情婦…クリスティ短編集
アガサ・クリスティ/松本恵子訳
目 次
情婦
西方の星
首相誘拐事件
ダベンハイム氏の失踪
クラパムの料理女
イタリア貴族の怪死
エジプト人墓地の冒険
あとがき
[#改ページ]
情婦
メイハーン弁護士は、鼻眼鏡をかけ直し、彼独特の乾燥無味な空咳《からせき》を一つすると、再び向かい側の椅子に越しかけている殺人容疑者の男を見つめた。
メイハーン氏は、小柄で、おしゃれとはいえないまでも、身なりの小ざっぱりした男で、灰色の刺すような鋭い眼をしている。けっして愚鈍な人間ではない。それどころか、弁護士としてのメイハーン氏の名声は、非常に高いものである。弁護依頼人に対する彼の口の利き方はそっけないが冷淡ではなかった。
「もう一度念を押して置かにゃならんですがね、君は容易ならぬ危険に面しておられる、そして絶対に赤裸々であることが必要でありますぞ」
茫然《ぼうぜん》と前の壁を見つめていた男、レオナルド・ボールは、弁護士の方へ視線を移した。
「あなたは、さっきからそう言い続けていますね、それはわかりますが、僕には自分が殺人の容疑者……殺人者だなんてことは、どうしても納得がいかないんです……しかもそんな卑劣な犯罪なんか……」
メイハーン氏は、実際的で感情に走るような男ではない。彼は咳払いをし、鼻眼鏡をはずし、念入りに磨いて、再び鼻へかけ直してから口を開いた。
「さよう、さよう、さようですとも、さてボールさん、私どもは君の嫌疑を晴らすべく努力する決意を固めておるのであります――で我々は成功するつもりであります……はい成功いたしますとも。しかしそれには、私がすべての事実を知っておらねばならぬのであります。私はこの事件が君にいかなる損傷を及ぼすものであるかを、はっきりと知っておらにゃならんのであります。それでこそ私も最善の弁論方針を立てることができるのであります」
だが、青年は茫然とした絶望的な目つきで、メイハーン氏を見ているだけであった。
弁護士には、その事件が全く黒で、この容疑者の有罪を即断していたのだが、ここで初めて自分の見解に疑念を抱いたのであった。
「あなたは、僕が有罪ときめてかかっているんだ、しかし僕はそうでないと神かけて誓う。形勢が僕にとって全く黒だということは、自分にもわかっている。僕は網にかかっている人間同然だ。網目が周囲に張りめぐらされていて、どっちを向いても僕を巻き込もうとしている。だが僕が殺したんじゃない! メイハーンさん、僕がやったんじゃないです」
このような立場に置かれると、誰でも自分の無罪を主張するものだ。この弁護士はそれを心得ているにもかかわらず、レオナルド・ボールは無罪なのにちがいないという印象を受けた。
「君のいうとおり、状況は君にとって全く不利であります。しかしながら君の主張を受けいれます。さて、事実に移りましょう。まず君がどのようにしてエミリー・フレンチ嬢と近づきになったか、君自身の口から聞かせていただきたいのであります」
「あの日、オックスフォード街で、一人の老婦人が道路を横断していました。その夫人はたくさんの包みを抱えていましたが、道路の真中まで来たとき、その包みを落として、一生懸命にそれを拾い集めようとしているところへバスが走ってきて、すんでのところで、下敷きになりそうになったのを、かろうじて歩道によけ、人々の呶声《どせい》を浴びて途方にくれていたので、僕はそれらの包みを拾い、できるだけ泥を払い落とし、その一つの解けかかった紐を結び直して彼女に渡しました」
「君が彼女の命を助けたことに対しては、問題はないですな」
「そんなことないです。僕は単に礼儀上、普通の行為をしたまでのことです。だがフレンチ嬢は非常に喜び、あつく礼を述べ、僕くらいの世代の人間として僕のような行為は珍しいとか言いましたが、その言葉まではっきりとは覚えていません。僕は帽子をちょっと持ちあげただけの挨拶を返してその場を立ち去りました。それから再びその婦人に会おうなどとは思っていなかったのです。だが人生には偶然が溢《あふ》れているもので、その晩、友人の家のパーティでまた彼女を見かけたのです。婦人もすぐに僕を見つけてその家の主人公に紹介の労をとらせました。そこで僕は彼女がエミリー・フレンチ嬢で、クリックルウードに住んでいることを知り、しばらく話し相手をしました。僕の想像だと彼女は他人に対して不意に激しい好意を抱く性格の老婦人のようでした。彼女は誰でも示すような全く単純な僕の行為にすっかり感激して、別れぎわに僕の手を堅く握って、ぜひ自分の家に訪ねて来てくれというので、僕は当然の答えとして喜んで伺いますといったのです。するといつ訪ねてくれるかとせっつくので、僕は特別行きたいとも思わなかったんですが、断るのも無礼だと思って、つぎの土曜日ならと答えてしまいました。彼女が立ち去ってから、僕は友人から彼女について幾分知識を得ました。それによると彼女は金持ちだが変わり者で女中との二人暮らしで六匹ぐらいもの猫を飼っているということなど」
「なるほど、するとフレンチ嬢が金持ちだということは、その時すでにわかっておったわけでありますな」と弁護士は口をはさんだ。
「もし僕がそれを探り出したといわれるなら……」
とボールが激しい調子で言いかけると、弁護士は身ぶりでそれを静止した。
「私としては、この事件を反対側から提出された場合のものとして一応見なければならんのであります。世間一般の人から見ればフレンチ嬢が金満家とは思いますまい、彼女は一見したところでは、貧しく非常に質素な暮らしをしていたのであります。君だって真実のことを聞かなかったら彼女が貧しい人だと思ったでありましょう。彼女が金持ちだということを君に話したのはいったい誰でありますか」
「友人のジョン・ハーベイ君です。あの夜のパーティは彼の家で開かれたのです」
「ハーベイ君は、自分がそんなことを君に話したことを覚えておるでしょうな」
「さあ、それはわかりません。ずいぶん以前のことですから」
「ごもっとも。検事側の第一の狙いは、君が経済的に困窮しておったことを証拠だてることでありましょう――それは事実でありますな、そうじゃないですか?」
ボールは顔を赤らめて低く呟《つぶや》いた。
「はあ、僕は当時ひどく不運続きでした」
「なるほど」弁護士は再び言葉を続けた。
「で私が申したように、君は経済的に困っておる時に、この裕福な老嬢に会い、熱心に交際を求めたということになりますな。そこで、もし我々が、君は彼女が金持ちだとは知らず、真の親切心から彼女を訪問したということができる立場にあるとすれば……」
「どっちを申し立てるんですか」
「私はあえてその点を論じようとは思わんですな。私は他の方向からその点を見ます。それはハーベイ君の記憶にかかるところ甚大であります。はたして彼が当時の会話を覚えておるかどうか? 彼の勧告によって、その会話はそれから後に行われたものだと信じ込ませることができるでありましょうか」
ボールはしばらく考え込んでいたが、
「僕はその方法が成功するとは思いません、メイハーンさん、あの晩の出席者の中の数人がハーベイ君のいったことを聞いていました。その中の幾人かは、私が金持ちの老嬢を巧くなびかしたなどといって、からかいましたからね」
とボールはしっかりした口調でいったが、その顔は蒼ざめていた。弁護士は手を振って、失望の色を隠そうと努めた。
「それは残念。だが私は君がざっくばらんに話されるのを喜びますな、ボール君、私は君に指導されておるようであります。君の判断は正しい、私の申し出た線を押し通すのは災厄を招くかもしれんですからな。我々はこの点から離れねばならんです。さて、君はフレンチ嬢と知り合い、彼女を訪問する、彼女との親交が深まる、私はこれらの事実に対する、はっきりした理由を必要とするのであります。
どうして君が三十二歳という若さで、ハンサムなスポーツマンで、友人間の人気者でありながら、取るにたらないと思われる老嬢のため、貴重な時間を費やしたのでありますか?」
ボールは激しい身ぶりで両手をひろげ、
「それはわからんです、本当にわからんです。最初の訪問の後で、彼女は孤独で不幸なのだと語り、また来てくれと強いたので、僕は断りきれなかったのです。彼女は僕に対する好意と愛情をあまり露骨に示すので、僕はとても工合の悪い立場に追い込まれたのです。わかるでしょう、メイハーンさん、僕はもともと気の弱い性質なんです――僕は成り行きにまかせ――つまり否《いな》とはいえない人間なんです。で僕のいうことを信じる信じないは、あなたの自由ですが、僕は三度四度と訪問しているうちに、自分がフレンチ嬢をほんとうに好いていることに気づきました。僕は幼いころ母を亡くし、その後伯母に育てられ、その伯母も僕が十五の時に亡くなりました。こんなことをいうとあなたは笑うかもしれませんが、僕は純真な気持ちでフレンチ嬢に母親らしく世話を焼かれたり甘やかされたりするのを楽しんでいたのです」
メイハーン氏は笑うかわりに、また鼻眼鏡をはずして磨き始めた。それは彼が深く考え込んでいる証拠である。やがて彼は、
「君の説明はよくわかりました。私はそういうことは心理的にあり得ると信じるのであります。たとえ陪審員の一人がそれに対して異なる見解を持つとしてもですな。さあ先を続けてください。フレンチ嬢が初めて君に事務的な問題の調査を依頼したのはいつでありましたか」
「僕が三、四度訪問してからのことです。彼女は金銭に関しては全く無知で、何か投資のことで頭を悩ましていたのです」
メイハーン氏はそこできっと顔をあげた。
「ボール君、言葉に注意してください。女中ジャネットは自分の主人は商才にたけていて、そのほうの事務は自ら処理していたと陳述しておるのでありますぞ。それは彼女の取り引き銀行の者の証言にもあったのですぞ」
「やむを得ません、フレンチ嬢が自分で僕にそういったのですから」
弁護士はだまって青年の顔を見つめていた。彼はそれを口に出す意志はなかったが、その時相手は無罪であるという信念を強めたのであった。弁護士は老婦人の心理について幾らか知識を持っていた。彼はフレンチ嬢が、この美貌の青年に夢中になり、彼を自分の家に引き寄せる口実を構えていたものと見なした。彼女が商売上の無知を口実に、自分の金銭上の問題に対してボールの助力を乞う、これ以上の口実が他にあるだろうか。彼女は青年が自分の優れた点を認められて無造作に嬉しがるということを心得ているだけの分別を持った女性であった。ボールは大いに気をよくしたにちがいない。それに恐らく彼女は自分が金持ちであることを青年に知られるのを避けるようなことはしなかったであろう。フレンチ嬢は意志が強く、自分の欲するものに対してはその代償を惜しまなかったという。このようなことがメイハーン氏の心中につぎつぎと流れていった。
しかし彼はそれを口に出す気はなかったので、さらに質問を続けた。
「それで君は、フレンチ嬢の頼みをきいて、嬢の財政上の事務を処理したのですな」
「はい、しました」
「ボール君、私はきわめて重要な質問をいたしますが、それに対して私が真実の答えを得ることは非常に重要なのであります。君は経済的危機に直面していた際にその婦人の金銭を扱った――彼女自身の言葉によると商売のほうのことはほとんど知らないという婦人のね。そこで尋ねたいのは、君は自分の託された担保物件または有価証券をいつにしろまたいかなる方法にしろ君自身のために用いたことはなかったろうか? 君は正しくない金銭上の利益のために取り引きをしたことはないか?」
弁護士は相手が答えようとするのを制して、
「ちょっとお待ちなさい。ここに二つの道が開けております。一つは私が法廷で君がしごく簡単に得られる金を殺人を犯してまで入手するのは不合理だと指摘し、君が誠実に公正な取り引きをしていた点を特色づけることができる。一方もし君が取引上に検事側から摘発されるような何ものかがあったとしたら――露骨にいえば君がいかなる方法にせよ老婦人を瞞着《まんちゃく》していたことが立証されるとしたなら、我々は、彼女が君にとって有利な収入財源であった点を力説しその大切な資源である彼女を殺す動機がないという線に持っていかねばならんのであります。君にも納得がいくでしょう、さあ、答える前に、よく考えてください」
しかしボールは時を移さずに答えた。
「フレンチさんの事務を処理して僕が受けた分け前は全く正しいものでした。僕は自分の最も優れた能力をもって彼女の利益のために行動しました。誰が調べてもわかるようにですね」
「ありがとう、おかげで心が軽くなりました。私は君がこのような重要なことについて嘘をつくほどばかでないことを信じて敬意を表するものであります。」
ボールは熱心に言葉を続けた。
「確かに僕にとっていちばん有利な点は、動機がないことです。僕が金を搾取する目的であの資産家の老婦人に接近しようと努力したというのが、これまでメイハーンさんのいっておられたことの要点だと思いますが、確かにフレンチ嬢の死は僕のすべての希望を挫折させてしまったではないですか」
弁護士は、青年の顔を凝視していたが、やがてゆっくりと無意識のうちに鼻眼鏡を磨くいつもの癖をくり返した。そしてその鼻眼鏡をしっかりと鼻の上へ戻してから、おもむろに口を開いた。
「ボール君、君はフレンチ嬢が君を主な受益者とした遺言状を残したことを知っておりますか」
「何ですって?」容疑者はとび上がった。彼の驚愕は明白で自然なものであった。
「おどろいた! 彼女が僕に金を遺してくれたというんですか?」
メイハーン氏はゆっくりとうなずいた。ボールは頭を両手でかかえて、坐り込んでしまった。
「君はこの遺言状について何も知らぬようなふりをしておるのではないですか」
「ふりをする? 見せかけでなんかないです。そのことについては本当に何も知らなかったんです」
「もし女中のジャネットが、その事実を君が知っていたはずだと証言したと申したら、君は何と答えますか。ジャネットは女主人からはっきりと彼女が君にそのことについて相談し、その意向を君にも話したと語ったと証言したと申したら、君は何と答えますか」
「そんなこと! ジャネットが嘘をついているんだ! いや僕は早まり過ぎた。ジャネットは年寄りだ、彼女はまるでフレンチ嬢の番犬のように忠実で、前から僕を嫌っていたんです。それに彼女は嫉《ねた》み深く、疑い深い女だ。僕はこう思います。フレンチ嬢は自分の意図をジャネットに打ちあけた。するとジャネットはそれを誤解したか、もしくは本当に僕がフレンチ嬢を説き伏せてそうさせたのだと信じ込んでいるんです。僕はジャネットはフレンチ嬢が実際にそのことを自分に話したと勝手に信じ込んでいるんだと思います」
「君は彼女がそんな嘘をつくほど君を嫌っていると思うかね」
ボールはぎくりとした。
「とんでもない! 彼女がそんなことをするはずがない!」
「私にもわからんですな。だが彼女は君に対してなかなか手厳しいですぞ」とメイハーン氏は慎重にいった。
みじめな青年は再びうめいた。
「僕にもわかりかけてきた……これは恐ろしいことだ。他人は僕が彼女に強いたのだというにちがいない。無理に彼女の資産を僕に与えるという遺言状を作成させたと。そしてあの晩僕は彼女の家へ出かけていった……しかも家には他に誰もいなかった。そして翌日彼女の死体が発見された……ああ、何という恐ろしいことだ!」
「君は家の中に誰もいなかったといいますが、それは間違いであります。ジャネットは君も知っているとおりあの晩は外出日でありましたが、九時半ごろに友人と約束してあったブラウスの袖の型紙を取りに戻ったのであります。彼女は裏口から家に入り、二階へ上がって型紙をとると再び出ていったので、その時彼女は居間で誰か話をしているのを聞きました。何をいっているかは聞き取れなかったが、一人はフレンチ嬢の声で、もう一人は男であったと誓言するでありましょう」
とメイハーン弁護士がいうと、青年は、
「九時半! 九時半ですね! ああ助かった」
と小躍りした。
「助かったとは、どういう意味でありますか」
弁護士の方でも驚いて叫んだ。
「九時半には僕はもう家へ帰っていました。僕の妻がそれを証明することができる。僕は九時五分前ごろにはフレンチ家を辞して九時二十分ごろには家に着いていました。家では妻が僕を待っていました。ああ有り難い、助かった! ジャネットのブラウスの袖の型紙に祝福あれ!」
喜びに溢れた青年は、弁護士の顔から、以前の厳粛さが消えないでいるのには気がつかなかった。だが、弁護士の発言は、彼を地上に叩きおとした。
「すると君の考えではいったい誰がフレンチ嬢を殺したのでありますか」
「さあ……もちろん最初に考えられたとおり強盗の仕業《しわざ》でしょうね。窓がこじ開けられていたでしょう。彼女は金槌の一撃で殺されました。その金槌は死体の傍らに落ちているのが発見されました。それに品物も幾点かなくなっています。だがジャネットの僕に対する途方もない疑惑と嫌悪のために、警察は脇道へそれるようなことはないでしょうね」
「そんなことはありますまい、ボール君。紛失している品物というのは取るにたりぬ物を、盲滅法《めくらめっぽう》に盗っていたのでありますし、窓に残された痕跡も決定的なものではなく、そのうえよく考えて見たまえ。君は九時半には、もうフレンチ家にいなかったといわれるが、それではジャネットが、フレンチ嬢と居間で話をしている声を聞いたと申す男は誰でありましょう。フレンチ嬢が強盗と仲良く語り合うなとどは考えられないでありましょう」
「そうです……それは……」
青年は当惑し、失望の色を見せたが、急に生き返ったように言葉を続けた。
「しかしとにかく僕は僕は釈放される。僕はアリバイを得ました。どうぞロメイン――ああ僕の妻です――に会って下さい。直ぐに」
「おっしゃるとおりであります。私もボール夫人にすぐにお会いするつもりでありましたが、君が逮捕された時お訪ねしたらお留守だったのであります。それで直ぐロンドン警視庁に電報で手配を依頼しましたので今夜帰宅されるはずであります。私はここからまっすぐにお宅をお訪ねするつもりであります」
ボールはうなずいた。その顔には満足の表情が浮かんでいた。
「そう、ロメインがあなたにお話しするでしょう。ああ何という幸運だ!」
「失礼ですが、君は奥様を深く愛しておられますか」
「もちろんですとも」
「それで、奥様も君を?」
「ロメインは僕に対して献身的です。僕のためならどんなことでもしてくれます」
青年は熱心に語ったが、弁護士はちょっと不安になった。そんなに献身的な妻の証言がはたして信用されるのであろうか?
「君が九時二十分に帰宅したところを見た者はおりませんか、女中とか」
「僕の家には女中はいません」
「家へ帰る途中で誰かに会いませんでしたか」
「いいえ、誰にも会わなかったと思います。途中でバスに乗ったから、あの車掌がおぼえているかもしれんです」
弁護士は、それはむずかしいというふうに頭を振っていた。
「誰もいないとすると、いったい誰が君の奥様の証言を裏書きしますかな」
「誰もないです。しかしそんな必要はないでしょう」
「ないでしょうとも、ないでしょうとも」弁護士は早口にいった。そして、
「さて、もうひとつ伺いたいのでありますが、フレンチ嬢は君に奥様がおありなのを知っておりましたか」
「はあ、知っていました」
「それだのに、君が一度も奥様を同伴していってフレンチ嬢に引き合わせなかったのは、どういう訳でありますか」
ボールの返事は初めて渋り、不確実になった。
「さあ……わかりません」
「君は、ジャネットがフレンチ嬢は君がまだ独身だと信じ、ゆくゆくは君と結婚するつもりだったと証言したのを知らんのでありますか」
ボールは笑い出した。
「そんなばかな! 僕は彼女とは年齢が四十も違うんですよ」
「それはそうとして、もう一つ事実が残っておるのです。君の奥様はフレンチ嬢には一度も会われたことはないのでありますな」
「いいえ」彼は再び控え目になった。
「失礼ですが、その点に対する君の態度は、私にはどうもわかりかねますな」
青年は赤面して、もじもじしていたが、やがて口を開いた。
「僕はありのままを話しますよ。僕はあなたもご承知のように金に困っていました。それでフレンチ嬢がいくらか金を貸してくれればいいと思っていました。彼女は僕に好意は持っていましたが、若い夫婦の苦闘などには少しも興味を持ちませんでした。最初のころ僕はフレンチ嬢が僕とロメインの仲がうまくいっていないので別居していると勝手にきめてしまっているのに気づきました。メイハーンさん、僕は金が欲しかったんです、ロメインのためにです。それで僕は妻とのことについては何も話さずフレンチ嬢の判断に任せておきました。彼女は僕に養子にならないかといったことはありますが、結婚の話などけっして持ち出したことはなかったです……そんなこと、きっとジャネットの想像に過ぎない……」
「君の話すことはそれで全部でありますか」
「はあ……これだけです」
弁護士は青年の言葉にためらいの色があったように感じた。彼は立ちあがると、手をさし出した。
「さようなら、ボール君。私は君にとって不利な事実が数多《あまた》ならべたてられているにもかかわらず、君の無罪を信じているのであります。私はそれを立証し君の無罪を完全に確立したいと希望しておるのですよ」
弁護士は青年のやつれた顔を覗き込み、いつになく衝動にかられて、そんなふうに話しかけた。ボールは微笑み返して、
「あなたは僕のアリバイの正しいことを発見されるでしょう」と快活にいった。そして再び相手がそれに応じないでいるのに、気がつかないでいた。
「情勢はすべてジャネットの証言にかかっておること甚大であります。彼女は君を憎んでいる、これは明白であります」とメイハーン氏はいった。
「ジャネットが僕を憎むなんておかしいなあ」
と青年は抗議した。
弁護士は頭を振りながら出ていった。彼はさてこれからボール夫人のところへ行こうと考えていた。彼は事態の成り行きにひどく心を痛めていた。
ボール夫妻はパディントン・グリーンの近くの小さなみすぼらしい家に住んでいた。メイハーン弁護士が行ったのは、その家であった。
彼が呼鈴を押すと、それに応じて大柄でだらしのない、一見して日雇い女とわかる女が戸を開けた。
「ボール夫人は? まだ帰宅されませんか」
「一時間ばかし前にかえったですがね、会いなさるかどうかわからんですよ」
「私の名刺を渡して貰えば、きっと会っていただけるでありましょう」弁護士はおだやかにいった。
女は疑わしそうにメイハーン氏を見つめ、濡れた手をエプロンで拭いてから、その名刺を受け取ると、メイハーン氏の顔の前にぴしゃりと戸を閉じたので、彼は石段の上に取り残された。
二、三分して女が戻って来た時には、幾分態度が変わっていた。
「どうぞ、中へお入りなすって」
といって、小さな応接間へ案内された。弁護士は壁にかかっている絵を見ていたが、不意に丈の高い蒼ざめた婦人と顔を合わせて驚いた。彼女があまり静かに部屋へ入ってきたので、気づかなかったのである。
「メイハーン様でいらっしゃいますか。私の夫の弁護人でいらっしゃいますね。あの人のところからおいでになりましたの? どうぞおかけになって」
彼女が口を開くまでは、彼女が英国人でないことに気がつかなかった。あらためて彼女を観察してみると、高い頬骨や、藍がかった黒い髪、ちょっとした手の動かし方などに、明らかに外国人らしいところがあった。奇妙な女性だ、非常に物静かである。あまり静かなので、相手に不安を感じさせるほどだ。メイハーン弁護士は、最初から、何か理解しがたいものに立ち向かっていることを意識していた。
「さあ、ボール夫人、あなたは参っておしまいになってはなりません……」
といいかけたが、弁護士はふと口を閉じた。ロメイン・ボール夫人が少しも参ってなどいないことがはっきりわかったからである。彼女は全く冷静で落ちついていた。
「どうぞお聞かせ下さいませ、私はすべてを知らなければなりません。私に遠慮などなさらないで下さい。私は最悪の場合を知りたいので……」彼女はそこで口ごもったが、再び低い声で、メイハーン氏には理解できないような語調で「最悪の場合を知りたいのでございます」と重ねていった。
メイハーン氏はレオナルド・ボールとの会見にふれていった。彼女は注意深く耳を傾け、時々うなずいていた。
弁護士の話が終わると、
「わかりました。あの人は私に、あの晩九時二十分に家へ帰ってきたといわせたいのでございますね」
「その時刻に帰宅されなかったのですか」弁護士は鋭くきき返した。
「そんなことは問題ではございません。私がそう申したからって、あの人が放免になりますのでしょうか。皆は私を信用いたしますでしょうか」彼女は冷やかにいった。
メイハーン弁護士はめんくらった。彼女はあまり早く問題の核心にふれていったからである。
「私が知りたいのはそこでございます。それで充分なのでございましょうか。私の証言を誰か裏書きしてくれる人がございますのでしょうか」
彼女の態度には、メイハーン氏を漠然とした不安に陥れるような、抑制された熱心さがこもっていた。
「今のところ誰もおりません」弁護士は渋々答えた。
「そうですか……」ロメインはいった。
彼女は一、二分の間全く静かに坐っていた。彼女の唇には静かな薄笑いが漂っていた。
弁護士の感じている驚愕はしだいに強まってきた。
「ボール夫人、あなたがどんなお気持ちでおいでになるか、私にもお察しできます」と弁護士がいい出すと夫人は、
「さあ、お察しになれますかしら?」といった。
「この場合」
「この場合、私は独り芝居を打つつもりでございます」
弁護士は愕然として、彼女を凝視した。
「しかし、ボール夫人……あなたは疲れ果てておいでになる……ご主人を思うあまりに……」
「何でございますって?」
夫人の鋭い語調が、彼をぎょっとさせた。彼はためらいながら繰り返していった。
「あなたはご主人を思うあまりに……」
ロメインは奇妙な微笑を唇に浮かべながら、ゆっくりとうなずいて、
「あの人は、私が彼を深く愛しているとでも申したのでございますか……ああ、そう……わかりましたわ、男って何てばかなんでしょう、ばか! ばか!」
彼女は急に立ち上がった。弁護士がこの雰囲気の中で感じていた強い感動のすべてが、今や彼女の語調に集中された。
「私はあの人を憎んでいます! よろしいこと? 私はあの人を憎んでおりますのよ! 憎んでおりますのよ! 私はあの人が縛り首にされるのを見たいのです」
弁護士は彼女と、彼女の眼の中に燃えている激情とに、たじろいだ。
彼女は一歩一歩、前へ進み出ながら、激しい口調で語り続けた。
「きっと私はそれを見ることができますでしょう。もし私が、彼の帰宅したのは九時二十分でなく、十時二十分であったと申し立てたら、どういうことになりますでしょう。自分に遺産がくることについては何も知らなかったと申したそうでございますね。でも、もしも私が彼はそのことを知っていて、それをあてにして、そのお金を手に入れるために殺人を犯したのだと申し立てたらどうでございましよう。あの夜、彼が帰宅して何をしてきたか私にすっかり話したと申しましたら? それから彼の上衣には血痕がついておりましたことなど、私が法廷に立ってすっかりしゃべりましたらどういうことになるでございましょう」
彼女の眼は彼にむかって挑戦しているように見えた。メイハーン弁護士はかろうじて高ぶる狼狽《ろうばい》をおし隠し、冷静に話そうと努力した。
「しかし奥様、法廷におきまして妻には夫に不利に証言をすることはゆるされていません」
「あの人は私の夫でございません」
ピンを落としても聞こえるほどの深い沈黙が続いた。
「私はウィーンで女優をしておりました。私の夫は今も生きてますが、精神病院に入っております。それでボールと正式に結婚できなかったのでございます。でも今になって私はそれを喜んでおりますわ」彼女は反抗的にうなずいた。
弁護士はなんとかして冷静に落ちついた態度を見せようと努めた。
「私はもう一つだけ申し上げたいことがあります。あなたはなにゆえにボール君に対してそのように冷静でいらっしゃるのでありますか」
彼女はちょっと微笑して頭を振った。
「お知りになりたいでしょうとも、でも私はお話しいたしませんわ。これは自分の秘密としておくつもりでございます」
メイハーン弁護士は、例の空咳をして立ちあがった。
「もはやこの会見をこれ以上延ばしておる理由はないように思われます。いずれボール君と連絡した後でまたお知らせいたしましょう」
彼女はそばへ近づいて、そのすばらしい黒い瞳で彼の眼の中を覗き込むようにして尋ねた。
「どうぞ正直なところをお聞かせ下さい。あなたは今日ここへおいでになった時は、あの人の無罪をお信じになっていらしたのではございません?」
「信じておりました」とメイハーン氏は答えた。
「まあ、お気の毒さま」彼女は声をあげて笑った。
「今でも私はボール君の無罪を信じているのであります。ではお休みなさいマダム」
彼はロメインの驚いた顔を心にとめながら部屋を出た。そして歩道を大股に歩きながら――こいつは厄介なことになりそうだぞ――と考えていた。
すべてが尋常ではない。非凡な女だ。非常に危険な女だ。怨恨を抱いている女というものは全く悪魔だ。
何としたものだろう? かわいそうにあの青年は。もちろん彼が殺人を犯した可能性はある。
メイハーン弁護士は心の中で――いや彼に対する反証が多すぎる。私はあの婦人を信じない、あれはみんなあの女のでっちあげたものだ。あんなことを法廷に持ち出すことはあるまい――と考えていた。
彼はその点について、もっと確信を得たいと思った。
***
第一審での裁判の進行は簡潔で劇的なものであった。検事側の主な証人は被害者の女中だったジャネットと被告の情婦でオーストリア人のロメインであった。
メイハーン弁護士は法廷に腰かけて、ロメインの語る破滅的な陳述に耳を傾けていた。それは前に彼女に会った時に聞かされたものと、ほぼ同様であった。
被告は抗弁を保留し、法廷の審理に委ねた。
メイハーン氏は途方に暮れた。ボールに対する情勢は言葉以上に悪かった。弁護を引き受けた高名な高等弁護士チャールズ卿さえも望み薄であった。
「もし我々があのオーストリア女の証言をくつがえすことができたら、何とかしようもあるがこれは厄介な業《わざ》ですな」と彼は危ぶむようにいうのであった。
メイハーン氏は自分の能力をただ一点に集中した。ボールが真実を語ったとして彼が被害者の家を九時に出たとなると、九時半にジャネットがフレンチ嬢と話しているのを聞いたという男はいったい何者であるか、それをつきとめることである。
ただ一筋の光明は、過去において伯母を嚇《おど》して多額の金を巻きあげていたやくざ者の甥《おい》の存在である。弁護士が知ったところによると、女中のジャネットはその若者に特別の好意を寄せていて、いつも女主人に彼の要求を容れるよう取りなしていたものである。するとボールが辞去した後でフレンチ嬢と話していたのはその甥だという可能性は充分にある。ことにその男はあの日以来、日ごろの立ち廻り先にはどこにも発見されていないでいる。
その他の方面にわたる弁護士の調査はすべて否定的なものばかりであった。ボールがフレンチ家を出るところも、また自宅に入るところも、誰一人目撃した者はなかった。またボール以外の男がフレンチ家に入るところも出るところも見た者はなかった。その点に関する調査は失敗に終わった。
裁判のあった日の晩であった。メイハーン氏は自分の考えを全く新しい方向へ持っていかされるような手紙を受け取った。
それは午後六時便で配達されたもので、間違いだらけの下手な文字でありふれた便箋に書かれ、汚れた封筒に、切手も曲げて貼られていた。
メイハーン氏はその意味をつかむまでに二度も読み直した。
[#ここから1字下げ]
――旦那さま
あんたはあの若者のために働いていなさる弁護士さんだね。もしもあんたがどうしても、あのおしろいをぬりたくった外国のあばずれ女のでまかせを暴露したいんなら、今夜ステプネーのショーアパート十六号へおいで、モグソン夫人は二〇〇ポンドの金を要求する。
[#ここで字下げ終わり]
弁護士はこの奇妙な手紙をもう一度読み直した。もちろんそれはいたずらかもしれない。だがよく考えていくうちに、しだいに本物であると確信するようになった。それにこれは被告にとって唯一の希望であることは確実だと考えた。ボールの情婦ロメインの証言はボールを完全に地獄へおとしてしまった。そこで弁護側で辿《たど》ろうとする線はロメインのごとき不道徳な生活をしている女の証言は信用できないという、まことに薄弱なものであった。
メイハーン氏は決心をした。自分が引き受けた被告はどんなことをしても助け出すのが弁護士の義務である。彼は何としてもショーアパートへ行かねばならない。
悪臭の漂う貧民街でそのがたがたな建物を捜すのに苦労したが、ようやく見つけてモグソン夫人を尋ねると、三階の部屋へ案内された。彼はその部屋の扉をノックしたが返事がないので、再び叩いた。
三度目に、内部で足を引きずる音がして、用心深く僅かに扉が開かれ、身をかがめた人影が覗いた。
