アガサ・クリスティ/河野一郎他訳
事故
目 次
うぐいす荘
事故
最後の降霊会
第四の男
うぐいす荘
「いってらっしゃい」
「ああ、いってくるよ」
アリックス・マーチンは、小さな鄙《ひな》びた木戸によりかかり、村の方へ小径を遠ざかって行く夫のうしろ姿を見送っていた。やがて夫は曲り角をまがって見えなくなってしまったが、アリックスは顔にほつれかかる栗色の髪をぼんやりなでつけながら、うっとりと夢みるような眼差しで、いつまでも木戸のところに立っていた。
アリックス・マーチンは決して美人ではなく、またはっきり言って、可憐《かれん》でもなかった。しかしその顔は――もはやういういしい若さこそ消えてはいたが――昔のオフィス時代の同僚も見ちがえるほど、あかるく、なごやいでいた。結婚前のアリックスは、身ぎれいな働き者で、てきぱきと仕事を片づけ、いくらか態度に無愛想なところはあったが、見るからに有能で、実際的な娘だった。せっかくの美しい栗色の髪も、まったくかまわず、放ったらかしのまま、口元も、それほど不恰好ではないのだが、いつもへの字に固く結んでいた。着ているものも、小ざっぱりとした分相応なもので、なまめかしさは薬にしたくも見られなかった。
アリックスは、逆境を経験してきていた。十八の年から三十三までの十五年間、速記タイピストとして自活し、そのうち七年間は、病床についた母親をも養っていたのだ。その娘らしい顔のやさしい線をこわばらせてしまったのは、生きんがための闘いだった。
もちろん彼女にも、ロマンスめいたものはあった。相手は、同じオフィスに働くディック・ウィンディフォードだった。根は非常に女らしかったアリックスは、素振りにこそ見せなかったが、彼が思いを寄せていることは前々から知っていた。しかし、表立っては、ふたりはただの同僚でしかなかった。ディックはその乏しい給料の中から、弟の学資を出しており、とてもまだ、結婚などは考えられなかったのだ。しかし、それでもアリックスは、自分の将来を思うとき、いつかはディックの妻になることを、なかば当然のことと考えていた。たがいに愛しあってはいるのだが、どちらも分別のある同士ゆえ、口に出して言わないだけなのだと彼女はそうひとりで解釈していた。まだまだ時間はあることだし、なにもあわてることはない……。こうして歳月は過ぎ去っていった。
ところが、そうしたところへ降ってわいたように、毎日のつらい勤めから解放される幸運が訪れてきた。遠いいとこが死んで、アリックスに金を遺してくれたのだ――額は数千ポンドであったが、年に二百ポンドの利子が約束されていた。アリックスにとっては、それは仕事からの解放と、人なみな生活と、独立を意味した。もはやふたりは、時機を待つ必要もなかった。
だがディックは、思いがけない態度に出てきた。彼はそれまでも、はっきりと愛情を打ち明けたことはなかったが、事がこうなってからは、前よりもいっそう気乗り薄になったように見えた。アリックスを避け、気むずかしくふさぎこんでしまった。彼女はいち早くそのことに気づいた。彼女が急に資産家になってしまったからなのだ。きっと気がねと、男としての誇りに邪魔をされて、今さら妻になってくれとは言い出しにくいのにちがいない。
しかし、アリックスの方の気持には変りがなかったし、こうなっては、女の自分の方から話を持ち出してみようかとまで考えていたところへ、ふたたび思いがけない運命がふりかかってきた。
とある友人の家で、ジェラルド・マーチンに会ったのである。ジェラルドはすっかり彼女に首ったけとなり、挙句にふたりは、一週間とたたぬうちに婚約をかわしてしまった。自分だけは、決して「一目|惚《ぼ》れをするような女」ではないと思っていたはずの彼女が、すっかりのぼせ上ってしまったのだ。
知らずしらず、彼女は煮え切らぬ以前の恋人の気持を、かき立てることになった。ディックは憤りのあまり、満足に口も利けないありさまで、彼女につめ寄ってきた。
「あの男は、まるで見ず知らずなんだろう? 素姓だって、知れちゃいないじゃないか!」
「愛してることだけはわかっててよ」
「どうしてそんなことがわかるんだい?――一週間ぐらいで」
「愛しているかどうかぐらい、十一年もかけなくたって、わかるのが当たり前じゃないかしら」とアリックスは腹立ちまぎれに嫌味を言った。
ディックは顔色を変えた。
「ぼくは初めて会ったときから、きみが好きだったんだ。きみもぼくのことを愛してくれてるとばかり思ってたよ」
アリックスは正直に打ち明けた。
「あたしもそう思っていたわ。でもそれは、あたしがまだ愛情というものを本当に知らなかったからよ」
それを聞くと、ディックはまた色をなし、すがらんばかり、泣きつかんばかりに懇願し、はては脅迫まで――自分を出し抜いた男に対する脅迫までしてきた。すっかり知りつくしているつもりだった男の、落ち着いた外貌の一枚下に、これほど激しい気性がひそんでいるのを見て、アリックスは驚いてしまった。いささか怖ろしくさえあった……。もちろん、ディックが本気で言ったとは考えられなかった。復讐をしてやるなどと脅しはしたが、おそらくは怒りにまかせて口走ったにすぎないのだろう……。
いまこのうららかに晴れた朝、木戸によりかかりながら、彼女はディックと喧嘩わかれになったあの時のことを思い出すのだった。すでに結婚して一カ月、彼女は牧歌的な幸福感にひたっていた。しかし、大事な夫を送り出すと、ふとまた一抹の不安が、彼女の瑕《きず》ひとつない幸福感の中に忍びこんできた。その不安の原因は、ディック・ウィンディフォードであった。
結婚以来三たび、彼女は同じ夢をみていた。場面こそちがってはいたが、中心となる事実は、三度が三度とも同じだった――夫が死んで横たわり、ディックがそれを見下ろして立っている。そしてディックの手で兇行のなされたことが、まざまざとわかるのだ。
だが、夢そのものの怖ろしさもさることながら、もっと怖ろしいことがあった(怖ろしいといっても、目を覚ましてからの怖ろしさで、夢の中では怖ろしいどころか、ごく自然で、当然なことのように思えていたのだが)――彼女アリックス・マーチンは、夫の殺されたことを喜んでおり、夫を殺した男に向かって感謝の手をさしのべ、ときにはお礼さえ述べているのだ。夢の結末はいつも同じで、ディックの胸にしっかりと抱きしめられるところで終っていた。
夫には、この夢のことはまだなにも話していなかったが、今さらとても打ち明けられぬほど、アリックスは心ひそかに悩んでいた。はたしてこの夢見は、一つの警告――ディック・ウィンディフォードに気を許すなという警告なのであろうか? あの男にはなにか秘密の力がそなわっていて、遠くから自分をあやつろうとしているのではなかろうか? 催眠術のことはあまりよく知らなかったが、意志に反して術はかけられないということは、たびたび聞いていた……
ふと家の中でけたたましく鳴る電話のベルに、アリックスはもの思いから醒めた。家の中へはいり、受話器を取り上げてみた。と、彼女はよろめき、倒れまいと壁に手をささえた。
「え? どなたでいらっしゃいますか?」
「なんだい、アリックス、そんなあらたまった声を出して。人ちがいをするじゃないか。ぼくさ、ディックだよ」
「まあ! で、ど――どこにいらっしゃるの、いま?」
「トラヴェラーズ・アームズ館とかいう旅館だよ――たしかそんな名前じゃなかったかな? それともきみは、そんな宿屋が村にあることも知らないのかい? 休暇を取ったんで――ちょっと釣に出てきたんだよ。どうだろう、今夜夕食後にでも、おふたりをおたずねしちゃいけないかい?」
「いけませんわ。そんなことなさっては」アリックスは鋭い調子で言った。
ちょっと間があり、やがて微妙な変化を感じさせるディックの声が、また話しかけてきた。
「これは失礼したね」とあらたまった言い方である。「もちろんそれなら、お邪魔したりなんかは――」
アリックスはあわてて口をはさんだ。あたしの態度を怪しんでいるにちがいない。たしかに馬鹿なことを言ってしまった。きっと神経がくたびれてるんだわ。あんな夢をみたのも、なにもディックの罪じゃないのに。
「いえ、そんなつもりじゃないの、ただ今夜は――お約束があったものだから」アリックスは、なんとか自然な声を装おうと努めながら弁解した。「わるいけど――あしたの晩にでもきてくださらない?」
だがディックは、彼女の言葉に誠意のこもっていないのに気づいたようだった。
「どうもありがとう」と彼は、相変わらずあらたまった声で言った。「しかし、もういつなんどき出発するかわからないんでね。友人が来次第なんだ。じゃ、さようなら」彼は一たん言葉を切ったが、また急いで、前とはちがった調子で言いそえた――「ごきげんよう、アリックス」
アリックスは、ほっとした気持で受話器をかけた。
「こさせてはいけないわ」と彼女は何度も胸の中でくり返していた。「こさせたりしちゃ。でも、あたしもなんてばかなのかしら! こんなこと勝手に想像したりして。でもやっぱり、こさせないでよかったわ」
彼女はテーブルの上にのった鄙《ひな》びた麦わら帽子を取り、また庭の方へ出ようとして、出がけに玄関のところに彫りつけてある、『うぐいす荘』の名を見上げた。
「とても風流な名前じゃなくて?」とまだ結婚前、彼女は夫のジェラルドに言ったことがあった。夫は笑って、
「きみはまるで町ッ子なんだね。うぐいすの声なんて、聞いたことがないんだろ? しかし、その方がいいさ。うぐいすというのは、恋人たちのために唄うものだからね。いずれ夏の夕ぐれに、わが家の外でふたりして聞こうじゃないか」とやさしく言ってくれた。
そして夫の言葉どおり、ふたりしてその唄声を聞いたときのことを思い出して、アリックスは戸口に立ちながら、しあわせな気持で頬を赤らめた。
この『うぐいす旺』を見つけてきたのは、ジェラルドだった。彼は興奮を抑えきれない様子で、アリックスのところへやってきたものである。なんでも、ふたりにとってうってつけの――またとない――すばらしい――一生に二度とお目にかかれないような、掘り出し物を見つけたというのだ。なるほど、アリックスも一目見て気に入ってしまった。たしかに場所はかなり辺鄙《へんぴ》で、一番近い村からも二マイルは離れていたが、家そのものはすばらしかった。古風な外観に加えて、浴室をはじめ、給湯設備、電燈、電話など、実質的な快適さを十分にそなえているので、彼女はたちまちその魅力の虜《とりこ》になってしまった。だが、そこへ思わぬ障害が起きてきた。金にあかせ、自分の気まぐれのままにこの家を建てた家主が、どうしても貸したくないというのだ。売るのなら売ってもいいという返事である。
ジェラルド・マーチンは、相当な収入を得てはいたが、財源の資本の方には手をつけられなかった。用立てられるのは、せいぜい干ポンド程度だった。家主の方では、三千ポンドの言い値をつけていた。しかし、すっかりこの家が気に入ってしまっていたアリックスが、そこで助け舟を出した。彼女の財産は、無記名有価証券の形になっていたので、たやすく現金に換えることができたのだ。彼女はその半分を、家の購入のためにさし出そうと申し出た。こうして、『うぐいす荘』はふたりのものになったが、アリックスはこの家をえらんだことを、一瞬たりとも後悔したことはなかった。もっとも召使たちは、あまりに場所が辺鄙で淋しいからと、みな二の足をふみ、現にまだ一人も置いていなかったが、長年家庭生活に飢えていたアリックスは、気のきいたご馳走をこまごまと作ったり、家のきりもりをしたりするのを、心から楽しんだ。
草花を一杯に植えた庭は、週に二回村からやってくる老爺が、世話をすることになっていた。また庭いじりの好きなジェラルドは、暇さえあれば庭の手入れに余念がなかった。
いま家の角を曲ったアリックスは、この老爺が、せっせと花壇の手入れをしているのを見て、びっくりしてしまった。というのは、この老爺がやってくるのは、毎週月曜日と金曜日とで、今日は水曜日だったからだ。
「まあ、ジョージ、そこで何をしてるの?」とアリックスは、老人の方へ歩み寄りながらきいた。
老人は、古びた帽子の縁《へり》にちょっと手をあてがい、含み笑いをしながら腰をのばした。
「きっと奥さん、びっくらなさるだろうと思つとりましただ。実はこうなんでさあ。金曜にゃ、地主さんのお邸でふるまいがあるもんで、あっしは自分勝手に思いこんどりましてな、つまり、なんです、いっぺんくれえ金曜のかわりに水曜にうかがったって、マーチンのだんなも、奥さんも、気にはなさるめえって」
「それならちっともかまわないのよ」とアリックス。「せいぜい楽しんでおいでなさいな」
「あっしも大きにそのつもりでおりますだ。腹いっぺえ飲み食いできて、しかもこちとらの腹はいたまねえとくりゃ、こんなけっこうな話はねえですからな。地主さんは、いつもあっしら小作人に、ちゃんとしたお茶をごちそうしてくださいますだ。それにほれ、奥さんがお出かけになるちゅうだから、その前にお目にかかって、花壇をどうなさるおつもりだか、うかがっておくべえと思いましてな。そんで奥さん、お帰りはいつになるか、わかんねえんですかい?」
「でも、あたし、どこへも行く予定はなくてよ」
ジョージは、目を丸くして彼女を見つめた。
「あした、ロンドンさ、お出かけじゃなかったんかね?」
「いいえ。なんでまた、そんなことを考えたの?」
ジョージは、肩越しにぐいとうしろを振り返った。
「きのうだんなに、村でお会いしやしたところ、おふた方ともあしたはロンドンさ行きなさって、お帰りはいつになるかわからんちゅう話でしたがな」
「そんなばかなこと」と、アリックスは笑いながら言った。「きっとおまえの聞きちがえよ」
しかしそうは言ったものの、老人にこんな奇妙なまちがいを信じこませるとは、一体ジェラルドもどんなことを話したのだろう、と彼女は怪訝《けげん》に思った。ロンドンへ行くって? 二度とロンドンヘなど、行きたいと思ったことはないのに。
「ロンドンなんて、見たくもないわ」とアリックスは、いきなり噛んで吐き出すように言った。
「そうだかね!」とジョージは別段驚きもしなかった。「そんじゃ、あっしの聞きちがいだろうて。だけどだんなは、はっきりそう言っとられたようだったがね。ともかく奥さんが、お行きにならんと聞いてほっとしやしただ――あっしはちかごろみてえな遊びあるきにゃ反対でしてな、ロンドンなんてとこへは、行きてえと思ったこともねえです。あんなとこさ、行く用もねえし。なにしろあのどえれえ自動車じゃ――どうにもなるもんでねえ。だいたい自動車てえのは、いちど手に入れたがさいご、じっとしておられなくなるもんらしいて。それ、せんにこのお邸を持っとったエイムズのだんな――自動車をお買いになるまでは、ほんにお人のええ、おだやかなお方じゃったが、自動車を買われてひと月とたたんうちに、さっそくこのお邸を売りに出されちもうてな。ずいぶんたんと、ぜにをお使《つけ》えになったちゅうによ、やれ寝室にゃぜんぶ水道をひくわ、やれ電燈だの、やれなんだのて。あっしゃだんなに言うてやっただ、『だんな、そんなことなすっちゃ、ぜにをすててるみてえなもんだ。そう言っちゃなんだが、邸じゅうの部屋で風呂にはいりてえなんて物好きゃ、そうたんといるわけでねえから』ってな。ところが、だんなの言い分がいいや、『ジョージ、この家は二千ポンドにびた一文かけたって売らないからね』だと。それがどうだね、とうとうそのとおり売っちまわれたがな」
「三千ポンドだったのよ」と、アリックスは微笑しながら言った。
「いんやあ、二千でしただ」とジョージはくり返した。「あの当時、村で評判になったもんだ。えらいいい値だちゅうて」
「でも、ほんとに三千ポンドだったのよ」
「ご婦人がたあ、ぜに勘定にゃお弱いもんだで」とジョージは負けていなかった。「まさかエイムズのだんなが、奥さんの目の前で、ずうずうしく三千よこせなんて、おっしゃったわけじゃありますめえ」
「あたしが聞いたんじゃないのよ。主人にそう言われたの」
ジョージはまた花壇にかがみこんだ。
「やっぱし、二千だったで」と彼はなおも強情に言い張った。
アリックスもそれ以上、老爺を相手に言い争う気にはならなかった。ずっと端の方の花壇へ行って、両手にかかえられるだけ花をつみ始めた。明かるい陽ざし、かぐわしい花の匂い、いそがしげに飛びまわる蜜蜂の鈍い羽音――それらがみな一つになって、この日をすばらしいものにしていた。
つみとった匂いのいい花束をかかえ、家の方へ戻りかけたとき、アリックスは小さな濃緑色のものが、花壇の葉の合間からのぞいているのに気がついた。かがみこんで拾い上げてみると、夫のメモであった。草とりでもしている間に、ポケットから落としたのだろう。
アリックスは中をあけ、いくらか興味を覚えながら、パラパラとページをくってみた。ふたりの結婚生活のすべり出しから、彼女はあの衝動的で感情的なジェラルドに、およそ不似合いな、几帳面で規則正しい一面のあることに気づいていた。三度の食事も、時間がひどくうるさかったし、毎日の予定も、前もって時間表のようにきちんと決めておくのだ。たとえば今朝なども、朝食をすませたあと、十時十五分に村へ出かけると言っていたかと思うと、事実、十時十五分きっかりに家を出ていった。
何気なくめくっているうち、彼女には五月十四日の日付けのところに書きこまれた覚え書を見て、微笑ましく思った。『アリックスと結婚。セント・ピーター教会にて。二時半』と書かれてあった。
「おかしな人ったら」アリックスはページをくりながら、思わずつぶやいた。
と、ふと彼女は手を止めた。
「『六月十八日、水曜』あら、今日だわ」
その日付けのところには、ジェラルドの几帳面な字で、『午後九時』と書いてあった。そのほかには何も書いてない。いったいその時刻に、何をするつもりなのだろう? もしこれが、オフィス時代よく読んだ小説のたぐいなら、このメモから、きっと驚くべき事実が明るみに出るところだ――そう思って、彼女はひとり笑ってしまった。きっと、隠し女の名でものっているところだ。アリックスは前の方のページも、ぱらぱらとくってみた。日付けや、会合の約束や、商売上の取引に関する秘密の心覚えなどが書きこまれていたが、女の名前はただ一つ――彼女自身の名だけしか見当らなかった。
しかしそれでも、メモをポケットに入れ、花をかかえて家のほうへ歩いてゆきながら、アリックスは漠然とした不安を感じていた。あのディック・ウィンディフォードの言葉が、まるでいま耳元でささやかれているように、甦《よみがえ》ってくるのだった――『あの男は、まるで見す知らずなんだろう? 素姓だって、知れちゃいないじゃないか!』
まったくその通りであった。いったいあの男について、何を知っているというのだろう? なんと言っても、ジェラルドはもう四十になる男だ。四十にもなれば、女出入りの一つや二つはあったにちがいない……。
アリックスはじれったそうに身震いした。こんなことを考えていてはいけない。今すぐ片づけねばならない大事な問題があるのだ。ディック・ウィンディフォードから電話のあったことを、夫に打ち明けるかどうかという問題だ。
すでに夫が、村でディックに出会っているということも考えられる。しかしもし会っていれば、夫は戻り次第そのことを話すだろうし、問題は彼女の手を離れることになる。だが、もしまだだとすると――どうしたものだろう? アリックスは、夫には黙っていたい気持を強く感じた。ジェラルドは、つねづねディックに対しては好意的なところを見せており、いつかも、「かわいそうにな。ぼくに劣らず、きみに夢中だったろうに。振られたとは運の悪い奴だ」と言っていたことがあった。しかし、アリックス自身の気持には、まったく疑いを抱いていないようだった。
もし夫に話せば、なんで呼ばないのかと言うにきまっている。だがそうなると、ディックの方から来たいと言い出したことを話し、口実をもうけてこさせないようにしたことも、説明しなくてはなるまい。そして、なぜそんなことをしたのかと訊かれたら、どう返事をすればいいのだろう? 例の夢のことを話したものだろうか? いや、ただ笑われるだけが関の山だろう――それどころか悪くすると、夫の方では気にもかけていない昔のことに、アリックスがまだこだわっていることを見すかされてしまうおそれもある。そうすれば夫からは――ああ、どんな邪推をされるかわからない!
