アガサ・クリスティ/松本恵子訳
青列車殺人事件
目 次
1 謎の侯爵
白髪の男
侯爵さま
火焔の心臓
カーゾン街
役に立つ男
ミレイユ
手紙
タムリン伯爵夫人
キャザリン、弁護士に逢う
拒絶
2 ポワロ登場
青列車の上で
殺人
マガレット荘
オルデン、電報を受け取る
メイゾンの話
ローシ伯爵
ポワロ、事件を論ず
3 ローシ伯爵出頭
貴族的紳士
ケッタリング、昼食をする
意外な訪問者
キャザリン、友達をつくる
テニスコートで
パポポラスの朝食
新しい説
ポワロの忠告
挑戦
4 二人の求婚者
警告
ミレイユとの会見
ポワロ、栗鼠《りす》の役を演じる
故郷からの便り
バイナー嬢の判断
アーロンズは語る
キャザリンとポワロの意見交換
新しい理論
再び青列車で
説明
海辺で
訳者あとがき
登場人物
バン・オルデン……米国人の大富豪
デリク・ケッタリング……オルデンの娘婿
ルス・ケッタリング……オルデンの一人娘
ナイトン少佐……オルデンの秘書
アルマン・ローシ伯爵……ルスの愛人
パポポラス……ギリシャ人骨董商
ジア・パポポラス……パポポラスの一人娘
ミレイユ……パリの人気舞姫
アダ・メイゾン……ケッタリング夫人の小間使い
キャザリン・グレイ……ヘーアフィルド未亡人のお相手
タムリン伯爵夫人……キャザリンの従姉
レノックス嬢……タムリン伯爵夫人の一人娘
チャールズ……タムリン伯爵夫人の若き夫
コオ……ニース警察署長
カレージュ……予審判事
エルキュル・ポワロ
1 謎の侯爵
白髪の男
その男がパリのコンコルド広場を横ぎったのは、真夜中に近いころであった。やせたからだは立派な毛皮のオーバーに包まれているにもかかわらず、なんとなく弱々しくつまらない人間のように見えた。
それは小柄で、鼠《ねずみ》のような顔つきの男であった。彼のことを目立つような役割を演ずるとか、あるいはまたどんな階級においても表面に浮かび上がるような人物ではないと、評する者があるかもしれないが、実は世界の運命を左右するような大きな役割を演じている諜報界の大物である。
現にある大使館では彼の帰館を待っていた。しかし彼はまず大使館では公式に認めていないある仕事を片づけてしまわなければならなかった。彼の顔は月光をうけて白くけわしく光っていた。
彼はセーヌ河を越えて、パリでもあまり香しくない区域の一つへ入って、とある荒れはてた高い建物の四階へ上がって行った。彼がまだ戸をノックしないうちに、彼の到着を待ち構えていたらしい女が戸をあけた。彼女は別に挨拶もしなかったが、彼がオーバーを脱ぐ手伝いをして、けばけばしく装飾した居間へ導いた。電燈にうすよごれたピンクの花ぐさりの笠《かさ》がかけてあって、光線をやわらげていたが、それでもその娘の毒々しい化粧をごまかすことはできなかった。
「オルガや、万事うまくいっているかね?」
「うまくいっているわよ、クラスニンさん」
「尾行《つけ》られたとは思わんが……」
と彼は窓に近づき、カーテンを少しひいて注意深く外をのぞくと、ぎょっとして後へさがった。
「向こう側の歩道に……男が二人いる……私《わし》にはどうも」
彼は心配するときの癖で爪《つめ》をかみはじめた。
「あの人たち、あんたの来る前からいたわよ」
とロシア娘のオルガは、慰めるようにいった。
「同じことさ、私にはあの連中がこの家を見張っているような気がするのだ」
「それがどうしたっていうの? あの人たちが知っていたとしたって、ここから出て尾行《つけ》られるのは、あんたじゃないのにさ」
彼のくちびるに残忍な薄笑いが浮かんだ。
「その通りだね……あのアメリカ人は、ほかの連中と同じように、自分のことは自分で気をつけるさ」
「そうだわね」
彼は再び窓ぎわへ行った。
「厄介なお客さんだな。警察に感づかれているんじゃあるまいな。とにかく暴力団のあんちゃんが、いい猟をしてくれるように祈るよ」
オルガは頭をふった。
「もしそのアメリカ人が、皆のいうような人間だとすると、へたな暴力団なんか、三、四人も束になってかからなくっちゃ勝てっこないわよ」
彼女はちょっと言葉を切って、
「あたし思うのにね……」といいかけると、
「それで?」
「何でもないの、ただ今日の夕方、男が二度もこの前を通ったのよ、髪の毛の真っ白な男が」
「それがどうしたというのだね?」
「こうなのよ。その男が二人の前を通りしなに手袋の片方を落としたの。すると二人のうちの一人が、それを拾って渡したわ。まずい手口ね」
「白髪《しらが》の男が二人の雇主だというのかね?」
「そんなところだわね」
ロシア娘は驚きと不安を示した。
「ところで、包みは安全かね? いじくりまわされたりしないだろうね。だいぶ噂にのぼっているらしいから……」
彼は再び爪をかみはじめた。
「あんた自分で判断したらいいじゃないの」
彼女はストーブの前に身をかがめ、石炭をうごかして、その下に積んであった焚きつけ用のまるめた紙くずの中から、古新聞にくるんだ長方形の小包を取りだして男に渡した。
「うまい思いつきだね!」
彼は気に入ったらしくうなずいた。
「このアパートは二回も家探しされたのよ。あたしの寝台の藁蒲団が、かきさいてあったわ」
「私のいった通りだ、噂がひろがりすぎている。値段をねぎったりしているから悪いんだ」
彼は新聞紙を解いた。中には小さなハトロン紙包みが入っていた。彼はその紙をあけて中身を改めると、急いで包んでしまった。ちょうどその時、呼鈴《ベル》がけたたましく鳴った。
「アメリカ人は時間が正確だわね」
オルガは時計をちらと見ていった。
彼女は部屋を出て行って、まもなく一見してアメリカ人と、うなずける肩幅の広い大柄な紳士をともなって来た。彼の鋭い視線は彼女から彼へうつった。
「クラスニンさんですね」
「私がクラスニンでございます。こんな不便な場所でお目にかかる手はずにいたしましたことを、お詫び申し上げます。しかし、どうしても秘密を要しますので……私はこの取り引きに関係していることを知られたくないものでございますから……」
「なるほど」
「あなたはこの商取引に関してはいっさい公にしないで欲しいと希望されましたな。実はそれが、この取り引きの条件の一つになっておりますんですね」
「その点はすでにお互いに、了解ずみです。では、ひとつ品物を出していただきましょう」
「金をお持ちになられましたか? 紙幣で」
「持って来ました」とアメリカ人は答えた。
しかし彼はそれを取りだす様子は見せなかった。クラスニンはいくらかためらってから、テーブルの上の小包を指さした。
アメリカ人は、それを取りあげて包みを解いた。彼は中身を出すと、卓上電燈《スタンド》のそばへ持って行って丹念に検《しら》べた。そして、満足すると、ポケットから分厚の紙入れを出し、その中から紙幣束《さつたば》を抜きだして、ロシア人に渡した。彼はそれを注意深く数えた。
「よろしいですね」
「ありがとうございます。間違いなくございます」
アメリカ人はハトロン紙包みを無造作にポケットにすべりこませると、オルガ嬢に向かって頭をさげ、背後の戸を閉めて部屋を出て行った。後に残った二人の視線が出あった。男はかわいた唇を舌でぬらした。
「あの人は、無事にホテルへ帰りつくかね……」
いいながら、二人は窓へ寄った。そしてちょうどアメリカ人が下の往来へ出て行くところを見た。彼は左へ向かって、ふり返ろうともしないで、まっすぐに、すたすた歩いて行った。二つの人影が戸口から忍び出て、音もなくその後をつけて行った。やがて追われる者も追う者も夜の闇の中に吸いこまれてしまった。
オルガが、まず口をひらいた。
「あんた心配することなくてよ、そうなることを希望しているのかも知れないけれど、どっちにしたって、あの人は無事に帰りつくわよ」
「どうしてお前は、あの人が無事だと考えるのだね?」
とクラスニンは訝《いぶか》しげにたずねた。
「あれだけの金をつくるほどの人間なら、ばかなはずはないわねえ。金といえば……」
といって、オルガは意味ありげな視線をクラスニンに投げた。
「え?」
「あたしの分け前のことよ、クラスニンさん」
クラスニンはしぶしぶながら紙幣束《さつたば》の中から二枚ぬいて彼女に渡した。女はその紙幣をくつしたの中にしまいこんで、
「これでいいわ」と満足らしくいった。
「オルガや、お前はあれが惜しくはないかね」
「惜しいって、何をさ?」
「お前が保管していたもののことさ、たいていの女はああいうものを見ると、のぼせ上がってしまうものだがね」
彼女は考え深い様子でうなずいた。
「あんたのいう通りよ、たいていの女は気が変になるわ……、でも私は平気よ、だけれど……」といいかけて彼女は言葉を切ってしまった。
「だけど、どうしたというのだね?」
「あのアメリカ人は無事よ、それは確かだけれど、それから先のことを考えると……」
「お前は何を考えているんだね……」
「あの人はきっと、あれを誰か女にやるわよ、それから先どんなことが起こるかと思って……」
といいながらオルガは、再び窓へ近づき、急に驚きの叫びをあげた。
「ごらんよ、あの男が今この通りを歩いて行くわよ、さっき話したあの白髪《しらが》の男よ」
二人はいっしょに往来を見つめた。やせ型の端麗な風采の男が、ゆったりと歩いて行く……。彼はオペラハットをかぶって、マントを着ていた。彼が街燈のわきを通った時、ふさふさした白髪が光に照しだされた。
侯爵さま
白髪の男は少しも急がず、周囲にも無関心な様子で歩きつづけていた。彼は右側に曲がり、更に左に折れて行った。
突然、彼は立ち止まって、じっと聞き耳を立てた。ある音を聞いたのである。それはタイヤがパンクしたようでもありピストルの音のようでもあった。白髪の男は一瞬、奇妙な微笑を口辺に浮かべた。それから、またゆっくりと歩き続けた。次の街角を曲がると、活気ある光景にぶつかった。警官が手帳に何か書きとっていて、二、三人の通行人が集まっていた。白髪の男はゆっくり近よってその中の一人に、
「何かあったのですか」とたずねた。
「はい旦那《だんな》、二人の怪漢がアメリカ紳士を襲ったのです」
「で、その紳士は?」
「はあ、何事もなかったようですよ。アメリカ人はピストルを持っていて、奴らが襲いかかる前にいきなり撃ったので、奴らはたまげて逃げてしまったらしいですよ」
といって、男は笑った。
「なるほど」
彼はなんらの感情もあらわさず、平然として、そこを立ち去り、やがてセーヌ河を越えて、市内の富裕な地区へ入って行った。
それから二十分後に、彼は閑静な大通りの、とある家の前に足をとめた。
それは、その道の人たちには、世界的に名を知られている骨董《こっとう》商パポポラスの店であった。
白髪の男は、人影のとだえた往来に注意深い視線を投げた後、目立たないところに取りつけてある呼鈴《ベル》をおした。すぐに戸《ドア》があいて、耳に金の輪をはめた男が、浅黒い顔を現わした。
「ご主人はおられるかね?」
「おりますがこういう時刻には、|ふり《ヽヽ》のお客様には面会されません」と男はいった。
「私には会われるはずだ。侯爵が来たと取り次いでくれ」
男は戸をもう少し開けて、訪問者を屋内へ入れた。
侯爵と名乗る男は、話をする時に、手で顔をかくしていた。召使いが、主人のパポポラスが喜んで訪問者を迎える旨を告げに戻った時には、その客人の外観に変化が起こっていた。その召使いはひどく観察力に欠けていたのか、それともよく訓練されていたのか、相手の顔が黒じゅすの仮面《マスク》でおおわれているのを見ても、いささかの驚きも示さず、廊下のはずれの戸の前まで客を案内して来ると、
「侯爵さまのおなり!」と取り次いだ。
この不思議な来客を迎えるために立ち上がった人物は、また異彩を放っていた。パポポラスにはどこか神々しく尊敬に価するようなところがあった。ひたいが秀でていて、雪のような美しいあごひげを蓄えていた。彼の態度には宗教家らしいもの優しさがあった。
「親愛なるご友人よ」とパポポラスはいった。その音声は豊かでなめらかであった。
「こんなに遅く伺ったことを、お詫びしなければなりません」と訪問者はいった。
「いや、いや、けっしてそんなことはございません、夜中ほど結構なので……あなたさまも、さだめし興味ある夕べを過ごされましたことと存じます」
「いや、それほどのこともありませんでしたよ」
「ごもっともでございますとも。で、何ぞニュースがございますでしょうか」
といって、パポポラスは相手を鋭くチラと見た。その時の目つきには、少しも宗教家らしいところも、優しいところもなかった。
「別にニュースというほどのことはありません。幸いにあの襲撃はね……。やっぱりわしの予期した通りでした」
「さようでございましょうとも……、ああいう生《なま》なことではね……」
といって、パポポラスはいかなる形にしろ、生なものは極度に嫌うといわぬばかりに手をふった。全くパポポラスの身辺にも、彼の扱う商品にも、生々しいところはいっさいなかった。彼は欧州の各宮廷によく名の知られた男で、申し分のないほど、用心深い男だというので評判である。そのことと上品な外観とが役にたって、これまで数回にわたって、いかがわしい商取引を行って来たほどである。
「暴力というものは……時には役にも立ちましょうが、それは、ごく稀でございますからね」
客人の侯爵と名のる男は肩をすくめて見せた。
「しかし、失敗したところで、たいして費用はかかりません。ほとんど数えるにたりないほどのことですみます」
パポポラスはしげしげと相手を見守って、
「私は絶大な信頼をあなたさまの名声とともに……」といった。
侯爵は静かに微笑しながら、
「あなたの信頼を裏切るようなことはしないと申し上げておきましょう」
「あなたさまはいつも、絶好の機会《チャンス》をおつかみなさいますね」骨董商は半ばうらやむような調子でいった。
「私は機会《チャンス》をつかむのではなく、自分で造りだすのです」と侯爵はうそぶいた。そして椅子《いす》の背に、無造作に投げかけてあったマントを取り上げながら、
「ではいつもの方法であなたに連絡をしますから、パポポラスさんの方でも手ぬかりのないように願いますよ」
「手前の方には、手ぬかりなど、あろうはずはございません」骨董商は不平がましくいった。
客人は微笑しただけで、別れの挨拶もせずに、部屋を出て行った。
パポポラスは品のいい白いあごひげをしごきながら、しばらく考えこんでいたが、奥の部屋へ通じる戸の方へ行って、ハンドルをまわした。そのとたん、明らかに戸に寄りかかって、かぎ穴に耳をつけていたらしい若い女が部屋の中へ頭から先にころげこんで来た。
しかし、パポポラスはたいして驚かなかった。
「どうだね、ジア」と、老人はたずねた。
「あの方が帰って行ったのが、聞こえなかったわ」
とジアはいいわけをした。
彼女は容姿端麗にして、おかしがたき美人というタイプの女性であった。黒いきらきらした目と、顔のりんかくがパポポラスに生き写しなので、一目で父と娘であることがうなずける。
「かぎ穴から聞きながら、のぞき見することができないのは、不便ね」
「ウム、私もしばしば不便を感じるよ」
パポポラスはおそろしく簡単に答えた。
「あれが侯爵さまなのね、あの方はいつでも、ああしてマスクをかけていらっしゃるの?」
「いつでもだよ」
沈黙がつづいた。
「ルビーでしょう、そうではありません?」
父親はうなずいた。
「可愛い娘や、お前はどう思うね?」
父親は黒いビーズのような目を、おどらせながらたずねた。
「侯爵さまのこと?」
「そう」
「イギリスの紳士があんなに流暢《りゅうちょう》にフランス語を話せるなんて、珍しいことだと思いますわ」とジアはゆっくりといった。
「なるほどね、お前が考えていたのはそれだったのかい」
パポポラスは例によって自分の感情は表わさなかったが、ジアを満足そうに優しく見守った。
「それからね、私、あの方の頭のかっこうが妙だと思いましたわ」
「重くるしい、少々重くるしすぎる感じだね。だが、|かつら《ヽヽヽ》はどうしてもあんなふうになるものだよ」
二人は互いに顔を見合わせて微笑した。
火焔の心臓
バン・オルデンは、ロンドンのサボイ・ホテルの回転戸を通りぬけて帳場へ歩を進めた。受付係は微笑を浮かべて丁重に迎えた。
「オルデンさま、お帰りなさいまし」
アメリカの富豪は軽くうなずいて、それにこたえた。
「別に変わったことはないね?」
「はい、ナイトン少佐が、お部屋においでになっております」
オルデンは再びうなずいた。
「手紙は?」
「みんなお部屋の方へお届けしてございます。ああ、オルデンさま、ちょっとお待ちくださいまし」
受付係は仕分け棚から、一通の封書を取りだした。
「たった今届きましたところでございます」
それを受け取って、すらすらと書かれた女文字の表書を見ると、オルデンの険《けわ》しい顔がやわらぎ、厳《いかめ》しい口元がほころび、まるで別人のようになった。そして手紙を手にして微笑を浮かべたまま、エレベーターの方へ歩いて行った。
オルデンの借りている三間続きの部屋の応接間では、若い男がテーブルに向かって、慣れた手つきで、手紙の整理をしていた。男はオルデンが入ってくると、さっと立ち上がった。
「ああ、ナイトン」
「お帰りなさいまし、いかがでございました」
「まア、まアだね。パリは近ごろでは貧弱な町になってしまったが、それでも私《わし》の欲しいと思っていたものは手に入った」
「あなたはいつでも、そうでいらっしゃいますね」秘書は笑いながら言った。
「まア、そんなところだね」富豪は厚いオーバーを脱ぎすてるとテーブルのそばへ寄って、
「何か急を要することでもあるかね」
「別にございません。たいていはいつものようなもので……まだ全部は目を通してはおりませんが」
オルデンは軽くうなずいた。彼はめったに雇人を、ほめたこともなければ、けなしたこともない人物である。また人を雇うときのやり方も型破りである。たとえばナイトン少佐は二か月前にスイスの遊山地で出会ったばかりだが、すっかり気に入り、その軍人としての履歴をしらべ、彼が多少片足を引きずるようにして歩く原因をたしかめて満足した。青年はこの富豪に、何か自分に適当な就職口があったら世話をしてもらいたいと頼みこんだ。財界の巨頭であるオルデンが、自分の秘書の地位を与えようと申し出たときの青年の驚いた様子を思い出して、彼は微笑した。
「しかしぼくは実業の方の経験は全然ないので……」と彼はどもりながらいった。
「そんなことはいっこうさしつかえない。その方を担当する秘書は三人もいるからね。私は次の六か月をイギリスで暮らす予定なので、その方面の呼吸を知っている人間、つまり私の社交上の方面を手がけてくれるイギリス人が必要なのだ」
今までのところ、このオルデンの判断に誤りはなかった。ナイトンは素晴しく機転が利いていて、博識で、その上なかなか如才なくて、態度も魅力的であった。
秘書はテーブルの上に重ねてある四本の手紙をさして、
「これはいちおうお目をお通しいただいた方がよろしいと思います。一番上のはコルトンの契約に関するもので……」といいかけると、オルデンは、
「そんなものは今夜は見たくない、明日の朝までほっておこう。これだけは別だ」と自分の手にある封書を見おろして、微笑しながらつけ加えた。
「ケッタリング夫人からでございますか、夫人から昨日も今日も、お電話がございました。あなたにすぐお会いになりたがって、おいでのようでございます」
「そうか……さてと……」
微笑が富豪の顔から消えて行った。手にしていた手紙の封を切って、読んで行くにつれて、彼の顔は暗くなった。
ナイトンは気をきかしてわきを向き、手紙を開封して仕分けをする仕事に専念した。
億万長者のくちびるから、憤激のうめきがもれた。
「私《わし》はもう我慢がならない! かわいそうな娘だ……私という父親が後ろだてになっていてやれて、まアよかった」
彼はみけんに深いしわを刻み、しばらく室内を行ったり来たりしていた。
ナイトンは相変わらずテーブルの上にかがみこんでいた。オルデンはいきなり、椅子の上に投げ出してあったオーバーを取り上げた。
「またお出かけでございますか」
「そう、私はこれから娘に会いに行く」
オルデンはオーバーを着てしまうと、帽子をつかんで戸口へ近づいたが、ハンドルに手をかけたまま立ち止って、
「ナイトン、君はいい奴だ。私がかんしゃくを起こした場合にも、少しも騒がずにいてくれる」といった。
ナイトンは微笑しただけであった。
「ルスは私にとって何ものにもかえがたい一人娘だ、この世の中で誰一人として、あの娘が私にとってどんなに大切かということを、ほんとうに知っている者はない」
といっているうちに、彼の顔がほのぼのと明るくなって来た。
「ナイトン、いいものを見せようか」
彼はテーブルのそばへもどって来て、ポケットから無造作にハトロン紙にくるんだ小包を取りだした。そして包み紙を投げすてて、古ぼけた赤びろうど張りの箱を出した。そのふたの中央には組み合わせ文字と王冠が打ち抜きになっていた。彼はぱちりと音をさせて蓋《ふた》をあけた。秘書は息をのんだ。いくらか薄よごれた白い内部に、数個のルビーが血のしたたりのようにまっ赤に輝いていた。
「これは……あの……これは真物《ほんもの》なのですか!」とナイトンがたずねると、オルデンは面白そうに、からからと笑いながら、
「君がそういう質問をするのも無理はない。この宝石の中には世界一という大きなのが三個ある。ナイトン、これはロシアの、カタリナ女帝の胸を飾ったものだ。中央のは『火焔《ほのお》の心臓』という完全無欠な逸品だ」
「それにしても……これは一財産でしょうな」
「五、六千万ドル……それも歴史的価値を、ぬきにしてもだよ」
「それだのに、あなたは無造作にポケットへ入れて歩いておいでになるのですか」
オルデンは愉快げに笑った。
「まア、そうだね、これは娘への贈り物だ」
「これでケッタリング夫人が電話で気をもんでおられた理由がうなずけました」
「それは君の勘ちがいだ、娘はこの宝石のことは何も知らないよ、不意打ちに喜ばせるつもりなのだ」といいながら、箱を閉じてゆっくりと紙に包んで、
「ナイトン、わしは自分の愛する者に、実にわずかのことしかしてやれないのがさみしいよ。もし、ルスの役に立つというなら地球の半分でも買い与えてやれるのだが、そんなことではあの娘の不幸を救うことができないのだ。この宝石にしろ、私は娘の首にかけてやって、一、二分の喜びを与えることができるだろうが、さてその先は……」
オルデンは悲しげに頭をふった。そして、
「いったい、女性が家庭で幸福でない場合は……」
といいかけてよしてしまった。秘書はひかえめにうなずいた。彼は主人の娘婿のケッタリングに関して誰よりも、よく知っていた。
オルデンはため息をして、宝石の小包をポケットに突っこみ、部屋を出て行った。
カーゾン街
侯爵の嗣子デリク・ケッタリングの奥方、すなわちルスはカーゾン街に住んでいた。玄関の戸をあけた召使い頭は、慎み深く微笑しながらオルデンを迎え入れて、二階の応接間へ案内した。
窓ぎわの安楽椅子にうずまっていたルスは、驚きと喜びの叫びをあげて立ち上がった。
「あら、お父さま、こんな嬉しいことございませんわ! 今日も一日中ナイトン少佐に電話をかけて、お父さまと連絡をとろうとしていましたのよ。でもお父さまがいつごろお帰り遊ばすか、全然わからないと申すんでしょう」
ルス・ケッタリングは二十八歳であった。いわゆる美人ではないし、きれいというのでもないが、髪はすき通った金茶色で、それに対して濃《こ》いひとみと、真黒な長いまつ毛とが芸術的な魅力をそえている。丈が高く、すらりとしていて、動作は優美でちらと見た瞬間の印象は、ラファエルの描いたマドンナの顔を思わせるのであった。しかし、よく注意してみると、頬から顎《あご》にかけての線は、オルデンと同じように激しい性格と決断力を示していた。それは男性には適しているが、女性にはあまりふさわしくなかった。
オルデンの一人娘ルスは、少女時代から今日に至るまで、何事も自分の意のままにするように慣らされていた。
「ナイトンから、お前が電話をよこしたことを聞いたよ、わしは半時間前に、パリから帰って来たばかりなのだ。手紙にケッタリングのことが書いてあったが、どうしたというのだね」
ルスは怒りに燃えた目をあげて、
「お話にならないんです。全く限度を超えてしまっていますわ! あの人は私のいうことになんか、てんで耳をかしませんのよ」
「私のいうことは聞くだろう」
億万長者は厳しくいった。
「私はこの一か月というもの、ほとんどあの人に会っていませんわ、あの人は、あの女と方々を歩きまわっているんです」
「どの女だね?」
「ミレイユ、お父さまご存じでしょう、パルテノンで踊っていた女ですわ」
オルデンはうなずいた。
「私、先週レコンバリイのお城へ行って、レコンバリイ侯爵に全部お話しました。殿さまはすっかり同情して下さいましたのよ。で、あの人によくいい聞かせてあげるとおっしゃいましたの」
「なるほどね」とオルデンがいった。
「それ、どういう意味ですの? お父さま」
「わたしの思った通りだという意味だよ。気の毒に、老レコンバリイ侯にそんなことができるものか。もちろんお前に同情し、お前をなだめたろうよ。自分の世嗣がアメリカ一の金持ちの娘と結婚したんだもの、問題を起こしたくないだろうさ。だが老侯爵はすでに片足を墓穴に突っこんでいるのだからね、その老人が何をいったところで、ケッタリングには、何の影響も及ぼさないのは分かりきっている」
しばらく間をおいてから、ルスはいった。
「お父さま、なんとかして下さいません?」
「してあげるさ、いろいろと方法もあるが、実際に役に立つ手段は一つしかないね。だが、ルスや、お前ははたしてどれほどの勇気があるかね」
彼女は父を見つめた。彼はうなずき返して、
「私のいう意味は、言葉通りさ、お前は、自分が選択を誤ったことを、公に認めるだけの勇気があるかね? この面倒からぬけ出る道は一つしかない。ルスや、失敗を精算して出直すんだね」
「お父さまのおっしゃる意味は?」
「離婚さ!」
「離婚?」
「ルスや、お前はまるで、その言葉を今まで一度も聞いたことがないようないい方をするね。だが、世間にはそれを決行している女性がたくさんあるではないか」
「それは知っていますわ……でも……」
「わかるよ、ルスや、お前もわたしのように、自分のつかんだものを手放すなんて我慢ならないのだね! しかし、お前も時には手放してしまうのが、唯一の方法である場合もあることを学ぶべきだね。わしはケッタリングをお前のところへ、もう一度引き戻す方法を見いだせるかも知れない。だが、そんなことをしたって、また同じことを、くり返すにきまっている。ルスや、あの男はだめな人間なんだよ。しん底から性根が腐っているんだ。いいかい、私はお前があの男と結婚するのを許したことを後悔し、自責の念にかられているんだよ。だがお前はあの男にすっかり惚れこんでいるようだったし、あの男も本気で新生涯に入るつもりでいるように見えたのでね……前に一度、私はお前に反対したことがあったっけね!」
彼は最後の言葉を口にした時に、娘の顔がさっと赤くなったのを見のがしてしまった。
「そうでした」彼女はこわばった声でいった。
「それで二度目の時に、またお前にさからうのは気がひけたのさ。私はあの時、どんなにお前に思い留まらせたかったか知れない。ルスや、お前はこの数年間、実にみじめな思いをして暮らして来たようだね」
「あまり愉快ではありませんでしたわ」
「だからこんな生活は打ち切りにすべきだというのだ」
といって、彼は激しくテーブルをたたいた。
「お前はまだあの男に未練を持っているようだが、そんな気持ちは精算しておしまい! 事実に直面するのだ。ケッタリングはお前の金と結婚したのだ。それに違いない。ルスや、あんな男は追いはらっておしまい」
ルスはしばらく床《ゆか》を見つめていたが、顔をあげずにいった。
「もしあの人が同意しなかったら?」
オルデンは驚いたように娘を見た。
「あの男には何のいい分もないではないか」
ルスは顔を赤らめて、唇をかみしめた。
「それは……ありませんわ……でも……」
ルスはそこで言葉を切ってしまった。父親は鋭い視線を娘にそそいだ。
「でも、どうだというのだね」
「あの人は……負けていないかも知れません」
富豪の顎が、険《けわ》しく突き出た。
「お前はあの男が法廷で争うというのかね、その気なら争わせたらいいさ。だが実はお前のその考えは誤りだよ。あの男は争うものか! どんな弁護士だって、彼の依頼を受けたら、とうてい勝算のないことを彼にいい聞かせるにきまっている」
「でもお父さま……あの人は……もしかしたら、私を困らせるため……私をいやがらせるために、面倒なことにするかも知れませんもの」
と、ためらう娘を、父親はあきれた様子で見つめた。
「法廷に持ち出されるのをお前は心配しているのかね? そんなことあるもんか! 訴えるには何か訴えるべき根拠がなければならない」
ルスはそれには答えないで目を伏せていた。
「ルスや、何かお前は気がかりなことがあるのだね、話してごらん」
「何もありませんわ……そ、そんなもの、何も……」
というルスの声には自信がなかった。
「お前は世間に知れ渡るのを気にしているのかね、その点は私にまかせておきなさい、何の面倒もないように処理してあげるから」
「お父さまがそうする方がいいと思し召すならそれでよろしゅうございます」
「ルスや、お前はまだあの男を好いているのかね? そうじゃないかい」
「いいえ」
その返事がこだわりもなく、すらすらと出たので、オルデンは満足げに娘の肩をやさしくたたいた。
「何も心配することはないよ、万事うまくいくからね。もうこの問題は忘れておしまい。パリのおみやげがあるよ」
「私に? 何かすてきなものですの?」
「お前がすてきだと思ってくれるといいね」
オルデンは微笑しながら、ポケットから紙包みを出して娘に渡した。ルスは熱心に包みをとき、箱のふたをぱちりと開けた。
「まア、すてき!」
という感嘆の声が彼女の唇をもれた。
「お父さま、なんてすばらしいんでしょう!」
「かなりの高級品だよ、そう思わないかい? 気に入ったかね」
「気に入ったどころの段ではありませんわ、お父さま! 無類飛びきりですわ。どうやって、手にお入れになりましたの?」
「それは私の秘密だよ。もちろんそれは公然と取り引きするわけにはいかない品さ。相当名の通っているものだよ。そのまん中の大きな石をごらん、たぶんお前も聞いたことがあるだろう、それが歴史的に有名な『火焔《ほのお》の心臓』だよ!」
「火焔の心臓!」
ルスはくり返してつぶやいた。そしてその宝石を箱から取りあげて、自分の胸にかざした。父親は娘のしぐさを見守っていた。彼はその宝石を胸にかざった女性たちのことを考えていた。苦悩、絶望、嫉妬、『火焔の心臓』は多くの有名な宝石と同様に、その通ってきた道に、悲劇や暴力のあとを残して来た。だが、ルスの自信たっぷりな手に握られていると、それの持つ不吉な力が失われてしまうように思われた。ルスは宝石を箱にもどした。そして急に立ち上がって、両腕を父の首になげかけた。
「ありがとう! ありがとう! ありがとう!お父さま! すてきですわ! お父さまはいつでもすばらしい贈り物をして下さいますのね」
「あたりまえさ、お前は私のただ一人の可愛い娘じゃないか!」
「お父さまはここでお食事していらっしゃるのでしょう」
「そういうわけにはいかないね。お前は出かけるのではなかったかね?」
「ええ、でもそんなの、ことわれば……」
「いや、お前はその約束を守ったほうがいいね。私はこれから、まだたくさん仕事があるのだ。明日会おうね、もし私が電話したら、ガルプレイスで落ち合えるね」
「ええ、よろしゅうございますとも。お父さま……ねえ、この事件で、私のリビエラ行きが遅れるようなことはないでしょうか……」
「いつ出かけるね?」
「十四日」
「それなら大丈夫だよ、こういうことには、慎重な準備を要するからね。それはそうと、ルスや、リビエラへ行く時、その宝石は持っていかない方がいいね。銀行へ預けて行きなさい!」
ルスは、うなずいてみせた。
「わしは『火焔の心臓』のおかげでお前が盗難にあったり、殺されたりするようなことを、させたくないからね」
と、オルデンはふざけていった。
「そうおっしゃるお父さまが、ポケットになんか入れて歩いたりなすったのね」
「うん……だが……」
といいかけて、何か、ためらっているらしいのに、気がついて、ルスはたずねた。
「お父さま、なんですの?」
「なんでもない、パリで遭った、ちょっとした冒険を思い出したのさ」
「冒険?」
「うん、それを買った晩にね」
「あら、お話して下さいません?」
「話すほどのことではないよ。暴漢が私を襲おうとしたから、ピストルを射ってやったら、奴らは逃げてしまった。それだけのことさ」
娘は誇らしげに父を見あげた。
「お父さまは、とてもしっかりしていらっしゃるのね」
「そうさ」
彼は情愛をこめて、娘にせっぷんをして帰って行った。サボイ・ホテルに着くと、彼は秘書のナイトンに簡単な命令を下した。
「ゴビイという男に連絡してもらおう。私用名簿に住所がある。明日朝九時半に、ここへ来るように」
「かしこまりました」
「それからケッタリング氏とも会いたいのだ。クラブを捜してみたまえ、どうにかしてつかまえて、明日の朝、会えるようにしてもらおう」
秘書はうなずいて、それらの、矢つぎばやの指図を承知したことを示した。
それから先、オルデンは自分のからだを召使いの手に託した。風呂の支度ができたので、彼はゆったりした気分で湯にひたりながら、娘との会話を心に浮かべていた。
ルスが、予期した以上すなおに、離婚に同意したのを満足していたが、静かに考えてみると、娘の様子に、どこか不自然なところがあったような気がして、彼は眉をひそめた。
「あるいは私の気のせいかも知れないが……娘は何か私に打ち明けないでいることがあるように思われる……」
役に立つ男
ナイトンが部屋に入って来た時、オルデンは長年の習慣で、コーヒーとこんがり焼いたパンだけの軽い朝食をすましたところであった。
「ゴビイ氏が階下でお待ちです」
オルデンはちらと時計を見た。ちょうど九時三十分であった。
「ここへ、通してもらおう」
一、二分後にゴビイが部屋へ入って来た。彼はみすぼらしい服装をした小柄な老人で、室内をくまなく見まわしていながらけっして話をする相手に視線を向けない男である。
「ゴビイ君、お早う、そこへかけたまえ」
とオルデンに椅子をさされて、ゴビイは、
「ありがとうございます、オルデンさま」
といって、腰かけると両手を膝《ひざ》の上におき、電気ストーブを熱心に見つめた。
「君にやらせる仕事があるのだ」
「はい。オルデンさま! どんなご用で……」
「君も知っているだろうが、私の娘はデリク・ケッタリングと結婚している」
ゴビイは視線を電気ストーブから、机のひきだしに移して、うなずいた。
「で、娘は私の忠告で離婚嘆願書を提出することになったのだ。もちろんそれは弁護士の仕事だ。しかし、私は個人的な理由で、完全で十分な情報を得たいのだ」
ゴビイは今度は視線を部屋の腰板に移した。
「ケッタリングさまについての情報でございますか」
「そう、ケッタリングについてだ」
「よろしゅうございます」
ゴビイは立ち上がった。
「いつまでに調べてくれるね?」
「今日の午後二時ではいかがでございましょうか」
「ウム、結構だ。さようなら、ゴビイ君」
「さようなら、オルデンさま」
ゴビイが出て行って、入れ代わりに秘書が入ってくると、オルデンは、
「あれは非常に役に立つ男だ、あれはその道の大家だよ」
「専門は何ですか」
「情報だ、……二十四時間も与えれば、カンタベリー大僧正の私生活だって洗いだすほどだ」
「重宝な奴という手合いですね」
「うん、あの男は二、三度、私のために役立ってくれた。さて、ナイトン、仕事だ!」
次の数時間のうちに、大量の事務がきびきびと処理されて行った。受付からの電話のベルが鳴ったのは十二時三十分であった。そしてデリク・ケッタリングの来訪を伝えてきた。
秘書は書類をまとめて部屋を出て行った。それと入れちがいに、ケッタリングが部屋へ入って来て、後ろ手で戸を閉めた。
「お早うございます。あなたはたいそう私に会いたがっておられるそうですね」
いくらか皮肉をおびた、物憂げな声は、オルデンの思い出を呼び起こした。かつてはその声に魅力を感じさせられたものだ……彼は刺すような視線を娘婿に向けた。ケッタリングは三十四歳だが、やせ型で浅黒い面長な顔には、現在でもなんともいいようのない子供っぽさがあった。
「こっちへ来てかけたまえ!」
ケッタリングは、軽々とした身のこなしで安楽椅子に腰をおろした。彼は一種の寛大さを示すような、愉快げな様子で義父を見守った。
「ずいぶん久しくお目にかかりませんでしたね。何年ぐらいになりましょう。ルスにはまだお会いになりませんですか」
「ゆうべ会った」
「丈夫そうになりましたでしょう、そうお思いになりませんでしたか」
「君はそんな判断を下す機会など、持っておらんではないか」とオルデンは冷ややかにいった。
ケッタリングは眉をあげて驚いて見せ、
「ところが、私たちはよくナイト・クラブで顔を合わせることがあるんです」
「私は、はっきりいうがね、実はルスに離婚を申請するように忠告したのだ」
オルデンは苦《にが》りきった調子でいったが、ケッタリングは別に驚いた様子もなかった。
「なかなか徹底的ですね。煙草《たばこ》を喫《や》ってもよろしいでしょうか?」
彼は煙草に火をつけてから、
「で、ルスは何といいましたか」
「ルスは私の忠告をいれるといった」
「ほんとうですか!」
「君のいうことはそれだけかね?」
「ルスがたいへんな間違いをおかそうとしているのをあなたはご承知だとは思いますがね」
「君の見解からすればそうかも知れない」
オルデンは激しい調子でいった。
「まア、まア、お互いにあまり個人的にわたる詮索はよしましょう。実際に僕は自分のことなんか少しも考えていなかったのです。僕はルスの立場を考えていたのです。あなたにだって、僕の親父がもう長いことないのがおわかりでしょう。医師たちはみんな同じ意見です。ルスがもうあと一、二年辛抱していれば、僕はレコンバリイの城主になり、ルスはレコンバリイ公爵夫人として君臨することになります。ルスはそれが目的で結婚したのですからね」
「無礼なことをいうな!」
オルデンがどなりつけたが、ケッタリングは平然として微笑しつづけていた。
「僕もあなたと同感ですよ、こいつは全く時代錯誤的な思想です。今の時代に爵位なんか何になります! だがそれにしてもレコンバリイ城はなかなか立派な美しい場所にありますし、レコンバリイ家といえば英国屈指の旧家の一つですからね、ルスが今離婚してしまって、僕が再婚でもし、誰かほかの女性が彼女に代わってレコンバリイの女王になるのを見たら、愉快ではないだろうと思うんです」
「君、私《わし》はまじめなんだぞ!」
「僕だってそうですよ、僕は経済的にひどく参っているんです。だからルスと離婚すれば僕は窮地に落ちこむことになるんです。とにかくですね、十年もがまんして来た彼女が、どうしてもう少しの辛抱ができないかというんです。僕の老父はあと一年半とは生きのびないというのは既定の事実なんです。だからさっきもいったように、ルスが結婚の目的も達しないで今離婚するなんて、実は惜しいことではないかと思うんです」
「君は私の娘が君の爵位や社会的地位が目あてで結婚したというのか!」
「あなたは、恋愛結婚だとでも思っておられたんですか」
「十年前パリで君が私に話した時には、今のようなことをいわなかったように記憶している」
「そうでしたかね? あるいはそうかも知れません。ルスは非常な美人でしたからね。まるで天使のようでした。あの時僕は、新生涯に入り、自分を愛してくれる美しい妻とともに落ち着いて典型的な最良の英国の家庭生活を営むというような理想をいだいていたことを覚えています」
といって、わざとらしく笑った。
「しかし、あなたは僕がこんなことをいっても、お信じにならないでしょうね」
「私は君が金のためにルスと結婚したに違いないと確信している」
オルデンはいささかの感情もまじえず率直にいった。
「そして、ルスは愛のために、結婚したとおっしゃるのですか」
「そうとも!」
ケッタリングは一、二分、相手を見つめた後、非難するような口調で、
「なるほど、あなたはそう信じておられたのですね、実は僕もあの当時はそれを信じていたのでした。ところが間もなく、僕の夢は破れたのでした」
「君が何をいおうとしているのか、私には見当がつかないし、また、そんなことはどうでもいいと思っている。君はルスに対してひどい仕打ちをした」
「おっしゃる通りです。しかし、彼女は強情です。あなたが頑固な人物だということは、かねてから聞いていましたが、ルスは自分以外の者は誰も愛さないのです」
「もうたくさんだ! 私《わし》が君にここへ来てもらったのは、私がこれからどうするつもりかということを、正々堂々と君に知らせておきたかったからだ。私の娘は幸福であるべきだ。そして彼女の背後には私がついていることを、はっきり君に記憶しておいてもらおう」
「それは脅迫ですか」
「どうとも好きなように取りたまえ」
ケッタリングは椅子をテーブルの前に引き寄せて、オルデンの前に腰をおろした。
「これは単に話にすぎませんがね、かりに、僕が異議を申し立てたとしたら?」
「ばかなことを! 君にはなんら抗弁すべき材料がないではないか。弁護士に相談してみたまえ、そういわれるにきまっている。君の行状は誰知らぬ者はないぞ」
「ルスはミレイユのことを騒ぎ立てているらしいですね、それは愚の骨頂ですよ。僕はルスの友人についてとやかくいったことなんかありませんよ」
「それはどういう意味だね?」
オルデンは鋭くいった。ケッタリングは笑った。
「あなたは、何もかもご存じだというわけではないらしいですね。あなたは、だいぶ、偏見を持っていらっしゃるようですね」
ケッタリングは帽子とステッキを取り上げて戸口の方へ歩いて行ってから、後をふり返って、
「僕は忠告するなんて柄ではないですが、今度の場合、父と娘の間で、ざっくばらんに、お話合いをなさることが必要ですと申し上げておきましょう」
と、いいすてて部屋を出て行った。
「いったい、あの男はどういうつもりで、あんなことをいったのだろう」
オルデンは椅子に深く埋ってつぶやいた。不安が一時につのって来た。何かまだ底をきわめていない点があるらしいと感じた。で、すぐに娘へ電話をかけた。
「もし、もし、……奥様は在宅かね? 昼食に出かけた? いつごろお帰りだね、知らない?ああ、そうか、……いや別に伝言はない」
彼は腹立たしげに受話器をがちゃんとおいた。二時に来るはずのゴビイを待つ間、彼は部屋を行ったり来たりしていた。ゴビイが二時十分すぎに、案内されて来た。
「どうだね?」
オルデンはいらいらしていた。
だがゴビイは少しも急がなかった。彼はテーブルの前の椅子に腰かけると、手ずれのした手帳を取りだして、単調な声でそこに書きこんである項目を読みあげはじめた。
オルデンはそれに耳をかたむけているうちに、しだいに満足の度を増して来た。ゴビイは読み終わると紙くずかごを熱心に見つめた。
「うむ、かなり決定的らしく思われる。この訴訟はきっと造作なくかたづくだろう。ホテルの証拠は大丈夫だろうな」
「ハイハイ、鉄のごとしであります」
といって、ゴビイは、陰気な顔をして、金色に塗ったひじかけ椅子を見つめた。
「彼の財政状態は非常に悪化していて、現在借款を起こそうとしているのだな。父親の遺産をあてに、すでに相当の借金をしているか! だが一度離婚問題が世間に知れれば、あの男はもう一銭も借りるわけにいかないだろうさ。彼の債務を全部こっちが買い取っておいて、ぐんぐん引きしめてやればいい。そうだろう、ゴビイ、あの男の生殺《せいさつ》の鍵はこっちの手の中で自由に握ってやれる!」
にぎりこぶしで激しくテーブルをたたいたオルデンの顔は、冷酷で勝ちほこっていた。
「この情報は申し分ないものでございましょうな」
ゴビイは弱々しい声でいった。
「私はこれからカーゾン街へ出かけなければならぬ。ゴビイ、ご苦労だった。君は非常に役に立つ人間だよ」
とオルデンにいわれて、ゴビイの顔には嬉しそうな薄笑いが浮かび上がって来た。
オルデンはまっすぐにはカーゾン街へ行かなかった。彼は商業中心地へ寄って二つの会見をして、そこでも満足を得た。それから地下鉄でダオン町へ行き、カーゾン街に向かってぶらぶら歩いて行くと、一人の男が一六〇番館から出て来て、彼の方へ歩いて来たので、二人は途中ですれ違った。ちょっとの間、オルデンは、それがまさしくケッタリングだと思った。身長もからだつきもそっくりであった。しかし顔と顔があった時、彼は相手が他人であることに気がついた。だが全然見知らない顔ではなかった。どこか見覚えがあった。その記憶には、何か不愉快な感じがつきまとっていた。彼は頭脳の中でいろいろ考えたが、どうしてもはっきりした形がつかめなかったので、いらいらして頭をふりながら歩いて行った。彼は何事もはっきりさせずにおくのは我慢がならなかった。
ルスは父の来訪を予期していたと見えて、彼が入って行くと、かけ寄ってせっぷんをした。
「お父さま、あれ、どんな具合に進行していますの?」
「たいそううまく行っている。だが私はお前に二、三話すことがある」
とオルデンがいった時、ルスの顔にほとんど気づかれないほどの変化が起こった。抜目のない警戒心が、衝動的な歓迎にとって代わった。ルスは大きな安楽椅子に腰をおろした。
「お父さま、何ですの?」
「私《わし》は今朝お前の夫に会ったよ」
「デリクにお会いになりましたの?」
「そうだよ、いろいろなことをいったが、大方はばかげた生意気なことばかりだったが、帰りぎわに、私の|ふ《ヽ》に落ちないことをいった。彼は父と娘の間にざっくばらんな話合いをする必要があると忠告していたが……、ルスや、それはどういう意味だね?」
ルスは椅子の中でいずまいを直した。
「私……存じませんわ、お父さま……そ、そんなこと私が知っているはずございませんわ」
「お前が知らないはずはないよ、彼はまた、こんなこともいった。彼が友だちを持っていることを白状して、お前の友達のことには干渉しないなどと……。それはどういう意味なのだね?」
「私……知りませんわ」
オルデンは椅子に腰をおろした。彼の唇はふきげんに一文字に結ばれていた。
「ルスや、私《わし》はこのことについて目を閉じているわけにはいかないよ。私はお前の夫がけっして面倒を起こさないという確信が持てないのだ。彼には何もできっこない、それは確実だ、私は彼を沈黙させる手段を持っているからね。だがその手段を用いる必要があるかどうかを、はっきり知りたいのだ。お前が友達を持っているというのは、どういうわけかね?」
「私、お友達をたくさん持っていますわ、あの人がどういうつもりで、そんなことをいったのか、わかりませんけれども……」
ルスは肩をすくめて、あいまいにいった。
「お前にはわかっているはずだがね」
オルデンは、商売がたきを相手にする時のような調子になった。
「私は、はっきりというがね、その男は誰だ」
「どの男ですの?」
「デリクのいう男だ。お前と特別に親交のある男のことだ。何も心配することはないよ、親しい男の友達だからといって、別に何があるというわけでないことはよく分かっている。しかし、法廷に持ちだされた場合を考えておく必要がある。ちょっとしたことでも、弁護士というものは、自分の方に有利になるようゆがめて、問題にするものだからね。私《わし》はその男が誰で、どの程度の親交があるか、はっきり知っていなければならないのだ」
ルスは答えないで、神経的に手をもみ合わせていた。オルデンは声をやわらげて、
「さア、いい子だから話してごらん、お父さんを恐れることなんかないだろう。私はけっしてお前に辛く当たったことがないのを知っているだろう。パリでの、あの時だって……」
といいかけて、彼は急に、
「これはいけない! ああ、あの男だったのか! どうも見覚えのある顔だと思った!」
と叫んだ。
「お父さま、何のことをいっていらっしゃいますの? 私にはなんのことだか分かりませんわ」
「お前は、またあの男に会っているのかね?」
「どの男?」
「ずっと前に問題を起こしたあの男さ、私が誰のことをいっているか、お前は百も承知のくせに」
「お父さまのおっしゃるのは、ローシ伯爵のことですの」
「ウム、そのローシ伯爵さ! あの当時私はあの男が詐欺師にも劣る男だとお前にいって聞かせたではないか。あの時お前はあの男に引っかかって、抜きさしならない羽目におちいっていたのを、私が救いだしてやったのだ」
「そうでしたわ、そして私はケッタリングと結婚したんでしたわね」
「お前が自分で望んで結婚したのだ」
彼女は肩をすくめた。
「私があれほどいったのに……今またお前はあの男に会っているとは!……あの男は今この家へ来ていたね、私はこの家の前であの男に会った。だがその時は誰だったか思いだせなかったのだよ」
ルスは平静を取り戻した。
「お父さま、私、一つだけ申し上げておきたいことがございますのよ。お父さまはアルマンを……あのローシ伯爵を誤解していらっしゃるんですわ。もちろんあの方はお若いころ、いろいろと面白くないことがおありでした。あの方はすっかり私にお話しなさいました……でもあの方はずっと私を思い続けていて下すったんですの。パリでお父さまが私たちの仲をさいておしまいになった時には、あの方は失恋しておしまいになったのです。そして今……」
彼女の言葉はこれで、父の憤激の声に打ち消されてしまった。
「お前は、そんなことで踏みはずしてしまったというのか! 私の娘ともあろうものが、よくも!」
彼は両手をあげて、
「女とはかくまで愚かなものか……」
と嘆息した。
ミレイユ
ケッタリングはオルデンの部屋をあわてて飛びだしたので廊下を通りかかった婦人にぶつかった。彼が謝罪すると、その女はご心配なくというように微笑して、もの静かな人柄と、美しい灰色の目の快い印象とを彼に与えて歩み去った。
彼は平気をよそおっていたが、義父との会見でおさえがたい衝撃を受けていた。彼は一人きりで昼食をし、その後で眉をひそめながらぶらぶら歩いて、ミレイユという名で知られている女性の住む豪奢なアパートを訪ねた。小ぎれいなフランス女が笑顔で彼を迎えた。
「旦那さま、どうぞお入り遊ばせ、マダムはただ今お休息《やすみ》中でございます」
彼は見慣れた東洋風の細長い部屋へ案内された。ミレイユは長椅子の上に、黄ばんだ肌に調和する茶系統のさまざまな色のクッションに囲まれて寝ころんでいた。
その舞姫は美しく化粧した女性であった。黄色い皮膚をした顔は、実際はやつれていたが、それがかえって不思議な魅力になっていた。そしてオレンジ色の唇は、ケッタリングに向かって、誘うように微笑していた。
ケッタリングは女にせっぷんしてから安楽椅子にどっかりと腰をおろした。
「何していたの? たった今起きたばかりなんだね」
ミレイユの唇は、更に微笑でほころびた。
「いいえ、あたしは仕事していたのよ」
ダンサーは指の長い青白い手をあげて、楽譜が乱雑にちらかっているピアノを指さした。
ケッタリングはたいして注意も払わずにうなずいた。彼はアンブローズにも、その男がオペラとして上演しようとしているイプセンの『ペール・ギュント』にも、ぜんぜん関心を持っていなかった。ミレイユにしても、自分がアニトラの役で出演して踊る、またとない好機会だと考えているにすぎなかった。
「アニトラの踊りはすてきよ。あたし、うんと宝石を飾って踊るつもりなの。それはそうと、あのねえ、あなた、あたしきのうボンド通りで真珠を見たのよ、黒真珠を!」
「僕に真珠の話なんかしても、無駄だよ、現在は……、すでに、あぶらが溶けはじめている状態なんだからね」
これを聞くと女はすぐ反射的に起き上がって、黒い瞳を大きく見張った。
「何のこと? 何か起きたの?」
「僕の金持ちのしゅうと殿《どの》がね、僕と縁切りの準備をはじめているのさ」
「ええ?」
「つまりね、ルスと僕を離婚させようとしているのさ」
「なんてばかなことするの! なんだってあの人、あなたと離婚したいのかしら?」
「主な原因はね、ミレイユ、お前なんだよ」
ミレイユは肩をすくめた。
「ばかばかしいことだわ!」
「実にばかばかしいよ」ケッタリングも同意した。
「あなたはそれで、どうする気なの?」
「僕に何ができるというんだい。無限に金を持っている男と、無限に借金を持っている男とでは、喧嘩にならないではないか」
「アメリカ人て、ほんとうに変わってるわねえ。まるであなたの奥さんが、あなたを好いていなかったみたいじゃないの」とミレイユがいった。
「さて、そこで、われわれはこれについて、どうしたものかね」と、ケッタリングがいうと、彼女は問い返すように彼を見つめた。彼はそばへ寄ってミレイユの両手を取った。
「お前は私についてくるかい?」
「どういう意味?」
「うん、たとえ債権者達が一群の狼《おおかみ》のように、僕に襲いかかってきたとしても、お前は僕から離れないでいるかというのさ。僕はお前がとても好きなんだ。ミレイユ、お前は僕を見捨てるかい?」
それを聞くと女は取られていた手を引っ込めながら、
「あたしがあなたを崇拝しているのを知ってるくせに!」
彼女の態度から、彼は相手が逃げ腰になっているのを感づいて、
「なるほどね、鼠どもは沈没する船から逃げだすというわけか」
「あら、デリク!」
「正直にいっておしまいよ、お前は僕を捨てる気だね! そうだろう!」
「あたし、あなたが好きよ、とても好きよ、あなたはすてきだわ。でもね、やっぱりあたしたちは現実的でなくてはならないわよ」
「お前は金持ちの贅沢品というわけなんだね」
「あなたがそう思いたかったら、それでもいいわよ」
女はクッションによりかかって、頭をさっと上に向け、
「なんていったって、あたし、あなたが好きなのよ」
彼は窓ぎわへ行って、しばらく女に背を向けて立っていた。やがて舞姫は、ひじを突いて身を起こし、不思議そうに彼を見つめた。
「あたしの坊やは何を考えているの?」
彼はふり返って、肩越しに彼女に笑って見せた。それは何か彼女に不安を感じさせるような笑いであった。
「ほんとうのことをいうとね、僕は今ある女性のことを考えていたんだよ」
「女のことですって?」
ミレイユは自分に理解できる問題と見て、飛びついて来た。
「誰か、ほかの女のことを考えているのね、そうでしょうよ!」
「お前は何も心配することないよ。空想的な肖像画にすぎないんだ、『灰色の瞳の貴婦人』の画像さ」
「いつその人に会ったの?」ミレイユは鋭く聞いた。
ケッタリングは笑った。
「僕はね、サボイ・ホテルの廊下でその婦人と鉢合わせしたんだよ」
「で、その女、なんていったの?」
「僕の記憶するところによると、僕が、失礼いたしましたというと、彼女は、いいえどういたしまして、といったようだが、……たしかにそういうような様子を示した」
「それから?」舞姫は追求した。
