機上の死
アガサ・クリスティ/松本恵子訳
目 次
一 マダム・ジゼル
二 ポワロ、パリを洗う
三 犯罪の余波
四 恋のおとり
訳者あとがき
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登場人物
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ジェーン・グレイ嬢……アントワン・ヘアサロンの調髪師
ホービュリー伯爵夫人……元女優で、現在伯爵とは別居中
ホービュリー伯爵……若き伯爵家の当主、カー嬢を愛している
ベネシヤ・カー嬢……ホービュリー伯爵と幼なじみの貴族令嬢
マドレーン……ホービュリー伯爵夫人の召使
ノーマン・ゲール氏……ロンドンの歯科医
ブライヤント博士……耳鼻咽喉科の開業医
デュポン氏……フランス人の考古学者
ジャン・デュポン氏……デュポン氏の令息にて助手
クランシー氏……ミステリー作家
ライダー氏……ロンドンの実業家
マダム・ジゼル……パリの金貸業者、本名マリー・モリソー
ヘンリー……一番スチュワード
アルバート……二番スチュワード
ジュール・ペロー……国際航空会社パリ事務所の事務員
チボー弁護士
フルニエ探偵
ジャップ警部
エルキュール・ポワロ
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一 マダム・ジゼル
旅客機内の黄蜂
パリのル・ブールジェ空港には、太陽が燦々と輝いていた。旅客たちは、数分のうちに、ロンドンのクロイドン空港をさして出発しようとしている、定期便プロミシューズ号に乗り込もうとして、場内を横切っていった。
ジェーン・グレイ嬢は、最後に乗り込んで、後部の十六号席についた。ある旅客たちは、中央の戸口から、小さい配膳室と二つ並んだ洗面所との前を通って前部の客室へ入っていった。たいていの人はもう席に着いていた。通路の向う側では、誰かが話していた……鋭い、かん高い女の声がおもに聞えていた。ジェーン嬢は、ちょっと唇を歪めた。彼女はその特別の調子の声に、聞き覚えがあった。
「あらまあ……不思議ですこと……思いがけない……どちらへおいで遊ばしましたの? ジュアン・レ・パン?……そうですの……ああ……ええ、ル・ピネへ……そうでございますの……ええ、あそこも相変らずに混みあっておりますわねえ……もちろん、ご一緒にかけましょうよ。あら、駄目なんでございますの? 一体どなたが?……ああわかりましたわ……」
その時、男の声……外国なまりのある、丁寧な男の声がした。
「奥様、よろこんでおかわりいたしましょう……」
ジェーン嬢は、横目でちらと見た。
大きい口髭のある、玉子なりの頭をした、小柄な、年配の男が、丁寧に、ジェーン嬢の反対側の席から、手荷物を持って、席を移しているところであった。
ジェーン嬢は、ちょっと首をめぐらしてこの見知らぬ紳士の、親切な行為の原因となった、不意に出遇ったらしい、二人の女性たちをながめた。ル・ピネという名が、ジェーン嬢の好奇心をそそったのであった。それは、彼女も今まで、そのル・ピネで過ごしてきたからであった。
その女性たちの一人は、よく知っていた。その夫人をこの前に見たのは、バカラ(トランプの賭博遊び)のテーブルで、その時、夫人の手は、握ったり、開いたりしていた……そのきゃしゃな、ドレスデンの陶器のような顔は、赤くなったり、青くなったり、交互に変っていた。……少し努力すれば、その名を想い出すことができると思った。友人が、その夫人の名を言っていた……そして、こう言ったっけ。「あの人は、貴族夫人なんだけど、本物の貴婦人ではないのよ……コーラスガールか何かだったんだわ」と。
その友人の声には、深い軽蔑が感じられたっけ。そんなことをいったのは、いわゆる、『肉を減らす』ことでは、一流のマッサージ師の、メエシイであった。
もう一人の婦人の方は、『本物』らしいなと、ジェーン嬢は思った。競馬好きらしい地方の名家出タイプだな、と思ったきりで、ジェーン嬢は、二人の女性のことは忘れて、ル・ブールジェ空港の景色を、窓から眺めて楽しんでいた。ほかの旅客機もたくさんならんでいた。その中の一つは、金属の大きな百足《むかで》のように見えた。
ジェーン嬢が、何としても見ないでいようときめた場所が一個所あった。それは、自分の真正面の席であった。そこには、一人の青年が坐っていた。
その青年は、派手な青い色のトックリ型のセーターを着ていた。ジェーン嬢はその衿より上部は、決して見ないことにきめていた。さもなかったら、きっと、眼と眼がかち合うだろう。そんなことになったらいけない!
整備員たちが……フランス語で叫んだ……エンジンはうなった。……調子がおちて……またうなった。……車輪止めがとり去られ……機はすべりだした。
ジェーン嬢は、はっとした。空の旅は、これで、二度目でしかなかったので、彼女はまだ、胸をときめかすのであった。何だか……何だか……あの垣根に、突進しそうに思えた。……いや、もう離陸しているのだ……上る……あがる……大きく旋回して……もう、ル・ブールジェは、遙か、下の方にあった。
クロイドンへの昼間飛行が始まったのだ。二十一人の旅客がのっていた……前部の客室に十人、後部のには十一人乗っていた。操縦士が二人、スチュワードが二人乗り組んでいた。エンジンの音は、巧みに消されていたので、耳に綿をつめなくてもよかった。それでも、なお、会話を妨げ、考えごとをするにちょうどいいくらいの、騒音であった。
旅客機が、海峡の方へ向けて、フランスの上空を飛んでいる時、乗客は、それぞれの考えに耽っていた。
ジェーン・グレイ嬢は、こう考えていた。
「あの人を見ないでいよう……見ないでいよう……見ない方がいいわ。窓の外をながめて、考えごとをしましょう。何か決めて、考えていた方がいいわ……いつだって、それが一番いい方法だわ。そうすれば、気持ちがしっかりするわ。もう一度、初めからのことを順々に思い出してみよう……」
それで、ジェーン嬢は、そもそもの始まりと、自分の思うこと、……あの競馬の馬券を買ったことに、記憶を戻した。それは贅沢にはちがいないが、いかにも興奮的な浪費であった。
ジェーン嬢と五人の若い娘たちが雇われているヘアサロンでは、それについて、からかうようなお喋りをしたり、大笑いをしたりしたものであった。
「もし、当選したら、あんた、どうするのよ」
「わかんないわ」
計画、空想……また、大いにひやかされた。
ところで、特賞……それは、莫大な金額であった……は得られなかったが、しかし、百ポンドは勝ち得たのであった。
百ポンド!
「あんた、半分つかいなさい、そして、あとの半分は、雨の日のために、とっときなさいよ。将来、何が起こるかわからないから」
「あたしだったら、毛皮のコートを買うな……上等のやつを……」
「遊覧船はどう?」
ジェーン嬢は『遊覧船』というのには、ちょっと心をひかれたが、結局、最初の考えに忠実であった。それは、ル・ピネで一週間を過ごす計画であった。店へ来る婦人たちはよく、ル・ピネへ行くところだったり、ル・ピネから帰ってくるところであった。ジェーン嬢は器用な指先で、ウェーブを撫でたり、巧みにあしらったりしながら、口先のおしゃべり……「この前にパーマをおかけ遊ばしてから、どのくらいお経ちでいらっしゃいましょうか?」とか、「なんて珍しい、お色でございましょうねえ、奥様のおぐしは……」とか、「素晴らしい夏をお過ごし遊ばしたんですのねえ、奥様」などといいながら、心の中で、私だってル・ピネへ行っていけないってことないわ、と思っていたのだったが、今こそ行ける時が来たのであった。
服装のことは、たいしてむずかしくはなかった。ジェーン嬢も、気のきいた店に勤めているたいていのロンドン娘に負けず、ごくわずかな費用で、驚くべき流行の効果をあげることを心得ているのであった。爪も、化粧も、髪も、難はないのだった。
ジェーン嬢は、ル・ピネへ行った。
今、その考えの中で、彼女は、ル・ピネでの十日間が、たった一つの出来事に縮小してしまうなんていうことがあり得るかしらと、思っていた。
ルーレットのテーブルでの出来事であった。ジェーン嬢は、毎晩、いくらかは賭博の快楽のために賭けることにしていた。その金額は、一定額を超えないように用心していた。ジェーン嬢の、初心者としての運は、予想に反して悪かった。それは、四度目の晩のことで、その晩の最後の賭けであった。それまでは、慎重に、色か十二の数の一つにだけ熱心に賭けていた。少しは勝ったが、負けの方が多かった。その時は、ちょっと、賭けないで待っていたのだった。
五と六には誰もかけてなかった。最後の試みとして、この二つの数の一つに賭けるべきであろうか? もし、そうとしたら、どっちの数に? 五か? 六か? どっちがいいか! 五……五が当りそうだ。ボールはまわり始めた。ジェーン嬢は手をのばした。六……六の上に置いた。
ちょうど同時に、彼女と彼女の相向いの客が賭けた……彼女は六に、彼は五に……。
「さあ、もういっぱいになりました」と、胴元がいった。
ボールはかちりと鳴って、とまった。
「五番、赤、奇数、外れ」
ジェーン嬢は、困って泣きそうになった。胴元は、賭け札を掃きよせて、払い戻した。反対側の男がいった。
「もうけをおとりにならないのですか?」
「私のですか?」
「そうです」
「でも、私、六にかけましたもの」
「違いますよ、僕が六にかけて、あなたは五におかけになったのですよ」
彼は微笑した。非常に魅惑的な微笑だった。大変日にやけた顔の白い歯、青い眼、ちじれた短い髪。
半ば信じかねて、ジェーン嬢は、その儲けをひろいあげた。真実かしら?……何だか、少し頭がこんぐらがってきた。あるいは、五のところに置いたかも知れない、訝《いぶか》りながらその人を見ると、その人は、気楽にほほえみ返した。
「そうやってほうっておきますと、権利のない人が盗ってしまいますよ、よくあることです」と、彼はいった。
それから、親しげに、ちょっと頭を下げて行ってしまった。ほんとにいい人だ、そうでもなければ、無理に自分と知己になろうとして、自分の儲けを彼女にとらしてくれたのかと思ったかも知れなかった。しかし、あの方は、そんな種類の人ではない。いい方だ……(そして、今、その人が、自分の真正面に坐っているのだ)……
さて、今は、すべてが終った……お金は使ってしまった……パリの最後の二日(失望するような日)が過ぎて、今、帰りの旅客機の切符を持って、家へ向うところなのだ。
「今度は何があるかしら?」
「やめなさい、次に起こることなど考えなさんな、ただ、いらいらするばかりだから……」
ジェーン嬢は、心の中でいうのだった。
二人の女性が話をやめた。
ジェーン嬢は通路の向う側を見た。ドレスデンの陶器のような夫人が、折れた指の爪を調べながら、気むずかしくぼやいていた。彼女は呼鈴を押して、白い上衣を着たスチュワードが現われると、言った。
「私の小間使を呼んでちょうだい、あっちの室におりますわ」
「かしこまりました、奥様」
スチュワードは、敬意をこめて、すばやく、活動的に、再び消えた。黒い服を着た、黒い髪の毛のフランス娘が現われた。女中は、小さい宝石のケースを持っていた。
ホービュリー伯爵夫人は、フランス語で、女中に向っていった。
「マドレーヌ、私の赤のモロッコ皮の箱がいるわ」
女中は、通路を通って行った。機内の最後部に、膝かけや旅行鞄などが積み重ねてあった。
娘は、小さい赤い化粧箱を持って戻って来た。
ホービュリー伯爵夫人は、それを受けとって、女中を去らせた。
「いいよ、マドレーヌ、ここへ置いていっておくれ」
女中は再び去った。ホービュリー伯爵夫人は、化粧箱をあけて、その美しく揃った内部から、爪やすりをとり出した。それから、長い間、熱心に、小さい鏡で顔をながめ、あちこちへ触って見た……少し、白粉をつけ、唇をもっと赤くした。
ジェーン嬢の唇は、軽蔑的にゆがんだ。その瞳は、機内をずっと見渡した。
二人の女性のうしろの席には、『名士』婦人に席をゆずった、あの小男がいた。不必要なマフラーをすっかり巻きつけて、熟睡している様子だった。ジェーン嬢の凝視に不安を感じたのか、その眼を開いて、ちょっとの間、彼女を見ていたが、また閉じてしまった。
その隣席には、圧倒的な顔付きをした、背の高い、灰色の髪の毛の男がいた。この人は、その前に、フルートのケースを開いて、いかにも愛玩するようにフルートをみがいていた。おかしいな、音楽家らしく見えないのに……どっちかと言えば、法律家か、医者のように見えるのに、と、ジェーン嬢は思った。
そのまた後ろの席には、二人のフランス人がいた。一人は顎髯があった。一人は、ずっと若かった……たぶん、その息子であろうか。二人は、興奮した様子で、話したり、身振りをしたりしていた。
ジェーン嬢の方の側のながめは、青いセーターを着た男によってさえぎられて見えなかった。ジェーン嬢は、馬鹿げた理由のために、どうしてもその男を見ようとはしなかったのだ。
「おかしいわ、すっかり興奮しちゃって、あたし、十七の娘みたい」とジェーン嬢は、苦々しく思った。
彼女に向いあった席では、ノーマン・ゲール氏がこう考えていたのだった。
「この人はきれいだ、ほんとにきれいだ……僕のことをよく覚えている。自分の賭けたものが掃き取られた時に、非常にがっかりしていたようだった。勝った時のあの人を見ている方が、ずっと価値がある。僕はうまくやった……微笑すると大変魅力的だな……歯槽膿漏《しそうのうろう》はないな……健康な歯ぐきと、立派な歯……何だか興奮してくる。しっかりしろ、ゲール……」
青年は、献立表を持ってそばに来たスチュワードに言った。
「僕はコールド・タング(冷牛舌)だ」
ホービュリー伯爵夫人はこう考えた。
「ほんとに、私、どうしたらいいかしら、困ってしまうわ……ほんとに困ってしまうわ。たった一つ道があるきりだわ。その勇気が私にあるかしら。私にできるかしら? やっつけてしまえるかしら? 私の神経は、粉々になってしまったわ。それはコカインのせいだわ。どうして、私、コカインなんか用いるようになったんだろう? 私の顔は、とってもひどくなったわ、とってもひどく。この猫みたいな、カーなんて女が、ここにいるから、余計いけないんだわ。この人、いつも私を、汚れ物みたいに見るんだわ。自分でスティーヴンが欲しいんだわ。得られなかったじゃないの? あの長い顔をみると神経に触るわ。馬みたいだわ。こんな田舎女、大嫌いだわ。どうしたらいいのかしら。決心しなけりゃならないわ。あの年とったあばずれ女は、いうとおりにするわ……」
夫人は、ハンドバッグに手を入れて、シガレットケースを取り出して、長いホルダーに、シガレットをさした。その手は軽くふるえていた。
ベネシア・カー嬢は思った。
「ひどい淫売婦! この人は、ほんとにそうだわ。技術的にはすぐれているかも知れないけれど、淫売婦に違いないわ。すっかりそうだわ。かあいそうなスティーヴン……この女を追い出せさえしたら……」
彼女も、シガレットケースをさぐって、ホービュリー伯爵夫人のマッチをかりた。
スチュワードがいった。
「失礼でございますが、奥様方、お煙草は禁じられております」
ホービュリー伯爵夫人は、
「畜生!」といった。
ポワロは考えていた。
「あの娘、あそこのあの小さい娘はきれいだ。あの頬には決断力が伺われる。いったい、何を困っているのだろう? なぜ、あの正面のきれいな青年を見まいとしているのかな。あの人は、青年を意識しすぎているし、青年も、そうだ」
ここで機が少し降下した。
「胸がわるい!」と、ポワロは思って、観念したように目を閉じた。
ポワロの傍のドクター・ブライアントは、神経質な手つきで、フルートをなでながら、思っていた。
「どうも、きめられない。どうしても決められない。これが、私の転換期だが……」
神経質に、そのケースから、フルートを出した。いかにも大事そうに、愛玩しているように……。音楽……音楽には、すべての苦労からの逃避がある。半ば微笑しながら、彼は唇にフルートをあてて、また下へ置いた。その傍の髭のある小男は眠っていた。機が少しゆれた時には、彼は、はっきり真っ青にみえた。ドクター・ブライアントは、自分自身は、汽車酔いも、船酔いも、飛行機酔いもしないのをよろこんだ。
アルマン・デュポン氏は、席で、興奮したように動いて、となりの、息子のジャン・デュポン氏に叫んだ。
「何の疑いもないよ、みんな間違っているんだ……ドイツ人も、アメリカ人も、英国人も! あの有史以前の日付を間違って計算しているんだよ。サマラの陶器にしてもだ!……」
わざと物うげな様子を装っている背の高い、金髪のジャン・デュポンが口をはさんだ。
「すべての源から証拠をあげなければいけませんよ。ハラフもあれば、グルーズもありますからね」
二人はながながと論議をはじめた。
デュポン氏は、使い古した手提かばんをねじあけた。
「このクルドのパイプの、この頃できたのを見てごらん、このかざりは、紀元前五千年の陶器とすっかり同じだ」
あんまり雄弁に身振りをしたので、スチュワードがその前に置いておいた皿を、なぎとばすところだった。
ミステリー作家のクランシー氏は、ノーマン・ゲール氏の後方の席から立ち上って、客室の最後部へ歩いていって、レインコートのポケットから、大陸鉄道旅行案内書を引き出してきて、作品中の人物のために、複雑なアリバイを作り始めた。
そのまた後方の席にいたライダー氏は、こう思った。「私は何とかして、終りまでもちこたえねばならん……が、それはあまり楽なことじゃない。次の配当金に対してどうして金を作っていいかわからん……配当金を出してしまうと後がおおごとだぞ……畜生!」
前の席にいたゲール氏が立って、トイレットにいった。彼が去ると、ジェーン嬢は、鏡を取り出して、心配そうに顔を見た。彼女も、白粉をはたき、唇をそめた。
スチュワードが、その前にコーヒーを置いていった。
ジェーン嬢は、窓から外を見た。下の方には、海峡が、青く光っていた。
ミステリー作家のクランシー氏の頭の囲りを、一匹の黄蜂が、ぶんぶんいってとびまわった。氏は、ちょうど、十九時五十五分の、ツァーリブロド駅のところを調べているところで、無意識に手で追った。黄蜂は、デュポン父子のコーヒー茶碗を探検しにとんでいった。
ジャンが、上手にそれを殺してしまった。再び平和になった。会話はとぎれたが、みんなはまた、考えにふけっていた。客室の端の右側の二号席で、マダム・ジゼルの頭が少し前の方へだらりと垂れた。人は眠っていると思ったかも知れなかった。しかし、眠っているのではなかった。話すことも、考えることもしなかった。
マダム・ジゼルは死んでいたのだ……
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発見された原地人の吹き矢
二人のスチュワードの年長者であるヘンリーが、テーブルからテーブルへと、請求書を持って廻っていた。もう三十分でクロイドン空港に着くのだ。彼は紙幣や銀貨をあつめて、「ありがとうございます、旦那様。ありがとうございます、奥様」と、おじぎを繰り返していた。二人のフランス人のところでは、少し待っていなければならなかった。二人は議論したり、身振りをするので忙しかった。この人たちからは、たいしたチップももらえないな、と思って彼は、わびしい気持ちになっていた、旅客の中の、二人は眠っていた……口髭を生やした小男と、端の方の老夫人とが……。あの女はチップをたくさんくれる人だが……何度か、乗って来られたのを覚えている……それで彼は、老夫人を起こすのを、遠慮したのだった。
口髭の小男は眼を覚まして、ソーダ水と、薄いビスケットの代を払った。この人はそれだけしかとらなかったのだ。
ヘンリーは、老夫人をできるだけ長く待っていた。クロイドンにつく五分くらい前に、その傍に立ってかがみこんだ。
「奥様、お勘定書でございますが……」
彼は敬意を表して、その肩の上に手を置いた。彼女は眼を覚まさなかった。それで、もう少し強く押し、静かにゆすぶった。が、その結果は、不意に、からだが、椅子の下にくずおれてしまったのだった。ヘンリーは、その上にかがみ込んで、それから、真っ青な顔をして、突っ立った。
二番スチュワードのアルバートがいった。
「え、ほんとかい?」
ヘンリーは青くなって震えていた。
「ほんとうなんだよ」
「ほんとに、確かかい、ヘンリー」
「そうなんだ、発作ゥも知れないよ」
「もうすぐに、クロイドンにつくところだ」
「あの夫人が、かげんが悪いだけなら……」
二人は、一二分、決心をつけかねていたが……やがて、どう行動すべきかをきめた。ヘンリーは後方の客室へ行った。そして、テーブルからテーブルへ行き、頭をさげて、そっとささやいた。
「あの、失礼でございますが、お医者様ではおいでなさいませんでしょうか……?」
ノーマン・ゲール氏がいった。
「僕は、歯医者だが、もし、僕に何かできることでもあれば……」
彼は、席から半分立ち上った。
「私は、医者だが、どうしたのだね?」と、ドクター・ブライアントがいった。
「あすこの隅のご夫人でございますが……ご様子が思わしくないので……」
ドクター・ブライアントは立ちあがって、スチュワードについて行った。口髭の小男も人目に立たずについて行った。
ドクター・ブライアントは、二号席の、くずおれた身体の上にかがみこんだ。それは、真っ黒な着物を着た、中年の、肥った女性の姿であった。
医師の診察は簡単であった。
「死んでいる」と、彼はいった。
ヘンリーはいった。
「何だとお思いになりますか……一種の発作でしょうか?」
「それは、精密に検査をしてみなければ、何ともいえない。君が最後に彼女を見たのはいつだね……というのは、生きているところだがね……」
ヘンリーは考えた。
「私がコーヒーを持って来た時は、何でもありませんでした」
「いつだね、それは?」
「そうでございますね、四十分くらい前でございましたでしょうか? それから、勘定書を持ってまいりました時は、寝ておいでだと思ったのです」
「死後少なくも三十分は経過している」
二人の会話は、一同に興味を起こさせた……人々の顔が、二人を見ようとして伸びあがり、首は、話を聞こうとして、前の方へのばされた。
「何か、発作みたいなものだろうと思いますが?」と、ヘンリーは、希望をもって申し出た。
彼は、発作ということに執着していた。彼の妻の姉も、発作を起こしたのだった。発作というのが、誰にでも理解できる、ありふれたことであった。
ドクター・ブライアントは、言質《げんち》を与えるのは厭《いや》だった。ただ、困惑したような表情で首を振るばかりであった。
肘のところで人の声がした。口髭のある、マフラーをまきつけた人の声だった。
「その首のところに、傷がございます」と、その人はいった。
その人には、自分より優れた知識を持った人に話す、というような、遠慮深さがあった。
「さよう」と、ドクター・ブライアントがいった。
夫人の頭は、一方に傾いていた。咽喉の側面に、微細な、刺したようなあとがあった。
「失礼ですが……」
二人のデュポン氏が寄って来た。二人は、あとのほうの会話を聞いていたのだった。
「ご夫人は死んでおられるというのですか、そして、首に刺した傷があるのですか?」
話しているのは、若い方のデュポン氏であった。
「ちょっと口添えをしてもよろしいでしょうか? 黄蜂が一匹、とんでおりましたが、僕が殺したのです」といって、コーヒーの受け皿の中の、蜂の死骸を見せて、
「このお気の毒な夫人は、黄蜂に刺されてなくなられたのではないでしょうか? そういうことの起こったのを聞いたことがありますが……」といった。
「そういうこともあり得ますな」と、ドクター・ブライアントも賛成して、
「そのような例は、私も知っております。心臓病の徴候でもあるような場合は、特に、あり得べき説明です……」といった。
「どうしたら、一番良いでしょうか。もうすぐ、クロイドンに着きますが?」と、スチュワードが尋ねた。
医師は、少し傍へよって、
「そのとおり、そのとおり。別に、何もすることはない、その……死体は動かしてはならない」
「はい旦那様、心得ております」
ドクター・ブライアントは、席へもどろうとして、まだ、そこに立っていた、マフラーを首に巻きつけた外国人を見て、少々驚いたのだった。
「一番よいことは、自分の席に帰ることだ。もうすぐ、クロイドンに着くのだから」
「さようでございますよ、旦那様。どうぞ、皆様、お席にお着き下さい」と、スチュワードは少し声を高くした。
「失礼、そこに何か……」と、小男はいった。
「何か、ですって?」
「そうです、何か、見落とされたものがあります」
そして、先のとがった、革靴の先で、それをあきらかにした。スチュワードも、医師も、その眼で、靴先の動きに注意した。黒いスカートの裾《すそ》で半ばかくされた、黄色と黒のものが、ちらと見えた。
「蜂がもう一匹いたのかな」と、医師は驚いていった。
エルキュール・ポワロは、膝をついた。彼は、ポケットから、小さいピンセットを取り出して、それを巧みに用いた。そして、その獲物をつまんで立ち上った。
「そうです、黄蜂に非常に似ておりますが、黄蜂ではありません!」といって、その物を、あちこち返してみせたので、医師も、スチュワードも、はっきり見ることができた。それは、毛ばを立てた、絹のオレンジ色と黒のもので、先が色の変っている、妙な、長いとげのようなものについているものだった。
「これはまあ、これはまあ!」という叫び声が、小男のクランシー氏から発せられたのだった。
クランシー氏は、自分の席を離れて、一生懸命、スチュワードの肩越しに、のぞき込もうとして、頭をつき出していたのだった。
「驚くべきことだ、まったく驚くべきことです、生涯に出くわしたことのないほど! ほんとに、信じられもしないことですよ!」
「もう少し、はっきりさせて下さいませんか? これが何だかおわかりになりますか」と、スチュワードがいった。
「何かわかるかって? 確かにわかりますよ」と、クランシー氏は、熱情的な誇りと喜悦にみたされていった。
「皆さん、これは、ある種族……今、それが、南アメリカの種族だったか、ボルネオの住民だったか、はっきりしませんが、ともかく、ある種族によって用いられる吹き矢筒から発せられた、原地人の針であります。吹き矢筒に用いるための、原地人の吹き矢であることに間違いはありません。そして、確かに、その先には……」
「南アメリカインディアンの、有名な矢毒がついております」と、ポワロが結末をつけた。そして、「しかし、……そんなことがあり得るでしょうかな?」とつけたした。
「確かに、ひどく珍しいことですな」と、クランシー氏は、なおも、非常に満足していって、
「私のいうとおり、まったく珍しいものです。私自身は、ミステリーの作者ですが、こんなに、現実の生活に……」
クランシー氏の言葉は出なくなった。
旅客機は、ゆっくり傾いた。そして、立っていた人々は、少しよろめいた。機は、クロイドン空港に降下するために旋回していた。
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兇器はポワロの席に
スチュワードや医者は、もはや、この場の担当者ではなかった。今は、マフラーを巻いた、小さい、妙な男がその位置を奪っていた。彼は、誰も質問することなく服従するような、権威と正確さをもって話すのであった。
ポワロが何かささやくと、ヘンリーはうなずいて、旅客の中をかきわけながら、トイレットの前を通って、前方の客室の出入口に立ちふさがっていた。
機は、今、地面に沿って走っていた。ついに停止した時、ヘンリーが声を上げていった。
「皆様方、当局の方々がお見えになって、事件がその方々の手に渡りますまで、お席におつきになったままでいらして下さい。そんなに長くはかからないことと思います」
この合理的な命令は、ほとんどの客によって承認されたが、一人だけは、するどい声で抗議した。
「ばかばかしいわ」と、ホービュリー伯爵夫人は怒って叫んだ。
「私が誰かわからないんですの? すぐ出して頂きたいわ」
「大変お気の毒に存じますが、奥様、例外をみとめる訳にはまいりません」
「だけど、ばかげているわ、まったくばかげているわ。私、会社に通告しますわ。こんな死体と一緒に閉じこめられるなんて、あんまりひどいわ」と、夫人は、足をふみならして怒っていた。
カー嬢は、教養のある、ものうげな様子で、
「あなた、たしかに、人権蹂躙ですけど、ここは我慢しなければ」といって、坐りなおして、シガレットケースを引き出していった。
「もう、煙草すってもいいんでしょう、スチュワード?」
弱り切ったヘンリーがいった。
「もうかまわないと存じます、お嬢様」
彼は肩越しにみた。アルバートが、前方の客室の旅客を非常口から出して、命令を受けに出て行ったのを見た。
待つ時間は長いものではなかったが、旅客にとっては、平服の軍人らしい人が、制服を着た巡査を伴って、急いで飛行場を横ぎって、ヘンリーが戸をあけて待っていた出入口から入って来るまでには、三十分も経ったような気がしたのであった。
「それで、一体、どうしたのか?」
新来者は、きびきびした、官吏口調でいった。
彼は、ヘンリーのいうことをまず聞き、それから、ドクター・ブライアントの言葉に耳を傾けた後、ちらと、死んだ夫人の、くずおれた姿を見た。
巡査に命令を下してから、旅客に呼びかけた。
「皆さん、どうぞ私についておいで下さい」
彼は、一同を、飛行機から導き出して、飛行場を横切って、普通の旅客室に入らずに、小さい私室に案内した。
「皆さん、必要以上には、お引きとめいたさないつもりでおります」
「ね、警部さん、私は、ロンドンに、大切な仕事を持っているのです」と、ジェームズ・ライダー氏がいった。
「お気の毒に存じます」
「私、ホービュリー伯爵夫人ですわ。私、こんな風に、とめて置かれるなんて、ほんとに、ひどいことだと思いますわ」
「誠にお気の毒に存じます、ホービュリー夫人。しかし、これは重大な事件です。どうも殺人事件のように思われます」
「南アメリカインディアン」と、クランシー氏は、楽しそうな微笑を浮かべて、うわごとのようにつぶやいた。
警部はうさんくさそうに、彼をみつめた。
フランスの考古学者は、フランス語で、興奮して話し、警部は、ゆっくりと、注意して、同じ言葉で答えていた。
カー嬢はいった。
「まったく退屈ですけど、あなただってお役目でいらっしゃいますものね、警部さん」
これに対して、警部は、
「ありがとうございます、お嬢様」と、ありがたそうに答えるのだった。そして、また言いつづけた。
「皆さんが、ここでお待ち下さいましたら、一言、ええと、ええと、ドクター……」
「私の名は、ブライアントです」
「ありがとうございます、ドクター、こちらへおいで頂きたいのです」
「私も、その会見をおたすけしてよろしいですかな?」といったのは、口髭の小男であった。
警部は怪しからんというような表情を唇に浮かべて、その方へ向いた。が、急に、その顔は変った。
「こりゃあ、すみませんでしたな、ポワロさん。あんまり、巻きつけておいでなんで、お見それしたですよ。どうぞ、おいでなすって」
警部は、戸を開けて待っていた。ドクター・ブライアントとポワロが、みんなの疑惑の眼に送られて出ていった。
「どうして、あの男が出てゆかれて、私達はここにいなくちゃならないのでしょう?」と、ホービュリー伯爵夫人が叫んだ。
カー嬢は、あきらめて、ベンチの上に腰を下ろした。
「たぶん、フランス警察の人でしょう。さもなければ、税関のスパイでしょう!」と、彼女はいった。
カー嬢は、煙草に火をつけた。
ゲールは、遠慮勝ちに、ジェーンに話しかけた。
「あの、ル・ピネでお目にかかりましたね」
「私、ル・ピネにおりましたわ」
「あそこは、非常に魅力的なところですね。あの、松の木がいいですね」と、ゲールがいった。
「そうですわね。匂いがようございますわ」
それから、二人は、何といっていいかわからなくて、一二分間だまっていた。
「僕……僕、飛行機の上で、あなたがすぐわかりましたよ」と、とうとう、ゲールがいった。
ジェーンは、非常に驚いたようにいった。
「さようですか」
「あの女は、ほんとに殺されたのですかね」と、ゲールがいった。
「そうらしゅうございますわ。ちょっとスリルがありますけど、いやですわねえ」といって、ジェーンは、少し震えた。ゲールは、保護するように、少し近よった。
デュポン氏親子は、フランス語で話していた。ライダー氏は、小さいノートを出して計算をしていたが、時々、時計を見ていた。ホービュリー伯爵夫人は、いらいらして、足先で床を蹴っていた。そして、震える手で、巻煙草に火をつけた。
ドアの内側には、大柄な、青い服の、無感覚に見える巡査が立っていた。
近くの室では、ジャップ警部と、ドクター・ブライアントと、ポワロとが話していた。
「ポワロさん、あなたは、よく、思いがけないところに現われるくせがありますなあ」
「クロイドン空港は、あなたにも、ちと場違いではありませんか」
「私はね、密輸のほうの大物を追跡中なんですよ。それで運よく、ここにいあわせたって訳でさあ。これは、何年にも、出くわさなかった驚くべき事件ですよ。さあ、やり始めますかな。まず第一に、博士、あなたから、お名前と住所を言って頂きましょう」
「ロジャー・ジェームズ・ブライアント。私は、耳鼻咽喉科の専門医です。番地は、ハーレー街三百二十九です」
鈍重な巡査が、テーブルにむかって、委細を記録していた。
「警察の医師が、もちろん、検屍はするですが、審問の時は、立ち会っていただきたいのです、ドクター」と、ジャップ警部がいった。
「承知しました」
「死亡の時間についてのお考えは?」
「私がしらべました時に、少なくも三十分は経過していました。それは、クロイドン到着の数分前でした。それ以上はよくわかりません。が、スチュワードが、約一時間前に話しをしたと、言っていました」
「そうですか。それで、大分、実際には、時間が限られてきたですな。何か怪しいものを見たかどうかなんて、伺っても、無駄でしょうな」
医師は首をふった。
ポワロは、残念そうにいった。
「そして、私は眠っていたのです。私は、海の上と同じように、空でも、気持が悪いのです。それで、いつもマフラーで顔を包んで、眠るようにするのです」
「死の原因について何か心あたりがありますか、ドクター?」
「今のところ、あまりはっきりしたことは言いたくないのです。これは、解剖の上の調査を要する事項です」
ジャップ警部は、理解したようにうなずいた。
「それでは、ドクター、これで、もうおとめすることはないと思いますな。しかし、形式は一応ふんでもらわにゃならんです。旅客には、皆、そうしてもらいますので。例外を作るわけにはいかんですからな」
ドクター・ブライアントは微笑した。
「私が、どこにも、吹き矢筒だとか、ほかの兇器を隠匿《いんとく》していないことを確かめて頂くほうがいいですね」と、博士は真剣にいった。
ジャップ警部は、部下に向って合図した。
「そこにいるロジャースが、そのことは調べます。ところで博士、その先についているのがどんな種類のものか、見当がおつきですか」
ジャップ警部は、前のテーブルの上の、小箱に入っている、色の変わった針を示した。
ドクター・ブライアントは首をふった。
「分析しないでは、はっきりいうのは困難です。マチン毒が、普通、原地人によって用いられる毒物ですがね」
「それがあんな風に人殺しをするですか」
「それは、非常に速やかに利く毒物です」
「しかし、なかなか得難いでしょう?」
「素人には、たやすくは得られませんな」
「それならば、余計注意深く、あなたを検べにゃならんわけですな! ロジャース!」と、冗談好きのジャップ警部はいった。
医師と巡査は一緒に出ていった。
ジャップ警部は、椅子を引いて、ポワロを見た。
「これは変な事件ですな。あんまり人騒がせで、ほんとうでないような。飛行機の中の吹き矢筒とか、毒矢だとか……人の知能を小ばかにしているですよ」
「それは、大変に含蓄のある言葉ですね」と、ポワロがいった。
「部下が二人ほど、機内を調査していますし、足跡を調べるものや、写真班も来ることになっておるです。今度は、スチュワードを調べた方がいいと思いますな」といって、ジャップ警部は、戸口のところへいって、命令を下した。スチュワードが二人、入って来た。若い方のスチュワードは、ようやく平静を取りもどしたようであった。すっかり興奮している様子であったもう一人は、恐怖のためにまだ青い顔をしていた。
「大丈夫だよ、君たち、そこへ坐りたまえ。旅券をみんな持ってきたかね? よし」
ジャップ警部は、素早くそれらの旅券に目を通した。
「さあ、これだ。マリー・モリソー……フランスのパスポートだな。何か、この女のことを知っているかね?」
「前に見たことがあります。たびたび、英国との間を往復していました」と、ヘンリーがいった。
「ああ、何か仕事をしているな。仕事が何だか知っているかね?」
ヘンリーは首をふった。
若い方のスチュワードがいった。
「私も覚えています。早朝の……八時のパリからのに乗っていました」
「二人の内のどちらが、生きていた最後に会ったのだね?」
「この人です」と、若い方のが仲間を指した。
「そうです。それは、コーヒーを持っていった時のことです」と、ヘンリーがいった。
「その時、どんな様子だったかね?」
「別に気がつきませんでした。私はただ、砂糖とミルクをおすすめに参っただけでした。それはいらないと言われました」
「それは、いつだったね?」
「そうですね、はっきりは申されません。もうその頃は、海峡は越えておりました。大方、二時くらいだったかもわかりません」
「その頃です」と、もう一人のスチュワードのアルバートがいった。
「その次に見たのはいつだった?」
「勘定書を持ってまわった時でした」
「それはいつだったかね?」
「前の時から十五分くらいあとだったでしょう。眠っておいでになると思ったのです……だが、その時はもう死んでおられたに違いなかったのです!」
スチュワードの声は、怖れているようであった。
「これには、少しも気付かなかったのかね?」といって、ジャップ警部は、黄蜂のような吹き矢を見せた。
「気付きませんでした」
「君の方は? アルバート君」
「最後に私がお見かけしましたのは、ビスケットとチーズをお渡しした時でした。その時は、何でもありませんでした」
「君たちの食事を出す時のやり方は、どうなっているんだね? 二人は、違う客室で、別々にしているのかね?」と、ポワロが尋ねた。
「いいえ、旦那様、私達は、一緒にやっているのです。スープ、それから、肉と野菜とサラダ、それから食後のプディングというように。たいてい、後方の客室を先にして、それから、新しい皿を持って、前方の客室にゆくのです」
ポワロはうなずいた。
ジャップ警部は、
「このモリソーって女は、飛行機の中で、誰かと話していたかな。また、知り合いでもあった様子はなかったかな?」と尋ねた。
「私の気のついたところでは、そんなことはありませんでした」
「君は? アルバート君」
「ありませんでした」
「旅行の間、席を離れなかったかね?」
「離れなかったと思います」
「何か、この事件に助けになるようなことはないかな……二人とも?」
二人の男は考えてから、首を横にふった。
「それでは、今のところ、これでよかろう。また、後で会おう」
「厭なことが起こったものです。私が、まあ言わば、責任があるようなので、非常に困るのです」と、ヘンリーは真面目に言うのであった。
「しかし、別に、君がせめられるべきではないよ。だが、厭なことが起こったな」と、ジャップ警部もいった。
彼は、出て行っていいと合図した。ポワロが進み出た。
「一つ質問させて下さい」
「どうぞやって下さい、ポワロさん」
「二人のどちらか、飛行機の中で、黄蜂が飛びまわっているのに気がつきましたか」
二人とも首をふった。
「黄蜂などはいませんでした」と、ヘンリーがいった。
「黄蜂はいたのです。旅客の一人の皿の上に死骸がのっていたのです」と、ポワロがいった。
「では、私が気がつかなかったのです」と、ヘンリーがいった。
「私も気づきませんでした」と、アルバートがいった。
「けっこうでした」
二人のスチュワードは、室を去った。ジャップ警部は、素早くパスポートを見ていた。
「伯爵夫人が一人のっていますな」と、ジャップ警部は、
「この人がいばりちらしている人ですな。怒って、議会で、警察の残酷なる方法などを問題にされてはやりきれないから、一番始めにやりましょうな」といった。
「後方の車室の旅客荷物……手荷物を、注意深くお調べになることでしょうな?」
ジャップ警部は愉快そうに、眼をぱちぱちさせた。
「では、ポワロさん、どう思われるのですか? 吹き矢筒を発見しなければなりません……我々が夢を見ているのではなくて、現実に吹き矢筒があるかどうかをですな。何だか、悪夢みたいな気持がするですよ。あの小さい作家さんが、急に仮面をぬいで、紙の上でなく、肉の上で罪を犯してみようと思ったんですかね? この毒の矢の場合は、あいつらしいですよ」
ポワロは疑い深く首をふった。
ジャップ警部は続けた。
「そうですよ、誰でも調べられなければならんですよ。あばれようがどうしようが、持ちもののトランクも、完全に調べ上げにゃならん……そうですとも」
「非常に正確なリストを作らなければなりません。人々の所持品全部のリストを……」と、ポワロが申し出た。
ジャップ警部は、珍しそうに、ポワロを見ていた。
「あなたが、そう言われるんだったら、それもできます。ポワロさん、私には、あなたのしようとしておられることがよくわからんですがね。我々は、我々の探すものがわかっているのです」
「あなた方はわかっておいででしょうが、私は、まだ、あまりはっきりしておりませんのでね。……私は何かを求めているのですが、その探しているのが何だか、わからないのです」
「またですか、ポワロさん? あなたは、何でも、むつかしく考えるのが好きなんですなあ。さて、あの奥方が、私の眼でも、ひっかき遊ばさないうちに、早くいたしますかな」
ホービュリー伯爵夫人は、しかし、目立って冷静になっていた。警部のすすめた椅子にかけて、少しもためらわずに、その質問に答えるのだった。自分は、ホービュリー伯爵の夫人であるというのだった。そして、その住所は、サセックスのホービュリー狩猟場と、ロンドンのグロヴナー街三百十五番だといった。ル・ピネからパリに廻っての帰りである。亡くなった夫人は、全然知らない人だ。飛行機の中では、何にも疑わしいものに気付かなかった。ともかく、反対の方向に向いていたので……飛行機の前方に向いていたので、背後で起こった事柄を見る機会がなかったと言った。旅の間中、一度も席を立たなかった。自分の知っているかぎりでは、スチュワードは例外として、誰も、前の客室から後方の客室へ来たものはなかった。はっきりは覚えていないが、旅客のうち二人くらいは、トイレットに立ったと思う。しかし、それもはっきりとは言えない。吹き矢筒のような物を持っている人には気付かなかった。いいえ(ポワロに答えた)客室の中に、黄蜂などいたのには気がつかなかった。……
ホービュリー伯爵夫人は帰された。その後に、カー嬢が入って来た。
カー嬢の証言も、友人のと似たりよったりであった。名前は、ベネシア・アン・カー。住所は、サセックス、ホービュリー、リトルパドックス。南フランスからの帰途。前に故人に会ったことはないと思う。旅の間、別にあやしいと思うものは見なかった。向うの方の人が黄蜂を打っているのを見た。その中の一人が、それを殺したように思う。それは、昼食が出たあとだった。……
カー嬢退場。
「あなたは、どうも、大分、黄蜂に興味がおありのようですな、ポワロさん?」
「黄蜂は、興味があるというより、暗示的ですね、え?」
ジャップ警部が問題をかえて、
「この事件には、この二人のフランス人が入っていますな。ちょうど、モリソーって女の通路の向う側ですからな。不快な顔付の人達で、古いぼろなスーツケースには、外国のホテルの札がたくさんはってありましたよ。ボルネオや南米に行ったことがあると言っても不思議じゃないですよ。もちろん、動機ということでは、何も得られないが、それは、パリで調べれば判るでしょう。もちろん、フランス警察に協力してもらわにゃなりません。これは、我々の方よりむしろ、あちらの仕事ですな。あの無頼漢は、我々の獲物ですよ」
ポワロの眼は、少しいたずらそうにきらめいた。
「おっしゃることは、あるいは、あり得るかも知れませんが、あなたのお考えのある点に関しては、間違っておりますよ。あの二人は、無頼漢ではありませんよ……また、お申し出のように、強盗でもありませんよ。それどころか、二人は、非常に有名な、博識の考古学者ですよ!」
「何ですって……ひやかしているんでしょう?」
「どういたしまして、見ただけでよくわかるのです。あの人達は、アルマン・デュポンとその子息、ジャン・デュポンですよ。あの人たちは、ペルシャの、スーサからあまり遠くない場所で、非常に面白い発掘作業をして、帰って間もないのですよ」
「なんてこった!」
ジャップ警部は、パスポートをつかんだ。
「確かにおっしゃるとおりですよ、ポワロさん。しかし、あんまりたいした人には見えませんね。そうでしょう?」と、彼はいった。
「世界的に有名な人というものは、めったにたいしたものに見えないものです。私自身も……理髪屋さんと間違えられましたからね!」
「ほんとですか」と、ジャップ警部は、歯をむき出して笑った。「さあ、今度は、その有名な考古学者に会いましょうな」
父親のデュポン氏は、故人は、全然知らない人だといった。自分は、非常に興味のある問題について、息子と議論を戦わしていたので、旅行中に起こったことは何にも気付かなかった。席も離れなかった。昼食の終り頃に、黄蜂がいるのに気がついた。息子が殺したのだった。……
ジャン・デュポン氏が、父の証言を確認した。自分の囲りに起こったことには、何にも気付かなかった。黄蜂が気になったので、殺してしまった。話題は何であったか? 近東の有史以前の陶器についてであった。……
次に現われたクランシー氏は、少しえらい目にあった。クランシー氏は、吹き矢筒とか、毒矢とかいうものを、くわしく知り過ぎる、と、ジャップ警部が思ったのだった。
「あなた自身、吹き矢筒を持っておられたことがあるですか」
「そうです……私は……そうですね、あることはありますがね」
「そうですか!」と、ジャップ警部は、その供述にとびついた。
小柄なクランシー氏は、あわてて細い声を立てた。
「誤解されては困ります。私の理由は、全然、罪のないものです。説明いたし……」
「さようですな、ご説明を願いましょうかな?」
「私は、そういうように殺人が行われている本を、ちょうど書いていたものですから……」
「そうですか」と、また、おどかすような調子があった。
クランシー氏は急いでつけ加えた。
「指紋のことについてだったのです……おわかりでしょうか。私の書こうと思うことを説明する挿し絵がほしかったのです……指紋ですよ……指紋の位置が……吹き矢筒の上の指紋の位置が知りたかったのです……おわかり頂けますかな……そして、そういうものをチャリングクロス街でみたので……少なくも、二年前のことですが……そこで、吹き矢筒を買ったのです。友人の画家が、指紋のついた挿し絵を親切に描いてくれたのです……要点を説明するものを。その本を提出することができますよ……『紅《べに》はなびらの手がかり』というのです……また、その友人もお引き合わせできます」
「その吹き矢筒をとっておきましたか」
「そりゃあ、おきましたよ……そうだったと思います……そうですね。とっておきましたね、たしか……」
「それは、どこにありますか」
「そうですね、たぶん……どこかにあるでしょう」
「どこかに?……とは、どういうことですか、クランシーさん?」
「というのは……そうですね……どこか……ちょっとわからないのです。私は……私は、あんまりきちんとした人間ではないので」
「今は持っておいでにはならないのでしょうな?」
「もちろんですよ。さあ、もう、かれこれ半年も見ません」
ジャップ警部は、疑わしそうに彼を見て、質問をつづけた。
「あなたは、飛行機の中で、席を立ちましたか」
「いや、とんでもない……少なくとも……ああそうでした。一度立ちました」
「おお、立ったのですか、そうですか。どこへ行ったのですか」
「レインコートのポケットに入っていた、大陸の鉄道旅行案内を取りに行きました。レインコートは、隅の出入口の傍に、膝かけやスーツケースなどと一緒に、つみかさねてありました」
「では、故人の席の、すぐ傍を通りましたな?」
「いや……少なくとも……そうですね、通ったかも知れませんな。しかし、それは、何事も起こらなかった……ずっと前のことでしたよ。ちょうど、スープをのんだところでしたから……」
それ以上の質問の答えは、否定だった。クランシー氏は、別に何も怪しいものは見なかった。自分のヨーロッパ横断のアリバイを完全にするために、夢中になっていた。
「アリバイですって? ええ?」と、ジャップ警部は、疑わしく言った。
ポワロが、傍から、黄蜂の質問を出した。そうだ。クランシー氏は黄蜂に気がついていた。蜂は、自分を攻撃して来た。自分は、蜂が恐ろしかった。それは、いつだったろう? ちょうど、スチュワードが、コーヒーを持って来た時だった。自分はそれを追い払った。そしたら、飛んでいってしまった。
クランシー氏の名前と住所が尋ねられた。そして、立ち去ることがゆるされたが、それでやっと、安心したようにみえた。
「少し怪しいように思われますな。吹き矢筒も持っていたというし、あの態度をごらんなさい。しどろもどろですよ」
「あなたが、あんまり警官らしく、むずかしくかまえていたからですよ、ジャップさん」
「真実を語っているものには、怖れるものは何もないはずですよ」と、警視庁のこの男は、厳格にいった。
ポワロは、あわれむように彼を見た。
「まったく、あなたご自身は、正直にそれを信じていらっしゃるようですね」
「もちろん、信じていますよ。真実ですからな。さて、今度は、ノーマン・ゲールにしましょうか」
ノーマン・ゲール氏は、マスウェル丘の、シェパード大通りの十四番と、住所を述べた。職業は歯科医。フランス海岸の、ル・ピネでの休暇の帰り道だった。一日、パリで、いろいろな最新の歯科機具をみてきたのであった。
故人に会ったことはなく、客室でもあやしいものを見なかった。ともかく、自分は、反対の方を向いていた。前方の客室の方を……。トイレットへゆくために、一度、座席を立った。真っ直ぐに自分の席へ帰ったので、後部へは近よらなかった。蜂のいたのには、少しも気付かなかった。……
その次には、ジェームズ・ライダー氏がやって来た。少々、おかんむりで、ぶっきらぼうだった。自分はパリに用件で行った帰り道だ。故人は知らない。たしかに、そのすぐ前の席にいたことはいた。だが、立ち上るか、席の背の上からのぞかなければ、見ることができない。音も……叫び声も、何も聞かなかった。スチュワードのほかは、誰も、その方へは来なかった。自分の席の、すぐ通路の向う側には、二人のフランス人がいた。二人はその間中しゃべっていた。若い人が、食事の終り頃に黄蜂を殺した。いや、その前には、蜂に気がつかなかった。吹き矢筒というものはどんなものか知らない。見たことがないから……。それゆえ、旅行中に見たかどうかもわからない……
ちょうどこの時、ドアにノックが聞こえた。巡査が、態度に勝利をひめて、入って来た。
「巡査部長がこれを発見しました。すぐごらんになりたいと思って……」
彼は、獲物を、テーブルにのせた。注意深く、包んであるハンケチの中から、それを出した。
「部長の知ってるかぎりでは、指紋はありません。しかし、注意するようにと言われるので」
示されたものは、疑いもなく、原地人の製作した吹き矢筒であった。
ジャップ警部はするどく息を引いた。
「これは! ではほんとうだな! どうしても信じられなかった!」
ライダー氏は、興味深そうにのり出した。
「では、これが、南アメリカで用いられているものですか? そんなものは読んだことはあるが、見たことはありませんでした。さあ、こんどは答えられます。こういうタイプのものを持っている人は見ませんでした」
「どこで発見したのかね?」と、ジャップ警部がするどく尋ねた。
「一つの席の背後に、見えないように押し込んでありました」
「どの席だ?」
「九号です」
「大そう面白うございますね」と、ポワロがいった。
ジャップ警部がその方へ向いた。
「どうして面白いのですか」
