ザ・ビッグ4
アガサ・クリスティ/松本恵子訳
目 次
第四号の跳梁
思いがけぬ客
精神病院から来た男
李張閻《リーチャンエン》の噂
羊の腿《もも》肉の重要性
科学者の失踪
第三号の仮面
階段の上の女
ラジウム泥棒
敵の家の中で
黄色いジャスミン
クロフトランド莊
ポワロをめぐる罠
チェスの殺人
餌のついた罠
鼠、罠にかかる
色あせた金髪娘
凄まじき終結
虎穴に入る
瀕死の中国人
第四号策略に勝つ
フェルゼンラビリンス
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登場人物
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ライランド氏……米国最大の富豪
李張閻《リーチャンエン》……中国の高官
イングルス氏……英国の退職文官、中国通
グラント……殺されたワーレイ氏の使用人
ハリデー氏……英国の若い科学者
オリビエ夫人……フランスの誇る女流科学者
ロザコフ伯爵夫人……白系ロシア人、別名イネス・ヴェロノオ
マーチン嬢……ライランド氏の速記者
ペインター青年……画家、殺されたペインター氏の甥
阿林《アーリン》……殺されたペインター氏の使用人
サバロノフ博士……チェスの世界選手権保持者
ダビロフ嬢……サバロノフ博士の蛭
モンロー嬢……尾羽打ちからした元女優
クロード・ダレル……三年前に失踪した俳優リッジウェイ博士
メドース警部
ジャップ警部
ヘイスティングス大尉
エルキュール・ポワロ
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第四号の跳梁
思いがけぬ客
私は、英仏海峡の船旅を楽しんでいる人々を見た。その人々は、甲板椅子に悠然と腰かけていて、港に着いても船が繋《つな》がれてしまうまで待って、それから少しもあわてず騒がずに、自分の手荷物をまとめて下船するのである。だが私には、とてもそんなまねはできない。私は乗船した瞬間から、落ちついて何かするには、時間がないような気持ちになるのである。私は旅行鞄を、あっちへやったり、こっちへやったりするし、食事をしに食堂へおりていっても、自分が下にいるうちに、知らぬ間に船が着きはしないかという不安で食物を呑み込んでしまうのである。恐らく、こうした気持ちは、すべて戦時中の短い賜暇《しか》のときの遺物であろう。戦時中は、船の舷門の近くに陣取って、三日ないし五日の賜暇の貴重な時間を一分たりとも無駄にしないように、第一番に下船する仲間に加わるのは、重要なことのように思われたものであった。
この特別の朝、私が手摺《てすり》のわきにたたずんで、ドーバーの白い崖が近づいてくるのを見守っているとき、平然と椅子に腰をおろしていて、自分たちの祖国の一端が眼前に迫っているのに、眼もあげようとしない旅客たちに、私は驚歎した。しかし彼らは、きっと私とは立ち場を異にしているのであろう。恐らく彼らの大多数は、巴里へ週末旅行に行って帰って来たに過ぎないだろうが、私はアルゼンチンで一年半も過ごして来たのであった。私はかの地で成功し、妻と二人で南米大陸の自由で気楽な生活を楽しんできたのである。それにもかかわらず、あのなつかしい海岸が次第に近づくのを見守っていると、胸が迫ってくるのであった。
私は二日前にフランスに上陸し、そこで幾つかの用件を済ませて、今ロンドンに向う途中である。ロンドンでは数カ月滞在の予定で、旧友たちと再会するだけの暇は十分にあったが、特別に私の会う男が一人いた。それは小柄で、卵型の頭をして、緑色の眼を持った我が友、エルキュール・ポワロであった。
私は彼を完全に驚かしてやろうと企《たくら》んでいた。アルゼンチンから出した手紙には、予定していたこの航海については一言も書かなかった。もっともこの旅行は、ある面倒な仕事のために、急に決まったものではあった。とにかく私は、彼が私を見たときの喜びようと驚きようを胸に描いて、多くの楽しい時を過ごしたのである。
私はポワロが自分の本拠から遠く離れているとは思わなかった。彼の受け持つ事件が彼を英国の端から端へと引き廻したのは過去のことである。現在では彼の名声は拡まり、もはや一つの事件に自分の時間を全部注ぎ込むようなことはしないであろう。彼は時が経つにつれて、次第に、ハーレイ街に納まる診察専門医のように、『顧問探偵』とみなされるのを目ざしていたのであった。彼は常に、犯人の追跡に素晴らしい変装をするとか、犯人の足跡を一々測って歩いたりする、いわゆる人間猟犬的な考えを冷笑していた。
彼は、こういうであろう。
「いや、ヘイスティングス君、そういうことはジロオ探偵とその友人たちに任せておきましょう。エルキュール・ポワロの方法は、独得ですよ、順序と方法、そして『小さな灰色の脳細胞』。私どもは自分の椅子に楽々と腰かけていて、ジロオ探偵の一味が見落したことを見つけ、それからまた、りっぱなジャップ警部のように、結論に跳びつくようなことはいたしません」
いや、ポワロが留守中だなどという心配は決してない。
ロンドンに着くと、私は荷物をホテルへ預けておいて、ポワロの以前からの住所へ、真直ぐ自動車をとばした。何と鮮かな思い出がよみがえったことであろう! 私は宿の主婦との挨拶もそこそこに、二階へかけあがっていって、ポワロの部屋の戸を叩いた。
「おはいり下さい」と、中から、親しみ深い声が聞こえてきた。私は中へ入った。
ポワロは戸口へ顔を向けて立っていた。その手に小さな旅行用の手提げ鞄を持っていたが、私を見るとそれを、がちゃんと落した。
「わが友、ヘイスティングス君! ああ、ヘイスティングス君!」と叫んで駈け寄り、彼は両手を一杯にひろげて私を抱いた。
われわれの会話は筋道の立たない、取り止めのないものであった。絶叫、熱心な質問、不完全な答え、妻からの伝言、私の旅行の説明などが、まぜこぜにされていた。
ようやくわれわれがどうやら落ち着いたところで私は、
「僕が前にいた部屋には誰か入っているんでしょう? 僕はまた、あなたと一緒に暮らしたいんですがね」といった。
ポワロの顔色が驚くべき急速さで変化した。
「やれ、やれ、何たる酷《ひど》いめぐり合わせでしょう! 君、あたりを見てごらんなさい」
私は始めて、自分の周囲に気がついた。
壁ぎわに、恐ろしく古風な箱型の大トランクが寄せてあって、その近くに沢山の旅行鞄が、大きいのから小さいのと順序よくきちんとならべてあった。推論の結果は明白なものであった。
「どこかへお出かけになるんですか」
「さようです」
「どこへ?」
「南米へ」
「何ですって?」
「さよう、滑稽な茶番劇ではございませんか? 私の参るのはリオです、それで私は毎日、自分にこう申していたのです……この事は何も手紙に書かないでおきましょう、おお、ヘイスティングス君が私を見て、どんなにびっくりするでしょう! と」
ポワロは、自分の時計を見た。
「あと一時間です」
「僕はいつも、どんなことしても、あなたを長い航海に誘い出すことはできないと思っていましたがね」
ポワロは眼を閉じて、身震いをした。
「ヘイスティングス君、どうぞ海のことは言わないでください。お医者様は、船酔いで死ぬことはないと申しますし、それに、これが最初で最後のことですからね」
ポワロは私を椅子に腰掛けさせた。
「さて、事の次第をお話いたしましょう。君は世界中で、誰が一番の富豪か知っていますか、ロックフェラーよりも金持ち?……あの、エイブ・ライランドを!」
「アメリカの石鹸王ですね?」
「正にその通り。で、彼の秘書の一人が、私のところへ交渉に来たのです。リオ・デ・ジャネイロにある大商社に関して、君に言わせると『ぺてん』ですね、それが相当大規模に行われているので、私に現地で実情を調査してくれと申すのです。私は断りました。私は彼に、もし事実を私の前に並べたなら、私の専門的な意見をお聞かせしようと申し出たのです。ところがその秘書は、それができないのだと告白しました。事実を掴むのには、私自身が現地へ出かけていくよりほかないと申すことなのです。普通でしたら、そこでこの話は打ち切りとなった筈です。エルキュール・ポワロに指図をするなどとは、失礼千万ですからね。ところが、申し込まれた金額が莫大なものなので、私も生まれて初めて、金銭に誘惑されたという訳です。それは相当の資産……大身代です! それにもう一つ、私をひきつけたものがありました、それは君ですよ! ヘイスティングス君。この一年半と申すもの、私はまことに孤独な老人でした。それで私は、君のいる南米行きを、何故に拒むことがあろうか? 私はここにいて、愚にもつかない問題の解決に当っているのに、そろそろ、飽きてきておりました。私はもう十分に名声を博しました。この報酬金を受けて私の旧友の近くの、どこかに落ちつくころではないかと、私は考えたのでした」
私はポワロのこの友情の現われに、いたく感動した。彼はなおも語り続けた。
「そこで、私はその申し出を受けいれました。そんな訳で私は今から一時間内に、汽船連結列車に乗るために出発しなければならないのです。これは人生のちょっとした皮肉ですね。けれどもね、ヘイスティングス君、実のことをいうと、報酬の金額がこんなに莫大でなかったら、私は躊躇したかも知れなかったのですよ。と申すのは、最近私は自分勝手にちょっとした調査に取りかかっていたのです。ところで『四巨頭《ザ・ビッグ4》』と申す言葉は、普通どういう意味なのか、君、教えてくれませんか?」
「たしかそれは、ベルサイユ会議に端を発していると思います。それから映画界にも有名な四巨頭がありますし、その他いろいろな雑輩の間でもその文句が使われていますね」
ポワロは考え深い調子で、
「なるほど、実は私がこの言葉に出会ったのは、今、君のいったような、どの説明にも当てはまらないある事情の下《もと》だったのです。それは国際的犯罪ギャングか、何かそんな種類のものに関係があるように思われるのです。ただ……」と、口ごもった。
「ただ、何ですか?」と私は尋ねた。
「ただ私は、もっと何か大規模なもののような気がするのです。これは単なる私のちょっとした思いつきに過ぎないのですがね。ああ、しかし私は荷造りをしてしまわなければなりません。時間がどんどん経ってしまいます」
「行かないで下さい! 汽船の予約を取り消して、僕と同じ船で行くとしようじゃありませんか」と、私は熱心にいった。
ポワロは、|きっ《ヽヽ》となり、咎《とが》めるような視線を私に投げた。
「ああ、君は、私が正式に約束してしまった事がおわかりでない! よろしいですか、ポワロの約束でございますよ! 今となっては、私を引き止めることができるのは、生死にかかわる問題だけです」
私は、みじめな気持ちで、つぶやいた。
「そんな事は起りそうもないですね、間際に迫って……戸が開いて、思いがけぬ客が入って来る……とでもいう事がない限りはね」
私はその古い諺を引用して、ちょっと笑った。そして言葉が切れたとき、奥の部屋から物音が聞こえてきたので、二人はぎょっとした。
「あれは何です?」と、私は叫んだ。
「これはしたり! あの音はどうやら、私の寝室に、君の今いった……思いがけぬ客……が入ってきているようですね」と、ポワロが答えた。
「しかし、どうやって入って来たでしょう、ここを通らなければ他に入り口がないのに!」
「君の記憶は優秀ですね、ヘイスティングス君、今度は推理を進めてください」
「窓だ! すると強盗ですね、だが登ってくるにひどく骨が折れたに違いない……そんな事は、ほとんど不可能といってもいいが……」
私は戸の向うでハンドルにさわる音を聞いたので、立ち上がって戸に近づいた。
戸はゆっくりと開け放たれた。敷居のところに一人の男が立っていた。彼は頭のてっぺんから足の爪先まで、ほこりと泥土《でいど》にまみれていた。その顔はやせて、憔悴していた。彼はちょっとの間、われわれを見詰めていたが、よろめいて、倒れてしまった。ポワロは急いでそばへかけ寄り、私を見上げて、
「ブランディを、早く!」といった。
私はグラスにブランディを注ぎ込んで、持ってきた。ポワロはそれをようやく少しばかり男に飲ませた。数分して、男は眼を開いて、うつろな眼付きで、周囲を見まわした。
「何のご用ですか?」と、ポワロは尋ねた。
男は唇を開いて、妙に機械的な声でいった。
「ファラウェイ街十四番地、エルキュール・ポワロ氏」
「はい、私がエルキュール・ポワロです」
男は理解しなかった様子で、同じ調子で、同じことを繰り返すのであった。
「ファラウェイ街十四番地、エルキュール・ポワロ氏」
ポワロは、いろいろと質問してみた。ときには全然答えなかった。ときには同じ言葉を繰り返した。ポワロは、私に電話をかけるように合図した。
「リッジウェイ博士に来ていただくように」
幸いに、医師は在宅だった。彼の家は町角を曲ったところにあったので、忙しげにやって来るまでに、ものの五分とは経たなかった。
ポワロは簡単に説明した。医師はこの奇妙な客を診察した。男は医師のいることにも、われわれのことにも全然気がついていない様子であった。
「ははん、これは奇怪な症状ですな」
博士は診察をすますといった。
「脳炎ではないですか」と、私はほのめかした。
博士は軽蔑するように、鼻息を荒くして、まくし立てた。
「脳炎! 脳炎! 脳炎なんていうものがあるもんですかい! そんなものは小説家の創作でさね。この男は、何かショックを受けたんですよ。ファラウェイ街十四番他のエルキュール・ポワロ氏を捜し出さなければならぬという一心にかり立てられて、ここまでやって来たんだ。それでその言葉を、自分では無意識に、機械的に繰り返しているのです」
「失語症?」と私は熱心にいった。
この提案は、この前のときのように、彼をひどく憤慨させる原因にはならなかった。博士は何も答えずに、紙と鉛筆をその男に渡した。
「さア、彼がこれでどうするか見ていましょう」と、博士はいった。
数分の間、彼は何の反応も示さなかったが、突然に何か熱心に書き始めた。しかし、突然にそれを止めて、紙も鉛筆も床に落してしまった。博士はそれを拾いあげて、頭をふった。
「何も書いてない。四という数字が、十二回も書きなぐってあって、後へいくほどだんだん字が大きくなっているだけだ。恐らく、ファラウェイ十四番地と書こうとしているのでしょうな。これは興味のある患者です。この男は午後までここに預っておいていただけませんですか。私はこれから病院へ出勤せにゃならんですが、午後にここへ戻ってきて、すべての手配をやることにしましょう、こりゃ逸《いっ》すべからざる、興味探い患者ですよ」
私は、ポワロの出発、そして、私もサウサンプトンまで見送りに行くことなどを説明した。
「そりゃ構わんです。この男はここに置いて行ってください。こんなに疲れきって衰弱しているから、面倒を起こすような心配はないでしょう。恐らく八時間も、ぶっ通しに眠り続けるでしょう。私から宿のおかみさんに話して、この男に気をつけていてくれるように頼んでおきましょう」といい終ると、リッジウェイ博士は、来たときと同じ敏速さで部屋を出ていった。
ポワロは時計とにらめっこをしながら、急いで荷造りを仕上げた。
「時は信じ難いほど早く過ぎ去るものです。さて、ヘイスティングス君、私は君に、何もする事を残していかなかったとは、言わせませんよ。それこそ全くセンセーショナルな問題です。見知らぬ男、一体彼は誰か? 何者か? ああ癪《しゃく》だ! 私の乗る汽船が今日出帆するのでなく、明日にすることができるのでしたら、私は自分の生涯の二年間を捧げても惜しまないでしょうに! これには大そう奇妙な、興味ある何かがあります。それにしても時間が必要です、十分な時間が。この男が私に何を告げに来たかを話せるようになるまでには、数日、あるいは数カ月もかかるかも知れません」
「ポワロさん、僕は最善をつくしますよ、僕は十分にあなたの代理をつとめます」
「ええ……」
彼の答えには疑惑の影があるように思われた。私は、例の紙片を拾いあげて、
「もし僕が小説を書くとしたら、最近のあなたの特有の表現法にこれを織り込んで、『四巨頭《ザ・ビッグ4》の秘密』という題でもつけますがね」私はそういいながら、紙に書かれた四という数字を鉛筆で叩いた。
そこで、私はぎょっとした。というのは、あの病人が不意に意識を回復して椅子の上に起き上り、明確に、
「李張閻《リーチャンエン》」といったのであった。
彼は突然に眠りから覚めたような顔付をしていた。ポワロは私に黙っていろと合図をした。男は語り続けた。はっきりした高い声で、その発音は、何かに書かれた講義か報告書を引用しているような感じを与えた。
「李張閻《リーチャンエン》は、四巨頭《ザ・ビッグ4》の頭脳を代表していると見なされている。彼は支配力と原動力である。それ故に私は彼を第一号と名づける。第二号は稀にしか名を呼ばれない、彼はSに二本の線……つまりドルの記号、あるいは二本の線と星一つによって表現されている。よって彼は、アメリカ人だろうと推測される。また彼は、金力を象徴している。第三号は女性であることは疑いなしと見なされている、彼女の国籍はフランスである、彼女が歓楽街の妖婦だということは有り得ることだが、確実なことは何もわかっていない。第四号は……」
彼の声はたゆたい、とぎれてしまった。ポワロは前へ身をかがめて、
「第四号は?」と熱心に、彼をうながした。
ポワロの眼は、男の顔に釘付けにされていた。彼は過剰の恐怖に今日まで追いつめられて来たようであった。その顔は歪んだ。
「破壊者!」と喘《あえ》ぐようにいうと、痙攣的な動作と共に、再び失神して後ろへ倒れた。
「おお! やはり私の思った通りだった、私は正しかったのだ」と、ポワロはささやいた。
「あなたの考えでは……」と私がいいかけると、ポワロはそれをさえぎった。
「この人を私のベッドへ運びましょう。列車に乗るとすると、一分も無駄にしていられません、私は列車に乗りたいと申すのではありませんよ。はっきりした良心をもって乗り遅れることができたらどんなにいいだろうと思っている位です。けれども私は約束をしてしまったのです。さあ、ヘイスティングス君!」
われわれは不可思議なお客を、宿のピアーソン夫人に託すと、自動車をとばして、辛《かろう》じて連絡列車に乗り込んだ。ポワロは交互に、喋りちらしたり、黙り込んだりした。まるで夢見る人のように、席にじっとして窓の外を見詰めていて、私の話す言葉など耳に入らない様子だった。と思うと俄《にわか》に活気づいて、私に命令や、禁止令を雨のように浴びせ、絶えず無線電報の必要を強調するのであった。
われわれはウォーキングを通過するころ、長い沈黙の発作におそわれた。無論この列車はサウサンプトン港まで無停車であった。ところがちょうどそこで、信号により停車することになった。
「ああ! これはしたり! 私は何たる低能だったでしょう。ようやく、はっきりと解った。この列車をここで停車させたのは、疑いもなく、有難き聖者様のお力ですよ。ヘイスティングス君、飛びおり給え! 飛びおりるのだ、と私は言っているのです」
次の瞬間、ポワロは、列車の扉の掛け金を外して、線路へ飛びおりた。
「旅行鞄を投げ出して、君も飛びおりるんです」
私は彼に服従した。ちょうど間に合った。私がポワロのわきに立ったときに、列車は動き出した。
「さて、ポワロさん、これは一体どういうことなのか、説明してくださるでしょうね」と、私は少々いらいらしながらいった。
「それはね、君、私が光明を見出したからなのですよ」
「それは、僕には非常に啓発的ですね」と、私はいった。
「そうでしょうとも、しかし私は、そうでないかも知れないと、大そう心配しています。この鞄を二個、君が持って行ってくだされば、あとは、私が何とか始末できると思いますがね」と、ポワロはいった。
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精神病院から来た男
幸運にも列車は駅の近くで停車したので、少し歩くとギャレージが見付かったので、自動車を雇い、三十分後には、ロンドンに向って、快速に車を走らせていくのであった。そのときになって初めて、ポワロはもったいらしく私の好奇心をみたしてくれた。
「君には解りません? 私だってそうだったのです、けれども今は解ります。ヘイスティングス君、私は、|邪魔になるので追い払われる《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》ところだったのです」
「何ですって!」
「さよう、大そう賢明に。場所も方法も非常な知識と鋭才によって選択されました。あの人たちは、私を怖がっているのです」
「あの人たちとは、誰ですか?」
「法律を無視して仕事をするために徒党を組んでいる四人の天才たちです。中国人に、アメリカ人に、フランス婦人に、それから……もう一人……ああ、何とかして間に合うように、家へ帰り着きたいものですね、ヘイスティングス君!」
「あなたは、あの訪問客に危険があるとお考えなんですか」
「私は確かにあると思うのです」
ピアーソン夫人がわれわれを出迎えた。夫人がポワロに驚いて何か言おうとするのを払いのけるようにして、われわれはなにか変わったことは起こらなかったかと質問した。その答えは安心させるものであった。誰も訪ねて来た者はないし、われわれの客も何の物音もさせなかったというのである。
安堵の溜息と共にわれわれは二階へあがっていった。ポワロは居間を横切って奥の部屋へ入った。そして私を呼んだ。その声は震えていた。
「ヘイスティングス君、彼は死んでいます」
私は走って、彼のそばへいった。男は、われわれが置いていったままに横たわっていたが、死んでいた。しかも、死んでから相当時間が経っているのであった。私は医者を探しに外へとんでいった。リッジウェイ博士は、まだ帰宅していないのは解っていた。私は殆んど直ぐに、一人見付けて、家へ連れ戻った。
「完全に死んでおりますな、可哀相な奴。浮浪者ですな、あんたは、こんなのと友達づきあいしておられたんですか」
「そんなようなものですね、先生、死因は何でございますか」ポワロは、相手の言葉を他へそらしてしまった。
「はっきりというのは、むずかしいですが、ある種の痙攣性発作のようなものでしょうな。窒息の徴候も見受けられます、この室にはガスは引いてないですね?」
「いいえ、電気の照明だけです」
「それに、窓も両方とも開け放ってあるですし。とにかく、死後二時間位は経っておるです。こちらから、その筋へ通告して下さるでしょうな」
博士は帰っていった。ポワロは、二三の必要な電話をかけた。最後に、少々驚いたことにポワロは、我が旧友ジャップ警部を電話口へ呼び出して、こっちへ廻って来るように頼んだ。
これらの事が完了したところへ、ピアーソン夫人が現われた。彼女は眼を皿のように丸くしていた。
「今、男の人が見えたんですが、気……いいえ、あの精神病院からなんです、ハンウェルの。よろしいですか、お通しいたしましょうか?」
われわれが同意を表すと、からだの大きな頑丈そうな、制服を着た男が、案内されてきた。
「旦那方、お早うござんす、わし共の患者の一人がこちらへまぎれ込んだと思うですがね、昨夜、病院から逃げ出した奴です」と、男は快活な調子でいった。
「彼はここにまいりました」と、ポワロは静かにいった。
「まさか、また逃げてしまったっていうんじゃありますまいね」
看視人は、ちょっと心配そうに尋ねた。
「彼は死にました」
その男は、むしろ、ほっとしたような様子であった。
「ほんとですか、まあそのほうがお互いのために一番よかったですよ」
「危険だったのですか」
「殺人狂かと言われるんですか? いや、いや、そういう心配のない患者でしたよ、迫害妄想症ってやつでしてね。中国の秘密結社につけ狙われていると思い込んでいたんで、それで病院に収容されていたんでさあ。皆そんなようなもんですよ」
私は身震いした。
「彼は、どの位の期間、監禁されていたのですか」と、ポワロは尋ねた。
「やがて二年にもなりますかな」
「なるほど。で、彼が正気だったのではないかというようなことは、誰も考えたことはなかったでしょうか?」
看視人は思わず、笑い声をあげた。
「もし奴が正気だったとしたら、一体精神病院なんかに入って何をしていたっていうんですかね? 奴らはみんな、自分らは正気だといっておるんですからね」
ポワロはそれ以上何もいわなかった。そして男を、死体を見せに連れていった。すぐに確認された。
「ああ、確かに奴ですよ、旦那。おかしな奴ですな、そうじゃないですか? さてと、わしは、すぐ病院へ戻って、こういう事情の手続きをするのが一番でしょうな、そんなに長くは死体のことで旦那方に迷惑はおかけせんですよ。もし検死審問があった場合には、旦那が立ち会ってくださるでしょうね。じゃ、ごめんなせえまし」
男は不器用におじぎをすると、足を引きずるようにして、部屋を出ていった。
それから数分して、ジャップ警部が到着した。この警視庁警部は、相変らず陽気で、颯爽としていた。
「この通り参上いたしましたよ。さてポワロさん、何をいたしましょうか? あなたは今日、珊瑚礁かどこやらへ出発されたとばかり思っておったですがね」
「ジャップさん、私は、あなたがこの男を、以前どこかで見たことがおありかどうか、それを知りたいのですよ」
ポワロは、ジャップを寝室へ連れていった。警部は、腑に落ちない面持で、ベッドの上の姿をじっと見おろしていた。
「はてな……見たことがあるような気がするが……私はこれでも記憶のいいのを自慢にしておるんですがね。あれ、こりゃメイアリングだ!」
「それは誰です? メイアリングとは何者だったのですか」
「探偵だったんですが、われわれの仲間じゃなく、陸軍省戦時情報部の男ですよ。数年前にロシアへ行ったきり消息が絶えてしまったんで、あっちで殺されてしまったんだと思われておったんですよ」
ジャップ警部が帰ってしまった後で、ポワロは、
「すべてが、ぴったりと合っています。ただ、この男が自然死だという事だけが、ぴったりしません」といった。
ポワロは不満らしく眉をひそめて、ベッドの上の動かぬ男の姿を見おろした。一陣の風が来てカーテンを窓の外へ吹き流した。彼は鋭くそれを見あげた。
「ヘイスティングス君、さっきこの男をこのベッドへ寝かしていったとき、この窓を明けていったのですか」
「いいえ、そんなことしません、僕の記憶する限りでは、窓はみんな閉っていました」と、私は答えた。
ポワロは急に頭をあげた。
「閉っていた窓が、今は開いている。これは何を意味するでしょうか?」
「誰かが、窓から入ってきたんでしょう」と私はいった。
「たぶんね」とポワロは同意した。しかし、それは放心したような、確信のないいい方であった。一二分してから彼は、「ヘイスティングス君、それは私の考えていた要点そのものではありません。もし、窓が一つだけ開けてあったのでしたら、それほど私の興味をひかなかったでしょう。両方の窓が開いていたことが、私には奇怪に思われるのです」といって、急いで次の部屋へもどった。
「居間の窓も開いています、これも私どもは出がけに閉めておきました。ああ!」
彼は死人の上にかがみ込んで、口のあたりを仔細に検べていたが、急に私を見あげた。
「猿轡《さるぐつわ》をはめられたのです、ヘイスティングス君、この男は猿轡をはめられて、毒殺されたのですよ」
「そうですか! 死体解剖をすれば、そういうことはすっかり発見できるでしょうね」と、私は驚いて叫んだ。
「いや、何も発見できないでしょう。この男は強力な青酸を吸い込まされて、殺されたのです。鼻に押しつけられて吸わされたのです。それから殺人者は、先ず窓を全部開け放って、再び窓から逃げ去ったのです。青酸は非常な揮発性を持っておりますが、また、巴旦杏《はたんきょう》そっくりの香りを持っております。その香りさえ消しておけば、兇行の疑いをはさまれることなく、医師たちは、何かの原因による自然死と診察を下すことになるのです。それにこの男は間諜だったのですよ、ヘイスティングス君、そして五年前にロシアで行方不明になってしまったのです」
「最近二年間は精神病院にいたんですね、だが、その前の三年間はどうしていたんですかね?」と、私はいった。
ポワロは首を横にふった。そして私の腕をとらえた。
「ヘイスティングス君、ごらんなさい、置時計をごらんなさい!」
私はポワロの視線を追って飾り棚を見た。置時計は四時で止っていた。
「君、誰かが、故意《わざ》と止めたのですよ。あの時計はあと三日間は止まる筈はないのです、八日巻きの時計なのですからね」
「しかし、何のためにそんな事をしたんでしょう? 犯罪が行われた時間を四時と思わせて追跡を誤らせようとでもいう考えからでしょうか?」
「いいえ、君の考えを整理し直すことですね、君の脳細胞を働かせてごらんなさい。君がメイアリングになって。君は何を聞きました……たぶんそれは、君が自分の最後の運命が確定したことをはっきりと知るような事柄だったのです。それで君は、何か印を残すだけの時間しかなかった。四時ですよ、ヘイスティングス君、それは第四号、破壊者! ああ、これが、その考えです!」
ポワロは隣室へ飛び込んで、電話器をつかんだ。そしてハンウェルを呼び出した。
「そちらは精神病院ですね、ああそうですか、で、今日そちらの患者が脱走したそうですが……何ですって? ちょっとお待ちください、すみません、もう一度おっしゃってくださいませんか? ああ、正しく!」
彼は受話器をかけて、私のほうを振り向いた。
「聞きましたか、ヘイスティングス君、あそこには脱走患者はなかったそうです」
「しかし、ここへ来た男……あの看視人は?」と私はいった。
「私は怪しむのですがね……非常に怪しむのです」
「とおっしゃると?」
「第四号、破壊者」
私は呆気に取られて、ポワロの顔を凝視した。私は、一二分して、ようやく声が出せるようになって、
「われわれは、どこで会ってもすぐにあの男とわかりますね。これは重要なことです、あの男は非常にはっきりした個性をもった人間だから」
「そうでしたでしょうか? 君、私はそうは思いませんね。彼は屈強で、ぶっきらぼうで、赤ら顔で、ひげが濃く、しゃがれ声でしたね。ところが、今頃はもうそういう特徴は何もなくなっているでしょう。他の事に関しては、彼はえたいの知れぬ眼、えたいの知れぬ耳の持主で、完全な義歯を入れておりますから、君が考えるほど、容易に見分けはつかないでしょう、この次の機会に……」
「あなたは、次の機会があるとお考えなんですか」と、私は言葉をはさんだ。
ポワロの顔は、非常に真剣になった。
「君、それは死を賭しての決闘のときですよ。こちらは君と私で、四巨頭《ザ・ビッグ4》が相手です。彼らは第一の謀略には勝ちました。しかし彼らは、私を邪魔にならぬところへ追い払う計画には失敗しました。今後彼らは、エルキュール・ポワロを計算に入れなければならないでしょう」
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李張閻《リーチャンエン》の噂
精神病院のにせ看視人の訪問を受けて後、一日二日というもの、私は彼が再び来るかも知れないという望みを抱いて、ちょっとでも外出することを拒んだ。私の考える限りでは、われわれが彼の変装を見抜いたことを彼が感づくべき理由は一つもなかった。私は彼が死体を運び出しに戻って来るだろうと思っていた。けれども、ポワロは、私の推理を嘲笑するのであった。
「もしお望みなら、君はそんな子供だましの小鳥捕りみたいな事をして待っておいでになるがよろしい。しかし、私は時間を空費してはいられません」
「それなら一体何だって、彼はここへ来るような危険を冒したっていうんですか、ポワロさん。もし、彼が後で死体を受け取りに来るつもりだったとすれば、彼の訪問の主眼が僕にもわかります、少なくも彼は自分に対する証拠を取り除くことになりますからね、さもなかったら、彼は何の得るところもないではありませんか」
ポワロは彼独特のフランス風に肩をすくめた。
「しかし君は、第四号の眼で事態を見ていませんね、君は証拠のことをいっておいでですが、私どもは彼に対するどんな証拠を持っておりますでしょう? 私どもは確かに死体を持っております。けれども、私どもは、あの男が殺された証拠さえも持っておりません……青酸は吸引された場合には、何の痕跡も残しません。それに、私どもの留守中に、誰か私どもの部屋へ入ったのを目撃した者を捜し出すこともできません。また、私どもはこの死んだ男、つまりメイアリングの動静について何一つ知っておりませんし……いや、ヘイスティングス君、第四号は何の犯跡も残しておりませんし、彼はそれを知っております。彼の訪問は偵察と言えます、恐らく、彼は、メイアリングが本当に死んだかどうかを確かめに来たのでしょう。しかし、もっとありそうなことは、彼はエルキュール・ポワロを見に来たのでしょう、そして、彼の恐れるただ一人の人物である敵と話をするためにやって来たのだと思いますね」
ポワロの理論は、典型的な自己吹聴と思われたが、私は異議をさしはさむことを控えた。
「それで、検死はどうなるんですか? あなたは、そのとき事情を詳しく説明して、警察に第四号の人相書を入手させるでしょうね」
「その結果はどうなるのですか? 現実主義の英国人である検屍官を、納得させるような証言を私どもが提出できるでしょうか。第四号に対する私どもの描写にどんな価値があるでしょうか? いいえ、私どもは検屍官や陪審員たちに、『偶発的の死』と裁決するに任せるよりほかありません。そして、私は大して望みをかけておりませんが、賢い殺人者に、第一試合でエルキュール・ポワロを負かしてやったと、大喜びさせておくとしましょう」
ポワロは、例によって正しかった。精神病院から来たと称した男は、ついに姿を見せなかった。審問のとき、私は証言したが、ポワロは、出席さえしなかった。そして、この事件は、世間の興味など呼び起こさないでしまった。
ポワロは、南米へ旅行するつもりで、出発前に引き受けていた事件は、全部片付けてしまっていたので、そのときには、彼の手許には解決すべき事件は一つもなかった。しかし彼は、大方の時間を宿で過ごしていたにもかかわらず、私は彼から何も聞き出すことはできなかった。彼は安楽椅子に埋まっていて、私が話しかけるのを、避けるようにしていた。
すると、殺人があってから一週間ばかり経ったある朝、彼はこれから訪問しようと思っているところがあるが、私に同行する気はないかと尋ねた。私は喜んだ。というのは、私は彼がすべての事を自分の考えだけで解決していこうとするのは間違いだと思っていたから、私はこの事件を彼と共に検討したかったのであった。ところが、彼は、一向に開放的ではなかった。われわれはどこへ行くのかと尋ねても、返事をしようとしなかった。
ポワロは秘密ありげに振舞うのが好きなのだ。彼は一片の情報でも、ぎりぎり最後の瞬間まで手放さないのである。この場合も、バスと二つの列車とに、次々と乗り換えて、ロンドンの南郊外でも最も振わない町へ着いたとき、はじめて彼は、事情を説明することに同意した。
「ヘイスティングス君、私どもは、英国中で中国の地下運動に最も精通している人物に、会いにまいるのですよ」
「そうですか! それは誰ですか?」
「君が名を聞いたこともない人、ジョン・イングルス氏です。自宅には友人知己から贈られた中国骨董品を一杯飾っている、どの点から見てもごく平凡な退職文官です。しかしながら、私の求める情報を与え得る唯一の人物は、このイングルス氏であることを、いろいろの方面の人々によって確かめたのです」
数分後に、われわれは月桂樹荘と呼ばれるイングルス氏宅の石段を登っていった。私は別に、月桂樹も、そうした種類の灌木の茂みにも気付かなかったので、きっと郊外らしい名称の中から、漠然と選んでつけた名であろうと推測した。
われわれは無神経な顔をした中国人の召使に迎えられ、主人のいるところへ案内された。イングルス氏は、四角ばった造りの男で、顔色はやや黄色く、深く窪んだ眼は、妙に冥想的な性格をもっていた。彼は手にしていた手紙を置いて、われわれを迎えるために立ち上った。挨拶をすませた後で、彼はその手紙のことに触れた。
「おかけくださいませんか。ハルセイ氏から、あなたが何か情報を得たいとお思いになっているので、そのことについて私がお役に立つかも知れないと申してよこしました」
「そうなのでございます、もしかして、あなたが李張閻《リーチャンエン》と申す男につきまして、何かごぞんじないか、それを伺いにまいったのでございます」
「それは奇妙だ……全く奇妙だ……あなたは、どうしてあの男の名をお聞きになるようなことになったのですか」
「すると、あなたはその男をごぞんじなのですね?」
「私は一度会ったことがあります、それに、いくらか彼のことを知っています………私の知りたいと思うほど十分ではありませんがね。しかし英国内で誰か、彼の名を知っている人があるというだけでも、私を驚かせますな。あの男は、彼のその道では……つまり支那の官僚階級その他の間では傑物です。しかしこれは問題の要点ではありません、彼がそれらすべての黒幕になっている男だという十分な理由があるのです」
「何の黒幕なのでしょうか?」
「すべてのこと、全世界にわたる不安、各国を襲う労働争議、某所に起こった革命など。世の中には……流言蜚語を放つ輩ではなく……自分が何を言っているのかちゃんと心得ている人がいて、その人たちは、文明の破壊以外には何の狙いにもならないそれらの事件の背後には、一つの力がひそんでいることを話し合っております。ごぞんじのように、ロシアでのレーニンやトロツキーは、単なる人形で、彼らのすべての行動は、他の人間の頭脳によって指令されているのだという多くの信ずべき筋があります。私は、あなたを納得させるだけの明碓な証拠は持っておりませんが、その頭脳は李張閻《リーチャンエン》だったという確信をもっています」
「さあ、そいつは少々、こじつけじゃないですか、中国人がどうしてロシアにそんな影響を及ぼすことができるでしょう」と、私は横槍を入れた。
ポワロは腹立たしげに、私にむかって、眉をひそめた。
「ヘイスティングス君、君にとっては、自分の想像から生まれたもの以外はみんな、こじつけなのでしょうが、私といたしましては、この紳士のお説に同感です。なにとぞ、あとをお続け下さい」
イングルス氏は、言葉を続けた。
「彼がそれらのことから、何を得ようと望んでいるかを、私は明確に言えるとは思わんですが、しかし私は彼の病は、アクバル皇帝や、アレクサンドロス大帝やナポレオン等の偉大な頭脳を襲った……独裁力と権力に対する欲望いう病気の一種と仮定しております。近代に至るまでは、征服するためには武力が必要でしたが、現今のような不安な時代には、李張閻《リーチャンエン》のような男は、他の方法を用いることができます。彼が買収や宣伝に使う無限の金力を背後に持っているという証拠を私は掴《つか》んでおります。それに彼は、世界中の人が夢見るよりも遥かに強力な科学力を支配しているのではないかと思われる節《ふし》もあります」
ポワロは相手の一語一語に非常な注意を払っていたが、
「中国においては? 彼はそこでも活躍しておりますでしょうか」と、質問した。
相手は力強くうなずいた。
「私は法廷で取り上げられるような実証を提出することはできませんが、自分の知っているところを述べます。私は今日、中国においてひろく知られている人々を個人的に知っておりますので、こういうことをいえるのですが、世間一般の眼に不気味な人物として大きく映し出されている人々は、個性のない小人に過ぎないのです。彼らは背後から主人の手で操られている針金の先で踊らされている人形で、その手の持主は李張閻《リーチャンエン》なのです。彼は今日の東洋を支配している首脳なのです。私どもは東洋を理解しておりません、恐らく決して理解することはできませんでしょう。だが、李張閻《リーチャンエン》は東洋を動かす精神です。彼は決して人目を惹く場所へは出てきません。彼は、北京にある自分の御殿からは決して動きません。しかし彼は糸を引きます。彼が糸を引きさえすれば、遠隔の地で事件が起こるという訳です」
「それで彼に立ち向う者は一人もないのですか」と、ポワロは尋ねた。
イングルス氏は、椅子を前へ引きよせた。
「この四年問に、四人の男が試みました。いずれも人格者で公正で、頭脳の優れた人々で、その中の誰かが、彼の計画を妨害したかも知れなかったのですが……」と、彼は、ゆっくりといった。
「それで?」と、私は説明を求めた。
「ところがその人たちは死にました。一人は北京の暴動に関する記事を書き、その関係者として李張閻《リーチャンエン》の名を挙げました。そして二日後に路上で何者かに刺し殺され、その犯人は今もって捕まっていません。他の三人の攻撃もそれに類似しております。演説とか、論文とか、あるいは会話の中で、李張閻《リーチャンエン》の名を革命、または暴動と結びつけたのでしたが、それぞれ、それをやってから一週間内に死んでいます。一人は毒殺され、一人は当時流行もしていなかったコレラに罹って死にましたし、一人は寝床の中で死骸となって発見されたのですが、死因はついに確定できませんでした、しかし検屍した医師が私に語ったところによりますと、信じられないほど強力な電気エネルギーを通されたらしく、全身が焦げて、縮んでしまっていたということです」
「で、李張閻《リーチャンエン》は? もちろん彼をその犯罪に結びつけるような跡は何もなかったのでございましょうね。それにしても、何かそう思われるような節がございましたのでしょう?」
イングルス氏は、肩をすくめた。
「ああ、それらしい節ですか……はい、ありますとも。一度私は、何でも話してくれる男を見付けたんです。それは李張閻《リーチャンエン》のお気に入りだったという才気のある若い中国人の化学者でした。ある日、その化学者が訪ねて来たんですが、一見してまさに神経衰弱に罹りかけていることがわかりました。彼は李張閻《リーチャンエン》の御殿で、中国の官吏の下に従事した実験のヒントを与えてくれました。それは、日雇労務者を実験台にしたもので、全く人間の生命を無視した世にも忌《いま》わしいもので、激しい苦痛を示したということです。で、その化学者は、神経をすっかりやられてしまい、恐怖のために実に哀れむべき状態になっていましたので、私は翌日質問をするつもりですぐに彼を宅の一番上の部屋のベッドへ入れました。もちろん、それは私の手ぬかりでした」
「彼らはどうやって、その化学者に近づいたのですか?」と、ポワロは質問した。
「それは永久にわからんでしょうな。その夜、私がふと眼を覚ますと家が燃えていたのでしたが、幸運にも生命からがら逃れたのでした。調査の結果では、一番上の部屋から、驚くべき強力な火が燃えあがって、私の友人だった若い化学者の死体は黒焦げになっておりました」
私は彼の熱心な話しぶりから、これはイングルス氏の得意の話題だと察することができた。彼自身も夢中になっているのに気がついたと見えて、照れくさそうに笑った。
「だが、もちろん、私は何も証拠を持っているわけではありませんからね、あなたも他の人たちのように、私のことを気が変になっているといわれることでしょう」と、彼はいった。
「それどころか、私どもは、あなたのお言葉を一つ残らず信ずべき理由をもっております。私ども自身は、少なからず李張閻《リーチャンエン》に興味を抱いているのでございます」
「あなたが、彼を知っておいでになるとは、まことに不思議です。英国内で彼のことを耳にした者が一人でもあろうなどとは思いもよらないことでした。もしおさしつかえなかったら、どうしてあなたが彼のことを知るようになられたか伺わせて頂きたいものです」
「少しもさしつかえございません。一人の男が私のアパートへ避難して来ましたのです。彼は何かのショックでひどく苦しんでおりましたが、それでもどうやら私どもに、この李張閻《リーチャンエン》に興味を抱かせるだけのことを語りました。彼は四人の人物……つまり、四巨頭《ザ・ビッグ4》による、今まで誰も想像もしなかったような組織のことを話しました。その第一号は李張閻《リーチャンエン》、第二号は未知の米国人、第三号はやはり未知のフランス婦人、第四号は恐らくその組織の実行者で、破壊者と呼ばれていると申すのです。これを私に告げた男は死にました。あなたは、この四巨頭《ザ・ビッグ4》のことをお耳になすったことがおありでしょうか、どうぞお聞かせください」
「李張閻《リーチャンエン》と関連して聞いたことがあるとはいえません、しかし私は、最近その四巨頭《ザ・ビッグ4》について、誰からか聞いたか読んだかしました。しかもそれが奇妙な関係でしてね、ああ、思い出しました」
彼は立ち上って、うるし塗で象嵌模様をほどこした書類戸棚のほうへ歩いていった。それは私の眼にも精巧な細工だと思われるような品であった。
彼は一通の封書を持って戻ってきた。
「ここにありました。私が上海で出会った老船乗りから来た手紙です。もう、白髪の老人で、すっかり落ちぶれてしまい、飲むと涙もろくなる男です。私はこの手紙を酒の上のたわごとと解釈したのでした」
彼はそれを、朗読した。
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――旦那様は、わしのことなど覚えておらんでしょうが、わしは上海でお世話になった男です。それで、もう一度助けてもらいたいのです。わしはこの国から逃げるために現金の必要に迫られています。わしはここにうまく隠れているつもりでありますが、奴らはいつ見付けるやら知れません。奴らとは四巨頭《ザ・ビッグ4》のことです、これはわしの生死にかかわることです。わしは十分な金を持っているのでありますが、相手にかぎつけられるのが怖くて、それを引き出しにいくわけにはいかんのです。二百ポンドほど紙幣でお送りください、必ず返金いたします。これは誓って実行します。
