クリスティの六個の脳髄
アガサ・クリスティ/深町眞理子訳
目 次
●エルキュール・ポワロ編
すずめばちの巣
二十四羽の黒つぐみ
バグダッドの櫃《ひつ》の秘密
●ミス・マープル編
青いゼラニウム
風変わりな悪戯
●トミーとタペンス編
鉄壁のアリバイ
●ハーリー・クィン編
ハーリー・クィン登場
ヘレンの顔
●パーカー・パイン編
明けの明星消失事件
●幻想と怪奇編
ランプ
人形
クリスティ論
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●私立探偵 エルキュール・ポワロ編
すずめばちの巣
部屋を出たジョン・ハリスンは、ちょっとのあいだテラスに足を止め、庭を見わたした。大柄だが、痩せた、やつれた感じの風貌をしており、いつもは身辺にどこか凄味さえただよっているのだが、いまのようにごつごつした顔を微笑でやわらげると、非常に人をひきつけるものが感じられた。
ジョン・ハリスンは自分の庭を愛していた。そしてそれがもっとも美しく見えるのは、この八月の夕べ、夏の夜のけだるさを秘めたひとときをおいてほかになかった。つるばらはいまなお残《のこ》んの美をとどめていたし、スイートピーは馥郁《ふくいく》たる芳香をただよわせていた。
聞きなれたきいっという音が聞こえてきて、ハリスンをきっとふりむかせた。いまごろ庭の木戸をあけてはいってくるのはだれだろう? つぎの瞬間、彼の面上を驚愕の色が流れた。庭の小道をきどったようすで近づいてくるのは、およそ予想外の人物だったのだ。
「驚きましたな」ハリスンは叫んだ。「ポワロさんじゃありませんか!」
いかにも、それはかの有名なエルキュール・ポワロであった。当代一の名探偵として、彼の名は全世界にとどろいていた。
「さよう、わたしです」ポワロは言った。「いつだったか、近くまでくることがあったら、ぜひお立ち寄りくださいとおっしゃってくださったので、お言葉に甘えて、こうして参上しました」
「それはそれは、よくおいでくださいました」ハリスンは心をこめて言った。「まあおかけください。一杯さしあげましょう」
愛想よく、彼はベランダのテーブルをさした。そこには各種の酒壜が並んでいた。
「それはどうも」ポワロはふかぶかと籐椅子に腰かけた。「ええと、シロップはありますかな? いや、いや、なければ結構です。プレーン・ソーダを少々いただきましょう――ウィスキーはいりません」そして彼は、相手がグラスを自分のそばに置くのを見ながら、なさけなさそうな声で言った。「やれやれ、口髭がすっかりぐったりしてしまいましたよ。なにしろこの暑さですからな!」
「それで、こちらのほうへはどんなご用で?」向かいあった椅子に腰をおろしながら、ハリスンはたずねた。「お楽しみですか?」
「なあに、|あなた《モナミ》、仕事ですよ」
「仕事? こんな片田舎でですか?」
ポワロは重々しくうなずいた。「そうですとも、あなた。犯罪は必ずしも人の大勢いるところでばかり起こるとはかぎりませんからな」
相手は笑った。「そうでしたな。わたしとしたことが、ばかなことを言ったものだ。しかし、こんな土地までわざわざおいでになるからには、よほどの事件なんでしょう? それともこれは訊いてはならないことですか?」
「いや、かまいませんよ」探偵は答えた。「むしろ、おたずねになるのを期待していたのです」
ハリスンはけげんそうにポワロを見つめた。相手の態度になにか異常なものを感じたらしく、ややあって彼は、ためらいがちに先をうながした。「犯罪の調査にきたとおっしゃいましたね? 重大な犯罪ですか?」
「重大です。この世のなかでもっとも重大な犯罪ですよ」
「というと……?」
「殺人です」
そう言ったときのエルキュール・ポワロの口調があまりに重々しかったせいか、ハリスンはぎくりとした。探偵は正面から彼を見つめており、その視線にもなにやら異様な気配がうかがわれたので、ハリスンは言葉の継ぎ穂に困った。ややしばらくして、ようやく彼は言った。「しかし、この土地に殺人事件があったという話は聞いていませんが」
「そうでしょう。お聞きになってはいないはずですよ」ポワロは言った。
「だれが殺されたのです?」
「まだいまのところは」と、エルキュール・ポワロは言った。「だれも殺されていません」
「なんですって?」
「だからこそ、お聞きになっていないはずだと申しあげたのです。わたしが調べているのは、まだ起こっていない犯罪なのですよ」
「しかしそれは――ナンセンスもいいとこだ」
「ところがそうじゃないんです。もしも殺人が起きる前にそれを調べておくことができたら、あとで調べるよりもずっと有利なはずです。ひょっとしたらそれを――つまらん自惚《うぬぼ》れかもしれませんが――防ぐことさえできるかもしれない」
ハリスンはまじまじと彼を見つめた。「本気でおっしゃってるんじゃないんでしょう、ポワロさん?」
「いや、大まじめです」
「じゃあほんとうに殺人が起こりかけていると信じておられるのですか? これは驚いた!」
最後の感嘆詞の部分は聞き流して、ポワロは相手の言葉をひきとった。
「そうです、われわれの手でそれを防止しえないかぎりは。そうなのですよ、|あなた《モナミ》、それをわたしは言っているのです」
「われわれとおっしゃると?」
「さよう、われわれです。あなたのお力を借りたいのです」
「それでここへおいでになったのですか?」
またしてもポワロは相手を見つめ、今度もまたある漠然としたなにかが、ハリスンを不安におとしいれた。
「ここへきたのは、ハリスンさん、あなたが――その――好きだからですよ」
それから、がらりと変わった調子になって、ポワロはつづけた。
「ハリスンさん、お見受けしたところ、お宅の庭にはすずめばちの巣があるようですな。あれは退治してしまわなけりゃいけませんよ」
きゅうに話題が変わったので、ハリスンは不審そうに眉をひそめた。それから、ポワロの視線を追いながら、ややうろたえ気味に答えた。「じつをいうと、わたしもそうするつもりでいたのですよ。というより、ラングトン君がそうしてくれるはずです。クロード・ラングトンのことは覚えておいででしょう? わたしがお目にかかったあのときの晩餐会に、彼も出席していたはずです。たまたま今夜、あの巣を退治しにきてくれることになっていましてね。どっちかというと、おもしろい仕事のように見なしているようですよ、それを」
「ははあ、なるほど!」ポワロは言った。「それで、どういう方法でやるつもりなんでしょう?」
「園芸用注入器でガソリンを注入するのですよ。そのための注入器も自分で持ってきてくれるはずです。うちにあるのよりも手ごろで、使いやすいのでね」
「ほかにも方法があるはずですな?」ポワロは言った。「たとえば青酸カリを使用するとか?」
ハリスンはちょっと驚いた表情を見せた。「ええ、しかしあれは危険な薬品ですからね。たくわえておくには、たえず危険がともないます」
ポワロはしかつめらしくうなずくと、「さよう、危険な毒薬です」と言ってしばらく黙っていてから、もう一度、「致命的な毒薬です」と、重々しい声でくりかえした。
「うるさい姑をかたづけたいときなんかには、重宝な薬品ですね」ハリスンは笑いながら言った。
しかし、エルキュール・ポワロはいかめしい表情をくずさなかった。「それで、ハリスンさん、ラングトンさんがすずめばちの巣を退治するのに使うのが、ガソリンだということはたしかなのでしょうな?」
「たしかですとも。なぜです?」
「不思議に思ったからですよ。じつは、きょうの午後、用があってバーチェスターの薬屋に行ったのです。いくつか買ったもののうち、毒物購入簿に署名しなければならないのがありまして、そのさい、たまたま帳簿の最後の欄が目に止まりました。購入した薬物は青酸カリ、署名はクロード・ラングトンとありました」
ハリスンは目を見はった。「そいつはおかしい。ラングトンは先日、自分の口から言っているのですよ――そういう薬品を使おうなどとは考えもしないって。じじつ、蜂の巣を除去するくらいのことで、あのような危険性の高い薬品を売るべきではないと言ってたほどです」
ポワロはばらに目をやった。つぎの質問を口にしたとき、その声はひどく穏やかだった。「あなたはラングトンさんに好意をお持ちですか?」
相手ははっとした。その質問は、なぜか完全に彼の意表をついたようだった。「え――なに――その――もちろんですよ。嫌いなわけがないでしょう?」
「気にかかったものでね――彼を好いておられるかどうかが」ポワロは平静に言った。
そのあと、相手が答えようとしないのを見てとって、彼はつづけた。
「それにまた、彼があなたを好いているかどうかも気にかかります」
「いったいなにをおっしゃりたいのです、ポワロさん? なにか考えていることがおありらしいが、わたしにはさっぱりわからん」
「では、ごく率直にお話しいたしましょう。あなたは婚約なさいましたね、ハリスンさん。お相手のモリー・ディーン嬢はわたしも存じあげています。非常に魅力的で、非常にお美しい。ディーン嬢はあなたと婚約する前に、クロード・ラングトンと婚約していました。あなたのために、ラングトンとの婚約を解消したのです」
ハリスンはうなずいた。
「その理由がなんであったかは問いますまい。おそらく正当な理由があったのでしょう。しかし、ラングトンとしては、けっして忘れてはいないし、許してもいないと考えても、考えすぎではないと思います」
「それはまちがいですよ、ポワロさん。あなたの誤解だと断言してもよろしい。ラングトンはいさぎよい男です。なにごとも男らしく受けとめます。彼のわたしへの態度は、感心するほどりっぱでした――友好的態度をくずすまいと努力しているのです」
「それが異常だとは思われませんか? あなたはいま『感心するほど』と言われたが、感心しておられるようには見えませんな」
「どういう意味です、ポワロさん?」
「その意味は」ポワロは言った。その声に新しい響きが加わった。「人間というものは、しかるべき時機がくるまで、憎悪を隠しておけるものだということですよ」
「憎悪を?」ハリスンは首を振って、笑いだした。
「あなたがたイギリス人はすこぶる鈍感です」と、ポワロは言った。「自分は人をだますことができるが、人からはだまされないと思っている。いさぎよい男だの、善良だのといって、そういう男はけっして悪いことをせぬものときめこんでいる。勇敢かもしれないが、ぼんくらだ。それでときには、死ななくてもいいのに死ぬようなことになるんです」
「それはわたしへの警告なんですね」ハリスンは小声で言った。「いまやっとわかりましたよ――さっきから不思議に思っていたことが。あなたは、クロード・ラングトンに気をつけろと警告しておられるんだ。それを警告しに、きょうわざわざここへ……」
ポワロはうなずいた。するとハリスンは、いきなりはじかれたように立ちあがった。
「しかし、それはばかげていますよ、ポワロさん。ここは文明国イギリスなんですよ。そういうことはこの国では起こりません。ふられた男が恋敵の背中を刺したり、毒を盛ったりすることはないんです。それにあなたは、ラングトンという男をも誤解しておられる。あの男は蠅も殺せない男ですよ」
「蠅の生死はわたしには関係ありません」ポワロは落ち着きはらって言った。「しかし、かりにあなたのおっしゃるように、ラングトン氏が蠅も殺せない男だとしても、その彼が、数千匹のすずめばちの命をとろうとして準備していることを忘れては困ります」
ハリスンはすぐには返事ができなかった。かわって小男の探偵が立ちあがると、友人のそばに歩みより、その肩に手をかけた。すっかり興奮して、相手の大柄な身体をがくがく揺すらんばかりにしながら、彼はその耳もとで強くささやきかけた。「しっかりしなきゃいけません。目を覚ますことです。そして、ごらんなさい――そら、わたしのゆびさしているところを。あの斜面の上、大きな木の根もとのところです。見えますね、すずめばちがきょう一日の仕事を終えて、満足しきって巣にもどってこようとしています。あといくらもたたないうちに、大虐殺が始まろうとしているのですが、かれらはそんなことは夢にも知らない。だれもそのことを教えてくれないからです。かれらのなかには、どうやらエルキュール・ポワロはいないと見える。わたしはね、ハリスンさん、ここへ仕事でやってきました。わたしの仕事とは、殺人事件です。それが起こる前であっても、起こったあとと同様に、わたしの仕事であることに変わりはない。ところでラングトン氏は、何時にここへすずめばちを退治しにくることになっています?」
「ラングトンにかぎって、そんな――」
「何時です?」
「九時です。しかし何度でも言いますが、あなたはまちがっていますよ。ラングトンはぜったいに……」
「イギリス人はこれだから困る!」ポワロは激して叫んだ。そして帽子とステッキをとりあげ、庭の木戸のほうへ歩きだしたが、すこし行って立ち止まると、肩ごしに言った。「これ以上あなたと議論する気はありません。腹が立ってくるだけですからな。しかし言っておきますが、九時には必ずもどってきます」
ハリスンはなにか言おうとして口をひらきかけたが、ポワロはそれをさえぎった。
「なにをおっしゃりたいかはわかっています。ラングトンにかぎってそんなことはないとでも言うのでしょう。やれやれ、ラングトンにかぎってか! しかし、とにかく九時にもう一度お邪魔します。さよう、おもしろいことが起こると思うのでね――いや、こう言いましょう――すずめばちの巣を退治するところは、さぞかし見ものだろうとね。これもまた、あなたがたイギリス人の楽しみのひとつらしい!」
相手の返事を待たずに、ポワロは足早に小道を歩み去り、きしむ木戸を抜けて出ていった。道路に出ると、彼の歩みは遅くなった。生きいきした表情は消えて、厳粛な苦渋の色がその面《おもて》をおおった。一度、ポケットから時計を出して、時刻をたしかめたが、そのとき針は八時十分過ぎをさしていた。「まだ四十五分もある」と、彼はつぶやいた。「あるいは待っていたほうがよかったかもしれん」
足どりはますます遅くなった。いまにもひきかえそうとするようすさえあった。ある漠然とした予感が彼をとらえているようだった。けれども、結局その胸騒ぎをしいてふりはらって、彼は村のほうへ歩きつづけた。その顔には依然として苦渋のかげがあり、一度か二度、どうも釈然とせぬというように首を横に振った。
ふたたび彼が庭の木戸に近づいていったのは、九時にはまだ数分、間があるころだった。晴れた、穏やかな宵で、あるかなきかの微風が木の葉を揺すっていた。その静けさには、あるいはなにか不吉なものがあったかもしれない――ちょうど嵐の前の静けさのように。
ポワロの足どりがほんのわずか早まった。きゅうに不安が襲ってき、自信がゆらいだ。なにかわからぬものが彼を恐れさせた。
まさにその瞬間、木戸が向こうからひらいて、クロード・ラングトンが足早に通りへ出てきた。ポワロを見て、彼はぎくっとしたように立ちすくんだ。
「だれ――ああ、あなたでしたか――こんばんは」
「こんばんは、ラングトンさん。ずいぶんお早かったですな」
ラングトンはまじまじと彼を見つめた。「なんのことです?」
「もうすずめばちの巣はかたづけてしまったのですか?」
「いや。じつは、やめにしました」
「ほう!」ポワロはそっと言った。「すると、すずめばちの巣は退治しなかったのですな。じゃあ、なにをなさっていました?」
「なに、坐ってハリスンと話をしていただけですよ。じつはぼく、ちょっと急いでいるのです。あなたがまだ当地におられるとは、思いもよりませんでしたよ」
「ここに用事がありましたのでね」
「そうでしたか! ハリスンならテラスにいますよ。時間がありませんので、ぼくはこれで失礼します」
彼は急ぎ足に立ち去った。ポワロはその後ろ姿を見送った。神経質な青年だ。ハンサムだが、見るからに気の弱そうな口もとをしている。
「ではハリスンはテラスにいるんだな」ポワロはつぶやいた。「さて、どうなることか」彼は庭木戸を通って、小道を歩いていった。ハリスンはテーブルのそばの椅子にかけていた。ポワロが近づいていっても、身じろぎもせず、ふりむきすらしなかった。
「やあ、|あなた《モナミ》」ポワロは声をかけた。「だいじょうぶですかな?」
長い間があって、それからハリスンが異様な、ぼうっとしたような声で、「なんと言われましたか?」と問いかえした。
「だいじょうぶですかと申しました」
「だいじょうぶ? むろんだいじょうぶですよ。どうしてです?」
「べつにご気分はお悪くない? それなら結構です」
「気分が悪い? なんで気分が悪くなるんです?」
「洗濯ソーダのせいで、ですよ」
きゅうにはっとなったように、ハリスンは身を起こした。「洗濯ソーダ? それはまた、どういうことです?」
ポワロは弁解するような身振りをした。「やむをえずしたことですが、まことに申し訳ありません。じつはあなたのポケットにそっと入れておいたのですよ」
「わたしのポケットに洗濯ソーダを? いったいまた、なんのために?」
ハリスンはポワロを凝視した。ポワロは幼い子供にでも説いて聞かせるように、穏やかな、平静な口調で話しだした。
「ご存じかどうか知りませんが、探偵であることの利益、もしくは不利益のひとつは、否応なしに犯罪者と接触を持つことになるということです。そしてこの犯罪者という連中、つきあってみるといろいろおもしろい、珍しいことを教えてくれるものでしてな。こうした連中のひとりに、ある掏摸《すり》の常習犯がおりました。わたしが彼に興味を持ったのは、彼のやったと思われた仕事が、じつは彼の仕事ではないとわかったからでして、それでわたしは彼の釈放に尽力してやったのです。彼はそれを恩に着まして、自分にできる唯一の方法でわたしに恩返しをしようとしました――それが彼の商売上の秘訣を伝授してくれることだったのですよ。
そんなわけで、それ以来わたしは、必要となれば相手に知られずにポケットの品を抜きとれるようになりました。相手の肩に手をかけ、興奮しているように見せかけていろんな動作をする。相手はそれに気をとられて、なにも気づかない。だがそのあいだにこちらは、相手のポケットの品をこちらのポケットに移し、かわりに洗濯ソーダを入れておくこともできるというわけです」
ポワロは自分の言葉に酔っているようにつづけた。
「おわかりでしょうが、見とがめられぬようになんらかの毒物をグラスに入れることを狙っているものは、当然それを上着の右のポケットに入れておくでしょう。ほかの場所は考えられません。ですからわたしには、それがそこにあることは最初からわかっていたのです」
彼はポケットに手を入れると、何粒かの白い粒状の結晶体をとりだした。
「きわめて危険でしたな――あのようにこれをばらで持ちあるくとは」
そう彼はつぶやくように言うと、急ぐようすもなく、落ち着きはらって、べつのポケットから広口の壜をとりだした。そのなかに結晶体を入れた彼は、テーブルに歩みよって、そこに置かれていた水を壜に満たし、しっかりとコルクの栓をしてから、結晶体がぜんぶ溶けてしまうまで壜を振った。ハリスンは憑かれたように彼の動作を見まもっていた。
結晶が溶けて溶液ができあがると、ポワロはそれを持ってすずめばちの巣に近づいた。そして栓を抜き、顔をそむけながら溶液をすずめばちの巣にそそぎこむと、一、二歩さがって見まもった。
何匹かのすずめばちがもどってきて巣にとまり、とたんにちょっと身体をふるわせて、そのまま動かなくなった。ほかのすずめばちが穴から這いだし、これまたそのまま死んでいった。ポワロは一分か二分ほどようすを見まもっていたが、やがて軽くうなずいて、ベランダにひきかえしてきた。
「即死に近いですな。非常に利き目がはやい」そう彼は言った。
ハリスンはしぼりだすように言った。「あなたはどこまでご存じなんです?」
ポワロはまっすぐ前方を見つめた。「さっきも申しあげたとおり、わたしは薬局の帳簿でクロード・ラングトンの名を見つけました。さっきはお話ししませんでしたが、じつはそのすぐあとで、たまたま彼に出くわしたのです。たずねてみると、あなたに頼まれて青酸カリを買ったと言いました――すずめばちの巣を始末するためにです。これを聞いて、わたしはちょっと変に思いました。先日の晩餐会の席で、あなたのおっしゃったことを覚えていたからです。あなたはガソリンの効能を推奨され、青酸カリをそのために買うのは、危険でもあり、不必要だと力説されました」
「それで?」
「まだあります。先日わたしは、クロード・ラングトンとモリー・ディーンがいっしょにいるのを見かけました。むろん二人は見られていたとは気づいていません。あの二人を仲たがいさせ、彼女をあなたの腕にとびこませたのがなんであったかはわかりませんが、見たところ、どうやらいまはその誤解も解け、ディーン嬢は恋人とよりをもどしかけているようです」
「つづけてください」
「まだほかにもわかっていることがあります。このあいだわたしはハーリー街を通りかかって、あなたがある医者の家から出てこられるところを目撃しました。その医者はわたしも知っていますし、彼の専門がなにかもわかっています。それに、そのときのあなたの表情も見てしまいました。これまでにほんの一度か二度見かけたことがあるだけですが、その表情は容易に見あやまるものではありません。死を宣告された男の顔――どうです、わたしの目に狂いはありますまい?」
「そのとおりです。あの医者から、あと二ヵ月の命だと宣告されました」
「あなたはわたしに気づかれなかった。ほかのことに気をとられていたからです。もうひとつ、あなたの顔からわたしの読みとったものがあります。きょうの午後、わたしが申しあげたもの――人が隠そうとするもの。そう、憎悪をそこに見てとったのです。そのときあなたは、それを隠そうとはしておられなかった。見ているものがあるとは気がつかなかったからです」
「つづけてください」ハリスンはうながした。
「あとはあまりお話しすることもありません。わたしはここへき、まったく偶然のことから毒物購入簿でラングトンの名を見つけ、彼に会い、そしてあなたに会いにきました。ちょっとした罠をかけたところ、あなたはラングトンに青酸カリの購入を依頼したことを否定された。それどころか、彼がそれを買ったことに驚きさえ示された。はじめわたしがここにあらわれたとき、きっとあなたはぎくっとされたでしょうが、じきにわたしを利用できると思いなおして、わたしの疑惑をかきたてにかかった。わたしはラングトン自身の口から、ここへくるのは八時半だと聞いていたのですが、それをあなたは九時だと言われた。わたしがもどってきたときには、すべてが終わっているように計画されたのでしょう。それでわたしにはいっさいが明白になったのです」
「なぜおいでになったのです?」ハリスンは叫んだ。「あなたさえおいでにならなければ――!」
ポワロは胸を張った。「申しあげたでしょう。殺人事件はわたしの仕事なのです」
「殺人? 自殺でしょう?」
「いや」ポワロの声が高くなり、鋭くりんりんと響きわたった。「殺人です。あなたは苦しみもなく一瞬のうちに死んでいけますが、あなたがラングトンのために仕組まれた死は、人の死にゆく道のうちもっとも恐ろしいものです。彼は毒薬を買っています。あなたに会いにきて、二人だけになっています。あなたが急死して、青酸カリがあなたのグラスから発見されれば、クロード・ラングトンは絞首台行きをまぬがれますまい。それがあなたの計画だったのです」
またしてもハリスンはうめくように言った。
「なぜあなたはおいでになった? なぜおいでになったのです?」
「それは申しあげたはずです。しかし、もうひとつ理由があります。わたしはあなたに好意を持っているのですよ。いいですか、|あなた《モナミ》、あなたはまもなく死んでゆかれる。愛していた女性も失ってしまわれた。ですが、ひとつだけあなたの失っていないものがある。殺人者にはならなかったという矜持です。どうです、これでもわたしがきたのを恨んでいらっしゃいますか、それとも喜んでくださいますか?」
ちょっと間があって、それからハリスンはゆっくりと身を起こした。その顔には、新たな威厳が輝いていた。それは、卑劣な自我を克服した男の顔だった。彼はテーブルごしに手をさしのべた。
「感謝します」と、彼は言った。「おお! おいでくださったことを心から感謝いたします」
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二十四羽の黒つぐみ
エルキュール・ポワロは友人のヘンリー・ボニントンといっしょに、チェルシーのキングズ・ロードにあるレストラン、『ギャラント・エンデヴァー』で食事をしていた。
ボニントン氏は『ギャラント・エンデヴァー』をひいきにしていたが、それはこの店のゆったりした雰囲気と、「あっさり」して、「イギリスふう」で、「ごたごた手を加えない」料理が気にいっているからだった。
親切なウェイトレスのモリーが、年来の知己を迎えるように彼を迎えた。彼女は客たちの食べものの好みを、いちいち記憶していることを誇りにしている女だった。
「いらっしゃいませ」と、モリーは男二人を一隅のテーブルに案内しながら言った。「いい日においでになりましたわ。きょうは栗を詰めた七面鳥がございます――ご好物でしょう? それから、スティルトン・チーズのとびきり上物がはいっております。最初はスープになさいます? それともお魚から?」
料理とワインの注文がきまると、きびきびと立ち去るモリーを見送って、ボニントン氏はほっと息をついて椅子の背にもたれ、ナプキンをひろげた。
「いい娘だ、あれは!」と、彼は賞賛の口調で言った。「あれでもむかしはなかなかの美人でね――画家たちが争ってモデルにしたがったものだ。おまけに料理にもくわしいし――これがあんた、あんがい重要な問題でね。たいがいの女は、食べもののことではいたってたよりにならないものだ。好きな男と食事に出かけても、なにを食べるかにはまるきり無関心、最初に目についたものを注文してすませる、なんて連中が多いものなのさ」
ポワロは首を振った。「|ひどいものですな《セ・テリブル》」
「男にはそんなことはない、ありがたいことにね」ボニントン氏は満足そうに言った。
「ほう、男はだいじょうぶですかな?」エルキュール・ポワロの目がきらめいた。
「いや、まあ、若い連中はべつかもしらんが」ボニントン氏は譲歩した。「ああいう生意気盛りの連中はな! 近ごろの若いものときた日にゃ、どいつもこいつもおなじだ――土性っ骨もなけりゃ、覇気もない。ああいう連中はどだい相手にせんことにしてるんだが――もっとも向こうは向こうで――」と、公平なところを見せてつけくわえて――「こんな年寄りに用はないと言うかもしれん。あるいはそのとおりかもしれんがね! それにしても、ああいう若い連中の言うことを聞いていると、六十以上の人間は生きる権利がないみたいな気がしてくるよ。やつらの言動から推して、ひょっとするとこの連中、手をくだして年寄りの親戚をあの世に送りこんだんじゃないか、なんて思ったりしてね」
「いやじっさい、それくらいのことはやりかねませんな」と、エルキュール・ポワロは言った。
「あんたはたしかにりっぱな見識を持っているよ、ねえポワロ。警察の仕事なんかさせておくのは惜しいぐらいだ」
エルキュール・ポワロは微笑した。「とはいうもののですな、六十歳以上の人間の事故死の統計をとってみたら、きっとおもしろいはずですよ。好奇心をかきたてられること請合いです。いや、失礼。それよりもそちらのお話をうかがいましょう。近ごろ景気はどうです?」
「めちゃめちゃだね!」ボニントン氏は言った。「それが昨今の風潮かもしれんが、それにしてもひどすぎる。政府はうまいことばかり言って、それでもって社会の混乱を押し隠しているんだ。いわば香料をたっぷりきかせたソースで、その下の魚のまずさをごまかしているようなものさ。わたしはごめんだね――ごてごてしたソースなんかかかっていない本物のひらめを食べさせてほしいものだよ」
まさにその瞬間に、彼の望むとおりのものがモリーの手で運ばれてきた。彼は満足げに鼻を鳴らした。
「あんたはたしかにわたしの好みを心得ているな、モリー」
「あら、いつもおいでいただいているんですもの、それぐらい当然ですわ」
エルキュール・ポワロは言った。「すると、だれもがきまったものばかり食べたがるというわけかな? たまには変えてみたくなることはないんだろうか」
「殿方はお変えになりませんわ。ご婦人はね、変化をお好みになりますが、男のかたはいつもおなじものを召しあがります」
「ほら、言ったとおりだろう?」ボニントンがうなるように言った。「女ってのは、元来、食べるもののことではあてにならないものなのさ!」
彼はレストランのなかを見まわした。
「世のなかというのはおもしろいものでね。そら、あの隅の席に、あごひげを生やしたおかしな風体の老人がいるだろう? モリーに訊けばわかるが、あの老人はいつもきまって火曜と木曜の夜にこの店にあらわれる。かれこれもう十年近くもかよってきているそうだ――いわばこの店の商標みたいなものだよ。ところが、あの老人の名前とか、どこに住んでるかとか、職業とかってことになると、店のものもだれも知らない。考えてみればおかしな話さ」
ウェイトレスが七面鳥を運んでくると、彼は話しかけた。
「あいかわらずあのひげの老人、精勤ぶりを発揮しているようだね」
「そうですわ。火曜日と木曜日があのかたのお見えになる日です。でも先週だけは、|月曜日にも《ヽヽヽヽヽ》いらっしゃいましたのよ! あのときはすっかりあわててしまいましたわ! 自分が日をまちがえて、きょうは火曜日だったかと思ったくらいですもの。でも、つぎの晩もつづけておいでになりましたので――それで、月曜日はいわば臨時だったんだなと思いましたの」
「それはおもしろい」ポワロはつぶやいた。「どうしていつもの習慣を破ったのか知りたいものだな」
「そうですわね、わたくしの見たところでは、なにか心配事か気にかかることがあったように思われますけど」
「なぜそう思うの? いつもとようすがちがっていたのかね?」
「いえ――ごようすはいつもと変わりませんでした。いつもあのとおりお静かで、おいでになったときとお帰りになるときに挨拶をなさるほか、ほとんど口をおききになりません。変だったのは、それではなくて、|ご注文《ヽヽヽ》なんですの」
「注文?」
「ええ。こんなことを言うとお笑いになるかもしれませんけど」と、モリーは頬を赤らめて、「ひとりのお客さまが十年近くもかよってきてくだされば、なにがお好きでなにがお好きでないか、たいがいわかってしまいますわ。あのお客さまは、腎臓のプディングとか黒いちごはぜったいに召しあがりませんし、どろっとしたスープをご注文になったこともありません――なのに、月曜の夜においでになったときにかぎって、濃いトマトスープと、腎臓のパイを添えたビーフステーキ、それに黒いちごのタルトをご注文になりましたの! まるで、なにを注文しているか、ご自分でもわかっていらっしゃらないみたいに!」
「なるほど」エルキュール・ポワロは言った。「いや、おもしろい、じつにおもしろい」
モリーは満足そうな顔で立ち去った。
「どうかね、ポワロ」ヘンリー・ボニントンがくつくつ笑いながら言った。「あんたの推理を聞かせてもらおうじゃないか。例によってあざやかなところをね」
「それよりもあなたの推理を先にうかがいたいですな」
「ワトスン役をやれってわけかね? よろしい。こういうのはどうだ――あの老人は医者の診察を受けにいった。そして食事を変えろと言いわたされた」
「濃厚なトマトスープ、ステーキと腎臓のパイ、黒いちごのタルトにですか? どんな藪医者だって、そんなばかなことは言わないはずですがね」
「それは考えちがいだよ、ポワロ。医者なんて、どんな命令でも出すものさ」
「それだけですかな、あなたの思いつく解答は?」
ヘンリー・ボニントンは言った。「いや、まじめな話、ありうべき解釈はひとつしかないと思うね。われらが未知の友人は、なにか激しい感情にとらわれていた。気持ちが動転していたんだ。それで、文字どおり、なにを注文しているか、なにを食べているのかもわからなかったのさ」そこで彼はいったん言葉を切り、しばらくしてからまたつづけた。「こう言うと、あんたはすぐに言うだろう――ではあの老人は、なにが気にかかっていたのかわかるか、とね。自分ではきっと、殺人計画を練っていたんだとでも言うんだろうけどね」
そして彼は、自分の冗談に自分で声をたてて笑った。
エルキュール・ポワロは笑わなかった。
のちに彼が認めたところによると、そのとき彼は本気で心を痛めていたのだという。なにが起ころうとしているか、そのとき多少の予感があってもよかったはずだ、としきりに言い張るのである。
そこまで考えるのは、あまりに考えすぎだと友人たちは慰めるのだが。
それから三週間ほどたって、エルキュール・ポワロとボニントンは再会した――今度は地下鉄のなかでである。
二人は隣りあった吊り皮にぶらさがって、電車の震動に身をまかせながらうなずきあった。やがてピカデリー・サーカスまでくると、どっと客が降り、二人は車輛のいちばん前に並んで坐ることができた。乗り降りする客はそこまではやってこないので、そこでは落ち着いて話ができた。
ボニントン氏が言った。「ところであんたは覚えているかな。いつだったか『ギャラント・エンデヴァー』で、変わった老人に会ったろう? どうやらあの老人、あの世へ行っちまったんじゃないかと思われるふしがあるんだ。ここ一週間、まるきり姿を見せないんでね。モリーがたいへん気にしている」
エルキュール・ポワロは坐りなおした。目がきらっと光った。
「ほんとうかね? それ、ほんとうのことですかな?」
ボニントンは言った。「あのときわたしは言ったろう――あの老人は医者の診察を受けて、食餌制限を言いわたされたんだって。食餌制限はまあ冗談にしても、医者の診察を受けたことは事実じゃないのかな。そしてそこで、医者からなにか衝撃を受けるようなことを宣告された。それで彼が、ろくにメニューも見ず、自分でもなにを注文しているのかわからないような態度だったことが説明できる。医者から聞いたことが衝撃になって、かえって命をちぢめる結果になったと考えても不自然じゃないわけだ。医者が患者になにか言うときは、言葉に気をつけるべきだという教訓だね、これは」
「いや、その点はじゅうぶん気をつけているはずですよ」エルキュール・ポワロは言った。
「おっと、わたしはここで降りるんだった」ボニントン氏は言った。「じゃあまた。これでわれわれは、あの老人がなにものなのか、永久に知る機会がなくなったってことかな――そう、彼の名前さえもね。おかしな世のなかさ!」
彼は急いで電車を降りていった。
エルキュール・ポワロは眉をひそめて坐っていたが、その顔つきは、この世のなかをさほどおかしなところとは見なしていないかのようだった。そして、家に帰り着くと彼は、あることを忠実な従僕ジョージに言いつけた。
名前のリストを手にとって、エルキュール・ポワロはそれに指を走らせた。それは、ある地区における最近の死亡者の名簿だった。
ポワロの指が止まった。
「ヘンリー・ガスコイン、六十九歳か。これから最初にあたってみるとするか」
それから数時間後、エルキュール・ポワロはキングズ・ロードのはずれで開業しているマカンドリュー医師の診察室にいた。マカンドリューは長身、赤毛のスコットランド人で、知的な風貌をしていた。
「ガスコインですって?」彼は言った。「ああ、あのひとですな。変わった老人でしたよ。こわれかかったような古い家にたったひとりで住んでいましてね。あの地域はぜんぶとりこわして、近代的なアパートに建てかえることになっているんですが、あのひとはそこにがんばっていたわけですよ。わたしは診察したことこそありませんが、姿はちょいちょい見かけていましたから、どこのだれかは知っていました。最初に異変に気づいたのは、牛乳配達でしてね、届けた壜がそのままになっているので、変に思ったわけです。結局、近所の連中が警察に届けでて、警察がドアをこわして踏みこんだところ、老人は死んでいた。階段から落ちて、首の骨を折ったんです。ぼろぼろの紐のついた古ぼけたガウンを着ていましてね――それに足をとられたんだろうということになったわけですよ」
「なるほど」エルキュール・ポワロは言った。「きわめて簡単――事故死ですな」
「そうです」
「親族はありましたか?」
「甥がひとりいます。月に一度ぐらい会いにきていたようです。ラムジーといいましてね。ジョージ・ラムジー。やはり医者でして、ウィンブルドンに住んでいます」
「あなたがガスコインさんの遺体を調べられたのは、死後どれくらいたってからでした?」
「ああ、その点にたいしては正確にお答えしなきゃなりませんな」マカンドリュー医師は言った。「死後四十八時間以内ではなく、七十二時間以上ではないといったところでしょうか。発見されたのは六日の朝ですが、実際にはこの範囲をもっとせばめることができましたよ。ガウンのポケットに手紙がはいっていましてね。これが三日に書かれ、その日の午後ウィンブルドンで投函されているので、だいたい夜の九時二十分ごろ配達されたはずです。したがって、死亡時刻は三日の夜九時二十分以降と推定でき、これは胃の内容物の消化状態とも一致します。故人は死亡する約二時間前に食事をとっているのです。わたしが検死をしたのは六日の朝ですが、死体の状況からして、死亡したのはそれより約六十時間前と見ていいでしょう――つまり、三日の午後十時ごろということになります」
「なるほど、ぴったり一致するようですな。それで、生きている姿を最後に見られたのはいつごろです?」
「そのおなじ夜――つまり三日の木曜日の午後七時ごろ、キングズ・ロードを歩いているのを見られています。そして七時半には、『ギャラント・エンデヴァー』レストランで食事をしています。どうやら木曜日には、いつもそこで食事をする習慣だったようです」
「ほかに親族はないのですか? その甥だけですか?」
「双生児の兄がいました。それがおかしな話でしてね。兄弟はもう数十年来、行き来がなかったんですよ。ヘンリーというのは、若いころ、画家を志望していたんですが、これが箸にも棒にもひっかからないへっぽこ絵描きで、とうとう成功しませんでした。兄のアントニー・ガスコインのほうも、おなじ志望を持っていましたが、こちらは金持ちの女と結婚して、画業を捨ててしまったようです。これがもとで兄弟は衝突しましてね、それ以来一度も会っていないというわけです。ところが、ここに不思議なことがありまして、|兄弟がおなじ日に死亡している《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》んですよ。兄のほうは、三日の午後一時に亡くなっています。双生児がおなじ日に、まったくべつべつの場所で死亡したという例を、一度だけ聞いたことがありますがね! おそらくただの偶然でしょうが、不思議な暗合もあればあるものです」
「で、その兄のほうの細君というのは生きているんですか?」
「いや、数年前に亡くなりました」
「アントニー・ガスコインの住所は?」
「キングストン・ヒルに屋敷をかまえていました。どうもラムジー医師の話から察するに、世間とは没交渉な、まったくの隠遁生活を送っていたようです」
エルキュール・ポワロは思案ぶかげにうなずいた。
スコットランド人の医師は、さぐるように彼を見つめていたが、やがてずばりと、「いったいなにを考えておられるのです、ポワロさん?」とたずねた。「わたしはあなたの質問にお答えした――あなたのお持ちになった証明書を拝見したので、検死に立ちあったものとしての義務を果たしたわけです。それにしても、合点がゆかないのは、いったいなんのためのご調査なのかということでしてね」
ポワロはのろのろと言った。「単純な事故死のケースだ――そうあなたはおっしゃった。わたしが考えているのもいたって単純なことでね――単純な一押しということです」
マカンドリュー医師は驚いて目を見はった。「言いかえれば、殺人ということですな! そうお考えになる根拠はあるのですか?」
「いや、たんなる推測です」ポワロは答えた。
「そうですかな? いや、きっとなにかあるにちがいない」相手は言いはった。
ポワロは黙っていた。
マカンドリュー医師はつづけて言った。「もしあなたが疑っておられるのが甥のラムジーなら、いまこの場で断言できますよ――それはまったくの見当ちがいだとね。その夜、八時半から真夜中まで、ラムジーはウィンブルドンでブリッジの会に出ていたのです。これは検死審問で明らかになった事実ですよ」
ポワロはつぶやいた。「そして当然、確認されたのでしょうな。警察は念入りなものですから」
医師は言った。「たぶんあなたは、彼に不利な事実をなにかご存じなんでしょうな?」
「あなたからうかがうまで、そういう人物がいることさえ知りませんでしたよ」
「じゃあ、ほかのだれかを疑っておられるのですか?」
「いや、いや、そういうことじゃないんです。問題はですな、人間という動物は一定の習慣を持つということで、これは非常に重大な意味を持っています。ところが亡きガスコイン氏は、この原則を破った。なにかが完全に狂っているのですよ、いわばね」
「わたしにはなんのことかさっぱりわかりませんな」
エルキュール・ポワロはほほえんで、立ちあがった。マカンドリュー医師も立ちあがって、言った。
「正直なところ、わたしにはどう考えても、ヘンリー・ガスコインの死に怪しいふしがあるとは思えませんな」
小柄な探偵は両手をひろげた。「わたしはもともと強情な人間でしてな――ちょっとした考えにとりつかれているのですよ――しかもそれを裏書きする根拠はなにもない! ところで、マカンドリュー先生、ヘンリー・ガスコインは入れ歯を入れていましたか?」
「いや、ぜんぶ自前の歯で、それも非常にいい状態でした。あの年齢にしてはりっぱなものです」
「手入れがよかったのですな――白くて、よく磨いてありましたか?」
「ええ。それはわたしもとくに気がつきました」
「ぜんぜん変色していなかった?」
「いませんでした。タバコは吸わなかったようです――あなたのたずねておられるのがそういうことなら」
「いや、必ずしもそういうつもりではなかったのですが――あてずっぽうに遠い的を狙ってみたまでですよ――おそらく当たらんでしょう。じゃあ失礼します、マカンドリュー先生。ご協力ありがとうございました」
そして彼は医師と握手をかわして、そこを出た。
「さてと、ではつぎに遠い的を撃ちにいくか」
『ギャラント・エンデヴァー』で、彼は先日ボニントンと食事をしたときとおなじ席についた。給仕の娘はモリーではなかった。その娘の言うところによると、モリーはきょうは休暇だということだった。
ちょうど七時、まだこみあう時刻ではなかったので、その娘を相手に、ガスコイン老人の話題をもちだすのはむずかしくはなかった。
「ええ。あのかたはずいぶん長いあいだお見えになっていましたわ」彼女は言った。「でもわたしたち店のものは、だれもあのかたのお名前を存じあげなかったんです。たまたま新聞に検死審問のことが出て、そこにあのかたのお写真が載っていましたの。『ねえ、これ、例の『ひげのご老人』じゃなくって?』って、わたし、モリーに言いました。うちでは『ひげのご老人』で通っていましたの」
「亡くなった晩に、ここで食事をしていったそうだね?」
「そうですわ。三日の木曜日でした。いつでも木曜日にはおいでになっていたんです。火曜日と木曜日に――時計みたいに正確に」
「ひょっとして、そのときなにを食べたか覚えていないかね?」
「ええと、ちょっとお待ちくださいましよ。はじめは鶏肉入りのカレースープでした。まちがいありません。それから、ビーフステーキ・プディング――それともマトンだったかしら? いえ、やっぱりプディングですわ。それに、黒いちごとりんごのパイ、チーズです。そのあとおうちへお帰りになって、おなじ晩のうちに階段から落ちて亡くなられるなんてねえ。ガウンの紐がぼろぼろになっていて、それが足にからんだんだそうですけど。たしかに、あのかたのお召しものは、いつもそれはひどいものでしたわ――流行遅れのを無造作に着こんで、しかもそれがすっかり痛んで、すりきれているんです。ところがそれでいて、ごようすにどこかただものじゃないっていう雰囲気があってね! じっさいうちの店には、いろいろおもしろいお客さまがおいでになりますわ」
彼女は歩み去った。
エルキュール・ポワロはひらめを食べはじめた。
さる有力者筋からの紹介状をもらっていたので、エルキュール・ポワロが所轄地区の検死官と面会するのには、なんの手間もかからなかった。
「変わった人物でしたよ、死んだガスコインという男は。交際ぎらいで、偏屈な老人でした。ところがその彼の死が、どうもなみなみならぬ関心を呼び起こしたようで」そう言って検死官は、多少の好奇心をあらわにした目で訪問者を見つめた。
エルキュール・ポワロは慎重に言葉を選んだ。「それにからんで、調査を必要とする事態が生じたのですよ」
「ほう。で、わたしになにをせよとおっしゃる?」
「たしか、検死審問で提出された証拠書類をそのあと破棄するか、それとも押収するかは、あなたの権限で、適当と思われるほうに決定できるはずでしたな。そこでです、ヘンリー・ガスコインのポケットから、一通の手紙が発見されたとのことですが――?」
「そのとおりです」
「故人の甥、ジョージ・ラムジー医師からの手紙ですね?」
「そうです。その手紙は検死審問に提出され、死亡時刻を決定するのに役だちました」
「その手紙、いまでも見られますか?」
エルキュール・ポワロは、やや気がかりそうに相手の返事を待ち受けた。そして、手紙がまだ保存してあると聞くと、ほっとしたように溜息をついた。検死官がそれを持ちだしてくると、ポワロは念入りに目を通した。鉄筆型万年筆を使って、やや読みにくい文字で書かれたもので、文面はつぎのとおりだった――。
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親愛なるヘンリー伯父さん
アントニー伯父さんについてのご依頼の件、まことに残念ながら、ご期待にそえなかったことをご報告いたします。あちらをご訪問なさりたいという伯父さんのご意向にたいし、アントニー伯父さんはなんら熱意を示されなかったばかりか、過去のことは水に流そうという伯父さんからのおことづけには、返事もしてくださいませんでした。もとより、かなり容態がお悪いので、とりとめのないことしかおっしゃらぬのはむりからぬこと、おそらくはお命もそう長くはないのではないかと思います。じっさい、実の弟である伯父さんのことも、ろくに覚えておられないようでした。
お役に立てなかったことは申し訳ありませんが、ぼくとしては最善を尽くしたことをご諒解いただきたいと存じます。
あなたの忠実なる甥
ジョージ・ラムジー
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手紙の日付は十一月三日になっていた。ポワロは封筒の消印を一瞥した――午後四時三十分。
彼はつぶやくように言った。「すべてぴったりですな。ねえ?」
つぎなる目的地はキングストン・ヒルだった。そこまでこぎつけるのに多少骨は折ったものの、根気よく愛嬌をふりまいたおかげで、どうにか、故アントニー・ガスコインの料理人兼家政婦だったアミーリア・ヒルに会うことができた。
はじめのうちヒル夫人は、かたくなな、疑いぶかい態度をくずさなかったが、そのうち徐々に、このおかしな風体の外国人のにこやかな、ものやわらかな応対に心がほぐれてきた。
そしていったん心がほぐれたとなると、これまでポワロに出あった多くの女たち同様に、この心から同情的な聞き手の前に、胸のなかのつかえを洗いざらいぶちまけはじめた。
十四年という長い年月、彼女はガスコイン家の家政を担当してきたのだが、これは容易な仕事ではなかった。そう、けっしてだ! たいていの女なら、彼女の耐えてきたような重荷を背負わされたら、音をあげるだろう。だれに聞いても否定しまいが、変わっているといって、あれほど変わっている人物も珍しかった。金銭にこまかいことは驚くほどで、ああなると一種の病気に近い――それでいてたいそうな金持ちなのだ。だがヒル夫人は忠実につとめて、たいがいのことは我慢してきた。だから、なにがしかの形見をもらえると期待しても当然ではないか。ところがあきれたことに、それがまるでない! 古い遺言状があって、全財産を妻にのこす、妻が先立った場合は、いっさいを弟のヘンリーに譲るとしてあったが、それはずっと昔に作成されたもので、どう考えてもあの処置は公正とは思えない。
それとなくエルキュール・ポワロは彼女を誘導して、目算のはずれた不満から、彼女の話題をそらしにかかった。それはたしかに冷酷かつ不当な処置ですな! ヒル夫人が傷つき、あきれたのもむりはない。なにしろガスコイン氏が金にきたなかったことは、周知の事実なのだ。聞くところによれば、たったひとりの弟から援助を要請されたときも、故人はすげなくそれを拒絶したそうだが、ヒル夫人もそのことはたぶん承知のことと思う。
「じゃあラムジー先生がお見えになったのは、そのことだったんですか?」と、ヒル夫人は聞きかえした。「なにか弟さんのことでおいでになったのは知っていましたけど、それはただ、弟さんから仲直りを申しでていらしたんだとばかり思っていましたわ。ご存じでしょうが、あのご兄弟は長年仲たがいをしてらしたんです」
「それでたしか、ガスコイン氏ははっきり拒絶なさったんでしたな?」ポワロは言った。
ヒル夫人はうなずいた。「まあそうでしょうね。旦那さまはどっちかというと弱々しくおっしゃいましたわ。『なに、ヘンリー? ヘンリーがどうしたというんだ? もう長いあいだ会っていないし、会いたいとも思わん。なにかというと喧嘩をふっかけてくる男でな、ヘンリーというのは』――それだけでした」
そこでまた話はヒル夫人自身の不満と、故ガスコイン氏の弁護士の冷淡な態度に逆もどりした。
あまり唐突に相手の話の腰を折らぬよう、エルキュール・ポワロはいくらか苦心してそこを辞去した。
こうして、ちょうど夕食時間が過ぎたころ、彼が姿をあらわしたのは、ウィンブルドンはドーセット街のエルムクレスト、ジョージ・ラムジー医師の住まいだった。
医師は在宅していた。エルキュール・ポワロは診察室へ通され、やがて、ジョージ・ラムジー医師が、いかにも夕食のテーブルから立ってきたというようすであらわれた。
「診察をお願いにきたのではありません」と、エルキュール・ポワロは言った。「いきなりうかがって、すこしぶしつけかとは思いましたが、なにごとも単純明快、率直を信条としていますのでね。弁護士を通したり、彼ら一流の迂遠な、もってまわったやりかたにたよったりするのは、どうも好きになれないんですよ」
この言いかたがラムジーの関心をそそったのは明らかだった。医師は中背の、きれいにひげを剃った男で、頭髪は茶色だが、まつげはほとんど白に近いほど淡い色なので、それが彼の目に生気のない、茹《ゆ》でさらしたような印象を与えていた。だが、態度はきびきびしていて、ユーモアがないでもなかった。
「弁護士ですって?」彼は眉をつりあげて言った。「ぼくも連中は大嫌いです。いや、あなたのお話には興味をそそられましたよ。まあどうぞ、おかけください」
ポワロは言われるままに席につくと、職業用の名刺をとりだして、医師に渡した。ジョージ・ラムジーの白っぽいまつげがまたたいた。
ポワロは打明け話でもするように身をのりだした。「じつは、わたしの依頼人の大半はご婦人がたでしてね」
「当然でしょうな」そう言いながらラムジー医師は、かすかに目をきらめかせた。
「おっしゃるとおり、当然です」ポワロはうなずいた。「ご婦人がたは警察を信用されませんからな。むしろ私立探偵のほうを選ばれます。ご自分のトラブルが公になるのを好まれないのですよ。ところで、つい数日前に、ある年輩のご婦人が相談に見えましてね。このかたは、ご主人とのあいだがうまくいかず、かなり以前に喧嘩別れされたきりになっています。このご主人というのが、あなた、あなたの伯父さんで、先日亡くなられたガスコインさんなんです」
ジョージ・ラムジーの顔が紫色に変わった。「伯父ですって? ばかな! 伯父の細君はずっと前に亡くなっていますよ」
「いや、アントニー・ガスコインさんのほうじゃありません。その弟さんのヘンリー・ガスコインさんですよ」
「ヘンリー伯父? しかし彼は一度も結婚なんかしたことはないはずだ!」
「いや、それがしておられたのです」エルキュール・ポワロは平然と嘘をついた。「まちがいはありません。そのご婦人は結婚証明書を持ってこられました」
「嘘だ!」ジョージ・ラムジーは叫んだ。その顔は、いまや熟したプラムのようだった。「そんなこと信じられるものか。この大嘘つきのかたり野郎め!」
「残念でしたな」ポワロは言った。「せっかく殺人までやってのけたのに、一文の得にもならないとは」
「殺人?」ラムジーの声がふるえた。薄青い目が、恐怖のためにとびだしそうにふくらんだ。
「ついでですが」ポワロはつづけた。「また黒いちごのタルトを食べておられたようですな。感心しない習慣です。黒いちごはビタミンが豊富だと言われていますが、反面、命とりになる場合もあります。今度の場合も、それがある男の首に絞首索を巻きつける手助けをしたようで――あなたの首ですよ、ラムジー先生」
「要するにですな、|あなた《モナミ》、あなたは基本的な推理においてまちがっていたわけですよ」そう言いながらエルキュール・ポワロは、テーブルごしに穏やかな笑顔を友人に向け、雄弁に手を振ってみせた。「強い心理的圧迫下にある人間は、そういうときに、ふだんとったことのない行動をとることはないものでしてな。反射的に、いちばん抵抗のすくない、慣れきった手順を踏むものなんです。なにかで気が転倒している男が、ついうっかり、パジャマで晩餐の席に出てくるということはありうるかもしれない――しかしそれは自分のパジャマであって、他人のパジャマをまちがえて着るということはありません。
どろりとしたスープが嫌い、腎臓のプディングが嫌い、黒いちごが嫌いという男が、ある夜この三つをぜんぶ注文する。それは彼がほかのことに気をとられていたからだと|あなた《ヽヽヽ》は言う。しかし、『わたしだったらこう言いますな――ほかのことに気をとられている男は、無意識のうちに、いつも注文しつけているものを注文するだろう』とね。
|それでは《エ・ビアン》、ほかにどんな解釈がありうるでしょうか? わたしには、合理的な説明はひとつとして思いつけなかった。ですからわたしは頭を悩ましました! あの出来事はどこかがまちがっている。
それからわたしは、あの男が姿を見せなくなったということをあなたから聞きました。彼が火曜と木曜に姿をあらわさないのは、ここ何年にもなかったことだ。これはますますわたしの気に入りませんでした。奇妙な仮説がふと頭に浮かびました。わたしの考えがまちがっていなければ、|この男は死んだにちがいない《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。そこで調査をしてみると、|たしかに《ヽヽヽヽ》死んでいる。しかも非常に手ぎわよく、みごととしか言いようのないほどの死にかたをしている。言いかえれば、味の悪い魚をソースでごまかしてあったというわけです!
彼は、その夜七時にキングズ・ロードを歩いているのを目撃されている。七時半には、この店で食事をとっている――死亡する二時間前です。すべて辻褄があっている――胃の内容物といい、ポケットにあった手紙といい、証拠はじゅうぶんです。あまりにソースが多すぎる! ソースに隠れて、魚はぜんぜん見えなくなっているんです!