結局彼女は、いくらか後ろめたい気持ちを覚えながらも、口をつぐんでおくことに心を決めた。夫に隠しごとをするのは、これが初めてであり、そう思うと、なんとなく落ち着かなかった。
昼どき前になって、村から帰ってくる夫の足音を聞きつけると、アリックスはあわてて台所へ駈けこみ、気持の動揺を隠すため、料理の支度でいそがしいふりをした。
夫がディック・ウィンディフォードに会っていないことは、すぐにわかった。彼女はほっと胸をなでおろすとともに、恥かしい気持を覚えた。もうこうなっては、あくまで知らぬふりをしておくより手がなかった。その日は一日中気が落ち着かず、うわの空で、なにか物音が一つしてもはっと飛び上ったりしたが、夫はなにも気づいていない様子だった。夫の方も気がそぞろらしく、彼女がちょっとしたことをきいても、もう一度きき直さなくては答えないことがあった。
簡単な夕食をすませ、あけ放した窓から、藤色や白のアラセイトウの香りをただよわせた甘い夜の空気の流れこんでくる、樫の梁《はり》をわたした居間にくつろいでいたとき、アリックスは昼間のメモのことを思い出し、疑惑や当惑から気持ちをそらすための願ってもない話題と、さっそく持ち出してみた。
「あなた、こんなものでお花に水をやってらしたのね」と言って、彼女はメモを夫の膝の上へ投げてやった。
「花壇に落としたのかな?」
「そうよ。おかげさまで、あなたの秘密が洗いざらいわかってしまったわ」
「なにもやましいところはないからね」とジェラルドは、かぶりを振りながら言った。
「じゃ今夜九時のお約束って、あれはなんのこと?」
「ああ、あれかい」夫は一瞬ぎくりとしたようであったが、やがて、なにか特別面白いことでもあったように、にっこりして見せた。「あれはね、アリックス、とてもすてきな女性との約束なんだよ。栗色の髪と青い目をした、きみにそっくりの女性なんだ」
「知りませんわ、そんなひと」アリックスは、わざと手きびしい調子を装って言った。「うまく逃げておしまいになるのね」
「いや、そんなことはないさ。実はそれはね、今夜写真の現像をしようと思って、その心覚えなんだ。きみにも手伝ってもらうよ」
ジェラルド・マーチンは写真道楽にこっていた。型は少々古いが、すばらしいレンズのついたカメラを持っていて、暗室に改造したせまい地下室で、自分で現像をやるのだ。アリックスをモデルに、あきることなくいろんなポーズをとらせたりもした。
「それで、その現像は九時きっかりにしなくちゃならないのね」とアリックスは、からかうように言った。
ジェラルドはちょっとむっとしたようであった。
「ねえ、アリックス」彼の言い方には、どことなく腹立たしさがこもっていた。「だいたい何をするにしても、きちんと時間をきめてかかるべきものなんだ。そうしておいてこそ、仕事がちゃんと片づくんだからね」
アリックスは黙ったまま、しばらく夫の様子をじっと見つめていた。夫は黒い髪の頭を椅子の背にもたせかけ、ひげをきれいに剃った彫りの深い顔の線を、薄暗い背景にはっきりと浮き出させて、煙草をくゆらせていた。と、ふと、どこからともなく怖ろしさがこみ上げてきて、止める間もなく、アリックスの口から叫び声が洩れてしまった。
「ああ! ジェラルド、あたしあなたのことを、もっとよく知ってたらと思うわ!」
夫は驚いたような顔を、彼女の方へ向けた。
「何を言うんだい、アリックス、ぼくのことならすっかり知ってるじゃないか。ノーサンバランドで子供じぶんを送ったということも、南アフリカでの生活も、ここ十年ばかりはカナダにいて、おかげで成功を収めたということも、さ」
「お仕事のことなんか、聞いちゃいないわ!」
ジェラルドは急に笑いだした。
「わかったよ、きみの言うのは――女性関係だろう。きみたち女というのは、みな同じなんだな。個人的な問題にしか興味を持たないんだから」
アリックスは咽喉《のど》のかわくのを覚えながら、聞きとれないほどの声でつぶやいた――「だって、あるにはあったんでしょう――女のひととのことが。ですからそのう――それさえわかっていたら、あたしもどんなにか――」
一、二分の間、また沈黙がつづいた。ジェラルドは、どうしようかと決しかねた表情で顔をしかめていたが、やがて妙に重々しい調子で口を開いた。先ほどまでの冗談めいたところは、すっかり姿をひそめている。
「そうむやみに探りを入れたりしていいのかい、アリックス?――まるでその――青ひげ男の秘密〔六人の妻を殺し、七人目の妻に発見されたという伝説の主人公〕でも嗅ぎ出すみたいに。そりゃ、ぼくの過去にも何人かの女はいたさ。なにも否定したりはしないよ。否定したところで、信じてはくれまいからね。しかしね、はっきり誓ったっていいが、だれひとりとして真剣だった相手はいないんだよ」
夫の声にこもった誠実な響きに、耳をそばだてていたアリックスもほっと安心をした。
「それで得心がいったかい、アリックス?」と彼は微笑を見せ、ちょっと好奇心にかられたように、彼女の方を見つめた。
「どうしてまた今夜にかぎって、そんな不愉快なことを考えたんだい? 今までそんなことは、一度も言ったことがなかったじゃないか?」
アリックスは立ち上り、落ち着かなげに部屋の中を歩きまわり始めた。
「わからないわ、あたしにだって! 今日は一日中、いらいらして落ち着かないの」
「そりゃおかしいな」とジェラルドは、まるでひとりごとでも言うように、低い声でつぶやいた。「まったくおかしいよ」
「どうしておかしいの?」
「おいおい! そんなにからんでくるものじゃないよ。いつものきみは、とてもやさしくて落ち着いているから、変だと言ったまでさ」
アリックスはとってつけたように笑ってみせた。
「今日はどういうわけか、みんなよってたかって、あたしをいらいらさせてるみたいなの。庭師のジョージまでが、あたしたちがロンドンへ行くだなんて、妙なことを言ってるし。あなたがそうおっしゃったって」
「どこでジョージに会ったんだい?」とジェラルドは鋭い口調で訊いた。
「金曜のかわりに、今日仕事にきたのよ」
「とんまなじじいめが」とジェラルドは腹立たしげに言った。
アリックスはびっくりして目を見はった。夫の顔は激怒に引きつっている。こんなに怒った夫の姿を、今まで見たことがない。彼女の驚きぶりを見て、さすがにジェラルドも怒りを鎮めようとした。
「いや、ともかく、あいつはまったくとんまな奴さ」
「あんなこと思わせるなんて、あなたもまた、何をおっしゃったの?」
「ぼくが? ぼくは何も言いやしないさ。ただ――そうそう! 思い出したよ、なんでも、『朝っぱらからロンドンへ出かける』とか、つまらない冗談口を叩いてたんだ、それを向こうじゃ本気に取っちまったんだな。でなきゃ、こっちの言うことを、いいかげんに聞いてたのさ。もちろん、まちがいだと言ってやったろうね?」
ジェラルドは気がかりそうに、彼女の返事を待っていた。
「もちろんよ、でもあの爺やは、一度こうと思いこんだら――なかなか思い直すような男じゃないんですもの」
そう言ってアリックスは、この家の買い値のことでも、庭師の老爺が言い張っていたことを話した。ジェラルドはしばらく黙りこくっていたが、やがてゆっくりと、
「エイムズは、二千ポンドだけ現金で、あとの千ポンドは抵当で取ってもいいと言ってくれたんだよ。きっとそのあたりで、食いちがってきたんじゃないかな」
「かもしれないわね」とアリックスも同意した。ふと彼女は柱時計を見上げ、いたずらっぽく指さしてみせた。
「もうそろそろ取りかからなきゃいけないんじゃないの、ジェラルド。予定に五分も遅れててよ」
奇妙な薄笑いが、ジェラルド・マーチンの顔に浮かんだ。
「気がかわったよ」と彼は平然として言った。「今夜は現像はよしておこう」
女ごころとは不思議なものである。その水曜日の夜、床についたとき、すでにアリックスの心は満たされ、安らいでいた。ほんの一時傷ついたように思えた幸福感も、ふたたびまた元のように、その勝ち誇った姿をあらわしていた。
だが、翌日の夕刻になると、なにか不可思議な力が作用して、この幸福感をむしばんでいるのに気づいた。その後、ディック・ウィンディフォードから電話はかかってこなかったが、それにもかかわらず、ディックの影響力のようなものが、自分に働きかけているのを感じた。あのディックの言葉が、くり返し、くり返し心に浮かんでくるのだ――『あの男は、まるで見ず知らずなんだろう? 素姓だって、知れちゃいないじゃないか!』そしてその言葉とともに、夫が「そうむやみに探りを入れたりしていいのかい、アリックス?――まるでその――青ひげ男の秘密でも嗅ぎ出すみたいに」と言ったとき、はっきりと脳裏に焼きついたその顔の記憶が、まざまざと甦ってきた。なぜ夫はあんなことを言ったのだろう? どんなつもりで言ったのだろう?
あの言葉の中には警告が――脅迫めいたものがこめられていた。あたかも事実上は、「アリックス、おれの生活をのぞきこんだりしない方が身のためだぞ。ひどい目に会っても知らないからな」と言っているようなものだった。なるほど、ああ言ったすぐあとで、問題になるような女は一人もいなかったと、はっきり言い切ってはいたが――しかしアリックスは、もうどうしても、夫の誠実さを信じきる気持にはなれなかった。夫は、苦しまぎれに、ああ言わざるを得なくなったのではないだろうか?
金曜日の朝になると、アリックスは、やはり夫には女がいたにちがいないと信じこんでいた――彼女から懸命に隠そうとしている、青ひげ男の秘密めいたものがあるにちがいない。目覚めるに遅かったアリックスの嫉妬心は、今や手のつけようもなく燃え上っていた。
あの晩九時に会いにゆくはずだった相手は、女だったのだろうか? 写真を現像するという話は、とっさに思いついた嘘だったのだろうか? あのメモを見つけて以来、アリックスはやり場のない苦しみにさいなまれていることに気づいて、奇妙な驚きを覚えた。しかも、悩みの根拠たるや、なにひとつないのだ。皮肉といえば、これに過ぎるものはなかった。
三日前の彼女であれば、夫のことは一から十まで知りつくしていると、はっきり言いきることができたであろう。だが今となっては、なにひとつ知るところのない赤の他人のような気がした。いつもの温厚な態度とは似ても似つかぬ、庭師の老爺に対する理不尽な立腹が思い出された。ごく些細なことではあったが、夫と呼ぶ男を、本当にはなにも知っていない証拠であった。
金曜日には、週末にそなえていろいろこまごましたものを、村まで買い出しに行ってこなければならなかった。午後になって、アリックスは夫に、庭いじりでもしていてくれれば、その間に買物をしてくるからと言った。ところが驚いたことに、夫はむきになって反対し、彼女が留守番をしている間に、自分が行ってきてやると言ってきかないのだ。アリックスは夫の言いなりになったが、夫の高圧的な態度に驚いた。なぜ夫は、あれほど躍起になって、彼女を村へ行かせまいとしたのだろう?
ふと、このとき、ある考えが浮かび、それですべて説明がつくような気がした。彼女には何も言わなかったが、ひょっとしてジェラルドは、ディック・ウィンディフォードに出会ったのではないだろうか? 彼女の嫉妬心も、結婚当初は眠っていたのが、ようやく今ごろになって目覚めてきたではないか。ジェラルドの場合も、同じではないだろうか? 妻をディックに会わせまいと、懸命だったということは考えられないだろうか? こう考えると、事実にぴったりと符合するし、不安な気持も安まるので、アリックスはきっとそうにちがいないと思いこんでしまった。
だが、やがてお茶の時間になり、そしてそれも過ぎると、彼女はまた落ち着かず、不安になってきた。ジェラルドの出かけて行ったあとすぐに襲ってきた誘惑と、懸命に闘いつづけていたのだが、あげくに、とうとう、あの部屋は大掃除をしなければならないからと口実を設け、良心をなだめながら、二階にある夫の化粧室へあがって行った。いかにも家事に精を出しているような恰好をつけるため、はたきまで持って行った。
「はっきりしたことさえわかれば」と彼女はなん度も心の中でくり返していた。「それさえわかればいいんだから」
たとえ怪しまれるようなものがあったにしても、どうせそんなものは、とうの昔に処分されているだろう――と自分に言って聞かせてみたが、それも無駄だった。男というものは妙な感傷癖から、身に累《るい》のおよぶような証拠品を、まま保存しておくことがあるのではないか、という気もしたのだ。
とうとう、アリックスも誘惑には勝てなかった。我ながら浅ましい行為に頬を赤らめながら、彼女は夢中で手紙の束や書類をひっかきまわし、引き出しの中身をあけ、夫の洋服のポケットまで探ってみた。彼女の捜索をまぬがれたのは、引き出しが二つだけであった――箪笥の下の引き出しと、書きもの机の右の小さな引き出しには、鍵がかかっていた。しかし、もう恥も外聞もなかった。きっとこの二つの中のどちらかに、彼女のこころを悩ましている仮想の女の証拠が、隠されているにちがいないという確信があった。
彼女はジェラルドが階下の食器棚の上に、鍵束をぞんざいに置いていたのを思い出した。さっそくそれを取ってくると、一つ一つ合わせてみた。三つ目の鍵が、書きもの机の引き出しに合った。アリックスは固唾《かたず》を呑んであけてみた。小切手帳が一冊と、紙幣でふくらんだ紙入れと、奥の方にはテープでくくった手紙の束がはいっていた。
アリックスは息をはずませながら、テープをといた。が、とたんに顔を真赤に染め、あわててまた元の引き出しの中へ投げこむと、鍵をかけた。それは結婚前、彼女がジェラルドに書き送った手紙であった。
今度は箪笥のほうにとりかかったが、探しているものがきっとその中に見つかるという期待よりは、探すべき場所は、残らず探してみたいという気持ちのほうが強かった。さすがに恥かしく、どうやら気ちがいじみた執念にとりつかれているらしいと、自分でも思いこみかけていた。
困ったことに、ジェラルドの鍵束の鍵は、どれ一つ問題の引き出しには合わなかった。しかし、アリックスはそれにめげず、ほかの部屋からいろいろ鍵を持ってきた。さいわい、予備の部屋の衣裳戸棚の鍵が、うまく箪笥の引き出しに合ってくれた。彼女は鍵をあけ、引き出しを引いた。しかし、中には、古びて埃《ほこり》だらけになり、変色した新聞の切り抜きが丸めてはいっているだけだった。
アリックスは、ほっと安堵の吐息を洩らした。しかし、こんな埃まみれの切り抜きをわざわざ取っておくとは、夫もどんな話題に興味を覚えたのだろう、と好奇心にかられて、ちらと目を通してみた。ほとんどすべてがアメリカの新聞で、七年ほど前の日付けがはいっており、チャールズ・ルメートルという、名うての詐欺師で二重結婚犯人の裁判を扱ったものだった。ルメートルは、女を何人も殺害したという容疑に問われていた。彼の借りていた家の一軒の床下から白骨が発見され、彼の『結婚』した女たちの大半が、その後、杳《よう》として消息を絶っていた。
彼はアメリカ法曹界きっての有能な弁護士の助けを借り、実に巧みな弁護をやってのけた。スコット法でいう『証拠不十分』という判決が、この事件にはもっとも適していたのであろうが、そういう判決例がなかったため、主要容疑に対しては『無罪』の宣告を受けた。もっとも、他の罪状のために、彼は長期の禁錮刑を申し渡された。
アリックスは、当時この事件がまき起こした興奮や、その後三年ほどして、ルメートルが脱獄したために起きた騒ぎなどを思い出した。その後、彼は逮捕されていなかった。当時英国の新聞でも、この男の性格や、女性に対して持っている非常な魅力などが大々的に報じられ、男が法廷でたいへんな興奮ぶりを示し、激しい抗弁をやってのけ、事情を知らないものは彼の芝居だと言っていたが、生来心臓が弱かったために、時たま急に法廷で気を失うことがあったというような記事が、新聞紙上を賑わせたものである。
アリックスの手にした切り抜きの一つには、その男の写真がのっており、彼女はいくらか好奇心も手伝って、じっとそれを眺めてみた――長いひげを生やした、一見学者風の男である。ちょっとその顔に見覚えがあるような気がしたが、とっさにだれだったか思い出せなかった。ジェラルドが犯罪や、有名な裁判などに興味を持っているとは、彼女も今までついぞ知らなかった。だいたい男の中には、そういう趣味の連中が多いようだが……
いったいこの顔はだれに似ているのだろう? とつぜん、彼女は、似ている相手はジェラルドだと気づいて、はっとした。目と眉のあたりがそっくりなのだ。きっとあまり似ているというので、この切り抜きを取っておいたのだろう。彼女は写真のそばの記事に目を走らせた。それによると、男の持っていたメモには、いくつか日付けが書きこまれており、どうやらそれは、彼が犠牲者を殺した日付けらしいと主張されていたが、そのうち一人の女性が証人に立ち、左手首のちょうど掌《てのひら》の下あたりにほくろがあることから、この男が犯人にまちがいないと証言したという――
アリックスはとたんに手の力が抜け、切り抜きを取り落とし、立ったままよろめいた。左手首のちょうど掌の下あたりに、ジェラルドは小さな傷あとを持っているのだ……
部屋がぐるぐるまわり始めた……どうして一足とびにそれほど確固とした確信を抱いてしまったのか、後になって考えてみても不思議なくらいだった。ジェラルド・マーチンは、チャールズ・ルメートルなのだ! いったんそうと知ると、一瞬のためらいもなく、それを信じこんでしまった。いくつものばらばらな事実が、一つにまとまろうとするはめ絵の断片のように、彼女の頭の中でめまぐるしくまわっていた。
この家を買うために出した金は――彼女の金であり――彼女の金だけだったのだ。彼にあずけてしまった無記名証券。今となってはあの悪夢までが、真実性をともなって見えてくる。きっと心の奥底では、意識下の彼女がつねづねジェラルドを怖れ、彼から脱れたいとねがっていたのだ。そしてこの意識下の彼女が、ディック・ウィンディフォードに助けを求めていたのだ。疑いもためらいもなく、これほど容易に事の真相を受け入れることができたというのも、それがためであったのだ。彼女はルメートルの新たな犠牲者となるところだったのだ。それも、おそらくは近いうちに。
ふと彼女はあることを思い出して、悲鳴に近い叫びをもらした。水曜日、午後九時。簡単に持ち上げられる板石を敷いた地下室。前にも一度、彼は犠牲者の一人を地下室に埋めたことがあるのだ。すべては水曜日の夜を目標に、計画ができ上っていたのだ。しかし、前もってそれを、例の几帳面さで書き記しておくというのは――正気の沙汰ではない! いや、その方が筋道が通っている。ジェラルドは、万事予定をメモにしておく男なのだ――人を殺すことも、彼にとっては商取引とえらぶところはなかったのだ。
だが、いったいどうして助かったのだろう? 何が助けてくれたのだろう? いよいよという間際になって、彼が仏ごころを出したのだろうか? いや、そんなことは考えられない――その答えはすぐに出てきた。庭師のジョージだ。ようやく今になって、夫がむやみに腹を立てていたわけがわかった。きっと会う人ごとに、あすは二人でロンドンへ行くからと言って、下地工作をやっていたのだ。そこへ思いがけなくジョージがやってきて、彼女にロンドン行きの話をし、彼女の方ではそれを否定した。ジョージがその話をふれまわっているのに、その晩彼女を殺すのは、いくらなんでも危険だと考えたにちがいない。だが、なんというきわどい場面だったことだろう! もしあの些細な話題を持ち出していなかったら――そう思うと、アリックスは身ぶるいをした。
しかし、もはや一刻の猶予もならなかった。今すぐにも逃げ出さねばならない――夫の帰ってこないうちに。もうこうなっては、一晩たりとも、同じ屋根の下で夫と過ごす気にはなれなかった。彼女は急いで切り抜きを引き出しに戻すと、鍵をかけた。
だがそのとたん、彼女は石像になったように、その場に立ちすくんでしまった。通りに面した木戸が、ぎいと軋《きし》るのが聞こえたのだ。夫が帰ってきたのだ。
一瞬、アリックスは硬直したように身じろぎもしなかったが、やがて爪先立ちで窓ぎわへ忍び寄り、カーテンの蔭にかくれて外をうかがった。
たしかに夫であった。なにやらひとりほくそ笑み、鼻歌を唄っている。その手に握っているものを見たとき、.おびえきったアリックスは胸の鼓動が止まるかとさえ思った。それは真新しい鋤《すき》であった。
彼女は本能的に察した。いよいよ今夜なのだ……。
だが、まだチャンスはあった。ジェラルドは相変らず鼻歌を唄いながら、家の裏手の方へまわって行った。
「きっと地下室へ置いておくつもりなんだわ――すぐ間にあうように」アリックスはまた身ぶるいした。
とっさに彼女は階段を駈けおり、家の外へとび出した。だが、玄関を出ようとしたとたん、夫が裏手からひょっくりまわってきた。
「よお! どこへ行くんだい、いやにあわててるじゃないか?」
アリックスは必死の思いで、平静に、いつもと変らぬ様子を装おうとつとめた。脱れるチャンスは今のところ失われてしまったが、夫に疑惑を起こさせないよう気をつければ、まだこれからもチャンスはあるにちがいない。そういう今も、ひょっとして……
「小径の突きあたりまで散歩してこようかと思ったのよ」と彼女は言ったが、その声は自分の耳にも弱々しく、自信なげに聞こえた。
「そうかい。それじゃ、ぼくも一緒に行こうか」
「いいえ――いいのよ、ジェラルド。あたし――いらいらして、頭痛がするものだから――ひとりで行かせて」
夫はじっとアリックスを見つめた。一瞬その目に、怪しむような色が、ちらと浮かんだような気がした。
「どうしたんだい、アリックス? 顔色が悪いし――ふるえてるじゃないか」
「なんでもないのよ」彼女は微笑を浮かべ、努めてぞんざいな口をきいた。
「ちょっと頭痛がするだけ。散歩でもすれば良くなるわ」
「ともかく、ぼくを置いてけぼりなんておことわりだよ」ジェラルドは屈託なく笑ってみせ、きっぱりと言いきった。「きみが望もうが望むまいが、ぼくもお供をさせてもらうさ」
彼女もそれ以上はさからわなかった。もしこちらが知っているのを感づかれでもしたら――
やっとのことで、アリックスはふだんの落ち着きをいくらか取り戻した。しかし夫が、まだすっかり得心がゆかないのか、時たま自分の方をちらちら横目でうかがっているような、不安な気がした。夫の疑念が、まだ完全には晴れていないのを感じた。
散歩から戻ると、彼は横になっているようにとしきりにすすめ、オーデコロンを持ってきて、額を冷やしてくれたりした。いつもと変わらず、こまやかな愛情を見せてくれる夫だった。しかし、アリックスは、手も足も罠《わな》にかけられ、身動きならない自分を感じた。
夫はほんの片時も、彼女をひとりにしておかなかった。台所へまでついてきて、すでに用意のできていた簡単な冷肉料理を運ぶ手伝いをするのだ。アリックスは夕食もろくに咽喉を通らなかったが、むりやりにでも食べ、ほがらかにふるまって、ふだんと変らないところを見せようと努力した。今や自分の生命をかけて闘っていることが、わかっていた。助けを求めようにも村からは遠く離れ、まったく生かすも殺すも、この男の一存にかかっているのだ。残されたただ一つのチャンスは、ほんのわずかな間でも夫の疑いを鎮め、自分をひとりだけにしておいてもらうことだった――玄関にある電話口まで行き、助けを求める間だけでいいのだ。それが残された唯一の望みであった。たとえ逃げ出したとしても、救いの手にすがるまでに追いつかれてしまうだろう。
と、ふと、ひとすじの光明が射しこんできた。夫は前にも一度、計画を放棄しているではないか。ディック・ウィンディフォードが、今夜訪ねてくると言ってやったらどうだろう?
