アガサ・クリスティ/松本恵子訳
ゴルフ場殺人事件
目 次
謎の招致状
私の名はシンデレラ
ポワロの予感
ジュヌビエーブ荘
ベラと署名した手紙
動いていた腕時計
ジロー探偵の自信
花壇の足跡
第二の死体
わが友、シンデレラ
両探偵、対立す
秘書は呆気にとられた
出帆しなかった息子
ポワロ、夫人を疑う
また一人、殺された!
死後四十八時間以上
謎の浮浪人
パリみやげ
ベロルディ事件
墓穴を掘ったのは男である
マルト嬢の見たこと
ジャック逮捕さる
ポワロの脳細胞に映ったもの
ベラの顔……シンデレラの顔
愛はすべてを
恋がやって来たのですね
ベラ嬢姉妹の失踪
ポワロ、五百フランを賭ける
自首してでた真犯人
私あての手紙
その夜の出来事
旅路の終り
訳者あとがき
登場人物
シンデレラ……謎のアクロバット芸人
ルノール氏……南米で成功した富豪
ルノール夫人……ルノール氏の愛妻
ジャック……ルノール氏の一人息子
ドーブリーユ夫人……ルノール邸の隣家の住人
マルト嬢……ドーブリーユ夫人の一人娘
ストーナー……ルノール氏の秘書
ベラとドルシー……『ドルシベラのちびっ子連』の芸名で売り出しの双生児のアクロバット芸人
ジロー探偵
オート予審判事
ベエ署長
ヘイスティングス
エルキュール・ポワロ
謎の招致状
私の名はシンデレラ
ある若い小説家が、疲れはてている編集者の注意を、自分の作品に釘付けにする効果をあげ得るような独創的で力強い書き出しをしようと決心して、つぎのような文句を書いたという、有名なエピソードがあったと思う。
――「畜生!」と侯爵夫人はいいたまいぬ
妙なことに、私のこの物語も、これと同じ形式で始まるのである。ただしこういう言葉を口にした女性は、侯爵夫人ではなかった。
それは六月の初旬であった。私はパリである商取引をすませて、朝の列車で、旧友である元探偵、ベルギー人のエルキュール・ポワロと同居している、ロンドンの宿へ帰る途中であった。
カレー特急は、珍しくすいていた……実際に、私の車室には、ほかに乗客は一人いるだけであった。私はひどく急いでホテルをたつ羽目になったので、発車した時には、自分の荷物を全部、まちがいなく持ち込んだかどうかを調べるのに忙殺されていて、自分の同室者には、ほとんど注意を払わなかったが、その時、彼女の存在を強く意識させられたのであった。彼女は急に立ちあがって、ガラス戸をおろし、窓から首を突き出したと思うと、すぐに引っこめて、短い激しい感投詞を口にしたのであった。
「畜生!」
元来私は、旧式な人間なので、女は女らしくするべきだと考えていた。朝から晩まで、陽気にはしゃぎまわったり、煙突みたいに、煙草の煙をあげ続けたり、ビリングゲイトの魚屋のおかみさんのような言葉づかいをする、神経病者みたいな近代女性には、我慢がならないのであった。
私は、いささか眉をひそめて、モダーンな紅い帽子をいただいた、美しい無遠慮な顔を見あげた。ゆたかな黒いカールが両耳をかくしている。まだ十七歳そこそこの年頃と思われるのに、顔におしろいをつけ、唇も不自然に真っ赤にしていた。
彼女は、何ら恥ずる様子もなく、私の凝視を受けとめて、表情たっぷりに顔をしかめて見せた。
「あらまあ、私たち、ご親切な紳士を、|ぎょっ《ヽヽヽ》とさせたのね! あんな言葉をつかって、ごめんなさい。とても淑女らしくないことね……でも、それには、それ相応の訳がありますのよ。おわかりになって? 私ね、たった一人の姉に、はぐれてしまったんですの」
「そうですか。それはご不幸なことで……」と、私は礼儀正しくいった。
「彼は認めないんです! 全然、認めてくれないんです……私のことも、姉のことも……姉にはまだ会ってもいないのに、不都合ですわ!」とお嬢さんはいった。そして私が口をきこうとすると、黙らせてしまった。
「何もおっしゃらないで! 誰も私を愛してくれないんです。私は庭へ出ていって、いも虫でも食べるんだわ! ああ! ああ! 私は、ぺしゃんこになっちまった!」
彼女は、大判のフランス漫画新聞の背後に、身をひそめてしまった。一二分して私は、彼女の眼が、新聞越しに、そっと私のほうを覗いているのに気づき、思わず微笑をもらした。するとただちに、彼女は新聞を傍に投げ出して、楽しげな高笑いをするのであった。
「あなたは、見かけほど阿呆でないの、私、知っていたわ!」と彼女は叫んだ。
彼女の笑いが、あまりに伝染力を持っていたので、私は阿呆などという言葉は、気にくわなかったにもかかわらず、一緒に笑い出してしまった。
「さあ、これで私たちは、お友達ね! 私の姉のことを、気の毒だって、おっしゃって!」と、このおてんば娘はいうのであった。
「僕は、みじめな気持ちです!」
「そりゃ、いい子だわ!」
「僕に終りまでいわせてください。僕はね、みじめに感じていますけれども、お姉様なしでも、何とかうまくやっていけますと、いおうとしていたんですからね」
ところが、この、世にも不思議なお嬢さんは、眉をひそめて、首をふった。
「よして! 私は『威厳ある不満』で、やっつけられるほうが好き! ほら、あなたの顔に、『お前は我々の階級の人間ではないぞ』と書いてあるじゃありませんか! その考えは正しいわ……でもお気をつけ遊ばせ。近ごろは、下婢《はしため》と侯爵夫人との見分けをつけるのはとてもむずかしくて、誰にでもできるというわけではありませんわよ。ほら、またあなたは、呆れ返っていらっしゃる! あなたは未開地から狩り出されてきたみたい。そうですわ。でも私は、そんなこと、気にしませんけど。私たち、あなた方のような種類の人とも、少しはおつきあいできますのよ。ただ酔っ払う奴は大嫌い。私、そういうのに会うと、気狂いみたいになってしまうんです」
「あなたが気狂いみたいになると、どんなになるんですか」私は微笑しながら尋ねた。
「まったくの悪魔になってしまうんです。自分が何をいおうと、何をしようと構わなくなってしまうんですのよ! 私一度、ある奴を、もう少しでやっつけてしまうところでした。ほんとうですのよ! そいつは当然そんな目にあうべきだったんです」
「僕に対して、気狂いみたいにならないでくださいね」
「そんなことにはならないわ。私、あなた好きなんですもの。初めてあなたを見た時から、そうだったの。でもあんたは、ひどく私を非難するような顔をしていらしたから、よもや、私たちが、お友達になろうとは、思いませんでしたわ」
「僕らは、こうしてお友達になったんですから、一つあなたの身の上のことか、何か、話してきかせませんか」
「私は女優。いいえ、あなたが考えなさるようなのとは違います。私は六つの子供の時から舞台を踏んだんですのよ。とんぼ返りなんかして」
「とんぼ返りというと?」
「あなたは、子供のアクロバットごらんになったこと、おありにならないの?」
「ああ、そうですか。わかりました」
「私、アメリカ生まれですけど、大方はイギリスで暮してきたんです。私たち、また新しいショーに出ることになっているんですのよ」
「私たちですって?」
「私と姉ですの。歌って踊って、台詞《せりふ》も少し入れて、古いのも織り込んでやるんですの。そりゃ新しい思いつきなんですのよ。いつでもヒットするんです。そしてお金が入ってくるんですわ……」
私の新しい知己《ちき》は、身を前へ乗り出して、ぺらぺらしゃべった。その大部分は、私には理解できなかったが、それでも私は、だんだんこの娘《こ》に対して興味を抱くようになった。何だか、子供と大人のあいの子みたいな娘である。世間を知りきっていて、自分のことは自分で始末ができるというのであるが、それでいて、人生に対して一本気の態度を持ち、「よくやろう」ということに全精神を打ち込んでいるところに、妙に純真なものが感じられた。
アミアンを通過した。その地名は種々の記憶を呼び起こした。私の相手は、私の心の中に何が去来しているかを知る、本能的なものを持っているらしかった。
「戦争のことを考えていらっしゃるの?」
私は、うなずいた。
「戦争にいっていらしたんでしょう?」
「相当長くね。負傷したことも一度あるんです。ソンムの激戦の後で、傷病兵として帰還させてくれたんです。それで現在は、ある議員の秘書のようなことをしているんです」
「あら! 頭がいいのねえ!」
「違いますよ。実際、あんまり仕事はないんです。たいてい一日二時間もすれば暇になるんです。それに、退屈な仕事なんですよ。何かほかにすることがあるからいいようなものの、さもなかったらやりきれたものじゃないですよ」
「まさか、昆虫採集じゃないでしょうね」
「いや、私はとても面白い人物と同居しているんです。その人はベルギー人で、もと探偵だったんですよ。現在はロンドンで、私立探偵をやっているんです。素晴らしくよくやっているんですよ。まったくその人は驚くべき人物で、警察が失敗した事件なんかでも、その人がうまく解決してしまうんですからね」
相手は、眼を丸くして聞き入っていた。
「そりゃ面白いでしょうね! 私、犯罪が大好き。ミステリー映画はかかさず見るんですのよ! 新聞に殺人の記事なんか出ていようものなら、もうむさぼるように読むの」
「あの、スタイルズ荘事件を覚えていますか」
「ちょっと待って……あれはお婆さんが毒殺されたんじゃなくて? どこか、エセックス辺で」
私は、うなずいた。
「あれは正に、ポワロが最初に扱った、大事件でしたよ。ポワロがいなかったら、あの犯人は、処罰を受けないでしまったかも知れないんです。あれは探偵の仕事の中でも、特に驚くべきものでしたよ」
私は、次第に、この問題に熱中して、事件の大要を急いで語り、思いがけぬ勝利の大団円にこぎつけた。彼女は魅せられたように、耳を傾けていた。我々はあまり夢中になっていたので、いつの間にか列車は、カレー駅に到着してしまった。
私は赤帽を二人呼んだ。そして私達はプラットホームに降りた。私の相手は、手をさし出した。
「さよなら! これから私ね、言葉使いを、もっと気をつけますわ」
「しかし、連絡船で、僕にあなたのご用を勤めさせてくださるんでしょう?」
「船に乗らないかも知れませんのよ。結局、姉がどこかで乗船したかどうか、調べなければなりませんもの。どっちみちありがとうございました」
「だが、またお目にかかれるでしょうね。あなたはお名前も聞かしてくださらないんですか」
私は、立ち去る後ろから、彼女に呼びかけた。
お嬢さんは振り返って、肩越しに、
「シンデレラよ!」といって、笑うのであった。
しかし私は、その時、いつか、どこかで、シンデレラに再会しようなどとは、考えてもみなかった。
ポワロの予感
翌朝、九時五分に、朝食をとろうと思って、二人の居間へ入っていくと、ポワロはいつものように、正確に時間を守り、ちょうど二つ目の半熟卵の殻を割っているところであった。
ポワロは、私を見ると顔を輝かした。
「よく眠れましたか、え? あの恐ろしい航海の疲労を回復しましたか? 不思議なことですね。君は今朝は時間にほとんど正確です。ちょっと失礼、君のネクタイが、びっこになっておりますよ。直させてください」
私は前にも、エルキュール・ポワロなる人物の紹介をしたことがあったが、新しい読者のために、もう一度それを繰り返そう。彼は珍しい小男! 身長一メートル六〇、卵なりの頭を少しかしげていて、興奮すると眼が緑色に輝き、軍人のようにぴんとはね上った髭と、非常にもったいぶった態度! 服装は小ざっぱりとしていて、ひどくおしゃれである。清潔ということに対して、いかなる場合にも、絶対的な熱情を持っている。装飾品の置き方がちょっとでも曲がっていたり、一片のちりでも、衣服のちょっとした皺《しわ》でも、この男には苦痛なのである。それを、きちんと直すまでは、気が休まらないのである。「順序」と「方式」は、彼の偶像である。彼は、足跡とか、煙草の灰というような、実際に手を触れることのできる証拠に対しては、幾分の軽蔑心を抱いている。そういうものは、それ自身を取りあげただけでは、探偵が事件を解決するわけにはいかないと、主張している。そして彼は、途方もない満足をたたえて、卵なりの頭を叩いて、ひどく満悦のていでこういうのである。「真の仕事はこの内部で出来あがるのでございますよ。この小さな灰色の脳細胞……君、常にこの小さな灰色の脳細胞を覚えていてくださいよ」と。
私は椅子に腰をおろして、ゆっくりとポワロの挨拶に答え、カレーからドーバーまで、わずか一時間の航海は「恐ろしい」などという言葉でいかめしくされるようなものでなかったといった。
「郵便で何か面白い事件でもやってきませんでしたか」と私は尋ねた。
「まだ手紙を見ませんが、近ごろは格別面白いものなどきませんよ。偉大なる犯罪者、方式をわきまえている犯罪者などと申す者は、存在しておりませんよ」
ポワロはいかにも失望したように、首をふった。私は大笑いした。
「ポワロさん、元気をお出しなさい。運は変転す、ですよ。手紙をお開きなさい。大事件が地平線の上に現われかかっているかも知れませんからね」
ポワロは微笑し、封書を開くのにいつも使っている、気のきいた小さなナイフを取り出して、皿のわきに置いてあった、数通の手紙の封を切り始めた。
「請求書、もう一つ請求書。どうも年を取ってから、少し贅沢になりましたよ。これはジャップさんからのだ」
「え?」
私は聞き耳をたてた。この警視庁警部は、一度ならず、面白い事件を我々のところへ持ち込んだことがあったからである。
「これはただ、私がアバリストワイズ事件のちょっとした点について助言して、あの人の誤りを正してあげたのに対し、あの人流の表現で感謝してよこしたのですよ。あの人の役に立ってあげることができて、私はよろこんでおりますよ」
ポワロはなおも落ちつき払って、つぎつぎと手紙を読んでいった。
「この辺のボーイスカウトに講演してくれという申し出と、フォーファノック伯爵夫人が、私の訪問をよろこぶだろうということです。またきっと狆《ちん》のことですよ。さあ、最後の手紙は……ああ!」
私は彼の声の調子が変ったのに気づいて、顔をあげた。ポワロは、注意深く読んでいたが、少したって、その手紙を私のほうへ投げてよこした。
「これは少し変っていますよ。君、読んでごらんなさい」
それは、大胆な特長のある筆跡で、外国のものらしい紙に書いてあった。
フランス、メルランビーユ海辺
ジュヌビエーブ荘にて
私は探偵の助力を必要としております。そして後に述べる理由により、警察の力をかりたくないのであります。貴殿については各方面から聞いております。それらの報道は、貴殿が単に非常な才能の持ち主であられるばかりでなく、物事に対しいかに慎重に処せられるかということを示しております。書面にて詳細をお知らせすることははばかりますが、私はある秘密を持っておりますために、日夜生命の危険におびやかされております。この危険は、非常に緊迫しておりますので、時を移さずフランスへご渡航くださるようお願い致したいのであります。ご到着の時刻を打電くだされば、カレーまでお迎えの自動車を差しあげます。
貴殿が目下お扱いになっておられる事件をすべて放棄して、私のために全力をお注ぎいただければありがたいと存じます。それに要する費用は惜しまぬ所存であります。場合によっては、私が数年を過ごしましたサンチャゴまでご出張願うやも知れず、したがってかなり長期間にわたってご助力を仰ぐことに相成ると存じます。報酬は、貴殿のほうよりお申し出くだされば幸甚であります。
緊急を要すると申す点を、もう一度繰り返させていただきます。
P・T・ルノール
この署名のあとに、「是非おいでを乞う!」という一行が、走り書きしてあったが、それはほとんど読みとれないほど不鮮明であった。
私は、胸をどきどきさせながら、手紙をポワロに返した。
「ついにやってきた! これはたしかに、普通のものではありませんね!」
「そうです。まったくね!」とポワロは考え込みながらいった。
「もちろん、出かけるんでしょうね」と私は言葉を続けた。
ポワロはうなずいた。彼はすっかり考え込んでいたが、やがて決心がついたらしく、ちらと時計を見た。その顔は真剣であった。
「君、ぐずぐずしてはいられません。だが、大陸急行はビクトリア駅を十一時発ですから、あわてることはありません。時間はまだたっぷりあります。十分間は話し合う暇がありますよ。もちろん、君も一緒にいくでしょうね」
「でも……」
「君の雇い主が、数週間は用事がないといったと、君自身で話したではありませんか」
「そのほうは大丈夫なんですが、このルノール氏が特に秘密を要するというところに力を入れているんで……」
「何をいっているのです。ルノール氏のほうは、私がうまくやりますよ。ところで、この名は聞き覚えがあるように思うのですが?」
「有名な南米の億万長者で、ルノールというのがありますが、同一人物かどうか、わかりませんね」
「そりゃ確かにその人にちがいありませんよ。サンチャゴのことがこの手紙にあるのも、それで説明がつきます。サンチャゴはチリにあります。そしてチリは南米にあります。ああ、うまく運んでいますね。後書きに気がつきましたか。君はどう思いましたか」
私は考えた。
「たしかに、自制しながらこの手紙を書いていたんですが、最後にとうとう感情をおさえきれなくなって、この後書きの一行を、衝動にかられて書きなぐったんでしょうね」
しかし、ポワロは強く首を横にふった。
「君のいうことは間違っています。署名のインクがほとんど黒いのに、後書きのほうは色がずっと薄くなっているでしょう?」
「それで?」と、私は当惑していった。
「君、君、すこし脳細胞を働かせてくださいよ! こんなにはっきりしていることではありませんか! ルノール氏はこの手紙を書いた、吸取紙も用いないで。もう一度注意深く読み返し、それから衝動にかられたのではなく、意識して、この最後の言葉を書きたして、吸取紙を使ったのです」
「しかし、なぜですか」
「そうですよ。あなたに与えたと同じ効果を私に与えるためですよ」
「何ですって?」
「私が、必ず行くようにですよ! 手紙を読み返して不満に思ったのです。まだ力がたりないと思ったのです」
ポワロはそこで言葉を切った。その眼は、いつも内部の興奮をあらわすあの緑色に輝いていた。そして、やわらかな調子で、語り続けた。
「それで、君ね、この後書きが、衝動的なものではなく、真面目に、冷静に付記されたのですから、その緊迫さは、それだけ大きいものとみなければなりません。だからできるだけ早く行ってあげるべきなのです」
「メルランビーユというのは、聞いたことがあるような気がしますね」私は考え込みながらつぶやいた。
ポワロは、うなずいた。
「それは静かな小さなところです。なかなかしゃれたところですよ。ブーローニュとカレーの中間にあります。ルノール氏は、英国にも邸宅がありますでしょうね」
「僕の記憶では、ルットランド・ゲイトと、それからハートフォードシャーのどこかに大きな荘園を持っていると思いますが、詳しいことはわかりません。あんまり社交的な人物ではないですからね。何でも南米関係の株を相当もっていると思います。今まで、生涯の大部分をチリとアルゼンチンで暮らしてきた人なんです」
「こまかいことは、本人から聞くとしましょう。さあ荷造りです。お互いに小さい旅行鞄を一つということにして、タクシーをビクトリア駅まで飛ばしましょう」
十一時には、我々はビクトリアからドーバーに向っていた。出発前に、ポワロはルノール氏に電報を打って、カレーに着く時間を知らせた。
船の中では、ポワロを一人にして、邪魔しないほうがいいと私は心得ていた。素晴らしい上天気であった。海は鏡のようになめらかだったので、カレー上陸の時に、いつも船に弱いポワロが、にこにこして現われたのを見ても、私は驚かなかった。
失望が我々を待っていた。というのはルノール氏から迎えの車が来ていなかったのだ。しかしポワロは、電報の配達が遅れたためと解釈した。
「自動車を雇えばよろしい」と彼は元気よくいった。
数分して、我々はいまだかつてお目にかかったことのないような、ぼろ自動車に乗って、がたがた揺られながらメルランビーユに向っていた。
私の元気は最高潮に達していた。だがポワロのほうは心配そうに私を見守っているのであった。
「君は、スコットランド人のいう、死の前の大はしゃぎのようですね。君は災厄を予告しているようだ」
「ばかなこといわないでください。とにかくポワロさんは、僕のような気分になれないらしいですね」
「そうですとも。私は怖れているのです」
「何を怖れているんですか」
「それはわかりません。しかし何か予感がするのです……どうしてだかわかりませんが」
ポワロがあまり真剣な調子なので、私も知らず知らずつりこまれてしまった。彼は、
「どうやらこれは大事件になりそうです……容易に解決できない、厄介な問題になりそうですね」と、ゆっくりいった。
私はもっと先を聞きたかったが、ちょうどその時、メルランビーユの小さな町にさしかかったので、ジュヌビエーブ荘へいく道を聞くために、車の速度をゆるめた。
「町を真っすぐ通りぬけていきなさると、約半マイル先に、ジュヌビエーブ荘があるです。すぐわかるですよ。海を見晴らす大きな別荘ですからね」
我々は、教えてくれた人に謝して、町を後にして車を走らせて行った。二股道に来たので、また、停車しなければならなかった。前方から農夫が歩いてくるのが見えたので、そばへ来たら道を尋ねようと思って待っていた。その路傍に小さな別荘があったが、これはあまり小さくて、荒れはてているので、我々の求めているものでないのは当然であった。待っている間に、そこの門の戸が開いて、娘が出てきた。
農夫が近づいたので、運転手が身を乗り出して方向を尋ねた。
「ジュヌビエーブ荘ですかい。この道をほんのちっとばかりいった右側でがんす。道がくねってねえば、見えるんだがね」
運転手は礼をいって、再び車を出した。私の眼は、門に片手をかけて我々を見守っていた娘に引きつけられていた。私は美の讃美者である。その娘は誰でも見のがすことのできないような、美女であった。背がすらりと高く、何もかぶっていない頭には、若い女神にもふさわしい金髪が日光にきらきら輝いていた。それはまったく、今まで見たこともないほどの美人だ。でこぼこ道を、がたがた揺られながら、私は後ろをふり返った。
「ポワロさん、あの女神を見ましたか!」と私は叫んだ。
ポワロは、眉をあげた。
「また始まった! もう女神を見つけたのですか!」と彼はつぶやいた。
「だけれど、ほんとうにそうだったでしょう?」
「私は、そうとは気がつきませんでしたね」
「でも、あなたは、ごらんになったんでしょう?」
「君、二人の人間は必ずしも、同じものは見ないものですよ。たとえば、君は女神を見、私は……」ポワロはためらった。
「ええ?」
「私は、ただ、心配そうな眼をした娘を見たのです」と、ポワロは真面目にいった。
だがその瞬間、我々は大きな緑色の門に乗りつけた。と同時に、二人とも叫び声をあげた。門前には、巡査がいかめしく立っていて、我々の行く手をはばむように、両手を拡げた。
「お入りになれません」
「しかし、ルノール氏にお目にかかりたいのです。僕らは約束があって来たんだ。たしかにこれが、その家と思うんだが」と私は叫んだ。
「そうです。しかし」
ポワロが、のり出して尋ねた。
「しかし、何ですか?」
「ルノールさんは、今朝殺されたのです」
ジュヌビエーブ荘
この瞬間、ポワロは車から飛び降りて、眼を興奮に燃えあがらせた。
「何とおっしゃる! 殺された? いつ? どうして?」
巡査は胸を張って、
「お答えはできないのであります」といった。
「そうですね。わかりました」少し考えてからポワロはいった。
「警察署長は中におられるでしょうね」
「おられます」
ポワロは名刺を取りだして、それに数語を書いた。
「では、この名刺をすぐ、署長殿にお渡しするように計らってくださいませんか」
巡査はそれを受け取って、首をねじって、肩越しに呼子の笛を吹いた。すぐに同僚がやってきた。そしてポワロの伝言が渡された。数分待っていると、背の低い、肥満した、大きな口髭をたくわえた男が、門のほうへ大急ぎでやってきた。巡査は敬礼をして、傍へ退いた。
「これは、これは、ポワロさん、ようこそ! また大そう都合よく来てくだすったものですな」と、新来者は叫んだ。
ポワロの顔は、明るくなった。
「ベエさん、まことに嬉しいことですね!」といって、ポワロは私をふり返り、
「これは私の友人のヘイスティングス大尉。こちらはルシャン・ベエ氏」と紹介した。
警察署長と私は、互いにていねいに、おじぎをした。ベエ署長は再び、ポワロのほうへ向きなおった。
「あなたとお目にかかるのは、一九〇九年、あのオステン時代以来、初めてですね。何か私どもの参考になるようなことをごぞんじかも知れんですね」
「あなたのほうですでにごぞんじでしょう。私が呼ばれて来たことはごぞんじでしょうね?」
「いいえ。誰にですか」
「亡くなった方にです。あの方は自分の生命が付け狙われていたことをご承知だったようです。で、不幸にも、私に招致状をよこされたのが間に合わなかったのです」
署長は叫んだ。
「畜生! それでは自分が殺されるのを知っておったんですね! すると我々の推理が、あらかた、くつがえされてしまう。だが、どうぞお入りください」
彼は門を開けて我々を入れてくれた。一同が家に向って歩いていく途中、ベエ署長は語り続けた。
「このことをすぐに、予審判事のオート氏に話さなければなりません。ちょうど犯罪の現場を調査し終って、審問を開始するところですから」
「犯行はいつだったのでしょうか」とポワロが尋ねた。
「死体が発見されたのは、今朝九時ごろでしたが、ルノール夫人の証言と医師の鑑定では、死んだのは午前二時ごろだったに違いないのです。まあ、どうぞお入りなすって」
我々はその時、玄関の石段にさしかかっていた。玄関の中に、もう一人巡査が張り番をしていた。上官を見ると彼は立ち上った。
「判事さんは、今どこにおられるね?」
「客間におられます」
ベエ署長は、玄関の左手の戸を開けた。我々は中に入っていった。オート判事と書記が大テーブルに向って腰かけていて、我々が入っていくと、こっちを向いた。署長は我々を紹介し、入来《にゅうらい》の訳を説明した。
予審判事のオート氏は、背の高い、がっちりした体格で、射るような鋭い眼をして、短く刈り込んだ灰色のあご髯を蓄えた人で、話しながら、その髯をなでまわす癖があった。
暖炉の飾り棚のわきに、少し前かがみの老紳士が立っていたが、デュラン医師として紹介された。
署長が語り終ると、オート判事が、
「こりゃ意外ですね。その手紙をお持ちですか」といった。
ポワロが手紙を渡すと、それを読んだ判事は、
「ふむ……何か、秘密についていっておりますね。もっと詳しく書かなかったのは残念ですね。ポワロさん、誠にありがとうございました。私どもとともにこの調査にあたって下さるとよろしいのですが。それとも、ロンドンへお帰りにならねばなりませんか」
「判事さん、私は滞在するといたしましょう。私は依頼人の死を防ぐことはできませんでしたが、殺人者の発見には名誉にかけて尽くさなければならないと思うのです」
判事は、頭をさげた。
「そのお心構えは立派なものです。またルノール夫人も、あなたの助力を願われることと思います。私どもはパリの警察からジロー氏の到着を待っておるのです。あの方とあなたとで、何かと調査上に相互援助がおできになるでしょう。今のところ、私の審問にお立ち会いいただきたいと存じます。それから申すまでもなく、何なりと私どもの助力がご入用の節は、いつでもご要求に応じますから、どうぞ」
「誠にありがとう存じます。ご承知のように、今のところ私は何もわかっておりませんので……まったく何も知らない有様でございます」
判事が署長にうなずいたので、署長がその後を引き受けた。
「今朝、老家政婦のフランソワーズが、仕事を始めようとして二階からおりて来てみると、玄関の戸が開け放しになっていたのです。その瞬間、盗人が入ったのだと思って、食堂を覗くと、銀器類が無事だったので、たぶん主人が早起きをして散歩に出られたのだろうと思って、あとは何も考えなかったのでした」
「お話の途中失礼ですが、それはいつもの習慣でしたでしょうか」
「いや、そうではなかったのであります。しかし年老いたフランソワーズは、英国人というものに対してお定まりの偏見を抱いておるのです……つまり、英国人というものは気がふれていて、いつもひどくわけのわからないことをやるものだと、考えておるのであります。それから若いほうの女中レオニーは、いつものように奥様を起こしにいってみると、奥様が猿ぐつわをかまされ、手足を縛りあげられているのを発見して、仰天してしまったのであります。ちょうどその時、背中を刺されて死んでいるルノール氏の死体が発見されたのでした」
「どこでですか?」
「それが、この事件で最も奇妙な点なのであります。死体は墓穴の中に、うつ伏せに横たわっていたのであります」
「何ですって?」
「そうなのであります。墓穴は新しく掘ったもので……この別荘の地境から五、六ヤード外なのであります」
「そして死後どのくらいの時間が経過しておりましたのですか」
デュラン医師がそれに答えた。
「私は今朝十時に検死をいたしました。死んだのは少なくも七時間、あるいは十時間前と推定されます」
「ふむ! すると真夜中から三時までの間ですね」
「そうなのです。ルノール夫人の証言では、二時過ぎだというのであります。そうなると少しく調査範囲が狭められますな。死は急激に来たものらしく、当然、自分でやったのでないことは明らかであります」と署長はいって、ポワロがうなずくと、さらに後を続けた。
「驚いた召使いたちは、急いでルノール夫人の縛《いまし》めを解きました。夫人はすっかり弱って、縛られた苦痛で、ほとんど気が遠くなっておったのであります。何でも二人の覆面の男が寝室へ入ってきて、夫人に猿ぐつわをかませて縛りあげ、主人のほうを無理に誘拐していったというのであります。これは奉公人たちから間接に聞いたのです。夫人は悲劇を知るとひどく興奮してしまい、デュラン先生が来られてすぐに鎮静剤を与えられたのですが、まだ審問するわけにはいかんです。しかし間もなくいくらか落ち着いて、審問の苦痛にたえられるようになられると思います」
署長は、そこで言葉を切った。
「それで、この家に住んでおります人々は?」
「老家政婦のフランソワーズ。この人は前のこの別荘の持ち主の時代から引き続き奉公しておるのです。それからドニーズとレオニーの姉妹がおるですが、この娘たちの家はメルランビーユにあり、両親は立派な人たちです。それにルノール氏が英国から連れてきた運転手がおるですが、現在は休暇で帰国しております。それだけが奉公人で、家族はルノール夫人と息子のジャック・ルノール氏ですが、この人も今は家におりませんです」
ポワロは、頭をさげた。オート判事が、
「マルショー!」と呼んだ。
巡査が現われた。
「フランソワーズという女を連れて来てくれ」
巡査は敬礼をして出ていったが、一二分して、おずおずしているフランソワーズを伴ってきた。
「あんたの名はフランソワーズかね」
「さようでございます」
「あんたはこのジュヌビエーブ荘に永年奉公していたのだね」
「伯爵夫人に十一年お仕えしておりました。この春この別荘をお売りになりましたので、英国の旦那様にお仕えすることを承知いたしまして残ったのでございますが、こんなことが起こりましょうとは夢にも……」
「そうだろうとも、そうだろうとも。さて、フランソワーズ、玄関の戸のことだがね、一体戸締まりをするのは、誰の役目だったのかね?」
「私でございます、旦那様。私はいつも自分で気をつけていたのでございます」
「で、昨夜《ゆうべ》は?」
「いつものように、錠をおろしましてございます」
「たしかかね」
「聖人さまがたに誓って、たしかでございます」
「それはいつだったね?」
「いつもと同じに、十時半でございました」
「ほかの人たちはどうだった? その時刻にはもうみんな寝ていたかね?」
「奥様はしばらく前にお休みになっておしまいになり、ドニーズとレオニーは私と一緒に上へまいりました。ご主人様はまだ、書斎に起きておいででございました」
「ではもし誰かが、あとで玄関を開けたとしたら、それはルノール氏自身にちがいないということになるね?」
フランソワーズは、広い肩をすくめた。
「なんで旦那様が、そんなことをなさるのでございましょう。泥棒や人殺しが、いつ来るかわかりませんのに! 旦那様はそんなばかなことなさるはずはございません。あの女の人をお送り出しになったのででもございませんでしたら……」
「女性だって? どんな女性のことをいうのだね?」判事は鋭くいった。
「それは、旦那様にご面会にいらっした女の人のことでございます」
「女性が面会に来たのだね?」
「そうなんでございますよ……昨夜ばかりではございません。何度も、何度もでございます」
「それは誰だね? あんたの知っている人かね?」
ちょっと、ずるそうな表情が、老家政婦の顔に浮かんだ。
「どうして、私に、どなただか分かりましょう! 昨夜《ゆうべ》は、私、お入れいたしませんでしたもの」
判事はテーブルを激しく叩いて叫んだ。
「ああ、あなたは警察をばかにしているんだな? 昨夜ルノール氏を訪問したその女性の名をすぐにいうことを命令する」
「警察……警察……私は警察沙汰なんかに巻き込まれようとは思ったこともありませんでしたよ。女の人がどなたかは、よく知っておりますとも。ドーブリーユ夫人でございますよ」フランソワーズは、不満らしくいった。
警察署長は、ひどく驚いたらしく、前へ乗り出して叫んだ。
「ドーブリーユ夫人というと、すぐそこのマーガレット荘のか?」
「そうでございますよ、旦那様。きれいな方でございますよ」といって、老家政婦は軽蔑するように首をふった。
「ドーブリーユ夫人とは、あり得べからざることだなあ」と署長はつぶやいた。
「それごらんなさいまし。真実のことを申し上げると、そうなんでございますもの」とフランソワーズは不平をいった。
「そうではない。ただみんなが驚いただけなんだ」とオート判事は、なだめるようにいってから、
「するとドーブリーユ夫人とルノール氏とは……その……間違いなくそうなんだろう? え?」と、意味をこめていった。
「そんなこと私が存じているものですか。でも、旦那様はどうだとおっしゃるのでございます? ご主人様は英国の大金持ちでいらっしゃいますし、ドーブリーユ夫人は貧乏でいらして、大変おきれいで、お嬢さんと二人きりでひっそりと暮らしておいでですが、昔はいろいろなことがおありでしたでしょう! もうお若くはありませんが、それでもあの夫人が町を歩いていらっしゃると、殿方はみんな振り返ってごらんになるのですからね……それに近ごろは、大変にお金廻りがよろしくなって……ええ、町中の者が知っておりますんですよ。で、もう前のように倹約などなさらなくなったんでございましてね」フランソワーズは、自分のいうことに間違いなしというように、首をふるのであった。
オート判事は、考え込みながら、髯をなでていたが、ついに、
「それで、ルノール夫人は? この友情をどうとっておられるね?」と尋ねた。
「奥様はいつもおやさしくしていらっしゃいました……とても丁寧にして。ちょっと見ると、何も疑っていらっしゃらないみたいでございましたが、きっと、内心は苦しんでいらしたにちがいございませんよ。そうじゃございませんか、旦那様。日一日とだんだんお顔色が悪くなり、やせていらっしゃいましたもの。一年前にここへおいでになった時とは、別人みたいになっておしまいになったんでございますよ。それに、ご主人様もお変りになりました。何かご苦労がおありのようでございました。神経過敏症が嵩《こう》じきってしまっているご様子でした。無理もございませんですよ。ああいう内証事を、あんな風ななさり方ではねえ。英国流というんでございましょうね。用心深くするとか、控え目にするというようなことはてんでなさらないんでございますからね」
私は英国人の悪口をいわれて、腹が立って椅子の上でとびあがった。しかし判事はそんな論点外のことなどにはとらわれないで、審問を続けるのであった。
「あんたは、ルノールさんが、ドーブリーユ夫人を送り出さなかったといったが、それで、夫人は帰ったのかね?」
「はい、旦那様。お二人が書斎からお出になって、玄関へおいでになるのを聞きました。ご主人様は、お休みとおっしゃって、送り出した後で戸をお閉めになりました」
「それはいつだったね」
「十時二十五分ごろでございました、旦那様」
「ルノールさんは、何時に寝られたか、わかるかね?」
「私たちが上ってから、十分くらいして上っていらした音を聞きました。階段がきしむものですから、誰か上ったり下りたりすれば、すぐわかるんでございます」
「で、それだけだったかね? 夜の間に、何か騒がしい音を聞かなかったかね?」
「何もききませんでございましたよ、旦那様」
「どの女中が一番先に降りてきたのだね?」
「私でございます、旦那様。で、すぐに戸が開け放しになっているのに、気がついたのでございます」
「階下のほかの窓はどうだったね? ちゃんと閉っていたかね」
「全部しまっておりました。怪しい、変ったところは一つもございませんでした」
「よろしい、フランソワーズ、もう行ってもよろしい」
老家政婦は、戸口へいったが、敷居のところで振り返った。
「もう一つ申し上げます、旦那様。あのドーブリーユ夫人は悪人でございます。そうですとも、女には、女のことがよくわかるものでございますよ。あの人は悪人でございます。覚えておおきなさいまし」といって、荒々しく首を振りながら、フランソワーズは部屋を出ていった。
「レオニー・オーラール!」と判事が呼んだ。
レオニーは涙にくれて、今にもヒステリーを起こしそうになっていた。オート判事は巧みに彼女を扱った。主として夫人が猿ぐつわをかまされて縛りあげられているのを発見したことに関する証言を聞き出すためであった。彼女はその模様を、多少大げさに語った。彼女もフランソワーズと同様に、夜中、何の物音も聞かなかった。
その妹のドニーズが次に呼び出された。彼女は、主人が最近非常に変っていたということを証言した。
「毎日、毎日、だんだん気むずかしくおなりなさいました。召上りものも少なくなりましたし、いつも沈んでいらっしゃいました。旦那様をつけ狙っていたのは、きっとイタリアの秘密結社の連中にちがいありませんわ。二人の覆面の男なんて……ほかに誰なもんですか。恐ろしい結社ですわ!」と、ドニーズは、彼女らしい推理を下すのであった。
「もちろん、そういうこともあり得るね。それでだね、昨夜ドーブリーユ夫人を、家へお入れしたのは、お前さんだったのかね」と、判事は、穏やかに尋ねた。
「昨夜ではございません。一昨日の晩ですわ、旦那様」
「だが、フランソワーズが、ドーブリーユ夫人が昨夜ここへ見えたといっていたがねえ」
「違います。昨夜、女の方が旦那様に会いにおいでになりましたけれど、ドーブリーユ夫人ではありませんですわ」
判事は驚いて、ドーブリーユ夫人説を主張したが、ドニーズは自説をまげなかった。自分はドーブリーユ夫人は一目でわかる。その婦人も、やはり髪も眼も黒かったが、ドーブリーユ夫人よりも、もっと背が低くて、ずっと若かったと主張するのであった。
「その婦人を以前にも見たことがあるかね?」
「いいえ、ありません、旦那様」といってから、遠慮勝ちに、「でも、私、英国人だと思います」とつけ加えた。
「英国人?」
「はい、うちの旦那様に、上手なフランス語で話していらっしゃいましたけれど、アクセントで……どんなにちょっとでも、すぐわかりますものね。それに書斎から出ていらした時には、英語で話していらっしゃいました」
「どんなことを話していたね? 英語がわかるのかね?」
ドニーズは、ほこらしげに、
「私は、英語がよく話せますもの。でもその女の方はひどく早口で、私にはちっとも分かりませんでしたが、旦那様がその方に戸を開けておあげになった時おっしゃった、最後の言葉は私、聞きました」といって、ちょっと間をおいてから、ドニーズは注意深く、骨を折って、その最後の言葉というのを繰り返した。
「そうです、そうです……しかしお願いですから、今は帰ってください」
「そうです、そうです。しかし今は帰ってください」か、判事は繰り返してみた。
ドニーズを帰してから、判事は一二分考えて、再びフランソワーズを呼んだ。彼女が、ドーブリーユ夫人の来た夜を間違えたのではないかと尋ねてみると、フランソワーズは、案外に強情であった。たしかにドーブリーユ夫人は昨夜きた。確かに彼女だった。ドニーズが自分を興味ある人物にしようと思って、そんな謎の女の作り話などをしたのだ。あの娘の英語の知識なんて見せびらかしだ! ご主人が、そんな言葉を英語で話されたりなんかするはずがない! また、もしお話しになったとしても、そんなことは何でもない。ドーブリーユ夫人だって、英語がよく話せるのだから。いつもご主人や奥様と話す時には、英語を使っている……
「とにかく、こちらのご子息のジャック様は、いつもここで暮らしておいでで、それがまた、大変にフランス語がお下手でいらっしゃいますからね」というのであった。
判事はその点について、別に強く主張はしなかった。その代わりに、運転手のことを尋ねた。それで、昨日ルノール氏は、自分は自動車を使う用はないから、マスターズも休暇を取ってよろしいといったということを知った。
ポワロは困惑して、眉をひそめた。
「どうしたんですか」と私はささやいた。
ポワロは、いらいらした様子で首をふり、質問をした。
「失礼ですが、ベエさん。ルノールさんは、車の運転がおできだったのですか」
署長がフランソワーズのほうを見ると、老女はすぐに答えた。
「いいえ、ご主人は運転はおできになりませんでした」
ポワロの眉間の皺は深まってきた。私は我慢ならなくなって、
「何をそんなに困っていらっしゃるか、僕に話してください」といった。
「君にわからないのですか? この手紙に、ルノールさんがカレーへ、私たちのために、自動車をよこすと書いてあるでしょう」
「たぶん、車を雇うつもりだったのでしょう」と、私はいってみた。
「そうだったのでしょう。しかし、なぜ自分の車を持っているのに、ほかのを雇うのでしょうか? なぜ、昨日運転手に休暇を与えたのでしょう……突然に、何かの理由で、私どもの到着する前に、彼を追い払ったのでしょうか」
ベラと署名した手紙
フランソワーズは部屋を出ていった。判事はテーブルを指先でこつこつ叩いて考え込んでいたが、ついに、署長にむかって、
「ベエさん、ここに正反対の証言がありますが、どちらを信じたらよろしいですかな。フランソワーズでしょうか? ドニーズでしょうか」と尋ねた。
「ドニーズのほうでありましょうな」
署長は、きっぱりと答えた。そしてさらにその説明を加えた。
「訪問客を迎え入れたのは、あの娘ですからね。フランソワーズは、老人で頑固で、ドーブリーユ夫人を確かに嫌っているようです。それに、我々の得ている情報から考えても、ルノール氏が別の女といざこざがあったと認められますからな」
「そう、そう、ポワロさんに、あれをお見せするのを忘れておりましたよ」といって、オート判事は、卓上の書類の間を捜して、何か見つけ出して、ポワロに手渡した。
「ポワロさん、この手紙は、故人のオーバーのポケットの中にあったのです」
ポワロは、それを受け取って開いた。それはだいぶ手ずれがして、皺になっていた。そして未熟な英語で書いてあった。
――最愛の人よ――どうしてこんなに長い間、手紙くださらないのですか。今だって、私を愛していて下さるのね。そうでしょう? このごろ、あなたの手紙、とってもちがってきたわ。冷たくて妙だったわ。そしてこんなに長いこと、書いてくれないなんて。何だか心配。もしこれっきり、愛してくださらなくなったら……でも、そんなことなくてよね……私なんていうおばかさんなんでしょう……いろんな想像をたくましくしたりして! でも、もし私を愛してくださらなくなったら、私どうするかわからないわよ……自殺するかも知れない。あなたなしでは生きていられないのですもの。時々、私ね、ほかの女が二人の間に入ってくるような気がするの。でもその人、気をつけたほうがいいわ。そんな女にとられるくらいなら、あなたを殺してしまうから! ほんとに、その気よ。
でも、ずいぶん興奮して書いてしまったわ。私を愛してね。私もあなたを愛します。そうですとも、愛しますとも! 愛しますとも! 愛しますとも!