忠実な甥がその手紙を書いた。忠実な甥は伯父の死亡時刻に完璧なアリバイを持っている。死因はいたって単純――階段からの転落死です。単純な事故か? 殺人か? だれだって前者だというでしょう。
唯一の生存する身寄りである忠実な甥。その忠実な甥が全財産を相続する。しかし、はたして相続するだけの財産があるでしょうか? 死んだ伯父が無一文だったことは広く知れわたっているのです。
しかるにここに兄がいる。この兄は若いころ、金持ちの女と結婚している。キングストン・ヒルに豪壮な邸宅をかまえていることから推して、彼は金持ちの細君から全財産を受けついだと考えられます。あとはいうまでもないでしょう――金持ちの細君がアントニーに遺産をのこす、アントニーがそれをヘンリーにのこす、ヘンリーの遺産はジョージに渡る――どうです、完全な連鎖でしょう?」
「理論としてはなかなかみごとなものだ」ボニントン氏は言った。「しかし、あんたはそれでどうしたんだね?」
「筋道さえわかれば、あとは望むだけの証拠が手にはいるものです。ヘンリーは食後二時間たって死亡した――この点だけを検死審問では重視したんですが、その食事が夕食でなく、昼食《ヽヽ》だったらどうなりますかな? ためしにジョージの立場に立ってごらんなさい。彼は金をほしがっている――喉から手の出るほどにです。いっぽう、アントニー・ガスコインが死にかかっているが、彼が死んでも、ジョージにはなんの利益ももたらさない。彼の遺産は、弟のヘンリー・ガスコインに行ってしまうし、しかもヘンリーは、この先何年生きるかわからない。したがって、ヘンリーもまた死んでくれなくては困る――それも早ければ早いほどいい――とはいえその死は、アントニーの死よりも|あと《ヽヽ》でなくてはならないし、その時刻にジョージはアリバイを持っていなくてはならない。ヘンリーが週に二回、規則的にレストランへ食事にいくことが、ジョージにアリバイ工作を思いつかせる。彼は慎重な男なので、まずためしに予行演習をやってみる。『伯父に変装して、ある月曜日に問題のレストランへ行ってみるわけです。』
予行演習はとどこおりなく行なわれる。店のものはみな彼を伯父と思いこむ。彼は満足する。あとはただ、アントニー伯父がいよいよいけなくなるのを待つばかり。やがて時がくる。彼は十一月二日の午後に伯父に手紙を出すが、日付は三日としておく。そして三日の午後、ロンドンへ出てきて、伯父を訪問し、計画を実行する。強い一押し、そしてヘンリー伯父は階段をころげおちる。
そのあとジョージは、前日出した自分の手紙を捜して、それを伯父のガウンのポケットにつっこむ。七時半には『ギャラント・エンデヴァー』にあらわれるが、そのときには、あごひげやもじゃもじゃの眉毛その他で、完全に伯父になりすましている。これで疑いもなく、ヘンリー・ガスコイン氏は七時半には生きていたことになる。それから、便所にでもとびこんで、大急ぎで扮装を解くと、車でウィンブルドンに急行し、ブリッジの会に顔を出す。どうです、完璧なアリバイでしょう?」
ボニントン氏は彼を見つめた。「しかし、手紙の消印は?」
「ああ、あれはきわめて単純なトリックですよ。消印は、すれて、よごれていました。なぜでしょう? 日付が黒インキで十一月二日から三日に改竄されていたからですよ。その気になって見ないことには、とうてい気がつかないでしょう。そしてもうひとつ、黒つぐみのことがあります」
「黒つぐみ?」
「二十四羽の黒つぐみ、パイに入れて焼かれた! いや、正確に言えば黒いちごですがね! 要するに、ジョージというのは、結局たいした役者ではなかったのですよ。彼は伯父そっくりの扮装をして、伯父そっくりに歩き、伯父そっくりにしゃべった。そして伯父そっくりのひげをつけ、眉毛をつけたが、伯父そっくりに『食べる』ことは忘れてしまった。自分の好きな料理を注文してしまったのです。
黒いちごを食べると、歯が青く染まります。死体の歯は変色していなかった。ところがその夜、この『ギャラント・エンデヴァー』で、ヘンリー・ガスコインは黒いちごを食べているのです。それでいて、胃のなかにも黒いちごはなかった。今朝それをたしかめましたよ。そのうえジョージは、ばかなことに、つけひげその他の扮装道具を後生大事にしまっておいたんです。さよう! その気になれば、証拠はいくらでも出てくるものでね。わたしはジョージを訪問して、ちょっとばかりおどかしてやりました。それがとどめの一撃になったわけです。ついでですが、彼はまた黒いちごを食べていましたよ。意地きたないやつです――食べることばかり考えて。|というわけで《エ・ビアン》、天罰てきめん、その意地きたなさが彼の首を絞めることになりました――もしわたしが途方もない考えちがいをしていなければね」
ウェイトレスが二人前の黒いちごとりんごのタルトを運んできた。
「おいきみ、こいつはさげてくれ」と、ボニントン氏は言った。「用心してしすぎることはないからね。そのかわりに、小さなサゴ椰子のプディングで我慢することにしよう」
[#改ページ]
バグダッドの櫃《ひつ》の秘密
それはなかなか目につく見出しだったので、わたしはそのことを友人のエルキュール・ポワロに話した。といっても、事件の当事者たちを知っているわけではなく、わたしの関心は、たんなりゆきずりの男の第三者的なものでしかなかった。ポワロはうなずいた。
「なるほどね。たしかに東洋ふうな匂いもするし、神秘的でもある。櫃《ひつ》それ自体は、オーク材の模造品で、トテナム・コート・ロードあたりで買ったものだろうが、それにしても、それをバグダッドの櫃と名づけたところは、この記者もなかなか心得ているよ。それにつづけて、『秘密』という言葉を並べたのも妙案だ――もっとも事件そのものには、べつだん秘密らしきものもなさそうだがね」
「まさにね。残虐だし、無気味な事件だが、神秘的なところなんかまったくない」
「残虐で、無気味か」ポワロは思案げにくりかえした。
「考えただけで胸がむかつくよ」わたしは立ちあがって、部屋をいったりきたりしながら言った。「犯人は被害者――友人――を殺して、櫃に押しこみ、その三十分後にはおなじ部屋で被害者の細君とダンスをする。考えてもみたまえ! もし細君が一瞬でもそんなことに気づいたら――」
「まったくだ」ポワロは考えぶかげにうなずいた。「例のおおいに自慢されている女性の占有物、女の直感というやつ――それもこの場合には働いていなかったようだね」
「パーティーは和気あいあいのうちに終わったようだ」わたしは軽く身ぶるいしながら言った。「ところがそのあいだ――彼らがダンスをしたりポーカーをしたりしているあいだ、ずっと、部屋のなかには死人が同席していたんだからね。このアイディアをもとにして、一篇の戯曲が書けるくらいだ」
「そんなものはとうのむかしに書かれているよ」ポワロは言った。「だけど、がっかりすることはないさ、ヘイスティングズ。一度用いられたテーマだからといって、二度用いていけない法はない。まあせいぜいがんばって、きみのドラマを書きあげたまえ」
彼がしゃべっているあいだに、わたしは新聞をとりあげて、いくらかぼやけた写真をながめていた。
「美人であることはたしかだな」わたしはのろのろと言った。「この写真からでも見当はつく」
写真の下には、つぎのような説明がついていた――
被害者の妻クレイトン夫人(近影)
ポワロはわたしの手から新聞をとった。
「そう、たしかに美人だね。生まれながらに、男心を狂わせる女性だ」
彼は溜息まじりに新聞をわたしに返してよこした。
「|ありがたいことに《デュ・メルシ》、わたしは情熱的な気質には生まれてこなかった。おかげで、いろいろと面倒なことになるのをまぬがれてきたと言えるようだね。その点は感謝しているよ」
わたしたちのあいだで、それ以上その事件が話題になることはなかったように思う。そのときはポワロは、とくにそれに興味を示すこともなかった。事実は明白であり、あいまいな点はほとんどなかったから、議論を戦わせても無意味と思われたのである。
クレイトン夫妻とリッチ少佐は、かなり長いあいだのつきあいだった。事件の起きた三月十日に、クレイトン夫妻はリッチ少佐の家に招かれ、内輪の集まりに顔を出すことになっていた。ところが、その日の七時半ごろ、べつの友人のカーティス少佐というのと酒をくみかわしていたクレイトンは、思いがけない急用ができてスコットランドに行くことになり、八時の汽車で発つと言いだした。
「そんなわけだから、途中でちょっとジャックのところに立ち寄って、事情を説明するだけの時間しかないんだ。もっともマーガリータは当然出席するがね。ぼくだけが失礼することになるが、ジャックはわかってくれるだろう」
クレイトンはその言葉どおりに、八時二十分前にリッチ少佐の家にあらわれた。あいにく少佐は外出先からもどっていなかったが、クレイトン氏をよく知っている少佐の従僕は、おはいりになってお待ちになってはとすすめた。それにたいしクレイトン氏は、残念ながら時間がないので、ちょっと入れてもらって、少佐に一筆書きのこしてゆくだけにしようと答え、駅へ行く途中で立ち寄ったのだとつけくわえた。
そこで従僕は彼を客間へ案内した。
その五分後、客間のドアがあいて、従僕を呼ぶ声がした。あるじのリッチ少佐で、従僕の気がつかないうちに帰ってきていたものらしく、ちょっと一走りしてタバコを買ってきてくれないかというのだった。従僕がそれを買ってもどってきてみると、客間にはあるじひとりがいた。当然クレイトン氏はもう帰ったのだろうと従僕は考えた。
そのうち、客たちが集まってきはじめた。顔ぶれは、クレイトン夫人、カーティス少佐、スペンス氏とその夫人で、一同はレコードをかけてダンスをし、ポーカーをしてその夜を過ごした。十二時ちょっとすぎに、客はひきあげた。
翌朝、客間の掃除を始めて、従僕は仰天した。絨毯が濃い褐色のしみで変色していたからで、その場所は、リッチ少佐が東洋から買ってき、バグダッドの櫃と呼んでいる箱の下と、その前面にあたるところだった。
本能的に櫃の蓋をあけてみた従僕は、驚いて腰を抜かしそうになった。箱のなかには、心臓を一突きにされた男の死体が、二つ折りの形で押しこまれていたのだ。
恐怖にあえぎながら従僕は外へとびだすと、折から近くを巡回していた警官をつかまえてきた。死体はじきにクレイトン氏と判明し、そのあとすぐにリッチ少佐が逮捕された。伝えられたところでは、少佐の供述は全面的な否認に終始したようだった。前夜クレイトン氏には会っていないし、スコットランドへ行ったことも、夫人の口から聞いただけだというのがその主張だった。
以上が事件のあらましだが、当然ながら、これについてはさまざまなあてこすりや憶測がとびかった。新聞はリッチ少佐とクレイトン夫人の親密な交情を書きたて、どんな鈍感な読者でも、その行間に匂わせてあるものを読みおとすことはなかった。ここには殺人の動機が明確に指摘されていた。
しかし、長年の経験からわたしは、根拠のない誹謗は割引きして考えねばならぬことを知っていた。どんな証拠があるにせよ、ここにほのめかされた動機はまったく実在しないものであるかもしれないし、なにかぜんぜんちがう理由が、事を推し進めたということもありうる。だが、ひとつだけはっきりしていることがあった――リッチが犯人だということである。
さっきも言ったように、本来なら事件はこのまま終結していただろう――たまたまポワロとわたしが、一夜、レディー・チャタートンのパーティーに招待されなかったならば。
ポワロという男は、口では社交上のつきあいを面倒がり、孤独礼賛を言いふらしてはいるが、本心はこのような催しが大好きなのである。人からちやほやされ、もてはやされることほど、彼にとってうれしいことはないのだ。ときには、文字どおり喉を鳴らしてそういう機会を待ち受けることさえある。彼へのお世辞を並べたてた招待状でもこようものなら、目尻をさげて受け取り、うぬぼれきった自賛の言葉を吐き散らしてはしゃぎまわる。そのようすは、とうていここに書きしるすに耐えない。
この問題では、ときにわたしとのあいだに論争がもちあがることもあった。
「しかしね、きみ、わたしはアングロ・サクソンじゃないんだ。だったら偽善者ぶるにはおよぶまい? |そう《シ》、|そう《シ》、きみたちはそうはいかない。それが天性だからね。たとえば、むずかしい飛行に成功した航空士とか、優勝したテニス選手なんかが、きまって人をじろりと見て、聞きとれないくらいの声で、『なあに、たいしたことじゃありませんよ』とつぶやく。しかし、本心から彼らがそう思っていると考えたら、大まちがい。他人がおなじような功績をあげたら、彼らだってやっぱり賞賛するだろう。とすれば、合理的な人間として、自分の功績も誇っていいはずだが、ただ、身につけたたしなみがわざわいして、それを口には出せない。だがわたしはちがうよ。わたしの持っているのとおなじだけの才能をほかの男に見いだしたら、わたしは拍手を惜しまないだろう。たまたま、わたしの得意とする分野では、わたしに匹敵する才能の主に出あったことがないというだけさ。|残念ながらね《セ・ドマージュ》! そういうわけだから、わたしはきわめて率直に、偽善などこれっぽっちもなしに、わたしは偉大な男だと公言するよ。道理、方式、そして心理学を、人なみすぐれてよく心得ている男、それがかく言うわたし、エルキュール・ポワロなんだ! そのわたしが、顔を赤くし、もじもじしながら、じつはわたしはひどくぼんくらなんです、なんてことをつぶやくとしたら、それこそばかげている。それはほんとうじゃないんだからね」
「たしかに、エルキュール・ポワロはひとりしかいないってことは認めるよ」わたしは言った。この言いかたには、多少底意地の悪いものがひそんでいないでもないのだが、さいわいエルキュール・ポワロには馬耳東風だった。
ところで、レディー・チャタートンというのは、ポワロのもっとも熱烈な崇拝者のひとりである。一頭の狆《ちん》の異常な行動を手がかりに、ポワロは一連の謎をつぎつぎに解きほぐしてゆき、ついに、世間を騒がしていた押込み強盗逮捕の端緒をつくったことがある。それ以来、レディー・チャタートンは、だれかれなしにポワロ礼賛の辞を聞かせないではいられなくなったのだ。
パーティーでのポワロのようすは、ちょっとした見ものである。寸分の隙もない夜会服、ぴんとしたホワイト・タイ。頭髪をまんなかからぴたりと分けて、ポマードで光らせ、有名な口髭を念入りに上向きになでつけている――どこから見ても、いささか滑稽なほどのご念の入った伊達男ぶり。こういうときにこの小男を見て、あれが有名な大探偵だと言われても、真に受けるのはむずかしい。
十一時を三十分ほどまわったころだった。女主人のレディー・チャタートンがつかつかと近づいてきて、ポワロを群がる崇拝者の一団から手ぎわよくひきはなし、連れ去っていった。わたしがあとからついていったことは言うまでもあるまい。
ほかの客たちに声が届かないあたりまでくると、レディー・チャタートンはいくらか息をはずませて言った。「ちょっと二階のわたくしの部屋までいらしていただきたいんですの。場所はご存じですわね、ポワロさん。ぜひともあなたのお力をお借りしたいというひとが待っていますのよ――助けてあげていただけますわね。わたくしのいちばんの親友ですの――ですから、いやだなんておっしゃらないでくださいね」
話しながら、勢いよく先に立って歩いてゆくと、レディー・チャタートンはある部屋の扉をぱっと押しあけ、あけるなり大声で叫んだ。
「お連れしたわよ、マーガリータ。お願いすればなんでもひきうけてくださるわ。ねえポワロさん、クレイトン夫人を助けてあげてくださいますわね?」
それだけ言って、返事は聞くまでもないというように、彼女はまたさっさともどっていった。この精力的なところが、彼女のあらゆる行動の特徴なのだ。
クレイトン夫人は窓ぎわの椅子にかけていたが、立ちあがって近づいてきた。全身黒ずくめの喪服姿で、その黒一色の服装が、膚の白さをひきたてている。まれに見る美貌のうえに、あどけないともいえるおおらかさがあって、それが彼女の魅力をいやがうえにも抵抗しがたいものにしている。
「アリス・チャタートンって、とても親切なかたですわ」と、彼女は言った。「あのかたがいっさいをお膳だてしてくれましたの。あなたなら力になってくださるって言いますのよ、ポワロさん。もちろん、お力を貸していただけるかどうかわかりませんけど――でも、そうしていただけることを願っていますわ」
彼女が手をさしのべたので、ポワロはそれをとった。そのまましばらくそれを握ったまま、彼は仔細に彼女を観察した。彼の態度には、ぶしつけなところはみじんもなかった。一流の医師が、案内されてきた新しい患者をながめるような、温かいが、すべてを見とおすような視線だった。
ややあって彼は言った。「奥様はほんとうにわたしがお力になれるとお思いですか?」
「アリスはそう言っていますわ」
「いや、奥様ご自身のお考えをうかがっているのです」
彼女の頬にかすかに赤みがさした。
「おっしゃる意味がわかりかねますけど」
「要するにですね、わたしにどうしてほしいとおっしゃるのか、それをお聞かせ願いたいのです」
「あなたは――あのう――あたくしがだれだかご存じでいらっしゃいまして?」
「存じあげています」
「でしたら、あたくしがお願いしたいことはご想像がおつきになるはずですわ、ポワロさん――そしてヘイスティングズ大尉も」――彼女がわたしの名を知っていたことに、わたしはおおいに気をよくした――「リッチ少佐は、あたくしの夫を殺してはおりません」
「なぜです?」
「なんとおっしゃいまして?」
彼女の軽い狼狽ぶりに、ポワロはうっすら微笑をもらした。
「なぜ殺してはいないのです?」彼はくりかえした。
「おっしゃる意味がよくわかりませんが」
「単純な質問ですよ。警察、弁護士、だれもがおなじことを訊くでしょう――なぜリッチ少佐はクレイトン氏を殺したのか? だからわたしは正反対のことをおたずねするのです――なぜリッチ少佐はクレイトン氏を殺さなかったのか、とね」
「つまり――あたくしがそう確信する理由はなにかとおっしゃるんですの? その――あたくしは|知っている《ヽヽヽヽヽ》んです。それだけよくリッチ少佐というかたを知っているんです」
「それだけよくリッチ少佐というかたをご存じ、とね」ポワロは無表情にくりかえした。
彼女の頬の赤みがいっそう濃くなった。
「そうですわ、みんながそう言うにちがいありません――だれもがそう思うでしょう! ええ、わかっていますわ!」
「|もっともですな《セ・ヴレ》。だれもがその点をつっこんでくるでしょう――リッチ少佐をよく知っているとは、どの程度までのことかと。あなたは正直に話されるかもしれないし、嘘をおつきになるかもしれない。ご婦人にとってはときに嘘をつくことも必要です。自分を護らなければならないのですから。それには嘘も方便となる。しかし、たとえご婦人でも、真実を語らねばならぬ相手が三人あります――懺悔聴聞の神父、かかりつけの美容師、そして私立探偵です。むろんその探偵を信頼なさればの話ですが、いかがです、奥様、わたしを信頼されますか?」
マーガリータ・クレイトンは大きく息を吸いこんで、「ええ」と答えた。「信頼します。しなければなりませんわ」彼女はやや子供っぽい調子でつけくわえた。
「ではうかがいますが、リッチ少佐をよくご存じとは、どの程度に、ですかな?」
彼女はしばらく無言で彼を見つめていたが、やがて、いどむようにあごをつきだして言った。
「お答えしますわ。あたくし、はじめて会った瞬間から、ジャックを愛するようになりました――二年前のことです。その後、あのひともあたくしを愛してくれるようになった――と思います。口にはけっして出しませんけれど」
「|すばらしい《エパタン》!」ポワロは言った。「要点にはいるまでに十五分はかかるんじゃないかと思っていましたが、これでおおいに手間が省けましたよ。あなたはなかなかご分別がおありだ。ところでご主人は――あなたのそうした感情に気づいておられましたかな?」
「わかりません」マーガリータはのろのろと答えた。「ひょっとして――最近は――気づいたんじゃないかと思えるふしもありましたけど。態度が変わりましたので……でもこれはあたくしの気のせいかもしれませんわ」
「ほかに気づいているひとは?」
「ないと思います」
「で――ぶしつけな質問ですが――ご主人をあなたは愛してはおられなかった?」
このような質問に、こうあっさり答えられる女性は、まず彼女をおいてないのではなかろうか。どんな女性もなんとかその感情に理屈をつけようとするものだ。
マーガリータ・クレイトンはいともあっさりと答えた。「ええ」
「|けっこう《ビアン》。これで事情がはっきりしました。あなたのお説によれば、リッチ少佐はご主人を殺してはいない。しかし、あらゆる証拠が少佐の犯行を示していることはご存じでしょう。あなた個人として、その証拠になにか欠陥があるとお思いですかな?」
「いいえ、あるとは思いません」
「ご主人がスコットランドに行くことを最初にあなたに告げられたのは、いつでしたか?」
「昼食のすぐあとです。気がすすまないが、行かないわけにはいかないと申しておりました。なにか土地の評価額についての用件だったようですわ」
「で、そのあとは?」
「外出しました――クラブへ行ったんだと思います。それきり――一度も会っておりません」
「さて、ではリッチ少佐ですが――その夜のようすはどんなでしたか? いつもと変わりありませんでしたかな?」
「ええ、そう思います」
「はっきりおっしゃれませんか?」
マーガリータは眉を寄せた。
「しいて言えば――いくらかぎごちないところがありました。あたくしにたいして、でして、ほかのかたの前ではそういうそぶりはありません。その理由は申しあげなくてもおわかりいただけますわね。あたくし、確信しておりますけど、そのぎごちなさ――というか、うわのそらの態度と言ったほうが、適切な表現かもしれませんが――それは、エドワードとはなんの関係もないことなんです。エドワードがきゅうにスコットランドへ行ったと聞いて、あのひと、びっくりしていましたけど、そうかといって、けっして不自然なほどじゃありませんでしたわ」
「で、ほかには、その夜のことで異常と思われることはないのですな?」
マーガリータは思案した。
「ええ、なにもありません」
「あなたは――その、問題の櫃にお気づきになりましたか?」
彼女は軽く身ぶるいして、首を振った。
「見た記憶もありませんわ――どんな恰好だったかも。その夜はほとんどずっとポーカーをしておりましたから」
「どなたが勝たれました?」
「リッチ少佐です。あたくしがいちばん負けて、カーティス少佐がそのつぎ、スペンスさんご夫妻がちょっと勝って――でも、ほとんどリッチ少佐のひとり勝ちでしたわ」
「パーティーがおひらきになったのは、何時ごろ?」
「十二時半ごろだったと思います。みんなそろって失礼しましたの」
「なるほど」
ポワロは黙りこみ、思案にふけった。
「もっとお役に立てればいいんですけど」と、クレイトン夫人は言った。「なにしろお話しできることがあまりございませんようで」
「現在に関してはね、たしかにそうかもしれません。ですが、過去に関してはいかがです、奥様?」
「過去ですって?」
「そうです。なにか心あたりのある出来事はありませんでしたか?」
彼女は頬を赤らめた。
「ピストル自殺をしたあのいやらしい小男のことをおっしゃってるんですの? あれはあたくしのせいではありませんわ、ポワロさん。ほんとにあたくしの責任じゃないんです」
「必ずしもその事件のことを言っているわけじゃないんですがね」
「じゃあ、あのばかげた決闘のことでしょうか? でも、イタリアのひとには決闘は珍しいことじゃありません。あのかたが死なずにすんで、よかったと思っておりますわ」
「たしかにほっとされたことでしょうな」ポワロはしかつめらしく相槌を打った。
彼女は不審そうにポワロを見つめていた。彼は立ちあがって、その手をとった。
「わたしはあなたのために決闘はしませんよ、奥様。しかし、ご依頼の件はおひきうけしましょう。きっと真相をつきとめてごらんにいれます。あなたの直感が誤っていないことを祈りましょう。そして、つきとめられた真相があなたを救うものであって、傷つけるものではないことを」
はじめに会見した相手はカーティス少佐だった。四十がらみの、軍人らしい体格の男で、濃い黒い髪と、ブロンズ色の膚が印象的だった。クレイトン夫妻とも、リッチ少佐とも、数年来のつきあいだということで、その話は、すべて新聞の報道を裏づけるものだった。
事件のあった日、クレイトンと彼はクラブで一杯やっていたが、七時半ちょっと前になると、クレイトンは、これからユーストン駅へ行く途中で、リッチ少佐のところへ寄ってゆくつもりだと言いだした。
「そのとき、クレイトン氏のそぶりはどんなでしたか? ふさいでいるようでしたか、それとも、元気だった?」
少佐は考えた。もともと口の重い男と見えて、答えたのはかなりたってからだった。
「かなり上機嫌に見受けられましたがね」
「リッチ少佐と気まずい間柄になっているというようなことは言っていませんでしたか?」
「とんでもない。あの二人は親友同士でした」
「奥さんとリッチ少佐の仲を嫉妬しているようなことは?」
少佐はみるみる満面に朱をそそいだ。
「あんたは新聞記事なんかを信じるんですか? あんなのは嘘っぱちとあてこすりばかりだ。むろんあの男は嫉妬なんかしていなかった。あのときだって、こう言ったほどです――『当然マーガリータは出席するが』とね」
「わかりました。で、その夜のリッチ少佐のようすですが――いつもと変わりありませんでしたか?」
「ぜんぜん変わったようすは見えませんでした」
「で、クレイトン夫人は? やはりふだんのとおりでしたか?」
「さよう」と、少佐は思案して、「そう言われてみれば、ふだんよりいくらか静かでしたな。つまり、なにかほかのことを考えているような……」
「最初にリッチ少佐の家に着いたのは?」
「スペンス夫妻です。わたしが行ったときには、もうきていました。じつをいうと、わたしはクレイトン夫人を誘っていこうとして、そっちへまわってみたんですが、彼女はもう出かけたあとでした。ですからわたしはちょっと遅れていったのです」
「で、なにをして過ごされました? みなさん、ダンスをなさった? ポーカーは?」
「両方ともです。ダンスが先でしたが」
「お集まりになったのは五人でしたな?」
「そうです。しかし、その点はかまわんのです、わたしはダンスはやりませんから。それでレコード係にまわって、他の連中が踊りました」
「だれとだれがおもに組みましたか?」
「さよう、じつのところスペンス夫妻は、もっぱら夫婦で踊りたがりましてね。あの二人、目下ダンスに熱中しているんです――凝ったステップとかなんとか、いろいろやってますよ」
「すると、クレイトン夫人はおもにリッチ少佐と踊ったことになりますな?」
「そういうわけです」
「で、そのあとポーカーをなさった?」
「ええ」
「おひらきになったのは?」
「わりと早い時間でしたね。十二時ちょっと過ぎだったかな」
「みなさん、いっしょにお帰りになった?」
「ええ。じつのところ、タクシーに合乗りしましてね。まずクレイトン夫人を降ろし、つぎにわたし、最後にスペンス夫妻がケンジントンまで行ったはずです」
つぎにわたしたちが訪ねたのは、スペンス家だった。在宅していたのは夫人のほうだけだったが、彼女の話は、カーティス少佐のそれとこまかなところまで一致した。ちがっていた点といえば、リッチ少佐のカード運の強さを、いくらか嫌味まじりに聞かされたことだけである。
その日の朝、もっと早い時刻に、ポワロはロンドン警視庁のジャップ警部と電話で打ちあわせていた。その結果、わたしたちがリッチ少佐の住まいを訪れたときには、従僕のバーゴインがわたしたちの訪問を待っていた。
彼の証言は、きわめて要領を得ており、明快だった。
クレイトン氏が訪ねてきたのは、八時二十分前。リッチ少佐はあいにく外出中で、クレイトン氏は、このあとすぐ汽車に乗らねばならぬので、待っているわけにはいかない、一筆書きのこしたいと言って、客間に通された。バーゴインは風呂の支度にとりかかったので、水音のため、実際にはあるじの帰ってきたのを聞いていない。それにもちろんリッチ少佐は、自分の鍵を持っているから、それで表戸をあけてはいったのにちがいない。バーゴインの記憶では、クレイトン氏を通してからおよそ十分ほどして、リッチ少佐に呼ばれ、タバコを買ってくるように言いつかった。いや、そのときは客間にははいっていない。リッチ少佐が戸口に立っていて、そこで用を言いつけたからだ。五分後にタバコを買って帰り、今度は客間にはいったが、そのときは主人のほかだれもおらず、主人は窓ぎわに立ってタバコをふかしていた。彼がもどったのを見て、風呂の用意はできているかと訊くので、できていると答えると、すぐ入浴の支度にかかった。そのさいバーゴインは、クレイトン氏が訪ねてきたことを伝えなかった。当然あるじが客間で顔を合わせ、自ら送りだしたものと思ったからだ。あるじの態度は、平素とまったく変わらなかった。入浴し、着替えをすませたところへ、間なしにスペンス夫妻が到着し、つづいてクレイトン夫人とカーティス少佐が姿を見せた。
バーゴインの説明によると、クレイトン氏が主人の帰宅以前に帰ったかもしれないとは、まったく考えなかったということだった。もしそうなら、玄関のドアがしまる音が聞こえたはずだが、彼はぜったいにそれを聞いてはいないというのだ。
さらに、まったくおなじ淡々とした態度で、バーゴインは死体を発見したときの模様を語った。ここへきてはじめて、わたしはその問題の櫃に注意を向けた。かなりの大きさのもので、壁を背にして、レコード・キャビネットと並べて置いてある。黒っぽい、硬質の木でできており、真鍮の飾り鋲がやたらに打ちつけてある。蓋は簡単にひらいたが、わたしはなかを一瞥して、ぞっとした。きれいに洗ってあるとはいうものの、無気味なしみが残っているのだ。
と、ふいにポワロが声をあげた。「これはなんだ――おかしな穴があいているぞ、どう見ても新しくあけた穴だ」
問題の穴は、櫃の背側、壁に向いたほうにあいていた。三つか四つはあるだろう。直径は四分の一インチほど、いかにも真新しいものらしい痕跡がある。
ポワロはかがみこんで仔細にそれを調べたあと、従僕に問いただすような目を向けた。
「たしかにへんです。これまではこんな穴を見た覚えはありません。気がつかなかっただけかもしれませんが」
「いや、いいんだ」
そう言ってポワロは蓋をしめると、反対側の窓ぎわへ行って、そこを背にして立ち、それからだしぬけにたずねた。
「ちょっと訊くがね。その夜、買ってきたタバコをご主人のところへ届けにきたとき、この部屋のなかにふだんとちがっているところがありはしなかったかね?」
バーゴインはちょっとためらってから、どことなく気重そうに答えた。
「あなたさまがそれをおたずねになるとは不思議でございますな。そうおっしゃられてみると、たしかにございました。そこにあります衝立の位置です。寝室から隙間風が吹きこむのを防ぐために置いてあるのですが――それがほんのわずか左へ寄っていました」
「こんなふうにかね?」
ポワロは敏捷にその前へ行くと、衝立を動かした。それは彩色した革張りのみごとな品で、もとの位置でも多少は櫃を隠すかたちになっていたが、ポワロが左へずらしたので、櫃はぜんぜん見えなくなってしまった。
「さようでございます」従僕は言った。「ちょうどその位置でございました」
「で、あくる朝は?」
「やはりおなじところにありました。まちがいございません。それを動かしたときに、血痕を発見したのですから。ただいま絨毯はクリーニングに出してあります。それで床板がむきだしになっているわけでございます」
ポワロはうなずいた。
「なるほど。おかげでようすがよくわかった」
彼は真新しい紙幣を従僕の手に握らせた。
「ありがとうございます」
外へ出ると、さっそくわたしはたずねた。
「ねえポワロ、あの衝立の件だが――あれはリッチに有利な証拠になるのかね」
「正反対だよ、彼にはたいへん不利になる」彼は沈痛な面持ちで言った。「衝立が櫃を室内の客の目から隠していた。それは同時に、絨毯の血痕を隠す役目もする。遅かれ早かれ、血が櫃を通してにじみだし、絨毯にしみこむことはわかっているんだ。衝立はとりあえずそれを隠すのに使われた。それはいい。しかし――ちょっとだけ納得しかねるところがある。あの従僕だよ、ヘイスティングズ。あの従僕だ」
「あの男がどうかしたのかね? なかなか賢い男のように見えたが」
「そのとおり、非常に利口だ。そうだとすると、すこし変だとは思わないかね? あの男が朝になれば死体を発見しないわけがない。そんなことに、リッチ少佐が気づかなかったと思うかね? 凶行の直後は時間がないから、なんとも手の打ちようがなかったのはわかる。そこでとりあえず死体を櫃に押しこみ、衝立でそれを隠して、客が帰るまでなに食わぬ顔で押しとおす。だが、客が帰ったあとはどうかね? それこそ死体を処分するのにうってつけの時間じゃないか」
「従僕が血痕には気がつくまいと考えたのかもしれんよ」
「それはばかげているよ、|きみ《モナミ》、ちゃんとした召使なら、なによりも先に絨毯のしみに気がつくはずだ。なのにリッチ少佐ときたら、そのまま床にはいって、ぐっすり寝てしまった。後始末らしきことは、いっさいしていないんだ。すこぶる注目すべき、興味ある点だよ、これは」
「ひょっとすると、カーティスが血痕に気づいているかもしれないな――パーティーのあいだ、レコードをとりかえていたんだから」わたしはふと思いついてそう言った。
「それは考えられないね。櫃のある場所は、ちょうど衝立の陰でかなり暗かったはずだ。しかし待てよ、わかりかけてきたような気がするぞ。漠然とだが見えてきたようだ」
「なにがだね?」わたしは膝をのりだして訊いた。
「可能性がさ――いままで考えられてきたのとはべつの説明が、と言ったらいいかな。よし、つぎの訪問で光明が見いだせるかもしれない」
つぎの訪問先は、死体の検案にあたった医師のところだった。医師の証言は、検死審問でのそれのくりかえしで、被害者は短剣に似た薄刃の長いナイフで心臓を一突きにされて死んでおり、ナイフはそのまま傷口に残されていた。むろん即死だったと思われる。ナイフはリッチ少佐の持ちもので、いつもは書きもの机に置いてあった。指紋はなく、拭ったか、でなくばあらかじめ柄にハンカチを巻いて用いたものと思われる。死亡時刻は、七時から九時までのあいだであろう。
「たとえば、十二時過ぎの犯行と考えるのはむりですかな?」と、ポワロはたずねた。
「それは考えられないとはっきり申しあげられます。せいぜい遅くても十時まででしょうが、まず七時半から、八時までというのが、もっとも妥当でしょうな」
医者のところを辞去して帰宅すると、ポワロは言った。「どうやら第二の仮説が浮かびあがってきたようだよ。きみにそれがわかったかな、ヘイスティングズ。わたしには非常にはっきりしてるんだが、念には念を入れろで、あとひとつだけたしかめておかなきゃならないことがある」
「くやしいが、さっぱりわからないな」わたしは言った。
「努力したまえ、ヘイスティングズ。考えてみるんだ」
「よかろう」わたしは言った。「ではと――七時四十分には、クレイトン氏は生きてぴんぴんしていた。最後に生きている彼を見たのは、リッチ少佐で――」
「ということになっているだけだ」
「というと、事実はそうじゃないのか?」
「忘れたのかね――リッチ少佐はその点を否定しているんだよ。自分が帰宅したときは、クレイトンは帰ったあとだったとはっきり証言しているんだ」
「しかし、従僕に言わせると、クレイトンが出ていったのなら、扉のしまる音でそれがわかったはずだそうじゃないか。それに、クレイトンがいったん出ていったのなら、いつもどってきたんだい? 十二時過ぎということはありえない。すくなくともその二時間前には死んでいた、と医者が断言しているんだからね。だとすれば、考えられる説明はひとつしかない」
「言ってみたまえ、|きみ《モナミ》」
「クレイトンは客間で五分間、ひとりきりでいた。そのあいだにだれかがはいってきて、彼を殺したんだ。だけどこの場合にもおなじ難点がある。従僕に気づかれずにはいってこられるのは、鍵を持っているものだけだし、おなじ意味で、犯人が出てゆくときにも、やはり玄関の扉が音をたてる。そうすれば従僕に聞こえるはずだ」
「いかにも」ポワロは言った。「だからして――?」
「だからして――結論はなにもなしだ。ほかの説明は考えられないしね」
「おやおや」ポワロはつぶやいた。「こんなに単純な問題が解けないとはね。これが明らかなること、マダム・クレイトンの青い瞳にまさるとも劣らずさ」
「あんたはほんとうにそう信じて――」
「なにも信じちゃいないさ――証拠をつかむまではね。わたしを納得させるには、あとひとつ、小さな証拠があれば足りる」
そして彼は電話をとって、警視庁のジャップ警部を呼びだした。
二十分後、わたしたちは警視庁の一室で、テーブルの前に立っていた。テーブルの上には、さまざまな品物が小さな山にして積みあげてあったが、それは被害者のポケットにはいっていたものだった。
まずハンカチ、一握りのばら銭、三ポンド十シリング入りの紙入れ、請求書二、三通、ふちがぼろぼろになったマーガリータ・クレイトンのスナップ写真。あとは、ポケットナイフに金《きん》のペンシル、不恰好な木製の工具などだ。
ポワロがさっそく手をのばしたのは、この最後の品だった。彼がその柄をまわすと、ぱらぱらと小さな木屑が落ちた。
「どうだね、ヘイスティングズ、この錐《きり》こそわたしの捜していた証拠さ。見たまえ! これさえあれば、ほんの二、三分で、あの櫃に穴の三つや四つはあけられるよ」
「われわれの見つけた穴のことかね?」
「そうさ」
「すると、あの穴をあけたのは、クレイトン自身だというのか?」
「|そうとも《メ・ウイ》――|そのとおりさ(メ.ウイ)! あの穴をきみはなんと見た? のぞき穴じゃない。櫃の後ろ側にあけてあったからね。じゃあなんのためのものだろう? 当然、空気穴さ。しかし、死体のために空気穴をつくってやるばかはない。したがって、あれが犯人によってあけられたものではないことはたしかだ。とすれば、考えられる答はひとつだけ――だれかがあの櫃のなかに隠れようとしていたのにちがいない。この仮説に立てば、たちまち話の筋道がはっきりしてくる。クレイトン氏は、細君とリッチ少佐の仲を疑っていた。そこで、古い古い手を用いた。旅に出るふりをして、彼らをスパイしようというわけだ。リッチ少佐が外出するのを見きわめて、口実をもうけて家にはいり、伝言を書くと称してひとりきりになったうえ、すばやく櫃に穴をあけて、なかに身をひそめる。細君はその夜そこへやってくる。リッチはおそらくほかの客を帰したあと、彼女と二人きりになろうとするだろう。でなければ、細君はいったん帰るふりをしたうえで、またもどってくる。どっちにしろ、クレイトンにはほんとうのことがわかるわけだ。いやな仕事だが、疑心暗鬼にさいなまれているよりはましだと言えるだろう」
「するとほかの客が帰ったあと、リッチに殺されたというのか? しかし、医者の話では、それはありえないということだが」
「そうだとも、ヘイスティングズ。そこではっきりするじゃないか――彼が殺されたのは『宵のうち』だということが」
「しかしあの部屋には、みんながいたんだぜ!」
「いかにも」ポワロはもったいぶった調子で言った。「その巧妙さがわからないかね! 『みんなが部屋のなかにいた』――すばらしいアリバイだ! なんという大胆さ――なんという落ち着き――なんという度胸!」
「まだわからないな」
「衝立の向こうへ行って、レコードをかけたり、とりかえたりしたのはだれだったかね? 蓄音機と櫃とは並べて置いてあった。ほかの連中はダンスに夢中だ――蓄音機は音楽を流している。ダンスに加わらない男が櫃の蓋をあけ、袖に隠しもったナイフで、そこに隠れている男を一突きにするのは、いともたやすいことじゃないか」
「それはむりだ! 刺された男が悲鳴をあげるはずだ」
「あらかじめ睡眠薬で眠らせておいたら?」
「眠らせておく?」
「そうさ。七時半にクレイトンと一杯やっていた男はだれだった? ああ! やっとわかってきたようだな。カーティスさ! カーティスこそ、クレイトンの細君とリッチの仲を告げ口して、クレイトンの嫉妬の炎を煽りたてた男なんだ。そうしたうえで、クレイトンに策を授けた――スコットランドへ旅行するふりをして、櫃のなかに隠れろ、最後の仕上げとして衝立を動かしておけ、とね。しかしそれは、クレイトンが蓋をあげて、息抜きができるようにじゃなかった――彼カーティス本人が、だれにも見られずに蓋をあけられるようにだ。すべてはカーティスの入れ知恵さ、ヘイスティングズ。その巧妙さを見てみるがいい。かりにリッチが、衝立の位置がずれているのに気づいて、本来の場所にもどしたとしても――そう、べつに困ることはない。べつの計画をたてればいいんだからね。櫃のなかのクレイトンは、カーティスに飲まされた弱い催眠剤の作用で、すでに昏睡におちいっている。カーティスは蓋をあげ、ナイフをふるう――そばでは蓄音機が『ウォーキン・マイ・ベビー・バック・ホーム』を流しているという寸法さ」
わたしはやっとのことで声を絞りだした。「しかし、どうして? なぜそんなことを?」
ポワロは肩をすくめた。
「男はなぜ、ピストル自殺をするんだろうかね? なぜ二人のイタリア人は決闘なんかした? カーティスは地味だが、内面に強い情熱を秘めた男さ。彼はマーガリータ・クレイトンに思いを焦がした。邪魔ものの亭主とリッチを取り除けば、必ず自分になびいてくる――すくなくとも本人はそう考えたわけだ」
そのあと彼は、感慨をこめてつけくわえた。
「ああいった天真爛漫な子供っぽい女性……あの手の女性はきわめて危険な種族だよ。それにしても、|まったく《モン・デュ》、なんとみごとな、芸術的な手口だったろう! あんな男を絞首台に送るなんて、断腸の思いだよ。はばかりながら、わたし自身天才であるだけに、ほかの連中の天分を惜しむことしきりなんだ。完全犯罪だよ、|きみ《モナミ》。このエルキュール・ポワロがそう言うんだからまちがいない。完全なる殺人……|たいしたものだ《エパタン》!」
[#改ページ]
●素人探偵 ミス・マープル編
青いゼラニウム
「去年こちらにご厄介になったときのことだが――」と、ヘンリー・クリザリング卿が言いかけて、やめた。
この家の女主人、バントリー夫人は、怪訝そうに客を見つめた。
ロンドン警視庁の前総監、ヘンリー・クリザリング卿は、セント・メアリ・ミードの村にほど近い旧友のバントリー大佐の家に、客として滞在していたのである。
バントリー夫人はペンを片手に、今晩の晩餐の六人目の客にだれを招待しようかと、ヘンリー卿に相談をもちかけたところだった。
「で? 去年おいでになったときに――なんですの?」バントリー夫人はやんわりとうながした。
「奥さん」と、ヘンリー卿は言った。「あんたはミス・マープルというひとをご存じかな?」
バントリー夫人は呆気にとられた。およそ予想外の質問だったからだ。
「ミス・マープルを知っているかですって? あのひとを知らないひとなんかいませんわよ。小説に出てくるみたいな典型的な老嬢で、そりゃいいひとですけど、どうにも昔ものって感じでね。そうおっしゃるのは、あのひとをよんでほしいってことですの?」
「驚かれたかな?」
「少々ね、正直なところ。だってまさかあのひとが――でも、そうおっしゃるのには、なにかわけがおありなんでしょうね?」
「わけといっても単純しごくなものなんだが。去年こちらにご厄介になったときに、われわれ仲間で未解決の謎ってやつを論じあう習慣ができて――そう、五、六人もいたかな。めいめいが、自分だけが解答を知っているとっておきの迷宮入り事件を、かわるがわる話しあうわけだ。いわば推理力の訓練というやつで――だれが真相にもっとも近くまで迫るかという興味からね」
「それで?」
「それで、ちょうど昔話にあるように――われわれとしちゃ、当然ミス・マープルのことはみそっかす扱いしておったわけだ。そりゃむろん、丁重に扱いはしたがね――ああいう気のいいお年寄りの感情を害したくはなかったから。ところがどうだ、これがなんとも愉快な結果になっちまって! というのも、毎回あの老婦人に、われわれ男どもがそろってぎゃふんといわされっぱなしなのさ――」
「まあ驚いた、そんなことってあるかしら! だってあのマープルさんってかたは、セント・メアリ・ミードの村からほとんど一歩も出たことがないんですのよ」
「なるほど。しかし、ご本人に言わせると、そのおかげでかえって人間性を観察する無限の機会を与えられたとか――いわば顕微鏡を通して見るようにね」
「それはたしかにうなずける話ですわね」バントリー夫人は認めた。「すくなくとも、人間の卑小な面がわかりますもの。それにしても、この近辺に、そんなぞくぞくするような犯罪者が住んでいるなんて、とても思えませんけどね。とにかくそれじゃあのひとをよんで、お食事のあとで、アーサーの幽霊話を持ちだしてみましょうか。ひょっとしてあのひとがそれをうまく解決してくれれば、願ったりかなったりですわ」
「アーサーが幽霊の存在を信じているとは初耳だな」
「あら、信じているわけじゃありませんわ。だからなおさら頭を悩ましてるんです。それに、その話はあのひとのお友達の身に起こったことですのよ。ジョージ・プリチャードっていって、およそ散文的っていうか、現実的なかた。でも気の毒にジョージにとっては、ちょっとした悲劇的な事件でしてね。この妙な話ははたしてほんとうなのか――それとも――」
「それとも?」
だがバントリー夫人は答えなかった。しばらく黙りこんでいてから、彼女はやや唐突に言った。
「あのね、わたくし、ジョージが好きですの――みんなそうですけど。まさかあのひとがそんな――でも人間って、ときにより突拍子もないことをしでかすものですし――」
ヘンリー卿はうなずいた。人間がどんな突拍子もないことをしでかすかは、かつての職業柄、彼のほうがバントリー夫人よりもよく心得ていたからだ。
というわけで、その夜、バントリー夫人は晩餐の食卓を見まわし(そのさいちょっと身ぶるいしたのは、イギリスの邸宅の食堂の例にもれず、この食堂もひどくひえびえとしていたからだが)、夫の右隣りにしゃんと背筋をのばして坐っている老婦人に目をとめた。その老婦人、ミス・マープルは、黒いレースの手袋をはめ、肩には古めかしいレースの三角形の肩かけをかけ、白髪の頭の上にもレースの飾りをのせていた。年輩の医師、ロイド博士とのあいだに、かなり話がはずんでいるようで、話題は救貧院のことや、村の保健婦のかんばしからざる行状などについてだった。
バントリー夫人はあらためて首をひねった。ひょっとしてヘンリー卿が手のこんだいたずらをして、自分をかついだのではないかとすら思ったが、そんなことをしても、なにも得るところはなさそうだった。いずれにしろ、彼がミス・マープルについて言ったことがほんとうだとは、とても思えない。
ついで彼女の目は、赤ら顔でがっしりした肩をした夫の上に愛しげにそそがれた。美人の人気女優、ジェーン・ヘリアを相手に、しきりに馬の話をしている。舞台顔より素顔のほうが一段と美しい(そんなことがありうるなら、だが)ジェーンは、その大きな青い目をいっぱいに見ひらいて、しかるべき間隔をおいては、「ほんとうですの?」とか、「あらまあ!」とか、「まあ驚いた!」などと相槌を打つ。だがじつのところ、馬のことなどなにも知りもしなければ、関心がありもしないのだ。
「アーサー」と、バントリー夫人は声をかけた。「あなたったら、気の毒にジェーンをすっかり退屈させてらしてよ。馬の話なんかもうやめて、怪談でも聞かせてあげたら? そら……あのジョージ・プリチャードの話よ」
「なんだって、ドリー? ああそうか、しかし、あれはどうも――」
「ヘンリー卿も聞きたがっていらしてよ。今朝、わたくしがちょっとお話ししましたの。あれを聞いてみなさんがどうおっしゃるかうかがってみたら、きっとおもしろいわ」
「あらすてき、ぜひ聞かせてくださいましな」ジェーンが言った。「わたしって、怪談が大好きですの」
「そうだな」バントリー大佐はためらった。「わたしは超自然現象なんてものはあまり信じないんだが、この話ばかりは……。
たしかここにおいでのかたのなかには、ジョージ・プリチャードをご存じのかたはおられないと思うが、これがじつにいいやつでね。ところが細君のほうは――ま、故人のことはあまり言いたくないんで、ただこう言うだけにしておこう。細君が生きているうちは、ジョージは一日たりと気が休まったことはない、とね。細君てのは例の、世間によくある半病人というやつでね――実際にどこか悪いところもあったんだろうが、必要以上にそれを大袈裟に騒ぎたてるたちだった。気まぐれで、やかまし屋で、理不尽で、朝から晩までぶつぶつ文句の言いどおし、ジョージがたえずそばにいて、まめまめしく世話をしてやらないと機嫌が悪く、そのくせなにをしてやっても気に入らず、剣突を食わせるだけという、まあとにかく大変な女だったわけだ」
「じっさいひどいひとでしたわ」と、バントリー夫人が断定した。
「事の起こりがどういうところにあったのかよくわからんし、ジョージもはっきりしたことは言わないんだが、なんでもプリチャード夫人というのは、前々から、占い師とか、手相見とか、透視術者とか、そういったたぐいの連中をてもなく信じこんでしまう傾向があったらしい。ジョージもこれについてはかくべつ文句は言わなかった。それで細君の気がすむなら、それはそれで結構、しかし、自分までがいっしょになって騒ぐのはまっぴらごめんという態度でね、これがまた細君にはおもしろくなかったというわけだ。
プリチャード家には、しょっちゅう新顔の看護婦が入れかわり立ちかわりあらわれていた。なにせプリチャード夫人ってのが、二、三週間もするときまって付添看護婦が気に入らなくなりだす女だからね。ひとりだけ、若い看護婦で、やはり運勢占いに凝っているのがいて、このときばかりはプリチャード夫人も、一時はこの女でなきゃ夜も日も明けないって有様だったんだが、そのうちこの女ともきゅうに不仲になって、きょうかぎり出ていけと言いだすしまつ。かわりに呼びもどされたのが、前にも一度きたことのあるもうすこし年輩の女で、看護婦としての経験も深く、神経症の患者を扱いなれた如才のない女だった。ジョージに言わせると、このコプリング看護婦はなかなか人柄がよく、分別もあるので、安心して話ができるということで、じっさい、プリチャード夫人が癇癪を起こして八つ当りしても、恬淡とした態度で巧みにそれを受け流していた。
プリチャード夫人は、昼食はいつも二階の自室でとることにしており、ふつうこの昼食時間を利用して、ジョージと看護婦は午後の予定について打ちあわせることにしていた。原則として、看護婦は午後の二時から四時までが休みで、この時間に外出して、私用をすませてくるんだが、ジョージがきょうの午後は家をあけたいと言えば、そこはそれ、おたがいに融通をつけて、休みをお茶のあとまでのばすこともあったわけだ。ところでこの問題の日、看護婦は休み時間にゴールダーズ・グリーンにいる姉を訪ねたいので、帰宅がちょっと遅れるかもしれないと言いだした。ジョージはそれを聞いて顔を曇らせた。というのも、その日は彼もゴルフに出かけるつもりで、その手筈をつけていたからだが、コプリング看護婦は、いいえ、ご心配には及びませんよ、旦那さま、と請けあった。
『きょうは二人とも留守にしても、奥様はなんともおっしゃいますまいよ』と彼女はいたずらっぽく目をきらめかせて言った。『わたくしどもなんかより、よっぽどおもしろいお客がおいでになるはずでございますからね』
『ほう、だれだね?』
『ええと、ちょっとお待ちくださいましよ』コプリング看護婦はますます目をきらめかせた。
『たしかザリーダとかいって、未来を透視する心霊術師というふれこみでございましたわ』
『やれやれ、また新顔か』ジョージはうめいた。
『そうですわ。なんでも、わたくしの前にご用をつとめていたカーステアズ看護婦の推薦らしゅうございますよ。奥様もはじめてお会いになるようです。わたくしに手紙の代筆をお申しつけになりましたの――きょうの午後訪ねてきてくれるようにって』
『ふうん。なにはともあれ、おかげでこっちはゴルフに出かけられるわけだ』そう言ってジョージは、心霊透視家ザリーダとやらにおおいに感謝しながら家を出た。
ところが帰宅してみると、プリチャード夫人はひどく気をたかぶらせていた。いつものように寝椅子に横になって、手には気つけ薬の壜を持ち、しきりにそれを嗅ぎながら高飛車に言った。
『ねえジョージ、わたし、この家のことをあなたになんと申しまして? はじめて足を踏みいれた瞬間から、なにか不吉なものがあると感じていたんですよ。あのときそう言いませんでしたかしら?』
『おまえはいつだってそう言ってるじゃないか』と言いかえしたいのをぐっとこらえて、ジョージは、『そうだったかな、よく覚えていないが』と答えた。
『あなたというひとは、わたしのことはなにひとつ覚えていてくださらないんですね。男性はみんな冷淡なものだけど――あなたはまたかくべつに不人情ですよ』
『おい、メアリ、それはちょっとひどいんじゃないかい?』
『いずれにせよね、わたしの言いたかったのは、きょうきたひとは家にはいるなりそれに気づいたってことですよ! ほんとに、ぎょっとして立ちすくんだんです――おわかりになるかしら、わたしの言う意味? 戸口をはいったとたんでしたわ。そして言うんです、この家には邪気がただよっている――邪気と危険をこの家ははらんでいる。わたしにはすぐにぴんときたって』
これを聞いて、ジョージは不覚にもつい吹きだしてしまった。
『まあなんにせよ、払った金だけのものはとりもどしたってわけだ――午後いっぱい楽しませてもらったんだからな』
細君は目をつぶって、またぞろふかぶかと気つけ薬を吸いこんだ。
『あなたはそれほどまでにわたしをお嫌いなんですね。きっとわたしが死にかけていたって、平然とせせら笑ってらっしゃるんざましょ』
ジョージはあわててそれを打ち消し、プリチャード夫人は、しばらくそれを聞き流していてから、またつづけた。
『あなたはお笑いになるでしょうけどね、こうなったら洗いざらいお話ししてしまいますよ。この家に住んでいると、わたしの身に危険が及ぶんだそうです――あのひとがはっきりそう言ったんですよ』
ジョージがザリーダという女にたいしていだいていた好意らしきものは、ここへきて一変してしまった。彼の細君というのは、なにかの気まぐれでいったんこうと思いこむと、思いどおりになるまでぜったいその主張をひっこめない――こうなったらあくまで家の移転を主張するだろうとわかっていたからだ。
『ほかにその女はどんなことを言った?』彼はたずねた。