ケッタリングは肩をすくめて見せた。
「それきりさ、それでその出来事は終わりというわけさ!」
「あたし、あなたのいうことちっとも理解できないわよ」
「灰色の瞳の貴婦人……おそらくもう二度と会うことはあるまいね」
「なぜ?」
「僕に不運をもたらすかも知れないもの、女というものはみんなそうだからね」
ミレイユはすばやく長椅子からすべりおりて、彼のそばへより、蛇のような長い腕を彼の首にまわして、
「デリク、あなたはおばかさんね、あなたはほんとうにおばかさんよ、あなたはすてきな人だわ、あたし、あなたに憧れているのよ、だけど、あたしは貧乏にはなれない女なの、絶対に貧乏になれないわ。でねえ、聞いてちょうだいよ、とても簡単なことですむんだから。あなたは奥さんと仲直りしなくてはいけないわよ」
「現実の世の中では、そんなことは通用しないよ」
「それ何のこと? あたし理解できないわ」
「オルデンという人はそんなことを取り上げっこないよ、あの人はいったんこうときめたら、あくまでそれを固持する人物なんだ」
「あたしあの人のこと聞いたわ、アメリカ一といってもいいほどのお金持ちなんですってね。五、六日前にあの人はパリで、世界にまたとないすごいルビーを買ったのよ、『火焔《ほのお》の心臓』っていう名の石なの」
ケッタリングは答えなかった。舞姫は考えこみながら言葉をつづけた。
「すばらしい宝石なのよ、それ。あたしみたいな女の持つべき石なのよ。ねえ、あなた。あたし宝石がとても好きなの、宝石は一番あたしにぴったりとするのよ。ああ、『火焔の心臓』をこの胸に飾れたら!」
女はため息をもらした。そして、更に言葉をつづけた。
「あなたには、こういうことは分からないのね、あなたは男だから。オルデンはきっとそのルビーを自分の娘にやるわけよ、ひとりっ子なんでしょう?」
「うん」
「それではあの人が死んでしまえば、あなたの奥さんは財産を全部相続して、大金持ちになるんだわねえ」
「妻は現在すでに大金持ちだよ。結婚した時に二、三千万ドル、娘の名義にしたもの」
「二、三千万ドル! 大したお金じゃないの!で、もし奥さんが不意に死ねば、その莫大なお金があなたのところへ来るんでしょう」
「現在のままの状態ならね。僕の知るかぎりでは、別に遺言状など作ってないから」
「あら、そうなの! では奥さんが死にさえすれば、万事うまく解決するってわけねえ!」
ちょっとの間、沈黙がつづいた後、ケッタリングは急に笑いだした。
「ミレイユ、僕はお前のその単純で現実的な考え方が気に入っているんだ。だが、お前の望むようになることはまずむずかしいね。僕の妻は特別に健康な女だから」
「そんなの問題じゃないわよ、事故っていうことがあるじゃないの!」
彼は鋭い視線を彼女に向けたが、何もいわなかった。
「あなたのいう通りだわ、あたしたちは可能性なんかをあてにするわけにいかないわ。ねえ、離婚話なんておやめなさいよ、奥さんもそんな考え、捨てなければいけないわ」
「もし妻がその考えを捨てなかったら?」
舞姫の目は裂けるばかりに大きく見開かれた。
「そんなことないわよ、あなたの奥さんは世間の噂を気にする人だわ、で、あの人が新聞種になってお友達に読まれるのを嫌がるような話が二つ三つあるのよ」
「それはどういう意味だね?」
ケッタリングは鋭くたずねた。
ミレイユは頭を後へなげかけて笑った。
「ほほほほ……ローシ伯爵と名のる紳士のことよ! あたしあの人のことぜんぶ知っているわ、いいこと? 私はパリっ子なのよ、あの人はあなたの奥さんがあなたと結婚する前の恋人だったのよ、そうでしょう!」
「そんなこと真赤《まっか》な嘘だ! いいかい、お前は僕の妻のことを話しているんだよ、それを覚えていてもらいたいね」
「英国人って全く変わっているわねえ! そりゃあなたが正しいかも知れないわ。アメリカ人って冷淡じゃなくて? とにかく奥さんがあなたと結婚する前に、その伯爵なる人と恋をしていたことは認めなくてはならないことなのよ。で父親が二人の仲を裂いて、伯爵に何か商用をあてがって外国へ出張させてしまったんで、お嬢さんは泣きの涙だったの。で、お嬢さんは父親に服従したっていうわけなのよ。ところで、それは昔の話で、現在、後日物語ができているということをあなたは知らなければいけないわ。奥さんはほとんど、毎日その男に会っているのよ。そしてこの十四日には、パリまでその男に会いに出かけることになっているのよ。どう?」
「どうしてそんなことまで知っているのかね」
「だってあたしパリにお友達がたくさんいるし、その人たちは伯爵を親しく知っているんですもの。すっかり手はずがしてあるのよ。奥さんはリビエラへ行くと称して、実はパリで伯爵と落ち合うの、それから先はどういうことになるか……、あなたは、あたしのいうことを本気になさらなくてはダメよ、ちゃんとそういうふうに計画が立てられているんですからね」
ケッタリングは、身動きもしないでつっ立っていた。
「分かるでしょう。もしあなたがお利口さんなら、奥さんを手の中におさえてしまって、思うままにあやつることができるでしょう?」
「頼むから、もう止めてくれ! その口を閉めてしまえ」
とケッタリングは叫んだ。
ミレイユは高笑いしながら、再び長椅子の上に身を投げかけた。ケッタリングはオーバーと帽子を取り上げると、背後《うしろ》の戸をたたきつけて出て行った。舞姫はなおも長椅子に坐ったまま、くすくす笑っていた。彼女は自分の細工に満足していた。
手紙
――ヘーアフィルド夫人は、キャザリン・グレイ嬢につつしんでご挨拶を申し送るとともに、グレイ嬢のご注意をうながしたき点二、三これあり……
ヘーアフィルド夫人は、すらすらと、ペンを走らせて来たが、そこで誰しもぶつかる――三人称で自分の意志をなだらかに書きあらわすことの困難にぶつかってしまった。
夫人は一、二分ためらった後、便箋を破りすてて、新たに書きはじめた。
――親愛なるグレイ嬢
わが従姉エンマ(彼女の最近の死はわれら一同に激しき打撃を与え候)に対し貴嬢が十分に義務をお果し下されしことを私ども深く感謝いたしおり候えども……
再びヘーアフィルド夫人のペンは止まってしまい、書きかけの手紙は、またもや屑かご行きとなった。夫人がようやく満足のいくような書状を書きあげるまでには、四度も書き直された。それに型のごとく封印し、切手をはり、ケント州、セント・メリー村のキャザリン・グレイ嬢あてに発送した。そして翌日朝食のテーブルについたキャザリン嬢の前に、その手紙は、もう一つの更に重要らしく見える細長い青封筒の書状とともにおかれてあった。
キャザリンは、ヘーアフィルド夫人の手紙をまず開封した。
――親愛なるグレイ嬢へ
私と私の夫は、亡き従姉エンマに対するあなたのご勤務ぶりに感謝しておりますことを申し述べさせていただきます。従姉の頭脳《あたま》がよほど前から変になっていたことは承知しておりましたが、それにしても彼女の死は私どもにとって大きな衝撃でございました。さて、あの人の遺言状の財産処分法はおそろしく風変わりなもので、申すまでもなくいかなる法廷におきましても効力のないものと認められると存じます。もちろん日ごろから物わかりのよくていらっしゃるあなたのことですから、このようなことはすでにおわきまえのことでございましょうと存じます。この件は公にせずに処理することができますし、その方がはるかによろしいと夫は申します。
私どもは喜んであなたを今までと同じような職場にご推薦申し上げますし、また、いくらかの贈り物をお受けいただきたいと希望しております。
真心をこめて、あなたの友人
メリー・ヘーアフィルドより
キャザリンはそれを読み終わって微笑し、もう一度読みかえした。二度目に読み終わってそれを下へおいた時の彼女の顔には、面白がっていることが、はっきりと表われていた。彼女は次の手紙を取り上げた。一通り熟読すると彼女はそれをわきへおいて、まっすぐ前をじっと見つめていた。今度は彼女は微笑しなかった。その様子を誰か見守っていたとしても、静かな考え深いまなざしの背後に、どんな感情がひそんでいるか推測することはできなかったろう。
キャザリンは三十三歳であった。良家の出であったが、父親が財産を失ってしまったために、自活しなければならなくなり、セント・メリー村のエンマ・ヘーアフィルド老婦人の話し相手として雇われてきたのは、ちょうど二十三歳の時であった。
その老婦人は評判の気むずかしやで、それまで幾人話相手が来ても、長続きしなかった。みんな希望に溢れてやって来ては失望して帰って行くのであった。ところがキャザリンが十年前、このクラムトン荘へ来てからは、完全な平和が老婦人の家を支配することになった。いったい、どうしてそういうことになったのか誰も知らない。蛇使いというものは作られるのではなく、生まれつきのものだといわれる。キャザリンは、きっと生まれながらにして老婦人や、イヌや、小さい男の子たちを、手なずける力を持っていたものと見える。
二十三歳の彼女は美しい目をした静かな娘であった。そして、三十三歳になる現在の彼女は、同じ灰色の目をした静かな婦人となっていた。その目は、何ものにも動じない愉しい朗らかさで、世の中をしっかり見つめて輝いていた。その上彼女は生来のユーモアを現在も持ち続けていた。
彼女が目の前をまっすぐに見つめている時、玄関の呼鈴《ベル》が鳴り、つづいて勢いよく戸をたたく音が聞こえて来た。次の瞬間に、小間使いが戸をあけて、
「ハリソン先生でございます」と告げた。
中年の大柄な医師が、勢いよく入って来た。
「お早う、キャザリン嬢!」
「お早うございます、ハリソン先生!」
「わしはな、例のヘーアフィルドの従姉どもから何かいってきたかもしれんと思って、早朝じゃが寄ってみたのじゃ。サミュエル・ヘーアフィルド夫人と名のる、全く毒のある女じゃ」
キャザリンは無言で、テーブルの上にある手紙を取って医師に渡した。そして彼がそれを読んでいくうちに、やぶのような眉を寄せ、荒い鼻息をして憤慨にたえぬというふうに激しく唸《うな》る様子を多大の興味をもって見守っていた。
ハリソンはその手紙をテーブルの上にたたきつけるようにして、
「全く途方もないことじゃ、こんなこと気にかけなさるな。大ぼらを吹いていやがる。ヘーアフィルド未亡人の頭脳は、あんたのと同様にたしかなものじゃった。法廷に持ちだすなんて脅《おどか》しさ。だから、こそこそとあんたに持ちこもうというのだ。いいですかね、嬢や、甘いことをいって来ても、けっしてその手に乗りなさるなよ、現金を渡す義務があるとか、良心の咎とかいうばかな考えは、けっして、起こしなさんなよ」
「良心の咎なんてこと、私気がつきませんでした。あの人たちは、ヘーアフィルド夫人の旦那さまの遠縁の方たちですけれど、婦人の在世中はてんで寄りつきもしなければ考えてもくれませんでしたの」とキャザリンはいった。
「あんたは分別のあるお嬢さんじゃ、わしはあんたがこの十年間、ずいぶんと辛い思いをして来なすったことを誰よりもよく知っておる。あんたは老婦人の溜めこんだ金で楽しむ資格は十分にあるのじゃ」
キャザリンは考え深く微笑した。
「先生はその金額はどれくらいか、ご存じですか」
「一年に五百ポンドぐらい産みだすだけのものがあると思うね」
「私もそう思っていました。ところがこれをお読みになって下さい」
と、青封筒から取りだした手紙を渡した。医師はそれを読んで、驚きの叫びをあげた。
「思いがけぬことじゃ! 全く思いがけぬ!」
「モートオルズの最初の株主の一人でいらしたんです、四十年前に年額八百ポンドから千ポンドくらいの収入がおありだったわけです。あの方はけっして年に四百ポンド以上はお使いになりませんでしたし、いつもお金のことにはとても細かに気を使っていらしたんです」
「その間じゅう、収入が複利で積み立てられていたというわけじゃなア、嬢や、あんたは大金持ちになりなさるんじゃ」
「ええ、そうです」
キャザリンは他人《ひと》ごとのようにいった。
「さて、わしは心からお祝い申すよ、その女のことも、そのいやらしい手紙のことも気にかけなさんな」
といって、医師はヘーアフィルド夫人の手紙を拇指《おやゆび》ではじいた。
「ほんとうは、いやらしい手紙でなんかないと思います。事情が事情ですもの、こういう手紙を書くのはごく自然なことですわ」
「わしはときどき、大いにあんたを疑うことがあるね」
「どうしてですか」
「あんたが自然だと考える考え方に対して、わしは疑問を持つのじゃ」
キャザリンは面白そうに笑った。
ハリソン医師は昼食の時に、この大ニュースを妻に語った。
「まア、あのヘーアフィルドのお婆さんが、そんなお金持ちだったとはねえ! キャザリンにそれを遺してやるなんて、ほんとうにいいことでしたわ、あの娘は聖女ですからね」
「キャザリンは聖女なんていうにはあまりに人情味がありすぎるのう」といって医師は顔をしかめた。
「あの娘はユーモアを解する聖女ですわ。それにあなたは気がおつきにならないかも知れませんが、あの娘はたいそう美人ですわ」
「キャザリンが美人だって? そりゃいい目をしておるのは、わしも知っとるがね……」
医師はほんとうに驚いていった。
「男ってしようのないものね、まるでこうもりみたいに盲目で! キャザリンは美人の条件を全部そなえていますわ、ただ欠けているのは着物だけですよ!」
「着物? あの人の着物のどこが悪いのじゃね、いつもちゃんとしているじゃないか」
困ったものだといわぬばかりに、ハリソン夫人は大げさにため息をついた。医師は往診に出かける支度をしに立ち上がり、
「ポリーや、あの娘を訪ねてやったらどうじゃね」といった。
「ええ、そうしますよ」夫人はすぐに同意した。
ハリソン夫人は三時ごろにキャザリンを訪問した。
「私ほんとうに嬉しく思いますよ、村中の人は誰だって皆よろこびますとも」
夫人はキャザリンの手をかたく握った。
「そういって下すってありがとうございます、奥様は私がジョニーのことを聞きたがっているので、それをお話に来て下すったんでしょう」
「おお、ジョニーですか、あの子はね……」
ジョニーは、ハリソン夫人の一番末の男の子であった。次の瞬間から、夫人はジョニーの扁桃腺が肥大したこと、そのほかながながと息子の歴史を語りだした。キャザリンは思いやり深く耳をかたむけた。なにしろ聞き手の役割を十年この方やって来たのである。
「ねえ、私、あの話、ほらポーツマスの海軍の舞踏会のことお話しましたかしら? ほらチャールズ卿が私の服をほめて下さった時のこと」といわれると、キャザリンはすぐに、
「なんだか伺ったような気がいたしますけれども、くわしいことは忘れてしまいました。奥様、もう一度お聞かせ下さいませんか」
という。そこで老婦人は種々雑多なことを細かに語り出す。するとキャザリンは心の半分でそれを聞いてやり、相手の言葉がとぎれた時には、適当なことを機械的にさしはさんでやる……。
半時間もしてから、夫人は突然に、
「私としたことが、自分のことばかりしゃべり続けてしまって……あなたのことや、あなたの計画についてお話しに参りましたのに!」といった。
「私まだ何も計画しておりませんわ」
「まさかこの村にうずもれるおつもりではないでしょうね」
キャザリンは相手の真剣な調子に微笑《ほほえ》んだ。
「いいえ、私、旅行したいのです、私あまり世間を知りませんでしょう?」
「そうでしょうともね。長いあいだこんなところに閉じこめられて暮らすなんて、ずいぶん辛くていらしたでしょうね」
「そうでしょうか、私、いくらも自由をもっていました」
といってしまってから、キャザリンは相手が息をはずませたのに気がついて、顔を赤らめ、
「そんなことをいったら、ばかげてるように聞こえるかも知れません……もちろん肉体的にいったらほんとうの自由なんかありませんでしたから……」といいたした。
「そうですとも」
ハリソン夫人はキャザリンがほとんど公休日というものさえ、もらえずにいたことを思いだして、ささやくようにいった。
「でも、ある意味では、肉体を縛られていると、かえって精神的のぬけ穴をたくさんみつけるものです。私はいつも精神的の自由を楽しんでいました」
「そういうことは私には理解できませんわ」
「おわかりになりますとも、奥様だって、もし私のような立場にいらっしゃれば。それにしても私は変化がほしいのです、私は……そうですね、いろいろなことが起こってほしいのです、いいえ、自分に……という意味ではありません、いろいろなこと……、自分は傍観者でもいいから、何か大騒ぎのまっ只中に入ってみたいんです。でも、この村には何も起こらないでしょう」
「全くですわね」夫人は熱心にいった。
「私、第一に弁護士に会いにロンドンに行きますわ。その後で私、外国へ行こうと思いますの」
「それは結構なことですね」
「もちろん、何よりも、まず」
「どうなさる?」
「私、服を新調しなければなりませんわ」
「そう、そう、それですよ、けさも私は夫にそう申したんですよ、いいこと、キャザリン、あなたは自分でその気にさえなれば、ほんとうに美しくなれるんですよ」
キャザリンは声をあげて笑った。
「私を美人に仕立てようたって、それは無理ですわ。でも私はほんとうにいい着物を着て楽しみますわ」
ハリソン夫人は抜け目ない目つきで彼女を見守り、
「それはもう、たしかにあなたにとって、すばらしい経験でしょうね」といった。
キャザリンは村を出発する前に、バイナー嬢のところへ、別れに行った。バイナー嬢はヘーアフィルド夫人より二つ年上だったので、この老嬢の頭脳の中は、死んだ友人よりも生き延びたという勝利でいっぱいになっていた。
「あなたは私がエンマより長生きするとは思いなさらなかったでしょうね。私たちはいっしょに学校へ通ったものですよ、あの人と私はね、それだのにあの人は召されてしまい、私はこうして残っているんですものね」
「あなたはいつも晩ごはんに黒パンを食べていらしたのでしたね?」
キャザリンは機械的につぶやいた。
「あなたはよくそんなことを覚えていなすったわね、そうですよ、エンマが毎晩黒パン一切れと食事の時にお酒を少しずつやっていなすったら、今日もここにいたでしょうに!」
老婦人は誇らしげに頭をふって、ちょっと黙ったが、急に思いだして、つけ加えた。
「そういえば、あなたのところへたいへんなお金が入ったんですってねえ! いいこと、そのお金に気をつけなさいよ、ロンドンへ楽しい思いをしに行きなさるんですって? 結婚なんかなさることないでしょうね。あなたにはそんな気もありなさるまいし、あなたは男を引きつけるというたちの人ではないし。それにあなたは、ちゃんとやって来たし、あなたはいったいおいくつなの?」
「三十三です」とキャザリンは、はっきりいった。
「じゃア、まだいいわねえ、そりゃ番茶も出ばなというところは無くなっているけれど」
「そうらしいですわ」
「でも、あなたはいい娘さんだわ。世の中にはね、神様の思し召しよりもはるかよけいにすねをむき出しにして飛び歩いている近ごろの騒々しいおしゃべり女よりも、あなたみたいな人を妻にするような、とほうもない悪い男もありますからね。じゃアさようなら、大いにお楽しみなさるように祈りますよ、でもねえ、世の中は何事もめったに思うようにならないものなのよ」
これらの予言にはげまされて、キャザリンは出発した。村人の半数が駅まで見送りにきた。その中にはあらゆる雑用をしていた小間使いのアリスもいて、針金でしゃちこばった花束を持って来て、手放しで泣いた。
列車が駅をはなれて行ってしまうと、アリスは、
「あんないい方はめったにありませんよ、チャーリーがほかの女なんかに引っかかって私を裏切った時、あの方ほど親切に私を慰めてくれた人はほかになかったわ。磨き物や、お掃除にはとてもやかましかったけれど、その代わりちょっとでも念入りにすると、すぐに気がついてほめて下すったのよ。私はあの方のためなら骨身をくだいてもいいと思っていたわ。ああいうのが、ほんとうの淑女なんだと思うわ」
と泣きじゃくりながらいった。
キャザリンのセントメリー村出発の模様は、ざっとこんなふうであった。
タムリン伯爵夫人
「さてと!」
とつぶやいて、タムリン伯爵夫人は新聞を下におくと、バルコニーから、朝の地中海の青い波のかなたを見つめていた。ちょうど頭上にさがっている金色のミモザの枝がこの美しい絵に効果的な額縁の役目をしていた。タムリン伯爵夫人は金髪と青い目の持ち主で、よく似合う部屋着を着ている。しかし、ピンクと白の濃《こ》い技巧的な化粧のあとがあることはいなみがたいが、目の青は自然のままで、美しい金髪とともに、四十四歳とは思われないほどの美人である。
タムリン伯爵夫人はそんなに美しく見えていたが、その時だけは自分の外見のことを気にかけず、もっと重要なことに心を向けていた。
タムリン伯爵夫人はここリビエラではよく知られた社交界の花形である。夫人は四度も夫を持ったという、かなりその方面の経験に富んだ女性である。第一番目は単なる無分別な結婚だったので、夫人はほとんどそれについて話題にしなかった。だが夫は結婚後、いくばくもなく死んでしまったので、未亡人になった彼女は、その後金持ちのボタン製造業者に嫁《とつ》いだ。しかし、三年の結婚生活の後に二度目の夫も他界してしまった。何でも気の合った飲み仲間と愉快な晩を過ごした後のことだったということである。その次に現われた三番目の夫はタムリン伯爵で、この結婚により夫人は、かねがね望んでいた通りの高い社会的地位をしっかりと掴ましてもらったのである。そこで四度目の結婚をした後も、タムリン伯爵夫人という称号は捨てなかった。この四度目の相手はチャールズという二十七歳の好男子であった。この冒険は純粋な快楽のために選んだものである。この青年は実に気持ちのいい態度と、スポーツに対する熱心な愛好心と、この世の結構な物に対する正しい認識とを持っているが、自分の金というものはびた一文も持っていなかった。
タムリン伯爵夫人はだいたいにおいて現在の生活に満足し楽しんでいたが、時折、金に対して漠然とした不安を感ずることがあった。二度目の夫のボタン製造業者は未亡人にかなりの財産を残したが、タムリン伯爵夫人がよくいうように|何やかや《ヽヽヽヽ》……|何や《ヽヽ》というのは戦争のために株の価格が下落したこと、|かや《ヽヽ》とは故タムリン伯爵の浪費性……で、だいぶ減ってしまった。それにしてもまだ気楽に暮らすだけのものはあった。しかしタムリン伯爵夫人にとっては、気楽に暮らすぐらいのことでは満足がいかなかった。
タムリン伯爵夫人は、ふと新聞記事の中のある項目を読むと、青い目を大きくみはって「さてと」という、あいまいな言葉を口にしたのであった。他にこのバルコニーにいたのは娘のレノックスであった。この令嬢は、タムリン夫人にとってなんとなくとげとげしい娘であった。少しも機転がきかない娘で、実際の年よりも老けて見えるし、たまに口にするユーモアは、妙に皮肉たっぷりで少なからず不愉快なものであった。
「ねえ、レノックス、ちょっと考えてごらんなさいよ」
「何なの? だしぬけに……」
伯爵夫人は新聞を取り上げて、興奮した調子で問題のところを指さした。
レノックスは母の示したような興奮を少しも見せずに読み終わると、新聞を返した。
「これがどうしたっていうの? ざらにあることじゃないの。けちんぼ婆さんが村で死んで、しがない奉公人に百万の遺産をやったなんて、しょっちゅうある話だわ」
「それはそうですとも、どうせ世間でいうようなそんなたいした遺産ではないかも知れませんさ、新聞の書くことはずさんですからね。けれども、その半分だってあったらねえ……」
「だって私たちに遺産が来たわけではないじゃないの」
「必ずしもそうではないでしょうけれども、このキャザリン・グレイというのは、お母さんの従妹なんですよ、ウルスター州のグレイ家の一族ですもの」
「ふふん」
「で、私、考えているんですけれど……」
「私たちの分け前がどれくらいあるかしら」
と、レノックス嬢は母の心の中をいってしまった。
「あなたったら!」
タムリン伯爵夫人はなじるようにいった。
だがそれはほんの口先だけのものであった。なぜならタムリン伯爵夫人は娘の無遠慮な言葉と、物事にとげとげしい癖に、慣れっこになっているからである。
「私考えていたのだけれど」
伯爵夫人は眉《まゆ》ずみでかいた細い眉をよせて、再び同じことをいった。そこへチャールズが現われた。
「ああ、お早うチャールズちゃん、テニスをしにいらっしゃるの? いいことね!」
とタムリン伯爵夫人が挨拶すると、青年はやさしく微笑を返しながら、
「もも色の物を身につけると、あなたはとっても素敵ですね!」
とおざなり愛想をいって、二人の前をさっと通りぬけて階段をおりていった。
「私の可愛い人!」
伯爵夫人は愛情をこめて若い夫を見送った。
「それでね、……あら私、何をいおうとしていたんでしたっけ? ああ、私は考えていたんですけれど」
「早く先をいってよ、お母さんたら、同じことばかりいって、もう三度目よ」
「私はねえ、キャザリンに手紙を書いてここへ遊びに来るようにいってやったらいいだろうと思うのよ。あの人は社交界に何の縁もないにきまっているし、身内の物の手引きで社交界へ出させてもらう方が、いいでしょうからね。これはあの人にも好都合ですし、私たちも好都合ですわ」
「いくら吐き出させるおつもりなの?」
と、レノックス嬢は無遠慮にたずねた。
母は咎《とが》めるように娘を見つめながら、
「もちろん、私どもは経済的の取りきめをしますわ、戦争があったり、あなたのお父さまがあんなふうでしょう、で、何やかやと、大変なんですもの」
「それに今はチャールズがいるし、あの人はとてもお金のかかる贅沢品だというわけね」
「……私の知っているかぎりでは、キャザリンはとてもいい娘でしたわ、温和《おとな》しくて、他人を押しのけて出しゃばるようなことはしませんし、美人ではなし」
伯爵夫人は記憶をたどりながらつぶやいた。
「じゃア、チャールズが手だしする心配はないとおっしゃるのね」
夫人が抗議するように娘を見つめて、
「チャールズはけっしてそんな……」といいかけると、
「そんなことはしないわよ、あの人はどっちへ行けば自分のパンにバターをつけてもらえるか、ちゃんと心得ていますもの!」
「あなたは、どうして、そんなふうに物事を下品に扱うんです!」
タムリン伯爵夫人は新聞と、部屋着のすそと、化粧箱と、手紙類とを、かき集めながら、
「私、キャザリンに手紙を書きます。いっしょに暮らしたころの懐かしい思い出を書き送りましょう」
夫人は期待にひとみを輝かしながら部屋の中へ入って行った。
サミュエル・ヘーアフィルド夫人の場合と違って、文面は彼女のペンから造作なく流れ出た。考えもしなければ、努力もしないで四枚の紙をうずめてしまい、読みかえしても一字も書きなおす必要を認めなかった。
キャザリン、弁護士に逢う
キャザリンはタムリン伯爵夫人からの手紙を、ロンドンへ着いた日の朝受け取った。彼女がその手紙の文面に書かれてある言葉の意味を読みとったかどうかは、別問題である。とにかくそれをハンドバッグに入れて、亡きヘーアフィルド夫人の選定した弁護士に会いに行った。それは鋭い青い目をした父親らしい態度の親切そうな老人であった。
二人はヘーアフィルド夫人の遺言状やその他のさまざまな法律上の用件についてしばらく相談した。それからキャザリンはサミュエル・ヘーアフィルド夫人の手紙を弁護士に渡して、
「これは、どうも変てこな手紙ですけれども、いちおうお目にかけた方がいいと思います」
彼は微かな笑いを浮かべてそれを読んだ。
「なかなか露骨な企てでございますな。でもこの人たちはあの不動産に対してはなんらの権利もないのでございます。また、たとえ遺言状について争おうといたしましたところで、法廷では取りあげませんでしょう」
「私もそう思っていました」
「人間というものは必ずしも賢いものとばかりは申されません、サミュエル・ヘーアフィルドの場合、私はお嬢さまの寛大なお心に訴えたいように思うくらいでございます」
「私がご相談したいと思ったことの一つはそれなのです。私はその人たちにいくらかまとまった金額をあげたいと思います」
「そういう義務は何もございませんよ」
「それは知っております」
「それに先方では、それをお贈りになるあなたの精神を汲まないで、あなたがその人たちを買収するために贈ったと考えるかも知れませんです。もちろんそのためにそれを受け取るのを拒むようなことはございますまいが」
「それも私にはわかりますが、止むを得ないことだと思いますわ」
「私は、そういう考えはあなたの頭脳から追いだしておしまいになるようにご忠告申し上げますね」
キャザリンは頭をふった。
「あなたのおっしゃることが正しいのはわかっております、けれどもやっぱり私はそうしたいと思います」
「あの人たちは金をつかみ取って、その後で以前よりも更にあなたを罵《ののし》ることでございましょう」
「そんなことかまいません。あの人たちはなんといっても、ヘーアフィルド夫人の唯一の親類ですから、たとえヘーアフィルド夫人の在世中は貧しい身内だと思って、寄りつきもしなかったにしても、何ももらえないなんて不公平な気がいたしますわ」と、キャザリンは自分の言い分を通してしまった。
やがて彼女は、自由に金を使い、これから先はどんなにでも思いのままの計画を立てることができるという愉快な確信をいだきながら、ロンドンの通りを歩いて行った。第一の行動は有名なドレスメーカーの店を訪ねることであった。
まるで夢みる侯爵夫人とでもいいたいような、ほっそりとした年輩のフランス婦人が、彼女を迎えた。キャザリンは一種の天真らんまんさで話した。
「できれば私は自分のからだを、あなたにお任せしたいのです。私は今までたいへんに貧しかったので、着物のことは何も知りませんが、今度急にお金持ちになったので、誰が見てもほんとうに気のきいたいい服装をしたいのです」
フランス婦人はすっかりキャザリンに魅せられてしまい、鋭敏で聡明《そうめい》な目で、キャザリンを綿密に吟味《ぎんみ》して、
「よろしゅうございます。喜んでさせていただきます。お嬢さまはたいそうお姿がよろしくいらっしゃいます。単純な線が一番お似合いでございます。ほんとうのイギリス人でいらっしゃいますわ。そんなことを申し上げるとお怒り遊ばす方がございますが、お嬢さまはそんなことございませんわね、イギリス美人のタイプほど惚れ惚れするスタイルはございません」
夢みる侯爵夫人の態度はたちまちに消え、職業意識にかえると、見違えるようにきびきびとマネキンたちに指図をした。
「クロチルド、バージニー、はやくおし、あの明るい茶色のテイラー仕立てのを! それから、夜会服のあの『晩秋のため息』を! マルセルや、お前はクレープデシンのミモザ色のを!」
キャザリンにとってすばらしい朝であった。
マルセルもクロチルドもバージニーも、どのマネキンもがするように、高慢な態度で、身をくねらせたり、のたうたせたり、いろいろの姿態で、キャザリンの前をゆっくりと旋回して通りすぎて行った。夢みる侯爵夫人はキャザリンのわきに立って、小さな手帳にキャザリンの注文を一々書きこんでいた。
「まことに結構なご選択でございます。お嬢さまはたいそういい趣味をお持ちでいらっしゃいますこと! ほんとうにそうでございますよ、たぶんそう遊ばすと存じますが、この冬リビエラへお出かけになるといたしましたら、このミモザ色のお召し物なんか、うってつけでございますわ」
「さっきのイブニング・ドレスをもう一度見せて下さい、ピンクがかった薄ふじ色の」
バージニーは、ゆっくりと旋回しながら現われた。キャザリンは薄ふじ色とねずみ色と青色とを組み合わせた美しいひだの線を眺めて、
「あれが一番気に入りましたわ。何といいましたっけね」
「ハイ、『晩秋のため息』ともうします、ほんとうにこれこそお嬢さまのために作られたドレスでございますわ」
キャザリンが、その店を出ると、ふと心に微かな哀愁が浮かんできた。あの「『晩秋のため息』、これこそお嬢さまのために作られたドレスでございます」といわれたあの言葉がそれである。
秋、そうだ、彼女にとって人生は秋である。春も夏も知らずに過ごしてきた彼女。そして今になってはもうけっしてそれを味わうことのできない彼女であった。なんとしても二度とめぐり来ない春と夏を失ってしまったのである。セント・メリー村で老婦人に使えている間にすぎてしまった青春!
「私は大ばかだわ! 大ばかだわ! いったい私は何を欲しがっているのかしら? 一か月前の私は現在の私よりも、もっと満足していたのに!」
彼女はハンドバッグから、その朝受け取ったタムリン伯爵夫人の手紙をだした。キャザリンはばかではなかったからその手紙の中にぼかされている色合いと、従姉の伯爵夫人が長いあいだ忘れていた従妹を覚えていて、突然の愛情を示した理由をちゃんと読み取った。伯爵夫人が愛する従妹を招待したがっているのは、けっして楽しみのためではなく、金のためであろう。それでいいではないか! どうせ双方の利益になるのだから。
「私、行くわ」とキャザリンは独り言をいった。
その時彼女はピカデリー通りを歩いていたので、足を急がしてクック旅行社の方へ曲がって行った。数分待たされた。事務員が用を承っていた相手の男も、やっぱりリビエラへ行くのであった。
彼女の前に立っていた男が急に帳場を離れたので、彼女は一歩前へ出た。そして自分の用件を事務員に伝えたが、心の隅でほかのことを忙しく考えていた。漠然とだが、その男の顔に覚えがあった。どこで会ったのかしら? ようやく彼女は思いだした。今朝、サボイ・ホテルの自分の部屋の前で見かけたのだ。たしかに廊下で鉢合わせをした男であった。一日のうちに二度も顔を合わせるなんて、不思議な偶然である。彼女はなぜか不安のようなものを感じて、肩越しにふり返った。その男も戸口のところで立ち止まって彼女の方を見守っていた。キャザリンは寒気のようなものを覚えて、ぞっとした。何かさし迫った恐ろしい運命……何か悲劇につきまとわれているような気持ちを感じた。
拒絶
デリク・ケッタリングは腹立ちまぎれに我を忘れるようなことはめったになかった。呑気で無頓着なのが彼の主な性格で、そのおかげで幾度か苦境におかれながらも、立ち直ったのであった。あれほど怒ってミレイユのもとを去っても、アパートを出るころにはもうすっかり冷静になっていた。彼は冷静になる必要があった。彼が現在おちいっている苦境はこれまでにない深刻なもので、今のところどう処置していいかわからなかった。
彼は考えこみながら、ぶらぶら歩いていた。みけんに深いしわが刻まれて、いつも彼に見られる気楽な意気揚々としたところは少しもなかった。さまざまな事柄が、彼の心に浮かんでいた。ケッタリングは見かけほどばかではないといえるかも知れない。彼は自分が取るべき道をいくつも考えていた。特にその中の一つについて考えていた。それがたとえ、彼が躊躇するような道だとしても、ほんの一時、それを忍べばいいのである。重病には重いきった治療法が必要だ。彼は義父を正しく評価していた。ケッタリング対オルデンの戦いでは結果はわかっている。ケッタリングは金を呪《のろ》ってみたものの、彼に対する金の力は猛烈である。彼はセント・ジェームズ通りを歩いて、ピカデリー通りを抜けピカデリー広場に向かって行った。そしてクック旅行社の前にさしかかった時、彼の歩調がゆるんで来た。しかしなおも彼はその問題を研究して歩きつづけていた。やがて彼は頭を軽くふって、急にきびすを返した。あまりその動作が急だったので、すぐ後を歩いていた通行人に突き当たったくらいであった。今度は旅行社の前を通りすぎないで、入って行った。
「来週ニースへ行きたいのだが、詳細を聞かせてもらいたい」
「何日でしょうか」
「十四日、一番いいのはどの列車かね」
「さようでございますね、一番いいのは青列車でございましょうね、カレーで税関の煩《わずら》わしさを受けないですみますので」
ケッタリングはうなずいた。彼はそのことはよく承知していた。
「十四日と……少々性急すぎるようでございますね。青列車はたいてい予約ずみになってしまうので」と事務員がいった。
「寝台が残っているかどうか見てくれないか、もしなかったら……」彼は妙な薄笑いを浮かべて、中途で言葉をきってしまった。
事務員は数分間、奥へ行っていたが、やがてもどって来た。
「よろしゅうございます。寝台が三つ残っておりましたから、その一つをお取りしておきましょう、お名前は?」
「パベット」と答え、ジェルミン街に部屋借りしている住所を告げた。
事務員はうなずいて、帳簿に記入してしまうと、ケッタリングに丁寧に挨拶をして、次のお客の応対に移った。
「私はニースへ行きたいのです。十四日に青列車というのがあるでしょう?」
ケッタリングは、きっと後ろをふり返った。
ぐうぜんの一致だ……不思議な偶然! 彼はミレイユに向かって半ば気まぐれにいった言葉を思いだした。――『灰色の瞳の貴婦人の肖像画』、おそらくもう二度と会うことはあるまい……。
だが彼は現に今その彼女に会ったのだ。それだけではなく彼女は彼と同じ日にリビエラへ旅行しようとしている。
その瞬間、彼は寒気を覚えて、ぞっとした。彼は何か迷信的になっていた。彼は、冗談に、その婦人が自分に不幸をもたらすかも知れないといった。もしも……もしもそれが事実としたら……。彼は戸口のところで、ふり返って、事務員と話をしている彼女を見た。彼の記憶に誤りはなかった。貴婦人……たしかにどこから見ても彼女は貴婦人である。若くはないし、目立って美しいというのでもない。しかしながら灰色の瞳は、何でもくまなく見透しそうに思われた。戸口を出て行った彼は、自分がなぜかこの女性をおそれているのを知った。彼は運命というようなものを感じていた。
彼はジェルミン街の自分の部屋へ帰ると、召使いを呼んだ。
「パベット、明日の朝第一にこの小切手を現金にして、ピカデリーのクック旅行社へまわるんだ。そこでお前の名で切符が用意してあるから金をはらって、それを受け取って来てもらおう」
「かしこまりましてございます」
パベットはさがった。
ケッタリングはぶらぶら小テーブルの方へ行って、そこに載っていた数通の手紙を取り上げた。それはおきまりの請求書ばかりで、いずれも支払期日が迫っていた。
彼は不機嫌な様子で革張りの安楽椅子にどかりと腰をおろした。いまいましい窮地に落ちこんだものである! 全く厄介な穴だ! そしてその厄介な穴から抜けだす方法は望み薄であった。
パベットが慎み深い咳《せき》ばらいとともに現われた。
「一人の紳士が旦那さまにご面会でございます。ナイトン少佐とおっしゃいます」
「ナイトンだって? どういう風の吹きまわしだろう?」
ケッタリングは眉をひそめて坐《すわ》り直した。
だが、オルデンの秘書ナイトンが部屋へ入って来ると、彼は非常に愛想よく、快活に彼を迎えた。
「ようこそお訪ね下さった!」
しかし、ナイトンは落ち着かない様子をしていた。
ケッタリングの鋭い目はすぐそれに気がついた。秘書のもたらした用件は明らかに、面白くないものだとうなずけた。彼はケッタリングの気やすい会話に対して機械的に答えていた。彼は飲みものをすすめられても断り、前より更にかたくなった。ケッタリングはようやくそれに気がついた様子を見せた。
「ときに、わが尊敬する義父君は、僕にどういう用件がおありなんですかね、君は何か要談があって来たんでしょう」
とケッタリングは快活にいった。
ナイトンは微笑も返さずに答えた。
「さようです。私はオルデン氏が誰か他の者を使者にして下さればよかったと思います」
ケッタリングは、さも困ったというふうに肩をあげて見せて、
「そんなに悪い使いなのですか。だが、僕はあまり面《つら》の皮の薄い方ではないから安心したまえ、ナイトン君」
「しかし、これは……」といいよどんだ。
ケッタリングは鋭い視線を相手に注いだ。
「かまわない、僕には義父の使いというやつは、いつだって愉快でないことは想像がついている」と同情するようにいった。
ナイトンは咳ばらいをした。彼はできるだけ楽な調子で話そうと努力した。
「私はオルデン氏のお指図によりまして、ある申し込みをもって伺ったのです」
「申し込み?」
ケッタリングはちょっと驚いた。ナイトンの切りだした言葉は全く予期していないものであった。彼はナイトンに煙草をすすめ、自分も一本とって、椅子の背にもたれ、いくらか皮肉な声でいった。
「申し込みとは、いささか興味を覚えますね」
「ではあとを続けましてよろしいですか」
「どうぞ! 僕の驚きを容赦ねがいたい。親愛なる義父殿は、今朝話しあった時よりもいちだん譲歩して来られたようですな。譲歩などということは経済界のナポレオンのような強い人物には縁のないことですからね、これは義父が考えておられたよりもご自身の立場が弱いのに気づかれたことを意味するものと見ますね」
ナイトンは相手の気楽な皮肉っぽい声を礼儀正しく聞いているだけで、顔にはなんらの感情も浮かべなかった。
「では、その申し出をできるかぎり短い言葉で申し上げましょう」
「話したまえ」
ナイトンは相手を見ずに、そっ気ない事務的な声でいった。
「ごく簡単なことなのです。ご存じのように、ケッタリング夫人は離婚を申請しようとしておられます。もしあなたがそれに異議の申し立てをなさらなければ、離婚が成立した日に、あなたは百万ポンドをお受けになります」
煙草に火をつけようとしていたケッタリングは、急にその手を止めてしまった。
「百万ポンド?」
すくなくも二分間の沈黙がつづいた。ケッタリングは眉をひそめて考えこんでいた。百万ポンド。それだけあればミレイユと、愉快で呑気な生活をつづけることができる。それはオルデンがそのことを知っていることを意味している。ケッタリングは立ち上がって、ストーブの前へ行った。
「このすばらしい申し出を僕が拒絶した場合はいかがなされます?」
彼は冷ややかに皮肉な丁重さでたずねた。
「ケッタリングさま、実は私がここへ持って伺いました一番不本意なご伝言は、今のお言葉に対するものなのです」
「かまわない、君のせいじゃないのだから、気にすることはないですよ。さア、私の質問に答えて下さい」
ナイトンも立ち上がった。彼は今までよりも、更に気の進まない様子でいった。
「あなたがこの申し出を拒絶なすった場合には、オルデン氏は、あなたを粉砕してしまうと主張されました」
ケッタリングは眉をあげたが、気楽な愉快そうな態度を持ち続けていた。
「それは、あの人にはできることだ。アメリカの大富豪にはとうてい、僕なんか立ち向かえないさ。百万ポンドとね! だが男一匹を買収する場合には徹底的にやるにかぎるね。もし僕が二百万ポンドなら彼の望むとおりにするといったらどんなものだろう」
「お言葉をオルデン氏へお伝えいたしましょう。お返事はそれだけでございますか」
「ところが妙なことにはそれだけではない。君は、僕の義父のところへ帰って行って、僕が彼も彼の賄賂《わいろ》も地獄へ行けといったと伝えたまえ、勝手にしろということさ」
とケッタリングはいった。
「よくわかりました」
といってナイトンは、ちょっとためらい、顔を赤らめながら、
「ケッタリングさま、おそれながらあなたがそういうご返事をされたことを喜ばしく存じます」
とつけ加えた。
ケッタリングは答えなかった。相手が帰ってしまった後、彼は一、二分深く考えこんでいた。彼の唇には奇妙な微笑が浮かんで来た。
「それでいいのさ」
と静かにつぶやいた。
2 ポワロ登場
青列車の上で
「あら、お父さま!」
ケッタリング夫人のルスはひどく驚いた様子であった。今朝は日ごろの冷静さを完全に失っていた。贅沢《ぜいたく》な毛皮のオーバーに小型の赤い漆《うるし》の帽子という、しゃれた服装をした夫人は、物思いに沈みながらビクトリアの駅の雑踏したプラットフォームを歩いていた。そこへとつぜん父が出現したのですっかりびっくりした。
「どうしたんだい、ルスや、飛び上がったりして!」
「お父さまが来て下さるなんて、思いがけなかったからですわ。お父さまはゆうべさよならをおっしゃいましたし、今朝は会議がおありだといっていらしたでしょう」
「それはそうだよ。だが会議なんかいくつあろうと、私にはそんなものよりお前の方がはるかに大切だからね。しばらく会えないんだから、立つ前にもう一目会っておきたいと思って来たんだよ」
「なんてお優しいんでしょう。私ね、お父さまもごいっしょだったらどんなにいいだろうと思いますわ」
「もし私も行くといったらどうだね?」
それは単なる冗談であったのに、ルスの頬が、さっと赤くなり、目に狼狽《ろうばい》の色がちらと現われた。彼女はあいまいに、そして神経的に作り笑いをした。
「私、ちょっとの間、お父さまが本気でおっしゃったのかと思いましたわ」
「それでお前は嬉しく思ったのかい?」
「もちろんですとも!」
ルスは大げさに力を入れて答えた。
「それはいい」
「お父さま、そんなに長いことではございませんわ、来月はおいでになるんですもの」
「おえらい博士のところへ行って、ただちに転地の必要ありとでもいってもらおうかね」
「お仕事をお怠けになってはいけませんわ、あちらは来月の方が、ずっとよろしゅうございますわ。お父さまは今のところ大事なご用がたくさんおありなんですもの」
「それはそうだがね、さア、ルスやもう乗りこんだ方がいいね、お前の席はどこだい」
ルスはぼんやりと列車を見渡した。一等寝台車の戸口の一つに、ケッタリング夫人の小間使いが、やせた丈の高い体を黒衣に包んで立っていた。彼女は女主人が乗りこんでくると、わきへ退いた。
「奥さま、お化粧箱はお座席の下へ入れておきましてございます。ご入用があるかも知れないと存じまして。毛布は私の方へお持ちいたしておきましょうか、それとも一枚はお使い遊ばしましょうか」
「いいえ、一枚もいりません。メイゾンや、お前は早く自分の席をお探しなさい」
「かしこまりました」
小間使いは立ち去った。
オルデンは娘について寝台車へ入って行った。ルスが席につくと彼は幾種類もの新聞や雑誌を娘の前のテーブルの上においた。その向こう側の席はすでにふさがっていた。オルデンは、その席にいる婦人客をちらと見た。その瞬間に、魅力のある灰色の目と気のきいた旅行服とが印象に残った。
やがて汽笛が鳴りだしたので、オルデンは時計をちらと見て、
「さア、下車しなければならぬな。ではさようなら、心配おしでないよ、お父さんがいいようにしておいてあげるからね」
「ハイ、お父さま!」
ルスの声には、何かいつもと違う響きがあった。それはまるで絶望の叫びのように聞こえた。
オルデンは、ぎくりとして後ろをふり向いた。ルスは衝動的に、父の方へかけ寄りそうにしたが、すぐに日ごろの落ち着きを取り戻し、
「では、来月ね!」と快活にいった。
二分後に列車は発車した。
ルスは身動きもしないでじっと坐り、下唇をかんで、いつになくほうり出る涙をせき止めようと骨を折っていた。彼女はなんとはなしに急におそろしい寂寥《せきりょう》感におそわれ、取り返しのつかないことにならないうちに、列車から飛びおりて家へ帰ってしまいたいと思った。あれほど冷静で自信たっぷりであったルスは、生まれてはじめて、風に吹き飛ばされている木の葉のような気持ちになっていた。
狂気の沙汰! たしかにそれは狂気の沙汰である! ケッタリング夫人ルスは、生まれてはじめて感情に打ち負かされ、自分でも信じがたいほど愚かで向こう見ずだと知っていながら、それをあえて行なおうとしているのであった。彼女はオルデンの娘だけあって自分の愚考には気がついていたし、また自分の行為を責めるだけの分別を持っていた。だが彼女はまた別の意味でのオルデンの娘でもあった。彼女は父親ゆずりの鉄のような決意を持っていて、いったんこうときめた以上はけっして挫《くじ》けない。今やその意志が無慈悲に彼女を追いつめているのである。とにかく、さいころは投げられてしまったのだ、行くところまで行かなければならない。
彼女が目をあげると、向こう側の席にいる婦人の視線にぶつかった。その灰色の目の中に、ルスは理解と、同情を認めた。
それはほんの瞬間の印象にすぎなかった。両方の婦人の顔が、教養ある人の感情を殺した表情になった。ルスは、雑誌を取り上げて読みはじめたが、相手の婦人は窓の外に目をやって、はてしなく続いているように思われる陰気な町々や、郊外の家などの景色を眺めていた。
ルスは目の前の印刷したページに心を向けるのがますますむずかしくなってくるのを感じた。彼女はわれにもなくかぎりない不安に心を苦しめられるのであった。なんという愚かなことであろう! ほんとになんという愚かなことであろう! 冷静でうぬぼれの強い人間がみんなそうであるように、ルスは一度ふみはずすと自制心を完全に失ってしまった。もう取り返しがつかない……そうかしら? 誰か話す相手があったら! 誰か助言してくれる人があったら! ルスはこれまで一度もそういうことを望んだためしがなかった。他人の判断に頼るなどということを軽蔑していたのだが、今はそれを求めている。いったい、どうしたというのであろう?狼狽? そうだ、今のルスの心境にはそれが一番適切な形容詞かも知れない。
ルスは向こう側の女性をちらっと盗み見た。こういう、落ち着いた、静かで同情のある感じのいい人を誰か知ってさえいたら! こういう人には何でも打ち明けられるような気がする。だが、赤の他人に打ち明けるわけにはいかない。ルスは自分の考えに対してひそかに苦笑した。そして再び雑誌を取り上げた。実際、気を落ち着けなければならない。今度のこの計画は結局、これは自分が立てたことである。自分の自由意志で決定したことである。「私が幸福になっていけないという法があるかしら? 誰にも知れっこないのに」と彼女は落ち着かない気持ちで自分にいい聞かせた。
ドーバー港に着くのはもう間もないようであった。ルスは船には強かったが、寒い風がきらいだったので、電報で予約しておいた船室におさまってほっとした。ルスは、自分ではそうした事実を認めないかも知れないが、ある点では迷信を持っていた。彼女は偶然の符合に関心を持つ種類の女性であった。
フランスのカレー港で船をおりて、青列車の二間つづきの私室に小間使いとともに落ち着くと、ルスは食堂車へ出かけて行った。彼女がテーブルにつくと一等寝台車に乗合わせていたあの灰色の目の女性が、自分の前に腰かけているのに気がついて、ちょっとびっくりした。婦人同士の顔にかすかな微笑が浮かんだ。
「偶然の符合ですこと」ルスがいった。
「そうです、世の中のことって、妙なものです」と相手の婦人がいった。この婦人はキャザリンであった。
あわただしく動きまわる給仕が、国際列車の食堂で、いつも示す驚くべき敏速さで二人の前にスープをおいて行った。スープについでオムレツが運ばれたころには、二人は親しみ深い様子で話をしていた。
「日の当たる場所へ行くのは天国に行く思いですわ」といって、ルスはため息をした。
「きっとすばらしい気持ちだと思います」
「あなたはリビエラをよくご存じでしょう」
「いいえ、はじめてまいりますの」
「まア、そうですの!」
「あなたは毎年おいでになるのでしょう」
「ロンドンの一月二月は、とてもたまりませんもの」
「私はずっと田舎に暮らしておりましたが、やっぱり、冬は香ばしくありません、ぬかるみだらけで」
「どういうわけで急に旅行するお気持ちにおなりになりましたの?」
「お金のせいです。私は十年間、田舎で丈夫な靴を買うだけくらいの給金をもらって、ある老婦人の話相手として雇われていましたの。ところが今は、遺産をうけましたの。私にとっては一財産もの! あなたはきっと大したお金とはお思いになりませんでしょうけど」
「どうして私がそんなふうに思うとおっしゃるの?」とルスは笑った。
「どうしてって、私にはわかりません。考えないで、自然に浮かんだ印象かも知れませんわ。私は心の中であなたを世界中の大富豪の一人ときめていましたのよ。単なる印象ですけれど、間違っているかも知れませんわ」
「いいえ、間違ってはいませんわ」といって、ルスは急にまじめになり、
「そのほかに、私からどんな印象をお受けになったか、お聞かせいただきたいのですが……」
「あら、私……」
ルスは相手の当惑を無視して追求した。
「私ね、ビクトリア駅を立ったとき、あなたを見て、きっと私の心の中にあることをよく理解して下さる方だというふうに感じましたのよ」
「私、読心術家ではございませんわ、ほんとうに」
「それはそうでいらっしゃいましょう。でもどうぞ、どんな風にお思いになったか、それを伺いたいのでございます」
ルスの熱心さがあまり真剣だったので、キャザリンはついに動かされた。
「よろしかったら私申します。でも失礼だとお思いにならないで下さい。私はあなたが何か大きな悩みを持っていらっしゃるお方だと考えて、お気の毒に思っておりました」
「当っていますわ、あなたのおっしゃる通りでございます。私はひどく困っていることがございますの、できればそれについてお話したいと存じますけれど……」
キャザリンは心の中で――あらまア、世の中って、どこへ行っても同じことだなんて、不思議だわ! セント・メリー村にいた時、皆が私にいろいろな打ち明け話をしたと思ったら、ここでもまた同じことになったわ。私は他人の悩みなんか聞きたくもないのに!……と思ったが、
「どうぞ、お話しになって下さい」
とていねいに答えた。
二人は昼食を終わったところであった。ルスは自分のコーヒーをいそいで飲んでしまうと、相手がまだコーヒーに手をつけないでいることを、うっかり忘れて、
「私の室へいらして下さいません?」といった。
そこは、二間つづきになっていて、間が戸《ドア》で仕切られていた。次の間には、キャザリンがビクトリア駅で見かけた、やせた小間使いがR・V・Kという頭文字のついた赤いモロッコ皮の大きな箱を両手でしっかりと持って、まっすぐに腰かけていた。ケッタリング夫人は間の戸を閉めて席に腰かけた。キャザリンはそのわきに腰をおろした。
「私は今悩んでいるのでございます。自分でもどうしていいのかわかりませんの。私に好きな男の人がございます。私ほんとうに好きな人でございますの。今私どもはもう一度めぐり合ったのでございます」
「それで?」
「私……あの、今その人に会いに行くところなんですの。ああ、きっとあなたは間違ったことだと思っていらっしゃるんでございましょう、でもあなたは事情をご存じないからですわ。私の夫はとても我慢のならない人なのです。私の名誉をきずつけるような目にあわせておりますの」
「それで?」キャザリンはいった。
「このことで私が悩んでおりますのは、父を欺いていることなのでございます。ビクトリア駅へ見送りに参っておりましたのが父ですの。父は私がその男に会いに行くことは何も知らずにおりますのよ、父がこのことを知ったら、きっととんでもない愚かなことだと考えますわ」
「で、あなたはそうお考えになりませんか」
「私も……私もそう思います」
ルスは下を向いて自分の手を見つめた。その手は激しく震えていた。
「でも今さら引き返すわけに参りませんもの」
