葉を改めて言った。
「きみにお礼を言おう、マーストン君。きみのおかげで、妙なことに気がついたのだ」
彼は他のものの顔を見まわし、亀が怒ったときのように首をのばして言った。
「われわれはこの人物について知っていることをことごとく提供しあわなければならない。一人ずつ、この家の主人について知っていることを話していただきたい」彼は一度、言葉を切って、またつづけた。「われわれはみんな、彼に招かれた客なのだ。みんながどうして招かれたかを説明すれば、きっと得るところがあるだろう」
一瞬、沈黙が流れた。エミリー・ブレントが意を決したように話しだした。
「はじめから、おかしいところがあったのです。私は差出人の名前がはっきり読めない一通の手紙を受け取りました。二、三年前の夏にある避暑地で知り合いになった女性から来たものらしいのです。私はその名前をオグデンかオリヴァーであろうと解釈しました。ミセス・オリヴァーというひとにも、ミセス・オグデンというひとにも近づきがあるのです。しかし、オーエンという名前のひとには会ったこともありませんし、もちろん、親しくしたことはありません」
ウォーグレイヴ判事は言った。
「その手紙をお持ちですか、ブレントさん」
「持っていますよ。取ってきましょう」
彼女は部屋を出て、すぐ手紙を持って戻ってきた。
判事はその手紙を読んだ。彼は言った。
「わかりかけてきたようだ。クレイソーンさん、あんたは?」
ヴェラは秘書として雇われた事情を説明した。
判事は言った。
「マーストン、きみは?」
アンソニーは言った。
「電報をもらったんです。友だちのバジャー・バークリーという男からです。ノルウェーへ行っているはずなので、ちょっと驚きましたよ。ここへ来いという電報だったのです」
ふたたび、ウォーグレイヴはうなずいた。彼は言った。
「ドクター・アームストロング、あんたは?」
「私は医師として呼ばれたのですよ」
「なるほど。いままで、ここの一家とは近づきがなかったのですな」
「なかった。手紙の中に同僚の名前が出ていたので……」
「信じたのですね。そして、その同僚というひとはしばらく音信のなかったひとではないですかな」
「いや──そのとおりです」
突然、ブロアの顔を見つめていたロンバードが口を出した。
「判事、いま気がついたんですが……」
判事は片手を上げた。
「待ちたまえ」
「しかし……」
「話は一度に一つずつ片づけていこう。われわれはいま、今夜ここに集まることになった事情をしらべているのだ。マカーサー将軍、あなたは?」
将軍は口ひげをつまんで、口ごもりながら言った。
「手紙をもらったのだ──このオーエンという男から──わしの旧友が来ておるとのことで──突然の招待で失礼の点はゆるしてくれと書いてあった。いま、手紙は持っておらん」
ウォーグレイヴは言った。「ロンバード君、きみは?」
ロンバードは判事が話をはじめたときから考えていた。正直に言うべきであろうか、隠しておくべきであろうか。彼は意を決して、言った。
「ぼくも諸君とおなじですよ。招待の手紙が来て、共通の友だちの名前がしるされてあって──要するに、一杯食わされたんです。手紙は破いてしまいました」
ウォーグレイヴ判事はブロア氏のほうに顔を向けた。その声は気味が悪いほどしずかだった。彼は言った。
「先ほどわれわれはみんな、いささか迷惑なことを聞かされた。われわれは一人ずつ、名前を呼ばれて、罪を問われた。そして、いま、そのことに関して調査を進めているのだ。それについて小さなことだが、わしが気になっていることが一つある。呼ばれた名前のなかにウィリアム・ヘンリー・ブロアという名前があった。しかし、われわれの知るかぎりにおいては、この中にブロアという名前のものはいない。デイヴィスという名前は呼ばれなかったが、このことについて、何か言うことがあるかね、デイヴィス君」
ブロアは不機嫌そうな顔をして言った。
「ばれましたね。あっさり認めましょう。私の名前はデイヴィスではないんです」
「ウィリアム・ヘンリー・ブロアなのかね」
「そうですよ」
「もう少し、つけ加えよう」と、ロンバードが言った。「ブロア君、きみは名前を偽ってここに来ているだけでなく、大嘘つきなのだ。きみは南アフリカのナタルからやってきたと言った。ぼくは南アフリカのナタルも知っているが、きみは南アフリカに一歩だって足を踏み入れていない」
すべての目がブロアに向けられた。怒りにみち、疑惑の色を見せた目だった。アンソニー・マーストンは一歩彼のそばへ進みよった。こぶしが握られていた。
「どうなんだ」と彼は言った。「言い分があるか」
ブロアは頭をうしろにそらせて、角ばった顔をつき出した。
「みなさんは私を誤解している」と、彼は言った。「私は身分証明書を持っている。いつでも見せてあげる。私はロンドン警視庁の犯罪捜査部にいたんだ。いまはプリマスで探偵社をひらいている。ここへ来たのは、仕事でやとわれてきたのだ」
ウォーグレイヴ判事はたずねた。
「誰に」
「このオーエンという男にですよ。費用として相当の額の為替が封入してあって、用件を手紙にしるしてありました。客をよそおって来ることになっていたんです。みなさんの名前もわかっていましたよ。みなさんの行動を見張るのが私の役目だったんです」
「理由がしるしてあったかね」
ブロアは吐き出すように言った。
「オーエン夫人の宝石ですよ。──しかし、オーエン夫人なんて、そんな女はいやしないんだ!」
判事は人さし指で唇を押さえた。何か考えこんでいるような表情だった。
「きみの推理は正しいと思う」と彼は言った。|Ulick《ユリック》 |Norman《ノーマン》 |Owen《オーエン》 ! ブレントさんの手紙を見ると、名字は走り書きでよく読めないが、クリスチャン・ネームは読めるようにしるしてある──|Una《ユナ》 |Nancy《ナンシー》だ──どっちもおなじ頭文字であることに注意するがいい。|Ulick《ユリック》 |Norman《ノーマン》 |Owen《オーエン》──|Una《ユナ》 |Nancy《ナンシー》──どっちも、頭文字だけをとると、|U.《ユー》|N.《エヌ》|Owen《オーエン》だ。ちょっと頭を働かせれば、わかるではないか。|UN《アン》|KNOWN《ノーン》 (どこのものともわからぬもの)だ!」
ヴェラは叫んだ。
「でもそんなこと──信じられませんわ!」
判事はしずかにうなずいた。そして、言った。
「たしかに、そのとおりだ。われわれは疑いもなく、頭のおかしな人間に招かれたのだ──おそらく、危険きわまる殺人者だろう!」
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第四章
1
一瞬のあいだ、沈黙がつづいた──不安と困惑の沈黙だった。判事の低いよくとおる声がふたたび聞こえた。
「では、われわれの調査は次の段階に入ろう。しかし、そのまえに、わし自身のことをお話ししておかなければならない」
彼はポケットから一通の手紙を取り出して、テーブルの上に投げた。
「この手紙はわしの古い友だちのレディ・コンスタンス・カルミントンから来たことになっている。わしはこの女性に長いあいだ会っていない、近東へ行っているはずなのだ。この要領を得ない手紙の書きかたは、いかにも彼女らしい。ここで会おうということも突然だし、ここの主人夫婦のことも、この手紙ではよくわからない。諸君のところへ来た手紙とおなじ手口なのだ。わしが思うに、これらの手紙からは、一つの興味ある結論が引き出せる。われわれをここへおびきよせたものが何者であるにせよ、彼はわれわれのことをよく知っているか、あるいは、くわしく調査したにちがいない。何者であるかはわからんが、わしとレディ・カルミントンの交友を知っている──そして彼女が要領を得ない手紙を書くことまで知っている。アームストロング医師の同僚のことを知っているし、そのひとたちがいまどこにいるかということも知っている。マーストン君の友人のことも、彼がどんな電報を打ったかということも知っている。ミス・ブレントが二年前にどこで休暇をすごしたかということとそこで彼女が会ったひとびとのことも正確に知っている。マカーサー将軍の旧友についても、くわしく知っている」
判事はちょっと言葉を切って、また、つづけた。
「このように、彼はわれわれについてくわしく知っているのだ。そして、その知識をもとにして、われわれの罪を問おうとしたのだ」
突如として、みなが騒ぎたした。
マカーサー将軍は大声をあげて叫んだ。
「でたらめだ! 嘘もはなはだしい!」
ヴェラは叫んだ。
「いいがかりです!」呼吸がはげしく、それだけ言うのがやっとだった。
ロジャースは乾いた大声で言った。
「嘘です──とんでもない嘘です……私たちは何もしてはいません──私も、家内も……」
アンソニー・マーストンの声は唸っているように聞こえた。「なぜあんなことを言うのか、わけがわからん!」
判事は片手を上げて、一同を制した。彼は一語一語に注意しながら言った。
「わしの言いたいことはこうだ。われわれの謎の告発者はわしがエドワード・シートンなるものを殺したと言った。わしはシートンをよく覚えている。一九三〇年の六月、被告としてわしの前に現われた男だ。ある年配の婦人を殺害したという嫌疑だった。すこぶる有能な弁護士がついて、証人台での証言も陪審員に好印象をあたえた。しかし、証拠をよくしらべると、たしかに有罪だった。わしはそう結論を下し、陪審員は有罪の判決をもたらした。わしはその判決を認めて死刑を宣告した。公判が被告に不利になるように誘導されたという理由で控訴が行なわれたが、控訴は却下され、死刑は予定どおり執行された。わしは諸君の前ではっきり言っておくが、何ら良心にやましいところはない。わしはわしの義務を行なっただけだ。正しい判決をうけた殺人犯に死刑を宣告したにすぎない」
アームストロングはその事件を思い出した。シートン事件だ! 有罪の判決が下ったことはすべてのものに意外だった。公判が行なわれていたときに、彼はある日、勅選弁護士のマシューズと食事をした。マシューズは確信を持って言った。「判決はきまっている。九分どおり無罪だよ」その後、彼はさまざまの噂を聞いた。「判事が敵意を持っていたのだ。陪審員を誘導して、有罪の判決をさせたのだ。しかし、法律的には、正しいことだ。海千山千のウォーグレイヴにぬかり[#「ぬかり」に傍点]があるはずはない」「彼は被告に私怨《うらみ》を抱いていたらしい」
当時の記憶が走馬灯のようにアームストロングの頭によみがえった。彼は心に引っかかっている質問を思わず口に出した。
「あなたはノートンを知っていたのですか。公判がはじまるまえから、彼を知っていたのではありませんか」
爬虫類を思わせる眼がアームストロングの眼をじっと見た。判事は落ち着いた声で言った。
「わしはもちろん、公判がはじまるまでノートンについて何も知らなかったのだ」
アームストロングは自分自身に言い聞かせた。
「嘘を言っているのだ──たしかに、嘘を言っているのだ」
2
ヴェラ・クレイソーンは震えている声で言った。
「私はみなさんにお話ししておきたいと思います。あの子供のことなのです──シリル・ハミルトンのことなのです。私はあの子の家庭教師でした。あの子は遠くまで泳いでいってはいけないと言われていたのですが、ある日、私が見ていないときに、沖のほうへ泳ぎだしたのです。私はすぐ、後から泳いでゆきました……追いつくことができないのです……恐ろしいことでした……しかし、私の罪ではありません。検死官は私を審問して、私に罪はないと言ってくれました。そして、あの子のお母さんも、私にやさしくしてくれました。それなのに──それなのに──なぜ、あんなことを言われなければならないのでしょう。あんまりです! なぜ、あんなことを……」
ヴェラは言葉につまって、泣きくずれた。
マカーサー将軍は彼女の肩をかるくたたいて、言った。
「泣くことはない。もちろん、真実ではない。異常な人間が言っていることだ。どうかしているのだ! まったく、どうかしている!」
将軍は肩を怒らせて立ち上がった。彼は吠えるように言った。
「あんな言いがかりに耳を貸すことはない! しかし、わしは一言、言っておきたい──アーサー・リチモンドについて言われたことは何ら根拠のないことだ。リチモンドはわしの部下の士官だった。わしは彼を偵察に出した。そして、彼は戦死した。戦時には珍しくないことだ。それなのに、妻にまで汚名を着せおって! 妻は立派な女だった! 軍人の妻として、非のうちどころのない女だった」
マカーサー将軍は腰をおろした。そして、震える手で口ひげをひねった。やっと話しおわって、ほっとしたような表情だった。
ロンバードが話しだした。
「さっきあの声が言った先住民たちのことだが……」
マーストンが言った。
「どういう事情だったんだ」
フィリップ・ロンバードは薄笑いをうかべながら言った。
「あの話は事実なんだ。ぼくは彼らをおきざりにして、逃げたんだ。自分を護らなければならないからね。われわれはジャングルの中で道に迷った。ぼくは二人の仲間をさそい、残っていた食糧を持って逃げ出した。おかげで命が助かったんだ」
マカーサー将軍がはげしい口調で言った。
「先住民を見捨てたのか──食糧を取り上げて、餓死させたのか」
「紳士的行動ではないかもしれない。しかし、自分を護ることは人間の第一の義務だと思う。それに、彼らは死ぬことを何とも思っていないんだ。われわれとは違うんだから」
ヴェラは両手で押さえていた顔を上げた。彼女はロンバードを見つめて、言った。
「死ぬことを承知で見捨てたというんですか」
「もちろん、承知の上ですよ」と、ロンバードは何げない調子で答えた。
アンソニー・マーストンは当惑したように言った。
「いま、考えているところなんだが──ジョンとルーシー・カムズというのは──ぼくがケンブリッジでひいた子供たちのことだろう。運が悪かったんだ」
ウォーグレイヴ判事が冷ややかに言った。
「彼らがかね。それとも、きみがかね」
「ぼくが運が悪かったんだが──あなたのおっしゃるとおり、彼らも運が悪かったんです。もちろん、ほんとうの事故だったんですがね。いきなり飛び出してきたんです。運転免許証を一年間取り上げられて、迷惑しましたよ」
アームストロング医師がまじめな顔をして言った。
「スピードを出しすぎることはよくない。きみたちのような若いものがいるから、交通事故が絶えないのだ」
アンソニーは、肩をすくめて、言った。
「スピードの世の中ですよ。英国の道路がなっていないんです。スピードらしいスピードも出せないんだから」
彼はあたりを見まわして、自分が飲んでいたグラスを探し、テーブルからそれを取り上げて、サイド・テーブルのところへ行って、ウィスキーとソーダを注いだ。そして、肩ごしに言った。
「とにかく、ぼくの罪じゃない。事故にすぎないんだ!」
3
執事のロジャースは唇をなめまわし、両手をもみながら、おずおずした低い声で言った。
「一言いわせていただけるでしょうか」
ロンバードが言った。
「言いたまえ、ロジャース」
ロジャースは咳ばらいをして、乾いた唇をもう一度舌でなめまわした。
「さきほど、私と家内も名前を言われました。ブレイディさまのことは、まったく覚えのないことです。私たちはブレイディさまが死ぬまで、一緒におりました。私たちが雇われたときからずっとおからだが悪かったのです。あの晩──ブレイディさまのご容態が急に悪くなった晩は、嵐でした。電話が不通でしたので、私が嵐の中を歩いて医者を呼びに行ったのですが、医者が来たときには、もう駄目だったのです。私たちはできるだけのことをしたつもりなのです。まごころをもってお仕えしました。誰に訊いても、おわかりになるはずです。一言だって、私たちをとがめた方はございません。たった一言だって……」
ロンバードは執事のゆがんだ表情と乾いた唇と目に浮かんでいる恐怖をじっと見つめた。そして、コーヒーの盆を落としたときの音を思い出した。しかし、彼は「そうかね」と言おうとして、言わなかった。
ブロアが口を出した──容疑者をしめ[#「しめ」に傍点]あげているときのような口調だった。
「しかし、その婆さんが死んで、小金にありついたんだろう。そうじゃないのか」
ロジャースはからだをこわばらせて、言った。
「ブレイディさまは私どもが忠実にお仕えしたことをお認めになって、遺産を残して下さいました。それが悪いことでしょうか」
ロンバードは言った。
「きみ自身のことはどうなんだ、ブロア君」
「私のこと?」
「きみの名前もリストに入っていたぜ」
ブロアの顔が赤くなった。
「ランダーのことですかね。銀行強盗なんだ──ロンドン商業銀行だった」
ウォーグレイヴ判事がからだを動かして、言った。
「覚えているよ。わしが扱った事件ではないが、よく覚えている。ランダーはきみがあげた証拠で有罪になったのだ。あの事件を扱ったのはきみだったのか」
「そうですよ」
「ランダーは終身刑の宣告をうけて、一年後にダートムアの監獄で死んだ。からだの弱い男だった」
「悪い奴です。夜警を殺したのもあの男なんです。はっきりしている事件ですよ」
ウォーグレイヴは言った。
「きみはあの事件で表彰されたのだろう」
ブロアは吐きすてるように言った。
「昇進しましたよ」
そして、ふてぶてしい態度でつけ加えた。
「とにかく、私は義務を果たしただけなんだ」
突然、ロンバードが笑った──部屋中にひびきわたるような大きな声だった。彼は言った。
「みんな、義務に忠実で、法律をよく守る連中ばかりじゃないか! ぼくは例外だぜ。……先生、あなたはどうなんだ。職業上の小さな過失というやつですかね。それとも、秘密の手術でもしたんですか」
エミリー・ブレントは嫌悪の色を露骨にあらわしてロンバードに一瞥をあたえ、彼のそばから身をひいた。
アームストロング医師は落ち着きはらって、頭を横に振った。
「何のことか、見当がつかないのだ」と、彼は言った。「聞いたことのない名前なのだ。何といいましたかな──クリースでしたか、クロースでしたか──そんな名前の患者は扱ったことがない、死亡に立ち会ってもいない。私には、まったく謎なのです。もちろん、古いことなので、あるいは、病院で手術した患者かもしれない。病院には、手おくれになってから来る患者が多いんでね。そういう患者が死ぬと、いつも、医者の手落ちになる……」
彼は頭を振って、深い息を吐いた。
彼は心の中で当時のことを考えた。酔っていたのだ……酔って、手術したのだ! 精神を統一させることができなくて、手が震えていた。たしかに、自分が殺したのだ。年齢《とし》をとった女だった──正気のときなら、簡単な手術だった。さいわい、自分たちの職業のものは互いに秘密をあばかない。看護婦は知っていた──しかし、何も言わなかった。自分がうけた衝撃も大きかった。しっかりするのだ。しかし、誰も知っているはずはないのだ──遠い昔のことなのだ……。
4
部屋の中に沈黙が流れた。すべてのものがひそかに、あるいは正面からエミリー・ブレントを見つめていた。彼女が一同の視線が自分に集まっていることを知ったのは、一、二分たってからだった。眉毛がせまい額でぴくりと動いた。彼女は言った。
「私が何か言うのを待っているのですか。何も言うことはありませんよ」
判事は言った。「何もないのですか」
「ありません!」彼女の唇はかたく結ばれた。
判事は顔をなでながら、おだやかな声で言った。
「申し開きをしておくことはないのですか」
ミス・ブレントは冷ややかに言った。
「ありません。私はいつでも、良心の命ずるままに行動しています。やましいことは一つもありません」
一同の顔に不満の色が見えた。しかし、エミリー・ブレントはそれで心を動かされるような人間ではなかった。彼女はかたくなに口をつぐんで、座っていた。
判事は二度ほど咳ばらいをした。
「では、これで、一応終わるとしよう。……ところで、ロジャース、われわれのほかに、この島には誰がいるのだね」
「誰もおりません」
「まちがいないかね」
「ございません」
ウォーグレイヴは言った。
「この邸宅の謎の主人がなぜわれわれをここに集めたのか、わしはまだその真意がつかめない。しかし、この人物がどんな人間であるにせよ、わしの意見では、正気の人間ではないと思う。危険な人間であるかもしれぬ。一時も早くこの土地を去るのがもっとも上策だろう。今夜にもこの島を去るほうがよい」
ロジャースは言った。
「お言葉ですが、島には船がございませんので」
「一隻もないのか」
「ございません」
「陸とどうして連絡するのだね」
「フレッド・ナラカットが毎朝参りまして、パンと牛乳と郵便物を持ってきて、用事を聞いて帰るのです」
ウォーグレイヴ判事は言った。
「では、明朝、ナラカットの船が来たら、その船で帰ることにしよう」
一同から賛成の声が放たれたが、一人だけ反対したものがあった。それはアンソニー・マーストンだった。
「少々意気地がなさすぎるじゃないですか」と、彼は言った。「立ち去るまえに、謎をといていこうじゃないですか。まるで、探偵小説みたいな話だし、スリル満点ですよ」
判事は冷ややかに言った。
「わしくらいの年になると、きみが言うようなスリルにはいささかも興味がない」
アンソニーは苦笑いをして言った。
「法律にしばられている生活は窮屈ですからね。ぼくは、犯罪を礼賛しますよ! 犯罪に乾杯します!」
彼はグラスをとって、一息に飲みほした。
一気に飲みすぎたのかもしれない。酒がのどにつかえて──苦しそうにむせた。顔か紫色になった。そして、あえぐように呼吸をすると、椅子からすべり落ち、グラスが彼の手から床に転がった。
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第五章
1
それはあまりに思いがけない出来事だった。一同はしばらく、口もきけなかった。ただ、黙って、倒れているマーストンの姿を見つめていた。
アームストロング医師がわれにかえって、マーストンのそばへ走りより、膝をついてのぞきこんだ。医師が顔を上げると、彼の目には不可解な表情が浮かんでいた。
彼はものに怯えたような、低い声で言った。
「死んでいる!」
一同は医師の言葉が信じられなかった。
死んでいる! スカンジナヴィアの神話に出てくる若い武神のように健康と精力がみちあふれていた彼が死んでいる! 健康な青年がウィスキー・ソーダにむせたぐらいで死ぬはずはない。
アームストロング医師は死んだ男の顔をのぞきこんだ。そして、紫色になってゆがんでいる唇の匂いをかいだ。それから、マーストンが飲んでいたグラスを取り上げた。
マカーサー将軍は言った。
「ウィスキーにむせて、咳きこんだだけで──死んだというのかね」
医師は言った。
「そう言ってもよろしいが。一瞬の間に窒息《ちっそく》したのです」
彼はグラスの匂いをかいだ。そして、指をグラスの底についていた液体にふれ、そっと舌の先に持っていった。彼の表情が変わった。
マカーサー将軍は言った。
「こんな死に方をしたものを見たことはない──ちょっと、咳きこんだだけではないか」
エミリー・ブレントははっきりした声で言った。
「死はいつでも私たちを待っているのです」
アームストロング医師は立ち上がった。彼はそっけなく言った。
「たしかに、咳きこんだだけで死ぬ人間はいない。マーストンの死はわれわれのほうで言ういわゆる自然死ではない」
ヴェラがかすかな声で言った。
「ウィスキーの中に──何か入っていたのですか」
アームストロングはうなずいた。
「そうです。はっきりしたことは言えないが、青酸カリではないかと思う。すぐ、反応があらわれる猛毒です」
判事が鋭く言った。
「彼のグラスに入っていたのかね」
「そうです」
医師はウィスキーの瓶がおいてあるテーブルのところへ行って、瓶のふたを取り、匂いをかぎ、舌の先でなめた。それから、炭酸水に唇をふれた。彼は頭を振った。
「どちらも、異常はない」
ロンバードは言った。
「すると──自分でグラスに毒を入れたというのか」
アームストロングはうなずいた。
「そのように見える」
ブロアは言った。
「自殺だって? おかしいね」
ヴェラは言った。
「あの人が自殺するなんて、考えられないわ。あんなに元気がよかったのに──人生が楽しくて仕方がないというような顔をしていたのに……今日の夕方、丘から降りてきたときには──まるで──何と言えばいいかしら……」
しかし、一同は彼女が言おうとしていることを知っていた。若々しい精力にみちたアンソニー・マーストンは永遠の生命を持っているようにさえ見えたのだ。そのマーストンが、いま、くずれるように床に倒れている。
アームストロング医師は言った。
「自殺のほかに、死因が考えられるだろうか」
みんなは一人一人、頭を振った。ほかに説明のつけようはない。飲みものには怪しいところはない。マーストンがサイド・テーブルへ行ってウィスキーとソーダをグラスに注いだことは、すべてのものが目撃している。したがって、飲みものに青酸カリが入っていたとすれば、マーストン自身が入れたと考えるほかはない。
しかし、それにしても──マーストンはなぜ自殺したのであろう。
ブロアは疑わしげに言った。
「どうもおかしい。マーストン君は自殺をするような人間とは思われない」
アームストロングは答えた。
「私もそう思う」
2
それが一同の結論だった。ほかに言うことはなかった。
アームストロングとロンバードはマーストンの死体を彼の寝室に運び、シーツでおおって寝かせた。
二人が階下に降りてくると、一同は、ひとかたまりになって立っていた。寒い夜ではなかったのに、みんな、からだを震わせていた。
エミリー・ブレントは言った。
「寝ましょう。もう遅いのですから」
十二時をすぎていた。彼女の提議は当然のことだった──しかし、誰もすぐには賛成しなかった。お互いにはなればなれになることが不安なのだった。
判事は言った。
「そうだ。寝たほうがよい」
ロジャースは言った。
「まだ食堂を片づけてありませんので」
ロンバードがぶっきらぼうに言った。
「明日の朝でいいよ」
アームストロングはロジャースに言った。
「細君は落ち着いたかね」
「見てきます」
ロジャースはすぐ戻ってきた。
「よく眠っております」
「結構だ」と、医師は言った。「そっとしておくほうがいい」
「そうしましょう。私は食堂を片づけてから寝ることにいたします」
彼は広間《ホール》を横ぎって、食堂へ入っていった。
他のものは二階へ上がっていった。気が進まないような足どりだった。
もし、この邸宅が暗い影の多い古い建物であったなら、不気味な雰囲気が生まれても、不思議はなかった。しかし、邸宅は近代建築の粋を凝らしたものだった。暗い隅はなく──壁に仕掛けがありそうなところもなく──電灯があかあかと輝いていて──何もかも、新しく、明るかった。隠れているものも、隠されているものもなかった。
それなのに、その明るさがいっそう不気味に感じられるのだった。
七人のものは挨拶を交わして、それぞれ、自分たちの部屋に引き取り、七人とも、無意識のうちにドアに鍵をかけた。
3
やわらかい色調につつまれた居心地のいい部屋で、ウォーグレイヴ判事は服を脱ぎ、ベッドにつこうとしていた。
彼はエドワード・シートンのことを考えていた。
彼はシートンをよく覚えていた。美しい髪、碧い眼、親しみを覚えさせる目つきで相手を見つめるひとなつっこい表情。陪審員によい印象をあたえたのは当然であった。
検事のルエリンの論告はあまり手ぎわがよくなかった。調子がはげしすぎて、必要以上に罪状を強調した。
これに対して、弁護士のマシューズの弁論はみごとなものだった。整然と条理をつくし、反対尋問でも有利なポイントをかせいだ。
そして、シートンはきびしい反対尋問によく堪えた。
彼は興奮もしなかったし、うろたえもしなかった。陪審員は強い印象をうけた。マシューズにとって、叫ぶことを除いて、すべては終わったように思えたであろう。
判事は時計をていねいに巻いて、ベッドの、わきにおいた。
彼は当時のことをはっきり覚えていた。判事の席に座って、一語も聞きのがさぬように耳をそばだて、メモをとり、被告の罪状を証明するためにあげられた証拠を一つ一つ吟味していった気持ちは、いまでも忘れていなかった。
彼はその事件を楽しんでいたのだ。マシューズの最後の弁論は第一級のものだった。その後で行なわれたルエリンの論告は弁護士がつくり出した好印象を拭い去ることができなかった。
そして、いよいよ彼自身が意見を述べることになったのだが……
ウォーグレイヴ判事は注意ぶかく義歯《いれば》をはずして、水をみたしたグラスの中に落とした。しわだらけの唇が引っこんだ。口もとに冷酷な表情がうかんだ。判事は目のふちにしわをよせて、微笑した。
わしはシートンをみごとに料理してやったのだ!
彼はぶつぶつ言いながらベッドにのぼって、電灯を消した。
4
階下の食堂では、ロジャースが不思議そうな顔をして立っていた。
彼はテーブルの真ん中の陶器の人形を眺めていた。そして、ひとりごとを言った。
「変だな。十個あったはずなんだが……」
5
マカーサー将軍はベッドの中で輾転《てんてん》[#寝返りを打つこと]としていた。
眠れないのだった。
闇の中に、アーサー・リチモンドの顔が見えていた。
彼はアーサーが好きだった。レスリーが彼を好きだったことも喜んでいた。
レスリーは気ままな女だった。彼らの周囲には立派な男が大勢いたが、レスリーはどの男に会っても、つまらない人間だと言った。「退屈なひとね!」いつも、これだった。
ところが、アーサーとは最初から気があった。いつも、芝居や音楽や絵画を語りあっていた。そして、レスリーはときどき、アーサーをからかって、喜んでいた。マカーサーも、レスリーが彼を母親のように可愛がっていることを喜んでいた。
母親のように! リチモンドが二十八でレスリーが二十九であるのを忘れていたのは、うかつなことだった。
マカーサーはレスリーを愛していた。いまでも、彼女の姿を思いうかべることができた。ハートのかたちをした顔、いつも踊っているような濃い灰色の目、美しくカールしたゆたかな鳶《とび》色の髪。彼は、レスリーを愛し、信じきっていたのだ。
フランスの戦場にいたときも、彼はいつも、レスリーの写真をポケットから取り出しては、彼女のことばかり考えていた。
そして、ある日──思いがけない発見をしたのだ!
ちょうど、小説に出てくるような出来事だった。レスリーがリチモンドに出す手紙をまちがえて彼にあてた封筒に入れたのだった。マカーサーはいまでも、そのときの大きな衝撃を忘れていない。
しかも、すでに長いあいだの関係だった。手紙がすべてを語っていた。リチモンドの最後の休暇の数日……レスリー──レスリーとアーサー!
なんという卑劣な男だ! あの笑顔! はっきりした口調で「イエス・サー」と言う表情! 嘘と偽善でかたまっている男ではないか。他人の妻を盗んで、平気な顔をしているのだ!
冷たい、じっとしていられないほど激しい怒りが、しだいに高まってきた。
彼はしかし、できるだけ平静な態度をとることにつとめた。リチモンドに対しても、それまでと変わらない態度をとろうとした。
それは成功したであろうか。彼は成功したと信じていた。リチモンドは気づいていないようだった。気分のむらはかんたんに戦場のせいと説明された。そこでは人間の神経がたえず緊張を強いられているのだ。
ただ若いアーミテイジがときどき、妙な目つきを見せるようになった。まだ若い男だったが、鋭い神経を持った男だった。おそらく、アーミテイジは気づいていたにちがいない。
マカーサーはリチモンドを、とうてい生きては帰らぬ偵察に派遣した。奇蹟が起こらぬかぎり、生きては帰れない任務だった。奇蹟は起こらなかった。しかし、マカーサーは少しも後悔しなかった。気になることではなかった。過失がたえず行なわれ、士官たちが必要もないのに死地に追いやられた。すべては混乱と恐慌だった。ひとびとは後に言うであろう。「さすがのマカーサーもあせったらしい。あの作戦は大失敗さ。優秀な部下を犠牲にしてしまった」誰にも、それ以上のことは、言えないはずだった。
しかし、アーミテイジはそうではなかった。彼はマカーサーを妙な目つきで見つめた。リチモンドが故意に死地に送られたことを知っていたのかもしれない。
(そして、戦争がすんでから──しゃべったのであろうか)
レスリーは何も知らなかった。愛人の戦死に涙を流したであろうか、マカーサーが英国に帰ったときには、涙はすでに乾いていた。彼は何も言わなかった。二人のあいだは、昔と変わったところはなかった──ただ、レスリーの態度に、ときどき、空虚なものが感じられただけだった。それから三年ほどたって、彼女は肺炎で死んだ。
すでに遠い昔のことだ。十五年──いや、十六年にもなろうか。
その後、彼は陸軍を退き、デヴォンに居をかまえた──かねて欲しいと思っていたわずかな土地を買ったのだった。村のものは気だてがよく──住みやすいところだった。彼は狩猟や釣りをして暮らし、日曜には教会へ行った(しかし、ダヴィデがエリアを戦場で危険な場所へ送るくだりの説教のある日には、教会へ行かなかった。落ち着いて聞いていることができないのだった)。
すべてのひとびとが彼に親切だった。最初はそう思われたが、そのうちに、蔭にまわって彼の噂をしているのではないかという不安が生まれた。ひとびとの態度がちがってきたように感じられてきた。どこかで、噂を聞いたのではないか……。
(アーミテイジだろうか。あの男がしゃべったのだろうか)
彼はひとびとを避けるようになった。噂をされていると思うと、誰にも会いたくないのだった。
しかし、すべては遠いむかしのことだ、レスリーはすでにこの世にはいない。アーサー・リチモンドも死んでいる。事件はまったく忘れられている。
ただ、彼の人生が淋しくなったことだけは事実だった。むかしの軍人仲間ともつきあわないようになっていたのだ。
(アーミテイジがしゃべったとしたら、彼らも知っているはずなのだ)
そして、今夜──誰ともわからぬ声がその古い事件をしゃべりたてた。
自分はあのとき、あわてた態度を見せなかったであろうか。
他のものがどう思ったかはわからないが、おそらく、レコードの言葉をまじめに受け取ったものはいないであろう。自分のことだけではない。全部のものが殺人の罪に問われた。あの可愛い娘が子供を溺死させたと言った。ばかばかしい! 狂人がいいかげんなことをわめいているのだ!