『たいしたことは言いませんでしたよ。なにしろあのひと自身、ひどく怯えてましたから。ひとつだけ、こんなことを言いました。たまたまコップにすみれの花をさしてあったんですけどね。それをさして叫ぶんです――これは早く捨ててしまいなさい。青い花はいけない。青い花は不吉だ。あんたの命とりになる。よく覚えておおきって。
あなたもご存じでしょうけど、わたしは前々から青って色が嫌いだったんですよ。きっと本能的に警戒心のようなものが働いていたにちがいありません』
そんなことはまったくの初耳だったが、ジョージは賢明にもそれを口には出さず、かわりに、そのザリーダとやらいう女の風体についてたずねてみた。プリチャード夫人は待ってましたとばかりにそれを説明しはじめた。
『黒い髪を渦巻にして両方の耳の上でまとめて――いつも目を半眼にとじてるんです――目のまわりに大きな黒いくまがあって――口もとからあごにかけては黒いヴェールでおおっていました――外国訛りの強い、歌うような調子で話し――たぶんスペイン人だろうと思いますけど――』
『要するに、その商売につきものの道具立てはすっかりそろってるってわけだ』ジョージは快活に言った。
すぐさま細君は目をとじてうめきはじめた。
『なんだかひどく気分が悪くなってきましたわ。看護婦さんを呼んでくださいな。思いやりのない言葉を聞くと気分がたかぶるってことぐらい、あなたもとうにご存じでしょうに』
それから二日後に、コプリング看護婦が沈痛な表情でジョージのところにやってきた。
『ちょっと奥様のところにいらしていただけませんか? 妙な手紙がまいりまして、それでひどく興奮なさっていらっしゃいますの』
行ってみると、細君は手紙を手に握りしめていた。
彼女はそれをジョージにつきつけて、『お読みになって』と言った。
ジョージはそれに目を通した。それは強い香水の匂いのする便箋に書かれていて、大きな肉太の文字でこうあった――
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わたしは未来を透視した。手遅れにならぬようにご用心。満月の夜があぶない。青い桜草の意味するものは警告。青いたちあおいの意味するものは危険。青いゼラニウムの意味するものは死……
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あやうく吹きだしかけたとき、ジョージはコプリング看護婦がしきりに目で合図しているのに気がついた。彼女のすばやい、警告するような身ぶりの意味を感じとって、彼はいくらかぎごちない口調で言った。『こいつはおそらく、おまえをこわがらせようとしているんだよ、メアリ。どっちみち、青い桜草だの、青いゼラニウムだのって、そんなものはありゃしないんだ』
ところがプリチャード夫人は、彼の言葉が耳にもはいらぬようすでわっと泣きだすと、自分の余命はもういくばくもないのだとかきくどきはじめた。ジョージが部屋を出ると、コプリング看護婦が階段の上の踊り場まで彼を追ってきた。
『じっさいばかばかしい』彼はいきまいた。
『わたくしもそう思うんですけどね』
看護婦の口調のなかのなにかが、彼をはっとさせた。彼は驚いて彼女を見つめた。
『看護婦さん、まさかあんたは――』
『いえいえ、旦那さま。わたくしだって未来の透視なんてことは信じちゃいません――ばかげていますもの。ただ不思議なのは、こんなことをする意味なんでございますよ。ふつう占い師というのは、なにか狙いがあって意味ありげなご託宣をするものなんです。ところがこの場合は、奥様をおどかしてもザリーダという女には一文の得にもなりゃしません。その狙いがわかりかねるんでございますよ、わたくしには。それに――』
『それに?』
『奥様はあのザリーダという女に、どこか見覚えがあるような気がするとおっしゃいますんですよ』
『ほう。それで?』
『それでわたくし、なんだか気味が悪いんですの、旦那さま。それだけですわ』
『あんたがそんなにかつぎ屋だとは知らなかったな、看護婦さん』
『かつぐわけじゃございません。でも、なにか妙なことがあると、きまってわたくし、胸騒ぎがいたしますの』
最初の事件が起こったのは、それから四日ばかりあとのことだった。そう、それをお話しするには、まずプリチャード夫人の部屋のようすを説明しておかにゃならん――」
「そのことならわたくしに任せてくださいな」と、バントリー夫人が口を出した。「つまりこうなんですの。その部屋は、壁が、ほら、よくありますわね、新式の壁紙――花模様が庭のふちを飾る花壇のように配置してあって、見まわすと、ちょうど庭園のなかに立っているような感じを受けるの――あれで貼ってありましてね。たしかに効果的なんですけど、わたくしはどうかと思いますのよ。だってあれだけの花が一時に咲くなんてことは、ぜったいありっこないんですから――」
「壁紙が園芸学的に正確かどうかなんてことで、そうむきになることはないよ、ドリー」と、彼女の夫が言った。「おまえが黙っていたって、おまえが熱心な園芸家だってことは周知の事実なんだから」
「でもねえ、ばかげてますわ」バントリー夫人は抗弁した。「釣鐘草と水仙と、ルピナスとたちあおいとゆうぜん菊がみんないっしょくたに咲くなんて、不合理じゃありませんか」
「たしかに非科学的だね」と、ヘンリー卿が相槌を打った。「しかし、ここはひとつ話をつづけてもらうことにしようじゃないか……」
「それでね、その雑多な花のなかに、桜草もまじっていましたの。黄色のとピンクの桜草ですわ。そして――あら、この先はあなたがお話しなさいな、アーサー。あなたのとっておきのお話ですものね」
バントリー大佐があとをひきとった。
「ある朝のこと、プリチャード夫人が激しく呼び鈴を鳴らすのを聞いて、家じゅうのものはあわてて駆けつけた――てっきり重体にでも陥ったかと思ったわけだ。ところがどうして、彼女はひどく興奮して、わなわなふるえる指で壁紙をさしている。見ると、まさしくそこの花のなかに、一輪だけ青い桜草がまじっているじゃないか……」
「まあこわい! ぞくぞくするわ!」ミス・ヘリアが叫んだ。
「問題はだ、その青い桜草は、もともとそこにあったんじゃないかということだった。ジョージも看護婦もそれとなくそう言った。だがプリチャード夫人はどうしても受けつけようとしない。つい今朝がたまで、一度もそんな色の花には気がつかなかった。それにゆうべは満月でもあったしと、それはもうひどい取り乱しようネのセ」
「たまたまその日、わたくし、ジョージ・プリチャードに会いましてね、その話を聞きましたフ」と、バントリー夫人があとをひきとった。「それで奥様をお見舞いにいって、いっさいを笑い話にしてしまおうとしたんですけれど、ぜんぜん利き目がありませんのよ。ぎゃくにこちらまで不安にさせられる始末でね。たしかその帰りにジーン・インストウに出あって、その話をしたんでしたわ。ジーンってちょっと変わったひとでして、『じゃあほんとうにそんなに怯えているんですのね?』って言いますの。恐怖のあまり、怯え死にしそうなくらいだって、わたくし、言ってやりました――とにかくプリチャード夫人ってひとは、度はずれた迷信家なんですもの。
すると、ジーンが妙なことを言ったので、わたくし、ちょっとびっくりしました。『でも、そうなれば八方まるくおさまるかもしれなくてよ、そうじゃない?』って。しかもそれをいたって冷静な、実際的な口調で言うもんで、聞いていて、なんていうか――どきっとしましたわ。もちろんそれが当世ふうだってことは知っていますわよ――耳ざわりなことを無遠慮に言うのがね。でもわたくしにはどうしてもなじめませんわねえ。わたくしの顔色を見ると、ジーンはちょっと妙な微笑を浮かべて、言うんです。『こんなことを言って、ずいぶんひどいことを言うとお思いでしょうけど、ほんとうのことですもの、仕方がないわ。プリチャード夫人なんて、生きていていったいなにになりますの? なんにもなりゃしません。しかもジョージ・プリチャードにとっては、それが生き地獄にも等しいんですからね。奥さんが怯え死にでもしてくれれば、願ってもないしあわせというところですわ』わたくし、言ってやりました。『でもジョージは、いつも奥さんにはとてもよく尽くしているわ』って。するとジーンいわく、『ええ、たしかに表彰ものよ、あのひとは。気の毒に、あんなに魅力的なひとなのにね。この前いた看護婦だって、そう思っていたようよ、あの器量よしの――ええと、なんていいましたっけ? そうそう、カーステアズ。あの看護婦とプリチャード夫人が衝突したのも、そのことが原因だったんですものね』
ジーンがそんなことを言うのは、聞いていてあまり愉快じゃありませんでしたわ。もちろん、あのひとのことでは――」
バントリー夫人は意味ありげに言葉を切った。
ミス・マープルが穏やかに口をはさんだ。「そうですね、よく気をまわすものですからね、人間って。で、そのインストウさんって、おきれいなかたですか? たぶんゴルフをなさるんでしょう?」
「ええ、スポーツは万能ですわ。それに、美人ですし、魅力的でもあります。とても色白で、金髪で、健康的で、目はきれいな落ち着いたブルーです。もちろんわたくしたち、たびたび思ったものですわ――あのひととジョージ・プリチャードなら、もし事情がちがっていたら、きっとお似合いのご夫婦になったろうにって」
「で、そのお二人は、お友達としてつきあっていらっしゃるんですね?」ミス・マープルがたずねた。
「それはもう――とても仲のいいお友達ですわ」
「ねえドリー」と、バントリー大佐が訴えるように言った。「そろそろまた話のつづきにもどったほうがよくはないかな?」
バントリー夫人はやれやれといった調子で、一同のものに言った。「アーサーがまた幽霊話にもどりたいそうですわ」
「これからの話は、ジョージ本人から聞いたんだが」と前置きして、バントリー大佐は話をつづけた。「つぎの月の終わりごろになると、プリチャード夫人は傍目にもわかるほどびくびくしはじめた。カレンダーを調べて、満月の夜にしるしをつけ、その夜がくると、ジョージと看護婦を二人とも部屋に呼びつけて、入念に壁紙を点検させた。たちあおいの花には、ピンクのも赤いのもあったが、青いのはひとつもなく、それをたしかめてジョージが部屋を出ると、細君は扉に錠をおろしてしまった――」
「ところが夜が明けてみると、大きな青いたちあおいが一輪出現していた」と、ミス・ヘリアが大喜びで口をはさんだ。
「まさにそのとおり」バントリー大佐は答えた。「すくなくとも、当たらずといえども遠からずというところかな。プリチャード夫人のベッドのすぐ頭の上のところ、そこのたちあおいが一輪だけ青く変色していたんだ。ジョージはびっくりした。だがいうまでもなく、びっくりすればしただけ、それをまじめにとる気がしなかったというわけでね。この事件全体が、なにかのいたずらにちがいないと頑強に言いはった。よく考えれば、ドアに鍵がかかっていたことや、だれひとり――コプリング看護婦さえ――部屋にはいらないうちに、この変色が発見されたという明白な事実があったんだが、ジョージはこれさえも無視した。
つまり、驚いたことは驚いたんだが、それだけにまた依怙地になってしまったというところかな。細君は家を移りたいと言いだしたが、彼は頑として聞きいれなかった。じつをいうと内心では、生まれてはじめて超自然現象の存在を信じる気になりかけていたんだが、それを認める気はさらさらなかった。いつもだと、細君に譲歩するところなのに、今度ばかりはそんな気配は露ほども見せず、ぎゃくに細君をたしなめさえした。メアリ、おまえもつまらんことを騒ぎたてて、笑いものになるのはよしたほうがいい。なにもかも胸糞の悪い空騒ぎにすぎんのだから、と言ってね。
こうしてつぎの一ヵ月はまたたくまに過ぎ去った。プリチャード夫人はさぞかし文句たらたらだったろうと思うだろうが、じつはそれほどでもなかった。思うに、迷信家の彼女のこととて、所詮のがれられぬ運命と観念したのかもしれん。ただ、くりかえしくりかえしこうつぶやいていた。『青い桜草の意味するものは警告。青いたちあおいの意味するものは危険。青いゼラニウムの意味するものは――死』そしてそうつぶやきながら、ベッドのすぐそばの淡紅色のゼラニウムのかたまりを見つめているんだ。
こうしたことはかなり神経にさわるものでね。そのうちそれが看護婦にまで伝染した。満月の二日前のこと、コプリング看護婦がジョージのところにやってきて、どうか奥様をよそに移してあげてくれと言いだした。ジョージは腹を立てた。
『たとえあの壁の花がひとつ残らず青い悪魔に変わったって、それでだれかが取り殺されるなんてことはありっこないんだ!』そう彼は叫んだ。
『そうともかぎりませんわ。ショックで死ぬというのは、いまに始まったことじゃございませんからね』
『ばかを言え』ジョージははねつけた。
もともとこのジョージというのは、いささか頑固なところのある男でね。こうと思いこんだら、てこでも動かすことはできんというたちだ。思うに彼は、内心ひそかに疑っていたんじゃないのかな――花が変色したのは細君自身の細工じゃないか、すべては細君によるなんらかの不健全な、病的な企みじゃないか、とね。
ともあれ、こうして運命の夜がやってきた。いつものように、プリチャード夫人は自室に鍵をかけてとじこもった。この晩の彼女は、不思議なほど落ち着いていて、ほとんど精神的な高揚を味わっているといってもいいほどだった。看護婦のほうがかえって心配して、刺激を与えるためにストリキニーネの注射をしようかと言ったくらいだった。だがプリチャード夫人はこれを断わった。わたしは思うんだが、ある意味で彼女はこの成行きを楽しんでいたんじゃないのかな。すくなくともジョージはそう言っていた」
「それはおおいにありうることだと思いますわ」と、バントリー夫人が言った。「この出来事には、はじめから一種の奇妙な魅力があったのにちがいありません」
「翌朝は、けたたましく呼び鈴が鳴るということもなかった。ふだんプリチャード夫人は、八時に目をさますことになっている。ところが八時半になっても、いっこうに起きだした気配がないので、看護婦はドアをたたいた。それでも返事がないとわかると、彼女はジョージを呼んできて、ドアを押し破ってはいることを主張した。結局のみで扉をこじあけてはいったのだがね。
ベッドの上の動かぬプリチャード夫人を一目見ただけで、コプリング看護婦は異変をさとった。彼女はジョージをせきたてて、医者に電話をかけさせたが、むろんもう手遅れだった。プリチャード夫人は死後すくなくとも八時間は経過している、というのが医者の診断だったのだ。ベッドの上、手のすぐそばに、気つけ薬の壜がころがっていて、そのかたわらの壁の淡紅色のゼラニウムのうち、一輪があざやかなブルーに変色していた」
「恐ろしいこと」そう言ってミス・ヘリアが身ぶるいした。
ヘンリー卿は眉間に皺を寄せていた。
「ほかになにかつけくわえるようなことはないのかね?」
バントリー大佐は首を振ったが、夫人がすばやく口をはさんだ。
「ガスのことがあるわ」
「ガスがどうかしたのかね?」ヘンリー卿はたずねた。
「お医者さまが駆けつけたとき、部屋のなかがかすかにガスくさかったんですって。たしかに、暖炉のなかのガス栓が、ほんのわずかですけれどひらいていましたのよ。もっともほんのわずかですから、それでどうということはなかったんですけれど」
「はじめに部屋にはいったとき、プリチャード氏や看護婦はそれに気がつかなかったのかな?」
「看護婦は、かすかににおいがするのに気づいたと言っていました。ジョージはガスくさいのには気づかなかったが、なんとなく妙な、胸苦しいような気持ちがしたと言っています。でもそれはショックのせいだと思って――また実際にそうだったんでしょうけど……でもとにかく問題は、ガス中毒という線はまったく考えられないということですわ。においさえほとんど感じられないくらいだったんですから」
「で、話はそれでおしまい?」
「いいえ、まだありますの。なにやかやとうわさがとびましてね。ご存じのように、奉公人というのは、いろいろなことを小耳にはさむものですから――たとえば、プリチャード夫人がご主人にむかって、『そこまであなたがわたしを憎んでらっしゃるとは。きっとわたしが死にかけてても、平然とせせら笑ってらっしゃるんでしょ』と言っているのを聞いたとかね。それからこれはもっとあとのことですけど、ある日、彼が家をひきうつることを頑として拒んでいることについて、『よござんす。このままここにいてわたしが死ねば、あなたに殺されたんだってことがみんなにわかりますからね』と言ったとか。しかも運の悪いことに、ジョージはその前日に、庭の小道にまく除草剤を調合していたんですのよ。若い女中のひとりがその現場を見ているんです。そのうえ、そのあとで彼が、奥さんのところへ温かいミルクを運んでゆくところも見られているんですからね。
うわさはうわさを呼んで、たちまちひろまってゆきましたわ。お医者さまはすでに死亡診断書を出していました――といっても、なんて書いてあったか、はっきりしたことはわたくしも存じませんのですけれど――いずれ、ショック死とか、卒倒とか、心臓麻痺とか、たいして意味もない医学用語を使ってあったんでしょうね。それでも、プリチャード夫人が埋葬されて一ヵ月とたたないうちに、死体発掘が申請されて、許可されましたの」
「だが検死解剖の結果からは、なにも怪しい点は発見されなかった――そう、思いだしたよ」ヘンリー卿は重々しく言った。「火のないところにも煙は立つという、まれなる実例だな」
「とにかくとても不思議な事件ですわ」バントリー夫人は言った。「たとえばその占い師――ザリーダのことですけど、住んでいるはずのところに照会してみたところ、だれもそんな人物のことは聞いたことがないと言うんだそうですの」
「たった一度だけ、どこからともなく降って湧いたようにあらわれて、また消えてしまったというわけさ」と、夫の大佐が言った。「降って湧いたように――うん、まったくそのとおりだよ!」
「それにもっと不思議なことがあるんですの」バントリー夫人があとをつづけた。「この占い師を推薦したのは、若いカーステアズ看護婦だということになってたんですけど、当の本人は、そんなひとのことなど聞いたこともないって言ってますのよ」
一同は顔を見あわせた。
「いや、奇々怪々な話ですな」と、ロイド博士が言った。「まあいろいろ推測はできますが、しかし、推測はあくまで推測で――」
彼は首を振った。
「で、そのプリチャードさんは、インストウさんとおっしゃるかたと再婚なさいましたの?」と、ミス・マープルが穏やかな声音でたずねた。
「ほう、どうしてまたそんなことをお訊きになるんです?」ヘンリー卿が反問した。
ミス・マープルは柔和な青い目を見はった。
「わたしにはとても重大なことのように思えますのでね。で、どうなんですの? 結婚なさったんですか?」
バントリー大佐は首を横に振った。
「さよう――ま、われわれとしては、そういったことを期待してたんですがね。あれ以来もう一年半になるんですが、どうやらご両人、近ごろはあまり会ってもいないようで」
「それは重要なことですわね。とても重要ですわ」ミス・マープルは言った。
「するとあなたは、わたくしとおなじことを考えていらっしゃいますのね」と、バントリー夫人が言った。「あなたがお考えなのは――」
「おいおい、ドリー」彼女の夫がさえぎった。「そいつは感心しないよ――そんな根も葉もないことで人を悪しざまに言うのは。なにしろひとかけらの証拠もありゃしないんだからね」
「よしてくださいな、アーサー、そんな――男のひと一流の用心ぶかい言いかたをなさるのは。じっさい殿方ってのは、なにを言うにも慎重一点張りなんですから。いずれにしてもここだけの話じゃありませんか。よろしいですこと、これはほんのわたくしの思いつき、気ちがいじみた想像にすぎないんですけれど、ひょっとして――ほんとに、ひょっとして、ですのよ――あのジーン・インストウが、占い師に変装していたとは考えられませんかしら。もちろん冗談半分にですわ。悪意があってしたなんて、これっぽっちも思っちゃいません、でもね、もしそうしたとして、あのプリチャード夫人のおばかさんがそれに怯えて死んだとしたら――ね、ミス・マープルがおっしゃっていたのも、そういうことじゃございませんの?」
「いえいえ、べつにそういう意味じゃないんですけどね」ミス・マープルは言った。「それにしても、もしわたしがだれかを殺そうとすれば――もちろん、そんなだいそれたことをしようなんて、夢にも思っちゃいませんよ。それに、殺すことは好きじゃありません――仕方のないことだとは思っても、すずめばちを殺すのさえいやなくらいですから。それで園丁なんかにも、せいぜい楽な死にかたをさせるように、よく言ってやるんですよ。あらあら、いったいなんの話をしてたんでしたっけ?」
「もしもあなたが、だれかを殺そうとすれば、というお話ですよ」と、ヘンリー卿がうながした。
「ああ、そうでしたわね。そうなんです、もしわたしがだれかを殺そうと思えば、おどかすぐらいで事足れりとはしていませんね。怯え死にするひともいるなんて、よく本には書いてありますけど、なんだか闇夜に鉄砲みたいな、あてにならないことのように思えますし、だいいち、どんなに神経過敏なひとでも、はたで見るよりはよっぽど図太いところがあるもんなんですよ。わたしだったら、もっとはっきりした、確実な手段を使って、よくよく計画を練ったうえでやりますわね」
「マープルさん」ヘンリー卿が言った。「うかがっていて、なんだか恐ろしくなってきましたよ。あなたに殺したいなどと思われんようにしたいものですな。あなたのおたてになる殺人計画にかかっちゃ、どうのがれようもないですからね」
ミス・マープルはとがめるようにヘンリー卿を見た。
「そんなだいそれたことは考えたこともないって、はっきり申しあげたつもりですけどね。わたしはただ――そう、あるひとの立場に立って考えてみようとしていただけですよ」
「というのは、ジョージ・プリチャードのことですか?」と、バントリー大佐が言った。「あの男にかぎって、そんなことはないと確信していますがね――たとえ、そう、看護婦までがそれを信じこんでいようとも、です。わたしは事件の一ヵ月ほどあと、ちょうど死体発掘のときにあの女のところへ出かけて、会ってきたんですよ。それがどういうふうに行なわれたかということになると、あの女にも見当はつかなかったようですが――いや、じつをいうと、そのようなことを一言でももらしたわけじゃない――ただ、プリチャード夫人の死にジョージがなんらかの意味でかかわっている、そうコプリング看護婦が信じていることははっきりしてました。そう確信してましたよ、彼女は」
「なるほど」ロイド博士が言った。「それほど見当はずれじゃないかもしれませんな。だいたい看護婦っていうのは、そういう勘が働くものでね。たしかなことは言えない――証拠もない――だが直感としてわかるというようなところがあるんですよ」
ヘンリー卿が身をのりだした。
「どうなさった、マープルさん。すっかり考えこんでしまわれたじゃありませんか。なにを考えておられるのか、われわれにも話していただけませんかな?」
ミス・マープルははっとわれにかえって、顔を赤らめた。
「まあ、失礼いたしました。ちょっと村の保健婦のことを考えておりましたものでね。これはとても厄介な問題ですのよ」
「この青いゼラニウムの問題よりも、ですかな?」
「ああ、それはね、桜草のことを調べてみなくてはなんとも言えませんけど。いえね、バントリー夫人がおっしゃるには、壁紙の桜草は黄色のとピンクのとがあったということでしたでしょ。もしも青く変わったのがピンクの桜草でしたら、むろんなにもかも符合するんですけどね。でももし黄色のが変わったんでしたら――」
「ピンクのでしたわ」
そう言ってバントリー夫人はまじまじとミス・マープルを見つめた。一座の視線が彼女に集中した。
「だとすると、問題は解決したようですわね」ミス・マープルはそう言いながら、残念そうに首を振った。「ちょうどすずめばちの出る季節でもありますし、なにもかもぴったりですよ。それにもちろんあのガスのこともね」
「すると、それから村のさまざまな悲劇を連想されたとでも?」と、ヘンリー卿がたずねた。
「悲劇じゃないんですよ。それに、犯罪に関係のあることでもありません。ただね、そのことから、いまわたしどもの村の保健婦のことでもちあがっている、ちょっとしたごたごたのことを思いだしたんです。結局ね、ああいうひとたちだって生身の人間でございましょう? なのに、職業柄だらしのないふるまいはできないわ、着心地の悪いカラーをきちんとつけていなくてはならないわ、その家の家族としょっちゅう顔をつきあわせているわ、では――ね、ときにはいろんな問題が起こってもむりはありませんよ」
ヘンリー卿がきらりと目を光らせた。
「カーステアズ看護婦のことを言っておられるんですかな?」
「いえ、いえ、カーステアズ看護婦じゃありません。コプリング看護婦ですよ。前にもプリチャード家に派遣されてきていたことがあるというのですから、ご主人のプリチャード氏、魅力的な男性だというプリチャード氏とは、たえず顔を合わせていたわけでございましょう? かわいそうに、きっととんだ思いちがいをして――いえ、まあ、立ちいったことに触れるのはよしましょう。ただ、ミス・インストウのことは、なにも知らなかったようですわね。ですから、あとでそのことを知ると、かわいさあまって憎さが百倍というわけで、なんとか彼に苦い思いをさせてやろうという気になったんだと思います。もちろんね、あの手紙のことだけでも、彼女のしわざだってことはわかってたようなものですけれど」
「どの手紙です?」
「そら、プリチャード夫人に頼まれて、彼女が代筆したという手紙ですよ。その手紙を受け取って、占い師は約束の日にあらわれたということになっていました。ところがあとでわかったところでは、その住所にそんな人間ははじめからいないってことだったんですから、どうしたってコプリング看護婦がそれに一枚噛んでるってことになります。要するに彼女は、手紙を書くふりをしただけだった――してみるとその占い師は、彼女自身が変装したものだったとしか考えようがないじゃありませんか」
「なるほど、手紙のことはちっとも考えてみなかった」ヘンリー卿は言った。「むろんそれがいちばん大事なポイントだったわけですな」
「少々大胆なやり口でしたわね」ミス・マープルは言った。「だっていくら変装しても、プリチャード夫人に見ぬかれるおそれは多分にあったわけですから――もちろん、見ぬかれた場合にも、冗談のふりをしてごまかしてしまうことはできたでしょうけど」
「ところで、さっきおっしゃったことはどういうことだったんです? つまり、あなただったら、人をおどかすだけで、相手が怯え死にするのをあてにしたりはしないという意味は?」ヘンリー卿はたずねた。
「それだけでは確実とはいえないということですわ」ミス・マープルは言った。「いえね、わたしの思うのに、プリチャード夫人のところにきた警告の手紙も、青く変色した花も、つまりはその、軍隊用語で言えば――」と、照れくさそうに笑って――「カムフラージュにすぎなかったんですよ」
「すると、実際はどうだったんです?」
「なんだかわたし、さっきからすずめばちにばかりこだわっているみたいですけど」と、ミス・マープルは弁解するような調子で言った。「かわいそうにね――一度に何千匹となく殺されて。しかもたいがいはさわやかな夏の日にね。でもわたし、思いだすんですよ、園丁がすずめばちを退治するために、青酸カリを水といっしょに壜に入れて振っているのを見て、気つけ薬の炭酸アンモニアにそっくりだと思ったのを。もしそれを気つけ薬の壜に入れて、本物の薬の壜とすりかえておいたら――ね、その奥さんは気つけ用の嗅ぎ薬を常用してらしたんでしょう? 手のすぐそばにその壜があったって、たしかおっしゃいましたわね。あとは申しあげるまでもありません。プリチャード氏がお医者さまに電話をかけにいっているすきに、看護婦はそれを本物の薬の壜ととりかえる。そしてガスの栓をほんのわずかあけて、青酸カリのアーモンドのようなにおいをまぎらす。万一だれかが気分が悪くなったとしても、ガスのせいにされるというわけです。それに、よく聞くんですけど、青酸カリというのは時間がたつとなんの痕跡もとどめなくなるんだそうですね。でももちろん、わたしの聞きちがいかもしれませんし、壜のなかにはいっていたのは、ぜんぜんちがうものかもしれません。そうだとしても、たいした相違はないんじゃありません?」
すこし息を切らせて、ミス・マープルは口をつぐんだ。
ジェーン・ヘリアが身をのりだしてたずねた。「でも、青いゼラニウムやなにかのことはどうなりますの?」
「看護婦というのは、いつでもリトマス試験紙を持っているでしょう?」ミス・マープルは言った。「まあ――いろいろなテストのためですがね。あまり感心した話題じゃないから、深くは立ちいりませんけど。じつはわたしもすこし看護の仕事をしたことがあるんですよ」彼女はほんのり頬を染めた。「酸に入れると青が赤に、アルカリにつけると赤が青に変わりますわね? その赤いリトマス紙を赤い花の上に貼っておくのは、造作もないことです――もちろん、ベッドのすぐそばの花ですよ。そして奥さんが気つけ用の嗅ぎ薬を使うと、その強いアンモニアに感応して、赤い花が青に変わる。とても巧妙な思いつきです。もちろん、はじめプリチャード氏と看護婦が部屋にとびこんだときには、ゼラニウムはまだ青に変わってはいなかった――そのときはだれもそんなことには注意していなかったんです。きっと看護婦が壜をすりかえるときに、嗅ぎ薬のアンモニアをちょっと壁紙に吹きつけたんでしょうね」
「まるでその場にいあわせたかのようですな、ミス・マープル」と、ヘンリー卿が言った。
ミス・マープルは言った。「ひとつだけ気にかかることはね、お気の毒なプリチャード氏と、そのインストウさんというおきれいなお嬢さんのことですよ。たぶん二人とも相手を疑って、敬遠してらっしゃるんでしょうけど――人生は短いものなんですのにねえ」
彼女が首を振るのを見て、ヘンリー卿が言った。
「案じるには及びませんよ。じつはひとつ隠していたことがあるんです。先だって、ある看護婦が逮捕されましてね。その看護婦に遺産をのこしていた年寄りの患者を殺した容疑なんですが、その手口が、青酸カリと気つけ薬とをすりかえておくというものだったんです。コプリング看護婦が味をしめて、またぞろおなじ手口を使ったんですな。こんなわけですから、ミス・インストウもプリチャード氏も、もう真相について頭を悩ます必要はないわけですよ」
「まあ、それはすてきですこと」ミス・マープルは叫んだ。「いえ、その二度目の殺人のことじゃありませんわよ、もちろん。それはとても悲しい事件ですわ。じっさい世のなかには、よからぬことばかりがはびこっていますのね。ですから、いったんそれに負けると――そうそう、それで思いだしましたわ。ロイド先生と村の保健婦のことをお話ししていたんでしたっけ。その話にも結着をつけてしまわなければね」
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風変わりな悪戯
「そしてこちらが、ミス・マープルよ!」と、ジェーン・ヘリアが紹介を終えた。
女優だけあって、彼女は効果をあげるこつを心得ていた。これは明らかにクライマックスであり、輝かしいフィナーレなのだ。彼女の声音には、畏敬と得意の響きが等分にこめられていた。
ただ、おかしかったのは、そんなにも得意げに紹介される当の本人というのが、ただの品のよい老嬢としか見えないことだった。若い二人の目には、せっかくこうしてジェーンの尽力で紹介はしてもらったものの、はたしてこんな老婦人をあてにできるのだろうかという不信の色と、かすかな失望の色とが浮かんでいた。この二人は、似合いのカップルだった――女性のほうはチャーミアン・ストラウド、ほっそりしたブルネットの娘、男のほうは、エドワード・ロシターといって、金髪の、愛想のいい、大柄な青年だった。
チャーミアンはちょっと息をはずませて、「まあ、ミス・マープル、お目にかかれてこんなうれしいことはございませんわ」と言ったが、その目には懸念がうかがわれた。彼女はすばやい問いただすような視線を、紹介者のジェーン・ヘリアに向けた。
その視線にこたえて、ジェーンは言った。「だいじょうぶ、ミス・マープルにお願いすればぜったい安心よ。万事お任せなさい。わたしはお約束どおり紹介の労をとってさしあげたんだから、お役目はすんだわけだわ」彼女はミス・マープルに向きなおって、つけたした。「このひとたちに力を貸してあげてくださいますわね? あなたでしたら、なんの造作もないことのはずですもの」
ミス・マープルは、穏やかな、磁器のように青い目をロシター氏に向けて言った。「とにかく話してみてくださいな。どんなことですの?」
「あたくしたち、ジェーンの友達なんです」チャーミアンがせっかちに口をはさんだ。「じつはエドワードとあたくし、ちょっと困った問題がありまして悩んでおりましたら、ジェーンがきょうのパーティーによんでくれましたの。その席でいいひとを紹介する。そのひとならきっと――いままでにも――そのう……」
エドワードがそばから助け舟を出した。「要するにジェーンはこう言うんですよ、ミス・マープル――あなたは探偵にかけては最高権威だとね!」
老婦人は目をきらめかせたが、その褒め言葉にたいしてはいちおう謙遜してみせた。「まあ、とんでもない! そんなごたいそうなものじゃありませんよ。ただね、わたしみたいに田舎住まいが長くなりますと、人間性ってものがわかってくるっていうだけのことなんです。いずれにせよ、あなたがたの問題ってのに興味が湧いてきましたわ。どうか話してみてくださいな」
「それがどうも陳腐な話でして――埋もれた財宝捜しなんです」エドワードが言った。
「まあ! いよいよおもしろそうな話じゃありませんか!」
「まあね。『宝島』みたいなもんです。ただわれわれの場合には、それにつきもののロマンティックなタッチが欠けている。どくろとぶっちがいの骨とが、地図上のある一点をさしているとか、『西からやや北寄り、左へ四歩』なんていう指示があるわけじゃない。ひどく散文的で――要は、どこを掘ったらいいかというだけのことなんですよ」
「で、掘ってはみたんですの?」
「掘りましたとも、たっぷり二エーカーはね! すっかり掘りつくして、あれならいつでも菜園にできるくらいです。じっさいぼくらは、どこにかぼちゃを、どこにじゃがいもを植えようかなんて相談してるくらいで」
チャーミアンがやや唐突に言った。「なんならすっかりお話しいたしましょうか?」
「ええどうぞ、ぜひ聞かせてくださいな」
「じゃあどこか静かなところへ席を移しましょう。いらっしゃいよ、エドワード」彼女は先に立って、人いきれとタバコの煙の充満した部屋を抜けだすと、階段をのぼって、二階の小さな居間にはいった。
各自が席に落ち着くと、チャーミアンがさっそく口を切った。「じゃあお話ししますわ。いっさいはマシュー伯父さんのことから始まりますの。伯父さんといっても、あたくしたちには、お祖父さんのそのまた伯父さんかなにかで、とにかく非常な高齢なんです。エドワードとあたくしが唯一の身内で、そのせいかあたくしたちをとてもかわいがってくれまして、いつも、わしが死んだら、全財産をおまえたちにのこしてやると言っていました。その伯父がこの三月に亡くなりまして、遺産はエドワードとあたくしとが、等分に分割して相続することになりました。こんなことを申しますと、伯父の亡くなるのを待っていたように聞こえますけど、けっしてそんな気持ちはありませんでした。ほんとに、あたくしたち二人とも、とても伯父が好きだったんです。ただ、伯父はしばらく前からわずらっておりましたので……。
問題は、伯父ののこしてくれた『全財産』というのが、ほとんどくず同然だってことがわかったことなんです。そしてこれは、正直なところ、あたくしたち二人にはちょっとした打撃でした。そうだったわね、エドワード?」
エドワードは愛想よくうなずいた。「おわかりでしょうが、ぼくらはいくらかそれをあてにしてたんです。大金が目の前にぶらさがってたら、だれだって――その――あくせく働こうなんて気にはなれませんからね。ぼくは軍隊におりまして、給料のほか、これという収入はありませんし、このチャーミアンにいたっては、一文なしに近い状態です。あるレパートリー劇場で舞台監督をしてまして、おもしろい仕事ですし、それを楽しんでもいるんですが、いかんせん、金儲けにはなりません。ぼくらはそのうち結婚するつもりでしたが、二人とも経済的な面をすこしも心配していなかったのは、やがて遺産がはいって、楽な暮らしができるあてがあったからです」
「ところがそれができなくなってしまったわけですわ!」チャーミアンが言った。「それどころか、アンスティーズ――というのがあたくしどもの先祖代々の土地でして、エドワードもあたくしもそこがとても気に入っているんですけど、そのアンスティーズさえ手ばなさなきゃならなくなるかもしれないんです。そんなこと、あたくしにしてもエドワードにしても、とても我慢できませんわ! ところがもしマシュー伯父さんの遺産が見つからなければ、どうしてもそこを売りに出さなきゃなりませんの」
エドワードがそばから言った。「まだ肝腎なところをお話ししていないよ」
「そうね、じゃああなたが話してさしあげてちょうだい」
エドワードはミス・マープルに向きなおった。「つまりこういうことなんです。マシュー伯父は年をとるにつれてだんだん疑いぶかくなりましてね、だれも信用しなくなってしまったんですよ」
「それは結構なことですよ」ミス・マープルは言った。「人間なんて、外見だけじゃ性根が腐ってるかどうかわかりませんからね」
「かもしれません。とにかくマシュー伯父はそう考えました。伯父の友人に、銀行を信用したばかりに財産をなくした人物がいますし、べつの友人は、悪徳弁護士に金を持ち逃げされて破産しましたからね。伯父自身、いんちき会社にひっかかって、多額の金を失ったことがあるんです。そんなこんなで、伯父はしょっちゅう、くどいほど言っていました――財産を安全に確保しておく方法はひとつだけ、全財産を金塊にかえて、埋めておくことだ、とね」
「なるほど、だんだんわかってきましたよ」ミス・マープルは言った。
「そうなんです。伯父の友人のなかには、埋めておくだけじゃ利子がつかないと指摘する人もいましたが、伯父はいっこう意に介しませんでした。利子なんか問題じゃない、全財産を『箱に入れて、ベッドの下にでも隠すか、庭に埋めておくのがいちばんだ』と言うんです。いつもこういう言いかたをしてました」
チャーミアンがあとをひきとった。「ですから、伯父が亡くなりましたあと、あんなにお金持ちだったはずなのに、証券や株券の類がほとんど見あたらないのを知りまして、あたくしたち、やっぱり伯父さま、かねての持論どおりのことをなさったんだなと思いましたの」
エドワードがさらに説明を加えた。「調べたところ、伯父が証券の類はすっかり売りはらったことや、再三にわたって預金からまとまった額をひきだしていることがわかりました。ところがその金をどうしたかということになると、だれも知らない。とはいえ、伯父はもともと主義には忠実な人でしたから、その金で金塊を買って、どこかに埋めたことはまずまちがいないと思われます」
「亡くなる前になにかおっしゃいませんでしたの? でなければ、書類とか手紙とか、書いたものをのこすようなことは?」
「それがないから癪にさわるんですよ。亡くなる前の数日、意識が混濁したままでしたが、息をひきとる直前に一時昏睡からさめまして、ぼくらを見てくっくっと笑いました――いかにも弱々しい、病人らしい、かすかな笑いでしたがね。そして言ったんです、『かわいいわしの小鳩たち、これから先おまえたちにはなんの不自由もさせやせんぞ』って。それから、自分の目を――右のまぶたを軽くたたいてみせ、ぼくらにウィンクしました。そのあとまもなく――息をひきとったんです……かわいそうに」
「まぶたをたたいたんですって?」ミス・マープルが思案げに言った。
エドワードは膝をのりだした。「それでなにか思いあたることはありませんか? ぼくはすぐにアルセーヌ・ルパンの小説を思いだしました。ある人物がガラスの義眼になにかを隠してたって話ですがね。あいにくマシュー伯父は、義眼なんか入れてませんでしたが」
ミス・マープルは首を振った。「残念ですけど――いまのところなにも思いつきませんね」
チャーミアンが失望したように言った。「ジェーンに言わせると、あなたは言下にどこを掘ったらいいか教えてくださるはずだということでしたけど」
ミス・マープルはほほえんだ。「わたしは手品師じゃありませんよ。あなたがたの伯父さまも存じあげないし、どんなかただったかも知りません。それに、お住まいやお屋敷の土地も拝見していませんので――」
「じゃあそれをごらんになったら、どうでしょう?」チャーミアンが言った。
「そしたらきっと簡単に答がつかめると思いますよ」ミス・マープルは言った。
「簡単ですって?」チャーミアンは叫んだ。「でしたらぜひアンスティーズにおいでになって、ほんとうに簡単なことかどうか見ていただきたいですわ!」
とは言ったものの、相手がこの招待をまともに受け取るとは思っていなかったようだ。ところがミス・マープルは乗り気になって、「まあ、そうですか。お言葉に甘えてうかがわせていただきますよ。以前からわたし、一度宝捜しってものをやってみたいと思っていたんです。それにね」と、後期ヴィクトリア時代ふうの品よくかまえた笑みを満面に浮かべて、「なんといっても、愛しあっているお二人のためですものね!」
「さあ、ごらんのとおりですわ!」チャーミアンが芝居がかった身ぶりとともに言った。
三人はアンスティーズ荘の大周遊旅行を終えたところだった。いたるところに溝が掘られた菜園の一周から始めて、おもだった木の根っこはぜんぶ掘りかえされた林を見てまわり、かつては緑うるわしかった芝生が穴ぼこだらけになっているのを、悲しげにながめもした。屋根裏部屋へ行って、古いトランクや櫃《ひつ》がぜんぶかきまわされているのも見たし、地下の貯蔵室へ降りて、敷石が一枚残らずはがしてあるのもたしかめた。建物の寸法を測り、壁をたたいて空洞の有無も調べたし、古くからある家具のうち、隠し引出しのあるもの、ありそうなものは、ことごとくミス・マープルの目の前で調べなおされた。
居間のテーブルの上には、一山の書類が積んであった。これが故マシュー・ストラウドののこした書類のすべてで、請求書、招待状、事務上の書簡、ひとつとして破棄されたものはなく、チャーミアンもエドワードも、ひまさえあればここへきて、いままでに見落とした手がかりはないかと、くりかえしそれに目を通しているにちがいなかった。
「いかがでしょう、どこかあたくしたちの見落としたところ、お気づきになりまして?」チャーミアンが期待をこめてたずねた。
ミス・マープルは首を振った。「いいえ、調査は万全のようですね。ただ、忌憚なく言わせていただくと、ちょっと完全すぎるんじゃないかしら。わたしはいつも思うんですけどね、物事にはそれなりのプランってものが必要なんです。わたしのお友達に、エルドリッチ夫人というかたがありましてね、このかたのところのお手つだいさんがとても働き者で、リノリウムの床をぴかぴかに磨きあげるんです。ところがあまり完全すぎて、お風呂場の床までおなじ調子で磨いてしまったものだから、さあ大変、エルドリッチ夫人が湯船から出て、コルクのマットにのったとたんに、それがすべって、夫人は仰向けざまにひっくりかえり、脚の骨を折っちゃったんですよ! あいにくなことに、お風呂場のドアに鍵をかけていたものだから、助けようにも、庭師が外から梯子をかけて、窓づたいにはいりこまなきゃならない始末でね――気の毒に、あのエルドリッチ夫人はふだんからとても慎みぶかいひとだから、ずいぶん恥ずかしい思いをしたことでしょうよ」
エドワードが落ち着きなく身動きした。
ミス・マープルはそれに気づいて、すばやく言った。「まあ、ごめんなさい。わたしって、すぐ話が脇道にそれちゃって。でもね、ひとつの考えはつぎの考えを生むもので、ときにはそれが、とても役だつことがあるんですよ。わたしが言いたかったのは、知恵をとぎすまして、それらしい場所を考えてみれば――」
エドワードは不機嫌にそれをさえぎって、「そのほうはあなたにお任せしますよ、ミス・マープル。チャーミアンもぼくも、目下のところ完全に頭が空白でしてね」
「おやおや。でも、むりもありませんね――あなたがたがうんざりなさるのはわかりますよ。ところで、おさしつかえなければ、これに目を通させていただきたいんですけれど」彼女はテーブルの上の書類をさした。「もちろん、プライバシーにかかわるということなら、べつに詮索しようというんじゃないんですから、ご遠慮いたしますけどね」
「いやいや、そのお気づかいはありませんよ。しかし、ごらんになっても、たいして収穫はないと思いますがね」
ミス・マープルはテーブルにむかって坐ると、書類の束を組織的に調べはじめた。一通ずつあらためてゆきながら、彼女は自動的にそれを分類して、いくつかの小さな山に積み重ねていったが、それが終わると、しばらくそこに坐ったまま、じっと前方を見つめて考えこんだ。
「で、どうです、ミス・マープル?」多少意地悪く聞こえないでもない口調で、エドワードがうながした。
ミス・マープルはその言葉にはっとわれにかえった。「あら、ごめんなさい。とても参考になりましたよ」
「なにか関係のありそうなことでも書いてありましたか?」
「いえいえ、そういうことじゃないんです。でも、このマシュー伯父さんというかたの性格が、これでだいたい呑みこめたように思いますよ。なんというか、わたしの伯父のヘンリーそっくりって感じでね。罪のない冗談が好きなところとか、一生妻帯せずに過ごしたこととか。なぜ独身を通したのかわからないけど――若いころに失恋でもしたんでしょうかね? ひどくきちょうめんな一面、束縛されるのが嫌いで――独身者なんてたいていそうですけどね」
ミス・マープルのうしろから、チャーミアンがエドワードに目顔で合図を送った。それは、「このひとこそ|ぼけてる《ヽヽヽヽ》んだわ」と語っていた。
ミス・マープルは知らぬが仏で、いまは亡いヘンリー伯父のことを上機嫌に語りつづけた。「とにかく、冗談の好きなひとでしたよ、伯父は。ところが世間には、冗談を気にするひとが案外多くてね。ちょっとした言葉の遊びでも、すぐむっとするんです。それから、あの伯父の場合も、やっぱり疑りぶかくなっていました。召使は盗みをするものと頭からきめこんでいましてね。そりゃもちろん、盗みをする召使もいますけど、ぜんぶがそうと限ったわけじゃありません。ところが伯父は、気の毒にそう信じこんでしまって、晩年には、食べ物に毒を盛られることを心配して、茹で卵だけしか食べなくなってしまいましたよ。茹で卵なら、中身に細工することはできないと言ってね。かわいそうに、若いころは陽気で屈託のないひとでしたのに――食後のコーヒーをそれは楽しみにしていて、いつも言うんです。『うん、このコーヒーはうまい、ムーアふうの味だ』って――これはもう一杯くれということなんですよ」
エドワードは、これ以上ヘンリー伯父のことを聞かされたら、癇癪が爆発するのではないかという気がした。
ミス・マープルは委細かまわず話をつづけて、「この伯父がまた、若いひとたちをかわいがるくせに、なにかといえばからかって喜んでいたものでしてね。そういうところもあなたがたの伯父さまと似ていましたよ。子供にお菓子の袋を見せびらかしては、わざと手の届かないところに置いたり、よくそういったことをしたものです」
つい慎みを忘れて、チャーミアンが口を出した。「ずいぶんいやらしい伯父さまだったようですこと!」
「いえいえ、あなた、そうじゃありません。ただ変わり者の老人で、子供の扱いに慣れていなかったというだけなんです。まして頭がへんだとかなんとか、そういうんじゃないんですよ。ただ、家に大金を置いておく癖がありましてね。金庫なんか備えつけて、これに入れておけばぜったい安全だって、くるひとごとに吹聴して聞かせたものです。あんまり吹聴するんで、すっかりそれが評判になってしまって、とうとうある夜、泥棒にはいられましてね。なにかの薬品で、金庫に穴をあけられて――」
「当然のむくいですね」エドワードが言った。
「ところがそうじゃなかったんです、金庫はからっぽだったんですよ。おわかりでしょう、ほんとうの隠し場所はほかにあったんです――書斎に並べてあった何冊かの説教書のうしろでしてね。伯父に言わせると、わざわざそんな書物を棚から抜きだしてみるひとはいないんだそうです」
エドワードが勢いこんで口をはさんだ。「そうだ、それはたしかに名案だ。うちの書斎はどうだろう?」
チャーミアンは渋い顔で首を振った。「あたしがそれぐらいのことに気がつかなかったとお思い? 先週の火曜日に、あなたがポーツマスへ出かけたあとで、あたし、あそこの本はぜんぶ調べたのよ。一冊残らず抜きだして、ふるってみたけど、なにも出てこなかったわ」
エドワードは溜息をついた。それから、気をとりなおして、なんとかこの役たたずの客を上手に追い払おうと、「ご親切に、遠方までご足労いただき、ありがとうございました。無駄足を踏ませたようで、申し訳ありません。すっかりお手間をとらせてしまいましたが、車を呼びますから、それでお出かけになれば、三時半の汽車をつかまえ――」
「ですけど、肝腎のお金がまだ見つかっていませんでしょ?」ミス・マープルは言った。「あきらめることはありませんよ、ロシターさん。『一度で成功しなかったら、二度でも三度でもやってみろ』って、昔の人も言っていますからね」
「すると、まだ――やってみるつもりでおられるのですか?」
「厳密に言うと、|まだ《ヽヽ》始めていないんですよ。ビートン夫人もお料理の本で書いていますわね、『まずうさぎをつかまえること』って。あれはよく書けた本だけど、高くつくのが玉に瑕ですね――どのお料理も、たいがい、『クリーム一クォートと卵一ダースを用意して』で始まるんですから。あら、なんの話だったかしら。そうそう、うさぎをつかまえる話でしたね。そうなんです、わたしたちも、いわば、うさぎをつかまえなきゃならない――この場合、うさぎっていうのは、むろんマシュー伯父さまのことで、伯父さまのひととなりからすると、どういうところへお金を隠すだろうかを考えればいいわけです。それはごく単純な隠し場所のはずですよ」
「単純な?」チャーミアンがおうむがえしに言った。
「ええ、そうですとも。伯父さまというかたは、はっきりした、単純直截なことしかなさらなかったはずです。隠し引出しですね――わたしの結論は」
エドワードがそっけなく言った。「隠し引出しに金の延べ棒を入れることはできませんよ」
「ええ、ええ、もちろんそうですよ。でもね、お金が金塊だときめてしまう理由もないでしょう?」
「伯父はいつでもそう――」
「わたしのヘンリー伯父も金庫のことをたえず吹聴していましたよ! 伯父のことをお話ししたのは、こちらの伯父さまの場合も、やっぱりそれはただの目隠しだったにちがいないと思ったからなんです。ダイヤモンドだったら、どんな引出しにでもらくにはいりますよ」
「ですが、隠し引出しならぜんぶ調べたんですよ。そのために、わざわざ家具職人を呼んで調べさせたんです」
「まあ、そうでしたの? それはお手柄ですね。わたしだったら、伯父さまがふだん使っていらした机、それをまず調べてみたでしょうけど。あれですか――あの、壁ぎわに置いてある背の高い書きもの机?」
「そうですわ。なんならお目にかけましょうか」チャーミアンがそこへ行って、書きもの机の蓋をひきおろした。なかには、書類分類用の仕切りと、小引出しが並んでいた。チャーミアンはさらに、中央の小さな扉をあけ、左側の引出しの内側にある|ばね《・・》に触れた。すると、中央部のくぼみの底がかちりと音をたて、その部分が前へすべりでてきた。チャーミアンがそれを抜きだすと、その下がニ重底になっていた。だがそこにはなにもはいっていなかった。
「まあまあ、よく似ていること」と、ミス・マープルは叫んだ。「ヘンリー伯父も、これとそっくりの机を使っていましたよ。ただ伯父のは胡桃材で、こちらのはマホガニーというちがいはありますけど」
「どっちにしても」と、チャーミアンが言った。「ごらんのとおり、なかはからですわ」
「どうやらあなたがたの呼んだ家具職人とやらは、若いひとだったようですね」ミス・マープルは言った。「若いひとなんて、なんにも知りゃしません。こういう家具がつくられていた時代の職人は、とても念入りな仕事をしたものでしてね。秘密のなかにもうひとつ秘密が仕込んであるなんてのはざらなんですよ」
彼女はきちんとまとめた灰色のまげからヘアピンを一本抜きとると、それをまっすぐにのばして、隠し引出しの側面にある、小さな虫食い穴と見えるところにさしこんだ。しばらくそれで穴をさぐっていると、やがてそこから小さな引出しがあらわれた。なかには、色あせた古手紙の束と、一枚の折りたたんだ紙片とがはいっていた。
エドワードとチャーミアンはそろってそれにとびついた。ふるえる指でエドワードは紙片をひろげたが、すぐさま失望の声とともにそれをほうりだした。
「料理法の書き抜きだ。ベイクト・ハムだとさ!」
チャーミアンは手紙をたばねたリボンをほどいていた。なかから一通を抜きとって、彼女は目を通した。「ラブレターだわ!」
ミス・マープルは、ヴィクトリア時代人ふうの反応を示して、目を輝かせた。「おもしろいものが出てきたこと! ひょっとすると、伯父さまが一生独身を通された理由がわかるかもしれませんよ」
チャーミアンはそれを読みあげた――
[#ここから1字下げ]
愛するマシューさま
この前お手紙をいただいてから、ずいぶん長くたったような気がします。与えられた仕事に励んだり、こうして多くの国々を見てまわれる幸運を、わが身に言い聞かせたりはしておりますものの、はじめアメリカへ旅立ちましたときには、このような遠い島々まで参ることになりましょうとは、夢にも考えておりませんでした。
[#ここで字下げ終わり]
チャーミアンはいったん読むのをやめて、「これ、どこからの手紙かしら。まあ、ハワイからだわ!」と叫ぶと、また読みつづけた――
[#ここから1字下げ]
この島では、原住民たちがいまだに文明の光から遠くへだたった生活をしております。衣類も着けず、まったく未開の状態で、泳ぐことと踊ることに大半の時を費やし、花輪で身を飾りたてて暮らしているのです。グレイさまは何人かの原住民をキリスト教徒に改宗させられましたが、この仕事は急な坂道を登るのに似た大変な難事業で、奥様もすっかり悲観なさっておられます。私はご夫妻を力づけることに及ばずながら努めておりますが、私もまた、しばしば暗い気分に陥るのを防ぐことができません。その理由は、マシューさま、あなたならおわかりでしょう。ああ、恋するものにとって、遠く離れていることほど辛い試練があるでしょうか。あなたがお手紙で変わらぬ愛を誓ってくださるときにだけ、私は勇気づけられます。今後ともあなたに永遠に変わらぬ心をささげることを誓いつつ――