「なぜですか?」
「もうすっかり手はずがきまっておりますもの。そんなことをいたしましたら、あの人は失望のあまり心臓が破れてしまいますわ」
「そんなことを信じるのおよしなさいまし、心臓は案外に強いものですわ」
「あの人は、私のことを自分の意志を通す勇気も力もないと思いますわ」
「あなたがしようとしていらっしゃることは、私にはひどくばかげたことに思われます。あなたもそれに気がついていらっしゃると思いますけれど」キャザリンはいった。
ルスは両手に顔をうずめた。
「私、どうしていいかわかりませんわ、ビクトリアを立って以来、私はなんだか恐ろしい気がしていますの。何か自分の身にふりかかって来るような……どうしてもそれから逃れることができないような気持ちですの」彼女は発作的にキャザリンの手にしがみついた。
「こんなことを申し上げたら、あなたは私のことを気がふれているとお思いになるかも知れませんが、私はたしかに何か恐ろしいことが起こる予感がしますの」
「そんなこと考えるのおよしなさい、元気をおだしなさいまし。パリからお父さまに電信をお打ちになればよろしいわ。そうすればお父さまはすぐ来て下さるでしょう」
とキャザリンがいうと、ルスは顔を輝かした。
「ええ、そういたしましょうね……いいお父さま! 妙なことですけれども、私、今日《こんにち》まで自分がどんなに父を愛しているか自分でも気がつきませんでしたのよ」
ルスは坐り直して、ハンケチで目をぬぐった。
「私ほんとうにばかでしたわ、お話させて下すってほんとうにありがとうございました。私どうしてこんな妙なヒステリーみたいなことになったのか自分でもわかりません」
彼女は立ち上がった。
「すっかり気持ちがさっぱりしましたわ、私はどなたかお話相手が必要だったのですのね。今になって私どうしてこんな愚かなことをしてしまったのか考えられませんわ」
キャザリンも立ち上がった。
「気持ちがお直りになってよろしゅうございましたわ」彼女はできるだけ月なみな調子に聞こえるようにいった。そして打ち明け話をした後の気まり悪さをよく心得ていたので、
「私、自分の室へもどりますわ」
と気転をきかせていった。
キャザリンが、廊下へ出ると同時に、小間使いが次の戸口から出て来た。彼女はキャザリンの肩越しに向こうの方を見てひどく驚いた顔をした。キャザリンも後ろをふり返ったが、小間使いの注意をひいた相手は、男か女かわからないがもう自分の室へ入ってしまったと見えて、廊下には人影がなかった。キャザリンは、次の車にある自分の室へ戻って行った。が、最後の室の前を通った時に戸があいて女がちょっと顔をだしたが、すぐに戸を閉めてしまった。それはたやすくは忘れられない顔であることを、キャザリンは、その後ふたたび見たときに知ったのであった。細面で、目も眉も黒く、東洋風に厚化粧をした顔であった。
キャザリンは、それ以外は特筆するようなこともなく自分の室にたどりついて、しばらく、今打ち明けられたことを思い浮かべていた。あの豪華な毛皮のオーバーを着た女性は、いったい何者だろう? そして彼女の物語の結末はどういうことになるだろう? とぼんやり考えていた。
「とにかく、自分を愚か者にしようとしている人を、止めたとすれば、私はいいことをしたわけだわ。だけれど、それはどうだかわからない、あの人はこれまで強情で利己主義で過ごしてきた人らしいから、一生に一度ぐらいは変わったことをする方が身のためかも知れないけれど。そうだわ、きっと私はもう二度とあの人に会うことはないでしょうよ、あの人はたしかにもう私に会おうとはしないわ。打ち明け話を聞くのはいいけれど、一番いやなのは、その相手が後で私をさけるようになることだわ、今までも皆そうなんですもの」
キャザリンは夕食のときには同じテーブルにならないように念じた。後ろへよりかかってクッションに頭をおしつけた彼女は、疲れを覚え、なんとなく気がめいっていた。
やがて列車はパリに着いた。循環線をまわって、数かぎりなく停車したり待避したりしながら旅行するのは、実に退屈なものである。パリのリヨン口《ぐち》停車場に到着した時には、キャザリンはほっとして外へ出て、プラットフォームを散歩した。スチームで暖められた列車にこもっていた後で、身にしみるような冷たい風に当たるのは気持ちがよかった。彼女は毛皮のオーバーの婦人も、自分と同じように、夕食のテーブルで顔を合わせる気まずさをさける手段を講じているのを知って微笑した。例の黒衣の小間使いが窓から弁当を受け取っているのであった。
列車が再び発車し、夕食を知らせる鈴《ベル》がかまびすしく鳴った時、キャザリンは安心して食堂車へ出かけて行った。同じ食卓に坐り合わせたのは昼とは全く異なった種類の乗客であった。一見して外国人とわかる小柄な男で、口ひげを固めてぴんとさせて、卵なりの頭を一方にかたむけていた。キャザリンは食事中に読むつもりで本を持って行った。その男はそれに目をつけ、楽しそうに顔を輝かした。
「マダムは探偵小説をお持ちでいらっしゃいますが、そういうものをお好きでいらっしゃいますか」
「おもしろいので……」とキャザリンはいった。
小男はよくわかるというように、うなずいた。
「そういう種類の本は、いつもよく売れると聞いておりますが、さて、お嬢さま、それはどういうわけでございましょう? 私は人間性の研究家としてお伺いするのでございます。なぜでございましょうか?」
「たぶん読者に、興奮的な生活をしている錯覚を起こさせるからだと思います」
とキャザリンが答えると、彼はおごそかにうなずいた。
「さよう、それもございましょうな」
「もちろん、私どもはこんな事件がほんとうに起こるものでない、と存じますが……」
とキャザリンがいい出すと、彼は激しくそれを制して、
「時には! お嬢さま、時には起こります! かく申す私にはたびたび起こりました」
彼女は興味をもった視線を彼に向けた。
「いつかはお嬢さまだって、そういう事件のまっ只中にお入りにならないともかぎりませんですよ。それはみんな時のはずみと申すものでございます」
「私はそんなふうには思いません。私には今までそのようなことは一度も起こりませんでした」
彼は前へのりだすようにして、
「入ってみたいとお思いになりませんか」
その質問に彼女は……ぎょっとして激しく息を飲みこんだ。
「おそらくこれは私の空想かも知れませんですが、お嬢さまは興味ある事件にあこがれをお持ちのようにお見うけします。よろしいですかお嬢さま、私はこれまでの生涯の間に、ある一つの観察を下したのでございます。それは――誰でも欲しているものを手に入れる……と申すことでございます。お嬢さまが期待なすっていらっしゃる以上のものを手にお入れにならないと誰がいえましょう」
「それは予言ですか」
キャザリンは微笑しながら立ち上がった。
小男は頭をふった。
「私はけっして予言などいたしません。しかし私の申すことはいつも的中するという習性をもっております。しかし別にそれを自慢するわけではございません。お休みなさい、お嬢さま!よくお眠りになりますように!」
キャザリンは小柄な友人に楽しまされ、いい気持ちになって、列車の廊下を自分の室の方へ歩いて行った。彼女に打ち明け話をした友人の室の前を通ると戸があけ放ってあって、車掌が寝床をつくっているところであった。毛皮のオーバーの婦人は立って窓の外を眺めていた。そのつづきの室の戸もあいていたが、そこは空で座席の上に膝《ひざ》かけの毛布や鞄などが積み上げてあった。
小間使いの姿は見えなかった。
キャザリンの寝床はもうできていた。彼女は疲れていたので九時半ごろ床に入って電燈を消した。
どれくらい時間がたったか、彼女はびくっとして不意に目をさました。時計を見ると止まっていた。ひどく不安な気持ちに襲われ、それが刻々とつのって行くのであった。ついに彼女は起き上がって、部屋着をひっかけて廊下へ出た。列車全体が眠りにおちいっているように思われた。キャザリンは窓の戸をおろして、冷たい夜気を吸って不安な恐怖をしずめようとつとめたが甲斐がなかった。やがて彼女は廊下のはずれまで行き、車掌に時間をたずねて自分の時計を合わせようと思った。けれども小さな椅子は空であった。彼女はちょっとためらった後、次の車へ入っていった。すると驚いたことには廊下のずっと先の方に男が立っていて、毛皮のオーバーの婦人の室の戸に手をかけているのを見かけた。彼女はあの婦人の室だと思ったが、あるいは思い違いだったかも知れなかった。彼女の方に背を向けていた男は、どうしようかとためらっている様子でしばらく立っていたが、顔の向きをかえた時、キャザリンはそれが前後二度……一度はサボイ・ホテルの廊下で、一度は旅行社の事務所で……見かけた男であることに気づいた。彼はその室の戸をあけて中へ入って行くとそのまま戸を閉めた。
キャザリンの心に一つの考えがひらめいた。これがあの婦人の話していた男……彼女が会いに行こうとしていた男かも知れない。
キャザリンは自分の室へ帰って行った。それから五分後に列車は速度をゆるめはじめた。機関車の悲しげなしゅうしゅういう音がして間もなく列車はリヨン駅に停車した。
殺人
翌朝キャザリンは輝く日光の中で目をさました。彼女は早い朝食をとりにいったが、食堂車には前日知りあった人たちは一人も出ていなかった。彼女が自室へ戻った時には、口ひげのたれさがった浮かない顔つきの色の黒い車掌の手で寝台がすっかり片づけられて、昼間の部屋の外観をととのえていた。
「奥さまは幸運でいらっしゃいます、こんなに太陽が輝いていて。到着した朝お天気が悪いと旅行者は誰でもがっかりするものでございます」と車掌はいった。
「全く、私だってがっかりするでしょうよ」とキャザリンはいった。
キャザリンは窓ぎわに坐って日光に照らされて展開する風景に見とれていた。しゅろの木、海のこい青、明るい黄色のミモザなどが、十四年間英国のわびしい冬ばかり見てきたこの婦人にすばらしい魅力を与えた。
列車がカンヌに着いたとき、彼女はプラットフォームにおりて散歩した。彼女は毛皮のオーバーの婦人に対する好奇心でその窓を見あげた。列車中でそこだけは、まだよろい戸がおりたままになっていた。キャザリンは少し不思議に思って、列車にもどった時、その室の前の廊下を通ってみたが、二つの室はどっちもまだ戸をしめ切ってあった。彼女は明らかに早起きをする人ではないらしかった。
やがて車掌がやって来てあと数分でニースに着くと知らせた。キャザリンがチップを与えると、彼は礼をいったが、なぜかすぐには立ち去らなかった。彼の様子には何か変なところがあった。キャザリンは最初、心づけが不足だったのかと思ったが、すぐに何かもっと重大な原因があるらしいことに気がついた。彼は気味の悪いほど青ざめて、全身を震わせ、妙なふうにキャザリンを見守っていたが、やがて、
「失礼でございますが、奥さま、ニースにはどなたかお迎えの方でもお見えになりますんですか」とたずねた。
「たぶんね、なぜなの?」
しかし男は頭をふっただけで、何やらキャザリンに聞き取れないことをつぶやきながら去ってしまった。車掌はそれっきり姿を見せなかったが、列車が駅に着くとやって来て、窓から彼女の手荷物をおろしてくれた。
キャザリンは途方にくれて、一、二分プラットフォームに立っていたが、無邪気な顔をした金髪の若い男がそばへ来て、いくらかためらいながら、
「キャザリン・グレイ嬢ではいらっしゃいませんか」とたずねた。キャザリンがそうだというと、青年は、
「僕、チャールズです。ご存じでしょう、タムリン伯爵夫人の夫です。あなたへさしあげた手紙に僕のことが書いてあったはずですが、あるいは忘れたかも知れません。荷物の引換券をお持ちですか。今年、僕こっちへ来る時に、それを紛失してしまったので、うるさいことになって弱りましたよ。ありきたりのフランス語の赤札です!」といった。
キャザリンがそれを渡して、彼とならんで歩きかけた時、おだやかだが陰気な声が耳元でささやいた。
「奥さま、恐れ入りますがちょっと!」
キャザリンがふり返ると、ものすごく金ぴかの制服であまりぱっとしないからだを補った男が立っていた。その男は、「ある形式上の手続きがございますので、ご同伴ねがいたいのでございますが、いかがでございましょう。警察の条例に、もとづきまして……申すまでもなく、まことにばかげたことでございますが……」といった。
タムリン伯爵夫人の若き夫チャールズのフランスの語の知識はごくかぎられていたので、ひどく不完全な理解力でそれを聞いていた。
「フランス人というのは、いつだって何とか、かとか愚にもつかない、いいがかりをつけるものですよ。だが停車場でいきなり人の邪魔をするなんていうのは今までなかったことです。とにかくあなたはいらっしゃらなければならないでしょう」といった。
キャザリンはチャールズと別れた。彼女が驚いたことにはなぜかその男は彼女を発車してしまった列車の一台を移してある待避線の方へ導いて行った。彼はキャザリンにその車へ乗るようにすすめ、廊下を進んで行って、そのはずれの室の戸をあけた。その中にはもったいぶった様子の役人と、その秘書らしい特徴のない人物がいた。もったいぶった男が立ち上がって丁寧にキャザリンにおじぎをして、
「ある形式を踏まねばなりませんので、お許しをいただきとうございます。失礼ですが、奥さまはフランス語をお話しになれましょうか」といった。
「相当、話せるつもりです」とキャザリンはフランス語で答えた。
「それは結構でございます、ところでおかけ下さい。私は警察署長のコオという者でございます」といって、彼はえらそうに胸を張った。
「私の旅券を見たいのですか? ここにあります」とキャザリンがいった。
警察署長は鋭い目を彼女に向けて何やら口の中でぶつぶついっていたが、
「ありがとうございます、奥さま」彼は彼女から旅券を受け取りながら、咳ばらいをして、
「実は、ちょっと情報をお聞きしたいのでございます」といった。
「情報?」
署長はゆっくりとうなずいた。
「あなたとごいっしょに旅行された婦人についてでございます。きのう昼食をともにされました……」
「私、あの方については何もお話しすることがございません。私どもは食事中に話しをするようなことになりましたが、あの婦人は全くの他人で、前には一度も会ったことがありません」
「しかし、あなたは食後あの婦人の部屋においでになってしばらくお話しなすっておいでになったそうですね」
「ええ、その通りでございます」
署長は彼女がもっと何かいうのを予期しているらしく、先をうながすように彼女を見つめた。
「それで?」
「それで?」
「その時のお話の内容をお聞かせ下さることがおできになりませんでしょうか」
「それはできます。けれども私は今それをお聞かせしなければならない理由を認めません」
彼女は当惑した。英国流の考え方によれば、この外国の役人はたいへんに無礼なように思われたからである。
「理由がない? いや奥さま、たしかに理由がございます」
と署長は叫んだ。
「ではその理由を聞かせていただきましょう」
署長は何もいわないで、一、二分考えこんでいるように顎《あご》をなでていたが、ついに口を開いた。
「奥さま、理由はまことに簡単でございます。実は問題の婦人があの室で死んでいるのを、今朝発見されたのでございます」
「死んだ?……どうしたのですか、心臓|麻痺《まひ》ですか?」
キャザリンは喘《あえ》ぐようにいった。
「いいえ……殺されたのです」
「あの方が殺されたんですって?」
「これで、私どもがなぜ情報を集めたがっているかおわかり下すったと存じます」
「でも私なんかより小間使いの方が……」
「小間使いは失踪しておりません」
「まア!」キャザリンは、考えをまとめるために口を閉じた。
「あなたが、あの婦人の室で話しておられるのを車掌がお見かけしたものですから、その事実を警察に報告いたしました。それで私どもは何か手がかりを得ることができるかもしれないという希望をいだいて、奥さまをお引き止めいたしたしだいでございます」
「たいへんに残念ですけれども、私はあの方の名も知らないのです」
「名はケッタリングでございます、それは旅券や荷札によって判明いたしました。もし私どもが……」
その時、誰か戸をたたいた。署長は眉をひそめて、戸を六インチほどあけ、
「何事だね? 妨げられては困る」
戸のすき間から、キャザリンが夕食のテーブルでいっしょになった、卵なりの頭の持ち主が姿を見せた。彼は満面に微笑をみなぎらせていた。
「私は、エルキュル・ポワロでございます」
「まさか|あの《ヽヽ》エルキュル・ポワロではありますまいな」署長はどもりながらいった。
「|その《ヽヽ》ポワロでございます。パリ警察の捜査課でお目にかかったことがございます、あなたの方ではお忘れになったでしょうが」
「どういたしまして、忘れるどころではありません、さアどうぞお入り下さい。ご存じでいらっしゃいましょう、この事件を……」
「はい、存じております。それで何かのお役に立てばと思って参ったのでございますが……」
「光栄でございます、ポワロさん、ご紹介申し上げます。こちらの奥さまは……ええと、グレイ夫人ではない、グレイ嬢で……」署長はまだ手にしていた彼女の旅券に目をやっていた。
ポワロはキャザリンに微笑を送って、
「不思議ではございませんか、私の言葉がこんなに早く実現いたしますとは……」といった。
「残念ながらお嬢さまは私どもに何もお聞かせ下さるわけにはいかないのでございます」と署長はいった。
「私はお気の毒な婦人が私には赤の他人で名も知らなかったほどだと説明したところです」とキャザリンはいった。
「しかし、その婦人はあなたとお話なさいましたでしょう? そしてあなたは印象をおまとめになったのではございませんでしたか?」とポワロはやさしい調子でいった。
「ええ、そうです、で、その印象は……」
「お嬢さま、どうぞその印象を承らせて下さい」と署長は前へのりだしていった。
キャザリンはじっと坐って、すべてのことを心に浮かべた。彼女は信頼を裏切るような気がしたが、殺人という醜悪な言葉が耳の中で鳴り響いているので、何一つかくしておこうとはしなかった。それに、この事件にはどんな大切なことがかかっているかも知れないと思ったので、死んだ婦人との会話を一語一語、できるだけ正確にくり返して語った。
「これは興味がございますな、ポワロさん、いかがでしょう、この供述はこの犯罪に何か関係がございますでしょうか?」署長はポワロの方を見ていった。
「自殺ということはないでしょうか」キャザリンは疑うようにつぶやいた。
「いや、自殺のはずはございません、一すじの黒ひもで絞め殺されていたのですから」
「まア!」キャザリンは身震いをした。
署長は陳謝するように両手をひろげて、
「いやなことでございます。こちらの列車強盗はお国のよりも惨酷なようでございます」
「恐ろしいことです」
「はい、さようでございます、だが、お嬢さまは非常に勇気がおありになります。私はあなたにお会いするとすぐに、このお嬢さまはたいそう勇気のおありになるお方だと思いました。そういうわけで私はお嬢さまにあることを……たいへんに不本意なことですが、またたいへんに必要なことをお願いする気になったのでございます」といいわけがましく切りだした。
キャザリンは気づかわしげに彼を見た。
「お嬢さま、恐れ入りますが、隣室までおいでいただきたいのですが……」
「行かなければならないのですか」キャザリンは低い声でいった。
「誰かの確認が必要なのでございます、小間使いが失踪しました以上は……つまり……お嬢さまは、ケッタリング夫人が乗車してから最後にお会いになったただ一人の方のようでございますので……」署長は意味深長に咳をした。
「よろしゅうございます。必要なら」とキャザリンは静かにいった。
彼女は立ち上がった。ポワロは賛成するように彼女にうなずいて見せた。
「お嬢さまは物分かりがよくていらっしゃる。コオさん、私もお供いたしましょうか?」
「願ってもないことです。ポワロさん、どうぞ……」
一同は廊下へ出た。署長は死んだ婦人の室の戸の錠をはずした。一番はじの窓のよろい戸を半分だけあけて光線を入れてあった。死んだ婦人は右手の寝台の上に、まるで眠っているかのような自然な姿勢で横たわっていた。寝台かけが上にひろげてあって、顔を壁のほうに向けているので、金茶色のカールした髪が見えるだけであった。署長は静かにその肩に手をかけて、顔が見えるようにそっとこっちへ向けた。キャザリンはちょっと怯《ひる》んで手をぐっと握りしめた。死人の顔は強打されて見わけがつかないほど醜くされていた。
ポワロは鋭い叫び声をあげた。
「いつやったのでしょう! 死ぬまえでしょうか? それとも死後でしょうか?」
「医師は死後だと申します」と署長が答えた。
「それはおかしい!」ポワロは眉をひそめた。そしてキャザリンに向かって、
「お嬢さま、勇気をおだしになって、よくごらん下さい。きのう汽車の中であなたがお話しになったのは、たしかにこの婦人でございましたか」
キャザリンは気丈な性格を持っていた。彼女は感情をおし殺して、横臥している姿を長い間、熱心に見つめていた。それから前へ身をかがめて死人の手を取り上げた。
「たしかです、顔はあまり変わりはてていて見わけがつきませんが、からだつきや姿勢や髪はそっくりです。それに私は話をしている時これに気がつきました」といって、彼女は死人の手首にある小さなほくろを指した。
「結構です、お嬢さまは優秀な証人でいらっしゃる。それで確認の方はなんの問題もないということになりましたが、それにしてもおかしなことだ……」ポワロは、ふにおちない様子で、死んだ女を見つめて眉をひそめていた。
コオ署長は肩をすくめた。
「うたがいもなく、殺人者は怒りにまかせてやったものと思われます」といった。
「たたき殺されたというのでしたら訳がわかりますが、背後から忍び寄って、婦人が気がつかないうちに絞殺したのですからね。ちょっと息がつまって、ちょっと咽喉がごろごろ鳴って、それでおしまいだったのです。その上、顔をたたき潰すとは、いったいどういう訳でしょうか。犯人は顔をわからなくしておけば、身元がわからないと思ったのでしょうか、それとも、死んだ後までも、まだ憎くてなぐりつけずにはおけなかったのでしょうか?」
ポワロの説明を聞いてキャザリンは身震いをした。ポワロはすぐに優しく彼女の方を向いて、
「お嬢さまを、お悩ませして申し訳ございませんでした。こういうことはお嬢さまにとりましてはたいへんに珍しく、恐ろしいご経験でございましょうが、私にとりましては古くさい物語でございます。お二方とも、ちょっとお待ち下さい」と彼はいった。
署長とキャザリンは戸口に立ってポワロがすばやく室内を歩きまわるのを見守っていた。彼は寝床のすその方に、きちんとたたんで重ねてある死んだ女の衣類や、洋服かけにかけてある毛皮のオーバーや、格子棚に投げあげてある、小さな赤漆の帽子などに注目した。次に彼は、前日キャザリンが小間使いを見た隣室へ入って行った。そこの寝床の支度はしてなかった。四枚の毛布が座席に無造作に積んであった。そのほかに帽子の箱や、二個の旅行鞄がおいてあった。彼は突然キャザリンをふり返って、
「あなたは昨日ここへおいでになったのですが、何か昨日と変わったところとか、無くなっているものとか、お気づきはございませんか?」とたずねた。
キャザリンは注意深く二つの室を見まわした。
「ええ、何かたりません……そうです、赤いモロッコ皮の箱がありません。それにはR・V・Kと頭文字がついていました。それは小型の化粧箱か、あるいは大型の宝石箱だったかも知れません。私が見た時には小間使いが持っておりました」
「なるほど!」
「あの……もちろん私はこういうことについては何も知りませんけど、小間使いと宝石箱が見えなくなっているとしたらこれはもうわかりきっていることではないでしょうか」とキャザリンがいった。
「それは小間使いが盗人であるという意味でございましょうか? いいえお嬢さま、そうでない立派な理由がございます」と署長がいった。
「何ですか?」
「小間使いはパリで下車しました」
署長はポワロに向かって、
「車掌の証言を直接にお聞きになっていただきたいと思います。非常に暗示的なものです」と打ち明けるようにいった。
「お嬢さまもきっとお聞きになりたくていらっしゃいましょうね。署長さん、お差し支えありませんですか」とポワロがいった。
「かまいませんとも、ポワロさんがそうおっしゃるのなら、ちっとも差し支えありません。では、ここはもうおすましになったのですね」と署長はいった。
「そう思います……ああ、ちょっとお待ち下さい」
ポワロは毛布をひっくり返していたが、その中の一枚を窓のところへ持って行って、指先で何かをつまみ取った。
「それは何ですか」署長は鋭く質問した。
「四本の金茶色の毛です」といって、彼は死人の上にかがんでみて、
「そうです、それはこの婦人のものです」
「それがどうしたとおっしゃるんです? 何かそれに重要な関係がありますのですか」
「何が重要で、何が重要でないか、ということは、目下の段階ではまだ何とも申されません。しかし私どもは小さな事実を一つ一つ注意深く集めていかなければなりません」
といって、ポワロは毛布を座席へもどした。
一同が再び最初の室へもどると間もなく、列車の車掌が審問に答えるために来た。
「君の名はピエル・ミシェルだね」と署長がいった。
「そうであります、署長さん」
「パリでどういうことがあったか私に話した通りをこちらの旦那に、もう一度くり返してもらいたい」と署長はポワロの方に目をやった。
「よろしゅうございます、署長さん。リヨン口《ぐち》停車場を出てからのことでありました。私は夫人が食堂へ行っておられると思って、寝床の支度をしに行きました。ところが夫人は弁当を取り寄せていて、小間使いをやむを得ずパリに遺してきてしまったから、寝床は一つだけでよろしいといわれたのです。私が寝床をこしらえている間、夫人は次の間で食事されました。そして朝はゆっくり眠っていたいから起こさないでくれといわれ、私はたしかに承知いたしましたといいました。そして夫人は私におやすみなさいといわれました」
「君自身は隣の室へは入らなかったのかね」
「いいえ、旦那」
「では君はそこにあった荷物の中に、赤いモロッコ皮の箱があったのに気がつかなかったね?」
「いいえ、旦那、気がつきませんでした」
「隣室に男がかくれているというようなことは不可能だったろうかね」
車掌はしばらく考えていたが、
「戸が半びらきになっていました。もしその戸のうしろに男が立っていたとしたら、私には見えなかったろうと思います。ですが夫人が入っていかれれば、よく見えたはずであります」
「そうだね。で何かほかにもっと話してくれる事はないかね?」とポワロがいった。
「これで全部だと思います、旦那。ほかに何も思い出せません」
「では、今朝は?」ポワロはすかさず質問をすすめた。
「夫人にいいつかった通り私は起こしにいきませんでした。で私が戸をたたいたのは、カンヌに着く少し前でありました。返事がなかったので、私は戸を開けたのです。夫人は床の中でまだ眠っておられるように見えました。私は起こそうと思って肩に手をかけると……」
「そこで君は、この事件を知ったというわけだね。よろしい、私は知りたいと思うことを全部知った」とポワロがいうと、
「署長さん、私の職責怠慢なんていうことにならなければいいと思います。こんな事件が青列車で起こるとは全く恐ろしいことであります」と、車掌は情けない顔をしていった。
「心配することはない。法律上重要なこと以外は、できる限りこの事件に関することはすべて発表しないようにするから。君が怠慢だったせいだなどということは考えられない」
と署長はいった。
「では署長さんが会社の方へ報告される場合もそういう風にいって下さいますか」
「そうだとも、そうだとも、さアもうそれでよろしい」署長は気短《きみじか》にいった。
車掌は退いて行った。
「医師の鑑定では、おそらく列車がリヨンに着く前に夫人は殺されていたろうということです。すると犯人は誰なのですかな? お嬢さまのお話によると夫人はこの旅行中にどこかで、その男に会うことになっていたのは明白です。小間使いを途中で追い払ってしまったことは意味深長ですな。その男がパリで乗車し、夫人は彼を隣室にかくまっておいたのでしょうか? もしそうだとすれば、二人は喧嘩をして、男は怒りのあまり夫人を殺害したかも知れません。それは可能なことの一つです。もう一つもっともあり得ると思われるのは、犯人は乗り合わせていた列車強盗で、彼は車掌の目を忍んで廊下伝いに夫人の室へ近づいて殺し、赤いモロッコ皮の箱を取って逃げた……その箱にはきっと宝石とか何か貴重品が入っていたのでしょう。そしておそらく彼はリヨンで下車したろうと思われますので、駅へ電信を打って、降車客の一人一人についてできるだけ詳しい情報を得るように手配しておきました」
「あるいは犯人はニースまで来たかも知れませんね」とポワロがいった。
「そうかもしれません。しかしそれはあまり大胆すぎやしませんか」
ポワロは一、二分間を置いてから、
「後の方の場合、あなたは犯人を普通の列車強盗とお考えですか」とたずねた。
署長は肩をすくめて見せた。
「場合によりけりですな。何より小間使いを捕えなければなりません。その女が赤いモロッコ皮の箱を持っているかも知れません。もしそうであったら、お嬢さまのお話しになったその男がこの事件に関係があって、これは情痴の犯罪です。私の考えでは列車強盗という推定の方がもっと可能性があるように思われます。近ごろの犯罪者は非常に手口が大胆になってきていますからな」と署長がいった。
ポワロは急にキャザリンに向かって、
「お嬢さまは、夜中に何か見たとか、聞いたとかいうことはございませんか」とたずねた。
「ええ、何も別に!」とキャザリンは答えた。
ポワロは署長に向かって、
「もうこれ以上お嬢さまをお引き止めしておくことはありませんですね」といった。署長はうなずいて、
「ご住所を知らせておいていただきましょう」
キャザリンはタムリン伯爵夫人の別荘の名を知らせた。ポワロはおじぎをしていった。
「お嬢さまにまたお目にかからせていただけましょうか? それともお友達が多くいらして、そんな暇はおありになりませんでしょうか」
「ところがご想像とは反対に私はきっと暇が多すぎて……。お目にかかるのがたいへんに楽しいと思います」
「それは好都合でございます。これは私どもの探偵小説になりましょう。ごいっしょにこの事件を探求いたそうではございませんか」
といって、ポワロは親しみ深く彼女にうなずいた。
マガレット荘
「それでは、あなたはその事件のまっ只中にいなすったわけなんですのね、なんてすばらしいんでしょう!」
タムリン伯爵夫人はうらやましそうにいった。
「ほんとうの殺人事件ですね!」
チャールズは満足そうに言葉をはさんだ。
「もちろんチャールズはそんなことは露知りませんでしたのよ、どうして警察があなたを引き止めたのか想像もつかなかったでしょうし……私ねえ……そうですわ、これをなんとか利用することできないかと思うんですのよ」
打算的な表情が青い目を輝かした。
キャザリンはいささか不愉快に思った。
一同はちょうど昼食をすませたところであった。
キャザリンは食卓をかこんでいる人々を順々に見わたした。何か企んでいるらしい伯爵夫人、無邪気に喜んでほくほくしているチャールズ、陰気な顔に妙な薄笑いを浮かべている娘のレノックス。
「ふしぎな回り合わせでしたね。僕もあなたといっしょに行って、証拠物件をいろいろ見たかったですね」と子供っぽくチャールズがいった。
キャザリンは何もいわなかった。警察では別に口止めはしなかった。それに事実そのものを打ち消すとか、それをタムリン伯爵夫人にかくす必要もなかった。ただ彼女はなるべくその事件について語りたくなかった。
タムリン伯爵夫人は突然空想からさめたような口調で、
「そうそう、いいことを思いつきましたわ、なんとかできると思いますよ、ちょっとした記事を新聞に投稿なさるのね。女性的な色彩をつけた目撃者の手記とかなんとか……たとえばそんなこととは夢にも知らず、私は死んだ婦人とおしゃべりをした……というようなふうに書くんですわ、どう思って?」
「下らない!」とレノックス嬢がいった。
「こうしたちょっとしたニュースに新聞がいくらぐらいはらうか、あんたなんかにはわからないのよ。もちろん社会的地位のある人が書いたんでなくてはニュースバリュウがありませんけれどね。キャザリンさん、あなたご自分でお書きになるのはいやでしょうから、材料だけを私に提供なさいよ、そうすれば私がうまく扱ってあげますわ。新聞社のデハビランドさんは私の特別お親しいお友達なのよ。ちっとも新聞記者らしくないとっても愉快な方ですわ。キャザリンさん、この計画どうお思いになって?」伯爵夫人は誘いこむような声でいった。
「私はそういうことはしたくありません」
キャザリンはきっぱりと断った。
伯爵夫人はこの素気ない拒絶にあって少なからずめんくらったが、なおも、
「たいそう美人でしたって? いったいどこの誰なのでしょうねえ、名はお聞きになりませんでしたの?」
「聞きましたけれども、覚えていません。でも今にわかるでしょう、私は気が顛倒していましたから」
「そうでしょうね、すごく驚いたでしょうね」とチャールズがいった。
たとえ、キャザリンはその婦人の名を覚えていたとしても、そのことを口にしたかどうか疑わしかった。伯爵夫人の無情な追求は、彼女を反抗的にした。レノックス嬢は彼女独特の観察力で早くもそれと気づき、キャザリンを二階の部屋へ案内しようと申し出た。彼女はキャザリンを二階の部屋へ残して立ち去りしなに、
「母のいうことを気にしてはだめよ、少しぼっちでもお金になることなら、死にかかっている祖母だって利用する人なのよ」
レノックス嬢が再び階下へおりて行くと、母と義父とが、キャザリンの噂をしていた。
「人前に出せますわ、思ったより着物もちゃんとしていますし。あの灰色のドレスは、グラデスが『エジプトのしゅろ』に出演した時に着ていたのと同じスタイルですよ」
「あの目に気がつきましたか?」
とチャールズが持ち出した。
「目のことなどはどうでもよろしいのよ、私たちは現実的なことを話しているのですよ」
「ああ、そうでしたね」
「あの人は、柔順な性質ではないようですのね」伯爵夫人はためらいながらいった。
「あの人は本に書いてある貴婦人の条件をすっかりそなえているじゃない?」
といって、レノックス嬢はにやにや笑った。
「心が狭いのね、でも、ああいう境遇にいたのですから仕方ないでしょうけれど……」
「母さんは彼女の心をひろげるのに全力をつくすでしょうね、だけれど、きっと彼女に出し抜かれてしまうわよ。たった今も、馬みたいに前足を突っ張って、耳を後ろへ立てて絶対に動くことを拒んだじゃないの」レノックス嬢はにやにや笑いながらいった。
「とにかくあの人は私の見るところでは、さもしくはないようですわ。人によると急にお金持ちになると、不当にお金を重要視するものですけれど」伯爵夫人は希望ありげにいった。
「母さんは造作なく欲しいだけのものをあの人からせしめることができるわよ。母さんにとっては結局、それが一番大切な事なんでしょう。そのためにあの人をここへよんだんですもの」とレノックス嬢はずけずけいった。
「何おっしゃる? あの人は私の肉親の従妹なんですよ」
伯爵夫人は威厳をもっていった。
「従妹なの? じゃア僕あの人のことを、キャザリンってよんでいいわけね、そうでしょう?」
とチャールズが再び首をもちあげた。
「チャールズがあの人を何とよぼうと、ご自由ですわ」と伯爵夫人がいった。
「それはいい、では僕はそうしよう。あの人テニスをするでしょうかね」チャールズは野心あり気にいった。
「もちろんしませんとも、あの人はお婆さんのお相手役に雇われていたんですのよ。お婆さんはテニスやゴルフなどはいたしません。お婆さんのお相手役というのは一日中、毛糸を巻いたり、犬を洗ったりしているもののようですわ」と伯爵夫人がいった。
レノックス嬢は再び二階のキャザリンの部屋へ行って、
「何か手伝いましょうか」
とおざなりにいうと、キャザリンはそれを断った。
レノックス嬢は寝台の端に腰かけて考えこみながら、彼女を見つめていたが、やがて、口を切って、
「あなたはなぜ、私たちのところへなんか来たの? 私たちはあなたの好くような人種じゃないのに」
「私は社交界に出たくてたまらなかったから来たのです」
レノックス嬢はそういう相手の口元に微笑が漂っているのを見てとって、すかさず、
「ばかなこというの、よしてよ。あなたは私のいう意味わかっているくせに! あなたは私たちが想像していたのとは、まるで違うわね。あら、あなた、ずいぶんいいドレスをもっているのね!」といってため息をついた。そして、
「ドレスは私にはだめなのよ、私は生まれつき不器用でなに着たってだめなの。私、いいドレス大好きだのに、残念だわ」
「私も好きです。でも今まではいくら好きでもどうにもならなかったのよ。あなた、これいいと思いません?」
キャザリンとレノックス嬢は芸術的な情熱をもって流行衣装を論じていたが、レノックス嬢はだしぬけに、
「私、あなたが好きよ。私はあなたが母さんに利用されないように忠告に来たんだけれど、そんな必要はないわね。あなたは恐ろしく誠実で正直で、ずいぶん変わった人だけれど、あなたはばかではないわ。……また下で呼んでいる、ああうるさい、今度は何かしら?」
伯爵夫人の悲調をおびた呼び声が階下から聞こえてきたので、すぐ下に行くと、
「レノックス、デリクが電話をよこしたのよ。今晩、食事に来たいとおっしゃって。大丈夫でしょうね。私のいうのは、今晩のお献立にうずらとか何とか、融通のきかないようなお料理はなかったでしょうね」
レノックス嬢は大丈夫だと母に納得させて、再びキャザリンのところへもどって来た。彼女の顔は前よりも明るくなっていた。
「昔なじみのデリクが来るの。うれしいわ、あなたもきっとあの人好きよ」
「デリクってどなた?」
「レコンバリイ侯爵の息子でアメリカの大金持ちの娘と結婚したのよ。女は誰でも皆あの人に夢中になるわ」
「どうして?」
「ごく平凡な理由よ。とても男ぶりがよくて、とても悪い奴なの。誰でもあの人に逢うと理性を失ってしまうのよ」
「あなたも?」
「時々は私もよ。で、私ね、時々善良な副牧師か何かと結婚して田舎に住んで、畑に何か作って暮らそうかと思うことがあるわ」とレノックス嬢はいった。
そして一、二分してからまた前の話にもどった。
「デリクにはどこか妙なところがあるのよ。あの一族は皆多少悪いところがあるわ、賭博狂なのね。昔はね、あそこの殿さまの中には妻も領地も博奕《ばくち》で失ってしまったなんていうのがあったのよ。ただ賭博が好きなだけのことで、ずいぶんむちゃをしたものなのね。デリクには昔の物語にでてくる立派な剽盗《ひょうとう》になれる素質があるわ。優雅で陽気で作法を心得ていて」
彼女は戸口の方へ行きながら、
「気が向いたら下りていらっしゃいよね」といって階下へ下りて行った。
一人残されたキャザリンは物思いに沈んでいた。今のところ彼女は現在の環境にすっかり落ち着きを失って、いらいらした気持ちになっていた。列車内でのあの殺人事件から受けた驚きや、そのニュースに対する新しい友人たちの受けいれ方などが、彼女の気持ちを不愉快にしていた。
キャザリンはルスを気の毒に思ったが、正直なところ、好きだとはいえなかった。それは、彼女の性格の基調となっていた冷酷な利己主義を見抜いていたからであった。
キャザリンは殺された婦人のことを熱心に考えていた。
……あの婦人はせっかく自分が相談相手になってやったのに彼女が冷淡に自分を追い払ってしまった。彼女がある決心をしたのは確かであったが、さてどういう決心をしたのだろう? だが、その決心が何であったにせよ、死が踏み込んできて、すべてを無意味にしてしまったのだった。それもそうだが、惨酷な犯罪が運命の旅の終局であったことも奇妙ではないか……。
ところでキャザリンはその時、不意に、彼女が警官に話すべきだったのに、当時はすっかり忘れていた、あるちょっとした事実を思い出した。それは実際に重要な事だろうか? 彼女は当夜たしかに一人の男が被害者の室へ入っていくのを見た。しかしそれはあるいは隣の室だったかも知れないし、また、その男はけっして列車強盗だとは思われなかった。彼女はその男をその前に二度も……一度はサボイ・ホテルで、一度は旅行社の事務所で……見かけたのではっきり覚えていた。そうだ、疑いもなく自分の思いちがいだったのだ。彼は死んだ婦人の室へ入って行ったのではない。警官に何もいわなくてよかった。
彼女は下へおりて行ってバルコニーにいる家族の人たちに仲間入りした。ミモザの枝の間から地中海の青さを眺め、伯爵夫人のおしゃべりに半分耳をかたむけながら、彼女はここへ来たことを喜んでいた。
その晩、彼女は『晩秋のため息』という名の、薄ふじ色とピンクのドレスを着て、鏡に映した自分の姿に満足の微笑を送り、生まれてはじめてのイブニング・ドレスに少しはずかしいような気持ちで階下へ行ったのである。
伯爵夫人のお客は大方到着していた。伯爵夫人のパーティは騒がしいのが常なので、もう耳ががんがんするような状態であった。チャールズはキャザリンのそばへ飛んできて、カクテルを無理に持たせ、自分の保護の下に置いてしまった。
最後の客が戸を開けたとき、伯爵夫人は、
「おお、デリク、いらっしゃいまし。これでようやく何か食べられますわ。私どもはもう飢えかかっていたんですのよ」といった。
キャザリンは戸口へ目をやって、はっとした。……これがデリクだったのか……と思ったが、彼女は自分が少しも驚いていないのに気がついた。ふしぎな偶然にあやつられて三度も出会った男に、彼女は必ずまたいつか会うにちがいないと思っていた。
先方でもキャザリンに気がついたようであった。彼は伯爵夫人に何か話していたのを急にやめたが、しばらくして気をとりなおし、努めて話を続けていた。
一同は食堂へ行った。キャザリンはデリクの席が自分の隣なのを見いだした。彼はすぐ明るく微笑しながら、話しかけた。
「僕はあなたに、またすぐお目にかかるだろうと思っていましたよ。けれどもここでお会いするとは夢にも思いませんでした。こうなる運命だったのですね。一度はサボイで、一度は旅行社で……二度あることは三度あるといいます。あなたはまさか覚えていないとか、気がつかなかったとはおっしゃらないでしょうね」
「覚えておりますとも。でもこれが三度目ではございません。四度目です。私は青列車であなたをお見かけいたしました」
「青列車で!」
彼の態度には何かただならないものが現われた。だが彼はさり気ない様子で気軽に、話しかけた。
「今朝のあの騒ぎは何だったのですか、誰かが死んだとかいうことでしたね」といった。
「ええ、誰か死にました」とキャザリンはゆっくりといった。
「汽車の中でなんか死ぬものではありませんね。そんなことがあるといろいろ法律上の手続きだの国際的な面倒の種になるでしょうから」
その時、向こう側に坐っていた肥満した婦人が前へ身を乗り出すようにして、話しかけて来た。
「ケッタリングさん、あなたは私をお忘れになっておいでのようですのね。私の方では、あなたをもう申し分のない素晴しいお方だと思っておりますのに」と話しかけた。
ケッタリングも前へ乗り出して彼女に答えた。キャザリンはこの会話を聞いてあっけにとられていた。
ケッタリング! そういう苗字だったのか!なんという皮肉なことであろう! 彼が昨夜、自分の妻の室へ入って行くのを見た人間がここにいる。彼はその時元気に生きている妻をのこして来たのに、今その妻の上にふりかかった運命については何も知らずに、こうして晩餐会のテーブルについている。
召使いが、ケッタリングのところへ近づいて、小腰をかがめて一通の封書を渡し、彼の耳に何かささやいた。彼は、伯爵夫人にちょっと会釈して封を切ったが、それを読んでいくうちにその顔にはまごうかたなき驚愕の色が現われた。彼は女主人の方を見て、
「実におかしなことですよ! ロザリイ、僕は中座しなければならないです。警察署長が僕にすぐ会いたいというんです。いったい何のためか見当がつきません」
「あなたの罪が露見したのよ」と側にいたレノックス嬢が図星をさすような口調でいった。
「それにちがいないですね。どうせ何かばかげたことにちがいないけれども、僕は警察署へ行かなければならないでしょう。僕をせっかくの晩餐の席から呼びつけるなんてけしからん! それを正義づけるにはよっぽど重大事件がなくてはならないですよ」
といってケッタリングは笑い声をあげ、椅子を後ろへ押して、立ち上がった。
オルデン、電報を受け取る
一月十五日の午後、ロンドンは黄いろい濃霧につつまれていた。オルデンはこのいやな天候を大いに利用していつもの二倍の仕事をした。ナイトンは大喜びであった。最近彼はオルデンを差し迫った仕事に専念させることの困難を感じていたのであった。彼が無理に仕事を進行させようとすると、オルデンは素気ない言葉でそれをさえぎった。ところが今オルデンは二倍の精力を出して仕事に没頭しはじめたので、秘書はその機会をのがさなかった。
それにもかかわらず、仕事に熱中している最中でも、オルデンの心の奥に何か一つ横たわっていた。それはナイトンが無意識に口からもらした言葉である。オルデンはそれを気にかけまいとしたが、かえってその存在をはっきり意識するようになった。
彼はいつもの熱心さでナイトンのいうことに耳をかたむけている様子をしていたが、実は一語も彼の頭に入っていなかった。
「ナイトン、その話をもう一度話してくれないか」とオルデンが問いかえすと、ちょっとの間、ナイトンはまごついた。
「これでございますか!」彼は細かく書かれた会社の報告書を取り上げた。
「いや、いや、それではない。昨夜君がパリでルスの小間使いに会った話だ。私にはどうも|ふ《ヽ》に落ちない。君の間違いではないかね」とオルデンがいった。
「間違うはずはございません。私は口をきいたのですから」
「もう一度くわしく話してもらいたい」
「私はバルテイメ商会との取り引きをすましてから、夕飯をとって北停車場から九時の汽車に乗るつもりで、荷物を取りにリッツ・ホテルへもどりました。すると帳場のところで、たしかにケッタリング夫人の小間使いと思われる女を見かけましたので、そばへ行ってケッタリング夫人がパリにご滞在なのかどうかたずねました」
「なるほど。すると、ルスは小間使いをパリに置いたままリビエラへ行って、その女に、リッツ・ホテルで指令を待つように申しつけたというのだね」
「その通りでございます」
「実におかしい、全くおかしな話だ。その女に不都合があったとか、なんとかいうのでなかったら、そんなことするはずがないのだが……」
「もしそういう事情だったのでしたら、ケッタリング夫人は女をリッツへなどおやりにならないで、給料を渡してイギリスへ帰るようにお命じになるだろうと思います」
とナイトンは抗議した。
「その通りだな……」
億万長者のオルデンはもっと何かいいかけたが、差しひかえた。彼はナイトンが好きだったし、信頼していたのだが、自分の娘の私事を秘書と論じる気にはなれなかった。彼はルスが自分に対して正直にすべてを打ち明けなかったことを不満に思っていた矢先に、今またこの偶然の情報は彼の疑惑を深めるばかりであった。
なぜルスは、小間使いをパリで追い払ったのであろう? そういうことをするどんな目的、あるいは動機があり得るだろう? それにしても、小間使いがパリで、ばったり会った最初の人物が人もあろうに、父の秘書であったとは、ルスの考えも及ばないことであったろう。
このふしぎな偶然の組み合わせについて考えていたオルデンの胸に、はっきりと浮かび上がってきたのは、ローシ伯爵アルマンの姿であった。
自分の娘が、そんな男に騙《だま》されるとは心外でならなかった。しかし、他の教養のある知識階級の立派な婦人たちでも、伯爵の魅力にわけなく屈服してしまうのだから、ルスの場合も無理はないと認めないわけにいかなかった。
男性は伯爵の性根まで見とおすが、女性にはそれができない。……
彼は秘書が感じているかも知れない疑惑を打ち消すような言葉を捜していた。
「ルスはいつでも不意に気を変えるくせがあるのでね……」といってから、
「小間使いはその計画の変更について何かいってなかったかね?」とつけ加えた。
ナイトンはそれに答える自分の声ができるだけ不自然にならないように注意しながら、
「ケッタリング夫人が偶然にご友人に会われたのだと申しておりました」
「そうだったのか!」
ナイトンは何気なく答えるオルデンの声に何か緊張を含んでいることを覚った。
「なるほどね。でそれは男かね。女かね?」
「男の方だと申したようでございます」
オルデンはうなずいた。彼の一番おそれていた悪いことが実現したのだ。彼は心が乱れた時のくせで、椅子から立ち上がって部屋の中を行ったり来たりしはじめた。そして、ついに自分の感情をおさえ切れなくなって、爆発させた。
「世の中にどんな男でもできないことが一つある。それは女に理性を持たせることだ。どういうものか女は判断力というものをまるで持っておらん。女の直感ということがいわれるが、どんな下賤な詐欺師にとっても女が一番だましやすい相手だということは世界中に知られている事実だ。女というものは悪党に会っても十人が十人までそれを見抜けないんだ。男っぷりがよくて口前がうまければすぐひっかかってしまう。もし私が……」
といいかけた時に給仕が電報をもって来たので、彼は言葉をさえぎられた。オルデンは急いで封を破って、読んでいくうちに、まっ青になった。彼は椅子の背に手をかけて身体をささえた。
「どうなさいました」
ナイトンは心配して立ち上がった。
「ルスが……」オルデンの声はかすれた。
「ケッタリング夫人が、どうかされましたか?」
「殺された!」
「列車の事故ででも?」
オルデンは頭をふった。
「そうではない。これによると、盗難にも遭《あ》ったのだ。ナイトン、ここにはそうとは書いてないが、かわいそうにルスは殺害されたのだ」
「エッ、それはとんだことで!」
オルデンは人さし指で電報をたたいた。
「これはニースの警察からだ。私は今から一番早い汽車でたつ」
ナイトンはいつものように能率的であった。彼は時計をちらと見た。
「ビクトリア駅発五時でございます」
「それがいい。ナイトンいっしょに行ってもらおう。アーチャーに支度をいいつけて、それから君の荷物もつくりたまえ。このホテルの始末を頼む。私はカーゾン街へ回っていく」
電話のベルがけたたましく鳴った。秘書は受話器をとって、
「ゴビイ氏でございます」といった。
「ゴビイ? 今は会っていられない、いや、待ちたまえ、まだ時間は十分にある、ここへ来るように」
オルデンは強い性格の人物である。彼はすでに鉄のごとき冷静さを取り戻していた。
「ゴビイ君、時間がないんだ。何か重要な情報でも持ってきたのかね?」
ゴビイは咳ばらいをした。
「ケッタリングさまの行動でございます。あなたは報告をご希望でしたので」
「それで?」
「ケッタリングさまは昨日の朝、リビエラへ向けてロンドンをおたちになりました」
「なんだと?……どの列車で行ったのだ!」オルデンは鋭く追及した。
「青列車でございます」
ゴビイはもう一度咳ばらいをして飾り棚の時計に向かって話した。
「パルテノンから来た舞姫ミレイユ嬢も同じ列車で出かけましてございます」
メイゾンの話
「私どもの恐怖、私どもの驚愕、それからあなたに対して感じております私どもの深い同情は幾度くり返してもたりないほどであります」
そんなふうに予審判事カレージュはオルデンに話しかけた。コオ署長は同情深くごくりとつばを呑みこんだ。その場所はニースの予審裁判室であった。判事と署長とオルデンのほかに、もう一人の男がその室にいた。
「オルデンさん、これは欲望の行為……迅速な行為でございます」とその男がいった。
「ああ、私はまだご紹介いたしませんでしたが、オルデンさん、この方はエルキュル・ポワロ氏であります。申すまでもなく氏の名声はお聞き及びのことと思います。数年前に退職されたのですが、その後は現存探偵中の最も偉大なる人物として、その名は津々浦々に響き渡っております」と署長がいった。
「ポワロさん、お目にかかって欣快《きんかい》にたえません。あなたは引退されたのでしたか」
「さようでございます。そして目下は人生を楽しんでおります」
ポワロは大げさな身ぶりをして見せた。
「ポワロ氏はちょうど青列車で旅行しておられたのでした。それでご親切にも広大な経験をもって私どもに助力して下さることになりました」と署長がつけ加えた。
オルデンはポワロを鋭く見守っていたが、
「ポワロさん、私は非常な金持ちです。世間ではよく金持ちは金をもってすれば、すべてのものを、そして何人《なんぴと》をも買うことができるという確信のもとに事業をしているといわれております。それは真実ではありません。私は私の畑での巨頭です。そして巨頭は、他の巨頭の助力を乞うことができます」といった。
ポワロはすぐに相手の意味を了解した。
「よくおっしゃって下さいました。オルデンさん。全力をつくしてお役に立ちましょう」
「ありがとうございます。ご用の節はいつでもお電話なりご訪問なりねがいます。私はいつでも喜んで貴方をお迎えするでしょう。さて、皆さん、用件に取りかかりましょう」とオルデンがいった。
「では小間使いのアダ・メイゾンの審問をはじめたいと思います。あなたはその女をお連れ下すったのでありますな」と判事がいった。
「はア、途中パリで見付けて来ました。女主人の死んだことをきいて、ひどく取り乱しておりましたが、いうことは辻褄《つじつま》が合っております」とオルデンはいった。
「ではここへ呼びましょう」
判事は卓上の呼鈴《ベル》を鳴らした。数分してメイゾンが部屋へ入ってきた。
彼女は黒い服をきちんと着て鼻の先を赤くしていた。彼女は室内を恐ろしげに見まわした。そして女主人の父親がその席にいるのを知っていくらかほっとしたようであった。予審判事は愛想よく彼女を楽な気持ちにさせるように努めた。その点、通訳の労をとったポワロも大いに助けとなった。彼の親しみ深い態度は、このイギリス女に安心を与えた。
「あなたの名はアダ・メイゾンですね。それが正確ですか?」
「アダ・ビアトリス・メイゾンと登録してあります」と彼女はきちょうめんに答えた。
「ああ、そう。で、メイゾン、今度のことではさだめし心痛したこととお察しします」
「全くでございます。私はこれまでたくさんの貴婦人にお仕えして、いつもご満足を得ておりましたのでございますが、自分のお仕えしているお方に、このような事が起ころうとは夢にも思いませんでございました」
「そうでしょうとも」と判事はいった。