急に女がくすくす笑った。それは女だった。そして扉を広く開けて、
「あんただね、誰もつれてきてはいなさらんね、変なまねはしなさんなよ、じゃいい、入んなされ……さあ入んなされ」女はのどをぜいぜいいわせながらいった。
弁護士は渋々ながら敷居をまたいでガス灯のゆらめいている汚い小部屋へ入っていった。一隅にはだらしなく取りちらしたままの寝台と、むき出しのテーブルとよたよたの椅子が二つあるだけの部屋である。メイハーン氏は初めてこの芳ばしくないアパートの住人の全貌を見ることができた。彼女は中年の女で腰が曲がっていて灰色の髪をばざばさにし、顔にスカーフをぴったりと巻きつけていた。女はメイハーン氏にじろじろ見られているのに気がつくと、再び前と同じ気味の悪い音のないくすくす笑いをした。
「わたしがどうしてこの美しい顔を隠しているか不思議がっていなさるんだね。ひひひひ……旦那を誘惑するのを心配しているとでも思ってなさるんかね? だが、見せてやるよ……ほれね!」といって女はぱっとスカーフをわきへのけた。
弁護士は真赤に、にじんだ痕を見て、思わず後ずさりをした。女は再びスカーフを元へ戻した。
「わたしに接吻なんかしたくないだろうとも……ひひひひ……むりもないさ。だがね、わたしゃこれでも前には美しい娘だった。そんなにむかしではない、わかるだろう、硫酸さ! わたしをこんなにしたのは硫酸なんだ!」
彼女は恐ろしい呪いの言葉を喚《わめ》きだし、メイハーン氏が鎮《しず》めようとしても無駄であった。そのうちにようやく静かになって、神経質に両手を握りしめたり、開いたりしている。
「もうたくさんだ、私は自分が担当している被告レオナルド・ボールの無罪を立証する情報を貰えるものと信じて来たのでありますが、そうなのでありましょうな」弁護士は厳しい口調でいった。
女は狡猾《こうかつ》に横目でちらと彼を見て、
「それで金のほうは? 二〇〇ポンドをさ、覚えていなさるだろう」とのどをぜいぜいさせながらいった。
「証拠を提出するのはあなたの義務でありますぞ。そのためにあなたを法廷に召喚することもできるのであります」
「そんなことはされたくないね、わたしゃもう年寄りだし、何も知らんのだからね、だが二〇〇ポンドくれればちょっとしたヒントをあげられるんだが、どうだね?」
「どんな種類のヒントですか」
「手紙だったらどうするね。あの女の書いた手紙さ。私がどうしてそれを持っているかはどうでもいい、それはあんたの知ったことじゃない。その手紙はきっとおもしろい芸当をやるよ。とにかくわたしゃ二〇〇ポンドが欲しいんだ」
弁護士は冷ややかに女の顔を見つめていたが、やがて決心したらしく、
「私は一〇ポンドだけは出します。もしその手紙があなたのいわれるようなものならば」といった。
「一〇ポンドだって?」と叫んで女は喚きだした。
「では二〇ポンド、これが私の出せる最後の線でありますぞ!」
といいすてて、弁護士は出ていく様子を示して立ちあがった。それから彼女を観察しながら財布を取り出し、中から一ポンド紙幣を二十枚数え出した。
「さあ、これが私の持ち金の全部だ、あなたはこれを取りますか、それともよしますか」
弁護士は相手が金の顔を見ては、もうこたえられないでいることを見抜いていた。女はむやみとわめいたりどなったりしていたが、ついにそれで手を打つことを承知し、寝台のほうへ行って、ぼろぼろになった敷布団の下から何か取り出した。
「そら、これだ、畜生! お前さんの欲しいのはその一番上のやつだよ」とうなるようにいって、手につかんでいたものを投げてよこした。それは手紙の束であった。弁護士はその束をほどくと、常に変わらぬ冷静さで機械的に一つ一つ調べていった。女は彼の方を熱心に眺めていたが、無表情な顔からは、何の手がかりも得られなかった。
彼は一通ずつ読んでしまうと、再び一番上のに戻りもう一度目を通してから、元どおりに注意深く束ねた。
それはロメインの書いた恋文であったが、宛名はレオナルド・ボールではなかった。一番上の手紙の日付は、ボールが逮捕された日であった。
「わたしのいったとおりだろう。その手紙はあの女をやっつけるだろうね」と女は鼻声でいった。
「この手紙をいったいどうして手に入れたのでありますか」
「そんなことをいえば、わたしの秘密がばれてしまうよ。だが、わたしはもう少し知っていることがあるんだ、わたしは裁判所であのあばずれ女が何をしゃべったか聞いていたんだよ。あの女が家にいたっていう時刻、十時二十分にはどこにいたか、つきとめてごらんよ、ライオン通りの映画館にいって聞いてみるがいい。きっと覚えているよ、りっぱな素敵な女をね。畜生!」
「この男は誰なんですか、この手紙には名だけで姓が書いていない」
相手の声はしだいに不透明なしゃがれ声になってきた。女は手を握りしめたり開いたりしていたが、最後にその手を顔におしあてて、
「わたしの顔をこんなにしたのはその男なんだ! もうずっと前のことだが……あの女がわたしからあの男を奪ってしまったんだ。そのころほんの小娘だったわたしはその男を追いまわし、よりを戻そうとした時に、男はあのいまいましいやつをわたしの顔にひっかけやがった!そしてあの女はわたしを笑いものにしやがった、畜生め! わたしはその恨みを晴らそうと思って、何年もあの女の後をつけまわしてやった。あの女をスパイしてやった。そしてとうとうあの女を捕えてやった。あの女もこれで苦しむんだ! そうですね、弁護士さん。あの女は苦しむんだ!」
「恐らく彼女は偽証罪で、ある期間の禁錮を宣告されるでありましょうな」メイハーン氏は静かに答えた。
「あの女を喰らい込ませてやる、それがわたしの念望だ! さあわたしの金は? 金はどこにあるんだね」
弁護士は黙って札束をテーブルの上に置き、深呼吸を一つして部屋を出た。後ろを振り返って見ると老女は札束の上にかがみこんで、小声で歌っていた。
メイハーン氏は時を移さず仕事にかかった。ライオン通りの映画館は造作なく見つかった。守衛にロメインの写真を見せるとすぐに彼女を確認した。その女と男は一緒に問題の夜十時少し過ぎに映画館に来た。守衛は連れの男はよく見なかったが、今どんな映画をやっているかと尋ねた夫人だけは覚えていた。
その男女は映画が終わるまでの約一時間そこにいたということであった。
メイハーン弁護士はその収穫に満足した。ロメインの証言は終始嘘のかたまりだったのだ。彼女は激しい憎悪からこしらえあげたのだ。弁護士はその憎悪の裏に何があるのか知ることができるだろうかと訝《いぶか》った。いったいボールは彼女に何をしたのであろう? ボールに彼女の態度を話した時、彼は呆気《あっけ》にとられて物がいえないという様子であった。彼は熱心にそんなことは信じられないといい切ったが、最初の驚きが過ぎた後、彼の異議の申し立てには何かすっきりしないものがあるようにメイハーン氏は感じた。
ボールは知っていたのだ。メイハーン弁護士はそう信じていた。彼は承知していたが、その事実を公表する意志はなかったのだ。二人の間の秘密は秘密として残っているのだ。弁護士はいつかその秘密を知る時が来るだろうかと訝《いぶか》るのであった。
彼は時計を見た。もうだいぶ遅かったが、この際時間が何より大切なので、タクシーを呼び止めて行き先を告げた。そして乗車しながら、「チャールズ卿にこのことを知らせて置かにゃならん」とつぶやいた。
***
レオナルド・ボールの老嬢殺害事件の公判は世間一般の興味を湧かせた。第一に被告が若くてハンサムなこと、第二に彼が特に卑劣な犯罪で起訴されていたからで、そのうえ求刑人側の第一証人であるロメイン・ハイルガーに対する興味も大きかった。彼女の写真が、種々の新聞に掲載され、彼女の生まれやおいたちなどに関するいくつかの作り話が書き立てられた。
裁判はわりに穏やかに開廷された。まず専門的な証拠資料が提出された。そして女中のジャネットが喚問された。彼女はだいたい前回と同様の証言をした。被告側弁護士は、反対訊問で彼女がボールとフレンチ嬢との交際に関して一、二矛盾したことをいったのを追求することに成功した。つまり彼女があの晩居間で男の声を聞いただけで、そこにいたのはボールだという証拠にならぬと力説し、また彼女の証言の底には被告に対する憎悪と嫉妬の感情が少なからず流れているということを強調し、この点を検事側に理解させるように努めた。
そして第二番目の証人が喚《よ》ばれた。
「証人の姓名はロメイン・ハイルガーですか」
「はい、そうです」
「この三年間、被告と同棲し彼の妻のごとくになりすましていたのですね」
その時ロメインの眼が被告席の男の視線にぶつかった。彼女の顔には何か奇妙な、不可解な表情が浮かんだ。
「はい」
訊問が続けられた。一言一言と、恐るべき事実が明らかにされていった。問題の夜、被告が金槌を持って家を出て、十時二十分ごろ帰宅した。そして老婦人を殺害したことを打ち明けた。シャツの袖口に血痕がついていたので、彼はそれを台所のストーブで焼いてしまった。彼は彼女を脅迫して、絶対に他言しないと約束させた。
訊問が進むにつれて、被告に対して僅かに有利だった法廷の空気が、いまや猛烈な非難と変わった。彼は自分の運命がきまっているのを悟っている様子で、悄然とうなだれていた。
それにしても検事側ではロメインが被告に対して抱いている憎悪を抑制させようと努めていた点は注目に値した。検事は彼女がもっと偏見のない態度に出ることを望んだであろう。
つぎに被告側の冗長な重苦しい弁論が行われた。
弁護士は、彼女の証言は徹頭徹尾悪意の虚構で、彼女は問題の時刻に自宅にはいなかった。彼女は他に恋人がいて、ボールを無実の罪により死に追い込もうと巧妙なる計画をめぐらしたものであると論じた。
ロメインはひどく横柄な態度でそれを否定したが、そこへ例の手紙が提出されて、驚くべき大詰めがやってきた。それは息詰まるように静まり返った法廷で読み上げられた。
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――愛《いと》しのマックス、運命の女神は彼を私たちの掌中にお渡し下さいました。彼は殺人容疑者として逮捕されました。そうです、老婦人を殺したということで! 蠅も殺せないレオナルドがね! ついにわたしは恨みをはらすことができるんですわ。哀れな人!
私はあの人があの晩、血だらけになって帰ってきて、すべてを告白したっていってやります。私はあの人が絞首刑になるようにしてやります。ねえマックス、あの人は処刑されるときになって、自分を死に追い込んだのはこのロメインだと気がつくでしょうよ。そして幸福がやって来るんですわ、あなたと私の……とうとう幸福がやってくるのよ、愛する人よ!
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法廷にはその手紙の筆跡がロメインのものに違いないと誓言するために、筆跡鑑定家が数人出席していたが、もはやその必要はなかった。その手紙が読まれると、ロメインは泣き崩れてすべてを白状した。レオナルド・ボールは彼の陳述のとおり九時二十分に帰宅していた。彼女は彼を破滅させるために、詳細に至るまで捏造《ねつぞう》したのであった。
ロメインの証言の崩壊とともに、検事側の立場も崩れてしまった。
チャールズ卿は二、三の証人を呼んだ後、被告自身が証人台に立ち、男らしい率直な態度で陳述し、反対訊問に対しても動揺しなかった。
検事側は盛り返そうと努力したが、たいして効果はなかった。判事の要点説示は、必ずしも被告にとって有利なものではなかったが、法廷の情勢が一変してしまっていたので、陪審員たちの評決にはたいして時間を要さなかった。
「我々は被告の無罪を認めます」
レオナルド・ボールは自由の身となった!
小柄なメイハーン氏は、急いで弁護人席を立った。ボールに祝詞を述べなければならない。
彼は鼻眼鏡を勢いよく磨いている自分に気がついた。前の晩、彼は妻にその癖を指摘されたばかりであった。癖というものは妙なもので、誰でも自分の癖を知らないものだ。
全く興味深い事件であった……全くおもしろい事件であった。さて、あの情婦ロメインは……。
法廷の光景が、異国情緒豊かなロメインの姿とともに、まだ彼の目先にちらついていた。
パディントンの家で見た彼女は蒼白い顔をした物静かな婦人に思われたが、法廷での彼女は、地味な背景に対して、炎のように輝き、熱帯に咲くあでやかな花のようにふるまった。眼を閉じても、背の高い美しい体を少し前かがみにして、無意識のうちに右手を握りしめたり開いたりしていた姿が見えるようであった。
癖というものは奇妙なものだ。彼女の手の仕ぐさは彼女の癖なのだと彼は思った。だが……どこがで、誰かがあれとそっくりの仕ぐさをしていたっけ……誰だったろう? ごく最近のことだ……全くそっくりだ……
それを思い出すとともに彼は喘ぐように息を深く吸い込んだ。そうだ、あのアパートの女だ!
彼は、はっとして立ち止まった。頭がくらくらしてきた。
いや、そんなはずはない……そんなはずはない……しかしロメインは女優であった。
チャールズ卿が背後に近づいて、彼の肩を叩いた。
「まだ我々の友人に祝辞を述べないのですか、あの男は危機一髪というところでしたな。さあ一緒に来て彼に会いませんか」
だがメイハーン弁護士は、相手の手を払いのけた。
今の彼の唯一の願いはロメインと差し向かいで会見することであった。
彼がロメインに会ったのは、それからよほど経ってからであったし、会見の場所はあまり芳ばしいものではなかった。
彼の考えを全部語ると、彼女はこう答えた。
「あなたのご推測どおりでございます。顔ですって! そんなことはかんたんでございますわ、ガス灯の光が悪いので、あなたにはメイキャップが見破られなかったのでございますわ」
「しかし、あなたはいったいどうして? どうして?」
「どうして私が独り芝居を打ったかとおっしゃいますの?」彼女は前にもそれと同じ言葉を使ったことを思い出して微笑した。
「何たる念の入った喜劇でありましょう!」
「だって、あなた……私は彼を救わなければなりませんでしたもの。男を熱愛している女の証言は役に立たないと、あなたはほのめかしていらしたではございませんか。でも私は群集心理というものを少しばかり心得ておりますのよ。私が彼の有罪を認めるような証言をした後で、法律的な見地から私を罪に陥《おとしい》れれば、被告にとって有利な反応がたちどころに現れるものでございますわ」
「それであの手紙の束は?」
「あれが最も致命的なものでございましたわ……こしらえごとと思われるかも知れませんでしたから」
「マックスという男は?」
「そんな男はこの世に存在しておりませんのよ、弁護士様」
小柄なメイハーン氏は、憤慨したような口調でいった。
「私は今でもボール君を正規の手順で無罪にすることができたと考えておるのであります」
「私はそのような冒険はいたしませんわ、あなたは彼がほんとうに無罪だと考えて……」
「あなたは、それをごぞんじだったのですか?なるほど」
「親愛なるメイハーン様、あなたは全然わかっていらっしゃいませんのね、私は知っておりました――レオナルド・ボールは有罪だと申すことを!」
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西方の星
私は、ポアロの部屋の窓ぎわに立って、漫然と眼下の往来を眺めていた。
「これは、おかしい!」私は突然に、声を忍ばせて叫んだ。
「君、なにがですか?」ポワロは安楽椅子の奥から、落ちつき払って尋ねた。
「ポワロさん、つぎの事実によって、推理してください! 流行の帽子にすばらしい毛皮という、豪華な服装をした、若い女性が両側の家を一軒ずつ見上げながら、ゆっくりと歩いています。その女性は、三人の男と中年の女とに尾行されているのを気づかないでいます。そこへメッセンジャー・ボーイが仲間に加わり、大げさな身ぶりで、若い女性を指さしました。いったいどういう芝居が演じられているのでしょうね、あの若い女性は犯罪者で、尾行している人たちは探偵で、彼女を逮捕する機会を狙っているのでしょうか? それとも彼らは悪党どもで、罪のない犠牲者を、襲撃しようと企んでいるのでしょうか? 大探偵は、これに対して、どう行動しますか」
「君、大探偵は例によって、最も簡単なことをします、自らそれを見るために、立ち上がるのです」といって、ポワロは窓のところへ来て、私のわきに立った。
彼はさらに、おもしろそうに含み笑いをした。
「相変わらず、君のいう事実には、君の救うべからざるロマンチックな色彩が加えられていますね。あれは映画スターのメリー・マーベル嬢ですよ。それと気がついたファンたちが、あとをつけて歩いている。それに、ヘイスティングス君、あのご婦人は、その事実をちゃんとご承知なのですよ!」
私は声をあげて笑った。
「それで、すべて説明がつきましたね! しかし、ポワロさん、これでは得点になりませんよ。単に認識したにすぎませんもの」
「まさにそのとおり! 時に、君は何度ぐらい銀幕でメリー・マーベル嬢を見ましたか」
「たぶん十二回ぐらいでしょうね」
「ところが私は、一回見たきりです。それで彼女と気がついたのに、君が気がつかなかったとはね」
「まるっきり様子が異なっていますから……」
と、私は意気地なく答えた。
「これはしたり! 君は彼女がロンドンの大通りを、カウボーイの帽子をかぶったり、裸足《はだし》になったり、アイルランド娘みたいにおさげ髪で歩くと思っているのですか! 君はいつでも、そのとおり非現実的だ! あの踊り子バレリー・セントクレア事件の時だって、そうでしたよ」
私は、いささか当惑して、肩をすくめた。
「だが、君、気を落とすことはありませんよ。誰でもみんなエルキュル・ポワロになるわけにいかないのですからね! 私はよくそれを知っておりますよ」
「ポワロさんは、僕の知っている限り、誰よりも一番、自分自身を高く評価するんですね」
私は興がりながらも、もてあまし気味で、そういった。
「君はどうなのですか? 誰でも他に比類ない人物は、それを自覚しているものです。そして他の人たちはそれに同調するものです。じゃ!もし私に誤りがなければ、マーベル嬢は……」
「何ですか?」
「疑いもなく、あのご婦人はここへ来られます」
「どうしてそれが、ポワロさんにわかるんですか」
「まことに簡単です。君、ここは貴族的な町ではありません。この町には有名な医者もいなければ、上手な歯医者もおりませんし、一流の帽子屋がいるわけでもありません。けれどもここには、有名な探偵がおります。君、これは事実ですよ。私は流行児になっています。世間はこういいます――何だって? 純金の鉛筆入れを紛失したって? 君、あの小さなベルギー人のところへ行くべきだね、彼はすばらしい! 誰でもみんな行く! 走れ! そして彼らは到着する! 群れをなして! あらゆる愚かしき問題を持ち込む……」
その時階下で呼び鈴が鳴った。
「ほらね? 私が申したとおり、マーベル嬢です」
例によって、ポワロは正しかった。少し間をおいて、アメリカの映画女優が案内されてきたので、我々は彼女を迎えるために立ち上がった。
マーベル嬢は、確かに最も有名な映画女優の一人であった。彼女は最近、同じく映画俳優の夫グレゴリー・ロルフとともに、英国へ来たばかりであった。この二人は一年前にアメリカで結婚し、こんどが初の英国訪問であった。彼らのために盛大な歓迎会が催された。誰も彼もがメリー・マーベルに熱狂していた。彼女のすばらしい衣装も、毛皮も、宝石も――取りわけ持ち主にふさわしい「西方の星」という名をつけられている巨大なダイヤモンドは、世人の興味の的になっていた。五十万ポンドという巨額の保険が付されているという、その有名な宝石について、あること、ないことが、盛んに書きたてられていた。
ポワロとともに、美しい依頼人と挨拶をかわしている間に、こうした事柄が、私の脳裡にひらめいたのであった。
マーベル嬢は、小柄できゃしゃで、非常にあでやかな初々《ういうい》しい顔だちで、子供っぽい、無邪気なぱっちりした眼をもっていた。
ポワロは彼女に椅子をすすめた。彼女はすぐに語りだした。
「ポワロさんは、私のことを、たいへんにばかげているとお思いになるでしょうが、昨晩、クロンショー卿から、あの方の甥御さんの死の謎を、ポワロさんが、どんなに驚くほどりっぱに解決なすったかを伺ったものですから、それで私、あなたのご忠告をいただきたいと思いましたんです。ばかげたいたずらかも知れないんです、グレゴリーは、そういうんですけれど、やっぱり私、ひどく気になってならないものですから」
彼女は息をつぐために、言葉を切った。ポワロは、相手をうながすように、微笑した。
「どうぞ、あとをお続けくださいまし、ご承知のように、私にはまだ何もはっきりいたしませんので」
「この手紙なんですけれど」彼女はハンドバッグを開けて、三通の封書を取り出すと、ポワロに渡した。
ポワロは、それを綿密に吟味した。
「安っぽい紙――住所と宛名が注意深く印刷されていますね、中身を拝見させていただきましょう」彼は手紙を取り出した。
私もそばへいって、ポワロの肩越しに覗きこんだ。それは封書の上書きと同様に、注意深く印刷された短文であった。
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――神の左眼なりし大ダイヤモンドは元の所属に返すべし――
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第二の手紙もこれとほとんど同じ文面であったが、第三の手紙はもっと判然としていた。
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貴殿は警告を受けた。貴殿はそれに従わなかった。今やダイヤモンドは、貴殿より取り去られるであろう。満月の夜、左右、両目のダイヤモンドは戻さるべし。かく予言されているのである。
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「私、第一の手紙は冗談《じょうだん》として扱ったんです。第二の手紙を受け取った時、私は訝《いぶか》り始めたんです。第三番目は昨日来たんです。で、私はこれは思ったよりもたいへんなことらしいという気がしたんですの」とマーベル嬢は説明した。
「なるほど、でこの手紙はみんな郵便で来ておりませんね」
「そうなんです、届けられたんです、支那人が持って来たんです。それで私、怖くなったんですの」
「なぜですか」
「なぜかと申しますとね、その宝石はグレゴリーが三年前にサンフランシスコで支那人から買ったんですもの」
「なるほど、それで奥様、そのダイヤモンドは、いわゆる……」
「西方の星といわれているんですの。当時その宝石にまつわる話があったのを、グレゴリーは覚えていると申します。でもその支那人は何だかひどく怖がって、一刻も早く手放してしまいたい様子で、実際の値段の十分の一ぐらいしかくれといわなかったんですって。それはグレゴリーからの結婚の贈り物として貰ったんですの」
ポワロは、考え込みながら、うなずいた。
「その話は信じられないほどロマンチックでございますね。しかし……どうも不思議ですな。ヘイスティングス君、お願いです、私の小さい暦を取って下さい」
私は、それに応じた。ポワロは暦を繰って、
「さてと! 満月はいつでしょうか? ああ、つぎの金曜、三日目ですね。よろしい、奥様がお求めになる私の忠告を申し上げます。この宝石にまつわる物語はいたずらかも知れませんし、あるいはそうでないかも知れませんですからね! それで、そのダイヤモンドをつぎの金曜日が過ぎるまで、私に保管させて下さるように、おすすめ致します。そうしていただけば私どもは、何とでも適当と思う手段を講じることができます」
女優の顔がちょっと曇った。そして言いにくそうに答えた。
「それはできませんのよ」
「いまお持ちになっておいでなのでございますね?」ポワロはじっと相手を見守っていた。
彼女はちょっとためらったが、服の胸に手を滑り込ませて、長い細いくさりを引き出した。そして手を開いて、前へ身をかがめた。その掌《てのひら》にプラチナの台に精巧に嵌《は》めた、白い火焔の宝石が横たわって、厳《おごそ》かに我々にむかって瞬《またた》くのであった。
ポワロは長く音をたてて息をのんだ。
「すばらしい! おゆるし下さいまし、奥様」
彼は宝石を手に取って抜け目なく吟味したうえで、軽く頭をさげて、彼女へ返した。
「非の打ちどころのないりっぱな石でございます。全く驚きました! それをまた、持ち歩いておいでになるとは何たることでございます!」
「いいえ、いいえ、大丈夫ですわ、ポワロさん。私、とても気をつけていますもの。いつもは宝石箱に入れて錠をおろしたうえ、ホテルの金庫に預けておきますのよ。ご承知のように、私たちマグニフィセント・ホテルに滞在しているです。で、今日はあなたにお目にかけようと思って持って参ったんです」
「で、それを私に託しておいでになるのですね。そうじゃございませんか? ポワロ小父さんの忠告をおいれになるのでしょうね?」
「でもね、ポワロさん。こういう訳なんですの。私たちは金曜日にヤードレイ猟場のあるお城で、ヤードレイ子爵ご夫妻と五、六日過ごしに出かけることになっているんですの」
彼女のその言葉が、私の心に何かぼんやりとした記憶を呼びさました。何か噂話《うわさばなし》――さて何であったっけ? 数年前にヤードレイ子爵夫妻がアメリカを訪問したことがあった。その時、子爵はある女友達の手引きでだいぶ遊んだという評判が立ったが――たしかに何かもっとあった――ヤードレイ夫人がカリフォルニアで映画俳優と浮き名を流した噂話――そうだ! 急に思い出した――もちろん、その相手は他ならぬ、このグレゴリー・ロルフであった。
マーベル嬢は、語り続けた。
「ポワロさんに、私ちょっとした秘密を打ち明けますわ。実は私たちヤードレイ子爵と取り引きがあるんですの。もしかすると、あの方の先祖伝来の建物をロケに使わしてもらって、映画劇をやる機会がつかめるかも知れないんです」
「ヤードレイ城ですか? あれは英国の観光地の一つですよ!」と私は口を出した。
マーベル嬢はうなずいた。
「たしかに古い封建時代のものに違いありませんわ。でも殿様はかなり法外な値段を要求していらっしゃるんです。もちろん、取り引きがうまくいくかどうかわかりませんけれど。でも私も、いつでも商売と楽しみを一緒にするのが好きなんです」
「しかし、わからないことを申し上げるようで失礼でございますが、奥様はダイヤモンドをお持ちにならないでも、ヤードレイ城を訪問なさることがおできになるのではございませんか?」
マーベル嬢の、子供っぽい眼に似合わない、刺すような激しい表情が浮かんできた。彼女は急に今までよりも、ずっと老けて見えた。
「私、あちらで、つけたいんですの」
「確かに、ヤードレイ家の蒐集の中には、何個かの有名な宝石があって、その中には大きなダイヤモンドがありますものね」と私は唐突にいった。
「そうね」と、マーベル嬢はそっけなくいった。
私はポワロがひそかに「ああ、なるほどね……」とつぶやくのを聞いた。それから、彼は声を高めて例の図星をさす不気味な僥倖《ぎょうこう》(自分では心理学ともったいをつけている)で「すると奥様は、ヤードレイ子爵夫人とはすでにお知り合いでいらっしゃると見えますね。それともご主人のほうが?」と切り出した。
「グレゴリーが三年前に、西部のほうへ参ったときに、夫人とお近づきになりましたの」
といって、ちょっとためらった後、マーベル嬢は、とって付けたように、
「あなた方のどちらか、社交界のゴシップをお読みになったことおありになりまして?」といった。
そういわれると、我々両人ともお恥ずかしいながら、有罪を認めざるを得なかった。
「こんなことお尋ねしたのは、今週の号に、有名な宝石を扱った記事がでていて、それが全く、奇妙なんで……」
彼女は、ふと言葉を切ってしまった。
私は立って、部屋の反対側のテーブルから、問題の週刊誌を持ってきた。彼女は私からそれを取って記事を捜し出し朗読し始めた。
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──その他、有名なる宝石の中には、ヤードレイ家所有のダイヤモンド「東方の星」も加えるべきであろう。それは当主ヤードレイ子爵の祖先の一人が支那より持ち帰りしものにて、それにはロマンチックな物語がまつわっている。それによると、その宝石はある寺院に安置してある神の右目だったもので、もう一個それと形も大きさも寸分違わないダイヤモンドが左目になっていたが、その物語によると、その宝石もまた、時の経つうちに盗まれるであろうという。そして二つの眼が再び会うまで、一つの眼は西方へ行き、もう一方は東方へ行く。しかし両目はやがて勝利のうちに、神のもとへ戻るであろうというのである。ところが現在、この物語に確かに該当する「西方の星」とよばれる宝石が存在している事実は、不思議な偶然の一致である。それは有名な映画女優メリー・マーベル嬢の所有品となっている。この二つの宝石を比較して見るのは興味深いことであろう……
[#ここで字下げ終わり]
「すばらしい! 疑いもなく第一級品のロマンスでございますね」
と、ポワロはつぶやいた。そしてマーベル嬢にむかって、
「奥様はご心配でいらっしゃいませんか? 迷信的な恐怖をお持ちでいらっしゃらないのでしょうか? このシャム双生児のような二つの宝石を出会わせたとたんに、支那人が現れて、二つともさっとさらって、支那へもっていってしまうのではないかと、ご心配なさらないのでございますか」
と、ポワロはからかうような調子でいったが、その底に真剣さがあるように感じられた。
「ヤードレイ子爵夫人のダイヤモンドが、私のみたいにりっぱだとは思いませんわ。とにかく、私、比べて見るつもりなんです」
と、マーベル嬢はいった。
ポワロが、それについて何をいうつもりであったかは、知る由もなかった。というのは、その時、扉がさっと開いて、素晴らしい美男が部屋へ入ってきたのであった。ぱりっとした黒くちぢれた頭髪から、エナメルの黒い靴先に至るまで、彼はロマンスの主人公にぴったりしていた。
「メリー、僕は迎えに寄るっていったろう。で、このとおり来たんだよ。さて、ポワロ氏は、僕らのちょっとした問題に対してなんといわれたね? 僕のいったように、悪ふざけに過ぎないといわれたろう!」
と、グレゴリー・ロルフはいった。
ポワロは、大柄な俳優を見上げて微笑した。この二人は奇妙な対照をなした。
「いたずらにしても、いたずらでないにしても、私は奥様にその宝石を、金曜日にヤードレイ城へご持参なさらないようにご忠告申し上げたところですよ、ロルフさん」
と、ポワロはぶっきら棒にいった。
「僕も、あなたと同意見です。僕は家内にそのことをいったのです。それだのに、このとおりです! この人は飽くまでも女ですね。きっと他の女が、宝石の点で自分より光っているのが我慢ならんのだろうと思います」
「グレゴリー、ばかなことをいわないで!」
彼女は腹だたしげに、顔を紅潮させて、鋭くいった。
ポワロは肩をすくめた。
「奥様、私はご忠告申し上げました。私はこれ以上は、何もできません。これで終わりでございます」
彼は戸口で、いんぎんに頭を下げて、二人を送り出してしまうと戻ってきて、
「やれ、やれ、これが女性の歴史ですね。善良な夫、彼は図星をさしましたね。それにしても、あの人は機転の利くほうではありませんね、絶対にね!」
私が、自分の漠然とした記憶を語ると、ポワロは大きくうなずいた。
「私もそう思いました。何としてもこれには何か奇妙なものがひそんでおります。私は、ちょっと失礼して外気に当たってきますよ。お願いですから帰るまで待っていてください。長くはかかりませんからね」
宿の主婦が戸を叩いて、部屋をのぞき込んだ時には、私は安楽椅子で、半ば眠っていた。
「また別のご婦人客が、ポワロさんに会いに見えましたよ。お出かけだと申し上げたんですが、田舎《いなか》から出ていらしたらしくて、お待ちするとおっしゃいますが……」
「ここへお通してください、僕が何とかしてあげられるかも知れんですから」
間もなく貴婦人が案内されてきた。私はすぐにそれが誰であるかを知って、びっくりした。ヤードレイ子爵夫人の写真は、新聞や雑誌によく出ているので、誰でもその顔に気づかずにはいられない。
「ヤードレイ子爵夫人、どうぞおかけ下さいまし。友人のポワロは外出中ですが、じきに帰ってくるはずです」
といって私は椅子をすすめた。彼女は礼を述べて腰掛けた。マーベル嬢とは、非常に異なったタイプである。背が高く、濃い色の頭髪で、きらきら輝く眼と、蒼白い高慢な顔つきをしていた。それにもかかわらず、口元に何か思い悩んでいる様子が浮かんでいた。