心からあなたを愛する
べティー・マーティン
追伸――この手紙は、いつものように、私たちの共通の友人マティルダ・グレイヴズへの手紙に同封いたします。願わくは天上の神が、このささやかなごまかしをお許しくださいますように。
[#ここで字下げ終わり]
エドワードは口笛を吹いた。「女性宣教師か! これがマシュー伯父さんのロマンスの相手だったんだな。それにしても、どうして二人は結婚しなかったんだろう?」
「このひと、世界じゅうをまわっていたようね」チャーミアンがほかの手紙をめくってみながら言った。「これはモーリシャスからだし――どれもそういった遠い土地からばかりよ。もしかすると、黄熱病かなにかで死んだのかもしれないわ」
くすくす笑う声がしたので、二人はびっくりしてふりかえった。ミス・マープルが、なぜかひとり悦に入って笑っていた。「まあまあ、これはどうでしょう!」
そう言いながら彼女が目を通しているのは、ベイクト・ハムの調理法だった。二人のとがめるような視線に気づくと、彼女はあらためてそれを読みあげた。「『ベイクト・ハムとほうれん草のとりあわせ。|燻製ハム《ギャモン》の厚切りに香料のちょうじをさしこみ、黒砂糖をまぶします。弱火のオーブンで焼き、裏ごしした|ほうれん草《スピニッジ》を添えて供します』――さあ、これをどうお考え?」
「聞いただけでもまずそうですね」エドワードが言った。
「あら、そんなことはありませんよ。けっこうおいしいものです――でもね、わたしが問題にしているのは、これ全体をどう考えるかということなんです」
さっとエドワードの顔に光明がさした。「すると、これは暗号――一種の秘密の通信だとおっしゃるんですか?」彼はその紙片をひったくった。「ごらんよ、チャーミアン、きっとそうだ! そうにちがいない! そうでなかったら、隠し引出しに料理法を書いた紙なんか入れておくわけがない」
「そのとおりですよ」ミス・マープルは言った。「とても、とても意味深長なものです」
チャーミアンが言った。「わかったわ――あぶりだしインキよ! 火にかざしてみましょう。その電気ストーブのスイッチを入れてちょうだい」
エドワードはその言葉にしたがったが、紙片から文字などは浮きあがってこなかった。
ミス・マープルが咳ばらいした。「どうもあなたがたは、物事をわざとややこしくしてしまうようですね。その料理法を書いた紙は、いわばたんなる指針ですよ。問題なのは、手紙のほうなんです」
「手紙?」
「とくにその署名ですね」
だがエドワードは、あとの説明も聞かずに大声で叫んだ。「チャーミアン! きてごらん! このかたのおっしゃるとおりだ。ね――封筒のほうはずいぶん古いけど、中身はずいぶんあとで書いたものだよ」
「そのとおりですよ」ミス・マープルはうなずいた。
「わざと古く見せかけてあるだけだ。まちがいない、手紙は伯父さんが自分で書いたのさ――」
「そう、そう、そうですよ」ミス・マープルが相槌を打った。
「これ全体がいんちきなんだ。女性宣教師の手紙なんてものじゃない。暗号にちがいないよ」
「おやおや、あなた――なにもそうややこしく考えることはありませんよ。伯父さまはとても単純なかただった。ちょっと悪戯をしてみずにはいられなかったんですよ。それだけです」
このときはじめて、若い二人は、老嬢の言葉にまともに注意を払う気になった。
「いったいそれはどういう意味ですの?」チャーミアンがたずねた。
「つまりね、あなたがたがいまげんにその手でお金を握っているということですよ」
チャーミアンは手もとを見おろした。
「署名をごらんなさい。それがいっさいを説明しているんですよ。料理法はただそれに注意をうながしているだけ。いいこと、ちょうじとか、黒砂糖とか、そういったものをとりさってしまったら、なにが残るでしょう? 燻製ハムとほうれん草ですよ! ギャモンとスピニッジ! おわかり? 慣用句で『ナンセンス』ということです。ですからね、重要なのは手紙のほうだということははっきりしています。そのうえで、伯父さまが亡くなる前になさったことを思いだしてみましょう。目の上を軽くたたいた、そうでしたわね? それですよ――それがこの問題の鍵になっているんです」
チャーミアンが言った。「あたくしたち、頭がどうかしてるんでしょうかしら。それとも、あなたが――?」
「いいですか、あなたがたもきっとこういう表現は聞いたことがあるはずですよ――それとも近ごろじゃ使われなくなってしまったのかしら。まったくのたわごととか、嘘っぱちとかいう意味で、『|わたしの目と《オール・マイ・アイ・アンド》ベティー・マーティン』というんですけどね」
エドワードがあっと息を呑んで、手にした手紙を見た。「ベティー・マーティン――」
「そうですとも、ロシターさん。あなたも言ったとおり、そういう名の女性は存在しない――存在したこともなかったんです。手紙はみんな伯父さまが書いたものですよ――きっとひとりでうれしがって、くつくつ笑いながらお書きになったでしょうね。あなたの言うとおり、手紙よりも封筒のほうがずっと古いものです。じじつ、封筒はこれらの手紙のものではありえませんよ――げんにあなたの持ってらっしゃるその封筒には、一八五一年の消印がありますからね」
彼女はいったん言葉を切って、あらためてその年号をくりかえした。
「一八五一年。ね、これがすべてを説明しているでしょう?」
「ぼくにはなんのことやらさっぱり……」エドワードは言った。
「そうでしょうね、むりもありませんよ」ミス・マープルは言った。「わたしだって甥の子のライオネルがいなかったら、気がつかないところだったでしょう。とても利口な子でしてね、それに郵便切手の収集狂で、切手のことなら知らないことはないほどなんです。その子がいつか、珍しい、高価な切手のことを話してくれたんですが、なんでもある競売で、すばらしい新発見の切手が売りに出されたそうでしてね。いまでも覚えていますけど、一八五一年の青い二セント切手だそうです。それがなんと二万五千ドルで売れたというから驚くじゃありませんか! きっと、ほかの封筒に貼ってあるのも、それに負けないくらいの珍品で、高価なものにちがいありませんよ。伯父さまはこれを業者からお買いになって、それが知れないように、『足跡を踏み消して』おかれたというわけです――探偵小説ふうに言えばね」
エドワードがうなって、腰をおろし、手で頭をかかえた。
「どうしたの?」チャーミアンが心配そうにたずねた。
「なんでもないよ。ただ、考えただけでぞっとしたのさ。このミス・マープルがおられなかったら、ぼくらはこの手紙の束を焼き捨ててしまったかもしれないと思ってね。それが故人にたいする礼儀であり、紳士的な思いやりでもあると思いこんでさ!」
「そうですね」ミス・マープルは言った。「それがこういう年寄りの困ったところですよ。悪戯ばかりおもしろがって、その落とし穴には気がつかないんです。わたしの伯父のヘンリーにも、おなじようなことがありました。あるとき、かわいがっていた姪に、クリスマスのプレゼントとして五ポンドの紙幣を送ったんですが、ごていねいにもそれをクリスマス・カードのなかに入れて、ふちをゴム糊で貼りつけ、上にこう書いたものです。『クリスマスおめでとう。残念だが今年はこれだけしかやれないよ』って。
そうとは知らない姪は、カードだけしかくれなかったと思いこんで、伯父さんのけちを怒って、それをそのまま火にほうりこんでしまったんです。おかげで伯父は、もう一度五ポンドを送りなおさなきゃならなかったってわけですよ」
しかし、エドワードのヘンリー伯父への感情は、とつぜん、がらりと一変してしまっていた。
「ミス・マープル」と、彼は言った。「いまシャンパンを用意しますから、あなたのヘンリー伯父さんの冥福を祈って、乾杯することにしましょう」
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●夫婦探偵 トミーとタペンス編
鉄壁のアリバイ
トミーとタペンスは、せっせと郵便物をよりわけていた。ふと、タペンスが歓声をあげて、一通の手紙をトミーにさしだした。
「新しい依頼人よ」と、彼女はもったいぶって言った。
「ほほう!」トミーは言った。「ねえワトスン君、きみはこの手紙からなにが推測できると思う? たいしたことはわからないが、ひとつ歴然たる事実らしきものがある。この――ええと――モンゴメリー・ジョーンズ氏なる人物は、文字の綴りにかけては世界一の大家とはいえないということだ。ということはつまり、この人物が金のかかった学校で教育を受けているという証拠さ」
「モンゴメリー・ジョーンズですって?」タペンスは言った。「そう言えば、モンゴメリー・ジョーンズという名には聞き覚えがあるわ。ああ、そうそう、思いだしてよ。たしかジャネット・セント・ヴィンセントから聞いたんだわ。おかあさんは、レディー・エイリーン・モンゴメリー、がちがちの高教会派の貴族で、生まれながらに金《きん》の大十字章やなんかを持ってるようなひと。それがジョーンズという平民の、途方もないお金持ちと結婚したんですって」
「要するに、よくある話ってわけだな」トミーは言った。「ところでそのM・J氏とやらは、何時に訪問すると言ってきてたっけ? そうそう、十一時半だよ」
十一時半きっかりに、無邪気な好感の持てる顔をした、とびぬけて長身の青年が、表の事務室にはいってきて、給仕のアルバートに声をかけた。
「ねえきみ――ちょっと。ええと――ブラントさんにお目にかかれるかな?」
「お約束がおありですか?」アルバートは言った。
「さあ、どうかな。してあるはずだけど。つまり、手紙を出してあるんだ――」
「お名前は?」
「モンゴメリー・ジョーンズ」
「お見えになったことを所長にお知らせしてまいります」
じきにアルバートはもどってきた。
「おそれいりますが、二、三分お待ちいただけますか? 所長はただいま非常に重要な会議ちゅうでして」
「ああ――なるほど――いや、かまわんよ」モンゴメリー・ジョーンズ氏は言った。
依頼人にいちおうの感銘を与えたころあいを見はからって、トミーはデスクの上のブザーを押し、モンゴメリー・ジョーンズ氏はアルバートに案内されて、奥の事務室にはいってきた。
トミーは立ちあがって迎え、心のこもった握手をしてから、あいた椅子をさした。
「さて、モンゴメリー・ジョーンズさん、さっそくですがご用件をうかがいましょうか」彼はきびきびした口調で言った。
モンゴメリー・ジョーンズ氏は、部屋にいる三人目の人物のほうを不安そうにうかがった。
「わたしの腹心の秘書のミス・ロビンスンです」と、トミーは言った。「この女性の前でなら、なんでもお気づかいなくお話しください。ご用件はなにか、微妙なご家庭内の問題なのでしょうね?」
「いや――そういうわけでもないんですが」モンゴメリー・ジョーンズ氏は答えた。
「それは意外ですね」トミーは言った。「といって、あなたご自身が、なにか面倒なことに巻きこまれておられるわけではないのでしょう?」
「ええ、そうじゃありません」
「それではとにかく、あなたのほうから――その――事実を明確にお話しいただきましょうか」トミーは言った。
ところが、それこそこのモンゴメリー・ジョーンズ氏にとっては、もっとも苦手なことであるらしかった。
「じつは、お願いしたい用件というのは、とんでもなく奇妙なことなんでして」と、彼は口ごもりながら言った。「ぼくは――その――じっさいどう切りだしていいのか、自分でもよくわからないんですよ」
「わが社では離婚問題は扱わないことにしているんですが」トミーは言った。
「いやいや、そんなことじゃありません」モンゴメリー・ジョーンズ氏は言った。「要するに、その――とんでもないばかげた冗談みたいなものなんです。それだけのことなんですよ」
「だれかがあなたに、わけのわからない悪戯《いたずら》でもしかけたのですか?」トミーは水を向けた。
だがモンゴメリー・ジョーンズ氏は、今度もまた首を横に振った。
トミーはあきらめて、戦いを放棄することにした。「じゃあ、まあお好きなだけ時間をさしあげますから、あなたの話しいいようにお話しください」
しばらく間があった。
「じつはこういうことなんです」ややあって、ようやくモンゴメリー・ジョーンズ氏は口をひらいた。「ある晩餐会でのことですが、偶然ぼくはある女の子の隣りに坐りました」
「それで?」トミーは励ますように言った。
「彼女は、その――なんていうか、ぼくにはうまく表現できないんですが、とにかく、いままでに会ったなかでは最高に活発な、冒険好きな女の子でした。オーストラリア人でして、もうひとりの女の子とこちらへきて、クラージス街に共同で部屋を借りてるんです。とにかく、あらゆることに興味を見せる活動的な娘《こ》でしてね。その娘がぼくにどんな影響を与えたか、とうてい口では言えないくらいです」
「よくわかりますわ、モンゴメリー・ジョーンズさん」と、タペンスが口をはさんだ。
いまや彼女は、このモンゴメリー・ジョーンズ氏から彼の悩みなるものをひきだすためには、ブラント氏のような事務的なやりかたとはまったく異なった、同情ある女性的な扱いかたが必要だとはっきりさとったのだ。
「よくわかりますわよ」タペンスは励ますようにくりかえした。
「いずれにしろ、ぼくにはいやってほど背中をどやされたみたいなものでした」と、モンゴメリー・ジョーンズ氏は言った。「女の子から、その――それほどのパンチを食わされるとはね。女の子なら、ほかにもいたんですよ、その席には――そう、じつをいうと、二人ね。ひとりはすごく陽気で、顔もまあ悪かなかったんだけど、どうもぼくは彼女のおしゃべりが好きになれなかった。もっとも、ダンスはうまかったし、それに子供のころから知ってる娘で、そういうのはまあ、いっしょにいて安全という気になれるんです。それからもうひとりは、いわゆる『蓮っ葉娘』のタイプでね。つきあってるかぎりじゃおもしろいんだが、深入りすれば、もちろんおふくろがやかましく騒ぎたてるだろうし、どっちみちぼくとしては、どちらかを結婚の対象として考えてるわけじゃなかった。それでもまあ、ぼくなりにいろいろ考えてみてはいたんです。ところがそこへ――青天の霹靂《へきれき》というかなんというか――偶然ある女の子の隣りに坐って、とたんに――」
「世界ががらりと変わってしまったというわけですわね」タペンスが同情的な声音で言った。
トミーはいらだたしげに椅子の上で身じろぎした。いまではもう、モンゴメリー・ジョーンズ氏の長たらしい恋物語に、いささかうんざりしはじめていたのだ。
「いや、そいつはうまい表現ですね」と、モンゴメリー・ジョーンズ氏は言った。「まさしくそんな感じでしたよ。ただあいにく、彼女のほうは、それほどぼくのことを思ってくれてるわけじゃないらしいんです。あなたがたはそうはお思いにならないかもしれないが、ぼくは途方もなく頭が切れるってわけじゃありませんしね」
「あら、それはご謙遜が過ぎますわ」タペンスが言った。
「いや、わかってるんです、ぼくがたいした男じゃないってことはね」モンゴメリー・ジョーンズ氏は愛嬌のある笑顔を見せて言った。「すくなくとも、彼女ほどのすばらしい、非の打ちどころのない娘につりあうような男じゃない。だからこそ、今度のことだけはどうしてもやりとげたいと思うんです。唯一の機会なんですからね、ぼくの。彼女はあれだけ冒険好き、賭事好きな女の子なんだから、よもや約束を撤回するようなことはありますまいからね」
「それじゃわたしたちもご幸運をお祈りしますわ」タペンスは親切に言った。「ですけど、まだよくわかりませんのよ――あなたがわたしたちになにを望んでいらっしゃるのか」
「あれ? まだ話してませんでしたっけ?」と、モンゴメリー・ジョーンズ氏。
「ええ、まだうかがっていません」と、トミー。
「そうですか、つまりこうなんです。ぼくらは探偵小説の話をしていました。ユーナ――というのが彼女の名前なんですが――彼女もぼくに劣らず探偵小説好きでしてね。とくに話題になったのは、ある作家の小説で、いっさいがアリバイくずしにかかっているというものでした。そこから、話題はアリバイや、贋のアリバイづくりのことになりまして、ぼくが言ったんです――いや、彼女だったかな――どっちでしたかね、ああ言ったのは?」
「どちらでもこの場合かまいませんわ」と、タペンスが言った。
「とにかくぼくは言ったんです――贋のアリバイをこしらえることは、とてつもなくむずかしいって。彼女は反対しました。それくらい、ちょっと頭を使えば簡単にできるって言うんです。それでぼくら、みんな興奮しましてね、口から泡をとばして論じあったわけなんですが、最後に彼女が言いだしました。『だったら、わたしがひとつ賭けを提案するわ。わたしがだれにも破れないような完璧なアリバイを提出してみせたら、あなた、なにを賭ける?』って。
『なんでもきみの好きなものを』ぼくは答えました。そしてその場で話がきまったわけなんです。彼女はそれにたいしてとてつもなく自信たっぷりでした。『きっとわたしが勝つと思うわ』って言うんです。ぼくは、『あまり自信を持たないほうがいいぜ』って言ってやりました。『かりにきみが負けたら、こっちだってなんでもほしいものを要求するからね』それを聞くと彼女は笑って、自分も賭事好きな一家の出だから、きっと要求に応ずると言うんです」
モンゴメリー・ジョーンズ氏がそこで言葉を切り、訴えるようにタペンスの顔を見たので、タペンスは、「それで?」とうながしてやった。
「つまり、わかるでしょ? 問題はぼくしだいなんです。ぼくとしては、彼女ほどの娘の注目をひく唯一のチャンスなんですよ、これが。あの娘ときたら、ちょっと想像がつかないほど賭事好きでしてね。去年の夏にも、ボートに乗っていて、だれかが、いくらあなたでも服を着たままここからとびこんで、岸まで泳げはすまい、なんなら賭けてもいいって言うと、躊躇なくそれをやってのけたっていうんですから」
「それにしても、奇妙な提案ですな」と、トミーが言った。「どうもわたしにはいまひとつぴんとこないんだが」
「いたって単純なことですよ」モンゴメリー・ジョーンズ氏は言った。「あなたがたなら、こういうことはしょっちゅうやっておられるにちがいないんだ。贋のアリバイを調査して、どこに欠陥があるかをつきとめるといったことはね」
「ああ――まあ――そりゃね。そういうたぐいのことはいつでもやっていますがね」トミーは言った。
「だれかにお願いするしかないんですよ」モンゴメリー・ジョーンズ氏は言った。「ぼく自身はそういう仕事に向いていないんでね。あなたがたが彼女の尻尾《しっぽ》をつかまえてくださりさえすれば、それで万事うまくいくんです。あなたがたにはつまらん仕事のように思えるかもしれないが、ぼくには重大な問題だし、むろん――その――必要なんとかっていったやつも、ぜんぶ負担するつもりでいるんです」
「ご心配にはおよびませんわ」タペンスが言った。「所長はきっとあなたのご依頼をおひきうけすると思います」
「たしかにひきうけましたよ」と、トミーは言った。「いい気分転換になりそうな――まったくいい気分転換になりそうな事件です」
モンゴメリー・ジョーンズ氏はほっと安堵の吐息をもらすと、ポケットからひとつかみの書類をとりだし、そのうちの一枚を選びだした。「では読みます。彼女はこう書いているんです。『わたしが同時刻に二つの異なる場所にいたという証拠をお送りします。いっぽうの証拠によると、わたしは単身ソホーのボン・タン料理店で夕食をとり、デュークス・シアターへ行ったあと、サヴォイで友人のル・マルシャン氏と夜食をとったことになっています。ところがもういっぽうでは、おなじころトーキーのキャッスル・ホテルに滞在していて、ロンドンに帰ったのは翌朝になってからだったという証拠もあります。この二つの話のうちのどちらが真実であり、どうやってもういっぽうのをでっちあげたか、それをあなたにつきとめていただきたいと思います』
ね、こういうわけなんです。これでぼくが、なにをあなたがたにお願いしたがってるか、わかっていただけたでしょう?」と、モンゴメリー・ジョーンズ氏は言葉を結んだ。
「きわめていい気分転換ですな」トミーは言った。「なんとも無邪気なものだ」
「これがユーナの写真です。いずれ必要になるでしょうから」そう言ってモンゴメリー・ジョーンズ氏は写真をさしだした。
「で、そのお嬢さんの正確なご姓名は?」トミーはたずねた。
「ミス・ユーナ・ドレーク。住所はクラージス街の一八〇番地です」
「わかりました」トミーは言った。「では、モンゴメリー・ジョーンズさん、あなたにかわってこの問題を調べてみましょう。近いうちに吉報をお届けできると思いますよ」
「ほんとに、なんとお礼を言っていいか」モンゴメリー・ジョーンズ氏は立ちあがって、トミーと握手しながら言った。「これですっかり肩の荷が降りたような気がしますよ」
依頼人を送りだしたあと、トミーが奥の部屋にひきかえしてみると、タペンスは古典的探偵小説を並べた戸棚の前にいた。
「フレンチ警部よ」〔フレンチ警部はF・W・クロフツの創造した探偵〕と、タペンスは言った。
「ええ?」トミーは訊きかえした。
「フレンチ警部だわ、もちろん」タペンスはくりかえした。「フレンチ警部の扱う事件は、いつもアリバイくずしですもの。手順はすっかりわかっててよ。とにかくあらゆる事実を調べて、照合してゆくこと。最初はどこといっておかしい点はなさそうに思えるんだけど、なお綿密に検討してゆくうちに、欠陥が見えてくるの」
「この件では、その点たいしてむずかしいことはないはずだよ」トミーは言った。「つまりだね、片方はまがいもののアリバイだと最初からわかってるんだから、結果はほとんど動かしがたいってことさ。それがまた、ぼくには気がかりなんだけどね」
「なにも気にかかることなんかないと思うけど」
「気になるのはそのお嬢さんのことなのさ。結果として、本人がそれを望むかどうかにかかわりなく、あの青年と結婚するはめになるだろうからね」
「あなたったら、おばかさんね」タペンスは言った。「女ってものはね、表面そう見えるほどの無茶な賭事師じゃぜったいないのよ。そのお嬢さんだって、あの、感じはいいけどいくらか頭のからっぽな青年と結婚してもいいって気がどこかになきゃ、そんな賭けなんか持ちだすはずがないわ。といってもね、トミー、もしあの青年がこの賭けに勝てば、彼女だってもっと喜んで、夫となるひとへの敬意をもって、結婚できると思うの――なにかほかの方法で、彼に花を持たすために、賭けの条件を切りさげてやらなきゃならなくなるのよりはね」
「きみはなにもかも知りぬいているみたいな口をきくんだな」と、彼女の夫は言った。
「ええ、そうよ」タペンスはすまして答えた。
「さてと、それじゃ、データを検討してみるとするか」そう言ってトミーは書類を手もとにひきよせた。「まず写真だ――ふむ――なかなかきれいな娘さんだ。写真もよくとれている。顔の特徴がよくわかる」
「ほかに何人か若いお嬢さんの写真を手に入れる必要があるわね」タペンスは言った。
「なぜだい?」
「そうするのが常道なのよ。四枚か五枚の写真をウェイターに見せる。すると彼らは正しいのを選びだすってわけ」
「ほんとにそうするものかい?」トミーは言った。「いや、ウェイターが正しいのを選びだすかってことだがね」
「まあね、小説ではそうだわ」
「あいにくと、実生活は小説とは大ちがいなんだがね」トミーは言った。「まあいい。さて、つぎはなにかな? ああ、ロンドンのぶんの資料だ。七時半にボン・タン料理店で夕食。デュークス・シアターへ行って、『ひえんそうの青』という芝居を見る。切符の半券が添付してある。ル・マルシャン氏とサヴォイで夜食。むろんこのル・マルシャン氏から話が聞けるだろうな」
「でも、なんの証明にもならないわよ、それは」タペンスは言った。「だって、もしそのひとが彼女の芝居に一役買っていれば、真相をばらしたりするはずがないもの。そのひとの言うことはぜんぶ洗ってみて、裏づけをとらなきゃ」
「なるほど。じゃあつぎはトーキーのぶんだ。パディントン発正十二時の列車に乗車、食堂車で昼食をとる。領収ずみの勘定書が添えてある。トーキーにてキャッスル・ホテルに一泊。ホテルの受取りも同封してある」
「なんだかどれもこれも証拠が薄弱みたい」タペンスは言った。「劇場の切符なんかだれにでも買えるわ。本人が劇場に足を運ぶ必要すらないのよ。この娘さんはトーキーに行ったんだわ。ロンドンのほうの証拠はまやかしよ」
「もしそうなら、ぼくらにはやさしい仕事になりそうだ。ともかくも、このル・マルシャン氏に会って、話を聞くことにしよう」
ル・マルシャン氏は快活な青年で、彼らがたずねてきたことにたいして、さほど意外そうなようすも見せなかった。
「ユーナのやつ、またなにかたくらんでいるんですね?」と、彼は言った。「じっさいあの娘ときたら、なにをやりだすかわかったもんじゃないんだから」
「聞くところによりますと、ル・マルシャンさん、ドレーク嬢は先週の火曜日の夜、サヴォイであなたと夜食をともにしたということですが」トミーはたずねた。
「そのとおりです」ル・マルシャン氏は答えた。「なぜそれが火曜日だったかを覚えているかというと、ユーナがそのときそれを強調したうえ、手帳にそのことを書きとめさせたからなんです」
多少得意そうに、彼は細い鉛筆の文字で書かれた記入を見せた。
「十九日火曜日。サヴォイ。ユーナと夜食をとる」
「その晩、もっと早い時刻には、ドレーク嬢がどこでなにをしておられたかご存じですか?」
「たしか、『桃色のしゃくやく』とかなんとかいう、くだらんショウを見ていたらしいですよ。とにかくひどいものだったと言ってました」
「その夜、ドレーク嬢があなたといっしょだったということは、たしかなんですね?」
ル・マルシャンはまじまじとトミーを見つめた。
「たしかですとも、さっきからそう言ってるじゃありませんか」
「そのお嬢さん、わたしたちにそう言ってくれと、あなたにお願いしたんじゃありません?」タペンスが言った。
「いや、そう言われれば、なにかおかしなことを言ってましたっけ。ええと、どう言ったんだったかな? そう、こうです。『ねえジミー、あなたはいま、こうしてわたしと食事をしていると思っているかもしれないけど、ほんとはわたし、二百マイル離れたデヴォンシャーで夜食をとっているのよ』って。ね、へんなことを言ったものじゃありませんか。まるで霊魂だけが身体から抜けだしたといった話みたいですよ。しかもおかしなことには、ぼくの友達のディッキー・ライスというのが、向こうで彼女を見かけたような気がするって言うんです」
「どういうかたです。そのライスさんというのは?」
「なに、ただの友達ですよ。ちょうどトーキーの伯母さんの家へ行ってましてね。ほら、よくあるでしょう――口ではいまにも死にサ、なことばかり言っていながら、いっこうに死なないという伯母さん。ディッキーはそこで伯母思いの甥の役を演じてたというわけですが、そいつが言うんです。『こないだ、例のオーストラリア人の女の子――ほら、ユーナなんとかさ――あの娘を見かけたぜ。そばへ行って話しかけたかったんだが、あいにくと伯母さんに、車椅子にのったおしゃべりの婆さんのところへひっぱってかれちまってね』それでぼくが、『それ、いつのことだい?』と訊くと、『そう、火曜日のお茶の時間ごろかな』って言うんです。もちろんぼくは言ってやりましたよ、それは見まちがいだって。ですけど、考えてみりゃおかしな話じゃありませんか。なにしろそのおなじ晩に、ユーナがデヴォンシャーでどうこうという話を持ちだしてるんですから」
「へんですな、たしかに」と、トミーは言った。「ところで、ル・マルシャンさん、どなたかお知合いのかたを、そのときサヴォイのテーブルの近くで見かけられませんでしたか?」
「いましたよ――オーグランダーという一家が、隣りのテーブルにいました」
「そのかたたちはドレーク嬢をご存じですかね?」
「ええ、知ってますとも。親しい仲とかなんとかいうんじゃありませんがね」
「では、ル・マルシャンさん、ほかに思いつかれたことがございませんでしたら、われわれはこれでおいとまします」
外の通りに出ると、トミーは言った。「あの男は、とびきり嘘の上手な男か、でなきゃほんとうのことを言っているね」
「そうね」タペンスも言った。「わたし、意見を変えたわ。やっぱりユーナ・ドレークは、その夜サヴォイで食事をしたのよ」
「じゃこれからボン・タンへ行ってみるか。腹ぺこの二人の探偵に、いくらか食いものをあてがってやらなきゃならんってことは、はっきりしてるからね。その前に、若い女性の写真を何枚か手に入れていくとしよう」
これは考えていたほどたやすいことではないのがわかった。写真館に寄って、だれのでもいいから若い女性の写真を何枚かとりそろえてほしいと言ったところ、けんもほろろにはねつけられたのだ。
「どうして小説ではあんなに簡単で、わけのないことになっている仕事が、実生活ではこうもむずかしいのかしら」タペンスは慨嘆した。「あのひとたちのうさんくさそうな目つきを見た? いったいわたしたちが写真をなにに利用すると思ったのかしら? これならば、ジェーンのアパートを襲ったほうがよさそうだわ」
タペンスの友達のジェーンは、人のいい女性で、タペンスが勝手に引出しをかきまわして、ジェーンの旧友の写真を四枚選びだすのを、文句も言わずに見ていた。その四人というのは、むかし短期間つきあったきりで、その後は疎遠になり、おたがい忘れてしまった女性たちだった。
この綺羅星《きらぼし》のごとき女性美の見本をかかえて、二人はボン・タン料理店へのりこんでいった。だが、ここでもまた新たな困難と、たいへんな出費が待ち受けていた。トミーは大勢のウェイターを順ぐりに呼んで、ひとりひとりにチップをはずんだうえ、寄せ集めの写真をとりださねばならなかった。結果は思わしくなかった。すくなくとも三枚の写真の主が、先週の火曜日にこの店で食事をした客、という条件に適合しそうだということになってしまったのだ。そこを出たあと、彼らは事務所にひきかえしたが、帰るやいなやタペンスは、さっそくABC鉄道案内と首っぴきで、列車の発着時刻を調べはじめた。
「パディントン発十二時〇〇分、トーキー着三時三十五分。これよ。それに、その日のお茶の時間ごろには、このル・マルシャン氏のお友達の、ミスター・サゴだかミスター・タピオカだか〔サゴもタピオカも植物からとる澱粉。おなじ澱粉質のライス〔米〕にかけた洒落〕が、向こうで彼女を見ているのよ」
「しかし、ぼくらはまだその男の話を確認してはいないんだぜ」トミーは言った。「はじめにきみが言ったように、ル・マルシャンがユーナ・ドレークの片棒をかついでいるようだと、この話も彼の作り話かもしれん」
「そりゃね、いつかはこのライス氏とやらを捜しだすことになるわ」タペンスは言った。「でもわたしには、ル・マルシャン氏はほんとうのことを言ってたという予感があるの。そんなことよりもね、いまわたしが言おうとしてるのはこういうことなのよ。ユーナ・ドレークは、十二時の汽車でロンドンを発ち、たぶんどこかのホテルに部屋をとって、荷物を解く。それから、もう一度汽車でロンドンにひきかえし、夜食にまにあうようにサヴォイに到着する。これで見ると、四時四十分に向こうを出て、九時十分にパディントンに着く列車があるわ」
「で、そのあとは?」
「そのあとは――それがちょっと厄介なのよ」タペンスは顔をしかめて言った。「ちょうど真夜中にパディントンを出る下り列車があるけど、これには乗れそうもないわね。時間が早すぎるもの」
「自動車じゃどうだい?」トミーは思いついて言った。
「そうねえ」タペンスは言った。「なにしろ二百マイル近くあるのよ」
「オーストラリア人ってのは、聞くところによると、かなり無謀な運転をするそうだぜ」
「まあね、やってやれないことはないと思うわ。だとすると、七時ごろ着いたはずよ」
「だけどね、着いたとしたって、そのあと彼女はだれにも気づかれずに、キャッスル・ホテルの自室のベッドに忍びこんだとでも言うつもりかい? でなきゃ、ホテルに着いてから、一晩じゅう外出してたんだが、勘定をしてもらえないかと言ったとでも?」
「トミー」タペンスは言った。「わたしたち、ばかだったわ。なにもトーキーにひきかえす必要なんかなかったのよ。かわりに友達かだれかにホテルへ行ってもらって、荷物をひきとり、勘定を払わせればすむことじゃないの。そうすれば、その日の日付がはいった受取りがもらえるんだから」
「なるほど。全体としてすこぶる妥当な仮説ができあがったようだ」トミーは言った。「すると、つぎに打つべき手は、明日十二時の列車でトーキーに行き、われわれの輝かしい結論を立証することになるというわけだ」
翌日、写真を入れた紙ばさみをたずさえたトミーとタペンスは、とどこおりなく、めざす列車の一等車に乗りこみ、二まわり目の昼食の席を予約した。
「おなじ食堂車の給仕に出くわすことはまずあるまいな」と、トミーは言った。「それはあまりに虫のよすぎる期待というものだ。おそらく、当の給仕に出くわすまでには、何日もトーキーとのあいだを往復することを覚悟しなきゃなるまいよ」
「それにしてもこのアリバイ調査というの、ずいぶんたいへんな仕事なのね」タペンスは言った。「小説では、たった二、三行でかたづけてしまっているのに。だれそれ警部はそこでトーキー行きの列車に乗り、食堂車の給仕に質問した。それでいっさいは終わりよ」
ところが、このときばかりは、この若いカップルも幸運に恵まれたようだった。勘定書を持ってきた給仕にたずねてみると、それが先週の火曜日に、この食堂車で勤務していた当の本人だとわかったのだ。さっそく、トミーのいわゆる十シリング紙幣の接触なるものが開始され、タペンスが紙ばさみをとりだした。
「ひとつ訊きたいんだがね」と、トミーは言った。「先週の火曜日に、このご婦人たちのうちのだれかが、この食堂車で昼食を食べはしなかったかい?」
その給仕は、一流の探偵小説に描かれてもいいようなきわめて満足すべき態度で、たちどころにユーナ・ドレークの写真をゆびさした。
「はい、このご婦人ならたしかに覚えております。それが火曜日だったこともまちがいございません。と申しますのは、そのご婦人が、いつも火曜日は自分にとって運のいい日なのだとおっしゃって、とくにそのことに注意をひくようになさったからです」
自分たちの車室にもどってくると、タペンスは言った。「いままでのところは、上々の成果だわ。たぶんホテルでも、ちゃんと部屋をとっていることがわかるはずよ。その日のうちにロンドンへひきかえしたことを証明するほうは、こううまくはいかないかもしれないけど、ひょっとすると、駅のポーターかだれかが彼女を覚えているでしょうし」
だがここでは、からくじをひかされることになった。トミーはわざわざ上りのプラットフォームに渡って、改札係や赤帽たちにたずねてみたのだが、質問に先だって半クラウン銀貨をばらまいた甲斐もなく、赤帽のうちの二人が、漠然とした記憶から、たしかこのようなご婦人がその日の四時四十分の上りに乗ったようだと言って、ほかの写真のうちの一枚を選びだしただけで、ユーナ・ドレークを見覚えていたものはひとりもいなかった。
駅を出ながら、タペンスは言った。「だけどあれだけじゃなんの証明にもならないわよ。彼女はたしかにその汽車に乗ったんだけど、だれも気がつかなかっただけかもしれないし」
「あるいはほかの駅から乗ったのかもしれんよ。たとえばトーレイから」
「それもありうるわね」タペンスは言った。「だけど、そのほうはホテルを調べてみてからでも遅くはないわ」
キャッスル・ホテルは、海にのぞんだ大きなホテルだった。一晩の宿泊を申しこみ、宿帳に記帳をすませると、トミーは愛想よく切りだした。「ところで、先週の火曜日に、友達がここに泊まっているはずなんだがね。ユーナ・ドレークという娘さんなんだが」
受付の若い女性は、にっこり彼に笑いかけた。
「ああ、あのお客さまならよく覚えております。オーストラリアからいらしたお若いお嬢さんですわね」
トミーの合図で、タペンスが写真をとりだした。
「これ、なかなかよく撮れていますでしょ?」と、タペンスは言った。
「まあほんとうに、とてもおきれいですわ。スタイルもおよろしいし」
「彼女、長く滞在しましたか?」トミーが問うた。
「一晩だけですわ。あくる朝の急行で、ロンドンにお発ちになりました。せっかく遠いところをいらして、一晩だけじゃもったいないと思いましたけど、きっとオーストラリアのかたは、長い旅行などなんとも思ってらっしゃらないんでしょうね」
「なかなか活発な女の子でね、いつも冒険を追いかけてるんだ」と、トミーは言った。「たしかここじゃなかったかな――友達と食事に出て、そのまま彼らの車でドライブに行き、車が溝に落ちて、朝まで帰れなかったなんて事件があったのは?」
「いいえ、とんでもない」受付の若い女性は答えた。「ミス・ドレークは、このホテルでお食事をなさいましたもの」
「ほう、それはたしかですか? つまり――どうしてあんたが知っているかということなんだが」
「げんにこの目でお見かけしたからですわ」
「なぜこんなことを訊いたかというとね――彼女はトーキーで数人の友達と食事をしたと聞いたものだから」トミーは弁解した。
「あら、いいえ、たしかにこちらでお食事をなさいましたわ」受付の女性は笑って、そのあとかすかに頬を染めた。「とてもきれいな、すてきなドレスを着てらしたのを覚えています。すみれの花をいっぱいに散らした、いま流行のプリントのシフォンでしたわ」
階上の客室へ案内されると、トミーはさっそく言った。「タペンス、これでぼくらの仮説は崩れたな」
「そのようね」タペンスは言った。「もちろん、あの受付のひとが見まちがえていないともかぎらないけど。食事のときにウェイターに訊いてみましょう。この季節には、泊まり客もそう多くはないでしょうから」
食堂ではタペンスが質問の口火を切った。
「ちょっとおたずねするけど、先週の火曜日に、わたしのお友達がここへこなかったかしら?」と、彼女は愛嬌たっぷりな笑顔で問いかけた。「ミス・ドレークといって、すみれの花を散らしたドレスを着ていたはずなんだけど」彼女は写真をとりだした。「このひとよ」
ウェイターはすぐに心あたりのありそうな笑みを浮かべた。
「はい、はい、ミス・ドレークですね。よく覚えておりますよ。オーストラリアからいらしたと話してくださいました」
「ここで食事をして?」
「はい。あれはたしかに先週の火曜日でした。あとで町を見物したいが、なにか見るものはあるかとおたずねになりましたので」
「それで?」
「それで芝居を――パヴィリオン座をおすすめしたのですが、結局そちらへはおいでにならず、ここでホテルの楽団の演奏を聞いておいででした」
「ちぇっ!」トミーはそっと口のなかでつぶやいた。
「食事をしたのは何時ごろだったか、覚えていないこと?」タペンスは言った。
「ちょっと遅れて降りていらっしゃいました。たぶん八時ごろだったと思います」
食堂を出ると、タペンスは言った。「ねえトミー、さんざんじゃない? 最初はあんなにはっきりして、有望そうに見えたのに」
「物事はそうなんでも順風満帆とはいかないよ。それくらいのことは当然覚悟してなきゃならなかったんだ」
「夕食の時間よりもあとに、彼女の乗れそうな列車はないかしら?」
「たとえあっても、サヴォイでの約束にまにあう時間までにはロンドンに着けないね」
「しようがないわ。とにかく最後の望みの綱として、部屋づきの女中に話を聞いてみましょう。さいわいユーナ・ドレークの泊まった部屋も、わたしたちのとおなじ階にあるのよ」
その客室女中は、おしゃべりな、話し好きな女だった。はい、そのお嬢さまならよく覚えております。その写真のかたにまちがいございません。きどらない、とてもいいかたで、気さくにオーストラリアのことや、カンガルーのことなどを話してくださいました。
その若い女性客は、九時半ごろ部屋のベルを鳴らし、湯たんぽにお湯を入れて、ベッドに入れてくれと言った。それから、明日の朝は七時半に起こしてほしい――そのときはお茶ではなく、コーヒーを持ってきてほしい、とも。
「で、あなたがその時間に起こしにきたとき、彼女はベッドにいたのね?」タペンスはたずねた。
客室女中はあきれたように彼女を見つめた。
「はい、それはもう、もちろんでございます」
「いえね、もしや運動にでも出かけたんじゃないかと思って、訊いてみただけなのよ」タペンスはしどろもどろに弁解した。「朝早く運動に出かけるひとって、ずいぶんいるから」
部屋づきの女中が去ると、トミーが言った。「さて、これでもう鉄壁と言えそうだね。これからひきだせる結論はただひとつ――ロンドンのほうの証拠こそいんちきだということだ」
「となると、ル・マルシャン氏って、わたしたちが考えていた以上に天才的な嘘つきにちがいないわね」タペンスは言った。
「彼の話の裏をとる手段がひとつ残っているよ」トミーは言った。「隣りのテーブルに、多少ユーナを知っている連中がいたと言ってたろう? ええと、その連中の名はなんといったっけ――そう、オーグランダーだ。そのオーグランダー家の連中を捜しだすんだ。それから、クラージス街のユーナ・ドレークの住まいも洗ってみる必要があるな」
翌朝、ホテルの勘定をすませた二人は、きたときにくらべるとやや元気のない足どりでそこを出た。
電話帳の助けをかりたおかげで、オーグランダー家を捜しだすことは比較的容易だった。ここではタペンスが訊き役を買って出、新刊の絵入り新聞の記者になりすましてオーグランダー夫人を訪れたうえ、『火曜の夜のしゃれた晩餐会』について二、三の質問をした。オーグランダー夫人は、待ってましたとばかりにそれに答えた。去りぎわになって、タペンスはふと思いだしたようにつけくわえた。「たしか、そのときお隣りのテーブルには、ミス・ユーナ・ドレークがいらしたんでしたわね? ほんとうでしょうか、あのお嬢さんがパース公爵と婚約なさったというのは? むろん奥様はあのお嬢さんをご存じでいらっしゃいますわね?」
「多少は知っていますわ」と、オーグランダー夫人は答えた。「とても魅力的なお嬢さんですわね。ええ、たしかにそのときル・マルシャン氏と、お隣りのテーブルにおいででしたよ。あのかたのことなら、あたくしよりも娘たちのほうがよく存じていますの」
タペンスのつぎなる寄港先は、クラージス街のアパートだった。ここで彼女を迎えたのは、ドレーク嬢と共同で部屋を借りているマージョリー・レスター嬢だった。
「いったいこれは何事ですの?」と、レスター嬢は訴えるように言った。「ユーナったら、なにかゲームをたくらんでいるらしいんだけど、わたしにはさっぱりわからないんですもの。もちろん火曜の夜には、あのひとはここで寝ましたわ」
「帰っていらしたときにお会いになりまして?」
「いえ、わたしはもう床にはいっておりましたから。むろん玄関の鍵はあのひとも持っていますし。たしか一時ごろ帰ってきたと思いますわ」
「実際にお会いになったのは何時ごろでしょうか?」
「そう、あくる朝の九時ごろ――いえ、ひょっとしたら十時に近かったかもしれません」
そこを出ようとしたとき、タペンスはちょうどはいってきた背の高い痩せた女と、あやうく衝突しそうになった。
「あら、どうも――失礼しました」と、その痩せた女は言った。
「あなた、こちらで働いていらっしゃるの?」と、タペンスは訊いた。
「さようでございます。毎日かよってまいりますが」
「朝は何時にいらっしゃるの?」
「九時ということになっております」
タペンスはすばやく半クラウン銀貨をその女の手に握らせた。
「先週の火曜日だけど、あなたがいらしたときに、ミス・ドレークはお部屋においでになったかしら?」
「はい、おいででした。まちがいございません。ぐっすり眠っておいでで、わたくしがお茶をお持ちしても、目をおさましにならなかったくらいで」
「そう、ありがとう」タペンスは礼を言って、悄然と階段を降りた。
その日はトミーと打ちあわせて、ソホーのある小さなレストランで昼食をとることになっており、そこで二人はそれぞれ持ちよった調査結果をくらべあった。
「ぼくは例のライスという男に会ってきたよ。彼がトーキーで遠くからユーナ・ドレークを見かけたというのは、たしかに事実らしい」
「とすると、これでもうアリバイの裏づけ調査はすっかりすんだわけだわね」タペンスは言った。「ちょっと紙切れと鉛筆をくれないこと、トミー。小説のなかの探偵がきまってするように、判明した事実を順番に書きならべてみましょうよ」
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一時半…ユーナ・ドレークが食堂車に乗っているのを確認。
四時……キャッスル・ホテル到着。
五時……ライスが彼女の姿を見ている。
八時……ホテルで夕食をとっているのを確認。
九時半……湯たんぽを要求。
十一時半…ル・マルシャンがサヴォイで会う。
午前七時半……キャッスル・ホテルで部屋づき女中に起こされる。
同九時……クラージス街のアパートで通いの家政婦に起こされる。
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二人は顔を見あわせた。
「やれやれ、ブラント明快探偵社、一敗地にまみれるってかたちだな」と、トミーが言った。
「だめよ、まだあきらめるのは早いわ。だれかが嘘をついているに|ちがいない《ヽヽヽヽヽ》んだから」タペンスは言った。
「ところが奇妙なことに、だれも嘘をついてはいないような気がするんだ。みんなが率直に、ありのままを語ってくれたようだがね」
「それでも、どこかにくいちがいがなきゃならないわ。あることはわかってるんですもの。わたしはありとあらゆる可能性を考えて、自家用飛行機なんてことまで思い浮かべたけど、それにしたところで事態はさほど進展しないわ」
「ぼくは霊魂遊離説に傾いてるよ」
「こうなったら、一晩ゆっくり眠って、考えるしかないわ。眠っているうちに、潜在意識が働いてくれるから」
「ふん。明日の朝、目がさめたときに、その潜在意識ってやつがこの難事件にたいする完全無欠な解答を提供してくれたら、ぼくは脱帽するね」
その夜は二人ともほとんど口をきかなかった。タペンスは何度もさっきの時間表をひっくりかえし、あいまにはなにごとか紙片に書きこんだ。ぶつぶつひとりごとをつぶやきながら、当惑顔で鉄道案内を参照したりもした。だが、結局は問題になんの光明も見いだせぬままに、二人とも立ちあがって、寝室へひきあげた。
「まったくがっかりだよ」トミーは言った。
「こんなみじめな晩を過ごすのなんてはじめてよ」タペンスも言った。
「こんなことなら、寄席にでも行ったほうがましだったな」トミーは言った。「姑と双生児とビールを題材にした三題|噺《ばなし》かなにか聞いてたほうが、よっぽど役に立ったはずだぜ」
「ばかおっしゃい。こうして知恵を絞ってることが、結局は役に立つってことがいまにわかるから」タペンスは言った。「これからの八時間、わたしたちの潜在意識はどれだけ忙しく働いてくれることかしら!」そしてこの期待に満ちた言葉をしおに、二人はベッドにはいった。
翌朝、トミーはたずねた。「どうだい、潜在意識は働いてくれたかい?」
「ひとつ考えが浮かんだわ」タペンスは答えた。
「なるほど。どんな考えだい?」
「それがね、ちょっと妙な考えなの。探偵小説で読んだようなのとはぜんぜんちがうわ。じつをいうとね、それを思いつかせてくれたのは『あなた』なのよ」
「ほう、だったらそれはいい考えにちがいない」トミーは自信たっぷりに言った。「さあ、言いたまえ、タペンス。さっさと吐いちまうんだ」
「じつはそれをたしかめるのには、電報を一通打つ必要があるの。それまでは、やっぱりあなたには話さないでおくわ。なにしろひどくとっぴな考えなんですものね。でも、それしか事実と符合する考えかたはないのよ」
「それではと――ぼくは事務所へ顔を出さなきゃならん。部屋いっぱいの失望した依頼人たちを、無駄に待たせちゃ悪いからね。この事件は、ここにいるわが有望なる部下に任せることにするよ」
タペンスは快活にうなずいた。
その日は一日じゅう、彼女は事務所へあらわれなかった。夕方の五時半にトミーが帰宅してみると、興奮にはちきれんばかりになったタペンスが彼を迎えた。
「やったわよ、トミー。ついにあのアリバイの謎を解いたわ。これでもう大威張りで、いままで使った半クラウン銀貨や十シリング札をモンゴメリー・ジョーンズ氏に請求できるし、たっぷり報酬ももらえる。そしてあのひとはあのひとで、さっそく出かけていって、恋人に約束の履行を迫れるというものよ」
「で、その解答というのは?」トミーは声をはずませてたずねた。
「ぜんぜん単純なことなの」タペンスは言った。「双生児《ヽヽヽ》よ」
「どういう意味だい――双生児とは?」
「双生児は双生児よ。むろんそれしか考えられないわ。白状するけど、それを思いつかせてくれたのはあなたなのよ――ゆうべ、姑と双生児とビールの三題噺がどうこうって言ったときに。それでさっそくオーストラリアに電報を打ってみると、わたしの期待したとおりの返事がきたってわけ。ユーナにはね、ヴェーラという双生児の妹があって、その妹が先週の月曜日にイギリスにきているのよ。だからこそユーナは、まるで待ってましたとばかりに賭けを提案したんだわ。きっと、かわいそうなモンゴメリー・ジョーンズ氏をからかうには、もってこいの悪戯だと思ったんでしょうね。そして妹にトーキーへ行かせ、自分はロンドンに残ったわけよ」
「しかし、こうして賭けに負けて、彼女、ひどくがっかりするとは思わないかい?」トミーは言った。
「いいえ、思わないわ」タペンスは答えた。「前にもそのことについては見解を聞かせてあげたでしょう? きっと彼女は、モンゴメリー・ジョーンズ氏にあらゆる賞賛を惜しまないはずよ。わたしはいつも思うんだけど、夫の能力への尊敬の念は、結婚生活を築くうえで大切な基礎なの」
「そりゃうれしいね――このぼくがそういう考えをきみの頭に吹きこんだとすると」
「でもこれは、ほんとうの意味で満足すべき解決じゃないわね」タペンスは言った。「たとえばフレンチ警部が看破するような、巧妙なアリバイの欠点を見つけたわけじゃないんですもの」
「ばかを言え」トミーは言った。「ぼくがレストランのウェイターに写真を見せたやりかたなんか、フレンチ警部にも見まごうばかりだったと思ってるんだけどね」
「フレンチ警部なら、あれほどたくさんの半クラウン銀貨や、十シリング紙幣を使わなくてもすんだはずよ」
「まあいいさ。その金はぜんぶ利子をつけて、モンゴメリー・ジョーンズ氏に請求できるんだから。調査の結果を聞けば、きっと有頂天になって、どんな巨額の請求書でも文句ひとつ言わずに払ってくれるだろうからね」
「払わないなんて言わせないわよ」タペンスは言った。「ブラント明快探偵社は、みごとな成功をおさめたんですもの。ねえトミー、わたしたちって、きっと並みはずれて頭がいいのね。ときどきわれながら空恐ろしくなるほどだわ」
「つぎにひきうける事件は、ロジャー・シェリンガムふうな事件にしよう。そしたらタペンス、きみがロジャー・シェリンガムになるわけだ」〔シェリンガムはアントニー・バークリーの創造した探偵〕
「だったら、いやってほど喋りまくらなくちゃね」と、タペンスは言った。
「それならきみはたくまずしてやれるさ」と、トミーは言った。「ところで、ひとつ提案があるんだ。ゆうべの計画を実行に移して、どこかの演芸場へ行って、とびきりおもしろい三題噺でも聞いてこようよ――姑と、ビールと、そして双生児《ヽヽヽ》をねたにしたやつをね」
[#改ページ]
●幽霊探偵 ハーリー・クィン編
ハーリー・クィン登場
大晦日の夜だった。ロイストン荘のホーム・パーティーに出席した客たちは、全員大広間に集まっていた。
客のひとり、サタースウェイト氏は、子供たちが寝てしまったのでほっとしていた。大勢の子供にわいわい騒がれるのは、どうも苦手だった。集団ともなると、子供は魅力のない、がさつな存在になる。繊細さにも欠ける。年をとるにつれて、サタースウェイト氏は、人情の機微というものを愛するようになっていた。
サタースウェイト氏は六十二歳――やや猫背で、干からびた感じである。人をうかがうような顔つきが奇妙に小鬼じみていて、他人の人生に並みはずれた強い関心を持っている。生涯を通じて、いわば彼は、観客席の最前列で、目の前にくりひろげられるさまざまな人間性のドラマを見てきた。彼の役割は、これまでいつも傍観者だった。ただ、老年というものが彼のうえにしっかり根をおろしてしまった現在、彼はそうしたドラマにたいして、日ごとに気むずかしくなっている自分を感じる。いまや彼は、多少異常なところのあるなにかをもとめるようになっているのだ。
そういうものにたいして、彼がある種の嗅覚を持っていることはまちがいない。身近なところにドラマの要素を持ったものがあると、本能的に嗅ぎつける。ちょうど軍馬が硝煙のにおいを嗅ぎつけて勇みたつように。きょうも、ロイストン荘に到着して以来、この不思議な内部感覚がうずきだし、彼に用意しろとささやきかけている。なにかおもしろいことが起こっている、あるいは起こりかけているのだ。
きょうのホーム・パーティーは、その名のとおり内輪のものだった。主人役はトム・イヴシャム、温和で気さくな男だ。細君はきまじめな賢女型、結婚前はレディー・ローラ・キーンと名乗っていた。客は、まずリチャード・コンウェイ卿、軍人で旅行家でスポーツマン。ほかに、サタースウェイト氏のいまだに名を覚えられない若い男女が六、七人。そしてポータル夫妻。
サタースウェイト氏の興味をひいたのは、このポータル夫妻だった。
アレック・ポータルとはこれが初対面だったが、彼のことはすっかりわかっていた。彼の父や祖父とも知合いだったし、アレック自身はそのタイプの典型的な男だ。年は四十に近く、ポータル家特有の金髪|碧眼《へきがん》、スポーツや賭事が好きで、勝負に強く、だが想像力は貧困である。どこにも変わったところなどない。ざらにある善良かつ健全な、よき英国人の血統だ。
だが細君はそうではなかった。サタースウェイト氏の見たところ、彼女はオーストラリア人らしい。ポータルは二年前にオーストラリアへ行き、そこで彼女と知りあって結婚し、故国へ連れかえったのだ。彼女は結婚するまでイギリスにきたことがなかった。にもかかわらず彼女には、サタースウェイト氏の知っているどのオーストラリア女性ともちがったところがあった。
いま彼はひそかに彼女を観察していた。じつに興味ぶかい女性だ。物静かで、それでいて非常に――生きいきしている。そう、それだ! まさしく生きいきとしているという言葉がぴったりだ! 必ずしも美人ではない――そう、彼女を美人と呼ぶことはできないだろう。が、ある種の魔性のものの持つ魅力があって、どんな相手でも――どんな男でもそれを見のがすことはあるまい。サタースウェイト氏の男性としての一面はそうささやく。だが、女性的な面(彼には多分に女性的な要素があった)は、同時にもうひとつの問題にも関心をいだいている――なぜポータル夫人は髪を染めているのだろう?