「もちろん私もこういうような事件は、日曜付録などで読んだことがございます。それで私はいつも外国の汽車に……」といいかけて、彼女は、自分の話している相手の国の列車だったことに気がついて黙ってしまった。
「ではこの事件について話し合うことにしましょう。ロンドンを出発する時には、あなたがパリに滞在するということは予定していなかったのですね」と判事は質問した。
「そうでございますとも、ニースへ直行することになっておりましたのでございます」
「これまでに奥さまにお供して外国へ行ったことがありますか」
「いいえ、私はご奉公してからまだ二か月にしかなっておりませんので……」
「奥さまは今度の旅行にお出かけの時、ふだんと変わった様子はおありになりませんでしたか」
「何かご心配のご様子で少し取り乱しておいででして、いくらか、いらいら遊ばして、ごきげんが取りにくうございました」
「さて、メイゾン、あなたがパリに滞在するということをはじめてきいたのは、どこでしたか」
「リヨン口《ぐち》停車場でございました。奥さまはプラットフォームにおりて散歩を遊ばすつもりでおいでになりました。それで奥さまは廊下へ出ておいで遊ばしたと思うと、驚き声をおあげになり、一人の紳士とご一緒にお部屋へお戻りになりました。奥さまはすぐに私の部屋とのさかいの戸を閉めておしまいになりましたので私には何も見ることも、聞くこともできませんでしたが、やがて奥さまが不意に戸をお開けになりまして、予定を変えたとおっしゃいまして、私にお金をお渡しになって、すぐ下車して、リッツ・ホテルへ行くように、先方では奥さまのことをよく存じているから部屋を取ってくれるだろうとおっしゃいました。私はそこで奥さまのお指図を待つことになっておりました。奥さまは私にどうしろということを電報でお知らせ下さるとおっしゃいました。で私は発車まぎわに飛びおりましたようなわけで。まことにあわただしいことでございました」
「ケッタリング夫人があなたに指図をしておられる間、紳士はどこにいましたか」
「隣のお部屋に立って窓の外をごらんになっていらっしゃいました」
「その紳士の人相その他を話せますか」
「私はそのお方をほとんどまともに見ませんでした。私の方へは背を向けておいでになりましたので、ただお丈が高くてお髪《ぐし》が濃《こ》い色だったということだけしか申し上げられません。それに普通の殿方がどなたでも召しておいでになるような、紺《こん》のオーバーに、灰色の帽子でいらっしゃいました」
「その紳士は乗客の一人でしたか」
「そうではないと存じます。奥さまがご旅行中その駅をお通り遊ばすので、会いにおいでになったのだと存じます。もちろん乗客のお一人だったかも知れませんですが、その時は、全然そういうふうには存じませんでした」
メイゾンは、その問題に触れられていささか度を失ったようであった。だが判事はあっさりと他の問題に移った。
「奥さまはそれから後で、車掌に朝早く起こさないようにいわれたというのですが、それは奥さまのなさりそうなことだと思いますか」
「はい、奥さまはけっして朝食を召し上がりませんでした。夜はよくおやすみになれませんので、朝はごゆっくりとおやすみになるのがお好きでいらっしゃいました」
「手荷物の中に赤いモロッコ皮の箱がありましたね、奥さまの宝石箱ですか」
「はい、そうでございます」
「その箱はパリで降りる時、あなたがリッツ・ホテルへ持っていったのですか」
「私が奥さまの宝石箱をリッツ・ホテルへ持っていったかとおっしゃるのですか? いいえ、とんでもない!」メイゾンは驚き声をあげた。
「では部屋へ置いていったのですね」
「はい、そうでございます」
「奥さまは宝石をたくさん持ってお出かけでしたか? 知っていませんか」
「かなりたくさんお持ちでございました。私は時々心配になるほどでございました。外国の列車強盗などのいやな話をよく聞くものでございますから。みんな保険がかけてございましたが、それにしてもお持ち歩きになるのはたいそう危険なことだと存じておりました。奥さまから伺ったのでございますが、ルビーだけでも数百万ポンドもの価値だそうでございます」
「ルビー! どのルビーだね?」オルデンが突然にわめくようにいった。
メイゾンは彼の方を向いて、
「旦那さまがおあげ遊ばしたあれでございます」
「あのルビーを持って行ったというのか? 私は銀行に預けて行くようにいったのに!」
メイゾンは慎み深く咳をした。その咳はメイゾンの女主人が自分の意地を通す女性であったことを、言葉以上にはっきり表現するものであった。
「ルスは気が狂ったにちがいない、いったいどういう訳でそんなばかなまねをしたのだろう」
今度は判事が意味深長な咳をする番であった。それはオルデン氏の注意を彼に向けさせた。判事はメイゾンに、
「今のところ、尋ねることはこれだけです。隣室へ行って、係りの者が今までの質問とあなたの答とを読んでおきかせするでしょうから、それに署名なすって下さい」といった。
メイゾンは書記に伴われて出て行った。
判事は自分の机のひきだしを開けて一通の手紙を出すとオルデンの方へさし出した。
「これはケッタリング夫人のハンドバッグに入っていたものです」
――愛する友よ、私はあなたのお指図に従います。私は恋人にとって最もいとわしい、慎重に謹み深くということを守りましょう。パリを選ぶのはどうも賢明ではございますまいが、ドオル島でしたら世間から遠くはなれておりますし、けっして秘密のもれるおそれはございません。私が目下執筆しております『有名なる宝石』に関する文献にそれほどの興味をお示し下さるとは、まことにあなたらしいことで、ひとえにあなたのご立派な同情心のあらわれと存じます。そうした歴史的のルビーを、実際にこの手にとって見ることができますとは、実に異常な特権だと存じます。私は『 火焔《ほのお》の心臓』には特別念を入れて書いております。わがすばらしき君よ! 間もなく私は久しきにわたる離別と空虚の悲しき年月を埋め合わせてさし上げます。
いつもあなたに憧れる
アルマンより
ローシ伯爵
オルデンは黙ってその手紙を読んだ。彼の顔は怒りに朱をそそいだ。彼を見守っていた人々は、彼のひたいに青筋が現われ、彼の大きな手が無意識のうちに固くにぎりしめられていくのを見た。彼は何もいわずにその手紙を返した。それを受け取った判事は、
「あなたはこの手紙を書いたのは誰であるか、ご承知でございましょうな」と低い声でいった。
「ローシ伯爵と自称する悪党です」
沈黙が続いた。するとポワロが前へ乗り出し、判事の机の上の定規をまっすぐにしてから、億万長者に直接話しかけた。
「オルデンさん、私どもはこのことについて語るのがあなたにとってどんなに苦痛であるかは、十分にお察しいたしております。しかし今は何事もかくしている場合でないことをお認めいただきとうございます。犯罪者を処罰するために私はすべてを知らなければなりません」
オルデンは一、二分沈黙していたがいかにも不本意な様子で、うなずいてそれに同意した。
「ポワロさんのいわれる通りです。いかに苦痛であろうと、私は何もかくしている権利はありません」
オルデンのこの言葉をきいて、署長は安堵のため息をし、判事は椅子の背によりかかった。
「オルデンさんがその紳士について知っておいでになるだけのことを、私どもにお話しねがえませんですか」とポワロがいった。
「それは十一、二年前パリではじまったのです。当時娘は若くて、世間にありがちな愚かなロマンチックな考えでいっぱいになっていました。で娘は私の知らぬ間に、このローシ伯爵と知りあったのです。おそらくあなたがたはこの男のことを耳にされたことがおありでしょう」
警察署長とポワロは同意を示すようにうなずいた。
「彼はローシ伯爵と自称しておりますが、私は彼がそういう爵位を、ほんとうに持っているかどうかを怪しんでおります」
「華族年鑑を検べてもそういう名は出ておりませんでしょう」と署長がいった。
「私はその男が美貌で女性をとろかすような魅力をもっている、口先のうまいならず者であることをさぐり出しました。当時、ルスはその男にのぼせ上がっていましたが、私はすぐにすべての交渉を中止させてしまいました」
「お説の通りです。ローシ伯爵と申すのはわれわれの間でもよく知られている男です。もしできれば、ずっと前に彼を投獄しましたでしょうが、それが実に容易でないのでしてね。その男はなかなか狡猾で、彼の事件にはいつも社会的地位の高い貴婦人たちが関連しておるのです。よろしいですか、もし彼が詐欺を働くとかあるいは脅迫して金を巻き上げたとしてもそうした身分ある婦人たちは彼を訴えません。世間に恥をさらすなんて、貴婦人たちにとってはもってのほかのことですからな」と署長がいった。
「それはそうとして、前に話しました通り、私はその交渉をかなり手厳しくぶちこわしてしまったのです。それから約一年して娘は現在の夫に会って結婚しました。私の知る限りでは、その交渉はそれで終わってしまったのでした。ところが驚いたことに私は娘がローシ伯爵と再び交際をはじめていることを、つい一週間前に発見しました。娘は彼とロンドンやパリでしばしば会っていたのでした。私は娘の不謹慎を責めました。……実は、私の説得で娘は夫に対して離婚訴訟を起こそうとしているところだったのです」
「それは面白い」ポワロは天井に目をやって、静かにつぶやいた。オルデンは彼を鋭く見た。そして言葉をつづけた。
「私は娘に対してそうした事情にある者が、伯爵に会っていることの愚かさを説きました。娘はもう私の忠告をいれたものと思っておりました」
「しかしこの手紙によりますと……」といいかけたが、ポワロは、そこで止めてしまった。
オルデンの顎が断固たる意志を示した。
「わかっています。物事を小刻みにしているのはよくないです。いかに不愉快であろうと、われわれは事実に直面せねばなりません。ルスがパリでローシ伯爵に会う手筈をきめていたことは明らかです。しかしながら私の警告を受けた後、娘は密会の場所を変更するように提案する手紙を伯爵に書いたものと見えます」
「ドオル島はちょうど、イエールの向こう側に位していて人里離れた牧歌的な場所ですな」署長は考え深くいった。
「実に心外なことだ! どうしてルスはこんな愚か者だったのだろう! 宝石について本を書いているなんて! あの男は最初からルビーを狙っていたにちがいない」オルデンはいまいましげにいった。
「ルビーの中には非常に有名なものがございます。元はロシアの王冠の一部だったというので、それらの品質は比類なきもので、その価格はほとんど信じがたいほど、莫大なものです。最近それがあるアメリカ人の所有に帰したという噂がありますが、その買い手はあなただという私共の推定は正しいでございましょうか、オルデンさん」
「そうです。それは十日ほど前にパリで私の手に入りました」とオルデンはいった。
「あなたはよほど前からそれを買う交渉をしておられたのではございませんか」
「二か月余りでした、なぜですか?」
「そういうことはとかく知れ渡るものです。このルビーのような宝石の通路には、常にかなり恐ろしい一団の追跡者があるものでございます」とポワロはいった。
オルデンの顔が、痙攣《けいれん》にゆがめられた。
「私はそれをルスに与えた時にいった冗談を覚えています。私は娘が宝石のために盗難に遭ったり殺されたりしては大変だから、それをリビエラへ持って行くなといったのでした。よもや自分のいったことが真実になるとは夢にも思いませんでした」
またしても同情深い沈黙がつづいた。しばらくしてポワロが超然とした態度でいった。
「さア、私どもの集めました事実を正確に順序よく並べてみようではございませんか。目下の理論によりますとこういうことになります。ローシ伯爵はその宝石類をあなたが買われたことを知っております。彼は簡単な策略でケッタリング夫人にその宝石を持ち出させました。そうなると、パリについた時メイゾンが列車の中で見た男はローシ伯爵ということになります」
他の三人は同意してうなずいた。
「夫人は彼を見て驚きましたが、その場をうまくつくろいました。メイゾンを追い払い、弁当を注文されました。車掌の証言によりますと、車掌は夫人の室の寝台はつくりましたが、次の室には手をつけませんでした、と申しますから、彼は車掌の目から完全に身をひそめていることができました。その点、伯爵と目される男は驚くほどうまく隠れていることができた訳です。彼が乗車していることは奥さまのほかは誰一人知っている者はありませんでした。彼は小間使いのメイゾンに顔を見られないように注意しておりましたから、彼女は丈が高くて髪の色が濃いというだけしか証言することができませんでした。そこにいたのは二人きりでした……列車は夜の闇を突いて驀進《ばくしん》しておりました。叫び声も起こらなければ、もがくこともありませんでした。なぜなら夫人はその男を、自分の愛人だと思っていたからです」とポワロは自分の考えを述べた。
「まさにその通りです。車掌は下車しなかったと、いいますが、男が誰にも見られずに列車を降りて行くのは造作なかったろうし、またパリへもどる列車、あるいはその他どこ行きでも好きな列車をつかまえるのも造作なかったろう。そして犯罪はありきたりの列車強盗の仕業ということになってしまう。夫人のハンドバッグの中に手紙さえ発見されなかったら、伯爵の名はこの事件に出て来なかったかも知れんです」と判事はいった。
「そのハンドバッグの中を検べなかったのは、男の手ぬかりでしたね」と署長はいった。
「彼は夫人がその手紙を破り棄ててしまったと思っていたにちがいありますまい。第一夫人が……オルデン氏には失礼ですが……その手紙をとって置いたのはこの上もない軽率なことでしたな」と判事がいった。
「しかしそれよりも、伯爵がそれを予知していなかったかも知れないということの方がよっぽど軽率でした」とポワロがつぶやいた。
「とおっしゃると」
「つまりですね、私共はみんなローシ伯爵が女というものをよく知っていたという点を認めております。ところでそれほど女性というものを知っておる彼が、夫人が手紙をとっておくだろうということを予知しなかったでございましょうかね」とポワロがいった。
「なるほど、なるほど、ポワロ氏のいわれることにも一理ありますな。しかしあのような場合、人間はそう冷静ではいられないものです。もし犯人がみんな冷静で知的に行動するようでしたら、われわれはいったいどうやって彼らを捕えたらいいですかね」と判事は感傷的につけ加えた。
ポワロはひそかに微笑した。
「私には明白な事件に思われるのですが、困難なのはそれを証明することであります。伯爵はなまずのように捕えにくい男なので、小間使いが確認しない限りは……」と判事はいった。
「それはとうていできない相談でしょう」とポワロがいった。
「さよう、さよう、非常にむずかしいことになりそうですな」判事はあごをなでた。
「もし彼がほんとうに罪を犯したとしましたら……」とポワロがいいはじめると、判事がそれをさえぎって、
「|もし《ヽヽ》ですって? あなたは|もし《ヽヽ》といわれるのですか」といった。
「そうです。私は|もし《ヽヽ》と申します」
判事はポワロを鋭く見つめた。そして、
「あなたのいわれる通りです。われわれは行き過ぎでした。伯爵がアリバイをもつかも知れんです。そうなるとわれわれはばかを見ますな」といった。
「それは一例にすぎません、それはたいして重要ではございません。もし彼が犯人でしたら、当然アリバイを作っておくでしょう。伯爵ほどの経験者がそれだけの予防策をおろそかにする筈はありますまい。私が|もし《ヽヽ》と申したのは、それとは全く別の理由があってのことです」
「それは何ですか」
「心理です」
ポワロは自分の言葉を強調するように、人差指をふった。
「心理?」
「心理的誤算です。伯爵は悪漢なり……しかり。伯爵は詐欺師なり……しかり。伯爵は女たらしなり……しかり。伯爵はケッタリング夫人の宝石を盗む計画をたてた……それもまずよろしい。彼は殺人を犯す種類の人間か? しからず、と私は申します。伯爵のようなタイプの人間はみんな臆病者です。けっして危険はおかしません。安全で、卑劣で、英国人のいう汚い勝負をするものです。あの男が殺人するようなことは断じてありません!」
ポワロは殺人説を否定するように激しく頭をふった。しかし判事はそれに同意する素振りを見せなかった。
「そういう輩《やから》が度を失ってとんでもないことをしでかすということはありがちです。別にポワロさんにたてつくわけではないですが……」と彼は思慮深くいった。
「これは単なる私の意見です。事件は申すまでもなくあなたの掌中にあるのですから、あなたが適当とお思いになるように扱われるはずです」とポワロは急いで説明した。すると判事が、
「私はわれわれが捕える必要のあるのはローシ伯爵であるという考えに、満足しておるのであります。署長さんは?」
「私も同感でありますとも」
「オルデンさんは?」
「はア、あの男は徹頭徹尾の悪漢ですから、疑う余地なしです」と億万長者はいった。
「あの男を逮捕するのは困難でしょうが、最善をつくすんですな。すぐに電信で指令を発するといたしましょう」と判事はいった。
「私もお手伝いさせていただきましょう。あの男を捕えるのはさして困難ではございますまい」とポワロが申し出た。
「ええ?」
人々は彼を凝視した。小柄なポワロは心地よげに微笑をたたえながら説明した。
「物事を知るのは私の商売でございます。伯爵は利口な男でございます。彼は現在、アンチーブに借りておいたマリイナ荘におります」
ポワロ、事件を論ず
人々は尊敬をもってポワロを見た。疑いもなくこの小柄な男は大成功をおさめたのであった。
警察署長はうつろな笑い声をあげて、
「ポワロさん、あなたは私どものなすべき仕事をすべて教えて下さるのですな、あなたは警察よりもよく知っておいでなさる」と叫んだ。
ポワロは謙遜《けんそん》ぶった様子をして満足そうに天井を見つめていた。
「まアそんなところでございましょうね、もの事を知るのは私の道楽でございます。幸いにも私はその道楽に耽《ふけ》る暇もございます」
「なるほどね!」
ポワロは不意にオルデンの方を向いて、
「あなたには私の見解にご同感でいらっしゃいますか? あなたは確かにローシ伯爵が殺人者だと感じておいでになりますか」
「だが、そうらしく思われますし……そうです……確かにそうでしょう」
その答に何か用心しているらしいところがあったので、判事はオルデンをふしぎそうに見守った。オルデンは彼の詮索に気がついて、自らの心にくい入ってくるある考えを払いのけようと努力している様子であった。
「私の娘婿はどうしました? あなたの方から事件を通達されたのですね、ニースにおるということですが」と彼はたずねた。
「はア、それはもう……時にオルデンさんはケッタリング氏が当夜の青列車の乗客の一人であられたことはご存じでおられましょうな」
と、署長はためらいながらいった。
億万長者はうなずいた。
「ロンドンを出発する直前にききました」
「ケッタリング氏は夫人が同じ列車で旅行しておられる事実を知らなかったといっておられます」と署長は言葉を続けた。
「それはそうでしたろう。もし彼が同じ列車に妻が乗り合わせたのを知ったら、さだめし間の悪い思いをしたことでしょう」
オルデンは不快な面持ちでいった。
三人は説明を求めるように彼の顔を見守った。
「私は歯にきぬ着せずにいいますが、かわいそうに、娘がどんなに屈辱を忍んでいたかということは、誰も知らなかったでしょう。ケッタリングは一人旅をしていたのではありません。ある婦人を同伴しておりました」
「婦人?」
「ミレイユという舞踊家です」
カレージュ判事と警察署長とは何か以前二人でした会話を確認するがごとく互いにうなずき合った。判事は椅子の背によりかかり、両手を組み合わせて天井に目をやった。そして、
「ああ、怪しむ者もあり、噂をきく者もあり」とつぶやいた。
「その婦人は評判の女です」と署長はいった。
「それに非常に金のかかる女でございます」とポワロも口の中でいった。
オルデンの顔はまっ赤になった。
「いいですか、私の娘婿はひどい悪党ですぞ!」といってから、彼は人々の顔を次から次へと、にらみ付けるように見まわして、
「ああ、判っています、美貌と魅力のある快い態度、それに私もむかしはすっかり瞞《だま》されたものです。おそらく彼はあなた方からニュースを聞いた時には、悲嘆にくれてみせたでしょう。そして彼がまるで何も知らなかったような様子をしたのでしょう」といった。
「ところで全くこれはケッタリング氏にとって思いがけない驚愕であったようでした」
「いまいましい偽善者めが! さだめし痛恨にたえぬという風を装いましたでしょうとも」
「いや、いや、必ずしもそうとは申されませんです。そうでしたなア、カレージュさん」と署長は用心深くいった。
判事は指の先を合わせ、目を半眼に開いた。
「驚愕、当惑、恐怖、そういうものは確かにありましたが、非常な悲嘆というようなものはありませんでした」と裁判官らしくいった。
ポワロは再び口を開いた。
「オルデンさんに伺わせていただきますが、ケッタリング氏は夫人の死によって何か利益を得られますでしょうか」
「大枚二百万ばかりの利益を得ます」
「ドルでですか」
「ポンドでです。ルスが結婚するときに無条件で彼女の名義にしたのです。娘は遺言状を作成しておりませんし、子供もありませんから、妻の財産は自然に夫に行くことになります」
「夫人はその夫に対して離婚訴訟を起こそうとしておられた時だった訳でございますね……」
ポワロは独り言のようにいった。
署長は鋭い視線をポワロに向けて、
「あなたのご意見では……」といいかけると、
「私は何も意見をのべるつもりはございません。ただ事実を並べているだけでございます」とポワロはいった。
オルデンは興味をもって彼を見つめた。
小柄なポワロは立ち上がった。
「これ以上、私はもう何もお役に立ちそうもございませんですね、裁判官殿」といって、彼はカレージュにていねいに頭をさげた。そして、
「事件の発展につれて私にご連絡下さいますでしょうね、そうして頂ければありがたいと存じます」といった。
「もちろんですとも……それはおっしゃるまでもなく」
オルデンも立ち上がった。
「現在のところ、もう私《わし》にもご用はありませんですね」
「はい、今のところわれわれの欲する情報は全部得ましたので」
「では、もしポワロさんさえお差しつかえなければ、ごいっしょにその辺まで歩いて行きましょう」とオルデンがいった。
「結構でございますとも」
オルデンは葉巻を出してポワロにすすめたが、彼はそれを辞退して自分の細巻の煙草を出して火をつけたので、オルデンは自分の太い葉巻をくゆらした。二人はしばらく黙って歩いていたが、やがて億万長者は口を開いた。
「ポワロさんはもう以前の職業はなさらんのですか」
「さようでございます。私は目下人生を楽しんでおりますところでございます」
「それにもかかわらず、この事件では警察に力をお貸しになるのですか」
「もし医者が散歩している途中で何か事故が起こり、目の前に出血のため死に瀕している人間が横たわっているのに、私はもう引退したのだからといって散歩をつづけるでしょうか。もしも私がすでにニースにいて、そこへ警察から手を貸してくれといって使いをよこしたのでしたら、拒絶したでしょう」
「あなたは現場に居合わせておいでだったのですね、列車の部屋をお調べになったのではありませんでしたか」
ポワロはうなずいた。
「もちろんあなたは何か謎を解く材料のようなものを発見されたことでしょうね」
「たぶん」
「私が何をいおうとしているか判っていただきたいと思いますが。私にもローシ伯爵の有罪はかなり確実のように思われます。ところで私はこの一時間ばかりあなたを観察していて、あなたが何かの理由でこの推理に同感しておいでにならないことを知ったのですが?」
ポワロは肩をすくめた。
「あるいは私が間違っているかも知れません」
「そこで私は一つあなたにお願いしたいのですが、この事件について私のためにお働き願えませんか」
「あなた個人的にでございますか」
「そういう意味でです」
ポワロはちょっと考えてから、答えた。
「あなたはどういうことを私に頼んでおいでになるか判っておいでなのでしょうか?」
「判っているつもりです」
「よろしゅうございます、お引き受けいたしましょう。その代わり、私の質問に正直に答えていただかなければなりません」
「もちろんです。それはよく承知しております」
ポワロの態度は急に職業的になった。
「離婚の件ですが、あなたがそれを申請するようにお嬢さまに忠告なすったのですね、それはいつでしたか」
「十日ほど前です。私は娘から夫の業績に対する不平を訴える手紙を受け取りました。それで私は娘を救う道は離婚よりほかないことを説いて聞かせたのでした」
「お嬢さまはどういう点を訴えられたのですか」
「夫がひどく評判の悪い婦人……先刻も噂にのぼったミレイユというのと連れだって歩いているということを苦にしておりました」
「舞姫ですね、ケッタリング夫人はそれに不服を唱えられたわけですね。時にお嬢さまはケッタリング氏に対して忠実な奥さまでいらっしゃいましたか」
「そうだったとはいえません」
オルデンはためらいながらいった。
「すると苦しんだのはお嬢さまの感情ではなく、自尊心だったわけですね」
「そういうふうにもいえると思います」
「私の推測では、この結婚は最初から幸福なものではなかったようですが、いかがですか?」
「ケッタリングは心底から腐ったやつで、どんな女性をも幸福にできない男でした」
「英国流に申しますと不良仲間というところでございますね、そうではございませんか?」
オルデンはうなずいた。
「結構です! あなたは離婚をすすめ、お嬢さまはそれに同意し、あなたは弁護士に依頼されたと、……そこでそういうことが密かに行なわれているのをケッタリング氏が知ったのはいつでしたか」
「私の方から彼を呼び寄せて、私がどういう手段に出るかを説明しました」
「これに対してケッタリング氏は何といわれたでしょうね」ポワロは穏やかにたずねた。
オルデンの顔は、その時の会見を思いだして暗くなった。
「彼はとほうもなく無礼でした」
「こういう質問をだすことをお許し下さい。その時、ケッタリングさんはローシ伯爵のことを口にされましたでしょうか」
「名は出しませんでしたが、その件を承知しているらしいそぶりを見せました」
オルデンは思わず声を荒らげた。
「ケッタリング氏の経済状態は?」
オルデンは、いくらかためらった後、
「私がどうしてそんなことを知っているとお思いになるのですか」といった。
「あなたは当然この点を調査されたはずだと思ったからです」
「そうです……あなたのおっしゃる通りです。私は調べさせました。そしてケッタリングが金に窮していることを発見しました」
「ところが今や氏は二百万ポンドの遺産を手に入れました! 全く妙なことです」
「それはどういう意味ですか」
「私は道徳的に説明し、熟考し、哲学を語ります。それはそうと本筋にもどりましょう。ケッタリング氏は法廷で争わないで、離婚を承知するようなことはなさらなかったと思いますが、いかがですか」
オルデンは一、二分考えてから答えた。
「彼がどういう意向だったか私は知りません」
「あなたはその後、更に氏と連絡をとられませんでしたか」
ふたたびオルデンはいくらか間をおいて、
「いいえ」と答えた。
ポワロは急に立ち上がり、帽子をぬいで右手をさしだし、
「では私はここでお別れをします。そして、私はもうあなたのために、なにもして差しあげることができませんから」といった。
「あなたはいったい何をいっておいでなのですか」
「あなたが正直に真実のことをお話下さらないのでは私には何もできません」
「どういう意味でそんなことをいわれたのか、私にはわかりかねます」
「ご存じだと思います、私はどんなに慎重に振舞わなければならないかをよく心得ておりますから、どうぞその点はご安心下さい」
「よろしいです。では、私が今、真実を語らなかったことを認めます。私は更に娘婿と交渉をしました」
「それで?」
「正確に申しますと、私は秘書のナイトン少佐を彼のもとに遣わして、もし抗弁しないで離婚したなら、現金百万ポンドを提供すると申し入れさせました」
「莫大な金額でございますね、それで氏からあなたへの答は?」
「勝手にしやがれ! という返事でした」
「なるほど!」とポワロはいった。
彼はなんらの感情も表現しなかった。その時彼は事実の数々を組織的に記録することに気を取られていたのである。
「ケッタリング氏は警官に旅行中夫人に会いもしなければ話もしなかったといわれましたが、あなたはそれをお信じになりますか」
「信じますね、彼は自分の妻に出会わないように特別に苦心したはずです」
「なぜですか」
「例の女といっしょだったからです」
「ミレイユですか」
「そうです」
「あなたはどうしてその事実をお知りになったのですか」
「彼を監視させるために雇っておいた男が、あの二人がその列車で英国を出発したことを報告しました」
「なるほど、そういうことですと、あなたのいわれた通り、氏はなんとしてもケッタリング夫人と連絡を取るはずはございませんですね」
ポワロはそれっきり黙りこんでしまった。オルデンは彼の黙想をさまたげようとはしなかった。
3 ローシ伯爵出頭
貴族的紳士
その翌朝、ポワロは自分の召使いに、
「ジョージ、お前は以前リビエラへ来たことがあるかね」と声をかけた。
ジョージは徹頭徹尾イギリス人で、木彫の面のような顔をした男であった。
「はい、旦那さま、フラムトン公に仕えておりましたとき、二年前になりますがこちらへ参りました」
「そして今はこうしてエルキュル・ポワロとここへ来ているとは、なんと出世したものだ!」
召使いはこれに対しては何もいわなかった。適当な間をおいて彼はたずねた。
「茶色の散歩服にいたしましょうか、旦那さま。今日は風がいくぶん冷たいようでございます」
「チョッキに油のしみがついているよ。先週の火曜日にリッツで昼食をしたとき、平目の料理のとばっちりがついたのだ」
「旦那さま、しみなどはございません。私が取っておきました」
「でかした! ジョージ、お前はなかなか気がつくね」
「ありがとうございます」
沈黙が続いた後、ポワロは召使いにたずねた。
「もしもだね、お前が前の主人フラムトン公のような社会的地位を持っているとして、お前が一文無しで非常な金持ちの妻と結婚した、ところが妻はある正当な理由で離婚を申し出たとしたら、お前はどうするね?」
「私だったら彼女が考え直すように骨を折るでございましょう」
「平和的手段でかね? それとも、強制的にかね?」
「失礼ですが、旦那さま、かりにも貴族たる紳士が場末の行商人のような下賤な真似《まね》はいたしません」ジョージは、心外だという面持ちでいった。
「そうだろうかねえ、ジョージ? 私は今それを訝《いぶか》っているのだが、まあお前の方が正しいのかも知れない」
戸をたたく音がした。ジョージは戸口へ行って用心深く一、二インチほど細目に戸をあけて、低くささやく会話のやり取りの後、ポワロのところへもどって来た。
「通知状でございます、旦那さま」
ポワロはそれを受け取って見ると、警察署長コオ氏からであった。
――ローシ伯爵ノ審問ニ当タリ、裁判官閣下ハ貴下ノ臨席ヲ希望イタサレ候
「私の服を早くだしてくれ、ジョージ! 大急ぎで出かける」
それから十五分後に、茶色の背広を粋《いき》に着こなしたポワロは、予審判事室へ入っていった。署長はすでに来ていて、カレージュ判事とともにポワロを慇懃《いんぎん》に迎えた。
「事態がどうも香ばしくないのです」と判事は囁いた。
「伯爵は殺人が行なわれた前日にニースに到着している模様でして」
「もしそれが事実なら、この事件はあなたにとってまことに結構なことになりましょうね」とポワロは答えた。
「われわれは細心の注意をもって訊問した上でなければ、そのアリバイを受け入れるわけにはいきませんな」といって、判事は手をのばして卓上の呼鈴《ベル》を鳴らした。
次の瞬間に、どこか高慢な顔つきの、りゅうとした服装をした、丈が高く、髪の毛の黒い男が部屋へ入って来た。それはローシ伯爵であった。どこから見ても伯爵はいかにも貴族らしく見えるので、誰かが彼の父親はナントで雑穀商を営んでいた名もなき男であったと陰口をきいたとしても、誰も信じる者がないほどであった。
「紳士諸君、私は出頭いたしました。どういうわけで私に面会をお求めになったか伺いましょう」
伯爵の態度はどこまでも横柄《おうへい》であった。
「伯爵殿、どうぞおかけ下さい。私どもはケッタリング夫人の死なれた事件について取り調べておるのであります」と判事が丁寧にいうと、
「ケッタリング夫人の死ですって? それがどうしたというのですか」
「あなたは……うむ……あの、その婦人とお知り合いであられたと思いますが」
「たしかに私は夫人と知り合いです。それが事件とどういうかかわりがありますか」
伯爵は片眼鏡を目にはめて、冷ややかに室内を見まわしていくうちに、ポワロに一番長く視線をとめた。そして彼が感嘆したような目つきで自分を見守っているのを見て、虚栄心を大いに満足させた。
判事は、咳ばらいをしてから口を開いた。
「伯爵はおそらく、ケッタリング夫人が殺害されたことはご存じありますまいな」
「殺された? それはまア、なんという恐ろしいことだ!」
その驚きようといい、悲しげなようすといい、全く自然と思われるほど巧みに演じられた。
「ケッタリング夫人は、リヨンとパリの間で絞殺されたのです。そして宝石を全部盗まれました」と判事は言葉をつづけた。
「無法きわまることだ! 警察は列車強盗に対してなんとか手をうつべきだ! これでは誰も安全とはいえない」伯爵は激しく叫んだ。
「夫人のハンドバッグの中にあなたから夫人にあてた手紙が発見されました。あなたは夫人に会われる手はずのようでしたな」
伯爵はフランス人がよくやるように肩をすくめ、両手をひろげて見せて、
「今さら隠しだてしたところで何になりましょう、ここだけのことですが、私は夫人との関係を承認します」と正直にいった。
「あなたはパリで夫人と落ち合って旅行をともにされたのですね」
「それは最初の計画だったのです。しかし夫人の希望でそれは変更され、私はイエールで落ち合うことになっていました」
「あなたは十四日の夕方、リヨン口《ぐち》停車場で、夫人に、列車の上で会われませんでしたか」
「ところが私はその日の朝ニースに来ていましたから、あなたのいわれるような、そんなことはできないじゃありませんか」
「全くその通りですな。十四日の夕方から夜にかけてのあなたの行動についてお話しいただけませんですか」
伯爵はしばらく考えた上で、
「私はモンテカルロのカフェ・ド・パリで夕食をしたためました。その後で賭博場《カジノ》へ出かけて行って五、六千フランほど勝ちました。帰宅したのはたぶん一時ごろでしたろうか」といって、肩をすくめた。
「失礼ですが、どうやって帰宅されましたか」
「自分の二人乗り自動車で帰りました」
「どなたかごいっしょではなかったですか」
「誰も」
「あなたはその陳述を裏書する証人をおだしいただけますか」
「私は一人で食事をしましたが、当夜私がそこにいたことは多くの友人が見たと思います」
「あなたが別荘へ帰られた時、召使いがあなたを迎え入れたのでしたか」
「私は合鍵を使って自分で家へ入りました」
「ああ!」と判事はつぶやいた。
判事はふたたび卓上の呼鈴《ベル》を鳴らした。戸があいて給仕が現われた。
「小間使いのメイゾンをよこすように」
「かしこまりました」
アダ・メイゾンが連れてこられた。
「この紳士を見てもらいたいのです。パリであなたの女主人の室へ入って来たのはこの方かどうか、よく考えてみて下さい」
女は伯爵を探るように長い間見つめた。ポワロは伯爵がその検査に落ち着かないようすを見せたように思った。
「私、たしかなことは申し上げられません、この方だったかも知れませんし、またそうでなかったかも知れません。背後から見ただけでございましたから、はっきりしたことを申し上げるのはむずかしゅうございます。でもこの方だったような気がいたします」とメイゾンは答えた。
「だが確かではないのですね」
「はい、確かにそうだとは、申しきれませんけれど……」
「あなたは以前カーゾン街の家でこの紳士を見たことがありますか」
メイゾンは頭をふって、
「お泊り客ならいざ知らず、普通カーゾン街へおいでになるお客様を私がお見かけするようなことはございません」と説明した。
「ご苦労でした。ではそれでもうよろしい」
判事は明らかに失望していた。
「ちょっと待って! 判事殿、よろしかったら一つ質問させていただきたいことがあります」とポワロがいった。
「よろしいですとも、どうぞ何なりおきき下さい」と判事は答えた。
ポワロは小間使いに向かって話しかけた。
「切符はどうなりましたか」
「切符でございますって?」
「そう、ロンドンからニースまでの切符を、奥さまがお持ちだったか、それともあなただったか?」
「奥さまは一等寝台車の切符をご自分でお持ち遊ばしていらっしゃいましたが、その他の切符はみんな私が持っておりました」
「それはどうなりました?」
「フランスの列車に乗ってから、車掌にみんな渡してしまいました。そうするものだと車掌が申しましたので」
「それが当然です。ただ、たしかめておきたかっただけのことです」
コオ署長もカレージュ判事も、そういうポワロを不思議そうに見守っていた。メイゾンはしばらくためらいながら立っていたが、判事がもうよろしいとうなずいたので部屋を出ていった。ポワロは何か紙片に走り書きして判事に渡した。
「私はまだ引き留められておらねばならぬのですか」伯爵は横柄にいった。
「とんでもない、この事件に関する伯爵の身辺は明白になりましたのですから、これ以上お引き留めすることはないのであります。ただケッタリング夫人の所持しておられた手紙に関して、おたずねしたかっただけのことでした」と判事はひどく愛想のいい態度でいった。
伯爵は立ち上がり、隅に立てかけてあった立派なステッキを取り上げると、いくらかぞんざいに頭をさげて部屋を出て行った。
「これでよろしい、ポワロさんのおっしゃる通りです。彼に疑いがかかっていないと思いこませておく方がよろしいでしょう。尾行を二人昼夜つけることにして、と同時にアリバイの方を洗ってみるんですな」と判事は鼻の頭をなでながらいった。
「ことによるとですね」ポワロは考えこみながらいった。
「今朝ケッタリング氏に出頭してもらうように申し送っておきました。たいして質問することはないと思いますが一、二疑わしい事柄がありますので……」と判事がいった。
「たとえば?」ポワロがたずねた。
「ケッタリング氏が旅行をともにした婦人ですな、ミレイユ嬢ですが……彼女と氏とは別のホテルに滞在しておる事実がありますので……」と判事がつけ加えた。
「その事実は、その二人が警戒しているという印象を与えますからなア」と署長はいった。
「それですよ! その二人がなぜそうした警戒を必要とするかということです」判事は誇らしげにいった。
「警戒の過剰は疑惑を起こさせるというわけでございますね」とポワロは皮肉った。
一、二分後に、ケッタリングがいつもの優雅な態度で部屋へ入って来た。
「お早うございます」判事はていねいに挨拶した。
「お早う! お迎えを受けましたが、何か新事実でもあがりましたかな」
「どうぞおかけ下さい」
ケッタリングは椅子に腰をおろして、帽子とステッキをテーブルの上に投げだした。
「それで?」彼は気短にたずねた。
「今までのところ新しい資料は得ておりませんが……」とカレージュ判事は用心深くいった。
「それはたいそう興味のあることですな、それを聞かせようというので僕を呼び寄せたのですか」ケッタリングは皮肉にいった。
「われわれはあなたが当然事件の進展について報告を望まれるだろうと思っておりますので……」
「何の進展もないことまでも知らせて下さるのですか」
「いや、われわれはあなたにおたずねしたいことが、二、三ありますので」
「たずねて下さい」
「あなたが列車中で奥さまにお会いにもならず、また、お話もなさらなかったというのは、ほんとうにたしかですか」
「それなら前にも答えた通りです。僕は妻に会いませんし、したがって口もききませんでした」
「申すまでもなく、それには何か理由がおありでしょうな」
「僕は……彼女が……列車に……乗っていたことを……知らなかったのです」と、まるで子供か何かのように彼は言葉を一言、一言、ぽつんぽつんととぎれがちにいった。
「さよう、あなたはそういわれましたな」と、判事がいうと、ケッタリングの顔に不興の色がみなぎって来た。
「あなたはいったい何をいおうとしていらっしゃるのですか、カレージュさん、僕が何を考えているかご存じですか」
「何をお考えですか?」
「僕はね、フランスの警察は非常に買いかぶられていると思うのです。あの列車強盗に関する資料をあなた方が何も得ていないということがありますか! ああいう豪華列車にあんな事件が起こり、しかもフランス警察がそれに処するだけの能力を持たないとは実に言語道断ではないですか!」
「ご心配無用です。われわれは目下懸命に対処しております」と判事はいい返した。
その時ポワロがとつぜん横合いから、
「ケッタリング夫人は遺言状も作成しておかれなかったそうでございますね」といった。
「今まで一度も書いたことはなかったようです。なぜですか?」ケッタリングが問い返した。
「それであなたは大した財産を相続されましたね、かなりの財産を」とポワロが、天井を見つめているふうをしながらいった時、ケッタリングの顔に血がのぼって来た。
「どういう意味なのですか? あなたは何者ですか?」
ポワロはおもむろに組んでいた膝をほぐし、天井に向けていた視線をケッタリングの顔に向けた。
「私の名はエルキュル・ポワロともうします。おそらく私は世界中で最も偉大な探偵でございます。さてあなたが列車中で奥さまに会いもしなければ口もきかれなかったとおっしゃるのは、ほんとに確実でございましょうか?」とポワロはおだやかに聞いた。
「いったい何を突き止めようとしていらっしゃるのですか、あなたは……あなたは僕が妻を殺したということを遠まわしにいっていらっしゃるのですか!」彼は急にふきだしながら、
「全く腹も立たない……これはあまりにばかげたことだ。もし僕が殺したとしたら、何も宝石を盗むことはないではないですか、そうでしょう?」
「それもそうですね。私はそこに気がつきませんでした」ポワロはいかにもしょげたようにつぶやいた。
「もし殺人強盗の明確な例をあげるとすると、これはその一つです。かわいそうなルスが、こんな目に逢ったのはあの呪わしいルビーのおかげです。以前にも同じルビーが原因で殺人が行なわれたと僕は聞いています」
ポワロは突然にいずまいを直した。彼の目には微かに緑色の光がさして来た。彼はまるで栄養の行き届いたつやつやした猫のように見えた。
「ケッタリングさん、もう一つだけ伺いますが、あなたが奥さまに最後にお会いになった日づけをお知らせいただきたいのです」
「ちょっとお待ちなさい。それは……そうですね、三週間以上前でした。はっきりした日づけは覚えていません」
「それはどうでもよろしいことです。私が知りたいのはこれで全部でございます」とポワロはそっけなくいった。
「さて、もうほかに質問はないですか」
ケッタリングは判事の方を見て気短にいった。判事はポワロがごくわずかに頭をふったのを見てとって、
「はあ、もう何もありません。私はこれ以上あなたをおわずらわせすることはないと思います。ではどうぞお引き取り下さい」と丁重にいった。
「さようなら」
ケッタリングは背後の戸をたたきつけるようにして出て行った。彼が部屋を出るやいなや、ポワロは前へ身をのりだしていった。
「お聞かせ下さい! あなたはいつケッタリング氏にあのルビーのことをお話しになりましたか」
「私は話しませんよ。きのうの午後、オルデン氏からはじめて聞いたばかりです」と判事はいった。
「しかし、そのことは伯爵の手紙の中に書いてありましたね」
こういわれて、判事は腹立たしげな顔つきをして、
「あたりまえのことです、私は手紙の件などケッタリング氏に話すような無分別なことはいたしません」と判事は呆れたという調子でいった。
ポワロは前かがみになって、テーブルを指先でたたきながら、
「では、どうして氏はその宝石のことを知っていたのでしょう。ケッタリング氏は夫人に三週間以上も会わないでいたのですから、夫人が話すわけがありません。オルデン氏や、秘書のナイトンが話したとは考えられません。あの人たちとケッタリング氏との会見は全く性質が異なっておりました。新聞にもまだ宝石のことは匂わしてもありません」とポワロは答を求めるように、静かに、立ち上がって、帽子とステッキを取り上げながら、
「それにもかかわらず、あの人は宝石のことをよく知っていた。不思議なことだ、実に不思議だ!」と、独り言をいった。
ケッタリング、昼食をする
ケッタリングはまっすぐにネグレスコ・ホテルへ行って、カクテルを二杯注文した。彼はそれをたて続けに飲みほしてしまうと、ふさぎこんできらめく青海を見つめた。彼は無意識に通行人に注意していた。……ひどく退屈な群衆、無趣味な服装をした人々……近ごろは見る価値のあるようなのはほとんどない。……
だが彼は少し離れたテーブルについた婦人を見るに及んで、その最後の印象を速やかに取り消した。彼女はオレンジと黒のすばらしい流行衣装を身につけ、小型の帽子が顔をかげにしていた。彼は三杯目のカクテルを注文した。そしてふたたび海を見つめていたが、不意にはっとした。よく知っている香水が鼻孔をついたのである。顔をあげるとすぐそばにオレンジと黒の婦人が立っていた。ミレイユだった。彼女はあの不遜な誘惑的な微笑を浮かべていた。
「あなた、あたしに会ってうれしくないの?」
彼女はテーブルの向こうがわに腰をおろして、
「いやな人、ちっとも歓迎してくれないのね」と皮肉のようにいった。
「あまり突然なんでびっくりしたんだよ、これは思いがけない喜びだね、いつロンドンを立ったの?」
「一日か二日前よ」彼女は肩をすくめた。
「パルテノンへ出ないの?」
「あたし、あすこ振っちまったといったら、あなたなんていう?」
「ほんとうに?」
「あなたは、ちっとも優しくしてくれないのね」
「僕にそんなことを期待するのかい?」
ミレイユは煙草に火をつけて、次の言葉を口にする前しばらくそれを吹かしていた。
「あたしたちがあまり早く仲よくするのは、慎しみがないとでもいうの?」
ケッタリングは女の顔を凝視した。それから肩をすくめて、他人行儀にたずねた。
「あなたはここで昼食をなさるのですか」
「あたし、あなたとお食事するのよ」
「お気の毒ですが、僕はほかに約束があるのです」
「あら、いやだ! 男って子供みたいねえ、ロンドンであたしのアパートを飛びだして行ってからこっち、あなたはあたしに対してまるで他人行儀な態度をとるようになったのね、あきれた人!」と舞姫はいった。
「つんぼのお嬢さん、僕には君が何をいっているのか、さっぱりわからないですね。ロンドンで鼠は沈没する船から逃げるということに話がついたはずですよ」
呑気らしい口のきき方をしているにもかかわらず、ケッタリングの顔はやつれて緊張しているように見えた。ミレイユは急に前へかがんで、
「あなたはあたしを騙《だま》すことはできなくてよ、あなたがあたしのために何をしたか、あたしちゃんと知ってるわ」とささやいた。
彼は鋭く女の顔を見あげた。彼女の声の底に流れているある調子が彼の注意をひいたのであった。彼女は彼にうなずいて見せた。
「怖がることなくてよ、あたし用心深いから。あなたはすばらしいわ! あなたは実に見あげた勇気を持ってるのねえ。でも、もともと知恵を授けてあげたのはあたしなのよ、ほら、あの日ロンドンで、時には事故が起こるものだっていったでしょう。大丈夫? 警察ではあなたを疑ってないでしょうね」
「いったい何をいいだすんだ……」
「しっ!」
彼女はおさえるように大きなエメラルドを小指に飾った小麦色のきゃしゃな手をあげた。
「あなたは正しいわ、わたしたち公の席でこんな話するんじゃなかったわね、もうあのことは話すのよしましょう。でもあたしたちの難儀はもうおしまいになったわ。二人で暮らすの、とてもすばらしいじゃないの……」
ケッタリングは突如、鋭い不愉快な笑い声をあげた。
「なるほど、鼠どもはもどってくるっていうわけか! 二百万ポンドは事情をかえるからね、僕はそれに気がつくべきだった」彼は苦笑いをしながら言葉をつづけた。
「ミレイユ、お前はその二百万の金を使う手伝いをしてくれるんだね、どんなふうに使うかお前はよく知っている。どの女よりもよく知っているはずだ」といった。
「しっ! あなたはどうしたの? ごらんなさい、みんながふり返ってあなたを見てるじゃないの!」とミレイユが叫んだ。
「僕か? 僕がどうしたか聞かしてやろうか、僕はもうお前とは縁切りだ、ミレイユ! 聞こえたかね? これっきり縁切りだ!」
しかし、ミレイユは、彼が予期したような態度はとらなかった。彼女は一、二分彼を見つめていたが、やがて優しく微笑した。
「なんていう子供なの! あなたは怒っているのね……私が現実主義だっていったので気を悪くしてるのね、あたしいつだって、あなたを崇拝しているっていっていたじゃないの?」彼女は彼の頬へ顔を寄せて、
「あたし前にもあなたを愛してたけれど、これからはその百倍も愛すわよ。あたし、あなたの人生をすばらしくしてあげるわ、すてきにしてあげるわ! 世の中にミレイユほどの女はほかにないことよ」
彼女の目は彼の目の中へ燃えこんでいった。彼女は彼が青ざめて、深く息をすいこむのを見て満足の微笑を浮かべた。彼女は男に及ぼす自分の魔力を知っていた。
「これできまったわね」と彼女は優しくいって、可愛い笑い声をあげた。そして、
「さあ、あなた、あたしにお昼ごはんをご馳走してくれるわねえ」といった。
「だめだ!」彼は激しく息をのみこんで、立ち上がった。
「あなたが、誰かよその人と食事するんですって? そんなことあたし信じないわ」
「僕は、あの婦人と食事をするのだ」
彼はその時、階段をのぼって来た、白衣の婦人のそばへつかつかと歩み寄って、少し息をはずませながら話しかけた。
「グレイ嬢、あのう、僕と……僕と食事をともにして下さいませんか。タムリン伯爵夫人のお宅でお目にかかりましたね、覚えていらっしゃるでしょう」
キャザリンは情味ゆたかな灰色の目で、じっと彼を見つめた後、
「ありがとうございます」といってから、ちょっと間をおいて、
「よろこんでそうさせていただきます」といった。
意外な訪問者
ローシ伯爵は贅沢な朝食をすませたところであった。ナプキンで黒い美しい髭《ひげ》をそっと拭いて、伯爵は食卓を離れた。彼は別荘の客間をゆっくり歩きながら、その辺に無造作にちらばっている五、六の美術品を満足そうに見まわした。ルイ十五世のかぎ煙草入れや、マリー・アントワネットのはいた繻子《しゅす》の靴、その他の歴史的くだらない品々が、伯爵を演じる舞台の小道具であった。僕は美しい訪問者たちに、それらの品を先祖伝来の宝物だと説明するであろう。バルコニーに出ると、漠然と目を地中海に向けた。彼は風光の美など鑑賞する気分にはなっていなかった。十分に熟しきった計略が不意に無価値なものにされてしまったので、彼は新たに計画の立て直しをしなければならなかった。彼は籐椅子にからだを横たえて、白い指の間に煙草をはさんだまま深い物思いに沈んだ。
やがて彼の従僕のヒポリットが、コーヒーと選りぬきの酒を数本持って来た。
従僕が立ち去りかけると、伯爵はちょっとした身ぶりで彼を呼びとめた。ヒポリットは謹んで立ちどまった。
「ここ数日間は、種々雑多な他人がこの家へ訪ねてくるに違いない。その連中はお前やマリーと近づきになろうと骨を折るだろう、そしてお前に私のことをいろいろとたずねるであろう」と伯爵はいった。
「はい、伯爵さま」
「すでにそういうことがあったかも知れない」
「いいえ、伯爵さま」
「誰も他人はこの辺に来ないかね?」
「誰も参った者はございません、伯爵さま」
「それはよかった。だがきっと来るに違いない、その連中はお前に質問するだろう」
ヒポリットは、賢くも万事をのみこんでいるようすで、主人を見守っていた。伯爵は彼の方を見ないでゆっくりと話した。
「お前も知っての通り、私は先週の火曜日の朝ここへ着いたのだ。もし警官なりそのほか誰でもお前にたずねた場合は、その事実を忘れてはいけないぞ。十五日の水曜日ではなく、十四日の火曜日だ、わかったね」
「はい、よくわかりました、伯爵さま」
「それから婦人関係のことについては常に用心深くする必要がある。私はお前が用心深くやってくれていることはたしかだと思っている」
「はい、私どもは用心深くいたしております」
「では、それでよろしい」
召使いが退ってしまうと、伯爵はコーヒーをすすりながら、眉をひそめて考えこんでいた。そこへ、ヒポリットがまた入って来た。
「旦那さま、ご婦人がお見えになりました」
「婦人?」伯爵は驚いた。
マリイナ荘に婦人の訪問を受けることは珍しくはないが、この特別の瞬間、その婦人が誰であるか考えがつかなかったのであった。
「そのご婦人は旦那さまのご存じの方ではいらっしゃらないようでございます」従僕は主人の考えを助けるように小声でいった。
伯爵はますます好奇心をそそられた。
「こちらへお通しおし、ヒポリット」
間もなくオレンジと黒のすばらしい夢のような婦人が、強い異国の花の香水を漂わせながらバルコニーへ現われた。
「ローシ伯爵さまでいらっしゃいますか」
「さようでございます、お嬢さま」伯爵は慇懃《いんぎん》に頭をさげた。
「あたしの名はミレイユ、お聞きになったことおありでしょう」
「存じあげている段ではありません、ミレイユ嬢の踊りに魅せられない者がどこにございましょう。絶妙でございます」
舞姫はその賞賛を機械的な微笑で受けた。
「不意打ちするなんてぶしつけですけれど」と彼女はいいはじめた。
「さあどうぞおかけ下さい」といって伯爵は椅子を前へだした。
彼は慇懃《いんぎん》に振舞いながら、相手を細かに観察していた。伯爵は女について知らないことはほとんどなかった。彼の経験はミレイユのような掠奪階級の女性には、あまり及ばなかった。彼と彼女とは、ある意味では同類であった。伯爵は自分の手管《てくだ》などは彼女には役に立たないことを承知していた。彼女は抜け目のないパリっ子だ、しかし伯爵は相手が何かひどく怒っていることを見てとった。そして怒れる女というものは常に無分別なもので、冷静な頭脳を持つ男にとって、しばしば利益の本源となることをよく知っていた。
「私の貧しい住居にかくもご光来下さるとは実にご親切なことでございます」