ジョナサン・ワーレイ
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「差出しはダートムアのホッパトン、グラニット荘になっております。私はこれを、私から二百ポンドかたり取る露骨な手段だと見なしていたのです、もし、これが何かのお役に立つようでしたら……」といってイングルス氏は、その手紙をさし出した。
「どうも有難うございます。私は一時間以内に、ホッパトンに向って出発いたしましょう」
「それは大変おもしろい、私もお供させていただけませんですか?」
「あなたもご一緒していただけますと、嬉しいと存じます。とにかく、直ぐに出発しなければなりません。今からですと、夕方でなければダートムアに着きませんからね」
イングルス氏は二三分と、われわれを待たせなかった。そして間もなく、パディントン駅から西部地方行き列車に乗っていた。ホッパトンは沼沢地帯の縁にそった窪地に密集した小さな村であった。そこはモートンハムステッドから、自動車で九マイルの行程である。われわれが到着したのは午後八時ごろであった。しかし、七月のことなのでまだ十分に明るかった。
われわれは狭い村道へ車を入れて、老農夫に道を尋ねるために車を止めた。
「グラニット荘? グラニット荘へ行くとおっしゃるんですかい?」と老人は慎重にいった。
われわれがそうだというと、老人は通りの外れにある小さな灰色の家を指さして、
「あれがグラニット荘だがね、お前様がたは、警部さんに会いに来なすったんですかい?」といった。
「何? 警部だって? それはどういう意味かね?」と、ポワロは、鋭く問い返した。
「そんだら、お前様がた、まだ殺しのこと、聞きなさらんだね、それゃ全く、たまげるような事件でさあね、血の海だったってことで」
「ああ! その警部さんに、直ぐ会わなければならない……」と、ポワロはつぶやいた。
五分後に、われわれはメドース警部の室に集まった。警部は、最初のうちは固くなっていたが、警視庁のジャップ警部の名が出ると、その名の魔力で、たちまち打ちとけてしまった。
「はい、犯行があったのは今朝でした。惨状を極めておりました。モートン警察署へ電話をかけてよこしましたので、私が急行したのです。そもそも初めから奇怪に思われるのです。被害者は七十才ぐらいの酒好きの老人ですが、私が聴取したところによりますと、居間の床《ゆか》に転がっていたのだそうです。頭部に打撲傷があって、咽喉を耳から耳にかけて、掻き切ってありました。あなた方にもご想像がつくでしょうが、その辺一帯は血だらけになっていました。老人の食物の世話をしていたベッシーの証言によると老人は、小さな硬玉像を数個持っていて、非常に高価なものだといっていたんだそうですが、それが全部紛失しています。これは強盗殺人事件のように思わせますが、そう判定してしまうには、種々難点があるのです。老人は二人の雇い人を家に置いていました。一人はいま名前をあげたベッシーというホッパトンの女で、もう一人は荒仕事をするグラントという男です。グラントは毎朝のしきたりで農家へ牛乳を取りに行って、ベッシーは近所の者とお喋りをしに、ちょっと出かけていたのです。ベッシーが家を空けていたのは、十時から十時半の間のほんの二十分ばかりだったというのです。グラントが先に家へ帰って来たのです。彼は裏口から入ったのですが、この裏口は戸締りしてありませんでした。この辺では、戸に錠をおろしておくようなことはしないのです、ことに真昼には。とにかく彼は牛乳を食料戸棚へ入れて、自分の部屋へ引込んで新聞を読み、煙草を吸った……彼は何かふだんと変ったことが起ったなどとは考えてもみなかったと、いっておるのです。そこへベッシーが戻ってきて、居間へ入っていって何が起こったかを発見し、死人も起こすほどの悲鳴をあげた。そこまでは公明正大ですが、二人の奉公人が、ちょっと家を空けている間に、何者かが家へ入って老人を殺してしまったとすると、犯人はよほど大胆な奴にちがいないと、すぐ私の頭にぴんと来たのです。犯人は村道を真直ぐに通ってくるか、あるいは誰かの家の裏庭を抜けて来なければならないのです、グラニット荘は、ぐるりを他人の家に囲まれておりますからね。一体、何者にせよ、どうして誰にも目撃されずにこの家へ入って来られたでしょうか?」
警部は、派手な身振りをして、言葉を切った。
「ああ、あなたの言おうとしておいでになる要点は、よくわかりました。なにとぞあとをお続けください」と、ポアロがいった。
「臭いぞ! 私は、こりゃ臭いぞと思ったのです。で、私は自分の周囲に気を配り始めました。さて、硬玉の像ですが、普通の浮浪者が、そういうものの価値を知っているかどうかです。とにかく、白昼それを盗みに押し込むなどとは狂気の沙汰です。老人が叫んで助けを呼ぶかも知れないということを考えるはずでしょうにね?」
「警部さん、私の思うに、頭部の打撲傷は死ぬ前に加えられたものではないですか?」と、イングルス氏はいった。
「全くその通りです。犯人は、最初に撲って気絶させておいて、それから咽喉を切ったのです。それははっきり解っています。だが一体、犯人はどうやって入って来て、どうやって出ていったのでしょうか? 見知らぬ人間が村へ入ってくれば、こんな狭い場所ですから、すぐに眼を付けられてしまいます。それで私はすぐさま、誰も入って来たんじゃないと気が付いたのです。私は家の周囲を詳細に調べたのです。前の晩に雨が降ったので、台所から出入りした足跡が、みんなはっきり残っていました。居間には、二種の足跡がありましたが、(ベッシーのは入口のところで止っていますし)それはワーレイ氏(彼は布製のスリッパをはいていました)のと、もう一人の男のでした。その男は、血の上を歩いています、私は血まみれの足跡を辿って見ました。こんないやな言葉を使って、失礼ですが……」
「どういたしまして、この場合、そうした形容詞も止むを得ません」と、イングルス氏は、薄笑いをしていった。
「私はその足跡が台所で終っているのを確かめました。これが第一の要点。それから、グラントの部屋の入口の横木に薄く、血のかすった跡がありました、これが第二の要点。第三の要点は、グラントの脱ぎすてた長靴を手に入れて、足跡に合せてみると、ぴったり合っていたことです。これで内部の者の仕業だということが、はっきりしたのです。私はグラントに警告を与え、拘引しました。さて、彼の旅行鞄に何を発見したとお思いになります? 数個の小さい硬玉像と、仮出獄許可状でした。グラントは、五年前に殺人強盗罪に問われたアブラハム・ビッグスだったのです」
警部は、勝ち誇ったように、言葉を切った。
「皆さん、これを、どうお思いになりますか」
「私はまことにはっきりした事件だとぞんじます、全く、驚くほど、はっきりしております。で、このビッグス、あるいはグラントは、大そう愚鈍で無教育な男と見えますね」と、ポワロがいった。
「はあ、彼は荒っぽい、つまらない野郎です、足跡がどういうことを意味しているかも分らんような奴です」
「たしかに彼は、探偵小説を読んだことのない男のようです。さて、警部さん、お手柄でございました……ところで、犯罪の現場を見させていただけませんでしょうか?」
「これからすぐにもご案内しましょう、その足跡を見ていただきたいものです」
「私も是非見たいとぞんじます、はい、大そう興味がございます、全く巧妙でございます」
われわれは直ぐに出かけた。イングルス氏と警部が先頭を切った。私は警部に聞こえないところでポワロに話ができるように、ちょっと遅れて歩いた。
「本当はどう思っていらっしゃるんですか、眼に見えているもの以上に、何かあるんですか?」
「君、それが問題なのですよ、ワーレイ氏は、手紙の中にはっきりと四巨頭《ザ・ビッグ4》が彼を追跡していると申していますね、そして私どもは、この四巨頭《ザ・ビッグ4》は決して子供だましの、こけおどしでないことを知っております。ところで、すべての点が、この犯罪を行ったのはグラントだといえるように、思われます。では、何故やったのでしょうか? 小さな硬玉像を盗むためだったでしょうか? それとも彼は、四巨頭《ザ・ビッグ4》の手先だったのでしょうか? 私は後者のほうが、ありそうなことだと思っていると申し上げましょう。硬玉がどんなに貴重なものだといたしましても、あの階級の男がその事実を知っているとは思われませんから、硬玉像ほしさに殺人を犯したというのは、得点になりませんね。(警部さんは、その点に気がつくべきだったのです)男は残忍で、無益な人殺しなどしないで、硬玉像を盗み去ることができました。ああ、そうですとも。どうやら、このデボンシャー警察の警部さんは、灰色の脳細胞を働かせなかったようですね。あの人は足跡の寸法を測りましたが、よく考えて見て、自分の考えを必要な順序と方式に従って、配列することを怠りましたね」
[#改ページ]
羊の腿《もも》肉の重要性
警部は、ポケットから鍵を取り出して、グラニット荘の玄関を開けた。よく晴れた、乾燥した日だったので、われわれの靴跡はつかないはずであったが、われわれは家へ入る前に、ていねいに靴を拭った。
一人の女が暗闇から現われて、警部に何か話した。彼は傍へ寄って、肩越しに声をかけた。
「ポワロさん、どうぞよく見て廻ってください。どこでもすっかりごらんになってください。私は十分ほどしたら戻ってきますから。それはそうと、ここに、グラントの長靴があります。足跡と較べてごらんになるようにと思って持参したのです」
われわれは居間へ入った。警部の足音は表に消えていった。イングルス氏は、部屋の隅のテーブルの上にあった骨董品にすぐ眼をつけて、それを検べるためにそばに行った。彼はポワロのすることには少しも興味を持たない様子であった。一方私は、固唾《かたず》をのんで、彼を見守っていた。床は濃い緑色のリノリューム張りになっていて、足跡を見るには、理想的であった。ずっと向うの隅の戸は、小さな料理場に通じていて、そこから台所の流し場へ出る戸があった。台所には裏へ出る戸と、もう一つ、グラントの使っていた寝室へ入る戸があった。床を調べながら、ポワロは低いなだらかな調子で独語し始めた。
「ここが死体の横わっていたところです。大きな黒いしみとその周囲に血のはねた跡がついています。布製のスリッパと九番の靴の跡とがありますが、みんな大そう入り乱れています。それから台所からここへ入って来たのと、ここから台所へ行くのと、二組の靴跡があります。殺人者は誰であろうと、ここを通って来たのでした。ヘイスティングス君、長靴を持っていますね? それをこっちへください」
ポワロは、私の渡した靴と靴跡とを、注意深く、較べて見た。
「さよう、両方とも同一人物、グラントの足跡です。彼はここを通ってきて、老人を殺して、また台所へ戻っていきました。彼は血を踏んでいます。彼が出ていくときに残していった血痕が見えますでしょう? ところが村中の人たちが歩き廻った台所には、一つも足跡がありませんね、彼は自分の部屋へ行ったのです……いいえ、第一に彼は犯行のあった現場へもう一度戻っています。それは小さな硬玉像を取るためだったでしょうか? それとも、何か彼の犯罪が発覚する種になるようなものを、忘れてきたのでしょうか?」
「二度目に行ったときに、老人を殺したんじゃないでしょうか?」と、私は言った。
「そんなことはありません、君は観察していないのです。外へ向って出ていく血染の足跡の一つの上に、中へ入って来る足跡が重なっていますよ。私は彼が何のために戻ってきたのか不思議でならないのです。後で思い付いて小さい硬玉像を取りに来たのでしょうか? そんなおかしな話はありません、馬鹿げています」
「たぶん、彼は全く絶望的になってしまっていたんでしょう」
「そうでしょうか? ヘイスティングス君、それは、道理にかないません。それは、私の脳細胞を怒らせます。彼の寝室へ入ってみましょう。ああ、なるほど戸口の横木に血のかすれた跡がありますし、血染の靴跡のかすかな痕跡があります。グラントの足跡だけです、死体のそばのも。グラントだけが家に近づくことのできるただ一人の男でした。はい、そうでなければなりません」
「老家政婦はどうなんです? グラントが牛乳を取りに出た後、彼女は家に一人きりでいました。彼女が老人を殺したかも知れません。もし彼女が外へ出なかったら、何の足跡も残しませんよね」と、私は急にいい出した。
「大そうよろしい、私は君がそういう仮説を思いつくかどうか、疑問に思っていたところですよ。私も既にそれを考え、その考えを否定したところです。ベッシーは、土地の者で、この辺ではよく知られている女です。四巨頭《ザ・ビッグ4》などと関係があるはずはありません。それに老ワーレイは、誰にきいても強い男だったのです。それは女の仕事ではありません、男のやったことです」
「僕は、四巨頭《ザ・ビッグ4》が何か悪魔的な装置を天井裏にかくしておいて、それが自動的に下ってきて老人の咽喉を切って、その後で、再び上へ引き上げられていく、という工合にしたのではないかと想像するんですがね」
「聖書に書いてあるヤコブの梯子《はしご》のようにですか? ヘイスティングス君、私は、君が大そう豊富な想像力をお持ちなのを知っております……しかし、お願いですから、限度を越えないようにしておいてくだざい」
私は赤面して沈黙してしまった。ポワロは、ひどく不満な表情を顔に浮かべて、方々の部屋や戸棚に首を突っ込んで廻っていた。突然に彼は、ポメラニアン種の犬を思わせるような、興奮の叫びをあげた。私は彼のそばへ駈け寄った。彼は劇的な態度で食料品室の前に立っていた。彼の手は、羊の腿《もも》を一本つかんでいた。
「ポワロさん! どうしたんですか? 急に気でも狂ったんですか」
「見てください、どうぞこの羊肉を、厳密に観察してください!」
私はできるだけ厳密に観察したが、何の異常も見出せなかった。私には、ごく普通の羊の腿肉にしか見えなかった。私がその通りにいうと、ポワロは私をへこませるような一べつを投げた。
「君にこれが見えないのですか、これが! これが! これが!」
彼は「これが」というごとに、罪もない羊の腿を一インチ位ずつ小突き出すのであった。
ポワロは、たった今、私のことを想像力がありすぎると非難したが、その彼は、私よりもはるかに想像しすぎると私は思った。彼は、本気に、その羊の腿についている氷の柱を猛毒の結晶だと思っているのだろうか? これが彼の異常な興奮に対する私の唯一の解釈であった。
「それは冷凍肉ですよ、ニュージーランドから輸入したものです」と私は、おだやかに説明した。
彼は一二秒、私を凝視していたが、急に奇妙な笑い方をした。
「わが友ヘイスティングス君は、何という素晴らしいお方でしょう! あの方は何でもごぞんじだ! 何もかも! 何と申しましたッけ……そう、物識り博士と申すのは、わが友、ヘイスティングス君ですよ」
彼は羊肉を皿の中へ投げ返して、食料室を出た。それから窓の外を見た。
「ああ、警部さんが来ました、ちょうどよろしい。私はここで見たいと思ったものは、みんな見ました」
ポワロはある考えに余念ない様子で、無意識に指先でテーブルを叩いていたが、不意に質問した。
「君、今日は何曜日ですか?」
「月曜日です、何か?……」私は幾分おどろいて答えた。
「ああ、月曜ですか! 一週間の中の悪い日です。月曜日に殺人を行うのは、誤りです」
居間へ入っていくと、ポワロは、壁の晴雨計を軽く叩いて、温度計を見た。
「晴天、華氏七十度、典型的な英国の夏ですね」
イングルス氏は、まだ、中国の陶器類を検べていた。
「あなたは、こういう調査には余り興味をお持ちでないようですね」と、ポワロはいった。
相手は静かな微笑を浮かべた。
「それは私の仕事ではありませんですからね。私は、こうした骨董品の蒐集家ですが、そういう証拠集めは、私の畑ではありません。それで後へ退って、邪魔にならないようにしているのです。私は東洋にいて、忍耐ということを学びました」
警部があわただしく飛び込んで来て、長い間、座をはずしていたことを弁解した。彼は、われわれをもう一度、現場へ案内して廻るとしきりにいうのであったが、ようやくそれを逃れた。
われわれが再び村道を歩き出したとき、ポワロは、
「警部さん、いろいろご丁寧にして頂きまして、まことに有難うぞんじました。ところで、も一つだけ、お願いしたいことがございます」といった。
「死体をごらんになりたいのでしょうね」
「いいえ、そうではありません、死体には少しも興味がございません。私はグラントに会いたいのです」
「あの男を見たいとおっしゃるなら、私と一緒にモートン警察署まで自動車を走らせていただかにゃなりません」
「結構です、そういたしましょう。しかし、私は彼に会うだけでなく、二人きりで話してみたいのですが?」
警部は上唇をなでながら、
「さあ、私にはわかりませんね」といった。
「あなたから警視庁へ連絡して下されば、必ず、許可を得ていただけるとぞんじます」
「もちろん、あなたがこれまで、何度か、我が警察のために尽くされたことは、私も聞いております。しかしこれは、これは大変に異例ですので」
「しかし、これは必要なのでございます、何故そのように必要かと申す理由は……グラントは殺人犯人ではないからでございます」
ポワロは、落ちつき払っていった。
「何ですって? では誰がやったのですか?」
「私の想像では、犯人は、まだ中年に達しない男です。彼は二輪馬車でグラニット荘に乗りつけ、家の中へ入っていって殺人を犯し、外へ出て来て、再び家の前に置いておいた二輪馬車で立ち去ったのです。彼は帽子は被っていませんでしたし、彼の服にはいくらか血がついていました」
「しかし、それじゃ村中の者が、その犯人を見ていたでしょうに」
「ある状況の下《もと》では、誰も見ていません」
「暗かったら、そういうこともあるでしょうが、白昼の犯行ですからね」
ポワロは、微笑しただけであった。
「それに、馬と二輪車ですが、ポワロさんは、どうしてそれを説明されるのですか? 往来を馬車や荷車が沢山通っております。特に眼をつけるようなものは見られなかったと思われます」
「肉体的の眼では見えませんが、心の眼では見えました」
警部は額を叩きながら、私に、意味深長に苦笑して見せた。私は、全然わけがわからなかったが、ポワロを信じていた。それから先の議論は、われわれがモートン警察署へ着いたので、打ち切りとなった。ポワロと私は、グラントに引き合わされたが、会見の間中、巡査が一人、立ち会っていた。ポワロは、直ぐに要点に入った。
「グラント君、私は、君がこの犯罪とは無関係だと思っているのです、一体何が起こったのか、君自身の口から詳しく話し給え」
囚人は中背で、何やら気にくわない顔付をした男であった。彼はいかにも囚人くさかった。
「おれは神かけて、そんなことはしねえかった。誰かが、おれの所帯道具の中にあんな小さなガラス人形なんか入れといたんだ、誰かがおれを、わなにかけたんだ、たしかにそうだ。おれは前にもいったように家へ帰ると、まっすぐに自分の部屋へ入ったんだ。おれは、べッシーが金切り声をあげるまでは、|なに《ヽヽ》も知らなかったんだ。どうか助けておくんなさい、おれがやったじゃねえだ」と男は、哀れっぽい声でいった。
ポワロは、立ちあがった。
「君が、ほんとうのことを話さないのなら、もうおしまいだ」
「だが、旦那……」
「君はあの部屋へ入ったね……君は、主人が死んでいるのを知っていたね、それで、ベッシーが恐ろしい発見をしにときには、君はちょうど逃亡しようとしているところだった」
男は下あごを、がっくりと落して、ポワロを見つめていた。
「ええ? そうだろう? さあ、私は厳かにいうがね、正直に真実のことを話すのが、君の唯一の救いなのだからね」
男は、突然に口を切った。
「思い切って話すですよ、旦那の言われた通りだ。おれは家へ帰って、真直ぐに、主人の部屋へ行って見ると、床に倒れて死んでいて、そのまわりが血になっていたんだ。おれや、こりゃいけねえと思った。奴らは、きっとおれの前科を嗅ぎ出して、おれが主人をばらしたんだと思うに違えねえ……おれは、主人の死んだのが見付からんうちに、逃げねばならんと思ったです」
「で、あの硬玉像は?」
男は、ためらった。
「実は……」
「君は本能的にあれを盗ったのだね、そうだろう? 君は主人が、あの像は非常に高価なものだといったのを聞いていたのだ、それで、君は、どうせのことやってしまえと思った。そこまで私にはわかるがね、君が二度目にあの部屋へ入ったのは、硬玉像をとるためだったのかね?」
「おれは二度なんか、入らねえでした。一度こっきりで沢山だ」
「それは確かかね?」
「絶対たしかなもんでさ」
「よろしい。さて、君はいつ刑務所を出ました?」
「二カ月前」
「どうして、ここに仕事を見つけたのです」
「出所者救済会の世話でね。出所したとき、奴が出迎えに来たです」
「それは、どんな様子をした人でしたか」
「真正の牧師さんではねえでしたが、そんな風な人でしたよ、黒い帽子を被ってて、もったいぶった口きく人だったです。前歯がかけていたし……それから眼鏡をかけた奴だったです。サンダースって名の人だったっけ。奴は、おれが悔い改めるように祈るとか、いい働き口を捜してくれるとかいったです、それでおれは、そいつの推薦で、ワーレイ爺さんとこに雇われたです」
ポワロは、再び椅子から立った。
「ありがとう、これですっかりわかりました。まあ辛抱して待つことですね」といって戸口まで行ってから、ポワロは、ふと立ち止って、
「サンダースは、君に長靴をくれたでしょう、そうですね!」といった。
グラントは、非常に驚いた様子であった。
「はア、くれたですよ、だが、どうして旦那はそんなことを知ってなさるんかね?」
「何でも知るのが、私の商売です」とポワロは、真面目にいった。
警部と二言三言交わした後で、われわれ三人は白鹿亭へいって、卵とベーコンとデボンシャー産のりんご酒を賞美した。
「まだ、説明は伺えませんですか?」とイングルス氏が、笑いながらいった。
「はい、この事件はもうはっきりいたしました。けれども、それを証明するのは非常に困難でしてね。ワーレイ老人を殺したのはグラントではなく、四巨頭《ザ・ビッグ4》の指図によるものです。大そう賢い人物がグラントを就職させて、彼に濡れ衣をきせる計画をたてました。これは、グラントの前科を利用すれば容易なことです。彼は、グラントに長靴を一足与えました。それは二足作ったものの中の一足です。もう一足は自分が持っておりました。まことに簡単なことです、彼はグラントのと対《つい》に作らせた長靴をはいて、グラントが家を出て行き、ベッシーが近所へいってお喋りをしている間に(これは、ベッシーの、毎日の習慣だったでしょう)裏口から家の中へ入っていって、ワーレイ老人を一撃のもとに倒し、首を掻き切って、台所に戻り、自分の靴をぬいでグラントのとはきかえ、二輪馬車に乗って引揚げていったのです」
イングルス氏は、ポワロをじっと見つめた。
「まだ一つ割り切れない点がありますね、どうして誰も彼を見なかったのですか?」
「ああ、そこが第四号の利口なところだと、私にもはっきりわかったのでございます。誰でもみんな、彼を見たのです……しかも誰も気がつかなかったのです。よろしゅうございますか、彼は肉屋の運搬車に乗ってきたのです」
「羊の肉ですね!」と私は、叫び声をあげた。
「その通り! ヘイスティングス君。羊の腿ですよ。誰もかもが、あの朝、グラニット荘へ来た者はないと誓いました。ところが私は、食料室に、まだ凍っている羊の腿肉を発見しました。それは月曜日でした。日曜日には肉の配達はしませんから、その朝、配達されたにちがいありません。もし、土曜日に配達されたものでしたら、この暑い陽気に、月曜日まで凍ったままでいるはずはありません。それですから、誰かが、グラニット荘へ来たのです、そして、その人物は、身辺に血痕がついていても、誰にも怪しまれない男なのです」
「何たる巧妙さでしょう!」とイングルス氏は、感歎した。
「はい、第四号は利口でございます」
「エルキュール・ポワロのように利口です」と、私はつぶやいた。
ポワロは威厳をもって、非難するような視線を私に投げた。
「ヘイスティングス君、冗談にもほどがありますよ。私は絞首台へ送られようとしていた男一人を救ったではありませんか? 一日の仕事として、それで十分だと思いますね」とポワロは、もったいぶっていった。
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科学者の失踪
ジョナサン・ワーレイ殺人の容疑者、ロバート・グラント、別名、ビッグスに、陪審員が無罪放免を宣告したときにさえも、メドース警部は個人的には、彼の無罪を全面的に信じていたとは、私は思わない。警部が、グラントに対する証拠固めとしてあげた、彼の前科、彼の盗んだ硬玉像、足跡にぴったりと符合する長靴などは、余りに完全すぎて、警部の平凡な頭では、たやすくは、くつがえすことができなかった。しかし、ポワロは彼の意向に反して、陪審員を納得させるだけの証拠を提出させるように強いたのであった。それで、月曜日の朝、グラニット荘に肉屋の車が乗りつけたのを見たという証人を二人出した。それからまた、村の肉屋は、グラニット荘に肉を配達するのは、いつも水曜日と、金曜日の二回に限っていたことを証言した。
証人の一人の女は、質問に答えて、実際に肉屋の男が、グラニット荘から出てくるのを見たといったが、どんな人柄の男であったかについては、何も役に立つような証言はできなかった。彼女の印象に残ったのは、ひげを生やしていない男で、中肉中背で、肉屋の配達人そっくりに見えたというだけであった。この描写に対して、ポワロは冷静に、肩をすくめた。
審問の後で、ポワロは、私にいった。
「私が申す通りですよ、ヘイスティングス君。この男は芸術家です、彼はつけひげや、青眼鏡で変装するようなことはいたしません。顔つきを変えるだけです。それは、ほんの小さな役の一つです。ちょっとの間、その役柄の人物になりきっていればよろしいのです」
そういわれて見ると、ハンウェルの精神病院からと言ってわれわれを訪ねて来た男は、精神病院の看視人が、かくあるべしと私の思っているのと、そっくりだったということを認めざるを得ない。私は、彼が本物だということに、ちょっとでも疑念を抱くなどとは、夢にも思わなかった。
すべてが、いささか落胆であった。ダートムアにおけるわれわれの経験は、何の足しにもならなかったように思われた、だが、ポワロはこういっていた。
「私どもは、進展いたしました。進歩いたしました。ちょっとでも彼と接触するごとに、私どもは少しずつ、彼の考えとやり方を学びます。彼のほうでは、私どものことも、私どもの計画も、何も知っておりません」
「だが、ポワロさん、僕の見たところ、あなたは何の計画も持っていないようだし、あなたは彼が何かしかけてくるのを待っているようですね」と、私は抗議した。
ポワロは、微笑した。
「君は変りませんね、すぐ相手に喰ってかかっていく、いつも同じヘイスティングス君ですね」
そのとき、誰か戸を叩いたので、彼は、
「ほら、あなたのチャンスが参りましたよ、あなたの敵が来たらしい」と付け加えた。そして、ジャップ警部が誰か男を伴って入って来ると、私の失望した顔を見て笑った。
「ポワロさん、今晩は! 米国機密諜報局の、ケント大尉をご紹介します」と、警部はいった。
ケント大尉は、長身の、瘠せた米国人で、まるで木彫りの面のような、妙に無表情な顔をしていた。
「お目にかかって嬉しいです」
彼はぎごちなく握手をしながら、低い声でいった。
ポワロは、煖炉に薪をもう一本投げ込み、安楽椅子をもう二脚、まえへ押し出した。私は、グラスとウイスキーとソーダ水を持って来た。大尉は一息に飲みほして、満足の意を表した。
「お国の立法は依然として健在ですな」と、彼はいった。
「さて、仕事にかかりましょうかな。ここにおられるポワロ氏は、私に、ある要求をしました。氏は、四巨頭《ザ・ビッグ4》の名に関係あることに興味を持っておられるんです、で、私が職務上の仕事に関してその名に出会ったら、いつでも知らせてほしいという訳だったのです。私は、そのことには余り関心は持っておらんでしたが、氏の言ったことは記憶にとめておったのです。で、こちらの大尉が奇妙な話を持って来られたとき、私はすぐに……一緒にポワロ氏のところへ行きましょう……といったのです」
ポワロは、ケント大尉のほうを見た。それで、米国人はその話を引き取っていった。
「ポワロさんは、米国沿岸で、数隻の水雷艇と駆逐艦が、岩に叩きつけられて沈没した記事を読まれたことと思います、それは、ちょうど、日本の大震災直後だったので、その災害の原因は津波だという説明がなされたのでした。ところが、最近おこわれた詐欺暴力団狩りの結果、押収した書類によって、この事件に全く新しい局面が展開されたのであります。それにより、四巨頭《ザ・ビッグ4》とよばれるある結社に関連しているらしいこと、及び、不完全な記述ではありますが、かつて試みられたいかなるものより遥かに強大な電気エネルギーを凝縮したもので、非常に強烈な放射線を一定の地点に集中させる能力をもつ、強力な無電装置のことが判明したのであります。この発明に対する主張は、全くばかげていると思われますが、私はそれ等の資料が果して価値あるものかどうかを調査するように本部へ提出しました。で、目下学者をもって任ずる教授連が、調査をすすめております。ところで、英国の科学者の一人が、以前この問題に関する論文を、英国科学協会で発表したと聞いております。しかし、彼の同僚たちは、余りこじつけで、空想的だと考えて、誰も同感しなかったということです。ところが、その科学者は自説を固持し、自分の実験はまさに成功しようとしているのだと宣言したというのであります」
「それで?」とポワロは、興味をもって、後をうながした。
「そんな訳で、私が英国へ渡って、その科学者に会見したらよかろうということになったのであります。まだ若い男で、ハリデーという名です。彼は、その方の研究の権威者で、私は、例の書類に示されているようなことが果して、可能であるかどうかを、彼に尋ねることになったのであります」
「で、可能だったんですか?」と、私は熱心に尋ねた。
「それは、わからないのであります。私は、ハリデー氏に会っていないのです……恐らく会えないでしょう」
「実のことをいうと、ハリデーは失踪《しっそう》してしまったんですよ」と、ジャップ警部は簡単にいった。
「いつですか?」
「二カ月前です」
「失踪届けが出たのですか?」
「もちろんです。彼の細君がひどく心配して、捜索願いに来たんですよ。できるだけ手を尽くしたですがね、まず望みなしでしょうな」
「なぜですか?」
「あんな風にして失踪した人間は、決して現われっこないですよ」
「どんな風なんです?」
「巴里《パリ》ですからね」
「それではハリデーは、巴里で失踪したのですか」
「そうです、科学的な仕事で巴里へ行くといって出かけたんだそうですがね、もちろん、何とかいいわけをせにゃならんかったでしょうからな。だが、巴里で失踪したとなれば、無頼漢にやられたか、あるいは自分から進んで失踪したかで、二者のうちで後のほうがずッと、よくあるやつですよ。楽しきかな巴里! とか何とかいうんでね。ハリデーと妻君との間は、しっくりいっていなかったというから、家庭生活に倦怠したということでしょうな、その点から見ると、至極明白な事件ですよ」
「さあ、どうでしょうね」と、ポワロは考え込みながらいった。
アメリカ人は、彼を不思議そうに見ていた。
「ところで、その四巨頭《ザ・ビッグ4》とかいうのは、一体どういうものなのですか」と彼は、ゆっくりといった。
「四巨頭《ザ・ビッグ4》と申すのは、中国人を頭に頂いている国際的結社です。中国人は第一号とよばれ、第二号はアメリカ人、第三号はフランス婦人、第四号の破壊者とよばれているのはイギリス人です」と、ポワロはいった。
「フランス婦人ですと? そして、ハリデーはフランスで失踪した。そこに何かありそうですな。で、その女の名は?」
「ぞんじません、私はその女性については何も知っていないのでございます」
「しかし、それは恐ろしく大きな問題でありますな」と、アメリカ人がいった。
ポワロはうなずいて、盆の上のグラスをきちんと一列に並べた。彼の秩序好きは、相変らず大変なものである。
「船をあんな風に沈めたのは、どういうことなんでありましょうな? 四巨頭《ザ・ビッグ4》は、ドイツの手先ですか」
「四巨頭《ザ・ビッグ4》は、彼ら自身のために存在しております……彼ら自身だけのものでございます、大尉殿。彼らの目的は世界支配ですよ」
アメリカ人は笑い出したが、ポワロの真剣な顔を見て、急に笑うのをやめた。
ポワロは、人差し指を、彼に向って振りながらいった。
「あなたはお笑いになる、あなたはよく考えてごらんにならないからです。あなたは小さな脳細胞をお使いにならない。単に彼らの力を試してみるだけのことに、お国の海軍の一部を破壊した人々は何者でございましょう? よろしいですか、彼らは自分たちの持っている磁気引力の新しい力の実験を行っただけのことだったのでございますよ」
「ポワロさん、あとを続けてください。私は高級犯罪人ってやつの小説はいくらでも読んだですが、本物にはお目にかかったことがないですからね。さて、あなたは、ケント大尉の話を聞かれたし、もっと何か、私にしてほしいことはありませんですかね」とジャップ警部は、機嫌よくいった。
「ございますとも。願えたら、ハリデー夫人の住所を教えていただきたいのです、それから、ちょっとした紹介状も」
かくして、われわれは翌日、サレー州コーバム村の近くにあるチェットウィンド荘へ向った。
ハリデー夫人は直ぐにわれわれを迎えた。背の高い金髪の婦人で、神経質で焦慮している様子であった。そばに彼女の子供がいた。五才ばかりの美しい少女であった。
ポワロは、われわれの訪問の目的を説明した。
「ああ! ポワロ様、私、とても嬉しゅうございます、とても感謝いたします。もちろん、お噂は伺っております。あなたは、警視庁の方たちとはちがいますわね、あの人たちは私の申し上げることに耳もかさなければ、理解しようともしないのです。フランス警察の人たちは、もっと悪いでしょうと思いますわ。あの人たちは私の夫が、他の女と駈け落ちしたものと、きめてかかっていますの。でも、夫は、そういう人ではありません。あの人がこの世で考えているのは、仕事のことだけでした。私たちの喧嘩だって、半分はそれが原因だったんですわ、あの人は私よりも、仕事のほうを大切にしていましたの」
「英国人はみんなそうなのではございませんか、仕事でなければ、競技かスポーツに熱中するようでございますね。英国の男性はそういうものを、真剣に考えておりますね」とポワロは、相手をなだめるようにいって、
「ところで、奥様。ご主人が失踪されるに至った、ほんとうの事情を、秩序だてて正確にお話し下さい」
「私の夫は、七月二十日、木曜日に、巴里へ参りました。夫は仕事の関係でいろいろな人に会ったり訪問したりいたしました。その中に、オリビエ夫人もおりました」
ポワロは、フランスの有名な女流化学者の名をきいて、うなずいた。彼女の偉業の輝かしさは、かのキュリー夫人をもしのぐほどであった。彼女は、フランス政府から勲章を授けられ、現代の最も著名な人物の一人である。
「夫は巴里に夕方着くとすぐに、カスチリヨン街のカスチリヨン・ホテルへ行きました。翌日の朝は、ブルゴノー教授に会うことになっておりましたので、その約束を果しました。夫の様子は普通で愉快そうだったそうです。二人は大変に興味ある会話を交わし、翌日教授の研究所で行われるある実験に立ち会う打ち合せをしました。それから一人でローヤル・カフェで昼食をし、森へ散歩にいきました。その後で、オリビエ夫人をパッシーの自宅に訪ねました。そこでも夫の様子は全く普通でした。夫は六時ごろ辞去しました。夕食をどこでしたかはわかりません。きっとどこかのレストランで一人でいただいたのでしょう。夫は十一時ごろホテルへ戻り、手紙が来ていないかどうかを尋ねてから、真直ぐ自分の部屋へいきました。翌朝、夫はホテルを徒歩で出かけたきり、二度と姿を見せないのです」
「何時にホテルを出られたのですか? ブルゴノー教授の研究所へ行く約束を守るためには、何時に出かけなければならなかったのでしょうか」
「私どもには解らないのです。夫がホテルを出るのを目撃した人は誰もありません。けれども、朝食をとっておりませんでしたから、それが、朝早く出かけたことを示していると思われるのです」
「実は、夜ホテルへ帰ってから、また、出かけたのかも知れませんね」
「私は、そうは思いません、ベッドには寝た形跡がありましたし、夜中に外出すれば、夜番が玄関で、見ていたはずです」
「奥様、それは確かにそうでございます。それでは私どもも、ご主人が翌朝早くホテルをお出になったと考えましょう、それで私どもはすこし安心することができます。ご主人が夜中に、無頼漢に襲われて、その犠牲におなりになったのではないことが確かめられました。次に、ご主人の荷物ですが、全部ホテルに残してございましたでしょうか」
ハリデー夫人は、答えるのをためらっている様子であったが、ついに答えた。
「いいえ、小型の旅行鞄を一つ持って行ったようです」
「なるほど……その夜、ご主人はどこへ行っておいでだったのでしょうね? それが解れば、私どもは沢山のことを知ることができるでございましょう。ご主人は誰にお会いになったのでしょう? そこに謎が横たわっているのでございます。奥様、私自身といたしましては、警察の見解を受け入れる必要はないのでございます。彼らの見解はいつも『犯罪の陰に女あり』でございますからね。それにしても、ご主人の計画を変更するような何かがその夜起こったことは明白でございます。ご主人はホテルへお帰りになったときに、手紙が来ていないかとお尋ねになったと、さっきおっしゃいましたが、手紙が来ておりましたのでしょうか?」
ポワロは、考え深い様子だった。
「一本だけ受け取ったそうでございます。それはきっと、夫が英国をたった日に、私の書きました手紙だと思います」
ポワロは、正味一分間ぐらいは、考えに沈んでいたが、やがて彼は活溌に立ち上った。
「さて、奥様、謎解決の鍵は巴里にありでございます。私はすぐさまそれを捜しに巴里へ旅立ちます」
「でも、それはずいぶん前のことなんでございますのよ、ポワロ様」
「はい、それはおっしゃる通りでございます。しかしながら、私どもが捜さなければならないのは、巴里でございます」
ポワロは部屋を出て行こうとしたが、戸に手をかけて、立ち止った。
「奥様、ご主人が四巨頭《ザ・ビッグ4》と申す言葉を口に出されたことはございませんでしたか」
「四巨頭《ザ・ビッグ4》……? いいえ、私は聞いたことがございませんわ」と、考え込みながらいった。
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第三号の仮面
階段の上の女
ハリデー夫人から聞き出すことのできたのは、これが全部であった。われわれは、急いでロンドンに戻り、翌日は、ヨーロッパ大陸への途《と》についていた。ポワロは、悲しげな微笑を浮かべて所見を述べた。
「四巨頭《ザ・ビッグ4》が私を奮起させますよ、私はわが旧友『人間猟犬』のように地面を駈けずり廻りますよ」
私は、ポワロが、この前に会った、巴里警察でも腕こきの探偵ジロオなる人物のことをいっているのだと気がついたので、
「あなたは、きっと巴里で彼にお会いになるでしょうね」といった。
ポワロは、顔をしかめて、
「私は切に、彼に会わないように願いますね、あの人は、私を好いておりません」といった。
「そいつは、ひどく困難な仕事ではないですか? ある無名の英国人が、二カ月前のある晩、何をしていたかを探り出すなんて!」と、私はいった。
「大そうむずかしゅうございます、しかし君もよくご承知のように、困難はエルキュール・ポワロの心を喜ばせます」
「あなたは、四巨頭《ザ・ビッグ4》が彼を誘拐したと思っていらっしゃるんですか」
ポワロは、うなずいた。
われわれの調査は、もちろん、彼の立ち廻り先を辿《たど》っていったのだが、ハリデー夫人が既にわれわれに語った以上のことは、何も付けたすことができなかった。ポワロは、ブルゴノー教授と長時間にわたる会見をし、その間にハリデーが教授に会った日の晩、何か自分の計画を洩らしはしなかったかを探り出そうとしたが、何の得るところもなかった。
われわれの次のよりどころは、かの有名なオリビエ夫人であった。私はパッシー荘の玄関の石段を登っていくときは、すっかり興奮していた。私は常々、女性が科学の世界に踏み込むとは、異常なことだと思っていたのである。私は、科学者の仕事には、純然たる男性の頭脳が必要だと考えていた。
玄関の戸をあけたのは十七歳ぐらいの若者であった。彼の態度が、あまりに儀式ばっていたので、何となく、カトリック僧のような感じがした。ポワロは、夫人が一日の大部分を研究に没頭していて、約束した訪問者以外は、決して受けないということを知っていたので、前もって、この会見の手筈をしておいたのであった。
われわれは小さな客間に通された。間もなくその家の女主人が入って来た。オリビエ夫人は背が高い上に、白い長いドレスを着て、頭に白い修道尼のような縁なし帽をすっぽりとかぶっているので、よけいに背が高く見えた。面長《おもなが》の青白い顔に、すばらしい黒い瞳が、熱狂的な光をおびて輝いていた。彼女は、現代のフランス婦人というよりも、古代の女祭司のような感じがした。一方の頬はやけどで醜くなっていた。そういえば、三年前に、彼女の夫は助手と共に、実験室で爆発のために死んで、彼女もひどい火傷を負ったのであった。それ以来彼女は、世間との交渉を断ち、燃えるような情熱をもって、科学の探求という仕事に打ち込んでしまったのである。彼女は、冷やかないんぎんさでわれわれを迎えた。
「私は、何回となく警官と会見いたしましたが、何の役にも立たなかったのですから、あなた方のお役にたつことも、できないと存じます」
「奥様、私は警察の人たちと同じ質問を出すようなことはいたしますまい。先ず、奥様とハリデー氏とは何を語り合いましたかという質問を出させていただきます」
彼女は、少し驚いた様子を見せた。
「あの方の仕事のことだけ! あの方の仕事と……それから私のと」
「氏は最近、英国科学協会で発表した論文中に具体化された学理について、奥様に話しましたでしょうか」
「確かに話しました。私どもの主な話題はそのことでした」
「氏の考えは少し空想的ではございませんでしたか」と、ポワロは無頓着に尋ねた。
「一部の人はそう考えているようですが、私はそうは思いません」
「あなたは、それは実行可能とお考えですか」
「完全に実行できます、私自身の研究テーマもそれに近いものです、同じ結果を得られるかどうかは断言できませんが。私はラジウム放射能の産物である、普通、ラジウムCとして知られている物質によって放射されるガンマ線を研究しているうちに、大変に興味ある磁気現象に出会いました。私は、私どもが磁気と呼んでおります力の、実際の性質に対する一つの理論をもっておりますが、私のその発見は、まだ世界に発表する時期ではありません。ハリデー氏の実験と意見は、私には非常に興味あるものでした」
ポワロはうなずいた。それから、私を驚かせるような質問をした。
「奥様、あなたはどこで、そうした問題についてお話し合いになりましたか、ここでございますか?」
「いいえ、実験室でした」
「そこを拝見させていただけましょうか」
「よろしいですとも」
彼女はさっき入ってきた戸口から、われわれをつれていった。そこから狭い廊下があって、二つの戸口を通りぬけると、われわれは広い実験室に入っていった。そこには、ビーカーや、るつぼ、それから私には全然名もわからないような沢山の器具がズラリと並んでいた。そこには二人の人がいて、何かの実験に忙殺されていた。オリビエ夫人は彼らを紹介した。
「クロード嬢、私の助手の一人です」
背の高い、まじめな顔をした若い娘は、われわれにむかって、おじぎをした。
「こちらはアンリさん、私の信頼している古くからの友人です」
背の低い色の浅黒い男が、ぽこんとおじぎをした。
ポワロは周囲を見廻した。その部屋にはわれわれの入って来た戸口のほかに、二つ戸口があった。夫人の説明によると、一つは庭へ出る戸口で、もう一つは、矢張り研究に用いられている小部屋へ通じていた。ポアロは、それらを一通り覗いて見ると、もう客間へ戻るといい出した。
「奥様は、ハリデー氏との会見の間、お一人でいらっしゃいましたか」
「はい、私だけでした。二人の助手は隣の小部屋におりました」
「あなた方の会話は、その二人、あるいは誰か他の者に聞こえましたでしょうか」
夫人は、考えた後、首をふった。
「私はそうは思いません、誰にも聞こえるはずはなかったと思います、戸はみんな閉っておりました」
「何者かが、部屋の中のどこかに、かくれていることができましたでしょうか」
「実験室の隅に、大きな戸棚がありますが、誰か隠れていたなんて、ばかげております」
「全く、そんなことはございませんね、奥様、もう一つだけ。ハリデー氏はその夜の予定について、何か申しませんでしたか」
「あの方は、何もおっしゃいませんでした」
「奥様、どうも有難うぞんじました、お騒がせいたしまして誠に申しわけございませんでした。どうぞお構いなく、私どもは出口を探しますから」