「その九号というのは、私の席だからです」
「そりゃあ少し、あなたにとって、おかしなことになりましたな」と、ライダー氏がいった。
ジャップ警部は顔をしかめた。
「ありがとうございました、ライダーさん。これで結構です」
ライダー氏が行ってしまうと、ジャップ警部は、歯をむき出して笑いながら、ポワロの方へ向いた。
「あんたのやった仕事ですか、え?」
ポワロは威厳をもって答えた。
「私が殺人を行うとしたら、南米インディアンの毒矢ではやりません」
「少し、低級ではありますな。しかし、目的は達しましたな」と、ジャップ警部も賛成した。
「それだから、ひどく考えさせられるのです」
「誰かわからないが、非常に途方もない危険を覚悟でやったものに違いないです。そうだ、確かにそうだ、そいつは、完全な狂人に違いない。あとに誰が残っているかな? 娘がたった一人、呼んですましてしまおう。ジェーン・グレイ……何だか歴史の本みたいな響きだな」
「綺麗な娘ですよ」と、ポワロがいった。
「そうですか。じゃあ、あなたは、ずっと眠っていたわけじゃないですな?」
「綺麗で……神経質になっていましたよ」と、ポワロがいった。
「神経質ですと?」と、ジャップ警部は、活気づいていった。
「そりゃあ、君、青年が傍にいれば、女の子はいつだって神経質になりますよ。犯罪ではありませんよ」
「そうかも知れませんね。さあ、来ました」
ジェーン嬢は、質問されたことを、はっきりと答えた。名前は、ジェーン・グレイ。ブルトン街のアントワンのヘアサロンに雇われている。家の番地は、ロンドン北西五区のハロゲイト通り十番地。ル・ピネからイギリスに帰るところだといった。
「ル・ピネ……ふむ!」
だんだん聞いているうちに、競馬の馬券のことが出てきた。
「このアイルランド競馬の馬券なんてものは、不法とされなくてはならない」と、ジャップ警部はうなった。
「私は、すばらしいと思いますわ。あなただって、馬に半クラウンおかけになったことございません?」と、ジェーン嬢がいった。
ジャップ警部は赤面して、困った様子だった。
質問は続けられた。吹き矢筒が見せられた。ジェーン嬢は見なかったといった。故人は知ってはいないが、ル・ブールジェでみかけたことはある、といった。
「どうして、特に気がついたのですか?」
「だって、とてもみっともない顔でしたもの」と、ジェーン嬢は、正直に申しのべた。
ほかに価値のあることは何も、彼女から引き出すことができなかったので、退出をゆるされたのであった。
ジャップ警部は、吹き矢筒を夢中になって調べていた。
「最も粗雑なミステリーの巧妙な道具が、予期以上に巧くいったんだと思いますな。今は、何を探せばいいか? これは、世界のその地方を旅行した人から出ておるんですな。それは、はっきり言って、どこから出て来ているのか? それを知るには、その道の専門家が必要ですな。マレー人か、あるいは南米人か、またはアフリカ人か……」
「元来はね。しかし、よく注意してごらんになると、この吹き矢筒には、顕微鏡的な紙片がはってあります。これは価格を示したものの残りのように思われます。この特別の見本は、はるばる原野から、骨董品店を経てやって来たのだと思われます。これで、調査が容易になることでしょう。もう一つ、ちょっとした質問がしたいのです」
「きいて下さい」
「あのリスト……旅客の手廻り品のリストができるでしょうね?」
「そうですな。それは今のところ、たいして重大なものでもありませんが、やってもいいでしょう。そんなに、そのことにご執心ですかい?」
「そうなのです。困ったことがあるのです。迷うようなことが。……少しでも助けになるものがあれば……」
ジャップ警部は聞いていなかった。一生懸命に価格の紙の切れはしを調べていた。
「クランシーは、吹き矢筒を買ったと言った。ミステリー作家というものは……いつでも警察をばかにしている……そして、その手順を狂わしている。小説の中の警部が警視に向かって言うようなことを、私が上役に言いでもしたら、警察から追い出されてしまう。わかりもしないで、何でも書きやがって。こりゃあたしかに、わからないことを書くような奴らが、考えつきそうな、ばかばかしい殺人だ!」
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証拠不十分である
マリー・モリソー事件の審問は四日後に行われた。その人気をあおるような死に方が、公衆の興味を引き起こして、検死官会議の法廷には、群集が殺到した。
最初の証人は、背の高い、老年の、灰色の顎髯《あごひげ》のある、アレグザンダー・チボー弁護士であった。この人は、英語をゆっくり、はっきりと、少しなまりはあったが、慣用語的に話した。
準備質問のあとで、検死官が尋ねた。
「あなたは、故人の死体を見られましたね。承認なさいますか」
「いたします。あれは、私の依頼人の、マリー・アンジェリック・モリソーです」
「それは、故人のパスポートの名前ですが、一般にはもう一つの名前で知られていましたか」
「そうです。通称マダム・ジゼルで知られていました」
興奮のさざめきが起こった。報道陣は、鉛筆を傾けて待ち構えた。検死官は言った。
「このモリソー夫人……または、マダム・ジゼルが、はっきり誰だか話して下さいませんか」
「マダム・ジゼルは……職業上の名前を用いますと……パリで最もよく知られた金貸しの一人でありました」
「商売は、どこでやっていたのですか」
「ジョリエット街三番地です。そこが住居でもあります」
「英国に、かなりたびたび旅行して来ていたようですが、取引きは、この国まで及んでいたのですか」
「そうです。顧客の多くは英国人でした。英国の社交界の一部の人の間では、よく知られておりました」
「その社交界のある部分というのを説明して下さいませんか」
「そのお客は、上流の、専門的職業階級の人が大部分だったのです。非常に慎重を必要とする立場でありました」
「慎重だという評判のあった人でしたか」
「きわめて慎重だったのです」
「あなたは、彼女の、その種々の仕事の上の取引きをくわしく知っておられましたか」
「いいえ、私は、ただ、法律上の仕事のみ扱っておりました。しかし、マダム・ジゼルは一流の事業家で、最も満足がいくように、自分の事件を処理することのできた人でした。自分の仕事の管理は、自分でしておりました。あの人は、言わば、非常に独創的な性格の人で、よく知られた、公けの人でありました」
「あなたのごぞんじのかぎりでは、彼女は、死んだとき、金持ちでしたか」
「非常な金満家でした」
「誰か敵があったということでも、ごぞんじありませんか」
「ぞんじません」
チボー氏は、段を降りて、ヘンリーが呼ばれた。
検死官がいった。
「あなたの名は、ヘンリー・ミッチェルですか。そして、ワンズウォースのシューブラック小路十一番地に住んでいるのですか」
「そうでございます」
「あなたは、有限会社、ユニバーサル航空会社の雇用員ですか」
「そうでございます」
「航空機プロミシューズ号の一番スチュワードですか」
「そうでございます」
「先週の火曜日、十八日に、あなたはパリからクロイドンへの正午便に乗っていました。その便で、故人が旅行しました。それより前に、故人に会ったことがありましたか」
「ございました。六カ月前に、私は朝の八時四十五分のに乗っておりましたが、その時、一二度、旅行なさっているのに気がついておりました」
「名前は知っていましたか」
「リストにはのっていたでありましょうが、特に気がついておりませんでした」
「マダム・ジゼルという名を聞いたことがありますか」
「ございません」
「どうぞ、先週の火曜日の出来事を、あなた自身の言い方で、説明して下さい」
「私は、昼食をさしあげました。そして請求書を持ってまわっておりました。故人は、眠っておられるのだと思っておりました。到着五分前まで、お起こししないでおこうと思いました。お起こししようと思いました時に、死んでおられるか、ひどく重病でいらっしゃると思ったのです。機内に医師がおられることを知りました。医師のいわれるには……」
「ドクター・ブライアントの証言は、いまにお願いします。これをごらんなさい」
吹き矢筒がヘンリーに渡された。ヘンリーは、慎重にそれを受け取った。
「それを前に見たことがありますか」
「いいえ」
「どの旅客かの手に、それがあったのをたしかに見かけませんでしたか」
「見かけませんでした」
「アルバート・デーヴィス」
若い方のスチュワードが進み出た。
「あなたは、クロイドンの、バーコム通り二十番地のアルバート・デーヴィスさんですか? あなたは、有限会社、ユニバーサル航空会社に雇われているのですか」
「はい、そうでございます」
「あなたは、先週の火曜日に、二番スチュワードとして、プロミシューズ号に乗り組んでおりましたか」
「はい、そうでございます」
「あなたが悲劇のことを聞いた初めはどうでしたか」
「ヘンリーさんが、旅客の一人に、何か起こったらしいと言いました」
「これを見たことがありますか」
吹き矢筒がアルバートに渡された。
「いいえ」
「これを、旅客のうちの、誰かの手の中に見ませんでしたか」
「いいえ」
「何か、この事件に光を投げるようなことが、この旅行中にありませんでしたか」
「ありませんでした」
「よろしい、降りてよろしいです」
「ロジャー・ドクター・ブライアント」
ドクター・ブライアントは、名前と住所をいって、耳鼻咽喉の専門医だといった。
「ドクター・ブライアント、あなたご自身の言葉で、先週の火曜日、十八日に起こったとおりのことを話して下さいませんか」
「ちょうど、クロイドンに入る前に、一番スチュワードが私の傍に近づいて来ました。私が、医師かと尋ねるのです。そうだと答えると、旅客の一人が病気になったというのです。私は立ち上って、彼と一緒に行きました。問題の夫人は、椅子の中にくずれこんでいました。もうしばらく前に、死んでいたのです」
「あなたのご意見では、どのくらいの時間でしたか、ドクター・ブライアント?」
「少なくとも約三十分は経っていましたでしょう。三十分から、一時間前というのが、私の見つもりでした」
「その死の原因に対して、推測をされましたか」
「いいえ、詳細な調査が行われた上でなければ、それはむずかしいでしょう」
「しかし、首のわきに、小さい刺し傷があるのに気がつかれたでしょう?」
「気がつきました」
「ありがとうございました……。ジェームズ・ホイスラー博士」
ホイスラー博士は、骨ばった小男であった。
「あなたは、この地方の警察医ですね」
「そうです」
「あなた自身の言葉で証言して下さいませんか」
「先週の火曜日、十八日の午後三時過ぎに、私は、クロイドンの飛行場に呼ばれたのです。そこで、定期航空便プロミシューズ号の一つの席の、中年の女の身体を示されました。彼女は死んでおりました。死は、約一時間前に起こったのでした。首の横の、頸静脈の上に、円形の刺し傷があるのに気付きました。この傷は、黄蜂に刺されたためか、または、私に示された針のさし傷によって起こったものと、適合するのでありました。死体は、死体仮置場に運ばれて、そこで、精密に検査することができたのでありました」
「どんな結論に達せられましたか」
「私は、その死は、血液の循環の中に、強力な毒素を注入したことに原因しているという結論に達しました。死は、急性心臓麻痺によるもので、実に、注入と同時に起こったものであります」
「その毒物が何であるか、言って下さることができますか」
「それは、今までに出会ったことのないものでした」
報道者たちは『未知の毒物』と書いた。
「ありがとうございました。……ヘンリー・ウィンタースプーンさん」
ウィンタースプーン氏は、大柄な、夢のような表情の、温和らしい人物であった。彼は優しそうだが、少し足りないように見えた。彼が、政府の主任分析学者で、稀な毒物の権威であるということは、まったく意外に思われた。
検死官は、運命の針を取りあげて、ウィンタースプーン氏に、それを認めるかどうか尋ねた。
「認めます。それは、私のところに、分析のために持って来られたものです」
「その分析の結果をお話し下さいませんか」
「よろしいです。その針は、もとは、原地人のマチン毒の調製品の中につけて置かれたものです。……マチンというのは、ある原地人の種族によって用いられる、矢の毒です」
報道陣は、大よろこびで書いた。
「それでは、あなたは、死は、マチン毒によるものだと思われるのですか」
「いいえ、決して。その針には、ただ、もとの液の痕跡が、かすかにみられるだけなのです。私の分析によりますと、その針は、最近、ディスフォリダス・タイパス、すなわち普通には、ブームスラングとか、木蛇として知られているものの毒液にひたされたものであります」
「ブームスラングですって? ブームスラングとは何ですか」
「それは、南アフリカの蛇です……生きているものの中で、最も猛毒を持つ蛇です。その、人間に対する効果は知られていませんが、ハイエナに毒液を注射すると、その針が引き抜かれないうちに、そのハイエナが死ぬ、ということをお話ししましたら、その毒液の猛烈さが、おわかりのことと思います。やま犬は、鉄砲でうたれたように死にます。毒は皮下に出血を起こすのです。そして、心臓の働きを麻痺させるのです」
報道陣は、『めずらしい話、空中劇に蛇毒登場、コブラより猛毒』と書いた。
「その毒液が、毒殺に用いられたことは、今までにありましたか」
「なかったのです。非常に珍しいケースですな」
「どうも、ありがとうございました。ウィンタースプーンさん」
巡査部長のウィルスンは、一つの座席のクッションの後ろから発見された吹き矢筒についての報告を行なった。それには指紋はなかった。吹き矢筒と吹き矢についての実験の結果で、それは、だいたい、十ヤードくらいの範囲を正確にとばすことができるといった。……
「エルキュール・ポワロさん」
皆の間に興味のざわめきが起こった、ポワロの証言などというものは、めったになかったので。彼はとくにこれというものは見あたらなかった。床の上に小さい針を発見したのは自分である。それが、死んだ夫人の首から落ちたものとしたら、ちょうどそうだろうと思われる位置に落ちていた。……
「ホービュリー伯爵夫人」
報道陣は『伯爵夫人、雲上の死の神秘に証言す』と書き、ある記者は『……蛇毒の神秘にからむ』とも書いた。
婦人新聞の記者はこう書いた。
『ホービュリー伯爵夫人は、新しい大学帽のようなものを被って、狐の毛皮をまいていた』とか
『ホービュリー伯爵夫人は、ロンドン一のスマートな夫人で、新しい大学帽のようなものをかぶって、黒い服装をしていた』
とか、また、こうも書いた。
『伯爵夫人の結婚前の名はシスリー・ブランドである。今日、夫人は、黒い服装をして、大学生風の帽子をかぶっていた』……
夫人の証言は簡潔きわまるものであったが、公衆は、このスマートな、美しい若夫人を見るのがうれしかった。伯爵夫人は何も見なかった。故人を今までに見たこともないと証言した。
カー嬢が、その後につづいたが、伯爵夫人ほどは、注意をひかなかった。
婦人たちのための、不屈のニュースの追求者達は、こう書いたのだった。
『コッテスモア卿の令嬢カーは、上仕立ての上衣とスカートに、新しい毛皮の襟巻をしていた』と書き、また、こういう句を書きたした。
『審問における社交夫人連』
「ジェームズ・ライダー」
「あなたは、ジェームズ・ライダーさんで、あなたの住所はロンドン北西区のブレンベリー街十七番地ですか」
「そうです」
「あなたの職業、または仕事は何ですか」
「エリス・ベール・セメント会社の支配人です」
「この吹き矢筒をよく調べて下さいませんか」
(沈黙)
「これをごらんになったことがありますか」
「いいえ」
「プロミシューズ号の機上で、誰かがこれを手にしているのをごらんになったことがありませんか」
「ありませんでした」
「あなたは、故人の席のすぐ前の、第四号にかけておられましたか」
「いたとしたら、どうなのですか」
「どうぞ、この場合、そういう調子をとられないで下さい。あなたは、第四号の席に坐っておられた。その席からは、比較的全部の室内が見渡せましたな?」
「いいえ、見まわせませんでした。私の側《がわ》の人々は何にも見えませんでした。席の背が高かったので」
「しかし、もし、その人々の一人が、通路に歩み出したとしたら……故人に吹き矢筒をむけることのできる位置に立ったとしたら……その時はごらんになれたでしょうな?」
「確かに」
「そして、そんな者はごらんになりませんでしたか」
「いいえ」
「誰か、あなたの前の人々が席から動いたでしょうか」
「私の前から二番目の席の男が、立ち上ってトイレットへゆきました」
「それは、あなたと故人のところから離れていましたか」
「そうです」
「その人は、あなたの方へやって来ませんでしたか」
「いや、本当に、自分の席へ帰りました」
「何か手に持っていませんでしたか」
「何にも持っていませんでした」
「確かですか」
「まったく確かです」
「誰か、席から動いた人がほかにありませんでしたか」
「私の前の人です。そっちから来て、客室の後部の方へゆきました」
「私は抗議します」と、クランシー氏が、席からとび上って、高い声を出した。
「それはずっと……ずっと早かったのです。一時頃でした」
「どうぞ、おかけ下さい」と、検屍官はいって、「すぐ、あなたのおっしゃることも伺います。ライダーさん、お続け下さい。この紳士は、何か手に持っていましたか」
「万年筆をもっていたと思います。帰って来た時には、オレンジ色の本を持っておりました」
「あなたのおられた方向に向って来たのは、その人が一人ですか? あなたご自身は、席を立たれましたか」
「そうです、私はトイレットの方へゆきました……しかし、手に吹き矢筒など持っておりませんでした」
「どうも、あなたは、無礼な態度をとられますな。どうぞおかけ下さい」
歯科医のノーマン・ゲール氏は、何も知らない、という証言を与えた。その次に、腹を立てたクランシー氏が証人台にのぼった。
クランシー氏の証言は、伯爵夫人より、さらに、何のニュースも提供しなかった。
『ミステリー作家の証言、知名の作家は、毒の兇器を買ったことを確認して、法廷にセンセーション起こる』
しかし、センセーションと言ったのは、少し、まだ、早すぎたかも知れなかった。
「そうです」と、クランシー氏は、かん高い声でいった。
「私は、吹き矢筒を買ったことは買いました。それどころか、今日、それを持って来たのです。私は、犯罪を行った吹き矢筒は、私の吹き矢筒だということに、強く、抗議を申します。ここに私の吹き矢の筒があります」と、いって、彼は、勝ちほこったような身振りで、吹き矢筒を出した。
報道陣は『裁判所に二つ目の吹き矢筒』と書いた。
検屍官は、クランシー氏に対して、きびしい態度をとった。氏はここに、法律を助けるために来ているのであって、自分に対して、ありもしない告発を想像して反駁するためではないと、検屍官はいうのであった。それから、氏は、プロミシューズ機上の、種々なる起こった事柄を質問されたが、あまりいい結果はなかった。クランシー氏は、まったく、不必要なくらい、長々と説明をしたのであったが、外国の汽車の客扱いの特異性と、二十四時間の時の始末の困難さに、没頭していたので、周囲に起こったことは、ほとんど気付いていなかったのであった。機上全体が、蛇の毒矢を吹き矢の筒からとばしたとしても、クランシー氏は、その事に気付かなかったことであろう。……
ヘアサロンの雇人のジェーン・グレイ嬢に至っては、新聞記者のペンには、別に何の音も出させなかった。
二人の仏人がそのあとにつづいた。
アルマン・デュポン氏は、ロンドンへゆく途中であった。ロンドンでは、王室アジア協会で講演をすることになっていた。彼と息子は二人とも、学的の論議に夢中になっていたので、周囲に起こっていたことにはほとんど注意をしていなかった。故人の死の発見によって、騒動が起こって、それに注意が向くようになるまで、全然、故人には気付いてもいなかったというのだった。
「あなたは、このモリソーとか、マダム・ジゼルとか言われる人を見ただけでわかりましたか」
「いいえ、今までに会ったこともない人です」
「しかし、パリでは、あの夫人は相当知られた人だったのではありませんか」
デュポン老人は肩をすくめた。
「しかし、私にとっては、知られていませんでした。ともかく、私は、この頃、あまりパリにおりませんでしたから……」
「あなたは最近、東洋の方からお帰りになったばかりでしたそうですな?」
「そうです……ペルシャからです」
「あなたとご令息は、世離れしたところを、かなりご旅行なさったようですな?」
「何と言われました?」
「未開の地を旅行なさいましたな?」
「ああ、そのことですか、そうです」
「蛇の毒を矢の毒として用いている種類の人々に出あわれたことはありませんか」
これは翻訳されなければならなかった。デュポン氏が、その質問を了解すると、彼は力を入れて首をふった。
「決して……決して、そんなものには出あいませんでした」
その息子があとに続いた。その供述は、父の供述を裏書きするに過ぎなかった。彼は、何も知らない。故人は蜂にさされたのかも知れなかった。なぜなら、自分自身も、それになやまされて、殺したからだった。
デュポン氏たちが最後の証人であった。
検屍官は咳払いをして、陪審員の方へむいて、次のように述べた。
これは、確かに、この裁判所でとりあつかわれた事件の中でも、最も特異な、最も信ずべからざる事件である。一人の夫人が殺された……自殺とか、事故という問題は……そのような空中で、しかも、小さい閉じこめられた室では、あり得べからざることであるから、省いてしまっていいのだが、また、外部の人間が、犯罪を行った、という考えも問題にはならない。犯人の男、または女は、必然的に、今朝、ここに、証人として出た人々の中の、一人でなければならない。その事実から離れることはできない。そして、それは怖ろしいことだ。その人々の一人が、絶望的な、捨てばちな状態にあった、ことになるのだ。
この犯罪の方法は、何にもたとえられない大胆不敵なものだった。結局、旅客十人、それに、スチュワードを含めて十二人……の証人の環視の中で、殺人犯人が唇に吹き矢筒をあてて、致命的な矢を、空間にとばした。しかも、誰も、その行動を見た人がない。それは、明らかに信じ難いことである。が、吹き矢筒の証拠品があり、床の上には針が発見された。また、故人の首に、その痕跡があった。そして、また、医師の証言によって、信ずべからざることであろうとなかろうと、そのことの起こったことが、確実と認められるのだ。
ある特定の人を犯人と決定するこれ以上の証拠はなくとも、未知の一人の人、もしくは人々に対して、陪審員が、殺人の判決を下すように要求することができ得るのみだといった。出席の者はみな、故人を知っているということを拒否した。故人との関係が、いかように、またどこにあるかを発見するのは、警察の役目である。犯罪の動機が欠乏しているのであるから、今は、ただ、自分の述べた判決をもって助言とするのみである。陪審員も、判決を考量されることだろうと思う、と検屍官は結んだ。
角ばった顔をした陪審員の一人が、疑い深い眼付きをして、重々しく息をしながらのり出した。
「質問をしてもよろしいですかな?」
「どうぞ」
「あなたは、吹き矢筒が、一つの席に発見されたと言われましたが、その席というのは、誰のですか」
検屍官はノートを調べた。ウィルスン巡査部長が、その傍へ歩みよってささやいた。
「そうです。九号席ですが……それはエルキュール・ポワロさんがかけておられたものです。ポワロさんといえば、非常に有名な、尊敬すべき私立探偵で……ええと……警視庁に何度か協力して下さった方です」
四角い顔の人は、その顔を、ポワロの方へ向けてみつめた。小さいベルギー人の長い髭をみて、あまり満足したような表情ではなかった。
「外国人だな、たとえ、警察に多少協力してくれたからといって、外国人を信用することはできないな」と、その四角な顔の男の眼が言っていた。だが、声に出してはこう言ったのであった。
「矢をひろい上げたのはこのポワロさんでしたな?」
「そうです」
陪審員は退場した。彼らは五分後に席へ戻った。陪審員長が検屍官に紙片をわたした。
検屍官は顔をしかめた。
「これはどうしたことですか? ばかばかしい、私は、こんな判決を受けることはできません」
数分後に、改正された判決が返された。
「被害者は、毒によって殺害せられた。が、毒を使用した者が誰であるかを証明するには、証拠不十分である」
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茶房にての語らい
判決後、ジェーンが裁判所を出ると、ノーマン・ゲールが、傍へやって来た。
彼はこういった。
「検屍官が受け付けなかったあの紙には、何が書いてあったんでしょうね?」
「私が、それを申し上げられると思います」という声が、すぐ背後でした。
二人は振りかえった。すると、そこに、エルキュール・ポワロの、いたずらそうな眼があった。
「それはね、私に対する殺人罪の判決だったのですよ」と、小さい男はいった。
「だって、まさか……」と、ジェーンが叫んだ。
ポワロはたのしそうに微笑した。
「そうなのですよ。私が出て来た時に、一人が、こう言っているのが聞こえましたよ。『あの小さい外国人……よく覚えときたまえ、きっとあの男がしたのだよ』とね。陪審員もそう思ったのでございますよ」
ジェーンは、悲しんでいいか、笑っていいかわからなかった。そして、あとの方にきめた。ポワロも一緒になって笑った。
「それですから、早速仕事に取りかかって、私の性格をはっきりさせなければなりません」
微笑して、頭を下げて、彼は反対の方へ行ってしまった。
ジェーンとゲールは、その姿を、じっと見送った。
「大した変てこな奴ですね。あれで探偵ですとさ。あまり探偵などできそうもないや。どんな罪人だって、あんなのは一マイルも離れたところでかぎつけてしまいますよ。変装なんか、あの人にゃできやしませんよ」と、ゲールがいった。
「あなた、探偵について、大変古い考えを持っていらっしゃいはしませんこと? にせの髭なんてもう流行おくれよ。今では、探偵は坐って、心理的に、その事件を考え出すんですわ」と、ジェーンがいった。
「それじゃ、熱意が足りないようですね」
「肉体的にはそうですわ。でも、むろん、落ちついた、はっきりした頭脳が必要ですわ」
「そうですね。熱しやすい、混乱したものはいけませんね」
二人は笑い出した。
「ねえ、君」と、ゲールはいった。彼の頬がいくらか紅潮した。そして、早口でしゃべりだした。
「どうでしょうな……そうだととてもありがたいんですが……もう、少し遅いので……ちょっとお茶でも一杯、ご一緒にどうです? 何だか、不幸中の友……といったような気がしているんですが……」
彼はやめた。そして、心の中でいった。
「一体どうしたんだ? ばかめ! そんなにどもったり、赤くなったりしないで、自分を阿呆にしないで、女の子をお茶くらいに誘えないのかな。女の子がお前をどう思うか?」
ゲールの困却は、かえって、ジェーンのおちつきと自信を強くさせるのに役だった。
「どうもありがとう存じます。お茶、とても頂きとうございますわ」
二人は茶房を見つけた。愛想のない給仕女が陰気な態度で、注文をとったが、「失望なさったって知りませんよ、ここではお茶をのませるなんて言っていますけどね、私は、そんな注文きいたことありませんよ」とでも言ってる風であった。
茶房はほとんど人気《ひとけ》がなかった。人が少ないということが、かえって、二人が親しく茶を飲みかわしていることを、はっきりさせるようなものだった。ジェーンは、手袋をむしりとって、テーブル越しに相手を見た。男はなかなか人をひきつける魅力があった……あの青い眼と、あの微笑、また、いい人でもあるのだ。
「この殺人事件は、妙なケースですなあ」と、ゲールは、急いでしゃべりだした。まだ、困惑の妙な気持ちから、まったくぬけ切れないようであった。
「そうですわ、私、少し心配していますの。私の仕事の上からですわ。みなさんが、どうおとりになるかわかりませんもの」
「そ……お……ですね……私はまだ、そのことは考えてみませんでした」
「殺人事件なんかにかかわりあったものなんか、アントワンのお店で雇いたがらないでしょうし、まだ、証言もしなけりゃならないでしょうしねえ」
「世間の人って変ですよ」と、ゲールは考え深くいって
「人生というやつは、実際……とても不公平なものです。こっちの誤りでもないものを……まったくけしからんですよ」といって、怒って、顔をしかめた。
ジェーンは、こういってなだめた。
「まだ、そうなったわけでもありませんから。まだ、そうならないうちから、腹を立てたり、心配したりしてもいけませんわ。結局、それにはもっともなところもありますわ……だって、私が犯人でないともかぎりませんしね! 一人殺せば、たいていもっと殺すと言われていますし、そういった風な人に、髪を結ってもらうのも、あまり気持ちのいいものではありませんからねえ」
「あなたを見れば、誰だって、人殺しをするような人間ではないことがわかりますからね」と、ゲールは、熱心に彼女を見ながらいうのだった。
「そうはっきりとは言えませんわよ」と、ジェーンはいって、
「時々お客様を殺したくなることだってありますわよ……必ずうまくやれるとなればね。一人だけ特別そうしたいのがいますわ……クイナみたいな声をして、何でもぶつぶついう方《かた》ですわ。私、時々、その方を殺しちゃうほうが、世の中のためで、罪悪なんかじゃないって思うことがありますわ。だから、私だって、とっても、罪を犯す傾向がありますわよ」
「しかし、とにかく、この特別の犯罪はあなたがやったのではありませんよ。それは誓うことができます」と、ゲールがいった。
「私だって、あなたがなさらなかったと、誓えますわ。でも、そうしたからって、あなたの患者さんたちが、あなたが犯したのだと思ったって、どうにもなりませんわねえ」と、ジェーンがいった。
「僕の患者……そうです」と、ゲールは、少し考えるように、
「あなたのおっしゃるとおりかも知れませんね……僕はそんな事を考えたこともなかったのですが、殺人狂かも知れない歯科医とね……いや、これは、あんまり、香ばしい予想じゃありませんねえ」
彼は急に、無鉄砲に、
「あなたは、僕が歯科医でもかまいませんか」と尋ねた。
ジェーンは眉を上げた。
「私が? かまうって?」
「僕のいうわけは……何だか、歯科医というと何となく滑稽に聞えるんです……とにかく、ロマンチックな職業ではありませんよね。世間では、ただの医者というと、真面目に扱いますがね」
「元気をお出しなさいませな。歯医者さんの方が、調髪師の助手より、たしかに上ですわよ」
二人は笑った。そしてゲールがいった。
「お友達になれそうですね? どうお思いになりますか」
「そうですね、なれそうですわ」
「いつか、ご一緒にご飯を食べて、ショーに行きませんか」
「ありがとうございます」
ちょっと間をおいて、ゲールがいった。
「ル・ピネはお好きでしたか」
「あれは面白うございましたわ」
「前にいらしたことがあったのですか」
「いいえ、だって……」
ジェーンは急に打ちとけて、馬券の当たりのことをうちあけた。そして二人は、競馬の馬券が、一般にもたらす夢想と必要性に同意し、これに好意的でないイギリス政府の態度を悲しんだりした。
その会話は、茶色の服を着た青年によってさまたげられた。その男は、少し前から、その辺を、何ということもなく、うろうろしていたのに、二人とも気がついていたのだった。
しかし、青年は、今、帽子をとって、口達者《くちだっしゃ》に、ジェーンに呼びかけた。
「ジェーン・グレイ嬢でいらっしゃいますね?」と、彼はいった。
「ええ」
「僕は、『週刊ハウル』を代表しておりますのですが、グレイさん、この空中殺人について、短文を寄せて下さるわけにはゆかないでしょうか、一人の旅客の意見として」
「ありがとうございますが、おことわり致しますわ」
「どうしてですか、グレイさん、お金をお払いしますよ」
「どのくらいですの?」と、ジェーンが尋ねた。
「五十ポンド……いや、もう少しさし上げてもよろしいかも知れません……では、六十ポンドでいかがでしょう?」
「いいえ、できると思いませんわ。何を書いていいかわかりませんもの」
「そのことはよろしいのです」と、青年は手軽にいって、
「お書き頂かなくてもいいのです。僕らの仲間が、少し何か伺います。そしてあなたの代りに書きます。少しもお手数はおかけしませんよ」
「でも、いやですわ」
「百ポンドだったらどうです? 百ポンド出しましょう。それで写真を頂かして下さい」
「いいえ、どうも気がむきませんわ」
「君、帰った方がいいですよ。グレイさんはそんなことで、わずらわされたくないのだからね」と、ゲールがいった。
若者は、期待を持つように彼の方を向いて、
「ゲールさんでしょう? ゲールさん、いかがでしょう。グレイさんが、こういうことに対して潔癖でいらっしゃるなら、あなたの方はいかがでしょう。五百字でよろしいのですがね。そしたら、グレイさんに提供するといっただけの額を払いますがね。いい相場ですぜ。何しろ、女の殺人については、女の話の方が価値があるのですからな? いいチャンスを提供しているのですが」
「厭です、一言も書きません」
「金額のことをおいても、いい宣伝になりますよ。成功しつつある職業人……あなたの輝かしい前途……患者はみんな読みますぜ」
「それが、僕の一番怖れていることなのです」と、ゲールがいった。
「しかし、近頃は、宣伝なしですますという訳にはいきませんよ」
「そりゃ、その宣伝の種類によりけりですよ。僕は、患者の中で、一人でも二人でも新聞を読まない人がいて、僕が殺人事件にかかわったのを知らないでいてくれればいいがと望んでいるんです。さあ、二人の返事を聞いたのですから、静かに出てゆきますか、それとも、蹴っとばしてあげなければなりませんか」
「何も、そんなに怒ることはないでしょう」と、青年は、この、暴力沙汰の脅迫にも、少しもめげずにいった。
「さよなら、もし、お心持が変ったら、事務所へ電話をかけて下さい。名刺を置いていきます」
青年記者は……悪くないぞ、これでいい会見記が書ける……と考えながら、愉快そうに茶房を出ていった。
そして、事実、次の『週刊ハウル』には『空中の殺人事件』の、二証人の意見に関する重要記事が掲載されたのであった。それによると、ジェーン・グレイ嬢は、その事件を語りたくないほど悩んでいる。それは、まったく考えるのも厭なほど、ひどいショックを受けたと、語ったことになっていた。ノーマン・ゲール歯科医は、たとえ、自分はまったく潔白であるとしても、殺人事件に関係したために、職業人としての履歴に、どういう影響を受けるかという点について、非常に詳しい意見を発表した。ゲール氏は、ユーモアをまじえて、自分の患者の何人かが、流行欄ばかり読んでいて、『椅子』の拷問を受けに来た時に、最悪を疑うようなことがなくてすめばいいがとあったのである。
青年が去ると、ジェーンがいった。
「どうして、もっと重要な人々のところへ行かなかったんでしょう?」
「それは、もっと上役にまかせたのでしょう。あるいはそっちをやってみて、失敗したのかも知れませんよ」と、ゲールは苦々しくいった。
一二分顔をしかめていたが、
「ジェーンさん(ジェーンさんて呼びますよ、かまわないでしょう? ジェーンさん……)一体だれが、あのジゼルって女を殺したんだと思いますか」といった。
「ちっともわかりませんわ」
「考えてみましたか? ほんとに考えてみましたか」
「どうもそうじゃないらしいですわ。私は自分の方のことばかり考えて、少し困っていましたのよ。ほかの人の中の誰がしたか……真剣に考えてみませんでしたわ……実際、今日まで、旅客の一人がしたに違いないなんて考えてもみませんでしたわ」
「そうですね。検屍官はその点、はっきり言いましたね。僕は、自分はしなかったことと、あなたがしなかったことはわかっています……なぜって、ずっと、あなたを見ていたんですから」
「そうですわ。あなたがなさらなかったことはわかっていますわ……同じ理由でね。そしてもちろん、私もしませんでしたわ。ですから、誰かほかの人であるに違いありませんわ。でも、誰だかわかりませんわ。全然わかりませんのよ。あなたおわかりになって?」
「わかりません」
ゲールは非常に考え深い様子をした。何か、ある考えで当惑しているようであった。ジェーンは続けた。
「何の考えもありようはずはないと思いますわ。何しろ、何にも見なかったんです……少なくとも、私は見ませんでしたわ。あなたは?」
ゲールは首をふった。
「何にも……」
「それが、とっても変な気がするんですのよ。あなたは、何にもごらんにならなかったと思いますわ。あなたは、そちらを向いていらっしゃらなかったんですもの。でも、私はその方をむいていたんです。私は、中央をずっとみてましたのよ。だから……見えたはずだのに……」
ジェーンは話をやめて、赤くなった。彼女は、自分の眼は、たいてい、青いセーターにむけられていた。自分の頭は、身の囲りに起こったことに対して、感受性が誠ににぶっていた。その青いセーターの内部に存在する人格に、関心を持っていたのだと、記憶をたどったのだった。
ゲールはこう思った。
「どうして、この女は、あんなに赤くなったのだろう……すばらしいな……結婚しようと思う……ほんとにそう思う……しかしそんな、遠い先のことを考えたって仕方がない……何か口実をもうけて、たびたび会うようにしなければいけない……この殺人事件が、かえっていい工合だ……それにあの生意気な記者の奴と、奴の宣伝|云々《うんぬん》もかなり役に立ったな……」
声を出して、彼はいった。
「今、それを考えてみようじゃないですか。誰が殺したか? およそのことを、考えてみましょう……スチュワードは……?」
「いいえ」と、ジェーンがいった。
「僕もそう思う。では、向う側の女たちは?」
「あんなホービュリー伯爵夫人のような方が、人殺しをやるなんて思われませんわ。それから、あのカー嬢も、あんまり田舎者らしいですわ。あの方、お婆さんのフランス人なんか殺しはしないでしょうと思いますわ」
「あんな人気のない田舎地主なんかね? たいていあたっているでしょうね、ジェーンさん。それから、あのお髭さんがいますがね。あの人は陪審員たちによると、最もあつらえ向きの人間らしいのでしたが、あの人は嫌疑がはれましたしね。では、医者は? あの人も、どうもありそうもないですね」
「あのお医者さんが殺そうと思ったら、もっと、痕跡を残さないやり方でするでしょうよ。そうすれば、疑われはしないんですものね」
「まあ、そうですがね」と、ゲールは疑わしげにいって、
「この、何も痕跡をのこさない、味のない、香りのない毒というものは、大変工合のいいものですが、そういうものが実際あるかどうか、多少疑問だと思うんですがね。あの、吹き矢筒を持っていると白状したミステリー作家はどうでしょうね?」
「あの人、少し怪しいことね。だけどとてもいい人らしいし、吹き矢筒を持っているなんて言わなくたってよかったんでしょう? だから、疑うことないような気もしますわね」
「それから、まだ、ジェームソン……いや……何て名だっけ?……そう、ライダーは?」
「そうね、そうかも知れませんね?」
「それから、二人のフランス人は?」
「あれが一番そうらしいわ。あの人達、いろんな奇妙な国へ行ったんでしょう? むろん、私どもにはわからない理由が、何かあるのかも知れないわ。どうも、あの若い方の人が、みじめで、心配そうでしたわよ」
「誰だって殺人など犯したら、心配するでしょうね」と、ゲールが、浮かない調子でいった。
「でも、いい人らしいわね。お父様の方は、愛すべき人だわ。あの方達でなけりゃいいけど……」と、ジェーンがいった。
「僕らの推理は一向に発展していませんね」と、ゲールがいった。
「だって、殺されたお婆さんのこと、あんまり知らないのだから、発展しようがないじゃありませんか。敵だとか、資産をつぐのは誰だとか、そういったようなことをね」
ゲールが考え深くいった。
「では、ただ、つまらないあて推理をしているに過ぎないというんですか」
「だってそうじゃありませんの?」とジェーンは、冷やかにいった。
「そうでもないでしょう」と、ゲールはためらって、それからゆっくりつけ加えた。
「僕は、何か役にたつかと思って……」
ジェーンは、質問するように、彼を見つめた。
「殺人というものは、被害者と加害者とに関係があるだけではなく、それは無罪の者にも影響を与えますよ。あなたも僕も、罪はないのに、殺人の影が僕たちにも及んでいます。そして、その影が、どんなに、僕たちの生涯に影響を与えようとしているかは、僕たちにはわからないのです」とゲールがいった。
ジェーンは、落ちついた、常識の人であったが、それにもかかわらず、急に、ぶるぶるっと身震いをした。
「そんなことおっしゃらないで、私、こわくなってしまったわ」
「僕自身も、少しこわくなりましたよ」と、ゲールがいった。
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二 ポワロ、パリを洗う
焼却された書類
エルキュール・ポワロは、友人のジャップ警部に会った。ジャップ警部はにやにや笑って、
「やあ、どうしましたい、ポワロさん。危うく警察の監房に閉じこめられる憂き目を、みるところだったじゃないですか」といった。
「そんなことがあったら、私は職業上の大損害を受けますよ」と、ポワロは真面目にいった。
「探偵が、時々、悪人であるということがありますからなあ、小説本ではね」と、ジャップ警部は、歯をむき出して笑いながらいった。
そこへ、理智的な、陰気な顔をした、背の高いやせた男がやって来た。ジャップ警部が紹介した。
「フランス警察のフルニエさん。この仕事に協力するために、はるばる来られたんです」
「何年か前に、一度お目にかかったと思いますよ、ポワロさん」と、フルニエ探偵は頭を下げて、握手しながら、
「ジロー探偵からも、あなたのことを伺いました」といった。
かすかな微笑が、彼の唇にのぼったように思われた。そして、ポワロは、ジロー探偵(この男のことは、ポワロも日ごろ人間猟犬と軽蔑して呼んでいるのだった)が、自分のことをどんな風にいったか想像ができたので、それに答えて、やはり少し、用心深い微笑をもってしたのだった。
「お二人とも、私の室でご一緒に食事をして頂きたいのです。被害者の顧問弁護士チボーさんもお招きしておきました。と申すのは、もしあなたも、ジャップさんも、私に協力して下さるのに異議がおありにならなかったらでございます」と、ポワロがいった。
「いいですよ、お山の大将さん。あんたは、このことに根本的に関係がありますからな」と、ジャップ警部が、心から愉快そうにポワロの背中を叩いていった。
「光栄に存じます」と、フランス人は丁寧にいった。
「つい先刻も、若い美しいご婦人に申し上げたのですが、私はどうしても身の明かしをたてたいと願っておりますのでね」と、ポワロがいった。
「あの陪審員は、あんたの様子が気に喰わなかったのですなあ」と、ジャップ警部は、また例の、にやにや笑いを新たにして、「こんな見事な冗談は、久しぶりに聞きましたよ」といった。
小さいベルギー人が、友人たちのために用意しておいた、すばらしい食事の間は、互いに、事件のことはいっさい話さないことにした。
「結局、英国では、よい食事ができるのですなあ」と、フルニエ探偵は、主人役が気をきかせて出しておいたつま楊子を巧みに使いながら、感謝をこめていうのであった。
「なかなか、結構なご馳走でした、ポワロさん」と、チボー弁護士がいった。
「少しフランス風だが、素晴らしくうまかったですよ」と、ジャップ警部がいった。
「食物と申すものは、胃に軽くおさまるべきもので、思考力を麻痺させるように、重くてはならないのでございます」と、ポワロはいった。
「私は、自分の胃袋に苦労させられたなんてことはないですがね、その点を議論はしませんや。さあ、仕事にかかりましょうぜ。チボーさんは、今夜、約束があるのでしょう。だから役に立ちそうなことを、よく相談しておいた方がいいと思うですね」と、ジャップ警部がいった。
「お役にたたせて頂きますよ、皆さん。検屍裁判所より、ここの方が、気楽にお話ができるのですからね……審問の前に、ジャップ警部と、ちょっと話したのですが、ジャップさんは、十二分に言ってしまわないように注意されました。つまり、表面に現われた必要な事実だけに止めるようにと」と、弁護士がいった。
「そのとおりですよ。あまり早く種あかしをしては、まずいですよ。しかし、今は、マダム・ジゼルって女のことをすっかり聞かして頂きたいものです」と、ジャップ警部がいった。
「ところが、ほんとのことを言いますと、私はほとんど知らないのです。世間が知っていることだけ……公の人としてだけしか知らないのです。おそらく、フルニエさんが、私より、もっとくわしく話して下さるかも知れません。しかし、このことはお話しましょう。マダム・ジゼルは、あなたの国の、いわゆる『人物』です。独自の人物です。祖先については、何も知られていないのです。若い頃は、なかなか美人だったろうと思います。天然痘の結果、美貌を失ったのです。彼女は……これは私の印象ですが……権力を楽しむ女だったのです。で、彼女は、権力を持っていたのです。辛辣な、実務家だったのです。感情が事業の利益に影響を与えるようなことはゆるさない、固い頭を持ったフランス婦人のタイプでした。しかし、職業の方は、気をつかい過ぎるくらいの正直さで運営しているという評判のあった女でした」
チボー弁護士は、フルニエ探偵に同意を求めた。フルニエ探偵は、その黒い、陰気な顔をうなずかせた。
「そうです、あの女は正直だったのです……彼女の見解からは。しかし証拠が集まりさえすれば、法律は責任を問うことができたでしょうが、それは……」と、いって絶望的に肩をすぼめて、「あのような性格の者には、望めないことでしょうな」と、フルニエ探偵はいった。
「と、おっしゃると?」とチボー弁護士はいった。
「脅喝ですよ」と、フルニエ探偵はいった。
「ゆすりですな!」と、ジャップ警部がいった。
「そうです。それは特別の、特質を持った種類のゆすりです。マダム・ジゼルは、この国のいわゆる『有名人』相手の金貸しをやっていたのです。貸す金額と、支払いの方法に対して、非常に用心深くしていたのです。しかし、彼女独特の返却の方法をとっていたのです」と、フルニエ探偵はいった。
ポワロは興味深くのり出した。
フルニエ探偵は言葉を続けた。
「チボーさんが今いわれたように、マダム・ジゼルの顧客《おきゃく》は、上流階級の事業家が多かったのです。その階級は、特に世論の力に左右されるという弱点を持っているのです。マダム・ジゼルは、自分の調査部を持っていて……金を貸す前に(大口の場合のことですが)問題の依頼者についてできるだけ多くの事実をつきとめておくのが、習慣なのです。そしてまた、この調査部というのが、非常にすぐれたものなのです。チボー氏のいわれたことをここでくり返していってみましょう。マダム・ジゼルは、自分の見解では、用心深すぎるほど正直なのです。自分に忠実である者には自分も忠実さを守るのです。貸した金を取り返す場合以外には決して、相手の秘密を利用するようなことはしなかったと、私は、実際信じているのであります」
「では、その秘密を知っているということが、担保の形として用いられていたのですか」と、ポワロが尋ねた。
「そうなのです。そして、それを用いる場合は、絶対に、遠慮も容赦もしなかったのです。そしてその手段によれば貸金を必ず取り戻せたのです。ごく稀にしか、その手を用いる必要のある貸金はなかったのです。知名の男女は、世間の醜聞になることを防ぐためには、どんな思い切ったことをしてでも金を作るものです。今も申し上げるとおり、彼女の活動力についてはよくわかっているのですが、それを遂行する段になると……これはなかなかむずかしい問題ですな。何といっても、人間の性質は、人間の性質ですからね」といって、フルニエ探偵は肩をすくめた。
「もしもおっしゃるとおりに、彼女が、折々、その悪質の債務者に警告を発するようになりました場合……どうなるのですか」と、ポワロが尋ねた。
「その時は、彼女の持っている情報が公にされるか、またはその関係の人物にわたされるかどうかです」と、フルニエ探偵がゆっくりといった。
しばらく皆が黙っていた。やがて、ポワロがこういった。
「経済的には、それは彼女の利益にならなかったでしょうに?」
「そうです、直接には利益になりません」と、フルニエ探偵がいった。
「しかし間接には?」
「間接には、ほかの人間に払わせたのでしょうな」と、ジャップ警部がいった。
「そのとおりです。それは、道徳的効果とでもいうことに対して価値があるのです」と、フルニエ探偵がいった。
「不徳的効果、と呼んだ方がいいですな」と、ジャップ警部がいって、考え深く鼻をこすりながら、
「それで、大分、殺人の動機の線が出てきたですな……かなり強い線が。それに、誰がその金を得るか、という問題もあるわけだ。で、そのことで、おたすけ下さることができますかな?」と警部は、弁護士に助力を求めた。
「娘が一人おります。その娘は、母と一緒に住んではいなかったのです……小さい時から、母親は、娘を一度も見なかったことと思います。しかし、数年前、女中に遺す小額の金のほかは、全部、娘のアン・モリソーに遺すという遺言状を作ったのです。私の知っているかぎりでは、一人しか娘はないのです」
「そして、その遺産は大きいものですか」と、ポワロがきいた。
法律家は肩をすくめた。
「想像では、八百万か九百万フランです」
ポワロは、口笛を吹くように口をつぼめた。
ジャップ警部がいった。
「いやはや、そうは見えませんでしたなあ。一体、換算したら、いくらくらいになるのかな……ええと、十万ポンド以上になりますよ、ヒュー!」
「アン・モリソーは、大そうお金持になりますね」と、ポワロがいった。
「その娘が機上にいなくてよかったですよ。金がほしくて母親を殺したなどと疑われますからな。何歳くらいになりますかな?」と、ジャップ警部が、冷淡にいった。
「よくわからないのです。二十四五というところではないですかな?」
「しかし、その娘を犯罪と結びつけるものは何にもないですな。そのゆすりのことはよく調べなければなりません。機上の者は、みな、マダム・ジゼルを知らないといっているが、一人は嘘をいっているんだ。それが、どの人間か見付けなければならないです。故人の親書類を調査したら助けになりましょうな、フルニエさん?」
「それが……ニュースがつくとすぐ、警視庁に電話して、その家に行ったのです。書類をいれた金庫は残っていたのですが、書類は全部焼き捨てられていたのです」
「焼き捨てられた? 誰に? なぜ?」
「マダム・ジゼルには、腹心の女中のエリーズというのがあったのです。奥様に何事かあった時は、金庫を開いて、(その組合せ文字を彼女は知っていた)内容物を焼いてしまうように言いつかっていたのです」
「何ですって? しかし驚くべきことですなあ!」と、ジャップ警部は眼をみはった。
「何しろ、マダム・ジゼルは、自分のおきてを持っていたのです。自分に忠実なものに忠実であったのです。依頼人に、正直にすると約束を与えます。彼女は容赦はしなかったけれども、約束は守る夫人だったのです」と、フルニエ探偵がいった。
ジャップ警部は黙って首をふった。四人は、死んだ夫人の不思議な性格を思いめぐらしてしばらく沈黙していた。
チボー弁護士が立ち上った。
「皆さん、おいとましなければなりません、約束を守らなければなりませんので。もしこれ以上お聞きになりたいことがおありでしたら、私の住所はおわかりですから……」
彼はみんなと、礼儀正しく握手してから、室を出ていった。
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ポワロの求めるもの
チボー弁護士が出てゆくと、三人の男は、テーブルの方へ椅子をよせた。
「さあ、では、どんどん問題に入りましょう」といって、ジャップ警部は万年筆のキャップをはずした。
「機上には十一人の旅客がいました……後方の客室のことです。ほかの客室はこれに入っておらんです。……すなわち十一人の旅客と、二人のスチュワード……全部で十三人になるわけです。で、残りの十二人のうちの一人が、老夫人を殺したんですな。旅客のあるものは英国人で、あるものはフランス人です。フランス人の方は、フルニエさんに任せるとして、英国人の方は私が受け持ちます。また、パリでのいろいろの尋問があります。それはまた、あなたの役ですよ、フルニエさん」
