危機のエンドハウス
アガサ・クリスティ/松本恵子訳
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目次
彼女は狙われている
一インチの差で外れた弾丸
なくなっていたモーゼル銃
お従妹《いとこ》さんは申し分ない
私が掴《つか》んでいない、何かがある
君はあの人たちを好きですか
ヴァイス氏の印象
射ち込まれた弾丸は三発
真紅の支那ショール
僕は君が死んだのかと思った
犯罪に自分の名を署名しました
ポワロの三つの質問
ニック嬢の告白
ニック嬢は死にました
これは絶対の真理でございます
下着の中の手紙
遺言状の謎
食物は許可されないのです
ジャップ警部、ポワロの髭をほめる
コカイン入りのチョコレート
秘密の戸棚
これは死人の声です
ポワロ、演出す
フレデリカ夫人の告白
重大な誤算
これで私は、何もかも解りました
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登場人物
ニック嬢……エンドハウスの当主
マギー嬢……ニック嬢の従妹
チャールズ・ヴァイス……ニック嬢の従兄、弁護士
チャレンジャー中佐……ニック嬢を恋している海軍中佐
フレデリカ夫人……ニック嬢の親友
ジム・ラザラス……フレデリカ夫人の愛人、美術商
エレン……エンドハウスの女中
ウィル……エレンの夫
アルフレッド……エレンとウィルの子供
クロフト……エンドハウス番小屋の住人
ミリー……クロフトの妻
マイケル・シートン……世界一周飛行中、墜死する飛行家
ウェストン署長
ジャップ警部
ヘイスティングス
エルキュール・ポワロ
イーデン・フィルポッツへ
かつて励ましと友情を示してくれたことに
かわることのない感謝を
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彼女は狙われている
一インチの差で外れた弾丸
英国の南海岸にある町で、セント・ルーほど、魅力ある場所はないと思う。海水浴場の女王とは、よくも名づけたもので、誰でもリビィエラを思い起こさせられる。英国西南地区にある、この景勝地は、フランスの南海岸と同様に、どの小景も、私の心を奪うばかりであった。
私は、友人のエルキュール・ポワロに対して、大いにその所見を述べた。
「君、そういうことは、きのうの食堂車の献立表に書いてありましたよ。君のその発言には独創性がない」
「それにしても、あなたはそうお思いにならないのですか」
ポワロはひとり微笑していて、私の質問に答えなかった。私はもう一度、その言葉をくり返した。
「これは失礼千万でした。ヘイスティングス君、私の心がよそへさまよっていたものでね……実は、今、君のいった場所へ行っていたのですよ」
「南フランスですか」
「さよう、私は去年の冬を、あそこで過ごした時に起こった、ある事件を考えていたのです」
私も思い出した。青列車で殺人が行なわれ、ポワロが例の的確な鋭才によって、複雑怪奇な謎を解決したのであった。
「あの時、僕もあなたと一緒にいたら、どんなによかったろうと思いますね」
私は残念でたまらない気持をこめていった。
「わたしもそう思いますよ。君の多くの経験が、私にとってさぞ役に立ったろうと思ってね」と、ポワロはいった。
私は彼を横目で見た。長年の習慣の結果として、私はポワロの賛辞には、信を置かないのである。しかし彼は全く真面目らしかった。それもそのはずである。私は、彼の採用している方式には、非常に長い経験を持っている。
「ヘイスティングス君、私が特に残念に思ったのは、君のいきいきした想像を聞かしてもらえなかったことですよ。誰しも多少は軽い慰安を必要とするものですからね、私の従僕のジョルジュは素晴らしい男で、私はよく要点を論じる相手にしたものですが、彼は全然、想像力というものを持っておりませんでした」
このいいぐさは、私には見当ちがいのように思われた。
「ポワロさん、聞かしてください。あなたは実際に活動を新たにしたいという誘惑を感じられたことはないんですか? 現在のこの受け身の生活は……」
「素晴らしく私の気に入っていますよ、日向ぼっこをしている……これ以上に素敵なことが他にあり得ましょうか。名声の頂上に達したところで舞台から下りてしまう……これに勝る華々しい所作がありましょうか、人々は私のことをこう申します。あれが偉大な……比類なきエルキュール・ポワロだ! 今までにあれほどの人物はいたことがなかったし、これから後も決してああいう人物は現われないであろう! とね。結構ですとも。私は現在に満足しておりますよ。これ以上求めません。私は謙遜な人間でございますからね」
私であったら、この場合に謙遜なんていう言葉は使わないであろう。私のこの小柄な友人の自惚《うぬぼれ》は、たしかに年と共に衰えるどころではないらしい。彼は椅子の背にもたれて、自己満足に、咽喉《のど》をごろごろ鳴らさんばかりにして、髭をなでていた。
われわれは、マジェスティック・ホテルのテラスの一つに腰かけていた。それはセント・ルーで一番大きなホテルで、海を見晴らす岬の上の敷地に建てられていた。ホテルの庭園は、われわれの眼下に横たわって、棕櫚《しゅろ》の木を気ままに点在させて、趣きを添えていた。海は深みのある美しい青で、空は晴れ渡り、太陽は八月の太陽としての誠実な烈しさで(英国ではしばしば不誠実である)輝いて、蜂のぶんぶん唸る活溌な快い響きがあたりに溢れている……とにかく、これ以上に理想的な条件はないであろうと思われた。
われわれは前の晩に到着したばかりで、一週間滞在しようという計画の、第一日目の朝であった。もしこの天候が続いてくれさえすれば、実に申し分のない休暇を過ごすことになるのである。
私は手からすべり落ちていた新聞を取りあげて、朝刊ニュースを再び熟読しはじめた。政局の動きはあまり香ばしくないらしいが、興味がない。支那に悶着が起こっている。経済界では取り沙汰されていた詐欺事件の長い記事があった。だが全体として、血を湧かせるという種類のニュースは一つもなかった。私は新聞をめくりながら、
「このオウム病というのは、奇妙な事件ですね」といった。
「たいそう奇妙です」
「リーズでまた二人死んだ」
「まことに憂うべきことです」
私はまた、次の頁をあけた。
「世界一周飛行のシートンという飛行家の消息はまだ知れない。あの連中は実に勇敢だ。あの男の水陸両用機アルバトロスは、偉大な発明にちがいない。西方へ行ったのだとすると、見込みがないが、まだ絶望というわけではない。太平洋諸島の一つに、不時着したかも知れない」
「ソロモン群島の原地民は、今でも人喰い人種でしたっけね、そうではありませんか」と、ポワロは軽い調子でたずねた。
「立派な男にちがいない。こういう壮挙はわれわれに、結局自分が英国人であるのは、いいことだと感じさせますね」
「それは、ウィンブルドンのデビスカップ戦で、英国が敗れたことの慰めになりますね」と、ポワロはいった。
「僕は、そういう意味でいったのではないのです、僕は……」と私がいいかけると、ポワロは軽く手を振って私の弁解を親切にも払いのけた。
「私は、お気の毒なシートン大尉の飛行機のように、水陸両用ではございません。しかし私はコスモポリタンです。そして英国人に対しては、君も知っての通り、いつも非常に敬服しております。たとえば、英国人が毎日の新聞を読む場合の、徹底ぶりなどには」
私の注意は、政治記事にそれていった。
「野党は、内務大臣を、大分いじめつけているらしい」
私は、くすくす笑いながら、いった。
「気の毒な人ですね、あの人は個人としての苦労がおありなのです。さればこそ、全く思いもかけないような方面に、助けを求めてよこされる」
私は相手の顔を、凝視した。
ポワロは軽い微笑とともに、ポケットから、ゴムバンドで、きちんと束ねたその朝の郵便物を取り出した。そしてその中から一通の封書を選び出して、私のほうへ投げてよこした。
「昨日、私どもが出発したあとに届いたのです」と、ポワロはいった。
私は快い興奮を覚えながら、その手紙を読んだ。
「ポワロさん、これは光栄の至りですね!」
「君は、そう思いますか?」
「あなたの才能について熱狂的な讃辞を述べているではないですか!」
「間違いのないことをいっておりますよ」といって、ポワロは謙遜している風に眼をそらした。
「特別のご好意にて……あなたにこの事件を探求していただきたいと頼んでいますね」
「その通りです。その手紙の内容を全部、私にくり返して聞かせる必要はありませんよ。ヘイスティングス君、私は自分でその手紙を読んだのだということはおわかりでしょうが」
「がっかりですね、これでわれわれの休暇もおじゃんでしょう」
「いやいや、落着きなされ! それは問題ではありません」
「しかし内務大臣は、至急を要する件だといっているではないですか」
「それは正しいかも知れず、あるいは正しくないかも知れませんね。政治家というものは、とかく興奮しがちなものです。私はパリの下院を見たことがあります……」
「そうですが、ポワロさん、準備すべきではないですか? ロンドン行特急はもう出てしまいました……十二時発です。次は……」
「落着きたまえ、ヘイスティングス君、どうか落着きたまえ。興奮はいつも騒擾《そうじょう》を伴うものですよ。私どもは、今日ロンドンへ行くわけではありません、明日だって」
「しかしこの招待状は」
「それは私に関係ないことです。ヘイスティングス君。私は英国の警察に属している人間ではありませんからね。私は非公式の調査者として依頼されましたのです。で、私は拒絶しました」
「拒絶したんですって?」
「しましたとも、私は非常に鄭重《ていちょう》な手紙を書き、遺憾の意を表し、実にみじめな気持になっている旨を述べ、充分に陳謝しました。それより外にどうにもしようがございますまい。私は引退してしまったのです。私はもうおしまいです」
「あなたがおしまいだなんて、そんなことがあるものですか!」
と、私が激して叫ぶと、ポワロは私の膝を軽く叩いて、
「我が友よ、よくおっしゃって下すった。我が忠犬よ、君がそういってくれる理由はありますとも。灰色の脳細胞は依然として顕在です。順序と方法は依然として存在しておりますけれども、引退した以上は、私は引退したのです。もう仕事は完了したのです! 私は世間にむかって一ダースも告別興行をくり返すステージの花形ではございません。私は、気前よくこういったのです……後輩に道をゆずれ……とね。疑問は持っておりますが、あるいは若い者たちはうまくやるかも知れませんからね。とにかく若い連中はこの内務大臣の、疑いもなく厄介な事件を相当うまく捌《さば》くでしょう」
「しかしポワロさん、大臣の讃辞に対して」
「私は讃辞などは超越しております。内務大臣は分別のある人ですから、私の承諾さえ得ることができれば、万事が成功するということを自覚しているのです。あのお方は不運なのです。エルキュール・ポワロは、もう引退してしまったのです」
私は相手を見つめた。私は心の底から、彼の強情を嘆き悲しんだ。こうした事件を解決したなら、すでに定評のある彼の名声に、更に輝きを加えることになるであろうに! しかしながら、私は彼の一歩もゆずらぬ態度に敬服しないではいられなかった。
突然にある考えが浮かんできたので、私はにやりと笑った。
「よもやあなたは、恐れているのではないでしょうね。こういう力強い発言には、神々でさえ誘惑されるでしょうが」
「どういたしまして、何者もエルキュール・ポワロの決意をゆるがすことは不可能です」
「不可能ですって? ポワロさん」
「おっしゃる通りです。誰でもめったにこういう言葉を使うべきではありません。私はこの頭のわきを弾丸がかすめてきて、壁に命中した場合も、その事件を調査しないというのではありません。私だとて結局は人間なのですからね」
私は微笑した。ちょうどその時、小さな石がわれわれのわきのテラスに命中したところだったので、ポワロの空想的な比喩がおもしろいと思えたからだ。ポワロは身をかがめて、その小石を拾いあげながら、言葉を続けた。
「さよう、私も人間です。眠れる犬……善良な犬です。しかし眠れる犬も奮起させることができます。英語にそういう諺がありますね」
「実際、もしも明日の朝、あなたの枕のわきに剣が刺してあるのを見つけたとしたら、その犯人は気をつけろ! ですね」と、私はいった。
ポワロはうなずいたが、放心の態《てい》であった。
驚いたことに、彼は突然立ち上がって、テラスから庭へ通じる階段をおりて行った。ちょうどその時、われわれのほうに向かって急いで来る、若い娘が視野に入ってきた。
たしかに美しい女性だという印象を受けただけで、私の注意はポワロに向けられた。彼は足許に気をつけていなかったので、木の根につまずいて、どさりと転んでしまった。その時、彼は若い女性とすれすれだったので、彼女と私とで彼を助け起こすことになった。私の注意は自然、友人に注がれていたが、同時に娘の黒い髪と、茶目らしい顔つきと大きな藍色の瞳の印象も意識していた。
「幾重にもお詫び申し上げます……お嬢様は、ほんとうにご親切でいらっしゃる……おうっ! 足がひどく痛みますので……いや、いや、ほんとうに何でもないのでございます……|こぐら《ヽヽヽ》を返しただけで……すぐ癒りましょう。ヘイスティングス君と、お嬢様がご親切にお助け下されば……お嬢様にこのようなことをお願いするのは、まことに恐縮でございますが……」
私と彼女とは、両側からポワロを助けて、間もなくテラスの椅子に腰かけさせた。私は医師を迎えに行くと申し出たが、ポワロは鋭くそれに反対した。
「君、何でもないのですよ、|こぐら《ヽヽヽ》を返しただけのことじゃないか。ちょっとの間は痛むが、すぐよくなりますよ」
彼は顔をしかめたが、
「この通り、すぐ忘れてしまいます。お嬢様ほんとうにありがとうございました。幾重にもお礼を申し上げます。まことにご親切さまでした。どうぞお掛けくださいまし」
若い娘は椅子に腰をおろした。
「いいえ、どういたしまして。でもお医者様に診ておもらいになるとよろしいのに」
「お嬢様、ほんとうに些細なことなのでございます、お嬢様とお近づきになった喜びで、もう痛みがなくなりました」
娘は笑った。
「それはよかったわ」
「カクテルはいかがですか、ちょうどそういう時間ではないですか」と、私が申し出ると、彼女はためらいながらも、
「そうね……ありがとう」といった。
「マティーニはいかがですか?」
「ええ、どうぞ……さっぱりしたマティーニを」
私は立ち去った。そして飲み物を註文して戻ってみると、ポワロと娘が、熱心に話しこんでいるのであった。
「考えてみたまえ、ヘイスティングス君、あの岬の上の家ね……それ、私どもがあんなに感嘆して眺めていたあの家が、このお嬢様のお屋敷なんですよ」
私はそんなに感嘆した覚えもなかったし、第一その家に気づきもしなかったのだが、
「そうですか? 人里からあんなに遠く距《へだ》たっていて、ちょっと不気味で印象的に見えますね」といった。
「エンドハウスっていうの。私、好きですの。でも荒廃した古い家で、今にもばらばらに毀《こわ》れてしまいそう」
「お嬢様は、旧家の最後のお方でいらっしゃるのでございますね」
「あら! 私たちはそんなお歴々じゃないのよ、でもバックリー家は二三百年ここに住んでいたんだって。兄は三年前に死んでしまったから、私が最後の一人になったの」
「それは悲しいことでございますね。お嬢様はあそこにお一人でお住まいでございますか」「ええ。ですけど、私はよく家を離れますわ。家にいる時には陽気な連中が出入りするし」
「それはなかなかモダーンでございますね。私はまた、暗い神秘的なお館《やかた》の中にただ一人、祖先の亡霊につかれて暮らしておいでになるあなた様を心に描いておりました」
「何て素敵なんでしょう! あなたは、とても絵画的な想像力をお持ちなのね、でもあの家は亡霊に憑《つ》かれてなんかいませんわ。もし幽霊屋敷だとすれば、その亡霊は情け深いんだわ。私ね、三日間に、三度も不慮の死をまぬがれたのよ。私は、きっと、どんな災難に遭っても不死身なのね」
ポワロは用心|怠《おこた》りなく、居ずまいを直した。
「死をまぬがれたとおっしゃいますか? お嬢様、それは興味深く聞こえますでございますね」
「あら、ちっともスリルのあるものじゃなくてよ。いいこと、ほんの事故にすぎないの」
彼女は蜜蜂が飛んできたので、急いで頭をねじって、
「憎らしい蜂ね、この辺に巣があるにちがいない」といった。
「お嬢様は、蜂類はおきらいでいらっしゃいますね、刺されたことがおありなのでしょう?」
「いいえ、でも顔をめがけて飛んでくるから嫌い!」
「帽子の中に蜂がいるという英語の句がございますね、気が変になっているとか、気がふれているという場合に」
と、ポワロがいった。その時カクテルが到着した。われわれは酒杯を手にして、他愛もない雑談に耽った。
「私、じつはホテルのカクテル・パーティに出ることになっていたの、みんなはきっと私がどうしてしまったんだろうって、不思議がっているに違いないわ」と、娘はいった。
ポワロは、咳ばらいをして、酒杯を置いた。
「ああ、濃いほんとうにいいココアを一杯と思いますね! しかし英国では誰もおいしいココアを作ってくれません。それにしても英国ではお嬢様がたが、たいそう愉《たの》しい習慣をお持ちでいらっしゃいます。帽子がすぐに脱げてしまうことで、それがたいそう美しくて……」
ポワロはつぶやいた。
娘は、彼を凝視した。
「それ、どういう意味ですの? 帽子が脱げやすくてはいけないんですか?」
「それをお尋ねになるのは、お嬢様がお若くていらっしゃるからでございます。たいそうお若くていらっしゃるから……けれども私には髪を頭の上にきちんと結《ゆ》っておくほうが自然のように思われます……そうしてお置きになれば、帽子を何本ものハットピンで止めてお置きになれますからね。こちらに一本、こちらに一本、それから、それから」
ポワロは宙に手を振って、四方からピンをさす仕草をした。
「だけれど、そんなの、とても気持が悪いでしょうねえ!」
「ああ、私も同感でございます」とポワロはいった。それはどんなレディでも、これほど感情をこめて語ることはできないだろうと思われるような調子であった。「風が吹いた時なんかたまらない……頭痛のたねでしょうね」
娘はかぶっていた、飾りのないつばの広い帽子を無雑作に取って傍へ投げ出し、
「そこで、こうやっちまうの」といって笑った。
「それは分別があり、たいそう魅力的でございます」といって、ポワロは軽く頭をさげた。
わたしは興味をもって、彼女を見守っていた。黒い髪が乱れて、彼女の顔をいたずらっ子らしくしていた。そのほかにも、何か妖精のような感じを漂わしている。小さないきいきとした顔、特別に大きくてスミレの花のような眼、そのほかにも……何か人の注意をひくような、そして容易に忘れられないようなところがある。それは無謀を暗示しているものだろうか? 彼女の眼の下には濃い影ができていた。
われわれが腰かけているテラスは、あまり使用されていないものであった。たいていの人が使っている主要テラスは、建物の角を曲がって、岬が海にむかって真直ぐに切りたっている地点にあった。
その曲がり角をめぐって、赤ら顔の男が現われた。半ば握った手を両脇にさげて、身体で拍子をとるような歩き方をしている。何となく快活で呑気らしいところがあった……それは典型的な海軍の軍人であった。
「一体あのお嬢さんはどこへ行ってしまったんだろうな」といっている彼の声は、われわれの腰かけているところまで、聞こえてきた。「ニック……ニック」
娘は立ち上がった。
「皆がぶつくさいっているのよ、きっと。へーい、チャレンジャー! あたしはここにいるわよ!」
「フレデリカが飲みたがってうずうずしていますよ!」
彼は、ポワロにあからさまな好奇心の眼を投げた。ニックの仲間たちとは、ひどく変った人物に見えたのであろう。
彼女は手を振って、紹介の労をとったが、
「こちらはチャレンジャー海軍中佐……それからこちらは……」といいよどんだ。
おどろいたことに、ポワロは彼女が求めている自分の名を告げもしないで、いきなり立ち上がって、頭をさげ、儀式ばった口調で、
「英国海軍中佐でいらっしゃいますね。私は英国海軍には絶大なる尊敬の念を抱いております」といった。
こういう文句は、決して英国人を喜ばすものではない。中佐の顔は紅潮した。娘は、その場を取りつくろった。
「チャレンジャー、口をぽかんと開けていないの! さあ、フレディとラザラスを捜しに行きましょう」
彼女はポワロに微笑を送って、
「カクテルをご馳走さま! くるぶしがよくなりますように!」といい、私に向ってうなずくと、中佐の腕に手をすべり込ませて、二人とも角を曲がって姿を消してオまった。
「なるほど、あれがお嬢さまのお友達の一人ですね、陽気な仲間の一人というわけですか。彼をどう思います? ヘイスティングス君の老練な判断をきかしてください。彼は君のいう、いい奴ですか?」と、ポワロは考えこみながら、つぶやいた。
私はポワロが『いい奴』という意味をどう取っているかをはっきりさせようと思って、しばらく考えてから、
「ざっと見たところでは、善良らしいですね」と、あいまいな返事をした。
「そうですかね」と、ポワロはいった。
彼女は帽子を忘れていった。ポワロは身をかがめてそれを取りあげ、無意識に人差し指にかけてくるくる回していた。
「あの中佐殿は、あのお嬢さまに気がおありなのでしょうか? ヘイスティングス君は、どうお考えです?」
「ポワロさん、僕にそんなことがわかるもんですか! その帽子をこちらへおよこしなさい。あのお嬢さんが、おいり用でしょうから、持って行ってあげてきます」
ポワロはわたしの要求を無視して、指にかけた帽子を反対に回しはじめた。
「いや、まだ返しません。私は楽しんでおりますんですよ」
「ポワロさん、ほんとうですか!」
「そうですとも。私は年とって、ますます子供っぽくなりました。そうじゃありませんか」
それは私が心ひそかに感じながらも、口に出すのをはばかっていたことであった。ポワロはくすくす笑い、身を前へのり出し、指を自分の鼻のわきへ持って行って、
「ところが、さにあらず……私は君が考えておいでのほど低能ではありませんからね。この帽子はたしかに返しますが、いずれ後刻のことです。私どもはこれをエンドハウスへ返しに参りましょう。そしてあの可愛らしいお嬢さまにもう一度お会いする機会をつくろうではありませんか」
「ポワロさん、あなたは惚れてしまったんですね」
「あのお嬢さまは美しいですね、そうじゃないですか」
「あなたはご自分でわかっていながら、なぜ僕にたずねるんですか」
「なぜと申しますと、私には判断がつきかねるからです。近ごろ、私には何でも若くさえあれば、みんな美しく見えます。若さ! 若さ! これはまさしく私の年齢の悲劇ですね。そこで私は君の判断を乞うという訳です。もちろん君の判断は、アルゼンチンに長いこと暮らしていたんですから、進歩的でないことは分っています、君は五年前のタイプを崇拝しておいでだろうからね。それにしても、私よりは近代的でしょう。あのお嬢さまは美しいですね、両性的魅力がありますね、いかがですか」
「性なんて、一つで沢山ですよ、ポワロさん。その答えなら、僕は断然あなたと同意見ですね。だが、どうしてポワロさんは、あの令嬢に、そんなに興味を持っておられるんですか」
「私が興味を持っているって?」
「だって、考えてごらんなさい。たった今あなたがいわれたことを……」
「君は誤解しておいでのようだ。私はたしかにあのお嬢さまに興味を持っておりますがね、それよりも、更にあのお嬢様の帽子に興味をもっておるのですよ」
私は相手の顔を凝視した。だがポワロは全く真面目なようすで、私にむかって、うなずき返した。
「そうなのですよ、ヘイスティングス君、この帽子にね……私が興味を持つ理由は君もおわかりでしょう?」
「それはいい帽子です。しかしごく平凡な帽子です。娘さんたちが沢山そんな帽子をかぶっていますよ」
「これと同じではありませんね」
私は、その帽子をもっと注意して見た。
「ヘイスティングス君。わかったですか?」
「全く何の装飾もない仔鹿色《こじかいろ》のフェルトです。上等の型で……」
「私は、君にこの帽子の描写を頼んだのではありませんよ、まさしく君には何もわかっていない、君は実に信じがたいまでに、何もわからないんだね! いつも私は驚きを新たにする! とにかく、親愛なる鈍感君、注意してよく見たまえ。脳細胞を働かせるまでもない……眼を使うだけで十分だ。さあ、よく眼をあけて見たまえ!」
ここではじめて、ポワロが何に私の注意を向けさせようとしているかが、私にわかった。
ゆっくりと回転していた帽子は、ポワロの指の上で逆転しはじめた。彼の指先が、帽子のつばにあいている孔にすっぽりとはまっているのであった。私が彼のいおうとする意味を悟ったと知ると、ポワロは穴から指をはずして、その帽子を私のほうへさし出した。それはきれいに開けられた丸い小さな孔で、何らかの目的があるとしても、私には何のための孔か想像もつかなかった。
「君は、蜂が飛んできた時に、ニック嬢がそれをよけた動作を見ていましたね? 帽子の中に蜂が入る……その帽子に穴がある」
「しかし、蜂はそんな孔をつくることはできませんよ」
「まさにその通り、ヘイスティングス君! まことに鋭敏な眼識! そうですとも、蜂にこんなことができるものですか。だが、銃弾はこういう孔をつくることができますね!」
「銃弾?」
「さよう、こういう弾丸」
ポワロは小さなものを、掌《てのひら》に乗せた手をさし出して見せた。
「君、ひょろひょろ弾ですよ、私どもがたった今、話しておりました時に、テラスに命中したのはこれです。ひょろひょろ弾です!」
「あなたのおっしゃる意味は……」
「私の申す意味は、一インチの差でこの孔は帽子ではなく頭に開けられたろうということです。ヘイスティングス君、これで私がなぜ興味を持ったかおわかりですね? 『不可能』という言葉を用いるなと君がいったのは、正しいことですよ。さよう……誰だって人間だ! ああ、それにしても殺人未遂者は、エルキュール・ポワロから二十ヤードとはなれていないところで、犠牲者を狙撃するとは、重大な誤りを犯したものだ! 彼にとっては、まことに悪しきチャンスですよ。これで君も、なぜわれわれがエンドハウスを訪ねてあの令嬢に接近しなければならないかという、理由がおわかりでしょう。三日間に三度も不慮の死をまぬがれたと令嬢は申しましたっけね。ヘイスティングス君、われわれは速やかに行動しなければなりませんぞ! 危険は間近に迫っております」
なくなっていたモーゼル銃
「ポワロさん、僕は考えていたんです」と私はいった。
「君、それは素晴らしい練習になりますよ。続けることですね」
われわれはガラス戸の内側で、昼食のテーブルに向いあって腰かけていた。
「この弾丸はごく間近から射ったに違いないですね、それなのにわれわれは音を聞きませんでした」
「で君は、このさざ波の音しか聞こえない、平和な静けさの中で、ピストルの音を私どもが聞くべきはずだったと、お考えなのだね?」
「そうです。だからおかしいと思うんです」
「いや、ちっともおかしくはない。ある種の音というものは、じきに馴れてしまって、意識しなくなるものです。君、あのモーター・ボートはみんな、今朝からずっと湾内を走り続けていますが、最初うるさがっていた君も、じきに気にしなくなったではありませんか。ところでね、君、あれらのボートが海に出ている最中なら、機関銃さえほとんど他人に気づかれずに射つことができるものですよ」
「そうです、それは真実です」
「ああ、お嬢様とそのお友達の一行が見えた。このホテルへ昼食においでと見えますね。こうなると帽子をお返しせねばなるまい。だがそんなことはどうでもよろしい。事件がこれだけ緊迫しているのですから、それ自体で訪問の理由が十分にたちますね」と、ポワロはつぶやいた。
彼はさっと席をはなれて、すばやく部屋を横切って行って、ちょうどニック嬢の一行が食卓に着こうとしている時に、いんぎんに会釈をして、令嬢に帽子を渡した。
一行は、ニック嬢とチャレンジャー中佐とほかの男性一人と若い女性の四人であった。われわれの席からは彼らをよく見ることはできなかったが、時々、中佐の笑い声が響いてきた。彼は単純で好ましい人物らしく、私はすでに好感を持ちはじめていた。
我が友ポワロは、食事中ずっと、放心状態で、黙りこんでいた。彼は食パンを粉々《こなごな》にしてしまったり、訳のわからない間投詞をつぶやいたり、食卓のものを、みんな真直ぐに置き直したりしていた。私は幾度も話しかけたが、いっこうに乗ってこないので、断念してしまった。
彼は最後のチーズを食べてしまって後も、長いこと食卓に着いていた。しかし四人組が食堂を出ていくとすぐに、彼も立ち上がった。そして彼らが談話室のテーブルに寛《くつろ》ぎかけているところへ、ポワロが、軍隊式の歩調で颯爽と近づいて行って、ニック嬢に直接、話しかけた。
「お嬢様、ちょっとお耳を拝借させていただきたいのでございますが」
娘は眉をひそめた。私には彼女の気持がよくわかった。この奇妙な小さな外国人が、厄介な存在になるのではないかと、心配しているのだ。私はポワロが彼女の眼にどんな風に映るか承知していたので、大いに同情した。彼女は不本意らしいようすで数歩わきへ寄った。
ほとんど同時に、わたしは彼女の顔が、ポワロの低い急いで告げる言葉に、驚きの表情をみなぎらせたのを見た。
その間、私は手持ちぶさたで、気まりの悪い思いをしていた。するとチャレンジャー中佐は持ち前の如才なさで、煙草をすすめたり、ありふれた話題を取りあげたりして私の立場を救ってくれた。
われわれは相手を評価しあい、互いに共鳴しあった傾きがあった。私は、彼が昼食を共にしていた連中よりも、自分のほうが彼の性にあっているように思った。私はここで他の連中を観察する機会を得た。男は丈の高い、金髪で青い眼をした見え坊らしい青年で、肉感的な鼻と過剰な美貌の持主であった。態度は横柄で退屈そうな物のいい方をする、何となく口先のうまい狡《ずる》い感じがする。そこが私の最も嫌いなところであった。
次に私は、女のほうへ眼を向けた。彼女は、私の真正面の大きな椅子に腰かけていて、ちょうど帽子を脱ぎすてたところであった。異常なタイプ……物憂げなマドンナという形容が一番適切であろう。ほとんど無色というような薄色の髪を中央で分けて、耳の両側から真直ぐ後へおろして首筋のところでまげに結んでいる。顔は死人のように白く、眼は淡い灰色で瞳が大きく、妙に超然とした表情をしている。彼女はじっと私を見つめていたが、突然に話しかけた。
「おかけになったら……ご友人がニックとお話がすむまで」
それは物憂げな、不自然に気取った声であった。それでいて妙に人を引きつけるところがあった。一種の余韻を響かせる美しさを持っているとでもいおうか。彼女は私がこれまで会った中で、一番疲れた人という印象を与えた。肉体的にではなく、精神的に疲れているという意味である。まるで世の中の何もかもが空虚で、無価値であることを、発見した人のようである。
「ニック嬢は、私の友人が今朝、足首を挫《くじ》いた時に、たいへん親切にしてくだすったのです」
私はすすめられた椅子に腰をおろして、説明した。彼女は依然として超然と、私に眼を注いでいた。
「ニックがそういっていました。もう何ともないのでしょう?」
私は顔がほてってくるのを覚えた。
「ほんの一時的に筋をちがえただけでした」
「ああ、そう! ニックのつくり話でなかったと知って、私うれしく思います。あの人は世にも稀な嘘つきなのです。驚嘆するほど……天才的なのです」
私は何といっていいか途方にくれた。私の当惑は彼女を、面白がらせたらしい。
「あの人は私の古い友だちの一人なのです。で、私はいつも誠実なんて、実に厄介な美徳だと思っているのです。そう思いませんか。あれは、爪に火をともしてお金を貯めたり、聖日を守ったりするのと同様に、スコットランド人の考えついたことですよ。とにかくニックは嘘つきです。そうじゃありません? 車のブレーキの驚くべき話なんて……ジム、あなたは何もそんなことはなかったのだとおっしゃったわねえ」
美青年は、柔い豊かな声でいった。
「僕は車のことは相当知っているんだ」
彼は半ば頭をねじった。外に並んでいる自動車の中に、車体の長い赤い車があった。それはどの車よりも長く、どれよりも赤く見え、磨きあげた金属のぴかぴかした長いボンネットをつけていた。高級車だ!
「あれは、君の車ですか」
私は突発的にたずねた。彼はうなずいた。
「そうです」
私は「さもありなん!」といいたい衝動にかられた。だがその時、ポワロがわれわれのところへ来たので、私は立ち上がった。彼は私の腕をとって、一同に急いで会釈をすると、さっさと私を引き立てていくのであった。
「君、手はずがととのいましたよ、私どもは六時半にエンドハウスへお嬢様を訪ねることになったのです。その時刻には、お嬢様は遠乗りからお帰りでしょう。さよう、さよう、たしかに無事にお帰りになるでしょう」
ポワロの顔には不安があり、その調子には悩みがあった。
「あなたは、令嬢に何ておっしゃったんですか」
「私は、できるだけ早く会見を許してもらいたいと頼みましたのです。お嬢様はいささかためらっておいででした。無理もありません。私にはお嬢様の心の中を通りすぎていく考えが、よくわかりましたよ……この小柄な男は誰かしら? 無作法者なのかしら? 成金かしら? 映画監督かしら……と考えておいでだったのです。できれば断ったでしょうが、それはむずかしかった……あんな風にとつぜん頼まれると、たやすく承諾するものです。お嬢様は六時半の帰宅を承諾しました。一件落着!」
私は、それならそれでいいように思われるといった。だが私のその言葉は、好感をもって迎えられなかった。ポワロはまるでことわざの猫のように神経質で落着かなかった。午後中ずっとわれわれの居間を歩きまわり、ひとり言をいい続け、絶えず装飾品を置きかえたり、真直ぐにしたりしていて、私が話しかけると、手で払いのけるのであった。
遂にわれわれは六時になるかならないうちに、ホテルを出た。
「ホテルの庭で人を狙撃するなんて、信じられないですね。狂人でなければそんなことをしませんよ」と、私はテラスの階段をおりていく時にいった。
「私は君と意見を異にします。一つの条件さえ与えられれば、当然安全なことですよ。まずですね、庭には人影がありませんでした。ホテルに来る人たちは羊の群同様で、みんな同じ行動をとります。誰でも海を見晴らすテラスに腰かけているのが通例です……よろしいですか、それで誰もみんなテラスの椅子に腰かけていました。私のような独創的な者だけは、庭を見晴らす位置に腰かけておりました。にもかかわらず私は何も見ませんでした。君も気がついたでしょうが、庭園にはかくれ場がたくさんありました、樹木だの、棕櫚の群だの、花をつけている潅木だの。誰でも楽々とかくれ、誰にも気づかれずに、お嬢様がこの小路を通るのを待ち伏せていることができます。そしてお嬢様は、この小路を来るはずでした。エンドハウスから道路をまわって来ると、ずっと遠道になります。ニック嬢のようにいつも遅刻するお嬢様は、近道をするものですからね!」
「危険が大きいことは同じです。彼は誰かに見られたかも知れません……それに狙撃は、事故のように見せかけるわけにはいきませんし」
「事故のようではない……たしかに」
「それはどういう意味ですか」
「何でもありません、ちょっとした思いつきです。私の考えは正しいかも知れず、正しくないかも知れません。だがそれはちょっとの間そっとしておいて、たった今、私の申しましたこと……本質的条件がありますね」
「どれですか?」
「それはヘイスティングス君が、私に話してくれるべきですよ」
「僕は自分を犠牲にして、ポワロさんが知恵者である喜びを奪いたくありませんね」
「何たる皮肉ぞ! 何たる反語ぞ! では申しましょう、|動機が明白でない《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》ということは、一目瞭然としております。もしそうでなかったら、これはたしかに危険が大きすぎます。人々は『犯人はだれそれではないか。銃弾が射撃された時に、だれそれはどこにいたか?』というにちがいありません。はい、その場合は、殺人者……仮定の殺人者……は一目瞭然としているはずだと、私は思いますね。私が心配しているのは、そこなのですよ、ヘイスティングス君。さようこの瞬間にも私は不安を感じております。私は自分にこういい聞かせているのです。『あそこに四人の人物がいる、彼らが一緒にいる時は何事も起こり得ない』と、『そんなことは狂気の沙汰だ!』とね。そして私はずっと心配し続けているのです。お嬢様のいわれた三度の災難について、ぜひきいてみたいのですよ!」
彼は不意に向きをかえた。
「まだ早いです。通りのほうの別の道から参りましょう。庭園は私どもに何も語ってくれません。エンドハウスへの正規な道を調査いたしましょう」
われわれのとった道は、ホテルの正面を出で、右手の急な丘へついていた。その頂上に『エンドハウス専用路』と誌した立札のある小路があった。
それを五百ヤードほど辿《たど》って行くと、小路は急に曲がってその先に、ペンキを塗り直す必要のある、見る影もない門があった。
門を入ると左手に小さな番小屋があった。その小屋は雑草の茂った車道と正門とに対して、皮肉な対照をなしていた。小屋の周囲の小さな庭はきれいに手入れがしてあって、窓わくや、窓べりは最近塗りかえたばかりで、窓には清潔な明るい色のカーテンがかけてあった。
花壇のところに、色あせたベルト付きの上衣を着た男が、しゃがんでうつむいていたが、門の戸のきしむ音に、立ち上がってわれわれのほうを振り向いた。年のころ六十位で身の丈はたっぷり六フィート、がっちりした骨格で、つらい人世の山坂を超えてきたという顔つきの男であった。頭はほとんど禿げてしまっていて、眼は鮮かな青色できらりと光っていた。彼は温和な性格らしかった。われわれがそばを通ると、
「よいお天気でござんす」といった。
私はそれに答えて、車道を進んで行ったが、彼の青い眼が詮索するようにわれわれの背にくいこんでくるのを感じた。
「私は思うに……」ポワロは考えこみながらいった。
彼はそれっきり何を思ったのか、説明を与えようとはしなかった。
家そのものが大きくて暗い感じがした。
樹木に閉じこめられていて、枝が実際に屋根に触れていた。一見して修理が届いていないことが明らかであった。ポワロは呼鈴を鳴らす前に、評価するような視線をあたりに投げた。古風な呼鈴は、よほど力を入れて引かないと鳴らないし、いったん音を立てると、いつまでも悲しげに反響しているのであった。
玄関を開けたのは中年の女であった。『端正なる黒衣婦人』とでも形容すべきだと、私は感じた。非常にきちんとしているが、どっちかというと陰気で、全く面白味のない女性であった。
お嬢様はまだご帰館にならないと、女はいった。ポワロは約束してあった旨《むね》を説明した。彼女はとにかく外国人に対しては疑念を抱くタイプの女性なので、ポワロが、来意を彼女に納得させるのに少々骨が折れた。この場合、局面を一変させたのは、確かに私の風采のせいだと、私はいささか気をよくしたのであった。われわれは客間へ招じ入れられ令嬢の帰りを待つことになった。
そこには悲しみを催させるような気分は少しもなかった。その部屋は海に面していて、日光が一杯にさし込んでいた。調度はどっしりとしたヴィクトリア王朝様式のところへ安っぽい超モダーン風が重ねられているという、身すぼらしくて矛盾した様式であった。カーテンは色あせた金襴《きんらん》織りだが、椅子カバーはきつい灰色で、クッションは決定的に刺激の強い色彩であった。壁には家族の人々の肖像画がかけてあった。その中にあるものは、注目に価するほどのものであった。蓄音機があって、その辺にレコードが無雑作に投げ出してある。それからポータブル・ラジオがあったが、書籍類はほとんどなくソファの端《はし》に新聞が一枚ひろげたままになっていた。ポワロはそれを取りあげたが、顔をしかめて元へ返した。それはセント・ルー週刊紙であった。何かにかり立てられて彼がもう一度それを取りあげて、ある欄に眼を通しているところへ、戸が開いて、ニック嬢が入ってきた。
「エレン、氷をもってきて」と、肩越しにいってから、彼女はわれわれに話しかけた。
「ほら、あたし、約束どおりに来たわ……ほかの連中は振りすてて来たの、みんな、好奇心でうずうずしていた。あたしは映画に是非とも必要な、長い間見つからなかった主演女優という訳なの? あなたがあんまり厳《おごそ》かな顔をしているから、それよりほかに、考えられないのよ、どうぞ堂々たる契約を申し出てちょうだい」とポワロにむかっていった。
「これはしたり、お嬢様……」とポワロがいいかけるのを引き取って、彼女は懇願した。
「それとは反対だとはおっしゃらないで! あなたがミニチュア画を描いているんで、それをあたしに買ってもらいたいんだなんて、おっしゃらないで! でもそんなはずないわ。その髭で、しかも英国一高くて、いちばんまずいものを食べさせるマジェスティック・ホテルに滞在している人が画家だなんて、そんなことあり得ない」
われわれのために玄関の戸を開けた女が、氷と酒壜を載せた盆を持って部屋へ入ってきた。ニック嬢は馴れた手つきで、カクテルを作りながらしゃべり続けていたが、ついにポワロの沈黙(実に彼らしくない)に気がつき、カクテルをグラスに注ぎかけていた手を止めて、鋭くいった。
「どうなの?」
「お嬢様、私はそういうことでお訪ねしたのだったらと、思うのでございます」といって、ポワロは彼女の手からカクテルを受取り、「あなた様のご健康のために……お嬢様がご健康を待ち続けられますようにお祈りいたします」といって乾杯した。
彼女はばかではなかった。彼の意味ありげな調子が通じないではいなかった。
「何かあるの?」
「さようでございます。お嬢様、これを……」
ポワロは弾丸を掌《てのひら》に載せた手を、さし出した。彼女は当惑したように、眉をひそめて、それをつまみあげた。
「それは何だか、ご存知でいらっしゃいましょう?」
「ええ、もちろん、わかるわ、弾丸ね」
「その通りでございます。お嬢様、今朝あなたの顔のわきを飛んで行ったのは、蜂ではなく、この銃弾だったのでございます」
「あなたのいうのは、誰かばかな犯罪者が、ホテルの庭で、ピストルを撃ったという意味?」
「そうらしゅうございます」
「呆れた! あたしは、いよいよ不死身らしい! これで四度目」と、ニック嬢は正直にいった。
「さよう、これで四度目でございます。お嬢様、私は前の三つの事故について伺わせていただきたいのでございます」
彼女は彼を見つめた。
「私はそれがみんな、ほんとうに事故だったということを確かめたいのでございます」
「そりゃ、もちろんのことよ! ほかにどういう可能性がありますの?」
「お嬢様、どうか恐ろしい事実に対する心構えをなすってくださいまし、もしもお嬢様の命を狙っていると申し上げましたらどうでございましょう?」
これに対するニック嬢の反応は、大笑いであった。ポワロの危惧は、このお嬢さんを、ひどく面白がらせたようであった。
「何て奇妙な考えなの! あなたったら、一体全体、誰があたしなんかの命を狙っているというの? あたしは、死後に億万の富を遺す、美しくて若き女相続人なんかじゃない! あたしはいっそ、誰かがあたしを殺そうとしていてくれたらいいと思う。とてもスリルがあるじゃない? だけれど、そんなの望み薄らしい!」
「お嬢様は、三度死にそこなったとおっしゃいました。その事故について、お聞かせいただけませんか」
「聞かせてあげますとも……でも何でもないことなの。とてもばかげたこと。あたしのベッドの頭のところの壁に、大きな額がかかっていたのが、夜中に落ちてきたの。ちょうどその時、あたしは家のどこかの戸が、ばたんばたんいっているのを聞きつけて、見にいって閉めてきたおかげで、助かったっていうわけ。さもなかったら、その額があたしの頭を叩きつぶしたかも知れない。それが第一番目」
ポワロは微笑しなかった。
「お続けくださいまし、お嬢様、第二番目をどうぞ」
「ああ、それはもっとちょっとしたこと。ここから、海へ下っていける崖路があるの。あたしよくその路を通って海水浴に行くんだけど、そこには飛び込み台にちょうどいい岩がある。で、どうした加減かその路の一つの丸石がゆるんで、わっ! と転げ落ちてきて、もう少しであたしに突き当たるところだったの。三番目は全然ちがう。あたしの車のブレーキが、どうかなってしまったの。どうしたのか、あたしにはまるっきり解らない。修理工が何だか説明してくれたけど、あたしには訳がわかんないの。とにかく、もし、あの時、門から出て丘を下って行ったら、きっとあたしの車は止まらなくなって、公会堂にどかんと正面衝突して、ひどいことになったろうと思う。公会堂にかすっただけでも、あたしは完全に抹殺されてしまったはず。ところが、いつも何か忘れものをする癖のおかげで、車を後ろへ向けたから、シャクナゲの茂みに突込んだだけで、すんだ」
「で、お嬢様は、車にどんな故障があったか、私にお聞かせになれないのでございますか」
「モットのガレージへ行ってきけば、あの人たちが知っているでしょう。何だか簡単なことだった。どこかのねじが、ゆるめてあったんだって。もしかしたら、エレンの子供(あんた方がきた時に玄関の戸をあけた、あたしの頼りにしている人ね、あの人に男の子があるの)がいじくったのかも。男の子って車をいたずらするのが好きでしょう? もちろん、エレンは決してあの子は、車には寄りつかなかったっていった。モットはあんなふうにいったけど、どこかが、自然にゆるんだのかもしれないわ」
「お嬢様の車庫はどこにございますか」
「この家の向う側にまわったところ」
「錠をおろしてありますか」
ニック嬢は、驚いて眼を大きくした。
「いいえ……もちろんそんなことしない」
「誰でも、他人に見られずに、車に不正手段を講じることができますでしょうか?」
「そうね……ええ、できるでしょうね。でもあんまり馬鹿げている」
「いいえ、馬鹿げてなどおりません。お嬢様はおわかりになっていらっしゃらない。お嬢様は、危険に……重大な危険にさらされておいでになるのでございます。この私がそう申し上げているのでございますよ! だが、お嬢様は、私が何者であるかご存知ありますまい?」
「とおっしゃると」ニック嬢は息をのんでいった。
「私は、エルキュール・ポワロでございます」
「ああ! ああ、そうでしたの」ニック嬢はいく分、そっけない調子でいった。
「あなたは私の名をご存知でいらっしゃいますか」
「はい」
彼女は落ちつかないようすで、もじもじした。その眼には追いつめられたような表情が浮かんだ。ポワロは相手を鋭く観察していた。
「お嬢様は落ちつかないお気持ちでいらっしゃる、それは私の本をお読みになったことが、おありにならぬ証拠でございますね」
「あのう……全部は読んでいないけれど、もちろん名前は知っていますわ」
「お嬢様は、礼儀正しい嘘つきでいらっしゃいますね」とポワロがいったので、私はホテルの昼食の後で聞かされた言葉を思い出して、ぎょっとした。
「私はお嬢様がまだほんの子供でいらっしゃることを忘れておりました。お嬢様は私のことは何も聞いておいでにならないのが当然でございましょう。名声などと申すものはまことに速やかに過ぎ去ってしまうものでございます。ここにおります私の友人がお嬢様にお話し申し上げますでしょう」
ニック嬢は私を見た。私は何やら当惑して、咳払いをした。
「ポワロ氏は……あのう……偉大なる探偵です」とわたしは説明した。
「ああ、君がいえるのはそれっきりですか? だが君、こういってくれたまえ、私は比類なき探偵、かつてこの世にいた中で最も偉大な、誰も追い抜くことのできない探偵だと、お嬢様に申し上げてくれたまえ!」とポワロはいった。
「もうそんな必要はありません。あなたはご自分でお嬢さんに話してしまわれたではありませんか」と私は冷やかにいった。
「そうでしたね、しかし謙遜を保つことができたら、もっと私の気に入りましたでしょうに。誰でも自己賞讃などするべきではありませんからね」
「誰だって犬を飼っておきながら、自分で吠えるってことないわ、それはそうと、誰が犬なの? シャーロック・ホームズ探偵の場合はワトスン博士だけれど」
ニック嬢は、からかうような調子でポワロに加勢した。
「僕の名はヘイスティングスです」
「ああ、歴史にでてくるわ、ヘイスティングス氏、一〇六六年の戦役で……あたしのことを教育がないなんていったのは、誰かしら? とにかく、実に、すばらしいことだわ! あんたは、ほんとうに誰かがあたしを、亡き者にしようとしていると、考えているの? とてもスリルを感じる。だけれど、そういうことは、実際にはないものよ、本の中だけよ。ポワロさんは、きっと何かしら手術の理由を発明する外科医か、わけのわからない病気を発見し、誰にでもそれをおしつけようとする医者みたいなんじゃないかと思うわ」
「これはしたり! あなたは真面目におなりにならないのですか? 近ごろの若い人たちは、どんな場合にも真面目になれないのですか! お嬢様、もしもあなたの帽子に穴があくのではなく、ご自身の頭に穴があいて、かわいらしい死骸をホテルの庭に横たえたのでしたら、これは冗談にはなりませんぞ! あなたは、笑っておいでになれますか!」
ポワロは、激しい剣幕で叫んだ。
「裁判所で、この世のものと思えない笑い声が聞こえたことだってあってよ。でも、ポワロさん、本気にあたし、あなたはご親切だと思う……だけど、やっぱり何もかも偶然の出来事にちがいないと思うわ」とニック嬢はいった。
「あなたは悪魔のように強情でいらっしゃる」
「あたしの名はそこからきているの。あたしの祖父は霊魂を悪魔に売ったと世間から思われていたんですってさ。この辺の人はみんな祖父のことを老悪魔《オールド・ニック》っていっている。祖父はつむじ曲がりだったの……でも、とても面白い人、あたし崇拝していた。あたしどこへ行くにもついて歩いたもので、世間では祖父を老ニック、あたしを若ニックって呼んでいた。あたしのほんとうの名はマグダラ」
「それもめったにない名でございますね」
「ええ、家族の名みたいなものなの。バックリー家にはマグダラっていうのが沢山ある。あそこにいる、あれもそう」ニック嬢は壁の肖像画をあごでしゃくって見せた。
「なるほど!」ポワロは、ちょっとの間、黙っていたが、非常に真剣な調子でいった。
「では本題に戻りましょう。お嬢様、どうぞお願いですから、真面目におなり下さい。あなたは危険に瀕《ひん》しておいでになるのでございます。今日、何者かが、モーゼル銃であなたを狙撃したのでございます」
「モーゼル銃?」
彼女はちょっと驚いたようすを見せた。
「そうでございます。お嬢様は、どなたかモーゼル銃をお持ちの方をご存じですか」
彼女は微笑した。
「あたし、持っている」
「あなたがお持ちですって?」
「ええ、父のだったの、戦地から持って帰ったものだったの。それ以来、その辺にころがっていたんで、あたし、この間そのひきだしの中にあるのを見たけれど」
ニック嬢は古風な箪笥を指さした。そして急に何か思いついたらしく、いきなりそばへ行って、ひきだしを開けた。彼女は、呆然として後ろを振り返った。
「あら、なくなっている!」という彼女の声には、今までと異なった調子があった。
お従妹《いとこ》さんは申し分ない
その瞬間から、会話の調子がすっかり変ってしまった。それまでは、ポワロと令嬢との意向が喰いちがっていた。この二人は年齢の深い溝にへだてられていた。ポワロの名声も世間の信用も彼女にとっては、何の価値もなかった。彼女は現在眼の前にいる偉い人の、名前だけしか知らない世代に属していた。それゆえ、彼女は彼の警告に重要性を感じなかったのである。彼女にとって、ポワロは、面白いほど芝居気たっぷりな、どっちかといえば滑稽な年とった外国人にしか過ぎなかった。
そうした彼女の態度がポワロを、まごつかせた。何よりも彼の虚栄心がいためつけられたのだ。世界中がポワロを知っているというのが、彼の絶えざる信条であった。ところが、ここに彼を知らない人物がいた。これは彼にとって大いに好いことだと、私は感じずにはいられなかった。しかしこれは当面の問題にとって一向に役立つことではなかった!