私はこの機会に、自らの腕前を見せてやろうという野望を抱いた。それは当然のことではなかろうか? 私はポワロの前ではいつも困難を感じる──どうも自分の才能を充分に発揮できない。しかし自分だって相当の探偵的要素をもっていると自認していた。それで私は、衝動的に身を前に乗り出した。
「ヤードレイ子爵夫人、私はあなたがなぜここへおいでになったかを知っています。ダイヤモンドに対して、何通かの脅迫状をお受け取りになったのですね」
私の電撃が命中したことは疑いなしであった。夫人は半ば口をあいたまま私を見つめた。その頬から血の気が失せていた。
「ご存じ? どうして?」と夫人は喘《あえ》いだ。
「しごく、理論的な過程によります。マーベル嬢が警告の手紙を受け取ったとなれば……」
「マーベル嬢? あの方ここへ見えましたか」
「つい今しがた帰られたところです。今も申したように、一対のダイヤモンドの一つの所有者であるマーベル嬢が何通かの脅迫状を受け取ったとあれば、もう一つの宝石の所有者も必然的に、同じ目にあうと考えられるのです。おわかりでしょう、いたって簡単なことです。すると私の推定は誤りませんでしたね、あなたはそうした手紙をお受け取りになりましたのですね」
ちょっとの間、夫人は私を信用していいものかどうか迷うようにためらっていたが、ようやく納得したように、ちょっと微笑してうなずいた。
「そうなのです」
「その手紙はみんな支那人が届けたのですか」
「いいえ郵便で参りました。マーベル嬢もやはり私と同じ経験をなさいましたのですか」
私は今朝のことを、すっかり話した。子爵夫人は注意深く耳を傾けていた。
「すっかり符合しております。私の受けました手紙は、あの方の複写です。郵便で参りましたことは確かです。ただその手紙には妙な匂い……香のような匂いがしみ込んでおりました。その匂いがすぐ私に東洋を思わせました。これはみんな、どういう意味なのでございましょう」
と夫人がいうのに対して、私は首を振った。
「それは我々がこれから探り出さなければならないことです。奥様はその手紙を持っておいでになりましたか? 消印から何か手がかりを得るかも知れません」
「不幸にも私は破り棄ててしまいました。おわかりでしょう。私はその時、愚かしい冗談だと思いましたものですから。ほんとうに支那人の暴力団がダイヤモンドを取り返そうとしているのでしょうか、何ですか信じられない気がいたします」
我々はそれらの事実を幾度もくり返して話し合うだけで、謎の解決には一歩も近づかなかった。ついにヤードレイ子爵夫人は立ち上がった。
「私、ポワロさんをお待ちする必要はないとぞんじます。あなたからポワロさんに、すっかりお話しいただけますね。いろいろありがとうございました。あのう……何ていうお名でしたかしら……」
夫人はためらいながら、手をさし出した。
「ヘイスティングス大尉です」
「そうでいらっしゃいましたね! 私、何て間抜けなんでしょう! あなたはカベンディッシュ家のご友人でいらっしゃいますのね。私をポワロさんのところへ来させましたのは、メイリ・カベンディッシュでございます」
わが友ポワロが帰って来ると、私は留守中に起こった出来事を語って、大いに愉しんだ。彼は私たちの会話の詳細にわたっていくらか厳しく詰問するのであった。
私はそうした彼の言葉の節々に、彼が不在であったことをあまり喜んでいないことを読み取ることができた。それからまた私は、この愛すべき友人が幾分嫉妬を感じているのではないかと思った。私の能力をいつも軽く見るのは、どうやら彼のポーズの一つになっているらしい。
それに彼は別に難癖をつける余地がないのを、口惜しがっていたようにも思われた。私は内心、いい気持ちになっていたが、彼をじらすといけないと思って、その事実を隠すように努力した。彼のそうしたさまざまな特質にもかかわらず、私はこの風変わりな友人に対して深い愛情を抱いているのであった。
最後に彼は奇妙な表情を浮かべて、
「よろしい! 陰謀は進展してきました。君、その棚の上段にある貴族名鑑を取ってくれませんか」
といった。そしてページを繰って、
「ああ、ここにあります。ヤードレイ第十代子爵、南阿戦争に参加……それはあまり重要でなしと……結婚一九〇七年、第三代コッテリル男爵の第四女モード・ストッパートン……二人の娘、一九〇八年および一九一〇年誕生……クラブ員……邸宅……ここにはあまり私どもの知りたいことは書いてありません。けれども明朝、私どもはこの殿様に面会します」
「何ですって?」
「はい、私はヤードレイ子爵に電報を打ちました」
「僕はあなたがこの事件から手を引いてしまわれたんだと思っていました」
「私は、私の忠告をいれなかったマーベル嬢のために行動しているのではありません。私が今していることは、自分を満足させるためです──エルキュル・ポワロの満足のため! 私は断乎《だんこ》としてこの事件に立ち入ります」
「ではあなたはご自分の都合のためにヤードレイ子爵を町まで飛んでこさせるような電報を平気で打ったんですね。子爵は喜ばないでしょう」
「どういたしまして、私がヤードレイ家のダイヤモンドを保護するとなれば、子爵は大そう感謝されるはずです」
「ではあなたは、ほんとうに盗難の形勢があると考えていらっしゃるんですか」と私は熱心に質問した。
「ほとんど確実です。あらゆることが、その方向をさしております」とポワロは落ちつきはらって答えた。
「しかし、今……」
ポワロは手をあげて、私の熱心な質問を制してしまった。
「さて、さて、お願いです。お互いに考えを混乱させないように致しましょう。それからあの貴族年鑑を見てごらんなさい──君の置き方をごらんなさい! 一番丈の高い本は一番上の段、そのつぎに高い本は二段目という工合になっております、こういうふうに私どもは順序と方法を持つことになるのです。このことは度々君に話しましたよ、ヘイスティングス君」
「そうでしたね」
といって、私は急いで年鑑を置くべき場所に置き直した。
***
ヤードレイ子爵は、どっちかというと赤ら顔の陽気で声の大きい運動家タイプであった。機嫌が良くて親しみ深い好もしい態度が独特の魅力となっていて、少々知性に欠けているところを補っていた。
「ポワロさん、これは実に珍しいことですな。何が何やら、さっぱりわからんです。私の妻が妙な手紙を受け取り、マーベル嬢も同じものを貰ったらしいですが、こりゃいったいどういうことなのですかな」
ポワロは社交ゴシップ誌を彼に渡した。
「第一に伺いますが、ここに書いてあることは、真実でございますか」
貴族はそれを手にとって読んでいくほどに、顔が怒りに暗くなっていった。
「とんでもないナンセンスだ! あのダイヤモンドには、そんなロマンチックな話などないです。あの石は元来インドから来たものだと思います。これまでに、支那の神の話など聞いたこともないですな」と、早口にいった。
「それにしても、あの宝石は、東方の星と申す名で知られております」
「それがどうだと申すのですか」
子爵は不興げに問い返した。
ポワロはちょっと微笑しただけで、直接の返事はしなかった。
「殿にお願いするのは、ご自身を私の手におゆだね下さることでございます。もし無条件でそうして下されば、私は災厄を防止するのに大いなる希望を持つことができるのでございます」
「すると、あなたはこの無謀な話に、事実何かあると考えられるのですか」
「私が申し上げるとおりにして下さいますか」
「もちろんいたしますがね……」
「よろしい! では二、三質問をさせていただきます。ヤードレイ城をロケーションにお貸しになると申すことは、殿とロルフ氏との間で、すっかり契約ずみなのでございますか」
「ああ、彼はそのことをあなたに話しましたか。いや、まだ何も確定してはおりません」
といって、子爵は赤ら顔をいっそう赤くして、ちょっとためらっていたが、
「すべてをはっきりさせたほうがよろしいでしょうな、ポワロさん。私はいろいろな点でばかなまねをしました。それで現在は借金で首がまわらぬほどになっております……で、私は何とかしてこの借金から抜けたいと思っておるのです。私は子供たちがかわいいですし、すべてを正常に戻して、住み馴れたこの土地に住んでいたいのです。ロルフ君は、莫大な金額を申し出ております──私が再起できるだけの額面です。だが、私は、それを受けたくないのです。私はこの領地内に、大勢の人間が群がって来たり、芝居をしたりするなどという考えがいやなのです。しかしそうしなければならないかも知れません、もしも……」そこで彼はぽつりと言葉を切ってしまった、ポアロは、彼の顔を鋭く見つめた。
「それではあなたは、他に何か手段がおありなのですね。推量させていただきますが、それは東方の星をお売りになることでございますか」
ヤードレイ子爵はうなずいた。
「そうです、あれは幾代もヤードレイ家に伝わっておりますが、相続人を限定されていないものです。それにしても買い手を見つけるのは容易なことではありません。ハントン・ガーデン商会のホッフベルグが買い手を捜しておるんですが、早くしないと彼の企ては失敗に終わるでしょう」
「もう一つ質問させていただきます。子爵夫人はその計画にご賛成でいらっしゃいますか」
「家内は宝石を売ることにはひどく反対しております。女という者はどういうものかおわかりでしょう? 家内は映画の仕事には夢中なのです」
「よくわかりました」ポワロはいった。
彼はちょっとの間、何か考え込んでいたが、やがて活発な動作で立ち上がった。
「あなたはすぐに城へお帰りになりますね。よろしい! ではこのことはどなたにも、おっしゃらないで下さい……よろしいですか、誰にもでございますよ……そして今晩、私どもをお待ちうけ下さい。私どもは五時少し過ぎた頃に到着いたします」
「いいです。しかし私にはその訳が……」
「それはどうでもよろしいことです。私が宝石を守りさえすればよろしいのでしょう。そうではございませんか」
「そうですが……」
「では、私の申し上げたとおりになすって下さい」
ヤードレイ子爵は、ひどく当惑した面持ちで、部屋を出ていった。
***
我々がヤードレイ城に到着したのは、五時半であった。いかめしい執事に導かれて、腰板をはりめぐらした古風な広間へ入っていくと、薪が勢いよく燃えている暖炉の前に描き出されている美しい画面が、我々の眼に止まった。
それはヤードレイ夫人と二人の令嬢──母親の誇らしげな黒い頭が、二つの金髪の上にかがみ、その背後にヤードレイ子爵が立って、微笑しながら三人を見下ろしている光景であった。
「ポワロ様とヘイスティングス大尉のご到着!」
と執事が、高らかに取りついだ。
ヤードレイ夫人は、びっくりして顔をあげた。ヤードレイ子爵は、ポワロの指図を求めるような眼つきで、おぼつかなげに前へ進み出た。
ポワロは、その場に臨んで少しも動ずる気色がなかった。
「失礼させていただきます! 私はまだマーベル嬢の事件を調査しておりますのでございます。あの方は金曜日にこちらへ見えるのでございますね、そうではございませんか? 私はまず万事が安全かどうかを確かめるために、この旅行をして参ったのでございます。それからもう一つには、奥方様に、例の手紙の消印について何か思いだしていただけないかと存じまして、それを伺いに参ったのでございます」
ヤードレイ夫人は残念そうに頭をふった。
「何も思い出せません。まことに愚かなことでございます。でも、私はあのような手紙は、どれも本気にいたしませんでしたので……」
「あなた方は、今晩お泊まりになりますか」
と、子爵が尋ねた。
「ああ、殿様、そのようなご迷惑をおかけしてはなりません。私どもは荷物を宿屋へおいて参りました」
「いや、ちっとも迷惑なことなどありません。構いません、お荷物は取りにやります」
ポワロはそのすすめを受け、ヤードレイ夫人の側に腰かけて、子供たちと友達になり始めた。間もなく三人は一緒になって戯れ合い、やがて彼はゲームに引き込まれてしまった。
子供たちがいやいやながら、厳格な乳母に連れ去られてしまうと、ポワロは、
「奥方様は、よき母君でいらせられます」
といって、うやうやしく頭をさげた。
「私はあの子供たちを熱愛しております」
「無理もございません」といって、ポワロはもう一度頭をさげた。
晩餐のための着替えの時を告げる鐘が響いてきた。我々は自分たちにあてられた二階の部屋へいこうとした。ちょうどその時、執事が一通の電報を盆にのせて入ってきて、ヤードレイ子爵に渡した。子爵は失礼をわびて封を切った。それを読んでいくうちに、目に見えて緊張した様子が現れてきた。
軽い叫びとともに、その電報を夫人に渡すと、子爵はポワロに視線を投げて、
「ポワロさん、ちょっとお待ち下さい、このことをあなたにお知らせすべきだと思います。この電報は、ホッフベルグから来たものです。ダイヤモンドの買い手を見つけたらしいのです。アメリカ人で明日アメリカに向けて出帆するのだそうです。それで宝石の鑑定家を、今晩ここへよこすというのです。やれ、やれ、もしこれが……」それっきり後の言葉が出てこなかった。
ヤードレイ夫人は後ろを向いてしまった。手にはまだ電報を持っていた。
「ジョージ、お売りにならなければよろしいのに! 長い間、伝わって参ったものを……」
と低い声でいって、返事を待っている様子であったが、何の答えもないので、夫人は頬を硬《こわ》ばらせた。そして肩をすくめて、
「私、衣装換えに参らなければなりません。ポワロさんに商品をお見せしましょうか」といって、ちょっと顔をしかめてポワロを振り返った。
「たいそう醜悪なデザインの首飾りですの! ジョージはいつも嵌め直させてやると約束しながら、とうとうしてくれませんでしたわ」
夫人は部屋を出ていった。
三十分後、我々男三人は大きな客間に集まってヤードレイ夫人を待っていた。もう晩餐の定刻を五、六分過ぎていた。
突然に、微かな衣ずれの音がして、ヤードレイ子爵夫人が戸口を額縁にして、長いきらきらした白いドレスを着た輝くばかりの姿を現わした。彼女の頸筋には焔の小川が巻きついていた。夫人はそこに立って、首飾りに軽く手をあてて、
「この生贄《いけにえ》をごらん遊ばせ! いま大きな電灯をつけて、英国一の醜悪な首飾りを、皆様のご笑覧に供しますわ!」
と夫人は、陽気な調子でいった。先刻の不機嫌さはすっかり消えていた。
電灯のスイッチは、戸のすぐ外側にあった。彼女がそこへ手を延ばしたとたんに、信じがたいことが起こった。何の警告もなく電灯がぱっと消えてしまい、戸が音を立てて閉《し》まった。そしてその外から長く引き刺すような女の叫び声が聞こえてきた。
「どうしたことだ! あれはモードの声だ!」
と子爵が叫んだ。我々は暗闇の中で互いにぶつかり合いながら、盲目《めくら》めっぽうに戸口に殺到した。
我々が何事が起こったかを発見するまでに、かなり手間取った。眼前に見たのは何たる光景であろう! 子爵夫人は大理石の床の上に気を失って倒れ、首飾りをもぎ取られた痕が、白い頸筋に赤く残っている。
ちょっとの間、夫人の生死のほどもわからなかったが、我々がかがみ込んだ時に、瞼《まぶた》が開いた。
「支那人……支那人……側戸……」と夫人は苦しげにささやいた。
ヤードレイ子爵は、呪いの言葉を口にして跳び上がった。私もそれに同調した。私の胸は早鐘をつくように鳴っていた。またしても支那人だ! 問題の側戸は、悲劇の現場から一〇メートルと離れていない壁の一角にある小さな戸口であった。一同がそこへ達した時、私は叫び声をあげた。敷居ぎわにきらきらと輝く首飾りを見たのだ。盗賊があわてて逃げていく時に落としていったものらしい。
私は大喜びでそれを掬《すく》いあげた。そしてまたしても私は叫んだ。ヤードレイ子爵もそれに応じた。というのは、首飾りの中央が、ぱっくり口を開けていたからである。東方の星がなくなっているのであった!
「これで解決がついた。それは普通の盗賊の仕業ではない。彼らが欲していたのは、この一つの宝石だったのだ」と私はいった。
「しかし君、賊どもはどうやって入ったのですか」
「この戸口から」
「しかし戸にはいつも錠がおりておりました」
私は頭を振って、
「今はこのとおり錠がおりていません」といって戸を引き開けた。
その時、何か地面にひらひらと落ちた。それは絹布の切れはしで間違いなく刺繍がしてあった。明らかに支那服から取れたものである。
「あわてたんで、戸にはさまれてちぎれたんだ。さあ、急いで! まだそう遠くへは行かないでしょう」と私は説明した。
しかし我々の追跡も捜索も空しかった。一寸先も見えない闇の中で、賊は造作なく逃げおおせたのだ。我々は仕方なしに客間へ戻った。そして子爵は従僕の一人に命じて、馬車で警官を迎えにいかせた。
ヤードレイ夫人は、ポワロの介抱を受けた。彼はそういうことにかけては、女のように役に立った。おかげで夫人はじきに陳述するだけに回復した。
「私がスイッチに手をかけようとした時に、背後から男がおそいかかりました。男はひどい力で私の頸から首飾りをもぎ取ったので、その勢いで私は仰向けに床に倒れてしまったのです。私は倒れていく時に、男が側戸から出ていくのを、ちらと見ました。三つ組みにした長い髪と刺繍をした服で、それが支那人とわかったのでした」夫人は身震いをして言葉を切った。
執事が再び現われて、ヤードレイ子爵に、
「ホッフベルグ様から遣わされた紳士がお見えになりました。殿様はご承知でおいで遊ばすと申しておられます」と低い声でいった。
「困ったな! 会わぬわけにはいくまい。いやここでなく、書斎に通してくれ」
と、取り乱した子爵は叫んだ。
私はポワロを傍らへ引っぱっていって、
「ねえ、ポワロさん、我々は今のうちにロンドンへ引き揚げたほうがよくはないですか」といった。
「君はそう思うのですか? ヘイスティングス君、なぜですか」
私は、思いやり深く咳をした。
「事がうまく運びませんでした。そうでしょう。つまりあなたは子爵に、すべてをあなたの手にゆだねれば、うまくやるといわれましたね。ところがダイヤモンドは我々の鼻の先で、消え失せてしまったではないですか!」
「さよう、これは私の輝かしい勝利になりませんでしたね」とポワロは、悄気《しょげ》返った。
この出来事をポワロがこんなふうに説明するのを聞いて、私は微笑を禁じ得なかったが、攻撃はゆるめなかった。
「それで……こんな言い方をしては済みませんが……すべてをめちゃめちゃにしてしまったんですから、一刻も早くここを立ち去るほうが恰好がつくんじゃないですか」
「そして晩餐……ヤードレイ家の料理番が調理したすばらしいご馳走にちがいありませんが、それはどうするのですか」
「晩餐が何だっていうんです!」私は気短かにいった。
ポワロは呆れたように、両手をあげて、
「やれ、やれ、この国では料理に対して、そういう罪悪ともいうほどの無関心さを示すものなのですか!」
「我々ができるだけ早くロンドンへ帰らなければならない理由は他にもあります」
「君、それは何ですか」
「もう一つのダイヤモンドです……マーベル嬢の」と私は声を落としていった。
「いったいそれが何だとおっしゃる?」
彼のいつにない鈍感さが、私を当惑させた。日ごろの鋭い機知はどうしてしまったのであろう?
「おわかりにならんのですか。奴らはここで一つ手に入れたから、もう一つのほうも盗みにいくにきまっているのではないですか!」
「お見事! 君の頭脳は非凡な進展をとげておりますね! 私がちょっとの間そのことを忘れていたことを考えてごらんなさい! しかし時間は充分にあります。金曜日でなければ、満月になりません」とポワロはいうのであった。
私は半信半疑で頭を振った。しかし私は自分の意見をおし通し、ヤードレイ子爵に、釈明と謝罪を書き残してただちに出発した。
私は時を移さずマグニフィセント・ホテルへ行って、マーベル嬢に今夜の出来事を話すべきだと思った。けれどもポワロはこの提案をしりぞけ、朝ま大丈夫と主張するのであった。私は不本意ながら、譲歩した。
ところが、私の虫の知らせが正当化される事件が起こった。夜半二時半ごろ電話のベルが鳴った。それに答えたポワロは、しばらく聞いていたが、
「よろしい! すぐ参りましょう!」
と簡単にいって電話を切った。そして私にむかって半ば恥じ入り、半ば興奮した様子で、
「君、どう思います? マーベル嬢のダイヤモンドが盗まれたのですよ」
「何ですって! 満月はいったいどうしたんです!」
私は跳ね起きて叫んだ。ポワロは首を垂れた。
「いつのことですか」
「今朝だそうです」
「僕のいうことを聞きさえすればよかったんですよ。どうです、僕のいった通りでしょう」私は不愉快な気持ちになっていった。
「そうらしいですね。しかし外見はあてにならないと申しますね。それにしても確かにそうらしく見えますね」と、ポワロは用心深い調子でいった。
タクシーをホテルへ急がせていく途中、私はこの陰謀の真の正体をつかもうと、一生懸命に考えた。
「満月というのはうまい考えだ。あれは我々の注意を金曜日に集中させる目的だったんだ。そうやって我々の警戒をわきへそらしてしまう手段だったんだ。あなたが、そこに気がつかなかったのは残念なことでしたね」
「これはしたり! 君、人間は何もかもを考えるわけにはまいりませんよ」
ポワロはたちまち例の無頓着さを全く取りもどして、軽い調子で応酬するのであった。
私はポワロが、どんな小さな失敗でもきらうのを知っているので、少し気の毒になり、
「まあ、元気を出すことですね。この次にはきっと幸運に見舞われるでしょうからね」と慰めるようにいった。
ホテルに着くと、すぐに我々は支配人室に通された。そこにはグレゴリー・ロルフと、警視庁からの男が二人、その向かいに青ざめた顔をした事務員が腰かけていた。
「私らは真相を探ろうとしているところなんです。しかしほとんど信じられないほどです、そいつがどうしてあんな大胆なことができたか、僕には考えられませんね」と彼はいった。
事実をのみ込ませるのには、五、六分で充分であった。ロルフ氏は十一時一五分にホテルを出た。十一時三十分に、誰が見てもロルフ氏そっくりの男がホテルへ入ってきて、倉庫に保管してあった宝石を要求した。彼はしかるべく領収書に署名したが、その際に、無頓着に「いつもの字と少しちがっているが、タクシーを降りる時に手を痛めたんでね」といった。
事務員は微笑してあまり違わないといった。ロルフは笑って「とにかく僕を曲者だなんて思わないでくれ給え、僕は支那人から脅迫状を貰ったんだからね。それに悪いことに僕自身が支那人と似ているんでね──そいつはこの眼のせいなんだ」といった。
これを語っていた事務員は、
「それで私はすぐに、その意味に気がついたんです。眼尻が東洋人のように釣り上がっているんでした。私はその時までそれに気がつかなかったんです」といった。
「ばかにしてやがる! 君、今それに気がつくかね!」ロルフは首をつき出して叫んだ。
事務員は彼の顔を見上げて眼をみはった。
「いいえ、旦那様、そんなことはありません」
我々を見まわしているロルフ氏の正直そうな茶色の眼には、全く東洋人らしいところなど、みじんもなかった。
警視庁の男はいった。
「大胆なやつだ、眼に気がつくと思ったんで、疑惑をそらすために、真向《まっこう》から勇敢にも難局にぶつかったという訳ですな。奴はあなたがホテルを出るのを見張っていて、あなたが立ち去るのを待って素早く入って来たわけですな」
「宝石箱はどうしました?」と私は尋ねた。
「それはホテルの廊下に発見されました。盗まれたのは一個だけ──西方の星でありました」
我々は互いに顔を見合わせた。全体があまりに奇怪で信じがたいものであった。
ポワロは活発に立ち上がって、残念そうに、
「私はあまりお役に立ちそうにありませんね。で、奥様にお会いさせていただきたいのでございますが」といった。
「家内は驚きのために、へたへたになっているようです」とロルフ氏が、いいわけをした。
「では、あなただけと、ちょっとお話をさせていただきましょう」
「よろしいですとも」
五分ほどして姿を現わしたポワロは、
「さて、君、郵便局へ参りましょう。電報を打つのです」といった。
「誰にですか」
「ヤードレイ子爵へ、さあさあ、君、このみじめななりゆきに、君がどんな気持ちになっているか、よくわかりますよ。私は名をあげることができませんでした! 私のかわりに君が名をあげたかも知れませんでしたのにね! よろしい! それですべてが五分五分になりました。さあもうこの事件は忘れて、昼食にいたしましょう」
我々が食事をすませて、ポワロの部屋へ戻っていったのは四時頃であった。窓際の安楽椅子から誰か立ち上がった。それはヤードレイ子爵であった。彼は憔悴《しょうすい》して取り乱していた。
「あなたの電報を見るとすぐに出て来ました。ところでホッフベルグのところへ廻って来たんですがね、昨夜宝石の鑑定に来た男のことも、電報のことも知らぬと申しておりました。あなたのお考えでは……」
といいかけるのを、ポワロは手をあげて制し、
「おゆるし下さい! あの電報は私が打ったものでございます。問題の男は私が雇ったのでございます」
「あなたが? なぜ? なぜですか?」
貴族はつぶやくように、元気なくいった。
「私のちょっとした思いつきが、そういうことを私の頭に持ち込ませたのでございます」
「頭に持ち込ませた! やれ、やれ!」
と子爵は叫んだ。
「で、その策略は成功いたしました。そして殿様にこれをお返しすることができますのは、たいそう喜ばしいことでございます」
ポワロは快活な調子でそういうと、芝居かがった仕ぐさで、きらきら輝くものをさし出した。それは大きなダイヤモンドであった。
「東方の星! だが私には理解ができない……」
ヤードレイ子爵は喘ぐようにいった。
「さようでございますか? しかしそれは問題ではございません。私をお信じ下さい。ダイヤモンドが盗まれたのは必要なことだったのでございます。私はそれをあなたのお手に安全に保つようにするとお約束いたしました。そして私はその言葉を守りました。で、これにつきましての、私のちょっとした秘密はそっとしておいていただきとうございます。どうぞ私の深甚なる敬意を奥方様にお伝え下さいまし。そして奥方様の宝石を取り戻してさし上げることができましたのを、私がどんなに喜んでおりますかを申し上げていただきとうございます。
何とよいお天気ではございませんか。ではさようなら、ヤードレイ子爵!」
この驚嘆すべき小男は、微笑したり、しゃべったりしながら、まごついている貴族を玄関へ送り出しにいった。彼はゆっくりと、手をすり合わせながら戻ってきた。
「ポワロさん、僕の頭は狂ってしまったんでしょうか」と私はいった。
「いいえ、君はただ例によって、心理的五里霧中にあるだけのことです」
「あなたは、どこでダイヤモンドを手に入れたんですか」
「ロルフ君から」
「ロルフ?」
「さようでございます。警告の手紙、支那人、『社交界噂話』の記事などは、すべてロルフ君の利口な頭脳から生まれたものですよ! 二個のダイヤモンド……奇跡的に同じものとはね!そのようなものは存在しておりません。君、あのダイヤモンドは一個よりなかったものなのですよ! 元来ヤードレイ家の蒐集の中にあったものですが、この三年間はロルフ君が持っていたのです。彼は今朝、目尻に黒い隈《くま》をとって、その助けでダイヤモンドを盗んだのですよ。ああ、私はぜひあの人の映画を見なければなりません、あの人は芸術家ですよ!」
「しかし何だって、自分で自分のダイヤモンドを盗んだのですか?」私は訳がわからないので尋ねた。
「理由はたくさんございます。第一にヤードレイ夫人が御しがたくなってきたからです」
「ヤードレイ夫人が?」
「君、子爵夫人がアメリカへ行った時、カリフォルニアで一人きりにされていることが多かったのは知っているでしょう。ヤードレイ子爵は夫人を放っておいて勝手に楽しんでいました。ロルフ君は美男でロマンチックな気分を漂わしておりますが、実際はたいそう事務的な人です。彼はヤードレイ夫人に恋をしかけ、その後で脅迫しました。先夜、私は夫人を責めて真実のことを吐かしてしまったのです。夫人はただ無分別だっただけで、それ以上ことはなかったと誓いました。私はそれを信じました。しかしロルフ君は夫人の書いた恋文を持っていました。それはちょっとひねれば深い意味があるように受け取られるのでした。夫人は離婚だの、子供から引き離されるという脅迫におびえて、彼のいうがままになりました。夫人は自分で自由にできる現金を持っていなかったので、彼に強いられて、ダイヤモンドの模造品と本物をすり替えることに同意しました。西方の星の出現の日付との偶然の一致が、すぐに私の注意を引いたのです。すべてがうまく運んでおりました。ヤードレイ子爵は財政整理をして身を固める決心をしました。そこでダイヤモンドを売るという厄介な問題が起こりました。そういうことになれば模造品だという事実が露見します。ヤードレイ夫人は疑いもなく、ちょうど英国に到着したロルフに気違いのようになって手紙を出しましたでしょう。彼はうまく手配することを約束して夫人をなだめました──そして二重の盗難事件を計画しました。それによって夫人を静まらせました。さもないと夫人は夫にうち明けるかも知れません。それが公の事件になれば、これは脅迫者にとってはおもしろくありません。彼はダイヤモンドにつけた五十万ポンドの保険金(ああ、君はこの事実を忘れていましたね)とダイヤモンドを手に入れることができるのですからね。そこで私は、ちょっとお節介をしてみた訳です。ダイヤモンドの鑑定人の到着が報じられる。そこで夫人は私の予期したとおりすぐに盗難事件の準備に取りかかりました。そして万事うまく運びました。けれどもこのエルキュル・ポワロは事実以外のものは何も見ません。実際にどのようなことが起こったかと申しますと、夫人は電灯を消し、扉を叩きつけ、首飾りを廊下に投げ出し、悲鳴をあげました。ダイヤモンドは二階ですでに取りはずしておいたのです……」
「しかし僕らは、夫人の頸に首飾りが巻いてあるのを見ました」と私は抗議した。
「君、悪かったですね、夫人は東方の星を取ってしまった隙間が見えないように、手をあてていましたよ。前もって扉の間に絹のきれっぱしをはさんで置くなんて子供だましです。もちろんロルフは、その盗難事件を朝刊で読むと、すぐにあのちょっとした喜劇を脚色し、たいそう上手に演じました」
「あなたは、ロルフに何とおっしゃったんですか」
私は強い好奇心にかられて、質問した。
「私は、ロルフ君に、ヤードレイ子爵夫人は、すべてを夫に告白し、子爵は私にダイヤモンドを取り戻すことを依頼されたと告げ、もしすぐ渡さなければ、訴訟手続をとると申したのです。その他に少しばかり、思いつきの嘘も申しそえたので、ロルフ君は私の意のままになってしまいました」
私はそれらの事実を、よく考えてみたうえでいった。
「マーベル嬢に対して、少し不公平な気がしますね。何の罪咎《つみとが》もないのに、ダイヤモンドを失うなんて」
「何をいっておいでなさる! マーベル嬢にとってすばらしい宣伝になったではありませんか。それはあの女優さんの、何よりも望むところです。それに一方は良き母親で、女らしい女ですからね」と、ポワロはぶっきら棒にいった。
私はポワロの女性観に同調しかねたが、
「そうですね。で子爵夫人に脅迫状を送ったのはロルフだったというわけですか」と半信半疑でつぶやいた。
「どういたしまして、子爵夫人はメリー・カベンディッシュの忠告で、苦境から救ってもらうために、私のところへ来られたのです。ところが自分の敵であるマーベル嬢がここへ来たと知って、急に気を変え、君の持ち出した口実に飛びついたのですよ。ほんの少しの質問をしただけで、私には、手紙の件を話したのは夫人ではなく君だと申すことがわかりましたよ! 夫人は君の言葉が提出したチャンスに飛びついたのです」
「僕はそんなこと、信じませんよ!」私はむっとしていい返した。
「そこですよ、君が心理学を研究しないのは、残念なことだと申すのは! 夫人はその無名の手紙をみんな破り棄てたと君にいいましたね。ところがね、君、女性というものは、できれば手紙を決して棄ててしまわないものです! 時には破棄してしまったほうが、用心のためになるとわかっている場合にもですよ!」
「もうたくさんです! とにかくあなたは僕を、完全に愚弄しましたね! 徹頭徹尾! だめですよ、後になっていくら弁解したって……ものには程度がいるものですよ!」
私はこみあげてくる怒りにまかせていい放った。
「しかし君があまりにうれしがっていたので、私は君の空想をこわしてしまうに忍びなかったのです」
「何ていったってだめですよ。あなたは、今度という今度は、度を越してしまいましたよ」
「これはしたり、君はまた何だって、こんな何でもないことに、そんなに腹を立てておいでなのです」
「僕はもう、うんざりしましたよ」
私は部屋の戸を叩きつけて、外へ飛び出してしまった。ポワロは私をいい物笑いにした。私は、彼を存分に懲《こ》らしめてやろうと決心した。相当の期間がすぎるまで、恕《ゆる》してやるものか!ひとをおだててばかを見させて!