「そして、パリばかりでなく、マダム・ジゼルは、夏には海水浴場で、仕事を多くしました……ドーヴィル、ル・ピネ、ワイマローなどです。また、南の方の、アンチーブやニースと言ったようなところへもいったのです」と、フルニエ探偵がいった。
「いい線が出ましたな。プロミシューズ号に搭乗していた人々のうちの一、二が、ル・ピネのことをいったように覚えています。それも一つの線です。それから、殺人そのものに移らにゃならんですな……誰が、あの吹き矢筒を用いることのできる位置にいたか」
ジャップ警部は、こういって、旅客機の内部の見取図の大きい紙をとり出して、テーブルの中央にひろげた。
「さて、予備の仕事の用意ができました。まず始める前にその人々を一人々々検討して見て、見込みのありそうなのをきめ……それからもっと大切な可能性をきめることでしょうな」
「まず、ポワロさんを除外することができるから、十一人に減ります」
ポワロは悲しそうに首をふった。
「あなたは、あまり信頼しやすい性質でおいでです。誰をも信じてはなりません……絶対に、誰でもをです」
「いや、お望みなら、入れておいてあげますよ」と、ジャップ警部は、上機嫌にいって、後を続けた。
「それに、スチュワードもいます。見込みという点からいえば、どうも彼らのうちのどっちもそんなことをしそうに思われんです。そんな高級なところから、彼らが金を借りたということはあり得ないですし、二人とも、非常にいい履歴を持っておるです……二人とも、酒はやらんし、身許はちゃんとしているし、この二人のうちのどっちかが、もしこんなことに関係があるとしたら、それこそ私は驚いてしまうですよ。しかし、また、可能性ということからいったらこの二人も含めて調べにゃならんです。彼らは客室内をあちこちしております。あの吹き矢筒を使用する事のできる位置をとることができたかも知れん……正しい角度からですな……。しかし、実際は、満員に近い客室のなかで、誰にも見つからずに、吹き矢筒から、毒矢を発射するなんていうことができたとは思わんですな。私は、経験から、多くの人々は、コウモリのごとくに盲目である、ということは知ってるですが、しかし、それにも限度があります。もちろん、ある一面では、同じことは、ほかの一人一人にもあてはまるのです。そのような犯罪を行うことは狂気の沙汰、まったく狂気の沙汰ですな。百に一つの場合のみ、人に知られずにすむのです。それをやった奴は、悪魔の運を持った奴です。殺人をやるにこんなばかげたやり方があるかって……」
ポワロは眼を床にむけて、静かに煙草をくゆらしていたが、そこで、質問を発した。
「これが、ばかげた殺人のやり方だと思われるのですか」
「そうですとも、まったく狂気の沙汰ですよ」
「しかし、|成功しました《ヽヽヽヽヽヽ》。私どもが、三人で、そのことについて話し合っても、誰が、その犯罪を行ったかがわからないのです。それが成功なのです」
「それは単純な幸運ですよ。犯人は、何度も発見されたはずだったのです」と、ジャップ警部が抗議した。
ポワロは、不満らしく首をふった。
フルニエ探偵は、めずらしそうに彼を見た。
「あなたの考えておられることは何ですか、ポワロさん」
「私の考えている点はこうです。事件は、その結果によって判断されなければならないのです。この事件は成功しました。それが、私の考えている点です」と、ポワロがいった。
「しかし、まったく、奇蹟のように思えます」と、フルニエ探偵が考え深くいうと、ジャップ警部は、
「奇蹟であろうとなかろうと事件は存在しておるんです。医師の証言もあったし、兇器も押収したのです。もし、誰かが一週間前に、私が、蛇の毒液のついた毒矢で、女が殺された犯罪の調査をすることになるだろう、という者があったら……私は、その人の前で大笑いしたでしょうが、まったく、こりゃ、侮辱ですよ……この犯罪は、そうなんだ……確かに侮辱だ……」といって、深く息を吸い込んだ。
ポワロは微笑した。
フルニエ探偵は、
「これはたぶん、常軌を逸したユーモアの持ち主によって行われた犯罪ですね。犯罪を調査するには、殺人犯の心理をつかむことが大切です」と、考え込みながらいった。
ジャップ警部は、自分の嫌いな心理という言葉をきくとかるく鼻をならした。
「それは、ポワロさんの好きな種類の文句ですよ」と、彼はいった。
「私は、お二人の言われることに、大そう興味を持っております」とポワロ。
「彼女が、あんな風な殺され方をした、ということには、疑いなしでしょうな、ポワロさん。私はあなたの廻りくどい考え方を知っているんでね……」と、ジャップ警部が疑りっぽくいった。
「いや、いや、その点では、私は楽な気持でおりますよ。私が拾い上げた毒の針が死の原因です……それはまったく確かです。しかしそれにもかかわらず、この事件には……」
ポワロは言葉を切って、困ったように首をふった。
ジャップ警部は言いつづけた。
「さて、話をもとにもどして、スチュワードを全然、除外するわけにはいかんですが、しかし、どうも、二人が、何か関係があるらしいとは、思えんですが……ポワロさんも賛成ですか」
「私の申したことを覚えておいででしょう。私も……消してしまいませんよ……何という言葉を使えばよろしいのでしたっけ?……誰でも、ですよ、この場合……」
「お好きなように……。さて、旅客ですが、スチュワードの配膳室と、トイレットの方から始めましょう。まず十六号席……」といって、鉛筆で、図面を指して、
「これは、調髪師の、ジェーン・グレイの席です。馬券にあたって、ル・ピネでその金を使って来たのです。それでみるとこの娘は、賭博癖があります。あるいは、金に困って、婆さんから借りたかも知れない……しかし、大金を借りたとか、ジゼルが押えるような弱点を、何か持っているとかいうことはありそうにもない。我々が探すには、あまりに魚が小さすぎるようですな。また、調髪師の助手では、蛇の毒なんてものも、手に入れるチャンスは、まあごく遠いもんだと思われますなあ……髪を染めるのにも、顔のマッサージにも、そんなものを用いませんからな……。だいたい、蛇の毒を用いるなんてことは間違いですよ。大分場面がせばめられますからな。百人のうち二人くらいのものしか、その知識をもっていないし、そんな材料は手に入りませんからな」
「それは、少なくとも一つのことを、完全に明瞭にいたしますね」と、ポワロがいった。
物問いたげな眼付きを、ポワロになげたのは、フルニエ探偵であった。ジャップ警部は、自分の考えに夢中になって続けた。
「私は、こんな風にみるんです。犯人は二つの種類の一つに入るんです。不可思議な世界を歩きまわって来た人であるか……蛇とか、その敵を殺すために、毒液を用いる原地人の習慣とか、それに関する種々な方法をよく知っている人……これが一つの種類です」
「そして、もう一つは?」
「科学の線にいる人……研究をしているもの……この蛇の毒のようなものは、高級の実験室で実験のために用いるものです。私はウィンタースプーンと話してみました。たしかに、蛇の毒液……はっきり言えば、コブラの毒液は、医薬に用いるんです。癲癇の処置に用いてかなり成功するものです。蛇にかまれた場合の科学的研究にも、いろいろ用いられているんです」
「面白い……参考になるお説ですな」と、フルニエ探偵がいった。
「そうです。続けましょう。この二つの種類のどれにも、ジェーンという娘の場合はあてはまりません。彼女に関するかぎりでは、動機はありそうもなく、また、毒を得るチャンスもありそうもありません。吹き矢筒を使うという事実の可能性も疑わしいもんです……ほとんど不可能であります。ここを見て下さい」
三人は、図面の上にかがみこんだ。
「ここが十六号です」と、ジャップ警部はいった。
「そして、ここにジゼルの坐っていた二号があります。その間には、大勢の人々と、多くの席があります。もし娘が席を立たなかったとしたら……そして、みんなが、彼女は立たなかったと言っているのですから……彼女が、ジゼルの首の横に、針をあてるということは、不可能です。ですから、彼女は、リストから取り除いてもいいと思いますな。
さて、次は、その向い側の十二号。これは歯科医のノーマン・ゲールの席であります。同じことが彼にも言えるのです。まあ、雑魚ですな。彼にしても、蛇の毒液を手にするチャンスは、娘より、いくらかはあるぐらいなものですな」
「歯科医には、注射はあまりうれしいものではございませんよ。それは癒すと申すより、神経を殺すときに用いるくらいのものでございましょうからね」と、ポワロは静かにささやいた。
「そうですよ。歯科医は充分患者で面白い目をしているのですからな」とジャップ警部は、歯をむき出して笑って、
「しかし、薬品を扱う怪しげな商売に接近することのできる仲間に入るかもしれんですよ。あるいは、科学的な友人を持っているかも知れんし……だが、可能性のほうからいうと、かなりはずれていますな。席を離れてはいますが、それはトイレットへ行っただけのことで……方向がまったく違っておるですから、席へ戻るには、中央の通路を通るよりないし、老婆にあてるように吹き矢筒から矢をとばすには、直角に曲っていく特別仕立の矢を持って曲吹きでもせにゃならん。という訳で、彼はだいたい、除外していいでしょうな」
「賛成です。次へ行きましょう」と、フルニエ探偵がいった。
「通路をはさんだ反対側、十七号です」
「それは、もと、私の席だったのです。一人の婦人が、友人の傍へゆきたがっておいでだったので、私が代ってさしあげましたのです」と、ポワロがいった。
「これは、男爵令嬢カーです。この人はどうですかな? この婦人は大物です。あるいは、ジゼルから借りたかも知れんです。身辺に秘密を持っているようには思われんですが……しかし、競馬で、故意に馬を勝たせなかったとか何かそんなことがあったかも知れませんからな。この女には少し注意をしなければなりませんぜ。座席の位置に可能性があります。もし、ジゼルが、窓の外でもみようと思って、ちっとでも首を曲げれば、令嬢は、スポーツ的な射ち出し(それとも射ち吹きというかな)ができるです、対角線に横ぎって。いや、それは少し、まぐれ当たりの感があるな。そうするには立たなけりゃなりませんな。この女は、秋になると、猟銃でもかついで、出かけるような女ですよ。銃の発射が、原地人の吹き矢の役に立つかどうかはわかりませんがね。眼の問題ですね。……眼と熟練の問題ですよ。ことによると友人があるかも知れない……男の……地球の奇妙な方面に、狩猟にでも行ったことのある。ね、そのため、あんな妙な原地人のものを手にしたのかも知れないです。しかし、これは、どうも、たわごとらしく響きますなあ。あまり意味をなさない」と、ジャップ警部がいった。
「どうもありそうもありませんなあ。カー嬢は、今日の審問で会いましたが、どうも、あの人と犯罪とは結びつきそうもありませんな」といって、フルニエ探偵は、首をふった。
「では十三号にいくとしますかな。ホービュリー伯爵夫人。この女性は少しダークホースですぜ。この夫人のことは、いくらか知っておるです。追々に話しましょう。この女が秘密を、一つ二つ持っていると聞いても、別に驚きませんよ」と、ジャップ警部がいった。
「その問題の夫人が、ル・ピネの賭博場でひどく損をしたと、偶然にも聞きましたが……」と、フルニエ探偵がいった。
「そりゃよかったですな。この女こそ、ジゼルと関係するような種類の人ですよ」
「私も完全に賛成します」
「よろしい。それならば、ここではよし、と。しかし、|どういう風にやったか《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》? 彼女は席を立ちませんでしたね。彼女は席に膝をついて、座席の背にもたれかかってやらなければならんのです……十二人の人がみているところで。そりゃ、とてもだめだ! さ、次にゆきましょう」
「九号と十号」と、フルニエ探偵は、図面の上に指を動かしていった。
「エルキュール・ポワロさんと、ドクター・ブライアント。ポワロさんは、何と言われますか」
ジャップ警部が顔を向けていうと、ポワロは悲しそうに首をふって、
「私の胃……この頭が、胃の召使いになるとは!」とあわれっぽくいった。
「私も、そうなのです。私も、空では気分が悪いのです」と、フルニエ探偵が同情した。
彼は眼を閉じて、表情たっぷりに首をふった。
「さあ、では、ドクター・ブライアント。ドクター・ブライアントはどうでしょう? ハーレー街の大物です。フランス人の金貸しのところへ行きそうもない人ではないですが、しかし、それはわからんですな。もし、何かおかしなことが医師にあったとなれば、もう一生浮かばれんですからな! そこに私の科学的推理が入って来るんですよ。ブライアントのような人間は、いわば、木のてっぺんに坐っているのですからな。医学界のあらゆる研究家と知り合いです。どこか立派な実験室にでもいる時に、毒蛇の液の試験管を一つつまんでくることは、実に容易であります」
「そういう物は、ちゃんと照合してありますから、牧場のきんぽうげの花でも摘むように、たやすいものではありませんよ」と、ポワロが抗議した。
「照合してあっても、何か別のものを代りに置くことは、賢い人間ならできますよ。ブライアントのような人物は、誰も疑いませんから、簡単にできるですよ」と、ジャップ警部はいった。
「おっしゃることには、理窟がありますね」と、フルニエ探偵が賛成した。「ただ、ありそうもないことは、なぜ、彼が、そのことに注意をひいたかです。なぜ、あの女は心臓の故障で死んだ、自然死だと言わなかったのでしょうか」
ポワロは咳払いをした。ほかの二人は、問いたげにその方を見た。
「それが博士の最初の……印象とでもいいましょうか? とにかく、大そう自然死のように見えたのです。ちょうど、黄蜂にさされて死んだように……よろしいですか、あすこには黄蜂がいたのですからね。それを忘れないでください」と、ポワロはいった。
「あの黄蜂は忘れそうもありませんよ。あなたが、ずっと口癖に言っていましたからね」と、ジャップ警部が口をはさんだ。
「しかし、床の上に、あの致命的な毒針を見つけて拾いあげたのは私です。一度あれが見付かると、すべては殺人の方向へむきました」と、ポワロがつづけた。
「毒針は、どうしたって発見されることになったでしょうが……」と、ジャップ警部はいった。
ポワロは首をふった。
「犯人が、誰にも気付かれずに拾ってしまったかも知れない、と申すこともあります」
「ブライアントですか」
「ブライアントにしても、誰にしても」
「ふむ……危険を犯すことになる」と、フルニエ探偵は不賛成を唱えた。
「今、あなたは、あれが他殺であると知っておいでになるから、そうお思いになるのです。しかし、一人の夫人が急に心臓の故障で亡くなる。そんな時に、誰かがハンケチを落して、それを拾うために屈んでも、誰がその動作に注意し、二度とその行為を思い出すでしょう?」
ジャップ警部はそれに賛成した。
「それはそうですな。で、ブライアントはたしかに、嫌疑のリストの中に入ります。彼は、席の隅に頭を寄せて、吹き矢筒を用いることができます……自分の席から対角線に。しかし、誰も見ていないのだから……いや、このことはもう繰り返さんでおきます。誰がしたにしても、誰にも見られてはいないんですからな!」
「それには、きっと理由があるのだと思います。その理由は、ポワロさんに訴えた方がよさそうです。私は心理的理由のことを言っているのです」と、フルニエ探偵はいって、微笑した。
「どうぞ、あとをお続け下さい。おっしゃることは、興味がございます」と、ポワロがいった。
「たとえば、汽車で旅行している時に、燃えている家のそばを通るとします。すべての人の眼は、窓に向けられます。みんな、ある点に注意を向けるでしょう。そのような時に一人の男が短刀を出して、人を刺すとしても、誰もそれを見ないでしょう」と、フルニエ探偵がいった。
「それは真実でございますね。私は一つの事件を覚えております。私の関係した……毒殺事件でしたが、それと同じことが起きたのでした。それは、今おっしゃるように、心理的な瞬間でした。もし、プロミシューズ号の機上でも、そのような瞬間があったのを発見できたのであったら……」と、ポワロがいった。
「スチュワードや旅客に尋ねてみて、それを発見すべきです」と、ジャップ警部がいった。
「そのとおりです。しかし、そのような心理的瞬間があったといたしましたら、その瞬間の原因は、犯人によって作られたものでなければならないというのが論理的な考えです。その瞬間の原因になる、特別な効果を出すことができなければならないのです」と、ポワロはいった。
「そのとおりです、そのとおりです」と、フルニエ探偵がいった。
「では、その点を問題としてしるしておきますかな。さて今度は、八号席……ダニエル・マイケル・クランシーの番になります」
ジャップ警部は、その名を、かなり楽しそうに味わいながらいった。
「私の意見では、この男が、一番嫌疑をかけてもよい人間です。怪奇小説の作者が、蛇の毒液に興味を持つべき理由をでっちあげて、何の疑念も起こさないような科学者に、その材料を扱わせてもらうなんてことは、至って楽なことでしょう。彼が、ジゼルの席のそばを通って行ったことを忘れてはならんです……そうしたのは、旅客の中で、この男だけなんですからな」
「私も、その点は決して忘れてはおりませんよ」と、ポワロは、念をおすようにいった。
ジャップ警部は続けた。
「彼は、あなた方のいわれる『心理的瞬間』がなくても、かなり近くから、吹き矢筒を用いることができたでしょう。そしてまた、それでうまくやり通す、相当のチャンスもあったわけです。彼は吹き矢のことはよく知っておるです。自分でそう言ったのですからな」
「それで、ちょっと足ぶみさせましたね、たぶん」
「まったくずるがしこいんですよ。今日提出したあの吹き矢筒だって、あれが二年前に買ったものだと誰がいえるもんですか。すべてのことが、私には怪しく思われるですよ。だいたい、絶えず、犯罪とか、ミステリーとかいうものを考えて、そんな事件ばかり読んでいるなんて、健康的ではありませんや。どうしたって、いろんな知恵を頭の中に入れますよ」
「作家が頭に、いろいろな考想を蓄えるのは大そう大切なことですよ」と、ポワロが同意した。
ジャップ警部は再び機の見取図を見た。
「四号はライダーですな……死んだ女の前の席です。彼がしたとは思いませんが、この人を除外するわけにはいかんです。彼はトイレットへ行ったです。その帰りに、かなり近いとこから、とばすことができたかも知れんです。ただ、そうだったら、考古学者達と、面と向うかもしれんです。彼らが気がつくでしょう……また、気づかずにはいられないでしょう」
ポワロは、考え深く首をふった。
「あなた方は、考古学者をたくさん知っておられないでしょうね。もし、この人々が、ある点について、実際に心を奪われて議論しているものといたしましたら……それは、外界に対してはまったく盲目でつんぼになるものです。彼らは、何しろ、紀元前五千年くらいも前に存在していて、西暦一九三五年は、彼らにとっては存在しないのですから」
ジャップ警部は少し懐疑的にみえた。
「さあ、ではデュポンの方へゆきますか! 彼らについて何をいうことができますか? フルニエさん?」
「アルマン・デュポン氏は、フランスの最も有名な考古学者です」
「それだけでは、あまり大したことにはならんですな。彼の位置は、私の見地では、かなりいいのです……中央の通路の向うの、ジゼルから少し前の方です。しかも二人は、世界を歩きまわって、不思議な場所をたくさん掘っていました。容易に、原地人の蛇毒を入手できたかも知れんです」
「それはあり得ることですな」と、フルニエ探偵がいった。
「しかし、あなたはそうだろうとは思わないのですか?」
フルニエ探偵は疑い深く首をふった。
「デュポン氏は、研究のために生きているのです。彼は熱心家です。以前は、古物商だったのですが、発掘のために繁栄していた商売を投げ出してしまったのです。彼も息子も全力を研究に注いでいるのです。どうも私には……可能とは言えません……スタヴィスキーの分析法から、何でも信ずるのですが……彼らが、この事件に関係していることは、どうもあり得ないように、思われるのです」
「よろしいです」と、ジャップ警部がいった。そして覚え書きしていた紙片をとりあげて、咳払いした。
「こうなっておるです……
[#ここから1字下げ]
ジェーン・グレイ――確率…薄弱。可能性…皆無。
ゲール――確率…薄弱。可能性…皆無。
カー嬢――確率…極少。可能性…疑問。
ホービュリー伯爵夫人――確率…良。可能性…皆無。
ポワロ氏――犯罪者であることほぼ確実。心理的瞬間を作り得る機上唯一の人物。……」
[#ここで字下げ終わり]
ジャップ警部は、自分の冗談に大笑いした。ポワロは寛大に微笑し、フルニエ探偵は少しかたくなった。
それから警部は先へ進んだ。
[#ここから1字下げ]
「ブライアント――確率、可能性…ともに良好。
クランシー――動機疑わし…確率、可能性ともに、非常に良好。
ライダー――確率…不確実。可能性…やや良。
デュポン父子――確率、動機、ともに薄弱。毒薬を得る方法として良好。可能性…良。
[#ここで字下げ終わり]
これで、かなりよくしめくくってあると思うです。おきまりの尋問をたくさんせにゃならんでしょうな。まず第一に、クランシーとブライアントをやってみましょう……何をやっていたか見つけるんですな……過去に、金に困ったことはないかどうか……近頃、何か心配したとか、何か不安らしい様子をしていたというようなことはなかったか……去年の動静……といったような、いろいろのことを訊問するんですな。ライダーにもやってみましょう。また、ほかの人々をも、なおざりにしておいてはならんです。ウィルスンにかぎつけさせましょう。フルニエさんは、デュポンの方をおやり下さることでしょうな」
フルニエ探偵はうなずいた。
「ご安心なすって下さい……よく気をつけてやります。今夜、パリに帰りましょう。ジゼルの女中のエリーズから何か得られるかも知れません。また、ジゼルの動静も、いろいろ調べてみましょう。この夏、何をしていたか知るのもいいでしょう。ル・ピネにも一二度行っております。英国の人々の関係する取引きの、何か情報も得られるかも知れません。ああ、そうです。することはたくさんありますね」
二人はポワロをみた。彼は考えに沈んでいた。
「ポワロさん、あなたも何か手をつけますか」と、ジャップ警部が尋ねた。
「そうです。フルニエさんと一緒にパリへ行ってみようと思います」
「それはありがたいですね」と、フルニエ探偵がいった。
ジャップ警部は、不思議そうにポワロを見つめて、
「何をするつもりですかね? 今まで、大変静かにしておられたですが、何かちょっとした思いつきが浮かんだのですか」
「一つ二つね……一つ二つです。しかし、なかなかむずかしゅうございます」
「伺いましょう」
「一つ私が当惑しておりますことは、どこで吹き矢筒が見付かったかということです」と、ポワロはゆっくりいった。
「そりゃそうでしょうな。ほとんど、逮捕されかかりましたからな」と、ジャップ警部が笑った。
ポワロは首をふった。
「そのことを申しているのではございません。私を悩ましておりますのは、それが私の席の下に押し込んであったことではなく、それが席の下に押し込んであった事実でございます」
「そんなこと、私は何とも思わんですよ。誰がしたとしても、そいつをどこかへかくさにゃならなかったんですさ。自分が持っているのを見付けられたくなかったんですよ」
「あきらかにね。ですが、機上をお調べになった時に、気づかれたかも知れませんが、窓をあけることはできませんが、その一つ一つに通風装置があります……小さい円い穴がガラスにあいていて、それは、ガラスの扇状のもので、あけたり閉めたりすることが、できるようになっております。その穴は、あの吹き矢筒を通すのに十分な大きさです。ですからそこから、吹き矢筒を棄てたほうが、よほど楽でしょう? それは遙か下の地上に落ちて、永久に見付かることもなくなるでしょうに……」
「それに対する抗議はあるです……犯人は見られるのが恐ろしかったんですよ。もし、通風穴から、吹き矢筒を押しだせば、誰か気が付くかも知れんですからね」
「なるほど、彼は、吹き矢筒を唇にあてて、致命的な矢をとばすのは恐ろしくなかった。しかし、吹き矢筒を窓から押し出すのをみられるのが恐ろしかったのですか」と、ポワロがいった。
「少しおかしいですな、確かに。しかし、事実、犯人は席のクッションの後ろに、吹き矢筒をかくしたのです。それはいなむことはできんです」と、ジャップ警部がいった。
ポワロは答えなかった。そして、フルニエ探偵は訝しげに尋ねた。
「それが、あなたに何か一つの考えを与えたのですか」
ポワロは、そうだ、というように頭を下げた。
「それは、私の頭の中に、そうですね、ある臆測を起こすのです」
ポワロは、無意識に手を延ばして、ジャップ警部のそそっかしい手が、少し歪めて置いた、用もないインキ壷を真っ直ぐにした。
それから、急に顔をあげて尋ねた。
「それはそうと、あなたは、いつか私がお願いしておいた旅客の持ちものの、詳しい一覧表をお持ちですか」
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見付かった手がかり
「私は約束を守る男ですよ、そうですとも」と、ジャップ警部はいった。
彼は、にやにやしながら、ポケットに手をつっこんで、タイプライターで細かく打った紙をとり出した。
「さあ、ここにあります。みんな書いてあります……ごく細微にわたるまでね! そして、一つ、少しめずらしいものがあると言わにゃならんですが、まあ、ポワロさんが、それを読んでしまわれてから話すとしますかな」
ポワロは、紙をテーブルの上にひろげて読み始めた。フルニエ探偵も、歩みよって、その上からのぞき込んだ。
ジェームズ・ライダー
〔ポケット〕麻のハンケチ…Jのマーク入り。豚皮の財布…一ポンド紙幣七枚、名刺三枚、協同者ジョージ・エバーマンよりの手紙(内容、金策が巧くまとまるように希望……さもなくば窮地におちいる)。次の晩、トロカデロで会う約束の、モードと署名した安っぽい紙に、下手な字で書いた女の手紙。銀のシガレットケース。マッチホルダー。万年筆。鍵束。エール錠の合鍵。英仏の小銭。
〔書類鞄〕セメント販売に関する書類、および書籍『無益なカップ』一部(英国にて発売禁止のもの)。風邪薬一箱。
ドクター・ブライアント
〔ポケット〕麻のハンケチ二枚。二十ポンドと五百フラン入りの財布。英仏の小銭。約束控え簿。シガレットケース。ライター。万年筆。エール錠の合鍵。鍵束。
ケース入りの笛。
書籍二冊『ベンベヌート・チェリーニの追憶』および『ル・モー・ドロレイユ』
ノーマン・ゲール
〔ポケット〕絹ハンケチ。一ポンドと六百フラン入り財布。小銭。フランスの歯科医療器具製造会社の名刺二枚。ブライアント会社のマッチの空箱。銀製のライター。ブライヤーのパイプ。ゴムのたばこ入れ。エール錠の合鍵。
〔旅行鞄〕白麻上衣。歯科用小鏡二個。歯科用綿。パリジャン誌。ストランド誌、自動車雑誌。
アルマン・デュポン
〔ポケット〕千フランと十ポンド入り財布。ケース入り眼鏡。フランス小銭。木綿ハンケチ。シガレット箱入り。マッチホルダー。箱入り名刺。つま楊子。
〔旅行鞄〕王室アジア協会の講演原稿。ドイツ文考古学出版物二部。壷の粗描二枚。装飾をした管(クルドのパイプ)。竹細工の盆。台紙なし写真九枚(全部壷)。
ジャン・デュポン
〔ポケット〕五ポンドと三百フラン入り財布。シガレットケース。シガレットホルダー(象牙)。ライター。万年筆。鉛筆二本。覚え書きを満載したノート。L・マリナーより英文にて書かれた、トテナム・コートロード付近のレストランでの昼食への招待状。フランスの小銭。
ダニエル・クランシー
〔ポケット〕ハンケチ(インキのしみ)。万年筆(洩る)。四ポンドと百フラン入りの財布。最近の犯罪(砒素毒殺一、横領罪二)を扱った新聞記事の切りぬき三枚。田舎の所有地の詳細に関する土地売買業者からの手紙二通。約束控え帳。鉛筆四本。ナイフ。三枚の領収書。未払請求書四枚。汽船ミノトー号の用箋を用いた『ゴードン』からの手紙。タイムズ紙から切りぬいたクロスワードパズルの半記入のもの。小説の筋書のノート。イタリア、フランス、スイス、英国の小銭。ナポリのホテルの領収書。鍵の大束。
〔オーバーの中〕『ヴェスヴィアスの殺人』の原稿。大陸鉄道案内書。ゴルフの球。靴下一足。歯ブラシ。パリのホテルの領収書。
カー嬢
〔ハンドバッグ〕棒口紅。頬紅。シガレットホルダー二本(象牙製一、硬玉製一)。コンパクト。シガレットケース。マッチホルダー。ハンケチ。二ポンド。小銭。信用状の半片。鍵。
〔化粧箱〕さめ革、付属品付き。壜、ブラシ櫛など。マニキュアセット。洗面袋(歯ブラシ、スポンジ、歯みがき粉、石鹸)。はさみ二挺。英国の家族と友人よりの手紙五通。小型小説本二冊。スパニエル犬の写真二枚。
別に『ヴォーグ』『グッドハウスキーピング』の二誌。
ジェーン・グレイ嬢
〔ハンドバッグ〕口紅。頬紅。コンパクト。エール錠の合鍵。トランクの鍵。鉛筆。シガレットケース。ホルダー。マッチホルダー。ハンケチ二枚。ホテルの領収書(ル・ピネの)。フランス語句小冊子。百フランと十シリング入り財布。カジノの五フラン賭札。
〔旅行用上着ポケット〕パリの郵便はがき六枚。ハンケチ二枚。絹スカーフ。『グラディス』と署名した手紙。チューブ入りアスピリン。
ホービュリー伯爵夫人
〔ハンドバッグ〕口紅。頬紅。コンパクト。ハンケチ。千フラン紙幣三枚。六ポンド紙幣。フランス小銭。ダイヤモンドの指環。フランス切手五枚。シガレットホルダー二本。ケース入りライター。
〔化粧箱〕化粧用具一揃。マニキュアセット(黄金製)。『硼酸《ほうさん》粉末』とインキで書いた貼り紙のある小壜。
ポワロが、リストの終りまでくると、ジャップ警部が最後の項目に指を置いた。
「わが警察官は、この点なかなか抜け目なしですよ。こいつが、ほかの持ち物と合わんと睨《にら》んだですからね。硼酸粉末だなんて! 白い粉末はコカインだったんですぜ」
ポワロの眼は、少し開いた。そして首を、ゆっくりうなずかせた。
「別に、この事件に関係があるわけではないのですが、しかし、コカイン常習者は、あまり道徳的観念を持ち合わせているとはいわれませんな。私は、あの頼りない女性的な仕草にもかかわらず、夫人は、自分の欲しいものを得るためなら、体面などには執着しないだろうと思うです。そうはいっても、事を運ばせる気力があるかどうかは疑わしいものだと思うですよ。正直いって、彼女がこの犯罪をおこなうとは考えられんですよ。伯爵夫人には、ちょっとややこし過ぎるですよ」
ポワロは、タイプで打ってある紙をあつめて、もう一度読んでみた。それから溜息をついて、それをおいた。
「みたところ、罪を犯した者として、ある一人の人間を明らかにさしていると思われるのですが、それでいて、|どうしてか《ヽヽヽヽヽ》、|どういう風《ヽヽヽヽヽ》にかということがわからないのです」
ジャップ警部はポワロをみつめた。
「こんなものを読んで、誰がやったかわかったという顔をするんですか」
「そうなのです」
ジャップ警部は、その紙をポワロからうばいとってよみながら、一枚々々読んでしまうと、フルニエ探偵に渡していった。そして、最後のをテーブルに投げ出すと、ポワロをみつめて、
「私をからかっているんですか、ポワロさん?」といった。
「いや、いや、どういたしまして」
フルニエ探偵は紙を下へ置いた。
「あなたはどうですか、フルニエさん?」
フルニエ探偵は首をふった。
「私は、阿呆かも知れませんが、どうも、このリストで前進できるとは思われません」と、いった。
「それだけではね。……しかし、事件のある事柄と関連してお考えになっても、だめでしょうか? あるいは、私が間違っているかも知れません……まったく間違っているかも知れないのです」
「さあ、みんな話して下さい、あなたの推理を」と、ジャップ警部がいった。
ポワロは首をふった。
「いや、おっしゃるとおり、これは推理ですから、推理に過ぎないのですから。……私は、このリストの中に、あるものを期待していたのです。さよう、私はそれを発見いたしました。それは、その中にあります。しかし、どうも、その方向が間違った方を指しているようです。間違った人物に、正しい手がかりが見付かったのです。それは、仕事がたくさんあることを意味しております。ほんとうに、まだ判明しないものが、たくさんあります。私は自分の道がわかりません。ただ、ある事実だけが、目立って、特別の模様を作り出すように思われます。そう思われませんか? おわかりにならないようですね? ではめいめい、自分の思うところでやってみることにいたしましょう。私が別に確実性を持っているわけではありません。ただ、ある疑いです……」
「あなたは大言をはいているようですな」と、ジャップ警部はいって、立ち上った。「では、これですんだことにします。私はロンドンで働きます。あなたはパリに帰られますな、フルニエさん。我々のポワロさん……はどうなさいますか」
「私は、フルニエさんと一緒に、パリへゆきます……前よりもっとその必要ができました」
「前よりですと? どんな空想を、描いておられるんですか? 聞きたいもんですな」
「空想ですと? そりゃ素晴らしいですね!」
フルニエ探偵は礼儀正しく握手した。
「では、さようなら。素晴らしいご馳走をどうもありがとうございました。では明日の朝、クロイドン空港でお目にかかりましょう」
「そういたしましょう。では、また」
「今度、まさか、途中で、私どもを殺すことはないでしょうな?」と、フルニエ探偵がいった。
二人の探偵は別れた。
ポワロはしばらく夢見るように、そのまま坐っていた。それから立ち上って、乱雑ないろいろのものをとり去り、灰皿をきれいにし、椅子をなおした。
傍《わき》テーブルのところへ歩いていって、雑誌を一冊とりあげて、自分の探しているところまで、ページをくった。
それには、こういう標題があった。
「二人の日光礼讃者、ホービュリー伯爵夫人と、レイモンド・バラクロー氏、ル・ピネにおいて」
彼は、腕を組み合って、水泳着で笑っている、二人の姿をみていた。
「この辺から何かできるかも知れない……そうだ、できるかも知れない……」と、ポワロはいった。
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女中エリーズ
翌朝の天候は完全なもので、さすがのポワロでさえも、文句なく胃は平和だと言わなければならないほどであった。
この時、彼らは、パリ行きの、八時四十五分発旅客機で旅行していたのだった。
客室には、ポワロとフルニエ探偵のほかに、七八人の旅客がいた。フルニエ探偵は、この旅行を実験に利用したのだった。彼はポケットから、小さい竹の小片をとり出して、旅行の間に三度、自分の唇にあてて、ある方向にむけた。一度は、椅子の隅の方へからだを曲げて、一度は頭をわきへかるくむけて、もう一度は、洗面室から帰って来ながら実験してみた。どの時にも、旅客の中の誰かが穏やかな驚きを表わして、それを見守っていたのであった。最後の時は、みんなの眼が彼の方へ向けられたのであった。
フルニエ探偵は、がっかりして椅子に沈みこんでしまい、ポワロがあからさまに面白がっているのをみても、少しも楽しまなかった。
「あなたは面白がっておられますね。しかし、実験をしてみなければならないというのに賛成なさいませんかな?」
「それはそうですとも。まったく、あなたの完全を期しておられるのを賞讃いたします。実地検証に勝るものはございません。あなたは、吹き矢筒で、殺人犯の役をつとめてごらんになった。その結果は、まったく明らかです。誰でもあなたをみます」
「誰でもとは言えません」
「ある意味では、そうです。各々の場合、気のつかない人もいます。しかし、成功する殺人犯人には、それでは十分ではありません。誰もみないということが、理論的に確実でなければなりません」
「そして、これは、普通の条件のもとでは不可能です。私は特別の、異常の条件がなければならないという推理を支持します……すなわち、心理的瞬間ですな! あらゆる人の注意が、どこかほかの方へ、数理的にむけられているところの、心理的瞬間がなければなりません」と、フルニエ探偵がいった。
「その点では、ジャップ警部が細かい捜査をしてくれることになっております」
「ポワロさん、あなたは、私に賛成なさいませんか」
ポワロは躊躇していたが、ゆっくりいいだした。
「私は、なぜ、誰も、犯人を見なかったか、という心理的理由があったに違いないと申すことには賛成いたします……しかし、私の考えは、少しあなたのと違う方向へ走っております。この事件では、視覚的事実だけでは、迷わされやすいと感じております。あなたの眼を大きく開く代りに、閉じてごらんなさいまし。肉体の眼ではなくて、脳の眼をお用いなさいまし。頭の機能の中の、小さい、灰色の細胞をお働かせなさい……何事が起こったかと申すことを、その細胞に見せておもらいなさい」
フルニエ探偵は、不思議そうに彼をみつめていた。
「わかりませんな、ポワロさん」
「それは、あなたがご覧になったものから何かを引き出しておいでになるからです。観察ほど、誤った方向に導くものはございません」
フルニエ探偵は、首をふって、手を拡げた。
「あきらめます。あなたのおっしゃるわけがよくわからないのです」
「あなたのご友人のジローさんは、私の妄想に注意を払うなとすすめることでしょう。『立ち上って行動しなさい。安楽椅子に坐って、考えるなんてことは、盛りを過ぎた老人のすることです』と申すでしょう。しかし、若い猟犬は、あんまり熱心にかぎまわるので、かえってゆきすぎてしまうのです……燻製の鯡《にしん》のあとを追っているのです。さあ、今、お話しいたしたのは、よいヒントでございますよ」といって、ポワロは、座席の背にもたれて眼を閉じた。考えるためであったかも知れなかったが、確かに、五分たつと、彼は、ぐっすり眠ってしまっていたのだった。
パリに着くと二人は、ジョリエット街三番に直行した。
ジョリエット街は、セーヌ河の南側にあった。三番の家は、ほかの家とちがったところはなかった。年とった門衛が二人を迎え入れ、フルニエ探偵をみると、しぶい顔をした。
「また、警察ですか。困ったことばかりですよ。この家に悪い評判が立ちますからな」
彼はぶつぶつ言いながら、自分の部屋へ入っていった。
「マダム・ジゼルの事務室へ参りましょう。二階にありますから」と、フルニエ探偵がいった。
そう言いながら、ポケットから鍵を取り出して、フルニエ探偵は、英国での審問の結果を待っている間、ドアに鍵をかけて、封印をしておいたのだと説明した。
「ここに、私どもの助けになるものがあるからというのではないのですが……」と、フルニエ探偵はいった。
彼は封印をはがした。ドアをあけて、二人は中に入っていった。マダム・ジゼルの事務室は、小さい、息づまるような感じのする部屋であった。隅のほうに、旧式な金庫があり、いかにも事務室らしい書机と、貧弱な、布張りの椅子が数脚おいてあった。たった一つの窓は汚くて、一度も開けたことがないらしかった。
フルニエ探偵は、あたりを見まわして肩をすくめた。
「ごらんのとおり何にもありません。まったく何もないのです」
ポワロは机の後ろにまわった。椅子に腰かけて、机越しにフルニエ探偵を見た。しずかに机の上を、それから、その下に手をやった。
「ここに呼鈴があります」と、彼はいった。
「そうです。門衛のところへ通じているのです」
「ああ、かしこい用心深さですね。夫人の顧客は、時にはあばれることがあるかも知れませんでしたから……」
彼は、ひきだしを一つ二つ開けてみた。便箋とカレンダー、ペンと鉛筆、などはあったが、書類や、個人的なものは、何にもなかった。
ポワロは、それをざっとながめただけであった。
「あまりよく調べて、あなたに恥をおかかせしてはいけません。もし何かあるのなら、あなたが発見なすったでしょうからね」といって、金庫の方を見て、
「あんまり効果のありそうな種類のものではございませんね?」といった。
「時代遅れの代物で」と、フルニエ探偵も賛成した。
「空でしたか」
「そうです。あのろくでなしの女中が、みんな焼いてしまったのです」
「ああ、そう、女中ですね。腹心の女中ですね。会わなければなりませんね。この部屋は、おっしゃるとおり、何にも語ってくれるものがありません。これは意味深長でございますね。そうお思いになりませんか」
「意味深長とはどういう意味ですか、ポワロさん?」
「この部屋には個性的な特徴を現わすものがない、と申すことです。それが面白いと思います」
「彼女は感情の女ではありませんでした」と、フルニエ探偵が苦々しくいった。
ポワロは立ち上った。
「さあ、その女中に会いましょう……その立派な、腹心の女中に……」
エリーズは、中年の、赤ら顔の、するどい、小さい眼をした女性で、フルニエ探偵の顔から、ポワロの顔をちらと見て、また、フルニエ探偵の顔を見るのであった。
「エリーズさん、お坐りなさい」と、フルニエ探偵がいった。
「ありがとうございます、旦那様」
彼女は、おちついて腰かけた。
「ポワロさんと私は、今日、ロンドンから帰って来たのだよ。審問……奥様の死についての審問が、昨日あったのだが、疑いなく奥様は毒殺されたのだよ」
女中は、重々しく首をふった。
「おっしゃることは怖ろしいことでございます、旦那様。奥様が毒殺されたのですって? そんなこと、誰が考えたのでございましょう?」
「そこが、たぶん、あんたが、我々を助けてくれる点でしょう」
「そうでございますとも、旦那様。警察をお助けするのに、できるだけのことを、いたしましょう。けれども私は、何にも存じません。全然知らないのでございまして……」
「奥様には敵があったということを知っていますか」と、フルニエ探偵が、するどく尋ねた。
「それは本当ではありません。なぜ、奥様に敵があるのでしょうか」
「やれ、やれ、エリーズさん、職業は、金貸しだったんだよ……ある不愉快さはあったに違いない」と、フルニエ探偵は苦々しくいった。
「そりゃ、時々、奥様の顧客様の中には、不愉快な方もございましたわ」と、エリーズが賛成した。
「騒ぎを起こしたのかね。それとも、おどかしたのかね?」
女中は首をふった。
「いいえ、いいえ、それはお間違いです。おどかしたのはお客様の方じゃないんでございます。あの方たちは悲しんでみせたり……不平をいったり……払えないと抗議したり……いろんなことをなさるのでした。はい」
その声には、軽い侮蔑がふくまれていた。
「時には、払えなかったりしたでしょうね?」と、ポワロがいった。
エリーズは肩をすくめた。
「そうかも知れません。それは、その人達のことですわ。たいてい、おしまいには払いました」
その声の調子には、かなり満足が含まれていた。
「マダム・ジゼルはきつい夫人だったね」と、フルニエ探偵がいった。
「奥様には、それだけの理由がございました」
「あんたは、犠牲者を気の毒と思わないのかね?」
「犠牲者ですって……犠牲ですって……」
エリーズは、いらいらしていった。
「おわかりにならないのでございます。身分不相応な生活をして、借金するのは当然ですわ。それで金につまって借金しにかけ込んで来ておいて、そのお金を贈り物にでもしてもらうつもりなのでしょうか? そんなこと、理屈にあいませんよ。奥様はいつも、公平に、正しくしていらっしゃいました。貸してあげて、支払いを要求なさったのです。それは当然ではございませんか? 奥様には借りはありませんでした。借りたものは、正直にお払いになりました。払わない勘定書なんて一つもございませんでした。ですから、奥様がきつい夫人だなんておっしゃるのは、真実ではございません。奥様はご親切でした。貧者の姉妹会の方々がおいでになると、寄付もなさいました。慈善事業にもおあげになりました。門衛のジョルジュの家内が病気の時にも、奥様は、田舎の病院へ入るお金を出しておやりになりましたくらいでした」
彼女はやめた。その顔は赤くなって、怒っていた。
彼女はくりかえした。
「おわかりにならないのです。いいえ、あなた方は、奥様のことが、少しもおわかりにならないのです」
フルニエ探偵は、その怒りがしずまるまで、少しの間待っていた。そしてこういった。
「あんたは、奥様の顧客たちが、|おしまい《ヽヽヽヽ》には払うようになるといったね。奥様が、そうさせるのには、どんな手段をこうじたかわかっているのかね?」
彼女は肩をそびやかした。
「存じませんです……何にも存じませんのです」
「あんたは、奥様の書類を焼いてしまったほど、わかっていたじゃないかね?」
「それは奥様のお指図どおりにやったのでございますよ。もし、奥様に何か事故がおこるようなことがあったり、または病気になって、どこか家から離れたところででも死ぬようなことがあったら、私が、この書類を焼いてしまうことになっておりました」
「その書類は、階下の金庫の中にあったのですか?」と、ポワロがきいた。
「そうでございます。仕事の書類は……」
「では、それは、階下の金庫の中にあったのですね?」
ポワロのしつっこさで、エリーズの頬は紅潮してきた。
「私は、奥様のお指図どおりにしたのでございます」と、彼女はいった。
ポワロは微笑して、
「それは、わかっております。けれども、書類は金庫の中になかったのでしょう? そうではありませんか? あの金庫は、大そう古風なので、どんな素人でも開けることができます。書類はほかの場所にありました。たとえば、奥様の寝室にでも……?」
エリーズは、ちょっと休んでから、答えるのだった。
「そうでございます。奥様はいつも、顧客様たちに、書類は金庫に入っているように見せかけておいでになりましたが、本当は、あの金庫はごまかしなのでございます。何でも皆、奥様の寝室にありました」
「そこへつれて行って下さいませんか」
エリーズは立ち上った。二人の男はついていった。寝室はちょうどいい加減の大きさの室で、かざりのある重い家具が一ぱいに入っているので、それを自由に動かしまわすことは困難であった。一隅に、大きい、古風なトランクがあった。エリーズがその蓋をもちあげて、絹のスカートのついた、流行遅れの、アルパカの服をとり出した。その服の内側に、深いポケットがついていた。
「書類はこの中にあったのでございますよ、旦那様。大きい、封のした封筒の中にしまってあったんでございます」と、彼女はいった。
「二三日前に、私がきいた時には、こういうことは何にも言わなかったね」と、フルニエ探偵がするどくいった。
「ごめん下さいまし、旦那様。金庫にあるはずの書類はどこへやったと、お聞きになりましたものですから、私が焼いてしまったのだと申しあげたのでございます。それは本当でございますもの。どこにあったかは、必要でないように思われたんでございます」
「そりゃそうだな。その書類は焼いてはいけなかったんだよ、エリーズさん」と、フルニエ探偵がいった。
「私は、奥様のお指図どおりにしただけでございます」と、エリーズは、やけになって言った。
「そりゃ、一番いいと思ってやったんだろうとも」と、フルニエ探偵はなだめるようにいって言葉を続けた。
「さあ、私のいうことをよく聞いて下さいよ。奥様は殺されたのだ。何か、ある害になるようなことを奥様が知っていた一人の人か、または幾人かの人によって殺されたのだということもあり得るのだ。そのことは、あんたの焼いた書類の中にあったのだ。また、一つ質問したいのだがね、急いで考えもしないで答えてしまわないで。あんたが、その書類を焼いてしまう前に、ちらと見たかも知れないのだが……それはありそうなことで、またよくわかることなのだが、もしそうだったとしたら、そのことに対して、あんたを責めるつもりはないし、それどころか、あんたの得た知識のどれかが、大いに警察の助けになるかも知れないし、また、殺人犯人に正義の手を下すことにもなるかも知れないのだから、あんたは、真実のことをいうのを、恐れてはいけない。焼いてしまう前に、書類をちょっとみたかね?」
エリーズは深く息をした。前かがみになって、力を入れていった。
「いいえ、旦那様、私は何にも見ませんでした。何にも読みませんでした。封をきらないで封筒ごと焼いてしまいました」
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黒い手帳
フルニエ探偵は、一二分、彼女をじっと見詰めていたが、真実のことを言っているのを確信すると、失望の動作をして、横をむいた。
「情けないことだ、あんたは、正しい行動をしたのだが、しかし、情けないことだ」と、彼はいった。
「仕方がございません、旦那様。すみませんでした」
フルニエ探偵は坐って、ポケットから手帳をとり出した。
「こないだきいた時に、あんたは、奥様の顧客の名前を知らないと言ったね。しかし、さっきは、その人々が、泣いたりわめいたりして、慈悲をたのんだと言ったね。だから、マダム・ジゼルの顧客を少しは知ってるんだろう?」
「はっきり申し上げましょう、旦那様。奥様は決して、名前をおっしゃいませんでした。お仕事のことは決して話されませんでした。それでも、人間でございますものね。時には、思わず叫んだり……何か意見なんかを言われることもあるものでございますね。奥様は、ひとり言のように、私に話しかけたりなさったことがございましたよ」
ポワロがのり出した。
「もし、何か例でも示して頂けましたらね」
「そうでございますね……ああ、そう、そう……たとえばお手紙のまいりました時なんか、奥様はそれを開いてから短い、苦々しい笑い方をなさいました。そしてこうおっしゃったりしました。『そんなに泣いてお見せになっても、おろおろ声をお出しになっても、同じことですよ、ご立派な貴婦人様。やっぱり、お払いにならなければいけませんわ』また、私にこうもおっしゃいました。『何てばか達なんだろう。何てばか達なんだろう。私が、大金を何の保証もなしに貸すなんてとんでもない。知っているってことが、保証なんだよ、エリーズ。知っているということは力なんだよ』って、そういったことをよくおっしゃいました」
「奥様の家へ尋ねて来た顧客を、見たことがありますか」
「いいえ、旦那様……ほとんどございませんのです。二階だけへおいでになりますし、それに、よく暗くなってから見えましたので……」
「マダム・ジゼルは、英国への旅行にたたれる前に、ずっとパリにおられましたか」
「その前日の午後、パリに、帰られたばかりでございました」
「どこへ行っておられたのでしょう?」
「二週間ほど、ドーヴィルだの、ル・ピネだの、それからパリ、プラハだの、ワイマローだの……いつも九月頃にはおまわりになるところでございます」
「さて、エリーズさん、何か、何か、役に立つようなことを言われませんでしたかなあ?」
エリーズは少しの間、考えていた。それから、首をふるのだった。
「いいえ、旦那様、何にも覚えておりません。奥様は上機嫌でおいでになりました。仕事はうまくいっているとおっしゃいました。ご旅行も利益があったのでございました。それから、国際航空に電話をかけるようにおっしゃって、次の日の英国行きの切符をおとらせになりました。朝早い時のはもう満員でしたので、十二時のに席をおとりになりましたのです」
「何の用で英国へ行くのかおっしゃいましたか? 何か至急のことでもあったのですか」
「いいえ、旦那様。奥様は英国へたびたびお出かけになりました。たいていその前の日に、私にそうおっしゃいました」
「その晩、誰か、奥様に会いに来た、顧客はなかったですか」
「一人みえたと思います、旦那様。でも、確かではございません。もしかすると、ジョルジュが知っているかも知れません。奥様は、私には何にもおっしゃいませんでした」
フルニエ探偵は、ポケットから、色々の写真を取り出した……たいていは報道陣の写したスナップで、検屍官の裁判所から出ていく時の証人のスナップショットだった。
「この中のどれかがわかるかね?」
エリーズはそれを手にとって、代る代る眺めた。それから首をふった。
「いいえ、旦那様」
「それでは、ジョルジュにきいてみなければならない」