われわれは玄関へ出た。ちょうどそのとき、一人の婦人が表戸から入って来て、いそいで階段を駈け上っていった。私の受けた印象では、黒い喪服を着たフランスの未亡人のようであった。
われわれがその家を後にして歩き出したとき、ポワロは、
「あのご婦人は、大そう異常なタイプですね」といった。
「オリビエ夫人ですか、そうですね」
「君、オリビエ夫人ではありません。それは申すまでもありません、ああいう天才は世の中には滅多に現われません。いや、私の申しましたのは、もう一人のご婦人……階段の上のご婦人のことです」
「僕は彼女の顔は見ませんでした、あなただってご覧になったはずはありませんよ、彼女は僕たちのほうなんか見ませんでしたもの」と、私は眼をみはって、いった。
「私が、異常な型の婦人だと申したのは、そこですよ」とポワロは、静かにいった。そして、
「あのご婦人は玄関の鍵を使って入って来たのですから、私は家の人とみますが、自分の家の玄関のホールに見知らぬ他人が二人もおりますのに、誰だか尋ねもしなければ、私どものほうを見向きもしないで、階段を駈けあがってしまうとは、大そう変ったご婦人です。全く不自然です。実際おどろくべきことです! あれは一体何でしょうね?」
ポワロは、いきなり私を引きもどした……間《かん》一髪、木が一本、歩道にどさりと倒れて来たが、もうちょっとのところで、われわれには当らなかった。ポワロは、度を失い、青ざめて、その木を見つめた。
「きわどいところでしたよ! しかし、不器用なことでした。それにしても私は、少しも疑っておりませんでした……少なくも何の疑惑も持ち得ませんでした。しかし、私の素早い眼、この猫のような眼がなかったなら、エルキュール・ポワロは叩き潰されて、この世に存在しなくなってしまうところでした。……これは世の中にとって恐ろしい災難です、それから君もですよ……もちろん、君は、私のように国家的損失とはならないとしてもね」
「ありがとう。で、われわれはこれから何をするんですか」と、私は冷やかにいった。
「何かする? 私どもは考えるのです。さよう、今、この場で、私どもの灰色の脳細胞を働かせるのです。さて、ハリデー氏ですが、彼は本当に巴里にいたのでしょうか? さよう、いたのです。何故かと申すと、氏と面識あるブルゴノー教授が氏に会い、話をしたのですからね」
「それは一体何を意味しているんですか!」と、私は叫んだ。
「それは金曜日の朝でした。ハリデー氏が最後に見られたのは、金曜の晩十一時でした……しかし、そのとき、氏が見られたのでしょうか?」
「門番が見ました……」
「夜の当番です、彼は前に、ハリデー氏を見ていませんでした。十分にハリデー氏らしく見える男がホテルへ入ってきて、私どもはそれを第四号とします……手紙が来ていないかどうかを尋ねて、二階へあがってゆき、小型旅行鞄を荷造りして、翌朝ひそかに出ていってしまった。金曜日の晩には誰もハリデー氏を見ませんでした……何故なら彼は、既に敵の掌中にあったからです。オリビエ夫人が会ったのは、ハリデー氏だったでしょうか? そうです。夫人はハリデー氏と面識がなかったとしても、にせ者は、夫人の特殊な話題で彼女を騙《だま》すことはできなかったはずです。彼は、オリビエ夫人を訪問し、辞去しました。その次に、何が起こったでしょうか?」
ポワロは私の腕をつかむなり、私を引きずるようにしてパッシー荘へ引き返した。
「さあ、君、今は失踪した翌日ですよ、そして私どもは足跡を辿っているところなのです。君は足跡が好きですね、そうでしょう? ごらんなさい、ほら男の足跡。これはハリデー氏のです……彼は活溌に歩いています、私どもがしたと同じように右へ曲りました。ああ、もう一つ、別の足跡があります、彼のすぐ背後をつけていきます、小さな足跡,これは女のです。ごらんなさい、彼女は彼に追いつきました、細っそりした若い女性、未亡人の黒いベールで顔を包んでいます。……失礼でございますが、オリビエ夫人が、あなた様をお呼び戻してくるようにと申されますので……そこで彼は立ち止り、きびすを返します。さて、若いご婦人は彼をどこへつれていったでしょうか? 彼女は彼と連れ立って歩いているところを、誰にも見られたくありません。彼女が彼に追い付いたところは、偶然にも二軒の家の庭園を区切っている路地の入口でした。彼女は彼をそこへつれ込みました。……こちらからが近みちでございますから……というわけです。その路地の右手は、オリビエ夫人の家の庭ですし、左手は隣家の庭です。よろしいですか、私どもの上に危く倒れて来るところだった木は、この庭の木だったのですよ。両家の庭木戸はこの路地に向かってついております。伏兵はそこにいました。男どもはハリデー氏に襲いかかり、怪しき別荘へ連れ込みました」
「これは驚いた! ポワロさん、あなたはそれらをみんな目撃したようなことを言っていらっしゃる!」と、私は叫んだ。
「君、私は心眼で見ているのでございますよ、そうです、そうにきまっております。さあ、あの家へ戻りましょう」
「あなたは、オリビエ夫人にもう一度面会を求めるんですか」
ポワロは、奇妙な笑いを浮かべた。
「いいえ、ヘイスティングス君、私は階段の上の女の顔を見たいのです」
「誰だと思いますか、オリビエ夫人の親戚の人ですかね」
「それよりも、秘書というほうが当りそうですね。しかも最近に雇われた秘書」
前と同じ従僕が玄関を開けてくれた。
「たった今、ご帰宅になった未亡人のお名をきかしてくれませんか」
「奥様の秘書のヴェロノオ夫人でございますか」
「その方です、ちょっとの間、私どもとお話しくださるようにお願いしてみてくれませんか」
若者は奥へ入っていったが、間もなく現われた。
「お気の毒ですが、ヴェロノオ夫人は、またお出かけになったようでございます」
「そんなはずはない、エルキュール・ポワロと私の名を取り次いで、私がこれから警察へいくところなので、すぐにお目にかかることが重要だと申し上げてください」
再び若者は立ち去った。今度は婦人が階段をおりて来て、客間へ入っていった。われわれは後に続いた。彼女はこっちを向いて、ベールをあげた。驚いたことに、それはわれわれの旧敵、ロザコフ伯爵未亡人であった。ロシアの伯爵夫人で、かつて、ロンドンで、凄い宝石泥棒を企んだ女性であった。
「私は玄関であなた方をお見かけしたとき、最悪をおそれたのでした」と彼女は、哀願するようにいった。
「ロザコフ伯爵夫人よ……」
彼女は首をふった。
「現在は、イネス・ヴェロノオでございます。フランス人と結婚した、スペイン人ということになっております。ポワロ様、私に何の御用がおありなのでございますか、あなたは恐ろしい方でいらっしゃる、あなたは私をロンドンから狩り出しておしまいになりましたのね。今度はオリビエ夫人に私のことをすっかりお話しになって、私を巴里から追い出しておしまいになるおつもりなのでございましょう。私どもあわれなロシア人だって、生きていかなければなりませんわ」
「奥様、それよりもっと重大なことでございます。私は隣家へ入って、ハリデー氏を……もしまだ生きていたら……助け出すことを申し出ているのでございます。おわかりでしょう、私は何もかも知っているのでございます」
私は、彼女が急に青ざめたのを見た。彼女は唇をかみしめていたが、いつもの決断をもって口を開いた。
「あの人は生きておりますが、隣の家にはおりません。さあ、ポワロさん、取り引きをいたしましょう。私に自由を与えて下されば、ハリデー氏を無事にあなたにお渡しいたします」
「よろしゅうございます。私もそれと同じ交換条件を出そうとしていたところでございました。ときに、奥様、あなたの雇い主は、四巨頭《ザ・ビッグ4》でございますか?」
私は再び彼女の顔が、死人のように青ざめたのを見た。しかし彼女は、ポワロの質問には答えないで、別のことをいった。
「電話をかけましてもよろしいでしょうか」と尋ね、電話器のそばへいって、番号を呼び出した。
「あなた方のご友人が、監禁されている別荘の電話番号です。警察へお知らせになっても構いませんわ、どうせ警官が先方へ到着するころには、巣は空になっておりましょうから。……ああ! 通じました。アンドレね? 私イネス。あの小さなベルギー人がすっかり嗅ぎつけてしまったのよ、ハリデーを送り返して、そこを引き払って!」
彼女は受話器をおくと、微笑しながらわれわれのほうへ来た。
「奥様には、ホテルまでご同行をお願いいたします」
「当然、私は予期しておりました」
私は、タクシーを拾ってきた。われわれは出発した。ポワロは腑《ふ》に落ちない様子であった。すべてが余りに容易に運んだ感があった。ホテルに到着すると、玄関番がそばへやってきて、
「紳士がお着きになって、あなた様のお部屋においでです。ひどく加減がお悪いようで、看護婦さんが付き添ってきましたが、それは帰ってしまいました」と知らせた。
「結構、あれは私の友人です」と、ポワロはいった。
われわれは一緒に二階へいった。窓ぎわの椅子に、極度の心身疲労に憔悴した若い男が腰かけていた。ポワロは彼のそばへいって、
「ジョン・ハリデーさんですか」と尋ねた。
男はうなずいた。
「左の腕を見せてください。ション・ハリデーは、左の肘の下に、ほくろがあるはずです」
男は、腕を伸ばして見せた。ほくろがあった。ポワロは伯爵夫人にむかって、頭をさげた。彼女は部屋を出ていった。
ハリデー氏は一杯のブランデーで、幾分気力を取り戻したようであった。
「ああ、私は地獄を通ってきたんだ、地獄を、地獄を……あのけだものどもは、悪魔の化身だ……妻はどこにいる? 彼女は何と思うだろう?……奴らは、彼女は信じるだろう、といったが……」と、ハリデー氏は低い声でいった。
「その通りです。あなたに対する奥様の信頼は少しも揺らいではおりません。あなたの帰宅を待っておいでです、奥様とお嬢様とで」
「神に感謝します。私は再び自由になれるとは信じませんでした」
「さて、ハリデーさん、あなたは少し回復なさったようですから、最初からのできごとをしっかりお話しいただきたいものです」
ハリデー氏は、何ともいえない表情で、ポワロを見つめた。
「私は……何も覚えていません」
「何ですって?」
「あなたは四巨頭《ザ・ビッグ4》のことを聞いたことがありますか」
「少しは聞いております」とポワロは、そっけなくいった。
「あなたは、私の知っていることを、知っていらっしゃらないんだ。彼らは無限の勢力を持っているのです。私が沈黙を守っていれば安全ですが、もしも、一言でも口外すれば、私だけでなく、家族の者までも、言葉ではいい表わせないような、ひどい目にあうのです。それは私にとっては、議論の余地なしです……私は覚えていません……何にも」
彼は立ちあがって、部屋を出ていった。
ポワロの顔には、煙に巻かれたような表情が浮かんでいた。
「そういうわけでしたか、またもや、四巨頭《ザ・ビッグ4》の勝ちでした。ヘイスティングス君、手に持っているのは何ですか?」
私は、それを彼に渡した。
「伯爵夫人が立ち去る前に、かきなぐっていったんです」
「さようなら……I・Vより」とポワロは読みあげた。
「これは伯爵夫人の、今の名前の頭文字ですがね……単なる偶然の符合かも知れませんが、これはローマ数字の4〔IV〕ともなりますね。私は、もしやと思っているのですがね、ヘイスティングス君、もしやと……」
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ラジウム泥棒
ハリデー氏は、自由の身となった晩は、ホテルの私の隣の部屋で寝たが、一晩中、うなったり、何か抗議する寝言をいったりしているのが聞こえていた。疑いもなく、別荘での体験は、彼の神経をずたずたにしたのにちがいない。翌朝になっても、われわれは彼から情報を聞き出すのには、完全に失敗した。彼はただ四巨頭《ザ・ビッグ4》の意のままになる無限の勢力と、彼が一言でも口外すれば、必ず復讐されるということを、繰り返して保証するだけであった。
昼食後、彼は再び妻と一緒になるために英国へ帰って行ったが私とポワロは巴里に残った。私は、あれこれと活気ある処置を予期していたので、ポワロの無活動に当惑した。
「ポワロさん、さあ、奴らをやっつけましょうよ!」と、私は熱心にすすめた。
「お見事! お見事! だが君、どこへいって誰をやっつけるのでございますか? どうぞ、そこをはっきりさせていただきましょう」
「もちろん、相手は四巨頭《ザ・ビッグ4》ですよ」
「申すまでもございません。しかし、君はどういう風にするつもりですか」
「警察を動かすんです」
私は危ぶみながら、思い切っていった。
ポワロは微笑した。
「警察の人たちは、私どもを架空的な作りごとを話すといって咎めるでしょう。私どもには、何の拠りどころもありません、何もないのです。私どもは、待っていなければなりません」
「何を待つんですか」
「相手が動き出すのを待つのです。考えてごらんなさい、英国では、あなた方はみんなボクシングを理解していますし、大好きではありませんか。もし一方の男が動かない場合は、もう一方の男が動かなければなりません。そして、相手に攻撃に出させることによって、相手について何かを学ぶことになります。私どもも今、その手を使うのです、相手に攻撃させるのです。
確かに彼らのほうから行動を起こしてくると思いますね、よろしいですか。彼らは手始めに、私を英国から追い出そうとしました。それは失敗でした。次にダートムア事件では、私どもが乗り込んでいって、彼らの犠牲者を絞首台から救いました。そして、昨日はまた、彼らの計画を邪魔しました。彼らは決してこのままにしてはおきません」
私がそのことについて考えているとき、戸を叩く音がした。われわれの答えも待たずに、一人の男が、部屋へ入ってきて、背後に戸を閉じた。
それは背の高い、やせた男で、やや鉤鼻で、黄ばんだ顔色をしていた。長いオーバーを着て顎のところまで、ずっとボタンをかけ、ソフト帽を眉深にかぶっていた。
「どうも不作法な入り方をして失礼、もっとも、私の用件からして、非合法的なものでしてね」と、男は穏やかな声でいった。
彼は微笑しながら、テーブルの前へ進み寄って、そばにあった椅子に腰かけた。私は急いで立ち上ろうとしたが、ポワロは身振りで、それを制した。
「おっしゃる通り、あなたの入り方は、不作法でございますな。どういうご用件か伺わさしていただきましょう」
「親愛なるポワロ君、それは至って簡単、君は、おれたちの友人を悩ましている」
「どのようにしてでございますか」
「おい、おいポワロ君、君はまじめにそれを尋ねているんじゃないだろう。君はこっち同様に承知のはずだ」
「それはあなたの友人が、誰かによりけりです」
男はそれには答えず、ポケットから煙草入れを出して、それを開けると、巻き煙草を四本取り出してテーブルの上にほうり出したと思うと、また拾い集めて煙草入れに納めてポケットに戻した。
「ああ、そういうことですか、で、あなたの友人たちは、どういう提案を出したのですか」
「彼らは、君が、その優秀な才能を、筋道の通った犯罪の捜索に役立てるように……つまり、君の本職に帰り、ロンドン社交界の貴婦人方の問題の解決に当るようにと、提案している」
「平和的な趣旨……で、もし、私が同意しなかったら?」
男は、感銘的な身振りをした。
「もちろん、われわれは非常に残念に思う、われわればかりでなく、偉大なるエルキュール・ポワロの友人達や、崇拝者たちも。だが、いかに激しく残念がっても、男一匹を生き返らすことはできない」
「なかなか微妙ないいまわしですね、で、もしも私が、その要求を受けるとしましたら?」とポワロは、うなずきながらいった。
「その場合は、おれは君に、賠償金を提供する権力を与えられている」
男は紙幣入れを取り出して、テーブルの上に十枚の紙幣を投げ出した。みんな、一万フラン紙幣であった。
「これは、われわれの誠意の保証に過ぎない、この十倍は支払う」
「失敬な! よくもそんなこと……」と叫んで、私が憤然として立ち上ると、ポワロは、それをおさえつけるようにいった。
「ヘイスティングス君、坐りたまえ! 君のその美しい正直な性質を退けて、そこへおかけなさい。さて、あなたにはこう申しましょう。ここにおります私の親友が、あなたを逃がさないようにしている間に、私が警察に電話してあなたを拘引させるのに、何のさしつかえがございましょうか?」
「よろしいとも、それが賢明なことだと考えるのならね」と客人は、静かにいい放った。
「さあ、ポワロさん、僕は我慢がならない、警察に電話して、始末してしまってください」と、私は叫んだ。
私は、さっと、戸口へ走り寄って、戸を背にして、立った。
「それは、余りに目立つ手段のように思われますね」とポワロは、思案するように、つぶやいた。
「君は、目立つことには信を置かないのかね」と訪問者は、微笑しながらいった。
「さあ、やってください、ポワロさん」と、私は強いた。
「これは、君の責任になるでしょうよ」
ポワロが受話器を取りあげると、男は突如、猫のような素早さで私に飛びかかってきた。私は待ち構えていた。次の瞬間、二人は取組み合って部屋中をよろめき廻っていた。突然に私は、彼が滑ってよろめいたのを感じた。私は有利な立場になった。彼は私の前に倒れた。が、それは瞬間的の勝利で、途方もないことが起こった。自分の体が前方へ飛んでいったと思ったとたんに、私は頭から先に壁にぶつかって、複雑きわまる倒れ方をしてしまった。私は直ぐに飛び起きたが、我が敵はすでに戸を閉めて逃げていった後であった。私は戸にぶつかっていったが、外側から鍵がかかっていた。私はポワロから受話器をひったくった。
「受付ですか? 今出ていった男を止めてくれ給え! オーバーのボタンを顎のところまでかけて、ソフト帽をかぶった背の高い男だ、警察のお尋ね者なんだ」
二三分して戸の外が騒がしくなった。戸の鍵がはずされ戸がさっと開き、支配人自身が戸口に現われた。
「あの男……彼を捕えましたか」と、私は叫んだ。
「いいえ、旦那様、誰も降りて来ませんでした」
「君は、途中ですれちがったはずだ」
「私どもは誰にもすれちがいませんでした。その男が逃げたとは、信じられません」
「あなたは、誰かにすれちがいませんでしたか、たとえばホテルの使用人など」と、ポワロはいつものおだやかな調子でいった。
「盆を持った給仕人にすれちがっただけでした」
「ああ!」
ポワロは、意味深長にいった。そして興奮している支配人を、ようやく追い払った後で、
「それで、あの男が顎のところまで、オーバーのボタンをかけていた訳がわかりました」と、考え深い調子でいった。
「ポワロさん、僕は非常に申しわけないと思っています、僕はあの男を大丈夫、組み伏せてしまえるつもりだったんですが」
「そうです、あれはたしかに日本の柔道の手でした。君、そんなに心配することはありませんよ。すべてが計画……彼の計画通りにいっております、それが私の望むところなのです」
「これは何だろう!」と叫んで、私は、床に落ちていた茶色のものをつかみあげた。
それは茶革の紙入れで、明らかに、先刻の訪問者が、私と格闘中に、ポケットから落したものであった。その中には、フェリックスローン氏宛の領収証を二枚に折り畳んだものと、手帳から裂き切った紙片に、鉛筆の走り書きをしたものがあった。その僅かな言葉は、非常に重要なものだった。
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協議会の次の集会は、金曜日、午前十一時、エスケール通り三十四番地において行わるべし。
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それには、4という数字の署名がしてあった。
今日は金曜日であった。そして、飾り棚の置時計は午前十時三十分をさしていた。
「ああ、何たる好機だ! 運命はわれらの掌中にありだ! それにしても、われわれは即刻出発しなければなりませんね、何という素晴らしい幸運でしょう」と、私は叫んだ。
「そういう訳であの男が現われたのです、それですっかり解りました」とポワロは、つぶやいた。
「何が解ったんですって? さあ、ポワロさん、ここで空想に耽ってなんかいる場合ではありませんよ」
ポワロは私を見て、微笑しながら、ゆっくりと首をふった。
「……さあどうぞ、私の客間へお入り下さいと、蜘蛛が、蝿に言いました……と申すのがイギリスの童謡にございましたっけね。どういたしまして、彼らは巧妙ですが、ポワロほどではございません」
「ポワロさんは、一体何のことをいっているんですか?」
「君、私は、さっきから、今朝の訪問の理由を考えていたのですよ。あの訪問者は、本気で私を買収できると思っていましたでしょうか? あるいはまた、脅迫して私の仕事を中止させることができると思っていましたでしょうか? そのようなことはほとんど信じられません。では、何故来たのでしょう? それが今は、計画の全体が、はっきり解ったのです。大層手ぎわのいい、大層要領を得た計画でした。私を買収するとか、脅かす表向きの理由、必要な格闘、彼は、それを避けようとはしませんでしたね、そしてその格闘で、紙入れを自然に、また、理屈にかなった落し方をする。そして最後に、落し穴……エスケール通り、午前十一時。君、私はその手には乗りませんよ、誰もこのエルキュール・ポワロを、そう易々《やすやす》と捕えるわけにはまいりません」
「そうだったんですか!」と私は、喘《あえ》ぐようにいった。
ポワロは、ひとり眉をひそめていた。
「が、私に解らないことが、まだ一つあります」
「何ですか、一体」
「時間、ヘイスティングス君、時間ですよ。もし彼らが、私をおびき出したかったら、確かに夜のほうがいいはずです。何故この昼間の時間を選んだのでしょうか? 今日、その時刻に、何かが起こるということがあり得るでしょうか? エルキュール・ポワロに知られたくない、何かが起こるのではないでしょうか?」
彼は首をふった。
「今に解るでしょう、君、私はここにじっとしています、私どもは、今朝は動かないで、ここで、事件が起こるのを待っていることにしましょう」
十一時きっかりに、召集状が来た。それは一通の速達便であった。ポワロはそれを急いで開封して見て、私に渡した。それは、世界的に有名な科学者で、われわれが昨日ハリデー事件に関して訪問した、あのオリビエ夫人からのもので、直ちにパッシー荘まで来てもらいたいというのであった。
われわれは一刻も猶予せず、その召集に応じた。オリビエ夫人は、昨日と同じ小さい客間に、われわれを迎えた。私は、ベクレルやキュリー夫妻の輝やかしき後継者である、面長な修道尼のような顔と、燃ゆるような眼を持ったこの女性の、驚くべき才能に対する感銘を新たにするのであった。
彼女はすぐに要件に移った。
「あなた方は、昨日、ハリデー氏の失踪の件で私と会見なさいましたが、私はつい先刻、あなた方がもう一度戻って来て、私の秘書イネス・ヴェロノオに会見を申し込まれたということを知ったのでした。ヴェロノオは、あなた方と家を出たまま戻ってまいりません」
「それだけでございますか、奥様」
「いいえ、それだけではありません。昨夜、何者かが実験室に押し込み、重要な書類や備忘録を盗んでいきました。賊は、もっと重要なものを狙っていたらしいのですが、幸い大金庫を破ることには失敗しました」
「奥様、実はこの事件には、こういう事実があるのでございます。あなたの秘書、ヴェロノオ夫人は、実は老練な盗賊ロザコフ伯爵夫人で、ハリデー氏の失踪にも責任があるのでございました。あの夫人は、奥様のところに、どの位おりましたか」
「五カ月です。あなたのおっしゃることを伺っておどろきました」
「これは本当のことでございます。で、それらの書類は容易に見付かるところにございましたのでしょうか? それとも内情を知っている者の手引きがあったとお考えでございますか」
「盗賊が、正確なあり場所を知っていたのが不思議に思われました。あなたはイネスだとお思いになりますか」
「はい、盗人たちが彼女の情報によって行動したにちがいないと存じます。それにしても、盗人たちが見付けそこなったと申すその大切なお品は、何でございますか、宝石で?」
オリビエ夫人は、かすかな微笑を浮かべて、首をふった。
「それよりも、もっと貴重なものです」といって、四辺を見廻してから、前へかがんで、声を低めていった。
「ラジウムです」
「ラジウム?」
「そうです、ポワロ様。私はただ今、研究の難点に来ています、私は自分のものとして少量のラジウムを持っておりますが、研究を進行させるために、借りているものもあるのです。少量とは申せ、世界の貯蔵量から見れば大きな額で、百万フランの価値があります」
「で、それはどこにございますか」
「それは、鉛の箱に入っていて、大金庫の中にしまってあります。その金庫はわざと使い古しの旧式な型に見せかけてありますが、実は、金庫製造者の技術の勝利とも申せましょう。たぶん、それが盗賊たちが金庫を開けることができなかった理由でしょう」
「そのラジウムは、どの位の期間、お手許にお置きになるのでございますか」
「あと二日間だけです。それで私の実験は完了いたします」
ポワロの眼が輝いた。
「それで、イネス・ヴェロノオは、その事実に気がついておりますね? そうですか、それなら私どもの友人はまた訪問いたしますでしょう。私のことは誰にも一言もおっしゃらないで下さいまし。しかし、なにとぞご安心ください。私は奥様のラジウムを守ってさしあげます。実験室から庭へ出る戸の鍵をお持ちでいらっしゃいますね」
「はい、ポワロ様、ここに持っております、私は合鍵を別に持っています。それから、これが庭から隣の別荘との間にある路地へ出る庭木戸の鍵です」
「ありがとうございます。今晩は、ふだんのように寝室へお入りになり、何もご心配なく、すべてを私どもにお任せおきください、誰にも、一言もおっしゃってはなりません、二人の助手クロード嬢にもアンリ氏にも。特にあの二人には何もおっしゃらないでくださいまし」
ポワロは満足そうに、両手をこすりながら邸を出た。
「これから何をするんですか」と、私は尋ねた。
「さて、ヘイスティングス君、私どもは巴里を出発します……英国へ向うのです」
「何ですって?」
「私どもは荷造りをして、昼食をしたため、北停車場へ自動車を走らせるのです」
「しかし、ラジウムはどうするんですか」
「私は英国に向かって、巴里を出発すると申しただけです。私は、英国に着くとは申しませんでしたよ、ヘイスティングス君。少し考えたまえ、私どもが監視され、尾行されていることは確実です。私どもの敵に、私どもが英国へ帰っていくところだと信じさせなければなりません。それには、私どもが列車に乗り込んだのを見届けさせなければ、彼らは信じませんからね」
「では僕らは、列車が動き出す間際に、下車してしまうんですか」
「いいえ、ヘイスティングス君。敵は私どもが誠実に列車に乗って巴里を出発するのを見送るまでは満足いたしません」
「しかし、列車は、カレーに到着するまでは、どこにも停車しませんよ」
「お金さえ払えば、停車させることができます」
「とんでもない、ポワロさん。いくら金を出したって、急行列車を停車させるわけにはいきませんよ、そんなことを申し出たって拒絶されてしまいますさ」
「君は非常警報器の小さなハンドルがあるのに気がついたことはないのですか。不正に使うと罰金……たしか百フランでしたね」
「ああ、あれを引くつもりですか、あなたが」
「いや、私の友人のピエル・コムボオ君が、やってくれますでしょう。そして、車掌と押し問答をして、大騒動をもちあげ、列車中の人たちがそっちに気を取られている間に、君と私は静かに姿を消してしまうのです」
ポワロの計画は、順調に運ばれた。ピエル・コムボオとの打ち合せができた。彼は、ポワロの旧友で、この小柄な男の方法をよく理解している男であった。列車がちょうど巴里の郊外へさしかかったとき、報知器のひもが引かれた。コムボオは、フランス人の大好きな騒動を起こした。そしてポワロと私は誰にも気付かれずに、列車から脱出することができた。われわれの第一の仕事は、外見を変えることであった。そのための材料を、ポワロは、小さな鞄に入れて持ってきていた。その結果、汚れた青シャツを着た、二人の浮浪者ができあがった。われわれは、人目につかない宿屋で夕食をとると、巴里へ引き返していった。
われわれが、もう一度オリビエ夫人の邸宅の近くへ行ったのは十一時近くであった。路地へ忍び込む前に、われわれは往来の上下を見廻した。その辺一帯には、全く人影がないように見えた。特に、誰もわれわれを尾行している者が無いということは、確かであった。
「彼らは、まだここへ来ていないと思いますよ、もしかすると、明日の晩まで来ないかも知れません。けれども、彼らは、ラジウムがオリビエ夫人の手許にあるのは、二日間だけだと申すことは、よく知っておりますからね」とポワロは、私の耳にささやいた。
非常な注意を払いながら、庭木戸の鍵を廻した。戸は音もなく開いて、われわれは庭へ入った。
すると、全く思いがけない打撃を受けた。あっという間に、われわれは周囲を取り囲まれ、猿轡《さるぐつわ》をはめられ、手足を縛りあげられてしまった。少なくとも十人の男が、われわれを待ち伏せていたのだった。抵抗などは無駄であった。
まるで無力な二個の荷物のように、われわれはかつぎあげられて、運搬されていった。ひどく驚いたことには、彼らは、われわれを外へ連れ出すのではなく、家の中へ運び込んでいくのであった。
彼らは、鍵を用いて実験室の戸を開けて、われわれを、中へ運び込んだ。男たちの一人が、大金庫の前にかがみ込むと、金庫の戸がさっと開いた。彼らはわれわれを金庫の中へ、縛ったまま投げ込んで、徐々に窒息死させるつもりなのだろうか? 私は、背筋がぞっとするのを感じた。
しかしながら、驚いたことには、金庫の内部に地下室へ通じる階段がついているのであった。われわれは、その狭い通路を運ばれて、大きな地下室へつれていかれた。そこには、黒いビロードの覆面をした、背の高い堂々たる女性が立っていた。その権威ある態度から、彼女が支配者の立ち場にあることは明らかであった。男たちは、われわれを床に転がすと、覆面をした謎の人物と共にそこに残して立ち去ってしまった。私は彼女が誰であるかすぐに解った。これこそ未知のフランス婦人……四巨頭《ザ・ビッグ4》の中の第三号だ。
彼女は、われわれの傍にひざまずいて、猿轡を外したが、手足は縛ったままにしておいて立ち上り、われわれのほうに向いて、素早く覆面を取った。
それはオリビエ夫人であった! 彼女は低い嘲けるような調子でいった。
「ポワロさん、偉大な、素晴らしい、二人とないポワロさん、私は昨日の朝、あなたに警告を送りました。あなたはそれを無視しました。あなたは自分の智力で、このわれわれに対抗できると思っていました。しかしあなたは、今、こういうことになっています」
彼女には、私の骨の髄まで凍らせるような冷たい憎悪が感じられた。それに引きかえ、彼女の眼には火が燃えていた。彼女は気が狂っている、気狂いだ、天才の気狂いだ!
ポワロは何もいわなかった。顎を落して、彼女を見詰めていた。
「さあ、これが終りです、私どもは、私どもの計画に干渉することは許しておけません、何か最後の願いはありませんか」と彼女は、静かにいった。
私は後にも先にも、こんなに死を間近に感じたことはなかった。ポワロは立派であった。彼はたじろぎもしなければ、顔色も変えず、ただ、少しも興味を失わずに、彼女を見守っているばかりであった。
「奥様、あなたの心理が私に非常な興味を持たせます、私はそれを研究する時間が余りに短いのを、残念にぞんじます。はい、私に願いがございます。死刑囚は、最後の喫煙を許されるのが常だと聞いております。私は、煙草入れを持っております、もしお許しいただければ」といって、ポワロは、縛られた手を見おろした。
彼女は笑った。
「ああ、そうですか! 手を自由にしてほしいというのですね。あなたは賢い。ポワロさん、解っています、私はそれをといてあげるわけにはいきませんが、煙草を出してあげます」
彼女はポワロの傍にひざをついて、煙草入れを取り出し、煙草を一本抜いて、彼にくわえさせた。
「それから、マッチですね」
彼女は立ち上りながらいった。
「その必要はございません、奥様」
彼の声には、何か、私をはっとさせるものがあった。彼女もそれに気がついた。
「奥様、どうぞお動きになりませんように。動くと後悔なさいますよ。奥様はクラールの性質についてごぞんじですか? それは南米の原住民が使用する矢毒でございます。それのかすり傷を受けただけでも死を意味いたします。ある種族は、小さな吹き矢を用いますが、私も、見たところ、巻き煙草とそっくりに作ってある、吹き矢を持っております。吹きさえすればよろしいのです。ああ、あなたはぎょっとなさいました。奥様、お動きになってはなりません。この巻き煙草の構造は、大そう巧妙で、一と吹きで、魚の骨に似た、小さな槍が空中を飛んでいって、目的物に命中いたします。奥様は死にたくはございますまい。それならどうぞ私の友人、ヘイスティングス君の束縛を解いてやってくださいまし。私は手を使うことはできませんが、首を廻すことはできますから、奥様は依然として、私の射程内にいらっしゃるわけでございます。どうぞ間違いをなさいませんように、奥様」
彼女の手は震え、顔は怒りと憎悪にけいれんしていたが、ゆっくりと前にかがみ、ポワロの命じた通りにした。
私は自由になった。ポワロの声が、私に指図を下した。
「君の縄をご婦人にかけるのです、ヘイスティングス君。それでよろしい。しっかり縛りましたか? 今度はどうぞ私を解いてください、夫人が手下どもを追い返したのは、もっけの幸いでした。少し運がよければ、私どもは何の妨害もなく出口を見付けることができるでしょう」
次の瞬間、ポワロは私の傍に立った。彼はオリビエ夫人におじぎをした。
「奥様、エルキュール・ポワロは、そうたやすくは殺されません、では、おやすみなさいまし」
猿轡が、彼女の返事をはばんだが、殺人でもしそうな眼の光が恐ろしかった。私はもう二度と彼女の掌中に落ちないようにと、切に望んだ。
三分後には、われわれはその家を出て、急いで庭を横切った。外の道路には人影がなく、われわれは間もなく、その土地から遠ざかってしまった。
そこで、ポワロは、やっと口を開いた。
「あの婦人が私に申したことは、みんな当然なことです。私は低脳でした、哀れな奴です、三十六倍もの大ばかでした。私は、彼らのわなにはかからないと自慢しておりました。しかもそのわなは、私があんな風に落ちこむわなのつもりではなかったのです。彼らは、私がそれをわなと見抜いてしまうことを計算に入れていたのでした。これですべての説明がつきました。ハリデー氏を、あのように雑作なく返してよこした訳も、何もかもがわかりました。オリビエ夫人は支配者で、ロザコフ夫人は単なる副官に過ぎなかったのです。夫人はハリデー氏の考えが必要だったのです。夫人はハリデー氏が途方に暮れていた欠陥を補うに必要なだけの、非凡な才能をもっておりました。ヘイスティングス君、私はもう第三号が誰であるか解りました。それは恐らく世界一の偉大な女流科学者です。東洋の叡智と西洋の科学……その他の人々の正体は私どもにはまだわかっておりません。しかし私どもは見付け出さなければなりません。明日、私どもはロンドンへ帰って、それに着手いたしましょう」
「あなたは、オリビエ夫人を警察に訴えないんですか」
「そんなことをいたしましても、警察では取り合わないでしょう。あの婦人は、フランスの偶像の一つですからね、それに私は、何一つ証拠立てることができません。オリビエ夫人のほうで、私どもを告発しなければ幸いだと思っている位です」
「何ですって?」
「考えてもごらんなさい、私どもは、鍵をもっていて、あの家へ忍び込んだところを捕ったのでございますよ、夫人はきっとその鍵を私どもに貸した覚えはないと誓うでしょう。夫人は、私どもが金庫のそばにいるところを驚かせ、私どもは夫人に猿轡をはめ、縛り上げて逃げ去ったと申すことになります。ヘイスティングス君、感ちがいをしてはいけませんよ、それは全く、お門違いですね……英国流に表現すると、靴をちがった足にはくと申すのでしたっけね」
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敵の家の中で
パッシー荘での冒険の後、われわれは、大急ぎでロンドンへ帰った。数通の手紙が、ポワロを待っていた。ポワロはその中の一通に、妙な笑いを浮かべながら眼を通してしまうと、私に渡した。
「君、読んでみたまえ」
私は、先ず、差出人の名前を見た。エイブ・ライランド……それはポワロの言葉をかりると『世界一の富豪』であった。ライランド氏の手紙は簡潔で辛辣であった。氏は、自分が申し出た南米行きの仕事から、ポワロが最後の瞬間に手を引いてしまったことについても、大いに不満を表していた。
「これには大いに考えさせられますね、そうでしょう?」と、ポワロはいった。
「僕は、彼が少々怒るのも、無理はないと思いますね」
「いやいや、君は理解していませんね、ここへ避難して来て、敵の手にかかって死んだメイアリングの言葉を思い出してごらんなさい。四巨頭《ザ・ビッグ4》の第二号は、Sに棒を二本ひいたドルの印、または二条一星のしるしで表わされている。それ故に、彼は米国人と推定され、彼は金力を代表している。この言葉に、更に加えて、ライランド氏が私を英国外へ追い出すために、莫大な報酬を申し出たことを考え合せてごらんなさい、ヘイスティングス君」
「あなたは、大富豪のライランド氏が、四巨頭《ザ・ビッグ4》の第二号だと疑っているとおっしゃるんですか」
「君の輝やかしい智能がその意味を掴みましたね、ヘイスティングス君。さよう、私はそう思っております。大富豪といった君の調子が、それを雄弁に語っておりました。それにしても、一つだけ、君にしっかり知らしておきたい事実があります。と申すのは、これは一番上に男たちがいて操《あやつ》っていること……それから、ライランド氏は、商取引では決してきれいでないという評判だと申すことです。彼は自分の欲するだけの富を持ち、無限の力を得ようと努めている、手腕ある非良心的な男なのです」
ポワロの見解に対して、疑いもなく、何かいうべきことがあった。私は一体、いつ彼が、その点についてはっきりとした意見を持つようになったのかを尋ねた。
「正にそれです、私はまだ確かだと断定することはできないのです。君、私はそれを知るためなら、何でもだしますよ、限定的に第二号をライランド氏に結び付けることができさえすれば、私どもは決勝点に近づくのです」
「彼はロンドンに着いたばかりですね、これでわかりますよ、あなたは、ライランド氏を訪ねて、自分で陳謝しますか」と私は、手紙をさしていった。
「そういたさねばなりません」
それから二日後に、ポワロは、非常な興奮状態で、われわれの居間へ戻ってきた。彼はいつも衝動にかられたときの癖で、私の両手を握った。
「君、未曾有の、またとない好機がおとずれましたよ。しかし危険……重大な危険がともないます、私は君にそれを試みてくださいとは言いませんよ」
ポワロが私を嚇《おどか》そうとしたのなら、それは間違いであった。私はそういってやった。すると彼はもっと筋道の通った説明をした。
それによると、ライランド氏は、社交的な作法と態度のいい英国人の秘書を一人求めているので、私にその勤め口を志願するようにというのが、ポワロの意見であった。
「私は自分でやりたいのですよ、けれども、君にもお解りでしょうが、私がその条件を満たすのは、ちょっと不可能だと思います。私は英語はよく話せます……興奮した畤をのぞけばね。しかし、他人の耳をごまかせるほど達者とは申せません。それに、たとえこの髭を犠牲にしてしまったと致しましても、まだ、エルキュール・ポワロと見破られてしまうことは受け合いです」
私もそう思った。それで、自分が進んでその役を引き受け、ライランド氏の家庭の中へ突入すると宣言した。
「しかし、九分九厘まで、彼は僕なんか雇わないでしょうね」と、私はいった。
「雇いますとも、私は、彼が舌なめずりをするような推薦状を用意しますよ、国務大臣自らが推薦するでしょうよ」
これは少々いき過ぎだと思ったが、ポワロは、私の抗議を、手を振って払いのけてしまった。
「彼は推薦いたしますとも。私は彼のために重大な醜聞《スキャンダル》になったかも知れない、ちょっとした事件を調査いたしました。すべてを慎重に、敏速に解決しましたので、今では君がよくいうように、彼は手乗り文鳥のごとくに、私の手にとまってパン屑を啄《ついば》んでおります」
われわれが第一にやったことは、メーキャップのうまい芸術家を雇うことであった。彼は小柄で、ポワロとはちがうが、小鳥みたいに首をかしげる癖の男であった。彼は黙って、しばらく私を見守っていたが、やがて仕事に取りかかった。それから半時間後に、鏡の中の自分を見て、私は驚いた。特別製の靴が私の身長を実際よりも約二インチは高くした。私の着たコートは、私をひょろ長い、やせた感じにした。眉も巧妙に変えて、顔に、全く異った表情を与えた。私は含み綿をして頬に丸味をつけ、よく日にやけた顔は過去のものとなってしまった。私の口の隅には金歯が一つのぞいている。
「君の名は、アーサー・ネビルです、神よ、友を守りたまえ! 私はあなたが、危険地帯に入っていくのを心配しているのです」
ライランド氏の指定した時刻に、サボイ・ホテルに出むいていって、この重要な人物に面会を求めたときの私は、胸がどきどきしていた。
一二分待たされた後、私は、二階の彼の部屋へ案内された。
ライランド氏は机に向っていて、その前に一通の手紙がひろげてあった。ちらと横目で見たところでは、国務大臣の筆跡であった。これは米国の億万長者との初対面であった。私はわれにもなく、深い感銘を受けた。彼は背が高く、やせていて、顎が突き出し、少々鉤鼻であった。彼の眼は、ひさしのような眉の下で、灰色に冷たく光っていた。房々とした頭髪は白くなっていた。長い黒い葉巻を口の端に、気取った風にくわえていた。(後で知ったことだったが、彼が葉巻をくわえていないところを見たことがなかった)
「かけたまえ」と彼は、命じるようにいった。
私は腰かけた。彼は前に置いてあった手紙をたたいた。
「この書面によると、君はたしかな代物だ、これ以上、調査の必要はない。で、君は社交界の事情に明るいかね、どうだ?」
私は、貴殿に満足してもらえるようにできると思うと答えた。
「わしのいう意味は、わしが田舎に借りた別荘に沢山の侯爵だの、伯爵だの、子爵だのというような階級の人達を迎えることになるんだが、君はその人たちの階級や社会的地位などに通じ、晩餐の食卓につかせるときの席順などを、誤りなくやれるかと尋ねているんだ」
「ああ、それは至ってやさしいことです」と私は、微笑しながら答えた。
われわれは更に、予備試験的な会話を二三交わすと、もう私は雇われてしまっているのであった。ライランド氏の求めていたのは、英国の社交界に精通している秘書であって、彼には既にアメリカ人の秘書と、速記者があった。
二日後に、私はハットン荘へ行った。それはロームシャー侯爵の田舎の別荘で、それをこの米国の大富豪が六カ月間の契約で借り受けたものであった。
私の役目は、何の面倒もなかった。私はかつて忙しい国会議員の秘書を勤めたことがあった。それ故、私に託された仕事は、私にとって決して不馴れなものではなかった。ライランド氏は、土曜日から日曜日にかけては、大勢の客を饗応するのが常だが、週日は、比較的、閑散であった。
私は、アメリカ人の秘書、アップルビー君には、余り会うことはなかったが、彼は快活で、仕事の上では非常に能率的な、典型的アメリカ青年のようであった。速記者のマーチン嬢は、もっとちょいちょい会うが、二十三か四の美しい娘で、赤褐色の髪と、鳶《とび》色の眼をもっていた。いつも慎しくその眼を伏せているが、時々は、茶目らしい眼付きをすることもある。私は、彼女が雇い主に対して嫌悪と疑惑を抱いているという印象を受けていた。もちろん、彼女は注意深く、そのような様子はおくびにも出さなかったが、私は思いがけなく、彼女からそれを打ち明けられるときが来たのであった。
いうまでもなく、私はひそかに注意深く、家人たちを綿密に観察していた。奉公人のうち一人か二人は、新規に雇い入れられた者で、それは従僕の一人と、女中の一人だと私は思っていた。執事と家政婦と料理頭とは侯爵家の雇い人で、この別荘に居残ることを承諾したのである。私は、女中たちは余り重要でないとして除外した。第二位の従僕ジェームズは、非常に綿密に調べたのだったが、彼は単なる下男であることが明らかであった。彼は確かに、召使頭によって雇い入れられた者であった。私が最も疑わしく思ったのはライランド氏の近侍、デービスである。彼はニューヨークから連れて来られたのであるが、生まれは英国で、非の打ちどころのない態度をしているが、私は彼に対して、漠然とした疑惑を抱いていた。
私は、ハットン荘に来てから三週間になるが、われわれの思惑に合致するような事件は、何一つ起こらなかった。四巨頭《ザ・ビッグ4》の活動した形跡は更になかった。ライランド氏は、圧倒的な力と個性を持った男だが、私は、彼を恐ろしい組織と結びつけようとするポワロの見解は、誤りだと信じ始めた。私はある日の晩餐の席でライランド氏が、ふと、ポワロのことを口にしたのを聞いた。
「皆が素晴らしい小柄な男といっているが、彼は横着者だ。どうしてあの男のことを知っているのかって? わしは彼に仕事を言いつけたんだが、どたん場になって、わしに背負いなげを喰わせた。わしはもう、君たちのエルキュール・ポワロ氏などは信じないよ」
このときぐらい、私は自分の頬のつめものにうんざりしたことはなかった!