その言葉は口まで出かかった――が、彼女はあわてて思いとどまった。相手は、二度も邪魔をされて引っ込んでいるような男ではない。その一見もの静かな態度の蔭には、決意と得意げな様子がうかがえ、彼女は吐気を催した。そんなことをしようものなら、犯行を早めるだけのことだ。立ちどころに彼女を殺し、平然としてディック・ウィンディフォードに電話をかけ、急に外出することになったから、とでも言ってのけるにちがいない。ああ、今夜ディックが来てくれさえしたら! もし、ディックさえ――
そのとき、ふと、ある考えが閃めいた。彼女は、腹の中を読みとられはしまいかと気づかうかのように、鋭く夫の方を横目で見やった。計画がまとまるにつれ、勇気も甦ってきた。これほど、平静な態度をとれようとは、われながら意外であった。どうやらジェラルドは、すっかり安心したようである。
彼女はコーヒーを入れ、それを、晴れた夜などには二人でよく坐ることにしていたポーチへ持っていった。
「ところで、あとで例の現像をやろうじゃないか」とジェラルドが、とつぜん言い出した。
アリックスは身ぶるいを覚えたが、何くわぬ顔で――
「あなた一人じゃできないの? あたし、今夜は疲れてしまって」
「長くはかかりゃしないさ」彼はひとりほくそ笑んでいた。「大丈夫、疲れるようなことはないよ」
彼はその言葉を楽しんでいるようだった。アリックスはぞっとした。計画を実行に移すのは、今をおいてはなかった。
彼女は立ち上り、
「ちょっと肉屋さんへ電話をかけてくるわ」とさりげなく言った。「あなたはそこにいらしてちょうだい」
「肉屋に? こんなに遅くかい?」
「もちろんお店はしまっているわよ、おばかさんねえ。でも自宅の方にいますもの。それに明日は土曜日でしょ、だからほかのお客にとられないうちに、早めに仔牛の切り身を届けさせようと思って。あの肉屋さん、あたしの言うことならなんでもきいてくれるのよ」
彼女はすばやく家の中へはいり、後ろ手にドアをしめた。
「ドアをしめるなよ」とジェラルドの言うのが聞こえた。彼女は軽く言い返した。
「だって蛾がはいるんですもの。あたし、蛾が大きらいなのよ。おかしな方ね、あたしが肉屋さんを口説くとでも思ってるの?」
家の中へはいると、彼女は引ったくるように受話器を取り、交換手にトラヴェラーズ・アームズ館の番号を告げた。電話はすぐにつながった。
「ウィンディフォードさんはまだおいででしょうか? 呼んでいただけませんかしら?」
彼女はどきりとした。ドアがあいて、夫がはいってきたのだ。
「あっちへ行っててよ、ジェラルド」と彼女はすねたように言った。「あたし、電話をかけているとき、人にきかれるの大きらい」
彼は笑っただけで、どっかりと椅子に坐りこんでしまった。
「ほんとに肉屋にかけてるのかい?」
望みは奪われてしまった。せっかくの計画も失敗におわったのだ。もう今にも、ディックが電話口に出てくるだろう。思いきって、大声で助けを求めてみようか? ジェラルドに電話口から引き離されないうちに、こちらの言わんとすることが伝わるだろうか? それとも、単に冗談として片づけられてしまうのだろうか?
ところが、手にした受話器の小さなキイをいらいらした気持で、押したり離したりしているうちに、また新たな考えが浮かんできた。キイを押している間はこちらの声が先方に通じるが、離せば通じなくなる仕組みの電話なのだ。
「むずかしいかもしれないわ」と彼女は思った。「冷静に、適切な言葉を見つけて、ちょっとでも言いよどんではおしまいだ。でも、やってできないことはなさそうだわ。いえ、どうしたってやらなくては」
ちょうどそのとき、電話の向こう口にディック・ウィンディフォードが出た。
アリックスは深く息を吸いこんだ。そして、しっかりとキイを押し下げて話し出した――
「もしもし、こちらはミセス・マーチンですけど――うぐいす荘の。どうか来て下さい(そこでキイを離して)あしたの朝、仔牛の切り身の上等なところを六枚持ってね。(ここでまたキイを押して)とても大事なことなんですから。(ここでまたキイを離して)すみませんわね、ヘックスワージィさん、こんな夜分に電話をかけたりして。でも今お願いした仔牛の切り身は、ほんとに(またキイを押して)生死にかかわる大問題なの……(そこでキイを離し)じゃおねがいね――あしたの朝――(キイを押し)できるだけ早くね……」
彼女は受話器を元通りかけ、大きく息をしながら、夫の方を振り向いた。
「なんだい、肉屋にそんな話し方をするのかい?」とジェラルドは言った。
「女らしい言い方をしたまでよ」とアリックスはさりげなく答えた。
彼女は興奮に、身の置き場もなかった。夫はなにも疑わなかったのだ。かりに電話の話は呑みこめなかったとしても、きっとディックは来てくれるにちがいない。彼女は居間へ行き、電燈をつけた。ジェラルドもあとからついてきた。
「急に元気になったじゃないか」と夫は、彼女を不思議そうに見つめながら言った。
「ええ、頭痛がとれたのよ」
彼女はいつも坐りつけの椅子に腰をおろし、向かいあって腰かけた夫に微笑んでみせた。助かったのだ。時刻はまだ八時二十五分。九時までには、きっとディックが来てくれるだろう。
「さっきいれてくれたコーヒーは、あまりうまくなかったな」とジェラルドは文句を言った。「ばかににがかったぜ」
「新しいコーヒーをいれてみたの。お気に召さなければもういれませんわ」
アリックスは刺繍を取りあげ、刺しはじめた。献身的な妻を装いつづける自信は十分にあった。ジェラルドは、読みさしの本を二、三頁|繰《く》っていたが、やがて、柱時計をちらと見上げ、本を投げだした。
「八時半だ。地下室へ行って、仕事にかかろう」
刺繍がアリックスの手から、すべり落ちた。
「あら! まだ時間じゃなくてよ。九時まで待ちましょうよ」
「いや、八時半でいいんだ。そうきめたんだから。それだけきみも、早く休めるわけさ」
「でもあたし、九時まで待った方がいいと思うわ」
「八時半だよ」とジェラルドは執拗に言った。「いったん時間をきめたら、必ずそれを守ることは、きみも知ってるじゃないか。さあ、おいで、アリックス。もうこれ以上、一分だって待っちゃいられないよ」
アリックスは夫を見上げた。すると、とどめようもなく、恐怖の波が全身を走るのを覚えた。仮面ははぎとられたのだ。ジェラルドの手はむずむずと動き、その目は興奮に輝いている。そして乾いた唇を、しじゅう舌でなめずりまわしている。もはや、興奮を隠そうともしていない。
「きっと本当なんだわ――これ以上待ってくれそうもない――まるで気ちがいだ」
夫は大股で歩み寄り、アリックスの肩に手をかけて、ぐいと立たせた。
「さあ、おいで、アリックス――こなきゃ、かかえてでもつれて行くぜ」
その口調は朗らかだったが、その陰にひそんだむき出しの残忍さに、彼女はすくんでしまった。彼女は必死の努力をふりしぼって、身をふりほどき、壁にべったりとへばりついた。抵抗しようにも、まるで無力だった。とても逃れることはできなかった――どうしようもなかった――しかも彼は、じりじりと迫ってくる。
「さあ、アリックス――」
「いや――いや」
彼女は金切り声をあげ、夫を近づけまいと、力なく両手を突きだした。
「ジェラルド――やめて――お話ししたいことがあるの、告白することが……」
さすがに夫は足をとめた。
「告白?」好寄心にかられたらしい。
「ええ、告白したいことがあるの」惹きつけられた夫の注意をそらすまいと、彼女は懸命に言葉をつづけた。
「もっと前にお話ししておくべきだったことがあるの」
さも軽蔑したような表情が、彼の顔を走った。夫は悪夢から醒めたのだ。
「どうせ昔の恋人のことだろう」と彼は嘲笑するように言った。
「いいえ、もっとほかのこと。言ってみれば――そうね、犯罪とでもいうのかしら」
うまく的を射あてたことが、アリックスにはすぐわかった。ふたたび、夫の注意を惹きつけておくことに成功したのだ。それを見てとると、彼女に勇気が戻ってきた。この場の主導権は、ふたたび自分の手にあることを感じた。
「まあおかけになって」
彼女は部屋を横切って、元の椅子に腰をおろし、かがみこんで、刺繍さえ取り上げた。しかし、その平静さのすぐ裏では、必死の思いで考え、知恵をしぼっていた。なんとかうまい作り話を考え、救援の到着まで、夫の興味をつないでおかねばならない。
「前にお話ししましたわね、十五年間、速記タイピストをやっていたってことは。でも、それは全部がほんとじゃないの。あいだに二度、やめていた時期があるのよ。最初は、あたしが二十二のときだったわ。ちょっとした財産を持った、中年の男と知り合ったの。あたしに惚れこんで、結婚してくれっていうもんだから、承知して、結婚してやったわ」アリックスは、そこでちょっと言葉を切った。「そしてあたし、うまく話を持ちかけて、あたしを受取人に生命保険をかけさせたの」
夫の顔に浮かんだ興味ぶかげな表情に自信を得て、アリックスは言葉をつづけた。
「戦時中、あたしはしばらく、ある病院の薬局に勤めていたの。ありとあらゆる珍しい薬や毒薬を扱ったりして。そうなのよ、毒薬をね」
彼女はその当時のことを思い起こすように、ちょっと間をおいた。夫が強い興味に惹かれていることは、疑う余地もなかった。人を殺すような男が、毒薬ときいて耳をそばだてるのは当然なことだ。彼女はその点に賭け、見事に成功したのだ。そっと柱時計の方を盗み見た。九時二十五分前であった。
「面白い毒薬があるのよ――なんの変哲もない白い粉末なんだけど。一つまみの量で、人を殺せるの。あなたも毒薬のことは、いくらかご存じでしょ?」
彼女は不安な気持でさぐりを入れてみた。もし夫が知っているとなると、よほど用心してかからねばならない。
「いいや。毒薬のことはあまり知らないね」
彼女は安堵の吐息をついた。これで仕事はやりやすくなった。
「でも、ヒオスシンのことくらい、お聞きになったことがおありでしょ。効果は同じだけど、絶対に検出不可能という毒薬なの。どんな医者だって、心臓麻痺の死亡証明書を書いてくれるわ。あたし、このお薬をちょっとばかし盗んで、しまっておいたの」
彼女はまた言葉を切り、根《こん》かぎりの力をふりしぼった。
「で、どうしたんだい」とジェラルド。
「もうだめ。こわいんですもの。話せないわ。またこんどにしましょう」
「今がいい。いま聞こうじゃないか」ジェラルドはもどかしげにせき立てた。
「結婚して一カ月目ぐらいだったかしら。あたし、年とった夫に、とてもよくしてやったわ、親切に、それこそ献身的に。おかげで夫は、近所じゅうに、よくできた女房だってほめてまわって。あたしがどんなによく夫に仕えているかは、みんなが知っていたというわけ。あたし、毎晩夫にコーヒーをいれてやることにしていたの。それである晩、あたしたち二人っきりのとき、その怖ろしいアルカロイド性の毒薬を入れてやったわ」
アリックスは言葉を休め、念入りに針に糸を通してみせた。一生を通じて、舞台に立った経験など一度もない彼女が、このときばかりは、世界最高の女優も顔負けの名演技をやってのけたのだ。血も涙もない毒殺犯人の役柄を、見事に演じていたのだ。
「とても静かに死んでくれたわ。あたしはじっと見ていました。夫は一度だけちょっと喘《あえ》いで、息苦しいと言うの。窓をあけてやったわ。そのうち椅子から動けないって言って、それきり死んでしまいました」
彼女は微笑を浮かべながら、言葉を切った。九時十五分前であった。きっと、もうまもなく来てくれるにちがいない。
「で、その保険金はどのくらいだったんだい?」とジェラルドがきいた。
「二千ポンドほどだったかしら。相場に手を出して、すっかりすっちまつたけど。それで、また元の勤めに戻ったの。でも、長くいるつもりはぜんぜんなかったのよ。そのうち、また別の男と知り合ったわ。オフィスじゃ、娘時代の姓を名乗ってたから、その男も、あたしが結婚していたことは知らなかったの。前のよりは年も若くて、ちょっとハンサムで、金持だったわ。新世帯は、サセックスの田舎にかまえたの。二度目の夫はいやがって、生命保険にははいらなかったけど、もちろん、あたしのために遺言状を書いてくれたわ。この男も、最初の夫と同じように、いつもあたしにコーヒーをいれさせるのが好きだったわ」
アリックスは、当時のことを思い起こすようににこりとして、ひとことつけ加えた――
「あたし、とてもコーヒーをいれるのが上手なのよ」
そう言って、彼女はまた言葉をつづけた。
「村には何人かお友だちもいたけど、みんなとても気の毒がってくれたわ。あんなに元気だったご主人が、お夕食後心臓麻痺でぽっくり亡くなるなんて――って。でも、あのときの医者は虫が好かなかった。別にあたしのことを疑ってたとは思わないけど、夫の急死にはたしかに驚いていたわ。その後、どうしてまた元のオフィスへ舞い戻ったのか、自分でもよくわからないけど、習慣みたいなものだったんでしょうね、きっと。二度目の夫は、四千ポンドばかり残してくれたわ。今度はあたしも相場なんかやらないで、ちゃんと投資したのよ。ところが、ほら――」
しかし、そこまでで、話をさえぎられてしまった。満面に朱をそそぎ、なかば息をつまらせたジェラルドが、ふるえる人差し指を彼女の方につきつけているのだ。
「あのコーヒーか――ちきしょう! やりゃがったな!」
アリックスは彼を見つめた。
「なぜ苦《にが》かったか、そのわけがわかったぞ。ちきしょうめが。おれに毒を盛りやがったな」
ジェラルドは椅子の腕を握りしめた。今にも跳びかからんばかりの形相である。
「きさま、毒を盛りやがったな」
アリックスは、夫から遠ざかり、暖炉の方へ身を引いた。すっかりおびえきった彼女は、すんでのところで口を開いて、それを否定しようとしたが――ふと思いとどまった。夫は今にも跳びかかってきそうだった。彼女はあらんかぎりの力を振い起こした。夫の目をじっと見すえ、釘づけにした。
「そうよ。入れたわ。もう毒がまわっているころだわ。もう椅子から動けないわよ――動けるものですか――」
もし彼をここへ釘づけにしておけたら――たとえ数分の間でも――
ああ! あの物音は? 表の道に足音が聞こえる。木戸が軋《きし》った。つづいて、小径に足音。玄関のドアがあいた――
「動けるものですか」と彼女はもう一度くり返した。
そして夫のそばを走りぬけ、まっしぐらに部屋をとび出し、なかば気を失いながら、ディック・ウィンディフォードの腕の中へ倒れこんだ。
「どうしたんだい、アリックス!」とディックが叫んだ。
彼はつれの、警官の服を着た背の高い、がっしりした身体つきの男をかえりみた。
「中へはいって、様子を見てきてくれたまえ」
ディックは、そっとアリックスを長椅子に寝かせ、気がかりそうにのぞきこんだ。
「もう安心だよ。かわいそうに。どんな仕打ちにあったんだい?」
アリックスの瞼がぴくぴくと動き、唇がかすかに彼の名を呼んだ。
先ほどの警官が戻ってきて、腕にふれたので、ディックは混乱した物思いから我に返った。
「別に異状はありませんが。ただ男が一人、椅子に坐わっております。どうやらひどいショックでも受けたらしく、そのう――」
「それで?」
「それが、そのう――死んでいるようなんです」
そのとき、アリックスの声が聞こえたので、二人はぎくりとした。彼女は夢にでもうなされているように口走っていた。
「そして、それきり」と彼女は、なにかの本に書いてあった一節をそらんじてでもいるように言った。「死んでしまいました」
事故
「ぜったい、まちがいない。あの女です」ヘイドック船長はいきおいこんでいう友人の顔を見て、ため息をついた。相手がこんなに確信ももち、また得々としているのが面白くなかったのだ。長い間の海上生活から、ヘイドック老船長は、自分にたいして関係のないことはほっとくにかぎるという哲学をまなんだ。しかし、相手の、元犯罪捜査局警部エヴァンスは、まったくちがった人生観をもっていた。
「なにか聞き込んだら、動け――」これが、犯罪捜査局につとめはじめた頃の彼のモットーだった。それが、やがて、さらに自分で証拠をあつめてまわるという、より積極的な態度にかわっただけだ。
エヴァンス警部は非常に頭のきれる敏腕な警察官で、昇進がはやかったのも、まったく当然だった。今では勇退し、かねて夢みていた田舎のちいさな家にひっこんでいるが、その職業本能はけっしておとろえていない。「一度見た顔は、ほとんどわすれません」元警部は得意そうにくりかえした。
「ミセズ・アンソニー……そう、あの女はたしかにミセズ・アンソニーです。ミセズ・メロウディンとあなたから紹介されたとき、すぐわかりましたよ」
ヘイドック老船長は、もじもじ椅子のなかでからだをうごかした。このエヴァンス元警部をのぞいては、メロウディン夫婦はもっとも親しくしている。その夫人が、あの有名な事件のかつてのヒロインだときけば、むろん、いい気持ではなかったのだ。
「あれは、もう、ずいぶん前のことだろう?」ヘイドック老船長は、気がすすまなそうに口をひらいた。
「九年前です」エヴァンス元警部はハッキリ、正確にこたえた。「九年と三カ月。あの事件をおぼえてますか?」
「いや、ぼんやりね」
「死んだ、夫のアンソニーは砒素剤の常用者だということがわかり、ミセズ・アンソニーは釈放されたんですが――」
「釈放しちゃいけなかったのかい?」
「いえ、べつに。あたえられたあの証拠では、陪審員が無罪の評決をしたのはむりもありません。まったく、当然のことでしょう」
「だったら、文句はないわけだ」ヘイドック老船長はいった。「どうして、そんなことを心配しなくちゃいかんのかね?」