「あたしたちパリには共通のお友達があるのよ。で、あたしその人たちからあなたのことを聞いていたの。だけれど今日はあたし別のわけがあって会いに来たのよ。あたしニースへ来てからあなたのこと聞いたわ、お分かりでしょう、別の意味で」とミレイユはいった。
「とおっしゃると?」伯爵はおだやかにいった。
「あたし残酷か知れないけど、あなたの幸福を考えていることだけは信じてね。ニースでは、伯爵さま、あなたのことを英国人のケッタリング夫人を殺した犯人だと噂しているのよ」
「私がねえ……私がケッタリング夫人を殺しましたとはね……なんというばかげたことでしょう!」
彼は憤慨しないで、わざと物憂げないいかたをした。そうすることによって、女をもっと怒らせることを承知していたからである。
「そうなのよ、あたしのいう通りなのよ」
「噂話なんてほんとうに面白いものですね、そういうばかげた非難を本気になって取り上げるのは、自分の品位を下げることになります」伯爵は無関心につぶやいた。
「あなた、あたしのいう意味が、わからないのね! これは世間の噂話ではなくて、警察なのよ」ミレイユは前へ身をのりだすようにしていった。彼女の黒い目は火を吹いていた。
「警察が?」伯爵は急に緊張して坐り直した。
「そうなのよ、おわかりでしょ……あたし、あちこちにお友達があるんですもの! 知事さまだって……」
「美しいお方に関しましては、無分別にならない者は誰一人ございますまいね」伯爵は礼儀正しく答えた。
「警察ではあなたがケッタリング夫人を殺したと思っているのよ、でもそれは間違いだわ」
「そうですとも、あの人たちの間違いにきまっております」伯爵は簡単に同意した。
「あなた、そうはいうものの、真実のことを知らないでしょう、あたしは知ってるのよ」
伯爵は不思議そうに彼女を見守った。
「あなたは誰がケッタリング夫人を殺したか、ご存じなのですか? お嬢さまはそれをいおうとしておいでになるのですか?」
「そうよ」ミレイユは大きくうなずいた。
「それは誰ですか?」伯爵は鋭くたずねた。
「あの人の夫よ」彼女は伯爵の方へ顔を寄せて低い声でいった。
「夫人を殺したのはあの人の夫よ」その声は怒りと興奮に震えていた。
伯爵は椅子の背によりかかった。彼の顔は面のようであった。
「伺いますがね……あなたはどうしてそれをご存じなのですか?」
「どうして知ってるかっての? あの人は手まわしよく自慢してたんですもの。あの人は破滅し、破産し、名誉を失うところだったのよ。自分を救うのは妻の死だけだって、あたしに話したのよ。あの人は奥さんと同じ列車で旅行したのよ。奥さんの方にはそれを知らせなかったのよ。なぜだとおききになるの? そりゃア夜中にあの人がそっと忍びこんで……ああ! あたしそれからどんなことが起こったか目に見えるわ……」女は目を閉じた。
伯爵は咳ばらいをした。
「あるいは……あるいは……しかし、もしもそうなら宝石を盗むことはなかったでしょうに」
「宝石! 宝石! あ、あのルビー……」
ミレイユの目に夢見るような光がさして来た。伯爵は毎度のことながら宝石が女性に及ぼす魔術的な影響に驚嘆して、彼女を不思議そうに見守っていた。彼は彼女の注意を現実的な問題に呼び返した。
「で、あなたは私にどうしろとおっしゃるのですか」
ミレイユは敏活になり、もう一度事務的になった。
「とても簡単なことだわ、あなたが警察へ行って、ケッタリングがこの罪を犯したっていえばいいでしょ」
「もし警察で信じなかったら? もし証拠をだせといわれたら?」彼は彼女の顔をじっと見つめた。
「警察の人をあたしんとこへおよこしなさいよ、あの人たちの欲しがる証拠をやるわ」
といい終わると、彼女は一陣の風のごとくに立ち去った。伯爵は眉を優雅にあげて、彼女を見送った。
「ご立腹のていだが、いったい何が、あの夫人の心をあんなに乱したのであろう? とにかく私に目的をはっきりと打ち明けて行った。彼女はほんとうに、ケッタリング氏が妻を殺したと信じているのであろうか? 彼女は私に信じさせたがっていたし、警察にもそう信じさせたがっているようだ」
彼はひとり微笑した。彼は警察へ行く意志など更になかった。彼の微笑から察するところ、彼はそうすることによって起こるだろうと思われるさまざまな場合と、不愉快な光景を心に浮かべているらしかった。
しかしながら、やがて彼の顔は曇った。ミレイユの言葉によると、彼は警察から嫌疑をかけられているのだ。それはほんとかも知れないし、そうでないかも知れない。ミレイユのような種類の女が怒ると、真実を語るなどということには、あまり重きをおかないものである。一方また彼女は内輪の情報を手に入れることができるかも知れない。もしそうなら相当の警戒を要する。
彼は家の中に入って、もう一度ヒポリットに誰か他人が家に来なかったかどうか厳しく質問した。従僕は断じてそんなことはなかったと、くり返していった。伯爵は二階の寝室へ上がって行って、壁ぎわにおいてある古いひきだしつきの机へ近づいた。彼はその机の蓋をあけて、仕切棚の一つに細い指を入れてその奥にあるスプリングを探った。秘密のひきだしが飛びだした。その中に小さなハトロン紙包みが入っていた。伯爵はそれを取りだし、手のひらに載せて一、二分、注意深く目方をはかった。彼は手を頭にあげて、ちょっと顔をしかめて髪の毛を一本ぬいた。それをひきだしのへりに載せて、注意深くひきだしを閉めた。彼はハトロン紙包みを持ったまま階下へ降りて行くと、家を出て車庫へ行った。そこには彼の赤い二人乗り自動車がおいてあった。それから二十分後に、彼はモンテカルロに向かって車を走らせていた。
彼は賭博場《カジノ》で数時間を費やした後、町へぶらぶら出かけて行った。やがて彼はふたたび車に乗って、マントオヌの方角へ向かった。その日の午前中に少し離れて目立たない灰色の自動車が、後から走ってくるのに気がついていたが、今またそれに気がついた。彼はにやりと笑った。道路は急な登りになっていた。伯爵の足はアクセルを強くおした。小型の赤自動車は伯爵の設計による特別製で、外観から想像したよりも、はるかに強力なエンジンがついていた。車はたちまち前へ飛びだして行った。
しばらくして彼は後をふり返って微笑した。灰色の車は砂塵の遥か後方にひきはなされていた。小さな赤自動車は誇らしげに驀進して行った。やがて車は速度をゆるめ、ついに郵便局の前でぴたりと停車した。伯爵は車から飛びおり道具箱の蓋をあけて、小さなハトロン紙包みを取りだすと、急いで郵便局へ入って行った。二分後に彼はふたたび車をマントオヌに向けて走らせていた。灰色の車がマントオヌに着いた時、伯爵は、ホテルの食堂で紅茶をのんでいた。それがすむと、彼はふたたびモンテカルロへ自動車でひき返し、そこで夕食を取り、十一時に自宅へ帰った。召使いがただならぬ面持ちで彼を出迎えた。
「ああ、旦那さまお帰りなさいまし。時に旦那さまは手前に電話を下さいませんでしたでしょうか?」
伯爵は頭をふった。
「でも午後三時に私は伯爵さまからすぐにニースのネグレスコへ来るようにというお召しを頂きました」
「で、お前行ったのか?」
「はい参りました。ところが伯爵さまから何のご沙汰もなく、お見えにもならなかったと申すのでございます」
「その時刻にマリーは市場へ買い物に出かけていたんではないかね?」と伯爵はいった。
「さようでございます。旦那さま」
「うん、何でもない、間違いだよ」
と軽くいって、伯爵は二階へ上がって行った。
一度自分の寝室へ入ると、彼は戸に錠をおろして、鋭く室内を見まわした。すべて常態のように見えた。彼は方々の戸棚やひきだしをあけて見た。そして彼は独りうなずいた。何もかも彼がおいた通りにしてあったが、けっして元通りというわけではなかった。残るくまなく家宅捜索されたことは明白であった。
彼は机の前へ行って秘密のスプリングを押した。ひきだしが飛びだして来た、しかし彼のおいたところに髪の毛がなかった。彼はいく度もうなずいた。
「フランスの警察は優秀だ! 全くすごい、何一つ彼らの目から逃れるわけにいかない」と独語した。
キャザリン、友達をつくる
その翌朝、キャザリンとレノックス嬢はマガレット荘のバルコニーに腰かけていた。年齢の差にもかかわらず、二人の間には友情のようなものが生じていた。レノックス嬢がいなかったら、マガレット荘の生活はキャザリンにとって我慢のできないものだったに違いない。その時ケッタリング事件が話題になっていた。伯爵夫人は自分のところのお客と、その事件との関係を最大限度に利用した。レノックス嬢は傍観者のような態度をとって、裏面では母の術策を面白がっているふうであったが、キャザリンの気持ちには同情的な理解をいだいていた。そうした立場は、チャールズによって救われる望みもなかった。彼は誰れかれのおかまいなしにキャザリンをこんなふうに紹介した。
「これはキャザリン・グレイ嬢です。ご存じでしょう、例の青列車事件ね。彼女はそのまっ只中にいたんですよ! 殺人が行われる五、六時間前にルス・ケッタリング夫人と長い間語り合ったんです! グレイ嬢にとってはまたとない幸運だったわけですよね」
こうした種類の文句の幾つかが、その朝特別にキャザリンをいらいらさせ、いつにない突っけんどんな応答をさせるにいたった。それで二人きりになった時、レノックス嬢はいつもの物憂げな、のろのろした口のきき方で、
「あなたは利己的利用には馴れていなさらないのね、キャザリン」といった。
「怒ったりしてごめんなさい。私はふだんはそんなことしないのですけれど」
「あなたもそろそろ蒸気を発散させることを学んでもいいころだわ。チャールズは単なるばかよ、ちっとも毒気がないの。母はもちろんやりきれないわ、でも、いくら、あの人に腹を立てたって大丈夫よ。どうせいくら怒ったって、皮肉をいったって彼女には通じないんだから。彼女はただ大きな青い目を悲しげにみはるだけよ」
キャザリンはそれに対して何も答えなかった。で、レノックス嬢はなおも言葉をつづけた。
「私はどっちかというとチャールズ組よ、私はみごとな殺人には大いに興味を持つのよ、それにデリクを知っているからこれはまたべつだわ」
キャザリンはうなずいた。
「あなたは昨日のお昼に彼と食事したんですって? キャザリン、あなた彼氏がお好きなの?」
レノックス嬢は考えこみながらいった。
キャザリンはちょっと考えてから、
「私、わかりません」とゆっくりいった。
「彼氏、非常に魅力があるわ」
「ええ、あの方、魅力的です」
「あなた、彼氏のどこが気に入らないの?」
キャザリンはその質問に答えないで、
「あの方は奥さんの死についてお話しになりました。あの方は奥さんの死をご自分にとってすばらしい幸運だったという以外のことを思っているふりなんかしないとおっしゃいました」といった。
「きっと、それであなたは驚いてしまったのでしょう」
レノックス嬢はそういってから、間をおいて妙な語調で、
「彼氏、あなたを好きなのよ、キャザリン」と、つけ加えた。
「あの方、とてもりっぱなご馳走をして下さいました」キャザリンは微笑しながらいった。
しかし、レノックス嬢は話をそらされてはいなかった。
「私、彼氏がここへ来たあの晩に見抜いちゃったのよ。あなたを見ていたあの目つきでね。あなたは今まで彼氏を引きつけた型《タイプ》とは違うわ、ぜんぜん反対の型《タイプ》だわ。これはどうも宗教と同じで、ある年齢に達するとそれがわかるというわけね」と彼女は考え深くいった。
「お嬢さま。ポワロさまからお電話で何かお話がおありだそうでございます」と、マリーが客間の窓から顔をだして伝えた。
「またもや人殺しと脅迫! キャザリン、行きなさいよ、探偵君と暇つぶしするといいわ」
ポワロの声は、抑揚をもってキャザリンの耳に要領よくはっきりと響いて来た。
「グレイ嬢でいらっしゃいますね、実はケッタリング夫人の父君オルデン氏からのお伝言でございまして、氏はぜひお嬢さまにお目にかかって、お話したいと希望されております。マガレット荘へ伺っても結構ですが、氏のホテルまでお出かけいただいても……、お嬢さまのご都合よろしいようにしていただきたいと申されます」
キャザリンはちょっと考えて、すぐにオルデン氏がマガレット荘へ来ることは氏にとって迷惑なことであろうし、また不必要なことと感じた。伯爵夫人は金持ちと近づきになる機会はけっしてのがしっこない。そこでキャザリンは自分の方からニースへ出かけて行く方が好都合だとポワロに告げた。
「結構でございます。私が今から四十五分後に、車でお迎えに上がります」
ポワロは約束の時間きっかりに現われた。キャザリンは待っていて、すぐに出発した。
「さて、お嬢さま、その後どんなふうでございますか」
キャザリンは彼のきらきらしている目を見つめて、ポワロという人物にはどこかひどく人を引きつけるところがあるという、最初の印象を再認識した。
「これは私どもだけの探偵小説でございましたね。私はあなたとともにこれを研究するお約束をいたしました。で、私はいつも自分の約束を守るものでございます」とポワロはいった。
「たいそうご親切さまですこと」
「ああ、あなたは茶化してしまおうとしておいでになりますね。で、あなたは事件の経過をお聞きになりたいのですか、お聞きになりたくないのですか」
キャザリンは聞きたいというと、彼はローシ伯爵の描写をかいつまんで聞かせた。
「あなたは伯爵が、夫人を殺したと考えていらっしゃるのですね」
「これは理論でございます」
「あなたご自身はそれを信じていらっしゃるのですか」
「私はそうとは申しません。あなたはどうお考えになりますか、お嬢さま」
「どうして私にわかりましょう? 私はこういうことについては何も知りません。でも私は……」
「どうぞ!」ポワロはうながすようにいった。
「私はあなたのお話を伺って、伯爵は自分から手を下して人殺しをするような種類の人ではないと思います」
「ああ、非常によろしい、あなたは私と同意見でいらっしゃる、私もちょうどそれと同じことを思ったのでした。ところであなたは、ケッタリング氏にお会いになったでしょう?」ポワロは彼女の顔を鋭く見た。
「私はタムリン伯爵夫人のお宅で会いました。そしてきのうお昼食のご馳走になりました」
「悪漢ですね、彼は。しかしご婦人方はああいうのがお好き。そうでございましょう」といって、キャザリンに向かって目ばたきをした。キャザリンは声をあげて笑った。
「あの人はどこにいても目につくタイプでございますね。申すまでもなく青列車でも、あなたは氏をお見かけになったでしょう」
「はい、私、あの方を見かけました」
「食堂車ですか?」
「いいえ、私、食事の時にはちっとも気がつきませんでした。私はたった一度見ただけです……奥さんの室へ入って行くところを」
ポワロはうなずいて、
「妙なことですね」とつぶやいた。そして、
「あなたは夜中に目を覚ましておいでになって、リヨンで窓の外を見ていたとおっしゃいましたね。その時ローシ伯爵のような丈の高い男が下車するのをごらんになりませんでしたか?」
「私、誰も下車するのは見ませんでした。鳥打帽をかぶってオーバーを着た子供っぽい青年が下車しましたけれども、列車からおりてしまうのではなく、プラットフォームを往ったり来たりしていました。それから顎ひげのある太ったフランス人が寝巻のままおりて、コーヒーを一杯ほしいといっていました。そのほかには列車の係員たちだけだったと思います」
ポワロはいく度もうなずいた後、
「実はこういうことなのです、ローシ伯爵はアリバイを持っておりますのです。そのアリバイというのはまことに厄介なもので、常に容易ならぬ疑惑への道を開くものでございます。ああ、もう着きました!」
二人はまっすぐにオルデンの室へ行った。そこにはナイトンがいた。ポワロは彼をキャザリンに紹介した。ありふれた挨拶が交わされた後でナイトンは、
「オルデン氏に、グレイ嬢が見えたことを申し上げてきましょう」といった。
彼は次の間へ通じる第二の戸をあけて入って行った。低い語調が聞こえて来て、間もなくオルデン氏が入って来た。彼は鋭い視線を彼女に注いでいた。
「お目にかかれて非常にうれしいです。私はあなたから、ルスのことを伺いたくてたまらなかったのでした」
億万長者の態度のおだやかで飾り気ないところがキャザリンの胸に強く訴えた。彼女は外見には少しも現われていないだけ、よけいに純粋な悲哀に沈んでいる人の前にいることを痛感した。
「かけて下さい、そしてすっかり話して下さい」と、オルデンが椅子をすすめた。
ポワロとナイトンは気をきかして次の間へ行ってしまったので、あとは二人だけになった。キャザリンは自分の役目が少しもむずかしくないのを発見した。ごく単純にそして自然に、ルスとの会話を一言一言できるだけそのままを語った。オルデンは椅子の背によりかかり、片手で目をおおいながら黙って聞いていた。彼女が語り終わると、
「どうもありがとう」と、彼は静かにいった。
二人は一、二分、黙って対坐していた。キャザリンは同情の言葉など役に立たないということを感じていた。億万長者が次に口を開いた時には、前とはすっかり異なった調子であった。
「私はたいへんありがたく思っています。あなたはルスの生涯の最後の数時間、あの娘の気持ちを安らかにして下すったと思うのです。そこで一つたずねたいことがあります。たぶんポワロ氏があなたに話されたでしょうが、不幸な娘が迷いこんでいた悪党……それはルスがあなたにお話した、会いに行こうとしていた相手なのですが……あなたの判断では、娘はあなたと話しあってのち、彼に会う決心をかえましたでしょうか? 自分の言葉を取り消すつもりだったでしょうか?」
「私はほんとうになんとも申し上げられません。でもお嬢さまは何か決断がおつきになったらしく、そのために前より快活におなりになったように見えました」
「娘はその悪党にどこで会うつもりでいたか、あなたに話しませんでしたか? パリとか、イエールとか?」
「そのことについては何もおっしゃいませんでした」
「ああ! それが重要な点だが……まあ時がそれを示すでしょう」とオルデンは考えこみながらいった。
彼は立ち上がって間の戸をあけた。ポワロとナイトンが戻って来た。キャザリンはオルデン氏に昼食に招待されたがそれを断った。それでナイトンが彼女を階下まで送って行って自動車に乗せた。彼が戻るとポワロとオルデンが熱心に会話をしているところであった。
「ルスがどういう決心をしたか、それがわかりさえすればいいと思うのですがね。パリで下車して私に電信を打つつもりだったかも知れない。あるいはまっすぐ南フランスまで行って、伯爵に説明をする気だったかも知れない、が今は見当もつかない。全く見当がつかない。だがメイゾンの証言では、パリのリヨン口《ぐち》停車場で伯爵が出現したので、娘は驚き当惑していたということです。それは明らかに前もって立ててあった計画ではなかったのです。ナイトン、君もこの説に同感だね」
秘書はびくっとした。
「すみませんでした。オルデンさま、私は何をおっしゃったか聞いておりませんでしたので」
「白昼夢かね? 君らしくないことだ。さてはあの娘さんに参ったな」とオルデンがいった。
ナイトンはまっ赤になった。
テニスコートで
数日が経過した。ある朝、キャザリンは一人で散歩に行って帰ってくると、レノックス嬢が何か期待するように、にやにや笑って迎えた。
「キャザリン、あなたのボーイフレンドが電話をかけてよこしたわよ」
「誰のこと、私のボーイフレンドって……」
「新しいやつよ、ほらオルデンの秘書。あなたはここでは、なかなかもててるらしいわ、あなたは恐るべき男の心の破壊者になりつつあるのよ。第一はケッタリング、そして今度はこの若いナイトンでしょう。妙なことに私、彼をとてもよく覚えているのよ。彼は母さんがここで開いていた陸軍病院にいたことがあるのよ。そのころ、私は八歳くらいの子供だったけれど」
「あの方は重傷だったのですか」
「私の記憶が正しければ、脛に弾丸《たま》を受けたの。厄介なことよ、医者どもがちょっとむちゃをやったらしかったわ。でも、びっこにはならないっていう話だったけれど、ここを出て行く時には完全にちんばだったわよ」
タムリン夫人も出て来て仲間入りをした。
「あなた、キャザリンにナイトン少佐のことを話しましたか? ほんとにいい人ですわ! 最初ちょっと思いだせませんでしたのよ……たくさんの数でしたからね……でも今はあのころのことがすっかり蘇《よみがえ》って来ましたわ」
「前には覚えているにはちょっと重要性が不足だったのよ、ところが今ではアメリカの大金持ちの秘書ともなれば、これはまた別問題だわ」とレノックス嬢がいった。
「あなた!」伯爵夫人は娘をたしなめた。
「ナイトン少佐はなんで電話をよこしたのですか」キャザリンはたずねた。
「今日の午後あなたにテニスの試合を見に行かないかって。もし行くなら車で迎えに来るっていうのよ。母さんと私とで、あなたの代わりにいとも丁重にお受けしたわ。キャザリン、あなたが億万長者の秘書と暇《ひま》つぶししている間に、私をその億万長者に会う機会を作ってちょうだいよ」
「私、ぜひオルデンさまにお会いしとうございますわ。あの方のことは、いろいろと噂を伺っていますしね、西部のりっぱな荒けずりの大立者の一人でいらっしゃるのね、なんて魅力的なんでしょう……」伯爵夫人は熱心にいった。
「ナイトン少佐はね、これはオルデンさんの招待だっていうことをとても念を押していたわよ。あまり何度もそれをくり返すんで私はさては臭いぞと思っちまったのよ。キャザリンとナイトンなら全くお似合いの一対になるわ、子供らよ、われ汝を祝福す! だわ」とレノックス嬢がいった。
キャザリンは声をあげて笑った。そして着がえをしに二階へ上がって行った。
ナイトンは昼食後、間もなく到着して、雄々しくもタムリン夫人のくどくどしい挨拶を辛抱づよく甘受した。
二人が自動車をカンヌに向けて走らせていく途中で、ナイトンはキャザリンに、
「タムリン伯爵夫人はちっともお変わりになりませんね」といった。
「態度ですか、外見ですか」
「両方ともです。もう四十をよほど越えておられると思うのですが、依然としてすばらしく美しいご婦人ですね」
「そうです」とキャザリンは同意した。
「今日、あなたがおいで下すったので、私は非常にうれしく思います。ポワロ氏も見えることになっております。あの人は実に変わった人物ですね、あなたはあの人をよくご存じなのですか」とナイトンは言葉を続けた。
「ここへ来る途中の汽車の中で会ったのです。私は探偵小説を読んでいたのですが、そういう種類の事件は、実生活には起こらないといったのです。もちろん、私はあの方がどういう人か知らないでいました」
「氏は恐ろしく非凡な人物で、ずいぶん非凡なことをやってのけました。氏は物事の根本まで掘り下げていく天才で、最後のどたん場まで、氏が何を考えているか誰も想像もつかないのが常です。私はヨークシャーのクランレイボン伯爵夫人のお宅に滞在していた時に、夫人の宝石が盗難にあった時のことを覚えています。最初はごく単純な盗難事件のように思えたのですが、地方の警察は完全に煙に巻かれてしまいました。私はその事件を解決しうる唯一の人物はポワロだから氏を呼ぶように主張しましたが、容れられませんでした」
「それで、どういうことになりましたの」
「宝石はついに発見されませんでした」
「あなたは、ほんとうにあの人を信じていらっしゃるのですか?」
「もちろん信じています。ローシ伯爵はなかなか陰険で、どじょうのようにつかみようのない奴です。しかしさすがの彼も、ポワロ氏にかかってはかなわないでしょう」
「あなたはほんとに伯爵がしたと考えていらっしゃるのですか」
キャザリンが考え深くいうと、ナイトンは驚いて彼女の顔を見つめた。
「もちろんですとも、あなたは?」
「私も……でも、もしただの列車強盗の仕わざでないとすればです」
「それはそうです、しかし私にはローシ伯爵がやりそうなことに思われるのです」
「でもアリバイがあります」
「あなたは探偵小説を読んだと告白なさいましたね、それなら完全なアリバイは常に重大な疑惑に通じるということをご存じのはずです」
「あなたは現実の世界でも同じことだと考えていらっしゃるのですか」とキャザリンは微笑しながらたずねた。
「あたりまえではないでしょうか、小説は事実にもとづいて作られるものですから」
「でも事実にまさっていると思います」
「そうかも知れません。とにかく、もし私が、犯人だったら、ポワロに追跡されるのはいやですね」
「私だって」といってキャザリンは笑った。
二人が到着するとポワロに会った。暑い日だったので白麻の背広を着てボタンホールに白椿《しろつばき》の花をさしていた。
「今日はお嬢さま、私はすっかりイギリス人に見えるでしょう、そうじゃございませんか」
「すてきにお見えになります」
「私をからかっておいでになりますね。それはまあどうでもいいとしまして、いつでも最後に笑うのはポワロ小父さんでございますからね」ポワロは愛想よくいった。
「オルデン氏はどこですか」とナイトンはたずねた。
「観覧席で私どもと落ち合われることになっております。実のことを申しますとね、氏はあまり私に満足しておいでにならないのです。アメリカ人というのは、休養とか静穏とかいうものを知らないのでございます。オルデン氏は私が、ニース中の横町から横町へと犯人を追いまわして、飛びまわっていなければならないと思っておられるのです」
「私だってそれはけっして悪い計画ではないと思いますね」
とナイトンがいった。
「それは間違っております。こういう仕事に必要なのは精力ではなく、巧妙な処理でございます。テニスを観に来るといろいろな人に会います。それは重要なことでございます。ああ、ケッタリング氏が見えましたです」
ケッタリングが不意にそこへやって来た。彼は何か顛倒するようなことでも起こったらしく、向こう見ずな怒った顔をしていた。彼とナイトンは互いに冷ややかな態度で挨拶を交わした。ポワロだけは、緊迫した空気を少しも感じないようすで愉快げにお喋《しゃべ》りをした。
「ケッタリングさん、あなたのフランス語のお上手なのには驚嘆いたしましたよ。フランス人になりすまそうとお思いになれば、りっぱにやってのけられましょう」とポワロがいった。
「私もそんなになりたいと思います。私のフランス語はどうしても英語式ですもの」とキャザリンはいった。
一同は自分たちの席に着いた。それとほとんど同時に、ナイトンはコートの向こうがわに自分の主人を見つけて、話をしに行った。
「私はあの青年を高く評価しておりますが、お嬢さまはいかがですか」ポワロは歩み去る秘書に晴れやかな微笑を送りながらいった。
「私はたいへんに好きです」
「ケッタリングさんは?」
ケッタリングの唇に何か即答が浮かび上がって来たが、小さなベルギー人のおどる目の中に何か彼に警戒させるようなものでもあったらしく、それをのみこんでしまって、
「ナイトンは非常にいい奴です」といった。
キャザリンはちょっとの間、ポワロが失望の色を浮かべたように思った。
「ナイトンさんはポワロさんのたいへんな崇拝者です」といって、彼女はナイトンのいったことを語った。
この小男が小鳥のように胸を突きだして得意になり、誰にでもすぐ嘘だと見破られるような謙遜な態度を装っているようすは、彼女を面白がらせた。
「それで思いだしましたが、お嬢さまにお話する用件がございました。あなたが汽車の中であのお気の毒なご婦人とお話なすった時に、煙草入れをお落としになったのではないかと存じます」とポワロは突然にいいだした。
「そんなことないと思います」キャザリンはびっくりした顔をした。
ポワロはポケットから金文字でKと頭字のある柔らかい青皮の煙草のケースを取りだした。
「いいえ、それは私のではありません」とキャザリンはいった。
「それは失礼いたしました。きっとあの奥さまのものでございましょう。Kはケッタリング夫人の頭文字でございますものね。実は夫人のハンドバッグの中に煙草のケースが一つ入っておりましたので夫人が二つも持っておられるのは変だと思ったものですから」
ポワロは不意にケッタリングの方を向いて、
「あなたはこのケースが奥さまのものかどうかおわかりにならないでしょうな」
「僕は……僕は知りません。そうかも知れません」と彼は少しどもりながらいった。
「もしやして、あなたのではありませんか」
「けっしてそんなことはないです。もし僕の物だったら、妻が持っているはずはありません」
ポワロは前より更に無邪気な子供っぽい顔になり、
「あなたが奥さまの室へおいでになった時に、お落としになったかと思ったのでございますよ」といった。
「僕はけっして行きません。そのことはもう警察でいく度もいいました」
「どうぞ、平にお許し下さいまし。あなたが奥さまの室へお入りになったということを、このお嬢さまに伺ったものですから……」
ポワロは当惑したようすで言葉をきった。
キャザリンはケッタリングを見た。彼の顔は幾分青ざめた。だが彼が笑った時にはその笑いはごく自然であった。
「グレイ嬢はお間違えになったのです。警官から聞いた話によると、僕の室は妻の一つか二つ先だったのです。当時僕はそんなこととは夢にも知りませんでした」とケッタリングは気やすくいった。彼はオルデンとナイトンが来るのを見つけて、
「僕は失礼します。僕はなんとしてもあの親父には我慢がならないのです」といって立ち去った。
オルデンは非常に慇懃《いんぎん》にキャザリンに挨拶をしたが、明らかに不機嫌であった。
「ポワロさんはテニス見物がお好きのようですな」と彼はかみつくようにいった。
「これは私の楽しみでございますよ、はい」
ポワロはおだやかにいった。
「あなたがフランスにいらしてよかったですよ、アメリカではわれわれはもっと厳しい人間にされてしまいます。アメリカですと仕事はいつも遊びの前にすますことになっております」とオルデンがいった。
ポワロは少しも気を悪くしなかった。それどころか彼は立腹しているこの富豪に対して、おだやかに信頼しきっているように微笑を送った。
「どうぞそんなに立腹なさらないで下さいまし、人それぞれのやり方があるものでございます。私はいつも仕事と遊びを、一緒にするのはまことに愉快ないい考えだということを、体験しておるのでございます」
彼は他の二人の方をちらと見た。若い二人は何か夢中になって語り合っていた。ポワロは満足そうにうなずいて、富豪の方に顔をよせ、声を低めて、
「オルデンさん、私がここへ参ったのは楽しみのためだけではございません。私どもの反対がわのあの丈の高い老人をごらんなさいまし、ほれ、黄色い顔をして品のいい顎ひげを蓄えた……」
「あれが何なのです?」
「パポポラスというギリシャ人でございます。世界中に名の知れている骨董商で、パリに店を持っておりますが、警察では彼がただの商人ではないと睨んでいるのでございます」
「何だというのです?」
「贓品買《けいずかい》、特に宝石の仲買人だと見られております。宝石類の切り直しや、はめかえで、彼の知らないことはないほどでございます」
オルデンは急に注意深くなって、ポワロを見つめた。
「それで?」彼は今までと異なった語調でうながした。
「私は自身にたずねましたのです、なぜパポポラスが突如ニースに現われたるやと」
オルデンは深い感銘を受けた。ちょっとの間、彼はポワロを疑い、この小男が熟練家であることを怪しみ、単なる気取りやにすぎないと思っていた。だが今はふたたび最初の見解に立ちもどったのであった。彼は小柄な探偵をまっすぐに見て、
「ポワロさん、私はあなたに謝罪せねばなりません」といった。
ポワロはその謝罪を大げさに手をふってはらいのけた。
「下らない! そんなことは、どうでもよろしい! それよりも、オルデンさん、お聞き下さい、私はニュースを持って来ております」
オルデンは非常な興味をもってポワロを鋭く見つめた。
「あなたは興味をお持ちになると存じます。ご存じのようにローシ伯爵は予審判事の審問を受けて以来、監視つきになっておりました。で、あの翌日、伯爵の不在中にマリイナ荘が警官によって捜索されたのでございます」
「何か見つけましたか? おそらく何も見つからなかったのでしょうな」とオルデンはいった。
「あなたの眼識に誤りなしでございます。彼らは犯罪を裏書きするような性質のものは何一つ発見いたしませんでした。それが当然のことだったのでございます。ローシ伯爵は英国流の慣用語で申しますと、きのう生まれたばかりの男ではないというわけで、なかなかどうして、海千山千の抜け目のない紳士でございます」
「それからどうなったのですか」
オルデンは気短に先をうながした。
「もちろん、伯爵は自身に累を及ぼすような、隠匿しなければならないような、物は持っていないかも知れません。しかしながら、私どもは可能性をおろそかにしてはなりません。では、もし彼が何か隠すといたしましたら、どこへ隠すでしょうか? 家の中ではありません……警官は家宅捜索をいたしました。身につけているはずはありません。なぜなら彼はいつ逮捕されるかわからないことを知っていました。最後に残る隠し場は彼の自動車でございました。前にも申しましたように、彼は監視つきでございました。あの日、彼はモンテカルロまで尾行されました。それから彼は自分で車を運転して、マントオヌ街道を行きました。彼の車は強力な性能を持っていて、追跡車は間もなく距離をぐっと引き離されて、やがて完全に彼を見失ってしまいました」
「その間に彼が路傍に何か隠したとおっしゃるのですか」オルデンは非常な興味を示した。
「路傍でございますって? いいえ、そんなのは実際的ではございません。だがお聞き下さい、私は判事のカレージュ氏にちょっとした知恵をお貸しいたしました。氏はたいそう愛想よくそれをご嘉納下さいました。そして、この辺一体の各郵便局に、ローシ伯爵の顔を知っている者を配置しておいたのでございました。なぜかと申しますと、物を隠す最前の方法は郵便局に託して、どこかへ送りつけてしまうことだからでございます」
「それで?」オルデンはその先を要求した。
彼の顔はつよい興味と期待に輝いた。
「それで、この通り!」
ポワロは芝居気たっぷりに、ポケットから紐《ひも》を取ってしまったハトロン紙の小包を取りだした。
「その十五分ばかりの間に、わが善良なる紳士はこれを郵送いたしました」
「宛名は?」オルデンは鋭くたずねた。
ポワロはうなずいた。
「それがあればなんらかの手がかりになったでございましょうが、この小包はパリの小さな新聞の売店気付で、そこには方々から小包や手紙類が届けられていて、誰か受け取りに行って手数料をはらうと渡すという仕組みになっておるのでございます」
「なるほど。で、中には何が入っておりましたか」オルデンは待ちきれないようすでたずねた。
ポワロはハトロン紙を開いて中から四角なボール紙の箱をだした。彼は周囲を見まわした後、
「これはまことにいい折でございます。人々の目はみんなテニスに向いております。さア、ごらん下さい!」とポワロは静かにいった。そして箱の蓋を一瞬あけて見せた。富豪の唇から驚嘆の声がもれた。彼の顔はチョークのように白くなった。
「ああ、ルビー!」と彼は口の中でいった。
彼はちょっとの間、気が遠くなったようにじっとしていた。ポワロは箱をポケットにもどして、おだやかに微笑した。すると億万長者は急に昏睡状態から覚めたかのように見えた。彼はポワロの方へ身をのりだして、小男が苦痛に顔をしかめたほど力をこめて彼の手を握った。
「すばらしい! 実にすばらしい! ポワロさんおみごとです。あなたは断然すてきでいらっしゃる!」
「こんなことはなんでもございません。起こり得べき事件に対して、前もって順序と方法を手配しておいただけのことでございます」
「これで、ローシ伯爵は逮捕されたのでしょうね」とオルデンは熱心にいった。
「いいえ」
「なぜですか? これ以上何の証拠を得ようとするのですか?」
「伯爵はアリバイを持っております」
「ばかげています」
「たしかにばかげておりますが、不幸にしてわれわれは、そのアリバイがでたらめであることを証拠立てなければなりません」
「そんなことをしている間に、彼は高飛びをしてしまうでしょう」
「大丈夫、彼はさようなことはいたしません。伯爵にできないただ一つのことは、社会的地位を犠牲にすることでございます。どんなことをしても彼は踏みとどまって、ずうずうしくおし通さなければならないのでございます」
「私はどうもそうは……」
ポワロは手をあげてそれを制した。
「少し時間をいただかせて下さいまし、この私にはちょっとした思いつきがございます。多くの人がポワロのちょっとした思いつきをばかにいたしました……ところがいつもそれはその人たちの間違いでございました」
「そのちょっとした思いつきとは何ですか?」
ポワロはちょっと間をおいてから、
「私は明朝十一時に、あなたをホテルにお訪ねいたしましょう。それまで誰にも何もおっしゃらないでおいて下さいまし」といった。
パポポラスの朝食
パポポラスは朝の食卓についていた。彼の前には娘のジアが坐っていた。
居間の戸をたたいて、下男が名刺を手にして入って来て、それをパポポラスに渡した。彼はその名刺をつくづくと眺めて眉をあげ、娘の方へ押しやった。
「ポワロだよ、何だろうね」
父と娘は互いに顔を見合わせた。
「私はきのう、テニスコートであの人を見たがね、ジア、私はどうもこれは面白くないよ」
「あの人、いつかお父さまのために、とても役に立って下さいましたわね」
「それはそうだよ。それに、聞くところによるとあの人はもう退職してしまったそうだし」
父と娘の間のこの会話は、自国語で交わされた。パポポラスは下男に向かって今度はフランス語で、
「その紳士をお通しして」
数分後、しゃれた服装をしたポワロがステッキをふりながら陽気なようすで部屋へ入って来た。
「やア、パポポラスさん」
「これはこれは、ポワロさま」
「お嬢さまこんにちは」ポワロはジアに向かって、ていねいに頭をさげた。
「失礼して食事をさせていただきます。あの……あなたさまのご訪問が……少々お早いので……」といいながら、パポポラスは二杯目のコーヒーを自分の茶わんに注いだ。
「まことに面目のないことでございます。しかし非常に急ぐ用件なもので……」
「おや、また何か事件を扱っておいでなのでございますか?」
「非常に重大な事件、ケッタリング夫人の怪死事件です」
「たしか、それは青列車で亡くなられたご婦人でございましたね、新聞に出ているのを見ましたのですが、殺人というようなことは何も書いてございませんでした」
「法を行うためを計って、事実を伏せておく方がよろしいと考えられてのことでしょう」
「さて、ポワロさま、私はどういうふうにして、お手伝いさせていただきましたらよろしゅうございましょうか」骨董商は慇懃《いんぎん》に切りだした。
「では、要点に移りましょう」
ポワロはカンヌでオルデンに見せたと同じ箱をポケットからだして、蓋をあけると、数個のルビーを取りあげて、テーブル越しにパポポラスの前へ押しやった。
ポワロは厳密に相手を見守っていたが、老人は顔の筋一つ動かさなかった。彼は宝石を手にとって、私心のない興味をもってそれを検《あらた》めた上で、探偵の方を質問するように見た。
「実にみごとではございませんか」とポワロがいった。
「まことにすばらしいものでございます」パポポラスもいった。
「どれくらいの価値があるでしょうか」
「それを申し上げる必要がございましょうか?」
「パポポラスさん、あなたはなかなか鋭くておいでになる。もちろん、その必要はありません。たとえば五万ドルの、価値もないというところでございましょうね」
パポポラスは笑った。ポワロもいっしょに笑った。
「模造品としてまことにみごとな出来栄えだと申せましょう。これをどこで、お手にお入れになったか伺うのは、ぶしつけでございましょうか」パポポラスはそれを返しながらいった。
「そんなことはございません。あなたのような、旧いお友達にお聞かせするのに、何の異存がございましょう。それはみんなローシ伯爵の所有品だったのでございます」
「全くねえ!」と彼はつぶやいた。
ポワロはひどく無邪気な、何気ないふうを装って、前へ首を突きだした。
「パポポラスさん、私は手の中のカルタをテーブルの上に並べてお目にかけますよ。この宝石の真物《ほんもの》は青列車の上でケッタリング夫人から盗まれたのです。第一にあなたに申し上げておきますが、私はこの宝石を取り戻すことには関係しておりません。それは警察の仕事です。私は警察のためではなく、オルデン氏のために働いておるのでございます。私はケッタリング夫人を殺した男を捕えたいのでございます。私はその宝石がその男への手引きになるだろうという点に、興味を持っているだけでございます。あなたはおわかりですね」
その最後の言葉は意味深長にいわれた。パポポラスは少しも顔色を動かさずにおだやかにいった。
「どうぞあとをおつづけ下さいまし」
「私の考えでは、その宝石がニースで他の手に渡されるに違いないと思うのでございます」
「なるほど!」とパポポラスはいった。
彼は考え深いようすでコーヒーをすすった。そして常にもまして、気品のある老僧のような面影を見せた。ポワロは熱のこもった口調で言葉を続けた。
「そこで私は自分にいい聞かせました。なんという幸運であろう! 旧友パポポラス氏がニースへ来ておいでだが、あの方はきっと私を助けて下さるとね」
「私がどのようにして、お助けすることができるとお考えなのでございましょうか?」
「私は自分にこう申しました。疑いもなくパポポラス氏は商用でニースに来ておられると」
「とんでもない、私は健康のために……お医者の命令で転地しているのでございます」
彼は空咳をした。
「ねえ、パポポラスさん、ロシアの大公とかオーストリアの大公妃、あるいはイタリアの皇子が先祖伝来の宝石を売る場合には、誰のところへ参るでしょう? パポポラスのところへ参ります。そうではございませんか? 彼はそうした取り引きについては実に慎重であると申すことが世界中に知れ渡っております」
「まことに恐れ入ります」
「慎重であることは、すばらしいことでございます。わたしも慎重に行動することができます」といって、ポワロは相手の顔をつらつらと眺めた。そしてギリシャ人の顔にさっと流れた微笑によって、自分の言葉が効果のあったことを知った。
二人の視線が出会った。
そこでポワロは明らかに、一語一語を注意深く選びだしながら、非常にゆっくりと話し続けた。
「私は自分にこういい聞かせました。もしこの宝石が、ニースで持ち主をかえるとすれば、パポポラス氏の耳に入るはずだ、氏は宝石界のあらゆる小路を知っておられる」
「ああ!」とパポポラスはいった。そしてクロワッサンを食べはじめた。
「このことには、警察は関係していないことをお含みおき下さい。全く個人的なことでございます」とポワロは特につけ加えた。
「いろいろと噂は耳に入ります」
「たとえばどのような?」ポワロはすかさずいった。
「私がそのような噂などを、お耳に入れるべき理由がございましょうか」
「ございますとも。あなたは今から十七年前に、ある非常に高貴なお方から、担保としてある品があなたに託されたことをご記憶でございましょう。それがあなたの保管中に、不思議にも紛失して、あなたは苦境に陥ってしまわれました」
ポワロの目はゆっくりと娘の方へ向いた。彼女は茶わんや皿をわきへ押しのけて、両ひじをテーブルにつき、顎を両手に載せ、熱心に耳をかたむけていた。
「当時私はパリにおりました。あなたは私を迎えによこし、ご自身を私の掌中におおきになりました。もし私がその品を取り戻して差しあげれば、あなたは一生涯恩に着るとおっしゃいました。よろしいですか! 私はその品を取り戻して差しあげました」
「私は生涯であんなに困ったことはございませんでした」とパポポラスはため息した。
「十七年は長い年月でございます。しかし、あなたの種族は、けっして忘恩の徒でないと申す考えは、正しいと私は信じております」とポワロは考え深くいった。
沈黙が続いた後、老人は誇らしげに威儀を正して、
「ポワロさま、あなたのお見こみは正しゅうございます。あなたのおっしゃる通り、われわれはけっして恩を忘れません」と静かにいった。
「では私を助けて下さいますか?」
老人は、ポワロが今しがたやったように、自分の言葉を注意深く選んだ。
「宝石に関しては私は何もできないのでございます。しかし、いいお返しをすることができると存じます。それは、もしもあなたが競馬に興味をお持ちなら、でございます」
「事情によっては興味を持ちましょう」ポワロはじっと相手を見すえながらいった。
「ロンシャムで走る馬がございまして、それは注意する甲斐があると思われます。確実だとは申しかねますが、そこはお含みおき下さいまし、この情報はたくさんの手を経て来ておりますので」
彼は言葉を切って、相手が了解したかどうかをたしかめるようにポワロを見つめた。
「よくわかりました」とポワロはうなずいた。
「馬の名は侯爵でございます。たしかではございませんが、イギリス産の馬だと存じます。ジアや、そうだね?」
「私もそう思いますわ」と娘はいった。
ポワロはいそいそと立ち上がった。
「ありがとうございました。厩《うまや》から内報を得るのはすばらしいことでございます」
彼は娘に向かって、
「ジア嬢、さようなら。パリでお目にかかりましたのは、ついきのうのように思われます。あれからせいぜい二年ぐらいしか経っていない気がいたします」といった。
「十六歳と三十三歳ではたいへんな開きがございますわ」ジアは悲しげにいった。
「あなたの場合はそんなことはございません。あなたとお父さまとで、いつか晩餐をともにさせて頂きたいものでございます」ポワロは慇懃《いんぎん》にいった。
「私ども、よろこんで、そうさせていただきますわ」
とジアが答えた。
ポワロは上機嫌で街を歩いて行った。元気よくステッキを振りまわし、二、三度ひそかに微笑した。彼は最初に目についた郵便局に入って行って、電報を打った。彼がそれを書くのに、かなり手間をとったのは、暗号だったので、記憶をたどらなければならなかったからであった。それは紛失した飾りびんに関する主旨のもので、ロンドンの警視庁のジャップ警部あてであった。
普通文語に翻訳すると、それは短くて要領を得たものであった。
「侯爵という渾名《あだな》の男について知るかぎりのことをすべて返電されたし」
新しい説
ポワロがオルデンのホテルを訪ねたのは正十一時であった。億万長者は一人きりでいた。彼は探偵を迎えるために立ち上がって、
「ポワロさん、あなたは時間を厳守なさいますね」と微笑しながらいった。
「私はいつも正確を旨としております。およそ手順と分類法を無視しては……ああ、これは私が以前も申し上げたことでございましたね。それよりも私の訪問の目的に突入いたしましょう」
「あなたのちょっとした思いつきですか?」
「そうでございます。私のちょっとした思いつきがあるのでございますが、まず第一にもう一度、小間使いのメイゾンに会見したいのでございます」
オルデンは給仕にメイゾンを捜してくるように命じた。ポワロは、メイゾンのような階級の女には特に効果あらかたな慇懃《いんぎん》さで彼女を迎えた。
「今日は、お嬢さん、さあご主人のお許しを得てどうぞおかけ下さい」
「ありがとう存じます」メイゾンは固苦しく椅子の端に腰をおろした。彼女は更に美しくなって、前よりもっとつんつんしていた。
「私はもう一つだけたずねたいことがあって参ったのです。私どもは事件の底を極めねばなりませんのでね、私はいつも列車に乗ってきた男の問題に立ち戻るのですが、あなたはローシ伯爵を見せられて、伯爵がその男だったかも知れないが確かでないとおっしゃいましたね」
「前にも申し上げたように、その紳士の顔が見えませんでしたから」
「全くその通りですとも。私にもその男を、はっきりとさすことの困難なのはよくわかっております。さて、あなたはケッタリング夫人の小間使いになってから二か月にしかならないとおっしゃいましたね。その間にいく度ぐらいケッタリング氏を見ましたか?」
メイゾンは、一、二分考えてから答えた。
「二度だけでございます」
「それはそばでしたか、遠くからでしたか」
「そうでございますね、一度カーゾン街のお宅へおいでになりました。私は二階におりまして、下の広間に立っておいでになるところを欄干《らんかん》ごしにお見かけいたしました」
「それから次の時は?」
「それは公園でございました。アンニーといっしょの時。アンニーと申しますのは女中の一人でございますが、ご主人が外国婦人と歩いておいでになるのを、私に指さして知らせてくれましたのでございます」
ポワロは再びうなずいた。
「さてメイゾン、私のいうことをよく聞いてくださいよ。リヨン口《ぐち》停車場で停車中の列車の上で奥さまと話しているのを見かけたというその男が、ご主人でないということはどうしてわかったのですか」
「ご主人でございますか? 私はそんなことがあるとは思いませんでしたから」
「しかし、あなたはたしかではないのですね」
「そんなことは考えも及びませんでした」
「あなたはご主人も同じ列車に乗っておいでになったことを聞きましたね。すると、奥さまの部屋へ来られたのはご主人だろうと考える方が自然ではないでしょうか」
「でも奥さまとお話になっていらした紳士は、外から入っていらしたのに違いございませんでした。町をお歩きになる時の服装をしていらっしゃいました。オーバーを着て帽子をかぶって」
「なるほどね、しかし、もう一度考えてみて下さい。列車はその時リヨン口《ぐち》停車場に到着したばかりで、たくさんの乗客がプラットフォームを散歩しておりましたでしょう。奥さまもそのつもりで、毛皮のオーバーをお召しになったのではありませんでしたか?」
「はい、さようでございます」
「それではご主人も同じことをされたかも知れませんね。やはり、オーバーを着て帽子をかぶって、電燈のついている窓を見あげながら、列車に沿って歩いているうちに、ふとケッタリング夫人を見たのです。その時までご主人は奥さまが乗っておられるとは夢にも知らなかったのです。奥さまの方でもご主人を見て驚きの叫びをあげ、二人の間の会話は他人に聞かれたくない性質のものになるだろうと予測して、間の戸を閉じておしまいになりました」
といって、ポワロは椅子の背によりかかり、自分の暗示が徐々に効果をあらわすのを待っていた。三分ほどして彼女は口を開いた。
「そうおっしゃれば、そうだったかも知れませんでございます。私はそんなふうにはぜんぜん考えませんものでしたので、ご主人も丈がお高くて髪の毛やお目の色が濃くていらっしゃいます。私が外からいらっした紳士だと申しましたのは、オーバーと帽子のせいでございます。きっとご主人さまだったのでございましょう。でも、私はどっちと、はっきりは申し上げられません」
「たいへんにありがとうございました。もうこれ以上はあなたをお煩わせすることはありません。ああ、そうそうちょっとお待ち下さい」
といって、ポワロはポケットから前にケッタリングに見せた煙草のケースを取りだして、
「これは奥さまのケースですか」
「いいえ、それは奥さまのではございません。少なくとも……」
彼女はちょっと驚いたようすを見せた。
「それで?」ポワロはうながした。
「それは……たしかにそうだとは申しかねますが、それは奥さまがご主人さまにおあげになるのにお買いになったケースだと存じます」
「ああ」ポワロはあいまいな調子でいった。
「申すまでもなく、奥さまがそれをご主人さまにおあげになったかどうか、私にはわかりませんでございます」
「全くその通りですとも! これでもうよろしいと思います。ではさようなら」
メイゾンが立ち去った後でオルデンの方を見たポワロの顔に、わずかながら微笑が浮かんでいた。
「ポワロさん、……あなたはケッタリングだと考えておいでなんですか? しかし……すべてが他を指しているではありませんか。第一、伯爵はルビーを所持していたという現場をおさえられているではありませんか」
「いいえ」
「しかしあなたはそういわれました」
「いいえ」
オルデンは彼を凝視した。
「昨日、テニスコートで」
「いいえ」
「ポワロさん、あなたは気が違ったのですか。それとも私が狂人になったのですか」
「私どもはどっちも狂人ではございません。あなたが質問なさり、私が答えただけでございます。あなたは私がルビーをお見せしたとおっしゃいましたから、私はいいえと申し上げたのです。オルデンさん、私がお見せしましたのは、くろうとでなくては真物《ほんもの》と見分けがつかないほどの、第一級模造品でございます」
とポワロ探偵はいった。
ポワロの忠告
億万長者は事情をのみこむのに数分を要した。彼はあきれ返ってポワロの顔を見つめた。小さなベルギー人は、静かにうなずいた。
「そうでございます、これで局面が変化してしまいました。そうじゃございませんか?」
「模造品とは! ポワロさん、あなたはずっと前からこの考えをお持ちだったのですか。ずっと私にそれと気づかせようとしていらしたのですか? あなたはローシ伯爵が殺人者だとは、あまり考えていらっしゃらなかったのですか」
「私は疑念を持っておりました。私はちゃんとそのことをあなたに申し上げました。暴力と殺人を伴った盗み、いいえ、伯爵を主役にそういう場面を描くのは困難でございます。それはローシ伯爵の性格と調和いたしません」
「しかしポワロさん、伯爵がルビーを盗むつもりであったと、信じておいででしたね」
「それはたしかです。疑う余地はございません。よろしいですか、私は自分の心に写るままに、あの事件を物語ってお聞かせしましょう。伯爵はあのルビーのことを知っていて、適宜に計画をたてました。彼はお嬢さまに、それを持ちださせるように、宝石に関する本を書いているというロマンチックな話をつくりあげました。彼は同じ模造品を用意しておきました。その模造品は彼が何を目的としているかを物語っております。そうではございませんか? あなたのお嬢さまは宝石の専門家ではいらっしゃいません。したがってすり替えられたことをお知りになるまでには、相当の時間が経ちますでしょう。たとえまたお嬢さまがそれにお気づきになったとしても、伯爵をお訴えになりますでしょうか。そういうことをなされば、すべてが明るみに出てしまいます。伯爵はきっとあなたのお嬢さまから受け取った手紙を、たくさん保管しておりますでしょう。全くこれは伯爵の立場からは非常に安全な計画でございます……おそらく前にも使ったことのある手口かも知れません」
「いかにも明確なように思われます」オルデンは考えこみながらいった。
「ローシ伯爵の性格にぴったりしております」
「そうです……しかし……どういうことが実際に起こったのですか、ポワロさん、どうぞお聞かせ下さい」
「実に簡単な話でございます。誰かが伯爵の先まわりをしてしまったのでございます」
長い沈黙がつづいた。
オルデンは今までのことを心の中でくり返してみているようすであった。
「ポワロさん、あなたはいったい、いつごろから私の娘婿に嫌疑をかけておいでだったのですか」