エミリー・ブレントにしても──自分とおなじ連隊にいたトム・ブレントの姪ではないか。彼女が殺人をおかしたと言っているのだ! 誰が見ても、一見して信仰のあついことがわかる、あの老婦人が……。
こんどのことは最初から妙な話なのだ。異常だった。この島へ来たときから──あれはいつだったろう。そうだ、今日の夕方だったのだ。ここへ来てから、ずいぶんたったように思われる。
彼は考えた。いつ、この島から出ていけるだろう。もちろん、──明日、モーターボートが陸から来たときだ。
不思議なことに、将軍はそれほど島を出たいとは思わなかった……陸へ帰れば、小さな邸宅へもどり、ふたたび、暗い生活を送るのだ。あけはなたれた窓から、岩に砕ける波の音は夜が更けるとともに高まってきていた。風もつよくなったようだ。
彼は思った。なんと平和にみちた音だろう。平和にみちたところだろう……。
彼は考えた。島のいいところは、一度そこへ来てしまえば──もう、その先へは行かれないことだ……すべての終わりへ来てしまったのだ……。
彼はそのとき、ほんとうに、この島を去りたくなくなっていることを悟った。
6
ヴェラ・クレイソーンはベッドに横たわり、目を見ひらいて、天井を見つめていた。
かたわらには、スタンドが点《つ》けられてあった。彼女は闇が怖かった。
彼女は考えていた。
ヒューゴー……ヒューゴー……どうして今夜はあなたがそばにいるように感じるのでしょう……どこかすぐ近くにいるように感じられる……。
いったい、彼はどこにいるのであろう。私は何も知らない。永久に知ることはないであろう。彼はただ立ち去ってしまったのだ──私の生店の中から。
いま、ヒューゴーのことを考えたところで、何にもならない。しかし、ヒューゴーは彼女にとって忘れられない男だった。どうしても、考えないわけにはいかなかった。……コーンウォール……。
黒い岩、さらさらした黄いろい砂。ふくよかで陽気なハミルトン夫人。いつも、半分泣き声になりながら、彼女の手をひっぱって、「岩のところまで泳ぎたいんだよ、クレイソーンさん。なぜ、岩へ泳いでいってはいけないの」と言いつづけたシリル。
見上げると──ヒューゴーの目が彼女を見つめていた。
夜になって、シリルが寝てしまうと……
「散歩しませんか、クレイソーンさん」
「してもいいわ」
海岸の散歩。月光──大西洋のやわらかい空気。
そして、ヒューゴーの腕が彼女のからだを抱く。
「ぼくはきみを愛している。心から愛している。わかっているだろう、ヴェラ?」
たしかに、彼女はわかっていた(あるいは、わかっていると思っていた)。
「ぼくはきみに結婚を申しこむことができない。ぼくには、財産がない。自分が暮らしてゆくだけが精いっぱいなんだ。考えてみると、おかしな話だ。ぼくは三カ月のあいだ、財産を手に入れる機会を握っていたのだ。シリルが生まれたのは、モリスが死んで三カ月たってからだ。もし、シリルが女の子だったら……」
もし、女の子だったら、すべては、ヒューゴーのものになるのだった。彼は明らかに失望したようだった。
「もちろん、失望するほうがまちがっているんだ。しかし、たしかにぼくには運がなかった。シリルは可愛い子供だ。ぼくはあの子が、好きなんだ」そうだ。彼はシリルが好きだった。いつでも、すすんで小さな甥の遊び相手をつとめていた。ヒューゴーの気持ちには、シリルを恨んでいるようなところは少しもなかった。
シリルは丈夫な子供ではなかった。からだも弱々しく、無事に成長できるかどうかも危ぶまれた。
そして、ある日──。
「クレイソーンさん、なぜ、岩まで泳いでいってはいけないの」シリルは、泣き声をあげて、何度もくりかえした。
「遠すぎるからよ、シリル」
「だって、クレイソーンさん……」
ヴェラは起き上がって、化粧テーブルのところへ行き、アスピリン[#抗炎症剤・鎮痛剤として使用される]を三錠のんだ。彼女は思った。ほんとうの睡眠剤があるといいんだけれど……。
彼女は考えた。もし、自殺をするのなら、ヴェロナール[#催眠鎮静薬,抗不安薬,精神神経用薬として使用される]か何かを適量以上にのんだほうがいい──青酸カリなんて! 彼女はアンソニー・マーストンの紫色になった顔を思い出して、からだを震わせた。
ヴェラは炉棚の前で、額縁に入れられた童謡を見上げた。
[#ここから2字下げ]
十人のインディアンの少年が食事に出かけた
一人がのどをつまらせて、九人になった
[#ここで字下げ終わり]
彼女は考えた。まあ、怖い! ──ちょうど、今夜の私たちのようだわ!
アンソニー・マーストンはなぜ死にたかったのであろう。
彼女は死にたくなかった。
死にたくなる気持ちを想像することができなかった。
死は──自分以外のひとびとを訪れるものなのだ……。
[#改ページ]
第六章
1
アームストロング医師は夢を見ていた……。
暑い手術室だった……。
わざと暑くしているのだろうか? 汗が彼の顔を流れ落ちていた。手がねばりついて、メスをしっかり握ることができなかった。
なんと鋭いメスなのであろう……。
これなら、人を殺すこともわけはない。そして彼はいうまでもなく殺人を行なっているのだった……。
その女のからだはまったくちがって見えた。扱いにくい、大きなからだだったのだ。それが細々とやせたからだになっている。そして、顔は隠されている。
彼が殺さなければならないのは誰であろう。
彼は思い出すことができなかった。しかし、どうしても知らなければならない。看護婦にたずねてみようか。
彼女はじっと彼を見つめていた。いや、たずねることはできない。たずねれば、疑惑を抱くにちがいない。
しかし、手術台に横たわっているのは誰なのであろう。
なぜ、顔が隠されているのだろう……。
どうしても、顔を見なければ……。
ああ、それでよい。若い実習生がハンカチを取り除いたのだった。
もちろんエミリー・ブレントだった。彼が殺さなければならないのは、エミリー・ブレントだった。なんと悪意にみちた眼なのであろう! 唇が動いている。何を言っているのであろう。
「死はいつでも私たちを待っている……」
彼女はいま笑っている。いや、看護婦さん、ハンカチをもとへ戻さないでくれ。私は見ていなければならないのだ。麻酔をかけなければならない。エーテルはどこにある。エーテルを持ってきているはずだが……エーテルはないのかね、看護婦さん。葡萄酒があるって? よろしい、それで結構。
ハンカチをどけてくれたまえ、看護婦さん。
そうだった! わかっていたのだ! アンソニー・マーストンだった! 顔は紫色になって、ゆがめられている。だが、死んではいない──笑っているのだ。笑って、手術台をゆすぶっている! 気をつけたまえ! 危ない! 看護婦さん、押さえてくれ!……押さえて!……。
アームストロング医師はベッドからはね起きた。朝になっていた。日光が部屋にさしこんでいた。
そして、彼の上にかがみこんで、ゆりおこしているものがいた。ロジャースだった。顔を真っ青にして、「先生! 先生!」と言っていた。
アームストロング医師はすっかり目を覚ました。
そして、ベッドに座りなおして、言った。
「どうしたんだ」
「家内です。目を覚まさないのです。どうしても、目を覚まさないのです。様子がおかしいのです」
アームストロング医師は一刻も猶予をしていなかった。すぐ、ガウンをからだにまとって、ロジャースの後を追った。
医師は横向きになって安らかに眠っている女の上にかがみこんだ。そして冷たい手を握り、まぶたをひらいてみた。彼が立ち上がって、ベッドから離れたのは、それから数分たってからだった。
ロジャースはささやくように言った。
「家内は──家内は──」
彼は乾いた唇を舌でなめた。
「そうだ、死んでいる」
ロジャースの目が何かを探り出そうとするように医師を見つめた。それから二人はベッドのそばのテーブルのところへ行き、洗面台のところへ行き、また、眠っている女のところへ戻ってきた。
ロジャースは言った。
「死因は──心臓でしょうか」
アームストロング医師は一、二分考えてから言った。
「ふだんは丈夫だったのかね」
「ちょっと、リューマチの気味がありましたが……」
「最近、医師にかかったことがあるか」
ロジャースはアームストロングを見つめて、言った。
「長いあいだ、お医者にかかったことはありません──家内も、私も」
「何か心臓が悪いと思われるふしがあるのかね」
「いえ、先生、何も思い当たることはありません」
「いつも、よく眠れるのかね」
ロジャースの目が医師の目をさけた。そして、手を握り合わせ、もじもじしながら言った。
「よく眠るというほうではありませんでした」
医師は鋭い声で言った。
「睡眠剤を用いていたのか」
ロジャースは驚いて、医師を見上げた。
「睡眠剤ですって? 私が知っているかぎりでは、用いていた様子はございません」
アームストロングは洗面台のところへ行った。瓶が何本もならんでいた。ローション、ラヴェンダー香水、下剤、へちまクリーム、うがい薬、歯みがき。ロジャースが手伝って化粧テーブルの引き出しがあけられた。しかし、どこにも睡眠剤は発見されなかった。
ロジャースは言った。
「昨夜は先生にいただいたもののほか、何ものんでいないのですが……」
2
九時に朝食の鐘が鳴ったときには、すべてのものが起き出していて、鐘が鳴るのを待っていた。
マカーサー将軍と判事はテラスを散歩しながら、政治情勢についてとりとめのない会話を交わしていた。
ヴェラ・クレイソーンとフィリップ・ロンバードは邸宅の裏の丘に登って、降りてきたところだった。そこで、彼らは陸を見つめて立っているウィリアム・ヘンリー・ブロアを見つけた。
ブロアは言った。
「まだ、モーターボートが来る様子がない。さっきから、見張っているんだが……」
ヴェラは微笑を浮かべて、言った。
「デヴォンはのんびりしたところなんですよ。なんでも、ゆっくりしているんですわ」
フィリップ・ロンバードは反対側の海のほうを眺めていた。
突然、彼が言った。
「天気はどうだろう」
ブロアは空を見あげて、言った。
「大丈夫だろう」
ロンバードは唇をつぼめて、口笛を吹いた。
「今日のうちに風が吹きだすかもしれない」
「嵐が来るとでも?」
下から鐘が聞こえてきた。
ロンバードは言った。
「朝食だな。ぼくは腹が空いてるんだ」
ブロアはロンバードとならんで急なスロープを降りながら言った。
「どうもおかしい──あの若い男はなぜ自殺したんだろう。私は一晩中、そのことを考えていたんだ」
ヴェラは先のほうを歩いていた。ロンバードはやや足をゆるめて、言った。
「自殺のほかに、思い当たることがあるのかね」
「証拠がなければ、何とも言えない。そのまえに、まず動機だ。あの男はきっと相当の財産を持っているよ」
エミリー・ブレントが応接間から彼らを迎えに出てきた。
彼女は鋭い口調で言った。「ボートは来ましたか」
「まだですわ」と、ヴェラが言った。
一同は食堂へ入っていった。サイド・テーブルに卵、ベーコン、紅茶、コーヒーなどがのせてあった。ロジャースがドアをあけて彼らを入らせ、外側からドアを閉めた。
エミリー・ブレントは言った。
「あの男は、顔色が悪いようですね」
窓のそばに立っていたアームストロングが咳ばらいをして言った。
「いきとどかないところがあっても、我慢してやって下さい。ロジャースが一人で支度をしたんです。細君が──仕事ができないので……」
エミリー・ブレントが言った。
「あの女がどうかしたのですか」
アームストロング医師は落ち着いた声で言った。
「食事をはじめましょう。卵が冷たくなる。食事がすんだら、みなさんと話したいことがあるのです」
一同は医師の言葉にしたがった。皿に食べものがとりわけられ、コーヒーと紅茶が注がれた。食事がはじまった。誰も島の話はしなかった。海外のニュース、スポーツのこと、ネス湖の怪物がふたたび姿を現わしたことなどが、とりとめもなく語られた。会話に身を入れているものは一人もいなかった。
やがて、食事が終わると、アームストロング医師は椅子をちょっとうしろにずらし、咳ばらいをしてから、話しはじめた。
「食事がすむまで待つほうがいいと思ったので……実は、ロジャースの細君が睡眠中に死んだのです」
方々《ほうぼう》から驚きの声が聞こえた。
ヴェラは叫んだ。
「まあ、何ということかしら! 私たちが島に来てから、二人も人が死ぬなんて!」
ウォーグレイヴ判事は目を細くして、例の低いがはっきりした声で言った。
「ふむ──信じられないことだが──死因は何だったね」
アームストロングは肩をすくめた。
「即答はできかねます」
「解剖が必要なのだろうか」
「とにかくこのままでは、死亡診断書は書けない。健康状態も知らないのだから」
ヴェラは言った。
「あの人は神経質なひとらしかったわ。昨晩、あんな衝撃をうけているし、きっと、心臓麻痺ですわ」
アームストロング医師は言った。
「心臓がとまったことは事実です──しかし、どうしてとまったかが問題なのです」
エミリー・ブレントがはっきりした声で冷ややかに言った。
「良心ですよ!」
医師は彼女のほうにからだを向けた。
「それはどういう意味ですか、ブレントさん」
エミリー・ブレントは顔色も変えないで答えた。
「みなさんも聞いたではありませんか。あの女は主人と一緒に前の雇い主を殺した罪に問われているのですよ」
「それで、あなたは……」
「私はそれが事実だったと思っています。みなさんも見たはずですよ。あの女は驚いて気絶しました。罪をあばかれたので、良心の呵責にたえられなかったのです。恐怖のために死んだといってもいいのです」
アームストロング医師は頭を横に振った。
「そういうこともあり得ることですが、平素の健康状熊がはっきりわからなければ、断言はできません。たとえば、心臓が弱かったとか……」
エミリー・ブレントは医師の言葉をさえぎって言った。
「神さまの仕業と思えばいいでしょう」
一同のものが驚いて、ミス・ブレントの顔を見つめた。ブロア氏が困ったように言った。
「それは少し言いすぎでしょうな、ブレントさん」
彼女は眼を光らせて、一同を見まわした。そしてあごをつき出しながら言った。
「あなたがたは罪人《つみびと》が神さまのお怒りに触れて死ぬことを疑うのですか! 私は疑いません!」
判事はしずかにあごをたたいた。彼は皮肉な調子をまじえた声でゆっくり話しだした。
「私が長年罪を裁いてきた経験から言えば、神は断罪と贖罪《しょくざい》の仕事をわれわれ人間にまかせています──しかし、その仕事はたやすくなしとげられることではないのです。近道はないのですよ」
ミス・ブレントは肩をすくめて、黙りこんだ。ブロアがふたたび、口を出した。
「二階へ上がってから、食べたり飲んだりしたものはないのかね」
アームストロングは言った。
「何もない」
「お茶を飲まなかったのかね。水を飲んでいないのかね。きっと、お茶を飲んでいるよ。ああいう連中はみんな、寝る前にも茶を飲むんだ」
「ロジャースが何も飲まなかったと言っている」
「なるほど」と、ブロアは言った。「しかし彼はそう言うだろう!」
彼の言い方がいかにも意味ありげな口調だったので、医師は鋭い目つきで、ブロアを見た。
フィリップ・ロンバードは言った。
「では、きみは……」
「そうさ! われわれはゆうべ、おかした罪をならべたてられた。変人のたわ言だったかもしれない。かりに、事実だったとしてみよう。ロジャースとあの細君が婆さんを殺しているとすれば、どういうことになる。彼らはいままで安心していたか……」
ヴェラが口を出した。低い声だった。
「いいえ、安心してはいなかったわ」
ブロアは話の腰を折られて、ちょっと、いやな顔をした。彼の目が「女はいつもこうだ」と言っているように、ヴェラを見た。
ブロアは言葉をつづけた。
「あるいは、安心してはいなかったかもしれないが、とにかく、目前の危険はなかったのだ。そこへ、昨晩、何者ともわからない奴があらわれて、事実をぶちまけた。そして、どんなことが起こったでしょう? 女は驚いて、気を失った。女がやっと気がついたとき、あの男がどんな様子をしていたか、覚えているかね。女が何かしゃべるのではないかと思って、焼け煉瓦《れんが》の上を歩いている猫のようにびくびくしていたじゃないか。
そして、そんな立場におかれたらどうだ。彼らは殺人を犯して、知らぬ顔をしている。だが、すべてが明るみに出たら、何が起こる。十中八九、女は泥を吐く。あの女には、シラを切りとおす胆っ玉はない。いつかは、すべて告白するにきまっている。ロジャースにとっては、女が生きていることは危険きわまることなんだ。自分は自信があっても、女はどうかわからない。そして、もし、女が告白すれば、あの男の首も飛ぶんだ! だから、紅茶のカップに何か入れておいて、永久に口がきけないようにしたんだ」
アームストロングは落ち着いた口調で言った。
「ベッドのそばに空のカップはなかった──そのようなものは何もなかった。私はしらべてきたんだ」
ブロアは捻るように言った。
「もちろん、あるはずはないさ! 女が飲んでから、カップと皿をきれいに洗ってしまったのさ」
一瞬、沈黙がつづいた。マカーサー将軍が沈黙を破った。
「あるいは、きみの言うとおりかもしれぬ。しかし、わしには夫が自分の妻にそんなことをするとは考えられん」
ブロアは声をあげて笑った。
「自分の命が危ういというときには、感傷的なことは考えないものですよ」
また、沈黙が流れた。誰もものを言わないうちに、ドアがあいて、ロジャースが入ってきた。
彼は一同を一人ずつ見まわして言った。
「もっと何か召し上がりますか。卜ーストが少なくて申し訳ございませんでしたが、パンを切らしてしまったのです。新しいパンがとどきませんので」
ウォーグレイヴ判事が椅子の中でからだを動かして、たずねた。
「いつも、モーターボートは何時に来るのだね」
「七時から八時のあいだでございます。ときには、八時すぎになることもあるのですが──けさはどうしたことでしょうか。もし、フレッド・ナラカットが病気なら、弟が来ることになっているのですが……」
フィリップ・ロンバードが言った。「いま、何時だね」
「十時十分前でございます」
ロンバードが眉毛をぴくりと動かした。ロジャースはそのまま一、二分待っていた。
突然、マカーサー将軍が大きな声で言った。
「奥さんは気の毒なことをしたな、ロジャース。いま、先生に聞いたところだ」
ロジャースは頭を下げた。
「はい。ありがとうございます」
彼は空《から》になったベーコンの皿を持って、出ていった。
ふたたび、沈黙が流れた。
3
テラスで、フィリップ・ロンバードは言った。
「モーターボートのことなんだが……」
ブロアは彼の顔を見た。そして、うなずいた。
「あんたが何を考えているか、わかっているよ、ロンバード君。私もおなじことを考えていたんだ。二時間前に来るはずのモーターボートがまた来ていない。なぜだろう」
「きみはどう思う」と、ロンバードはたずねた。
「事故じゃない──私はそう思うんだ。これも計画の一部なんだ。最初から計画されていたことなんだ」
「では、来ないと思うんだね」
彼の背後から、声が聞こえてきた──怒っているような声だった。
「モーターボートは来るはずはない!」
ブロアは頑丈な肩をややまげて、声の主を見た。
「あなたもそう思うんですか、将軍」
マカーサー将軍ははっきりした口調で言った。
「もちろん、来るはずはない。われわれはモーターボートがなければ、この島から出ることができない。はじめから、そう計画されていたのだ。われわれがこの島を離れることはないのだ……誰もここから離れないのだ。ここが終わりなのだ──すべての終わりなのだ……」
将軍は言葉を切って、一瞬ためらっていたが、低い声で後をつづけた。
「それが平和なのだ──真の平和だ。最後まで来て──もう、先へ行くことはない……平和だ……」
将軍はいきなり向こうをむいて、立ち去った。テラスを横切り、海に達している斜面を下り、岩が海中に突き出している島の先端へ歩いていった。なかば眠っているような頼りない足どりだった。
ブロアは言った。
「彼もおかしくなってる! いまに、みんな、あんなふうに気が変になってしまうだろう」 フィリップ・ロンバードは言った。
「きみはそうはなるまい」
元警部は笑った。
「私が気が変になるとしたら、よほどのことだね。そして、あんたもそうはなるまいぜ、ロンバード君」
「ありがとう。いまのところはまったく正気だよ」
4
アームストロング医師はテラスへ出た。彼はそこで足をとめて、ためらった。左手にはブロアとロンバードがいた。右手にはウォーグレイヴが頭をたれて、ゆっくり歩いていた。アームストロングはちょっと考えて後者のほうへ行くことにした。
そのとき、ロジャースが家の中からあわてて姿を現わした。
「ちょっと、お話ししたいことがあるのですが……」
アームストロングはロジャースのほうを向いた。ロジャースの顔には血の気がなかった。両手がこまかに震えていた。数分前まで、あれほどしっかりした態度を見せていたのに、どうしたというのであろう。
「お願いでございます。家の中でお話ししたいことがあるのですが……」
医師は顔色を失っている執事と一緒に邸内に戻った。
「どうしたんだ」
「こちらです。こちらへおいでになって下さい」
ロジャースは食堂のドアをひらいた。医師は中に入った。執事は彼の後についてきてドアを閉めた。
「それで」と、アームストロングは言った。「何ごとかね」
ロジャースののどの筋肉が動いた。彼は唾をのみこんだ。そして、やっと口を切った。
「不思議なことが──起こっているのです」
「不思議な?」
「きっと私がどうかしているのだとおっしゃるでしょう。つまらぬことだとおっしゃるでしょう。しかし、このままにはすまされません。黙っているわけにはまいりません。どうにも説明がつかないのです」
「いったい、どんなことなのだ。謎のようなことばかり言っているが……」
ロジャースはふたたび、唾をのみこんだ。彼は言った。
「あの小さな人形なのです。テーブルの真ん中にあった人形です。たしかに、十個あったのですが……」
アームストロングは言った。
「そうだ。昨晩、食事のときに数えたよ」
ロジャースは彼の近くへ寄ってきた。
「そうなのです。昨晩、私が後片づけしているときに、人形が九つになっておりました。妙なことだとは思いましたが、そのときは、あまり気にとめませんでした。けさの食事のときには、気持ちが落ち着かなかったので、人形には気がつきませんでしたが、いま、後片づけにまいりますと……私の言うことがおかしいとお思いでしたら、ご自分でごらんになって下さい……人形は八つしかないのです! 二つ減っているのです! おかしいではございませんか。人形が八つしか……」
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第七章
1
朝食が終わると、エミリー・ブレントはヴェラ・クレイソーンをさそって、邸宅の裏の丘にのぼり、ボートの見えるのを待った。ヴェラはしぶしぶ従った。
風が強くなっていた。海に白い波がしら[#「がしら」に傍点]が見えてきた。漁船は一隻も出ていなかった──モーターボートが来る様子はなかった。
スティクルヘヴンの村は赤い岩の崖にさえぎられて見えず、村の上の丘だけが見えていた。
エミリー・ブレントは言った。
「昨日私たちを運んできてくれた男はまじめな男のようでした。けさになってまだ来ないというのは不思議です」
ヴェラは答えなかった。彼女は心の中の恐怖をしずめようと闘っていた。彼女は自分に腹が立っていた。
(落ち着かなければいけない。お前らしくもない。いままで、あれほど強い神経を持っていたのに)
一、二分の後、彼女は大きい声で言った。
「早く来てくれないかしら。私──早くこの島を離れたいわ」
エミリー・ブレントは冷ややかに言った。
「みんな、そう思っているでしょうよ」
「でも、あんまり思いがけないことで……なんだか、さっぱりわけのわからないことばかりですわ」
かたわらの老婦人がはっきりした声で言った。
「私は簡単に信じてしまったことを後悔しているのですよ。よく考えてみれば、信じてはならない手紙でした。でも、あのときは、少しも疑わなかったのです」
ヴェラは機械的につぶやいた。
「わかりますわ」
「何でも一人でのみこんでしまうのは、いけないことです」と、ミス・ブレントは言った。
ヴェラは深く息を吐いて、言った。
「お食事のときにおっしゃったこと──ほんとうにそう信じていらっしゃるんですか」
「何のことですか。はっきり言ってくれませんか」
ヴェラは低い声で言った。
「ほんとうにロジャース夫婦が老婦人を殺したと思っていらっしゃるのですか」
エミリー・ブレントはじっと海を見つめて言った。
「私はそう信じています。あなたはどう思いますか」
「わかりませんわ」
「すべてのことがそう信じさせるのですよ。女が気を失ったこと。男がお盆を落としたこと。それにあの男の話を聞いていると──正直に言っているとは思われませんでした。私はどうしても、彼らが殺したものと信じますよ」
ヴェラは言った。
「あの女の様子は──まるで、自分の影に怯えているようで……私はあんなおずおずしている女を見たことがありませんわ……きっと、いつもあんなふうに……」
ミス・ブレントは小さな声で言った。
「子供のときに私の部屋にかかっていた額を私は覚えています。……汝の罪はかならずあらわれるべし。……そのとおりですよ。汝の罪はかならずあらわれるべし……」
ヴェラは急に立ち上がると、言った。
「でも、ブレントさん──それでは……」
「なんですか」
「他のものは──他のものはどうなるのですか」
「何のことを言っているのですか」
「ほかの容疑はみんな──みんな──事実ではなかったのですか? ロジャースがほんとうに罪を犯しているとすれば……」
彼女はどう言っていいのかわからないので、後の言葉をつづけることができなかった。
眉をくもらせていたエミリー・ブレントが晴れやかな表情になって言った。
「あなたの言いたいことがわかりましたよ。ロンバードさんは罪を認めましたよ。二十人の人間を見殺しにしたと」
「あれは先住民のことです……」
エミリー・ブレントは鋭い声で言った。
「黒人でも、白人でも、私たちの同胞《きょうだい》であることに変わりはありません」
ヴェラは思った。
(私たちの黒人の同胞──私たちの黒人の同胞! 私にはそんなことは考えられない。気が変になる……)
エミリー・ブレントは落ち着いて話をつづけた。
「もちろん、中には、根も葉もない言いがかりもありましたよ。たとえば、判事は職務を忠実に行なっただけのことです。ロンドンの警視庁にいたという男もそうでしょう。私の場合もそうなのです」
彼女はそこで言葉を切って、また、つづけた。
「私は昨晩、何も言いませんでした。男の方の前で言うべきことではないと思ったからです」
「どんなことなのですか」
ヴェラは興味をおぼえた。ミス・ブレントはあくまで冷静に話をつづけた。
「ビアトリス・テイラーは私が使っていた娘です。行ないのよくない娘でした──それがわかったときは、もうおそかったのです。私はその娘に欺かれたのです。うわべは行儀が正しく、きちんとして、気が利いた娘でした。私はその娘が気に入っていました。しかし、それがみんな、うわべだけのことで、実は、身持ちのよくない、だらしのない娘だったのです。彼女がとんでもないからだになったことを知ったのは、だいぶたってからのことでした」老婦人は口にするのも汚らわしいというように、鼻にしわをよせた。
「私はたいへん驚きました。彼女の両親も立派なひとたちで、娘を厳格に育てていたくらいですから、もちろん、娘の行ないをゆるしませんでした」
「それで、どうなりましたの」
「私はすぐ、その娘を追い出しました。おいておけば、私が不道徳をゆるしたことになるからです」
ヴェラは低い声で言った。「それから──どうなりましたの」
「心に恥じる罪を犯したうえに、いっそう大きな罪を犯してしまったのです。その娘は自殺をしたのです」
ヴェラはいいしれぬ恐怖を感じながらささやいた。
「自殺ですって?」
「そうです。河に身を投げたのです」
ヴェラはからだを震わせた。
そして、ミス・ブレントの落ち着きはらった横顔を見つめた。
「自殺したと聞いたとき、どうお思いになって? 悪かったとは思いませんでしたの」
エミリー・ブレントは身を起こした。
「私がですか。どうして、私が悪かったと思う必要があるのですか」
「でも、もしあなたの厳格なやり方が──そんな結果を生んだものとしたら……」
エミリー・ブレントはきっぱりした口調で言った。
「自分の犯した罪が──あの娘を自殺させたのです。良心に恥じない行ないをしていたら、そんなことは起こらなかったのです」
彼女はヴェラのほうへ顔を向けた。自分を責めているような表情も、不安そうな表情もなかった。あくまで自分が正しいと思いこんでいる硬い表情だった。エミリー・ブレントは彼女自身の道徳の鎧《よろい》に身をつつんで、インディアン島の丘に厳然と座っているのだった。
小柄な独身の老女はもはやヴェラにとって愚かしい存在ではなくなっていた。
突然、ヴェラはその姿に恐怖を感じた。
2
アームストロング医師は食堂から、ふたたびテラスに姿を現わした。
判事は椅子に座って、じっと海を眺めていた。
ロンバードとブロアは煙草をすっていた。話はしていなかった。
医師の目は探るように判事の姿を見つめた。彼は誰かと相談したかった。彼は判事が鋭い論理的な頭脳を持っていることを知っていた。しかし、彼は判事をさけた。ウォーグレイヴ判事は頭脳《あたま》はいいかもしれないが、老人だった。いま彼が必要としているのは、活動的な人間だった。
医師は意を決した。
「ロンバード、ちょっと、話があるんだ」
フィリップは彼のそばへよってきた。
「うかがおう」
二人はテラスを離れて、斜面を海のほうへ降りていった。他のものに声が聞こえないところへ来ると、アームストロングは言った。
「きみの意見を聞きたいんだが……」
ロンバードは眉毛を上げた。
「冗談じゃない。ぼくには医学の知識はないよ」
「いや、こんどの事件についてなんだ」
「それなら、話がわかる」
アームストロングは言った。
「正直に言って、きみはどう考える」
ロンバードはちょっと考えてから言った。
「いろんなことが言えそうだね」
「あの女の一件はどうだ。ブロアの話を認めるか」
フィリップは煙を吐いた。
「可能性は充分ある」
「そのとおりだ」
アームストロングは安心したようだった。フィリップ・ロンバードは愚かではない。
ロンバードは言った。
「もっとも、あの夫婦が殺人を犯しているという仮定のもとに言ってるんだ。あり得ない話ではない。彼らはどんな手段で婆さんを殺したか、ご意見を聞きたいな──毒殺だろうか」
アームストロングがゆっくりと言った。
「もっと簡単なことかもしれない。けさ、ブレイディの婆さんの病気が何であったか、ロジャースに訊いたんだ。なかなか興味のある返事だった。心臓病に亜硝酸アミル[#主に狭心症等の心臓疾患に使われる薬品。またシアン化合物(青酸カリウムなど)の解毒剤としても使用される。]が使われることはきみも知っているだろう。もし、発作が起こったときに、亜硝酸アミルがなかったとしたら──結果はわかるだろう」
「そうか。簡単なもんだな。──誰だってきっと、誘惑されるよ」
医師はうなずいた。
「積極的に行動を起こす必要がないんだ。毒薬を手に入れる必要もないし、のませる必要もない。そして、ロジャースが医師を呼びに急げば、誰も怪しむものはいない」
「もし、勘づかれたところで、証拠はあがらない」と、ロンバードはつけ加えた。突然、彼はむずかしい顔をした。
「そうだ──それで説明がつくわけだな」
アームストロングは不思議そうにロンバードを見た。
「何のことだね」
「つまり──インディアン島の説明さ。世間には、犯人を罪に落とすことができない犯罪がある。たとえば、ロジャース夫婦の一件だ。ウォーグレイヴ判事の一件もそうだ。法律の枠の中で殺人を行ったんだ」
「きみはそう信じるのかね」
フィリップ・ロンバードは微笑した。
「もちろんさ! ウォーグレイヴは短剣で突きさすよりも確実な方法でエドワード・シートンを殺したんだ! しかし、彼はそれを鬘《かつら》と法衣《ガウン》をまとい、判事の椅子に座って行なった。だから、普通の方法では、彼の罪を問うことはできないんだ」 アームストロングの心の中を稲妻のように走ったものがあった。
「病院内の殺人。手術台上の殺人。これほど、完全な殺人はない!」
フィリップ・ロンバードは話をつづけていた。
「それで──オーエン氏の出現になり──インディアン島の一幕になったんだ!」
アームストロングは深く息を吸った。
「すると、われわれをここに集めた目的は何だろう」
「あんたはどう思う」
アームストロングはそれには答えないで、話題をもとに戻した。
「ロジャースの細君の死因なんだが、ロジャースが彼女の口から秘密がもれることをおそれて殺したのか、それとも、良心の呵責に堪えかねて自殺したのか……」
「自殺だって?」
「きみはそう思わんのか」
「いや、自殺とも思えるが──そのまえに、マーストンが死んでいる。十二時間のうちに、二人の人間が自殺するなんて、常識では考えられない! だいいちあれほど神経の太そうな、ふてぶてしい感じの男が、子供を二人|自動車《くるま》にひっかけたぐらいのことで、自殺するはずはないじゃないか。それに毒薬をいつ手に入れたんだ。青酸カリはチョッキのポケットに入れて持って歩けるようなものじゃないだろう」
「常識のあるものなら、持って歩くまい。しじゅう持って歩いているのは、蜂の巣を採る人間くらいのものだ」
「庭師か、地主だね。アンソニー・マーストンは持って歩かないよ。とにかく、青酸カリの出どころは充分しらべる必要がある。マーストンはここへ来るまえから、自殺するつもりで用意していたのか──さもなければ──」
アームストロングはロンバードをうながした。
「さもなければ?」
ロンバードは苦笑した。
「なぜ、ぼくに言わせるんだ。口に出かかっているんじゃないか。アンソニー・マーストンはもちろん殺されたんだ!」
3