「だれが心配してるんです?」
「きみはそうじゃないのかい?」
「べつに――」
「それならいい。もうすんだことなんだから……」老船長は話のケリをつけようとした。「たとえ、ミセズ・メロウディンが過去に、不幸にも殺人の嫌疑をうけ、釈放されたとしても――」
「釈放されることは、ふつう、不幸とはいわないようですがね」エヴァンス元警部が口をはさんだ。
「わしのいうことは、わかってるんだろう?」ヘイドック老船長はいらいらしてきた。「ミセズ・メロウディンに、そういった、いたましい経験があったつて、なにも、われわれが、それをあばきたてることはあるまい、え?」
エヴァンス元警部は返事をしなかった。
「ねえ、ミセズ・メロウディンは無実だ、とさっき、きみもいっただろう?」
「無実とはいってませんよ。ただ釈放されたと――」
「おなじことじゃないか」
「いつも、そうとはかぎりませんね」
ヘイドック老船長はパイプで椅子の横をコツコツたたいていたが、ハッとした顔つきになり、からだをおこした。
「ふーうん、そんなことだったのか。じゃ、きみは、ミセズ・メロウディンは無実ではない、とかんがえてるんだね?」
「そうはいいませんよ。ただ――いや、はっきりしたことはわからない。死んだアンソニーは、砒素剤を常用していた。ワイフが飲ませてたんです。ある日、まちがって、アンソニーは砒素を飲みすぎた。アンソニーの過失か、そのワイフの不注意、だれにもわからない。陪審員のなかに、ミセズ・アンソニーにたいして疑いをもつ者があったのも不思議ではないはずです。ミセズ・アンソニーが夫を殺したと考えられないことはありませんからね」
ヘイドック老船長は、ハイプから目をあげた。
「ま、それにしても、われわれの関係したことではあるまい」
「さあ、どうですかねえ」
「しかし、きみ――」
「ちょっと、わたしの考えもきいてくださいよ。ミセズ・メロウディンの御主人に、昨夜、実験室であいましたね。なんだか、いろいろ化学の実験をやってたが――」
「うん、砒素検出のためのマーシュのテストのことを話した。これで検査すれば、砒素中毒はすぐわかるって――。きみは商売だから、よく知ってるだろうとも言ったじゃないか。あんなことを話題にしたのは、ほんのすこしでも――」
エヴァンス元警部がまた、口をはさんだ。
「奥さんの過去を知ってれば、ほんのちょっとでも、ああいうことは言いだすまい、とおっしゃるんでしょう? あの二人は、結婚して何年になります? そう、六年だということでしたね。しかし、メロウディンさんが、自分の細君があの有名なミセズ・アンソニーだったということを知っているとハッキリいえますか?」
「わしの口からは、けっして、きかないだろうということだけはいえるな」ヘイドック老船長も頑固だつた。
だが、エヴァンス元警部は、そんなことにはかまわず、言葉をつづけた。
「話がとぎれましたがね。マーシュのテストの後で、メロウディンさんはのこった化合物を試験管のなかにいれ、熱して、金属の残渣《ざんさ》を水にとかし、それから硝酸銀をくわえて、沈澱をつくった。塩化物のテストです。だれでもやる、たいしたテストじゃない。しかし、そのとき、ぼくは机の上にひらいてあった本を、なにげなく読んで、それに硫酸をくわえると、塩化物は分解して塩素酸ガスが生ずることを知ったんです。これを熱すると、危険な爆発がおこる。だから、この混合物は低温のところにおいとかなきゃいけないし、またほんの少量しか使用できないんです」
ヘイドック老船長は相手の顔をじっとみつめた。
「それで、がなにか――?」
「いや、ただそれだけの話です。しかし、われわれもテストはやります。殺人テストです。事実をつみかさね、必要な証拠をえらび、人々の考えちがいと、どの証人にもある不正確さをさしひいたあとの手がかりを分析します。だが、もう一つ、テストの方法があるんです。これは、かなり確実に結果がでます。でも、危険なテストでしてね。殺人犯人というものは、ただ一回だけの犯行ではなかなか満足しないものです。時がたち、嫌疑の目がうすれると、やつらは、かならず、第二の犯行をしでかす。ある殺人容疑者を逮捕したとする。いったい、やつは、ほんとうに自分のワイフを殺したんだろうか、としらべていきます。その事件だけでは、どうも黒とはおもえない場合もある。ところが、殺人容疑者の過去を調査して、今までに数回結婚し、その相手はみんな死んでいたとすれば、たんなる偶然といえるでしょうか? これはクサイな、と感ずくはずです。それが、すぐ、法廷での証拠になるといってるんじゃありませんよ、ただ、犯罪を捜査する者として、有罪の確信がもてるわけです。いったん、そうなれば、あとは、証拠をさがしてまわるだけだ」
「それで?」
「わたしの話はもうすぐおわります。容疑者の過去はかならず調査しなくちゃいかん。はじめての犯罪でとっつかまった場合には、テストもくそもありません。だが、釈放され、べつの名前で、また人生をスタートした時には、はたして殺人をくりかえすだろうかと――」
「おそろしい考えだ」
「それでも、われわれに関係したことじゃない、とおっしゃいますか?」
「うん。ミセズ・メロウディンがそんな人だと考える理由は、なにもないからね」
元警部はしばらくだまっていたが、ゆっくり口をひらいた、「ミセズ・メロウディンの過去にはなにもないといいましたね? それはまちがいだ。ミセズ・メロウディンには継父《けいふ》があったんです。ミセズ・メロウディンは十八のとき、ある青年と恋をした。だが、その継父は、父親の権威をふりまわして、二人の仲をひきさいたんです。その後、ミセズ・メロウディンと継父は、かなり危険な断崖にそった道に散歩にでかけた。ところが事故があって――道の端のほうによりすぎたんですかな――崖がくずれ、継父は落ちて死んでしまった」
「きみは、それも――」
「事故でした。事故か! アンソニーが砒素剤を飲みすぎたのも事故だ。しかし、ある男がそれを警察に知らせなかったら、ミセズ・アンソニーは殺人の嫌疑さえもかけられなかっただろう。ついでだけど、その男も、この世から消えています。陪審員は無罪の評決をしたが、その男はまだ満足しなかったんじゃないかな。わたしは心配なんです。あの女がいくところには、またべつの――事故がおきそうで……」
老船長は肩をゆすった。
「さあ、そんなことがふせげるかな?」
「わたしも、それを考えてるんです」
「ともかく、わしはほっといてもらおう。他人のことに鼻をつっこむと、ロクなことはないからな」
しかし、この忠告もエヴァンス元警部には効き目がなかった。元警部は忍耐強い人だが、一たん決心したことは、どこまでもやりとおす性格なのだ。老船長の家をでると、ゆっくり村への道をあるきながら、どうやったら、ミセズ・メロウディンのことはうまくいくだろうか、とエヴァンス元警部はいろいろ胸のなかでかんがえこんでいた。
そして、切手を買いに、郵便局に入ったのだが、そのとたんに問題のジョージ・メロウディンにぶつかった。この小柄な元大学教授の化学者は、夢でも見ているような顔つきをしており、物腰もおだやかでしたしみぶかく、また、まったく世間のことには無頓着な学者タイプだった。メロウディン教授はエヴァンス元警部にあやまり、ぶつかった時に下におちた手紙を、かがみこんで見つけようとした。エヴァンス元警部も、おなじように床に手をのばしたが、もっと早い動作で手紙をひろいあつめ、やはり失礼をわびながら、それをメロウディン元教授にわたした。
だが、そうやっている間に、いちばん上の手紙の宛名が元警部の目にとまり、ハッとして、ミセズ・メロウディンヘの疑いをますます強めた。それは、ある有名な保険会社あてになっていたのだ。
その場で、エヴァンス元警部は、とことんまでさぐる決心をした。だが、二人そろって郵便局をでて、おなじ道をあるきながら、話題が生命保険のことになった理由など、もちろん、人のいいジョージ・メロウディン教授には気がついている様子はなかった。
エヴァンス元警部は、なんの苦労もなく、ききだせた。妻にすすめられて生命保険にはいることになった、とメロウディン元教授は自分からいいだしたのだ。そして、加入しようとしている保険会社について、元警部の意見をもとめたりした。
「じつは、つまらないことに投資しましてね」と元教授は説明した。「そのため、財産からの収入がへってしまったんですよ。だから、もしわたしの身になにかあると、妻は非常にこまることになる。その点、保険にはいってれば、安心ですからね」
「奥さんは反対なさらなかったんですか?」エヴァンス元警部はなにげない口調でたずねた。「いやがる奥さんもあるんですよ。縁起がわるいなんてことを考えるんですかね」
「いや、妻はとても実際的だから、だいじょうぶです」元教授はほほえみながらこたえた。「迷信など大きらいでね。じつをいうと、わたしが生命保険に加入するように、妻のほうからすすめたくらいです。わたしがそんなことを心配して、クヨクヨしてるのはいやだと言って――」
これで、エヴァンス元警部の知りたいネタはすっかりわかった。元警部は、それからちょっとして、元教授とわかれたが、その唇はキッと一文字にむすんだままだった。故アンソニー氏も、死ぬ数週間前に、妻のために、生命保険にはいっていたのだ。
自分の直観を信じているエヴァンス元警部は、もう、ミセズ・メロウディンの目的についてすこしの疑いももたなかった。しかし、ではいかに行動するかということになると、別問題だ。殺人の現場をつかまえてもつまらない。犯罪がおこなわれる前に、それをふせがなくてはならないのだ。これはまったくちがったことで、もっとむつかしいことだった。
その日は、一日中、エヴァンス元警部は考えこんでいた。だが午後には、地方の名士の庭で、サクラソウ連盟(一八八三年結成された保守党員の団体)のパーティがあり、元警部も出かけていって、銭ひろいをしたり、豚の目方をあてたり、ヤシの実のボーリングをしたりして、顔にはたえず而白がつているような表情をうかべ、みんなとさわいでまわった。半クラウンだして、水晶占いのザラにも運勢を観てもらった。ザラの前に腰かけながら、警察にいた頃は、こういった占い師をとりしまったことがあるのをおもいだし、警部はひとりでニヤニヤした。
もちろん、歌でもうたうような、占い師の単調な言葉になど、さほど気にもとめでいなかったが、最後になって、元警部はハッときき耳をたてた。
「――ちかいうちに、ほんとに、ごくちかいうちに、あなたは、生死に関することにかかりあうようになります。ある人の生死に関する――」
「え、なんだって?」元警部は、おもわず、ききかえした。
「そのとき、どう行動するか……あなたは、はっきり決心しなくてはいけません。そして、細心の注意をすることです。細心の……注意を――。もし、まちがいをおかせば、ほんのちょっとでも過失があれば――」
「どうなるんだ?」
占い師はからだをふるわした。エヴァンス元警部には、もちろん占い師のいうことなどデタラメだとわかっていた。だが、やはり気になった。
「ご用心なさい。もし、あなたが誤りをおかせば、その結果はただ一つ、死です」
ふしぎだ、まったくふしぎだ。占い師がこんな事を口にするのは。
「もし、わたしがまちがいをすれば、死んでしまうというんだな、え?」
「そうです」
「それならば」エヴァンス元警部は立ちあがり、半クラウン貨を相手にわたした。
「まちがいをしなきゃいいわけだ」
元警部はかるい口調でくりかえしたが、占い師のテントをでるときは、顎をキッとひいていた。言うのはやさしい。だが、確実にことをおこなうのは、そうかんたんにはいくまい。けっして、手落ちがあってはならない、命が、貴重な人間の命がそれにかかっているのだ。
しかも、だれも助けてくれる者もない。元警部は庭を見わたした。親友の老船長の姿が庭のむこうに見えた。しかし、ヘイドック船長をたよりにすることはできない。「自分に関係のないことはほっとけ」というのが老船長のモットーだ。だが、この場合、そうはいかなかった。
ヘイドック船長は女の人と話していた。その女の人は船長とわかれて、エヴァンス元警部のほうにやってきた。ミセズ・メロウディンだと、元警部にはすぐわかった。元警部は、反射的に、ミセズ・メロウディンにちかづいた。
ミセズ・メロウディンはかなりの美人だった。ゆたかなおちついた眉に、とてもきれいな茶色の目をしている。いつも冷静な態度をくずさない。髪を真中からわけ、ふっくらと両耳のほうにさげているからか、イタリア風のマドンナの像に似ていた。声もゆたかで、なにかねむたげな口調で話す。
ミセズ・メロウディンはエヴァンス元警部にほほえんだ。にこやかな、人をそらさない微笑だ。
「あなたじゃないかと思ってたんですよ、ミセズ・アンソニー。いやミセズ・メロウディン」エヴァンス元警部は調子よくいった。
わざといいまちがえたのだ。そして、気づかれないように、そっとミセズ・メロウディンの顔色をうかがった。瞬間、ミセズ・メロウディンの目が大きくなり、ハッと息をすいこんだようだった。だが、目はたじろぎもせず、じっと落ち着いて元警部を見つめていた。
「たくの主人をさがしてるんですのよ」ミセズ・メロウディンはしずかにこたえた。「どこかで、お見かけになりませんでした?」
「さっきは、あっちにいらしたようですが」二人はならんで、愉快に、またひかえめに会話をかわしながら、その方にいった。元警部はますます感心してきた。なんという女だ! この自制心! おどろくべき冷静さ! ほんとにめずらしい女性というべきだ。そして、非常に危険な――。たしかに危険な女にちがいない。
元警部は、まだ非常に不安だったが、とにかく、自分からイニシアティヴをとったことに満足していた。おまえの正体を知っているぞ、ということを相手に知らせたのだ。きっと、ミセズ・メロウディンは用心するにちがいない。急いで、ことをおこなうようなことはあるまい。それにしても、メロウディン元教授のことが心配だ。元教授に、奥さんのことを注意してやれるといいのだが。
小柄な元教授は、銭ひろいの賞品にもらった支那人形にすっかり気をうばわれていた。ミセズ・メロウディンは家にかえろうといいだした。元教授も、さっそく同意した。ミセズ・メロウディンは元警部をふりかえった。
「ごいっしょにいらして、うちでお茶でもめしあがったらいかがですか、エヴァンスさん?」
こういった時のミセズ・メロウディンの口調には、挑戦するようなひびきが、かすかに感じられた。元警部はこたえた。
「ありがとう。お言葉にあまえましょう」
三人は、ただありきたりのことを楽しそうに話しながら、あるいていった。陽は輝き、そよ風はやさしく吹いている。三人をとりまくものはすべてこころよく、なにも変ったところはなかった。
女中もパーティにでかけていていない、と昔風のこぎれいな家につくと、ミセズ・メロウディンはいった。そして、帽子をとりに自分の部屋に入っていき、もどってくると、湯わかしを小さな銀のアルコール・ランプの上にかけて、お茶の支度をはじめた。ミセズ・メロウディンは暖炉のそばの棚から、茶碗を三つに、お皿をおろした。
「今日は、とくべつに支那茶にしますわ。このお茶を飲むとき、いつも支那風にしていただくんですのよ。柄のついたカップではなく、支那のお茶碗をつかって」
ミセズ・メロウディンは言葉をきり、茶碗の一つをのぞきこんで、もう一つのととりかえたが、眉をしかめていった。
「あなた――、だめよ。また、このお茶碗をおつかいになったでしょう?」
「すまん」と元教授はあやまった。「ちょうど手頃なサイズなんでね、ぼくが注文した容器はまだ届いてないんだ」
「今に、みんな、毒を飲むようなことになるかもしれなくてよ」ミセズ・メロウディンは半分笑いながらいった。「女中のメアリーが実験室でこのお茶碗を見つけて、さげてくるんだけど、はっきり目に見えるくらいよごれてないと、けっして洗わないんだから――。この間は、青酸カリをおつかいになってたじゃないの? ほんとに、あなた、とっても危険だわ」
メロウディン元教授はごきげんがわるかった。
「実験室にある物はうごかしちゃいかん、とメアリーにはよくいいつけてあるんだがな。どんなものにも、さわらないように――」
「でも、わたくしたち、よく実験室でお茶をいただいて、あとをそのままにしてることがあるじゃありませんの? メアリーには、お茶のときつかったものかどうか、わからないでしょう? 注意なさってよ、あなた」
元教授はブツブツいいながら、実験室にはいっていき、ミセズ・メロウディンは微笑をうかべ、お茶をいれ、ちいさな銀のアルコール・ランプをふきけした。
エヴァンス元警部は複雑な気持だった。しかし、第六感とでもいうか、ハッと頭にひらめいたものがあった。なんのためかはわからない。だが、ミセズ・メロウディンは自分の手のうちを見せたのだ。これから「事故」がおこるのだろうか? 前もって、自分の無実を証明しとこうというのか? 「事故」がおきた場合に、元警部がミセズ・メロウディンに有利な証言をするように――? ばかな女だ。しかし、もしそうなら、その前に……。
急に、元警部は息をすいこんだ。ミセズ・メロウディンは三つの茶碗にお茶をついだ。そして一つは警部の前、一つは自分自身の前、のこりは暖炉のちかくの、メロウディン元教授がいつもすわる椅子のそばのちいさなテーブルの上においた。この三つめの茶碗をおくとき、ミセズ・メロウディンの口もとに、きみょうな、ゆがんだほほえみがかすかにうかんだ。この笑い方は――?