「そうでございますね、旦那様。でも、困ったことに、ジョルジュは、あまり視力がよくございません。困ったことでございます」
フルニエ探偵は立ち上った。
「さて、私は帰ろう……もし、あんたが、もう何にもいうことがないなら……何にも、言い落としたことがなければだがね」
「私がですか、何が……何があるでしょう?」
エリーズは困ったようであった。
「じゃ、よろしい、では、ポワロさん、失礼しました。何か探しておいでになるのですか」
ポワロは、ほんとに、何ということなしに、何か探してでもいるように、部屋の中を歩きまわっていたのだった。
「そうですね。私は、見えないものを探しているのです」
「何ですか、それは……?」
「写真です。マダム・ジゼルの家族の……写真です」
エリーズは首をふった。
「家族っておありになりませんでした。奥様は、世界中にたったお一人でいらしたのです」
「娘が一人あったのです」と、ポワロはするどくいった。
「そうでございます。お嬢さんがあったことはありましたが……」
エリーズは溜息をついた。
「娘の写真はないのですか」
「ああ、旦那様はおわかりにならないのです。お嬢さんはおありになりましたが、それは、ずっと前のことでございました。ごく小さい赤ちゃんの時から、お会いになったことがなかったと思います」
「どうしてそうなのかな?」と、フルニエ探偵は、するどく追求した。
エリーズの手が表情たっぷりに動いた。
「それはわかりません。奥様がお若かった頃のことです。その頃、奥様はおきれいで、貧乏でいらしたときいております。結婚なさったかも知れないし、なさらなかったかも知れません。私は、なさらなかったと思っています。ともかく、そのお子さんについて、どうにかなさったらしいに違いありません。奥様のほうは天然痘をなさって……ひどくおわるかったのです。ほとんど亡くなるくらいだったのです。おなおりになった時には、前の美しさはなくなっていたのです。もう、ばかなことも、ロマンスもありません。奥様は仕事の人となられました」
「しかし、財産は、その娘に遺したのですな?」
「それはあたり前でございますよ。自分の肉親の者に残さなくて、誰に残すのですか? 血は水よりも濃いのですから。それに、奥様にはお友達がありませんもの。いつもお一人でいらっしゃいました。金銭が熱情でしたもの……お金をもっと、もっとお作りになることだけ考えていられたので、ご自分は、ほんの少ししかおつかいになりませんでした。贅沢に対する愛情はおありになりませんでした」
「奥様はあんたに遺贈金を残しましたね、それを知っていますか」
「はあ、伺っております。奥様はいつも気前がおよろしかったんでございます。お給金のほかにもたくさん、毎年下さいました。私は、奥様をありがたいと思っております」
「では、帰りましょう。出るとき、ジョルジュじいさんと話をしてゆきましょう」
「すぐおあとからまいりますから」と、ポワロはいった。
「お好きなように……」とフルニエ探偵は去った。
ポワロは、もう一度、部屋を歩きまわって、それから坐って、エリーズに眼をすえた。
するどく見つめられて、彼女は、少し反抗的になった。
「まだ、旦那様は、何かご用がございますのですか?」
「エリーズさん、あなたは、誰が奥様を殺したかを知っていますか」と、ポワロがいった。
「いいえ、旦那様。神様のお前に誓います」
彼女は熱心にいった。ポワロは、探るように彼女を見た。それから、頭をさげた。
「よろしい、承知しましょう。けれども、嫌疑は、また別のことです。そのようなことを誰がするだろうか……というような考えが……ただの考えだが……ありませんか」
「何にもございません、旦那様。警察の方にも、そう申し上げました」
「あの方と私とでは、あなたのおっしゃることが違うかも知れません」
「どうして、そんなことをおっしゃるのですか? どうして、私がそんなことをしなければならないのですか」
「警察に通知するのと、普通の個人に報告するのとは、違ったことですから」
「そうですね。それはほんとうでございますね」と、エリーズも承認した。
言おうか言うまいかというような様子が、顔にあらわれた。考えている様子であった。彼女をしっかりみつめて、ポワロはのり出して言った。
「ちょっとお話しましょうか、エリーズさん? 聞いたことを信じない……証明されないことは何にも信じないのが私の仕事の一部です。私は、はじめ、この人を疑い、それからほかの人を疑うようなことをしません。私は誰でも疑うのです。誰でも、犯罪に関係のある人は、その人が罪がないと証明されるまでは、私には罪人とみられるのです」
エリーズは、怒って、顔をしかめた。
「私を疑っているとおっしゃるのですか……私……を奥様を殺したといって? そんなひどいこと! よくそんなことがいえたもんですね」
彼女の小さい胸は、嵐のように上ったり下がったりした。
「いいえ、エリーズさん。私は奥様を殺したということで、あなたを疑っているのではありません。誰が、奥様を殺したとしても、それは飛行機上の旅客なのです。ですから、行為をしたのはあなたの手ではありません。ですが、その行動の共犯者であるかも知れません。あなたが、奥様の旅行の詳細を誰かに告げたかも知れませんからね」
「私はそんなことをしませんでした。しなかったことを誓います」
ポワロはしばらく彼女を黙ってみつめていた。それから、うなずいた。
「あなたを信用します。しかし、あなたがかくしている事実があります。ありますとも。まあ、お聞きなさい。ちょっとお話しましょう。犯罪に関する場合には、ほとんどいつも、証人を尋問するとき、同じ現象に出あいます。|みんな何かかくして《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》いるのです。時々……また、しばしば……まったく無害な、犯罪と無関係のことが多いのです。が、常に、あるものがあるのです。あなたもそうです。拒んではいけません。私は、エルキュール・ポワロです。そして、私は知っています。私の友人のフルニエさんが、あなたに、何にも言いのこしたことはないか、と聞いた時に、あなたは困っていました。あなたは無意識に、逃げるように答えたのです。それに、また、今、警察に話したくないことも話したらと、私がいった時に、心の中で、そのことを、明らかに考えていたのです。そのことが何だか知りたいのです」
「あまり大切なことではないんです」
「そうかも知れません。しかし、何だか話してくれませんか? 覚えておいでなさい。私は警察ではないのです」ポワロは、相手がためらっているのでそういった。
エリーズはためらっていたが、語り出した。
「それはほんとうです、旦那様。私は困っているのでございます。奥様ご自身、私にどうさせようと思っていらしたかわからないのでございます」
「三人よれば、文珠の智慧と申すこともありますから、私に相談してくれませんか。一緒に問題を解きましょう」
エリーズは疑わしげに彼を見た。彼は微笑していった。
「あなたは、立派な番犬ですよ、エリーズさん。それは、なくなった奥様に対する、忠実さの問題ですね?」
「そうなんでございますよ、旦那様。奥様は私を信用なさいました。私が奥様にお仕えしましてから、私はお指図を忠実に守ってまいりました」
「あなたは、何か、奥様がして下さったことに対して、恩を感じているのでしょう」
「旦那様は勘のいい方ですね。そうなんでございます。そうだと申し上げるのをはばかりません。私はだまされました。そして貯金もぬすまれてしまったのでございます……そして子供もいたんでございます。奥様がご親切にして下さいまして、農家のいい人々に育てさせるようにして下さいました。いい農場でございますよ、旦那様。そして、正直な人達なんです。その時でございました。奥様が、自分も母親だと、私におっしゃいましたのです」
「その子供の年や、どこにいるかとか、そのほか、細かいことを話しませんでしたか」
「いいえ、旦那様。もうすっかり終って、忘れ去った生涯の一部分としてお話しなすっただけでございます。それが一番いいことなのだとおっしゃいました。小さい娘さんは何不自由なく育てられ、商売をするように仕込まれるのだとおっしゃいました。また、死んだとき、自分の財産をつぐのだとおっしゃいました」
「その娘さんと父親のことを、それ以上、何にも話しませんでしたか」
「いいえ、旦那様。でも私が思うに……」
「話して下さい、エリーズさん」
「でもこれは、ただの考えですから……」
「そうですとも、そうですとも」
「子供の父親は、英国人だと思うんでございます」
「どうして、そんな印象をあなたに与えたのですか」
「別に何ということもないんでございますけれど……英国人のことをおっしゃる時に、奥様の調子に、苦々しさがございました。また、お取引きの時にも、英国人を押える力がある時は、うれしそうに見えました。それは、ただ、ほんの印象でしたから……」
「そうです。しかし、貴重なものかも知れません。可能性に道をひらきます。そして、あなたのお子さんは? エリーズさん、それは女のお子でしたか、男のお子でしたか」
「女の子でした、旦那様。でも、もう死にました……五年も前に……」
「ああ、それはお気の毒でしたね」
ちょっと沈黙があった。
「さあ、エリーズさん、あなたが、今までさしひかえていたことは何ですか」
エリーズは立って、室を出た。二三分たつと、手に、小さい、みすぼらしい黒い手帳を持って戻って来た。
「この手帳は、奥様のでした。これは、奥様と一緒に、どこへでも行ったのです。今度、英国へおいでになった時には、見付からなかったんでございます。どこかに置き忘れなさったんでした。お出かけになってから、私が見付けました。寝台の頭の下に落ちていたんでございます。奥様がお帰りまで、私の部屋へとっておきましたのです。奥様のおなくなりになったことを聞きますと、すぐ、書類の方は焼き棄てました。けれど、この手帳は焼きませんでした。このことのお指図はなかったものですから……」
「いつ、奥様の死を聞いたのですか」
エリーズはちょっとためらった。
「あなたは、警察から聞いたのでしょう? あの人達がここへ来て、奥様の書類を調べたのでしょう。金庫の空なのを見たのですね。それで、あなたが焼いてしまったことを話したのですね。しかし、ほんとは、後まで焼かなかったのですね」と、ポワロがいった。
「そのとおりでございます、旦那様。あの人々が金庫を探している間に、私はトランクから、書類を出しました。そして、もう焼いてしまったといったのでございます。そうでございます。結局だいたい、それがほんとのことでございます。でも、私の困っているところがおわかりでしょう? 警察にはおっしゃいませんでしょうね? 私にとっては、とんでもないことになりますから」
「エリーズさん、あなたは、大そういいと思ってされたことです。しかし、それにしても残念でしたね?……ひどく残念でしたよ。しかし、済んだことをくやんでも仕方がありません。あの警察官のフルニエさんには、何も、書類が焼かれた正確な時間を通知する必要はないのです。さてこの小さい手帳に、何か、私達を助けるようなものがあるかどうか、見ようではありませんか」
「あるとは思われませんが、旦那様」と、エリーズは、首をふりながらいった。
「それは、奥様の個人のメモでございますが、ただ、数字だけでございます。書類やなにかがなければ、この記入は意味がないんでございます」と、エリーズは、首をふりながらいった。
気のすすまない様子で彼女は、その手帳をポワロにさし出した。ポワロはそれを受けとって、ページをくった。横にねた、外国人らしい書体で、鉛筆の記入がしてあった。それは、みんな同じようなものだった。数字の後には、少しこまかい説明がしてあった。こういうものであった。
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CX、二五六、大佐の妻、シリアに駐屯、連隊の資金。
CF、三四二、フランスの代表、スタヴィスキー関係。
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記入は、皆、同じ種類のもののようであった。たぶん二十件もあったろう。終りに、時々場所のメモがあった。それは次のようなものであった。
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ル・ピネ、月曜日、カジノ、十時三十分。
サボイホテル、五時、A・B・Cフリート街、十一時。
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これはまた、これだけでは完全ではなかった。そして、実際の約束というよりも、ジゼルの記憶のために書かれたものらしかった。
エリーズは、心配そうにポワロをみまもっていたのだった。
「何でもございませんよ、旦那様。私にはそう思われますのです。それは、奥様にはわかるのですが、見た人にはわからないのでございます」
ポワロは手帳を閉じて、ポケットにしまった。
「これは価値があるかも知れませんから。これを渡して下さってよかったですよ。そしてあなたの気持ちを楽にしておいでなさい。奥様は、この手帳を焼くようにとはおっしゃらなかったのでしょう?」
「それは、そうでございます」と、エリーズは、少し顔を輝かしながらいった。
「ですから、お指図がなかったのですから、これを警察にわたすのがあなたのつとめです。私が、フルニエさんによく言ってあげますから、早く出さなかったので、責められるようなことはありません」
「旦那様はご親切でございます」
ポワロは立ち上った。
「では行って、仲間の人と一緒になりましょう。もう一つ聞きましょう。最後にあなたが、マダム・ジゼルのために飛行機の席をとったとき、ル・ブールジェの飛行場に電話をかけましたか、それとも、会社の事務所にかけましたか」
「国際航空の事務所にかけました、旦那様」
「それは、カプシーヌ大通りにあるのですね?」
「そうでございます、旦那様……二五四番でございます」
ポワロは小さい手帳にその番号を記入して、それから、親しみ深くうなずいてから、室を出た。
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謎のアメリカ人
フルニエ探偵は、老ジョルジュとすっかり話し込んでいた。探偵は、当惑したように赤くなっていた。
「警察らしいでさあ、一つのことを何遍も何遍もきいて! 何をきこうってんですかい? そのうちにゃ、ほんとのことをやめてしまって嘘をかわりにいうとでも思ってんですかい? 気持のいい嘘をね。旦那方の本にでも似合うやつをね」と、ジョルジュは、だみ声で、怒っていた。
「嘘がほしいんじゃないよ、真実だよ」
「だからいいでしょう。今まで話していたのはほんとのことですよ、そうですさ。英国へ奥様がたった前の晩に、女が一人会いに来ましたさ。あんたがこの写真をみせて、その女がこの中にいるかどうか聞きなさった。それであっしがさっきから、ずっと話してますように……眼がよくないので……暗かったので……わからなかったんでさあ。顔と顔と合わせたって、わからないですよ。もう四度も五度も話しましたよ」
「その女が背が高かったか低かったか、髪が黒かったか明るい色だったか、若かったか、年よりだったかもわからなかったのかい? そんなことは信じられないね」
フルニエ探偵は、いらいらして、皮肉にいった。
「そんなら、信じなけりゃいいでしょうよ。かまうもんですかい、えらいこってすよ……警察なんかとかかりあってみっともないでさあ。奥様が、高い雲の上で殺されなかったら、このジョルジュが毒殺したとでもいうんでしょう。警察ってそんなものでさあ!」
ポワロは、友人の腕に、巧みに腕をすべりこませて、フルニエ探偵のいかりの言葉をとめた。
「さあお腹がすきましたよ。簡単な、しかし気持のよい食事でもやりましょう。茸《きのこ》のオムレツ、ノルマン風の舌びらめ、ポールサリュのチーズと赤葡萄酒としましょうか。どんな葡萄酒がいいですかな?」と、ポワロはいった。
フルニエ探偵は、時計をちらと見た。
「ほんとうですな、もう一時です。このけだものとしゃべっていて……」といって、彼はジョルジュの方を見た。
ポワロは、老人をみて勇気付けるように微笑した。
「名なしの夫人は背が高くもなく、低くもなく、色が黒くも白くもなく、肥ってもやせてもいなかったんですね? しかし、これだけはいえるでしょう。しゃれていたでしょう?」と、ポワロはいった。
「しゃれていたって?」と、ジョルジュは、少しびっくりしたようにいった。
「そうですね。その夫人はしゃれていた。ねえ、君、きっと海水着でも着たら、よく似合うと、私はちょっと思うのですがね?」と、ポワロがいった。
ジョルジュは、眼をみはった。
「海水着ですと? 海水着なんて、一体何のこってすか」
「私のちょっとした考えですよ。魅力のある女性というものは、海水着をきると、もっとすばらしいものですよ。そう思わないんですか。そんなら、これをごらんなさい」
彼は、老人に雑誌から裂いてきた一ページを手渡した。
ちょっと沈黙があったが、老人は、かるく驚いたようだった。
「どうです、賛成するでしょう?」と、ポワロが尋ねた。
「この人達は、よくみえますさ。何にも着ていない、と言ったっていいくらいですからな」と、老人は言って、その紙を返した。
「ああ、それは、この頃、太陽の光線が、人の皮膚に利益があるということが発見されたからなんですよ。大変、重宝ですからね」と、ポワロがいった。
ジョルジュは、やっとしわがれた笑い声をあげるくらいになった。そして、ポワロとフルニエ探偵が、太陽のあたる通りに出ると、自分の部屋へ引込んでしまった。
ポワロの計画どおりの食事が始まると、彼は例の小さい黒い手帳をとり出した。
フルニエ探偵は、興奮して、エリーズに対して腹を立てている様子だった。ポワロが、その点について話し出した。
「それはまったく自然ですよ。警察? それは、常に、あの階級の者に対してはおそれられてる言葉なのです。自分たちのわかりもしないことにかかり合いになるのですから。どこでも、どの国でも、それは同じことなのです」
「そこであなたが得点を得るんですね。私立探偵というものは、警察のものよりも、証人からも多くを得るものですね。しかし、また、ほかの見方もありますからね。私どもの方には公認記録があります……大きい組織の全体が管理する記録が、ただちに入手できるのです」と、フルニエ探偵がいった。
「ですから、お互いに一緒に仲よくやりましょう」と、ポワロは微笑しながら、
「このオムレツはうまいですな」といった。
オムレツと、舌びらめの間に、フルニエ探偵は、黒い手帳のページをめくった。それから、鉛筆で自分の手帳に書き入れた。
彼は、ポワロの方をみた。
「これはごらんになったのでしょう?」
「いいえ、ちらと見たくらいなものです。みてもよろしいですか」ポワロは、フルニエ探偵から、その手帳を受けとった。
チーズが前におかれると、ポワロは、その手帳をテーブルの上においた。そして、二人の眼はあった。
「あやしい項目があります」と、フルニエ探偵がいい始めた。
「五つあります」と、ポワロがいった。
「そうです……五つあります」
彼は自分のノートをとり出して読んだ。
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CL五二 英国貴族夫人、夫
RT三六二 医師 ハーレー街
MR二四 にせ骨董品
XVB七二四 英国人 横領罪
GF四五 殺人未遂 英国人
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「すばらしいですね」と、ポワロはいった。「私達の頭は、一緒に、驚くべきところまで進んでおります。その小さい手帳の記入のうち、この五つは、飛行機で旅行した人々に関係がある唯一のものであるように思われます。一つ一つとりあげましょう」
「英国貴族夫人、夫」フルニエはいった。「……これは、たぶん、ホービュリー伯爵夫人にあてはまりましょう。彼女は、よく知られた賭博者です。ジゼルから金を借りたといっても、さもありそうなことです。ジゼルの顧客には、あのようなタイプの者が多いのです。夫、という言葉には、たぶん二つの意味があるでしょう。ジゼルが、夫に妻の負債を払ってもらうことを予期していたか、または、ホービュリー伯爵夫人の弱点を知っていて、その秘密を夫人の夫にばらすと脅迫する、というようなことかも知れません」
「そのとおりですね。そのどちらでも考えられましょう。私はその二番目のほうだと思います。特に、空の旅に出る前夜、ジゼルを訪問したのは、ホービュリー伯爵夫人だということに賭けてもいいと、思っておりますほどですから」
「ああ、あなたはそう思っておられるのですか?」
「そうです。そして、あなたもご同様だと思います。あの門衛の性質には、騎士的精神が多少ありますね。あの、訪問客のことを少しも記憶していないと言いはるところに、いちじるしいものがあります。ホービュリー伯爵夫人は、大そう美人です。それに、あの男がおどろきました……ごく、かるいものでしたが……私が、雑誌からとった、海水着の写真を渡しました時にね。そうです、あの晩、ジゼルのところに行ったのは、ホービュリー伯爵夫人です」と、ポワロはいった。
「彼女は、ル・ピネから、パリまで追いかけて来たのです。相当困り切っていたのでしょうな」と、フルニエ探偵がゆっくりいった。
「そうです、そうです。そうかも知れませんな」
フルニエ探偵は、珍しそうに、ポワロを見た。
「しかし、あなた個人の考えには、ぴったりしないようですが……」
「私がお話し致しましたように、どうも、間違った人を、正しい手がかりが指しているように思うのです……私にはまだ、かなりわからないことがございます。手がかりは間違っているはずがないのですが……しかし……」
「それが何だか、お話し下さらないのですな?」と、フルニエ探偵がいった。
「それは、私が間違っているかも知れないからなのです……まったく、すっかり違っているかも知れないのです。その場合、あなたまでも間違った方へ迷わせてしまうことになりますので。……お互いに、自分の思うとおりにやってみましょう。それでは、手帳から選んだ項目を検討しましょう」
「RT三六二、医師、ハーレー街」と、フルニエ探偵が読みあげた。
「ドクター・ブライアントと思われます。あまり大したことはありませんでしょうが……調査をなおざりにしてはなりません」
「それはもちろん、ジャップ警部の仕事でしょうな」と、フルニエ探偵がいった。
「そして、私の仕事でもあります。私も、このご馳走にはお相伴致します」と、ポワロがいった。
「MR二四、にせ骨董品……。少し不自然ですが、デュポン父子にあてはまるかも知れません。ほとんど信じられませんがね。デュポンといえば、世界的な考古学者で、非常に高潔な性格の持ち主です」と、フルニエ探偵がいった。
「それで、かえって、こういう仕事を楽にさせると申せますね、フルニエさん。考えてごらんなさい。有名な詐欺師が、正体を見破られるまでは、どんなに性格が高潔で、精神が立派で、その生活が、賞讃に価するものであったかを!」と、ポワロがいった。
「それは、まったく真実です」と、フルニエ探偵は、溜息をついていった。
「有名、ということが詐欺師には第一に必要なのです。面白いことです。ですが、リストにもどりましょう」と、ポワロがいった。
「XVB七二四、これは大変ぼんやりしています。英国人、横領罪」
「これはあまり助けになりませんね。誰が横領したか? 弁護士? 銀行員? 会社の信用される位置にある者かですね。作家でも、歯科医でも、医師でもありません。ジェームズ・ライダー氏だけが実業界の代表です。彼が金を横領したかも知れません。彼が、その窃盗を発見されないようにするために、ジゼルから金を借りたかも知れません。それから最後の記入GF四五 殺人未遂、英国人……これは大分広い範囲にわたります。作家、歯科医、医師、実業家、スチュワード、調髪師の助手、生まれも育ちもよい婦人たち……誰でも、GF四五に、なれるわけです。事実、デュポン父子だけが、その国籍のために、除外されるだけです」といって、ポワロは、給仕に合図をして、勘定書を請求した。
「では、今度は、どこへ参りましょう?」と、ポワロは尋ねた。
「警察署へ。私のところへ何か情報が入っているかも知れませんから」
「よろしい、私もお供いたします。それから、その後で、自分のしたいと思う調査がありますが、たぶん、あなたのご助力が得られると思います」
警察署で、ポワロは、刑事部長と親交をあらたにした。数年前に、ある事件で会ったことがあったのだった。ジール氏は、非常に愛想がよく、丁寧であった。
「あなたが、この事件に興味を持っておられると伺って、非常に嬉しいですよ、ポワロさん」
「それがね、ジールさん、私の眼前で行われたのですから、まったくけしからんことだとお思いでしょう? 犯罪が行われている間、エルキュール・ポワロが眠っているとは!」
ジール氏は、如才なく首をふった。
「飛行機ときたら! 天気の悪い時などはしっかりしておれませんよ、まったく。私自身も一二度、気持ちの悪い目にあいましたよ」
「軍隊は、胃で進軍すると申しますが、敏感な頭脳の回転部は、消化器によってどれほど影響をうけるでしょう? 船酔いにでも取りつかれますと、私、このエルキュール・ポワロは、脳細胞も、秩序も、方法もない人間になってしまいます……それどころか、普通の知能以下の人種の一人となり果てます! まったく情けないことですが、どうも仕方がありません。ところでこうした事柄といえば、あのすぐれた友人のジロー君はいかがですか?」と、ポワロは尋ねた。
『こうした事柄』という言葉の意味深長さを、巧みに無視して、ジール氏は、ジロー探偵は、どんどん出世していっていると答えた。
「あの男は熱心です。努力にうむことなしです」
「いつもそうでした。あちこちとんでいました。よつんばいになっていました。ここ、かしこに、いたるところに行っているのです。一瞬間でも、休んで考えるということがありません」と、ポワロがいった。
「ああ、ポワロさん、彼はあなたには合わないんです。フルニエのような人が、あなたのお気に合うかも知れませんな。彼の方は最新の派ですな……心理的な。それがお気に召すのですな」
「そうです、そうです」
「あの人は、非常に英国のことをよく知っております。そのため、この事件の助力をするためにクロイドンへ派遣されたのです。これは、なかなか面白い事件ですな、ポワロさん。マダム・ジゼルといえば、パリで、最も名高い女の一人です。そして、その死に方が、また、えらいことでしたな! 毒の吹き矢などで、飛行機の中で殺されるとは! 伺いますが、そんなことが、あり得るものですかな?」
「そのとおりです、そのとおりです」と、ポワロは叫んで、
「あなたのご意見はごもっともです……ああ、フルニエさんが見えました。ニュースがありましたな?」
陰気な顔をしたフルニエ探偵は、興奮している様子であった。
「ありましたとも。ギリシャ人の古物商のゼロポーロスが殺人の三日前に、吹き矢筒と矢を売ったということです。それで……」といって、部長に礼をして、
「早速、その男に会ってみたいと思います」
「そうだね。ポワロさんも行かれますかな?」と、ジール部長がいった。
「お伴いたします。これは面白いです。大そう面白いです」と、ポワロがいった。
ゼロポーロスの店は、サントノレ街にあった。それは、高級の骨董商のようであった。ラージュの土器類や、ペルシャの壷などがたくさんあった。ルリスタンからの二つの青銅の像と、インドの下等な宝石類、種々の国からの絹、刺繍などが幾棚もあったし、無価値のビーズや安物のエジプトの発掘品などがたくさんあった。それは、五十万フランの品物に百万フランを費やしたり、五十サンチームのものに十フランもつかったりできるような店であった。それはおもに、アメリカの観光客か、その道の知識をもっているという鑑定家のよく行くところであった。
ゼロポーロス自身は、ビーズのような黒い眼を持った、肥った、背の低い男であった。彼は、多弁で、ながながと話した。
「警察からの方々ですか。よく来て下さいました。事務所の方へお入り下さいますほうがよろしいでしょう。はい、はい、吹き矢筒と矢はたくさんあります……南米の古物です」といって、
「おわかりと思いますが、私は何でも少しずつは売っております。手前どもには特殊のものがあります。それはペルシャの物です。ペルシャが私の専門です。デュポンさん、あの尊敬すべきデュポンさんが証明して下さいます。あの方はいつも、ここへおいで下さいます。私の蒐集を見においで下さるのです。私が何か新しい買い物をしたかどうか、また疑わしいものを鑑定して下さいますために、お寄り下さいます。まったく何という方でしょう! 何という学識! 何という眼力! 勘の鋭さ! ですが私は、横道にそれております。私はいろいろ蒐集しております……鑑定家の方々がみんな知っていて下さる蒐集があります……私はまた、いろいろ……正直に申し上げますと、何と言いますかな、がらくた、とでも申しますかな、外国のがらくたがございます。それはもうわかっていることで……何でも少しずつはございます。南米から、印度から、日本から、ボルネオから、そんなことはかまいません! 普通、こういう物には、値段をつけないのでございます。誰か、あるものに興味をお持ちになれば、私が値ぶみして、お値段を頂だいします。たいていいつもねぎられまして、おしまいには、半値になるのでございます。それでも、もうけは大分よいのです。こういうものは、私は、水夫達から非常にやすく買っているのです」
ゼロポーロスは息をして、自己と、その重大さと、話の流暢さに、自己満足して、愉快そうにいいつづけた。
「吹き矢筒と矢は長い間……たぶん二年くらいも……持っておりました。それはあの盆の上に、こやすがいの首かざりとレッドインディアンの頭被と、木の仏像と、やすい硬玉のビーズと一緒にあったのです。誰も何にもいわず、誰も気がつかなかったのですが、あのアメリカ人が来て、それは何かと聞いたのです」
「アメリカ人ですと?」と、フルニエ探偵がするどくいった。
「はい、はい、アメリカ人です……間違いなくアメリカ人です。アメリカ人の中でも、立派なタイプの人ではありません。また、骨董品のことを知っていて、アメリカへ持ち帰ろうとする人でもありません。エジプト玉《ビーズ》の販売人に一財産を作らせるような手合いです……チェコスロバキアでできた、笑止千万なかぶと虫のお守りを買うというような人です。それで私は、すばやくその人を捕えて、ある種族の習慣とか、彼らの用いる毒のことについて説明しました。この種のものは、非常に珍しいので、なかなか市場には出ないことなど話してやりました。価格を聞きますので言いました。それはアメリカ人相手の値段です。前ほどは高くはないのです。(もうここでも不景気が来てるものですから)私は、値切るだろうと思って待っていますと、彼はすぐさま、その価格を払ったのです。私はびっくりしてしまいました。誠に残念でした。もう少し高くいえばよかったのでした。私は、その吹き矢筒と矢を包んであげました。すると彼は、それを持って行ってしまいました。それで終ったのです。ところが、後で、新聞で、この驚くべき殺人事件をよんで驚きました。……そうです。まったく驚いてしまいました。それで警察に連絡したのです」
「ありがとうございました、ゼロポーロスさん。その吹き矢筒と矢……それが同じものであるか見て下さいますでしょうな。今はロンドンにありますが、そのうち、鑑定して下さる機会があるでしょう」と、フルニエ探偵がいった。
「その吹き矢筒はこのくらいの大きさです」と、ゼロポーロスは机の上で、長さをはかってみて、「そして、このくらいの太さです……ちょうど私のペンくらいです。色はうす色でした。矢は四本ありました。長く先のとがった針で、先の方が少し色が変っていて、そこに、赤い絹のきれがついていました」
「赤い絹ですと?」と、ポワロがするどくいった。
「そうでございます、旦那様。淡紅色で……少し、色があせておりました」
「それはおかしいな」と、フルニエ探偵はつぶやいて、
「黒と黄色の絹がついていなかったことは確かですか」と尋ねた。
「黒と黄ですって? いいえ、旦那」商人は首をふった。
フルニエ探偵は、ポワロを見た。その顔には、妙に満足したような微笑が浮かんでいた。ゼロポーロスは嘘をついているのであろうか?
「この吹き矢筒と矢が、この事件に何の関係もないということもあり得ますね。それは五十に一つのチャンスでありましょう。しかし、そのアメリカ人の説明をできるだけくわしく聞きたいのです」と、フルニエ探偵はいった。
ゼロポーロスは、黄ばんだ両手をひろげた。
「ただ、ほんとのアメリカ人というところでした。鼻にかかった声で、フランス語は話さず、チューインガムをかんでいて、べっこうぶちの眼鏡をかけておりました。背が高くて、あまり年とっておりませんでした」
「髪の色は? 金髪か、黒色か、どちらでした?」
「わかりません。帽子を被っていましたから」
「会ったらわかりましょうか」
ゼロポーロスは疑わしげだった。
「何とも言えません。アメリカ人はたくさん行ったり来たりしますから……どっちにしても、あまり目立つ人ではありませんでした」
フルニエ探偵は、スナップ写真を見せた。しかし、役に立たなかった。その中にはいないと、ゼロポーロスは思ったのだった。
フルニエ探偵は、店を出るやいなや、
「無駄骨折りだったかも知れませんな」といった。
「そうかも知れません。しかし、私はそうは思いません。価格表の札は同じ形でしたし、それにあの話と、ゼロポーロスさんの言ったことに、一つ二つ面白い点があります。では、これが無駄骨折りだったとして、もう一つ、それをさせて下さい」
「どこへですか?」
「カプシーヌ大通りです」
「で、それは?」
「国際航空会社ですよ」
「もちろん、参りますが、そこは、もう私どもが、お座なりながら問い合わせたのですよ。別に何にも興味を引くようなことは答えてくれませんでしたが」
ポワロは、その肩を優しく叩いた。
「ああ、しかし、答えは質問によりますからね。どんな質問をしたらいいか、おわかりにならなかったのです」
「そして、あなたはわかっておられるのですか?」
「そうです。ちょっとした思い付きがございます」
ポワロはそれきり、何も言わなかった。そのうち、二人は、カプシーヌ大通りへ着いた。
国際航空会社の事務所は小さいものだった。スマートにみえる髪の黒い人が、ピカピカ輝いたカウンターの後ろに控え、十五才くらいの少年が、タイプライターの前に腰かけていた。
フルニエ探偵は、警察手帳を出した。ジュール・ペローという名の男は、お役に立つならばと申し出た。
ポワロの申し出で、タイプライターの少年は室の向うの端にやられた。
「私どもの、伺おうとすることは、大そう内密を要しますので」と、ポワロは説明した。
ペローは気持ちよくいった。
「何でございましょうか」
「これは、マダム・ジゼルの殺害事件に関することなのです」
「ああ、思い出しました。私は、ご質問に、もうお答えしたと思うのですが?」
「そうです、そうです。しかし、事実を、しっかりと知ることが必要なのです。さて、マダム・ジゼルは席を予約しましたが、それは、いつでしょうか」
「その点は、もうお話し済みのはずですが……夫人は十七日に、電話で申し込まれました」
「それは、翌日の十二時の便《びん》のでしたか」
「そうです」
「しかし、女中から聞きますと、夫人は、朝の八時四十五分のを予約されたということですが?」
「いや、いや……それは、ほんとはこうなのです。マダムの女中さんは八時四十五分の便を申し込まれたのですが、その便は、もう満席になっておりましたので、代りに十二時の便のを差しあげたのです」
「ああ、そうですか」
「そうなのです」
「ああ、そうですか……わかりました……しかし、おかしいですね。大そうおかしいですね?」
事務員は、不思議そうに彼を見た。
「私の友人がですね、急に英国にゆくことになって、八時四十五分の便でゆきましたが、その時は半分も空いていたのです」
ペローは、書類を繰った。彼は鼻をかんだ。
「友人の方が日を間違われたのでしょう。前日か、次の日か……」
「いや、そんなことはありません。それは殺人のあった日でした。なぜなら、友人はやっと間に合ったのだが、もしその飛行機にのりそこなったら、プロミシューズ号に乗り合わせたろうに、と申しましたから」
「ああ、それは妙ですね。もちろん、時々、最後の瞬間にかけつけて、空席があることがありますからね……また、間違いもありますから、ル・ブールジェに連絡しなければなりません。時々、正確を欠くことがありますから……」
ポワロの、穏やかな、問いただすような瞳が、ペロー青年をあわてさせたらしかった。青年は話すのを止めて、眼をそらした。額に汗の玉が浮かんできた。
「二つの説明の可能性がありますね。けれどもそれは、真実の説明ではないでしょうと思います。君はすっかり白状したほうがいいと思いませんか」
「白状をするって、何をですか? 僕にはおっしゃることがわかりません」
「さあ、さあ、よくわかっているはずです。これは殺人事件ですぞ、ペローさん。殺人事件ですぞ。どうぞ、それを覚えていて下さい。もし、君が、報告をするのをしぶっていると、君にとって、大変なことになります……大そう重大なことになるのです。警察も、このことを誠に重大とみるでしょう。君は警察の行動を妨害しているのです」
ペロー青年は、ポワロをみつめた。口は開いた。手は震えた。
「さあ」と、うながしたポワロの声は、命令的で、圧倒的だった。
「ごく正確な報告が必要なのです。どのくらい金をもらいましたか? そして、誰が金をくれたのですか」
「私は、別に悪いとは思わず……思いもしなかったのです……想像も……」
「どのくらい? そして誰から?」
「五千フラン……前に会ったこともない人です。これで、私はもうだめです……」
「君をだめにするものは話すことではないのです。さあ、これで、最悪は知れてしまった。どういう風にことが起こったか話して下さい」
青年の額から、汗が流れていた。ペローは、どもりながら話すのだった。
「悪いつもりではなかったんです……ほんとに、悪いつもりではなかったのです。一人の男が入って来ました。彼は次の日、英国へゆくつもりだと言いました。彼はマダム・ジゼルから金を借りたいのだが、その会合を前から知らせておきたくないのだ、その方がチャンスがあると言うのでした。マダムが次の日、英国へたつつもりだということを知っている。私にしてもらいたいのは、朝の便は満員だから、プロミシューズ号の、二号の席なら都合するといってくれ、それだけしてくれればいいのだ、というのです。私は、そうしたって別に悪いとも思われませんでした。そうなったって、何の違いがある……と私は思ったのです。アメリカ人はそんなものだ……あの人たちは、仕事を、いつも人並みはずれたやり方でするものだ……」
「アメリカ人だって?」と、フルニエ探偵がするどくいった。
「そうです。その人はアメリカ人でした」
「どんな人か説明をしてみて下さい」
「その人は背が高くて、前かがみで、白髪で、角《つの》縁の眼鏡をかけて、すこし、山羊ひげを生やしておりました」
「その男は、自分も席をたのんだのかね?」
「そうです。一号、つまり、マダム・ジゼルに予約しようとしている席のとなりです」
「何という名で?」
「サイラス……サイラス・ハーパーです」
「そんな名の者はいなかったし、一号の席には誰もいなかった」と、ポワロは首を静かにふった。
「私は新聞をみて、その名の人がいなかったので、そのため、そのことを言う必要はないと思ったのです。この男が飛行機で行かなかったのだから……」
フルニエ探偵は冷やかに彼を見すえて、
「君は価値のある報告を警察にかくしていた。これは、実に重大なことですよ」といった。
ポワロと彼は、その事務所を出た。あとには、ペロー青年が、怖ろしそうな顔付きをして、二人を見送っていた。
外の道路で、フルニエ探偵は帽子をとって礼をした。
「私はあなたに敬意を表します、ポワロさん。何がこんなことをあなたに考えさせたのですか」
「二つの離れ離れの文句ですよ。一つは、今朝、私どもの飛行機にいた人が、あの殺人の朝、がら空きの便で英国へ渡ったと話しておりました。もう一つの文句は、エリーズが言ったのですよ。エリーズは、国際航空会社に電話をかけたら、朝の便には座席がないと事務所で言ったと申しておりました。さて、この二つの事柄は一致しません。プロミシューズ号のスチュワードが前に、朝の便でマダム・ジゼルを見たと言っていましたから、夫人は、八時四十五分の機でゆくのが習慣だったようです。
しかし、『誰かが、十二時の便で、マダムを行かせたかった』……その誰かは、プロミシューズ号で旅行していた。なぜ、朝の便は一杯だと事務員は言ったのか? 間違いか、故意か? どうも故意のように思われる……と思ったのです。そしてそのとおりでした」
「刻一刻と、この事件は迷路に入っていきますな!」と、フルニエ探偵は叫んだ。「はじめは、夫人を追跡しているのかと思ったら、今度は男です。このアメリカ人は……」
彼は立ち止って、ポワロをみた。
ポワロはやさしくうなずいた。
「そうですよ。アメリカ人になるのは、このパリでは容易です! 鼻にかかった声……チューインガム……小さい山羊ひげ……角縁の眼鏡……それは皆、舞台の上でのアメリカ人の付属品ですからね……」
ポワロは、ポケットから、雑誌から破り取ったページをとり出した。
「何を見ておいでですか?」
「海水着を着た伯爵夫人です」
「では、あなたは……? いや、あの女は小さくて、愛くるしくて、弱々しいのです。どうしたって、背の高い、前かがみのアメリカ人なんかに変装することはできません。彼女は、女優ではありました、たしかに。しかし、そんな役をすることは、とても問題外です。いいえ、その考えはいけません」
「それがいいとは申しませんよ」と、ポワロはいった。
そして、なおも、熱心に、その印刷されたページをながめていた。
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三 犯罪の余波
ホービュリー夫人の秘密
ホービュリー伯爵は、食器棚の前に立って、放心した様子で腎臓《キドニー》料理を食べていた。
スティーヴン・ホービュリーは二十七才だ。ほそい頭と長いあごの男だ。頭脳の働きが特にめざましいというより、戸外でスポーツをよくやるというタイプの人物だった。親切で、ちょっときざで、非常に忠実だが、不屈な頑固さをもっていた。
彼は料理を盛りあげた皿を、テーブルのところへ持っていって食べ始めた。やがて、新聞をとり上げたが、すぐ顔をしかめて、わきへほうり出した。半ば食べた皿を押しやって、コーヒーを飲んで、立ち上った。しばらく、何をしていいかわからないように立ち止まったが、軽くうなずいて食堂を出て、広いホールを通り、二階へ行った。ドアを叩いて、少し待っていた。内側から、澄んだ高い調子で、「お入りなさい」という声が聞えた。
ホービュリー卿は入っていった。
それは南向きの、広い美しい寝室であった。シスリー・ホービュリーが、大きい、彫刻のある、樫の木のエリザベス朝風のベッドにいた。ローズ色の、シホンの布地にくるまって、金色の髪毛をして、大変美しい様子だった。オレンジジュースとコーヒーののっている、朝食の盆が、傍のテーブルの上にのっていた。彼女は手紙をあけていたのだった。女中が部屋の中であちこちしていた。
このような美しいものに出あっては、誰でも息が少々はずむとしても、それはゆるされるべきであったくらいだ。しかし、妻のこの魅力のある絵のような姿も、ホービュリー卿には、何の影響も与えなかった。
三年前には、この息をはずませるようなシスリーの美しさが、この若者の頭を狂わせたのだ。彼は、気違いのように、どうにもならない、熱情のとりことなってしまった。すべてが終りになった。彼は気が違っていたのだった。が、今は正気に返っていた。
ホービュリー伯爵夫人は驚いていった。
「どうなさったの、スティーヴン?」
彼はいきなりいった。
「二人きりで話がしたいのだ」
「マドレーヌ、それをみんな放ってお置き。そして出ておいで」と、ホービュリー夫人は、女中にいった。
フランス娘の女中は、
「かしこまりました、奥様」といって、ながしめにホービュリー伯爵をみて、出ていった。
若い伯爵は、戸がしまるまで待って、それからいうのだった。
「シスリー、ここへこうしてやって来たのは、どうしたことか知りたいのだ」
夫人はほっそりした、美しい肩をすくめた。
「どうして、いけませんの?」
「どうしてだって? 理由は、たくさんあるように思えるのだが?」
彼の妻はささやいた。
「ああ、理由……?」
「そうだ、理由だ。二人の間で、この同居するという喜劇をやめようと、約束したのを覚えているだろう。お前は町に家を持って、寛大な……非常に寛大な生活費を受け取ることになったではないか。ある程度まで、お前は勝手にやっていろと……。どうして、急に帰って来たのだ?」
再び、夫人は肩をすくめた。
「このほうがいいと……思ったんですわ」
「金がほしいというのか」
夫人はいった。
「ほんとにあなた、嫌いですわ。一番いやしい方ですわ」
「いやしい? いやしいっていうのか! お前と、お前の浪費のために、ホービュリーの領地は抵当に入ってしまったんだ」
「ホービュリー、ホービュリー……そのことばっかり気にしておいでになるのですか。馬と狩猟と、銃と、収獲とあきあきするような年とった農夫ども! ああ、何という生活でしょうね、女にとって!」
「ある女は、それでも楽しいんだ」
「そうですわ、ベネシア・カーみたいな女にはね。あんな人、自分も半分は馬だわ。あなたはあんな人と結婚した方がよかったんですわ」
伯爵は、窓の方へ歩いていった。
「そういうのには少し遅すぎるよ。もうお前と、結婚してしまったのだから」
「もう逃れられませんわねえ」と夫人はいった。その笑いは、にくにくしげな、勝ちほこったような笑いだった。
「私を追い出しておしまいになりたいのでしょう? が、できないのでしょう?」
「こんなことを言わなければならないのか?」
「だいぶ旧派ですわね! あなたのおっしゃること、私が話すと、私のお友達、みんな大わらいするわよ」
「言っても少しもかまわない。議論の始めにもどろう……お前のここへ来た理由は?」
しかし、妻の方はそれにのってこなかった。彼の妻はいった。
「あなたは、私の負債をおわないって新聞に広告なさったけれど、それが紳士的な行為だとお思いになりますの?」
「あんなことをしなければならなかったのが残念だ。僕はお前に警告しておいた。覚えているだろう。二度も僕は払った。だが、限度がある。お前のばかげた熱情が……そんなことを議論したって仕様がない。だが、何のために、ホービュリーへやって来たのか知りたいのだ。お前はここを嫌ったじゃないか。そして、死ぬほど飽きたのじゃなかったのか?」
ホービュリー夫人は、小さい顔をむっとさせていった。
「思ったよりいいと思ったんですわ……今のところは」
「いいって? 今のところだって?」と、彼は言葉を考え深くくりかえした。それから、するどく質問をした。
「シスリー、お前は、あのフランスの老金貸しから借りていたのか」
「どの人? 何のことおっしゃってるかわかりませんわ」
「僕のいうのがよくわかっているはずだ。パリからの機上で殺された人のことをいっているんだ……お前の乗って来た飛行機だ。あの女から、金を借りたのか」
「もちろん借りませんわよ。何てことおききになるの?」
「シスリー、ばかなことをやっていてはいけない。もし、借りているのだったら、話してしまった方がいい。あれはまだ終ってしまったわけじゃないんだ。審問の判決は、未知の人、または人々による、『故意の殺人』なんだ。両国の警察が調査している。真実がわかるのは、時の問題に過ぎないのだ。女はきっと、取り扱ったものの記録を残したに違いない。もし、お前があの女に関係があるものなら、前もって用意しておかなければならないのだ。そのことについて、フォークスの忠告を受けておかなければならないのだ」
(フォークス・フォークス・ウィルブラハム・エンド・フォークス事務所は、何代にもわたって、ホービュリー伯爵家の顧問弁護士だった)
「あの碌でもない裁判所で、そんな女のこと聞いたこともないと、言ったではありませんでしたの?」
「そんなことは、大した証拠にはならないさ。もし、あのジゼルと取り引きがあったんなら、必ず警察が探しあてる」と、伯爵は、苦々しくいった。
夫人は、怒って、ベッドに起き上った。
「あなたは、私が殺したとでも思っていらっしゃるんでしょう……機上で、立ち上って、あの女に、吹き矢筒から矢をとばしたとでも! ほんとに気狂い沙汰ですわ!」
若い伯爵は、考え深く同意した。
「すべてが気狂い沙汰だ。しかし、お前に、自分の立場を認識してもらいたいのだ!」
「どんな立場ですの? 立場だなんてありゃしませんわ。あなたは私のいうこと、一言だって聞いて下さらないのですもの、たまらないわ。なぜ、そんなに、急に私のこと心配なさいますの? 何をしでかすか、気がかりなのね。あなたは私を好いていらっしゃらない。あなたは、私を嫌っていらっしゃる。私が明日にでも死ねばうれしいんでしょ。なぜ、かまう真似なんかなさるんです?」
「お前は、少し大げさに言っていはしないかね? ともかく、お前は僕のことを古くさいと思うかもしれないが、僕は、家名を大切に思っているんだ……たぶん、そんなものは時代遅れだと、お前は軽蔑するんだろう。しかし私はかまうんだ」
急にふりむいて、彼は室を出ていった。
脈が頭でどきどき打っていた。頭の中で、いろいろの考えがぐるぐるまわっていた。
「好きでないって? 嫌っているって? そうだ、それは真実だ。明日あいつが死ねばよろこぶだろうって? そうだ、神様! たしかに、そうだ! 牢獄から出た人のように感じるだろう。人生というものは、なんて妙なものなのだろう! 僕が最初に、『今それをしろ』という芝居で、あいつを見たとき、何と愛らしい子供に見えただろう! きれいで、可愛らしくて……ばかな若者め! 僕は気狂いのようになって……あいつに夢中になった……ただただ愛くるしい、やさしい女だと思った。そしてその間にも、やっぱり心は今のあいつだったんだ……野卑《やひ》で、悪意があって、頭はからっぽで……今ではあいつも、あいつの奇麗さも、わからなくなってしまった」
彼は口笛を吹いた。するとスパニエル犬が走って来て、尊敬するような、感情をこめた眼で彼を見上げた。
彼は、「可愛いベッツィ」と呼んで、その長い耳をなでてやった。
彼は思った。
「女のことを牝犬なんて呼ぶのは、おかしな軽蔑語だが、ベッツィや、お前のような牝犬は、今まで見た女を全部一緒にしたより、よほど価値があるよ」
古い、釣り帽をかぶって、彼は、犬をつれて家を出ていった。
この目的のない邸園めぐりは、やがて、彼のいらだった神経をやすめてくれた。彼は好きな猟犬の首をなでて、馬丁と話をして、それから、領内の農園へいって、農夫の妻とおしゃべりをした。それから、ベッツィを後にしたがえて、細い小道を歩いてゆくと、カー嬢が栗毛の馬にまたがってやって来るのに出あった。
ベネシア・カーは馬上で美しくみえた。ホービュリー卿は賞讃と、いとおしい気持と、故郷へ帰ったような気楽さで彼女を見上げたのだった。
「やあ、ベネシアさん」と、若い伯爵がいった。
「あら、スティーヴンさん」と、カー嬢はいった。
「どこへ行って来たの、耕地へですか」
「そうなの。この馬なかなかよくなったでしょう?」
「上等ですね。僕がチャッティスレーの馬市から持って来た、二才のやつを見ましたか?」
それから、二人はしばらく馬の話をした。彼がいった。
「ところでね、シスリーが来てますよ」
「ここへ? お屋敷へ?」
カー嬢は驚きを表わさないつもりだったが、やはり、その声には、響きがこもるのをどうすることもできなかった。
「そうなんです。昨夜やって来たんです」
二人の間には沈黙があったが、それから伯爵がいった。
「君はあの審問に行ってましたね、ベネシアさん。どういう風……どうだったんです、あれは?」
彼女はしばらく考えた。
「そうね。誰も、あんまりしゃべりませんでしたわ」
「警察は、別に、何かをすっぱぬきませんでしたか?」
「そんなことしませんでしたわ」
「君にはいやなことだったでしょうね」