アームストロング医師は深く息を吐いた。
「そしてロジャースの細君は?」
ロンバードはゆっくりした口調で言った。
「もし、あの女の死がなかったら、アンソニー・マーストンの自殺を認めてもいい。もしアンソニー・マーストンが死んでいなかったら、ロジャースの細君は自殺したものと信じただろう。ロジャースが細君を殺したという説にしても、マーストンが死んでいなかったら、簡単に信じられるんだ。しかし、われわれがまず説明しなければならないことは、短い時間のあいだに、二人の人間がなぜつづけて死んだかということだろう」
「その謎を解く鍵が見つかったんだ」と、アームストロングは言った。そして、ロジャースに聞いたとおり、人形が二つなくなった事情を語った。
ロンバードは言った。
「たしかに、小さなインディアンの人形があったな……昨晩、食事のときには、たしかに十個あった。それが、八つになっているというんだね」
アームストロングは童謡の最初の二節を口にした。
「十人のインディアンの少年が食事に出かけた。一人がのどをつまらせて、九人になった。……九人のインディアンの少年がおそくまで起きていた。一人が寝すごして、八人になった」
二人は顔を見合わせた。フィリップ・ロンバードは薄笑いをうかべて、煙草を投げ捨てた。
「偶然にしては、ぴったり合いすぎている! アンソニー・マーストンはたしかに食事の後でのどをつまらせて死んだ。ロジャースの細君も、寝すぎて目が覚めなかったんだ」
「それで?」と、アームストロングは言った。
「つまり、べつのインディアンがいるということだ。隠れた人物! オーエン氏! U・N・オーエン! 知られざる異常者が、この島のどこかに潜んでいるにちがいない!」
アームストロングはほっとしたように深く息を吐いた。
「私もおなじ考えなんだが、ロジャースに言わせると、この島には、われわれとロジャース夫婦のほか、誰もいないというんだがね」
「それはちがう! 彼が嘘を言っているのかもしれない!」
アームストロングは頭を振った。
「私には、彼が嘘を言っているとは思えない。あの男は怯えきっている。嘘など言えるはずはない」
ロンバードはうなずいた。
「けさ、モーターボートが来ないのもオーエン氏が仕組んでおいた妨害だ。インディアン島はオーエン氏が仕事をしおわるまで交通途絶になるんだ」
アームストロングは青くなった。
「きみが言うように──その男はとんでもない異常者にちがいないよ!」
フィリップ・ロンバードの口調には新たな響きがあった。
「だが、たった一つ、オーエン氏がぬかっていたことがある」
「何だ」
「この島はほとんど裸の岩ばかりだ。捜索するのはわけはない。すぐ、U・N・オーエン氏を狩り出せる」
医師は警告するように言った。
「しかし危険な人間だよ」
フィリップ・ロンバードは笑った。
「危険だって? 冗談じゃない! 奴を捕らえたときには、ぼくのほうが危険な人間さ!」
彼は言葉をつづけて言った。
「ブロアを仲間に入れたほうがいい。こんなときに役に立つ人間だよ。女たちに話すのはよそう。将軍は頭がおかしいし、ウォーグレイヴの爺さんは敬遠しておこう。われわれ三人が一緒になれば充分だろう」
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第八章
1
ブロアは一言のもとに仲間に加わった。彼は言った。
「ただ、一つだけ、賛成できないことがあるんですがね。例の人形の一件なんだが、人殺しをしようという人間がそんなばかなことをするだろうか。だいたい、オーエンが書いた筋書は、自分が手を下さないで目的をとげようというのじゃないですか」
「それはどういう意味だね」
「こうなんです。昨夜のレコードを聞いて、マーストン君は頭がおかしくなって、自殺をした。ロジャースはむかしのことが気になって、細君を殺《や》っちまった──そういう筋書だったんじゃないかと思うんですがね」
アームストロングは頭を振って、青酸カリの件を強調した。ブロアは賛成した。
「なるほど。そいつは忘れていた。誰でも持っているという物じゃない。しかし、どうして、あの男のグラスに入れたんだろう」
ロンバードは言った。
「ぼくはそのことを考えてみたよ。マーストンは昨晩、何杯もウィスキーを飲んだ。最後の一杯と、その前の一杯のあいだには、相当の時間があった。そのあいだ、彼のグラスはどこかに置いてあったはずだ。おそらく窓のそばの小さいテーブルではなかったかと思う。窓は開かれていた。青酸カリをグラスに入れようと思えば、できないことはない」
ブロアは信じられないといった顔つきで言った。
「われわれの目にふれないでかね」
ロンバードがそっけなく言った。
「われわれはほかのことに注意を奪われていたからね」
アームストロングが口を出した。
「そうだ。われわれは、興奮して、部屋の中を歩きまわっていた。みんな、罪を問われて、自分のことばかり考えていたんだ。グラスに薬を入れようと思えば、隙は充分あった」
ブロアは肩をすくめた。
「とにかく、実際には入れられてしまったんだ。では、出かけましょう、誰かピストルを持っていますかね。まさか、持っていないだろうが……」
ロンバードは言った。
「ぼくは持っているよ」と彼はポケットをたたいた。
ブロアは目を見ひらいた。変に気安い調子で訊いた。
「いつでも持って歩いてるのかね」
「たいてい持っている。ずいぶん危険な目にあっているんだ」
「なるほど」と、ブロアは言った。「しかし、今日はいちばん危険な目にあうだろう。犯人が隠れているとすれば、きっと飛び道具を持っている──もちろん、刃物の一つや、二つは当然持っていると思わなければならん」
アームストロングが咳ばらいをして、言った。
「いや、ブロア、頭のおかしな殺人者というのは会ってみると、案外おとなしい人間なんだ。愉快な奴だったりする」
ブロアは言った。
「こいつはしかし、そういう人間ではなさそうですぜ」
2
三人は島の中を歩きはじめた。
思ったより簡単な仕事だった。北西方は陸に面していて、泡立つ眼下の海に向かって切り立った断崖になっていた。
島の他の地域は樹木は一本もなく、人間が隠れられるようなところはなかった。三人は綿密な計画をたてて高地から海岸へ注意ぶかくしらべていった。岩のかげに洞窟の入口でもありはしないかと思ったが、それらしいものもなかった。
彼らは水ぎわをめぐり、マカーサー将軍が海を見ながら座っているところへ出た。美しい波が岩に砕けていた。なごやかな風景であった。老将軍は水平線に目をすえて、身動きもしないで座っていた。彼らがそばに来たことも眼中にないようだった。
ブロアは思った。どうも、正気ではない──催眠術にでもかかっているんじゃないか。彼は咳ばらいをしてから、いちだんと大きな声をあげて話しかけた。
「将軍、いいとろを見つけなすった」
マカーサーは肩ごしに背後をちらりと見た。
「もう時間がないのだ──わずかしかない。邪魔をしないでもらいたい」
ブロアは言った。
「お邪魔はしません。私たちは島をひとまわりしているんですよ。誰か隠れている奴がいやしないかと思いましてね」
将軍は眉をしかめて、言った。
「きみたちにはわからんのだ──何もわかっておらん。早く行ってくれたまえ」
ブロアは早々に引きあげて、他の二人に追いつきながら言った。
「おかしいね……何を言っているんだか、見当がつかない」
ロンバードは、好奇心にかられて訊いた。
「どんなことを言っていた?」
ブロアは肩をすくめた。
「もう時間がないとか、邪魔をしないでくれとか……」
アームストロング医師はむずかしい顔をして、小さな声でつぶやいた。
「ひょっとすると……」
3
島の中の捜索は終わった。三人の男は、島のいちばん高いところに立って、陸を眺めた。船は一隻も出ていなかった。風は強くなっていた。
ロンバードは言った。
「漁船が出ていない。嵐が来るんだ。──しかし、村が見えないのはまずいね。信号もできない」
ブロアは言った。
「今夜、かがり火を燃やそう」
ロンバードはにべもなく言った。
「無駄だろう。何にもならんよ」
「なぜだね」
「知るもんか。きっと、信号があっても知らん顔をしていろ、と言われているだろう。われわれは孤島に置き去りにされたんだ。賭けをしてるんだとか何とか、いい加減なことを言ってあるにちがいない」
「そんな話を村のものが信用するかね」
「事実を話すより信用されるよ。お客を全部殺してしまうまで交通を遮断するといって、信用すると思うかね」
アームストロング医師は言った。
「まだ、信じられないところもあるが、しかし……」
ロンバードがその言葉を引き取った。
「そうなんだ! 信じられなくても、事実なんだ!」
ブロアは崖から海を見おろしていた。
「ここは降りられそうもないな」
アームストロングは首を振った。
「むずかしいね。断崖だし、それに、ここには隠れるところはあるまい」
ブロアは言った。
「崖に穴があるかもしれない。船があれば、島の周囲をまわってみるんだが……」
ロンバードは言った。
「船があれば、いまごろは陸に向かって、途中まで行っているよ!」
「なるほど、そうだ」
突然、ロンバードが言った。
「とにかく、この崖は確かめたほうがいい。少し右のほうに──一カ所だけくぼんだところがあるよ。きみたちがロープを持っていてくれれば、ぼくが降りてみる」
ブロアがすぐ賛成して、言った。
「なるほど。ちょっとばかげてるがね──どう見ても! 何か見つかるかどうか、このおれが見てみよう」
彼はロープを取りに邸宅のほうへ走っていった。
ロンバードは空を見上げた。雲が出てきて、風はさらに強くなっていた。彼は横を向いて、アームストロングを見た。
「黙りこんで、何を考えてるんです」
アームストロングはしずかに言った。
「マカーサーがほんとうに気が狂ったのかどうか、考えていたのだが……」
4
ヴェラは午前中ずっと気持ちを落ち着けることができなかった。彼女はぞっとするような反感を覚えてエミリー・ブレントをさけた。
ミス・ブレント自身は邸宅の角の風の当たらないところに椅子を出して、編みものをしていた。
ヴェラは彼女のことを考えるたびに、水草が髪にからまった溺死者の蒼い顔が目にうかぶのだった。かつては、美しかった──いまでは、あわれみも恐怖もとどかない顔が。
そして、エミリー・ブレントは落ち着いた様子で、行儀よく椅子に座り、編みものをしていた。
テラスの椅子には、ウォーグレイヴ判事が座っていた。頭が首の中にはまりこんでいるように見えた。ヴェラはその姿を見て、被告席にいる美しい髪の青年の姿を思いうかべた。碧い目に恐怖の表情がうかんでいた。エドワード・シートンだった。判事はいまにも黒い帽子をかぶって、判決を下そうとしているかのようだった。
ヴェラは海に向かってゆっくりと下り、島の先端へ歩いていった。マカーサー将軍が水平線を見つめて、座っていた。
将軍はヴェラが近づいてくるのを認めて、頭を彼女のほうへ向けた。彼の目に詰問と許容が入りまじった不思議な表情がうかんだ。それが彼女を驚かせた。将軍は一、二分のあいだ、彼女の顔をじっと見つめた。
彼女は思った。不思議な目つきをしている。まるで、彼女の秘密を知っているようだ……。
将軍は言った。
「あんただったのか! あんたもここへ……」
ヴェラはマカーサーのかたわらに座った。
「ここがお気に召しましたの? ここで海をごらんになっているのが……」
将軍はしずかにうなずいた。
「そうだ。気が落ち着くのだ。待つにはよいところだよ」
「待つって──何を待っていらっしゃるの」
「終わりだよ、あんたも、わかっているだろう。われわれはみんな、終わりを待っているのだ」
ヴェラは落ち着かない声で言った。
「何のことでしょうか」
マカーサーは重苦しい口調で言った。
「われわれはこの島を離れられない。そういうことになっているのだ。もちろん、それはあんたにもわかっているだろう。ただ、あんたにわかっていないのは、救いだろう」
「救い?」
「そうだ。あんたはまた若い……わからないのも、無理はない。だが、いずれは訪れてくる! もう重荷を背負わないでもいいとわかったとき、救いが訪れるのだ。それも、いつかわかるだろう」
ヴェラは指をこまかく震わせながら、言った。
「何のことか──わかりませんわ」
彼女は急に目の前の老軍人が怖くなった。
彼はしずかに言った。
「わしはレスリーを愛していたのだよ。心から愛していたのだ」
「レスリーって──奥さんですの」
「そうだ、妻だ……わしは彼女を愛していた──誇りにしておった。美しい──快活な女だった」彼はしばらく黙っていた。「そうだ、わしはレスリーを愛していたのだ。だから、やったのだ」
ヴェラは言った。
「では……」
マカーサー将軍はしずかにうなずいた。
「もう否定しても仕方がない──われわれはみんな死ぬのだ。わしは、リチモンドを死地に送った。見方によっては、殺人であろう。不思議なことだ。わしが殺人を犯すなどとは! しかし、そのときは殺人と考えなかった。後悔をしなかった。自業自得だ!──そう考えていたのだ。しかし、後になって……」
ヴェラはこわばった声で言った。
「後になって?」
彼はうつろな表情で頭を振った。苦しそうな表情だった。
「わしにはわからない。──レスリーが察していたかどうか、わしは知らない──察してはいなかったろう。しかし、彼女はもう、わしから遠く離れてしまった──わしの手のとどかないところへ。そして、死んでしまった。わしは一人になった……」
「一人に……」と、ヴェラはくりかえした。その言葉は岩にこだま[#「こだま」に傍点]して、彼女の耳にかえってきた。
マカーサー将軍は言った。
「終わりが来れば、あんたもきっと喜ぶだろう」
ヴェラは立ちあがった。
「何のことか、私にはわかりませんわ!」
彼は言った。
「わしにはわかっている──わかっているのだ……」
「いいえ。わかっているはずはないわ……」
将軍はふたたび、海を見つめた。ヴェラがいることは、忘れたようだった。そして、低い声で言った。
「レスリー……」
5
ブロアがロープを腕に巻いて戻ってくると、アームストロングはもとのところで断崖の下を見つめていた。
「ロンバード君は」と、ブロアは息をきらせて訊いた。
アームストロングは何げなく言った。
「何かしらべると言って、出かけていった。すぐ戻ってくるだろう。……ブロア、私は、心配なんだ」
「誰だって、心配していますよ」
医師はいらいらした様子で手を振った。
「もちろん──それはわかってる。そのことじゃないんだ。マカーサーのことなんだ」
「どうかしたんですか」
「われわれが探しているのは殺人犯だし──マカーサーは……」
ブロアが言った。
「人殺しだと言うんですか」
「そうとは言わない。神経科は私の専門ではない。彼と会話も交わしていないし──そういう観点から観察してもいないし……」
ブロアはまだ腑に落かねるように言った。
「たしかに、正気じゃないが……」
アームストロングはブロアの言葉をさえぎった。
「おそらく、きみの言うとおりだろう。──とにかく、誰かこの島に隠れているんだ。──おお、ロンバードが来た」
彼らはロープをしっかり結んだ。ロンバードは言った
「ぼくはできるだけロープに頼らないで降りる。ロープが急に張るのを気をつけていてくれたまえ」
ロンバードが降りていくのを見ながら、一分か二分たって、ブロアは言った。
「まるで猫のようですな」
彼の声に妙なひびきがあった。
アームストロングは言った。
「登山の経験があるんだろう」
「そうかもしれませんね」
しばらく、沈黙がつづいた。やがて、元警部は言った。
「まったく妙な男ですな。私がどう思ってるか、知ってますか」
「どう?」
「あの男は悪いやつです」
アームストロングは信じられないように言った。
「どんな点で?」
「どんなって──はっきりしたことは言えないが、私は信用しません」
「いろいろなことを経験しているらしいが……」
ブロアは言った。
「その中には、明るみに出せないことがきっとある。──先生、あなたはピストルを持って歩いたことがありますかね」
「私が? 冗談じゃない。一度もないよ」
「ロンバード君はなぜ持って歩いてるのでしょう?」
「おそらく──習慣だろう」
ブロアは鼻を鳴らした。
突然、ロープに力が入った。彼らは力を合わせて、ロープを支えた。ロープはすぐ、ゆるんだ。
ブロアは言った。
「習慣にも、いろいろありますよ。ロンバード君はとんでもないところへピストルを持ってくるんです。そして、料理用石油ストーヴと寝袋と除虫用パウダーとね。こんなところへ来るのにピストルを持ってくるという習慣は聞いたことがない。ピストルを平気で持って歩くというのは、小説の中のことですよ」
アームストロング医師は、困ったような顔をして頭を振った。
彼らは崖をのぞきこんで、ロンバードの捜索の様子を見おろした。捜索はもう終わったらしく、収穫がなかったこともすぐわかった。やがて、ロンバードは上がってきた。彼は額を拭いて、言った。
「あとは邸宅を捜索するだけだ」
6
邸宅の捜索も簡単だった。彼らは付属の建物から手をつけていった。次に母屋を捜索することにした。台所の戸棚にあったミセス・ロジャースの巻尺《メジャー》が役に立った。しかし、秘密の隠れ場所がありそうなところは一つもなかった。近代建築はすべてが明るく、簡素にできていた。一階の捜索が終わって、二階の寝室へ上がろうとしたとき、階段の踊り場の窓からのぞくと、ロジャースがカクテルの盆をテラスへ持っていく姿が見えた。
フィリップ・ロンバードは言った。
「あんなによく働く執事はめったにいない。何事もなかったように働いている」
アームストロングが賛成した。
「執事としては一流だね。私がどこへでも推薦する」
ブロアは言った。
「かみさん[#「かみさん」に傍点]も、いいコックだった。あの食事──昨晩の……」
彼らは最初の寝室へ入っていった。五分後、彼らは階段の踊り場で顔を合わせた。誰も隠れていなかった──隠れ場所らしいところもなかった。
ブロアは言った。
「あそこに小さな階段がある」
アームストロング医師は言った。
「執事の部屋へ上がる階段だ」
ブロアは言った。
「屋根の下に貯水槽があるだろう。隠れ場所があるとすれば──ここよりほかにはない!」
そのとき、頭上で物音が聞こえた。誰かが足音を忍ばせて歩いているのだった。アームストロングはブロアの腕を握った。ロンバードは指を立てて言った。
「しずかに──あの音は……」
ふたたび、足音が聞こえた──たしかに、誰かが歩いているのだった。
アームストロングはささやいた。
「この上の寝室の中だ。ロジャースの細君の死体がある部屋だ!」
ブロアがささやきかえした。
「隠れるにはいちばんいいところだ! 誰も入るはずはないんだ!──行ってみよう。足音を立てちゃ駄目ですよ」
彼らは足音を忍ばせて階段を上っていった。寝室のドアの外のせまい踊り場で、彼らはふたたび足をとめた。たしかに、誰かが部屋の中にいる、かすかな物音が聞こえているのだ。ブロアがささやいた。
「いいですか!」
彼はドアを勢いよく開いて、とびこんだ。他の二人はすぐ後からつづいた。そして、三人とも、驚いて立ちすくんだ。ロジャースが両手に服や下着を抱えて立っていた。
7
ブロアが最初に落ち着きを取り戻した。彼は言った。
「すまん──ロジャース。足音が聞こえたので……」
ロジャースは言った。
「申しわけありません。荷物をうつそうと思ったのです。二階の空いている客室を使わせていただきたいと思いまして──いちばん小さなお部屋を……」
彼はアームストロングに向かって、言っていた。医師は答えた。
「いいとも、いいとも。引っこしたまえ」
彼はシーツをかぶせられてベッドに横たわっている死体を見ないようにして、そう言った。
ロジャースは言った。
「ありがとうごさいます」
彼は荷物を抱えて降りていった。
アームストロングはベッドのそばにより、シーツをまくって、安らかな死に顔を眺めた。すでに、恐怖の跡はなかった。ぬけがらだった。
アームストロングは言った。
「解剖ができれば、薬品が何であるか、わかるのだが」
それから、二人のほうを向いて言った。
「仕事を片づけよう。収穫はなさそうだが」
ブロアは低いマンホールのボルトをはずそうとしていた。彼は言った。
「だが、あいつは足音を立てないな。いま、庭にいたばかりだし、誰も上がってくる足音を聞いていない」
ロンバードは言った。
「だから、部屋の中に怪しい者がいるんだと思ったんだ」
ブロアは穴のような暗闇に消えた。ロンバードはポケットから懐中電灯を出して、つづいた。五分後、三人は降り口に立って、顔を見合わせた。三人ともほこりにまみれ、蜘蛛の巣をつけていた。
島には、彼ら八人のほか誰もいないのだった。
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第九章
1
ロンバードは言った。
「われわれの考えかたが、まちがっていたんだ。偶然、二人がつづいて死んだので、いい加減な想像をしてしまったんだ」
アームストロングがゆっくり言った。
「しかし、私は医師だ。自殺についても、まんざら知識がないわけではない。アンソニー・マーストンは自殺する人間のタイプではない」
ロンバードは何か考えこんで言った。
「過失じゃないだろうか」
「しかし」と、ブロアは言った。「過失としても、妙な過失だな」
三人ともしばらく黙っていた。それから、ブロアが言った。
「あの細君のほうなら、過失ということもありうるが……」
「ミセス・ロジャース?」
「そうだ。ありうるだろう。過失かもしれないだろう」
ロンバードは言った。
「どういう過失だ?」
ブロアはちょっと困ったような顔をした。赤煉瓦のような顔色がいちだんと濃い色になった。そして言いにくそうに、早口でしゃべった。
「先生、あなたはあの女に薬をやりましたね」
「薬を? 何が言いたいんだ」と、アームストロングはブロアの顔を眺めた。
「昨晩ですよ。睡眠剤をやったでしょう」
「やったよ。普通の睡眠剤だ」
「それは、何でしたね」
「トリオナールだ。危険は絶対にない」
ブロアの顔がさらに赤くなった。
「先生、怒っちゃいけません──一昨晩、まちがって量をもりすぎはしませんでしたか」
「そんなことはない」
「しかし、医者がまちがえることもあるでしょう」
「私はそんなまちがいはしない!」と、アームストロングはきっぱり言った。そして、冷ややかな声でつけ加えた。
「それとも、私が故意に量を多くしたと言うのかね」
フィリップ・ロンバードが口を出した。
「もう、よさないか。お互いに罪を着せあってもしかたがない」
ブロアは吐き出すように言った。
「私はただ、医者も過失をおかすことがあると言っただけなんだ」
アームストロング医師はしいて微笑を浮かべて、言った。
「医者はそんな種類のまちがいはしないよ」
「しかしあなたは前にも一度やっているんですぜ──あのレコードの声が事実だったとすれば……」
アームストロングが蒼白になった。フィリップ・ロンバードがすぐ怒気をふくんでブロアに言った。
「なぜそんな攻撃的な態度に出るんだ。われわれはみんな、おなじ運命におちいってるんだ。協力しなければならないんだ。きみだって、偽証の罪を問われてるんだぜ」
ブロアは拳をかためて、一歩前へ出た。
「偽証だって! そんなことは大嘘なんだ。きみがそんなことを言うのなら、おれだって訊きたいことがある──きみに訊きたいことがね」
「ぼくに?」
「そうだ。島へ遊びに来るのに、なぜピストルを持ってきてるんだ」
「それが知りたいのか」
「知りたいよ、ロンバード君」
ロンバードは間を置かずに言った。
「ブロア、きみもなかなか目が利くね」
「どうかな。ピストルについての説明は?」
ロンバードは薄笑いをうかべて言った。
「ぼくははじめから事件が起こることを予想していたんだよ」
ブロアが疑わしげに言った。
「昨晩はそんなことは言わなかったじゃないか」
ロンバードは頭を振った。
「われわれに隠していることがあるんだな」
「まあ、そうだ」
「言ってもらおうじゃないか」
ロンバードはゆっくり話しだした。
「ぼくは諸君とおなじような筋道でここへ来たように見せかけたが、実は、そうじゃない。ジョニーという──名字はモリスというんだが、正体のわからない男が現われて、この島へ来て、油断なく目をくばっていれば、百ギニーくれると言ったんだ──ぼくが適任だと言うんだ」
「それで?」と、ブロアがもどかしそうにうながした。
「それだけだよ」と、ロンバードは言った。
アームストロング医師は言った。
「しかし、その男はもっと詳しく話したはずだが……」
「いや、あとは何も言わないんだ。不承知なら不承知でいい──それだけしか言わないんだ。ぼくは金に困っていたので、承知したんだ」
ブロアはまだ信じられないようだった。
「なぜ、昨晩言わなかったんだ」
「きみ──」と、ロンバードは肩をすくめて言った。「昨夜のことが偶然でなかったかどうか、どうしてわかる。ぼくは出しゃばらないで、どっちつかずの話をした」
アームストロング医師が口を出した。
「しかし──もう、そう思ってはいまい」
ロンバードの表情がこわばった。
「もちろん、もうそんなことは思っていない。ぼくも諸君とおなじ立場なんだ。百ギニーはオーエン氏が、ぼくを罠にかける餌だったんだ。──みんな、罠にかかったんだ。もう、まちがいはない! ロジャースの細君の死! トニー・マーストンの死! インディアン人形の紛失! オーエン氏の手がはっきり見えているんだ! 姿だけが見えないんだ!」
階下で、昼食を知らせる鐘が鳴った。
2
ロジャースは食堂のドアのわきに立っていた。三人の男が階段を降りていくと、彼は、一、二歩前に進み、低い、落ち着きのない声で言った。
「お気に召しますかどうか、コールド・ハムとコールド・タン、それにじゃがいもをゆでて、チーズとビスケットと缶詰の果物を出しておきました」
ロンバードは言った。
「結構だよ。食糧は、充分貯蔵してあるんだね」
「缶詰がいろいろございます。陸と交通が途絶えたときの用意なのでございます」
ロンバードはうなずいた。ロジャースは三人のあとから歩きながら低い声で言った。
「フレッド・ナラカットが参りませんので、気にかかっているのですが……」
「そうだね」と、ロンバードは言った。「今日にかぎって来ないのはおかしいよ」
ミス・ブレントが食堂に入ってきた。毛糸の玉を落としたと見えて、ていねいに巻きなおしていた。
彼女はテーブルにつきながら言った。
「お天気が変わってきましたよ。風が強くなって、海に疲がしら[#「がしら」に傍点]が見えてきました」
ウォーグレイヴ判事がゆっくりした歩きかたで入ってきた。彼は濃い眉の下から部屋にいるものをすばやく見まわした。
「みなさん、けさはだいぶ活躍したらしいね」
彼の声には、皮肉な調子があった。
ヴェラ・クレイソーンが息をきらして走ってきた。
「すみません。待っていてくだすったの?」
エミリー・ブレントは言った。
「あなたが最後ではありませんよ。将軍がまだ来ていません」
彼らはテーブルをかこんで座った。
ロジャースがミス・ブレントに声をかけた。
「はじめましょうか。それとも、将軍がお見えになるまでお待ちしましょうか」
ヴェラが言った。
「将軍は海岸にいましたわ。あそこまでは鐘が聞こえないでしょう。──それに……何だかご様子がおかしいんです」
ロジャースは言った。
「私がお知らせしてきましょう」
アームストロング医師が立ち上がった。
「私が行ってくる。はじめていて下さい」
彼は部屋を出ていった。背後から、ロジャースの声が聞こえてきた。
「コールド・タンにいたしますか。コールド・ハムにいたしますか」
3
テーブルについた五人のあいだでは、会話がはずまなかった。窓の外に、突然、強い風が吹いてきて、またやんだ。
ヴェラはからだを震わせて言った。
「嵐が来るんですわ」
ブロアが会議に加わった。彼は打ちとけた調子で言った。
「昨日、プリマスから来るとき、列車の車に妙な爺さんが一人いましたよ。嵐が来ると言いつづけていたが、爺さんの船乗りはよく天気がわかるんですな」
ロジャースはテーブルをまわって、肉の皿を集めていた。突然、彼は皿を持ったまま、立ち止まった。
そして恐怖に駆られた声で叫んだ。
「誰か走ってきます」
足音はみんなにも聞こえた。テラスを走ってくる足音だった。その瞬間、何も言わなくても、みんなには何が起こったのかわかった……一同は申し合わせたように立ち上がって、ドアのほうを見た。アームストロング医師が息をきらしながら現われた。
「マカーサー将軍が……」
「死んだのですね!」その声はヴェラだった。
アームストロングは言った。
「そうだ、死んでいる!」
長い沈黙がつづいた。
七人のものは言うべき言葉もなく、互いに顔を見合わせた。
4
老将軍の死体が邸内に運びこまれたときに、嵐がはじまった。
一同は広間《ホール》に立っていた。
突然、ヒューという風の唸る音がして、雨がはげしく降りはじめた。
ブロアとアームストロングが重い死体を抱えて階段を上がっていったとき、突然、ヴェラ・クレイソーンが食堂に入っていった。
食堂は彼らがそこを出たときのままだった。テザートが手をふれられずにサイド・テーブルにならんでいた。
ヴェラはテーブルのそばへ進んだ。彼女が一、二分そこにいると、ロジャースがしずかに部屋へ入ってきた。彼はヴェラの姿を見て言った。
「実は、人形の数を確かめに……」
ヴェラは自分でも驚いたほど大きな声で言った。
「あんたが想像していたとおりよ! 自分でごらんなさい! 七つしかないわ!」
5
マカーサー将軍は彼のベッドに寝かされた。
アームストロングは検診をすませて、階下に降りてきた。一同は、応接間に集まっていた。
ミス・ブレントは編みものをしていた。ヴェラ・クレイソーンは窓のそばに立って、雨を見ていた。ブロアはからだを硬くして椅子に座っていた。ロンバードは落ち着かない様子で部屋の中を歩いていた。部屋の端に、ウォーグレイヴ判事が椅子に深々とからだをうずめていた。
その目はなかば閉じられていたが、医師の姿を見ると、目が開かれ、はっきりした声で言った。
「どうでしたね」
アームストロングの顔は真っ青だった。
「心臓麻痺や何かではない。棍棒か、そのようなもので後頭部を殴られたのだ」
方々《ほうぼう》でささやく声が聞こえた。判事はふたたび、はっきりした声で言った。
「凶器があったのかね」
「いや、見つからなかった」
「それでも、まちがいはないのだね」
「絶対にまちがいはない」
ウォーグレイヴ判事はしずかに言った。
「それで、われわれの立場ははっきりした」
一座の主導権は明らかにウォーグレイヴが握っていた。彼は午前中、テラスの椅子にからだをうずめたままでいたが、長年の経験から身にそなわった威厳はいつのまにか彼を、一座をリードする地位につかせた。判事は法廷を開くときのように、咳ばらいをして、ロをきった。
「午前中、わしは椅子に座って、みなさんの活躍を傍観していた。わしには、みなさんの目的がわかっていた。みなさんは正体のわからぬ殺人犯人を探していたのだ」
「そのとおりですよ」と、フィリップ・ロンバードは言った。
判事は言葉をつづけた。
「おそらく、みなさんはわしと同様の結論に到達したのであろう──つまり、マーストンとロジャースの細君の死は、事故でもなく、自殺でもないということだ。また、オーエン氏がわれわれをこの島におびきよせた目的についても、おそらく、結論を得たことであろう」
ブロアが吐きすてるように言った。
「奴は異常な人間です!」
判事は咳ばらいをした。
「おそらく、そうであろう。しかし、彼がどんな人間であろうと、われわれのなすべきことは一つしかない! われわれの生命を護ることだ」
アームストロングが震え声で言った。
「島には、われわれのほかに誰もいないんです!」
判事はあごをなでて、しずかに言った。
「あんたの言葉は一応正しい。けさから、わしはそう思っていた。実は、捜索しても無駄だと言おうと思ったほどだ。しかし、わしの信ずるところによれば、オーエン氏はたしかにこの島にいる。彼が法律の手の及ばない犯罪を取り上げて、われわれを裁こうとするには、方法は一つしかない。われわれと一緒にこの島に来るほか、方法はないのだ。オーエン氏はわれわれの中の一人なのだ!」
6
「そんなこと……」
ヴェラの声だった──うめくような声だった。判事は彼女に鋭い視線を投げた。
「驚くことはない。われわれは事実をはっきり見きわめなければならないのだ。われわれはみんな、恐ろしい危険にさらされている。われわれの中の一人がU・N・オーエンなのだ。それが誰であるかは、わかっていない。十人の人間のうち、三人はすでにその嫌疑から除かれている。マーストン、ミセス・ロジャース、マカーサー将軍の三人は、もう疑う必要がない。残ったのは七人だ。この七人のうちの一人がオーエン氏なのだ」
彼は言葉を切って、一同を見まわした。
「わしのいうことを認めて下さるかね」
アームストロングが言った。
「信じられんことだが──あなたのおっしゃるとおりだろう」
ブロアは言った。
「まちがいはないですよ。それに、私は見当がついている。私は……」
ウォーグレイヴはあわてて手を上げて、彼を制した。
「まあ、待ちなさい。まず、みんながわしの言うことを認めるかどうか、それから確かめなければならない」
エミリー・ブレントが編みものの手をやすめないで言った。
「あなたのおっしゃることはもっともです。たしかに、私たちのうちの一人が悪魔にとりつかれているのです」
ヴェラは低い声で言った。
「私は……信じられませんわ……」
ウォーグレイヴは言った。
「ロンバード、きみは?」
「ぼくは認めますよ」
判事は満足したようにうなずいた。
「では、証拠をしらべてみよう。まず、われわれの中に、とくに疑わしいものがいるかどうかということだ。──ブロア、きみは何か言いたいことがあるだろう」
「ロンバードがピストルを持ってる。彼は昨晩、事実を言わなかった。それは自ら認めている」
フィリップ・ロンバードは冷ややかに笑った。
「ではもう一度説明しよう」
彼は島へ来た事情を簡単に語った。
ブロアは鋭く言った。
「証拠はどこにある。きみの言うことを立証するものは何もないではないか」