ほかの男ならば、たぶん彼女が髪を染めているのに気がつかなかったろう。だがサタースウェイト氏は気がついた。女性のそういったことには精通しているのだ。そしてそれは彼の首をひねらせた。黒い髪の女性が金髪に染めることはよくある。しかし、金髪の女性がわざわざ髪を黒く染めているのに出あったのははじめてだ。
彼女のすべてが彼の好奇心をかきたてた。奇妙な直観から、彼は彼女が非常に幸福であるか、さもなければ、非常に不幸であるかのどちらかにちがいないと感じた――だがどちらかはわからない。そのわからないことが彼を悩ませた。さらに不思議なのは、彼女が夫にたいして奇妙な影響力を持っていることだった。
『彼は細君にぞっこんまいっている』、とサタースウェイト氏は胸のうちでつぶやいた。『にもかかわらず、ときどき――そう、彼女を恐れているようなそぶりを見せる。非常におもしろい。なんともはや、たいへんおもしろい』
ポータルは相当の酒飲みだ。それはまちがいない。それに、細君が気づいていないときに、こっそり彼女を観察しているという奇妙な癖がある。
『気が立っている』、とサタースウェイト氏は思った。『あの男は神経をぴりぴりさせている。細君もそれを知っているが、それにたいしてなんの手も打とうとしていない』
この夫婦に彼は非常な好奇心を覚えた。なにかが起こっている――彼には推測できないなにかが。
そのとき大時計がおごそかに鳴りだして、彼は瞑想から呼びさまされた。
「十二時だ」と、イヴシャムが言った。「新しい年が明けた。新年おめでとう、諸君。じつをいうと、あの時計は五分進んでいるんだがね。子供たちも、もうわずかだから起きていて、新年を迎えればいいのに」
「あの子たちがほんとにベッドにはいったなんて、あたくしはこれっぱかりも信じちゃいませんよ」と、彼の細君が落ち着きはらって言った。「きっといまごろは、おとなたちのベッドのなかに、ヘアブラシやらなにやらを隠しているにちがいありません。そういう悪戯が大好きなんです。なぜでしょうね? あたくしたちの子供のころは、とうていそんな悪戯は許されなかったものでしたけど」
「|時代が変われば《オートル・タン》、|風習も変わるさ《オートル・ムルス》」と、コンウェイがほほえみながら言った。
コンウェイはいかにも軍人らしい風貌の、長身の男だった。イヴシャムとは似たり寄ったりのタイプだ――正直で、廉直で、親切、そしてそれほど頭が切れるなどと自負してはいない。
「あたくしの若いころには、大晦日にはみんなで手をつないで輪になって、『|螢の光《オールド・ラング・ザイン》』を歌ったものですけどね」と、レディー・ローラは言葉をつづけた。「『故旧忘れうべき――』っていうあの歌詞、とても感動的ですわ。あたくし、いつもそう思ってますの」
イヴシャムが落ち着かなげに身動きした。「おい、やめないか、ローラ。ここでそんな話を持ちだすもんじゃない!」
そう言って彼は、みんなの坐っている広間を横切ってゆくと、予備の電灯のスイッチを入れた。
「あたくしとしたことが、ばかなことを」と、レディー・ローラは小声で言った。「もちろんこの話、あのひとにはお気の毒なケイぺルさんのことを思いださせるのね。あら、奥さん、暖炉の火が強すぎまして?」
エリナー・ポータルは、ややぶっきらぼうな身ぶりをした。「いえ、結構です。椅子をすこしうしろへずらしますから」
なんていい声なんだろう――例の低い、ささやくような、それでいて一度聞いたらいつまでも記憶に残る声だ、そうサタースウェイト氏は思った。彼女の顔はいま陰になっている。残念至極だ。
その陰の席から、彼女があらためてたずねた。「その――ケイぺルさんとおっしゃるのは?」
「ええ。この家のもとの持ち主でしてね。ピストル自殺をなさいましたの。ええ、ええ、わかりましたよ、トム。あなたがおいやなら、この話はやめることにしましょう。ほんとに、トムにはひどいショックでしたわ、あれは。なにしろ、事件が起こったとき、トムはこの家にいたんですから。あなたも、でしたわね、リチャード卿?」
「そうでした、奥さん」
このとき、部屋の隅に置かれた大きな時代ものの箱入り床置き時計がうめきだし、ひとしきり喘息やみのようにぜいぜいうなったあげくに、おもむろに十二時を打った。
「新年おめでとう」と、イヴシャムがお座なりな調子で言った。
レディー・ローラは膝にひろげていた編物を、どこかわざとらしい手つきでゆっくりと巻きおさめた。それから、「さて、新しい年が明けましたわ」と言うと、ポータル夫人をかえりみてつけくわえた。「ところで奥さんはどうなさる?」
エリナー・ポータルはすばやく立ちあがると、「ベッドにはいりますわ、なにはともあれ」と、やや軽薄なくらいに快活な口調で言った。
『顔が真っ青だ』、そうサタースウェイト氏は思いながら、自分も立ちあがって、せわしなく燭台の準備にかかった。『もともと色白らしいが、ふだんはあれほど蒼白ではあるまい』
彼は蝋燭に火をつけると、古風な軽い会釈とともにそれをポータル夫人に渡した。彼女は礼を言ってそれを受け取り、それで足もとを照らしながらゆっくり階段をのぼっていった。
ふいに、ある不可解な衝動がサタースウェイト氏を襲った。彼女のあとを追ってゆき、彼女を安心させてやりたいという衝動だ。彼女がなんらかの危険にさらされている、そんな奇妙な感じを彼は持ったのである。だが、その衝動はすぐに消え、彼は気恥ずかしさを覚えた。これでは彼までが神経質になっていると言われても仕方あるまい。
彼女は二階へあがるとき、夫のほうへは目もくれなかったが、いま、階段の途中で立ち止まると、肩ごしにじっとさぐるような視線を彼に投げかけた。その目つきには、なにか奇妙な激しさがあって、それがサタースウェイト氏をひどく落ち着かない気分にさせた。
われながらおかしなほどしどろもどろの調子で、彼は、やはり寝室にひきとるこの家の女主人に挨拶している自分に気づいた。
「今年こそいい年でありますように」と、レディー・ローラは言った。「でも、あたくしの見たところ、政治情勢は重大な不安をはらんでいるようですわね」
「たしかにそうですな」サタースウェイト氏は力をこめて言った。「まったくおおせのとおりです」
「あたくしとして望むことは」と、レディー・ローラはいささかも調子を変えずにつづけた。「今年になってはじめてわが家の敷居をまたぐひとが、黒髪の男性でありますようにということだけですわ。この迷信、ご存じでいらっしゃいましょう、サタースウェイトさん? ご存じない? まあ、それは意外ですこと。新年になってはじめて家の戸口をまたぐひとが黒髪の男性であれば、その家には福がくるといいますのよ。まあそれはそれとして、ベッドのなかに『それほど』いやなものがはいっていないことを望みますわ、あたくし。なにしろ、子供というのはなにをしでかすかわからないんですもの。こういうときになると、すっかりはしゃいじゃいましてね」
不吉な予感がすると言いたげに首を振りながら、レディー・ローラはしずしずと階段をのぼっていった。
ご婦人連のいなくなったところで、あらためて椅子が、あかあかと丸太の燃えさかる大きな炉ばたをかこんでひきよせられた。
「どれくらいつぐか言ってくれ」と、イヴシャムが主人役らしく鷹揚に言って、ウィスキーのデキャンターをさしあげてみせた。
めいめいに酒がゆきわたると、話題はしぜんにそれまでタブーとなっていたところへもどっていった。
「あんた、デレク・ケイペルは知ってるだろう?」と、コンウェイがサタースウェイト氏に話しかけた。
「ああ――いくらかね」
「じゃあきみは、ポータル?」
「いや、会ったこともない」
この口調がばかに激しく、切りかえすようだったので、サタースウェイト氏は驚いて目をあげ、彼を見た。
「わたしはローラにこの話を持ちだされるのが大の苦手なんだ」と、イヴシャムがしんみりした調子で述懐した。「ご承知のとおり、事件のあとで、この家はある大実業家に売られた。その男は一年もたたないうちに撤退した――自分には適していないとかなんとかいう理由だが、じっさいは、むろん、幽霊屋敷とかいうくだらんうわさがひろまって、評判が悪くなったせいなのさ。そのうち、ローラのやつが、わたしをウェスト・キドルビー地区から選挙に立候補させることをもくろんでね。それには、この地区に住むことが先決なんだが、そうたやすく適当な屋敷は見つからん。そのころこのロイストンは、かなり値がさがっていたし――そんなこんなで結局ここを買ったんだ。むろん、幽霊が出るなんてのは愚劣なうわさ話にすぎんが、それでも、かつて友人が自殺したその家に住んでるってことを思いださせられるのは、あまりうれしくはないやね。それにしても、気の毒なデレクがなぜあんなことをしたのか――これは永遠の謎だよ」
「といって、彼が最初でも最後でもないだろう――理由もなしに拳銃自殺を遂げるってのは」と、アレック・ポータルが陰気に言った。
そして彼は立ちあがると、自分のグラスに勢いよく二杯目のウィスキーをついだ。
『あの男にはどこかおかしなところがある』、とサタースウェイト氏は胸のうちでつぶやいた。『たしかに非常におかしい。いったいなぜなのか知りたいものだ』
「おい!」コンウェイが言った。「風が出てきたぞ。今夜は荒れそうだ」
「幽霊が出あるくにはおあつらえむきの晩だぜ」ポータルがかん高い笑い声をたてて言った。「今夜は地獄の悪魔どもが全員お出ましってわけだ」
「レディー・ローラに言わせると、そのなかのいちばん『黒い』やつですら、幸福をもたらすそうだがね」コンウェイがからからと笑って言った。それから、声をひそめて、「おい、いまのを聞いたか?」
風がひとしきりすさまじいうなりをあげて吹きすぎ、そしてそれがおさまると同時に、玄関の鋲を打った頑丈なドアに、はっきりと三つ、ノックの音が響きわたった。
だれもがぎくりとした。
「いったい夜のこんな時間に、だれだろう?」イヴシャムが高い声で言った。
一同は顔を見あわせた。
「とにかくわたしが出よう。奉公人はみんな寝てしまったから」
そう言ってイヴシャムは戸口へ行くと、ややてまどりつつ太いかんぬきをはずし、ようやく扉を押しあけた。氷のような風が、さっと広間に流れこんできた。
痩せた長身の男の姿が、戸口に浮かびあがった。見まもっていたサタースウェイト氏には、扉の上のステンド・グラスからさす奇妙な光の効果で、その男が虹の七色のまだらの衣をまとっているように見えたが、そのあと男が一歩進みでたのを見ると、ごくあたりまえの、痩せた髪の黒い男だとわかった。
「とつぜんお邪魔して申し訳ありません」その見知らぬ男は、落ち着いた気持ちのよい声で言った。「あいにく車が故障してしまいまして。たいした故障ではなく、いま運転手が修理しているんですが、まだ三十分かそこらはかかりそうですし、おまけに外はひどく寒いので――」
彼は語尾をぼかしたが、イヴシャムはすぐに相手の言わんとするところを察した。
「そりゃいけない。ぜひなかにはいって、一杯おやんなさい。車のほうでなにかお手つだいすることはありませんかな?」
「いえ、だいじょうぶです。そちらのほうは運転手がうまくやりますから。ついでですが、わたしはクィン――ハーリー・クィンといいます」
「おかけなさい、クィンさん」イヴシャムは言った。「こちらはリチャード・コンウェイ卿、サタースウェイト氏、ポータル氏。わたしはイヴシャムです」
紹介がすむと、クィン氏はイヴシャムが気をきかせて前に寄せてやった椅子に坐った。腰をおろした位置の加減か、ちょっとした炎の反射が彼の顔面に横一文字の影を投げかけ、それが彼に黒い仮面をつけた男のような印象を与えた。
イヴシャムがさらに丸太を二、三本くべたした。
「一杯どうです?」
「ありがとう。いただきます」
イヴシャムはグラスを客のところへ持ってゆき、それを渡しながら訊いた。「このへんにはお詳しいんですか、クィンさん?」
「何年か前にもきたことがあります」
「ほう、ほんとうですか?」
「ええ。そのころはこの家はケイぺルというひとのものでした」
「そう、そのとおりです」イヴシャムは言った。「気の毒なデレク・ケイペル。あの男をご存じでしたか?」
「ええ、知っていました」
イヴシャムの態度がわずかに変化した。イギリス人というものの気質を研究したことのない人間だったら、まず気がつかなかったろう。それまでは、どことないよそよそしさがあったのだが、いまではそれがすっかり消えてしまっている。クィン氏はデレク・ケイペルを知っていた。したがって彼は友達の友達であり、それだけで全面的に人物を保証され、信頼できる男であるということになるのだ。
「じっさい驚くべき事件でしたよ、あれは」と、イヴシャムは打ちとけた調子で話しだした。
「ちょうどいまそのことを話していたところなんです。そりゃね、わたしも正直なところ、この屋敷を買うのは気が進みませんでしたよ。ほかに適当なところがあればよかったんですが、それがなくってね。ご存じかどうか知らんが、あの男が自殺した晩、わたしはこの家にいたんです――ここにいるコンウェイもそうですが。そんなわけで、わたしはいつも思っているんですよ――いまにあの男の亡霊が出てきやせんかとね」
「非常に不可解な事件でしたな」と、クィン氏はゆっくりした用心ぶかい口調で言うと、ちょっと間を置いた。そのようすにはどこか、大事なきっかけの台詞を言いおえた俳優といったおもむきがあった。
「不可解もなにも」コンウェイが勢いこんで口をはさんだ。「あの事件は完全な謎ですよ――おそらくこれからもずっとね」
「さあ、どうですかな」クィン氏はあいまいに言った。「あ、失礼しました、リチャード卿。どうかお話しを」
「驚くべき事件だ――そう言っとるのですよ。事件の主役は男盛り、明朗にして快活、人生の苦労なんてこれっぽっちもない。親しい友人を五、六人招待していた。夕食の席では上機嫌そのもの、将来の計画をあれこれ話しておった。ところが、食事がすむと、そのまま二階の自室へ直行して、引出しから拳銃をとりだし、自分に向けて引き金をひいた。なんのために? わからん。だれにも永久にわからんでしょう」
「そうですかな、リチャード卿? その断定はいささか雑駁《ざっぱく》すぎるのでは?」クィン氏がかすかにほほえみながら言った。
コンウェイはむっとしたように彼を見つめた。「どういう意味かね、それは? わたしにはよくわからんが」
「いままで解決されなかったからといって、解決不能ときめてかかる必要はないということですよ」
「しかしね、きみ! 事件当時なにも出てこなかったものが、いまになって出てくるはずはないじゃないか――もう十年もたっているんだよ」
クィン氏は穏やかに首を振った。「わたしはそのご意見には同意しかねますな。そうでないことは歴史が証明しています。同時代の歴史家は、後世の歴史家ほど正確な歴史は書けないものです。問題は、事実を正しい位置関係において見られるか、正しい釣合いをもって見とおせるかということでしてね。なんならそれは、他のすべてのものとおなじように、相対性の問題だと言ってもいいでしょう」
アレック・ポータルが膝をのりだした。その顔は、なぜか苦悩に耐えているようにぴくぴくひきつっていた。
「あなたの言うとおりだ、クィンさん」と、彼は言った。「たしかにあなたの言うとおりだ。時は問題を解決しはしない――ただ、新たなかたちでそれを提示するだけなcZ」
イヴシャムが寛大な微笑を浮かべた。「すると、クィンさん、あんたのご意見では、今晩われわれがここで、いわばデレク・ケイペルの死の原因についての審問を行なえば、あるいは、当時到達できたはずの真相に到達できるかもしれんというのですな?」
「かもしれんではなく、たぶんできるはずです。時がたっているので、個人誤差はすでに消えている。みなさんはそれに個人的な解釈をつけくわえようとすることなしに、事実を事実として思いだされるでしょう」
イヴシャムは、そううまくゆくものかと言いたげに眉をひそめた。
「むろんなにか始めるには、出発点というものが必要です」と、クィン氏は穏やかな落ち着いた声で言った。「出発点はふつう、ひとつの仮説です。どなたかそれをお持ちのかたがあるはずですが、いかがです、リチャード卿?」
コンウェイは眉根を寄せて考えこんだ。それから、いくらか弁解がましい口調で、「いや、まあ、そのね――われわれは――当然われわれはみんなそれを考えた――つまり、どこかに女がからんでいるにちがいない、とね。女か、でなきゃ金でしょう――ふつうそういう事件の動機ってのは? ところが、この場合、金じゃないことははっきりしている。その点ではなんの問題もなかった。してみると――女としか考えられんというわけだ」
サタースウェイト氏ははっとした。ちょうどそのとき、彼はちょっと思いついた点を述べようとして前にのりだしたのだが、のりだした拍子に、二階の回廊の手すりぎわにじっとうずくまっている女の姿が目にはいったのだ。その女は、手すりに身をひそめるようにかがみこんでいるので、サタースウェイト氏以外の位置からは目につかない。どうやら階下の男たちの会話に聞き耳をたてているらしく、うずくまったまま身じろぎもしないので、一瞬サタースウェイト氏は自分の目を疑ったほどだった。
だが、彼女の着ている服の模様は容易に見分けられた――東洋ふうの図柄のブロケード。そう、エリナー・ポータルだ。
そして、それと同時に、ふいにその夜の出来事のすべてが、ぴたりとあるべき図柄のなかにおさまった。クィン氏の出現――あれはけっして偶然などではない。きっかけとともに登場してくる舞台俳優のそれなのだ。今夜、このロイストン荘の大広間では、ひとつの芝居が演じられている――芝居とはいっても、けっして絵空事ではない。げんに役者のひとりは死んでいるのだ。いかにも! デレク・ケイペルはこの芝居のなかでひとつの役を受け持っている。サタースウェイト氏はこのことを確信した。
と、ふいにまた新たな光明がさした。これはクィン氏のたくらんだことにちがいない。演出家は彼なのだ。彼が各俳優にきっかけを与えているのだ。彼こそはこの謎の中心にいて、糸をあやつり、人形を動かしている張本人に相違ない。彼はすべてを知っている。二階の手すりぎわにうずくまっている女のことも。そう、彼は承知のうえなのだ。
ふかぶかと椅子に坐りなおしたサタースウェイト氏は、観客といういつもながらの役に満足して、目前に展開されてゆく芝居を見まもることにした。クィン氏はらくらくと、ごく自然に糸をひき、人形を動かしていた。
「女性ね――なるほど」と、彼は考えぶかげに言った。「その夕食の席では、女性の話は出なかったのですか?」
「出ましたよ、むろん」イヴシャムが声を張りあげた。「その席で婚約を発表したんですからな。だからこそ、ますます話がこんぐらかってくる。彼はそのことで非常にはしゃいでいました。まだ発表の時期ではないと言いながら、その口の下から、長らく独身を通してきたが、もうじき新婚レースに参加するというようなことをほのめかしたりしてね」
「むろんわれわれはみんな、その相手の女性がだれだか見当をつけていた」と、コンウェイが言った。「マージョリー・ディルク。気だてのいい女性です」
このあとは当然クィン氏がなにか言う番だと思えたのに、彼は黙っていた。その沈黙には、なにか奇妙に挑発的なものがあり、まるでいまのコンウェイの発言にたいして、無言のうちに異議を唱えているかのように受け取れた。それがコンウェイに知らずしらず防戦的な立場をとらせる結果となった。
「そうだろ、ほかに考えられたかね? え、イヴシャム?」
「わからんな」トム・イヴシャムはのろのろと言った。「あのとき彼は、正確にはなんと言ったっけ? たしか、新婚者レースに出走しようとしているとかいうこと――相手の許可があるまでは、そのご婦人の名は言えないということ――まだ発表の段階ではないということ。ああそうだ、こうも言ってたな――自分は非常に幸運な男だ、来年のいまごろは、自分も妻帯者として幸福に暮らしているだろうということを、二人の親友に知ってもらいたかったんだ、とね。むろんわれわれは、相手の女性をマージョリーだろうと推測した。二人は長いつきあいだったし、よくいっしょにいたからね」
「ただひとつ――」コンウェイが言いかけて、口をつぐんだ。
「なにを言おうとしたんだ、ディック?」
「いや、つまりね、もし相手がマージョリーだったら、すぐに婚約を発表できないというのはちとおかしいということさ。いったいなぜ秘密にするんだろう? なんだか、相手の女性が人妻かなにかのように聞こえるじゃないか――つまりさ、亭主が死んだばかりだとか、でなくば離婚の手続きちゅうだとか」
「そうだな、たしかに」イヴシャムは相槌を打った。「そういう事情なら、すぐには婚約を発表できんというのはよくわかる。それにね、いま考えてみると、あのころ彼は、さほど親しくマージョリーとつきあっていたわけでもなさそうだ。二人が親しかったのは、その前の年のことで、どうもこのごろは二人の仲は冷えてきてるんじゃないか、そう思ったのを覚えているよ」
「不思議ですな」クィン氏が言った。
「さよう――まるでだれかが割りこんできたという感じだった」
「ほかの女か」コンウェイが言って、考えこんだ。
「とにかくだ、覚えているだろう――あの晩デレクのやつ、いささか不謹慎なほどはしゃぎまわっていたじゃないか。いわば幸福に酔っているという恰好だった。それでいて、なにかこう――うまく説明できないんだが――妙につっかかってくるような、挑戦的なところがあったよ」
「まるで運命に挑戦する男のようにね」と、アレック・ポータルが濁声《だみごえ》でいった。
あれはデレク・ケイペルのことを言っているのだろうか、それともそれにかこつけて、自分のことを言っているのだろうか? 彼を観察したサタースウェイト氏は、どうもあとのほうらしいと思わずにはいられなかった。そうだ、まさにそれがアレック・ポータルの体現しているものなのだ――運命に挑戦する男。酒のせいで濁っていた彼の想像力が、いまとつぜんこの話のなかの響きと響きあい、彼がひそかにあたためていた想念を呼びさましたのだ。
サタースウェイト氏はちらと上を見た。彼女はまだそこにいた。見まもり、耳をそばだてている――あいかわらず凍りついたように動かず、死人のように身じろぎもせず。
「まったくそのとおりだ」と、コンウェイが言った。「ケイぺルは|たしかに《ヽヽ・・》興奮していた――異様なほど、と言ってもいい。いうなれば、大きな賭けをした男が、圧倒的なハンデをくつがえして勝った、とでもいったところかな」
「でなければ、なにかやろうと心にきめたことがあって、それにたいして勇気を奮いおこそうとしていたのかもしれない」ポータルがほのめかした。そして、まるで自分の言葉に触発されたかのように、席を立つと、またしてもお手盛りで自分のグラスを満たした。
「いや、ぜんぜんそうじゃないね」イヴシャムが鋭く言った。「そんな気配はまったくなかったと断言してもいい。コンウェイの言うとおりだよ。みごと大穴をあてながら、自分の幸運にとまどっているギャンブラー。そういう態度だった」
コンウェイが落胆の身ぶりを見せて言った。「ところがだ――そのわずか十分後に……」
沈黙が一同を支配した。それから、イヴシャムがこぶしでどんとテーブルをたたいた。「その十分間に、なにかが起こったんだ。そうにちがいない! だが、それはなんだろう? もう一度じっくりとあのときのことを考えなおしてみようじゃないか。われわれは話をしていた。そのさいちゅうに、ケイぺルがふいに立ちあがって、部屋を出ていった――」
「なぜです?」と、クィン氏が言った。
話の腰を折られて、イヴシャムはまごついたようだった。「なんと言われたかね?」
「ただ『なぜ?』とおたずねしただけですよ」クィン氏は言った。
イヴシャムは記憶をさぐろうとして顔をしかめた。「さあて、たいした用事とも思わなかったが――あのときはだ。そうだ! 思いだしたぞ――郵便だ。みんな、覚えていないか――あの威勢のいいベルの音がして、いあわせたものみんなが活気づいたのを? なにしろ三日も雪に降りこめられていたんだからね。何年来という記録的な大雪でさ。道路は不通。新聞はこない。郵便もこない。それが、やっとなにか届いたというんで、ケイぺルが見にいった。届いたのは、山のような新聞と郵便の束だった。彼は新聞をひらいて、なにかニュースはないかと目を通した。それから、手紙を持って二階へあがった。三分後に――銃声だ。わからん――まったく不可解だ」
「不可解とは言えないんじゃないかな」そう言ったのはポータルだった。「明らかに彼は、手紙でなにか思いがけない知らせを受けたんだ。もちろんそうだよ、そうにきまってる」
「やれやれ! そんなわかりきったことをわれわれが見のがすと思うのか? 検死官が最初にたずねたのもそれさ。『ところがケイぺルは、まだ一通も手紙を開封していなかったんだ』。受け取ったのが、そのままそっくり化粧台の上にのっていたよ」
ポータルは見るからにがっかりした顔をした。「たしかかね、彼が一通も手紙を開封していなかったというのは? 読んだあとで、破り捨ててしまったのかもしれんじゃないか」
「いや、その点はまちがいない。たしかにそれが自然な見かたかもしれんがね。だがまちがいなく、手紙は一通も開封してなかったし、破り捨てた形跡も、焼却した形跡もない。その部屋には火の気はなかったんだ」
ポータルは首をかしげた。「おかしな話だな」
「とにかくいっさいがいやな事件だった」イヴシャムは声を落として言った。「銃声を聞くとすぐ、コンウェイとわたしは二階へ駆けあがった。そして彼を発見したんだ――ショックだったよ、じつに」
「すると、警察に電話するよりほかに、打つ手はなかったというわけですな?」と、クィン氏が言った。
「いや、ちょうど折よく、というか、駐在の警官がそのとき台所にきあわせていてね。飼い犬の一匹が――ほら、覚えているだろう、コンウェイ、あのローヴァーのやつだよ――それが前の日から行方不明になってたんだが、通りがかりの荷馬車ひきが、半分雪のなかに埋まっているのを見つけて、警察に連れていってくれた。それがケイぺルのとくにかわいがってる犬だとわかったもんで、巡査がわざわざ連れてきてくれたというわけだ。銃声のするちょっと前にきていて、おかげでだいぶ手数がはぶけたよ」
「とにかくすごい雪あらしだった、あれは」と、コンウェイが追憶にふけるように言った。「たしかいまごろじゃなかったかな? 一月のはじめさ」
「二月じゃなかったかい? たしかあのあとすぐに、われわれ夫婦は外国に行ったんだから」
「いや、一月だってことはまずまちがいない。うちの猟馬のネッドが――ネッドのことは覚えているだろう――ちょうど一月の末にびっこになってね。それがこの事件の直後だった」
「だったら一月の末にまちがいあるまい。おかしなもんだな――年月がたつと、いつなにがあったかも思いだせなくなるなんて」
「この世のなかでもっともむずかしいことのひとつですよ」と、クィン氏が打ちとけた調子で言った。「なにかひとつ、世間を騒がした大事件を手がかりにしないとね――たとえば、どこそこの王様が暗殺されたとか、大々的な殺人事件の裁判があったとか」
「そうだ、そのとおりだよ」コンウェイが叫んだ。「あれはアプルトン事件の直前だった」
「直後じゃなかったかい?」
「ちがう、ちがう、覚えていないか? ケイぺルはアプルトン夫妻と知合いだった――前の年の春、アプルトン家に滞在しているんだ――老人の死ぬ一週間前だそうだがね。ある晩、老人のことを話してたことがある――じつに不愉快なおいぼれだ、アプルトン夫人のような若くて美しい女性が、あんなじじいに縛られていたんではさぞつらかったことだろう、ってね。そのときはまだ、彼女が夫をかたづけたんじゃないかって疑いは出てきていなかったんだ」
「そうだよ、思いだした。その日の新聞で、死体発掘許可がおりたという記事を見た覚えがある。あれはおなじ日だったんだ――半分うわのそらでそれを見たのを覚えている。むろんあとの半分は、二階で死んでるかわいそうなデレクのことを考えていたのさ」
「よくあることですが、きわめて不思議な現象ですな、それは」と、クィン氏が言った。「非常に緊張しているときに、心がほかのさして重要でない事柄に集中している。しかもずっとあとになってから、それをまざまざと思いだす。いわばそれは、そのときの精神的な緊張のために、それが深く心に焼きつけられてしまったからなんですな。それもごくとりとめのない、ちっぽけなこと――たとえば壁紙の模様とか――それでいて、けっして忘れることはないのです」
「あなたの口からそういう話が出るとは、驚きましたな、クィンさん」と、コンウェイが言った。「というのも、いまあなたが話しているうちに、ふいにわたしは、またデレク・ケイペルの部屋にもどったような気がしてきたんです。デレクが床に倒れて死んでいる――窓の外には、はっきりと大きな木が見える――そしてその木の影が、戸外の雪の上にうつっている。そう、月光だ、それに雪、木の影――いまでもありありと目に浮かんできますよ。絵に描こうと思えば描けるくらいだ。だがそのくせそのときは、それを見ているなんてことはぜんぜん意識していなかったんですからな」
「そのケイぺル氏の部屋というのは、玄関の真上の大きな部屋でしたな?」クィン氏がたずねた。
「さよう。そしてその木というのは、あのぶなの大木です――ちょうど車回しの曲がり角にあるやつです」
クィン氏は満足げにうなずいた。それを見たサタースウェイト氏は、奇妙なおののきを感じた。クィン氏の言葉のひとつひとつ、その声の響きのすべてが、ある目的をはらんでいることはまちがいない。彼はなにかを狙っている――なにを狙っているのかはまだ判然としないが、クィン氏が話を自分の思いどおりの方向へ持ってゆこうとしていることはたしかだ。
ちょっとのあいだ会話がとぎれ、それからイヴシャムがまたもとの話題にもどった。「例のアプルトン事件だが、いまはっきり思いだしたよ。どえらい騒ぎだった。あの女は放免されたんだろう? 美人だったな。とびきり色白で――目がさめるほどの金髪だった」
ほとんど自らの意志に反して、サタースウェイト氏の目は階段の上にうずくまっている人の姿をもとめた。あれは気のせいなのか、それともたしかに見えたのか――その人影がまるで打たれでもしたように、わずかに身をちぢめたように思えたのは? と同時に、ひとつの手があがって、テーブルクロスにかかり、そこでためらったように見えた――それも気の迷いか?
がちゃん、とガラスの落ちる音がした。アレック・ポータルがウィスキーをつごうとして、デキャンターをとりおとしたのだ。「あっ――これはすまん。どうかしてるな、ぼくは」
イヴシャムが彼の詫びるのをさえぎった。「なあに、かまわん。かまわんよ、気にするな。それよりきみ、不思議なのは――いまの音で思いだしたことがあるんだ。たしか彼女も――アプルトン夫人も――それとおなじことをやったんじゃなかったかね? つまり、ワインの壜をたたきこわしたんじゃなかったかね?」
「そうだ。アプルトン老人は、毎晩――たった一杯だけだが――ポートワインを飲んでいた。ところが彼が死んだ翌日、夫人がそのデキャンターを持ちだして、たたきこわしているのを召使のひとりが目撃した。当然彼らは、そのことを取り沙汰しはじめた。夫婦仲がうまくいってないことは、周知の事実だったからね。うわさはうわさを呼んで、だんだん広がっていった。そしてとうとう、何ヵ月もたってから、故人の親類のひとりが死体発掘許可を申請した。調べてみると、案の定、老人の死は砒素による毒物死だった。そうだったね?」
「いや――ストリキニーネじゃなかったかな。まあそれはどっちでもいい、とにかく、死体からは毒物の痕跡が発見された。それをやれたと思われる人間はひとりしかいない。アプルトン夫人は法廷にひきだされた。結局は放免されたが、それは絶対的な無実の証拠があったためじゃなく、たんに証拠不十分というにすぎなかったんだ。言いかえれば、運がよかったのさ。彼女がやったということはまずまちがいない。釈放されたあと、彼女はどうなったんだったかな?」
「なんでもカナダに行ったそうだ。いや、オーストラリアだったかな? いずれにせよ、そこに伯父貴かなにかがいて、ひきとられたらしい。まあ事情が事情だから、それがいちばんよかったんじゃないかな」
サタースウェイト氏は、グラスを握っているアレック・ポータルの右手に目をとめた。なんとまあ、かたく握りしめているんだろう!
『気をつけないと、そのうちにそれを握りつぶしてしまうぞ、きみ』、とサタースウェイト氏は思った。『それにしても、こうも話がおもしろくなってくるとは』
イヴシャムが立ちあがって、自分のグラスに酒をついだ。「結局のところ、気の毒なデレク・ケイペルがなぜ自殺したのか、そこのところの究明はあまり進まなかったわけだ」彼は言った。「そうでしょう、クィンさん、この審問はさほどの成果をあげなかったようですな?」
クィン氏は笑った。それは奇妙な笑いだった。あざけるような、それでいて悲しげな笑いだ。それは一同をはっとさせた。
「申し訳ありません」彼は言った。「しかし、イヴシャムさん、あなたはまだ過去に生きておられる。まだ先入観にとらわれておいでになる。ですがわたしは――部外者であり、通りがかりの人間にすぎない。わたしはただ――事実だけを見ます」
「事実を?」
「さよう――事実をです」
「どういう意味です?」イヴシャムが言った。
「みなさんの話された事実と事実をつなげると、全体がひとつづきのものとして見えてきます。みなさんはその意味するものに気づいておられない。十年前に立ちかえり、そこに見えるものを見てごらんなさい――個人的な意見や感傷に左右されない、あるがままの事実を」
クィン氏は立ちあがった。一同の目には、彼が非常に長身に見えた。彼の背後では、暖炉の火がちらちらと躍っていた。低い、おさえつけるような声で、彼は話しだした。
「みなさんは夕食の席にいます。ケイぺルが婚約を発表します。そのときはみなさんは、その相手をマージョリー・ディルクだと思う。だがいまは、それほどの確信はおありにならない。彼はそわそわした、興奮したようすをしており、運命に挑戦して、まんまと成功した男のようだった――みなさんの言葉を借りれば、圧倒的なハンデをくつがえして、みごと大穴をあてた男です。それから、ベルが鳴りひびく。彼は席を立って、久しぶりに配達された郵便物を受け取りにゆく。彼は手紙は開封しないが、どなたかがおっしゃったとおり、その場で『新聞をひろげて、ニュースを読む』。これは十年前のことです――したがって、その日のニュースがなんであったか、いまでは知るよしもありません。遠方の地震かもしれないし、手近な政治危機かもしれない。とにかくわれわれにわかっているのは、その紙面に小さな記事がのっていたということだけ――『つまり、三日前に、アプルトン氏の死体発掘許可を内務省がくだしたという記事です』」
「なんですって?」
クィン氏はかまわずつづけた。「デレク・ケイペルは二階の自室へ行く。そしてそこから、窓の外に、あるものを見る。リチャード・コンウェイ卿のお話によると、窓のカーテンはひいてなかったということですし、窓ごしに車回しを見おろせるわけです。彼はなにを見たのでしょう? そこで見たどんなものが、彼を自殺に追いやったのでしょう?」
「というと? なにを彼は見たのです?」
「わたしはこう思います」クィン氏は言った。「彼は警官を見たのだと。犬のことでやってきた警官の姿を見たのです。ですがデレク・ケイペルは、その用事できたとは知らなかった――ただ警官がやってくるのを見ただけです」
長い沈黙があった――さながらその意味するところを完全に理解するには、しばらくかかるとでもいうようだった。
「なんてこった」ややあって、ようやくイヴシャムがかすれた声で言った。「まさかそんなことが――? ケイぺルがあのアプルトンを? しかし、アプルトンが死んだとき、ケイぺルはそこにはいなかったんだ。老人は細君と二人きりだったんだ――」
「しかし、一週間前にはいたんじゃありませんかな? ストリキニーネは、塩酸塩の状態でないと、かなり溶解しにくい物質です。ポートワインに入れた場合、大部分は壜の最後の一杯に溶けこむでしょう。おそらくは彼が去って一週間後ぐらいにね」
ポータルが前にとびだした。声はしわがれ、目は血走っていた。「だったらなぜ彼女はデキャンターを割ったんだ? なぜ、割ったんです? それを聞かせてください」
その夜はじめて、クィン氏はサタースウェイト氏に向きなおり、話しかけた。「あなたは豊かな人生経験をお持ちだ。それをみなさんに話してあげてくださいますか?」
サタースウェイト氏の声はわずかにふるえた。やっと彼の出番がきたのだ。彼はこの芝居のもっとも重要な台詞を述べるように要請されている。いまや彼は俳優なのだ――観客ではないのだ。
彼は控え目に言った。「わたしの見たところ、彼女はデレク・ケイぺルに――好意を持っていた。たぶん彼女は貞淑な女性だったのでしょう――だから彼を遠ざけた。だが、まもなく夫が亡くなると、彼女は真相に気づいた。そこで、すこしでも愛する男をかばうため、彼に不利な証拠を消そうとした。その後、彼は、その疑いは根拠のないものだと彼女を納得させ、彼女は結婚を承諾した。しかし、いったん承諾してからも、彼女はまだ躊躇していた――女性の直感は鋭いと言いますからな」
サタースウェイト氏は、与えられた台詞を言いおえた。
と、とつぜん、長い、おののくような吐息があたりをふるわせた。
イヴシャムが驚いて腰を浮かせた。「おい!なんだ、いまのは?」
びっくりしなくともいい、エリナー・ポータルが二階の回廊にいるだけだ、そう教えてやることもできたが、せっかくの効果をぶちこわしにしたくはなかったので、サタースウェイト氏は黙っていた。
クィン氏はほほえんでいた。「そろそろ車の修理も終わったころでしょう。おもてなしを感謝します、イヴシャムさん。これでわたしも、多少は友達の役に立ったのではないかと自負しておりますがね」
一同は茫然として彼を見つめた。
「すると、まだ事件のその面に気づいておられない? よろしいですか――彼はこの女性を愛していました。彼女のためなら殺人さえいとわぬほどに、です。その罪の報いがきた、もうのがれられないと誤って思いこんだとき、彼は自らの命を絶ちました。しかしそのために、はからずも彼女を、囂々《ごうごう》たる非難の矢面に立たせることになったのです」
「だが彼女は無罪になった」イヴシャムがつぶやいた。
「有罪の証拠が集まらなかったからにすぎません。これはわたしの想像――たんなる憶測ですが、彼女はいまだにその非難の目からのがれきってはいないのでありますまいか」
ポータルがどすんと椅子に腰をおろし、手で顔をおおった。
クィン氏はサタースウェイト氏に向きなおった。「さよなら、サタースウェイトさん。あなたは芝居がお好きなようですな?」
サタースウェイト氏はうなずいたが、内心びっくりしていた。
「だったらぜひ一度、ハーリクィンの出てくる道化芝居をごらんになるようにおすすめしますよ。昨今ではすっかりすたれていますが、しかし一見の価値はあります。あれの持つ象徴性にはいささか理解しにくいところもありますが――なんといっても、不滅のものは不滅ですからな。ではみなさん、おやすみなさい」〔ハーリクィンは十六〜十八世紀のイタリアのコメディア・デラルテなどに出てくる道化。仮面をつけ、まだらのタイツをはいて、さまざまな滑稽を演じる。フランス語ではアルルカン、イタリア語ではアルレッキーノ。むろんハーリー・クィンの名はここからとっている〕
ハーリー・クィンが大股に外の闇のなかへ出てゆくのを一同は見送った。はいってきたときとおなじように、色ガラスが一瞬その後ろ姿をまだらに浮かびあがらせた。
サタースウェイト氏は二階へあがった。夜気が冷たかったので、窓をしめようとそのほうへ行ったとき、クィン氏が車回しを遠ざかってゆくのが見えた。家の横手のドアがひらいて、女が駆けだしてゆくのが目にはいった。しばらく彼らはそこで立ち話をしていたが、やがて女は家のほうへひきかえしてきた。彼女が窓の真下を通ったとき、その面《おもて》にあらわれた輝くばかりの生気に、サタースウェイト氏はあらためて心を打たれた。いまの彼女の身のこなしは、しあわせな夢のなかを歩いている女性のようだった。
「エリナー!」
アレック・ポータルが駆けよった。
「エリナー、すまなかった――許しておくれ。きみはほんとうのことを言っていたんだね。だのに、おお――神よ許したまえ――ぼくは心の底からそれを信じきれなかった――」
サタースウェイト氏は、他人《ひと》様の家庭の事情におおいなる関心を持っている――が、同時に彼は紳士でもある。このさいは窓をしめるべきだと考えるくらいのたしなみは、身にしみついている。彼は良心の声にしたがって窓をしめた。
が、それほど急いでしめたわけではなかった。
彼女の声――あのえもいわれぬ美しい声が聞こえてきた。「わかってるわ――よくわかっててよ。あなたはとても苦しんでいらしたのね。わたしも前にはそうだったわ。愛していながら、同時に信じたり疑ったり――いったんは疑いを払いのけてみるんだけど、すぐまたその妄想が、にたにた笑いながら頭をもたげてくるの。わかってるわ、アレック、よくわかってるの。でもね、じつはそれよりもつらいことがあるのよ――あなたといっしょに過ごしてきたこの地獄。あなたの顔に疑いが――わたしへの恐れがあるのを、わたしはいつも見ていなきゃならなかった。それがわたしたちの愛に毒を注いでいたんだわ。でもさっきのひとが――あの通りがかりの男のひとが、わたしを救ってくれた。ねえアレック、じつをいうと、わたしもう我慢できなくなっていたの。今夜――今夜死のうと思っていたのよ――アレック――おおアレック!」
[#改ページ]
ヘレンの顔
サタースウェイト氏は、オペラ座の広いボックス席にただひとり坐っていた。桟敷席の一段目にあるその専用のボックスの扉の外側には、サタースウェイト氏の名を印刷したカードが貼ってある。彼はすべての芸術の愛好者であり、目ききであったが、とりわけ好んでいるのは、よい音楽で、毎年必ずコヴェント・ガーデン歌劇場の定期会員として、シーズンを通して火曜と金曜の夜のボックス席を予約していた。
とはいえ、彼がひとりきりでこの桟敷に坐ることはめったになかった。小柄な社交好きな紳士であるサタースウェイト氏は、いつもこの席へ、社交の仲間である選りぬきの貴顕紳士たちを招待したがったからだ。このことはまた、芸術の世界における名士たちにたいしても同様だった。この世界でも、やはりサタースウェイト氏は、生まれながらにその世界の人間であるかのようにふるまうことができたのである。
その彼が、今夜にかぎってひとりきりだった。それというのも、ある伯爵夫人に約束をすっぽかされたからだ。その伯爵夫人は、美人のほまれ高い女性であったが、同時によき母親でもあった。その彼女の子供たちが、あのよくある困った病気、おたふく風邪にかかり、やむなく伯爵夫人は外出を中止して、自宅で看護婦たち――糊でかちんかちんにつっぱりかえった制服を着た――を相手に、涙ながらの懇談にふける仕儀とはなったのである。夫人の夫というのは、問題の子供たちと、貴族の称号とを彼女に与えただけ、その他のことに関しては、まったく実在しないも同然という人物で、今夜も口実をつくってさっさと逃げだしてしまっていた。彼に言わせれば、音楽以上に退屈させられるものはないというのだ。
とまあそんなわけで、サタースウェイト氏はひとりきりだった。今夜のだしものは、『カヴァレリア・ルスティカーナ』と『道化師《イ・パリアッチ》』。前者を彼はいいと思ったためしがない。そこで、ヒロインのサントゥッツァの死の場面で幕がおりる、ちょうどその直後に席に着くように時間を見はからって行ったので、観客がぞろぞろと席を立って手洗いに行ったり、コーヒーやレモネードの売り場に殺到しはじめる前に、物慣れた目でひとあたり場内を見まわす余裕を持てた。オペラグラスを調節したサタースウェイト氏は、それで場内を偵察して、これぞという獲物に狙いをつけた。そして、用意周到な作戦を胸に、勇んで出撃していったのだが――幸か不幸か、その作戦を実行するまでにはいたらなかった。というのは、ボックスを出たすぐのところで、ひとりの長身の、髪の黒い男につきあたり、その男がだれであるかを見てとって、楽しい、わくわくするような興奮に投げいれられてしまったからである。
「クィンさんじゃありませんか」と、サタースウェイト氏は叫んだ。
叫びながら彼は友人の手をかたく握ったが、その握りかたたるや、まるで相手がいまにも煙のように消え失せてしまわないかと恐れているかのようだった。
「わたしのボックスにおいでにならなきゃいけませんよ」と、サタースウェイト氏は断固たる調子で言った。「お連れはないんでしょう?」
「ありません。平土間にひとりでいますよ」クィン氏はほほえみながら答えた。
「じゃあきまりましたな」サタースウェイト氏は安堵の吐息とともに言った。
はたで見ていたら、彼の態度は滑稽に見えたかもしれないが、さいわいだれも見ているものはなかった。
「ご親切にどうも」クィン氏は言った。
「どういたしまして。大歓迎ですよ。それにしても、あなたが音楽をお好きとは知りませんでしたな」
「ちょっとしたわけがありましてね――『道化師』に心をひかれるんです」〔『道化師』はレオンカヴァルロ作曲のオペラ。主人公カーニオ〔テノール〕は道化役者で、劇中劇でアルレッキーノ〔ハーリクィン〕に扮し、コロンビーヌに扮した妻ネッダの不貞に悩む〕
「ああなるほど! ごもっとも」サタースウェイト氏は訳知り顔にうなずいたが、なぜごもっともなのかひらきなおって訊かれたら、説明に苦しんだことだろう。「なるほど、あなたなら当然そうでしょうな」
開幕を告げる一回目のベルが鳴りだしたので、彼らは桟敷にもどった。そして、前の手すりにもたれて、平土間の客がつぎつぎに席にもどってくるのを見まもった。
「ああ、あの頭は美しい」と、唐突にサタースウェイト氏は言った。
彼が手にしたオペラグラスでさしたのは、真下の平土間のある席だった。そこにはひとりの若い女性が坐っていたが、顔は彼らには見えなかった――ただ、ふちなし帽に見まごうほどぴったり解きつけられたまじりけのない金髪が、白いうなじに溶けこんでいるのが見えるだけだ。
「ギリシャ系の頭です」サタースウェイト氏は畏敬の念をこめて言った。「純粋なギリシャ系です」彼はうっとりと溜息をついた。「考えてみると驚くべきことですな――自分に|似合った《ヽヽヽヽ》髪の毛を持っている人間が、いかにすくないかということはね。いまはだれもが髪を刈りあげていますから、ああいう頭はよけい目につきますよ」
「あなたは観察眼が鋭くていらっしゃる」と、クィン氏は言った。
「ものを見るだけですよ」サタースウェイト氏は認めた。「たしかにものはよく見ます。たとえば、あの頭にすぐに気がつきました。いずれあの女性の顔も見なくちゃなりますまい。しかし、どうせ釣りあってはいませんよ。顔があの頭に釣りあっているという見込みは、千にひとつもないでしょう」
その言葉が彼の口を出るか出ないかに、場内の照明がまたたいて消えた。指揮棒がこつこつと鋭く指揮台をたたくのが聞こえ、オペラが始まった。今夜の主役を歌うのは、カルーソー二世と評判の高い新進のテノールだった。彼の出身地について、新聞はそれぞれユーゴスラヴィアだとか、チェコだとか、アルバニアだとか、ハンガリーだとか、ブルガリアだとか、どれも公平にまちがった報道をしていた。先日もアルバート・ホールで彼の特別演奏会があったが、当夜のプログラムは彼の故郷である山岳地方の民謡ばかり、伴奏は特殊な編成のオーケストラが受け持った。歌はいずれも奇妙な半音階で構成されていて、半可通たちは「すばらしいの一語に尽きる」と絶賛したが、本職の音楽家たちは判断を保留した。それについてなんらかの批評を行なうためには、特殊な耳の訓練と慣れとが必要だとさとったからである。だから、今夜ヨアシュビンが普通のイタリア語で、伝統的なすすり泣きやふるえ声をまじえて歌えるということを発見したのは、一部の人びとにとっては大きな救いであった。
一幕目の幕がおり、万雷の拍手がまきおこった。サタースウェイト氏はクィン氏をかえりみた。自分が感想を述べるのをクィン氏が待っていると気づいて、彼は多少得意な気持ちになった。なんにせよ、彼には|わかっている《ヽヽヽヽヽヽ》のだ。批評家としての彼は、ほとんど無謬なのである。
ごくゆっくりと、彼はうなずいた。
「本物ですよ、これは」
「そうお思いですか?」
「声はカルーソーにも劣らない。まだテクニックに未熟な点がありますから、はじめはそうと思わない人も多いでしょう。全体にまるみがありませんし、歌いだしの発声にも難がある。しかし、声はお聞きのとおりです――たいしたものだ」
「わたしはアルバート・ホールの独唱会にも行きましたよ」クィン氏は言った。
「いらっしゃいましたか。わたしは行けなかった」
「羊飼いの歌ではすごく受けてました」
「そのことは新聞で読みましたよ」サタースウェイト氏は言った。「繰返しの部分がいつも高い音で終わるとか。一種の絶叫――ラの音とシのフラットとの中間の音。非常に珍しいですな」
ヨアシュビンはその幕では三回のアンコールにこたえ、そのつど微笑を浮かべて頭をさげた。客席のあかりがつき、観客は席を立ちはじめた。サタースウェイト氏は手すりにのりだして、あの平土間の金髪の娘に注目していた。彼女は立ちあがり、スカーフをなおすと、向きなおった。
サタースウェイト氏は思わず息を呑んだ。世のなかにはこういう顔があるということを、彼は知識では知っていた。この種の顔――歴史を動かした顔――
その娘は通路のほうへ歩きだした。連れの若い男があとを追った。サタースウェイト氏が見まわすと、周囲の男たちはみんな彼女に注目していた。しかも、彼女が通り過ぎてしまってからも、めだたぬようにその後ろ姿を見送っている。
「美しい!」サタースウェイト氏はつぶやいた。「こういう美もあったのか。魅力でもないし、愛嬌でもない。人の心をひきつけるなにかでもない。こういう場合によく使われる薄っぺらな形容のどれでもない。たんなる純粋な美、美そのもの。あの顔の輪郭、眉の線、あごのまるみ――」彼はそっと口のなかで引用した。「『こはかのかんばせか、一千の軍船《いくさぶね》をば進め……』」〔美女ヘレンをトロイのヘレンになぞらえたマーロウの戯曲『フォースタス博士』の一節〕――そしていまはじめて、これらの語句の真に意味するところを理解しえたと思った。
サタースウェイト氏はちらりとクィン氏を見やった。自分を見つめているクィン氏のまなざしに、完全な理解の色らしきものがあるのを認めて、彼はなにも言う必要はないと感じた。
彼はただあっさりとこう言った。「いつも思っているんですがね――ああいう女性たちは、実際にはどんなふうだったんでしょう?」
「というと?」
「トロイのヘレンとか、クレオパトラとか、メアリ・スチュアートといった女性ですよ」
クィン氏は思案ありげにうなずいた。
「外に出てみれば――見られるかもしれませんよ」
二人は連れだってロビーへ出た。彼らの探索はむくわれた。捜していた二人連れは、階段を半分あがったところにある休憩所に坐っていた。このときはじめて、サタースウェイト氏は、娘の連れの男に注目した。黒髪で色浅黒く、ハンサムではないが、気まぐれな炎を思わせる雰囲気を持った青年だ。顔は妙にごつごつしていて、とびだした頬骨、がっしりした、わずかにつきでたあご、くぼんだまなこ――そしてその両眼は、黒い秀でた眉の下で、奇妙に明るく輝いている。「興味ぶかい顔だ」サタースウェイト氏は内心で考えた。「真摯な顔だ。なにかありそうだな」
青年は前かがみになって、熱心に話していた。娘はそれに耳を傾けている。どちらもサタースウェイト氏の世界には属さない人種だ。二人とも『芸術家志望』と彼は見てとった。娘のドレスは、すこしくたびれた安物の緑色の絹、靴は汚れた白のサテンである。青年は型どおり夜会服を着こんでいるが、いかにも窮屈そうな感じだ。
二人の男は、何回かその男女の前をいったりきたりした。四度目に通りかかったとき、三人目の人物がその二人連れに加わった――金髪色白の青年で、見たところ会社員ふうだった。この青年が加わったことで、彼らのあいだにある種の緊張が生じた。新しく加わった男も、しきりにネクタイをいじったりして、落ち着かぬようすだ。娘の美しい顔が、きまじめな表情で彼のほうへ向けられると、連れの男はひどく苦々しげな渋面をつくった。
「お定まりの筋書ですな」その前を通りすぎながら、クィン氏がごく低い声で言った。
「さよう」サタースウェイト氏は溜息まじりに答えた。「避けられんことでしょうな。二匹の犬が一本の骨を前にしていがみあう。いつだってあったことですし、世のなかがつづくかぎりなくなりますまい。とはいえ、たまにはなにかちがったものを望んでもいいはずです。美というものは――」彼は言いさして、やめた。サタースウェイト氏にとっては、美とはなにか特別にすばらしいものを意味するのだ。それについて語ることはむずかしい。クィン氏のほうを見ると、彼はわかったというように重々しくうなずいてみせた。
二幕目が始まるので、彼らは席にもどった。
ぜんぶの幕が終わると、サタースウェイト氏は友人をかえりみて、熱心に言った。
「今夜は雨模様です。車がありますから、送らせてください――その――どこへなりと」
この最後の言葉は、サタースウェイト氏らしい心くばりが言わせたものだった。「お宅まで送る」では、せんさくがましいと受け取られかねない。クィン氏は自分のことになると、いつもことのほか控え目なのだ。彼のことについては、サタースウェイト氏は驚くほどなにも知らなかった。
「しかしたぶん、あなたも車を待たせておありなんでしょうな?」小柄な男はつけくわえた。
「いや」クィン氏は答えた。「車は待たせてありません」
「だったら――」
だがクィン氏はきっぱり首を振った。
「ご好意はかたじけないんですが、やはりここで失礼させていただきます。おまけに――」と、ちょっと奇妙な笑いを浮かべて――「かりになにかが――起こったとしても、今度はあなたが舞台に立つ番ですよ。おやすみ。ありがとうございました。これでまたわれわれは、いっしょに芝居を見ましたね」
サタースウェイト氏がひきとめるひまもなく、彼は足早に歩み去った。とりのこされたサタースウェイト氏は、胸のなかにかすかな不安がうごめくのを感じた。クィン氏はどの芝居のことをさして言ったのだろう? 『道化師』か、それとももうひとつの?