「そうね、嬉しくはなかったわ。でも、そんなにひどくはありませんでしたわ。検屍官はとても、丁重でしたもの」
若い伯爵は、垣根のほうを放心したように眺めていた。
「ね……君、誰がやったか思いあたることがなかった?」
カー嬢は首をゆっくりと横にふった。
「ありませんわ」といって、どうして自分の言おうとすることをあらわしたら一番いいか、巧妙に言えるか、考えているように、沈黙していたが、とうとう少し笑って、それを言ってのけた。
「ともかく、シスリーでも私でもなかったんですわ。それは私にわかります。あの人のことは私が見ていたし、私のことはあの人が見ていましたもの」
伯爵も笑った。
「そんならいいんです」と、彼は、愉快そうに笑った。
彼はそれを冗談としてしまったが、彼女はその声の中に安堵の響きのあるのを聞いたのだった。では、この人はあのことを考えていたのだ……
彼女は、その考えを払いのけた。
「ベネシアさん、僕達は長い間のつきあいですね?」と、伯爵はいった。
「うん、そうよ。私たち、子供の時よく行ってた、あの恐ろしいダンスのクラスのこと、おぼえていらっしゃる?」
「覚えていますとも。君には何でも言えるような気がするんだけれども……」
「|もち《ヽヽ》よ」といって、彼女はためらって、それから、穏やかな、事務的な調子でいった。
「シスリーのことなんでしょう?」
「そうです。ね、君、シスリーは、このジゼルって女に、関係があったのか、どうでしょう?」
カー嬢はゆっくり答えた。
「それはわからないわ。私は南フランスのほうへ行っていたんですもの。だから、まだ、ル・ピネの噂話は聞いていないんですもの」
「どう思いますか」
「正直に言って、そうだとしても、私、驚きませんわ」
伯爵は深く考えてうなずいた。カー嬢は優しくいった。
「そんなこと、お困りになることいらないんじゃないかしら? あなたは浮き世離れして暮らしていらっしゃるんですもの、ね? これはあの人のことで、あなたのことじゃないんですもの」
「しかし、妻である以上は、僕のことにもならないわけにいかないのです」
「あの……離婚……なされないんですの?」
「協議離婚ってことですか? あの女が承諾しまいと思うんです」
「もし、チャンスがあれば、離婚なさるおつもり?」
「理由があれば、きっとしますよ」
彼は苦々しくいった。
「きっと、あの人、それを知ってるわ」と、カー嬢は考え深くいった。
「そうです」
二人とも黙っていた。彼女は心の中で、
「あの女は牝猫みたいな身持ちだわ。私にはよくわかっているわ。でもとても用心深い。とても尻尾《しっぽ》を掴ませないんだわ」と考えた。そして、声を出してこういった。
「では、何もしてないんですの?」
彼はうなずいた。そしていった。
「僕が自由だったら、君は結婚してくれますか」
馬の耳の間から、真っ直ぐ前を見て、カー嬢は、注意深く感情を殺した声でいった。
「ええ、してもいいですわ」
スティーヴン! 彼女はいつもスティーヴンを愛していた。ダンスのクラス、子狐狩り、鳥の巣狩りのむかしから、彼女は、彼を愛していたのだった。スティーヴンも彼女が好きだったが、利口者の、勘定高い、コーラスガールに、気違いのように、夢中になるのを防げるほどには、好きではなかったのだ……
若い伯爵はいった。
「僕達は、すばらしい生活ができるのに……」
彼の前にはその光景が現われた。狩猟……お茶とマフィン……しめった土と落ち葉の匂い……子供たち……シスリーが決して共にしないもの。シスリーが、決して彼に与えないもの……霧のようなものが眼をおおった。それからベネシアの声を聞いた。感情のない声が、こう言っているのを聞いたのだった。
「ねえ、どうかしら? もし私たちが駈落ちしてしまったら、シスリーが、あなたを離婚するかも知れませんわね」
彼はすごい勢いで、それをとめた。
「とんでもない。君にそんなことがさせられると思うんですか」
「私、かまいませんわ」
「僕がかまう」
彼は決定的にいった。
カー嬢は思った……ああだわ。いやになっちまうわ。救いがたいほど偏見をもっているんですもの。でも、いい人だわ。ああでなきゃ好きになれないわ……
声を出して、彼女はいった。
「ねえ、スティーヴンさん、私もう帰りますわ」
彼女は、静かに、靴のかかとを馬にふれた。スティーヴンに別れを告げようと思ってふりむいた時に、二人の眼が合った。その眼の中には、互いに注意深く言葉に出さないでいた、すべての感情がこもっていた。
小道を曲がろうとした時に、鞭を落してしまった。一人の男がそれを拾って、大げさな身ぶりで敬礼をしながら渡してくれた。
「外国人だわ」と、礼をのべながら、彼女は思った。そして、
「何だか見たことのあるような顔だこと……」と思ったのだった。彼女の心の半ばは、ジュアン・レ・パンの夏の日のことを思い、半ばは、スティーヴンのことを思っていた。
ちょうど、家へ帰ったとき、急に、半ば夢みているような頭がはっきりしたのだった。
「ああ、飛行機で席をゆずってくれた小さい男……審問の時……探偵だといったっけ……」そして、それにつづいてもう一つの考えが起こって来た。
「あの人、一体、ここで何をしているのかしら……」
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ジェーンの上に起こったこと
ジェーンは、審問の次の日の朝、びくびくしながら、アントワンの店に顔を出した。
通常アントワン氏として知られてはいるが、実際の名は、アンドルー・リーチで、母親がユダヤ系であったので、それを隠すためにフランス名を使っていた。彼は、不吉だというようなしかめ顔をして、彼女をむかえた。
ブルトン街に入ると、下手な英語を使うのが彼の習性になっていた。
彼は、ジェーンをまったくばかものだと叱るのだった。何だって飛行機などで帰ってくるのだ。何という考えだ。店がたいへんな損害をうけるところだったじゃないか。言うだけいって、主人はジェーンをやっとゆるしてくれた。その時、ジェーンは、仲間のグラディスがウィンクするのに気づいた。
グラディスは、態度の横柄な、軽やかな様子のブロンドで、遠いところから聞えるような、職業的な声の持ち主だった。普段は、彼女の声はかすれて、愉快そうだった。
「心配しなさんな、あんた。あのおじいさん、猫がどっちから来るかと思って、垣根の上に坐ってみてんのよ。自分の思ったとおりに猫がとんで来ないのよ。やれ、やれ、ほらあすこに、私のいやなやつが来るわよ。またいつものように、うんとふくれるわよ。今日はあのろくでもない|ちん《ヽヽ》をつれてこなけりゃいいけど」
一瞬後に、グラディスが、例の、よく通る声をして、話してるのが聞えてきた。
「お早うございます、奥様。今日は、あのかあいい、小犬ちゃんをおつれになりませんでしたの? シャンプーをいたしましょうか? そうしているうちに、アンリさんがまいりますわ」
ジェーンは、ちょうど白毛染めをした夫人が待っている小室に入っていくところだった。その夫人は、鏡に顔をうつしてみて、友人に話していた。
「ねえ、今日の私の顔、あんまりひどくて……ほんとに……」
退屈しきって、三週間前の流行雑誌のページをめくっていた友人は、大して興味なさそうにいった。
「そうお思いになる? 私にはいつもと同じように思われるけど」
ジェーンが入ると、あきあきしてる友達の方は、雑誌をただめくるのをやめて、その代りジェーンをみつめた。それからいった。
「そうよ、あんた、きっとそうよ」
「お早うございます、奥様」と、ジェーンは、期待されている軽やかさで、もう機械的に、何の苦もなく出て来るような調子でいった。「お久しぶりでございますこと。外国へ行っておいでになりましたんでございましょう?」
「アンチーブ」と、白毛染めの髪の女は、明らかな興味を持って、ジェーンをみつめながらいった。
「何ておよろしいんでしょう」と、ジェーンは熱心さをよそおっていった。
「シャンプーとセットでございますか、それとも、お染めいたしましょうか?」
一瞬、ジェーンを眺めるのをやめて、白毛染めの女は、前にかがんで、自分の髪の毛を注意深く見るのだった。
「もう一週間もつと思うわ。まあ、なんてすごく私は見えるんでしょう」
「だって、こんな朝ですもの、仕様がないわよ」と、友人がいった。
ジェーンがいった。
「ジョルジュさんが、おすませするまでお待ちなさいませな」
その女は、また、ジェーンを熱心にみつめた。
「きのう、審問で証人になったの、あんたじゃないの……飛行機にのっていたのは?」
「そうでございます、奥様」
「まあ、何てスリルでしょう。話して聞かせて頂戴よ」
ジェーンは、一生懸命、喜ばれようとつとめた。
「奥様、ほんとに、怖ろしいことでしたわ」といって、ジェーンは、話を始めた。その間に、いろいろの質問に答えながら……。お婆さんはどんな人だった? 二人のフランス人の探偵がのっていて、フランス政府とのもつれになったのは本当か? ホービュリー伯爵夫人ものっていたか? みんなのいうように、夫人は、ほんとに美しいか? 誰が殺したと思うか? 全体は、何か政府のために、秘密にされてしまったというが……とか、そんなような質問であった。
この最初の試練は、まだまだ、これから起こるたくさんの質問のほんの序の口だった。誰でもこの『飛行機にのっていた娘』にやってもらいたがった。皆は「ほんとにまったく素晴らしいわ。私の調髪師のところの娘《こ》があの娘《こ》なのよ。ええ、私があなただったら行って見るわ。……上手に髪もするわよ……名前はジャンヌっていうのよ……小さい娘《こ》よ、眼の大きい……上手に聞けば、いくらでも話してくれるわ……」
その週の終りには、ジェーンは、すっかり神経を疲らせてしまった。時々、もしこの上、またその話を繰りかえさなければならなかったら、叫び出して、質問者をドライヤーでなぐりたくなってしまう、と思うのだった。
しかし、しまいに、感情をなだめるもっとよい方法を思いついた。彼女はアントワン氏に近づいて、大胆に、給料をあげてくれ、と要求した。
「そんなことを要求するのか? あんな、殺人事件などにまきこまれたあとで、ここに置いてやるのさえ、ほんとの親切心からしてやっているのに、そんなあつかましいことをいうのか? 私より親切気のない男だったら、すぐ追い出してしまうのに?」
「そんなことってありませんわ」と、ジェーンは冷淡にいって、
「私がこの場所にお客を引きつけているんです。あなただってご存じですわ。もし出ていったらいいとお思いになるなら、出てゆきますわ。アンリか、リシェーの店へ行って、欲しいだけもらいますわ」
「そしたら、誰に、あんたが、そこへ行ったのがわかるんだ? あんたが、どんなに重大な人間だというんだ?」
「審問のとき、一人二人新聞記者にあいましたわ。その中の一人が、店を変えたら、必要な宣伝をしてくれますわ」と、ジェーンがいった。
これは本当のことだと思ったので、アントワン氏は、ジェーンの要求に応じたのだった。グラディスが心から、彼女をほめた。
「よかったわよ、あんた。アンドルーも、あんたにはかなわなかったわねえ。女が少しは自分が守れなかったら、私たち、どうしていいかわかりゃしないわ。勇気だわよ、あんたに必要なのは。あたし、感心するわ」
「私は、結構、自分の手で戦って行くわ。ずっと、今までだってそうしなければならなかったんですもの」と、ジェーンは、小さい顎を、挑戦的にもちあげていった。
「つらいけどね。でもおしまいまで、アンドルーにはしっかり立ち向っていた方がいいわよ。そのため、かえって気に入られるわよ。この頃では、やさしいばかりじゃうまくいかないわよ……もっとも、私たち二人ともやさしいほうとはいえないけれどね」
それからあとのジェーンの話は、毎日同じようなことを、少しの変化もなしにくりかえすので、ステージの役柄のようなものになってしまった。
ノーマン・ゲールとの約束の、食事と演劇見物は、予定どおりに済まされた。話す言葉の一言一言と、とりかわされた内証話は、二人の間に共通のものだったし、趣味も合っていたので、この夕は、魅力のあるものだった。
二人は犬は好きだったが、猫はきらいだった。二人とも|かき《ヽヽ》は嫌いで、燻製の鮭《さけ》は好きだった。グレタ・ガルボは好きだが、キャサリン・ヘップバーンは嫌いだった。肥った女はきらいで、黒い髪の毛は好きだった。赤い爪は嫌いだった。大声とやかましい料理屋と黒ん坊は嫌いだった。地下鉄よりバスの方が好きだった。
二人の人間が、そんなに多くの点で一致しているとは不思議であった。
ある日、アントワンの店で、ハンドバッグを開いた時にジェーンがゲールからの手紙を落とした。少し顔を赤くしてそれを拾いあげたとき、グラディスがとびついた。
「あんたのボーイフレンドは誰?」
「なに言ってるのよ。そんなこと知らないわ」と、ジェーンは怒ったが、顔がだんだん赤くなってきた。
「そんなこと言ったって駄目よ。あの手紙は、お母さんの大叔父さんからのじゃないでしょう? 私、きのう生れたんじゃないわよ。誰なの? ジェーン?」
「誰かさんよ。男の人よ、ル・ピネで会った人なの。歯医者さんなの」
「歯医者さんなの? 歯が白くて、にやにやしてるんでしょう?」と、グラディスは、いかにも趣味に合わないようないい方をした。
ジェーンは、ほんとにそうだ、と認めないわけにはゆかなかった。
「顔はとっても日焼けしていて、眼はとっても青いわ」
「誰だって茶色の顔していられるわよ。海辺のせいかも知れないし、一|壜《びん》二シリング十一ペンスで、薬種店で売っている……美男は、うっすらと日焼け色に……っていう、あれのせいかも知れないわよ。眼はそれでいいわ。でも、歯医者じゃねえ。だって、キッスする時『もっと口を広くあけて』と言ってるような気がするわよ、きっと!」
「ばかなこと言わないで、グラディス」
「だいぶまいってるらしいわね。はい、ヘンリーさん、いま行きます……うるさいヘンリーね! 全能の神様だと思ってるんだから。あんなに、私たちをつかいまくって!」
その手紙は、土曜日の夕方の食事をほのめかしたものだった。土曜の昼の食事には、ジェーンは増額のサラリーをもらったので、上機嫌だった。
「あの日、飛行機で来たのを心配したなんて!……万事、いい工合にいったわ……人生って不思議な、すばらしいものだわ」
ジェーンは、何だかみちあふれているような感じがしたので、「コーナーハウス」でご飯を食べて、伴奏に音楽でも聞こうかと思った。
彼女は、四人掛けのテーブルに坐った。そこにはもう、中年の女性と、若い男が坐っていた。中年の女性はもう昼食を済ましたところだった。やがて、勘定書を請求して、荷物をいくつか持って出ていった。
ジェーンは、いつものように、食べながら本を読んでいた。ページを繰りながら見ると、向う側の若い男が、自分を熱心に見ているのに気がついた。と同時に、その顔は、なんだか親しみがあるように思われた。
このことを発見すると、青年は目礼をした。
「失礼ですが、お嬢さん、私がおわかりになりますか?」
ジェーンは、よく彼を見た。子供っぽい顔をした青年で、容貌のためというよりは、非常な感受性というような理由で、人目を引く種類の人だった。
「まだ紹介をされてはいませんがね、殺人罪と、検屍官の審問に一緒に証言したということとを、紹介とでも呼ぶのでなければ……」と、若者はいうのだった。
「私、何てばかだったんでしょう。お顔は知っているように思えたんですの。では、あなたは……」とジェーンがいった。
「ジャン・デュポンです」と、青年は言って、おかしな、愛嬌のあるおじぎをした。
グラディスが、意味ありげにいったあのことが、ジェーンの記憶によみがえってきた。
「一人あんたを追う人ができると、またあるものよ。それが自然の法則らしいわ。時によると、三人も四人もね」
今まで、ジェーンはいつも、簡素な、勤勉な生活を送っていた。どっちかといえば、失踪した若い娘のことを、あとでよく人々が、『男の友達のいない、快活な、愉快な子だった』といったようなことを言うが、そうした『男の友達のない、快活な愉快な娘』だったのだ。ところが、今では、男の友達が、そこら辺に、いくらでも転がっている。そうに違いない。テーブルにのり出してきたデュポン青年の顔には、単なる丁重さというより以上のものが認められたのだった。彼は、ジェーンの向う側に坐るのをよろこんでいた。よろこぶ以上に、悦に入っているらしかった。
ジェーンは、少し不安に感ずるのだった。
「だけど、この人、フランス人だわ。フランス人は用心しなければいけないと、よく人がいうわ」
「まだ英国においでになりますの?」と、ジェーンは言ったが、心の中では、その言い方が、いかにも空虚だったのを、ひそかに感じて、自分をせめていたのだった。
「そうです。父が、講演をしにエディンバラに行って来たものですから、友人のところに泊っていたのです。しかし、明日は、フランスに帰ります」
「そうでいらっしゃいますか」
「まだ警察では、逮捕していないのですね」と、ジャンがいった。
「いいえ、まだ。このごろは新聞に出ませんものね。たぶん、捜査を打ち切ったのかも知れませんわ」
ジャンは首をふった。
「いや、いや、打ち切ることはありませんよ。黙ってやっているのです……闇の中でね」といって、彼は、表情たっぷりの身振りをした。
「いやですわ。何だかぞっとしますわ」と、ジェーンは、不安そうにいった。
「そうですね。すぐ近くで、殺人が行われたなんて、あまり気持ちのよいものではありませんね……私の方はあなたより近かったのですから。ほんとに近くだったのです。時々考えるのもいやになります」と、彼はつけ加えた。
「一体誰がやったとお思いになりまして?」と、ジェーンはきいて、
「私、一生懸命考えてみたんですわ」と、言いたした。
ジャンは肩をすくめた。
「私ではありませんでしたね……あんまりみにくすぎますよ、あの女は!」
「でも、綺麗な人より、醜い女のほうが殺しやすかありませんこと?」と、ジェーンがいった。
「どういたしまして。女の人が美しかったら、好きになるでしょう?……それで、その人が、あんまりひどいことをすれば……嫉妬心をおこさせますでしょう。狂気のようになるんです。『よろしい、殺してやろう。そしたら満足するだろう?』とね。そうなるんです」
「それで、満足するでしょうか」
「そりゃわかりませんね、お嬢さん。私は、まだやってみたことがないものですから……」といって、彼は笑った。それから首をふった。
「しかし、あのジゼルのような醜いお婆さんだと……誰があんなものを殺すものですか!」
「そうですわね。それも一つの見方ですのね。でもなんだか、あの人も昔は、若くて、美しかったのだと思うと、かえって、とっても怖ろしいですわね」と、ジェーンは、顔をしかめていった。
「そうです、そうです」と、彼は急に真面目になって、
「女が、年をとるということは、生涯の偉大なる悲劇ですな」
「あなたは、女の人とその容貌ということに、ずいぶん関心を持っておいでになるようですのね」と、ジェーンがいった。
「そりゃ、あたりまえですよ。それは、最も興味のある問題ですからね。それは、あなたが、英国人だから、不思議に思えるのですよ。英国人というものは、まず仕事のことを考えるのです……職と呼んでね……それからスポーツのことを考え、そして最後に……とうとう最後に妻のことを考えるのです。そうです、そうです、まったくそうなのです。まあちょっと想像してごらんなさい。たとえば、シリアで小さいホテルに、英国人が泊っていて、その人の妻が病気になったとします。彼は、ある期日までにイラクに行かなければならないとします。よろしい、彼は妻を残して、その日までに、イラクへきちんと行きます、つとめを果たすために。そして、彼も、妻も、それがまったくあたり前のことだと思っています。彼らは、その男を、高尚な、利己的でない人だと思うのです。しかし、英国人でない医者は、彼は野蛮人だと思うのです。妻というものは、人間なのだから……第一に考えるべきものです。仕事をする……これは、それより、ずっと大切なものでないわけなのです」
「よくわかりませんけど、仕事が、先に来るはずじゃないでしょうか」と、ジェーンがいった。
「しかし、どうしてですか? ね、あなたも同じご意見でしょう? 仕事をして、人間は、金を得るのです……女を愛し、世話して、それを費やすのです……それで、最後のものは、最初のものより高尚で、理想的なのです」
ジェーンは笑ってしまった。
「おお、では、私は、第一の義務として、厳格にみとめられるよりも、ただ、贅沢として、放縦としてだけ認められた方がいいみたいですわ。気をつけてやらなければならない義務として感じてもらうより、私を世話するのを楽しみにしてもらえる方がよろしいわ」と、ジェーンがいった。
「いや、いや、お嬢さん、誰だって、あなたに対して、そんな気はしませんよ」
ジェーンは、青年の調子の熱心さに、軽く赤面した。彼は静かに話しつづけた。
「私は、前にも英国にいたことがあります。それで、あの審問っていうのですかね、あの日に、三人の若い、魅力のある婦人たち、お互いに、まったく違うタイプの婦人たちを研究して、とても面白かったのです」
「そして、私たちのこと、どうお思いになりましたの?」とジェーンは、面白く思って、尋ねた。
「ホービュリー夫人……あのタイプはよく知っています。非常に異国的で……非常に、非常に、金のかかるタイプです。あの賭博台に向って坐った、やわらかい顔、きつい表情……たとえば十五年間には、それがどういうことになるか、あなたもよくわかっておられましょう。あの夫人はセンセーションのためのみに生きているのです。高価な遊びと、たぶん、薬と……あの女は面白くないですよ」
「それから、カー嬢は?」
「ああ、あの婦人は、非常に、非常に英国的なのです。あれは、リヴィエラの店主たちが信用売りを与えそうなタイプの人です。彼らは、目の利く人々ですからね。彼女の服は仕立てがよくできています、男の服のようにね。地球を所有でもしているかのように歩きまわっています。別にいばってるわけではないのです……ただ、単に、英国人であるのです。彼女は、英国のどの部分から、どういう人々が来るかよく知っています。ほんとうですよ。エジプトで、あの人のようなのが言うのを聞きましたよ。『何ですか、あれはヨークシャーの方ね? それから、あれはシュロップシャー出の人ね』という具合にね」
その真似は上手だった。ジェーンは、ものうげな、上品な調子で笑った。
「じゃ、最後の私は?」と、彼女はいった。
「そうです、あなた。私は一人ごとを言いましたよ『またいつか会えたら、どんなに、どんなにいいだろう』とね。そして、今、こうやってあなたの向い側に坐っているのです。時々、神様がよくやって下さるものです」
ジェーンはいった。
「あなたは、考古学者でいらっしゃるんでしょう。何かをお掘りになるんでしょう?」
そして、彼女は、ジャンが仕事のことを話している間、するどく注意を向けてきいていた。
ジェーンは、とうとう小さい溜息をついた。
「あなたは、いろいろの国にいらっしたのでしょう。いろんなものをごらんになったんでしょう。とても、魅力的ねえ。私は、どこへも行かれないし、何にも見ませんわ、きっと」
「そうなさりたいですか……外国へ行って……地球のみなれないところを見て?……しかし、髪はウェーブにできないですよ。そうしたところでは」
「あら、一人でにウェーブになりますわよ」と、ジェーンは笑いながら言った。
ジェーンは時計を見上げて、いそいで、給仕に勘定書を請求した。
ジャンは、少し困ったように、
「お嬢さん、もしお許し願えれば……さっきもお話ししたように、明日、フランスへ帰りますので……今夜、お食事を一緒にして頂けないでしょうか?」
「残念ですけど、だめなんです。ほかの方とお食事することになっているのですから……」
「ああ、それは、残念です。大変残念です。また、パリに、そのうちおいでになりますでしょうね?」
「行けそうもございませんわ」
「そして、私も、いつ、ロンドンへ来られるかわかりません。残念です!」
彼は、ジェーンの手をとって、しばらく立っていた。
「また、お目にかかりたいものですね」と、彼はいったが、心からいっている様子であった。
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追跡には、いい晩ですね
ジェーンが、アントワンの店を出ようとしていたころ、ノーマン・ゲールが、元気な、職業的な調子でこういっていた。
「どうも少しよわいようですな……もし痛かったらおっしゃって下さい……」
彼の巧みな手は、電動ドリルを用いていた。
「さあ終りました。……ロスさん」
ロス嬢は、厚板の上で、調合物をまぜながらすぐ彼の肘のところに来た。
ノーマン・ゲールは、充填を終えて、言った。
「そうですね。ほかの歯の治療をしに、今度の火曜においでになりますか?」
患者は、熱心に口をゆすぎながら、一生懸命説明しだした。彼女は、残念だけれど、旅行するので、今度の約束を取り消さなければならない。帰って来たら、またお知らせすると、いうのだった。そして、急いで室から逃げていった。
「今日は、もうこれで終りだ」と、ゲールがいった。
「ヒギンスン夫人から、来週の約束をやめなければならないと、お電話がありました。次の約束はなさらないそうです。ブラント大佐は、木曜日においでになれないそうです」とロス嬢がいった。
ノーマン・ゲールはうなずいた。その顔は固くなった。
毎日同じことだ。人々は電話をかけてよこす、約束を取り消す、種々さまざまの口実……旅行……外国へ行く……風邪をひいた……来ないかも知れない……
どんな理由を言おうと、その本当の理由は、さっき、彼がドリルへ手をのばしたとき、最後の患者の眼の中に見たのだ……急に恐れたような眼付き……
彼は彼女の考えを紙に書くことができたのだ。
「もちろん、この人は、あの女が殺された飛行機の中にいたんだわ……時々、人間は頭が変になって、考えもしない犯罪をすることがあるってことを聞くけど、まったく危ないわ。この人が、殺人狂かも知れないわ。見たところ、ほかの人と同じようだっていうわ……何だか、眼に妙な光が、時々あるような気がしたわ……」
「来週は、閑になりそうですね、ロスさん」と、ゲールがいった。
「ええ、大勢の人が治療をおやめになりましたわ。でも、残った方々でようございましょう。夏の初め頃、ひどくお働きになりましたもの」
「秋には、あんまりたいした働きのチャンスはなさそうですな?」
ロス嬢は答えなかった。彼女は、電話がなったので、その答えから逃れられたのだった。電話に答えるために、室から出ていった。
ゲールは、消毒器のなかに道具を入れながら、一生懸命考えた。
「さて、どうしたらいいかな。薮《やぶ》を突っついたところで仕方がない。このことで、僕の職業はあがったりになった。おかしいが、ジェーンにはうまくいったのだ。人々は、話しをきいては驚くために、あの人のところへゆくのだ。考えるために来る……というのが、ここではいけないのだ……彼らは、私に向って口をあかなければならない、それがいやなのだ! この歯科医の椅子にのると、たよりない気がするからなあ。歯科医が殺人鬼ときちゃあ……
殺人とは、何という妙な現象だろう! 人が殺される、それだけのことかと思うと……そうでもないんだな。考えもしない、いろいろなことに影響があるんだな……さて、事実にかえってと、もう歯科医としてはだめらしい……ホービュリー夫人が逮捕されるとなると、どうなるだろう。患者が帰って来るかな。そうも言えなかろう。一度、こういうことになると……おお、そうだ、かまうものか、どうだっていいや。いや、そうじゃない、大いにかまうな……ジェーンのために……ジェーンはすばらしい、あの人が欲しい……しかし自分のものにはできない。なんたることだ!」
彼は微笑した。
「たぶんそのうち状況はよくなると思う……あの人も思ってくれてる……待ってくれるだろう……畜生! カナダへ行こうか……そうだ……そこで金を作ろう」
彼は一人笑いをした。
ロス嬢が部屋に帰って来た。
「ロリー夫人からでございましたわ。残念ですが……」
「ティンブクトゥへ参りますんで」と、ゲールは後をつぎ足した。そして、
「ねずみどもめ! ロスさん、君もどこかほかの勤め口を捜したほうがいいですよ。僕のところは、どうも沈んでいく船らしいからね」
「あら、先生、あなたを棄ててゆきたくございませんわ」
「いい人ですね。少なくともあなたは、ねずみではありませんね。しかし、僕は真剣に言っているのです。この混乱の暗雲をはらすようなことでも起こらないかぎり、僕は、万事終れりですよ」
「何かしなくてはいけませんわ」と、ロス嬢は力をいれて、「警察が不面目ですわねえ。何にもしていないんですものね」
ゲールが笑った。
「やってはいるんですよ」
「誰かが、何かするはずですわ」
「いいですよ。僕は、自分で何かしようと思っているんです……何がいいか、今わからないだけなんです」
「おお、ゲール先生、あなたは、とても賢い方ですもの、きっと何とかなさいますわ」
ゲールは、心の中で思った。
「この娘にとって僕は英雄なんだ。僕の探偵役を助けてくれようと思っているんだ。が、僕には、ほかに仲間があるんだ」
その夜、彼は、ジェーンと食事を共にした。半ば、無意識で、上機嫌の風を装っていた。しかし、ジェーンはなかなかするどくて、騙されなかった。彼女は、彼の急激な放心状態と、眉間に刻まれた皺と、口もとに急に現われた緊張の線を見のがさなかった。
「ゲールさん、お仕事がうまくいっていませんの?」と、彼女はついに尋ねた。
彼は、すばやく彼女の方を見たが、すぐ眼をそらしてしまった。
「そうですね。あんまりよくいっていませんね。一年中の一番いけない時期でもありますしね」
「ばかなこと言ってもだめよ」と、ジェーンが鋭くいった。
「ジェーン!」
「そうですわ。あなたが死ぬほど困っていらっしゃるのを私がわからないと思っていらっしゃるの?」
「僕は死ぬほど困ってなんかいないですよ。ただ、ちょっと弱っているだけですよ」
「患者さんがひどく臆病なんで……」
「殺人犯人かも知れないものに、歯をやってもらう気がしない? そうですよ」
「何て、残酷なほど不公平なんでしょう!」
「まあ、そうです。なぜなら、正直にいうと、僕はかなりいい歯科医ですからね。それに、僕は殺人犯人じゃない」
「ひどいことですわ。誰かが何かをしなければなりません」
「それは、僕の秘書のロス嬢が今朝言ったことです」
「どんな人ですの?」
「ロス嬢ですか」
「そうですわ」
「そうですね、わかりませんね。大きくて……! 骨ばってて……揺り木馬みたいな鼻がでんと坐って……おそろしく有能な人です」
「いい方のようですねえ」と、ジェーンは丁寧にいった。
ゲールは、これを聞いて、自分の言い方が適切だったと思った。ロス嬢の骨も、彼のいったほどひどくはなかったし、赤い髪の毛は、非常に魅惑的だった。が、彼は、その点をジェーンに言ってはまずいと思ったのだったし、また、事実そうであったのだ。
「僕は何かしたいんです。もし僕が、本の中の人物だったら、何か手がかりを見つけるか、または、誰かをかぎつけることができるんだけれどもなあ」
ジェーンは、突然、彼の袖を引っぱった。
「ごらんなさいよ。あすこにクランシーさんがいるでしょう……ほら、あの作家よ……一人で窓のところに坐って。あの人のあとをつけたらいいわよ」
「しかし、映画にゆくんだったでしょう?」
「映画なんか、どうでもいいですわよ。何だか、これが、ちょうどいいと思いますわ。あなたは先刻、誰かをかぎつけたいと言ったでしょう。ここにちょうどいい人がいますわ。わかりゃしないわ。何か見付かるかも知れませんわ」
ジェーンの熱心さが、たちまち彼にも伝染した。ゲールも、その計画に、よろこんで入りこんだ。
「そうだな、何になるかわからないな。食事、どのくらいまで済んだかな。僕は首をまわさなけりゃ見えないし、じろじろ見るのはいやだし……」
「だいたい、私達と同じくらいですわ。私達、もう少し急いで、先になって、お金払っておいた方がいいわ。そうすれば、あの人が出るとき、すぐ出られるんですもの」と、ジェーンがいった。
彼らはこの計画どおりにした。小男のクランシー氏が、とうとう立ち上って、ディーン街に出ると、ゲールとジェーンも、すぐ後について行った。
「タクシーに乗るかも知れないから」と、ジェーンが説明した。
しかし、クランシー氏は、タクシーにはのらなかった。腕にオーバーをかけて(そして、時々、それを地面に引きずって)彼は、静かに、ロンドンの町を歩いていった。時々、急ぎ足になったり、また、時々は、遅くなって、ほとんど立ち止まるくらいになった。一度などは、往来を横ぎろうとする時に、すっかり止まってしまって、歩道の敷石の上に片足をあげかけたまま、まるで高速度写真のような様子をしたのだった。
彼の行先も風変りだった。一度は、あんまり右曲がりをたくさんしたので、同じ町を二度もぐるぐるまわりしたくらいだった。
ジェーンは元気が出て来るように感じた。
「ねえ? あの人、つけられるのがこわいのよ。私達をまこうとしているんですわ」と、彼女は興奮していった。
「ほんとにそう思いますか」
「もちろんですわよ。そうでもなきゃあ、こんなに、ぐるぐる廻ったりするものですか」
「おお!」
彼らは、急に角を曲がって、ほとんど獲物にぶっつかるところだった。彼は、肉屋の店の前に立ち止って、じっとそこを見詰めているのであった。店そのものは、当然閉っていた。が、クランシー氏の注意をひいたのは、二階の辺の何かのようであった。
「完全だ、ちょうどよい、何て幸運だ」と、彼は、声を出していった。
彼は手帳をとり出して、注意深く、何かを記していた。それから、鼻唄をうたいながら、勢いよく歩き出した。
今度は、しっかりと、ブルームズベリの方へ行くのだった。時々、頭をむけたとき、後ろの二人は、彼の唇が動いているのを見ることができた。
「何かありますわよ」と、ジェーンはいった。
「あの人、大変困り切っているらしいわ。自分でしゃべっていて、それがわからないようですわ」
彼が、横断歩道の信号待ちをしている間に、ゲールとジェーンは、肩を並べるくらいのところへいった。
それは確かに真実だった。クランシー氏は一人ごとを言っていた。その顔は青白く、緊張していた。ゲールとジェーンは、その数語のつぶやきを聞いたのだった。
「なぜ、彼女はしゃべらないのだろう? なぜ? 理由がなければならない……」
信号は緑になった。彼らが反対側につくと、クランシー氏がいった。
「わかった、もちろんだ。そのために彼女が沈黙させられなければならないのだ!」
ジェーンはひどくゲールの腕をつねった。
クランシー氏は、今は、大いそぎだった。オーバーは、頼りなくひきずられた。この作家は大股で、地面をけって歩いていく。あきらかに、自分の後をつけている二人のことなどは忘れ果てて。
ついに、相手の裏をかくような早さで彼は、とある家の前に止って、鍵でドアをあけて、入っていってしまった。
ゲールとジェーンは顔を見合わせた。
「あの人の家だ。カーディントン街四十七。審問で言った番地ですよ」と、ゲールがいった。
「でも、いいわ。きっとまた、出て来るかも知れませんわよ。でも、ともかく、少しは聞いたんですものね。誰か……女の人が……沈黙させられようとしてるんですわ。そして、ほかの女がしゃべらないんだわ。なんだか、とても、ミステリーじみてるわねえ」と、ジェーンがいった。
暗闇の中に声がした。
「今晩は」と、その声がいった。
そして、声の持ち主が進み出た。立派な口髭が、ランプの光に見えた。
「さよう、追跡には、いい晩ですね」と、エルキュール・ポワロがいった。
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クランシー氏の意見
二人とも、びっくりしてとび上ったのだったが、まず、ゲールが先に回復した。
「もちろん、ええと、ポワロさんでいらっしゃいますね。今でも、罪の明かしを立てようとしていらっしゃるのですか、ポワロさん?」と、彼はいった。
「ああ、私達のちょっとした会話を、記憶しておいでですな? では、あなた方の疑っているのは、あのあわれな、小さいクランシーさんですか」
「あなただってそうでしょう? さもなければ、こんなところにいらっしゃらないでしょう」と、ジェーンが鋭くいった。
彼は、ジェーンを考え深くみつめた。
「お嬢様、あなたは、殺人というものを考えてごらんになったことがおありですか? 抽象的に……という意味ですが……冷静に、感情をぬきに、考えてごらんになったことがおありですか」
「ついこの朝まで、考えたことがあったとは思われませんわ」と、ジェーンがいった。
「そうです。あなたは、個人的に、殺人というものがあなたに関係を持ったから、そのことを今は考えてごらんになるのです。しかし、私の方は、今までに何年も、犯罪をとり扱ってまいりました。私には私の考え方があります。あなたが、殺人犯罪を解こうとしていらっしゃる時に、心にとめておかなければならない一番大切なことは、何だとお思いになりますか」
「殺人者を捜すこと」とジェーンがいった。
「正義」と、ゲールがいった。
ポワロは首を横にふった。
「殺人犯人を捜すよりもっと大切なことがあります。そして、正義と申すのは立派な言葉ですが、それがどういうことを意味しているか、はっきりと申すのは、難しいものです。私の一番大切と思うことは、罪のないものを明白にすることです」
「ああ、そりゃ当然ですわ。言わなくたってわかり切ってますわ。もし、誰かが、誤って告訴されたら……」と、ジェーンがいった。
「そうでもないのです。別に、告発というものはないのです。しかし、一人の人が、疑いもなく有罪ときまるまでは、犯罪に関係のある人々は、皆、ある程度、そのために苦しみがちなのです」
ゲールは、力を入れていった。
「それは、本当に真実です」
ジェーンはいった。
「わかっていますとも!」
ポワロは二人を代わる代わる見た。
「ああそうですか。もうご自分で、それがわかりましたか」
彼は急に、活発になった。
「さて、私はやりたい仕事があります。私達の目的が同じなのですから、一緒に協力して、やろうじゃありませんか。私は、あの無邪気な友人のクランシーさんを訪問しようと思っています。お嬢さんが一緒にいって下さるといいと思います……私の秘書という資格でね。さあ、お嬢さん、ここに速記の帳面と鉛筆があります」
「私、速記はできませんの」と、驚いて、ジェーンはいった。
「それはそうでしょう。しかし、あなたはなかなか頓智のある方でいらっしゃるから……ノートに鉛筆で、もっともらしくしるしをなすったらいいでしょう。さて、ゲールさんは、そうですね、一時間くらいたったら、会いましょう……『モンシニョール』の二階でいかがですか? よろしい。それから情報交換といたしましょう」
そこで、ポワロは呼鈴の方へ行って、押したのだった。茫然として、ジェーンは、ノートをつかんで、その後についていった。
ゲールは抗議するように口を開けたが、考えなおした様子だった。
「いいです。一時間たったら『モンシニョール』で……」
玄関のドアは、黒ずくめの、愛想のない中老の女性によって開けられた。
「クランシーさんは?」と、ポワロがいった。
彼女は身を引いた。ポワロとジェーンは入って行った。
「お名前は?」
「エルキュール・ポワロ」
うかつに女性は、二人を二階につれて行って、そこの一つの部屋に入れた。
「エーアキュール・プロットさん」と、彼女はいった。
クランシー氏は、クロイドンで、自分はきれい好きではないといっていたのだったが、ポワロには、ただちに、そうだということがわかった。その部屋は、長い室で、三つの窓が一方の側にあって、もう一方の壁のほうには、戸棚や本箱が並んでいたが、まさに乱雑の海であった。紙が散らばっていたし、厚い表紙の綴込み帳が何冊も積み重なっていたし、バナナとビール瓶、開いたままの本、長椅子、クッション、トロンボーン、種々の陶器、エッチング画、さまざまな種類の万年筆が何本となく散らばっていた。
この混乱の真ん中で、クランシー氏は、カメラと一巻きのフィルムと取っ組んでいた。
「これは、これは」と、クランシー氏は、来訪者の名がいわれると、顔をあげて、カメラを下に置いた。フィルムはひとりでに床に落ちて、解けていった。彼は両手をのばして近づいて、
「よくおいで下さいました」といった。
「私を覚えていて下さいますか? これは私の秘書のグレイさんです」と、ポワロがいった。
「始めてお目にかかります。グレイさん」と、クランシー氏は握手してから、ポワロの方を向いた。
「もちろん、よく覚えておりますが……さて、どこでしたか? 『がいこつクラブ』でしたかな?」
「私達は、ある致命的な時に、パリから、航空機で、ご一緒に旅行いたしました」
「ああ、そう、そう、グレイさんもですか! グレイさんが、あなたの秘書とは知りませんでした。どこか、ヘアサロンあたりにおいでのような気がしておりました」と、クランシー氏がいった。
ジェーンは心配そうに、ポワロを見た。
ポワロの方は一向平気であった。
「そのとおりですよ。有能な秘書として、グレイさんは、時々、パートタイムの仕事をして下さるのです……おわかりでしょうか」
「わかりますとも! 私は忘れておりました。あなたは探偵でしたな……本物の。警視庁のではなく、私立のでしたな。どうぞおかけ下さい。グレイさん、いや、そこではなく。その椅子には、オレンジのジュースがついてると思います。この堆積物をどけたら……おお、みんなひっくり返ってしまいました。かまいません。あなたはここへどうぞ。……ポワロさん……それでいいですね?……ポワロさんでしょう? その椅子の背はすっかりこわれているというのではありませんが、ただ、少しきしむだけです。かけますとね、あんまりひどく、よりかからない方がよろしいかも知れません。そうです。私のウィルブラハム・ライスのように、私立探偵ですな。大衆は、ウィルブラハム・ライスがすっかり好きになりましてね。彼は、爪をかんで、バナナを多量に食べるのです。どうして、一番最初に、彼に爪をかませるようにしたかわかりません……まったくいやなことなのですが、今でもやっています。最初に爪をかみ始めたので、どの本ででも、そうしなければならなくなったのです。単調ですな。バナナはそんなに悪くはありません。少し、おかしさが得られますからな……罪人が、その皮の上ですべったりして。私自身、バナナを食べるものですから……それで思いついたのです。しかし、私は、爪はかみません。ビールはいかがですか?」
「ありがとうございますが、頂きません」
クランシー氏は溜息をついて、自分も腰を下ろして、ポワロをじっとみつめた。
「何のためにおいでになったかわかります……例のジゼルの殺人についてでしょう。私はあの事件について、一生懸命に考えてみました。あなたが何とおっしゃろうとも、あれは驚くべき事件ですな……毒矢と吹き矢筒が、飛行機上で……私自身が、本や、短編でもその考えを用いたのです。むろん、非常に怖ろしい出来事です。しかし、私は、スリルを覚えたといわなければなりません。ポワロさん、まったくスリルを……」
「あの犯罪は、あなたに、職業的に訴えるところが大いにあったに違いないと思いますよ、クランシーさん」と、ポワロがいった。
クランシー氏はにこにこした。
「そのとおりです。誰だって、警察官だって、それを理解しただろうと思うでしょう。ところがさにあらずです。嫌疑……それが、私が、警部からも、審問においても得たことのすべてなのです。私は、正義を助けるために乗り出しました。そしてその努力の報いとして私の得たものは、明白な、愚にもつかぬ嫌疑なのです!」
「しかし、そのため、あまり損害をお受けになったようには、思われませんが……」と、ポワロが、微笑しながらいった。
「ああ、しかし、私には私の考えがあるのです、ワトスン君。私があなたのことをワトスン君と呼ぶのをゆるして下さるならばですね。別に悪い気ではないのです。ところであの阿呆な友人を利用する手法というのは、面白いです。個人的には、私は、シャーロック・ホームズの物語は、買いかぶられてると思うのです。誤謬……まったく驚くべき誤謬があるのです……しかし、何を言っていたのでしたっけ?」と、クランシー氏がいった。
「あなたは、自分の方法があると言われました」
「ああ、そう、そう」と、クランシー氏はのり出して、
「私はあの警部……何という名でしたかね。ジャップ?……そうです、そのジャップを、私の次の本に入れようとしているのです。ウィルブラハム・ライスが、この人をどう扱うかはみものです」
「バナナの間にでも挟みますかな」
「バナナの間に挟む……それはいいですな、それは……」と、クランシー氏は笑った。
「あなたは、作家として、非常な、利益を得ておいでですよ。あなたは、印刷された言葉の中に、あなたの感情を織り込んで、胸をすかすことがおできになります。あなたは敵の上に、ペンの力を持っておいでですからね」と、ポワロがいった。
クランシー氏は、椅子の中で、静かに身体をゆすった。
「私は、この殺人は、私のためには、大変に幸運なものになるだろうと思いはじめてきました。私は、全体を、起こったとおりに書いています……もちろん、小説として。そして、それを、『航空機の神秘』という題にしようと思います。すべての旅客の、ペンの写生ですな。ちょうどいい時機をみて出版することができれば、電光石火で売れると思うんですが」
「名誉毀損文書とか何とかになりはしませんの?」と、ジェーンが尋ねた。
クランシー氏は、彼女の方を向いて、にこにこした。
「いいえ、いいえ、お嬢さん。もちろん、私が、その旅客の一人を殺人犯とすれば……そりゃ、あるいは、名誉毀損ということで損害賠償でやられるでしょうが。しかし、それが、その大切な点なのですよ……まったく思いもかけぬ解決が最後の章で、あらわされるのです」
ポワロが、熱心にのり出した。
「そして、その解決は?」
クランシー氏はまた笑った。
「独創的……巧妙で、センセーションを巻き起こすものです。パイロットに変装して、一人の娘が、ル・ブールジェで飛行機にのり込んで、マダム・ジゼルの席の下へもぐり込むことに成功しました。最新のガスのアンプルを持っているのです。それを出します……みんなは三分間、無意識状態となります……彼女は出て来て……毒矢を放ち、機の後ろのドアから、パラシュートで降りてしまいます」
ジェーンもポワロも、眼をぱちぱちさせたのだった。
「その娘が、どうして、ガスのために、無意識になりませんでしたの?」と、ジェーンはいった。
「ガスマスクです」と、クランシー氏がいった。
「そして、海峡におりましたの?」
「海峡でなくともよろしい……フランスの海岸としましょう」
「だって、誰も席の下へは入れませんわ。そんな余裕がありませんもの」
「私の飛行機にはあるんですよ」と、クランシー氏は断乎といった。
「素敵ですな。そして、その娘の動機は?」と、ポワロがいった。
「まだ、きめていないのです。たぶんジゼルがその娘の愛人を破滅させたのですかな。愛人は自殺したのです」と、クランシー氏は、考えながらいった。
「どういう風にして、毒を手に入れたのですか」
「そこが、手際のいいところです。娘は蛇使いなのです。彼女は、自分の大事にしている蛇からその毒をとったのです」と、クランシー氏はいった。
「なるほどね……しかし、それは少し煽情的すぎると、お思いになりませんか」と、ポワロはいった。
クランシー氏は、断乎として、それを否定して、
「物を書く場合に、煽情的すぎるなんていうことはないです。特にアメリカインディアンの毒矢などを取り扱う時にはね。私はそれが蛇の毒汁だということにしているんです。しかし根本は同じことです。それにですね、読者は、ミステリーが、日常生活と同様であるとは予期しておりませんですよ。新聞記事を見てごらんなさい。まるで堀の水みたいによどんでいて活気がないじゃないですか」
「では、あなたは、この私どもの事件も、堀の水のように活気がないとおっしゃるのですか」
「いいえ、時々、実際に起こったとは信じられないような気がするのです」と、クランシー氏も同意した。
ポワロは、主人の方へ、ぎしぎしいう椅子を少し近づけた。彼は、内証話でもするように、声を低くした。
「クランシーさん、あなたはいい頭脳と想像力をもった方です。警察は、おっしゃるとおり、あなたに嫌疑をかけました。あなたの助言を求めないのです。しかし、私、エルキュール・ポワロは、あなたとご相談したいのです」
クランシー氏は、嬉しさに赤くなった。
「そりゃご親切ですね」
「あなたは犯罪学を研究なさいました。あなたのお考えは役に立つでしょう。誰があの犯罪を行ったかについての、あなたのご意見を知るのは、私にとって、大そう興味のあることです」
「そうですな」と、クランシー氏はためらって、知らず知らず、バナナに手をのばして、それを食べ始めた。
「ポワロさん、それは、まったく違ったことです。書いている時には、誰でも好きなものを罪人とすることができます。しかし、現実の世界においては、真実の人間が相手です。事実を支配することはできないのです。私は、真の探偵としては何の役にも立たないのです」
彼は悲しそうに頭を振って、バナナの皮をストーブの火床に投げこんだ。
「しかし、一緒にこの事件を考えるのは面白いかもしれません」と、ポワロが申し出た。
「ああ、それなら、そうです」
「まず、戯れの推量をするとして、誰を選びますか」
「そうですな。二人の、フランス人の中の、一人だと思います」
「では、どうしてですか」
「そりゃ、彼女がフランス人だったからです。なんだかありそうです。それに、彼らは、彼女のところから、あんまり遠くない反対側に坐っていましたから……しかし、実際はわからないのです」
「それもかなり動機によりけりですね」と、ポワロは考え深くいった。
「もち……もちろんですとも。あなたは、すべての動機を、非常に科学的に、表になさったのでしょう」
「私の方式は古くさいのです。古い格言に従っているのです。犯罪によって利益を得る者を探せ、です」
「それは、結構ですよ。しかし、このような事件では、それは少し困難ではないかと思います。資産を相続する娘がいると聞いていました。しかし、機上の大勢のものも得をするかも知れないということをみんな知っております……金を借りて、返さなくともいい人々……」と、クランシー氏がいった。
「それは本当です。私はまた、ほかの解決も考えることができます。マダム・ジゼルが何か、殺人の計画とでも言いましょうか……これらの人々の中の一人の……について知っていたと想像してみましょう」と、ポワロはいった。
「殺人の計画ですって? なぜ殺人の計画なのですか。何と珍しい言い方でしょう?」と、クランシー氏がいった。
「このような場合には、何でも考えてみなければなりません」と、ポワロがいった。
「しかし、考えても無駄です。知らなければならん……」
「あなたに理由があるのです……理由があるのです。大そう正しい観察です」といってから、ポワロはまたいった。
「失礼ですが、あなたの買われた吹き矢筒のことですが……」
「あんな吹き矢筒なんてくそ喰らえだ。あんなもののことを言わなければよかったんです」と、クランシー氏がいった。
「あなたは、チャリングクロス街で買ったと言われましたが、その店を覚えておいでですか」
「そうですね。アブサロムだったかな、それとも、ミッチェル・エンド・スミスという店もありますからな。覚えていません。しかし、このことは、あのうるさったらしい警部にもうすっかり話しておきましたよ。今頃はすっかり調べあげたに違いありません」と、クランシー氏がいった。
「ああ、しかし、私は、それとまったく違った理由で伺っているのです。私は、あのようなものを買って、実験をしてみたいのです」と、ポワロがいった。
「ああ、そうですか。しかし、見つからないかも知れませんよ。いくつも置いているわけではありませんからな」
「それはそうでしょうが、聞いてみることはできます。グレイさん、この二つの店の名を書いておいて下さいませんか?」
ジェーンはノートを開いて、急いで、速記にみえるようなものを書いた。それから、内々で、ポワロが言ったことが真面目だといけないと思って、その紙の裏側に、普通の字でその名を書きとめておいた。
「ああ、どうもだいぶお邪魔いたしましたね。あなたのご親切に対して感謝しておいとまいたしましょう」
「どういたしまして、どういたしまして」とクランシー氏はいって、
「バナナを食べて下さればよかったですな」
「ほんとにご親切です」