あなたを恋しているベラより
それには宛名もなければ、日付もなかった。ポワロは、重々しい表情で、それを返した。
「それで、あなたの推定は?」
予審判事は、肩をすくめた。
「明らかに、ルノール氏は、この英国婦人といざこざを起こしたのですな……このベラなる女性と。で、ここへ来てからドーブリーユ夫人に会って、またもや問題を起こし、もう一人の女に対する熱が冷めたので、女はたちまち何かあると感づく。この手紙は、たしかに脅迫ですな、ポワロさん。それで最初は、簡単そのもののごとくに見えたのです。嫉妬! ルノール氏が背中を刺されていたという事実が、明らかに女の犯罪をさしているかのごとくに思われたのです」
ポワロはうなずいた。
「背中を刺したのは、たしかにそうです。しかし墓穴はちがいましょう……あれは、力業で、なかなか骨が折れます……女には掘れません。あれは男の仕事です」
署長は興奮して叫んだ。
「そうです、そうです。ポワロさんのいわれるとおりでありますな。それは考えつかんでしたよ!」
判事は、続けて話し出した。
「私が申しましたように、最初は、この事件は簡単に思われたのですが、覆面の男たちや、ポワロさんがルノール氏から受け取られた手紙などで、事件は複雑になりました。私どもの前に、まったく異なった、何の連絡もない、二つの事件があるように思われるのですが、ポワロさんは、ルノール氏の手紙にある生命の危険ということと、このベラの手紙との間に、関係があると思われますか」
ポワロは首をふった。
「ないでしょうね。ルノール氏のように、国外の僻地で冒険的な生涯を送ってこられた方は、ご婦人に対する防御のために、保護を求めるようなことはされないと思います」
判事は、力強くうなずいて、
「私もその意見です。そこで、その手紙の説明を求めなければ……」
といいかけるのを、署長が、引き取って、
「サンチャゴにおける故人の生活の詳細、恋愛関係、商業上の取引関係および、何か敵意でも持たれるような事件はなかったかを調査するように、かの地の警察に早速、依頼の電報を打つ手配をするですよ。もしそれで、なおこの奇怪な殺人事件の手がかりになるようなものが発見できなかったら、おかしなもんでありましょうな」といって、署長は、同意を求めるように、一同を見まわした。
「結構です!」とポワロは承認するようにいった。そして
「ルノール氏の所持品の中に、このベラからの手紙はほかに見つかりませんでしたでしょうか」と尋ねた。
「いや、なかったです。もちろん、我々の最初の仕事は、書斎の個人的な書類を調べることでありましたが、何ら興味あるものは、なかったです。すべてが公明正大に見えたのであります。ただ一つ、普通とちがっていると思われたのは、この遺言状だけであります」
ポワロは、その書類に眼を通した。
「なるほど、ストーナー氏に千ポンドの贈与……この人は誰ですか」
「ルノール氏の秘書であります。英国に残っておるですが、一二度週末にここに来たです」
「あとの全部は、無条件に愛する妻エロイーズに遺すとありますね。簡単ですが法律的に完全ですね。二人の召使い、ドニーズとフランソワーズが証人と。何も変ったところはありませんね」といって、ポワロは書類を返した。
「たぶん、気づかれないのでありま……」と、判事がいいかけると、ポワロは瞳をおどらせて、
「日付ですか? 気がつきましたよ。二週間前、それは確かに最初の危険を感じた時でしょうね。死ぬとは思わないで、遺言をしないで死ぬ金持ちはたくさんあります。しかし結末を急ぎすぎるのは危険なことです。とにかく、これは、恋愛沙汰があったとしても、実際は奥様をほんとに好いておられたことを示しておりますね」といった。
「そうです。しかし、息子さんには少々不公平のようですな。まったく母親に頼るようになりますから。もし母親が再婚でもするようになれば、二度目の夫が権利をもってしまって、息子は父親の財産を一ペニーももらえないことになるかも知れませんからな」と、判事が疑わしげにいうと、ポワロは肩をすくめた。
「男というものは、虚栄心の強い動物ですよ。ルノール氏は、奥さんが決して再婚などしないと信じて疑わなかったのでしょうね。息子さんのことをいえば、かえって母親の手に金を遺したほうが賢明かも知れません。金持ちの息子は、とかく無謀ですからね」
「いわれるとおりかも知れんですな。さて、ポワロさん、犯罪の現場をごらんになりたいでありましょう。死体が取りのぞかれたのは、残念でありますが、もちろん、あらゆる角度から写真が撮ってあるです。ご用の節は、いつなりとお見せしますよ」
「いろいろと、ご丁寧にしていただきましてありがとうございます」
署長は立ち上って、
「どうぞ、一緒においでください」といって、戸を開いて、丁寧に頭をさげて、ポワロを先に通そうとした。ポワロも同じように身をひいて、署長にむかって頭をさげた。
「どうぞ!」
「どうぞ!」
ようやく二人は、廊下へ出た。
「あちらの、あの部屋が書斎ですか」
ポワロは急に向い側の戸のほうへうなずいてみせながらいった。
「そうですが、ごらんになりたいですか」といって、署長が戸を開けてくれたので、我々は入っていった。
ルノール氏が、特に自分の部屋として選んだのは、小さくはあったが、調度は非常に趣味がよく、居心地よくしつらえてあった。事務的な整理棚のたくさんついた机が窓ぎわに寄せてあって、大きな皮張りの安楽椅子が二つ暖炉の前に向い合せに据えてあって、その間の丸テーブルには、新刊書や雑誌がたくさんのっていた。
ポワロは、ちょっと立ち止まって、室内を見渡した後、前へ進み出て、皮張りの椅子の背を軽くなで、テーブルの雑誌を取りあげ、指先をそっと樫の脇棚の表面に触れてみた。その顔には満足この上なしという表情が浮かんでいた。
「ほこりはないですか」私は微笑しながら尋ねた。
ポワロはうれしそうに私を見た。よくぞ自分の癖を知っていてくれたと、いわんばかりに。
「まったくありませんね、君。しかし今の場合だけは、ほこりがないというのは困ったことかも知れませんよ」
その鋭い鳥のような眼は、ここかしこを、射るように見ていたが、急に
「ああ、暖炉前の敷物が曲がっておりますね」と、安心したようにいって、それを真っすぐにしようとして、かがんだ。
突然に、叫び声をあげて、立ち上った。その手に、小さなピンク色の紙片を持っていた。
「フランスでも、やはり英国と同じように、召使いは、敷物の下を掃除しませんね」と、ポワロはいった。
ベエ署長はその紙片を受け取った。私もそれをよく見るために、そばへ寄った。
「ヘイスティングス君、何だかわかりますか」
私は困って首を横にふった……しかし、その特別のピンクの色は、何か非常に親しい感じのものであった。
警察署長の頭脳の働きは、私のより敏捷であった。
「小切手の破片ですな」と彼は叫んだ。
その紙片は、だいたい二インチ四方ぐらいのものであった。その上には「デュビーン」と書いてあった。
「いいぞ! この小切手は、誰かデュビーンという名の者に支払われることになっていたか、あるいはその者から振り出されたものだ」と署長がいった。
「前者だと思います。なぜなら、私に誤りがなければ、その筆跡はルノール氏のものですから」とポワロがいった。
それは間もなく、机の上のメモと比較して確認された。
署長は、うなだれて、つぶやいた。
「まったく、どうして、これを見のがしたか、自分ながらわからんであります」
ポワロは、笑った。
「常に敷物の下を見よというのが、教訓ですよ。私にとって、ものが曲がっているのが苦痛だということを、友人のヘイスティングス君がお話しするでしょう。あの敷物が真っすぐでないのを見るやいなや、私はすぐこう思ったのです……きっと椅子を押した時に、脚がひっかかったのだな。もしかすると、善良なフランソワーズが見逃したものが、何かあの下にあるかも知れない……とね」
「フランソワーズですって?」
「あるいはドニーズ、あるいはレオニーかも知れません。誰かこの部屋を掃除した者です。ほこりがありませんから、今朝掃除したにちがいないのです。私はこういう風に、出来事を再生してみます。昨日、たぶん昨夜、ルノール氏は誰かデュビーンという名の人に小切手を書いたのです。あとで、それは破られて、床にちらばりました。今朝……」とポワロがいいかけた時には、すでに署長の押した呼鈴にこたえて、フランソワーズが現われた。
確かに、床に紙屑がたくさんちらかっていました。それをどうしたかって? もちろん、みんな台所のストーブの中へ投げ込んでしまいましたよ。ほかにどうするというのですか?
絶望の仕草をして、署長はフランソワーズを去らせた。それから急に顔を輝かして机のそばへ走り寄って、故人の小切手帳を漁った。そして、再び元の表情に返った。最後の小切手のひかえは、白紙であった。
ポワロは、その背を軽くたたいて、いった。
「元気をお出しなさい。きっとルノール夫人が、このデュビーンという謎の人物のことを知っていらっしゃるでしょうからね」
署長の顔は、明るくなった。
「そりゃそうでありますな。さあいきましょう」
部屋を出ようとした時、ポワロは、何気ない様子でいった。
「昨夜、ルノール氏が来客と会見したのは、この部屋でしたね」
「そうであります。だがどうして、ポワロさんにそれがおわかりでありますか」
「これです。皮張りの安楽椅子の背に、これを見つけました」といって、ポワロは長い、黒い女の髪の毛を指先でつまみあげて見せた。
署長は、家の背後に、さしかけになっている物置小屋へ我々を案内した。そしてポケットから鍵を出して、戸を開けた。
「死体はここにあるです。ちょうどあなたが到着される前に、現場からここへ移したのであります。写真班の仕事がすみましたんでな」
我々は物置小屋へ入った。殺された男は、地面に横たえられ、その上に白布がかけてあった。署長は器用な手つきで、白布を取りのぞいた。
ルノール氏は中背で、やせ型のしなやかなからだつきをしていた。年のころ五十歳ぐらいで濃い色の頭髪は豊かであるが、銀色がまじっていた。鼻は細長く、両の眼はせまっていた。皮膚は、熱帯の空の下で生涯の大部分を過ごした人特有の、青銅色にやけていた。唇を開いて、歯があらわれている。鉛色の顔には、激しい驚きと恐怖が刻まれていた。
「この顔を見ると、背後から刺し殺されたことがわかりますね」とポワロはいった。そして非常に静かに、死体をひっくり返した。肩胛骨の間に、淡褐色のオーバーを汚している丸い斑点があった。ポワロは、それを注意深く調べた。
「この犯罪に、どんな兇器が用いられたか、わかっておいでですか」
「傷の中に残っておったです」といって、署長は、大きなガラスの壺を棚から取りおろした。その中に、紙きりナイフくらいにしか見えないような、小さいものが入っていた。それは柄が黒くて、細い光った刃がついていた。全体の長さが十インチとはなかった。ポワロは、変色した切先を、指先で慎重に切れ味を試してみた。
「これは鋭い! 人殺しにはおあつらえむきの扱いやすい小さな兇器ですね!」と、ポワロはいった。
「不幸にして、指紋が見つからんのであります。犯人は手袋をはめておったんですな」署長は、残念そうにいった。
「もちろんそうですとも! サンチャゴの連中だってそれくらいのことは知っております。ベルチヨン式測定法が新聞に発表されたおかげで、どんな素人でも心得ていますよ!」とポワロは侮蔑的にいって、
「しかし、指紋がないということは、ちょっと面白いですね。ほかの人の指紋をつけておくことは非常にやさしいことですのに! そうすれば警察もよろこぶでしょうに!」といって、首をふって、
「この犯人は、どうも組織的な人物ではないらしい……それとも、ひどく急いでいたのかも知れない。とにかく、やがて分かりましょう」
ポワロは死体を、元の位置にもどした。
「オーバーの下には、下着だけより着ておりませんね」
「そうであります。予審判事も、その点を奇妙だといっておるです」
その時、署長が閉じておいた戸を、誰か叩いた。戸を開けると、フランソワーズが立っていた。彼女は、怖いもの見たさで、覗き込もうとした。
「何用だね?」署長はいらいらした調子でいった。
「奥様でございますよ。大分よくおなりになったので、判事様にお目にかかってもいいとおっしゃいますんでございます」
「よろしい。オート判事殿に申しあげて、我々もすぐ伺うといっておいてくれ」と、署長は元気よくいった。
ポワロはちょっとためらって、死体のほうを振り返った。私はその瞬間、彼が死体に呼びかけて、犯人を発見するまでは決して休まないと大声をあげて宣言するのではないかと思ったが、彼が声を出した時には、おとなしくためらいがちで、その言葉はまた、その場にはおよそそぐわないものであった。
「大そう長いオーバーを着ておいでですね」と、彼は、自制するように、いった。
動いていた腕時計
オート判事が、玄関で私たちを待っていてくれた。我々はフランソワーズを先にたてて、二階へあがっていった。
ポワロは、階段をジグザグにのぼっていくので、私がおどろいていると、彼は顔をしかめて、私にささやくのであった。
「女中たちが、ルノールさんが二階へいくのを聞いたはずですよ。死人をも眼覚ますほどきしまない段は、一つもありませんよ」
階段をのぼり切ったところで、廊下が二つに分かれて、一つは狭くなっていた。
「女中たちの部屋のあるところであります」と、署長が説明した。広いほうの廊下をいくと、フランソワーズは、右側の一番奥の戸を叩いた。
微かな声が、お入りといった。我々は海を見晴らす、広い日あたりのいい部屋へ入った。海は三キロほど彼方に青く輝いていた。
長椅子の上に、クッションで支えをして、デュラン医師に付き添われて、背のすらりとして、印象的な目鼻立ちの夫人が横になっていた。中年で、かつては濃い色だった頭髪は、ほとんど銀色になっていたが、非常に活気があって、強い性格が全身に溢れているような女性で、フランス人のいわゆる「優れた婦人」とよぶような女性の前に出たことを誰でも感じさせられるのであった。
夫人は気取った様子で頭を軽くかしげて、我々に挨拶をした。
「どうぞ、おかけくださいまし、皆様」
我々は席についた。判事の書記は、丸テーブルの前に腰かけた。
「奥様、昨夜の出来事を、お話し願いたいのですが、ひどく奥様をお苦しめしなければよいがと存じます」とオート判事がいった。
「どういたしまして。あのいまわしい殺人者たちが捕えられて罰せられるためには、時間が大切だということは、よく心得ております」
「では奥様、私のほうから質問を出し、それにお答えをいただくほうが、お疲れが少なかろうと存じます。昨夜は、何時にお休みになりましたか」
「九時半でございます。疲れておりましたものですから」
「ご主人のほうは?」
「一時間ぐらい後だったと存じます」
「何か当惑しておいでで……心が落ちつかないというようなご様子はありませんでしたか」
「いつもより余計に、そんな風だったとは思われませんでした」
「それから、どういうことが起こりましたか」
「私どもは眠りました。私は、口に手をあてられたので、眼を覚ましました。叫ぼうとしましたが、口をふさがれていてできませんでした。部屋の中に二人の男がおりました。二人とも覆面をしておりました」
「奥様、その人たちの様子をご説明いただけましょうか」
「一人は大変に背が高く、長く黒い顎髯《あごひげ》がありました。もう一人は肥って背が低うございました。その人の髯は赤うございました。二人とも帽子を目深《まぶか》にかぶっておりました」
「ふむ、髯が多すぎますな」と判事は、考え深くいった。
「付けひげだとおっしゃるんですの?」
「そうです。だが、どうぞお続けください」
「私をおさえていたのは、背の低いほうでした。私に無理に猿ぐつわをかませ、縄で手足を縛ってしまいました。もう一人の男は、夫の上に、馬乗りになっておりました。その男は、いつも私の化粧台の上に置いてある紙切り用の短刀を握って夫の心臓に突きつけていました。背の低いほうが私を片づけてしまうと、その人と一緒になって、夫を無理に立たせて、次の化粧室のほうへ行かせました。私は恐ろしくて、気を失いそうでしたが、一生けんめいになって、聞いておりました。
大変に低い声で話しておりましたので、何を言っているのかは聞きとれませんでしたが、言葉はわかりました。それは南米のある地方で話される、なまりのあるスペイン語でした。二人は夫に何か要求しているようでした。そのうちに怒って、声が少し高くなりました。背の高いほうが話していたようでした。『我々の要求するものがわかるだろう』といいました。『秘密! あれはどこにあるのだ』夫は何と答えたか、私にはわかりませんが、もう一人の恐ろしい声が『うそつけ! お前が持っているのは、わかっているんだ! 鍵はどこにある!』といっていました。
それからひきだしを開ける音が聞えてきました。夫の化粧室の壁には、金庫がはめこみになっていて、その中に、夫はかなりの現金をいれておりました。レオニーは、それがねじあけられ、お金が盗まれていると申しております。しかしあの人たちの捜していたのは、そこにはなかったらしく、背の高いほうが呪いの言葉を発しながら、夫に服を着るように命じておりました。そのすぐ後で、家の中に何か音がしたので驚いたらしく、まだ服をすっかり着ていない夫を、私の部屋へ急き立てて来ました」
「失礼ですが、化粧室には、ほかに出入口はないのでございますか?」とポワロが、口をはさんだ。
「ないんでございます。私の部屋へのドアがあるきりなんでございます。二人は夫を急いで引き立てていきました。背の低いほうが前になって、高いほうがまだ短刀をつきつけながら後についておりました。ポールは私のほうへ無理に来ようとしました。私は夫の眼に苦悩を見ました。夫は自分を捕えている人にむかって『妻に話さなければならない』といって、私の寝台のそばへ寄り、『いいんだよ、エロイーズ、怖がらなくてもいい。朝までには帰ってくるよ』と申しました。夫は声をはげまして、私を安心させようとしていましたけれども、眼の中には恐怖が見えていました。それから二人は夫を外へ連れ出しました。背の高いほうが、『ちょっとでも音をたててみろ、貴様は死人になるんだぞ! 覚えていろ』といっておりました。
その後で、私は気を失ったものとみえます。次に気がついてみると、レオニーが、私の手首をさすって、ブランデーを飲ませておりました」
「奥様は、その兇漢どもが、何を求めていたのか、見当がおつきになりますか」と判事がいった。
「いいえ、てんで見当もつきません」
「ご主人が何かを恐れていらしたのに、お気づきでしたか」
「はい、夫の様子が変っておりました」
「いつごろからですか」
夫人は、考えた上でいった。
「十日くらいになりましょう」
「それより前からではありませんでしたか」
「そうかも知れませんが、私が気がつきましたのは十日くらい前からでございます」
「その原因について、ご主人にお尋ねになったことがおありですか」
「一度、尋ねてみましたが、ごまかしてしまいました。でも私には、夫が何かひどい心配事に悩んでいることがわかりました。けれども夫がその事実を、私にかくそうとしているのが見えておりましたので、私も気がつかないふりをしておりました」
「ご主人が探偵に援助を依頼されたことを、奥様はごぞんじでしたか」
「探偵ですって?」
夫人は非常に驚いて叫んだ。
「そうです。この紳士はご主人の依頼を受けて今日到着された、エルキュール・ポワロ氏です」
ポワロは、おじぎをした。
判事はルノール氏がポワロに書き送った手紙を、夫人に渡した。
夫人は明らかに真実の驚きを示して、それを読んだ。
「これは少しもぞんじませんでした。主人はほんとに、はっきりと危険が迫っていることを知っていたのでございますね」
「それで、奥様に、正直に打ち明けていただきたいのですが、ご主人の南米時代のご生活中に、何かこの殺人事件に光明を投げるような出来事はありませんでしたか」
夫人は深く考えていたが、やがて首をふった。
「何も思い当りません。確かに夫には敵がございました。いろいろなことで利用した人たちがおりますから。でも特別の場合というものは、一つも思いつきません……でも何か私の知らないでいることがあるかも知れませんけれど……」
判事は浮かない様子で、顎髯を撫でていた。
「で、奥様はこの暴力行為が行われた時刻を、はっきりさせることがおできになりますか」
「はい。暖炉の飾り棚にあった時計が、二時を打ちますのをはっきり聞きました」といって、夫人は飾り棚の真ん中に置いてある旅行用の八日巻き時計のほうを見てうなずいた。
ポワロは立っていって、注意深くその時計を調べて、満足げにうなずいた。
「それから、ここにも腕時計があります。おそらく犯人によってテーブルから叩き落されたものでありましょう。ガラスがこなごなにこわれておるです。これが彼らにとって不利な証拠になるとも知らずにね」と署長がいった。そして静かにこわれたガラスの破片を拾いあげていたが、彼の顔はにわかに知覚を失ったような表情になって、
「どういうことだ!」と叫んだ。
「何ですか」
「時計の針が七時をさしておるですよ」
「何ですと?」判事も驚いて叫んだ。
しかしポワロはいつもの穏やかな様子で、驚いている署長から破損した時計を受けとって、耳にあててみて微笑した。
「ガラスは破れましたが、時計自身はまだ動いております」
この謎の説明は、安心の微笑で迎えられたが、判事はもう一つの点に気がついた。
「しかしまだ七時にはなりませんな」
「さよう、ただいまは五時五分です。この時計は進むようでございますね、奥様」とポワロは穏やかにいった。
ルノール夫人は、困惑したように、眉をひそめた。
「また進むようになりましたんでしょうか? でもそんなにひどく進むとは思いませんでしたわ」と夫人はいった。
気短かな身振りで、判事は時計の問題をそのままにして、質問を続けた。
「奥様、玄関の戸が開け放しになっておりました。確かに犯人たちはそこから入ったと思われるのですが、無理にこじあけた形跡はありません。その説明が何かありましょうか」
「たぶん夫が、最後に散歩に出て、閉めるのを忘れたのだとぞんじます」
「そういうことはたびたびありましたでしょうか」
「よくございました。私の夫は、まったくうっかり者でございました」
そういう時の夫人の眉間《みけん》に、ちょっと皺がきざまれた。故人のそうした性癖が、時に彼女を悩ましたらしかった。
警察署長は、突然に、
「その男どもがルノール氏に服を着るようにいった点から考えられることは、その『秘密』が隠されている場所は、遠隔の地だということでありますな」といった。
判事は、うなずいた。
「そうです。遠いが、しかしあまり遠くはなかったといえますな。なぜなら、朝までに帰ってくるといわれたのですからな」
「最終列車は、メルランビーユ駅を何時に出ますか」とポワロが尋ねた。
「十一時五十分が上り、十二時十七分が下りです。しかし車を用意してあったかも知れませんですな」
「もちろん」と、ポワロは同意したが少ししょげていた。
判事のほうは、少し勢いを得て語り続けた。
「たしかに、これは彼らを追跡する手がかりになるかも知れませんですな。二人の外国人を乗せた車は、人目をひきますから」
判事は一人でにこにこしていたが、また、真顔になってルノール夫人にむかって、
「もう一つ質問があります。奥様はデュビーンという名前の人を誰かごぞんじありませんか」
「デュビーン? デュビーン?……いいえ、今のところ思い出せません」
夫人は、何度もその名を繰り返して考えていた。
「ご主人が、そういう名をいわれたのを覚えていらっしゃいませんか」
「いいえ、ちっとも」
「ベラという名の人はごぞんじですか」といいながら、判事は夫人の顔を注意深く見守っていた。驚きとか、怒りとか、その名を知っていることが、表情に浮かぶかと思ったのであろうが、夫人は極めて自然に首を振るだけであった。判事は再び質問に移った。
「昨夜、ご主人のところへ訪問客があったのを、奥様はお気づきでしたか」
今度は、その頬がかすかに赤く染まったのを見たが、夫人は落ちついて答えるのであった。
「いいえ、どなただったでしょう?」
「女性です」
「そうでございましたか」
しかし判事は、それ以上はいわないで、満足した。ドーブリーユ夫人が、この犯罪に関係ありそうもなかったので、必要以上の質問をして、ルノール夫人の気持ちを乱したくなかったのであった。
判事が警察署長に合図をした。署長はうなずいて立ち上り、部屋を横切っていって、物置小屋で見たガラスの壺を持って、戻ってきた。
判事はその中から、短刀を取り出して、静かにいった。
「奥様、これがおわかりになりますか」
夫人は、小さな叫び声をあげた。
「はい、私の短刀ですわ」
それから、先の汚点を見ると、眼を大きく見開いて、身をひいた。
「それは……血ですの?」
「そうです、奥様。ご主人は、この兇器で殺されたのです」といって、急いで短刀を夫人の眼から、かくした。
「これが昨夜奥様の化粧台の上にあったものだということを、確認なされますか」
「はい、確かでございますとも。それは、私の息子の贈り物でございます。あの子は戦争当時、航空隊におりました。年齢を真実より余計に申しましてね」という夫人の声には、母親の誇らしさがあった。
「これは新型飛行機の針金で作られたもので、戦争の記念として、息子が私にくれたのでございます」
「わかりました、奥様。それで私どもは、もう一つのことに直面したわけですが、ご子息は、今どこにおられるのですか。時を移さず電報でお知らせしなければならないのではありませんでしょうか?」
「ジャックでございますか? あの子はブエノスアイレスに参る途中でございます」
「何ですって?」
「そうなんでございます。夫が昨日、あの子に電報を打ちましたの。商用でパリに遣わしましたのでございますが、昨日になって、すぐに南米へ行かせる必要ができまして、昨晩、シェルブールからブエノスアイレス行きの汽船がございましたので、それに乗るように電報を打ったのでございます」
「ブエノスアイレスでの用件が、どういうものであったか、奥様はごぞんじでいらっしゃいますか」
「いいえ。私は何の用で出かけたのかは、少しもぞんじません。でも、ブエノスアイレスは、あの子の最終の目的地ではございませんでした。そこから陸路、サンチャゴへ参ることになっていたのでございます」
判事と署長は、声を揃えて叫んだ。
「サンチャゴ! また、サンチャゴ!」
我々が、その言葉に、呆気にとられている時であった。ポワロは夫人のほうへ近づいていった。それまで夢見る人のようにぼんやり窓ぎわに立っていて、まるで、これまで交わされた会話は、一つも聞いていなかった様子だったのだが、今や彼は夫人の前で立ち止まって、頭をさげた。
「失礼でございますが、奥様のお手首を調べさせていただきたいのでございます」
この要求に、ちょっと驚いたようであったが、夫人は彼のほうへ手をさしのべた。両方の手首には、縄が肉に喰い込んだためのひどい赤い傷痕がついていた。ポワロがそれを調べていくうちに、その眼に瞬間的に宿った興奮の閃きが、消えていくのを、私は認めた。
「非常にお痛みのこととぞんじます」といって、ポワロはもう一度腑に落ちない面持になった。
しかし判事のほうは、興奮して言葉を続けた。
「ご子息に電報で即刻連絡せにゃなりません。このサンチャゴへのご旅行に関していろいろと伺うのが緊急事項です」といって、ちょっと口ごもった。そして、
「ご子息がここにおられたら、奥様にお辛い思いをおさせしないですむのですが……」といった。
「夫の死体確認のことをおっしゃっておいでなのでございますか」と夫人は低い声でいった。
判事は、頭をさげた。
「私は強い女でございます。私を必要とすることには、何でも耐えられます。さあ、参りましょう」
「おお、明日でも結構ですから……」
「私は早くすましたほうがよろしいのでございます」と低い声でいう夫人の顔には、苦痛の痙攣が走った。
「先生、すみませんが、お手を拝借させてくださいませ」
医師は急いで進み出た。オーバーが夫人の肩にかけられ、一行はゆっくりと階段をおりていった。ベエ署長は物置小屋の戸を開くために、先へ急いだ。一二分して、夫人は戸口に現われた。|真っ青《まっさお》になっていたが、決意を示していた。彼女は手をあげて顔を覆った。
「ちょっとお待ちくださいませ。今、気を落ちつけますから」
夫人は手をのけて、死人を見おろした。その時、今まで張りつめていた驚くべき自制心が崩れていった。
「ポール! あなた! ああ神様」と叫ぶとともに、夫人は前へのめって、地面に倒れて気絶してしまった。
すぐにポワロがそばへ駈け寄って、瞼を開けて見た。それから脈を診た。夫人が真実に失心しているのを確かめると、傍へよった。そして、
「私は大ばかでしたよ、君。女性の声の中に愛と悲しみがあるものだったら、私はそれを今聞いたのでした。私のちょっとした思いつきは、すっかり違っておりました。よろしい! もう一度出直しです!」
ジロー探偵の自信
医師と判事とで、失神している夫人を家の中へ運び込んでいった。署長はそれを見送って、首をふった。
「気の毒な夫人だ! ひどいショックだったのであります。だが、私どもにはどうにもできないのであります。さて、ポワロさん、犯罪の行われた現場へまいりますか」
「どうぞ、お願いします」
我々は家を通りぬけて、表玄関から外へ出た。ポワロは通りすがりに、階段を見あげて不満らしく首をふった。
「召使いたちが、何の音も聞かなかったというのは、信じられないことですがねえ。三人《ヽヽ》の人々が降りてくるのでしたら、あのきしむ階段では、死人だって眼を覚ますはずです!」
「しかし、真夜中だったのでありますからな。その時刻には、みんな熟睡しておったですよ」
だが、ポワロは、その説明では納得しきれない様子で、なおも首をふっていた。道の曲がり角でポワロは振り返って、家を見上げ、
「犯人は、玄関の戸が開くかどうかを、どうして一番先に試してみたのでしょうね? 玄関に鍵がおりていないということは普通、あり得べからざることですからね。まず窓から入ろうとするのが一番自然でしょう」といった。
「しかし、階下の窓は、全部、鉄格子がはまっておるです」と、署長は抗議した。
ポワロは二階の窓を指さした。
「あれが、今私どもの出てきた寝室の窓でしょう? ごらんなさい、あそこへ、たやすく登れそうな、手ごろな木がありますよ」
「そうですな」と、署長も同意したが、「しかし、花壇に足跡を残さずには、登れんですな」と、いった。
それは確かにそうであった。そこには、紅いゼラニウムを植えた、楕円形の大きな花壇が二つあって、それぞれに表玄関へ通じる小道がついていた。問題の木は、事実花壇の中に生えていたので、花壇に踏み込まずには、その根元に近づくことはできないのであった。
署長は言い続けた。
「そうでありましょう? 天気がよかったんで、車進入路にも小道にも足跡は残らんですが、花壇のやわらかい土の上だったらそうはいきますまい」
ポワロは花壇に近づいて、注意深く調べたが、ベエ署長のいったとおり、土はまったく平らで、どこにも何の証跡もなかった。
ポワロは納得したようにうなずいて、我々はそれを離れた。ところが、ポワロは急にきびすを返して、もう一つのほうの花壇を調べ始めた。
「ベエさん、ここをごらんなさい。ここに足跡がたくさんありますよ」
警察署長は、そばへいって見て、微笑した。
「ポワロさん、これは園丁の、鋲を打った大きな靴跡ですよ。それにこれはあまり大切ではないですよ。何しろ、こちらには木がないのですから、二階へあがるすべがないのでありますからな」
「ほんとうですね」といって、ポワロはしょげた様子をして「では、この足跡は、重要ではないとお思いになるというのですね」
「少しも重要ではないのであります」と署長は、きっぱりいった。ところが、驚いたことには、ポワロはこういうのであった。
「それには賛成できませんね。私には、この足跡は、今まで見たものの中で、一番重要なものだという、ちょっとした思いつきがあるのでございます」
ベエ署長は、何もいわなかった。ただ肩をすくめただけで、それ以上、意見を述べなかった。何しろ非常に礼儀正しい人であったので、「参りましょうか」とポワロをうながしただけであった。
「参りましょう。この足跡のほうは、後ほど調べればよろしいですから」とポワロは快活に答えた。
車進入路を通って門のほうへ行かずに、署長は、右へ曲がっているわき道へ進んだ。それは少し坂になって、家の右側へ迂回していた。その両側は、一種の植え込みのようなもので区切られていた。その小道の先に、急に小さな広場が開けていて、そこからは海が見晴らせた。そこには腰掛けが据えてあって、少し離れたところに倒れかかったような小屋があった。さらに五六歩いくと、別荘の地境をなしている小灌木と刈り込んだ生垣があった。署長はその生垣を押しわけていった。すると我々の前に広々とした草原が拡がっているのであった。私は四辺《あたり》を見まわして驚きに打たれ、
「おや、これはゴルフ・コースだ!」と叫んだ。
署長はうなずいて、
「このリンクはまだ完成しておらんですが、来月くらいには開場の予定であります。今朝死体を発見したのは、ここに働いておる人々であります」と説明した。
私は息が止まるほどびっくりした。私はそれまで気がつかなかったが、ちょっと左手よりに、細長い穴があって、その傍に、うつ伏せになっている人間の身体を見たのである! 私の心臓は激しく波打った。また悲劇が繰り返されたと思ったのだ。しかし署長が、怒ったような鋭い声をあげて進み出たので、私の幻想は吹きとばされたのであった。
「巡査は何をしておるのだ! 正当な証明書のない者は、誰も近づけてはならんと命じておいたに!」
地面の男は、肩越しに首をこっちへ向けて、
「しかし、私は身分証明を持っていますよ」といって、立ちあがった。
「やあ、ジローさん! あなたがもうお着きになろうとは思わんでしたよ。予審判事は、やきもきして、あなたを待っておられますよ」
その間、私は激しい好奇心をもって、その新来者を見守っていた。パリ警察の有名な探偵の名は、私にとっても親しみ深いものだったので、その人物を眼のあたりに見るのは、非常に興味があった。背が大変に高く、髪と口髭は茶褐色で、軍隊式の態度の三十歳くらいの男である。自分というものの重要性を充分に知り切っているらしい横柄さがあった。
ベエ署長が、ポワロを事件の担当者の一人として、我々を紹介した時、探偵の眼に、一抹の興味が湧いた。
「お名前は知っております、ポワロさん。昔は大いに名をなしておられたですなあ。しかし今日では、捜査法が大分変っておりますよ」と彼はいった。
「しかし犯罪そのものは、だいたい似たりよったりでございますね」とポワロは穏やかにいった。
ジロー探偵は、敵愾《てきがい》心を示そうとしているのだなと、私はすぐに見てとった。彼はポワロと共同で仕事をするのを気まずく思っているのであった。もし何か重要な手がかりを見つけた場合、彼はきっと自分だけのものにしておくに違いないと、私は感じた。
「予審判事が……」とベエ署長がいい始めると、ジロー探偵は無礼にもそれを遮ってしまった。
「予審判事なんて、くだらない! 大切なのは光ですぞ! 実際的な仕事をするのに大切な光があと三十分も経てばなくなってしまう。家の中の人間のことなんかは、明日まで待てばいい。犯人の手がかりが見つかるものとしたら、ここで見つかるのです。ここをこんなに踏みちらしたのは、あなたの部下たちですか? 近ごろは、もうちっと物を知っていると思っていたが……」
「それはわかっておるのであります。だが、あなたがそんなに不服を唱えておいでなさるその足跡は、死体を発見した労働者どもがつけたんでありますよ」署長は、うんざりしたというようにいった。
「その生垣を通って、三人の人間が来た跡が見える。しかし奴らは狡猾だ。その中の真ん中のはルノール氏の足跡と認められるが、両側の二人は注意深く消されている。とにかくこの堅い地面では大して見るものはありませんや。だが奴らは決して僥倖頼みなんかしているんではない」
「ではあなたは、なにかはっきりした外部の証跡を求めていらっしゃるのですか」とポワロがいった。
ジロー探偵は、ポワロをじろりと見て、
「もちろん」といった。
ポワロの唇に微笑がかすかに浮かんだ。何かいいかけたが、止めて、傍に投げ出してあるスコップのほうへ身をかがめた。
ジロー探偵はすぐに、
「それは墓を掘ったんだ、確かに。しかしそれからは何も得られませんぜ。それはルノールのスコップだし、それに、それを使った人間は、手袋をはめてやったんだ。そこにあるですよ」といって、泥まみれの手袋が二つ投げ出してある場所を足でさした。
「それに、それもルノールのものか、あるいは園丁のものだ。この犯罪を計画した奴らは決して僥倖に頼ったりしていないと、さっきもいったとおり、男は自分の短刀で刺し殺され、自分のスコップで葬られるという寸法だった。奴らは絶対に尻尾《しっぽ》をつかまれないつもりだったのさ。だが私は奴らを負かしてやる。必ず|何か《ヽヽ》があるものだよ。私はそれを発見するつもりだ」
しかしポワロは、何かほかのものに興味をひかれていたらしかった。それはスコップの傍にあった、色あせた短い鉛管の一片であった。ポワロはそれに注意深く指を触れて、
「すると、これも被害者のものでしょうかね」と尋ねた。その質問には、皮肉の匂いが、巧みに秘められているようであった。
ジロー探偵は、そんなものは知りもしなければ、どうでもいいというように、肩をすくめた。
「何週間もそこにあったかも知れない。とにかく私には興味がないですね」
「ところが、私にはまた、非常に面白く思われるのです」とポワロは穏やかにいった。
私はポワロが、パリの探偵を怒らせようとしているのだと思った。もしそうだとすると、誠に効を奏したのだ。相手は、そんなことに時間を空費してはいられないといいながら、無礼にもくるりと後ろを向いて、再び地面にかがみこんで詳細なる調査に取りかかった。
ポワロは、急に何か考えついたらしく、境の生垣を押しわけていってそこにある小屋の戸を開けようとした。するとジロー探偵が肩越しにいった。
「そこは錠がおりてる。園丁が、がらくたを入れておくだけで、スコップはそこから出したものじゃないですよ。家のそばの道具小屋から出したものだ」
ベエ署長は、満悦のていで、私にささやいた。
「驚くべき人物でありますな。たった三十分しか経っておらんのに何でも知っておるんですからな。何たる男でしょう! たしかにジローは当代一の探偵でありますな」
実は、私は、このパリの探偵は虫が好かなかったが、にもかかわらず、ひそかに感服した。この男からは精力が溢れ出ている。これまでのところ、ポワロはあまり目立つ存在ではない。それが私を悩ました。何だかこの事件とはまるで関係もなさそうな、つまらない、ばかげたものにばかり注意を向けているように思われた。実に、この急場に臨んで、突然にこんなことを尋ねたりしたのである。
「ベエさん、この墓の囲りにずっと拡がっている白い線は、何のためでしょうか。それは警察の仕業ですか」
「いいえ、ポワロさん。それはゴルフ場の仕事であります。ここがバンカーとよぶものを作る場所であることを示してあるのであります」
「バンカーですって?」といって、ポワロは私のほうを向いて
「それは砂をみたした不規則な穴で、一方にバンクがあるのですね。君、そうでしょう?」といった。
私は、そのとおりだといった。
「ルノールさんは、ゴルフをなさいましたか」
「ええ、熱心なゴルファーでありました。このゴルフ場の仕事が運んだのも、ルノールさんのお陰なのであります。多額の寄付金もされたし、設計のほうにも種々助言されておったそうであります」
ポワロは考え込みながら、うなずいた。それから、
「あまり賢明な選択ではありませんね。ここを掘り起こす作業が始まれば、すぐに発覚するでしょうに」といった。
「そのとおりだ! それは奴らがこの土地に不案内だという点を示している。これは間接証拠の優れたものですな」とジロー探偵は勝ちほこったようにいった。
「さよう、この土地の事情に通じていれば誰も、こんなところに死体をかくしませんね。……発見されるのを希望してでもいないかぎりは。また、それはあまりにおかしなことですしね」と、ポワロは疑わしげにつぶやいた。
ジロー探偵は、それに答えようともしなかった。
「そうだ……そうです……たしかに……ばかげている!」
ポワロは、何やら不満らしい調子でいうのであった。
花壇の足跡
家へ引き揚げかけた時、ベエ署長は、ジロー探偵の到着を予審判事に告げなければならないからと、いいわけをして、先にいってしまった。ジロー探偵は、ポワロがもう見るだけのものは見てしまったというのを聞いて、たしかに喜んでいたようであった。我々が現場を立ち去りかけて、気がつくと、ジロー探偵は地面によつんばいになって、私が賞讃を禁じ得ないような探索の万全を期しているのであった。ポワロは私の考えを察して、二人だけになるや否や、皮肉を浴びせた。
「ついに、君の賞讃おくあたわざる探偵さんが現われましたね……人間猟犬、そうじゃありませんか? 君」
「少なくもあの男は、何かを|やって《ヽヽヽ》います。発見すべきものがあれば、必ず発見するでしょう。ところがあなたは……」と、私は無愛想にいった。
「私だって、発見いたしましたよ。鉛管の一片をね」
「ばかばかしい! ポワロさん、そんなものは何の関係もないことを、百も承知のくせに! 僕は細かいもの……犯人に間違いなく導いてくれるような証跡のことをいっているんですよ」
「君、五十センチの長さの手がかりでも、二ミリくらいしかないものと同じくらいに大切なものなのですよ。すべての重要な手がかりは、ごく細微なものでなくてはならないというのは、ロマンチックな考えですよ。この鉛管の一片が、犯罪と何の関係もないというのは、ジロー探偵がいったから、君もそういうのです。いいえ」と、私が質問をしようとするのを制して、ポワロは言葉を続けた。
「もう何もいわないでおきましょう。ジローに探索を続けさせておきなさい。そして私をも、私の考えに、任せておいてください。この事件は単刀直入的な事件のように思われますが……しかし、まだ、……不満なところがあります。君、なぜだかわかりますか? なぜなら、腕時計が二時間も進んでいたからです。それにぴったり合わない、小さな奇妙な点がいくつかあるからなのです。たとえば、犯人たちの目的が復讐にあったのなら、なぜに、ルノール氏を睡眠中に一突きに刺し殺してしまわなかったのでしょう?」
「奴らは、『秘密』を欲していたのでしたっけね」と、私は彼にその点を想い出させるようにいった。
ポワロは、不満な様子で、袖のちりを払い落していた。
「では、その『秘密』はどこにありますか? たぶん、どこか、遠方にあったのでしょう。なぜならば、服を着るように命じていたから。ところが、家に声がとどくくらいのところで殺されているのが発見されました。それから、あの短刀のような兇器が何気なく、手近に置いてあったのは、まったく偶然だったのです」といって、ポワロは、眉をひそめて、語り続けた。
「どうして召使いたちは、何の物音も聞かなかったか? 睡眠薬でも盛られたのか? 共犯者があったのか? その共犯者が、玄関の鍵を外しておいたのか? それとも……」
ポワロは急に立ち止まった。我々は玄関前の車道に達していたのだ。ポワロは突然に、私のほうへ向き直った。
「君、びっくりさせてあげよう! 君を喜ばすためにね! 君のお叱りが身にこたえたのでね。さあ、足跡の調査をいたしましょう」
「どこのですか」
「あの右側の花壇です。ベエさんは、あれは園丁の足跡だとおっしゃったが、そうかどうか見ましょう。見たまえ、手押車を押して園丁がこっちへ参りますよ」
まったく、老齢の男が、苗木の入った運搬車を押して、ちょうど車道を横切って来るところであった。ポワロが呼ぶと、男は車を置いて、よたよたやってきた。
「あなたは、足跡とくらべて見るのに、あの男の長靴を借りるんでしょう?」
私は声を弾ませていった。ポワロに対する私の信用が少し復活してきたのであった。ポワロが、この右側の花壇の足跡が重要だというのなら、そうにちがいないであろう。
「そのとおり」とポワロがいった。
「しかし、おかしいと思わないでしょうか」
「そんなことを思うものですか」
老人が近づいたので、それ以上、話すことはできなかった。
「旦那様、何ぞご用でございますか」
「そうですよ。あなたは長いことここで園丁を勤めておいでなのでしょうね」
「二十四年になります、旦那様」
「お名前は?」
「オーギュストと申します、旦那様」
「私は、このすばらしいゼラニウムに見惚れていたのですが、これはほんとうにたいしたものですね。植えてから余程になりますか」
「大分たちます、旦那様。もちろん花壇を小綺麗にしておくには、新しい木を植えにゃなりませんし、花の終ったのは除《ど》けてやらにゃならず、古い花は摘まにゃなりませんのです」
「昨日、あなたは新しいのを植えましたね。その真ん中のそれと、そっちの花壇のその列と」
「旦那様は、なかなか目がお利きになります。ぴんとするには、一日二日はかかりますのです。昨晩十株ばかり新しいのを植えました。ご承知と思いますが、日の照っている時に特に植え替えは禁物でございますからね」
オーギュストは、ポワロが花壇に興味を示したので、すっかり喜んでしまって、おしゃべりになった。
「そこのそれは、素晴らしい種類ですね。一枝もらえませんか」
「よろしゅうございますとも、旦那様」といって、老人は花壇へ踏み込んで、注意して、ポワロのほめたゼラニウムの株から、一枝折ってきた。
ポワロに惜しみなく謝礼の言葉を浴びせられて、オーギュストは、手押車のほうへ戻っていった。
「どうです?」とポワロは微笑して、園丁の鋲を打った靴跡を調べるために、花壇にかがみこんだ。
「まったく簡単そのものですよ」
「僕にはわからな……」
「靴の中に足があるということがですか? 君はそのすぐれた心的能力を、十分に使っておりませんね。さて、この足跡はどうですか」
私は花壇を注意深く調べた上で、
「この足跡は、全部同じ靴でできたものです」といった。
「君はそう思いますか? よろしい、私も賛成します」とポワロはいったが、何かほかのことを考えているらしく、少しも興味を持っていないようであった。
「とにかく、これであなたの帽子の中の蜂が一ぴきへったわけですね」
「やれやれ、それは何という言いまわしなのです? どういう意味ですか」
「今こそあなたは、この足跡に対する興味を棄てるでしょうということです」
ところが驚いたことに、ポワロは首を振るのであった。
「いや、いや、君、私はついに軌道に乗ったのです。まだ不明なところはありますが、たった今、ベエ氏に匂わしたとおり、これらの足跡は、この事件で最も興味ある、最も重要なものなのです! お気の毒なジロー……あの人がこの点に少しも気がつかないとしても、私は驚きませんよ」
その時、玄関の戸が開いて、署長と判事が石段をおりてきた。
「ああ、ポワロさん、あなたを探しに来たのですよ。遅くなりましたが、これからドーブリーユ夫人を訪問いたそうと思いましてね。夫人はルノール氏の死によって、大分とり乱していることと思いますが、幸いにして夫人から何か手がかりを得るかも知れません。奥さんに打ち明けなかったようなことでも、自分を奴隷にしてしまうほど愛している女性には、話していたかも知れません。我々はサムソンの弱点を心得ておりますからね」と判事がいった。