サタースウェイト氏のおかかえ運転手、マスターズは、いつも横町で待つ習慣だった。劇場の前で、順ぐりに到着する長い車の列を待つのは、サタースウェイト氏にはまだるこしくてやりきれなかったのだ。だから今夜も、いつものとおり急ぎ足に角を曲がると、マスターズの待っているはずのところにむかって通りを歩きだした。ふと前を見ると、一組の若い男女が歩いており、それが例の二人連れだと思いあたるかあたらぬうちに、もうひとりの男がそれに加わった。
すべてはあっというまの出来事だった。ものの一分とたたぬうちに、男の怒声が聞こえ、つづいて、もうひとりの男の憤然たる抗議の声。それから取っ組みあう気配。殴打の音、憤ろしげな息づかい、さらに殴打の音。どこからともなくゆらりとあらわれた警官の姿――そうと見てとるまもなく、サタースウェイト氏は現場に駆けつけて、壁ぎわで身をすくめている娘の前に立った。
「失礼ですが、ここにいてはよくありません」
彼は娘の腕をとると、彼女をみちびいて足早にその場を離れた。娘は途中で一度ふりかえった。
「あのう――もしやあたし――?」彼女は不安そうに言いかけた。
サタースウェイト氏はきっぱり首を振った。
「まきこまれると不愉快な思いをするだけですよ。ことによると、あの二人といっしょに警察へこいと言われるかもしれない。あなたの――お友達のどちらも、それを望みはしないはずです」
彼は立ち止まった。
「わたしの車です。おいやでなければ、お宅までお送りしますよ」
娘はさぐるようにサタースウェイト氏を見た。彼の卑しからぬ物腰風采が、好印象を与えたようだった。彼女は会釈して、「ありがとうございます」と言うと、マスターズがドアをあけて待っている車に乗りこんだ。
サタースウェイト氏の問いに答えて、彼女はチェルシー地区のある番地を告げた。サタースウェイト氏も乗りこんで、彼女の隣りに坐った。
彼女は気が転倒していて、とても話のできる状態ではなかったし、サタースウェイト氏も彼女の物思いに割りこんでゆくほど心ない男ではなかった。それでも、しばらくたつといくぶん気も静まったのか、彼女は向きなおって、自分から話しだした。
「じっさい、人間ってどうしてこう愚劣なんでしょうねえ?」
「困ったものですな」サタースウェイト氏は相槌を打った。
彼の実際的な態度が彼女をほっとさせたのか、彼女はだれかに打ち明けずにはいられなくなったかのように、きゅうに勢いこんでしゃべりはじめた。
「なにもあたしがわざと――いえね、つまりこういうことなんですの。イーストニーさんとあたしは、古くからのお友達です――あたしがロンドンにきて以来、ずっとおつきあいしています。あたしは声楽家志望なんですけど、あのかたはそのことでいろいろ世話を焼いてくれて、その方面のいい手づるを紹介してくれたり、それはもう口では言えないほど親切にしてくれました。あのかた、根っからの音楽狂ですのよ。今夜だって、親切にあたしをオペラに連れてってくれましたけど、ほんとうはそれほどふところに余裕があるわけじゃないってこと、あたし、知ってるんです。ところがそこへバーンズさんがきあわせて、話しかけてきました――とても気持ちのいい態度だったんですけど、それでもフィルは――イーストニーさんは、すっかりつむじを曲げちゃって。なぜ彼が機嫌を悪くしなきゃならないんでしょう? ここは自由の国ですのに。バーンズさんのほうは、いつも朗らかで、温厚なひとなんです。そのあとあたしたちが地下鉄のほうへ歩いていると、また彼がきて、いっしょになりました。それからが大変なんです――彼が二言と話さないうちに、いきなりフィルが気ちがいみたいにとびかかっていって。そして――おお、あたし、ああいうの大嫌いですわ」
「ほう、お嫌いですか?」サタースウェイト氏はことのほか穏やかに言った。
彼女は頬を赤らめた――が、ごくかすかにだ。そこには、誘惑者としての自分を意識しているそぶりは見あたらなかった。あったとすれば、二人の男の争いの的になっていることへの多少の快感と興奮――これはいたって自然なことだ。が、サタースウェイト氏の見たところ、彼女の場合なによりも先に立っているのは、懸念と困惑であるらしい。そしてまもなく、彼がその事実をたしかめる手がかりを得たのは、彼女がこんな見当ちがいなことを口走ったときだった。
「彼があのひとに怪我をさせなきゃいいんだけど」
暗いなかでひとりほほえみながら、サタースウェイト氏は考えた。「さて、どっちがどっちを、だろう?」
それから、自らの判断はひとまずおいて、彼はたずねた。「というのは――ええと――イーストニーさんがバーンズさんに怪我をさせなきゃいいということですな?」
彼女はうなずいた。
「ええ、そうですわ。そんなことにでもなったらと思うと、ぞっとします。結末を見届けてこられればよかったんだけど」
車がスピードを落とした。
「お宅に電話はありますか?」彼はたずねた。
「ええ」
「なんでしたら、わたしが成行きを詳しく調べて、お宅に電話してもいいですよ」
娘の顔がぱっと明るくなった。
「まあ! それはご親切に。でも、ご迷惑じゃありません?」
「いや、ぜんぜん」
彼女はまた礼を言って、自宅の電話番号を教え、ややはにかみがちにつけくわえた。「あたし、ジリアン・ウェストと申します」
託された使命をになって夜の町に車を走らせながら、サタースウェイト氏は奇妙な微笑を口辺にただよわせていた。
彼は考えた。「それではこれが、あの言葉の意味するところだったんだな――『ひとつの顔の形、あごのまるみが……』か!」
だが彼は約束を果たした。
つぎの日曜日の午後、サタースウェイト氏はキュー植物園にしゃくなげの花を見に出かけた。遠いむかし(サタースウェイト氏自身信じられないほどむかし)、彼はある若い婦人とここへブルーベルを見にきたことがあった。その日サタースウェイト氏は、前もって心のなかで、これから自分の言おうとすること、その若い婦人に結婚を申しこむのに使うべき台詞を、入念にまとめあげていた。彼はそれをくりかえし頭のなかでそらんじることに夢中だったから、彼女がしきりにブルーベルのことで賛嘆の声をあげるのに、なかばうわのそらで相槌を打っていた。そのときショックが襲ってきたのだ。相手の女性がブルーベルにたいして嘆声を発するのをやめて、きゅうにあらたまってサタースウェイト氏にむかい、心からの友として話すのだがと前置きして、他の男性への思慕を打ち明けたのである。あわてたサタースウェイト氏は、急遽、用意してきたささやかな告白を胸の奥にしまいこむと、心の引出しのいちばん底をかきまわして、相手への友情と共感の言葉を捜しだしたのだった。
かくしてサタースウェイト氏の恋は終わった――いささか生ぬるい初期ヴィクトリア時代ふうのロマンスだった。だがそれは、彼の心に、キュー植物園にたいするロマンティックな愛着を残し、その後もしばしば彼は、そこへブルーベルを見にいったり、あるいは例年より遅くまで国外にいた場合には、しゃくなげを見にいったりするのだった。そして、ひとりそっと溜息をつき、ちょっぴり感傷的になって、そのひとときを古風な、ロマンティックな気分でせいいっぱい楽しむのである。
ところで、この問題の日の午後、彼が園内の休憩所の前をぶらぶらとひきかえしてくると、芝生の小さなテーブルのひとつに、一組の男女が坐っているのが目にとまった。ジリアン・ウェストとあの金髪の青年で、こちらが気づくのと同時に向こうも彼を認めた。娘が上気して、なにか熱っぽく連れにささやくのが見えた。まもなくサタースウェイト氏は、持ち前の礼儀正しい、やや四角ばった態度で、二人の両方と握手をかわし、いっしょにお茶をどうかというおずおずした誘いに応じて、そこに腰をおろしていた。
「せんだっての晩、ジリアンに親切にしてくださったそうで、なんとお礼を言っていいかわかりません。この娘《こ》からすっかり聞きましたよ」と、バーンズ氏が言った。
「そうですわ、ほんとうに」ジリアンも言った。「とても親切にしていただいて」
サタースウェイト氏は気をよくすると同時に、二人にたいして興味をいだいた。彼らの純真さと誠実さが、彼の心の琴線に触れたのだ。それに、彼としては、自分のよく知らない世界をちょっとのぞき見させてもらうという興味もあった。この二人の属する階層は、彼には未知の世界だったのだ。
彼なりのいささかそっけないやりかたでではあるが、その気になればサタースウェイト氏は、他人にたいしてひどく親身になることができる。いくらもたたないうちに彼は、この新しい友人たちから、彼らのことを洗いざらい聞きだしていた。彼女の口から『バーンズさん』という呼びかたが消えて、『チャーリー』に変わったのも聞きのがさなかった。だから、まもなく二人が婚約したと告げられても、彼にはすこしも意外ではなかった。
「じつをいうとね」と、バーンズ氏はさわやかな青年らしい率直さで言った。「それがきまったのは、ついきょうの午後のことなんです。そうだね、ジル?」
バーンズはある船会社の事務員だった。かなりの給料をとっているし、わずかだが自由になる資産もある。だから二人とも、式は近い将来に挙げるつもりでいる。
サタースウェイト氏は熱心に聞きいり、うなずいて、お祝いの言葉を述べた。
「それにしても、ごく平凡な青年だな」と、彼は内心で考えた。「ざらにいる、ごく普通の青年だ。善良で、まっとうで、謙虚で、自負心は持っているがそれが自惚れとはならず、好男子だが、過度に美男子ではない。目につくような点はなにもなく、はなばなしいことをして名を挙げるとも思えない。だがこの娘は、そういう彼を愛しているのだ」
声に出して、彼は言った。「で、イーストニー氏は――」
彼は意識的に語尾をとぎらせた。だがそれだけで、彼のなかば予期していた効果をひきだすにはじゅうぶんだった。チャーリー・バーンズの顔は暗くなり、ジリアンは当惑顔をした。いや当惑以上だ、と彼は思った。彼女は怯えている。
「あたし、つらいんですの――」彼女は低い声で言った。その言葉はサタースウェイト氏に向けられたものだった。それはさながら、彼女が本能的に、恋人には理解してもらえない感情も、サタースウェイト氏には理解してもらえると考えたかのようだった。「おわかりでしょう――あのひとはあたしにとてもよくしてくれました。あたしに歌の仕事をするように励ましてくれましたし、そのために――力を貸してもくれました。でもあたしには、はじめからわかってたんです――あたしの歌がそれほどたいしたものじゃない、けっして一流じゃないってことは。もちろん、彼の尽力もあって、仕事はもらえました。でも――」
彼女は口をつぐんだ。
かわってバーンズが言った。「でも、そのために苦労もした。若い女性には、後ろ楯になってくれる人間が必要なんだ。ねえサタースウェイトさん、ジリアンはずいぶん不愉快な思いをしてきたんですよ。とにかくいやってほどの不愉快な思いをね。ごらんのとおり、この娘は美人だし、それが――まあ、若い女性には、しばしばいざこざのもとになるんです」
彼らのこもごも語ることから、サタースウェイト氏は、バーンズが『不愉快なこと』という題目で漠然と分類しているさまざまな出来事を、おぼろげに推察しはじめた。ピストル自殺を遂げた若い男、銀行頭取の異常な行動(しかも彼には妻子まであったのだ!)、暴力的な外国人(きっと頭がいかれていたのだろう!)、初老の芸術家の気ちがいじみたふるまい。ジリアン・ウェストの行くところ、あとには必ず暴力と悲劇との航跡が残った。そしてそれを語るのは、チャールズ・バーンズの日常的な、穏やかな声音。「そしてぼくに言わせれば」と、彼は言葉を結んだ。「このイーストニーという男も、ちょっと常軌を逸したところがありますね。もしぼくがあらわれて、世話を焼かなかったら、そのうちきっとジリアンは、あの男と面倒を起こしていたでしょう」
彼の笑い声は、サタースウェイト氏にはいくらかひとりよがりに聞こえた。ジリアンの顔にも、それに呼応した笑みは浮かばなかった。彼女は真剣なまなざしでサタースウェイト氏を見ていた。
「フィルはいいひとですわ」彼女はのろのろと言った。「あたしを好いてくれていますし、あたしもお友達として好意を持っています――でも――でも、それ以上の気持ちはありません。チャーリーとの婚約を彼がどうとるかわかりませんけど、あたしなんだか心配で――ひょっとして彼が、なにか――」
彼女は言葉をとぎらせた。漠然と感じている危険を前にして、不安に胸が詰まったのだ。
サタースウェイト氏は温かく言った。「もしわたしでお役に立つことがありましたら、なんなりとうけたまわりますよ」
そう言いながら彼は、チャーリー・バーンズがどことなくおもしろくなさそうな顔をしているようだと感じたが、ジリアンはすぐに、「ええ、ありがとうございます」と答えた。
今度の木曜日にジリアンとお茶を飲む約束をして、サタースウェイト氏はこの新しい友人たちと別れた。
木曜日がくると、サタースウェイト氏は、楽しい期待にわずかに胸が高鳴るのを覚えた。彼は思った――「わたしは老人だ――が、美しい顔を見て胸をときめかせないほどのおいぼれじゃない。あれほどの――」それから、ふとある胸騒ぎを感じて、彼はそっと首を横に振った。
ジリアンはひとりだった。チャーリー・バーンズはちょっと遅れてくるということだった。この前会ったときにくらべて、ジリアンはずっと幸福そうに見えた。心の重荷がおりたかのようだ、とサタースウェイト氏は考えたが、じじつそうであることを彼女は率直に認めた。
「フィルにチャーリーのことを話すのがこわかったんです。あたし、ばかでしたわ。もっとフィルのことを理解しているべきでしたのに。もちろん彼、最初は動揺しました。でも、だれだってあれほど気持ちよくはふるまえませんわ。ほんとうにさっぱりとそれを受けいれてくれたんです。ごらんになって――今朝これを届けてくれましたのよ。結婚のお祝いですって。りっぱでしょう?」
それはたしかに、フィリップ・イーストニーのような境遇の青年にとっては、なかなか贅沢な贈り物だった。最新型のラジオ受信器だ。
「ご存じのとおり、あたしたちは二人とも大の音楽好きですの」ジリアンは説明した。「これで音楽を聞けば、多少は自分のことも思いだしてもらえるかもしれないから、そうフィルは言いましたわ。たしかにそのとおりです。だってあたしたち、いつもとてもいいお友達だったんですもの」
「自慢できるお友達を持ちましたね」サタースウェイト氏はやさしく言った。「お話の具合では、イーストニー氏はじつに男らしく、いさぎよく打撃を受けとめたようですから」
ジリアンはうなずいた。たちまちその目に涙がにじんでくるのを彼は認めた。
「ひとつだけ、自分のためにしてほしいことがあるって言いましたわ。今夜はあたしたちが知りあった記念の日なんです。だから、今夜だけは家にいて、静かにラジオでも聞いてほしい、チャーリーとはどこへも行かずに――そう言うんですの。もちろんそうするって、あたし、答えましたわ。あなたの心づかいにはとても感激した、あなたのことはいつまでも感謝と愛情をもって思いだすだろうって」
サタースウェイト氏はうなずいたが、内心首をかしげていた。彼は人の性格を見ぬくのにめったに誤りをおかしたことはない。そして彼の判断によれば、フィリップ・イーストニーという青年は、そのような感傷的なことを頼めるような性格ではまったくないのだ。してみるとあの青年は、サタースウェイト氏が考えたのよりは平凡な人物だったのにちがいない。ジリアンは明らかに、そういう思いつきが、自分のふった男の性格とまったく矛盾していないと考えている。サタースウェイト氏は、ちょっと――ほんのちょっと――失望した。彼自身も感傷家だし、それは自分でもよく心得ている。しかし、自分以外の世間は、もうちょっと利口であると彼は期待していたのだ。のみならず、感傷などというものは、彼のような年代のものにこそふさわしい。現在の世のなかでは、そんなものは通用しないのだ。
彼はジリアンに歌を聞かせてほしいと頼み、彼女は応じた。聞きおわると彼は、彼女の声は魅力的だとほめたが、心のなかでは、どうひいきめに見ても、二流の声でしかないことをはっきり見ぬいていた。いままでに彼女が、歌の世界で多少の成功をおさめてきたとすれば、それは彼女の声ではなく、容貌がかちとったものにほかなるまい。
とくにバーンズに会いたいという気持ちもなかったので、しばらくすると彼は、辞去するために立ちあがった。このときはじめて、暖炉の上にのっている装飾品が彼の目をひいた。それは他のがらくたのなかにあって、ごみの山の上の宝石のようにきわだっていた。
それは、脚の長い優美な台つきの大杯で、薄い緑色のガラスでできていた。ふちに大きなシャボン玉のような、虹色のガラスの球がのっている。見とれていると、ジリアンがそれに気づいて言った。
「それもフィルの贈り物ですのよ。結婚祝いに添えてきたんですけど、なかなかきれいでしょ? あのひと、ガラス工場のようなところで働いていますの」
「美しいものですな」サタースウェイト氏はうやうやしく言った。「有名なヴェネチアのガラス職人だって、これなら自慢するでしょう」
彼は外に出ながら、奇妙にフィリップ・イーストニーにたいする興味がかきたてられるのを感じた。じつに興味のある青年だ。だがそれでいて、あのすばらしい美貌の娘は、チャーリー・バーンズのほうを選んだのだ。世のなかとは、なんと不思議な、不可解なところなのだろう!
このときふと、サタースウェイト氏の胸にこんな思いがきざした――ジリアン・ウェストのこの世のものとも思われぬ美貌に出あったおかげで、あの夜のクィン氏との邂逅が、いささか生彩を欠いたものになったのではないかと。これまではいつも、あの神秘的な人物に出くわすときには、なにか不思議な、予期せざる出来事が起こる結果となったものだが。あるいは今夜あたり、うまくいくとあの謎の人物にめぐりあえるかもしれん。サタースウェイト氏がレストラン『アルレッキーノ』へ足を運ぶ気になったのは、こんな期待からだった。ずっと前に一度、彼はこのレストランでクィン氏に出あったことがあり、クィン氏もここへはちょくちょくくると言っていたからだ。
『アルレッキーノ』の店にはいると、サタースウェイト氏はもしやの期待にひかされて、あたりを見まわしながら部屋から部屋を一巡してみた。が、どこにもクィン氏の浅黒い、穏やかな笑みを浮かべた顔はなく、かわりに、見覚えのあるべつの顔にぶつかった。とある小さなテーブルに、フィリップ・イーストニーがひとりで坐っていたのである。
店はこみあっていたから、サタースウェイト氏はさりげなく青年の向かいの席に坐ることができた。彼は突然の奇妙な高揚感を感じた。自分がとらえられて、さまざまな出来事の綾なすきらきらしたパターンの一部になったような気がした。自分はその渦中にいる――それがどんなものであるにせよ、そのまっただなかに。いまはじめて、あの晩クィン氏がオペラ座で言ったことの意味が呑みこめた。ここでは芝居が進行している。そしてそのなかに、サタースウェイト氏の役が――重要な役があるのだ。きっかけをのがさず、言うべき台詞を言うように気をつけねばならない。
フィリップ・イーストニーの向かい側に坐ったとき、サタースウェイト氏は、避けがたいことを成し遂げるのだという意欲に燃えていた。会話のきっかけをつくるのは造作もないことだった。イーストニーは話がしたくてうずうずしているようだったし、サタースウェイト氏はいつものように、励まし上手、聞き上手だった。彼らは戦争のこと、爆弾のこと、毒ガスのことを話しあった。とくに毒ガスのことについては、イーストニーは一家言を持っており、戦争ちゅうの大部分を、それの製造に従事して過ごしたからだと説明した。サタースウェイト氏はますます興味をそそられた。
イーストニーによると、まだ一度も使われたことのないある種の毒ガスがあるという。使われる前に休戦になってしまったのだ。それには多大の効果が期待されていた。一息吸っただけで命にかかわるほどだ。話しているうちにしだいに熱がはいり、彼は活気づいてきた。
糸口がほぐれたと見たところで、サタースウェイト氏はめだたぬように話題を音楽に向けていった。イーストニーの痩せた顔が輝いた。彼は音楽愛好家らしい情熱と、多弁さをもって話しだした。彼らはヨアシュビンについて論じあい、青年の口調はいよいよ熱を帯びてきた。彼もサタースウェイト氏も、この世のなかに、真にすばらしいテノールの声をしのぐものは存在しない、ということで意見が一致した。イーストニーは少年時代にカルーソーの歌を聞いたことがあり、いまだにそれを忘れられないと話した。
「彼がワイングラスを前に置いて歌うと、グラスが割れたという話をご存じですか?」と、彼は熱っぽくたずねた。
「それは伝説だとばかり思っていましたがね」サタースウェイト氏はほほえみながら答えた。
「いや、絶対の真実ですよ。ぼくはそう信じます。ありえないことじゃないんです、それは。共鳴の問題ですからね」
イーストニーはこまかい専門的な説明を始めた。頬が上気し、目が輝いた。その話題にすっかり熱中しているようだった。彼が自分の話していることを、完全に把握しているらしいのをサタースウェイト氏は認めた。サタースウェイト氏の相手にしているのは、特殊な頭脳――おそらくは天才的とも言っていい頭脳を持った男なのだ。才気に満ち、気まぐれで、不安定――まだいまのところは、その才気をどこへ向けてやったらいいのか自分でもつかみかねている。が、まちがいなく天才ではある。
そしてサタースウェイト氏は、チャールズ・バーンズのことを考え、バーンズを選んだジリアン・ウェストの女心を忖度《そんたく》しかねた。
ふとわれにかえって、時間がすっかり遅くなっているのに気づいたサタースウェイト氏は、驚いて給仕を呼び、勘定を頼んだ。イーストニーはちょっときまりわるそうな顔をした。
「すみません――ついしゃべりすぎちゃって」と、彼は言った。「でも今夜、あなたとお近づきになれたのは幸運な偶然でしたよ。ぼく――今夜はだれかと話したくてたまらなかったんです」
彼は奇妙な軽い笑い声をたてて言葉を切った。その目はいまだに、あるおさえた興奮のためにぎらぎらしていた。しかもそれでいて、彼のようすにはなにか悲劇的なものがただよっているのだ。
「いや、なに、とても愉快でしたよ」サタースウェイト氏は答えた。「きみとお話ししたことは、わたしにとっても非常におもしろく、得るところもすくなくなかった」
それから彼は、いつもの丁重な、いくらか滑稽なところのある会釈をして、レストランを出た。夜は暖かく、彼はゆっくりと通りを歩いてゆきながら、ひどく奇妙な幻想にとらわれた。自分がひとりではないという感じ――だれかがそばを歩いているという感じ。それは錯覚にすぎないと自分に言い聞かせようとしてみたが、むだだった。それはしつこくつきまとってきた。だれかがそばを歩いている。その暗い、人気のない通りを、だれか目に見えぬ人物が。いったいなんの仕業なのだろう――こんなにもはっきりと、彼の心にクィン氏の姿を描きだしてみせるのは? 自分のそばをクィン氏が歩いている――たしかにそんな感じがする。だがそれでいて、あたりを見まわしてたしかめるまでもなく、それはありえない、自分はひとりきりだということがわかっているのだ。
しかし、クィン氏のことは頭にこびりついて離れなかった。そしてそれとともに、あるべつのものが――一種の危機感、焦燥、災厄が迫っているという重苦しい感じ。なにか彼のなさねばならぬことがある――それも早急に。なにかひどく不吉なことが起ころうとしていて、それを防げるかどうかは彼の働きいかんにかかっているのだ。
その予感は非常に強かったので、サタースウェイト氏はそれと戦おうとするのをあきらめた。かわりに彼は目をとじて、クィン氏の面影をより近くへひきよせようとした。いまここでクィン氏にたずねてみることさえできたら――だが、その考えが頭にひらめいたときには、すでにその期待が誤りであることがわかっていた。クィン氏になにかをたずねて、むくいられたことはけっしてないのだ。「あやつりの糸は、すべてあなたが握っているのですよ」――こんな返事がかえってくるのがせきのやまだろう。
糸。糸とはなんの? サタースウェイト氏は、自分の感情および印象を注意ぶかく分析してみた。現在のこの危険の予感。はて、だれが危険にさらされているのだろう?
ふいにある情景がまざまざと眼前に浮かんできた。ジリアン・ウェストがひとり自室に坐って、ラジオを聞いている図だ。
サタースウェイト氏は、ちょうど通りかかった新聞少年に小銭をほうると、新聞を一部ひったくった。あわただしくページをくって、ロンドン放送の番組欄を捜す。ヨアシュビンが今夜歌うことになっているのが目にとまった。演目は、まず歌劇『ファウスト』から、『サルウェ・ディモラ』、そのあとお得意の民謡から、『羊飼いの歌』『魚の歌』『小鹿』など。
サタースウェイト氏は新聞をたたんだ。ジリアン・ウェストがラジオを聞いていることを知っているためか、いっそうあざやかに彼女の姿が目に浮かんできた。たったひとり自室にこもって――
奇妙な要求だ――あのフィリップ・イーストニーの要求は、まったくあの男らしくない。そう、まったくだ。あのイーストニーには、そんな感傷癖はないはずだ。あの男は激情的な男、おそらくは危険な男だ――
待てよ――ふたたび思考にぐいとブレーキがかかった。危険な男――こいつはなにかありそうだ。『糸はぜんぶあなたが握っているのですよ』今夜のあのフィリップ・イーストニーとの出会い――なにかへんだ。幸運な偶然、そうイーストニーは言った。偶然だったのだろうか、ほんとうに? それとも、今夜一度ならずサタースウェイト氏の意識した、あのたがいにからみあって織りなされたパターンの一部だったのでは?
彼はふりかえって考えてみた。『なにか』がイーストニーの話したことのなかにあるはずだ。なにかの手がかりが。たしかにそうだ。でなければ、こんなにも奇妙な、切迫した感じがするはずがない。なにをあの男は話していただろう? 歌のこと、戦争ちゅうの仕事のこと、カルーソーのこと。
カルーソー――サタースウェイト氏の思考はとつぜん停止した。ヨアシュビンの声はカルーソーの声に酷似している。ジリアンはいまごろそれを聞いているだろう。それが力強く、迫真的に響きわたり、部屋じゅうに反響して、置いてあるグラスや窓ガラスが鳴りだす――
サタースウェイト氏は息をつめた。グラスが鳴りだす! カルーソーがワイングラスの前で歌うと、そのグラスがこわれたという。ヨアシュビンがロンドン放送のスタジオで歌うと、一マイル離れたところで、グラスが鳴り、やがてこわれる――ワイングラスではない。薄い、緑色のガラスの、脚つきの大杯。そのふちから、ガラスでできたシャボン玉が落ちる――たぶんからではないはずのシャボン玉が……。
この瞬間に、サタースウェイト氏は、通行人の目から見れば、ふいに気が狂ったとしか思われない行動をとった。いま一度新聞を破れんばかりの勢いでひらくと、ラジオの番組欄を一瞥し、静かな街路を死にもの狂いに走りだしたのだ。通りのはずれで、ゆっくり走ってくるタクシーを見つけた彼は、それにとびのるなり行く先を告げ、ついでに、生死にかかわる問題だ、急いでくれと怒鳴った。運転手は彼のようすを見て、頭はおかしいらしいが金持ちらしいと見てとり、せいいっぱいその要求にこたえる努力をした。
サタースウェイト氏は座席の背にもたれた。頭のなかは、さまざまな断片的な想念でいっぱいだった。学生時代に習ったうろ覚えの科学知識、今夜イーストニーの使った語句。共鳴――自然周期――もしもある力の周期が自然周期と一致すれば――たしか、吊り橋に関した例があった――兵隊が吊り橋の上を行進する。そして彼らの歩調が橋の周期と一致すると……イーストニーはその問題を研究していた。イーストニーは知っている。そしてイーストニーは天才なのだ。
ヨアシュビンが放送するのは十時四十五分。ちょうどいまだ。そう。しかし、最初は『ファウスト』からだから心配ない。問題は『羊飼いの歌』だ。あれは繰返しのところで高く叫ぶような声を出す。その声がおそらく――おそらく――なにをする?
ふたたびさまざまな想念が万華鏡のように回転しはじめた。楽音、倍音、半音。こういったことに彼はあまり詳しくない。しかし、イーストニーは詳しい。ああ神よ、どうかまにあいますように!
タクシーが止まった。サタースウェイト氏はひらりととびおりると、若い運動選手顔負けの勢いで、息もつがず石の階段を三階まで駆けあがった。部屋の扉はわずかにひらいていた。彼がそれを押しあけると、高らかなテノールの歌声が彼を迎えた。『羊飼いの歌』の歌詞は、これほどとっぴでない状況のもとで、彼が何度も聞いてよく覚えているものだった。
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見よ羊飼いよ、おまえの馬のなびくたてがみを――
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しめた、まにあったぞ。彼は居間の扉を押しあけた。ジリアンは暖炉のそばの背の高い椅子に坐っていた。
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バリア・ミスチャの娘がきょう嫁にゆく
その婚礼の場ヘ急がにゃならぬ――
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彼女はきっと、彼が気が狂ったと思ったにちがいない。彼はうむをいわさず彼女の腕をひっつかむと、なにごとかわけのわからぬことを叫びたてながら、なかば押し、なかばひきずるようにして、階段の踊り場までひっぱっていった。
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婚礼の場へ急がにゃならぬ――
やっほう!
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すばらしい高音、喉が張り裂けんばかりの力強い声、ずしりと腹に響く声、どんな歌手でも誇りとするだろう声量。そしてその声にまじって、もうひとつべつの音――ガラスの割れるかすかなちゃりんという音。
野良猫が一匹、二人のそばを駆けぬけて、ひらいたままの戸口から部屋にとびこんだ。ジリアンが追おうとしたが、サタースウェイト氏は支離滅裂な言葉を口走りながら、彼女を抱きとめた。
「いや、いかん――命にかかわるんだ。においもない。だから危険を感知することもできない。ほんの一吸いで、すべては終わりだ。どんなに危険か、だれも知らない。いままで使われたどんなものともちがうんだ」
彼がくりかえしているのは、さいぜん夕食の席でフィリップ・イーストニーの言った言葉だった。
ジリアンはなにがなんだかわからず、ただまじまじと彼を見つめるばかりだった。
フィリップ・イーストニーは時計をとりだし、時刻をたしかめた。ちょうど十一時半。すでに四十五分近くも、彼はテムズ北岸の河岸通りをいったりきたりしていた。彼はしばし河面を見わたし、それから思いきったように向きを変えた――とたんに鼻先にあらわれたのは、だれあろう、夕食のとき、テーブルでいっしょになった小男の顔だった。
「こりゃ妙だ」そう言ってイーストニーは笑った。「どうやら今晩は、あなたと鉢合わせばかりする運命らしい」
「もしきみがそれを運命と呼ぶならね」と、サタースウェイト氏は言った。
フィリップ・イーストニーは一瞬けわしい目で相手を見なおしたが、すぐにその表情を変えた。
「というと?」と、彼は静かに言った。
サタースウェイト氏は単刀直入に言った。「わたしはミス・ウェストのアパートからきたところだ」
「ほう?」
前とおなじ声、おなじ気味の悪いほど静かな語調だ。
「われわれは――死んだ猫を部屋から連れだした」
ちょっと沈黙があった。それからイーストニーは言った。「だれだ、あんたは?」
サタースウェイト氏は答えた。そのまましばらく話しつづけて、事件のいきさつを一気に物語った。
「だからおわかりだろう――わたしはまにあったというわけだ」そう彼は話をしめくくると、ちょっと間を置いてから、静かにつけくわえた。「で、なにか――言うことはないかね?」
彼はなんらかの反応を予期していた。感情の爆発、気ちがいじみた弁解――なにかを。だが、なんの反応もなかった。
「いいや」フィリップ・イーストニーは落ち着きはらって答えると、くるっと踵をかえして、そのまま歩み去った。
彼の後ろ姿が闇に呑まれてしまうまで、サタースウェイト氏は見送っていた。われにもなく、イーストニーにたいして不思議な親近感を感じた。芸術家が他の芸術家にたいしていだく感情、あるいは、感傷家がほんとうの恋を知るものにたいして、凡人が天才にたいしていだく感情、とでも言ったらいいだろうか。
ややあって、ようやくはっとわれにかえった彼は、イーストニーの去ったのとおなじ方角へ歩きだした。霧が出てきた。まもなく彼はひとりの警官に出あった。警官はうさんくさそうに彼をながめてたずねた。
「たったいま、ぼちゃんという水の音を聞きませんでしたか?」
「いいや」サタースウェイト氏は答えた。
警官は河面をすかしみた。
「また例の自殺だろう、きっと」彼はうんざりしたようにつぶやいた。「よくここらでは自殺がありましてね」
「きっとそれぞれに理由があるんだろうよ」サタースウェイト氏は言った。
「金ですよ、たいがいはね」と、警官は言った。「ときにそれが女のこともある」彼は歩きだそうとして、つけたした。「必ずしも当人たちの罪じゃないんでしょうがね――女のなかには、いろいろ厄介事の種をまきちらすのがいますからね」
「そう、なかにはね」と、サタースウェイト氏は穏やかに相槌を打った。
警官が立ち去ると、彼はたちこめてくる霧のなかで河岸のベンチに腰をおろした。そうしてトロイのヘレンのことを考え、もしや彼女は、そのすばらしい美貌のために祝福されたにせよ、また呪われたにせよ、じつはただの善良な、平凡な女ではなかったかと思うのだった。
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●私立探偵 パーカー・パイン編
明けの明星消失事件
アイザック・ポインツ氏は口から葉巻をとり、いかにも満足げに言った。
「うん、これはいいところだ」
こうして、いわば自分の承認の印をダートマスの港に押してしまったところで、彼はふたたび葉巻を口にもどし、周囲を見まわした。その鷹揚《おうよう》な態度は、おのれ自身と、おのれの風采、環境、人生全般について、満ち足りた感情をいだいている男のそれだった。
その満足感の第一のもの、アイザック・ポインツ氏なる人物そのものについて言うと、年は五十八、身体強健で、わずかに美食家の傾向はあるが、まずは健康である。けっして頑丈というのではないが、つねに元気いっぱいに見え、現在着こんでいるヨット用の服は、肥満気味の中年男の彼には、こころもち窮屈そうな感じを与える。服装にはことのほか気を配っており、ズボンの折り目やボタンひとつにいたるまで、神経がゆきとどいている。髪は黒く、膚浅黒く、どこか東洋ふうのおもざしが、ぴんとした船員帽のひさしの下からのぞいている。また、彼の環境について言うと、これは現在の連れを意味すると解釈してもよいだろうが、まずは共同経営者のレオ・スタイン氏、つぎにジョージ・マロウェイ卿夫妻、アメリカの実業家サミュエル・レザーン氏と、その愛娘――これはまだ女学生で、イーヴと呼ばれている――それに、ラスティントン夫人と、エヴァン・ルウェリンという青年。
一行はついいましがた、ポインツ氏のヨット、メリメイド号から上陸したところだった。午前ちゅうはヨットレースを見物し、そのあと、しばらく港祭りの雰囲気を楽しむために、陸へあがったのだ。やしの実投げ、でぶ女や人間蜘蛛の見世物、回転木馬など、さまざまな遊興施設が軒を並べている。これらをだれよりも楽しんでいるのがイーヴ・レザーンであることは、疑う余地がなかった。ポインツ氏がそろそろロイヤル・ジョージ・ホテルへひきあげて、食事にしようと言いだしたとき、ただひとり反対の声をあげたのが彼女だったことからも、それは明白だった。
「あら、ポインツのおじさま――あたし、幌馬車に乗った本物のジプシーに、運勢を占ってもらおうと楽しみにしてたのに」
ポインツ氏は、その本物のジプシーとやらの正体に疑惑を持ってはいたが、ここではこの娘のわがままに一歩譲らざるを得なかった。
彼女の父親が弁解がましく言った。「娘はこういう祭りとなると夢中でしてな。しかし、早くホテルへおいでになりたいんだったら、どうかこいつにはおかまいなく」
「いや、時間はたっぷりありますよ」ポインツ氏は愛想よく言った。「お嬢さんには気のすむまで楽しませてあげましょう。われわれはそれまで投げ矢でもするとするかね、レオ?」
投げ矢の小屋では、木戸番が鼻にかかった声で歌うように言っていた。「二十五点以上とったかたには、賞品をさしあげますよ」
ポインツ氏は言った。「どうだね、レオ、総得点で勝ったほうが五ポンドいただきというのは?」
「よしきた」と、スタインがきびきびした口調で応じた。
二人の男は、すぐさま勝負に熱中しだした。
それを見てマロウェイ卿夫人が、エヴァン・ルウェリンの耳もとでささやいた。
「子供なのはイーヴだけじゃないらしいわね」
ルウェリンは微笑しつつうなずいたが、そのようすには、どこか放心したようなところがあった。
その日一日、彼は心ここにあらずといったふぜいでふるまっていた。一度か二度、話しかけられて、とんでもない的はずれな返事をしたこともある。
パメラ・マロウェイは、つと彼のそばを離れると、夫に話しかけた。
「あの若いひと、なにかに気をとられているみたいね」
「なにかか、でなければだれかにね」と、ジョージ卿はささやきかえした。
そして彼の視線は、ちらりとジャネット・ラスティントンのほうへ向けられた。
マロウェイ卿夫人はちょっと眉をひそめた。彼女は背のすらりとした、凝った身なりをした女性だった。耳につけた真っ赤な珊瑚の玉に合わせて、爪を真紅に染め、黒い目は油断のなさそうな光を放っている。夫のジョージ卿は、ごく無造作に、『元気いっぱいのイギリス上流紳士』といった役どころをきどっているが、それでいて明るいブルーの目には、夫人のそれとおなじ油断のなさそうな光が宿っている。
アイザック・ポインツとレオ・スタインは、ハットン・ガーデンに店を持つ老舗のダイヤモンド商だった。マロウェイ卿夫妻は、いわば、彼らとは別世界の人間である――つまり、アンティーブかジュアーン・レ・パンに家を持ち、サン・ジャン・ド・リュッツでゴルフをし、冬にはマデイラ諸島で泳ぐ、といった世界だ。
外から見たかぎりでは、この夫妻こそ、『労せず、紡がざる百合』の典型のように見える。だが、おそらくそれは完全な真実ではあるまい。彼らも彼らなりの方法で、労し、かつ紡いでいるにちがいないのだ。
「ああ、あの娘が帰ってきましたよ」と、エヴァン・ルウェリンがラスティントン夫人に言った。
ルウェリンは黒髪の青年だった。かすかではあるが、どこかに飢えた狼のような感じをただよわせており、ある種の女性には、それがたまらない魅力になっている。
はたしてラスティントン夫人の目にもそのようにうつっているかどうかは、いちがいには断定しかねた。もともと、心のうちを軽々しく外にあらわすような女性ではないのだ。ごく若いうちに結婚し、一年とたたぬうちに破鏡の悲運に見舞われた。それ以来、ジャネット・ラスティントンがだれかを、あるいはなにかをどう評価しているかは、ほとんどうかがい知ることができなくなった。彼女の態度はいつも変わらない――魅力的で礼儀正しくはあるが、他人にはまったく超然としているのだ。
イーヴ・レザーンが躍るような足どりで近づいてきた。くせのない金髪が肩の上で揺れている。年は十五歳、世間なれのしていないほんの小娘だが、全身から活気が溢れている。
近づいてきながら、彼女は息をはずませて言った。「あたしね、十七までに結婚するんですって。それも、すごいお金持ちとよ。子供は六人生まれて、火曜日と木曜日があたしの幸運の日で、いつもグリーンかブルーの服を着ていなくちゃいけないの。幸運の宝石はエメラルドで――」
「わかったわかった」彼女の父親がさえぎった。「それで満足しただろう? そろそろ行こうか」
レザーン氏は長身、やはり金髪で、胃弱らしい顔に、どこかしら憂鬱そうな表情を浮かべた男だった。
ポインツ氏とスタイン氏が、投げ矢をやめてひきかえしてきた。ポインツ氏は満足げにくつくつ笑っているが、スタイン氏のほうはむっつり顔で、「あんなものは、しょせん運しだいなんだ」とつぶやいている。
ポインツ氏が上機嫌にぽんとポケットをたたいた。
「これでまんまときみから五ポンドせしめたぞ。運なんかじゃないさ、きみ――技術だよ、技術。死んだ親父も投げ矢の名人だったからね。やあ、みなさんおそろいですな。じゃあホテルへもどりましょうか。運勢は見てもらいましたかな、イーヴ? 髪黒く、色浅黒い男に気をつけろと言われたでしょう?」
「いいえ、髪の黒い女性に気をつけろって」イーヴは答えた。「やぶにらみの女で、もたもたしてるとあたしの強敵になるんだそうよ。でもね、十七までには、あたし、結婚できるんですって……」
彼女は大はしゃぎで駆けだした。一同もそろってロイヤル・ジョージ・ホテルの方角へ向かった。
食事はあらかじめポインツ氏の配慮で注文してあり、ウェイターがうやうやしく一行を出迎えて、二階の特別室へ案内した。そこは個室になっていて、円卓にすでに用意がととのえられていた。港の広場に面した大きな張出し窓があけてあるので、そこから祭りの騒音が響いてき、おまけに回転木馬の小屋が三つもあって、それぞれがべつの音楽を拡声器から流している。「窓をしめよう。さもないと話もできない」ポインツ氏が不機嫌に言って、自分から窓をしめにいった。
一同がテーブルをかこんで席に着くと、ポインツ氏は満面に笑みをたたえて客たちを見まわした。自分が彼らをじゅうぶんにもてなしているという意識が彼にはあり、そしてまた、人をもてなすのが彼のなによりの喜びでもあった。彼の視線が順ぐりに客のうえにとまった。まずマロウェイ卿夫人――りっぱな上流夫人だ。むろん、完全な本物とは言えない。それはよくわかっている――彼が一生を通じて、『|社交界の粋《クレム・ド・ラ・クレム》』と呼びならわしてきた人種は、マロウェイ夫妻とはほど遠い存在だということはじゅうぶん承知しているのだ。しかし、そう呼ばれるほどの一流人士では、向こうがポインツ氏を相手にしてくれない。ともあれ、マロウェイ卿夫人はすばらしく粋な美人だ――だから、たまにブリッジでいかさまをやることがあっても、大目に見ることにしている。だが、ジョージ卿にはそんな真似はさせない。見るからにこすからそうな目をして、金儲けとなると、どんなことでもやりかねない男だ。しかし、このアイザック・ポインツが相手の場合は、そうはいかない。そうはいかないように、こっちでちゃんと手を打ってあるのだ。
レザーンのやつは悪い男ではない。アメリカ人の通弊として、長談義が好きで、しゃべりだしたらきりがないのが難点といえば難点だが。そのうえ、こまかいことを根掘り葉掘り知りたがるという厄介な癖もある。やれダートマスの人口はどれほどか、とか、英国海軍兵学校はいつ創設されたか、とか、招待主を歩く旅行案内書と心得ているふしがある。イーヴのほうは、陽気で気だてのいい娘だ――この娘をからかっていると、けっこうおもしろい。声は|くいな《ヽヽヽ》みたいだが、なかなか機知に富んでいて、利発な娘だ。
つぎはルウェリン青年だが――すこし静かすぎる。なにか悩みでもあるようだ。たぶん金に困っているのだろう。ああいう物書きという連中には珍しいことじゃない。それともうひとつ、ジャネット・ラスティントンに心をひかれているようでもある。教養のあるしっかりした女性で、器量もいいし、頭もいい。だがそれでいて、彼女の書く文章に書かれるような意見を、他人に押しつけることはない。書くものの内容はきわめて高踏的だが、それを彼女の口から聞かされるおそれはないのだ。
そしてもうひとり、古なじみのレオ。あいつも年ごとに腹が出て、みっともなくなってきた。このとき、じつはレオのほうでも、共同経営者にたいしておなじ感想をいだいていたところなのだが、知らぬが仏のポインツ氏、上機嫌にレザーン氏にむかい、いわしの本場はコーンウォールではなくデヴォンなのだと訂正したり、食事を楽しむ心がまえをしたりしていた。
湯気のたつ|さば《ヽヽ》が各自の前に置かれ、ウェイターたちがひきさがったところで、イーヴが言った。
「ねえ、ポインツのおじさま」
「なんですか、お嬢さん?」
「いまもあの大きなダイヤモンド、持っていらっしゃる? ゆうべ見せてくれて、いつも膚身はなさず持っているとおっしゃった、あれよ」
ポインツ氏はくっくと笑った。
「持っていますよ。わたしのマスコットですからね。片時もはなしたことはありません」
「あぶない話ね。さっきの人ごみのなかで、よく盗まれなかったものだわ」
「盗まれるようなへまはしませんよ。用心に用心を重ねていますからな」
「でも、万一《ヽヽ》ってこともあるわ」イーヴは言い張った。「ギャングがいるのはアメリカだけじゃないでしょう? イギリスだってあぶないって聞いたわよ」
「それでも、『明けの明星』だけはとらせはしませんよ」ポインツ氏は言った。「まず第一に、特別仕立ての内ポケットに入れてありますからね。それにどっちみち――わたしもこの道では年期を入れてますから、そこにぬかりはありません。『明けの明星』だけはだれにもとらせるものですか」
イーヴは笑った。
「ふ、ふ、ふ――あたしなら盗んでみせるわ!」
「そうはいきませんよ」ポインツ氏は目をきらめかせて相手を見かえした。
「いいえ、やれるわ。ゆうべ、寝床のなかで考えてみたの――おじさまがあれをみんなにまわして、見せてくださったあとで。すごくうまい方法を考えたのよ――あれならぜったい盗みだせるわ」
「ほう、どんな方法です?」
イーヴは勢いよく金髪を振って、首をいっぽうにかしげた。「教えられませーんだ――いまはね。なにか賭けるっていうんならべつだけど」
ポインツ氏の胸に、若やいだ気分が湧きあがった。
「手袋半ダースじゃどうです」彼は言った。
「手袋ですって?」イーヴはうんざりしたように叫んだ。「手袋なんかほしくないわ」
「ではと――ナイロン・ストッキングならほしいですか?」
「あたりまえじゃない! ちょうど今朝、いちばん上等のが伝線しちゃったところなのよ」
「よろしい。じゃきまりましたな。最上のナイロン・ストッキングを半ダースと――」
「わあすてき」イーヴはうっとりして言った。「で、おじさまはなにがほしくって?」
「さよう、タバコを入れる袋でもいただきましょうか」
「いいわ、これで話はきまったわね。といっても、タバコ入れがおじさまの手にはいるってわけじゃないけど。じゃあね、こうしてちょうだい。ゆうべのように、あれをみんなにまわすの――」
このとき、ウェイターが二人、皿をさげにきたので、彼女は口をつぐんだ。つぎのコースであるチキンにとりかかりながら、ポインツ氏が言った。
「お断わりしておきますがね、お嬢さん。もしこれがほんとうの盗難事件になったら、警察を呼んで、身体検査をしてもらうことになりますよ」
「かまわないわ、ちっとも。でもね、警察を呼ぶなんて、そんな深刻なことになることはなくてよ。レディー・マロウェイかラスティントン夫人にお願いして、気のすむまで捜してもらえばいいんですもの」
「なるほど、ではそうしましょう」ポインツ氏は言った。「それにしてもお嬢さん、あんたは将来、一流の宝石泥棒にでもなるおつもりですかな?」
「そうね、それを商売にするのも悪くはないわね――もしほんとうに割りのあう商売なら」
「『明けの明星』を盗みだせば、ひきあいますよ。カットしなおしても、三万ポンドはくだりませんから」
「まあ!」イーヴは感じいったように言った。「ドルになおしたら、いくらになるかしら」
マロウェイ卿夫人も嘆声を発した。
「そんな高価な宝石を持ちあるいていらっしゃるんですの? 三万ポンドもするものを?」非難がましくそう言ったとき、彼女の黒いマスカラをつけたまつげがふるえた。
ラスティントン夫人だけは穏やかに言った。「たいへんな金額ですわね……お金だけじゃなく、宝石そのものの魅力もありますし……きれいな石ですわ」
「ただの炭素のかたまりにすぎないんですがね」と、エヴァン・ルウェリンが口をはさんだ。
「まあ、よく聞かされることだが、宝石泥棒のいちばん苦しむのは、故買者を見つけることらしいね」と、ジョージ卿が言った。「なんとか見つけても、うまい汁はそいつに吸われてしまう――え、なんだね、お嬢さん?」
「始めましょうって言ってるのよ」イーヴは興奮して言った。「さあポインツのおじさま、ゆうべのようにダイヤモンドを出して、あのとき言ったのとおなじことを言うのよ」
レザーン氏が持ち前の低い陰気な声で言った。
「困った娘で、申し訳ありません。ちょっと興奮しているようですし――」
「いいのよ。パパは黙ってて」イーヴは言った。「さあ、お願い、ポインツのおじさま」
ほほえみながら、ポインツ氏は内ぶところをさぐって、なにかをとりだした。彼の手のひらにのったそれは、光を受けて燦然ときらめいた。
ダイヤモンド……。
いくらかぎごちなく、ポインツ氏はゆうべメリメイド号で言った言葉を、思いだせるかぎり正確にくりかえした。
「たぶんみなさんは、この品をごらんになりたいと思います。ことのほか美しい宝石でして、わたしはこれを『明けの明星』と呼んで、一種のマスコットとし、膚身はなさず持ちあるいています。いかがです、ごらんになりますか?」
彼はそれをマロウェイ卿夫人に渡した。夫人はそれを受け取って、その美しさに嘆声をもらし、それからそれをレザーン氏にまわした。レザーン氏は、「美しい――みごとなものだ」と、どこかわざとらしい態度で言うと、それをルウェリンに渡した。
そこへウェイターたちがはいってきたので、宝石をまわすことはいったん中断され、彼らが去ったあとで、あらためてエヴァンが、「非常にみごとな品ですね」と言いながら、それをレオに渡した。受け取ったレオは、なにも言わずに、さっさとイーヴにまわした。
「なんてすてきな宝石でしょう」
イーヴはきどったかん高い声をあげたが、つぎの瞬間、宝石を手からとりおとし、うろたえた叫び声を発した。
「あら! 落としちゃったわ!」
彼女は椅子をうしろに押しやると、かがみこんでテーブルの下をさぐった。彼女の右隣りの席にいたジョージ卿も、テーブルの下をのぞきこんだ。その騒ぎで、グラスがひとつ、テーブルからころげ落ちた。スタイン、ルウェリン、ラスティントン夫人も、こうなっては知らぬ顔をしているわけにはいかず、最後にはレディー・マロウェイも捜索に加わった。
ただひとりポインツ氏だけが、騒ぎに加わろうとせず、椅子に坐ったまま皮肉な笑みを浮かべて、グラスのワインをなめていた。
「困っちゃったわ」と、イーヴがあいかわらずきどったわざとらしい調子で言った。「どこへころがってっちゃったのかしら? どうしましょう! どこにも見あたらないわ」
捜索に手を貸していたものたちも、ひとりまたひとりと立ちあがった。
「きれいに消失したようだよ、ポインツ」と、ジョージ卿がほほえみながら言った。
「うまくやりましたな」ポインツ氏はうなずいて言った。「あんたはたしかに名女優になれますよ、お嬢さん。そこでです、問題は、あんたがそれをどこかに隠したか、それとも身につけているかということですが?」
「じゃあ身体検査をしてごらんなさい」イーヴは芝居がかった身ぶりで言った。
あたりを見まわしたポインツ氏は、部屋の隅にある大きな衝立に目をとめた。
彼はそのほうへあごをしゃくって、つぎに視線をマロウェイ卿夫人とラスティントン夫人に向けた。
「お手数ですが、ご婦人がた――」
「ええ、よろしゅうございますわ」マロウェイ卿夫人は笑顔で応じた。
二人の婦人は立ちあがった。
マロウェイ卿夫人は言った。
「どうかご心配なく、ポインツさん。わたくしたち、手加減せずに調べますから」
三人は衝立のうしろに消えた。
部屋のなかは暑かった。エヴァン・ルウェリンが窓を押しあけた。ちょうど窓の下を新聞売り子が通りかかったので、エヴァンは小銭をほうり、売り子は新聞を投げあげた。
ルウェリンはそれをひろげた。
「ハンガリーの情勢がだいぶ険悪らしい」
「それは地方紙だね?」ジョージ卿がたずねた。「わたしの狙いをつけてた馬が、きょう、ホールドンで出走したはずなんだが――ナッティ・ボーイというんだがね」
「レオ」ポインツ氏が言った。「ドアに鍵をかけてくれ。この一件がかたづくまで、あのこうるさい給仕どもにちょろちょろ出入りされたくないんでね」
「ナッティ・ボーイは勝ちましたよ。配当は三倍です」エヴァンが言った。
「たいしてつかんな」と、ジョージ卿B
「ほとんどがきょうのヨットレースの記事です」エヴァンがさらに紙面に目を走らせながら言った。
三人の女性が衝立の奥から出てきた。
「影も形もありませんわ」ジャネット・ラスティントンが言った。
「請けあってもよろしいですよ――このひとは宝石を身につけてはいません」マロウェイ卿夫人も言葉を添えた。
その言葉にまちがいのないことは、ポインツ氏もすぐにさとった。彼女らの声にはきびしい響きがあり、それが、捜索が徹底的なものだったことを物語っている。
「おい、イーヴ、まさか呑みこんじまったんじゃあるまいな?」レザーン氏がたまりかねたように言った。「そんな真似をしたら、身体をこわしちまうぞ」
「呑みこめば、わたしが気づいたはずです」と、レオ・スタインが静かに言った。「ずっとお嬢さんのようすを見てましたが、口もとには手もあげませんでしたからね」
「あんなごつごつしたもの、呑みこめるわけがないじゃない」イーヴは言って、両手を腰にあてがうと、ポインツ氏をながめた。「さあ、どうなさる、おじさま?」
「そこに立っててください。動くんじゃありませんよ」ポインツ氏は言った。
それから男たちは、女性の手を借りずにテーブルの上のものをかたづけ、それをひっくりかえした。隅々まで入念にあらためてから、ポインツ氏はさらに、イーヴが腰かけていたのと、その両隣りの椅子に注意を向けた。
捜査は完璧に行なわれたが、もとめる品は出てこなかった。他の四人の男も手を貸し、さらに女性たちも加わった。そのあいだイーヴ・レザーンは、衝立に近い壁ぎわに立って、ひとり得意そうに笑っていた。
五分後、ポインツ氏は低くうなりながら身を起こし、浮かぬ顔つきでズボンの塵をはらった。さいぜんまでの勢いはどこかへ消えていた。
「お嬢さん」彼は言った。「負けました、かぶとを脱ぎますよ。あんたはわたしの出あったもっとも手ぎわのいい宝石泥棒だ。お手なみには完全にシャッポを脱ぎます。わたしの見たかぎりでは、この部屋から持ちだされたはずはないし、あんたが身につけていないんなら、これはわたしの負けですな」
「じゃあストッキングはもらえるのね?」イーヴは言った。
「あげますとも、お嬢さん」
「それにしてもイーヴ、いったいどこへ隠してしまったの?」ラスティントン夫人が不思議そうに言った。
イーヴはとびはねるように進みでた。
「いま見せてあげるわ。きっとみんな、くやしがるわよ」
そう言って彼女は、サイド・テーブルのところへ行った。そこには、食卓からどかした品物が雑然と積みあげてあったが、そのなかから彼女は、自分の小さな黒いイヴニング・バッグをとりあげた――