しかしながら、ピストルの紛失を発見したことが局面を一変させた。ニック嬢はこの事件を軽い興味のある冗談として扱うことをやめた。それにしても彼女は依然として事態を軽くあしらっていた。なぜかというと、あらゆる出来事を軽くあしらうのは、彼女の習性であり、主義であったからである。けれども彼女の態度に確然たる相違があらわれてきた。
彼女は戻ってきて椅子の肘かけに腰をおろすと、考え深く眉をひそめながら、いった。
「変だわ」
ポワロは、くるりと私の方へ向きをかえて、
「ヘイスティングス君、私がさっきちょっとした思いつきということを口にしたのを覚えていますか。私のちょっとした思いつきは、正しかったのです。仮りにお嬢様が弾丸を受けてホテルの庭に倒れているのを発見されたとしましたら? あの道を通る人は稀ですから、かなりの時間が経ってからでないと、発見されませんでしょう。そしてその手のわきに、お嬢様のピストルが落ちていたとしますね。申すまでもなくそのピストルは、エレンさんがお嬢様のものだと証言いたしますでしょう。それからきっとお嬢様が何か心配していらしたとか、不眠症に悩まされていらしたというようなことが持ち出されますでしょう……」
ニック嬢は不安らしく身動きした。
「それ、ほんとうなの。あたしね、死にそうに心配していたの。皆があたしのことを神経過敏になっているって、いっていた。そうよ、きっとみんながそんな証言をするわね……」
「そして自殺の判定が下されるでしょう。ピストルには都合よくお嬢様の指紋のほかは、誰のもついておりません。さよう、到って簡単で明確な事件となるでございましょう」
「何てすごく面白いんでしょう!」とニック嬢はいった。しかし彼女がすごく面白がっているとは見えなかったのに気がついて、私は喜んだ。
ポワロは、彼女の言葉をそのまま、慣習用語として受取った。
「そうではございませんか? お嬢様は、こういうことがこれ以上あってはならないということがおわかりになりましたでしょう。四度目の失敗……さよう、しかし五度目が成功するかもしれません」
「なんじの霊柩車を用意せよ」とニック嬢はつぶやいた。
「けれども、私どもは、その危険を取りのけるためにここへ参っておるのでございます」
『私ども』という言葉を私は、ありがたく思った。ポワロは、とかく私の存在を無視する癖があったから。
「そうです。驚かれるには及びませんよ、僕らがあなたを保護しますからね」と私は口を出した。
「あなたは何てすごく、いい方なの。あたし、すべてがとても。すばらしいと思う。あんまり、スリルがあり過ぎるみたい」
ニック嬢は相変わらず、一人超然とした態度を保っていたが、彼女の眼は不安を帯びているように思われた。
「それで第一になすべきことは、協議をすることでございます」といって、ポワロは腰かけると、親しみ深いようすで、彼女にほほえみかけた。
「お嬢様、まず月なみな質問から始めさせていただきましょう。さて……あなたには敵がおありでしょうか」
「ないらしいわ」ニック嬢は申し訳なさそうに言った。
「よろしい。では私どもはその可能性は棄てるといたしましょう。では、次に私どもは映画の質問、つまり探偵小説の質問をいたしましょう……お嬢様の死によって、利益を得るのは誰でございますか」
「あたしには想像がつかない。だからすべてのことがばかげていると思うの。もちろん、この、ろくでもない古小屋があるわ。でも、これは徹底的に抵当に入ってしまっているし、屋根はもるし、この土地に石灰層があるわけでなし、この岬に何かすばらしいものが、隠してあるわけもないんだから」
「この家が抵当に入っているとおっしゃるのですか」
「ええ、あたし抵当に入れるよりほかなかったの。だってお葬式を二つもしなければならなかったから。しかも続けざまだったの。最初に祖父が死んで……ちょうど六年前にね……それから兄でしょう。それで経済的に止《とど》めを刺されてしまったというわけ」
「で、お父様は?」
「父は戦争で傷病者になって帰ってきて、それから急性肺炎に罹《かか》って死んでしまったし、母はあたしの赤ん坊の時に死んだの。で、あたしは祖父と、この家で暮らしてきたわけ。父は祖父と折合いが悪かったんで(無理もないと思うわ)あたしを祖父にあずけっぱなしにして、自分は気ままに世界をうろつき廻っていたのね。ジェラルドは……兄なの……やっぱり祖父と折合わなかった。あたしだって男の子だったら、祖父とうまくやっていけなかったろうと思う。女の子だったから助かったのよ。祖父はいつもあたしのことを、親にそっくりの子で、自分の気性を受けついでいるっていっていた」といってニック嬢は声をあげて笑った。そして、
「祖父はひどい道楽ものだったらしい。だけれど、おそろしく幸運だったのね。この辺では祖父の手を触れたものは、みんな黄金になったなんて言い草があるくらい。祖父はばくち打ちだったから、儲けたお金をまた、みんなすってしまったの。だから死んだ後には、この家と地所のほか、ほとんど何も残っていなかった。祖父の死んだ時、あたしは十六、兄は二十三だった。ジェラルドは三年前に自動車事故で死んでしまい、この屋敷があたしのものになったの」
「それで、お嬢様のあとは? 一番近い身内はどなたですか」
「従兄《いとこ》のチャールズ・ヴァイス。この下の町に住んでいる弁護士。とても善良で信用のおける人だけれど、すごく退屈な人なの。いつもあたしに良い忠告をくれたり、あたしの浪費趣味を矯正しようとしている人」
「その方がお嬢様の事務を処理なすっておいでなのでございますね」
「さあ……あんたがそんな風にとりたかったら、それでもいいわ。でも、あたし大して処理してもらうような仕事なんかないけど。従兄はこの家を抵当に入れたり、番小屋を貸したりする世話をしてくれた」
「なるほど!……番小屋をね。私はそれをおたずねしようと思っておりました。お貸しになっていらっしゃるのでございますか」
「ええ、オーストラリアの人に。クロフトっていう人。とても親切そのもの……お分りになるでしょう……苦しくなるほど親切なの。いつもセロリの束だの早生《わせ》のグリーンピースだのを持ってきてくれたりなんかする。あの人たちは、あたしが庭をほったらかしておくのを、言語道断だと思っているらしい。あの人たちは全くありがた迷惑なくらい。ほんとうよ……すくなくとも彼はね。言葉にいえないくらい、親しみ深くするのよ。奥さんていうのは、足がわるくて、可哀そうに一日中ソファに寝たきりなの。とにかく、家賃を払ってくれるんだから、大したことだわ」
「あの人たちは、ここへ参ってから、どれくらいになるのでございますか」
「そうね、六カ月ぐらい」
「なるほど、それはそうと、お嬢様の、そのお従兄さんはお父上の側でございますか、それともお母上の側で?」
「母方《ははかた》。母はヴァイス家の人だったの」
「結構でございます! さて、そのお従兄さんのほかに、どなたかご親戚はおありになりませんか?」
「ヨークシャーに父方の遠い従姉妹《いとこ》たちがいるわ。バックリー家の一族なの」
「そのほかには?」
「なし」
「それはお寂しいことでございますね」
ニック嬢は彼の顔を見つめた。
「寂しい? 何て変てこな考えなの、あたしここにはあまりいないのよ、大抵はロンドン。身内の人なんていうのは、一般に煩《わずら》わしくてやりきれないものだわ。じき騒ぎ立てたり、干渉したりして、自分の思いのままにしているほうが、ずっと面白い」
「私は同情の浪費はいたしますまい。お嬢様は現代式でいらっしゃると見えますね。では、お宅の使用人について伺いましょう」
「使用人なんて、豪勢に聞えるわね。使用人はエレンとその夫、大して腕はよくないけれど、園丁のようなもの。あたしの支払う給料はおそろしく少しなの。なぜかっていうと、あの人たちの子供をここへ置いてやっているからよ。エレンは、あたしがここへ来ている時にはあたしの身のまわりの世話をしてくれるし、パーティなんかの時には近所の者を手伝いに頼んだりなんかしてくれる。今度の月曜日にあたしパーティをする。ほら、ヨットレース週間でしょう?」
「月曜日……今日は土曜日でございますね。さて、次はお友達についてお聞かせいただきましょう。たとえば今日昼食を共にしていらした方々は?」
「そうね、フレディ〔フレデリカ夫人の愛称〕……あのきれいな人は、あたしの一番の親友。とても不愉快な生涯を経た人なの、けだものと結婚したようなもの。相手の男は大酒飲みで、麻薬患者で、とにかく何とも形容ができないほど、目茶苦茶な奴だった。で一、二年前に、とうとう別れてしまったの、それ以来、あの人は成り行きにまかせて、ぶらぶらしてるの。あたし、あの人が早く離婚してしまって、ラザラスと結婚すればいいと思っている」
「ラザラスとおっしゃると、ボンド街の美術商のラザラスでございますか」
「そう、あの人はそこのひとり息子。もちろんお金がだぶだぶ。あの人の車ごらんになった? もちろんユダヤ人よ、でもすごくいい奴なの。それにフレディを熱愛している。二人はどこへ行くにも一緒。週末には二人ともホテルへ泊りに来て、月曜日にはここへ来ることになっているわ」
「で、フレデリカ夫人のご主人は?」
「あの目茶苦茶氏のこと? 何もかもから手を引いてしまって、どこにいるのか誰も知らない。それがフレディをひどく困ったことにしているの、男が行方不明じゃあ離婚のしようがないでしょう?」
「おっしゃるとおり!」
「可哀そうなフレディ、すごく運が悪いんだ。一度、すっかりうまく話がついたのよ。あの人は彼をつかまえて離婚の話をしたら、何の文句もなく承諾するといったんだけれど、ホテルへ泊まるだけの現金も持っていない始末。それであの人がお金を気前よく出してやったら、それっきり男はどこかへ行ってしまって音沙汰なしっていうわけ。ずいぶん卑劣な奴!」
「それはひどい!」と私は叫んだ。
「ヘイスティングス君は、愕然としたのでございますよ。お嬢様。どうぞお気をおつけになって下さいまし、この人は現代人ではございませんからね。ごく最近、広々とした大きな土地から戻ってきたばかりで、当世の言葉を、いろいろと学ばなければならない人でございます」
「たしかに、それほど驚くことはないと思いますわ、そんな男がいくらもいることは、誰だって知っていますわ。でも、あたし、そういうやり方は、下劣だと思うの。可哀そうに、フレディはその当座、ひどい金詰りになって、途方にくれてしまったっけ」
「そうでございますとも、あまり気持のいい事件ではございませんね。で、お嬢様のもう一人のお友達は?」
「チャレンジャー? あたし、彼とは生まれた時から知っているくらい……そうね、とにかく五年この方とても親しくしている、とてもいい奴だわ」
「あの方は、お嬢様との結婚を希望しておいでなのでございましょう?」
「何度も、そんなことをいったわ。夜中の一時ごろとか、二杯目のポートワインを飲んだ後なんかでね」
「けれども、お嬢様はつれなくしておいでになるのでございますね」
「あたし彼と結婚したからって、お互いに何の役に立つっていうのかしら? 二人とも文無しだし、彼と一緒にいたら凄く退屈してしまうわ。まるで優等生みたいだし……とにかく、彼はもう四十ですからね」
その文句に、私はちょっと顔をしかめた。
「つまり片足を墓に入れていると申すわけでございますね。いや、どうぞ私のことなどにお心遣いご無用でございますよ、お嬢様。私は単なるおじいちゃんにすぎませんですから。さて、今度は例の事故につきまして、もっとお話し下さいまし。たとえば、肖像画のことなどを」
「新しい紐をつけ変えて、かけ直してあるわ、よかったら、来てごらんになって」
ニック嬢は先に立って部屋を出て行ったので、われわれはその後に従った。問題の肖像画は油絵で、重い額縁に入っていた。それはベッドの頭の真上にかかっていた。
「お嬢様、失礼いたします」と、つぶやきながら、ポワロは靴をぬいでベッドにのぼり、額と紐とを調べ、額の重さを、注意深く試してみた後、優しく眉をひそめて、おりてきた。
「あれが頭の上に落ちて参ったりいたしましては……はい、決して気持のいいものではございますまい。お嬢様、額を吊ってございましたのは、やはりこれと同じ白い針金入りの紐でございましたか」
「ええ、でも今のほど太くないわ。今度、ずっと太いのにかえたのよ」
「それはよく納得ができます。で、お嬢様はその切れ目をお調べになりましたか……すり切れておりましたでしょうか」
「そうだったろうとは思うけれど、あたし別に気をつけて見なかったわ。そんな必要なかったんだもの」
「いかにも、おっしゃる通り、そんな必要をお感じになりませんでしたろうとも。それにしても、私はその紐を拝見させて頂きとうございます。どこか家の中にございますでしょうか」
「あたし、そのままにして置いていたんだけれど、紐を付けかえた男が、古いのはどこかへ棄ててしまったらしいわ」
「それは残念、ぜひ見たかったものでございます」
「ポワロさんだって、結局は事故にすぎないと思うでしょう? 確かにそれ以外に何もあるはずないわ」
「事故であったかも知れません、何ともいい切れません、けれどもお嬢様の車のブレーキの損傷は、事故ではございません。それから崖から転げ落ちた石も……私はその事故の起こった現場を見せていただきとうございますね」
ニック嬢は、われわれを庭へ連れ出して、崖のはずれへ案内した。眼下に海が青く輝やいていた。岩伝いに、でこぼこ道が下へ通じていた。ニック嬢は、どの辺のところで、事故が起こったかを説明した。ポワロは考えこみながら、うなずいていたが、やがて質問した。
「お嬢様、お宅の庭へ入る道は、いくつございますか」
「まず正面道路、それは番小屋のわきを通っていて、商人の出入口は、小路を半分ぐらい行ったところの壁垣に、くぐり戸がついていて、それから、もう一本は、この岬のはずれにそって裏門のところへくる道で、これは曲がりくねって、海岸からホテルまでいけるの」
「お宅の園丁は、いつもどこで働いておりますか」
「そうね、たいていは台所のそばの野菜畑で、ぶらついているか、さもなければ物置に坐りこんで、植木鋏を磨《と》いでいるふりをしている」
「それは、家の向う側でございますね。……すると誰かがここへ入ってきて、崖の上の丸石をはずしたといたしましても、園丁には気づかれないというわけでございますね」
ニック嬢は、急に身ぶるいをした。
「あなたは……ほんとに……そんなことが起こったと、考える? 何だか、あたし信じられない、そんなの実際、無益な気がする」と、彼女はいった。
ポワロは再びポケットから、ピストルの弾丸を取り出して、見つめた。
「お嬢様、それは益のないことではございません」と、彼はおだやかにいった。
「そんなことするの、狂人にちがいない」
「そうかも知れません。犯罪者はすべて狂人なのか? これは食後の話題として、大そう興味がございますね……そういう人たちの脳細胞は奇形にちがいございません……しかし、それは医者の扱うべき問題でございます。私といたしましては、もっと別の仕事をやらねばなりません。私は罪なき者のことを考えなければならないのでございます。私がただいま考えておりますのは、未知の加害者ではなく、お嬢様のことでございます。お嬢様は若くて、美しくて、太陽は輝き、この世の中は楽しく、お嬢様の前途には生命と愛がございます。私が考えておりますのは、それだけのことでございます。さあ、おきかせ下さい。フレデリカ夫人とラザラス氏がこの土地へ来られてから、どれくらいになりますのでしょうか」
「フレディはこの地方へ水曜日にやってきたの。タヴィストック近くの、知っている人たちのところに二晩ばかり滞在して、昨日ここへ着いたところなの。ラザラスはその辺を旅行して廻っていたらしい」
「チャレンジャー中佐は?」
「あの人はデヴォンポートにいて、都合さえつけば自分の車でやってくる……たいてい週末に」
ポワロは、うなずいた。われわれは家へもどってきた。しばらく皆が黙りこんでいたが、ポワロが突然にいった。
「お嬢様には、どなたか信頼することのできるお友達がおありですか」
「フレディがいるわ」
「そのほかの方《かた》で」
「そうね、わからないけど……ああ、あると思うわ。どうして?」
「なぜかと申しますと、私は、どなたかお友達がお嬢様のそばに、いらしていただきたいのでございます……即刻に」
「あら、まあ!」
ニック嬢は呆気にとられたようすであった。そして一、二秒、だまって考えていたが、あいまいに、つぶやいた。
「マギーがいる。もしかすると、つかまえられるかも知れない」
「マギーとは、どなたですか」
「ヨークシャーにいる従姉妹《いとこ》の一人、とても大家族なの、牧師の家で。マギーは、あたしと同じ年くらい。夏になると、よくここへよんで一緒に暮らすの。でも彼女、すごくつまらない! いやになっちまうほど、純情娘なんだもの。髪なんか、なにかの間違いで流行型になったけれど、あたしね、今年はもうあの人、よんでやるのよそうかと思っていたくらい」
「どういたしまして、お嬢様、そのお従妹さんは申し分ないと存じます。ちょうど私が心に描いていたようなタイプのお方でいらっしゃいます」
ニック嬢は、ため息をして、それに答えた。
「いいわ、電報を打つ、今のところ、ほかにつかまえる人、思いつかないから。だれもかも、みんな、きまってしまっているから。でも、教会合唱団のピクニックだとか、村のご馳走会だなんていうのがなければ、きっとやってくる。だけれど、一体あなたは、マギーに何かできると思っているの?」
「お従妹さんが、お嬢様のお部屋で、おやすみになるように、おはからい頂けませんか」
「できると思うわ」
「お従妹さんは、妙な申し出だとお思いになりませんでしょうか?」
「いいえ、マギーはそんなこと考える人じゃない。何でもいわれた通りにする。ほんとう。クリスチャンというものは、信仰と忍耐をもって働くんだわ。いいわ、月曜日にくるように電報を打つ」
「どうして明日になさらないのでございますか?」
「日曜日に汽車の旅をさせるの? そんなことしたらあの人、あたしが死にかかっているんだと思うわ。いいえ、月曜日にする。あなたはあの人に、おそろしい運命が、あたしに迫っていることを、話してきかせるつもり?」
「試して見ましょう。お嬢様はまだ茶化しておいでなのでございますね。お嬢様は勇気がおありになるのを知って、私はうれしく思います」
「とにかく、気晴らしになるわ」とニック嬢はいった。
その調子に、私は何か奇妙な印象を受け、ふしぎに思って、彼女の顔をちらと見た。私は何か彼女がわれわれに話さないでいることがあるように感じた。われわれは再び客間へ入った。ポワロはソファの上の新聞をもてあそんでいたが、不意に、
「お嬢様は、これをお読みになっていらっしゃるのでございますか」と、いった。
「セント・ルー新聞? 本気に読みはしないわ、潮を見るのに開けただけ。毎週、潮の満干《みちひ》の時間表がでるの」
「なるほど、それはそうとお嬢様は遺言状をおつくりなったことが、おありですか」
「ええ、作ったわ。六カ月くらい前、手術の直前に」
「手術とおっしゃいますと?」
「盲腸の手術を受けたの。誰かが遺言状をつくっておくものだっていったから、そうしたら、ひどく偉くなったような気分になったわ」
「で、その遺言状の条件は?」
「このエンドハウスは従兄のチャールズに、ほかのものはたいして持っていないけれども、フレディに遺すことにした。もしかすると、負債のほうが資産より多いかも知れないのよ、ほんとうは」
ポワロは、ぼんやりとうなずいた。
「ではこれでお暇《いとま》いたします。さようならお嬢様、お気をおつけ下さいましよ」
「何を?」とニック嬢はたずねた。
「お嬢様は聡明でいらっしゃる。はい、そこが弱点でございます。どの方面に気をおつけになるべきかと仰せになりますか? それは何とも申し上げられません。しかし、お嬢様、信頼なすって下さいまし、私は数日中に、真相を発見してお目にかけます」
「では、それまで、毒物に注意せよ、爆弾に注意! 銃弾に! 自動車事故に、南アメリカのインディアンの秘密の毒を塗った矢に注意せよ!」と、ニック嬢は、淀みなくいった。
「お嬢様、自嘲なさるものではございません」と、ポワロは真面目にいった。
戸口に達した時、ポワロは立ち止まった。
「時にジム・ラザラス氏は、お祖父様の肖像画にいかほどの値をつけましたか」
「五十ポンド」
「ああ!」とポワロはいった。
彼は飾り棚の上の暗いむっつりした顔を、ふり返って、熱心に見入った。
「でも、あたし、さっきもいったように、あの人を売る気はないわ」
「そうでございましょうとも、よくわかります」とポワロは考え深い調子でいった。
私が掴《つか》んでいない、何かがある
往来へ出るとすぐに、私は、
「ポワロさん、当然あなたが知っておくべきことが、一つあるんですがね」といった。
「君、それは何ですか」
私は、ニック嬢の車の故障に対する、フレデリカ夫人の所見を、ポワロに語った。
「ほう、それは興味がございますね。もちろん、そういうタイプありますね、虚栄心が強くて、ヒステリー気味で、危機一髪で死をのがれたというようなことで、自分に興味を持たせるために、跡形もない事件をまことしやかに物語る! そういう人物のあることは、よく知られております。そういう人物は、自分の作り話を、真実らしくするために、自分の身体に傷をつけたりすることがあります」
「まさか、あなたは……」
「ニック嬢がそうしたタイプだと考えているのではないかと、いわれるのですか? どういたしまして、ヘイスティングス君だって、私どもが、あのお嬢様に、危険が迫っておることを、納得させるのに、なかなか骨が折れたことはご承知でしょう。最初からばかにしてかかって、どこまでも信じようとしないで、飽くまで茶化してしまおうとしたではありませんか、あれは全く当世風のお嬢様ですよ。それにしても、フレデリカ夫人のいわれたことは興味あることですね、あのご婦人はなぜそういうことをいわれたのでしょう? たとえ、それが事実だとしても、なぜ、君に話したのでしょう? そんなことを話す必要がないではありませんか、お門違いです」
「そうですね、あの婦人は無鉄砲に、そのことを会話の中へ持ちこんで……全く何のために話したのか僕は諒解に苦しみますね」
「奇妙ですね、それは奇妙ですね、ちょっとしたいくつかの事実が奇妙です。私はそれらの事実が表面にあらわれて来るのを見たいと思います。それらは意味深長です。それはある道をさします」
「道というのは、どこへ行く道ですか」
「優秀なるヘイスティングス君よ、君の指は、弱点をついております。どこ? 全くどこへです! 残念ながら、私どもはそこへ行くまでは、どこだか知ることはできませんでしょう」
「ポワロさん、聞かしてください。なぜニック嬢の従妹に来てもらうように、主張なすったんですか」
ポワロは立ち止まって、興奮におののく指を私にむかって振った。
「よく考えて見たまえ、ヘイスティングス君、ちよっとの間、よく考えて見たまえ。私どもがどんなに不利な立場にあるかを! 私どもの手がどんなに拘束されているかを! 犯罪が行なわれた後で、犯人を追うのは、簡単なことです。少なくとも私の能力としては、簡単です。殺人者は犯罪を行ったことによって、自分の名を署名したといえますからね。けれども今の場合、ここには犯罪はないのです。その上、私どもは犯罪を欲しないのです。まだ発生していない犯罪を探偵するというのは、実に稀で困難なものです。
私どもの最初の目的は何ですか? お嬢様の安全です。それはやさしいことです。いや、これはやさしくはありませんよ、ヘイスティングス君。私どもは、夜も昼も見張り番をしているというわけには参りません。私どもは、若いお嬢様の寝室で、夜をすごすわけにも参りません。この事件は困難で充満しております。しかし、私どもにできることが、一つ、ございます。私どもは、加害者の立場を困難にすることができます。私どもはお嬢様に用心させることができます、それから護衛をつけて、目撃者をつくることができます。この二つの状況を打破するには、よほどの利口者でなければなりません」
ポワロはそこで言葉を切って、今度は全く異なった調子で、
「しかし、私は恐れているのですよ、ヘイスティングス君」
「何をですか」
「加害者は、非常に賢い男ではないかと、心配しているのです。はい、私はそれを心配しております」
「ポワロさん、あなたは僕をすっかり神経過敏にしてしまう」
「私だって神経過敏になっておりますよ。聞きたまえ、ヘイスティングス君、あのセント・ルー週刊紙ですが、開いて裏へ折り返してありましたね、どこが出ていたと思いますか? そこには……マジェスティック・ホテル滞在客の中には、エルキュール・ポワロ氏、及びヘイスティングス大尉……とあったのです。もしもですね、誰かあれを読んだとするとですよ……誰でもみんな、私の名を知っております」
「ニック嬢は知りませんでした」私はニヤニヤ笑いながらいった。
「あのお嬢様の頭は散漫なのです。真剣な人間……つまり犯罪者は、私の名を知っておりますでしょう。そして彼は恐れるでしょう。いろいろと思いめぐらすでしょう。彼は自問自答いたしますでしょう。彼は既に三度ニック嬢を殺害しようと企てた。そこへエルキュール・ポワロがこの土地に到着した。……これは偶然の符合だろうか?……と彼は自分にたずねます。そして彼は、これは偶然のことではないかも知れないと、心配します。そこで彼は、どうするでしょうか」
「潜伏して自分の証跡をくらますでしょう」と私はいった。
「さよう、さよう……さもなければ……もし彼がほんとうに大胆だったら、時を移さず、早いところやってしまうでしょう。私が調査を進めないうちに、お嬢様は死んでしまう。大胆不敵な男なら、そうします」
「しかし、どうしてあなたは、その欄《らん》を、ニック嬢以外の者が読んだとお考えになるんですか」
「私の名がお嬢様に通じなかったのは、あそこを読んだのは、お嬢様ではない証拠です。私の名を聞いても、お嬢様の表情に何の変化もありませんでした。全く馴染みないものだったのです。それからお嬢様は、潮を見るために開いただけで、ほかは何も見ないとおっしゃっておいででした。とにかく、あの頁には潮の時間表など出ておりませんでした」
「あなたは、誰か家の者だとお考えですか」
「家の者か、あるいは家に接近できる者ですね。後者にとってそれは、むずかしいことではありません。庭に面したフランス戸が開け放しになっております。疑いもなく、ニック嬢の友人たちは、誰にも気づかれずに、自由に出入りができます」
「何か考えがおありですか、何か疑惑でも?」
ポワロは、両手をひろげて見せた。
「何もありません。前にも申した通り、どんな動機があるにせよ、今のところ何もはっきりしたことはわかっておりません。そこが、この未知の犯人の安全なところなのです。さればこそ、犯人は今朝あのような大胆な行動がとれたのです。表面にあらわれているところでは何人《なんぴと》も、ニック嬢の死を希望しているという理由がないように思われるのです。財産? エンドハウス? これは従兄に渡る……しかし従兄は、完全に抵当に入っている、ぼろぼろの家を特に欲しがるであろうか? しかも彼に関する限りこれは祖先の土地というわけでもない。彼はバックリー家の一族ではありません。私どもはその従兄ヴァイス氏に会わなければなりませんが、彼が犯人だなどと考えるのは、あまりに空想的すぎますね」といってから、ポワロは、
「それから親友の……あのふしぎな眼の、心ここに無きマドンナとでもいうようなようすをしたあのご婦人」といった。
「ああ、ポワロさんも、そんな感じをお受けになったんですか!」と私は、おどろいて叫んだ。
「あのご婦人は、この事件と、どういう関係を持っているのでしょうか? あのご婦人は、お友達のことを嘘つきだと、君に話したのでしたね。まことにご親切な事ですね! なぜそういうことを君に話したのでしょう? あることをニック嬢がいうかも知れないと心配したのでしょうか? その何かは、自動車に関することでしょうか? それとも、もっとほかに恐れるような理由があって、自動車の件をだしに使ったのでしょうか? 誰か自動車に悪戯をしたのでしょうか? もうそうなら誰がやったのでしょうか? あのご婦人は誰だか知っているのでしょうか?
それから、あの美貌のラザラス君。あの素晴らしい車と金を持っている青年を、どこへ結びつけたらよろしいでしょう? 何かのことでこの事件に関係するとは考えられませんね。それからチャレンジャー中佐……」
「中佐は大丈夫ですよ。僕は、関係ないと確信しています。彼はほんとうの紳士ですよ」
「疑いもなく中佐は、君が名門と考える学校の出だね。だが、幸いにして私は外国人ですから、そうした偏見にとらわれないで調査を進めていく事ができます。それにしても、チャレンジャー中佐を、この事件に結びつけることはできないと知ったことを私は認めます。事実、私は中佐が関係できるとは思えません」
「もちろん、中佐にはそんなことできませんとも」と私は熱心にいった。
ポワロは、つくづくと私の顔を眺めた。
「ヘイスティングス君、君は私にふしぎな影響を及ぼしますね。君が間違った方向にあまり強い嗅覚を発揮するので、私はもう少しでそっちへ誘惑されていくところだった! 君は実に天晴れな人物ですね。正直で、他人のいうことをすぐ信じやすく、高潔で、例外なしに悪党に引っかけられてしまうというタイプですね。君は怪しげな油田や、存在しない金鉱などに、投資するタイプの男ですよ、何千という、君のような人物から、詐欺師は日ごとのパンをかせいでおりますよ。とにかく、私はチャレンジャー中佐を研究します。君は私の胸に疑惑をよび起こしてくれました」
「ポワロさん、あなたは全くばかげている。僕みたいに、世界を股にかけてきた人間が……」と私が憤然としていいかけると、
「何も学んでいない。驚くべきことですが、何も学んでおいでなさらぬ」とポワロは、悲しげにいうのであった。
「もし僕が、あなたのおっしゃったような、信じやすい愚かな者だったら、アルゼンチンで農園に成功したでしょうか?」
「そのようにお怒りなさるな。君は農園をやって大成功しましたとも! ただし君と奥様との力でね」
「べラは、いつだって僕の判断に従ってやっています」
「奥様は、お美しいと同様に、賢くやっておいでになります。さあ、けんかは止めましょう。まずガレージから行きましょう。モット・ガレージというところでしたね、二、三の質問をすれば、このちょっとした問題の真相がわかりましょう」
間もなくわれわれはその場所へ行った。ポワロはバックリー家の令嬢に紹介されて来たと説明した。そして、いつか午後に遠乗りに出かけるのに車を雇いたいということから、うまく最近ニック嬢の車が損傷を受けた件に話を移していった。
ガレージの持主は、急に雄弁に喋りはじめた。それは、かつて見たことのない、奇妙なことだったといって、彼は専門的な話をはじめた。残念ながら私は技術方面には暗かったし、ポワロは私以上だと思った。しかし彼の話から、ある事実がはっきりと浮かびあがってきた。その車は何者かが、いたずらしたのだということ、その損傷は、ごく短時間に、簡単に与えることのできるものだったことなどが明らかになった。
われわれがそこを出て、ぶらぶら歩いていく途中、ポワロはいった。
「そういうわけだと、ニック嬢は、正しく、金持のラザラス君は間違っていた。ヘイスティングス君、これは非常に興味のあることですよ」
「僕らは、これから何をするんですか?」
「私どもは、郵便局へ行って、もしまだ時間過ぎでなかったら、電報を打ちます」
「電報?」私は希望をもっていった。
「さよう、電報です」ポワロは何か考えこみながらいった。
郵便局は、まだ開いていた。ポワロは電文を書いて発送した。彼はその内容については、何も私に知らせなかった。私は、彼が私に質問してもらいたがっているのを感づいたので、わざとたずねないでいた。
ホテルへ向って歩き出した時、ポワロは、
「明日が日曜日とは、厄介ですね。私どもは月曜日までは、チャールズ・ヴァイス氏を訪問するわけにはいきません」といった。
「自宅を訪問すればいいでしょう」
「それはそうです。しかし私は、それをさけたいと思っているのです。私はまず職業上、チャールズ氏と会談することによって、その方面における人物判断をしたいのです」
「そうです。それが一番いいでしょうね」と、私は考え深くいった。
「たとえば、ごく単純な小さい質問に対する答えが、大きな相違を生ずるかも知れませんからね。もしチャールズ・ヴァイス氏が今日、十二時三十分に、自分の事務所にいたのなら、ホテルの庭でピストルを射ったのは彼ではない」
「われわれがホテルで会った、あの三人のアリバイも調べるべきではないですか」
「それは更にむずかしいです。あの三人の中の一人が、五、六分、他の二人を残して、数限りない戸口……談話室、喫煙室、応接室、読書室などの戸口から急いで出て行って、ニック嬢の通り道のどこかにかくれていて、ピストルを射ってすばやく戻ってくるのは、わけないことです。だが、君、私どもはまだ、この劇の登場人物全部に、到達しているかどうかも、確かではないのです。行ないすましたエレンと、まだ顔を出さないその夫、家にいるこの二人は、若い令嬢に対して、何か恨みを抱いているかも知れません。それから番小屋に住んでいる、未知数のオーストラリア人もおります。そのほかに、ニック嬢が疑念をさしはさむ理由を認めないために、名をあげなかった友人や知人が、沢山あるにちがいありません。ヘイスティングス君、私はまだ明るみに出ていない何かが、この事件の背後にあるような気がしてならないのです。私には、ニック嬢が、私どもに話した以上に、もっと何か知っているにちがいないという、ちょっとしたひらめきがあるのです」
「あなたは、ニック嬢が、何か隠していると考えていらっしゃるんですか」
「そうです」
「誰かをかばうためだという考えですか」
ポワロは、非常な勢いで、首を振った。
「いや、いや。これまでのところ、私は令嬢が全く正直だという印象を受けております。令嬢の生命を狙う企てについて、知っているだけのことを、すっかり話して下すったと、私は確信しております。けれども、何か、まだほかに、令嬢がこの事件とは何の関係もないと信じておられることで、大切なことがあるにちがいない。それで私はその何かを知りたいのです。ごくひかえ目に申しますが、私は常人よりも遥かに聡明なのです。かく申すエルキュール・ポワロは、ニック嬢が何も気がつかないでいるところに、一つの関係を見出すでしょう。それが、私の求めている手がかりを与えてくれますでしょう。ヘイスティングス君、私は、君がよくいうように、目下のところ五里霧中だということを、正直に、へりくだって宣言しますよ。この事件の背後にひそむ理由が、うすうすでも感づくまでは、闇の中にいるという訳ですよ。何かがあるにちがいない。私が掴んでいない、何かこの事件の要素があるにちがいない。それは何であるか? これが私の絶えざる要求です。いかがですか?」
「あなたは、きっと発見しますよ」と私は、慰めるようにいった。
「私がそれを見つけた時には、もう遅かったなどということになりませんように!」とポワロは打ち沈んで、つぶやいた。
君はあの人たちを好きですか
その晩ホテルでダンス・パーティがあった。ニック嬢は友人たちと晩餐に来ていて、われわれにむかって陽気に手を振って挨拶を送った。
彼女は真赤なシフォンの、流れるように床を引きずるイブニングを着ていた。そのドレスの上に真白な肩と首すじが浮き上がり、その上に小さな無分別な頭が載っていた。
「心憎いまでに魅力のある小悪魔だなあ」と私はいった。
「あのお嬢様のご友人と対照してですか」
フレデリカ夫人は白いドレスを着ていた。ニック嬢の活気にあふれた踊り方とは、全然かけはなれて、いかにも物憂げな優美さで、踊っていた。
「大そうお美しい方ですね」と、ポワロは不意にいった。
「だれですか? ニック嬢ですか?」
「いいえ、もう一人のほうです。彼女は悪なりや? 善なりや? 彼女は単に不幸なのであろうか? 誰にもそれはわからない。彼女は謎である。たぶん彼女は結局何でもないのかも知れない。しかしね、君、彼女は誘惑者ですよ」
「それは、どういう意味ですか?」私は好奇心にかられてたずねた。
ポワロは微笑しながら、頭を振った。
「早晩、君はそれを感じるでしょう。私のいったことを覚えておいでなさい」
そのうちに、驚いたことに、彼は席を立った。ニック嬢はチャレンジャー中佐と踊っていた。フレデリカ夫人とラザラスは踊り終わって、席についたところであった。するとラザラスは立ち上って、どこかへ行った。フレデリカ夫人は一人になった。ポワロは真っすぐに彼女のテーブルに近づいて行ったので、私もその後について行った。
直接にすぐ要点にいくのが、ポワロの方式であった。
「おゆるしいただけますか」彼は椅子の背に手をかけてそういったと思うと、もう辷《すべ》りこんでまって、
「奥様のご友人がダンスを楽しんでおいでになる間に、ちょっとお話したいことがございますので」
「それで?」彼女の声は、冷やかで無味であった。
「奥様、あなたのご友人がお話になりましたかも知れませんが、もしそうでございませんでしたら、私から申し上げます。今日、あなたのご友人の生命が狙われたのでございます」
彼女の灰色の眼は、驚きと恐怖に大きく見開かれた。黒い瞳も大きくなった。
「どういう意味ですの?」
「ニック嬢が、ホテルの庭で狙撃されたのでございます」
彼女は急に微笑した。それは優しい、憐れむような、信用しない微笑であった。
「ニックがあなたに話しましたの」
「いいえ、奥様、私がこの眼で見ることになったのでございます。ここに弾丸がございます」
ポワロが掌に弾丸を載せてさし出すと、フレデリカ夫人は、ちょっと身を引いた。
「でも……それでは……それでは……」
「おわかりでございましょう。お嬢様の空想から出た作りごとではございません。私はそれを保証いたします。それからまだございます。この数日間に、いろいろと奇妙な事故が起こりました。奥様はお聞きになりましたでしょう。いや、お聞きにはなりませんでしたでしょう。たしか昨日こちらへお着きになったばかりでいらっしゃいましたね」
「ええ、昨日」
「その前は、ご友人のところにご滞在でいらしたそうでございますね、タヴィストックの」
「ええ」
「奥様がご一緒にお過ごしになった方々は、何という名前でいらしたでございましょう?」
彼女は眉をあげた。
「そんなことを、あなたに申し上げなければならない理由がありますでしょうか」と彼女は冷やかにいった。
ポワロは、たちまちいかにも無邪気な驚きを表わした。
「奥様、幾重にもおわび申し上げます。私はまことに不調法ものでございます。実はタヴィストックには友達がおりますもので、もしやその人たちにお会い遊ばしたかと存じまして……私の親しい友人たちは、ブキャナンと申します」
フレデリカ夫人は首を振った。
「そういう名の人は思い出せませんわ。お目にかからなかったようです。あんな退屈な人たちのお話は、やめましょうよ。それより、ニックの話をお続けになって。誰が射ったんですの? なぜですの?」フレデリカ夫人の言葉つきは、熱を帯びてきた。
「現在のところ、誰ですかまだ分りません。しかし私は発見いたしますでしょう。はい、私は発見いたしますとも、私は探偵なのでございますよ、エルキュール・ポワロと申します」
「大そう有名なお名前」
「奥様は、大そうご親切でいらっしゃいます」
「あなたは、私にどうしてほしいと、おっしゃいますの?」彼女はゆっくりといった。
彼女は、われわれ両人を驚かせた、それはわれわれの予期しないことであった。
「奥様にお願いしたいのは、あの方を見守っていてあげて頂くことでございます」
「いたしましょう」
「それだけでございます」
ポワロは立ち上って、急いで頭をさげた。そしてわれわれは自分の席へ戻った。
「ポワロさん、あなたは、手の中《うち》をあまりはっきり見せすぎやしませんか」
「君、ほかにどうしようというのですか? それは巧妙ではなかったかも知れませんが、安全なやり方でしたよ。私は運まかせにはしたくありません。とにかく一つのことだけは、はっきりと浮かびあがってきましたね」
「それは何ですか」
「フレデリカ夫人は、タヴィストックには行っていませんでした。ではどこにいたのでしょうか? ああ、それは私が見つけ出します、エルキュール・ポワロに情報を知らせないでおくわけには参りません。ごらんなさい、美男のラザラス君が戻りました。奥様は彼に話しております。彼は私どものほうを見ております。あの人は利口な青年です、あの頭の恰好を見てごらんなさい。ああ、あのことがわかっていたら……」
「何ですか?」私は相手の言葉が切れたのでたずねた。
「月曜日に私が知ることです」とポワロは、あいまいに答えた。
私は彼を見守っただけで、何もいわなかった。彼はため息をついた。
「君はもう好奇心を持たなくなりましたね。昔は……」
「快感があるんです。私が好奇心など出さないほうが、あなたのためにいいんです」と、私は冷淡にいった。
「君のそういう意味は?」
「質問に答えるのを拒否する快感です」
「それは、意地が悪い」
「そうですとも」
「さて、さて、強硬な沈黙人はエドワード王時代には、小説家に大切にされたものです」
とポワロはつぶやいた。彼の眼が急に昔ながらの光を帯びてきらきらしてきた。
間もなくニック嬢が、われわれのテーブルのわきを通った。彼女はパートナーから離れて、派手な色彩の鳥のように、われわれのほうへ、さっと身をかがめて、
「死の舞踏!」と軽い調子でいった。
「それは新しいセンセーションでございますか、お嬢様」
「そうよ、面白いわ」
彼女は手を振って、行ってしまった。
「あんなことを、いわなければいいのに、僕は死の舞踏なんていう文句は、きらいだ」
「あまり真に迫りすぎております、あのお嬢様は勇気をおもちです。さよう、勇気がおありになる。けれども不幸にして今の場合に必要なのは勇気でなく、注意です。ここに誤りありです」
翌日は、日曜日であった。われわれはホテルの正面のテラスに腰かけていた。ポワロが不意に立ち上ったのは、十一時半ごろであった。
「さあ、ヘイスティングス君、ちょっとした実験をしてみましょう。私はラザラス君とフレデリカ夫人が車で出かけたのを確かめました。ニック嬢も一緒です、邪魔者はなし」
「何の邪魔がないというんですか」
「見ておいでなさい」
われわれは階段をおりて草原を横切って海辺へ下っていく曲がりくねった小路へ出る門のほうへ行った。二三人の海水浴者が、その路をのぼってきて、何か話したり笑ったりしながら、われわれとすれちがった。
その人々が行ってしまうと、ポワロはある一点まで歩いて行った。そこには、目立たない小さな門があって、蝶番《ちょうつがい》の錆びた戸には、『エンドハウス通用門』という文字が、半ば消えかかっていた。その辺には人影がなかった。われわれは、そっとその門を入って行った。次の瞬間、われわれは家の正面に拡がっている芝生へ出た。その辺にも、誰もいなかった。ポワロは崖のはずれまでぶらぶら行って、下をのぞいた。それから家に向って歩いて行った。テラスに出るガラス戸が開け放ってあったので、われわれは真っすぐに客間へ入った。ポワロは一時《いっとき》も無駄にしなかった。彼は戸を開けて玄関の広間へ入って行った。そこから彼は私を従えて階段をのぼって行った。そして真っすぐに、ニック嬢の寝室へ入って行くと、ベッドの端《はし》に腰かけて、眼を輝やかしながら、私にむかって、うなずいた。
「どうです、君、どんなに訳ないことかお分かりでしょう。私どもが入ってきたのを、誰も見ておりませんでした。私どもが出て行くのも、誰も見ませんでしょう。私どもはどんなことをしようと、全く安全です。たとえば、私どもは額を吊ってある紐にすり傷をつけて、数時間と経たないうちに、ぷっつり切れてしまうように細工しておくことができます。万一、何かの拍子に誰か家の正面にいて、私どもが入ってくるのを見たとしましても、私どもはこの家の友人として知られていることを持ち出して、いかにも自然な申し開きができます」
「見知らぬ人は、除外していいと、おっしゃるんですか」
「私はそのつもりですよ。ヘイスティングス君、この事件の底には、迷いこんで来た狂人などおりません。私どもはもっと身近な人物に眼をつけなければなりません」
ポワロは、部屋を出て行ったので、私もそれに従った。二人とも口をきかなかった。われわれはそれぞれ考えごとをしていたせいであった。
ちょうど階段の上へ出たところで、二人とも不意に立ち止まってしまった。男が階段をのぼってくるところだった。
男も立ち止まった。彼の顔は陰になっていたが、完全に呆気に取られているようすであった。彼が最初に口をきいた。それは大きく、威嚇するような声であった。
「あなた方は、一体全体、そこで何をしていなさるんか、聞きたいもんだね!」
「ああ! あなたは、クロフトさんですね?」
「それは、わしの名だが!」
「客間へ行って、お話いたしましょうか? そのほうが、よろしいと思いますね」
相手は譲歩して、急にくるりと向きをかえておりて行った。われわれはすぐその後について行った。客間へ入ると、ポワロは戸を閉じて軽く頭をさげた。
「自己紹介いたしましょう。私はエルキュール・ポワロでございます」