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首相誘拐事件
世界大戦も、戦争の諸問題も、すべて過去の出来事となってしまった今日では、国家の危機に際してわが友ポワロの演じた役割を、世間に公表してもさしつかえないだろうと思う。その秘密は実によく守られてきた。新聞にはその片鱗さえも伝わらなかった。しかしもはや秘密の必要はなくなったのであるから、風変わりな友人のすばらしい頭脳の働きによって、重大な破局を回避させた事実を発表して、英国がいかに彼に負うことが多かったかという事実を、国民に知らせるのは、正当なことだと私は考えている。
ある晩──日付はいうに及ばない、ただ、英国の敵方では「平和協定」という言葉が、しきりに叫ばれだしたころといえば充分であろう──私は食後ポワロの部屋にいた。私は傷痍《しょうい》軍人として陸軍から除隊になって以来、新兵募集の仕事をあてがわれていたので、毎晩食事をすますとポワロの部屋へいって、彼の扱っているどんな事件でもおもしろそうなものにぶつかると、しばらくそれについて語り合うのが習慣となっていた。
私は、その日のセンセーショナルなニュースを彼と論じようとしていた。そのニュースとは他ならぬわが英国首相、デビッド・マクアダム氏暗殺未遂事件であった。新聞の報道はいずれも明らかに注意深く検閲されたものであった。弾丸がわずかに頬をかすっただけで、首相は危うく死を免れたというだけで、詳細について何も報じていなかった。
こうした暴行が可能であったということは、わが警察が不面目にも不注意であったに違いないと私は考えた。私だって英国にいるドイツのスパイどもが、このような偉業のために喜んで危険を冒すことはよく承知している。首相は、自党から「戦闘マック」と渾名《あだな》をつけられているだけあって、ようやく勢力を増してきた平和論者を真向《まっこう》から猛烈に攻撃していた。
彼は英国の首相というよりも、英国そのものであった。したがって彼をその勢力範囲から取り除くことは、大英帝国を叩き潰し、その国力を麻痺させてしまうほどの打撃となるのであった。
ポワロは、灰色のズボンを小さなスポンジでクリーニングするのに忙殺されていた。ポワロほどの伊達男《だておとこ》は見たことがない。清楚と整頓は彼の情熱を傾けるところである。ベンジンの匂いが空気に満ちている現在、彼は私に充分な注意を向けるわけにはいかなかった。
「もうちょっとで、お相手しますからね。まずこれをすましてしまわなければなりません。脂肪のしみです──これはよろしくありません──これで取り除きます!」彼はスポンジを振って見せた。
私は新しく煙草に火をつけながら、微笑した。
「何かおもしろいことがありませんか」私は、二、三秒してから尋ねた。
「私は……何と申しましたっけ……それ、雑役夫人の旦那様を捜してあげるお手伝いを頼まれました。なかなか機転のいる、むずかしい仕事でございます。私のちょっとした考えではその旦那様は発見されるのを喜ばれないらしいのでございます。君だったらどうなさる? 私といたしましては、旦那様のほうに同情しておりますのでね。彼は自分を滅ぼすには、分別のありすぎる男でございます」
私は声をあげて笑った。
「ようやく、しみが取れました。さあ、君のお相手をいたしましょう」
「僕は、マクアダム暗殺未遂事件を、どうお考えですかと質問しているんですよ」
「児戯《じぎ》にひとしい! 誰も本気には受けとりません。ピストルで狙撃するなどと申すことはけっして成功いたしません。陳腐なやり方でございますね」とポワロは即座に答えた。
「今度の場合は、ほとんど成功したじゃないですか」と、私は彼の注意をうながした。
ポワロはじれったそうに、頭を振った。彼が答えようとしたところへ、宿の主婦が戸口から首を出して、二人の紳士がポワロ様に面会しに階下へ来ていると告げた。
「お名前はおっしゃらないんですよ。でも、非常に重要な要件があるとかいっていらっしゃるんでね」
「お通し申して下さい」ポワロは灰色のズボンをていねいに畳みながらいった。
女中に案内されて入ってきた人を見て、私はびっくりした。何とそれは下院の首領エステア卿と戦時内閣の閣員で首相の親友として知られているバーナード・ドッジ氏ではないか!
「ポワロ氏でいられますね」というエステア卿の言葉に対して、わが友は頭を下げた。
卿は私を見て、ためらった。
「私の要件は秘密を要するので……」
「ヘイスティングス大尉の前では、安心してお話下さいませ。大尉はけっして才能に恵まれたほうではございませんが、信用のおけます点では私が保証いたします」ポワロは私に止まるようにうなずいた。
エステア卿はなおもためらっていたが、ドッジ氏が横合いから不意に口を出した。
「さあ、そんな廻りくどいことをしておるのはよしましょう。ぐずぐずしておるうちに、全英国に知れ渡ることです、時間が問題ですぞ」
「どうぞおかけ下さい、エステア卿は、こちらの安楽椅子へ」とポワロは、ていねいにいった。
エステア卿は、ぎくりとして
「あなたは、私をご存じで?」といった。
「もちろんでございます。私は写真画報を読んでおります。あなた様をぞんじあげないはずはございません」とポワロは微笑した。
「ポワロさん、私どもは死活に関する緊急事件についてご相談に参ったのです。それには絶対秘密を守っていただかねばなりません」
「このエルキュル・ポワロをお信じ下さい。それ以外に何とも申し上げようがございません」
ポワロは、胸を張っていった。
「これは首相に関することで、私どもは非常な困難に陥っておるのです」
「我々は進退きわまっておるのです」ドッジ氏が口をはさんだ。
「すると負傷が重体なのですか」と私は尋ねた。
「負傷とは?」
「弾丸による負傷です」
「ああ、あれか! あんなものはもう古い歴史だ!」ドッジ氏は、軽蔑するようにいった。
「私の友人のいうとおり、あの事件は幸いにして、狙撃者の失敗に終わってしまったですが、第二回目の企てがあったといわねばならんのです」
「第二の暗殺を謀ったとおっしゃるのですか」
「そうです。第一回目のとは性質が違うのですが、実はポワロさん。首相が失踪してしまったのです」
「何です?」
「首相が誘拐されたのです」
「そんなこと、不可能だ!」私は呆然として叫んだ。
ポワロは、私を悄《しょ》げさせるような視線をなげて、私の口をふさいでしまった。
「不幸にして、不可能であるべきにもかかわらず、それは事実なのです」と卿は続けた。
ポワロはドッジ氏のほうを見て、
「あなたは、先刻、時間が問題だと仰せになりましたが、あれはどういう意味なのでございますか」と質問した。
二人の紳士は、ちらと視線をかわした。それからエステア卿が語りだした。
「ポワロさんは、連合国会議が近く開かれるのをご承知でしょうな」
ポワロは、うなずいた。
「無論、場所と日時は秘密にしてあります。これは新聞にも発表されておりませんが、外交界では誰でも知っておるとおりに、会議は明木曜日の夜フランスのベルサイユで開かれるのです。これでポワロさんにも、事態の重要性がおわかりと思います。正直に申しますと、この会議に首相が列席されることは絶対必要なのであります。ドイツのスパイの流布する例の平和攻撃がきわめて強力になりつつある今日、この会議の危機を連合国側に有利に導き得るのは首相の強い人格あるのみだというのが一般の意見なのです。首相の欠席は重大な結果──つまり恐るべき災害をもたらすような早すぎる平和論に衆議が傾くおそれがあるのです。しかもこの会議に英国を代表してパリに赴く者は、彼をおいて他に人を見ない……」
ポワロの顔は厳しくなった。
「すると首相を誘拐したのは、会議に列席するのを妨げるのが直接目的だとお考えなのでございますね」
「たしかにそうだと思います。事実、首相は会議に向かう途上であったのです」
「会議はいつ開かれるのでございますか」
「明夜、九時!」
ポワロはポケットから、古風な銀側時計を取り出した。
「今は九時十五分前でございます」
「二十四時間しか無いわけだ……」ドッジ氏は沈痛な面持ちでいった。
「二十四時間と十五分ございます。十五分がたいそう有効な場合もあることをお忘れないように。さて事件を詳しく承《うけたまわ》りましょう。誘拐されたのは英国でございますか、それともフランスで?」
「フランスです。マクアダム首相は今朝フランスへ渡られ今夜は英国軍の本営に一泊の予定でした。首相は駆逐艦で英仏海峡を越え、ブーロン港に着くいなや、本営から出迎えに差し廻された自動車で出発されたまま行方不明となられたのです」
「何とおっしゃいます?」
「つまり、ブーロン港から出発したきり、先方へ到着されないのです」
「それはまたどういう訳で?」
「ポワロさん、その自動車は贋物《にせもの》だったのです。英軍本営から差し遣わされた自動車は路傍に発見され、運転手も、出迎えの副官も猿ぐつわをはめられておったのです」
「贋車は?」
「まだ捕まらんです」
ポワロは、もどかしげな身ぶりをした。
「信じがたい! そのように長い間、警察の眼を逸《のが》れておられますでしょうか」
「私どももそう思っておりました。単に捜索法が行き届きさえすれば、問題はないように思われておったのです。フランスのあの地区は戒厳令下にあり、フランスの警察も、憲兵隊も、全力を傾けておるのですから、贋自動車がそういつまでも見つからずにいるはずはないと信じておったのです。ポワロさんのいわれるとおり、信じがたいことですが、まだ何の手がかりも見いだされておりません」
その時、扉を叩いて若い士官が入って来た。彼は厳重に封印した封筒をエステア卿に渡した。
「閣下、フランスからの情報であります。ご命令どおり持参いたしました」
卿は急いで封を切って、感動の叫びをあげた。士官は退出した。
「ようやくニュースが入った……今しがた届いた暗号電報を訳したもので、これによると、贋自動車を発見したそうで、麻酔をかけられ、四肢を縛られ、猿ぐつわをはめられた秘書のダニエルスを乗せたままシエニユ付近の持ち主のない農場に棄ててあったというのです。彼は背後から不意に鼻と口をふさがれ、自由になろうとして身もがきしたこと以外は何も記憶していないといい、警察でもその陳述の真実性を認めたというのです」
「で、そのほかには、何も発見しないのでございますか」
「そうです」
「首相の死体もないのでございますね。それなら望みがございます。ただ不思議なのは、今朝は暗殺しようとしていながら、今度は殺す機会を持ちながら生かして置くと申すのは、どういう訳でございましょうか」
ドッジ氏は頭を振った。
「その訳は私にはわからんが、ただ一つだけ確実なのは、相手がいかなる犠牲を払っても英国首相の会議出席を阻止しようとしておることですな」
「もし人力で及ぶことでしたら、私は断じて首相を会議に間に合わせるように努力いたしましょう。すでに遅すぎると申すことのないように、神よこの願いを容れたまえ。さて、閣下、どうぞ、最初からの事件の経過をあますところなく伺わせていただきましょう。今朝の狙撃事件からお願いします」
「昨夜、首相は秘書官の一人ダニエルス大尉を伴って──」
「フランスへ随行した秘書官と同一人物でございますか」
「そうです。で首相は国王陛下に謁見するためにウインザー離宮へ自動車で参内され、今朝早くロンドンへ帰る途中で狙撃されたのでした」
「ちょっとお待ちください、そのダニエルス大尉とは何者でございますか。閣下はその人物に関する書類をお持ちでいらっしゃいましょうか」
エステア卿は、微笑した。
「そういう質問が出るだろうと思っておりました。私どもはあまり詳しいことは知っておりません。彼は名門の出ではないですが、相当の家に生まれ、英国陸軍の出身で、非常に敏腕な秘書で、特に語学に堪能で、確か七か国の言葉を自由に操り、首相が彼をフランスへ随行させたのも、そのためであったのでした」
「英国に親戚を持っておりますでしょうか」
「伯母が二人おるだけで、エベラート夫人はハムステッドに家庭を持ち、もう一人は老嬢でアスコット付近に住んでおります」
「アスコット? それはウインザー宮の近くでございますね」
「その点も私どもは見逃しはいたしませんでした。しかし別に怪しむべき廉《かど》もないと申す報告でした」
「そういたしますと閣下は、ダニエルス大尉には疑うべき余地なしとお考えなのでございますね」
それに答えたエステア卿の声は、苦々しさを帯びていた。
「いや、ポワロさん、今日のような時勢では私は何人《なんびと》に対しても、疑うべき余地なしなどと、断言するわけにはいかんですな」
「なるほど、ところで、首相は当然、いかなる襲撃も不可能なほど厳重な警護の下にあったはずだと思われますが、その点、閣下のお考えはいかがでございましょう」
エステア卿は、うなだれた。
「たしかにそのはずでした。首相の自動車のすぐ後から、数名の私服刑事を乗せた自動車が付き添っておりました。首相自身はほとんど恐れの何者たるかを知らぬほどで、もしそうした護衛がついていると知ったなら、勝手に彼らを追い払ってしまわれたでありましょう。それで警察側でも自然、私服を用いる手段を取ったわけで、実は首相の自動車の運転手オマーフイも警視庁警部だったのでした」
「オマーフイ? それはアイルランド系の名でございましたね、そうじゃございませんか」
「そうです、彼はアイルランド生まれです」
「アイルランドのどの地方の出でございますか」
「カンテイ・クレアだと思います」
「なるほど! どうぞ先をお続け下さい」
「首相はウインザーからロンドンに向かって出発しました。自動車は箱型でした。首相と秘書のダニエルス大尉とが中の座席に並んでおりました。第二の自動車は、いつものように、すぐその後に続いて走っておりました。しかしながら不幸にも首相を乗せた車は、何か不明の理由で本道をそれてしまいました」
「それは道路がカーブしているところだったでございましょう」とポワロが言葉をはさんだ。
「そうです──ポワロさんはどうしてそれをごぞんじなのですか」
「ああ、それは明白なことでございます。どうぞ!」
「何か不明の理由で首相の車は本道を外《はず》れましたが、警察の車はそれとは気づかずに本道をまっすぐ走っていったのでした。さて首相の車は人通りの稀な横道を少しいったところで突然マスクをした男の一隊にホールドアップされました。運転手は……」
「勇敢なるオマーフイ!」ポワロは考え深い調子でつぶやいた。
「運転手は呆気にとられて、あわててブレーキをかけました。首相は何事かと窓から頭を出しました。その瞬間轟然たる銃声が起こりました。第一弾は首相の頬をかすり、第二弾は幸運にも全く的を外れました。運転手は危険に気づくやいなや、車をまっしぐらに前進させて暴漢どもを追い散らしてしまいました」
「危機一髪でしたね!」私は身慄いをしていった。
「首相はちょっとしたかすり傷ぐらいで騒ぐことはないといわれました。そして途中の簡易病院によって傷の手当を受け繃帯《ほうたい》をしてもらいました。もちろん首相であることは明かしませんでした。そして予定のごとくまっすぐチャリンクロス駅に自動車を向けました。駅にはドーバー港行きの特別仕立ての列車が首相を待っておりました。そこでダニエルス大尉から憂慮している警官に途中の出来事に関する簡単な報告があって、首相はドーバーに向かいました。ドーバー港から首相の一行は駆逐艦に乗船しました。ブーロン軍港にはご承知のように軍用自動車が英国旗をかかげ、その他すべての点に怪しむべきところなく出迎えておりました」
「それですべてでございますか」
「これで全部です」
「もしやして、何かお洩らしになったことはございませんでしょうか」
「そういえば、一つ奇怪なことがあります」
「何でございます?」
「チャリンクロス駅で首相をおろして後、その自動車が官邸に戻らなかったことです。運転手のオマーフイを訊問しようとしていた警察でただちに捜索を開始したところ、首相の自動車が、ソーホー街のドイツのスパイの密会所として知られている、いかがわしい小料理店の前に乗り棄てられているのを発見しました」
「で、運転手は?」
「運転手はどこにも見いだされませんでした。彼も失踪してしまったのです」
「すると二人の失踪者があるわけでございますね。首相はフランスで、オマーフイはロンドンで」とポワロは考え込みながらいった。
彼はエステア卿に鋭い視線を送った。卿は絶望の身ぶりをして、
「ポワロさん、私としていえることは、もし誰かが昨日、私にオマーフイは叛逆者だということをほのめかしたら、私は大笑いしてやったろうということだけです」といった。
「で、今日は?」
「今日は、私はどう考えてよろしいか、わからんですな」
ポワロは重々しくうなずいた。彼は再び大きな銀時計を見た。
「閣下方にご諒承いただきたいのは、私が自由行動を取らせていただくことでございます。あらゆる意味でございます。私はどこへ参って何をいたそうと、自由にさせていただきたいのでございます」
「完全に自由にしていただきましょう。今から一時間のうちにドーバー向け特別列車が、警視庁からの分遣隊を乗せて出発します。ポワロさんには陸軍将校と警視庁の者を随行させますから任意にお使いください。これでご満足ですか」
「充分でございます。閣下、お帰り前に、もう一つだけ質問させていただきます。どういうわけで、閣下は私のところへおいでになったのでございます。私はこの大ロンドンにおきましては無名の漠たる存在でございますのに」
「私どもは、あなたのお国の非常に高貴なお方のご希望とご勧告によって、あなたを捜し出したしだいであります」
「そういたしますと、私の旧友の知事……」
「いや、知事よりも高貴なお方であります。そのお方の言葉は、かつてはベルギーにおける法律でありましたし、再びそうなられるはずであります。それはわが英国が宣誓したところであります」
ポワロはさっと手をあげて劇的な敬礼をした。
「そのことに対して私は神に感謝いたします。閣下、このエルキュル・ポワロは忠実にご奉公いたしましょう。ただ天の配剤で、間に合ってくれますよう念じております。しかしこの問題はお先真暗で、私はまだ見きわめがつきません」
二人の大臣の背後に扉が閉まると、私はやきもきして叫んだ。
「ポワロさん、あなたはいったいどう考えているんですか」
ポワロはすばやい器用な動作で、旅行用品を鞄につめるのに忙しかった。
「私にはどう考えてよろしいかわかりません。私の脳みそが、私を見棄ててしまいました」
「とにかく、さっきもポワロさんがいわれたように、暗殺すれば簡単だのに、どういうわけで誘拐したんでしょうね」と私はいった。
「君、失礼ですが、私はそういうことは申しませんでしたよ。疑いもなく、首相を誘拐したことは、彼らにそれ以上の目算があったと申せますね」
「なぜですか?」
「なぜと申しますと、不安は恐慌をかもし出すからでございます。それが一つの理由でございます。もし首相が死んだとすれば、それは非常な災厄でしょうが、事態に直面することができるでしょう。しかし現在の私どもは麻痺状態におかれています。首相は再び姿を現わすであろうかどうか? 死んだのだろうか? 生きているのだろうか? 誰も知りません。それがはっきりするまでは何とも手の打ちようがございません。で私の申しましたように不安は恐慌をきたすものでございます。そこがドイツ側の狙いでございます。それにまた、もし誘拐者が首相をどこかへ秘かに隠しているといたしますと、彼らは両国に対して条件を出すことのできる有利な立場を保つことになります。ドイツ政府は普通あまり気前のいい支払人ではございません。けれどもこのような場合にはおそらく彼らは充分な支払金をしぼり取ることができるでございましょう。第三に彼らは殺人罪に問われるような危険は犯さないでございましょう。そうです、確かに誘拐が彼らの目的でございます」
「もしそうだとしたら、なぜ、最初に暗殺しようとしたんでしょう」
ポワロは、腹立たしげな表情をした。
「ああ、私に理解できないのは、そうです! 説明がつきません──ばかげています。彼らは首相誘拐の計画を実に巧妙にたてました。それでいながら、映画向きの俗受けするような狙撃事件の一幕を演じて、せっかくの苦心をくつがえすような危険を冒すとは全く不自然です。ましてロンドンから二十キロと離れていない地点に、覆面の凶漢が現われるなどとは信じられません」
「おそらくこの二つの事件は、互いに何の関係もない、別個の企てだったんでしょう」
「いや、そんなことはございません。それはあまりに照合した点があり過ぎます! まず、誰が首謀者かが、問題です。とにかく第一の事件に首謀者があったはずです。誰だったでしょう? 秘書のダニエルス大尉? それとも運転手のオマーフイ? この二人のうちの、どっちかにちがいございません。さもなかったら、どうして自動車が本道をそれたのでしょう? 首相が自分の暗殺者を見のがすはずはありません!オマーフイが自分で自動車を横道に入れたのでしょうか、それともダニエルス大尉に指図されたのでしょうか?」
「オマーフイの仕業にちがいないんですよ」
「そうですね、もしダニエルス大尉の仕業とすれば、首相はその命令を聞いて、理由を糺《ただ》されたはずでございます。それにしてもこの事件は矛盾した疑問だらけです。もしオマーフイが陰謀者の一人でないとしたら本道から外れるはずはございません。反対に敵に組みしていたとすれば、なにゆえ狙撃された時に、たった二発の弾が射たれただけで車を高速度に前進させて凶漢の中を突破して首相の命を救ったのでございましょう? またもし彼が一味でないといたしましたら、首相をチャリンクロス駅でおろしてから、なぜその車をドイツ・スパイの密会所と知られている場所へ持っていったのでございましょう?」
「とにかく運転手には、疑うべき点が多いですね」
「この事件を順序だてて検討してみようではございませんか。この二人の男に対して疑うべき点は何でしょうか? まずオマーフイを取り上げます。疑うべき点は彼が自動車を予定の道からわき道へ入れたこと、アイルランド独立運動の中心地の出身であること、失踪したこと。次に信用すべき点は、首相を危険から救い出したこと、彼は警視庁が信頼して選抜した刑事であること。第二に秘書のダニエルス大尉ですが、彼については過去の身元が詳細に知られていないこと以外には、ほとんど疑う余地はございません。強いて不利な点をあげれば、英国人にしてはあまりに外国語に通じ過ぎていること(失礼ですが、元来英国人は語学者でございませんからね)、彼に有利な点は、麻酔をかけられ、猿ぐつわをはめられ、縛られていたことで、この事実は彼が共謀者でないことを語っております」
「しかし嫌疑を避けるために、自分で縛ったかも知れないでしょう」
ポワロは頭を振った。
「フランスの警察は、こういう点では、ぬかりはございません。彼が共謀者なら、首相誘拐の目的を達した後に残っている必要はございません。もちろん共謀者が彼に麻酔剤をかがせてころばして置いたとも考えられますが、そのようなことをして、何の役に立つのか私には理解できません。とにかくこの事件が解決するまでは、彼は容疑者の一人として厳重に監視されるにきまっておりますから、彼をそのような手間をかけて残して置いても利用できないはずでございますからね」
「あるいは捜査方針を誤らせるためかも知れないでしょう」
「ではなぜ、彼はそれに相応した陳述をしないで、ただ何者かに口と鼻を押さえつけられたのを覚えているだけで、後は何も知らないと申し立てたのでございましょう? そこには何の偽りの匂いも見いだせません。彼の陳述は真実らしく思われますね」
私は時計を見あげて、
「さあ、そろそろ出かけましょう。フランスへ渡ったら、何か手がかりを得るでしょうね」
といった。
「さあね、君、それは疑わしゅうございますね。戒厳令下の小区域で起こった事件で、首相を隠して置くのはたいそう困難なはずですのに、まだ見つからないとは、信じがたいことでございますね。しかし両国の軍隊と警察が協力してさえ発見できないでおりますのに、どうして私に見つけることができましょう」
チャリンクロス駅では、ドッジ氏が我々を迎えた。
「こちらは警視庁のバアンス探偵、それからこちらはノルマン少佐で、あなたのご用は何でも勤めることになっておるのです。ポワロさんのご幸運を祈ります。実に厄介なことですが、私は希望をすてないです」というと、彼は忙しげに、大股に立ち去った。
我々はノルマン少佐と、取りとめのないおしゃべりをしていた。プラットフォームに数人の男が群がっている中心に、私は小柄な白イタチのような顔つきの男が背の高い色白の男に何か話しているのを見つけた。彼はポワロの旧友、ジャップ警部で、警視庁きっての腕ききと目されている人物である。彼はこっちへやって来て、快活な調子でポワロに挨拶をした。
「あなたもこの事件を担当しておられると聞いたですよ。今までのところ相手は実に手際よく獲物をさらっていったですが、そういつまでも隠しては置けんですよ。うちの者たちがフランスじゅう櫛の歯ですくようにしておるですし、フランスの警察だってそうですからな。ここまで来れば首相を救い出すのも、時間の問題だと思われますな」
「ただし首相が無事に生きておられればですな」と、背の高い探偵が沈痛な調子でいった。ジャップ警部は顔を曇らせた。
「そうだが……私は何だか首相が大丈夫生きておられるような気がする」
ポワロは、うなずいた。
「さよう、さよう、生きておられます。しかし間に合うように救い出せるかどうかが問題でございます。私もジャップさんと同様に、首相がそういつまでも隠されておいでになるとは信じません」
汽笛が鳴り、我々は列になって一等寝台車へ乗り込んだ。列車は気乗りのしない、ゆっくりした動作で動きだし、やがて駅をはなれた。
妙な旅行であった。警視庁の人々は、北部フランスの精密地図をひろげて、道路や村の所在を熱心に指先で辿《たど》って、それぞれの意見を出していた。それにひきかえ、ポワロは日頃のおしゃべりに似合わず黙り込んで、途方に暮れた子供のような表情をして眼の前をじっと見つめているのであった。私はノルマン少佐と話ばかりしていたが、彼はなかなか愉快な人物であった。
ドーバーに着いてからのポワロの行動は、私をひどくおもしろがらせた。乗船する時に、彼は私の腕にしがみついた。風は活発に吹いていた。
「ああ……恐るべきことだ!」と彼はつぶやいた。
「ポワロさん、勇気を出してくださいよ。あなたはフランスへ渡りさえすれば、きっと成功しますよ。首相を発見するにきまっていますよ、僕はそう信じています」と私は励ました。
「君は、私の感情を取りちがえておいでになる。私が恐れておりますのはこの不埒《ふらち》な海でございますよ。船酔いともうすものはまことに辛いものでございますからね」
「なあんだ! そんなことだったんですか」と私は呆れ返っていた。
最初のエンジンの響きとともに、ポワロはうめいて眼を閉じた。
「ノルマン少佐が北部フランスの詳しい地図を持っていますよ、もしご覧になるなら借りてきます」
ポワロは、腹立たしげに頭を振った。
「いや、いいです! 君どうか私を放っておいてください。考える時には、胃袋と頭脳が調和していなければならないものですからね。ラベルギイユが船酔いを避けるたいそう優秀な療法を説いておりましたっけね、呼吸をゆるくすること、吸ってから吐き出すまで、一、二、三と六まで数えながら、静かに頭を左右にまわすこと……」
私は彼が体操式の努力をしている間に、そっと甲板へ出ていった。
船がブーロン軍港に静かに横着けになると、ポワロはきちんと服装を調えて、にこにこしながら現われ、私の耳にラベルギイユの療法はすばらしく効果があったとささやいた。
ジャップ警部は、依然として指先で彼の想像する道筋を地図の上に辿っていた。
「ばかげているよ! ブーロンから自動車が出発して……ここで分岐している。私の考えでは、奴らは首相を他の車に移したんだ、そうだろう?」
「さて、これから港々を調べる。私は十中八、九までは、首相は船中に監禁されておられると思うね」
と背の高い探偵がいうと、ジャップは頭を振った。
「わかり切っておるじゃないか。船舶は航海中のものも、碇泊中のものもすぐに捜索が行われてしまっておるし、各港湾は厳重に監視されているじゃないか」
一同が上陸したのは、ちょうど夜が明けた時であった。ノルマン少佐はポワロの腕に手を触れて、
「軍用自動車が、あなたをお待ちしております」と告げた。
「ありがとう存じますが、ただいまのところ、私はブーロンを離れようとは思いません」
「何ですって?」
「私どもはこの波止場のホテルに入ります」
彼の言葉はすぐに行動に移され、彼の要求に従って、私室が予約された。我々は当惑するばかりで、訳がわからずに、彼の後についていった。
彼は我々に鋭い視線をなげた。
「りっぱな探偵は活動すべきだとおっしゃるのですね? 私にはあなた方のお考えがよくわかっております。りっぱな探偵は精力に溢れているべきだ。彼はあちら、こちらを飛び廻る。地面を這いまわり、小さな眼鏡でタイヤの跡を捜したり、煙草の吸殻を集めたり、マッチの燃えがらを拾い歩くものだ、それがあなた方の探偵に対する観念なのでございましょう?」
彼の眼は我々に挑戦していた。
「しかし、申し上げておきますよ。このエルキュル・ポワロは、そのようなことはいたしません! 真の証跡はこの中にあるものでございます」といって彼は自分のひたいを叩いて見せた。
「よろしいですか、私はロンドンを離れる必要はなかったのでございます。私にとりましては、自分の部屋で、静かに椅子に腰かけているだけで充分なのでございます。すべての事柄はこの灰色の脳細胞の内部にあるのでございます。ひそかに、静かに脳細胞はそれぞれの役目をつとめております。そしてやがて私が突然に地図を求め、その地点に指を置くのでございます。方式と理論にさえ叶っておりますれば、人は何事でも成就できます! こうしてあわててフランスへ急行して参りましたのは誤りでございました。これはまるで、子供だましのかくれん坊みたいなものでございました。しかし、今こそ──あるいは遅すぎるかも知れませんが、私はすぐに仕事に取りかかります。皆様、どうぞお静かに願います」
それから五時間というもの、ポワロは身じろぎもせずに、じっと坐って、猫のように眼ばたきをし、緑色の眼をひらめかして、考え込んでいくうちに、しだいに緑の色が濃くなってきた。警視庁の連中は顔に軽蔑の色を浮かべ始め、ノルマン少佐は退屈しいらいらしてきたし、私自身も時間のたつのがばかにのろいように感じだした。
しまいに私は立ち上がって、できるだけ音をたてないようにして、ぶらぶら窓際へ行った。これは茶番劇になってきた。私はひそかに彼のことを心配していた。同じ失敗をするにしても、これではあまりに間がぬけている。私は窓から、毎日出航する定期船が、桟橋に横づけになって、黒い煙をはいているのをぼんやり眺めていた。
突然、私はポワロの声におどろかされた。彼はいつの間にかそばへ来ていた。
「君、さあ出かけましょう!」
振り向いてみると、ポワロに驚くべき変化が起こっていた。胸をぐっと張って眼を興奮に輝かしている。
「諸君、私は低能でございました! しかしようやく光明を見いだしました」
ノルマン少佐は扉へ急ぎながら、
「自動車の用意をいたしましょう」といった。
「その必要はございません。ありがたいことに風が静まりました」
「あなたは歩いておいでになるとおっしゃるのですか」
「いいえ、どういたしまして、私は聖ペテロではございませんから、海を歩くわけには参りません。やはり船で渡ります」
「海を渡る?」
「さようでございます。方式に従って仕事をいたしますには、始まりから出発しなければなりません。この事件の始まりは英国でございました。それゆえ、私どもは英国へ戻ります」
***
我々の一行は、午後三時に、もう一度チャリンクロス駅のプラットフォームに立った。ポワロは我々の諫言《かんげん》にはいっさい耳を傾けないで、最初からやり直すのは、決して時間の浪費ではなく、それが唯一の道だと繰り返すのみであった。途中で彼は低い声でノルマン少佐と何事か相談して、ドーバーに着くとすぐに長文の電報を打たせた。
ノルマン少佐の所持している特別通行証のおかげで、至るところをレコード破りの音速度で突破した。ロンドンでは大型の警察用自動車が数台の私服刑事とともに我々を待っていた。その中の一人がタイプライターで打った一枚の紙をポワロに手渡した。彼は私の物問う視線に答えて、
「ロンドン西部のチャリンクロスから四マイル以内に散在する病院の名簿です。ドーバーから電報で問い合わせたのはこれなのです」といった。
自動車は疾風のようにロンドンの町々を走りぬけた。我々はバス街道に入り、ハマースミスを通り、チズウィックを過ぎブレンフォードにさしかかった。私にも目的がわかりかけてきた。車はウインザーを過ぎてアスコットに向かっている。私の胸はどきどきしてきた。アスコットはダニエルス大尉の伯母が住んでいる土地である。すると我々が捜し出そうとしているのは運転手のオマーフイではなく秘書のダニエルス大尉だったのか!