エヴァンス元警部にはピンときた。
いや、たいした女だ。まったく危険な女性――。時も待たず、なんの準備もしないで………。今日、たった今、元警部を証人として目の前におき、殺人をおこなおうというのだ。その、あまりの大胆さに、おもわず、元警部は息をのんだ。
なんという頭のいいやり方だ。まったく、よく考えている。エヴァンス元警部にはなにも立証することはできない。さっき話していたようなことが、あまりにもはやくおきた。といって自分を疑うはずがない、とミセズ・メロウディンは信じているのだろう。頭の回転がすばやく、また決断力にとんだ女性だ。エヴァンス元警部はふかく息をすいこみ、からだを前にのりだした。
「奥さん、わたしは、なんていうか、いつもとんでもないことを思いつく、かわった男でしてね。もし、失礼でなかったら、わたしの気まぐれをお許しくださいませんか?」
ミセズ・メロウディンは、なんでしょう、という顔をしたが、元警部をうたがっている様子はぜんぜんなかった。
元警部は立ちあがってミセズ・メロウディンの前の茶碗をとり、れいのちいさなテーブルのところにいくと、その上にある茶碗ととりかえた。そしてもどってくると、ミセズ・メロウディンの前においた。
「これをお飲みになるところを拝見したいんですよ」
ミセズ・メロウディンと元警部の視線があった。ミセズ・メロウディンの目はたじろぎもせず、まったく無表情だった、だが、血の気がだんだん顔からひいていった。
ミセズ・メロウディンは片手をのばし、茶碗をつかんだ。エヴァンス元警部は息をとめた。
ぜんぜん考えちがいだったらどうしよう?
ミセズ・メロウディンは茶碗を口もとにもっていった。だが、最後の瞬間になって、ゾッと身ぶるいすると、からだを前にたおし、羊歯《しだ》の鉢のなかに、茶碗の中味をあけた。そしてからだをおこすと、元警部をじっとにらみかえした。
元警部はホッと大きなため息をもらし、また椅子に腰をおろした。
「どうなさるおつもり?」とミセズ・メロウディンはたずねた。
「あなたはとてもお利口な方だ。わたしの言葉の意味はおわかりでしょうな、ミセズ・メロウディン? つまり、その……、一度やったことを、二度くりかえすのはマズい。わかりますね?」
「よく、わかりますわ」
ミセズ・メロウディンの声はおちついており、冷静だった。元警部は満足そうに、うなづいた。頭のいい女だ。絞首刑になるような真似はいやだろう。
「あなたも、そして御主人も、ずっとお元気でおくらしになるように」元警部は意味深長にいって、茶碗を口につけた。
元警部の顔色が、とたんにかわった、なんともいえない味のお茶だ。エヴァンス元警部は立ちあがろうとした。さけぼうとした。だが、もうからだがこわばり、顔はむらさき色になっていた。元警部はドサッと椅子の背によりかかった。手足には痙攣がおきてきた。
ミセズ・メロウディンはからだをのりだし、元警部の様子をじっとうかがっていた。その唇に、わらいの影がうかんだ。ミセズ・メロウディンは元警部に話しかけた。しずかに、ソッと――。
「たいへんなおまちがいをなさったようですわね、エヴァンスさん。わたしがたくの主人を殺すつもりだと、あなたはお考えになったんでしょう? ほんとに、どうしてそんなことをおおもいになったんです? だって、あんまり、ばかみたいで――」
ミセズ・メロウディンは、しばらくの間、そのまま椅子に腰かけて死んでいくエヴァンス元警部をみつめていた。愛する夫と自分との間をさこうとして割りこんできた第三の男の断末魔を――。
ミセズ・メロウディンの顔に微笑がひろがっていった。まったく、聖母《マドンナ》そっくりの表情だった。そして、ミセズ・メロウディンは大きな声で夫をよんだ。
「あなた、はやく……、はやくきてください! たいへんなことがおきたの。お気の毒にエヴァンスさんが……」
最後の降霊会
ラウール・ドーブルイユは鼻唄をうたいながらセーヌ河を渡った。様子のいい若いフランス人で、年の頃は三十二といったところ。生き生きした血色で、小さい黒い口ひげを立てている。職業は技師である。やがてカルドネ通りに着いて、十七番地の扉をはいった。管理人《おばさん》が部屋からジロッと見て、「お早う」と渋々いったのに応じて、彼は快活に返事した。それから階段を登って三階の部屋に行った。ベルを押して返事のあるのを待つ間に、伎はもう一度さっきの鼻唄をくりかえした。今期はラウール・ドーブルイユは特にごきげんである。扉を開けたのは年をとったフランスの女で、訪ねて来たのが誰だかわかると、皺《しわ》だらけの顔が途端に嬉しそうな笑顔になった。
「お早うございます」
「お早う、エリーズ」ラウールはいった。
彼は入口のホールにはいりながら手袋を取った。
「マダムは僕を待っているのだろうね」と彼は振りかえりながらいった。
「はい、左様でございますよ」
エリーズは表の扉を閉めてから彼のほうに向き直った。
「小さいサロンでお待ち下さいますなら、マダムは直ぐにおいでになりましょう。ただ今は、やすんでいらっしゃいますので」
ラウールはキッと目をあげた。
「工合がよくないの?」
「工合ですか!」
エリーズは鼻を鳴らした。ラウールの前を通り抜けると、小さいサロンの扉を開けてやった。彼は中にはいる。彼女は後からついてはいる。
「お工合ですか!」彼女はつづけた。「どうしてお工合がいいわけがございますでしょう、お気の毒に。降霊会、降霊会、降霊会づくめで! あんなことは、よくございませんよ――不自然ですよ。神様のおぼしめしに背いていますもの。私から見れば、いつも歯に衣《きぬ》きせずに申しますんですが、あれは悪魔と取引をすることでございますよ」
ラウールは、相手を安心させようと、肩を軽く叩いた。
「まあまあ、エリーズや」彼は宥《なだ》めるようにいった。「興奮するんじゃないよ。それから、自分にわからないからといって、むやみに悪魔よばわりするのはよしておくれよ」
エリーズは疑ぐり深そうに首を振った。
「ですけれど」彼女は声をひそめて話した。「あなた様はお勝手なことをおっしゃいまずけれど、私はあれは気に食いませんですねえ。マダムをご覧遊ばせ。一日一日と、お顔の色は青くなり、お痩せになって、それから頭痛ばかり!」
彼女は両手をあげた。
「いいえ、いけないんでございますよ、この霊魂商売は、何から何まで、霊魂なんでございますからね! いい霊魂はみんな天国に行っておりますし、よくない霊魂は煉獄に行っておりますもの」
「君は死後の生活に対して、実に単純な見方をしているんだね、エリーズ」ラウールは椅子にかけながらいった。
老婦人は居住いを直した。
「私は正しいカトリック信者でございますもの」
十字をきると、彼女は扉のほうに歩いて行ったが、ハンドルに手を当てたまま、そこで足をとめた。
「ご結婚遊ばした後では」彼女は訴えるようにいった。「もうこんな事はなさらないのでございましょうね」
ラウールは、やさしく微笑した。
「君は善良な忠実な女だよ、エリーズ」彼はいった。「それからマダムに打ちこんでいる。安心おし。一度彼女が僕の妻になったら、この君のいう『霊魂商売』は、やめてしまうのだよ。ドーブルイユ夫人になったら、降霊会は一切廃止にするのだ」
エリーズの顔が崩れて、嬉しそうな笑顔になった。
「そのお言葉は本当でございますか?」彼女は無性に熱心に尋ねた。
相手は真面目にうなずいた。
「そうだよ」と彼はいったが、女に聴かせるというより自分にいって聴かせるといった口調だった。「そうだよ、こんなことは全部よしにしなくてはいかん。シモーヌは不思議な力を授かって生まれていて、それを自由に使って来たのだが、もう役目はすんだ。君が見てのとおり、エリーズ、彼女は日一日と青ざめて痩せて来る。霊媒の生活は特に骨が折れて、くたびれる。ひどく神経を使わなければならないからね。それでもやっぱり、エリーズ、君のご主人はパリで一番の霊嫌なんだよ――いや、フランス切って、だ。世界中から、人が彼女に会いに来るのは、彼女の術には何のインチキもなく、まやかしのないのを知っているからなのだよ」
エリーズは軽蔑の鼻声を立てた。
「まやかし! まあ、そんな事のあるはずがございませんわ。マダムは、お欺《だま》しになろうとしても、生まれたての赤ちゃんだって欺せない方ですもの」
「彼女は天使だよ」若いフランス人は熱をこめていった。「そして僕は――僕は人間にできる限りのことをして彼女を幸福にするんだ。君、信用する?」
エリーズは姿勢を正して、ある種の単純な威厳を見せながらいった。
「私はマダムに何年もお仕えしております。マダムを愛していると申しても差し支えございますまい。あなた様が、マダムが当然お受けになるだけの愛情をお注ぎになっていらっしゃるのを信じませんでしたら――その時は、きっと私はあなた様を八つ裂きにいたしますよ」
ラウールは笑った。
「偉いぞ、エリーズ! 君は忠実な味方だよ。マダムが霊魂とすっぱり縁を切ると話したからには、もう僕を認めてくれなくてはいけないよ」
彼は老婦人がこの冗談を笑顔で受けてくれるものと当てにしていたが、何となく驚いたことには、彼女は相変らず心配そうな顔でいるのだった。
彼女は遠慮しいしい口をきった。「もしも霊魂のほうでマダムを思い切らなかったら、どうなりましょう」
ラウールは大きく目を見張って女を見つめた。
「何だって? どういう意味なんだい?」
「霊魂のほうでマダムを思い切らなかったらどうなりましょう」エリーズは繰り返した。「と申しあげましたのです」
「君は霊魂を信じないのだと思っていたがね、エリーズ?」
「信じませんとも」エリーズは執拗にいった。
「そんな物を信じるのは馬鹿げています。けれど――」
「けれど?」
「私にはよく説明できませんです。つまり、私は、霊媒だなんて自分でいっている連中は、身近かな者をなくした気の毒な人々につけ込む頭のいい詐欺師だ、と頭から思っていたのでございます。でも、マダムはそんな方ではありません。マダムは善い方でございます。マダムは正直で、それから――」
彼女は声をひそめ、畏怖したような調子でいった。
「いろんなことが起こるんでございます。インチキではなくて、いろんなことが起こるので、それで私は心配なんです。なぜなら私はこれには自信がございます。よくない事でございますよ。自然にも神様にも背いておりますから、誰かに罰《ばち》があたる事になります」
ラウールは椅子から立って、やって来て、彼女の肩を軽く叩いた。
「落ち着くのだよ、エリーズ」微笑しながら彼はいった。「ね、僕がいいニュースを話してあげる。今日は最後の降霊会なのだよ。今日以後は、もう一切やらないのだ」
「では、今日もう一度あるのでございますか?」老婦人は胡散《うさん》くさそうにいった。
「最後のが、エリーズ、最後のが」
エリーズは浮かない面持で首を振った。
「マダムはお身体が――」彼女はいい始めた。しかし彼女は中途でやめた。扉が開いて、背の高い金髪の女がはいって来た。スラッとして優雅で、ボッティチェリの描いた、聖母マリアに似た顔をしている。ラウールの顔が明るくなり、エリーズは急いで慎重な態度で引き退った。
「シモーヌ!」
彼は彼女の長い白い両手を取って、一つずつ接吻した。彼女は、ごく柔かい調子で、彼の名をささやいた。
「ラウール、愛《いと》しい方」
もう一度、彼は女の両手に接吻して、それから一心に顔を見つめた。
「シモーヌ、ずいぶん顔が青いじゃないの! エリーズはあなたがやすんでいるといったけれど。身体の工合が悪いんじゃない?」
「いいえ、工合は悪くはないんですけれど――」彼女は口ごもった。
彼は女をソファに連れて行って、自分も並んで腰かけた。
「じゃ話しておくれ」
霊媒は力ない微笑を見せた。
「あなたは私を馬鹿々々しいとお思いでしょうねえ」彼女は呟いた。
「僕が? あなたが馬鹿々々しいと? 思うもんですか!」
シモーヌは、握りしめている男から手を引いた。ちょっとの間、彼女はジッと身体を動かさず、絨毯を見つめていた。それから、低い声で早口にいった。
「私、こわいのよ、ラウール」
一分か二分の間、彼女がつづけるかと思って待っていたが、何もいわないので、促すように彼はいった。
「うん、何が恐いの?」
「ただ恐いの――それだけなの」
「でも――」
彼が脇に落ちない様子で見るので、彼女はすぐそれに答えた。
「ええ、不合理でしょ。でも、やっぱりそんな気持がするのよ。恐いの、ただ。何が恐いのか、なぜ恐いのか、わからないの。でも、何かとても恐い――とても恐いことが、私の上に起こるに違いない、という考えが始終頭から離れないんです」
彼女は自分の目の前を見つめた。ラウールは.優しく腕を彼女の腰のまわりにかけた。
「最愛の人」彼はいった。「さあ、弱ってしまっては駄目。僕には、よくわかっているぜ、シモーヌ、緊張のせいだ、霊媒の生活の緊張ですよ。あなたは、ただ休めばいいんですよ――静かに休息すれば」
彼女は感謝の色を浮かべて彼を見た。
「ええ、ラウール、あなたのおっしゃる通りよ。それが私には必要なんです。休息と静かな生活とが」
彼女は目を閉じて、彼の腕に少し身体を托して後ろに寄りかかった。「それと幸福が」ラウールは女の耳につぶやいた。
彼の腕は彼女を身近かに引き寄せせた。シモーヌは、まだ目を閉じたまま、深く息を吸いこんだ。
「ええ」彼女は低い声でいった。「そうなのよ。あなたが両腕で私を抱いていらっしゃるときには、私は安心な気がしますの。私は自分の生活を忘れますのよ――霊媒の――あの辛い生活を。あなたは随分ご存じだけれど、ラウール、あなたでも、どんなに辛いかはご存じないのよ」
抱いた腕の中で、彼女の身体が硬くなるのを彼は感じた。彼女の目が再び開いて、自分の前を見つめ始めた。
「真暗な小部屋に坐って、待っているの。そして、この闇はとても恐いのよ、ラウール。だって、空虚な闇ですもの。虚無の闇ですもの。故意に、自分でその中に没頭するんですものね。そのあとでは、自分では何もわからないし、何も感じないんです。でも、そのうちに、ゆっくりと、辛い復帰が始まるんです。眠りから覚めてくるのですけれど、とっても疲れてしまっているのです――とってもひどくくたびれているのです」
「わかっている」ラウールが低い声でいった。「よくわかっている」
「ひどくくたびれて」シニーヌは再び繰りかえした。繰りかえしたとき、彼女の身体全体が萎むようだった。
「でも、あなたは素敵だぜ、シモーヌ」
彼は女の手を握りしめ、自分の熱心さを共有するように元気づけようとした。
「あなたは類がない――世界が知った古来最大の霊媒なんですよ」
彼女は少し微笑しながらも、首を振った。
「そうなんですよ。そうなんだ」ラウールは主張した。
彼はポケットから手紙を二通取り出した。
「ご覧なさい。サルペートリエール療養院のローシュ教授から。それから、これはナンシーのジュニール博士からで、両方とも、これからも時々あなたにやってもらえないかと懇請して来ているのですよ」
「あら、駄目!」
突如、シモーヌは立ちあがった。
「厭よ、厭よ。全部やめてしまうのよ――みんなお断りするんだわ。約束なさったじゃないの、ラウール」
ラウールは呆気に取られて彼女を見つめた。ワナワナと身震いしながら、追いつめられた獣のような姿をしている。彼は立って彼女の手を取った。
「そうとも、そうとも」彼はいった。「確かにおしまいだ。それは約束した通りですよ。でも、僕はあなたが自慢なんです、シモーヌ、だからこういう手紙をお見せしたんです」
彼女は素早く斜に彼に視線を投げた。疑いの色が濃い。
「あなたが私にまた降霊をやれとおっしゃるのではなくって?」
「いや、いや」ラウールがいった。「あなた自身がやろうという気なら別だけれど。時々、ああした古いお友達のために――」
だが、興奮した調子で彼女は遮った。
「いいえ、いいえ、もう絶対に厭よ。危険なのよ。私に感じられるの、大きな危険が」
彼女は両手を額に当ててしばらく立っていたが、やがて窓のほうへ歩いていった。
「もう絶対にやらせないと約束して下さいな」彼女は振りかえっていった。前より少し落ち着いた声である。
ラウールは彼女について行って、両の腕を肩にかけた。
「愛しい人」彼は優しくいった。「約束するぜ。今日以後はもう一切降霊術はやらないんですよ」
彼女がハッとしたのが彼に感じられた。
「今日」彼女はつぶやいた。「あら、そうだわ――私、エクス夫人のことを忘れていた」
ラウールは時計を見た。
「もう今にも来るかも知れない。でも、シモーヌ、もし工合がよくないようだったら――」
シモーヌはろくに彼の言葉を聴いていない様子だった。彼女は自分の頭の中の観念の続きを考えていたのである。
「あの女は――不思歳な女よ、ラウール、とても不思議なの。あなたご存じ――私あの人が大嫌いといってもいいくらいなのよ」
「シモーヌ!」
彼の声には非難の色があった。彼女は途端にそれを感じた。
「ええ、ええ、わかっていてよ。あなたはフランスの男の誰とも同じなんだわ、ラウール。あなたにとって、世の中の母親は神聖で、だから亡くした子供のことで悩んでいる時に、こんな気持を出すのは不親切だ、とおっしゃるのね。でも――私うまく説明できないけれと、あの女《ひと》はとても大きくて、黒くって、あんな手をしていて――あの女の手を気をつけてご覧になったことがあって、ラゥール? とても大きい強い手よ。男の手みたい。ああ!」
彼女はちょっと身震いして目を閉じた。ラウールは腕をひっこめて、ほとんど冷たいといっていい口調で話した。
「本当に僕は、あなたが理解できないなあ、シモーヌ。あなたは女なんだから、女同志の同情以外には何も感じないはずなんだがなあ。一粒種の子供をなくした母親なんですよ」
シモーヌは焦れったいといった身振りをした。
「あら、私こそあなたが理解できないんだわ! こういうことは仕方がないでしょう。あの女に初めて会った途端に私――」
彼女は両手を突きだした。
「ゾッとしたの! 覚えていらっして? 降霊術をするのをなかなか私は承知しなかったでしょう? 何となく、必ず私に不幸を持って来るに違いない人だ、と感じたのよ」
ラウールは肩をすくめた。
「ところが実際には、その正反対を持って来たじゃないの」彼は冷淡な口調だった。「降霊会は毎回大変な成功だった。小さいアメリーの霊魂は途端にあなたに乗り移ったし、具象化のほうは実際すごくうまく行った。この前の時なんか、ローシュ教授に来ていてもらえばよかったんだ」
「具象化ね」シモーヌは低い声でいった。「ねえ、話して頂戴な、ラウール(私が術にかかっている間は、起こっていることを何も知らないのをご存じでしょうね)具象化作用はそんなにうまく行っているの?」
彼は熱をこめてうなずいた。
「最初の二、三回は、子供の姿は不透明な霧のような程度に現れたんです」彼は説明した。「ところが、この前の降霊会の時には――」
「その時には?」
彼は大変優しくいった。
「シモーヌ、あすこに立つた子供は、肉もあり血も通った本当の子供だったの。僕はその子供に触ってもみた――が、触ると本当にあなたに苦痛になったので、僕はエクス夫人には触らせなかったのですよ。僕は彼女が自制心を失って、その結果何かあなたに害が生じるといけない、と思ったんで」