相手の顔はいくぶん晴れた。
「ああ、探偵でいなさるね、わしはあんたのことを読んだですよ」
「セント・ルー週刊紙で?」
「ええ? わしはオーストラリアにおった時に、あんたのことを読んだですよ、フランス人でいなさるね?」
「ベルギー人です。そんなことはどうでもよろしいですね。こちらは私の友人のヘイスティングス大尉」
「お近づきになれて嬉しいです。だが、一体どんな馬鹿げたことを、もくろんでいなさるんです。何か不都合なことでも?」
「それは君がなにを不都合とよぶか、それによりけりですね」
オーストラリア人はうなずいた。彼は老年に達し、頭は禿げているにもかかわらず、好男子であった。彼の体格は素晴らしいものであった。どっちかというと、下のあごの突き出た荒けずりの顔であった。最も注意をひくのは、刺すような眼の青さであった。
「実はね、わしはお嬢さんのところへ、トマトと胡瓜をちょっとばかり持って来たです。お嬢さんのところのあの男はだめなんでね……骨の髄まで怠け者で、何も作らんのですよ。ものぐさ太郎でね。わしらは腹が立ってね。それでご近所づきあいというようなことでもしようという気になってさ、わしらは、自分らで食べきれんほど、トマトを作ったんでね。近所同士は、よくせにゃならんことは、あんたもお分かりだろう? で、わしはいつものように、テラスから入ってきて、かごを置いて出て行こうとすると、二階に足音がして男の声が聞こえたんで、こりゃおかしいと思ったんですよ。この辺では泥棒なんてお目にかかったことはないですが、いないとも限らんですからね。それでまあ、確かめようと思ったわけで。そこへあんたら二人が、階段をおりてきなすったんで、わしは、たまげたですよ。で、今きけば、あんたは、有名な探偵さんだという。これは一体、どうしたことでござんすね」
「至って簡単なお話です。お嬢様は先夜、たいそうお驚きになるような目にお遭いになりました。額がベッドの上へ墜落しました。お嬢様がお話になったでしょう」
「話されたですよ、危ないとこでしたよ」
「それで二度とそんなことが起こらないように、特別製のくさりを持ってきてさしあげるお約束をいたしましたのです。お嬢様は今朝はお出かけになるけれども、私に寸法を測りに来るようにと、仰せになりましたのです。この通り話は簡単です」といって、ポワロは、子供っぽく手をひろげて見せて、いかにも愛想よく微笑した。クロフトは深く息をすいこんだ。
「それだけのことだったんですかい」
「さよう、だから君は何も心配することはありません。私どもは法律に忠実な人間です」
「昨日お見かけしたんじゃなかったですかね? 昨日の夕方、あんたらは、わしんとこのわきを通りなすった」とクロフトは、ゆっくりといった。
「ああ、そう、君は庭いじりをしていて、私どもが通るとよいお天気さんでと、ていねいに挨拶してくだすった」
「その通り、さてさて、それであんたは、さんざん噂にきいておった、エルキュール・ポワロさんでおいでなさるか! ポワロさん、あんたは今お多忙ですかい? なぜかと申すとね、もし暇があんなすったら、わしんとこへ寄って、オーストラリア風に朝の茶を一杯、飲んでおもらい申したいんでね。そして家の婆さんに会ってやっておくんなさらんか。婆さんは、新聞であんたのことを、みんな読んでおるんですよ」
「クロフトさん、それはご親切に……私どもは何もすることはありませんですから、喜んでおうけいたしますよ」
「そりゃ結構」
「ヘイスティングス君、君は正確に寸法を取ったろうね」ポワロは振り返ってたずねた。
私は間違いなく、ちゃんと寸法を取った旨を答え、われわれは新しい友人に伴われて行った。クロフトは饒舌家であった。われわれはすぐ、それに気がついた。彼はメルボルンの近くにあった自分の家庭のこと、若いころの奮闘努力、妻との会い初め、二人の協力、そして遂に幸運と成功をかち得たことなどを話してきかせた。
「そこですぐさま、わしらは旅行することにきめたですよ、さて、旅行をして、わしらは世界のこの部分へやってきて、家内の身寄りの者たちを訪ねてみようってわけだったんでござんす。家内の実家は、この地方の出でござんす。ところがさっぱり行方が知れんので、わしらは大陸へ渡って、パリ、ローマ、イタリアの湖だのフィレンツェなんかを廻ったです。わしらが列車事故に遭ったのは、イタリア旅行の時でござんした。可哀そうに家内はえらい怪我をしたんでござんすよ、酷《ひど》いこってさあ、わしは方々の一流の医者へ連れて行ったんですが、どこへ行っても同じことをいわれたですよ、時機を待つよりほか、何ともならんとね。時を待って、寝ているよりほかはないとね。背骨をやられたんでござんすよ」
「何たる不運ぞ!」
「酷い目に遭ったですよ、それで家内のただ一つの望みっていうのが、この土地へ来ることだったんでござんす。自分たちの家というものが、どんな小さくてもいいから、持てたら、よっぽど気分が変るだろうってことでね。わしらは、汚ならしい小屋をあちこち見てまわっておるうちに、運よくここを見つけたですよ。小ざっぱりして、静かで、人里はなれていて、自動車も通らねば、隣家から蓄音機が聞こえてくるではない、わしは、見たとたんに、借りてしまったですよ」と語り終わった時、われわれは小屋に着いた。彼は「クーイー」と大きく声を響かせると、それに応じて「クーイー」と答えてきた。
「お入りなすって」とクロフトはいった。
彼は開け放った戸口を入ると、短い階段をのぼって気持のいい寝室へ、われわれを招じた。そこのソファに、銀髪の美しい肥った中年の婦人が、優しい微笑を浮かべていた。
「おっかさんや、このお方は一体、どなたさんだと思うね? 特別つぶよりの、世にも高名な探偵、エルキュール・ポワロさんだよ。お前さん話をしたかろうと思って、おつれ申したんだよ」
「これはまた、何ともいえない、すばらしいことで」と叫んで、クロフト夫人は、心をこめて、ポワロと握手した。
「私、青列車事件のことを新聞で読みましたんですよ。あなたがちょうど乗り合わせておいでなすったそうで、そのほか、あなたのいろんな事件を読みましたんですよ。背骨がこんなことになりましてから、私は、ありとあらゆる探偵小説を読んでしまったんですよ。探偵小説を読むくらい、時間が早くたってしまうものは、ないんですよ。もし、あなた、イーディスにお茶を持ってくるように、声をかけてくださいよ」
「はいよ、おっかさん」
「イーディスは看護婦のような人なんですよ、毎朝、私の身のまわりの世話をしに、来てくれるんです。私たち奉公人なんて、置いていません。うちの人は、料理だって、女中の仕事だって、どこにもいないほどよくやりますし、それと庭の手入れとで、結構いい暇つぶしになっているんですよ」
「それ、お茶を持ってきたよ。おっかさんや、これゃ、われらの生涯の最上の日だね」
クロフト氏は、茶盆をささげて、現われた。
「ポワロさんは、こちらにご滞在なんですか」
クロフト夫人は、ちょっと前へかがんで、ポットを扱いながらたずねた。
「はい、奥様、私は休暇をとっているのでございます」
「そういえば、あなたはもう引退しなすって、結構な休暇を過ごしておいでなんだそうですね」
「奥様、新聞に書いてあることを、全部はお信じにならないでくださいまし」
「それはそうですとも、ではあなたは、まだお仕事をしておいでなさるんですね」
「自分に興味のある事件が見つかりました時には」
「あなたは、この土地へ仕事で来ていなさるんじゃござんせんでしょうね。休暇と称して、それは計略の一つだなんていうんじゃあ……」とクロフト氏が、抜け目なくいうと、クロフト夫人がたしなめた。
「あなた、ポワロさんを困らせるような質問をなさるもんじゃないですよ。そんなことすると、もう来てくれませんよ。ポワロさん、私たちは取るに足りない人間なんで、あなたとお友達が、今日ここへ来て下すったことが、どんなに私たちを喜ばしているか知れないんですよ。私たちがどんなにうれしがっているか、想像もつきなさらんでしょうよ」
彼女の感謝が、あまりに自然で正直なので、私はすっかり好意を持ってしまった。
「あの額の件は、全く厄介なことでしたね」と、クロフト氏はいった。
「お気の毒に、あの若いお嬢さんが、すんでのこと殺されなさるところだったんですよ。あのお嬢さんは、精力家でいなさいますよ。ここへ来ていなさると、お屋敷が活気づくんですよ、付近の人たちはあまり好いていないというんですがね。でもイギリスじゃあ、どこへ行ったって、そうなんですよ。若い娘さんたちが陽気で、いきいきしているのを好かないんですよ。あのお嬢さんがあまりこの土地へ来たがりなさらんのも、無理ありませんよ。お嬢さんのあの鼻の長い従兄さんだって、お嬢さんをこのお屋敷に落ちつかせるように説得はできませんよ」とクロフト夫人が感情をこめていった。
「ミリー、噂話《ゴシップ》はおやめ」と夫はたしなめた。
「なるほど、その方面に噂があるのでございますね。奥様の直観を信頼することですね! するとチャールズ・ヴァイス氏は、お嬢様を恋しておいでなのですか」
「お嬢さんに関する限り、あの人はばかですよ、あのお嬢さんが田舎弁護士となんか、結婚しなさるもんですか。私はお嬢さんを責めませんよ。とにかく、あの弁護士は可哀そうな間抜けですよ。私はお嬢さんがあの海軍さん……何ていいましたっけ……そうチャレンジャー中佐と結婚しなさるといいと思っているんですよ。当世風の結婚だって、もっと悪いのがいくらもありますよ。あの海軍さんは、お嬢さんには年上すぎるったって、そんなことなんでもないじゃありませんか。しっかりした人がついているということがお嬢さんに必要なんですよ。そこいら中を、欧州大陸まで一人で飛び歩いたり、でなければ、あの奇妙なフレデリカ夫人といっしょだったりして。あのお嬢さんは、可愛い人なんですよ。私よく知っているんです。でも私はお嬢さんのことを心配しているんですよ。近ごろ、何だか面白くなさそうなんです。何かに憑《つ》かれたような顔つきをしていなさるんで、私は気を揉んでいるんですよ。私がお嬢さんに興味を持っているのには、ちゃんとした理由があるんですよ。ねえ、あなた」
クロフト氏は、突然に椅子から立ち上った。
「ミリー、そこまで喋ることはないよ。ポワロさん、オーストラリアのスナップ写真をご覧になりたくないですかね」と彼はいった。
それから後のわれわれの訪問は、何事もなく過ぎた。十分後に、われわれは暇を告げた。
「いい人たちですね、素朴で気取らないで。典型的なオーストラリア人だ」
「君は、あの人たちを好きですか」
「あなたは好かないんですか」
「あの人たちは大そう快活で、親しみ深いですね」
「それでどうだというんですか、何か問題なんですか?」
「あの人たちは、典型的な色が濃すぎるきらいがありますね。あの『クーイー』の呼び声だの、スナップ写真を私どもに無理に見せようとしたことなど、あまりに演技が周到すぎませんでしたか」
「あなたは、何という疑り深い老悪魔なんでしょうね?」
「君のいう通りですね。私は、誰でも、何でも疑ってかかるのです。私は気遣っているんですがね……ヘイスティングス君、気遣っているんですよ」
ヴァイス氏の印象
ポワロは欧州大陸式の朝食を固持している。私が英国流にベーコンと卵を食べているのを見ると、落ちつかない気持に悩まされると、いつもいっている。そんな訳で彼はベッドの上でコーヒーとロールパンで朝食をし、私は気ままに食堂で伝統的英国流に、ベーコンと卵とマーマレードの朝食をもって、一日の第一歩を踏み出すのであった。
私は月曜日の朝、食堂へおりて行く途中、ポワロの部屋をのぞいた。彼は実に奇妙なガウンを着て、ベッドの上に坐っていた。
「お早う、ヘイスティングス君、私は呼鈴を鳴らそうと思っていたところです。私の書いたこの手紙ですがね、これをエンドハウスに届けさせて、お嬢様にすぐ渡すように手配してくれませんか」
私はそれを受取るために、手を出した。ポワロは私を見て、ため息をついた。
「ヘイスティングス君、たのむから髪をそんなに横からでなく、真ん中から分けてくれたまえ! そうすれば君のようすがどんなに釣合がとれていいか知れない。それから君のその髭だ。もし髭を生《はや》すんだったら、ほんとうの髭にしたまえ……私のようなこういう美しいのに……」
私は考えただけでも、ぞっとしたが、それを押しかくして、ポワロの手から手紙を受取ると、部屋を出た。
私は、ニック嬢が訪ねて来たとフロントから知らせてきた時、われわれの居間でポワロと一緒になった。ポワロは彼女を通すように命じた。
彼女は相変わらず陽気に入ってきたが、私は彼女の眼の下がいつもよりも黒くなっているように思った。彼女は電報を手に持っていていて、それをポワロに渡した。
「ほら、あなたが喜んでくれるわ!」
ポワロは声を出して、読んだ。
「キョウ 五ジ ハン ツク マギー」
「わが看護婦にして守護者! でも、あなたは間違ってるわ。マギーはその方のあたまがないんだもの。何か仕事をするんだったら、申し分なしなの、それにあの人には冗談が通じないのよ。かくれている刺客を見つけ出すんだったら、フレデリカのほうが十倍も役に立つ。そしてラザラスだったら、もっといいわね。あたしね、誰もラザラスの心を知ることはできない気がするのよ」とニック嬢はいった。
「それから、チャレンジャー中佐は?」
「おお! あの人は何でも鼻の先にくるまで見えないの。その代わり見つけたが最後、のがさないわ。ポーカーで持ち札を全部見せる段になると、とても役に立つでしょうよ。あの人は」
彼女は、帽子を投げ出して、言葉を続けた。
「あたし、あなたが書いてよこした通りに、その男を家へ入れるように、いいつけてきたわ。何だか怪奇的。録音機か何か、据えつけるの?」
ポワロは首を振った。
「いいえ、さような科学的なことではございません。ごく単純なちょっとした所信の問題でございます。私はあることを知りたいのでございますよ。お嬢様」
「ああ、そうなの。それはとても面白い、そうじゃなくて?」
「そうでございますか? お嬢様」とポワロは、おだやかにたずねた。
彼女はちょっとの間、われわれに背を向けて、窓の外を見ていた。それから、振り返った彼女の顔からは、大胆な挑戦的なところが、すっかり消えてしまっていた。一生懸命に、涙をくい止めようともがいている顔は、子供みたいにくしゃくしゃにゆがんでいた。
「いいえ、ほんとうは面白がってなんかいないの。あたし怖いのよ、怖いのよ、凄く怖いの。あたし、いつも自分は大胆だと思っていたのに」
「はい、大胆でいらっしゃいますとも。ヘイスティングス君も、私も、お嬢様が大胆でいらっしゃるのに感心しているのでございますよ」
「そうですとも!」と私も熱心にいった。
ニック嬢は首を振りながら、いった。
「いいえ、あたし大胆でなんかない。この待っている気持! 何かが起こるのではないかと、しょっちゅう、気を使っている、どんなことになるかしら! 何かが起こるのを予期している、この気持!」
「さよう、さよう! それは過労でございますね」
「昨夜は、あたしベッドを部屋の真ん中へ引っぱりだして、窓にも入り口にも、かんぬきをかけておいた。そして今朝ここへ来る時も、遠廻りしてきたの。あたし、どうしても庭を通ってくる気になれなかったわ。まるで急にあたしの勇気が全部なくなってしまったみたい。これがほかの何よりも一番、あたしを参らせてしまったのよ」
「お嬢様、ほかの何よりとおっしゃるのは、どういう意味でございますか」
彼女がそれに答えるまでには、ちょっと間があった。
「あたし、何って特別にいったわけじゃないの。たぶん、新聞によく書いてある『現代生活の過労』っていう、あれじゃないかしら。カクテルの飲みすぎ、煙草の喫《の》みすぎ、そのほか、そんなようなこと。あたしがとても変てこな状態になっていることなの」
ニック嬢は椅子に身を埋めて、じっと坐っていた。彼女の小さな指は神経質に、自然と曲がったり、のびたりしていた。
「お嬢様は、私に対して正直でいらっしゃらない、何か隠しておいでになります」
「何もないわ……ほんとに何も隠してなんかない」
「何か、お話にならないことがございます」
「あたし何もかも話したわ、つまらないことまで」
彼女は真実をこめて、熱心にいった。
「例の事故について……お嬢様が襲われたことについては、すっかりお話しになりました」
「じゃあ、何を?」
「しかしお嬢様は、ご自分の心の中にあることや、あなたの生涯にあったことについては、何もお話しになりません」
彼女は、ゆっくりと、いった。
「そんなことできるかしら」
「ああ、お嬢様は、ほとんど肯定なさいましたね」
ポワロは。勝ち誇っていった。
彼女は、首を振った。ポワロは鋭く、彼女の顔を見つめた。
「たぶん、それは、あなたの秘密でございましょうね」とポワロは抜け目なく暗示を与えた。
私は、彼女のまぶたが一瞬、ゆれるのを見たように思った。しかしほとんどすぐに、彼女は、立ち上がった。
「ほんとうに、あたし、このばかげた事件に関することは何もかも話しました。ポワロさん、もしあたしが、誰か他の人について、何かを知っているとか、誰かを疑っているなんて思ったら、大ちがい。誰も疑うような相手のないことが、私を気狂いにしそうなの、なぜなら、あたしは馬鹿でないから。もし今までの事故が、事故でなかったら、誰かごくあたしの近くにいる、あたしをよく知っている人が、工作したにちがいないわ。そう思うと恐ろしくなる。なぜかっていうと、あたしには、てんで見当がつかないからだわ。その誰かが、誰だか」
ニック嬢はもう一度、窓のところへ行って、外を見ていた。ポワロは、私に何もいうな、と合図した。ポワロは彼女が、自制を失って、何か新事実を口走るのを待ち望んでいるらしかった。
彼女が話し出した時には、今までとは打って変わって、夢見るような、遠くから聞こえてくるような声であった。
「いいこと、あたしね、もう前から、とても奇妙な望みを持っていたの。あたし、エンドハウスを愛しているの。あたし、いつも、あそこで、劇を演出してみたいと思っていたのよ。あの家には、劇的な雰囲気があるの。あたしは自分の心の中で、いろいろな劇を上演して見ていたの。で、今こうしていても、一つの劇があそこで演じられているような気がする。ただ、それはあたしが演出しているんじゃなくて……あたしがその劇の中にいる。あたしがその中にいるのは確かだわ、あたしきっと第一幕目で死ぬ人物なの」
彼女の声は、そこで、とぎれてしまった。
「まあ、まあ、お嬢様、そんなことはございません。それはヒステリーでございます」
ポワロの声は、断乎として小気味よく快活であった。
ニック嬢はくるりと向き直って、鋭くポワロを見つめて、たずねた。
「フレデリカが、あたしのことをヒステリーだって、あなたに話したの? 時々あの人、あたしのことをそういうの、いいこと、あの人は、時々、どうかしてしまうことがあるのよ、まるで変ってしまうの」
しばらく沈黙が続いた後、ポワロは全く見当ちがいの質問を出した。
「お嬢様に伺いますが、これまでにエンドハウスに対して申し出をお受けになったことがおありでしょうか?」
「売るって意味?」
「そうでございます」
「いいえ」
「もし、いい値をつけられたら、お売りになることをお考えになりますか?」
ニック嬢は、ちょっと考えた。
「いいえ、そんなことはしないわ。あたしのいうのは、その申し出を受けなければ馬鹿なほど、途方もない、いい値でなくてはという意味」
「なるほど」
「あたし売りたくないの、だってあたし、あの家、好きなんだから」
「そうでございましょうとも、よくわかります」
ニック嬢は、ゆっくりと戸口の方へ進んで行った。
「それはそうと、今晩、花火があるの。いらっしゃる? 食事は八時、花火がはじまるのは九時三十分。港を見晴らすうちの庭から、よく見えるの」
「喜んで伺いますとも」
「お二人でね」
「どうもありがとう」と私はいった。
「沈んだ気持を、ひき立てるのには、パーティに限るわ」といって、ニック嬢はちょっと笑って、出て行った。
「可哀そうな子供!」とポワロはいった。彼は手をのばして帽子を取ると、眼に見えないほどの、ほこりを払った。
「僕ら、出かけるんですか」と私はいった。
「さよう、法律上の事務を処理しなければなりませんのでね」
「そうでしたね、よくわかりました」
「ヘイスティングス君の、すばらしき知性をもってすれば、うまくいかないはずはありませんです」
ヴァイス法律事務所は、町の本通りにあった。
われわれは二階への階段をのぼって行って、三人の事務員が、忙しげに書きものをしている部屋へ入って行った。ポワロは、チャールズ・ヴァイス氏に会いたいといった。
事務員が、電話をすると、いいという答えを得たらしく、ヴァイス氏はすぐにお目にかかりますといって、われわれを廊下の向う側へ連れて行って、戸を叩いてわきへ寄り、われわれを中へ入らせた。
法律上の書類を積みあげた大机の背後から、ヴァイス氏が立ち上がって、われわれを迎えた。
彼は無表情な青白い顔をした、背の高い青年であった。こめかみの上が、やや禿げあがっていて、眼鏡をかけていた。肌色は白く、ぱっとしない。
ポワロは、この会見を不自然でなくする材料を用意していた。幸いにして、彼はまだ署名してしない、ある契約書を所持していたので、その中にある項目について、ヴァイス弁護士の専門的な忠告を求めたのであった。
ヴァイス氏は、正確な注意深い言葉で、ポワロの口実にした疑問に答え、語句の不明瞭なところを、はっきりさせた。
「たいへんありがとうございました。ご承知のように、外国人には、こうした法律上のことや、用語などが、非常にむずかしいので……」とポワロはつぶやいた。
その時になって、ヴァイス氏は、誰に紹介されてきたのか、たずねた。
「ニック嬢です。たしかあなたのお従妹さんでいらっしゃいましたね。まことにチャーミングな若い女性でいらっしゃる。私が何かの拍子に、わからない問題があって困っていることを申しましたら、こちらへ伺うように、おっしゃって下さいましたのです。私は土曜日の朝、お目にかかろうとしましたが……十二時半ごろ……あなたは外出中でしたね」
「そうです、覚えています。土曜日には、早く出かけました」
「あなたのお従妹様は、あの大きなお宅で、さぞお寂しいことでしょうね。たったお一人で、あそこに住んでおいでのようですね」
「おっしゃる通りです」
「ヴァイスさん、あのお屋敷が売りに出ておりますかどうか、伺ってもさしつかえないでしょうか」
「さしつかえありませんとも」
「よろしいですか、私は漫然とこういうことをおたずねする訳ではございません、ちゃんと理由があるのでございます。私はちょうどああしたものを探しているところなのです。セント・ルーの気候が、私には快適なのです。あの家は大修理を施さなければならないのは確かですし、それにかけるだけの費用がないことも想像がついております。こうした事情のもとでは、お嬢様が、私のつける買い値を考慮なさるのは、可能ではございますまいか」
「そんなことはありそうもないです。従妹は、あそこに対して、絶対に忠実なのです。どんなことをしても、売るようにすすめることはできないでしょう。ご承知のように、先祖伝来の家屋敷ですからね」
チャールズ・ヴァイス氏は、非常な決意をもって、頭を振った。
「それはよくわかります。しかし……」
「絶対にそれは問題になりません。私は従妹をよく知っております。彼女はあの家に対して、狂信的な愛情を持っているのです」
数分後に、われわれは再び往来を歩いていた。
「さて、ヘイスティングス君、チャールズ・ヴァイスなる人物は、君にどういう印象を与えましたかね」とポワロはいった。
私は、しばらく考えた上で、答えた。
「非常に消極的な人物ですね。妙に引っこみ思案な人ですね」
「あまり強い個性を持っていないと、君はいうのですか」
「そうですよ、もう一度会っても、思い出せない種類の人物です。良くも悪くもない人間ですね」
「あの人の外見は、確かに目立ちませんね。しかしあの人の会話の中に、何か外見とそぐわない言葉遣いがあったのに、気がつきませんでしたか」
「そうですね、僕も気がつきました。エンドハウスを売ることに関して」と私は、ゆっくりといった。
「正にその通り! 君はニック嬢のエンドハウスに対する態度を、狂信的な愛情などという言葉で表現しますか?」
「あれは、強すぎる表現ですね」
「そうです。ああいう激しい言葉は、ヴァイス氏の人柄に似つかわしくありません。あの人の普段の態度は、法律家らしい態度です。もったいぶり過ぎるというよりも、むしろもったいぶらな過ぎるくらいです。それなのにあの人は、ニック嬢が祖先の家に対して、狂信的な愛情を持っている、なんて申しました」
「ニック嬢は、今朝、そんな印象は与えませんでしたね。僕は彼女がごく自然ないい方をしていたと思いました。彼女は明らかにあそこを好いています。それはああした立場で、誰でもが抱く感情で、決してそれ以上のものではなかったです」
「そこで、あの二人のうちの、どちらかが、嘘をついていたということに、なりますね」ポワロは、考え深くいった。
「誰も、ヴァイス氏が嘘をつくとは思わないでしょう」
「もし嘘をついているとすれば、大した才能ということになる。さよう、ヴァイス氏はたしかにジョージ・ワシントンのように正直でした。ヘイスティングス君は、もう一つのことに気がつきましたか?」
「それは何ですか?」
「ヴァイス氏は、十二時半には、事務所にはいなかったということです」
射ち込まれた弾丸は三発
真紅の支那ショール
その晩、エンドハウスに着いて、一番先に会ったのは、ニック嬢であった。彼女は龍を刺繍したすばらしいキモノをひっかけて、踊りまわっていた。
「あら、あなたたちだったの! おもしろくないわ!」
「お嬢様、その言葉を聞いて、ポワロは悲しゅうございます」
「わかっていてよ、失礼ないいかた。ごめんんなさい。でもあたしは、ドレスが届くのを、今か今かと待っていたの! 約束したのに! ひどいわ、ちゃんと約束したのに!」
「ああ、おめかしの問題でございますね、今晩ダンス・パーティもございましったけ?」
「そう、あたしたちみんな、花火のあとで行くの。たぶん、そうなると思うわ」
彼女は急に声を落したが、次の瞬間には声をあげて笑っていた。
「決して譲歩するな! これがあたしの標語。苦労のことを考えなければ、苦労は来ず! あたし今晩は、すっかり元気を取りもどしたの、あたし今晩は、陽気になって、大いに楽しむ!」
階段に足音が聞こえてきた。ニック嬢は振り返って、
「そら、マギーがきた! マギー、あたしをかくれたる暗殺者から守ってくれる探偵さんが二人きたの、客間へ連れて行って、その話きかしてもらいなさいよ」
われわれは、かわるがわるマギー・バックリー嬢と握手をし、いわれたように、彼女はわれわれを客間へ導いた。私はすぐに、彼女に対して好感を抱いた。
私をそんなにひきつけたのは、彼女の物静かなようすと、すぐれた感覚だったと思う。たしかにスマートとはいえないが、古風な感覚からいうと、落ちついた美しい娘であった。顔には化粧などしないで、どっちかというと、粗末な黒いイブニング・ドレスを着ていた。彼女は正直な青い眼と快い静かな声を持っていた。
「ニックは、ほんとうに、びっくりするようなことを話してくれましたけれども、大げさにいっているのではございませんでしょうか? ニックを傷つけようなんていう人が、あるはずございませんわ、世の中にニックの敵なんかありようがございませんもの」
その声には、信じきれない感情がはっきり表われていた。彼女は何だか、へつらわないという風なようすで、ポワロを見守っていた。マギーのような娘にとっては、外国人は常に疑わしき人物なのだということを、私は悟った。
「けれども、それはほんとうのことなのでございますよ、お嬢様」とポワロはおだやかにいった。
彼女は答えなかったが、その顔には、不信の色が残っていた。
「ニックは今晩、まるで頓死でもする人みたいに妙にはしゃいで、どうしたっていうんでしょう。ひどく興奮しているようですのよ」
頓死する人のよう、という言葉に、私は身ぶるいした。そして彼女の声の調子に何か違ったところがあるのに気がついて、
「あなたは、スコットランド人でいらっしゃいますか」と私は、唐突にたずねた。
「母が、スコットランド生まれですの」
彼女は私をじっと見つめた。ポワロを見たときよりも、好意ある眼を向けているのを私は感じた。そこで、この件については、ポワロが説明するよりも、私が話すほうがずっと重く見られると感じた。
「あなたのお従妹さんは、非常な勇気をお示しになりました。平常と少しも変らずに行動する決心をされたのです」と私はいった。
「それが唯一の道ではないでしょうか? 私の申しますのは、内心どんなに感じていても、それを表面に出して騒いだところで、何にもならないということですの。そんなことをしても、他の人たちを不愉快にするだけのことでございますもの」といって、ちょっと間をおいてから、マギーは、やさしい声でつけ加えた。
「私はとてもニックを愛していますの。ニックはこれまでもずっと、いつも親切にしてくれました」
その時、フレデリカ夫人がぶらぶらそこへ入ってきたので、われわれはそれ以上、その話題を進めることはできなかった。フレデリカ夫人は聖母マリアの画像のような青衣をまとい、今にも消えていきそうにもろく、空気のように軽く見えた。そのすぐ後からラザラスが続き、それからニック嬢が踊りながら入ってきた。彼女は黒いドレスを着て、その上に鮮やかな真紅のすばらしい支那ショールをかけていた。
「ハロー、みんな、カクテル飲む?」とニック嬢はきいた。
一同、カクテルを飲んだ。ラザラスは酒杯を持った手をあげて、
「ニック、すてきなショールだね、それは時代物だろう」
「そうよ、何代も何代も前のチモシー大伯父さまが、世界漫遊した時に持ってきたの」
「美そのものだね、どんなことしても、それに匹敵するものは、見つかりっこないよ」
「温いのよ、花火を見物する時にぴったりなの。それに華やかね。あたし黒は、大嫌い」
「そうね、あなたが黒いドレス着たの、今まで見た覚えがないわ。ニック、どうしてそんなドレスにしたの」とフレデリカ夫人がいった。
「さあ、あたしわからないわ。でも、ひとがなに着たっていいじゃないの!」ニック嬢は、不機嫌な身ぶりで荒々しくわきへ跳びのいた。だが私は彼女が、あたかも苦痛を忍んでいるかのように、変に唇をゆがめるのを見た。
われわれは晩餐の食卓についた。臨時雇いらしい妙な男が給仕に現われた。食べ物はうまくなかったが、シャンパンは上等だった。
「チャレンジャーは、まだ来ないわ。ゆうべプリマスへ帰らなければならないなんて、厄介なことがあったの。でも今晩のうちには、来るはず。ダンスにはきっと間に合うと思うわ。あたし、マギーの相手を見つけておいたわ。面白味のない人かもしれないけど、押し出しのいい人よ」と、ニック嬢がいった。
かすかに騒がしい音響が、窓から流れこんできた。
「うるさいモーターボートだな! うんざりしてしまう!」とラザラスがいった。
「あれ、モーターボートじゃない。水上飛行機よ!」と、ニック嬢がいった。
「君が正しいらしいね」
「もち、あたしが正しい。音が全然ちがう」
「ニックは、いつ飛行機を手に入れるんだい」
「お金が手に入り次第」ニック嬢は笑った。
「そして君は、オーストラリアへ飛んで行くんだろう。あの女飛行家みたいに……何ていったっけね」
「あたし、やりたいわ……」
「私、あの人をとても崇拝してるの、何てすばらしい神経なんでしょう! ひとりきりで行くなんて」とフレデリカ夫人が、ものうげな声でいった。
「僕は飛行家たちを全部、尊敬する。もしマイケル・シートンが世界一周飛行に成功していたら、現代の英雄になった……当然そうなるべきだった。彼が悲しむべきことになったのは、残念|千万《せんばん》だ、彼は英国が失うわけにはいかない大切な人間だったのになあ」とラザラスがいった。
「まだ大丈夫かもしれない」とニック嬢がいった。
「もうだめだろうな。千に一くらいの望みしかないんだ。惜しい気狂いシートン」
「世間ではいつも、あの人を気狂いシートンといっていましたわね、そうじゃありません?」とフレデリカ夫人がいった。
「あの男は気狂いの血統の家から出ているんだ、彼の伯父で一週間ばかり前に死んだ、マシュー・シートン卿なんかは、全くの気狂いだった」と、ラザラスがいった。
「その人、鳥類保護場なんかを経営していた、気狂いの億万長者でしょう。そうじゃありませんでした?」とフレデリカ夫人。
「そうです。方々の島を買ったりしてね。あの人は大の女ぎらいだった。一度女の子にふられて以来、彼は自然科学に、打ちこんで心を慰めたらしい」とラザラスがいった。
「どうして、あなたは、マイケル・シートンが死んだっていうの? あたし、まだ望みをすてる理由がわからない」とニック嬢がいった。
「君は彼を知っていたんだっけね。僕はそれを忘れていた」
「フレディとあたし、去年ル・トゥーケであの人に会ったの、とても素敵な人だったわ……フレディそうじゃなかった?」と、ニック嬢がいった。
「そんなこと、私にきくことないでしょう。あの人の愛の獲得者は、私ではなく、あなただったんですもの。あの人、一度あなたを同乗させましたわね」
「そう、スカーバラで、とてもすばらしかった!」
「ヘイスティングス大尉は、飛行機にお乗りになったことおありになりまして?」マギー嬢が、ていねいにおざなりの調子で、私にたずねた。
私は、パリまで行って、帰ってきたのが、航空旅行の唯一の経験であることを、白状した。
突然に、ニック嬢が、
「電話をかけなきゃ、あたしのこと待たないで! おそくなるから。沢山ひとをよんであるの」と叫びながら、席を立った。
彼女は食堂を出て行った。私は腕時計を見た。ちょうど九時であった。デザートが出て、それからポートワインが出た。ポワロとラザラスは、美術を語っていた。ラザラスは絵画は捌《さば》け口の悪い商品になっていると、いっていた。更に二人は、家具と室内装飾の新しい意匠について論じあっていた。
私は一生懸命にマギー嬢の話し相手をつとめていたが、彼女はなかなか扱いにくかった。気持よく返事はするが、会話を受取るだけで、さっぱり返してよこさない。こういう人を相手にするのは実に骨が折れる。
フレデリカ夫人は黙りこんで食卓に両肘をつき、煙草の煙を美しい頭の辺に渦巻かせていた。
ニック嬢が、戸口に顔を出したのは、ちょうど九時二十分であった。
「みんな出てきて! お客様たちが、続々ご到着!」
われわれは従順に立ち上がった。ニック嬢は到着する人々を迎えて挨拶するのに忙しかった。約二十人ぐらいの人が招待されていた。ニック嬢の女主人ぶりは、なかなか立派であった。彼女はモダンさを、すっかり引っこめてしまって、人々をていねいな言葉で古風に歓迎していた。それらの客の中に、チャールズ・ヴァイス弁護士もいた。
やがて一同は庭へ出て、海と港を見晴らす場所へ集まった。そこには老人のために、数脚の椅子が出してあったが、われわれはおおかた立っていた。最初の打ちあげ花火が、天空を燃え上がらせた。
その瞬間に、きき覚えのある大きな声が背後に聞こえたので、振り返ると、ニック嬢が例のオーストラリア人のクロフト氏を迎えていた。
「残念ですね、奥さんもいらっしゃれるとよろしかったのに。担架か何かでここへお連れするように、はからえばよかったと思いますわ」と、ニック嬢はいった。
「何としても運の悪いことでござんす。だが家内は不平をいったことがござんせん。あれはまことに、めっぽう気のいい女でござんしてね! ああ! これはいい」クロフトは黄金の雨が、空に降り注ぐのを見あげていった。
月のない、真っ暗な晩であった。新月は三日後に出ることになっていた。それに、夏の夜の常として、寒くなってきた。私の隣にいたマギー嬢は、震えていた。
「私、いそいで行って、コートを取ってまいりますわ」
「僕が取ってきましょう」
「いいえ、あなたには、どこにあるか、おわかりになりませんわ」
彼女は家へ向って走って行った。その時、フレデリカ夫人が、呼びかけた。
「マギー、私のも取ってきて、私の部屋にあるの」
「聞こえやしないわよ、フレディ。あたし取ってきてあげる。あたしもこれじゃ薄くて……毛皮とってくる。この風じゃあ……」とニック嬢が走って行った。
海から吹きあげてくる風は確かに涼しすぎた。
防波堤で、仕かけ花火がはじまった。私は隣りに立っていた中年の婦人と話しをはじめた。彼女は私に、経歴、趣味、滞在期間などについて、手厳しく質問を浴びせかけた。
緑色の流星が打ちあげられた。それは、青くなり、赤くなり、それから銀色に変った。
「おお! だの、ああ! だのといって感嘆するのですが、しまいには単調になってしまいますね、ヘイスティングス君! これはたまらない! この草で私の足がしめっぽくなる。私はきっと風邪をひきますよ、その上、煎じ薬を手に入れるあてもなし……」と、ポワロが不意に私の耳元でいった。
「こんないい晩に、風邪をひくんですって?」
「良夜! 美しき夜! 君は雨がどしゃ降りでなければ、いい晩とおっしゃる! 寝床に雨がしみこんで来なければ、良い晩なのですね。しかし、君、晴雨計に相談するとなると、君にもわかるでしょう」
「僕だって、オーバーを着ることには不服はありませんよ」と、私はいった。
「君は大そう敏感ですね。やはり暑い気候の土地から来たせいです」
「あなたのオーバーを取ってきましょう」
ポワロは、猫のように、足を交互に、持ちあげた。
「私は足をしめらせるのを心配しているのです。ねえ、君、雨靴を手に入れることはできませんでしょうかね」
私は、微笑をおさえて、いった。
「望みなしですね、いいですか、ポワロさん。そんなことはできっこありませんよ」
「それでは、私は家の中に腰かけています。花火見物のために、風邪を引くことはないでしょうからね。その上、肺炎を起こすかも知れません?」
ポワロは、なおもぶつぶついいながら、われわれは家の方へ足をむけた。その時に、防波堤では、観光客歓迎という文字をかかげた、船の仕掛け花火がはじまったので、下の方で起こった賑やかな拍手がただよっていた。
「私どもはみんな、気持は子供ですね。花火だの、パーティだの、ボールを使うゲームだの、それから、どんなに注意していても見物の眼をごまかす奇術でさえも、夢中になって。そうではないですか?」とポワロは、考え深くいった。
私は不意に一方の手でポワロの腕をつかみ、一方の手をあげて指さした。
われわれは家から百ヤードばかり離れた地点にいた。そしてわれわれの真正面の、開け放ったガラス戸と、われわれとの中間に、真紅の支那ショールを着た人影が、うずくまっているのであった……。
「ああ、困った……これはいけない!」とポワロは、いった。
僕は君が死んだのかと思った
われわれが驚きのあまり、全身が凍ったようになって、その場に立ちすくんでいたのは、せいぜい四十秒ぐらいだったと思うが、一時間ほどにも感じられた。
やがてポワロは、私の手を払いのけて、前へ進んで行った。彼はまるで機械人形のように、ぎこちなく動いていた。
「あれだけ用心していたのに、こういうことになった。あんなにしたのに……私はみじめな罪人だ! どうしてもっと見張っていてあげなかったのだろう! こういうことが起こるのを、予知していたはずだのに! 一瞬間なりとも、私はお嬢様のそばを離れるべきではなかったのに……」とポワロは、つぶやいていた。その声にひそむ苦しみと悲しみは、私にはいい表わすことができない。
「ポワロさん、ご自分をそんなに責めることはありませんよ」と私はいった。
私の舌は、うわ顎にはりついてしまって、思うように発言ができなかった。
ポワロは、首を振ってそれに答えるだけであった。彼はもう死体かもしれない体のそばに膝をついた。
その時、われわれは二度びっくりしたのであった。なぜかというと、ニック嬢の陽気なすき通った声が響き渡ったからである。そして次の瞬間、ニック嬢が電灯をつけた部屋を背にして、四角い戸口に黒い輪郭を現わした。
「こんなに手間どってごめんね、マギー、だってねえ……」と、いいかけて、ニック嬢は眼前の光景に眼をみはって、黙ってしまった。
ポワロは鋭い叫びとともに、芝生の体をのぞきこんだ。私もそれを見に、そばへにじり寄った。
私は、マギー・バックリーの死顔を見おろした。
次の瞬間、ニック嬢が、われわれの傍へ来ていた。そして、
「マギー! おお! マギー……こんなことって……」と激しく叫んだ。
ポワロはなおもマギーの体を検《あらた》めていたが、やがて、非常にのろのろと立ち上がった。
「まさか……まさか……」ニック嬢の声は、とぎれてしまった。
「はい、お嬢様、もう亡くなっておいでになります」
「だけど、なぜなの? 一体、誰がマギーを殺したいなんて思うのよ!」
ポワロの答えは、速やかで、きっぱりしていた。
「犯人は、マギーさんを殺すつもりではなかったのでございます。お嬢様、あなたを狙ったのでございます。ショールのために、間違えたわけでございます」
ニック嬢は激しく泣いた。
「なぜ、あたしでなかったのかしら! どうしてあたしが殺されなかったのかしら! その方がよっぽどよかったのに、あたしもう生きていたくない……あたし、よろこんで……平気で……死ぬのに……」彼女は嘆き悲しんだ。
ニック嬢は荒々しく両腕をさしあげて、よろめいた。私はいそいで彼女に腕をまわして、支えた。
「ヘイスティングス君、お嬢様を家へお連れして、それから警察へ電話してくれたまえ!」と、ポワロはいった。
「警察へ?」
「そうです。誰かが狙撃されたと、いっておいてください。その後は、ずっとニック嬢のそばについているのです。どんなことがあっても、そばを離れないでください」
私は命令を納得した旨を、うなずいて、半ば失神しかけている令嬢を助けながらガラス戸から、客間へ入って行った。私は彼女をソファに横たえて、頭の下にクッションをあてがっておき、急いで電話をさがしに、廊下へ出た。
私は、危うくエレンと鉢合せしそうになっておどろいた。彼女はおだやかな品のいい顔に、奇妙な表情を浮かべて、ドアの外に立っていた。彼女の眼はきらきらして、何度も舌でかわいた唇をぬらしていた。手は興奮を示すように震えていた。彼女は私の顔を見るなり、話しかけた。
「何か……何事か起こりましたのでございますか」
「そう。電話はどこ?」私は、そっけなくいった。
「何か……間違い……間違いがあったのでしょうか」
「事故があったのです。怪我人ができたんで、早く電話をかけたいのです」
「どなたがお怪我をなすったのでございます?」
彼女の顔には、明白な熱心さが浮かんでいた。
「マギー嬢、マギー・バックリー嬢です!」
「マギーお嬢様でございますって? ほんとうでございますか……私の申し上げますのは、お怪我あそばしたのは、ほんとうにマギー様でいらっしゃいますかと申す意味でございます」
「確かですとも、なぜですか」
「あの……何でもございません。私はまた、ほかのご婦人かと思いましたので……もしかしたら、フレデリカ様かと」
「それより、電話はどこですか」
「こちらの小部屋にございます」といって、エレンは、電話室のドアをあけてくれた。私は、
「ありがとう」といったが、彼女がまだ、ぐずぐずしているので、
「ありがとう、もう用はないです」といいたした。
「もしグレアム先生をお呼びになるのでしたら……」
「いや、いや、もういいですから、どうぞあちらへ行ってください」
彼女は不承々々、できるだけゆっくりと立ち去った。彼女は必ずや、ドアの外で立ち聞きしているにちがいないと思ったが、どうにもしようがなかったし、どうせ、間もなくみんなに知れ渡ることだと思った。
私は警察を呼び出して、ポワロの指図通りにすると、自分の一存でエレンのいったグレアム医師に電話をかけた。番号は電話帳で見つけた。芝生に横たわっている気の毒なお嬢さんには、もう医師の力も及ばないとしても、ニック嬢は、医師の手当を受ける必要があると思った。
グレアム医師は即刻来てくれるといったので、私は受話器をかけて、再び廊下へ出た。
たとえ、エレンがドアの外で立ち聞きしていたとしても、すばやく姿を消したらしかった。私が出てきた時には、廊下には人影がなかった。客間へ引き返してみると、ニック嬢が起き上がろうとしてもがいていた。
「あのう……あのう……ブランディを持ってきていただけません?」
「もちろんですとも」
私は食堂へ急いで行って、求めるものを見つけて戻ってきた。五、六滴、飲んだだけでアルコールが彼女の顔色をよみがえらせた。私は彼女の頭にクッションをあてがい直した。
「おそろしいわ……何もかもが……」
「お察しします、僕にもよくわかります」
「いいえ、あんたになんかわからない! わかるもんですか! 何てことなんでしょう。もしも、あたしであったら、それですべてがおしまいになってしまったのに……」
「そんなに神経過敏になってはいけません」
「あんたは知らないのよ! あんたは知らないのよ!」とくり返して、ニック嬢は首をふるばかりであった。
そして、突然に彼女は泣き出した。子供のように、しずかに、慰めようもなく、すすり泣くのであった。私は、それが何より彼女の気をしずめるのにいいと思ったので、あえて涙をおさめさせようとはしなかった。