「みんなの目の前にあるのよ。ほら、ここに……」
陽気で得意そうだった彼女の声が、ふいにとぎれた。
「まあ――どうしたのかしら……」
「どうかしたのか、おまえ?」彼女の父親が訊いた。
イーヴはかすれた声で言った。「ないのよ……なくなっちゃったの……」
「なにがどうしたんですって?」ポインツ氏が進みでてたずねた。
イーヴは激しい勢いで彼のほうに向きなおった。
「こうなんです――このあたしのバッグ、留め金のまんなかに大きな模造宝石の飾りがついてるんです。それがゆうべとれちゃって、おじさまからあのダイヤモンドを見せてもらったとき、ちょうどおなじぐらいの大きさだなあって、あたし思ったんです。それで寝ながら考えたんだけど、この模造宝石のはめこんであったあとに、おじさまのダイヤを粘土でくっつけたらどうだろう。そうすればきっと、だれもそれが本物だとは思わないわ――そう思って、今夜、そのとおりにやってみたんです。はじめそれを床に落として、バッグを手に持ったままテーブルの下を捜す。そして、用意しといた粘土でそれを留め金の穴にくっつけたら、バッグをテーブルの上に置いて、ダイヤを捜しつづけるようなふりをする。ほら、ポオの『盗まれた手紙』とおんなじよ――ご存じでしょう――最初から最後までみんなの目の前にあるのに、見たところは、ただの模造ダイヤにしか見えない。たしかにうまい考えだったと思うわ――みんな、だれも気がつかなかったもの」
「さあ、どうかな」スタイン氏が言った。
「え、なにか言ったかね?」
ポインツ氏がバッグをとりあげると、裏表をあらためた。たしかに留め金の中心に穴があり、そこに粘土のかすがこびりついている。彼はのろのろと言った。「落ちたのかもしれん。もう一度よく捜してみましょう」
あらためて捜索が行なわれたが、今度は奇妙にみんな黙りこくったままだった。緊張感が部屋じゅうにみなぎった。
結局、全員がつぎつぎと立ちあがって、つったったままたがいに顔を見あわせた。
「この部屋にはないな」スタインが言った。
「そして、この部屋から出たものはひとりもいない」ジョージ卿が意味ありげに言った。
ちょっと沈黙があって、それからイーヴがわっと泣きだした。
父親が彼女の肩をたたいて、「さあさあ、泣くんじゃない」と、無器用に慰めた。
ジョージ卿がレオ・スタインに向きなおった。
「スタイン君、さっききみ、なにかつぶやいたな? わたしが聞きかえしたが、きみは答えなかった。だがじつは、きみの言ったことはだいたい聞こえたんだ。イーヴ嬢が、われわれのだれもダイヤモンドのありかに気がつかなかったと言ったのにたいして、きみは、『さあ、どうかな』とつぶやいた。してみると、どうやらわれわれのうちひとりは、それに気がついておったらしいということになる。そしてその人間は、現在、この部屋にいる。したがって、このさいわれわれのとるべき唯一の公平かつ名誉ある行動は、各自がすすんで身体検査を受けることを申しでることだ。ダイヤモンドはこの部屋から出てはおらんのだからな」
いったんジョージ卿がよき時代の英国紳士を演じる気になれば、彼にかなうものはいない。彼の声は、誠実さと憤りをこめてりんりんと響きわたった。
「不愉快なことになりましたな、いささか」と、ポインツ氏が迷惑そうに言った。
「みんなあたしのせいだわ」イーヴが泣きじゃくりながら言った。「こんなつもりじゃなかったのに――」
「元気を出しなさい、お嬢さん」スタイン氏がやさしく言った。「だれもあんたを責めているわけじゃないんだから」
レザーン氏がもったいぶった、気障《きざ》とも聞こえる口調で言った。
「いや、まったく。ジョージ卿のご提案はもっともだと思いますな。わたしは全面的に賛成です」
「ぼくも賛成です」エヴァン・ルウェリンが言った。
ラスティントン夫人がマロウェイ卿夫人を見ると、これも軽くうなずいて、賛意を示した。二人の女性は衝立の向こうへ消え、イーヴも泣きながらあとにしたがった。
ウェイターがドアをノックしたが、いまは入れられないと言われてひきさがった。
五分後、八人の男女は、信じられぬといった面持ちで顔を見あわせていた。
『明けの明星』は、完全に消失していた……
パーカー・パイン氏は思案ぶかげなまなざしで、向かいあった色の浅黒い青年の、落ち着かぬ表情をながめた。
「むろんあなたはウェールズのご出身でしょうな、ルウェリンさん?」と、彼は言った。
「それがこの事件となにか関係があるのですか?」
パーカー・パイン氏は、大きな、手入れのゆきとどいた手を振った。
「いや、ありません。ただわたしは、人間の情緒的反応を、いくつかの人種的特徴に照らして分類することに興味を持っているのですよ。それだけのことです。では、当面の問題にもどりましょうか」
「率直に言うと、なぜあなたのところへくる気になったのか、自分でもわからないんです」と、エヴァン・ルウェリンは言った。話しながら、神経質に手を動かし、浅黒い顔には憔悴の色があった。パーカー・パイン氏のほうを直視しようともしないのは、相手のさぐるような目が、彼の落ち着きを失わせるからだろうか。「どうしてここへくる気になったのかわかりません」と、彼はくりかえした。「だからといって、どこに行くあてもないし、相談にのってくれるものもない。腹が立つのは、この無力感ですよ――こんなはめになっているのに、どうすることもできないという……そんなとき、あなたの出された広告が目につきました。それに、以前、ある友達があなたのことを言っていたのも思いだしました。たしか、難事件をみごとに解決なさったとか……それで――まあ――こうしてお訪ねしたわけです。ばかな考えだったかもしれません。現在のぼくの苦境は、だれがどう手を尽くそうと、打開できそうもありませんからね」
「ばかだなんてとんでもない」パーカー・パイン氏は言った。「わたしこそ、ご相談を受けるのに最適の人間ですよ。いわば、不幸を扱う専門家ですからね。この事件があなたにひとかたならぬ苦痛を与えていることは、容易に想像がつきます。で、事件がいまお話しくださったとおりのものであることに、まちがいはありませんな?」
「なにも言いもらしたことはないつもりです。ポインツがダイヤをとりだして、一同に見せました――それをあのアメリカ人のばか娘が、自分のハンドバッグにくっつけた。ところがあとでバッグをあらためてみると、ダイヤは消えていた。だれもそれを隠し持ってはいませんでした――持ち主のポインツ自身、身体検査を受けているんです――自分からそう言いだしたんです。かといって、部屋のなかにも隠せるような場所はなかったことは、誓ったっていい――『それに、部屋を離れたものもひとりもいなかった――』」
「ウェイターはどうですか――出入りしませんでしたか?」パーカー・パイン氏は水を向けた。
ルウェリンは首を横に振った。
「ウェイターが出ていったのは、あの娘がダイヤを落としたと言って、騒ぎだす前です。そしてそのあとは、ポインツがドアに鍵をかけてしまいましたから、出入りできたはずはありません。どう考えても、ぼくらのうちのだれかが持っているはずですよ」
「たしかにそのようですな」パーカー・パイン氏は思案ありげに言った。
「あのいまいましい新聞さえ買わなければ」と、エヴァン・ルウェリンは吐きだすように言った。「だれもが内心、それを考えたにちがいないんだ――それだけが、あの場合、ただひとつ――」
「その点をもう一度詳しく話していただきましょうか」
「いたって単純なことですよ。ぼくは窓をあけて、口笛を吹いて売り子を呼び、銅貨をほうってやった。売り子は新聞を投げあげてよこした。そこですよ――おわかりでしょう? そこに、ダイヤモンドがあの部屋から出ていく唯一のチャンスがあったというわけです。つまり、このぼくが、下の通りで待ち受けている共犯者にほうってやった……」
「それが|唯一の《ヽヽヽ》可能な方法とも言えますまい」パーカー・パイン氏は言った。
「まだほかに方法がありますか?」
「あなたがそれをほうったんじゃないとすると、ほかに方法があったとしか考えられんでしょう」
「そりゃそうですね。なにかもっと、具体的な方法のお心あたりがあるのかと思ってましたが。とにかくぼくとしては、|ぼく《ヽヽ》はそれを投げなかったとしか申しあげられません。もちろん信じていただけるとは思っていませんがね。あなただけじゃなく――だれからも」
「いや、わたしは信じていますよ」と、パーカー・パイン氏は言った。
「信じてくださる? なぜです?」
「あなたが犯罪者タイプじゃないからです」パーカー・パイン氏は言った。「いや、こう言いましょう――宝石を盗むような犯罪者のタイプではないと。むろん、あなただってなんらかの犯罪をおかすことがないとは言いません――もっとも、いまはその問題には立ちいりませんがね。とにかく、あなたがその『明けの明星』を盗むことはないとわたしは見ています」
「ところがほかの連中はみんなそう見ている」と、ルウェリンは苦々しげに言った。
「なるほど」パーカー・パイン氏は言った。
「あのときみんなは、そろって、おかしな目つきでぼくを見た。マロウェイなんか、わざわざ新聞をとりあげ、つづいて窓のほうを見たものです。なにも言いはしませんでしたが、ポインツはすぐにその言わんとするところを察したようでしたよ。ぼくにだって、彼らの考えていることはぴんときた。表だって非難はしませんが、それだけにかえってこっちは身の置きどころがないんです」
パーカー・パイン氏は同情にたえぬというようにうなずいた。
「表だって非難されるよりまだ悪いというわけですな」
「そうです。目下のところは、たんなる疑惑にとどまっているんでしょうが、とにかく、ぼくの身辺をさぐりまわっているやつがいましてね――手続き上の調査と称していますが、なに、ありようは例の近代警察的捜査法とやらの一環ですよ。非常に巧妙で、なにを疑っているのかおくびにも出さない。ただ、ぼくがこれまで金に詰まっていたのが、ここへきてきゅうに金まわりがよくなったことに興味を持ってる、というだけでね」
「ほう――そうなんですか?」
「ええ――競馬で二回ほど穴をあてましてね。ただあいにくなことに、賭け屋を通さず、実際にレース場で馬券を買ってる――したがって、その金が競馬であてたものだという証拠はどこにもないんです。むろん、そうじゃないという反証をあげることもできませんがね――しかしこれは、金の入手先を明かしたくないときに、だれもがたやすく思いつく嘘ですからね」
「同感です。といっても、警察がそれ以上の挙に出るためには、まだまだ多くの証拠を集めなきゃなりますまいがね」
「いや、ぼくは逮捕されることを恐れてはいません。たとえ窃盗罪で起訴されようと、潔白なものは潔白です。考えようによっては、かえってそのほうがらくかもしれない――自分の置かれている立場がはっきりしますからね。とにかくぼくとしてやりきれないのは、ぼくがあれを盗んだとみんなが思いこんでいることなんです」
「なかでも、とくにあるひとが?」
「どういう意味です?」
「言ってみただけです――深い意味はありません――」またしてもパーカー・パイン氏は、きれいに手入れされた手を振った。「それにしても、とくにあなたにとって気になるひとがいたことはたしかでしょう? ラスティントン夫人、ですかな?」
ルウェリンの浅黒い面が紅潮した。
「どうしてとくに彼女の名を挙げるんです?」
「いや、お隠しになるにはおよびませんよ――あなたにとって、そのひとの意見がたいへん重要な意味を持つ、そういう人物がひとりいることは明らかです。おそらくはご婦人でしょう。では、その場におられたご婦人はだれとだれでしょう? アメリカ生まれのおてんば娘? まさかね。では、マロウェイ卿夫人? しかし彼女の場合は、あなたがそのような離れ業をやってのけたと知ったら、あなたを見なおしこそすれ、さげすみはしないでしょうな。わたしは多少あのご婦人を知っているのです。すると、残るのはラスティントン夫人しかありません」
ルウェリンはややしばらくしてから、言いにくそうに言った。
「あのひとは――いままでずいぶんつらい経験をしてきてるんです。夫に選んだ男が、札つきのごろつきでしてね。それ以来彼女は、すっかりひとを信用しなくなりました。彼女は――もし彼女がぼくのことを――」
それ以上彼はつづけられなかった。
「お気持ちはわかります」パーカー・パイン氏は言った。「事態の重大さも呑みこめました。早急に疑惑を晴らす必要がありますな」
エヴァンはそっけなく笑った。
「言うだけならたやすいことですがね」
「実行することも簡単です」
「そうお思いですか?」
「いかにも――事件そのものもいたって明確です。多くの可能性が除外されますし、したがって解答はしごく単純なものにちがいない。じじつ、わたしの頭のなかには、すでにある種の答がおぼろげに浮かびあがってきていますよ――」
ルウェリンは信じられぬといった面持ちで彼を見つめた。
パーカー・パイン氏はメモ帳を手もとにひきよせると、ペンをとった。
「お手数ですが、その場にいたひとたちの人相風体を、簡単にお話し願えませんか」
「それならもうお話ししたはずですが」
「個人的な特徴を――たとえば髪の色とかそういったことを、お聞かせ願いたいのです」
「しかし、パーカー・パインさん、それが事件となにか関係があるのですか?」
「おおありですよ、あなた、おおいに関係があります。人別による分類やなにかにね」
いまだに半信半疑の面持ちで、エヴァンはヨット旅行の一行の外見的特徴を説明して聞かせた。
パーカー・パイン氏は二つ三つ心覚えを書きとめ、それからメモ帳を押しやって、言った。
「結構です。ついでにお訊きしますが、ワイングラスが割れたとおっしゃいましたかな?」
エヴァンはまたしても目を見はった。
「そのとおりです。テーブルから落ちたところを、だれかに踏まれて、こなごなになりました」
「厄介なものですな、ガラスのかけらというのは」パーカー・パイン氏は言った。「で、どなたのグラスでした、それは?」
「たしかあの娘《こ》の――イーヴのだったと思います」
「なるほど! ――で、その隣りの、グラスのあった側にいたのは?」
「ジョージ・マロウェイ卿です」
「二人のうちどちらがグラスを落としたか、ごらんにはならなかったでしょうな?」
「残念ながら見ていませんでした。それがなにか――?」
「いや、べつに。ついでにうかがってみただけですよ。では――」と、立ちあがって――「きょうはこれで結構です。三日のうちにもう一度ご足労願えませんか? そのときまでには、いっさいをご満足のいくように解決してさしあげられるつもりです」
「冗談をおっしゃってるんじゃありませんか、パーカー・パインさん?」
「仕事のことでは、いっさい冗談は言わないことにしています。依頼人の不信を招くおそれがありますからね。金曜日の十一時半ではいかがでしょう? ではまた、そのときに」
金曜の朝、約束どおりエヴァンはパーカー・パイン氏の事務所を訪れたものの、内心はかなり混乱していた。希望と懐疑とがせめぎあっていたのだ。
パーカー・パイン氏は満面に笑みをたたえて、立ちあがって彼を迎えた。
「やあ、いらっしゃい、ルウェリンさん。おかけください。タバコはいかがです?」
ルウェリンは手をあげてそれを辞退すると、「で、どうなんです?」とたずねた。
「予想以上にうまくいきました」と、パーカー・パイン氏は答えた。「警察はゆうべ一味を逮捕しましたよ」
「一味? なんの一味です?」
「アマルフィ一家ですよ。あなたのお話をうかがったときに、すぐにわたしは彼らを思い浮かべました。手口が彼らのものでしたし、お客さんたちの外見、特徴をうかがって、彼らにまちがいないと思ったわけです」
「なにものです、アマルフィ一家とは?」
「父と息子とその嫁――つまりピエトロとマリアが正式に結婚していれば、ですが、どうもそれは怪しいものですな」
「わかりませんね、さっぱり」
「なに、単純なことですよ。アマルフィという姓からもわかるように、イタリア系であることはたしかなんですが、生まれはアメリカです。手口はいつもおなじで、実業家をよそおってヨーロッパ各地を渡りあるき、有名な宝石商と近づきになる。そしてちょっとした手品を演じるというわけです。今度の事件では、やっこさん、『明けの明星』に狙いをつけました。ポインツ氏の習癖は、業界では周知の事実ですからね。彼の娘の役を演じたのが、嫁のマリア・アマルフィです――驚いたものですな、すくなくとも二十七にはなっているはずなのに、それがたいがいの場合、十六娘の役を演じるんですから」
「まさかイーヴが!」ルウェリンはあえぐように言った。
「ところがそうなんです。そして一味の三人目の男は、ロイヤル・ジョージ・ホテルに臨時雇いのウェイターとして雇われる――ご承知のとおりの休暇シーズンですから、どこのホテルでも臨時雇いを必要としています。ことによると、自分がそのかわりになれるように、本雇いのウェイターを買収して、休ませたのかもしれません。ともあれ、舞台はととのいました。イーヴはポインツに挑戦して、賭けに応じさせる。彼はその前の晩にやったように、ダイヤをとりだして一同にまわす。レザーンのところまできたときに、ウェイターたちがはいってくるので、彼らが出てゆくまで、彼はダイヤを保持する。ウェイターが出てゆくと、ダイヤもいっしょに出てゆく。ピエトロの運び去った皿の底に、チューインガムで手ぎわよく貼りつけられているというわけです。簡単そのものです!」
「しかし、そのあとでぼくはダイヤを見たのですよ」
「いや、いや、あなたのごらんになったのは模造ダイヤです。しろうとでは見分けられないほどよくできた贋物です。専門家のスタインがいましたが、これはあなたのお話によると、ろくすっぽそれを見もしなかったという。イーヴに渡ったところで、彼女がそれを落とし、ついでにグラスをひっくりかえして、石もろとも踏みつぶしてしまう。奇跡的なダイヤモンド消失というわけです。イーヴもレザーンも、すすんで身体検査を受けられた道理ですよ」
「なるほど――ぼくは――」
言うべき言葉が見つからぬといったようすで、エヴァンは首を振った。
「ぼくが説明した人相風体から、一味のあたりをつけたと言われましたね。前にもおなじ手口を用いたことがあるんですか?」
「そっくりおなじではありませんが、手口は似たようなものです。当然ですが、じきにわたしはイーヴという娘に目をつけました」
「なぜです? ぼくはあの娘を疑ってもみなかった――だれだってそうでしょう。なにしろ、ほんの――ほんの小娘としか見えませんからね」
「そこがマリア・アマルフィ独特の才能ですよ。演技力で、どんな子供よりも子供らしく見せてしまう! それに、彼女の持っていた粘土! あのときの賭けは、その場のはずみで始まったはずでした――なのに彼女は、粘土を用意していたという。これは、前もって計画してあったことを物語っています。当然、わたしの疑いは、ただちに彼女に向けられたというわけです」
ルウェリンは立ちあがった。
「ありがとう、パーカー・パインさん。なんとお礼を申しあげていいのやらわかりませんよ」
「分類法のおかげですよ」パーカー・パイン氏は謙遜して小声で言った。「犯罪者のタイプを分類する――わたしはこれにことのほか興味を持っておりましてね」
「ところで――その――お礼はどのくらいさしあげたら――」
「わたしの手数料でしたら、たいしたことはありません」パーカー・パイン氏は言った。「せっかくの――えー――競馬の儲けに、大きな穴があかない程度、とでも申しますかな。そのかわり、一言忠告させていただきますが、今後はあまり競馬なんかに熱中なさらんほうがいいですよ。きわめて不確実なものですからな、馬という動物は」
「よくわかりました」と、エヴァンは言った。
それから彼はパーカー・パイン氏と握手すると、オフィスを出た。
外に出た彼は、タクシーを呼びとめ、ジャネット・ラスティントンの住所を告げた。
現在のこの勢いで、どこまでもやってみようという気分になっていたのである。
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●幻想と怪奇編
ランプ
それはまぎれもなく古い家だった。古いと言えば、この広場全体がそうで、大聖堂のある町によく見られる、古色蒼然とした、人を寄せつけないいかめしさをそなえていた。しかし、十九番地の家は、なかでもとくに年ふりた印象を与えた。まこと長老を思わせる重々しさをたたえて、それは陰気な建物群のなかでもとりわけ陰気に、尊大ななかでもとりわけ尊大に、冷厳ななかでもとりわけ冷厳にそびえたっていた。厳として近づきがたく、そのうえ、長いあいだ住む人のない家に特有のあの荒廃の色をただよわせて、その家は他の家並みの上に君臨しているのだった。
ほかの町でなら、この家は当然のように、『幽霊屋敷』の烙印を押されただろう。しかし、ウェイミンスターの町の人は、幽霊などというものを嫌っていたし、旧領主の所領であったあたりをべつにすれば、どだいそんなものはてんから尊重されていなかった。といったわけで、十九番地の家は、幽霊屋敷として後ろ指をさされたことこそなけれ、くる年くる年、『貸し家または売り家』のままでとりのこされてきたのだった。
ランカスター夫人は、おしゃべりの不動産屋といっしょに乗りつけた車のなかから、その家を好ましげにながめた。これでようやく帳簿から十九番地の家を厄介ばらいできるかもしれないと考えて、不動産屋はいつになく浮きうきしていた。家のドアに鍵をさしこみながら、彼は際限もなくこの家への賛辞を並べたてた。
とつぜん、ランカスター夫人がややぶっきらぼうに、そのとどまるところを知らない言葉の流れをさえぎった。「いったい、いつからこの家は空家になっていたの?」
ラディッシュ氏(ラディッシュ・アンド・フォプロウ商会の)は、すこしくどぎまぎした。
「え――ええ――その、しばらく前からです」と、彼は如才なく答えた。
「でしょうね」ランカスター夫人はそっけなく言った。
暗い明りのともった玄関は、不吉な冷気にひんやりしていた。もっと想像力の強い女性なら、身ぶるいしたかもしれないが、たまたまこのランカスター夫人は、いたって実際的な性質だった。背が高く、ちらほらと白いもののまじりはじめた濃褐色の髪をたばねて、いくぶん冷たい青い目をしている。
ときおり当を得た質問をしながら、彼女はこの家を屋根裏から地下室まで検分してまわった。検分が終わると、外の広場を見おろす表側の部屋のひとつにもどり、決然たる態度で周旋人に向きなおった。
「で、この家はいったいどうしたっていうんです?」
不意をくらって、ラディッシュ氏はぎくりとしたが、それでも弱々しく言いのがれた。
「ま、ご承知のとおり、家具のはいっていない家というのは、いつの場合も少々陰気なものでして」
「ばかおっしゃい」ランカスター夫人は言った。「これだけの家にしては、家賃がばかに安すぎます――まったく形ばかりの額と言ってもいいほどですよ。それにはなにか理由があるはずです。まさか幽霊屋敷じゃないでしょうね?」
ラディッシュ氏はもじもじしたが、なにも言わなかった。
ランカスター夫人はそんな彼を鋭く見すえていたが、ややあって言葉をついだ。
「もちろん、そんなことはどれもこれもばかげていますよ。幽霊とかそういったものは、わたしはいっさい信じていませんし、個人的には、それがこの家を買う妨げにもなりません。ただね、あいにくなことに、召使というのはひどく信じやすく、怯えやすいんです。ですから、ほんとうのことを話してもらえるとありがたいんですけどね――いったいなにがこの家にとりついているのかを」
「わたしは――その――ほんとうに知らないんです」周旋人はへどもどしながら言った。
「そんなはずはありませんよ」ランカスター夫人は穏やかに言った。「それを知るまでは、この家を買うわけにはいきませんからね。さあ、なにがあったんです? 殺人ですか?」
「と、とんでもない!」ラディッシュ氏はあわてて叫んだ。あわてたのもまんざら見せかけではなく、この広場の格式というものとまったくあいいれない考えに、ショックを受けたのだ。
「殺人なんてとんでもない。ただの――ただの子供なんです」
「子供?」
「そうです。詳しい話はわたしも存じませんがね」彼は不承不承話をつづけた。「むろん、さまざまな異説もありますが、すくなくとも三十年ほど前、ウィリアムズと名乗る男が、この十九番地の家を借りたことはたしからしいです。この男については、なにもわかりません。召使もおかず、訪ねてくる友人もなく、昼間出あるくこともめったになかったというだけでね。彼には小さな男の子がひとりありました。ここへきて二ヵ月ほどたったころ、ウィリアムズはロンドンへ出かけました。そして、市内に一歩はいったかはいらないかのところで、なにかの嫌疑で――どんな嫌疑だったかは知りません――警察に手配されている『お尋ね者』だってことを見破られてしまったんです。おそらく、重大な犯罪だったにちがいありませんな。というのは、逮捕されるよりはと、ピストル自殺してしまったからです。そのあいだ、子供はひとりでこの家で留守番していました。多少は食糧のたくわえもあったので、くる日もくる日もじっと父親の帰りを待っていたわけです。あいにくなことに、この子はどんなことがあっても家から出たり、よそのひとと話をしたりしてはいけない、とかたく言いふくめられていた。もともと病弱なうえに、まだ幼く、父の言いつけにそむくことなど夢にも考えなかったのです。父親がいなくなったことを知らない隣人たちは、夜になると、この子がからっぽの家のなかで、寂しさと空腹にたえかねて泣きじゃくっているのを、たびたび耳にしたものです」
ラディッシュ氏は一息入れた。
それからふたたび言葉をつづけて、「そして――ああ――子供は餓死しました」と話をしめくくったが、その口調はまるで、雨が降りだしましたとでも言っているようだった。
ランカスター夫人はたずねた。「で、その子供の幽霊なんですね――この家にとりついているとされているのは?」
「いや、いや、なにもそんな重大なことじゃないんです」ラディッシュ氏はあわてて打ち消した。「なにも|見える《ヽヽヽ》わけじゃないんですよ――|見える《ヽヽヽ》わけじゃね。ただうわさによると――むろん愚にもつかない話なんですが――声が聞こえるというんです。子供が――泣いているのがね」
ランカスター夫人はつかつかと玄関のほうへ歩きだした。
「この家自体はとても気に入りました。この値段でこれだけのものは、なかなか見つかりませんよ。とにかくよく考えてからお返事します」
「ねえパパ、ほんとうに、すっかり明るい感じになったじゃない?」
ランカスター夫人は、満足げに新居のなかを見まわした。あざやかな色の絨毯、磨きぬかれた家具、さまざまな装飾品、それらが十九番地の家の陰鬱なたたずまいを一変させてしまっていた。
彼女の話しかけている相手は、猫背の、痩せて腰の曲がった老人で、きゃしゃな、仙人めいた顔だちをしていた。彼ウィンバーン氏は、娘のランカスター夫人とは似ていなかった。それどころか、彼女の確固とした実際的なところと、老人の夢見るような放心した面持ち、この二つの対照ほど対照的なものを思い浮かべることはまずできなかっただろう。
「ああ」と、彼は微笑しながら答えた。「だれもこれが幽霊屋敷だったとは思うまいよ」
「パパったら、ばかなことをおっしゃらないで! 越してきた初日から、縁起でもない」
ウィンバーン氏はほほえんだ。
「わかったよ、おまえ。幽霊なんてものは存在しないとしておこう」
「それから、後生ですからね」ランカスター夫人は言葉をつづけた。「そんなこと、ジョフの前では言わないでくださいね。あの子はとても感じやすいんですから」
ジョフというのは、ランカスター夫人の幼い息子だった。家族は三人、ウィンバーン氏と、夫に先だたれたその娘、それにジョフリーである。
雨が降りだして、窓をたたきはじめた――ぴたぴた、ぴたぴた。
「お聞き」と、ウィンバーン氏が言った。「子供の足音みたいじゃないか」
「それよりも、雨の音みたいですよ」ランカスター夫人はほほえみながら言った。
「しかし、|あれ《ヽヽ》は――|あれ《ヽヽ》は足音だよ」彼女の父親は叫んで、よく聞こうと身をのりだした。
ランカスター夫人は無遠慮な笑い声を浴びせた。
ウィンバーン氏もしかたなく笑った。彼らは広間でお茶を飲んでいるところで、彼は階段に背を向けて坐っていた。いま彼は椅子をくるりとまわして、そのほうに向きなおった。
ジョフリー少年が階段を降りてくるところだった。新しい家にたいして、子供らしい畏怖をいだいているのだろう――いつもよりゆっくりと、足音を殺した感じで降りてくる。階段は磨きあげられたオーク材で、絨毯は敷いてない。少年は母親のそばにやってくると、そのかたわらに立った。ウィンバーン氏はちょっとぎくりとした。少年が部屋を横切ってきたとき、それとはちがうべつの足音をはっきりと耳にしたのだ。さながらだれかがジョフリーを追ってくるかのように。足をひきずるような、奇妙に痛々しい足音だ。だがじきに老人は肩をすくめて、その想念を追い払った。「雨の音さ、まちがいない」と、彼は思った。
「ぼく、そのスポンジケーキ、見てるんだ」と、ジョフが言った。興味のある事実を指摘するとき、子供がよくやるあのわざと無関心なようすをよそおって、である。
母親は急いでこの暗示に応じた。
「どう、坊や、あんたの新しいおうち、気にいった?」彼女はたずねた。
「とっても」ジョフリーは口いっぱいにケーキをほおばりながら答えた。「いっぱい、いっぱい、いっぱいさ」明らかに深い満足を示すものらしいこの言葉を、彼は節をつけて言い終えると、あとは黙りこんで、目前のケーキを最小限の時間でかたづけるという作業に没頭しはじめた。
最後の一口を詰めこんでしまったところで、彼はいきなり堰を切ったようにしゃべりだした。
「ねえママ、ここには屋根裏部屋があるんだって、ジェーンが言ってたよ。これからすぐ探検しにいっちゃいけない? 秘密のドアがあるかもしれないしさ。ジェーンはないって言うけど、ぼくはあるにちがいないと思うんだ。それにね、それがなくても、|パイプが《ヽヽヽヽ》、|水道管がある《ヽヽヽヽヽヽ》にきまってるもの(と、うっとりした表情を満面に浮かべて)――それで遊べるよ。だからさ! 行ったっていいでしょう、ボイ…イ、ラーを見に?」ジョフは恍惚として、この最後の言葉を長くひきのばした。この子供らしいこのうえない喜びの表現が、自分の胸にはたんに、すこしも熱くないお湯と、山ほどの配管工事の請求書しか連想させてくれなかったことを思って、彼の祖父はひそかに恥じいった。
「屋根裏の探検は明日にしましょうね、坊や」と、ランカスター夫人が言った。「それよりもいまは積み木を持ってきて、すてきなおうちをつくったらどう? でなきゃ、機関車でも?」
「うちなんかつくりたかないや」
「おうちとおっしゃい」
「|お《・》うちも、|お《・》機関車も、どっちもだよ」
「ボイラーをつくったらどうだい?」祖父がほのめかした。
ジョフリーは顔を輝かせた。
「パイプのついたやつ?」
「そうさ、パイプのどっさりついたやつをな」
ジョフは勇んで積み木をとりに走り去った。
雨は依然として降りつづいていた。ウィンバーン氏はその音に耳をかたむけた。そう、さっき聞こえたのは雨の音にちがいない。だが、あのときはたしかに足音のように聞こえたのだ。
その夜、彼は不思議な夢を見た。
夢のなかで彼は、町のなかを、大きな都会らしいところを歩いていた。だがそれは子供の町だった。おとなはひとりもいず、大勢の子供がいるだけだ。その子供たちはみんな、「あの子を連れてきてくれた?」と叫びながら、ただひとりのおとなである彼のほうへ走りよってきた。夢のなかでは、その言葉の意味がわかっているらしく、彼は悲しげに首を振った。それを見ると、子供たちは顔をそむけ、さめざめと泣きだした。
やがて、市街も子供たちも消えていって、彼は寝床のなかで目をさました。だが、泣きじゃくる声は依然として聞こえてくる。はっきり目がさめているにもかかわらず、それは明瞭に聞こえてくるのだ。思いだしてみると、ジョフリーは階下の部屋で寝ているはずなのに、その悲痛な子供の泣き声は上から聞こえる。老人はベッドに半身を起こして、マッチをすった。と、すぐに泣き声はやんだ。
この夢やそのあとの出来事を、ウィンバーン氏は娘には話さなかった。それが自分の気のせいではないということには確信があった。じじつ、そのあとまもなく、今度は昼間にまたそれを聞いたのだ。風が煙突のなかでうなっていたが、|これ《ヽヽ》はそれとはべつの音――明瞭な、聞きまちがえようのない音、哀れをそそるかすかなすすり泣きだった。
のみならず、それを耳にしたのが彼ひとりでないこともわかった。女中が小間使にむかって、「どうもあの乳母は、ジョフリー坊ちゃまにやさしくないようだね。つい今朝も、坊ちゃまが胸が張り裂けるほど泣いていなさるのを聞いたから」と話しているのを、小耳にはさんだからだ。その日は朝食に降りてきたときも、昼食に降りてきたときも、ジョフリーは元気いっぱいで、健康そのものだった。それでウィンバーン氏にはわかったのだ――泣いていたのがジョフではなく、あのひきずるような足音の主、その足音で一度ならず自分を驚かせたあのもうひとりの子供だと。
ランカスター夫人だけが、なにも気がついていないようだった。彼女の耳は、たぶん別世界からの音を聞きとるようにはできていないのだろう。
それでも、ある日、彼女もまたショックを味わった。
「ねえママ」ジョフがせがむように言ったのだ。「ぼく、あの小さな男の子と遊ばせてほしいんだけどなあ」
ランカスター夫人は微笑を浮かべて、書きもの机から顔をあげた。
「どの子、あの小さな男の子って?」
「名前は知らないんだ。屋根裏部屋で、床に坐りこんで泣いてたんだけど、ぼくを見ると逃げてっちまった。きっと|はにかみや《ヽヽヽヽヽ》なんだよ(と、いくらか軽蔑したような表情で)――|おっきな《ヽヽヽヽ》男の子らしくなくてね。それからべつのときは、ぼくが子供部屋で積み木をしてると、戸口に立ってじっと見ていた。すっごく寂しそうで、まるで遊んでもらいたいみたいだったから、ぼく、言ったんだ。『おいでよ、いっしょに|お《・》機関車をつくろうよ』って。でもその子、なんにも言わずに、ただ見てるだけなの――ちょうど、チョコレートがどっさりあるのを見つけたのに、ママからさわっちゃいけませんって言われたみたいな顔してさ」ここで明らかに自分の悲しい経験を思いだしたのだろう、ジョフは溜息をついた。「だけどね、ジェーンにあの子はだれだろう、ぼく、いっしょに遊びたいんだけどって言ったら、ジェーンは、この家には小さい男の子なんかいませんよ、ばかなことを言っちゃいけませんって言うんだ。だからぼく、ジェーンなんか大嫌いなんだ」
ランカスター夫人は立ちあがった。
「ジェーンの言うとおりですよ。小さな男の子なんかどこにもいやしません」
「でも見たんだってば。ねえったら、ママ! あの子と遊ばせてよ。とっても寂しそうで、かわいそうなんだ。あの子を元気にしてやりたいんだよ、ぼく」
ランカスター夫人はまたなにか言いかけたが、彼女の父親が目くばせしてそれを制した。
彼はひどくやさしく言った。「なあジョフ、そのかわいそうな小さな男の子は、ひとりぼっちなんだ。もしかしたら、おまえが慰めてやれるかもしれんな。だけど、どうやったらいいかは、おまえが自分で考えなきゃいけない――パズルを解くようにさ――わかるかい?」
「それは、ぼくがもう|おっきい《ヽヽヽヽ》から、ぜんぶ自分でやんなきゃいけないってこと?」
「そうさ、おまえはもう大きいんだからね」
少年が部屋を出てゆくと、ランカスター夫人はたまりかねたように父親に向きなおった。
「パパ、困るじゃないの。あの子に使用人たちのばかげた話を信ずるようそそのかすなんて!」
「奉公人たちはあの子になんにも話してやしないよ」老人は穏やかに言った。「あの子は自分の目で見たんだ――わしが耳にしたものを。わしもあの子ぐらいの年だったら、見えたかもしれん」
「でも、そんなばかばかしいことがあるかしら! だったらなぜわたしには見えも聞こえもしないの?」
ウィンバーン氏は奇妙に疲れたような微笑を浮かべた。が、なにも答えなかった。
「なぜなの?」彼の娘は詰めよった。「それに、どうしてあんなことをおっしゃったの? ――あの子がその――その――|もの《ヽヽ》を助けてやれるかもしれないなんて。そんなこと――とてもできっこないにきまってるじゃありませんか」
老人は思案ぶかげなまなざしを彼女に向けた。
「そうかな? こんな言葉を覚えているかね?
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闇に迷える子らをみちびく
いかなるランプを運命は持てるや?
『そは無垢の知恵なり』と天は答えたまえり。
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ジョフリーはそれを持っている――無垢の知恵というやつを。子供はみんな持っているんだ。ただわれわれは、成長するにつれてそれを失ってしまう、投げ捨ててしまうだけなのさ。ごくたまに、ひどく年をとってから、かすかな光がもどってくることもある。しかし、ランプがいちばん明るく輝くのは、子供のときなのだ。ジョフリーなら助けてやれるかもしれないとわしが考えたのは、そのためなのだよ」
「わかりませんわ、わたしには」と、ランカスター夫人は弱々しくつぶやいた。
「わしだってたいして変わらんさ。あの――あの子供は苦しんでいて、そして――自由になりたがっている。だが、どうすればいい? わしにはわからん。ただ――あれを思うとたまらなくなる。あれが――あの子供《ヽヽ》が、胸のつぶれるような泣き声をたてているのを思うとな」
このやりとりがあって一ヵ月ほどのち、ジョフリーは重い病気におかされた。この年はひときわ東風がきびしかったし、もともと丈夫な子でもなかったのだ。医者は重々しく首を振って、容易ならぬ症状だと告げた。ウィンバーン氏にたいしては、もっとあけすけに、回復の見込みはほとんどたたないと打ち明けた。「どれだけ手を尽くして育てても、このお子さんはしょせん長生きされる見込みはなかったのですよ」と、医師はつけたした。「かねてから、肺に重大な障害があるのです」
ランカスター夫人が、|それ《ヽヽ》に――そのもうひとりの子供に気づいたのは、このジョフを看病しているときだった。はじめのうちそのすすり泣きは、風の音と区別できなかったが、やがて徐々にはっきりして、聞きまちがえようがないまでになった。そしてついに、一瞬あたりがしんと静まりかえった瞬間に、彼女はそれを耳にした。子供のすすり泣き――抑揚のない、絶望的な、悲痛なすすり泣き。
ジョフの病状は悪化するいっぽうで、ついには、たびたびうわごとで『小さな男の子』のことを口走るまでになった。「あの子を行かせてやりたいんだよう、ぼく!」そう彼は身もだえして叫ぶのだった。
このあとにひきつづいて、昏睡状態がやってきた。ジョフリーはさながら死んだもののように、ほとんど息もせず横たわり、非現実の世界をさまよっていた。ただ手をこまねいて見まもる以外、してやれることはなにもなかった。それから――ある静かな晩がきた。夜空がさえざえと澄みわたり、そよとの風もない晩だった。
突然、少年は身動きして、ぱっちり目をあけた。その目はかたわらの母親を通りこして、ひらいたドアのほうを見た。なにか言おうとしているらしいのを見てとって、母親はかがみこんで、そのなかばささやくような声に耳をすました。
「わかったよ、いま行く」少年はそうつぶやくと、ふたたび枕に頭を落とした。
母親はふいに恐怖に襲われて、部屋の向こうにいる祖父のもとへ駆けよった。どこか身近なところで、もうひとりの子供が笑っていた。楽しげに、満足げに、勝ち誇ったように。その鈴をふるような笑い声が部屋じゅうにこだました。
「恐ろしいわ、恐ろしいわ」彼女はうめいた。
老人はかばうように彼女の肩に手をまわした。とつぜん、一陣の風が吹きおこり、二人をぎくりとさせた。が、それもつかのまに吹き過ぎ、あとにはまた静けさがもどった。
笑い声は消えて、かわりに、どこからともなくかすかな音が聞こえてきた。あまりにかすかで、ほとんど聞きとれないほどの音――だがそれが徐々に高まって、やがてはっきり聞きわけられるまでになった。足音――軽い足音――急速に遠のいてゆく。
ぴたぴた、ぴたぴたと駆けてゆく――あの聞きなれた、ためらいがちな小さな足音。しかも――まぎれもなく――いまや|もうひとつ《ヽヽヽヽヽ》の足音がそれにまじり、より敏捷な、より軽い足どりでそれを追ってゆく。
彼らはそろって戸口に駆けよった。
下へ、下へ、下へ、ドアを通り抜け、彼らのそばをすりぬけて、ぴたぴた、ぴたぴた、見えない子供たちの小さな足音は、連れだって遠ざかってゆく。
ランカスター夫人は狂おしげに顔をあげた。
「二人《ヽヽ》いるわ――二人《ヽヽ》!」
突然の恐怖に色青ざめて、彼女は片隅の寝台のほうをかえりみた。が、彼女の父親はそっと彼女を押しとどめ、かなたをゆびさした。
「ほら」と、彼は簡潔に言った。
ぴたぴた、ぴたぴた――かすかに、だんだんかすかになって。
そしてそのあとは――静寂。
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人形
その人形は、大きなビロード張りの椅子の上に横たわっていた。ロンドンの空は鉛色で、部屋のなかは薄暗かった。そのやわらかな灰緑色の薄明のなかで、青磁色のカバーやカーテン、カーペットなどは、たがいにひとつに溶けあっていた。人形もやはりそうだった。それはグリーンのビロードの服に、おなじビロードの帽子をかぶり、胡粉《ごふん》を塗った顔を傾けて、ぐったりと手足をのばして椅子にもたれていた。子供たちが人形遊びに使うような人形ではなく、いってみれば、操りの木偶《でく》人形、金持ち婦人の手慰み、よく電話の横とか、寝椅子のクッションのあいだに投げだしてあるような人形だった。それはそこに、手足をひろげて横たわっていた――永久にぐったりと、だが奇妙に生きいきとして。それはまさに頽廃的な二十世紀の産物そのもののように思われた。
布地の見本とスケッチ画を持って急ぎ足にはいってきたシビル・フォックスは、人形を目にして軽い驚きと当惑を覚えた。彼女は首をひねった――が、なににたいして首をひねったのかは、意識の表層には出てこなかった。かわりに彼女は自問自答した。「あら、ブルーのビロードの布見本はどうしたかしら。どこに置いたんだったかしら? ここに持ってきたのはたしかなんだけど」彼女は階段の踊り場まで出ると、上の縫製室にむかって呼びかけた。
「エルスペス、エルスペス、ブルーの布見本はそっちにあって? フェロウズ・ブラウン夫人がもうじき見えるのよ」
ふたたび部屋にもどった彼女は、明りのスイッチを入れ、人形にちらりと目をやった。「さてと、いったい――あら、こんなところにあったわ」彼女は、いつのまにか手からとりおとしていたらしい布見本をとりあげた。外の踊り場から、エレベーターが止まるときのいつものきいきいいう音がして、まもなく、フェロウズ・ブラウン夫人が狆《ちん》をお供に連れて、息を切らしながら部屋にはいってきた。というより、そのようすはむしろ、そうぞうしく煙を吐くローカル列車が、田舎の駅に停車したといったところだった。
「ひどい降りになってきたわ。まさに土砂降りよ!」
そう言いながら彼女は、手袋と毛皮の襟巻をほうりだした。店のあるじであるアリシア・クームがはいってきた。近ごろはあまり店には出ず、特別な顧客があらわれたときだけ顔を出すのだが、フェロウズ・ブラウン夫人はそういうお客のひとりだった。
縫製室の主任のエルスペスが、注文のドレスをかかえて降りてき、シビルはそれを受け取って、頭からフェロウズ・ブラウン夫人に着せかけた。
「まあ、とてもよくお似合いですわ。色もぴったりじゃございません?」シビルは言った。
アリシア・クームはわずかに椅子の背にもたれて、客の着たドレスをながめた。
「そうね、いいようだわね。ええ、たしかにぴったりだわ」
フェロウズ・ブラウン夫人は横向きになって、鏡を見た。
「どういうのかしら」と、彼女は言った。「お宅でつくっていただく服は、いつもうまくヒップの欠点を隠してくれるみたい」
「奥様は三ヵ月前よりもずっとお痩せになりましたわよ」シビルが保証した。
「あら、お上手だこと」フェロウズ・ブラウン夫人は言った。「たしかにこの服を着るとそう見えますけどね。カットに秘訣があるんじゃないかしら。これだけヒップが小さく見えるんですもの。まるで、ぜんぜんお尻なんかないみたい――いえ、つまり、普通のひとと変わらない程度にしか、っていうことだけど」彼女は溜息をつき、その、自分の身体の厄介な部分をそっとなでてみた。「これさえなければねえ。これでも以前はこれをひっこめることもできたのよ――ぎゃくにおなかのほうをつきだせばよかったんですもの。ところがそれももうできなくなっちゃった――おなかもヒップに負けずに出てきちゃって。だってそうでしょう? 両方をいっしょにひっこめるなんて、できない相談ですものね」
アリシア・クームが言った。「うちにおいでになるほかのお客様にくらべれば、奥様はずっとお姿がよろしいですわ」
フェロウズ・ブラウン夫人は、服のぐあいをためつすがめつした。
それからまた言った。「おなかはヒップよりももっとたちが悪いわ。なにしろめだちますからね。まあそう思うのは気のせいかもしれないけど――だってね、ひとと話すときにはそのひとと向かいあうから、ヒップは見えなくても、おなかはいやでも目につきますもの。とにかく、わたしはルールをきめたの――おなかをひっこめて、ヒップのほうは勝手にさせようって」彼女はさらに首をのばして肩ごしにうしろを見ていたが、やがて、ふいに言った。「おやまあ、あの人形ったら! なんだかぞっとするわ。いつからあれ、置いてあるの?」
シビルがあいまいな表情でアリシア・クームのほうをうかがうと、彼女は当惑げな、だがどこか心を痛めているような顔つきをしていた。
「それがよくわかりませんの……いつだったかしら――すっかり物覚えが悪くなってしまって。このごろはとくにひどいんですよ――なにひとつ覚えていられないありさまで。ねえシビル、あれはいつごろからあったかしら」
「さあ、存じません」シビルは簡潔に答えた。
「とにかくね」と、フェロウズ・ブラウン夫人が言った。「見るとなんとなくぞっとするのよ。気味が悪いわ! まるで、ねえ、わたしたちみんなを見張っていて、ひょっとするとあのビロードの袖のかげで笑ってるみたい。わたしだったら、あんなものはすぐに始末しちゃうわね」彼女は軽く身ぶるいしてみせると、ふたたび仕立ての細部に注文をつけることにもどった。袖はあと一インチつめたほうがいいんじゃないかしら? 丈はどうしましょう? こういった重要な諸点が満足のゆくようにまとまると、フェロウズ・ブラウン夫人は脱ぎ捨てた服に着替え、立ち去ろうとした。人形のそばを通るとき、彼女はもう一度それをふりかえった。
「そう、たしかにこの人形は気に入らないわね。なんていうか、すっかりこの部屋に『根を生やしてる』みたい。病的な感じだわ」
そう言い捨ててフェロウズ・ブラウン夫人が階段のほうへ去ってゆくと、シビルが言った。
「いったいどういうつもりであんなことをおっしゃったんでしょうね?」
アリシア・クームがそれに答える前に、フェロウズ・ブラウン夫人がひきかえしてきて、戸口から顔をのぞかせた。
「たいへん、フー・リンのことをすっかり忘れてたわ。どこに行ったの、おまえ? まあ、驚いた!」
彼女は目を見はり、ほかの二人の女も目を丸くした。狆は、グリーンのビロードの椅子のそばに坐りこみ、椅子の上にだらりともたれている人形をじっと見あげていた。その小さな出目の顔にはなんの表情もなく、喜んでいるのか怒っているのか見当がつかなかった。ただまじまじと人形を見つめているきりなのだ。
「おいで、いい子だから」と、フェロウズ・ブラウン夫人が声をかけた。
その『いい子』は、完全にあるじの声を無視した。
「近ごろすっかり言うことを聞かなくなってねえ」まるでそれを美点としてかぞえあげるような調子で、フェロウズ・ブラウン夫人は言った。「おいでフー・リン。リンリンちゃん。ぼくちゃん」
フー・リンはほんの一インチ半ほど首をあるじのほうへ向け、それからぷいとそっぽを向いて、ふたたび人形を鑑賞することにもどった。
「ずいぶんあの人形が気に入ったようだわね」と、フェロウズ・ブラウン夫人は言った。「いままではぜんぜん目もくれなかったのに。わたしだってそうよ――いままで気がつかなかったわ。この前うかがったときにはあったかしら?」
ほかの二人の女は顔を見あわせた。シビルはいまや顔をしかめていたし、アリシア・クームは眉間に皺を寄せて言った。「さっきも申しましたとおり――このごろすっかり物覚えが悪くなって。あれはいつからあったかしらねえ、シビル?」
「どこで手に入れたんです?」フェロウズ・ブラウン夫人は追及した。「お買いになったの?」
「いいえ、とんでもない」なぜかアリシア・クームはその考えにショックを受けた。「買ったなんてこと、ありませんわ。たぶん――たぶん、だれかがくれたんだと思います」彼女は首を振った。それから、たまりかねたように叫んだ。「腹が立ちますわ! われながら、ほんとに腹が立ちます――起こったことをそばから忘れてしまうなんて」
「さあ、いいかげんにおし、フー・リン」フェロウズ・ブラウン夫人の声がけわしくなった。「おいで。じゃあ抱いてでも連れていきますよ」
彼女は狆を抱きあげた。フー・リンは一声短く、悲しそうに吠えた。あるじの胸に抱かれて部屋を出てゆきながら、フー・リンはむくむくした毛の生えた肩ごしに出目の顔をねじむけて、心残りそうに、椅子の上の人形をまばたきもせず見つめていた……
「あの人形ですけどね」と、グローヴズ夫人が言った。「どうもあれにはぞっとさせられますよ、あたしは」
グローヴズ夫人は掃除婦である。いまちょうど、かにの横這い式にあとずさりに床をふきおえて、立ちあがり、ゆっくりと家具の上の埃を拭って歩いているところだった。
「へんですよ、ほんとに」と、グローヴズ夫人は言った。「昨日までは気がつきもしなかったのに。それが、なんていうか、きゅうに気になりだしたんですからね」
「あれ、嫌い?」と、シビルはたずねた。
「言ったでしょう、ミセス・フォックス、ぞっとするって」掃除婦は答えた。「どうも自然じゃないんです。あたしの言う意味がおわかりかどうか知りませんけどね。あの長い脚をぶらぶらさせて、ふんぞりかえって坐ってるようすったら。それにあの、こすっからそうな目。どう見たってまともじゃないってあたしゃ言いたいですね」
「いままではそんなこと、一言も言わなかったわね」シビルは言った。
「言ったでしょうが――気がつかなかったって。今朝まではぜんぜんね……むろん、しばらく前からそこにあるのは知ってましたよ。でも――」彼女は言葉を切り、その面《おもて》を困惑の表情がよぎった。「いってみれば、夜中に夢で見るようなものですよ」そう言って彼女は散らばった掃除道具を集めると、仮縫室を出て踊り場を横切り、向かい側の部屋へはいっていった。
いかにもくつろいだようすで横たわっている人形をシビルは見つめた。困惑の表情がその面にひろがりつつあった。そのときアリシア・クームが部屋にはいってき、シビルはきっとなってそのほうをふりかえった。
「クームさん、いったいこのものはいつからここにあったんですの?」
「なあに、人形? 言ったでしょう――わたし、このごろとんと物覚えが悪くなっちゃったって。きのうもね――じっさいばかげてるったらないの! 例の講演会に行くつもりで家を出たんだけど、半分も道を行かないうちに、どこに行くつもりだったか思いだせなくなっちゃったのよ。思いだそうとして、さんざん頭をしぼったわ。結局、フォートナムだったにちがいないって自分に言い聞かせたわけ。なにかフォートナムで買うものがあったってことだけは覚えてたから。それでね、信じてもらえないかもしれないけど、なんと、講演会のことを思いだしたのは、家に帰って、お茶を飲んでいるときなのよ。もちろん、年をとると頭がぼけてくるって話はよく聞くけど、わたしがそうなるにはすこし早すぎると思わない? いまもハンドバッグをどこに置いたか忘れちゃって――それに眼鏡も。眼鏡はどこに置いたんだったかしら? ついいましがたまでかけてたのに――タイムズでなにかを読んでたのよ」
「眼鏡ならこのマントルピースの上にありますわよ」シビルはそれを渡してやりながら言った。「それにしても、この人形はどうやって手にお入れになったんですの? どなたかがくださったんですか?」
「それもさっぱり覚えがないのよ」アリシア・クームは言った。「どなたかがくださったか、送ってくださったんでしょうねえ、たぶん……でも、ほんとうにそれ、この部屋によくなじんでいるみたいね。そう思わない?」
「なじみすぎているくらいですわ」シビルは答えた。「それにしても不思議なのは、|わたし《ヽヽヽ》も最初にこれがここにあるのに気づいたのがいつだったか、思いだせないってことなんですの」
「おやおや、わたしみたいになっちゃだめよ」アリシア・クームは警告した。「なんといっても、あなたはまだ若いんだから」
「でもクームさん、ほんとうにわたし、思いだせませんの。つまりね、つい昨日、あれを見て、こう思いましたのよ――あれにはなにか……そう、グローヴズ夫人の言うとおりですわ――あれにはなにかぞっとさせられるものがあるって。ところがそのあとで、そういえば前にもそう思ったことがあるわって、そう思いましたの。それで、前にそう思ったのがいつか、思いだそうとしてみたんですけど、それが――ええ、なんにも思いだせませんのよ! いってみれば、いままで一度もあれを見たことがなかったみたい――ただ、そういうふうには感じなかったというだけでね。なんていうか、あれはずっと前からここにあったのに、わたしが気がついたのはたったいま、そんな感じですのよ」
「ひょっとしたら、ある日ほうきの柄にまたがって、窓からとびこんできたのかもしれないわ」と、アリシア・クームは言った。「とにかく、いまじゃすっかりここに腰を落ち着けちゃってるって感じね」彼女は室内を見まわした。「その人形のいないこの部屋なんて、想像もできないわ。そうじゃない?」
「ええ」シビルはかすかに身ぶるいしながら言った。「でも、それができたらいいのにと思いますわ」
「なにができたら?」
「人形のいないこの部屋を想像することが、ですわ」
「なんだかみんな、この人形のことで頭がへんになってるみたい」アリシア・クームは腹だたしげに言った。「いったいこの人形のどこがおかしいの? わたしには腐ったキャベツみたいにしか見えないけど。もっともそれは――」と、彼女はつけくわえて――「眼鏡をかけていないせいかもしれませんけどね」眼鏡をかけなおした彼女は、じっと人形を見すえた。「そうね、あなたの言う意味はわかるわ。たしかにちょっとぞっとする感じね……寂しそうだけど、それでいて――そう、ずるそうで、どっちかというと強情そうで」
「へんですわ――フェロウズ・ブラウン夫人が、あんな強い言葉でこの人形が嫌いだとおっしゃるなんて」シビルは言った。
「あのひとは思ったことをずけずけ口に出すたちですからね」アリシア・クームは言った。
「でも、おかしいですわ」シビルは言いはった。「この人形があのかたにそんなに強い印象を与えたっていうのは」