「どういたしまして。実際は、今晩は、私は非常に愉快なのです。私は自分の書いている短編でゆきづまっていたのです……ことが適当な結果になってくれなかったのです。私は、罪人のためによい名が得られなかったのです。何か旨味《うまみ》のあるものがほしかったのです。ところが、幸運と言いましょうか、肉屋の店の上で、その望んでいる名を見たのです。パージター、というのです。ちょうど、私の探していた名前です。それには、純な響きがあります。それからまた五分たって、もう一つ、ほかのことがわかったのです。常に、物語には、同じ暗礁があるのです……なぜ、娘はしゃべらないか? 青年は彼女に話させようとするのですが、娘は自分の唇は封じられている、というのです。彼女がすぐにすべてを漏らしてはならない真の理由などないんですが、何か、あまり馬鹿げていない理由を考えなければならないのです。それにまた不幸にも、それは、各ストーリーごとに異なっていなければならないのです」
彼は、ジェーンに向って、穏やかにほほえみかけた。
「作家の試練ですよ」
彼は彼女の傍を通って、本箱のほうへさっと行った。
「一つあなたにさしあげることをおゆるし下さい……『紅《べに》はなびらの手がかり』です。矢の毒と、原地人の投げ槍を使った私の著書のことを、クロイドンでも言ったと思いますが……」
「どうもありがとうございます。大変ご親切に」
「どういたしまして」といって、いきなり、ジェーンに向って、
「あなたは、ピットマン式の速記法をお使いにはなりませんのですな」といった。
ジェーンは真っ赤になった。ポワロが救いに飛び出した。
「グレイさんは、非常に時代の先端をいっておられるのです。チェコスロバキア人によってごく最近に発見された方法を用いておられるのです」
「そうですか。チェコスロバキアというところは驚くべきところに違いありませんな。何でもそこから来るようです……靴も、ガラスも、手袋も、こんどは新しい速記法。驚くべきところです」
彼は二人と握手した。
「もう少しお役に立てばよかったですな」
彼らは、思いに沈んで、微笑しながら、彼らを見送っている彼を、ちらかった部屋に残してその家を出た。
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ポワロ、策を授く
クランシー氏の家から二人は、タクシーに乗り『モンシニョール』へ行った。そこには、ノーマン・ゲールが二人を待っていた。
ポワロは、コンソメとマヨネーズソース付きのチキンの冷肉を註文した。
「それで、いかがでした?」と、ゲールがいった。
「グレイさんは、立派な秘書であることを証明されました」と、ポワロがいった。
「私、あんまりよくやったとは思いませんわ。あの人は私の後ろへいったとき、私の書いたのを見てしまったんですわ。非常に観察力がありますわね」と、ジェーンがいった。
「ああ、あなたもそれにお気付きでしたか? この善良なクランシーさんは、人の思うほどぼんやりした人ではありません」
「ほんとうに、あの番地をお入り用でしたの?」と、ジェーンが尋ねた。
「役に立つかも知れませんのでね」
「もしかして、警察が……」
「ああ、警察ですか? 私は警察の尋ねたような同じ問いは尋ねませんよ。しかし、実際は、警察は、何か尋ねたかどうか疑わしいのですよ。飛行機の中で発見された吹き矢筒はアメリカ人がパリで買ったものですからね」
「パリで? アメリカ人が? 飛行機の中にはアメリカ人はいませんでしたわ」
ポワロはやさしく彼女に微笑をなげた。
「そうなのです。アメリカ人がいるので、ことがなお面倒になりますよ」
「それを買ったのは男ですか?」とゲールがいった。
ポワロは妙な表情で彼を見た。
「そうですよ。男の人が買ったのです」
ゲールは、不思議そうな顔をした。
「ともかく、クランシーさんではありませんでしたわ。一つ持っていらしたのですから、また別のを買わなくてもいいんですもの」と、ジェーンがいった。
ポワロは首をふった。
「こういう風にして、進んでゆかなければ、ならないのです。代わる代わる、みんなを疑ってみて、それから、彼または彼女を、ブラックリストから除いていくのです」
「今までに何人とり除きましたの?」
「お考えになるほど多くではありませんよ、お嬢様。それは動機によるのでございますよ」と、ポワロはいたずらっぽくいった。
「何かあるので……?」と言いかけて、ゲールはやめて、それから、あやまるようにつけ加えた。
「お役柄の秘密に立ち入りたくはないのですが、あの女が金を貸した人たちの記録はないのですか?」
ポワロは首をふった。
「すべての記録は焼き捨てられてしまったのです」
「そりゃ残念ですね」
「そうですよ。しかし、マダム・ジゼルは、金貸しの職業に、恐喝も一緒に行っていたのです。それで、だいぶ範囲が広くなってまいります。たとえば、マダム・ジゼルが、ある犯罪の情報を持っていたといたします……たとえば、誰かの殺人未遂とかいうのを」
「そんなことを想像する理由があるんですか」
「そうなのです、あるのです……この事件に関する少しばかりの書類の証拠があるのです」と、ポワロはいった。
そして、興味を持っている二人の顔を代わる代わる見て、小さい溜息をもらした。
「ああ、それはそれでよろしい。ほかのこと……たとえば、この悲劇が、いかにあなた方若い人々に、影響を与えたかをお話しいたしましょう」と、彼はいった。
「それはおそろしく響きますけど、私の方は、そのことからうまくやりましたわ」と、ジェーンがいった。
彼女は、俸給の上がったことを話した。
「おっしゃるとおり、うまくおやりになりましたがね、お嬢様。しかし、それは一時的なことですよ。九日間の不思議でさえも、九日以上永くは続かないのですよ。覚えていらっしゃいまし」
ジェーンは笑った。
「そりゃ本当ですわ」
「僕の場合は、九日以上続きそうです」と、ゲールはいった。
彼は、自分の立場を説明した。ポワロは同情的に聞いていた。
「おっしゃるとおり、九日以上続きますね……九週間……または九カ月。センセーションと申すものは、すぐ消えますが……恐怖と申すものは永つづきしますからね」と、彼は考えながらいうのだった。
「僕は現在の仕事に執着しているべきだとお思いになりますか」
「ほかに計画でもおありですか」
「あります……すべてをあきらめて、カナダかどこかへ行って、やりなおすのです」
「そりゃ、とっても残念ですわねえ」と、ジェーンは強くいった。
ゲールは彼女を見た。
ポワロは巧みに、チキンを食うのに夢中になっていた。
「僕は行きたくありません」と、ゲールがいった。
「私が、マダム・ジゼルを殺した犯人を発見すれば、あなたは行かなくともよろしいでしょう」と、ポワロが元気にいった。
「ほんとに発見なされますの?」と、ジェーンがいった。
ポワロは、彼女をたしなめるように見るのだった。
「人が、順序と方法をもって、一つの問題に近づく時にはそれを解くのに困難はあるべきではないのです……何にもないのです」と、ポワロはきつくいった。
「わかりました」と、ジェーンはいったが、さっぱりわからないのだった。
「もし、助けがあれば、この問題をもっと解くことができますでしょう」と、ポワロがいった。
「どんな助けですの?」
ポワロは、一二分返事をしなかった。それからいった。
「ゲールさんのお助けです。そして、もっと経ってから、たぶん、お嬢様のお助けです」
「僕に何ができますか?」と、ゲールが尋ねた。
ポワロは彼を横眼で見て、
「お厭でしょうと思います」と、警告するようにいった。
「何ですか?」と、青年はいらいらしていった。
非常に細かい心づかいで、英国的感情を害さないようにポワロは、楊子をつかった。それからいった。
「率直に申しますと、私の必要とするのは、ゆすりなのです」
「ゆすりですって?」と、ゲールが叫んだ。彼は、我が耳を信じかねている人のように、ポワロをみつめた。
ポワロはうなずいた。
「そのとおりです、ゆすりです」
「しかし、何のために?」
「それは、ゆするためにですよ」
「そうですか。しかし、誰をですか? なぜですか」
「なぜと申すのは、私の仕事です。誰をというと……」とポワロはいって、ちょっと休んだ。それから、いかにも事務的につづけた。
「仕事の輪郭をお話ししましょう。あなたは短い手紙を書きます……それは、私が短文を書いて、あなたがそれを写すのです……ホービュリー伯爵夫人にです。あなたは、それを『親展』として、手紙の中で、会見を要求するのです。あるときあなたが、夫人と同じ飛行機で英国まで一緒だったことを思い出したと書くのです。また、マダム・ジゼルとの取引き上のある書類があなたの手に移ったと、いうことにするのです」
「それで?」
「それから、会見をすることになりますね。あなたは行って、あることをいうのです。(それは私が教えてあげます)あなたは……そうですね、……一万ポンドを要求するのです」
「あなたは気が狂ってる!」
「どういたしまして。私は、少し変わってはいるでしょうが、気は狂っておりません」と、ポワロがいった。
「それで、もし、ホービュリー伯爵夫人が警察を呼びにやったら? 僕は牢獄行きですよ」
「警察など呼びにやりませんよ」
「そんなことわからないでしょう」
「実際のことを申しますと、私は、すべてを知っているのです」
「しかし、僕はどうも厭ですな」
「一万ポンドはもらいますまい……それがあなたの良心を軽くするならば……」と、ポワロは、いたずらそうにいった。
「しかし、ポワロさん……これは、僕の生涯を破滅させてしまうような、向う見ずな計画ですよ」
「どうして、どうして、あのご夫人が警察になど参りますものか? そのことは保証いたしますよ」
「夫に話すでしょう」
「夫にも話しはいたしません」
「僕は厭ですよ」
「あなたは患者を失い、成功の道を失ってもよろしいのですか」
「そりゃ厭ですが、しかし……」
ポワロは親切に微笑した。
「それに対して、生来の嫌悪を感じているのですね? それはまったく自然です。あなたは、また、騎士的精神も持っておいでになる。しかし、このホービュリー伯爵夫人は、そうした細かい心遣いの価値のある人ではないのです。あなた方の熟語を使って申しますと、彼女は、大そう忌わしい品物の一つに過ぎないのです」
「それにしても、殺人者ではないでしょう」
「なぜですか」
「なぜって? それだったら僕たちは見たはずです。ジェーンさんと僕とは、ちょうど、向う側に坐っていましたからね」
「あなたは、あんまりいろいろのことに対する先入観を持っておいでになる。私は、すべてのことを真っ直ぐにしたいと思っておりますのです。そうするためには、|知らなくては《ヽヽヽヽヽヽ》ならないのです」
「女性を脅迫するなんていう考えが厭なんです」
「ああ、その言葉に意味がありますね! 脅迫はなくてよろしいのです。あなたはただ、ある効果を出して下さればよろしいのです。土台が用意されれば、そのあとで、私が登場いたします」
「もし、僕を牢屋にいれたら……」
「いや、いや、いや、私は、警視庁ではよく知られております。もし、何事かが起これば、私が責任を負います。しかし、私が予言したことのほかは、何事も起こりませんよ」
ゲールは溜息をついて承知した。
「いいです、やりましょう。しかし、まだ、あんまり気が進みません」
「よろしい。これがあなたの書くことです。鉛筆をおとり下さい」
彼はゆっくり口授した。
「さあ、あなたのいうことは、後で教えてあげましょう。お嬢様は劇場へおいでになったことがおありですか」
「はい、かなりたびたび」と、ジェーンがいった。
「よろしい、たとえば『ずっと下に』という劇をごらんになりましたか」
「ええ、一カ月ほど前に見ました。いいものでしたわ」
「それは、アメリカ劇でしたね」
「ええ」
「レイモンド・バラクロー氏が演じた、ハリーの役を覚えておいでですか」
「ええ、とってもようございましたわ」
「魅力的だとお思いでしたか? え?」
「ものすごく魅力的でしたわ」
「セックスアピールがございましたでしょう?」
「とっても」と、ジェーンは、笑いながらいった。
「それと……また、演技も上手だったでしょう?」
「そうですわ。上手だと思いますわ」
「私も行って見なければなりません」と、ポワロがいった。
ジェーンは、訳がわからなくなってポワロをみつめた。
……何ておかしな小さい人だろう……一つの問題から、ほかの問題に、鳥が枝から枝へとんでゆくように、とびまわって!……
おそらく、その考えが通じたのであろう、ポワロは微笑した。
「お嬢様は、私のやり方を感心なさらないのでございますね?」
「あなたは、ずいぶん飛躍なさいますのね」
「そうでもないのです。私は、順序と方法をもって、論理的に進めているのです。人はあまり早く、いきなり結論に飛び付いてはならないのです。取り除いてまいらねばならないのです」
「取り除くのですって? それをなさっていらっしゃいますの?」といって、ジェーンは少し考えた後いった。
「ああ、そうですか。あなたはクランシーさんを取り除いたのですね?」
「そうかも知れません」と、ポワロがいった。
「そして、あなたは、私達も取り除いたのですね。今度はたぶん、ホービュリー夫人を取り除こうとしていらっしゃるんですね? おお!」
彼女は、何か急に思いついたように黙ってしまった。
「何ですか、お嬢様?」
「あの、殺人未遂のおはなし、あれがテストだったのですか?」
「あなたは大そう鋭くていらっしゃる、お嬢様。そうです、あれも、私のとった一つのコースです。私は殺人未遂のことを話して、クランシーさんを見守り、あなたを見守り、ゲールさんを見守ります……そして、あなた方三人には、何の反応もありませんでした。ほんのまつ毛のちらつきも得られませんでした。しかし、私は、そんな点では騙されないのです。殺人者と申すものは、自分の予想しているどんな攻撃にもたち向うだけの用意があるのです。しかし、あの小さい手帳に記入してあるものは、あなた方の誰にもわかっているはずがないのです。ですから、私は満足したのです」
「あなたは、何て、恐ろしいトリックを使う方なんでしょう、ポワロさんは! あなたが、どういう訳でいろいろのことをおっしゃるのか、私にはちっともわかりませんわ、きっと」と、いって、ジェーンは立ち上った。
「それは、まったく単純です。私は、物事を探り出したいのです」
「あなたは、探り出すのに、大変賢いやり方をもっていらっしゃるんだと思いますわ」
「ただ一つ、簡単な方法があるだけですよ」
「それは何ですの?」
「人々に話させるのですよ」
ジェーンは笑った。
「話したがらなかったら?」
「誰でも、自分自身のことを、話したがるものでございます」
「そうらしいですわねえ」と、ジェーンも同意した。
「それで、薮医者が、たくさんの財産を作るのです。彼は、患者どもに、来て、坐って、いろいろのことをしゃべらせるのです。彼らが、二つのとき、どうして乳母車から落ちたか、どうして、母親が梨を食べて、その汁が、オレンジ色のドレスに落ちたか、またどうして、一歳半の時に、父の髭をひっぱったかなど話させるのです。それから、もう、不眠症で苦しむことはない、といって診察料二ギニーを取るのです。すると患者は、うれしがって……ひどく喜んでしまって、きっと眠るようになるのでしょう」
「何てばかばかしいんでしょう」と、ジェーンがいった。
「いいえ、それは、あなたの考えるほどばかばかしいことではないのですよ。それは、人間性の、根本的な必要に基づいているのです……話すことの必要……自分を発表すること、なのです。あなただって、お嬢様、子供時代の記憶をたどったり……お母様やお父様のことを考えたかったりすることがおありでしょう?」
「それは、私の場合はあてはまりませんわ。私は孤児院で育てられたんですもの」
「ああ、それはちがいますね。それは愉快なことではございませんね」
「でも、あの真っ赤な帽子と上衣を着て出かける、慈善孤児院の種類ではありませんわ。面白うございましたわ」
「英国でしたか」
「いいえ、アイルランドです。ダブリンの近くですわ」
「ああ、ではあなたは、アイルランド人ですね。それであなたは、髪が黒くて、眼が青がかった灰色で、眼付きは…」
「黒い指ではめたような……」と、ゲールが、面白そうにつけ足した。
「何ですって、何とおっしゃったのですか?」
「アイルランドの眼のことを、そう言っているのです……黒い指ではめたというんです」
「ほんとですか? それはあまり上品な言い方ではありませんね。しかし、よく言いあらわしています。その効果は素晴らしゅうございますよ、お嬢様」といって、ポワロは、ジェーンに頭を下げた。
ジェーンは笑いながら、立ち上った。
「あなた、私の頭を変にしておしまいになりますわ、ポワロさん。さよなら、ご馳走様でございました。もし、ゲールさんが、ゆすりのために牢屋へ入るようでしたら、また、私のためにして下さらなければなりませんわ」
それを思い出して、ゲールは、また、顔をしかめた。
ポワロは、二人に別れを告げた。
彼は家へ帰ると、ひきだしを開けて、十一人の名前の一覧表をとり出した。
この中の四人の名に、かるい印しをつけた。それから、考え深くうなずいた。
「わかるように思う。しかし、確かめなければならない。彼は、やりつづけるだろう……」
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結婚を意味する二本のスプーン
国際航空会社にスチュワードとして勤務しているヘンリーが、ちょうど、ソーセージとじゃがいも料理で、夕食をしようとしているところへ、一人の男が訪問して来た。
スチュワードが驚いたことに、その訪問客は、あの致命的な航空機上の旅客の一人の、髭の生えた紳士だったのだ。
ポワロは、非常に愛想がよく、感じのよい態度だった。ヘンリーに食事をつづけるようにといって、口をあけてみつめていた、ヘンリーの細君にも、品よくお世辞をいうのであった。
彼は椅子にかけて、この季節としては、大変暖かいといって、それから、おもむろに、訪問の目的にうつった。
「警視庁は、あまり大した進展をしていないようですね」と、ポワロはいった。
ヘンリーは、うなずいて、
「あれはどうも驚くべきことでした……まったく驚くべきことでした。どうして進めていいか判らないんだと思います。機上の人々が何にも見ないんでしたら、後では、むずかしいことになりますでしょう」
「おっしゃるとおりです」
「ひどく困っています。ヘンリーは、夜も寝られないといって……」と、細君が口を入れた。
「何か恐ろしいものが、頭にのしかかっているのです。ことによったら、職を失うかと思ってひどく心配しました……」と、ヘンリーは説明した。
「ヘンリー、そんなことないわ。それだったら、あんまりひどすぎるんですもの」
妻は、ひどく腹を立てている様子だった。彼女は、光るような黒い眼をした、肉付きのよい、顔色のいい夫人だった。
「ものごとはいつも公平にはいかないものだよ、ルス。しかし、思ったよりよくいっているんだよ。みんなは、私を責めることをしないのです。しかし、私は自分で感じるのです。おわかり下さると思います。私が、責任をもっているようなものですから」
「君の気持はわかります。しかし、君はあまり良心的すぎますよ。起こったことは君の罪ではないのです」と、ポワロが同情的にいった。
「私もそう言っているんですよ、旦那様」と、細君が口をさしはさんだ。
ヘンリーは首をふった。
「あの夫人が亡くなったことを、早く気付くべきだったんです。私が、最初に勘定書を持って廻った時に、起こそうとしたのだったら……」
「大した違いはありませんよ。死は、ほとんど瞬間的だったと思われているのですから」
「この人は心配しているんですの。そんなにひどく頭を使わないようにと、私がいうんですけれども。外国人がお互いに殺しあうのに、どんな訳があるかなんて、ほかの人が知るものですか。そして、それも、英国の飛行機でやるなんて、ずいぶんひどいですわ」と、細君は、怒って、愛国精神をひらめかした。
ヘンリーは困ったように首をふるのだった。
「ひと口にいうと、それは、私に覆いかぶさっているんです。私は機上勤務がたまらないんです。警視庁の旦那に、何か、異常な、急なことが起こらなかったかとたびたび尋ねられるのです。そうすると、何か忘れたのではないか、というような気がするんですが、やはり、忘れてはいないのです。あんなことが起こるまでは、まったく、何事もない旅行でしたからね」
「吹き矢だの、投げ槍だのって……異国的ですねえ」と、細君がいった。
「そうですね。英国では、そんな殺人は行われませんね」と、ポワロは、その言いまわしに感心したような、お世辞めいた様子で、彼女に話しかけたのだった。
「そうですわ」
「奥さん、私は、あなたが、英国のどの方面から来られたか、ほとんどあててみられるように思います」
「ドーセットですよ。ブリッドポートからは、あまり遠くないのですよ。そこが私の生まれたところですわ」
「そうです。美しいところですね」と、ポワロがいった。
「そうですわ。ロンドンは、ドーセットにくらべればつぎ切れほどでもありませんよ。私の家は、ドーセットに二百年以上も住んでいたのです……だから、私には、ドーセットの血が流れておりますんですわ」
「そうですか、そりゃあ……」といってポワロは、ヘンリーの方へ向いた。
「ヘンリーさん、一つだけ聞きたいことがあります」
ヘンリーの眉間にしわがよった。
「知ってることは、みな、話しましたが……ほんとうですよ……」
「そうです、そうです。しかし、今度のは小さい事柄ですよ。ただ、テーブルの上が、マダム・ジゼルのテーブルです……乱雑になっていませんでしたか」
「私が見付けた時の……ことですか」
「そうです。スプーンとかフォークとか、塩入れとか……そういったものが……」
ヘンリーは首をふった。
「テーブルの上には、そういう風なことは何にもありませんでした。コーヒー茶碗のほかのものは、片づけてありました。何にも、私自身は気付きませんでした。私は気が付かなかったのかも知れません……あんまり興奮していましたから。しかし、警察の方は知っているでしょう。機内を何べんも何べんも探しまわりましたから」
「ああ、かまいませんとも。いつか、君の仲間のアルバート君と、ひとこと話がしてみたいものですね」と、ポワロがいった。
「彼は今は、八時四十五分の乗務です」
「この事件は、あの男にもひどく響きましたか」
「そうです。が、あの男はまだ、ほんの若者なので、かえってよろこんでいるくらいなものです。大騒ぎになって、みんなが飲ませたりして、聞きたがりますからな」
「若い女友達でもあるのではないですか? きっと、あの犯罪の話は、彼女にスリルを覚えさせたでしょうね?」とポワロはいった。
「あの男は『王冠と羽根』のジョンソンの娘に求婚しているんです。が、あの娘は、なかなか考えのある子で、頭はしっかりしているんです。殺人なんかに関係するのを厭がっておりますよ」と、細君がいった。
「それは、なかなか健全な考え方ですね。いや、どうもありがとう、ヘンリーさん……そして、あなたも、奥さん……どうぞ、あんまり、心をいためないようになすって下さい」といって、ポワロは立ち上った。
彼が去ると、ヘンリーがいった。
「陪審員のばかどもが、審問のとき、あの人がやったように思ったんだ。しかし、あの人は、探偵だからね」
「あの探偵の後ろにはきっと赤が働いているのよ」と、細君はいった。
ポワロは、もう一人のスチュワードのアルバートと話さなければならないと言ったが、何時間も経たないうちに、『王冠と羽根』という酒場の一隅で会見していた。
彼はアルバートに、ヘンリーに尋ねたような質問をしたのだった。
「別に乱雑にはなっていませんでした……ひっくりかえって、というようなことですか」
「そうだね。何かテーブルから紛失したものとか……またはそこにいつもなかったようなものとか……」
アルバートはゆっくりいった。
「ちょっとしたことがあったにはありました……警察の人が済んでしまってから、私がテーブルのものを片付けようとしていた時に気が付いたのです……しかし、それが、お望みのことかどうかわかりません。ただ、コーヒー茶碗の受け皿に、スプーンが二つのっていたのです。時々急ぐとそういうことがあるものです。それには迷信みたいなものがあるので、私が気付いたのですが、受け皿にスプーンが二本あると、結婚を意味するって言われているのです」
「誰かのところで、スプーンが、なくなっていなかったかね?」
「いいえ、気付いたところでは、そんなことはありませんでした。ヘンリーか私かが、そんな風に、知らずにスプーンを二本つけていったのかも知れません……時々、急ぐとそんなことをするのです。一週間前に、私は、魚料理用のナイフとフォークを二組置きました。それでも、全体として、足りないよりいいのです。さもないと、ナイフでも何でも、忘れたものを取りにいって来なければなりませんから……」
ポワロはもう一つ質問……やや、ふざけたのを、した。
「フランスの娘達をどう思うかね、アルバート君?」
「英国人で結構ですよ」といって、彼は、酒場の後ろの、太った、綺麗な髪の毛をした娘に、歯を出して笑って見せた。
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ライダー氏、大いに怒る
ジェームズ・ライダー氏は、エルキュール・ポワロの名刺が取りつがれたとき、少し驚いたようであった。
その名は聞いたようだとは思ったが、すぐには思い出せなかった。それから一人ごとをいった。
「ああ、あの男か?」
そして、事務員に、お通しするように命じた。
ポワロは、大変スマートに見えた。一方の手にステッキを持ち、ボタンホールには花がさしてあった。
「お邪魔するのをお許し下さることと思います。マダム・ジゼルの死の事件に関することなのです」と、ポワロはいった。
「そうですか? 何でしょう? どうぞおかけ下さい。シガーはいかがで?」と、ライダー氏がいった。
「ありがとうございますが、私は、いつも自分の巻煙草をのむのです。お一ついかがでしょうか」
ライダー氏は、ポワロの細巻の煙草を、少し不審そうに見た。
「私も、ご同様に、自分のを頂こうと思います。間違ってそれを呑みこんでしまうかも知れませんから」といって、彼は大笑いした。
「警部が数日前にまわって来ましたよ」と、ライダー氏はライターで葉巻に火をつけてこういった。「ああいった連中は、ほじくり屋ですよ。自分だけの仕事をしているわけにはいかないのですからな」
「情報を得なければなりませんからね」と、ポワロが穏やかにいった。
「あんなに、人の気持を悪くしなくてもよさそうなものですに。人間は感情の動物ですからな。それに、自分の仕事だの評判だのも考えねばなりませんからな」と、ライダー氏は苦々しげにいった。
「あなたは、きっと、少し感じやすいのでしょう」
「私は、大変デリケートな位置にいるのです。私の座席がちょうど、あの女の前だったものですから……少し怪しまれるのです。私としては座席をどうすることもできませんし……あの女が殺されるということがわかっていれば、あの飛行機では来なかったでしょう……しかし、あるいは、来たかもしれませんな」
彼は、しばらく考えていた。
「何か、悪から善が生まれましたか」と、ポワロが微笑しながら尋ねた。
「あなたのそうおっしゃるのはおかしいです。そうとも言えるし、そうでないとも言えるのです。いろいろ心配をしました。私は悩まされたのです。いろいろのことがほのめかされました。どうして、私を? と言いたいのです。なぜ、あのハッバード博士……いや、ブライアントです……のところへ行って、あの人を悩まさないのです? 医者なんてものは、あんな、発見されにくい毒を手にいれることもできるのですからな。私がどうして、蛇の毒液なんか手に入るのです? 伺いたいものです!」
「あなたは、不便もかなりあったが……といっておられたようですが?」と、ポワロがいった。
「ああ、そうです。明るい方面もあります。新聞から、かなりの金額をもらいましたからな。証人の言というやつですな。私が見た、というよりは、記者の想像というもののほうが多かったですがね」
「いかに犯罪が、無罪の人の生活に影響するかというのは面白いですね。あなたのことを考えてごらんなさい。たとえば……あなたは、急に思いもかけない金額が得られたのですから……それも、こういう時には特に、ありがたいものですね」と、ポワロがいった。
「金というものは、どんな時にもありがたいものです」と、ライダー氏がいった。
彼は、鋭くポワロを見た。
「時には金の必要が圧倒的な場合があります。そのために人々は、委託金を横領したり、詐欺的な書き入れをしたり……その他あらゆる複雑なことが起こります」と、ポワロは手を振っていった。
「あんまり暗い方面を見ないでおきましょう」と、ライダー氏がいった。
「ほんとうです。暗い方面ばかりを見ていることはありませんね。この金は、あなたにとって、誠にありがたいものでしたね……パリで借りることに失敗なさったので……」
「どうして、それを知っておられるのですか?」と、ライダー氏は怒って尋ねた。
ポワロは微笑した。
「ともかく、真実です」
「それは真実ですが、特に人に知られたくないのです」
「私は慎重な人間ですから、大丈夫です」
ライダー氏は、考えていたが、
「どんなに少しばかりの金額が、時々人を窮地におとしいれるかは、おかしなものですな。ほんの少しばかりの金額が、危機をはらますのです……もし、その男が、微細の金を得られないならば、信用は地におちてしまいます。そうです、誠におかしいです。金というものはおかしなものです。信用というものはおかしなものです。そうなると、生命そのものがおかしなものになります!」
「まったくそのとおりです」
「ところで、何のご用ですかな?」
「少しデリケートなことなのです。私の耳に……職業上です……あなたが拒まれるにもかかわらず、このジゼルという女と、交渉があったということが入りましたのです」
「誰がそんなことを言いましたか? それは偽りです。あの女を見たことがありません」
「それはまた、大そうに不思議なことですね」
「不思議ですと? ひどい中傷です!」
ポワロは考え深く、彼を見た。
「ああ、よく事件に立ち入って調べてみなければなりません」
「どういう意味ですか。何を掴もうとしているのですか」
「怒ってはいけません。間違い……ということもありますから」
「そうだと思いますよ。あの頭の高い社交界の金貸しと、私を関係させて、私を捕えようというのでしょう。ばくち打ちの、社交界の女、そんなののことでしょう!」
ポワロは立ち上った。
「間違ったことをきいたために、誠に失礼をしたことを、おわびしなければなりません」といって、彼はドアのところで立ち止って、
「ところで、好奇心から伺うのですが、どうして、ドクター・ブライアントのことを、ハッバード博士と、さきほど呼ばれたのですか?」
「わかりませんね。だが、ちょっとお待ちなさい……ああそうだ、笛のためだったんです。童謡にありますね。ハッバードおばあさんの犬……彼女が帰ったとき、笛を吹いていた、とね。名前が混乱するのは面白いものですよ」
「ああ、そうですね。笛……これは大変興味があります。心理的に……」
ライダー氏は、心理的に、という言葉をきくと鼻をならした。彼にとって、精神分析というばかばかしい事柄のような気がした。
彼は、疑い深くポワロを見た。
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ポワロ、離婚を勧める
ホービュリー伯爵夫人は、グロヴナー街三百十五番地の、自宅の寝室で、化粧台の前に腰かけていた。金のブラシや箱、クリームの壜、粉白粉の箱など……贅沢品が、そのまわりにならんでいた。その贅沢品の真ん中に、夫人は頬に、不似合いな紅の斑点のあらわれた顔と、乾いた唇をして坐っていた。
手紙を四度もみたのだった。
[#ここから1字下げ]
ホービュリー伯爵夫人
――故マダム・ジゼルに関して――
小生は、故マダム・ジゼルの所有たりし、ある書類の所有者であります、もし貴女《あなた》様、もしくは、レイモンド・バラクロー氏が、この事実に興味を持たれた節は、このことにつき、ご相談に参上致したく存じます。
もしまた、ご希望なれば、ご主人にお目にかかることも異存ございません。右ご通知まで。
ジョン・ロビンソン
[#ここで字下げ終わり]
ばかばかしい! 同じことを何度も何度も読むとは……読んで、その意味が変わるもののように。
彼女は封筒……二枚の封筒……第一のには、『親展』と、第二のには、『親展極秘』と書いてあった。
「親展、極秘」
けだもの……けだもの……
あの嘘つきのフランスのばばあめ!
「自分の急死の場合は、依頼人を保護するために、あらゆる方法がとられているなどと誓ったくせに……」
畜生……生活は地獄だ……地獄だ……
「ああ、なんということだ! ひどいわ! ひどいわ!」と、伯爵夫人は思った。
その震える手は、金のつまみのある壜にのびた……
「これがしっかりさせてくれるわ。きちんとしてくれるわ……」
彼女は、鼻から、それを吸いこんだ。
さあ、今度は考えられる! どうしよう? もちろん、会わなくちゃ……どうしてお金を得られるかはわからないけれども……カーロス街で投機をしたらいいかも知れない……
しかし、そのことは後で考えればいい。ともかく、その男にあって、何を知っているのか見付ければいい。
彼女は、書き机のところにいって、大きい未熟な手蹟で書きなぐった。
[#ここから1字下げ]
ホービュリー伯爵夫人は、ジョン・ロビンソン氏にご挨拶を申し上げます。明朝十一時においで下さればお目にかかることができます……
[#ここで字下げ終わり]
「これでよろしいですか?」と、ゲールが尋ねた。
「これはこれは、なんという喜劇をやっておいでです?」と、ポワロがいった。
ゲールは、いっそう赤くなった。
「少し変装すればよろしいと、おっしゃったので」と、彼はつぶやいた。
ポワロは溜息をついて、それから、青年の腕をつかまえて、姿見の前につれていった。
「よくご自分をごらんなさい……よく見てごらんなさい、ということだけお願いするのです。君は何だと思いますか……まるで、子供を楽しませるサンタクロースですよ。君の髯《ひげ》は白くはない。たしかに黒い……悪者だからそれでいいのですが。しかし、あごひげは何という……まるで空に向かって叫んでいるあごひげですよ! やすっぽいひげ、そして不完全に、いかにも素人くさくついています! そしてその眉毛。そののりも、五六ヤードのところで匂います。君が、石膏を歯につけているのを人がみのがすなんて思ったら、大間違いですよ。たしかに、たしかに、この役をするのは君の向きじゃないですなあ」
「僕は、一時、素人演劇で、かなりやりましたよ」と、ゲールが固くるしくいった。
「そんなことは信じられませんね。ともかく、メーキャップのこつを知らないですね。たとえフットライトの後ろにいたとしても、君の格好は得心がいきませんね。まして、グロヴナー街で、真昼間……」
ポワロは、言葉を終らせる代わりに、肩にものをいわせてすくめて見せた。
「いいえ、君。君はゆすりであって、喜劇役者ではないのですからね。あの夫人に君を恐れさせたいのです……ひと目みて笑いこけるようではいけないのです。私の申したことで、君を怒らせたようですね。残念ですが、今は、真実のみが役に立つ時なのです。これとこれを持っていって……」といって、何本かの壜を彼の方へ押しやった。
「風呂場へおゆきなさい。そしてこの国で、道化といっているようなこんな真似は終りにしましょう」
打ちまかされて、ゲールは従った。十五分ほどして出て来た時には、彼の顔は煉瓦色の、きびきびしたものだった。ポワロは、納得がいったようにうなずいた。
「よろしい、喜劇は終りました。真剣な仕事が始まります。小さい口髭をつけることをゆるしましょう。しかし、私がそれをつけましょう。さあ、今度は髪の毛を少し違うようにしましょう……こういう風に、これで十分です。さあ、それでは少し、リハーサルをやってみましょう」
彼は熱心にきいていたが、うなずいた。
「それでよろしい。さあ、行きなさい……幸運を祈りますよ」
「ほんとにそう希望します。もしかして、怒ってる夫と、二人の警官に挟み撃ちなんていやですから」
「心配なさるな。すっかり驚くほどうまくいきますよ」とポワロは、安心させるようにいった。
「そうあなたはいわれるけど」と、ゲールが反抗するようにつぶやいた。
しょげかえりながら、彼は趣味にあわない使命を果たしに出かけた。
グロヴナー街で、彼は二階の小さい室に案内された。一二分すると、ホービュリー夫人が出て来た。
ゲールは緊張した。決して、この仕事が初めてだなどということを表わしてはならないのだ。
「ロビンソンさんですか?」と、伯爵夫人がいった。
「さようでございます」とゲールはいって、頭を下げた。
「畜生……売り場主任のようじゃないか。しょうがないな」と、彼は愛想がつきたように思った。
「手紙頂きましたわ」と、ホービュリー夫人がいった。
ゲールは身体を引きしめた……あの老人のばかめ、僕が役割どおりできないと言いやがった……と、彼は、心の中であざけり笑いをしていった。
声を出しては、無愛想にいった。
「そうです……それで、どうでございますか、ホービュリー伯爵夫人?」
「何のことおっしゃってるのかわかりません」
「冗談じゃありません。詳細にわたって言わなければならないとおっしゃるのですか? 誰でも、そうですな、海辺の週末とでも言いますかな……それがどんなに楽しいものかよく知っております……しかし、ご主人だけは、賛成なさいますまい。奥様は、証拠がどういうものか、ご存じのことと思います。あのマダム・ジゼルは、じつに驚くべき人間ですな。いつも現物を持っていたのです。ホテルの証拠とか言うようなものの……まったく一流ですな。さて、問題は、一番ご入用なのは、奥様でしょうか、それとも、ホービュリー卿でしょうか? それが問題ですな」
彼女は、震えて、立っていた。
「私は売り手です」と、ゲールはいったが、その声は、ロビンソンの役にすっかりはまりきって、だんだん、下品になってきた。
「あなたが買い手ですか。それが問題です」
「どうやって、この、この証拠を手にお入れになりましたの?」
「奥様、それは、要点からはずれております。私が手に入れました。それがおもなことでございます」
「私、信じませんわ。お見せ下さいな」
「いやとんでもない」と、ゲールは、ずるそうな横目をつかって、頭をふった。
「何にも持って来ておりません。私はそんな青二才ではないのです。仕事の相談が成立すれば、それはまた、別です。奥様が支払われる前に、現物をお見せしましょう。誠に公明正大であります」
「いくら……いくらですの?」
「一万ポンドです。ドルではありません」
「不可能ですわ。そんな大金は、どんなにしても得られませんもの」
「試みてごらんになれば、できるものですよ。宝石は元の価にはなりませんが、真珠はなお真珠です。では、ご夫人のために、八千ポンドといたしましょう。これが最後の言葉です。そして、お考えになるために、二日間さし上げましょう」
「そんなお金は得られませんよ」
ゲールは溜息をついて、首をふった。
「では、ホービュリー卿に、このことをお話しした方がよさそうですな。離婚された夫人というものは離婚手当をもらえないというのは正しいらしいですな……そして、バラクローさんはなかなか、未来のある役者ではあっても、まだ大金はとれませんしな。まあ、お考えになる方がよろしいでしょう。私は、言ってることは……本気ですからな」
彼はだまってまたつけ足した。
「ジゼルがそのつもりだったように、私もそのつもりなのです……」
そして素早く、みじめな夫人が答えることのできないうちに、部屋を出て行ったのだった。ゲールは通りへ出ると額の汗をふいた。
「ああ、すんでよかった」
一時間たつかたたないうちに、一枚の名刺がホービュリー夫人に渡された。
「エルキュール・ポワロ」
彼女はそれを傍へやった。
「誰なの? そんな人、会えないわ」
「レイモンド・バラクロー様のご依頼でこられたとおっしゃっています、奥様」
「おお」といって、ちょっと言葉を切って、
「じゃ、いいわ、お通しして」と、夫人はいった。
執事は、出ていったが、またあらわれた。
「エルキュール・ポワロ様」
最もしゃれものらしい素晴らしいいで立ちで、ポワロが入って来て会釈をした。
執事はドアをしめた。夫人は一歩ふみ出した。
「バラクローさんがおよこしになったって……?」
「おすわり下さい、奥様」
彼の調子は親切ではあったが、命令的だった。
機械的に彼女は席についた。彼はその近くに、席を占めた。その態度は父のように、安心させるものがあった。
「奥様、お願いですから、私を友人としてごらん下さい。私はご忠告をしにまいりました。奥様は、大変な苦境におちいっておられます」
彼女はかすかに、
「私は……」とつぶやいた。
「お聞き下さい、奥様。私は、奥様の秘密をお打ち明け下さいとは申しません。そんな必要はありません。もう前から知っております。すなわち、よく知ることが、よい探偵の根本であります」
「探偵ですって?」彼女の眼は大きくなった。「あなたを覚えておりますわ……機上にいらした。あなたでしたね……」
「そうでございます。私でした。さて、奥様、仕事にとりかかりましょう。今も申し上げましたように、無理にお打ち明け下さいとは申し上げません。あなたが私に、いろいろおっしゃらなくてもよろしゅうございます。私がお話しいたしましょう。今朝、一時間もたたない前に、あなたは訪問客にお会いになりました。その訪問客……その名は、ブラウンでしょうな?」
「ロビンソンですわ」と、ホービュリー夫人はかすかにいった。
「同じことです。ブラウンでも、スミスでも、ロビンソンでも……代わる代わるに使っているのですから。彼はあなたをゆすりに来たのです、奥様。彼は……さあ、何と言いましょうか……悪辣なある証拠を手に入れております。その証拠品は、かつては、マダム・ジゼルの持っていたものです。今は、あの男が持っております。彼はあなたに、それを、たぶん七千ポンドで提供すると申したでしょう」
「八千ですわ」
「では、八千ポンド。それで、奥様、あなたは、それだけのお金を、早くは、なかなかおつくりになれないのでしょう?」
「できませんわ……とてもできませんわ……私はもう借金があるのですもの。どうしたらいいかわかりませんの」
「落ち付きなさいませ、奥様。私はおたすけにまいりました」
彼女は彼をみつめた。
「どうしてこんなことご存じですの?」
「ただ、私が、エルキュール・ポワロだからでございます、奥様。よろしい。怖れることはありません……私の手におゆだねなさい……私が、このロビンソンという男と取引きしてさしあげましょう」
「ええ?」と、夫人はするどく叫んで、
「それで、どのくらい欲しいんですの?」といった。
ポワロは頭を下げた。
「私はただ、サインした、美しいご夫人の写真がいただきたいのです……」
彼女は叫んだ。
「ああ、ほんとに、どうしたらいいんでしょう……私の神経が……私、気違いになりそうですわ」
「いいえ、いいえ、万事はよくなります。エルキュール・ポワロをお信じ下さい。ただ、奥様、私は、真実のことを伺わなければなりません……全体の真実のことを……何でもかくしてはいけません。さもないと私の手がしばられてしまいます」
「そうすれば、この混乱から私を救って下さいますの?」
「もう二度と、ロビンソンの名をお聞きになるまいことを誓います」
「ようございます。みんなお話ししましょう」
「よろしい。それでは、あなたは、このジゼルという女から、金をお借りになったのですね?」
ホービュリー夫人はうなずいた。
「いつですか? いつから始めたのですか?」
「十八カ月前です。私は困ってしまっていたのです」
「賭博ですか?」
「ええ、ひどくやられたものですから……」
「それで、あの女は、あなたのお望みだけのものを貸しましたか」
「始めは貸してくれませんでした。少しばかりでした」
「誰をおやりになったのですか?」
「レイモンドですわ……バラクローさんが、あのジゼルという女は社交界の婦人に金を貸していると聞いたというものですから」
「それから、あとでは、もっと貸したのですか」
「ええ、欲しいだけいくらでも。奇蹟と思われるくらいの時もありましたわ」
「それが、マダム・ジゼルの、特殊の奇蹟だったのです」と、ポワロは苦々しくいって、
「それより前に、あなたとバラクロー氏とは……友達になっておられたのでしょうね?」
「そうです」
「しかし、あなたのご主人がそのことをお知りにならないように、気を使われたのでしょう?」
夫人は、怒って叫んだ。
「スティーヴンは固っくるしいんですもの。もう私のことあきてしまったんですわ。ほかの人と結婚したくなっているんですの。私を離婚しようと思ってるんですわ」
「それで、あなたは離婚したくないんでしょう?」
「だって、私……私……」
「あなたは、その地位がほしいんでしょう……また、多額の収入をよろこんでおいででしょう? そうです。婦人と申すものは、当然、自分を見なくてはなりませんからね。さて、話しを進めて……支払いの問題が起こったのですね?」
「そうですわ、私……私、お金が返せなくなってしまったんです。すると、あの女は悪魔に姿を変えました。私とレイモンドのことを知っていたんです。場所や時やいろんなことを。どうして知ったかわかりませんわ」
「あの人には、あの人の手段というものがあったのです」と、ポワロは苦々しくいって、「それで、この証拠を全部、ホービュリー卿に送るとおどかしたのでしょう?」
「ええ、私が払わなければ……」
「それで、奥様は払えなかったのですか?」
「ええ」
「では、あの女の死は、まったく工合のいいことでしたね?」
ホービュリー夫人は熱心にいった。
「あんまり、あんまり、不思議なくらいですわ」
「ああ、そのとおりですね。あんまり不思議すぎます。しかし、少しは心配なさったでしょう?」
「心配って?」
「結局、奥様。あなただけが、あの機上の誰よりも、彼女の死を望んでおいでになる動機を、持っておられたわけです」
彼女は、するどく息を引いた。
「それはわかっていますわ。恐ろしいことですわ。私は、そのことで、大変なことになっていましたの」
「特に、その前の晩に、パリであの女に会いにいらして、大騒動をなさったあとでしょうからね」
「あの年とった悪魔ったら、一インチだってゆずらないんですもの。かえって楽しんでいる様子でしたわ。あの人、まったく、けだものですわ。私、ぼろみたいにくたくたになって出て来ましたわ」
「それなのに、審問のとき、奥様は、あの人を見たこともないと言われましたね?」
「だって、ほかにどう言えまして?」
ポワロは、考え深く彼女を見ていた。
「あなたは、ほかのことは何にもおっしゃれなかった」
「とても厭な事でしたわ……嘘、嘘、嘘ばかりですもの。あの恐ろしい警部が、たびたびやって来て、いろいろな質問をしていきましたわ。でも、安全な感じがしましたわ。ただためしていたのですもの。あの人、何にも知りませんもの」
「人が推理をすれば、かなり確信をもってあてられるものです」
「そして、それから」と、夫人は、自分の考えをずっと追っているように……
「もし、ことが洩れるものとしたら、すぐ洩れたに違いない。それで大丈夫だと思いました……昨日のあの恐ろしい手紙が来るまでは」
「ずっと恐ろしくはなかったのですか?」
「もちろん、恐ろしゅうございましたわ!」
「何が? 暴露がですか? 殺人罪で逮捕されることがですか?」
夫人の頬から、さっと血の気がひいていった。
「殺人罪……だって、私、そんなこと……おお、あなたもそれをお信じになりませんの? 私、殺しはしませんでしたわ。殺しませんわ!」
「死ねばいいとは思ったのです……」
「ええ、でも殺しはしなかったんです……信じて下さらなければいけませんわ……信じて下さらなければ。私、席から動きませんでしたもの。私……」
彼女はそれ以上、言えなくなった。その美しい眼は、頼むように、ポワロをみつめていた。
「奥様、私は、あなたのおっしゃることを信じます。二つの理由で……一つは、あなたが女性であるから。もう一つは……黄蜂のためです」
彼女は、彼をみつめた。
「黄蜂ですって?」
「そのとおりです。あなたにはおわかりにならないようですね。さて、手近の事柄について、ご相談しましょう。私がこのロビンソンさん、という人を扱いましょう。あなたが二度と、その男のことはお聞きにならないように致しましょう。彼の……彼の……ええと、言葉を忘れました……ベーコンでしたかな? いいえ、ゴート(悪ふざけ)でした。それの始末を致しましょう。さて、お役に立つ代わりに、二つの小さい質問をさせて下さい。バラクローさんは、殺人の前日、パリにおられましたか?」
「ええ、一緒にお食事をしました。でも、私だけ一人で行って、あの女にあう方がいいと言いましたわ」
「ああ、そうでしたか? さて、奥様、もう一つの質問。あなたが、シスリー・ブランドとして結婚される前のステージの名は? それがあなたの本名でしたか?」
「いいえ、私の真実の名は、マーサ・ジェッブでございますの。でも、もう一つのほうが……」
「もっとよい職業的な名になったのですね? そして、どこでお生まれになりましたか?」
「ドンカスターです。でも、どうして……」
「ただの好奇心です。お許し下さい。そして、さて、ホービュリー夫人、ちょっと、忠告させて頂きたいのですが、なぜ、ご主人と慎重な離婚をなさらないのですか?」
「そして、あの女と結婚させてやるんですの?」
「そうです。あの女と結婚させてあげるのです。あなたは寛大な心を持っておられます。奥様、それに、あなたは安全になります……まったく安全に……そして、ご主人は、あなたにある金額をお払いになります」
「あんまりたいしたものじゃないでしょう」
「しかし、一度離婚すれば、百万長者とだって結婚できるでしょう」
「そんな人、このごろはありませんわ」
「ああ、そんなことを信じてはいけません。むかし三百万持っていた人は、今はたぶん、二百万になっているかも知れません……が、いいでしょう。十分ですよ」
夫人は笑った。
「あなたのおっしゃったこと、とても考えさせられることですわ、ポワロさん。そして、あなた、ほんとに、あの恐ろしい人が、二度と私を苦しめないようにして下さいますわね」
「エルキュール・ポワロの言葉にかけて」と、その紳士は、おごそかにいった。
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四 恋のおとり
ジャップ警部の気転
ジャップ警部は勢いよくハーレー街を歩いていって、あるドアを叩いた。
彼は、ドクター・ブライアントは在宅かと聞いたのだった。
「お約束がおありですか」
「いや、二三行書きましょう」
役所の肩書の名刺に数語書いた。
「二三分ご引見願えれば幸甚です」
封筒に名刺をいれて封じ、それを執事にわたした。
彼は応接間に招じ入れられた。そこには二人の女と一人の男がいた。ジャップ警部は、古びた、パンチ誌を一冊とり上げて椅子に納まった。
執事が再び現われ、そばへ近づいてきて分別ある声で、
「少々お待ちいただけるのでしたら、先生はお目にかかれます。今朝は、大変に多忙でございますので」といった。
ジャップ警部はうなずいた。待つのは少しもかまわなかったのだ……むしろ喜んでいるくらいだった。二人の婦人は話し出していた。明らかに、ドクター・ブライアントの才能を非常に高く評価しているらしかった。さらに患者が入って来た。ドクター・ブライアントは、確かに、職業的に繁昌している様子であった。
「かなり金をためてるな。それなら借りる必要もなさそうだ。もちろん、ずっと以前に借りたかも知れない。とにかくいい商売をしているが、一度悪い評判でも立ったが最後、すっかり台なしになってしまう。それが医者にとって一番の痛手だ」と、ジャップは考えていた。
十五分ほどすると、執事が、
「先生がおあいになります」と伝えた。
ジャップ警部は、ドクター・ブライアントの診察室に導かれた……それは家の後方にある室で、大きい窓があった。博士は机に向って坐っていた。彼は立ち上って、握手した。
立派な顔には、疲労が見えたが、警部の訪問のために動揺した様子はなかった。
「何かご用ですか、警部さん」と、彼はいって、また椅子にかけ、ジャップ警部にも向かいあった椅子をすすめた。