我々は何もいわなかったが、列に加わった。ポワロと判事が一緒に、署長と私は数歩おくれてついていった。
署長は、私に打ちあけるようにいった。
「フランソワーズのいったことが、実質的に、正しかったようであります。私は本部に電話をしておったのでありますが、過去三週間に……つまりルノール氏がこの土地へ到着して以来、ドーブリーユ夫人は、銀行預金に大金を入れたそうであります。全部で、二十万フランという額であります」
「そりゃ、四千ポンドくらいになりますね」と私は胸算用していった。
「そうであります。ルノール氏がすっかりのぼせあがっておったことは疑う余地なしでありますな。しかしあの夫人に秘密を打ち明けたかどうかということは、まだ何ともいえんですな。判事は希望をもっておられますが、私はどうもそういう気になれんのであります」
こんなことを話しながら、一同はその日の午後に、私とポワロを乗せた車が、途中で停車した二股道に向っていった。次の瞬間、私は、謎のドーブリーユ夫人の住むマーガレット荘というのは、あの美しい乙女が出てきた小さな家であることを知った。
署長は顔をその家のほうに向けて、
「あの人はあの家に何年も住んでいるのであります。非常に慎ましく静かに。友人も親戚もないらしいですね。メルランビーユで作った知人のほかは何もないようであります。過去について語ったこともなければ、夫のことを話したこともないです。その夫が生きておるのやら、死んだのやらも、誰も知らんのであります。あの夫人の身辺は謎に包まれておるですな」といった。
私の興味は湧き上ってきた。
「それから、あのお嬢さんは?」と、私は尋ねてみた。
「まったくきれいな娘さんですよ。温和《おとな》しくて信心深くて。しかし気の毒ですよ。自分は過去のことを何も知らんでも、結婚しようとする男は、誰だって相手の身元を知りたいでありましょうからな……そうなると……」
署長は、冷笑的に、肩をすくめた。
「しかし、それはあのお嬢さんのせいではないでしょう」
私は義憤を感じて叫んだ。
「そりゃそうであります。といって、ほかにどうにもならんではないですか? 男っていうものは、とかく妻の祖先のことを気にするものでありますからな」
我々は、玄関の前に着いたので、私はそれ以上の議論はできなかった。オート判事が、呼鈴をならした。数分して戸が開いた。敷居に、あの若い女神が立っていた。我々を見ると、頬からさっと血がひいて、死人のように真っ青になり、眼は心配そうに大きく見開かれた。彼女が何かを恐れているのは、疑いもない。
判事は帽子をとって、ていねいにいった。
「お嬢さん、おさまたげして、誠に相すみませんが、法律が緊急を要しますので、おわかりくださいますでしょうな……どうぞお母様によろしく申し上げ、数分ご引見ねがいたいとお伝えいただきたいのですが?」
ちょっとの間、彼女は棒立ちになっていた。心の動揺をしずめようとするように、左手で脇腹をおさえていたが、やがて我に返って、低い声でいった。
「行って見てまいります。どうぞ中へお入りください」
彼女は玄関の左側の部屋へ入っていった。中から、ぼそぼそ低い声がもれてきた。すると、別の声、音声は娘と似ていたが、やわらかい中に、もう少し強い響きのある声が、
「いいですよ。どうぞお入りくださいって、おっしゃい」
やがて我々は、謎の女性、ドーブリーユ夫人を目のあたりに見た。
夫人は、娘ほど高くはないが、まるみのある曲線には、円熟しきった優雅さがあった。毛髪は、これも娘とちがって黒く、マドンナのように、中央から分けていた。下を向いた瞼に半ばかくされている瞳は黒かった。手入れがよくとどいているが、確かにもう若くはなかった。しかし年齢におかされない魅力をもっていた。
「私にお会いになりたいとおっしゃるのでしょうか」と、彼女はいった。
「そうでございます、奥さん。私がルノール氏の死の調査をしております。もうお聞きになりましたでしょう」
彼女は何もいわずに、頭をさげた。その表情には変化はなかった。
「私どもは、何かあなたが……それをめぐる事情に光明をお与えくださることが、おできになるかも知れないとぞんじまして伺ったのでございます」
「私がでございますか?」驚きの調子はあざやかであった。
「そうでございます。奥様が、夜間、故人を別荘に訪問される習慣でいらしたことを、信ずべき筋があるのでございます。そうではありませんか」
夫人の青い頬に、血がのぼってきた。しかし、静かにこう答えた。
「あなた様に、そのようなことをお尋ねになる権利はございません」
「奥さん、私どもは殺人の調査をしておりますのです」
「それがどうだとおっしゃるのでございますか。私は殺人などには、関係ございません!」
「奥さん、私どもは、少しもそのようなことを申しているのではありません。しかし、あなたは故人をよく知っておられました。故人は何か危険に脅《おびや》かされているというようなことを、あなたに打ちあけられませんでしたか」
「決して」
「サンチャゴにおける生活のこと、またそこで作ったかも知れない敵のことなど話されませんでしたか」
「決して」
「では、少しもお助けくださることは、おできにならないのですな」
「できないと思います。どうしてあなた方が私に会いにおいでになったか、わかりませんわ。あの方の奥様が、あなた方のお知りになりたいことをお話しになれないのでしょうか」
その声には、多少皮肉な調子があった。
「ルノール夫人は、できるだけのことを話してくださいました」
「ああ、ではたぶん……」と、ドーブリーユ夫人がいった。
「たぶん、何だとおっしゃるのですか」
「何でもございません」
判事は彼女をじっと見つめた。彼は、自分が果し合いをしているのだ、しかも、油断のならない相手とやっているのだということを承知していた。
「ではあなたは、ルノールさんが、あなたに何も打ちあけなかったと、いいはられるのですか」
「なぜ、あの方が、私に打ちあけごとなどなさったろうと、お考えになるのでございますか」
「なぜならば奥さん」と判事は、計画的な残酷さで、切り出した。
「男というものは、細君に話さないようなことでも、愛人には話すものですからな」
「ああ」と叫んで、夫人は立ち上った。その眼は火のように燃えていた。
「あなたは、私を侮辱しておいでです。しかも娘の前で! 私は何もお話しできません。どうぞ、この家を出ていらしてください!」
当然、女性に対する礼儀は、守られるべきである。我々は恥じ入った少年の一団のように、マーガレット荘を出た。判事はひとりで、ぶつぶついっていた。ポワロは考えに沈んでいるようであった。そのうちに、急に夢から覚めたように、はっとして、この辺にいいホテルがあるかどうかを、オート判事に尋ねた。
「町のこちら側に、バーン・ホテルという小さな宿があります。この道を十五メートルほど下ったところです。あなたの調査に、ちょうど好都合でしょう。では、明朝またお目にかかれましょうね」
「ありがとうございます、オートさん」
互いに挨拶を交わして、我々は一行と別れた。ポワロと私は町のほうへ、ほかの人々はジュヌビエーブ荘のほうへ帰っていった。
ポワロは、その後ろ姿を見送っていった。
「フランスの警察組織は、まことに驚くべきものですね。個人の生活に関する知識、詳細にわたっての知識は驚異的です。ルノール氏がこの土地へ来て、六カ月をいくらも出ないのに、その趣味とか職業とかを、完全に知りつくし、ドーブリーユ夫人の預金に関する知識も、一瞬にして得られる。どのくらいの金額が加えられたかもわかる。カード式記録というものは、偉大な制度ですね。おや、何でしょう?」
ポワロは、さっと後ろを振り返った。
道を下って我々を追いかけてくる帽子もかぶらない女性の姿が見えた。それはドーブリーユ夫人の娘、マルト嬢であった。
「ごめんなさい」と、彼女は息をきらせながらいった。
「こんな……こんなことしちゃいけないのですけど、母におっしゃらないでくださいな。あのう、ルノールさんが亡くなる前に、探偵さんをお頼みになったってこと、ほんとでしょうか?……そして、あなた方が、その方だって……」
「さようでございますよ、お嬢様。だが、どうして、それがおわかりでございましたか」と、ポワロは、優しくいった。
「フランソワーズが、うちのアメリーにいったんですの」
マルトは、顔をあからめながらいった。
「こういうことでは、秘密は不可能なものですね! しかし構いません。さて、お嬢様は、何をお知りになりたいのでございますか」
若いお嬢さんはためらった。話したいのだが、怖がっている様子であった。が、ようやくささやくように尋ねた。
「誰かが、疑われておりますの?」
ポワロは、鋭く彼女の顔を見た。
それから、つかまえどころのないような返事をした。
「疑惑は、ただいまのところ宙に浮いております、お嬢様」
「ええ、それはわかりますけど……でも、誰か特別に?」
「なぜそれをお知りになりたくていらっしゃるのですか」
その問いに、彼女はおびえたようであった。私は急に、昼間、ポワロのいった言葉を心に浮べた。「心配そうな眼をした娘」……
「ルノールさんは、私にとっても親切にしてくだすったんですもの。興味をもっても、ふしぎはないと思いますわ」
「ああ、そうでございますか、お嬢様。今のところ、嫌疑は二人の人物にかけられております」
「二人ですって?」
その声には驚きと、安堵の響きがあったことはたしかであった。
「その名はまだわかりません。しかしサンチャゴから来たチリ人と思われております。さあ、お嬢様、あなたがお若くてお美しいものですから、私はとうとう職業上の秘密までお話し申し上げてしまいましたよ!」
令嬢はたのしそうに笑って、それから、ちょっと恥らいながら礼を述べた。
「私、もう走って帰らなければなりませんわ。母がきっと心配しているでしょうから」
令嬢がくるりと向うをむいて、坂道をかけ上っていく姿が、ギリシア神話に出てくる美貌で駿足の乙女アタランタのように見えたので、私はいつまでも後ろを見送っていた。
ポワロは、優しい皮肉っぽい調子で、
「君が美しい乙女を見て、頭が渦を巻いているというだけの理由で、私どもは夜中まで、ここに根を生やしていなければならないのでしょうかね」と、言った。
私は声をあげて笑って、あやまった。
「しかし美しいですね、ポワロさん。誰だって、あのお嬢さんを見て気が転倒したのなら、ゆるされるべきでしょうね」
だが、驚いたことに、ポワロは、真剣になって首をふった。
「ああ、君、マルト・ドーブリーユに心を移してはいけませんよ。あのお嬢様は君には不適当です。あのお嬢様はいけません! ポワロ小父さんのいうことをおききなさい!」
「しかし、あの乙女は美しいと同時に、善良だと、ベエ署長も、はっきりいいましたよ。完全な天使ですよ!」と、私は叫んだ。
「今までに私の知っている中で最も恐ろしい重罪犯人も、天使のような顔をしておりましたよ。畸形な脳細胞が、マドンナの顔の背後についていることは、あり得ることですからね」と、ポワロは軽い調子でいった。
「ポワロさんは、まさか、あんな無邪気な子供を疑っていらっしゃるんじゃないでしょうね!」と、私は恐ろしい気がして、叫んだ。
「これ、これ、そう興奮してはいけませんよ。私はあのお嬢様を疑っていると申すのではありません。しかし、あのお嬢様のこの事件についての知りたがりようは、普通ではありませんよ」
「一度だけ、僕のほうがポワロさんよりも先を見透します。あの心配は自分のためではなく、母親のためですよ」と私はいった。
「君は相変らず、何もわからないのですね。ドーブリーユ夫人は、娘などに心配してもらわなくても、結構、自分の始末のできるご夫人ですよ。私が少し君をからかったのは、事実ですが、しかし前にいったことを、もう一度繰り返して申しますよ。あのお嬢様に心を向けてはなりません。あのお嬢様は、あなたには向きません。このエルキュール・ポワロが、それを知っているのです。ああ、あの顔を、どこで見たか思い出すことができさえしたら!」
「どの顔ですか? 娘さんのほうですか」と、私は驚いて尋ねた。
「いいえ、母親のほうです」
私の驚きに気がついて、ポワロは力強くうなずいた。
「ああ、そうです。君にきかせてあげますがね、ずっと昔のことです。私がまだベルギー警察にいたころ、直接会ったわけではありませんが、写真であの顔を見たのです……ある事件に関してです。それは……」
「ええ?」
「間違っているかも知れませんが、殺人事件だったと思います」
第二の死体
わが友、シンデレラ
翌朝早く、ポワロと私は、別荘へいった。門のわきに控えていた見張り番は、今度は我々の行く手をはばまなかった。それどころか、うやうやしく我々に敬礼をした。それで我々は家の中へ入っていった。ちょうど女中のレオニーが、階段をおりてくるところであった。そして少しばかり話し相手になっても、わるくない様子を見せた。ポワロは、ルノール夫人の容態を尋ねた。
レオニーは首をふった。
「お気の毒に、すっかり取り乱しておいでですわ。何も召し上らないのです。幽霊みたいに真っ青になっていらっしゃいますの。見るも胸が痛くなるほどですわ。私だったら、自分をほかの女に見変えた男のためになんか、あんなに悲しみませんわ!」
ポワロは、同情深く、うなずいた。
「あなたのいうのはもっともだが、仕方ないじゃないですか。愛する心というものは、かなりな打撃でも、ゆるし得るものですからね。それにしても、この数カ月この方、何度か夫婦間にいさかいがあったことでしょうね」
レオニーは、再び首をふった。
「絶対にありませんでしたよ。奥様は一言だって文句をおっしゃるとか、ご主人様を非難なさるようなことはなさいませんでした。奥様は天使のような気持ちの方です……まったくご主人様とは正反対でしたわ」
「ルノールさんは、天使のような性質を、お持ちではなかったのですね」
「それどころじゃありませんでしたわ。お怒りになると、家中に響きわたりましたわ。あのう、ジャック様と口論なさった日なんか、ほんとに市場まで聞えるくらいでしたのよ。お二人で大きな声をお出しになって!」
「そうですか。いつそんな口論をやったんですか」
「そう、ちょうどジャック様が、パリにおいでになる前でした。もう少しで汽車に乗り遅れなさるところでしたの。図書室から出てらして、玄関に置いてあった旅行鞄をつかむなり、自動車が修理中でしたので、停車場まで走っておいでにならなければならなかったのです。私は客間のお掃除をしていたので、そばをお通りになるのをお見かけしたんですけど、真っ青になって、赤い二つの眼だけが、ぎらぎらして、とっても怒っていらっしゃいましたわ!」
レオニーは、それを話すのが、いかにも楽しそうであった。
「で、その口論は、何についてだったのですか」
「それは、わかりませんの。怒鳴ったのはたしかなんですけど。あんまり声が大きくて、高調子の上、早口だったので、英語のよくわかる人でなければ、聞き取れませんでしたの。ご主人様は、その日、一日中、かみなり雲みたいでしたわ。何をしてあげても、お気に入らないのでした」
二階で、戸の締まる音がしたので、レオニーのおしゃべりは、終りを告げた。
「ああそうでしたわ。フランソワーズが待っているんでした。あのお婆さんは、いつも怒ってばかりいるんですのよ」と、レオニーは、忘れていた用事を思い出していった。
「ちょっと待ってください。予審判事さんは、どこにいらっしゃるのですか」
「あの方たち、車庫を見にいらっしゃいましたわ。署長様が、殺人の夜、自動車が使われたかも知れないとお考えになって」
女中が去ると、ポワロは、
「何たる考えだ!」とつぶやいた。
「我々も車庫へいきますか」
「いや、客間で、あの人たちの帰りを待ちましょう。今日のような暑い日は、ここのほうが涼しくてよろしい」
その落ちつき払った態度は、どうも私の気に喰わなかった。
「もし、さしつかえなければ……」といって私はためらった。
「ちっとも構いませんよ。君もいって調べてみたいのでしょう?」
「ジローが何をしているのか、どこにいるのか、ちょっと見てきたいんです」
「あの人間猟犬をね! どうぞ、君! ではいっていらっしゃい」
ポワロは安楽椅子によりかかって、そうつぶやくと、眼を閉じてしまった。
私は玄関から外へ出た。確かに暑かった。私は自分で、犯罪の現場を研究してみようと思って、前の日に通った道をぶらぶら歩いていった。だが真っすぐにはそこへいかないで、道をそれて灌木の中へ分け入った。右手の数百メートルのところに、ゴルフ場があった。そこはほかよりも木が茂っていたので、無理して通らなければならなかった。ようやくゴルフ場へ出ると、思いがけなく、生垣を背にして立っている若い女性にどしんと、ぶつかってしまった。
女性は不意をつかれて、悲鳴をあげたが、私のほうは、驚きの声をあげた。何とそれは、汽車で会った、わが友、シンデレラ姫だったのだ。
二人とも、びっくりして、
「あなたでしたか!」と同時に叫んだ。
シンデレラのほうが、先に、我に返った。
「一体、あなた、こんなところで、何していらっしゃるの?」と、彼女は叫んだ。
「では一体、あなたは何をしていらっしゃるんですか!」と、私もいい返した。
「一昨日、お目にかかった時、あなたは、善良な少年のように、とっとと英国さして帰っていらしたのに!」
「僕が一昨日お目にかかった時には、あなたは善良な少女のように、お姉様と一緒にさっさと家へ帰っておいでになったのに! ところで、お姉様はいかがでいらっしゃいますか」
白い歯がちらと、私に応酬した。
「ご親切ね、お尋ねくださるなんて! 姉は元気ですわ」
「お姉様もこちらにご一緒ですか」
「町に残りましたわ」
「お姉様があるなんて、僕は信じませんよ。もしあるとしたら、その名はハリス(手製の織物の名)でしょう!」と、私は笑った。
「私の名を覚えていらっしゃる?」
彼女は、微笑しながらいった。
「シンデレラですよ。しかし今日はほんとうの名を教えてくださるんでしょう?」
彼女は、いたずらっぽい顔をして、首をふった。
「なぜ、この土地に来ていらっしゃるかも教えてくださらないんですか」
「あら、そのことなら、あなたは私の商売仲間が『目下休養中』だっていうことを覚えていらっしゃるでしょう?」
「フランスの、こんな金のかかる休養地へですか」
「その気になれば凄く安いところだってありますのよ」
私は、鋭く彼女を見た。
「だが、二日前にお目にかかった時には、ここへいらっしゃるつもりではいらっしゃらなかったんでしょう!」
「私たち、全然がっかりしてしまったんですのよ。さあ、これで充分お話してあげましたわ。小さな男の子というものは、あんまり根ほり葉ほり聞きたがるもんじゃないの! あなたご自身は、ここで何をしていらっしゃるか、聞かしてくださらないじゃありませんか」
「僕の偉大なる友人が、探偵だということを話したのを、覚えていらっしゃいますか」
「ええ」
「それから、たぶんこの犯罪……ジュヌビエーブ荘の事件について、お聞きになったでしょうね」
彼女は私を凝視した。彼女の胸は波打ち、眼は大きく円くなった。
「あなたが、まさか、それをしていらっしゃるんじゃないでしょうね」
私はうなずいた。私が大いに点数を取ったことは明らかであった。私を見る彼女の表情が充分にそれを語っていた。彼女はしばらく、私を見つめていたが、それから力をこめてうなずいた。
「まあ素敵! 私を連れまわってくださらない? 怖いものをみんな見たいわ!」
「何のことをいっていらっしゃるんですか」
「あらまあ、あなた、私、犯罪大好きって、いいませんでした? 何時間も、この辺をかぎまわっていたのよ。ここで、こんな風にお会いするなんて、まったく幸運ね! さあ、みんな見せてちょうだい」
「しかし、まあ……ちょっと待って……それはできないのです。誰もそれは許可されないのです。非常にやかましいんです」
「だって、あなたも、お友達も、おえら方なんでしょう?」
私は自分の重要さを、この女性の前で失いたくなかった。
「どうしてそんなに熱心なのです? あなたの見たいものは何ですか」私は弱々しくいった。
「おお、何でも全部! 起こった場所だの、兇器だの、死体だの、指紋だの、そういったような面白いものは何でもいいの。今まで、こういう殺人事件にとび込むようなチャンスがなかったんですもの。生涯の思い出になるわ」
私は胸くそが悪くなって、横を向いた。近頃の女性は一体どうしたことだろう? この若い女性の残忍な興奮は、私に吐き気を催させた。
「いばるの、およしなさいよ!」と、突然、彼女はいった。そして、
「気取るのはおよしあそばせだ! このお仕事に呼ばれた時、あなたは|つん《ヽヽ》として、そういうけがらわしい仕事に関係はしたくないと、おっしゃって?」
「いや、しかし……」
「もし、あなたが休暇でここに来合せていらしたとしたら、私と同じように、かぎ廻るようなことはなさらなかったかしら? もちろん、なさったわ」
「僕は男です。あなたは女ですよ」
「あなたの女という観念は、鼠でも見たら、椅子の上にとびあがって悲鳴をあげるようなんでしょう? そんなの有史以前のしろものよ。見せてくださるわね。だって、私にはとっても違うことになるんですもの」
「どういう風に?」
「警察では新聞記者を全部締め出しにしているんですもの。私、どこかの新聞に特種を売り込めるじゃないの。あなたは、内輪のちょっとした情報に、新聞社でどれくらい支払うか、ごぞんじないのね」
私が、ためらっている間に、彼女は小さな柔い手を、私の手にすべりこませた。
「どうぞ……いい子だから。ね?」
私は降伏した。内心は案内役をつとめるのが嬉しかったのだ。
私達は、最初に、死体が発見された現場へいった。巡査が一人、張り番をしていたが、顔見知りなので、うやうやしく敬礼をしたけれど、私の同伴者について、何の質問もしなかった。きっと私が保証をとっているものと思い込んでいたのであろう。私はシンデレラに、この発見がどんな風にされたかを説明した。彼女は時折、知的な質問をして、熱心に耳を傾けていた。それから私達は家のほうへ足を向けた。実のところ、私は誰にも会いたくなかったので、用心深く家の裏手を廻って、植え込みの中を通って、小さな物置のあるほうへ進んでいった。私は前日、ベエ署長が戸を閉めてから、鍵を「私どもが二階にいる間に、ジローさんが入用かも知れんから」といって、巡査のマルショーに渡したのを想い出した。それでジロー探偵がそれを使ってから、また巡査に返したろうと思った。私はシンデレラを灌木の蔭に待たせておいて、家へ入った。客間の戸の前にマルショーが立ち番をしていて、中から低い話し声が聞えていた。
「判事殿にお会いになりたいのですか? 中においでです。またフランソワーズを調べていられます」
私は、あわてて、いった。
「いや、あの人に会いたいのではない。もし規則違反でなければ、外の物置小屋の鍵を借りたいんだが」
「よろしいですとも。ここにあります」といって、鍵を出してくれて、
「判事殿が、すべての機能をあなた方のお役に立てるようにと命令を出されたのです。お済みになりましたら、返していただけば、それでよろしいのです」
「もちろん、返します」
私は、少なくもマルショーの眼には、自分がポワロと同格の重要な位置にあることを知って、満足感に、身内がぞくぞくするのを覚えた。彼女は私を待っていた。私が鍵を持っているのを見て、喜びの声をあげた。
「手にお入れになったのね!」
「もちろんです」と、私は取りすましていった。
「しかし、僕のやっていることは、規則違反なんですよ」
「あなたは、とってもいい方ね。決して忘れないわ。さあ、早く! 家から誰にも見られないでしょうね」
「ちょっとお待ちなさい」私は彼女が熱心に前へ出ようとするのを制した。
「ほんとうに入りたいのなら止めませんがね。ほんとうに入りたいんですか? 墓は見たし、その辺も見たし、事件の詳細も聞いたし、それで充分じゃないですか! これはぞっとするようなものですよ……不愉快な」
彼女は、私が心底を見抜くことのできないような表情でしばらく私を見つめていたが、笑い出した。
「私が怖がるんですって? さあ、いきましょう」と彼女はいった。
私たちは、黙って物置の前までいった。錠を外して、二人で中へ入った。私は死体に近づいて、前日の午後ベエ署長がやったように、静かに敷布を除いた。喘ぐような息が彼女の唇からもれた。私は振りむいて彼女の顔を見た。恐怖の表情が浮かんでいた。快活な元気さをすっかり失っていた。私の忠告を聞かなかったから、その罰を受けているのだ! 私はふしぎなくらい、彼女に対して無慈悲な気持ちになっていた。すっかり見るがいい! 私は静かに死体をひっくり返した。
「ごらんなさい、背中を刺されているんです」
「何で刺したの?」その声は、ほとんど音がひびかなかった。
私がガラス壺のほうへ、首をねじった。
「あの短刀でですよ」
突然に彼女はよろめいて、へたへたと地面に崩折れていった。私はいそいで抱き止めに前へ飛び出した。
「気絶しかけたんです。ここから出ましょう。あんまりひどすぎる」
「水! 早く! 水!」と、彼女はうめいた。
私は彼女を一人おいて、家へとんでいった。幸いその辺に女中たちがいなかったので、私は誰にも見つからずに、コップに水を入れ、ブランデーの小壜から一二滴たらして数分のうちに物置へ戻ることができた。彼女は私の残したところに横たわっていたが、ブランデー入りの水を少しのむと、驚くほど回復した。
「ここから連れ出して……早く! ねえ、早く!」彼女は震えながら叫んだ。
腕につかまらせて、外へ連れ出すと、彼女は背後の戸を引いて閉じてしまった。そして深く呼吸をするのであった。
「少しよくなったわ。ああ、怖かった! どうして私を入らせたの?」
これは大変に女らしい感情なので、私は微笑を禁じ得なかった。彼女が気絶したことは私を満足させた。それは彼女が私の思ったような残酷な性格でないことを証明したようなものだからであった。結局、まだ子供に過ぎないのだ。さっき示した好奇心も、別に考えたあげくのものではなかったのだ。
「僕は、いっしょうけんめいに、とめたんですよ」と、私はやさしくいった。
「そうでしたわね。じゃ、さようなら!」
「お待ちなさい! あなたを一人でなんか行かせることはできませんよ。僕が町まで送っていってあげます」
「いいんです。もう大丈夫!」
「また気が遠くなったらどうします。いや、僕をいっしょに行かせて下さい」
しかし彼女は、力を入れてそれを断った。私はようやく町端れまでついていくところまで漕ぎつけた。私たちは前に通った道順で、もう一度、例の墓穴のそばを過ぎ、迂回して本通りへ出た。まばらに並んだ、最初の店のところまでいくと、彼女は手をさし出して、
「さようなら。送ってきてくだすって、ありがとうございました」といった。
「ほんとうに、大丈夫ですか」
「ありがとう、大丈夫! 私にみせてくだすったんで、あなたにご迷惑がかからなければいいけど」
私はその心配を、軽く打ち消した。
「では、さようなら」
「では、また会いましょう! あなたがこの町に滞在していらっしゃるのなら、また会えるでしょう」
彼女は、私に微笑を投げかけて、
「そう、ではまたね!」
「ちょっと待って! あなたは僕に居所を教えてくださらなかった」
「あら、私、ファール・ホテルに泊まっていますのよ。小さいところだけど、とってもいいんですの。明日会いにいらしてね」
「伺いますとも」私は不必要なほどの熱意をこめていった。
私は彼女の姿が見えなくなるまで見送って、それからきびすを返して別荘へもどった。私は物置に錠をかけなかったことを思い出した。幸いなことに、誰もこの落度に気がつかなかったので、私は錠をおろして、鍵を巡査に返した。私はその時になって、ふと、シンデレラの住所は教えてもらったが、本名をまだ知らなかったことに気がついた。
両探偵、対立す
客間へいってみると、判事が、いそがしく老園丁を質問しているところであった。ポワロと署長も、その席にいて、私を見ると二人とも微笑しながら、丁寧に頭をさげた。私は静かに席についた。判事は非常に骨を折って、細かく問いただしていたが、結局、あまり重要なことをきき出すことには、成功しなかった。
園芸用の手袋は、確かに自分のものだと、オーギュストはいった。ある人々には毒になる桜草の一種を植え付けするのにはめたのだという。最後にいつ使ったか覚えていない。紛失しても気がつかなかった。いつもどこにしまってあるかって? あっちに置いたり、こっちに置いたりだ。スコップのほうは、小さい道具小屋に入れてある。鍵がかけてあるかって? もちろん、かけてある。その鍵はどこにあるか? もちろん家の中に。あそこには別に盗まれるような価値のある品は、何も入っていない。誰が盗人だの人殺しなどを予期しよう? 伯爵夫人の時代には、一度だって、そんなことはなかった。
判事がもう済んだと合図をしたので、老園丁は、ぶつぶついいながら、出ていこうとした。私は、ポワロが花壇の足跡の件を強調したことを思い合わせて、審問中じっと、この老人を観察していた。彼は犯罪とはまったく関係がないか、さもなければ、非常に上手な役者である。ちょうど、彼が戸口を出ようとした時に、ある考えが浮かんだので、私は判事にいった。
「失礼ですがオートさん、この男に、ちょっと質問させていただけませんか」
「どうぞ、どうぞ」と激励されて、私はオーギュストのほうへ向き直った。
「靴はどこに置くのかね」
「足ですよ。ほかにどこへおくものですかい」と、老園丁はうなるようにいった。
「だが、夜寝る時は?」
「寝台の下ですよ」
「誰がみがくのだね」
「誰もそんなことしませんよ。どうして磨かにゃならんのでしょう? わしが若い者みたいに表を散歩でもするというんですかい? 日曜日には、いいほうの靴をはくっていうような工合にして……」といって、老人は肩をすくめた。
私は、がっかりして首をふった。
「まず、まず、大して進展せんですな。我々は、サンチャゴからの返電があるまでは、足踏みをさせられておるのであります。どなたかジロー探偵に会われたですか? あの人はまったく礼儀を欠いておりますな。私はよほどあの人を迎えにやろうと思って……」と判事がいいかけると、
「そう遠くまで迎えを出す必要はない」という声に驚かされた。ジロー探偵が、開け放った窓から中を覗き込んでいた。
彼は軽々と、窓から部屋の中へ飛び込んで、テーブルに近づいた。
「どういたしまして! どういたしまして!」と判事は、すこしまごついて、いった。
「もちろん、私は単なる探偵にすぎない。審問のことなんざ何も知らん。だが、もしも私が審問にたずさわっているんだったら、窓を開けっぱなしになどしておかんですな。外に立っている者には、何でもみんな聞えてしまう」
オート判事は、憤然として真っ赤になった。この事件に当っている探偵と判事との間には少しも友愛の情がないのは明白であった。そもそもの初めからこの二人の仲は険悪であった。とにかく、どっちみち二人はうまくいかないにきまっている。ジロー探偵にとっては、予審判事なんていうものは、みんな馬鹿に見えていたし、自身を重要視しているオート判事にしてみれば、自分を軽んずるような態度を見せているパリの探偵が、しゃくにさわってならないのであった。
「さよう、ジローさんは疑いもなく、時間を驚くほど有効に費やしておられたのでしょう。二人の刺客の名を私どもにきかせてくださるのでしょう? それから彼らが現在どこに潜伏しているかも、明確にお知らせくださるのでしょうな」と、判事は、いささか激しい調子でいった。
ジロー探偵は、その皮肉にひるまず、答えるのであった。
「すくなくも、彼らがどこから来たかは、わかりました」といって、彼はポケットから何か小さなものを取り出して、テーブルの上に置いた。我々はその周囲に集まった。それはごく簡単なものであった。煙草の吸いがらと、まだ火をつけないマッチの軸一本。探偵は、さっとポワロのほうに向き直って、
「これを何と見ますね?」と質問した。
その調子には、残忍性があった。私は頬を赤くしたが、ポワロは一向に動じる色もなく、肩をすくめた。
「巻煙草の吸いがらと、マッチでございますね」
「それで、どういうことがわかりますか」
「何も!」ポワロは、両手をひろげてみせた。
ジロー探偵は満足そうにいった。
「ああ、あなたは、こういうものの研究をしていませんね。これは普通のマッチではない……少なくもこの国のものではない。南米ではありふれたものです。幸いにも、これはまだ使ってない。さもなければ、どこのものと見わけがつかなかったかも知れない。あきらかに、二人の男の一人が、煙草を投げすてて、新しいのに火をつけた。その時、マッチを出して、一本がこぼれ落ちたのにちがいない」
「それから、もう一つのマッチは?」とポワロが尋ねた。
「どのマッチ?」
「煙草に火をつけたマッチです。それも見つかりましたでしょうか」
「いいや」
「丹念にお捜しにならなかったのでしょうね」
「丹念に捜さなかったって?……」
一瞬、探偵は怒りを爆発させそうに見えたが、ようやく自制した。
「ポワロさん、あなたは冗談が好きですな。とにかく、マッチがあっても、なくても、煙草の吸いがらがあれば充分だろうじゃないですか。それは南米産のリコリスの繊維で作った紙で巻いた煙草ですよ」
ポワロは頭をさげた。ベエ署長が、口を出した。
「煙草の吸いがらと、マッチは、ルノールさんのものだったかも知れんですな。南米から帰ったのは、たった二年前でありますからな」
「いや、私はすでにルノール氏の持ち物を調べてみたが、氏の用いていた煙草とマッチは、全然ちがうものでした」と、探偵は、自信たっぷりにいった。
「その見知らぬ人々が、兇器も、手袋も、スコップも、何も用意しないで参って、こんなに都合よく、すべてのものをすぐ手に入れたということは、おかしいとお思いになりませんですか」と、ポワロが尋ねた。
「たしかに、おかしいですな。私のもっておる推理ででもなくば、とうてい説明がつきますまい」と、ジロー探偵は優越的な態度で、微笑した。
「ああ、家の中に共犯者がある!」と、判事がいった。
「あるいは家の外に! とにかく誰かが彼らを家の中へ入れてやらねばならない。我々は、まったくたぐいない僥倖で、彼らが堂々と玄関から入れるように、戸に錠がおりていなかったなどということは承認するわけにはいかんです」と、ジロー探偵は、奇妙な薄笑いを浮べていった。
「しかし、誰が鍵を持っていたのですか」
ジロー探偵は肩をすくめた。
「そのことに関してだが、誰だって、できれば、自分が鍵を持っていたとは、打ちあけたがらんでしょう。しかし数人の者が、持っていたかも知れないと仮定できる。たとえば息子のジャック氏。氏は南米にいっていることは確実だが、鍵を紛失したかも知れんし、盗まれたかも知れん。それに園丁も……あの男はもう何年もここにいる。若い女中の一人が、恋人を持っていたかも知れん。誰でも、鍵の型をとっておいて、合い鍵をつくるのはたやすいことだ。そのほか多くの可能性がある。そのほかにも、こういうことをやりかねないと思われる人間があると、私は断定している」
「それは、誰ですか」と判事は問い返した。
「ドーブリーユ夫人です」と、ジロー探偵はいった。
「ああ、それでは、あなたは、あのことを聞いたのですな」と、判事がいった。
「私は、何だって聞いています」と、ジロー探偵は泰然《たいぜん》としていった。
「一つだけ、あなたがまだ聞いておらんと思うことがあるのですがね」と、判事は、ジロー探偵より優れている智識を示すことができるのを喜んで、落ちつき払って、犯罪のあった前夜の謎の訪問者の話をした。それから『デュビーン』と指名した小切手にも言及し、ベラと署名した手紙を、ジロー探偵に手渡した。
「みんな、非常に面白い。しかし私の推理には、何らの影響も与えんですな」
「で、あなたの推理は?」
「今のところ、いいたくないです。私が調査を始めたばかりだという事実を、覚えていてもらいたいものですな」
すると、ポワロが、
「ジローさん、一つだけ伺わせてください。あなたの推理では、玄関の戸が開けてあったということを認めておいでですね。それだけでは、なぜに開けてあったかということの説明にはなりません。犯人が立ち去る前に、戸を閉めておくのが自然ではないでしょうか。もし巡査が偶然に通りかかり、戸が開け放しになっているのを見つけて、何か間違いでもあったのではないかと確かめたら、当然、ただちに追跡されるということになるでしょうに!」といった。
「そりゃ、奴らが閉め忘れたんですな。間違いだったんだ!」
すると、驚いたことに、ポワロは、前夜、ベエ署長にいったと同じ言葉を口にするのであった。
「私は、それに同意できません。戸が開け放しになっていたのは、わざとか、あるいは止むを得なかったか、どちらかです。どんな推理でも、このどちらかと相容れないものは、空しいものと知るべしです」
一同は、非常な驚きをもって、この小柄な男を見つめるのであった。私は、マッチに対する無智の暴露がポワロの高慢の鼻を折ったものとばかり思っていたのに、彼は恐れげもなくジロー探偵にむかって、そんな独断的なことをいって、例の自己満足にひたっているのであった。
探偵は少しふざけた様子で、私の友人を見ながら、髭をひねった。
「私に同意できないというんですか。ではこの事件で、特別にあなたが、これと思うことは何ですか。あなたの意見を聞かしてもらいますかな?」
「一つ、暗示的だと思われることがあります。ジローさん、この事件で、何か親しみ深い感じを与えるものはありませんか? 何か思い出させるようなものはありませんか? それを伺いたいとぞんじますね」
「親しみ深い? 思い出させること? 即座に答えるわけにはいかんです。もっとも私はそんなことがあるとは思わんがね」
「あなたは間違っておいでになる。これとほとんど同様の犯罪が、以前に行われたことがあります」とポワロは、静かにいった。
「いつ? どこで?」
「それは、残念ながら、今は思い出せませんが、きっと思い出しますよ。私はあなたに、ご助力いただけるかと思ったのでしたが……」
ジロー探偵は、信じ難いように、鼻息を荒くしていった。
「覆面の男の殺人事件はたくさんあった。その全部の詳細を記憶しているわけにはいかんです。犯罪というものは、多少何らかの点で似かよっておるものですからな」
「個人の特性というべきものがあるものでございます」といって、ポワロは急に、演説口調になって、我々一同にむかって、語り出した。
「私はただいま、犯罪心理について語っているのです。犯罪者は、それぞれに、独特の手口を持っておりますので、警察では捜査に当って、たとえば強盗事件の場合など、その独特の手口だけで抜け目なく犯人の見当をつける事実は、ジローさんもすでにご承知のことと思います。ヘイスティングス君、ジャップ警部もきっと同じことを申すでしょうよ。人間というものは、非独創的な動物でございます。日々の法則以内の生活においても非独創的であり、法則以外でも同様に、非独創的です。一人の男が罪を犯すと、彼の犯すほかの罪も、それに類似しているものです。妻をつぎつぎと浴槽に溺れさせて殺していた殺人者は、適切な実例でございます。もしも彼がその手口を変えておりましたなら、今日に至るまで発見されずにすんだかも知れません。しかし彼も人間本来の性質の指令に従ったのでした。今まで成功したことは、また成功するだろうと結論して、自らの独創性の欠乏の代償を支払ったのでした」
「して、その要点は?」と、ジロー探偵は冷笑した。
「それは、工夫と実行とが、まったく類似している二つの犯罪があった場合には、それらの背後には同一の頭脳が働いているのを見出すということです。私はその頭脳の持ち主を捜しているのです。そして私はそれを見つけるのです。私どもはそこに真実の手がかり、つまり心理的な手がかりを得るのです。ジローさんは、マッチや巻煙草についていろいろと知っておいでになるでしょうが、このエルキュール・ポワロは人間の心理を知っているのでございます」
ジロー探偵は、ふしぎなほど、何の感興もない様子であった。
ポワロは続けた。
「もしかすると、あなたがお気づきにならないでしまうかも知れない、ある事実を、あなたの手引きになるようにご注意申し上げておきましょう。ルノール夫人の腕時計は、悲劇の翌日、二時間進んでおりました」
ジロー探偵は、睨みつけた。
「たぶん、進む癖があったんだろう」
「そうだそうです」
「それなら、いいだろう」
「それにしても、二時間は、ひどすぎますね。それから、花壇の足跡の件もあります」と、ポワロはいった。そして開いている窓にむかって、うなずいた。ジロー探偵は、大股につかつかと窓に寄って、外を見た。
「しかし、足跡は何もありませんな」
「そうです。ありません」といって、ポワロはテーブルの上に積んである書籍を、きちんと重ねた。
瞬間、殺伐たる怒りが、ジロー探偵の顔を暗くした。彼は自分を苦しめる相手にむかって、二歩進み出たが、ちょうどその時、客間の戸が開いて、マルショー巡査が報告した。
「秘書のストーナーさんが、今、英国から到着されました。こちらへ入れてもよろしいですか」
秘書は呆気にとられた
その時、部屋に入ってきたのは素晴らしい人物であった。非常に背が高く、運動家らしい引き締まった体格で、顔も首すじも逞《たくま》しく日焼けして、一座の人々を威圧するばかりであった。ジロー探偵でさえも、彼のそばでは貧弱に見えた。私はストーナーをよく知るにおよんで、彼が優れた人格の持ち主であることがわかった。生まれは英国で、世界を股にかけてきたのであった。アフリカでは猛獣狩りをし、朝鮮を旅行し、カリフォルニアでは牧畜業をやり、南洋諸島で交易をしてきたのであった。
彼の的確な眼はすぐにオート判事を捕えて、
「この事件を担当しておいでになる予審判事殿でいらっしゃいますね。お目にかかって欣快《きんかい》にたえません。大変なことですね。ルノール夫人はいかがですか? よく耐えておられますか? 夫人にとっては恐ろしいショックであったに違いありません」
「恐ろしい、実に恐ろしいことです。ご紹介いたします。こちらは警察署長のベエさん、パリ警察のジロー探偵、それからこちらの紳士はエルキュール・ポワロさん。ルノール氏が依頼されたのでしたが、到着された時には、すでに遅く、悲劇を防ぐわけにいかなかったのでした。こちらは、ポワロさんの友人ヘイスティングス大尉です」
ストーナーはいくらか興味を持って、ポワロを見た。
「あなたのご来訪を願ったのですって?」
すると、署長が傍から口を出した。
「するとあなたは、ルノールさんが、探偵を依頼することを考えておられたことを、知らなかったのでありますか」
「知りませんでしたが、そう伺っても別に驚きません」
「なぜですか」
「ルノール氏は、何かひどく落ちつかない様子でしたからね。僕にはどうしたことなのか、わかりませんでしたが、僕に何も打ち明けられませんでしたから。そういう間柄ではなかったのです。しかし、確かに何か気に病んでおられました……ひどくね」
「なるほど! ではあなたはその原因について何もおわかりにならないのですか」と判事がいった。
「申し上げたとおりです」
「ストーナーさん、失礼ですが、形式どおりにやらにゃなりませんので、お名前を伺わせていただきます」
「ゲブリエル・ストーナー」
「ルノールさんの秘書を勤めてから、何年くらいにおなりですか」
「あの方が初めて南米から帰って来られた時、すなわち二年前からです。双方の友人の紹介で会い、秘書の役を提供されたわけで、すごくいい主人でした」
「南米におられた頃の話をたくさんされましたか」
「かなり話されました」
「サンチャゴにいかれたかどうか、ごぞんじですか」
「何度も、だと思います」
「そこで起こった事件……何かルノールさんに対する復讐の企てがあるようなことについて、話されませんでしたか」
「絶対にありません」
「あちらにおられた当時の、秘密というようなものに触れられたことはありませんか」
「僕の知るかぎりではありませんでした。しかし、それにもかかわらず、あの方の身辺には、何か秘密の影がありました。たとえば、少年時代とか、南米へ渡られる以前のことに関して語られたことがありませんでした。出生はフランス系カナダ人と思います。しかしカナダの生活に触れたことはありませんでした。あの方はその気になれば、貝のように堅く口を閉じてしまうことのできる人でした」
「では、あなたの知っておいでのかぎりでは、別に敵もないのですな。あの方が殺害される原因をなす秘密というようなものに関して、あなたは何も手がかりを提供してくださるわけにいかないのですね」
「そのとおりです」
「あなたは、ルノールさんに関係ある人の中で、デュビーンという名を聞いたことはおありになりませんか」
「デュビーン? デュビーン?……どうも思い出せませんが、何だか聞いたことのある名のようです」とストーナーは、散々考えたあげくにいった。
「では、ベラという名の婦人をごぞんじありませんか? ルノールさんの女友達で」
再びストーナーは首を横にふった。
「ベラ・デュビーンですって? それが全部の名ですか? おかしいですね。覚えがあるようなんですが、今のところどんな関係だったか思い出せませんね」
判事は、咳ばらいをした。
「ストーナーさん、おわかりでしょうが、このような場合には、隠しだては禁物なのです。あなたは、おそらくルノール夫人に対して敬愛の念を抱いておいでのことと思いますが、その夫人の立場をよくお考え下すったら、絶対に隠しだてなどなさるべきではないのです」と、判事は少し、固苦しくいうのであった。
相手を見つめていたストーナーの眼に、ようやく意味がわかりかけてきたらしい色が浮かんだ。
「どうしてこの場合に、ルノール夫人のことを持ち出されたのか、僕には、はっきりのみ込めませんね。僕はたしかにあの夫人に対して絶大な敬愛を抱いています。あの夫人は素晴らしい方で、ありふれたタイプの女性ではありません。しかし僕が何か隠すとか何とかいうことが、どうしてあの方と関係があるのですか」
「このベラ・デュビーンなる女性が、ルノール夫人の夫にとって、友人以上のものであったということが明らかにされても、関係がないといわれるのですか」
「ああ、やっとわかりました。しかし僕は財布の最後の一ドルを賭けても、あなた方の考えは間違っていると断言しますね。ルノール氏はほかの女などに眼もくれませんでした。自分の奥さんだけを讃美しておられたんです。僕はあれほど愛し合っている夫婦は見たことがありません」
判事は、静かに首をふった。
「ストーナーさん、こちらには、絶対的な証拠があがっているのです……このベラという女からルノールさんに宛てた恋文があるのです。その婦人を飽きてしまったのを非難しているものなのです。それに、さらにまた別の証拠があがっているのです。亡くなられた当時、フランス婦人ドーブリーユ夫人という、隣りの別荘に住んでいる女性と情事があったということなのです」
秘書の眼は、細められた。
「ちょっと待ってください。あなたは全然まちがった木にむかって吠えているようなものです。僕はポール・ルノールという人をよく知っています。あなたが今いわれたようなことは、絶対にあり得ないことです。ほかに解釈のしようがあります」
判事は、肩をすくめた。
「ほかにどのような説明がつきますでしょう」
「何が、あなた方に情事なんていうことを考えさせたんですか」