激しいむせび泣きが、ややしずまった時、私は部屋を横切って行って、戸口から庭をのぞいた。人々はみんな集まって、悲劇の場面に半円形を描き、ポワロは幻想的な歩哨のように、人々をそばへ近づけないようにしていた。
私が見守っているうちに、制服の男が二人、早足で芝生を横切ってきた。警官が到着したのである。
私はそっと自分の持ち場へ戻った。ニック嬢は涙にぬれた顔をあげた。
「可哀そうなマギー……可哀そうなあたしの大切なマギー、一度だって他人を傷つけたことのない、あんないい人だったのに……あの人がこんな目に遭うなんて……あの人をここへ呼んだりして……あたしが、あの人を殺したような気がする……」
わたしは悲しく、首を振った。誰しもどうして先を見越すことなんかできよう。ポワロだって、従妹を招くように、ニック嬢に無理にすすめた時に、それが未知の若い女性の死の宣告に署名していたのだとは、夢にも思わなかったであろう。
二人は無言で腰かけていた。私は庭でどんなことが行なわれているか、知りたくてたまらなかったが、ポワロの指図を忠実に守って、自分の持ち場を離れないでいた。
ドアが開いて、ポワロと警官とが部屋へ入ってくるまでに、一時間も経ったような気がした。その人たちと一緒に来たのは、あきらかにグレアム医師であった。彼はすぐに、ニック嬢のそばへ来た。
「お嬢さん、気分はいかがですか、これには、えらく、びっくりされたにちがいない」といって、医師はニック嬢の脈をみた。
「あまり、わるくはない」とつぶやいて、医師は私を振り返り、
「何か飲ませましたか?」とたずねた。
「ブランディを少々」
「あたし、大丈夫」ニック嬢は勇敢にいった。
「少々、質問に答えられますか」
「もちろん」
警部は、前おきの咳払いとともに、近づいた。
ニック嬢は、かすかな薄笑いを浮かべて、挨拶した。
「今日は、交通妨害のかどじゃないのね」
この二人は、初対面ではないらしいと、私は見てとった。
「お嬢さん、これは恐ろしいことですな、全くお気の毒に思いますよ。さて、ポワロさんが、この方の名声はよく聞いておりますし、こうして一緒に事件に当ってもらえることを光栄に思っておるのですが、お嬢さんがホテルの庭で狙撃されたと確信していると話されたので」
ニック嬢はうなずいた。
「あたし、蜂が飛んできたと思ったの、でもそうじゃなかったんです」
「それから、その以前にも、奇妙な事故に遭遇されたそうで」
「そう、みんな続けざまに起きたのが、とても変なの」といって、ニック嬢は、それぞれの情況を簡潔に語った。
「そうでしたか。では、お従妹さんが、今晩あなたのショールをかけていられたのは、どういうわけがあったのですか」
「あたしたち、上へ着るものを取りに家に入ってきたの、花火見物していたけれど、寒くなったから。あたしはこのソファの上に、自分のしていたショールを投げ出して、今着ているのを取りに二階へあがって行ったの、この軽い南米産|海狸《ビーバー》の毛皮を。それから、あたしはお友達のフレディの上衣も、あの人の部屋から取ってきたの、その窓のそばの床に落ちている、それ。するとマギーがコートが見つからないって大きな声でいったから、階下《した》でしょうって、いったの。それであの人は階段をおりて行ったけど、やはり見つからないと大声でいったの。あの人はイブニングの上に着るようなのは持っていなくて……自分のツイードのコートを捜していたのよ。だから、あたし、きっと車の中に置き忘れたのかも知れないから、何かあたしのを貸してあげるというと、あの人は、そんな面倒しなくても、あたしがショールを使わないなら、借りておくって。あたしはもちろん、かまわないけど、それじゃあ寒くないかしらって聞くと、ヨークシャーから来たから、そんなに寒くないって。ただちょっと上に羽織るものがほしいんだっていったから、それじゃあいいわ。あたしすぐ行くからといって、出てきてみると……」
彼女の声がとぎれてしまった。
「お嬢さん、そんなに悲しみなさるな。これだけ、聞かせてください。あなたはピストルの音を一発か二発、お聞きにならなかったか」
ニック嬢は首を振った。
「いいえ、花火が、ぽんぽんと鳴るのと、爆竹の破裂するのしか聞こえなかったわ」
「そうでしょうな、あの騒ぎの最中では、ピストルの音などに、気づくはずはない。こんな質問をしても無駄ですな。ではお嬢さんには、何者かがあなたの生命をつけ狙っているか、ちょっとした手がかりでもありなさらんですか」
「何も思い当たらないわ、てんで想像もつかないの」
「そうでしょうともな。こりゃ殺人狂の仕業にちがいない。厄介な事件だ。さて、今晩はもうこれで何も、おたずねすることはないです、実にはや、お気の毒なことで」と警部はいった。
グレアム医師が、前へ進み出ていった。
「お嬢さんは、この家においでにならないほうがよろしいですよ、ポワロさんとも相談したんですが、私は優秀な療養所を知っております。お嬢さんは、ひどいショックをお受けなのだから、完全な休養が必要です……」
ニック嬢は医師のほうを見ていなかった。彼女の眼はポワロに注がれていた。
「ショックを受けたから、療養所へ行くの?」と彼女はたずねた。
ポワロは進み出た。
「お嬢様、私はあなたに安全感を持たせてさし上げたいのでございます。私自身も、お嬢様が安全でいらっしゃると感じたいのでございます。そこには、妄想などに取りつかれない事務的ないい看護婦がおります。一晩中、お嬢様に付添っていて、お嬢様が眼を覚ましたとき、一声お呼びになれば、すぐおそばにいます、おわかりでございましょう」
「ええ、わかります。でもあなたには、わからないのよ。あたしもうちっとも怖くないの。あたし何があったって、平気。もし誰かがあたしを殺したいっていうなら、殺されてやる」
「お黙りなさい、お黙りなさい。あなたは興奮していらっしゃる!」と私はいった。
「あなたも、わからないのよ、誰にもわからないの」
「ポワロさんの計画は、全くよろしいと思いますね。私の車でおつれします。そして今晩よくお休みになれるように、何かさしあげましょう。さあ、これでまだ何かおっしゃることがありますかね」と医師は、なだめるようにいった。
「あたし構わないわ、あなたたちの好きなように! どうだっていいのよ」とニック嬢はいった。
ポワロは彼女の肩に手をかけて、
「お嬢様が、どんなお気持ちか、よくわかります。私はあなたの前に、こうして恥じ入り、打ちひしがれております。保護をしてさしあげるとお約束しながら、それを果たせなかったのでございます。私は失敗いたしました。しかしお嬢様、お信じください。私がこの失敗でどんなに苦痛を感じておりますか。私がどんなに苦しんでいるかを、お知りになったら、お嬢様はきっと、私をおゆるしくださいますでしょう」
「そんなこといいの、そんなにご自分を責めないで。あなたが最善をつくしたの、確かよ。誰だって、どうすることもできなかったわ。きっとあなた以上のことは誰にもできなかったの。どうぞ、そんなにみじめにならないで」
「お嬢様は、大そう寛大でいらっしゃる」
「いいえ、あたしは……」
そこへ邪魔が入った。ドアがさっと開いて、チャレンジャー中佐が、部屋へ飛び込んできたのである。
「これは一体どうしたんですか? 僕はいま着いたんです。すると門のところに警官が立っていて、誰かが死んだという噂を耳にしたんです。どうしたんです、どうか聞かせてください、たのむから話してください。ニックですか?」
彼の声に含まれている苦悩は、聞くのも辛いほどであった。私はそのときポワロと医師との陰に、ニック嬢が完全にかくされているのに気がついた。
誰も答えないうちに、中佐は質問をくり返した。
「話してください……そんなことあり得ない……ニックが死んだんじゃないでしょうね」
「いいえ、お嬢様は生きておいでです」とポワロは、おだやかにいった。そしてチャレンジャー中佐に、ソファの上のニック嬢が見えるように後ろへ退った。
一、 二秒間、彼は信じられないように、彼女を凝視した。そして酔っ払いのように、ちょっとよろめいて、
「ニック、ニック」とつぶやいた。
彼は突然ソファのわきに、ひざまずいて、両手の中に頭をかくして、ささやくような声で、叫んだ。
「ニック……愛するニック……僕は君が死んだのかと思った」
ニック嬢は、起き上がろうとした。
「大丈夫なの……ばかなまねしないで。あたしは、安全なのよ」
彼は頭を上げて、荒々しい動作で、周囲を見まわした。
「じゃあ、誰が死んだんですか? 警官がそういっていたが」
「そう……可哀そうに……マギーなの……ああ……」
発作が起こって彼女の顔をゆがめた。医師とポワロがそばへ寄った。グレアム医師は彼女を助け起こし、ポワロと二人で彼女を部屋から、連れ出した。
「一刻も早く寝床へ入られるほうがよろしいです。すぐに私の車でお送りします。フレデリカ夫人には、あなたの身の廻りの品を鞄に詰めておくように、お願いしておきました」
彼らは戸口から姿を消してしまった。チャレンジャー中佐は、私の腕をとらえた。
「僕には合点がいかない、あの人たちは、ニックをどこへ連れて行くんですか」
私は、説明をした。
「ああ、なるほど、ヘイスティングス君、頼むから僕に理解できるように話してくれたまえ! 何たるおそろしい悲劇なんだ! 可哀そうな娘!」
「来て一杯やりたまえ! 君は打ちのめされているんだ」と私はいった。
われわれは、食堂へ連れ立って行った。
中佐は強いウィスキーとソーダ水をわきへやって、説明した。
「わかるだろう? 僕は、ニックが殺されたとばかり思いこんでいたんだよ」
チャレンジャー中佐の気持は疑う余地がなかった。こんな率直な恋人は未だかつていなかったろう。
犯罪に自分の名を署名しました
それから後の、その夜のことを、私は決してわすれることはできないだろうと思う。ポワロが自責の念に苦しめられているようすは、実際に私を驚愕させた。彼は絶えまなく部屋を往ったり来たりして、自分自身に呪いの言葉を浴びせ、私の好意ある忠言に、耳をかそうともしないのであった。
「これは、自身に対してあまりに良い意見を抱きすぎたからのことです。その罰が当たったのです。さよう、私は罰せられたのです。私、即ち、このエルキュール・ポワロは、自信を持ち過ぎたのです」
「いいえ、そんなことないです」と私は言葉をはさんだ。
「こんな無頼なずぶとさがあろうとは、誰が想像しましょう? 私はあらゆる注意を払ったと思いこんでおりました。私は、殺人者に警告しました……」
「殺人者に警告?」
「君、私は自分自身に注意をあつめたのです。私は犯人に、私がある人間を疑っているということをわからせました。私はその人間が再び殺人を企てるのはあまりに危険すぎるということを悟らせた……と自分では考えていたのでした。私はニック嬢の周囲に、警戒線をめぐらしておきました。犯人はそれを突破したのです! 大胆にもわれわれの眼の前で、それをすり抜けたのです! われわれ一人一人が警戒怠りなかったにも拘わらず、彼は目的を果たしたのです」
「だが彼は目的を果たしませんでした」と私は、彼の注意を促した。
「それは、偶然にすぎません! 私の見解からすれば同じことです。ヘイスティングス君、人間の生命が取られたのです……誰の生命かということは根本の問題ではありません」
「もちろんですよ。僕はそういう意味でいったのではありません」
「しか、その反面において君のいったことは真実です。そしてそのことが事態を一層悪くするのです。十倍も悪くするのです。なぜかと申すと、殺人者は依然として、目的を達することは思い止まっておりません。君、おわかりでしょう? 事態は悪化しました。それは一つの生命でなく、二つの生命を犠牲にすることを意味しております」
「あなたがここにいらっしゃる以上は、そんな事は、ありません」
ポワロは立ち上がって、私の手を握りしめた。
「ありがとう! ありがとう! 君はまだこの老人に信をおいてくれるんですね、君はまだ信頼してくれる! 君は私に勇気をつけてくれた! エルキュール・ポワロは、二度と失敗はしませんぞ。第二の生命は取らせません、私は自分の誤りを修正します。いつも整然としている私の思想のどこかで、順序と方式に欠陥があったにちがいありません。私はもう一度、出直しましょう。さよう、私は最初から出発しましょう。そして今度は失敗しません」
「では、あなたは、ほんとうに、ニック嬢の生命が危険にさらされていると考えていらっしゃるんですか」
「君は私がほかにどういう理由があって、ニック嬢を療養所へ送ったというのですか」
「では彼女がショックを受けたからではなかったんですね」
「ショック! ばかな! ショックを受けたくらいなら、療養所へ行かなくても、自宅で回復しますよ。それだったら、自宅のほうがずっとよろしい。療養所はたのしいところではありません、緑色のリノリウムを敷いた床、看護婦たちの会話、盆に載せた食事、絶えない洗い物。どういたしまして、療養のためではありません。安全のためです。私は医師を仲間に入れたのです。彼は承諾してくれました。グレアム医師はすべての手配をしてくれます。いや、彼女の親友でも面会は許されません。君と私だけが会うことを許されるのです、この二人は例外ということなのです。『医師の命令』これは実に便利な文句で、誰もこれに逆らうことはできません」
「しかし……」
「しかし、どうだというのですか、ヘイスティングス君」
「永久にそうしておく訳にはいかないでしょう」
「それはたしかです。しかしこれは私どもに、ちょっと息をつく暇を与えます。それに、私どもの活動の性質が変化したことを、君も気づいたでしょう」
「どんな風にですか」
「私どもの最初の仕事は、ニック嬢の安全を保証することでした。私どもの今度の仕事は、もっと単純化されました。私どものよく馴れている仕事です。即ち殺人者の追跡に外なりません」
「あなたは、それをもっと単純だとおっしゃるんですか」
「たしかに簡単ですとも。殺人者は、先日も私が申したように、犯罪に自分の名前を署名しました。彼は表面に出て来たのです」
「あなたは……警察のいう通りだと考えていらっしゃるんですか? これは狂人……その辺をうろついている殺人狂の仕業だというのですか……」と私は、ためらいながらいった。
「これは、そういう事件でないことを、私は更に確信したのです」
「あなたの考えではほんとうに……」
私は言葉を切ってしまったが、ポワロはそれを引き取って、非常に重々しく語った。
「殺人者は、ニック嬢の仲間内の誰かだというのですか? そうです、私はそう考えております」
「けれども、今晩、たしかに、その可能性が除外されたのではないですか、われわれはみんな一緒にいたのですから……」
ポワロは、それを遮《さえぎ》った。
「そんなことをいっても、ヘイスティングス君、君は、崖ぎわに集まっていた、あの小さな一団の中で、誰か一人でも、あそこを一時《いっとき》も離れなかったと誓うことができますか。君がある人物を、ずっとあの場所から動かずにいるのを見たと誓えますか」
そういわれて、私は、
「いいえ、僕には誓えません。暗かったし、われわれはそれぞれ多少は動きまわっていたし、時折、フレデリカ夫人だの、ラザラス君だの、クロフト氏、ヴァイス弁護士などに気がつきましたが、ずっと絶えず、見張っていた訳ではありませんでした」
ポワロは、うなずいた。
「その通りです。あれを実行するには五、六分あればよかったのです。二人のお嬢様は一緒に家へ入って行きました。犯人はそっと仲間からはずれて、あの芝生の中央にある、鈴懸《すずかけ》の木の陰にかくれている。そこへニック嬢……犯人はそう思った……が客間のガラス戸から出てきて彼の一フートばかり先を通った時に、続けざまに三発の弾丸を撃ち込んだ……」
「三発?」と私は言葉をはさんだ。
「そうです。この度は、犯人は確実にやらなければなりませんでした。私どもは三発の弾丸を死体に発見しました」
「だが、それは危険を伴うことでしたね」
「一発よりも、失敗の度が少なかったでしょう。モーゼル銃はあまり大きな音がしません。それに花火が炸裂する音ににていますし、花火の音に工合よくまざってしまいます」
「あなたはピストルを発見しましたか」
「いや。それに、その点こそ、この事件には、よそ者は関係がないという証拠になると思う。君も知っているでしょう、第一に犯人はニック嬢のピストルを持ち出しております。これは彼女の死を自殺と見せかけるためだったと私どもの意見は一致いたしましたっけね」
「そうです」
「それが唯一のあり得べき理由だったのでした。ところがこの場合、自殺と見せかけるものは何もありませんでした。これは犯人が、もはやその手段で私どもを欺く訳にいかないことを知ったからです。犯人は事実、私どもが何を知っているかを知っているのです」
私はポワロの推理を自分でも追ってみて、考えた。
「犯人はピストルを、どうしたでしょうか」
ポワロは肩をすくめた。
「それについては、いうのはむずかしいです。しかし海が都合よく手近にありますし、投げすてる腕力があれば、ピストルは海底に沈んでしまって、決して発見されません。もちろん、絶対にそうだとはいいきれませんが、私だったら、そうしますね」
彼の事務的な調子に、私は身震いをした。
「ポワロさん、あなたは、犯人が人違いをして殺してしまったことに気がついたと思いますか?」
「犯人は気がつかなかったことは、確実だと思いますね。さよう、事実を知ったら、犯人にとってそれは不愉快な驚きでしょう。平気な顔をして、少しもそうした感情を現わさないようにするのは、容易なことではないでしょう」
私はその時、女中エレンのおかしなようすを思い浮かべたので、ポワロに、彼女の妙な態度について話した。彼は非常に興味を持ったようであった。
「死んだのはマギーだったと知って、驚いたようすをしたのですね?」
「ひどく驚いていました」
「それは奇妙です。それに悲劇が起こったという事実そのものには、驚かなかったというわけですね。さよう、何か調査しなければならないことがあるにちがいありません。そのエレンというのは何者ですか? 英国流の上品で物静かな女性ですね? 彼女がまさか……」といいかけて、ポワロはやめてしまった。
「もしも、これまでに起こった事故を計算に入れるとすると、崖から大きな丸石を転落させるには、男の力がなくては、できないことだと思いますね」と私はいった。
「そうとばかりは限りません。それは大いに梃子《てこ》の作用の問題ですからね。それは女性でもできます」
ポワロは部屋の中を、ゆっくりと、往ったり来たり歩き続けていた。
「今夜エンドハウスにいた人たちは、誰でも容疑者とみられますね。いや、私はあの客人たちの中の一人だと思いませんね。大体において、あの人たちは単なる知り合いにすぎません。エンドハウスの若い女主人と、あの客人たちの間には親密な関係はありませんでした」
「あの中には、ヴァイス弁護士もいましたよ」と私はいった。
「さよう、私どもはあの人を忘れてはなりません。理論的にいえばあの人は、最も有力な容疑者ですからね」
ポワロはここで、絶望的な身振りをして、私の向う側の椅子に倒れこんだ。
「私どもがいつも戻ってくるのはここだ! 動機! この犯罪を理解するには、動機を見出さなければならない。それなのに、君、私はこの問題へ来ると、いつも途方にくれてしまうんですよ。ニック嬢を殺すべき動機を一体、誰が持っているというのでしょう? 私はこの上もない馬鹿げた想像に、自分の空想を馳《は》せるのです。このエルキュール・ポワロが、最も卑しむべき空想の階段を下ったのです。私は安っぽいスリラーものの心的態度を採用したのです。祖父、老ニックは、全財産を賭博ですってしまったと想像されています。だがそれはほんとうだろうか? と、私は自分にたずねてみました。彼は反対に財産を隠しておいたのではないだろうか? その莫大な金が、エンドハウスのどこかに隠してあるのではないだろうか? そうした見解から(こんなことをいうのは恥ずかしいことですが)私はニック嬢に、誰かエンドハウスを買いたいと申し出た者はないかどうかをたずねたのでした」
「ポワロさん、それはむしろ気の利いた考えだと、僕は思いますね、何か得るところがあるかも知れませんよ」
ポワロは、うめいた。
「君はそんな風にいうだろうと思った。君のロマンチックな、しかし多少平凡な心には、ぴったりするだろうと思いましたよ。埋没された財宝……さよう、君はそうした考えを大いに楽しむでしょうさ」
「それがどうしていけないのか、僕にはわかりませんがね」
「なぜかと申しますとね。君、つまらない説明であればあるほど大抵の場合は、もっともらしく思われるものだからです。次にニック嬢の父親ですがね、私は彼に関してもっと安っぽい考えを、もてあそびました。彼は旅行家でした。仮りに彼が宝石……神様の眼を盗んだとしたらどうだろうかと私は考えたのです、油断怠りない僧たちは彼を追跡するでしょう。さよう、エルキュール・ポワロは、そんな下劣な考えの深みにまで、はまりこんだのですよ。
それから父親について、こんな考えも持ったのです。これはもう少し高尚で、もう少しもっともらしい考えです。彼は放浪中に再婚し、チャールズ・ヴァイスよりも、もっと近い財産相続人がいるのではあるまいか? という想像なのです。しかしこの考えもまたどこへも導いてくれません。ここでも私どもは同じ難関にぶつかってしまいます。実際に相続すべき価値のある財産は何もないのですからね。
私はどんな可能性でも、おろそかにしません。ラザラス君が、ニック嬢にあの絵画を買おうと申しこんだことさえも取りあげました。君も覚えているでしょう。ニック嬢の祖父の肖像画です。私は土曜日に電報を打って専門家にあの絵を鑑定に来させたのです。今朝、私がお嬢様に手紙でいってあげた男というのは、それなのです。もしもあの肖像画が数万ポンドの価値があるとしたら……」
「ラザラス君のような金持が、まさか……」
「彼は金持ですか? 外見がすべてを現わしはしませんよ。たとえ宮殿のような陳列室を持っている古い歴史を持つ商館で、どの方面から見ても繁栄していると思われる店でも、腐った土台の上に建っているかも知れません。そんな場合に、人はどうしますか? 商売がうまくいかないで金詰りだと呼ばわって歩くでしょうか? どういたしまして、そんな場合には、新しい贅沢な車を買ったり、常よりも、もっと、金を使ったりして、外見を飾って暮らすものです。それはみんな、世間の信用をつなぐためです。時には不朽の事業でもつぶれてしまうものです……現金が五六千ポンドしかないなんていう……」
それに対して、私が抗議しようとすると、ポワロは、更に言葉を続けた。
「君のいおうとしていることは、わかっていますよ。こじつけだというのでしょう。しかしこれは復讐心に燃える僧だの、埋蔵された宝だのという考えほど悪くはないですよ。少なくともこれはよく起こる事柄といくらか関係をもっていますからね。私共は何ひとつ見のがしてはならないのです。真実に少しでも私どもを近づけるものは、何ひとつおろそかにできません」
彼は注意深い指先で、眼の前のテーブルのものを、真っすぐにした。次に彼が語り出した時には、その声は重々しく、はじめて落ちついた調子になっていた。
「動機! もう一度そこへ戻って、この問題を静かに方式に従って考えてみましょう。まず殺人にはどれだけの動機があるか? 人間に同じ人間の生命を取るに至らせる、どんな動機があるか?
今のところ、殺人狂は除外しましょう。なぜかと申すと、そういう解決法は、この場合は絶対にないと私は確信しているからです。それから、感情を制しきれないで、突発的にその場で殺したというのも、除外しましょう。これは冷酷な謀殺です。こういう殺人を犯す動機は何でしょうか?
第一に利益。ニック嬢の死によって、誰が利益を得るか? 直接、間接に。そこでヴァイス弁護士を除外できます。彼は所有権を相続しますが、経済上相続する価値のない財産です。彼は抵当の金を払い、あの土地に小さな別荘でも建てるかも知れませんが、それではごく僅かな利益しか得られません。もし彼が祖先の土地というような、深く胸にひめた愛着を持っているのでしたら、彼にとってある価値があるかも知れません。これは人間に深く植えつけられている本能で、そういう場合には、それが犯罪に及ぶこともあるのは私も知っております、しかしヴァイス氏の場合、そういった動機を見出すことはできません。
ニック嬢の死によって多少なりとも利益を得る唯一の人物は、お嬢様のお友達のフレデリカ夫人です。しかし利益はごく少ないことは明白です。私の知っている範囲では、ニック嬢の死によって、ほんとうに利益を得る者はほかに誰もありません。
他の動機は何でしょう? 愛……あるいは憎しみに変じた愛。情熱の犯罪。ここで再び、私どもはクロフト夫人の言葉によって、チャレンジャー中佐もヴァイス弁護士も、あのお嬢様に恋をしているということを考慮しなければなりません」
「中佐のそうした態度は、僕らもこの眼で見たといえますね」と私は微笑しながらいった。
「さよう、あの正直な海軍さんは、とかく感情を露骨に出しますね。さて、もしもヴァイス弁護士が押しのけられたと感じたとしたら、彼は従妹を他の男の妻にさせるくらいなら、殺したほうがいいと考えるほど、そんな激しい感情を抱くでしょうか?」
「それはまたひどく芝居かがっていますね」と私は賛成しかねて、いった。
「英国人らしくないと、君はいうのでしょう。私も同感です。しかし英国人だって感情を持っておりますよ。特にヴァイス君のようなタイプの人間は激しい感情を持っているものです。彼はひかえ目な青年です。容易に感情をあらわさない人です。そういう人はしばしば非常に激しい感情を持っているものです。私はチャレンジャー中佐を、情熱の理由での殺人者としては決して嫌疑をかけません。しかしヴァイス弁護士は……さよう、あり得ることですね。しかしこれは全然私を満足させません。
もう一つ、犯罪の動機に、嫉妬があります。私が情熱と嫉妬とを別にしたのは、嫉妬は必ずしも性的感情を必要としないからです。そこには羨望があります……所有に対する羨望、優越に対する羨望、こうした嫉妬が偉大なるシェイクスピア劇のイアゴーを、職業的見地からいうと、これまで行われた犯罪中で、最も巧妙をきわめた犯罪にかりたてたのでした」
「どうしてそんなに巧妙だとおっしゃるんですか」私は、ちょっと横道にそれた質問をした。
「なぜかと申すと、他の人間にそれを行わせたからです。現代でも、自ら手を下さないために手錠をはめる事のできない犯罪者がある事を考えてみたまえ。だが、これは今、私どもが論じている問題ではありませんね。この犯罪にどんな種類の嫉妬でも、関係があるだろうか? 誰がニック嬢を羨ましがる理由を持っているだろうか? 他の女性? フレデリカ夫人のほかには誰もいませんが、私どもの知る限りでは、この二人の女性の間には、競争などありません。しかし、それにしてもこれは私どもの知る限りなので、何かがあるかも知れません。
最後に、恐怖。ニック嬢は何かのことで誰かの秘密を握っているのでしょうか? 何か世間に知れれば誰かの一生を破滅させるようなことを知っているのでしょうか? もしそうだとすると、あのお嬢様はご自身がそのような秘密を握っているとは知らないでおいでになるのです。そうかも知れません。そうとなると、これは非常にむずかしい事になります。なぜかと申すと、お嬢様は重要な証拠を握っておいでになるのをご存じないから、それが何であるかを私どもに、お話になることができないからです」
「ポワロさんは、ほんとうにそんなことがあり得ると考えていらっしゃるんですか」
「これは臆説です。ほかに合理的な理論が見つからない苦しまぎれに、そこへ追いこまれたのです。多くの可能性を一つ一つ除外していくうちに、一つだけ後に残った場合に、君はほかのがそうじゃなかったのだから、これがそうにちがいない……というでしょう」
彼はしばらくの間、沈黙していた。やがてその一心不乱の状態からぬけ出すと、彼は紙を一枚引き寄せて、何か書きはじめた。
「何を書いていらっしゃるんですか」私は好奇心にかられてたずねた。
「私は一覧表を作っているのです。ニック嬢を取り巻く人々の表です。もし私の理論に誤りがなければ、この表の中に殺人者の名があるはずです」
彼はそれからなおも二十分ぐらい書き続けていたが、やがてその紙を、私のほうへ押してよこした。
「さあ、君、どう考えるか、それを見たまえ!」
次に、その写しを掲げる。
(A)エレン
(B)エレンの夫で園丁
(C)彼らの子供
(D)クロフト氏
(E)クロフト夫人
(F)フレデリカ夫人
(G)ラザラス君
(H)チャレンジャー中佐
(I)ヴァイス弁護士
(J)?
短評
(A) エレン――疑わしき状況。犯罪のことを聞いたときの態度と言葉。誰よりも事故を誘発することのできる立場、及びピストルについて知る機会を持っていたこと。しかし車をいじったとは考えられない。それにこの犯罪に関する全体的の知性は、彼女の水準以上である。
動機――なし。表面に浮かび上がっていない、ある出来事によって生じた、憎悪でもない限りは。
付記――彼女の素性及びニック嬢との一般関係につき更に調査すること。
(B) 彼女の夫――同上、自動車に不正手段を加える可能性あり。
付記――会見の必要あり。
(C) 子供――除外できる。
付記――会見の必要あり、価値ある情報を与えるかも知れない。
(D) クロフト氏――唯一の疑わしき状況は、われわれが、寝室に通じる階段をのぼってくる彼に出会った事実。もっともらしい説明をした。それは真実だったかも知れない。素性については何も知れていない。
動機――なし。
(E)クロフト夫人――疑わしき状況なし。
動機――なし。
(F) フレデリカ夫人――疑わしき状況。機会が十分にある。ニック嬢にコートを取ってきてくれと頼んだ。ニック嬢が嘘つきであるという印象を巧みに創作し、ニック嬢の遭遇した『事故』を信用のおけないものにしようとした。事故の起こった当時、タヴィストックには行っていなかった。彼女はどこにいたのか?
動機――利益? 僅少、嫉妬? 可能なれど明らかならず。
付記――この問題につき、ニック譲と話し合い、この件につき何か光明を与えるような事実の有無をさぐること。フレデリカの結婚に何か関係があるかも知れず。
(G) ラザラス――疑わしき状況。全体として機会を持っている。絵画を買う申しこみをした。車のブレーキの故障はなかったといった(フレデリカの証言による)。金曜日の前にこの付近にいたかも知れない。
動機――なし……絵画で利益を得る以外は。恐怖? あり得べからず。
付記――セント・ルーに着く前に、どこにいたか調査すること。ラザラス商会の財政状態を調査すること。
(H) チャレンジャー中佐――疑わしき状況なし。前週ずっとこの付近にいたから、事故を作る機会はあった。殺人が行われてから三十分経って到着した。
動機――なし。
(I) ヴァイス弁護士――疑わしき状況。ホテルの庭でピストルが発射された時刻に事務所にいなかった。機会はあった。エンドハウスを売ることに対する陳述が、疑いを招く。感情を抑制する性格の件。ピストルのことを知っていたかもしれない。
動機――利益?(僅少) 愛、あるいは憎悪? 彼の性格として可能。恐怖? これはありそうもないことだ。
付記――エンドハウスを抵当に取っているのは誰かを調べること。ヴァイス法律事務所の状態を調べること。
(J) ?――外部の者かも知れない。だが右にあげた人々の中の誰かと関係があるかも知れない。もしそうなら、(A)と(D)と(E)あるいは(F)と関係があるかも知れない。Jがいるなら、次のようなことの説明がつく。(1)犯罪に対するエレンの驚き方が少なかったことと、彼女が喜んでいるらしかったこと(これはあの階級の者たちの持つ他人の死に対する自然な興奮に基づくのかも知れない)。(2)クロフト夫妻がエンドハウスの番小屋へ来て住むようになった理由。(3)フレデリカが秘密を漏らされる恐怖、あるいは嫉妬の原因がはっきりするかもしれない。
私が読んでいるのを、ポワロは見守っていた。
「すこぶるる英国流でしょう。私は話す時よりも書く時のほうが、英語がしっかりしております」と、ポワロは誇らしげにいった。
「優秀なお手並みですね。あらゆる可能性が、非常に明確に書き出してあります」と私は熱心にいった。
彼は私からそれを取り返して、考えこみながらいった。
「そうです、そして君、一つの名が特に目に止まりますね、チャールズ・ヴァイス。彼は一番好い機会を持っております。私どもは、彼に二つの動機の可能性を割り当てました。ねえ、君、もしそれが競馬馬の表でしたら、彼は(本命)ではないでしょうか、どうです?」
「たしかに彼は、一番疑いをかけられそうですね」
「ヘイスティングス君は、とかく、犯人らしくないのを選ぶ傾向がありますね、それは確かに探偵小説を読みすぎるせいですよ。実社会では、最もそれらしく、最も明瞭な人物が罪を犯しております」
「けれども、あなたは今度の場合は、そうは考えていらっしゃらないんでしょう?」
「この場合、一つだけ、それに相反するものがあります。犯罪の大胆さ! それは最初から目立っていました。それゆえに、私は動機は(明らかでない)と申すのです」
「そうですね、あなたは最初にそういわれました」
「そして、私が再びいおうとするのは、それです」
彼は突然、そっ気ない仕草で、その紙を丸めて、床に投げすてた。私がそれに反対する声をあげると、彼はいった。
「いいえ、この表は無駄でした。それにしても、これは私の心をはっきりさせました。順序と方法! これが第一の段階です。事実をきちんと綿密に並べる。第二の段階は……」
「それで?」
「次の段階は心理的なものです。脳細胞を正しく働かせること! ヘイスティングス君、私は君が寝床へ入るように忠告しますね」
「いいえ、あなたがお休みにならなければ。僕はあなたを一人ここに残して行くわけにはいきません」
「忠犬中の忠犬! しかしヘイスティングス君、君は私の考える手助けはできませんよ。私がこれからするのは、考えることだけですからね」
なおも私は、首を振った。
「あなたは、ある点を僕と検討したくなるかも知れないでしょう」
「さて、さて、君は忠実な友人だ。では、頼むから、せめて安楽椅子にかけてくれたまえ」
私はその申し出を受けた。そのうちに部屋が、回転しはじめ、何もかも、ぼんやりしてきた。私が覚えている最後のことは、ポワロが注意深く、まるめて棄てた紙を回収して、きちんと紙屑籠の中へ入れているところであった。
それっきり、私は眠ってしまったらしい。
ポワロの三つの質問
私が目を覚ました時には、日光がさしていた。ポワロはまだ前夜いたところに腰かけていた。彼の態度は同じだったが、顔には、異なったものがあった。彼の眼は、私がよく見馴れている、あの奇妙な猫のような緑色に輝いていた。
私はひどく硬《こわ》ばった、不愉快な気持で、身もがきして、真っ直ぐに起き直った。椅子の中で眠るのは、私ぐらいの年輩の者には、決して推奨できない行為である。とはいえ、少くとも一つだけ得るところがあった。私はいつもの物憂い夢幻の快い気持ではなく、眠りに陥ったときと同様の――活動的な頭脳と心をもって眼を覚ました。
「ポワロさん、あなたは何か考えつきましたね!」と私は叫んだ。
彼はうなずいた。そして自分の前のテーブルを指先でたたきながら、前方へ身を乗り出した。
「ヘイスティングス君、この三つの質問に答えてくれたまえ。なぜニック嬢は近ごろよく眠れないのでしょうか? 彼女はなぜこれまで黒を着たことがないのに、黒いイブニング・ドレスを買ったのでしょうか? 彼女はなぜ、昨晩『私はもう生きていたくない』といったのでしょうか?」
私は眼をみはっていた。そういう質問は、焦点がはずれているように、思われた。
「ヘイスティングス君、答えて下さい。答えてくれませんか?」
「では第一問ですがね、彼女は近ごろ心配していらいらしているといっていました」
「正にその通り、彼女は何を心配していたのでしょうか?」
「第二の黒いドレスですが、誰でも時には変化を求めるものです」
「既婚の男性にしては、君はひどく女性心理にうといですね。女性というものは、色ものが自分を引き立てなくなったと考えると、それを着るのを拒むものです」
「では第三問は……そうですね、ああした衝撃を受けた後で、そういうことを口にするのは、ごく自然なことですよ」
「いいえ、君、ああいうことをいうのは、自然ではありません。従妹の死によって恐怖に打たれ、自分を責めてああいうのは、自然です。けれども他の場合は違います。ニック嬢は人生に倦きたようなことを口にされました、ご自分にとってもはや何物も大切ではないという風に。以前は決してああいう態度を見せたことはありませんでした。彼女は挑戦的で……さよう……すべてを軽蔑していました……ところが一度気が挫けると、恐れるようになりました。恐れるのは、人生が楽しくて死にたくないからです。人生に倦きたということは、決してありません。晩餐の前だって、そんなことはありませんでした。心理的変化です。これは興味あることです。あのお嬢様の人生観は、何が原因で変わったのでしょうか」
「従妹の死の衝撃」
「さあ、どうでしょう。……彼女の舌をゆるめたのは、衝撃でした。もし変化がそれより以前に起こったとしたら、何かほかに原因があったでしょうか」
「僕には、何もわかりませんね」
「考えたまえ、ヘイスティングス君! 君の脳細胞を働かせたまえ」
「ほんとうに、僕には……」
「彼女を私どもが観察する機会を得た最後の瞬間は、いつでしたっけ?」
「そうですね、実際は晩餐のときだったと思います」
「その通り、その後は、私どもは彼女がお客を迎えているのを見ただけです。全く儀礼的な態度の時でした。食事の終わりに何が起こりましたっけね? ヘイスティングス君」
「ニック嬢は電話をかけに、席を立ちました」と私はゆっくりといった。
「そうです、君はついに到達しましたね。彼女は電話をかけに行きました。そして長い間もどりませんでした、少なくとも二十分は。電話にしては長すぎましたね。電話でニック嬢と話したのは誰でしょう? 何をいったのでしょう? ほんとうに電話に出たのでしょうか? 私どもはあの二十分間に、何があったのかを調べなければなりませんね、ヘイスティングス君。私はその辺に、求める手がかりがあるのではないかと思うのです」
「あなたは、ほんとうにそうお考えになるんですか?」
「そうですとも、そうですとも! 私は君にずっと、ニック嬢は何か私どもに隠しておいでだと申しておりましたでしょう。彼女はそれが殺人事件に何の関係もないと思っておいでだ。けれども、このエルキュール・ポワロは、よく知っております! 関係があるにちがいありません。私は絶えず、ある要素が欠けていることを意識しておりました。ある一つの要素が欠けていなかったら、全体が私には、はっきりわかるはずなのです。ところが、私にははっきりわからない。そこで欠けている要素が、この謎の要石《かなめいし》になっているということになるのです。この考えは正しいと私は知っているのですよ、ヘイスティングス君。
私は、この三つの質問の回答を得なければなりません。それを知れば、私に事件の全貌がわかってくるのですがね……」
「さて、入浴と髭剃りが必要らしい」と、私は、硬ばった手足を伸ばしながらいった。
一風呂浴びて、着がえをしたころには、私もすっかり気分がよくなっていた。不愉快な状態で一夜をすごしたからだの痛みと疲れは、すっかり取れてしまった。これで熱い珈琲を一杯飲めば、いつもの自分を取り戻せると感じながら、朝の食卓についた。
朝刊新聞に目を通したが、空の英雄マイケル・シートンの死が確認されたという記事以外には、大してニュースもなかった。大胆な飛行家は滅びてしまったのだ。私は明日の新聞には、『花火大会中に若き女性殺さる――謎の悲劇』という、新しい大見出しが現われるだろうと思った。
私が朝食を終った時、フレデリカ夫人が、私のテーブルに来た。彼女は小さな柔いひだのある衿《えり》をつけた黒い絹のクレープの服を着ていたので、一層色が白く見えた。
「ヘイスティングス大尉、私、ポワロさんにお目にかかりたいんですが、まだお起きにならないのですか、ご存じ?」
「きっと居間でしょうと思います。ご案内しましょう」
「ありがとう」
「よくおやすみになれなかったんではないですか」私は二人で食堂を出る時にいった。
「びっくりしました。でもあのお気の毒な娘さんはよく知りません。だから、あれがニックだった場合ほどではありませんでした」
「あなたは、あのお嬢さんには、以前一度もお会いにならなかったのですか?」
「スカーバラで一度だけ。ニックが昼食につれて来ましたの」
「彼女のご両親にとっては、ひどい打撃でしょうね」
「おそろしいことですわ」
しかしそのいい方は、ひどく冷淡であった。私は、彼女が利己主義な婦人なのだと思った。
ポワロは朝食をすませて、朝刊を読んでいた。彼は立ち上がって、フランス流のいんぎんさで、彼女を迎えた。
「奥様、ようこそ」
彼は椅子をすすめた。
彼女はわずかに微笑して、礼を述べ、腰をおろした。彼女は両手を椅子の肘かけに休めて、真っすぐに坐り、正面を見つめていた。彼女は急いで話をしようとはしなかった。その、静かに超然としているようすには、何か少し恐れているところがあった。
「ポワロさん、昨晩の悲しい出来事が同じことの重要な部分だというのには、疑いないんでございますの? 私のいう意味は、犠牲者はニックのはずだったということ」
「それには、疑う余地はないと申せます」
フレデリカ夫人は、ちょっと眉をひそめて、
「ニックは不死身なんですのね」といった。
彼女の声には、私には理解のできない、妙な暗流のようなものがあった。
「運命は循環すると申しますね」とポワロはいった。
「そうかも知れません。運命に抗するのはたしかに無駄ですわね」
今度の彼女の声にはものうげなところが、あるだけであった。
「ポワロさん、私、あなたにあやまらなければなりません。ニックにも。昨夜まで私は信用しなかったんですの。私は決して危険がほんとうに迫っているなんて、夢にも思いませんでした」
「さようでございましたか、奥様」
「こうなると、すべてを注意深く調べなければならないということが、私にもわかります。そしてニックの直接の友達グループは、疑惑を免れられないと思いますの。もちろん、ばかげたことですけれど、そうですわね。ポワロさん、私の考えは正しいでしょうか」
「奥様はまことに聡明でおいでなさる」
「ポワロさんは、先日私にタヴィストックのことをおたずねになりましたわね。いずれは、あなたが事実をさぐり出しておしまいになるに決まっていますから、いっそのこと私から、ほんとうのことを申し上げます。私、タヴィストックには行きませんでしたの」
「そうでございますか」
「私は、ラザラスと自動車でこの地方へ来ましたが、必要以上に、世間の噂になりたくなかったもので、シェラカムという小さな町に泊まりましたの」
「それは、ここから七マイルほど離れた町でございましたっけね、奥様」
「ええ、およそ」彼女の言葉つきは依然として静かで夢見るようであった。
「奥様、ぶしつけなことを、うかがわさしていただきたいのでございますが」
「今どき、そんなことがありまして?」
「これはどうも。奥様とラザラス氏とは、いつごろからのお友達でいらっしゃいますか」
「私、六カ月前に、あの人に会いましたの」
「それで……奥様は、あの方を好いておいでなのでございますか」
フレデリカ夫人は、肩をすくめた。
「あの人は、お金持ちです」
「おや、おや、そんなことを口になさるのは、醜いことでございますまいか!」とポワロは叫んだ。
彼女は、いささか興じているように見えた。
「あなたにそういわせるよりも、私が自分でいってしまったほうが、いいでしょう」
「さよう、もちろんさようでございましょうとも。私はもう一度、奥様は聡明でおいでなさると、くり返させていただきましょう」
「あなたは、やがて私に、お免状を下さいますでしょうね」といいながら、フレデリカ夫人は立ちあがった。
「奥様は、もうほかに、私にお話し下さることはおありになりませんでしょうか?」
「いいえ、ありません。たぶん。私これから花を持って、ニックのようすを見舞いに行こうと思いますの」
「ああ、それはたいそうご親切なことでいらっしゃいます。率直にお話し下さいまして、ありがとうございました」
彼女は鋭い視線をポワロに投げて、何かいいかけたが、黙っているほうがいいと思い返したらしく、唇を閉じてしまい、彼女のためにドアをあけた私にちょっと微笑して、部屋を出て行った。
「彼女は聡明である。だが、エルキュール・ポワロもまた聡明であります」とポワロはいった。
「どういう意味ですか?」
「ラザラス君が金持だということを、私に無理に呑み込ませたことは大そういいことであり、大そう結構なことです」
「僕は、むしろ胸が悪くなった」
「君はいつも、場違いの正義反応を示しますね。この場合、趣味の善悪は問題ではありません。フレデリカ夫人に、必要なものは何でも与えることのできる献身的なお友達がついているとなれば、夫人は何も僅かばかりの金のために親友を殺す必要がないのは、明白になりますからね」
「おお!」と私はいった。
「またおお! ですか」
「なぜあの人が療養所へ行くのを止めなかったんですか」