まさしく我々の自動車は清楚な別荘の門前に停まった。ポワロは車から飛びおりていって、玄関の呼鈴を鳴らした。私は彼の顔から輝きが薄れて、当惑したように眉をひそめるのを見た。明らかに彼は満足していないのだ。
呼鈴に応じて、彼は家の中へ招じ入れられたが、間もなく出て来て、頭を激しく振って乗車した。私の希望は失せてきた。もう四時過ぎであった。たとえダニエルスが共犯者の一人だという証拠をあげ得たとしても、誰かから、首相がフランスのどこに監禁されているか、その場所をはっきり聞き出せなかったら、何にもならないではないか。
ロンドンへの帰り道は、すらすらとは進行しなかった。というのは自動車はしばしば本通りをそれてわき道に入ったり、一見して病院とわかる小さな建物の前で幾度も停車したりした。ポワロはいちいち中へ入って、数秒を費やすだけであったが、そのたびに彼の顔が確信の輝きを取り戻していくのであった。
彼はノルマン少佐に何かささやいた。それに対して後者は、
「そうです、ここを左へ曲がった橋のところに待っているはずです」と答えた。
側道へ曲がっていくと、たそがれの光で、路傍に第二の自動車が待っているのが見えた。その車には二人の私服刑事が乗っていた。ポワロは車をおりていってその男たちに何かはなしてくると、一同は北方へ向かって車を進めていった。第二の車はすぐ後に従ってきた。
やや久しく自動車を走らせていった。我々のめざす方はロンドンの北部郊外にちがいない。ついに我々を乗せた車は、往来から少し奥まって建っている高い家の玄関前に停車した。
ノルマン少佐と私は車に残された。ポワロと探偵の一人が石段をあがっていって、呼鈴を鳴らした。小綺麗な小間使いが扉を開けた。
「私は警察の者ですが、家宅捜索の令状を持ってきたのですから、ご主人に取り次いで下さい」と探偵がいった。
小間使いは小さな叫び声をあげた。その時、背の高い中年の美しい婦人が女中の後に現われて、
「エデス、扉をお閉め! 強盗にちがいないから」といった。
しかしポワロはすばやく足を扉口にさし込むと同時に呼笛を吹きならした。たちまち他の探偵たちが駆け上がっていって、家の中になだれ込み、背後に玄関の扉を閉じてしまった。
私とノルマン少佐とは、その活劇に加われないのを残念がりながら、五分ほど待っていた。
やがて玄関が再び開いて警官たちが三人の男女を連れ出して来た。一人は女で二人は男であった。その男たちの一人と女とは第二の自動車に乗せられ、もう一人の男は、ポワロ自身の手で我々の車へ乗せた。
「わたしはあちらの車にのらなければなりませんから、君たちこの紳士をよく気をつけてあげて下さい。君たちはこの方をご存じございませんか? ではご紹介いたします。こちらはオマーフイさんでございます」
オマーフイとは! 私は自動車が動きだしてもまだ、口を開いたまま彼を見つめていた。彼は手錠をはめられていなかったが、逃亡を企てるようなことはあるまいと思った。彼は失神してしまったように前面をじっと凝視していた。とにかくノルマン少佐と私では、彼も敵対はできないであろう。
驚いたことに、我々は依然として北へ北へと進んでいくのであった。すると我々はロンドンへ帰るのではないらしい! どこへ行くのだろうと訝《いぶか》っているうちに、突然、車は速力を落とした。気がつくとロンドン飛行場のすぐ近くへ来ているのであった。すぐに私はポワロの考えをつかんだ。彼は空路フランスへ行くつもりなのだ。
これはなかなか派手な思いつきだが、実際問題としては非現実的だ。電報を一本フランス警察に打った方が、はるかに早くことが運ぶではないか! 時の問題だというのに。ポワロは自ら首相を救助するという光栄を、他の者に譲るべきだ。
停車すると同時にノルマン少佐は飛び出していって、私服刑事が入れ代わりに乗車した。少佐はポワロと何事か相談したうえで、急いで立ち去った。
私自身も車から飛びおりて、ポワロの腕をつかまえた。
「ポワロさん、おめでとう! 首相が監禁されている場所をあの連中が白状したんですね。それにしてもすぐフランスへ打電しなくてはいけないでしょう。あなた自身で出かけていったんじゃ、もう間に合わないですよ」
ポワロは、一、二秒間、私の顔を妙にじっと見つめていたが、
「残念ながら、君、時には電送することのできないものもあるものでございますよ」といった。
***
ちょうどその時、ノルマン少佐が、航空服を着た若い将校を伴って来た。
「ライエル大尉をご紹介します。すぐにフランスへ向けて飛行できるそうです」
「防寒の支度をなすって下さい。もしよろしければ私のコートをお貸しします」と若い航空士がいった。
ポワロは例の大きな銀時計を見て、
「さよう、充分時間があります」とひとり言をいっていたが、顔をあげて、若い将校にていねいにおじぎをした。
「ありがとうございますが、飛行機に乗せていただくのは私ではなく、こちらの紳士でございます」
といってポワロが傍へ退くと、暗闇の中から黒い人影が前へ出て来た。それは第二の自動車へ乗って来たもう一人の囚人であったが、その顔に光線が落ちたとき、私は驚きに喘いだ。
それは首相であった!
***
私はポワロとノルマン少佐とともに乗った車がロンドンをさして走り出すと、たまりかねて叫んだ。
「どうか、全部話して下さい! いったい彼らはどうやって首相をフランスから密航させたんですか」
「別に密航などさせる必要はございませんでした。首相はけっして英国を離れなかったのでございます。ウインザーからロンドンへ帰る途中で誘拐されたのです」とポワロはそっけなくいうのであった。
「何ですって?」
「すべてをはっきりとさせましょう。首相は自動車に乗っておられました。その傍らに秘書が同乗しておりました。突然に首相の顔にクロロフォルムのパッドが押しつけられました」
「誰がやったんですか?」
「あの賢い語学の達人のダニエルス大尉です。首相が意識を失うやいなや、ダニエルスは送話器を取りあげて、オマーフイに右へ曲がるように命じました。何も知らない運転手はそのとおりにいたしました。寂しい横道を五、六ヤードいったところに、大型自動車が故障したらしく停車していて、その運転手が、オマーフイに車を止めるように合図いたしました。オマーフイは速力をゆるめました。その見知らぬ男が近づいて来ました。ダニエルスは窓から外へ身を乗り出しました。たぶん塩化エチルのように即時麻酔をきたすクロロフォルムの奸策が再びくり返されたのでしょう。意識を失った首相と運転手は数秒のうちに自動車から引きずり出されて他の車に移され、二人の替え玉が首相の車に乗りました」
「そんなことは不可能だ!」
「不可能なことはございませんとも! 寄席などで有名人の真似をするのに真に迫るのがございますね、あれですよ。国民を代表する人物に化けるほど造作ないことはございません。たとえばクラパムのジョン・スミスとか申す男になりすますよりも、英国の首相を真似るほうがずっと楽です。オマーフイの替え玉に至っては、首相が失踪するまでは、誰も運転手などにあまり注意しないものでございますし、事件が起こったころには姿を消してしまいますからね。彼はチャリンクロス駅で首相の替え玉をおろしてしまうと、真直ぐ仲間の密会所になっている場所へ自動車を走らせていってしまいました。その男はオマーフイとしてその料理店へ入っていって、誰か全く別人になって出て来ます。こうしてオマーフイは好都合にも疑惑の臭跡を残して行方不明となってしまったのです」
「しかし停車場には大勢の人が首相を見送ったでしょう。誰か気がつきそうなものではありませんか」
「首相は個人的に親交のあった人には誰にも見られませんでした。それにダニエルスはできるだけ誰とも交渉を持たせないように、彼をかばっておりました。そのうえ彼の顔は繃帯で覆われておりましたし、どこか様子が平常と異なったところがあったといたしましても、それは暗殺されそこなった衝撃のせいにしてしまえます。それから首相は咽喉が弱いので、大演説を控えている場合は、いつでもできるだけ声を使わないように注意をしておられました。欺瞞はフランスへ着くまで造作なく完全に保たれました。その先は実際問題として不可能なことでしたから、首相を失踪させたのでございます。英国の警察は首相が失踪したフランスへ急行してしまって、最初の襲撃を詳細に調べるような面倒はいたしませんでした。誘拐事件がフランスで起こったという錯覚を支持するために、ダニエルスが麻酔剤をかがされ縛りあげられていたのでございます」
「首相の替え玉はどうなったのでしょう?」
「仮装さえ解けば別人になってしまいます。彼と贋造運転手とは、容疑者として捕らえられたといたしましても、誰も彼らがこの大芝居でどのような役割を演じたか、気がつきません。そして彼らは証拠不十分で放免されるでしょう」
「それで、本物の首相は?」
「首相とオマーフイとはハムステッドにある、秘書官ダニエルスの伯母と称するエベラード夫人の家へ監禁されたのでした。実はそのエベラード夫人と申すのは、警視庁でかねてからドイツのスパイとして苦心して捜していたベルタ・エーベンタールだったのです。ダニエルスはさておき、これは私から警視庁へのちょっとした贈り物でございました。彼らの計画は、まことに巧妙をきわめておりましたが、エルキュル・ポワロの聡明さを忘れていたのが、誤りのもとでございましたね!」
私は、彼がこれぐらいいばっても大目に見ていいと思った。
「いつから、この事件の真相に気がおつきになったんですか」
「まさしく頭の中で考え始めた時からです。私は最初の狙撃事件が腑に落ちませんでしたが、首相が顔に繃帯をしてフランスへ行かれた効果に気がつくに及んで、ようやく理解し始めたのでございました。それにウインザーとロンドンの間に散在する小病院を、片端から調べましたが、私の説明に符合する人相の負傷者に、手当をした者が一人もないことを確かめてから、いよいよ私は自信を得ました。それから先は、私のような頭脳の持ち主にとりましては、子供の遊戯同然でございましたよ!」
翌朝、ポワロは受け取ったばかりの電報を私に見せた。それには、
──マニアッタ──とあるだけで、署名はなかった。
その日の夕刊新聞には連合国会議の記事が出ていたが、特に英国首相、デビッド・マクアダム氏の、会議全体に深い感銘を与えた激励演説に対して熱烈な喝采を送っていた。
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ダベンハイム氏の失踪
ポワロと私は、旧友の警視庁警部ジャップ君をお茶に招待したので、丸テーブルを囲んで彼の到着を待っていた。ポワロは宿の主婦が食卓の上に並べるのではなく、放り出す癖のある茶碗や灰皿を、きちんと並べたところであった。彼はまた金属製の急須に息をかけて、絹ハンカチで磨いた。やかんは煮たっていたしその傍らの小さな瀬戸ひき鍋の中にはポワロの言いぐさに従うと英国人の青茶などよりははるかに風味のある甘い|こってり《ヽヽヽヽ》としたチョコレートが入っていた。
階下から扉をとんとん叩く音が響いてきたと思う間もなく、ジャップが元気よく部屋へ入ってきた。
「遅刻じゃなかったでしょうな、実のことをいうと、例のダベンハイム事件を担当しているミラーという男と長話しをしていたものでしてね」と、彼は挨拶をしながらいった。
私は聞き耳を立てた。なぜかというとこの三日間というもの、どの新聞もダベンハイム・サモン銀行の頭取、ダベンハイム氏の奇怪な失踪について書き立てているからであった。先週の土曜日に彼は自宅を歩いて出たきり、誰も姿を見たものがないというのである。私はジャップから何かおもしろい情報を聞き出せるだろうと期待していた。
「僕の考えでは、現代において完全に誰からも見えなくなってしまうなんて不可能なことだと思うが」
と私は切り出した。
ポワロはバター付きパンの皿を八分の一インチほど動かして、鋭くいった。
「君、正確なことをいいたまえ、見えなくなるとは、どういう意味ですか? 君はどの種目の失踪を意味しているのですか」
「人間の失踪をそんなふうに分類したり、等級をつけたりできるものなんですかね」と私は笑った。
ジャップも微笑した。ポワロは我々二人に対して眉をひそめた。
「できますとも! 三種目に分類することができます。第一は最もありきたりの自発的失踪、第二はしばしば悪用される記憶喪失の場合──これは稀には本物のこともあります、第三は殺人で多少死体の処分に成功した場合です。君はこの三つの場合をくるめて、成就不可能とおっしゃるのですか」
「まあ、それに近いと思われますね。あなたが記憶を喪失したとしても、誰かがあなただということを確認するでしょう。特にダベンハイムのような有名人の場合はそうです。また人体は煙のごとくに消え失せさせてしまえるものじゃないです。たとえ人跡まれな場所に埋めようと、トランクの中に隠そうと、いつかは現われてしまいます。殺人はおのずから現れ出ずるという言葉があります。同様に義務怠慢な奉公人でも、逃亡した事務員でも現代ではたちまち無電でとりおさえられてしまいます。外国へ高飛びしたって先回りをされてしまいます。港でも停車場でも見張られてしまいますからね。また国内で隠れるとしても、彼の人相や風采などは、毎日の新聞を読んでいる人たちにはすぐ知れてしまいます。彼は高度に発達している文明に対抗しなければならないんですからね」
「ヘイスティングス君、君は一つ誤りをおかしておいでですよ。君は、他の人間になりすますとか、あるいは比喩的な意味で自分を殺してしまおうと決心した人間が、非凡な頭脳の持ち主、つまり組織的な頭脳の持ち主であった場合を考えに入れていませんね。そういう人物なら知識と才能と細微にわたる注意深い計算とをその仕事にかけるでしょう、そうした場合に、警察の裏をかくことに成功し得ないはずはないと思いますね」
「ただしあなたを迷わすことはできないという意味でありましょうな、エルキュル・ポワロの裏をかくことはできないとね!」ジャップは上機嫌で私に向かって目配せをして見せた。
ポワロは謙遜らしくふるまおうとしていたが、それは明らかに不成功であった。
「私だって! そうでないとは申せません。私がこうした問題に正確な科学、すなわち数学的精密さで当たると申すのは確かでございます。最も、残念ながら近ごろの探偵にはとかくそうした要素が欠けておりますが」
ジャップは、さらに、にやにや笑った。
「そうでしょうな、だがこの事件に当たっておるミラーという男はなかなか抜け目のないやつで、足跡だの、葉巻の灰だの、パン屑さえも見のがすようなことはしないですよ。彼は何もかも見る眼を持っておるですからな」
「なるほど、わが友はロンドン雀を飼っているとおっしゃるのですね。それにしても私は鳶《とび》色の小さな鳥にダベンハイム氏の謎を解かせようとは思いませんよ」とポワロはいった。
「それでは、ポワロさんは、証拠としての細かな部分を、ばかにするっていうのですか?」
「けっしてそんなことはいたしません。そうした瑣末《さまつ》にわたることは、それなりにみんな役に立つものでございます。危険なのはそうした瑣末のことが、実際以上に重要性を持っているがごとく装うことでございます。たいていの細部は取るにたりないものです。一つか二つだけが重大なのでございます。誰でもが信頼しなければならないのは、この脳細胞の働きでございます」といって、ポワロは自分のひたいを叩いて見せて、
「五感は迷わします、誰でも外部からでなく内部から真実を捜し出さなければなりません」
「ポワロさんは、ご自分の椅子から動かないで、事件の解決に当たろうといわれるんじゃないでしょうな」
「私の申すのは、そこなのでございます。私はあらゆる事実を自分の前に並べてもらって、それによって事件を解くのでございます。私は自ら探偵顧問をもって任じております」
ジャップは自分の膝を叩いた。
「あなたの言葉をそのまま取らなかったら、私ゃあほうだ! 確かにあなたに得点があるが、といってあなたが手を出すことができんのだったら、せめて、どこから手をつけたらいいか、私に教えてくれてもいいでしょうな。ダベンハイム氏が死んでいるにしろ、生きているにしろ、一週間以内に、私は彼を捕らえにゃならん」
ポワロは考えていたが、
「よろしい、引き受けましょう、あなた方英国人の持つスポーツ精神でやりましょう。さて、事実をおきかせ下さい」といった。
「先週の土曜日、ダベンハイム氏はいつもの習慣でビクトリア駅から十二時四十分の列車で、彼の広大な別邸シダース荘の所在地チングサイドへ出かけた。昼食後、彼は屋敷内をぶらぶら散歩し、園丁に種々命令を出した。家の者たちは皆、彼の様子は平常と少しも変わっていなかったと証言している。午後のお茶の後で彼は妻の居間をのぞき、村まで散歩に行き手紙を投函してくるといった。彼はなお、ローエン氏が用談で来るはずだから、自分の帰宅する前に来たら、書斎へ通して、待って貰うようにと付け加えた。そしてダベンハイム氏は正面玄関から出て、自動車路をゆっくりと歩いて門を出ていった。それっきり、誰も彼を見た者はない、その時以来彼は完全に消えてしまった」
「結構……たいそう結構……なかなか魅力のあるちょっとした謎の事件でございますね。どうぞ、その先をお続け下さい」
「それから十五分ほどして、濃い黒ひげを蓄えた背の高い色の浅黒い男が玄関の呼鈴をならしダベンハイム氏と約束があって来たと説明し、ローエンと名乗った。そこで主人にいいつかったとおり、彼を書斎に通した。ほとんど一時間も経過したが、ダベンハイム氏は帰ってこなかった。ついにローエン氏が呼鈴を鳴らし、自分はロンドンへ戻る列車に乗らなければならないので、これ以上待つわけにはいかないといった。ダベンハイム夫人は、訪問者のあるのを承知している夫がなぜ、早く帰ってこないのかふしぎに思いながら、夫の不在をわびた。ローエン氏はしきりに残念がりながら、帰っていった。
とにかく、ダベンハイム氏は帰ってこなかった。日曜日の朝早く警察に届け出たが、この事件は全く何がなんだかわからない。ダベンハイム氏は文字どおり消え失せてしまった。彼は郵便局へはいかなかった。また村も通らなかった。駅でも氏が列車に乗らなかったと断言した。彼の自動車も、ガレージに置いたままになっていた。もしどこか人里離れた場所で彼を乗せるように自動車を雇っておいたとしても、情報の提供者には多額な礼金が約束されているのであるから、その時の運転手が知っていることを語りに出頭するはずである。もっともシダース荘から五マイルの地点エントフィールドに小規模の競馬があったから、その駅まで歩いていっていたなら、彼は誰にも気づかれずに群衆の中へまぎれ込んでしまったかも知れない。だがそれ以後、彼の写真と詳しい人相書き、服装などが各新聞に掲載されたにもかかわらず、誰も彼に関する情報をもたらした者はない、もちろん警察へは英国じゅうから投書がきたが、どれもみんな失望に終わっている。
月曜日の朝、さらにセンセーショナルな発見が明るみに出た。ダベンハイム氏の書斎の帳《とばり》の蔭においてある金庫が破られて中身が全部掠奪されていた。窓はみんな内側から戸締まりがしてあったところから、普通の盗賊の仕業とは受け取れない、共犯者が内部にあって、賊が窓から逃げた後で錠をおろしておいたのなら、話は別であるが。一方日曜日が間にはさまっていて、家の中はごった返していたので、盗難は土曜日であったにもかかわらず月曜日まで気づかれなかったということもあり得るというのであります」
「なるほどね、で不幸なるローエン氏は逮捕されましたか」
ジャップは、にやにや笑った。
「まだですよ、だが彼は厳重な監視のもとに置かれておるです」
ポワロは、うなずいた。
「金庫から何が盗まれましたか、知っておいでですか」
「我々はダベンハイム夫人と、銀行の副頭取について調べたです。明らかに相当多額の持参人払いの小切手と巨額の紙幣があったらしいです、何でもちょうど大きな取り引きのあった直後だとかで。それと一財産の宝石類――ダベンハイム夫人の宝石が全部金庫に入れてあったそうであります。ダベンハイム氏は最近宝石熱に浮かされていたらしく、毎月何か珍しい高価な宝石を夫人に贈らないことはなかったということであります」
「全体で大きな獲物でございますね……でローエンについてはどうなのでございますか、あの日、ダベンハイム氏にどのような用件があったかわかっておりますでしょうか」
「あの二人の間はあまりうまくいっておらなかったようですな。ローエンはごく小規模の投機家です。しかし彼は一、二度相場で大当たりをしてダベンハイム氏をへこましたことがあるです。もっとも二人は、めったに顔を合わせたことがないとか、あるいは全然会ったことがなかったともいわれておるです。何でも南米の株のことで二人が会見する運びになっておったそうですよ」
「すると、ダベンハイム氏は南米に興味を持っておいでだったのですね」
「そうだと思いますな、ダベンハイム夫人は氏が去年の夏は南米のベノサイレスで過ごしたと洩らしたですからね」
「氏の家庭生活に、何か面倒はございませんでしたか。夫婦仲はよろしかったのでしょうか」
「彼の家庭生活は、何事もなくしごく平和だったようであります、ダベンハイム夫人は快活な、どっちかというと無知で取るに足らぬような女ですよ」
「するとその方面に謎の鍵を求めるわけには参りませんね。氏には敵がございましたか」
「氏には相当金融上の競争相手があったです。したがって彼に対して好感を抱いていない人間がたくさんあったでしょうな。だが彼を殺そうなんて考える者はなかったでしょうな――もしも殺したとしたら、死体はどこにあるかって、いうんですよ」
「まさにそのとおりですね。ヘイスティングス君のいうように、死体と申すものは、とかく明るみへ出てきたがる厄介な習性をもっているものでございますからね」
「それはそうと、園丁の一人は、誰か家の側面をまわって、ばら園の方へ行くのを見かけたといっておるです。書斎の細長いフランス戸は、ばら園に向かって開くので、ダベンハイム氏はしばしばそこから家を出たり入ったりしておったそうです。もっとも園丁はかなり遠くの胡瓜《きゅうり》畑で仕事をしておったので、その人影が主人だったかどうか、断言できんといっておるです。それに彼はその時刻も正確にはいえんです。ちょうど園丁が仕事をしまうころだったから六時前だったろうというのであります」
「ダベンハイム氏が家を出たのは?」
「五時半かそこらでしょうな」
「ばら園の先には何がありますか」
「池があるです」
「ボート小屋がありますか」
「はあ、そこには平底舟が二隻入っておるです。ポワロさんは、自殺を考えておられるんじゃないですか? 実はミラー警部が、明日はその池底を探って死体を捜索するといっておるです。彼はそういう男なんですよ」
ポワロは微かに笑って、私のほうを振り返り、「ヘイスティングス君、どうぞ日刊メガフォンを取って下さい。私の記憶に誤りがなければ、失踪したダベンハイム氏の、特別はっきりした写真がのっていたと思います」といった。
私は立っていって、求められた新聞を捜し出した。ポワロはそれを注意深く研究していた。
「なるほど! 頭髪は長めにしてウェーブさせ、大きな口ひげと、先をとがらせたあごひげを蓄え、藪のような眉をしていますね。眼は黒いのですか」
「そうであります」
「髪とひげは白髪まじりですね」
警部はうなずいた。
「ポワロさん、そんな火を見るように明瞭なことを、何だってそんなにいわれるんですか」
「ところが、これはまことに不明瞭なことでございます」
警視庁警部は、うれしそうな顔をした。
「その事実は、私に謎を解く大きな望みを与えます」とポワロは冷やかにいった。
「ええ?」
「事実が不明瞭なのは、私にとりましてよい前兆でございます。もしも火を見るように明瞭な場合は……よろしいですか、それを信用してはなりません! 誰かが明瞭にしたのでございますからね」
ジャップは、憐れむように頭を振った。
「そりゃ、人の好きずきですがね、だが、あなたが前途に光明を見ておられるっていうのは、悪くないですよ」
「私は見てはおりません、私は眼を閉じて、考えます」とポワロはつぶやいた。
ジャップは溜息をした。
「あなたは晴れやかなる一週間、大いに考えられたらよろしい」
「何でも新しい進展が起こりましたら、お知らせ下さいませんか、たとえば、眼光鋭い勤勉なるミラー警部の労働の結果などを」
「いいですとも、お安いことでさ!」
ジャップは、私が玄関まで見送りについていくと、
「子供をだますみたいで、こいつは恥しらずですな、そうじゃないですか」といった。
私もそれに同感で微笑を禁じ得なかった。部屋へ戻った時も私はまだ微笑していた。ポワロはすぐに、
「よろしい! 君はポワロ小父さんを慰みものにしておいでですね。そうじゃありませんか?」といって、私にむかって指を振りながら、「君はこの小父さんの灰色の脳細胞を信用なさらないのですね? ああ、そう困惑してはいけませんよ! このちょっとした問題を論じましょう。まだ不完全だと申すことは私も認めますが、すでに一、二興味ある点を示しております」
「池ですか!」私は意味深長にいった。
「池よりも、もっと興味あるのはボート小屋でございます!」
私は横目でポワロを見た。彼は例の不可解きわまる様子で微笑していた。私はその時、それ以上に質問を進めるのは無益だと感じた。
ジャップから翌日の夕方まで何の沙汰もなかったが、九時頃になってやって来た。私は彼の表情を見てすぐに、彼が何か情報をうち明けたくて、うずうずしているのに気づいた。
「ようこそ! すべてが工合よくいっておりますね? だがダベンハイム氏の死体を池の中で発見したなどとおっしゃらないで下さいよ。なぜかと申すと、私はそのようなことは信じませんからね」
「死体は発見しなかったですが、彼が当日家を出る時に着ていったという、紛れもない彼の服を発見したです。それについて、あなたは何といわれますかね」
「他に彼の服で紛失しているのはございませんでしたか」
「いいえ、彼の従僕は、その他の主人の衣類は全部無事だと申し立てておるです。それからまだニュースがあるです、ローエンを逮捕したです。寝室の窓の戸締まりを受け持っている女中が、六時十五分ごろローエンが、ばら園を抜けて書斎のほうへ来るのを見かけたといっておるで、それは彼が家を出る十分ほど前ぐらいなものであります」
「それについて、本人は何と申しております」
「最初はけっして書斎から出た覚えはないといっておったですが、女中は確かに見たといいはったので、彼は珍しいばらがあったので、それをよく見ようと思ってフランス戸から出ていったのを忘れていたといいのがれをしたです。こいつは薄弱な弁明ですよ。それから氏に対する新しい証拠が明るみに出てきたです。ダベンハイム氏はいつも左手の小指にダイヤモンドを一個はめこんだ太い金の指輪をしておったです。ところがその指輪を土曜日の晩ロンドンで、ビリー・ケレットという男が質に入れたです。彼は五カ所の質店でその指輪を入質しようとして断わられ、最後に成功し、その金でへべれけに酔払って警官に暴行を加えて、とっつかまったって訳であります。私はミラーと一緒に警察裁判所へいって、彼に会ってきたです。もうすっかり酔いがさめておったんで、我々は彼が殺人罪に問われるやも知れんというようなことをほのめかして、だいぶ嚇《おど》しつけてやったです。彼のほら話は、こうなんです。実に奇妙な話ですがね、──
彼は土曜日にエントフィールド競馬へ行ったというです。やつは賭事よりも、きんちゃく切りのほうが本職なんですがね、とにかく彼は運が悪くて、すってんてんになってしまった。
で彼はチングサイド街道をとぼとぼ歩いていって、村に入るちょっと手前で溝に腰をおろして一休みしていた。すると間もなく一人の男が村へ向かってやって来た。浅黒い顔をして鼻下にりっぱなひげを生やした紳士だというので、それはローエンの人相書きに符合しておるです。
ケレットは積みあげた石の蔭に半ば隠れていたが、その紳士はすぐ鼻の先まで来ると、街道の上下を見回して誰も人影のないことを確かめると、ポケットから何やら小さなものを取り出して生垣の向こうへ投げすてた。それから彼は停車場のほうへ行ってしまった。その紳士の投げたものが、ちゃりんという音をたてたのが溝のところにいた男の好奇心をそそった。彼はその辺を検べた結果、指輪を発見した! これがケレットの陳述ですよ。ローエンは断乎《だんこ》として自分はそんなことをした覚えがないといってそれを否定しているのも無理はないです。もちろんケレットのような男の言いぐさなんかは、てんで信用できんですさ。彼が小路でダベンハイム氏にあって、氏の所持品を強奪して、氏を殺したという可能性は充分にあるですな」
ポワロは頭を振った。
「君、それは全くあり得ないことでございます。その男は死体を処分する手段をもっておりませんでした。今ごろはもう死体が発見されていたはずでございます。第二にその指輪を公然と質に入れた事実から、男がその指輪を手に入れるついでに殺人をしたとは考えられません。第三はこそ泥をするような男は人殺しなどしないものでございます。第四にその男は土曜日以来刑務所に入れられておりましたのに、ローエンの人相書きをそのように正確に語ることができたと申すのは、あまりに偶然の符合の度が過ぎます」
ジャップはうなずいた。
「私はポワロさんが正しくないとはいわんですよ。しかしそれにしても陪審員の注意を囚人の証言に向けさせるのは困難でしょうな。私におかしいと思われるのは、ローエンが指輪の処分をするのに、どうして、もっと利口な方法をとらなかったんだろうということですよ」
ポワロは、肩をすくめた。
「とにかく、その指輪が別邸の付近で発見されたのでしたら、ダベンハイム自身がそれを落としたのかも知れないと申すこともできますね」
「しかし、いったいどうやってその指輪を死体からはずしたんでしょうね」と私は叫んだ。
「それには理由があるでしょうな。池のすぐ向かい側に小さな門があって、そこから丘へつづいている道を三分ほど歩くと、どこへ行くと思うです? 石灰窯《せっかいがま》ですぜ!」
「こりゃ驚いた! 人体を溶解してしまう石灰に金属の指輪を溶解する力がないというんですか?」と私は叫んだ。
「まさにそのとおり!」
「それで、すべての説明がつくように思われますね、何という恐ろしい犯罪なんだろう!」
と私はいった。
互いに賛成し合って二人はポワロのほうを見た。彼は非常な心的努力をしているらしく眉をひそめて、何か考え込んでした。私はついに彼の鋭い知性が鋒鋩《きっさき》を現し始めたと思った。彼の最初の言葉は何であろう? 我々は長く惑っていることはなかった。溜息とともに彼の緊張した態度はゆるんだ。そしてジャップに向かって尋ねた。
「君はダベンハイム夫妻が寝室をともにしておいでだったかどうかおわかりですか」
その質問は途方もなく場違いに思われたので、二人ともちょっとの間、何もいわずに目を見はっていた。やがてジャップが爆笑した。
「こりゃたまげた! ポワロさん、私ゃまたあなたが何か愕然たらしめるようなことをいわれるのかと思ったですよ。その質問に対しては、私は全く知らんというよりないですな」
「あなたは、それを探り出すことはおできになりますか」ポワロは妙にそのことを強調するのであった。
「できるですとも──もしあなたが本気でそんなことを知りたがっていられるんだったら」
「ありがとうございます、その点をはっきりさせていただけましたら、私は恩に着ますよ」
ジャップはしばらく、じっとポワロの顔を見つめていた。けれどもポワロは我々二人の存在を忘れてしまっているふうであった。警部は悲しげに私にむかって頭を振って見せた。
「気の毒になあ! 戦争がこの人の神経にひどくさわったんだ!」とつぶやいて、そっと部屋を出ていった。
ポワロはなおも白昼夢に耽《ふけ》っている様子だったので、私は紙を一枚とって、覚え書きをして退屈しのぎをしていた。私はポワロの声にはっとして顔をあげた。彼は空想からさめて、元気よく活発になっていた。
「君は何をしておいでですか」
「僕はこの事件における興味ある主要点と思われることを書き止めているんです」
「君も、ようやく几帳面になりましたね」とポワロは満足らしくいった。
「読みあげて見ましょうか」私は得意さをおしかくしていった。
「どうぞ!」
私は咳払いをして読み始めた。
[#ここから1字下げ]
一、金庫を破った男であるという証拠がすべてローエンをさしている。
二、彼はダベンハイムに対して怨みをいだいている。
三、彼は最初の陳述の際にけっして書斎から外へ出なかったと、嘘をついた。
四、ビリー・ケレットの陳述がもし真実とすれば、ローエンは間違いなくこの犯罪に連坐している」
[#ここで字下げ終わり]
私はすべての重要点を指摘したつもりだったので、気をよくして、
「どうです?」と尋ねた。
ポワロはしずかに頭を振りながら、憐れむように私を見た。
「お気の毒なお友達よ! しかし、それも君が才能に恵まれていないからでございます。その重要な点は君が彼を全く認識していないことでございます。それから君の理論づけは誤っております」
「どんなふうに違っているんですか」
「君の四つの点を取りあげさせていただきましょう。
第一、ローエンはあの場合、金庫を破る機会をつかめるということを知ることはできなかったはずです。彼は商用で会見に来たのです。ダベンハイム氏が手紙を出しにいって留守のために書斎に一人待たされることなど彼は前もって知っていたわけはございません!」
「彼はその機会をつかんだかも知れません」と私はいった。
「では道具は? まともな職業を持つ紳士が万一に備えて、他人の家へ入る道具を持ち歩くなどということはいたしません。それに誰だって懐中ナイフであの金庫をこじあけることなどできませんよ、おわかりですか!」
「では、第二はどうですか」
「君はローエンがダベンハイム氏に怨みをいだいているとおっしゃるが、ローエンが一、二度、ダベンハイム氏を負かしたことをどう取りますか。思うにそれらの取り引きは、ローエンが自分の利益になるとみて乗り出したものでしょう。どのような場合でも儲けさせてもらった相手を怨むなどと申すことはございませんね、その反対であるべきです。怨みがあるといたしましたら、ローエンのほうではなくダベンハイム氏のほうでしたでしょう」
「それにしてもあなたは、ローエンがけっして書斎から出なかったと、偽りの申し立てをしたことを見のがすことはできないでしょう」
「そうです。けれども彼はその時恐怖にかられていたせいかも知れません。失踪した男の服が池の中から発見されたばかりでしたからね。もちろん、例によって、彼が真実を語ったほうがずっとよかったのでございます」
「では第四の点は?」
「第四の君の説は是認します。もしケレットの申したことが真実なら、ローエンがこの事件に関係していると申すことは否定できません。そこが、この事件をたいそうおもしろくしている点でございます」
「では、僕は一つの重要点だけは感得したというわけですね」
「たぶんね。しかし君は最も重要な二つの点を見のがしておいでです。そのうち一つは疑いもなく事件全体の手がかりとなるべきものでございます」
「どうぞ聞かせて下さい、それはいったい何ですか」
「その一は、数年前からダベンハイム氏が、宝石を買い集める情熱にかられだした点でございます。その二は、昨年の秋、氏が南米へ旅行した点でございます」
「ポワロさん、あなたは冗談をいってらっしゃるんですか!」
「私は大まじめでございます。ああ、それにしても、ジャップ君が、私のお願いしたちょっとした用件を忘れないで下さればよろしゅうございますがね」
だがジャップ警部は冗談気分を起こしたと見えて、その用件を忘れずにいて、翌日の十一時ごろ、ポワロのもとへ電報をよこした。私はポワロの要請に応じて、それを開封して読みあげた。
──夫妻は去年の冬以来、寝室を別にしている
「ああ! そして今日は六月の中旬でございますね! それですべてが解けました」とポワロが叫んだ。
私はあっけにとられて、ポワロの顔を見つめた。
「ヘイスティングス君は、ダベンハイム・サモン銀行に預金はおありでありませんか」
「いいえ、なぜです」私は不思議に思いながらいった。