判事は咳ばらいをして言った。
「残念ながら、われわれはみんな、彼と同じ状態にいるのだ。それぞれの発言を土台にして話を進めるほかはない。──それには、一つしか方法はないと思うのだ。われわれの持っている証拠だけで嫌疑のはれるものを、一人ずつ除いてゆくのだ」
アームストロング医師がすぐロを切った。
「私は医師として世間によく名前を知られている。そんな疑いをかけられる覚えはない」
ふたたび、判事の手が上がって、彼の言葉を制した。
「わしも世間に名前を知られている人間だ。しかし、それは何の証拠にもならない。医師も気が狂うことがある。判事だって、そうだ。そして……」とブロアのほうを見ながら、「警部だって、そうだ」
ロンバードは言った。
「しかし、女性は除いてもいいでしょう」
判事は眉毛をぴくりとさせた。そして、法廷で有名になっているはげしい口調で言った。
「では、女性は殺人をしないと言うのか」
ロンバードは困ったような顔をして言った
「もちろん、そうは言わないが──しかし、ほとんどありえないことです……」
しかし、判事は同じようにはげしい口調でアームストロング医師に話しかけていた。
「マカーサーを殺した犯人が女である可能性はあるかね」
医師は冷静に言った。
「ありますね。ゴムの棍棒のような適当な凶器さえあれば、女でも殺せたでしょう」
「とくに強力な打撃を必要としないのだね」
「しません」
判事は亀のような首を動かして、言った。
「他の二件は薬品による殺人だ。何らの体力を必要としないことは誰にでもわかる」
ヴェラは怒ったように叫んだ。
「ひどいことをおっしゃるのね!」
判事の目がしずかにヴェラに向かい、そのまま、じっと動かなくなった。人間の性格を見抜こうとする感情のない目であった。ヴェラは思った。あの目は私を容疑者として見ている。判事は私をこころよく思っていないのだ──彼女はそのことに思い当たって、驚いた。
判事はしずかに言った。
「驚くことはない。わしはあんたに罪を着せているわけではない」それから、彼はミス・ブレントのほうを向いた。「ブレントさん、われわれ一同のすべてが容疑者であるとわしが主張することに、気を悪くなさらんでしょうな」
エミリー・ブレントはまだ編みものをしていた。彼女は下を向いたまま、冷ややかな声で言った。
「私が同胞《はらから》たちの命を奪うという嫌疑をうけるなどということは、私の性格を知っているものにはまったくばかばかしいことでしょう。しかし、私たちはみんな他人ですから、完全な証拠がなければ、嫌疑を取り除くことはできますまい。私たちのなかに悪魔がいることはたしかなのですから……」
判事は言った。
「では、これで一つ、結論ができあがった。性格や地位だけを理由に嫌疑を除くことはできないのだ」
ロンバードは言った。
「ロジャースはどうなんです。あの男は除いてもいいように思うんだが……」
判事は彼を見つめて言った。
「どういう理由でだね」
「だいいち、こんなことを企てる頭脳《あたま》がない。それに、細君が被害者の一人なんです……」
判事はふたたび眉をぴくりとさせた。
「わしが職にあったときに、妻を殺した嫌疑で法廷に現われて有罪の宣告をうけたものは数人いたのだよ」
「それはわかってる。女房殺しは珍しくはないでしょう。女房が秘密をばらすかもしれないとか、一緒にいるのがいやになったとか、ほかにいい女ができたとかいうので、ロジャースが女房を殺したのならぼくは信じますよ。しかし、彼がオーエン氏で、妙な正義感をふりまわして、まず、自分の女房から精算をはじめたとなると、ぼくは信じられませんね」
「きみは伝聞をいまの発言の根拠の一つにしている。われわれはロジャース夫妻が果たして主人を殺しているかどうか、証拠を握っていない。ロジャースが自分の地位をわれわれと同じに思わせるために仕組んだ芝居かもしれないではないか。あの女が衝撃《ショック》をうけたのは、夫が気が変になったことを知って驚いたからかもしれないのだよ」
ロンバードは言った。
「よろしい。あなたの言うとおりだということにしましょう。U・N・オーエンはわれわれの中の一人なんだ。例外は許されない。われわれはみんな容疑者なんだ」
ウォーグレイヴ判事は言った。
「わしが言いたいことは、性格、地位、可能性によって例外を認めることはできぬということだ。そこでこんどは確実な証拠にもとづいて例外が認められるかどうかを研究してみなければならない。つまり、われわれの中に、マーストンに青酸カリをのませる機会のなかったもの、ミセス・ロジャースに適量以上の睡眠剤をあたえる機会のなかったもの、あるいは、マカーサー将軍を撲殺する機会のなかったものがいるかどうかということだ」
ブロアが目を輝かして、からだを乗り出した。
「そこですよ! そう来なければいけません。──まず、マーストンですが、窓の外からグラスに毒を入れたものがいるのだろうということでしたね。しかし、部屋の中にいたものなら、もっと簡単にできたはずですぜ。ロジャースが部屋の中にいたかどうかは忘れましたが、われわれのうちの誰がやったとしても、簡単にできたはずなんです」
彼はちょっと間をおいて、また、話をつづけた。
「その次はロジャースの細君だ。あのとき、あの女のそばにいたのはロジャースと先生です。薬を余計にのませようと思えば……」
アームストロングはからだを震わせて、立ち上がった。
「失敬な! 私があの女にあたえた睡眠剤の量にまちがいはない!」
「アームストロング君」と、判事が冷静な声で言った。「あんたが怒るのは無理もない。しかし、事実は認めてもらわねばならん。あんたも、ロジャースも、適量以上の睡眠剤をあの女にあたえようと思えばわけなくあたえられたのだ。そこで、他のものはどうであったかというと、わしにしても、ブロア君にしても、ミス・ブレントにしても、ミス・クレイソーンにしても、ロンバード君にしても、完全に嫌疑をまぬがれるわけにはいかぬようだ」
ヴェラは声を荒だてて言った。
「私はあの女のそばへ行きませんでしたわ! みなさんも知っているはずですわ!」
判事はしばらく黙っていてから、言葉をつづけた。
「あのときの様子を思い出してみると、こうだった──ちがっているところがあったら、訂正していただこう。ロジャースの細君はマーストンとロンバード君に抱えられて、ソファに寝かされ、アームストロング君が診察をはじめた。彼はロジャースにブランディを取りにやらせた。そこで、声がどこから聞こえてきたかという話になった。われわれは次の部屋へ行った。ミス・ブレントだけが、意識を失った女と部屋に残っていた」
エミリー・ブレントの頬が紅潮した。彼女は編みものをやめて言った。
「失礼なことを……」
感情のない低い声はつづいた。
「われわれがこの部屋へ戻ってくると、ブレントさん、あんたはソファに眠っている女の上にかがみこんでいた」
「同情やあわれみが罪悪なのですか」
「わしはただ、事実を組み立てているだけなのだ。そのとき、ロジャースがブランディを持って入ってきた。もちろん、部屋に入るまえにブランディに細工をすることはできたはずだ。ロジャースの細君はブランディを飲まされて、ロジャースとアームストロング君が部屋へ運んだ。そこで、アームストロング君が睡眠剤をあたえた」
ブロアは言った。
「そのとおりですよ。つまり、判事、ロンバード君、私、クレイソーンさん、この四人は関係がないわけですよ」
判事は冷たい目で彼を見ながら言った。
「そうだろうか。われわれはあらゆる可能性を考えておかなければならないのだよ」
ブロアは彼を見つめて、言った。
「わからんですね」
「ロジャースの細君は階上の彼女の部屋に横たわっていた。医者からえた睡眠剤が効き目を現わしはじめていた。意識がおぼろげになっていたはずだ。そのとき、誰かが錠剤が水薬を持っていって、先生のお使いだと言って渡したら、どうだろう。のまないだろうか」
沈黙が流れた。ブロアは足を組みかえて、渋い顔をした。フィリップ・ロンバードは言った。
「それは可能性がありませんよ。あれから長いあいだ、われわれはこの部屋から離れなかった。マーストンが突然倒れたりして……」
「もっと後で、寝室を離れたものかもしれない」
ロンバードが異議をはさんだ。
「しかし、そのときには、ロジャースが部屋にいたでしょう」
アームストロング医師がからだを動かした。
「いや、ロジャースは食堂と台所の後片づけに降りていった。そのあいだなら、誰でも、あの女の部屋へ行けたはずた」
ミス・ブレントは言った。
「そのころには薬が効いて、あの女はぐっすり眠っていたのではありませんか」
「おそらく、そうでしょう。しかし、はっきりしたことは言えない。はじめての患者には薬の効きかたが不明なのです。睡眠剤が効きはじめるまで、相当の時間を要する場合もあります。体質によって薬に対する反応が異なるのです」 ロンバードは言った。
「なるほど。──とにかく、医学のことはわれわれにはわからんですからな!」
アームストロングはむっ[#「むっ」に傍点]としたようだった。しかし、ふたたび、感情のない低い声が彼を制した。
「お互いに感情をとがらせても、よい結果は生まれない。事実こそ、われわれが問題にしなければならないものだ。わしがいま言ったことが起こりうることは認めていただけたと思う。ただ、誰が行くかによって、あの女の反応はちがうだろう。ブレントさんやクレイソーンさんなら、怪しまれないであろうが、わしやブロア君やロンバード君では、妙に思われるかもしれない。しかし、それだからといって、われわれにかかっている嫌疑が除かれるわけではない」
ブロアは言った。
「それで──どういうことになるんです」
7
ウォーグレイヴはしずかに唇をなでた。感情のまったくない表情であった。
「いま第二の殺人についてわれわれは検討してみたが、ことごとく容疑者の一人であることがわかった。次に、マカーサー将軍の場合を考えてみよう。これはけさ起こったことだ。アリバイがあるものは詳しくのべていただきたい。わし自身のことから言うと、わしには、確実なアリバイがない。わしは午前中、テラスの椅子に座って、こんどの事件について考えていた。昼食の鐘が鳴るまで椅子に座っていたのだが、誰にも姿を見られなかったときもあったことと思う。そのあいだに、将軍を殺して戻ってくることもできたはずだ。わしがテラスを離れなかった事実を証明するのはわしの言葉だけだ。それでは、証拠として充分ではないのだ」
ブロアは言った。
「私はロンバード君、アームストロング医師とずっと一緒にいたんだ。二人が証人になってくれるでしょう」
アームストロング医師は言った。
「きみはロープを取りに行っているよ」
「しかし、どこにも寄り道はしていない。わかっているはずだ」
「相当、時間がかかったが……」
ブロアは顔色を変えて、大声をあげた。
「だから、どうしたというんだ」
「ただ、時間がかかったと言ったのだよ」
「探してたんだ。ロープがどこにあるか、すぐわかるはずはなかろう」
ウォーグレイヴ判事は言った。
「ブロア君がロープを取りに行っているあいだ、あんたがたはずっと一緒にいたのかね」
「一緒でしたよ。ロンバードがちょっと姿を消しただけで、私はずっと動かなかった」
ロンバードは笑って、言った。
「太陽の反射で陸に通信ができないかと思って、場所をしらべに行ったんだ。ほんの一、二分でしたよ」
アームストロングはうなずいた。
「そう、殺人を行なうほどの時間はなかったな」
判事は言った。
「二人のうち、どちらか時計を見たのかね」
「いや」
ロンバードは言った。
「ぼくは時計を持っていなかった」
判事は冷ややかに言った。
「一、二分というのは、はなはだ漠然とした言いかただ」
彼はそう言いすてて、編みものを膝においてきちんと座っている老婦人にからだを向けた。
「ブレントさん、あんたは?」
「クレイソーンさんと丘へのぼって、戻ってきてから、ずっとテラスにいましたよ」
「わしは気がつかなかったが……」
「東側の角をまがったところにいたのですよ。風が当たらないので」
「そこに昼食の時間までいたのですか」
「そうですよ」
「クレイソーンさんは?」
ヴェラは待っていたようにはっきり答えた。
「ブレントさんと別れてから、島の中を歩いて、海岸でマカーサー将軍に会いましたわ」
「それはいつころだったね」
ヴェラは記憶がはっきりしていなかった。
「昼食《おひる》の一時間ぐらい前だったと思います──もっと後だったかもしれません」
ブロアはたずねた。
「われわれが彼と話をした後だったろうか」
「わかりませんわ。様子が──とても変でしたわ」
彼女はからだを震わせた。
「どんなふうに」と、判事がたずねた。
ヴェラは低い声で言った。
「私たちはみんな死ぬんだと言いましたわ──終わりを待っているんだって……私、恐ろしくなって……」
判事はうなずいた。
「それで、どうしたね」
「邸宅へ戻りましたわ。それから、昼食《おひる》のちょっとまえに、また、外へ出て、裏の丘へのぼりましたわ。じっとしていられなかったもんですから……」
判事はあごをなでた。
「あとはロジャースだけだ。しかし、彼の話にも新しい収穫はあるまい」
ロジャースは〈法廷〉に呼ばれたが、とくに申したてることも持ち合わせていなかった。午前中、邸内の仕事や昼食の用意で忙しかったのだ。昼食の前に、テラスへカクテルを運んでから、自分の荷物を他の部屋へうつすために屋根裏に上った。一度も窓から外を見なかったので、将軍の死と関連のありそうなことは、何も見ていなかった。そして、昼食の支度をしているときには、人形はたしかに八個あったと証言した。
ロジャースの証言がすむと、しばらく、沈黙がつづいた。それから判事が咳ばらいをした。
ロンバードはヴェラにささやいた。
「いよいよ、判事の舞台だぜ」
判事は言った。
「われわれはいま、三つの殺人について、できるかぎりの調香を行なった。それぞれの事件について、犯人とは認めえないものもいるが、完全に嫌疑をまぬがれうるものは一人もいない。ここに集まった七人のうちの一人が危険きわまる、そして、おそらくは頭のおかしい犯人であることは確実なのである。しかし、誰が犯人であるかという確実な証拠はない。現在、われわれになしうることは、いかなる方法で陸に救いを求めるかを研究すること、そして、この天候では救いも遅れるであろうし、その場合いかなる方法で生命の安全を確保するかを検討することである。
みんなはこの事態をよく考慮して意見があったら申しでていただきたい。とにかく、いまのところでは各自が充分警戒を怠らぬようにしなければならない。現在までは、被害者がなんら疑念を抱いていなかったから、犯人は容易に目的をとげることができた。これからは、お互いにすべてのものを疑って、絶えず警戒を怠らぬことがわれわれの義務である。警戒にまさる武器はない。ぜったいに危険をおかしてはならぬ。あくまで危険を恐れるのだ。わしが言いたいことはこれだけだ」
フィリップ・ロンバードは低い声でつぶやいた。
「これにて、本日は休廷……」
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第十章
1
「あなたは信用なさる?」とヴェラはたずねた。
彼女はフィリップ・ロンバードと居間の窓のそばに座っていた。雨がはげしく降りそそぎ、強風にあおられて、窓のガラスに吹きつけていた。
フィリップ・ロンバードは頭を傾け、じっと考えてから言った。
「犯人がわれわれの中の一人だと判事が言ったことかい」
「そうよ」
「どう言っていいか、わからない。理論的には、判事の言うとおりだが、しかし……」
ヴェラが彼の言葉を引き取った。
「しかし、信じられないんでしょう」
ロンバードは顔をゆがめて言った。
「何から何まで、信じられないことばかりさ。ただ、マカーサーが死んでから、疑いのない事実が一つある。もう、過失や自殺ではない。殺人にきまったんだ。すでに、三つの殺人事件が行なわれたんだ」
ヴェラはからだを震わせた。
「まるで、悪夢のようですわ! こんなことが起こるなんて、どうしても信じられないわ」
「わかってるよ。ドアにノックの音が聞こえて、朝のお茶が運ばれてくればいいというんだね」
「そうなれば、いいんだけど……」
「ところが、そうはならない! ぼくたちはみんな夢の中なのさ! これからは一刻も油断がならないんだ」
ヴェラは声を低くして言った。
「もし、犯人がみんなの中にいるとしたら、誰だとお思いになって?」
ロンバードは急に薄笑いをうかべた。
「きみはぼくたち二人を犯人から除外してるんだね。ぼくも同じ意見だぜ。ぼくが犯人でないことは自分でもわかっているし、きみも異常な様子はない。ぼくはいろいろな女を知っているが、きみくらい頭のしっかりしている女はいない。きみが異常だなんて、ぼくには想像もできないんだ」
ヴェラはかすかに微笑して言った。
「ありがとう」
「ところで、きみのほうからは、何も言ってくれないのかい」
ヴェラはちょっと躊躇してから言った。
「あなたはご自分で人間の生命《いのち》をそれほど尊んでいないようなことをおっしゃったけれど、私にはどうしても──あのレコードを吹きこむような人間には見えないわ」
「そのとおりさ。ぼくがもし殺人をやるとしたら、何かとく[#「とく」に傍点]がなければ、やりはしない。大量殺人なんて、ぼくの柄じゃない。──しかし、ぼくたちを除いて、あの五人を考えてみると、誰がU・N・オーエンだろう。何も証拠はないんだが、ぼくの勘だけで言えば、ウォーグレイヴがくさいんじゃないか」
「まあ!」ヴェラは驚いたようだった。そして、一、二分考えて、たずねた。「なぜですの」
「はっきりは言えないが、まず、彼は年齢《とし》をとっているし、長年、判事をつとめている。つまり、長いあいだ、神の身代わりをつとめていたわけだ。それが頭に来ないとは言えない。人間の生と死を預かっているような気持ちになって、頭がおかしくなり、それがさらに一歩進んで神に代わって人間を裁こうというのかもしれない」
「そうね。──考えられないことじゃないわ」 こんどはロンバードがたずねた。
「きみは誰だと思うんだ」
ヴェラは躊躇なく答えた。
「アームストロングよ」
ロンバードは口笛を低く鳴らした。
「アームストロングだって? ぼくなら彼に嫌疑をかけるのは最後だがな」
ヴェラは頭を振った。
「だって、殺人のうちの二つは毒殺なのよ。どうしても、医者がいちばん怪しいわ。それに、いままでにわかっていることだけで言えば、ミセス・ロジャースが口にしたものは、あのひとがあたえた睡眠剤だけなのよ」
「それはそうだ」
「医者が気が狂っても、はた[#「はた」に傍点]からはなかなかわからないもんだわ。それに医者はどうしても過労になるし、神経も疲れるわ」
「しかし、マカーサーを殺す機会はなかったろう。ぼくが彼とわかれていたのは、ほんのわずかの時間なんだ。わずかの時間に仕事をすませて、もとの場所に戻ってこられるほど身軽な男じゃないよ」
ヴェラは言った。
「そのときに殺したんじゃないのよ。後で機会があったわ」
「いつ」
「将軍を呼びに行ったときよ」
フィリップはふたたび口笛を低く吹いた。
「なるほど! あのときにね」
ヴェラは言葉をつづけた。
「少しも危険がないじゃないの。医学の知識があるものはほかにいないし、死んでから一時間たっていると言っても、誰も反駁できないんだから」
フィリップはじっと彼女を見つめた。
「なるほど、理屈にかなっている。あるいは……」
2
「誰でしょう、ブロアさん。教えていただけないでしょうか」
ロジャースは表情を緊張させて言った。彼はふきんをかたく手に握りしめていた。
ブロアは言った。
「それが、問題なんだよ」
「われわれの中の一人だとおっしゃいましたが、誰なのでございましょう。人間の姿をした悪魔は」
「みんな、それが知りたいんだよ」
ロジャースはそれでも、黙らなかった。
「しかし、あなたさまは見当がついておいでになるのでしょう」
「見当はつけているよ」と、ブロアはゆっくりした口調で言った。「だが、まちがっているかもしれない。私に言えることは、犯人はすこぶる冷静な人間にちがいないということだけだ」 ロジャースは額の汗を拭った。
「まるで、悪い夢を見ているようで……」
ブロアはロジャースをじろじろ見ながら言った。
「お前は考えがあるのか」
執事は頭を振った。
「わかりません。見当もつかないのです。──恐ろしくて、いても立ってもいられないのです」
3
アームストロング医師ははげしい口調で言った。
「この島から出なければならない──何とかして、出なければならない!」
ウォーグレイヴ判事は喫煙室の窓から外を眺めていた。彼は眼鏡の紐を手でもてあそんでいた。
「わしは気象のことに詳しいわけではないが、たとえ、われわれの危険な立場がわかったとしても、二十四時間以内には船は来ないだろう。それに、二十四時間たっても、嵐がおさまるかどうか、わからない」
アームストロングは両手で頭を抱えて、うめくように言った。
「そのあいだに、われわれはみんな同じベッドで死ななければならないのでしょうか!」
「そんなことは起こらぬようにしたい」と判事は言った。「そんなことが起こらぬように、あらゆる手段をとって警戒したいと思っているのだ」
医師は思った。判事のような老人は若いものよりもかえって生命に執着を持っている。職業上の経験から言っても、しばしば、その事実に驚いたことがある。彼は判事よりおそらく二十歳は若いと思われるのに、自己の生命を守ろうとする熱意は判事にくらべるとはるかに劣っているのだ。
ウォーグレイヴ判事は考えた。同じベッドで死ななければならぬ!──医者というものは何でも自分の職業に結びつけて考える。平凡な頭脳《あたま》しか持っていないらしい。
医師は言った。
「とにかく、すでに三人の被害者が出ているのですからな」
「しかし、彼らは警戒を怠っていたのだよ。われわれとは立場がちがう」
アームストロングは苦々しそうに言った。
「では、どうすればいいんです。おそかれ早かれ──」
「やれることはいくつもある」
「考えが浮かびませんよ。誰が犯人であるかもわからないのに……」
判事はあごをなでながら低い声で言った。
「わしはそうは思っておらん」
アームストロングは眼を光らせた。
「誰だか、わかっているのですか……」
ウォーグレイヴ判事は、言葉に注意をはらいながら話しはじめた。
「法廷で必要とするような証拠ということになると、まだ、何一つとして拳げられていない。しかし、すべての事件をつぶさに検討すると、ある一人の人間をはっきり指示できるように思う。わしはそう信じている」
アームストロングは判事の顔に目をすえた。
「どういう意味でおっしゃるのかわかりませんが……」
4
ミス・ブレントは二階の自分の部屋にいた。
彼女は聖書を持って、窓のそばへ行った。
彼女は聖書を開いたが、ちょっと躊躇してから、聖書をわきへおき、化粧テーブルのところへ行って、引き出しから小さな黒い表紙の手帳を取り出した。
彼女は手帳を開いて、書きはじめた。
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恐ろしいことが起こった。マカーサー将軍が死んだ(将軍の従弟《いとこ》がエルシー・マクファースンと結婚している)。殺人であることはまちがいない。昼食がすんでから、判事は非常に興味のあることを言った。彼は犯人がわれわれの中の一人であることを確信している。われわれの中の一人が悪霊の虜《とりこ》になっているわけである。私はすでにこのことを察していた。誰だろう。すべてのものが心の中で同じ質問をくりかえしている。私だけは知っている……
[#ここで字下げ終わり]
彼女はしばらくからだを動かさなかった。目の色がにぶってきた。指にはさまれた鉛筆が動きはじめた。震えている大きな文字を一字ずつ書いていた。
──犯人の名前はビアトリス・テイラーである……。
彼女の目が閉じられた。
突然、彼女は驚いたように目を覚ました。そして、手帳を見おろした。彼女は驚きの叫びをあげて、たよりない文字で書かれた最後の文章に目を走らせた。
私がこれを書いたのだろうか。私が……。私は気が狂ったのだろうか
5
嵐ははげしくなった。風が邸宅にぶつかって、うなった。
一同は居間に集まっていた。彼らは落ち着かない気持ちでひとかたまりになり、互いに警戒の目を光らせていた。
ロジャースが、紅茶の盆を持って入ってきた。彼は言った。
「カーテンを引きましょうか。そのほうが落ち着けることと思います」
カーテンが引かれ、ランプが点けられた。部屋の中はやや明るい空気になった。明日になれば、嵐もやんで、船が来るであろう。
ヴェラ・クレイソーンは言った。
「お茶をお注ぎになりますか、ブレントさん」
「あなたが注いで下さい」と、老婦人は言った。「そのポットは重いんです。──私、灰色の毛糸の玉を二つなくして、気がくさくさしているんですよ」
ヴェラはお茶のテーブルのところへ行った。陶器の触れあう首が明るくひびいた。
お茶! なつかしい午後のお茶! 一同は何ごともなかったように明るい気持ちになった。ロンバードが陽気な話をして、ブロアが相槌をうった。アームストロング医師は諧謔《かいぎゃく》[#おどけること。たわむれ。]にとんだ話をした。いつも紅茶を飲まないウォーグレイヴ判事までがうまそうに飲んだ。
こうした明るい雰囲気の中に、ロジャースが姿を現わした。
落ち着かない様子で、顔色も変わっていた。
「どなたか、浴室のカーテンがどこへ行ったか、ご存じないでしょうか」
ロンバードがいきなり顔を上げた。
「浴室のカーテンだって? それがどうしたんだ」
「紛失しているのです。家中のカーテンを引いて歩いていたのですが。浴室のカーテンがありませんので……」
「けさはあったのかね一と、判事がたずねた。
「ございましたとも」
ブロアは言った。
「どんなカーテンなんだ」
「真紅のオイルシルク[#油布:いわばビニールの先駆をなす製品である。1935年(昭和10)ごろからレインコートなどの素材として登場してくる]でございます。真紅のタイルに調和するようになっていましたので……」
「それがなくなったのか」と、ロンバードが言った。
「はい」
一同は顔を見合わせた。
ブロアが、無理につくったような声で言った。
「かまうことはないよ。どうせ、何から何まで、おかしいんだ。──オイルシルクのカーテンでは人間は殺せまい。ほうっておけばいいさ」
「はい、ありがとうございます」
ロジャースは部屋を出ていって、ドアを閉めた。
部屋の中には、新しい恐怖か生まれた。
一同はふたたび、警戒の色を見せはじめた。
6
夕食が運ばれ、食べられ、片づけられた。ほとんど缶詰ばかりの簡単な食事だった。
食事がすんで、もとの居間に集まった一同のあいだには、堪えられぬほどの緊張が流れていた。
九時になると、エミリー・ブレントが立ち上がった。
「私は寝ますよ」
ヴェラは言った。
「私も寝ますわ」
二人の女は階段を上がっていった。ロンバードとブロアが一緒に行って、階段を上ったところで女たちが部屋に入るのを見とどけた。二つの部屋から、錠がおろされ、鍵がかけられる音が聞こえた。
ブロアが苦笑して言った。
「こっちから鍵をかけておけと注意することはない」
ロンバードは言った。
「これで、二人とも今夜だけは安全だろう」
彼は階段を降りはじめた。ブロアが後からつづいた。
7
四人の男たちは一時間後に寝に就いた。彼らは一緒に階段を上がっていった。ロジャースは食堂に朝食の食器をならべながら、四人が上がっていくのを見つめた。四人は階段を上がったところで足をとめた。
判事の声が聞こえてきた。
「言うまでもないが、鍵をかけておくほうがよい」
ブロアが言った。
「把手《ハンドル》の下に椅子をおいておきなさい。外から鍵をあける方法はいくらもある」
ロンバードは言った。
「ブロア、きみは、余計なことを知りすぎてるよ!」
判事が重々しい口調で言った。
「おやすみ、みなさん。明朝無事にお目にかかろう」
ロジャースは食堂から出てきて、階段の中途まで上がり、四人の男がめいめいの部屋に入っていく姿を眺め、錠がおろされ、鍵がかけられる音を聞いた。
そして、うなずきながら言った。
「これでいい」
彼はふたたび、食堂へ入っていった。朝の用意はすっかり出来上がっていた。彼の目が七つの小さな陶器の人形にとまった。
「今夜は誰にもいたずらはさせないぞ!」
彼は部屋を横ぎって、台所へ通ずるドアに鍵をかけ、他のドアから廊下に出て、そのドアにも鍵をかけて、鍵をポケットにしまった。
それから、灯火を消すと、急いで階段をのぼり、新しい寝室に入っていった。
部屋には、隠れ場所に使えるところは、一つしかなかった。背の高い衣装戸棚だった。ロジャースはすぐ、戸棚の中をのぞいた。そして、ドアに錠をおろし、鍵をかけると、ベッドのそばへ歩いていった。
「今夜はインディアンのいたずらはさせないぞ。どのドアも厳重に鍵をかけてあるのだ」
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第十一章
1
フィリップ・ロンバードは朝早く目を覚ます習慣があった。その朝も彼は早く目を覚ました。彼はからだを起こして耳をすました。風はやや弱まったようだが、まだ吹いていた。雨の音は聞こえなかった。……八時になると、風はふたたび強くなっていたが、ロンバードには聞こえなかった。彼はふたたび眠っていた。
九時三十分、ロンバードはベッドの端に腰をかけて、時計を眺めていた。彼は時計を耳に持っていった。そして歯をむき出して狼のような笑いをうかべ、つぶやいた。
「いつまでも黙っているわけにはいかん」
十時二十五分前、彼はブロアの部屋のドアをたたいていた。
ブロアはしずかにドアを開いた。髪は乱れ、目は眠そうだった。
フィリップ・ロンバードは言った。
「よく眠るじゃないか。何も苦にしてないという証拠だな」
ブロアはぶっきらぼうに言った。
「いったい、どうしたんだ」
「誰も来なかったのかい。お茶を持って来なかったかい。──何時だか知ってるのか」
ブロアはベッドのわきの小さな旅行用の置き時計を肩ごしに見た。
「十時二十五分前。こんなに眠ったとは思わなかった。ロジャースはどこにいる」
「それはぼくが訊きたいことだ」
「何だって?」
「ロジャースはどこにもいない。部屋にもいないし、台所の火も燃えていない」
ブロアは声をはりあげた。
「どこへ行ったんだろう。島のどこかへ出かけたのじゃないのか。服を着るまで待ってくれ。他の連中が知っているかどうか、訊いてみるほうがいい」
ロンバードはうなずいた。彼はみんなの部屋をまわった。
アームストロングは服を着おわったところだった。ウォーグレイヴ判事はブロアと同じようにまだ眠っていた。ヴェラ・クレイソーンはきちんと服を着ていた。エミリー・ブレントの部屋は空《から》だった。
一同は邸内を歩きまわった。ロジャースの部屋は、ロンバードが言ったように空《から》だった。ベッドには眠ったあとがあり、剃刀と石鹸が使われていた。
ロンバードは言った。
「起きたことはたしかなんだ」
ヴェラが低い声で言った。
「どこかに隠れて、私たちを狙っているんじゃないかしら」
ロンバードは言った。
「油断はならない。見つかるまで、われわれは離れないほうがいい」
アームストロングが言った。
「島のどこかにいるんだろう」
ブロアが服を着てきて、加わった。ひげはまだ剃っていなかった。
「ブレントさんはどこへ行ったんだ──これもおかしいぜ」
しかし、一同が階下へ降りていくと、エミリー・ブレントが正面のドアから入ってきた。彼女は雨外套《あまがいとう》[#レインコート]を着ていた。
「海はまだ荒れていますよ。今日も船は出ないでしょう」
ブロアは言った。
「一人で歩いていたのですか。危険じゃありませんか」
「ご心配なく、ブロアさん。私は油断はしませんよ」
ブロアは苦笑した。
「ロジャースを見ませんでしたか」
ミス・ブレントは眉をぴくりとさせた。
「いいえ。一度も見ませんよ。なぜですか」
ウォーグレイヴ判事がひげを剃り、服装をととのえ、義歯《いれば》をはめて、階段を降りてきた。そして、開かれている食堂のドアのほうをのぞいた。
「朝食の支度がしてあるな」
ロンバードが言った。
「昨夜のうちにならべたのかもしれません」
一同は食堂の中に入った。皿やフォークやナイフがきちんとならべてあった。サイド・テーブルには、コーヒーカップがならんでいた。コーヒーポットをおくフェルトのマットがおいてあった。
最初に見つけたのはヴェラだった。彼女は判事の腕をしっかりつかんだ。スポーツできたえたらしい強い力で腕をつかまれて、判事は顔をしかめた。
彼女は叫んだ。
「インディアンが! ごらんなさい!」
テーブルの真ん中の陶器の人形は六個しかなかった。
2
ロジャースの死体はすぐ見つかった。
場所は中庭をへだてた小さな洗濯場だった。彼はそこで、台所で使う薪を割っていたのだった。小さな芹がまだ手に握られていた。重そうな大きな斧がドアにたてかけてあった──金属の部分が鈍い褐色に染まっていた、それはロジャースの首すじの深い傷と関連のあるものだった。
3
「はっきりしている」と、アームストロングは言った。「犯人は背後から忍びよって、彼がかがみこんでいるときに一撃のもとに殴り殺したんだ」
ブロアは指紋をとろうとして斧の柄と調理場から持ってきた粉ふるいに取りくんでいた。ウォーグレイヴ判事はたずねた。
「アームストロング君、これは男の力を必要とするかね」
アームストロングはまじめな顔つきで言った。
「女にもできたでしょう」
彼はすばやくあたりを見まわした。ヴェラ・クレイソーンとエミリー・ブレントは台所へ引き上げていた。
「あの娘にもできたでしょう──あの娘はスポーツでもやりそうなタイプです。ミス・ブレントは弱々しそうに見えるが、ああいう女は思いがけない力を持っているものです。それに、精神に異常をきたしていると、予想外の力が出るものなんです」
判事はうなずいた。
ブロアはからだを起こして、大きな息を吐いた。
「指紋はない。柄は後で拭ってある」