「最初からでございます。ケッタリング氏は動機と機会をお持ちでした。誰でもパリでケッタリング夫人の部屋にいたのは当然ローシ伯爵とみました。私もそう思いました。ところがあなたは、伯爵をケッタリング氏かと思ったことがあったとおっしゃいましたね。つまり伯爵とケッタリング氏とは身丈も体格も同じで、髪の毛の色も同じだと知りました。そのことが私の頭の中に奇妙な考えをもたらしました。小間使いはあなたのお嬢さまに短い期間しか仕えておりませんでしたし、それにケッタリング氏はカーゾン街には住んでおられなかったのですから、メイゾンが氏をよく知らないのも無理もないことでございます。また男はつとめて顔を見られないように注意しておりました」
「あなたは、ルスを殺したのは彼だと信じておいでなのですか」
「いや、いや、私はそうは申しません。可能性がある、非常に強い可能性があると申すのでございます。氏は非常に金に困っていました。破産に瀕しておりました。妻の死のみが唯一の金の出口でした」
「だが、なぜ宝石を取ったのですか?」
「犯罪を列車強盗によって行なわれた平凡な強盗事件に見せかけるためでございましょう。さもないとすぐに氏に嫌疑がかけられます」
「そうだとすると、ルビーはどうしてしまったのですか?」
「それはこれからわかることでございます。いろいろと可能なことがございます。テニスコートで私がさしました男がニースに滞在しておりますから、消息を知る手引きをしてくれましょう」
ポワロが立ち上がると、オルデンも立ち上がって、彼の肩に手をおいて、
「どうぞ、ルスを殺した犯人を捜しだして下さい。私がお願いするのはただそれだけです」といった。
ポワロは胸を張って、
「このポワロにお任せおき下さい。ご懸念無用、かならず真実をつきとめてお目にかけます」
と、堂々といってのけた。彼は帽子のごみをはらい落とし、億万長者に力をつけるように微笑を送って部屋を出て行った。しかしながら、階段を下りるに従って、彼の顔から自信の色がしだいに消えていった。
「すべてが非常によろしい、だが困難がある、非常な困難がある」と彼はつぶやいていた。
ホテルを出ると、ポワロは急に立ちどまった。自動車がホテルの前に横づけになっていた。それにはキャザリンが乗っていて、そのそばにケッタリングが立って熱心に彼女と話しこんでいた。一、二分して車は去り、ケッタリングは舗道に立ってそれを見送っていた。彼の顔には奇妙な表情が浮かんでいた。彼は突然に気短に肩をゆすり深いため息をして、きびすを返すと、すぐそばにポワロが立っているのを見いだした。二人はじっと睨み合った。ポワロはしっかりした断固たる目つきでいるし、ケッタリングは快活な反抗するような目つきであった。
「なかなかチャーミングな女性じゃあありませんか、ええ?」とケッタリングがいった。
その気軽な人を小ばかにしたような語調の裏には冷笑があった。
「さよう、キャザリン嬢をたいそうよくいいあらわしているお言葉でございますね」とポワロは考え深くいった。
ケッタリングはそれには答えなかった。
「それになかなか感受性の強いご婦人ですね、そうじゃございませんか」
「そうです。ああいう女性はめったにありません」とケッタリングはつぶやいた。
ポワロは大きくうなずいた。そして相手の方に顔を寄せてケッタリングが今まで聞いたことのない、まるで違った静かなまじめな調子で、
「もしも、この老人が出すぎたとお思いになるようなことを申したとしましたら、ごかんべん願います。英国の諺《ことわざ》がございますから、それを申し上げます。新しい恋をする前に古い恋を精算するがいいとね」
「いったいあなたは、何のことをいっているのです……」と彼はむっとして叫んだ。
「あなたは私の思った通り、私に向かって怒っておいでになりますね。私の申すことは、読んで字のごとしでございます。ほら、後ろをごらんなさいまし、第二の車がまいりました」
ケッタリングはさっと後ろを向いた。彼の顔は怒りに燃えた。
「ミレイユ、畜生! 僕は……」
ポワロは彼が取ろうとする行動を制した。
「ここでそのようなことをなさるのは、賢明でございましょうか?」
とポワロは警告するようにいった。彼の目は緑色の柔らかい光を帯びていた。だがケッタリングはその警告のしるしを見のがした。
「僕は彼女とすっかり手を切ってしまったんだ。あの女はそれを知っているはずだ!」
と彼は激しい調子でいった。
「あなたは彼女と手を切ったとおっしゃるのはよろしいが彼女はあなたと手を切りましたのですか?」
ケッタリングは急に鋭い笑い声をあげた。
「彼女は、できれば二百万ポンドの金とは縁を切らんでしょう。ミレイユはそういう女だ!」
と彼は乱暴にいった。
「あなたは皮肉なお考えをお持ちでいらっしゃいますね」
「そうですかね」
彼は急に無慈悲なうす笑いを浮かべて、
「ポワロさん。僕はね、女なんてみんな同じことだということを知るだけ、長く世の中に生きてきたんですよ……ただし一人だけは例外ですがね」といった時、彼の顔はにわかにやわらいだ。
「あの一人だけは」といって彼はキャザリンを乗せた自動車の走り去った方に頭を向けた。
「ああ!」とポワロはいっただけであった。
この沈黙は相手の激しい気性を刺激する目的によくかなった。
「僕はあなたが何をいおうとしているのか知っていますよ。僕が今まで送ってきたような生涯では彼女の対象になる価値はない。そんなことを考える資格もない、というのでしょう。一度悪名を取ったが最後、もう何をしたってだめだというのでしょう。僕は、妻が死んでから数日しか経っていないのに、しかも殺されたりしたというのに、こういうことを口にするのは、穏当でないことぐらいは知っていますとも」
彼は息をつぐために言葉を切った。その隙にポワロは、
「しかし、私は何も申しはいたしませんでした」と、嘆息するようにいった。
「しかし、あなたはいうにきまっています」
「何をですか?」
「僕はこの世でキャザリンと結婚する機会などないというんでしょう」
「いいえ、私はそうは申しません。それはあなたの評判は悪うございます。しかし女性には……女性というものはさようなことで二の足を踏むようなことはしないものでございます。もしあなたが優秀な性格の持ち主で、厳正な道徳家だったら、私はあなたの成功を疑います。いったい道徳的価値と申すものはご承知の通り、ロマンチックなものではございません。ただし未亡人たちはそれを高く評価いたしますがね」
ケッタリングは彼を見つめていたが、くるりと後ろを向いて待たせてあった自動車の方へ歩いて行った。
ポワロはいくぶん興味を持って彼を見送っていた。彼は美しい女性が車から身をのりだして彼に話しかけるのを見た。ケッタリングは、帽子をちょっとあげただけで、まっすぐ通りすぎて行った。
「そうだ、私も自分の家へ帰る時刻のようだ」とポワロはいった。
家では沈着なジョージが、主人のズボンにアイロンをかけているところであった。
「愉快な日だね、ジョージ。なんだか少し疲れたようだが、面白いことがないでもなかったよ」
「さようでございますか」
「犯罪者の性格というものはなかなか興味のあるものだよ、多くの殺人者は魅力ある風采を持っているものだ」
「殺人鬼のクリッペン医師はたいそう話しぶりの愉快な紳士だったと聞いております。それだのに自分の妻をこま切れにいたしましたです」
「ジョージ、お前のあげる例はいつも適切だね」
ちょうどその時、電話のベルが鳴った。ポワロは受話器を取り上げた。
ちょっと間をおいて、オルデンの声が聞こえてきた。
「ポワロさんでいらっしゃいますね。実はメイゾンが自分から進んで私のところへ話しに参ったので、そのことをお耳に入れようと思いまして。メイゾンはよく考えてみたら、パリで見た紳士はたしかにケッタリングだったと申すのです。その紳士にどこか見覚えがあるような気がしたけれども、当時はそれをどこに結びつけていいかわからなかった。しかし、今になってみると、たしかにケッタリングだったと思うと申し出たのです」
「ああ、それはありがとうございました、オルデンさん」
彼は受話器を元へもどして、奇妙な微笑をうかべて一、二分、じっと立っていた。ジョージは主人の答を得るのに、二度も同じことをいわなければならなかった。
「え? お前、なんといったのだね?」
「旦那さまはお家でお食事をなさいますか、それともお出かけでございますか」
「どっちもやらないね、私は寝床へ入って煎薬《せんじぐすり》でも飲むよ。私が予期していた通りのことが起こったのだ。予期していたことが起こると私はいつも感情がたかぶるのでね」とポワロはいった。
挑戦
ケッタリングが車のわきを通った時、ミレイユは車から上体を突きだして、
「あんた! あたし、ちょっとお話があるのよ……」といった。
しかし、ケッタリングは帽子をあげただけで足もとめずに行ってしまった。
彼がホテルへ帰ると受付がペンをおいて、呼びとめた。
「もしもし、あのう……紳士がお待ちになっておられます」
「誰だね?」
「お名前はおっしゃいませんが、重要な用件があるからお帰りをお待ちするといわれまして」
「どこにいるね?」
「応接室の方においでになります。個人的な用件だから、談話室よりもその方がいいとおっしゃいますので」
ケッタリングはうなずいて、その方へ歩を向けた。
応接室にはその訪問者のほかは誰もいなかった。ケッタリングが入って行くと、彼は立ち上がって、外国風に頭をさげた。ケッタリングはローシ伯爵には一度しか会ったことがなかったが、その貴族らしい紳士を造作なく認め、腹立たしげに眉をひそめた。
「ローシ伯爵ですね、ここへ来たことはおそらく無駄足でしょう」
「そういうことはないと存じますね」伯爵は愛想よくいった。彼の白い歯が光った。
彼はルスがよくもこんな、にやけた胸くその悪い男を好きになれたものだと今更のように奇異の感に打たれた。彼は伯爵のきれいに美爪術をほどこした手を、いやな気持ちで見つめた。
「私はちょっとご相談があって伺いましたので、あなたさまは私の申し上げることをいちおうお聞き遊ばす方が、お得だと存じます」と伯爵はいった。
ケッタリングは最初から彼を蹴飛ばしてやりたい衝動を強く感じたが、もう一度我慢した。脅迫的な匂いを感じないわけではなかったが、話すことに耳をかたむけた方がいいという理由はいろいろあった。
彼は腰かけると気短にテーブルを指の先でたたきながらいった。
「君は僕に何をいいに来たのだ」
「私は正直に申し上げます。私、すぐに要点に移るといたしましょう、その方がお互いのためと存じます。そうじゃございませんか?」
「いいたまえ」
伯爵は天井を見あげ、両手の指先を合わせて、物柔らかな調子で切りだした。
「あなたは、莫大なお金を手にお入れになりましたね」
「それがいったい君と何の関係があるんだ」
伯爵は容儀を正した。
「私の名が汚されました。私は嫌疑をかけられております。忌まわしい罪をきせられております」
「その告発は、僕から出たものではない。僕は利害関係者だから、自分の意見は発表しない」
「私は潔白です。私は無罪であることを天に誓います」彼は手を天にあげていった。
「たしかこの事件の担当者は予審判事カレージュ氏だと思いますね」ケッタリングは礼儀正しくいった。
伯爵は、それにはおかまいなしでいった。
「私は不当にも自分の犯しもしない、罪の嫌疑をかけられておりますだけではなく、私は非常に金の必要に迫られております」彼は暗示的にそっと咳ばらいをした。
ケッタリングは立ち上がった。
「僕はそう来るのを待っていたんだ。このゆすりめ! 僕は銅貨一枚だってやらないぞ! 妻は死んでしまった。だから君がどんな不都合な事件を構えようと、もう彼女には及ばないのだ。おそらく彼女は君に愚かな手紙をたくさん書いたことだろう。もし僕が、今ここで相当の金をだして、それを買いもどしたとしても、君のことだから、きっと一、二本は手もとに残しておくに違いない。で、ローシ伯爵君とやらにいっておくがね。恐喝取財というやつは、イギリスでもフランスでも醜悪な言葉になっている。これが僕の答だ。さようなら!」
「ちょっとお待ち下さい!」伯爵は部屋を出て行こうとするケッタリングに呼びかけた。
「あなたは、考え違いをしておいでになります。私はご婦人のお書きになった手紙は、どれでもみんな神聖なものとしております。私は紳士をもって自認しておる者でございます」
伯爵は高貴の人らしく頭をふりあげた。ケッタリングは声をあげて笑った。
「私があなたに提供しております案は、それとはぜんぜん違った性質のものでございます。前にも申しましたとおり、私は非常に金につまっておりますので、良心の指さすところに従って、ある情報を警察へ持っていくことになるかも知れないのでございます」
ケッタリングは、のろのろと元の席にもどった。
「それはどういう意味だ?」
伯爵の心地よげな微笑が、もう一度ひらめいた。
「詳細にわたる必要はございますまい。よくその犯罪で利益を得るものを捜せという言葉がございますね。で、さきほども申し上げましたように、あなたは莫大なお金を入手なさいましたね」
ケッタリングは笑った。
「君のいうことがそれだけなら……」
とケッタリングがさげすむようにいいかけると、伯爵は首をふって、
「ところが、これだけではございません。それ以上に、もっと明確で詳しい情報がなければ、私はこちらへは伺いません。逮捕されて、殺人罪に問われるのは、気持ちのいいものではございません」
ケッタリングは、彼につめ寄った。彼の顔はあまりに激しい怒りを表わしていたので、伯爵は思わず後ずさりをした。
「君は僕を脅迫しているのか?」
伯爵は白い手をあげた。
「違います。こけおどしではございません。こう申し上げたら、あなたも納得なさるでしょうが、私の情報はある婦人から得たものでございます。あなたが殺人を犯されたという、いい破ることのできない証拠を握っているのがその婦人でございます」
「婦人? 誰だ」
「ミレイユ嬢」
ケッタリングは殴られでもしたように後へ退った。
「ミレイユか……」と彼はつぶやいた。
伯爵は地の利を得て押しすすんで来た。
「わずか一万フランで、私の良心が満足すると申し上げるのでございます」
ケッタリングは、伯爵をじっと見つめて、
「君は今、僕の返事がほしいのか?」
「どうぞ」
「返事はこれだ。何とでも勝手にしやがれ! わかったか?」
口がきけないほど、呆気にとられている伯爵を残して、ケッタリングはきびすを返して部屋を飛びだして行った。
ホテルの外へ出ると、はじめて彼は立ちどまって、タクシーを呼びとめて、ミレイユのホテルへ走らせた。受付でたずねると彼女はちょうど帰って来たところだったので、名刺をだして、
「これを二階へ持って行って、僕に会うかどうか聞いてくれたまえ」
ほんのわずか待っただけで、ケッタリングは案内された。
その部屋に入ると同時に、異国的な香水の匂いが彼の鼻孔にしみこんで来た。部屋の中はカーネーション、蘭《らん》、ミモザなどの花で一杯になっていた。ミレイユは泡のような、レースの化粧服を着て窓ぎわに立っていた。
彼女は両手をひろげて彼の方へ来た。
「デリク、あたしんとこへ来たのね、あたし、きっとそうなると思ってたのよ」
彼はからみつく腕を、わきへどけて、彼女を厳しく見おろした。
「なぜ、お前はローシ伯爵を僕のところへよこしたのだ」
彼女はあっけにとられて彼を見つめた。彼はそれが真実のものと見てとった。
「あたしが? ローシ伯爵をあなたんとこへやったんですって? 何のために?」
「明らかに恐喝のためさ」ケッタリングは険しい調子でいった。
ふたたび彼女は目をみはった。それから急に微笑を浮かべてうなずいた。
「もちろん、そう来るのがほんとだったわね、あの人のしそうなことだわ。そこに気がつくべきだったのにね。いいえ、全くあたし、あの人を、あなたんとこへなんかやらないわ」
彼は彼女の心の中を読もうとするように、刺すような目で彼女を見つめた。
「あたしお話するわ、恥ずかしいことだけれど、お話するわ。この間ね、あなたわかるでしょう、あたし、口惜しくて、腹が立って気違いみたいになってしまったの。あたしの性格は辛抱強い方じゃないのよ。あたし、あなたに復讐したかったの。それでローシ伯爵のところへ行って、しかじかこれこれと話して、警察へ行きなさいって、いってやったの。でも、あなた心配することなんかなくてよ。あたしだって、すっかり理性を失ってしまったわけではないから、証拠は自分ひとりで握っていたの。いいこと、私がそれをいわなかったら、警察はどうすることもできないのよ。で、今は、……今は?」
彼女は彼にすり寄って、とろけるような目で彼を見あげた。
彼は荒々しく彼女を突きのけた。彼女は胸を波打たせながら、そこに立ちつくしていた。彼女の目は猫のように切れが長く細められた。
「いいこと、気をつけて、ものをいってよ、とても気をつけてね。あんたはあたしんとこへ帰って来たのね、そうでしょう?」
「僕はけっして、お前のところへは帰って来ない」
「ほかの女ができたのね? この間もあんたと食事した、あの女ね、そうでしょう?」
「僕は彼女に結婚を申しこむつもりだ、それも知っておくがいい」
「あの気取りやのイギリス女! あたしが一分だってそんなことに我慢できると思って? どういたしまして!」彼女の美しいからだが震えた。
「あんたはロンドンで、あたしたちが話し合ったことを覚えていて? あなたは自分を救う唯一の道は、あなたの奥さんの死だっていったじゃないの。あなたは奥さんがあまり健康なのを口惜しがっていたわ。それからあなたの頭の中に事故という考えが入って来たのよ、そして事故以上のことが」
「お前が伯爵に話したのは、その会話だったのだね」ケッタリングはさげすむようにいった。
「あたし、ばかかしら? 警察ではそんな漠然とした話じゃ何もできっこないわ。いいこと、あたし、あなたに最後の機会を与えるわ。あなたはそのイギリス女を思い切ってしまって、あたしんとこへ帰ってくるのよ。そうすればあたしは、けっして、けっしてあのことしゃべらないわよ」
彼女は軽く笑った。
「あなたは、誰も見てる人がない、と思っていたけれど」
「何のことをいっているんだ」
「あなたは、誰も見ていないと思っていたけれど、あたし、ちゃんと見ていたのよ。あたしね、あの晩、列車がリヨン駅に着くちょっと前に、あなたが奥さんの部屋から出てくるのを見たのよ。それからあたし、もっと知っているわ。あなたがあの部屋から出て来たときには、奥さんが死んでたのを知っているわ」
彼は彼女の顔をじっと見ていたが、夢の中の人のように、のろのろと後ろを向いて、部屋を出て、少しよろけながら歩み去った。
4 二人の求婚者
警告
「私どもはほんとうのよいお友達でお互いの間に秘密は持たないことになっているのでございましたね」とポワロはいった。
キャザリンは彼を見るためにふり返った。彼の声には今まで聞いたことのないような真剣な調子があった。
二人はモンテカルロの庭に腰かけていた。キャザリンはタムリン伯爵夫人の一行とともに来たのであったが、到着するとほとんど同時にポワロとナイトンに出会った。タムリン夫人はすぐにナイトンをつかまえて、キャザリンが大方は作り話らしいとあわい疑念を抱いたような懐旧談に耽った。タムリン夫人は若い男の腕に手をかけて、二人は歩み去った。
ナイトンは二、三度肩越しに後ろをふり返った。それを見送るポワロの目はいくらか輝いた。
「もちろん私どもはお友達です」
「私どもは最初からお互いに同情しあっておりましたね」
「あなたが探偵小説のようなことが実際の生活にも起こるとおっしゃった時からです」
「で、私の申しました通りでした。そうじゃございませんか?」ポワロは人さし指をふって自分の言葉を強調した。そして、
「ごらんのように私どもはただ今そのまっ只中に飛びこんでおります。これは私にとりましては自然なことでございます……これは私の職業でございます。しかしあなたは別でいらっしゃいます。さよう、あなたには違います」と考え深い口調でつけ加えた。
キャザリンは鋭く彼を見た。
「どうしてあなたは私が事件のまっ只中にいるとおっしゃるのですか。ケッタリング夫人が死ぬ直前に私がお話をしたことは事実ですが、今はもうすべてがすんでしまっています。私はもう事件とは何の関係もありません」
「ああ、お嬢さま、お嬢さま、私どもはあれに関係ない、これに関係ないといいきれましょうか?」
「どういう意味ですか? あなたは私に何か話そうというより、何かを伝えようと……していらっしゃるのですね。でも私はほのめかされて、すぐにそれと感づくほど敏感ではありませんから、何かおっしゃるのなら、はっきりといっていただく方がいいと思います」
「ああ、イギリス人では無理もございません。何もかも黒か白、すべてが輪郭が正しく、はっきりしていなければならないのでございますね。しかし、人生はそういうものではございません。まだ形として現われて来ていないものが前もって影を投げていることもございます」
彼は大きな絹ハンケチで額をぬぐい、
「ああ、私は詩的になったようでございます。あなたのおっしゃるように事実だけをお話しいたしましょう。事実を語るといえば、あなたはナイトン少佐をどうお考えになるかお聞かせ下さい」
「私あの方をたいへん好きです。あの方は全く愉快な方です」とキャザリンは熱をこめていった。
「あなたはあまり熱心にお答えになった。もしあなたが無関心な声でおっしゃったのでしたらたいそうよろしい。その方が私は喜んだろうということがおわかりになりますか?」とポワロはいった。
キャザリンは答えなかった。彼女は少し落ち着かない気持ちになった。ポワロは夢みるような調子で言葉を続けた。
「だがほんとうのことが誰にわかろう? 女性というものは自分の感じをいろいろな風にして隠すものだから……熱心にいうところがかえってまた別の意味かも知れない」
「私には分かりかね……」とキャザリンがいいかけると、彼はそれをさえぎった。
「お嬢さまは、どうして私がこんなに無作法なのか、わからないとおっしゃるのでございますか? 私は老人でございます。それで時々、……いや、しばしば私にとりまして、その人の幸福が非常に大切に感じられるような人に出会うのでございます。お嬢さま、私とあなたはお友達でございます。それで私はあなたがお幸福《しあわせ》になるのを見たいのでございます」
キャザリンはじっと目の前を見つめていた。
「私はお嬢さまにナイトン少佐のことをおたずねしましたが、今度は別の質問をしたいと存じます。あなたはケッタリング氏をお好きですか」
「私は、あの方をほとんど知りません」とキャザリンはいった。
「それは答になりません」
「そうですね」
ポワロにはその調子に何か心に触れるものを感じて、彼女を見た。
「おそらくお嬢さまが正しいのでしょう。しかし、あなたにこんなことを申し上げるこの私は、世の中をたくさん見て来ております。そして世の中に真実のことが二つあることを知っております。善良な男が悪い女を愛したために破滅するかも知れませんが、またあくまでもその善良を保っている場合もあります。それと同様に悪い男が善良な女を愛したために破滅に陥る場合もあります」
キャザリンは鋭く彼の顔を見あげた。
「破滅するとおっしゃると!」
「私の意味は彼の立場においてのことでございます。誰でも何をするにも一意専心にやらなければならないように、犯罪の場合もそうでございます」
「あなたは私に警告しようとしていらっしゃるのですね、誰に対してですか」
「私はあなたの心の中を見ることはできません。たとえできたとしても、あなたはお見せにはならないでしょう。私はただ男性の中には、女性に対して不思議な魅力を持っている者があるということだけ申し上げておきましょう」
「ローシ伯爵みたいに?」キャザリンは微笑しながらいった。
「ほかにもございます。ローシ伯爵よりも、もっと危険なのが……その連中は女性の心に訴えるような性格を持っております。向こう見ずで、大胆で、ずうずうしくて。私にはお嬢さまが心を奪われていらっしゃるのが分かります。しかし私はただそれだけで、それ以上には進まないように希望いたします。私が申しておりますその男性の感情は、偽らぬものでございましょうが、それにしても……」
「それで?」
彼は立ち上がって、彼女を見おろした。そして低いがはっきりした声でいった。
「お嬢さまは盗人をお愛しになっても構いませんが、殺人者はいけません」
そういい終わると、ポワロはキャザリンを残してくるりと後ろを向いて歩み去った。
ケッタリングは娯楽場から日光の中へ出て来て、キャザリンが一人で腰かけているのを見つけてそばへ行った。
「僕は賭博をして来たのです。不首尾な賭博をしたのです。持っていた金を、すっかりなくしてしまいましたよ」といって、彼は軽く笑った。
キャザリンは困った顔をして彼を見あげた。
「あなたは性来の賭博好きでいらっしゃるのだと思います。賭博の精神があなたの気持ちにぴったりしているのでしょうね」
「毎日、何をするにも賭博的だとおっしゃるんですか? あなたのお説はまさにその通りですね、あなたは賭博にスリルをお感じになりませんか? 一か八か賭けてしまうあのスリル……ほかでは味わえない気持ちですよ」
キャザリンは自分が冷静で鈍感だと信じているにもかかわらず、ケッタリングの言葉に対してかすかな反応的スリルを感じた。
「僕はあなたに話したいことがあるのです。ほかにはこういう機会はないかも知れませんからね。僕が妻を殺したという考えが人々の間に起こっています……どうぞ終わりまでいわせて下さい……もちろんそれはばかげたことです」彼は息をつぐためにちょっと言葉を切って、更に慎重に語り続けた。
「警察の連中を相手にする場合、僕はいくらか体面を繕《つくろ》わなければなりませんが、あなたに対して僕はいい顔しようとは思いません。僕は金と結婚するつもりだったのです。で、はじめて、ルス・オルデンに会ったのは、僕が金づるを捜していた時でした。彼女は細っそりとした聖母を想わせるようなところがありました。僕はあらゆる善良な決心をしたのでしたが、すっかり幻滅を感じさせられました。妻は僕と結婚した時には、他の男を愛していました。彼女は僕などぜんぜん省みませんでした。僕は別に不平をいっているのではありません。もともと僕たちの結婚はりっぱな商取り引きだったのですからね。彼女は爵位を望み、僕は金がほしかったのです。面倒が起こったのはルスのアメリカ魂のせいだったのです。ルスは僕のことなど爪のあかほども思っていないくせに、僕から絶えずちやほやされていたいというわけです。彼女はいつも僕を買ったのだから、僕は彼女の所有物だといわんばかりの口吻《こうふん》をもらしました。その結果、僕は彼女に対して言語道断な行ないをしたのです。僕の義父はきっとあなたに僕のことをそう話すでしょうが、義父のいう通りなんです。ルスの死んだ時、僕は徹底的な不運に直面していたのでした。オルデンのような億万長者を敵にまわすとなると、これは誰にとっても絶対的災厄ですよ」といって彼は笑った。
「それから?」キャザリンは低い声でいった。
「それから」ケッタリングは肩をすくめて見せた。そして「ルスが殺されたのです……全く天佑的に」
彼はまた笑った。その笑いの響きがキャザリンの気持ちを傷つけた。彼女は眉をひそめた。
「こういうことをいうのは、たしかにいい趣味ではありません。全くそうです。さて、僕はあなたに、もっと大切な事をお話しましょう。僕はあなたを初めて見た瞬間から、あなたはこの世で僕が会うべきただ一人の女性であることを知ったのでした。僕はあなたを恐れました。あなたが僕に悪運をもたらすだろうと考えたのです」
「悪運?」キャザリンは鋭くいった。
彼はしばらく彼女をじっと見つめた。
「なぜあなたはその言葉をそんなふうにくり返したんですか、あなたは何を考えていらっしゃるんですか?」
「私は人々が、私にいって聞かせたことを考えているのです」
「世間では、僕のことをいろいろにいうでしょう。それが大方はみんなほんとうなんです。それから、もっと悪いことも。僕がけっしてあなたに話さないようなこともいうでしょう。僕は賭事ばかりしていました。そして大きくすったこともあります。僕はあなたに今もこれから後も告白なんかしません。過去はもう精算してしまうんですからね。僕は一つだけあなたに信じていただきたいことがあるんです。僕が妻を殺したのではないということを、あなたに厳かに誓います」
彼は、それらの言葉を十分真剣にいったのだが、なんとなく芝居がかった感じがあった。彼は彼女の心配そうな凝視にあって、言葉をつづけた。
「わかっています。僕はこの間は嘘をついたんです。僕はあの晩、妻の室へ入って行ったのです」
「ああ」とキャザリンはいった。
「なぜ、そんなことをしたのか説明するのはむずかしいですけれども、やってみましょう。僕は全く衝動的にやったのです。実は僕は妻の行動を偵察していたところだったのです。だから僕は列車の上で顔を合わせないようにしていました。ミレイユは、僕の妻がパリでローシ伯爵とあいびきしに出かけるのだと話しました。ところが僕の知るかぎりではそんなことはなかったので、僕は自分の行為を恥じました。それで急に今度だけは妻に詫びた方がいいだろうと思って、妻の室の戸を押して入って行ったのです」
彼は言葉を切った。
「そうして?」キャザリンは穏やかにいった。
「ルスは寝台に横たわって眠っていました。顔を壁の方に向けていたので、頭の後ろの方しか見えませんでした。もちろん彼女を起こすことはできました。しかし僕は突然に反動を感じたんです。お互いの間ですでに数百度も話し合ったことを、今さらまたここでくり返したところで何になるだろう? と思ったんですね、妻はいかにも安らかに横になっていました。それで僕はできるだけ静かにそこを出て来てしまいました」
「なぜ、警察にそのことで嘘をおつきになったのですか」キャザリンがたずねた。
「なぜなら、僕は完全にばかではないからです。僕は動機という点からは、申し分ない殺人犯人と見られるということを最初から悟っていたのです。もし妻が殺される前に、僕が彼女の室へ入ったということを、承認したらもう最後ですからね」
「わかりました」
彼女は納得したのだろうか? 彼女は自分でもわからなかった。彼女はケッタリングの人品の持つ魅力を感じていた。しかし心の中に何かそれに反抗するものがあった。
「あなたは僕があなたを好きだということを知っていらっしゃいますね。あなたは僕を好きですか?」
「私は……私はわかりません」
彼女は助けを求めるように、あたりを見まわした。その時小路を丈の高い色白の男が片足を引きずるようにして急いで来るのを見て、彼女の頬にあわい紅がさして来た。それはナイトン少佐であった。
彼に挨拶を送った彼女の声には、安堵と思いがけぬ熱意があった。
ケッタリングは雷雲のような暗い顔つきになって、つと立ち上がった。
「タムリン夫人は一山張っておられるのかね?僕は夫人に、僕のやり方を伝授しなければならない」
彼はくるりと後ろを向いて、二人を残して行った。キャザリンはふたたびベンチに腰をおろした。彼女の心臓の鼓動は激しく乱れていた。しかしそこに腰かけて自分のわきにいる静かなはにかみやの男に平凡なことを話しているうちに、日ごろの落ち着きを取り戻した。
ところで驚いたことには、ナイトンも態度こそ違うがケッタリングと同じように心のたけを彼女に打ち明けはじめたのである。
彼ははにかんで、どもり勝ちであった。言葉がとぎれとぎれでそれを強調する雄弁さはなかった。
「はじめてお目にかかった瞬間から、私は……ご交際が浅いのにこんなことをいうべきではありませんが……あの……実は……オルデン氏がいつ出発されるかわかりませんので……ほかに機会はないと思いまして……私はそんなに早くあなたが私を好きになって下さることはできないのは知っております……それは不可能です。とにかうこういうことをいいだすなんて、たいへん無礼なことです。私は自分の財産を持っておりますが、あまりたくさんではありません……どうぞ今ご返事なさらないで下さい。あなたのご返事がどんなものであるか分かっております。しかし万一急に去らなければならないようなことになりました場合、あなたに知っていただきたいと思いまして……私があなたを思っていることを……」
彼女は感動し動揺した。彼の態度はいかにも優しく胸に訴えるものがあった。
「もう一つ申し上げることがあります。私はこれを申し上げたいのです……もしも……もしも何かお困りのことが起こった場合に、私にできることがありましたら何でもいたしますから……」
彼は彼女の手を取って、ちょっとの間力をこめてしっかりと握りしめると、その手を放して、一度もふり向きもしないで賭博場《カジノ》の方へさっさと歩いて行った。
キャザリンは身動きもしないで、彼を見送っていた。デリク・ケッタリング……リチャード・ナイトン……二人の男性……全く異なった型の男性……ナイトンには何か親切で頼もしいところがある。ケッタリングには……。
その時、突然にキャザリンは非常に不思議な感じを覚えた。彼女はもはや賭博場《カジノ》の庭に一人きりで腰かけているのではなく、誰かが自分のそばに立っているのを感じたのである。そしてその誰かは死んだ女《ひと》、ルス・ケッタリングであった。さらに彼女は、ルスがしきりと、何かを自分に語ろうとしているという印象を受けた。その印象はあまりに奇妙で、あまりにはっきりしていて、追いはらうことができないほどであった。
彼女はたしかにルス・ケッタリングの霊魂が、何か死活に関するほど重大なことを自分に知らせようとしているのだと感じた。やがて、その印象は消えて行った。キャザリンは少し震えながら立ち上がった。ルス・ケッタリングが、そんなにひどく告げたがっていたのは何だったのであろう?
ミレイユとの会見
ナイトンはキャザリンのもとをはなれると、ポワロを捜しに行った。彼はのんきそうに、賭博場《カジノ》で最少額の金を偶数にばかり賭けていた。ナイトンがそばへ行った時にちょうど三十三番が出て、ポワロの賭け金はさらわれてしまった。
「不運ですね! またお賭けになりますか?」
とナイトンはいった。
「もう止めます」
「あなたは、賭博に心魂を奪われるような気持ちをお感じになることがありますか?」ナイトンは好奇心をもってたずねた
「ルーレットでは感じませんね」
ナイトンは、彼にすばやい視線を投げると、不安らしい顔になった。彼は相手を尊敬するようにためらいながら、
「ポワロさんは、今お忙しくていらっしゃるのではないでしょうか、少し伺いたいことがあるんですが」といった。
「どうぞご遠慮なく。外へ出ましょうか。日なたの方が気持ちがいいですからね」
二人は並んでぶらぶら外へ出て行った。ナイトンは深いため息をした。
「私はリビエラが好きです。最初に来たのは十二年前で、世界戦争中、タムリン伯爵夫人の病院へ送られたのでした。戦地から来ると全く極楽でした」
「そうでございましたでしょうな」
「戦争なんてなんだか遠い昔のような気がしますね!」とナイトンは述懐した。
二人はしばらく黙って歩きつづけた。
「あなたは何か心に持っていらっしゃいますね」とポワロがいった。
「おっしゃる通りです。あなたはどうしてそれがお分かりですか」
「自然とはっきり見えておりますから」とポワロは冷ややかにいった。
「私は自分がそんなに透明だとは知りませんでした」
「人相を観察するのは私の商売です」
「ポワロさんはミレイユという舞踊家のことをお聞きになったことがおありですか?」
「ケッタリング氏の贅沢な愛人でございましょう?」
「そうです。それをご存じなら、オルデン氏が自然彼女に対して、偏見を持たれる気持ちがお分かりになると思います。彼女はオルデン氏に会見を申しこんで来たのです。で、ご主人ははっきりと拒絶してしまえ、といわれるので私はその通りにしました。ところが今朝彼女はホテルへやって来て、非常に急を要する重大なことだから、どうしてもオルデン氏に会わなければならないといって、名刺を給仕に持たせてよこしました」
「なかなか興味がありますね」
「オルデン氏は凄く立腹され、私にひどい返事をさせようとなさいましたが、私はさし出がましいとは思いましたが反対いたしました。私にはそのミレイユという婦人が何か重要な情報を、提供してくれるに違いないと思われたからです。彼女は青列車に乗り合わせていたのですから、私どもが知らなければならないような重大な何かを聞くか、見るかしたかも知れないのです。ポワロさんは私に同感なさいますか?」
「同感です、私にいわせれば、オルデン氏の振舞いは非常に愚かでした」
「ポワロさんの、そういうご意見を伺って、うれしいです。そこであることをお話しますがね。オルデン氏の態度があまり愚かだと思いましたので、私はひそかに階下へ行ってその婦人と会見いたしました」
「それで?」
「彼女は厄介なことに、どうしてもオルデン氏に直接でなければ話せないといって、何もいわずに帰って行ってしまいました。しかし私はたしかに彼女が何かを知っているらしいという、強い印象を受けたのでした」
「これは重大です。その婦人がどこに滞在しているか、ご存じですか」
「はい」といって、ナイトンはホテルの名を告げた。
「よろしい、われわれはすぐにそこへ参りましょう」とポワロはいった。
秘書は危ぶむようなようすで、
「オルデン氏は?」とたずねた。
「オルデン氏は強情張りでいらっしゃる。私は片意地な人間とは議論しません。私どもはすぐにその婦人に会いに参りましょう。私はオルデン氏から、全権を与えられたのだと申しますから、あなたもそれに調子を合わせて下さい」
ホテルでは、ミレイユ嬢は部屋にいるということだったので、ポワロは自分の名刺に鉛筆で「ヴァン・オルデンより」と書いてナイトンのとともに給仕に持たせてやった。
やがてミレイユ嬢は二人の訪問を受けるという伝言が来た。
二人がその部屋へ一歩踏みこむと、ポワロはすぐにリーダー格になって口を切った。
「お嬢さま、私どもはオルデン氏の代理としてお伺いいたしましてございます」
「あら、どうしてあの人自分で来なかったの?」
「不快のために外出できないのでございます。リビエラ咳にやられましたのです。それで私が全権を承り、ナイトン少佐は秘書として、伺いました次第でございます。が、どうしてもオルデン氏にと仰せられますのでしたら、二週間ほどお待ちいただかねばなりません」とポワロはでたらめをいった。
もしポワロがこれだけは十中八九までは確実だと思うことがあるとすれば、それはミレイユのような性格の女性にとって、待つという言葉は呪いだということである。
「じゃ、あたし、お話するわ。私は辛抱したのよ、手を、じっとおさえていたのよ、何のために? 侮辱するために! そうよ、侮辱されたんだわ。あの人はミレイユをこんな扱い方していい気なのかしら? まるで古手袋みたいに捨ててしまうなんて! どんな男だって私に厭きたことなんかないのに、いつだって厭きるのはあたしの方だったのよ」
彼女は部屋を往ったり来たりしていた。彼女の細っそりしたからだは怒りに震えていた。小テーブルが歩く邪魔になると、彼女は部屋の隅へ蹴とばしたので、壁にぶつかってばらばらになった。
「あたし、あの人をこうしてやるのよ! それからこうしてやるわ!」と叫んで、彼女は百合《ゆり》の花をさしてあった、ガラス鉢をつかんで切りこみストーブの火床に叩きつけたので、こなごなに砕けた。
「ああ、実にすばらしい! マダムは情熱的な激しい気性をお持ちでいらっしゃるように見受けられます」とポワロは叫んだ。
「あたし、芸術家よ。芸術家は、みんな情熱家よ。あたしデリクに、気をつけなさいって、いってやったのに、聞かないのよ」
彼女は不意にくるりとポワロの方に向き直って、
「あの人がイギリス女と結婚したがってるって、ほんと? うそ?」
「あのご婦人にたいそうのご執心だという噂でございます」とポワロが答えた。
ミレイユは二人の方へ来た。
「あの人が奥さんを殺したのよ、あの人やる前に、あたしにそのつもりだって話したわ。あの人すっかり行き詰ってしまったんで、一番簡単な抜け道を選んだのよ!」
「あなたは、ケッタリング氏が妻を殺したとおっしゃるのですね」
「そう、そう、そう! あたしあんたにそういったじゃないの」
「警察ではそれに対する証拠が必要です。つまり供述書でございますね」とポワロはいった。
「あたしね、あの晩あの人が、あの部屋から出てくるところを見たのよ」
「いつですか?」
「列車がリヨンに着く直前よ」
「あなたは、そのことをお誓いになれますか」
その時のポワロは別人のように鋭く決然としていた。
「ええ」
ちょっとの間、誰も口をきかなかった。ミレイユは激しい息使いをしていた。半ば挑戦的で、半ば恐怖に満ちた彼女の目は、二人の顔を次ぎ次ぎと見まわした。
「お嬢さま、これは由々しきことでございますぞ、あなたはどんなに重大なことかご承知ですか」
「そんなことわかっているわ」
「それならよろしいです。では時を移さず行動せねばなりません。それはおわかりでしょうね。これからすぐに予審判事の事務所へご同行願いましょう」
ミレイユは呆気にとられた。彼女はためらったが、ポワロが予知していた通り、彼女は逃れ道がなかった。
「いいわ、あたしオーバーを取って来ます」
二人だけ取り残されて、ポワロとナイトンはちらと目を見交わした。
「鉄は熱いうちに打てという言葉がございますね。ミレイユ嬢は情熱家ですから、一時間とたたないうちに後悔して、逃げ腰になりますでしょうから、われわれはどんなことをしても、それを防止しなければなりませんな」とポワロは小声でいった。
ミレイユは茶色びろうどに、豹《ひょう》の毛皮で縁をとったオーバーにくるまって現われた。彼女は茶色で危険な女豹のように見えた。彼女の目は依然として怒りと決意に燃えていた。
一行が着くと、その部屋にはコオ警察署長とカレージュ判事がいた。ポワロは手短に紹介した上で、ミレイユ嬢に話をするように丁寧にすすめた。彼女はポワロとナイトンに話したと同じ言葉で、前よりももっと落ち着いて語った。
「お嬢さん、これはあまり類のないお話ですなア……」
カレージュ判事はゆっくりといった。彼は椅子の背によりかかり、鼻眼鏡をかけ直して舞姫の顔を探るように鋭く見つめた。
「あなたはわれわれに、ケッタリング氏が前もって、あなたに犯罪を明言したことを信じさせようとなさるのでありますか」
「そうなんですよ、自分の奥さんのことを、あまり健康すぎるって、だから死ぬとすれば事故によるほかないって……それであの人はうまく手配するって」
「そういう事実があるとなると、お嬢さん、あなたは従犯者となることを、ご存じでありますか?」カレージュはおだやかにいった。
「あたし? そんなことないわよ、あたし、その時はそんなことぜんぜん本気にしてなかったんですもの。あたしは男をよく知ってるのよ、男っていうものはみんな口から出まかせをいうものなのよ。男の人のいうことをいちいち文字通りに取り上げていたらとんでもないことになるわ」
判事は眉をあげた。
「では、あなたはケッタリング氏の脅迫を根拠のない言葉だとおっしゃるのですか? ときにお嬢さんは、どういうわけでロンドンでの契約を破棄して、リビエラへおいでになったのか承りたいのでありますが」
ミレイユは、とろけるような黒い瞳で彼をじっと見つめて、
「あたしは、自分の愛している男といっしょにいたかったからなの、そんなのあたりまえじゃないこと?」と簡単にいった。
ポワロは静かに質問をはさんだ。
「すると、あなたがニースへ同伴なさることをケッタリング氏が希望されたというわけでございますか?」
ミレイユはその質問に答えるのが困難なようすであった。彼女は唇を開く前に目に見えて、ためらっていたが、いよいよ口をきくとなると高慢で冷ややかな態度を示した。
「そんなこと、あんたの知ったことじゃないでしょ」
それは答にならないことは誰にでもわかっていたが、三人とも何もいわなかった。
「ケッタリング氏が、妻を殺したことを最初に確実だとお思いになったのはいつでございますか?」
「前にも話したでしょう、あたしは列車がリヨンに着く直前に、ケッタリングが奥さんの部屋から出てくるのを見たんですもの。顔にちゃんと書いてあったわ……」
「なるほど」とカレージュ判事がいった。
「そのあとで、列車がリヨン駅を出てからケッタリング夫人が死んでいるのを見つけたんで……ああ、そうだったかと思ったのよ!」
「それだのに、あなたは警察へすぐ届け出なかったのですね」と警察署長がいった。
ミレイユはすばらしい目つきで彼をちらと見た。彼女は明らかに自分の演じている役割を楽しんでいるのであった。
「あたしが自分の恋人を裏切れて? どういたしまして、女にそんなことしろなんていうもんじゃなくてよ、でも、今は別よ、あの人あたしを裏切ったんですもの! もう何も黙ってることなんかないわ、そうじゃなくて?」
「そうですとも、そうですとも」といって、判事は彼女をなだめておいて、
「それでは一つこの陳述書にお目を通しになって、間違いなかったら、ご署名願いたいのであります」
ミレイユは書類をろくに読みもしないで、
「ええ、ええ、間違いないわ、もうあたしに用はないわね」といって立ち上がった。
「今のところはないです」
「ケッタリングは逮捕されるの?」
「すぐに逮捕いたします」
ミレイユは冷酷な笑い声をあげ、毛皮のコートの胸をかき合わせた。
「あの人、あたしの感情を傷つける前に、こういうことになるのを考えるべきだったのよ」
「ほんのちょっとした質問がございますが……あの細かな点を……」とポワロがいった。
「なあに?」
「列車がリヨン駅を出たとき、ケッタリング夫人が死んでいたとおっしゃいましたが、あなたは、どうしてそうお思いになったのでございますか」
ミレイユはポワロの顔を凝視した。
「だって、あの女《ひと》死んでたじゃないの」
「そうでしたか?」
「そうよ、もちろんだわね、あたし……」
彼女は急に黙ってしまった。ポワロは彼女を一心に見守っていた。そして彼女の目に用心深い色が浮かんでくるのを見た。
「あたし、そう聞いたわ、皆がそういってたわ」
「おや、私はその事実が予審判事室以外で発表されたことは気がつきませんでした」とポワロはいった。
ミレイユはどうやら落ち着きを失ったようであった。
「いろんなことが聞こえてくるのよ、誰かがあたしに話してくれたんだけれど、誰だったかあたし覚えてないわ」
彼女は戸口へ近づいた。コオ署長は飛びだして行って、彼女のために戸をあけた。その時ふたたびポワロの声が静かに響いた。
「それから宝石ですが、お嬢さま、あの宝石のことを何かお聞かせ下さいませんか」
「宝石? どの宝石なの?」
「カタリナ女帝のルビーでございます。そのようにいろいろとお耳に入るのでしたら、きっとそのルビーのことをお聞きになったに違いございません」
「あたし、宝石のことなんか、何も知らないわよ!」
ミレイユはつっけんどんにいって部屋を出て行った。署長は自分の席にもどった。判事はため息をした。
「なんという荒れ方でありましょう! だが非常にスマートですな。それにしても真実のことを話したのでありましょうかね?」
「あのご婦人の話には真実のところもございます。キャザリン・グレイ嬢はそれを裏書きしております。嬢は列車がリヨン駅に着くちょっと前に、ケッタリング氏が奥さまの部屋へ入って行くのを見たと、申されました」とポワロはいった。
「ケッタリング氏に対する容疑はほとんど確実ですな」といって署長はため息とともに、「非常に残念だが……」とつぶやいた。
「どういう意味ですか?」とポワロがたずねた。
「ローシ伯爵の尻尾を捕えることは、私の一生の念願でしたのでね、今度こそやつを捕えたと思ったのに!」
判事は鼻をこすった。
「何か間違いがあると、非常に厄介なことになりますな、ケッタリング氏は貴族でありますし、新聞にも大きく扱われるでありましょうから。われわれが間違っておったなんていうことになると……」彼は厭わしげに肩をすくめた。
「宝石ですが、犯人は宝石をどうしたとお考えになりますか」と署長がいった。
「策略として取ったのですな。もちろん、彼にとっては非常に厄介なことでありましょうし、またその処分に困るでしょうな」と判事はいった。
ポワロは微笑した。
「宝石につきましては私にある考えがございます。侯爵と呼ばれております男について、何かご存じのことがありましたら、お聞かせ下さいませんか」
署長は興奮したように身を前にのりだした。
「侯爵ですって? ポワロさんは彼がこの事件に関係しているとお考えなのですか」
「私はあなたが、彼についてご存じのことを伺っておるのでございます」
署長は顔をしかめた。
「われわれが知りたいと思うほど、まだ十分には知らないのです。いいですか。彼はいつも黒幕になっているのです。彼は自分のために汚い仕事をやる手下どもを持っておるのです」
「フランス人でございますか」
「さよう……私どもはそう信じております。だがたしかではないです。昨年の秋、スイスで盗難事件が頻々として起こりましたが、それがみんな侯爵が糸を引くものとみなされております。彼はフランス語と英語を完全にあやつり、国籍は謎で、神出鬼没の王侯のごとき存在です」
ポワロはうなずいて立ち上がり、帰り支度をした。
判事は落ち着かないようすで、
「もしもこの事件に、侯爵が関係しているとなると……」といいかけて止《よ》してしまった。
「私の考えは少しも乱されませんですね、それどころか、かえって私の考えにぴったりいたします。では皆さん、さようなら、もし何か重要なニュースが入りましたらすぐにご連絡申し上げます」とポワロはいった。
彼は深刻な顔をして自分のホテルへ歩いて帰った。彼の不在中にロンドンから電報が着いていた。彼は、ポケットから紙切ナイフを出して、封を切った。それは長文の電報で、ポケットへ納める前に彼は二度くり返して読んだ。二階の部屋では、ジョージが主人の帰りを待っていた。
「疲れたよ、ジョージ、私は非常に疲れたよ。チョコレートを一杯注文してもらいたいね」
チョコレートは間もなく運ばれて来た。ジョージは主人の手もとの小卓の上にそれをおいた。彼が退ろうとすると、ポワロが話しかけた。
「パポポラス嬢に電話をかけたかね」
「はい旦那さま、パポポラスさまとご令嬢は、喜んで今夜旦那さまとお食事をともになさいますそうでございます」
「ああそう」ポワロは考えこみながらいった。そしてチョコレートを飲みほしてしまうと、うけ皿と茶わんを、きちんと盆の上に重ねた。それから従僕にというよりも、独語するように静かにつぶやいた。
「ジョージや、栗鼠《りす》は木の実を集めるね、後日、自分の役に立てるように、秋のうちにせっせと貯めこんでおく。人類の繁栄をなすために、われわれは人間より下級の動物界から得る教訓によって、利益を得なければならないものだよ。私はいつもそうして来た。私は鼠の穴を見張っている猫みたいになって来たよ、私はまた遺臭を辿って行って、けっしてそれから鼻をはなさない猟犬になって来た。ジョージや、私は栗鼠にもなって来たよ。私は小さな事実をあっちで拾ったり、こっちで集めたりしてね、そこで今度はそのお庫《くら》へ行って私が長い間、そうだね、十七年も前から貯蔵しておいた、特別のくるみを取りだすところなんだよ。ジョージや、私のいうことが分かるかね?」
ポワロは召使いの顔を見つめて、微笑した。
ポワロ、栗鼠《りす》の役を演じる
ポワロは晩餐の約束を守るために、時間より四十分ほど早めに出発した。それにはほかに目的があった。自動車は彼をまっすぐモンテカルロへ運ばないで、タムリン伯爵夫人の家へ向かった。そこで彼はキャザリンに面会を求めた。
婦人たちは着がえの最中だということで、ポワロは小さい客間で待たされた。すると数分してレノックス嬢が入って来て、
「キャザリンは、まだすっかり支度ができないんです。何かご伝言があったら、私が取り次ぎましょうか、それとも待っていなさる方がいいこと?」といった。
「いいえ、キャザリン嬢にお会いするために、待つ必要はないと思います。お会いしない方がよろしいかも知れません。こういうことは、場合によりますと、たいそうむずかしいものでございます」とポワロが意味ありげにいった。
レノックス嬢は眉をちょっとあげただけで、礼儀ただしく相手の言葉を待っていた。
「私は、あるニュースを持って参ったのでございます。どうぞ、それをあなたのお友達にお話し下さい。ケッタリング氏が、今晩妻殺しの犯人として逮捕されました」
「あなたは私にそれを、キャザリンに話せって、いいなさるの?」とレノックス嬢はたずねた。
彼女は走って来た時のように、激しい息づかいをしていた。ポワロは、彼女の顔が目だって、白くやつれているように思った。
「お願いします」
「なぜ? あなたはキャザリンが、気でも顛倒すると思いなさるの? キャザリンがあの人のことを思っていると、あなたは考えていなさるの?」とレノックス嬢はいった。
「正直に申しますと、私にはわからないのでございます。原則として、私は何でも知っているはずでございますが、この場合だけは見当がつきません」
彼女はしばらく黙って、濃い眉をひそめた。
「あなたは、彼がやったと信じていなさるの?」
とレノックス嬢は、ぶっきら棒にいった。
「警察ではそう信じております」
「それは予防線? 何か予防線を張るような、わけがありなさるのね、あなたには」
ふたたび彼女は眉を寄せて沈黙した。ポワロはおだやかにいった。
「あなたはケッタリング氏を、ずっと前から知っておいででございましたね」
「子供のころから、近づいたり、遠ざかったりしながら、ずっとつきあって来たわ」レノックス嬢は、ぞんざいにいった。
ポワロは何もいわないで、いく度もうなずいた。
レノックス嬢はいつもの、そっけないようすで椅子を前へ引き寄せて腰かけると、肘《ひじ》をテーブルの上に突き、両手で顎をささえた。そんなふうにして、彼女はテーブル越しにポワロの顔を正面から見すえた。
「警察は、何をもとにしているの? 動機でしょうね、彼女が死んで遺産が入ったからでしょう」
「二百万ポンド入りました」
「そうして、もし彼女が死ななければ、彼は破滅だったのでしょう?」
「そうです」
「でも、それより、もっとほかになにかあるはずね、彼が同じ青列車で旅行したのはわかっているけれども、それだけでは証拠にならないし……」
「ケッタリング夫人のでない、表面にKという頭文字がついた煙草のケースがその車の中で発見されました。それから列車がリヨン駅に入る少し前に、ケッタリング氏が夫人の部屋から出てくるところを、見た人が二人ございます」
「二人って誰?」
「あなたのお友達のキャザリン嬢と、舞姫ミレイユでございます」
「で、彼はそれについてなんていっています?」
レノックス嬢は鋭く突っ込んだ。
「氏は夫人の部屋へ入ったことを、ぜんぜん否定しているのでございます」
「ばかね!」レノックス嬢は眉をひそめながらばりばりいった。
「リヨンの少し手前ですって? 彼女がいつ死んだか、誰も知らないの?」