「もしおありだったら、今のうちに、引き出してしまうように忠告しようと思ったからでございます」
「どうしてです。あなたは何を予期していらっしゃるのですか」
「私は、数日中に大きな破綻を予期しているのでございます。あるいはもっと早く来るかも知れません。それで思い出しましたが、ジャップ君に挨拶の返電をしなければなりませんでした。どうぞ鉛筆で書き取って下さい──問題の銀行に預金あらば、ただちに回収せられよ──これは、あの善良なるジャップ君を煙に巻きますよ! 眼を大きく、ひどく大きくさせられることでございましょう! あの人には何のことか少しも見当がつきますまい、明日までは、それとも明後日まで!」
私は疑念をはさんでいたが、翌日はポワロのすばらしい能力に対して称讃を捧げざるを得なくなった。どの新聞もダベンハイム銀行破産のセンセーショナルな事件を四号活字の標題で報じていた。銀行の経済状態が明らかにされるに当たって、有名な財界人の失踪が、今までとは全く異なった角度から見られるようになった。
我々が朝食をしている最中に、扉がさっと開いてジャップが部屋へ飛び込んで来た。彼の左手には新聞、右手にはポワロの打った電報をつかんでいて、その手でポワロの前のテーブルをどしんと叩いた。
「ポワロさん、どうして知っておられたです!一体全体どうやって知ったんですかい!」
ポワロは、彼にむかって、平然と微笑を送った。
「ああ、あの電報をいただいてから、確実になったのでございました! 最初から、私には金庫破りが何だか不思議なことに思われてならなかったのでございます。宝石、現金、持参人渡しの小切手と、すべてがたいそう都合よく揃っておりました。これは誰のために好都合なのでございましょう? さてダベンハイム氏はあなた方のおっしゃる、いわゆる自己の利害だけを尊重する人間の一人でした。それで都合よく揃えておいたのはダベンハイム自身のためと申して差しつかえないと思われるのでございます。それに、近年氏が宝石を買うのに熱心になっておりました。何と簡単なことではございませんか! 横領した財源を宝石に変えてしまったのです。おそらく他人から担保に預かった宝石の模造品を作って、本物はどこか安全な場所へ別名で預けておいたことでございましょう。これは相当の財産で、世間の人たちが追跡を断念してしまってから、いいころあいを見計らって、楽しもうと申すわけでございます。彼の計画は完成いたしました。そこでローエン(彼は不届きにも一度か二度、この偉大なる人物に鼻をあかさせました)と会見する約束をいたしました。それから金庫に穴をあけ、客人を書斎に通すよう家人に命じておき、家から歩いてでていきます──どこへでしょうか?」ポワロはそこで言葉を切って、二つ目のゆで卵に手をのばした。彼は眉をひそめてつぶやいた。
「鶏がどれでもみんな同じ大きさの卵を産まないとは全く我慢ならないことでございますね。これでは朝の食卓の調和が保たれないではございませんか? 少なくとも商店で一ダースずつ同じ大きさの卵をそろえるべきでございますよ」
「卵のことなんか、どうでもいいではないですか、もしよかったら四角な卵を産ませておくんですな。それよりもシダース荘を出てから我々のお客さんがどこへいったか聞かせてもらいたいですな。もしあなたが知っておられるんだったらね」とジャップは、気短かな調子でいった。
「さて、彼は隠れ場所へ参りました。このダベンハイムと申す人の脳細胞は、多少畸形なところがあるといたしましても、第一級品でございます!」
「ポワロさんは、彼がどこに隠れているか知っておられるんですか」
「ぞんじておりますとも! それはこのうえもなく思いつきのよい場所でございます」
「どうか聞かして下さい!」
ポワロは皿の上にちらばっていた卵の殻の破片をそっと拾い集めて、卵のカップの中へ入れ、空になった卵の殻をさかさまにして、その上に置いた。この小さな作業を終わると、その手際のいい結果に満足の微笑を送り、我々二人に向かって愛情をこめて笑いかけた。
「さあ、君たちは知能のすぐれたお方たちです。私が自分に問うたと同じ質問をご自身にしてごらんなさい──もしも私がこの男であったら、どこに隠れるだろうか──ヘイスティングス君は、何とお答えになりますか」
「そうですね、僕だったら高飛びなんかしないですね。僕はロンドンにいますよ、物事の真っ只中にいて、バスだの地下鉄などで旅をします。十中八、九まで誰にも認められずにすむと思います。群衆の中に安全地帯があるものです」と私はいった。
ポワロは質問するように、ジャップのほうを見た。
「私は賛成しないな、私ならすぐ逃げ失せるです。それが唯一のチャンスですからな。どこかに湯気を立てて待っているヨットに乗って、追跡の叫び声が起こらないうちに世界の果てへ逃げてしまうですよ!」
我々二人はポワロのほうを見て、
「あなたはどういうご意見なんですか」といった。
ちょっとの間、彼は沈黙していたが、やがて奇妙な微笑が彼の顔をちらっと横切った。
「もしも私が警察の眼をくらますといたしましたら、どこへ隠れるとお思いになります? 刑務所の中でございますよ!」
「何ですって?」
「あなた方は、ダベンハイム氏を刑務所に入れるために捜しておいでですね。それで氏がすでに刑務所に入っているかも知れないなどと考えて刑務所へ捜しにいくようなことはなさいませんね」
「それは、どういう意味なんすか」
「ジャップ君は、ダベンハイム夫人はあまり利口な方ではないとおっしゃったんでしたね。それにもかかわらず、もしあなたが夫人を警察刑務所へつれていって、ビリー・ケレットなる男に会わせてごらんになれば、夫人はすぐにその男が誰であるかに、気がつかれるでございましょうね! たとえ氏があご鬚も口髭も剃り落とし、藪のように生えている眉を剃り込み、長い髪を短く刈ってしまったとしても、女性と申すものは自分の夫をどこで会ってもちゃんと知っているものでございます。たとえ世界じゅうの人を欺くことができても妻の眼を欺くことはできません」
「ビリー・ケレット? しかし彼は警察に知られている男じゃないですか」
「私は、ダベンハイムは利口な男だと申し上げたではございませんか。彼は前もってアリバイを用意しておきました。彼は昨年の秋ベノサイレスへ行っていたのではございません。彼は三か月刑務所入りをして、ビリー・ケレットなる人間を創造しておいて、いざという場合に警察が疑わないようにしておいたのでございますよ。用意周到にすべてを運ぶ甲斐があったわけでございます、ただ──」
「何ですか!」
「よろしいですか、彼は後には、付けひげとかつらで再び自分自身としての変装をしなければなりませんでした。で付けひげをして寝るのは容易ではございません。とにかく見破られやすいものでございます。彼は妻と寝室を同じくして、その危険を冒すわけにはまいりませんでした。あなたは、彼がベノサイレスから帰って来たと思われる時以来、過去六か月ダベンハイム夫妻は寝室を別にしていたことを、私のために調べて下さいました、それで私は確信を得たのでございます。すべてがあてはまりました。園丁が彼の主人が家の側をまわっていくのを見たような気がしたと申したのは、全く真実のことでした。彼はボート小屋へ行って、彼の従僕の眼につかないところに隠しておいた浮浪者の服装をし、自分の着ていた服は池の中へ沈めてしまい、指輪を目だつように方々の質店へ持ちまわって入質したり、警官に暴行を加えたりして、無事にボウ・ストリートの天国つまり刑務所に入る計画に取りかかったのでした」
「不可能だ……」ジャップはつぶやいた。
「ダベンハイム夫人にお願いしてごらんなさいまし」ポワロは微笑しながらいった。
翌日、書留郵便が、ポワロの皿の上に乗っていた。彼がそれを開封すると五ポンド紙幣が、ぱらりと落ちた。ポワロは眉をひそめた。
「困りましたね! これはどうしたらよろしいでしょう、良心が責められますよ、お気の毒なジャップ君! ああ、いい考えがあります。私ども三人で、ちょっとした晩餐会をいたしましょう。それで私の気がすみます。あんなやさしいことでしたのに、気が咎めますよ。この私が、子供から盗むようなことができましょうか? とんでもない! 君、何をそんなに、おもしろそうに大笑いしておいでなのですか」
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クラパムの料理女
一
私はその日の新聞の三面記事から、主な標題《みだし》を読みあげた。
「銀行係員有価証券拐帯事件──不幸なる家庭とガス自殺──行方不明の女タイピスト──ですとさ。どうです。ポワロさん、ずいぶんありますね。逃亡銀行員と、謎の自殺と、行方不明のタイピストと、あなたはこの中のどれに手をつけますか」
「どれもあまり芳ばしくありませんね。今日はどういうものか、そんなことよりも、一日気楽にしていたい気分ですよ。私がこれから椅子を離れてしようと思っていることは、私自身にとって一番大切なことなのでございますよ」
「何ですか、それは」
「私の衣装ですよ。新調の鼠色の服に、あぶらのしみがついているのです。それから私の冬のオーバーですが、それもクリーニングの必要がありますし、お次は髭の手入れですが、このほうは造作ありません」
私は窓ぎわへ歩み寄りながら、
「さあ、あなたにそんなことをする暇があるかどうか疑問ですね。おや、玄関のベルが鳴った」といった。
「私は国際的な大事件でなければ引き受けないつもりでございます」とポワロは、もったいぶっていった。
間もなく、体格のいい赤ら顔の女性が戸口に現われた。階段を急いであがって来たと見えて、よそ目にもわかるほど、息を切らせていた。彼女は椅子に腰をおろすと、
「あなたが、ポワロさんですか」
「さよう、私はエルキュル・ポワロでございます」
「あらまあ、私の想像していた方と、まるで違いますのね。あなたはたいそう敏腕な探偵だということがよく新聞に書いてありますが、あれはあなたの自己宣伝ですか、それとも新聞屋がかってに書き立ててるんですか」
「奥様!」ポワロはむっとして、立ち上がった。
「あら、どうもすみません、当節の新聞はみんなそんなふうなもんですから。たとえば花嫁より未婚の処女に贈る言葉というような、読者の好奇心をそそる標題で、何が書いてあるかと思うと、クリームは何を使えとか、髪の手入れはどうするかといったような、結局化粧品店の宣伝などが多いでしょう、それで私もつい……どうぞ気を悪くなさらないで下さい。実は私が今日こちらへ伺いましたのは料理女を捜していただきたいのですよ」
ポワロは相手の顔を、穴のあくほど見つめた。さすがの彼も開いた口がふさがらなかった。私はこみあげてくるおかしさを耐えて、顔をそむけた。
「だいたいこの節の新しい何々組合なんていうのがいけないんです。雇人たちにつまらない知恵をつけて、得るところは単に不平ばかりじゃありませんか。私のところなんか一週間に一度ずつ、午後から夜にかけて外出をゆるし日曜日は交代に休ませますし、洗濯物は外へ出しますし、食物は私どもと同じものをやっていますし、人造バターなんか使ったことはありません。いつだって上等の純良バターばかり使っています。それだのにいったい、何が不平なんでしょう」と、婦人は息もつかずに弁じ立てた。
「奥様、思いちがいをなすっては困ります。私は家庭顧問ではございません、私立探偵でございます」
「それはよく存じております。だから最初申し上げたとおり、料理女の行方を捜していただきに参ったのです。水曜日に出ていったきり、何の挨拶もなく、そのまま帰ってこないのです」
「それはお気の毒でございますね。しかし私はそういった種類の仕事は扱っておりませんので……ではこれで失礼します」
「あらまあ、たいそう気位が高くていらっしゃるんですのね。つまり政府の機密とか、伯爵夫人の宝石とかいうような事件でなければ扱わないとおっしゃるんですね。ではございましょうが、私ども家庭の主婦にとりまして、料理女は、王冠ほど大切なものでございますんでね、料理女を失うことは、貴婦人が高価な宝石を失うと同様の大事件でございますよ」
ちょっとの間ポワロの顔に自尊心と茶目気とが、|ちゃんぽん《ヽヽヽヽヽ》におどり上がっていたが、彼は急に笑いだして、再び椅子に腰をおろした。
「なるほど、奥様のおっしゃることはもっともでございます。全くこの事件は私にとりまして珍しいものでございます。私はいまだかつて奉公人の失踪事件を扱ったことはございません。よろしゅうございます。お引き受けいたしましょう。ところで奥様の大切な料理女は、水曜日にお宅を出ていったきり、帰らないのでございますね。すると、それは一昨日になりますね」
「そうです、水曜日はあれの外出日なんです」
「もしかして料理女は途中で何か事故にあったのではございませんでしょうか、病院へお問い合わせになりましたか」
「私も最初は、そんなことではないかと思っていたのです。ところが今朝あれからトランクを取りに使いをよこしたのです、しかも私に一言の挨拶もなく。私が家におりましたら、けっして渡してはやらなかったのですが」
「その料理女は、どんな女でございましたか」
「中年の、身体のがっちりした女で、黒い髪でしたが、少し白髪が交じっていました。なかなかちゃんとした女で、私どもへ参ります前の家には十年も奉公しておりました。エリザ・ダンという名前です」
「水曜日に奥様はこごとでもおっしゃったようなことはございませんでしたか」
「何もありません、だからこそ私はおかしいと思うのです」
「お宅には雇人は何人おありですか」
「二人でございます。一人は女中でベネシイという、たいへんにいい娘です。少し忘れっぽくて頭の中が若い男のことでいっぱいになっているような娘ですが、仕事をさせると、なかなかよくやります」
「女中と料理女との間はいかがでございました」
「時にはけんかもしたようですが、仲はよかったようです」
「女中は何か手がかりになるようなことを知っておりませんでしたか」
「あの娘は何も知らないというのですがね、ご承知のように奉公人たちはお互いにかばい合うものですからね」
「ごもっともでございます。で奥様のお住居は?」
「クラパムです。アルバート通り八十八番です」
二
トッド夫人つまり新来の客が帰ってしまうと、ポワロは私をかえりみて、
「ねえ君、何と珍妙な事件ではありませんか、クラパムの料理女失踪事件とはね」
と、つまらなそうにいった。それから彼は灰色の服のしみの上に吸取紙を乗せ、焼きごてをあてて、|しみ《ヽヽ》抜きをした。残念ながら髭の手入れは後日のことにして、二人はただちにクラパムに向かった。アルバート通りは同じような二階建ての家が並んだ町で、どの窓にも真白に洗濯したレースのカーテンが懸かっていた。
我々は八十八番の呼鈴を鳴らした。綺麗な娘が扉をあけて迎えた。トッド夫人はすぐに出てきて、
「ベッシイや、ここにおいでになる方たちは探偵なんだよ。おまえに何かお尋ねになるからね」といった。
ベッシイの顔には驚きと好奇心が浮かんだ。
「ありがとう存じます、できれば別室でいろいろと質問させていただきとうございます」とポワロがいった。
我々は小さな応接間へ通された。トッド夫人が不本意らしい様子で出ていくと、ポワロは女中にむかって切り出した。
「ベッシイさん、あなたの答えはたいそう大切なのですから、どうぞ隠さずお話し下さい」
「私の知っておりますことなら、何でも申し上げます」
「あなたは、今度のことをどうお考えですか。エリザさんは、どうして急に姿をかくしたかあなたの考えを聞かせてくださいませんか」
「きっと瞞《だま》されて、誘拐されたんだと思います。エリザさんはよく私に忠告しました。どんな紳士らしい様子をしていても、やたらに香水をくれたり、チョコレートをくれたりするような男に気をゆるすなって、いいました。だのにあの人は、とうとう自分がその手にかかってしまったのです。今ごろは、船に乗せられて、トルコかどこかへ連れていかれたんでしょうね。何でも東洋の方じゃあ、エリザさんみたいな肥った女が好かれると申しますから」
「それも一つの考え方かも知れませんね、しかしもしそうとしたら、トランクを取りによこしたのは、おかしいではありませんか」
「さあ、それはどういう訳かわかりませんが……あの人は外国へ行っても、自分のトランクは持っていたいんでしょうよ」
「トランクを取りにきたのは誰です、男ですか」
「カーク・パターソン運送店です」
「あなたが荷造りをしたのですか」
「いいえ、ちゃんと荷造りして、すぐ発送できるようになっていました」
「それはおもしろい! してみると料理女は、水曜日に家を出る時から、家へ帰らないつもりだったと見えますね」
「そうですわね。でも私はちっとも気がつきませんでした。それにしても、これはきっと人買いの仕業です」
「あなた方は、毎晩同じ部屋で寝るのですか」
「いいえ、私どもはそれぞれ別の寝室でやすむことになっております」
「ではエリザさんは、この家にいることについて何か不平でも持っていませんでしたか。あなた方二人は仲よくしておいででしたから」
「あの人はお暇を取るようなことは、一度だっていったことがありませんでした。この家は結構ですし……」といいかけて、ベッシイは口ごもった。
「隠さずにお話なさい、私はけっして他言はいたしませんから」ポワロは親しみ深い調子でいった。
「奥様は、なかなか細かい方です、でも食物はようございますし、晩などはいつも暖かいものをいただけますし、お暇もたくさんあります。ですからもしエリザさんが飽きたとしても、こんな出方はしないだろうと思います。それに一月分のお給料もいただかないで行ってしまうなんて」
「で、お仕事はどうです、つらいですか」
「特別どうってことはありません。旦那様も奥様も一日中外出していらして、晩のお食事時に帰っていらっしゃるだけですから」
「ご主人はどういう方ですか」
「静かないい方です」
「エリザさんは、家を出る前にどんなことをいいましたか、覚えておいでですか」
「ええ覚えています。もし奥から桃の煮たのがさがってきたら、私たちはそれを晩にいただきましょう、それからベーコンとおいもの揚げたのにして置きましょうねといいました。あの人は桃の煮たのが大好きなんです」
三
ポワロは二、三の質問をした後、ベッシイを退《さが》らせた。入れちがいに、トッド夫人が、好奇心に顔を輝かせながら入ってきた。ポワロは夫人と話をしていくうちに、主人のトッド氏は、ロンドンの会社に勤めていて、毎夕六時過ぎでなくては帰宅しないことを確かめた。
「申すまでもなく、ご主人は今度の事件についてご心配なすっていらっしゃるのでございましょうね」
「どういたしまして、心配するどころじゃございません。いいさ、また新たに雇うさなんて申しております。宅はあまり平気でおりますんで、腹がたつぐらいですよ、あんな恩知らずの女なんか、追っ払ってちょうどよかったじゃないかなんて申しておりますんですもの」
「同居人がおありだそうでございますね」
「ああ、シムソンさんですか、あの人は朝晩の食事さえ差しつかえなければ、料理女がいてもいなくても、そんなことには無関心ですよ」
「シムソンさんの職業は」
「銀行に勤めていらっしゃいます」といって、勤務先の銀行の名をいった。私はその朝読んだ新聞の記事を思い出して、|おや《ヽヽ》と思った。
「若い方ですか」
「二十八だと思います、静かないい方です」
「シムソン氏にも、ご主人にもお目にかかりとうございますね。とにかく今晩もう一度お邪魔いたします」
やがて私たちはその家を辞した。
「ふしぎですね、拐帯事件のあった銀行とシムソン氏の勤めている銀行が同じとは! 何かそこに関連があるんじゃないでしょうか」
と私がいうと、ポワロは笑いながら、
「では拐帯犯人デビスがトッド家に下宿している同僚のシムソン氏を訪問した際に、エリザを見染めて恋仲になり、二人は手を取り合って駆け落ちしたとでも申すのですか」といった。
私は声をあげて笑った。
「もっとも無人島へでも高飛びするとなればきりょうのいい女よりも、腕のいい料理女をつれていくほうが、ずっと慰めになりますからね。ヘイスティングス君、この事件は案外おもしろくなりそうですよ」
その晩、我々は再びアルバート通り八十八番を訪ねて、トッド氏とシムソン氏に面会した。前者は、あごの長い、陰気な顔をした四十男で、後者は若い物静かな男で、この問題にさして興味を持っていないらしかった。
四
翌朝ポワロは一通の手紙を受け取った。読んでいくうちに、彼の顔は紫色になった。彼は手紙を私に渡した、それにはこう書いてあった。
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──前略、昨日御依頼申し上げたる案件は、都合により撤回致すべく候。かかる家庭内の些時《さじ》をもって貴殿を煩《わずら》わすのは愚の極みと考えられ候。同封金一ポンドは手数料として御受納くだされたく候。
敬具 トッド家
ポワロ探偵殿
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ポワロは、怒りを顔にあらわして、立ち上がった。
「人をばかにするにもほどがある! こんなことでこのポワロをかたづけてしまう気か! 私がお情けで、こんな一文の値打ちもないような事件を引き受けてやったのに、一片の手紙で断ってよこすなんて、実にけしからん。こうなったら意地です! 一ポンドが百倍かかったってかまうものですか、きっとこの事件を解決してみせる! 第一に新聞広告です。エリザ・ダン居所を知らせよ、あなたの利益のためなり──さあ、ヘイスティングス君、この広告をあるたけの新聞全部へ出して下さい。それから私は外出します。ことは迅速を尊ぶ!」
五
私がポワロと顔を合わせたのは夕方であった。私はすぐにその後の経過を語った。
「私はあれからトッド氏の勤めている会社を訪ねました。そこで確かめましたのは、水曜日にちゃんと出社していたと申すことと、りっぱな人格者であると申すことでした。シムソン氏のほうは、水曜日には出勤していましたが、木曜日は病気欠勤だったことと、例の銀行の金を持って行方をくらましたデビスとはかなり親しい間柄だったことでした。今日の収穫はこれだけでした。それだけではどうにもなりません。私どもは例の新聞広告の結果を待たなくてはなりません」
広告は主な新聞に一週間続けて掲載された。ポワロはこの事件に対して異常な熱意を示した。彼は名誉にかけて必ずこの事件を解決しようと努力しているらしかった。その間に、いくつかの重大事件が持ちこまれたにもかかわらず、彼はあっさり断ってしまった。そして毎朝配達される手紙を待ちかまえて受け取っては失望していた。
しかし我々の忍耐はついに報いられた。ある朝、問題のエリザ・ダンが突然に来訪した。
「しめた! すぐここへ通して下さい!」とポワロは叫んだ。
案内されて入ってきたのは、見るから正直そうな大柄な女であった。
「私は新聞の広告を見て参ったんですが、何か面倒でも起こったんでしょうか。私はもうちゃんと遺産を相続してしまったんですから、面倒なんかないはずですが、そのことはご存じなかったんじゃないでしょうか」
ポワロは相手の顔に眼を注ぎながら、椅子をすすめた。
「実はあなたの前の雇主トッド夫人がたいそう心配していらっしゃるのです。もしかしてあなたの身に間違いでもあったのではないかと」
とポワロが説明すると、エリザはひどく驚いて、
「では奥様は私の手紙をごらんにならなかったのでしょうか」といった。
「もちろん、奥様は手紙など受け取りませんでした。ついては、どういうわけで、急にトッド家を出たかということを、詳しくお話し下さい」
六
エリザの話はこうであった。
「私が水曜日の公休日に外出して帰ってまいりますと、家の近くで一人の紳士に呼び止められました。背の高い、あご髭のある人でつばの広い帽子をかぶっていました。
──エリザ・ダンさんではありませんか
と声をかけられたので私は、
──はい、そうです──と答えました。
──私は八十八番の家へあなたを訪ねたところなんです。すると留守だということだったので、あるいは途中で会うかも知れないと思ってぶらぶら歩いて来たところなんです。私はオーストラリアからあなたを捜しに来たのです。時に、あなたのお祖母さんの実家の名をごぞんじですか──というのです。
──エモットと申します──といいますと、
──そのとおりです、あなたはごぞんじないでしょうがあなたのお祖母さんと、エリザ・リーチとは非常な親友だったのです。そのエリザ・リーチがオーストラリアで大金持ちと結婚して、二人の子供があったのですが、二人とも死んでしまったので、良人の遺産が全部、エリザ・リーチのものになったのです。ところがエリザ・リーチは数か月前に死んでしまい、その遺言によって、あなたは英国にあるエリザ・リーチの家とかなりの遺産をつぐことになったのです──といわれて、私は全く思いがけないことなので半信半疑でおりました。すると相手は笑いながら、
──お疑いになるのはごもっともです。しかしこのとおり、私は委任状を持っております──といってメルボルンの公証人からの手紙を見せました。それによると、その紳士はクロチェットという弁護士なのです。
──で、それについて二、三の条件があるのです。エリザ・リーチという人は、ひどく変わり者でして、あなたは明日十二時までに、カンバーランドにある家へいって住まなければならないというのです。もう一つはたいしたことではありませんが、財産を相続するものの身分は奉公人であってはならないというのです──といわれて、私はがっかり致しました。
──クロチェットさん、あなたは私があの家に奉公している料理女だということをごぞんじないんですか──と申しますと、
──これは、これは、ちっとも知りませんでした。私はあなたが、家庭教師でもしているのかと思いましたよ、とんだことでしたね──というクロチェットさんの言葉に対して、私は、
──では、私はその遺産をいただけないんですね──といいました。紳士はしばらく考えていましたが、
──ご心配なさるな。法律にはいくらも抜け道があります。あなたはまず今日限り、現在の位置をすてるのですな──
──けれども、そんな不意にお暇をいただくわけにはまいりません──
──しかし場合が場合なんですから、奥様に理解していただけるでしょう。そのかわり一月分の給料は棒にふるんですね。今のところ何よりも時間が問題です。今晩キングスクロス発十一時五分の列車に乗らないと間に合いません。まず一〇ポンドだけお渡ししますからこれで切符を買って出発なさい。駅で手紙を書けば私が奥様のところへ届けてあげます──ということで、私はすぐ夜行列車に乗りました。私は無我夢中でしたが向こうへ着くとすぐ教えられた宛名のところへ行きました。それは土地の公証人で、万事都合よく運んでくれました。私の貰った家というのは、小ざっぱりした小さな家で、そのほかに、年に三〇〇ポンドの収入があるのです。土地の公証人は詳しいことは何も知らないようでしたが、ロンドンから通知があったとかいって、すぐに六か月分の一五〇ポンドを渡してくれました。クロチェットさんはロンドンから私の荷物を送って下さいましたが、奥様からは何のお便りもありませんでした。私は、きっと奥様が怒っていらっしゃるのだろうと思っていました。奥様は私の衣類は小包で送って下さいましたが、トランクのは送って下さらないのです。もっとも私の手紙をお受け取りにならないとすれば、お怒りになるのも無理はございません」
七
ポワロは熱心にこの長い物語に耳を傾けていたが、さも満足げにうなずいて、
「ありがとうございました。あなたのおっしゃったとおり、少しばかり面倒が起こったのです。どうもご苦労様でした。これはほんのお礼の印でございます」といって、金一封を渡した。そして、
「あなたはこれからすぐカンバーランドへお帰りなんでしょうね。一言申し上げておきますが、人間の身の上は、いつどうなろうとも計られませんから、あなたも料理の腕前は落とさないように心がけてお置きなさいまし」と付け加えた。
ポワロは、エリザが帰ってしまうと、
「ああいう連中は、造作なく瞞《だま》されてしまうものですね! さあ、君、一刻もぐずぐずしていられませんよ。大急ぎで自動車を呼んできて下さい。その間に私は手紙を書きます」
私がタクシーを拾って戻ってくると、ポワロは玄関で待っていた。我々はクラパムに向かった。
「ねえ、君、ことによると我々は鳥に逃げられてしまったかも知れませんよ」
「鳥って、誰ですか」
「申すまでもなく、温良なるシムソン氏ですよ。君、今さら訳がわからないなどとおっしゃらないで下さいよ」
「しかし、どうしてシムソン氏が料理女をトッド家から追い出す必要があったでしょう? あの女に何か秘密でも握られていたのかな?」
「そんなことではございません。あの料理女の持っていた品物が欲しかったのです」
「例のオーストラリアから来た遺産ですか?」
「そんなものではありません、トランクです」
ポワロの言いぐさがあまりとっぴなので、私は冗談をいっているのかと思って、彼の顔を見たが彼は大まじめであった。
「トランクぐらい、金さえ出せば買えるじゃありませんか」
「新しいトランクではいけないのです、つまり出所のわかった古いトランクが必要だったのです」
「そんな回りくどいことをいわれても、僕には|ぴん《ヽヽ》ときませんよ」
「それは君の脳細胞の働きがにぶいからです。つまり君にはシムソンほどの想像力がないからです。考えてごらんなさい、水曜日の晩にシムソン氏は料理女を釣り出しました。印刷した名刺だの用箋などを手に入れるのは造作ないことです。彼にしてみれば、大きな計画を成就させるためには一五〇ポンドの金と一か年分ぐらいの家賃を払うぐらいはお安いことです。料理女は男のあご髭と、つばの広い帽子と、オーストラリアなまりの言葉にうきうきと瞞されてしまって、相手がシムソンとは気がつきませんでした。これが水曜日の料理女失踪事件の終わりでございます。もっともシムソンが一五万ポンドの債権を横領したことは別問題ですがね」
「シムソン? 拐帯犯人はデビスという男のはずではありませんか」
「君、私の話はまだ続くんですよ。シムソンは木曜日の午後には盗難事件が発覚するのを予想していたのです。それで銀行へは行かないで、デビスが昼食を食べに出かけるのを待ち伏せていたのです。恐らく彼はデビスに自分が犯人であることを打ち明け、債権を銀行へ返して貰うとか何とかいって、デビスをクラパムまで引っぱって行ったのです。木曜日は女中の定休日ですし、トッド夫人は売り出しの買い物にロンドンへ出かけていましたし、二人が家へ入ったことは誰も知りませんでした。債権の紛失と、行員デビスの失踪とは自然、拐帯事件の原因結果を語ることになりますね。したがってシムソンには何の疑いもかかりません。彼は翌日から謹直な行員として出勤しました」
「で、デビスはどうなったんですか」
「考えるだけでも恐ろしいことですよ。いったい殺人者にとっていちばん困難なことは死体の始末なのです。そこでシムソンは前もって周到な用意をしていたのです。私は料理女が水曜日の晩に帰宅するつもりであったと申すところに狙いをつけたのです。これはベッシイの証言で確認されました。例の桃の煮たのを自分たちの夕食に食べると申したことによって。それにもかかわらず、トランクが荷造りしてあったとは、奇怪ではございませんか。トランクの荷造りをしたのはシムソンにきまっております。カーク・パターソン運送店に荷物を取りにやったのも彼の仕業です。暇を取った奉公人が、自分の荷物を取りによこす、これほど自然なことはありません。トランクにつけた荷札には、ロンドン近郊の駅名とエリザ・ダンの宛名が書いてあります。土曜の午後には、シムソンがオーストラリア人に変装して、そのトランクを受け取りにいきました。それからトランクの札を付けかえてどこかの停止場へ、駅留め貨物として発送してしまいます。長い間受取人が来なければ、鉄道の係員は疑念を抱いてトランクを開けます。関係者は、あご髭のあるオーストラリア人がロンドンの近郊から送ったものだと証言いたします、それで終わりです。アルバート通り八十八番と、この事件は何の関係もなくてすむわけです。さあ、着きました」
八
ポワロの予言は的中した。シムソンは二日前にトッド家を引き払ってしまっていた。けれども彼は逃げおおせることはできなかった。無電によって、アメリカ行きのオリンピア号で逮捕された。
ヘンリー・グリン殿宛のトランクは、グラスゴー駅で係員の疑念をひき起こし、中を検《あらた》めたところ、不幸なデビスの死体が現われた。ポワロの驚くべき推理力がなかったら、この残忍きわまる殺人犯人は、永久に刑罰をのがれたであろう。
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イタリア貴族の怪死
ポワロと私には、非公式につきあうようになった、知人や友人がたくさんあった。その中の一人に数えられるのは、医師会の会員で、我々の隣人であるホーカー医師であった。彼はポワロの天才の熱心な崇拝者で、夜になると時おりぶらりと訪ねてき、ポワロと話し込む習慣であった。正直で疑うことをしないこの医師は、自分自身とは縁遠い才能に心ひかれているのであった。
六月の特筆すべきある晩、八時半ごろに、彼がやって来て、ゆっくり腰をすえて、犯罪における亜砒酸《あひさん》中毒の効果に関する愉快な問題を、ポワロと論じ始めた。
それから十五分も経ったころであろうか、居間の扉がさっと開いて、取り乱した女性がころげるように部屋へ飛び込んできた。
「先生! 患者からお迎えですよ! とても恐ろしい声で……私、ぞっとしてしまいましたわ」
私は新来者が、ホーカー医師のところの家政婦だと気がついた。医師は独身で五、六町先の陰気な古い家に住んでいた。日ごろ落ちつき払っているライダー嬢が、今はしどろもどろの状態であった。
「恐ろしい声とは何ですか? いったい誰です、どうしたというのです?」
「電話でしたの、私が出たんですけれど……その声が──先生助けて! 彼らが私を殺す……といいかけて、声が消えていってしまいましたのよ。で、私が──どなたですかどなたですか──というと、ささやき声で──リージェント・コートのフォスカチニ──とかいったように聞こえましたけれど……」
「フォスカチニ伯爵だって? あの人はリージェント・コートのアパートに住んでいる。私はすぐ行かにゃならん、いったい何が起こったんだろう?」と医師は叫んだ。
「あなたの患者でございますか」とポワロが尋ねた。
「数週間前に、ちょっとした病気で往診したのです。イタリア人ですが、完全な英語を話します。では私はすぐ行かにゃなりませんから。さようなら、ポワロさん……もしも……」といいかけて医師はためらった。
「私にはあなたの考えておいでになることがわかります。喜んでお供いたしますとも、ヘイスティングス君、急いでタクシーを拾ってきてくれ給え」とポワロは、微笑しながらいった。
タクシーというものは、ひどく必要に迫られている時には、とかく見つからないものだが、私はようやく一台つかまえた。そして間もなく我々の一行はリージェント公園をさして車を走らせていった。リージェント・コートは、セント・ジョンズ・ウード街のすぐ先に新設されたブロック建てのアパートであった。そこはごく最近の建築なので、最新式の設備が施されていた。
玄関には誰もいなかった。医師は気短かに何度もエレベーターの呼鈴を押した。そしてようやくエレベーターがおりて来ると、彼は制服のエレベーター係に鋭く質問した。
「十一号のフォスカチニ伯のところで、何か事故があったそうだが、君知っているか?」
男は医師の顔を凝視して、
「初めて聞きました、フォスカチニ伯の従僕のグレイブスさんは……三十分ばかり前に出かけたんですが、何もいっていませんでしたがね」といった。
「伯爵は一人きりでおられるのかね」
「いいえ、旦那様、今晩はお客が二人見えて、一緒に食事をしておられるんです」
「その客っていうのは、どんな人たちだい?」
と、私は熱心に尋ねた。
我々はエレベーターに乗って、十一号室のある二階へのぼっていった。
「私はその人たちを見ないんですが、外国人だそうです」