「ドーブリーユ夫人は、夜間ルノールさんを訪問する習慣でした。それにルノールさんがこの別荘へ来られて以来、ドーブリーユ夫人は銀行に、多額の預金をしております。英国の金で四千ポンドにものぼっております」
「その点は確実です。氏の指図で、僕がそれだけの金額を紙幣で払いました。しかしそれは情事のためではありません」
「それなら一体、ほかに何のためだというのですか」
「ゆすりですよ!」といって、ストーナーはテーブルを激しく叩いた。
「ああ!」判事は、われにもなく、たじろいだ。
「ゆすりです。あの人は恐喝されていたのです……それも相当な額を。二カ月で、四千ポンドとは! 僕はルノール氏の身辺には、何か秘密の影があったといいましたでしょう。確かにこのドーブリーユ夫人は、搾り取る材料になるだけのものを知っているにちがいありませんね」
「それはあり得ることであります! たしかにあり得ることでありますとも!」
署長は、興奮して叫んだ。
「あり得るですと? これは確実なことなんですよ! ちょっと伺いますが、あなたは、ルノール夫人に、あなたの創作した、このばかげた情事のことを尋ねてみましたか?」と、ストーナーは叫んだ。
「いや、できれば、なるべく夫人を苦しめるようなことはしたくありませんので」
「苦しめる? とんでもない。大笑いされるでしょう。夫人とルノール氏との夫婦仲は、百に一組というようなものだったのです」
「ああ、それで思い出しましたが、ルノールさんは、遺言状の作成にあたって、あなたに打ち明けられましたか」と判事がいった。
「すっかり知っています。僕が弁護士のところへ持っていったんです。もしそれをご覧になりたければ、それを保管している弁護士の名もお知らせすることができます。まったく簡単なもので、全財産の半分を妻の生きているかぎり、あとの半分は息子に、そのほかにいくらか遺贈があります。僕にも千ポンドだか、遺してくださることになっていました」
「その遺言状は、いつごろ作成されたものですか」
「約一年半くらい前です」
「ストーナーさん、二週間ほど前にルノールさんが、もう一通遺言状をつくられたと聞いたら、あなたはひどく驚きますか」
「全然、知りませんでしたね。どんな風なものですか?」
「莫大な資産は、全部奥さんに遺されたのです。息子さんのことは一言も書いてありません」
ストーナーは驚いて、口笛を長く吹くように鳴らした。
「息子さんに対して、ちっとひどいですね。もちろん母上はあの息子さんに夢中ですからいいようなものの、世間からみれば、息子さんが全然、父上の信用を得ていなかったようで、これは息子さんの自尊心を傷つけることになりますね。しかし、それはかえって、ルノール氏と夫人との仲が、すばらしくよかったことの証明になりますね」
「そうですとも! そうですとも! いくつかの点で、私どもは考えを変えねばならんようですな。もちろん、私どもはサンチャゴへ電報を打ちましたから、こういっている間にも返電がくるかも知れないと思って、待っておるところです。たいていその返電によって、すべてのことが明白になるでしょう。ところで、ストーナーさんのいわれたことが真実なら、ドーブリーユ夫人は貴重な情報を私どもに与えてくれるはずです」と、判事はいった。
ポワロが言葉をはさんだ。
「ストーナーさん、英国人の運転手、マスターズは、長らくルノールさんに使われているのですか」
「一年越しになります」
「その男が、南米にいたようには、お思いになりませんか」
「いなかったことは確実です。ルノール氏のところへ来る前には、僕のよく知っているグロスタシャーのある家に、何年も勤めていましたから」
「では、嫌疑をかけることはないと、あなたは保証なさいますか」
「絶対ですとも」
ポワロは、少しがっかりした様子であった。
その間に、判事は、マルショー巡査を呼んで、
「ルノール夫人のご機嫌を伺って、数分間お話ができればありがたいと申しあげてくれ。わざわざおいでなくとも、こちらから伺うからとお伝えしてくれ」と命じた。
マルショー巡査は、敬礼をして出ていった。
しばらく待っていると、驚いたことに、戸が開いて、黒い喪服を着たルノール夫人が、真っ青な顔をして入ってきた。
判事は、おいでにならなくてもよかったのにと、いいながら、椅子を前へすすめた。夫人は微笑してそれに答えた。ストーナーは、同情をこめて、夫人の手を握った。言葉にはいい表わせなかったらしい。夫人は判事にむかって
「何か私にお尋ねになりたいことがございまして?」といった。
「さようでございます。ご主人はフランス系カナダ人としてお生まれでございますな。お若いころのこととか、育ちとかいうことを、お話しいただけませんでしょうか」
夫人は、首をふった。
「主人は、自分のことについては、誠に無口でございました。北西部のほうの出だと申すことは私もぞんじておりますが、子供時代に何か不幸に遭いましたと見えまして、そのころの話をしたがりませんでした。私どもの生活には、現在と未来だけで、過去はなかったのでございます」
「過去に何か秘密がおありだったのではありませんか」
ルノール夫人は、少し微笑して、首をふった。
「そんなロマンチックなことはなかったようでございます」
判事も微笑した。
「まったく私どもは、芝居がかりな考えを起こさないようにせねばなりません。もう一つ……」と判事がいいかけて、ためらっていると、ストーナーが割り込んで、
「この人たちは、とてつもないことを考えているんですよ。ルノール氏が隣りのドーブリーユ夫人と恋愛関係があったと本気に思い込んでいるんですからね」といった。
ルノール夫人の頬が赤く燃えあがった。夫人は|きっ《ヽヽ》と頭をあげ、唇をかみしめ、顔を震わせた。ストーナーは呆気にとられて、夫人を見守るばかりであったが、ベエ署長が前へ進み出て、おだやかにいった。
「奥様、お苦しませして誠に申しわけないのでありますが、ドーブリーユ夫人がご主人の愛人だったとお信じになるような、何か理由がおありでいらっしゃるのですか」
悲しみのすすり泣きとともに、夫人は両手に顔を埋めた。肩が、かすかに震えていた。やがて頭をあげて、絶え入りそうな声でいった。
「そうだったかも知れません」
私はいまだかつて、その時ストーナーの顔に現われたような驚きを見たことがなかった。彼は、まったくびっくり仰天していた。
出帆しなかった息子
ルノール夫人とのこの会話が、どんな風に発展したかを、私は語るわけにいかないのである。というのは、その瞬間に、入口の戸がえらい勢いで開けられ、背の高い青年が、つかつかと入ってきたのであった。
一瞬、私は、死人がよみがえったのではないかというような、薄きみの悪い感じを抱いた。だが、頭髪には白髪はまじっていないし、こうして礼儀もなく我々の中に飛び込んできたのは、一人の少年に過ぎないということが、すぐにわかった。彼は他人には目もくれずに、真っすぐにルノール夫人のほうへいった。
「お母様!」
「まあ、ジャック!」と叫んで、夫人は息子を抱きしめた。
「お前、どうして帰ってきたの? お前は二日前に、シェルブールからアンゾラ号で出帆したはずではなかったの?」
それから急に、ほかの人々のいるのを思い出して、少し威厳を取りもどして、
「私の息子でございます」といった。
判事は青年の黙礼に答えて、
「ああ、それでは君は、アンゾラ号で出帆されなかったのですね」といった。
「そうです。アンゾラ号は、エンジンの故障で、二十四時間、出帆が延期になり、一昨日の晩でなく、昨夜出港することになったのです。で、夕刊を見るとあのこと……僕たちの上に起こった恐ろしい悲劇のことが出ていたんで!」という声は、とぎれて、青年の眼に涙が溢れてきた。「気の毒なお父上! 気の毒な、気の毒なお父上!」
そういう息子を、夢でも見ているように見つめていたルノール夫人は、
「では、お前は船に乗らなかったのね!」と繰り返した。そして疲れ果ててしまった様子で、
「でも、今はもう、どうでもいいわ……」と、ひとり言のように、つぶやいた。
「どうぞおかけください、ジャックさん」
判事は、椅子をすすめて、
「深くご同情申し上げます。ニュースをごらんになって、定めし驚かれたことと思います。しかし、君が出帆できなかったことは、非常に幸運でした。この事件の謎を解くために、私どもの必要とする情報を与えていただけることと思います」
「できるだけのことをします。何でも質問してください」
「まず第一に、この旅行は、お父上のご要求によるものでしたね」
「そうです。すぐにブエノスアイレスへ行くようにという電報を受け取ったのです。そこから陸路、アンデスを経てバルパライソへ出て、サンチャゴへ行くようにということでした」
「なるほど、それで、この旅行の目的は?」
「わからないんです。見てください。ここに電報があります」
判事は、それを受けとって、読みあげた。
「『ただちにブエノスアイレス行きアンゾラ号にてシェルブールを出帆せよ。最後の目的地はサンチャゴ。ブエノスアイレスにて次の指令を受けよ。必ず出帆せよ。事件重大。ルノール』……前もって何か連絡はなかったのですか」
ジャックは首をふった。
「いいえ、それだけしか知らせてこなかったんです。もちろん父は、ながらく南米に住んでいた関係上、たくさんの利権をもっているだろうと察していましたが、僕を派遣するようなことは話したこともありませんでした」
「君もかなり南米にいたでしょうね」
「子供のころいました。しかし英国で教育を受け、休暇も英国で過ごしたんで、他人《ひと》が思うほど、南米を知らないんです。それに、十七の時に戦争が起こりました」
「君は英国の空軍にいましたね」
「そうです」
判事はうなずいて、今度は周知の線に沿って質問を進めていった。ジャックは、それに答えて、自分は父が、サンチャゴまたは南米のどこかで敵を作ったというようなことは知らない。父の態度の変化にも気づかなかった。また、秘密などについて話したこともない。自分の南米へいく用件は、事業上のことだと思っていたというのである。
判事がちょっと言葉を切ると、ジロー探偵の静かな声が割り込んだ。
「判事さん、私自身の質問を少々やらせてもらいたいですな」
「さあ、どうぞご自由に」と判事は、冷然といった。
ジロー探偵はテーブルのほうへ椅子を寄せた。
「ジャックさん、あなたは父上との仲はよろしかったですか」
「もちろんですさ!」青年は横柄にいった。
「それは確実だと断言しますか」
「します」
「少しの口論もなかったですかね?」
ジャックは、肩をそびやかして、いった。
「誰だって、時には意見の相違があるでしょうさ」
「そりゃそうだ。だが、君がパリに立つ前夜、父上と大口論をしたという者があったら、その者は嘘をついているのですかな?」
私はジロー探偵の巧妙さに感嘆した。彼が何でも知っていると誇ったのは、決してでたらめではなかったのだ。ジャックはその質問には明らかに閉口しているようであった。
「僕たちは……僕たちは議論をしたんです」
「議論ですと? 君はその議論の中で……あなたが死ねば僕はすきなようにする……という文句をいいましたか」
「言ったかも知れないし、言わないかも知れません」と青年は、つぶやいた。
「それに対して父上は……しかし私はまだ死んでいない……といわなかったかね? それに答えて、君は……死んでいればよかったのに……といったですね」
青年は返事をしなかった。その手は神経質にテーブルの物をいじっていた。
「答えたまえ! ジャック君!」と、ジロー探偵は、鋭くいった。
青年は、テーブルの上の重い紙切りナイフを床へ払い落して、怒鳴り声をあげた。
「それがどうしたっていうんですか! いってしまいましょう。そうです、僕は父と口論しました。そういうことをみんないったかも知れません……何をいったかわからないくらい、腹を立てていたんです。僕は猛烈に怒っていたんです。あの瞬間には、父を殺しかねなかったんです。さあ、利用するなり何なり好きなようにしてください!」
彼は真っ赤になって、挑戦するように、椅子の上で、そり返った。
ジロー探偵は、|にやり《ヽヽヽ》として、椅子を後ろへ退けると、判事にむかって、
「これで私の質問はすんだ。オートさん、質問を続けたいのでしょう」
「そのとおりです。さて、ジャックさん、君の口論の原因は何でしたか」
「それはいいたくありません」
判事は、居ずまいを直して、
「ジャックさん、法律を軽んじてはなりませんぞ! 口論の原因は何でしたか?」と、吠えるようにいった。
青年は沈黙していた。子供っぽい顔は、不機嫌で、暗くなっていた。すると、冷静な穏やかな声がいった。
「私がお答えしましょう」
それは、エルキュール・ポワロであった。
「あなたが知っている?」
「もちろん、ぞんじております。その口論の原因は、マルト・ドーブリーユ嬢でございます」
ジャックは驚いて、跳びあがった。判事は前へ乗り出した。
「そうですか? 君」
ジャックは、頭をたれて、
「そうです」と承認し、
「僕は、ドーブリーユ嬢を愛しています。そして結婚したいんです。そのことを父に話したら、父はいきなり猛烈に怒り出したんです。それで愛する婦人の悪口をいわれて、我慢できなくなり、僕も怒ってしまったんです」といった。
判事はルノール夫人のほうを見て、
「奥様も、この……愛着に気づいておいででしたか」と尋ねた。
「私は、それを心配していました」と夫人は、あっさりと答えた。
青年は叫んだ。
「お母様! お母様もですか! マルトは美人であると同様に、善良なのです。あの人のどこがいけないとおっしゃるんです!」
「私は別に、あのお嬢さんに対していうことはありません。ただお前には、英国人と結婚してもらいたいのです。また、フランス人でも、祖先の怪しげな夫人の娘とは、結婚してほしくないのです」
娘の母親に対する恨みは、夫人の声にあらわれていた。自分の競争相手の娘と、自分のひとり息子とが、恋愛におちいることは、耐えられない打撃に違いないと、私は思った。
ルノール夫人は判事にむかって、
「私が早く主人にそれを話せばよろしかったのかも知れませんが、単なる少年少女の、たあいのないもので、放っておけば消えてしまうかも知れないと思っておりました。私は自分が黙っていたことを後悔いたしました。けれども前にも申し上げましたように、主人が何か心配事で、すっかり弱って、だんだん人が変ったようになってまいりましたので、その上心配をかけてはわるいと思って、黙っていたのでございました」
判事はうなずいて、ジャックに対する審問を続けた。
「マルト嬢に対する計画を話した時に、父上は驚かれたのですな」
「父はすっかり驚いてしまったのです。それから、そんな考えは棄ててしまえと、高飛車に命令し、そんな結婚には決して同意しないといいました。僕は憤慨してマルト嬢のどこが悪いのだと尋ねました。それに対して満足のいくような答えをしませんでしたが、あの母娘の身辺をめぐる謎について、軽蔑するような口をききました。で、僕はマルトと結婚するので、家柄と結婚するのではないといいましたが、父はそれ以上、そのことについて論じることを拒絶しました。何もかも全部やめてしまわなければならないというのです。その不法と高圧的な態度が、僕を気狂いのようにさせました。ことに父自身はいつも、異常なくらい、ドーブリーユ家の人々に対して気を使い、家へ招待したほうがいいなどと言っていましたから、僕には何が何だかわからなくなって、本気にけんかをしてしまったんです。父は、僕がまったく父の援助で生活しているのだから、身勝手はできないというようなことをいったんです。それで僕は、父が死んだら自分の好きなようにできると答えたんでしょう……」
ポワロが、すかさず質問した。
「すると、あなたは、お父上の遺言状のことを知っておいでだったのですね」
「父が財産の半分を僕に、あとの半分を母に遺してくれ、そして母の死後は、母の分も僕のものになるということを、僕は知っていました」と、青年は答えた。
「話を続けてください」と、判事は先を促した。
「僕たちが怒ってどなり合っているうちに、僕は急に、パリ行きの汽車に乗り遅れる心配があることに気がついたので、まだ真っ青になって怒りながら、駅まで走らなければならなかったんです。しかし家を離れると、僕は気が鎮まりました。で、僕はマルトに手紙を書いて、父と争ったことを知らせました。そしてその返事が僕の気持ちを慰めました。彼女は僕らがしっかりしていなければならないこと、どんな反対もしまいには押しのけることができるというのです。二人の愛情は試練を受け、その強さが証明されるのである。そして僕の愛情が軽い恋愛でないことがわかれば、両親も必ず折れてくれるだろうと説いてよこしました。もちろん、僕は、彼女に、父がこの結婚に反対するほんとうの理由は語りませんでした。僕はすぐに、暴力は決して自分の目的を果たすのに、いいことでないと気がつきました」
「では、ほかのことに移りますが、君はデュビーンという名を知っておいでですか」
「デュビーンですって? デュビーン?」
ジャックは、そういいながら身をかがめて、前に払い落した紙切りナイフを拾いあげた。そして眼をあげると、彼を見守っているジロー探偵の視線にぶつかった。
「デュビーン? いや、どうも覚えているとはいわれません」
「この手紙を読んでみてください。そしてこの手紙を父上にあてて書いたのは誰か、思い当ることがあるかどうかお話しください」
手紙を受け取って読んでいくうちに、ジャックの顔は次第に紅潮してきた。
「父に宛てた手紙ですって?」
その調子には、感情と怒りとが、はっきりとあらわれていた。
「そうです。オーバーのポケットに入っていたのです」
「それで……?」といいかけて、躊躇し、ちらと視線を母に投げた。
判事は、その意味を読んで、
「いいえ、まだです。君はこの差出し人に関する手がかりを与えてくださることができますか」
「てんで見当もつきません」
判事は、溜息をついた。
「まったく奇怪極まる事件です。今は手紙の件は除外しておくとして……さて、どこまで話していたのでしたかな? ああ、そうでした、兇器でした。ジャックさん、君に苦痛を与えるかも知れませんが、それは君から母上への贈りものだったそうですが、大変お気の毒な……大変悲しむべき……」
ジャックは、前かがみになった。手紙を読んだ時に赤くなった顔が、今は真っ青になった。
「では……父が殺されたのは……飛行機のワイヤーで作った、紙切り用の短刀だというんですか? それはあり得べからざることです。あんな小さいものが……」
「残念ながら、真実のことです。理想的な兇器です。鋭利で扱いやすくて」
「それはどこにありますか? 見せてもらえますか? 死体にまだそのままになっているんですか」
「いいえ、もう抜いてあります。ごらんになりたいのですか? 確かめるために? お母上が確認されたのですが、まあ、それもいいでしょう。しかしベエ署長、あなたを煩わさしてよろしいでしょうか」
「いいですとも、すぐに取ってきますよ」
「ジャック氏を同伴したほうがよくはないかね? きっと父上の死体を見たいだろうから」と、ジロー探偵は、すらすらといった。
青年は、震えながらそれを否定する身振りをした。判事は、機会さえあれば、パリから来たこの探偵に楯をつきたい気分になっていたので、こう答えた。
「いや、今はよしたほうがよろしい。ベエさん、恐れ入りますが、取ってきていただきましょう」
署長は立っていった。ストーナーが、部屋を横切ってきてジャックと握手をした。ポワロは、修練の積んだ眼で、蝋燭立てが少しかしいでいるのを見つけて、それを真っすぐにしに、立っていった。判事はまたしても、謎の恋文を読み直していた。彼は今もなお、しつこく、嫉妬のために背後から刺したという推理を追っているのであった。
急に戸がさっと開いて、ベエ署長が飛び込んできた。
「オートさん! オートさん!」
「どうなさったのですか」
「短刀が! 短刀がなくなりました!」
「何ですと? 紛失した?」
「消え失せたのであります! あれの入ったガラス壺が、空なのであります!」
「何ですって? そんなはずはない。今朝みたばかりだのに……」と私は叫んだが、言葉が舌の先で消えてしまった。
部屋にいた人々の眼が一斉に私に注がれた。
「何といわれるのでありますか? 今朝でありますと?」と、署長がいった。
「今朝見たのです。正確にいえば、約一時間半ばかり前です」と、私はのろのろといった。
「それでは、あなたは物置へ行かれたのですな。どうして鍵を手にお入れでしたか」
「巡査から借りたのです」
「そして中へ入られたのですな? なぜですか」
私はためらったが、ついに唯一のなすべきことは、正直に白状することだと決心した。
「オートさん、僕は重大な過ちを犯しました。それに対してご赦免を願わなければなりません」
「どうぞ後をお続けください」
私は、穴があったら入りたい心地で陳述した。
「こうなんです。僕は知り合いの婦人に会ったのです。その婦人が、非常に何でも見たがったので、僕は……手短にいうと、死体を見せるために鍵を借りていったのです」
「ああ! ヘイスティングス大尉、とんでもない過ちを犯しましたな。何としても非常な規則違反です。そんな向う見ずなことをなさるべきではありませんでしたね」と、判事は腹立たしげにいった。
「わかっています。どんなに厳しいお叱りを受けても当然です」と、私はおとなしくいった。
「あなたは、その婦人を、ここへ来るように招いたのではありませんか」
「そんなことはありません。偶然に会ったのです。ちょうどメルランビーユの町に泊まり合せていた英国婦人です。それも不意に会うまでは、そうとは知らなかったのです」
判事は、少しやわらいで、
「それではまあ、非常に規則違反ですが……その婦人はたぶん若くて美しかったのでしょう。若い人というものは、そんなものです!」といって、大げさに溜息をついた。
しかし警察署長のほうは、それほどロマンチックではなく、もっと実際的であった。
「それにしても、小屋を出た時に、戸を閉めて鍵をかけなかったのでありますか」
「それなんです。そのために僕は、ひどく自責の念にかられているのです。僕の友人は死体を見てすっかり取り乱してしまい、気絶したので、僕は家からブランデー入りの水を持ってきて与え、それから町の入口まで送っていってきたんです。あまりあわてて、戸に鍵をかけるのを忘れていたんで、帰ってきてからかけたんです」
「では、少なくも二十分くらいの間……」と署長は、ゆっくりといって、言葉を切った。
「そうなのです」と、私はいった。
「二十分!」とつぶやいて、署長は考え込んだ。
「誠に残念なことです。前例のないほど」と、判事の厳しい態度が、再び現われた。
不意に、ほかの声がいった。
「それを残念だといいますか」と、ジロー探偵がいったのだ。
「たしかにそう思います!」
「私はまた、素晴らしいことだと思うなあ!」と探偵は、平然といった。
「素晴らしいといわれるのですか? ジローさん」
判事は、用心深く相手を横目で見ながらいった。
「そうですよ」
「それはまた、どういうわけですか」
「なぜならば、刺客、あるいは共犯者が、わずか一時間前に、この家の近くにいた事実が明らかになったからさ! それが判明した今となって、そいつを間もなく逮捕できなかったら、よほどの間抜けだ」
その声には威嚇が含まれていた。ジロー探偵はなおも言葉を続けた。
「その短刀を手に入れるために、非常な危険を冒したものだ! おそらく指紋が発見されるのを案じたんだろう!」
ポワロは、ベエ署長にむかって、
「指紋はなかったと、おっしゃってましたね」といった。
ジロー探偵は、肩をすくめて、
「確信がなかったんだろう」
ポワロは、彼をじっと見つめた。
「ジローさん、ちがいます。刺客は手袋をはめていましたから、確信があったはずです」
「刺客自身のことをいっているんではない。共犯者がその事実を知らんでやったんだろう」
書記は、テーブルの上の書類を集めていた。オート判事が、我々に声をかけた。
「ここでの仕事は終りました。ジャック・ルノールさん、君の証言が読み上げられますから、聞いてください。わざと、すべてを形式ばらずに進行させました。私はこれまで方式が独創的だといわれてきたのですが、そういわれるにはそれ相当のことがあると思いますな。この事件はこれで、有名なジロー探偵の賢明なる手にゆだねられることになります。疑いもなく氏は、また、功績をあげられることでしょう。すでに犯人に手をかけておられないのが、ふしぎなくらいです! 奥様、再び心からお悔やみ申し上げます。では皆さん、さようなら」といって、判事は、警察署長と書記を従えて引き揚げていった。
ポワロは大型の銀時計を取り出して、時間を見た。
「君、ホテルに帰って昼食にしましょう。そして、今朝の無分別な話を、よく聞かしてもらいましょう。誰も私どもに注意しておりませんから挨拶をする必要はありますまい」
我々はそっと部屋を出た。判事は自分の車で出発したところであった。私は石段をおりていこうとした。すると、ポワロに呼び止められた。
「ちょっと、待ってください、君!」
ポワロは、器用な手つきで、巻尺を取り出して、真面目くさって、玄関にかかっていたオーバーの襟から裾までの寸法を測った。私は前にもそこにかかっていたのを見たので、それは秘書のストーナーか、ルノール氏の息子、ジャックかのオーバーであろうと思った。
ポワロは、満足らしくうなずいて、巻尺をポケットに入れると、私について外へ出た。
ポワロ、夫人を疑う
暑い白い道を、ゆっくりと歩き出した時、私は、
「なぜオーバーの寸法なんか測ったんですか」と、好奇心にかられて尋ねた。
「それはね! どれくらいの長さがあるか見るためですよ」とポワロは、落ちつき払って答えた。
ポワロの、このつまらないことを謎のごとくに扱う、癒しがたき癖《くせ》には、いつも私は悩まされるのである。私は黙りこんで、ひとりの思いに沈んでいた。あの時は、特に注意しなかった、ルノール夫人が息子に話しかけた言葉が、新しい意味をもって私の心によみがえってきた。夫人は「では、お前は船に乗らなかったのね!」といって、それから「でも、今はもう、どうでもいいわ……」といったのであった。
一体あれはどういう意味だったのだろう? あの言葉は謎めいていた。意味深長だ。夫人は、我々の考える以上に、知っているのだろうか? 夫人は、夫が息子にゆだねようとした謎の使命について、何も知らないといったが、知らないふりをしていたので、実は知っていたのではないだろうか? もし夫人がその気になれば、この事件にもっと光明を与えることができるのではないだろうか? 夫人の沈黙は、注意深く考えた上、前もって計画したものではなかったろうか?
考えれば考えるほど、私は自分の考えが正しいと思うようになった。ルノール夫人は我々に語った以上を知っているのだ。息子を見て驚いたために思わず心底を見せてしまったのだ。夫人は犯人が誰だか知らないとしても、殺人の動機は知っているにちがいない。しかし、非常に力強い考慮が夫人を沈黙させているのだ。
「君は、大そう考え込んでいますね。そんなに君の興味をそそっているのは何ですか」といって、ポワロは、私の黙想を破った。
私はきっとポワロにからかわれるだろうと思いながら、自分の確信のほどを語った。ところが驚いたことに、彼は考え深く、うなずくのであった。
「君のいうとおりですよ、ヘイスティングス君。最初から私は、夫人が何か隠していると確信していましたよ。最初に私は、夫人を疑ったのです。誰かを示唆してやらせたか、あるいは共謀したのではないかと」
「夫人を疑っていたんですって!」と、私は叫んだ。
「そうですとも。莫大な利益を得るのは、夫人ですからね。事実、新しい遺言状によれば、夫人だけが利益を得るのです。それで最初から夫人は特に注目の的になったのです。私が夫人の手首を調べる機会をいちはやく捕えたのを覚えているでしょう。夫人が自分で縛ったかも知れないという可能性を考えたからです。ところが一目で虚構でないことがわかりました。縄は肉にくいこむほど、つよく縛られていたのです。それで夫人が単独で行なった犯罪でないということがはっきりしました。しかしそれでもなお、夫人が計画し、または共犯者を煽動したということは考えられました。その上、夫人の証言を聞いて、私は何か大そう親しみのある、思い当るものがあるように感じました。何者であるか確認のできない覆面の男たち……『秘密』という言葉……こういうことは、確かに前にも読んだか、聞いたかしたことがあります。そのほかに、ちょっとしたことによって、夫人の証言が真実でないという確信を得ました。|腕時計ですよ《ヽヽヽヽヽヽ》、ヘイスティングス君、腕時計ですよ!」
また、腕時計! ポワロは奇妙な様子で、私を見た。
「さあ、君、わかったでしょう?」
「いいえ、さっぱりわかりません。あなたはそんなばかげた謎をつくり出しておいて、どうせ説明をしようとはなさらないんでしょう。あなたは、いつだって、最後の最後まで、何かを隠しておくのが大好きなんですからね」と、私は不機嫌に答えた。
「怒ってはいけませんよ、君」と、ポワロは微笑して、
「お望みなら説明しますよ。しかしジロー探偵には一言もいってはなりませんよ、いいですか! あの男は、私を役に立たない老人扱いにしています。見ているがいい! だが、私は公平な態度をとって、あるヒントを与えました。あの男が、そのヒントに基づいて行動しなくたって、こちらの知ったことではありません」
私は、大丈夫、用心深くするから、と、念を押した。
「よろしい。では私どもは脳細胞を働かせましょう。では、質問しますがね、君、悲劇の起こったのは、何時ですか」
「そうですね、二時か、まあその辺ですね。ルノール夫人は、男達が部屋にいる間に、時計が二時を打つのを聞いたといったではありませんか!」と私は、ポワロの質問に驚いて、いった。
「そのとおりです。それで、君も、判事も、署長も、皆、それ以上の質問もしないで、その時間を受けいれています。けれども、私、すなわちエルキュール・ポワロは、ルノール夫人が偽りの証言をしていると思います。犯罪は少なくともそれより二時間早く行われたのです」
「しかし医師が……」
「医師は検屍の結果、死は十時間から七時間前に起こったといっております。君、何かの理由で、犯罪は、実際よりも後に行われたように見せかけることが、非常に必要だったのです。犯人が自分に都合のいい時間を記録するために、置時計だか、懐中時計だかを粉砕しておいたというのを、読んだことはありませんか? その手で時間の証言をルノール夫人だけに止めず、時計がそれを裏書きするように、誰かが、あの腕時計の針を二時間すすめて、床に叩きつけておいたのです。ところが、よくあることですが、かえってその目的を自分で打ちこわすようなことになってしまったのです。ガラスは割れましたが、機械は故障しませんでした。それは犯人たちにとって、誠に災難でした。なぜならば、それがただちに私の注意をひいたのです……二つの点に。第一にルノール夫人は偽証していること。第二には時間を遅らせなければならない重要な理由がなければならないことです」
「しかし、どんな理由があるのですか」
「ああ、それが疑問ですね! そこに謎が存在しているわけです。今のところ、説明がつきませんが、たった一つあり得べき関連をもつものとして、私の前に現われているものがあります」
「それは、何ですか」
「最終列車が、メルランビーユ駅を発車したのは十二時十七分だという事実です」
私は、ゆっくりと、推理をすすめていった。
「犯罪は、それから明らかに、二時間後に起こったとすれば、その汽車で出発した人が、動かすべからざるアリバイを持つことになる!」
「完全です! ヘイスティングス君、君はそれを解きました」
私は、とび上った。
「そうだ! 駅に問い合せなければならない。駅員たちが当夜、列車でこの町を立ち去った二人の外国人に気づかないはずはありませんからね」
「君は、そう思いますか、ヘイスティングス君」
「もちろんです。さあ、これからすぐ行きましょう!」
しかし、ポワロは、軽く私の腕にさわって、私の熱情をおさえた。
「お望みならいっても結構ですがね、君。しかし駅へ行っても、私だったら、二人の外国人のことなど尋ねませんよ」
私は驚いて、眼をみはったが、ポワロは、もどかしげに、
「やれ、やれ、君は、あんなくだらない長ばなしなどを信じているのではないでしょうね。覆面の男だの、何だのという作り話を!」
ポワロの言葉で、私は呆気にとられてしまって、どう返答していいかわからなかった。すると彼はすましていった。
「私が、ジロー探偵に、この犯罪のやり口が、私には親しみがあるように思うといったのを、君も聞いていたでしょう。よろしいですか、このことが二つの考えの一つを仮定するのです。すなわち、前の犯罪を計画したと同一人物が、この犯罪を計画したか、あるいは、有名な裁判記事を読んだのが、無意識に犯人の頭脳に残っていて、そのやり口を行わせるようになったか、どちらかです。私はそのことをはっきりいうことができます。もっと……」
といいかけて、ポワロはやめた。
私の頭の中では、種々雑多の思いが渦を巻いていた。
「しかし、ルノール氏の手紙は? あれには、はっきりと、何か秘密のことと、サンチャゴのことが、書いてありましたが!」
「確かに、ルノール氏の身辺には、何か秘密がありましたね。それについては何の疑いもありません。一方、サンチャゴという言葉は、私の考えるところでは、燻製のにしんのようなもので、私どもの嗅覚をごまかして、追跡をさけるために絶えず持ち出される言葉です。同じように、ルノール氏の場合も、身近なところに疑惑を向けさすまいとする手段に用いられたものでしょう。君、確かにルノール氏をおびやかしていた危険というのは、サンチャゴにあるのではなく、このフランスにあるのですよ」
ポワロは非常に真面目に、確信をもって話したので、私も確信を持たずには、いられなくなった。しかし、最後にちょっと反駁《はんばく》を試みた。
「しかし、死体の付近で発見された、マッチや煙草は? あれはどうしたものですか」
いかにもうれしそうな輝きが、ポワロの顔を照らした。
「置かれたものですよ、わざと。ジロー探偵のような輩《やから》が発見するように! ああ、あのジローという男は、なかなかスマートですよ! いろいろと芸当をやりますね! いい猟犬ならみんなやりますよ。大そう満足して入ってきましたね。何時間も、よつん這いになっていたのです。『私の発見したものをごらんなさい』とあの男はいいましたね。そして私にむかって『あなたは何を見たかね?』そこで私はまた、意味深長な真実さをもって『何も!』と答えました。するとジローは、偉大なるジローは笑って、心ひそかに『おお、この爺さんは、大ばかものだ!』と思った。だが、見ておいでなさい! 今に……」
しかし私の心は、主要事実のほうへ向いていた。
「では覆面の男に関する話は全部……」
「嘘です」
「では一体、何が起こったのですか」
ポワロは、肩をすくめた。
「それを語ることができるのは、一人だけです……ルノール夫人です。しかし夫人は語りますまい。脅したって、嘆願したって動きますまい。あれは実に驚くべき夫人ですよ、ヘイスティングス君。ひと目みた時から、これは大した性格の女性を、相手にしなければならないということが、わかりました。最初私は、前にも申したように、夫人はこの犯罪に関係があると見る傾きがありましたが、後にその見解を変えました」
「何が変えさせたのですか」
「夫の死体を見た時の、あの急激で、純粋な悲嘆を見てからです。あの叫び声の中にひそむ苦悩は、純真なものであると誓うことができるものでした」
「そうでしたね。あれはどんなにしても間違うことのできないものでしたね」と私は、考え深くいった。
「失礼ですがね、君……どんな時にも間違うことはできるものですよ。偉大な女優を考えてごらんなさい。悲しみの演技があなたを感動させ、真実のものと思い込ませはしませんか? しかし私の印象と確信が、どんなに強くあっても、私に自分を満足させるには、ほかにも証拠が必要なのです。異常な犯人は偉大な名優かも知れませんからね。私は今度の場合でも、自分の印象を土台にしているのではありません。ルノール夫人が、実際に気を失ったという拒むべからざる事実に基づいているのです。私は瞼をあけて見たり、脈を調べたりして、偽りでないことを確かめました。それからさらにちょっとした追加事項もあります。それは夫人が何もことさらにそんな激しい悲しみを見せる必要はなかったということです。最初夫の死を知った時、すでに感情の激発を一つ済ましております。それだのに、死体を見てもう一度それを繰り返して見せる必要はなかったのです。ですから、夫人のあの激しい苦悩は、決してこしらえものではなく、自然に現われたものといえます。確かにルノール夫人は、夫殺しの犯人ではないのです。では、なぜうそをついたのでしょうか。腕時計のことを偽り、覆面の男のことを偽り、また第三のことについても偽りの証言をしました。ヘイスティングス君、開け放しになっていた玄関の戸に対する、君の説明をきかしてください」
私は当惑しながら、それに答えた。
「そうですね……見落しでしょう。閉めるのを忘れたのでしょう」
ポワロは、首をふって、溜息をついた。
「それは、ジロー探偵の説明ですよ。あの開放した戸の陰には、今のところ、私が解くことのできない意味がひそんでいるのです。一つだけ、かなり確実だと思われることがあるのですが……それは犯人が玄関から出ていったのではないということです。窓から出ていったのです」
「何ですって?」
「そうなんですよ」
「しかし、あの部屋の窓下の花壇には、足跡がありませんでした」
「そうです。しかし|あるべきはずだった《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》のです。ねえ、ヘイスティングス君、園丁がいったのを君も聞いたでしょうが、あの男は、両方の花壇に、前日の夕方植え付けをしたのです。で、一方の花壇には、あの大靴の跡がたくさんあったのに、もう一方のには、一つもありませんでした。わかりましたか? 誰かが、あの花壇を通って、自分の足跡を消すために、花壇の土を熊手でならしたのです」
「では、どこからその熊手を持ってきたのですか」
「スコップと、園芸用手袋とを持ち出した場所からですよ。そんなことは少しもむずかしいことではありません」とポワロは、気短にいった。
「どうして犯人たちが窓から出ていったときめられるんですか。窓から入って、玄関から出たほうが、もっとあり得ることではないでしょうか」
「それは、もちろん、あり得ますね。しかし私は窓から出ていったと、強く考えております」
「僕は、あなたの考えは間違っていると思いますね」
「かも知れませんね、君」
私は、ポワロの推理が、私の前に開いてくれた仮定の新しい分野について、一生けんめいに考えてみた。花壇や腕時計についてのポワロの神秘的なヒントに対して、思いをめぐらした。それをいわれた時には、意味をなさないように思えたのだが、今初めて、彼が、ごくちょっとしたことから、この事件をめぐる謎に対して、どんなに素晴らしい解決を与えていくかを知って、遅まきながら敬意を表するのであった。
「今のところ、我々は前よりずっと、いろいろなことを知るようになったにもかかわらず、誰がルノール氏を殺したかということの解決には、さっぱり近づいていませんね」と、私は考えながらいった。
「そうですね。事実、かなり遠くにいますね」と、ポワロは快活にいった。
その事実は、彼に奇妙な満足を与えているように見えたので、私は驚いて彼を見つめていた。ポワロは、私の視線にあうと微笑した。
突然、あることが私の脳裡にひらめいた。
「ポワロさん、ルノール夫人! わかりましたよ。あの人は誰かをかばっているに違いありませんね!」
ポワロは、私の考えを静かに受けいれたので、こういう考えはすでに、彼の頭に浮かんでいたことがわかった。
「そうです。誰かを保護しているか、かばっているか、どちらかですね」
それからホテルへ入っていく時、ポワロは、私に黙っているように合図をするのであった。
また一人、殺された!
我々は旺盛な食欲で昼食を始めた。しばらく無言で食事をしていたが、やがてポワロは、さもけしからんというように、
「さて、君の無分別だ! 詳しいことを何も話さないではありませんか!」といい出した。
私は顔が熱くなるのを感じた。
「ああ、今朝のあのことですか」と、私は、全然何でもないような風に装おうとした。
だが、私はポワロの相手ではなかった。ほんの数分間に彼は眼を輝かしながら、私から全部の話を引き出してしまった。
「なるほど! ロマンチックな話ですね。その魅力あるお嬢様の名は何というのですか」
私は、知らないことを白状せざるを得なかった。
「ますます、ロマンチックですね! パリからの汽車の中で最初の会見。そして二度目はここで。旅行は恋人の会合で終るという諺がありましたっけね」
「ばかなことをいわないで下さいよ、ポワロさん」
「昨日はドーブリーユ嬢! 今日はシンデレラ姫! 君はまったくトルコ人の心を持っておいでだ。どうです、ヘイスティングス君、ハーレムでも作るんですね」
「からかってはいけませんよ。ドーブリーユ嬢は非常に美しいお嬢さんです。僕は大いに崇拝しています……僕はかくそうとは思いません。しかしもう一人のは何とも思っていないんです。もう会うようなことはないでしょう」
「君は、その人にまた会いたいとは思いませんか」
この最後の言葉は、ほんとうに質問であった。私は自分に鋭い視線が投げられたのを意識した。私は眼の前に大きく火の文字で『ファール・ホテル』と書いてあるのを見た。そして「あいにいらっしてね」といっている彼女の声を再び聞き、自分が「うかがいます」ときっぱりいっているのを聞いた。
私は、軽くポワロの言葉に答えた。
「会いに来るようにっていいましたが、もちろん、僕はいきませんよ」
「なぜもちろんなのですか」
「つまり、行きたくないんです」
「シンデレラ姫は、ダングレトル・ホテルに滞在していると、いいましたね」
「いいえ、ファール・ホテルです」
「ああ、そうでしたか、忘れていました」
瞬間的な疑惑が、私の心をかすめた。私はたしかに、ポワロに、ホテルの名などいった覚えはない。だが、彼のほうを見て安心した。ポワロは、パンを四角に小さく切りきざんでいた。そしてそのことに熱中しているのであった。きっと彼女がどこに泊まってるか、私が話したと思いこんでいたに違いないのだ。
我々は戸外へ出て、海を眺めながら、コーヒーを飲んだ。ポワロは細巻き煙草をくゆらした。それからポケットから時計を取り出した。
「パリ行きの汽車は二時二十五分発です。もう出かけなければなりませんね」
「パリですって?」と、私は叫んだ。
「私はそう申しましたよ、君」
「パリへ行くんですって? なぜですか」
「ルノールさんの殺害者を捜しに」
「その男がパリにいると思うんですか」
「いないことは確かなのです。しかし、そこで捜さなければならないのです。君には理解できないでしょうが、いい折を見て説明します。私を信じてください。このパリ行きは必要なのです。長くはかかりません。たぶん明日は帰ってこられるでしょう。一緒にいってくださいとは申しません。君はここにいてジローを見張っていてください。それからルノール氏の息子さんとの交際を求めるんですね」
「それで思い出しましたが、ポワロさんは、どうしてあの二人のことを知っていたんですか」
「君、私は人間性というものを知っていますよ。ジャックのような青年とマルト嬢のような美しいお嬢様を、二人置いてごらんなさい。その結果は大方わかっております。それから口論! それは必ず女か金のことにきまっているものです。レオニーのいったあの青年の怒ったこと。それで私は女のことが原因ときめたのです。私は想像して、うまくあてたのです」
「あなたは、あの令嬢がジャック青年を愛していると、すぐに感づいたのですか」
「とにかく、あのお嬢様が、|心配そうな眼をしていた《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》のを、私は見たのです。それであのお嬢様のことを、私はいつも心配そうな眼をした娘と、思っているのです」
その声があまり重々しかったので、私は何だか不安な感じを受けた。
「それはどういう意味なんですか、ポワロさん」
「間もなくわかりますよ、君。私はもう出かけなければなりません」
「お見送りしましょう」といって私は、立ち上った。
「そんなことをしてはなりません。私が禁じます」
その調子があまり命令的だったので、私は驚いて彼の顔を見た。彼は力強くうなずいた。
「ほんとうですよ、君! ではいって来ます」
ポワロが立ってしまうと、私は何となく気がゆるんで、浜辺へぶらぶら出かけていって、海水浴をしている人々を見守っていたが、自分もその仲間入りするほどの気分にはならなかった。私はシンデレラが、素晴らしい水着を着てその中にまじっているのではないかなどと思っていたが、彼女の姿は、見えなかった。私はあてもなく、町の端れまで砂浜を歩いていった。そのうちにふと、やっぱりあの娘《こ》を訪問してやるほうが至当ではないかと思った。そうすれば結局、面倒をはぶくことになる。それで万事に結末がついてしまって、もうこれ以上、あの娘のことを考える必要もなくなるであろう。もし私のほうから行かないで放っておけば、あっちのほうから別荘へ、私を訪ねてくるようなことになるにちがいないと、思ったのであった。
そこで私は浜辺を後にして、往来のほうへのぼっていった。ファール・ホテルはすぐ見つかった。少しも見栄を張らない建物であった。娘の名も知らないというのは、非常に困ったことであった。で、私は尊厳を損じないために、中へ入っていって、自分でその辺を捜してみることにした。娯楽室にでもいるかも知れないと思って入っていったが、彼女の姿は見えなかった。私はしばらく待っていたが、ついに、辛抱しきれなくなって、受付の男に五フランの心付けを握らせた。
「ここに泊まっているご婦人に会いたいのだがね。小柄で髪も眼もとび色の、若い英国婦人だが、名前がよくわからないんだ」
その男は首をふって、|にやにや《ヽヽヽヽ》笑いをおさえている様子だった。
「ご説明のようなご婦人は、ご滞在になっておられませんが」
「しかし、ここに泊まっているといわれたがね」
「旦那様は、お間違いになったにちがいありません……それともご婦人のほうがお間違いをなさったかも知れません。もう一人の旦那様が、やはりそのご婦人を訪ねておいででしたから」
「何だって?」私は驚いて叫んだ。
「そうでございます。その方も旦那様と同じように説明なさいました」
「それはどんな人だね?」
「小柄な紳士で、立派な服装をし、清潔で寸分のすきもなく、口髭がぴんとしていて、頭が特別の形をしていて、眼が緑色の方でございます」
ポワロだ! それで私が駅まで見送りにいくといったのを断ったのだな! 失礼な! 私の個人的なことに立ち入ってもらいたくないのだ! 私に乳母でも必要だと思っているのか!
私は受付に礼を述べて外へ出たが、何だかわけがわからなくなり、また余計なお節介をした友人に対して、憤慨していたのであった。
しかし、あの淑女は一体どこへ行ったのであろう? 私は怒りをしずめて、考えてみることにした。たしかに彼女はホテルの名を間違えたのだ。だが急にもう一つの考えが浮かんだ。ほんとうに不注意だったのだろうか? 本名をかくし、わざと違うホテルの名をいったのではないだろうか?