シモーヌはまた窓のほうを向いてしまった。
「私、気がついたとき、とてもグッタリなってしまっていたのよ」彼女はつぶやいた。「ラウール、大丈夫だとお思い? こんなことしていて本当に大丈夫だとお思いになる? エリーズが何と思っているかご存じ? 私は悪魔と取引をしているんだ、というのよ」
彼女は自信のなさそうな笑い声を立てた。
「僕の信条はご存じでしょう」ラウールは厳粛な調子でいった。「未知のものを扱う場合には、必ず危険が伴うのですが、この目的は立派なんですよ、科学のためなのだから。全世界いたるところ、科学のための殉難者は数多い。先駆者が犠牲を払ったおかげで、ほかの者が安全にそれと同じことをやってのけられる。今日まで十年、あなたは大変な精神的緊張の犠牲を払って、科学のために尽して来た。今やあなたの役目は終って、今日から以後は、あなたは自由に幸福に酔えるのです」
彼女は情愛をこめて彼に向ってニッコリした。落ち着きを取り戻した。それから彼女は素早く視線を時計に投げた。
「エクスさんは遅いわね」彼女はつぶやいた。「来ないのかも知れない」
「来ると思うな」ラウールはいった。「あなたの時計は少し進んでいるぜ、シモーヌ」
シモーヌは部屋中を歩き回って、装飾をあれやこれやと直した。
「一体何者なんでしょうね、このエクス夫人ていうのは」彼女がいった。「どこの出身なんでしょう。どういう素性の人なんでしょう。私たちは不思議とあの人のことは何も知らないわね」
ラウールは肩をすくめた。
「霊媒の所へ来るときには、大抵の人は出来るなら身許を明かさない」彼はいった。「誰でも用心するんですよ」
「そうでしょうね」シモーヌは賛成したが、無頓着な調子であった。
手にしていた小さい焼物が指先から滑って、炉端のタイルの上で粉々になった。彼女は鋭くラウールを振りかえった。
「ご覧なさいな」彼女はつぶやいた。「私、変なのよ。ラウール、あなた私のことをとても臆病だとお思いになる? もし私がエクス夫人に今日は降霊はできないといったら?」
彼が感情を害したふうに驚いた顔をしたので、彼女は赤くなった。
「約束したんじゃないの、シモーヌ――」彼は穏やかにいった。
彼女は壁まで後退した。
「私、厭よ、ラウール。私、やらないわ」
だが、優しく非難する彼の例の眼光《まなざし》にあうと、彼女はすくんでしまった。
「僕の考えているのは、お金じゃないんだぜ、シモーヌ。もっとも、この女が最後の降霊会のために出そうといったお金が大変な額なのは、あんたもわかるはずだ――すごい額なんだから」
彼女は挑戦的にさえぎった。
「お金以上の物だってあるわよ」
「もちろんありますよ」彼は熱心に同意した。
「それを僕は今いっているんです。考えてご覧――この女は人の母なんですよ、一粒種の子供を亡くした母親なんです。本当に身体の工合が悪いのなら別だが、単なる気紛れを起こしているなら――金持の女に一度の気ままを許すのを拒むのはいいが、子供を最後に一目見ようという母親の願いを拒むことができる?」
霊媒は絶望的な身振りで両手を前につき出した。
「ああ、私をひどく苦しめるわねえ」彼女はつぶやいた。「でも、やっぱり、あなたのおっしゃる通りだわ。私はあなたのお望み通りにやります。でも、私何が恐いのか今わかったの――『母親』という言葉なのよ」
「シモーヌ!」
「世の中には、まだ原始的な自然的な要素があるわね、ラウール。その大部分はもう文明の力で壊されてしまっているけれど、母性というものは昔通りの座を占めているのよ。動物でも――人間でも、少しも変っていないの。子供に対する母親の愛は、世の中の何にも較べられないの。母親の愛は、法律も知らないし、憐れみも知らないし、どんな無茶も平気だし、邪魔になる物は何でも悔いなく破壊してしまうの」
彼女は言葉薬を切って、しばし喘《あえ》いだ。それから彼のほうに振りむくと、どうにも怒れなくなる微笑をニッとしてみせた。
「私、今日は少し馬鹿げているのよ、ラウール。自分によくわかっているの」
彼は女の手を取った。
「一分か二分、横になっていらっしゃい」彼は勧めた。「彼女の来るまで休むといい」
「そうするわ」彼女は彼を見て微笑して、それから部屋を出て行った。
ラウールは一分か二分ほど考え込んでいたが、やがて急いで扉へ行って、開けると、小さい廊下を横切った。彼は廊下の反対側の部屋にはいった。それは今出たのとよく似ている居間なのだが、片っぽの端が『入れ込み』になっていて、大きな肱かけ椅子がすえてある。厚い黒いビロードのカーテンがあって、その『入れ込み』を仕切れるようになっている。エリーズは忙しげに部屋を整頓していた。『入れ込み』の直ぐそばに椅子を二脚と丸い小卓を並べた。卓の上にはタンブリンが一つと新聞紙のホーンが一つと、それから紙と鉛筆があった。
「最後でございますね」エリーズは気味の悪い満足を色に出してつぶやいた。「ああ、もう済んでしまったのなら、どんなに嬉しうございましよう」
ベルが鋭く鳴った。
「あら、やって来た。あの憲兵みたいな恰好した女」老女中はつづけた。「なぜ教会に行って、死んだ児のためにちゃんとお祈りをしてやらないのかしら。そして、蝋燭《ろうそく》を聖母様に捧げればいいのに。神様はわれわれの一番ためになることをご存じなのに」
「ベルが鳴っているよ」ラウールは権柄づくにいった。
彼女はキッと彼を見たが、命令に従った。一分か二分すると、彼女は来訪者を案内して来た。
「おいでになったことを主人に伝えて参ります」
ラウールは進み出て、エクス夫人と握手した。シモーヌの言葉が記憶に浮かんで来た。
「とても大きくて、黒くって」
客は確かに大柄な女で、フランス風の厚い黒い喪服は、彼女の場合にはほとんど誇張的にすら見えた。口をきくと、声は非常に太くて低かった。
「どうやら少し遅れてしまいまして」
「いえ、ほんの三、四分です」ラウールは微笑しながらいった。「マダム・シモーヌは今やすんでおります。実は、身体の工合がよくありません。神経が立っていまして、過労になっているのです」
ちょうどその時、ひっこめようしていた彼女の手が、にわかにギュッと彼の手を握りしめた。
「でも、降霊はやって下さるのでしょうね?」彼女は鋭く詰問した。
「ええ、もちろんです」
エクス夫人は安堵の息を洩らして、まとっていた厚い黒いヴェールの一つを緩めると、椅子に坐った。
「ああ、あなたには想像もおできにならないでしょう」彼女は低い声でいった。「こうした降霊会が私にとってどんなに素敵で嬉しいか、おわかりにならないでしょう! 私の子供! 私のアメリー! あの児の姿が見え、あの児の声が聴こえ、その上――多分――ええ多分、手をのばして触れることもできるのです――」
ラウールは早口に、命令的にいった。
「エクス夫人――どういうふうにご説明しましょうか――いかなる場合にも、私の指図しないことはなさってはいけないのですよ。さもないと、大変な危険があるのです」
「私に危険が?」
「いいえ」ラウールがいった。「霊媒に。発生する現象は、ある意味で科学的に説明できることを理解なすって下さい。術語を一切さけて、ごく簡単にご説明申しあげます。霊魂は姿を現わすためには、霊媒の持つ現実の肉体的な実体を使わなければならないのです。霊媒の唇から液体が蒸気のように出るのを、あなたは今までにご覧になりました。これが最後には凝結して、死んだ霊魂の肉体と同じ形体を形成するのです。しかし、この心霊体は、われわれの信じるところでは、霊媒の現実な肉体の一部なのです。われわれは、いつの日にか、慎重に目方を計ったり試験をしたりして、これを証明できると信じているのです――が大きい困難があって、今日までそれはなし得ないのです。それは、この現象に少しでも手を触れると、霊媒は危険に陥って苦痛を感じるのです。この出現した心霊体を手荒く扱ったりすれば、霊媒が死んでしまうこともあり得るのです」
エクス夫人はよく注意して彼の言葉に耳を傾けていた。
「随分興味のあるお話でございますこと。お話し頂けませんか。心霊体の形成が進んで参りますと、その内に親である霊媒から分離できるようにはなりませんでしょうかしら」
「それは奇怪な思惑ではありませんか?」
彼女は食いさがった。
「でも、事実上は、不可能ではないのでございましょう?」
「今日では、全然不可能です」
「でも、将来はあるいは?」
彼は答えないですんだ。ちょうどこの時シモーヌがはいって来たからである。彼女は物憂そうで青ざめていたが、明らかにすっかり自制を取り戻していた。進み出て、エクス夫人と手を握ったが、握るときに微かに身震いしたのをラウールは見逃がさなかった。
「お身体の工合がお悪いと伺いましたが」エクス夫人がいった。
「何でもございませんのよ」シモーヌはいささか不愛想な調子でいった。
「始めましょうか?」
彼女は『入れ込み』に行って、肱かけ椅子に腰かけた。にわかに今度はラウールが、恐怖の波が身の内を過ぎるのを覚えた。
「あなたはまだ身体が弱っている」彼は叫んだ。「降霊会は取りやめにしたほうがいいです。エクス夫人はわかって下さるでしょう」
「まあ!」
エクス夫人は憤然として立ちあがった。
「いえ、いえ。やめたほうがいいです。私は確信しています」
「マダム・シモーヌはもう一度だけ降霊術をして下さるとお約束下すったのですよ」
「そうですわ」シモーヌは静かに同意した。「で、私はお約束を履行する用意ができていますの」
「是非お願い致しますわ、マダム」と相手の女がいった。
「私は約束は破りません」シモーヌは冷やかにいった。「ご心配なく、ラウール」彼女は優しくつけ加えた。「何といっても、これが最後ですもの――最後ですのよ、ありがたいことには」
彼女が合図したので、ラウールは、厚い黒カーテンを引いて、『入れ込み』を仕切った。それから、窓のカーテンも引いたので、部屋は半ば朦朧《もうろう》となった。彼はエクス夫人に椅子の一脚を指差して、自分はもう一脚のほうに腰かけようとした。ところが、エクス夫人は躊躇《ちゅうちょ》した。
「失礼なのですけれど、――私があなたとマダム・シモーヌの誠実を絶対的に信じているのはご理解下さるでしょう。ですけれど、私の証明の価値をもっと大きくするために、勝手ながらこれを持って来させて頂きましたの」
ハンドバッグから、彼女は相当長い細い紐を引っぱり出した。
「マダム!」ラウールは叫んだ。「これは侮辱です!」
「用心ですの」
「繰りかえしますが、侮辱です」
「反対なさる理由がわかりませんわ」エクス夫人は冷やかにいった。「まやかしが全然ないのでしたら、心配なさる必要はございますまい」
ラウールは嘲《あざけ》るような笑い声を立てた。
「私が何の心配もしていないところをよくお目にかけましょう。何なら、手も足も縛ってください」
彼の言葉は願っていた効果をもたらさなかった。エクス夫人は感激のない調子で、こうつぶやいただけだったからだ。
「すみません」それから彼女は紐の束を手に、彼にのしかかって来た。
突如、カーテンの裏でシモーヌが叫び声をあげた。
「駄目よ、駄目よ、ラウール、そんなことをさせないで」
エクス夫人は愚弄するように笑った。
「マダムは恐がっていらっしゃる」彼女は皮肉をいった。
「ええ、恐いんです」
「そんなことをいっては駄目だぜ、シモーヌ」ラウールは叫んだ。「エクス夫人は明らかに、僕たちが詐欺師だと信じておいでなのだから」
「念には念を入れなければなりませんからねえ」エクス夫人は気味の悪い声をだした。彼女は手際よく仕事をつづけて、ラウールをしっかりと椅子に縛りつけてしまった。
「大変に結び方がお上手ですな」彼女が縛り終った時、彼は皮肉をこめていった。「これでご満足ですか?」
エクス夫人は返事しなかった。彼女は部屋を歩き回って、壁の鏡板の工合などを仔細に調べた。それから、廊下に通じる扉に錠をかけ、それから鍵を抜いて、自分の椅子にもどった。
「さあ」彼女は名状しがたい声を出した。「私は用意できました」
何分間かが経《た》った。カーテンの後ろではシモーヌの息づかいの音が次第に強くなって、鼾《いびき》のようになっていった。やがて、そのどちらも聴こえなくなると、稔り声がいくつかつづいた。それが再び何も聴こえなくなると、急にタンブリンがカチャカチャ鳴り始めた。ホーンがテーブルから飛び上って床に飛んだ。皮肉な笑い声が起こった。『入れ込み』のカーテンは少し引き開けられたようで、霊媒の姿が隙間からほんの少し見えた。頭を前に、胸の上にたらしている。突如、エクス夫人が鋭く息を吸いこんだ。リボン状の霧の流れが霊媒の口から流れ出している。それが凝結して、次第次第に形を作り始める。小さな子供の形になる。
「アメリー! 私の小さいアメリーや!」
しゃがれたささやきがエクス夫人の口から洩れた。霞のような姿は更に更に凝結して行った。ラウールは自分の目が信じられないように目をみはった。霊魂の具象化がこんなに成功したことは一度もなかった。今みるに、まがうことなく本当の子供である。本当の肉も血もある子供がそこに立っている。
「ママ!」柔らかい子供っぽい声が呼びかけた。
「嬢や!」エクス夫人が叫んだ。「私の嬢や!」
彼女は椅子から腰を浮かした。
「気をつけて下さい」ラウールは大きい声で警告した。
具象化は躊躇するようにカーテンの隙から出て来た。それは子供だった。子供は両腕をさし出したまま、そこに立った、
「ママ!」
「ああ!」エクス夫人は叫んだ。
またもや彼女は椅子から腰を浮かした。「奥さん」ラウールは愕然として叫んだ。「霊媒が――」
「何とおっしゃっても私は触りますよ」エクス夫人はしゃがれ声をあげた。彼女は一歩前に出た。
「お願いです、しっかりして下さい」ラウールは叫んだ。
今では彼は本当に周章狼狽していた。
「早く腰かけて下さい」
「私の嬢やですもの、触らなくては」
「奥さん、命令します。お坐りなさい!」
彼は縛られている身体を夢中になってもがいたが、エクス夫人は上手に縛ったものだった。手も足も出ない。迫って来る災難を思って、彼は慄然とした。
「後生です、奥さん、坐って下さい!」彼は嘆願した。「霊媒のことを忘れないで下さい」
エクス夫人は彼のいうことを物ともしなかった。彼女は全く別人のようだった。法悦と歓喜とが、はっきり顔に現れている。彼女の大きくのばした手が、カーテンの隙間に立っている小さい姿にさわった。すごい唸り声が霊媒の口から洩れた。
「神様!」ラウールが叫んだ。「神様! これはひどい。霊媒が――」
残酷な笑い声をあげながら、エクス夫人は彼のほうを振りむいた。
「あなたの霊媒がどうなろうと、私は知りませんよ」彼女は叫んだ。「私は子供が欲しいのです」
「あなたは気が狂った!」
「私の子供なんですよ。私の子! 私自身の子供! 私自身の肉と血なんですよ! 私の子供が死の世界から、生きて息をしながら戻って来たんです」
ラウールは唇を開いたけれど、どうしても言葉が出ない。ひどい女だ! 悔いることを知らず、野蛮で、自分自身の情熱だけに夢中になっている。子供の唇が分かれて、同じ言葉が三たび響いた。
「ママ!」
「おいで、小さい私の嬢や」エクス夫人が叫んだ。
鋭い身振りと共に、彼女は子供を両腕に抱きあげた。カーテンの裏から、身も世もない激痛を訴える長くひっぱった叫び声が響いた。
「シモーヌ!」ラウールは叫んだ。「シモーヌ!」
彼はボンヤリ気づいていた。エクス夫人が彼のそばを掠《かす》めて駈け抜け、扉の錠を外して、階段を駈け降りて行く。
カーテンの後ろからは、甲高い恐ろしい長くひっぱった叫び声がきこえた――ラウールが生れて以来、一度も聞いたことのないすごい声である。恐ろしいゴボゴボという音がして、叫び声はやんだ。それから、身体の倒れるドスンという音がした……
ラウールは狂ったように紐を解こうとしてもがいていた。夢中の働きが効を奏して、不可能なことが成就した。腕の力だけで紐は千切れた。よろめきながら立ちあがったとき、エリーズが「マダム!」と叫びながら駈けこんで来た。
「シモーヌ!」ラウールは叫んだ。
一緒になって、二人は前に進んで、カーテンを引いた。ラウールはよろめいて、後ろにさがった。
「神様!」彼は唸った。「赤い――みんな赤い……」
彼の脇で、エリーズがしゃがれた震えた声をあげた。
「ではマダムは死んでおしまいになったのね。おしまいですね。でも話して下さい、旦那様、一体どうしたのでございますか。なぜ、マダムはこんなに萎《しな》びておしまいになったのです――なぜ、いつもの半分くらいになっておしまいなのです? 一体、何事があったのですか?」
「わからない」ラウールがいった。
彼の声が甲高くなって、叫び声になった。
「わからない。わからない。だが、どうも僕は――気が狂ってくるらしい……シモーヌ! シモーヌ!」
第四の男
パーフィット僧正は少し息切れがした。汽車に間にあうように走るなんて、彼の年輩の男には雑作もないことである。一つには、彼の恰好が、以前のようでなくなっていたからで、スラッとした姿が見られなくなると、だんだん息切れがひどくなって来たのだ。この傾向を僧正はいつも威厳をたもちながら「私の心臓がね!」と引き合いに出した。
僧正はほっと一息つきながら、一等車の隅に腰をおろした。暖房つきの客車の温かさはまことに気持ちがよかった。外には雪が降っていた。長い夜の旅行に偶の席がとれるのは運がいい。これがとれなかったら惨めなものになる。この列車には寝台車をつけるのが当然だ。
ほかの三つの隅の席はもう人が占領していたが、それを見た途端に、一番遠い隅の男が僧正を認めてニッコリしているのに気がついた。それは綺麗に顔を剃《そ》った人物で、奇妙な顔つきをしていて、コメカミのあたりが白くなりかけている。いかにも、法律家らしい恰好なので、誰も彼の職業を別のものと思う気づかいはない。ジョージ・デュランド卿は、全くの話が、ごく有名な決律家なのだった。
「やあ、パーフィット」卿は愛想よくいった。「君は駈けこみましたな」
「心臓には大変よくないのですが」僧正はいった。「全く偶然でしたね、お会いするとは。ジョージ卿。北は遠方までいらっしゃるのですか?」
「ニューカッスル」ジョージ卿は簡潔にいった。「時に」卿はいい足した。「君はキャメル・クラーク医師をご存じですか?」
僧正と同じ側に坐っていた男が快活に頭をさげた。
「プラットフォームで会いましたな」法律家はつづけた。「これも偶然に、ね」
パーフィット僧正は大いに興味深そうにキャメル・クラーク博士を眺めた。何度もきく名前だった。クラーク博士は内科医として精神病の専門家として一流の人物で、最近出した「無意識な精神の難問」は今年いちばん人の問題とした本であった。
パーフィット僧正が見ると、角ばった顎、ごく落ち着いた青い目、それから白い物などは一本もまだ出ていないが、どんどん薄くなっている赤っぽい髪をしている。それからまた、非常に性格の強い人物であるような印象も受けた。
全く自然な連想から、僧正は自分の向い側の席を見た。そこからも認める目つきを半ば期待していたのだが、車にいた第四の男は全く知らない人間なのだった――外国人だな、と僧正は思った、その男は、小柄な、色の浅黒い男で、風貌も別に取りたてるようなものはなかった。大きな外套を着こんで、背中をまるめ、グッスリ寝こんでいるようだった。