それからまた、マーチン嬢は、もっと奇妙な話を聞かしてくれた。ライランド氏はアップルビー君をつれて、朝から一日、ロンドンに出かけていった。それで私とマーチン嬢は、お茶の後で、庭園をぶらぶら歩いていた。私は、その娘が、大変に好きだった。少しも気取らず、実に自然であった。
私は、彼女の心の中に、何かあるなと感じていたが、やがて、彼女はそれを口に出した。
「ネビル少佐、私ね、ここのお仕事をやめてしまおうかと、本気に考えておりますの、ごぞんじ?」
私は少々おどろいた。彼女は急いで言葉を続けた。
「ええ、私だってこの仕事が素晴らしいことは知っておりますわ、誰でもそれを投げ出すのは馬鹿だと考えると思いますわ。でも、ネビルさん、私、侮辱には耐えられません、毒づかれるなんて我慢なりませんの、紳士ならあんなことしませんよ」
「ライランドが、あなたに毒づくんですか」
彼女は、うなずいた。
「もちろんあの方はいつも怒りっぽくて短気ですわ。それは仕方ありませんけれど、昼間の仕事の最中でしたのよ、全く何でもないことに、急に、烈火のごとくに怒り出したんですの。ほんとうに私を殺しかねない剣幕でしたわ、それも全然なんでもないことだったんですのに」
「どんなことか聞かして頂けますか」
「あなたもごぞんじのように、私はライランド氏宛の手紙を開封することになっています。その中のあるものは、アップルビーさんに渡し、その他のは私が処理するのですが、その手紙を前もって仕分けするのは私なんですの。その中で、青い封書で隅に小さな4という印のついた手紙だけは……失礼、何かおっしゃいまして?」
私は思わず、驚きの叫びをあげたのだったが、急いで首をふって、彼女にあとを続けるように頼んだ。
「それで、その手紙だけは、決して開封しないで、直接ライランド氏にお渡しするという厳しい命令が出ていました。私はいつでもそうしているんですけれど、昨日の朝は、特別に郵便物が沢山あったものですから、私は凄い早さで開封していたんです。それで間違えてその手紙を開けてしまったんですが、すぐにそれと気付いて、ライランド氏のところへ直ぐ持っていって、事情を説明したんです。すると全く驚いたことに、あの方はもの凄く怒って猛り立ったんです、私は震えあがってしまいましたわ」
「その手紙には何が書いてありましたか、何でそんなに気狂いみたいになったのか、ふしぎですね」
「ほんとうに、何でもないことなんですの……だから、ふしぎなんです。私は自分の間違いに気がつく前に、読んでしまったんです。短い手紙で、私、今でも一言一言覚えている位ですわ、ほんとうに、そんなに気を転倒させるようなことは、何一つ書いてありませんでしたのよ」
「それを、今繰り返すことがおできになりますか、さあ、どうぞ」と私は、彼女を励ますようにいった。
彼女は、ちょっと間をおいてから、ゆっくりと、繰り返した。私はその言葉を遠慮がちに書きとった。それは次のようなものであった。
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――当該物件を、見ることは、肝要です、石切り場を、含む場合、貴殿側は、手取りを、十七万と、されては、いかがでしょうか、手数料の、十一割は、多過ぎます、この際は、当方より、四割説を、主張いたしたいと思います、
アーサー・レバーシャム
[#ここで字下げ終わり]
マーチン嬢は、話し続けた。
「この人は何か、ライランドさんの所有物を買おうとしているんですわね、でも、こんなつまらないことで、猛り狂う男なんて、危険だと思いますわ。ネビル少佐、私は、どうしたらよろしいとお思いになりまして? あなたは、私よりも世の中の経験を積んでいらっしゃるから」
私は、ライランド氏はきっと、金持の強敵である消化不良に悩まされているのだろうといって、彼女をなだめた。そして最後に、彼女をすっかり満足させて、帰らせた。しかし、私は、自分自身をそうたやすく満足させることはできなかった。娘が立ち去り、私一人になると、手帳を取り出して、さっき走り書きしておいた手紙を、もう一度読み返した。一見して無害な印象を与えるこの文書に、どういう意味があるのだろうか? これはライランド氏が着手している商取引と関係があるもので、その取引が完了するまでは、その詳細が世間に洩れることを、ライランド氏が極度におそれているのであろうか? それはあり得ることだ。しかし、封筒に、小さい4という数字が印してあったことを、私は思い出した。それで私は、捜し求めていた手がかりをついに掴んだことに気がついた。
その晩とその翌日の大部分を費して、私はその手紙の謎を解こうと努めているうちに、突然、その謎が解けたのであった。しかもそれは簡単なものであった。四という数字が鍵であった。その文章を、四句ずつ区切っていくと、全く異った通信が現われてきた。四番目ごとに書かれた言葉は「石切り場」「十七」「十一」「四」である。石切り場は、この屋敷から半マイルほど離れた領地に、現在は使われていない採石場があるから、それをさしているのだ。そこは寂しい場所で、秘密の会合をするにはもって来いであった。十七は十月十七日、つまり明日のこと。十一は時間で、午後十一時を意味し、四は、四巨頭《ザ・ビッグ4》が集合することを意味しているのだ。
一、二分の間、私は、自分で牛耳ってやろうという誘惑を感じていた。一度だけでも、ポワロに報いる喜びを持つことができたら、私にとってどんなに誇りとなるか知れないと思った。
しかし、ついにその試練に打ちかつことができた。これは大きな仕事だ。自分ひとりで扱うのは正しくない、下手をすると成功の機会を逸するかも知れない。われわれは初めて敵を出し抜いたのだ。今度こそうまくやらなければならない。そして、二人の中でポワロのほうが、もっといい頭脳を持っているという事実を、私が認めているふりをしなければならないのだ。
私は、大急ぎでポワロに手紙を書き、事実をあげ、われわれがその会議で、どういう議事が行われるか、立ち聞きすることがどんなに急務であるかを説明した。もし彼がすべてを私に一任してくれれば結構だが、ポワロ自ら出馬するほうが賢明だと考えた場合を考慮して、駅から石切り場への道順を明細に書き送った。
私はその手紙を郵便局まで持っていって、自分で投函した。私はここに滞在中、手紙を自分で投函するということで、ポワロと連絡することができたが、私のところへ来る郵便物は検閲されるといけないから、ポワロのほうからは決して私に手紙をよこさないという協定になっていた。
その翌晩、私は興奮に顔を熱くしていた。泊り客が一人もなかったので、私はライランド氏と共に、書斉で夕方からずっと忙しく仕事をしていた。これでは、駅へポワロを迎えに行くという望みはないと覚悟していたが、十一時前には必ず仕事から解放されることを確信していた。
思った通り、きっちり十時半になると、ライランド氏は時計を見上げて、仕事は終ったといった。私は心得て、用意周到に部屋を出た。私は寝に行くふりをして二階へあがって、白いシャツをかくすために、用心して、黒いオーバーを着ると、裏階段をそっと忍びおりて庭へ滑り出た。
庭のずっと外れまでいったときに、ふと後ろを振り返ると、ちょうど、ライランド氏が、書斎のガラス戸から庭へ出たところであった。彼は約束を守るために出発するのであった。私は先廻りをしようと思って二倍の速度で歩いたので、石切り場へ着いたときには、どうやら息が切れていた。その辺には人影がなかった。それで私は、灌木の密生した中に這い込んで、進展を待っていた。
十分後に、ちょうど十一時を打ち出したとき、ライランド氏が、帽子を目深にかぶり、例の葉巻を口にくわえて、大股にやって来た。彼は素早く四辺《あたり》を見まわしてから、石切り場のすぐ下の凹地へ飛びおりた。やがて低い話し声が私のほうへ聞こえてきた。いうまでもなく、先に集会所へ来ていた男、または、男たちである。私は注意深く、茂みから這い出して、音をたてないように非常な注意をしながら、一インチ、一インチと、嶮しい小道を這うようにしておりていった。今や私と、話をしている人々とを隔てているのは、丸石一つだけであった。暗闇なので安心して、私はその外れから覗き込むと、不気味なピストルの黒い銃口と鼻をつき合せたのであった!
「手を上げろ! わしは待っていたんだぞ!」とライランド氏は、きっぱりといった。
彼は岩かげに腰かけていたので、顔は見えなかったが、その声にひそむ威嚇が、不愉快であった。私は首の後ろに冷い鋼鉄の輪を感じた。するとライランド氏はピストルを下へさげた。
「それでよろしい、ジョージ。その男をこっちへ、引き立てて来い」と、彼は命じた。
心の中で激怒しながらも、私は物陰へ連れ込まれ、見えないジョージ(それは私が疑念を抱いていたデービスではないかと思った)に猿轡をかまされ、手足を縛り上げられた。
ライランド氏は、再び口をきいたが、その調子が、余り冷たく威嚇的なので、彼の声だと思えないほどであった。
「これが、君たち二人の最後だ。君たちは一度ならず四巨頭《ザ・ビッグ4》の邪魔をする。君は地滑りのことを聞いたことがあるか? ここで二年前に地滑りがあったんだ。今晩またそれが起こるところだ。わしはちゃんと手筈を調えておいたぞ、おい、君の友人は、会う約束の時間を正確に守らんな」
恐怖の波が私に襲いかかってきた。ポワロ! もうすぐ彼は落し穴に向かって、まっすぐに歩いてくるであろう。しかも私には、警告する力がない。私は彼がこの件を私に一任することにして、ロンドンに止っていてくれたのであるように祈っていた。実際、もし彼が来るのであったらもうここに来ているはずであった。
一秒経つごとに、私の希望が高まってきた。
突然にその希望は粉砕されてしまった。私は足音を聞いた……用心深い足音……やっぱり足音だ、私は実行力のない苦悩に喘いでいた。足音は小道を下ってきて、止った。それからポワロ自身が現われ、頭を一方に傾けて、物蔭を覗き込んでいた。
私はライランド氏が、満足の唸りと共に、大型拳銃をあげて、叫ぶのを聞いた。
「手をあげろ!」
同時にデービスが、さっとポワロの背後に廻った。待ち伏せは完全であった。
「エルキュール・ポワロ氏、お会いして嬉しいです」と、アメリカ人は冷酷にいった。
ポワロは驚くほど落ちついていた。彼はびくともしなかった。しかし私は、彼の眼が物蔭を捜しているのを見た。
「私の友人は? ここにおりますか?」
「いる、君たち二人とも、落し穴……四巨頭《ザ・ビッグ4》の落し穴にはまったんだ」
彼は笑った。
「落し穴でございますって?」と、ポワロはきき返した。
「おい、まだ気がつかないでいるのか!」
「ここに落し穴があるのは、解っております、確かに。しかしあなた方は思い違いしておいでです。落し穴にかかったのは、あなた方です、私や友人ではございません」と、ポワロは静かにいった。
「何だと?」ライランド氏は拳銃をかまえたが、彼の眼は、ためらっていた。
「もしあなたが、それを発射されれば、二十の眼に、殺人を目撃され、あなたは絞首台行きとなるでしょう、この周囲はもう、警視庁の警官たちに包囲されております。もう諦めですね、ライランドさん」
ポワロが妙な口笛を吹くと、魔法のように、人々がそこへ集まってきた。彼らはライランドを捕え、子分どもの武器を取りあげた。ポワロは、担当警官と、二三、言葉を交わすと、私の腕をとって、その場から連れ去った。
一度、石切り場の外へ出ると、ポワロは私を固く抱きしめた。
「君は生きている、何の怪我もなく、これは素晴らしい。私は何度も、君をライランドのところへやった自分を責めておりました」
「僕は全然大丈夫ですよ、しかし、僕はふしぎでならない、あなたはよく、奴らの企みに気がつきましたね」私は、ポワロの腕を外しながらいった。
「しかし私は、これを待っていたのです! さもなかったら、どうして私があなたを行かせましたでしょう? 君に偽名させたり、変装させたりしたのは、当座だけではなく、彼らを欺くためだったのですからね」
「あなたは、そんなことを話してくれませんでしたね」と私は叫んだ。
「たびたび申しましたように、ヘイスティングス君は、自分さえもだますことのできない、大そう美しい正直な性質でおいでなさる。その君が、他人を欺くなどと申すことは不可能でございますよ、よろしいですか、君は最初から見破られていたのですよ、そして彼らは、私が予測した通りのことをいたしました。これは灰色の脳細胞を正しく使う者なら誰にとっても、数学的に確実なことです。彼らは君を囮《おとり》にしました。彼らは一人の娘を使いました。ときに君、これは心理的に大そう興味ある事実ですが、その娘さんは赤毛ではございませんでしたか」
「マーチン嬢のことをいっていらっしゃるんでしたら、彼女の髪は優美な金褐色を帯びていましたね」と私は、冷やかに答えた。
「あの人たちは、素敵ですね! 彼らは君の心理まで研究しておりましたのですからね。そうですとも、君、マーチン嬢はこの陰謀に一役買っていたのですよ。そうですとも。彼女はライランド氏が激怒したことと共に、手紙のことを話す、君はそれを書き取って、その謎を解こうと頭脳を絞る……暗号は巧妙に組み立ててある……むずかしいが、むずかし過ぎて解けないというほどのものではない……そこで君はそれを解いて、私のところへ招致状をよこしたという訳です。
ところで彼らは、私がまさにこの通りのことが起こるのを待ち構えていたことは、知りませんでした。私は大急ぎでジャップさんのところへ行って、すっかり手配したのです。それで、ご覧の通りの勝利となりました」
私は別に、ポワロと一緒になって喜ぶ気になれなかったので、そういってやった。
われわれは、牛乳運搬列車を利用して、早暁にロンドンへ到着したが、実に不愉快な旅であった。
私が入浴をすませて、楽しい朝食のことを考えていると、居間からジャップ警部の声が聞こえて来たので、化粧着を引っかけて、急いで居間へ入っていった。
「あなたは、今度だけは、とんでもない大発見にわれわれを巻き込んだものですな、ポワロさん。全く気の毒なこってしたよ。ポワロさんでも落馬するとは、初めて知ったですよ」
ポワロの顔は、何か考え込んでいた。ジャップは言葉を続けた。
「われわれは、大本命を本気になって相手にしておったのに、何とそれは一人の下男に過ぎなかった」
「下男?」私は、うめくようにいった。
「そうですよ、ジェームズとか何とかいう下男でさあね、奴は奉公人どもと、賭けをしたんだそうですよ。奴は老主人になりすまして若僧……つまり、ヘイスティングス大尉殿を化かすことができるといってね……そして四巨頭《ザ・ビッグ4》に対するスパイなんていう世迷い言をやめさせようという訳でね」
「そんなことあり得ない!」と、私は叫んだ。
「信じないのかね、私はあの紳士を引き立ててハットン荘へ乗り込んでいって見たら、本物のライランドは、ちゃんと寝床の中で眠っているじゃないか。そして執事に、料理番に、それからまだまだ、沢山の奉公人どもが、その賭をしたと誓う始末、全くばかげた悪ふざけさ……ライランドの従者が相手役をしたんですよ」
「それで、彼は蔭にばかりいたのですね」と、ポワロはつぶやいた。
ジャップ警部が帰ってしまうと二人は顔を見合せた。
しばらくしてから、ポワロがいった。
「ヘイスティングス君、これで四巨頭《ザ・ビッグ4》の第二号が、ライランド氏であることが解りましたね。それから従者の役を演じていたのは、万一の場合の逃げ道を安全にするためだったのです。そして従者は……」
「そうです」私は、ささやいた。
「第四号です」とポワロは、厳かにいった。
[#改ページ]
黄色いジャスミン
情報を得て、敵の心を洞察しているというのは、ポワロにとって結構かも知れないが、私としてはそんなことより、もっと確実な成功が望ましかった。
われわれが四巨頭《ザ・ビッグ4》と交渉を持つようになって以来、彼らは、二つの殺人を犯し、ハリデー氏を誘拐し、ポワロと私を危く殺そうとした。しかも、今までのところ、この勝負で、われわれにはほとんど得点がないのであった。
ポワロは、私の苦情を軽くあしらっていた。
「今までのところ、彼らは笑っております。だが、ヘイスティングス君、英国の諺に、最後に笑う者は、最上の笑いをする……つまり、うかうか他人を笑っていると、自分が大笑いされることになるというのですね。君、最後を見ていてごらんなさい。それから、私どもが相手にしているのは、平凡な犯罪者ではなく、世界で二番目に偉大な頭脳の持ち主だということも覚えていてくださいよ」
私は、はっきりした質問をして、彼の自惚を満足させようと思ったが、さし控えた。私はその答えを知っていた。少なくもポワロが、何と答えるかを知っていたので、質問するかわりに、彼が敵を追跡するために、どんな手段を取っているのか、少しでも情報を探り出そうとしたが、不成功であった。いつものように、彼は自分の行動については、私に何も知らせなかった。しかし私は、彼が印度、中国、ロシアの秘密探偵と緊密な連絡をとっていることと、彼の突発的な自己礼讃から、敵の心を測るという、彼の大好きな遊びを進展させていることだけは推測できた。
彼は自分の仕事はほとんど放棄してしまって、非常に多額の報酬さえも拒絶していた。確かに自分の好奇心をそそるような事件だと、ときには引き受けたが、それが四巨頭《ザ・ビッグ4》の活動と何の関係もないことが判明したとたんに、投げてしまうのが常だった。
彼のこうした態度は、われらの友人ジャップ警部にとって大いに有利であった。確かに彼は、いくつかの問題を解決して大きな栄誉を得たが、その成功は、実は、ポワロから受けた、半ば馬鹿にしていた暗示に負うところが多かった。
ポワロのそうした奉仕への返礼として、ジャップ警部は、この小柄なベルギー人に興味があると思われるような事件があると、その詳細を知らせるのであった。それで新聞が『黄色いジャスミンの謎』と呼んでいた事件が自分に委嘱されると、ポワロに、その事件の調査に加わる気はないかと、電報を打ってよこした。
それはライランド邸で私の冒険があってから一カ月後のことだったが、その電報に答えて、われわれ二人は列車の車室に納まり、霧と煙のロンドンを後にし、事件のあったウースター州マーケット・ハンドフォードの小さな町へ急行したのであった。
ポワロは、座席の隅によりかかっていた。
「で、君のこの事件に対する見解はどうなのですか、ヘイスティングス君」
私は直ぐには、その質問に答えなかった。用心する必要を感じていた。そして注意深くこう答えた。
「大変に複雑なように思われますね」
「そうですか?」ポワロは嬉しそうにいった。
「われわれがこうして大急ぎで出かけていくのは、あなたが、ペインター氏の死を、自殺や事故ではなく、殺されたのだと考えていらっしゃる明らかな証拠だと思うんですがね」
「いや、いや、ヘイスティングス君、それは誤解ですよ。ペインター氏が特に恐ろしい事故によって死んだとしても、なお、説明を要する奇怪な情況が沢山ありますよ」
「僕が非常に複雑だといったのは、そこですよ」
「さあ、本筋の事実を静かに組織的に考えてみましょう。ヘイスティングス君、詳しい事情を順序よく、解り易く話してください」
私はできるだけ解り易く、順序だてるように努めながら、話し始めた。
「先ず、ペインター氏のことから始めましょう。彼は五十五才で、富も教養も豊かで、世界漫遊をする人のようです。この十二年間、あまり英国にいなかったのですが、急に絶え間ない旅行に飽きて、ウースター州マーケット・ハンフォードの近くに小さな家屋敷を買って、そこに落ち付く準備をしていました。彼が最初にしたことは、彼の唯一の身内の者、つまり、弟の息子、ジェラルド・ペインターに手紙を書き、クロフトランド荘(彼は自分の屋敷をそう呼んだ)へ来て、伯父と一緒に暮らすように提案しました。無一文の芸術家のジェラルド・ペインターは、喜んでその取り極めに応じて伯父と暮らすこと七カ月で、今度の悲劇が起こったのです」
「君の話し方は大そう巧いですね、これは我が友ヘイスティングスが語っているというより、本の朗読を聞いているように思いましたよ」と、ポワロがつぶやいた。
私はポワロには注意を払わないで、熱心に話を続けた。
「ペインター氏はクロフトランド荘にかなり沢山の人員を置いていました。……六人の召使のほかに、自分の身のまわりの世話をする阿林《アーリン》という中国人の召使がいました」
「中国人の召使、阿林《アーリン》」と、ポワロはつぶやいた。
「先週の火曜日に、ペインター氏は夕食後、気分が悪いと訴え、召使の一人が、医師を迎えに遣わされました。ペインター氏はベッドに入ることを拒み、医師を書斎に迎えました。二人の間にどんなことがあったか解りませんが、クエンティン医師は、帰る前に、家政婦を呼んでペインター氏は非常に心臓が弱っているので、睡眠剤を注射しておいたから、安静にしておくようにと注意を与え、それから、奉公人たちについて、いつ頃からいるかとか、誰の紹介で来たかというような、奇妙な質問をしたそうです。
家政婦はそれらの質問に対して、できるだけ答えたが、何のためにそんなことを尋ねるのであろうと、不思議に思いました。その翌朝、恐ろしい発見があったのです。女中の一人が階段をおりて来ると、肉の焦げる胸のむかむかするような悪臭に気がついたのです、それが主人の書斎から臭ってくるようだったので、戸を開けようとすると、内側から錠がおりていて開きません、そこでジェラルド・ペインター氏と例の中国人の手で戸を打ち毀《こわ》して見ると、惨憺たる光景でした。ペインター氏が、ガスの焔の中へ倒れ込み、顔も頭も、確認できないまでに、黒焦げになっているのでした。
もちろん、そのときは物凄い事故だというだけで、何の疑問も起こりませんでした。もし誰かが責任を問われるとすれば、注射をした患者を、そんな危険な場所に一人残して置いたクエンティン医師でしょう。それから、ちょっと奇妙な事実が発見されました。
新聞紙が一枚、ペインター氏の膝からすべったままに、床に落ちていました。それをひっくり返すと、そこに、薄いインキで文字がなぐり書きしてあるのが、発見されたのです。ペインター氏の腰かけていた椅子の近くに書卓があって、犠牲者の右手の人さし指が第二関節までインキに染まっていました。ペインター氏はペンを持つ力がないほど弱っていたので、指をインキつぼに突込んで、二つの言葉を自分の持っていた新聞の上にやっと書いたのだということは明白です。その言葉というのが変っていて、ただ、『黄色いジャスミン』と書いてあるだけでした。
クロフトランド荘の生垣には、大量の黄色いジャスミンが植わっています、それで、臨終の伝言はそのことで、気の毒な老人の精神がとりとめなくなっていたことを示していると見なされました。もちろん、事あれかしと待ち構えていた新聞は『黄色いジャスミンの謎』として大きく取りあげました。どんなことをしたって、それらの言葉は完全に何の重要性もないにきまっているにもかかわらず……」
「重要でないんですって? そうでしょうね、君がそういう以上はね」と、ポワロがいった。
私は疑りっぽく彼のほうを見たが、彼の眼には、嘲笑の色は見出せなかった。
「それから、審問の興奮状態」と、私は続けた。
「そこで、君は、舌なめずりをしたいところですね」
「クエンティン医師に対して、相当な反感が証明されました。先ず、彼は正規の侍医ではなく、ボリソオ医師が一カ月の休暇をとっている間の代診に過ぎないこと、次に、彼の不注意がこの事故の直接の原因になったと考えられることなどがあげられました。しかし彼の証言は、人をあっといわせるようなものではありませんでした。ペインター氏は、クロフトランド荘へ来て以来、ずっと健康がすぐれず、ボリソオ医師は度々診察していたが、クエンティン医師は前に一度、初めてこの患者を診察して、幾つかの症状に疑念を抱いたのでした。彼は前夜の夕食後に呼ばれていたのですが、そのとき、二人きりになると、ペインター氏は、驚くべき話をしたのです。先ず、氏は、少しも気分は悪くないのだが、食事のときに食べたカレーの味がおかしかったと説明しました。それで口実を設けて、数分の間、阿林《アーリン》を食堂から立ち去らせておいて、そのカレーを小鉢に移しておいたのを、医師に渡し、実際に何か入っているかどうか調べてもらいたいと頼んだのです。
彼が気分は悪くないといっていたにもかかわらず、医師は彼の疑惑の衝撃が、明らかに心臓に作用しているのに気がつき、睡眠剤ではなく、強心剤を注射したのでした。
これで大体僕の話は全部だと思いますが、事件の要点はまだでしたね、それは故人が取っておいたカレーを分析した結果、その中から、二人の人間を殺すに充分な阿片が発見されたことです」
私は口を閉じた。
「それで、君の結論は?」と、ポワロは静かに尋ねた。
「それはちょっとむずかしいですね、事故のようでもあるし、その夜誰かが、彼を毒殺しようとしたことが、偶然に一致したに過ぎないとも言えますし」
「けれども、君はそう考えないのですね? 君は、それを殺人と信じるほうがいいとおっしゃるのでしょう?」
「あなたは、そう思いませんか?」
「君、私と君とが意見を同じくしなければならない理由はございませんよ。私は二つの相対する解決、つまり、殺人か事故かを決定しようとは思いません。それは、もう一つの問題……黄色いジャスミンの謎を解いたときにはっきりときまることですからね。それはそうと、君はそこで何かをぬかしていますよ」
「あなたのおっしゃるのは直角の二つの線は、相互に、微かながらその言葉を指しているという意味ですか? 僕にはそんなことは重要とは考えられませんね」
「君は、自分の考えることはいつでも、君にとって重要なのですね、ヘイスティングス君、とにかく、私どもは黄色いジャスミンの謎から、カレーの謎へ進むといたしましょう」
「僕もそれについて多くの質問があることは知っていますよ、誰が毒を入れたか? 何故か? カレーを作ったのは、もちろん阿林《アーリン》です、しかし何故、彼は主人を殺したいと思ったのでしょう。彼は中国の秘密結社とか何とかの党員なんでしょうか? よくそんなことが物語りに書いてありますね。『黄色いジャスミン党』なんていうのかも知れません、それから、甥の、ジェラルド・ペインターがいます」
私は、急に言葉を切った。ポワロはうなずいた。
「さよう、君のいう通り、ジェラルド・ペインターがいますね、彼は伯父の遺産相続人で、当夜は外で食事をいたしました」
「彼は、カレーの成分を知っていたかも知れません、それで、自分も一緒にそれを食べないですむように仕組んだかも知れませんね」
私の推理は、ポワロを感心させたらしかった。彼は以前よりも、もっと私に注意を向けた。そこで私は、自分の仮定説を追い続けた。
「彼は遅く帰宅し、伯父の書斎に灯がついているのを見て入っていき、自分の計画が失敗だったのを知って、伯父を火の中へ突き倒したのです」
「ペインター氏はまだ五十五歳で、元気に溢れておりましたから、反抗もしないで焼き殺されるようなことはいたしませんでしたでしょうよ、君、そういうことはあり得ないと思いますね」
「僕は大体こんなところだと思うんですが、ポワロさんは、どう考えていらっしゃるんですか、聞こうじゃありませんか!」と、私は叫んだ。
ポワロは私に微笑を投げ、胸を張って、もったいぶった様子で、語り出した。
「謀殺と仮定いたしますと、直ぐに浮かび上る問いは、何故にそうした特別の手段を選んだかということです、私が考えることのできる唯一の理由は、顔の見分けがつかないほどに焼いてしまって、身元に対する認識を混乱させるため」
「何ですって? では、あなたは……」
「もうちょっと辛抱してくださいよ、ヘイスティングス君、私はその推理を検討してみると申しあげるところだったのです。その死体がペインター氏でないと信ずべき根拠があるでしょうか? それが誰か他の者の死体であり得ることがございましょうか? 私はこの二つの問題を検討した結果、二つとも否定の答えを得ました」
「なあんだ! それで?」私は少し失望した。
ポワロの眼は少し輝きを増した。
「それで私は自分にこう言い聞かせました……何か自分に納得のいかないことがある以上は、そのことを調査したほうがいいであろう。私は自分の全部を四巨頭《ザ・ビッグ4》のことにのみ奪われていてはならない、とね。……ああ! 私どもはもうすぐ到着するところです。私の服のブラッシは、どこへいってしまったのでしょう……ああ、ここにありました。君、お願いですから、ブラッシをかけてください。その後で私が君の服のほこりを払ってあげましょう」
ポワロは、ブラッシをしまってしまうと、考え深い調子でいった。
「そうです、一つの考えにまどわされてはならないのです。私はもう少しでその危険に陥いるところでした。君、考えてごらんなさい、この事件においてさえ、私はその危険を冒すところだったのです。君がさっきいった直角の二つの線、たてに引いた一つとそれに直角に引かれた線とは、ほかならぬ、数字4の始まりとは言えますまいかね?」
「すごいですね、ポワロさん!」と私は笑いながらいった。
「ばかげておりますでしょうが、私にはあらゆるところに、四巨頭《ザ・ビッグ4》の手が見えるのです。全く異った環境に立って理智を働かせるのは良いことでございます。ああ、ジャップさんが迎えに来ておりますよ」
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クロフトランド莊
警視庁のジャップ警部は、プラットホームに待ち構えていて、われわれを温かに迎えた。
「これは、これは、ようこそおいでくだすった、ポワロさん。もっとも、あなたがこの事件の仲間入りさせてもらいたがっていなさるのは解っておるですがね、飛び切り上等の、事件じゃないですか、え?」
私は間違いなく、ジャップ警部が、全く途方に暮れてしまっていて、ポワロから助言を得ようと希望していることを読み取った。
ジャップ警部が自動車を待たせておいたので、われわれはそれに乗ってクロフトランド荘に向った。それは四角な白い飾り気のない建物で、蔦がおい茂り、その間にジャスミンの黄色い星型の花が混じっていた。ジャップ警部はわれわれと同じようにそれを見上げていた。
「あの老人、あんなことを書いて、気がふれていたんだね、きっと、自分が家の外にいる錯覚を起こしたにちがいない」と、彼はいった。
ポワロは、彼にむかって微笑しながら尋ねた。
「ジャップさん、あなたはどちらだとお思いですか、事故ですか? それとも殺人ですか?」
警部は、その質問に少々当惑のていであった。
「そうですな、カレーのことがなかったら、何度考えてみても、事故だと思うですね。生きている人間の頭を火の中に押え付けているなんて、ばかな話でさあね。そんなことをされて、どうして家中に聞こえるような、わめき声を立てなかったかっていうんですよ」
「ああ、私はばかでしたよ! ひどい低能でしたよ! ジャップさん、あなたは、このポワロよりも、賢くておいでなさる」とポワロは、低い声でいった。
いつも、自己礼讃を独占すると見られているポワロのこの讃辞に、ジャップ警部はいささか面喰らっていた。彼は赤くなって、それについては、まだ疑わしい点が多くあるというようなことをつぶやいた。
ジャップ警部は家の中へ入ると、悲劇の起こった部屋……ペインター氏の書斎へ案内した。そこは広いが、天井の低い部屋で、壁に沿ってずらりと書物が並び、大きな革張りの安楽椅子が置いてあった。
ポワロは、部屋へ入ると先ず、砂利を敷きつめたテラスの上になっている窓に眼を向けた。
「あの窓は、掛け金が外してありましたか」と、彼は尋ねた。
「そこが問題ですよ、医師がこの部屋を出るときには、窓の戸は閉めてあるだけだったが、翌日来たときには、その戸に錠がおりているのを発見したというんです。誰が錠をおろしたのだろう? ペインター氏であろうか? 阿林《アーリン》は、窓は閉って鍵がかかっていたと言明したです。一方クエンティン医師は、閉っていただけで鍵はおりていなかったという印象を受けていたんだが、彼は確かにそうだと誓えないでいるです。もし彼が誓うことができさえすれば、大きな違いが生ずるんですがね、もしあの男が殺されたのなら、誰かが、戸口か窓か、どっちからか部屋へ入ったんで、もし戸口から入ったのなら内部の者の仕事だし、窓から入ったのなら、外部の者がやったんだ。家の者たちが、入口の戸を叩き毀して部屋へ入ると、先ず第一に窓を開け放ったんですが、それをやった女中は、窓の戸に掛け金はかかっていなかったと思ったというんですがね、その女は全く当《あて》にならない証人ですよ、何しろ、何を尋ねられても、みんな覚えているっていうんですからね」
「鍵のことはどうなのですか」
「それがまた問題なんだ、鍵は床に飛び散った戸の破片の中にあったんですよ。戸の鍵穴にさしてあったのが落ちたのかも知れない……部屋へ入った人間の一人がそこへ落しておいたのかも知れない……誰か、戸の下の隙間から中へ滑り込ませたのかも知れない」
「事実すべてが『かも知れない』ですね」
「ご名答、ポワロさん、正にその通り」
ポワロは気まずそうに眉をひそめて、周囲を見廻した。
「私は光明を見出せません、たった今、私は光を得たのでしたが、今は以前より更に真暗です、手がかりがありません……動機がわからないので」と、ポワロはつぶやいた。
「ジェラルド・ペインター青年は相当いい動機を持っておるですよ。彼はかなり放埓《ほうらつ》だったこともあるし、金遣いが荒いし、あなただって芸術家なんていうのはどんなものか、知っておられるでしょう、道徳観念皆無ですからな」と、ジャップ警部は、容赦なくいった。
ポワロは、ジャップ警部の芸術家気質に対する大ざっぱな酷評など気にも止めず、心得たように、微笑するだけであった。
「ジャップさん、あなたに私の眼を晦《くら》ませることがおできでしょうか? あなたが中国人を疑っておいでのことはよくわかっておりますよ。だが、あなたは技巧を弄しますね、あなたは私の助力を欲しておいでだのに、知らばっくれていらっしゃる」
ジャップ警部は、声をあげて笑った。
「ポワロさんにすっかり見抜かれてしまったな。その通り、私はあの中国人に賭けてもいいですよ。それは彼がカレーを扱ったことが理由です。で、もし夕方に一度、主人を亡き者にしようと謀ったのなら、彼は二度、それを試みたろうというんですよ」
「私は、彼がやったかどうかを疑いますね」と、ポワロは穏やかにいった。
「しかし動機は、何か異教徒の信仰上の復讐か何かではないかと思うんですがね」
「さあ、どうでしょうね? で、何か盗まれましたか? 何も紛失しておりませんか? 宝石とか、現金とか、書類など?」
「いや、はっきりと盗まれたというもんじゃないですがね」
私は聞き耳を立てた。ポワロもそうであった。
「盗難はなかったという意味ですよ。だが、故人は何かの本を書いておったんです、その事実は、今朝、出版社から原稿について問い合わせの手紙が来たんで知ったんですがね、それはちょうど完成したらしいのです。若いペインターと私とで、あちこち捜したんですが、原稿は影も形もないんです。ペインター氏がどこかへかくしておいたのかも知れんです」
ポワロの眼には、私がよく知っているあの緑色の光がさしていた。
「その本の名は?」と彼は尋ねた。
「中国における秘められたる手……だったと思うです」
「ああ!」
ポワロは、ほとんどあえぐようにいったかと思うと、急いで、
「中国人の阿林《アーリン》に会わせてください!」といった。
中国人を迎えにやると、間もなく、阿林《アーリン》が眼を伏せて、足を引きずり、弁髪《べんぱつ》をぶらぶらさせながら現われた。彼の冷静な顔には、毛筋ほどの感情も浮かんでいなかった。
「阿林《アーリン》、お前はご主人の死を悲しんでいるかね?」と、ポワロがいった。
「とても悲しいね、いいご主人だった」
「誰が殺したか知っているかね?」
「わたくし知らない、知っていればお巡りさんに話すね」
問いと答えが進んでいった。相変らず無表情な顔で、阿林《アーリン》はどんな風にして自分がカレーを作ったかを説明した。料理人は何もしなかった。自分以外の者は誰も手を触れなかったと、彼は断言した。私は彼がそうした証言が自分の立場をどういうことにするか、知っているのだろうか、どうだろうと思っていた。彼はまた、庭に面した窓には、夕方掛け金をかけておいたということを固持していた。そして、もし朝、その窓が開いていたとしたら、主人が開けたのにちがいないといった。ついにポワロは、彼を放免した。
「もうよろしい、阿林《アーリン》」
中国人が戸口までいったとき、ポワロは呼びもどした。
「阿林《アーリン》、お前は黄色いジャスミンのことは、何も知らないというのかね?」
「はい、わたくし、何を知っているだろう?」
「それから、その下に書いてある印《しるし》も知らないかね?」
ポワロは、そう言いながら、前へかがんで、机のほこりの上に指先で、素早く何か書いた。私はそれが拭い去られる前に見ることができるほど近くにいた。正三角の一本の線を長く下へのばし、下の線と交叉させて、大きく4という数字を描いたのであった。中国人に対するその効果は電撃的であった。一瞬、彼の顔は、恐怖の面となった。だが、直ぐまた、いつもの無表情な顔に返った。そして厳かに否認をくり返して、引き退った。
ジャップ警部は、ペインター青年を捜しにいったので、ポワロと私だけになった。
「四巨頭《ザ・ビッグ4》ですよ、ヘイスティングス君、またしても四巨頭《ザ・ビッグ4》ですよ。ペインター氏は非常な旅行家でした。彼の著書の中には、四巨頭《ザ・ビッグ4》の首脳である李張閻《リーチャンエン》、即ち第一号の行動に関する致命的な情報が何か書いてあったにちがいございません」と、ポワロはいった。
「しかし、どうやって……」
「しっ! あの人たちが来ます」
ジェラルド・ペインター氏は、人好きのする、幾分気の弱そうな顔をした青年であった。柔いとび色の顎髯を生やし、奇妙なひらひらしたネクタイをしていた。彼はポワロの質問に、快く答えた。
「僕は、家で近所づきあいをしているウィチャリー家の人たちと夕飯を食べに出かけていたんです。何時に帰宅したか? そう十一時ごろ。僕は合い鍵を持っているんです。奉公人たちは皆もう寝ていたし、自然、伯父も寝たものと思っていました。僕はそのとき、あの足音をたてない中国人の阿林《アーリン》が、廊下の角を素早く曲っていくのを見かけたと思ったんですが、僕の思い違いかも知れません」と、彼は説明した。
「あなたが、最後に伯父上にお会いになったのは、いつ頃でしたか、私の申し上げる意味は、あなたがこちらへおいでになって、伯父上と同居される前のことでございます」
「そうですね、十歳位の子供のころだったでしょう。伯父と僕の父とは、兄弟げんかをして仲たがいしてしまったものですからね」
「それだのに、伯父上は、雑作なくあなたを見付けましたね、ずいぶん長い年月が経っておりましたのに」
「そうです。僕が偶然に、新聞に出ていた顧問弁護士の公告を見たのは幸運だったんですね」
ポワロは、それ以上の質問をしなかった。
われわれの次の行動は、クエンティン医師を訪問することであった。彼の話は、本質的に審問のときと同じものであった。それ以上何も付け加えることはなかった。ちょうど診察を受けに来た患者を済ませてしまったところだったので、われわれは、診察室に通された。彼は頭のよさそうな男であった。しかつめらしい物腰が、鼻眼鏡とよく似合っていた。だが、彼の医者としての方式は、なかなか近代的らしかった。
「あの窓のことをはっきり思い出せるとよろしいのですがね。しかし過去を思い出すのは危険です、とかく決して存在しなかった何かについて、確信を持ちたがるものです。それは心理学の問題でしょうな、ポワロさん。実はね、私はあなたの方式については、全部読んでいるのです、そして私は、非常にあなたを崇拝していることを申し添えておきましょう。いや、あの中国人が、カレーの中に阿片を混入したことは、かなり確実だと思われます、しかし彼は、決してそれを自認しないでしょう、それにわれわれは、決して何故かということを知ることはできんでしょう。それにしても、人間一人を火の中に押しつけて殺すなどということは、どうも中国人の性格にはあわんですな」と、彼は率直に意見を述べた。
私は、マーケット・ハンドフォードの本通りを歩いて帰る途中、ポワロにこの最後の点についていった。
「阿林《アーリン》が共謀者の手びきをしたと思いますか? それはそうと、ジャップ警部は彼を監視させておいてくれるでしょうか?(警部は何か用事があって警察署へ立ち寄ったのであった)四巨頭《ザ・ビッグ4》の間諜はなかなか敏捷ですね」
「ジャップさんはあの二人に眼をつけております。死体が発見されて以来、二人には厳重な尾行がついています」とポワロは、厳しい調子でいった。
「とにかくわれわれは、ジェラルド・ペインターは何の関係もないことを知っている」
「君はいつでも、私よりも余計いろいろなことを知っておいでですね、それには全く参らされてしまいますよ」
「この古狐さん、そんなことがあるもんですか」と、私は笑った。
「正直なところ、ヘイスティングス君、この事件は、黄色いジャスミンという言葉を除けば、私にはすっかりはっきりしました。で、私はこの言葉は犯罪とは何の関係もないという君の意見に傾いてまいりました。こうした種類の場合には、誰が嘘つきかをきっぱりきめなければなりません。私はそれをいたしました、それですのに、まだ……」
ポワロは急に私のそばを離れて、最寄りの書籍店へ飛び込んでいった。数分後に、彼は小さな包みを抱いて出てきた。そこへジャップ警部が戻ったので、一同は宿屋へいって各自に部屋をとった。
私は翌朝、寝坊をした。われわれの居間に借りてあった部屋へおりていくと、ポワロは既に起きていて、顔を苦痛にゆがめて、往ったり来たりしていた。彼はいらいらした様子で手を振って叫んだ。
「話しかけないでください、私がすべてよしと知るまで……つまり逮捕されるまでです。ああ、私の心理が薄弱でした。ヘイスティングス君、もし死んでいく人間が何か書いたといたしましたら、それは書くことが重要だからです。誰でもみんな『黄色いジャスミン?』と申しておりました。家の周囲に黄色いジャスミンが生えております……それは何の意味もなしません。
さて、あの言葉は何を意味しておりますでしょう? 何と書いてあるかをお聞きなさい」
彼は手にしていた小型の本を持ちあげて見せた。
「私はその問題について調べるのはいいことだと気付いたのです、黄色ジャスミンとは厳密にいえば何であるかを、この小さい本が、私に教えてくれました、聞いておいでなさい」
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――ジェルセミニ根=黄色ジャスミン成分、アルカロイド・ジェルセミーネ C22H26N2O3はキニーネ同様に有効な毒として作用する。ジェルセミンC12H14NO2はストリキニーネと同様に作用する。ジェルセミウムは中枢神経系統を強力に抑制する。その作用の最後の段階においてそれは運動神経末梢を麻痺させる。大量使用の際は眩暈《めまい》を起こし筋力を喪失させる。死亡は呼吸中枢の麻痺のためである――
[#ここで字下げ終わり]
「おわかりでしょう、ヘイスティングス君。最初にジャップさんが、生きた人間が、火の中に無理に顔を押しつけられたことについて言われときに、私は真相を感づいたのでした。そのとき私は、焼かれたのは死人だったと気がついたのです」
「でも何故ですか、その要点は何だったんですか?」
「君、もし、死人を射つとか、刺すとか、撲ったとかしても、その傷は死後に加えられたことが判然とわかるでしょう。しかし、死骸の頭が黒焦げになっていれば、誰も漠然とした死因を探索するようなことはいたしませんでしょう。それに、夕食のときに毒殺をまぬかれた男が、すぐその後で毒を盛られるなどということはありそうもないことです。誰が嘘をついているのか? それがいつも出てくる質問です。私は阿林《アーリン》を信じることにきめました」
「何ですって!」私は呆れて叫んだ。
「ヘイスティングス君は驚きましたか? 阿林《アーリン》は四巨頭《ザ・ビッグ4》の存在は知っております、それは明白です。しかしあの瞬間まで、彼らがこの犯罪と関係あることは何も知らなかったことも、はっきりわかっております。もし阿林《アーリン》が犯人でしたら、あの無表情な顔を完全に変えずにいることができたはずです。それで私は、彼が4という印を見て、あのように驚いたときに、彼を信じることにきめ、疑惑をジェラルド・ペインター氏に向けたのでした。第四号は、長い年月行方不明だった甥になりすますのは、大そうやさしいことのように思われました」
「何ですって? 第四号が?」
「いいえ、ヘイスティングス君、第四号ではありません。私は黄色いジャスミンの問題を読んでしまうと直ぐに、真相を知ったのです、本当のことが私の眼に飛びついてきたのです」
「例によって、僕の眼には飛び付いてきませんね」
「それは、君が灰色の脳細胞を働かせないからです。誰がカレーに毒物を混合する機会を持っておりましたか」
「阿林《アーリン》にきまっていますさ。他に誰もありませんもの」
「他に誰もありませんか? 医師はどうですか?」
「それはずっと後のことです」
「もちろん、後刻でした。ペインター氏の食膳に供したカレーには阿片の粉末など混入してなかったのでした。けれども、クエンティン医師に疑惑を抱かされていたペインター氏は、医師の戒告に従って怪しいと思ったカレーを食べずにとっておいたのです。そして計画通りに、呼ばれていった医師は、そのカレーを保管し、ペインター氏に注射をしました。クエンティン医師はストリキニーネだと申しましたが、実際は毒薬の黄色ジャスミンだったのです。薬が効果をあらわしはじめると、彼は窓の掛け金を外して、辞去いたしました。そして夜中に窓から入って原稿を見付け、ペインター氏を火の中へ押し込んだのです。彼は新聞に気がつきませんでした。それは老人の膝からすべり落ちて、からだの下敷きになっていたのです。ペインター氏は、どんな薬を与えられたかを知って、自分を殺した四巨頭《ザ・ビッグ4》を告発しようと一生懸命になったのです。クエンティンにすれば、カレーを分析に出す前に、阿片の粉末を混ぜるくらい何でもないことでした。彼は私どもに、老ペインターとの会話を叙述して聞かせ、ストリキニーネを注射したことを何気なく申しましたね、皮下注射を打った痕跡が気付かれた場合の用心だったのです。カレーの中の毒物は、直ぐに、疑惑を阿林《アーリン》の有罪と、事故死との二つに分けたのでした」
「しかしクエンティン医師が第四号ではあり得ませんね」
「私はあり得ると思います。疑いもなく真実のクエンティン医師がいて、恐らくどこか外国へ行っているのでしょう。第四号は短い期間だけ、彼のふりをしていればよろしかったのです。最初は代診を勤めるはずだった男が、いよいよのときに病気になったので、ボリソオ医師は文通によって彼と打ち合わせをしたのでした」
そのとき、ジャップ警部が、真赤になって飛び込んで来た。
「あの男を捕えましたか?」とポワロは、気遣わしげに叫んだ。
ジャップ警部は息を切らせながら、首をふった。
「ボリソオは今朝、休暇の途中で帰って来たです。電報で呼び戻されたんだが、誰がその電報を打ったか、誰も知っておらん。で、もう一人の男は、昨夜どこかへ行ってしまったです。そのうちにわれわれは奴を捕えますがね」
ポワロは、静かに首をふった。
「そうは思いませんね」といって彼は、無意識に、食卓の上にフォークで大きく4の字を書いた。
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ポワロをめぐる罠
チェスの殺人
ポワロと私は、時々、ソーホー街の小さなレストランで食事をした。ある晩、そのレストランで、近くのテーブルに、友人のジャップ警部が坐っているのを発見した。彼もこちらのテーブルに、空席があったのでやって来て、われわれに合流した。彼に会うのは久し振りのことだった。
「この頃、ちっとも訪ねて来ませんね、黄色いジャスミン事件以来、始めてですよ、もう一カ月にもなりますか」とポワロは、とがめるようにいった。
「ちょっと北部の方へ行ってたんでね、あなたの方はどうです、四巨頭《ザ・ビッグ4》は相変らず壮健ですかね、え?」
「ああ、あなたは私をからかうのですね、四巨頭《ザ・ビッグ4》は健在でございますよ」と、非難するように、ポワロは指をふっていった。
「でも、ポワロさんの言われるように、そいつは世界の焦点ではありませんな」
「その考えは大変な間違いですよ、今日の世界で、悪の強大な力と申せば、この四巨頭《ザ・ビッグ4》です。彼らがどのような最後を遂げるかは誰にも解りませんが、このような犯罪的組織は他にはございません。素晴らしき頭脳の持ち主の中国人、アメリカの大金持、フランスの女流科学者、そして第四号……」
「解っています、解ってますよ。確かに気狂いじみている。あなたは少し熱狂的ですな、何か他の物に転向しませんか、チェスはどうです?」
「はい、致しますよ」
「昨日の奇妙な事件をごぞんじですか? 世界的名声のある二人の間で勝負が行われて、一人がゲームの最中に死亡したということですよ」
「はい、その記事なら見ました。一人はロシアの選手サバロノフ博士で、心臓麻痺で倒れたほうは、アメリカの青年選手ギルモア・ウイルソン」
「その通り。サバロノフは、ルビンスタインを負かし、数年前に世界選手権を獲得したのですがね。ウイルソンは、第二のキャパブランカと言われていましたよ」
「大変奇妙なできごとですね。もし私の間違いでなければ、ジャップさんはこの事件には、特別の関心をお持ちのようですね」
ジャップ警部は、当惑したように笑った。
「うまく当りましたね、私は迷っているんです。ウイルソンは、すこぶる健康で、心臓の病気など全然なかったんですからね、彼の死は全く不可解だ」
「それでは、あなたはサバロノフがウイルソンを殺したのではないかと疑うのですか」と、私は叫んだ。
「その答えは難かしい。ロシア人といえども、チェスに負けないために相手を殺すなどとは、考えられないし……。私が思い合わせたところでは、事はあべこべのようです。医師も疑っています。皆、第二のラスカー事件といっておるです」
ポワロは考え深くうなずいた。
「で、あなたの意見はどうなのです? どうしてウイルソンが毒殺されたのでしょう? もちろん私は、あなたが毒殺を考えておいでだと思いますが?」
「もちろん心臓麻痺は、心臓の鼓動が止まることなのですから、それはその通りでしょうが、それはその場で、医師が公式に言ったことで、個人的には、その死因に満足していないとわれわれに目くばせしたんです」
「検死は、いつ行われますか」
「今夜行われることになっておるです。ウイルソンの死は非常に急でした。全く普段の通りだったのに、ある駒を動かしながら、急に前にのめったかと思うと、死んでしまったのです」
「極く少量の毒薬でもそのような作用を致しますよ」とポワロが、異議を唱えた。
「解剖が明らかにしてくれると思うです。だが何故にウイルソンを殺したかったのかを私は知りたいですな、無害な、少しも出しゃばらない青年で、米国からやって来たばかりで、この世の中に敵など持っていないような男なんだが」
「信じられませんね」と、私はつぶやいた。
「いや、どう致しまして。ジャップさんは、ジャップさんなりの理論をお持ちのようですよ」
「はい、持っておるですよ、ポワロさん。私は毒薬がウイルソンのためではなく、もう一人の人間に対して盛られたと信じますな」
「サバロノフですか」
「しかり、サバロノフは、革命の際に、ボルシェヴィキ党員と、衝突したんです。彼は殺されたと公表されましたが、実は逃がれて二三年間というもの、シベリアの荒野で、信じられないような艱難を耐えしのんでいました。彼が受けた苦しみは人品を変えるほどにきびしく、彼の友人や知人達でさえ、全くサバロノフとは思えないといっている位です。髪は真白になり、その風采はまるでひどい老人のようです。そして彼は、いまや半病人で、時々外へ出るだけで、姪《めい》のソニヤ・ダビロフと下男とで淋しくウェストミンスター付近のアパートに住んでいるんです。彼はまだ、自分が注意人物なのだと考えています。そして今度の試合に出ることもなかなか承知せず、数回も断乎として拒絶したんだが、新聞がこの問題を取り上げ、彼のスポーツマンにふさわしからぬ拒絶について、大騒ぎを始めるに及んで、やっと承知した訳なんですよ。ウイルソンも、米国人独得の執拗さで、サバロノフに挑戦し続けたのです。そこでポワロさんのご意見をお聞きしたいのですが、サバロノフはどうして勝負をしたがらなかったんでしょう? 彼は自分が、世間から注目されたくなかったからで、また、誰か他の人から、自分を追跡されたくなかったんだと思います。それで……ウイルソンが誤って殺されたというのが私の解釈です」