それについて考えれば考えるほど、後のほうの考えが正しく思われるようになってきた。何かの理由で、彼女は私との知己の程度の間柄を友情にまで発展させたくないのだ。半時間ほど前には、私自身がそんな考えを持っていたにもかかわらず、今こんな風に形勢が逆転したのを私は喜ぶ気になれなかった。事態全体が誠に不満であった。私はすごく不機嫌になってジュヌビエーブ荘へ向った。私は家へ入らずに、物置の傍の小さなベンチのところへいって、気むずかしく腰かけていた。
だが、私の物思いは、すぐ間近に起こった話し声に乱されてしまった。一二秒のうちに、私はその声が私のいる庭からでなく、隣りのマーガレット荘の庭から聞えてくるのに気がついた。その声は次第に近づいてきた。女の声は、美しいマルトだということがわかった。
「ねえ、ほんとうなの? あたしたちの心配はもうなくなったの?」と、彼女はいっている。
「わかっているだろう、マルト。今はもう何ものも、僕たちの仲をさくことはできないんだ。最後の障害が取りのぞかれたんだから、もう僕から君を引き離すものは何もないんだよ」と答えたのは、ジャック・ルノールの声であった。
「何もないの? ほんとう? ジャック、ジャック、あたし何だかこわいわ」
私はまったく、無意識に立ち聞きすることになったので、その場をはずそうとした。立ち上ると、私は生垣の隙間から、二人を見ることになってしまった。二人はこっち向きに立っていた。男は娘のからだに腕をまわして、彼女の眼を見つめていた。素晴らしい二人であった。色の浅黒い逞《たくま》しい青年と美しい女神……若い人々の上に暗い影を落しているこの悲劇の中にありながら、こうして幸福にしている二人は、お互いのために作られたもののように見えた。
けれども娘の眼は心配そうであった。ジャックはそれに気がついたらしく、彼女をそばへ引き寄せて尋ねるのであった。
「だが、君は何がこわいの? 今になって、何かこわいことがあるの?」
その時、彼女の眼に、ポワロの話したものを見たので、私は彼女が口の中で小声にいった言葉の意味が、わかったような気がした。
「あたし、|あなた《ヽヽヽ》のことが心配なの」
青年の返事は聞かなかった。なぜなら、私は、生垣の少し離れたところに、少し変ったものが見えたのに、心をひかれたからであった。そこに茶色の茂みがあるように見えた。それは初夏にしてはおかしなことであった。それで私はよく調べてみようと思って歩いていった。ところが私が近づくと、その茶色の茂みが、突然に動いて、顔を私に向けて唇に指をあてるのであった。それはジロー探偵であった。
彼は私を促して、物置をぐるりと廻り、我々の話し声が誰にも聞えないところまで連れていった。
「あすこで何をしていらしたんですか」と、私は尋ねた。
「あなたがやっていたとおりに、聞いていたんですよ」
「だが、僕はわざと聞いていたんじゃないです」
「私は、わざとだ」とジロー探偵はいった。
私はいつものように、この男を嫌っていながらも、感服しないではいられないのであった。
彼は、軽蔑するように不快な顔をして、私をじろじろ見上げ、見おろした。
「君は出しゃばっても、あまり役に立たんね。もう少しで私は、何か大切なことを聞けたかもしれないのに! 君のところの、あの時代遅れ殿はどうしました?」
「ポワロさんは、パリへ行きました」と私は、冷やかにいった。
ジロー探偵は、ばかにしたように、ぱちりと指を鳴らして、いった。
「へえ、パリへ行きましたか! そりゃいいことだ。長くいればいるほど結構だ。しかし、パリで何を見つけようというのかね」
私は、その調子の中に、何となく不安らしいものを感じたので、急に胸を張って、
「そのことについては、僕は口外するわけにいきませんね」と、落ちつき払っていった。
ジロー探偵は、鋭い眼を私に向けて、
「君になんか何も話さなかったんだろう! あの爺さん、なかなか分別があるね。さよなら、私は多忙なんだ」といって、彼はきびすを返して、さっさといってしまった。
ジュヌビエーブ荘では、行き詰まり状態らしかった。ジロー探偵は私にいてもらいたくないらしかった。また、ジャックのほうも、そうであることは、かなり明らかであった。
私は町へ帰って、海水浴を楽しみ、ホテルへ帰った。そして、次の日、何か面白いことでもあるかも知れないと思って、早く寝てしまった。
だが、次の日は、まったく、思いもうけぬことを、もたらしたのであった。
私が食堂で、軽い朝食をとっていると、外で誰かと話をしていた給仕が、かなり興奮した様子で入ってきて、ちょっと躊躇して、ナプキンをいじくっていたが、
「失礼ですが、旦那様は、ジュヌビエーブ荘の事件に関係しておいでになる方ではいらっしゃいませんか」といった。
「そうだが、どうして?」私は熱心にいった。
「旦那様はニュースをお聞きになりませんでしたか」
「何のニュースだ」
「昨夜、あそこでまた殺人事件があったのです!」
「何だって?」
私は朝食などやめて、帽子を掴むなり、全速力で走った。もう一つ殺人事件! そしてポワロは留守だ! 何たる不運なことだろう! だが一体、誰が殺されたんだろう?
私は門の中へ飛び込んでいった。召使いたちが、車道に立っていて、喋ったり、手真似をしたりしていた。私はフランソワーズをつかまえた。
「何事が起こったんです」
「おお、旦那様、旦那様、また一人死んだんでございますよ。恐ろしいことでございます。この家は呪われているのでございます。そうでございますとも。呪われているのです! ご祈祷師でもお呼びして、おきよめでもして頂いたほうがよろしゅうございますよ。この屋根の下には、もう一日だって寝られやしません。今度は私の番かも知れませんでございますよ、ほんとに!」といって、老家政婦は、胸に十字を切った。
「で、誰が殺されたんだい!」と私は叫んだ。
「私が知るものですか!……男の人でございますよ。知らない人で、あすこに……物置の中に……お気の毒なご主人様が見つかったところから、百メートルと離れていないところでございますよ。そればかりではございません。その男は刺し殺されて……あの|同じ短刀で《ヽヽヽヽヽ》心臓を突き刺されているのでございます!」
死後四十八時間以上
私は、それ以上待たずに物置のほうへ行く小道を走った。張り番をしていた二人の巡査が左右に退いて道をあけてくれたので、私は興奮で一杯になって中へ飛び込んだ。
薄暗くて、古い植木鉢や農器具を入れておく粗末な木造小屋であった。私は気ぜわしく入っていったものの、敷居のところで、眼前の光景に、心を奪われて立ちどまった。
ジロー探偵が、よつんばいになって、手にもった懐中電灯で地面をくまなく、一センチごとに調べまわっているのであった。私が入っていくと、しかめつらをしたが、そのうちに、少し小ばかにしたように機嫌を直して、
「そこにあるんだ!」といって、ずっと隅のほうへ電灯の光を向けた。
私は、そばへいった。
死人は仰向けに横たわっていた。中肉中背で顔色は浅黒く、五十歳くらいの男だった。新品ではないが高級の服屋に仕立てさせたらしい、型のいい濃紺の背広をきちんと着ていた。顔はひどい痙攣を起こした様子で、左胸の心臓の辺に、黒く光った短刀の柄が、つき立っていた。私はただちにそれが前の日の朝、ガラス壺に入っていたあの短刀であることに気がついた。
「医者を待っているんだが、実際は大してその必要はないんだ。その男が何で死んだかは疑う余地なしだ。心臓を刺されて即死したに違いない」と、ジロー探偵が説明した。
「いつのことだったんです。昨夜ですか?」
ジロー探偵は首をふった。
「自分は医学上の証拠に対して、独断的なことをいう気はないが、この男は死んでから、たっぷり十二時間は経っている。君が最後に、あの短刀を見たのは、いつだっていいましたっけね?」
「昨日の朝、十時ごろでした」
「するとこの犯罪は、それから間もなく行われたものと見られる」
「しかし、この小屋の前は、絶えず人々が通っていましたからね」
ジロー探偵は、気持ちの悪い笑い方をした。
「君は、なかなかたいしたものだね! この男がこの小屋で殺されたと、誰がいったのですかな?」
「そう……僕はそう想像したんで……」と私は、あわてていった。
「何たる素晴らしき探偵なんだ! 君、あの男を見たまえ。心臓を刺された男が、あんな風に両足を揃えて、両手を両脇にさげて、倒れると思うかね? 違う! また、人間が仰向けに寝ていて、防御の手もあげずに刺されるということがあるだろうか? おかしいではないか! しかし、それより、ここを見たまえ! それから、そこにも……」といってジロー探偵は、懐中電灯で地面を照らして見せた。やわらかい土の上に、奇妙な不規則な跡がついていた。
「死んでから、ここへ引きずり込まれたのさ。半分は引きずられ、半分は二人の人間にかつがれて来たんだ。外の固い地面には跡がついていない。それからここでは、跡が消されている。二人のうち一人は女だよ、君」
「女ですって?」
「そう」
「しかし足跡が消してあるのに、どうしてそれがわかったんですか」
「なぜかというと、いくら薄くなっていても、女の靴跡というものは、見誤るものじゃない。それに、これがものをいっている」といって、ジロー探偵は身をかがめて、短刀の柄から、何か引っぱり取って、私の眼の前にさし出して見せた。それは女の黒い長い髪の毛であった。ポワロが図書室の椅子の背からつまみあげたのと同じものであった。
かすかな皮肉っぽい微笑をうかべて、彼はその毛を再び柄に巻きつけた。
「できるだけ、元のままにしておいて、判事を喜ばしてやろう。さて、ほかに何か、君、気づいたことはないかね?」
私は、首を振るよりほかなかった。
「手を見たまえ!」
見ると、爪はささくれ、色が変り、皮膚はこわばっていたが、私には何の考えも浮かんでこなかったので、ジロー探偵を見あげた。
「この手は紳士の手ではない」と彼は、私の眼に答えた。そして、
「しかるに、彼の服は裕福な紳士のものだ。妙じゃないかね」
「たしかに変ですね」と、私も同意した。
「それから、服には何のマークもついていない。それから考えて、君はどう思いますね? この男はほかの人間のふりをしていた。つまり変装していた。なぜだろうか? 何を恐れていたのか? 変装して難をのがれようとしていたのか? 今のところ、それはわからないが、一つだけわかっていることは、彼は我々に身許をあばかれないように苦心していたのだ」といって彼は、再び死体を見おろした。
「前と同様、この短刀の柄には指紋はない。犯人は今度もまた、手袋をはめてやったんだ」
「すると殺人者は、両事件とも同一人なんですか」と、私は熱心にいった。
ジロー探偵は、不可解な態度になった。
「私がどう考えているかなんざあ、気にかけなさるな、今にわかるから。おいマルショー!」
巡査が戸口に現われた。
「お呼びですか」
「どうしてルノール夫人はここへ来ないんだ。もう十五分も前に呼びにやったじゃないか」
「今こっちへ来られるところです。息子さんも一緒に」
「よろしい。だが一度に一人ずつよこしてもらいたい」
マルショーは敬礼をして出ていったが、すぐに、ルノール夫人を伴って現われた。
「奥様が見えられました」
ジロー探偵は、軽く頭をさげて、迎え入れた。
「こちらへ、奥さん」
夫人が入ってくると、急に傍へ寄って、
「男はここにいます。この人を知っていますか」という彼の眼は、錐《きり》のように鋭く、相手の顔に穴をあけるように、心を読みとるように、夫人の様子を細かに観察していた。
ルノール夫人は、落ちつき払っていた……あまりに静かすぎるように思われた。ほとんど何の興味もなく、少しの動揺もなく、また見覚えがある様子もなく、死体を見おろしていた。
「いいえ、見たこともありません。まったく知らない人でございます」と夫人はいった。
「確かですか」
「まったくたしかでございます」
「たとえば、あの夜襲った人間の一人だとも認めないですか」
「いいえ」といってから、何か考えが浮かんだように、ちょっとためらった後、
「いいえ、そうは思いません。もちろん、あの人たちには髯がありましたが……判事さんは、つけひげだとお考えのようでしたが、それにしても、ちがいます」といってから、今度は、はっきりと心をきめたように、
「たしかに、この人は、あの二人のどちらでもございません」といった。
「よろしい、奥さん、それだけです」
夫人は、頭をまっすぐにして出ていった。日光が銀髪を輝かしていた。母親に代わって、息子が入ってきた。彼もその男が、全然見知らぬ人だと、極めて自然に答えた。
ジロー探偵はただ、口の中でぶつぶついっただけで、喜んだのか、残念がったのかわからなかった。彼はまた、マルショーを呼んだ。
「もう一人のが来たかい」
「はい、見えました」
「それなら連れてこい」
「もう一人の」というのは、ドーブリーユ夫人であった。彼女は憤慨して、しきりに抗議していた。
「ひどいですよ、あなた、無法ですよ。こんなことが、私と何の関係がありますか」
「奥さん、私は一つの殺人事件を扱っているのではない。二つの殺人事件を扱っているんですぞ! あんたが両方ともやったかも知れん!」とジロー探偵は、残酷にいった。
「何てことをいうんです。よくもそんなひどいことをいって私を侮辱しますね! 恥ずべきことですよ!」
「恥ずべきことですと? そうですか? そんなら、これはどうです?」といって、ジロー探偵は、かがんで、また、髪の毛をつまみあげて、
「これが見えますか、奥さん。これがあんたの髪の毛と同じかどうか、見せてもらいましょう」といって、前へ進み出た。
夫人は唇を真っ白にして、叫び声とともに後ろへとび退った。
「嘘です! 誓います。私は犯罪のことなんか何も知りません。私の仕業だなんていう人は嘘つきです。ああ、どうしたらいいだろう!」
「まあ落ちつきなさい、奥さん。誰もまだあんたを罪人にしてはおらん。とにかく騒がずに、私の質問に答えたほうがいいですよ」
「お望みのように」
「その死人を見てください。前に見たことがあるですか」
彼女の顔の色に少し血の気がさした。夫人は、ある程度の興味と好奇心をもって、被害者を見おろしたが、首をふった。
「ぞんじません」
その言葉が、ごく自然に出てきたので、彼女を疑うことができないように思われた。ジロー探偵は、うなずいて、夫人を帰らせた。
「帰してしまうんですか? 賢いことでしょうかね? たしかにこの黒い髪の毛は、あの夫人のものです」と、私は低い声でいった。
「自分の仕事を教えてもらう必要はない」と、ジロー探偵は冷やかにいった。そして、
「彼女は監視つきなんだ。まだ拘引したくないんだ」
そういって、ジロー探偵は眉をひそめて、死体を見つめていたが、突然に
「スペイン系だろうかね、君」と尋ねた。
私は、注意深く、死人の顔を見たあげくに、
「僕は、フランス人だと思いますね」といった。
ジロー探偵は、不満の意を表した。
「やはりそうか」
彼はちょっとの間、黙って立っていたが、命令的な仕草で私を後ろへ退らせて、よつんばいになって、小屋中の床の捜索を続けた。素晴らしいものであった。何ものも見のがさなかった。一センチ、一センチ、土間を這っていった。
植木鉢を一つ一つひっくり返し、古袋類を検《あらた》めた。戸のわきにころがっていた包みに、飛びついてみたが、それはぼろのズボンと上衣に過ぎなかったので、歯ぎしりをして床に叩きつけた。二組の古手袋が彼の興味をそそったようであったが、しまいに首をふって傍へ片付けてしまった。それから再び植木鉢のそばへいって、一つ一つ規則正しく裏返して見ていたが、やがて立ち上って、考え込みながら首をふった。ひどく狼狽し、当惑しているようであった。私がいることも忘れてしまっている様子であった。
しかしその時、外に騒がしい足音が聞えて、例の判事殿がベエ署長と、書記とともに医師を伴って、大急ぎでやってきた。
「しかし、えらいことですな、ジローさん。また犯罪ですな! まだ前の事件の底もきわめておりませんのに、何か深い謎がひそんでいるらしいです。今度の被害者は誰ですか」
「それは、誰も、我々に語ってくれる者はない。まだ身元不明なのです」
「死体はどこですか」と、医師が尋ねた。
ジロー探偵は、少し傍へ寄った。
「そこの隅にあります。見られるとおり、心臓を刺されたんです。それも昨日盗まれた短刀で。この犯罪は、短刀が盗まれた直後に行われたものと思われるが、それはあんたの役目だ。短刀に手を触れても構わんです。指紋はついていないですから」
医師は、死人の傍にひざをついた。ジロー探偵は、判事のほうを向いた。
「少々厄介な問題ですな。だが、私は解決するつもりだ」
「で、誰も見知りの者がないのですね? 刺客のうちの一人でしょうか? 二人の間で喧嘩でもしたのかも知れんですな」判事は考え考えいった。
ジローは首をふった。
「男はフランス人ですよ。誓ってそうだ……」
しかし、その時医師が、二人の会話を中断した。医師は途方に暮れた様子で、立ち上った。
「昨日の朝、殺されたのだといわれましたね」
「短刀が盗まれた時刻から見当をつけたんだ。もっと遅くやられたのかも知れない」と、ジロー探偵がいった。
「もっと遅くですと? とんでもない。この男は、死後、少なくも、四十八時間、あるいはもっと経っているかも知れません」
我々はまったく驚いてしまって、ただ、互いに顔を見合せるばかりであった。
謎の浮浪人
パリみやげ
驚くべき医師の言葉に、皆は一時、茫然としてしまった。二十四時間前に盗まれたと判明している短刀で、一人の男が刺し殺されている。それだのに、医師は確信をもって、少なくも四十八時間前に死んでしまったと証言している。全体が、途方もなく空想的である。
一同がようやく、医師の言葉に対する驚きから回復しかけている時に、私宛の電報が届けられた。それはホテルから、別荘に廻送されてきたものであった。開封してみると、ポワロが十二時二十八分の汽車で、メルランビーユ駅に着くという通知であった。
時計を見ると、ちょうどゆっくり駅までいける時間があったので、私は迎えにいくことにした。この新しく起こった驚くべき事件の発展を一刻も早くポワロに知らせる必要があると思ったのだ。
私は、ポワロが望むだけのものを、パリで得てきたと想像した。帰りの早いのがその証拠である。わずか数時間で用がたりたに違いない。私が告げようとする、この興奮すべきニュースを、ポワロは、どんな風に受け取るであろう?
列車は少し延着することになったので、私はあてもなく、プラットホームを往ったり来たりしているうちに、ふと悲劇のあった夜、終列車で誰がメルランビーユ駅からたったか、少し調べてみて、時間潰しすることを思いついた。
利口そうな顔付をした赤帽長に近づくと、訳なく話に乗ってきた。彼は大憤慨で、あんな人殺しや無頼漢を、野放しにしておく警察は実にけしからんといった。その男達が終列車で去った形跡があるのだがと、匂わすと、彼は断乎として、そんなことはないといった。そうだったら二人の外国人に気がついたはずである。それは確かなことである。二十人ばかり客が乗車しただけであったから、気がつかないということはあり得ない、というのであった。
どうしてそんな考えが私の頭脳に入ったのか、自分でもわからないが……たぶんマルトのあの心配そうな話しぶりのせいであったろう……私は急にこう尋ねてみた。
「ルノール氏の息子さんも、終列車でたったのかね?」
「いいえ、旦那様。三十分のうちに到着して、出発するなんて、そりゃ面白くありませんやね」
私は最初その言葉の意味深長さが理解できずに、男の顔を見つめていたが、それと気がついて、胸をときめかしながらきき返した。
「ジャック君があの夜、到着したというんだね?」
「そうですよ、旦那。下りの終列車十一時四十分のやつでね」
私の頭の中は渦を巻いた。それでマルトがあんなにひどく心配していたのだな! ジャックはあの犯罪の夜、メルランビーユにいた。しかしなぜそれをいわなかったのであろう? それどころか、なぜ、我々に彼がシェルブールにいたと思わせたのであろう? あの子供っぽい開け放しの顔付を思い浮かべると、彼が犯罪に関係していると信じることは、どうもできない。しかしこんな重大な時に、なぜ黙っていたのであろうか? 一つのことだけは確かだ。マルトはそれをずっと知っていたのだ。それであんなに心配し、ポワロに誰かが嫌疑をかけられているかどうか、尋ねてみたのだ。
私の沈思は、列車の到着によって破られた。次の瞬間、私はポワロを迎えていた。彼の顔は輝きわたっていた。にこやかに、大きな声をあげて、私が英国風に尻込みするのなど無視して、プラットホームで私を温かく抱きしめるのであった。
「君、君、成功しましたよ……おそろしく成功しましたよ」
「そうですか? それはよかったですね! ここの最新ニュースを聞きましたか」
「どうして私が聞いたと思うんですか? 何か発展がありましたか? 勇敢なるジローは誰か一人逮捕しましたか? それとも数人をですか? ああ、しかし、今にばかに見えるようにしてやりますよ、あの男をね。だが、君、私をどこへ連れていこうというのですか? ホテルへ行くのではないのですか? 私は髭の手入れをしなければなりません。旅行の暑さで、すっかりだらけてしまいましたからね。それに上衣にほこりがついているでしょうし、このネクタイもやりかえなければなりませんし……」
私はその抗議を、中断させてしまった。
「ポワロさん、そんなことは放っておおきなさい。すぐ別荘へいかなければなりません。また別の殺人事件が起こったんです!」
私は、これほど面喰らった人を見たことがなかった。ポワロの下あごが、がくりと垂れてしまった。活気が、その態度からすりぬけていった。ぽかんと口を開いたまま私を見つめるのであった。
「何とおっしゃる? 別の殺人ですと? それでは、私はすっかり間違っていた。私は失敗でした。ジローも、私をばかにする理由ができたわけですね!」
「それでは、予期していらっしゃらなかったんですね」
「私が? とんでもない。私の推理は崩れてしまった……何もかもだめになってしまった!……ああ……」
ポワロは、急に唇を閉じて自分の脳を手のひらで叩いて、
「そんなことはあり得ない。私が間違っているはずはない! 規則的に取りあげられ、順序よく並べられた事実は、ただ一つの解説だけよりゆるしません。私は正しくないはずはない! 私は正しいのだ!」
「ですが……」
ポワロは、私をさえぎった。
「ちょっとお待ちなさい、君。私が正しいに違いない。ですから、この新しい殺人というのはあり得ないわけです。ただし……ただし……おお、ちょっと待ってください。一言もいわないで」
ポワロは一二分間、沈黙していたが、それからまたもとの態度にたち戻って、静かな確信をもった声でいった。
「犠牲者は、中年の男。その死体は、犯罪の現場に近い鍵のかかった物置の中で発見され、少なくも死後四十八時間以上は経っている。ルノール氏と同様に、刺されている。ただし必ずしも背中ではないかも知れませんが」
今度は私が、ぽかんと口を開く番であった。……実に呆れかえったのであった。今までポワロを知ってはいたが、こんなに驚くべきことをしたことがなかったほどだ。必然的に、疑惑が私の心をかすめた。
「ポワロさん、あなたは僕をからかっているんでしょう! もう今度の事件のことはすっかりお聞きになったんでしょう」と、私は叫んだ。
彼はけしからんというように、私を見すえた。
「私がそんなことをするでしょうか? 私は確かに何も聞いておりませんよ。君からニュースを聞いた時の私の驚きようを見ていたでしょう」
「しかし、どうして、そんなにみんなわかったんですか」
「それでは、私のいったとおりなんですね? 君、それは脳細胞ですよ! 脳細胞ですよ! それが私に語ってくれたのです。第二の死は、かくあるべきで、それよりほかにあり得ないものなのです。さあ、すっかり話してください。ここから左へまわっていけば、ゴルフ場を通って近道ができますから、ジュヌビエーブ荘にもっと早く行けます」
ポワロのいった道筋を通って歩きながら、私は知っているだけのことをすっかり話した。ポワロは注意深く聞いていた。
「短刀が傷口に刺さっていたといいましたね? それはおかしい。同じ短刀だということは確かですか」
「絶対に確かです。そこが実に不可能だと思わせる点なんです」
「不可能というものは、ないものです。その短刀は二つあったかも知れません」
私は、眉をあげた。
「それこそ、一番ありそうもないことではないですか? そんなことがあったら、最もふしぎな偶然の一致ですよ」
「ヘイスティングス君、相変らず君は、よく考えずにものをいいますね。ある事件の場合には二つの同一兇器ということは、すこぶる真実らしくないことですが、この場合はそうではありません。この特別の兇器は、ジャック・ルノールの注文で作られた、戦争の記念品なのです。よく考えてみると、彼がたった一つ作らせるということのほうが、かえってありそうもないのです。たぶん、自分用の分も作らせたでしょう」
「しかし、誰もそういうことはいいませんでした」と、私は抗議した。
ポワロの調子に、演説口調が入ってきた。
「君、事件を調査している時には、『人の言ったこと』だけに頼っていてはなりません。重要かも知れないことが、全部語られなければならない理由はありません。時にはそれを語らないでおく相当の理由もあります。語らなかった事実には、その二つの理由のどちらかが、あてはまります」
私は自然と強い印象を受けて、黙り込んでしまった。数分のうちに、我々は、問題の物置小屋に着いた。一同はそこに集まっていた。丁寧な挨拶を取り交わしてから、ポワロは仕事に取りかかった。
ジロー探偵が調査するのを見た後だったので、私は非常に興味を持っていた。ポワロは、あたりをざっと見廻しただけであった。彼が調べた唯一のものは、戸の傍にあったぼろの上衣とズボンだけであった。ジロー探偵の唇に、ばかにしたような薄笑いが浮かんだ。それに気がついたらしく、ポワロはその包みを再び放り出してしまった。
「園丁の着古しですね?」と彼はいった。
「そのとおり」と、ジロー探偵が答えた。
ポワロは死体の傍にひざをついた。その指は素早く、規則的であった。服の生地を調べて、マークがないのを見て満足した。長靴と、汚れてささくれた爪には、特別に注意を払った。彼はそれらを調べながら、つぎつぎと、ジロー探偵に質問を投げた。
「これにお気づきでしたか」
「気がつきました」ジロー探偵は何の表情も浮かべなかった。
急にポワロの顔が、こわばった。
「デュラン先生!」
「何ですか」といって、医師は前へ進み出た。
「唇に泡がありますが、お気づきでしたか」
「白状しますが、気がつきませんでした」
「しかし、今はそれをお認めになりますね?」
「はい、確かに」
ポワロは再び、ジロー探偵に質問を浴びせた。
「もちろん、あなたはお気づきでしたね?」
ジロー探偵は返事をしなかった。ポワロは調査を進めた。短刀は傷口から抜き取られて、死体のそばのガラス壺に入れてあった。ポワロはそれを調べ、それから傷口を些細に調べた。
彼が人々を見あげた時の眼は、私がよく知っている、あの緑色に輝いていた。
「これはふしぎな傷です。出血しておりません。服にも血がついておりません。短刀の刃がわずか変色しているだけです。どう思われますか? 先生」
「最も異常だということのほかは、何も申し上げられんですね」
「少しも異常ではありません。最も簡単なことです。この男は死んでから刺されたのです」といって、ポワロは手をふって湧き上る人々の声を払うようにしながら、ジロー探偵のほうを向いてつけ加えた。
「ジローさんは、私に同意なさるでしょうね」
ジロー探偵の真実の確信はどうであったかはわからないが、顔の筋一つ動かさないで、それを受けいれた。穏やかに、横柄なくらいに、答えた。
「同意しますとも」
驚きと興味のささやきが、再び起こった。
「だが、どういう考えでしょう! 死んでしまった後で刺すとは! 野蛮だ! 聞いたこともない! おそらく憎んでも飽きたりないでかっとなったのでしょうな!」と判事が叫んだ。
「いいえ、まったく冷静にしたものです……印象を与えるために」
「どんな印象ですか」
「もう少しで皆さんに与えようとした印象ですよ」と、ポワロは、もったいぶっていった。
ベエ署長は考えていたが、
「では、この男は、どうやって殺されたのでありますか」といった。
「殺されたのではないのです。死んだのです。私に間違いがなければ、|てんかん《ヽヽヽヽ》の発作で死んだのです」
このポワロの声明は、またしてもかなりの興奮をまき起こした。医師は再び膝をついて、綿密な検屍を始めた。そしてついに立ち上った。
「ポワロさん、あなたのお説は正しいと考えられます。私は最初に迷わされたのでした。男が刺し殺されたのだという疑う余地のない事実が、ほかの症状から私の注意をそらしてしまったのでした」
ポワロは時の英雄となった。判事は賛辞を惜しまなかった。ポワロは奥床しくそれに受け答えをしていたが、自分も私もまだ食事前だし、旅で乱れた服装も調えなければならないからというのを口実にして、失礼したいと申し出た。我々が物置小屋を出ようとすると、ジロー探偵が近づいてきて、
「もう一つ、ポワロさん、この短刀に巻きついていた婦人の髪の毛があるのですが」と、悪ていねいにいった。
「ああ! 婦人の髪の毛ですって? どんな婦人のでしょうね?」とポワロがいった。
「私も、それを考えているのですよ」といって、ジロー探偵はおじぎをして、さっさといってしまった。
「強情ですね、あのジロー君というのは。一体どんな方向へ私を迷わせていこうというのでしょう。婦人の髪の毛とね!……ふむ!」
ポワロはホテルに向って歩きながら、考え深くいった。
我々は、心ゆくまで食事をした。が、ポワロは、何だかうわの空で、心がほかへいっているようであった。その後で居間へもどってから、パリへの謎の旅について話してくれるように頼むと、彼は、
「よろこんでお話しますよ。実はパリへいったのは、これを見つけるためだったのです」といって、ポワロは、ポケットから、小さな、新聞の切りぬきを取り出した。それは女の写真の複写であった。彼はそれを私に手渡した。私は驚きの声をあげた。
「君、わかりますか」
私は、うなずいた。その写真は何年も前のものであることは明らかであった。髪のスタイルも変っているが、顔立ちは間違いっこなかった。
「ドーブリーユ夫人!」と私は叫んだ。
ポワロは、微笑しながら首を振った。
「少しちがいますよ、君。当時は、そういう名ではなかったのです。それは悪名高き、ベロルディ夫人です!」
ベロルディ夫人! 突然に、全貌が私の記憶によみがえってきた。世界中の興味を呼んだ殺人事件公判……ベロルディ事件!
ベロルディ事件
この物語の始まる約二十年前に、リヨン生まれのアーノル・ベロルディという男が、美しい妻と小さい娘を連れてパリに到着した。娘はほんの赤ん坊であった。ベロルディ氏は葡萄酒販売会社の下級社員で、体格のいい中年の男で、人生の幸福を楽しみ、魅力ある妻を熱愛し、別にどこといって人の注意をひくところのない、ごく平凡な人物であった。会社はごく小規模で、経営はうまくいっていたが、下級社員に高級を支払うというわけにはいかなかったので、ベロルディ氏は小さなアパートを借りて、ごく質素に暮らし始めた。
しかし、ベロルディ氏はそんな風に目立たない人物だとしても、その妻はさまざまなロマンスに色どられて輝いていた。若くて美貌で、ふしぎな魅力を持っているベロルディ夫人は、たちまち周囲に波紋を巻き起こしたのであった。特にその生まれにからまる興味ある謎がささやかれ始めてからは、そうであった。彼女はロシアの大公の私生児だとか、オーストリアの皇子の娘で、その結婚は正式であっても、母親が平民であったために皇女になれなかったのだという者もあった。そんな風に噂はさまざまであったが、結局、ジャンヌ・ベロルディ夫人は、興味ある謎に包まれているという点で一致していた。
ベロルディ一家の友人や知己の中に、ジョルジュ・コンノーという、若い法律家がいた。ベロルディ夫人は、この若い男の心を捕えてしまっていた。彼女は用心深く彼の愛情を助長しながらも、表面はあくまで中年の夫を深く愛しているように見せることに気を配っていた。しかし悪意のある人々は、若いコンノーは彼女の恋人で、それも恋人は一人だけではないなどというのであった。
ベロルディ一家がパリへ来てから三カ月ほどたった時、もう一人の人物が登場した。それはハイラム・トラップという米国人で、非常な金持ちであった。彼は若くて美しく、神秘に包まれたベロルディ夫人に紹介され、すっかり魅せられてしまった。夫人に対する彼の讃美は誰の目にも明らかであったが、それはあくまでも恥ずかしからぬものであった。
そのころから、ベロルディ夫人は、友人たちにあからさまに打ちあけるようになった。数人の友人に、自分が夫のために非常に憂慮しているといって、彼が政治的色彩のある計画に引き込まれていて、重要書類の保管を依頼されている。それはヨーロッパ全般におよぶ重要な『秘密』に関係あるらしい。それはその書類をつけ狙う者たちの目をくらますために、夫に預けられているので、パリに、革命党員の中の重要人物が数人入りこんでいるのを認めたので、心配でならないと語っていた。
十一月二十八日に、不幸が起こった。ベロルディ家の掃除や料理をしに来る通い女が、朝来てみて、アパートの戸の開け放しになっているのに驚いた。寝室から、かすかな唸り声が聞えてきたので、入ってみると、恐ろしい光景に目を打たれた。ベロルディ夫人は、手足を縛られて床に倒れ、猿ぐつわを、やっと少し外すことができたので、弱々しい唸りごえをあげたのであった。そして寝台の上には、血の池の中に、ベロルディ氏が心臓に短刀を突き刺されて横たわっているのであった。
ベロルディ夫人の話は明瞭であった。不意に眠りを覚まされて、二人の覆面の男が自分の上にかがんでいるのを見た。叫ぼうとする口をおさえられ、猿ぐつわをかまされ、手足を縛りあげられた。彼らはベロルディ氏に、例の『秘密』を渡せと迫った。
しかし豪胆な酒商は、その要求をきっぱりと断った。その拒絶に腹を立てて、二人の一人がいきなり彼の心臓を突き刺した。そして死人の鍵をとって、隅の金庫を開いて、一束の書類を持ち去った。二人とも濃い顎髯を生やし、覆面をしていたが、たしかにロシア人だったと思うと、夫人は陳述した。
その事件は非常なセンセーションを巻き起こした。時は過ぎたが、謎の髯男たちの行方はさらにわからなかった。そしてちょうど世間の興味が冷めかけたころになって、事件は驚くべき発展をした。ベロルディ夫人が逮捕され、夫殺しの犯人として起訴されたのであった。
裁判が始まると、世界的な興味を引き起こした。被告の若さと、美しさと、神秘的な履歴などは、名高い事件にするに充分であった。
そこで、彼女の両親が、ごく平凡で実直な人々で、リヨンの郊外で果実商を営んでいることが明らかにされた。ロシアの大公だとか、政治上の陰謀だとか、宮廷の情事とかいうのは、みんな、夫人自身がいいふらしたということであった! 彼女の生涯はこうしてすべて容赦なく暴露されたのであった。殺人の動機はハイラム・トラップ氏であることが判明した。トラップ氏は最善を尽くしたのであったが、冷酷な矢つぎ早の反対訊問に遭い、ついに夫人を愛していたこと、もし事情がゆるせば、結婚を申し込みたく思っていたことを承認してしまった。二人の関係が精神的なものだったという事実が、かえって被告を不利にした。トラップ氏の誠実で真面目な性格に妨げられて、彼の妻になることができなかったので、この金持ちの米国人の妻になるために、年とった平凡な夫を亡きものにするという恐ろしい計画を企んだということになったのであった。
ベロルディ夫人は、あくまで泰然自若として起訴者に立ち向っていた。彼女の陳述は決して変らなかった。自分は王家の出であって、幼いころ、果物売りの娘とすり替えられたのだというのであった。この陳述はばかげていて、まったく根拠のないものであったが、それを盲目的に信じる者も多くあった。
けれども起訴者側は無慈悲であった。『覆面のロシア人』などは神話にすぎない。犯罪はベロルディ夫人と、恋人のコンノーとによって行われたものであると主張した。コンノーに対する令状が発せられたが、彼は巧みに失踪してしまった。ベロルディ夫人を縛った紐は、自分で雑作なく束縛を解くことができるほどゆるかったという証跡が示された。
すると裁判が終りに近づいたころ、パリで投函された一通の手紙が検事宛に届いた。それはコンノーからのもので、自分の所在は明かさずに犯罪を告白したものであった。彼はベロルディ夫人の示唆によって、致命的な一撃を加えたのだと申し立てた。その犯罪は二人の間で仕組まれたのであった。夫に虐待されているという夫人の言葉を信じて、夫人に対する情熱から、そしてその情熱が報いられるものと信じて、犯罪を計画し、愛する夫人をいとわしい束縛から解放するつもりで、致命的な打撃を与えたのであった。ところが今初めてトラップ氏のことを知り、愛していた女が自分を裏切っていたことに気がついた! 彼女が自由を欲したのは、自分のためではなく、金持ちの米国人と結婚するためだったのだ! 自分は利用されたのだ。今、嫉妬の憤怒に狂って、彼は寝返りを打って夫人を告発し、自分は徹頭徹尾、夫人の示唆によって行動したのだと断言するのであった。
すると、ベロルディ夫人は、彼女が滅多にないような女性であることを証明した。彼女は何の躊躇もなく、突如、前言を取り消して、『ロシア人』説はまったく自分の作り話だということを認め、真の殺人犯人はコンノーである。コンノーは情熱のために気が狂って犯罪を行なったのだ。そしてもし他言したなら、恐ろしい復讐をすると誓った。彼の脅迫に怯えて、彼女はそれに同意した。それに、もしも真実を語ったなら、自分も犯罪をもくろんだものと思われるだろうと恐れたのであった。しかし彼女は、夫殺しには何の関係もないことを頑として主張した。コンノーが彼女を告発するような手紙を書いたのは、こうした彼女の態度に対する彼の復讐なのだと申し立てた。自分は犯罪の計画などにも全然関係がなく、あの記憶すべき夜、眼を覚ますと、コンノーが血のりのついた短刀を手にして立っていたことを、厳かに誓うのであった。
これは実にきわどい逃げ道であった。ベロルディ夫人の陳述は信用のおけるものではなかった。だが陪審員に対する弁明はまったく傑作であった。涙はとめどもなく顔に流れ、子供のことから、女の名誉にまでおよんだ。子供のために、自分の評判を汚されたくないといった。コンノーは恋人であったことは認める。道徳的にはこの犯罪に責めを負うべきであろう……だが、神に誓って、それ以上のことはなかった! コンノーを法律に訴えなかったのは、確かに重大な過ちを犯したことになるが、それは女として誰でもできないことであろうと、声を震わしていうのであった。とにかく一度は愛したことのある人である! どうして自分の手でその人を断頭台に送ることができよう! 自分はたくさんの罪を犯したが、自分が犯したといわれている恐ろしい罪だけは、犯さなかったのだ。
何はともあれ、彼女の雄弁と個性とが、ついに勝利を得たのであった。ベロルディ夫人は、前代未聞の騒ぎのうちに、無罪放免となった。
警察が全力を注いだにもかかわらず、コンノーの行方はついに発見されなかった。ベロルディ夫人のほうも、その後消息を断ってしまった。子供を連れて、新生活に入るために、パリを去ったのであった。
墓穴を掘ったのは男である
私はベロルディ事件をすっかり書いた。もちろん、ここに述べたほど詳細には私の記憶にのぼってこなかったが、かなり正確に思い出せたのであった。この事件は当時、非常な興味をひくものだったので、英国の新聞にもくわしく報道されていたから、詳細な記録をあつめるのに、あまり苦心する必要はなかった。
私は興奮のあまり、ちょっとの間、すべてのことが、はっきりわかったような気がした。私は確かに衝動にかられやすいということを認める。ポワロはいつも、私がいきなり終局へ飛び込む習慣があると嘆くが、この場合は私にもいくらかいいわけが立つと思う。この発見がポワロの考えを裏付けた素晴らしさは、ただちに私を感動させたのであった。
「ポワロさん、おめでとう。僕にもこれですっかりわかりましたよ」と私はいった。
ポワロは細巻きの煙草に、いつものきちょうめんさで、火をつけた。それから眼をあげた。
「すっかりわかったといわれると、君、どういう風にわかったのですか」
「だって、ルノール氏を殺したのはドーブリーユ夫人、つまりベロルディ夫人なんでしょう。二つの事件の類似点が、まぎれもない証拠になりますよ」
「すると君は、ベロルディ夫人が無罪放免になったのは誤りだったと考えるのですか。実際に夫殺しを計画したと思うのですか」
「もちろんですとも! あなたはそう思いませんか」と、私は眼をみはって、叫んだ。
ポワロは、部屋の端れまで歩いていって、放心したように椅子を真っすぐにして、それから考え深くいった。
「そうです。それは私の意見です。しかし、『もちろん』なんていうことはありませんよ。君、専門的にいえば、ベロルディ夫人は無罪なのです」
「あの犯罪ではね。しかし今度の場合はそうではありません」
ポワロは再び腰をかけて、私を見つめた。その態度はいつもよりも目立って、考え深く見えた。
「それでは、ドーブリーユ夫人がルノール氏を殺したというのが、君の決定的な意見なのですね、ヘイスティングス君」
「そうです」
「なぜ?」
ポワロが急に、こんな質問を投げかけたので、私は驚いてしまった。
「なぜですって? なぜって……つまり……その……」
私は詰まってしまった。
ポワロは、私のほうへうなずいてみせた。
「それごらんなさい。君はすぐつまづいてしまうのです。なぜドーブリーユ夫人が、ルノール氏を殺さなければならないのですか? 私どもは動機の影さえも見出せませんよ。あの夫人はルノール氏が死んでも、少しも利益を得ないのです。情婦としても、恐喝者としても損をするのです。殺人というものは動機がなくてはならないものです。最初の犯罪のほうは違います。あの場合は、夫の後釜に坐る金持ちの恋人が待っていたのですからね」
「金だけが、殺人の動機というわけではないです!」と、私は抗議した。
「それはそうです」とポワロは穏やかに同意して、
「ほかに二つ動機があります。情熱の犯罪というのが一つです。が、ほかにもう一つ、ごく稀な第三の動機があります。殺人者側の、精神錯乱の型を意味するものです。殺人狂とか、狂信とかが、これに属します。ここではこの第三の動機は除外することができます」
「しかし情熱のほうはどうです? それも除外できますか? もしこのドーブリーユ夫人が、ルノール氏の情婦だったら、相手の熱が冷めてきたので、怒りに任せて殺したかも知れないではありませんか」
ポワロは首をふった。
「もしもですね、ドーブリーユ夫人がルノール氏の情婦だったとしたら、彼が彼女にあきる暇はなかったはずです。それに君は、とにかく、あの夫人の性格を間違えてとっています。あの人は、非常な激情をもっているふりをすることのできる女性です。素晴らしい女優です。よく研究してみるとあの人はあくまでも冷静に、動機や行動を計画してきております。夫を殺す計画をたてたのは、若い恋人と一緒になるためではなかったのです。全然、愛の片鱗も感じていなかったかも知れない、金持ちのアメリカ人が目的だったのです。もし犯罪を行なうとすれば、あの人の場合は利益が目的です。ところが今度の場合には、利益はありません。それにあの墓穴を掘ったことを、君はどう考えますか? あれは男の仕事ですよ」
私は、自分の所信をすてるのがいやだったので、
「共犯者があったかも知れません」といってみた。
「もう一つの反論に移りましょう。君は二つの犯罪に類似点があるといいましたね。それはどこなのですか」
私は呆れて、彼の顔を見つめた。
「だって、ポワロさん、そういったのは、あなただったんですよ! 覆面の男と『秘密』の書類など!」
ポワロは、微笑した。
「怒らないでくださいよ。私は何も否定しているのではありません。二つの類似点がこの二つの事件を結びつけていることは明らかです。しかし、非常に奇妙なことがあるのを考えてみてください。覆面や秘密の書類のことを話したのが、ドーブリーユ夫人だったのならすべては簡単に運びますが、ルノール夫人だったのですからね。すると、これはドーブリーユ夫人とルノール夫人が共謀なのでしょうか」
「そんなことは信じられませんね。もしそうだとしたら、ルノール夫人は世界一完全な女優ですね……」と、私は、ゆっくりといった。
「やれ、やれ、君はまだ感情に走り、理論を忘れましたね! もし犯人が完全な女優である必要があるなら、その時こそ彼女がそうだと仮定したらよろしい。だが、そんなことが必要だったでしょうか? いくつかの理由によって、私はルノール夫人とドーブリーユ夫人とが共謀だとは思わないのです。その理由の一つは、もうすでに君に話しましたね。そのほかの理由は自然に明らかになっています。ですから、その可能性が取りのぞかれると、私どもは真相にかなり近づくのです。その真相はいつものように、誠に奇妙で興味あるものです」
「ポワロさん、あなたはどのくらいごぞんじなんですか」と、私は叫んだ。
「君、それは君自身で推定しなければなりませんよ。君は『事実の入口』にいるのですから。脳細胞を働かせることですね。理論をお考えなさい……ジローのようでなく、エルキュール・ポワロのように!」
「しかし、あなたは確実なのですか」
「君、私はいろいろな点で低能でしたが、今ははっきりわかりました」
「すっかりわかっているんですか」
「ルノール氏が、私に発見させるために呼んだことは、全部発見しました」
「それで、犯人はわかっていらっしゃるんですね」
「一人の犯人はわかっています」
「それはどういう意味ですか」
「私どもの話は、少し喰いちがっていますね。ここに起こった犯罪は一つではなく、二つなのです。第一のは解決しましたが、第二のは……いいです、白状しますが……私にはまだ、はっきりわかっていないのです」
「しかし、ポワロさん! あなたは物置小屋の男は自然死だといわれたと思うんですが?」
「やれ、やれ!」とポワロは、いつものいらいらした時の叫びをあげて、
「君は、まだわからないのですね。殺人者のない犯罪はあるかも知れません。しかし二つの犯罪のためには、二つの死体があるのが当然ですからね」
ポワロのいうことは妙に明瞭を欠いているように思われたので、私はいささか不安になって彼の顔を見あげた。しかし彼は全然、ふだんと変っていなかった。すると彼は急に立ちあがって、窓のほうへぶらぶら歩いていった。
「さあ、来ましたよ!」とポワロはいった。
「誰が来たんです」
「ジャック・ルノール君です。あの人に来てほしいと、別荘へ手紙を持たせてやったのです」
それが私の考えの方向を転じた。私は犯罪のあった晩、ジャックがメルランビーユに来ていたことをポワロが知っているかどうか、尋ねてみた。私はこの一撃でわが敏捷なる友人を面喰わせてやろうと期待していたのだ。ところがポワロは相変らず全知全能であった。やはり駅で調べたとみえて、
「たしかに、これは私どもだけの独占ではありませんよ、ヘイスティングス君。あの素晴らしいジローもきっと駅へいって訊問したでしょう」
「あなたはまさか……」といいかけて、私はやめた。そして、
「ああ、それは、あまりに恐ろしすぎる!」とつけたした。
ポワロは物問いたげに私を見たが、私は何もいわなかった。その時、私はふと、こんなことを心に浮かべていた……この事件には、直接間接に、七人の女性が関係している……ルノール夫人、ドーブリーユ夫人とその娘、謎の訪問者と三人の雇い女たち……それでいて、男といえば、あの物の数に入らない老園丁をのぞいては、ジャック一人だけであった。|そして墓穴を掘ったのは男に違いない《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。
私はこのぞっとするような考えを発展させる暇はなかった。なぜなら、ジャック・ルノールが部屋へ案内されてきたからである。
ポワロは、事務的に挨拶を交わした。
「どうぞおかけください。ご足労をかけて誠に恐れ入りますが、どうもあの別荘の空気が、私にあいませんので……ジローさんと私とは、何かにつけて意見があいませんし、私に対する態度など、あまり感心いたしませんし、とにかく、私の発見したもので、あの人に利益を与えたくない気持ちはご諒解いただけるとぞんじます」
「そのとおりですよ、ポワロさん。あのジローという奴は、意地の悪いけだものです。誰かが、やっつけてくれると非常に嬉しいと思いますよ」と青年はいった。
「それなら一つお願いしたいのですが」
「どうぞ」
「君に駅へいって、次の駅、アバラックまで汽車でいってほしいのです。そこで二人の外国人が、犯罪の夜、旅行鞄を預けたかどうか、携帯品預り所できいていただきたいのです。あそこは小さな駅ですから、きっと覚えていると思いますから、そうしてくださいませんか」
「しますとも」
青年は煙に巻かれた様子だったが、よろこんでその仕事を引き受けた。
「私とヘイスティングス君とは、ほかに仕事がありますのでね。十五分くらいのうちに出る汽車があります。別荘へは帰らないでください。ジローに、君の仕事を少しでも、感づかれたくありませんから」とポワロは説明した。
「いいです、真っすぐ駅へいきます」といって、青年は立ち上って行きかけたが、ポワロの声が、それをとめた。
「ちょっと君、ジャック君、一つだけ私に納得のいかないことがあるのですが……なぜ、君はあの犯罪の夜、メルランビーユにいたことをオート判事にいわなかったのですか」