「診察時間に訪問して誠に申しわけありませんが、長くはお手間をとらせません」
「いいですよ。あの飛行機の死のことでしょうな?」
「そのとおりです。我々はまだやっておりますよ」
「何か結果が出ましたか?」
「あまり、望みどおりのところまでいかないのです。それで今日も、あの用いられた方法について少し伺いに出たのですが。どうも、この蛇の毒液のことがまだ、さっぱりわからないのです」
「私は、毒物学者ではないのです」と、ドクター・ブライアントは微笑していった。「そういうことは、私の畑ではないのです。ウィンタースプーンが、そのほうですよ」
「しかし、こういうことなのです、博士。ウィンタースプーンは、学者です。そして、学者というものがどんなものかご承知でしょう。あの人々は、素人には理解できないような話をするのです。しかし、よく考えてみますと、この仕事には医師のほうの面があるのです。この蛇の毒液は、癲癇の注射に用いられますか?」
「私は、癲癇の専門医でもないのです。しかし、コブラの毒液の注射は、癲癇の処置に用いられて、すぐれた効果をあげたと言われております。しかし、今も申したとおり、私の専門ではないので」と、ドクター・ブライアントはいった。
「それは判っております。つまりこういうことなのです。あなたは、ご自身、飛行機に乗り合わせておられたので、興味をお持ちでしょうと思ったのです。私に役に立つようなお考えをお持ちかも知れないと思って上ったのです。何を質問していいのかさえわからないのに、学者のところへ行っても仕様がないと、思ったのです」
ドクター・ブライアントは微笑した。
「おっしゃることには道理がありますな、警部さん。殺人事件というものと密接な関係を持った者が、全然、何の影響も受けないなどということはないだろうと思います……たしかに、私も興味を持っております。私も、私なりの静かなやり方で、この事件についてはかなり、熟考してみました」
「それで、どうお思いになりますか?」
ドクター・ブライアントはゆっくりと、首をふった。
「まったく驚きました……事全体がほとんど真実でないようで……犯罪を行うとしたら不思議なやり方ですな。殺人者が誰にも見られなかったというチャンスは、百に一つくらいでしょう。危険を犯すことに対して、何とも思わない人に違いありません」
「おっしゃるとおりです」
「毒の選択がまた、同じように驚くべきものです。どうしてそんなものを、殺人計画者が手に入れたのでしょう?」
「そうです。信ずべからざることです。千人に一人も、ブームスラングなどという原地人の武器のことを聞いたことがあるまいと思います。ですから、普通には誰も、そんな毒液などめったに、扱ったことはないわけです。あなた自身も、……医師でおありになっても……そんなものを手にしたことはおありにならないことと思います」
「そうする機会は確かにありませんな。私には、熱帯のことを研究している友人が一人あります。彼の実験室には、乾燥した蛇の毒のいろいろの標本があります。例えば、コブラとかいうような……しかし、ブームスラングの標本はあったように記憶していません」
「たぶんお助け下さることが……」といって、ジャップ警部は紙片をとり出して、それを医師にわたした。
「ウィンタースプーンさんが、この三つの名前を書いて下さいました。そこで何か話してもらったらいいと言って……この人々の中の誰かをご存じですか?」
「ケネディ教授の方は、ごく少し知っております。ヒードラーの方はよく知っております。私の名前を言って下されば、できるだけのことはしてくれると思います。カーマイケルはエディンバラの人間で、個人的には知りませんが……かなり立派な仕事をした人だと思います」
「ありがとうございます。もうおいとまいたします」
ジャップ警部が、ハーレー街から出た時には、満足したように微笑していた。
「気転ほどいいことはない。気転がやってくれる。私が何を探し出そうと思っているのか、あの先生にはわからなかったに違いない。そうだ、これはこれでよし」
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三つの手がかり
ジャップ警部が、警視庁に着いたとき、ポワロが待っていると告げられた。
ジャップ警部は友人に、心から挨拶した。
「で、ポワロさん、どうして来られたのですか。なにかニュースは?」
「こちらの方でニュースを聞きに来たのですよ、ジャップさん」
「どうもあなたらしくないですな。あんまり大したこともない、というのが真実のところですよ。パリの店のおやじがあの吹き矢筒を自分が売ったものと認めましたよ。フルニエが、パリから、心理的瞬間のことをやかましく、私に言って寄こすのですよ。私はスチュワード達にも、厭になるほど聞いてみたのですが、そんな、心理的瞬間なんてものはなかったというのです。その旅行の間、別に驚くようなことは一つも起こらなかったというんです」
「あの男達が、前の客室に行っている間に起こったかも知れませんよ」
「旅客にもたずねてみました。みんなが嘘をついているとは言えんですな」
「ある事件で、みんなが嘘をついていたことを調べあげたことがありましたっけ」
「また、あなたの扱った事件ですかい! 本当のことをいうと、ポワロさん、私はあまり心楽しくないです。深く調査すればするほど、わからなくなってゆきます。署長は、私に対して冷淡な顔をするし。だが、私に何ができるというんですか? 幸いなことに、これは、半ば外国の出来事です。我々は、犯人はフランス人だということができるし……あっちでは、英国人がやったのだから、我々の仕事だといっているのです」
「あなたは、本当に、あのフランス人がやったのだと思っているのですか」
「そうですね、正直にいうと、そう思っていないのです。考えてみると、考古学者なんていうものは、つまらない種類のやつです。いつも地面ばかり掘っていて、何千年も前に起こったことを持ち出して、大ぼらを吹いているんです……どうしてそんなことがわかるんですかね、聞きたいものですよ。誰が、反対を唱えられるでしょう? ある腐ったビーズのひもが五千三百二十二年前のものだといっても、誰がそうじゃないというのでしょう? あの連中はほら吹きなんです……自分では、真実だと信じているんでしょうが……しかし、別に害はありません。こないだも、ここへお守りのかぶと虫を盗まれて、大騒ぎしている人が来たですが、温和《おとな》しい人で、手に抱かれている赤ん坊同様に頼りない人でしたよ。これはあんたと私だけの間のことですが、私は、あのフランスの二人の考古学者がやったとは思わんですよ」
「誰がやったと思いますか」
「そうですね……もちろん、クランシーがいますよ。あの男、どうも怪しいです。一人でぶつぶつ言って歩きまわってるんです。何か考えていることがあります」
「新しい本の筋でも……」
「そうかも知れないし……ほかのことかも知れないですよ。しかし、いかにやってみても、動機となると少しも見付からんのです。黒い手帳の『CL五二』はホービュリー伯爵夫人だと思っているのです。しかし、何にも彼女から得られないのです。なかなか、彼女ちゃっかりしていますよ」
ポワロは微笑した。
ジャップ警部は続けた。
「スチュワードのほうは……マダム・ジゼルと結びつけるものが何にも見付からんです」
「ドクター・ブライアントは?」
「あそこは少し臭いと思っておるです。彼と患者との間に噂があるです。綺麗な夫人……厭な夫……麻薬をのむとか何とかいって。気を付けないと、医師会から、追放されますよ。それが『RT三六二』によくあうのです。それに、彼がどこから毒蛇の液を得ることができたか、かなりよく判ったように思われることを話してあげてもかまわんですよ。面会に行ったんですがね、そのことについて、うっかり言ってしまったんです。しかし、今までのところでは、どこまでも推量であって、事実ではないです。この事件では、事実は楽に得られません。ライダーのほうは正直で、公明正大で……自分は、パリに金を借りにいったが、得られなかった。名前や番地を言いましたが、皆、調査済みです。あの人の会社は、一二週間前には破産に瀕しておったですが、やっと少し持ち直したようです。ここでもまた……不満足という訳で、すべてが、混乱状態ですよ」
「混乱など申すことはありません……不明瞭と申すことはありますが、混乱と申すのは、不調になった脳にのみ存在するのです」
「好きな言葉を使ったらいいですよ。結果は同じです。フルニエはつまずいているのです。あなたは、みんなすっかり記録してあるのでしょうが、ただ、話したくないんでしょう?」
「あなたは自嘲しておいでなのです。私はまだ、すっかりわかっているわけではないのです。私は一度に一歩ずつ進んでいくのです、順序と方法をもって。まだまだなかなか道は遠いのです」
「それを聞いて喜ばずにはいられんですね。その順序だったステップについて伺おうじゃないですか」
ポワロは微笑した。
「私は表を作ってあるのです、こういう風にね」といってポケットから紙片を取り出した。
「私の考えはこうなのです。殺人というものは、ある結果を持ち来らすために行われる行動なのです」
「もっとゆっくり、繰り返して下さい」
「むずかしいことではありませんよ」
「そうかも知れないが……あんたが、やたらにむずかしくひびかせるんですよ」
「いや、いや、大そう単純です。たとえば……あなたが金をほしがっている……叔母が死ねばそれを得られる。よろしい……あなたは一つのことをする……すなわち、叔母を殺すのです……そして、その結果を得る……すなわち、資産を継ぐのです」
「そんな叔母があるといいんだがな」と、ジャップ警部は溜息をついた。
「あとを続けてください。あんたの考えが判ったですよ。動機がなければならないというんでしょう」
「私は、自分の方法で進めたいのです。行動がされる……その行動は殺人である……さて、その行動の結果はどうであるか? 種々の結果を研究することによって私どもは、その謎の答えを得るでしょう。単一の行動の結果は、色々に異なっております……あの特別の行動が、多くの異なった人々に影響を与えているのです。よろしい、私は、今日……犯行後三週間になって、十一の異なった場合を研究しているのです」
彼は紙を拡げた。
ジャップ警部は、興味をもって、のり出して、ポワロの肩越しに読んでいった。
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ジェーン・グレイ嬢……〔結果〕一時的の向上、給料が増す。
ノーマン・ゲール……〔結果〕悪い、営業の損失。
ホービュリー伯爵夫人……〔結果〕よろしい、もし彼女がCL五二ならば。
カー嬢……〔結果〕悪い。ジゼルの死以来、ホービュリー伯爵が、夫人を離婚するための証拠を得られなくなりそうであるから。
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「ふむ」と、ジャップ警部は読むのをやめていった。「では、あの令嬢が、伯爵を狙っていると思っておいでですか? あなたは、どうも、恋愛沙汰をかぎ出すのがうまい人だなあ」
ポワロは微笑した。
ジャップ警部は、また、表にかがみこんだ。
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クランシー氏……〔結果〕よろしい、殺人を題材にして、ひともうけしようとしている。
ドクター・ブライアント……〔結果〕よろしい、RT三六二ならば。
ライダー氏……〔結果〕よろしい、デリケートな時期に殺人についての記事を書いて得た少額の現金のために。もしライダーがXVB七二四ならば。
デュポン氏……〔結果〕影響なし。
ジャン・デュポン氏……〔結果〕同様。
アルバート……〔結果〕影響なし。
ヘンリー……〔結果〕影響なし。
[#ここで字下げ終わり]
「これが、何かの役に立つというんですかなあ……私には、知らぬ、わからぬ、言えぬと書いたと同様に思えるんだが……」と、ジャップ警部は、疑わしげにいった。
「はっきりした分類なのですよ。四つの場合……クランシー氏、ジェーン嬢、ライダー氏、まあホービュリー伯爵夫人もそうだと思うのですが……貸方が出ております。ゲール氏とカー嬢の場合借方になっております……また、四つの場合には結果は全然ありません。また、ドクター・ブライアントの場合は、結果もなければはっきりした利益もないのです」
「それで?」と、ジャップ警部が尋ねた。
「それで、探しつづけなければならないのです」と、ポワロがいった。
「大して、助けになることもなしにですかい? 実際、パリから望むものが来るまでは、何にもできないですよ。よく調べなければならないのは、ジゼルのほうだし、フルニエが聞き出した以上のことを、あの女中から私が聞き出すことができると思うですがね。賭けをしてもいいですよ」と、警部がいった。
「それは怪しいものですよ。この場合についての最も面白いことは、死んだ女の人格ですよ。友達もなく……親類もなく……また、人間らしい生活もないと申してもよろしいかも知れません。かつては若く、愛したり、悩んだり、それから、強い手が、戸をひきおろしてしまって、すべてが終りました。写真もなく、思い出の品もなく、装身具もなく。……マリー・モリソーはマダム・ジゼル、金貸しとなりました」
「その過去に、何か手がかりがあると思われるんですか」
「たぶん」
「では、それで何とかできるかも知れんですな! この事件には、何の手がかりもないんだ」
「ありますよ。あるのです」
「吹き矢筒は、もちろんあるですが……」
「いや、いや、吹き矢筒ではないのです」
「この事件の手がかりについて、あなたの意見を聞こうではないですか」
ポワロは微笑した。
「その手がかりに題をつけましょう。クランシー氏の小説の題のように……。『黄蜂の手がかり』『旅客の荷物の手がかり』『コーヒーの余分のスプーンの手がかり』と……」
「あなたは、どうかしている」と、ジャップ警部はやさしくいった。そして、付け加えた。
「そのコーヒーのスプーンというのは一体何ですか」
「マダム・ジゼルのコーヒーの受け皿に、スプーンが二本あったのです」
「それは、結婚を意味すると思われておるです」
「この事件では、それは葬式を意味しているのです」と、ポワロがいった。
[#改ページ]
ポワロ、美しい秘書を雇う
ゲールと、ジェーンと、ポワロとが、『ゆすり事件』のあとの夜会食した時、ゲールはもう『ロビンソン』としての役目は必要ではないと聞かされて、安心したのであった。
「善良なロビンソン氏は、もう死んでしまいましたよ。その記憶のために乾杯しましょう」と、ポワロがいって、杯をあげた。
「氏よ、安らかに眠れ」と、ゲールが笑っていった。
「どうしたんですの?」と、ジェーンがポワロに聞いた。
ポワロは彼女に微笑した。
「知りたいことを、私は知ったのです」
「ジゼルにかかりあっていましたの?」
「そうです」
「それは、僕との会見でも、はっきりしていました」と、ゲールがいった。
「そのとおりです。けれども、私は、もっと十分な、詳細な話が知りたかったのです」と、ポワロがいった。
「そして、うまく行きましたか」
「行きました」
二人は聞きたそうにポワロを見た。が、ポワロは何か腹立たしげな様子で、人生と経歴との関係について論じ始めた。
「人が考えるように、四角い穴には円い栓などないものです。たいていの人々は、口では何と言おうとも、ひそかに望んでいる職業を選ぶものなのです。よく、事務所にいる男が『私は探検がしたい……遠い国々へ行ってやってみたい』などと申すのを聞いたことがあるでしょう。しかし、実際は、彼はその問題を扱っている小説を読むのが好きではあるが、事務所の椅子に腰かけて、安全と、適宜な慰安とを好むのだということがわかるでしょう」
「あなたのおっしゃることによりますと、私の海外への旅行に対する熱望は、真実のものでなくて……女の人の髪をやっているのが、ほんとの職業だとおっしゃるんでしょう……でも、違いますわよ」
ポワロは彼女に微笑した。
「あなたはまだお若いのです。これをやったりあれをやったりなさるのが自然でしょう。しかし、結局、人間は、好きなところへ落ち着くものなのです」
「それなら、私が、お金持になりたかったらどうです?」
「ああ、それは、なかなかむずかしいです!」
「僕は賛成しませんよ。僕は、偶然に歯科医になりました……好きでなったんではないんです。僕の伯父が歯科医でした……僕にそれを一緒にやらせたかったんです。しかし僕は冒険好きで、世界を見たかったんです。僕は歯医者業を中止して、南アフリカへ行きました。しかし、それもたいしてよくありませんでした……十分の経験がなかったのです。で、伯父の申し出を受け入れて、一緒に仕事をしなければならなくなったんでした」
「それで、今度は、また歯科医を中止して、カナダに行ってしまおうかと考えているのですね。君は、自治領色を持っていますね!」
「今度は、そうしないわけにはいかないんです」
「ああ、そうです。人間は、何かしたいと思っていることを、無理にさせられるようになるのは、信じられないくらいなのですよ」
「私を無理に旅行させるようなものは、ちっともないんですもの。そうだといいんだけど」と、ジェーンは、思いに沈んでいった。
「よろしい。ここで、今すぐ、あなたに申し込みをしましょう。私は、来週、パリへ参ります。もしあなたが、私の秘書としての職を承知して下されば……よい報酬をさしあげますが……」
ジェーンは首をふった。
「私、アントワンのお店をやめられませんわ。あれはいい仕事ですもの」
「私の仕事もいいものですよ」
「ええ、でも、それは一時的なものですもの」
「また、同じような地位を、得られるようにしてさしあげますが……」
「ありがとうございますけど、危険を犯したくありませんわ」
ポワロは彼女を見て、謎めかしく微笑したのだった。
三日後に、ポワロは電話に呼び出された。
「ポワロさん、あのお仕事、まだ今でもございまして?」と、ジェーンがいった。
「ありますよ。私は月曜日にパリへ出発します」
「ほんとうですの? 私、行ってもよろしいかしら?」
「よろしゅうございますとも。しかし、あなたの心変りするような、どんなことがありましたか」
「アントワンで騒ぎをやってしまいましたのよ。お客様に腹を立ててしまいましたの。その人まったく……どうって電話ではお話しできませんわ。私、いらいらしてましたの。猫なで声を出してお世辞をいう代わりに、思ってることを遠慮なく、はっきり言ってしまったんですの」
「ああ、広い世界のことでも考えていらしたのでしょう」
「何ておっしゃっていらっしゃいますの?」
「ある問題に、あなたの頭がすべっていってしまったのだと申しているのです」
「すべってしまったのは、私の頭じゃなくて、私の舌なんです。私、面白かったんですわ……あの女の眼は、あの人の狆《ちん》みたいになったんですもの……とび出して私の耳の上にでも落ちてきそうに。……いずれはほかに職場をみつけなければならないでしょうけど……まず、パリへ行ってみたいですわ」
「よろしい、きまりました。その途中で、いろいろ仕事の指図をいたしましょう」
ポワロと新しい秘書とは、航空旅行はしなかった。それに対して、ジェーンは感謝したのだった。この前の不愉快な旅行が、彼女の神経をゆすぶったのだった。あの、真っ黒なだらりとした姿を想い出したくなかった……。
カレーからパリへいく列車では、二人きりの室だったので、ポワロが、その計画について、自分の考えをジェーンに語った。
「私は、何人かパリで会わなければならない人があるのです。法律家のチボーさんがあります。警察のフルニエさんもいます……陰うつな人ですが、しかし、なかなか知的な人です。それから、デュポンさんとの会見。さて、ジェーンお嬢様、私が父親のほうと話している間、令息のほうは、あなたにおまかせしますよ。あなたは大そう魅力的で、人の気をひきますから……デュポンさんも、審問のとき以来、あなたを記憶しておられるでしょう」
「あれから、お目にかかりましたわ」と、ジェーンは、少し赤くなりながら言うのだった。
「ほんとですか? それはまたどういう風に?」
ジェーンは、ますます、顔を赤くして、コーナーハウスでのめぐり会いを説明した。
「素晴らしい……ますますよろしい。あなたをパリにつれて来たのは、私の大傑作でしたね。さあ、ジェーンお嬢様、よく気をつけて聞いて下さいよ。できるだけ、ジゼル事件を論じないように。しかし、もし、ジャン君のほうで言い出したら、その話題をことさらさけてはいけません。もしも、はっきり口では言わずに、ホービュリー夫人に嫌疑がかかっていることを、相手に察しさせることができれば結構ですね。私のパリへ参る理由は、フルニエさんと相談して、あの死んだ夫人と、ホービュリー夫人が持っていた交渉について、特に問いただすためなのです」
「かあいそうに、ホービュリー夫人は口実なんかに使われて!」
「あの人は私のほめるタイプの女性ではありません……よろしい、一度くらいは役にたたせましょう!」
ジェーンは、ちょっとためらって、それからいった。
「あの若いほうのデュポンさんを疑ってはいらっしゃらないんでしょうね?」
「いや、いや、いや……ただ、何か知りたいだけですよ」といって、ポワロは鋭く彼女を見た。
「なかなか魅力があるでしょう……え? あの青年は? セックスアピールですかね?」
ジェーンは、その句がおかしくて笑ってしまった。
「いいえ、そういう風には、あの方を説明できませんわ。とっても単純な方ですけど、でも、いい方ですのね」
「では、あの青年をそんな風に見ているのですか……大そう単純と……?」
「単純ですわ。それは、世俗的でない、いい生活をしておいでになるからだろうと思いますわ」
「そうですね。あの青年は、たとえば、歯は扱っていませんね。歯科医の椅子の上で、有名人がぶるぶる震えるのを見て、幻滅の悲哀は感じていませんね」と、ポワロがいった。
ジェーンは笑った。
「ゲールには、まだ有名人なんかの患者はいませんわ」
「カナダに行こうとしているのですから、それも無駄でしたでしょうね」
「今度は、ニュージーランドへ行こうかって言っていますわ。そのほうが、気候が、私にあうだろうと思っているんですわ」
「とにかく、あの方は愛国家ですね。どこまでも、英国の領土にくっついております」
「私、そんな必要がないように希望していますわ」と、ジェーンがいった。
彼女は、もの問いたげにポワロをみつめた。
「このポワロ小父さんを信頼しておいでだとおっしゃるのですね? ああ、よろしい……私は、できるだけのことをしてさしあげますよ……それはお約束いたします。しかし、私はね、お嬢様、まだ、スポットライトの光に照らし出されていない人物があると強く感じているのでございますよ……まだつきとめられていない役の者があると……」といって、彼は、顔をしかめながら、頭をふった。
「お嬢様、この事件には、まだ知られていない要素があるのです。あらゆるものがそれを指しているのですが……」
パリに着いてから二日目に、ポワロとその秘書は、小さい料理店で食事をしていた。デュポン父子が、ポワロのお客になっていた。
老デュポンも、息子と同じように、なかなか魅力のある人物であったが、ジェーンは、あまり話をする機会がなかった。ポワロが専門にかかりきっていた。ジェーンは、デュポン青年が、ロンドンで会った時と同様に、気楽な相手であることを知ったのだった。彼の子供っぽい、魅力のある性格が、前よりもいっそう彼女をよろこばした。彼は誠に単純な親しみのある人物だったのである。
それでも、彼と笑ったり話したりしている間にも、彼女は二人の老人たちの話のふしぶしを、鋭くとらえていたのであった。彼女は、ポワロの望んでいる事柄が、どういうことなのかわからなかった。それまでのところでは、会話は一度だって、殺人事件に触れてはいなかった。ポワロは巧みに、相手の過去の経歴をひき出していた。彼のペルシャの考古学的探索に対する興味は、深くもあり、真面目でもあった。デュポン氏は、その夕が、非常に楽しいらしかった。そんな知的な、また同情的な聴き手を得るのはごく稀であった。
二人の若い人たちが、映画に行ったらいい、ということは誰が言い出したのかわからなかったが、二人が出かけてしまうと、ポワロは自分の椅子を、テーブルに近く引き寄せて、もっと考古学的探求に、実質的な興味を示そうとする様子を見せた。
「今日のような不況時代には、自然、十分な基金を集めるのは、困難でございましょうね。個人的な寄付金もお受けになるのでございますか?」と、ポワロはいった。
デュポン氏は笑った。
「私どもは、そのため、実際的に膝を曲げて頼むのですよ! しかし、私どものこの発掘という仕事は、あまり世間の同情を引かないようです。世人は、壮観な結果を期待しているのです。とりわけ、みんなは黄金が好きなのです……金を大量にのぞんでいるのです! 一般の人々が、壷などにどんなに注意を払わないかは驚くべきほどです。壷……壷という言葉の中に、人類の全ロマンスが表現されているのですに……デザイン……材料……」
デュポン氏は夢中になった。彼はポワロにB氏の見かけだおしの公表や、K氏の罪悪にも等しい年代錯誤、G氏の望みない非科学的な地層の仮説などに、迷わされないようにといった。ポワロは、このような学識のある人々の公表のどれにも、決して迷わされないようにすると、厳かに約束した。
それから彼はいった。
「寄付をさせて頂きたいのですが、たとえば、五百ポンドほどの……」
デュポン氏は興奮して、テーブル越しに倒れるほどであった。
「あなたが……あなたがそれをご寄付下さるのですか? 私に、私どもの発掘を助けるために……。それは素晴らしいです、すごいです! 今までに、個人的にそんな寄付をうけたことがありません」
ポワロは咳をした。
「それはさしあげますが……お願いが……」
「ああ、記念品として……壷の標本とかいうものを……」
「いや、いや、誤解しておいでです」と、ポワロは、デュポン氏がまたやり出さないうちに、あわてて切り出した。
「私の秘書です……あの、今夜会われた、可愛らしい若い娘さんですが……あの人を、あなた方の今度の遠征に参加させて頂けましたら……」
デュポン氏は、ちょっとびっくりしたようであった。
「そうですな」と、彼は、口髭を引っぱって、
「そのようにできるかも知れません。息子に相談してみなければなりません。私の甥とその妻が、一緒に行くことになっております。家族だけで出かけようと思っていたのですが、ジャンに話してみましょう……」
「ジェーン嬢は、大そう、壷に興味を持っております。過去が、彼女には、大そう魅惑になっているのです。発掘するのが、あの人の夢なのです。また、ソックスをつくろったり、ボタンを縫いつけたりするのが、誠に上手なのです」
「誠に役に立つことですな」
「そうでしょう? さて、あなたはさっき話されておりましたね……壷について……スーサの……」
デュポン氏は、また、スーサ一世とスーサ二世の特別の推理に対する、楽しい独白をやり出したのだった。
ポワロがホテルに帰り着くと、ジェーンがロビーで、ジャン青年におやすみなさいを言っているところであった。
エレベーターであがって行くとき、ポワロがいった。
「あなたのために、大そう興味深い仕事をみつけてあげましたよ。あなたは、春になったら、ペルシャへ、デュポン家の人たちと一緒に出かけることになっております」
ジェーンは、驚いて、ポワロをみつめていた。
「あなた、気が変じゃございません?」
「あなたに申し込みされたとき、あなたは、よろこび満足して、その申し出を受けられますよ」
「私、ペルシャなんかへ参りませんわ。私は、そのころ、マスウェルヒルか、ニュージーランドへ、ゲールと一緒に行っていますわ」
ポワロは、穏やかに、いたずらっぽく彼女を見ていた。
「六月までは、まだまだ、何カ月かあるのですよ。喜びを表わすということは、切符を買うことではないのです。同じように、私は寄付のことを言いました……しかし、まだ、小切手を書いたわけではありません! ところで、朝になったら、近東の有史以前の壷についてのハンドブックを買ってあげなければなりません。あなたが、その問題を熱狂的に愛していると申しておきましたから」
ジェーンは溜息をついた。
「あなたの秘書になるのは、名目だけじゃ、ありませんわね。ほかに何かございまして?」
「あります。あなたが、ボタンをぬいつけたり、靴下をかがったりすることが、完全なくらいにうまいと申しておきましたよ」
「明日、そんなデモンストレーションもやってみせなきゃいけないのかしら?」
「私の申したことを、言葉どおりにとったとしたら、そんなこともあるかも知れませんね」と、ポワロがいった。
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遺産請求者現わる
次の朝の十時半に、陰|うつ《ヽヽ》なフルニエ探偵がポワロの居間に入って来て、小さいベルギー人の手を、温かく握りしめた。
その様子は、いつもよりずっと興奮しているように見えた。
「お話ししたいことがあるのです。あなたが、ロンドンで吹き矢筒の発見について言われたことの要点が、ついにわかったように思えます」と、彼はいうのであった。
「ああ」と、ポワロの顔も明るくなった。
「そうですよ」と、フルニエ探偵は、椅子にかけながらいった。
「私は、あなたの言われたことを、一生懸命に考えてみましたよ。何度も何度も、私はひとりごとを言いました。『私たちが思っているような様子で、犯罪が行われたということはあり得ない』。ついに……ついに……私のくりかえしたことと、吹き矢筒の発見について、あなたの言われたことの関係をみつけました」
ポワロは、注意深く耳を傾けていたが、何にも言わなかった。
「あの日、ロンドンで、あなたは言われました。通風孔から容易に、すべらせてしまえるのに、なぜ、吹き矢筒がみつかったか? さて、今、この答えを得たように思えます。吹き矢筒は、犯人が、発見してもらいたかったために、あすこにあったのです」
「万才!」と、ポワロがいった。
「それなら、あなたの言われたことは、そういう意味だったのですな? 私はまた、それ以上まで進みました。なぜ、犯人は、その吹き矢筒を発見されたかったのだろうか? そして、それに対して、私は答えを得ました。なぜならば、吹き矢筒は用いられなかったからです」
「万才! 万才! 私の意見そのままです!」
「私はひとりごとを言いました。毒針は、ほんものです。しかし、吹き矢筒は、違います。空中を通って、毒針を飛ばすのに、外のものが用いられたのです……何か、男か女かが、あたり前に、唇へもっていかれるもの……そうして、何にも人の注意の原因にならないものです。そして私は、旅客の荷物の中に、あるいはからだにつけて持っていたもののすべてのリストを、あなたが、どうしてもと言い張られたのを記憶しております。特に、私の注意を引いたものが二つありました……ホービュリー夫人は、二本のシガレットホルダーを持っておりました。またデュポン達のテーブルの前に、クルドのパイプがいくつかのっていました」
フルニエ探偵は言葉を切った。彼はポワロをみた。ポワロは話さなかった。
「こういうものは、誰にも気付かれずに、口へ持っていくことができるのです……そうでしょう。そうではありませんか?」
ポワロはためらったが、それからいった。
「あなたは正しい道を追っておられます。そうです。しかし、もう少し先へお進みなさい。そして、黄蜂のことも忘れないように」
フルニエ探偵は驚いて眼をみはった。
「黄蜂? いいえ、そのことはわかりません。どういう風に黄蜂のことが入って来るかわかりません」
「わかりませんか? 私が、そのことで……」といい始めたが、電話がなったので、ポワロは言葉を切って、受話器をとりあげた。
「もし、もし、ああ、お早うございます。私です、エルキュール・ポワロです」
傍をむいて、フルニエ探偵にいった。
「チボー弁護士ですよ」
「はい、はい、そうですとも。よろしい。そしてあなたはどこに? フルニエさんですか? もうこちらに来られました。今来ておられるのです」
彼は受話器を下に置いて、フルニエ探偵にいった。
「警察で、あなたに会えると思ったようです。あなたが私に会いにここへ来られたと、警察の人が言ったらしいのです。お話しした方がいいでしょう。何だか興奮しているようですから……」
フルニエ探偵は受話器を取り上げた。
「もし、もし、そうです。フルニエです……何ですって……何ですって? ほんとうですか。そうですとも、はい、はい、そうするでしょうとも。すぐ一緒に参ります」
彼は、受話器をかけて、ポワロを見た。
「娘ですよ。マダム・ジゼルの娘です」
「何ですと?」
「そうです。遺産を要求するために出かけてきたのです!」
「どこから来たのですか?」
「アメリカかららしいです。チボーは、十一時半に、また来るように言っておいたそうです。私達が行って、会うことを申し出ております」
「そうですとも、いそぎましょう……ジェーン嬢に、置き手紙をしましょう」
彼はこう書いた。
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少し事件が発展したので出かけなければなりません。ジャン・デュポン氏が電話をかけるか、訪問するかして来ましたら、やさしくしておいて下さい。ボタンや靴下のことは話してもよろしいが、有史以前の壷のことはまだ話してはいけません。彼はあなたを賞讃していますが、なかなか知的ですからね。では、
エルキュール・ポワロ
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ポワロは立ち上りながらいった。
「さあ参りましょう。これは私が待っていたことです……ずっと、私が存在を意識していた、影の姿が、登場して来たのです。もう……すぐ……すべてのことがわかることでしょう」
チボー弁護士は、ポワロとフルニエ探偵を愛想よくむかえた。挨拶や丁寧な質問、答え、などを取り交わした後で弁護士は、マダム・ジゼルの相続人のことを落ち付いて論じはじめた。
「昨日、手紙を受け取ったのです。そして、今朝、その若い夫人が尋ねて来ました」と、彼はいった。
「モリソー嬢は何歳ですか?」
「モリソー嬢……今はリチャーズ夫人なのです……結婚していますので……。ちょうど、二十四歳なのです」
「当人であることの証明書でも持って来たのですか?」とフルニエ探偵が尋ねた。
「そうですとも、そうですとも」
弁護士は肘のところの書類の綴じ込みを開いた。
「まず、これです」
それは、ジョージ・レーマンとマリー・モリソーの結婚証明書であった……二人とも、ケベック生まれだった。日付は一九一〇年。アン・モリソー・レーマンの誕生証明書もあった。ほかの種々の書類もあった。
「これでマダム・ジゼル夫人の昔の生活も多少明るみに出ますな」と、フルニエ探偵がいった。
チボー弁護士はうなずいた。
「私が、補って考えてみたところによりますと、マリー・モリソーは、このレーマンという男と会った時は、子守りか、お針女かだったらしいですね。
男の方は、悪いやつで、結婚のあとで、彼女を棄ててしまったらしく、彼女は、自分の旧姓に帰ったらしいのです。
子供の方は、ケベックのマリー孤児院に引きとられ、そこで育てられたのです。すぐ後で、この母親はそこを……たぶん男と……去って、フランスに来たのです。時々は、金を送っていたのですが、それとは別に、子供が二十一に達したとき与えるようにと言って、相当の金を送ったらしいのです。その頃、このマリー・モリソーか、またはレーマンかは、不規則な生活をしていたに違いありません。それで、個人的の縁をたち切ったほうがいいと考えたらしいのです」
「どういう風にして、その少女は、自分が遺産の相続人だと考えるようになったのでしょうか」
「私どもは、いろいろの新聞などに、用心深い広告を出していたのです。これが、マリー孤児院の院長の注意するところとなって、彼女が、リチャーズ夫人に手紙を書くか、電報するかしたらしいのです。夫人はその時、ちょうど、ヨーロッパにいたのですが、ちょうど、アメリカに帰ろうとしていたのです」
「リチャーズというのは誰ですか?」
「アメリカ人か、デトロイトから来たカナダ人らしいのです。職業は、外科医の道具の製造人らしいのです」
「細君について来なかったのですか?」
「いいえ、アメリカにおります」
「リチャーズ夫人は、母の殺害者に対して、何か、少しでも光を投げてくれることができるのでしょうか?」
弁護士は首をふった。
「故夫人にはついては、何にも知らないです。孤児院の院長が一度話したのを聞いたことはあるのですが、母の旧姓までも記憶してはいないのです」
「それでは、その人が登場しても、殺人の問題の解決には何にも助けになりそうもありませんな。助けになるだろうとは、思ってもいませんでしたが。今のところ、私は、まったくほかの方針を持っているのです。私の調査は、三人の人にせばめられました」と、フルニエ探偵がいった。
「四人です」と、ポワロがいった。
「四人だと思われるのですか?」
「私が四人だと申すのではありません。が、あなたが言われたあの推理によれば、三人に限ることはできません」とポワロはいって、急に手を動かした。
「二つのシガレットホルダー……クルドのパイプとフルート……フルートも忘れてはいけませんよ」
フルニエ探偵は、叫び声をあげた。が、その瞬間に戸があいて、年をとった事務員が小声でいった。
「夫人が、また、見えられました」
「さあ、ご自分で、相続人を見られます。……どうぞお入り下さい。奥様、警察のフルニエさんです。あなたのお母上の死について、いろいろな調査の、この国のほうを受けもっておられる方です。こちらはエルキュール・ポワロさんです。お名前はもうよくご存じでしょう。ご親切にお力をかして下さっているのです。リチャーズ夫人です」と、弁護士は紹介した。
ジゼルの娘は、黒い髪の、あかぬけのした夫人であった。非常にスマートな、しかし、さっぱりとした服装をしていた。
彼女は、代わる代わるに手をさし出した。そして、小さい声で、それぞれに愛想のいい挨拶をした。
「ですけれど、私は、どうしても、娘という感じはいたしません。私は、どこまでも、今までずっと、孤児でございました」
フルニエ探偵の質問に対して、彼女は、マリー孤児院長のアンジェリック尼について、あたたかく、ありがたそうに話すのだった。
「いつも、ご親切そのものでしたわ」
「で、孤児院を出られたのは、いつでしたか、奥様?」
「十八歳の時でございます。私、自分でお金をとり始めましたの。その頃、私、マニキュア師でございました。仕立屋の店にいたこともございます。夫にはニースであいました。ちょうど、アメリカに帰るところだったんでございます。オランダに仕事で参りまして、一カ月前にロッテルダムで結婚いたしました。不幸にも、カナダへ、あの人は帰らなければなりませんでした。私は、帰れませんでした……が、もう帰ろうと思っておりますの」
アン・リチャーズのフランス語は、流暢だった。英国人というよりは、フランス人であった。
「あなたは、この悲劇のことを、どうやってお聞きになりましたか?」
「私、新聞で読んでおりましたが……まさか……この事件の被害者が、私の母だとは、わかりませんでした。そうしたら、アンジェリック尼から、チボーさんの番地を知らして、私の母の旧姓を想い出させるような電報を受けとりました」
フルニエ探偵は、考え深くうなずいた。
みんなは、しばらく話していたが、リチャーズ夫人は、殺人犯人を探すのに、ほとんど役には立たないことが判明した。彼女は、母の生活も知らなければ、その事業上の関係も何にも知らないのだった。
彼女の滞在しているホテルの名を聞いてから、フルニエ探偵とポワロは、そこを辞去した。
「失望なさったでしょう。あなたは、この夫人について、頭の中に、ある考えをもっていらしたんでしょう? 彼女が、詐欺師だと思われましたか? また詐欺師だと、今でも思っておられますか?」と、フルニエ探偵がいった。
ポワロは、がっかりしたように、首をふるのだった。
「いや……詐欺師だとは思いません。あの証明書は、たしかに本物です。……しかし、何だか、前に会ったような気がします。誰かを想い起こさせます……」
「死んだ人に似ているのではないですかな?」と、フルニエ探偵も疑いぶかくいうのであった。
「いや……そうではない……思い出せるといいんですが、あの顔は誰かを想い出させます……」
フルニエ探偵は、珍しそうにポワロを見ていた。
「あなたは、いつでも、失踪した娘に興味を持っておられましたな?」
「そうですよ」と、ポワロは言ったが、その眉が少し上ったのだった。
「ジゼルの死によって、利益を得るか得ないかというすべての人々の中で、この若い夫人は確かに得をします。確かにです」と、ポワロはいった。
「そりゃ本当です。しかし、それで、どうにかなりますかな?」
ポワロは一二分答えをしなかった。
彼は自分の頭の中の考えを追っていた。そして、とうとうこういった。
「大した遺産が、この夫人にわたります。始めから、彼女がかかりあっているのだと私が思っても不思議はないでしょう。あの飛行機には、三人の女性が乗っておりました。その中の一人は、ベネシア・カー嬢で、この人はよく知られた、確証のある家族の出です。しかし、ほかの二人は? ジゼルの女中のエリーズが、マダム・ジゼルの娘の父は、英国人だったらしいという憶測をしてから、私は、絶えず心の中に、ほかの二人の女性が、ことによったら、この娘であるかも知れないと、考えていたのです。二人とも、だいたい、同じくらいの年頃です。ホービュリー伯爵夫人は、コーラスガールで、その祖先は少し不明で、ステージ名で通ってきました。ジェーン・グレイ嬢は、前にもお話ししたように、孤児院で育てられました」
「ああ、そういう風に、考えておられたのですか? 我々の友人のジャップだったら、あなたがあんまり巧妙すぎるというでしょうよ」と、フルニエ探偵はいった。
「そうです。いつでも、彼は私のことを、物事をむずかしくしすぎると申すのです」
「そうでしょう?」
「しかし、事実において、そうではないのです……私はいつも、最も簡単にことを進めるのです。私は事実を受け入れることを決して拒みません」
「しかし、失望なさったでしょう? このアン・モリソーから、もっと多くを予期しておいでだったのでしょう?」
二人はちょうど、ポワロのホテルに入るところだった。受付の台の上のものが、その朝、ポワロが言った何ものかを、フルニエ探偵の心に思い出させたのだった。
「私の犯した間違いに注意を引いて下さったのに、まだお礼も申しませんでしたな。ホービュリー夫人の二つのシガレットホルダーと、デュポンのクルドのパイプのことは注意しましたが、ドクター・ブライアントのフルートを忘れていたとは許しがたいことでした。といって、博士を疑っているわけではありませんが……」
「疑わないのですか?」
「疑いません。あの男は、そんなことをするような男ではない……」といって、彼はやめた。
受付のカウンターのところに立って、事務員に話していた男が振りむいた。その手にはフルートのケースがあった。その眼はポワロに落ちた。するとその顔は喜びに輝いた。
ポワロは進み出た……フルニエ探偵は、慎重に後ろへ下がった、ドクター・ブライアントに気付かれないように。
「ドクター・ブライアント」といって、ポワロは頭を下げた。
「ポワロさん」
二人は握手した。ドクター・ブライアントのそばに立っていた女性が、エレベーターのほうへ行った。ポワロは、ちょっと、彼女のほうを見た。
彼はいった。
「博士、患者さんは、あなたがついていらっしゃらなくてもよろしいのですか?」
ドクター・ブライアントは微笑した……みんなの記憶しているような、あの陰うつな魅惑的な微笑であった。彼は疲れているようだったが、不思議なくらい、穏やかであった。
「今はもう患者はないのです」と、彼はいった。
それから小さいテーブルのほうへ歩み寄って、いった。
「シェリー酒を一杯いかがですか、ポワロさん? それともカクテルでも?」
「ありがとうございます」
二人は坐った。医師は註文してから静かに言った。
「いえ、私は今は、患者がないのです。私は、隠退しました」
「急なご決心で?」
「あまり急ではないのです」
飲みものが前におかれる間、黙っていたが、グラスをあげてこういった。
「これは必要な決意だったのです。私は、登録をとり消される前に、自分の意志でやめたのです」
彼は、静かな、遠くの方で話しているような声で語るのであった。
「人間の生活には転換期が来るものですよ、ポワロさん。十字路に立って、どちらかに、決めなければならないのです。私の職業は、私には非常に興味のあるものなのです……悲しいことです……それをやめることは、大変な悲しみです。しかし、ほかの要求もあるのです……人間の幸福ということもあるのです、ポワロさん」
ポワロは何も言わなかった。彼は待っていた。
「私の患者で……私が、非常に愛している女性があるのです。その夫は彼女に、無限の悲しみを与えているのです。彼は麻薬常用者なのです。あなたが医者だったら、それがどういうことかよくわかるはずです。自分の財産がないので、彼のもとを去ることもできないのです……
しばらくの間、私も決心しかねていたのです……でも今では決心しました。彼女と私は、今、ケニヤにいって、新しい生涯を始めようとしているのです。今度は、彼女も少し幸福ということを知るでしょうと思います。長い間、苦しんできたのです……」
再び、沈黙していたが、今度は、少し元気を出していった。
「ポワロさん、もうすぐ、みんなに知れわたってしまいます。ですから、一刻も早くお話しした方がいいと思ったのです」
「わかりました」と、ポワロはいって、少し経って、こういった。
「フルートをお持ちになるのですな?」
ドクター・ブライアントは微笑した。
「この笛は、私の一番古い知己なのです。ポワロさん……すべてが失敗しても、音楽が残っております」
彼の手は、いかにも大事そうに、フルートのケースをなでていた。それから、一礼すると、立ちあがった。
ポワロも立ちあがった。
「あなたと奥様の未来がご幸福なように……」と、ポワロがいった。
フルニエ探偵が、友人と一緒になったとき、ポワロは、ケベックに、長距離電話を申しこんでいた。
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爪が欠けたんですの
「今度は何ですか? まだ相続人の夫人のことで頭をなやましておられるのですか? たしかに、あなたは、固執観念を持っておられますな?」と、フルニエ探偵がいった。
「そんなことはありません、そんなことはありません。しかし、物事には、順序と方法があるのですからね。次へ進む前に、一つのことを終らせなければなりません」
彼は振り返った。
「ああ、ジェーン嬢さんが見えました。お二人で、昼食を始めておいて下さい。できるだけ早く、ご一緒になりますから……」
フルニエ探偵は承知して、ジェーンに従って食堂に入った。
「それで、どんな人でした?」と、ジェーンは好奇心をもっていった。
「普通より少し背が高くて、髪は黒く、顔色は茶色で、顎がとがって……」
「あら、あなた、パスポートのように言っていらっしゃいますわ。私のパスポートの説明なんて、とても失礼ですわよ、中背とか普通とかって決まり文句なんですわ。鼻、中くらい。口、普通……どうやって、口の説明なんかするんでしょう?……頬、普通。顎、普通……」
「しかし、眼は普通ではありませんな」と、フルニエ探偵がいった。
「灰色でもですか、あんまりぱっとした色でない……」
「それが、ぱっとしない色だなんて、誰が言いましたか?」と、フルニエ探偵は、テーブルにのりかかるようにしていった。
ジェーンは笑った。そしていった。
「あなたの英語の力はなかなか立派ですわ。そのアン・モリソーという方のこと、もっとお話し下さいません?……美しい方ですか?」
「かなりね」と、フルニエ探偵は、用心深くいった。
「だが、彼女は、アン・モリソーではないのです。アン・リチャーズなのです。結婚しているのです」
「旦那さんも見えまして?」
「いいえ」
「どうしてでしょう?」
「カナダだか、アメリカだかにいるのです」
彼は、アンの生活事情を説明して聞かせた。ちょうど、もう話も終りに近づいた頃、ポワロが一緒になった。
ポワロは少し、がっかりした様子であった。
「どうでした?」と、フルニエ探偵が尋ねた。
「私は院長に……アンジェリック尼自身と話したのです。大西洋横断の電話は、なかなかロマンチックですな。地球の反対側の人とあんなに楽に話すなんて……」
「電送写真、あれもロマンチックですな。科学は、最大のロマンスです。が、それで?」
「アンジェリック尼と話していたのです。彼女は、リチャーズ夫人が、マリー孤児院で育てられたと、私どもに話したとおりだと申しました。酒商のフランス人と一緒に、ケベックを去った母親のことについても、あからさまに話していました。子供が母親の影響下におかれなくなって、まったく安心したそうです。彼女の思うところでは、ジゼルは、どんどん堕落していっていたらしいです。金銭は、きちんきちんと支払われていたのですが……ジゼルは決して、会いたいとは言わなかったということです」
「では、その会話は、事実、今朝、私どもの聞いたものの繰り返しに過ぎなかったのですな?」
「そうなのです……ただ、少し詳しかったのです。アン・モリソーは六年前に、マニキュア師になるために、マリー孤児院を出たのです。その後で、貴婦人の女中になったのです……そして、ヨーロッパにむけて、ケベックを去ったのです。彼女からの手紙は、たびたびは来なかったけれども、アンジェリック尼も、一年に二度くらいは手紙をもらったのでした。新聞で、審問の記事をみた時に、このマリー・モリソーはたぶん、ケベックに住んでいたマリー・モリソーだろうと思ったのです」
「その夫のほうはどうなったのでしょう。ジゼルが結婚したということが、今でははっきりしたので、その夫が、なにか今度の事件にかかわっているのかも知れませんが?」と、フルニエ探偵がいった。
「私もそれを考えたのです。それが、電話をした理由の一つです。ジゼルの悪党の夫のジョージ・レーマンは、戦争の初期に戦死したのです」
彼は言うのをやめて、急にこういった。
「今、私の言ったことは何でした?……最後のことではなくて……その前の?……私はそれと知らないで……何か大切なことを言っていたのです」
フルニエ探偵は、できるだけ、ポワロの言ったことを繰り返してみたが、小男は、不満そうに首をふっていた。
「いや……いや、そうではありません。まあ、かまいません……」
彼は、ジェーンのほうにむいて、会話にさそいこんだ。
食事のあと、休憩室でコーヒーを飲もうと言い出した。
ジェーンは賛成して、テーブルの上のハンドバッグと手袋をとりに手をのばした。それをとりあげたとき、軽くからだをすくめた。
「どうしたのですか、お嬢様?」
「何でもありませんの。爪が欠けたんですの。やすりをかけなければなりませんわ」と、ジェーンが笑った。
ポワロは、急にまた腰かけてしまった。
「畜生、畜生」と、ポワロは静かにいった。
ほかの二人はびっくりして、彼をみつめた。
「ポワロさん? どうなさったんですの?」と、ジェーンが叫んだ。
「アン・モリソーの顔に、何だか見覚えがあるような気がしたのです。前に見たことがあるのです。殺人のあった日に、飛行機の中で。ホービュリー夫人が、爪やすりをとりにやったのです。アン・モリソーは、ホービュリー夫人の女中だったのです」
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生きるためにも勇気がいる……
この意外な新事実の発見は、昼食のテーブルの囲りに坐っていた三人の人々に、ほとんど、仰天させるような効果を与えたのであった。それは、この事件に、まったく新しい局面を展開したのであった。
アン・モリソーは、悲劇から、遙か遠く離れた人間ではなく、その犯罪の現場に、現実的にい合せたのだということが、明らかにされたのであった。みんなは、それぞれの考えを正常に戻すのに、一二分はかかった。
ポワロは、手で、気違いのような動作をした……眼は閉じられて……その顔は、極度の苦痛で歪んでいた。
「もう少し待って、もう少し待って……」と、彼はみんなに頼んだ。
「これがどんなに、私の事件に対する考えを変えるか、考えてみて、認識しなければならない。私は記憶を過去へ戻さなければならない。思い出さなければならない……私の忌々しい胃にわざわいあれ! 私は、内側の感じばかりに余念がなかったのです」