「ブラッドチェスターのパーフィット僧正ですか」キャメル・クラーク博士は快活な声で尋ねた。
僧正は嬉しくなった。彼の「科学的説教」は、まことに大受けだったのである――特に、新聞が書き立てて以来、いや、それこそ教会に欠けているところなのだ――大いに近代的な、新式な要素が。
「あなたのご著書を大きな興味とともに読ませて頂きました。キャメル・クラーク博士」僧正がいった。「もっとも、ところどころは余り専門的で私には理解できませんでしたが」
デュランドが口をはさんだ。「話をしますかな、それとも眠りますかな、僧正?」卿はいった。「私はさっそく白状しますが、不眠症にかかっているので、話をするほうが賛成なのですが」
「ああ、そうですとも、是非そうしましょう」僧正がいった。「私は滅多に夜汽車では眠りませんし、私の持って来ている本というのも実に退堀な本でして」
「とにかく、われわれは各界を代表しているじゃありませんか」医者が微笑しながらいった。「教会、法律界、医療方面と」
「どんな事柄でもわれわれなら意見をだせるわけですな?」デュランドが笑った。「霊魂に関しては教会、私は純粋に現世的な法律的な見方、それからきみは一番ひろい分野ですな、博士、純粋に病理学的な方面から――超心理学的な方面まで! われわれ三人がかかれば、どんな方面でも完全に扱えますな」
「いえ、あなたのお考えになるほど完全には行かない、と私は思いますが」クラーク博士はいった。「観点がもう一つありましょう。あなたは勘定にお入れにならなかったですが、これは相当大切なものなのです」
「何を意味なさる?」法律家が尋ねた。
「普通の世間の人の観点です」
「それがそんなに大切ですか? 普通の世間の人は大抵は正しい見方ができないのではないですか」
「ええ、ほとんど大抵の場合には! ですが、専門家の意見には欠けているに違いない点を持っているのですよ――個人的な観点なのです。結局は、誰しも個人的な関係から断ら切れ得るものではありませんからね。私は自分の職業で、それを発見したのです。正真正銘の病気で私の所へ見える患者のうち、少くとも五人に一人は全然病気ではないのです。ただ、同じ家の住人たちと幸福に暮らせない、という以外には何でもないのです。そういう人たちはいろんな事をいいます――膝前滑液嚢炎《しつぜんかつえきのうえん》だとか、書痙《しょけい》だとか。ですが、みな同じ事なのです。心が心と擦《こす》れあって生身《なまみ》が出たわけなのです」
「『神経』で来る患者が多いでしょうね」僧正が軽蔑するような口調でいった。自分の神経は良好な状態である。
「それは一休どういう意味ですか?」相手は電光のように素早く振りかえった。「神経! 人はこの言葉を使ってから笑います。ちょうどあなたがなさったように。『あの男は別になんでもないのだ』といいます。『ただの神経さ』と。しかし、ああ、そこにはあらゆる難点があるのですよ! 単なる肉体的な病気ならば治すことはできます。しかし、今日でも、多くの神経疾患の原因については、われわの知識は少ししか進んでいないのです――エリザベス女王の治世と較べて!」
「おやおや」パーフィット僧正は、この攻撃に少し当惑していった。「そんなものですか」
「いいですか、それは好意を示したつもりなのですよ」キャメル・クラーク博士はつづけた。「昔は、われわれは人間を単純な動物と考えた。肉体と精神――そして、前者に重きを置いた」
「肉体と精神と一つの霊魂ですよ」牧師が訂正した。
「霊魂?」医者は妙な微笑を浮かべた。「あなたがた僧職にあるかたは、霊魂という言葉を正確にはどういう意味にお使いになるのですか? いつも余り明確に意味をおっしゃらないようですが。昔から正確な定義を下すのを恐れておいでですね」
しゃべる準備に、僧正は咳ばらいをした。しかし、残念なことには、しゃべり始める機会が与えられなかった。医者はつづけたのである。
「『一つの霊魂』と呼ぶことすら、大丈夫なのでしょうか――霊魂はいくつもあるのではないのですか?」
「霊魂がいくつかある?」ジョージ・デュランド卿が質問した。眉が奇妙な恰好にあがった。
「そうです」キャメル・クラークの視線が彼のほうに移った。彼は身休を前にかがめて、相手の胸を軽く叩いた。彼は真面目な顔でいった。「この建物の中に住人が一人しかいない、と確信をもっていえますか? いいえ、正に建物に他ならないのですよ――家具つきで住める好もしい建物なのです――住む期間は七年とか、二十一年とか、四十一年とか、七十一年とか――場合によって違うでしょうけれど。そして、終局には、その借家人は荷物を運び出してしまうのです――少しずつ――そして、家からすっかり引越してしまって――その家は廃墟となって、崩れ落ちてしまうのです。あなたがこの家の主人である、という事は私は認めます。が、あなたは他の者の存在に一度も気がつきませんか――足音を立てない召使などは、働く時に音をたてる以外には、ほとんど人目につきません――しかもあなたはそうした仕事をしてもらっているとは毫《ごう》もお気づきでない。ないしは、先達です――あなたを支配して、しばらくの間は、いわゆる『別人』にしてしまう気分というもの。あなたは確かに城の主ですが、『不埒な悪漢』も確実に一緒に住んでいるのですよ」
「クラーク、君」法律家はゆっくりいった。「あなたは私を本当に気持ち悪くさせますね。私の精神は本当に相争う違う人格の戦場なのですか? それが最近の科学の説なのですか?」
今度は医者が肩をすくめた。「あなたの肉体が、ですよ」彼は冷やかにいった。「肉体がそうなら、精神だって当然そうなるでしょう?」
「大変に興味のあるお話ですな」パーフィット僧正がいった。「ああ、科学というものは素晴らしいです――科学というものは素晴らしいです」
そして内心彼はこう思った。
「この見方から何か素敵な説教ができるぞ」
しかしキャメル・クラーク博士は、また自分の席に背をもたせかけた。瞬間的の興奮はもうおさまったのである。
「実は、ですね」彼は冷淡な、職業的な態度でいった。「今夜私がニューカッスルへ行くのは、二重人格患者を診るためなのです。大変に興味のある病症でしてね。もちろん、神経性のものなのです。が、正真正銘なのです」
「二重人格ですか」ジョージ・デュランドが考えこみながらいった。「あれは余り珍らしい病症ではないらしいですね。記憶の喪失も起こるのでしたね? つい先日、遺言裁判所でそうした問題が持ちあがりましたっけ」
クラーク博士はうなずいた。
「一番古典になっている病症は、もちろん」彼はいった。「フェリシ・ボーの場合でした。この話をおききになった記憶がありますか?」
「もちろん」パーフィット僧正がいった。「新聞に出ていたのを読んだ記憶があります――でも、ずっと以前です――少くとも七年は経っています」
キャメル・クラーク博士はうなずいた。
「あの少女はフランスで一番有名な人物の一人になりました。世界中の科学者が彼女を見にきました。彼女は実に四つの顕著な人格を持っていたのでした。その四つはフェリシ一号、フェリシ二号、フェリシ三号、という風に呼ばれていたのです」
「何か企んだトリックがあったのじゃないのでしたか?」ジョージ卿が油断なくいった。
「フェリシ三号とフェリシ四号は少々疑ってもいい点がありました」博士は認めた。「しかし、主な事実は残っています。フェリシ・ボーはブルターニュの百姓娘でした。五人の子供の三番目で、酒乱の父親と精神的欠陥のある母親の間に生まれました。父親は泥酔した挙げ句、母親を絞め殺して、私の記憶が間違っていないなら、終身懲役になりました。フェリシはそのとき五歳でした。慈善家が子供たちの面倒を見てやって、フェリシは貧困児童の収容所のようなものをやっていた一人の英国の未婚女性の手で育てられ教育されたのです。しかし、その女性はフェリシには手を焼きました。彼女はこの少女を異常に緩漫で愚鈍だと記しています。読み書きを教えこむのに大変に骨が折れ、また手先きも非常に不器用である、と。この女性はスレータ嬢という名なのですが、この少女を女中に仕込もうとして、年頃になってから何軒も勤め先を探してやったものでした。しかし彼女は愚鈍の上にすこぶる怠け者なので、どこにも長く勤まりませんでした」
医者はしばらく口を休めた、それで僧正は足を組み直し、旅行毛布をキッチリと身体に巻きつけたが、フト向う側の席の男がほんのちょっと動いたのに気がついた。前には閉じていた目を今では開いている。その目つきが、何となく軽蔑的で説明しがたい目つきが、この立派な僧正を驚かした。どうやらこの男は聴き耳を立てていて、この話をきいてほくそ笑《え》んでいるようだった。
「フェリシ・ボーが十七の時に撮った写真があります」医者はつづけた。「彼女は粗野な百姓娘然と撮れています。頑丈な身体つきです。彼女がフランスで一番有名な人物の一人になりそうな兆候は全然この写真には見えていません。
五年後、彼女が二十二の時、フェリシ・ボーは激しい神経性の病気にかかったのですが、それが治ると不思議な現象が現われ始めたのです。次の事柄は大勢の著名な科学者が証明した所です。フェリシ一号と呼ばれた人格はこれまでの二十二年間のフェリシ・ボーと全然区別がつきません。フェリシ一号はフランス語を書くのに綴りを間違え、途中よくつかえるし、外国語は全然知らず、ピアノは弾けませんでした。フェリシ二号はそれとは反対に、流暢にイタリア語をあやつり、ドイツ語も上手だったのです。彼女の筆跡はフェリシ一号の手とは全然違っていて、上手に表現力の強いフランス文を書きました。政治や美術を語ることもでき、ピアノを弾くのが大好きだったのです。フェリシ三号はフェリシ二号と多くの点で共通していました。三号は知的で、明らかにいい教育を受けていましたが、品性の点で全然相反していたのです。事実、彼女は全然不良少女でした――しかしパリ風の不良で、田舎風の不良ではなかったのです。パリの俗語を何でも知っていまして、倫落の女の使う洒落た表現を心得ていました。彼女の言葉づかいは大変汚くて、宗教とか、いわゆる『善良な人々』のことを極めて冒涜的ないい方で罵《ののし》るのでした。最後にフェリシ四号がありました――夢想的な、ほとんど足りないといっていいような人間で、目立って信心深く、異常な透察力を持っているのですが、この第四の人格は大変に不充分で、つかみどころがないため、フェリシ三号が故意にやっている欺瞞だとも時々考えられたものなのです――軽信し易い一般人を彼女が担《かつ》ごうとした冗談だという風に。フェリシ四号を除けば、各々の人格は互いに紛れる所がなく別々であって、ほかの人格について何も知ってはいないのでした。フェリシ二号は疑う余地なく最も優勢で、時には一度に二週間もつづくことがあったのですが、またフェリシ一号が突然一日か二日現れるのでした。その後にはフェリシ三号か四号が出るのでしたが、この二つは二時間か三時間しかつづかないのでした。変化する時には、必ず強い頭病が起こって、グッスリ眠りまして、いつの場合にも他の状態の記憶は完全に失せ、問題の人格は前に消失した所のつづきを、時の経過を全く気づかずに取りあげるのです」
「驚くべき話ですねえ」僧正がつぶやいた。「まことに驚くべき話です。全く、まだわれわれは宇宙の驚異については、ろくに何も知らないのですねえ」
「なかなか狡猾《こうかつ》な詐欺漢のいることをわれわれは知っていますけれど」法律家が冷ややかにいった。
「フェリシ・ボーの病症は医者や科学者のほかに、法律家も調べたものなのです」キャメル・クラーク博士が直ぐにいった。「カンブリエ氏が極めて徹底的な調査をした挙げ句に、科学者たちの所見を確認したのでした。そして、結局、われわれはどうしてそう驚かなければならないのでしょうか。われわれは黄味が二つある卵にぶつかる事だってあるではありませんか? それから双子のバナナにも。二重の精神が――この場合には四重の精神ですが――一つの肉体に宿っていても、別に不思議ではありますまい?」
「二重の精神ですか?」僧正が異議を申し立てた。
キャメル・クラーク博士は鋭い青い目を僧正に向けた。
「ほかにどう呼んだらいいのですか? つまり――もし人格が精神ならば?」
「そういう状態が奇形の人間の性質にだけしかないのは、大変に喜ばしいことなのです」ジョージ卿が述べた。「もしそういう場合がザラにあったとしたら、相当混乱が生じるでしょうから」
「こういう状態は、無論、まことに変態的なのです」医者は同意した。「もっと長期にわたって研究し得なかったのは、惜しんでも余りある話です。研究はフェリシの不慮の死によって途絶えてしまったのでした」
「何でも奇妙な事件だったのでしたね、もし私の記憶が正しいのでしたら」法律家がゆっくりいった。
キャメル・クラーク博士はうなずいた。
「全く説明できない事件だったのです。娘はある朝、寝床の中で死んでいたのです。絞殺されたのは明瞭でした。しかし誰しも呆然としてしまったのは、やがて実際に彼女は疑いもなく自分の手で絞め殺されたのが証明されたのです。頚部《けいぶ》にある痕《あと》は自分の指の跡だったのです。全く不可能ではないのですけれど、こうした自殺法は物すごい力とほとんど超人的な意志の力がなくては行い得ないのです。この娘をこうした窮境に追いこんだのは何であるか、という点は遂に発見し得なかったのです、もちろん、彼女の精神的平衡はいつも極めてあやふやだったに違いないのでした。しかし、結果はこの通りです。フェリシ・ボーの神秘は永久に幕に閉ざされてしまったのです」
このとき、遠い隅の男が笑い出したのであった。
ほかの三人は射たれたかのように飛びあがった。三人はこの第四の男のいたことをすっかり忘れていたのだった。彼の腰かけている方を三人が見つめた。まだ外套の中で丸くなっていた男は、また笑い出した。
「失礼を許して下さい、皆様」彼は完全な英語でいったが、しかし何となく外国人くさい調子だった。
彼は坐り直した。小さい真黒な口髭を立てた青ざめた顔をしている。
「ええ、是非私の失礼を許して下さい」彼はお辞儀の真似をしながらいった。「ですが、全く! 科学では、決定的な最後のとどめはまだつかないのでしょうね?」
「われわれの論じていた話について、あなたは何かご存じなのですか?」医者が丁寧にきいた。
「話ですって? でも私は彼女を知っていたのですよ」
「フェリシ・ボーを?」
「ええ。それからアネット・ラヴェルも。あなた方はアネット・ラヴェルのことは聴かれたことがないご様子ですね? しかし、その一人の物語は同時にもう一人の物語になるのです。いいですか、アネット・ラヴェルの歴史をご存じないのでは、フェリシ・ボーについては何もわかる訳がないのですよ」
彼は時計を出して、眺めた。
「次の駅までにちょうど三十分あります。この話を申し上げる時間がある訳です――つまり、もし皆さんがおききになってもいいとおっしゃるならば」
「どうぞ話して下さい」医者が静かにいった。
「ありがたいです」僧正がいった。「まことにありがたいです」
ジョージ・デュランド卿は黙っていたが、熱心に話を聴こうとして身構えた。
「私の名前は」この不思議な旅の仲間は口をきった。「ラウール・ルタルドーと申します。慈善事業をしていたスレータ嬢という英国の女性の話をしておいででしたね。私はそのブルターニュの漁村で生まれましたが、両親が鉄道事故で死にましたとき、救いの手をのばして、私を英国の孤児院と同じような施設に入れないで下さったのは、このスレータ嬢だったのです。彼女が面倒を見ていた子供は女の子も男の子も混ぜて二十人ほどいました。そうした子供の中に、フェリシ・ボーとアネット・ラヴェルがいたのです。もし私がアネットの性格を皆様にわからせることができなかったなら、皆様は何も理解なさらないでしょう。彼女は皆様が『浮かれ女』とお呼びになる女の子供で、母親は恋人に捨てられて、肺病で死んだのでした。母親は踊り子でして、アネットも踊りが大好きでした。初めて私が会ったとき、彼女は十一歳で、目は交互に嘲ったり、約束したりするといった小マシャクレた――火のような活気のある子供だったのです。そして途端に――ええ、途端にです――彼女は私を奴隷にしてしまいました。それは『ラウール、これして頂戴』『ラウール、あれして頂載』なのです。そして私は、服従しました。もう私は彼女を崇拝していて、彼女はそれを知っていたのです。
私たちはよく海岸に一緒に行きました。私たち三人です。なぜなら、フェリシは私たち二人にいつでもついて来たからです。海岸でアネットは靴と靴下を脱いで、砂の上で踊るのでした。そして息が切れて坐ってしまうと、彼女は何をして何になる積りか私たちに話すのでした。
『ね、私は有名になるのよ。ええ、とっても有名になるの。私は靴下を何百も何千も持つのよ――一番いい絹のを。それから私は洒落たアパートメントに住むの。私の恋人はみんた若くて美男で、その上にお金持なの。そして、私が踊るとパリ中の人が私を見にやって来るの。大声をあげたり、名前を呼んだり、喚いたりして、私の踊りに熱狂するのよ。それから冬は私は踊らないの。南の太陽の暖い所へ行くの。オレンジの木がいっぱいある別荘があるのよ。私はそれを一軒買うの。日向に絹のクッションをいっぱい並べた上に、私は横になって、オレンジを食べるの。あなたはね、ラウール、私はいつまでも忘れないであげるわ。どんなに私が偉くなってお金持ちになって有名になっても。私が保護してあげて、成功させてあげるわ。このフェリシは私が女中に雇ってやるの――でも駄目だわね、この児はあんまり不器用ですもの。あの手を見てやって頂戴、あんな大きなザラザラな手』」
フェリシはそういわれると怒ります。するとアネットは彼女をからかい始めるのです。
『この児はとても貴婦人タイプだわ、このフェリシは――とても典雅《みやび》で、とても上品だわ、この児はお姫様が変装しているの――ハ、ハ』
『私の父さんと母さんは結婚してたのよ。あんたのなんて何さ』フェリシは恨み骨随に達したような口調で唸るのでした。
『そうよ、そしてあんたの父さんはあんたの母さんを殺したんだわね。運がいいわね、人殺しの娘なんて』
『あんたの父さんはあんたの母さんを捨てて見殺しにしたんじゃないの』フェリシは抗弁するのでした。
『ええ、そうよ』アネットは考え深くなりました。『可哀そうな母さん。人間は強くなって丈夫でいなければいけないわね。強く丈夫でいるのが一番だわ』
『私は馬みたいに強いわ』フェリシが自慢しました。
そして実際にそうなのでした。彼女は寮のほかのどの女の子より倍も力がありました。そして一度も病気にはなりませんでした。