「なぜ、私が手の内を見せなければならないのですか? ニック嬢を面会謝絶にしたのは、エルキュール・ポワロですか? どういたしまして! それは医師と看護婦です。あの厄介な看護婦たち! 規則ずくめ、制限ずくめで『医師の命令』を盾にとる」
「ニック嬢が、強情を張り、結局、面会を許すようなことになる心配はないんですか」
「ヘイスティングス君、心配はない。私と君以外のものは誰も部屋へ入れっこありませんよ。そういえば、私どもはできるだけ早く、面会に行ったほうがよろしいですね」
不意に居間のドアがさっと開いて、チャレンジャー中佐が飛びこんできた。彼の日焼けした顔には、憤りがみなぎっていた。
「ポワロさん、これは一体どういう訳なんですか! 僕はニックのいるあのくそ療養所へ電話をかけて、彼女の容態はどうか、何時に行ったら面会ができるかたずねたら、医師の命令で面会謝絶だっていいやがる! 僕は、その訳を知りたい! はっきりいうと、これはあなたの差し金ではないかっていうんですよ。それとも、ニックはショックのためにほんとうに病気になったんですか?」
「はっきりいいますがね、私は療養所の規則など作った覚えはございません。とんでもない、そんなことができるものですか。お医者様にお電話なさってはいかがです? 主治医は何ていう名でしたっけ……ああ、グレアムでした」
「僕はかけました。漸次快方に向っている……おきまりの文句ですよ。僕は医者のやり口をちゃんと知っています。僕の伯父は医者です。ハーレー街のおえら方。神経科専門で、精神分析学者ってやつですよ。安心させるようないいかげんな文句で肉親の者や友達を、寄せつけない。僕はそんなのを沢山きいています。ニックが誰にも会えないなんて、僕は信じない。この背後には、あなたがいるんでしょう、ポワロさん」
ポワロは、非常に親しみ深い態度で、中佐に微笑みかけた。
「まあ、おききなさい、君。もしも一人の客をゆるしたら、他の見舞い人を断るわけにはいかないものです。それで、全部に会わせるか、さもなければ一人にも会わせないということになるのです。私どもは、お嬢様の安全を希望しております。あなたもそうでいらっしゃいましょう。おわかりですね……そういう訳で誰もお嬢様に近づく訳にはいかないのです」
「わかりました……しかし……それなら……」とチャレンジャー中佐は、ゆっくりといった。
「おやめなさい! 私どもはもう何もいわないでおきましょう。私どもは、今いったことも忘れましょう。現在のところ、極度に慎重にすることが大切なのです」
「僕は、秘密を守ることができます」と中佐は静かにいって、戸口へ行きかけたが、部屋を出る前に立ち止って、
「花束の出入禁止令はないでしょうね。白い花でない限りは」といった。
ポワロは微笑した。そして性急なチャレンジャー中佐の背後にドアが閉ると、
「さあ、中佐とフレデリカ夫人と、恐らくラザラス君とが、花屋の店で鉢合せをしている間に、私どもはひそかに、目的地へ車を飛ばしましょう」といった。
「そして、例の三つの質問の回答をもらうんですか」
「そうです、質問してみましょう。実のところ、私はその答えを知っておりますがね」
「ええ?」と私は叫んだ。
「そうです」
「でも、あなたは、いつそれを発見したんです?」
「朝食を食べている間にですよ、ヘイスティングス君。その回答は、私の顔を見つめておりました」
「きかしてください」
「いいえ、ニック嬢の口からお聞きなさい」
それからポワロは、私の気を散らしてしまうかのように、開封した手紙を、私のほうへ押してよこした。
その手紙は、ニック嬢の祖父の肖像画の鑑定に、ポワロが差し向けた男からの報告で、それによると、その画は最高二十ポンドの値打ちだというのであった。
「それで一つのことが明白になりました」とポワロは、いった。
「鼠の穴に、鼠なし」私は、ずっと前にポワロが使った比喩を口にした。
「ああ、君はあれを覚えていましたね。さよう、あの鼠穴には鼠はいませんでした。二十ポンドのところへ、ラザラス君は五十ポンドとつけました。抜け目ないはずの若者が、何という鑑定の誤りをしたものでしょう。だが、さあ、さあ、私どもは用たしに出かけましょう」
療養所は、港湾を見おろす、高い丘の上に建ててあった。白衣の当番が、われわれを迎えた。われわれは階下の小さな部屋に入れられたが、やがて、元気のいい看護婦がやってきた。
ポワロをちらと見ただけで、わかったらしかった。グレアム医師から小柄な探偵の風采を聞かされて、指図を受けていたと見えて、微笑をかみころしていた。
「ニック嬢は、大変よく休まれました。どうぞ二階へおいでくださいません?」と彼女はいった。
われわれは、日光の流れこんでいる、気持のいい部屋に、ニック嬢を見出した。幅の狭い鉄のベッドの上で、彼女は疲れた子供のように見えた。顔は青ざめて、眼は怪しいまでに赤くなっていた。そして疲れて大儀そうであった。
「よく来てくれたのね」彼女は気のぬけた声でいった。
ポワロは両手で彼女の手を取った。
「お嬢様、勇気をお出しなさいまし。世の中には、いつだって、何かしら生きるあてがあるものでございますよ」
その言葉はニック嬢をぎょっとさせた。彼女は、彼の顔を見あげて、
「おお!……おお!」といった。
「お嬢様、お話し下さいませんか、近ごろ何がお嬢様を悩ましていたのでございますか? それとも私があてましょうか? それから、お嬢様、私が深くご同情申し上げておりますことをお耳に入れさせていただきます」
彼女の顔は紅潮した。
「じゃあ、あなた知っているのね。いいわ、誰が知ったってかまわない。もうこれで何もかもおしまい……もう、もう、決してあの人に会えないんだわ!」
彼女の声は、とぎれてしまった。
「勇気をお出しなさいまし、お嬢様」
「もう勇気なんか、残っていない。あるだけの勇気をこの二、三週間で、使い果たしてしまったの……希望を持とう、持とうとして、望みに望みをかけていたのに……」
私は眼をみはっていた。私には一言も理解できなかった。
「可哀そうなヘイスティングス君をごらんなさい。私どもが何を話しているのか、わからないでいるのでございますよ」とポワロがいった。
彼女の不幸な眼が、私の眼と合った。
「飛行家のマイケル・シートン、あたし、あの人と婚約していたの……でもあの人、死んじまったの」と彼女はいった。
ニック嬢の告白
私は、あっけに取られてしまった。私はポワロのほうを向いた。
「あなたのおっしゃったのは、このことだったのですか?」
「そうです、私は今朝、知ったのです」
「どうして知ったのですか? どうして推量したのですか? あなたは、そのことが朝食の時にあなたの顔を見つめていたのだと、いわれましたね」
「そうですよ、君、新聞の第一面から。私は昨晩の食卓での会話を思い出し、それですべてがわかったのでした」
ポワロは、再びニック嬢に向った。
「あなたは、あのニュースを昨夜おききになりましたのですか?」
「ええ、ラジオで。あたし、電話っていうことにしたの。あたし、ニュースをひとりきりで聞きたかったの……もしも……で、あたし、聞いたの……」
「わかっております、わかっております」彼は両手の中に彼女の手を握った。
「とても……辛かったの。お客が到着するし……あたし、どうして切りぬけたか、自分でもわからないくらい。まるで夢の中にいるみたい。まるで、ふだんと変わらないみたいにしている自分を、外から眺めているみたいで、とても変な気持」
「私にはよくわかります」
「それから、あたしフレディの着るものを取りに行った時、とうとうたまらなくなって泣き崩れてしまったの。でも急いで気を取り直したの。でもマギーは自分のコートのことで階下からあたしを呼ぶし、そのうちに、マギーはあたしのショールをして行ったし、あたしは顔に粉おしろいを叩いて、紅をつけて、後から行くと、マギーは死んでいるんですもの……」
「それはもう、どんなにびっくりなすったことでしょう!」
「あなたには、分からないのよ。あたし腹が立ったの! あたし自分だったらいいと思ったの! あたしは死にたかったの……だのに、この通り、生きている……きっと幾年も幾年もこうして生きていくんだわ……マイケルは死んで……遠い太平洋で溺れてしまっているのに……」
「お気の毒なお嬢様!」
「あたし生きていたくなかったの!……あたし生きていたくないの! わかって?」と彼女は反抗するように叫んだ。
「私にはよくわかります。お嬢様、私ども、だれにでも、生より死のほうが好ましくなる時が参るものでございます。けれども、それは過ぎ去ります。悲しみも嘆きも過ぎ去ります。今はお信じになれますまい。私のような老人がこんなことを申し上げましても、よしないことでございましょう。くだらない言い草だとおぼしめすでしょう」
「あなたは、あたしが忘れると思っているのね……そして誰かほかの人と結婚すると……そんなこと、決して!」
ベッドの上に坐り、両手を握りしめて、頬を燃えあがらせているニック嬢は、むしろ美しく見えた。
ポワロは優しくいった。
「いいえ、いいえ、私は決してそんなことは考えません。お嬢様、あなたは大そう幸福でいらっしゃいますよ。あなたは勇しい、英雄に愛されになったのでございます。どんな風にしてあなたは、あの方にお会いになったのですか」
「ル・トゥーケで……去年の九月……一年ぐらい前に」
「婚約なすったのは、いつでございますか」
「クリスマスの直後、でも秘密にしておかなければならなかったの」
「なぜだったのです?」
「マイケルの伯父様、マシュー・シートン卿のせいなの。あの人、小鳥を愛して、女を憎んでいたの」
「ああ、正気を失っていらしたのですね」
「そうという訳でもなかったの……でも、とても変人だったの。女は男の一生を破滅させると思っていたの。マイケルはその伯父様に、すっかり寄りかかっていたの。あの人はマイケルを、とても自慢にしていて、アルバトロス号の建設費も、世界一周飛行の費用もみんな出してくれたの。世界一周飛行はマイケルの希望でもあったし、伯父様の夢でもあったの。だから、それに成功さえすれば、マイケルは、伯父様に何でも頼めるという訳だったの。それに、その時になれば、伯父様がもう面倒を見てくれないといい出したって、そんなこと問題じゃないし……マイケルが世界的英雄のようなことになれば、しまいには伯父様だって折れてくるだろうし……」
「なるほど、なるほど、よくわかります」
「でも、マイケルは、あたしたちの婚約のことが洩れると、致命的になるから、極秘にしておかけなればいけないって。だからあたしそれを守ったの。誰にも話さなかった、フレディにさえも」
ポワロはうめいた。
「お嬢様が、それを私に打ちあけておいてくださいましたら!」
ニック嬢は凝視した。
「だけれど、それで、どんな違いがあるっていうの? この不思議な襲撃となにか関係があるの? いいえ、あたし、マイケルと約束したんだから、それを守った。でも、やりきれなかったわ。心配したり、もしやと思ったり……いつもびくびくして、みんなが、あたしのことを神経過敏になっているの何のっていうけれど、説明するわけにはいかないし!」
「さよう、よくわかります」
「マイケルは前にも一度、行方不明になったの。インドへ行く途中、砂漠で。あの時も凄く心配したけれど、結局大丈夫だったの。そして飛行を続けたから、今度だって大丈夫だと自分にいいきかせていたの。みんなが、あの人は死んだにちがいないって、いっていたけれど、あたしは、大丈夫、大丈夫と心の中でいい続けていたのに、昨夜《ゆうべ》のラジオで……」
彼女の声は、消えて行った。
「その時まで、お嬢様は、望みを持ち続けていらしたのでございますね」
「わからないわ、それよりも信じるのを拒否していたんだと思う。誰にも話すことができないのが、とても辛かった」
「お察しできます。お嬢様は、一度もフレデリカ夫人に打ち明けようという誘惑をお感じになりませんでしたか」
「時には、ひどく」
「あなたは、フレデリカ夫人が感づいたとは、お思いになりませんか」
「そんなことはないと思う。あの人、何もいったことない、もちろん、時々ほのめかすみたいなこといったけど、あたしたちが、大仲よしだっていうようなことくらい」
「あなたは、シートンさんの伯父様が亡くなられた時に、フレデリカ夫人にお話しになろうとお思いになりませんでしたか。ご存じですね、一週間ほど前に老シートン卿は亡くなられましたね」
「知っているわ、手術を受けたか何かで。で、あたし誰かに話したって、もういいと思ったの。でも、世間で大騒ぎしている時、そんなこといい出すの、あさましい気がしたの。マイケルのことをどの新聞も書きたてている最中に、そんなこと発表したら、新聞記者たちが会見にくるし、安っぽいことになるの。そんなの、マイケルは、嫌い」
「私もお嬢様と同感でございます。もちろん公表なさることはおできになりませんでしたろうとも。私の申すのは、親しいお友達に、そっとお打ちあけになりましたかとおたずねしたのでした」
「一人だけに、ほのめかしたけど、その人がどんな風にとったか、わからない」
ポワロは、うなずいた。
「あなたとお従兄さんのヴァイス弁護士との間は、工合よくいっておりましたでしょうか」と、ポワロは、突然に話題をかえた。
「チャールズ? あの人のことが、どうしてあなたの頭の中に入ったの?」
「私は、ただ、どういう事情かと思いまして」
「チャールズは、気がいいの、もちろん、あの人は物凄い(ぼくねんじん)。この土地から一歩も出たことないの。あの人、あたしを非難しているらしいわ」
「お嬢様! お嬢様! そういうことをおっしゃいますが、あの方はお嬢様に、深い愛情を捧げておいでになるそうではございませんか」
「いくら非難したって、その人を愛してはいけないということにはならないわ。チャールズは、あたしの生活方式を不都合だと考え、あたしのカクテルを非難し、あたしの顔色を非難し、あたしの友達も、あたしの話しっぷりも、みんな非難している。でも相変わらずあたしの魅力を感じているの。あの人、あたしを感化しようとしているらしいの」
彼女は、ちょっと言葉を切ってから、急に眼を輝かしていった。
「あなたは、そんな情報を、誰から聞き出したの?」
「お嬢様、どうか他人《ひと》にはお洩らしにならないように。私はオーストラリア人のクロフト夫人と、少しばかりお話しいたしました」
「あの人、かわいいおばあちゃん……お喋りの相手になっている暇がある時はね。おそろしくおセンチで、愛と家庭と子供と……そんなようなことばっかりいって」
「私自身が、旧式で、センチメンタルでございますよ、お嬢様」
「そうなの? あたし、二人のうち、ヘイスティングス大尉のほうが、おセンチかと思った」
私は憤慨して、赤くなった。
「お嬢様、ヘイスティングス君は憤然としておりますよ、しかしお嬢様は正しい、おっしゃる通りでございます」と、ポワロは私が当惑しているのを面白そうに眺めながらいうのであった。
「そんなことあるもんですか!」私は怒っていった。
「ヘイスティングス君は、珍しく美しい性格を持っているのでございます。それが時折私にとりまして、大そう邪魔になります」
「ポワロさん、ばかなこといわないでください」
「第一にこの人はどこにも悪を見ようとしないのでございます。そして一度それを見たとなると、あまりに義憤を感じてしまって、それから眼をはなすことができなくなるのです。とにかく稀な美しい性格でございます。いや、君、私は君に反対はさせませんよ。私の申す通りなのでございます」
「二人とも、あたしに、とても親切」と、ニック嬢は優しくいった。
「お嬢様、そんなことは何でもございません。私どもはもっと、いろいろとやらなければなりません。第一にお嬢様に、しばらくここにいらしていただきたいのでございます。命令にお従い下さいまし、私の指図通りになすっていただきます。この危機に際して、私は邪魔されてはならないのでございます」
ニック嬢は、ものうげにため息をした。
「あたし、何でもあなたのいいようにする。あたし何したって、かまわない」
「しばらくの間、お友達には、どなたにもお会いにならないでくださいまし」
「構わない……あたし誰にも会いたくない」
「お嬢様は消極的に、私どもは積極的にならなければなりません。では、私どもはこれで失礼します。私はお嬢様の悲しみに、これ以上立ち入るようなことはいたしません」
ポワロは、戸口に進んで行って、ドアに手をかけながら、肩越しに後ろを振り返って、
「時に、お嬢様。いつぞや、遺言状をお作りになったとおっしゃいましたが。それはどこにございます?」
「さあ……どこか、あの辺」
「エンドハウスでございますか」
「そう」
「金庫の中でございますか? それとも机のひきだしに入れて錠をおろしてお置きになりましたか」
「そうね……あたし、ほんとはわからない。どこかにあるの。あたしとても、だらしないの。書類みたいなものは、たいてい書斎の机の中。そこには受取りなんかもみんなあるから、その中かもしれないし、さもなければ、寝室かもしれない」
「捜すことを、おゆるしいただけましょうか」
「捜したかったら、いいわ、何でも好きなように見て」
「ありがとうございます、お嬢様、お言葉に甘えて、見させていただきましょう」
ニック嬢は死にました
これは絶対の真理でございます
ポワロは、療養所を後にして往来へ出るまでは、一言もいわなかった。そこで彼は、私の腕を捉えて、
「ヘイスティングス君、わかったでしょう? どうです! 私は正しかった! 私のいった通りだ! 私はずっと、何かが欠けているということを知っていました。何かパズルの一片がないと思っていましたよ。その紛失している一片が見つからなければ、全体の意味がわからない!」
彼のまるでやけになっているような勝ち誇りかたは、私には、全く不可解であった。私には特別、何も画期的なことが起こったとは、思われなかった。
「それが、ずっとそこにあったのに、私は見ることができなかったのでした。しかしそれは無理もないことでした。何かがあるということを知ることはできますけれども、その何かが、何であるかを知るのは、大そうむずかしいことです」
「それが犯罪と何か直接関係があると、いわれるんですか」
「君、わからないんですか?」
「実のところ、僕にはわからないです」
「そんな事がありますかね、これで私共の求めていた動機……隠れていた、はっきりしない動機が与えられたのです」
「僕は愚鈍なのかも知れないですが、わかりませんね。あなたはある種の嫉妬だとおっしゃるんですか」
「嫉妬? いや、いや、君、普通の動機……のっぴきならぬ動機です。金です、君、金銭ですよ!」
私はポワロの顔を見つめた。彼はもっと調子を落ちつけて語り続けた。
「ねえ君、ききたまえ! つい一週間前に、マシュー・シートン卿が死にました。シートン卿は億万長者でした。英国でも指折りの金持ちの一人でした」
「そうです、しかし……」
「お待ちなされ! 一歩ずつ進めましょう。彼には盲愛していた甥《おい》がありました。この甥に卿は莫大な財産を遺したと仮定しても、まず間違いございますまい」
「しかし……」
「さよう、卿の道楽だった野鳥保護事業への寄贈財産がありましょうが、大部分の財産がマイケル・シートンへ渡ることになっていますでしょう。ところで、先週、マイケル・シートンの失踪が報道されました。そして、水曜日に、ニック嬢の生命に対する攻撃が開始されました。仮りにですね、ヘイスティングス君、マイケル・シートンが、この度の壮途に立つ前に、遺言状を作り、その中で彼が自分の全財産を許婚《いいなずけ》に遺したとします」
「それは、単なる仮定です」
「さよう、仮定です。しかし、そうにちがいありません。なぜなら、そうでなかったら、今まで起こったことに、何の意味もなくなります。これに賭けられているのは、わずかの遺産ではありません。莫大な財産なのです」
私はその問題を心の中にくり返して、しばらくの間、黙りこんでいた。私にはポワロが、ひどく無謀な結論に飛びついたように思われた。それにも拘わらず、私は密かにポワロは正しいという考えを抱かされていた。これは正確さに対するポワロの、異常な直感が私に影響を及ぼしているせいであった。もっとも私はまだ立証すべき多くのことが残されているように思っていた。
「しかし、もし誰もその婚約のことを知っていなかったとしたら」と私は論じた。
「誰か知っていましたとも。こういうことは、いつだって、誰かが知っているものです。知らないとしても、推測していたでしょう。フレデリカ夫人は感づいていました。ニック嬢はそう思っていたということを認めました。夫人はその推測を確かめる手段を持っておりました」
「どうやってですか」
「その一つは、マイケル・シートンから、ニック嬢に書き送った手紙が、あったにちがいないということです。二人は長い間、婚約しておりました。そして、フレデリカ夫人は、親友が大そう不注意そのものだったと申しました。ニック嬢は物を、ここ、かしこと、どこにでも、置き放しにいたしました。私は彼女が今まで何かに錠をおろしたことがあったかどうかを、疑います。そうですとも、夫人には自分の推測を確かめる方法がいくらでもありましたとも」
「それに、フレデリカ夫人は、親友が遺言状を作成したことを知っていたでしょうか」
「疑いもなく知っておりましたとも。さよう、これで範囲がせばまってまいりました。さて、ヘイスティングス君、君は私の一覧表を覚えていますね。(A)から(J)までの十人の表でしたが、それが二人まで縮小されたのです。私は奉公人は除外します。チャレンジャー中佐は、たとえ三十マイルより離れていないプリマスからここまで来るのに、一時間半もかかっているといたしましても、除外します。それから二十ポンドの価値よりない絵画に五十ポンドも出そうと申し出た(これは彼の民族的性格に似合わない妙なことですが)ラザラス君も除外します。それでもまだ私の表には、二人残っております」
「その一人は、フレデリカ夫人ですね」と私はゆっくりといった。私は彼女の顔を思い浮かべた。淡い金髪と、きゃしゃな白い面ざし。
「さよう、あのご婦人には、はっきりと注意が向けられております。ニック嬢の遺言がどんなに不注意に書かれているといたしましても、フレデリカ夫人が、残余財産受取人にはっきりと指示されておりますでしょう。エンドハウスのほかは、すべてあの婦人のところへいくことになっております。もしも、昨夜、マギー嬢でなくニック嬢が射殺されていたのでしたら、フレデリカ夫人は、今日は金満家になっていたでしょう」
「僕は信じられないですね!」
「君は、あんな美しい婦人が殺人罪を犯すなどとは、信じられないというのですか? それで、よく陪審員ともめることがありますがね。しかし君が正しいのかも知れない。ここにもう一人容疑者があります」
「誰ですか」
「チャールズ・ヴァイス」
「しかしあの人が相続するのは、家屋敷だけです」
「そうです。けれどもヴァイス弁護士はその事実を知らないかも知れません。あの人がニック嬢のために遺言状を作成したでしょうか? 私はそうは思いません。もしあの人が作成したのなら、あの人の手許に保管されていて、ニック嬢がいったように『どこかその辺に突っこんである』はずはないでしょう。君、わかるでしょう。彼は遺言状のことを何も知らないということはあり得ることです。そうなると、彼はニック嬢は決して遺言状を作らないと信じ、自分が一番近親者で彼女の財産を相続すると思いこんでいるでしょう」
「僕にはその方が、もっと可能性があると思われますね」
「それは、ヘイスティングス君の、ロマンチックな気持のあらわれですね。悪徳弁護士、これは小説でお馴染みの人物ですよ。彼は弁護士であると同時に無表情な顔をしています、これでいよいよお誂えむきということになります。彼の方がフレデリカ夫人よりも、もっと大きく画面に現われていることはたしかです。彼の方がもっとピストルについて知っている可能性があり、もっとそれを使いそうに考えられますね」
「それから丸石を叩き落とす可能性も」
「たぶんね。私は前にも梃子の作用で、かよわい女性にもできるということを申しましたけれども。……それに丸石は間違った瞬間に墜落して行ったので、ニック嬢をはずれたという事実は、さらに女性の仕業だという見方を暗示しています。それから車の内部をいじくったという考えも、男性の着想のように思われますが……近ごろは女性でも男性同様に機械に詳しい人もあります。一方ヴァイス弁護士に対する仮定説にも、二、三の欠陥があります」
「どんな欠陥ですか?」
「彼はフレデリカ夫人よりも、ニック嬢の婚約のことを知っていそうもなく思われるのです。それからもう一つの点は、彼としては、行動が性急すぎる嫌いがあることです」
「それは、どういう意味ですか」
「いいですか、シートンの死は、昨夜までは確認されていませんでしたよ。はっきりした証拠もないのに、無謀な行動をするのは、弁護士の性格とかけはなれていると思われるのです」
「そうですね。女性というものは、すぐ結論に飛びついてしまうものです」
「その通り! 女性の求むるところのものは神も求める、という態度ですよ」
「ニック嬢があの場合に難を免れたのは、驚くべきことですね。信じがたいくらいです」
私は……ニックは不死身なのね……といったフレデリカ夫人の声を思い出して、身震いをした。
「さよう。それで私は自信がないのです。これは不面目なことですけれども」
「神意」と私はつぶやいた。
「ああ、君、私は人間の悪業を、神の責任にしようとはいたしませんね。君は日曜日の朝教会へ行って、感謝の祈りを捧げる時に、自分では意識しないで……善なる神はマギー嬢をお殺しになりました……といっているようなものです」
「まさか、ポワロさん!」
「そうですとも、君! けれども私は、どっかりと坐りこんで……神がすべての手はずを定めておいでになるのだから、私は干渉しない……などといってはおりません。なぜなら、神が干渉の目的を表現するために、エルキュール・ポワロは創造されたと私は確信しているからです。これは私の職業です」
われわれは崖の上へ通じる曲がりくねった道を、ゆっくりと登っていた。ちょうどその時、われわれは小さな門を通って、エンドハウスの敷地へ入って行った。
「やれ、やれ、こりゃ急な坂だ、私はすっかり熱くなった。ひげが台なしになった。さよう、私はたった今、私は罪なき者の味方だと申しておりましたね。私はニック嬢に味方しております、なぜなら、ニック嬢が襲撃されておいでだからです。私はマギー嬢に味方しております、なぜなら嬢は殺されたからです」
「で、あなたは、フレデリカ夫人とヴァイス弁護士に敵対していらっしゃるというわけですね」
「いや、いや、ヘイスティングス君、私は公明正大なのですよ。私は、ただ今のところ、この二人に疑惑がかかっていると申しただけです」
われわれが家のそばの芝生へ出ると、一人の男が芝刈り機を使っていた。そのかたわらに、醜いが利口そうな十歳くらいの少年がいる。
私の心に、芝刈り機を動かしている音が聞こえなかったということが閃めいた。だがこの園丁は、働き過ぎないようにしているのだと思った。彼はきっと中休みをしていたのだが、われわれの話し声が近づいてきたので、急いで仕事に飛びついたものらしかった。
「お早う」とポワロがいった。
「お早うざんす、旦那」
「君は園丁さんですね、家の中で働いておいでのエレン夫人の旦那さんで」
「これ、僕のおとっちゃんだよ」と少年はいった。
「そうなんですよ。旦那は、外国の紳士でいなさるようで、そのほんとうは探偵さんでいなさるんですね。お嬢様のニュースでも何ぞござんすかね」
「私どもはたった今、お目にかかったところですよ。昨晩はよくお休みになったようです」
「お巡りさんたちが、ここへ来たんだよ。お嬢さんが殺されたところは、あの石段のそばの、あそこだよ。僕、豚が殺されるところ一ぺん見たことがあるの。ねえ、おとっちゃん」と、少年はいった。
「ああ」と父親は、何の感情もあらわさずにいった。
「おとっちゃんは、農園で働いていたころ、いつも豚を殺したんだよ。そうだね、おとっちゃん? 僕、豚が殺されるところ見たよ、僕好きさ」
「子供ってやつは、豚を殺すところを見るのが好きなもんでざんしてね」と、園丁は、あたかも、人間性が変じがたい事実を述べるかのようにいった。
「あのお嬢さんは、ピストルで射たれたんだね。喉をかっさかれたんじゃなくて」と、少年はいった。
われわれは家の中へ入って行った。私は悪鬼のような子供からのがれて、ほっとした。
ポワロは、庭に面したガラス戸を開け放ってある客間へ入って、呼鈴を鳴らした。それに応じて、きちんと黒い服装をしたエレンがでて来た。彼女はわれわれを見ても、驚いたようすを見せなかった。
ポワロは、われわれがニック嬢の許可を得て、家宅捜査をしに来た旨を説明した。
「よろしゅうございます、旦那様」
「警察は、すましましたか」
「必要なものは、全部見たと申しました。今朝は大そう早くから、お庭へ見えておりましたが、何か発見いたしましたかどうかは、存じません」
エレンが立ち去りかけると、ポワロが質問して、引き止めた。
「あなたは昨晩、マギー嬢が射たれたと聞いた時、ひどく驚きましたか」
「はい、ひどく驚きました。マギー様は、いいお方でございました。あの方を殺そうなんてするような、悪い人間があるとは、想像もできません」
「誰か、ほかの人が射たれたのでしたら、あなたは、それほど驚かなかったでしょう。どうです?」
「それは、どういう意味でございましょう?」
「僕が昨晩《ゆうべ》廊下へ出てきたとき、君はすぐに誰か怪我をしたかとたずねたろう。君は何かそんなことが起こるのを予期していたんじゃないのかね」と私はいった。
エレンは黙っていた。彼女の指は、エプロンの隅を折りまげていた。彼女は首を振ってつぶやいた。
「殿方には、おわかりになりませんでしょう」
「どういたしまして、私にはわかります。あなたが、どんなに空想的なことをおっしゃっても、私には理解できます」
彼女は、疑うようにポワロを見つめていたが、彼を信用しようと決心したらしかった。
「おわかりになりますでしょう、旦那様、この家はよくないのでございます」と彼女はいった。
「古い家だという意味ですか」
「はい、旦那様、いい家ではございません」
「あなたは、この家に長い間おいでですか」
「六年になります、旦那様。でも娘時代にも台所で下働きをしていたことがございます。それは大旦那様のころでございます。そのころも今と同じことでございました」
ポワロは、注意深く、彼女の顔を見た。
「古い家には、時々邪悪の雰囲気があるというのですか」
「そうなのでございます、旦那様。邪悪でございます。悪い考えだの、悪い行いだの。家の中には、腐敗があるような感じなのでございます。空気の中にそんなような感じがあるのでございます。私はもうとうから、この家には、いつか何かが起こるにちがいないと思っておりました」
「あなたの考えが証拠立てられたわけですね」
「はい、そうでございます」
その声の底には、陰惨な予言が正しかったことを証明された時の満足があったように、思われた。
「しかしあなたは、マギー嬢とは、思わなかったでしょう」
「そうでございます、旦那様。誰もマギー嬢を嫌う者なんかございません。これは確かでございます」
私はその言葉の中に、手掛りがあるような気がして、ポワロがきっと、それを辿って行くと思っていたのに、驚いたことには、全く違った問題へ移って行ってしまった。
「あなたは、ピストルを撃つ音をききませんでしたか」
「花火の最中で、大そう騒がしゅうございましたので、何にもそれらしい音は聞こえませんでした」
「あなたは、花火の見物に庭へ出ていらっしゃらなかったのですか」
「ええ、お食事の後かたづけが、まだすんでおりませんでしたので」
「給仕人は手伝っておりましたか」
「いいえ、あの人は花火を見に庭へ出ていました」
「それなのに、あなたは行かなかった!」
「はい」
「なぜですか」
「私は仕事をすましてしまいたかったからでございます」
「あなたは、花火がすきでないのですか」
「いいえ、そんなわけではございません。でも花火は二日間ございますので、私とウィリアムとは明晩お暇をいただいて、町へ行って見物することにしておりましたのでございます」
「わかりました。それから、あなたはマギー嬢が、コートのことをたずね、見つからないといってらしたのを聞きましたか」
「私は、ニックお嬢様が二階へかけ上がっていらして、マギー様が表玄関の方で何かが見つからないといっていらっしゃるのと……いいわ、私ショールを借りていく……とおっしゃるのを聞きました……」
「お待ちなさい、あなたはマギー嬢のコートを捜してあげるとか、車の中へ忘れてきたのを取ってきてあげるようなことは、なさらなかったのですか」
「私は、自分の仕事がございました」
「なるほど……それにお嬢様方は、あなたが外へ出て花火を見物していると思って、あなたにそれをお頼みにならなかったのですね」
「そうなのでございます、旦那様」
「すると、あなたは毎年、外へ出て花火を見ていらしたのですね」
「旦那様は、どういう意味でそうおっしゃるのでございましょう。私共奉公人は、いつもお庭へ出させて頂いているのでございます。もしも私が、今年はそんなことをするよりも仕事をすまして寝に行った方がいいという気持ちなったといたしましても、それは私の自由だと存じます」
「そうですとも、そうですとも、私は別にあなたを怒らせるつもりではございません。あなたのいいとお思いになるようになすっていけないことはありませんとも、それに、時には変化も楽しいものです」
ポワロは、ちょっと間をおいて、つけ加えた。
「それからもう一つ、ちょっとしたことで、もしかしてあなたに助けていただけるかも知れないと思うのです。ここは古い家ですが、どこかに秘密の部屋がないでしょうか、知っておいでになりませんか」
「そういえば、滑り戸になっている羽目板がありました。子供のころ見せていただいた事がございました。でも、はっきりと、どこということは覚えておりません。もしかしますと、お書斎だったでしょうか? 確かなことは申し上げられません」
「誰か隠れていられるくらいの広さですか」
「いいえ、旦那様、小さな戸棚みたいな、ちょっとした凹《くぼみ》みたいなものでございました。一フィート四方くらい……それ以上はございません」
「ああ、私の申すのは、そういうものではないのです」
彼女の顔は、再び紅潮してきた。
「もしも、私がどこかに隠れていたと、お考えになるのでしたら……私はそんな事いたしません! 私はニックお嬢様が、階段をかけおりていらっしゃるのを聞き、それからお嬢様が叫び声をおあげになったのを聞いて……何かあったのかと思って、玄関へ見に飛び出したのでごさいます。旦那様、これは全くほんとうのことなのでございます。これは絶対の真理でございます」
下着の中の手紙
うまくエレンを追い払ってしまうと、ポワロは考え深い顔を私にむけた。
「彼女はピストルの音を聞いたろうか? 私は聞いたと思います。彼女はそれを聞いて、台所のドアを開けたのです。彼女はニック嬢が階段を駆けおりて出て行く音を聞きました。彼女自身も何事が起こったのか見るために、廊下へ出てきました。それは至って自然なことです。しかしなぜ彼女は昨夜、庭へ出て花火を見なかったのでしょうか? ヘイスティングス君、私が知りたいのは、そこなのです」
「秘密の隠れ場所などについての質問は、どういう訳だったのですか」
「Jなる人物を除外するようなことになってはならないと思っての、単なる空想にほかなりません」
「J?」
「私の表の中の最後の人物。疑問の局外者。このJなる人物が、エレンと何かの関係があって昨夜家へ来たとします。彼(仮りに男性と仮定して)はこの部屋の秘密室に隠れます。マギーがこの部屋を通りぬけたのをニック嬢だと思う。彼は後をつけて行って撃つ。だめだ、これは愚劣だ! 私どもはそんな隠れ場のないことを知っております。エレンが台所にいることにきめたのは、純粋な偶然だったのです。さあ、ニック嬢の遺言状を捜しはじめましょう」
客間には書類は何もなかった。われわれは書斎に席を移した。それは車道に面した、幾分うす暗い部屋であった。そこには古風なクルミ材のひきだしつき大机があった。
それを全部調べるのに、かなりの時間が、かかった。何もかも完全に混乱状態であった。請求書も領収証もごっちゃになっていた。招待状も、支払督促状も、友達から来た手紙も一緒になっていた。
「私どもは、この書類をみんな、整然と組織的に整理しましょう」とポワロは厳しい調子でいった。
彼は言葉のごとく、巧みに整理した。半時間後には、彼は満足らしい顔つきで椅子にもたれた。何もかもきちんと分類され、不要なものは除かれ、綴じこまれた。
「これでよろしい。少なくも、一つはいいことがあります。これで私どもはすべてを、隈なく検《しら》べることができますから、決して見落す心配はありません」
「全くですね。ここには発見すべきものは大してなしでした」
「これ以外にはね」
ポワロは、一通の手紙を、私に投げてよこした。それは大きな斜めの書体で書かれた、ほとんど判読しがたいものであった。
――可愛い人よ、パーティは、とても、とてもすてきだった。今日は私少し元気がない。あんなものに、手をつけないのは、お利口さんよ。決してやっちゃだめ。使いはじめたら最後、よすのはとてもつらい。私、ボーイ・フレンドに早く補給してくれるように手紙かいたわ。人生は何と残酷なんでしょう!
あなたのフレディより
「去年の二月の日付です。申すまでもなく、あのご婦人は麻薬常用者です。私は会うとすぐ気がつきました」と、ポワロは、考え深くいった。
「そうですか? 僕は全然、そんなことには、気がつかなかった」
「かなりはっきり現れています。あの眼を見ただけでもわかりますよ、それにあの異常な気分の変化。時によるとひどく興奮し、ある時は、すっかり生気を失って、不活溌になりますでしょう」
「麻薬常用は道徳観念にも影響しますね。そうじゃありませんか?」
「それはまぬがれ難いことです。けれども私はフレデリカ夫人が、真実の中毒患者になっているとは思いません。ごく初歩ですね」
「ニック嬢は?」
「そういう徴候は少しもありませんね。時折りは面白半分に、麻薬パーティにも出席したかも知れません。けれども麻薬は用いていませんね」
「それはいい」
私は、ニック嬢が、フレデリカ夫人は時々変になっているといったのを思い出した。ポワロは、うなずいて、手にした手紙を指先ではじいていた。
「ニック嬢は、疑いもなくこのことをいったのにちがいありません。ところで、私どもはここでは、君のいう空《から》くじをひいてしまいましたね。さあ、お嬢様の部屋へ行ってみましょう」
ニック嬢の部屋にも机があったが、わずかのものしか入っていなかった。ここにも、やはり遺言状は見つからなかった。われわれは彼女の車の登録書と、一カ月前の完全に有効な配当支払い担保書を発見した。そのほかには何も重要なものはなかった。
ポワロは腹立たしげにため息をついた。
「近ごろの若い女性は、まともな躾《しつけ》をうけておりませんね、整頓と順序ということが、教育の中に取りこまれていないのです。ニック嬢はチャーミングですが、頭脳がからっぽです。救い難いほど頭脳がからっぽです」
彼は今度は箪笥のひきだしの中味を検べはじめた。
「ポワロさん、これはみんな下着類ですがね」私は、いささか当惑していった。
彼は驚いて、手を休めた。
「それが、どうしていけないのだね? 君」
「あなたはそう思いませんか? まさか僕らが……」
ポワロは、大笑いした。
「君は、決定的に、ビクトリア王朝時代に属している人間だね! ニック嬢がここにいたら、きっと君にそういいますよ。恐らくあのお嬢様は、君がごみ溜みたいな心を持っているというでしょうね。近ごろの若いお嬢様方は、下着など恥ずかしがりませんね。スリップもパンティも、もはや恥ずべき秘密ではありません。毎日のように、海辺ではご婦人の下着類が、君の一、二メートルほどのところに、散らかしてあるのではありませんか。どうしていけないというのですか?」
「僕は、そんなものを掻き廻す必要がないと思うんです」
「聞きたまえ! 君、ニック嬢は明らかにご自分の宝に錠をおろしておきませんよ。何か隠すとしたら、どこに隠すでしょうね。靴下やスリップの下でしょうか、おや! ここにあるのは、何でしょうか」
彼は、色あせたピンクのリボンで縛った手紙の束を、さしあげて見せた。
「私に間違いがなければ、マイケル・シートンから来た恋文です」
彼は、落着き払ってリボンを解き、手紙を開け始めた。
「ポワロさん、それはいけません。これは遊びごとではないんですからね」と私は、愕然として叫んだ。
「君、私は遊びごとをしているのではありませんよ。私は、殺人者を狩り出しているのです」
ポワロの声は急に厳しく、響き渡った。
「しかし、他人の親書を……」
「これは何も私に語らないかも知れませんが、反対に語るかも知れません。君、私はあらゆる機会を捉えなければならないのです。さあ、君も私と一緒に読みたまえ。二つの眼よりも、四つの眼のほうが悪かろうはずはありません。忠実なるエレンは、全文を暗誦しているかも知れないということを考えて、君の心を慰めるのですね」
私は好まなかった。とはいえ、ポワロの立場はそんな潔癖なことをいってはいられないこともわかっていた。それで私は、ニック嬢の最後にいった『何でも好きなように見て』という、あいまいな言葉に自らを慰めた。
その手紙は、去年の冬から、さまざまな日付になっていた。
正月元日
愛する人よ、新年が来ました。僕は新たに誓いを立てました。あなたが僕を愛してくれるとは、真実とは思えないほど、素晴らしく思われます。あなたは僕の生涯を、すっかり変えました。僕たちは、初めて会った時から、お互いにわかっていたんだと思います。僕の美しいお嬢さん、新年おめでとう。
永久に君のものなる、マイケル
二月八日
最愛の人よ――僕はどんなに、もっと度々君に会いたく思っているか知れない。これは相当つらいことですね、僕はこうして秘密にしているのが、厭でたまらないのです。しかし事態がどういうふうになっているかを君に説明しました。僕は、君が嘘をついたり、隠しごとをしたりするのを、どんな嫌がっているか、よく知っています。僕だってそうなんですから。けれども正直なところ、これは計画をすっかりだめにしてしまうかも知れないからなのです。マシュー伯父は、早婚には絶対に反対で、それが男の一生を破滅させるという考えで、頭が変になっているのです。まるで君のような美しい天使が、僕を破滅させるかのように!
元気を出してください。すべてがよくなりますからね。
君の マイケルより
三月二日
僕は二日も続けて君に手紙を書くべきではないのは知っています、けれども書かなければならないのです。昨日、空へのぼった時、僕は君のことを考えていました。僕はスカーバラの上空を飛びました。神聖なる、神聖なる、神聖なるスカーバラ――世界中で最も素晴らしいところ。恋人よ、僕がどんなに君を愛しているか、君にはわからない!
君の マイケル
四月十八日
最愛の人よ、すべてのことは、決定的に、きまりました。もし僕がこれに成功すれば(僕はきっと成功します)マシュー伯父に対して強硬に出られるのです。で、もし伯父が好まなかったら……そんなことは僕は構いません。君がアルバトロスに関する長たらしい専門的な説明に、そんな興味を持ってくれるとは、君は実に可愛い人だ。僕はどんなに君を同乗させて行きたく思っているか知れない。いつかは! どうか頼むから、僕のことを心配しないでくれたまえ! 考えるほどの半分も、危険はないんです。君が愛していてくれることを知った今日、僕はどうしたって死ぬわけにはいかないんです。わが恋人よ、何もかもが、うまくいきますよ。
君のマイケルを信じてください。
四月二十八日
天使よ――君にいう言葉は、一つ一つ真実だ。僕はあの手紙を宝として大切にしておく、僕は君にとって半分もよくはない。君は、ほかの人たちとは、まるで違っている。僕は君を愛し崇めている。
君の マイケル
最後のは日付なしであった。
最愛の人よ、僕は明日出発します。素晴らしく頭脳がはっきりとして、興奮し、絶対成功の確信を持っています。親愛なるアルバトロスは、うまくやりますとも、決して僕を失望させっこない。
恋人よ、元気出して! 心配しないで! もちろん危険を冒さなければなりません。しかし人生はすべて冒険です。それはそうと、ある男が、僕に遺言状を作っておくべきだといいました(世才にたけた奴ですよ、でも為を思っていってくれたのです)それで僕は半ぴらの紙に書いて、ホワイトフィルドの弁護士のところへ送っておきました。僕は弁護士のところへ行く暇がないので、誰かが三語の遺言状を書いたということをききました。『凡《すべ》て母へ』と。それでも法律上認められるのだそうです。僕の遺言はどっちかというと、その種類です。僕は君の名が実際はマグダラだということを覚えていました。これはなかなか賢明だったと思います。二人の友人に証人になってもらいました。
この遺言のことをあまり、厳粛な意味に取らないでください、いいですか。(僕は事故なんか考えているのではありません)僕は雨の降るごとく正確ですよ、インドからも、豪州からも、そのほかからも電報を打ちます。安心していて下さい。うまくいくんですからね、わかったでしょう?
おやすみなさい! 神があなたをお恵み下さるよう!