ジャックの顔は真っ赤になった。努めて自制していた。
「それはお間違いです。僕は今朝、判事さんにいったように、シェルブールにいました」
ポワロは彼を見つめた。その眼は猫のように細くなり、やがて緑色の光を発するだけになった。
「すると私が、あすこでしたのは、ふしぎな間違いですね……駅の人々も間違ったのですね。君が十一時四十分の汽車で着いたといっておりましたのです」
ジャックはしばらくためらっていたが、ついに決心した。
「それで、もしそうなら、まさか父殺しに加担したとして、僕を告発するんではないでしょうね」
青年は頭をぐいと後ろに引いて、横柄に尋ねた。
「何の用で君が帰ってきたか、理由を説明してほしいのです」
「それは簡単です。僕は許婚のドーブリーユ嬢に会いにきたんです。僕は、いつ帰れるかわからない長い航海に出る前夜だったので、僕の変らぬ愛情を語って彼女を安心させたかったんです」
「そして会ったのですか」
ポワロの眼は片時も、青年の顔から離れなかった。
青年が答えるまでには、ちょっと手間どった。
「会いました」
「そして、それから」
「終列車には間にあいませんでした。それでサンボーベまで歩いていって、車庫を叩き起こして、自動車でシェルブールまで帰りました」
「サンボーベですって? あすこまでは十五キロもありますよ。遠いですよ、ジャック君」
「僕……僕、歩きたかったんです」
ポワロはその説明に満足を表するように、頭をさげた。ジャックは帽子とステッキを取りあげて、出ていった。ただちにポワロは跳びあがった。
「早く、ヘイスティングス君! あとをつけましょう!」
慎重な距離をおいて、我々は獲物のあとをつけて、メルランビーユの本通りを進んでいったが、相手が駅のほうへ曲がるのを見届けると、ポワロは、立ち止まった。
「さあよろしい。餌にくいついてくれました。アバラックへ行くでしょう。そして不思議な外人が残していった、不思議な鞄を尋ねることでしょう。そうですよ、君。みんな私の創作なんですよ」
「あの人を、しばらく追い払ったんでしょう」と、私は叫んだ。
「君の洞察力は、すばらしい! さあ、ヘイスティングス君、ジュヌビエーブ荘へ行きましょう!」
マルト嬢の見たこと
別荘に着くと、ポワロは、第二の死体が発見された物置小屋へ真っすぐにいった。しかし、中へは入らないで、前にも述べた、物置小屋から五六メートル離れた地点に据えてあるベンチのそばで立ち止まった。彼はしばらくベンチを見ていたが、慎重な歩調で、そこから、ジュヌビエーブ荘とマーガレット荘を区切っている生垣のところまでいった。それから、うなずきながら、再び戻ってきたが、もう一度引き返していって、両手で垣根をかき分けた。
ポワロは、肩越しに、私にむかっていった。
「運よくマルト嬢が庭にいるかも知れません。私はあのお嬢様と、ちょっと話がしたいのですが、正式にマーガレット荘を訪問したくないのです。ああ、ちょうどいい、あそこへ来ました。しっ! お嬢様、しっ! ちょっと、なにとぞ!」
私がそばへいった時、マルト・ドーブリーユ嬢は、びっくりした顔をして、ポワロの声に答えて垣根のほうへ駆け寄った。
「ちょっとお話がしたいのですが、お嬢様、よろしいでしょうか」
「ようございますとも、ポワロさん」
そうはいったが、その眼は心配し、恐れているようであった。
「お嬢様、私が判事さんとお宅へ伺った時、あなたは往来まで私を追っていらして、誰かが疑われているかどうか、お尋ねになりましたね」
「そして、あなたは二人のチリ人たちだとおっしゃいましたわね」
彼女の声は、何となく、息をはずませているように聞えた。そして彼女の左手はそっと胸の辺にいくのであった。
「お嬢様、いま同じ問いをお尋ねくださいませんか」
「それは、どういう意味でございましょう」
「こうなのです。もしお嬢様が今、その問いをお出しになったとしたら、私はまったく違ったお答えをいたしますでしょう。誰かが疑われております……しかし、それはチリ人ではないのでございます」
「では、誰ですの?」
その言葉は、開いた唇の間から、かすかに洩れてきた。
「ジャック・ルノールさんでございます」
「何ですって! ジャックですって! そんなことございませんわ。誰があの人を疑うんですの」
それは、叫び声であった。
「ジロー探偵でございます」
「ジロー! あの方らしいわ……あの方、残酷なんですもの。あの方、きっと……きっと……」
マルト嬢は真っ青になって、それ以上何もいえなくなったが、次第に勇気と決心が顔に現われてきた。私はその時、彼女が闘士であることを知った。ポワロも、彼女の激しい表情を見守っていた。
「お嬢様は、もちろん、あの犯罪の夜、ジャックさんがこの土地におられたことをごぞんじでしょう」と、ポワロが尋ねた。
「知っていますわ。あの人が話しましたもの」と、機械的に答えた。
「その事実をかくしておこうとしたのは、愚かなことでした」と、ポワロはいった。
「そうですわ、そうですわ。でも、悔やんで時間を空費してはいられませんわ。誰か、あの人を救う人を捜さなければなりませんわ。もちろん、あの人は潔白です。でも自分の名声のことばかり考えているジローみたいな人には、それだけでは役にたちませんわ。あの探偵は誰かを逮捕しなければならないんですもの。そしてその誰かがジャックなんですわ」彼女はじれったそうにいった。
「事実が、反証をあげますでしょう。それをごぞんじですね」とポワロがいうと、マルト嬢は真正面にむき直った。
「私、子供ではありません。勇敢に事実と取り組むことができます。あの人は無罪です。私たちあの人を救わなければなりません」
彼女は必死になってそこまでいうと、黙ってしまって、眉をひそめながら考え込んだ。ポワロは彼女の顔をじっと見つめながらいった。
「お嬢様、何か隠していらっしゃることがおありでしょう。それを私におきかせになりませんか」
マルト嬢は困惑したように、うなずいた。
「ええ、あるんですけれど、信じていただけるとは思えませんの……あんまり妙なので」
「ともかくお話ししてください、お嬢様」
「こうなんですの。ジローさんが、あそこにいる人を私が知っているかどうかと、後になって考えついて、私を迎えによこしたんです」といって、マルト嬢は頭で物置小屋をさした。
「私、わかりませんでしたの。少なくもその時はわからなかったんです。でも、それから考えていたんですが……」
「で?」
「とてもおかしいんですけど、たしかだと思うんですの……お話しいたしますわ。ルノールさんが殺された日の朝、私はこの庭を歩いていました。すると男の口論する声を聞きましたので、生垣をかき分けて覗いてみると、一人はルノールさんで、もう一人はぼろぼろの着物を着た、恐ろしげな浮浪者でしたの。その人は何か愚痴を並べたり、嚇したりしていました。お金をねだっているのだと思いましたけれど……ちょうどその時、家で母が呼んだので行かなければならなかったんです。それだけなのですが、ただ……私、たしかにその浮浪者と、物置小屋の死んだ人とは、同じ人だと思いますの」
ポワロは叫び声をあげた。
「おお、どうしてその時、そのことをおっしゃらなかったのでございますか!」
「どうしてって、初め何だかその顔が、どこかで見たような顔だと、ぼんやり思っただけですもの。その人の服が違っていましたし、もっといい暮らしの人のように見えたんですの」
その時、家から声が聞えた。
「母が呼んでいるんですわ。行かなければなりません」といって、マルト嬢は植え込みの間をぬけて、いってしまった。
「さあ!」といって、ポワロは私の腕をとって、別荘へ向って歩き出した。
「ポワロさんはどう思いますか。あの話は本物でしょうか。それとも恋人を救うための作り話でしょうか」と、私は好奇心をもって尋ねた。
「奇妙な話ですね。しかしまったく真実だと思います。マルト嬢は無意識に、ほかの点で真実のことをいったのです……それで、ジャック君のほうが、嘘をいったことがわかったのです。私があの晩、マルト嬢に会ったかどうか尋ねた時、ジャック君がためらったのを覚えていますか。彼はちょっと黙っていてから『会った』といいましたね。私はあの時、嘘をついているなと思いました。それでジャック君がマルト嬢と口裏を合わせる暇のないうちに、先廻りしてこの会見をしたかったのです。ほんのちょっとした言葉が、私の必要とする情報を与えてくれたのです。私がジャック君があの晩ここにいたことを知っているかどうか尋ねた時に『あの人が話しました』と答えました。さて、ヘイスティングス君、あの事件のあった晩に、ジャック君は何をしたと思いますか。また、マルト嬢に会わなかったとしたら、いったい誰にあったのでしょう?」
「だが、ポワロさん、あんな少年みたいな顔をした人が、自分の父親を殺すなんて、信じられませんよ」と、私はあっけに取られて叫んだ。
「君、君は相変らず信じがたいまでに、センチメンタルですね! 私は、保険金ほしさに、自分の子供さえ殺した母親を何人か見ましたよ。それを見てから後は、何だって信じられるようになりました」と、ポワロはいった。
「それで、その動機は?」
「もちろん金ですよ。ジャック君は、父が死ねば財産の半分は自分のものになると信じていたことを考えてごらんなさい」
「しかし、浮浪者は、一体どういうことになるのですか」
ポワロは、肩をすくめた。
「ジロー探偵だったら、その浮浪者は、ジャック君の共犯者だと申すでしょう。……犯罪を行なった後に、片付けられてしまった無頼漢だというでしょう」
「しかし、短刀の柄に巻きついていた髪の毛は? 女の毛は?」
ポワロは、顔中をほころばせていった。
「あれは、ジローのちょっとしたしゃれの上出来ですよ。彼の説によると、あれは女の毛などではないのです。近ごろの若者は、髪を水洗いにするとか、ポマードで固めて、後ろへ真っすぐに撫でつけていますね。ですからその毛はかなりの長さです」
「ではあなたも、そう思っていらっしゃるんですか」
ポワロは、妙な薄笑いを浮かべた。
「私は、あれが、女の毛だということを知っていますからね……それ以上にどの女のかということもね!」
「ドーブリーユ夫人」と、私は、はっきりいってのけた。
「かも知れません」といって、ポワロは謎めかしく私を見つめた。けれども私は、気を悪くしないように努めた。
「今度は何をするんですか」
私はジュヌビエーブ荘へ入りしなに尋ねた。
「ジャック君の所持品を検《あらた》めてみたいのです。そのために、二三時間、ほかへやったのです」
ポワロは器用に、規則正しく、つぎつぎとひきだしを開けて、中のものを調べていった。そして元通りにもどしておくのであった。それはまったく退屈で面白味のない仕事であった。ポワロは、カラーや寝巻や、靴下の間まで手さぐりした。外にごろごろいう音がしたので、窓へ寄った私は、たちまち活気づいた。
「ポワロさん、車がきましたよ。ジロー探偵とジャック君と警官が二人乗っていますよ!」と私は叫んだ。
「畜生! ジローのけだものめ、待っていられないのか?……この最後のひきだしのものを規則正しく調べている間がない! さあ大急ぎ!」とポワロはうなって、ひきだしのものを乱暴に床へあけてしまった。主としてネクタイやハンケチ類であったが、ポワロが急に叫び声をあげて、何かにとびついた。それは小さな四角いもので、写真らしかった。ポワロはそれをポケットに入れると、床にあったものを、目茶々々にひきだしへ押し込んで、私の腕を引っぱって階段をおりていった。玄関に、ジロー探偵が立っていて、囚人を眺めていた。
「今日は、ジローさん、どうしたのですか」と、ポワロがいった。
ジロー探偵は、ジャックのほうへうなずいて見せて、
「高飛びしようとしていたんだが、私のほうが敏活であった。この男は、父親殺しのかどで逮捕されたんですよ」といった。
ポワロは、青年のほうへ、くるりと向き直った。彼は真っ青な顔をして、ぐったりと玄関の戸によりかかっていた。
「君は、それに対して何かいうことがありますか」
ジャックは石のような表情でポワロを凝視した。
「何もありません」と、彼はいった。
ジャック逮捕さる
私はあきれて物もいえなくなった。私は最後までジャックが犯人とは信じることができないでいたのだ。ポワロが話しかけた時、私は、彼が声を大にして、自分の無罪を主張するのを期待していた。ところが、今こうして真っ青になって、力なく戸によりかかっている彼を見、彼の唇から、有罪を承認するような言葉が洩れるのを聞くと、私はもはや、疑う余地がなくなってしまった。
しかしポワロは、ジロー探偵に向った。
「何の理由でこの青年を逮捕するのですか」
「それを、あなたに説明すると思っているんですか」
「そうです。礼儀として」
ジロー探偵はどっちつかずで、ポワロを見つめていた。彼は、荒々しく拒絶したい衝動と、敵に対する勝利の喜びにひたりたい気持ちとの、板ばさみになっていたのである。
「あんたは、私が間違いを犯したと思っているんだろう? え?」と彼は嘲笑した。
「間違ったところで、私は驚きませんよ」
ポワロはちょっと悪意を見せた。
ジロー探偵の顔は赤味を増した。
「よろしい。ここへ入りなさい。自分で判断しなさるがいい」
彼は客間の戸をさっと開けた。我々はジャックを二人の巡査に任せて中に入った。
ジロー探偵は、テーブルの上に帽子を置くと、皮肉たっぷりにいった。
「さあ、ポワロさん。少し探偵の仕事について講義をしてあげますかな。我々現代人が、どんな風に働いているかをお聞かせしよう」
「よろしい。この老兵が、どんなに立派に拝聴することができるかを、お見せしましょう」といって、ポワロは椅子の背にもたれて眼を閉じたが、ちょっと眼をあけて、
「私が眠ってしまうなどとご心配無用。よく伺っておりますから」というのであった。
「もちろん、私はあのチリ人に関するくだらぬ話は作り事と見ぬいてしまいましたさ。二人の男が関係していたが、それは奇怪なる外国人でなんかない。あれはごまかしだった」と、ジロー探偵が講義を始めた。
「そこまでは信用がおけますね、ジローさん。特にあのマッチや、巻き煙草の吸いがらの手品についてご高説を伺った後ではね」
ジロー探偵は睨みつけたが、そのまま講義を続けた。
「あの墓を掘るためには、男が関係していたはずだ。この犯罪によって現実的に利益を得る者はない。しかし利益を得ると考えていた男が一人いた。私は、ジャック・ルノールが父親ポール・ルノールと口論したことも、ジャックの用いた嚇し文句もきいた。そこで動機ができた。さて手段である。ジャックはその夜、メルランビーユにいた。彼はその事実を隠していた……そのことが嫌疑を確実にしたのである。それから、我々は、二人目の被害者……同じ短刀で刺された男を発見した。我々はその短刀がいつ盗まれたか知っている。ここにいるヘイスティングス大尉がその時間を確認することができる。ジャックがシェルブールから到着して、それを盗むことのできた唯一の人間である。私は家の者の供述は全部とった」
ポワロが、それを遮った。
「それは間違っております。短刀をとることのできた人が、もう一人おります」
「ストーナー氏のことをいっているのですな? 彼はカレーから直接のりつけた自動車で、表玄関から入ってきた。いいですか、私はあらゆることを調べてあるんだ。ジャックは汽車で到着した。駅に到着してから、家へ入ってくるまでに、一時間が経過している。疑いもなく、彼は、ヘイスティングス大尉と友人が、物置小屋から出るのを見て、すべり込んで短刀を取り、そこで共犯者を刺し……」
「もうすでに死んでいる人間を!」とポワロがいった。
ジロー探偵は、肩をすくめた。
「たぶん、死んでいるとは気がつかなかったのであろう。眠っていると判断したかも知れない。疑いもなく、二人は示し合わせてそこで密会したのに違いない。とにかく、ジャックはこの第二の殺人によって、事件が非常に混乱するだろうということを承知していた。たしかに混乱した」
「しかし、ジローさんを瞞着するわけにはいかなかった」と、ポワロがつぶやいた。
「私をばかにするんだな! だが、最後の論争の余地のない証拠をお目にかけよう! ルノール夫人の陳述は偽りであった。始めから終りまで作り話だった。夫人は夫を愛していたように我々は信じていた。しかし彼女は殺人者をかばうために偽りの陳述をしたのだ。女は誰のために嘘をつくか? 時には自分自身のため、たいていは愛する男のため、いつも必ず子供のためである。この最後のが論争の余地なき証拠! これには、あんたも一言もありますまい」
ジロー探偵は勝ち誇り、頬を紅潮させて、言葉を切った。ポワロは、じっと彼を見つめていた。
「これが私の意見だ! これについて何かいうことがあるですか」と、ジロー探偵がいった。
「一つだけ、あなたが考えに入れるのを忘れていたことがあります」
「それは何ですか」
「ジャックは、ゴルフ場の設計をおそらく知っていたと思います。バンカーを作るためにあそこを掘り返し始めれば、すぐに死体が発見されることを知っていたでしょう」
ジロー探偵は、大声をあげて笑った。
「あんたのいうことは、ばかげているよ! 彼は早く死体を発見してもらいたかったのさ。死体が発見されなければ、死んだことが確認されない。従って遺産を相続することはできないですからね」
ポワロが立ち上った時、私は、彼の眼が緑色に光るのを見た。
「それなら、なぜ、死体を埋めたのでしょうか? ジローさん、よくお考えなさい。死体がすぐ見つかることが、ジャック君の利益になるのでしたら、なぜ、墓を掘ったのでしょう?」と、ポワロは、非常にやさしく尋ねた。
ジロー探偵は答えなかった。この質問に、不意をつかれたのであった。彼はそんなことは何の価値もないという風に肩をそびやかした。
ポワロは戸口へ歩いていった。私はついていった。
「もう一つ注意なさらなかったことがありますよ」と、ポワロは肩越しにいった。
「それは何ですか」
「鉛管の切れ端ですよ」といって、ポワロは部屋を出ていった。
ジャックは、真っ青な顔をして、まだ玄関に立っていた。我々が客間から出ていくと、鋭く見上げた。同時に、階段に足音が聞えて、ルノール夫人がおりてきた。二人の警官の間に立っている息子を見ると、夫人はびっくり仰天して立ち止まった。
「ジャック、ジャック、どうしたの?」と、口ごもりながらいった。ジャックは母を見あげて、顔をこわばらせた。
「逮捕されたんです、お母様」
「何ですって?」
彼女は、刺すような叫び声をあげて、誰も手をかす間もなく、よろめいて、どさりと倒れた。我々二人はそばへ駈け寄って、彼女を抱きあげた。ポワロはすぐに立ち上った。
「階段の角でひどく頭を打ったのです。脳震盪の気味もあります。ジローが夫人の供述を欲するのでしたら、少し待たなければならないでしょう。少なくも一週間くらいは、意識を回復しないでしょう」
ドニーズとフランソワーズが奥様のところへ駈けつけたので、夫人を二人に任せて、ポワロは家を出た。彼は首を垂れ、眉をひそめながら、地面を見つめて考え込んでいた。私はしばらく口を利かなかったが、とうとう質問を発した。
「あらゆる点が不利に見えているにもかかわらず、あなたはジャック君が有罪でないと信じていらっしゃるんですか」
ポワロは、すぐには答えなかったが、しばらくして、重々しくいった。
「ヘイスティングス君、私にはわからないのです。チャンスあるのみです。もちろんジローは間違っています。始めから終りまで間違っているのです。もし、ジャック君が有罪としても、それはジローの論証にもかかわらず、ああした証拠のためではないのです。ジャック君に対する一番重要な告発事項は、私だけに知られているのです」
「それは何ですか」と、私は感服して尋ねた。
「君が自分の脳細胞を働かせて、私がみるように、はっきりと全体をみるならば、君にもそれがわかりますよ」
それが、私のいわゆるポワロの、我慢のならない答えの一つであった。彼は私が口を開くのを待たないで、言葉を続けた。
「この道を海のほうへ参りましょう。あそこの小高い丘に坐って、浜辺を見おろしながら、この事件の復習をいたしましょう。私の知っていることは全部知らせてあげましょう。しかし、自分の努力で、真相に到達するように希望しますよ。私が手をとって導いてあげなくともね」
我々は、ポワロの申し出のように、草原の中の海を見おろす丘に座を占めた。
ポワロは、私を励ますような調子でいった。
「お考えなさい、君。考えを整理なさい。組織的に、秩序をたてるのですね。そこに成功の秘訣があるのです」
私は彼の言葉に従おうと思って、この事件の詳細を思い浮かべていた。すると突然、私の脳裡に、非常に当惑するような考えの光がさし込んでくるのを覚えた。私は震えながら仮定説を作りあげた。
「ああ君、ちょっとした思いつきが浮かんできたらしいですね。素晴らしい。私どもは進展しておりますね」
私はからだを起こして、煙草に火をつけた。
「ポワロさん、僕らは、非常に不注意だったように思われます。僕は、あえて僕らといいます。僕といったほうが妥当でしょうが。しかしあなたが極秘にしていらした罪のあがないをなさらなければなりませんからね。それで、僕は再び、僕らは非常に不注意だったというのです。僕らの忘れていた人物があります」
「で、それは誰ですか」
ポワロは眼を輝かせながら尋ねた。
「ジョルジュ・コンノーです」
ポワロの脳細胞に映ったもの
次の瞬間、ポワロは感情をこめて、私にほほずりをした。
「ああついに、到達しましたね! それも君ひとりで! 素晴らしいですよ。推理をお進めなさい。君は正しい。確かにコンノーを忘れていたのは間違いでした」
私は、この小男の賞讃に有頂天になってしまって、すぐにはあとが続かないほどであった。しかし、ようやく考えをまとめて語り続けた。
「ジョルジュ・コンノーは二十年前に失踪してしまったのですが、彼が死んでしまったと信じる理由は少しもありません」
「そう、そう、お続けなさい」と、ポワロも同意した。
「ですから生きていると仮定しましょう」
「そのとおり」
「または、最近まで生きていた」
「うまい! うまい!」
私は続けた……次第に熱があがってきた。
「悪運のために、だんだん落ち目になったと仮定しましょう。彼は犯罪者となり、無頼漢となり、浮浪者と……まあいい方はどうでも。偶然にも彼はメルランビーユにやって来ました。そこで彼が一途に愛し続けていた女性に会いました」
「それ、それ、またセンチメンタルになった」と、ポワロは警告を発した。
「愛のあるところに憎しみあり」と、私は引用したが、これは誤用だったかも知れない。
「とにかく、そこで彼は昔の恋人を発見した。その恋人は変名して住んでいて、新しい恋人のルノールという英国人がいたのです。コンノーは古傷がうずいてきて、ルノールと争論しました。そして彼が情婦に会いに来たところを待ち伏せて、背中を刺してしまったのです。それから自分のしたことが恐ろしくなって、墓を掘り始めたのです。そこへ、ドーブリーユ夫人が、恋人を捜しに出てきた、ということは考えられます。彼女とコンノーとは凄い場面を展開しました。彼は彼女を物置小屋へ引きずり込んだが、そこで急に、癲癇の発作を起こして倒れました。ちょうどそこへジャックが現われたと想像しましょう。ドーブリーユ夫人は、彼に全部を話し、もし過去の醜聞が世間に知れれば、娘にとって致命的な結果になることを指摘します。もう父を殺した犯人は死んでしまったのだしするから、すべてを秘密に葬ってほしいといいます。ジャックがそれに同意して、母に会ってその意見に賛成してもらうように説き伏せました。ドーブリーユ夫人に入れ知恵されて、ルノール夫人は、猿ぐつわをかまされ、縛られることにも同意しました。さあ、ポワロさん、どう思いますか」と、私は、この事件の再現に、鼻高々と、そっくり返ったのであった。
ポワロは、考え深く私をじっと見つめていたが、やがて
「君はシナリオを書くといいと思いますね」というのであった。
「それは?」
「それはいい映画になるということですよ。今、私に話したことはね……しかし日常生活にはおよそ遠いものですね」
「僕の説明は細かいところまではいかなかったのは確かですが……」
「君は遙か彼方までいきましたよ……細かいところは驚くほど無視してね。二人の男の服装のことはどうします? コンノーがルノールを刺し殺してから服をぬがして、それを自分が着こんで、短刀を再び死骸に刺しておいたと君はいうのですか」
「それは大したことではないと思うんです。その日早く、ドーブリーユ夫人を脅迫して服や金をまきあげたかも知れませんよ」と、私は不機嫌に抗議した。
「脅迫してですって? 君はそんなところまで想像を発展させるのですか」
「そうですとも。あの男はドーブリーユ夫人の素性をルノール家の人々にすっぱぬくと嚇したかも知れません。そんなことをされたら、娘の結婚に対する夫人の希望が根こそぎなくなってしまいますものね」
「それは間違っていますよ、ヘイスティングス君。彼のほうで嚇すなどということはできません。彼女のほうが、きめ手を持っていますからね。君、コンノーという男は、殺人罪のお尋ね者ですよ。それを忘れてはいけません。ドーブリーユ夫人に、一言でも喋られたら、断頭台へのぼる危険があるのです」
私も、いやいやながらも、この事実を認めないわけにいかなかった。
「では、あなたの推理のほうは、細かいところまで、疑いもなく正確だといわれるんですね」と、私は気むずかしい顔をしていった。
「私の推理は事実を語るものです。そして事実というものは必然的に正確なものです。君の推理では、君は根本的な誤りをしたのです。深夜の密会とか、情熱的恋の場面とかいうもののために、君の想像が横道へそれていってしまったのです。犯罪の調査に当って、私どもは平凡な事物を足場にしていかなければならないものです。私の方法を、君に実地指導をしましょうか」と、ポワロは穏やかにいった。
「ああ、どうぞその実地指導というのをやってください!」
ポワロは座り直して、要点を強調するように、力をいれて人差し指をふりながら、始めるのであった。
「私も、君が始めたように、コンノーに関する根本の事実から出発しましょう。ベロルディ夫人は法廷で、自分が『ロシアの貴族の出身だ』といった前言を作り話であったとして取り消しました。たとえ、夫人が犯罪行為黙認の罪を犯さなかったとしても、その犯罪を仕組んだのは、彼女が自供したように、彼女だけだったのです。ところで、もし夫人が有罪であったなら、その犯罪は夫人か、コンノーか、二人のうちのどちらかによって仕組まれたものとなります。
さて、今、私どもの調査しております事件において、私どもは同じ話に直面しているのです。私が君に指摘しているように、ドーブリーユ夫人が示唆するということは、事実上あり得ないように思われるのです。そこで、その話は、コンノーの頭の中に根源があったという仮説に向くのです。いいですか、それで、この犯罪は、コンノーが仕組んだものである、ルノール夫人を共犯者として計画されたものとなります。そして、夫人が照明燈の中に浮かび上ってきました。そして夫人の背後に、影の姿があって、その姿の主は誰だか、まだわかっていないのです。
さて、私どもは、ルノールの事件を、始まりから時日の順序にそれぞれの要点をあげて、調べてみましょう。ノートと鉛筆をお持ちですか。よろしい。さて最初に記入する点は何でしょうか」
「あなたのところへきた手紙でしょうか」
「それは私どもの知った最初でしたが、それは事件の適当な始まりとはいえませんね。最初の重要な点は、ルノール氏がメルランビーユに着いてから間もなく起こった、氏の様子の変化だろうと思われます。それは数人によって確認されています。それから、ドーブリーユ夫人に対する友情と、彼女に多額な金が支払われた事実を考慮しなければなりません。それからすぐに五月二十三日に移りましょう」
ポワロは言葉を切って、咳払いをした後、私に筆記するように合図をした。
「五月二十三日、息子のジャックが、ドーブリーユ夫人の娘マルトと結婚をしたいといったために、ルノール氏は、息子と口論する。息子のジャックはパリへ出かける。
五月二十四日、ルノール氏は遺言状を書き直し、一切の財産の管理を妻の手にゆだねる。
六月七日、庭で浮浪者と口論する。それをマルト嬢に目撃される。
エルキュール・ポワロに手紙を書いて、助力を乞う。
ジャックに打電して、アンゾラ号でブエノスアイレスに行くように命ずる。
運転手のマスターズに休暇を与える。
その夜、婦人の訪問客があった。玄関まで見送って……そうです、そうです……しかし、お願いですから、今はお帰り下さい……という」
ポワロは、そこでちょっと言葉を切った。
「さあ、ヘイスティングス君、これらの事実を一つ一つ取りあげて、それ自身のことと、ほかのこととの関係を、注意深くお考えなさい。そしてこの事件に対する新しい光明を見出せるかどうか考えてごらんなさい」
私は忠実にポワロのいったとおりにやろうと、努力してみた。一二分してから、私は、少しあやぶみながらいった。
「まず第一の問題として、私たちは|ゆすり《ヽヽヽ》説をとるか、または、愛情説をとるか、どっちかだと思うんですが」
「それは|ゆすり《ヽヽヽ》のほうですとも。それは決定的です。秘書のストーナーが、ルノール氏の性格や習慣について証言したのを、君も聞いていたでしょう」
「ルノール夫人は、その証言を支持しませんでしたね」と私は反対意見を出した。
「ルノール夫人の証言は、どのみちあまり信用がおけないということがもうわかりましたからね。その点では、ストーナーのほうを信頼しなければならないのです」
「それにしても、もし、ルノール氏が、ベラなる婦人と関係があったものとしたら、ドーブリーユ夫人とも関係があったと考えるのは、不自然だとは思われませんからね」
「それはそうですね。しかし、ヘイスティングス君、彼にそんなことがあったのでしょうかね」
「手紙ですよ。ポワロさんは、あの手紙のことを忘れておられますよ」
「いや、忘れているわけではありません。だいたい君は、どうしてあの手紙が、ルノール氏に宛てて書かれたものだと思うのですか」
「だって、あの人のオーバーのポケットに入っていたんですから……それに……それに……」
「それだけで、何もいうことはないでしょう。あれは誰に宛てられたものかを示すような、名前も何も書いてありませんでしたね。それがルノール氏に宛てられたものと推定したのは、死体の着ていたオーバーのポケットにあったからなのです。君、あのオーバーについて、少しおかしいと思うことがあるのです。私が寸法を測ってみて、ずいぶん長いオーバーを着ているなと申しましたね。あの言葉が、君に何か考えさせたはずなんですがね」
「何かいわなければならないので、あんなことをおっしゃったんだと思いました」と、私は白状した。
「それは一体何という考えです! その後も君は、私がジャックのオーバーを測っているのを見たでしょう。ところで、ジャックのオーバーは大変に短かった。この二つのことと、第三のこと、すなわちジャックがパリへ出かけた時に、大急ぎで家を飛び出していった事実とを結びつけて、しかる後に、君がそれについてどう思うか話してみてください」
私は、次第に、ポワロの言葉の意味がわかってきて、ゆっくりといった。
「わかりました。あの手紙はジャックに宛てたもので、父親に宛てたものではなかったのですね。あまり急いでいたので、間違って父親のオーバーを掴んでいったわけですね」
ポワロは、うなずいた。
「そのとおり! あとでまた、この点にもどりましょう。今のところ、あの手紙は、父親のルノール氏には何の関係もないものだとして、次のことに移りましょう」
「五月二十三日、息子が、ドーブリーユ夫人の娘、マルトと結婚したいといったために、ルノール氏は息子と口論する。息子のジャックはパリへ出かける……とありますね。ここではあまり論ずることはないようです。次の日の遺言状を書き直したところのほうが、はっきりしています。これはこの口論の直接の結果ですからね」と、私は読みあげた。
「私も賛成ですよ、君……少なくも原因についてはね。しかしルノール氏がこういうことをした蔭に、どんな的確な動機があるか?……です」
私は驚いて、眼をみはった。
「もちろん、息子に対する怒りですよ」
「しかし、パリへいった息子に、愛情のこもった手紙を書き送ったでしょう?」
「と、ジャックはいっていますが、その手紙を提出できないではありませんか」
「では、次へいきましょう」
「さて、いよいよ悲劇の日となります。あなたは、朝の出来事を、ある順序で並べましたね。あれには何か正当な理由がおありなのですか」
「私宛の手紙と、ジャック宛の電報とが、同時に出ていることを確かめました。その少し後で、運転手のマスターズに、休暇をとってもよろしいと申し渡したのです。私の意見では、これらの出来事の前に、浮浪者との口論があったのです」
「もう一度、マルト嬢に確かめてみないと、その点をはっきりさせられないんでは、ありませんか」
「いや、その必要はありません。確実です。もし君にそれがわからないとしたら、君は何もわからない人ですよ、ヘイスティングス君」
私はしばらく、ポワロを見つめていた。
「もちろんですね! 僕は間抜けでした。もし浮浪者がコンノーなら、ルノール氏が危険を感じたのは、彼と大口論をした後にきまっていますね。運転手のマスターズが、金を握らされて、コンノーに味方していると疑ったために、彼を追い払ったんです。それから、息子に電報を打ち、あなたに招致状を出したのです」
微かな薄笑いが、ポワロの唇に浮かんだ。
「君は、あの手紙の中に、ルノール夫人があとでした陳述に用いたと同じ表現があったのを妙に思いませんでしたか? もし、サンチャゴのことが書いてあったのは、人目をくらます目的だったとしましたら、なぜ、ルノール氏がサンチャゴのことを話したり、その上、息子をそこへ行かせることにしたのでしょうか」
「それは、訳のわからないことだと、僕も思います。後で何か説明を見つけるとして、さあ、今度はあの晩のことに移りましょう。まず、謎の婦人の訪問です。フランソワーズがいい張っているように、あれが、ドーブリーユ夫人でないとしたらかなりわかりにくいことだと思いますね」
ポワロは首をふった。
「君、君、君の知能はどこへ迷いこんでいるのですか。小切手の切れ端のことを思い出してください。それからベラ・デュビーンという名は、秘書のストーナーが、微かながら覚えていたということも思い出してください。それで、仮に、ベラ・デュビーンというのは、ジャック宛の宛名のない手紙の差出し人の名で、あの晩、ジュヌビエーブ荘を訪問した婦人客だとしてみましょう。その婦人が、ジャックに会おうと企てたのか、あるいは父親に訴えようとしたのかは、確かめることはできませんが、それにしても、こういうことが起こったろうと推理することはできると思います。その婦人は、ジャックに対する自分の立場を主張し、たぶん、ジャックが彼女に書き送った手紙を見せたでしょう。父親のほうは、小切手を書いて、買収しようとしたのでしょう。すると婦人は怒って、それを破いてしまった。あの手紙の言葉使いはほんとうに恋をしている女性のものですよ。それで、金銭などを提供されたのを、ひどく立腹したのでしょう。ルノール氏は、やっとその婦人に帰ってもらったのです。それであの意味深長な言葉を用いたのです」
「そうです、そうです。だが、お願いですから、今は帰ってください」と私は、繰り返してみた。そして、
「僕には少し激しく思えるだけのことですね」といった。
「それで十分ですよ。どうしても婦人に早く帰ってもらいたかったのです。なぜですか? その会見が不愉快であったばかりではなかったのです。いや、時間が過ぎていくのが気になったのです。何かの理由で、時が貴重だったのです」
「どうしてまた、そうなんでしょう」と私は当惑して尋ねた。
「そこがすなわち、私どもが自問してみるところなのです。それはなぜでしょう? ところで、後になって、腕時計のことがあります。それがまた、この犯罪では、時というものが重大な役割を演じていることを示しております。さて私どもは、現実の悲劇に、どんどん近づいてきます。ベラ・デュビーンが去ったのは十時半でした。腕時計は、この犯罪が十二時前に行われたことを私どもに証言しています。とにかく、この犯罪は、そういう風に企画されていたのです。私は犯罪が実際に行われる前の、すべての出来事を検討してみましたね。今は、ただ一つだけ片付けることのできない問題が残っています。医師の証言によって、浮浪人は発見されるよりも、少なくも四十八時間前に、すでに死体となっていたのです。そこに二十四時間の開きがあります。私どもが今まで論じあってきた事実以外に、私の考えを助けるものが何もないとして、私は、浮浪人は、六月七日の朝死んだものとみます」
私は呆気にとられて、彼を見つめた。
「しかし、どうして? なぜ、どうしてそんなことがわかるんですか」
「なぜなら、そう考えることだけによって、事実の順序が、論理的に説明できるからです。君、私は今まで、一歩、一歩、君をずっと、引っぱってきてあげましたよ。こんなにまで明白なことが、まだわからないのですか」
「ポワロさん、僕には、何も明白なものなんか、認められませんよ。僕は最初は確かに、道筋がはっきりわかったように思ったんですが、今はもう、そんな希望もないほど、ぼんやりしてきました。お願いですから、どんどん話を進めて、誰がルノール氏を殺したかを聞かせてください」
「それがまだ、私にもはっきりしないのです」
「でもあなたは、こんなに明白に判っていると、おっしゃったじゃないですか」
「私どもの話が喰い違っているのですよ、君。私どもの調査しているのは、|二つ《ヽヽ》の犯罪だということを記憶していてください。……二つの犯罪には、二つの死体が必要なのです。まあ、まあ、もう少しお待ちなさい。みんな説明してあげます。まず第一に、私どもは、心理学を応用しましょう。ルノール氏が、はっきりと意見と行動の変化を示した三つの点があります。すなわち、三つの心理的要素です。第一は、メルランビーユ到着直後に起こりました。第二は、ある問題について息子と口論をした後に起こったもの。第三は、六月七日の朝起こったものです。それではその三つの場合の原因を考えましょう。第一の場合は、ドーブリーユ夫人に会ったためと考えることができます。第二は、ルノール氏の息子と、ドーブリーユ夫人の娘との、結婚問題に関するものです。ですから、これも間接に、ドーブリーユ夫人にかかわりがあります。しかし、第三の原因は、私どもにはまだはっきりわかっていません。それで私どもは、推理していかなければなりません。さて、君に質問させてください。この犯罪は、誰が計画したものだと思いますか」
「コンノー……」私は、用心深くポワロを見つめながら、あいまいにいった。
「そのとおり。さてジローは、女が自分を救うために、愛している男を救うために、また、子供を救うために嘘をつくものだといいましたね。私どもはコンノーが、ルノール夫人に嘘をつかせたということに満足したのです。そして、コンノーは、ジャックではないのですから、子供のための嘘というのは除外されますね。そして私どもは、コンノーに罪を帰している以上、自分のための嘘というのも、除外されるわけですね。そこで愛している男を救うための嘘というのが、この場合、ルノール夫人にあてはまります。言葉を変えれば、ルノール夫人は、コンノーのために嘘をついた。君はそれに賛成しますか」
「そうですね。それは論理的ですね」と、私は承諾した。
「よろしい。ルノール夫人は、コンノーを愛している。ではコンノーとは何者ですか」
「浮浪人です」
「では、ルノール夫人が、浮浪人を愛していたという、証拠があるのですか」
「いいえ。しかし……」
「よろしい。事実が支持していないような推理に執着しているのは、およしなさい。ルノール夫人が、誰を愛していたか、自分でよく考えてみるのですね」
私は当惑して、首をふった。
「君、君はよくわかっているのですよ。死体を見た時に、気を失うほど夫人が愛していたのは、誰ですか」
私は、ものもいえないで、眼を見はっていた。そして喘ぐようにいった。
「夫のことですか」
ポワロは、うなずいた。
「彼女の夫、ルノール氏、あるいはコンノー、どちらでもいいようにお呼びなさい」
私は、再び勇気を取りもどした。
「しかし、それはあまりにあり得ないことですよ」
「どうしてあり得ないことなのですか。たった今、君は、ドーブリーユ夫人が、コンノーを|ゆする《ヽヽヽ》位置にあることに同意したではありませんか」
「そうです。しかし……」
「そうして、ドーブリーユ夫人はたしかに、効果的に、ルノール氏、つまりコンノーをゆすったではありませんか」
「それは真実でしょうか、しかし……」
「そして、ルノール氏の、青年時代とか、育ちとかいうのは、私どもには全然わかっていないではありませんか! きっちり二十二年前に、突然フランス系カナダ人として存在するようになったではありませんか」
「それはみんな、そのとおりです。しかし僕には、ポワロさんが、一つだけ重要な点を見落していられるように思われるんです」
「それは何ですか、君?」
「僕らは、コンノーが、この犯罪を計画したということを承認したのですが、そうすると、彼が、|自分の殺人を計画した《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》ことになりますよ」
「よろしい、君。そのとおりのことを、彼は、したのです」と、ポワロはすましていうのであった。
ベラの顔……シンデレラの顔……
しっかりした調子で、ポワロは説明を始めた。
「君にはおかしく思われるかも知れませんがね。君、自分の死を計画するなどとは、あまり不可思議なので、君はその事実を想像だとしてしりぞけ、十倍も、もっと実際にありそうもないような話に変えてしまおうとしました。ところが、ルノール氏は、自分の死を計画したのです。しかし、一つ、小さな点が、君にはわからなかったのでしょう。つまり、ルノール氏は死のうとは計画しなかったのです」
私は、当惑して、首をふった。
「しかし、それはまったく簡単なことなのです。なぜなら、ルノール氏の計画には、殺人は必要がなかったのです。しかし、死体は必要だったのです。それでは、異なった角度からこの事件を見て、考えを組み立て直しましょう。
コンノーは法律から逃れて、カナダへ高飛びし、そこで変名して結婚します。そしてついに、南米で巨万の富を築きます。そのうちに望郷の念にかられてきました。二十年の歳月が過ぎ、容貌もかなり変り、今では名士になっているので、誰も、何年もの昔、法律の手をのがれたお尋ね者と、彼とを、結びつけて考える者はありません。そこで、もう帰国しても安全だと思うようになります。彼は、本拠を英国に置きましたが、フランスで夏を過ごそうと計画します。ところが不運……言いかえれば、人間の生涯を形づくり、その行動の結果から逃れることをゆるさない、目に見えぬ正義が、彼を、このメルランビーユへ連れてきたのです。フランスも広いのに、そこには彼を認識することのできる唯一の人がいたのです。申すまでもなく、ドーブリーユ夫人にとっては、金鉱を発見したようなもので、それを利用することは決して遠慮しません。彼は、彼女の力にあってはまったく無力なのです。それで彼女は、彼にひどい出血をさせました。
そのうちに、避けがたいことが起こりました。息子のジャックが、ほとんど毎日のように顔を合わせているあの美しい娘と恋におちたのです。そして結婚を望むようになりました。それが父親を怒らせました。どんなことがあろうとも、この悪女の娘との結婚は、させたくなかったのです。ジャックは父の過去は何も知らないのです。しかしルノール夫人はすべてを知っていたのです。夫人は非常に強い性格の持ち主です。そして自分の夫を熱愛しています。二人は相談をします。ルノールはただ一つの逃れ道を発見します。それは『死』です。そして実際は他国へ逃れ、そこでまた変名して、新しく出発しなおそう。そして、ルノール夫人は、しばらく未亡人の役を演じてから、一緒になることができよう。そうするには、夫人が全財産を自由にできなければなりません。そこで彼は遺言状を書きかえます。どういう風に死体のことを処理しようと考えていたかは、知りませんが、ことによると、美術学生が写生に使う骸骨とか火災とか、何かそんなことでも考えていたかも知れません。ところが、この計画が熟す前に、手ごろな事件がころげ込んだのです。狂暴で、口ぎたない、無作法な浮浪者が、庭園へまぎれ込んできたのです。格闘が起こり、ルノール氏は彼を追い出そうとすると、急にその浮浪者が癲癇の発作を起こして倒れ、そのまま死んでしまいました。それは物置小屋のすぐ外で起こったのです。ルノール氏は細君を呼んで、二人で物置小屋の中へその死体を引きずり込みます……そして自分たちに与えられた、すばらしい好機を認識します。男はルノール氏に少しも似ておりませんが、中年ではありますし、普通のフランス人タイプです。それで充分なのです。私が想像するのに、二人はあそこのベンチに腰かけて、家の人に聞えないところで相談をしたのだと思います。その計画はすぐにできあがりました。死体の鑑定は、ルノール夫人の証言だけにしなければならないのです。それには、息子のジャックと、二年間ルノール氏の運転手をしていた男を遠ざけなければなりません。フランス人の女中たちが、死体に近づくようなことはありそうもないのです。とにかく、どんな時にも詳細を見のがしそうもない人々を欺く手段をとっておこうと計画しました。それで運転手には休暇を与え、ジャックには電報が打たれたのです。ルノール氏が予定しておいた話の証拠になるように、行く先をブエノスアイレスとしたのです。私があまりぱっとしない老探偵と聞いて、私が到着した時に、その手紙を提出することが、判事に深い効果を与えることを意識して、私に助けを求める手紙を書いたのです……もちろん確かに狙った効果はありましたよ。
二人は、浮浪者の死体に、ルノール氏の服を着せて、脱がしたぼろ服を家の中へ持ち込む気になれなかったので、物置小屋の戸の傍に置きました。それからルノール夫人の陳述に証拠を与えるために、飛行機の針金で作った短刀を心臓につきさしたのです。その夜、ルノール氏は、最初に妻の手足を縛り、猿ぐつわをかませ、それからスコップを持ってバンカーを作る予定地に、墓を掘ることにしました。死体が発見されるということが大切だったのです。ドーブリーユ夫人に疑念を起こさせてはならないのです。また、同時に、少し時が経てば、人物鑑定のほうの危険がよほどうすらぎますでしょう。そのうちに、ルノール氏は浮浪者のぼろを着て、足をひきずって駅へいって、十二時十分の汽車で人目に立たずに出発してしまい、犯罪がそれより二時間後に起こったものと思われるようにしてありますから、その浮浪者には嫌疑がかかるおそれはありません。
こういう時に、このベラという婦人の折悪しき訪問は実に迷惑だったのです。しかしまあ、できるだけ早く、追い帰すことができました。
それから、いよいよ仕事にかかる! 殺人犯人たちが、そこから出ていったように印象付けるために、玄関の戸を少し開け放しておきます。ルノール夫人を縛って猿ぐつわをかませる。二十二年むかし、彼の共犯者の縄目がゆるかったために疑われたことを思い合わせて、その誤りを繰り返さないように注意しました。しかし、以前に創作したと同じ話を夫人に教え込んでおきました。これは無意識に原作へ立ち戻る心理を反影したものです。うすら寒い晩だったので、彼は下着の上にオーバーを着ました。死人と一緒にそのオーバーも葬ってしまうつもりだったのです。彼は窓から出て花壇の足跡を消していたために、かえって自分に対して、最も確実な証拠を残してしまったのでした。それから彼は寂しいゴルフ場へ出ていきました。墓穴を掘ります……すると……」
「え?」
「すると、彼が長い間のがれていた正義が彼に追いついたのです……そして、知られざる手が、彼の背を刺したのです……さあ、ヘイスティングス君、これで私が二つの犯罪といった意味が、わかったでしょう。ルノール氏が図々しくも、私どもに調査を依頼した最初の犯罪は、それで解決しました。けれども、その背後に、もっと深い謎が横たわっています。その謎を解くのは、なかなか困難でしょう。なぜなら、犯人は智慧があって、ルノール氏が用意しておいた奸計をそのまま利用して満足しているからです。それは解決するのに、特に混乱させるような、理解のできにくいものなのです」と、ポワロは厳かにいった。
「ポワロさん、あなたは素晴らしいですね! まったく素晴らしいです。あなたでなくては、世界中の誰にも解決はできないでしょう」と私は、感服しきっていった。
私の賞讃は、彼をよろこばせたようであった。彼は初めて当惑したような様子を見せた。
ポワロは、謙遜している風を装おうとしていたが、不成功であった。
「あの気の毒なジローは決して、全部が阿呆だという訳ではないのです。一二度は、悪運というものにつかれたのです。たとえばあの短刀の柄に巻きついていた黒い髪の毛。あれは、たしかに間違った方向へ導きますよ」
「ほんとうのことをいうと、ポワロさん、僕は今でも、まだわからないのです……あれは一体、誰の毛でしたか」と私は、ゆっくりいった。
「もちろん、ルノール夫人のです。それが悪運の入ってくるところですよ。夫人の髪は本来は黒いのが、ほとんど白くなっています。だから白髪であるほうがあたり前なのですが……それでジローはよく考えてみる努力もしないで、ジャックの頭からぬけたものと思い込んでしまったのです。しかし皆、同じことです。いつだって推理にあわせるために、事実をまげてしまうのですからね!