突然、笑い声が聞こえた。彼らは驚いて、振りかえった。ヴェラ・クレイソーンが中庭に立っていた。彼女は大きな声で笑いながら、かんだかい声で叫んだ。
「この島では蜜蜂を飼っているの? どこへ行けば蜜があるの」
彼らは狐につままれたように彼女を眺めた。正気で、精神の均衡を保っていたヴェラは気が狂ったのであろうか。彼女は鋭い声で叫びつづけた。
「そんな目で見ないでちょうだい! 私は気が狂ったわけじゃないの! 私が訊いていることは大事なことなのよ。蜜蜂よ、蜂の巣よ! わからないの。あのばかげた童謡を読まなかったの。誰のお部屋にもあるのよ──はじめから予告しているんだわ。私たちが早く気がついていたら、まっすぐここへ来てみたはずよ。七人のインディアンの少年が薪を割っていた。──その次の文句をご存し? 私はそらで知ってるわ! 六人のインディアンの少年が蜂の巣をいたずらしていた。──だから、訊いてるのよ。この島では蜜蜂を飼ってるの?──おかしいじゃないの──とても、おかしいじゃないの……」
ヴェラはふたたび笑いはじめた。アームストロング医師が前へ進み出て、彼女の頬を平手で打った。
彼女は息をつまらせ──唾をのみこんだ。そして、しばらく身動きをしないで立っていたが、やがて、低い声で言った。
「ありがとう……もう大丈夫です」
彼女の声はもとの落ち着いた声だった。
ヴェラは中庭を横ぎって、台所へ入っていった。彼女は歩きながら言った。
「ブレントさんと朝のお食事の支度をしますわ。どなたか──薪を持ってきてくださらない」
医師の手の跡が彼女の頬に赤く残っていた。
彼女が台所へ入っていくと、ブロアは言った。
「みごとな処置でしたね、先生」
「いや、やむを得なかったんだ。このうえ女のヒステリーにかまってはいられない」
フィリップ・ロンバードは言った。
「あの女はヒステリーになるタイプじゃない」
アームストロングはうなずいた。
「そのとおりだ。あの娘はしっかりしている。なかなか、落ち着いている、ただ、衝撃をうけたんだ。どんな人間にも起こることなんだ」
ロジャースは殺されるまえに、相当の薪を割っていた。彼らはそれを拾い集めて、台所へ運んだ。ミス・ブレントがストーヴの灰を掻いていた。ヴェラはベーコンの皮を切り取っていた。
エミリー・ブレントは言った。
「ありがとう。できるだけ急ぎますよ。──そうですね。三十分から四十分ほど待って下さい。お湯を沸さなければなりませんから」
4
ブロアは小さな声でフィリップ・ロンバードに言った。
「私が考えていることがわかるか」
フィリップ・ロンバードは言った。
「話したほうが早いよ。考えてみても、しかたがない」
元警部ブロアは冗談のわからない男だった。彼はまじめな顔をして言った。
「アメリカにこんな事件があった。老人夫婦が二人とも斧で殺されたんだ。朝の十時ごろだった。家には、娘と女中しかいなかった。女中の仕業でないことは、すぐ証明された。娘は中年の独身女だった。信心深い人間で、とうてい、殺人をおかす女とは思われなかった。結局、この女は無罪になったが、しかし、信心探い女ということのほかに無罪になる理由はなかった」彼はそこで息をついた。「私は斧を見たときに、この話を思い出したんだ。それから、私が台所へ行くと、彼女は落ち着きはらって、顔色も変えていない。娘のほうはすっかり気が転倒してしまった。あれがほんとうだろう。──あんたはそう思わないか」
「そうだろうな。それがほんとうだろう」
「ところが、婆さんのほうはエプロンをかけて、すまして働いている。──あれはロジャースの細君のエプロンだろう。──朝食はあと三十分かそこらでできますわ、などと言っている。あの婆さんはたしかに頭が変になっているぜ。年齢《とし》をとった独身女には、よくあることなんだ。殺人もしかねないんだ。信心に凝って、自分を神さまの手先か何かだと思っているんだろう。部屋ではいつも、聖書を読んでるんだ」
フィリップ・ロンバードはため息をついて言った。
「それだけでは、異常だという証明にはなるまい」
しかし、ブロアは自説をまげなかった。
「それに、表に出かけていったじゃないか──雨外套を着て──海を見に行ったと言っていたが……」
ロンバードは頭を振った。
「ロジャースは薪を割っているときに殺されている──起きるとすぐ殺されたんだ。ブレントがやったとしたら、表でいつまでもぐずぐずしていることはあるまい。ベッドに戻っていびき[#「いびき」に傍点]をかいていればいいんだ」
「あんたは重大なことを見逃してるよ。もし、自分がやったことでなかったら、一人で表を歩いていることはできないだろう。怖いものがいないことを知っているから、平気な顔をして表を歩きまわっていたんだ。自分が犯人なら、なにも怖がる必要はないんだからね」 ロンバードは言った。
「なるほど……そこまでは気がつかなかった」彼はかすかに笑って、つけ加えた。「ぼくはきみに目をつけられないでよかったよ」
ブロアは言いにくそうに言った。
「実は──はじめ、あんたを疑ったんだよ。ピストルのことや、われわれをだましていたことがあるし。──しかし、私のまちがいだった」彼はちょっと言葉をきった。「あんたは私を疑ってはいないだろうね」
ロンバードは考えこんで言った。
「失敬な言い方だが、きみがこんな訂画をたてる想像力を持っているとは思えない。もし、きみが犯人だとしたら、すばらしい役者なんだ。ぼくは黙って帽子を脱ぐね」彼は急に声を低くした。「ここだけの話だが、明日まで生命《いのち》があるかどうかわからないわれわれなんだ──あの偽証の話はほんとうなんだろう」
ブロアはしばらくもじもじしていてから言った。
「隠しても、しかたがあるまい。ランダーはたしかに無罪だったんだ。私に話を持ちかけてきた連中がいて、みんなで有罪にしてしまったんだ。しかし、断っておくが、ほかに証人がいたら、私はあんな証言はしなかったんだ」
「たんまりうまい汁が吸えたというわけだね」
「ところが、けち[#「けち」に傍点]な奴ばかりでね。昇進しただけさ」
「そして、ランダーのほうは終身刑になって、監獄の中で死んだのだろう」
「死ぬとわかっていたわけじゃないぜ」と、ブロアは気色ばんで言った。
「いや、きみが運が悪かったのさ」
「私が? 彼がだろう」
「きみもそうさ。なぜなら、そのためにきみも殺されることになったんだ」
「私が?」と、ブロアはロンバードを見つめた。「私がロジャースや他のものと同じような目にあうと思っているのかね。冗談じゃない! 私はそんなドジは踏まないよ」
ロンバードは言った。
「まあ、いいさ──ぼくは賭けごとはきらいだよ。それに、きみが死んでも、ぼくがもうかるわけじゃない」
「ロンバード君、きみは何を言うつもりなんだ」
ロンバードは歯を見せて笑った。
「気の毒だが、ブロア──きみはのがれられないよ」
「何だって」
「きみは想像力にかけている、罠におとそうと思えばわけはない。U・N・オーエンほど想像力のゆたかな犯人なら、きみの首に縄を巻くぐらいのことは朝飯前だろう」
ブロアは顔を真っ赤にして怒った。
「そして、きみはどうなんだ」
フィリップ・ロンバードの顔に不敵の表情が現われた。
「ぼくは想像力を充分持ち合わせている。いままでにもずいぶん危険な目にあったが、いつも無事に切りぬけている。ぼくは──いや、これ以上言うのはよそう。だが、こんども必ず切りぬけてみせるよ!」
5
卵がフライパンに入れられた。ヴェラはトーストを作りながら思った。なぜ、あんなに取り乱したのだろう。あれはまちがいだった。落ち着かなければいけない。どんなことがあっても、慌てないつもりだったのに……
「クレイソーンさんはすこしも慌てませんでした──すぐ、シリルの後を追って泳ぎはじめました」
なぜ、こんなことをいま思い出したのだろう。すべては、すぎ去ったことだ。シリルは彼女が岩に達するずっとまえに姿が見えなくなっていた。潮が彼女を沖のほうへ押し流していた。彼女は少しもあわてないで、船が来るまでじっと浮かんでいた。
みんな、彼女の勇気をたたえた。
しかし、ヒューゴーは──黙って彼女を見ていただけだった
いまも、ヒューゴーのことを考えると、胸が痛むのだった
どこにいるのだろう。何をしているのだろう。許嫁《いいなずけ》がいるのだろうか。結婚したのだろうか。
エミリー・ブレントが鋭い声で言った。
「ヴェラ、トーストがこげていますよ」
「あら……すみません。気がつかないで」
エミリー・ブレントは最後の卵をフライパンからすくい上げた。
ヴェラは別のパンを網にのせながら、言った。
「あなたは落ち着いていらっしゃるわ、ブレントさん」
ミス・ブレントはきっぱり言った。
「私はどんなことがあっても取り乱さないように育てられているのです」
ヴェラは機械的に考えた。──子供の時に抑圧されて……それがさまざまの点に現われている……
彼女は言った。
「恐ろしくないのですか」
彼女は一度言葉をきって、またつづけた。
「それとも、死ぬことを何ともお思いにならないのですか」
死ぬ! エミリー・ブレントは小さな鋭い錐《きり》を脳の中にさしこまれたように感じた。死ぬ? いや、自分は死なない。他のものは死ぬかもしれないが、自分は死なない! この娘にはわからないのだ。自分はもちろん、恐れてはいない──ブレント家のものはみんな、そうなのだ。みんな、深い信仰を持っている。死を恐れたものはいなかった。みんな、自分と同じように正しい生活を送ってきたのだ。……自分は恥ずべきことは何もしていない。……したがって、自分が死ぬはずはない。
あなたは夜の恐ろしいものをも、昼に飛んでくる矢をも恐れることはない
いまは昼だ──恐れるものは何もない。
「われわれはみんな、この島を出ることはできないのだ」誰がそんなことを言ったのであったか。もちろん、マカーサー将軍だった。彼の従弟がエルシー・マクファースンと結婚しているのだ。彼は死ぬことをいっこうに気にしていないようだった。むしろ、喜んでいるようでさえあった! とんでもない! 神をおそれない考え方ではないか! 死を軽んずるあまり、みずから自分の生命《いのち》を絶つものさえいる。ビアトリス・テイラー……昨夜、彼女はビアトリスの夢を見た──彼女の部屋の窓に顔を押しつけて、うなるような声で中に入れてくれと言っていた。しかし、エミリー・ブレントは彼女を中へ入れたくなかった。もし、中へ入れれば、恐ろしいことが起こるような気がしたからだ。
エミリーははっとわれにかえった。あの娘が自分を見つめて、怪しんでいる。エミリーははっきりした声で言った。
「支度ができましたね。持っていきましょう」
6
奇妙な朝食だった。みんな、言葉までが鄭重《ていちょう》になっていた。
「コーヒーを注ぎましょうか、ブレントさん」
「クレイソーンさん、ハムはどうです」
「トーストをもう一つ、いかが」
六人とも、表面は何ごともなかったような態度だった。
そして、心の中では、さまざまの考えが檻《おり》のなかの栗鼠《りす》のようにぐるぐる駈けまわっていた……。
(この次は誰だろう。どんなことが起こるのだろう)
(うまくゆくだろうか。自信はない。しかし、何もしないでいるよりはいい。時間さえかせげばいいのだ)
(信仰に凝りかたまってるんだ。それで、気が変になったんだ……しかし、あの姿を見ていると、とても信じられない。……まちがっているかもしれぬ)
(何から何まで、妙なことばかりだ──これでは、頭が変になってしまう。毛糸がなくなる──赤い絹のカーテンがなくなる──何のことかわからない。少しも見当がつかない)
(ばかな奴だ。こちらが言ったことを頭から信じてしまっている。わけはなかった……しかし、充分警戒しなければならん)
(六個の小さな陶器の人形……たった六つ──今夜はいくつになっているだろう……)
「卵が一つ残っていますよ」
「マーマレードは?」
「ありがとう。パンをさしあげましょうか」
六人、何ごともなかったようにふるまっている六人の人間……。
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第十二章
1
食事は終わった。
ウォーグレイヴ判事が咳ばらいをした。彼は低い威厳のある声で言った。
「みんなで集まって、意見を交換したほうがよいと思う。三十分たったら、応接間に集まっていただこうか」
みんな、すぐ賛成した。
ヴェラは皿を重ねはじめた。
「私が、片づけますわ」
フィリップ・ロンバードは言った。
「みんなで運んであげよう」
「ありがとう」
エミリー・ブレントは一度立ち上がって、ふたたび、腰をおろし、溜息をついた。
判事は言った。
「どうかしましたか、ブレントさん」
エミリーはすまなそうに言った。
「すみません。クレイソーンさんのお手伝いをしたいんですが、どうしたのか、頭がふらふらするんです」
「ふらふらする?」と、アームストロング医師が彼女のそばへやってきた。「無理もない。さきほどの衝撃《ショック》ですよ。何か薬を……」
「いいえ!」
その言葉は砲弾が炸裂するように彼女の唇から出た。そして、一同を驚かせた。アームストロング医師は顔を真っ赤にした。
彼女の顔には明らかに恐怖と疑惑の表情がうかんでいた。医師はぎこちない口調で言った。
「無理にはすすめませんよ、ブレントさん」
「薬はのみたくないんです。気分がなおるまで、ここにしずかに座っています」
一同は食事の後片づけにとりかかった。
ブロアが言った。
「私は家庭的な男なんですよ。手伝いましょう、クレイソーンさん」
ヴェラは言った。
「ありがとう一
エミリー・ブレントだけが食堂に残された。しばらくのあいだ、台所から話し声が聞こえていた。気分はなおってきたが、こんどは眠気を催してきた。そのまま眠ってしまえそうだった。耳に羽音が聞こえた──部屋のどこかから聞こえてくるのだろううか。彼女は思った。蜜蜂だ──蜜蜂がいるのだ。
やがて、彼女の目に蜜蜂か見えた。窓のガラスを這っているのだった。けさヴェラ・クレイソーンが蜂の話をしていた。
蜜蜂と蜂蜜……エミリー・ブレントは蜂蜜が好きだった。蜂の巣の蜂蜜をモリスンの袋でこし[#「こし」に傍点]て、ポツン、ポツン、ポツン……。
部屋の中に誰かがいるようだった……びしょぬれになって、しずくをたらしていた……ビアトリス・テイラーが河から上がってきたのだ……ふりむきさえすれば、その姿を見ることができる。
しかし、彼女はふりむくことができなかった。
声をあげて、誰かを呼べばいいのだが……。
しかし、彼女は声をあげることができなかった……。
邸内には、ほかに誰もいないのだ。彼女はたった一人なのだ……。
足音が聞こえてきた──しずかな、ひきずるような足音が背後からせまってきた。溺死した女がよろめく足で近づいてくるのだ……。
じとじとと湿った匂いが鼻をついた……。
窓のガラスでは蜜蜂が羽音をたてていた……。
そして、彼女は首のわきを刺されたように感じた。
蜂が首を刺したのだ……。
2
応接間では、一同がエミリー・ブレントを待っていた。
ヴェラ・クレイソーンは言った。
「呼びに行ってきましょうか」
ブロアが慌てて言った。
「待ちなさい」
ヴェラはふたたび腰をおろした。みんなは不思議そうにブロアを見た。彼は言った。
「いいですか。私はこう思うんだ。いま、食堂へ行けば、犯人の正体がわかる。私はあの女がわれわれの狙っている犯人と信じている!」
アームストロングが言った。
「そして、動機は?」
「信仰の懲りすぎですよ。どうです、先生の意見は?」
「ありうることだ。反対はしない。しかし、証拠がない」
「お食事の支度をしているとき、とても変でしたわ。目が……」ヴェラはからだを震わせた。
ロンバードは言った。
「そんなことで判断はできない。われわれはみんな、気持ちがどうかなってるんだ」
ブロアは言った。
「それに、あの女はレコードが言ったことを説明しなかった。なぜなんだ。説明できなかったからだろう」
ヴェラは椅子の中で、からだを動かした。
「それはちがいますわ。私に話しましたわ──後になって」
ウォーグレイヴ判事は言った。
「どんなことを言ったね、クレイソーンさん」
ヴェラはビアトリス・テイラーの話をくりかえした。ウォーグレイヴは言った。
「すじのとおった話だ。事実を話したものにちがいない。──どうだったね、クレイソーンさん。重任を感じて悩んでいる様子はなかったかね。厳格すぎたことを後悔しているような様子はなかったかね」
「少しもありませんでしたわ」とヴェラは言った。
ブロアは言った。
「燧石《ひうちいし》[#燧石(ひうちいし、すいせき)は非常に硬質な岩石の一種。古くは火打石として利用されていた。]みたいに硬い心臓なんだ! ああいう女はみんなそうなんだ! 嫉妬なんですよ」
判事は言った。
「もう十一時五分前だ。ブレントさんを呼んだほうがいい」
ブロアは言った。
「手を下さんのですか」
「いまのところでは、どうすることもできない。単なる嫌疑にすぎないんだ。しかし、アームストロング君にお願いして、ミス・ブレントが精神に異常をきたしているかどうか、気をつけていてもらおう。──それでは、みんなで食堂へ行こう」
彼らが食堂へ行くと、エミリー・ブレントはもとの椅子に座ったままだった。背後から見たところでは、彼らが入ってきたことに気がつかないだけで、べつに変わったところはなかった。
それから、彼らは彼女の顔を見た──血の気がなく、唇は真っ青になって、じっと目をすえていた。
ブロアは言った。
「死んでるじゃないか!」
3
ウォーグレイヴ判事の低い声が言った。
「また一人、嫌疑がはれた──はれるのが遅すぎたが……」
アームストロングはブレントの上にかがみこんだ。彼は唇の匂いをかいで、頭をかしげ、まぶたをのぞきこんだ。
ロンバードが待ちきれないように言った。
「何で死んだんですか。われわれが、彼女をここにおいて去ったときは、何でもなかったですよ」
アームストロングの注意は首の右側の傷跡に集中された。
彼は言った。
「皮下注射の跡だ」
窓から羽音が聞こえてきた。ヴェラが叫んだ。
「ごらんなさい──蜂が──蜂が……。私が言ったとおりですわ!」
アームストロングは言った。
「彼女を刺したのは蜂ではない。人間の手が注射器を持って刺したんだ」
判事はたずねた。
「毒は何だね」
「私の想像では、青酸カリだろうと思う。アンソニー・マーストンのときと同じものでしょう。おそらく、窒息ですぐ死んだでしょう」
ヴェラは叫んだ。
「でもあの蜂は──偶然にしては……」
ロンバードは口を出した。
「いや、偶然ではないさ! われらの殺人犯の細工なんだよ! なかなかいたずらの好きな人間らしい。できるだけ、あの童謡のとおりにしようとしているんだ!」
彼の声がはじめて震えた。長年の危ない世渡りできたえられたロンバードの神経も、ついに参ってしまったようだった。彼は荒々しく叫んだ。
「異常だ! 何から何まで異常だ! みんな、異常なんだ!」
判事がしずかに言った。
「しかし、われわれはまだ理性を持っている。──誰かこの島へ皮下注射器を持ってきたのかね」
アームストロングがからだをこわばらせて、自信のなさそうな声で言った。
「私が持ってきた」
四人の目が医師に注がれた。彼は敵意を持った疑惑の視線をうけとめた。
「いつでも持って歩いているのだ。医者なら誰でも持っているだろう」
判事は言った。
「もっともなことだ。──その注射器はいま、どこにあるのかね」
「私の部屋の鞄の中に」
ウォーグレイヴは言った。
「確かめてみようじゃないか」
五人はものも言わないで、二階に上がっていった。鞄の中に入っていたものが床にひろげられた。皮下注射器はなかった。
4
アームストロングは声を荒だてて言った。
「誰かが盗んだのだ!」
部屋に沈黙が流れた。
アームストロングは、窓を背にして立っていた。四人の目が疑惑と敵意にみちて、彼に注がれた。彼は訴えるような目つきでウォーグレイヴからヴェラまで、全員を見つめた。そして、弱々しく言った。
「たしかに誰かが盗んだんだ」
ブロアはロンバードと顔を見合わせた。
判事は言った。
「ここにわれわれ五人のものがいる。この中の一人が犯人なのだ。他の四人のものの生命を守るためには、あらゆる手段がつくされなければならぬ。アームストロング君、あんたはどんな薬品を持っているのかね」
アームストロングは答えた。
「そこに薬品箱があります。しらべて下さい。睡眠剤として、トリオナールとズルフォナル、ブロマイド一包、重炭酸ソーダ、アスピリン。ほかには何もない。青酸カリは持っていない」
判事は言った。
「わしも睡眠剤を持っている──たぶん、ズルフォナルであろう。睡眠剤も、量が多すぎると、生命《いのち》にかかわるのだが──それから、ロンバード君、きみはピストルを持っているね」
「それがどうしたんです」
「こうなんだよ。アームストロング君の薬品、わしのズルフォナル、きみのピストル、そのほか、薬品、銃器の類があったら、ひとまとめにして、安全なところにしまうことにしよう。それがすんだら、一人ずつ、からだと荷物の検査をうけるのだ」
ロンバードは言った。
「ピストルは渡せない」
ウォーグレイヴはきびしい口調で言った。
「ロンバード君、きみはからだが頑丈だし、力も強いだろう。しかし、ブロア君も立派な体格をしている。きみたち二人で争えば、どんな結果になるかわからないが、一言、はっきりさせておきたいことがある。ブロア君には、わしとアームストロング医師とミス・クレイソーンが味方になる。──だから、きみがあくまでも反対すると、きみのためにはなはだ不利な結果になるのだが……」
ロンバードは白い歯を見せて、吐き捨てるように言った。
「わかった。仰せに従おう」
判事はゆっくりうなずいた。
「ありがとう。そして、ピストルはどこにあるんだね」
「ベッドのわきのテーブルの引き出しの中にある。取ってこよう」
「われわれも一緒に行くよ」
フィリップ・ロンバードは嘲笑に近いような微笑を浮かべた。
「どこまでも信用しないんだな」
彼らは廊下を伝ってロンバードの部屋へ行った。フィリップはベッドわきのテーブルのところへ大股で歩いていって、荒々しく引き出しをあけた。
そして、思わず叫び声をあげた。
テーブルの引き出しは空《から》だった。
5
「納得したかね」と、ロンバードは訊いた。
彼は裸体になっていた。他の三人が部屋の捜索を終わったところだった。ヴェラ・クレイソーンは廊下に出ていた。
捜索はかわるがわる行なわれた。アームストロング、判事、ブロアという順序で、一人ずつ、からだと部屋を捜索された。
四人の男はブロアの部屋から出てきて、ヴェラのそばに来た。判事が口を切った。
「例外をつくるわけにゆかぬことはおわかりだろう。ピストルはどうしても見つけねばならない。──あんたは水着を持っていなさるだろう」
ヴェラはうなずいた。
「では水着を着て、ここへ出てきて下さい」
ヴェラは部屋へ入って、ドアを閉めた。そしてからだにぴったり合った絹の水着を着て、ふたたび姿を現わした。
ウォーグレイヴは言った。
「ありがとう、クレイソーンさん。ここで待っていて下さい」
ヴェラは部屋の捜索が終わるまで、廊下で待っていた。それから、部屋に入って、服に着がえ、ふたたび廊下に出てきた。
判事は言った。
「これで、もう、誰も危険な銃器や薬品を持っていないことが明らかになった。こんどは、薬品を安全な場所にしまうことを考えよう。──たしか、台所に銀の食器を入れる箱があったね」
ブロアが言った。
「名案だが、鍵は誰が持つんです。あなたですか」
判事は返事をしないで、歩きだした。
一同は後からつづいた。銀の食器を入れる小さな金庫のような箱は、台所の戸棚の中にあった。判事の指示によって、薬品がこの箱に入れられ、鍵をかけられ、箱は。戸棚におさめられた。判事は箱の鍵をロンバードに渡し、戸棚の鍵をブロアに渡した。
「きみたちは二人とも力が強い。きみたちのどちらかが相手から鍵を取り上げるのは困難なことだ。われわれが鍵を手に入れることは、もっとむずかしい。戸棚の錠を破壊して、箱をこじあけるのも、容易なわざではない。音も聞こえる。他のものに気がつかれないように行なうことはとうていできまい」
判事はいったん言葉を切って、また、つづけた。
「それからまだ、はなはだ重大な問題が残っている。ロンバード君のピストルの行方だ」
ブロアは言った。
「持ち主が知っているでしょう」
フィリップ・ロンバードはたちまち顔色を変えた。
「何を言う! 盗まれたと言ったのがわからんのか!」
ウォーグレイヴが訊いた。
「最後に見たのはいつだったね」
「昨晩ですよ。寝るまえに確かめたときは、引き出しの中にあった──いざとなればすぐ使えるように」
判事はうなずいた。
「けさ、われわれがロジャースを探しているときか、あるいは、彼の死体が発見された騒ぎのときに盗まれたのだろう」
ヴェラは言った。
「邸内に隠してあるにちがいないわ。探してみましょう」
判事は指であごをたたきながら言った。
「おそらく、探しても無駄だろう。犯人がわれわれにわからぬ隠し場所を工夫する時間は充分あったのだ」
ブロアは言った。
「ピストルのありかは知らないが、注射器はどこにあるかはわかっていますよ。私についてきなさい」
彼は正面のドアをあけて、邸宅にそって歩いていった。
注射器は食堂の窓からわずかはなれたところに落ちていた。そのかたわらに、陶器の人形がこなごなに砕けて転がっていた──六番目のインディアン人形だった。
ブロアは満足そうに言った。
「ここにあるだろうと思った。犯人は婆さんを殺してから、窓をあけ注射器を投げすてて、それから、テーブルの上の人形をとって、地面に投げつけたんだ」
注射器に指紋はなかった。ていねいに拭われてあった。
ヴェラは言った。
「ピストルを探してみましょう」
ウォーグレイヴ判事は言った。
「探してみよう。しかし、われわれはかたまっていなければいけない。はなればなれになることは犯人に機会をあたえるようなものだ」
彼らは邸宅の中をくまなく捜索した。屋根裏から地下室まで残るところなく捜索した。しかし、結果は無駄だった。ピストルの行方は依然としてわからなかった。
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第十三章
1
「五人の中の一人が……五人の中の一人が……五人の中の一人が……」
同じ言葉が五人の頭の中で絶えずくりかえされていた。
恐怖にとらわれた五人──互いに警戒の目を光らせている五人。もう心の動揺を隠そうとするものは一人もいなかった。つとめて平静によそおおうとする者もいなかった。
彼らは互いに相手を敵視し、彼らを結びつけているものは自己防衛の本能だけだった。
そして、五人とも、人間ではなくなっていた。動物にかえってしまったのだった。ウォーグレイヴ判事は年老いた亀のようにからだをちぢめて、油断なく眼を光らせていた。元警部ブロアの頑丈なからだにはどことなくぎこちなさ[#「ぎこちなさ」に傍点]があった。彼の歩きかたは鈍重な獣のようだった。眼はいつも血走っていた。凶暴と愚鈍とがいりまじっているような印象だった。強いものに追われて、死にもの狂いの反撃にうつろうとしている動物のようだった。フィリップ・ロンバードも油断なく神経をとがらせていた。彼の耳はほんのかすかな物音にも鋭く動いた。軽い足どりですばやく歩きまわり、ときどき、白い歯を見せて、気味のわるい笑いをもらした。
ヴェラ・クレイソーンはほとんど動かなかった。椅子にからだを埋めて、夢を見ているように、じっと正面を見つめていた。ガラスに頭をぶつけて、人間の手に拾われた小鳥のようであった。恐怖のあまりからだを動かすことができないで、ただ、救いを待っているような様子だった。
アームストロングは気の毒なほど落ち着かなかった。絶えず、からだを動かし、両手を震わせていた。たてつづけに煙草に火を点けては、すぐ、灰皿にもみ消した。動きのとれぬことは、ほかのひとびとよりとくに彼をいら[#「いら」に傍点]立たせていた。ときどき、彼はいらいらした口調で、叫んだ。
「このままじっとしていても、どうにもならない! 何か方法があるはずだ! たとえば、かがり火を焚くとか……」
ブロアが言った。
「この天気で燃えますかね」
雨はふたたびはげしく降り往いでいた。風は唸り声をたてて吹きつけた。なぐりつけるような雨の音を聞いていると、気が変になりそうだった。彼らのあいだには、いつのまにか、黙契《もっけい》[#口に出さなくても心が通じ合うこと。]ができていた。彼らはみんな、応接間にいた。部屋から出るものは一度に一人と限られていた。他の四人は、その一人が帰ってくるまで待っているのだった。
ロンバードは言った。
「時間の問題なんだ。天候が回復すれば、いくらでも方法がある──信号もできるし──火を燃やしてもいいし──いかだを作ることもできるんだ」
アームストロングは笑いだした。
「時間の問題だって? そんなことを言ってはいられない! それまでにわれわれはみんな、死んでしまう!」
ウォーグレイヴ判事は言った。低い、はっきりした声だった。
「いや、警戒を怠らなければ大丈夫だ。警戒さえしていれば……」
昼食が食べられた。しかし、会話は交わされなかった。五人は台所へ行って、食糧の貯蔵庫を開き、缶詰が多量に貯えられてあるのを見つけた。彼らはタンの缶を一つと果物の缶を二つ開き、台所のテーブルのまわりに立ったまま食べた。それから、ひとかたまりになって応接間に戻り──椅子に腰を埋め──また、互いに警戒の目を尖らせた……。
彼らが考えていることはことごとく、正常なものには考えられないようなことだった……。
(アームストロングにちがいない……妙な目つきで私を見ていた……あの目は異常者の目だ……医者ではないのかもしれない……そうだ、医者ではないのだろう! 医者の家から逃げてきた患者かもしれない……医者のふりをしているのだ……そうだ、それにちがいない……みんなに話そうか……大きな声を出そうか……いや、彼に警戒させるだけだ……それに、彼は正気のように見える……いま、何時であろう。まだ、三時十五分すぎだ……神さま、私は気が狂ってしまいます……そうだ、アームストロングなのだ……いま、私のほうを見ている)
(おれはやられない! やられるはずはない……なんとも危ない橋を渡ってきているんだ……それにしても、ピストルはどこへいったんだろう……誰が盗んだんだろう。誰も持っていないんだ──それはわかってる。みんな、からだを探られてる……しかし、誰かがありかを知っているはずなんだ……)
(みんな、気が狂っているんだ……死の恐怖……われわれはみんな、死を恐れている……私も恐れている……しかし、恐れているだけでは、死を免れることはできない……霊柩車がドアの外に来ております≠ヌこで読んだろう。娘……あの娘を見張っていよう……そうだ、あの娘を見張るのだ……)
(四時二十分前……まだ、四時二十分前だ……時計がとまっているのかもしれない……おれにはわからない……こんなことが起こるなんて……現に起こっているんだが……なぜわれわれは目を覚まさない。目覚めよ! 裁きの日だ! いや、そんなことはない……おれの頭がどうかしている、破裂しそうだ。こんなことが起こるなんて、ほんとうとは思えない!……何時だろう……なんだ、まだ四時十五分前じゃないか……)
(しっかりしなければいけない……頭を冷静にしなければいけない……計画はすっかりたてられている……しかし、疑われてはいけない。……誰だろう。それが問題なんだ……そうだ、彼なのだ)
時計が五時を打った。五人とも、驚いて腰をうかせた。
ヴェラは言った。
「どなたか──お茶を召し上がる」
しばらく、沈黙が流れた。ブロアが言った。
「欲しいね」
ヴェラは立ち上がった。
「支度をしてきますわ。ここで待っていて下さい」
判事がしずかに言った。
「みんな、一緒に行こう。あんたが支度をするのを見ているよ」
ヴェラは判事を見つめて、かんだかい声で笑った。
「そうね。そのほうがいいでしょうね!」
五人のものは台所へ入っていった。紅茶がつくられ、ヴェラとブロアが飲んだ。他の三人はウィスキーを飲んだ──新しい瓶をあけ、くぎづけ[#「くぎづけ」に傍点]になっている箱からサイフォンを取り出して使った。
判事は爬虫類を思わせる微笑をうかべて言った。
「充分、警戒をしなければいけない……」
彼らはふたたび、応接間へ戻った。夏であるのに、部屋は暗かった。ロンバードが電灯を点《つ》けようとしたが、点かなかった。
「点かないはずだ。ロジャースがいなくなってから、モーターが動いていないんだ」
彼はちょっと躊躇してから、言葉をつづけた。
「みんなで動くようにしようじゃないか」
判事は言った。
「台所にろうそくがしまってあった。ろうそくを使おう」
ロンバードが部屋を出ていった。四人の者は、互いに顔を見つめあって、座っていた。
ロンバードはろうそくの箱と小さな皿を何枚か重ねて持って、戻ってきた。五本のろうそくが点けられて、部屋の中におかれた。時間は六時十五分前だった。
2
六時を二十分すぎたとき、ヴェラは、そこに座っていることに堪えられなくなった。部屋へ行って、ずきずき[#「ずきずき」に傍点]している頭を冷たい水で冷やしたいと思った。
彼女は立ち上がって、ドアのほうへ歩いていった。それから、気がついて、ろうそくを取りに戻り、火を点じ、皿にろうをたらして、燃えているろうそくを立てた。そして、部屋を出て、ドアを閉め、四人の男を部屋の中に残した。
彼女は階段を上って、自分の部屋へ行ったが、ドアをあけると、そのままそこに立ちすくんだ。鼻がぴくぴく[#「ぴくぴく」に傍点]動いた。海……セント・トレデニックの海の匂いだった。
そうだ。彼女がまちがえるはずはない。もちろん、島にいれば、海の匂いがするはずだが、この匂いはちがっていた。あの日の海岸の匂いだった──潮が引いて、岩にまつわりついた海藻が陽に照らされて乾いていた。
「島へ泳いでいっていい、クレイソーンさん?」
「なぜ島へ泳いでいってはいけないの」……
言うことを聞かないいたずらっ子[#「いたずらっ子」に傍点]! この子さえいなければ、ヒューゴーは財産をもらって……愛する女と結婚できるのだった。
ヒューゴー……。
ヒューゴーは彼女のそばにいたのだったろうか。いや、部屋で彼女を待っていたのだ!