けれど、おわかりの通り、彼女は愚鈍でした。野獣のように愚鈍だったのです。私はよく不思議に思ったものです。なぜ彼女はこんな風にアネットについて回るのだろう。それは、彼女の場合には、一種の術をかけられたようなのでした。時々、彼女は実際にアネットを憎んだようでした。そして、全くアネットも彼女に親切ではありませんでした。彼女の緩漫なところと愚鈍なところを嘲弄して、ほかの者の面前でなぶりものにしました。フェリシが怒って真っ青になったのを私は見たことがあります。時々、今にも指をアネットの首にまわして、絞め殺してしまいはしないかと私は思ったものでした。彼女はアネットの痛烈な皮肉にいい返すだけの機智は持っていませんでしたが、やがて今度は一度も外れっこのない返報をするのを覚えました。それは自分の健康と体力について述べることでした。彼女は私のもう知っていたことを覚えたのです。つまりアネットが彼女の強い体格を羨んでいたので、彼女は本能的に相手の鎧《よろい》の弱点を突いたのでした。
ある日、アネットが大変嬉しそうにはしゃぎながら私の所にやって来ました。『ラウール』彼女はいいました。『今日はあの間抜けなフェリシをからかってやるのよ』
『どういう事をするの』
『あの小さい小舎の裏にいらっしゃいよ。教えてあげるから』
アネットは何か本を手に入れたらしいのでした。一部分は全く彼女には理解できずに、いえ全部が彼女の頭では到底解けないものなのでした。それは催眠術の初期の本だったのです。
『何か光った物、と書いてあるのよ。私の寝台の真鍮の握りね、あれグルグル回るのよ。ゆうべ私はフェリシにあれを見させたの。≪ジッと見つめているのよ≫と私はいってやったのよ。≪目を離すんじゃないわよ≫それから私が回したの。ラウール、私驚いちゃった。彼女の目つきがとても変てこになったの――とても変てこに。≪フェリシあんたは私のいいつけた通りにするのよ≫って私いってやったの。≪私はあんたのいいつけた通りにするわ、アネット≫と答えるじゃないの。それから――それから私、こういってやったの。明日、蝋燭を十二時に運動場に持って来て食べるのよ。そして誰かがきいたら、あんたはこんなおいしいビスケットは食べた事がない、っていうのよって。ああ! ラウール、考えてもご覧なさい!』
『でも、彼女そんな事するもんか』私は異議を唱えたのでした。
『でも、あの本にはそう書いてあったわよ。私だって全部信じるんじゃないけれど、でも、ああ、ラウール、もしあの本に書いてある事がみんな本当だったら、私たちどんなに面白いことができるでしょう!』
私も、その案はまことに面白いと思ったのでした。朋輩に吹聴して十二時には私たちはみんな運動場に出ていました。一分も遅れずに、フェリシは蝋燭を手に持って出て来ました。信じて頂けますか、皆様、彼女は真面目な顔をして齧《かじ》りはじめたのです。私たちはみんなキャーキャーいって騒ぎました! 時々、子供の誰かが彼女の所に行って真面目くさっていうのです。『その食べている物おいしい、フェリシ?』すると彼女はこう答えるのでした。『ええ、こんなおいしいビスケットは私食べた事がないわ』そして私達はワッと笑いこけるのでした。しまいに余り大声で笑ったので、その音でフェリシは醒めてしまって、自分のしている事を知ってしまったのです。彼女は目を不思議そうにしばたたいて、蝋燭を見て、それから私たちを眺めました。彼女は手を額に持って行きました。
『私ここで何をしているのかしら』彼女はつぶやきました。
『蝋燭を食べているんだよ』と私たちは喚きました。
『私があんたにそういいつけたのよ。私があんたにそうさせたのよ』アネットが跳ね回りながら叫びました。
フェリシにしばらく目を見はっていました。それからゆっくりアネットのほうに歩いて行きました。
『では、あんたなのね――あんたが私にこんな変な真似をさせたのね? 私、思い出して来た。ああ! 罰に殺してやるから』
彼女はごく静かな口調でいったのでしたが、アネットは急に逃げ出して私の後ろに隠れました。
『助けて、ラウール! 私フェリシが恐い。ほんの冗談だったのよフェリシ。ただの冗談なのよ』
『こんな冗談は私嫌い』フェリシがいいました。『わかって? あんたなんか大嫌い。みんな大嫌い』
彼女はにわかに泣き出して、駈けて行ってしまいました。
アネットは彼女の実験の結果に怯《おび》えたらしく、二慶と繰り返そうとはしませんでした。けれど、その日以来、フェリシに対する優勢は前より強くなったのです。
今で思えば、フェリシは最初から彼女を憎んでいたのでしたが、それでも彼女から離れられないのでした。彼女はまるで犬のようにアネットの後ばかりついていました。
その後間もなく、皆様、私の勤め口がみつかったので、寮には時たま休暇で帰るだけになりました。アネットの踊り子になる欲望は真剣には取りあげられませんでしたが、大きくなるにつれて、歌う声がとても綺麗になって来たので、スレータ嬢は歌手としての修業をするのを許しました。
彼女は怠け者ではありませんでした、アネットは。彼女は休まず熱心に勉強しました。余り勉強しすぎないように、スレータ嬢は止めなければならなかったのです。彼女は一度私に向かってアネットのことを話しました。
『あなたは、昔からアネットが好きでしたねえ』彼女はいうのでした。『あんまり勉強しすぎないようにいってやって頂戴。近頃少し咳をするのが気になるの』
私は仕事の関係で間なく遠方へ行ってしまいました。最初はアネットから手紙を一度か二度もらいましたが、それからパッタリ何ともいって来なくなりました。その後五年たって、私は外国に行きました。
偶然なことから、私はパリに戻ったとき、若い女性の写真のついたポスターにアネット・ラヴェルの名前が出ているのをみつけました。一目で彼女とわかりました。その晩、私はその劇場に行ってみました。アネットはフランス語とイタリア語で歌いました。舞台は素敵でした。その後、私は楽屋に彼女を訪ねました。彼女は直ぐ会ってくれました。
『まあ、ラウール』彼女は白く塗った両手を差し伸ばして叫びました。『嬉しいわ! この何年もの間、どこにいたの?』
私は話そうとしたのですが、彼女はろくにきいてはくれないのでした。
『ね、私もうちょっとのところで成功するのよ!』
彼女は花束で一杯になった部屋を得意然と手をひとわまりさせていいました。
『善良なスレータ嬢はあんたの成功を誇りにしているだろうなあ』
『あのおバアちゃん? いいえ、違うのよ。あの人は私を音楽学校に入れようとしたのよ。お品のいい演奏会歌手にしようと思って。でも、私は芸能人なのよ。こういったヴァラエティ劇場でこそ、私は自分が表現できるのよ』
ちょうどそのとき、いい男前の中年の男がはいって来ました。実に立派な風采でした。彼の挙動からアネットの旦那なのが直ぐ私にわかりました。彼が怪訝な顔で私を見たので、アネットが説明しました。
『子供時代のお友達ですの。パリを通りがかってポスターに私の写真の出ているのを見て、訪ねて来て下さったんです』
するとその男は大変に愛想よくなって、礼儀正しくなりました。私のいる前で彼はルビーとダイヤの腕輪を出して、それをアネットの手首につけてやりました。帰ろうとして私が立つと、彼女は勝利の目つきで私を見ながらささやきました。
『私、成功したでしょ? ね? 全世界が私の前にあるのよ』
しかし、部屋を出る途中で、私は彼女が咳をするのを耳にしました。鋭い乾いた咳です。その咳の意味が私にはわかったのでした。肺病だった母親譲りなのでした。
次に会ったのは二年後でした。彼女はスレータ嬢の所へ逃げこんでいるのでした。彼女の職業はすっかり駄目になっていました。肺が進んでしまっていて、医者はもう手の施しようがないといっているのでした。
ああ! 私はその時の彼女を一生忘れられないでしょう! 彼女は庭の中にある小舎のような所に横になっていました。夜も昼も戸外に寝ているのでした。頬はこけて紅く、目は輝いて熱っぽいのでした。
彼女は私を迎えてくれましたが、その死物狂いの状態は恐いようでした。
『会えて嬉しいわ、ラウール。みんながいっているのを知っているでしょ――私は治らないかも知れないって。みんなコッソリそんな事をいっているのよ。面と向かうと慰めや気休めをいうの。でも、本当じゃないのよ、ラウール、本当じゃないの! 私は死ぬ気なんてないのよ。死ぬ? 私の前に美しい人生がひろがっているのに? 大切なのは生きようという意志なのよ。近頃では、偉いお医者はみんなそういっているわ。私は諦めてしまうような弱虫じゃないの。今でも私はずい分よくなった気がしているのよ――ずい分よくなったの、きこえて?』
彼女は私にもっと聴かせようとして、肱《ひじ》で身体を支えようとしましたが、咳の発作が起きて、痩せ細った身体を苦しめたので、また倒れてしまいました。
『この咳は――何でもないのよ』彼女は喘ぎ喘ぎいいました。『それから喀血だって私ちっとも恐くないの。私はお医者を驚かしてやるんだわ。大切なのは生きようという意力なのよ。いいこと、ラウール、私は飽くまで生きるのよ』
それは哀れでした。わかって下さい、哀れでした。
ちょうどそのとき、フェリシ・ボーがお盆を持って出て来ました。熱い牛乳をコップに入れて持って来たのです。それをアネットに渡して、彼女の飲むのをジッと見ていたのでしたが、その時の表情と来たら、私には読みとれないほど底の深いものでした。一種の満足の色がみえました。
アネットもその目つきに気がつきました。腹立たしそうにコップを下に置いたので、コナゴナに割れました。
『この女を見て? いつもあんな目つきで私を見るのよ。私が死ぬのが嬉しいんだわ! ええ、ほくそ笑むのよ。自分が丈夫で強いもんで。見てご覧なさい――一日だって病気になった事がないのよ、こいつ! でも宝の持ち腐れじゃないの。こんな図体をしていても、自分にどれだけ役に立つというの? 何の役に立てられるの?』
フェリシは身体をかがめて、ガラスの破片を拾いました。
『この人が何をいっても私は気にしないの』彼女は平坦な口調でいいました。『気にする必要なんかないわ。私は身持ちのいい娘なんですもの。この女は違うわ、遠からず煉獄の火責めになるんだわ。私はクリスチャンですもの。何もいわないの』
『私を憎んでるんだ!』アネットは叫びました。『昔から私を憎んでいた。ああ、でも私はチャンとお前に呪文をかけられるんだ。私の思い通りの事をさせてやれるんだ。私がお前にいえば、今でも草の上に、私の前にひざまずくに違いないんだわ』
『馬鹿々々しい』フェリシは不安気にいったのでした。
『でも、本当、ひざまずくわ、必ず。私を喜ばせようとして。ひざまずきなさい、私が頼むのよ。私が、アネットが。ひざまずきなさい、フェリシ』
その声の訴え方が切実だったせいか、それとももっと深い動機からか、フェリシはいわれた通りにしました。彼女はゆっくり膝をついて両腕を拡げました。その顔は無表情で愚鈍そのものでした。
アネットは頭を後ろに投げて大笑いをしました――何度も何度も笑いこけたのです。
『見てご覧なさい、あの間抜け面を! 何て馬鹿みたいな顔でしょう。もう立ってもいいわよ、フェリシ、ありがとう! 私に向かって睨んでも何もなりゃしないわよ。私はお前の女主人なんだから。私のいいつけ通りにしない訳にはいかないんだから』
彼女は精根つきて頭を枕に置きました。フェリシは盆を手にゆっくり歩いて行きました、一度、肩越しに振りかえったのでしたが、その目にくすぶっている強い憎悪の色を見て私はゾッとしたのでした。
アネットが死んだとき、私はそこにはいませんでした。しかし、恐しい死に態《ざま》だった模様です。彼女は飽くまで生に執着しました。狂気のように死と戦いました。何度も何度も、こう叫んだのでした。『私は死なないわ――きこえて? 私は死なない。私は生きる――生きるん――だ』
スレータ嬢は六カ月たって帰って来た私にこういう事をみんな話してくれました。『可哀想にね、ラウール』彼女は優しくいいました。『あなたは彼女を愛してたんでしょう?』
『昔から――昔からです。でも、私が彼女にどんな役に立つたでしょう。もうこの話はやめましょう。彼女は死んでしまったのです――あんなに頭がよくて、あんな燃えるように生を愛していたのに』
スレータ嬢は同情心の深いお方でした。彼女はつづけて他の話をしてくれました。彼女はフェリシのことが心配で堪らないと私に話しました。あの娘は奇妙な神経的発作を起こしたそうで、それ以来とても変なのだそうでした。
『だってねえ』スレータ嬢は、ちょっとためらってからいいました。『あの児がピアノをお稽古しているんですよ』
私は知らなかったのですが、そう聴いて大いに驚きました。フェリシが――ピアノの稽古をする! あの児なんか譜面を見たって全然わかるはずがないのに、といってしまうところでした。
『才能があるそうよ』スレータ嬢はつづけました。『私にはどうしてもわからないのだけれど。私は昔からあの児を――ねえ、ラウール、あなた自身も知っているでしょう、あの児は昔から間抜けな児だったし』
私は頷きました。
『まるで態度がおかしいんで、私は何が何だかわからないのよ』
三分か四分たってから、私は講堂にはいりました。フェリシがピアノを弾いています。アネットがパリで歌うのを私がきいたアリアを弾いているのでした。皆様、お察しと思いますが、私はギョッとしたのです。その時、私の足音をききつけて、彼女は急いでやめて、振返って私を見ました。その目は、嘲るような色と知性で一杯でした。一瞬間、私は考えました――いえ、どう考えたかは申し上げますまい。
『あーら』彼女はいいました。『あなたなの――ラウールさん』
私は彼女のいい方を描写できません。アネットには、私はずっとラウールのままでした。しかしフェリシは、大人になってから会って以来、ずっと私のことをラウールさんといっていたのです。ですが、今彼女がそういった時のいい方は違っていました――その|さん《ヽヽ》という時に少し力を入れ、何となくふざけているような口調だったのです。
『おや、フェリシ』私はどもりました。『あんたは今日は丸で別人だねえ』
『私が?』彼女は考えこむようでした。『変だわ。でも、そんな真面目な顔しちゃ厭よ、ラウール――これから私ラウールと呼ぶことにするわね――私たち子供の時によく一緒に遊んだわね――人生は笑うためにあるんだわ。気の毒なアネットのお話をしましょう――もう死んで、埋められてしまった彼女のお話を。彼女は煉獄にいるのかしら、それともどこかしら?』
そして彼女は歌の一節を口づさみました――もちろん、調子外れでしたが、その歌詞が私の注意をひきました。
『フェリシ!』私は叫びました。『あんた、イタリア語ができるの?』
『おかしい、ラウール? 私、間抜けみたいなふりをしているけれど、本当はそれほどじゃないかも知れないのよ』彼女は私が五里霧中でいるのを、声を立てて笑いました。
『僕にはサッパリわからないけれど――』私はいい始めました。
『ききなさいよ。私はとても上手な役者なのよ、誰もそうと知らないけれど。私いろんな役ができるのよ――そして上手に演《や》れるのよ』
彼女はまたもや笑って、私が停める間もなく部屋から駈け出してしまいました。
出発の前に、また私は彼女に会いました。安楽椅子で眠っていたのです。すごくイビキをかいていました。私はそばに立って感心しながら、また不愉快に思いながら、彼女を見ていました。突然、彼女はビクッとして目をさましました。彼女の目が私の目とあいました。鈍い生気のない目でした。
『ラウールさん』彼女は機械的につぶやきました。
『そうだよ、フェリシ。僕はもう帰るの。帰る前にもう一度弾いてくれない?』
『私が? ひく? からかっては厭だわ、ラウールさん』
『今朝弾いてきかせてくれたのを覚えていないの?』彼女は頭を振りました。
『私がひいた? どうして私なんぞにひける?』
彼女は考えこむようにして、物の一分間もジッとしていましたが、やがて私を指でさし招きました。
『ラウールさん、この家で不思議な事が起こっているのよ? 人にいたずらをしかけるのよ。時計を動かすの。ええ、ええ、私は自分のいっている事がよくわかっているの。そして、みんな、あの女の仕業《しわざ》なのよ』
『誰の仕業?』私は驚いてききました。
『あのアネットの。あの悪い女の仕業よ、生きている間、ずっと私を苛《いじ》めたわ。今では死んでいる癖に、生き返って来て私を苛めるの』
私は目をみはってフェリシを眺めました。彼女がひどい恐怖に襲われているのがよくわかりました。目が飛び出しそうな表情です。
『あの女、悪い奴よ。本当に悪い女よ。私の食べているパンを口から取上げ、着ている服を剥《は》いで、精神を身体から盗み出して――』
彼女は突然私に抱きつきました。
『私、恐くて堪らないの――恐くて。あの女の声がきこえるのよ――耳にきこえるんじゃないの――いいえ、耳じゃない。ここ、私の頭の中で――』彼女は額をコツコツと叩いたのです。『あの女は私を追い払おうとしているの――私を追い払ってしまうわ。そうしたら私どうしましょう。私どうなってしまうのかしら?』
彼女の声が高くなって、喚《わめ》くようになりました。追いつめられた獣のような目つきをしています。
突然、彼女がニッコリしました。快い微笑で、狡《ずる》そうな色で一杯でしたが、ほかにまた私がゾッとした何物かがありました。
『もしそんな事にでもなったら、ラウールさん、私は手がとても強いの――手がとても強いのよ』
私は以前は特に気をつけて彼女の手を見た事がありませんでした。今、彼女の手を見ると、私は思わず身震いしました。ズングリした凄い指で、フェリシがいった通り、とても強そうでした。全身に吐き気のような厭な気持がしたのですが、それを皆様に説明するのは不可能な話なのです。このような手で、彼女の父親が彼女の母親を絞め殺したに違いないのです。
それがフェリシ・ボーを見た最後でした。その直後に、私は外国へ行きました――南アメリカです。私の帰って来たのは、女が死んでから二年後でした。新聞で、彼女の生前と死について多少は私は読みました。詳しい事は今夜、伺いました――皆様のお口から。フェリシ三号とフェリシ四号ですって? 彼女は芝居が上手でしたからね!」
汽車が突然スピードを落した。隅の男は坐り直して、外套のボタンをキッチリかけた。
「あなたの仮説はどういうのですか?」法律家は前に身体を曲げながら尋ねた。
「私には信じられないですが――」パーフィット僧正はいいかけて、中途でやめた。
医者は何もいわなかった。彼はジッとラウール・ルタルドーを見つめていた。
「着ている服を剥ぎ、精神を身体から盗もうとする」とフランス人が軽く引用した。彼は立ち上った。「申し上げますが、皆様、フェリシ・ボーの歴史はアネット・ラヴェルの歴史なのです。皆様はアネットをご存じない。私は知っていたのです。生をこの上なく愛していました」
片手を扉にあて、いつでも飛び出せるようにして、彼は突然振りかえると、身体をかがめてパーフィット僧正の胸を軽く叩いた。
「あちらの博士が、ついさっきおっしゃいましたが、これは要するに」――彼の手が僧正の胃のあたりを軽く叩いたので、僧正は縮み上がった――「住まいである、と。話して下さい、もし強盗があなたのお宅にはいっているのをお見つけになったら、どうなさいます? お射ちになるでしょう?」
「いいえ」僧正が叫んだ。「いいえ――つまり――この国では、そういう事はしません」
しかし、この最後の言葉は虚ろな空気に向かってしゃべったことになった。車の扉がバタンと鳴った。
牧師と法律家と医者の三人しかいなかったのであった。第四の隅の席は空っぽだった。