マイケル
ポワロは手紙を再び一まとめにした。
「ヘイスティングス君、おわかりでしょう? 私は、確かめるために読まなければならなかったのです。私が君に話したとおりでした」
「でも、ほかの方法で、それを確かめることができたんじゃないですか?」
「いいえ、君、私には、それはできません。どうしても、この方法でなければならなかったのです。私どもはこれで、たいそう重要な証拠を得ました」
「どういう面でですか」
「私どもは、マイケルがニック嬢に有利な遺言をしたということの、実際に書かれた記録があることを知りました。この手紙を読んだ者は、誰でもその事実を知るでしょう。そして、この手紙がこんなに無雑作に隠してあったのでは、誰でも読むことができました」
「たとえばエレンですか?」
「エレンはまず確実に読んでいたでしょうね。この家を出る前に、ちょっとした実験をしてみましょう」
「遺言状はどこにも見当たりませんでしたね」
「妙なことです、恐らく書棚に投げ上げてあるとか、陶器の壷の中へ、突っこんであるのでしょう。私どもはニック嬢に、その点の記憶をよび覚ましていただくようにしましょう。とにかく、ここにはもう何も捜すものはありませんね」
われわれが階段をおりて行くと、エレンは玄関の廊下のほこりを払っていた。
そばを通りしなに、ポワロは非常に愛想よく、彼女に挨拶をした。そして玄関の戸口で振り返って、
「あなたは、たぶんお嬢様が飛行家のマイケル・シートン氏と婚約していらしたのを、ご存じだったのでしょうね」
エレンは、眼をみはった。
「何ですって? 新聞に騒がれている、あの方と?」
「そうです」
「さあ、私には考えられません。ニック嬢様と婚約なんて」
われわれが外へ出てから、私は、
「疑う余地のないほど、完全に絶対の驚きを示しましたね」といった。
「さよう、全く真物《ほんもの》らしく見えましたね」
「たぶん、本当に驚いたんでしょう」
「あの手紙が何カ月も下着の下に、ほってあったのにですか? 君、それはちがう」
「それでいいさ。われわれ誰でもが、エルキュール・ポワロではないのだから、何も自分に関係ないところへ、鼻を突っこむことはない」と私はひそかに考えていた。けれども私は何もいわなかった。
「このエレン……彼女は謎です。私はどうも面白くない、何か私に理解できないものがある」と、ポワロはいった。
遺言状の謎
われわれは真っすぐ、療養所へ戻って行った。
ニック嬢は、われわれを見てやや驚いたようであった。ポワロは、彼女の顔に答えて、
「さよう、お嬢様、私はびっくり箱みたいでございますね。また飛び出しました。先ず、私どもがお嬢様のものを、整理したことを申し上げましょう。もう何もかもきちんと揃えてございます」といった。
「そうね、もうそろそろ整理しなければならない頃だった。ポワロさん、あんた奇麗好き?」ニック嬢は微笑をおさえきれずにいった。
「ここにいる、ヘイスティングス君に、お聞きになって下さいまし」
ニック嬢は、物問いたげな眼を私に向けた。
私はポワロの、ちょっとした風変わりな癖を語りきかせた。……トースト・パンは四角なパンを使わなければ承知しないこと。卵は大きさが揃っていなければいけないこと。運動競技としてゴルフは『形がなくて、でたらめだ』といって異議を持っていること、何しろすべてが箱のごとく形があって、きちんとしていなければ気のすまない人であること。そして最後にポワロが飾り棚の上の飾り物を真っすぐにする癖によって、ある有名な事件を解決した話で結んだ。
ポワロは、傍《わき》で微笑していた。そして私が語り終ると、
「なかなか上手にお話をつくりましたね。しかし全体として真実のことです。お嬢様お考えになって下さいまし、私はヘイスティングス君が、横から分けている髪を、真中から分けるようにさせようと思って、絶えず努力しているのでございますよ。ごらんなさいまし、あの不均等、不調和が、ヘイスティングス君の風采をどんなにしているかを!」
「それじゃ、ポワロさんは、あたしなんか気に入らないわね、あたし髪を横で分けている。きっとフレディはいいんでしょう。真中から分けているから」とニック嬢はいった。
「そういえば、ポワロさんは、あの晩もフレデリカ夫人をほめていましたっけ、そのわけが、今わかりましたよ」と私は意地悪くいった。
「それで、もう沢山です。さて、私は重要な用件があってここへ参ったのでございます。お嬢様、あなたの遺言状が見つからなかったのでございますよ」
「あら! そんなの、どうでもいいじゃない! 結局、あたし死ななかったんだし。死ななければ、遺言状なんてちっとも、重要じゃないでしょう」ニック嬢は、眉をひそめていった。
「その通りでございます。けれども私はその遺言状に関心を持っているのでございます。私はそれに関してさまざまな考えを持っております。お嬢様、お考え下さい。どこへお置きになったか思い出して下さいませんか、最後に、どこでごらんになりました?」
「あたし、どこって、特別の場所に置いたことないの。きっとひきだしの中へでも、放りこんだはず」
「何かの拍子に、秘密の戸棚にお入れになりませんでしたか?」
「秘密の何?」
「お宅の客間か書斎に、秘密の戸棚があると、エレンが申しておりました」
「ばからしい! あたし、聞いたことない、エレンがそんなこといったの?」
「エレンは、若い娘のころも、お宅にご奉公していたようでございますね。料理番が見せてくれたそうでございます」
「そんなことあたし初めて聞いたわ。祖父は知っていたかも知れないけど、あたしに話さなかった。でも、祖父があたしに話さないなんて、そんなことありえない。ポワロさん、エレンが、こしらえごとをいったんじゃないんですか?」
「お嬢様、私にもそこまではわかりませんが、何か訳がありそうです……エレンには、何か変なところがございますね」
「あら、あたしエレンが変だなんて、思わないわ。亭主のウィリアムは低能だし、あの子供はいやなけだものだけど、エレンは立派よ。恥ずかしがらぬ人物の標本」
「お嬢様は、昨晩エレンに、庭へ出て花火を見物する許可をお与えになりましたか?」
「もちろんよ。あれたちは、いつだってそうするわ、片づけものは後まわしにして」
「けれども、エレンはそうしませんでした」
「あら、そうしたわ」
「お嬢様は、どうして、それをご存じで?」
「そうね……わからない。あたしがそういったら、お礼いったから……そうしたと思っていたの」
「ところが、エレンは家の中におりました」
「おかしいわ!」
「おかしいとお思いになりますか?」
「ええ。今まで、そんなこと、一度もなかったわ。なぜかって、あなたに話しました?」
「ほんとうの理由は申しません……と私は思いました」
ニック嬢は質問するように、ポワロを見つめた。
「それ、重要?」
ポワロは、両手をひろげて見せた。
「それが、私にはわからないのでございますよ、お嬢様。これはおかしいぞ! というだけのところでございます」
「秘密の戸棚のこともね。すごく奇妙だと思わないではいられない……納得できないし、あの人、その場所がどこにあるか、あんたに見せた?」
「思い出せないと申しました」
「そんなものあるなんて、あたし、信じない」
「確かにそうでございますね」
「可哀そうに、頭が少し変になったんだわ」
「エレンはたしかに、来歴を物語っておりました。それからまた、エンドハウスは住んでいるのには、いい家でないとも申しました」
ニック嬢は、かすかに身震いをした。
「その点、あの人のいう通り。あたしも時々、そんな風に感じることある。あの家の中には、奇妙な空気があるの……」
彼女の眼は、大きな黒味を増して、宿命的な表情を帯びていた。ポワロは急いで、彼女を他の話題に引き戻した。
「私どもは、問題から大分それましたね、お嬢様。遺言状、マグダラ・バックリーの署名のある遺言状でございます」
「あたし、そう署名したのを覚えている。それから、すべての負債と遺言による費用を支払うことっていうのも書いた。あたし、自分の読んだ本で、そういうことを知ったの」
「遺言の書式をお用いにならなかったのですか」
「ええ、その暇がなかったの。病院へ出かける前だったし、クロフトさんが遺言の方式通りすると、たいへん危険だからって。あまり法律的にするよりも、簡単な遺言状にしておく方がいいって」
「クロフトさん? そこにいたのでございますか」
「そう。あたしに、遺言状ができているかどうかって、たずねたのはあの人。あたし、そんなこと考えたこともなかったの。あの人ね、もしもあたしが死んだ場合に無……無……」
「無遺言死亡者?」と私はいった。
「そうなの、もしあたしが無遺言死亡者になれば財産は国家に没収されてしまうから、そりゃ実に惜しいことだって」
「大そう役に立つ、素晴しいクロフトさん!」
「そうなの、あの人がエレンとウィリアムを、証人に呼びこんだの。あら! あたし、何ていうばかなんだろう」とニック嬢が、急に叫んだ。
われわれは彼女の顔を見つめた。
「あたし全くばかよ。あなた方に、エンドハウスを捜させるなんて。もちろん、チャールズのところにあったのに、あたしの従兄のチャールズ・ヴァイス」
「ああ、そういう訳だったのでございますか」
「クロフトさんが、それを保管する正当な人は、弁護士だっていったの」
「それが正しいことでございます。クロフトさんは立派でいらっしゃる」
「男の人って、時には役に立つものね。あの人、弁護士か銀行っていったの。で、あたしチャールズが一番だっていった。そこで、あたしたち、それを封筒に入れて、直接チャールズへ送ったの」
彼女は、ため息をついて、クッションによりかかった。
「あたし凄くばかだった! ごめんなさい、でも もうこれでいい。チャールズが持っているから、もしあんたが本気で見たいなら、チャールズが見せてくれるわ」
「お嬢様の認可なしでは、だめでございましょう」とポワロは微笑しながらいった。
「ばかくさいわ」
「いいえ、お嬢様、それは慎重を期するためでございます」
「でも、ばかげているわ。何て書けばいいの? 犬に兎を見せよ?」
彼女はベッドのわきの小テーブルから、紙を取った。
「何ですって?」
私はポワロのびっくりした顔を見て、笑った。
彼は、所定の言葉を口述し、ニック嬢がそれを従順に筆記した。
「ありがとうございます。お嬢様」ポワロはその認可状を受取りながらいった。
「こんなに世話やかして、すみません。でもあたし、すっかり忘れていたの。人ってよく、ど忘れするものね」
「心に順序と方式を持っておりますと、物忘れしないものでございます」
「あたし、何かそんなような勉強しなくちゃ。あたし劣等感を抱かされたわ」とニック嬢はいった。
「そんなことございませんよ。ではお嬢様、さようなら。おや、美しいお花でございますね」彼は部屋の中を見まわしていった。
「そうでしょう? カーネーションは、フレディから、ばらはチャレンジャーから、百合はラザラスから。それから、ほら……」
ニック嬢はわきにあった、温室ぶどうの大きな籠の包み紙を取って見せた。
ポワロは顔色をかえた。彼はさっと前へ出た。
「召し上がりはしないでしょうね」
「いいえ、まだ」
「いけません、お嬢様。外部から来たものは、召し上がってはなりません。何一つ! おわかりになりましたね」
「あら!」
彼女は彼を見つめた。彼女の顔色が次第にあせて行った。
「そうなの……あなたは、まだ終らないと思っているのね、まだ、誰かがあたしを狙っているというのね」と彼女はささやいた。
ポワロは彼女の手をとった。
「そんなことをお考えなさいますな、ここにいらっしゃれば安全でございます。けれども、お忘れにならないで下さいまし、外部から来たものは、何も召し上がらないことでございます」
私は、部屋を出る時に、枕の上の恐怖に青ざめた顔を意識していた。
ポワロは腕時計を見た。
「よし、これから行けば、ヴァイス弁護士を昼食に出かける前につかまえられます」
到着すると早速にわれわれは、ヴァイス氏の事務室へ通された。
若い法律家は立ち上がって、われわれを迎えた。彼は相変らず無表情で、形式ばっていた。
「ポワロさん、お早うございます。どういうご用をお勤めさせていただけましょうか」
ポワロは、何の面倒もなく、ニック嬢の書いた認可状をさし出した。弁護士はそれを受取って読み終ると、当惑した様子でわれわれを見つめた。
「失礼ですが、私にはどう解釈すべきか見当がつきかねます」
「お嬢様は、用件をはっきりお書きになりませんでしたか」
「この書面には、二月一日に私に保管法を依頼した遺言状を、あなたにお渡しするようにと書いてありますが」と弁護士は、ニック嬢の手紙を爪先ではじきながらいった。
「その通りでございます」
「ところが、私は、遺言状の保管は託されておりませんのです」
「そうでしょうか」
「私の知る限りでは、従妹《いとこ》は遺言状を書いたことはありません。また、私も確かにそういうものを作成してやったことはありません」
「お嬢様は、半折のノートの紙にお書きになって、郵送なすったと伺いました」
弁護士は首を振った。
「その件につき、私が申し上げられるのは、決して受け取っていないという事だけです」
「ヴァイスさんは、ほんとうに……」
「私はほんとうにそういうものは、受け取った事がありません。ポワロさん」
しばらく沈黙が続いた後、ポワロは立ち上がった。
「そうだといたしますと、ヴァイスさん、もう何も申し上げる事はございません。何かの間違いでございましょう」
「たしかに、何かの間違いです」弁護士も立ち上がった。
「さようなら、ヴァイスさん」
「さようなら、ポワロさん」
もう一度、往来へ出た時、私は、
「そういう事だったのか」とつぶやいた。
「正にそうだ!」
「嘘をついていると思いますか?」
「それは知るのは不可能ですね、ヴァイス氏は無表情な顔の持ち主の上に、何か呑み込んでしまったようなようすをしていました。一つだけ明らかなのは、現在とった立場から動かないだろうということです。彼は決して遺言状を受取らなかったという立場をあくまで固持しますね」
「ニック嬢はきっと、遺言書の受取りを持っているにちがいないと思いますが」
「まあ、ないでしょう。あのお嬢様は決してそういうことに頭を使いませんからね。郵便を出してしまえば、もうそのことはわすれてしまいます。それに、その当日、お嬢様は盲腸の手術を受けに病院へいらしたのですからね。きっといろいろな感慨に耽っておいでだったろうと思われます」
「では、われわれはこれから、どうするんですか」
「クロフト氏に会いに行きましょう。この件について、どんなことを覚えているのか、聞いてみましょう。どうもいろいろとあの人が画策したように思われますね」
「それにしても、クロフト氏は何の利益も得ないですね」と私は考えながらいった。
「そのとおり、どんな利益も考えにくい。あの人は恐らく単なる世話好きなのでしょう。隣り近所の人の事柄を処理するのが好きな男なのです」
そうした態度は、たしかにクロフト氏の特徴だということを私は感じた。彼は親切で、物知りで、世間にとかく刺激を与える原因をつくる人物であった。
われわれは、シャツの腕まくりをして、台所で忙しく湯気のあがっている鍋をかきまわしている彼を見出した。この上もなくいい匂いが家中に漂っていた。
彼は明らかに殺人について話したがっていると見えて、大喜びで料理から手を引いてしまった。
「ちょっくら、お待ちなすって、二階へどうぞ。おっかさんも、仲間入りしたいだろう。ここでわしらが話したなんてきいたら、承知しますまいって。ミリーや! お友達がお二人あがって行きなさるよ」
クロフト夫人は、われわれを温かく迎え、ニック嬢の消息をききたがった。
「お可哀そうなお嬢さん、療養所に入っておいでなんだそうで、すっかり打ちのめされておいでだとか、無理もありませんよ。恐ろしい事件ですねえ、ポワロさん……全く恐ろしいです。あんな罪もない娘さんが、射殺されるなんてねえ。考えても堪らない気がしますよ、全くねえ! それが法律のない世界の端《はず》れっていうのでもありませんのに……この文明国の真ん中でね……私、夜、眠れないんですよ」と彼女はいった。
「おっかさんや、お前さんを残して外へ出るのがわしゃ心配だよ。昨夜《ゆうべ》なんかお前さんを一人家へ置きっぱなしにしたと思うと、身の毛がよだつよ」といいながらクロフト氏は、上衣を着て、われわれの仲間に加わった。
「あなたは、もう二度と私を置いていくなんてことしなさらないでしょうね。ことに日が暮れて後はね。私はできるだけ早くこんな土地を離れたいと思っているんですよ、私はもう二度と、前と同じ気持ちになれないと思うんですよ。お気の毒なニックお嬢さんは、あのお家ではもう眠られなさらんと思いますよ」とクロフト夫人はいった。
われわれの訪問の目的に達するのは、少々困難であった。クロフト夫妻は、どっちも、あらゆる事を知りたがって、話し続けるのであった。死んだお嬢さんの家の人たちは、ここへ来るだろうか? 葬式はいつか? 審問があるだろうか? 警察ではどう考えているか? まだ手掛りは見つからないか? プリマスで男が逮捕されたというの、真実か?
それらの質問に対する答えを得てしまうと、夫妻は、われわれに昼食を出すといい張るのであった。われわれは急いで帰って警察署長と昼食を共にしなければならないという、ポワロの虚偽の申し立てがわれわれを救ったのであった。ようやく、話がとぎれたので、待ち構えていたポワロは、たずねようと思っていた質問を出した。
クロフト氏は、日除けのひもを一、二度、上下に引き、眉をひそめながら、
「もちろん覚えておるですとも、あれはたしか、わしらがここへ初めて来たころのことでござんした。盲腸炎……医者がそういったんざんしたよ」
「でも盲腸じゃなかったかも知れないんですよ。お医者なんて、じきに切りたがるもんですからね。ともかく、手術を受けなければならないもんじゃなかったんですよ。消化不良かなんかで、X線をかけて、入院したほうがいいっていわれたんだそうですよ。そして今度はまた、あのいやな療養所へなんかやられて、可哀そうにねえ」と、クロフト夫人がいった。
「わしゃ、ほんの冗談に、遺言しましたかってなことをいったんでござんすよ」
「それで?」
「お嬢さんはその時その場で書きなすったです。郵便局で用紙をもらってくるといいなすったから、わしは、そんなことしなさるなって、忠告したですよ。どうかすると、いろいろ面倒があるってことを人から聞いたことがござんすんでね。ともかくも従兄《いとこ》が法律家だっていうから、任せておけば、それですべてがよかったら、正当なやつを作るだろうってね。もちろん、わしはいいにきまっているのは分っておったですよ。こいつは全く用心にやったことだったんでござんすよ」
「誰が証人になりましたか」
「はい、女中のエレンとその亭主がなったです」
「それから、それをどうしましたか」
「ヴァイス弁護士のところへ、郵便で送ったですよ」
「それが投函されたのを知っているのですか」
「ポワロさん、わしが投函したですよ、門のわきの郵便ポストに、このわしが入れたですよ」
「すると、ヴァイス弁護士が、決して受取らないとなると……」
クロフト氏は眼を見はった。
「郵便で紛失してしまったと、いわれるんですかい。そんなこと、あるはずのもんじゃござんせんがねえ」
「とにかく、君が投函したことは確かですか」
「確かですとも、わしゃいつだって、誓うですよ」
「幸いにして、これは大して問題ではありません。お嬢様は当分まだ死なれるようなことはありません」
われわれがそこを出て、ホテルへ向う途中、クロフト夫妻に聞こえないところまで行った時に、ポワロはいった。
「さて、誰が嘘をいっておりますでしょうか? クロフト氏? ヴァイス弁護士? 私はクロフト氏が嘘をつくという理由を見出せないのです。遺言状を握りつぶしたところで、何の利益にもならないでしょう。ことに自分がいい出して作らせたとなりますとね。彼の陳述ははっきりしていますし、それにニック嬢が私どもにお話しになったのと、ぴったり符合しております。しかし、それにしても……」
「それで?」
「それにしても、私どもが着いた時に、クロフト氏が料理していたのを、私は喜んでおります。あの人は台所のテーブルにかぶせてあった新聞の一隅に、親指と中指のあぶらっぽい指紋を、はっきりと残しておいてくれました。私どもはそれをジャップ警部のところへ送るといたしましょう。もしかするとクロフト氏が、この事件について何か知っているかも知れないという、手掛りになるかも知れませんからね」
「それで?」
「ねえ、ヘイスティングス君。私はね、わが愛想よきクロフト氏が、真物《ほんもの》としてはあまりに愛想がよすぎるように思われてならないんですよ」といってから、ポワロは、
「さてと、私は空腹で気が遠くなりそうですよ」とつけ加えた。
食物は許可されないのです
警察署長をだしに使ったポワロの言い訳は、まったくの嘘というわけでもないことになった。昼食の直後にウェストン署長が、われわれを訪問したからである。
彼は長身で、軍人らしい態度の、かなりの好男子であった。彼はポワロの業績をよく知っているらしく、ポワロに対して相当の敬意を表していた。
「ポワロさんが、この土地へ来合わせておいでだったのは、実にもっけの幸いでありました」と彼は幾度となくくり返していった。
署長の恐れていたのは、ロンドン警視庁の援助を乞わなければならないような破目に陥ることであった。彼はどうかして中央の助けなしにこの怪事件を解決して、犯人を逮捕したがっている。そこでポワロがこの地方にいることを、そんなに喜んでいるのであった。
私の判断によると、ポワロは署長にすっかり腹心の友とされているようであった。
「実にいまいましい、おかしな事件であります。こういう事件は、今まで聞いたこともないです。そりゃあ、娘さんは療養所にいれば安全でありましょうが、永久にあそこへ置くわけにも、いきますまい」と署長はいった。
「署長、そこが困るところなのですよ。それを解決する道は、ただ一つしかありません」
「それはなんですか」
「私どもが、この事件の責任者を捉えることです」
「もしあなたの危ぶむ通りだとすると、こりゃ容易なことではありますまいな」
「まことに、おおせのとおりです」
「証拠! 証拠を得るというのが、厄介なことでありますな」署長は、眉をひそめていたが、
「手掛りになるものが何もない事件というものは、常に困難であります。せめてピストルでも入手できましたらなあ」といった。
「恐らくピストルは海の底でしょう。もし殺人者に少しでも頭があれば、そういうことですね」
「ああ! しかし彼らはしばしば、その頭がないのであります。人間が愚かな真似をするには、驚かされるのであります。私は殺人犯人のことをいっておるのではありません。この地方には、ありがたいことにはあまり殺人事件はないのです。しかし普通の軽犯罪裁判所で扱う事件でありますが、あの連中の、全く馬鹿さかげんには、あなたなんか、呆れるでありましょうな、頭脳が全然違うのでしょうが……。
ところで、もしヴァイスが犯人だとすると、われわれは手を焼かにゃならんでしょうな。彼は用心深い男で、頭脳明晰な法律家だ。彼はボロを出さないでしょう。女ならば、こりゃもっと望みがありましょうな、十中九までは女は同じことをまたやるです。女というものは忍耐心がないものであります」
彼は立ち上がった。
「審問は明朝あります。検死官はわれわれに協力して、できるだけ発表を控えてくれることになっておるです。目下のところ、このことを秘密にしておきたいのであります」
彼は戸口へ行きかけたが、急に戻ってきた、
「これはしたり、私はあなたが非常に興味を持たれるだろうと思われる、大切なことを忘れておったです。それに対するあなたのご意見を伺いたいのであります」
署長は再び椅子に腰をおろして、何か書いた紙切れをポケットから出して、ポワロに渡した。
「私の部下が、屋敷内を調べた時に、発見したのであります。あなたらが花火見物をしておられたところから、あまり遠くないところで。それが部下どもがあそこで発見した唯一の、手掛りになりそうなものであります」
ポワロは紙の皺《しわ》をのばした。書かれた文字は大きく、ばらばらであった。
すぐ金が必要。もしもそうしてくれなければ……そういうことになる……これは私の警告……
ポワロは、眉をひそめて、何度も読み返した。
「これは興味があります。お預かりしておいてよろしいでしょうか」といった。
「いいですとも、それには指紋はないです。何か役に立ててもらえたら、ありがたいですな」
署長は再び立ち上がった。
「さあ、今度こそ、お暇《いとま》せにゃならん。審問は、さっきもいったように明朝でありますが、ポワロさんは証人には呼ばれんです。ヘイスティングス大尉だけにお願いします。新聞社の連中に、ポワロ氏がこの事件に携っておられることを知らせたくないのであります」
「よくわかりました。それからあのお気の毒な若いお嬢様のご親戚の方々は?」
「両親がヨークシャーから今日来るのです。五時半ごろ到着するでありましょう。気の毒に……実に同情にたえんです。審問の翌日、遺骸を持って帰るのだそうです。不愉快なことです。私はこの仕事を楽しむわけにいかんですよ。ポワロさん」といって、署長は首を振った。
「誰が楽しめましょう。署長さんのおっしゃる通り、不愉快な仕事でございますよ」彼が立ち去った後で、ポワロは例の紙片をもう一度調べた。
「重要な手がかりですか?」
「そんなことが、どうしてわかりましょう? しかし、これには脅迫の雰囲気があります。あの夜のパーティにいた人たちの中の誰か一人が、お金の必要に迫られていたようです。もちろん、あそこへ来ていた未知の人物だったかも知れませんがね」
ポワロは小さな拡大鏡で、文字を見た。
「この筆跡は、君には全然見覚えがありませんか? ヘイスティングス君」
「ちょっと何かを思い出させる……ああ、わかった……それはフレデリカ夫人の短い走り書きです」
「さよう、似ているところがあります。確かに似ています。妙です。しかし、私はフレデリカ夫人の書いたものとは考えません。おはいりなさい」
ポワロは、ドアを叩く音に答えた。
それはチャレンジャー中佐であった。
「ちょっと覗きに来たんです。その後進行したかどうか、知りたいと思って」
「それどころでなく、ここのところ、私はかなり後退したように感じています」とポワロはいった。
「それは困ったですね。しかしポワロさん、僕は本気にしませんよ。僕はあなたの噂をすっかり聞いているし、あなたがどんなに素晴しい人か知っていますもの。決して失敗したことがないっていうじゃないですか」
「それは真実ではありません。私は一八九三年にベルギーで大失敗をしたことがあります。ヘイスティングス君は記憶しているでしょう? 君に話したことがありますよ、箱詰《はこづめ》チョコレート事件」
「僕は覚えています」といって、私は微笑した。というのは、ポワロがそれを語った後で、これからもしも、彼が自惚れていると気がついた場合は、『箱詰チョコレート事件』といってくれと、私に申しつけたからである。しかもその直後に、十五分も経たないうちに私がその魔法の言葉を使ったら、彼はひどく機嫌を悪くしたのであった。
「でも、それは、うんと昔の出来事だから、そんなのは、ものの数に入らんですよ、あなたはこの事件の真相を底まで極めるおつもりでしょう。そうですね?」
「それは、誓っていたします、エルキュール・ポワロの言葉に賭けて。私は一度匂いを嗅いだら、決してそれからはなれないで、どこまでも追跡して行く犬です」
「いいですね。何か考えがあるんですか?」
「私は二人の人物を疑っています」
「その二人が誰かをたずねるべきではないでしょうね」
「私はお聞かせしません。間違いかも知れませんからね」
「僕のアリバイは満足だと思いますね」チャレンジャー中佐は、微かに眼を輝かしながらいった。
ポワロは、眼の前の日やけした顔に、おしげなく微笑を注いだ。
「君は八時半ちょっと過ぎにデヴォンポートを出発して、十時五分にここへ到着しました。犯罪が行われてから二十分すぎてからでした。けれども、デヴォンポートからの距離はたった三十マイルほどで、道路がいいので、君は、時々一時間でここまで来ていました。どうです、この通り、君のアリバイは不十分です」
「僕は……」
「よろしいですか、私は何でも調査しますからね。私が申した通りで、君のアリバイは不十分です。しかし、ここにアリバイ以外に、もう一つのことがあります。君はニック嬢と結婚したいんでしょう?」
海の若人の顔は、真っ赤になった。
「僕はいつだって、彼女と結婚したがっていたんです」と彼は、かすれた声でいった。
「いかにも。ところでニック嬢は、他の男性と婚約していらっしゃいました。たぶんこれは他の男を殺す理由になりますね。しかしそれは不必要です。……その男性は英雄として死にました」
「そうすると、ニックがマイケル・シートンと婚約していたというのは、ほんとうなんですね? そんなような噂が、今朝は町中にひろがっている」
「さよう、噂というものが、どんなに早くひろまるものかということは、まことに興味のあることですね。君は、これまで感づいたことはありませんでしたか?」
「僕は、ニックが誰かと婚約していたのは知っていました……ニックが二日前に僕に話しました、けれども相手が誰であるかは、ほのめかしませんでした」
「それはマイケル・シートンでした。これは私どもの間だけのことですが、シートン氏はニック嬢にも大そうな財産をのこされたようです。君の立場からでも、これは決してニック嬢を殺す適当な時期でないことは、確実でございますね。お嬢様は、現在は恋人のために涙を流しております。けれども、われとわが心の慰めを得られるでしょう。あの方はお若くていらっしゃる。私は、あのお嬢様が君を好いておいでだと思いますよ……」
チャレンジャー中佐は、一、二秒黙っていたが、
「もし、そういうことになれば……」とつぶやいた。
誰かドアを叩いた。フレデリカ夫人であった。彼女は、チャレンジャー中佐に向かって、
「あなたを捜していましたのよ。で、ここにいらっしゃるって聞いたので。私の腕時計を取ってきてくれたかどうかと思って」
「はあ、今朝寄って取ってきましたよ」
彼はポケットから取り出して彼女に渡した。それは地球儀みたいな珍しい型の時計で、黒い波模様のバンドがついていた。私はそれと同じ型の時計を、ニック嬢の腕に見た覚えがあった。
「今度は、時間を正確に刻んでくれるでしょう」
「厄介ですわ、すぐ狂うんですもの」
「それは実用でなく、装飾用でございますね、奥様」とポワロがいった。
「兼用のものはないものでしょうか……」といって彼女は、われわれを見まわして、「あら、ご用談中を、お邪魔しまして」といった。
「いいえ、そんなことはございません、私どもは、犯罪のことではなく、噂のことを話しておりましたので……噂というものがどんなに早く拡まるものかということ、それで、ニック嬢が、空の勇士と、婚約していたことを、誰でもみんな知っているということを、話しあっていたところでございます」とポワロがいった。
「ニックが、マイケル・シートンと婚約していたですって?」とフレデリカ夫人は叫んだ。
「奥様は、驚きになりましたか?」
「少しはね。どうしてだか自分でも分かりませんけれど。去年の秋、私は確かにシートンが、ニックに夢中になっていると思いましたわ。しかしクリスマス以後、二人の熱は冷めてしまったようでしたの、私の知る限りでは、それっきり二人は会っていなかったようでしたわ」
「二人は秘密をよく守りましたね」
「それはマシュー卿のためだったのでしょう。あの方は、ほんとうに、少し頭が変だったらしいのね」
「奥様は、お嬢様とはご親友の間柄でいらっしゃいましたのに、それでいて、少しもお気づきにならなかったのでございますか?」
「ニックはその気になると、小さな悪魔みたいに無口になりますよ。でも今になって、あの人が最近、ひどく神経過敏になっていた訳がわかりましたわ。でも、この間あの人のいったことで、私、気づいたはずでしたのにね」と彼女は、つぶやいた。
「奥様のお友達は、大そう魅惑的でいらっしゃいますね」
「ラザラス君も、ひところは、そう思っていましたよ」といって、チャレンジャー中佐は、持ち前の無遠慮な大笑いをした。
「あら……」彼女は軽く肩をすくめたが、当惑しているようであった。
彼女はポワロのほうを向いた。
「ポワロさん、お聞かせになって。あなたは……」
といいかけてフレデリカ夫人は、急に黙ってしまった。背の高い体が、よろめき、彼女の顔はさらに青ざめた。彼女の眼はテーブルの中央に釘づけにされていた。
「マダム、ご気分が悪いんですね」
私は椅子を前へ押し出して、彼女を助けて腰かけさせた。彼女は首を振って、
「私、大丈夫ですの」とつぶやいて、両手で顔を覆い、前方へ寄りかかった。われわれは途方にくれて、見守っていた。
間もなく、彼女は起き上がった。
「何てばかげているんでしょう! チャレンジャー、そんなに心配しないで。さあ、殺人のことをお話ししましょうよ。私、ポワロさんが何か手掛りをおつかみになったかどうか、伺いとうございますわ」
「奥様、それを申し上げますのは、まだ早うございます」と、ポワロはあいまいにいった。
「でも、何かお考えがおありでしょう?」
「ええ。しかし私にはもっと沢山の証拠が必要でございます」
「そう!」彼女は、あやふやにいって、急に立ち上がった。
「頭痛がしますの、横になりましょう。たぶん明日は、可愛いニックに面会させてもらえると思いますのよ」
彼女は、不意に部屋を出て行った。チャレンジャー中佐は眉をひそめた。
「あの女は何を考えているのか、訳がわからない。ニックはあの人を好いているかも知れないが、あの女はニックを好きではないと思うな。いつも、可愛いニック、可愛いニックといっているけれど、『憎らしい奴』という意味だろう! ポワロさんは、外出されるんですか?」と彼はたずねた。それはポワロが立ち上がって、丹念に、帽子にブラシをかけていたからである。
「はい、私は町へ参ります」
「僕、何もすることないんです、一緒に行ってもいいですか」
「いいですとも、さあどうぞ!」
われわれは部屋を出た。ポワロは詫びて、後戻りをした。
「ステッキを忘れましたので」とポワロはわれわれに追いつくと説明した。チャレンジャー中佐は、ちょっと顔をしかめた。それもそのはず、浮き彫りを施した黄金の輪をはめたそのステッキは、ひどく華美であった。
ポワロが最初に訪ねたのは花屋の店であった。
「ニック嬢に、お見舞いの花をお届けしなければなりません」と彼は説明した。
彼は気に入ったのを選ぶのに、骨を折っていた。
最後に金色に塗った籠にオレンジ色のカーネーションを満たし、青リボンを大きく結んだのを飾らせた。
店員がカードを渡すと、彼は大きな気取った筆跡で、『お見舞い、エルキュール・ポワロより』と書いた。
「僕も今朝、花を届けた。今度は果物を贈ろうかな」とチャレンジャー中佐がいった。
「無駄です」とポワロがいった。
「何ですか?」
「無駄だと申したのです。食物は許可されないのです」
「誰がそういったのですか」
「私がそう申しました。私はそういう規則にしたのです。ニック嬢にも、そのことは含めてございます。お嬢様も納得なさいました」
「驚いた!」とチャレンジャーはいった。
彼はすっかり驚いてしまったようであった。
彼はポワロの顔を、探るように見つめていたが、
「そういう訳だったんですか? あなたは、まだ、危険をおもんぱかっているんですね!」といった。
ジャップ警部、ポワロの髭をほめる
審問は無味乾燥なものであった。まるで内容がなかった。死体確認に続いて、私が発見当時の証言をし、その後で医師の証言があった。
審問は、次の週に延期された。
セント・ルー殺人事件は新聞紙上に、大きく浮かび上った。実際それは『シートンは依然として行方不明、失踪せる飛行家の運命』という見出しに代わって、大きく扱われた。
今やシートンは死亡し、彼の追憶に対する賞讃が捧げられてしまうと、また新しいセンセーションがそれに続いた。セント・ルー怪事件は、八月という月のニュースに飢えていた新聞にとって、天与の賜物であった。
審問の後で、私は巧みに新聞記者連をまいてしまって、ポワロに会い、二人でジャイルズ・バックリー牧師とその妻とに、会見した。マギーの父母は、全く俗世から離れた、素朴な、愛すべき人々であった。
バックリー夫人は背が高く、金髪|碧眼《へきがん》で、一見して北方の祖先の血をひいている、特徴のある婦人である。その夫は小柄で、髪は白く、遠慮がちで、人の心に訴えるようなところのある人物であった。
気の毒に、この人たちは、『私どものマギー』と呼んで愛していた娘を、突然に奪い去った、思いがけない不幸に見舞われて、茫然自失しているのであった。
「今になっても、私はまだ信じきれないでおります。あんないい子でしたのに、ポワロさん! 温和《おとな》しくて、少しも我がままなところがなく、いつも他のひとのことばかり考えていた娘でした。誰があの子をひどい目に会わせようなんて考えたのでしょう」と父親のバックリー牧師はいった。
「私、電報を受取ったとき、何のことだか意味がわからないくらいでした。前の日の朝、あの子を見送ったばかりでしたのに」と母親はいった。
「生命のまっただ中に我ら、死を見る」と牧師はつぶやいた。
「ウェストン署長はご親切にしてくださいました。こういうことをした男を捕えるためには、どんなにでも手をつくすといってくださいました。狂人にはちがいありません。それよりほかに説明がつきませんもの」と夫人はいった。
「奥様、何とも申し上げようもないほど、お気の毒に存じます……そして奥様のご気丈でいらっしゃるのに、敬服しております」
「いくら悲嘆にくれても、マギーを呼び返すことはできませんもの」と夫人は悲しげにいった。
「家内は立派なものです。信仰と勇気は私よりも遥かに強いです。何としてもこの事件は全く不可解ですね。ポワロさん」と牧師はいった。
「そうですとも……そうですとも」
「ポワロさんは、えらい探偵でいらっしゃるんですね」と夫人がいった。
「そういわれたものでございますよ」
「おお! 私知っておりますよ、私どもの住んでいる、へんぴな村でも、お噂は聞こえています。あなたは真相を探し出してくださるんですね、ポワロさん」
「それをつきとめるまで、私はやすみません。奥様」
「ポワロさんは、必ず明らかにしてくれるでしょう。悪は罰せられずにはいないものです」牧師は震え声でいった。
「悪は決して罰せられずにはすみませんが、時によると、その罰は秘められていることもございます」
「それは、どういう意味ですか? ポワロさん」
ポワロは首を振っただけであった。
「可哀そうなニック、私は何よりもあの娘《こ》が可哀そうでならないのです。胸の迫るような手紙をもらいました。あの娘《こ》は、マギーを死なせにここへ招待したような気がすると書いてよこしました」と牧師夫人はいった。
「それは病的な考え方だ」と牧師はいった。
「ええ、でも私にはあの娘《こ》がどんな気持でいるかよく解ります。面会させてもらえるといいと思いますよ、身内の者も会わせないとは、ひどく奇妙なことですね」
「医師や看護婦というものは、厳しいものでございます。規則は何としても動かすことはしません、それに患者の興奮を心配しておりますのでしょう。あなた方に会われた時に持つ、ごく自然の感情でございます」とポワロはいいわけするようにいった。
「そうかも知れません。けれども私は療養所にはあまり賛成できません。ニックは、この土地を離れて、私どものところへ来るほうが、ずっと身体のためにいいと思いますが……」と牧師夫人は疑うようにいった。
「そうにちがいありませんが、医師が許しますまい。あなた方は、ニック嬢に最近いつお会いになりましたか」
「昨年の秋以来、私どもは会っておりません。当時あの娘《こ》はスカーバラに行っておりました。それで私どものマギーが出かけて行って会い、、それからあの娘がマギーと連れ立って私どものところへ来まして一晩泊っていきました。なかなか奇麗な娘です……でも私はあの娘の友達っていうのはあまり感心しません。それにあの娘の暮らし方も。けれども、それはあの娘のせいではありません。可哀そうに、あの娘は家庭教育というものをまるで受けていないのですから」
「奇妙な家です……あの、エンドハウスは」とポワロは考えこみながらいった。
「私はきらいです、昔からです。あの家には、何かよくないところがあります。私はニコラス卿もきらいでした。あの人に会うと、私は身震いしました」
「いい人間ではないが、彼はふしぎな魅力を持っていた」と彼女の夫はいった。
「私は、そんなものを感じたことがありません。あの家には、何か邪悪な感じがありました。マギーを、あんな家にやらなければよかったと思います」
「ああ! 今さら何をいっても……」と牧師は首を振った。
「さあ、あまり長くお邪魔してはなりません。私はただお悔やみを申し上げたいと思って、うかがったのでございます」とポワロはいった。
「本当にご親切さまでした、ポワロさん。私どもは、あなたのして下さるすべてに対して、感謝しております」
「ヨークシャーへ、いつお帰りになりますか」
「明日。悲しい旅です。さようなら、ポワロさん。ありがとうございました」
外へ出てから私は、
「とても素朴な、気持のいい人たちですね」といった。
ポワロはうなずいた。
「まことに、胸の痛む思いですね。君、無茶な悲劇です……何の目的もない。うら若い娘を、ああ! 私は自分を激しく責めております。このエルキュール・ポワロが、その場にいながら、防止することができなかったとは!」
「誰だって防止することはできなかったですよ」
「ヘイスティングス君、君は反省しないで物をいいますね。普通の人には誰も防止できません、しかし普通人よりも優れた脳細胞を持っているエルキュール・ポワロが、普通人のできないことを、処理できないようでは、何の甲斐がありましょう?」
「そうですね、もちろん、あなたが、そういう考え方ならば……」
「さよう、私は恥じ入り、失望し、完全に失意の人です」
ポワロの失意はふしぎにも、他の人の自惚れみたいだと思ったが、私は慎重にそれを口に出さないでいた。
「さあ、出かけましょう、ロンドンへ」と彼はいった。
「ロンドンへ?」
「さよう、私どもは楽々と二時の列車に間に合いますよ。ここは異常なしです、ニック嬢は療養所で安全です、誰も害を加えることはできません。それゆえ、番犬は暇をもらうことができます。二、三、ちょっとした情報を得たいのですよ」
ロンドンへ着いて、第一のわれわれの行動は、シートン大尉の顧問弁護士、ホワイトフィルド法律事務所を訪ねることであった。
ポワロが前もって打ち合わせしておいたので、六時を過ぎていたにもかかわらず、われわれは直ちに所長のホワイトフィルド氏の私室に通された。
彼は非常に洗練された印象的な人物であった。彼の前には警察署長からの手紙と、もう一通、ロンドン警視庁の高官からのが置いてあった。
「これは、大変に例外で、異常なことですね……ポワロさん」彼は眼鏡をふきながらいった。
「おっしゃる通りです。ホワイトフィルドさん。しかし殺人事件も、異常なことでございます。非常に異常な出来事と申し上げられるのを、私は満足に思っております」
「その通りですとも。しかしいささか範囲をひろげ過ぎるきらいがございますな、この殺人事件を、今は故人となった依頼人の遺産に関係づけるとは」
「私はそうは思いません」
「なるほど、あなたはそう思われない。とにかくヘンリー卿がこの書面の中で、その点を強調しておられるのですから、私の力の及ぶ限り、何でも喜んでいたしましょう」
「あなたは、亡くなったシートン大尉の法律顧問をしておいでだったのですね」
「シートン家の全体の顧問を承《うけたまわ》っておりました。当法律事務所は過去百年間、シートン家の法律顧問を勤めてきておるのであります」
「さようでございますか、で、故マシュー・シートン卿は、遺言状を作成しておかれましたでしょうか」
「当事務所で作成いたしました」
「卿は、財産を、どういう風に処理されましたでしょうか」
「贈与遺産が、種々ありました……たとえば博物館とか……しかし莫大な財産……巨万の富と申しましょう……が、マイケル・シートン大尉に無条件で遺されたのでした」
「巨万の富とおっしゃるのですか」
「故マシュー・シートン卿は、英国で第二番目の富豪でした」とホワイトフィルド氏は、落ちつき払って答えた。
「卿は、多少、変わった見解を持っておいでだったようですね」
ホワイトフィルド氏は、厳しくポワロを見つめた。
「ポワロさん、億万長者というものは、風変わりであることがゆるされるべきであります。ほとんどが皆、多少変わっております」
ポワロはその抗議を、温和《おとな》しく受け流して、別の質問に移った。
「卿の死は、予期されていなかったと承知しておりますが?」
「非常に思いがけないことでした。マシュー卿は稀に見る健康の持ち主でした。しかしながら、誰も気づかない、体内組織の病的増殖があったのでした。それが致命的組織に及んだので、即時手術が必要となったのです。手術は、こうした場合、常にそうであるように、完全に成功でありました。しかしマシュー卿は死亡されました」
「そして遺産がシートン大尉のところへきたと申すわけでございますね」
「その通りです」
「シートン大尉は英国出発直前に、遺言状を書かれたと承知しておりますが」
「そうです……もしそれが遺言状といえるものでしたら」
ホワイトフィルド氏は、ひどく不満らしくいった。
「それは法律的に効力のあるものでしょうか」
「完全に法律に叶《かな》っております。遺言者ははっきりしておりますし、正式に証明されております。はい、法律上正当なものです」
「しかしあなたは、それをあまり快く思っておいでにならない?」
「そのとおりです」
私は時々思い出して不思議に思うことがある。かつて私が、ごく簡単な遺言状を書いたところ、顧問弁護士の事務所から、それを手直しして返してきたのだが、私はその長さと、冗漫さかげんに恐れをなしたことがあった。
ホワイトフィルド氏は、言葉を続けた。
「実のことを申しますと、シートン大尉がその遺言状を書いたときには、遺すような財産は一つもなかったのであります。大尉は伯父上からの仕送りによって生活していたのであります。察するに大尉は、どんな短い遺言状でも構わないと思っておったのでありましょう」
「で大尉の遺言の中味は?」と、ポワロがたずねた。
「大尉は自身の死んだ後に遺るすべてを、無条件で、妻となるべき婚約者、マグダラ・バックリーの所有に帰すということで、私を遺言執行人と指定してありました」
「するとバックリー嬢は遺産を相続されますね」
「確かにバックリー嬢が相続します」
「で、もしも嬢が先週の月曜日に死んだといたしましたら?」
「シートン大尉が先に死んでおりますから、遺産は、バックリー嬢の遺言状に残余財産被遺贈者として指名されている人のところへいきます。遺言状のない場合は、彼女の最近親者にいきます」といってから、ホワイトフィルド氏は、さも愉快がっているようなようすで、
「遺産相続税は、莫大なものだと思いますな、莫大ですとも! よろしいですか、続けて三つの死が重なることになりますからな、莫大な税金です」と、首を振りながらいった。
「しかし、いくらか残りましょうね」ポワロは弱々しくつぶやいた。
「先刻から申し上げておりますように、マシュー卿は英国第二の富豪なのでありますぞ」
ポワロは立ち上がった。
「いろいろと情報をお与えいただきまして、まことにありがとうございました。ホワイトフィルドさん」
「どういたしまして、どういたしまして。私はバックリー嬢に連絡いたすはずということも、申し上げておきましょう。既に書面が発送されておるかも知れませんです。私が何かお嬢様のお役に立つことができますれば幸いであります」
「あのお嬢様は、まだ若いのですから誰か、しっかりした法律顧問が必要でしょう」
「財産目的の求婚者が現われることでしょうな」と、ホワイトフィルド氏は首を振りながらいった。
「正しくその通りでしょう。では、さようなら」とポワロもいった。
「さようならポワロさん、お役に立つことができまして欣快《きんかい》にたえません。あなたのお名前は、よく耳にしております」
彼はこの最後の言葉を、まるで貴重な承認を与える人のようなようすで、いともねんごろにいった。
外へ出た時 私は、
「ポワロさんの考えた通りでしたね」といった。
「君、当然かくあるべきだったのですよ。他にありようがありません。さて私どもはこれからジャップ君と早目の夕食をするために、チェシャー・チーズへ参りましょう」
われわれが着くと、指定の場所に、警視庁のジャップ警部が待っていた。
「ポワロさん、ずいぶん久しぶりでしたなあ。あなたは田舎で野菜作りをしているとばかり思っておったですよ」
「私はそのつもりで、やっていたんですが、野菜作りをしていてさえも、殺人から遠のくわけにはいかないものですよ。ジャップさん」
ポワロはため息をついた。私は彼が何を考えているのか知っていた。……アクロイド氏事件だ。私は、その当時、遠い土地へ行っていたことを、実に残念に思っている。
「それから、ヘイスティングス大尉もその後いかがですか?」
「至って元気です。ありがとう」
「で、更にまた殺人があったというのですかい」とジャップ警部はおどけた調子でいった。
「仰せの通り、更にまた殺人ですよ」
「大将、見通しが利かなくなったからって、悲観しなさるな! もうその年になって、まだ、昔のように成功しようたって無理でさあね。われわれはみんな、年と共にかび臭くなるんですよ。後輩に道を譲らにゃならん」とジャップがいった。
「それにしても、老犬はいろいろと芸当を心得ているものです。老犬は抜け目がなくて、決して臭跡を放置しません」とポワロは、つぶやいた。
「これはしたり、われわれは、犬のことではない、人間のことを話しているんですぜ」
「それほど相違があるでしょうか」
「それは、あなたが、物事をどんな風に見るかによりけりですよ。あなたは油断のならない男だ。ねえ、ヘイスティングス大尉、そうじゃないですか、昔からそうだった。見たところも相変らずだ……頭のてっぺんが少し薄くなったが、顔のお飾りは、以前より豊富になった」
「ええ? それは何のことですか」とポワロがいった。
「あなたの髭を賞賛しているんですよ」と私は慰めるようにいった。
「はい、この通り立派なものでございます」ポワロは得意げに、髭をなでた。ジャップは声をあげて大笑いした。そして一、二秒してから、
「私はあなたに頼まれたことをしたですよ、あなたの送ってよこされた指紋……」
「それで?」
「何もないです、あの指紋の持ち主が誰だか知らんが、われわれの台帳には載っておらんですね。オーストラリアへは電報で照会したですが、人相書の該当者も、そういう氏名の人物も心当たりないといって来たですよ」
「ああ!」
「だから、そこが何やら怪しいですが、前科者ではないですね」
「それから、もう一つの件は?」
「ラザラス父子商会は世間の信用ありです。商取引は公明正大。もちろん抜け目ないですが、それは別問題ですな。彼らは真っすぐな人間です。困ってはおるですがね……私のいうのは経済的の面でですよ」
「おや、そうですか?」
「そうですよ。絵画の相場が暴落したんで、ひどくやられたんですな。それに骨董類も売れ行きが悪くなったんですよ、当世風の大陸ものが流行になってきたんでね。商会は去年、新しい家屋を建てたです。それもあって、財政的に苦境に陥っておるですよ」
「どうもありがとうございました」
「どういたしまして。あなたも知っての通り、こういうのは私の畑じゃないですが、あなたが知りたいところを見つけ出す、穴を知っておるですよ。私らはいつでも必要な情報を手に入れることができるですからね」
「ジャップさんがいなかったら、私はどうもならんですよ!」
「ああ、そんなこと、何でもないですよ、私はいつだって喜んで旧友のお役に立つですよ。昔よく私は、相当面白い事件にあなたを仲間入りさせてあげたっけ。あなたそうじゃなかったですか?」
これがこの警部がもてあましていた事件を、何件となく解決してくれたポワロに対する、彼の恩返しの仕方であることを、私は知った。
「あのころは楽しい時代だったですね……」
「私はきょう日でも、時々こうして、あなたと喋り合うのは、ちっとも構わんですよ。あなたの方式は時代遅れかも知れんですが、あなたは頭を正しい方向へ、ひねることができますからね、ポワロさん」
「もう一つの問題はどうですか、マカリスター博士は?」
「ああ、彼は婦人医ですよ、といっても、婦人科の医者というんじゃないです。精神科の医者で、紫色の壁とオレンジ色の天井の部屋で眠れといってきかせたり、性的本能について話したり、過去の出来事を何でも暴露するっていうようなことをやるやつですよ。山師みたいなもんだが、女の患者どもをうまく獲得しておるです。門前市をなしていますよ。ちょいちょい外国へでかけてますがね、パリで何やら医学の仕事をしているらしいです」
「どうしてその博士のことなんか調べるのですか、どこから現われた人なんです?」私はその名を初めて耳にしたので、何のことかと思ってたずねた。
「マカリスター博士は、チャレンジャー中佐の伯父です。あの人が医師をしている伯父があるといったことがあったのを、君も覚えているでしょう?」とポワロは説明した。
「きみは実に徹底的なんですね。その人がマシュー卿の手術をしたんですか?」と、私はいった。
「彼は外科医ではないです」とジャップがいった。
「ねえ、君、私は何でもみんな調べたいのですよ。エルキュール・ポワロは、優良犬です。優良犬は臭跡を辿って行きます。そしてもしも不幸にして追跡すべき匂いがない場合、彼は鼻を周囲に向けて、常にあやしい匂いを嗅ぎまわるのです。エルキュール・ポワロも、その通りにいたします。そして、しばしば手がかりを発見してきたのです!」
「あまりいい商売ではないですよね、われわれの仕事は。スティルトン・チーズと、あなたはいいましたっけね? それでも私は構わんが、確かにいい商売じゃない。ポワロさんは公務じゃないんだから、私らよりももっと、方々を這いまわらにゃならんですからね」
「ジャップさん、それでも私は、変装などいたしませんよ。決して変装なんかしたことはありません」
「そりゃ、あなたにはできませんさ。あなたは他に類のない人間だ。一度見たら、決して忘れられない顔だ」とジャップがいった。
ポワロは、どっちかというと、疑りっぽく、相手の顔を見つめた。
「冗談ですよ、気にかけないでください。ポートワインにしますか? あなたがそういわれるなら、それでけっこう」
この夜の会合は、すっかり調子がよくなってきた。われわれはじきに、あの事件、この事件と、追憶に耽りはじめた。私自身も過去を語るのを楽しんだ。あのころはよかった。私は自分が年老いて経験を積んでいることを感じずにはいられなかった!