彼女は一歩前へ進んだ。窓から吹きこんだ風がろうそくの炎をとらえた。炎はゆらめいて、消えた……。
闇の中で、彼女は、急に恐怖に駆られた。
「しっかりしなければいけない」と、彼女は自ら気持ちをひきたてた。「心配することはない。四人のものは階下にいるのだ。部屋の中には、誰もいない。いるはずがない。つまらぬことを想像してるんだ」
しかし、あの匂い──セント・トレデニックの海岸の匂い──あれは想像ではなかった。たしかに、匂いがした──
そして、たしかに誰かいたようだ……音が聞こえたようだった。たしかに聞こえた……。
彼女は耳をすまして、立っていた。突然、冷たい手が彼女ののどにふれた──海の匂いのする濡れた手が……。
3
ヴェラは叫んだ。恐怖の叫びだった──救いを求めて、叫んだのだった。
階下で椅子がひっくりかえり、ドアがあけられ、足音が階段を駈け上がってきた。しかし、彼女の耳には何も聞こえなかった。彼女の意識にあったことはいうにいわれぬ恐怖だけだった。彼女がやっとわれにかえったとき、廊下にろうそくの炎がゆらめき──男たちが口々に何ごとか叫びながら部屋に入ってきた。
ヴェラはからだを震わせ、一歩前へ進んで、床に倒れた。
上からかがみこんで、彼女の頭をむりに彼女の膝のあいだに押し入れようとしたものがあったが、それが誰であるか、わからなかった。
突然、叫び声が聞こえた。
「あれを見ろ!」
ヴェラはその声で正気を取り戻した。そして目を開き、頭を上げた。彼女は四人の男たちがろうそくの光で見つめているものに視線をうつした。幅のひろい濡れた海藻が天井からぶら下がっていた。闇の中で彼女ののどにふれたのは海藻だった。それを溺死した人間の手と思ったのであった。
彼女は発作を起こしたように笑いだした。
「海藻だったんだわ──あの匂いも海藻だったんだわ!」
そして、彼女はふたたび、気が遠くなった。ふたたび、誰かが彼女の頭をとって、彼女の膝のあいだにむりに押し入れようとした。
長い時がすぎたようだった。みんな彼女に何か飲ませようとしていた──グラスを彼女の唇に押しつけているのだった。ブランディの匂いがした。ヴェラがよろこんでそれを飲もうとしたとき、突然、警報ベルのようなものが彼女の頭の中で鳴った。彼女はグラスを押しのけて、座りなおした。
「これ、どこから持ってきたの」
ブロアの声が答えた。彼は彼女を一瞬見つめてから言った。
「階下から持ってきたんですよ」
「飲みません!」
しばらく、沈黙が流れた。それから、ロンバードが明るく笑って、言った。
「えらいね、ヴェラ。気は転倒していても──頭はしっかりしている。……ぼくが新しい瓶をとってこよう」
彼は急いで部屋を出ていった。
ヴェラは言った。
「もう大丈夫です。水を飲みますわ」
アームストロングは彼女に手を貸して、立ち上がらせた。ヴェラは医師につかまったまま、洗面台の前に行って、グラスに水を満たした。
ブロアは不機嫌な顔をして言った。
「このブランディには、毒は入っていないよ」
アームストロングが言った。
「どうしてわかる」
「私は何も入れやしない。あんたは私を疑っているのかね」
「きみが毒を入れたとは言わない。誰が瓶をいじったかわからないじゃないか」
ロンバードが新しいブランディの瓶と栓ぬきを持って、戻ってきた。彼は瓶をヴェラのまえにさし出した。
「見たまえ。まったくの新品だ!」
彼は錫《すず》の覆いを取り除き、栓のコルクを引き抜いた。
「酒がふんだんにあるのはありがたい。U・N・オーエンも、思いやりがあるよ」
ヴェラがはげしくからだを震わせた。ロンバードはアームストロングが持っているグラスにブランディを注いだ。アームストロングは言った。
「飲んだほうがいいですよ、クレイソーンさん。衝撃《ショック》が大きかったんだから……」
ヴェラはグラスに口をつけた。顔に赤味がさしてきた。
ロンバードは笑って、言った。
「さすがの犯人も、こんどだけは計画どおりにゆかなかったな!」
ヴェラがささやくような声で言った。
「計画だったのかしら」
ロンバードはうなずいた。
「恐怖によって心臓麻痺を起こすこともあるじゃないか──あるだろう、先生」
アームストロングは彼の説に賛成しないようだった。
「どうとも言えない。クレイソーンさんはまだ若いし、健康だ──心臓が虚弱であるとも思えない。おそらくそんな計画はたてまい。それより……」
彼はブロアが持ってきたブランディを取り上げて、指にちょっと浸して舌の先でなめた。彼の表情は変わらなかった。
「うむ。異常はないらしい」
ブロアは顔色を変えて、一歩前へ進んだ。
「おれが毒を入れたとでもいうのなら、ただではおかないぜ!」
ブランディで元気を回復したヴェラは、話題を変えようとして言った。
「判事さんはどうしたの」
三人の男は顔を見合わせた。
ロンバードは言った。
「おかしいね……一緒に来たものと思っていた」
ブロアは言った。
「私もそう思った。そうだわ、先生。あなたは私のうしろから階段を上ってきたんだが……」
アームストロングは言った。
「ついてきていると思っていた。もちろん、われわれより足はおそいだろうが……」
三人はふたたび顔を見合わせた。
ロンバードは言った。
「どうも、おかしいぜ」
ブロアは叫んだ。
「探さなければいかん」
彼はドアのほうへ駈けだした。他のものがつづいた。ヴェラは最後だった。
階段を降りながら、アームストロングが言った。
「階下《した》の応接間に残っていたのかもしれない」
彼らは広間《ホール》を横ぎった。アームストロングが大声をあげた。
「ウォーグレイヴ、ウォーグレイヴ! どこにいるんだ!」
返事はなかった。ややしずかになった雨の音が聞こえるだけで、邸内はひっそりと静まりかえっていた。
しかし、応接間の入口に来たとき、アームストロングは顔色を変えて、立ちすくんだ。他のものは彼の背後に押し重なって、肩ごしにのぞきこんだ。誰かが叫び声をあげた。
ウォーグレイヴ判事は部屋の隅の背中の高い椅子に腰をうずめていた。両側に、二本のろうそくが燃えていた。しかし、彼らを驚かせたのは、判事が真紅の法衣をまとい、判事の鬘《かつら》をかぶっていることだった。
アームストロング医師は他のものを制して、判事のそばへ歩いていった。酔っている人間のように足が震えていた。彼はからだをかがめて、判事の顔をのぞきこんだ。それから、すばやい動作で鬘をはらいのけた。鬘は床に落ちて、禿げ上がった前頭部があらわれ、その真ん中に血のにじんだまるい跡があって、そこから何かがしたたっていた。
アームストロング医師は判事の手を持ち上げ、脈をしらべた。それから三人のほうをふりむいて、言った。──感情のない声だった。
「射殺されたのだ」
ブロアは言った。
「えっ! ピストルかね!」
医師は言った。
「頭を射ち抜かれている。即死だ」
ヴェラは床にかがみこんで、鬘を見つめた。震え声で言った。
「ブレントさんがなくした灰色の毛糸ですわ」
ブロアは言った。
「それに浴室からなくなった真紅のカーテンだ」
ヴェラはささやいた。
「こんなことに使うつもりだったのね」
突然、フィリップ・ロンバードが笑いだした──かんだかい不自然な笑い声だった。
「五人のインディアンの少年が法律に夢中になった。一人が大法院に入って、四人になった。──それがウォーグレイヴ判事最後の場面だったんだ! もう、判決を下すこともできなくなった。法廷にも立てない。罪のないものを死刑にすることもできないんだ! エドワード・シートンが、ここにいたら、どんなに笑うだろう! きっと、大喜びだ!」
彼があまり大声でわめきたてたので、他の三人は鸞いた。
ヴェラは言った。
「でも、犯人は判事だとあなたが言ったのは、つい今朝のことなのよ」
フィリップ・ロンバードの顔色が変わった──興奮がさめたのだった。彼は低い声で言った。
「ぼくはたしかにそう言った……ぼくはまちがっていたんだ。また一人、犯人ではないことが証明されたんだ──手遅れだったが……」
[#改ページ]
第十四章
1
彼らはウォーグレイヴ判事の死体を彼の部屋へ運んで、ベッドに横たえた。
それから、階下へ降りてきて、広間《ホール》に立ったまま、顔を見合わせた。
ブロアは言った。
「これから、どうしよう」
ロンバードは言った。
「何か食べよう。食べておかなければいけない」
彼らは台所へ入って、タンの缶詰をあけ、機械的にロに運んだ。味はほとんどしなかった。
ヴェラは言った。
「私、一生、タンは食べないわ」
彼らは食事を終わり、台所のテーブルに座って、互いに顔を見つめあった。ブロアは言った。
「とうとう、四人になった……次は誰だろう」
アームストロングがじっとブロアの顔を見た。そして、ほとんど機械的に言った。
「充分、警戒しなければいけない」
ブロアがうなずいた。
「判事がいつも、そう言っていた。……そして、その判事が死んしまったんだ!」
アームストロングは言った。
「どうして起こったんだろう」
ロンバードは言った。
「うまいトリックさ! クレイソーンさんの部屋にあんなものを仕掛けておいて、われわれに彼女が殺されたと思わせたんだ。そして──あの騒ぎを利用して──爺さんが油断しているところを狙ったんだ」
ブロアは言った。
「なぜ、誰もピストルの音を聞かなかったのだろう」
ロンバードは頭を振った。
「クレイソーンさんが大声でわめいていた。風が吹きまくっていた。われわれは叫びながら、駈け上がっていった。聞こえるはずはないよ」彼は言葉を切った。「しかし、こんなトリックはもう成功しない。この次には、もっとうまいことを考えなければ駄目だ」
ブロアは言った。
「きっと、考えるだろうよ」
その声には敵意がこもっていた。二人は目を見合わせた。
アームストロングは言った。
「もう、四人しかいない。しかも、われわれは誰が犯人であるかも知らない……」
ブロアは言った。
「私は知っている……」
ヴェラは言った。
「私もわかっているわ……」
アームストロングはゆっくり言った。
「私も、見当はついているんだが……」
フィリップ・ロンバードは言った。
「ぼくには、はっきりわかっているんだ」
ふたたび、彼らは互いに顔を見合わせた。
ヴェラは力なく立ち上がった。
「私は、頭が痛いんです。少し眠りたいんです」
ロンバードは言った。
「そのほうがいい。にらみあっていてもしかたがない」
ブロアは言った。
「私も賛成だね」
医師は低い声で言った。
「いい考えだが──誰も眠れないだろう」
彼らはドアのほうへ歩いていった。ブロアは言った。
「ピストルはどこにあるんだろう」
2
彼らは二階へ上がっていった。
次の行動は喜劇の一場面のようだった。
四人は各自の部屋のドアの把手《ハンドル》に手をかけて、廊下に立った。そして、合図があったように、同時に部屋に入って、ドアを閉めた。錠をおろし、鍵をかけ、椅子を動かす音が聞こえた。
恐怖に駆られた四人の男女はこうして明朝までの城塞にとじこもった。
3
フィリップ・ロンバードはドアの把手《ハンドル》の下に椅子をあてがうと、ほっとしたように大きい息を吐いた。
彼は化粧テーブルの前へ行き、ろうそくの光で自分の顔を不思議そうに眺めた。
「だいぶ参ってるな」と、彼は自分に言い聞かせた。
彼は狼のような微笑を浮かべたが、その微笑は、たちまち消え失せた。
そして、急いで服を脱ぐと、ベッドのところへ行って、腕時計をベッドのわきのテーブルにおいた。
それから、テーブルの引き出しをあけた。
彼は引き出しの中のピストルを見つめて、いつまでもそこに立っていた……。
4
ヴェラ・クレイソーンはベッドに横たわっていた。
かたわらで、ろうそくが燃えていた。消す気にはなれないのだった。暗黒が恐ろしかったのだ。
彼女はなんども自分に言い聞かせた。
「明日の朝までは無事なのだ。昨夜も何ごとも起こらなかった。今夜も何ごとも起こらないだろう。起こるはずはない。鍵をかけて、錠がおろしてある。誰も入ってくることはできない……」
突然彼女は一つのことを思いついた。そうだ! この部屋にいればいいのだ! 鍵をかけて、とじこもっているのだ! 食べものはどうでもいい。救いが来るまでここにいれば、安全なんだ! 一日でも──二日でも……。
ここにいればいい。だが、いられるだろうか。何時間も誰とも話をしないで、何もすることがなく、考えてだけいて……。
彼女はコーンウォールのこと──ヒューゴーのこと──シリルに言ったことを考えはじめた。うるさくつきまとってくる少年だった。
「クレイソーンさん、なぜ、岩へ泳いでいってはいけないの。ぼく、泳いでいけるんだよ」
それに答えたのは彼女の声だったのだろうか。
「もちろん、泳いでいけるわ、シリル。わかっているわ」
「では、行ってもいい、クレイソーンさん?」
「でも、シリル、お母さまがいけないとおっしゃるのよ。……こうしましょう。明日、岩へ泳いでいきなさい。私が海岸でお母さまに話をしかけて、気がつかないようにするわ。そして、お母さまが気がついたときには、あなたは岩の上に立って、お母さまに手を振っているのよ。お母さまはきっとびっくりなさるわ」
「ありがとう、クレイソーンさん!」
そうだった! 明日になれば……ヒューゴーはニューキーへ行くのだ。彼が帰ってきたときには……すべては終わっているのだ。
しかし、もし、うまくいかなかったら!──シリルは救われるかもしれない。そして、彼が言う。「クレイソーンさんがいいって言ったんだもの」だから、どうだというのだ。少しは危険もおかさなければならない。どこまでもしらばっくれていればいいのだ。
「なぜ、嘘を言うの、シリル。私がそんなことを言うはずはありませんわ!」誰だって、彼女を信ずるだろう。シリルは、しじゅう嘘をついた。あまり正直な少年でははなかった。もちろん、シリルには、わかっているはずだが──そんなことを気にすることはない。……それに、うまくゆかないはずはないのだ。後から泳いでいけばいい。泳いでも、追いつけない……誰も疑いはしない……。
ヒューゴーは疑っていたのだろうか。だから、妙な目つきで彼女を見つめたのだろうか。ヒューゴーは知っていたのだろうか。だから、取り調べがすむと、急いで姿を消してしまったのであろうか。
彼は一度も手紙に返事をよこしていない。
ヒューゴー……。
ヴェラはベッドの中でからだを動かした。気持ちが落ち着かないのだった。いや、ヒューゴーのことを考えてはいけない。胸が痛くなる! もう、すんだことなのだ……忘れなければいけない……。
さっきはどうしてヒューゴーがこの部屋にいると思ったのだろう。
彼女は天井を見上げて、部屋の中央にある大きな、黒い鈎《かぎ》を見つめた。その鈎があったことはいままで気がつかなかった。
海藻はそこから下がっていたのだ……。
彼女は首すじに触れた冷たいものを思い出して、からだを震わせた。
彼女は天井の鈎が恐ろしかった。しかし、鈎から目を離すことはできなかった……大きな黒い釣から……。
5
元警部ブロアはベッドの端に腰をかけていた。
血走った小さな眼が無骨な顔に光っていた。獲物にとびかかろうとしている猪のように見えた。
彼は眠る気になれなかった。
恐ろしいことがすぐそばまで迫っているのだ……十人のうちの六人! あれほど頭脳が鋭く、あれほど警戒を怠らなかった老判事さえ、他のものと運命をともにしてしまった。
ブロアは残酷な満足のようなものを感じて、うそぶいた。
あの爺さんは何と言っていた。
「充分、警戒しなければいけない……」
せっかくだが、もう警戒する必要もなくなったわけだ。いつも、自分だけが正しいような顔をしやがって……。
そして、もう四人しかいない。娘、ロンバード、アームストロング、それに、おれだ。
まもなく、また誰かいなくなるだろう……しかし、ウィリアム・へンリー・ブロアではない! おれはドジを踏む男じゃない!
(しかし、ピストルはどうなったんだろう。あれは気になることだ──あのピストルは……)
ブロアはベッドの上に座り、眉をよせ、小さな眼をいっそう細くしてピストルの問題を考えた……。
静まりかえった邸内で、階下の時計が時を報じた。
十二時だった。少々気持ちが落ち着いてきた。彼はベッドに横になった。しかし、服は脱がなかった。
彼は横になったまま、警部をつとめていたときのように、すべてのことを最初から順序を追って考えた。周到な考え方が最後にものをいうのだ。
ろうそくが燃えつきようとしていた。マッチがすぐ手のとどくところにあるのを見とどけて、彼はろうそくを吹き消した。
不思議なことに、暗闇になると、彼の目にさまざまのものが見えてきた。ちょうど、千年の恐怖が目を覚まして、彼の頭の中で優位を争っているようであった。いくつもの顔が空中にうかんだ。灰色の毛糸を頭にのせた判事の顔──ミセス・ロジャースの冷たい死に顔──アンソニー・マーストンの苦悩の表情を残した紫色の顔……。
また、一つの顔──眼鏡をかけ、小さな麦藁色の口ひげを生やした若い顔。
見覚えのある顔だった……どこで見たのであろう。この島で見たのではない。いや、もっとむかしに見た顔だ。
どうしても、思い出せない……あまり見ばえのする顔ではない。警察にあげられてきた男のような……。
そうだ! ランダーだ!
どうして、いままで、ランダーの顔を忘れていたのであろう。昨日も、思い出そうとして、思い出せなかった。それが、いま目の前に、はっきり浮かんでいるのだ。
ランダーには妻があった──淋しい顔をしたやせた女だった。十四歳ぐらいの娘がいた。彼らはどうしたであろう。ブロアははじめて、そのことを考えた。
(ピストル。ピストルはどうしたろう。そのほうがはるかに重大なことだ)
考えれば考えるほど、わからなくなる……この家にいるものが持っていることはまちがいないのだが……。
階下で、時計が一時を打った。
ブロアはいきなり、ベッドの上に座りなおした。物音が聞こえたのだ──かすかな物音だった──ドアの外のどこかから聞こえてきたのだった。
真っ暗な邸内で動いているものがいる。
額に汗がにじんできた。誰だろう。廊下をしずかに歩いているのだ。何ごとか企てているのに相違ない!
ブロアは音のしないようにベッドを降り、ドアの内側に立って耳をすました。
もう、何の音も聞こえなかった。しかし、たしかに音が聞こえたのだ。ドアのすぐ向こうに足音が聞こえたのだ。彼は冷水を浴びせられたように緊張した。
誰かが足音を忍ばせて、闇の中を歩いている。
彼は耳をそばだてた──だが、その音は二度と聞こえなかった。
そして、ブロアは新しい誘惑にとらわれた。ドアの外に出て、しらべてみたくなったのだ。闇の中を歩きまわっているのは誰であろう。──しかし、ドアをあけることは危険なのだ。そのときを待っているのかもしれない。ブロアに足音を聞かせて、出てくるのを待っているのかもしれないのだ。
ブロアはじっと立ったまま、耳をそばだてた。こんどは、いたるところからさまざまの音が聞こえてきた。もののきしむ音、衣《きぬ》ずれの音、かすかにささやく声──しかし、それらの音が妄想にもとづく音であることを彼は知っていた。
そのうちに、突然、妄想から生まれたものでない音が聞こえた。ほんのかすかな足音だった。ブロアのように耳をそばだてているものにだけ聞こえるかすかな足音だった。足音はしずかに廊下を近づいてきた(ロンバードとアームストロングの部屋は階段の降り口の向こう側の廊下にあった)。足音は彼の部屋の前を立ちどまろうともしないで通りすぎた。
ブロアは意を決した。
誰であるか、見なければならない! 足音は彼の部屋の前を通って、階下へ降りていったらしい。どこへ行くのであろう。
ブロアは、いったん決意すると、すばやく行動を起こす男だった。からだががっしりしていて、鈍重のように見えるが、意外なほど身軽であった。彼はベッドにとってかえして、マッチをポケットに入れ、電気スタンドのプラグを外し、コードをスタンドの柄に巻きつけた。クローム[#金属としての利用は、光沢があること、固いこと、耐食性があることを利用する、クロムめっきとしての用途が大きい。]製のスタンドで、重いエボナイト[#最初期のプラスチックの一種。硬く光沢をもった樹脂で、耐熱性、耐酸性、耐アルカリ性にすぐれ、ボウリングの球や、万年筆の軸などに用いられる。絶縁性も極めて高く、初期の電気実験では絶縁体として用いられた。]の台がついていた。武器としては屈強のものだった。
彼は足音を忍ばせてドアのところへ行き、ドアの把手《ハンドル》の下にあてがった椅子を取りのけて、音をたてないように錠をはずし、鍵をあけた。彼は廊下に出た。階下の広間《ホール》から、かすかな音が聞こえた。ブロアは靴下をはいた足で階段の降り口へ音のしないように走っていった。
そのとき、なぜ足音がはっきり聞こえたかがわかった。風がすっかりおさまって、おそらく、空も晴れわたっているものと思われた。窓から淡い月光がさしこんで、階下の広間《ホール》をほのかに明るく照らしていた。
ブロアは正面のドアから出ていく人間の姿を認めた。
彼は階段を駈け降りようとして、途中で足をとめた。危ないところだった! 彼を邸宅の外へおびき出そうとするトリックかもしれないのだ!
しかし、相手の男も過失をおかしている。二階の三つの寝室のうち一つは空《から》になっているはずだ。どの部屋が空になっているか、それさえ確かめればよいのだ!