「サバロノフ氏が死ぬことによって恩恵を受ける人はありませんか」
「そうですね、まあ彼の姪でしょうな。彼は最近莫大な財産を得ましたからね。マダム・ゴスポジャから遺されたんですがね。マダムの夫というのが、帝政時代の砂糖成金でマダム・ゴスポジャとサバロノフ氏の間にはかつて情事があったように思われるです。彼女は、サバロノフ氏が死んだという発表を信じることは、断乎として拒否しておったそうです」
「チェスの試合はどこで行われましたか」
「サバロノフの自宅で行われたんです。さっきもいった通り、彼は病身ですからな」
「その勝負の観戦者は大勢おりましたでしょうか」
「少なくも十二人、いやもっとかも知れないです」
ポワロは、意味ありげに顔をしかめた。
「お気の毒様。この仕事は楽ではございませんよ」
「なに、ウイルソンが毒殺されたことが証明されさえすれば、うまく行きますよ」
「あなたがサバロノフ氏こそ真の被害者たるべき人物だと主張している間に、また殺人が行われるようなことは、ありませんでしょうか」
「もちろん、それはあり得ることですな、サバロノフ氏の自宅は二人の私服に見張らせています」
「それは、誰か爆弾を小脇にかかえて訪問して来るような場合には、大そう役に立つでしょうね」とポワロは、無愛想にいった。
「ポワロさん、大分関心を持ち始めなすったようですな。死体置場へ行って、医師が検死する前に、ウイルソンの死体をごらんにならんですか。彼のネクタイ止めが斜めになっていないとも限らんですよ、そして、それが、この事件を解決する重要な糸口となるかも知れませんからな」
ジャップ警部は瞳をおどらせながらいった。
「ジャップさん、私は食事の間中、あなたのそのネクタイピンを、真直ぐにしたくて指がむずむずしておりましたのですよ。よろしゅうございますか、さあ、この方がずっと見た眼にも良いですよ。はい、必ず、死体置場へは参りましょう」
ポワロは、この新しい問題に、すっかり気を取られているようであった。彼が外部の事件にこんなにも関心を示したのは久し振りのことで、私も彼が、以前のように元気になるのを見るのは嬉しかった。
私は、こんな妙な死に方をした不運なアメリカ青年の、動かない身体と、けいれんした顔を見て深い隣みを感じた。ポワロは、その死体を注意深く調査していたが、左手に小さな傷痕があるほか、どこにも異常はなかった。
「医者がいうには、これは火傷の痕で、切り傷ではないとのことであります」と、ジャップ警部が傍から説明した。
ポワロの視線は、警官がわれわれの検査のために拡げてくれた、故人のポケットの内容物に向けられた。ポケットに入っていたものは、そう多くはなかった。即ち、ハンカチが一枚、鍵、いろいろとメモがしてある手帳、それに数通の手紙などが入っていたが、その中のただ一つのものに、ポワロの興味が集中された。
「ああ、チェスの駒!」ポワロは驚きの声を上げた。それは白駒だった。
「これは、ウイルソンのポケットに入っておりましたか」
「いや、手の中に握られていたんです。われわれは、これを指の間からとるのに大変苦労しました。これは、サバロノフ博士に返還せねばなりません。大変美しい象牙を彫刻した駒のセットの一つですからね」
「私がお返してもよろしいでしょうか。これは私が、博士の自宅を訪問する理由になります」
「ああ、それではポワロさんは、この事件にたずさわれるんですな」
「はい、私はそれを認めますよ、あなたは、私の興味を呼び起こすのが大変お上手ですね」
「それは素敵だ。ようやくあなたを瞑想から呼び覚ますことができたですね。ヘイスティングス大尉も、喜んでおられるらしい」
「その通りですよ」と私は、笑いながら答えた。
ポワロは死体の前に引き返した。
「他にこの男について、説明して下さることはございませんか」
「ええ、何もないと思います」
「彼が左利きだということもですか」
「へえ、あなたは全く魔術師だ、ポワロさん。どうして解ったんですか。確かに彼は左利きでしたが、そんなことはこの事件に何の関係もないでしょう」
ポワロは、ジャップ警部が、ちょっと苛立ったのを見て慌てて同意した。
「何の関係もありませんとも、私のちょっとした冗談ですよ。私はあなたにいたずらするのが好きでしてね」
われわれは和解して外へ出た。
翌朝、われわれはウェストミンスター区にあるサバロノフ博士の自宅へ向っていた。
「ソニヤ・ダビロフ。いい名ですね」と私はつぶやいた。
それを聞くと、ポワロは立ち止り、絶望したように私の方を見た。
「君は、いつも、ロマンスを期待している、そのくせはなおし難いですね。もし、ソニヤ・ダビロフが、われわれの友人であり、ベラ・ロザコフ伯爵夫人の敵であると申すようなことになったら、いい気味ですね」
私は、伯爵夫人の名を聞いて顔を曇らせた。
「ポワロさん、あなたはまさか……」
「いやいや、冗談ですよ。四巨頭《ザ・ビッグ4》については、ジャップさんがいった範囲だけのことより私の頭にありませんよ」
博士の家の戸を、木彫の面のような顔付の下男が開けてくれた。その顔は、感情など到底現われようがないほど無表情であった。
ポワロは、ジャップ警部が紹介の言葉を二三書いてくれた名刺を差し出した。やがて二人は、豪華な壁かけや骨董品のおかれた、天井の低い細長い部屋へ通された。壁には聖像が一二かけてあり、床には豪華な、ペルシャ織の敷物が敷いてあり、テーブルの上にサモワールが載っていた。私はかなり高価だと思われる聖像を一つ手にとってよくみた。それから後ろを振り返って見ると、ポワロは床にかがみ込んでいた。たしかに敷物は美しいものだったが、そんなに近くから注意深く検べる必要はないように見えた。
「この敷物は、そんなに大したもんですか」と私は、尋ねてみた。
「えっ? ああ、この敷物でございますか? いいえ、私が注意して見ているのは敷物ではございません。しかし、これは本当に美しい物です。その真中に、気まぐれにも釘一本打ち込めないほど、美しいですね」
私も前にこごんでそれをのぞき込んだ。
「いや、ヘイスティングス君、現在では、釘はありません。でも、釘を打った跡が残っておりますよ」
背後で急に物音がしたので、私はふり返った。ポワロもさっと身を起こした。一人の少女が戸口に立っていた。彼女は不審そうな瞳を向けていた。彼女は中背で美しいが、無愛想な顔付き、濃藍色の眼、真黒い髪の毛は短く切られていた。彼女は豊かな声量で、朗々と話したが、完璧な英語ではなかった。
「伯父はあなた方にお会いできないと思います。伯父はとても具合が悪いのです」
「それは残念でございます。でも、たぶん、お嬢様が代りに、私達をお助け下さいますでしょう、あなたはダビロフ嬢でいらっしゃいますね」
「ええ、私、ソニヤ・ダビロフです、何かおききになりたいのですか」
「私は、一昨日起こりました悲しい事件、ギルモア・ウイルソン氏の死について、少しばかり調べたいのです。このことで何かお話し下さることでもございませんか」
彼女は、眼を大きく開けて叫んだ。
「やっぱり、本当なんだわ、イワンの言ったことが正しかった」
「イワンと申すのは誰です? どうして、イワンが正しいなどとおっしゃったのですか」
「先ほど戸を開けたのがイワンです。彼は私に、ギルモア・ウイルソンは自然死でない、誤って毒殺されたのだって、自分の意見を話してくれたんです」
「誤ってね!」
「ええ、毒薬は私の伯父に仕むけられたんですって」
彼女は、最初の疑念を全く忘れて、熱心に話していた。
「お嬢様、どうしてそうおっしゃるのでございますか? 誰が、サバロノフ博士を、毒殺しようとしたのでございますか」
彼女は首を横にふった。
「存じません、私には全く解らないの。で、伯父も私を信じようとしないんです。無理もありません、伯父は、私が一緒にこのロンドンに住むようになってからも、私を、まだ子供だと思っているんです。でも、彼が何かにおびえているのが、私にはよく解ります。ロシアには、多くの秘密結社があります。そして、ある日私は、伯父が恐れているのはそのような秘密結社の一つだと思うような言葉を小耳にはさんでしまったんです」
彼女はわれわれの傍に近づき、声を落していった。
「あなた方は、四巨頭《ザ・ビッグ4》という名の秘密結社をおききになったことがありまして?」
ポワロは驚いて跳び上った。彼の眼は驚きに、かっと開かれた。
「どうしてお嬢様が……お嬢様は四巨頭《ザ・ビッグ4》の何をごぞんじなのですか」
「それじゃ、やっぱりそんな組織があるんですのね。私は、彼らに関することを耳にはさんだので、後になって、伯父にそのことを聞いたら、伯父は真青になって震え出しました。私が今まで見たこともないほどこわがったわ。伯父は四巨頭《ザ・ビッグ4》を恐れているんです。とっても恐れております。そして、彼らは誤ってアメリカ人を、ウイルソンさんを殺してしまったのです」
「四巨頭《ザ・ビッグ4》! いつも四巨頭《ザ・ビッグ4》だ」ポワロはつぶやいた。
「お嬢様、驚くべき一致でございます。あなたの伯父上は、まだ危険でございます。私はあの方をお救いせねばなりません。どうぞ、事件の起こった晩の模様を正確にお話し下さい。チェス盤《ボード》と机をお見せ下さい。それから、二人がどんな風に席を占めていたかなど、何でも知っていらっしゃることをどうぞ」
彼女は、部屋の片隅から小さな机を持ってきた。
机の表面は美しく、チェス盤《ボード》は銀と黒の角板がはめこまれている。
「これは、こんどの試合に使うようにといって、二三週間前に伯父に贈られたものです。これが部屋の中央に置かれました、こんな風に……」
ポワロは、私にはそんな必要はないのにと思われるくらい丁寧に、そのテーブルを検べていた。その検べ方も、私がしようと思うものと全く違っていた。彼の質問の多くは、私にはちっとも意味がないように思えた。そして、本当に肝心だと思うことは、質問しないようだった。
私は、彼が、思いがけず四巨頭《ザ・ビッグ4》の名をきいたので、気が顛倒《てんとう》してしまったに違いないと考えた。
テーブルの検査が済み、テーブルが所定の位置におかれると、ポワロはチェスの駒を見せてくれるように頼んだ。ソニヤは、箱ごと駒を持ってきた。ポワロは、その中から、形式的に、一つ二つ手にとって検べた。
「素晴らしい駒です」彼は気が抜けたようにつぶやいた。
しかもまだ、何か飲み物が出されなかったかとか、どんな人が現場に立ち合ったかとかという質問はなされなかった。
私は含みのある咳ばらいをしていった。
「ポワロさん、あなたはどうお考えですか、あれを……」
すると彼は、横柄に私の言葉をさえぎった。
「考えるなんておやめなさい、君。一切、私に任せておきなさい。で、お嬢様、伯父上にお目にかかることはできませんでしょうか」
彼女は、かすかな微笑を浮かべて、
「伯父は、お会い致すでしょう、すべての来客と先ず会見するのが、私の役目ですわ。お解りでしょう?」というと、部屋を出て行った。
隣の部屋で何かつぶやく声がきこえていたが、直ぐに彼女が引返して来て、次の間へ入るように合図した。
寝椅子に横たわっているのは、堂々たるからだつきで、背が高いがやせていて、長い濃い眉毛、白い髯、艱難と飢えのためにやつれた顔の、はっきりした個性を持ったサバロノフ博士であった。
私は、彼の頭が人と少し変った形をしているのに気が付いた。それは異常なほど高かった。チェスの偉大なる名人は、また、偉大な頭の持ち主だ。
ポワロは、彼に挨拶した。
「先生、私どもはあなたお一人だけとお話したいのですが」
サバロノフ博士は、姪のほうを向き、
「おさがり、ソニヤ」といった。
彼女は、すぐに部屋から出て行った。
「サバロノフ博士、あなたは最近、莫大な財産をお持ちになったそうですね。もし、もしですね、あなたが急に亡くなられたときには、誰がその財産を相続するのですか」
「わしは、姪のソニヤ・ダビロフに、財産全部を遺すように遺言状を作りましたが、何か……」
「あなたは姪御さんに、子供のとき以来お会いにならなかったとすると、誰か他人が姪御さんになりすますことは簡単なわけですね」
サバロノフ博士は、その言葉を聞いて驚いたようであった。ポワロは、すらすらと先を続けた。
「あり得ることでございます。私は、ただ一言、ご忠告申し上げるだけでございます。さて、私がお願いしたいのは先夜のチェスの指し手のご説明をうかがいたいのでございます」
「どういう意味ですか、それを説明するとは?」
「私は、チェスは致しませんが、この競技には、定跡の指し方がいろいろとございますね、序盤の駒組みとか申すそうですが?」
サバロノフ博士はちょっと微笑んだ。
「ああそうですか、解りました。ウイルソンは、ルイ・ロペスの手で始めました。それは堅実な指し始めの一つで、トーナメントやその他の対局にたびたび用いられる手ですよ」
「あの悲劇が起こるまで、どの位指されたのでございましょうか」
「ウイルソンが、急に前に倒れ、そのまま死んでしまったのは、確か、三度目か四度目の指し手のときだったと思います」
ポワロは、暇《いとま》をつげようと椅子から立ち上った。彼が、最後に発した質問は、全く重要でないものだったが、私にはよく解った。
「で、ウイルソン氏は、何か飲むか食べるか致しませんでしたか」
「ウィスキーソーダを飲んだと思いましたが」
「どうも有難うございました、サバロノフ博士。これ以上博士をおわずらわせしないつもりでございます」
イワンが、玄関でわれわれを見送った。ポワロは、敷居のところで、ぐずぐずしていた。
「この住宅の下には、誰が住んでいるか知っているかね?」
「国会議員のチャールズ・キングウェル卿でございます、旦那様。最近になって家具が備えられたのですが」
「有難う」
われわれは外へ出た。外には冬の日光が輝いていた。
「ポワロさん、今度は、あなたも名声を挙げるわけにはいかないと思いますね、確かにあなたの質問では不十分ですよ」
ポワロは、私のほうを訴えるように見て、
「そうでしょうかね、ヘイスティングス君。はい、私は困惑しておりました。で、君ならどんな質問をしますか」
私は、よく質問を考えて、私の意図を大体ポワロに話した。彼は、だまって、興味深くきいていた。私の話は家のすぐ近くまで続いた。
「素晴らしい、大変綿密ですね。しかし、全く不必要ですよ」
ポワロは、鍵を戸の鍵穴にさし込み、私の先に立って二階へあがっていった。
「必要がないって? しかし、もし、あの人が毒殺されたのだとしたら……」と私は、びっくりして叫んだ。
「ああ!」と、ポワロは叫んで、机の上に載っていた封書に飛び付いた。「ジャップ警部から来たんです、私が思った通りです」
彼はそれを、私に投げてよこした。それはごく簡潔なもので次のようなことが書いてあった……毒殺の形跡は発見せず。また、彼の死因となるようなものは何もなかった……
「お解りですか? われわれの質問は全く不要だったのです」
「あなたは、このことを、前から見抜いていたんですか」
ポワロは、われわれが最近、多くの時間を費やして勝負をしているトランプの例を引用してそれに答えた。
「札を配った結果、相手の持ち札をおよそ予測することですね。もし君が首尾よくそれに成功した場合、君はあてずっぽうとは申しませんね」
「そうやかましく言わないで下さいよ、あなたは見透していたんですか」
「はい、予知しておりました」
「どうしてですか」
ポワロは、ポケットへ手をつっこんで、白いチェスの駒を取り出した。
「ああ、あなたは、その駒をサバロノフ博士に渡すのを忘れていましたね」
「いいえ違います。あの駒は、まだ私の左のポケットに入っておりますよ。これはソニヤ嬢がご親切にも拝見させて下さった駒入れの中から取って来たものでございますよ。一個のビショップの複数は二個のビショップ|ス《ヽ》でございますね」
彼は特に、最後の|ス《ヽ》を大きく歯音で発音した。
私は全く煙にまかれてしまった。
「でも、どうしてその駒を持っていらっしたんです?」
「ああ、これですか? 私は両方が正確に同じかどうか見たかったのです」と言いながらポワロは、二つの駒をテーブルの上に平行に並べた。
「もちろん二つとも同じようですね」と私はいったが、ポワロは首をかしげて、二つを見比べていた。
「同じように見えますね。しかし、よくくらべるまでは、確定的なことは申せません。私の小さな秤《はかり》を持って来て下さいませんか」
ポワロは、丁寧に、二つの駒を計り終えると、勝利に輝く顔を上げた。
「私の考えは正しかった。君、私は正しかったのです。エルキュール・ポワロをだますことは不可能です」というと彼は、電話器にとびつき、相手の出る間も、じれったそうであった。
「ジャップ警部ですか? ああ、ジャップさん、こちらはエルキュール・ポワロ、下男のイワンに注意していて下さい、決して逃さないで下さい。ええ、そうです」
彼は受話器を置くと、私の方へ振り返った。
「君、これが解らないのかなあ! 説明致しましょうか? ウイルソンは毒殺されたのではない、電殺されたのです。この二つの駒の内一つには、真中に細い金属性の避雷針が通っています。テーブルは事前に細工されて、床のある個所に置かれました。この駒が銀の盤の上におかれれば、ウイルソンのからだに電流が通じて、その場で死ぬようになっていたのです。それを証拠立てるただ一つのしるしは、彼の左手にある例の火傷の痕です。というのは、彼は左利きですからね。
特別製のテーブルは、大変巧妙に、ちょっとした仕掛けがしてあったのですが、それは殺人が行われた直後に同じ型に造られた仕掛けのないもう一つのテーブルと置き換えられてしまいました。その仕掛けと申すのは、君も覚えていると思いますが、家具付き貸間になっていた、階下の部屋から操作されたのです。が、サバロノフ博士宅の方にも、共犯者が一人はいるはずです。サバロノフ博士の財産を相続しようとしている姪は、実は四巨頭《ザ・ビッグ4》の手先ですよ」
「それでは、イワンは?」
「私は、イワンが、他ならぬかの有名な第四号ではないかと疑っております」
「え? 何ですって?」
「そうです。あの男は全く不思議な役者でございますよ。彼は、どんな役でも喜んでやりこなす男ですよ」
私は、過ぎ去った数々の出来事を思い起こしてみた。精神病院の看守、肉屋の若僧、温和な医者、これらが皆、同一人物の仕業で、しかも、お互いに、少しも似たところがないとは……
「こりゃおどろきましたね」私はやっと口を開いた。
「ぴったりですね。サバロノフ博士は、この陰謀にうすうす感づいていたんで、試合をあんなに拒んだのですね」と、私はいった。
ポワロは、何も言わずに私を見つめていたかと思うと、突然、向こうをむき、あちこちと歩き廻ったが、急に、
「君、もしかして、チェスの本をお持ちではないでしょうか」
「どこかにあると思います」
捜し出すのに、かなり時間がかかった。やっとその本を見つけてポワロに渡すと、彼は椅子によりかかって、注意深く読みはじめた。
十五分位して電話のベルが鳴ったので、私が出た。それはジャップ警部からであった。イワンが大きな包みを持ってあの家を出て、待たしてあったタクシーに飛び乗って走り去ったので追跡を開始した。彼は追手に気づいたが、ついに、追手をまいてしまったと思ったらしく、ハムステッドの大きな空屋に車を乗りつけた。その家の周りは警官が囲んでいる。
私はジャップ警部の話をすっかりポワロに伝えた。
ポワロは、ただ私の方を見ているだけで、私が何をいっているのか、ほとんど聞いていないようで、チェスの本を持ったままだった。
「君、これをごらんなさい。これがルイ・ロペスの打ち始めの手ですよ。1P‐K4, P‐K4; 2Kt‐KB3, Kt‐QB3; 3B‐Kt5; ……。さて、ここで黒の最良の三番手はどれかという問題が出て来ましたね、彼はここで守勢のため種々な手のどれかを選ばなければなりません。ギルモア・ウイルソンを殺したのは、白の三番手です。即ち、3B‐Kt5の手です。三手きり駒は動いていないのです……何か気が付きませんか」
彼にそう言われても、私には何の考えも浮かばなかったので、解らないと答えた。
「考えて下さいよ、ヘイスティングス君。もし、君が、この椅子に腰掛けている間に、表口の戸が開いて閉ったとしたら、君はどう思いますか」
「僕は、たぶん、誰かが外へ出たと思いますね」
「しかり。でも、物の見方、考え方には、常に二通りございます。誰かが出て行ったのと、誰かが入って来たということは全く違ったことなのです。もし、間違ったほうの解釈をとったとすると、そこに、いくつかの小さな相違が生じて、君は間違った道に踏み込んでしまいますよ」
「一体どういう意味なんですか、ポワロさん?」
ポワロは、急に、はげしい勢いで、椅子から立ち上った。
「ああ、私は恐ろしい低能だったということです。急いで、急いで、ウェストミンスターの家へ行きましょう。まだ間に合うでしょう」
われわれはタクシーを飛ばした。ポワロは、私の興奮した質問には、答えようともしなかった。われわれは、石段をかけ上り、呼鈴を鳴らしたりノックをしたりしたが、何の返事もなかったが、部屋の中からは、気力のないうめき声がはっきりときこえていた。
守衛が合い鍵を持っていることが解り、二言三言いい争った後、彼はそれを使うことに同意した。
ポワロは真直ぐに奥の部屋へとび込んだ。クロロフォルムの匂いが、つんと鼻をついた。床の上に、ソニヤが、猿ぐつわをはめられ、体をしばり上げられ、鼻と口に薬品をたっぷり含ませた綿の大きなかたまりを押しこまれて倒れていた。ポワロはかけより、猿ぐつわやなわをといて、彼女を回復させる策を講じ始めたが、直きに医者が到着したので、彼は、ソニヤを医者の手に委ねて、私のそばへ来た。サバロノフ博士の姿は影も形もなかった。
「一体全体、どういうことなんです?」
私は当惑して尋ねた。
「二つの解釈のうち、私は間違ったほうを選んでしまったのです。私は前に、サバロノフ博士は、自分の姪とはずっと長い間会ったことがなかったのだから、誰かが姪のソニヤになりすますのは簡単だと申しましたね」
「ええ」
「そこで、全く逆のことも、あり得るわけです。誰かが、ソニヤの伯父になりすますことだって、同じように簡単です」
「へえ?」
「サバロノフ博士は、革命が起こったときに、すでに死んだのです。その難から逃れて、ひどい苦労をしてきた人、彼の友人達でさえ彼だと認め得ないほどに変った男、莫大な財産をうまく要求した男こそ……」
「え? 誰なんですか」
「第四号! ソニヤが四巨頭《ザ・ビッグ4》についての伯父の会話を小耳にはさんだことを彼に話したとき、彼が恐怖を示したのは、無理もなかったのです。
またも彼は、私の指の間から滑り落ちてしまいました。私が、結局は、本当のことを嗅ぎつけると思い、正直なイワンを、到底不可能な計画に追い出し、少女には、クロロフォルムを嗅がせ、もう今頃は、マダム・ゴスポジャが遺してくれた証券類を現金に換えて、それを持ってどこかへ逃げているでしょう」
「では、一体誰が、彼を殺そうとしたんですか」
「誰も彼を殺そうとなど致しません。始めから終りまで、ウイルソンが、犠牲者として選ばれていたのでございます」
「どうしてですか」
「君、サバロノフ博士は世界第二のチェスの名人でしたよ、が、おそらく、第四号はそのゲームの朷歩くらいしか、知っていないでしょう。で、彼は、その試合に最後まで堪えていくことはできなかったでしょう。そこで彼は、できるかぎり試合をさけようとしましたが、それに失敗したとき、ウイルソンの運命が確定したのです。彼は、どうあっても、あの偉大なサバロノフ博士が、チェスの差し方も知らないと見破られるようなことは、できません。ウイルソンは、ルイ・ロペスの打ち始めの手を好んで用い、その試合でも果してその手を使いました、第四号は、複雑な守備が始まる前の第三手で、相手が死んでしまうように、手筈を整えたのです」
「しかし、われわれはまるで狂人を相手にしているようではありませんか。あなたの推理はうなずけますし、あなたが正しいと思いますが、自分の役割を演じおおせるために人殺しをするなんて! それに、あんな難かしい方法より、もっと簡単な方法がありそうなもんじゃないですか? 医者が試合に出ることは許さないとでもいって断われたでしょうに!」
ポワロは眉をひそめた。
「それは確かですよ、ヘイスティングス君。他にも方法があったでしょう。しかしそう確実なものではありませんよ。それに、君は人殺しは避けるべきだときめておいでのようですね、ところが第四号の心は、そういう風には動いておりません。私は彼の立場に自分を置いてみました。これはあなたにはできないことですね、私は彼の考えを、心に描いてみました。彼はあの試合では、教授としての役割を楽しんでいました。彼はもちろん、自分の手を習うためにチェスをさす人のところへ行ったでしょう。彼は腰掛けて、顔をしかめて考え込み、素晴らしい手を考えているらしい印象を相手に与えるでしょう。そして、その間じゅう、心の中では笑っていました。彼は、自分が、二つの手より知らないのを承知していました。だが、それだけ知っていれば十分でした。彼は、成り行きを予知し、自分に工合がよいときに、死刑を執行することは彼の気持にぴったりしたでしょう。ああ、そうです。ヘイスティングス君。私は彼と彼の心理を理解し始めましたよ」
私は肩をすくめた。
「あなたのおっしゃるのはごもっともと思いますが、僕は、避ければ避けられるような危険を冒すなんてことは理解できませんね」
「危険ですって? どこに危険がありますか? ジャップ警部は、問題を解決致しましたか? いいえ、第四号は危険を冒すような間違いはちりほども致しませんよ」とポワロは、鼻息を荒くしていった。
「そして、彼の間違いは?」
私はこの答えを感づいてはいたが、聞いて見た。
「君、彼は、エルキュール・ポワロの灰色の脳細胞を見落しておりましたよ」
ポワロは、いろいろと美点を持っているが謙遜がないところがどうも……。
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餌のついた罠
それは一月の中旬、ロンドンは、典型的な英国の冬の日で、湿っぽく汚れっぽかった。ポワロと私は、火のそばに椅子を二つ引き寄せて腰掛けていた。ポワロが、私には察しのつかない、からかうような微笑をたたえて、私の方を見つめているのに気がついた。
「何をぼんやり考えているんですか」と私は、軽く尋ねた。
「私は、君が真夏のころ、ここに到着するやいなや、この国には二カ月ばかり滞在するだけだとおっしゃったことを考えております」
私はちょっと、間が悪くなっていった。
「そんなこと言いましたか? 覚えていませんね」
ポワロの微笑が満面にひろがった。
「おっしゃいましたよ。そのとき以来、君は計画を変えたようですね?」
「え……ええ、確かに」
「どういう理由でですかね」
「ポワロさん、私が四巨頭《ザ・ビッグ4》のような大物に立ち向っているあなたを一人残して行けると思いますか」
ポワロは静かにうなずいた。
「私も、そう思いました。ヘイスティングス君、君は全く頼るに足る友ですよ、君がここに残ってくれたのがほんとうに役立ちましたよ。で、君の奥様、小さなシンデレラさんでしたね、これについて何とおっしゃっていますか」
「僕は、詳しいことは言ってないんですが、彼女は理解してくれています。彼女は、僕が相棒に背を向けるようなことをしないように願っています」
「はい、彼女も、忠実なる友です。しかし、大そう長い仕事になりそうですよ」
私はいささか勇気を失って、うなずいた。
「もう、あれから六カ月になりますが、われわれは一体どこにいますか? ポワロさん、分るでしょう。僕は何かすべきだと考えざるを得ませんよ」
「なかなか精力的ですね、ヘイスティングス君。私に、どうさせようとおっしゃるのですか」
これは、少し難問だが、私は自分の立ち場を退くつもりはなかった。
「僕達は攻勢に出るべきですよ、今まで、一体何をしていましたか」
「君が考える以上ですよ。私どもはとにかく、第二号と第三号の正体をつかみましたし、第四号の方法手段を、いろいろと知ったではございませんか」
私は、少し気が晴れ晴れとした。ポワロに言われて見れば、それほど悲観することもないようだ。
「ああ、ヘイスティングス君、私どもは随分といろいろなことを致しましたよ。私は、ライランド氏や、マダム・オリビエを、告発できる位置にはおりません……誰が私を信じてくれるでしょう。私がかつて、ライランド氏を、首尾よく窮地へ落とし入れたと思ったことを覚えていますか? それにしても私は、自分の疑問に思うことを、ある筋の……身分の高い……オーディントン卿に知らせました。潜水艦の設計図の盗難事件で、私の助力を得た卿は、四巨頭《ザ・ビッグ4》に関する私の情報を全部知っていて、たとえ他の人々が疑ったとしても、卿だけは信じてくれます。ライランド氏とマダム・オリビエ、そして、李張閻《リーチャンエン》自身も、それぞれの道を歩んでおりましょうが、彼らの行動のすべては、探照燈《たんしょうとう》に照らし出されております」
「それでは、第四号は?」と、私は尋ねた。
「いま言いました通り、私どもは、彼の方法を知って、理解し始めました。こんなことを言ったら、君は笑うでしょうが、人間の個性を分析し、与えられた環境で彼がどんなことをするかを正確に掴む、これが成功のはじめでございますよ。それは、私どもと彼との決闘ですよ。彼が、次々と智能をかたむけてくる間は、私は自分のことを彼に知られないように努めましょう。彼は光の中に、私は暗闇の中に、でございますよ。私がおとなしくしているので、一層彼らは、毎日私のことを心配しているのですよ、ヘイスティングス君」
「とにかく彼らは、僕達をほっておいてくれていますよ。奴らは、あなたの生命を狙いもしないし、それから待ち伏せもしていませんね」
私は、所見を述べた。それに対してポワロは、考え深く答えた。
「そうですね、全体として私は、その事実に驚かされております。彼らが、私どもを攻撃するには、私が彼らもきっと思い付いたに違いないと考えている一二の、かなりはっきりした方法がありますのにね」
「何かの爆発装置ですか」
ポワロは、じれったそうに舌をならした。
「いや違います。君の想像に任せますが、君には、炉の中の爆弾しか想像できないでしょうね。さてさて、私はマッチが入用なのです。私は、こんな天気にもかかわらず、散歩に行って参ります。失礼ですが君は、『アルゼンチンの将来』『社会の鏡』『家畜の飼育』『深紅の手がかり』『ロッキーにおけるスポーツ』これだけを一緒に、同時に読むことができますですか」
私は微笑して、今のところ、私の興味を引くようなのは『深紅の手がかり』だけだと答えた。ポワロは、悲しげに首をふっていた。
「ああ、それなら、他の本は本棚へお返しなさい。本を並べる順序とか方法が、君には全く解らないのですね。本棚は一体、何のためにあるのですか」
私は恐れ入って頭を下げた。ポワロはその本を、定められた場所に戻すと、外へ出かけ、私は部屋に残って、自分の選んだ本を誰にも妨げられずに楽しみ続けた。
正直なところ、ピアーソン夫人が部屋の戸を叩いたとき、私は半分眠りかけていた。
「大尉さん、あなたに電報が来ましたよ」
私は大して気にも止めずに、みかん色の封を切った。それは南米の私の牧場の支配人、ブロンセンからの海外電報で、次のように書いてあった。
[#ここから1字下げ]
――ヘイスティングス夫人昨日失踪、自称四巨頭《ザ・ビッグ4》なるギャングに誘拐されし恐れあり、指名手配されたが、今のところ何の手掛りもなし。
ブロンセン
[#ここで字下げ終わり]
私はピアーソン夫人を帰すと、気が遠くなってへなへなと坐り込み、その一言一句を、何度もくり返して読んだ。シンデレラが誘拐された。こともあろうに、悪名高き四巨頭《ザ・ビッグ4》の手に落ちたとは……神様、一体僕はどうしたら良いのだろう?
ポワロ! 私はポワロがどうしても必要だ! 彼だったら、何か助言してくれるだろうに! 彼なら相手を失敗させるだろう。もう数分すれば、彼が戻って来るだろう。私はそれまで、辛抱強く待っていなければならぬ! でも、シンデレラは、四巨頭《ザ・ビッグ4》の手中にあるんだ!
再び戸を叩いて、ピアーソン夫人が、また、頭をつっこんで、
「大尉さん、手紙ですよ。いやらしい中国人が持って来たんですよ、下で待ってます」
私はそれを受け取って読んだ。それは短い手紙で、次のようなものだった。
[#ここから1字下げ]
――もし君が、妻に再びめぐり会いたいと思ったら、この手紙の持参人と共に来られたし。もし、君の友人に伝言一つでも残したら、妻の生命は危いぞ、いいか――
[#ここで字下げ終わり]
そして4と大きく署名してあった。
私は、一体どうするべきか?
私には、考えている暇もない。私に解っていることはただ一つ、シンデレラが、こんな悪魔のような者どもの権力下にあることだ。私はこの命令に従わねばならない。彼女の髪の毛一本でも失わせてはならない。この中国人と一緒に行き、彼の導くままについて行くよりない。これは明らかに罠で、捕虜にされるという危険と死の可能性さえあるが、この世で最愛の人が餌につけられているのではためらってはいられない。一番情けなく思ったのは、ポワロに何の伝言も残す術《すべ》のないことだった。彼に、私のあとをつけさせても巧くゆくかどうか? この危険をあえてするべきか? 私は別に、何らの監視下にもなかったが、一瞬躊躇した。もし中国人が上って来て、私が仲間に何か書き残さないか確かめるのは簡単になし得ることだが、どうして上って来ないのだろう? 彼が、とても控え目なのが私には不思議だった。私は、今までに、何回となく彼らの無限大の力を見て、彼らの大部分が超人的な力を持っていると信じていた。考えて見ると、うすぎたないあの小さな女中だって彼らの一味かも知れないのだった。
いや、危険を冒すのはよそう。が、ただ一つ手段はある。あの電報を残しておけば、彼は、シンデレラが失踪したことを知り、また、誰の仕業か解るだろう。この瞬間に、頭に浮かんだのはこのことだった。それから、帽子をかぶり、案内の待っている階下に降りて行った。
手紙の持参人というのは、背の高い、ぶすっとした中国人で、きちんとはしているが、みすぼらしい服装をしていた。彼は頭を下げると、私に話しかけてきた。彼の英語は完璧で、軽く歌うような調子で話した。
「あなたがヘイスティングス大尉ですか」
「そうだ」
「今の紙片をこちらによこして下さい」
私は、何を要求しているのか解ったので、無言で紙片を渡した。が、それだけではなかった。
「今日、電報を受け取りましたね、持って来ましたか? 南米から来ましたね」
私は、彼らのスパイ組織の優秀さをあらためて認識した。それとも、それは抜け目ない当て推量だったかも知れない。
ブロンセンが、海外電報で連絡してくれた。彼らは、その電報が配達されるのを待って、それを追って来たのだ。
ありありと解るようなことを否定しても良い結果を生じないだろう。
「ああ、電報を受け取りましたよ」
「それあるか、え? すぐに持って来なさい」
私はくやしくて歯ぎしりしたが、どうすることもできなかったので、また、階上へかけ上った。
私は、ピアーソン夫人を信頼することとし、ともかく、シンデレラの失踪したことだけでも知らせておこうと思った。ピアーソン夫人は踊り場にいたのだが、あの小柄な女中が彼女のすぐうしろについていたので、ちょっとためらった。もし、彼女がスパイだったらどうしよう。あの手紙のおどし文句が眼の前にちらついた。シンデレラの生命が危い、私は、何も言葉をかけずに居間へ入った。
電報を手にして部屋を出ようとしたとき、一つの考えが浮かんだ。何か、ポワロに、この重大な意味を知ってもらえるように、我が敵のしるしでも残すことはできないだろうか? 私は急いで、本箱にかけ寄り、本を四冊床に投げ出した。ポワロがこれに眼を止めないはずはない。この四冊の本は、彼の眼を直ちに引きつけて例のおきまりの説教の挙句に、ただならぬことだと気がつくだろう。次に、火の中に、シャベル一杯の石炭を投げ込み、炉の鉄格子に、石炭の塊四個をこぼしておいた。いまやポワロが、この信号を正しく読み取ることを祈るのみだ。
私は、急いで階段をかけ下りた。例の中国人は、電報を受け取って眼を通すと、それをポケットにしまい、あごで、彼について来るように合図をした。
飽き飽きするほど長い行程を、私は彼につれられて行った。あるときはバスに乗り、あるときはかなりの距離を汽車に乗った。が、進路は常に東に向っていた。私が、かつて夢にも見たことのないような見知らぬ町々を通ってある駅に降りたった。私は、中華街の中心に連れ込まれたのを悟った。
われにもなくからだががたがたふるえ出した。案内人は、とぼとぼと歩き続け、路地を曲がり、見すぼらしい通りをくねくねと歩き、やっと一軒の荒れ果てた家の前に止った。彼は戸をこつこつと叩いた。
すぐに、別の中国人が戸をあけて、われわれを中へ通した。私の後ろで閉まる戸の音は、わが最後の望みを消す葬送の鐘のごとくきこえた。今や私は、本当に、敵の掌中にあるのだ。
そこで私は、第二の中国人に手渡された。その中国人は、私をぐらぐらした階段を下りて、地下の一室へ連れて行った。そこには、貨物や樽などが沢山ころがっていて、刺すような、東洋の香料のような匂いが鼻をついた。私は、ひねくれた、ずるがしこい、陰険な東洋の空気に包まれているように感じた。
急に、案内人が、樽を二つ転がしてどけた。私はその壁に、天井の低いトンネルのようなものが開けているのを見た。彼は、先に行けと身振りで示した。
トンネルは相当の長さで、立っては歩けないほど低かった。ついに、やや広い通路となって三分も行くと、われわれはまた別の地下室に立っていた。
中国人が前に出て一方の壁を、四回こつこつと叩いた。その壁全体がぐらぐらとゆらいで、せまい戸口が開いた。私は戸口をはいってみて驚いた。私は、さながらアラビアンナイトの宮殿のようなところに立っているのであった。天井の低い細長い地下室の四方の壁には豪華な東洋の絹が懸けられ、まばゆいばかりに光り輝き、香水や香気に満ちていた。そこには、絹布で覆われた長椅子が五六脚おかれ、中国製の素敵な絨緞が敷きつめてあった。更に部屋の一番奥には、カーテンで仕切られた凹所があり、その奥から声が聞こえて来た。
「大切なお客様をお連れ申したかね」
「閣下、ここにおいででございます」と、私を案内して来た中国人が答えた。
「お客様をこちらにお通し申せ」
その声と同時に、カーテンが自然に左右に開かれ、素晴らしいクッションの置かれた長椅子に坐っている男と、顔が合った。その男は、背の高いやせた男で、素晴らしい刺繍をほどこした中国服を着ていた。手の爪の長さから推して偉い人に違いなかった。
「ヘイスティングス大尉、どうぞおかけ下さい。私の願いを入れて、直ぐにおいで下されましたことを大層嬉しく存じます」と、手をふりながら話しかけて来た。
「君は誰ですか、李張閻《リーチャンエン》ですか」と、私は尋ねた。
「いや、違います。私は主人の手下の内では最も身分の低い者でございますよ。ただ、主人の命令を実行するだけでございます。他の国、たとえば南米に行っております彼の他の召使が致しますと同じように……」
私は数歩前へ歩み寄った。
「彼女はどこにおりますか? あなた方は彼女を連れ出して、どうしようというんです?」
「あの奥様なら安全なところにおられます。たぶん、誰もみつけることはできないでしょう。いまのところはご無事です。今のところと申し上げましたよ、ご注意下さい」
この微笑している悪魔に立ち向って、私は背筋がぞっとした。
「何が欲しいというんですか、金ですか」と、私は叫んだ。
「ヘイスティングス大尉、私どもはあなたの僅かな貯金など問題にしておりません。保証しますとも。失礼ですが、あなたの連想することは余り知的とはいえませんね、あなたのお仲間は、そうはおとりにならないと思います」
「君達は、僕を網の中に捕えようとしているんだ。そうだ。君達はそれに成功した。僕は眼を開いたまま、ここへ来た。何とでも好きなようにするがいい、だから彼女を解放してもらおう。彼女は何も知らないんだから、君達の役にはたたない。僕を捕えるために彼女を使ったんだろう。そしてこの通り僕を捕えたんだからそれで用はたりたじゃないか」
かの東洋人は、笑いながら、すべすべした頬を撫でまわし、私の方を、細い眼で見つめていた。
「そう、早まりなさるな。まだ、完全に用はたりておりませんよ。あなたは、捕えると表現なさいましたが、それはわれわれの真の目的ではないのです。あなたよりも、ご友人のエルキュール・ポワロさんを捕えるのが、希望なのです」
「それはできないだろう」
私はちょっと笑った。
「私があなたに申し出ることはですね」と相手は、私の言葉など無視して続けた。
「あなたはエルキュール・ポワロに手紙を書くのです。彼が急いで君のいるここへやって来るような、おびき出しの手紙をですね」
「僕はそんなことごめんだね」
私は憤慨していった。
「拒絶の結果は不愉快なことになるでしょう」
「そんなこと、問題じゃない」
「取るべき道は、死でしょうな」
私は背筋がぞっとしたが、努めて大胆に相手をみるようにした。
「僕をおどかしたり、暴力をふるったって無駄だぞ。君のそのおどしは、臆病な中国人達のためにとっておくがいい」
「どう致しまして。冗談じゃない、本気ですぞ。ヘイスティングス大尉、もう一度伺いますがね、あなたは手紙を書きますか? どうですか」
「僕は書かない。それに君たちは、僕を殺すわけにいくまい。直ぐ警察に追跡されるだろうからな」
相手はせわしげに手を叩いた。すると、中国人の下僕が二人現われて、私の両腕をつかまえた。主人が中国語で口早やに何か命令すると、彼らは私を、その大きな部屋の隅にひきずって行き、急に立ち止った。もう一人の男が抑えてくれなかったら、私は、すんでのことで、足の下にぽっかり開いた裂け目に落ちるところだった。その中は真暗で、激流の音が聞こえていた。
長椅子の上から、私の訊問者が声をかけた。
「河だ。よく考えなさい。もし、これでも拒絶する気なら、真逆さまにその河の中に落ち、暗い水の中で死にめぐり合い、永遠の国につれられて行くだろうよ。これが最後の機会ですぜ、大尉さん。手紙を書きますかね」
私もやはりごく普通の人間だ。私は正直に白状するが、全くおびえきってしまい、激しい恐怖に襲われた。
この中国の悪魔め! どうでも思いを遂げようとしているんだな。これで、よきこの世ともおさらばだ。彼の質問に答える声が少し震えているのが自分にも解った。
「最後まで、否《ノー》だ。貴様の手紙なんか、地獄へ行けだ」
そして思わず眼を閉じて短い祈りをつぶやいた。
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鼠、罠にかかる
人間が、この世とあの世との境に立つということは、そうめったにあるものではないが、私が、ロンドンの、イーストエンドの地下室で、あの言葉を言いきったときは、全くこれがこの世で話す最後の言葉だと思った。あの黒い急な水の流れを見て、それに落ちる一歩手前の恐ろしさを経験したショックで緊張してしまった。が、驚いたことに低い笑い声が聞こえた。
眼を開けると、長椅子に腰かけている中国人の指図で、我が牢番どもは、私を彼の面前へつれ戻った。
「大尉さん、あなたは勇敢でいらっしゃる。われわれ東洋人は、勇気ということを尊重します。私は、あなたが、今やった通りに行動することを予期しておりました。それで、われわれのちょっとした劇の第二幕として用意しておいたことに移ることになります。あなたは、既に直面した死に、もう一度直面するつもりですか?」
「一体、それはどういう意味だ」
恐怖にぞっとして、私はしゃがれ声で尋ねた。
「あなたは、われわれの掌中にある婦人が、誰であるかということをお忘れではありますまいね、美しきばら……」
私は言い知れぬ苦悩のうちに彼を睨みつけた。
「さあ、ヘイスティングス大尉、手紙を書くのです。私はここから打つ海外電報用紙を持っております。ここに書く電文は、あなたの出方次第で、奥様の生死をきめることになります」
私の額に汗が流れてきた。相手は静かに微笑しながら、泰然《たいぜん》として話し続けた。
「さあ、ペンもお手許にあります。あなたは、ただ、書きさえすればよろしいのです。もし書かないとおっしゃるなら……」
「もし書かなければ?」
私は反問した。
「そのときには、あなたの愛しておられるご婦人は殺されるでしょう、じわじわとね。われわれの首領《かしら》、李張閻《リーチャンエン》は、暇さえあれば、拷問の新しい、巧妙な方法を工夫して、面白がっております」
「ああ、貴様はなんという悪魔だ!」
「彼の、工夫の一端をお話し致しましょうか」
彼は、私の抗議の叫びなど気にも止めず、落ち着いた単調な声で、私が恐怖の叫びと共に両手で耳をおおうまで語り続けた。
「これで十分でしょう。さあ、ペンを取ってお書きなさい」
「いやだ」
「何といっても無益です。お解りのはずです。さあお書きなさい」
「もし、この手紙を書いたら、どうなるんだ?」
「あなたの奥様は自由の身になられます。この電報が至急送られます」
「君が約束を守ると誰が保証するんだ」
「それは、わが先祖の神聖なる墓にかけても誓います。それによく判断なさい、私がなんであの婦人が危害を受けることを望みましょう。彼女の拘禁の目的が達せられさえすればよろしいのですからね」
「それでポワロは?」
「ポワロ氏は、われわれの活動が完了するまで安全に監禁しておいて、その上で釈放いたしますよ」
「それも、その先祖の墓とかにかけて、誓うのか」
「私はすでに誓約をしました。それで十分でしょう」
私は気落ちがした。私は、友を裏切ろうとしている。何のために? 一瞬たじろいだが、やがて、恐ろしい光景が、悪夢のように眼の前に浮かびあがってきた。ああ、シンデレラ。あの悪魔のような中国人どものところにいるシンデレラが、拷問で、じわじわと殺されていく……。
思わず私はうめき声をもらした。そして、ペンを掴んだ。たぶん、注意深く言葉を使えば、警告を伝えることができるだろうし、ポワロが、この罠を避ける機会を与えられるだろう。これがただ一つの望みであった。
しかし、この希望も消え失せた。かの中国人は、温和に、いんぎんに、言い放った。
「どうぞ、お書き取り下さい」というと、彼はそばにあった書付に一通り眼を通すと、次のような口述を始めた。
[#ここから1字下げ]
――ポワロさん、私は第四号を追跡していると思います。今日の午後、中国人がやって来て、贋の手紙で、ここへおびき寄せようとしました。幸い私は、彼のけちな計画を直ちに見抜いたので、彼をまいてしまい、形勢を逆転させて、自分でちょっとした尾行をやりました。とても、手際が良かったと喜んでおります。私はこの手紙を、少年に持たしてやろうと考えつきました。その少年に二十五シリング銀貨をやって下さい。もしこの手紙を無事にとどけたら、やると約束したんです。私はこの家の方を見張っているので、離れられません。私は六時まで待って、もし、あなたがいらっしゃらなかったら、自分だけで家の中へ入るよう努力します。またとない機会です。もちろん、少年は、直接あなたに会わないと思いますが、もし見付けたら、ここへ来る道を聞いて下さい。それから、誰かが、家の中から見張っていて、あなたを見付けるような場合があるといけないから、あなたの大事な口髭は、何かで覆い隠すこと、取り急ぎ失礼。
A・ヘイスティングス
[#ここで字下げ終わり]
一言一句書くにつれて、私は次第に深い絶望に落ち込んでいった。これは全く、悪魔のごとき賢こさであった。彼らが、われわれの生活の細目にわたって、いかに細密に知っているかを悟らざるを得なかった。できあがった手紙は、全く私自身で書いた書簡のようだった。有難いことに、その日の午後訪れた中国人は、私をおびきよせには来たが、私が四冊の本を信号として残すということを、全く勘定に入れていなかったことだ。それは落し穴であった。私は、それによって、ポワロが何を考えるかが解った。その時間もまた、うまく計られていた。即ち、それはちょうど、ポワロが、この手紙を受け取り、罪もない道案内と共にかけつけて来るだけの時間であった。私は、彼がかけつけて来るに違いないと思った。彼が来なければ、私自身で家の中に突入するという決心は、彼をして、大いに急がせる結果となろう、ポワロは、いつも私の能力に対しては、おかしいほど信用を置いていなかったから。彼は、私が、自分の立ち場もわきまえずに、危険の中に飛び込み、向うみずに、その場の指揮をとるにちがいないと考えるだろう。
しかし、何もなすことはなかった。私はいわれる通りに書いた。中国人は、その手紙を私の手から取って、読み返し、満足そうにうなずいて、それを、従者の一人に手渡すと、従者は、無言のまま、絹の帳《とばり》をかけた壁の蔭の戸口から消えて行った。
私と向い合わせになっている男は、笑いながら、電報用紙を取りあげて私に渡してよこした。それには「白い鳥を、敏速に、放免せよ」と書いてあった。私は安堵の吐息をついた。
「それをすぐ打つんでしょうね」と、私はせきたてた。
彼は首を横にふった。
「エルキュール・ポワロ氏が、私の手に入ったら直ちにこの電報が送られるでしょうが、それまではお預けです」
「でも君は約束したでは……」
「もし、この策略に失敗したら、私はまた、この白い鳥が必要になるかも知れません。あなたがもっと努力するように説きふせるためにね」
私は怒りで顔が真青になった。
「畜生! もしお前が……」
彼は、ひょろ長い、黄色い手を振って私の言葉を制した。
「ご安心なさい、失敗などしませんよ。ポワロ氏がわれわれの掌中に入り次第、私の誓いを果たします」
「もし、僕を裏切ったら」
「私は、われらの祖先の名誉にかけて誓ったじゃありませんか。恐れずに、ここでしばらくお休み下さい。私がいない間でも、召使があなたの御用をつとめましょう」
かくして私は、妙な地下の豪華な隠れ家に、一人ぽつりと残されたのである。第二の支那人の下僕が、食物や飲物をもって来て勧めてくれたが、手を振って断った。私は全く絶望した。
やがて、突如として、かの主人が現われた。彼は絹の上衣を着て背が高く、堂々たる体格をしていた。私は彼の指図で、せきたてられて、その部屋を後にした。トンネルを通り、先ほど最初に入った空屋へ出た。そして、一階の部屋の一つに連れこまれた。窓は閉っていたが、その中の一つは、割れ目から通りが見えるようになっていた。年とった屑屋《くずや》が一人、道の向う側を歩いていたが、私が見つけると、彼はこちらに向って合図したので、彼も見張りをしている一味の一人だと気がついた。
「よしよし、エルキュール・ポワロは罠にかかりつつある。彼はこちらに近づきつつありますよ、道案内の少年とただ二人で。さあ、ヘイスティングス大尉、もうひと役演じて頂く場面がありますぞ。あなたの姿を見なけりゃ、ポワロ氏は、家の中に入って来ないでしょう。彼が道の向う側に来たら、玄関の石段の上へ出ていって、彼に家へ入るように合図するのです」
「ええ、なんだって?」
私は、反抗するように叫んだ。
「あなたは、その役を一人でやるのだ。失敗したときの犠牲を忘れないように。もし、ポワロ氏が、何か感づけば、まずいことになりますぞ。彼は家の中へは入って来ないでしょう、そして、あなたの奥さんは、拷問にかけられて殺される……ああ、やって来ました」
私は胸が、どきどきして、ひどく胸がむかつくようだった。鎧戸の裂け目からそっと覗くと道の向う側を歩いている人の姿が眼に映った。直ぐに、それが、わが親友であることが解った。外套のえりを立て、大きな黄色のマフラーで顔の下部を覆ってはいたが、その歩きつきといい、卵型の頭といい、間違いようがなかった。
ああ、ポワロは、私の手紙を全く信用して、何も疑わずにやって来たのだ。彼の横を、顔がよごれ、ぼろをまとった、典型的なロンドンっ子が小走りに歩いていた。
ポワロは立ち止まり、その少年が指さしながら話すのを聞きながら、家を見廻していた。今や、私の役を演ずるときが来た。中国人の合図で、下僕の一人が戸の掛け金をはずした。
「失敗したときに払わされる犠牲を覚えておれよ」
敵は、低い声で、脅迫するようにいった。私は段の上に出て、ポワロを手招きした。彼は大急ぎで、道を横切って来た。
「ああ、巧くやりましたね、君、心配していたところですよ。中へ入ってみましたか? で、これは空屋ですか」
「ええ、この家は、どこかに通じる秘密の抜け道があるに違いありません」
私は、ごく自然に話すように努めた。
「入って探してみましょう」
私は階段を上って、家の敷居をまたいだ。ポワロは無邪気に、私の後に続こうとした。
私の頭の中に、何かがひらめいた。自分の演じている役割を、はっきりと悟ったのだ……裏切者ユダの役を!