「医師の判定が明確でないのは止むを得ないと存じますが、リヨンを出てから死んだのではなさそうだ、という考えに傾いておりますようでございます。それから私どもにはリヨンを発車してから、数分後にケッタリング夫人は死んでいたというところまでわかっております」
「どうしてそれがわかりました?」
ポワロは一人で、にやにや笑っていた。
「誰かほかの人が、その部屋へ入って行って夫人が死んでおられるのを見たのでございます」
「それだのに、列車の人たちを起こさなかったの?」
「そうです」
「なぜなの?」
「彼らに理由があったからでございましょうね」
レノックス嬢は彼をきっと見すえて、
「あなた、その理由を知っていなさるの?」
「知っている……と思います」
レノックス嬢はじっと坐って、考えをまとめていた。やがて彼女は彼を見あげた。微かにばら色が頬にさしてきて、その目は輝いていた。
「あなたは、列車に乗っていた者が、彼女を殺したと考えていなさるけれども、そうとばかりは限らないでしょう。列車がリヨンに停車した時に、誰か、よじのぼったということも考えられません? そうしてまっすぐに彼女の部屋へ行って、彼女を絞め殺して、宝石を盗んで再び誰にも気づかれずに、列車から飛びおりてしまえるわけね。彼女は列車がリヨン駅に停車中、殺されたかも知れないでしょう。そうすればケッタリングが入って行った時には、彼女は生きていて、次の人が入ったときには死んでいたということになるでしょう」
ポワロは、椅子の背によりかかって、深く息をすいこんだ。彼はレノックス嬢を見つめて、三度うなずいた。そしてため息をついた。
「お嬢さま、あなたのおっしゃることは正しゅうございます。ほんとうにそうでございます。私は暗闇の中でもがいておりましたが、あなたは答を与えて下さいました。私を当惑させていた点がございましたが、あなたはそれをはっきりさせて下さいました」
彼は立ち上がった。
「それで、ケッタリングは?」とレノックス嬢がいった。
「さア、どうなりますか?」ポワロは肩をすくめた。そして、
「しかしお嬢さま、私はまだ不満だと申すことだけは申し上げておきましょう。このポワロは満足してはおりません。今日今晩、私は何かを知るかも知れません、少なくとも知ろうと試みるつもりでございます」
「あなたは、誰かに会いに行きなさるの?」
「そうでございます」
「誰か、何かを知っている人?」
「何か知っているかもしれない人でございます。こういう場合には、何事も徹底的に調べなければなりません。ではさよなら」
レノックスは玄関までポワロについて行った。
「私ね……何かのお役に立ちました?」
石段の上に立っている、レノックス嬢を見上げたポワロの顔は和らいでいた。
「はい、お嬢さまはお力添え下さいました。事態が暗澹とした場合には、そのことをお思いだしになって下さいまし」
自動車が走って行くにつれて、彼はふたたび眉をひそめて考え込《こ》みはじめた。しかし、彼の目にはいつも勝利の前兆である、かすかな緑色の光が浮かんでいた。
数分後に、彼は約束の場所でパポポラス父娘が、彼より先に到着しているのを見いだした。ギリシャ人は今宵は常にも増して恵み深く、上品で汚れなき生涯を送っている高僧のように見えた。ジアは美しく上機嫌だった。晩餐は愉快なものであった。ポワロは逸話を語ったり、冗談をいったり、ジアに優雅なお世辞をいったり、自分の生涯に起こったさまざまな面白い出来事を語ったりした。献立は注意深く選んだものばかりで、酒も飛びきり上等であった。
食事が終わったところで、パポポラスは、
「私が提供して差しあげました内報は、いかがでございましたか、あの馬にお張りになりましたでしょうか」と丁寧にたずねた。
「私は自分の賭元と連絡いたしました」
二人の男の視線が合った。
「よく知られている馬ではございませんか」
「いいえ、イギリスで申す、いわゆるダークホースでございます」
「なるほど!」パポポラスは考え深くいった。
「さて今度は賭博場《カジノ》へ参って、ルーレットに少々賭けてみようではございませんか」とポワロは陽気に叫んだ。
賭博場《カジノ》で一行は離れ離れになった。ポワロがジアの接待に専念している間に、パポポラスは一人どこかへ押し流されて行ってしまったのである。
ポワロは幸運に恵まれなかったが、ジアは幸運の波に乗って、たちまち五、六千フラン儲《もう》けた。
「この辺で、止めた方がよさそうですのね」とジアはポワロにいった。
ポワロの目は輝いた。
「おみごと! あなたはさすがにお父さまの娘御でおいでになる。切りあげ時を心得ておいでになる! ああ、そこが技術でございます」
彼は各部屋を見まわした。
「どこにも、お父さまがお見えになりませんね。私はお嬢さまのオーバーを取って参ります。そしてごいっしょに庭へ出てみようではございませんか」とポワロは気軽にいった。
しかし、彼は携帯品預り所へまっすぐには行かなかった。彼の鋭い目はパポポラスが、つい今しがた外へ出て行くのを見たのであった。ポワロは陰険なギリシャ人がどうしたのか知りたがっていた。ポワロは思いがけなく大玄関で彼に追いついた。彼は大円柱の陰で到着したばかりの婦人と立ち話をしていた。その婦人はミレイユであった。
ポワロは気取られないように、横歩きをして部屋をまわって行った。そして二人に気づかれずに柱の反対側に達した。二人は興奮した様子で話し合っていた……というよりも舞姫が熱心に話し、パポポラスは時おり短い言葉をはさむとか、表情たっぷりの身ぶりをしているのみであった。
「時間が必要なのよ、時間さえくれば金を取ってあげるわよ」と彼女はいっていた。
「待つなんて……それは困ったことでございます」ギリシャ人は肩をすくめた。
「ほんのちょっとの間よ、どうしたって待ってくれなけりゃだめだわ。一週間か十日、それだけのことよ。あんたの成功は疑いなしよ。あんたのお金はまさに来たらんとしてるんじゃなくて!」
パポポラスは少し位置を移して、不安らしくあたりを見まわしたとたんに、すぐそばに、無邪気に、にこにこしているポワロの顔を見いだした。
「ああ、パポポラスさんは、ここにいらしたのでございますね。私はあなたをお捜ししていたのでございます。ジア嬢を庭へお連れしてもよろしゅうございましょうか? おやお嬢さま、今晩は。あなたのおいでになるのを少しも存じませんで、たいへん失礼いたしました」とポワロはミレイユに向かって、慇懃《いんぎん》に頭を低くさげた。
舞姫はその挨拶をじれったそうに受けた。彼女は明らかに内緒ばなしの邪魔をされたのを迷惑がっていた。
ポワロはジアのオーバーを受け取って行って、二人は庭へぶらぶら出て行った。
「ここが、よく自殺のあるところですのよ」とジアがいった。
ポワロは肩をすくめた。
「そうだそうでございますね。男って愚かなものでございますね。お嬢さまはそうお思いになりませんか? 食べて飲んで、いい空気を呼吸するのは楽しいことでございますよ、お嬢さま。それを金がないからとか、心が痛むぐらいのことで生命を捨ててしまうのは愚かなことでございます。恋愛はさまざまな不幸をもたらすものでございますね、そうじゃございませんか」
ジアは笑った。
「お嬢さま、恋愛をお笑いになるものではございません。あなたのようなお若くてお美しい方がね」
「とんでもない、ポワロさんは私が三十三だということを忘れておいでになりますのね。私あなたには正直にいたしますわ。嘘をついたって何にもなりませんもの。あなたが父におっしゃいました通り、パリでお世話になってからちょうど十七年になりますわ」
「あなたのお顔を拝見しておりますと、そんなに経ったとは思えません。あのころも現在も少しもお変わりになっていらっしゃいません。ただあのころは青ざめて、もっと真剣なお顔をしていらっしゃいました。十六歳で学校の寄宿舎から出ておいでになったばかりでいらっしゃいましたっけね」
「十六なんて、単純で、少し愚かな年ごろでございますわ」
とジアはいった。
「そうかも知れません。そうです、それはいいことだと思います。十六歳のころは信じ易うございます。いって聞かされたことをそのまま信じてしまう年ごろでございます」とポワロはいった。
ポワロは娘が横目で、ちらと自分の方を見たのを知っていたが、素知らぬふりをしていた。彼は言葉をつづけた。
「あれは全く奇妙な事件でございました。お父さまはほんとうの内容は何もご存じありませんでした」
「そうでしたの?」
「お父さまが詳細の説明をお求めになった時、世間に醜聞を流さずに、失った品を取り戻して差しあげたのですから、何も質問なさることはございますまいと申し上げました。お嬢さまは私がなぜそんなことを申したかご存じでいらっしゃいますか」
「私には見当もつきませんわ」娘は冷ややかにいった。
「それは青ざめてやせて、そんなに真剣な顔をしている小さな女学生に対して、私はこの胸の中に弱点を持っていたからでございます」
「あなたは何をいっていらっしゃいますの? 私、存じませんわ!」ジアは腹だたしげに叫んだ。
「お分かりになりませんか? お嬢さまはアントニオをお忘れでございますか」
彼は彼女があえぐように息をすいこむのを聞いた。
「彼はお店へ助手として入りこみましたが、それだけでは目をつけていた品を手に入れることはできません。助手は主人の娘に目をつけることはできます。そうじゃございませんか! もし若くて好男子で口先が上手だったら。ところで二人は恋をささやいてばかりもいられませんから、時折は二人に興味のあるようなこと、たとえば一時的にパポポラス氏の保管品となっているような、非常に興味ある品について語り合いました。でお嬢さまもおっしゃったように、若い時は愚かで信じやすいものでございますから、容易に彼を信用し、ある特別の品を、どこにしまってあるかを教え、その品を見せました。すると後になってそれが紛失してしまい、信じがたい破局がまいりました。かわいそうな女学生! 彼女はなんという恐ろしい立場に陥りましたことでございましょう。彼女は恐ろしくなり、いおうか、いうまいかと迷いました。そこへすてきな人間、エルキュル・ポワロが現れました。すべてが自然と処理された手ぎわは、奇蹟としか思われませんでした。貴重な由緒ある宝石は取り戻され、それについて何も面倒な質問がなくてすんだのでございました」
ジアは憤然としてポワロに向かった。
「あなたは、それを前からずっとご存じでしたの? 誰があなたにお話しました? それは……それはアントニオでございますか」
ポワロは頭をふった。
「だれも私に話しません。私は、推測したのでございます。これはなかなかみごとな推測でございましょう。いかがでございますか、お嬢さま? 推測がうまくできないようでは、探偵になっても役に立たないのでございます」
ジアはポワロと並んで、しばらく黙って歩いていたが、やがて堅い声で、
「あなたは、私から何かお聞きになりたいんですの?」
「お嬢さま、私はあなたに助力していただきたいのでございます」とポワロは熱意をこめていった。
「お嬢さま、私は一度あなたに対して寛大な処置をとりました。話してしまったかも知れないことを黙っていてさしあげました」
ふたたび沈黙がつづいた後、彼女はいった。
「私ね、もし私にできることでしたら、お手伝いしたいと思いますわ」
「あなたはお優しくていらっしゃる。お嬢さま、たいそうお優しい」
再び会話がとぎれた。ポワロは無理じいはしなかった。彼は彼女の都合のいい時がくるまでじっと待っていた。
「そうですわ。私がお話しないでいるということはございませんわ。父は用心深うございます。何を申します時もたいへん用心いたします。けれども私、あなたに対してはその必要はないと思います。あなたは殺人者だけを捜していらっしゃるので、宝石には関係しないとおっしゃいましたわね。私はそのお言葉を信じます。私どもがルビーが目的でニースへ来ているという、あなたの推測は当たっております。ある計画によって宝石はここまで運ばれて来て、ただ今は父の手もとにございます。先日父は私どもの謎の顧客が誰だかヒントを申し上げましたわね」
「侯爵でございますか」
「そうでございます」
「あなたは侯爵を、ごらんになったことがおありでございますか」
「一度だけ。でもよくは見られませんでしたの、鍵穴からでございましたから」
「それではむずかしゅうございます。それにしても、あなたはごらんになったのでございますね。もう一度見た時にお判りになりましょうか」
ジアは首をふった。
「マスクをかけていましたから」
「若うございますか、老人でございますか」
「白い髪でしたわ。かつらだったかも知れませんし、そうでなかったかも知れません。とてもぴったりと合っていましたもの。でも老人だとは思いません。歩きつきや声が若うございましたもの」
「声? ああ彼の声をお聞きになったのでございますね。お嬢さまはその声をもう一度お聞きになった場合に、それとお分かりになりましょうか」ポワロは考え深くいった。
「分かると思いますわ」
「お嬢さまは彼に興味をお持ちでいらっしゃるのでございますね。それで鍵穴からおのぞきになったのでございましょう?」
ジアはうなずいた。
「ええ、そうですの。私は好奇心を持ちましたの。いろいろと話を聞いておりましたもので……普通の盗賊ではないとか申しまして、まるで歴史か小説の中の人物のようでございますから」
「そうでございましょうね、きっとそうでございましょう……」ポワロは考え込んでいた。
「私がお話しようと思っておりましたのは、こんなことではございませんわ。ほんのちょっとした事実でございますけれども、お役に立つかも知れないと思いまして」
「それは?」ポワロはうながすようにいった。
「前にも申し上げましたように、ルビーはこのニースで父の手に渡りましたが、誰が持って来たか見ませんでしたけれども……」
「それで……」
「私、一つのことだけ知っておりますわ。それを父に渡しましたのは女だということだけ」
故郷からの便り
キャザリンは、いつになく憂わしげな目つきで寝室の窓越しに地中海の青い水を見つめていた。その朝、セント・メリー村から来たバイナー老婦人の素朴な手紙が、南フランスのはなやかな社交界の渦に巻きこまれていたキャザリンの心を、イギリスの平和な田園へ引き戻したのである。老婦人の手紙に描かれている、小さな村の、日常茶飯事ばかりの、ありふれた生活には、暖かい家庭の味がある。キャザリンは、不意に、セント・メリー村恋しさが、波のように襲いかかってくるのを覚え、その場に打ち伏して思うさま泣いてみたいような気持ちになった。
そこへ、ちょうどレノックス嬢が入って来て彼女の気持ちを救った。
「ハロー、キャザリン! あら、どうかしたの?」とレノックス嬢はいった。
「何でもありません」キャザリンは故郷からきた手紙を、いそいでハンドバッグの中へ入れた。
「あのね、私、あなたの探偵のお友達のポワロさんに電話をかけて、きょうニースで私たちとお食事してくれるようにいったんだけれど、いいでしょう? 私が誘ったんじゃあ来ないと思ったから、キャザリンが会いたいんだっていっておいたわ」とレノックス嬢はいった。
「では、あなたが、あの人にお会いになりたいの?」とキャザリンはたずねた。
「そう。私ちっとばかりあの人に夢中なのよ、私これまでほんとうに猫のように緑色の目をした男に会ったことがないんですもの」
「よろしいです」とキャザリンはいった。
彼女のいい方は物憂げであった。ここ数日間は、彼女にとってやりきれないものであった。ケッタリグの逮捕が時の話題となり、青列車の怪事件があらゆる角度から論議されていた。
「私、自動車を頼んでおいたわ。そして母には嘘をついておいたのよ。どんなこといったか忘れてしまったけれども、とにかく、もしも私たちがどこへ行くのか知ろうものなら、母はポワロさんから何やかや聞き出そうと思って、いっしょに行きたがるにきまっているから」
二人がネグレスコ・ホテルへ着くと、ポワロがもう来て待っていた。
彼がフランス式の礼儀をつくし、二人の娘にあまりお世辞をあびせるので、二人はやりきれなくなって、とうとう吹きだしてしまった。それにもかかわらず、陽気な会食とはいえなかった。キャザリンは夢でも見ているふうで注意が散漫であったし、レノックス嬢は一生懸命に話をしているのに沈黙の壁につき当たってしまうのであった。
三人がバルコニーへ出てコーヒーを飲みはじめた時、レノックス嬢は、突然ポワロに質問を向けた。
「その後どうなりました? 私のいう意味わかっていなさるわね」
「あの連中は、自分たちの進路を辿っております」といって、ポワロは肩をすくめた。
「あなたは、あの人たちを勝手な方へ、行かせっぱなしにしていなさるの?」
「お嬢さまは、お若くていらっしゃるから、おわかりにならないかも知れませんが、世の中には急がせることのできないものが三つございます……全能の神と、大自然と、老人と」
「よしてよ! あなたは老人でなんかないわ」
「そうおっしゃっていただくのは、まことに結構でございます」
「あら、ナイトン少佐だわ」とレノックス嬢がいった。
キャザリンは急いで後ろをふり返ったが、すぐまたこっちを向いてしまった。
「オルデンさんと一緒だわ。私ナイトン少佐にちょっと聞きたいことがあるの。一分とかからないから」といって、レノックス嬢は席を離れた。
二人だけになるとポワロは前へかがんで、キャザリンに小声で話しかけた。
「お嬢さまは気が散っていらっしゃいますね。あなたのお心は遠くへ行ってしまっているのではございませんか」
「英国まで……それより遠くへは行っておりません」
彼女は一時の感情にかられて、その朝、受け取った手紙を出して、テーブル越しにポワロに渡した。
「私が前にいた村から来た、最初の便りです。なぜかそれが私に苦痛を与えます」
彼はそれを読み終わると彼女に返しながら、
「それであなたは、セント・メリー村へお帰りになるのですね?」
「いいえ、帰りません。なぜそんなことをする必要がございましょう?」
「ああ、私の思い違いでございました。ちょっと失礼させていただきますよ」とポワロはいった。
彼は立ち上がって、レノックス嬢がオルデンとナイトンに何か話している方へぶらぶら行った。オルデンは急に老けてやつれてみえた。
彼がレノックス嬢のいったことに答えるために彼女の方を向いた時、ポワロはナイトンをかたわらへ呼んで、
「オルデン氏は加減がお悪そうですね」といった。
「無理もないでしょう。ケッタリング氏逮捕の醜聞は氏の憂慮に止《とど》めを刺したようなものですからね。氏はあなたに真実のことを探りだすようお頼みしたことを後悔しておられるほどです」
「早くここをお引きあげになるべきですね」と、ポワロはいった。
「私どもは明日イギリスへ帰るところです」
「それはいいことを伺いました」
ナイトンは、ちょっとためらった後、思いきったようにバルコニーの方へ歩いて行って、キャザリンのそばの椅子に腰をおろした。
ポワロは彼が満足そうに首をふって、レノックス嬢とオルデンの話しているところへ戻るのを見た。しばらくして一同はバルコニーへ来てよもやまの話をはじめた。そのうちに億万長者と秘書は帰っていった。ポワロも帰り支度をした。
「お嬢様方のご歓待、まことにありがとうございました。まことにすばらしい中食でございました。ほんとうに私には必要だったのでございます!」といって、彼は胸を張って手のひらで叩いて見せ、
「私は豪傑《ごうけつ》になりました! 巨人のように強くなりました。キャザリン嬢、あなたは私がどんなになれるかご存知ない。あなたは温和《おとな》しい静かな男ポワロを見ていらっしゃいましたが、もう一人、別のポワロがおります。私はこれから行って大いに、いばり散らして、脅しつけて、私の話を聞いている者どもの心に恐怖を叩きこんでやります」
彼は自己満足のていで二人を見つめた。二人ともいかにも感心したようすをしていたが、レノックス嬢は上唇をかみ、キャザリンは疑わしげに口をゆがめていた。
「私はそれをやります。そして成功します!」と彼はまじめにいった。
彼は五、六歩行ったところで、キャザリンの声に後ろをふり返った。
「ポワロさん、私、申し上げますが……あなたのおっしゃったことは正しいと思います。私はもうすぐイギリスへ帰るつもりです」
ポワロは彼女をじっと見つめた。彼の凝視をまともに受けて、キャザリンは顔を赤らめた。
「分かりました」と彼は厳かにいった。
「私、あなたがおわかりになったとは思いません」
とキャザリンはいった。
「私はあなたのお考えになる以上に知っております」とポワロは静かにいった。
彼は妙な薄笑いを口もとに浮かべながら、待たせてあった自動車に乗ると、ローシ伯爵の住むマリイナ荘へ向かった。
ローシ伯爵の従僕のヒポリットは、主人の美しいカットグラスのコップ磨きに忙しがっていた。ローシ伯爵は一日の予定でモンテカルロへ出かけて行った後であった。何気なく窓の外へ目をやったヒポリットは、一人の訪問者が、すたすたと玄関に向かってのぼってくるのを見た。それが見慣れないタイプの訪問者だったので、さすが経験を積んだヒポリットも、どういう階級にぞくす人物か見当がつかなかった。彼は台所で働いていた妻のマリーを呼んで、その謎の人物のことを告げた。
「また警察の人じゃないかい?」マリーは心配そうにいった。
「自分で見てごらんよ」
「たしかに警察の人じゃないよ。まあよかった」
「あの人たちは、たいしてわしらを困らせなかったよ。だが伯爵さまのご注意がなかったら、酒屋で会った人が警察の旦那だなんて気がつかなかったろうぜ」とヒポリットはいった。
玄関の呼鈴《ベル》がけたたましく鳴ると、ヒポリットは謹直な礼儀ただしい態度で戸をあけに行った。
「お気の毒でございますが、伯爵はお出かけでございます」
大きな口ひげを蓄えた小男は穏やかに微笑して、
「それは承知だ。お前さんはヒポリットだね」といった。
「はい、それが、私めの名でございます」
「それから、おかみさんはマリーだね」
「はい、さようでございます。旦那さま……」
「私はお前さんたち二人に会いに来たのだから」
といって、小男は、するりとヒポリットのわきをすり抜けて、玄関へ入ってしまった。
「おかみさんは、台所にいるに違いない。さあ、そこへ行こう」
台所にいたマリーは口をあけたまま、この突然の訪問者を見守った。
「さて」といって、彼は木製の肱《ひじ》かけ椅子にどっかりと腰をおろして、
「私はエルキュル・ポワロだ」と名乗った。
「さようでざいますか、旦那さま」
「お前さんはこの名を知らないのかね」
「聞いたことがございませんです」と、ヒポリットはいった。
「そんなことをいってはすまないが、お前さんはあまり教育を受けていないらしいね。ポワロといえば世界で有数な偉人の名の一つだのに、それを知らぬとは」
彼はため息をして両手を胸の上に重ねた。
二人の召使いはこの風変わりな訪問者を、どう扱っていいのかとほうに暮れていた。
「旦那さまのお望みになるのは……」
ヒポリットは無意識につぶやいた。
「私が望むのは、なぜお前さんたちが、警察に嘘をついたか、それを知りたいのだ」
「とんでもない! 旦那さま、私が警察に嘘をついたとおっしゃるのでございますか? 私はけっしてそのようなことをいたしました覚えはございません、はい」
「お前さんは間違っている。お前さんはいく度も嘘をおつきだよ、お待ち……そう、少なくも七度は嘘をついたね。それをみんな聞かしてあげようか」
彼は穏やかな声で七度の場合を語りはじめた。
ヒポリットは呆気にとられていた。
「だが、私は過去の不心得を責めに来たのではない。ただこれだけはいっておくがね、お前さん、自分がひどく利口に立ちまわっていると考える癖は止めた方がよろしいね。私は、今、自分に関係のある特別の嘘を糺《ただ》したいのだ。ローシ伯爵がこの別荘に到着したのは一月十四日の朝だというお前さんの証言だが」
「旦那さま、それは嘘ではございません、真実のことでございます。伯爵さまは十四日の火曜日の朝こちらへお着きでございました。そうだったね、マリー」
「そうでした。全くそのとおりでした。私はよく覚えております」
「それでは、その日の中食に何を旦那さまに差しあげたね」
「あのう……」マリーは言葉をきって、心を落ち着けようとした。
「おかしいね。あることだけはよく覚えていて、あることはまるで覚えていないとはね」
彼は前へ身をのりだして、握りこぶしでテーブルを激しくたたいた。彼の目は怒りに燃えた。
「そうだ、そうだ、私のいった通りだ。お前たちは嘘をついて、誰も知らないと思っている。だがそれを知っている者が二人ある。さよう二人だ。一人は全能の神!」
彼は手を天にあげた。それから椅子にゆったりとよりかかり瞼《まぶた》を閉じて心地よげに、
「それと、もう一人はこのエルキュル・ポワロだ」とつぶやいた。
「旦那さま、それはもうたしかに旦那さまの思い違いでございます。伯爵さまは月曜の晩パリをお立ちになり」
「それは真実だ。急行列車に乗った。だが伯爵がどこで汽車の旅を終わったかは私も知らない。お前たちもおそらくそれは知るまい。私の知っているのは、火曜日の朝ではなく、水曜日の朝ここに着いたことだ」
「旦那さまはお間違えでございます」とマリーは無神経にいった。
ポワロは立ち上がった。
「それでは法に訴えねばならない、気の毒なことだが」と彼は小声でいった。
「旦那さま、それはどういうことなんでございますか」マリーは不安らしくたずねた。
「お前たちは、逮捕されて、英国婦人ケッタリング夫人の殺人に関係した共犯罪に問われるのだ」
「殺人!」
男の顔は、まっ白くなり、膝頭がぶつかり合った。マリーはめん棒を取り落として泣きだした。
「そんなことはあり得ないことでございます。私は……」
「しかしお前たちが自分の申し立てを固持している以上、もう何をかいわんやだ。お前たち二人とも大ばか者だよ」
ポワロが戸口の方へ行きかけた時、二人は震え声で彼を呼びとめた。
「旦那さま、旦那さま、ちょっとお待ち下さいまし、私どもは……私どもは、何かご婦人関係のこととばかり思っておりました。以前にもご婦人関係のことで警察の方とたいそう面倒を起こしたことがございましたので。しかし殺人事件となりますと、これは全く別でございます」
「私はもう堪忍がならないのだ!」とポワロは叫んだ、そしてくるりと二人の方に向き直り、憤然としてヒポリットの鼻面に拳骨をふった。
「私がここに一日中いて、お前たちのような低能どもを相手に、議論をしていられると思うのか? 私の欲しているのは真実だけだ。もしそれを私に与えないのなら、お前たちは自分の始末をするよりほかない。さあこれが最後だ。ローシ伯爵がマリイナ荘に到着したのは……火曜日の朝かそれとも水曜日の朝か?」
「水曜日の朝でございます」と男はあえぐようにいった。マリーもそれをたしかめるように彼の後からうなずいた。
ポワロは一、二分彼らを見守った。それから厳かに頭をかたむけて、
「お前たちは賢い子供たちだ。もう少しでたいへんな面倒に巻きこまれるところだったのだ」と静かにいった。
ポワロは、ひとり微笑しながらマリイナ荘を出た。
「一つの推定がたしかめられた。もう一つの方も運にまかせてやってみようかな?」と彼は独語した。
エルキュル・ポワロがミレイユのところを訪ねたのは六時であった。熱にうかされたように部屋の中を行ったり来たりしていた。ミレイユはすざまじい勢いでポワロにくってかかった。
「何なのよ? 何なのよ! 今度は何なの? あんたたち、もうさんざんあたしをいじめたじゃないの? あんたたちは私にかわいそうなケッタリングを裏切らしたじゃないの? その上、何をしろっていうの?」
「たった一つ、ちょっとしたことを質問させていただきたいのでございます。お嬢さま、列車がリヨンを出てから、あなたがケッタリング夫人の部屋へお入りになった時……」
「それが何なのよ!」
ポワロは優しく非難するようなようすで彼女を見て、もう一度、
「あなたがケッタリング夫人の部屋へお入りになった時と申し上げたのですが……」
「あたしそんなことしなくてよ」
「そして夫人が……」
「しないっていうのに!」
「けしからん!」
彼は憤然として彼女に向かって怒鳴りつけ、彼女を縮み上がらせた。
「あなたは私に嘘をつきますか? 私はその場に居合わせたように、どんなことが起こったか知っております。あなたはその部屋へ入って行って、夫人が死んでいるのを発見しました。いいですか、私はそれを知っているのです! 私に嘘をつくのは危険なことでございます。よく気をつけて物をいって下さいましよ、ミレイユ嬢」
彼女は彼の視線にたじろぎ、目を伏せてしまった。
「あたし……そんなこと……」とあやふやにいいかけて、黙ってしまった。
「ただ一つだけ、どうなったろうと訝っていることがございます。お嬢さまは捜しにいらした品物を、お見つけになりましたか、それとも」
とポワロは言葉をきった。
「それとも、どうしたっていうの?」
「それとも、誰かがお嬢さまに先手を打っておりましたでしょうか?」
「あたし、もうあんたの質問なんかに答えないわよ!」と舞姫は金切り声をあげた。
彼女はポワロの制す手をはらいのけ、逆上して床に身を投げだし、悲鳴をあげてすすり泣いた。驚いて小間使が飛びこんできた。
ポワロは肩をすくめ眉をあげて、静かに部屋を出た。だが、彼は満足したようであった。
バイナー嬢の判断
キャザリンはセント・メリー村のバイナー嬢の寝室の窓から外を眺めていた。雨が静かに行儀よく降りつづけていた。窓は細長い前庭に面していた。門へ通じる小路の両がわにはきちんとした花畑があって、やがて、ばらや、カーネーションや、青いヒヤシンスが咲くことであろう。
バイナー嬢は大きな寝台に横になって、忙しく朝の郵便物に目を通していた。
キャザリンは開いた手紙を手に持っていて、二度目にまた終わりまで読みかえした。それはパリのリッツ・ホテルから出したものであった。
――親愛なるキャザリン嬢――
あなたがご健康で、英国の冬にお戻りになられても、あまり憂鬱におなりなさらぬように念じております。当方、私は非常な勉励をもちまして取り調べを続行しております。私がここへ遊山に来ているなどと思し召さないで下さいまし。間もなく私は英国へ参ることと存じます。その節はもう一度ご面会の喜びを得たく存じおります。そうさせて頂けませんでしょうか? ロンドンに着きましたら手紙を差しあげます。私どもはこの事件では同僚だと申すことをご記憶でいらっしゃいましょう? もちろん、あなたはそのことをよく心得ておいでになることと存じます。
お嬢さまよ、どうぞ私のこの敬意と熱意がたしかなものであることをお認め下さい。
エルキュル・ポワロ
キャザリンはいくぶん眉をひそめた。まるで手紙の中に、何か彼女を迷わし、好奇心をそそるようなことでも書いてあったかのようである。
キャザリンは次の手紙を開封した。すると急に彼女の頬が赤くなった。日曜学校の遠足の話をはじめていたバイナー嬢の声がはるか遠くへ後退して行ったように思われた。
彼女の意識が自分のいるところへもどって来たときに、バイナー嬢の話題は全く別の方へ飛んでいた。
「私はあなたが気取りやになっていなかったのでほっとしましたよ。ついこの間、私は切り抜きを捜していたんです。私はタムリン伯爵夫人と夫人の経営していた病院に関する記事を、何枚も持っていたのですがね、それがなかなか見つからないのですよ。捜してみて下さいよ、あなたの方が私より目がいいから。みんなその小|箪笥《だんす》のひきだしの箱の中に入っていますからね」
キャザリンは持っていた手紙をちらと見て何かいいかけたが、思い留まって、箪笥のそばへ行って、新聞の切り抜きを入れた箱を見つけて漁《あさ》りはじめた。セント・メリー村に帰って以来、キャザリンはバイナー嬢の持つ克己主義と勇気に感服し、この老婦人に心をひかれていた。彼女は、この年老いた友人に対して、自分がするような仕事はあまりないように思ったが、経験から、こうした何でもないような些細なことが、老人にとってどんなにうれしいものかをよく知っていた。
「ここに一枚ありました……ニースの別荘を将校用病院としているタムリン伯爵夫人、センセーショナルな盗賊に襲われ宝石類を盗まれる。それらの宝石中にはタムリン伯爵家祖先伝来の有名なるエメラルドもありし由」
「きっとそれは、模造品ですよ、社交界の貴婦人たちはたいていそうだから」とバイナー嬢はいった。
「もう一枚ありました。写真です……幼き令嬢レノックスとともに在る、タムリン伯爵夫人の魅惑的カメラ・スケッチ」とキャザリンが読みあげた。
「見せて下さい。子供の顔はよく見えないでしょう。それでちょうどいいんですよ。この世の中のことは何でも反対になるもので、美しい母親が醜い子供を持つものですよ。写真師はきっとその子の頭をうしろから写すのが一番無難だと考えたんでしょうね」とバイナー嬢はいった。
キャザリンは笑った。
「このシーズンのリビエラにおける最も人気ある女主人はカブ・マルタンに別荘を持つタムリン伯爵夫人である。同家に滞在中の伯爵夫人の従妹キャザリン・グレイ嬢は最近莫大な遺産を相続したロマンチックな話題の持ち主である」
「それですよ。私が捜していたのは。どこかの新聞にあなたの写真が出ていたと思うんですけれど、なくしてしまったのです」
キャザリンはそれには答えなかった。彼女は指先で切り抜きの皺をのばしていた。彼女の顔には何か当惑したような、悩ましげな表情が浮かんでいた。やがて彼女は第二の手紙を取りだして、その中身をもう一度熟読してから、バイナー嬢の方を向いた。
「バイナーさん、……あの知っている人が……リビエラで知り合いになった人が私にぜひ会いに来たいというんですけれど、どうでしょう?」
「男ですか?」
「ええ」
「どういう人です」
「アメリカのお金持ちの秘書です」
「ああ、金持ちの秘書とね! でその人はここへ来たいというんですか。キャザリンさんや、私はね、あなたのためになることをいいますがね、あなたはいい娘さんで、分別があって、いつも正しい方向に頭を向けておいでだけれども、どんな女でも一生に一度は愚かな真似《まね》をして物笑いになるものですよ。十中九までその男はあなたの金を狙っているんですよ」
バイナー嬢はキャザリンが答えようとするのを身ぶりで制して、
「私は大方こんなことが起こるだろうと思っていたんです。金持ちの秘書とはいかなる人物か、十中九までは楽な暮らしの好きな若者です。行儀がよくて贅沢な趣味を持っていて、頭脳もなければ何の計画も持たない男です。そして金持ちの秘書になるよりももっと楽な仕事は、金を目当てに金持ちの女と結婚することです。私はけっしてあなたが男に好かれるようになってはいけないというんではありませんよ。だけれど、あなたは若くないし、色つやはたいそうよろしいけれど美人ではありませんからね。で、私は、あなたに自分を物笑いにしなさるなというのです。だけれどあなたがどうしてもその男を心にきめてしまったというなら、お金だけはしっかりと握っているようにおしなさいよ。さあこれで私のいうことはおしまいです。あなたのいうことは?」
「何もありません。ですけれど、その人がここへ来ても、あなたは気になさいませんか?」
「私は関係しませんよ、私は自分の義務だけははたしたのですから。これから何が起ころうと、あなたの責任ですからね。であなたは昼食《ランチ》に招待したいんですか、それとも晩餐がいいですか。エレンはきっと晩餐をうまくやってくれると思いますよ。あの娘《こ》があわてさえしなければね」
「昼食《ランチ》で結構です。バイナーさん、ほんとうにご親切にありがとう。電話をしてくれといってよこしていますから、昼食に来てくれれば私たちは喜ぶと返事しましょう。町からここまで自動車で来るでしょう」
「エレンは肉とトマトのむし焼なら、かなりよくやりますよ。じょうずというのではありませんが、ほかの料理よりはましです。お食後は、あの娘のカッスル・プディングは悪くありませんよ。それからアボットの店にスティルトン・チーズがあるはずですから、あれを少し買っておくんですね、男の人は上等のチーズが好きだと聞いています。それから私の父のお酒がまだたくさん残っていますよ、あのきらきらしているモゼル葡萄酒がいいでしょう」
「あら、そんなにまでして頂くことありません、ほんとうに。バイナーさん」
「ばかなことおっしゃい! 紳士というものは食事に何か飲みものがないと満足しないものですよ。もしウィスキーの方がお好きだというのなら、戦争前のいいのがあります。さあ議論なんかしていないで、私のいう通りにおしなさい。酒庫の鍵は、あの化粧箪笥の三番目のひきだしの左がわの、二番目の靴下の間に入っていますよ」
キャザリンは従順に指定された場所へ行った。
「いいですか、二番目のですよ、一番目の靴下の間にはダイヤモンドのイヤリングとすかし細工のブローチが入っているのです」
「あら、それは、宝石箱へしまう方がよろしくありませんか」
キャザリンは少し驚いていった。
バイナー嬢はさも驚いたように吸い込んだ息を長くはき出して、
「と、とんでもない! 私はそんなことするほど無分別ではありませんよ。私は亡くなった父が、階下に金庫を据えつけたときのことをよく覚えていますよ。父はまるであの漫画の主人公のように大満悦で母にこういいましたよ、……さてメリーや。これから毎晩宝石箱を私のところへ持っておいでよ、ここへ入れて錠をおろしておいてあげるからね……と、私の母はたいそう気転のきく人でしたよ、そしてまた男は何でも自分の思い通りにしたがるものだということを心得ていましたから、いわれた通りにいつも宝石箱を父のところへ持って行って、金庫にしまってもらっていたのですよ。ところがある晩、盗人が押し込んでね、もちろん第一に金庫へ行きましたとも。盗人どもは、銀の杯からビール用の大コップから、記念に贈られた金のお皿、母の宝石箱まで根こそぎ浚《さら》って行ってしまいましたよ!」と語り来たってバイナー嬢は回顧的にため息をした。そして、
「父は宝石のことでひどく心痛したんです。宝石箱の中にはベニス風の細工をした一揃いや、浮き彫りをした美しい玉石やうす桃色のさんごや、大粒のダイヤをはめこんだ指輪が二つも入っていたのですからね。ところが分別のある母は父に、それらの宝石は全部コルセットの中に巻きこんであって、みな無事だと告げたのでした」
「それでは宝石箱は空だったのですか」
「いいえ、空では軽すぎますよ。私の母はたいそう利口な人でしたから、それを見越して、宝石箱をボタン入れに使って重宝していました。……おやおや、こんなおしゃべりばかりしていられませんよね。あなたは早く電話をかけに行きたいでしょうにね。いい肉を選んで下さい。それからエレンにお給仕に出る時に穴のあいた靴下なんかはいていないように、注意しておいて下さいよ」
ナイトンが着いたころには、雨がはれあがり、気まぐれな薄日がさして来て、彼を迎えに玄関へ出たキャザリンの顔を輝かした。彼は少年のようにいそいそと石段をのぼって来た。
「気におかけにならないで下さいね。私はどうしても、もう一度あなたにお目にかかりたくてたまらなかったのです。ごいっしょにいらっしゃるお友達が気になさらないといいと思います」
「お入りになって、バイナーさんとお近づきになって下さい。最初はきっとびっくりなさるでしょうけれども、じきに世界一親切な人だということがおわかりになると思います」とキャザリンはいった。
バイナー嬢は、くすしくもバイナー家に無事に伝えられた、浮き彫り細工のブローチとブレスレットとイヤリングの一揃いを身につけて、客間の安楽椅子に威風堂々と鎮座していた。彼女はたいていの男が気を挫かれてしまうような、威厳と礼儀正しさでナイトンを迎えた。しかしながら、ナイトンは容易には押しのけられない魅力ある態度を持っていたので、十分もするとバイナー嬢も目に見えて打ち解けて来た。昼食は楽しいものであった。そしてエレンも、さけ目などない真新しい絹の靴下をはいていて、非凡な給仕ぶりを発揮した。食後ナイトンとキャザリンは散歩に出かけ、帰ってくるとバイナー嬢は午後の休息をしに寝室へ退いてしまったので、二人だけのお茶を楽しんだ。
彼を乗せた自動車が走り去ってしまうと、キャザリンはのろのろと階段をのぼって行った。バイナー嬢の声に彼女は寝室へ入って行った。
「お友達は帰りましたか」
「ええ、ほんとうに、ありがとうございました。あの人をここへ招待させていただいて」
「お礼なんかいうことありませんよ。あなたは私が誰にも何もしてやらないような、しわん坊婆さんだと思っているんですか」
「私はあなたを、愛すべき方だと思っています」
「ふふん」とバイナー嬢は和らいでいった。
キャザリンが出て行こうとすると、彼女は呼びとめた。
「キャザリン」
「はい」
「あなたの若い男の友達のことをあんなふうにいいましたが、あれは私の間違いでしたよ。男が見せかけを作って取り入ろうとする時には、熱意にあふれるようすを見せ、慇懃《いんぎん》をきわめ、あれこれと気を配り、総じて、たいそう愛嬌があるものです。けれども男がほんとうに恋に陥っている時は、羊みたいに気が弱くならずにはいられないものです。ところであの若者は、いつでもあなたを見る時に、まるで羊みたいでしたよ、今朝いったことは全部取り消します。あの男は真物です」
アーロンズは語る
「ああ」アーロンズは満足の意を表した。
彼は大コップのビールを一息にぐうっと飲みほしてしまうと、コップを下において、ため息とともに唇をぬぐい、テーブル越しに、主人役のポワロに向かって、はればれとした微笑を送った。
「われに|牛の腰肉《ポーターハウス》ステーキと、飲みごたえのあるやつを大コップで一杯与えよ、ですよ。あなたのお国のフランス風の安ぴかものや、お好み次第もの、前菜に、オムレツに、ちょっぴりばかりのうずら料理なんていうのは、誰かほかの人間にくわせればいいです。わしはあくまでもわれに|牛の腰肉《ポーターハウス》ステーキを与えよ! ですよ」とアーロンズはくり返していった。
まさにその要求に応じたポワロは、共鳴するように微笑してうなずいた。アーロンズは言葉をつづけた。
「ただのステーキや腎臓プディングが駄目だというわけではござんせんがね、アップル・タートですか? はい、それを一つもらいましょうかな、ああ、ありがとう、それにクリームをね」とアーロンズはウェイトレスにいった。
食事は進行した。ついに長いため息とともにアーロンズはスプーンやフォークを下においた。そして彼の心を他の事柄に向ける準備としてチーズの切れはしを、もてあそんでいた。
「ポワロさんは何やら、私に用談がおありだということでござんしたね。なんなりと私にお手伝いができれば、喜んでさせておもらい申しますよ」と彼はいった。
「それはご親切にどうも。私は自分にこういい聞かせておりましたのですよ。もし何か演劇関係のことで知りたいことがあったら、その方面の消息に一番よく通じている第一人者がある。それはわが友ジョゼフ・アーロンズ氏だと」
「まあそんなところでござんしょうな、過去、現在、未来いずれに関しても、このアーロンズのところへ来るのが至当と申せましょう」
「まさにその通り。さてアーロンズさん、あなたは、キッドと呼ばれた若い女性についてどういうことをご存じか。私はそれを伺いたいのでございますよ」
「キッドと申すと、キティ・キッド?」
「キティ・キッド」
「あの女はなかなかの利口者でござんした。男役を演じるのが得意で、踊ったり、歌ったりして、その女で?」
「その女でございます」
「非常に達者な女で、いい金を取っておりましたですよ、契約が切れたなんていうことがなかったくらいでござんした。主に男真似で売り込んでおったですが、けっして性格俳優と申すことはできませんですな」
「そう私も聞いておりました。しかし近ごろはあまり出演していないようでございますね」
「はあ、もうすっかりやめてしまったのです。フランスへ行って金持ちの貴族と仲がよくなり、舞台とすっかり縁を切ってしまったらしいですね」
「それはどれくらい前のことですか?」
「お待ち下さい。そう三年前でござんしたね。申し添えておきますが、彼女を失ったのは損害でござんしたよ」
「彼女は器用でしたか」
「その巧者なこと、馬車一台分の猿《さる》ほどでござんしたよ」
「パリで仲よくなったという、その相手の男の名はご存じありませんでしょうか」
「なんでも大したお歴々だということだけは知っておりますがね……子爵とか……いや侯爵でしたかな? 考えさせて下さい。うむ、たしかに侯爵でござんしたよ」
「その後のことは何もご存じありませんか?」
「さっぱりでござんすね。偶然にすれ違ったというようなこともござんせん。きっと外国の盛り場でも、景気よく車を乗りまわしているんでござんしょうな。侯爵夫人にすっかりなりすましてね。そういうことにかけてもキティにかなう者はありますまい、あの女なら、いつどこにいたって、うまくやるですよ」
「なるほど」ポワロは考えこみながらいった。
「ポワロさん、もっとお話して差しあげることができないで残念でござんすよ。あなたには前にご厄介になったんで、できるだけお役に立ちたいと思ってるんでござんすがね」
「いや、お互いっこでございますよ。私だってあなたのお世話になりました」
「では五分五分ってところでござんすな、はははは!」
「あなたのご職業は面白うございましょうね」
「のんきに構えていりゃいいんでござんすよ。万事を考えて、まア悪い方じゃないですね。そのかわり油断なんかしちゃおられんですよ。大衆は次に何に飛びつくか分からんですからね」
「この五、六年舞踊が著しく目立って来たようでございますね」とポワロは考えこみながらつぶやいた。
「私はロシアン・バレエというのは感心しないですが、見物衆は好きでござんすね。私には高級すぎますんで」
「私はリビエラで舞踊家に会いました。ミレイユ嬢と申すのに」
「ミレイユ? あれは誰から聞いても猛烈な代物でござんすよ。踊るにゃ踊るですが、いつだって金が後ろ楯になっておるです。扱うのにひどく厄介な女だそうでござんすよ。しょっちゅうむかっ腹を立てたり、かんしゃくを起こしたりしておるそうで」
「そう、そう、私にも想像がつきます」
「情熱家! 情熱家! ああいう連中は自分たちをそういっておるです。私の家内は私と結婚する前には舞踊家でしたが、ありがたいことに、家内はその情熱家っていうんじゃござんせんよ。ねえ、ポワロさん、家庭には情熱家なんかありがたくないですよ」
「私も同感です。場違いでございますよ」
「女というものは、静かで情《なさけ》深くて、料理が上手なのが、一番でござんすな」
「ミレイユは公演するようになってから、あまり長くないようでございますね」
「二年と半年ぐらいになりますかね、フランスの侯爵とやらが後援して、世の中へ出したのだそうでござんすが、現在はギリシャの前首相と親しくしているということです。そういう連中は、うまく金をくすねて貯めこんでおるもんでさあ」
「それは初耳でございます」とポワロはいった。
「あれは手をつかねているような女ではござんせん。あの若いケッタリングも、あの女のために妻殺しをやったということでござんすね。私にはわからんですが、とにかく男の方は刑務所に入っているし、女の方はうまく泳ぎまわっているわけでござんすね。人の話ではあの女が鳩の卵ほどの大きさのルビーを身につけているとか。私は、鳩の卵なんか見たことはござんせんが、小説なんかにはよく出て来る文句でさあね」
「鳩の卵ほどの大きさのルビー! なんと面白いことでしょうね!」とポワロはいった。彼の目は緑色に光って猫の目みたいになった。
「私は友人から聞いた話なんで、あるいは色ガラスかも知れんです。女というものはいずれも同じで、自分の持っている宝石のことでは、いつだって大ぼらを吹いているんでござんすからね。何をいいだすか知れんですよ。ミレイユはそのルビーには呪いがかかっているのだといいふらしておりますとか、何でも『火焔《ほのお》の心臓』と呼んでいるそうでござんすよ」
「しかし私の記憶が正しければ、『火焔の心臓』というのは、首飾の中心になっている石のはずですが……」
「その通り! 女は自分の宝石のことでは何をいいふらすか知れないと私がいった通りでござんしょう! 私の聞いたのでは、プラチナの鎖の先にその石が一つだけついて、それを首にかけているのだということでしたよ。だから私のいった通り、九分九厘までは色ガラスにきまっているですよ」
「いや、私はそれが色ガラスではないように思いますね」とポワロは静かにいった。
キャザリンとポワロの意見交換
「お嬢さま、あなたはお変わりになりましたね」と、ポワロが突然にいった。彼とキャザリンは、サボイ・ホテルの小さなテーブルに向かいあって腰かけていた。
「どんなふうに?」
「お嬢さま、こうした色合いを表現するのはむずかしゅうございます」
「前より老《ふ》けました?」
「さよう、お老けになりました。と申しても小皺ができたというのではございません。はじめて私がお会いしました時には、あなたは人生を眺めていらっしゃいました。あなたは平土間の一等席に、ゆったりと腰かけて芝居を見物している人のような、静かな楽しそうな表情をしていらっしゃいました」
「で、今は?」
「あなたは、もう見物人ではいらっしゃいません。私が今申し上げることはばかげているかも知れませんが、あなたは困難な勝負をしている闘士のようにお見えになります」
「私がご一緒に暮らしている老婦人は、ときどき機嫌が取りにくくなりますが、けっして私どもは鎬《しのぎ》を削るほどの争いはしておりません。ポワロさん、いつか一度おいでになってあの老婦人にお会い下さい。あなたはきっとあの方の元気と勇気に感心なさると思います」
給仕が器用に鶏のシチューを運んで来て、二人の前におく間、沈黙がつづいた。給仕が行ってしまうとポワロはふたたび口を開いた。
「あなたは私の友人のヘイスチングスが私のことをいったのをお聞きになりましたか? 彼は私のことを人間|牡蠣《かき》だと申しました。ところであなたは私に負けない人間牡蠣でいらっしゃる。あなたは私以上に孤立者でいらっしゃる」
「ご冗談でしょう」とキャザリンはあっさりとうけながした。
「ポワロは冗談や下らぬことは申しません。私の申し上げる通りでございます」
またしても沈黙が襲った。ポワロは質問をだしてその沈黙を破った。
「お嬢さまは、こちらへお帰りになってから、リビエラの誰かご友人に、お会いになりましたか?」
「私はナイトン少佐にちょっとお会いしました」
「ああ、そうでしたか?」
ポワロのおどる目の中に浮かんだ何かが、キャザリンの目を伏せさせた。
「では、オルデン氏はロンドンに滞在しておいでになるのでございますね」
「ええ」
「私は明日か明後日、なんとかして、オルデン氏にお会いしましょう」
「あなたは、何かあの方のお耳に入れる情報をお持ちなのでしょう?」
「どうして、そうお考えになるのですか」
「そうではないかしらと思っただけです」
ポワロはぴかぴか光る目を彼女にそそいだ。
「お嬢さまは、私に、いろいろと質問なさりたくていらっしゃるのでございましょう? どうぞご遠慮なく。青列車事件は私ども二人の探偵小説ではございませんか」
「ええ、私伺いたいことがあります」
「何でございますか」
「ポワロさんは、パリで何をしていらしたのですか」
ポワロはちょっと微笑をもらして、
「私はロシア大使館を訪ねました」
「あら」
「それだけでは、あなたには通じませんですね。私は自分の持ち札をテーブルの上に並べてお目にかけます。これは牡蠣のすることではございませんね。あなたは私がケッタリングに対する起訴事項に満足していないことをお気づきになりませんですか?」
「私が疑問を抱いていましたのはそこなのです。私はニースで、あなたがあの事件を、おしまいになすったのかと思っていました」
「お嬢さまは、ほんとうにそう思っていらしたのではございませんでしょう。私はすっかりお話申し上げます、ケッタリング氏を現在の場所へ追いつめたのはこの私……つまり私の調査なのでございました。それにもかかわらず、判事は依然として犯行をローシ伯爵に結びつけようとしておりますところで、お嬢さま、私は自分のしましたことをけっして後悔はしておりません。私は真実を発見するというただ一つの責任をもっております。そこへ行く道がまっすぐ、ケッタリング氏のところへついていたのでございます。しかしその道がそこで終わっておりますでしょうか? 警察ではしかりと申します。しかし、このポワロは満足してはおりません」
彼は急に話題をかえて、
「最近、レノックス嬢からお便りがございましたか?」
「短い走り書きが一度。私が英国へ帰ってしまったのを、気にしているらしいのです」
ポワロはうなずいた。
「私はケッタリング氏が、逮捕された晩にあの方と会見しました。いろいろな意味で興味のある会見でした」
ふたたび彼は沈黙した。キャザリンは彼の思想の連絡を邪魔しようとはしなかった。彼はついに口を開いた。
「お嬢さま、私はただ今、微妙な立場におりますが、あえてこのことを申し上げます。私の考えではケッタリング氏を愛している方が一人あります。……もし私が間違っていましたらご訂正下さい……で、私は彼女のために警察が間違っていて、私が正しくあるように希望しております。あなたはその彼女が誰だかご存知でいらっしゃいますね」
「ええ、知っていると思います」
ポワロはテーブル越しに彼女の方へ身をかがめて、
「私は満足してはおりません。お嬢さま! いいえ、私は満足してはおりません。事実……有力な事実がケッタリング氏のところへまっすぐ通じております。しかし一つだけ説明のつかないことがございます」
「で、それは何ですか?」
「被害者の顔面を損じたことでございます。私は、ケッタリング氏は殺人を犯した上に、あんなふうに顔をたたき潰すようなことをする人間であろうかという質問を、百度もくり返しているのでございます。いったいああいうことをして、何になるのでしょう? どういう目的を成就するのでしょう? ケッタリング氏の性格として、ああいうことがなし得るでしょうか? ところでこれらの質問に対する答えは全く不満足なのでございます。私はいく度もいく度も、『なぜ』の一点にもどって参りました。で、この問題を解く助けとなる唯一の資料はこれでございます」
彼はポケットから手帳をさっとだして、その間から何か指先でつまみあげた。
「お嬢さまは覚えていらっしゃいますか。あの列車で、私が毛布からこの髪の毛を取るのを見ておいででしたね」
キャザリンは首をのばして、その毛を熱心に吟味した。
「この毛はあなたには、何も暗示しないようでございますね、お嬢さま。だがしかし、あなたはどうやらたくさんのものをごらんになったように思われます」
「私はいろいろと考えていることがあります。それでポワロさんが、パリで何をしていらしたのか伺ったのです」
「私があなたに手紙を差しあげました時……」
「リッツからですか?」
奇妙な微笑がポワロの顔にみなぎって来た。