ブロアは急いで廊下を戻った。
最初に、アームストロング医師の部屋をノックした。返事はなかった。
彼はちょっと待ってから、フィリップ・ロンバードの部屋へ行った。
すぐ、返事があった。
「誰だ」
「ブロアだ。アームストロングが部屋にいないらしい。……待っていてくれ」
彼は反対側の廊下へ走っていって、端の部屋のドアをノックした。
「クレイソーンさん! クレイソーンさん!」
ヴェラが驚いて、答えた。
「誰? どうしたの」
「心配はないんだ、クレイソーンさん。待っていて下さい。また、戻ってくる」
彼はロンバードの部屋へ戻った。ドアがあいて、ロンバードが左手にろうそくを持って現われた。パジャマの上にズボンをはいていた。右手はパジャマの上のポケットに入れられていた。
彼は鋭い声で言った。
「いったい、どうしたんだ」
ブロアは急いで説明した。ロンバードは眼を輝かせた。
「アームストロングだって? では、奴だったのか!」
彼は医師の部屋の前へ行った。
「失敬だが、ブロア、確かめてみなければ、信じるわけにはいかん」
彼はドアをはげしくノックした。
「アームストロング──アームストロング!」
返事はなかった。
ロンバードは膝をついて、鍵穴をのぞいた。そして、小指を鍵穴につっこみながら、言った。
「内側に鍵はない」
「外から鍵をかけて、鍵を持っていったんだ」
フィリップはうなずいた。
「やりそうなことだ……こんどこそ、捕まえてやる……ちょっと待ってくれ」
ロンバードはヴェラの部屋へ走っていった。
「ヴェラ!」
「どうしたの」
「われわれはアームストロングを探しに行く。部屋にいないんだ。どんなことがあっても、ドアをあけてはいけない。わかったね」
「わかったわ」
「もし、アームストロングがやってきて、ぼくが殺されたと言っても、ブロアが殺されたと言っても、信じてはいけない。わかったね。ブロアとぼくが声をかけないかぎり、ドアをあけてはいけないんだ」
「わかったわ。私だって、それほどばかじゃないわ」
「よろしい」
彼はブロアのそばに戻った。
「さあ、行こう! 捜索だ」
ブロアは言った。
「用心したほうがいい。奴はピストルを持ってるんだ」
フィリップ・ロンバードは階段を駈け降りながら、笑った。
「ところが、ちがうんだよ」
彼は正面のドアをあけて、言った。
「かけがね[#「かけがね」に傍点]が外してある。──戻ったときに、すぐ入れるようにしてあるんだ」
彼は言葉をつづけた。
「ピストルはぼくが持っているよ」そして、ポケットからピストルの端を出して見せた。
「今夜、引き出しの中に戻っていたんだ」
ブロアは邸宅の入口に立ちどまった。顔色が変わっていた。フィリップ・ロンバードはそれを見て、言った。
「心配するな、ブロア、きみを射ちはしない。一緒に行くのがいやなら、邸宅に残って、部屋にとじこもっているがいいさ。ぼくはアームストロングを捕える!」
彼は月光の中に出かけていった。ブロアは一瞬躊躇したが、後につづいた。
彼は考えた。「自ら危地にとびこむようなものだが、しかし……」
彼はピストルを持った犯人を相手にしたことは、なんどもあった。たとえどこかに、欠けているところがあるにしても、勇敢なことでは誰にも負けない。危険となら、立派に戦ってみせる。目に見える危険は怖くはない。彼が恐怖を感じるのは、目に見えない危険なのだ。
6
ヴェラは起き上がって、服を着た。
彼女はドアをじっと見つめた。たのもしそうなドアだった。錠もおりている。鍵もかかっている。把手《ハンドル》の下には椅子があてがってある。
人間の力で、押し破ることはできまい。アームストロング医師の力では絶対に無理だ。彼は腕力にすぐれた男ではない。
殺人を行なうにも、腕力にたよらないで、策略にたよる男なのだ。
彼がとるかもしれぬ手段を、彼女は考えてみた。
フィリップが言ったように、二人のうちの一人が死んだと言って、彼女のところへ戻ってくるかもしれない。あるいは、重傷を負ったように装って、ドアの外でうめき声をあげるかもしれない。
そのほかにも、さまざまの場合が考えられた。邸宅が火事になったと言うかもしれない。ほんとに、火を放つかもしれない……そうだ、ありうることだ。二人の男を邸宅の外へおびき出しておいて、あらかじめ撒《ま》いておいたガソリンに火をつける。そして、私は何も知らずに、厳重に防備された部屋にとじこもっている。気がついたときには、もう遅い……。
ヴェラは窓のそばへ行った。降りられる──いざとなったら、ここから逃げられる。飛び降りなければならないが、ちょうど、下には花壇がある。
彼女は椅子に座って、日記帳を取り出し、美しい筆蹟で書きはじめた。
時間をすごさなければならないのだ。
突然、彼女はからだをこわばらせた。物音が聞こえたのだ。ガラスが割れたような音だった。階下のどこかから聞こえたようであった。
彼女は耳をすました。しかし、音はもう聞こえてこなかった。
忍びやかに歩いている足音が聞こえるようであった。階段の軋む音、衣ずれの音──しかし、果たしてほんとうに聞こえたのかどうかはわからなかった。そして、ブロアがそう思ったように、妄想にもとづくものであろうと考えた。
そのうちに、もっとはっきりした音が聞こえはじめた。階下を人間が歩いている──声も聞こえてきた。そして、階段をのぼってくる足音が聞こえたかと思うと──ドアがあく音、閉まる音──屋根裏に上がってゆく足音。
やがて、足音は、廊下を彼女の部屋のほうへ歩いてきた。ロンバードの声が言った。
「ヴェラ、何もなかったかい」
「ええ。どうしたの」
ブロアの声が言った。
「中へ入れてくれないか」
ヴェラは椅子をとりのけ、鍵をあけ、錠をはずしてドアをあけた。二人の男は息を切らしていた。足とズボンの裾がびっしょり濡れていた。
彼女はふたたび言った。
「どうしたの」
ロンバードは言った。
「アームストロングがいなくなったんだ」
7
ヴェラは叫んだ。
「何ですって」
ロンバードは言った。
「島から消えちまったんだ」
ブロアも言った。
「そうだ! 手品みたいに消えちまったんだ!」
「でも、そんなはずはないわ。どこかに隠れているんだわ」
ブロアは言った。
「いや、隠れてはいない。この島には、隠れるところはない。てのひら[#「てのひら」に傍点]みたいに、何もないんだ。月も明るいし、見つからないはずはない!」
「邸宅へ戻ったのかもしれないわ」
ブロアは言った。「そう思ったんで、邸内も探したんだ。聞こえたはずだよ。彼はここにいないのだ。どこかに消えちまったんだ!」
「私には信じられないわ」
ロンバードは言った。
「しかし、まちがいないんだよ。……まちがいないという事実があるんだ。食堂の窓ガラスが一枚こわれていて、テーブルの上のインディアンの人形が三つになっているんだ」
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第十五章
1
三人は台所のテーブルに座って、朝食を食べた。
外には、太陽が輝いていた。快い朝だった。嵐はすっかりおさまっていた。
天候の変化は三人の気持ちにも影響をあたえた。
彼らは悪夢から覚めたように感じた。まだ危険は残っていたが、白昼の危険であった。外で嵐が荒れ狂っていたときに彼らを包んでいた恐怖の雰囲気はすでに消え去っていた。
ロンバードは言った。
「島のいちばん高いところから鏡を反射させて信号を送ろう。丘に登っているものに見つかれば、SOSということがわかるだろう。夜になったら、かがり火を燃やすんだ──ただ、薪があまりないし、遊んでいるんだと思われるかもしれないが……」
「モールス信号[#モールス符号のSOSは3短点、3長点、3短点(・・・−−−・・・)の信号で構成される。]がわかる人間がきっといるはずだわ。夕方にならないうちに、きっと救いに来てくれるわ」
ロンバードは言った。
「しかし、天気はよくなったが、海はまだ波が高い。明日にならなければ、船を島へ近づけることはできないだろう」
ヴェラは叫んだ。
「もう一晩、ここですごすの?」
ロンバードは肩をすくめた。
「二十四時間がんばればいいんだよ。二十四時間たって、無事だったら、もう、こっちのもんだ!」
ブロアは咳ばらいをして、言った。
「しかし、事態をよく見きわめておかなければいかん。アームストロングはどうしたんだろう」
「証拠が一つあるぜ」と、ロンバードは言った。「インディアン人形が三つしか残っていない。アームストロングは死んだんだ」
「では、なぜ死体がわからないの」
ブロアが言った。
「そうだ。なぜだ」
ロンバードは頭を振った。
「それがおかしいんだ──見当がつかない」
ブロアは言った。
「海に投げこまれたのかもしれないな」
「誰に」と、ロンバードが鋭く訊いた。「きみにか! ぼくにか? きみは彼が邸宅から出ていくところを見た。それから、ぼくの部屋へ来て、一緒に捜索に出かけた。ぼくには、彼を殺して、死体をかつぎまわっている時間はなかったじゃないか」
「それはわからんが、しかし、わかっていることが一つある」
「何だ」
「ピストルだよ。きみはピストルを持っている。ずっと持っていたのかもしれない」
「何を言うんだ。ブロア、みんな、からだと部屋を捜索されたじゃないか」
「その前に隠しておいて、後で取り戻してきたとも考えられる」
「引き出しの中に戻っていたんだと言ったのがわからないのか。ぼくだって、こんなに驚いたことは生まれてはじめてなんだ」
「そんなことが信じられると思うのか! アームストロングにしても、そのほかの誰にしても、いったん盗んだピストルを返すはずはなかろう」
ロンバードは肩をすくめて、吐き出すように言った。
「ぼくには、どう言えばいいかわからん。ぼく自身、信じられないんだ」
ブロアはうなずいた。
「誰だって、信じられん。もっとうまい口実を考えられないのか」
「それが、ぼくが事実を言っているという証拠じゃないか」
「私はそう考えないね」
フィリップは言った。
「きみがそう考えないだけだ」
ブロアは言った。
「ロンバード君、きみが正直に言っているというのなら……」
「いつ、おれが正直を売りものにした? おれは一度もそんなことは言わん!」
ブロアはかまわずに話をつづけた。
「きみが事実を言っているというのなら──とるべき方法は一つしかない。きみがピストルを持っているあいだは、クレイソーンさんと私はきみの思いのままだ。ピストルを薬品と一緒にしまって、きみと私が鍵を持っているのがいちばん公平な方法だ」
フィリップ・ロンバードは煙草に火を点けた。
彼は煙を吐きながら言った。
「ばかなことを言ってはいけない」
「賛成しないのか」
「賛成しない。ピストルはぼくのものだ。ぼくのからだを護るために必要なんだ」
ブロアは言った。
「それでは、結論は一つしかない」
「ぼくがU・N・オーエンだと言うのか。どう考えようと、きみの勝手だよ。だが、ぼくがオーエンだとしたら、なぜ昨晩、きみを射ち殺さなかったんだ。二十回ぐらい、機会があったはずだぜ」
ブロアは頭を振った。
「それはわからん。何か理由があったんだろう」
ヴェラは二人の話を聞いていたが、はじめて口を出した。
「二人とも、ちっとも頭がまわらないのね」
ロンバードは彼女の顔を見つめた。
「何だって?」
ヴェラは言った。
「二人とも、あの童謡を忘れているわ。手がかりがあるじゃないの」
彼女は童謡の一節を口にした。
「四人のインディアンの少年が海に出かけた。一人が燻製のにしん[#「にしん」に傍点]にのまれ、三人になった」
彼女は言葉をつづけた。
「燻製のにしん[#「にしん」に傍点]──それが手がかりよ。アームストロングは死んではいないのよ……インディアンの人形を一つ減らして死んだように見せかけたんだわ。あなた方はどう思うかしらないけど──アームストロングはまだ島にいるのよ。燻製のにしん[#「にしん」に傍点]で人目をくらますっていうことがあるじゃないの」(猟犬をならすときに燻製のにしんを使うところから道に燻製のにしんをおく≠ニいうと、注意を他のことにそらすという意味になる)
ロンバードは言った。
「なるほど、きみの言うとおりかもしれない」
ブロアは言った。
「しかし、それなら、奴はどこにいるんだろう。邸宅の中も外も、すっかり探したんだ」
ヴェラは嘲笑するように言った。
「ピストルを探したときも見つからなかったけれど、どこかにあったはずじゃないの!」 ロンバードは言った。
「人間とピストルでは、少しばかり大きさがちがうよ」
ヴェラは言った。
「でも、私の言うことにまちがいはないと思うわ」
ブロアが横から口を出した。
「だが、すすんで手がかりをあたえるようなことをするかね。燻製のにしん[#「にしん」に傍点]なんてことを書かないで、ちがう言葉にしておいてもいいんだ」
ヴェラは熱のこもった声で言った。
「まだわからないの。犯人はまともじゃないのよ。童謡のとおりに殺してるんだから、異常な人間のすることだわ。判事に赤いカーテンを着せたり、ロジャースを薪を割っているときに殺したり、ミセス・ロジャースをいつまでも目がさめないようにしたり、ブレントさんが死んだときに蜂を飛ばせたり、正気の人間がすることじゃないわ! みんな、童謡のとおりになっているのよ」
ブロアは言った。
「なるほど、あんたの言うとおりだね」彼はちょっと考えて、言葉をつづけた。「しかし、この島に動物園はない。この次は童謡のとおりというわけにはゆくまい」
ヴェラは叫んだ。
「あるわ! 動物は私たちよ!……昨晩の私たちは人間とは言えなかったわ。私たちが動物よ」
2
彼らは午前中、崖の上から陸に鏡を反射させて暮らした。
応答はなかった。空は晴れ上がって、快い微風が吹いていた。しかし、海はまだ波が高く、船は一隻も出ていなかった。もう一度、島の捜索を行なった。医師の姿はどこにもなかった。
ヴェラは立っているところから邸宅を見つめた。
「外にいるほうが怖くないわ。もう、邸内へ入るのはよしましょう」
ロンバードは言った。
「いい考えだ。たしかに、ここにいれば安全だ。近づいてくるものがあれば、遠くからわかる」
「ここにいましょうよ」
ブロアが言った。
「夜はどうする。邸内へ戻らなければならないぜ」
ヴェラはからだを震わせた。
「私、我慢ができないわ! もう、邸内で夜はすごせないわ!」
フィリップは言った。
「鍵をかけておけば、怖いことはないさ」
「そうかもしれないけれど……」彼女はつぶやいた。「こうしてまた、太陽が浴びられるのは、いい気持ちだわ……」
彼女は手をながながとのばして考えた。(不思議なことだ……こうしていると、幸福に包まれているようだが、実はまだ大きな危険にさらされているのだ……しかし、少しもそんな気がしない……私が死ぬなんて……)
ブロアは腕時計を眺めた。
「二時だ。昼食をどうする」
「邸宅へ戻るのはいやよ。私はここにいるわ」
「そんなことを言っても──何か食べておかなければ……」
「私、タンを見ただけで、気持ちが悪くなるわ! 何も食べたくないのよ。二、三日なにも食べなくても、平気だわ」
「私は一度でも食事を欠かしたくないからね。……きみはどうする、ロンバード君」
「ぼくもタンはぞっとしない。クレイソーンさんとここにいるよ」
ブロアは躊躇した。ヴェラは言った。
「私は平気よ。あなたがいなくなっても、ロンバードさんが私を射つとは思わないわ」
ブロアは言った。
「あなたがそう言うのなら、かまわないが……互いに離れない約束だったから……」
「ライオンの洞穴に入ろうと言いだしたのはきみじゃないか。──何なら、ぼくが一緒に行ってもいいぜ」
「いや、来ないでいい」と、ブロアは言った。「きみはここにいてくれ」
フィリップは笑った。
「まだ、ぼくを警戒しているのか。殺そうと思えば、いまだって、二人とも殺せるんだぜ」
「しかし、それでは計画とちがってくる。一度に一人ずつだし、殺し方に注文があるんだ」
「なるほど」と、フィリップは苦笑した。「きみはよく知ってるんだな」
「知ってるとも」と、ブロアは言った。「しかし、一人で邸宅へ行くのは、いい気持ちじゃない……」
フィリップは落ち着いた声で言った。
「だから、ぼくのピストルを貸してくれというのかね。返事はノーだ。お断りするよ! せっかくだが、そう簡単にはいかないよ」
ブロアは肩をすくめて、邸宅へ通じている急な斜面をのぼっていった。
ロンバードは低い声で言った。
「動物園で餌をやる時間なんだ。動物は習慣には忠実だからね!」
ヴェラは心配そうに言った。
「一人で行くの、危険じゃないかしら」
「いや、そんなことはない。アームストロングは武器を持っていないし、力ならブロアのほうが二倍は強い。それに、あの男は油断をしない……どっちにしても、アームストロングが邸内にいるはずはない。ぼくにはわかってるんだ」
「しかし──他に答えがあるかしら?」
フィリップはそっと言った。
「ブロアさ……」
「ほんとうに、そう信じているの」
「いいかい。きみはブロアの話を聞いたろう。彼の言ったことが事実なら、ぼくはアームストロングの失踪と関係はないはずだ。彼の話がそれを証明してくれている。しかし、彼のことはわからない。足音を聞いたとか、裏へ出ていった人影を見たとか言っているのは、嘘かもしれないんだ。それより前にアームストロングを殺していたかもしれないんだ」
「どんなふうに?」
ロンバードは肩をすくめた。
「それはわからない。しかし、われわれはブロアさえ警戒していればいいんだ。あの男のことについては、何もわかっていない。警部だったという話も、でたらめかもしれないんだ。変わり者の金持か──脱獄した凶悪犯人か──どんな人間か、わからないんだ。ただ一つ、たしかなことは──いままでの殺人はことごとく彼の仕業と思える点があることだ」
ヴェラの顔色が青くなった。
「そして、私たちを襲ってきたら……」
ロンバードはポケットのピストルをたたいて言った。
「ぼくにまかせておきたまえ。きみはぼくを信じているはずだ。ぼくはきみを射ちはしない」
ヴェラは言った。
「誰かを信じないではいられないわ……でも、ほんとうのことを言うと、あなたの考えはまちがっていると思っているのよ。私はいまでも、アームストロングだと思ってるわ」
突然、彼女はフィリップのほうにからだを向けた。
「あなたはいつも誰かに見られているように感じない?」
ロンバードは言った。
「神経だよ」
「では、感じているのね」
彼女はからだを震わせて、ロンバードのそばへよった。
「私、こんな話を聞いたことがあるわ──二人の判事がアメリカの小さな町へ来たのよ──彼らはあくまで正義を主張して、どんな小さなことも赦さなかったのよ。なぜなら、彼らはこの世から来たものではなかったからよ」
「天から来たと言うのか」ロンバードは眉をぴくりと動かして言った。「いや、ぼくはそんなことは信じない。この事件はどこまでも人間の匂いがしているよ!」
ヴェラは低い声で言った。
「でも、私は──ときどき……」
ロンバードは彼女を見つめた。
「それは良心だよ」彼はしばらく黙ってから、低い声で言った。「きみはあの子供を溺れさせたんだね」
ヴェラは叫んだ。
「いいえ! あなたがそんなことを言う権利はないわ!」
彼は笑って、言った。
「たしかに溺れさせたんだ。理由はわからない。おそらく、男が関係しているんだろう。そうだろう」
はげしい疲労が急にヴェラを襲った。彼女は、疲れきった声で言った。
「ええ──男がいたわ」
ロンバードはやさしく言った。
「ありがとう。それだけ聞けは結構だ」
突然、ヴェラが座りなおした。彼女はかんだかい声で叫んだ。
「何でしょう。地震じゃないかしら」
「いや、そうじゃない。しかし、妙な音がしたようだったな。地ひびきも聞こえたようだった。それに──叫び声が聞こえたようだったが……」
彼らは邸宅を見つめた。
ロンバードは言った。
「向こうから聞こえてきたんだ。行ってみよう」
「いいえ、私は行かないわ」
「勝手にしたまえ。ぼくは行くぜ」
ヴェラは諦めたように言った。
「いいわ。一緒に行くわ」
彼らは斜面を邸宅へ上っていった。テラスは明るい太陽に照らされていた。彼らは正面から邸内へ入らないで、邸宅にそってまわりはじめた。
東側のテラスで、彼らはブロアを発見した。ブロアは大きな白い大理石で頭をつぶされ、テラスの石の上に倒れていた。
フィリップは上を見上げた。
「あの窓は誰の部屋だろう」
ヴェラは声を震わせて言った。
「私の部屋よ──あれは炉棚にあった時計よ……そうだわ、熊の形をしていたんだわ……」
彼女はもう一度、震える声でくりかえした。
「熊の形をしていたんだわ……」
3
フィリップは彼女の肩を押さえた。
「これでわかった。アームストロングは邸内に隠れているんだ。行って、捕まえてくる!」
ヴェラは彼の腕をとらえて、叫んだ。
「いけないわ。こんどは私たちよ! 私たちが探しに行くのを待ってるんだわ!」
フィリップは足をとめた。
「そうかもしれない」
ヴェラは言った。
「とにかく、私が正しかったことは認めたでしょう」
彼はうなずいた。
「きみの勝ちだよ。たしかに、アームストロングだ。しかし、どこに隠れていたんだろう。あれだけ探したのに……」
ヴェラが彼をさえぎって言った。
「ゆうべ見つからなかったのなら、いまだってわからないわ……それが常識よ」
ロンバードはそれをうけて、
「それはそうだが……」
「どこかに、秘密の隠れ場所をつくってあるのよ。古い邸宅にある秘密の部屋のようなところをつくらせてあるのよ」
「ここはそんな家じゃない」
「つくらせることはできたわ」
フィリップ・ロンバードは頭を振った。
「最初の朝、われわれは邸宅の中を綿密にしらべた。そんな場所があるはずはない」
「でも、あるはずだわ」
「あれは、見たいよ」
ヴェラは叫んだ。
「そうよ、見たいでしょう! 彼はそれを知ってるのよ! そこで、あなたを待ってるのよ!」
ロンバードはポケットからピストルを半分出して、言った。
「ぼくはこれを持ってるんだぜ」
「でも、あなたはブロアは安心だと言ったわ。アームストロングがかなうはずはないと言ったわ。それに、ブロアは油断をしなかったはずよ。あなたはアームストロングが気が変になっていることを忘れたんだわ! そういうときは普通の人間には考えつかないことを思いつくのよ」
ロンバードはピストルをポケットにおさめた。
「戻ろう」
4
やがて、ロンバードは言った。
「夜になったら、どうするんだ」
ヴェラは答えなかった。彼はとがめるようにつづけた。
「それは考えていなかったんだね」
彼女はからだを震わせて言った。
「どうしたら、いいでしょう。私、恐ろしくて……」
ロンバードは慰めるように言った。
「今夜は天気がいい。月も出る。崖の上に場所を探そう。そこに座って、朝になるのを待てばいい。眠ってはいけない。しじゅう、警戒しているんだ。もし、誰か来たら、ぼくが射ち殺してしまう!……しかし、その薄い服では、寒いだろう」
ヴェラは冷ややかに笑った。
「寒い? 死んでしまえば、もっと冷たくなるわ」
フィリップ・ロンバードは低い声で言った。
「そうだ、そのとおりだ」
ヴェラは落ち着かないようにからだを動かした。
「ここにじっとしていると、気が変になりそうだわ。少し歩きましょう」
「いいだろう」
彼らは海にのぞんだ岩の上をゆっくり歩いていった。太陽は西に沈みかかっていた。やわらかい金色の光線が二人のからだを包んでいた。
ヴェラは突然神経質な笑い声を立てて、言った。
「泳いでいられないのが残念だわ」
フィリップは海を見おろしていた。突然、彼は言った。
「あれは何だろう。あの大きな岩のところに見えるのは……いや。もう少し右の岩だ」
ヴェラは言った。
「服のようだわ」
「泳いでいる奴がいるというのかい」と、ロンバードは笑った。「おかしいぜ。海藻だろう」
「行ってみましょう」
「服だ」と、ロンバードは歩きながら言った。「たしかに服だ。靴もある。ここを伝って行ってみよう」
彼らは岩を伝って、近づいていった。
突然、ヴェラは立ちどまった。
「服だけじゃないわ。──人間だわ」
それは岩のあいだにはさまれている人間だった。満潮のときに打ち上げられたのであろう。彼らはすぐそばの大きな岩の上からのぞきこんだ。
紫色になった顔──ぞっとするような溺れた顔……。
ロンバードは言った。
「見たまえ! アームストロングだ……」
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第十六章
1
時刻《とき》が過ぎた……世界はめまぐるしく回った……時は動きがなく……じっと立ちどまって──千年をすごした……。
いや、一、二分たっただけだった……。
二人は岩の上に立って、死んだ男を見おろしていた……。
ヴェラ・クレイソーンとフィリップ・ロンバードはしずかに頭を上げて互いに目を見つめあった。
2
ロンバードは笑った。
「やっとわかったぜ、ヴェラ」
ヴェラは言った。
「島には誰もいないんだわ──私たち二人だけしか……」
ほとんどささやいているような声だった。
「そうなんだ。これで、われわれの立場もわかったわけさ」
「あの大理石の熊は──どうして落ちたのかしら」
彼は肩をすくめた。
「うまいトリックさ。みことなもんだ」
彼らはふたたび、目を見合わせた。
ヴェラは思った。なぜ、この男の顔を気をつけて見なかったのだろう。狼だ──そうだ──狼の顔だ……恐ろしい歯を見るがいい……。
ロンバードは言った。恐ろしいひびきを持った声だった。
「いよいよ、終わりだぜ。やっと、真実があらわれたんだ。そして、すべては終わるんだ……」
ヴェラはしずかに言った。
「わかってるわ……」
彼女は海を見つめた。マカーサー将軍は海を見つめていた。──いつであったろう──昨日だったろうか。いや、一昨日だったであろうか。彼もそう言った。「これが終わりなんだ……」
彼はそのときを待っていたようだった──喜んでいるようであった。
しかし、ヴェラはその言葉に反発を感じた。いや、終わりであってはならない。
彼女は死んでいる男を見おろした。
「お気の毒だわ」
ロンバードは薄笑いをもらした。
「何だって? それが女のあわれみかい」
「そうよ。あなたは少しも気の毒と思わないの」
「少なくとも、きみに対しては感じない。期待しないでもらいたいね」
ヴェラはふたたび死体を見おろした。
「運ばなければいけないわ。邸内へ運びましょう」
「他の被害者の仲間入りをさせるんだね。仕事はきちんとしなければならんからね……ぼくなら、あそこに置いておくよ」
ヴェラは言った。
「とにかく、波のとどかないところまで引き上げましょう」
ロンバードは笑った。
「お望みならね」
彼はからだをまげて、手をのばした。ヴェラも彼のそばへ行って、手を貸した。ロンバードは息をきらして、言った。
「楽な仕事じゃない」
彼らはやっと、満潮になっても波の来ないところへ死体を引き上げた。
ロンバードはからだをのばして、言った。
「気がすんだかね」
ヴェラは言った。
「すんだわ!」
彼女の声の調子が彼をはっとさせた。彼は慌てて、向きなおった。ポケットへ手を持っていかないうちから、空《から》であることがわかっていた。ヴェラは二メートルほど後へ退って、ピストルを彼に向けていた。
ロンバードは言った。
「柄になくあわれみの心を見せたのは、それが目的だったんだな! ぼくのポケットを探るためだったのか」
ヴェラはうなずいた。
ピストルをじっと突きつけたままだった。
死はフィリップ・ロンバードのすぐそばまで迫っていた。死がこんなに近くまで彼に迫ったことはなかった。
しかし、彼はまだ屈しなかった。
彼は言った。
「ピストルを渡したまえ」
ヴェラは笑った。
「渡すんだよ」
彼はとっさに頭を働かせた。どうしよう──説き伏せようか──うまく言いくるめようか──それとも、飛びかかろうか──。
今までロンバードはいつも危険な道をえらんできた。
彼はゆっくり切り出した。
「まあ、ぼくの言うことを聞いてくれ。ぼくは……」
そして彼は躍りかかった。豹のようにすばやく飛びかかった……。
無意識のうちに、ヴェラは引き金を引いた……。
ロンバードのからだが空中でとまって、それから、どっと地面に落ちた。
ヴェラは銃口を向けたまま、しずかに前へ進んだ。
しかし、警戒の必要はなかった。
フィリップ・ロンバードは死んでいた──心臓を射抜かれて……。
3
ヴェラの心に安息が訪れた──大きな、このうえない安息が。
やっと、すべては終わったのだ。
もう何も恐れるものはない──神経を脅かすものはない。
島には彼女一人しかいない……。
彼女のほかに九つの死体……。
しかし、もう、気にすることはない。彼女は生きているのだ。
彼女はそこに腰をおろした──幸福と平和を感じながら──恐怖から解放されて……。
4
ヴェラがやっとからだを動かしはじめたとき、太陽は沈みかかっていた。何も考える気になれなかったのだ。恐怖から解放された安心感から、からだを動かす気にもなれなかったのだ。
彼女はいま、空腹を感じ、睡気を催してきた。睡気のほうがつよかった。ベッドにからだを投げて、いつまでも眠りたかった。明日になれば、救いの船が来るであろう。しかし、いまとなっては、そんなことはどうでもよかった。島にいることも、もう恐ろしくはなかった。彼女のほかには、誰もいないのだ……。
ヴェラは立ち上がって、邸宅を見つめた。
もう、恐れる必要はない! 彼女を待っている恐怖はなくなったのだ! どこにでもある近代建築にすぎない。しかし、ほんの一、二時間前までは、邸宅を見ただけで、からだが震えたのだった
恐怖──恐怖とはなんと不思議なものではないか……。
それもいまはすぎ去ってしまった。彼女は恐ろしい危険に打ち勝ったのだ。機敏に頭を働かせて、彼女を破滅させようとしていた敵を倒したのだった。
彼女は邸宅に向かって歩きはじめた。
太陽はほとんど沈みかかっていて、西の空は赤とオレンジ色に彩られていた。美しく、平和な風景だった。
ヴェラは思った。いままでのことは夢だったのかもしれない……。
彼女は疲れていた。手足は痛み、まぶたが目におおいかぶさりそうだった。もう、恐れることはない。眠るのだ……。
もう、安全に眠れるのだ。インディアンの少年がたった一人、残されたのだ。彼女はそう思って、微笑を浮かべた。
彼女は正面の入口から邸宅に入った。邸内も平和にみちていた。ヴェラは思った。普通の人間なら、ほとんどどの部屋にも死体がある邸宅で寝ようとはしまい。
台所へ行って、何か食べたほうがいいであろうか。
ヴェラはちょっと考えて、何も食べないことに決めた。ほんとうに、疲れきっているのだ。彼女は食堂のドアのところで足をとめた。テーブルの真ん中に、インディアンの人形が三つ載っていた。
ヴェラは笑った。
「またいたの? おくれてるじゃないの」
彼女は人形を二つ取り上げて、窓から投げ捨てた。人形はテラスの石に当たって砕けた。
彼女は残った最後の人形を握って、言った。
「お前は私と一緒においで。私たちは勝ったのよ……」
ホールはもう薄暗かった。ヴェラは人形を握って、ゆっくり階段を上がっていった。
(一人のインディアンの少年が後に残された──最後の文句はどう終わっていたのだろう。そうだった──彼が結婚して、後には誰もいなくなった)
結婚して……不思議なことに、彼女はふたたび、ヒューゴーが邸内にいるように感じた。……そうだ、ヒューゴーは二階で彼女を待っているのだ。
ヴェラは自分に言い聞かせた。
「ばかなことを考えるものではない。疲れているのだ。疲れているので、とんでもないことを考えるのだ……」
彼女はゆっくり階段を上がっていった……。
上がりきったところで、彼女の手から落ちたものがあった。絨毯がやわらかくて、厚かったので音はほとんどしなかった。ヴェラはピストルを落としたことに気がつかなかった。そして、小さな人形だけをしっかり手に握っていた。邸内はひっそりと静まりかえっていた。しかし──空家のようではなかった……。
ヒューゴーが二階で彼女を待っている……。
「一人のインディアンの少年が後に残された」最後の文句は何といったかしら。結婚するというようなことだった──それとも、ほかのことだったかしら。
彼女は自分の部屋のドアのところまで来た。ヒューゴーが部屋の中で待っている……彼女はそう信じていた。
彼女はドアをあけた
そして、思わず声をあげた……あれは何だろう──天井の鈎《かぎ》からぶら下げてあるものがあった。首をくくる輪がつくってあるではないか。椅子もおいてある──足で蹴ればいいばかりになって……。
これがヒューゴーが彼女に求めていることなのだ……。
そして、もちろん、それが最後の文句だったのだ。
「彼が首をくくり、後には誰もいなくなった」
小さな陶器の人形が彼女の手から落ちた。人形は床を転がって、暖炉の灰除けにぶつかって壊れた。
彼女はそれに気がつかなかった。ヴェラは自動人形のように前へ進んだ。これが終わりなのだ──ここで、冷たい濡れた手が(もちろん、シリルの手だった)──彼女ののどにふれたところで……。
「岩へ泳いでいっていいわ、シリル……」
それが殺人だったのだ──そう言っただけで殺人が行なわれたのだ。わけのないことだった。
しかし後になると、そのことがいつまでも忘れられなかった……。
ヴェラは夢遊病者のようにじっと正面に目をすえて、椅子に上った。……細い輪になったところに首を入れた。
ヒューゴーがそこにいて、彼女が当然なすべきことをするのを見つめていた。
ヴェラは椅子を蹴った……。
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エピローグ
ロンドン警視庁副警視総監トマス・レッグ卿はいらいらしていた。
「しかし、そんなことは信じられん!」
メイン警部はかしこまって言った。
「ごもっともです」
副警視総監は言葉をつづけた。
「十人の人間が島で死んでいる。生き残ったのは一人もいない。そんなばかなことがあるか!」
メイン警部は言った。
「しかし、事実なのです」
レッグ卿は言った。
「殺したものがいるはずではないか」
「それがわからんのです」
「検死の結果に手がかりはないのか」
「ありません。ウォーグレイヴとロンバードはピストルで射たれています。前者は頭部を、後者は心臓を射抜かれています。ミス・ブレントとマーストンは青酸カリの中毒で死んでいます。ミセス・ロジャースはクロラールののみすぎです。ロジャースは後頭部の下を割られています。ブロアは頭部をつぶされています。アームストロングは溺死です。マカーサーは後頭部を打ち砕かれ、ヴェラ・クレイソーンは首をくくられています」
副総監は眉をよせた。彼は言った。
「ひどい事件だ──どこからどこまで」
彼は一、二分考えていた。そして、もどかしそうに言った。
「スティクルへヴンの村民からは何も聞き出せなかったというのか。何も知らぬということはなかろう」
メイン警部は肩をすくめた。
「小さな漁村で、純朴な人間ばかりなんです。オーエンという人間が島を買ったということだけしか知らないのです」
「島の売買やこまかい事務を扱ったものがいるだろう」
「アイザック・モリスという男です」
「その男はどう言っておる」
「何も聞き出せません。死んでいるのです」
副総監は苦い顔をした。
「そのモリスという男のことはしらべたかね」
「しらべました。あまり感心のできる人間ではありません。三年前、ベニトの株券詐欺事件に関係しているのです──証拠はあがっていませんが。関係があったことは確実なのです。麻薬の密売などもしていたようですが、これも証拠があがっていません。すこぶる用意周到な人間なのです」
「その男がこんどのインディアン島事件にも関係しているのだな」
「そうです。島の売買契約は彼が行なっています──もっとも、ほんとうの買い主が第三者であることは、彼も明らかにしております」
「金は誰が出してるのだ。そのへんに手がかりがあるはずではないか」
メイン警部は微笑した。
「それがないのです。モリスはそんなことで尻尾をつかまれる人間ではないのです。英国一の会計士にしらべさせたところで、おそらく無駄でしょう。すでにベニト事件のときに、われわれは苦汁をなめさせられているのです。こんども、買い主の名前がどうしてもわからないのです」
副総監は溜息を吐《つ》いた。
メインは言葉をつづけた。
「スティクルヘヴンでも、オーエンなるものの代理として、彼がすべてのことを取り計っています。島で一週間、陸と交渉を断って暮らす賭けをするのだから、救助を求められても気にしないでくれ──村民にこう説明したのもモリスなのです」
「そんなことを言われても、村民は怪しまなかったのかね」
メインは肩をすくめた。
「閣下はインディアン島がアメリカの若い富豪エルマー・ロブスンのものであったことを忘れておられる。ロブスンはしじゅう、奇想天外なパーティを催していました。村民もはじめは目をまるくしたようですが、しまいには慣れてしまって、インディアン島のこととなると、どんな話を聞いても驚かないようになってしまったのです」
副総監は苦りきって、うなずいた。
メインは言った。
「もっとも、一同を島へ運んだフレッド・ナラカットという男が興味のある証言を行なっております。今回の客はロブスン氏の客とはまったくちがっていたと、言っているのです。ナラカットが救助信号があったことを聞くと、モリスの命令があったにもかかわらずボートを出したのは、招かれたものがロブスンの客とはちがって、とくに変わったところのない人間ばかりだったからでしょう」
「彼がボートを出したのはいつだね」
「十一日の朝、丘の上にいたボーイ・スカウトの一行が救助信号に気がついたのです。しかし、海が荒れていましたので、救助隊が島に出かけたのは十二日の午後でした。それまでに島から出たものがいないことは確実のようです。嵐の後で海が荒れていたのです」
「泳いでは陸に渡れないのか」
「一マイル以上ありますし、海が荒れていましたから、とても泳げますまい。万一、泳いで陸に渡ったものがいたとすれば、ボーイ・スカウトや崖から海を眺めていたものに発見されているはずです」
副総監は言った。
「邸内にあったレコードからは手がかりはつかめなかったのか」
メイン警部が言った。
「私が調査しました。レコードは劇場や映画の音響効果を引きうけている会社で製作されたものでした。アイザック・モリスを通じてU・N・オーエンなるものが注文したことになっていまして、素人芝居に使用するということでした。原稿はタイプで打たれていて、レコードと一緒に返却されています」