疑いもなく、ルノール夫人は回復すれば話すでしょう。自分の息子が殺人罪に問われるなどということは、全然考えてもみなかったことです。息子は安全に、アンゾラ号に乗って、航海していると信じていたのですから、そんなことを考えるはずもないのです。ああ、ヘイスティングス君、あの夫人は何という力、何という自制力をもっているのでしょう! 彼女はたった一つだけ、口を滑らしました。息子が帰ってきた時に、『でも、今はもう、どうでもいいわ』と、申しました。この言葉には、誰も気づきませんでした。誰も、この言葉の意味深長なことを認識しなかったのです。気の毒に、どんなに恐ろしい役を演じなければならなかったでしょう。あの死体を確証しにいって、彼女の予期していた浮浪人の代わりに、今はもう何里も遠くへ落ちのびていると信じていた夫の、生命のない姿を現実に見た時のショックを、想像してごらんなさい。気を失ったのも、無理はないことです! しかしそれ以来、悲しみと絶望にもかかわらず、どんなに決然と、自分の役割を演じ通したことでしょう。また、その苦しみはどんなであったことでしょう。彼女は、真実の犯人を私どもに追跡させるようなことは、一言もいうことができないのです。息子のためにポール・ルノールが、お尋ね者のコンノーであることは、誰にも知らせてはならないのです。最後の最も大きな打撃は、ドーブリーユ夫人が夫の情婦であるということを、公然と承認しなければならなかったことです。なぜなら、ゆすりのことがちょっとでも出れば、自分の秘密にとって致命的になるからです。彼女が夫の過去の生活に、何か秘密はないかと判事に尋ねられた時に『そんなロマンチックなことはありません』と答えたのは、何と賢明な応対をしたものでしょう。少し、悲しい自嘲の調子をこめて。完全なものでしたよ。たちまち、判事自身がばかげていて、芝居がかっているのを自覚させられたようでしたね。そうです。たしかにあれは偉大な夫人です! たとえ、罪人を愛したとしても、忠実に愛していたのです!」
ポワロは、深く考え込んでしまった。
「ポワロさん、もう一つ、あの鉛管の切れ端のことは、どうなんですか」
「わかりませんか? 犠牲者の顔が認識できないように、容貌を変えてしまうために使うつもりだったのです。あれが初めて、私を正しい方向へ導いてくれたのです。あの大ばかのジローは、マッチの棒みたいなものを探すために、あの上を踏みちらしていたのです! 五十センチの長さのものだって、五センチの長さの手がかりと同じぐらい役に立つものだと君に話したでしょう。さて、ヘイスティングス君、私どもは再出発しなければなりません。一体、誰がルノール氏を殺害したか? それは、誰かその夜、ちょうど十二時前に別荘の近くにいた人、誰か彼の死によって利益を得る人……それはあまりにもジャック・ルノールにあてはまるのです。この犯罪はあらかじめ考えておく必要はなかったのです。それからあの短刀!」
私はその点を考えていなかったので、驚いた。
「もちろん、ルノール夫人の短刀は、浮浪人に刺さっていた二本目のですね。すると短刀は二本あったわけですね」
「そのとおりです。同一のものが二本あったのですから、それはジャックが持っていたといえますね。しかし、このことはあまり私を迷わせません。事実、私はそれについて、ちょっとした思いつきがあるのです。いや、そんなのよりも、もっと悪い、彼に対する反証はまたしても精神的……遺伝です。君、遺伝ですよ! 父が父なら子も子。ジャックは、一切が明らかになれば、結局はコンノーの息子ですからね」
ポワロの調子が真剣で、熱心だったので、私も思わず、強い印象を受けてしまった。
「今、あなたのいわれた、ちょっとした思いつきというのは何ですか」と私は尋ねた。答えの代わりに、ポワロは大型の銀時計を出して見て、それから尋ねた。
「カレーからの午後の船は、何時に出帆しますか」
「五時ごろだと思います」
「それは工合がよろしい。ちょうど間にあいます」
「英国へいらっしゃるんですか」
「そうですよ、君」
「なぜですか」
「証人になりそうな人を探しに参ります」
「誰ですか」
「ベラ・デュビーン嬢です」とポワロは、薄笑いを浮かべた。
「しかし、どうやって見つけるのです……その人について、何を知っていらっしゃるんです?」
「何も知らないのです……だが、いろいろと推量することはできます。仮にその名が、ベラ・デュビーンとしておけばいいのです。その名がかすかにストーナー君の記憶にあるのですから、ルノール家とは明らかに関係がないとしても、劇場関係の人かも知れません。ジャックは金持ちの青年なのですから、そして、まだ二十歳なのですから、初恋が舞台の上で芽生えたと考えられるのです。また、ルノール氏が小切手でなだめようとしたことにも符合しています。私は彼女を発見できると思います……特に|これ《ヽヽ》の助けによって」といって、ポワロは、ジャックのひきだしの中から探し出すのを私が見た、あの写真を取り出して見せた。
『愛をもって ベラより』と隅のほうに書きなぐってあった。私の眼が魅せられたのはそれではなかった。それは非常によくとれた画像とはいえなかったが、私にとっては間違いのないものであった。私は、いいつくせない災難が身に振りかかってきたような気がして、意気消沈してしまった。……それは、シンデレラの顔であった。
愛はすべてを
恋がやって来たのですね
一二分間、私は凍りついたように、その写真を手にしたままじっとしていた。それから、勇気を振るい起こして、少しも心を動かされなかったような顔をして、それをポワロに返した。ポワロは何か気がついたろうか? だが安心したことには、彼は私を見ていなかったようであった。私の変った態度も、たしかに気づかれずに済んだらしい。
ポワロは元気に立ち上った。
「時間がありません。大急ぎで出かけなければなりません。万事好都合……海も穏やかでしょう」
出発の忙しさに、私は考える暇もなかった。しかし乗船してしまって、ポワロの眼からのがれると、私は元気を回復して、感情に走らずに事実と取り組んだ。ポワロはどの程度まで知っているのであろう? なぜに彼女を探し出そうとしているのであろう? 彼女がジャックの犯行を目撃していたと疑っているのであろうか? それとも嫌疑をかけて……? そんなことはあり得ない……彼女は父親ルノールに対して何の恨みがあるわけでなし、彼の死を望む訳はない。だが一体何が彼女を犯罪の現場へ来させたのであろうか? 私は注意深く事実を検討してみた。あの日、カレーで私と別れた時、汽車をおりたに違いない。それだから船で探しても見つからなかったのだ。彼女がカレーで食事をして、メルランビーユまで汽車に乗ったのなら、ちょうどフランソワーズの証言した時刻にジュヌビエーブ荘に着いたであろう。では十時ごろルノール家を出てから、何をしたであろう? たぶんホテルへ行ったかカレーに帰ったかしたろう。そして、それから? 火曜日の夜、犯罪が行われたのだ。木曜日の朝、彼女は再びメルランビーユにいた。その間にフランスを去ったのだろうか? 私は怪しいものだと思った。一体何が彼女をフランスに引きつけていたのであろう?……ジャックに会うつもりだったのだ。私は、その時はジャックが遙かな海上をブエノスアイレスに向って航海していると信じていたので、彼女にそう語った。もしかすると彼女は、アンゾラ号が出帆しなかったのを知っていたのかも知れない。だが、それを知っていたとすれば、ジャックに会ったはずだ。それでポワロが彼女を探しているのかしら? ジャックがマルト嬢に会いにいった帰りに、自分が残酷にも棄てたベラ・デュビーン嬢に、ばったり会ってしまったのだろうか?
私はわかってきたような気がした。もし彼女がジャックに会ったのなら、彼に必要なアリバイを提供することができるかも知れないのだ。しかしそういう事情なのなら、彼がそのことを黙っているのは、説明がつかないように思われる。なぜ、彼は大胆に陳述できないのか? ベラ嬢との愛情のもつれが、マルト嬢の耳に入るのをおそれたのであろうか? 私はその考えには不満で首をふった。そんなことは、たわいない少年少女の恋愛沙汰に過ぎないではないか! 億万長者の息子が、そんなことぐらいで、一文なしのフランス娘にそむかれるなんていうことはあり得ないと思った。しかもその娘は別に他意があるわけでなく、ただ彼を情熱的に愛しているのに!
ドーバーに着くと、ポワロは元気よく微笑しながら船室から出てきた。ロンドンまでの旅は、何事もなかった。我々がロンドンに着いたのは九時過ぎであった。私はそこから真っすぐに下宿へ帰って、それぞれの寝室でくつろぐのかと思っていた。ところがポワロには、ほかの計画があった。
「時間を空費してはいられませんよ、君。ジャック・ルノールが逮捕されたニュースは、英国の新聞には、明後日までは出ないでしょうが、それにしても時を失ってはならないのです」
私には、彼のいう理屈にはついていけなかったが、どうやってその娘を探すつもりかを聞いてみた。
「アーロンズという劇場関係の周旋業をしている男を覚えていますか。知らない? 以前日本の力士のちょっとした事件で、私が助力してやったことがあるのです。なかなか面白い事件でしたよ。いつか話してあげますがね。そのアーロンズが、きっと私どもの求むる人を探し出す方法を教えてくれると思うのです」
アーロンズ氏をつかまえるのに、しばらく時間がかかって、ようやく夜中過ぎに会うことができた。アーロンズ氏は、喜んでポワロを迎え、どんなことでもお役に立てばうれしいというのであった。
「芸能関係のことでしたら、私の知らんことは、あまりございませんでしょうな」とアーロンズは、にこにこしながらいった。
「実はね、アーロンズさん、ベラ・デュビーンという若い娘さんを探したいのですよ」
「ベラ・デュビーン……名は知っておるんですが、専門は何でしたっけ。今ちょっと思い出せんですが」
「それは知らないのですが、写真を持ってまいりました」
アーロンズ氏はそれを受け取って見ていたが、顔を輝かして、膝を叩いた。
「わかったです! ドルシベラのちびっ子連ですよ!」
「ドルシベラのちびっ子連ですって?」
「そうでござんすよ。そのちびっ子てえのは姉妹《きょうだい》なんでしてね。軽業師で、踊り子で、歌手なんでござんすよ。なかなか達者なものでしてな。パリで二三週間興行していたんですが、もし休養でもしているんでなかったら、どこか地方へ巡業していると思うんでござんす」
「今どこにいるか、探していただけませんでしょうか」
「おやすいことでござんす。家へお帰りなすってお待ちください。朝になったらお知らせ申しますよ」
こう約束をしてもらって、我々は別れを告げた。彼はその言葉をよく守ってくれた。翌日の十一時ごろに、走り書きの手紙が我々のもとに届けられた。
――ドルシベラのちびっ子連は、コベントリーのパレス座に出演しております、ご幸運をお祈り申しあげます。
我々はただちにコべントリーへ出かけていった。ポワロは劇場へいっても、別に何も尋ねようとはしないで、切符売場で、その夜のバラエティの平土間一等席の切符を二枚買っただけで、満足していた。
そのショーは、たまらなく退屈なものであった。……あるいは私の気分のせいだったかも知れない。日本人の一座が、あぶなっかしいバランスの演技を見せた。緑色の夜会服を着て、髪をてかてかに撫でつけた自称社交界の男たちが、社交人らしいしゃれをとばし、ごたいそうに踊って見せ、肥満したプリマドンナが、のどをふり絞って歌い、滑稽な喜劇役者がジョージ・ロビー氏の真似をして大失敗した。
こうして番組が進んで、ついに、ドルシベラのちびっ子連の出番になった。私の心臓は激しく打ちはじめた。そこへ二人が出てきた。一人は亜麻《あま》色の髪、一人は黒い髪で、背の高さも同じくらい、短い、ふわふわしたスカートをはき、大きな蝶むすびのリボンをつけて現われた。二人は非常にぴちぴちした子供のように見えた。二人は歌い始めた。その声は新鮮で正調で、少し巾のない芸人風なところがあったが、人を魅するようなものであった。
それはまったく、気のきいた演技だった。二人はきれいに踊って、いくつか、ちょっとした軽業みたいなこともやってみせた。二人の歌った歌詞はてきぱきして人気に投ずるようなものであった。カーテンがおりた時は大かっさいだった。たしかにドルシベラのちびっ子連は、大成功であった。
急に私は、それ以上そこにじっとしていられない気持ちになった。どうしても外の空気にあたらなくてはならなくなり、ポワロに出ようといってみた。
「どうぞご自由においでなさい。私は面白いから終りまで見ますよ。あとで一緒になりましょう」
劇場からホテルまで、ほんの数歩であった。私は居間に戻って、ウィスキーソーダを注文し、椅子にもたれてそれを飲みながら、火の気のない暖炉を見つめていた。するとドアが開いたので、ポワロかと思って首をめぐらした。そして跳び上った。戸口に立っているのは、シンデレラであった。彼女は息をはずませて、きれぎれにいった。
「前の席にいらっしゃるのを見たんです、あなたとお友達を。あなたが席を立ってお帰りになるのを、出口のわきに待っていて、ついて来たんです。どうしてここへいらっしゃったの……このコべントリーなんかに! 今晩ここで何をしておいでになるんですの? あの一緒にいらした方、探偵さんでしょう?」
彼女はそこに立っていた。舞台着の上に羽織っていたオーバーが、肩からすべり落ちていた。私は彼女の顔が、頬紅の下で青ざめているのに気がついた。そしてその声の中に恐怖を聞いたのであった。その瞬間、私にはすべてのことがわかった……ポワロがなぜ彼女を探していたか、彼女が何を恐れていたか、そしてついに、自分自身の心の中までも、わかったのであった……
「そうです」と私はやさしくいった。
「あの方、私を探していらっしゃるんでしょう?」
彼女は半ば、ささやくようにいった。
私がすぐには答えなかったので、彼女は大きい椅子のそばに、崩れるように膝をついて、激しく泣き出したのであった。
私はそのわきにひざまずいて、小さな手を握り、顔に乱れかかる髪をなであげた。
「泣かないでください! どうぞ泣かないでください。大丈夫ですよ。僕がついていますよ。泣かないで、ね、泣かないでください。僕は知っていますよ。みんな知っていますよ」
「ああ、あなたは何もごぞんじないわ」
「知っていると思いますよ」
そして、しばらくして、すすり泣きが少しおさまるのを待って、尋ねた。
「あの短刀をとっていったのは、あなただったんですね。そうでしょう?」
「そうですわ」
「そのために、あなたは、僕にほうぼう見せて歩かせたんですね。そして、わざと気を失った真似をしたんでしょう?」
再び彼女はうなずいた。少し間をおいて、私は、
「なぜあの短刀をとったの?」と尋ねた。
「あれに指紋がついているかも知れないと思って」と彼女は、子供のように単純に答えた。
「でも、あなたは手袋をはめていたことを、覚えていなかったんですか」
彼女は当惑したように首をふって、静かにいった。
「私を警察の人に……渡しておしまいになるの?」
「とんでもない、決して!」
彼女の眼は、私の眼をじいっと、熱心に見つめていた。それから、自分で自分の声を聞くのが怖いように、低い、静かな声でいうのであった。
「どうしてですの?」
場所といい、時といい、愛の告白をするには、実に奇妙なものであった……第一、私はどんなに想像をたくましくした場合でも、恋愛が、こんな風にやって来ようとは、かつて心に描いたこともなかった。しかし私は、至って単純に、ごく自然に、こう答えたのであった。
「あなたを愛しているからです、シンデレラさん」
彼女は恥ずかしそうに首をたれていたが、きれぎれにいった。
「そんなこと……あり得ませんわ……どうしたって……もしも、あなたがお知りになったら……」
それから、勇気を出すように、私の顔を真正面に見て尋ねた。
「それなら、どのくらいごぞんじなの?」
「あなたがあの夜、ルノールさんに会いにいらしたのを知っています。あの人があなたに小切手を提供したので、あなたは怒ってそれを破ってしまいましたね。それから、あなたは、あの家を出ていきました……そして……」
「もっとおっしゃって……その次は?」
「あなたが、あの夜、ジャック君が帰るのを知っていらしたのか、それとも、会えるかも知れないと思ったのかはわかりませんが、とにかく家の付近で待っていたのです。あるいはあなたは情けなくて、あてもなく歩いていたのかも知れません……とにかく十二時ごろに、あなたはまだあの辺にいました。そして、一人の男がゴルフ場にいるのを見て……」
私はまた、やめた。彼女が部屋へ入ってきた時に、真相が私の心にひらめいたのであったが、今は、前よりもさらにはっきりと、その光景が私の眼前に浮かぶのであった。ルノール氏の死体が着ていたオーバーの織柄まではっきりと見えてきた。それから息子が我々のいる客間へ不意に飛び込んできた時、一瞬、死人が生き返ってきたのではないかと思ったほど、よく似た姿を思い出した。
「もっと先をおっしゃって」と、彼女はしっかりした調子でいった。
「たぶんその人は、あなたのほうに背を向けていたのでしょう……しかし、あなたには、それが彼だとわかったのです。または、彼だとわかったと思ったのでしょう。その動作は、あなたに親しみ深いものだったのです。オーバーにも見覚えがあったのです」
私は、ちょっと休んでから、
「ジャック君に宛てた、あなたの手紙には、脅迫の文句が使ってありました。彼の姿を見た時に、怒りと嫉妬が、あなたを気狂いにしたのです……そして、あなたはやったのです! 僕は、あなたが一瞬だって彼を殺そうと思っていたのでなかったことを信じています。しかしあなたは、彼を殺してしまったのです」
彼女はいきなり両手で顔を覆って、むせぶような声でいった。
「そうですわ……そのとおりですわ……あなたのいいなさるとおりだっていうことがわかりますわ」
それから、荒々しいと思われるような動作で、私のほうへ向いて、
「それだのに、あなた、私を愛してくださいますの? そんなこと知っていらっしゃるのに、どうして私を愛してくだされるんですの?」
「僕にもわからないんです。愛というものは、そういうものではないでしょうか……どうすることもできないものです。……僕は初めてあなたに会った日から、自分の気持ちをおさえようとしたんです。ですが、愛情が僕にとってあまりに強かったのです」と私は、少しものうい調子でいった。
すると急に、私が少しも予期しない時に、彼女は再びくずおれて、床に身を投げて、激しくすすり泣くのであった。
「おお、私できませんわ! 私どっちへ向いていいかわかりませんわ。どなたか私に教えて! 私をあわれんで、あわれんで!」と叫んだ。
私は再びそのそばにひざまずいて、できるだけ、なだめようとした。
「僕を怖がらないで、ベラさん。どうぞ僕を怖がらないで! 僕はあなたを愛しています。それは真実ですよ……しかし僕は、報いを得ようとしているのではありません。ただ僕に、助けさせてください。もしあなたが、ジャック君をまだ愛しているのなら、そのままでいいんです。あの人があなたを助けることができないのですから、僕にあなたを助けさせてください」
私の言葉で、彼女は石になったようであった。彼女は手から顔をあげて、私の顔を見つめた。
「あなたはそう思っていらっしゃるの? 私がジャックを愛しているのだと思っていらっしゃるの?」と、彼女はささやいた。
それから半ば笑いながら、半ば泣きながら、私の首へ情熱的に腕をまきつけて、濡れた可愛い顔を、私の顔におしつけた。
「あなたを愛しているようにではないの! 決してあなたを愛しているようにではないの!」と彼女は、ささやくのであった。
彼女の唇は私の頬にあてられた。それから私の口をもとめて、幾度も幾度も、信じられないような熱烈さとやさしさをこめて、接吻をした。その荒々しさと、そのすばらしさは、生涯忘れることのできないものであった!
二人が顔をあげたのは、戸口に音がしたからであった。ポワロがそこに立って、私たちを見ていた。
私は躊躇しなかった。一跳びに彼のそばへいって、両手をしっかりとおさえてしまった。
「早く! 僕がこうしておさえている間に、できるだけ早くお逃げなさい!」と私は、シンデレラに向って叫んだ。
私のほうをちらと見て、彼女は、すばやく我々のそばをすりぬけて逃げていった。私は、鉄のような腕力で、しっかりとポワロをおさえつけていた。
ポワロは、おだやかに、つぶやいた。
「君は、こういうことはなかなか上手にやりますね。強い男におさえつけられたのでは、私は子供のようにどうにもなりませんよ。しかしこういうことは大そう気持ちが悪いし、それに少しばかげていますね。さあ、坐って落ちつきましょう」
「では、あの子を追いかけませんか」
「ジローじゃあるまいし、私は追いかけなどいたしませんよ。放してください」
私は、機敏さにおいては、ポワロにかなわないのを知っていたので、用心怠りなく彼を見つめながら、手をゆるめた。ポワロは、自分の腕をそっと撫でながら、安楽椅子に沈み込んだ。
「ヘイスティングス君は、奮起すると牡牛のような力を出しますね。だが、君はこれで旧友に対してよくやったと思うのですか。私があの写真を見せてあげた時に、あなたは誰だかわかったのに、私に一言も話しませんでしたね」
「僕にわかったことが、あなたに知れていたのにその必要はないじゃないですか!」と私は、やや激しい調子でいった。
さては、ポワロは、それをずっと知っていたのか! 私は一時も彼をごまかしていなかったのか!
「やれ、やれ。君は私が知っていたことを、知らなかったのですね! そして今晩、私どもがあんなに苦心して見つけたお嬢様を、君は逃がしてしまいましたね。よろしい、とうとう、こんなことをしでかしてしまいました……君は一体私に協力しているのですか。それとも私の邪魔をしているのですか、ヘイスティングス君」
しばらく私は答えなかった。旧友と仲たがいするのは非常に苦痛であったが、しかし私は、はっきりと、彼に反対しなければならなかった。彼は私をゆるしてくれるだろうか? 私にはあやぶまれた。今までのところ、ふしぎに穏やかに出ているが、彼は元来、非常に自制心の強い人なのだ。
「ポワロさん、ほんとうにすみません。僕はあなたに対して、ひどく悪いことをしました。しかし人間というものは、時に、自分の力では、どうにもならなくなることがあるものです。で、これから後は、僕は自分の道をすすまなければならないと思います」
ポワロは、何度もうなずいた。
「わかりました」と彼はいったが、その眼からは、からかうような光が失せていた。そして私を驚かすような誠実さと親切をもって、こういうのであった。
「君、あれですね。そうでしょう。恋がやってきたのですね……それが、君の空想していたように、美しい羽根を飾って、意気揚々として来たのではなくて、悲しくも、血の流れる足でやって来たのです。ですから、私が警告しておいたのですよ。あのお嬢様が、短刀をとったに違いないと思って、私は君に警告したのです。たぶん君も覚えているでしょう。しかし、今では、もう遅すぎます。どのくらい君が知っているか、話してごらんなさい」
私は、彼の眼をまともに見すえた。
「どんなことでも、あなたの話してくださることに、僕は驚きませんよ、ポワロさん。それを承知していらしてください。けれども、もしあなたが、デュビーン嬢を再び追跡されるつもりなら、どうぞこのことを、はっきり知っておいてください。もしあなたが、彼女が犯罪に関係があるとか、あの夜、ルノール氏を訪ねた謎の婦人だとかお考えになるんだったら、それは間違いです。僕はあの日、彼女とフランスから英国まで、ずっと一緒に旅行してきて、あの晩、ビクトリア駅で彼女と別れたのです。だから、あの人があの夜メルランビーユにいたということは、あり得ないことは明白です」
「ああ、それなら、あなたは、法廷でそれを誓うのでしょうね」といってポワロは、考え深く私の顔を見つめた。
「絶対に、誓います」
ポワロは、立ち上って、私に敬礼をした。
「愛情というものは、君、奇蹟を行なうことができるものです。君のその思いつきは、実に巧妙をきわめたものです。それには、エルキュール・ポワロさえも、負かされてしまいますよ」
ベラ嬢姉妹の失踪
私が前に述べたような、緊張の後には、反動がくるものである。その夜は、私は勝ち誇った気持ちで寝床へ入ったのであったが、翌朝、眼が覚めてみると、自分が決して迷路からぬけ出ていないことに気がついた。私が突然に思いついたアリバイに、少しも欠点がないのは確実だし、私がそれを固持してさえいれば、ベラ嬢が有罪になるようなことはないと自信をもっているのだ。
だが、私は用心深く行動する必要を感じていた。ポワロが、負かされっぱなしでいるはずはない。何とかして私を負かそうとするに違いない。しかも私がまったく予期していないような時に、予期していないような方法でやるにきまっている。
その朝、我々は食卓で、何事もなかったように顔を合わせた。ポワロのご機嫌はいつものようであったが、何か今まで全然なかったような、遠慮勝ちなところがあった。食後、私は散歩に出かけるつもりだといった。ポワロの眼に底意地の悪い光がひらめいた。
「君、情報をあつめるためだったら、わざわざ出かけることはありませんよ。私が、君の知りたいことを全部話してあげられます。ドルシベラ姉妹は、契約を取り消して、コべントリーを去って、行方不明の旅に出てしまいましたよ」
「ほんとうですか、ポワロさん!」
「ほんとうですとも、ヘイスティングス君。今朝、第一に調べてみたのです。だが、君、それ以外に何を予期していたというのですか」
まったくそのとおりだ。こうした事情のもとでは、それ以外に何が望めよう? シンデレラは、私の与えたちょっとしたきっかけを利用して、追跡者の手のとどかないところへのがれるために、一瞬も失わないのが当然である。それは私が願い計らったことなのだ。それにもかかわらず、私は新しい困難の網の中へ飛び込んでしまったのであった。
私は、彼女と連絡することが絶対にできなくなったのだ。私の立案した弁護の筋みちを、彼女に知らせておくことは非常に重要であるのに! もちろん彼女のほうから、何らかの方法で、私に伝言をよこすことは可能であるが、そんなことは望めないであろう。彼女は、ポワロに横取りされ、再び追跡される危険を心配するであろう。彼女の唯一の手段は、しばらくの間、まったく消え失せてしまっていることであろう。
だが、その間ポワロは、何をしていたのだろう? 私は注意深く彼を観察した。彼はいとも無邪気な様子をして冥想に耽っているように、遠くを見つめていた。彼があまり落ちついて、無気力なのが、かえって気味がわるかった。私は、彼が危険に見えない時が、一番危険だということを知っている。彼の無活動が、私を恐れさせた。私の視線に困惑の色を認めて、ポワロは寛大に微笑したのであった。
「君は、わけがわからないでいるんですね、ヘイスティングス君。なぜ、私が追跡しないかと、ふしぎに思っておいでなのでしょう」
「そうですね……まあそんなところです」
「君が、私の立場だったら、そうしたでしょうね。私にはよくわかります。しかし私は、あなた方英国人がいうように、乾草の中に落ちた針を探すために、あちこち駈けまわるのを好む人間ではございません。そうです、ベラ・デュビーン嬢を行かせておしまいなさい。時が来れば、どうせ探し出すことができるのです。その時が来るまで、私は待つことに満足しております」
私は疑い深く彼を見つめた、私を誤った方向へ導こうとしているのではないかと思って。私は、今でもまだ彼がこの事件の支配者であることを感じて、いらいらしていた。私の優越感が次第にうすれていくのであった。私は彼女の逃亡をもくろんだのであった。そして彼女を無分別な行動の結果から救い出すという輝かしい計画をたてたのだ……それにもかかわらず、私は心の中で安心していられなかった。ポワロの完全な平静さが、多くの不安をもたらしたのである。
「ポワロさん、僕はあなたの計画について伺うわけにいかないと思います。僕はその権利を失ってしまいました」と私は、やや遠慮しながらいった。
「いいえ、少しもかまいませんよ。別に秘密はありませんからね。私どもは、時を移さず、フランスへ帰ります」
「私どもですって?」
「そうですよ。まさしく『私ども』です。あなたはポワロ小父さんから目を放すわけにはいかないでしょう。え? そうではありませんか、君? しかしお望みなら英国に残っていてもよろしいですよ」
私は首をふった。彼にすっかり当てられてしまった。私はポワロを見えないところに放しておくことはできないのだ。こういうことが起こった後では、彼の信用を得ることは望めないが、それでも、彼の行動をつきとめることはできると思う。ベラ嬢の危険はポワロだけにかかっているのだ。フランス警察もジロー探偵も彼女の存在には気がついていない。私はどんなことをしても、ポワロのそばにいなければならないのだ。
こうした考えが、私の頭の中を往来している間中、ポワロは、注意深く私を見守っていたが、やがて満足したように、うなずいた。
「私の申したとおりです。そうでしょう? 君は付けひげをするとか何とか、妙な変装でもして、私について来ることもまったくあり得る人なのですから……もちろんそんな変装はすぐに見破られてしまうでしょうが……まあ一緒に旅行していただいたほうが、ずっとよろしい。君がほかの人にばかにされたりするのを見るのは、我慢なりませんからね」
「いいです、それなら。しかしあらかじめ、あなたに報告しておいたほうが……」
「わかっています……すっかりわかっています。君は私の敵だというのでしょう! それなら敵になっておいでなさい。私は少しも困りませんよ」
「公平で、公明正大でさえあれば、僕はかまわんです」
「君は正々堂々と戦うということにおいては、どこまでも英国式ですね! さあ、君の心配が解消したのですから、すぐに出発しましょう。時間を空費してはなりません。私どもの英国における滞在は短期間でしたが、これで十分です。私は知りたいと思ったことは、全部知りました」
軽い調子であったが、その言葉の中に秘められた威嚇を私は読みとった。
「それでも……」と、私はいいかけてやめた。
「それでも……おっしゃるとおり! たぶん君は、君の演じている役割に、満足しているにちがいありません。私のほうは前から、ジャック・ルノールのことを考えているのです」
ジャック・ルノール! その言葉は私を跳び上らせた。私のこの事件の、その方面のことは、すっかり忘れていた。ジャックが、刑務所につながれて、その頭上に断頭台の影がさしているのであった。私は、自分の演じている役割をもっと不吉な光で照らして見た。私はベラ嬢を救うことはできた……そうだ、しかし、そうすることによって、罪のない男を、死に追い込む危険を犯しているのだ。
私は空恐ろしくなって、その考えを払いのけようとした。そんなことにならせてはならないのだ! 彼は無罪になるだろう! 必ず無罪放免になる! そう思っても、やっぱり、冷酷な恐怖が私を襲ってくるのであった。もし彼が、無罪にならなかったら? その時、私は果して良心の呵責に堪えられるだろうか……恐ろしいことだ! ベラを救うべきか? ジャックを救うべきか? 決心しなければならない! 私の心の命ずるところは、どんな犠牲を払っても愛する乙女を救うことであった。しかし、その犠牲が、自分自身でなく、ほかの青年となると問題はちがってくる。
彼女自身はどう考えるであろう? 私の口からは、ジャックが逮捕されたことは洩らさなかった。今のところ彼女は、元の恋人が無実の罪で刑務所に入っているという事実は、全然知らないでいるのだ。それを知った時、彼女はどういう行動をとるであろうか? 彼の生命を犠牲にして自分の生命を救うことをゆるしておくだろうか? だが彼女が何も早まったことをするにはおよばない。彼女は割り込まなくても、ジャックは無罪になるかも知れない。そうなればしめたものである。だが、もし彼が無罪にならなかったら? それこそ恐ろしいことだ! これはどうも解決のできない問題だ。私は彼女のほうは、極刑に処せられる危険はないと考えた。犯罪の情況が彼女の場合はまったく違っている。彼女は嫉妬と極度の怒りのためという申し開きが立つ。それにあの若さと美しさが、相当の役を果すにちがいない。息子が罪のあがないをするはずであったのが、悲劇的な誤りによって、父親が殺されたのだという事実は、犯罪の動機を変えるわけにはいかない。どんなに判決が寛大であろうとも、かなり長期間の禁錮を申し渡されるにきまっている。
いや、ベラ嬢は保護してやらなければならない。それと同時に、ジャックも救われなければならない。どうしてこれを完成したらいいか、私には、はっきりわからない。けれども私はポワロに望みをかけていた。彼が|知って《ヽヽヽ》いる。どんなことになろうと、彼は、罪なき青年を、何とかして救うにちがいない。ポワロが、真実のこと以外に、何か口実を見出してくれるにちがいない。それは困難なことかも知れないが、ポワロなら、何とか手段を講じるであろう。そして、ベラ嬢も嫌疑をかけられずに、ジャックも無罪となって、すべてが満足にいくように結末がつくであろう。
私は、こんな風に、くりかえし、くりかえし、自分にいいきかせていたが、しかし心の底にはまだ、冷酷な恐怖が残っているのであった。
ポワロ、五百フランを賭ける
我々は、夜の船で英国を出帆して、次日《つぐひ》の朝、サントメールに着いた。そこには、ジャック・ルノールが収監されているのであった。ポワロは、時を移さず、オート判事を訪問した。別に私の同行を拒まなかったので、私もついていった。
種々の形式的な手続きをした後、我々は、予審判事の部屋へ案内された。判事は、丁重に我々を迎えた。
「ポワロさんは、英国に帰られたと聞いておりましたが、そうでなくて喜ばしいですよ」
「私が英国へいったのは事実ですが、それはほんのとんで行ってきただけでございますよ。ちょっとわきの問題なのですが、調査するだけの価値があると思われるので」
「で、それは価値がございましたですか」
ポワロは、肩をすくめて見せた。オート判事は溜息をして、うなずいた。
「どうやら私どもは諦めにゃならんようですな。あのけだもののジローという男の態度は、実にがまんならんですが、しかし頭はいいですなあ! あの男が間違うなどということは、まずありませんでしょう」
「そうお思いになりますか」
今度は、判事が肩をすくめる番であった。
「そりゃ、正直にいうと……もちろん私どもだけの間のことですが……そう思いますな。ポワロさんは、何か別の解決を得られましたか」
「正直に申しますと、いろいろな点で、まだはっきりしないことがあるように思われます」
「たとえば?」
しかしポワロは、これには引きこまれなかった。
「私はまだ、一覧表にはしてみませんが、私の申しますのは全般的な考えのことなのです。私はあの青年が好きでして、あの青年があのような罪悪を犯したと信じるのは残念な気がするのでございます。それはそうと、そのことについて、あの青年はどんな風に弁明しておりますでしょうか」
判事は、眉をひそめた。
「私には、あの青年がわからないのです。弁護の材料を何も提供することができないらしいのです。質問に答えさせるということが、容易な業でありません。ただ何でも否定するだけで満足している様子で、それ以外は、頑強に沈黙を守っているのです。明日再び尋問しようと思うのですが、いかがでしょう、立ち会っていただけませんか」
我々は、乗り気になって、その招待に応じた。
「実に悲惨な事件です。私は深くルノール夫人に同情しております」と、判事は溜息とともにいうのであった。
「それで、ルノール夫人は、いかがですか」
「まだ意識を回復されないのです。しかし、そのほうがかえって苦しみがなくて、あの気の毒な夫人にとって、慈悲でしょうな。医師は危険はないが、意識を回復した後は、できるだけ安静を保たせなければいけないといっておるのです。夫人を今のような状態に陥れたのは、倒れたことだけでなく、精神的なショックが大いにあずかっておりますからな。もし夫人の頭脳が、狂うようなことがありましたら、恐ろしいことです。しかしそんなことになったとしても、私は少しも驚きません……実際、それは無理もないことですからね」
オート判事は、椅子によりかかって、陰惨な未来を眼前に浮かべて、悲しみを十分に味わっているかのように、首をふっていた。
彼はやがて、我に返って、急にあわてた。
「ああ、それで思い出しました。ポワロさんのところへ手紙が参っておりましたのです。どこへ置いたっけな?」
判事は、自分の書類の中をかきまわし始めたが、やっと紛失物を探し出して、ポワロに渡した。
「あなたへ廻送するようにといって、こっそり頼まれたのですが、あなたが行先をいっておかれなかったので、そうするわけにいかなかったのでした」
ポワロは、その手紙をふしぎそうに注意して見ていた。それは斜めに長い、外国人らしい筆跡で、宛名が書いてあった。そしてたしかに女文字であった。ポワロは、開封しないで、そのままポケットにおさめて立ちあがった。
「それでは、明日またお目にかかりましょう。ご親切に、丁重にしていただきまして、ありがとうぞんじました」
「どういたしまして。いつでもお役に立たせていただきます」
我々が、その建物を出ようとした時、ジロー探偵にぱったり出会った。彼はいつもよりも、一層めかしこんで、すっかり自己満足にひたっている様子であった。
「やあ、ポワロさん、英国からお帰りですか」と、気どっていった。
「ごらんのとおり」と、ポワロがいった。
「この事件も終局に近づいたですなあ」
「ご同感です、ジローさん」
ポワロは低い調子でいった。その打ち沈んだ態度が、相手を喜ばしたようであった。
「気力のない罪人の中でも、あんなのは珍しいですな! てんで自己弁護をする考えがないんだから!」
「あまり珍しいことなので、考えさせられますね。そうじゃないでしょうか」
ポワロは、おだやかに、ヒントを与えた。
だが、ジロー探偵は聞いていなかった。彼はゆっくりとステッキを振り廻していた。
「では、ポワロさん、さよなら。あなたも、やっと若いルノールが有罪であることに満足したようで、私も喜んでおるですよ」
「ちょっとお待ちなさい! 私は、少しも満足しておりません。ジャック・ルノールは無罪です」
ジロー探偵は、一瞬、ぎょっとした……それから大笑いして、自分の頭を意味深長に叩きながら、
「逆上ですな!」といった。
ポワロは、そり身になった。眼に、危険な光が現われてきた。
「ジローさん、この事件の最初から、あなたの私に対する態度は、故意に私を侮辱するものでした。あなたには教訓を与える必要があります。私はあなたより先に、ルノール氏を殺した犯人を発見すると申すことに、五百フラン賭ける用意がございます。ご承諾ですか」
ジロー探偵は、頼りない様子でポワロを凝視して、再び、
「逆上かな!」とつぶやいた。
「さあ、どうですか」と、ポワロは返事をうながした。
「私は、あなたから金を取りたくはないですなあ」
「それはご安心なさい……あなたに取れっこはございません」
「ほう、そうですか。いや、承諾しますかな! あなたは私の態度が失礼だといわれるが、あなただって、一二度、私を怒らしたことがありますぜ」
「それはうれしいことを伺いました。さようなら、ジローさん。さあ、ヘイスティングス君、参りましょう」
私は黙って往来を歩いていた。私の心は重かった。ポワロは、決意のほどをはっきりと示したのだ。私はベラ嬢を犯行から救う自分の力が前より一層、疑わしくなってきたのを痛感した。ジロー探偵とのこの会見が、ポワロを怒らして、彼を奮起させてしまったのだ。
その時、不意に私の肩に誰か手をかけた。振り向くと、秘書のストーナーと顔が合った。我々は立ち止まって挨拶を交わした。ストーナーは、我々と一緒に、ホテルまでぶらぶら歩いていこうといいだした。
「ストーナーさんは、ここで何をしておいでなのですか」と、ポワロが尋ねた。
「誰だって、友達の味方をしなければなりませんさ! 特にその友達が、無実の罪に問われている場合はね」と、ストーナーは、そっけなくいった。
「それでは、あなたは、ジャック君が有罪だとは信じていらっしゃらないのですか」と、私は熱心に尋ねた。
「そんなこと信じるもんですか。僕はあの青年を知っています。この事件には、二三、まったく腑に落ちないことがありますが、僕はジャック君の態度が、ばかばかしいにもかかわらず、殺人犯人だなどということは決して信じませんよ」
私はこの秘書に対して、心温まる思いがした。彼の言葉は、私の心から、密かな重荷を取りのぞいてくれたように思われた。
「多くの人々が、あなたと同じ考えを持っているのは、確実だと思われます。彼に対する反証は、ふしぎなほど少ないのです。彼が無罪放免になることは、疑う余地はないと僕は思います」と、私はいった。
しかし、ストーナーは、私の希望したような反応は示さなかった。
「あなたの考えているように考えられるといいんですがね」と、彼は重々しい口調でいった。それから、ポワロのほうを向いて尋ねた。
「あなたのご意見はどうなのですか、ポワロさん」
「あの青年にとって、黒と思われることが非常に多いと思います」とポワロは、静かにいった。
「では、彼が有罪だと思っておられるのですか」とストーナーは、鋭くいった。
「いいえ、そうは思いませんけれども、自分の無罪を証拠立てるのが大そうむずかしいでしょうと思うのです」
「ジャック君は非常に妙な態度をとっているんです。もちろんこの事件には、眼に見えないものがたくさんあることは僕も認めています。ジロー探偵は、外来者なので、それをあまり知っておりません。しかし事態そのものが、途方もなく妙なんです。それに関しては、あまりしゃべらないほうが、早く収拾がつくと思うんです。もしルノール夫人が、何か秘密に葬ってしまいたいと、希望しておられることがあるのなら、僕は夫人から指示を仰ぎます。僕は夫人の判断にはいつも非常な尊敬を払っているのですから、夫人の考えついたことには、僕は余計な口を出さないつもりです。それにしても、僕には、ジャック君のあの態度の原因をつきとめることができないんです。誰だって、彼が、好んで罪人になろうとしているとしか考えられませんよ」
私はすぐにそこへ割り込んで、
「しかし、それはばかげていますよ……あの短刀……」といいかけて、ポワロが、どの程度まで、私が口外することをゆるしているかどうか、不確かになったので、注意深く言葉を選んで、
「あの夜、短刀は、ジャック君が持っていたのではなかったのです。ルノール夫人は、そのことをよく知っておられます」と結んだ。
「それは真実ですね。夫人が回復されたら、きっと、それ以上に述べられるに違いありません。では、僕、これで失礼します」とストーナーがいった。
「ちょっとお待ちください」と、ポワロの手が、彼を引き止めた。
「ルノール夫人が意識を回復されたら、すぐに私のところへお知らせいただけませんでしょうか」
「いいですとも。そんなことは造作ありません」
二階へあがっていく時、私は、
「ポワロさん、あの短刀のことは、あれでよかったですね。ストーナーの前で、あまりはっきりいうわけにいきませんからね」と、ポワロの返事をうながすようにいった。
「君の考えは正しいです。できるだけ智識をしまっておくほうがいいものですからね。しかし、短刀に関する君の見方は、ジャック君を助ける役にはほとんどたちませんね。私どもがロンドンへ立つ前に、私がちょっと留守にしたのを覚えておいでですか」
「覚えています」
「あの時私は、ジャック君が記念品を作らせた店を見つけようとしていたのです。で、それはすぐにわかりました。ところで、ヘイスティングス君、その店ではジャック・ルノールの注文で、短刀を二本でなく、三本作ったのですよ」
「それで……」
「それで一本を母に贈り、一本をベラ・デュビーンに、そしてもう一本はたぶん自分用にとっておいたのでしょう。さよう、この短刀の問題では、おそらく、ジャック君を断頭台から救うことはできないでしょう」
「そんなことにならないでしょう!」と、私はあわてて叫んだ。
ポワロは不安そうに首をふった。
「でも、ポワロさんが彼を救ってやれるでしょう!」と私は、確信をもって叫んだ。
ポワロは、苦々しげに、私を見た。
「君が、それを不可能にしたではありませんか」
「何かほかの方法で……」私はささやくようにいった。
「ああ、いまいましい! 君は私に奇蹟を望んでいるのですね。もう何もいわないでください。それよりこの手紙に何が書いてあるか見ましょう」といって、ポワロは胸のポケットから封書を取り出した。
それを読んでいくうちに、ポワロの眉間に、深いしわが刻まれていった。読み終ると、彼は薄っぺらな紙を私に渡した。
「ヘイスティングス君、悩める婦人がほかにもいますよ」
その書体は読みにくかった。ひどく取り乱して書いたものらしかった。
――ポワロ様、この手紙をお受け取りになりましたら、すぐに私を助けにいらしてください。私にはほかに頼りにする方がないのです。そして、どんなことをしても、ジャックを救わなければならないのです。私はひざまずいて、お願いいたします。
マルト・ドーブリーユより
私は感激して、その手紙をポワロに返した。
「お出かけになりますか」
「すぐに車を頼みましょう」
三十分後に、我々はマーガレット荘へいっていた。マルト嬢が玄関へ出迎えて、ポワロの手に両手で取りすがるようにして、家の中へ招じ入れた。
「ああ、いらしてくださいましたわね……ほんとうにご親切ですわ。私、どうしていいかわからないで、絶望していましたの。あの人たちは、私をジャックに会いにいかせてくれないんですもの。とても辛くて、気狂いになりそうですわ……あの人、犯罪を否定しないって、ほんとうですか? でもそんなこと気狂いの沙汰ですわ。あの人がそんなことするなんて、あり得ないことですわ。私、一瞬だってそんなこと、信じませんわ」