彼が鉄の扉を開け、我々は廊下へ出た。十一号は、すぐ向かい側であった。医師は呼鈴を鳴らしたが返事がなかった。内部では何の物音もしなかった。医師は、何度も呼鈴を鳴らした。中で呼鈴が鳴りひびいているのが聞こえたが、人のいる気配はなかった。
「これは重大なことになりそうだ」とつぶやいて、医師はエレベーター係を振り返って、
「この扉の合鍵はないかね?」と尋ねた。
「階下の玄関番の事務室に一つあります」
「それを取って来て貰おう。それから警察へすぐ連絡したほうがいいね」
ポワロはそれに賛成するように、うなずいた。
男は間もなく、支配人を伴って戻ってきた。
「いったい、これはどういう訳なのでございますか、お聞かせ下さらんでしょうか」
「いいですとも。私はフォスカチニ伯から、何者かに襲撃されて、死にかかっているという電話をいただいたんでね……ぐずぐずしておられんのは君にもわかるだろう──手遅れにならねばいいが」
支配人はそれ以上さわぎ立てることなく、合鍵を出した。
我々は小さい四角な控え室へ入っていった。その右手の扉が半ば開いていた。支配人はそのほうをあごでしゃくって、
「食堂です」といった。
ホーカー医師が先に立ち、我々はすぐその後に従った。部屋へ入るなり私は息をのんだ。中央の丸テーブルの上には食事の跡がのこっていた。三脚の椅子が、たった今そこに腰かけていた人々が席を立ったように、後ろへ引いてあった。暖炉の右手の隅に大きな書き物机があって、そこに一人の男が──というよりも、男だったものが──腰かけていた。彼の右手はまだ卓上電話の台座をつかんでいた。しかし背後から頭に強打を受けて前へのめっていた。凶器は捜すまでもなく、すぐ近くに大理石の像が急いで置いたらしく立っていて、その台座が血に染まっていた。医師の調べは一分とかからなかった。
「死んでいる。ほとんど即死だったにちがいない。電話をかける暇もなかったと思うが……警察が来るまでは動かさんほうがいい」
支配人の提案で、一同は各室を捜索したが、結果は無駄であった。殺人者どもはここから歩いて出てしまいさえすればいいので、何も隠れていることなどはないはずである。
一同は食堂へ戻った。ポワロは我々の巡回には加わらなかった。私は彼が中央の食卓を熱心に研究しているのを見いだした。私も仲間入りした。それはよく磨きあげたマホガニーのテーブルで、その真中にばらを盛った花びんが飾ってあった。そして、ぴかぴかした表面に白いレースの皿敷きがそれぞれの場所に置いてあった。果物を盛った鉢が出ていたが、三枚の果物皿には手が触れてなかった。三個の珈琲《コーヒー》茶碗には、珈琲の残りが──一個はミルク入り、あとの二個はミルクなしであった。三人ともワインを飲んでいて、半分|空《から》になった壜《びん》が大皿の前に置いてあった。男たちの中の一人は巻き煙草を、他の二人は葉巻きを吸っていた。食卓の上には、巻き煙草と葉巻きとを入れた、べっこうと銀でできた箱が蓋を開けて置いてあった。
私はそれらの事実をすっかり心の中に列挙して見たものの、一つとして事態に光明を投げるようなものは見いだせなかったと白状しなければならない。私はいったい何がポワロをそんなに激しくひきつけているのだろうと、不思議に思って、質問した。すると、
「君は見当はずれですよ、私は自分に見えないあるものをさがしているのです」と答えた。
「それは何ですか?」
「間違いです、殺人者側のどんな小さな間違いでもよろしいから、見つけ出そうとしているのでございます」
彼はすばやく隣接している小さな台所へ踏み込んでいって、辺りを見回して首を振った。そして支配人にむかって、
「こちらで食事を出す時の仕組みを、どうぞご説明下さい」といった。
支配人は壁にはめこみになっている戸に近づいて、
「ここに配膳昇降機がございまして、この建物の頂上にある調理場に通じております。この電話で注文いたしますと、一度に一品ずつこれで運びおろされますし、汚れた皿や鉢は同様にして上へ送り返されます。ご承知のようにこのアパートでは食事ごしらえの面倒は無く、またいつも食事ごとに料理店へ姿を現わす煩わしさを避けることができる仕組みになっております」
ポワロは、うなずいた。
「すると今晩ここで用いられた食器類はみんな上の調理場へ運びあげられたわけでございますね。上へ行かせていただけましょうか」
「よろしゅうございますとも! エレベーター係のロバーツにご案内させて職場の者にご紹介させましょう。しかし恐らくお役に立つようなものは何も発見なされないと思いますね。何しろ数百枚に及ぶ皿鉢を扱っておりますんで、みんなまぜこぜになってしまっておりましょうから」
けれどもポワロは平然としていた。で我々は調理場を訪ねて十一号室からの注文を受けた男を訊問した。
「お好み献立の中から野菜スープ、舌平目《したびらめ》のむし焼き、牛のひれ肉料理、米のスフレを三人前というご注文でございました。時間ですか? ちょうど八時でしたね。はあ残念なことに皿や何かはもうみんな洗ってしまったのです。指紋のことを考えておられるのでしょうか?」
「そういうわけでもありません。私がもっとも興味を持っておりますのは、フォスカチニ伯爵の食欲の状態です、伯爵はどの料理もみんな召し上がりましたか」ポワロは謎めいた微笑を浮かべていった。
「すっかり平らげられたようでした。もちろん一人一人がどれぐらい食べたか、はっきりはいえんですがね、どの皿もみんな汚れていたですし、鉢は空になっておったですが、食後の米のスフレだけはだいぶ残っておったです」
「なるほどね!」といったポワロは、その事実に満足した様子であった。
一同が再び伯爵の部屋へおりていく途中、ポワロは、低い声で、
「私どもは疑いもなく、組織的方式をもった男を相手にしているのでございますよ」といった。
「あなたのおっしゃるのは殺人者のことですか、それともフォスカチニ伯爵ですか」
「伯爵はよほど几帳面な紳士だったと見えますね。救助を求め、死期が迫っていることを告げた後、受話器を注意深く元へ戻しておかれたほどでございますからね」
私はポワロを見つめた。今の彼の言葉と先刻の訊問事項とは、私に微《かす》かな考えを与えた。
「あなたは毒薬のことを考えていらっしゃるんですか、頭を強打したのは、捜索の眼をくらますためだったんですね」と私は口走った。
我々が二階へ入っていくと、警部が二人の巡査を伴って到着した。彼は我々の出現を不快に思っている様子であったが、ポワロは警視庁の友人ジャップ警部の名を持ち出して相手をなだめ、いやいやながらも、我々が現場にいることを承知させた。我々にとって幸運なことには、それから五分と経たないうちに、ひどく興奮した中年の男が部屋へ飛び込んで来た。彼は悲嘆に暮れてすっかり取り乱していた。
それは故フォスカチニ伯爵の従僕グレイブスであった。彼の語った話はセンセーショナルなものであった。
前の日の朝、二人の紳士が彼の主人に面会に来た。彼らはイタリア人で、二人のうち年上の男は四十ぐらいで、アスカニオと名乗った。若いほうは二十四歳ぐらいのりっぱな服装をした青年であった。
フォスカチニ伯爵は彼らの訪問を予期していたらしくて、すぐにグレイブスをごくつまらない用たしに出した。そこまで話すと男はちょっとためらって言葉を切った。しかしながら、彼はついにその会見の目的に好奇心を抱いて、主人の命令にはすぐ従わなかったことを白状した。そして彼は何が行われるのか少しでも聞こうと思ってぐずぐずしていた。
会話はごく低い声だったので、盗み聞きは思ったほど成功しなかった。しかし彼は少しずつ聞き集めたことから何やら金のことについて交渉しているので、その底には脅迫があることを嗅ぎ出すことができた。その討論はけっして平和的なものではなかった。最後に伯爵は声を少し高めたのでグレイブスは次の言葉を、はっきりと聞いた。
「紳士諸君、私は今はもうこれ以上議論している暇はない、もし明晩八時にここへ食事に来れば、もう一度これについて話し合うとしよう」
グレイブスは、立ち聞きしているのを見つかるのをおそれて、主人の使いをしに、急いで出かけた。今晩、その二人の紳士は八時きっかりに到着した。食事中彼らは、政治とか天候とか演劇界のことだけを話し合っていた。グレイブスが最後にワインの壜をテーブルに出しコーヒーを運んでいくと、主人は暇をやるから遊びにいってくるよういった。
「いつも客のある時には、君に暇をくれる習慣だったのかね」と警部が尋ねた。
「いいえ、そんなことはないです。だから私はご主人がその紳士たちと話し合うことは、よほど変わった用件にちがいないと思ったんでございますよ」
これでグレイブスの話は終わった。彼は八時三十分ごろ外出して友達に会い、一緒にエジュワー通りのオペラ館へいった。
二人の客人が帰っていくところを見た者は誰もなかったが、殺人が行われたのは、八時四十七分と確認された。机の上の置時計がフォスカチニの肘で払い落とされ、八時四十七分をさして止まっていた。その時刻はホーカー医師の家政婦が、伯爵からの電話を受けた時刻と符合していた。
警部は死体の検査を行ったので、私は初めて、今は長椅子に横たえてあった被害者の顔を見た──オリーブ色の肌をして、鼻柱が高く、豊かな黒い口髭を蓄え、厚みのある赤い唇が引きつれて白いきらきらした歯をむき出しにしている──何としても気持ちのいい顔ではない。
警部は、手帳を閉じながら、
「この事件は、しごく、明瞭らしい。ただ困難なのはアスカニオなる人物を捕らえることだけだ。もしかして、死んだ男の手帳にその男の住所が書いてないですかな?」といった。
ポワロのいったとおり、フォスカチニ伯爵は几帳面な人であった。小さなはっきりした文字できちんと書かれていたのは──パオロ・アスカニオ氏──グロブナー・ホテル──と記してあった。
警部は電話をかけるのに忙殺されていたが、やがて、にやにやしながら我々のほうを振り返って、
「ちょうど間に合ったです。例の紳士は大陸連絡船行きの列車に乗るためにホテルを出たところでした。目下のところ、我々のなすべきことは、その紳士を捕らえることだけですな。厄介な事件だが、簡単なものだ。いうまでもなくイタリア得意の仇討ちってやつでさあね」といった。
こうして軽々と片づけられてしまって、我々は階下へおりていった。ホーカー医師はすっかり興奮していた。
「まるで小説の書き出しみたいですな。実際に興奮させられる事件だ。こういうのは小説で読んでて信じられんですな」
ポワロは口をきかなかった。彼はひどく考え込んでいた。一晩中、ほとんど唇を開かなかった。医師は、彼の背中を叩いて尋ねた。
「探偵の大将のご意見は? 今度ばかりはあなたの灰色の脳細胞も働らかんですか」
「あなたはお考えにならないのですか?」
「何を考えることなんかあるんです」
「そうですね、たとえば窓がございます」
「窓? あの窓はみんな戸締まりがしてあって、誰もあそこから出入りできんです、私は特にその点に気がついたです」
「どうしてあなたは、その点に気がおつきになりましたか」
医師は腑に落ちない様子であった。ポワロは急いで説明を加えた。
「それは窓かけが引いてなかったからでございます。あれは少々おかしゅうございます。それから珈琲のこともございます、あれはたいそう濃い珈琲でございました」
「それが何なんですか」
「真黒でございました。その事実とともに、米のスフレがほとんど食べてなかった事実を思い合わせてみようではございませんか。これは何を意味しておりますでしょうか」
「つまらんことを! あなたは私をからかっておられるんじゃね」といって医師は大笑いした。
「私は冗談など申しておりません。ここにいるヘイスティングス君は、私が大まじめなのを知っております」
「僕だってあなたが何をいおうとしていらっしゃるのか、さっぱりわかりませんよ、あなたは従僕を疑っていらっしゃるんじゃないでしょうね。彼はギャングの一味で、珈琲の中に何か麻酔剤でも入れたかもしれません。きっと警察ではアリバイを調べるでしょうね」と私はいった。
「申すまでもございません、けれども私に興味があるのはアスカニオ氏のアリバイでございます」
「あなたは、彼が現場不在証明を持っているとお考えですか」
「私が気にしておりますのは、それでございます。私どもは間もなく、その点を明らかにされるとぞんじます」
デイリー・ニューズモンガー紙は、その後の事件の成功を我々に明らかにしてくれた。
アスカニオ氏はフォスカチニ伯爵殺しの容疑者として逮捕された。彼は伯爵と面識のあることを否定し、犯罪のあった晩も、その前日の朝もリージェント・コート付近へは行ったこともないといい張った。若いほうの男は完全に消息を絶ってしまった。アスカニオは殺人の行われる二日前に大陸から来て、グロブナー・ホテルに一人きりで到着した。第二の捜索に対するあらゆる手段は失敗した。
しかしアスカニオは裁判には付されなかった。イタリア大使自身が警察の取り調べの際に出頭して、犯罪の行われた晩、アスカニオは八時から九時まで大使館に自分とともにいた旨を証言した。それで囚人は放免された。したがって多くの人々は、この犯罪は政治上の含みのあるものだったので、巧みにもみ消されてしまったのだと考えた。
ポワロは以上の諸点に非常な興味を抱いた。それにもかかわらず、ある朝、ポワロが突然にその朝の十一時に来客があるはずだといい、しかもそれが他ならぬアスカニオその人と知って、私はすっかりおどろいてしまった。
「アスカニオは、あなたに相談したいことがあるっていうんですか」
「どういたしまして、私があの方に相談したいのでございますよ」
「何についてですか」
「リージェント・コート殺人事件について」
「あなたは、あの男が犯人であることを証拠だてるんですか」
「君、一人の男が二度も同じ殺人で裁判されることはございませんよ。ヘイスティングス君、常識を持つように努力したまえ。ああ、あの呼鈴は私どものお友達です」
間もなくアスカニオ氏が案内されて来た。彼は、秘密ありげな、おどおどした眼つきの、やせた小柄な男であった。彼は戸口に立って、疑い深い視線を、我々二人に交互に投げた。
「ポワロさんでいらっしゃいますか」
我が友ポワロは、自分の背を軽く叩いて見せた。
「さあ、おかけ下さい。私の書面をお受け取りになりましたね。私はこの謎の底を極める決心をしたのでございます。それにつきまして、あなたは幾分私をお助け下さることがおできになります。さあ、始めましょう。あなたは九日、火曜日の朝、一人のご友人を同伴してフォスカチニ伯爵を訪問なさいましたね」
イタリア人は怒った身ぶりをして、
「私はそんなことは一切しません。そのことは法廷で誓いました」
「いかにもおっしゃるとおり──あなたは偽りの誓言をなさいました」
「あなたは私を脅迫なさるのですか? ばかな! 私は無罪放免になったのですから、何もあなたに脅かされることなどありません」
「そのとおりです。私はばかではございませんから、あなたを脅かすのに絞首台を持ち出すようなことはいたしませんが、公表と申す武器を持ちだします! 私にはあなたがその言葉がお好みにならないと申すちょっとした考えがあるのでございます。この、私のちょっとした考えと申すのは、なかなか貴重でございます。さあ、あなたにとって唯一の道は、私に対して正直になさることです。私は何者のさしがねで、あなたが英国へおいでになったかは質問いたしません。ただあなたがフォスカチニ伯爵に会う特別の目的でいらしたことだけは、よく承知しております」
「彼は伯爵なんかではありませんでした」
「私はすでにその事実には気がついておりました。お国の貴族年鑑にはあの人の名は載っておりません。そのようなことはどうでもよろしい。伯爵と申す爵位は、強請《ゆすり》を商売にしている者がよく用います」
「どうもあなたには正直にぶちまけたほうがいいようだ。あなたは何でもよく知りきっておられるようだ」
「私はこの灰色の脳細胞を有効に使っております。さあ、おっしゃって下さい、アスカニオさん、あなたは火曜日の朝、あの死んだ人を訪問なさいましたね」
「そうです、しかし私は翌晩はけっしてあそこへは行きませんでした。そんな必要がなかったのです。すっかり話すとしましょう。イタリアの重要な地位にある人物に関するある情報があの悪党の手に入ったのです。奴はその書類と引き替えに莫大な金額を要求したのです。で私はあの朝、前もって約束しておいて彼を訪問したのです。大使館の若い秘書官の一人が私に同行しました。伯爵は私が予期したほど法外な要求はしませんでした。といっても私の支払った金額は莫大なものでしたが……」
「失礼ですが、どういうふうにして支払われましたか」
「割に少額のイタリア紙幣で、全額の金をその時、その場で支払いました。彼は私に犯罪材料に使った書類を手渡しました。それっきり私は二度と彼に会いません」
「なぜあなたは逮捕された時に、それらの事実をおっしゃらなかったのですか」
「私はあの男とは何の関係もないことを強調しなければならない、微妙な立場にあるのです」
「では、あの晩の出来事を、あなたはどうお考えですか」
「私として考え得る唯一のことは、誰かが、非常に巧妙に私に扮していたのではないかということです、あの家には金が一つも発見されなかったそうですね」
ポワロは、相手を見つめて、頭を振った。
「奇妙です、私どもはみんな脳細胞を持っております、それでいて、いかにそれを使うか知っているものは、わずかでございます。ではアスカニオさん、さようなら、私はあなたのお話を信じます、私の想像したとおりでございました。私はそれを確かめたかったのでございます」
丁重におじぎをして客を送り出してしまった後で、ポワロは自分の安楽椅子に戻り、私に微笑を送った。
「さあ、ヘイスティングス大尉のご高説を伺わせて下さい」
「そうですね、僕はアスカニオのいったように、誰かがあの人に扮したんだと思います」
「やれ、やれ、君という人は、神様が折角下すった頭脳をちっとも使おうとなさらないのですね。あの晩アパートを出てから私の申した言葉を思い出し給え。私はあの窓掛けが引いていなかったことに触れたでしょう。ただ今は六月です。英国では、八時にはまだ明るうございます。八時半になると暗くなり始めます。君は、そんなことが何だとおっしゃるんですね? 君には何のことかわけがわからないようですが、やがておわかりでしょう。さあ、後を続けるといたしましょう。前にも申したように珈琲はたいそう濃うございました。ところが伯爵の歯はすばらしく白うございました。珈琲は歯を汚します。そうしたことから、フォスカチニ伯爵は、けっして珈琲を飲まない人だったと推定できました。それだのに、あの場には、三個の茶碗にみんな珈琲が入っておりました。伯爵は珈琲を飲まなかったのに、なぜ飲んだことにしておかなければならなかったのでしょうか?」
私は当惑して、頭を振った。
「さあ、私が助けてあげるから考え給え。私どもは、あの晩アスカニオとその友人が、伯爵のアパートへ来たと申すどんな証拠を持っておりますでしょう。誰もその二人があそこへ入るの見ませんでした。二人がアパートを出ていくのを見かけた者もありません。私どもの持っておりますのは一人の男の証言とたくさんの無生物の語る証拠だけでございます」
「と、おっしゃると?」
「私の申すのはナイフやフォークや皿や空の鉢などのことでございます。しかし何という賢い考えでしょう? グレイブスは盗人で悪漢ですが、組織的な頭脳を持った男ですし、彼はその朝の会話の一部を立ち聞きして、アスカニオが自分の潔白を弁明するのに不都合な立場にあることを知ったのです。でつぎの晩八時ごろに彼は主人に電話だと告げます。フォスカチニは電話の前に腰かけます、そして受話器に手を延ばします。グレイブスはその背後から大理石像で撲りつけます、それからすぐ送話器で食事三人前の注文をします、それが届くと、彼は食卓に並べ、皿やナイフやフォークを汚します。それにしても、すばらしく大きな胃袋を持った男です。三人前のコースを平らげたものの、さすがに食後の米のスフレには手が出ませんでした。彼は真実らしくするために葉巻きを二本に巻き煙草を一本吹かすことさえしました。何と至れり尽くせりでしょう! それから時計の針を八時四十分にしておいて、床に叩きつけて止まらせておきます。たった一つ彼がしなかったのは、窓掛けを引いておくことでした。もし真実に晩餐会があったのでしたら、日が暮れ始めるとすぐに窓かけをひいてしまうものです。それから彼は急いで出かけ、通りしなにエレベーター係に二人の客があることを話し、公衆電話へ急いでいって、できるだけ八時四十七分に近い時刻に主人の死んでいく声を使って医師のところへ電話をかけます。彼の考えがたいそう成功し、誰もその電話がその時刻にアパートの十一号室からかかったものかどうか調べようとしませんでした」
「エルキュル・ポワロをのぞいては、という意味でしょうね」と私は皮肉をいった。ポワロは微笑して、
「いいえ、エルキュル・ポワロさえもです。私はこれから問い合わせるところでございます。私はまず君に要点を説明しておきたかったのでございます。それからジャップさんにはすでにヒントを与えておきましたから、きっと神妙な顔をしているグレイブスを逮捕することができますでしょう。いったい彼は金をどのぐらい使ってしまっておりますでしょうね」というのであった。
ポワロは正しかった。癪にさわるが、彼はいつだって、そうなんだ!
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エジプト人墓地の冒険
ポワロと行動を共にした多くの冒険の中で、もっともスリルが多く劇的だったのは、メン・ハア・ラア王の墓地の発見とその開発に続いて起こった一連の怪死事件の調査だったと私は思っている。
カーナボン伯、ジョン・ウィラード卿、およびニューヨークのブリーブナー氏によってカイロからほど遠からぬギゼーのピラミッド付近でツタンカーメンの墓が発見されてから、さらに発掘作業を進めていくうちに、思いがけなく、いくつかの埋葬室に行き当たった。この発見は非常な興味を巻き起こした。その墓は、老王国が凋落《ちょうらく》しかけた時代の第八王朝の影の薄い王たちの一人メン・ハア・ラア王のものらしかった。その時代についてはあまり知られていなかったので、この発掘は詳細にわたって新聞に報道された。
それから間もなく起こった出来事は、国民一般の心をすっかり捕らえてしまった。というのは、ジョン・ウィラード卿が心臓麻痺で急逝した事件であった。
煽動的な二、三の新聞は、早速、あるエジプトの宝物にまつわる不運に関する昔ながらの迷信的な物語をいろいろと書き立てる機会をつかんだ。大英博物館にある不幸なミイラについての古めかしい陳腐な物語がまたしてもむし返され、博物館側では穏やかにそれを否定したが、それにしてもその記事は例によって人気に投じた。
それから二週間後にブリーブナー氏は急性敗血症で死に、それから数日して彼の甥《おい》はニューヨークでピストル自殺をした。メン・ハア・ラア王の呪いは今日の話題となり、遠い昔に死んでしまったエジプト人の魔法の力は崇拝の的にまで高揚される有様であった。
死んだ考古学者の未亡人ウィラード夫人から、ケンジントン・スクエアにある同夫人の家へ訪ねてきてもらいたいという短い手紙をポワロが受け取ったのは、そうした時であった。で、私もポワロについていった。ウィラード夫人は背の高い夫人で、やせたからだを黒い喪服に包んでいた。彼女のやつれた顔が最近の悲嘆を雄弁に語っていた。
「ポワロ様、早速においで下さいまして、誠にご親切さまでございます」
「奥方様のご用を喜んで勤めさせていただきます。奥方様は何ぞ私にご相談なさりたくておいで遊ばすのでございますね?」
「私はあなた様が探偵でいらっしゃることはぞんじあげております。けれども私はあなた様を探偵としてだけでなく、ご相談申し上げたいのでございます。あなた様は世の中の経験に富んでいらっしゃると承っております。そこでお聞かせいただきたいのでございますが、ポワロ様は超自然的なことに対してどういうご見解をお持ちでいらっしゃるのでございましょうか?」
ポワロは答える前に、ちょっとためらった。彼は考え込んでいる様子ではあったが、ついに口を開いた。
「奥方様、お互いに誤解のないようにいたしましょう。奥方様がお尋ねになっておいでになるのは、一般的なご質問ではございませんね。それは個人的に適用されるものではございませんか? 遠回しに亡くなられたご主人の死について、おっしゃっていらっしゃるのでございましょう?」
「おっしゃるとおりでございます」と夫人は肯定した。
「奥方様は私にご主人の死因調査をご希望でいらっしゃるのでございますね」
「私は新聞が書き立てておりますことがどの程度まで事実にもとづいておりますか、お確かめいただきたいのでございます。ポワロ様、三つの死は、それぞれ説明はついておりますが、一緒にして考えますと、信じがたいほど偶然の一致でございますもの! これは単なる迷信かもしれませんが、あるいはまた現代の科学では夢想もできないような方法で作用する過去の呪いかもしれません。ここに残されている事実は──三つの死でございます。私は心配なのでございます。ポワロ様、ひどく案じられてならないのでございます。これで終わりではないような気がいたしますのでございます」
「奥方様は、どのようなことをご案じになっておいでなのでございますか」
「息子のことでございます。良人《おっと》の亡くなりました知らせが参りました時、私は病床におりました。それでオックスフォード大学を卒業したばかりの息子が現地へ向かいましたのでございます。息子は遺骸を宅まで送ってまいりまして、私が頼んだり祈ったりいたしましたのにそれを振り切って、またあちらへ参ってしまいました。息子は発掘の仕事にすっかり心を奪われてしまいまして、亡き父に代わって発掘の計画を遂行するつもりなのでございます。ポワロ様は私を愚かな迷信家だと思召《おぼしめ》すでございましょうが、もしも死んだ王様の霊魂がまだ浮かばれないでいるといたしましたら? きっとこんなことを申しましたら、あなた様はばかげた話だと思召すでしょうけれど……」
「いいえ、奥方様。私もまた世界で知られる限り最も大きな力の一つである迷信の力を信じておるものでございます」とポワロは急いでいった。
私は驚いて彼の顔を見た。私はポワロが迷信家だなどということは絶対に信を置かない。しかし彼は明らかに本気でそういっているのであった。
「奥方様が実際に要求しておいでになるのは、私がご子息様をご保護申し上げることでございましょう? 私は全力を尽くしてご子息様に害が及ばないようお護りいたします」
「はい、普通の場合はそうでございますが、なお、神秘的な作用からもお護りいただけましょうか?」
「奥方様も、中世の多くの書籍の中に凶悪な魔術の力を消す方法をいろいろご発見なさいますでしょう。恐らく昔の人たちは、科学を誇っている私ども現代人よりも、はるかに多くを知っておりましたようでございます。さて、私が何か手がかりを得ますために、事実について聞かせていただきましょう。ご主人様はずっと熱心なエジプト学者でいらっしゃいましたね。そうではございませんでしたか?」
「はい、若いころから今日に至りますまで、研究しておりました。そのほうでは現代随一の権威者でございました」
「しかしブリーブナー氏はどちらかと申すと、素人《しろうと》でいらしたように承知しておりますが」
「はい、おっしゃるとおりでございます。あの方はたいそうなお金持ちで、気が向くと何にでも手をお出しになる方でいらっしゃいました。それで主人はあの方にエジプト研究に興味をお持たせすることに成功いたしましたわけで、この度の遠征では経済的にあの方のお金がたいそう役立ちましたのでございます」
「ではブリーブナー氏の甥の方はいかがでしたでございましょうか。どのような趣味でおられたかご存じでいらっしゃいますか。この発掘隊に関係しておいでだったのでしょうか」
「私はそうは思いません。実はあの方の亡くなられたことを新聞で読むまでは、甥御様がいらしたことさえぞんじませんでしたぐらいでございます。ブリーブナー様とその甥御様とはお親しい仲でいらっしたとは考えられません。あの方は一度だってお身内の方々のお話をなすったことがございませんでしたもの」
「その他の隊員の方々はどなたでしたか」
「さようでございますね。トスウイル博士、この方は大英博物館に関係していらっしゃる職員で、シュナイダー氏はニューヨークのメトロポリタン博物館員、それから若いアメリカ人の秘書、それからエイムス博士、この方はこのほうの専門家として加わっていらっしゃいました。それに私の良人に忠実に仕えておりました、土人のハッサンでございます」
「アメリカ人の秘書の名をご記憶でいらっしゃいましょうか?」
「ハーパーと申したようにぞんじますが、確かではございません。たいそう長いことブリーブナー氏の秘書をしておりましたようでございます。たいへん快活な青年でございました」
「どうもありがとうございました」
「他に何か……」
「ただ今のところ何もございません。万事私にお任せおき下さいまし。人力の及ぶ限りご子息様をお護り申し上げますから、ご安心下さい」
これはあまり安心のいく言葉ではなかった。私はウィラード夫人がその言いぐさを聞いて、眉をひそめたのに気がついた。それにしてもポワロが夫人の恐怖を一笑に付してしまわなかった事実が、夫人に慰めを与えたらしかった。
私としては、今までポワロの性格にそれほど迷信的な素質があるとは思いもよらぬことであった。私は帰宅の途中で、その問題で彼と渡り合った。彼の態度はまじめで真剣であった。
「しかし君、私はこういうようなことを信じておりますよ。ヘイスティングス君、君も迷信の力を見くびらないほうがよろしいと思いますね」
「で、僕らはこの件について、これからどうするんですか」
「ヘイスティングス君は、常に現実的ですね。よろしい、ではまず手はじめにニューヨークへ打電して、ブリーブナー氏の甥の死について、もっと詳しい情報を得ることです」
ポワロはすぐに打電した。その返信は充分で明白なものであった。ブリーブナー氏の甥はここ数年間、経済的に不遇であった。彼は波止場ごろつきで、怠け者の見本みたいな男であった。南海諸島を放浪し、二年前にニューヨークへ帰って来て、たちまち零落していったという。最も私の心にはっきりと映じたことは、彼が最近エジプトへ行くだけの旅費を何とかして借りた事実であった。彼は「エジプトにはいくらでも借りることができる友人がいるから」と公言していた。しかし彼の計画は失敗し、彼は肉親の甥よりも、死んでしまった王や死人の骨などに興味を持っている伯父のけちんぼうを罵りながらニューヨークへ舞い戻ってきた。ウィラード卿の死はその甥のエジプト滞在中に起こった。甥はニューヨークで再び遊興に耽りだし、その果てに何の予告もなく自殺をしてしまった。彼の書き残した手紙に奇怪な言葉が書いてあった。それは発作的悔恨のうちに書かれたものと思われる。彼は自分を癩病患者で浮浪者であるとし、そういう人間だからむしろ死んだほうがいいのだと、手紙が結んであった。
無気味な推理が私の脳裡にひらめいた。私は最初から大昔に死んでしまったエジプト王の復讐なんていうことは信じていなかった。私はここに最も近代的な犯罪を認めたのであった。
仮にこの若者が伯父を殺してしまおうと決心し──毒を選んだとする。ところが何かの手ちがいでウィラード卿がその毒を受け取ってしまった。若者はニューヨークへ帰って、自分の罪に責められる。そこへ伯父が病死したという知らせが来た。彼は自分の犯罪がいかに無益なものであったかに気づき、良心の呵責に耐えきれずに自殺した。
私はこうした推理の輪郭をポワロに語った。彼は興味を持った。
「君の考えは独創的です──まぎれもなく独創的です。けれども君は、エジプト人の墓がもつ致命的な影響のことを考えに入れていませんね」
私は、肩をすくめた。
「あなたは、相変わらず、それがこの犯罪に関係があると考えていらっしゃるのですか」
「さようですとも。君、それだからこそ、私どもは明日、エジプトへ向かって出発するのでございます」
「何ですって?」私は驚きの叫びをあげた。
「私が今申したとおりでございます」
ポワロは満面に英雄気分をみなぎらせていた。それから急にうめき声を上げ、
「だが……おお……海……呪わしき海!」と嘆くのであった。
***
それから一週間後であった。我々の足の下に砂漠の黄金色の砂が横たわっていた。頭上には熱い太陽が降りそそいでいた。ポワロは哀れな様子をして私のわきに悄然《しょうぜん》として立っていた。マルセーユからの四日間の航海は、彼にとっては長い苦しみの旅であった。アレクサンドリアに上陸した彼は、いつものポワロの亡霊のような有様で、日ごろの身だしなみさえも忘れられてしまっていた。我々はカイロに着くとすぐに自動車を走らせて、ピラミッドの蔭にあるメナ・ハウス・ホテルに向かった。
エジプトの魅力は私を虜《とりこ》にしたが、ポワロはそうはいかなかった。彼はロンドンにいる時と寸分ちがわない服装をし、ポケットに小型ブラシを忍ばせていて、黒っぽい服の上に積もるほこりと絶えず戦っていた。
「私の靴を見てください、ヘイスティングス君。このいつもスマートでぴかぴかしているこのしゃれたエナメル革の靴を見てください。内側には砂が入って足が痛く、外側は見るにたえないこの有様! それにこの暑さで、私の大切なひげが、だらりと垂れてしまうではありませんか!」と彼はぐちをこぼした。
「スフィンクスをごらんなさい。僕はあれが発散している魅力と神秘を感じることさえできますよ」
ポワロは、不満らしい様子で見あげた。
「幸福そうな様子をしておりませんね。あんなだらしない恰好で半ば砂に埋まっていたのでは無理もございません。ああ、この呪わしい砂!」
「でもベルギーにも砂がたくさんありましたっけね」私は案内書に──非のうちどころなき砂丘──と説明のあったノック・スウル・メールで過ごした休暇のことをポワロに思い出させるようにいった。
「ブリュッセルには砂などございませんでした」といって、ポワロは考え込んだ様子でピラミッドを見つめていたが、
「確かに少なくも形はしっかりして幾何学的です。しかしでこぼこな表面は不愉快です。それにあの棕梠の木は、私の好みではありません。しかも二列にきちんと植えることさえしてもありません!」
私は、これから発掘隊のキャンプへ向かうのだといって、ポワロの苦情を中断してしまった。
我々はそこまで駱駝《らくだ》に乗っていかなければならなかった。二匹の動物は忍耐強くひざまずいて、我々が乗るのを待っていた。数人の絵画的な少年たちが、よくしゃべる通訳の監督のもとに駱駝の世話をしていた。
駱駝に乗ったポワロの姿は省略する。彼は最初はうめいたり、嘆いたりしていたが、しまいには叫ぶやら、大げさな身ぶりをするやら、暦に乗っているかぎりの聖人や聖母マリアに祈るやらしたあげく、不面目にも駱駝からおりてしまって、小さなろばで旅を続けたのであった。私にしても駱駝にゆられて旅をするのは、全く素人にとってはしゃれや冗談でないことを白状しなければならない。私は数日間というもの、からだじゅうが硬ばって閉口した。
ついに我々は発掘の現場へ近づいた。白服にヘルメット帽を被った白髯の日焼けした男が、我々を出迎えた。
「ポワロさんと、ヘイスティングス大尉ですな? 電報はたしかにいただきました。カイロまでお出迎えする者がなくて、失礼しました、思いがけぬ出来事が起こったために、我々の計画をすっかりこわされてしまったのです」
ポワロは顔色を変えた。ブラシを忍ばせてあるポケットへ行きかけた手は、途中で止まってしまった。
「また、誰か死んだのですか?」とささやくようにいった。
「はい」
「ウィラード卿のご子息で?」と私は叫んだ。
「いいえ、ヘイスティングス大尉、私のアメリカ人の仲間、シュナイダー君です」
「死因は?」とポワロは追求した。
「破傷風」
私は青褪《あおざ》めた。自分の周囲に名状しがたい威嚇的な邪悪な雰囲気がひろがっているような気がした。恐ろしい考えが私の胸を横切ってひらめいた。もしかして、つぎは自分の番ではなかろうか?