「ポワロさん、戻って! 生命が危い! 戻って! これは落し穴だ! 僕なんか構わず直ぐに逃げて! 早く!」と私は叫んだ。
私が話すというよりも警告を叫んでいる間に、万力のような手が私を掴んだ。中国人の下僕の一人が、私を突きのけて、ポワロをつかまえようと飛び出した。と、ポワロがひと足後ろにとびのき手を上げたかと思うと、急に濃い煙が立ちのぼり、私の鼻をつまらせ、私を殺し始めた。
私は窒息して倒れるのを感じた……これが死だ……
私はだんだんと意識を回復したが、なおも息苦しく、全感覚がにぶってしまっているようだった。先ず、ポワロの顔が見えた。彼は、向う側に座って、心配そうにこちらを見守っていたが、私が意識を取り戻したと知ると、喜びの声を上げた。
「ああ、ヘイスティングス君が蘇《よみがえ》った。気がついた。これで万事よしですよ。君には気の毒だったが」
「一体ここはどこです?」私は苦しい息の下で尋ねた。
「どこって、もちろん私どもの家ですよ」
私は廻りを見まわした。確かに、私の周囲は、見馴れたものばかりだった。炉の火床には、注意ぶかくこぼしておいた石炭が四個、そのままになっていた。ポワロは、私の視線を追って、
「確かに、あれはすばらしい思いつきでしたよ、石炭と本はね。もし誰かが、あなたの友人、ヘイスティングス大尉は、大した頭脳の持ち主ではないですねと申しましたら、私は、こう答えますよ。あなたは間違っていらっしゃいますとね、あんな場合に、全く、素晴らしい美事な考えが浮かんだものですね」
「それではあなたに、あの意味が解ったのですね」
「私がそんなに低能でしょうか? もちろん解りました。あれは、ちょうど、私に必要な警告を与えました。そして、私の計画が熟したことを告げました。
四巨頭《ザ・ビッグ4》は、どうにかこうにか君を誘い出しました。何がために? 君のうるわしき婦人のためでなく、君を恐れたのでもない。また、君を殺すためでもなかった。彼らの目的は簡単明瞭です。君は、かの偉大なるエルキュール・ポワロを彼らの掌中におとすためのおとりに使われたのです。私は、こんなときのために、長い間準備していたのです。ちょうど私が、ちょっとした準備を完成したところへ、あの無邪気な少年が使いにやって来ました。私は、すべてをのみこんで、一緒にかけつけたのです。君が外の石段に出ることを許されたのは、幸運でした。私は君が監禁されている場所へ辿り着く前に、彼らを処分しなければなりませんし、その後で、空しく君を捜すようなことになるのではないかと心配していたのでした」
「彼らを処分するっておっしゃいましたね、独力で」と、私は弱々しくいった。
「別に大したことではありません。前もって準備怠りなければ至って簡単です。ボーイ・スカウトの標語にもありましたね。それは全くいいことです。私も、準備しておりました。少し前に、私は大そう有名な化学者に力を貸したことがあります。彼は、大戦中に、毒ガスに関する多くの研究をした人で、私に小さな爆弾を工夫してくれました。操作が簡単で持ち運びも楽、ただ、それを投げるだけで発煙して、相手を気絶させ得る物だったのです。そして直ぐに、小さな笛を吹きならして、前からずっとあの家を見張っていたり、私が、ライムハウスの彼らの巣に行く途中も、ずっと護衛していたジャップさんの、すばしこい部下を呼び集めればよろしいのでございました」
「でも、どうしてあなただけは気絶しなかったんでしょうね」
「ほんの幸運ですよ。われらが友なる第四号(彼こそは、あの器用な手紙を作製したその人ですがね)が、私のこの髭を、ちょっとからかってくれましたので、私は、あの黄色いマフラーの下に、防毒マスクを、いとも簡単につけることができたのです」
「ええ、覚えてます」と私は叫んだ。が、その覚えているという言葉から、不気味な恐怖に襲われたのだった。というのは、一時忘れかけていたことがよみがえって来たのだ。ああ、シンデレラ! 私は呻き声を上げて、その場に倒れてしまった。
一二分、意識を失っていたようだが、ふと、ポワロが、私の口にブランデーをつぎこもうとしているのに気が付いた。
「何ですか、一体どうしたというのです? お話し下さい」
私は、その一言一言、想い出しただけでもぞっとしながら、自分の経験したことを物語った。
話を聞き終ると、ポワロは、
「君、君はどんなに苦しんだことでしょうね。この私はそうとは知らなかった! だが、そのことならご安心下さい、万事よしですよ」
「彼女を救い出したとおっしゃるんですか? でも、シンデレラは、南米にいるんです。そして、あなたの計画が成功してから、大分経っています。彼女は、殺されてしまいます。どのように、どんなに恐ろしい殺され方をされるかは、神様のみが知っていらっしゃる……」
「いやいや、君は知らないのですよ、ヘイスティングス君。シンデレラ姫には異常はありません。すこぶる無事でお元気ですよ。彼女は、一瞬だって、彼らの手になど、かかったことはありません」
「でも、僕は、ブロンセンからの電報を受け取ったんですよ」
「いいえ、ちがいます。君は、ブロンセンの名のしるされた電報を南米から受け取りましたが、あれは全くの偽物でございますよ。四巨頭《ザ・ビッグ4》の網が全世界にはりめぐらされている組織の下に、君が非常に愛しておられるシンデレラをだしにして、われわれを攻撃するぐらいのことは、全く簡単だと考えつきませんでしたかね」
「いいえ全然」と、私は答えた。
「そうですか、私には考えられますね。私は不必要に、君の心を乱したくなかったので、何も話しませんでしたが、自分だけで、ちゃんと手段を構じておきましたよ。君の奥様の手紙は、南米のあなたの牧場から書き送られたと思っていられるでしょうが、実は、彼女は、二三カ月前に、ある安全な場所へお移ししてありますよ」
私は驚いて、しばらくは、だまって彼の顔を見つめていた。
「本当ですか」
「本当ですとも! 私には彼らが、嘘をついて君をかどわかすのが、目に見えていたのです」
私は、顔をそむけた。ポワロは、私の肩に手をおき、今まで聞いたことのないような調子でしんみりと話しかけた。
「君は、私に抱きしめられたり、感情をあらわに示されるのが嫌いですね。よく解っておりますよ。私は、まったく英国人っぽくなりましょう。私は、何も申しません。が、ただ一言、いわせて下さい。この度の私どもの冒険は、すべて君の手柄です。こんな素晴らしい友人を持つ私は、何と幸福な男でございましょう!」
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色あせた金髪娘
私は、中国町の廃屋で、ポワロが投げた爆弾の結果には全く失望した。先ず第一に、あの一味の親玉が逃げてしまったことだ。
ジャップ警部の部下が、ポワロの、呼子の笛を聞きつけてかけ込んできたときには、玄関のホールで気絶している四人の中国人を発見したに過ぎなかった。私を殺すと脅迫したあの男は、その四人の中にはいなかった。後で思えば、私が無理矢理に玄関の石段に突き出されて、ポワロをおびき寄せているときに、彼はもうずっと後方にいたので、毒ガス弾の危険範囲外にいて、われわれが後になって発見した多くの戸口のどれからか、うまうまと逃げたにちがいなかった。
われわれに残された四人の中国人からは、何ものも得るところがなかった。警官の調査の結果では、四巨頭《ザ・ビッグ4》との関係は何も明らかにすることはできなかった。彼らは、この地域の下層階級の平凡な住人で、李張閻《リーチャンエン》という名は、全く知らないといい張った。一人の中国の紳士が、河岸の家で働かせるために、彼らを雇ったが、彼らはその紳士の私事は、何も知らなかったというのである。
翌日になると、私は、もう軽い頭痛がする位で、ポワロの毒ガス弾による障害からは、完全に回復していた。ポワロと私は、一緒に中華街へ出掛けて、私が救出された、あのぼろ家を探した。その家は、今にも倒れそうな二つの建物から成っていて、その間は、地下道でつながれていた。一階と二階には、家具は何も置かれず、ただ、荒れるにまかせ、破れ窓は、朽ちた鎧戸で覆われていた。ジャップ警部は、すでに、地下室の様子を探り、私が不愉快な半時をすごした隠れ家への、秘密の入口も発見していた。詳しく調べた結果、前夜、私が受けた印象を、更に一層強くした。壁や凹所に懸けられた絹織物と、床に敷かれた絨毯は全く素晴らしい芸術品で、中国芸術にうとい私でも、部屋中のものが、全く素晴らしい物だということが感じられた。
ジャップ警部と数人の警官との助けを得て、われわれは、建物の隅から隅まで、徹底的に調査した。私は、何か重要書類を発見するという、大なる希望を抱いていた。たとえば、四巨頭《ザ・ビッグ4》の主だった手先の名前の載っているリストとか、彼らの計画についての暗号文とかを。だがわれわれは、そのようなものは、一つとして見つけることはできず、今回の捜索の結果というのは、私が、ポワロあてに強制的に書かされたとき参照されたと思われる覚え書がたった一枚だけであった。それにはポワロと私の経歴の完全な記録と性格の評価、そして、われわれのもっとも攻められやすい弱点に関する暗示が、書き記してあった。
ポワロは、こんな紙っぺらの発見を、子供のように喜んだ。私には、それが、そんなに価値のあるものとは思えなかった。ことに、そんな覚え書を作り上げた人物は、ある点について、ばかげた考え違いをしている。私は、部屋に戻ってから、その点をポワロに指摘した。
「ポワロさん、敵方が、僕達をどう思っているかごぞんじですね。敵は、あなたの智力を誇張して評価しています。しかし、僕の智力のほうは、ばかばかしいほど低く見ています。が、こんなことを知ったからって、僕達が前より工合よくやれるとは考えられませんね」
ポワロは、ちょっと癪《しゃく》にさわるような笑い方をして、
「君には解らないのですか? これによって、私どもは、自分達の欠点に注意して、彼らの攻撃に対する心構えをすることができたのは確かでございますよ。たとえば、君が何かことをする前に、一度よく考えるとよいということを学びましたよ。それにあらゆる赤毛の若い女性に出会うと、すぐ参ってしまい、彼女を、何と申しますか……横目で見ることもね。そうではございませんか」
その覚え書なるものには、私が、衝動的だなどと途方もないことが書いてあった。また、私が、若い婦人に、その髪の色合いで魅了され易いなどとも記してあった。私はポワロの引用は悪趣味きわまると思ったが、幸いに、彼を反駁することができた。
私はこう詰問してやった。
「それでは、あなたはどうなんです? 『思い上りの自惚《うぬぼ》れ』を直すように努力するんですか? それとも『やかましいほどの潔癖』ですか」
ポワロは、私の仕返しを心よく思わなかったようだ。
「ヘイスティングス君、彼らは、確かに、何か、考え違いをしていますね。それは願ったり叶ったりですよ。彼らも、時期が来れば悟ることでございましょう。その間に、私どもも、何ものかを学ぶでしょう。知ることは、準備することですよ」
この最後の言葉は、近ごろ、彼が好んで用いる金言なのだが、あまり度々聞かされたので、私はいささか、その言葉が嫌いになりかけていた。彼は、更に言葉を続けた。
「私どもはね、何かを知りましたよ。確かに、何かを知りました。これはよいことです。しかし、まだ十分に知りつくしたというわけでもありません、もっともっと知る必要があるのです」
「どんな方法で、知るんですか」
ポワロは、自分の椅子によりかかって、私が、不注意にも、テーブルの上に投げ出しておいたマッチ箱を、真直ぐに直し、例の、私のよく知っている態度を取った。彼は、少し詳しく、自分の意見を述べようと、その準備をしているようであった。
「よく考えてごらんなさい、ヘイスティングス君。私どもは、四人の敵を向うにまわしているのです。つまり、四人の、異なった個性を相手にすることです。私どもは、第一号とは、一度も対面したことはなく、ただ、彼の心の中のことのみを知っているだけです。ついでに言っておきますが、私は彼の考えがよく解ってきたような気が致します。大そう微妙な、いわゆる東洋的な思想です。私どもが遭遇して来た陰謀は、みんな、李張閻《リーチャンエン》の脳細胞から放射されたものです。第二号及び第三号は、大そう強力で、非常に地位が高いので、当分は私どもの攻撃からは免除されます。けれども、彼らの安全保証は、妙なまわり合せで、私どもの安全をも保証することになるのです。彼らは余りに目立つ存在なので、奴らの行動は注意深い訓令を受けなければならないのです。そこで、私どもは、四巨頭《ザ・ビッグ4》の最後の一点、第四号とよばれている男に眼を向けるのです」
ポワロは、いつも、特定の人物について語るときのように、声の調子を少し変えた。
「第二号及び第三号の二人は、その名声と確乎とした地位により、何の手傷を蒙ることなく、自分達の道を進み成功することができるでしょう。が、第四号は、全く反対の条件で成功するのです。暗陰《くらがり》を進むことにより成功致します。彼は、一体何者か? 誰も知りません。彼はどんな顔をしているか? それも誰も知りません。君と私は、何度彼の顔や姿を見たでしょうか? そう五回ですね。にもかかわらず、再び彼とどこかで出会っても、確信をもって彼であるといい切れるでしょうか」
私は強く、首をふった。私の心の中に、あれが同一人物だとは、とても信じられない五人の人物が浮かんできた。体格のよい精神病院の看守。巴里で出会ったオーバーのボタンを、顎のところまでかけた男。下男のジェームズ。黄色いジャスミン事件の、物静かな青年医師。それに、ロシアの学者。この五人の人物の中の一人として、たがいに似たところが見わけられなかった。
「いいえ、僕達には断言することはできません」と私が、絶望的に答えると、ポワロは、笑いながらいった。
「どうぞ、そんなに失望なさらないで下さい、私どもは、一二の重要な事柄を知ったのですよ」
「どんなことですか」
私は、いぶかりながら、質問した。
「第四号が、ほんとうは中背で、肌の色は普通、または、やや白いということは言えますよ。もし、肌の黒い背の高い男でしたら、ずんぐりした肌の白い医者などに扮することはできません。ジェームズや、教授になりすます際に、一インチや二インチ背を高く見せることなど、極くやさしゅうございますからね。同じように、彼の鼻は短かく真直ぐのはずです。巧妙なメーキャップで鼻を高くすることはできても、大きな鼻を小さくすることは、ちょっとやそっとではできますまい。それから、彼は、三十五歳以下の美青年だと思われます。三十歳から三十五歳位の、中背で、肌の色も普通で、扮装術の達人、そして、自分自身の歯が全くない。もしあるとしても、ごく数本しかない男……」
「えっ、何ですって?」
「ほんとうですよ。あの看守は、歯が欠けて変色しておりましたね。巴里のときは、よく揃った白い歯をしていましたし、青年医師の歯は、少し出ばっていて、サバロノフ教授の犬歯はいやに長かったではありませんか。歯並びほど、顔を変えてしまうものはございませんよ。これらの事柄からどんなことが考えられると思いますか」
「よく解りませんね」
「その人の職業は、その顔を見れば解る、とよく申しますね」
「彼は、犯罪者だ」と、私は叫んだ。
「彼は、全く、扮装の術にたけておりますよ」
「同じことではありませんか」
「ヘイスティングス君、そんな言い草は、芸能界では喜ばれませんよ。あの男が、現在、または過去において、役者だったとは思いませんか」
「役者ですって?」
「しかり、彼は自分の指先に技術を持っています。俳優には二つの生き方がございますね。一つは、ただ自分に与えられた役になり切る型、もう一つは、その役に自分の個性を出そうと努力する俳優です。後者から真の俳優が生まれるのです。彼らは自分の役を与えられると、それを自分の個性に当てはめようとしますが、前者の俳優たちは、あちこちの演芸館で、ロイド・ジョージのまねをしたり、寸劇で、つけ髯をして老人の役を演じたりして、日を過ごすのです。私どもが、第四号を探さねばならないのは、前者の俳優の中からです。彼はどんな役でも、その役になり切る方では大そう優秀な演技者ですよ」
私は、だんだん面白くなってきた。
「それで、舞台関係から、彼の正体をつきとめられると考えたのですね」
「ヘイスティングス君、いつもながら君の推理力はすばらしいですね」
「あなたがもう少し早く、それに考えついたら良かったのに。僕達は、ずいぶん多くの時間を浪費してしまいましたね」
「それは、違いますよ。今までに費やした時間は、避けられなかったのです。数カ月前から、私の部下達は、仕事にかかっております。ジョゼフ・アーロンズもその一人です。君も、あの男を覚えているでしょう。彼らは、私に、ある必要な条件を備えた男のリストを作成してくれました。その資格というのは、ここ三年の間、舞台を離れていて、余り外見は、はっきりしないが、性格的の役を演ずる才能にたけた三十代の男です」
私は、深い興味にかられた。
「それで?」
「そのリストは必然の結果として、大そう長いものです。今では、候補者の中から、だんだんと選抜する仕事をしているのです。そして篩《ふるい》にかけた結果、最後に四人の名前が残りました。これがそれですよ、君」
ポワロは、二枚の紙片を投げてよこした。私はその内容を声を出して読みあげた。
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アーネスト・ラットレル
英国北部の牧師の息子。道徳的欠陥がある。高等学校を放校された。二十三歳にして舞台に立つ。(ここに彼の演じた役が日付と場所と共に挙げてあった)麻薬常用者なり。四年前にオーストラリアへ行ったと言われるが、その後の消息不明。年令三十二歳。身長一七七センチ、ひげなし。髪色褐色。眼の色灰色。鼻筋が通っている。顔色は白い。
ジョン・セントマウアー
芸名。本名不明。ロンドン子と言われている。幼少の頃から舞台に立つ。ミュージックホールの芸人だった。ここ三年来消息不明。年令三十三歳位。身長一七六センチ。やせている。眼の色は青色。肌は白い。
オーステン・リー
芸名。本名は、オーステン・フォリー。家柄は良い。演技に味がある。オックスフォード大学で、その才能をあらわす。抜群の戦功あり。上演したるもの(例のごとくいろいろな種類に及ぶ演題が挙げてあった)熱狂的な犯罪学研究家。三年半前の自動車事故で、精神に異常を来たし、それ以来舞台に現われていない。現在の所在は何の手がかりもない。年令三十五歳。一七五センチ。肌白く、青い眼。髪は褐色。
クロード・ダレル
本名と思われる。彼の素姓には不思議なところがある。ミュージックホールなどで演じたり、寸劇に出たりしていた。余り親しい友人はなかった模様。一九一九年には中国にいたが、米国経由で帰国した。ニューヨークで二三の役を演じたが、ある晩、舞台に現われず、それ以来、消息は絶えてしまった。ニューヨークの警察では、全く、不可思議な失踪だといっている。年令三十位。褐色の髪。肌の色白く。眼は灰色。身長一七七センチ。
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私は、その紙片を置きながらいった。
「全く面白い。それで、これが何カ月かの調査の結果ですね。この四人の名前がね。それで、あなたは、この中の誰に疑いをかけているんです?」
ポワロは、力強い身振りをして、
「君ね、ちょっと、まだ、未決の問題がありますよ。私は君に、クロート・ダレルが支那と米国にいたことがあると指摘します。別に深い意味はないでしょう、が、私どもは、この点により、妙な偏見を抱かぬようにせねばなりません。これは、単なる符合かも知れませんからね」
「で、次の段階は?」
私は熱心に尋ねた。
「もう仕事の手はずは整っております。慎重なる言葉づかいによる広告が、毎日、方々に出されるでしょう。その人びとの親類や友人が、私の顧問弁護士の事務所に連絡するでしょう。私どもは、今日にも……ああ、電話が鳴っています。たぶん、いつものように、番号違いで私達をわずらわしたことを遺憾に思うでしょう、でも、もしかして……そう、もしかしたら、何事かが起こったのかも知れません」
私は部屋の隅へ行き、受話器を取り上げた。
「ええ、はいそうです。ポワロ氏の自室です。私はヘイスティングス大尉。ああ、マックニールさんですか、(マックニール・エンド・ホッジソン事務所が、ポワロの顧問弁護士だった)ポワロ氏を呼びましょう。ええ、すぐに呼んで来ます」
私は驚きに眼を丸くして、受話器をおいてポワロのほうに振り向いた。
「ポワロさん、一人の女性が現われたそうです。クロード・ダレルの友人で、フロッシー・モンロー嬢というそうです。マックニール氏が、あなたに来て頂きたいそうですが」
「直ぐに参ります」と彼は叫んで、客室へ消えた。と思ったら、直ぐに帽子をかぶって現われた。
タクシーは直ぐに目的地に着き、われわれはマックニール氏の事務所に入っていった。弁護士の向かい側の肘掛椅子に坐っているのは、顔色の蒼い、もう、そう若いとはいえないような婦人であった。髪の毛はひどく黄色く、豊かな巻き毛が耳を覆っていた。瞼は重たく黒ずんでいた。それに彼女は、頬紅や口紅は忘れているようだった。マックニール氏がこちらを見ていった。
「ああ、ポワロ氏が見えました。こちらは、ええと、モンロー嬢で、何か情報をお教え下さるために、わざわざお訪ね下さった方です」
「ああ、それはどうもご親切に」とポワロは、礼を述べた。
彼は、とても丁寧に前へ進み出て、温かく婦人の手を握った。
「お嬢様のご出現で、無味乾燥だったこの古くさい事務所に、ぱっと花が咲いたようでございます」
彼は、マックニール氏の気持などお構いなしにこう付け加えた。が、この法外なお世辞は効果てきめん、モンロー嬢は顔を赤くしてきどり笑いをした。
「あら、ポワロさん、あなたがフランス人だってことよくわかりますわ」と、彼女はいった。
「お嬢様、私どもは美しさの前には、英国人のように無言ではおられませんので、私はフランス人ではございません。ベルギー人でございますよ」
それをきいて、モンロー嬢がいった。
「私もオステンにいたことがございますの」
すべてがポワロの思うように、申し分なく進められた。
「それで、クロード・ダレル氏のことについて何かお話し下さるのですね」
ポワロは話を続けた。
「私は、かつて、ダレルさんを、よく知っておりましたので、店の外の広告を見て、時間の都合はよいし、こう思いました。あの気の毒な旧友クロードのことを知りたがっている弁護士は、正当な相続人を探しているにちがいない。私は直ぐに、事務所に行った方がよいと。そして参ったのですわ」
マックニール氏は椅子から立ち上った。
「さて、私はちょっと座をはずしますから、モンロー嬢と少しお話しになりませんか」
「どうも有難うございます。でも、ちょっと考えが浮かびましたよ、もう昼食の時間も間近いようです。お嬢様も、私どもと一緒に、他所《よそ》で食事をして下さるでしょうね」
モンロー嬢の眼が、きらっと輝いた。私は彼女が金にはとても困っていて、本式の食事などする機会があまりないのだと思った。
数分後にわれわれは、タクシーに乗りこみ、ロンドンでも最高級のレストランの一つに向かった。レストランの席に着くと、ポワロは、最上等の昼食を注文し、モンロー嬢に尋ねた。
「で、葡萄酒は何に致しますか、お嬢様? シャンペンはいかがでしょうか」
彼女は、何とも答えなかった。
食事は楽しく始まった。ポワロは思いやり深く、せっせと彼女のグラスをみたしながら、だんだんと、彼の心に迫っている話題へと話を持って行った。
「お気の毒なダレル氏、あの方がご一緒でなくて残念でございますね」
「本当に」モンロー嬢はうなずいた。「かわいそうに! あの人がどうなったか知りたいと思いますわ」
「あなたが彼にお会いになったのは、ずっと以前のことでございましょうね?」
「ええ、もう大昔よ、世界大戦以来会っておりませんもの。クロードは、おかしな子でしたわ。とても無口でした。おそらくあなたにも、自分のことは一言もいわないでしょう。しかし、もちろん、彼が、行方不明の相続人だというのなら、全くぴったりですわ。正当な権利があるんですか、ポワロさん?」
「何、ちょっとした相続財産があるのでございますよ」
ポワロは、顔色も変えずに答えた。
「でも、お解りと思いますが、身の上調査の問題なのです。ダレル氏のことを、ほんとうによく知っておいでのお方を探し出す必要は、そこにあるのです。あなたは、彼のことをよく知っていらしたのですね、お嬢様?」
「あなたにでしたら、何はばかることなく申し上げられますわ。あなたは紳士ですわ。あなたは、婦人のために、どんなお料理を注文したらよいか、今時の青二才より以上に心得ていらっしゃるわ。私は率直に申しているのですのよ、あなたのことをフランス人だといったとき、ギクリともなさいませんでしたわね。あなたはフランス人だわ、悪い子、悪い子よ」
彼女は、茶目っ気たっぷりに、指で彼をつっついた。
「さてここに、私とクロードという二人の若い男女あり。……そうした場合に、あなたはどういうことが起こるかごぞんじですわね。私は今でも、彼を好ましく思っていますわ。でも、彼は私を少しもよく扱わなかったんですのよ。淑女として扱ってくれませんでしたの。でも、金銭の問題となると、誰でもそうかも知れませんわね」
「いやいや、お嬢様。そうおっしゃいますな」
ポワロはまた、彼女のグラスに葡萄酒をつぎながらなだめた。
「で、ダレル氏の特徴などをお話し頂けませんでしょうか」
フロッシー・モンロー嬢は、夢みるような調子で話し始めた。
「彼には別にこれといった特徴はなかったわ。背は高くも低くもなく、中背ですが、均整のとれた体格をしておりましたわ。小綺麗な顔立ちで、眼は青灰色。多少金髪がかった髪の毛をしていました。彼は何という芸術家でしょう、彼は……あの俳優たちの中で、彼に匹敵するような人はいないと思いますわ。もし、嫉妬というものがなかったら、彼など、もうすでに名を挙げているはずですのに……。ああ、ポワロさん、嫉妬……あなた方には、信じられないでしょうね。われわれ芸術家は、嫉妬というものでどんなに苦しめられているか? ほんとうにお解りにならないわ。そうだ、昔、マンチェスターで……」
われわれは、ここで、無言劇……主役の少年の、破廉恥なふるまいについての、長たらしい複雑な話を、我慢づよく聞かされた。が、やがて、ポワロは、彼女の話を、ダレル氏に関する話に、静かに戻した。
「それはたいそう面白うございました。あなたが、ダレル氏に関してお話し下さるのは、これで、全部でございますか? ご婦人は、全く素晴らしい観察者でございますね? すべてのことを見ていらっしゃるし、男が見落してしまうような、極めて細かいところにも気がお付きになります。私は一ダースもの男の中から、その一人を確かにその男だと確認なさったご婦人をぞんじております。どうしてだとお思いになりますか? そのご婦人は、彼が興奮すると、鼻をこする癖があることに気がついておいでだったのです。男性に、果たしてそのようなところまで注意するような考えが浮かびましょうか?」
「ほんとうですわね。私たち女性は、何でも気がつきますのよ。今、思い出したんですが、クロードは、いつも食卓の上のパン屑をいじくりまわしていたのを覚えていますわ。あの人は、パンを小さくちぎったのを指先でつまんでそれをあちこちに押しつけて、食卓の上のパン屑を取っていましたっけ。私は彼が、そうしているのを百度も、この眼で見ましたわよ。だから、私はどこででも、彼のこの癖で、彼を見付けることができると思いますわ」
「それこそ私の申しましたことではございませんか! 女性の素晴らしい観察力! それでお嬢様はその癖について、彼に何かお話しになったことはございませんでしたか?」
「いいえ、何も話しません。ポワロさん。男ってどういうものか、お解りでしょう? 男は何事によらず人から注意されることが嫌いですわ、特に、そんなことをいって叱ったらなおのこと! 私は彼には何もいわずに自分だけで、秘かに笑っていたんですの。彼はきっと自分で自分がそんなことをしているのにさえ、気がつかないでいましたでしょうよ」
ポワロは、静かにうなずいた。私は、グラスを取るために伸ばした彼の手が、微かに震えているのに気がついた。
「それから、本人と確認する手段として、筆跡などもございますが、お嬢様はきっと、クロード・ダレル氏からの手紙を保存しておいででございましょうね」
モンロー嬢は、残念そうに首をふった。
「あの人は、手紙を書くなんてことは、全然しませんでしたわ。今までに、一行だって書いてくれたことがありませんでしたわ」
「それは残念でございます」と、ポワロはいった。
「もし、何でしたら、写貢を一枚持っていますが」
と、モンロー嬢が突然にいった。
「ああ、写真をお持ちですか?」
ポワロは興奮して、跳び上らんばかりにして、聞き返した。
「でも、とても古いんですのよ、八年くらい前のですけど」
「それは構いません。どのように古くとも、どのように色あせておりましょうとも! ああ、何たる素晴らしい幸運でございましょう! お嬢様、その写真を拝見させて頂けましょうか」
「ええ、もちろんですわ」
「それから、その写真を複写することもお許し下さいましょうね?」
「よろしかったら、どうぞ」
モンロー嬢は立ちあがって、茶目っ気たっぷりに、
「さあ逃げ出さなければなりませんわ。あなたやお友達の方にお目にかかって嬉しゅうございましたわ、ポワロさん」といった。
「で、写真は、いつごろ頂けますでしょうか」
「今晩出しておきますわ。どこにしまってあるか覚えているつもりですから。あなたのところへ、確かに届くようにお送りしますわ」
「どうも、いろいろと有難うございました。お嬢様は、大そうお優しくていらっしゃいます。私はまた、近いうちに、ご一緒に、食事をしたいとぞんじております」
「どうぞ。いつでも、私、ご一緒いたしますわ」
と、モンロー嬢は答えた。
「そう、そう、私はまだ、あなたの、ご住所をお聞きしませんでしたね?」
彼女は、もったいぶった手付きで、ハンドバッグから名刺を出してポワロに手渡した。それは、何だか薄汚れた名刺で、元の住所が消してあって、別の住所が鉛筆で書き加えられてあった。
ポワロは、丁寧に、何度も頭をさげて、彼女に別れをつげ、レストランを出た。
「ポワロさん、あなたはほんとうに、その写真がとても重要な物だと思っているんですか」と私は質問した。
「はい、さようでございます。カメラは嘘をつきません。写真は、これを引き伸ばせば、他の方法では発見できないような特徴をも、つかむことができますよ。たとえば耳たぶの構造のように、口では説明できないような細部が沢山にあります。ああ、全くよい機会にめぐり合ったものだ。これだから私は、予備策が大切だと申したのです」
こういい終ると、ポワロは電話の方へ行き、たびたび彼が雇う私立探偵の事務所のダイヤルを廻した。彼の訓令は、簡単明瞭であった……二人の男を、彼の指定する場所に派遣し、ある期間、モンロー嬢の身辺を守ること。彼女の行くところは必ずひそかに護衛して行くこと……。
「そんな必要があるんですかね?」と、私は尋ねた。
「たぶんね、私と君が監視されていることは、疑う余地がありません。それと同じように、私どもと、今日昼食を共にしたのが、誰であるかも、敵は直ぐ嗅ぎつけるでしょう。それに、第四号が、自身の危険を嗅ぎつける可能性もあるのでございますよ」
それから、約二十分後に、電話のベルが、けたたましく鳴ったので、私が受話器をとった。
相手はそっけなく用件を告げた。
「ポワロ氏宅ですか。こちらは、セント・ジェームズ病院です。十分前に一人の若い婦人がかつぎこまれました。交通事故です。フロッシー・モンロー嬢は、非常に熱心に、ポワロ氏の名を呼んでいます。すぐ来て頂かねばなりません。患者はもう、永いことはないと思いますので」
私は直ちに、ポワロにこの言葉を伝えた。
ポワロは、みるみる顔面蒼白となった。
「急ぎましょう、ヘイスティングス君。風のように飛んでいかなくてはなりません」
われわれを乗せたタクシーは、十分とたたないうちに病院についた。モンロー嬢のことを尋ねると、直ぐに、病室の方へ案内されたが、看護婦と、病室の前で出会った。
ポワロは、看護婦の顔色から、すべてを読みとった。
「間に合いませんでしたか」
「六分前に、お亡くなりなさいました」
ポワロは、茫然として、立ち止まっていた。
看護婦の方は、ポワロの驚きを感違いして、静かに話し始めた。
「少しも、お苦しみになりませんでした。最後は、意識不明のままでした。あの方は、自動車にはねられたんですが、その車は、停車もせずそのまま行ってしまいました。ひどいではございません? 誰かが車体の番号をつきとめるように祈ります」
「運命はわれらに逆らうですね」と、ポワロは低くつぶやいた。
「あの方を、ごらんになりますか」
看護婦が先に立ち、われわれは後に続いた。
哀れなフロッシー・モンロー。彼女は頬紅をつけ、髪を染めていた。
彼女の顔は穏かに、そして、唇には、かすかな微笑さえ浮かんでいた。
「ああ、運命はわれに逆らう。でも、はたして運なのだろうか?」と、ポワロはつぶやいた。が、何か急に思いついたらしく頭を上げた。
「ヘイスティングス君、運でしょうか? もし運でなかったら。ああ、私は、この気の毒な婦人の死体の前で誓いますよ。時期さえ来れば、容赦しません」
「どういう意味ですか」
私は何のことやら解らなかったので聞き返したが、彼はそれには答えず、看護婦の方をむいて、熱心に状況をきいていた。結局、彼女のハンドバッグの内容物のリストを見せてもらうことができた。ポワロは、それに眼を通すと、声を押さえて、
「君、ごらんなさい、解りますか」
「一体、何を見るんですか」
「表戸の鍵のことが載っておりません。でも、鍵は彼女自身が持っているはずです。いや、彼女は故意に突き倒され、彼女の体に最初にかがみ込んだ人物が、彼女のバッグから、鍵を盗んで行ったのです。でも、私どもは間に合うでしょう。そう簡単に、求める物を探し出すことはできますまい」
われわれは直ぐに、モンロー嬢にもらった住所へ車を走らせた。それは、不快な環境にある、むさくるしいアパートの一画であった。モンロー嬢の部屋に入るのに、少し手間取ったが、やっとわれわれが中に入ってみると、誰かが先に入った形跡が生々しかった。引き棚や、食器戸棚の中のものが皆、床に投げ出され、錠は無理に壊され、小さなテーブルが引っくり返っていて、侵入者の慌てぶりを示していた。ポワロは、その散乱物の中を探し始めたが突然、叫び声を上げて立ち上った。手に、何かつかんでいたが、それは古風な写真の額縁で、中に写真は入っていなかった。
ポワロは、静かに裏を返した。そこには、小さな、丸い価格表が貼ってあった。
「四シリングと書いてありますね」
「ヘイスティングス君、眼を開いてごらんなさい。これは真新しい正札ですよ。それは、写真を抜き取った人物が貼って行ったものです。私どもより先にここへ来て、後から私どもがここへ来ることを承知で、これを、私どもに残しておいたのです。その人物は、クロード・ダレル、またの名は、第四号!」
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凄まじき終結
フロッシー・モンロー嬢が悲劇的な死を遂げてから私は、ポワロの変化に気づき始めた。今まで、彼の無敵な自信は、試練に堪えて来たが、ついに、永い間の緊張がこたえて来たらしい。彼の動作はひどく真面目で、何か思いわずらっている様子で、神経がいらだっていた。彼はこの頃、猫のように神経質になっていた。彼は、四巨頭《ザ・ビッグ4》に関する話はできるだけ避け、彼の往時の、あの熱情の大半を、ごく普通の仕事に注いでいるようであった。しかし、私には彼が、秘かに、重要な活動をしているのが解っていた。体格のよいスラブ人が、しきりと彼を訪ねて来た。彼は別に、この秘かなる活動に対する説明をしようとはしなかった。が、嫌悪の念を起こさせるような外国人の助けを借り、敵に対する新しい武器か、あるいは防備を築いていることを、私は、はっきりと悟った。私はある日、全く偶然に、彼の預金通帳の記入額を見た。というのは、彼に、ちょっとした出納調査を頼まれたのだ。そして非常な金額が、相当金を溜めているポワロにしても、少し多すぎるような額が、その名の綴りからも明らかなロシア人に支払われているのに気がついた。
しかし、彼はどの方面の仕事に取りかかっているのかを知らせるような手がかりは何一つ私に与えてくれなかった。ただ、何度も何度もこの一句をくりかえすばかりであった、
「敵を甘く見ていたのが最大の誤りでした。よくおぼえていて下さいよ」
それは彼が、是非とも避けようと骨折っている誘惑であることを私は察していた。
そうこうしているうちに、三月も末のある朝、ポワロはひどくびっくりするようなことを、私に告げた。
「今朝は、君に、一番いい服を着ることをおすすめしますよ。私どもは、内務大臣を訪問するのですからね」
「ほんとうですか? それは驚いた。大臣は、あなたに事件を引き受けさせるために呼んだのですか」
「はっきりそうとは申せません。この会見は、私が求めたものです。君は、私が大臣の手助けをしたとお話したのを覚えていますか? そして、彼は、私の能力を全く無茶なほどに高く評価しておりますので、その好意を利用しただけですよ。ごぞんじでしょうが、今、フランス首相、デジャルドー氏がロンドンに滞在しておられます。そこで、内務大臣は、私の願いを入れ、首相に、今朝の短い会見に出席していただくように手配して下さいましたのです」
内務大臣シドニー・クローザー卿は、有名な人気ある人物だ。おどけたような表情の、鋭い、灰色の眼をした、五十才位の紳士で、独得の好ましい親切な態度でわれわれを迎えた。
暖炉を背にして、背の高いやせ型の、先のとがった黒髯を蓄えた男が立っていた。
「デジャルドー首相、たぶんお聞き及びのことと存じますが、ポワロ氏をご紹介致します」と、シドニー卿は、ポワロを引き合わせた。首相は頭を下げて、手をさし出した。
「エルキュール・ポワロ氏のことでしたらよく耳に致しますよ」
「ポワロ氏を知らない者はございますまい」
首相は快活にいった。
「恐れ入ります」
ポワロは、喜びに顔を赤らめて頭を下げた。
「昔の友人には、言葉をかけては下さらないのですか」
大きな書棚の蔭から進み出た男が静かにいった。その声の主は、われらの前からの知人、イングルス氏であった。ポワロは、彼の手を、固く握った。
「さて、ポワロさん、どうぞ私どもをご利用下さい。あなたは何か、私どもにとって、なかなか重要な情報をお持ちのようですね」
「はい、現在世界には、巨大な組織……犯罪の組織が一つございます。その組織は、四人の蔭の人、四巨頭《ザ・ビッグ4》とよばれております人々に統御されております。一人は、李張閻《リーチャンエン》と申す中国人、第二号は、米国の億万長者ライランド氏、第三号は、フランス婦人。第四号は、種々な点から考えて、名もない英国の俳優クロード・ダレルだと信じられます。この四人は、今の社会秩序を破壊しようとして団結し、この社会を無政府状態とし、彼らが独裁者として世界を支配しようと企んでおります」
「信じられませんな。ライランド氏が、こんなことにかかりあっているのかね? それは少し気まぐれな考えですね」と、首相はつぶやいた。
「私が、四巨頭《ザ・ビッグ4》のいたしましたことをいくつかお話し致しますから、どうぞお聞き下さい」
ポワロの説明は、非常に魅力的であった。話の詳細は私のよく知っていることだったが、まるで、われわれの冒険や逃亡の実況放送でもきいているように、私は改めて戦慄を覚えるのであった。
ポワロが語り終ると、デジャルドー首相は、だまって、シドニー卿の方を見た。シドニー卿も首相の方を向いた。
「はい、首相、私どもは四巨頭《ザ・ビッグ4》の存在を認めない訳にはいかないのでございます。ロンドン警視庁も、最初は嘲弄しておりましたが、ポワロ氏の主張は大方、正しいと認めざるを得なくなりました。ただし、その目的の判断が問題です。私はどうも、ポワロ氏が少々誇張しておられるように思います」
ポワロは、それに対して十の顕著な点を挙げて答えた。私は、公けにしないようにと言い渡されていたので、そのときもまだ他言することを控えていたが、その内容には、ここ数カ月に起こった海上での大災害、次々と起こる飛行機事故や不時着事件も含まれていた。
ポワロの意見では、それらの事故は、みんな、四巨頭《ザ・ビッグ4》の仕業で、さらに彼らが、世間には未だ詳細が知られていない科学的秘密を保持している事実を証言した。