レッグは言った。
「レコードの内容についてはどうか」
メイン警部はもったいをつけて言った。
「申しあげようとしたのです」
彼は咳ばらいをした。
「能《あた》うかぎりの調査を致しました。最初に島に来ていたロジャース夫妻のことから申しあげますと、彼らはたしかにミス・ブレイディのところで働いていました。ミス・ブレイディの急死については、毒殺の疑いはありません。ただ、立ち会った医者の言うところによりますと、いささか不審な点があって、おそらく、ロジャース夫妻が適切な処理を怠ったのであろう、とのことでした。これはとうてい証明できないことなのです。……次はウォーグレイヴ判事ですが、レコードが言ったとおり、シートン事件に判決を下した判事です。ついでに申しあげますが、シートンは、明らかに有罪でした。死刑になった後で、動かしがたい証拠があらわれています。しかし、当時は十人のうちの九人までがシートンの無罪を信じていて、判事の弁論が彼を有罪にしたという噂がもっぱら広まっていたようです。クレイソーンという娘が家庭教師をしていた家で溺死した少年があったことも、事実でした。しかし、彼女は事件に何も関係はないようです。事実、少年を救おうとして、潮に流され、危ういところを救われているくらいなのです」
「それから」と、副総監は先をうながした。
メインは一息ついて、言った。
「それから、アームストロング医師です。名の知れている医者で、ハーレー街に診察室を持っております。医者仲間でも評判がよく、不正な手術を行なったような形跡はありません。しかし、一九二五年、まだリースモアの病院に勤めていたころ、彼が手術したクリースという女が手術台の上で死んだことは事実でした。腹膜炎でしたが、手術がまずかったかもしれません。まだ、経験も浅かったのでしょう。しかし、経験の不足は犯罪にはなりません。もちろん動機はないのです。……その次はエミリー・ブレントです。ビアトリス・テイラーという娘は彼女に雇われていた召使でした。妊娠したので、馘首《くび》になり、投身自殺をしています。後味のわるい話ですが、しかし、これも犯罪とはいえません」
「そこだ」と、副総監は言った。「そこなのだ。U・N・オーエンは法律の手の届かない事件に制裁を加えようとしたのだ」
メインはなお言葉をつづけた。
「マーストンという青年はしじゅう危険な運転をしていた男で、運転免許証を二度も取り上げられています。ジョンならびにルーシー・カムズというのは、彼がケンブリッジ付近でひき殺した子供たちでした。そのときは、彼の友人数名が証人になって、事件は軽い罰金で解決しています。マカーサー将軍については、何も発見できませんでした。非のうちどころのない立派な軍人だったようです。アーサー・リチモンドは彼の部下でして、フランス戦線で戦死しています。将軍は彼を可愛がっていて、二人のあいだに摩擦があったとは思われません。もっとも、当時、司令官たちが部下を犠牲にしすぎるという中傷が行なわれていたようです。マカーサー将軍の場合も、この種の中傷であったと思います」
「ありそうなことだ」と、副総監は言った。
「フィリップ・ロンバードは海外でいろいろのことをしていたようです。法律にふれるようなこともしていたかもしれません。胆のすわった男で、堅気の仕事ばかりしていたとも思えませんから、われわれの目の届かないところで殺人をおかしているかもしれません。それから、ブロアですが……」メインはちょっと言葉を切って、躊躇した。
「ご承知のように、警部をつとめていた男です」
副総監は吐きすてるように言った。
「ブロアは悪い奴だ」
「そうお考えですか」
「私はむかしからそう思っておったが、しかし、なかなか小才の利く男らしく、決して尻尾を出さない。ランダー事件でも、たしかに偽証を行なっている。私はそう睨んだので、ハリスにしらべさせたが、証拠はあがらなかった。いまでも残念に思っている」
二人のあいだに、沈黙が流れた。そして、レッグ卿は言った。
「アイザック・モリスは死んでいると言ったな。いつ死んだのだ」
「八月八日の晩です。睡眠薬をのみすぎたのですが、事故であったのか、自殺であったのか、いまだに明らかになっておりません」
「私の推察を言おうか」
「想像はついております」
レッグは言った。
「モリスの死は偶然ではあるまい!」
メイン警部はうなずいた。
「そうおっしゃることと思っておりました」
副総監は拳でテーブルをたたいた。
「こんな奇怪な事件は聞いたことがない! 十人の人間が岩ばかりの島で殺されていて、犯人も、動機も、殺害の方法もわからんのだ!」
メインは咳ばらいをして、言った。
「動機については、推察することができます。異常な正義感を持った人間がいて、法律では裁けない犯罪を裁こうとしたのでしょう。犯人はそういう根拠から十人の人間をえらんだものと思われます──十人のものが十人ともほんとうに罪を犯しているかどうかは問題ではなく……」
副総監は鋭い声でメインの言葉をさえぎった。
「待ってくれ。そこのところは……」
彼は言葉を切った。メインは黙って、待っていた。レッグは溜息を吐《つ》いて頭を振った。
「話をつづけてくれ。手がかりをつかみかけたように思ったが、どうも確信が持てない。話の先を聞こう」
メインは話をつづけた。
「つまり、死刑の執行をうける人間が十人いたわけです。そして死刑はとどこおりなく執行されたのです。U・N・オーエンは計画どおり刑の執行を終わって、島から姿を消してしまったのです」
「しかし、姿を消したといっても、どんな方法で消したのか、説明が要るだろう」
メインは言った。
「おっしゃるまでもなく、そこが重要な点なのですが、関係者の証言を総合しますと、オーエンなるものは島に行っておりません。したがって十人のうちの一人がオーエンであったと考えるほか、説明のしようがありません」
副総監はうなずいた。
「われわれはこの仮定のもとに、事件を組み立ててみました。さいわい、インディアン島でどんなことが起こったかは、おぼろげながらわかっております。ヴェラ・クレイソーンは日記をつけていました。エミリー・ブレントもつけていました。ウォーグレイヴはメモを残しています──簡単なものですが、要領を得たものでした。ブロアもメモをつけていました。これらの日記やメモを総合してみますと、死んだのは次のような順序になっております。──マーストン、ミセス・ロジャース、マカーサー、ロジャース、ミス・ブレント、ウォーグレイヴ。……ウォーグレイヴが死んでからは、ヴェラ・クレイソーンの日記に、アームストロングが夜半に邸宅を出て、ブロアとロンバードが後を追った、としるしてあります。ブロアの手帳には、ただ一言、アームストロング、姿を消す≠ニ、書き加えてあるだけでした。
ところで、われわれは以上の資料を考慮に入れて、ほとんど完全に事件を解決できると思っていました。アームストロングは溺死しているのですが、かりに彼が気が変になっていたものとして、他のものをことごとく殺害してから、崖から飛び降りて自殺をしたとも考えられるし、あるいは陸に泳いでいこうとして溺れたものと考えることもできるのです。ところが、これはありえないことです。ここに警察医の証言があるのです。彼は八月十三日の早朝、島に渡って、死体の検査を行なっています。後の証言によると、死体はすべて、死後、三十六時間以上を経過しているということでした。そのほかには、とくに手がかりになるような証言をしていませんが、アームストロングについては、死体が波に打ち上げられるまで、八時間から十時間は水中にあったと証言しています。この証言から推察いたしますと、アームストロングは十日夜のうちから十一日のあいだに海に入ったことになります。──それは、こういう理由で説明できるのです。われわれは彼の死体が波に打ち上げられて岩と岩のあいだにはさまったと思われる場所を発見しました。岩と岩のあいだに衣服や毛髪の一部が付着していたのです。おそらく、十一日の満潮時に打ち上げられたもので──しらべてみますと、午前十一時前後と、いうことになります。十一日の午後からは、波がしだいにおさまってきて、満潮時の水位も低くなっているのです。
──したがって、アームストロングは十日の夜、他の三人を殺して、その夜のうちに海に入ったという推理がなり立つのです。
ところが、もう一つ、見のがすことのできない事実があります。アームストロングの死体が満潮時にも水が届かないところまで引き上げられてあるのです。いくら波が高いときでも、そこまでは、水がとどかないのです。しかも何者かによって地上に寝かされた形跡が明らかなのです。
したがって、アームストロングが死んでからも、生きているものがいたことは確実と思われるのです」
メインはしばらく言葉を切って、またつづけた。
「以上の事実によって、十一日の朝の状熊を推察しますと、次のようになります。アームストロングはすでに姿を消しております。おそらく溺れていたのでありましょう。残っているものは、ロンバード、ブロア、ヴェラ・クレイソーンの三人です。。ロンバードは射殺されております。死体は海岸に横たわっていました──アームストロングの死体の近くでした。ヴェラ・クレイソーンは自分の部屋で首をくくられております。ブロアの死体はテラスにありました。頭を重い大理石でつぶされていて、その大理石は頭の上の窓から落とされたものと思われるのです」
副総監は鋭く言った。
「誰の部屋の窓だね」
「ヴェラ・クレイソーンの部屋です。──そこで、われわれはこの三人の場合を別々に考えてみました。……まず、フィリップ・ロンバードです。彼が大理石を落としてブロアを殺し、ヴェラ・クレイソーンを何らかの手段で殺してからロープにつるし、それから、海岸へ行って、ピストルで自殺したとしますと──誰が彼の手からピストルを取り上げたか、その説明がつきません。ピストルは階段を上がったところのウォーグレイヴの部屋の中で発見されているのです」
副総監は言った。
「指紋はあったのか」
「ありました。ヴェラ・クレイソーンのものでした」
「では、彼女が……」
「われわれもそう思いました。彼女がロンバードを殺し、ピストルを持って邸内にもどり、大理石を落として、ブロアを殺し、それから、自殺を図ったものと考えてみました。ヴェラの部屋の椅子に、彼女の靴に付着している海藻の痕が残っているのです。まず、椅子に上がり、ロープを首に巻いて、椅子を蹴ったものと考えられないこともありません。──ところが、その椅子は蹴られていないのです。他の椅子と同じように、きちんと壁に押しつけてならべられてあるのです。つまり、ヴェラ・クレイソーンが死んでから、他のものの手で片づけられているのです」
「うむ」
「すると、残るのはブロアです。しかし、彼がロンバードを射殺し、ヴェラ・クレイソーンに首をくくらせ、それから、表へ出て、紐て細工するかどうかして大理石を自分の頭の上に落としたとは、どうしても考えられません。そんな方法で自殺をするものはおりますまい──とくに、ブロアは、そんなまわりくどいことを考える男ではありません。だいいち、閣下もご承知のように、ブロアは法律の手の届かぬ犯罪に正義の裁きを下そうとするような男ではありません」
「そうだ」と、副総監はうなずいた。
メイン警部は言った。
「したがって、どうしても、十人の人間のほかに誰かが島にいたことになるのです。十人の人間がことごとく死んでから、後の始末をしたものがいたのです。しかし、彼はどこに隠れていたのでしょう──そして、どこへ姿を消してしまったのでしょう。救助隊の一行が島に着くまでに島から出たものがないことについては、スティクルヘヴンの村民が確言しています。おそらく、これは絶対に確実なことでしょう。しかし、それが確実であるとすると……」
メインは言葉を切った。
副総監は言った。
「それが確実であるとすると」
メイン警部は深い息を吐いて、頭を振った。そして、からだを乗り出した。
「それが確実であるとすると誰が十人の人間を殺したのでしょうか」
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漁船「エマ・ジェーン」号の船長から
ロンドン警視庁に送られた告白書
私は幼少のころから自分の性格が矛盾の多いものであることに気がついていた。その私の性格の中にロマンティックな夢にあこがれる一面があった。重要書類を瓶に封入して海中に投ずることは、幼いときに冒険小説を読んで以来の私の夢であった。この夢は、いまだに覚めていない。私がこの告白書を瓶に封入して海に投ずるのは、その夢を実現したかったからである。おそらく、この告白書が発見される機会は百に一つしかないであろう──そして、この告白書が発見されないかぎり(あるいは、これは私のうぬぼれであるかもしれないが)この殺人事件の謎は永久に解かれないであろう。
私はロマンティックな夢にあこがれることのほかにも、さまざまの性格を持っていた。死を目撃することに病的な快哉《かいさい》を覚えることもその一つだった。私は幼いころ、蜂その他の昆虫を捕まえて、さまざまの実験を試みたことを覚えている。そのころから、私は殺すということにいいしれぬ快楽を味わっていたのである。
しかし、私はこの性格とまったく矛盾する性格を持っていた──強い正義感である。罪のない人や動物が苦しんだり死んだりすることは、私には堪えられぬことであった。私はつねに、正義が行なわれねばならぬことを強く感じていた。
私が職業として法律をえらんだのは、以上の性格がしからしめたところである。このことは容易に理解してもらえるものと思う──少なくとも心理学者なら、ただちに理解できるはずである。法律を実施する職業はほとんどすべての私の本能を満足させてくれるのである。
犯罪と刑罰にふかい興味を覚えていた私はあらゆる種類の探偵小説と怪奇小説を愛読した。そして、みずから巧妙な殺人方法を考え出しては、ひそかに楽しんでいた。
やがて、私が判事の職についたころ、いままで隠されていた秘密の本能が頭をもたげてきた。法廷の被告がしだいに追いつめられて、苦悩する姿を見ることは、私の至上の快楽であった。しかし、ここで断っておかなければならないが、罪のないものを法廷に見ることには私は何の楽しみも感じなかった。被告が無罪であることを察知して、陪審員を導き、無罪の判決を下させたことが少なくとも二回ある。しかしながら、わが優秀なる警祭力はめったに過ちをおかさない。殺人の容疑で私の前に現われる被告の大部分は有罪であった。
エドワード・シートンの場合も、その一つである。彼の風貌と態度とは陪審員に好印象をあたえた。しかし、明らかな証拠があがっているし、犯罪者についての私の知識から推しても、彼が殺人を犯していることは確実であった。しかも、彼を信頼していた老婦人を殺害したという憎むべき殺人であった。
私は〈首吊り判事〉という異名をつけられていたが、これは正しい異名ではない。私はつねに正義の立場に立っていた。感晴に訴える弁護人の弁論によって陪審員が感情を動かされることを防止したにすぎないのである。陪審員の注意を確実な証拠に向けようとしたのである。
ところが、数年前から、私の心の中に変化が起こってきた。私はそのことに気がついていた。自己を制御する力が弱くなり──犯罪を裁くことよりも犯罪を自ら行なうことに興味をそそられるようになったのである。
正直に告白しよう──私は自ら殺人を行ないたくなったのだ。私はこのことを芸術家が自己を表現しようとする意欲と解釈した。私は犯罪芸術家になろうとしたのである。判事という職業によって抑制されていた私の夢がしだいに頭をもたげてきたのである。
私は殺人を行なわねばならぬ! どうしても行なわねばならぬ! そして、その殺人は平凡な殺人であってはならぬ。前例のない殺人でなければならぬ! 私はふたたび、幼少のころの夢を持つようになった。
ひとびとを驚かせるような不可能なことをなしとげたくなった。
殺人!……そうだ、どうしても、殺人を行なわねばならぬ!……。
あるいは矛盾したことのように聞こえるかもしれないが、いままでは生まれながらの正義感がその意欲を抑制していたのである。罪のないものが苦しんではならぬ……。
やがて、まったく偶然のことから、一つの考えが私の頭に浮かんだ。私がある医師と話をしていたときであった。その医師は名もない町医者であったが、何げなく、法律の手が届かない殺人がしばしば行なわれている、と私に語った。
そして最近立ち会ったある老婦人の死をその一例として私に告げた。老婦人の死は夫婦者の召使が、ある興奮剤を彼女にあたえなかったためであることを、その医師は確信していた。夫婦者は老婦人の死によって相当の財産をもらうことになっていたのであった。医師の語るところによると、このような事件はどうしても証拠をあげることができないのだった。しかし、彼は老婦人の死が一種の殺人であることを確信していた。法律の手の届かない殺人であることを……。
すべてはこのときにはじまった。このときから、私の進むべき道がはっきりした。そして私はただ一つの殺人を行なうだけでなく、大規模な殺人事件を行なおうと決意した。
私は幼少のころに聞きなれた童謡を思い出した──十人のインディアンの少年の歌だった。インディアンの少年が一人ずつ姿を消してゆく──どうしても避けられない冷たい運命──子供心に強い印象をあたえられていたのだった。
私はひそかに犠牲者を探しはじめた……私はその次第をこまかにしるすつもりはない。私は会うひとごとに、探りを入れてみた。予想以上の収穫があった。アームストロング医師の事件を知ったのは、私がある療養所に入っていたときである。私の世話をしてくれた看護婦が禁酒論者で、アルコールの害毒を実証するために、酒に酔っていた医者に手術されて死んだ患者の話をしたのだった。私は何げなく、その看護婦がかつて勤めていた病院の名前をたずねて、必要な事実を探り出した。医師と患名の名前をしらべあげることはわけのないことだった。
マカーサー将軍の事件は、クラブで戦争の話をしているときに知った。アマゾン河の探険から帰ってきた男が、フィリップ・ロンバードなる男が海外で行なったことを私に伝えた。マジョルカ島では、ある老婦人が厳格な清教徒エミリー・ブレントとその召使の話を怒りとともに私に語った。アンソニー・マーストンは同様の罪をおかしている多くの人間の中からえらび出した。いつも危険な運転をしていながら、ひき殺した人間に何ら責任を感じない彼の所業は、社会に害毒を流すものであり、生きている資格はないと考えた。元警部ブロアの名前は私の同僚のものから聞いた。ランダー事件には大きな関心を抱かざるをえなかった。警察官は法律の下僕であり、あくまで誠実でなければならぬ。彼らの言葉はその官職のゆえにつねに信用されるのである。
ヴェラ・クレイソーンの事件を知ったのは大西洋を横断しているときだった。ある夜おそく、喫煙室に私とヒューゴー・ハミルトンという好男子の青年とが残った。ヒューゴーは浮かぬ顔をして、したたか酒をあおっていた。相手さえあれば、心の悩みを打ちあけたい、といった様子だった。私は大して希望も持たず、彼に話しかけた。もちろん、会話を導く罠を用意することは忘れなかった。驚いたことに、すぐ反応があった。私はいまでも、彼の言葉を覚えている。
「おっしゃるとおりですよ。殺人なんて、世間で考えているようなものじゃない──毒薬をもったり、崖からつき落としたり──そんなことだけが殺人ではないんです!」彼はからだを乗り出して、私の目の前に顔をつきだした。「ぼくは殺人をおかした女を知っているんです。知っているどころか、その女を愛していたんです──実は、いまでも忘れられないんです。こんな苦しい気持ちはありません! ぼくのためにやったようなものなんです。──女って、恐ろしいものですね。──あんな気だてのいい、しっかりした娘があんなことをするなんて──ぼくはとうてい信じられない! 幼い子供を海にさそい出して溺れさせるなんて──女にそんなことができると思いますか」
私は言った。
「たしかに、その女がしたことなのかね」
「確実ですとも! 誰もそう思ったものがいませんが、ぼくには、すぐわかったんです──帰ってきて、彼女の顔を見た瞬間にわかったんです。そして、彼女も、ぼくが知っていることに気がついていたでしょう。ただ、彼女が気がつかなかったことは、ぼくがその子供を可愛がっていたことなんです……」
彼はそれ以上何も言わなかったが、彼の話をたどって、ヴェラ・クレイソーンの名前を探り出すのはわけのないことだった。
もう一人、十人目の犠牲者が必要だった。私はそれをモリスという男に決めた。もともと、うしろぐらいところのある人物だった。彼がおかした多くの罪のなかには、麻薬の密売もあって、私の友人の娘を麻薬の常習者にしたのは彼であった。彼女は二十一歳の若さで自殺した。
こうして、犠牲者を探しているあいだに、私の計画はしだいに形をなしてきた。犠牲者がそろったころ、ある日、私はハーレー街のある医師を訪れた。そこで、私の計画に最後の仕上げがなされた。私はかつて、ある手術をうけたことがあった。私はハーレー街の医師との会見によって、もう一度手術をうけても無駄であることを悟った。医師はそのことを私に告げなかったが、私には、言葉の裏の真実がすぐわかった。
しかし、私の気持ちを医師に告げることはしなかった──私は自然の命ずるままに死期の到るのを待つ気にはなれなかった。──いな、私の死は燃えさかる興奮の炎につつまれて起こらねばならぬ。私は死に到るまでの短い時間をはなばなしく生きたかったのだ。
私はここで、インディアン島の殺人事件がどのように行なわれたかを語らなければならない。島を買い取ることはモリスに依頼して、私の名前を隠させた。このような仕事は、彼がもっとも得意とするところであった。次に、犠牲者たちについて集めた知識にもとづいて、一人一人に誘いの餌を投げあたえた。私の計画は一つとして狂わなかった。私が招いた客は八月八日にインディアン島に到着した。その中には、私も入っていた。
モリスはすでに片がついていた。彼は消化不良に悩んでいた。私はロンドンを出発するまえに彼に一服の薬をあたえ、就寝直前にのむことを指示し、私の胃弱がこの薬で治癒したとつけ加えた。彼は少しも疑う様子がなく、私の言葉を信じた。私は彼が記録やメモを残すような人間でないことを知っていた。
島での死の順序については慎重な考慮がはらわれた。私の客たちのあいだには、罪にさまざまな段階があった。もっとも罪の軽いものから死んでゆくべきであった。冷酷な殺人をおかしたものが後に味わう苦痛や恐怖を、罪の軽いものに味わわせてはならないのだ。
アンソニー・マーストンとミセス・ロジャースとを最初に死ぬものにえらんだ。一人は即死であったし、一人は睡眠中に安らかに死んだ。私はマーストンを、ほとんどすべての人間が持っている法律的責任感を持ち合わせていない人間であると認めたのだった。ミセス・ロジャースの犯罪が人にそそのかされたのであることは疑いがなかった。
この二人がどのように死んだのかについては、くわしく説明する必要はあるまい。警察当局の捜査によって、容易に明らかになるはずである。青酸カリは蜂を殺す薬品として手に入れることができる。レコードがかけられた後の混乱のなかでマーストンの空《から》のグラスに細工することは簡単なことだった。
私はめいめいの罪が問われているときに一人一人の顔を眺めて、すべてのものが各自の犯罪を意識していることを認めた。長年の法廷の経験によって、私の推理にはまちがいがないはずだった。
私は最近、痛みがはげしいとき、睡眠薬として、クロラールを用いていた。薬の量をへらして、致死量のクロラールを貯えるのはわけはなかった。ロジャースは妻にあたえるブランディを持ってきて、グラスをサイドテーブルにおいた。私はそのテーブルのそばをとおったとき適量以上のクロラールをグラスに入れておいた。まだ、疑惑が起こっていないときだったので、誰も怪しむものはなかった。
マカーサー将軍は少しも苦痛を感じないで死んだ。彼は私が背後から忍びよったことに気がつかなかった。もちろん、私はテラスをはなれる時刻を慎重にえらばねばならなかったが、すべては計画どおり行なわれた。
私が予想していたように、すでに島の捜索が行なわれており、島にはわれわれ七人のほかに誰もいないことが確かめてあった。この事実は一同の疑惑を高めた。私はあらかじめ、私の計画を助けるものが必要であることを予想していた。私はアームストロング医師をこの役にえらんだ。彼はむしろ愚直といっていい人間で、私の顔を見ただけで私が誰であるかを知っていたし、私のような社会的地位のあるものが殺人を行なうなどということは、彼にはとうてい信じられないことだった。彼の疑惑はロンバードに集中され、私もそれに同意した。私は彼をそそのかして、一同の目をくらます計画に助力させるつもりであった。
部屋はことごとく捜査されたが、まだからだを捜査されるところまではいっていなかった。しかし、いずれはからだの捜査が行なわれるはずであった。
八月十日の朝、私はロジャースを殺した。彼はかまどの薪を割っていて、私が近づいていく足音に気がつかなかった。私は彼のポケットを探って、食堂の鍵を見つけた。彼は前の晩に食堂のドアに鍵をかけておいたのだった。
ロジャースの死体が発見された混乱に乗じて、私はロンバードの部屋に忍びこみ、ピストルをとりあげた。私は彼がピストルを持って来ていることを知っていた──事実、私はモリスに指示して、ロンバードにピストルを用意しておくように言わせたのだった。
朝食のとき、私はミス・ブレントにコーヒーを注ぎながら、最後のクロラールをそのカップに入れた。われわれは彼女を食堂において、部屋を出た。しばらくしてから、私は食堂に忍びこんだ──彼女はほとんど意識がなく、青酸カリの溶液を注射するのはわけのないことだった。蜂をとばしたことは子供じみたいたずらにちがいはない──しかし、私にとっては大いに意義のあることだった。私はできるだけ童謡に忠実に殺人を行ないたかったのである。
この直後、私がすでに予想していたことが起こった。──いや、私がみずから提案したのだった。われわれは厳重な身体検査をされることになった。私はピストルを安全な場所にかくし、すでに、青酸カリもクロラールも持っていなかった。それから、私は、アームストロングに向かって、かねての計画を実行しなければならぬときが来たと告げた。それは簡単な計画だった──私が次の犠牲者のようによそおうのだった。犯人は動揺するにちがいない。それに、死んだことにすれば、私は自由に邸内を歩きまわり、犯人の様子をうかがうことができる──。
アームストロングはこの計画に熱意を持った。その晩、私たちは計画を実行した。前額部にわずかの赤土を塗り、赤いカーテンをまとい、毛糸を頭にのせて、芝居の支度ができ上がった。ろうそくの火は絶えずゆらめいていたし、光もつよくなく、私のからだを診るのはアームストロングにきまっているのだった。失敗するはずはないのだった。私が仕掛けておいた海藻を見つけて、ミス・クレイソーンが、邸宅じゅうにひびきわたる叫び声をあげた。一同は二階に駈け上がり、私は殺された人間のポーズをとった。
彼らが私を発見したとき、すべては私たち二人の予想のとおり、寸分の狂いもなく行なわれた。アームストロングは彼の役割をたくみに果たした。彼らは私を二階へ運んで、私の部屋のベッドに寝かせた。私の死因に関心を持ったものは一人もいなかった。みんな、恐怖にわれを失っていたし、互いに疑惑を抱いていたのだった。
二時十五分前、私は邸宅の外でアームストロングに会った。私は彼を邸宅の裏の断崖のふちにさそった。そこからは、近づいてくるものの姿が見えるし、寝室は反対側に面しているので、邸内から発見されるはずはない、と私は言った。アームストロングは少しも疑惑を抱かなかった。しかし、童謡の文句を思い出していたら、当然、警戒していいはずであった。「燻製のにしん[#「にしん」に傍点]にのまれ……」燻製のにしん[#「にしん」に傍点]が猟犬の注意をそらすという言いつたえのとおり、彼は注意を他に向けられてしまったのだった。
それからは簡単だった。私は断崖からのぞきこんで、叫び声をあげた。「あれは洞穴の入口ではないだろうか!」彼は断崖からのぞいた。私が背後から一突き突くと、彼は潮が渦をまいている海中に落ちた。私は邸宅に戻った。ブロアが聞いたのは私の足音だったであろう。私はアームストロングの部屋に戻って、数分の後、こんどはやや足音をたてるようにして部屋を出た。階段を降りきったとき、二階でドアが開かれる音が聞こえた。正面のドアから邸宅の外へ出たとき、彼らの目に私の姿がうつったはずである。
一、二分たって、彼らは私のあとを追ってきた。私は邸宅の外側をまわって、あらかじめあけておいた食堂の窓から邸内に入った。私は窓を閉めて、ガラスをこわした。それから二階へ上がり、私の部屋のベッドに横たわった。
私は彼らがふたたび邸内を捜索するであろうと予想していた。しかし、死体をくわしくしらべるはずはないと思った。アームストロングが死体に化けているのではないかと考えたとしても、シーツをちょっとまくってみれば、そうでないことがわかるのだった。事実、そのとおりのことが起こった。
私はまだ、ロンバードの部屋へピストルを返したことを言わなかった。邸内の捜索が行なわれたときに、私がどこにピストルを隠したかについては、興味を持つものがあるであろう。食糧の貯蔵庫に多量の缶詰が蓄えてあった。私はいちばん下の缶詰をあけた──ビスケットであったと思う。そして、ピストルをその底に隠し、帯封をもとのとおりに張った。私は缶詰の山を底までしらべるものはあるまいと信じていた。上部の缶詰でさえ、まだ手がつけられていないのだった。私の予想は正しかった。
赤いカーテンは応接間の椅子の更紗のカヴァーの下に隠した。毛糸は椅子のクッションに小さな穴をあけて隠した。
こうして、私が予想していたとおりの場面になった──残された三人は互いに疑惑を抱きあっていたので、どんなことでも起こる可能性があった。しかも、一人はピストルを持っているのである。私は邸内の窓から、彼らの様子を観察した。ブロアが一人で邸宅へ戻ってきたとき、用意しておいた大理石を落とした。ブロアは除かれた。
私はヴェラ・クレイソーンがロンバードを射ったのを窓から見た。勇敢な、しっかりした娘だ。私はかねて、彼女ならロンバードと組み合わせても勝負になると思っていた。私は急いで、彼女の部屋に舞台をつくった。
それは心理的実験として興味のあるものだった。彼女白身の罪の意識と人間を一人殺した直後の心の動揺に舞台装置による暗示を加えることによって、彼女に自殺をうながすことが可能であろうか。私は可能であろうと考えた。私の予想は正しかった。ヴェラ・クレイソーンは衣装戸棚のかげから見つめていた私の目の前で首をくくった。
いよいよ、最後の場面になった。私は椅子を起こし、壁に押しつけた。それから、ピストルを探した。階段を上がりきったところに、落ちていた。私は彼女の指紋を消さないように気をつけた。
私はやがて、この告白を書き終えるであろう。書き終わったら、瓶に封入して、海中に投ずるつもりである。なぜ? そうだ、なぜ、そんなことをするのであろう。私の野心は誰にも解くことのできぬ殺人を考えることであった。しかし、いかなる芸術家も、芸術そのものをもって満足するものではない。芸術が他人に認めてもらいたいという欲望をともなうものであることは否定できない。恥を忍んで告白するが、私もまた、いかに巧みに殺人を行なったかを認めてもらいたいというささやかな願いを持っているのである。
私はインディアン島の殺人事件の謎は解決されないものと思っている。しかし、あるいは、警察当局は私よりも賢明であるかもしれない。私が考えるところでは、少なくとも、三つの手がかりがある。だいいちに警察当局はエドワード・シートンが有罪であることを知っている。したがって、島に集まった十人のうちの一人は殺人を犯していないので、逆説的に、この人間が犯人であることは明らかである。第二の手がかりは童謡の七番目の文句の中にある。アームストロングの死は燻製のにしん[#「にしん」に傍点]と関係があることになっている。燻製のにしん[#「にしん」に傍点]という言葉からは、彼が何者かに欺かれて死んだことが暗示されている。そこに手がかりをつかめば、疑わしいのは四人で、そのうち彼が信頼をおきうる人間は私のはずである。第三の手がかりは象徴的なものである。私の額に残された赤い斑点である。いうまでもなく、カインの刻印である。
もう、書き残すこともない。私はこの告白書を海に託し、私の部屋へ行って、ベッドに横たわる。私の眼鏡には細い黒い紐がついている──ゴムのように伸縮する紐である。私は眼鏡をからだで押さえておく。紐はドアの把手《ハンドル》にからませ、先端にピストルをゆるくゆわえておく。私の考えはこうである。
私はヴェラ・クレイソーンの指紋を消さないように、ハンカチをそえてピストルを握り、引き金を引く。私の手はからだのわきにたれる。ピストルは紐に引っぱられ、ドアの把手《ハンドル》にぶつかって、紐から離れ、床に落ちる。紐は把手《ハンドル》からはずれて私のからだの下にある眼鏡からたれさがる。床に落ちているハンカチは何の問題も起こさないであろう。
私は犠牲者の中の何人かが書き残している記録のとおり、前額部を射抜かれてベッドに横たわっている状態で発見される。われわれの死体がしらべられるときには、おそらく、いつ死んだかを正確に知ることは不可能てあろう。
やかて、海がおさまったら、陸から船と人とが来るであろう。そして、十人の死体とインディアン島の謎とを発見するであろう。
[#地付き]ローレンス・ウォーグレイヴ
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永遠の目標
[#地付き]作 家
[#地付き]赤川 次郎
私が新人賞を受けて、作家としてスタートを切ってから、早いもので二十七年が過ぎた。
当初、「日本に珍しいユーモアステリーの書き手」と言われ、ミステリー作家として、方々からインタビューを受けた。
実は、これが私にとっては苦手だった。
自分自身、ミステリー一筋でやって行くつもりもなかったし、また日本の同業者の作品をほとんど読んだことがない(それは今も変らないが)ので、答えようのない質問に出会うこともしばしばだったからである。
そんな中、必ず訊かれる二つの問い──「一番好きな作家は?」「好きな作品は?」だけは、何の後ろめたさも感じることなく答えることができた。
──言うまでもなく、それがクリスティーの本書『そして誰もいなくなった』である。
そして四分の一世紀が過ぎ、日本のミステリー界の事情は大きく変った。
いわゆる「ノベルス」の大量創刊、トラベルミステリーの登場、そして「新本格」と呼ばれる一連の若手作家の流れ……。
ことに女性のミステリー作家が、骨格の太い、社会性を強く帯びた大長編で話題をさらうようになったことは、私が新人賞を受けたころには想像もつかない状況だった。
クリスティーの国、イキリスでは、P・D・ジェイムスが文学性の強い長編でミステリーを単に「エンタテイメント」と呼べないものにしていった。
──今、ミステリーの世界はかつてないほど多様である。
「ミステリー」の範囲が広がり過ぎて、「ホラー」「ファンタジー」、そして暴力描写が残酷さに走るなど、批判すべき点も少なくないが、ともかく多種多様な個性が競う状況は望ましいものに違いない。
私も、新人作家のころと違って、インタビューを受けることは少なくなった。
それでも、たまに機会があると、やはり必ず問われるのは、「好きな作家」「好きな作品」である。
私は二十七年前と同じ答えをする。
「クリスティーの『そして証もいなくなった』です」と──。
最近のミステリーをあまり読んでいないという事情もあるにせよ、今またこの『そして誰もいなくなった』を読み返すと、改めて夢中になり、一気に読み切って、快い余韻に浸る。
展開も細部も、ほとんど頭に入っているというのに、これほど面白く読める作品はない。
ここには、私が「エンタテイメント」に求めるものがすべて揃っているのだ。
まず、「一晩で一気に読み切れる長さ」。
私は、内容豊かな大長編ミステリーの存在を評価しないわけではないが、それでもなお、「エンタテイメントとしてのミステリー」は自ずと長さが決ってくると考えている。
それは具体的に言えば「過不足のない、必要にして十分な描与」ということだ。
本作の導入部のみごとな人間の描き分けはどうだろう! しかも、一人一人の個性が読者に努力を強いることなく印象づけられ、混乱することがない。
そして「サスペンスに満ちた展開」。
退屈させることがない、巧みな構成。──くり返し読んでみると、誰が誰を信じ、誰を疑うようになるか、そして一人死ぬごとに、人物関係が微妙に変って行くさまを、クリスティーの筆がいかに巧みに描き出しているか、舌を巻く他ない。
ストーリーのための、無理な恋愛や展開が使われていない点もミステリー作家として多くの作品を書いてくると、いかに凄いことかよく分かる。
もう一つ、これほど人が次々に死んで行くのに、少しも残酷さや陰惨な印象を与えないこと。
映画の影響で、残酷描写や暴力描写を過激にすることが「読者サービス」であると思い込んでいる、一部の作家に、この『そして誰もいなくなった』の後味のいや味のなさを学んでほしい。
ミステリーはもともと「知的で粋な」娯楽であったはずだ。
時代が求める変化は当然のこととして、「時代を超えた面白さ」も一方に、厳として存在する。
その代表作に、『そして誰もいなくなった』を挙げることを、私は少しもためらわない。
私にとって、これが「こんな作品が書きたい」という目標であることはいつまでも変らないだろう。
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二〇〇三年十月 十日 印刷
二〇〇三年十月十五日 発行
著 者 アガサ・クリスティー
訳 者 清水俊二《しみずしゅんじ》
発行所 早川書房
平成十八年六月十五日 入力・校正……ぴよこ