「さよう、リッツ・ホテルから。私は時々ああいうところに宿をとるような贅沢をいたします……億万長者が費用を持ってくれます時にはね」
「ロシア大使館へいらしったのですね?……それがどういうことになるのか、私には見当がつきません」キャザリンは眉を寄せながらいった。
「それは直接関係はございません。私はある情報を得るために、そこへ参ったのです。私はある一人の人物に面会して脅迫したのでございます。お嬢さま、このポワロが人を脅したのでございますよ」
「警察をたてにとってですか?」
「いいえ、新聞です。これはもっと有力な武器でございます」
彼はキャザリンを見つめた。彼女は首をふりながら、彼に微笑みかけた。
「ポワロさんは、また牡蠣に返っておしまいになるのではございませんか」
「いや、いや、私は謎めいたりするつもりはございません。よろしいですか、私は何もかも、お話いたしますからね。私はその男が、オルデン氏に宝石を売り渡した張本人と睨んだのでございます。私は彼を責めて、とうとう本音を吐かせてしまいました。私は宝石がどこで取り引きされたかを知りました。それからその家の前の通りを往ったり来たりしていた、白髪の老紳士の頭をした人物……しかし彼は明るいところでは青年の軽々とした跳るような歩調で歩く男のことも知りました。それで私は心中その男に侯爵さまという名を与えたのでございました」
「それであなたは今、オルデンさまにお会いになるためにロンドンへおいでになったのですか」
「それだけの理由ではございません。ほかにも仕事がございました。ロンドンへ着いてから、私は二人の人物に会いました。演劇関係の周旋人とハーレイ街の医師。私はその二人からそれぞれ情報を得ました。それらを組み合わせてみて、お嬢さまは私と同じ結論をお出しになりますかどうかお考え下さいまし」
「私が?」
「さよう、お嬢さま、あなたが。……もう一つ申し上げることがございました。私は最初からずっと、殺人と盗みとが同一人物によって行なわれたかどうかという疑問を抱いておりました。長い間それがはっきりしませんでしたが」
「今は?」
「今はわかっております」
沈黙が続いた。しばらくしてキャザリンは顔をあげた。彼女の目は輝いていた。
「ポワロさん、私はあなたのように賢くはありません。あなたのお話になったことがどこを指しているのか、私には半分ぐらいしかわかりません。私の頭に入ってきたある考えというのはまるでちがった角度から来たのです……」
「それは当然のことでございます。鏡は真実を示します。しかし、鏡を見る人はそれぞれ違った場所に立っております」とポワロは静かにいった。
「私の考えは、ばかげているかも知れませんが……あなたのとは、ぜんぜん違うかも知れませんけれども……」
「それで?」
「これは何かのご参考になりますかしら?」
ポワロは彼女の差しだした新聞の切り抜きを受け取った。彼はそれを読むと、彼女を見あげて、厳かにうなずいた。
「私が申しましたように鏡を見るのは、それぞれ違った角度に立っておりますが、これは同じ鏡で、同じものを映しております」
キャザリンは立ち上がった。
「私は大急ぎで行かなければなりません。汽車の時間にかつかつです。で、ポワロさん」
「お嬢さま、何でございますか」
「あまり手間取らないでほしいのです。お分かりでしょう、私……私、これ以上、我慢しておられません……」彼女の声に淀みがあった。
ポワロは力づけるようにキャザリンの手を軽くたたいて、
「元気をおつけなさいまし、お嬢さま。ここで挫《くじ》けてはなりません。終点は間近でございます」といった。
新しい理論
「ポワロ氏から面会の申しこみがありましたがいかがいたしましょう」
「いまいましい奴だ!」とオルデンはいった。
ナイトンは思いやり深いようすで黙っていた。オルデンは椅子から立ち上がって部屋を往ったり来たりしはじめた。
「きみは今朝、あの癪《しゃく》にさわる新聞を読んだかね?」
「ざっと目を通しました」
「まだ、猛烈に取り組んでいるではないか」
「そうらしゅうございます」
オルデンは椅子に腰をおろして、手を額に押しあてながらいった。
「こんなことと知っていたら、あの小さなベルギー人なんかに真実を探らせるのではなかった。私はただルスを殺した犯人を捜しだしたい一心だったので……」
「あなたは、お嬢さまの婿御が罪を逃れるのを、お望みになるのではございますまいね」
オルデンはため息をついた。
「私は法律の力など借りずに、自分勝手に制裁を加えることができたらと思うね」
「それは賢明な処置だとは思われません」
「それにしても、ほんとうに、あの男は私に会いたいのかね」
「はい、何か急を要するということです」
「では会わないわけにはいかんだろう、もしよかったら今朝にでも来るように返事してくれ」
案内されて来たポワロは活気に満ちて上機嫌であった。彼は富豪の態度が、冷淡なことなどいっこうに気にかけず、いろいろとつまらないお喋《しゃべ》りをした。彼は医師に会うためにロンドンへやって来たのだと説明して、ある有名な外科医の名をあげた。
「いや、いや、警察で活躍していたころの、遺物でございます。無頼漢に撃ちこまれた弾でございます」
彼は左腕にさわって、実感的に顔をしかめて見せた。
「私は日ごろから、あなたを幸運なお方だと思っております。あなたはわれわれ一般が考えているように、アメリカの金持ちは、みんな消化不良に悩まされているというのとは全く違っていらっしゃいますからね」
「私はかなり頑健です。非常に簡易生活をしていますからね。淡泊な飲食物を、ごく少量とるようにしているのです」とオルデンはいった。
ポワロは今度は秘書に向かって、
「その後キャザリン嬢にお会いになりましたか」
と何気ない調子でたずねた。
「はあ、一度か二度ほど」とナイトンはいった。
彼はちょっと顔を赤らめた。オルデンは意外だという面持ちで、
「おかしいね、君は彼女に会ったことを私に話さなかったではないか」といった。
「あなたは興味をお持ちにならないと思ったのです」
「私はあの娘が好きだよ」とオルデンはいった。
「彼女がまたセント・メリー村に埋もれてしまったのは、まことに惜しいことでございますね」とポワロはいった。
「私はたいへんに立派なことだと思います。べつだん血縁でもない偏屈な老婦人の世話をするために、田舎に埋もれてしまう女性は、そうざらにはありません」とナイトンは熱心にいった。
「私は異議を申し立てるわけではございませんが、それにしても、やはり惜しいことだと思います。さて、これから要談に移ろうではございませんか」
二人の男は呆気にとられて、ポワロの顔を見つめた。
「私がこれから申し上げることを、お聞きになって、びっくりなすってはいけませんよ、もしもですね、オルデンさん、もしも、結局はケッタリング氏は妻殺しの犯人ではないということになったら、どうなさいますか」
「なんですって?」
二人とも全く驚いてポワロの顔を見つめるばかりであった
「もしも、ケッタリング氏が奥さまを殺したのではないとしたら、と申したのでございます」
「ポワロさん、あなたは、気でも違ったのではありませんか」といったのはオルデンであった。
「いいえ、私は気など違ってはおりません、私は変わっております。少なくも、ある人々はそう申します。しかし職業にかけては正気でございます。私が申し上げたことが事実としたら、オルデンさん。あなたは喜ばれますか。悲しまれますか。それを伺いたいと存じます」
オルデンは、しばらく黙って、彼の顔を見つめていたが、やがて、
「当然、喜びますね。これは単なる想像ですか、それとも、そうおっしゃるには何か根拠がおありなのですか」
ポワロは天井を見あげた。
「ひょっとすると、ローシ伯爵かも知れません。少なくも私は伯爵のアリバイをくつがえしました」
「どうしてそんなことがおできになりましたか」
ポワロは謙遜らしく肩をすくめた。
「私には私のやり方がございますのでね。ほんのちょっぴり手管を使い、ほんのちょっぴり、利口に立ちまわると、何でもやってのけられるのでございます」
「しかし、ルビーは……伯爵の持っていたルビーは偽物だったはずですが……」とオルデンはいった。
「伯爵はルビーを盗む目的でなければ、殺人罪など犯さなかったろうということは、明白な事実でございます。しかし、オルデンさん、あなたはある一点を見落としていらっしゃいます。ルビーに関してでございますがね、誰か伯爵の先まわりをした者があったかも知れないということでございます」
「これは全く新しい推論ですね」とナイトンは叫んだ。
「ポワロさんは本気でそんな辻褄の合わないことを信じておられるのですか」と富豪は迫った。
「まだ立証されてはおりません。単なる推定にすぎません。しかし、オルデンさん、調査する価値ある事実が、いくつかあることをお耳に入れておきましょう。あなたはこれから南フランスへお出かけになって、現場で、事件のなりゆきをごらんになるべきだと存じます」
「実際に、その必要があるとお考えですか? つまり私が出かけて行く……」
「私はあなたが、それを希望なさると思いました」とポワロは答えた。
その声にひそんでいる非難が相手に通じた。
「ああ、そうですとも、もちろんです。で、ポワロさんはいつ出発をご希望ですか」とオルデンは急いでいった。
「オルデン氏は目下非常に多忙中です」とナイトンがつぶやくのを、富豪は手をふって制した。
「この仕事が第一だ! よろしいポワロさん、明日出発として、いつの列車にしますか?」
「青列車に乗りましょう」
といって、ポワロは微笑した。
再び青列車で
時には長者列車と呼ばれるその列車は、危険だと思われるほどの速力で、曲線をまわって驀進していた。
オルデンとナイトンとポワロはじっと腰かけていた。
オルデンとナイトンは、ルスと小間使のメイゾンが不吉な旅をしたときのように、二間つづきの部屋を一つずつ取っていた。ポワロの部屋はその車の一番はずれに取ってあった。
非常に苦痛な思い出を伴うその旅行は、オルデンにとって実に辛いものであった。ポワロとナイトンは彼の邪魔にならないように、低い声でぽつぽつ話をしていた。
しかし列車が長い旅をすませて循環線をめぐってリヨン口《ぐち》に到着すると、ポワロは、にわかに元気づいて活動を開始した。
オルデンはこの旅行の目的の一つは実地検証にあることを悟った。ポワロは一人であらゆる役を演じた。彼は小間使いになって、急いで自分の部屋へ閉じこもったり、ルスが自分の夫を見て驚き、不安を示す場面、ケッタリングが同じ列車で妻が旅行しているのを発見するところなどを演じた。彼は隣室に身をひそめるに最も適当な方法、その他、可能と思われる点をいろいろと実演して見せた。
そのうちに、突然ある考えが頭に浮かんだらしく、ポワロはオルデンの腕をつかんで叫んだ。
「ああ、これは今まで、考えつかなかったことでございます! さア私どもはパリで旅を終らなければなりません、早く! 早く下車しましょう!」
ポワロが旅行かばんをつかんで、あわてて下車したので、オルデンとナイトンは当惑しながらも、彼にならって後に続いた。オルデンは、今までポワロは才能があるとしても、それを実行に移すのは緩慢だという意見を持ったことがある。それが、どうだろう、今のポワロはまるで人が違ったように活動的なのであった。
三人は改札口で止められてしまった。彼らの切符は車掌に預けてあったが、そのことを三人とも忘れていたのであった。ポワロの早口で熱心な説明も、無神経な顔をした係員を動かすことはできなかった。
「早く片付けましょう。ポワロさんは急いでおいでなのでしょう。さあ、カレーからの賃金を支払って、あなたが心に浮かべられたものを、早くつかもうではありませんか」とオルデンは気忙しくいった。
ところが洪水のような勢いで流れ出ていたポワロの言葉が、急にぴたりとやんだ。彼はまるで化石になったようであった。夢中になって身ぶりをしていたそのままに、手を前方へ突きだした姿勢のまま、まるで全身が麻痺《まひ》したような形であった。
「私は低能でした! 近ごろときどき頭が変になる! さあ列車へ戻って静かに旅をつづけましょう。ちょうど運よくまだ発車しておりません」
一行はようやく間に合った。最後にナイトンがかばんを投げあげて、飛び乗ると同時に列車は動きだした。車掌は同情しながら、強《こわ》意見をして一行の荷物をふたたび部屋へ運ぶ手伝いをした。オルデンは口には出さなかったが、明らかにポワロの奇行にうんざりしていた。ちょっとの間ポワロが立って二人きりになった時、オルデンは、
「これは無駄骨折りだ! あの男は物事に注意を集中することができないのだ。彼は一つのことに頭を使うことはできるが、ああ驚いた兎のようにあわてふためいて、あたふたするような人間は、全く見こみがないね」と秘書にいった。
間もなくポワロがもどって来たが、目もあてられないほど、ぺこぺこして、すっかりしょげ返っているので、非難するわけにはいかないほどであった。オルデンは彼の謝罪をにがりきって受けただけで、刺《とげ》のある言葉を浴びせることは思い留まった。
一同は食堂車へ行って夕食をしたため、その後で二人があきれたことには、ポワロはオルデンの部屋に三人で集まろうといい出した。
億万長者は不思議そうに彼の顔を眺めた。
「ポワロさん、あなたは私どもに、何か隠していらっしゃるのではありませんか」
「私が? なぜでしょうか」といってポワロは無邪気にびっくりしたように眼をみはった。
オルデンは答えなかったが、満足してはいなかった。車掌は寝台の用意をする必要はないといわれて、少なからず驚いたらしかったが、オルデンの与えた過分な祝儀がものをいって、顔には出さなかった。
三人は黙りこんで腰かけていた。
ポワロは落ち着かないようすで、そわそわしていた。やがて彼はナイトンに向かって、
「ナイトン少佐、あなたの部屋の戸に錠がおりておりますか? 私の申すのは廊下へ出る戸のことでございます」
「はア、自分で鍵をかけました」
「たしかですか」とポワロは念を押した。
「もしご希望なら、たしかめてまいりましょうか」ナイトンは微笑しながらいった。
「いや、いや、あなたをお煩わせするまでもなく、私が行って見て参ります」
ポワロは間の戸口から隣室へ入って行って、一、二分すると、うなずきながらもどって来た。
「あなたのおっしゃる通りでした。老人のから騒ぎをごかんべん下さい」と彼はいった。
そして間の戸を閉じると右手隅の席についた。
時間がすぎて行った。三人はときどき思い出したように居眠りをし、不愉快な動揺にはっとして、目をさましていた。おそらく今までに、この贅沢をきわめた寝台車の私室を予約しておきながら、支払った金額に該当するだけの快適な気持ちのいい設備を利用しない乗客は、この三人のほかはなかったであろう。ポワロは時計を見てはひとりうなずいて、また寝るのであった。一度は席を立って行って間の戸をそっとあけて、いきなり寝室をのぞいて見て、頭をふりながら元の席にもどったりした。
「どうなすったのですか、あなたは何かが起こるのを予期して、待っていらっしゃるのですか」とナイトンは小声でたずねた。
「私は神経過敏になっているのでございます。まるで熱いタイルの上にいる猫みたいになっております。ちょっとした物音にも飛び上がるのでございます」と、ポワロは告白した。
ナイトンはあくびをして、
「こんな不愉快な旅をしたことはありませんよ。ポワロさんは何を演じようとしているかご承知なのでしょうね」とつぶやいた。
彼はできるだけ気を鎮めて、眠ろうと骨を折っていた。彼とオルデンは、ついに睡魔に屈服されてしまった。すると十四度目に時計を見たポワロは、前へ身をかがめてオルデンの肩を軽くたたいた。
「え? 何ですか?」
「あと五分か十分で私どもはリヨンに着きます」
「ああ、可哀そうなルスが殺されたのは、ちょうど今ごろだったのですね」
というオルデンの顔は、にぶい光線の中で白くやつれて見えた。彼は居ずまいを直して、正面を見つめていた。唇が少しゆがんでいた。彼は彼の生涯を悲哀に陥れた恐ろしい悲劇を心の中に浮かべていたのであった。
旅の終わりを告げるため息のような、長く尾をひく汽笛が響き渡り、列車は速力を落としてリヨンへ入って行った。オルデンは窓の戸をあけて外をのぞいて見て、
「もし、ケッタリングがやったのではなく、あなたの新しい説が正しいとすると、その男が下車したのはここですね」と後ろをふり返っていった。
驚いたことには、ポワロは首をふった。
「いいえ、男など下車しませんでした。そうです。私が考えますのに、ここで下車したのは女でございます」
ナイトンは息をのんだ。
「女ですって?」オルデンは鋭くきき返した。
「そうです。女でございます」ポワロはうなずきながらいった。
「オルデンさんは、覚えていらっしゃらないかも知れませんがキャザリン嬢の証言の中に、鳥打帽をかぶって、オーバーを着た青年が、疲れた足をのばすためらしく、プラットフォームに下り立ってぶらぶら歩いているのを見たと申す一節がございました。私はその青年というのはたぶん女だったと考えているのでございます」
「いったいその女は誰なのですか」
オルデンは疑惑を顔に浮かべてきき返した。しかし、ポワロは真剣で決定的に答えた。
「その女の名は……多年世間に知られていた芸名では、キティ・キッドといいますが、オルデンさんはその女を別の名で知っておいでになります。それは、アダ・メイゾンでございます」
「なんですって?」
ナイトンは、はじかれたように立ち上がった。ポワロもさっと身をひるがえして彼と向かいあって立った。
「ああ、忘れないうちにこれを!」
といいながら、ポワロは、ポケットから何か取りだしてそれをナイトンに突きつけながら、
「煙草を一本いかがですか。どうぞあなたご自身のケースからお取り下さい。パリのリヨン口《ぐち》停車場で乗車なすった時にこれを落としておいでになるとは不注意千万でございましたね」
ナイトンは知覚を奪われたように、ポワロを見つめて棒立ちになっていたが、やがて逃げ道を求めるように身をかわしかけた。しかしポワロは警告するように手をあげて、
「動いてはなりません。隣室へ通じる戸は開いております。あなたは現在包囲されております。パリを出発した時に、私は隣室から廊下へ出る戸の錠をはずしておきました。そしてわれわれの友人である警官たちは、それぞれ部署に着くように命令を受けておりました。あなたもご承知のように、フランス警察は非常に熱心にあなたを捜しておりました。ナイトン少佐! それとも侯爵さまと申し上げましょうかね」といった。
説明
「説明でございますか」
ポワロは微笑した。彼はネグレスコ・ホテルのオルデンの私室で中食のテーブルについていた。その向こうがわの席にいるオルデンの顔には、まだ謎が解けないという表情と安堵が浮かんでいた。
ポワロは椅子の背によりかかり、細巻の煙草に火をつけて、考えこむように天井を見上げていたが、
「ではご説明申し上げましょう。そもそものはじまりは、私がある点に留意したことでございます。そのひとつの点と申すのは何か、あなたにお分かりでしょうか。それは醜くされた顔でございました。犯罪の調査に当たっておりますと、これはけっして珍しいことではございません。それはただちに問題、すなわち識別の問題を起こします。自然、私は、死んでいるこの女性ははたしてほんとうにケッタリング夫人だろうか? という疑問を持ちました。しかし、その線は私をどこへも誘導しませんでした。キャザリン嬢の証言は決定的で信用のおけるものでした。それで私はその疑問をわきへのけてしまいました。それで死んだ婦人はたしかにルス・ケッタリングときまりました」
「あなたはいつごろから、小間使いを疑いはじめたのですか」
「あまり前からではございませんでしたが、たった一つ、ある小さなことが私の特別の疑念を、あの女に向けさせたのでした。列車の中で発見された煙草のケースを、あの女はケッタリング夫人がご主人に贈った品だと申し立てました。それはご両人の間柄からして最も有り得ないことでございます。その一点がメイゾンの証言全体の真実性に疑念を抱かせました。あの女がケッタリング夫人の小間使いとして住みこんでからまだ二か月にしかならないということは考慮すべき疑わしい事実でございました。メイゾンはパリに残り、その後で、ケッタリング夫人が生存しておられるのを数人が見ておりますから、彼女は犯罪とは何の関係もないように見えたのはもっともでございましたが……」
ポワロは前へ乗り出して、自分の言葉を強調するように、オルデンに向かって人さし指をふって見せて、
「しかしですね、私はりっぱな探偵でございます。私は疑念を抱きました。誰一人として、何一つとして私の疑いを受けないものはございません。私は自分が聞かされたことを何も信じません。私は自分に対してこういう質問をしました。メイゾンがパリに残ったことをいったいわれわれはどうやってたしかめ得るだろうか? 最初のそれに対する答は一見満足のいくもののように思われました。あなたの秘書ナイトンの証言、これは全く局外者の陳述でしごく公平なものと想像されました。それから死んだ婦人自身が車掌にいった言葉。しかしこの後者の方は私はわきへのけておきました。なぜかと申しますと、私の心にあまりに空想的で不可能と思われるような、たいへんに奇妙な考え方が生まれて来たからでございます。もしも、万が一にも私のその考えが事実なら、ある念の入った証言が全く無価値になるのでございました。
私は自分の推理の主な障害、つまり青列車がパリを出発した後、リッツ・ホテルでメイゾンに会ったというナイトン少佐の証言に注意を集中しました。それは十分に決定的なもののごとくに見えましたが、なおもよく事実を研究していくうちに、私は二つの点に気がつきました。第一は不思議な偶然の符合と申しますか、ナイトンもあなたの秘書になってからちょうど二か月になるということ、第二はナイトンの頭文字がケッタリング氏と同じく、Kであることでございました。そこでもし列車内で発見された煙草のケースがナイトンのものだったら? と考えるに至りました。それからもしもメイゾンとナイトンが、共謀でやった仕事とすれば、私どもがあの煙草のケースを見せた時のメイゾンの態度が、なるほどとうなずけるのではないかということでした。あの女はひどく驚きましたが、すぐにケッタリング氏の有罪に適合するようなまことしやかな理論を作りだしました。もちろんそれは最初からの案ではございません。ローシ伯爵を贖罪羊《いけにえ》にする計画だったのですが、万一伯爵のアリバイが成立した場合を考えて、メイゾンは列車で見た紳士をはっきり伯爵とは断言しなかったのでございます。さて、もしあなたがあの時のことを心に浮かべてごらんになりましたら、ある意味深長なことが起こったのを思い出されるでしょう。私がメイゾンに、彼女の見た紳士はローシ伯爵ではなく、ケッタリング氏だったのではないかと申しましたら、メイゾンはその時には、はっきりした返事をしかねて黙っている様子でございましたね。ところが後であなたが私のホテルへ電話をおかけになって、メイゾンが、あなたのところへ行って、よく考えてみたらたしかにケッタリング氏だったと申し立てたとご報告下さいましたね。私はいずれそんなことだろうと予期していたのでございました。彼女が突然に確信を得たことに対する説明は一つよりございません。私があなたのホテルを辞してから、彼女は誰かと相談して、その指図を受けて行動したのに違いないと私は考えました。では誰が彼女に指図をしたかと申しますと、それはナイトン少佐でございます。それと、もう一つ、ごく些細な点がございました。それはなんでもないことかも知れませんが、また多くを意味することかも知れないと思われました。ナイトンは不用意な世間話をしていた時に、彼がヨークシャーで滞在していた家に宝石盗難事件があったことに触れましたね。あるいはそれは偶発的な些事であったかも知れませんが……」
「ポワロさん、私には|ふ《ヽ》に落ちないことが一つあります。私が鈍感なせいで、さもなかったらもう想像がついているはずかも知れないと思いますが、いったいパリで青列車に乗りこんで、ルスの部屋へ来た男はケッタリングだったのですか、それともローシ伯爵だったのですか?」
「それはこの事件の構成の中で一番簡単な事実でございました。男などいなかったのでございます。実に巧妙ではございませんか。男がいたということを、メイゾンのほかにいったい誰が私どもに語ったのでございましょう? 私どもはナイトンが彼女にパリで会ったという言葉を基にして、メイゾンがパリで下車したことを信じました」
「しかしそのことはルス自身が車掌に話したのではなかったのですか」とオルデンは抗議した。
「ああ、私はそこをお話しようとしておったのでございます。私どもはケッタリング夫人の証言を得たつもりでおりましたが、実は私どもは夫人の証言を得たのではなかったのでございます。オルデンさん、死人は証言することはできません。あれはケッタリング夫人の証言ではなく車掌の証言にすぎません。そうなると問題は全く別になります」
「すると車掌は嘘をついたとおっしゃるのですか」
「いいえ、いいえ、けっしてそんなことはございません。車掌は真実だと思いこんでいたことを語ったのでございます。ところが小間使いをパリに残してきたと車掌に告げたのは、ケッタリング夫人ではなかったのでございます」
オルデンはポワロの顔をみつめた。
「オルデンさん、あなたの令嬢ルス・ケッタリング夫人は列車がリヨンに着く前に死んでしまっていらしたのです。車掌にぜひ必要な証言をしたのは、非常に目立つ女主人の服装をした小間使いのメイゾンだったのでございます」
「不可能なことです」
「いいえ、不可能ではございません。近ごろの女性はみんな同じように見えますので、顔よりも服装で見分けをつけます。奥さまと小間使いとは同じ背格好でした。あの贅沢な毛皮のオーバーを着て赤いうるしの帽子を眉深にかぶり、両方の耳の後ろに金茶色の毛髪を一束ほどのぞかせていれば、車掌が騙されるのも無理はないことでございます。夫人はその前には車掌に口をおききになりませんでした。また、車掌はメイゾンをよくは見ておりませんでした。切符を受け取る時に、ちらと見ただけで、黒い服を着たやせた女という印象を受けただけでした。もし彼が特別に聡明な男でしたら、奥さまと小間使いとは多少は似ていないことはなかったと申し立てたかも知れません。しかし、彼はそんなことを考えても見なかったのが、ほんとうでございましょうね。それにメイゾンは、キティ・キッドという芸名の女優でございました。彼女は立ちどころに服装や声をかえてしまうくらいのことはできます。ですから小間使いが奥さまに化けていることを車掌に見破られる心配はけっしてなかったわけでございます。ただ危険なのは死体を車掌に見られることでございました。車掌は死体の顔を見ればすぐに前夜自分に話しかけた婦人と違うことに気がつくでしょう。そこで顔を醜くして、見わけがつかないようにしておく必要があったのでございました。メイゾンが一番おそれていたのは、キャザリン嬢がまたたずねて来るかも知れないということでした。それで弁当を買って、自分の部屋に錠をおろしていたのでございます」
「では誰が、いつ、ルスを殺したのですか」
「第一に、この犯罪はナイトンとメイゾンが共謀で仕組んだものだということを念頭におおき下さい。ナイトンは当夜あなたの商用でパリにおりました。彼は列車が速力を落とす循環線のどこかで、列車に飛び乗りしたのでございます。ケッタリング夫人はあなたの秘書を見てびっくりなすったとしてもけっして何の疑念も起こされなかったでしょう。おそらくナイトンは夫人の注意を窓の外の何かに向けておいて、その隙に紐を首にかけたので、この犯罪は完了まで一、二秒とかからなかったでしょう。部屋の方には錠がおりておりました。彼とメイゾンはすぐに仕事にかかりました。彼らは死人の服をはぎ取って、死体を毛布に巻きこんで、隣室の座席に積んであった袋や鞄の間におきました。ナイトンはルビーの入っている宝石箱を持って列車から飛び下りてしまいました。犯罪が行なわれたのは、それから約十二時間後ということにされ、ケッタリング夫人が車掌にいった言葉と、ナイトンの証言とが共犯者のメイゾンに完全なアリバイを与える仕組みになっていたのでございます。
パリのリヨン口《ぐち》停車場でメイゾンは弁当を買うと洗面所に閉じこもって、すばやく女主人の服に着かえ、耳のわきに金茶色の付け毛をして、できるだけケッタリング夫人らしく扮装しました。車掌が寝台の用意をしに来たときに、小間使いをパリに残してきたという前もってきめておいたせりふをいいました。そして車掌が寝台をこしらえている間、窓ぎわに立って外を眺め、あけ放った廊下の戸から、そこを通る乗客たちに、ケッタリング夫人の後ろ姿を見られるようにしておりました。それは先見の明のある手段でした。なぜなら、ご承知のようにそこを通って食堂へ行った人々の一人だったキャザリン嬢は、その時刻にケッタリング夫人はまだ生きておいでになったと証言しました」
「どうぞ先をお進め下さい」とオルデンはいった。
「リヨンに着く前に、メイゾンは女主人の死体を寝台の上に寝かせ、婦人の服をきちんとたたんで裾《すそ》の方におき、自分は男装して下車する用意をしました。ケッタリング氏がその部屋へ入られた時には、夫人が眠っておられるものと思いました。メイゾンは隣室にひそんでいて、誰にも気づかれずに列車からおりる機会をねらっていました。リヨンで、車掌が列車からぶら下がるようにしてプラットフォームにおり立つと、メイゾンもつづいて下車し、新鮮な空気を呼吸しにおりたふうを装ってぶらぶら歩いていました。彼女はひと目のないところを見て線路を横ぎって反対がわのプラットフォームにのぼり、パリ行きの列車にうまく乗ってリッツ・ホテルへ参りました。ホテルには前の晩ナイトンの一味の女がアダ・メイゾンの名で部屋をとっておいたのでした。彼女はただそこで悠々と、あなたの到着を待っておればよろしかったのでございます。それまで宝石は一度も彼女の手には渡りませんでした。ナイトンには少しも疑いはかかりませんでした。彼はあなたの秘書として、けっして発見される心配なく、そのルビーをニースまで持って参り、そこでパポポラスに売り渡すことに前もって手配してございまして、最後の瞬間にメイゾンにたくされて、ギリシャ商人の手に渡されました。
全く侯爵のようなその道の達人として、さもありなんと思われるだけに、実に鮮やかに計画された大当たりでございました」
「それで、あなたは真実に、ナイトンが長い間、こういう仕事にたずさわっていた、有名な犯罪者だとおっしゃるのですか」
ポワロはうなずいた。
「侯爵と名乗るその紳士の身上は、巧い口先と他人の気に入るような態度でした。オルデンさんも彼の魅力に引っかかって、ほんのちょっと知りあっただけで彼を秘書にお雇いになりました」
「私は断言します。彼はけっして私の秘書になろうと私を引っかけたのではありません」
「そこは老獪《ろうかい》な男のことですから、人間を見る目のおありになるあなたさえも、巧みに瞞着してしまうのでございます」
「私はあの男の経歴もよく調べました。彼の記録は優秀でした」
「さよう、さよう、そこが彼の勝負の手口なのでございます。ナイトンとしての彼の生涯は、全く非難すべき点はございません。生まれもよろしく、縁故関係もよろしく、戦争では勲功をたてましたし、全く何の疑念もさしはさむ余地はございません。しかし謎の男、侯爵についての情報をあちこちで拾い集めるに及んで、私はこの両者に多くの類似の点を見いだしました。ナイトンはフランス語をフランス人のように巧みに話しました。彼はアメリカ、フランス、イギリスと渡り歩いております。ちょうど侯爵がかせぎまわったと同じコースをとっております。侯爵の噂が最後に聞こえてきたのはスイスで宝石盗難事件が数件、侯爵によって工作された時でした。そしてあなたがナイトン少佐と知り合いにおなりになったのもスイスでございました。それからまたちょうどそのころ、あなたが有名な宝石を買い取る交渉をしておいでになる噂がひろがっておりました」
「ですが、なぜルスを殺したのでしょう。それほど頭脳のいい盗人なら、自分の首に縄のかかるような危険を犯さないでも宝石を盗めたでしょうに……」オルデンはとぎれとぎれに低い声でいった。
ポワロは首をふった。
「侯爵が摘発されている殺人罪は、今度が最初ではございません。彼の本性は殺人鬼なのでございます。彼はまた、殺すことによって犯跡をくらましてしまえると信じておるのでございます。死人に口なしということを過信しておりましたのでございます。
侯爵は有名な宝石に対して激しい情熱を持っておりました。彼は前もってあなたの秘書になり、自分の共謀者を、あなたの令嬢の小間使いに就職させるように計画をたてました。それはあなたのお買いになるルビーが、いずれはケッタリング夫人に贈られるものと見越したからでございます。
これは侯爵が熟慮し注意深くあみだした計画だったにもかかわらず、彼はあなたが、パリで宝石をお買いになった晩に、二人の無頼漢にあなたを襲撃させるという近道をとることも、躊躇しませんでした。その計画は失敗に終わりましたが、彼は別に驚きもしませんでした。
彼はこの計画は絶対に安全で、ナイトンにはいかなる疑いもかからないと考えておりました。しかし偉大な人物の常で……侯爵はたしかにその道では偉大な人物でした……彼も弱点を持っていました。彼は真実にキャザリン嬢に恋をしてしまったのでした。それで彼女がケッタリング氏に好意を寄せているのに感づくと、自然に生じた好機会に乗じて、罪をケッタリング氏になすりつけようという誘惑を、拒みきれなかったのでございました。
さて、オルデンさん、私はここでたいへんに不思議な話をお聞かせいたします。キャザリン嬢は、どの点から考えましてもけっして妄想にとらわれるような性格ではございませんが、ある日モンテカルロの賭博場《カジノ》の庭で、ナイトンとしばらく話をした直後、あなたの令嬢がそばにおいでになるのを感じたと申すのでございます。彼女は死んだ夫人が、しきりに何か告げようとしておいでになるのを感じ、何だろうと怪しんでいるうちに、ケッタリング夫人を殺したのはナイトンだと自分に警告しようとしておいでになるのだという考えが不意に浮かんだと彼女は私に打ち明けました。
その想像があまり空想的なので、キャザリン嬢は誰にも話さずにいたのですが、彼女自身はいかにもとほうもないように思われることを、真実だと確信されたのだそうです。これで彼女はナイトンが近づいてくるのを、わざと阻止せず、一方、ケッタリング氏の有罪を信じこんでいるように見せかけておりました」
「実に驚くべきことです……」とオルデンはいった。
「そうです、たしかに不思議なことでございます、こういうことにはなんとも説明がつきません。それはそうと、最後に一つかなり私を迷わした事実がございました。あなたの秘書は戦傷を受けたために目立つほどびっこをひいておりました。それが私にとりまして障害となっておりました。しかし、タムリン伯爵夫人の令嬢レノックスさんが、ある日、ナイトンがびっこをひいているのを、当時タムリン伯爵夫人の病院でナイトンの治療を担当した外科医が不思議がっていると申すことを話しました。それは私に偽装を暗示しました。私はロンドンへ参ってその問題の外科医に会っていろいろと医学的の説明を得まして、それにより偽装と睨んだ私の考えが裏書きされたのでございました。
私は一昨日、ナイトンの聞いているところで、その外科医の名を口にいたしました。普通だったらあの場合、ナイトンはすぐに自分が手術を受けたのはその医師だと話すのがあたりまえでございます。しかるに彼は何もいいませんでした。他に何もなかったとしましても、そのちょっとした一点だけでも、今度の犯罪に対する私の理論が正確であるという最後的の決定を与えたのでございました。キャザリン嬢も、ナイトンの入院中にタムリン伯爵夫人の宝石が盗難に遭ったという新聞記事の切り抜きを私に見せて下さいました。
私がパリのリッツ・ホテルから、キャザリン嬢に手紙を書きました時、彼女は、私が彼女と同じ人間を追跡しているのを悟られたのでした。
私はパリでの調査に当たり少々面倒がございましたが、結局、私の望むところを得ました。それはメイゾンがリッツ・ホテルに到着したのは前の晩ではなく、犯罪のあった翌朝だったという証拠をつかむことでございました」
長い沈黙がつづいた後で、億万長者はテーブル越しにポワロの方へ手を差しのべて、
「ポワロさん、真犯人が捕まったということが私にとってどういうことを意味しているか、あなたにもお分かりになると思います。私は今朝あなた宛に小切手をお送りしましたが、あなたが私にしてくだすったことに対しては、どれほどの小切手をお送りしても、とうてい、私の感謝を表わすことはできないと思っております。ポワロさん、あなたは実にりっぱでいらっしゃいます。あなたは、断然、りっぱでいらっしゃる!」
ポワロは立ち上がった。彼は胸をふくらまして、答えた。
「私は単なるエルキュル・ポワロにすぎません。しかし私の商売の方では大物でございます。ちょうどあなたが実業家として大物でおありになると同様に!……あなたのお役に立つことができて私はたいそう幸福に思い喜んでおります。さて、私は、旅行でめちゃめちゃになったこの服装の手入れをして参らねばなりません。身のまわりの世話をしてくれる忠僕のジョージがいっしょに来ておりませんのは実に残念千万でございます」
ホテルの遊歩場で、ポワロはパポポラス父娘にぱったり出会った。
「ポワロさんは、ニースをお立ちになられたとばかり思っておりました」
パポポラスは、探偵が親しげに差しだした手を握り返しながらいった。
「商用で、またもどって参りましたよ、パポポラスさん」
「商用?」
「はい、私の商売でございます。商売と申せばあなたのご健康はいかがですか、以前よりもおよろしくなられたように念じております」
「たいへんによくなりました。実はそれで私どもは明日、パリへ帰りますつもりでございます」
「そういうよいニュースを伺って、たいへんに嬉しゅうございます。あなたがギリシャの前首相を、破産させておしまいになったのでなければいいと存じますよ」
「私が?」
「私はあなたがギリシャの前首相に、有名なルビーをお売りになったのを承知しております。それらのルビーの中心になっておりました石は、舞踊家ミレイユ嬢の胸をかざっておりますそうでございますね……」
「はい……その通りで……ございます」パポポラスは低い声でつぶやいた。
「そのルビーは有名な『火焔《ほのお》の心臓』によく似ておりますようですが」
「はい、……たしかに……似ている点もございます」とギリシャ商人はあっさりといった。
「パポポラスさんは、宝石にかけてはすばらしい手腕をお持ちでおめでとうございます。ジア嬢、あなたがそんなに急に、パリをお帰りになるとは、まことに寂しいことでございます。私は仕事がすみましたので、ちょいちょい、あなたにお目にかかれると存じて、楽しみにしておりましたのに」
「ポワロさんの、そのお仕事とおっしゃるのは何か、おたずねしたりしては失礼でございましょうか」とパポポラスがいった。
「いや、いや、どういたしまして。私はちょうど侯爵の尻尾をつかまえることに成功したところでございますよ」
パポポラスの上品な顔に夢見るような表情が浮かんだ。
「侯爵? どうしてその名に、聞き覚えがあるような気がいたしますのでしょう?……いや、どうも私には思い出せませんでございます」
「それは、あなたにはお思い出しになれませんでしょうとも。私は有名な宝石泥棒のことを申しておるのでございます。彼は英国婦人のケッタリング夫人を殺したかどで逮捕されたのでございます」
「そうでございますか! たいそう興味のあるお話でございますね!」
それにつづいて礼儀正しく別れの挨拶が交わされた。そしてポワロに聞こえないくらいに遠ざかってしまった時、パポポラスは娘をかえりみて、
「ジアや、あの男は悪魔だよ!」といった。
「私、あの人好きですわ」
「私も好きだよ。それにしてもあの男は悪魔だよ」とパポポラスはくり返していった。
海辺で
ミモザの花は盛りが過ぎて、空中に微かに不快な匂いを漂わしていた。タムリン伯爵夫人の別荘の欄干の前にはピンクのゼラニウムが二列に並んでいた。そしてその下のほうに植わっている一叢のカーネーションが強い甘い匂いを送っていた。地中海は常にも増して青かった。
ポワロとレノックス嬢はバルコニーの椅子に腰かけていた。彼は二日前にオルデンに話したと同じことを語り終わったところであった。レノックス嬢は眉を寄せ憂鬱な目つきで、熱心にポワロの話を聞いていた。
彼が語り終わった時、レノックス嬢は、
「ケッタリングは?」といっただけであった。
「きのう釈放されました」
「で、どこへ行ったの?」
「ゆうべニースを出発しました」
「セント・メリー村へ?」
「そうです、セント・メリー村へ」
そこでちょっとの間言葉がとぎれた。
「ケッタリングに対する私の考えは、間違っていたわ。私は、キャザリンがあの人を愛しているとは思わなかったのよ」
とレノックス嬢はいった。
「キャザリン嬢は非常に用心深くていらっしゃる。あの方は誰をも信用なさらない」
「私ぐらいは信用してくれてもよかったのに!」レノックス嬢は気まずそうにいった。
「そうでございます、あなたを信用なすってもよかったはずでございますね。しかし、キャザリン嬢はこれまでの生涯の大部分は聞き役ばかりしていらっしゃいました。他人の話をたくさん聞いた人にとって、話すことはむずかしいものでございます。そういう人は悲しみも喜びも、誰にも語らずに胸一つにおさめておくのが常でございます」
「私ったらばかね、あの人がほんとうにナイトンを好きなのだとばかり思っていたのよ。どうして気がつかなかったのかしら? 私きっとそうであることを希望していたから、そんな風に思いこんでしまったんでしょうね」
ポワロは彼女の手をとって、親しみをこめて握りしめながら、
「お嬢さま、勇気をお出しなさいまし」といった。
レノックス嬢は海の方をまっすぐに見つめていた。彼女のいかつい顔が一瞬悲劇的な美しさを帯びた。
「そうね、そういうわけにはいかなかったんだわ。私はケッタリングと年が違いすぎるんですもの。あの人はまるで、いつまで経っても大人になれない子供みたいだわ。あの人には聖母のような感じの人が必要なのよ」
長い沈黙がつづいた。しばらくして、レノックス嬢はポワロの方を向いて衝動的に、
「でも、私、お力添えしてあげたわね、ポワロさん、とにかく私はお力添えしたわね」といった。
「そうでございますとも、お嬢さま、あなたが犯罪を行なった人間は、かならずしも列車に乗っている必要はなかったとおっしゃった時、はじめて私は真実に気がついたのでございました。それまで私はどんなふうにして、すべての犯行が運ばれたのか見当がつかないでおりました」
レノックス嬢は深いため息をした。
「私うれしいわ、とにかく何か役に立ったんだから」
二人の背後で、遠くから長くあとを引く叫びのように汽笛が響いて来た。
「あれはいやな青列車よ。列車って無情なものね。人が殺されて死んでも、平気な顔して走って行くんですもの。私ばかなことをいっているけれど、ポワロさんは、私のいう意味わかって下さるわね」
「よくわかりますとも、お嬢さま。人生は列車みたいなものでございますよ、どんどん走って行きます。それでよろしいのでございます」
「なぜなの?」
「なぜかともうしますと、やがて旅の終わりになるからでございます。それについて諺《ことわざ》があるではございませんか、お嬢さま」
「旅の終わるところで恋人が出会う」といって、レノックス嬢は笑い声をあげた。
「でも、私の場合にはそんなの、ほんとうでないわ」
「ほんとうでございますとも。あなたはお若い。ご自分で考えておいでになるよりもずっとお若くていらっしゃる。お嬢さま、列車を信用なさいまし、なぜなら、それを運転しておいでになるのは全能の神様でいらっしゃるからでございます」
汽車の音がふたたび響いて来た。
「列車を信用なさいまし、そしてエルキュル・ポワロを信用なさいまし。ポワロは何でも知っております」
と、ポワロはくり返してつぶやいた。(完)
訳者あとがき
アガサ・クリスティは一八九一年に、英国デボンシャーの美しい田園都市に生まれ、幼少の時から自然に親しみ、自由な空想にはぐくまれ、作家的気分に理解ある母の愛のうちに成長し、十六歳の時に、音楽修行のために、パリに留学した。
最初マックス・ワロワンという考古学者と結婚しダート河に臨む古風な邸宅で静かな生活をしていた。そしてワロワン博士が発掘旅行に出かける時には同行し、その仕事を扶けるというふうに、良妻ぶりを発揮していた。そのせいか女史は大都会や名所見物など好まない。旅行はよくするがたいてい近東地方で、特に砂漠に魅力を感じるといっている。
だが、その幸福な生活の中から生まれた作家としての女史が、クリスティ姓を名乗るようになった真相は明らかでない。ワロワン博士が逝去して再婚したのか、あるいは何かの理由でワロワン博士と離婚したのか今のところ知る由もないが、クリスティ大佐夫人となってから、作家生活に入ったのではないかと思われる。というのは、処女作『スタイルズ荘の謎』は女史が第一次世界大戦(一九一四〜一八年)中、赤十字病院に薬剤師として勤務する傍ら書いたものといわれているから、当時、老人と子供を除いて英国中の男性はみんな軍務に服し女性は男性に代わってあらゆる部門に進出して働いた時代のこととて、ワロワン博士も出征して戦死したのかも知れない。そして女史は赤十字病院勤務中に知り合ったクリスティ大佐と再婚したかも知れないというのが、私の推理だ。
戦争が終わったのが一九一八年で、アガサ・クリスティという女流推理作家が世に出たのが一九二六年、それから矢つぎばやに彼女の作品が単行本に、雑誌にと発表され、マスコミに巻き込まれた一九三〇年ごろの写真入り新聞デイリーミラー紙にアガサ・クリスティ失踪事件が紙面を賑わしたことがあった。クリスティ女史は労作に頭脳を酷使した為に神経衰弱になり自己喪失症にかかって行方不明となり、一週間にわたって捜索隊や警官隊が出動し、全く推理小説を地でいったような騒動を起こしたが、田舎の小さなホテルに別人となっているのが発見され、迎えに行ったクリスティ大佐に会っても、それが誰であるか判らないような状態であったと、写真入りで報道された。その後女史はしばらく治療を受け静養しているうちに、すっかり健康を回復し再び創作に精進するようになったのである。
一九二六年に初めてアガサ・クリスティの作品『アクロイド殺人事件』が出版されて以来、彼女の推理小説が毎年平均三冊の割合で発表されてきているから、もう百冊以上になっているはずだ。もっとも第二次世界大戦が一九三九年から一九四五年まであって、英国民は総動員で前線に銃後に働かなければならない時代が六年も続いたし、クリスティ女史も今年七十五歳だから、私たちの机上の計算のような工合にはいかなかったかも知れない。
一九五〇年アガサ・クリスティ女史五十九歳の誕生日に、五十冊目の出版祝賀会が催された時には、内外有名無名の読者から熱誠をこめた祝詞や祝電が殺到したということだ。
そもそもクリスティ女史が推理小説にペンを染めるに至ったに就いて、次のような挿話が伝えられている。
ロンドン社交界のある晩餐会の席で、話題がたまたま推理小説に及んだ時に、推理小説のような血なまぐさい事件を扱い、しかも探偵が鋭い頭脳を働かして推理を進めていって犯人を捜し出すというような小説は、とうてい女性には書けないという説に大方の意見が一致した。するとクリスティ女史は、女性にだって推理小説が書けない筈はないと主張し、それを証明するために書いたのが、今日推理小説の古典として、推理小説愛好家が必ず一度は読み、今後も永久に読まれるだろうところの『アクロイド殺人事件』であった。
もちろんこの作品は非常な評判となり、読者の要望に応えて、次々と短篇長篇と発表して、アガサ・クリスティは推理小説界の女王として君臨するに至った。
女史が最初に発表したのは『アクロイド殺人事件』であったが、女性にだって推理小説を書けると公言したのには、それ相応の自信があったはずだ。前述の通り戦時中に病院勤務の傍ら『スタイルズ荘の謎』を書いたか、あるいは草案をノートしたかぐらいだから、コナン・ドイルやウィルキイ・コリンスの作品を愛読していたに違いない。
女性には無理だといわれたのが動機で推理小説を書き始めた女史は「やはり女性は女性で彼女は絨毯の上に十分な血を流し得ないでいる」という攻撃を受けると、早速『クリスマス殺人事件』を書いて、女性といえども、血なまぐさい事件を扱えるところを示した。
なにしろ英国ばかりでなく、欧米では女性は気がやさしくて可憐なもので男性の保護なしでは生きていかれないという観念があって、女性はちょっと血を見てもすぐに気絶し、恐ろしい話を聞いてもすぐに気絶し、怪しい物音や、野蛮なけんかを見ても、もの凄い悲鳴をあげるのが淑女のように思われている。そういう社会で婦人参政権運動が起こった当時、世間では女だてらにとばかり憤慨したり、罵ったり、世の終わりが来たと嘆いたくらいだから、おそらく社交界では上流階級の婦人が殺人事件などを扱った推理小説を書いたとあっては、最初のうちはさだめし古風な連中から淑女らしくないとかいって非難されたことであろう。だが世界的に有名なシャーロック・ホームズ探偵が誕生したのは、一八九一年コナン・ドイルが三十二歳の時で、クリスティ女史がポワロ探偵を世に送り出したのはそれより三十五年後のことで、英国の読者界にはすでに推理小説時代が来ていたから、女史が異色作家として一般読者から大いに歓迎されたのは当然であった。
クリスティ女史は酒も煙草もたしなまないし近代音楽やラジオのようなものは好まないというように、全くのクラシック・レイディだが、なかなか気骨のある婦人で、推理小説家として世間から騒がれ始めると、口さがない人々の中には「彼女は推理小説という特殊な題材を扱うから珍重されているので、彼女には普通の小説など書けないから、文学者とはいえない」などと評する者があった。すると女史は一九五三年に『娘は娘』という本格小説をメイリイ・ウェスマコットという変名で出版し、それが非常な評判になったところで、実はアガサ・クリスティの作品だということが発表されて、彼女の文学的地位が、いよいよ高まったということである。
そもそも推理小説というものは、文章の妙味、構成の確実さ、人物の性格、社会情勢、心理描写等、およそ文学作品として持たなければならない要素の上に、さらにもう一つ事件の解決に推理をすすめていく、知的要素を十二分に発揮しなければならないのだから、普通の小説を書く以上に骨の折れるものである。
クリスティ女史のペンが産み出した私立探偵エルキュル・ポワロは、コナン・ドイルの創造したシャーロック・ホームズと共に、世界的に有名な一流どころの探偵に押し上げられている。
ポワロはベルギー人で、フランス流のしゃれた服装と優雅なものごしを身につけている。卵みたいな格好の頭と、その頭を小鳥みたいにかしげて、緑色の目を見張っているこの小男は、鼻下に今時めずらしいみごとな髭をたくわえている。まるでつばめが羽根をひろげているような格好のその髭は、ポワロの自慢のもので、どんなに忙しい時でも、その髭の手入れは怠らない。いつもチックで固めてぴんとさせ、他人がその髭に注意を向けているのに気がつくと、いかにも満足そうにその髭をそっと撫でる。彼はあきれるほど身だしなみに気をつける男で、服には常にブラッシをかけ、ワイシャツにも靴下にも細心の注意を払い、一糸乱れぬ服装をしている。ちょっとしたほこりでも、目にとまらないほどの汚点でも我慢ならない性分で、ある批評家はこのポワロ探偵について、
――もし砂漠を自動車で旅行するようなことがあったら、彼は櫛《くし》とブラッシを使いつづけで、チックで固めた大切な髭が乱れはしないかと絶えず気にしていて、窓外の景色も目に入らなければ同乗している親友の話も耳に入らないだろう――といっている。
たいそう礼儀正しく、とくに女性に対しては慇懃《いんぎん》で、言葉使いもていねいで優しく、そしてミルクチョコレートとオムレツが大好物という彼は、誰が見てもポワロ小父さんと呼びたくなるような親しみ深い人物だが、自分でも「ポワロはライオンにもなりますぞ!」というように、日ごろ温厚な彼も、時にはすさまじい剣幕で相手を威嚇して泥を吐かせる場合もある。彼はアメリカ流の探偵のようにけっして、きびきび飛び歩いたり、手強い反対尋問を行なったり、堂々たる演説をしたりしない。いつも悠々と社交を楽しんでいながら、重要事項をぽつぽつ拾い集め、巧みに相手の心理の動きに乗じて推理をすすめ、最後の瞬間にその小さな断片を組み合わせて一大絵巻物をくりひろげて見せるという、実に派手な演出をする探偵で、常に「私は足で探偵するのではなく、頭脳でするのです」といっている。
またクリスティ女史の文章は実に簡潔明快である。文章といえば私はかつて英国婦人から次のような忠告を受けたことがある。
――そんなむずかしい言葉を使わなくても、それだけの意味を、もっと誰でも知っているやさしい言葉で表現する工夫をおしなさい。大体、小学生でも知っているようなやさしい英語を五百知っていればどんな論文でも書けるはずです――というのであった。
しかし日本語の場合でも、むずかしい熟語を使う代わりに、やさしい言葉で表現しようとすると、とかく長たらしい気のぬけた文章になるものだ。それを明快な文章にするのはなかなか苦心を要する。
女史の五十冊目の出版記念界の折に、当時英国首相だったアトリー氏からの祝詞の一節に、
――……私は他の探偵小説家たちの持っていない女史の要素に敬服しております。それは女史が英語を実に簡潔明瞭に書く才能を持っておられる点であります――
と書かれているように、クリスティ女史の作品は内容が複雑でありながら、大変に読みやすいという特徴がある。
もしもこの訳本を読みにくいと思われる読者がおられたら、それは訳者の文章が拙いためで、けっして原作のせいでないことをご了承ねがいたい。
青列車というのは、フランスのカレーから、パリを経て南フランスの避寒地ニース方面へ行く豪華列車で、一人で一部屋なり二部屋なり独占できる仕組みになっている。この物語の場合、ルス・ケッタリング夫人は二間続きの部屋を借り切りにして、一間は自身が使い、次の間は小間使いと荷物のために使っていたわけである。
それから、リヨン停車場とリヨン駅とが、同じリヨンで、まぎらわしく聞こえるが、リヨン停車場はパリから南フランス方面へ行く列車の発着駅で、リヨン駅はパリからずっと離れた小都市で、絹織物の産地として有名なリヨンの駅である。
この『青列車殺人事件』は一九二八年七月二十日に初版が出版され、それから二十年後に私が入手した原書は三十版となっていた。(訳者)