気の毒なポワロ、彼は今度の事件では、すっかり途方にくれていた。私にはよくそれがわかった。彼の力も、かつてのようでなくなった。私は、彼が失敗するような気がした。マギー・バックリーを殺した犯人は、決して逮捕されることはないだろうと思った。
「君、元気を出したまえ! まだすっかりだめになった訳ではない。頼むから、そんな陰気な顔をしないでください」と、ポワロは、私の肩を叩いて、いった。
「大丈夫です、僕は大丈夫ですよ」
「そして、私もそうです。それからジャップさんも」
「われらはみんな健在なりだ!」とジャップは陽気に言った。
そしてこの愉快な気分の中で、われわれは別れた。
翌朝、われわれはセント・ルーへ帰る旅路についた。ホテルに着くとすぐに、ポワロは療養所に電話をかけて、ニック嬢に話したいと申しこんだ。
突然、彼の顔色が変わった。彼は危うく受話器を取り落とすところであった。
「何だって? ええ? もう一度いって下さい」
彼は一、二分聞いていた。そして、
「はい、はい、すぐ行きます」といった。
彼は真っ青な顔を、私に向けた。
「どうして私どもは出かけたんでしょう? ヘイスティングス君、どうして私どもはこの土地を離れたんでしょう!」
「何事が起こったんです?」
「ニック嬢が、重態なのです、コカイン中毒です。やっぱり犯人はやったんだ。どうしよう! どうしよう! 何だってロンドンへなんか出かけて行ったんだろう?」
コカイン入りのチョコレート
療養所へ行く途中ずっと、ポワロは、ぶつぶつつぶやき続けていた。
「私は知っているべきはずだった! 知っているべきであった! だが、どうしてそんなことができたというのか? 誰も彼女に近づけなかったはずだのに! 誰が私の命令にそむいたのだろう?」
療養所で、われわれは、階下の小さな部屋に通された。間もなくグレアム医師が来た。彼は疲れ果てて、青ざめていた。
「患者は、持ち直しましょう。困ったのは、あの厄介なやつを、どれくらいの分量飲んだか、見当がつかなかったことです」と医師はいった。
「何だったのですか?」
「コカイン」
「生きるでしょうね?」
「大丈夫です」
「しかし、どうしてそんなことになったのですか? 犯人はどうして彼女に近づいたのですか? 誰が部屋へ入れたのですか?」ポワロは、いらいらしていた。
「誰もあの部屋へ案内された者はありません」
「不可能だ」
「それは真実です」
「しかし、それでは」
「箱詰のチョコレートでした」
「何ていまいましいことだ! 何も食べてはならないと、いっておいたのに! 外部から来たものは絶対に食べるなと、あれほどいっておいたのに!」
「私はそのチョコレートのことは知らなかったのです。若い娘に、箱詰チョコレートを食べさせないようにするのは困難なことです。ありがたいことには、一つしか食べなかったのでした」
「その箱のチョコレートには、全部コカインが入っていたのですか?」
「いいえ、お嬢さんは一個食べ、ほかに、二個、細工したものが上段にあっただけで、そのほかはなんともありませんでした」
「どんな風になっていましたのです」
「全く不器用なやり方です。チョコレートを二つに割って、中のクリームにコカインを混ぜて、それを元通りに合わせてあったのです。素人《しろうと》くさいやり方で、自家製というやつです」
ポワロはうめいた。
「ああ! 私が知っていたら! 私が知っていたら! お嬢様にお会いできましょうか?」
「一時間ほどしておいでになれば、お会いになれると思います。まあ、そう気にしなさるな、死ぬことはないのですから」と医師はいった。
それから一時間半、われわれはセント・ルーの大通りを歩いた。その間じゅう、私は、未遂に終ったのだから、心配することはないとくり返して、一生懸命に、ポワロの心を引き立てようと努力した。けれども、彼は頭を振って、同じことをくり返すばかりであった。
「私は気がかりなのですよ……ヘイスティングス君、私は気がかりなのです……」
その妙ないい方に、私まで何だか心配になってきた。
一度ポワロは、私の腕をつかんで、
「聞きたまえ、ヘイスティングス君、私は間違っていた。最初から間違っていたのですよ」
「あなたのいわれるのは、金が目的ではないということですか」
「いや、いや、それは間違っておりません。しかしこの二つ……あまりに簡単で、あまりに容易なことが、しかしほかにもまだ、こじれている点がある。さよう、何かがあるのです」
そこで急にまた、憤慨しはじめた。
「ああ、いまいましい! あれほど禁じておいたのに! 外部から来た食物には触れてはならないと、あんなにいっておいたのに! そのいいつけを守らなかった! このポワロの命令を無視するとは! 四度も死にそこなって、まだこりないのか! 五度目の危険を冒そうというのか? こんなことは聞いたこともない!」
一時間半を外で過ごして、われわれは療養所へ戻った。わずかのあいだ待った後、われわれは二階へ案内された。
ニック嬢はベッドの上に起きあがっていた。彼女の眼は瞳孔が大きく開いていた。熱っぽい顔つきをし、手は激しくけいれんしていた。
「また、やられちゃいました」とニック嬢はつぶやいた。
ポワロは、彼女を眼のあたりに見て、感動をおぼえた。彼は咳払いをして、彼女の手を取った。
「ああ、お嬢様! お嬢様!」
「あたし平気! 今度やられちゃったって、平気! あたしもう、こんなこと、あきあき!」ニック嬢は反抗的にいった。
「可哀そうに!」
「何かあたしの中に、降参したくない気持があるの!」
「それはスポーツ精神でございます、お嬢様は立派なスポーツマンでいらっしゃるにちがいない」
「あなたの自慢の療養所だって、ちっとも安全じゃなかったわ」
「命令に従ってさえくだすったら……」
彼女は、少しおどろいたらしく、
「あたし従った」
「外部から来たものは、一切召し上がらないようにと、はっきり申し上げましたでしょう?」
「その通りにしたわ」
「しかし、チョコレートを」
「あら、あなたが届けてくれたものよ」
「何とおっしゃいますか? お嬢様!」
「あなたが見舞いにくれたの」
「私が? いいえ、決してそんなことはいたしません」
「だって、箱の中にあなたの名前を書いたカードが入っていた」
「何ですって?」
ニック嬢は、ベッドわきのテーブルの方へ、けいれん的な動作をした。看護婦が急いで、そばへ来た。
「箱の中にあったカードが、ほしいんですね?」
「ええ」
ちょっとの間、沈黙が続いた。看護婦は、カードを手にして戻ってきた。
「はい、これでございます」
私は息をのんだ。ポワロもそうであった。そのカードには、カーネーションの花籠に添えたカードにポワロが書いたと同じ文字が達筆で書いてあった。
「お見舞い、エルキュール・ポワロより」
「これは驚いた!」とポワロが叫んだ。
「ほらね」ニック嬢は咎めるようにいった。
「私は書いた覚えはございません」とポワロは叫んだ。
「何ですって?」
「それなのに、これは私の筆跡です……」ポワロはつぶやいた。
「そうよ。オレンジ色のカーネーションについていたカードと、おなじよ。あたしチョコレートはあなたがよこしたものと、信じこんでいた。ちっとも疑わなかったわ」
ポワロは首を振った。
「どうして疑えましょう? おお! 悪魔! 実に賢い悪魔だ! こういうことを考えつくとは! ああ、天才だ! この男は天才だ!……お見舞、エルキュール・ポワロより……とは、実に簡単なことだ! だがこういうことを考えるべきだったのだ。なのに私は、こうした動きを予測しなかった……」
ニック嬢は落ちつかないようすで動いた。
「お嬢様、そんなにいらいらなさいますな。あなたには何の罪もないのでございます。罪は私にございます、私は何というあわれな低能でございましょう! 私はこういう詰手のあることを見越すべきだったのです、予知すべきだったのです」
彼は顎《あご》を深く胸に埋めた。それはみじめな姿であった。
「あのう、もうお時間ですが……」と看護婦がいった。
彼女は非難を顔に浮かべて、そばで、もじもじしていた。
「ああ、そうでしたね、もう帰りましょう。お嬢様、勇気をお出しなさいまし、これが私の最後の誤りでございます、私は恥じ入っております、全くみじめになっております。私はまるで小学生のように、瞞着され、計画の裏をかかれました。けれども、こういうことは、二度と起こるようなことはさせません。お約束します。さあ、ヘイスティングス君!」
ポワロの最初の仕事は、看護婦長との会見であった。彼女はこの事件で、ひどく心痛していた。
「私には信じられないのでございますよ、ポワロさん、全く信じられません。この療養所でこういうことが起こるなどとは」
ポワロは同情深くて、如才なかった。彼女を十分に慰めておいて、宿命的な小包が到着した時の状況について質問をはじめた。そこで婦長は、それが到着した時の当番だった看護人と、ポワロが会見するのが一番の良策だといった。
看護人の男の名はフードといい、のろまだが正直そうな顔をした、二十二歳ぐらいの青年であった。怖がっているようすで、びくびくしていたが、ポワロは、彼を気やすくさせた。
「何も君が悪いんじゃないのだよ。私はただその小包が、いつ、どんな風にして届けられたか、それをはっきり君に話してもらいたいのだよ」
看護人は当惑の態《てい》であったが、のろのろといった。
「そいつをいうのは、むずかしいんですよ、実は。沢山の人が来て、いろいろなことをたずねたり、それぞれの患者たちに、いろいろなものを置いて行くんですからね」
「看護婦さんは、昨夜きたのだといっていたよ、六時ごろに」と私はいった。
青年の顔は明るくなった。
「ああ、思い出しました、紳士が持ってきたんです」
「細面《ほそおもて》の、金髪の紳士だったかね?」
「金髪だったんですが、どんな顔をしていたかは、わかりません」
「チャールズ・ヴァイスが、自分で持ってきたんでしょうかね」と、私はポワロにいった。
青年が、土地の人の名を知っているかも知れないということを、私はうっかりしていた。
「ヴァイスさんではありません。もっと大柄な紳士です、立派な人で、大型自動車で来ました」と青年はいった。
「ラザラスだ」と私は大声でいった。
ポワロは警告の視線を投げてよこした。私は自分の軽率を悔いた。
「その紳士は大型自動車で来て、その包みを置いて行ったと。それは、バックリー嬢あてだったのだね?」
「はい、そうであります」
「で、君は、それをどうしたね?」
「私は手を触れなかったです。看護婦が持って行きました」
「その通りかね? 君は、それを紳士から受取る時に手を触れたろう、そうじゃなかったですか?」
「ああ、そりゃ、そうです。私は紳士から受取るとすぐに、テーブルの上に置いたんです」
「どのテーブルだね? どうか見せてください」
青年は、われわれを玄関へ導いた。玄関のドアは開け放ってあった。そのドアの近くに、細長いテーブルがあって、手紙類や小包類を載せておくようになっていた。
「届いたものは、全部この上に置くんです。すると看護婦が、患者のところへ持って行きます」
「その包みが届いたのは、何時ごろか覚えているの?」
「五時半か、もうちょっと過ぎていたにちがいないです。ちょうど郵便が届いた時で、それがいつも五時半すぎごろですから。かなり忙しい午後だったです、沢山人が花を届けに来たり、患者に面会に来たりして」
「ありがとう。さて、今度は包みをニック嬢のところへ持って行った看護婦に会ってみましょう」
それは見習い生で、興奮に気の立っている、ふわふわした小娘であった。彼女は、六時に自分の当番がきて、二階へ持って行ったのを覚えていた。
「六時。するとその包みは玄関のテーブルの上に、二十分くらいは、置いてあったわけだ」
「何でございますか」
「何でもありません。であなたは、その包みをバックリー嬢のところへ、持って行ったのですね」
「ええ、あの方のところへ、いろいろなものが来ていたんです。あの箱だの、花だの……スイートピーがクロフト夫妻からだったと思います。それも一緒に持って行きました。それから郵便で来た小包もありました。それもフラーのチョコレート箱だったんですよ」
「何ですって? チョコレートの箱が二つ?」
「ええ、偶然の一致っていうんですね。バックリーさんは、両方の包みを開けてみて……口惜《くや》しいわ、これ食べちゃいけないなんて……といって、中味が両方とも同じかどうか、蓋を開けてみて、片方の箱の中にあなたのカードが入っているのを見つけると……看護婦さん、この不潔な箱はこれと間違えるといけないから、あっちへ持って行って……といったんですよ。誰がこんなことを考えついたんでしょう? まるでエドガー・ウォーレスの探偵小説みたいですね」
ポワロは、このお喋りの洪水をせき止めた。
「二箱ですね? もう一つの箱は誰から来たのですか」
「中に名刺は入っていませんでした」
「私から送ったことになっていたのは、どっちでしたか? 郵便で届いた方でしたか」
「そうですねえ……はっきりわかりませんけど……バックリーさんのところへ行って、聞いてきてあげましょうか」
「すみませんが、どうか」
彼女は二階へ駆け上がって行った。
「二つの箱とは……まぎらわしいことですね」とポワロはつぶやいた。
見習い看護婦は、息を切らせて戻ってきた。
「バックリーさんも確かじゃないんですって。中を見ないうちに、両方の包みをといてしまったんですって。でも郵便で来た方じゃなかったような気がしますって」
「ええ?」ポワロは、少し訳が解らなくなったらしかった。
「あなたから来た箱は、郵便小包じゃなかったっていう事です。でも、あの人も、確かじゃないんですって」
療養所を出ると、ポワロは、
「いまいましい! 誰か確かな者はいないのでしょうか? 探偵小説になりますね。けれども実社会では、いつでも、何でもが混乱しております。私自身は、何が確かだといい切れるでしょうか? どういたしまして、全然、できません」
「ラザラス」と私はいった。
「さよう、思いがけませんでしたね」
「あなたは、このことについて、あの人に何かいうつもりですか?」
「申しますとも、私はラザラス君が、どんな風に受取るかを見るのが、楽しみですよ。それはそうと、私どもはニック嬢の容態を大げさに発表することにいたしましょう。瀕死の重態ということにしても別に害にはなりますまい。わかりましたね? 謹厳な顔をして……そう、その顔! なかなかうまいですね、君、まるで葬式屋みたいに見えますよ」
幸運にも、ラザラスにはすぐ会えた。彼はホテルの前で車のボンネットをのぞきこんでいた。
ポワロは、真っすぐそばへ行った。そして何の前おきもなく、いきなり、
「ラザラス君は、昨日《きのう》の夕方、ニック嬢のところへ、チョコレートを一箱届けましたね」といった。
ラザラスは、少し驚いたようであった。
「はあ、それが?」
「大そうご親切なことでした」
「本当は、あれはフレディからなんですよ、僕は頼まれたんです」
「なるほど!」
「それで、車で出かけたついでに、届けたんです」
「よくわかりました」
ポワロは、一、二秒、黙っていた。それから、
「フレデリカ夫人は、どこにいらっしゃいますか」といった。
「談話室にいると思います」
フレデリカ夫人は茶を飲んでいた。彼女は心配そうな顔で、われわれを見あげた。
「ニックが病気になったって聞きましたけれど、どうしたんですの?」
「大そうふしぎな事件なのです。あなたは昨日ニック嬢にチョコレートを一箱、お届けになりましたか」
「ええ、あの人は、私に買ってくれと頼みました」
「あなたに買うように、お頼みになったですって?」
「ええ」
「しかし、面会は許されていないのでございますが、どうやってお会いになりましたか」
「会いません、電話です」
「ああ、それで彼女は、何といわれましたのですか?」
「フラーのチョコレート二ポンド入りの箱を買ってもらえないかと、いいましたのよ」
「どんな声でした? 弱々しい声でしたか?」
「いいえ、ちっとも。しっかりした声でしたわ。でも少しちがっていました。最初、ニックだとわからなかったのでした」
「誰が電話しているか名乗るまではですか?」
「そう」
「電話をかけたのは、ニック嬢だったのは、確かでございますか?」
「どうして?……もちろん、ニックでしたわ。ほかに誰だとおっしゃるの?」
「それは興味ある質問でございます。奥様」
「あなたはまさか……」
「それは、あなたのお友達の声だったと、誓うことができますか? 話の内容をはなれて、声だけで」
「いいえ、できません。声は確かに違っていました。私は電話のせいかと思っていましたの」
「もし先方で名をいわなければ、誰だかおわかりにならなかったのでございますね」
「そうですの、わからなかったと思いますわ。誰だったのでしょうね、ポワロさん。誰だったのですか?」
「それは、私も知りたいことでございます」
ポワロの容易ならぬ面持《おももち》が、彼女に疑念を起させた。
「ニックが……どうかしましたの?」
彼女は息を切らせていった。
ポワロはうなずいた。
「ニック嬢は、お悪いです、非常にお悪いです。奥様、あのチョコレートには、毒が入っておりました」
「チョコレート、私の贈った? そんなことあり得ない……あり得ません!」
「あり得ないことはございません、ニック嬢は瀕死の重態でいらっしゃるのでございますからね」
「まあ、どうしましょう! 私には分かりません! 理解できません、もう一つのほうならわかりますけど、私が贈ったほうに毒が入っているなんてことはあり得ませんわ。私とラザラスのほか、誰も手を触れていないのですもの。ポワロさん、あなたは、何か恐ろしい間違いをしていらっしゃるんですわ」彼女はいったん、両手で覆った白い顔をあげて、震えながらいった。
「私は間違いなどいたしません……たとえ箱の中に、私の名を書いたカードが入っておりましたとしても……」
彼女は呆然として、彼を見つめていた。
「もしもニック嬢が死なれたら……」といって、ポワロは脅すような身ぶりで、手を振った。
彼女は、低いうめき声をあげた。
彼はくるりと、きびすを返し、いきなり私の腕をとって二階の居間へ行った。
彼は帽子を、テーブルの上に叩きつけた。
「私には何もわからない……全く何も! お先|真暗《まっくら》です。私は子供です。ニック嬢の死によって、誰が利益を得るか? フレデリカ夫人は、チョコレートを買ったことを承認し、電話で依頼されたという作り話をする、こんなのが理屈に合いますか? フレデリカ夫人にしては、あまりに単純で、あまりに間が抜けております。夫人は決して間抜けではありません」
「それで……」
「しかし、夫人はコカインを用いていますよ、ヘイスティングス君、確かにコカイン常用者です、そして、チョコレートの中にコカインが混入してありました。それに、夫人が(もう一つのほうならわかりますけど、私が贈ったほうに毒が入っているなんてことはあり得ません)といったのは、どういう意味だったのでしょう。このことは、はっきりさせなければ。口先のうまいラザラス……彼はこの件では何をしているのでしょうか。フレデリカ夫人は、何かを知っている、けれども私は夫人にそれを語らせることはできません。あの夫人は、脅されて口を割るような人ではありません。しかし、夫人は何か知っていますよ、ヘイスティングス君。夫人の電話の話は真実でしょうか? もし真実とすると、電話の声の主は誰だったのでしょうか? ヘイスティングス君、すべてが真暗です、真暗です」
「夜明け前は、一番暗いものです」
私は励ますようにいった。
ポワロは首を振った。
「では、もう一つの箱、郵送された箱、それを除外することができるでしょうか? それはできません。なぜなら、ニック嬢は、確かでないといっておいでです。これはまことに厄介なことです」
彼はうめいた。
私が口をきこうとした時、ポワロはそれを止めた。
「いや、いや、諺《ことわざ》はもうたくさんです。もし君が良友なら……頼りになる良友なら……」
「何ですか?」私は熱心にきいた。
「どうかお願いですから、トランプを一組買ってきてください」
私は、彼の顔を見つめた。
「いいですとも」と、私は冷やかにいった。
私は、それをポワロが私を追い払うための、口実に過ぎないと邪推した。
けれども、それは私の誤解であった。その夜、十時ごろ居間へ入って行くと、ポワロはトランプで家を建てていた……そこで私は思い出した。
これは神経を鎮める、ポワロの奇癖であった。彼は私にむかって、微笑した。
「さよう、君は思い出しましたね。これをやるには、正確さが大切なのです。札を一枚ずつ、順々に、正しい位置に積みあげて、重量を支え合っていくようにしなければなりません。私をこのトランプの家と一緒にここへ残しておいてください、私は頭脳をはっきりさせるのです」
私が揺り起こされたのは、朝の五時ごろであった。
ベッドのわきにポワロが立っていた。彼は満足し幸福そうに見えた。
「君のいったことは、実に正しかった! 大そう正しかった、的確でした。その上、霊感に満ちてましたよ?」
私は、まだはっきり眼が覚めていなかったので、彼を見あげてまばたきをした。
「夜明け前は一番暗いと、君はいいましたね、あの時は大そう暗かったのですが、今は夜明けです」
私は窓を見た、彼のいった通りであった。
「いや、いや、ヘイスティングス君、頭の中ですよ! 心の中! 脳細胞のことですよ!」
そこで彼は言葉を切ってから、静かにいった。
「よろしいですね、ヘイスティングス君。ニック嬢は死にました」
「何ですって?」と私は叫んだ。もうすっかり眼が覚めてしまった。
「しっ! しっ! それはこういう意味です、本当に死んだわけではありません。二十四時間、そういうことにしておくのです。グレアム医師や看護婦たちと、私は打ち合わせをします。ヘイスティングス君、わかりましたね、殺人者は、成功したのです。四度試みて失敗しました。そして五度目に彼は成功したのです。
ニック嬢の死亡を発表して、次にどういうことが起こるか、私どもは見るのです。これは非常に、興味のあることでしょうよ」
秘密の戸棚
これは死人の声です
その翌日の出来事はみんな、私の記憶の中で完全にぼやけている。不運にも、眼を覚ました時には、発熱していた。私はかつてマラリヤにかかって以来、いつも都合の悪い時に、この熱の発作におそわれるのであった。
そんな訳で、その日の出来事は、私の記憶の中に、悪夢の形になって入ってきたのである。ポワロはサーカスに、時折り姿を現わす幻想的な道化師のように、私の部屋へ入ってきたり、出て行ったりしていた。
彼は思う存分楽しんでいるようすであった。彼の名状しがたい絶望の思い入れは、絶賛に価するものであった。彼がその朝早く、私に打ちあけたもくろみ通りの終局を、どうやって達成したか、私にはわからない。とにかく彼はそれを達成したのであった。
それは容易なことではなかった。それに要した口実や欺瞞の量は大変なものだったにちがいない。大仕掛けな嘘をつくということは、英国人の性格に相反するものであるし、それにポワロの計画が必要としたのは、少なからざるものであった。彼はまずグレアム医師を計画に抱きこんだ。グレアム医師を通して、看護婦長と、計画に従うべき療養所の所員の一部を説き伏せた。そこにもまた多くの困難があったにちがいない。おそらくグレアム医師の信望が、運命を決したのであろう。
それからまだ警察署長と、署員たちが控えていた。そこでポワロはお役人|気質《かたぎ》に立ち向かわなければならなかった。しかしながら、ポワロは遂に署長から、渋々ながらも承諾を得た。署長は、いかなる点においても、自分は責任を持ちたくないということを明らかにした。この虚構のニュースを世間にひろめるについては、ポワロのみ、ただ一人責任を負うのである。ポワロはそれに同意した。彼は自分の計画を遂行することが許されさえすれば、どんな条件にでも同意したであろう。
私はその日の大部分を、大きな安楽椅子で、膝に毛布をかけて、うたた寝をして過ごした。二、三時間ごとに、ポワロが飛びこんで来て、進行の模様を報告するのであった。
「具合はどうです? 私はどんなに君を同情しているかしれない。しかし、かえっていいのかも知れませんよ。君はどうせ茶番を演じるのは、上手ではありませんからね。私は今、花輪を注文してきたところですよ、大きな花輪、とてつもなく大きいのをね、百合の花を使ったんですよ、君。非常に大量の百合をね。それに……エルキュール・ポワロの深甚なる哀悼をこめて……と書いた札を添えたのです。何たる喜劇でしょう!」
彼はまた、出かけて行った。次に彼のもたらした情報は、
「フレデリカ夫人と痛快な会話を交わしてきたところですよ。あの夫人は非常にしゃれた黒い喪服を着ていました。彼女の気の毒な親友……何たる悲劇! 私は深く同情して、うめきました。夫人は、ニックはあんなに陽気で生命に溢れていましたのに! 死んだとは考えられないと申しました。そこで私は、この役に立たない老人を残して、あんな若いお嬢様をとっていくなんて死の皮肉だといい、ああ、ああといって、私はまたうめきました」というのであった。
「ポワロさんは、大いに楽しんでいるんですね!」と私は、弱々しくつぶやいた。
「要するに、これは私の計画の一部ですよ。喜劇を成功させるように演じるには、心を打ちこまなければなりません。とにかく月並みな悔《くや》みの言葉が、あの夫人の急所を突くことになりますからね。夫人は一晩中、寝床の中で眼を覚まして、チョコレートのことを、あれこれと思い煩うでしょう……そんなことあり得ない、あり得ない。すると私がいう……奥様あり得ないことではございません。毒物解析の報告書をお目にかけます……すると彼女は力ない声でいう……コカインだったと、おっしゃるの?……私はそうだという。そして彼女はいう……ああ! どうしましょう! 私には理解できない」
「おそらく。それは真実でしょうね」
「夫人は、自分が危険に瀕していることを、よく理解しておりますとも、あの方は賢くておいでだ。そのことは前にも君にいいましたよ。さよう、彼女は危険に瀕している、そして彼女はそれを知っている」
ポワロは、眉をひそめた。彼の興奮した態度が和いだ。
「ヘイスティングス君の、その言葉は意味深長です。そうです……何やら……それぞれの事実がもはや、ぴったりとしません。今まで続発したこの犯罪の特質は、巧妙をきわめていました。それだのにこの度のチョコレート事件は、全く単純で不細工で、これはどうも今までの手口とぴったりしません」
そういって、ポワロはテーブルの前に腰かけた。
「さて、事実を並べて検べてみましょう。ここに三つのあり得べきことがあります。フレデリカ夫人が買って、ラザラス氏が届けたチョコレートがあります。この場合、罪人はこの二人のどちらか一人、あるいは二人共謀ということになります。そしてニック嬢から電話がかかったという件は、純然たる作りごとである……これは至って簡単明瞭な解釈です。
第二の解釈。もう一つの、郵送されたチョコレートの箱。これは(A)から(J)までの容疑者(君、覚えているでしょう)の表に載っていた人物の中の誰でも送ることができます。しかし、もしそれが毒物を混入したものだとしたら、電話をかけたのはどういう目的でしょうか? なにゆえに第二の箱を送って、事態を錯綜させたのでしょうか?」
私は、弱々しく、頭を振った。四十度ちかい熱がある私には、そんな複雑なことは、全く不必要で、ばかばかしく思われた。
「第三の解釈。有害な箱は、フレデリカ夫人によって購入された無害な箱とすり換えるためのものであった。この場合、電話の件は真実で、訳がわかる。フレデリカ夫人は猫の手に使われたのです。夫人は火の中から焼き栗を取り出す手に利用されたという訳です。こうなると第三の解釈が最も理論的ですが、しかしこれはまた最も困難です。一体どうやって、最もいい機会にこの二つの箱を、すり換えたのかということです。当番の係員は、受取ると同時に、すぐ二階へ持って行ったでしょうから、百中九十九までは、すり換えるという手段は行使不可能です。いや、これは、意味がありません」
「ラザラスが、やったのでなければ」と私はいった。
「君は、熱があるね。熱が上がっているでしょう?」
私は、うなずいた。
「少々の熱が、どんなに知性を刺激するかということは、実に奇妙ですね。君は今、たいそう単純な観察を、口にしましたね、あまりに単純で、私がそれについて考えてもみないようなことを。フレデリカ夫人の愛人であるラザラスが、夫人を絞首台へ送るようなことをするとは。それは、何とも不思議な性格の可能性を表わしていますね。複雑……複雑きわまる」
私は眼を閉じた。私は自分が知性をひらめかしたと思って喜んだが、複雑なことなど考える気がしなかった。私は眠りたかった。
ポワロは、なおも語り続けていたらしいが、私は聞いていなかった。彼の声は、ぼんやりと、快く響いていた……。
次に彼を見たのは、夕方近くであった。
「私のちょっとした計画が、花屋に一財産つくらせましたよ。誰もかもが花輪の注文をしております。クロフト氏も、ヴァイス氏も、チャレンジャー君も……」
その最後の名が、私の心に、悔恨の情を呼び起こした。
「ねえ、ポワロさん、チャレンジャー君には、打ち明けなければなりませんね。気の毒に、あの男は悲しみに気が狂いそうになっているでしょう。これは公平なことではないですよ」と私はいった。
「君は、あの人に対しては、いつも気が優しいんだね、ヘイスティングス君」
「僕は、彼が好きなんです。実にいい奴です。あの男を、この秘密計画に仲間入りさせなければいけませんよ」
ポワロは首を振った。
「いいえ、君、私は例外はつくりません」
「しかし、あなたは、チャレンジャー君が、この事件に関係しているとは、考えていらっしゃらないんでしょう?」
「私は例外はつくりません」
「彼がどんなに悩んでいるか、考えてごらんなさい」
「ところが私は、反対に、彼に喜ばしい驚きを、用意しておいてあげようと思っているのです。愛する者が死んだと思っている……そして彼女が生きているのを発見する! これは類のない素晴しいセンセーションです」
「あなたは、実にがんこおやじですね、彼はちゃんと秘密を守るのに」
「それは請けあえませんね」
「彼は高潔の士ですよ、僕は確信している」
「そうだとすると、尚更、秘密を保つのが、むずかしくなりますね、秘密を保つということは一種の芸術です。非常に多くの嘘を巧みにつき、喜劇を演じ、それを楽しむ立派な態度が必要とされます。果たしてチャレンジャー中佐は(しら)を切れるでしょうか。もし君のいうような人物なら、それはできませんね」
「では、あなたは彼に話さないんですか?」
「私は感情のために、自分のちょっとした思いつきを、危険にさらすようなことは、おことわりですね。君、われわれは生死をかけて、芝居をしているのですよ。とにかく、苦悩は人格を磨くのによろしい。これは多くの有名牧師の言です。たしかあなたの国のえらい僧正もいいましたっけ」
私は、それ以上、ポワロの決心を動かそうとは試みなかった。彼の心は、もうすっかり決定してしまっていることを、私は見抜いていた。
「私は晩餐のために正装するのはやめます。私は、失望落胆した老人なのです。いいですか、それが私の演ずる役なのですからね。私はすっかり自信を叩きつぶされてしまったのです。失意の人です。ご馳走など咽喉《のど》を通らないのです……皿の上の料理には手をつけません。私はそういう態度をとるのです。私はひそかに買っておいた菓子パンとエクレアを、自分の部屋で食べておくのです。どんなものです! ええ?」
「また、熱さましを飲まなければならない」と、私は悲しくいった。
「可哀そうに、ヘイスティングス君。だがまあ、元気をお出しなさい。明日になればよくなれますよ」
「そうかも知れません。この熱はたいてい二十四時間以上は続かないから」
私は、ポワロが自分の部屋へ帰って行くのを聞かなかった。眠ってしまったに違いない。
私が眼を覚ました時には、彼は机に向かって書きものをしていた。彼の前には、まるめた紙の皺をのばしたのが置いてあった。私は、それが(A)から(J)までの人物一覧表を書いた紙で、一度彼がまるめて棄ててしまったものであることを認めた。
彼は私が口に出さないその考えに答えるように、うなずいた。
「そうですよ、君。私はこれを復活させたのです。私は違った方角から、これを研究しているのです。私は一人々々に関する疑問表を作成しているところです。それらの疑問は、犯罪とは何の関係もないかも知れません。それらは私の知らないことで、依然として説明がついていないかも知れませんが、それに対する回答は、私の頭脳から引き出そうとしているのです」
「どのくらい、進みましたか」
「もう終りました。君は聞きたいですか? もう大丈夫ですか?」
「はい、実のところ、僕はもうすっかり気分がいいんです」
「それは結構! では読んできかせましょう。あるものは、きっと君は馬鹿げていると思うでしょう」
彼は、咳払いをして、読みはじめた。
(A)エレン――なぜ花火を見物しに外へ出ないで、家にいたか?(ニック嬢の証言及び驚きにより、これは異常である)彼女は何が起こると考え、あるいは予測していたのだろうか? 彼女は何者か(たとえばJ)を家へ迎え入れたのだろうか? 秘密の戸棚について、彼女は真実を語ったのであろうか? もしそういうものが、あるとしたなら、なぜそのありかを覚えていないというのか?(ニック嬢が、そういうものはないというのは確からしい、あれば当然知っているはずである)もし嘘だとすると、彼女はなぜそういう作り話をしたのか? 彼女はマイケル・シートンの恋文を読んだであろうか? それともニックの婚約に対する驚きは、本物だったのだろうか?
(B)彼女の夫――彼は見たほど愚鈍なのであろうか? 彼はエレンの知っていることは、何でも聞かされているだろうか? それとも何も知らないのだろうか? 彼はどの点からしても、精神に異常はないのだろうか?
(C)彼らの子供――血を喜ぶのは、あの年ごろと発育状態では普通な自然本能であろうか? それとも病的なもので、父母のどちらかの遺伝であろうか? 彼はおもちゃのピストルを撃ったことがあるだろうか?
(D)クロフトは何者か――彼は実際にどこから来たのだろうか? また、断言したとおりに、遺言状を投函したであろううか? もし郵送しなかったとしたら、どういう動機からであろうか?
(E)同上――クロフト夫妻は何者か? 彼らは何かの理由で、潜伏しているのであろうか? もしそうなら、いかなる理由であるか? 彼らはバックリー家と、何らかの関係を持っているのだろうか?
(F)フレデリカ夫人――彼女はニックとシートンの婚約を知っていただろうか? それとも、その事実を推測していたにすぎないのか? 二人の間に交わされた手紙を読んだのだろうか?(読んでいれば、彼女はニック嬢がシートンの遺産相続者であることを知っていた)彼女は自分が、ニック嬢の残余財産受取人であることを、知っていたであろうか?(私の考えるところでは、ニック嬢は、夫人にそのことを話し、彼女の取り分が僅少であることもいい添えたにちがいないと思われる)ラザラスが、ニックに夢中になっていたことがある――そうチャレンジャー中佐がいったのは、事実であろうか?(このことは、この二人の女性間の熱い友情が、ここ二、三カ月のあいだ、さめていたことの説明になる)彼女の走り書きにあった麻薬を供給していたボーイ・フレンドは誰であろう? これがJなる人物であり得るだろうか? 彼女はなぜこの間、この部屋で気を失ったのであろう? それは何か私のいったことを聞いたせいか? それとも何か見たのであろうか? 電話の伝言に関する彼女の陳述は正しいものか、それとも、あらかじめ考えておいた嘘であろうか? 彼女が、もう一つのほうならわかるけれども、これは理解できないといったのは、どういう意味であろうか? もし彼女自身は有罪でないとしたら、彼女は何を知っていて、それを秘しているのであろうか?
ポワロは急に朗読をやめて、
「君も気がついたでしょう。フレデリカ夫人に関する疑問はほとんど無限です。最初から最後まで、あの夫人は謎です。それが私に次のような結論を出させるのです。フレデリカ夫人は有罪……あるいは誰が有罪であるかを知っている……というよりも、知っていると思っているというべきかも知れません。しかし夫人は正しいのでしょうか? 彼女は本当に知っているのでしょうか、それとも推測しているだけのことでしょうか? そしていかにして、それをあの夫人に語らせるかが問題です」
ポワロはため息をついた。
「さて、私の疑問を続けましょう」
(G)ラザラス――奇妙なことには、彼に関する疑問は事実上、何もない。ただ一つ、露骨に「君は毒入りチョコレートを取り替えましたか」とたずねるか、さもなければ全く無関係な質問を一つするしかない。一応、それを書いておこう。「君は、なぜ、二十ポンドの価値しかない絵画に五十ポンドの値をつけたのですか?」
「彼はニックに親切にしたかったのでしょう」と、私はいってみた。
「あの人は、そういうことはしないでしょう、商人ですからね、損をするような売り買いはしません。もし親切をしたかったら、友達としてお金を貸すでしょう」
「とにかく、それは犯罪とは何の関係もないことですね」
「それはそうです。けれども私は、それを知りたいと思います。君、わかるでしょう、私は心理学を研究している学徒ですからね、さて、今度はHの番です」
(H)チャレンジャー中佐――なぜニック嬢は彼に、自分が誰か他の人と婚約していることを話したのであろう? 何の必要が、それを語らせたのか? 彼女はほかの誰にも話さなかった。彼が結婚を申しこんだのであろうか? 彼と伯父との関係は、いかなるものであるか?
「伯父ですって? ポワロさん」
「そうです。医師です、どちらかというと、疑わしい人物です。シートン大尉の死んだ情報が、海軍省から公表される前に、どこからか個人的ニュースとして入りましたでしょうか?」
「僕には、あなたが何を目的としているのか、さっぱり分からないですね、ポワロさん。たとえば、チャレンジャー君が、シートンの死を前もって知っていたとしても、われわれをどこへも到達させないではありませんか。そんなことは、彼の愛している女性を殺す動機にはなりませんよ」
「私も同感です。君のいうことは全く理屈にあっています。それにしても、私はそういうことを是非知りたいのです。いいですか、私は依然として犬なのです。あまりかんばしからぬ物に、いつも鼻を向けるのです! さて」
(I)ヴァイス氏――なにゆえに彼は、自分の従妹がエンドハウスに対して、(気狂いじみた感情を持っている)などといったのでしょうか? そういうことをいうべきどんな動機があったのでしょうか? 彼は遺言状を受取ったのか、受取らなかったのか? 彼は本当に正直な男なのだろうか?
(J)この人物には、大きな疑問を付さなければならない。果たしてこの人物は存在しているのか、いないのか?……
「君、君、どうしたんです!」
私は突然に眼を見張って、叫び声をあげ、震える手で窓を指さした。
「ポワロさん、顔が! ガラスにぴったりおしつけた顔! 恐ろしい顔! もう消えてしまった……でも僕は見ました」
ポワロは窓のところへ大股に歩いて行って、ガラス戸を押し開けて、外をのぞいた。
「誰もいません、ヘイスティングス君の想像ではないですか?」
「ほんとうに確かです、悲しい顔でした」
「ここにはテラスがありますから、誰でも私どもの話を聞こうと思えば、できます。恐ろしい顔というのは、どんな顔だったのですか?」
「人間とは思えないような、真っ青な、じっと見つめている顔です」
「ああ、熱のせいですよ、顔ならわかります。不愉快な顔というならわかります。しかし人間と思われない顔などというものはありません。君が見たのは、ガラスに押しつけた顔の印象です。それを見て驚いたのです」
「恐ろしい顔でした」と私は強情にいった。
「誰か、君の知っている人の顔ではありませんでしたか?」
「いいえ」
「ふむ、でもこうした状況のなかで見たのでは、誰とはっきりわからなかったのも無理はないと思いますよ。……さよう、たしかに無理もありません」
ポワロはひどく考えこみながら書類を集めた。
「しかし、たった一ついいことがあります。その顔の持ち主が、私どもの話をぬすみ聞きしていたといたしましても、私どもはニック嬢が生きていることは、口にしませんでしたからね。この訪問者が、何を聞いたとしても、その事実だけは、聞きませんでした」
「それにしても、この結果……つまりあなたの素晴しい術策も、今までのところ、いささか失望ものですね。ニック嬢は死んだのに、何事も起こらないじゃないですか!」
「私は今のところ、まだ何も予期しておりません。二十四時間と、私は申しましたよ。君、もし私に誤りがなければ、明日、あることが起こります。さもなかったら……私は初めから終わりまで間違っていたということになります。今日の郵便はもう来てしまいました。それで私は明日の郵便物に望みをかけているのです」
翌朝、私は眼が覚めた時には、身体が弱った感じだったが、熱はすっかり下がっていた。それに空腹を感じた。ポワロと私は居間へ朝食を運んでもらって食べた。
私は、ポワロが郵便物をより分けているのを見て、
「どうです? 郵便物は、あなたの期待に応えてくれていますか?」と意地悪くいった。
その時、一見して勘定書が入っているらしい二通の封書を開けていたポワロは、それに答えなかった。私は、彼がいくぶんしょげていて、いつもの得意満面たるところがないように思った。私は、自分の手紙を開封した。最初のは降霊術の集会の通知であった。
「もし僕たちのやったことが、すべて失敗だったら、降霊術師のところへでも行くんですね。僕はよく、こういう種類のテストをやってみたらどうかと思うんですよ。犠牲者の霊が呼び返されてきて、犯人の名を告げる、それが証拠になるというのはどうでしょう」
「そんなことは私どもの役に立ちますまい。マギー・バックリーは、自分を撃った犯人を知らないでしょう。だから、たとえ彼女の心霊が口をきけたとしても、私どもの役に立つようなことは、何も話す材料がないでしょう。おや! こりゃおもしろい!」
「何ですか?」
「死人が口をきくということを君が話している最中に、私の開けた手紙がこれですよ」
彼はその手紙を、私の方へ投げてよこした。それは、バックリー牧師夫人から来たもので、次のようなことが走り書きしてあった。
ポワロ様
こちらへ帰って参りましたら、亡き娘がセント・ルーに着いてすぐ書いた手紙が待っておりました。これといって、あなたのお役に立つようなことは何もないと存じますが、一応お目にかけます。
ご親切を感謝しつつ、
ジェーン・バックリー
同封の手紙は、私に涙を催させた。それは悲劇に対する不安など、みじんもない、ごく普通の手紙であった。
愛するお母様――無事に到着いたしました。
とても楽な旅でした。エクセターまでずっと、他に二人同乗者があっただけでした。
こちらは、いいお天気です。ニックは、元気で陽気です――いくらか落ちつかないところはありますが。でも、なぜニックがあんな電報をよこしたのか、私には訳がわかりません。火曜日でも同じことだったと思います。
私どもはこれからご近所の方と一緒に、お茶をいただくところです。その方たちは、オーストラリアの人たちで、ここの小さい家を借りてらっしゃいます。ニックは、その人たちのことを、親切だけれども、うるさくてたまらないといいました。フレデリカ夫人と、ラザラスさんが、泊まりにいらっしゃることになっています。ラザラスさんは美術商です。この手紙は門のわきのポストへ投函します。そうすれば今度の郵便の間にあうと思います。明日またお便りします。
あなたの愛する娘 マギーより
二伸――ニックは、電報を打ったわけがあるから、お茶の後で話すと言いました。何だかようすが変で、ひどく神経過敏になっているようです。
「これは死人の声です、そしてそれは私どもに何も話してくれません」とポワロは静かにいった。
「門のわきのポストというのは、クロフトが遺言状を投函したという、あれですね」と私は無益なことをいった。
「さよう。私はふしぎでならない……ふしぎでなりません!」
「あなたの郵便物の中には、ほかにもう興味のあるやつはありませんか」
「何もありませんよ、ヘイスティングス君、私は面白くありません、私は暗闇《くらやみ》の中におります。何もわかっておりません」
その時、電話が鳴り出した、ポワロは受話器を取りあげた。
たちまち、彼の顔に変化が来たのを、私は見た。彼の態度は控え目であったが、非常な興奮は、私の眼をごまかすことはできなかった。
その会話で、ポワロは何の意見も吐かないので、話の内容は、全然、私には想像もつかなかった。
けれども、やがて彼は、「結構です、どうもありがとうございました」といって、受話器を置くと、私の腰かけているところへ、戻ってきた。彼の眼は興奮にきらきらと光っていた。
「君、私のいった通り、あることが起こりはじめましたよ」
「それは、どんなことですか」
「電話をかけてよこしたのは、チャールズ・ヴァイス氏です。彼のところへ来た今朝の郵便で、従妹のニック嬢の署名のある、この二月二十五日付の遺言状を受取ったと、知らせてよこしたのです」
「何? 遺言状?」
「もちろんですとも」
「現われたんですね?」
「ちょうどいい時に! そうでしょう?」
「あなたは、ヴァイス氏が真実を語っていると思いますか?」
「あるいは、ヴァイス氏がその遺言状を、これまでずっと握っていたと、私が考えているのではないかというのでしょう? とにかく奇妙なことですね。しかし一つだけ確かです。私はあなたに話したでしょう、ニック嬢が死んだことにすれば、私どもはある進展を見るだろうと……ほれ、この通り!」
「異常なことですね、あなたは正しかった。これでフレデリカ夫人は残余財産受取人になるんでしょうね」
「ヴァイス氏は、遺言状の内容については、何もいいませんでした。しかし、その内容が例の遺言と同じであることは疑いがないようです。それにはエレンとその夫が証人として署名しているということです」
「そこで僕らは、再び、はじめからの難問、フレデリカに戻りますね」
「謎の人!」
「フレデリカ、美しい名だ!」と私は何の脈絡もないことを口にした。
「さよう、若いご婦人にとって、美しい名ですね。ニック嬢がいわれるように、フレディよりもずっと美しいです」
「フレデリカというのは、あまりたくさん略しようがありませんね。マーガレットとは大分ちがう。マーガレットならマギー、マーゴット、マッジ、ペギーという具合に一ダースくらいある」
「そうですね。さて、ヘイスティングス君、こうして何かが起こってきたので、君は前よりも安心しましたか?」
「もちろんですよ。聞かして下さい……ポワロさんは、こういうことが起こるのを予期していたんですか」
「いいえ、はっきりとこうなるとは考えていなかったです。私のいったのは、ある結果を与えれば、その結果の原因が自《おの》ずと判然してくるということだったのです」
「なるほど」と私は尊敬をもっていった。
「あの電話のベルが鳴り出したとき、私がいわんとしていたのは、何でしたっけ……」
ポワロは、言葉をきって、考えた後、
「ああ、そうです。マギー嬢の手紙です、私はあれをもう一度見たかったのです。私の心の奥に、何かおかしいと気づかせたものがあるのです」
私は前に投げ出しておいた手紙を拾いあげて、ポワロに渡した。彼はひとりで読み返していた。私は部屋の中を、うろつき廻り、窓をのぞいて、湾内でヨットレースが行われているのを見た。
突然に起こった叫び声に驚かされて、私は後ろを振り返った。ポワロは両手で頭をかかえて、苦痛にたえぬように、身体を左右にゆすっていた。
「おお! 私は盲目だった……盲目だった!」
「どうしたのですか」
「複雑だと、私は申したでしょう? 錯綜しているといいましたね。こんな単純きわまることですのに……それがわからないとは、私は何という哀れな奴でしょう」
「一体、あなたがそんなに突然に発見した光明は、何なんですか、ポワロさん!」
「待ちたまえ! 待ちたまえ! 何もいわないで……私は自分の考えをまとめなければならない。この素晴しい発見の光りの中で、考えを配列し直さなければなりません」
彼は例の疑問表をつかむなり、忙しく唇を動かして、声を出さずに読みはじめた。そして一、二度、力をいれるように、うなずいた。
それから、その表を下へおき、椅子の背にもたれかかって、眼を閉じた。私はしまいに、彼が眠ってしまったのかと思った。
突然、彼はため息をついて、眼を開いた。
「いかにもそうだ! ぴったりする。私をまどわしていたことがみんな、ぴったりとあてはまった。私には不自然に思われたことが、すっかりあるべき場所に落ちついた」
「何もかも、わかったとおっしゃるんですか」
「ほとんどすべてです、大事なことはみんなです。ある面では、私の推断は正しかったのです。その反面では真実からは、ばかばかしいほど遠かったのです。けれども今は、はっきりしています。私は今日電報で二つのことを問い合せます、しかしその回答は既にわかっております。ここにあります」といって、ポワロは自分の額を叩いた。
「で、その回答をいつ受け取るんですか?」私は好奇心をもってたずねた。
ポワロは、急に立ち上がった。
「君、君、覚えていますか、ニック嬢が、エンドハウスを舞台に劇を上演してみたいといわれたことを? 今晩、私どもはそうした劇を、エンドハウスで上演します。もっともその劇を演出するのは、エルキュール・ポワロです。ニック嬢はその中で一役演じます」
ポワロはにわかに、にやにや笑い出した。
「ヘイスティングス君、いいですか、この劇には(幽霊)を登場させます。エンドハウスにはこれまで一度も幽霊が出たことがない、ところがその幽霊を出してみせるのです」
私が、質問しようとすると、彼は、
「いいえ、私はもうこれ以上は何も申しません、今晩ですよ、ヘイスティングス君、私どもは喜劇を演出します……そして真相を明らかにします。だが、それまでには、しなければならないことが沢山ある」
彼は慌《あわ》ただしく部屋を出て行った。
ポワロ、演出す
その晩、エンドハウスで催されたのは、奇妙な集会であった。
私は終日、ポワロには会わなかったが、私に九時にはエンドハウスに行っているようにと、書き残してあった。夜会服を着用には及ばないと付記してあった。
全体が何だか途方もなく夢みたいであった。
到着すると、すぐに食堂へ通された。そこにはポワロの表にあった人物が(A)から(I)まで全部集まっていた、但し、(J)は実在の人物でないので出席していなかった。
クロフト夫人までも、車椅子で出席していた。彼女は私に微笑してうなずいた。
「びっくりなさいましたか、私には気晴らしになっていいんですよ、私これからは、ちょいちょい出かけるようにしようと思うんですよ。みんなポワロさんの考えなんですね。ヘイスティングス大尉、私の隣におかけなさいよ、私は何だか気味が悪い気がするんですけど、ヴァイスさんのお指図だもんですからね」と彼女は快活にいった。
「ヴァイスさん?」私はいささか意外に思った。
チャールズ・ヴァイス氏は暖炉の飾り棚のわきに立っていた。そばにポワロが立っていて、彼に低い声で何か熱心に話していた。
私は室内を見廻した。もう、人々はみんな揃っていた。エレンは、一、二分遅刻して行った私を案内してから、戸口に近い椅子に腰をおろした。もう一つの椅子に窮屈にまっすぐ腰をかけて、激しい息遣いをしているのは、彼女の夫であった。子供のアルフレッドは、父母の間で、気まり悪そうに、もじもじしていた。
他の人々は、食卓のまわりに坐っていた。フレデリカ夫人は黒いドレスを着て、そのわきにラザラス、その向う側にチャレンジャー中佐とクロフト氏、私はずっと離れてクロフト夫人の側にいた。ヴァイス弁護士は、最後にポワロにうなずくと、テーブルの上座についた。ポワロは、慎み深くそっとラザラスの隣りの椅子についた。ポワロは自身を演出家に仕立てたかのように、この劇ではあきらかに、目立つ役をしようとしないのであった。ヴァイス弁護士は見たところ、進行係を務めるらしかった。私はポワロが、彼にどんな不意打ちを用意しているのだろうかと訝《いぶか》っていた。
若い弁護士は咳払いをして、立ち上がった。彼はいつもと同じように、冷静で、形式ばって、無表情な顔をしていた。
「今晩の集会は、至って自由なものであります。しかし事情は極めて特異なものであります。もちろん、私は従妹《いとこ》のバックリー嬢の死をめぐる状況に言及いたします。申すまでもなく、検死解剖がありましょうが、死因は毒物によるものであることは疑いもありません。そして、その毒物は殺す目的で混入されたものであります。これは警察の仕事ですから、私は、触れません。警察側では疑いもなく、私がそうしないことを望むでありましょう。
普通の場合でありましたなら、遺言状は葬儀の後で発表されるものでありますが、今回は、ポワロ氏の特別の要請にもとづきまして、葬儀が行われない前に読むことを、私は提案いたします。事実、私は、それを今、この場で読みあげるつもりであります。それ故に皆様ご一同の集合を願った次第であります。只今も申しました通り、状況が異常でありますところから、従来の慣例に外れることをお許しいただきます。
そもそも遺言状そのものが、普通でない方法で、私の手に入ったのであります。この二月の日付であるにもかからず、つい今日の朝、郵便で私の手許に届きました。しかしながらそれは、紛《まご》うかたなく従妹の筆跡であります。その点、私は疑う余地はありません。なお、それは非常に変則な文書でありますが、正式に認証されておるのであります」
彼は言葉をきって、もう一度咳払いをした。
どの眼も、彼の顔に注がれていた。
彼は手に持っていた細長い封筒から中味を出した。私の見たところ、それはエンドハウスに備えてある、普通のノート紙に書いたものであった。
「全く短いものであります」といって、ヴァイス弁護士は程よく間をおいてから、読みあげた。
――これはマグダラ・バックリーの最後の遺言状である。私は、自分の葬儀費がすべて支払われるべきことと、従兄チャールズ・ヴァイスを遺言執行人に指定することをここに指示する。
私は自分の死後、自分の所有する一切を、わが父、フィリップ・バックリーに尽くせし、ミルドレッド・クロフトに、何物をもってしても返しがたき恩義に感謝しつつ遺す。
署名 マグダラ・バックリー
証人 エレン・ウィルソン
同上 ウィリアム・ウィルソン
私は唖然とした! 誰もみんなそうだったと思う。ただ当のミルドレッド・クロフト夫人だけは静かに承認するようにうなずいていた。
「それは真実なんですよ、でも私はそんなことを持ち出すつもりはなかったんですよ。フィリップ・バックリーはオーストラリアへやってきましてね、もしも私がなにしなかったら……よしましょう、秘密はどこまでも秘密にしておく方がようございますからねえ。お嬢さんはそれを知っていらしたんですよ。きっとお父さんから聞いたんでしょう。私は、ただ一度この土地へ来てみたいと思っていたんですよ。フィリップ・バックリーが、よく話していた、このエンドハウスっていうのは、どんなところか好奇心を抱いていたんですよ。でお嬢さんは、私どものしたことを全部知っていらして、私どもにいくら尽くしても、尽くしたりないっていう風だったんですよ。そして私どもにここへ来て一緒に暮らしてくれとおっしゃるんですよ、でも私どもはそれを辞退したんです。そうしたら、番小屋へ来て住むようにと無理におっしゃって、家賃を一銭も取らないんですよ。でも世間の噂になるといけないからっていうんで、私どもは家賃をきちんと払うまねごとをして、お嬢さんが後でそっくり返しなすったんです。そして、今度はこれなんです。もし誰かが、この世の中には感謝なんてものはないという人があったら、私は、そりゃ間違いだといってやりますよ、これが証拠ですからね」
驚異の沈黙がなおも続いていた。ポワロは、ヴァイス弁護士のほうを見た。
「あなたは、これについて何か知っておいでですか」
ヴァイス弁護士は、首を振った。
「フィリップ・バックリーがオーストラリアへ行っていたことは知っておりましたが、かの地で醜聞があったような噂は、何も聞いておりません」
彼は、説明を求めるように、クロフト夫人のほうを見た。
彼女は首を振った。
「いいえ、あなたは、私から一言だって聞くことはできません。この秘密は、私と一緒に墓場へ行くんです」
ヴァイス弁護士は何もいわなかった。彼は椅子に腰をおろして、鉛筆でテーブルを軽く叩いていた。
「ヴァイスさん、あなたは近親者として、この遺言に異議申し立てがおできになると思いますが? この遺言状が書かれた時にはなかった、莫大な財産が、これにかかっていることを私は承知しています」
と、ポワロは前へ身を乗り出していった。ヴァイス弁護士は冷ややかに彼を見て、
「この遺言状は、全く正当なものです。私は従妹の遺産処分法に対して、異議を申し立てようとは、夢にも思いません」といった。
「あなたは正直なお人です。私は、あなたが正直なために、損をなさるようなことはいたしません」クロフト夫人は、賛意を表するようにいった。
ヴァイス弁護士は、この善意だが、当惑させられるようなその言葉をさけるように、後ろへ身を引いた。
「ねえ、おっかさんや、こりゃ全く驚いたね! ニックはこんなことをするなんて、一言もわしに話さなかったよ」クロフト氏は、嬉しさを隠しきれない調子でいった。
「何て可愛いお嬢さんででしょう! 私はお嬢さんが、今こうしている私たちを見おろしていてくれなすったらと思うんですよ、たぶん見ていなさいますとも……」クロフト夫人は、ハンケチを眼にあてながらいった。
「たぶんね」と、ポワロは、合槌を打った。
突然、ポワロの頭に、一つの考えが浮かんだらしかった。彼はあたりを見廻した。
「いいことがあります! 私どもはこうしてテーブルを囲んでおります、降霊術会をしようではありませんか」
「降霊術?……そんなことがまさか……」クロフト夫人は、呆れ返ったようにいった。
「はい、大そう面白いことになるでしょうと思いますね。ここにいるヘイスティングス君は、霊媒力を持っていると断言したことがあります(何だって僕に押しつけるんだろうと思った)。あの世からの伝言を、ヘイスティングス君の口を通して語ることができると申すのです。またとない好機会です! 私は必要条件が申し分なく揃っていると思いますが、ヘイスティングス君もそう思いますか?」
「はい」私は、芝居をする決心をしていった。
「よろしい、私もそうだろうと思いましたよ、早く、電灯を消さなくては!」
次の瞬間、ポワロは席を立って電灯のスイッチを切ってしまった。人々が抗議をしようと思っても、その暇がないほど、すべてが迅速に運ばれてしまった。一同はまだ、遺言状のことで呆気《あっけ》にとられて、茫然としていたらしかった。
部屋は、真っ暗ではなかった。暑い晩で、ブラインドをしぼって、戸を開け放してあったので、窓から淡い光がさしこんでいた。
一、二分、沈黙の中に坐っているうちに、家具の輪郭が、微かに見えてきた。私は、いったいどうすればいいのか途方にくれ、前もって指図をしておいてくれなかったポワロを恨んでいた。
しかしながら、私は眼を閉じて、いびきをかくような風に呼吸をした。
やがてポワロが席を離れ、爪先立ちになって私の椅子のそばへ来た。そして再び自分の椅子へ戻って、つぶやいた。
「はい、もうすでに昏睡状態に陥っております、もうすぐに、何か起こりはじめるでしょう」
こうして暗闇《くらやみ》に坐って何かを待っていると、誰でもたえがたい不安におそわれるものである。私自身もかなり神経過敏になっていたから、他の人々もみんな、そうだったにちがいない。それに、私だけは、少なくとも何が起こるかを知っていた。私は他の人々の知らない重大な事実を知っていた。
ところが、その私でさえも、食堂のドアが、そろそろと開くのを見た時には、驚いて、はっと息をのんだ。
ドアは少しも音を立てなかった(前もって油を塗ってあったにちがいない)。その効果は実に不気味であった。ドアはゆっくりと一杯に開いて、一、二秒、そのままであった。その開いた戸口から一陣の冷たい風が部屋へ吹きこんできたように思われた。それは窓が開いていたせいで、庭園か、公有地から吹きこんできた風であったろうが、私は幽霊物語の中によく書いてある、氷のような寒気を覚えた。
そこで、(われわれ一同は、それを見たのであった)
戸口を額ぶちにして白い影のような姿、それはニック・バックリーであった。
彼女は、そろそろと音もなく前へ進んできた。それは流れている空気のような動作で、確かにこの世のものとは思われないような印象を伝えるものであった。
そのとき私は、世の中は、何という素晴しい女優を見遁していたのだろうと思った。ニック嬢は、エンドハウスで一役演じてみたいといっていた。そして今、彼女はそれを演じている。私は彼女が、心の底から楽しんでいるのを確かめた気がした。彼女は実に完全な演技をした。
彼女は部屋の中へしずしずと入ってきた……そこで沈黙が破られた。
私のそばの車椅子からは、喘《あえ》ぐような叫びが起こった。クロフト氏からは、のどをごくごくいわせるような音が、チャレンジャー中佐からは驚きの叫びが聞こえてきた。ヴァイス弁護士は椅子を後ろへひいたようであった。ラザラスは前へ身を乗り出した。フレデリカ夫人だけは何の音もさせなければ、身動きもしなかった。
その時、悲鳴が部屋をつき裂いた。エレンは椅子から、飛び上がった。
「お嬢様! お嬢様が帰っていらした! 歩いていらっした! 殺されたものは歩いてくるんだわ! お嬢様だわ!」とエレンは絶叫した。
カチリという音とともに、電灯がついた。
私は、ポワロが人々のそばに立っているのを見た。彼の顔には、曲馬団の団長のような、会心の微笑が浮かんでいた。ニック嬢は、部屋の中央に、白い長いドレスを着て立っていた。
最初に、口をきいたのは、フレデリカ夫人であった。彼女は、おっかなびっくり手をのばして、ニック嬢に触れた。
「ニック、あなたは、ほんとうにニックなのね」
と、彼女は聞き取れないほど小さな声でいった。
ニック嬢は笑った。彼女は前へ進んだ。
「そう、あたしほんもの。クロフトのおばさん、父に尽くしてくれて、ありがとう。でも、まだあなたはあの遺言を楽しむわけにはいかないでしょうよ」と彼女はいった。
「あれ、まあ……あれ、まあ!」クロフト夫人は椅子の上で、からだを左右にねじった。
「おまえさんや、私を連れて行って……連れて行ってください……みんな冗談だったんですよ! みんな冗談だったんですよ、あなた!」クロフト夫人は喘ぐようにいった。
「けったいな冗談!」とニック嬢はいった。
再びドアが開いて、男が入ってきた。あんまり音もなく入ってきたので、私も気がつかなかったほどであった。驚いたことには、その男はロンドン警視庁警部のジャップであった。彼は何やら満足したらしく、速やかにポワロとうなずき合った。彼は突然に、顔を輝かして、椅子の上で身もがきしているクロフト夫人の前へ、進み寄った。
「こりゃ、一体何事だね? ミリー・メルトンさんや、久しぶりだったな。お前さん、相変らずいたずらをしているね」とジャップ警部はいった。
彼はクロフト夫人の疳高《かんだか》な異議の申し立てを無視して、居合わせた人々に、説明するように向き直った。
「ミリー・メルトンは、無類の悪賢《わるがしこ》い偽造犯人ですよ、われわれはこの二人が最後の高飛びの時に、列車事故があったことは知っておったのです。ところが、この通り! 脊髄に怪我をしてもまだわるさは止まらない、この女は芸術家だ! その道の達人だ!」
「この遺言状は偽造したものだったのですか」とヴァイス弁護士がいった。その調子には驚きが含まれていた。
「もちろん、偽造よ、あたしが、あんな馬鹿な遺言状を書くと思う? あたし、エンドハウスを、あんたに遺したの、チャールズ。そしてそのほかのものはみんなフレデリカに」
ニック嬢はそういいながら、部屋を横切って行って、フレデリカ夫人のわきに立った。ちょうどその時であった!