私は、この問題について、フランス首相が質問することを期待していた。果たして、
「あなたは、その組織の三番目の一員が、私どもの国の婦人とおっしゃいましたが、その婦人の名前をごぞんじありませんでしょうか」
「それは、世間によく知られた、名誉あるお名前です。第三号は、他ならぬ、かのオリビエ夫人でございます」
キュリー研究所の後継者たる、世界的な科学者の名を耳にすると、デジャルドー首相は、愕然として椅子から立ち上り、その顔は、驚きのあまり紫色に変った。
「ええ? オリビエ夫人? そんなことはない! ばからしいことだ! あなたは侮辱なさるのですね?」
ポワロは静かに首をふるだけで何も言わなかった。
デジャルドー首相は、しばし、ポワロの顔を茫然と見つめていたが、やがて、彼の顔が明るくなった。そして、内務大臣の顔を見て、額を、意味ありげに叩いた。
「ポワロ氏は偉人です。しかし偉人でも、ときには少々常規を逸することがございますね。ポワロ氏は上層階級に空想的な陰謀者を求めようとする傾向がおありなんではないですか? シドニー卿も私とご同感でいらっしゃいましょうな?」
内務大臣は、しばし無言のままだったが、やがて、ゆっくりと答えた。
「私と致しましては、今までも、また現在も、ポワロ氏には、絶大な信頼をおいています。が、しかし、このことはちょっと信じかねるようにも思いますが」
「それから李張閻《リーチャンエン》という男もそうです。一体その男は何者なんですか」と、デジャルドー首相が言葉を続けた。
「私が知っております」
それは思いがけなく、イングルス氏の声であった。
フランス首相が、彼の方を向くと、イングルス氏は、仏像のような顔で、静かに見返した。
内務大臣は、彼を、デジャルドー氏に紹介した。
「イングルス氏は、中国の内部に関しては、我が国きっての権威者でございます」
「それで、あなたは、その李張閻《リーチャンエン》という男のことをごぞんじなのですね」
「ポワロ氏が私を訪ねて来られるまでは、英国で、彼のことを知っているのは、この私だけだと思っておりました。お間違いないように、デジャルドーさん。今日、中国には、李張閻《リーチャンエン》と肩をならべる者は、一人もいないはずです。たぶん、たぶんですね、彼は、今日、この世界で、最もすぐれた頭脳の持ち主です」
デジャルドー氏は、気が遠くなったように、椅子に座りこんでいたが、すぐにまた元気を取り戻した。
「ポワロさんのおっしゃったことは、真実のところもございましょう。が、オリビエ夫人のことに関しては、あなたのご意見は間違っておりますよ。彼女は、わがフランスの忠実なる国民です。そしてもっぱら、科学研究に没頭しております」
ポワロは、何も言わず、ちょっと肩をすくめた。
沈黙が、一二分続いたが、ポワロは、彼の奇妙な人柄にそぐわない威厳をもって立ち上り、
「私が皆様にご警告申しあげることは、これだけでございます。私を信じて頂けないようでございますね。しかし、せめて用心だけはなすって下さいまし。私の言葉が、あなた方の心に沈んでいって、新しい事件が起こるたびに、あなた方のぐらついている信念を固めてまいることでございましょう。これらのことを、今、ここで皆様にお話し申しあげることが、必要だったのでございます。後になってからでは、もう遅すぎるのでございます」
「それでは、あなたは?」
シドニー卿は、ポワロの真剣な語調に打たれて、尋ねた。
「私が第四号の正体を見破ったからには、私の生命も、あと一時間保つかどうかも疑わしいということです。彼は、いかなる手段を用いても、私を亡きものとするでしょう。彼の『破壊者』と申す名は、無意味に付けられたものではありません。皆様、ポワロは、謹んで、お別れのご挨拶を申し上げます。シドニー卿に、この鍵と、封印した書類をお渡ししておきます。私は通帳や有価証券類は一まとめにして、いつ世界を襲うかも知れない危機に、いかに備えるのが最善であるかを考えた末、ある信託倉庫に預けてしまいました。もし、私が死んだ場合には、シドニー・クローザー卿にそれらの証券類をお引きつぎ頂き、卿の思し召すままにご利用頂く権限をお与え申しあげます。さて、私はこれでお暇《いとま》申し上げます」
デジャルドー氏は、冷やかに頭をさげただけであったが、シドニー卿は、急いで立ち上り、ポワロのほうへ手をさし出した。
「ポワロさん、あなたは私を改宗させました。すべてが空想的に思われるとしても、私はあなたの話されたことが真実だということを全面的に信じますよ」
イングルス氏も、われわれと同時に辞去した。ポワロは歩きながら、こういった。
「私は、この会見に失望はしておりません。デジャルドー氏が、この話を信じるとは最初から思っておりませんでした。しかし、私が死んだとしても、少なくも私の知っている事実が、私と共に失われてしまわないように確保しておくことだけはできました。それに、一人か二人の信者を得ましたからね。悪くないですよ!」
「ポワロさん、私もあなたに賛成しておりますよ。それはそうと、私は、できるだけ早く、中国へ渡ろうと思っています」と、イングルス氏がいった。
「それは賢いことでしょうか」
「いいえ。しかし、必要なことです。誰でも、自分にできるだけのことはしなければなりません」と、イングルス氏は、ぶっきら棒に答えた。
「ああ、何と勇敢な方でしょう! こんな往来でなかったら、私はあなたを抱きしめたいくらいでございます」
ポワロは感動して言った。
イングルス氏の仏像のような顔が、やや、和らいだように見えた。
「私が中国へ行くことが、あなたがロンドンに滞在していらっしゃることより、危険が大きいとは思わんですな」
イングルス氏は、唸《うな》るようにいった。
「それはそうでございましょうね。私はただ、ヘイスティングス君が、彼らの虐殺から逃れることを望んでいるのです。そのことで、私は大そう悩んでいるのでございます」
私は、彼らに殺されるようなへまはしないといって、この楽しい会話の腰を折ってしまった。それから間もなく、イングルス氏はわれわれと別れて行った。
われわれはそのまま、しばらくは無言で歩き続けたが、ついに、ポワロが突拍子もないことをいいだした。
「私は、兄弟にこのことを話して、手を借してもらおうかと本気で考えております」
「あなたの兄弟ですって? 僕はポワロさんに兄弟があるなんて今の今まで知りませんでしたが」
私は全く驚いた。
「呆れたものですね、ヘイスティングス君。いくら偉い探偵にだって、兄弟があることぐらいを知らないのですか? しかも、その兄弟が、生まれつきの不精《ぶしょう》者でない限りは、さらに高名な探偵になっているかも知れないということをね」
ポワロは時々、冗談なのか本気なのか、全く判断のつかないような態度を取ることがある。
今回も全く、訳がわからなかった。
「で、あなたの兄弟の名前は?」
私はこの新しい考えに調子を合わせようとして尋ねた。
「アシル・ポワロと申して、ベルギーのスパ市の近くに住んでおります」とポワロは、重々しく答えた。
私は、ポワロの亡き母の性格や性癖や、それから、子供につける名前の古典趣味に対して、心の中に半ば形造られた驚異を、脇に押しのけておいて、
「そして職業は?」と、むしろ好奇心をもって尋ねた。
「別に何もしておりません。彼は妙に不精な性質ですが、彼の手腕は、私に劣りません。つまり、大した腕を持っているのでございますよ」
「あなたに似ていますか」
「似ていないことはございません。けれども、私ほど好男子ではありません。それに髭を生やしておりません」
「で、お兄さんですか、弟さんですか」
「彼は、私とほとんど同時に、この世へ生まれて参りました」
「それでは、双生児ですね」
「しかり。君は全く正確に結論を下しましたね。さあ、我が家へ着きましたよ、すぐに公爵夫人の首飾りの小事件にとりかかりましょう」
しかし、その公爵夫人の首飾りのことは、一時延ばされる運命になった。まったく別の事件がわれわれを待っていたのだ。管理人のピアーソン夫人が、病院の看護婦が来て、ポワロさんにお目にかかりたいといって待っていると告げた。
彼女は、窓の方を向き、大きな肘掛椅子に腰掛けていた。紺の制服を着け、愉快な顔をした、中年の婦人であった。
彼女は、なかなか話の要点にふれようとしなかったが、ポワロは、直ぐに、彼女が、自分の用件を話すように仕向けたので、彼女は語り始めた。
「ポワロさん、私は、こんなのに出会ったのは始めてです。私は、ラーク女子修道会から、ハートフォード州に住む患者のところへ派遣されました。その患者は、テンプルトンという老紳士で、全く居心地の良い所で、家の人も、好い人でした。夫に似合わず、とても年の若い夫人と、テンプルトン氏の先妻の息子が一緒に住んでおりましたが、私には、その若者と継母がいつも仲よく暮らしているとは思えませんのです。彼は普通じゃないのです。頭が足りないというほどでもないんですが、たしかに智力は鈍いようです。
私はテンプルトン家へ行ったときから、テンプルトン氏の病気というのが妙に思えたのです。普通は、全然、何の変わりもないように見えるのに、突然、胃痛の発作で苦しみ、吐いたりしますの。それなのに、お医者様は、とくに注意を払うということもないので、私としては、何も口を出すわけにいきません。でも、私はそのことを考えずにはいられなかったのです。すると……」
彼女はちょっと口をつぐんで赤くなった。
「何か疑問を持たれるようなことが起こったのでございましょうか」と、ポワロが助け舟を出した。
「はい」
しかし彼女は、まだ後を続けることは難かしそうであった。
「女中たちまでが、このことを話し合っているのを発見致しましたわ」
「テンプルトン氏の病気のことですか」
「あら、ちがいますわ。もう一人の方のことです」
「それでは、テンプルトン夫人でございますか」
「ええ」
「テンプルトン夫人と、医師のことでございますね?」
ポワロは、このようなことに関しては、恐ろしいほど鋭い勘を持っていた。看護婦は、感謝の眼ざしで彼を見ると、先を続けた。
「二人の噂は、よく耳にしておりましたが、ある日、私は、あの二人が一緒にいる所を、偶然この眼で見てしまったのです……庭で……」
そこでまた、話が途切れた。彼女は一体、庭で、何を見たか? くわしく尋ねる必要を感じないくらいに狼狽していた。彼女は、その場で、しっかりと心を決めるに十分なものを見たに違いなかった。
「その発作も、だんだんと変化してゆきました。トレベス先生は、これは全く自然の成り行きで、もう、テンプルトン氏もそう永くはないだろうとおっしゃるのですが、私は今までに、こんなの見たことありません。私の、看護婦としての長い経験の中で、ただの一度だってございませんでしたわ。私には、もっと他の病状のように思われるんです。あの……」
彼女は口をつぐんで、ためらった。
「砒素中毒ですか」
ポワロがまた、助け舟を出した。
彼女はうなずいた。
「それに、患者さんは、妙なことを申しましたの……わしは彼らにやられてしまう、彼ら四人に。彼らはわしを殺すだろう……ですって」
「ええ?」と、ポワロがすかさずいった。
「これは、あの人がいった通りのことなんですのよ。もちろん、そのときはひどく苦しんでいる最中でしたから、自分で何をいっているのか解らなかったでしょうよ」
「わしは彼らにやられてしまう、彼ら四人に。彼らは、わしを殺すだろう」
ポワロは、注意深くその言葉を繰り返してから、
「彼ら四人とは、何だとお思いになりますか」と尋ねた。
「はっきりとはいえませんけど、テンプルトン夫人、令息、医師、それにたぶん、テンプルトン夫人のお相手役の、クラーク嬢だと思いますわ。これで四人になりますでしょう。テンプルトン氏は、この四人がぐるになって、自分を殺そうとしていると思っているんですわ」
「そうですね、そうですね……で、食事の方は、いかがですか? あなたは食事の方に注意なさることはおできになりませんでしたか」と、ポワロは、余念ない調子でいった。
「私ができるときは自分でやっておりましたが、ときにはテンプルトン夫人が、ご自分でお膳を持って行かれると主張されたこともございましたし、私の非番のときも、奥様が面倒を見ておいででした」
「そうでございますか。それで、貴女《あなた》は、警察に届け出るだけの根拠をお持ちではないのでございますね?」
看護婦の顔は、ただ考えただけでも恐ろしそうに見えた。
「ポワロさん、私の致しましたのはこれだけですの。それはテンプルトン氏が、スープを召し上ってから、とてもひどい発作に襲われました。それで私は、後で、そのスープ皿の底に残っていたスープをとっておき、それをここに持参しております。テンプルトン氏が、私がいなくても大丈夫なくらいに快復されましたので、私は、病気の母を見舞うといって、一日お暇をもらって来ました」
彼女は、薄黒い液体の入った小壜を取り出してポワロに手渡した。
「お美事、お美事。直ぐに分析させましょう。あと一時間くらいしてからおいで下されば、どちらにしても、あなたの疑問を解決できるとぞんじます」
ポワロは、この訪問者の名前とその身分を聞き出すと、彼女を送り出した。それから紙に何か書きつけて、スープの壜と一緒に分析所へ届けた。その結果を待つ間、ポワロは、驚いたことに、あの看護婦の身分証明書の記載を確かめて楽しんでいた。
「いやいや、君。私は慎重にことを運びます。四巨頭《ザ・ビッグ4》が私どもを付け狙っていることを忘れてはなりません」と、彼は言うのであった。
しかしながらポワロは、間もなく、メイベル・パーマーという看護婦が、ラーク協会の一員で、問題の病人のところへ派遣されていることを確かめた。
「ここまではよろしい」
彼は眼ばたきしながらいった。
「もうそろそろ、パーマー看護婦もここへ現われるでしょうし、分析結果の報告書も届くでございましょう」
私とパーマー看護婦は、ポワロが報告書を読むのを、心配して見守っていた。
彼女は、息をはずませて尋ねた。
「砒素が混じっておりましたか」
ポワロは、報告書を手にしたまま、首を横にふった。
「いいえ」
われわれ二人は、全く驚いてしまった。が、ポワロは、さらに言葉を続けた。
「砒素は入っておりませんでしたが、アンチモニーが検出されました。こういう結果が出た以上、私どもは、一刻も早くハートフォードに出発しなければなりません。間に合うように祈っております」
ポワロは、探偵の身分を明かしてテンプルトン家に乗り込むという、極めて単純な方法を取ることにしたが、訪問の表面的理由は、以前、テンプルトン家に雇われていた女中が、宝石紛失事件に関係があるので、彼女について、テンプルトン夫人に質問するためということにした。その奉公人の名は、看護婦から聞いておいたのであった。
われわれが、エルムステッド荘とよばれる邸宅に着いたのは、大分遅くなってからであった。われわれが一緒に行って疑問を抱かれない用心に、パーマー看護婦は、三十分ほど先に帰宅させておいた。
背が高く、濃い色の髪をしたテンプルトン夫人が、落着きのない眼付きとくねくねした動作で、われわれを迎えた。
私は、ポワロが身分を明かしたとき、彼女がひどく驚いたらしく、かすかな音を立てて息を吐いたのに気がついた。が、彼女は、その奉公人に関するポワロの質問には進んで答えた。やがて、ポワロは、夫人を試すために、ある人妻の登場する毒殺事件を扱った史劇に話をもって行った。彼は、話をしながら彼女の顔を見つめていた。妓女は心の乱れをできるだけ現わすまいと努力していた。が、突然、彼女は支離滅裂な言い訳をして、急いで部屋を出て行った。間もなく、小さい赤髭を生やし、鼻眼鏡をかけたがっちりした男が入って来た。
「私は、トレベス博士です。どうぞお見識りおきを」と彼は、自分で名乗り出た。そして、
「テンプルトン夫人から、皆様におわび申し上げるように頼まれました。奥様は、大変加減がお悪いのです。神経の過労ですな、ご主人のことや何やかやと、大変心配しておられます。寝床に入って、臭素カリをのむようにと指図しておきました。しかしあなた方に有り合わせの料理でも召し上って下さるように希望され、私におもてなしするように申されました。私どもは、ポワロ氏のことは、よく存じております。そして、われわれは、あなたのおために、できるだけのことを致したいと思います。ああ、ミッキーが参りました」
一人の青年が、よろよろしながら、部屋へ入って来た。彼はひどく丸顔で、いつもびっくりしているように眉毛を上げている。彼は握手するときも、不恰好に歯をむき出してにやにや笑っていた。まさしく『ちょっと足りない息子』であった。
やがてわれわれは、夕食の卓に着いた。トレベス博士が、葡萄酒でも抜きに行ったのか席をはずすと、その青年の人相が急に驚くべき変化を示した。
彼は、前にかがんで、ポワロの顔を見つめていた。
「あなた方は、父のことでいらっしたのですね、解ってますよ」
彼はうなずきながら、こう話しかけて来た。
「僕は、いろいろなことを知っていますが、誰も、僕がそんなことを知っているとは考えていません。継母は、父が死ねば喜ぶことでしょう。トレベス博士と、結婚できますからね。ごぞんじのように彼女は、僕の実の母親ではありません。僕は彼女が嫌いです。彼女は父が死ぬのを欲している人ですよ」
それは全く恐ろしいことであった。幸い、ポワロが返答をする前に、博士が席に戻ったので、われわれは無理に普通の会話を進めた。
そのうちに、ポワロが、急にうつろな呻《うめ》き声をあげて、椅子の背に身をのけぞった。彼の顔は苦痛に歪んだ。
「どうなさいましたか」と、医師が叫んだ。
「急の発作です、時々起こります。いや、いや、あなたのお助けは必要ございませんよ、博士、もし二階へでも横にならして頂ければ結構でございますが」
彼の願いは、直ちに聞き入れられ、私も彼について二階へいった。ポワロは、苦しそうな呻き声をあげて、ベッドにころげ込んだ。
最初の一二分は、私も瞞されたが、すぐに、ポワロが演技していることを見抜いた。彼の目的は二階の患者の病室の近くへわれわれだけで入り込みたかったのだ。家の者が立ち去り、われわれだけになったとたんに、彼はベッドから、とび起きた。
「早く、早く、窓! 窓の外には蔦がからまっています。彼らに気づかれない内にそれを伝って降りましょう」
「下へ降りるんですか」
「はい、私どもは一刻も早く、この屋敷を出なければなりません。君は、食事中の彼を見たでしょう?」
「博士ですか」
「いいえ、テンプルトン青年でございます。彼は、パンをいじくっておりましたね。フロッシー・モンロー嬢が亡くなる前に話してくれたことを覚えてませんか。クロード・ダレルは、パン屑を拾うために、パンをちぎってテーブルの上を軽くたたく癖を持っています。これは大きな落し穴です。あの、ちょっと足りない青年こそ、私どもの敵、クロード・ダレル、つまり第四号です。さあ、急ぎましょう」
議論する間もなく、すべて信じられないようなことだったが、急いだほうが賢明だった。われわれはできるだけ静かに蔦を伝って下りて、一直線に小さな町へ急ぎ、鉄道駅へ行った。そして、やっと、八時三十四分発の終列車に間に会った。これに乗れば、十一時頃、われわれの町に着くはずだった。
「陰謀! 彼らの中の何人が敵方なのでしょう? 私は、テンプルトン家には、四巨頭《ザ・ビッグ4》の手下が多勢いるように思われます。彼らはただ私どもをあの屋敷へおびき寄せたかったのでしょうか? それとも、もっと微妙な何かがあったのでしょうか? 彼らは喜劇を演じて、ある時期が到来するまで、私の興味をひいておいて、その間に何かしようとしたのでしょうか? さて、何をしようとしたのでしょう?」
彼はしばらく考えていた。
われわれが下宿に帰り、居間の戸口へ行ったとき、ポワロは、私を押さえ、
「用心なさいよ、ヘイスティングス君。ちょっと気になるのです。私が先に入りましょう」
彼は先に部屋へ入り、おかしなことに、古いゴムの上靴で、注意深く、電気のスイッチを押して、部屋中を、他家から借りて来た猫のごとく、注意深く、細かいところまで、危険がないかと見てまわっていた。
「ポワロさん、大丈夫ですよ!」と、私はじれったくなって、言葉をかけた。
「そう思いますか? 何事もないように見えるのですね。でも、確かめてみなければなりません」
「ばかな! 僕はとにかく、煙草に火をつけますよ。僕は一度だけ、あなたの失策をつかまえましたよ。ポワロさんは、最後にマッチを使って、いつものように、マッチ入れに戻しておきませんでしたね。いつも僕に注意して、叱言をいっていたのに……」
そういって私は手を伸ばした。私はポワロの警告の叫び声を聞いた……彼が、私のほうへ身を乗り出すのを見た……私の手がマッチの箱にふれた。
すると、青い焔が上り、耳をつんざくような爆発音……そして、眼の前が、真暗になって……
私が正気に戻ると、われわれの旧友、リッジウェイ博士が、私の上にかがみこんでいるのが眼に映った。その博士の顔が、ほっとした表情に変わった。
「静かに、もう大丈夫ですよ。ある事故が起こったんです。ごぞんじでしょう」と博士は、私をなだめるようにいった。
「ポワロさんは?」私は低い声でいった。
「ヘイスティングス君。君は、私の家におられるんです。万事うまくいってますよ」
ふと、不安が私の心を冷たくした。彼が、何となく返答を避けている様子が恐ろしい不安をよび起こした。
「ポワロは、ポワロはどうしたんです?」
私は、くり返し尋ねた。
博士は、私が気づいたので、これ以上隠しても無駄だと悟った。
「あなたは、奇蹟的に助かったんですが、ポワロさんは、のがれることができませんでした」
私の唇から、叫び声がもれた。
「死んだ?……いや死にはしないでしょうね」
リッジウェイ博士は、苦しそうな表情で、頭を垂れた。
私は、死に物狂いで寝床の上に起き上った。
「ポワロの肉体は死んだかも知れないが、彼の魂は、まだ生きている。僕が、彼の仕事を引き受けます。四巨頭《ザ・ビッグ4》をやっつけてやるんだ!」
と、ようやく言い終ると、私は、再び意識を失ってしまった。
[#改ページ]
虎穴に入る
瀕死の中国人
今でも私は、この三月のあの日々のことを書くに忍びない。
ポワロ! ああ、この世に二人とない人物、偉大なるエルキュール・ポワロが死んだ! あの投げ出してあったマッチ箱には、兇悪な仕掛けがしてあったのだ。そのマッチ箱が、あるべき場所に置いてないのが、直ぐにポワロの眼につき、急いで元へ戻そうとして手を触れる、そのとたんに爆発するはずだったのだ。ところが一生激しい悔恨に苦しんでも、なお取り返しのつかないような破滅を、実際に引き起こしたのは、この私であった。リッジウェイ博士のいう通り、私が軽い脳震盪を起こしたくあいで助かったのは、全くの奇蹟だったのだ。
自分では、直ぐに気が付いたと思っていたのに、実際は、二十四時間、まる一昼夜、人事不省に陥いっていたのだった。翌日の夕方に初めて隣室へよろめきながら行き、この世に知られた、最も偉大なる男の一人が納められた、粗末な楡《にれ》の棺《ひつぎ》を、深い哀悼の心をもって見た。
私が正気づいたそのときから、心の中に決心したことは、四巨頭《ザ・ビッグ4》にポワロの仇討をすること……情け容赦なく、彼らを追いつめることであった。
私は、リッジウェイ博士も、私と同意見だと思っていたが、驚いたことには、あの人の好い博士は、無責任な、不熱心な態度をとった。
彼はいつも、「南米にお帰りなさい」と忠告するのであった。
どうして私の企てが不可能だというのだろう? 彼は、できるだけ慎重にいってはいたが、彼の意見はこうであった。ポワロ……あれほどすぐれた人物のポワロが失敗した仕事に、果たして、この私が成功する見込みがあるだろうか?
しかし、私は強情っぱりであった。私が、この仕事に、必須な資格を具えているかという問題はさておき、(そして、ついでに、この点についても、彼の見解とは一致しなかったことを付け加えておこう)私は長い間、ポワロと一緒に仕事をして来たので、彼のやり方を暗記しているくらいだから、彼の残していった仕事を引き受ける資格は、十分あるというのが私の意見である。わが親友はみじめな死に方をした。彼を殺した犯人に、何のむくいも与えずに、おめおめと南米へなど引きかえせるものか!
私がこのようなことをまくし立てるのを、博士はよくきいていたが、私の話が終ると、
「それにしても、私の忠告は変わりませんな。もし、ポワロ氏がこの場におれば、きっと、あなたに、南米に行くよう勧告されると、固く信じております。ポワロ氏の名において、頼むから、どうかそんな無茶な考えを捨てて、南米の牧場へ帰りたまえ」
だが、私の返事は、ただ一つであった。それに対して、彼は悲しげに首をふっただけで、もはや何もいわなかった。
私は、すっかり元のからだに戻るまで、一月ほど費やした。四月も末に近いある日、私は、内務大臣との会見を申し入れて、その承諾を得た。
シドニー卿の態度は、リッジウェイ博士のそれを思い起こさせる。なだめるように、そして、否定的であった。彼は、私の申し出た奉仕を喜びながらも、慎重に、静かに、それを謝絶した。ポワロの預けた書類は、まだ彼が保管していて、接近している危険に対して、できるだけの手段を取るといって、私を安心させた。
私は、そんな冷たい慰めに、無理矢理納得させられてしまった。シドニー卿は、この会見を終るにあたって、私に南米に帰るようにと、熱心に勧めた。私は、万事がとても不満足に終ったことを悟った。
私は、この辺で、ポワロの葬儀のことを書いておくべきだと思う。それは、荘厳で、人々に感動を与える儀式で、非常に沢山の花輪が贈られ、あらゆる階級の人々が参列し、彼が第二の故郷と定めた所に、心うたれる実証を残したのであった。私も彼の墓の前に立ち、われわれの数々の経験、そして、共に過ごした楽しかった日々を考えて、率直な感動に打ち負かされてしまった。
五月初めになって、私は、作戦計画をたてた。私には、ポワロの計画、つまり、クロード・ダレルに関する情報を得るため、広告作戦を設けるより他に、良い手が思いつかなかった。それで、私はある新聞の朝刊に、広告を掲載し、自分はソーホー街の小さな料理店に出掛けていって、その広告の効果を評価していた。が、その新聞の、他の短い記事が眼に止まり、ひどく不愉快な気持になった。
その記事は短いもので、ジョン・イングルス氏が、マルセーユを出港して間もなく、客船「上海号」から、謎の失踪をとげたむね報じてあった。たとえ天侯が非常に良かったとしても、不運な紳士は船から海中に墜落したという恐れがあるというのである。その記事は、イングルス氏の中国における長い間の著しい仕事に関する、短い紹介で終っていた。
この、ニュースは、不愉快であった。私は、イングルス氏の死に不吉な動機を読みとった。私には、どうしても単なる事故とは思えなかった。イングルス氏は、何者かに殺された。そして、それは、あの憎むべき四巨頭《ザ・ビッグ4》の仕業に違いない。
私は、茫然として椅子に腰掛け、今までの出来事を思いめぐらしていた。そのとき、ふと、向い側に腰掛けている一人の男の、妙な動作に驚いた。それまでは、彼に、大した注意を払ってはいなかった。
その男は、色の黒い、中年の男で、血色の悪い顔に、小さなとがった顎髯を生やしていた。彼は、私が気づかないくらい、静かに、席に着いたのだ。
しかし、彼の動作はどう見ても断然変であった。前かがみになり、悠々と、私のお皿の四隅に、塩の山をつくっていた。
「失礼ですが」彼は憂うつな声で言葉をかけて来た。
「見知らぬ人に塩を盛ることは、その人を悲しませることだと申しますね。それは、避けられない必然性です。仕方がありません。私はあなたが訳の解る人であることを望みますよ」
そう言いながら意味深長に、塩を、自分の皿にとり、前の動作を繰り返した。四という記号がはっきり描かれたが、すぐに消されてしまった。私は、彼の顔を探るように見つめた。彼が、テンプルトン青年や従僕ジェームズなど、今までに出会った仮装の人物に似ているとは、どうしても思えなかったが、私は彼が、他ならぬかの高名な第四号自身だと確信した。彼の声は、巴里で訪ねて来た、顎までオーバーのボタンをかけていた男のそれと何となく似たところがあった。
私は、自分の行動の針路が決まらず、周囲を見まわした。この私の心を見破ってか、彼は笑いながら、静かに首をふった。
「私は、そうは勧めませんね。巴里での早まった行動の結果を覚えているでしょう。私は、自分の逃げ道は、ちゃんと確保してありますからね。あなたの考えは、少し、ぞんざいのようですね、ヘイスティングス大尉。こう呼んでもよろしいでしょう」
「悪魔! お前は悪魔の化身だ!」
私は怒りに息がつまりそうになりながら、こう叫んだ。
「激昂《げっこう》している……つまらぬ激昂です。あなたの今は、亡きお気の毒なご親友も、冷静を保ち続け得る人が非常な利益を得るのだと、おっしゃることでしょうに」
「ポワロのことはいわないでくれ。お前は彼を、ひどい殺し方で死なした。そしてまたもここへ現われて……」
彼は、私の言葉を遮った。
「私は、立派な、平和的目的を持って参ったんですぜ。直ぐに、南米へお帰りになるよう、お前さんにご忠告申し上げるためにね。もし、この勧告を受け入れるならば、四巨頭《ザ・ビッグ4》との関係も、これが最後になる。お前さんや家族の者は、今後決して、苦しめられるようなことはないと約束する」
私は、軽蔑するように笑った。
「で、もし、お前の独裁的命令を拒んだらどうなるんだ?」
「命令ではございません、私は、警告なり、と、申しておきましょう」
彼の話しっぷりは、すごみがかっていた。
「これが最後の警告ですぞ。ヘイスティングス大尉。この忠告を無視しないように、十分警告を与えられるでしょう」
私が、彼の意図をのみこまぬうちに、第四号は立ち上り、素早く戸口の方へ歩いて行った。私も椅子からさっと立ち上り、瞬間的に後を追った。が、不運なことに、私のテーブルと隣のテーブルの間の通路を塞いでいた肥った男と正面衝突してしまった。そして、第二の障害物が突然ぶつかって来た。それは、沢山の皿を積み重ねて運んでいた給仕だった。私がそうこうしている間に、我が獲物は、入口の戸をあけて外へ出て行った。そして、私が外へ出て見たときには、あの黒い髯を生やしたやせた男の姿は見当らなかった。
給仕は、しつこく詑びを言い、肥った男は、テーブルの前に腰掛けて昼食を注文していた。この二つの出来事は、単なる突発事故のようであったが、私は、何かあるなと心のうちに思った。私には、四巨頭《ザ・ビッグ4》の手先が、どこにでもいることはよく解っていた。
いうまでもなく、私は、自分に与えられた警告については、何ら注意を払わなかった。私は、死ぬも生きるも正義のためと思った。あの新聞広告で得られた答えは、全部でたった二通、しかも、その二通からは、何ら価値ある情報を得るところがなかった。二通とも、かつて、クロード・ダレルと共演したことがあるという俳優からのものだった。どちらも特に親しいというほどでなかったので、ダレルの正体と現在の居所については、なんら新しい光明を与えなかった。
それから十日間というもの、四巨頭《ザ・ビッグ4》からは、何の合図もなかった。が、ある日、私が物思いにふけりながらハイドパークを歩いていると、人の心をそそるような外国なまりのある美しい声で呼びかけられた。
「ヘイスティングス大尉じゃございません?」
大きな箱型自動車が一台、舗装道路の傍に止まったところで、美しい、黒いドレスを着て、素晴らしい真珠をつけた婦人が、自動車の窓に、もたれていた。それは、かつては、ベラ・ロザコフ伯爵夫人として知られていたが、後に名前を変えて、四巨頭《ザ・ビッグ4》の手先として登場した婦人であった。ポワロは、どういう理由でか、いつもこの伯爵夫人には、心ひそかな好意を寄せていたようであった。彼女は、あの小柄な男を引きつける、火焔のようなものを持っているのかも知れない。ポワロは感激のあまり、しばしば、彼女のことを千人に一人の女性といっていたものだ。その彼女が、われわれを向こうにまわして、最も憎むべき敵方についたことは、彼の納得しかねるところであったのだ。
「あら、行っておしまいにならないで。私、あなたに大切なことを申し上げなければなりませんの。それから、私を逮捕させようとなすってはいけません、それは、ばかげたことになるでしょうから。あなたは、いつも少々抜けていらっしゃるのね。ええ、そうですわ。私どもの警告を無視して踏みとどまっていらっしゃるなんて、全く馬鹿ですわね。私は第二回目の警告をしに参りましたの。直ぐに、英国をお離れ遊ばせ。ほんとうに、ここにいらしても良いことはありません。正直に申しますけれども、あなたは、どんな目的でも、決して、達成なさることはおできになりませんのよ」
「そうだったら、あなた方が僕をこの国から追い出そうとして気を揉《も》むなんて、おかしなものですね」
伯爵夫人は、すばらしい肩をすくめた。
「私も、ばかげていると思いますわ。私は、あなたをここで愉しく遊ばせておいてあげたいのですが、頭目たちは、あなたの言葉が、あなたよりももっと智的な人たちに助けを与えることを恐れていますのよ、それであなたを追放しなければならないのです」
伯爵夫人は、私の才能を高く評価し過ぎているらしい。私は当惑をかくしていた。確かに彼女の態度は、私を当惑させ、私が重要な人物でないという考えを吹き込もうとしているものであった。彼女はなおも言葉を続けた。
「もちろん、あなたを亡きものにするのは、いとも簡単ですのよ。でも私、ときどき感傷的になりますのよ。あなたのために私は嘆願いたしましたの、あなたにはどこかに可愛らしい良い奥様がいらっしゃいますわね。それに、あなたの亡くなったお友達は、あなたが殺されないですむのを知ったらお喜びになるでしょうね。私、ずっとあの方が好きだったの。分っていらっしゃるでしょう? あの方は利口でした。ほんとうに利口でいらした。もし四対一の場合でなかったら、あの方は私達の手には負えなかったろうにと信じておりますのよ。ポワロさんは、私の恩師ですわ。私は葬儀のとき、讃美のしるしとして花輪を贈りましたのよ。真紅のばらの大きな花輪を。この真紅のばらは私の気持を表わしたものよ」
私は、だまって聞いているうちに、とてもいやな気持になった。
「あなたは、耳を後ろにたおして蹴りかかってくる|らば《ヽヽ》みたいな顔をしていらっしゃるわ。さあ、私は、警告致しましたよ。三回目の警告は破壊者がもたらすということを覚えていて下さいね」
彼女が合図すると、車は疾走していってしまった。私は、機械的に、車体番号を書きとめたが、何かの手掛りになるような望みはなかった。四巨頭《ザ・ビッグ4》はちょっとでも不注意なことをしそうもなかった。
私は、少し落着いてから家に帰った。彼女の言葉から、一つの事実が浮かび上ってきた。私の生命は、実際に、危険にさらされている。この闘いから手を引こうという意志は毛頭ないが、これからはよほど用心して出歩き、できるだけ警戒すべきだと思った。
私がこんなことを考え、どうするのが最良の行動だろうと思案していると、電話のベルがなった。私は、立ち上って行って受話器を取りあげた。
「もしもし、どなたですか」
はきはきした声が答えた。
「こちらは、セント・ジャイルス病院です。こちらに一人の中国人が、路上で切りつけられて運びこまれました。非常な重傷で、もう長いことはないと思われます。患者のポケットから、ヘイスティングス大尉の姓名及び住所を書いた紙片を発見致しましたのでお電話しました」
私は、全くびっくりしてしまったが、直ぐにそちらへ行くと言って電話を切った。セント・ジャイルス病院といえば、波止場の近くにある病院なので、その中国人は、船から上陸したばかりではないかと思った。
私は病院に行く途中、ふと、疑問が浮かんだ。これは、落し穴ではあるまいか? 支那人だというから、李張閻《リーチャンエン》の手下かも知れない。私はかつての『餌のついた罠』の冒険を思い出した。これもまた、我が敵方の策略ではないだろうか?
しかし、少なくとも、病院へ行くことは害にはならないだろうと考えた。事態は、俗にいわれる、張り込みほどの陰謀でないのは、確かであった。いずれにせよ、瀕死の中国人は、私の作戦に何か啓示を与えてくれるか、私を四巨頭《ザ・ビッグ4》の手に引渡すかするだろう。なすべきことは表面は信用しながらも、秘かに用心怠りなくすることだ。
セント・ジャイルス病院に着き、受付で用件を話すと、直ぐに事故傷害病棟に案内されて問題の人物のベッドへつれて行かれた。彼のからだは、ぴくりとも動かず、瞼を閉じ、わずかに、胸部が微かに動いているのがまだ生命を保っていることを示しているだけであった。医師が、ベッドの傍で、患者の脈をとっていて、
「もう、ほとんど望みございませんね」と、私の耳にささやいた。
「この人をごぞんじですか」
私は首をふった。
「いや、一度も会ったことがありませんね」
「では、どうして彼のポケットに、あなたの所書《ところがき》があったのでしょう? あなたが、ヘイスティングス大尉ですね?」
「そうです。しかし、私にも、全然説明のしようがありません」
「変ですね。彼の身分証明書によると、退職文官、イングルス氏の雇い人だったことがあるようですね」
彼は、私が、イングルス氏の名をきいて、びっくりしたのに気づき、
「ああ、イングルス氏をごぞんじなのですね」と、付け加えた。
イングルス氏の部下! それなら、以前にも彼に会ったことがある。私には、中国人の見分けはとてもできないことであった。彼は、イングルス氏の中国行きに同行したに違いない。そして、イングルス氏の悲劇が起こってから、恐らく、私への伝言を持って、英国へ帰って来たに違いない。私が、その伝言を聞けないことは止むを得ないが、まさに致命的だ。
「意識はあるんでしょうか? 話せますでしょうか? イングルス氏は、私の古くからの友人で、この人は、彼からの伝言を持って来たに違いありません。イングルス氏は、十日ほど前に、海中に墜ちて死亡したといわれております」
「いま意識を回復したようですが、話す力があるかどうか。多量の出血をしておりますのでね。興奮剤を与えることもできますが、もうできるだけのことは致してあります」
医師は、こういいながらも、皮下注射を一本打った。私は、ベッドのそばに立って、一言でも、一つの記号でも、私の仕事に大きな意義のあることを言わないかと、期待をかけていたが、ときが経つばかりで、何の徴候も現われなかった。
が、突然、いやな想像が私の心をかすめた。罠にかかっているのではあるまいか? この中国人は、イングルス氏の部下を装っているだけで、ほんとうは、四巨頭《ザ・ビッグ4》の手先かも知れない。私は昔、何かで、ある中国の僧侶が、死人のまねができるという記事を読んだような気がする。また、李張閻《リーチャンエン》が、自分たちの主人の命令ならば、自分の命も惜しまない狂信者たちに命じたのかも知れない! いよいよ、私は用心する必要があるぞ。
こんなことを考えているとき、ベッドに横わっていた男が、少し動いて、眼を開いた。彼は、訳のわからないことをつぶやき、私の方をちらっと見たが、私が解った様子はなかった。私は、彼が何か言おうとしているのに気づいた。味方にしろ、敵にしろ、彼が何をいおうとしているか、聞かなければならない。
私は、ベッドの上へかがみこんで聞こうとしたが、声がしわがれていて、何をいっているのか解らなかった。私は、『手《ハンド》』という言葉を聞いたように思ったが、何に関連して言ったのかは解らない。
しばらくして、また、口を聞いたが、今度は、さらに、『ラルゴ』という言葉をきいた。この二つの言葉を、つなぎ合わせて思いついた言葉に、われながらびっくりして眼を見張って、
「ヘンデルのラルゴですか」と尋ねた。
相手は、肯定するごとく、すばやくまたたきをした。そしてさらに、他のイタリア語『カロッツア』と言った。そして、二三、イタリアの言葉をつぶやいたと思うと、急に意識不明になってしまった。
医師が、私を押しのけて、彼の手をとった。すべて終った。その男は死んだ。
私は全く当惑しながら外へ出た。
ヘンデルのラルゴ、それに、カロッツア。もし、私の記憶に誤りがなければ、カロッツアは、馬車という意味だが、こんな簡単な言葉に、どんな意味があるのだろうか? あの男は中国人で、イタリア人でもないのに、どうして、イタリア語を話したのか? 彼が、本物のイングルス氏の部下だったら、英語ぐらい知っているだろうに!
万事、不可解なことばかりであった。私は、帰る道すがら、この謎を考えていた。ああ、ポワロさえ生きていてくれたら稲妻のごとき巧妙さで、この問題を解決するだろうに!