「困ったことだ! 私には理解できない。伺わせていただきますが、破傷風には疑いございませんか」
「疑いないと思います。しかしエイムス博士が私よりも、はっきりしたことをお話しするでしょう」
「もちろん、あなたは医者ではいらっしゃいませんでしたね」
「私の名はトスウイルです」
するとこれがウィラード夫人のいった大英博物館員の専門家である。何か彼には慎重でしっかりしたところがあることがすぐに私の注意をひいた。
「一緒においでくだされば、ガイ・ウィラード卿のところへご案内します。あなた方が到着されたら、できるだけ早くお目にかかりたいといっておりました」
我々は野営地を横切って大きなテントへいった。トスウイル博士は入り口の幕をあげ、我々を中へ入れた。そこには三人の男が腰かけていた。
「ガイ卿、ポワロ氏とヘイスティングス大尉が到着されました」とトスウイルがいった。
三人の中のいちばん若いのが急いで立ち上がって、我々に挨拶をしに来た。彼の態度にはどこか衝動的なところがあって、それが彼の母親を想い起こさせた。彼は他の人たちほど日焼けしていなかった。そのせいで眼の周囲に現れている憔悴《しょうすい》が、彼を二十二という年よりもずっと老けて見せた。彼は明らかに激しい心痛に打ち勝とうと努力している様子であった。
彼は二人の仲間を紹介した。エイムス博士は三十五、六の、びんに霜をおきはじめている手腕家らしい男で、秘書のハーパー氏はやせ型の快活な青年でアメリカ人らしく、べっこうぶちの眼鏡をかけていた。
数分間とりとめのない会話をした後、青年は出て行き、トスウイル博士もそれに従った。そして我々とガイ卿とエイムス博士だけが残された。
「ポワロさん、どうぞ何でも質問して下さい。僕らはこの奇怪にも続発する不幸に、全く呆気に取られているのです。しかしそれは……単なる偶然の符合でしかないんでしょうかね」とガイ卿はいった。
彼の態度には神経質なところがあるので、それが彼の言葉を裏切っていた。私はポワロが彼を鋭く観察しているのを見た。
「ガイ卿は真実にこの仕事に打ち込んでおいでになるのですか」
「どっちかというと打ち込んでいるほうです。たとえどんなことが起ころうと、この仕事は続行されます。それはきっぱりと決定していることなのです」
ポワロは急に博士の方へ向き直って、
「それについて、先生のご意見は?」と質問した。
「さよう、私といたしましてもやめる気はないです」と医師はのろのろといった。
ポワロは持ち前の表情たっぷりのしかめ顔をした。
「それでは、申すまでもなく、私どもが目下どういう立場にあるかを、はっきりさせなければなりませんね。シュナイダー氏が死なれたのはいつでございましたか」
「三日前」
「破傷風だったと申すのはたしかでございますか」
「間違いないですとも」
「たとえば、ストリキニーネによる毒死だったと申すようなことはございませんでしたか」
「いいえ、あなたが何を求めておられるかはよくわかります。しかしこれは歴然たる破傷風でした」
「抗血清注射をされたのでしょうね」
「したですとも、ありとあらゆる手段を尽くしたです」
「抗血清は手もとにおありでしたか」
「いいえ、私どもはカイロから取り寄せたです」
「この野営隊で他に破傷風患者がでたことがございましたか」
「いや、一人も」
「ブリーブナー氏の死因が破傷風以外のものであったという確信がおありですか」
「絶対に確かです。氏の親指に擦り傷があったです。そこから病毒が入って敗血症を起こしたのであります。これは素人にはどっちにしたって同じことのように思われるでありましょうが、この二つのことは全然異なっておるんです」
「すると、私どもの前には四つの全く異なった死が横たわっているわけでございますね。心臓麻痺に、敗血症に、自殺に、それから破傷風と」
「そのとおりです。ポワロさん」
「この四つの死体を結ぶようなものは何もないと確信しておいでですか」
「あなたのいわれる意味がわからんですな」
「ではもっとはっきり申しましょう。その四人の人々は何かメン・ハア・ラアの霊魂に対して、不敬に当たるような行動をいたしませんでしたか」
医師はあっけに取られてポワロを見つめた。
「ポワロさん、あなたは人をからかっておられる。まさかあなたがあのばかげた話を信じて笑いぐさになられようとは思われんですな」
「全くのナンセンスだ!」ガイ卿は腹だたしげにいった。
ポワロは緑色の猫のような眼をちょっとしばたいただけで、一向に動じなかった。
「すると先生はお信じにならないのでございますか」
「どういたしまして! 私は信じません。私は科学的な人間です、科学の示すものだけを信じる人間です」と医師は語気を強めていった。
「すると古代のエジプトには科学はなかったのでございますか」とポワロは静かに尋ねた。彼はその答えを待たなかった。実際エイムス医師はちょっとの間、途方に暮れていた。
「いや、お答えになる必要はございません。しかし、これだけはお聞かせください。土地の労働者たちはどう考えておりますか」
「白人が度を失うような場合には、土人たちも人後に落ちないらしいですな。彼らは、あなたのいわれるようにもおびえていることは確かですが──何もおびえる原因などないです」とエイムス医師がいった。
「はてな……」とポワロはどっちつかずにいった。
ガイ卿は前へ身を乗り出して、信じがたいというふうに叫んだ。
「よもやあなたは、そんなことを信じていらっしゃるんじゃないでしょうね!……実にばかげていますよ! そんなことを気にしたら、古代エジプトの研究なんかできませんよ」
その答えとしてポワロはポケットから小型の書物を取り出した。それはぼろぼろになった古代の書物であった。彼がそれを差し出した時、私は──エジプト人およびカルデア人の妖術──という標題を見た。ポワロはそのまま、いきなりくるりと後ろを向いて、テントを出ていってしまった。医師は私を見つめた。
「あの人のちょっとした考えとはいったい何ですか」
それはポワロがよく口にする文句なので、私は思わず微笑した。
「僕にもはっきりわかりませんね。何か悪霊を払う計画でもあるんでしょう」と私はいった。
ポワロを捜しにいくと、彼は故ブリーブナー氏の秘書であった、やせた青年と話をしていた。ハーパー君は、
「いいえ、僕はこの遠征には六か月しかいなかったのです。はあ、僕はブリーブナー氏の身辺のことは相当よく知っています」といっていた。
「あの方の甥御さんについて、できるだけ詳しく聞かせてくださいませんか」
「彼は、ある日突然ここに現われたんです。あまり外見の悪い人ではありませんでした。僕は以前一度も会ったことがありませんでしたが、他の人たちは前から知っていたようです。シュナイダーさんやエイムス先生は知っていました。ブリーブナーさんは彼の来訪を喜んでいませんでした。二人は顔を合わすなり口論を始めました。ブリーブナーさんは──一文もやるものか、今だってわしの死後だって一文もやるものか、わしは自分の金を全部、終生の仕事に注ぎ込むために残すつもりだ。このことについては今日相談した。──それからなお、それと同じようなことをいわれました。そして若いブリーブナー君はすぐにカイロへいってしまいました」
「その時には、申し分ない健康状態でしたか」
「ご老体ですか?」
「いや、若いほうです」
「どこか具合が悪いようなことをいっていたと思います。しかし大したことではなかったようです。さもなければ僕は、はっきり記憶していたはずです」
「もう一つお聞きします。ブリーブナー氏は遺言状を残されましたか」
「僕の知る限りでは遺言状はなかったようです」
「ハーパー君は、この発掘隊に残るつもりですか」
「いいえ、ここの仕事が片づきしだい、ニューヨークに帰るつもりです。お笑いになってもいいですよ。僕はこのいまいましいメン・ハア・ラアのつぎの犠牲者になんかなるのは真平ですからね。僕がここに止まれば、きっと今度は僕がやられる番ですよ」
青年は、ひたいに流れる汗を拭った。
ポワロはくるりと、きびすを返したが、奇妙な微笑を浮かべながら、肩越しに、
「彼はニューヨークでも一人犠牲にしたことを覚えておいでなさい」といった。
「畜生!」とハーパー君は吐き出すようにいった。
ポワロは考え深くつぶやいた。
「あの青年は神経過敏になっておりますね、興奮しております、すっかり苛立っております」
私は不思議に思ってポワロをちらっと見たが、彼の謎のような微笑からは、何も読み取ることができなかった。我々はガイ卿とトスウイル博士に伴われて発掘部めぐりをした。主要な発掘物はカイロに移されてしまっていたが、いくらか残っていた墓場の調度は非常に興味深いものであった。若いガイ卿の熱の入れ方は目に見えていた。しかし私は彼の態度に何か落ち着かないところがあったので、身辺に漂っている危険な空気を感じずにはいられないのだと察した。夕食に加わる前に旅の塵を洗い落とすために、我々にあてがわれたテントへ入っていくと、白衣をまとった背の高い黒人が戸口の傍に立っていて、優雅な身ぶりで我々を迎え、アラビア語で挨拶をした。ポワロは立ち止まった。
「おまえは亡くなられたジョン・ウィラード男爵の従僕だったハッサンだね」
「私は老男爵様にお仕えしておりました。そして今は若い男爵様ガイ卿にお仕えしております」と答えてから、アラビア人は我々に近寄り、声を低めて、
「あなた様は悪霊に関する知識をお持ちの賢いお方と承《うけたまわ》っております。なにとぞお若い殿様をこの土地からお去らせ下さいませ。私どものまわりの空気には邪悪がうごめいております」といった。
彼は我々の返事も待たずに、さっさと立ち去ってしまった。
「空気の中の邪悪、さよう私もそれを感じます」とポワロはつぶやいた。
食事はあまり愉快なものとはいわれなかった。トスウイル博士が一人でしゃべっていたが、やがてエジプトの骨董品について論じ始めた。それがすんで、一同が食卓をはなれようとした時、ガイ卿がポワロの腕をとって、指さした。幾つもあるテントの真中を影のような姿が動いているのであった。それは人間ではなかった。私はそれが墓の中の壁に彫刻してあった、犬の頭をした姿であるのを、はっきりと認めた。
それを見て、私は全身の血が凍るように感じた。
「これはたいへん! やまいぬ頭の像、あれはこの世を去っていく霊魂の神でございますぞ」
とつぶやきながら、ポワロは活発にテントを横切っていった。
「誰かが我々をからかっているのだ」と叫んでトスウイル博士はいまいましげに立ち上がった。
「ハーパー君、君のテントへ入っていったよ」とつぶやいた、ガイ卿の顔はひどく青ざめていた。
「いいえ、エイムス先生のテントへ入っていったのでございます」
とポワロは頭を振りながらいった。
医師は疑い深くポワロを見つめていたが、トスウイル博士の言葉をくりかえして叫んだ。
「誰かが我々をからかっているんだ! さあいって奴を取り押さえてやろう」
彼は元気いっぱいで影のような出現物の追跡に飛び出した。私はすぐその後に続いた。しかしいくら捜しても、人間の通ったらしい形跡を見いだすことはできなかった。我々は何やら不安な気持ちになって戻ってくると、ポワロは自分の安全をはかるのに、彼式のやり方で一生懸命になっているのであった。彼は忙しげに我々のテントの周囲の砂地に様々な図形や文字を描いていた。私はその中に五角形が度々くり返して描かれているのに気がついた。
彼はその作業をやると同時に、いつもの癖で、妖術と一般の魔法、黒い魔術に対抗する白い魔術、それから死ぬべき人の名簿などについて、即席の講義をしていた。
それらの事実は、トスウイル博士に激しい侮蔑の念を起こさせたらしかった。彼は私を傍へ引き寄せて、文字どおり怒りに鼻息を荒くして、
「たわごとも甚だしい! あの男はぺてん師だ。彼は中世の迷信と古代エジプト人の信仰の相違も知らないでいる。こんな無知と軽信のごっちゃになった話は聞いたことがない」と腹だたしげにいった。
私は興奮している専門家をなだめて、テントの中にいるポワロのところへ行った。彼は愉快そうににこにこしていた。
「これで私どもは安らかに眠ることができます。私はひどく頭痛がいたしますから、よくやすまなければなりません。これでよい煎薬さえあれば申し分なしです」
まるでその願いに答えるように、テントの幕があがって、湯気の立つ茶碗を捧げたハッサンが入って来てポワロにすすめた。それはポワロが特別に好む|かみつれ《ヽヽヽヽ》茶とわかった。ハッサンに礼を述べ、私にも持ってくるというのを断って、我々は再び二人だけになった。私はパジャマに着がえてから、しばらくテントの戸口に立って砂漠を眺めていた。
「すばらしい場所だし、すばらしい仕事だ。僕は心を奪われてしまった。失われた文明の真っ只中に探り入るこの砂漠の生活! ポワロさん、あなただって、この魅力をお感じになるでしょう?」
返事がないので、私は少しいらいらして後ろを振り返った。私の当惑はたちまち疑念に変わった。彼は粗末な寝台の上に仰向けになって、額をもの凄くけいれんさせていた。彼の傍には空になった茶碗があった。私は彼の側へ駆け寄ったが、すぐにテントを駆け出してエイムス医師のテントへ飛んでいった。
「エイムス先生、すぐ来てください」と私は叫んだ。
医師はパジャマ姿のまま現われて、
「どうしたんですか」と尋ねた。
「先生、ポワロ氏が病気です、死にかかっています、かみつれ茶です、ハッサンを逃がさないようにしてください」
電光のような早さで、医師は我々のテントへ走った。ポワロは私が残していったままの姿で寝台に横たわっていた。
「奇怪千万、脳溢血のように見えるが……それとも……何でしたっけか、君がいったのは……何か飲んだとか?」医師は空の茶碗を取りあげた。
「ところが、私は飲まなかったのでございますよ!」と冷やかにいう声が聞こえてきた。
我々は驚いて振り返った。ポワロは寝台の上に起きあがって、微笑しているではないか!
「いいえ、私は飲みませんでした。わが善良なる友ヘイスティングス君が夜にむかって話しかけている間に、私はお茶をのどの中ではなく小さな壜に注ぎこむ機会をつかみました。その小さな壜は薬品分析所へ届けられています」
とおだやかにいったポワロは、医師が突然行動しようとするのをおし止めていった。
「いや、それはおよしなさい。あなたも思慮のあるお方ですから、この場合暴力は何の役にも立たないことがおわかりでしょう。ヘイスティングス君が、あなたを呼びにいっているちょっとの間に、私はその壜を安全なところへしまいました。ああ、ヘイスティングス君、早くおさえて!」
私はポワロの心配を誤解した。私は自分の友人をかばうつもりで間に立ちはだかった。だが医師のすばやい行動は別の意味をもっていた。彼の手は彼の口もとへいった。すもものような強い匂いが空気を満たしていた。そして彼は前方へよろめいて倒れた。
「また、犠牲者が出ました。ただしこれが最後です。たぶんこれが最良の道でしょう。この人の首には三人の死がかかっております」とポワロは悲痛な調子でいった。
「エイムス医師が犯人だったんですか? 僕はあなたが何か超自然的な力の仕業だと信じていらっしたと思っていました」私は呆気に取られて叫んだ。
「ヘイスティングス君は、私を誤解しておいででしたね。私が信じておりましたのは、迷信の及ぼす恐ろしい力なのでございます。一連の死が超自然的な力によるものだということが一度確認されたが最後、白昼堂々と人を刺し殺すことさえ行われるものでございます。しかもそれも呪いによるものとされてしまいます。それほど強く超自然的な本能が人類の中に植えつけられているのでございます。私は最初からこの人がそうした人間の本能を利用しているのではないかと感づいておりました。私の想像ではウィラード男爵の死によって、そういう思いつきが彼の頭に浮かんだのではないかと思われます。私の知る限りでは、男爵の死によって誰も特別に利益を得る者はありませんでした。ブリーブナー氏の場合は違います。彼は巨万の富を持っていました。私がニューヨークから得た情報は暗示的な点をいくつか持っておりました。まずブリーブナー氏の甥はエジプトに親友がいて、その人から金を借りることができると公言していたということです。その事実は、それとなく金持ちの伯父のことをいっているように取れますが、もしそうであったら彼は、はっきり伯父といったはずです。したがって彼の言葉はエジプトに気の置けない友達があったことを暗示しております。もう一つ、彼はエジプトへ行くだけの金を掻き集めて出かけましたが、伯父はその場で一文の金も与えること拒絶しました。それにもかかわらず彼はニューヨークへ帰る旅費を持っておりました。誰か彼に金を貸した者があるはずです」
「それだけでは、薄弱ですね」と私は抗議した。
「まだありますよ、ヘイスティングス君。比喩的に語った言葉が、文字どおりに解釈されることがしばしばあるものです。それと反対の場合も起こり得るものです。つまりこの場合文字どおりの意味で書かれた言葉が比喩に取られております。若いブリーブナーは、明白に──僕は癩病だ──と書いておりますが、それを読んだ人はそれを堕落した人間という意味に取り、誰も彼が真実に恐ろしい癩病に罹《かか》っていると信じて自殺したことには気がついておりません」
「何ですって?」と私は叫んだ。
「それは悪魔的な考えから割り出した利口な発明でした。若いブリーブナーはそんな大したことではない皮膚病に悩んでたのです。彼はそうした皮膚病の多い、南海諸島に住んでいたことがありました。エイムスは彼の昔の友人でしたし、世間に名の通っている医師でしたから、若いブリーブナーは彼の言葉を信じて疑いませんでした。最初ここへ到着した時は、私の疑惑はハーパー君とエイムス医師とに半々にかかっておりましたが、間もなく、こうした罪悪を犯し、それを隠しておくことのできるのは医者だけだということに気がつき、さらにハーパー君からエイムスがブリーブナー氏の甥と以前から知り合いであることを聞いたのでした。疑いもなく若いブリーブナーはいつか、エイムス医師の利益になるような遺言状を書いたか、生命保険に加入したにちがいありません。エイムスは巨万の富を手に入れる機会があるのに気がつきました。彼にとってブリーブナー氏に致命的な病菌を植えるのは造作ないことでした。それから甥は医師から聞かされた恐ろしいニュース(癩病だという)に絶望してピストル自殺をしました。ブリーブナー氏はどういうつもりだったかわかりませんが、遺言状を作成しておきませんでした。それで氏の財産は自然甥に渡り、彼から医師の手にころがり込むという訳でございます」
「ではシュナイダー氏はどういうわけで殺されたのですか」
「たしかなことはわかりません。あの人も若いブリーブナーを知っておりましたね。それで何か疑念を抱いていたかもしれません。あるいは医師は動機も目的もない死がさらに続いて起これば迷信騒ぎを強化するだろうと考えたかもしれません。さらにですね、ヘイスティングス君、おもしろい心理的事実をお聞かせしましょう。殺人者というものは、一度成功した犯罪を繰り返したいという強い欲望を抱くものなのです。そして殺人を犯すごとにだんだんその欲望が募っていくのです。それで私はガイ卿のことをたいそう気遣ったのです。今晩、君の見た死神の正体は、私の命令で変装したハッサンだったのです。私はエイムス医師を怖がらせるかどうか見たかったのです。けれども彼を嚇かすのには超自然的なもの以上のものが必要でした。彼は私が超自然的なものを信じているふりをしているのを見抜いていたようでした。私の演じたちょっとした喜劇も彼をだますことはできませんでした。私は彼が私をつぎの犠牲者にしようとしているのを察しました。どうです、船酔いやいまわしい炎暑や、厄介な砂にもかかわらず私のこの灰色の脳細胞は依然として働いておりますからね!」
ポワロが前提したことは的中していた。若いブリーブナーは数年前に、酒の上の座興に、ふざけた遺言状を作り、その中で「君が大いに賞讃してくれた煙草入れおよびその他すべての所有物は、僕の死後はかつて僕を溺死から救ってくれた良友ロバート・エイムス君の所有に帰するものなり」と書き遺したのであった。
この事件はできる限り、秘密裡に葬られてしまった。それでこのメン・ハア・ラアの墓に関連して続発した驚くべき変死は、彼の墓をあばいた人々に対する往事の王の復讐──こうした信仰はエジプト人の信仰や思想に相反するものだとポワロが私に指摘したが──の勝利を証明するものとして、今日に至るまで世人の語りぐさとなっている。(完)
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あとがき
この本はクリスティ女史が雑誌に発表した短編、「情婦」以下七編を集録したもので、いずれも一九二四年以前の作品である。
この表題になっている「情婦」は、映画化され日本でも上映されたことがある。これは女性の愛情の深さと、愛する者を救うためには驚くべきほどの知恵をめぐらせ、無謀と思わせるような冒険をあえて決行する女性の強さ、それから法律のぬけ穴をあばいている作品と見てもいいのではないかと思われる。また、公の席で「情婦」と名乗りをあげるのは、英国のようにきびしい社会では致命的であるということも、頭に置いてこの作品をお読みいただきたいと思う。
そもそもクリスティ女史が、推理小説家として彗星のように英国文壇に現れ、世界中の推理小説愛好者から喝采を受けるようになったことについて、次のような挿話が伝えられている。
ロンドン社交界のお歴々の集まる晩餐会で、話題が推理小説に及んだ時、血なまぐさい殺人事件などを扱う小説、とくに推理力を働かせなければならない作品は、とうてい女性には書けないという点で、大方の意見が一致した。
そこでクリスティ女史は、それに対して女性といえども推理小説を書く能力を持っていると主張し、それを実証するために「スタイルズ荘の怪事件」という長編小説を書いた。
それは第一次世界大戦中(一九一四年七月――一九一八年十一月)で、女史は赤十字病院に薬剤師として奉仕している最中、勤務の余暇にこつこつと書いたもので、終戦後一九一九年に出版されたのであった。
この第一作が非常に評判となり、つぎつぎとすばらしい作品が世に送られ、一作ごとに熱狂的な歓迎を受けた。こうして、女史が推理小説界に女王として君臨しようとは、出版社も女史自身も夢想だにしなかったであろうといわれている。
一九五〇年に、女史は第五十冊目の長編推理小説を発表し、その出版記念会には内外の有名無名の読者から、熱誠を込めた祝詞が寄せられた。それらの読者の中の一人で、当時の英国首相アトリー氏は、祝詞のなかで次のように言っている。
[#ここから1字下げ]
私はアガサ・クリスティ女史のすばらしい創意と、秘密を摘発する最後の段階に至るまで、実に巧妙に極秘にしておく才能を称賛し、また楽しむ者であります。さらにまた、私は他の探偵小説家の持っておらぬ、女史の要素に敬服しております。その要素とは、女史が英語を実に簡潔明瞭に書く才能を持っておられる点であります。
[#ここで字下げ終わり]
これは確かにそのとおりであるから、この訳書が、読者にとって英語を勉強する手引きとなり、原書を読まれるようにと、希望する。
アガサ・クリスティ女史は一八九一年に、英国デボンシャーのトウケイに生まれ、幼いころから美しい田園風景の裡に自由な空想と、文学趣味豊かな母の愛に恵まれて、すくすくと成長し、将来女流作家になる夢を抱いていたという。十六歳の時、音楽の修行にパリへ行った。
彼女は考古学者マックス・ワロワン氏と結婚し、ダート川に臨む古風な邸宅で創作に専念しながらも、ワロワン氏が発掘旅行に近東地方その他の地へ出かける時には同行し、その仕事に協力するというふうで、幸福な家庭の主婦である。
クリスティ女史の創造した名探偵のエルキュル・ポワロは、コナン・ドイルの創造した、シャーロック・ホームズと共に、まるで現存している人物という錯覚を抱かせるほど、読者にとって親しみ深い存在である。
といっても、ポワロはけっして映画俳優に抜擢されるような好男子でもなければ、性格俳優という風貌でもなく、その辺で見かけても誰も気づかないような存在である。いや、そんなことはない。気づかないどころか、誰でも彼を見ると、今どき珍しい男がいたものだと訝《いぶか》りながら、その卵型の頭を小鳥みたいに傾けて、緑色の眼を無邪気に見張っている人物に注意するであろう。というのは、彼が鼻下に蓄えている、みごとな美しい髭のせいである。
ポワロは誰かが、そのつばめの羽根をひろげているような髭に注目しているのに気がつくと、すこぶる満悦のていで、チックで固めて、ぴんとさせたその髭を、そっとなでるであろう。
それはポワロの自慢のもので、どんなに忙しい時でも、この髭の手入れだけは怠らない。それに彼は、滑稽なくらい身だしなみに気をつけるたちで、服にはいつもブラシをかけ、シャツにも、ネクタイにも、靴にも細心の注意を払い、常に一糸乱れぬ服装をしている。ちょっとしたほこりでも、目に止まらないほどの汚点でも、我慢のできない性分である。もし砂漠を自動車で旅行するような場合があったら、ポワロは櫛とブラシを使いつづけ、チックで固めた大切な髭が乱れはしないかと絶えず気にしていて、窓外の景色も目に入らなければ、いつも連れ立って歩くヘイスティングス大尉の話も、耳に入らないだろうと評されているほどである。
たいへんに礼儀正しく、とくに女性に対しては優しく慇懃で、言葉使いもていねいであるが、自分でも「ポワロはライオンになりますぞ!」というように、ふだんは温厚な彼も、時と場合によっては、すさまじい剣幕で不正者を威嚇して本音を吐かせることもする。
何かというと、「あなたの小さな脳細胞をお働かせなさい」というし、「私のちょっとした思いつき」ということを口にする癖がある。ところが、ポワロのこの「ちょっとした思いつき」というのが、実はなかなかのくせ者なので、それが彼の脳細胞に浮かんでくると、彼の眼は猫のようにきらきら光り出すのが常である。
とにかく、ポワロは愛嬌があって、人情味豊かで、何となくユーモラスな感じがするので、誰にでも親しまれ、好感を持たれる存在である。
彼の大好物は、オムレツとチョコレートと牛乳で、煙草は婦人好みの細巻きを愛用している。
こういう人物を世に送り出した、作家クリスティ女史とはどういう人物かというと、女史自身の告白によると、たいていの食物は何でも好きで、食べることを楽しむが、アルコール分を含んだものは嫌いで、酒類をいっさい口にしない。煙草も、どうしても好きになれない。
愛好しているのは花で、海に対しては熱狂的な愛着を持っている。芝居は好きだが、トーキー映画や、ラジオや、その他騒がしい音は我慢がならない。したがって、市中に住むのは好まない。旅行はよくするが、たいてい近東地方で、とくに砂漠に魅力を感じているとのことである。
こういうことを知っていると、作品を味わうのに役立つであろう。(訳者)