窓に焔《ほのお》がぱっと閃き、弾丸がぴゅうっとうなった。もう一発。そして屋外にうめき声と、どさりと倒れる音がした。
そしてフレデリカ夫人が、腕からたらたらと血をしたたらせながら、立ち上がった……。
フレデリカ夫人の告白
あまりに突然の出来事だったので、誰も、何が起こったのか、わからなかった。
ポワロが急に激しい叫びをあげて、テラスへ通じるガラス戸へ向って走った。チャレンジャー中佐がそれに続いた。
間もなく二人はぐったりした男のからだを担いで入ってきた。彼らが革張りの大きな安楽椅子に、男を注意深くおろして、顔が見えた時、私は叫び声をあげた。
「窓の顔! あの顔だ!」
それは前の晩、窓のガラス越しに、われわれをのぞいていた男であった。私は一目で彼であることを認めた。私はあの時、人間とは思えない顔といって、ポワロに誇張したいい方をすると非難されたのも、もっともだと気がついた。
それにしても、彼の顔には何か、私のそうした印象を正当づけるものがあった。それは惨めな顔……普通の人間社会から除《の》け者にされた顔だった。
青ざめて、弱々しく、邪悪な顔……まるで単なる仮面のような顔……まるで霊魂がとうに飛び去ってしまったような顔であった。
その顔のわきから、血がたらたらと流れ落ちていた。
フレデリカ夫人は、そろそろと進み出て、椅子のわきに立った。
ポワロがそれを遮るようにして、
「奥様、負傷なさいましたか?」とたずねた。
彼女は首を振った。
「弾丸が肩をかすっただけです」
彼女は、優しい手で、ポワロを押しのけて、椅子の上をのぞきこんだ。
男の眼が開いた。そして自分を見おろしている彼女を見た。
「今度こそ、やっつけてくれたぞ!」
男は低い悪意ある声で、かみつくようにいったが、突然にその声は変化して子供みたいになった。
「おお、フレディ、おれはそんなつもりじゃあなかったんだ! おれはそんなつもりじゃあなかったんだ! お前はいつも、おれによくしてくれたのに……」
彼女は、彼のそばにひざまずいた。
「おれは、そんなつもりじゃあ……」
彼の顔は、がくりと落ちた。その言葉はついに途中で切れたままになってしまった。
フレデリカ夫人は、ポワロを見あげた。
「はい、奥様、亡くなられたのでございます」とポワロは優しくいった。
彼女は、そっと立ち上がって、彼を見つめ、憫むように、片手を彼の額に触れた。それからため息をついて、われわれのほうへ向いた。
「これは、私の夫でした」と彼女は、しずかにいった。
「Jだ!」と私はつぶやいた。
ポワロは、私のいったことを聞き取って、同意するように、素早くうなずいた。
「さよう、私はJなる人物がいるにちがいないと思っておりました。最初から、そう申しておりましたでしょう?」とポワロは、ささやくようにいった。
「これは、私の夫でした。何もかもお話ししてしまったほうがいいでしょう」とフレデリカ夫人はいった。それはひどく疲れた声であった。彼女はラザラスのすすめた椅子に、がっくりと倒れこむように腰かけた。
「あの人は、もうすっかりだめになってしまっていました。麻薬の鬼でした。あの人は、私に麻薬の味を教えました。あの人と別れて以来、私はその悪い習慣と戦ってきました。どうやら……ようやく、私は癒《いや》されました。でも……とてもむずかしいことでした……ひどくむずかしいことでした、いったん麻薬常用者になった者が、その悪臭から脱け出すことが、どんなに困難か、誰にもわからないでしょう!
私は決して、あの人から完全に解放されませんでした。あの人はいつも私の前に現われて、お金を要求するのでした。脅迫して、ゆすり取るようなことをするのでした。私がお金をやらなければ、ピストル自殺をするといって、脅すのでした。そのうちに今度は、私を撃ち殺すと脅しはじめました。でも、あの人は自分のしていることに対して、何も責任は持てない人だったのです。あの人は狂人だったのです……マギー・バックリーを射殺したのも、あの人だったろうと思います。もちろん、あの人はマギーさんを射つつもりではなかったのです……きっと私とまちがえたのです。このことは、もっと早く話すべきだったのでしょう。でも私は、確かでなかったのです。ニックが出遭った、いろいろな災厄のことをきいたので、それではあの人のはずはないとも、思ったのでした。誰か、全然別の人の仕業だと思ったのです……。ところが、ある日、私はポワロさんのテーブルの上に、あの人の書いた手紙の破片を見ました。それはあの人が私によこした手紙の一部だったのです。それで私は、ポワロさんがあの人を追跡していらっしゃることを知ったのです。それ以来、私は、もうこれは時間の問題だと感じていました。でも、私はチョコレートのことが不思議でなりませんでした。あの人がニックの死を願うはずはありません、それに第一あの人が、あのチョコレートに触れることができるはずがありませんでしたし、私は、不思議で、不思議でたまりません」
彼女は両手で顔を覆ったが、やがてその手をおろして、
「これで、すべてです……」といって、話を打ち切った。
重大な誤算
ラザラスは、いそいでフレデリカ夫人のそばへ来た。
「ああ、僕のフレディ!」と彼はいった。
ポワロは食器戸棚のところへ行って、コップに葡萄酒を注《つ》いできて、彼女がそれを飲むのを見守った。
彼女はコップをポワロに返して、微笑した。
「もう大丈夫。この次は、私、どうしたらよろしいんでしょう?」といって、彼女はジャップ警部を見上げた。しかし警部は首を振った。
「奥さん、私は休暇中なんですよ。旧友に頼まれたことを、ちょっとやってるだけですからね。この事件を担当しているのは、セント・ルー警察ですよ」
彼女は、ポワロを見た。
「ポワロさんは、セント・ルー警察の仕事をしていらっしゃいますの?」
「これは、また、何というお考えなのでしょう。奥様、私は単なる助言者に過ぎないのでございますよ」
「ポワロさん、この事件は、黙殺することはできないの?」とニック嬢がいった。
「お嬢様は、それをご希望で?」
「そう、結局、あたしに一番関係のあることだし、もう、これであたしつけ狙われる心配なしだから」
「さよう、その通りでございます。もうあなたが襲撃される心配はございませんが」
「ポワロさんはマギーのことを考えているの? でも、マギーを生き返らせることは、もうできないじゃないですか? こんなことを表沙汰にしたら、フレディには、数かぎりない苦しみを与えるだけですわ」
「お嬢様は、お友達がそんな目にお遭いになる法はないとおっしゃいますか?」
「もちろんよ! 最初にあたしいったじゃない、野獣のような夫だって。どんな男か、あなたは今晩見たわ。男は死んだ、これですべてを終わらせろだわ! 警察には、マギーを撃った犯人を捜させておけばいい。見つからないだけのことだから、それでいい」
「それでは、お嬢様は、この事件を、秘密に葬れとおっしゃるのでございますね」
「ええ、そう、お願い! お願い! ポワロさん」
ポワロは、ゆっくりと、周囲を見廻した。
「これに対して、皆様のご意見は?」
各自が、口々にいった。
「僕は賛成です」私はポワロが私を見たのでいった。
「僕も」とラザラスがいった。
「それが一番いいことだ」とチャレンジャー中佐がいった。
「今晩、この部屋であったことは、全部忘れようじゃないですか」とクロフト氏がきっぱりといった。
「そりゃ、お前はそういうだろうさ!」とジャップ警部はいった。
「私に辛くしないでくださいよ、ねえ」とクロフト夫人は、鼻をすすりながら、ニック嬢にいった。彼女はさげすむように相手を見たきりで、答えなかった。
「エレンさんは?」
「私もウィリアムも、何も申しません。口数は少ないほどよい、ですからね」
「それから、ヴァイスさんは?」
「こういうことは秘密に付することはできません。正当な方面に知らせるべきです」とチャールズ・ヴァイスはいった。
「チャールズ!」とニック嬢は叫んだ。
「すまないけれど、僕は法律家の立場にあるんだから」
ポワロは、急に笑い出した。
「すると、ヴァイス弁護士は、七対一ということになりますね、ジャップさんは中立ですか」
「私は休暇中なんだから、仲間に入らないですよ」ジャップ警部は、にやにや笑いながらいった。
「七対一、ヴァイスさんだけが不賛成……あくまで法律に従うとおっしゃる! ヴァイスさん、あなたは、人格者ですよ!」
ヴァイス弁護士は、肩をすくめた。
「論拠は極めて明白であります。取るべき道は一つしかありません」
「さよう、あなたは正直なお人でいらっしゃる。よろしい、私も少数派に味方します。私もまた、真実を求めます」
「ポワロさん!」ニック嬢は叫んだ。
「お嬢様、私をこの事件をお引きこみになったのは、あなたでいらっしゃいますよ、今になって私を黙らせようとなすっても、それはなりません」
ポワロは、私のよく知っている、あの威嚇するような仕草で、指をあげた。
「皆さん、おかけください……私は皆さんに真実のことをお話しいたします」
ポワロの堂々たる態度に沈黙させられて、一同は従順に席につき、注意深い顔を、彼に向けた。
「お聞きください! 私はここに、この犯罪に関係ある人々の表を持っております。私はそれをABC順にJまで並べました。Jは未知の人物をさしております。このJはここに挙げた関係者の誰かと関係があるとみなされております。私は今まで、このJなる人物が誰だかわからないでおりましたが、そういう人物が存在していたことを、今晩知りました。今晩の出来事は、私が正しかったことを証明してくれました。
さて、私は昨日、突然に自分が重大な誤りをしていることに気がつきました。私は手ぬかりをしておりました。そこで私はこの表に、Kという文字を加えました」
「一人また、未知の人物ですか?」ヴァイス氏は、いくらか軽蔑するようにたずねた。
「的確にはそうとはいえません。私はJをたんに未知の人物の符号として書いておいたのです。しかし、Kはもっと重要な意味を持っております。これは最初から表《ひょう》に入れられるべきはずであったのに、見落としていた人物を表《あらわ》しております」
彼は、フレデリカ夫人のほうに、身をかがめて、
「奥様、ご安心なさいまし、あなたの旦那様は、殺人者ではございません。マギー嬢を射殺したのは、Kなる人物でございます」
彼女は眼をみはった。
「でも、Kというのは誰ですか?」
ポワロは、ジャップ警部にむかって、うなずいた。
彼は前へ出て、裁判所の証人席に立った時のような口調で語った。
「私はある情報に従って、今夕ポワロ氏の手びきでこの家へ潜入したのであります。そして客間のカーテンの背後に身をひそめておりました。家中の者がこの食堂へ集合したとき、若いお嬢さんが客間へ入ってきて、電灯をつけました。彼女は暖炉に近づき、羽目板に取りつけてある小さな戸棚を開けました。それはばね仕掛けになっておったらしいです。彼女はその戸棚からピストルを取り出しました。彼女はそれを手に持って部屋を出て行きました。私は尾行して行って、ドアを細めにあけ、その隙間から彼女の行動を更に観察することができました。玄関には、客人たちが到着した時に脱いだオーバー類が置いてありました。若いお嬢さんは持っていたピストルをハンケチで注意深く拭いて、フレデリカ夫人の灰色のコートのポケットに入れました」
「嘘! そんなことみんな嘘!」とニック嬢が叫んだ。
ポワロは、彼女を指さした。
「Kなる人物は、そこにおります。従妹のマギー嬢を射殺したのは、ニック嬢です」
「あなた気が狂ったのね? 何だってあたしがマギーを殺すの?」
「マイケル・シートン大尉が、マギー嬢に遺した金を相続するために! あの方の名もマグダラ・バックリーでした。シートン大尉と婚約していたのは、あのお嬢様だったのです。あなたではごさいません!」
「あなたは……あなたは……」
と喘ぐだけで、ニック嬢は震えて立っていた。
ポワロはジャップをかえりみた。
「警察へ電話してくださいませんか」
「はあ、みな玄関へ来て待っております。逮捕状を持参しておるです」
「あなたたち、みんな気が狂っているわ!」とニック嬢は、憎々しく叫んで、フレデリカ夫人のそばへ、駆け寄った。
「フレディ、その腕時計をちょうだい! 記念に?」
フレデリカ夫人は、宝石をちりばめた時計をゆっくりと外して、ニック嬢に渡した。
「ありがとう、さあ、これからこの途方もない馬鹿げた喜劇を終わりまで演じなくては」
「これはお嬢様が計画し、このエンドハウスで演出した喜劇でございます。さよう、あなたはこのエルキュール・ポワロに主役を演じさせるのではございませんでしたね。それがお嬢様の誤りでした、重大な誤算でございました」
これで私は、何もかも解りました
「あなた方は、私に説明を求めておいでなのですね」
ポワロは満足そうな微笑を浮かべ、表面だけは例のいかにも恐縮したようすを装っていた。
われわれは客間に席を移した。人員は減じていた。奉公人たちは、気をきかして引き揚げてしまった。クロフト夫妻は、警察へ同行を求められた。フレデリカ夫人とラザラスとチャレンジャー中佐とヴァイスと私が残った。
「さて、私は告白いたします。私は愚弄されました。完全に、すっかり愚弄されたことを告白いたします。小さなニック嬢は、この私を手玉に取りました。奥様が、お友達のことを、賢い嘘つきだと仰せになりましたのは、何と正しいことだったでございましょう!」
「ニックはいつも嘘をついていました。だからあの人が何度も、危ないところを逃れたなんていう話を、私、信じませんでしたの」とフレデリカ夫人は、落ちつき払っていった。
「それですのに、私は愚鈍でございました……」
私には、まだ何が何やら、訳がわからなかったので、
「あれはみんな、実際に起こったことじゃなかったんですか」とたずねた。
「みんな作りごとだったのです……実に巧妙で……たしかにそういう印象を与えるほど……」
「どんな印象ですか?」
「ニック嬢の生命が、危険に瀕しているような印象を与えたのでした。しかし、もっと前にさかのぼりましょう。私は、不完全に、刹那的に浮かんできたままでなく、きちんと綴りあげた物語として、お話しいたしましょう。
この事件のそもそもの初めに私どもは、ニック・バックリー嬢に会いました。若くて、美しくて、無軌道で、熱狂的に、わが家を愛している……」
「そのことは、私があなたに話しました」とヴァイス弁護士は、うなずきながらいった。
「そうです、あなたのおっしゃった通りでした。ニック嬢は、エンドハウスを愛していましたが、お金がありませんでした。エンドハウスは抵当に入っておりました。彼女は金が欲しかったのです。彼女はル・トゥーケで若いシートンに会いました。彼は彼女の魅力に魅せられました。彼女は、彼が伯父の相続人に違いないということ、それからその伯父が億万長者であることは知っていました。彼女は、これはいい、自分の運勢は、中天に昇って行くと考えました。しかし彼は真実に彼女の引きつけられていたのではありませんでした。彼は彼女を愉快な遊び相手ぐらいにしか、思っていなかったのでした。この二人は、スカーバラで会い、彼女を自分の飛行機に同乗させたりしました。そこへ破局がきました。彼はニック嬢を訪ねて行ったマギー嬢に会って、一目で恋に陥ってしまったのです。
ニック嬢は呆気に取られてしまいました。彼女は従妹のマギーが美しいなどとは、考えたこともありませんでした。しかし若いシートンにとっては、マギー嬢は、他のお嬢さんたちと『違って』いたのでした。この世界でただ一人の女性となったのでした。二人は秘かに婚約しました。これはただ一人だけに打ち明けられました。その一人と申すのは、ニック嬢だったのでした。気の毒なマギー嬢は、一人だけでも打ち明け話をする相手があることを喜んでおりました。疑いもなく彼女は、婚約者の手紙の一部を従姉に読んできかせましたでしょう。それでニック嬢は、シートンの遺言のことを知ったのでしょう。その時は、特別注意をしなかったとしても、そのことは記憶に残っておりましたでしょう。
そこへ突然に思いがけないマシュー・シートン卿の死が報ぜられ、その上にシートン大尉の行方不明の噂がたったのでした。そしてすぐに悪虐無道な計画が、若いお嬢様の頭に入ってきたのでした。シートンは彼女の名もマグダラだということは知りませんでした。彼は彼女をニックという名でしか知りませんでした。彼の遺言状は全く略式で、単に姓名が書いてあるだけでした。けれども世間では、シートンはニック嬢の友人と認められておりました。シートンの名をニック嬢と結びつけたのは、彼女自身でした。たとえ、彼女がシートンと婚約していたと発表しても、誰も驚きません。しかしこれを成功させるには、マギーを亡きものにしなければなりませんでした。
時間は短い。彼女はマギーに五、六日泊りに来るように手配しました。それから何度か、危うく死をまぬがれた事件を作りました。絵画を吊ってあった紐に、彼女は切り目をつけておきました。車のブレーキを自分で破損しておきました。丸石は恐らく自然に転落したのを、自分がその時、崖の小路を歩いていたと作り話をこしらえたのでしょう。
それからまた、彼女は新聞で私の名を見ました(ヘイスティングス君、私はあの時、誰でもエルキュール・ポワロの名を知っていると申したでしょう?)。そして不届き至極にもこの私を共犯者にしたのです。帽子に穴をあけた弾丸が、私の足許に落としてありました。見事なお芝居です! 私は欺かれてしまいました! 彼女は貴重な証人を自分の味方にしたのです。私は彼女にあやつられて、誰か友人を呼ぶようにいわされたのでした。彼女はその機会をつかみ、マギーに予定より一日早く来るようにと電報を打ちました。
何と雑作ない犯罪ではありませんか! 彼女は食事中に、私どもを残して食堂を出て行って、ラジオでシートンの死が確認されたニュースを聞くと、直ちに計画を実行に移しはじめました。彼女には十分な時間がありました。……まずシートンからマギーに宛てた手紙の中から、目的に叶うものを選び出して、それを自分の部屋へ持ってきておきました。その後で、彼女はマギーと一緒に花火を見物しに庭へ出ました。そしてまた家に戻りました。彼女はマギーに、自分のショールをかけるようにいいました。そして背後から忍び出て行って、彼女を撃って、いそいで家の中へ引き返し、そのピストルを秘密の戸棚(彼女は自分のほかに誰も知っている者はいないと、思っていた)に隠しました。それから二階へ駆け上がって行って、人々の声が聞こえてくるのを待っておりて来ました。死体が発見されました。それは彼女の芝居のきっかけだったのです。
彼女はテラスに面したガラス戸から駆け出しました。彼女は自分の役を何と巧く演じたことでしょう! 素晴しいものでした! 彼女はここで立派な劇を演出しました。女中のエレンは、この家を邪悪の家だと申しました。私もその説に傾いております。ニック嬢はこの家から霊感を得られたのでございます」
「でも、あの毒入りチョコレートのことは、私まだ訳がわかりませんわ」とフレデリカ夫人はいった。
「あれも同じ計略の一部だったのでございます。マギー嬢の死後に、ニック嬢の生命が狙われたとなれば、マギー嬢の死は過失という問題が、はっきり確認されるからでございます。
機が熟したと思った時に、ニック嬢は、あなたに、チョコレートを届けるように電話しました」
「では、あれはニックの声だったのですか?」
「そうでございますとも! 簡単な解釈というものは、しばしば事実と相違しないものでございます。ニック嬢は、ちょっと声を変えるだけでした。そうしておけば、あなたが訊問された時には、はっきりと断言できないだろうということが、計算に入れてあったのでございます。それから、チョコレートが届いた時には、また簡単です。彼女は巧みに隠し持っていたコカインを、三個のチョコレートに詰めておけばよかったのです。そしてその中の一つを食べて、病気になる……けれどもあまり悪くはならない。彼女は、コカインはどのくらいの分量を飲めば大丈夫か、中毒の症状をどんな風に誇張するかを心得ておりました。
それからカードです……私の名を書いたカード! 何という図太い神経でしょう! あれは私が花に添えて届けたカードです。実に簡単なことです。……そこまで考え及ぶべきでした……」
沈黙が続いた。しばらくして、フレデリカ夫人が質問した。
「なぜ、あの人はピストルを私のコートに入れたのですか?」
「奥様が、それをおたずねになるだろうと思っておりました。これはやがて、あなたに思い当ることでございました。うかがいますがね、ニック嬢が、もはやあなたを好いていないということを奥様はお考えになったことがおありになりますか? あのお嬢様があなたを憎んでいるというようなことをお感じになったことはございませんか?」
「それをいうのはむずかしいことですわ。私たち不真面目な生活をしていました。でも私はいつもあの人が私を好いていたと思っていましたわ」とフレデリカ夫人は、のろのろといった。
「では、ラザラス君にうかがいますがね……よろしいですか、今は偽りの慎みなどにこだわっている時ではございませんからね。君とニック嬢の間に何かあったことはありませんでしたか?」
「一度は心をひかれたことがありましたが、その後、何ていうことなしに僕の心は彼女から離れてしまいました」
ポワロは、さかしげにうなずいた。
「ああ、それがニック嬢の悲劇でした。彼女は、男性を魅惑しますが、みんな離れて行ってしまうのでした。君はあのお嬢様をもっともっと好きになっていくかわり、そのお友達に恋をしておしまいになった。それでニック嬢は、お金持ちを後盾《うしろだて》に持つフレデリカ夫人を憎むようになったのです。昨年、遺言状を書かれた時には、まだ奥様を好きだったのですが、その後は違っていました。
ニック嬢はあの遺言状を覚えておりました。けれどもあれがクロフトに握りつぶされて、ヴァイスさんの手許に着かなかったことは、ご存じなかった。彼女は、あの遺言状がものをいって、奥様が殺人を犯す動機を持っていらっしゃると、世間に思いこませると考えておいでだったのです。それで、電話で奥様にチョコレートを届けるように頼んだりされたのです。今晩、みんなの前で遺言状が読みあげられ、奥様が残余遺産受取人として指名されている上に、奥様のコートのポケットにマギー嬢を射殺したピストルが発見されるという寸法なのです。もし奥様がそのピストルに気がつかれたとしても、それを処分しようとして、かえって自らを有罪に追いこむことになるでしょう」
「ニックは、私を憎んでいたんですのね」
「そうでございます。奥様、あなたはニック嬢の持っていないものを持っていらっしゃいます……愛情を獲得し、それをいつまでも保っている術を心得ていらっしゃる」
「僕はどうも鈍感のほうだが、遺言状のことがはっきりと掴めないんです」とチャレンジャー中佐がいった。
「そうですか? これはとにかく別問題です。ごく簡単なことです。クロフト夫妻は、ここに潜伏していました。ニック嬢は手術を受けることになりました。そこでクロフトは遺言状を書くことをすすめ、自分が郵便で発送することを申し出ました。もしもニック嬢に何事かあった場合には、巧妙に偽造した遺言状を提出する。即ちオーストラリアへ行ったことがあるフィリップ・バックリーを種に、全財産をクロフト夫人に遺すということにするつもりだったのです。
ところがニック嬢の盲腸の手術は好調にすみ、偽造の遺言状は役に立たなくなりました。すると今度はニック嬢の生命を何者かが狙いはじめたと知って、クロフト夫妻はもう一度希望を持ちました。最後に私はニック嬢の死亡を発表しました。これは逃《のが》すべからざる好機会です。時を移さず偽造した遺言状がヴァイス弁護士に送られました。もちろんクロフトは、エンドハウスが抵当に入っているとは知りませんでしたから、ニック嬢を事実よりもずっと金持ちだと思いこんでいた訳です」
「ポワロさん、僕が一番知りたいと思うのは、あなたが、実際にいつから、どうしてこういうことをみんな推察しはじめたかという点ですよ」とラザラスがいった。
「ああ、そこが私の痛いところです。かなり長い間かかりました。さよう、私を悩ましたことが沢山ありました……どうもぴったりしないと思うことがいくつかありました。ニック嬢が私に話されたことと、他の人々から聞いたことの間には、種々の食いちがいがありました。不幸にして私は、いつもニック嬢の言葉のほうを信じておりました。
すると突然に、私は意外な発見をしました。ニック嬢は一つの間違いを犯しました。彼女はあまり利口すぎました。私が誰かお友達を呼ぶようにすすめた時に、既にマギー嬢を招待してあったのに、その事実を伏せてしまったのです。そのほうが怪まれる心配が少ないと考えたのですが……それは間違いでした。
というのは、マギー嬢がエンドハウスに到着してすぐに家へ書き送った手紙の中で、彼女が用いた無邪気な言葉が、私に疑念を起こさせることになったからです。……(なぜニックが、あんな電報をよこしたのか、私には訳がわかりません。火曜日でも同じことだったと思います)――この火曜日というのは何を意味しているのでしょうか? それはただ一つのことを意味しているとしか考えられません……マギー嬢は、どのみち火曜日には泊りがけで来ることになっていたのです。そうなるとニック嬢は私をだましていた……少なくも私に事実を隠していたことになります。
この時はじめて私は、異なった光線の下に彼女を検討しはじめました。私は彼女の陳述を調べたのです。信じる代わりに『もしもこれが嘘であったら』と疑ってみたのです。私は種々な食いちがいを心に浮かべてみて『もしもあの場合、いずれもニック嬢が嘘をついていたので、他の人々のいったことが真実であったら、どうであろうか?』と考えたのでした。
私は自分にいいきかせました。さあ単純に考えよう。何が真実に起こったのであろう?
そして私にわかったのは、マギー・バックリーが殺されたことだけが真実に起こったことだという事実でした。それだけのことです! しかし誰がマギー・バックリーの死を希望するであろうか?
そこで私はあること……そのつい四、五分前に、ヘイスティングス君がいった、ごくつまらない言葉を思いうかべたのです。ヘイスティングス君がいうには、マーガレットという名の略語は沢山ある……マギー、マーゴット……私は急に、マギー嬢のほんとうの名は何であろうかと思ったのでした。
すると突如、こういうことが私の脳裏にひらめいたのです! もしもマギーがマグダラであったら! マグダラというのは、バックリー一族の女名前です。それはニック嬢が私に話したことです。もしも、マグダラ・バックリーが二人いるとしたら……。
私は自分の読んだ、マイケル・シートンの手紙を、心の中で読み返してみました。さよう、あの中には何も矛盾はありません。スカーバラのことに触れていましたが、マギーはニックと一緒にスカーバラへ行きました。そのことは、マギー嬢のお母様からうかがいました。
この手紙については一つ、私に納得のいかないことがありました。なぜ手紙があんなに少ないのだろうか? 若い娘が恋人の手紙を保存しておくとすれば、全部を大切にしまったおくはずです。なぜ、あの少数の手紙だけを選んでとっておいたのであろう? これには何か特別な意味があるのではあるまいか?
次に私が気のついたのは、その手紙にはどれも名前が出てこないことでした。どれも『愛しい人』というような呼びかけで書かれていて、ニックという愛称は一つも出ておりません。
それと、もう一つ、真実を声高く叫んでいるのを、私が直ちに気づくべきはずだったことがありました」
「それは何ですか?」
「それは、こういうことです。ニック嬢は二月二十七日に盲腸の手術を受けておりますのに、三月二日付のマイケル・シートンの手紙に、心配していることも、病気のことも、そのほか日常と変わった事件について、一言も書いていないことです。このことは、あの手紙が、別の人に宛てて書かれたものだということを、私に告げたはずなのでした。
それで私は、自分が前にこしらえておきました疑問表に目を通し、新しい視点の光に照らして、一つ一つに解答を与えてみました。
全体として、少数の孤立した問題を除けば、結果は、明白で納得のいくものでした。そして私は、以前にも自分に問いかけた質問を、再び出してみました。(ニック嬢はなにゆえに黒いドレスを着たか?)……その回答は、彼女がマギー嬢と同じ服装をするためです……真紅のショールは彩りです。このほうが、以前の解釈よりも遥かに真実味があり、納得がいきます。若い娘さんが、恋人が死んだのを知る前に、喪服を買うというのは、普通あり得ないことで、不自然です。
それで私は、ちょっとした芝居を順ぐりに演出していったのでした。すると私の希望した通りに、すべてが展開していきました。ニック嬢は、秘密の戸棚が問題になった時に、ひどく激しい感情をあらわしました。彼女はそんなものは絶対にないと断言しました。しかし私は、エレンがそんなことで嘘をつく必要はないと思いましたので、ニック嬢はその存在を知っているにちがいないと考えたのです。では、なぜ、そんなに極力否定したのでしょうか? もしかしたらそこへピストルを隠しておいたのではないか? 後刻、誰かに嫌疑をかけるのに使う目的で?
私はそこで、フレデリカ夫人に対する嫌疑が濃厚であるように、ニック嬢に見せかけました。それは彼女の願うところでした。私の予想通り、果たしてニック嬢は、夫人を陥れる証拠を更に固めずにはいられなくなりました。それに、そのほうが彼女にとって、もっと安全に思われましたし、秘密の戸棚をエレンに発見されるかも知れませんし!
私どもはみんな食堂に集まっていて、ニック嬢は外で、出番を待っていました。誰にも見られる危険はありません。それで、彼女は、ピストルを、かくし場所から取り出して、フレデリカ夫人のコートに入れることは、絶対安全だと考えたわけです。
かくして、ニック嬢は、ついに、失敗しました」
フレデリカ夫人は、身震いをした。
「それにしても、私は、ニックに時計を渡したことを喜んでいます」
「さようでございますとも、奥様」
夫人は素早くポワロを見あげて、
「あなたも、あのことを知っていらっしゃいましたの?」
「エレンのことはどうですか? エレンが何か知っていたとか、推測していたとかいうことはありませんか?」と、僕は、割りこんだ。
「いいえ。私はエレンに聞きました。エレンがあの晩、家にいることにきめたのは、彼女の言によると……何か起こると思った……からだそうです。恐らくニック嬢があまりしつこく、花火を見るように強要したのでしょう。エレンは、ニック嬢がフレデリカ夫人を憎んでいたことを見抜いていたのです。彼女は私にこう申しました……私は何か起こると思っていましたけれども、それはフレデリカ様にだと思っていました。エレンは、ニック嬢の気質をよく知っておりました。そして彼女は昔から奇妙な小さいお子さんでしたとも申しました」
「そうですのね、私どもはそう考えましょう。奇妙な小さいお子さん! 自分で自分をどうすることもできない、奇妙な小さな子供……」と、フレデリカ夫人は、ささやいた。ポワロは彼女の手をとって、優しく唇をつけた。
チャールズ・ヴァイス弁護士は、落ちつかないようすで、居ずまいを直した。
「非常に不愉快なことになりますな。私は、彼女のために、何らかの弁護の方法をとらなければならないと思われます」と、彼は静かにいった。
「その必要はないでしょうと思います。もし私の推定に誤りがなければ」とポワロは、静かにいった。
彼は急に、チャレンジャー中佐に向っていった。
「君は、あれを腕時計の中に入れていたのだね?」
「僕は……僕は……」チャレンジャー中佐は狼狽して、口ごもった。
「君の、その善良らしいようすで、私を瞞着しようとしてもだめですよ、ヘイスティングス君はだまされましたが、私はだまされません。君はそれで利益を得ましたね。医師をしている伯父と君とで……麻薬密売で……」
「ポワロさん」チャレンジャー中佐は立ちあがった。
私の小柄な友人は、彼を見あげて、おだやかに目をしばたたいた。
「君は、役に立つボーイ・フレンドですね。それを否定したかったらそうなさい。だが、もしもその事実が、警察の手に託されるのがいやだったら、ここを立ち去るように私は忠告しますね」
すると、驚いたことに、チャレンジャー中佐は立ち去った。彼は閃光のごとくに部屋を飛び出して行った。私は口を開いたまま、それを見送った。
ポワロは声をあげて笑った。
「どうです、私のいった通りでしょう! 君の直感はいつでも間違っている! 実におどろくべきものですよ!」
「コカインが、あの腕時計の中に……」と私がいいかけると、
「さよう、さよう、そうやって、ニック嬢が療養所へ麻薬をうまく持ちこんだのです。それをチョコレートに使ってしまったので、たった今フレデリカ夫人の、一杯入っている時計を所望したのです」
「ニックは、それなしではいられないんですか?」
「いいえ、君、ニック嬢は、麻薬中毒者ではありません。時々、ほんの冗談で用いただけのことです。けれども今晩は、違った用途で必要だったのです。この度はたっぷりの服用量を必要としたのです」
「というと……」私は、喘ぐようにいった。
「最良の道です。絞首台の縄よりもましでしょう。しっ! 法律と秩序がすべてであるヴァイスさんの前で、こういうことをいってはなりません。公けには私は何も知りません。腕時計の内容は私の単なる推量に過ぎません」
「ポワロさんの推量は、いつも当っていますわ」とフレデリカ夫人はいった。
「私は行かねばならんです」ヴァイス弁護士は不満らしい冷ややかな態度で、部屋を出て行った。
ポワロは、フレデリカ夫人とラザラスを見くらべた。
「あなた方は、ご結婚なさるのでございましょう?」
「できるだけ早くしたいと思います」
「それから、ポワロさんに申し上げますけれど、私はあなたがお考えになるような、麻薬常用者ではございません。ほんの僅かに減らしてしまいました。前途に幸福がございますから、私はもう、あの腕時計に用はなくなると思いますわ」とフレデリカ夫人はいった。
「奥様が幸福におなりになりますよう、お祈り申し上げます。あなたはこれまで、ずいぶんお悩みになりましたもの。しかしあらゆる苦悩を経験していらっしゃりながら、奥様は少しも慈悲深い性格を損われていらっしゃらない……」とポワロは優しくいった。
「僕は、フレデリカの世話をします。僕の商売は思わしくないですが、何とか切り抜けられるでしょう。それに、もしうまくいかないとしても……フレデリカは僕と共に貧乏するのは構わないでしょう」
彼女は微笑して、うなずいた。
ポワロは時計を見あげて、
「もう遅いです」といった。
われわれは立ち上がった。
「私どもは、奇妙な夜を過ごしましたね、この奇妙な家で……エレンのいったように、ここは邪悪の家らしいですね……」とポワロは言葉を続けた。
彼は、ニコラス・バックリー卿の肖像画を見あげた。そして身ぶりで、ラザラスをわきへ寄せた。
「失礼ですが、もう一つ解決のついていない問題をおたずねしたいのです。ラザラス君はなぜあの肖像画に五十ポンドの値をつけられたのですか? それを知らせていただけると非常に嬉しいのです。お分かりでしょう? それで、何一つ回答のないものは残っていないことになるのです」
ラザラスは無表情な顔で、一、二秒ポワロを見つめていたが、やがて微笑した。
「ポワロさん、お分かりでしょう? 僕は商人なんですよ」
「正に仰せの通り!」
「あの絵には二十ポンド以上の価値はないのです。僕が、もし五十ポンドで買うと申し出れば、ニックのことだからきっと、もっと値打ちがあると思って、どこかよそで値をつけさせてみて、僕がつけた値がずっといいことを知ると思ったのです。それで、次に僕が別の絵を買いたいと申し出た時には、ニックはよそで値を当ってみたりしないでしょうからね」
「なるほど、それで?」
「あの壁の一番はずれにあるあの絵は、少なくとも五千ポンドの値打ちはあるんです」とラザラスはそっけなくいった。
「ああ!」ポワロは深く息を吸いこんだ。そして、
「これで、私は何もかも解りました」と幸福そうにいった。(完)
[#改ページ]
◆危機のエンドハウス◆
アガサ・クリスティ/松本恵子訳
二〇〇六年十二月十五日