私は合い鍵を使って家の中へ入り、ゆっくりと自室へ入っていった。部屋のテーブルの上に、一通の手紙がのっていたが、余り気にもとめずに、封を切った。が、それに眼を通した瞬間、私はその場に釘付けにされてしまった。それは、ポワロの顧問弁護士の事務所から来たものであった。
[#ここから1字下げ]
前略
私どもの亡き依頼人、エルキュール・ポワロ氏のお指図により、手紙を同封して、お送り致します。この手紙は、氏が亡くなられる一週間前にお預りしたもので、もし、氏に万一のことがあった場合、彼の死後、一定の期間経ってから、貴殿にお渡しするよう、指図を受けております。 敬具
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私は、同封された手紙を、何度も、ひっくり返して見た。それは、思いがけなくも、ポワロの手紙であった。あのなつかしい筆蹟で、すぐにそれと解った。重い気持で、しかし、ある熱心さでその封を切った。
[#ここから1字下げ]
わが親愛なる友よ
君がこの手紙を受け取るときは、私はもうこの世にはいないでしょう。私のために涙など流さずに、私の命令に従って下さい。この手紙を受け取り次第、南米の奥様のところへお帰り下さい。これに対して、強情を張らないように。私が、君に旅立つよう勧めるのは、決して、感傷的な理由からではございませんよ。それは、必要なのです。これも、エルキュール・ポワロの作戦の一端です。わが親友ヘイスティングス君のごとき、鋭い洞察力をお持ちの方に、これ以上申す必要はございませんね。
憎むべき四巨頭《ザ・ビッグ4》! 私は、草葉の蔭から、君に敬意を表します。
永久に君の友なる
エルキュール・ポワロより
[#ここで字下げ終わり]
私は、この意外な手紙を、何度も読み返した。この驚くべき小男は、自分が死んだ後も、自分の計画が壊れぬよう、不測の事件に対しても、準備を怠らなかったのだ。私の役は、彼の霊の導きで、その計画を実行することにある。
恐らくは、海の向うには、ちゃんと次の指令が私を待っているだろう。そのうち、わが敵どもは、私が、彼らの警告に従ったのだと思い込み、私のことで頭を悩ますのはよすにちがいない。私は、何の嫌疑もかけられずに戻ってきて、奴らの真ただ中で大いに暴れられる訳だ。
こうなれば、私の即刻の出発をはばむものは何もない。私は、家へ電報を打ち、船室を予約して、それから一週間後には、ブエノスアイレスへ行くために、客船アンソニア号に乗り込んでいた。
船が、埠頭を離れると間もなく、ボーイが一通の手紙を持って来た。ボーイの説明によると、毛皮の外套を着た大柄の男から頼まれたもので、彼は、舷梯がひき上げられるぎりぎりの最後に、下船したのだそうである。
私はそれを開封してみた。内容は、簡潔かつ要領を得たものであった。
――君は利口だ
と書いて、大きく、4と署名してあった。
私は、こみ上げる笑いを禁じ得なかった。
海は余り荒れていなかった。
私は相当な夕食を楽しんだ。多くの船客仲間と同じようにしようと心を決め、デッキゴルフを一回とブリッジを二回やった。やがて船室に戻ると、船に乗ったときの習慣で、前後不覚に眠り込んだ。
ふと、しつこくゆすぶられるような気がして、目を覚ました。おぼろげに、一人の船員が私の傍に立っているのが見えた。彼は、私が床の上に起き上ると、安堵の吐息をもらした。
「ああ、有難い、やっとお起こしできましたね。大分お起こししたんですよ。いつもあんなに、ぐっすりとお休みになるんですか」
「一体全体、どうしたんです?」
私はまごまごして、寝ぼけまなこで尋ねた。
「船で何事か起こったんですか」
「どういうことか、大尉殿のほうが良くごぞんじだと思いますが。海軍省からの特別の指令で、駆逐艦が、大尉殿をお待ちしております」
「ええっ? こんな海の真ん中で?」
私は叫んだ。
「とても不思議な事件らしいのですが、それは、私の職務ではありません。駆逐艦からは、あなたの身代りの青年を一人よこしております。われわれは皆、秘密を守ることを誓いました。さあ、起きて着替えをなさって下さい」
私は、全くびっくりして、ただ、言われる通りにした。ボートが降ろされて私を駆逐艦に運んでいった。駆逐艦では、丁重に扱われたが、より以上の情報は得られなかった。
副長の指令は、ベルギー海岸のある地点へ私を上陸させることで、彼の知っていること、及び任務は、それだけであった。
すべて、夢のごとくであった。私は、これもポワロの計画の一端であると確信していた。私は、盲目的に、亡き親友を信じ、率直に前進しなくてはならないのだ。
私が、指令された地点に上陸すると、そこに自動車が待っていた。やがて、私を乗せた自動車は、フランダースの平野を横断して走った。その晩は、ブリュッセルの小さなホテルに泊り、翌日、また、車を走らせた。だんだんと道の両側に樹木が多くなり、丘が多くなって来た。私は、アルデン山脈を越えているのに気づき、突然、ポワロが、スパ市に弟がいるといったことを思い出した。
しかし、スパまでは行かず、本道から左に折れて、樹のしげった丘陵地帯を過ぎて小さな村に行きつき、さらに少し離れた山腹に孤立して建っている白い別荘風の家に乗りつけた。車は家の緑色の戸の前に停った。私が、車から降りると、すぐに戸が開いて、年とった下男が戸口に立って私に頭を下げ、フランス語で話しかけた。
「ヘイスティングス大尉殿でいらっしゃいますか。お待ち申し上げておりました。どうぞ、私と一緒にいらして下さいませ」
彼は、先に立って広間を横切り、奥の戸をあけて脇に寄り、私を部屋の中へ通した。
私は、しばらくは、眩しくて瞬きをしていた。その部屋は西向きなので、午後の日射しが注ぎこんでいた。
やがて、視野がはっきりして、両腕を拡げて私を迎え入れようとしている人物の顔が解って来た。その人は……ああ、そんなはずはない! しかし、確かにそうだ!
「ああ、ポワロさん!」と叫んだきり、今度ばかりは私も、彼が抱きついて来るのを避けようともしないでつったっていた。
「ほんとうです。真物《ほんもの》です! 私でございますよ。エルキュール・ポワロは、そうやすやすと死には致しません」
「でも、ポワロさん、どうして?」
「戦略です。君、戦略ですよ。さあ、これで私どもの大仕事の準備がすっかり整いましたよ」
「とっくに話して下すったってよかったのに」
「いや、ヘイスティングス君。話すことはできませんでしたよ。そんなことをしたら、君に、私の葬式のときの役割をみごとやりおおせられたでしょうか? 君にも秘密にしておいたからこそ、君の役が、完璧だったのですよ。そして、四巨頭《ザ・ビッグ4》の連中に、全く真実だと思わせることに成功したのです」
「でも、私は……」
「そう不愉快な奴だと思わないで下さい。私はある程度は、君のためをも思ってごまかしたのでございますよ。私は、自分自身の生命の危険には対抗できましたが、その後、君の生命まで危険に瀕しているのに、良心の呵責を感じました。そして、あの爆発事故の後、素晴らしい考えを思いつきました。親友リッジウェイ博士が、それを、実行する手助けをしてくれました。私が死んでしまえば、君が南米へ帰るだろうと思ったのです。しかし、君が帰りたがらなかったので、逆に、私は、弁護士の手紙と、くだらない長話を工夫しました。結局、君はここへ来てくれましたね。これは大したことです。さて、私どもは、最後の大攻撃、つまり、四巨頭《ザ・ビッグ4》が決定的に破滅する機会が来るまで、ここに待機しておりましょう」
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第四号策略に勝つ
われわれはアルデン山脈中に隠れて以来、世界の動きを見守っていた。われわれは十分な新聞の供給を受けた。また、ポワロのところには毎日、報告書の入っていると思われる分厚な封書が届いた。ポワロは、この報告書を一度も見せてくれなかったが、その内容が満足なものかどうか、彼の様子から探ることができた。ポワロは、現在の計画こそ、その成功を祝福されるべきものだという確乎たる信念を持っていた。
彼はある日、私に話しかけた。
「これは余談ですが、君が私のせいで死ぬのではないかということが、私の絶えざる心配でした。それで私は、神経過敏になり、君のいうびくびく猫のごとくでした。けれども現在は、すっかり満足しております。たとえ彼らが、南米に上陸したヘイスティングス大尉がにせ者だと見破ったといたしましても(私は見破られるはずはないと思います。君を直接に見知っているような手先を派遣することはいたしませんでしょうからね)彼らはきっと、君が自身の賢策で彼らを出し抜いたのだと思い、君の居所を探すことには大して気を使わないでしょう。ただ、最も大切なのは、彼らに私が死んだと確信させることでございます。そして、彼らに、計画を仕上げさせることでございます」
「それから?」私は熱心に尋ねた。
「そこで、エルキュール・ポワロの大復活となります! 彼らの計画が、まさに達成しようとする間際に、私が再び出現して、すべてを混乱に陥いれ、私独特の方式で、無上の勝利をおさめるのです」
私は、ポワロの自惚が、いかなる攻撃にも、びくともしないほど鉄面皮になっていることをはっきりと知った。そして私は、一度ならず二度までも、勝負の栄誉は敵方にあるのだということを注意したのであったが、彼自身の方式に対する、エルキュール・ポワロの熱狂ぶりを減少させるのは、不可能だと悟らなければならなかった。
「ヘイスティングス君、それはトランプでするちょっとした手品のようなものです。お分りでしょう、四枚のジャックを取り出し、その一枚を残りの札を重ねた上に置き、あとの三枚も別々に札の間にはさんで、それをよく切って見せる。四枚のジャックがちゃんと揃って出てくる。これが私の目的です。今までは、あるときは四巨頭《ザ・ビッグ4》の一人と、あるときは他の一人と戦ってまいりましたが、今度こそ、トランプの四枚のジャックのごとく、四巨頭《ザ・ビッグ4》全員を相手にして、一撃の下にやっつけてやります」
「それでどのようにして、彼ら全員を集合させるのですか」
私は尋ねた。
「彼らの攻撃準備が整うまで、最良の機会を待つことに致します」
「それは、長い間という意味ですね」と、私はつぶやいた。
「君、そうあせってはなりません。でも、そう長くなることはないと思います。彼らが、最も恐れていた人物、つまり、私がこの世から消えてしまったのですからね。精々三カ月は生かしておきましょうか」
彼の話から、私はイングルス氏と、その悲惨な最後を思い出した。そして、セント・ジャイルス病院で死亡した中国人のことを、まだ、ポワロに話してなかったのに気が付いた。
ポワロは、鋭い注意力をもって私の話に耳を傾けていた。
「え? イングルス氏の従僕ですって? で、彼がイタリア語で二三の言葉をもらした? 奇妙なことですね」
「それで、私は、きっと、四巨頭《ザ・ビッグ4》のスパイに違いないと思いましたよ」
「その推測は間違っておりますね。君、小さな灰色の脳細胞をお働かせなさい。もし彼が、君を欺くつもりならば、わかり易い、片言まじりの英語を使うことぐらい心得ているでしょう。いや、その使者は、本物だったのでございますよ。君が聞いた言葉を、全部、もう一度聞かして下さい」
「先ず、ヘンデルのラルゴを引き合いに出しました。それから、カロッツアときこえました。カロッツアは馬車のことですね」
「他には何も申しませんでしたか」
「ええ、息を引きとる寸前に、誰か、女性の名前『カラ』とかいう言葉をささやいて、また、『ツィア』といったと思いましたが、それが、他の言葉と、どういう関係があるのか解りません」
「君、そう軽く考えてはいけませんよ。『カラ』『ツィア』は重要、大そう重要な言葉です」
「わかりませんね」
「君はまるきりわからないのですね。とにかく、英国人は地理を知りませんよ」
「地理ですって? 地理が、この言葉とどういう関係があると言うんですか」
「恐らく、トマス・クック氏なら、もっと要領を得た答えをすると思いますね」
ポワロは、例のごとく、それ以上語ろうとはしなかった。人をひどくじれったがらせる彼の癖だ。それでも私は、何点か点をかせいだような気がして、とても快活になった。
毎日が愉しく、しかし、やや単調に過ぎて行った。
その家には、沢山の書籍があり、また、楽しい散歩道があちこちにあった。が、私は時々、こういう生活が退屈で、苛立たしい気特になるのに、ポワロが、この平穏な生活に甘んじていることには驚いた。われわれの静かなる生活を波立たせることは何も起こらなかった。こんな状態が、六月の末まで続いた。ポワロは、四巨頭《ザ・ビッグ4》の情報を得たことを、ある程度まで話すようになった。
そうしたある朝早く、一台の自動車が家の前に停った。今までの平和な生活には例がなかったので、好奇心を満足させるために急いで階下へ降りて行った。階下で、ポワロが、私と同年輩の青年と楽しそうに話し合っていた。
ポワロはその男を紹介した。
「ヘイスティングス君、こちらはハーベー大尉。君のお国の情報局の最も有名な一員でいらっしゃる」
「そんなに有名じゃないんですよ」とその男は、楽しそうに笑いながらいった。
「いや、その筋では大そう有名なのだと申しておきましょう。ハーベー大尉の知人友人の大部分は、心の優しい、でも、あまり頭の良くない青年で、狐のかけあしとか何とかいう名のダンスなるものに心酔している青年だと思っておりますよ」
彼と私は声を揃えて笑い出してしまった。
「さて、用談にかかりましょう。君は、時来れりというご意見ですね」と、ポワロは尋ねた。
「はい、私はそう確信しております。中国は昨日、政治的に孤立しました。中国で何が起こったか、誰にも解りません。無電でも、またそれ以外でも、何の情報も入りません。全く、中絶して、沈黙を守っています」
「李張閻《リーチャンエン》は、彼の持ち扎を示しましたね。それで、他の人たちはどうですか」
「ライランドは、一週間前に英国へ着き、昨日、欧州大陸に渡りました」
「それからオリビエ夫人は?」
「オリビエ夫人は、昨夜、巴里を発ちました」
「イタリアへですね」
「はい、イタリアへ行きました。われわれの判断できる範囲では、二人とも、ポワロ氏の指摘しておられた保養地へ行きました。あなたが、どのようにしてその場所を知っておられたのか……」
「ああ、それは私が自慢するところではございません! それはこのヘイスティングス君の貢献によるものです。彼は、お解りでしょうが、自分の知識を隠しておりますが、大そう造詣の深い方ですよ」
ハーベーは真価を認めるように私の方を見つめた。私はいささか当惑した。
「さあ準備完了。時、来たれり」
ポワロは蒼ざめて、真剣になった。
「手はずは整っていますね」
「あなたのお指図通りに全部の手配がしてあります。あなたの背後には、イタリア、フランス、英国の政府が、手を取り合って働いています」
「事実それは新しい協力国ですね。デジャルドー氏が、ついに納得されたとは、嬉しいことでございます」とポワロは、無愛想にいった。
「さあ、私どもも出発致しましょうか。いや、私だけが出発致しましょう! ヘイスティングス君は、ここに残ってくださいますね。さよう、君、お願い致しますよ。ほんとうに、私は、真面目に申すのですよ」
私は彼を信じていたのに、後に取り残されるのに同意するのはいやだった。
二人の間に交わされた議論は短かかったが断乎たるものであった。
巴里に向けて驀進《ばくしん》する汽車の中で、初めて私は、ポワロが、私の決心を内心は喜んでいるのを認めた。
「君の演ずる役がございます。たいそう大切な役ですよ。君がいなければ、失敗するかも知れません。けれども君が後に残るように説き伏せるのは、私の義務だと感じたのです」
「それでは危険なんですか」
「君、四巨頭《ザ・ビッグ4》あるところ、常に危険ありでございますよ」
巴里に到着すると、東停車場へ車を走らせた。そこでポワロは、ついに、われわれの目的地を告げた。われわれは、ボルツァノを経てイタリア側のチロル地方へ行くのであった。
ハーベーが車室から出て行ったので、どうしてポワロが、指定集合地を発見したのが私の手柄だといったのか尋ねる機会を得た。
「それは、イングルス氏が、どういう風にその情報を手に入れたかは解りませんが、彼は、情報を得たので、自分の部下に託して、私どものところへよこしたのです。私どもは、今、カレルシーに向っているのですよ。君、そのカレルシーと申すのは、ラーゴ・ディ・カレッツアの新しいイタリアの名でございます。さあ、君がきいた『カラ』『ツィア』が、何を指しているか、また『カロッツア』と『ラルゴ』もお解りでしょう。『ヘンデル』と申すのは、君自身の想像で付け加えられたのでしょう。多分、イングルス氏の従僕の申した『手《ハンド》』という言葉との関係が、そうした連想の原因になったのかも知れません」
「カレルシーですって? そんなところ聞いたことがありませんね」と、私は質問した。
「ですからいつも、英国人は地理を知らないと申しているのでございます。カレルシーは、たいそう美しい、有名な夏の行楽地で、ドロミテ地方の中心、四千フィートの高所にあります」
「そして、そんな人里離れた場所が、四巨頭《ザ・ビッグ4》の集合指定地だというんですね?」
「むしろ、彼らの本部と申しましょう。合図が発せられたのです。そして、四巨頭《ザ・ビッグ4》が、世間から姿を消し、山の要塞から指令を出すのが彼らの意図です。私は、そこに沢山の石切り場と鉱床があることを調べました。そして、表面はイタリア系の小さな商会と見せかけてある、その会社は、実際は、ライランドの支配下にあることもつきとめました。私は、山の奥深くの、近づき難い秘密の坑道の奥に、大きな地下住宅ができていると断言するだけの資料を持っています。その隠れ家から、四巨頭《ザ・ビッグ4》は、各国にある数千にのぼる彼らの部下に向かって、無電でその指令を伝えるのです。そうして、かのドロミテの断崖から、世界の独裁者が出現しようという訳です。言い換えれば、もし、エルキュール・ポワロがいなかったら、彼らは出現するであろうと申すことです」
「ポワロさん、本気でそんなことを信じているのですか? 文明の諸機構や軍隊はどうなるんです?」
「それなら、ロシアではいかがですか? ヘイスティングス君。これはロシアと同様になりますよ。しかも、もっとずっと大規模ですし、さらに一層の脅威を伴っております。即ち、オリビエ夫人の研究は、今まで公表されたより以上に進行しているということです。私は彼女が、ある程度まで、原子力を彼女の目的である動力として作用させるところにまで成功していると確信しております。彼女の空気中の窒素に関する実験はまことに注目すべきもので、それと共に、非常に強力な熱線を、一定地点に集中させるための無線エネルギーの研究をしたこともある人ですよ。どの程度まで研究が進んでいるか正確なところは解りませんが、公表されているより以上に進んでいるのは確かです。彼女は天才です。あのキュリー夫人でさえ彼女には及ばない。その彼女の才能に加えて、ライランドのほとんど無限といわれている富の力、そして、非常に優れた犯罪的頭脳の持ち主といわれる李張閻《リーチャンエン》の指示と計画が加わっているのです。……よろしい、君のいわれるように、それは文明を壊滅するには至りますまい」
彼の言葉はひどく私を考え込ませた。ポワロは、時々、誇張した話し方をするにしても、決して人騒がせをする人ではない。私は今初めて、われわれが立ち向かって来たこの闘争がどんなにすさまじいものであったかを認識した。
ハーベーが間もなく席に戻り、旅は続けられた。
ボルツァノ駅に正午につき、そこからは車で旅を続けることになった。街の中央広場で客持ちをしていた数台の大きな青色の自動車一台にわれわれ三人は乗り込んだ。ポワロは、この暑さにもかかわらず、眼の辺りまでオーバーの襟とスカーフで覆っていたので、眼と耳の先しか見えなかった。
それが、警戒のためなのか、それとも、単に風邪を引いては大変だという用心のためにしているのか、私にも解らなかった。車の旅は二三時間だったが、とても素敵なドライブであった。
はじめに通ったところは、一方に流れ落ちる滝を見ながら、高い絶壁の間を出たり入ったりし、次には、豊かな谷間を数マイル走り続け、更に上へ上へと曲りくねって登って行くうちに、下の方に、松の木が密生した、裸岩の峰々が前方に現われて来た。どこも天然のままで、非常に美しかった。そして最後に、片側がずっと松林になっている道路を走り抜けた。険しいカーブの連続だったが、突然、眼前に大きなホテルが現われて、われわれは、目的地に到着したことを知らされた。
われわれの部屋はすでに用意されていて、ハーベーの案内で部屋にあがって行った。部屋の真正面に、岩の峰がそびえたち、その下には松のスロープが続いていた。
ポワロはその峰を指さして、
「あそこにあるんですか」と、声をひくめて尋ねた。
「はい、あそこにフェルゼンラビリンスと呼ばれる場所がありまして、到るところに、異様な大岩石の堆積がありまして、その間を一条の通路が曲りくねって通じています。石切り場はあの峯の右側にあるんですが、入口は、たぶん、フェルゼンラビリンスにあると私どもは思っています」
ポワロは、その説明にうなずくと、
「さあ参りましょう。階下へ降りて、テラスにでも腰掛けて、日光を楽しみましょう」
「それは賢明でしょうか」と、私は尋ねた。
彼は、肩をすくめた。
ここの日光は全く素晴らしい。まぶしいような日光が、私には強すぎる位であった。
私たちは、紅茶の代りにミルク入りコーヒーを飲むと、再び階上の部屋に戻り、少しばかりの持ち物を整理した。ポワロは、何か空想にふけっていて、とても近づき難いような気分になっていた。彼はひとりで、首を一二度ふったり、溜息をついたりしていた。
私は、ボルツァノで、われわれと同じ列車から降り、自動車に乗り換えてからも顔を合わせた、一人の男に興味をそそられた。彼は、小柄な男で、ポワロと同じように、顔をできるだけ隠しているのが、私の注意をひいた。やはり、オーバーにマフラー、そして、大きな青眼鏡をかけていた。私は、ここにも、四巨頭《ザ・ビッグ4》のスパイが一人ついて来たと確信した。ポワロは、私のその意見に、余り関心を持たなかった。しかし、私が寝室の窓から外をのぞいているとき、問題の男がホテルの付近をうろついているのを目撃したと報告すると、彼も、何かあると思ったようであった。
私は、ポワロに、夜食の席には降りていかないようにと説いたが、彼は、階下へ行って食事をすると言い張った。で、結局、少し遅くなって食堂に入ると、窓際のテーブルに案内された。われわれが席につくと、すぐそばで、叫び声と、容器の壊れる音がきこえた。いんげん豆を盛った皿がひっくりかえり、われわれの隣のテーブルに座っている男のひざにかかった。
給仕頭がやって来て、何度もわびていた。
その過失をしたボーイが、われわれの席にスープを運んで来たとき、ポワロがこう言った。
「あれは不運なことをしたね、君の過ちではないようですね」
「そうお思いですか。ええ、本当に私の過失ではございませんでした。あの方が、椅子から半ばとび上るようにされましたのです。私は何かなさろうとしたのだと思います。全く、私には防ぎようがなかったのでございます」
私は、ポワロの眼の色が、いつもの緑色に輝いたのに、気付いた。そのボーイが立ち去ると、声を低めて、
「ヘイスティングス君、エルキュール・ポワロの効果が解りますか……元気で、生きているポワロの?」
「あなたは……」
私は言葉を続ける暇がなかった。ポワロが、私の膝を指でつっつき、びっくりしたようにささやいたからである。
「君、ご覧なさい。彼がパンをいじっている手つきがわかりませんか! 第四号です!」
確かに、われわれの隣のテーブルにいる男は、顔面蒼白となり、ただ、機械的に、パンのかけらをテーブルの上になすりつけていた。
私も、彼をよく観察した。肥った、ひげをそったその顔には生気がなく、病的に血色がなく、眼の下には重くるしいたるみができ、深いしわが鼻から口元にかけて刻まれていた。年令は三十五才から四十五才の間のようである。第四号の、今までに演じて来た仮装の人物のどれにも、特に似たところは無かった。
全く、彼がパンをいじくりまわしていなければ、彼とは全然気づかず、隣のテーブルに腰かけているのは、今まで一度も会ったことのない人物だと思っていたであろう。
「彼は、あなたを見破りましたよ、だからおりて来なければよかったんですよ」と、私はつぶやいた。
「ヘイスティングス君、私は、この一つの目的のために、三カ月前に、死亡したふりをしたのでございます」
「第四号を驚かすためですか」
「彼がすみやかな行動をとらなければならないときに驚かすためですよ。そして、こんな大きな収穫を得たではありませんか。彼は、私どもが第四号だと見破ったことに気づかずにおります。彼は、自分の新しい仮装を安全だと思っております。モンロー嬢が、彼のちょっとした癖を教えてくれたのが何よりの幸運でした」
「それで、どういうことになるでしょうね」と、私は尋ねた。
「どんなことが起こるかですって? 彼は、四巨頭《ザ・ビッグ4》の計画が、いずれとも決まらないというきわどい時期に、彼の最も恐れていた男の、不思議な復活に気がつきました。オリビエ夫人と、ライランドは、今日このホテルで昼食をとり、コルティナへ行ったことになっています。しかし私どもには、実は彼らが自分たちの隠れ場に引っこんだことが解っております。私どもがどの程度まで知っているか? というのが、現在、第四号が知りたがっていることです。彼は決して危険を冒しますまい。ですから、いかなる手段によってでも、私を殺さねばなりません。よろしい、彼に、エルキュール・ポワロを殺させてみましょう? こちらも彼に対する準備は整えております」
彼が話し終えると、次のテーブルの男が立ち上って食堂を出て行った。
「彼はちょっとした手はずを整えに行ったんですな」と、ポワロは落ちついていった。
「さて、コーヒーは、テラスで飲もうではありませんか。大そう愉しいではございませんか。では、ちょっと部屋に戻って、上着を取って参ります」
私は、少しおちつかない気持ちのままテラスに出た。私はポワロの自信には満足しきれなかった。われわれが警戒している間は、何事も起こらなかったが、私は油断しないように決心した。
ポワロは、五分ほどして、私のところへやって来た。例によって感冒にかからないように用心して、耳まで包み隠していた。彼は、私の横の椅子に腰掛けて、うまそうにコーヒーをのんだ。
「英国で飲むコーヒーはひどいですね。欧州の人たちは、コーヒーが、消化作用にいかに大切かをよく理解しておりますよ」
そこへ、隣のテーブルにいた男が、急にテラスへ現われると、なんのためらうところなくこちらへ歩いて来て、われわれのテーブルに三ツ目の椅子を引き寄せた。
「お仲間に入れて頂きたいのですが」
彼は英語で話しかけて来た。
「どうぞ、構いませんよ」と、ポワロがいった。
私はひどく不安であった。確かに、私たちは、ホテルのテラスにいるのだし、周囲にも他の人たちが休んでいた。だが、それでもなお、安心できなかった。何となく危険を感じた。
第四号は、ごく自然な態度で談笑していた。そんなところは普通の旅行者としか見えなかった。彼は、いろいろと観光旅行や自動車旅行の話をし、この地方については全くの権威者のごとく装った。
彼は、ポケットからパイプを取り出してそれに火をつけようとした。ポワロも、煙草入れから細巻きの煙草を一本抜いた。彼がその煙草を口にくわえると、その男がマッチを持って身を乗り出した。
「火をおつけ致しましょう」
彼がそういったとき、ぱっと、燈火という燈火が一度に消えてしまった。そして、ガラスの壊れる音がしたかと思うと、鼻をつくような臭いのために、私は窒息してしまった……
[#改ページ]
フェルゼンラビリンス
私は一分間とは意識不明になってはいなかったはずだ。気が付くと、私は二人の男にはさまれてぐいぐい引き立てられていた。その男達は、私の身体に腕をかけて重みを支えていた。口には猿ぐつわをかまされていた。全くの暗闇だったが、戸外でなく、ホテルの中を通り抜けているようであった。私の耳に周囲でいろいろな国語で、燈火はどうしたのかと怒鳴ったり、尋ねたりするのが聞こえた。
私を捕えている男たちは、幾つかの階段を降り、地下室の廊下を通り、戸を一つ通り抜け、再びホテルの裏口のガラス戸から戸外へ出た。間もなく、われわれは松林の蔭へ到着した。
私は、自分と同じような目にあっている人影をちらと見て、ポワロも、大胆なる襲撃の犠牲となり果てたことを知った。
第四号は、単なる大胆不敵さだけで今日の勝利を博したのだ。私の考えでは、彼は、即効的の麻酔剤、たぶん、エチール塩化物を用いたらしく、われわれの鼻の下でその小球を毀《こわ》して、暗闇の騒ぎに乗じ、彼の共犯者、恐らく、われわれの隣のテーブルに坐っていた客達が、われわれの口に猿ぐつわをはめ、追跡の裏をかくように、素早くわれわれをホテルの中を通り抜けて連れ出したのだ。
私には、それからどの位の時間が経ったか解らなかった。むちゃくちゃな速力で森を走らされた。しかも、道は上りの連続だった。ついに、山腹の荒地に出た。眼前には奇怪な岩石や漂石の大きな塊がごろごろしていた。
これが、ハーベー大尉の話していた、フェルゼンラビリンスに違いない。われわれは更に、その凹地を下ったり登ったりさせられた。そこは、まるで、悪魔のつくった迷路のようであった。
突然、一行は歩みを止めた。巨大な岩が行手をはばんでいた。誰か前屈みになって、どこかを押したと思うと、音もなく、その巨大な岩の塊が自然と向きを変え、そこには、山腹へ通じる小さなトンネルのような通路が現われた。
その通路へ踏み込んだ。しばらくの間トンネルは狭かったが、やがて、広くなったと思うとほどなく、電光に輝く広い岩窟についた。ここで猿ぐつわがはずされ、われわれの前に、勝ち誇ったような嘲笑を浮かべて立っている第四号の合図で身体検査をされ、持ち物という持ち物は全部、ポワロの小型自動拳銃までが、ポケットから没収されてしまった。
私は、最後に、そのピストルがテーブルに投げ出されたとき、悲壮な気持ちになった。われわれの敗北だ。絶体絶命の敗北だ。衆寡《しゅうか》敵せずだ。これでおしまいだ。
第四号は嘲けるような調子でいった。
「ポワロさん、四巨頭《ザ・ビッグ4》の本部へ、ようこそおいで下すった。こうして再びお目にかかるとは、思いもうけぬ喜びです。だが、こんなことのために、墓から生き返って来るだけの価値がありましたかね?」
ポワロは、その質問には答えなかった。私は、なるべく彼を見ないようにしていた。第四号は言葉を続けた。
「こちらへおいで下さい、あなた方のご到着は、私の仲間たちを驚かすでしょうよ」
彼は壁にある狭い戸を指し示した。われわれはその入口から、もう一つの部屋に入った。その部屋の奥のほうには、テーブルが一つ置かれ、その手前には、椅子が四つあった。一番端の椅子には誰も腰掛けず、中国高官の上衣が掛けてあった。二番目の椅子にはライランドが腰掛けて葉巻をくわえていた。三番目の椅子には、眼を輝かし、修道女のような顔付きのオリビエ夫人が寄りかかっていた。第四号は四番目の椅子に着いた。
われわれは、四巨頭《ザ・ビッグ4》の前に立たされた。
李張閻《リーチャンエン》の空席を眼の前にしただけで私は、今まで以上に彼の存在と正体をはっきりと感じるのであった。
遠い中国から、彼はこの、悪質な組織を支配し、指揮しているのだ。
オリビエ夫人は、われわれを見て、微かな叫び声を発した。ライランドは、もう少し自制して、ただ、葉巻を口からはずし、白毛まじりの眉を上げただけであった。彼は鋼鉄のような響きの声で、ゆっくりといった。
「エルキュール・ポワロ君、これは愉快な不意打ちですな、君はうまくわしらを瞞した。わしらは、君はとっくに葬られてしまったと思っていましたよ、だが、それはどうでもいい、もう勝負はついてしまった」
オリビエ夫人は何もいわなかったが、彼女の眼は燃えていた。私は彼女の、ゆっくりと浮かべる微笑が、いやでたまらなかった。
「紳士淑女方よ、今晩は!」ポワロは静かに挨拶をした。
その声には、何か思いがけない、私が耳にしようとは予期しないものがあったので、私は彼のほうを見た。彼は全く、落ちついているようであった。しかし、彼の全体の様子に、何か違ったものがあった。
そのとき、われわれの背後で帷帳《とばり》が動いたと思うと、ロザコフ伯爵夫人が入ってきた。
「ああ、我らの忠実なる副官殿、あなたのかつての親友が見えておりますよ」と、第四号がいった。
彼女は、いつものように、激しい動作でくるりと向きなおった。
「あら、あの小男さんじゃありませんか! この人は猫の九生を持っているんだわ。確かにあの人だわ。どうして、こんなところにまぎれこんで来たの?」
「奥様、私は、ただ今、大ナポレオンのごとくに、大軍にくみしておりますでございます」
彼は頭を下げてこう返答した。と、彼女は、急に疑惑の色をその目に浮かべた。それを見て、私も、今までうすうすと感じていた疑問がなんだったかはっきりと解った。
私の横に立っている男は、エルキュール・ポワロではなかったのだ。
ポワロに似ている! 大変よく似ている、あの卵形の頭といい、もったいぶった態度といい、肥り具合といい、まさに彼そっくりである。しかし、その声の感じが違うし、眼も緑色ではなく、黒かった。そして口ひげ、かの有名な口髭は?……
私は、伯爵夫人の声で我に返った。彼女は、前に歩みより、驚きの声をあげた。
「あなたは欺されましたね、この男は、エルキュール・ポワロではありません!」
第四号は、そんなことはないと叫んだが、ロザコフ夫人は、前にかがんで、ポワロに似た男の口髭をつかんだ。その口ひげは、彼女の手にもぎとられていた。本当は、髭など生えてはいなかったのである。そして、上唇には、顔の表情をすっかり変えてしまうような小さな傷痕があった。
「エルキュール・ポワロでないとすると一体誰なんだろう」と、第四号がつぶやいた。
「私は知っている」と叫んでしまってから、私は、計画をぶち壊してはいけないと気づき、口をつぐんだ。
しかし、私にはまだ、ポワロのように頼りと思えるその男は、私を元気づけるように振り返って、
「どうぞおっしゃい。もうかまいませんよ。計画は成功致しましたから」
「この人は、アシル・ポワロです。エルキュール・ポワロの双子の兄弟です」と、私はゆっくりいった。
「とんでもないことだ」と、ライランドは鋭く言ったが、そのからだは、小きざみに震えていた。
「エルキュールの作戦は、驚くべき成功を遂げましたね」と、アシル・ポワロは、静かに落ち着きはらっていった。
第四号が、前に跳び出して、荒々しく、われわれを脅迫するように怒鳴った。
「成功したって? お前達の生命も永くないことがわからないのか? 殺されるんだぞ」
「はい、解っておりますよ。あなたこそ、一人の男が、生命をかけても成功させようとしているのが、解らないのだな。戦争中には、国のために自分の一命を投げうつ人だって沢山いますよ。私だって、同じように、世界のために一命を捧げるくらいの覚悟でおります」
アシル・ポワロは、厳めしくいい放った。
その言葉は、私にも、喜んで一命を投げ出そうという気持を抱かせたが、これについて、私にも相談しておいてくれてもよかったのにと思った。だが、そのとき、ポワロがどんなにか私に、後に残るように厳しく言ったかを思い出し、それで気持が和らいだ。
「それで、どんな方法で、世界のため一命を投じるつもりかな」と、ライランドはせせら笑うように尋ねた。
「あなたは、私が本気でいるのが解っていられないようですね。そもそも、あなた方が隠れている場所が、私には数カ月前から解っていたのです。あのホテルの滞在客、使用人等は、みんな探偵や、政府の機密機関の役人ばかりなのですからね。あの峰の周囲には非常線が張られております。あなた方がここから外へ出る手段は、いくつかありましょう。しかし、外へ出ることはできても逃げることはできませんぞ。ポワロ自ら、外部の行動を指揮しております。私は今晩、兄に代わってテラスへ降りて行く前に、自分の半長靴に、アニシード液を塗りつけておきましたから、間違いなく、警察犬が跡を嗅ぎつけて、この岩屋の入口のある、フェルゼンラビリンスへ到着しておりますでしょう。私どもにどんなことをしようとも、あなた方の周囲には、固く網が張りめぐらされています。絶対に逃げることはできません」
オリビエ夫人は、突然笑い出した。
「あなたは間違っていますよ。私どもにも逃げる道が一つございます。そして、同時に、昔のサムソンのごとく、敵方をも共に殺してしまうのですよ。いかがでございますか、ポワロさん?」
ライランドが、アシル・ポワロの顔をにらみつけながら、しわがれた声でいった。
「この男は、きっと嘘をついているんだ」
アシルは、肩をすくめた。
「一時間も経たないうちに解りますよ。私の申し上げたことが、真《まこと》か嘘か……。もう追手が、私の足跡をたよりに、フェルゼンラビリンスの入口へ着く頃ですな」
ポワロの言葉が終るか終らないうちに、遠くで、反響が聞こえたと思うと、一人の男が何事かわめきながら駆け込んで来た。ライランドは、椅子からとび上るようにして外へ出て行った。オリビエ夫人は、その部屋の隅へ行くと、今まで気がつかなかった戸を開けた。私は、その中が、巴里で見たように、完全な設備の実験室なのをちらっと見た。
第四号も、椅子から立ち上って部屋の外へとび出して行ったが、ポワロから取り上げた自動拳銃を手にして戻って来て、伯爵夫人に渡した。
「さあ、これでこいつらが逃げる心配はない。だが、まだ、あなたはこれを持っていたほうがよい」と、冷やかにいうと、再び部屋を出て行った。
伯爵夫人がわれわれのところにやって来て、しばらく、私の仲間を注意深く観察していたが、急に笑い出した。
「あなたはとても器用でいらっしゃるわ、アシル・ポワロ様」と、馬鹿にしたような口ぶりで、話しかけた。
「奥様、取引をしようではありませんか。他の人達が、私どもだけを残して行ってくれたのは幸運でした。奥様、いったいいくらで手をお打ちにいたしますか」
「解りませんわ、一体何の代価ですの」
「奥様には、私どもを逃がして下さることがおできですね。あなたは、この隠れ家の抜け道をごぞんじのはずです。いかがでしょうか」
彼女は、それをきくと、また笑い出した。
「それでしたら、あなたにはとても払えない金額ですわ。いいえ、どんなに千金を積んだって、私は買収なんかされませんよ」
「奥様、私は、お金のことを申し上げているのではございません。私は、話の解る男でございます。誘うに道をもってすれば、何人も籠絡《ろうらく》できると申すではございませんか。私は、自分の生命と自由の代りに、あなたの心からの願望を叶えましょう」
「ほんとうにあなたは、魔法使いですね」
「もしお好きなら私を魔法使いとお呼び下さい」
夫人は、急にふざけたような態度を改めて、ちょっと辛そうな声音で言った。
「馬鹿な! 私の心からの望みですって? あなたは私の敵に復讐をして下さるかしら? あなたは、私に若さと美しさと楽しい心を取り戻して下されます? あなたは死んだ人を、蘇生させることができまして?」
アシル・ポワロは、彼女の顔を興味深く見守っていた。
「今おっしゃった三つのうち、どれにいたしましょう? 奥様、あなたがお選び下さい」
彼女はせせら笑った。
「あなたは、私に不老長寿の薬を売りつけようとなさるのね。さあ、それでは、あなたと売買の契約を致しましょう。私はかつて、子供を一人持っておりました。どうぞ、その子供を探し出して下さい。そうすればあなたを自由にしてあげます」
「奥様、よろしゅうございます。さあ、約束致しましたよ。あなたのお子さまは、必ず貴女に返されます。ご信用下さい……さよう、エルキュール・ポワロをご信用下さい」
彼女は、長い間笑いこけていた。
「ポワロ様、私は、あなたをちょっとした罠にかけたようですわ。私の子供を見付けて下さるとお約束下さって有難うございます。でもあなたが、この約束を覆行なされないのが目に見えています。ですから、これはあなたの一方的取り引きになると思いますが、いかが?」
「奥様、私は、お子さまをきっとあなたのお手に返すと、神に誓います」
「前にも、お伺いしましたけど、死人を生き返らせることおできになりますか」
「それでは、お子さまは……」
「ええ、死にましたわ」
彼は、歩み寄り、彼女の手首を掴んだ。
「奥様、この私はもう一度、誓言致します。私は、死人をも蘇らせます」
彼女は、うっとりした眼でポワロを見つめていた。
「奥様は、私を信じては下さらないのですね。では、私の申した言葉を証明してお見せしましょう。さっき、私から取りあげた紙入れを持ってきて下さい」
彼女は室外へ出て行き、紙入れを持って戻って来た。その間も、彼女は自動拳銃のひきがねに指をかけていたので、アシル・ポワロが、伯爵夫人を欺く機会などほとんどなかった。ベラ・ロザコフ伯爵夫人も頭が良かった。
「奥様、どうぞそれをお開け下さい。左手にある蓋です。はい、結構です、その中から、写真を出してご覧下さい」
いぶかりながらも、彼女は、小さなスナップ写真をとり出して、それを一目見るや、叫び声を上げたかと思うと、倒れそうになった。
「どこ? どこにいるんです? どうぞ、おしえて下さい、どこですか」
「どうぞ、取り引きの約束を、お忘れにならないように」
「ええ、わかってます。あなたを信用致します。早く! 仲間たちが戻って来ないうちに!」
ポワロの手を取ると、彼女は、素早く、そっと部屋の外へ連れ出した。私も後に続いた。次の部屋から彼女は、われわれが初めに通ったあのトンネルに導いた。少しいくとトンネルは二股になっていた。彼女は右手に折れた。その通路は何度も途中で分れていたが、彼女は決してためらったり道を間違えることもなく、敏速に、われわれを導いていった。
「ああ、間に合ってくれればようございますけれど! 私達は、爆発する前に、この外へ出なくてはならないんです」と彼女は、喘《あえ》ぎながらいった。
われわれはさらに歩き続けた。私はこのトンネルが、山の中を突き抜けて、最後にわれわれは別の谷間に面した山の反対側へ出るのだと見当がついた。額に汗が幾筋も流れてきたが、私はなおも走り続けた。
やがて遠くに日光が見えてきた。それがだんだんと近づいて来た。私は、緑の灌木が生えているのを見た。われわれはそれを無理に押し分けて前進した。
われわれは、再び、大気の中に出た。曙の弱い光が、万物をばら色に染めていた。
ポワロのいった非常線は真実であった。われわれがトンネルから出ると、三人の男が襲いかかって来たが、私達だと解ると、驚きの声を上げた。
「早く、早く、ぐずぐずしている場合では……」と、私の連れがいった。
だが、彼の言葉が終らないうちに、地面がぐらぐらっと揺れたかと思うと、凄いうなりがして、まるでその山全体がくずれ落ちるような気がした。われわれは、空《くう》を切って真逆さまに投げ出されてしまった。
やっと意識を取り戻したとき、私は見知らぬ部屋のベッドに寝かされていた。窓際に、誰か男が腰掛けていたが、こちらへ来て、私の傍に立ち止った。
それは、アシル・ポワロ……それとも……
聞きなれた、皮肉たっぷりの話し声は、私が今まで抱いていた疑いを一掃した。
「ヘイスティングス君、私でございますよ。私の弟は、再び家に帰りました、架空の国へね。ずっと、エルキュール・ポワロの二役だったのです。芝居を演じられるのは、第四号だけではありません。眼の中に入れたベラドンナと、口髭の大きな犠牲と、二カ月前に、ひどく苦しめられた、本当の傷痕、これだけ揃っていなかったら、第四号の鷲のように鋭い眼をごまかすような危険は冒せなかったでしょう。そして、最後の仕上げは、君が、自分の知っている限りでは、アシル・ポワロのようだとにおわせたことでした。君が私に尽くして下さった助力は、大そう効果的でしたね。今度の成功の半分は、君のものでございます。私が一番苦労した点は、エルキュール・ポワロが、依然として自由の身で作戦に当っていると、彼らに信じさせることでした。他のことはみんな真実でした。たとえば、アニシードの液を靴に塗ったことや、非常線などはね」
「でも、どうして、ほんとうに身代りを送り込まなかったんですか」
「私がそばにいないで、君だけをそんな危い所へ行かせられると思いますか。その点、君は私に対してとんだ考え違いをしていましたね。それに私は、本気で彼女に逃げ道をおしえてもらおうと思っていたのです」
「一体全体、どのようにして、彼女に信用させたんですか。あの死んだと思われている子供のことを彼女に信じさせるには、貧弱な根拠ではありますまい?」
「あの伯爵夫人は、君より、はるかに聡明でいらっしゃいますよ、ヘイスティングス君。
初めは彼女も、私の変装に欺されましたが、直きに見抜いてしまいました。彼女に、あなたはとても器用でいらっしゃるわ、アシル・ポワロ様といわれたとき、ははあ、見破られたなと思いました。私の切り札を出すのは、このときだと思いました」
「死人を生き返らせるとかいう、あのくだらない話ですか」
「その通り。私は、彼女の子供のことを以前から知っておりましたのでね」
「えっ、何ですって?」
「確か君は、私のモットーをごぞんじでしたね。『前々から準備しておくこと』私は、ロザコフ伯爵夫人が、四巨頭《ザ・ビッグ4》に加わったことを知るとすぐに、彼女の生いたちに関してできるだけの調査を致しました。そして、彼女には、殺されたと言われている子供が一人あることが解りましたが、その話に、やはり、その子供は生きているのではないかと疑いを抱かせるような不審の点を見付け、ついに私は、その少年の行方をつきとめることに成功し、多額の金を支払い、その子供を自分の手に入れましたが、その少年は、可哀そうに、餓死寸前の有様でした。私は、彼を安全な場所に、親切な人々にまかせました。その新しい環境のもとで、少年のスナップ写貢を写して持っておりました。それで、好機が到来したときには、私のちょっとした舞台効果の準備は、すっかりできあがっていたという訳でございます」
「ポワロさん、あなたは素晴らしい、全くすばらしいですね」
「私はその作戦的効果は別として、その少年のことを彼女に話せたのを大そう嬉しく思っております。私は、あの伯爵夫人を讃美しております。あの女性が、あの爆発で死ぬようなことでもあったら残念ですからね」
「少し恐ろしくて、質問を差し控えていたのですが、四巨頭《ザ・ビッグ4》はどうしましたか」
「死体がみんな発見されましたが、第四号は、首が粉みじんになってしまっていて、到底判別がつかなくなっていました。私は、そんな結果にならぬように願っていたのでしたがね。私は、それが第四号かどうか確かめたかったのでしたが、もはやそれもできません。君、これを、ごらんなさい」
彼は、ある記事に印をつけていた新聞を渡してよこした。そこには、悲惨な敗北に終った近代革命を工作していた李張閻《リーチャンエン》の自殺が報じられてあった。
「ああ、偉大なる敵よ、彼と私とは決して生きては会えない運命だったのです。彼は、本部の惨事の報を受けて、最も簡単な道をとったのです。彼は、偉大な頭脳の持ち主です。君、全くすごい頭脳の持ち主ですよ。だが、私はあの第四号だった男の顔を見たかったです。第四号……もしかすると……これは、私の空想かも知れません。彼は死にました。そうです。私どもは、共に、四巨頭《ザ・ビッグ4》に立ち向い、共に四巨頭《ザ・ビッグ4》を打ち破りました。さあ、君は美しい奥様の許へお帰りになるでしょうね。そして、私は、引退いたします。私の生涯の中で、最大の事件は終りました。これから後の事件は、みんな平凡に見えるでしょう。いや、私はもう引退いたします。私はきっと、野菜作りでもいたしますでしょう! それどころか、結婚して身を固めるかも知れませんよ」
ポワロはそういって、さも面白そうに声をあげて笑った。だが、その笑いには、多少気まり悪そうなところもあった。私はそうあってほしいと思う……小男というものは、とかく、大柄で、華麗な女性を崇拝するものである……
「私が結婚して身を固める……なきにしもあらず」と、彼は再びいった。(完)