「そんなら、あの女は、あの時、飛行機にのっていたのですなあ。わかります。わかり始めました」と、フルニエ探偵がいった。
「私も思い出しました。背の高い、髪の黒い女です」と、ジェーンがいった。その眼は、記憶をたどろうとして、半ば閉じられていた。
「そう、マドレーヌってホービュリー夫人が呼んでいましたわ!」と、ジェーンがいった。
「そうです。マドレーヌです」と、ポワロがいった。
「ホービュリー夫人は、飛行機の端まで、箱を……真紅な化粧箱をとりにやりましたね」
「そんなら、この女が、母親の坐っていた席を通って行ったというのですか?」と、フルニエ探偵がいった。
「そうです」
「動機」と、フルニエ探偵はいって、大きい溜息をついた。「そして機会……そうです。みんな、そこにあるわけです」
それから、いつもの陰うつな様子とまったく違って、急に、すごい力で、テーブルをどんと叩いた。
「しかし、どうして、誰もこのことを前に言わなかったんだろう? なぜ、嫌疑者の中に、彼女が含まれていなかったのだろう?」
「前にお話しましたよ。お話しましたよ。私の不幸な胃のせいです」とポワロは、さも疲れたようにいうのだった。
「そうです、そうです。それはわかります。しかし、影響を受けなかった、ほかの胃もあったわけです……スチュワードたちのも、ほかの旅客たちのも」
「それは、たぶん、このことが、あんまり早く起こったためだろうと思います。その時は、飛行機がやっと、ル・ブールジェを出たばかりだったのです。ジゼルは、その後、一時間半も、すっかり丈夫だったのです。ずっとあとで殺されたように思われますもの」と、ジェーンがいった。
フルニエ探偵は考え込みながら、つぶやいた。
「それはおかしいですね。毒の働きが遅れることがあり得るでしょうか? そんなことが起こるとは……」
ポワロはうなって、両手で頭を抱え込んだ。
「考えなければならない。考えなければ……私の考えは、すっかりいけなくなってしまったのか?」
「そういうことも起こるのです。私にも起こります。あなたに起こることもあり得るのです。誰でも、自尊心をポケットにおさめて、考えを正さなければならないことがよくあるのですよ」と、フルニエ探偵がいった。
「それはそうです」と、ポワロは言って、
「私が、ずっとある一つのことに、重大さを置いてきたということはあり得るかも知れません。私はある手がかりを期待していたのです。私は、それを発見して、それによって、一つの場合を組み立てていったのです。しかし、もし私が、初めから間違っていたものとすると……もし、あの特別の品物が偶然に存在していたのだったら……その時こそ、そうです。私は、間違っていた、完全に誤っていたということを承認します」
「あなたは、この事件の変貌の重大さに、眼を閉じることはできません。動機と機会……それ以上、何を望むのですか?」と、フルニエ探偵がいった。
「何にも。それはあなたの言われるとおりに、違いありません。毒の働きの遅延は、誠に異常なことです……実際的に申して……不可能と言えましょう。しかし、毒物に関するかぎりでは、不可能も起こるのです。特異体質のことを考えにいれなければなりませんから……」
その声は、次第に細くなっていった。
「私どもは、作戦計画をたてねばなりません」とフルニエ。「今のところ、アン・モリソーに疑惑を起こさせるようなことをするのは、賢くないことだと思います。彼女には、私どもが気が付いたことが、全然わかっていないはずです。彼女の真実さは、受け入れられたのです。彼女の泊っているホテルはわかっているのですし、チボー弁護士を通じて、接触を保っておくこともできるのです。法律上の手続きは遅らせることができます。私どもは二つの点をつくりあげました……機会と動機です。これからは、アン・モリソーが、蛇の毒を持っていたことを証明しなければならないのです。また、吹き矢筒を買い、ジュール・ペローを買収した、アメリカ人がいます。それが、その夫のリチャーズかも知れません。彼がカナダにいるというのは、ただ、彼女から聞いたばかりですから」と、フルニエ探偵はいった。
ポワロはこめかみに手を押しつけて、
「おっしゃるとおり……夫……そうです。夫です。ああ、待って、待って下さい! みんな間違っています。私は、私の小さい灰色の脳細胞を、順序よく、方法をたてて使っていません。いいえ、私は結果にとびついているのです。もし、私の元の考えが正しいものならば、こういうことは考えるつもりだったわけはない……」
彼はやめた。
「なんですの?」とジェーンがいった。
ポワロは、一二分間答えなかった。それから、頭から手をはずして、真っ直ぐに坐って、彼の気持ちにそぐわない、二本のフォークと、塩入れをまっすぐにした。それから口を開いた。
「理由をつけてみましょう。アン・モリソーは、この犯罪には、有罪か、無罪かどちらかです。もし無罪ならば、なぜ嘘をついたか? なぜ、自分が、ホービュリー夫人の女中であった事実をかくしたか、です」
「まったく、どうしてでしょうな?」と、フルニエ探偵がいった。
「それで私どもは、彼女が嘘をついたから、有罪だと申しましょう。しかし、お待ちなさい。私の初めの想像があたっているとする、その想像は、アン・モリソーの罪と一致するか? または、アン・モリソーの偽りと一致するか? そうです。そうです。前提を与えられれば、そうかも知れません。しかし、その場合……もし、その前提が正しければ……そうすれば、アン・モリソーは、飛行機に乗っていなかったはずになります」
ほかの人々は、丁寧に彼を見守っていた。多少は、お役目的な興味をもってかも知れなかった。
フルニエ探偵は考えた。
「あの英国人の、ジャップ警部の言ったことがわかった。この男は簡単なことを、複雑に響かせるようにするのだ。自分の前の考えと一致するというふりをしないでは、真っすぐに受けいれることはできないのだ……」
ジェーンは考えた。
「何を言ってるのかちっともわからないわ。なぜ、あの夫人が、機上にいるはずがないんだろう? あの女は、ホービュリー夫人が行くようにと望むところは、どこへも行かなければならないのだのに……この人、少し山師だわ、ほんとに……」
急にポワロは、唇の間から音をたてて息を引いた。
「もちろん、それは可能なのです。発見することは簡単です」
彼は立ち上った。
「今度は何ですか」と、フルニエ探偵が尋ねた。
「また、電話です」
「また、大西洋電話でケベックへですか?」
「今度は、ただ、ロンドンへかけるだけです」
「警視庁へですか?」
「いいえ、グロヴナー街の、ホービュリー夫人の邸です。ホービュリー夫人が幸いに家におられればね」
「ご注意下さい。もし、アン・モリソーに、私達が彼女のことを問い正していることを聞きつけられれば、私どもの仕事に支障を来たします。特に彼女に用心させてはいけないのです」
「心配なさるな、慎重にやりますよ。たった一つだけ小さい質問をしたいのです……最も害のない性質のものです」といって、微笑して、「お望みなら、一緒においで下さってもよろしいのです」
「いいえ、いいえ」
「でも、どうぞ、お願いします」と、ポワロはいった。
二人はジェーンを談話室に残して出かけた。
電話が掛るのには少し時間がかかった。しかし、ポワロに運があった。ホービュリー夫人は家で昼食中であった。
「よろしい、エルキュール・ポワロが、パリから話しているのだとお伝え下さい」
しばらく沈黙があった。
「ホービュリー夫人ですか? いいえ、いいえ大丈夫です。全部大丈夫なのです。そのことではありません。一つ伺いたいことがあるのです。そうです……あなたが、パリから英国にいかれる時は、女中さんも一緒に飛行機で行くのですか? 汽車で?……それで、あの特別の場合……ああ、そうですか……確かですか? ああ、もうお暇をとったのですか? ああ、そうですか、急に出て行ったのですか?……そうです。恩知らずでございますね。ほんとうにそうです。感謝を知らない階級ですね。そうです、そうです。そのとおりです。いや、いや、ご心配ご無用です。ではさよなら、ありがとうございました」
彼は、受話器を置いて、フルニエ探偵の方を向いた。その眼は緑色に輝いていた。
「お聞きなさい。ホービュリー夫人の女中は、いつもは、汽車と船で旅行するのです。ジゼルの殺人の時には、最後の瞬間に、マドレーヌも航空機で旅行したほうがいいと、ホービュリー夫人がきめたのです」
ポワロは、フルニエ探偵の腕をとった。
「早く、ホテルに参りましょう。もしも、私のちょっとした思い付きが正しいならば……そして、そうだと思うのですが……一瞬も時を逸してはならないのです」
フルニエ探偵は、おどろいてポワロをみつめた。しかし、彼が質問を口に出さないうちに、ポワロは、もう後ろを向いて、ホテルから出る回転ドアの方へ行っていた。
フルニエ探偵も、急いで後を追った。
「わかりませんが、一体どうしたのですか?」
守衛がタクシーのドアを開けていた。ポワロはとびのってアン・モリソーのホテルの番地を告げた。
「早く、早く、急いで!」
フルニエ探偵も、あとから飛び乗った。
「あなたを刺したのはどんなアブなんですか? どうして、こんなに気狂いのように急ぐのですか?」
「なぜならば、私が言ったように、私のちょっとした思いつきが正しければ、アン・モリソーが非常な危険に瀕しているのです」
「そう思われますか?」
フルニエ探偵は、その声に、疑いの調子をしのばさないわけにはいかなかった。
「私は心配です。心配なのです。ああ、なんて、この車はのろくさいのだろう」と、ポワロはいった。
タクシーは、この時、時速四十マイルの速さで、巧みな運転手の腕前で、あたりの車を左右にさけて走っていたのだった。
「事故が起こりそうな速さで走っていますよ。そして、また、ジェーン嬢、あの人も電話から帰るのを待っているでしょうに、ひとことも言わずに、そのままにして来てしまって失礼なやり方ですよ?」と、フルニエ探偵は、苦々しくいった。
「失礼とか、失礼でないとか……生と死の境い目に、そんなことがどうなのです?」
「生と死ですって?」と、フルニエ探偵は肩をすくめた……彼は心で思ったのだった。
「この狂気の頑固おやじが、すべてを目茶目茶にこわしてしまうらしい。我々の追いかけていることがわかれば……」が、声を出しては、頼むようにいった。
「ね、ポワロさん、どうぞよく考えてみて下さい。気をつけていかなければなりません」
「あなたはわからない。私は心配だ……心配だ」と、ポワロがいった。
タクシーは、アン・モリソーが滞在している静かなホテルの前で、急激に止まった。
ポワロはとび出して、ホテルから出て来た青年とほとんど衝突しそうになった。
ポワロは、ちょっと立ち止って、その後姿を見た。
「もうひとつ知っている顔……しかし、どこで……? ああ、思い出した……俳優のレイモンド・バラクローだ」
ホテルに入ろうとして歩き出したとき、フルニエ探偵がポワロの腕に、とめるように手を置いた。
「ポワロさん、私は、あなたの方法に対して非常な尊敬、最上の賞讃を持っております……しかし、むやみに急いだ行動をとってはならないと思います。私は、この事件の行動に対して、このフランスでは責任がありますので……」
ポワロがさえぎった。
「あなたのご心配はよくわかります。しかし私が『むやみに急いだ行動』をとるなどとご心配なさらないで下さい。受付できいてみましょう。もし、リチャーズ夫人がここにおいでで、すべてが大丈夫なら……それなら何の害もないのです……我々の未来の行動については、ご一緒に、ご相談いたしましょう。それには、不賛成とは言われますまい?」
「もちろんです」
「よろしい」
ポワロは回転ドアを通って、受付に行った。フルニエ探偵もついていった。
「こちらに、リチャーズ夫人という人が滞在しておられますね」と、ポワロがいった。
「いいえ、旦那様。滞在しておいででしたが、今日お発ちになりました」
「発ったって?」と、フルニエ探偵がいった。
「はい、旦那様」
「いつ発ったのかね?」
事務員は時計を見上げた。
「三十分以上前に」
「その出発は不意かね? どこへ行ったのです?」
事務員は、その質問に堅くなって、答えを拒む様子をした。が、フルニエ探偵が警察手帳を出して見せると、調子を変えて、できるだけのお助けをしたいと言いだした。
いいえ、ご夫人は、行き先を残していかれなかった……急に計画を変えた結果らしい……一週間くらい滞在すると、前には言っておられた……
それ以上の質問。
守衛がよばれ、荷物扱い人と、エレベーターボーイもよばれた。
守衛の話によると、一人の紳士が、夫人を訪問しに見えた。その人は、夫人の留守中に見えたが、帰りを待っていた。そして昼食をともにした。どんな紳士? アメリカ人……典型的なアメリカ人。夫人は、その人を見てびっくりしたようだった。昼食後、夫人は、荷物を下ろさせて、タクシーに積ませた。
どこへ行ったか? 北停車場へ乗って行った……そうタクシーの男に命じていた。アメリカの紳士も一緒に行ったか? いや、一人で行った。
「北停車場だって? それでは英国に向っている。二時の便だ。しかし、|かすみ《ヽヽヽ》をかけたかな。ブーローニュへ電話をかけねばなりません」と、フルニエ探偵がいった。
ポワロの心配が、フルニエ探偵に伝染したようであった。彼の顔は心配そうであった。
素早く、力強く、彼は法の機能を働かせ始めた。
ジェーンが、本を手にして、ホテルの談話室に坐って、ポワロが、彼女の方へ来るのをみあげたのは、五時であった。
彼女は、怒ったように口を開いたが、言葉は話されずにしまった。ポワロの顔の何ものかが、彼女を黙らせてしまったのだ。
「どうしたのですの。何か起こりましたの?」と、彼女はいった。
ポワロは、彼女の両手を、自分の手に握りしめた。
「生命というものは怖ろしいものです。お嬢様」と、彼はいった。
何か、その調子が、ジェーンをおびえさせたのだった。
「何ですの?」と、彼女は、またいった。
ポワロはゆっくりいった。
「二時の便船に連絡する列車が、ブーローニュに着いたとき、一等に乗っていた女性が死んでいるのを発見したのです」
ジェーンの顔から血の気が引いた。
「アン・モリソーですか」
「アン・モリソーです。その手には、青酸の入っていた、小さい青いガラスの壜があったのです」
「おお、自殺ですの?」と、ジェーンがいった。
ポワロは、一二分答えなかった。それから、注意深く言葉を選んでいるというらしい様子を見せていうのだった。
「そうです。警察は、自殺だと思っております」
「そして、あなたは?」
ポワロは、表情たっぷりの身振りで、ゆっくり両手を拡げた。
「ほかに……どんな考えかたがありますか?」
「あの人が自殺をなさったって?……なぜでしょう? 後悔かしら……みつけられるのがこわかったのかしら?」
ポワロは首をふった。
「人生には恐ろしいことがあり得るものです。人は非常な勇気がいります」と、彼はいった。
「自殺するのに? そうですね。そうだと思いますわ」
「そしてまた、生きるためにも、勇気がいるのです」と、ポワロがいった。
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ポワロの受けた報償
次の日、ポワロはパリを後にした。ジェーンは、種々の用事を果たすために、後に残った。その中のたいていのものは、おかしな、意味のないものだった。が、できるかぎりよく、任務を果たしたのだった。ジャン・デュポンには、二度会った。彼は、彼女も一緒にいくはずの旅行について、いろいろ話したが、ジェーンは、ポワロの命令なしに、嘘だとはいえなかったので、できるだけ上手に、両道かけてはぐらして、ほかのことに会話をむけていった。
五日後に、彼女は電報で、英国に呼び返された。
ゲールが、ビクトリア駅に出迎えて、二人は最近の出来事を語り合ったのだった。
自殺のことは、一般にはごくわずかしか知られていなかった。新聞には、ただ、カナダの女性、リチャーズ夫人という人が、パリ―ブーローニュ間の急行列車中で自殺をしたと、それだけ書いてあったのだった。それと、飛行機の殺人との関係は、少しも述べてなかった。
ゲールもジェーンも、愉快になりがちだった。もう二人とも、心配は終ったのだと思った。だが、ゲールのほうは、ジェーンほど、楽観的ではなかった。彼は、数日後、ピカデリーでポワロに会ったとき、こういった。
「彼女が母親を殺したのだろうと警察はみているでしょうが、彼女がこんな風になってしまっては、おそらく、警察も、もうこの事件を追求しないでしょう。公にそれが発表されなければ、僕たち、あわれな者にとっては、少しもよいことはありません。僕たちは、相変らず疑われたままでいるでしょう」
ポワロは微笑した。
「君も、ほかの人々と同じですね。私が何にも完成できない老人だと思っているのでしょう。お聞きなさい! 今晩、食事をしに私の家へおいでなさい。ジャップ警部も来るし、あの友人の、クランシーさんも見えます。面白いことを話してあげますよ」
食事は、楽しく済んだ。ジャップ警部は上機嫌で愛想がよかったし、ゲールは面白かった。そして、作家のクランシー氏は、あの致命的な針を発見した時ほどのスリルを味わったのだった。
食後、コーヒーを飲んでしまうと、ポワロは、自惚れを制し切れないで、少し、当惑したような様子で、咳払いをした。
「皆さん、ここに、おられるクランシーさんは、いわゆる『これが私の方法だよ、ワトスン』ということに興味をもっておいでのことを表明されましたので(そうではありませんか?)もし皆さんがお厭でなければ」といって、もったいらしく休んだ。
ゲールとジャップ警部がすかさず「厭どころか」とか、「そいつあ面白い」とかいった……
「この事件を取り扱った私の方法の大略をお話ししようと思います」
彼は言葉を切って、ちょっと手帳を見た。ジャップ警部がゲールにささやいた。
「えらいと思ってるんですよ。高慢というのが、この男の第二の名なのです」
ポワロは、とがめるようにジャップ警部を見て、
「えへん!」といった。
三人は丁寧に彼のほうへ向いた。
ポワロは始めた。
「最初からやりましょう。皆さん。悪運をになったプロミシューズ号が、パリからクロイドンへ向う時から始めましょう。その時の私の考えとか印象とか申すものを細かくお話しいたしましょう……私がそれらの考えを、その後に起こった出来事に照らして、いかに確証し、あるいは、修正するに至ったかは、後廻しにいたします。
ちょうど、クロイドンに着く直前に、ドクター・ブライアントのところへスチュワードが来て、博士がその死体を調べに行きました時に、私はついていったのです。ことによると、私の仕事になるかも知れないと思ったのです。私は、死ということになると、あまりにも職業意識が働き過ぎるのかも知れないのです。私の頭の中では、二つにわけてあるのです。私に関係のある死と、関係のない死と……後者のほうが大そう多くありますが、しかし、いつでも私は、死に関係すると、頭を上げて、空気を嗅ぐ犬のようになるのです。
ドクター・ブライアントは、その女性は死んだのだ、といってスチュワードの恐れていたことを確認しました。死の原因については、もっと詳細に調査しなければわからないと申したのでした。ちょうどこの時でした。一つの示唆があったのです……ジャン・デュポンから……その死は黄蜂にさされたためのショックから来たのだろうと。この仮定を強めるために、彼は、自分が少し前に殺した黄蜂に私どもの注意を向けました。
さて、それはまったくありそうな推理で……最も受け入れられそうなものでした。死んだ夫人の首には刺した痕跡があったのです……蜂に刺されたのとよく似た……そして、事実、黄蜂が、機の中にいたのですから。
しかし、その瞬間に、私が幸運にも、もう一匹の黄蜂かと思われるようなものを発見することができたのです。事実、それは、その上に、黄色と黒のけばだった絹がついている、原地人の毒針だったのです。
この時、クランシーさんが出て来て、それは、ある原地人の種族の用いる吹き矢筒から、飛ばされる毒針だと言われました。そして、皆さんもご存じのように、後になって、その吹き矢筒自身も発見されたのです。
クロイドンに着く頃までには、いくつかの考えが、私の頭の中に働いていたのです。一度私は、しっかりと、自分の土台に立っていたのです。私の脳は、もう一度、そのいつもの輝かしさに立ちもどり始めたのです」
「言ってしまいなさい、ポワロさん。偽りの謙遜なんぞやめてしまいなさい」と、ジャップ警部が、歯をむき出して笑いながらいった。
ポワロは、彼の方をちらと見て、語り続けた。
「一つの考えがはっきりと私の頭に浮かんできました(ほかの方にもそうでしょうが)それは、犯罪がそのような風に行われた大胆さ……誰も、それが行われるのを見たことがないという驚くべき事実なのです。
そのほかに、二つ、私に興味を持たせた点がありました。一つは、黄蜂の都合のよい存在です。もう一つは、吹き矢筒の発見です。私が審問の後で、ジャップさんに話したように、なぜ、犯人は、それを窓の通風の穴からすべらせて棄ててしまわなかったか? 毒針自身は、出所を手繰って調べあげるのは困難かも知れませんが、まだ、正札の端切れのついた吹き矢筒となると、まったく別のものですから。
その解決は? 確かに、犯人は、その吹き矢筒を発見されたかったのです。
しかし、なぜ? たった一つの答えのみが論理的に思えます。もし、毒針と吹き矢筒とが発見されれば、自然、犯行は、吹き矢筒から発射された毒針でなされたものと思われるでありましょう。それゆえに、実際には、犯罪は、そのようにして行われなかったのです。
一方、医学的証明は、死の原因は、疑いもなく、毒針によるものと示されました。私は眼を閉じて自問しました……最も確実にして、信頼すべき、毒針を頸静脈に刺しこむ方法は? 答えは、すぐに出ました。すなわち|手です《ヽヽヽ》。
そして、それはすぐ、吹き矢筒の発見の必要に光を投げたのです。吹き矢筒は明らかに、距離の暗示を与えます。もしも、私の推理が正しいならば、マダム・ジゼルを殺した人物は、彼女のテーブルのすぐ傍までいって、彼女の上にかがみ込んだ人物なのです。
そのような人物がいたか? 確かに二人いたのです。二人とも、マダム・ジゼルの傍へゆき、その方へ寄りそうことができました。そして誰も、それが異常なこととは思わなかったでありましょう。
ほかに誰かいたか? クランシー氏がいたのであります。彼は、マダム・ジゼルの席のすぐ傍を通った、室内唯一の人であります……そして、私は彼が、吹き矢筒と毒針の推理に、私どもの注意を引いた第一の人であったことを記憶しておりました」
クランシー氏はとび上って、
「私は抗議します。抗議します。これは無法だ」と、叫んだ。
「まあ、お坐りなさい。私はまだ、終ったのではありません。私は、私が結末に達するまでの一歩一歩を、お話ししなければならないのです。
私は、それで、三人の容疑者を得ました。……スチュワードのヘンリーとアルバートとクランシーさんです。この三人は、いずれも見たところ犯人らしくありませんが、それには、調査されるべきことがたくさんありました。
私はまた、次に、黄蜂の可能性も考えてみました。あれは暗示的でした。あの黄蜂は、まず、コーヒーが配られる頃まで、誰もそれに気付かなかったのです。そのこと自身がすでに怪しいことです。私は犯罪のある推理を作りました。犯人は、悲劇の二つの異なった解決を、みんなに提供しました。まず初めに、そして、最も単純なものですが、マダム・ジゼルは、黄蜂に刺されて心臓の障害を起こした……その解決の成功は、その犯人が、毒針を取りもどすことのできる位置にいたか、いなかったか、ということにあるのです。ジャップさんと私とは、それは、容易にできただろうと同意したのです……他殺の疑いが起こらないかぎりはです。私は毒針に巻きつけた絹は、その特別な色の使い方から、黄蜂のように見せかけるために元の絹とわざわざ取りかえたものと思ったのです。
それで、犯人は、被害者のテーブルに近づいて、とげを刺し、黄蜂を放します! 毒は非常に強くて、ほとんど同時に死が起こったのです。もし、ジゼルが叫んだとしても、それはおそらく、飛行機のエンジン音のために聞えなかったでありましょう。もしそれが、誰かに気がつかれても、黄蜂が飛びまわっているので、その叫び声の説明はつくでしょう。あわれな夫人は、蜂に刺されたといえばよろしいのです。
それが、私の申しましたように、第一の計画だったのです。しかし、そう実際に起こったとして、毒針は、犯人がとりもどすことができないうちに発見されたのです。そのとき油に火が入ったのです。自然死の推理は不可能です。窓から吹き矢筒を棄ててしまう代りに、それは、機内が捜査される時に見つかるところへ置かれたのです。そうすれば、ただちにその犯罪に用いられた道具は、吹き矢筒だということが推定されるでありましょう。適当な距離が作られ、吹き矢筒の出所がわかった時に、ある確固とした、前もって用意された方向へ、もってゆかれるでありましょう。
私は、今、犯罪の推理をしました。三人のありそうな容疑者に、ありそうな四人目を加えたわけです……ジャン・デュポン氏は、黄蜂に刺された死であるという推定を述べました。そして、他の人の注意を引かずに、席を動くことができるくらい、マダム・ジゼルの近くに坐っていたのです。ところが、この人がそんなことをしようとは、私は思わなかったのです。
私は黄蜂の問題に集中しました。もし、犯人が、機上に黄蜂を持って来て、それをその心理的瞬間に放したならば……何か、それを入れておいた、小さい箱みたいなものを持っていたに違いないと思ったのです。
そこで私は、旅客のポケットと荷物の中のものを知りたかったのです。
ところが、ここで私は、まったく異なった発展に出会ったのでした。私は探しているものを発見しました……見当違いと思われる人、ノーマン・ゲールさんのポケットに、ブライアント会社のマッチの空箱があったのです。ところが、誰でも証言したように、ゲールさんは、機内の中央通路を決して歩いてゆかなかったのです。彼はただ、トイレットにいって、席にもどっただけだったのでした。
しかし、不可能には思えましたが、ゲールさんが、犯罪を行えたという方法があったのです。その旅行鞄の中のものが示したように」
「僕の旅行鞄ですと? 何があったか覚えてもいませんが」と、ゲールはいって、面白いような、困ったような様子をした。
ポワロは、やさしく彼を見て微笑した。
「ちょっとお待ちなさい。だんだんそこまでゆきますよ。私は始めの考えを述べているのです。
さて、先へ進みますと、可能性という点から見て……犯罪を犯すことのできたと思われる人が四人あったわけです。二人のスチュワードとクランシーさんとゲールさんと。
私は今度は、事件を反対の角度から眺めてみました……動機の方から……もし、動機が、可能性と一致するならば……その時こそ、犯人が得られるのです! ところが、何にもそのようなものが、見付からないのです。友人のジャップさんは、私が、何でも物事をむずかしくするのが好きだとお責めになりますが、ところが、それどころか、私は、この動機の問題に、最も簡単さをもって近づいたのです。マダム・ジゼル夫人が亡くなったら、誰が、一番利益を得るか? 明らかに、知られていない娘の利益となります……その知られざる娘が遺産を相続するのですから。また、何人か、マダム・ジゼルの支配下にあった人々がいるのです。また、支配下にあるかも知れない人々が。……それで、取り除いていく仕事が必要になるのです。機上の旅客の中で、一人だけは、疑いもなく、マダム・ジゼルと関係のあった人がおりました。その人はホービュリー伯爵夫人でした。
ホービュリー伯爵夫人の場合、動機は大そう明瞭でした。その前夜、伯爵夫人は、マダム・ジゼルを、パリで訪問しているのです。彼女は絶望でした。そして、その友人の若い俳優が、吹き矢筒を買ったアメリカ人か、あるいは、国際航空会社の事務員を買収して、十二時の便で、マダム・ジゼルに旅行させるようにした人間に、容易に変装できたということが考えられます。
それで、問題は二つに分裂した状況になりました。ホービュリー伯爵夫人の場合は、どういう手段であの犯罪をおこなったのかはまったくわかりませんでした。また、スチュワード達も、クランシーさんも、ゲールさんも、殺人を犯すのには、どんな動機があったか、それを見付けることができなかったのです。
いっぽう、私は心の奥のほうで、常に、ジゼルの娘で、相続人である人の問題を考えていたのです。四人の容疑者は結婚しているかどうか、このアン・モリソーがそのうちの誰かの妻ということはないだろうかと。もし彼女の父親が英国人ならば、娘も英国につれて来たかも知れない。ヘンリーの妻は、私はすぐ除外しました……彼女は、古い家柄の、ドーセット州出身の者でした。アルバートは、父も母も生きている娘に求婚していました。クランシーさんは、結婚していません。ゲールさんは、明らかに、ジェーン・グレイさんに夢中になっていました。
私は、ジェーン嬢の祖先を注意深く調べ上げたと申さなければなりません。ダブリンの孤児院で育てられたと、何かの拍子に言われたので。しかし、間もなく、ジェーン嬢は、マダム・ジゼルの娘ではないということに満足いたしました。
私は結果の表を作りました……スチュワードたちは、マダム・ジゼルの死によって、別に損も得もしませんでした……ヘンリーは、明らかに、そのショックで苦しんではいましたが。クランシーさんは、お金のとれることを希望して、その問題で小説を書こうと計画していました。ゲールさんは、職業が上ったりになっていました。ここでも大して助けになるものは見付かりませんでした。
しかし、その頃までに、私は、『ゲールさんが殺人者だ』と確信するようになっていました……マッチの空箱もあり、旅行鞄の中のものもあります。明らかに、彼は損をした、利益を得なかった、ジゼルの死によっては。しかし、この表面の事実は、偽りの事実かも知れない。
私は彼と知己になろうとしました。私の経験では、誰でも、会話をかわしているうちに、いつかは、何か自分のことを言ってしまうものです……誰でも、自分自身について、語ることは抵抗しがたいものなのです。
私は、ゲールさんの信用を得ようとしました。彼に信頼していると見せかけ、彼の助けをさえ借りました。ホービュリー伯爵夫人を脅迫するふりをして助けを求めました。その時です、彼が間違いをしたのは。
私が少し変装するようにと暗示しました。すると彼は、ばかばかしい、とんでもない様子をして来たのです。事全体が茶番だったのです。彼がしようとしているほど、ひどいのは誰にだってないことです。では、その理由は何でしょう? 自分の罪に対する意識が、よい役者であることを示すのを、用心させたのです。ところが、私が彼のばかばかしいメーキャップを指摘しますと、彼の芸術的技術があらわれてきて、彼はその役を完全に果たし、ホービュリー伯爵夫人には彼が全然わからなかったのです。私はその時、彼がパリで、アメリカ人に変装し、また、プロミシューズ号で、必要な役割をしたりすることができる人だと確信を得たわけです。
この頃には、私は、ジェーン嬢のことが心配になってきたのです。彼女が、このことで彼と共犯であるか、または、まったく潔白であるか、どちらかですが、もし後者ならば、彼女は被害者になるわけです。彼女は、ある日、殺人犯人と結婚していることに気付くことになるでしょう。
その危険な結婚をさけさせる目的で、私は、ジェーン嬢をパリへ、秘書として連れて参りました。
見付からなかった相続人が、遺産への権利を主張するために出て来たのは、私どもが、ちょうどその法律事務所にいる時のことだったのです。私は、その人をどこかで見たと思ったのですが、思い出せませんでした。ついに思い出した時は、すでに遅すぎたのです……
最初に、彼女が機上におりながら、それについて嘘をついたので、私の推理は、ことごとくくつがえされたようだったのです。彼女こそ、最も容疑のかかる人物なのですから。
しかし、もし犯人だとしたら、共犯がいるはずです……吹き矢筒を買って、ジュール・ペローを買収した男が。
その男は誰か? その夫か?
その時、急に、私は真の解決を発見したのです。一つの点が証明されれば……。
その解決が正しいものとすれば、アン・モリソーは、その機上にいるはずではなかったのです。
私は、ホービュリー伯爵夫人に電話して、その返事を得ました。女中のマドレーヌは、伯爵夫人の最後の瞬間の気まぐれで、機上にいたのです」
ポワロは言葉を切った。
クランシー氏がいった。
「えへん……しかし、どうもはっきりわかりませんが?」
「いつあなたは、僕を殺人者にまつりあげるのをやめたんですか?」と、ゲールがいった。
ポワロは、彼の方へくるりと向き直った。
「やめはしません。『君が犯人なのです』……まあお待ちなさい。みんな話してあげます。最後の週に、ジャップ警部と私はいそがしかったのです。君が伯父さんのジョン・ゲールをよろこばすために、歯科医になったのは真実です。君はジョン・ゲールと共同で開業するようになった時に、ゲールと名乗ったのです……君は彼の妹の子だったのです。しかし、君の真実の名はリチャーズです。去年の冬、ニースで、君はこのアン・モリソーと会いました。彼女は、伯爵夫人のお供をしてそこに行っていたのです。彼女が話したことは、子供時代のことは真実ですが、後半には、君による創作がはいっていたのです。彼女は母の旧姓を知っていました。ジゼルがモンテカルロにいたとき、それが母親だと教えられ、本名も聞かされたのです。君は、大資産が得られるということを知ったのです。それは君の賭博根性を刺激しました。君が、ホービュリー伯爵夫人とマダム・ジゼルとの関係を知ったのは、アン・モリソーからです。犯罪の計画は、君の頭の中でかたちづくられたのです。ジゼルは、嫌疑がホービュリー夫人にかかるような風に、殺されることになったのです。君の計画は熟し、ついに果実を結んだ。君は、ジゼルが、ホービュリー伯爵夫人と同じ航空機でいくように、国際航空会社の事務員を買収しました。アン・モリソーは、汽車で英国にゆくといった……それで彼女が乗っていようとは思わなかったのです。それは、君の計画を危険にしました。ジゼルの娘で相続人が、同じ機上にいることが判明すれば、嫌疑は、当然彼女に落ちるだろう。君の考えは、彼女が完全なアリバイを持って、遺産を要求することでした。その犯罪の時期に、彼女は、汽車か船に乗っているだろうから……。そこで結婚という運びになりましょう。
娘のほうは、その頃、もう君に夢中になっていたのです。しかし、君の追っていたのは娘自身ではなくて、その財産だったのです。
また、もう一つ計画に複雑さが加わりました。君は、ル・ピネで、ジェーン・グレイ嬢に会って、烈しい恋におちいったのです。君の彼女に対する熱情は、君に、もっと危険なゲームをするように追いこんでしまったのです。
君は金と愛する娘と、両方とも欲しかったのです。君は、金のために殺人罪を行ったのですから、犯罪の結果を棄ててしまうつもりはなかったのです。君は、もしただちに名乗って出れば、殺人の疑いをうけるだろうと、アン・モリソーを脅かしたのです。その代わりに五六日暇をもらわして、二人はロッテルダムに行って、結婚したのです。
いい時機を見て、君は、金の要求をどういう風にするか教えたのです。彼女は、貴婦人の女中だったことは言ってはいけない、そして、彼女と夫は、殺人の行われた時には外国へ行っていたとはっきり言わなければならなかったのです。
不幸にも、アン・モリソーがパリへ行って、その財産の継承を申し出る日と、私が、ジェーン嬢を連れてパリへ到着した日が、偶然にもかちあってしまったのです。それは君の計画には全然合致しませんでした。ジェーン嬢か、私かどちらかが、アン・モリソーを、ホービュリー伯爵夫人の女中と気付くかも知れなかったのですからね。
君は、彼女に連絡しようとしたが、間に合わなかった。ついに自分でパリに出かけたが、彼女はすでに弁護士のところへ行ってしまったのを発見したのです。彼女が帰って来て私と会ったことを話したのです。事は危険になってきた。君は、素早く行動を開始しようと決心したのです。
君の新しい妻は、その財産を継いでもあまり長く生きながらえないように、というのが、君の計画だったのです。結婚の直後、君は、二人ともお互いに死ねばすべての財産を相手に残す遺言状を、作ったのです。大そうきわどい芸でしたね。
君は、かなり気長にことを運ぼうと計画したのです。カナダに行って……見かけでは、職業が失敗したから、という名目で。そこで、リチャーズの名にもどり、妻も一緒になれるでしょう。しかし、どちらにしても、リチャーズ夫人は、間もなく残念にも亡くなって、みたところ、なぐさめらるべくもない夫に、財産を遺したことでしょう。そうすれば、君は、ノーマン・ゲールとして英国に帰ったでしょう。カナダで投機に成功したと言って。しかし、今では一刻も失してはならなかったのです」
ポワロはそこで言葉を切った。
ノーマン・ゲールは頭を後ろへやって高笑いした。
「あなたは、人々が何をするつもりかをよく知っていますね。クランシーさんの職業をなさればよかったのです!」
彼の調子は、怒りのほうへだんだん傾いていった。
「僕はこんな、くだらぬことのよせ集めを聞いたことがない。あなたの想像したことは、ポワロさん、証拠にはなりませんよ!」
ポワロは一向に困った様子を見せなかった。
「そうかも知れませんが、証拠は、いくつか、あるのですよ」と、彼はいった。
「ほんとですか? 僕が、彼女の近くへは行かなかったのを、飛行機の中の人みんなが知っているのに、僕が、老ジゼルを、どうして殺したかという証拠があるのですね?」と、ゲールが、あざけった。
「君が、どうやって犯罪を行ったか話してあげよう。君の旅行鞄の内容物についてはどうですか? 君は休暇だった。なのに、なぜ、歯科医の麻の上衣を持って行ったのか? と、私は、自分で尋ねてみたのです。そして、答えはこうです……それが、スチュワードの上衣と似ているからです……
君はそうしたのです。コーヒーが配られ、スチュワードが、他の室に行ってしまったとき、君はトイレットに行き、麻の上着を着て、綿のまるめたものを頬にいれて、出て来て、向う側の食器棚からコーヒーのスプーンをつかんで、スチュワードのように素早く走って、ジゼルのテーブルにいって、毒針を刺し、マッチの空箱を開いて、黄蜂を放して、洗面所へ戻り、上衣を替え、自分の席へ帰るために、ゆっくり出て来たのです。
誰も、特にスチュワードには注意していないのです。たった一人、気のついたかも知れない人は、ジェーン嬢ですが、しかし、君は、女をよく知っているのです! 女が一人になるやいなや(特に魅力のある青年と一緒に旅行している時は)手鏡を出して、鼻に粉をはたいたりして、メーキャップをするものなのです」
「まったく、非常に面白い推理ですね。しかし、そんなことは起こらなかったのです。他にありませんか?」と、ゲールが嘲笑した。
「たくさんあります」と、ポワロがいった。
「私が前に言いましたように、会話の過程で、人は、いろいろ自分のことを言ってしまうものです……君は、しばらく南アフリカの農場にいたことがあると、うっかり言ってしまったのです。君は言わなかったですが、私がその後発見したことによれば、それは、養蛇場だったのです……」
初めて、ノーマン・ゲールは恐怖を表わしたのだった。彼は言葉を出そうとしたが出て来なかった。
ポワロは続けた。
「君は、君自身のリチャーズという名でそこにいました。電信で送られた君の写真は、みとめられたのです。同じ写真が、ロッテルダムで、アン・モリソーと結婚したリチャーズという男だと認められました」
再び、ノーマン・ゲールは何か言おうとして、言えなかった。彼の全性格は変ったようだった。美しい、力強い青年は、逃げ口をみつけようとして、みつからない、鼠のような眼付きの男に変わってしまった……。
「君の計画を滅亡させたのは、性急だったのです。マリー孤児院の院長が、アン・モリソーに電報を打ったことがすべてを早く運ばせたのです。その電報を無視することは、疑わしく思われることになるでしょう。君は細君に、ある事実を伏せておかなければ、君か、細君かが疑われることになると強調したのです。二人ともジゼルが殺された飛行機に乗っていたからです。後で細君に会って、私が顧問弁護士との会見の席にいたと知ったので、君は、あわてました。私がアンから真実のことを聞き出すだろうということを恐れたのです……たぶん彼女自身が、君を疑うようになったのかも知れません。君は、急いでホテルから彼女を出して、汽車にのせました。君は、無理に青酸を彼女にのませて、その手に空の壜を残して来ました……」
「けしからん、嘘のかたまり……」
「どういたしまして。彼女の首に青あざができていましたよ」
「嘘だ! 嘘だ!」
「壜に指紋さえあったのです」
「嘘をいえ、僕は手袋を……」
「ああ、手袋をはめてやったのですか? その小さい是認が愚者を料理することになるのです」
「貴様、おせっかいな山師野郎!」と、激情で鉛色になり今までと打って変わった顔になって、ゲールはポワロに飛びかかった。しかし、ジャップ警部のほうが素早かった。強い、冷静な腕で、彼を押えつけて言った。
「ジェームズ・リチャーズ、別名ノーマン・ゲール、故殺罪で逮捕する。お前のいうことはすべて記録され証拠として用いられる」
ひどい震えがゲールを襲った。彼は倒れそうになった。
私服の警官が二人、外に待っていた。ノーマン・ゲールは連れ去られた。
ポワロと二人切りになって、小柄なクランシー氏は、深く歓喜の息をした。
「ポワロさん、これは私の生涯で最もスリルを味わった経験でした。あなたは驚くべき方ですな!」と、彼はいった。
ポワロは、謙遜に微笑した。
「いや、いや、ジャップ警部も、私と同じようにほめられるべきです。彼は、ゲールとリチャーズとが同一人だということを調べるのに、驚くべき手腕を示しました。カナダの警察がリチャーズをもとめております。そこで彼と関係のあった少女が、自殺をしたと想像されておりますが、事実は、殺人を指すものと思われるようになってきたのです。恐ろしいです」
「恐ろしいですね」とクランシー氏が、細い声を出した。
「多くの殺人者は、女にはもてるものです」と、ポワロがいった。
クランシー氏は咳をした。
「気の毒ですね、ジェーン・グレイさんは……」
ポワロは悲しそうに首をふった。
「そうです。私があのお嬢様に申したように、生というものは大そう恐ろしいものです。しかし、あのお嬢様は勇気がおありです。今に回復するでしょう」
放心したような手付きで、ポワロは、ノーマン・ゲールが、ひどい勢いで飛びかかって来た時に散乱した、絵入り新聞をきちんと積みなおした。
何かが彼の注意を引いた……ベネシア・カー嬢が、競馬場で、ホービュリー伯爵と友人に話しかけているスナップ写真が出ていたのであった。
彼は、クランシー氏にそれを渡した。
「ごらんになったでしょう? 一年も経つと『ホービュリー卿とベネシア・カー嬢との結婚が取りきめられ、近日式が挙げられるであろう』という発表がありますよ。そして誰が、その結婚をまとめたのだと思いますか? このエルキュール・ポワロですよ! もう一つ結婚をまとめましたよ」
「ホービュリー夫人とバラクローさんですか?」
「いいえ、そのほうは興味がありません」といって、ポワロは前へのり出した。
「いいえ。ジャン・デュポン氏と、ジェーン・グレイ嬢ですよ。見ていてごらんなさい」
一カ月経って、ジェーンがポワロのもとへやって来た。
「私あなたを憎むはずなんですけど、ポワロさん」
彼女は顔色が悪く、眼の囲りに黒い輪ができていた。
ポワロはやさしくいった。
「憎みたかったら、少しばかりお憎みなさいまし。それにしてもあなたは、痴人の楽園に住むよりも、真実に直面するほうがお好きな方だと思います。それに、あまり長くはその中に住んでいらっしゃらなかったかも知れません。女を亡きものにすることは、次第に増大していく悪徳でございますからね」
「あの人、とても魅惑的でしたわ」とジェーンはいった。そして言いたした。
「私、もう、恋愛などしませんわ」
「そうでしょうとも。あなたにとって、その方面の生涯はもう終ってしまいました」と、ポワロは、同意した。
「でも、私のしなければならないことは、仕事を持つことですわ……何か、すっかり、没頭することができるような……」
ポワロは、椅子を後ろへ傾けて、天井を見あげた。
「デュポンの家族と一緒に、ペルシャへ行くようにご忠告いたしますよ。あれは面白い仕事ですよ」
「でも、でも……あなたのカモフラージュに過ぎないと思ってましたわ」
ポワロは、首をふった。
「それどころか……私は、考古学とか有史以前の壷とかいうものに、大そう興味を持ったので、約束の寄付金も送ったくらいですよ。今朝、あなたが一緒にゆくのを待っていると聞きましたよ。絵がかけますか?」
「ええ、学校で絵は上手なほうでしたわ」
「すばらしい。面白いと思いますよ」
「ほんとに私の行くのを望んでいらっしゃるのかしら?」
「あてにしておりますよ」
「驚くべきことですわ。すぐにゆけるなんて」と、ジェーンがいった。
顔に少し色が出て来た。
「ポワロさん、あなた、あなた、まさか、ご親切にして下さったんでは……ないでしょうね?」
彼女は、疑わしそうに彼を見た。
「ご親切ですって?」と、ポワロは、そんなこと考えるだにおそろしいという様子をした。
「お嬢様、私は、お金に関するかぎりでは、厳然たる実業家なのでございますよ」
彼がひどく気を悪くしたようだったので、ジェーンは、あわててあやまった。
「私、どこか、博物館へ行って、有史以前の壷をみたほうがいいかも知れませんわ」
「いいお考えですね」
戸口のところで、ジェーンは立ち止って、それから、戻って来た。
「あなた、あの特別な方法では、ご親切でなかったかも知れませんが、でも、私に……とてもご親切でしたわ」
彼女は、彼の頭のてっぺんにキッスして、出ていった。
「可愛い人だなあ!」と、エルキュール・ポワロがいった。(完)
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訳者あとがき
原作者アガサ・クリスティ女史 AGATHA CHRISTIE は、一九五〇年に第五十冊目の探偵小説を発表し、その出版記念には、内外の有名無名の読者から、熱誠をこめた祝辞が寄せられた。
その中の一人、時の英国首相アトリー氏からの一節に、
――私はアガサ・クリスティ女史のすばらしい創意と、秘密を摘発する最後の段階に至るまで、実に巧妙に極秘にしておる才能を非常に賞揚し、楽しむ者であります。また私は他の探偵小説家たちの持っていない女史の要素に敬服しております。それは女史が英語を実に簡潔明瞭に書く才能を持っておられる点であります――
とあるが、本書の読者も、まずこの二つの点に同感されることと思う。
クリスティ女史は英国デボンシャーの美しい田園に生まれ、幼少の時から自然に親しみ、自由な空想をはぐくまれ、作家的気分に理解ある母の愛の裡にすくすくと成長し、十六歳の時には音楽の勉強にパリに遊学した。
現在はダート川に臨む古風な邸宅に、夫の考古学者マックス・ワロワン氏と共に暮し、創作に専念しているが、ワロワン氏が発掘旅行に出かける時には同行して、その仕事を扶けるというふうに、幸福な家庭生活を送っている。
女史が探偵小説を書きはじめたについて、面白い挿話がある。それはある晩餐会の席上で、たまたま話題が探偵小説に及んだ時に、探偵小説のような血なまぐさい事件を扱い、しかも探偵が鋭い頭脳を働かして推理を進めていって、犯人を摘発するというような作品は、とうてい女性には書けないという説に、大体の意見が一致した。するとクリスティ女史は、女性といえども探偵小説を書けないはずはないと主張し、劇作家として有名なイーデン・フィリポッツ氏に激励されて書きあげたのが、「スタイルズ荘の怪事件」である。それは一九一九年、第一次世界大戦中のことで、クリスティ女史は赤十字病院に薬剤士として勤務する傍らこの小説を書いたという。
多くの出版社も、クリスティ女史自身も、その作品がよもやこれほど世界的に有名になり、多大の読者を熱狂させ、世界の探偵小説界の女王として君臨しようとは、夢想だにしなかったであろう。が、過去三十五年間に出版された女史の探偵小説は、一冊も駄作がなく、出版部数総計約五億冊に及んでいるといわれている。
女史は大抵の食物は何でも好きで、食べることを楽しむが、アルコール分を含んだものは大嫌いで、酒類はいっさい口にしない、煙草も、どうしても好きになれないと告白している。愛好しているのは花で、海に対しては熱狂的な愛着をもっている。芝居は好きだが、トーキー映画や、ラジオその他さわがしい音は我慢がならない、したがって市中に住むのは好まない。旅行はよくするが、大抵近東地方で、特に砂漠には魅力を感じているとのことである。これを知っていると作品を読む上に役にたとう。
クリスティ女史の探偵小説は長篇だけでも六十冊以上あるが、およそクリスティの愛読者は、みんなこの小柄でおしゃれで、フェミニストで、すばらしく頭脳のいいベルギー人の私立探偵に特別の親しみを持ち、彼の顔を見ないと、物足りなく感じるのが常である。小説中の人物でコナン・ドイルの創造したシャーロック・ホームズ探偵の次に登場して世界的の名声を博した探偵は、このエリキュル・ポワロである。私もポワロ探偵が大好きで、クリスティ女史の作品はどれでも愛読するが、ポワロ探偵が出現しないで事件が解決されてしまうと、がっかりし、ポワロの居所がわかれば電報で呼び寄せて、その意見を聞いてみたいほどである、では、それほどの魅力あるポワロ探偵とは、どんな人物かというと、実は決して映画俳優に抜擢されるような美男でもなければ、性格俳優という風貌でもなく、その逆で見かけても誰も気がつかないような存在である。いや、そんなことはない、気がつかないどころか、誰でも彼を見ると、今時珍らしい男がいたものだといぶかりながら、この卵型の頭を小鳥みたいにかしげて、緑色の眼を無邪気に見張っている人物に注意を払うであろう。というのも、鼻下に蓄えている見事な美しい髭のせいである。
ポワロは誰かが、つばめが羽根をひろげているような、その髭に注目しているのに気がつくと、すこぶる満悦のていで、チックで固めて、ぴんとさせたその髭を、そっと撫でるであろう。
それはポワロの自慢のもので、どんな忙しい時でも、この髭の手入れだけは怠らないのである。
それに彼は滑稽なくらい身だしなみに気をつけるたちで、服にはいつもブラシをかけ、シャツにでもネクタイにでも、靴にでも、細心の注意を払い、常に一糸乱れぬ服装をしている。ちょっとしたほこりでも、眼に止まらないほどの汚点でも、我慢のできない性分である。もし砂漠を自動車で旅行するような場合があったら、ポワロは櫛とブラシを使いつづけ、チックで固めた大切な髭が乱れはしないかと絶えず気にしていて、窓外の景色も眼に入らなければ、いつも連れ立って歩く親友ヘイスティングス大尉の話も耳に入らないだろうと評されているほどである。
たいへんに礼儀正しく、特に女性に対しては優しくいんぎんで、言葉使いもていねいであるが、自分でも「ポワロはライオンにもなりますぞ」というように、ふだんは温厚な彼も、時にはすさまじい剣幕で不正直者を威嚇して本音を吐かせることもする。
オムレツとチョコレート・ミルクが大好物で、煙草は婦人好みの細巻を愛用し、何かというと、「あなたの小さな脳細胞をお働かせなさい」というし、「私のちょっとした思いつき」ということを口にする癖がある。ところが、ポワロのこの「ちょっとした思いつき」というのが、実はなかなか曲者なので、それが彼の脳細胞に浮かんでくると、緑色の彼の眼は猫のようにきらきら光り出すのが常である。
とにかくポワロ探偵は、愛嬌があって、人情味ゆたかで、何となくユーモラスな感じがするので、誰にでも親しまれ、好感を持たれるのである。
私がここで申し上げたことが、ほんとうかどうかは、なにとぞこの作品をご愛読になり、ポワロの愉快な風格にお接しになったうえでご判断下さい。
訳者略歴
松本恵子(まつもとけいこ)
一九○一年北海道に生る。青山学院英文卒。青少年向きの海外名作を翻訳するかたわら、探偵小説の邦訳紹介、テレビドラマを執筆する。主訳書に「若草物語」「王子と乞食」「シェークスピア物語」「ノートルダムのせむし男」「アクロイド殺人事件」「青列車殺人事件」などがある。