「でもねえ、人間ってときどき、いままでなんでもなかったものがきゅうに嫌いになったりすることがあるものよ」
「ひょっとすると」と、シビルは含み笑いをしながら言った。「ほんとうにあの人形は、昨日までここにはなかったのかもしれませんわ……ひょっとすると、ほんとうにあなたのおっしゃったように、窓からとびこんできて、あそこに落ち着いちゃったのかもしれませんわ」
「まさかね」アリシア・クームは言った。「あれがしばらく前からここにあったことはたしかよ。それが昨日から、きゅうに目に見えるようになっただけかもしれない」
「それはわたしも感じていることですわ」シビルは相槌を打った。「その、あれがしばらく前からここにあったってことはね……ところが、それにもかかわらず、昨日まではほんとうにあれを見たって記憶がありませんの」
「さ、もういいわ。もうやめましょう」アリシア・クームはきびきびと言った。「おかげでわたしまで背筋がぞくぞくして、へんな気分になってきたわ。あなたまさか、こんなものをだしにして、超自然現象がどうこう、なんて言いだすつもりじゃないでしょう?」彼女は人形をとりあげると、二、三度振ってみて、肩のあたりをととのえてから、べつの椅子に坐らせた。と、すぐに、人形はわずかに傾いて、ぐたりとなった。
「ぜんぜん生きているようには見えないけど」と、アリシア・クームは人形を見つめながら言った。「それでいて、ある奇妙な意味で、生命を持っているように見えるのよ。ねえ?」
「うう、じっさいぎょっとさせられましたよ」と、グローヴズ夫人がショウルームの埃を拭ってまわりながら言った。「あんまりびっくりさせられたから、あたしゃもう、二度と仮縫室にははいりたくない気持ちですね」
「なににびっくりしたんですって?」隅の書きもの机に坐って、帳簿の整理に追われていたアリシア・クームがたずねた。それから、グローヴズ夫人にというより自分自身にむかって、彼女はつけたした。「まったくこのお客ったら、たまった勘定を一ペニーも払わずに、毎年イヴニング・ドレスを二着と、カクテル・ドレスを三着、おまけにスーツまでつくれると思ってるんだから! いったい、どういうんでしょうねえ、こういうひとってのは!」
「人形ですよ」と、グローヴズ夫人が言った。
「なあに、また人形の話?」
「ええ、向こうのデスクに坐ってますよ――人間そっくりにね。うう、じっさいぎょっとしたのなんのって!」
「いったいなんの話なの?」
アリシア・クームは立ちあがると、部屋を横切り、外の小さな踊り場を横切って、正面の部屋にはいっていった。そこが仮縫室で、一隅に小型のシェラトンふうのデスクがあり、それにひきよせられた椅子の上に、長いぐんにゃりした腕をデスクに投げだして、あの人形が坐っていた。
「だれか冗談の好きなひとがいるみたいだわね」アリシア・クームは言った。「人形をあんなふうに坐らせるなんて。それにしてもまあ、まるで生きているようだわ」
ちょうどこのとき、この日の午前ちゅうに仮縫いをする予定になっているドレスをかかえて、シビル・フォックスが階段を降りてきた。
「ちょっときてちょうだい、シビル。ほら、あの人形をごらんなさいな――わたし専用のデスクに坐って、せっせと手紙を書いているわ」
二人の女はそれを見つめた。
「じっさい、冗談がきつすぎるわよ」アリシア・クームは言った。「だれがあんなところに坐らせたのかしら。あなた?」
「いいえ、とんでもない」シビルは言った。「きっと上のお針子たちのひとりですわ」
「ばかげた冗談だわ、まったく」そう言ってアリシア・クームは人形をとりあげると、もとのソファの上に投げだした。
シビルはかかえてきたドレスをていねいに椅子の上に置くと、部屋を出て、階上の縫製室へあがっていった。
「あの人形を知ってるでしょう?」彼女は言った。「ほら、下の先生のお部屋――仮縫室にあるビロードの人形よ」
縫製主任と三人のお針子たちは顔をあげた。
「ええ、フォックスさん、もちろん知ってますけど」
「あれを今朝、ふざけてデスクの前に坐らせたのはだれ?」
三人のお針子たちは顔を見あわせた。それから、主任のエルスペスが言った。「デスクの前に坐らせたんですって? わたくしは存じませんけど」
「あたしもです」お針子のひとりが言った。「あんたは、マーリン?」マーリンは首を振った。
「あなたの悪戯じゃないのね、エルスペス?」
「冗談じゃありません」いつも口いっぱいにピンを含んでいるような、いかめしい顔つきのエルスペスが言った。「あいにくわたくしには、人形をおもちゃにしたり、デスクに坐らせたりしているようなひまはございませんのでね」
「ねえ、いいこと」シビルは言ったが、その声がわずかにふるえを帯びていることに、われながら驚きを感じた。「そのこと自体はね――人形をそこに坐らせたことは、とてもおもしろい冗談だと思うの。ただ、それをだれがやったのか知りたいだけなのよ」
三人の娘たちはいきりたった。
「もう申しあげましたでしょ、フォックスさん。あたしたちのだれでもありません。ねえ、マーリン?」
「あたしじゃありません」マーリンは言った。「それに、ネリーやマーガレットが自分じゃないって言うんなら、やっぱりあたしたちじゃないってことですわ」
「お聞きのとおりです」エルスペスは言った。「それにしても、それがいったいどうしたんですか、フォックスさん?」
シビルはのろのろと言った。「ただね、ちょっと奇妙に思ったのよ」
「もしかしたら、グローヴズ夫人じゃありませんか?」エルスペスは言った。
シビルは首を振った。「グローヴズ夫人のはずはないわ。それを見て腰を抜かしそうになったくらいですもの」
「ちょっと行って、自分の目で見てきますよ」エルスペスは腰を浮かしかけた。
「もうそうなってはいないのよ」シビルは言った。「先生がデスクの前からとりあげて、ソファにほうりだしてしまったから。とにかくね――」と、ちょっと言いよどんで、「わたしの言いたいのは、だれかあれをデスクの前の椅子に坐らせたひとがいるはずだってことなの――きっとふざけてしたんでしょうね。ただ――ただわからないのは、だれかがしたんなら、なぜそう言わないのかってことなのよ」
「もう二度も否定したんですよ、フォックスさん」と、マーガレットが言った。「あたしたちこそわかりませんわ、なぜあなたがあたしたちを嘘つき呼ばわりなさるのか。ここにいるだれも、そんなばかなことをするひとはいません」
「ごめんなさいね」シビルは言った。「あなたたちの気を悪くさせるつもりじゃなかったのよ。でもね――だれもしないんだったら、ほかのだれがそんなことができたかしら?」
「ひょっとしたら、自分で立ちあがって、歩いていったのかもしれませんよ」マーガレットはくすくす笑って言った。
どういうわけか、シビルはその思いつきが気に入らなかった。
「ま、なんにせよ、いっさいがばかげた話だわ」そう言って彼女は、また階段を降りていった。
アリシア・クームは、ばかに上機嫌に鼻歌をうたっていた。シビルを見ると、彼女は室内を見まわして言った。
「また眼鏡をなくしちゃったわ。でも、だからどうってことはないのよ、じつはね。いま現在はなんにも見たくない心境だから。ただ困るのは、わたしのように目が悪くなると、眼鏡をなくしたらさいご、べつの眼鏡をかけなくちゃそれが見つからないし、かといって目が悪いんだから、そのべつの眼鏡がどこにあるかもわからないってことなのよ」
「わたしが捜してさしあげますわ」シビルは言った。「ついさっきまでかけていらっしゃいましたのにねえ」
「あなたが上へ行ったあと、向こうの部屋へ行ったのよ。きっとそのとき持ってったんだと思うけど」
彼女は向こうの部屋へ行った。
「ほんとに困っちゃうわね。早くその帳簿の整理をかたづけたいのに。眼鏡がなくちゃどうしようもないわ」
「上へ行って、寝室から予備の眼鏡をとってきてさしあげましょうか」シビルは言った。
「その予備というのが、いま現在はないのよ」アリシア・クームは言った。
「あら、どうかなさったんですか?」
「それがね、昨日、昼食に出たときに、置き忘れてきたらしいの。そこに電話をかけてみたし、ほかに立ち寄った二軒のお店にも問いあわせてみたんだけど……」
「あらまあ。それじゃ眼鏡が三つなけりゃ足りませんわね」
「いいえ、三つも持っていたら、これからさき一生、三つのうちのどれかを捜して過ごさなきゃなりませんよ。ひとつしか持たないのがなによりだわ、ほんとに。そうすれば、いやでもそれが見つかるまで捜さなきゃなりませんもの」
「とにかく、どこかにあるはずですわ」シビルは言った。「この二つの部屋から外へはお出にならなかったんですから。たしかにここにないとすれば、仮縫室にお置きになったとしか考えられませんわね」
彼女は仮縫室にもどると、そこここを念入りに調べてまわった。最後に、念のためと思って、人形をソファから持ちあげてみた。
「ありましたわ」彼女は呼んだ。
「まあ、どこにあって、シビル?」
「この問題の人形の下です。人形をソファにもどすとき、いっしょにそこにほうりだしておしまいになったんじゃありません?」
「そんなことないわ。ぜったいにそんなことしませんよ」
「あら、そうですか」シビルは憤然として言った。「だったらきっと、人形が盗んで、隠したんでしょうよ!」
「いえ、ほんとに、この人形ならやりかねませんよ」アリシアはつくづくと人形をながめながら言った。「ごらんなさい、とっても利口そうに見えるじゃない?」
「わたしにはどうもこの顔は気に入りませんわ」シビルは答えた。「なんだか、わたしたちの知らないことを知ってるみたいじゃありませんか」
「なんとなく寂しそうで、かわいいとは思わない?」アリシア・クームは同意をもとめるように、だが自信なげに言った。
「ちっともかわいいなんて思えませんわね」シビルは言った。
「そうね……たぶんあなたの言うとおりだわ……おや、もう仕事にかからなくちゃ。十分ほどでレディー・リーが見えるのよ。それまでにこの送り状を書きあげて、投函してしまわなきゃ」
「フォックスさん。フォックスさん」
「はい、マーガレット。なにか用?」
シビルは裁断台にのりだして、サテンの布地を裁断するのに忙しかった。
「ねえフォックスさん、またあの人形なんです。あなたに言われて茶色のドレスを下へ持ってゆくと、またあの人形がデスクにむかって坐っているんですよ。あたしがしたんじゃありません――あたしたちのだれでもありません。信じてください、フォックスさん。ほんとうにあたしたち、そんな悪ふざけはしませんわ」
鋏を持ったシビルの手もとがわずかに狂った。
「まあ」彼女は腹だたしげに言った。「おかげで裁ちそこなっちゃったじゃないの。でもまあいいわ、たいしたことないから。で、人形がどうしたんですって?」
「またデスクにむかって坐ってるんですよ」
シビルは部屋を出て、仮縫室へ降りていった。人形は、前に見たときとまったくおなじ恰好でデスクの前に坐っていた。
「ねえ、あんたも相当に強情ね」
シビルは人形に話しかけた。そして、荒々しく人形をつかみあげると、ソファの上にもどした。
「そこがあんたの居場所よ。そこでおとなしくしてらっしゃい」
言い捨てて彼女は、向かい側の部屋へはいっていった。
「クームさん」
「なあに、シビル?」
「だれかがたしかにわたしたちに悪ふざけをしかけてますわ。あの人形がまたデスクに坐っていましたのよ」
「だれがやってるとお思い?」
「上のお針子たちのだれかにちがいありませんわ。おもしろい冗談のつもりなんでしょう。むろん三人とも口をそろえて、自分たちがやったんじゃないって言ってますけど」
「で、あなたはだれだと思うの? マーガレット?」
「いえ、マーガレットじゃなさそうですわ。わたしのところに告げにきたとき、ひどく妙な顔をしてましたもの。あのひょうきん者のマーリンかとも思いますけど」
「いずれにせよ、ずいぶんばかげた悪戯だわね」
「言うまでもありませんわ――愚劣そのものです」シビルは言った。それから、不機嫌につけくわえて、「といっても、きっとこれで終わりにしてみせますけど」
「どうしようっていうの?」
「いまにわかりますわ」
その夜、帰りぎわに、シビルは外から仮縫室のドアに鍵をかけた。
「こうして鍵をかけて、鍵はわたしが持って帰ります」
「なるほどね」と、アリシア・クームはいくらか興がっているような顔つきで言った。「するとあなた、わたしが犯人だと思ったわけ? つまり、こう思ってるんでしょ――わたしがあんまりぼんやりしているものだから、デスクで書きものをしようと思ってこの部屋にはいってゆきながら、それを忘れて、人形をかわりにそこに坐らせたんじゃないかって? そうでしょう? それでそのあと、わたしがそれをすっかり忘れてしまったって?」
「まあね、そういう可能性もありますわね」シビルは認めた。「でもとにかく、こうしておけば、今夜はそんなばかげた悪戯は起こらないはずですわ」
その翌朝、きびしくくちびるを結んで出勤してきたシビルがまずやったことは、仮縫室の鍵をあけて、つかつかとなかにはいってゆくことだった。不満そうな顔をしたグローヴズ夫人は、その前からモップと雑巾を持って踊り場で待っていた。
「さて、どうなってるかしら!」シビルは言った。
つぎの瞬間、彼女はかすかなあえぎをもらしてあとずさった。
人形がデスクにむかって坐っていた。
「ひゃあ! 気味が悪い!」グローヴズ夫人が背後で言った。「こんなことだろうと思ってましたよ。おやまあ、ミセス・フォックス、ご気分でもお悪いんですか――顔が真っ青ですよ。なにか気付けでもお飲みにならなくちゃ。上の先生のお部屋になにかありますかね?」
「いえ、わたしならだいじょうぶよ」シビルは言った。
彼女は人形のところに歩みよると、こわごわとそれを持ちあげ、部屋を横切った。
「まただれかがわるさをしかけたんですよ」と、グローヴズ夫人が言った。
「だとしても、今度はどうやってやったのかしら」シビルはのろのろと言った。「ゆうべ、たしかにドアに鍵をかけて帰ったんですもの。だれもはいれたはずがないってことは、あなたがよく知ってるとおりよ」
「合鍵を持ってるひとがいるんですよ、たぶん」グローヴズ夫人が慰めるように言った。
「そうかしら」シビルは言った。「いままでこのドアに鍵をかけたことなんかないけど、このとおり、旧式な鍵だし、それもひとつしかないのよ」
「ほかに合う鍵があるんじゃないですかね――向こうの部屋の鍵のなかにでも」
さっそく二人は店じゅうの鍵を調べにかかったが、仮縫室のドアに合うのはひとつもなかった。
後刻、アリシアと二人で昼食をとっているときに、シビルは言った。「ねえクームさん、どう考えてもあれはへんですわ」
アリシア・クームは、むしろ愉快そうな顔をした。
「そうね、たしかに不思議だわ。心霊現象の研究家にでも手紙を書いてみましょうか。そうしたら、だれか調査員を――霊媒かなにかを送ってくれて、あの部屋におかしな点はないかどうか、調べてくれるかもしれないわよ」
「あなたはぜんぜん気にしてらっしゃらないみたいですのね」シビルは言った。
「ええ、ある意味では楽しんでると言ってもいいかしら」アリシア・クームは言った。「つまりわたしぐらいの年になると、なにか変わったことが起こるのが楽しみなのよ。といっても――やっぱりね」と、彼女は思案ぶかげに言葉をつづけて、「この事件はわたしもあまり気に入らないわ。だってね、なんていうか、あの人形、だんだん大きな顔をしてのさばりだしたみたいなんですもの。そう思わない?」
その夜、シビルとアリシア・クームは、いま一度外からドアに鍵をかけた。
「わたしはいまでも、だれかがたちの悪いいたずらをしているような気がしますわ」と、シビルは言った。「といっても、じつのところ、なんのためなのかはわかりませんけど……」
「明日の朝も、またデスクに坐っていると思う?」アリシアはたずねた。
「ええ」シビルは答えた。「そう思います」
だが二人の考えはあたっていなかった。人形はデスクの前にはいなかった。そのかわりに窓|框《かまち》にもたれて、外の通りをながめていた。その姿勢には、今度もまた、驚くほど自然なものがあった。
「なにもかもひどくばかげているわ。そうじゃない?」アリシア・クームがそう言ったのは、その日の午後、仕事のひまを見てあわただしくお茶を飲んでいるときだった。いつもは仮縫室でお茶を飲むのだったが、この日にかぎって、二人は暗黙の諒解のうちに、仮縫室の向かい側のアリシアの部屋を使っていた。
「ばかげているって、どういう点がですの?」
「つまりね、ぜんぜんつかまえどころがないということよ。ただ人形がいて、それがしょっちゅうちがった場所に移動するというだけで」
日がたつにつれて、この傾向はますますめだつようになった。いまでは、人形が動くのは夜だけではなくなっていた。ほんのちょっと仮縫室を留守にして、もどってきてみると、人形はきまってちがう場所に移動しているのだ。ソファにいたはずの人形が椅子の上にいたり、かと思うとまた、べつの椅子に移っていたりする。ときに窓下の腰掛けにいたかと思うと、ときにはまたデスクの前にもどっている。
「好き勝手に動きまわっているわね」と、アリシア・クームは言った。「それにね、シビル、なぜだか、動きまわるのがおもしろくてやっているみたい」
二人の女は人形のそばに立って、そのやわらかなビロードの服につつまれた、生気のない、くたっと投げだされた肢体と、胡粉を塗った顔とを見おろした。
「どこから見たって、古ぼけたビロードと絹の切れっ端、それにわずかな顔料、それだけのものでしかないのに」アリシア・クームは言った。それから、その声がかすれた。「ねえシビル、わたしたち、これを――その――始末することだってできるのよ」
「どういう意味ですの、始末するって?」問いかえすシビルの声音は、ほとんどショックを受けているように聞こえた。
「たとえばよ」アリシア・クームは言った。「燃やしてしまうこともできるわ――火があればね。火に投じて、燃やしちゃうのよ、魔女のように……でなければもちろん」と、にわかに実際的な口調になって、「あっさりごみ箱にほうりこんじゃってもいいわ」
「それはどうでしょうかしら」シビルは答えた。「だれかがごみ箱から拾って、届けてくるかもしれませんわよ」
「でなかったら、どこかに送ったらどう?」アリシア・クームは言った。「ほら、よくあるじゃない――しょっちゅう競売とかバザーをひらくから、いらないものがあったら送ってほしいって手紙をよこしたり、頼んできたりする団体が。それなら文句はないでしょう?」
「さあねえ……」シビルは口ごもった。「わたし、なんだかこわいんですのよ、そうすることが」
「こわい?」
「ええ、そのうちまた帰ってくるような気がするんです」
「帰ってくるって、|ここ《ヽヽ》に?」
「そうですわ」
「伝書鳩みたいに?」
「ええ、まあね」
「ねえシビル、わたしたち、頭がおかしくなってるんじゃないでしょうね?」アリシア・クームは言った。「ひょっとしたら、わたしはほんとうに耄碌《もうろく》しちゃって、あなたはそんなわたしをからかっているだけなのかもしれない。そうなの?」
「まさか、そんなことありませんわ」シビルは答えた。「ただね、なんとなくわたし、薄気味悪い感じが拭いきれないんですの――あの人形はわたしたちの手には負えないんじゃないかって」
「なんですって? あのぼろ切れのかたまりが?」
「ええ、あのいやらしい、ぐんにゃりしたぼろ切れのかたまりが、です。なぜかって、あのとおり、意志が強そうですし」
「意志が強そう?」
「つまり、自分の思いどおりにするということですわ。おわかりでしょう? この部屋はいまでは|彼女の《ヽヽヽ》ものですのよ!」
「そうね、そう言われればそのとおりだわ」アリシアは周囲を見まわしながら言った。「いえ、考えてみると、はじめからそうだったのよ――雰囲気といい、色のとりあわせといい、すべてが……わたしは彼女がこの部屋に調和していると思ってたけど、じつは部屋のほうが彼女に調和してるんだわ。そりゃあね」と、洋裁師はこころもちきびきびした口調になって、「理性的に考えればばかげてるわよ――人形があらわれて、こんなふうにすべてを支配しちゃうなんて。なにしろね、あなた、グローヴズ夫人はこの部屋の掃除を断わってきたのよ」
「人形がこわいっていうんですか?」
「さあ。なんだかんだと口実はつけてましたけどね」アリシアは言って、きゅうにあわてたようにつけくわえた。「ねえ、どうしたらいいのかしら、シビル? わたし、すっかりまいっちゃったわ。もう何週間も、ぜんぜんデザインがまとまらないのよ」
「わたしも裁断に集中できませんの」シビルは白状した。「つまらないミスばっかりして。ひょっとしたら」と、自信なげにつけくわえて、「心霊現象の研究家に調査を頼むっていうあなたのお考え、悪くないかもしれませんわね」
「だめよ、わたしたちがばかみたいに思われるだけだわ」アリシア・クームは答えた。「あのときはああ言ったけど、べつに本気でそうするつもりはなかったのよ。しばらくはこのままようすを見るしかないんじゃないかしら」
「いつまでですの?」
「さあね、わからないわ」アリシアは言って、いくらかとってつけたように笑った。
翌日、出勤してきたシビルは、仮縫室のドアに鍵がかかっているのを見つけた。
「クームさん、ここの鍵をお持ちですか? あなたがゆうべ鍵をおかけになりましたの?」
「そうよ」アリシア・クームは答えた。「わたしがしめたの。ずっとこのままにしておくつもりよ」
「どういうことですの?」
「つまり、この部屋はもう使わないつもりなの。人形に明けわたすわ。二部屋も必要ないし、仮縫いにはこっちを使えばいいんですもの」
「でもそこは、あなたの私用の居間でしょう?」
「ええ、でももういらないわ。私用にはりっぱな寝室があるし、あそこを居間兼用にすればすむことよ」
「要するに、もう二度と仮縫室にははいらないってことなんですか?」シビルはあきれたように問いかえした。
「まさにそのとおりよ」
「でも――お掃除はどうしますの? ほうっておいたら埃がたまるばかりですわよ」
「それでもいいじゃない!」と、アリシア・クームは言った。「この部屋が人形に占領されているんなら、それでも結構――くれてやるわ。お掃除だって勝手にすればいいのよ」それから彼女はつけくわえた。「なにしろ、わたしたちを憎んでいるんですからね、あいつは」
「なんですって?」シビルは言った。「あの人形がわたしたちを憎んでいるとおっしゃいますの?」
「そうよ」アリシアは答えた。「あなたは気がつかなかった? 当然気がついたはずよ。あれを見たときにわかったはずよ」
「そうですわね」シビルは思案ぶかげに言った。「たしかにそうかもしれません。そういう感じ、はじめから心のどこかにあったような気がしますわ――あれがわたしたちを憎んでいて、わたしたちをこの部屋から追いだしたがっているって感じが」
「あいつは心がねじけているのよ。まあいずれにしろ、いまは満足しているでしょうけどね」アリシア・クームは言った。
それからは、多少平和な日々がつづいた。アリシア・クームは店のもの一同に、当分仮縫室の使用を中止すると告げた――部屋数が多すぎて、掃除に手がまわりかねるというのが理由だった。
ところが、親の心子知らずというのか、そのおなじ日の夕方、彼女はお針子たちがこんな内緒話をしているのをもれ聞いてしまったのだ。
「ほんとに近ごろおかしいわよ、先生は。あたし、前からへんだと思ってたんだ――しょっちゅうものはなくすし、物忘れはひどいし。でも、いまのはちょっと度が過ぎるわよ。あの人形にとりつかれちゃったんじゃないかしら」
「まあいやだ、まさかへんなことをしでかしたりしないでしょうね」もうひとりのお針子が言った。「たとえば、あたしたちにむかってナイフをふりまわすとかさ」
彼女らはぺちゃくちゃしゃべりながら通り過ぎてゆき、アリシア・クームは憤然として姿勢を正した。このわたしを気ちがい呼ばわりとは! だがそのあとすぐに、肩を落として、こうつぶやいた。
「でしょうね。シビルがいなかったら、わたし自身、自分の頭がおかしくなりかかっているって思ったでしょうから。でも、シビルとわたし、それにグローヴズ夫人までということになると、これには|なにか《ヽヽヽ》あると思わざるを得ないわ。といっても、これから先これがどうなっていくのかは、わたしにも見当がつかないけど」
三週間たったある日、シビルがアリシア・クームに言った。
「わたしたち、|いつかは《ヽヽヽヽ》あの部屋にはいってみなきゃなりませんわ」
「どうして?」
「どうしてって、だいぶよごれているでしょうから。虫もわいてるでしょうしね。一度はいって、お掃除して、またしめきっておけばいいじゃありませんか」
「わたしとすればね、こうしてしめきったままにして、二度とはいりたくない気持ちなのよ」アリシア・クームは言った。
シビルは言った。「まあ驚いた。ほんとうにあなたったら、わたしよりももっと迷信家なんですのね」
「かもしれないわ。あなたよりもこういったことを信じやすい精神状態にあったんでしょうね、たぶん。でもね、そもそもわたしは――その――ある意味でこれをおもしろいと思っていたはずなのよ。それが――わからなくなってしまったわ。とにかくわたし、こわいの。できれば二度とあの部屋にはいりたくない気持ちなのよ」
「そうですの。でもわたしははいってみたいし、そうするつもりですわ」
「まあシビル、いったいあなた、どうしたの? ただ好奇心からそう言ってるみたいだけど」
「そう言われるなら言われてもかまいませんわ。とにかくわたし、人形がどんなことをしでかしてるかを見たいんです」
「わたしはやっぱりこのままにしといたほうがいいと思うわ」アリシアは言った。「いまじゃわたしたちを部屋から追いだして、人形は満足してるところでしょ。だったら満足させといたほうがいいんじゃないかしら」それから彼女は、憤ろしげに溜息をついた。「それにしてもわたしたち、なんて愚劣なことを言いあってるのかしらねえ!」
「そうですわ、愚劣なことはよくわかっています。でも、これ以上愚劣な話をなさりたくなかったら――さあ、クームさん、鍵をお渡しくださいな」
「わかったわよ、わかりましたったら」
「きっとあなたは、わたしが人形を部屋からほうりだすかどうかすると思ってらっしゃるんでしょうね。わたしに言わせれば、あれは自由にドアや窓を通り抜けられるんじゃないかと思いますけど」
シビルはドアの鍵をはずし、なかにはいった。
「まあ、へんですわね」彼女は言った。
「なにがへんなの?」アリシア・クームは彼女の肩ごしにのぞきこみながら言った。
「ほとんど部屋に埃がたまっていませんのよ。どうしてでしょう、これだけ長いあいだしめきってあったのに――」
「そうね、たしかにへんだわね」
「ああ、あそこにいますわ」
人形はソファの上にいた。以前のようにぐったりもたれかかっているのではなく、クッションを背中にあてがって、まっすぐ坐っていた。そのようすには、客を迎えようとしている一家の女主人といったおもむきがあった。
アリシア・クームが言った。「ねえごらんなさい。まるで自分の家にいるようにくつろぎきってるわ。なんだかこっちが無断ではいりこんだお詫びを言わなきゃならないみたい」
「行きましょう」シビルが言った。
彼女はあとずさりして、ドアをしめると、ふたたび錠をおろした。
二人の女は顔を見あわせた。
「知りたいものだわ――なぜあれがわたしたちをこれほどまでにこわがらせるのか……」と、アリシア・クームが言った。
「でもクームさん、こわがるのは当然じゃありません?」
「いえね、わたしの言いたいのは、結局なにがあったのかってことよ。なにも起こってやしないじゃないの――ただおかしな人形が部屋のなかを動きまわるだけ。いえ、動くのは人形それ自体じゃないかもしれない――ポルターガイストのしわざなんだわ」
「そういうこともありえますわね」
「ええ。でも実際は信じてるわけじゃないのよ、そんなこと。やっぱり問題は――あの人形よ」
「ほんとうにあれがどこからきたのか、お心あたりがないんですのね?」
「見当もつかないわ」アリシアは答えた。「それに、考えれば考えるほど、買ったんじゃないし、もらったんでもないっていう確信が強くなってくるの。あれは――そう、ただどこからかやってきたんだわ」
「じゃあ、いつかまた――ふらりといなくなることもありうると?」
「いえ、正直なところ、そういうことはまずないと思うわ……だって、ほしいものはここでなんでも手に入れてるんですもの」
しかしどうやら、その人形は、望むものすべてを手に入れているわけではないらしかった。その翌日、なにげなくショウルームへはいっていったシビルは、思わずあっと声を呑んで立ちすくんだ。それから、われにかえって、上にむかって呼んだ。
「クームさん、クームさん、ちょっと降りてきてくださいな」
「なんなの?」
朝寝坊をしていたアリシア・クームは、右膝のリューマチのせいで軽いびっこをひきながら、そろそろと階段を降りてきた。
「いったいどうしたっていうの、シビル?」
「見てください。ほら、あれを見てください」
二人はショウルームの入り口に立ち止まった。そこのソファの上に、肱かけにゆったりともたれて、例の人形が坐っていた。
「出てきたんですわ」シビルが言った。「『あの部屋から出てきたんですわ』。きっとこの部屋も占領するつもりなんです」
アリシアは戸口の脇にへたへたと坐りこんでしまった。「最後には、この店ぜんぶを手に入れる気なんでしょうね」
「きっとそうですわ」シビルも言った。
アリシア・クームは人形にむかって話しかけた。「あんたときたら、陰険で、狡猾で、じっさい胸が悪くなるわ。なにが目的でここへやってきて、わたしたちをこうまで苦しめるの? あんたなんかに用はないのよ、こっちは」
このとき、人形がほんのわずか動いたように彼女には――そしてシビルにも――見えた。その姿勢がさらにゆったりとくつろいだようだった。長いぐんにゃりした片腕は、ソファの肱かけにのっており、なかば隠れた顔は、その腕のかげからそっとのぞいているかのようだった。それはいかにも狡猾そうな、意地の悪そうな目つきだった。
「いやらしいやつ」と、アリシア・クームが言った。「もう我慢できないわ! もう一瞬たりとも我慢できない!」
そしていきなり、シビルがあっというまもなく、彼女は部屋を横切って、人形をとりあげると、窓に駆けよって、それをあけ、人形を外の通りにほうりだした。
「まあ、アリシア、とんでもないことを! なんてことをなさいましたの!」
「なにかしないではいられなかったのよ」アリシア・クームは言った。「もうとても我慢ができなかったの」
シビルは彼女の立っている窓ぎわへ駆けよった。下の舗道に、人形は手足をだらりとさせ、顔を下にして横たわっていた。
「彼女を|殺して《ヽヽヽ》おしまいになりましたのね」と、シビルは言った。
「ばかなこと言わないで……ビロードと絹、ぼろとがらくたでできているものを、どうして殺したりできるの? あれは生きものじゃないのよ」
「でも、恐ろしいことに、それが生きているんですわ」シビルは言った。
アリシアがはっと息を呑んだ。
「まあたいへん。あの子――」
小さな、みすぼらしいなりをした女の子が、舗道の人形のそばに立っていた。彼女は通りの左右を見まわした。通りには何台かの自動車が走っていたが、朝のこの時間なので、それほど人通りは激しくなかった。左右をたしかめて安心したのか、女の子はかがみこんで人形を拾いあげると、通りを横切って走りだした。
「待って! お待ちなさい!」アリシアが大声をあげた。
それから彼女はシビルのほうに向きなおった。
「あの子に人形を渡すわけにはいかないわ。ぜったいにだめよ! あの人形は危険なんだから――魔性のものなのよ。なんとかしてあの子をひきとめなくちゃいけないわ」
だが、その子供を止めたのは彼女たちではなく、車だった。折しも通りのいっぽうから、タクシーが三台走ってき、反対側からは商店のトラックが二台やってきたのだ。子供は道路中央の安全地帯で立ち往生してしまった。シビルは大急ぎで階段を駆けおり、アリシア・クームもあとを追った。一台の配達用トラックと自家用車のあいだをすりぬけて、シビルと、そのすぐうしろにつづくアリシアとは、どうにか子供が反対側の車線にとびだす前に安全地帯にたどりついた。
「そのお人形、持ってっちゃだめよ」と、アリシア・クームは言った。「おばさんにかえしてちょうだい」
子供は彼女を見あげた。痩せこけた八歳ぐらいの少女で、軽いやぶにらみだった。きかん気らしい顔で少女は言った。
「なんでかえさなくちゃいけないの? おばさん、窓から捨てたくせに――あたい見てたんだから。捨てたものなら、おばさん、いらないんでしょ。だからこれ、もうあたいのものよ」
「あんたにはべつのお人形を買ってあげるわ」アリシアはしどろもどろに言った。「これからおもちゃ屋さんに行って――どこでもあんたの好きなお店に行って、売ってるなかでいちばんすてきなお人形を買いましょう。だからね、それはおばさんにかえしてちょうだい」
「いや」女の子はにべもなく言った。
その腕は、保護するようにビロードの人形をしっかり抱きしめていた。
「それはあげられないのよ」シビルが言った。「あんたのものじゃないんですからね」
彼女が人形をとろうとして手をのばすと、とたんに少女は地団駄を踏み、くるっと向きなおって、二人にむかってわめきたてた。
「いやよ! いや! いや! これはあたいのお人形なんだから。このお人形が好きなのよ。おばさんたちは嫌いなんじゃない。嫌ってるんだわ。嫌いじゃなかったら、窓からほうり投げたりなんかしないはずでしょ! あたいは好きなのよ。この子もそうしてもらいたがってるのよ。かわいがってもらいたいのよ」
そう言うなり、女の子はまるでうなぎのように走る車のあいだをすりぬけ、通りを横切って、向こう側の横町へ駆けこんでしまった。そして、二人の女が車をよけてあとを追おうかどうかきめかねているうちに、女の子の姿は見えなくなった。
「行っちゃったわ」アリシアがつぶやいた。
「あの人形はかわいがってもらいたかったんだって言ってましたわね」シビルが言った。
「かもしれないわ」と、アリシアが言った。「おそらくそれが、あの人形の最初から望んでいたことだったのね……かわいがってもらうことが」
繁華なロンドンの街路のまっただなかで、二人の女は、と胸をつかれて顔を見あわせたのだった。 (完)
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クリスティ論 各務三郎
一九七六年一月十二日、イギリスの推理作家アガサ・クリスティは、ロンドン西郊のウォリングフォードにある自宅ウィンターブルック・ハウスにおいて死去した。享年八十五歳。
一九二〇年「スタイルズ荘の怪事件」で登場して以来、五十六年間に推理小説だけでも長篇六十六冊、短篇集二十冊を発表し、推理小説史上もっともポピュラーで優れた作家の一人であった。
一九二〇年代は、第一次大戦後推理小説がロマンティシズムの殻を破り、場当り的な捜査法を捨てて推論を重視しはじめた時代である。ガストン・ルルーの「黄色い部屋の謎」(一九〇七)やE・C・ベントリーの「トレント最後の事件」(一九一三)のロマンからフリーマン・ウィルズ・クロフツの「樽」(一九二〇)に移行しだした時代なのである。
ジュリアン・シモンズはクリスティの処女作についてこう書いている。「クリスティの第一作は、推理小説《ディテクティヴ・ストーリー》が純粋で複雑なパズルのようにみなされるようになり、登場人物の運命への興味がしだいに不必要であるばかりか望ましからざるものとみなされるようになる時代への先触れであった。(探偵小説の)黄金時代として知られる時代のはじまりであった」
一九五八年に犯罪小説《クライム・ストーリー》論「鏡のなかの顔」を書き、第一級のクライム・ノヴェルは古い道徳劇への現代的解釈を志しており、人間のみにくい欲望を映しだす鏡となっている、と主張した『殺人の色彩』の作者シモンズであるから謎だけが重視されるパズル小説への視線にはやや冷たいものがある。
たしかに一九二〇〜三〇年代は、ハメット、チャンドラーらのハードボイルド作品をのぞけば、パズル小説の<黄金時代>だった。
アメリカにおいては、S・S・ヴァン・ダインの「ベンスン殺人事件」(一九二六)「カナリア殺人事件」(一九二七)「僧正殺人事件」(一九二九)などが博学の伊達男ファイロ・ヴァンス探偵により人気を博し、フレドリック・ダネー、マンフレッド・リーがエラリー・クイーン名義で『ローマ帽の謎』(一九二九)『チャイナ・オレンジの謎』(一九三四)、またバーナビー・ロス名義では、『Yの悲劇』(一九三二)など論理的な謎の構築による作品で読者に犯人当てを挑んでいた。
イギリスでは、フィリップ・マクドナルドが『鑢《やすり》』(一九二四)、イーデン・フィルポッツが『赤毛のレッドメーン家』(一九二二)、当時イギリスに住んでいたディクスン・カーは『夜歩く』(一九三〇)、ドロシー・セイヤーズは『ウィムジー卿乗り出す』(一九三九)、マージェリー・アリンガムは『幽霊の死』(一九三四)……などで活躍しだしたころである。もちろんG・K・チェスタートンのブラウン神父も活躍中だった。
しかし、彼らのハイタイムは一九二〇〜三〇年代にとどまった。そしてアガサ・クリスティだけが六〇年代までおどろくほどの創作意欲を発揮しただけでなく、推理小説史上に残るパズル・ストーリー何篇かを発表したのだ。
あえて一九七〇年代とはいわない。たしかに一九七〇年の八十歳記念出版となった『フランクフルトへの乗客』で以前にましてクリスティの時宜的なポピュラリティーは高まったが(六〇年代のスパイ・スリラー・ブームへの反動は見逃せない)、クリスティにしては水準作以下だったし、『象は忘れない』(一九七二)『運命の裏木戸』(一九七三)と衰弱してゆき、一九四〇年代というクリスティの筆力旺盛時に書かれたはずの遺作『カーテン』(一九七五)『スリーピング・マーダー』(一九七六)も驚異的な販売部数は別として、その内容はクリスティ・ファンを喜ばせる域にとどまった。
それにしても七十五歳にして『バートラム・ホテルにて』(一九六五)を、また『親指のうずき』(一九六六)の秀作を発表したクリスティのゆたかな想像力と筆力にはまったく驚嘆するほかはない。当時カー、クイーンとも(スタウトとまではいわないが)、過去の筆力は失われていたのである。
なぜクリスティだけが読者の乾いた心をしっとりと濡らすみごとな間歇泉を半世紀余にわたって噴きあげることができたのだろうか?
その一つの答えは、すでに出ている。『毒入りチョコレート事件』(一九二九)の作者(アンソニー・バークリー)であり、『殺意』(一九三二)の作者(フランシス・アイルズ)でもあるアンソニー・バークリー・コックスは、自作(一九三〇)の序でこう述べているのだ。
「筋だけにすっかりたよりきって、人物や文体やユーモアさえもつけ加えてないふるい犯罪パズルだけの時代は、見直されねばならない。そして探偵小説は、探偵や犯罪の興味をもち、だが、『数学的な興味以上に心理的に読者をひきつけておく小説に、発展しつつあるのだ』。パズルという要素は疑いもなくのこるだろう。だが、それは時や場所、動機、機会の謎というより、人物性格の謎となるだろう」(H・ヘイクラフト『探偵小説・成長と時代』林峻一郎訳)
倒叙推理というフリーマンの発見した手法によって作品を書こうとしていたアイルズならではの弁だが、『 』の個所に留意していただきたい。クリスティは|犯人探し《フーダニット》の手法を堅持し(時に自在に破り)ながらも心理的に読者を物語世界に引きこむだけの技法に長けていたのである。
中期にいたるまでは、ヘイスティングズ大尉が、作者や読者が想起する以上に記述者としてすぐれたワトソン役をはたしていた(「あの男の消息を聞かなくなってからもう長くなる。南米なんかに埋もれに行くなんて、ばからしいことをするものだよ」と『複数の時計』でポワロにいわせているが、わたしなど、愛想もないミス・レモン秘書よりはるかにヘイスティングズを愛している)。
ワトソン役は決してほろぼしてはならないものである。ジュリアン・シモンズなど「あきれるほどおろかなワトソン役」と軽蔑しているが、それだからこそ読者は安心してポワロの冒険譚にひたることができたのである。ポール探偵がメイスン弁護士の命令に先んじて犯人をいぶり出す罠をしかけたり、アーチー青年がウルフ探偵の鼻をあかして犯人を西三十五丁目の事務所に連行してきたりすれば、名探偵どころか読者のほうこそいい面の皮である。
物語とくに冒険譚に記述者がいなければ、英雄は自己宣伝をするはめにおちいってしまう。それでなくとも偉大なる人物には伝記作者がつきものなのである。論語は孔子の弟子たちによって編集されたし、ソクラテスの教説は、プラトン、アリストテレスによって明らかになった。かのキリストを見よ……などの冗談はさておき、ヘイスティングズ大尉は仲々の記述者であり、ポワロを見る目にも厳しい面がある。
もちろんポワロ探偵の設定もいい。ベルギーの避難民である元警察人が言動においてつねにはなはだイギリス人らしからぬというのも読者の心をくすぐる。エヴェレストを征服して |It was nothing《べつにどうってことじゃない》 とほざかれるより、「この偉大なるポワロだからこそやれたのです」と見得をきってくれるほうが、成功物語《サクセス・ストーリー》を読むこちらとしても気分がよろしい。
ジョージ・ミケシュのスケッチ『英国人入門』を読んだとき思わず吹きだした。忍耐と控え目が徳目であるイギリスの不思議を皮肉っているのだ。演説家はドモリであり、教養を示すセリフは無学な人間であり、食事ではテーブル・マナーを食べ、めったに嘘をつかないが決して真実を話さず、結婚したいときには「あのねえ……だめかなあ?」ともぞもぞいわねばならぬ国。「二たす二は四」という断定はあくまでも個人的見解にすぎず、数学教授でさえ声高に主張してはならないのだ。
たしかに大陸人ポワロとは正反対の性格のようだ。ポワロが英国に帰化しても耐えられるのは、このジャーナリストの吐いた有名な箴言「大陸の人間には性生活がある。英国人には湯タンポがある」だけだろう。ポワロだったら控え目な湯タンポが怒って爆発するまで放っておくにちがいない。
だからこそポワロは、<寛容>なイギリス人からも愛されることができた、といえる。ポワロの捜査ぶりには異邦人らしからぬ、というよりもジェントルマンにふさわしいところがある。有名なパブリック・スクールの教育が禁忌としている「フェア・プレーの精神に反するな」「他人の弱点につけこむな」「告げ口をするな」「抑制心を放棄するな」「弱いものいじめをするな」「裏切るな」などの戒目に従っている――つまり風変わりではあるけれども決して精神の内側までアンチ・ジェントルマンでないからこそ、ポワロ探偵は英国の全階層に受け入れられることができたのである。
ポワロがイギリス社会の秩序の信奉者であり、性善説を信じていたのに反し、田舎村セント・メリー・ミードに住む老嬢ジェーン・マープルの精神には端倪すべからざるものがある。アッパー・ミドル階級に属するミス・マープルは階級特有の人生観の持主なのである。桜色の頬をした色白の感じのいいおばあさんで、ヴィクトリア朝風の生活を送っているくせに人間の邪悪な精神をすべて知りつくしている。
わたしたちは、古めかしい椅子にちょこんと腰をかけて編物をしているおだやかな目つきの彼女が、実は性悪説の持主だとさとって一瞬ぎょっとなる。たぶん昔は恋人もいたのだろうが、同じ階層の青年でなかったために独身を通さざるを得なくなった(はずの)彼女は、「悪事を企む人」にだけ敏感である。
はしなくも彼女の信仰《ヽヽ》は『ミス・マープルと十三の謎』における絵解きで暴露される。人生を冷徹する老女と称えられるべきか、「金棒引きの婆さんめ!」とおとしめられるべきか? クリスティは、マープルの目を通してイギリス特有の田園風景と生活(とくに料理や園芸についての)をあざやかに書きしるす。サタースウェイト氏やパイン探偵は、人生ドラマの傍観者でありすぎるむきもあり、人物設定としてユニークな役割であるのにやや影が薄いのは、あまりにも人間を信じすぎるせいだろう。
わたしがミス・マープル物語を愛読するのは、わたし自身の俗物性によるところがある。特に『牧師館の殺人』(一九三〇)で女主人公ぶりを発揮しているものの、実質的に初登場する短篇「火曜の夜のつどい」(一九三二)で、各界有名人に雑魚の|とと《ヽヽ》まじりで参加し、あざやかに諸説を論破してみせるシーンなどとても気に入っている。
『うさ晴らしにもってこいのもの』だとさとって探偵小説に筆を染めたクリスティの言葉を思い起こすと、人生も捨てたもんじゃないと心明るむのを感じる。
クリスティ作品は、『犯人はもっとも犯人らしからざる人物に決まっているからつまらない』という意見がある。だが、『犯人がもっとも怪しい人物』であるミステリよりよほど安心して読めるのではなかろうか?
わたしたちがクリスティに惹かれるのは、この『安心感』なのだ(そして、クリスティ自身の保守的精神なのである)。彼女がパズル小説での謎の組み合わせに凝ってみたり、パズル小説における謎の本質性とは何か? を心理面から洗い直して、まるで既成品とは見えない新製品に仕立て直す苦労をしているあいだ、わたしたちは腹を空かして待っている――そして、イギリス社会の上層階級の悪事が暴かれてゆくのを快く眺めながら、彼ら階層が金と時間をかけて造りだした美しい緑の芝生と季節に応じて乱れ咲く庭の花々や、チッペンデール、アダム、ヘッペルホワイトなどの時代物の家具その他もろもろの室内装飾品・食器などを嘆息をつきながら楽しむのである。そこには、すくなくとも数百年来変化を肯んじない世界がある。クリスティは時代風俗の変遷に瑣末な部分をそよがせながらも、決して中心舞台を変えようとしなかった。庶民的感覚からすれば『古き良き時代とその遺産』と受けとめやすい世界で人生のメロドラマを展開させてきたのである。
『ベンスン殺人事件』を発表した翌年、ウィラード・ハンティントン・ライト(S・S・ヴァン・ダイン)は、アンソロジーの序文でこう書いた。
「(ポワロが)登場する物語は、しばしばひどく人工的で、扱う謎もこじつけの感が強いので、現実感が失われてしまい、したがって解決への興味も損なわれている」(田中純蔵訳)
ライトは、ポワロがブラウン神父やフォーチューン探偵より現実感がないと批難したあと、こう述べている。つまり架空世界であることがいけないといっているわけだが、同アンソロジーに選んだポーの「モルグ街の殺人」、ドイルの「ボスコム峡谷事件」、ポーストの「わらの男」などと比較してみれば、彼の意見が公正でないことにわたしたちは気づくはずである。
アメリカにおけるパズル小説の骨格がヴァン・ダインによって形成され、クイーンによって肉付けされたというフランシス・ネヴィンス・ジュニアの意見は正しいと思われるが、ヴァン・ダイン自身の物語は登場して十年後には、かったるい作品として読者から見放されてしまった。物語展開をヴァンス探偵のくだくだしいペダントリーが邪魔したことも理由の一つにあげられるだろう(イギリスに生れなかったのがヴァン・ダインの悲劇だった)。
ボワロー、ナルスジャックは『推理小説論』(一九六四)のなかでクリスティについてこう述べた。「筋の展開の緊密さと、今日でもなお手本となりうるような構成の簡潔さがある。彼女の作品のレントゲン写真を撮れば推理小説の立派な常套手段が明かされるだろう」
推理小説とは、悪への恐怖を描くものであり、読者は捜査が進む段階において謎への好奇心と事件への恐怖を結合させて満足する、という彼らは、クリスティの物語る力強さがいかなるものか理解しようとはしない。描かれる事象にただ初めから目をつぶり退屈しようとしている。型通りに人物が動き、対話することが読者を毒するものと信じこんでいる。
しかしながら読者がクリスティに望んでいるのは、変わってはならない型通りの小説における、型通りの殺人事件(いかなるヴァリエーションがあろうと)と型通りの真相の暴露であるのを、彼らは理解しようとはしない。クリスティの創造した探偵たちが架空人物であることを知り、血なまぐさい事件がいかに読者の生活から遠くへだたった世界のできごとかを知っているからこそ、安んじて読者の生活の一部を彩る読物になっていることを、彼ら、ボワローとナルスジャックは理解しようとはしないのである。
おなじことを一九二九年にマージョリー・ニコルソン女史が苦々しげに語っている。フロイト心理学の毒に犯された学者たちが、不毛の日常生活から逃避するために推理小説を読むと理屈づけるのに「探偵小説はたしかに逃避となるのである。しかし、それは、人生からの逃避ではなく、文学からの逃避である」と心理主義小説の不毛を皮肉りつつ、「探偵小説愛好家のすべてが知っているように、本物の探偵小説の魅力は、その徹底的な非現実性にある」と、推理小説を日常生活にとりこもうとした。
彼女ほど事件の真相究明に熱心でないわたしは、登場人物表をざっと見たうえ、この男(女)なら犯人になっても物語の世界がぶちこわしになるまい、と考えてごく受身な姿勢で読んでいる。かつての少女小説は、たいてい誰か病気や事故で死ぬと決まっていたが、ふしぎにその人物の性格・境遇は一致していた。|ご都合主義な物語《フォーミュラ・ノヴェル》の楽しさは、クリスティの魅力の一つなのである。
そのうえで、もっとも犯人らしくない犯人像を楽しめれば良いのではないだろうか? それでなくともパズル小説を読みなれた読者に事件の真相を隠しおおせるほど、推理作家は魅力的で困難な謎をたくさん作りだせるわけではない。
シャーロック・ホームズは良きライバルであるモリアーティ教授相手に活躍することができたが、クリスティは謎を魅力的な環境(舞台・背景・登場人物)で飾ることができた。換言すれば、状況《ヽヽ》こそポワロ、ミス・マープル、クィン、ベレスフォード夫妻たちの敵対していた(善き)ライバルであった。わたしたちの解く事件の真相は状況のなかにある。囲碁の問題集でいうなら、局面を見わたして、「五目中手」か「ハネ殺し」か「石の下」か、鉄柱をおろすか、マゲツケるか……その後の局面の変化は? ととぎすまされた感覚で察知すべきなのである(発陽論や官子譜などのむずかしい問題だったら、さっさと専門家に答を教えてもらうに限るだろうが)
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クリスティのベスト作品
一 クリスティ自選(数藤康雄氏の質問に対する順不同の回答)
『そして誰もいなくなった』
『アクロイド殺人事件』
『予告殺人』
『オリエント急行殺人事件』
『ミス・マープルと十三の謎』
『ゼロ時間へ』
『終りなき夜に生れつく』
『ねじれた家』
『無実はさいなむ』
『動く指』
二 ウィンタブルック・ハウス通信による総合得点ベスト20(一九七一)
『そして誰もいなくなった』
『アクロイド殺人事件』
『予告殺人』
『ABC殺人事件』
『オリエント急行殺人事件』
『ミス・マープルと十三の謎』
『ナイルに死す』
『葬儀を終えて』
『ゼロ時間へ』
『スタイルズ荘の怪事件』
『白昼の悪魔』
『三幕の悲劇』
『愛国殺人』
『ポケットにライ麦を』
『親指のうずき』
『パディントン発4時50分』
『謎のエヴァンズ』
『蒼ざめた馬』
『秘密機関』
『鏡は横にひび割れて』
三 タイムズ文芸附録(一九七〇)
一九二〇年代 『アクロイド殺人事件』
一九三〇年代 『牧師館の殺人』『オリエント急行殺人事件』『ABC殺人事件』
一九四〇年代 『杉の柩』『書斎の死体』
一九五〇年代 『マギンティ夫人は死んだ』『ポケットにライ麦を』
一九六〇年代 『蒼ざめた馬』『バートラム・ホテルにて』
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クリスティ略年譜
一八九〇年 九月十五日、イングランド南西部にあたるデヴォンシャー州トーキーに生れる。アガサ・クラリサ・ミラー。次女。父親はニューヨーク出身のフレドリック・アルヴァー・ミラー。母親クララ・ベーマーはイギリス人。母親の手で教育される。「わたしは家族のなかでとび抜けて幼なかったので、いつもひとりぼっちだった。そのために空想で遊び友だちをこしらえあげたが、ときどき遊びにくる幼友人よりずっと楽しい存在だった」
十一歳のとき父親死亡、十六歳のとき、パリに音楽勉強にいくが、オペラに不向だとさとる。
一九一四年(二四歳) 二年前に婚約したアーチボルド・クリスティ大佐と結婚。イギリス航空隊所属の夫がフランスで参戦中、トーキーの病院で篤志看護婦として働いた。二十九歳のとき娘ロザリンド生れる。
一九二〇年(三〇歳) 推理小説『スタイルズ荘の怪事件』出版。第一次大戦中、姉から挑戦されて書きあげたもので、いくつかの出版社に断わられたすえ、ボドリー・ヘッド社のジョン・レーンが出版した。初版約二〇〇〇、印税二五ポンド。「六冊書いたころには作家となった実感が湧きました」バークシャー州に買った家を『スタイルズ荘』と名づける。
一九二五年(三五歳) 私家版詩集『夢の道』(ジェフリー・ブレス社)。
一九二六年(三六歳) 『アクロイド殺人事件』で、フェア・アンフェアの論議。ヴァン・ダインはアンフェア、ドロシー・セイヤーズはフェア説。母親死亡。
十二月三日、クリスティ失踪。夫の浮気によるためらしい。十一日目にヨークシャーのハロゲイトにある鉱泉療養ホテルで発見。愛人の苗字を使って宿泊していた。記憶喪失症と診断される。
一九二八年(三八歳) アーチボルドと離婚成立。外国旅行にたびたび出発。五月、モートン脚本の『アリバイ』が、プリンス・オヴ・ウェールズ劇場で開幕(はじめてのクリスティ・ミステリーの演劇化)。
一九三〇年(四〇歳) メソポタミアを旅行中、ウルの古代都市調査隊に加わっていたマックス・マローワンと知り合い、九月に結婚。以後、たびたび夫とともにシリア、イラクに出かけるようになる。『ナイルに死す』『メソポタミアの殺人』『死との約束』などは同地に取材した推理小説。
第二次大戦中、従軍した夫の留守中にロンドンの病院で篤志看護婦として働く。後に発表されたポワロとマープルの最後の事件である『カーテン』『スリーピング・マーダー』はこの時期の作品。
一九四六年(五六歳) シリア、イラク紀行であるCome, and Tell Me How You Live を発表(発掘調査に出かける夫に従ったときのものだが、文中に日付けがいっさいないのが特徴。一九三九年の九月か十月ごろロンドンを出発したことが推察できる)
一九五〇年(六〇歳) 五十冊出版記念『予告殺人』。
一九五二年(六二歳) 十一月、『ねずみとり』開演。世界でもっとも長いロングラン興行。
一九五六年(六六歳) ナイト爵に当るCBEを叙勲。レディ・マローワンとなる。アメリカ旅行でメアリー・ロバーツ・ラインハートに会う。
一九五七年(六七歳) タイロン・パワー、マリーネ・ディートリッヒ、チャールズ・ロートン出演、ビリー・ワイルダー監督の映画『検事側の証人』封切。クリスティ自身が気に入った唯一の自作推理の映画化。
一九六八年(七八歳) 夫マローワン、ナイト爵を叙勲。
一九七〇年(八〇歳) 八十冊目の『フランクフルトへの乗客』(冒険スリラー)。
一九七一年(八一歳) 推理小説における業績によりDBEに叙せられ、デイム・アガサとなる。
一九七六年(八五歳) 一月十二日、死去。