「私も信じませんよ、お嬢様」とポワロは穏やかにいった。
「だって、そんならなぜあの人は、はっきりいわないんでしょうね。私にはわけがわかりませんわ」
「たぶん、誰かをかばっているのかも知れませんね」といって、ポワロは彼女を、じっと見つめていた。
マルト嬢は眉をひそめた。
「誰かをかばっているんですって? お母様のことですの? ああ、私は最初から、あのお母様を疑っておりましたわ。あの大変な財産を誰が相続いたしますの? お母様ですわ。未亡人らしく喪服を着て、偽善者の役をしていればいいんですもの、やさしいことですわ。ジャックが逮捕された時、こういう風に倒れたんですってね!」といって、マルト嬢は、芝居がかった所作をした。
「きっとあのストーナーさんという秘書が手伝ったのですわ。あの二人は泥棒みたいにこすいんですもの。そりゃあの方はストーナーよりずっと年上ですけど……男の人ってそんなことかまうものですか……女にお金があればねえ」
その調子に、苦々しさがまじっていた。
「ストーナー君は、英国にいましたよ」と私は、口をはさんだ。
「そうはいっていますけれど……わかるもんですか」
「お嬢様、もし私ども……あなたと私とが一緒に仕事をするとなりますと、いろいろな点をはっきりさせておかなければなりません。まず第一にお聞きしたいことがございます」とポワロが、静かに切り出した。
「ええ、何ですの」
「あなたは、お母様のほんとうの名を、ごぞんじですか」
マルト嬢は、ちょっとポワロを見ていたが、うなだれて両腕に顔を埋めて、泣き出した。
ポワロは、その肩に手をかけて、
「さあ、気をお落ちつけください。ごぞんじのようですね。さて二番目の質問ですが……あなたは、ルノールさんが誰だったか、ごぞんじですか」
「ルノールさん?」
彼女は、顔をあげて、訝《いぶか》るようにポワロを見あげた。
「ああ、それはごぞんじないようですね。さあ、私の申しあげることを、注意しておききなさい」
それから、一言、一言、ポワロは、この事件を、英国へ行く前に私に話してくれたと同じように、語りきかせるのであった。マルトは魅せられたように、聞き入っていた。ポワロが語り終ると、彼女は長い溜息をついた。
「あなたはすばらしい方! 驚くべき方! あなたは世界一の探偵でいらっしゃいますわ!」といって、彼女はいきなり椅子からすべりおりて、まったくフランス風に、すべてを投げ出したというように、ポワロの前にひざまずいて、
「あの人を救ってください!」と叫んだ。
「私はあの人を愛しているのです。とても、とても! どうぞ救って、救って……救ってくださいまし!」
自首してでた真犯人
我々は、次の朝、ジャック・ルノールの審問に出席した。逮捕されてからの期間は短かったにもかかわらず、若い囚人の変りように、私は愕然とした。頬はげっそりとこけ、落ちくぼんだ眼のまわりには黒い輪ができて、やせ衰え憔悴しきっていた。幾晩も全然眠れなかったようである。彼は、我々を見ても、何の感情も示さなかった。
判事が、訊問を開始した。
「ルノール、君は犯罪の夜、メルランビーユにいたことを否定するのですか」
ジャックは、すぐには答えなかった。そして可哀相なほどためらいながら、
「僕は……僕はシェルブールにいたと、前にもいいました」といった。
判事は、さっと横を向いていった。
「駅の証人を呼ぶように」
一二分して、ドアが開き、私がメルランビーユ駅で会った赤帽が入ってきた。
「君は、六月七日の夜、夜勤でしたか」
「そうです」
「この囚人を見てください。この人は当夜十一時四十分の列車からおりた旅客の一人だと認めますか」
「認めます」
「君の間違いだったということはあり得ませんか」
「あり得ません。私はジャック・ルノールさんをよく知っております」
「日付の間違いということはありませんか」
「あり得ません。なぜなら、その翌日の六月八日の朝、殺人のことを聞いたのです」
もう一人の駅員が呼び出された。そして、最初の証人の言葉を確認した。判事はジャックを見た。
「この人々は、確かに君を認めているのです。それに対して君のいうことは?」
ジャックは、肩をすくめた。
「何もありません」
「ルノール、これを認めますか」といって、判事は傍から何か取りあげて囚人のほうへ差し出した。私はそれが例の短刀であるのを見て、身震いをした。
その時、ジャックの弁護人グローシエが、声をあげた。
「失礼ですが、私は被告がそれに答える前に、ちょっと本人と話したいのです」
しかしジャックは、みじめなグローシエの気持ちなどには、何の考慮も払わず、それを手で払いのけて、静かに答えた。
「確かに認めます。それは戦争の記念品として、僕が母に贈ったものです」
「君の知るかぎり、その短刀の同一品はありませんか」
再びグローシエ弁護士が何かいったが、ジャックはそれを制してしまった。
「僕の知っているかぎりでは、ほかに同じものはありません。その型は、僕がデザインしたものです」
判事でさえも、その答えの大胆さに驚嘆した。まったくジャックは、自分の運命に突進しているようなものであった。私はいうまでもなく、ジャックが、ベラ嬢のために、もう一本同じ短刀がある事実を、かくしているのだということを知っていた。短刀が一本よりないと思われている以上は、二本目の短刀を持っていた乙女に、嫌疑のかかる心配はないわけである。彼は、かつて愛したことのある女を、勇敢にもかばっているのだ……しかしそれが、彼にとって、何という犠牲になるであろう! 私は、自分がポワロに対し、簡単にやってのけたことが、今は、どんなに重大だったかということがわかってきた。真実を述べる以外には、ジャックの無罪を証明するのは、容易な業ではない。
オート判事は、特に厳しい調子になって、いった。
「ルノール夫人は、この短刀は、犯罪の夜、化粧台の上に乗っていたと申しました。しかし、ルノール夫人も一人の母親であります。これは君を驚かすことであろうが、ルノール夫人の陳述は間違っていたということが、強く感じられるのであります。おそらく君が、それをパリへ持っていったのかも知れない……君はそれに反対するだろうが……」
私は、青年の、手錠をはめられた手が、握りしめられるのを見た。額に汗が流れてきた。彼は非常な努力で、判事の言葉を遮った。
「僕は反対しません。それもあり得ることです」
それには一同唖然とした。グローシエ弁護士は立ち上って、抗議した。
「私の依頼人は精神的にひどく疲労しております。私は彼が、責任ある答弁ができる状態でないと判断しておることを記録に付記しておいていただきたいです」
判事は怒ったように、彼を黙らせてしまった。一瞬、判事自身の心にも、疑念が浮かんだらしかった。ジャックは、ほとんど、精根つきたように見えた。判事は、前かがみになって、囚人の顔をさぐるように見つめた。
「ルノール、君は、今まで答えたことによって、私が君を公判に廻すよりほかないことを、充分に理解できますか」
ジャックの青ざめた顔が、紅潮した。彼は、しっかりと判事の顔を見返した。
「オートさん、僕は、父を殺さなかったことを誓います」
しかし、判事の一時の疑惑は消えてしまった。彼は短い不愉快な笑い方をした。
「さよう、さよう! 囚人というものは、いつでも無罪だというものです。君は、自分の言葉で自分を有罪にしているのです。君は何の反証もあげることができない。アリバイもない……ただ、赤ん坊だってだませないようなことをいうだけだ……自分は無罪だと。ルノール、君は父を殺したのだ。それも冷酷かつ卑怯な殺人だ……父の死によって自分のものとなるだろうと信じていた金のためだ! 君の母は、事後従犯人である。母として行動したという意見のもとに、法廷は、君には与えない寛大さを、母には示すであろうことは疑いない。そして、君にその寛大さが与えられないのは、当然である! 君の罪は、神にも人にも嫌悪される恐ろしきものである……」
オート判事は……非常に当惑したことに……ここで、遮られた。ドアが押し開けられたのであった。そして巡査が、
「判事殿! 判事殿! ご婦人が見えて……いわれるには……」と、どもりながらいった。
「誰が何をいっているのだと? いや、規則違反だ! 絶対にならん……絶対に禁止する」と判事は、腹立たしげに叫んだ。
だが、ほっそりした姿が、口ごもっている巡査を押しのけた。黒ずくめの服装をして、顔を長いベールにかくした女性が、部屋の中央へ進みでた。
私の心臓は胸が悪くなるほど、激しく打ち始めた。彼女が来たのだ! 私のすべての努力も空しくなった。しかし、私は、そんなに大胆に恐れげもなくこうした行動に出た勇気を、賞讃せずにはいられなかった。
彼女は、ベールをあげた……そして、私は、息が止まりそうになった。なぜなら、それは二粒の豆のようによく似てはいるが、その女性は、シンデレラではなかったのだ! それに、舞台でかぶっていた亜麻色のかつらを脱いだ彼女を見ると、それは、ジャックの部屋にあった、写真の主だということがわかったのであった。
「あなたは、予審判事のオート様でいらっしゃいましょう?」と、彼女は尋ねた。
「そうですが、私はこういうことは禁じます……」
「私の名は、ベラ・デュビーンでございます。私はルノールさんを殺害した犯人として、逮捕していただきに出頭いたしました」
私あての手紙
わが友よ――この手紙をお受け取りになれば、すべてがおわかりになると思います。私がどんなにいっても、ベラの心を動かすことができないのです。ベラは自首するといって出ていきました。私は争って疲れ果ててしまいました。
私があなたを欺いていたことを、あなたはお知りになるでしょう。あなたは私を信頼していて下すったのに、私は嘘をもって報いました。あなたは私に弁解の余地がないようにお思いになるでしょうが、私は永久にあなたの生涯から消えていく前に、どうしてこういう嘘が生まれてきたかを、お話しさせていただきたいのです。もしも、あなたがゆるして下すったということがわかれば、人生は、私にとって、楽なものになるでしょう。私は自分のために嘘をついたのではありません――それだけが、自分のためにいえることなのです。
あのパリからの、汽船連絡列車で、初めてあなたにお会いした時から書き始めましょう。あの時、私はベラのことで心配していたのです。ベラはあの時、ジャック・ルノールのことで絶望的になっていました。ベラは、ジャックのためなら地面に身を投げ出してその上を踏んで歩かれても満足するほどの気持ちでいたのです。それだのに、ジャックの態度が変ってきて、あんなにしげしげと書いてよこした手紙もこなくなったので、ベラは段々事情を察し始めたのです。彼が、ほかの女に熱中しているのだと思い込んでいたのですが、後になってそれが事実とわかったのでした。ベラはメルランビーユの別荘へ出かけていって、何とかしてジャックに会おうと決心しました。ベラは私がそれに反対するのを知っていて、私をまいてしまおうとしました。で、私はカレーで姉が列車に乗っていないのを知って、一人で英国へいくのはよそうと思ったのです。私が何とかして、姉をとめなかったら、何か恐ろしいことが起こるだろうという予感がして、私は不安だったのです。
私はパリから来る次の列車を待っていました。ベラはそれに乗っていて、そこからメルランビーユへ行くのだといって下車してしまいました。私はいろいろと議論したのですが、どうしてもだめだったのです。姉は何としても自分の思ったとおりにすると夢中になっているのです。それで私は手を引いてしまったのです。私はできるだけのことをしました。だんだん遅くなりましたので私はホテルへ、そしてベラはメルランビーユへいきました。それでもまだ、私は、何だか小説によく書いてある「さし迫る危険」というような予感を払いのけることができませんでした。
次の日になりました。でも、ベラは来ませんでした。ホテルで落ち合う約束だったのに、約束を守りませんでした。一日中待っても姿を見せませんでした。私の心配はだんだんつのってきました。そこへ、あのニュースののった夕刊新聞が届いたのでした。
恐ろしいことでした! もちろん、確かではなかったのですが――でも、ひどく心配でした。私は、ベラが、父親のルノールさんに会って、自分とジャックのことを話したら、ルノールさんが姉を侮辱したとか何とか、そんなことを考えたのです。私たち二人とも、ひどく怒りっぽいのです。
それから覆面の外国人とかいうのが出てきたので、少し安心しましたが、ベラが約束の日を守らなかったのが、とても心配になっていたのです。
次の朝になると、私は心配で、どうにもならなくなって、何か私にできることがあるかも知れないから、出かけていってみようと思いました。ところが、一番最初にあなたにお会いしてしまったのです。それから先は、あなたがごぞんじです――で、死人を見ると、私の見覚えのあるジャックのオーバーを着ていますし、顔もジャックにとても似ているのです。それに、あの見覚えのある短刀――あの憎らしい短刀! ジャックがベラにくれた短刀! 十に一つは、姉の指紋がついているに違いないと思ったのです。あの瞬間の、私のどうにもならない恐ろしさは、とうていあなたに説明することができるとは考えられませんでした。あの時、ただ一つだけはっきりと私にわかったことは――その短刀を手に入れて、誰もその紛失に気がつかないうちにできるだけ早く逃げてしまわなければならない。それで、私は気を失ったまねをして、あなたが水を取りにいっていらっしゃる間に、それをとって、ドレスの胸にかくしてしまったのでした。
私はあなたに、ファール・ホテルに泊まっていると申しあげましたが、もちろん、真っすぐカレーに逃げ帰りました。それから最初の船で英国に渡りました。そして海峡の真ん中で、その悪魔の短刀を海の中へ投げ込みました。それで私は、初めてほっと息をついたのでした。
ベラは、ロンドンの私たちの下宿へ帰っていました。まるで何事もなかったような平気な顔をしているのです。私は自分のしたことを話し、当分は安全だと申しました。すると姉は、私をじっと見つめていましたが、急に笑い出しました。笑って――笑って――聞いているのも怖いくらいでした。私は忙しくしていることが一番いいことだと思いました。姉が自分のしたことを、じっくりと考えていたりしたら、気が狂ってしまうだろうと思ったのです。幸いにも私たちは、すぐに契約ができました。
それから私は、その晩、あなたと、あなたのお友達が、私どもを見ていらっしゃるのに気がついたのでした。私は気が狂いそうになりました。きっと疑っておいでになるに違いない。さもなければ、ここまで追っておいでになるはずはない。私は真相を知らなければなりません。それであなたを尾《つ》けていったのです。私は死物狂いでした。そして、私が何もいわない先に、あなたの疑っておいでになるのは、私であって、ベラではない! 少なくもあなたは、私が短刀を盗んだので、私をベラだと思い込んでいらっしゃることを知ったのでした。
あの時の私の気持ちを、ふり返って見ていただけたら――きっとあなたは、私をゆるしてくださるでしょう――私はとても恐ろしかったんです――頭が混乱して――必死になっていたのです――私にはっきりつかめたのは、あなたが私を救おうとしていてくださるということだけでした――でも、あなたが喜んで姉を救ってくださる気がおありになるかどうかは、私には、わかりませんでした。私はたぶん、そうではないと思いました――姉と私とでは、同じわけにはいきませんものね。でも、私は、危険を冒したくなかったのです。ベラと私とは双生児なのです――私は彼女のためにできるかぎりのことをしなければならないのです。それで私は嘘をつき続けたのでした。卑怯なことだと知っていました。今でも卑怯だと思っています――これだけです。あなたもきっと、もうたくさんだとおっしゃるでしょう。あなたにすっかりお話しすべきでした――もしも私がそうしたなら――
ジャックが逮捕されたことが新聞に出たので、すべてがだめになってしまいました。ベラは事件がどう運ぶかも待っていられないのです。
私はとても疲れています。もう書けません。
彼女はシンデレラと署名しかけたのを消して、その代わりに「ドルシー・デュビーン」と書いたのであった。
それは、下手に書いた、はっきりしない手紙であったが、私は今でもまだ、大切に保存している。
私がそれを読んでいた時、ポワロも一緒にいた。便箋は私の手から、すべり落ちた。私は彼のほうを見た。
「あなたは、ずっと、もう一人のほうだということを知っていらしたんですか」
「そうですよ、君」
「どうして僕に話して下さらなかったんですか」
「まず第一に、君がそんな間違いをするとは考えられなかったのです。君は写真を見たのです。あの姉妹は、非常によく似ています。しかし見分けがつかないほどではありませんからね」
「けれども、あの明るい色の髪は?」
「舞台の上で、面白い対照を作るための、かつらですよ。双生児の一人が亜麻色の髪で、一人が黒いなどと考えられますか」
「ではなぜ、コべントリーのホテルで、そのことを話してくださらなかったのですか」
「あの時は、君のやり方が高圧的でしたからね。私にそんな機会を与えなかったではありませんか」
「でも、その後では?」
「ああ、その後ですか! まず第一に、私は君が私を信頼してくれないのが、腹が立ったのです。それから君の感情が、時の試練に耐え得るかどうかを、見たかったのです。実はそれが君にとって、ほんとうの恋か、それとも線香花火的に終るものかを確かめたかったのです。私は君を、いつまでも誤りの中に置いてはならないと思ったのです」
私はうなずいた。ポワロの調子が非常に愛情深いものだったので、恨みに思うどころではなかった。私は散らばった手紙を見おろした。
急に私はそれを床から拾いあつめて、ポワロのほうへ押しやった。
「読んでください。読んでいただきたいのです」
彼は黙ってそれを読んでいった。それから顔をあげて、私を見た。
「君が心痛しているのは何ですか、ヘイスティングス君」
これはポワロとしては、まったく新しい調子であった。いつもの、人をからかうような様子は、すっかりなくなっていた。私は何の苦もなく、自分の望んでいたことをいえるのであった。
「この中には……何も書いてありません……あの人が、僕のことを、思っていてくれるかどうかが!」
ポワロは、頁をくって見た。
「ヘイスティングス君、私は君のいうことは間違っていると思いますね」
「どこに書いてあります?」
私は熱心に首をのばして、のぞき込んだ。
ポワロは微笑した。
「この手紙の一行ごとに、そのことが書いてありますよ、君」
「しかし、どこへいったら会えるでしょう? 手紙には住所が書いてありません。フランスの切手が貼ってあるだけです」
「あわてなさるな! このポワロ小父さんにまかせておおきなさい。五分もあれば、見つけてあげますよ」
その夜の出来事
「ジャック君、おめでとう」ポワロは青年の手を、心をこめて握りながらいった。
ジャック青年は、放免になるやいなや、我々のところへやって来たのであった。……それからマルト嬢と、その母に会いに、メルランビーユへ出発しようというのであった。ストーナーがついて来た。彼の元気旺盛さは、青年の青白い顔と強い対照をなしていた。青年が神経衰弱の一歩手前まできているのは、明らかであった。彼はポワロにむかって、楽しげに微笑して、低い声でいった。
「僕は、あの人をかばおうと思って、ずっと耐えてきたんですが、今ではもう、どうにもならなくなりました」
「君、あの娘さんが、君の生命の支払いを受けると思ったって、それはだめですよ。君が断頭台に突進していくのを見たら、彼女だって出て来ないではいられなかったのですよ」と、ストーナーは苦々しげにいった。
「ほんとうに君は、まっしぐらに進んでおいででしたね。もしあのままでいったら、グローシエ弁護士を憤死させて後悔しなければならないようなことになったかも知れませんよ」とポワロは、ちょっと目ばたきをしていった。
「あの人は善意ある愚物ですよ。それにしてもあの人には凄く悩まされたものだ。僕はあの人に、何でも打ち明けるわけにはいかんでしたからね。だが、ベラは、一体どうなるんです!」と、ジャックがいった。
「私が君だったら、そうひどく心配はいたしませんね。フランスの裁判は、若い美人にはたいそう寛大ですし、ことに、情熱の犯罪の場合はね! 賢い弁護士なら、情状酌量すべき、立派な事情を申し立てるでしょう。ところが、君のほうはそういうわけにはいきません……」とポワロが、あけすけにいった。
「僕はそんなことはかまわないんです、ポワロさん。ある意味で僕は、父の死に対して罪があると思っているんです。僕というものがいさえしなかったら、それからまた、僕が彼女とああした面倒を起こしていなかったら、父は、今日、無事に生きていたでしょう。また、僕が間違えて父のオーバーを持っていかなかったら、あんなことにはならなかったでしょう。僕は父の死に対して、責任を感じずにはいられないんです。このことは永久に僕の心をはなれないでしょう」
「いや、そんなことはないですよ」と私は慰め顔にいった。
「もちろん、僕にとって、ベラが父を殺したと考えるのは恐ろしいことです。しかし、僕が彼女にひどい扱いをしたのです。僕はマルトに会って、自分の恋は間違っていたと気がついたんです。手紙を書いて、そのことを正直に告白すべきだったんです。けれども僕は彼女と争いが起きたり、それがマルトの耳に入って、二人の間にもっと深い関係があったと誤解されるのが怖かったんで……つまり、僕が臆病だったんです。二人の間が自然に消滅するのを望んでいたんです。実のところ、僕は彼女が、どんなに絶望に陥るかに気がつかなかったんです。もし、ベラが、意図していたように、僕を刺したのだったら、それは僕には当然だったんです。今、ああして、彼女が名乗り出たのは、まったく勇敢なことです。でも、僕は、最後まで、彼女をかばいおおせることができたんですよ」
ジャックはしばらく黙っていたが、急に、別のことについていった。
「僕に納得できないのは、父がなぜあんな時刻に、下着と僕のオーバーを着て、外を歩きまわっていたかということです。たぶん、外国の野郎どもをまいてしまうためだったと思うんです。それから母が、彼らの来たのは二時ごろだったと思い違いしたのではないかと思うんです。それとも……それとも、作り話ではなかったんでしょうかね。母は、まさか……僕がやったとでも、思っているんではないでしょうね?」
ポワロは急いで、彼を安心させるようにいった。
「そんなことはありませんよ、ジャック君。その点は安心なさい。そのほかのことについては、いずれ説明してあげましょう。少し奇妙なことなのです。それよりも、あの恐ろしい夜の出来事を、ありのまま、私に聞かせてくださいませんか」
「たいして話すこともないんです。僕は前にもいったように、シェルブールから、地球の向う側へいく前に、マルトに会うために、この土地へ来たんです。汽車が延着したので、僕はゴルフ場を横切っていこうときめたのです。マーガレット荘への近道なんです。僕が、マーガレット荘の近くまでいった時……」
彼はやめて、つばをのみこんだ。
「それで?」
「僕は恐ろしい叫び声をきいたんです。それは高くはなかったんです……息がつまったようなうめき声でした……僕は恐ろしくなって、一瞬、そこに根が生えたように立ちすくんだんです。それから生垣の角をまわっていったんです。月夜でした。僕は墓穴を見たんです。そして顔を下に向けて、背中に短刀を刺された男の姿を見出したのです。……それから……それから、顔をあげて……そして、彼女を見たのです。彼女はまるで、幽霊でも見るように、僕を見つめているのでした……初めは、僕を幽霊だと思ったにちがいありません。恐怖のために、表情が凍ってしまったような顔付でした。それから、突然に叫び声をあげて、くるりと向うをむいて走っていってしまったんです」
彼は、感情をしずめようとして、言葉を切った。
「それから後は?」ポワロは、やさしく尋ねた。
「ほんとうに、はっきりとは僕にもわからないんです。しばらく僕は、ぼんやりと棒立ちになっていました。それから、できるだけ早く、その場を立ち去ったほうがいいと気がついたのです。自分に嫌疑がかかるなんて、考えてもみませんでした。が、彼女に不利な証言を与えなければならないようなことになっては大変だと思ったんです。それから前にも話したように、サンボーベまで歩いていって、そこからハイヤーでシェルブールまで帰ったんです」
戸を叩いて、給仕が電報を持って入ってきて、ストーナーに渡した。彼は急いで開封してみて、立ち上った。
「ルノール夫人が、意識を回復されたのです」と、彼はいった。
「ああ! それではすぐ、メルランビーユへ参りましょう」とポワロも、さっと立ち上がった。
そこで、早急の出発となった。ストーナーは、ジャックの要請で、ベラ嬢のためにできるだけのことをするように、後に残った。ポワロとジャックと私は、ルノール家の車で出かけた。
四十分あまりで着いた。マーガレット荘の前を通りかかると、ジャックは、物問いたげな視線をポワロに投げた。
「どうでしょう。あなたが一足先にいらして、母に僕が放免になったことを話してくだすったら……」
「その間に、君が直接、マルト嬢にそのニュースを知らせようというわけですね? よろしいですとも。私もそうするように君に申し出ようと思っていたところですよ」ポワロは、瞳をおどらせながらいった。
ジャックは、それ以上聞こうとはしなかった。車を止めるなり飛びおりて、玄関へ通じる小道を走っていった。我々はそのまま車を、ジュヌビエーブ荘へ乗りつけた。
「ポワロさん、我々が最初の日にここへ着いて、いきなりルノール氏が殺されたニュースを聞かされた時のことを、覚えていらっしゃいますか」と、私がいった。
「ああ、ほんとうにそうでしたね。そんなに前のことでもありませんのに、あれからずいぶん、色々なことが起こりましたね。特に君の身の上にはね!」
「ほんとうです」と、私は溜息をした。
「ヘイスティングス君、君はそれをセンチメンタルな角度から見ていますね。私の意味はそうではなかったのです。私どもは、ベラ嬢が、寛大に扱われるように、希望いたしましょう。結局、ジャック君は、両ほうの娘さんと結婚するわけにはいかないのです! 私は職業的な立場から申したのです。これは探偵の喜ぶような、順序の立った、規則正しい犯罪ではありません。コンノーが企画し、上演したもので、完全なものでしたが、その結果は若い娘の怒りによって、一人の男が誤って殺されたのでした……そこに、何の順序も法式もあるものですか!」
私が、ポワロの風変りに、大笑いしている最中に、フランソワーズが玄関の戸を開けた。
ポワロが、ただちにルノール夫人に面会しなければならないのだと説明したので、老家政婦は、ポワロを二階へ案内していった。私は客間に残っていた。しばらくすると、ポワロが姿を現わした。彼はいつになく、むずかしい顔をしていた。
「ねえ、君、|はやて《ヽヽヽ》が来そうですよ」
「何のことですか」と、私は叫んだ。
「私はほとんど信を置いていなかったのでしたがね。しかし、女性というものは、思いがけないものです」と、ポワロは考え深くいった。
「ああ、ジャック君とマルト嬢が来ましたよ」
私は、窓の外を見ながらいった。
ポワロは、部屋を飛び出していって、玄関の外の石段の上で、若い二人を迎えた。
「入ってはいけません。入らないほうがよろしいのです。お母様は、大そう心を乱しておられます」
「わかっています、わかっています。僕はすぐ母のところへ行かなければなりません」と、ジャックがいった。
「いや、君、入らないほうがよろしいのです」
「けれどもマルトと僕は……」
「とにかく、お嬢様をお連れにならないほうがよろしいのです。どうしてもいらっしゃりたいなら、あがっておいでなさい。しかし、私の申すとおりになさったほうが賢いのです」
我々の背後の階段からの声に、我々は驚かされた。
「ポワロさん、お心遣いありがとうぞんじます。けれども私は、自分の望みをはっきりさせておきとうございます」
一同は驚いて眼をみはった。ルノール夫人が、レオニーの腕にすがって、まだ頭に縫帯をしたまま、階段をおりてくるのであった。フランス娘は泣きながら、奥様に、寝室へもどるようにと懇願していた。
「奥様は、ご自分を殺していらっしゃるようなものでございますわ。お医者様のおいいつけに、逆らうようなことばかりしておいでになって!」
しかし、ルノール夫人は、進んできた。
「お母様!」と叫んで、ジャックが駈け寄ろうとした。
しかし、夫人は身振りで、彼を寄せつけなかった。
「私はお前の母でなんかありません! お前は私の息子ではありません。今日、たった今から、お前を勘当します!」
「お母様!」青年は茫然として叫んだ。
一瞬、夫人はその苦悶の声に動かされて、動揺したようであった。ポワロは、仲裁するような様子を見せた。しかし、すぐに、彼は自制してしまった。
「お父様の血が、お前の頭についています。お前は道徳的に、お父様の死に対する罪があります。お前は、その女のために、お父様に反抗し、お父様をないがしろにし、もう一人の女を心なく扱ったために、お父様を殺してしまったのです。この家から出ておいでなさい。私は明日、お前がお父様のお金には、たとえ一ペニーなりとも手を触れられないように、処置するつもりです。お前は、お父様の最も激しい敵の娘であるその女の助けをかりて、世の中へ出ていって何とでもして暮らしたらいいでしょう」
こういい終ると、夫人は苦しそうに、ゆっくりと、二階へ引き返していった。
我々はみんな驚いて、ものもいえなかった。そのような意志表示は、まったく思いもうけないことであった。ジャックは、これまで経てきたことで、すでに弱り果てていたので、ふらふらとなって倒れかけた。ポワロと私は、急いで助けに駈け寄った。
「すっかり疲れきっておいでです。どこへおつれしたらよろしいでしょうか」と、ポワロは、マルト嬢にささやいた。
「家へですわ! マーガレット荘に! 母と私とで看護しますわ。可哀相なジャック!」
我々はジャックを、隣の別荘へ連れていった。青年はそこで、半ば失心したように、椅子に倒れ込んだ。ポワロは頭と手に触ってみた。
「熱があります。長い間の緊張がこたえたのでしょう。その上、このショックが加わったのです。寝床へお入れなさい。ヘイスティングス君と私とで、お医者さんを呼んでまいりましょう」
医者がすぐに来た。診察の結果、医者は、過労のせいだといった。絶対安静にしていれば、次の日くらいまでには、ほとんど回復するであろう。しかし、興奮すると、脳炎を起こすおそれがある。一晩中、誰か付き添っているほうがよかろうということであった。
できるだけのことをしてしまうと、我々は、ジャックを、マルト嬢とその母親にまかせて、町へ出かけていった。もう食事時間を遙かに過ぎていたので、二人とも、ひどく空腹であった。最初に見つけたレストランで、素晴らしいオムレツと、これも素晴らしい肉にありつけた。
「さて、夜の宿ですがね。あの馴染みのバーン・ホテルへ行ってみましょうかね」と、食事を済ましてしまうと、ポワロがいった。
我々はすぐ、ホテルまで歩いていった。はい、旦那様方は、海を見晴らすよいお部屋を、お使いになることができますと、フロント係はいった。ポワロは、私をびっくりさせるような質問をした。
「ロビンソン嬢という英国婦人はお着きになったかね?」
「はい、旦那様。小さい客間においででございます」
「ありがとう」
私は、廊下を歩いていくポワロと歩調をあわせながら、
「ポワロさん、ロビンソン嬢とは一体誰なんですか!」と叫んだ。
ポワロはやさしく私にほほえみながら、
「君に結婚を世話してあげたんですよ、ヘイスティングス君」といった。
「しかし……」
「何をいっているのです! 私がこの町で、デュビーンという名を大声でどなると思うのですか」といって、ポワロは私を戸口から中へやさしく押し込んだ。
立ち上って我々を迎えたのは、シンデレラであった。私は、眼に思いをこめて、両手で彼女の手をしっかりと取った。
ポワロは、咳払いをした。
「私の子供たちよ、今は感傷にひたっている時ではありません。お嬢様は、お願いしておいたことをしてくださいましたでしょうか」
それに答えて、シンデレラは、ハンドバッグから、紙に包んだものを取り出して、黙ってポワロに渡した。ポワロは包みを開いた。私はぎょっとした。それは彼女が海へ投げすてたはずの短刀であった。女性というものは、いつも、最も危険な物品や書類を破毀《はき》するのを嫌うのは、不思議なことだ!
「ありがとう、うれしいですよ。さあ、いってお休みなさい。ヘイスティングス君と私は仕事があるのです。明日はこの人にお会いになれますからね」と、ポワロがいった。
「どこへいらっしゃいますの?」と、彼女は眼をみはっていった。
「明日、いろいろなことを話してあげます」
「だって、あなた方のいらっしゃるところへは、私もいくんですもの」
「しかしお嬢様……」
「私も行くんですのよ」
ポワロは議論しても、無駄だと知った。
「それならいらっしゃいまし、お嬢様。しかし面白いことではありませんよ。何も起こらないという可能性が一番多いですよ」
シンデレラは、答えなかった。
二十分後に、三人は出かけた。外はもうすっかり暗くなっていた。しかし暑くて息苦しい晩であった。町を出ると、ポワロは先に立って、ジュヌビエーブ荘へいく道を進んでいったが、マーガレット荘の前に来ると、立ち止った。
「ジャック君がどんな工合か、ちょっと見てきたいと思います。ヘイスティングス君は、一緒に来てください。お嬢様は外で待っていらしてください。ドーブリーユ夫人が、お嬢様を傷つけるようなことを申すかも知れませんからね」
我々は門を入って、小道を進んだ。私は、二階の窓に、ポワロの注意をひいた。そこの窓かけに、マルト嬢の横顔が、くっきりと映し出されていた。
「ああ、あそこがジャック君のいる部屋でしょうね」と、ポワロはいった。
ドーブリーユ夫人が玄関の戸を開けてくれた。ジャックは昼間とあまり変りないようだが、ご自分でよくごらんになってくださいということであった。それで夫人は、我々を二階の寝室へつれていった。マルト嬢は、ランプを置いたテーブルの傍に腰かけて、刺繍をしていた。我々が入っていくと、彼女は、唇に指をあてて、静かにという合図をした。
ジャックは、断続的な不安な眠りに落ちていた。頭をあっちへ向けたり、こっちへ向けたりして、顔は過度に赤くなっていた。
「お医者は、またまいりますか」
「迎えにいかなければ参りません。眠っておりますの……それが何よりいいんですわ。母が煎じ薬をのませましたの」
我々が部屋を出る時には、マルト嬢は再び刺繍をしていた。ドーブリーユ夫人が階下まで送ってきた。私は彼女の過去の歴史を聞いたので、余計に興味をもってこの夫人を観察した。彼女は眼を伏せて、唇にはいつもの謎の微笑を漂わせて立っていた。私は突然に、美しい毒蛇を見た時に感じるような恐怖におそわれた。
夫人が、我々のために、玄関の戸をあけてくれた。ポワロはそこを出しなに、
「お邪魔いたしました、奥様」と丁寧にいった。
「どういたしまして」
「ところで、ストーナーさんは、今日はメルランビーユへ見えませんでしたでしょうか」
ポワロは、急に思いついたようにいった。
私はこの質問の要点をつかむことはできなかった。ポワロに関するかぎり、これは意味のないものだと思った。
ドーブリーユ夫人は、落ちつき払って答えた。
「見えなかったと思います」
「ストーナーさんは、ルノール夫人と、会見されませんでしたでしょうか」
「そんなことを、どうして私が知っておりましょう」
「おっしゃるとおりでございます。ただ、あの人が来るところとか、出ていくところを、お見かけになったかも知れないと思ったものですから……では、おやすみなさいまし、奥様」と、ポワロはいった。
「どうしてあなたは……」と、私がいいかけると、ポワロはいった。
「質問なしですよ、ヘイスティングス君。その説明をする時は、あとであるでしょう」
我々はシンデレラと一緒になって、急いでジュヌビエーブ荘のほうへ向った。ポワロは、一度肩越しに、灯のついた窓と、そこに映る刺繍をしているマルト嬢の影を振り返ってみた。
「とにかく、彼はよく世話してもらっております」と、彼はつぶやいた。
ジュヌビエーブ荘につくと、ポワロは、車道の左手の植え込みの後ろに立った。そこからは、四辺がよく見えるが、周囲からは全然、かくれていることができるのであった。家中がみんな寝てしまっていると見えて、別荘は、真っ暗であった。我々は、ルノール夫人の寝室の、すぐ下に立っているのであった。見ると、その窓は、開け放ってあった。ポワロの眼は、その窓に吸いつけられていた。
「僕たちは、何をしているんですか」と私は、声をひそめて尋ねた。
「見張りをしているのです」
「しかし……」
「少なくも、一時間か、あるいは二時間は、何事も起こらないかも知れません。しかし……」
ポワロの言葉は、細い長く引く叫び声に、遮られてしまった。
「助けて!」
玄関の右側二階で、光がひらめいた。叫び声はそこからきたのであった。我々が見ている間にも、窓掛けに二人の人物がもみ合う影が映った。
「畜生! 夫人は寝室をかえたんだな!」と、ポワロは叫んだ。
ポワロは玄関へ突進していって、表戸を激しく叩いた。それから花壇の中の木に飛んでいって、猫のような敏捷さでよじ登った。私もついていった。そして、一とびに、開いている窓から飛び込んだ。振り返ると、シンデレラが、私の背後の枝に達していた。
「気をつけて!」と私は叫んだ。
「おばあちゃんを気をつけてあげたらいいわ! こんなこと、私には子供の遊びよ!」と、彼女はいい返した。
ポワロはからの部屋を横切って、戸を叩きつけていた。
「外側から錠がおりている! 開けるには手間取る」とポワロは、うなった。
助けを呼ぶ声は、次第に弱まっていった。私はポワロの眼に絶望を見た。彼と私と力をあわせて、戸に体当りを試みた。
シンデレラの落ちついた声が、窓から聞こえてきた。
「あなた方間に合わないわ。私だけが何とかできるらしい」
私がとめる暇もなく、彼女は窓から空間へ飛んだ。私は窓に走り寄って外をのぞいた。恐ろしいことに、彼女は、屋根に両手をかけてぶらさがり、灯火のある窓にむかって、身体を急躍動させながら、推進していくのであった。
「あっ! 大変だ! 死んでしまう!」と、私は叫んだ。
「君は忘れたのですか。あの子は職業的な軽業師ですよ。ヘイスティングス君、今夜彼女が来てくれたのは、善なる神の摂理ですよ。間にあってくれればいいが、ああ!」
シンデレラが窓から入っていくと、恐怖の叫びが夜のしじまを破った。それから彼女の澄んだ声が聞こえてきた。
「もうだめよ! 私がつかまえたから……私の腕は鋼鉄のようなのよ」
同時に、我々のとじこめられていた部屋の戸が、フランソワーズによって、用心深く開けられた。ポワロは、無作法に、彼女を押しのけて、廊下を走って、ほかの女中たちが群っている戸のほうへいった。
「旦那様、内側から閉っております」
内側では、誰かがどしんと倒れた音がした。
一二分たって、鍵がまわされ、戸がゆっくり開いた。真っ青な顔をしたシンデレラが、私たちを手招きした。
「夫人は大丈夫ですか」と、ポワロがきいた。
「ええ、ちょうど間にあいました。疲れきっていらっしゃいます」
ルノール夫人は、半ば倒れたようになって、寝台の上に坐って、息を切らして喘いでいた。
「絞め殺されるところでしたわ」と彼女は、苦しそうにつぶやいた。
シンデレラは、何か床から拾いあげてポワロに渡した。それは、非常に細いが、非常に丈夫な絹の縄ばしごの巻いたものであった。
「私どもが戸を叩いている間に、窓から逃げるつもりだったのですね。あのほうは……どこにいますか」と、ポワロがいった。
彼女は少し傍へ寄って、指さした。床の上に、何か黒い布で包まれた姿が、横たわっていた。その布のひだが、顔をかくしていた。
「死んだのですか」
彼女は、うなずいた。
「そう思いますわ。大理石の灰止で頭を打ったにちがいありません」
「でも、誰なんですか!」と、私は叫んだ。
「ルノール氏を殺した犯人ですよ、ヘイスティングス君。そして、ルノール夫人殺害未遂者です」
何が何だか、訳がわからなくなって、私はそこへ膝をついた。そして、布の折り重なりを持ちあげて、マルト・ドーブリーユの美しい死顔を見たのであった。
旅路の終り
その夜の、それから先の出来事に対する私の記憶は、雑然としていた。ポワロは、私が、何度も繰り返して質問しても、まるで、聾者《つんぼ》のようであった。彼はルノール夫人の寝室をかえたことを自分に話さなかったといって、フランソワーズに怒鳴りつけていた。
私は、自分のいうことに耳を傾けさせようと思って、ポワロの肩に手をかけて、注意をひこうとして、一生懸命であった。
「しかし、ポワロさん、あなたは知っていたはずではありませんか? 今日の午後、夫人に会いに来たんですもの」と私は、忠告した。
ポワロは、ちょっとの間、私に注意を向けた。
「その時は、中央の居間まで、長椅子に乗ったまま、運ばれてきたのですよ」と、彼は説明した。
「でも、旦那様、あの犯罪のすぐ後で、奥様は寝室をおかえになったのでございます……連想が……たまらないとおっしゃって!」と、フランソワーズが叫んだ。
「それなら、なぜ、私にそのことをいってくれなかったのだ!」
ポワロは、凄く腹を立てて、テーブルを叩いて、わめき立てた。
「どうして私に話さなかったのか? ええ? どうして話してくれなかったのだ! 君はまったく大ばか婆さんだ! レオニーもドニーズも同じことだ。お前たちは阿呆三羽がらすだ! そのばかさかげんが、すんでのことに、奥様を殺すところだったではないか。この勇敢なお嬢様がいなかったら……」
ポワロは言葉を切って、シンデレラがかがみこんで、ルノール夫人に力をかしているところへ、部屋を横切っていって、いきなり、フランス風に彼女を抱きしめた。……これには、私はちょっと当惑した。
私は薄ぼんやりした状態でいたが、ポワロに鋭く、夫人のために早く医師を呼んでくるように命じられたので、ようやく頭が、はっきりしてきた。その後で、警官を呼びにいけといい、そらからさらに、私の憤慨を完全なものにするように、
「君がここへ帰ってきても、もう何にも役に立ちませんよ。私はいそがしくて、君の相手になんかなっていられませんからね。このお嬢様には、看護婦の役をつとめていただきます」というのであった。
私はできるだけ威厳を保って引きさがった。そして、自分の役目を果すと、ホテルへ帰った。それまでに起こったことは、私には何も理解できなかった。その夜の出来事は、夢のように、不可能に思われた。誰も私の疑問に答えてくれなかった。誰も私のいうことなど聞こうとしなかった。私は腹を立て、寝台に身を投げ出して、困惑し、また、すっかり疲れ果てて、眠ってしまった。
私が眼を覚ました時には、開け放った窓から、日光がそそぎ込み、きちんと服装を調えたポワロが、微笑しながら寝台の傍に立っているのであった。
「ようやく眼が覚めましたか! 君はまったく寝坊助ですね、ヘイスティングス君! もうやがて、十一時だということをごぞんじかね?」
私はうなって、頭に手をやった。
「僕は夢を見ていたのかも知れない。僕はほんとうにこんな夢を見たんですよ。僕らがルノール夫人の部屋で、マルト・ドーブリーユの死体を見つけたんです。そしてあなたが、ルノール氏を殺したのはあの女だといわれたんです」
「君は夢を見たのではありません。それはみんな、ほんとうのことです」
「しかし、ベラがルノール氏を殺したんでしょう?」
「いや、ちがいますよ、ヘイスティングス君。ベラ嬢が殺したのではないのです。自分の愛する人を断頭台から救うために、自分が殺したといったのです」
「何ですって?」
「ジャック君の話を思い出してごらんなさい。二人は同時に、現場に到着したのです。そしてお互いに相手が犯罪を行なったものと思い込んでしまったのです。ベラ嬢は、恐怖にかられてジャック君を見つめ、それから、叫び声をあげて逃げていきました。けれども、いよいよジャック君がその犯人ときまったと聞くと、じっとしていられなくなり、自分が犯人だと名乗って出て、彼を、死刑から救おうとしたのです」
ポワロは、椅子に深々と腰をかけて、いつもの癖で、両手の指を合わせて、語り出した。
「この事件はどうも私には満足がいかなかったのです。私は最初からずっと、これは犯人が警察の追跡をのがれるために、巧みにルノール氏自身の計画を利用して行なった、冷酷な計画的犯罪だと考えていたのです。前にも君にいったかも知れませんが、偉大なる犯罪者というものは、常に非常に簡単にやるものです」
私は、うなずいた。
「さて、この推理を支持するには、犯人はルノール氏の計画を熟知していなければならないということになります。そうなると、ルノール夫人に嫌疑がいきます。しかしいろいろな事実が、夫人の有罪を否定しております。では夫人のほかに、ルノール氏のたてた計画を誰が知っているかということになります。さよう、マルト自身の唇から、私どもは、ルノール氏と浮浪者とが口論したということを聞いたのでした。もし、マルトがそれを聞いたのなら、ほかのことも……特に、ルノール夫妻が無用心にも、ベンチで相談していたことを聞かなかったという理由はありません。あそこで、君も、ジャックとマルトの会話を、どんなにたやすく聞くことができたかを、思い合わせてごらんなさい」
「しかし、マルトがルノール氏を殺すような、どんな動機があるでしょうか」と、私は反駁した。
「どんな動機ですって? 金ですよ。ルノール氏は億万長者ですよ。彼が死ねば、その巨万の富の半分は、息子のものとなると、ジャックもマルトも信じていたのですからね。マルトの立場から、殺人の場面を建てなおしてみましょう。
マルトは、ルノール夫妻の間に交わされた会話を立ち聞きしました。今までは、ドーブリーユ母娘にとってかなりの収入の源になっていたルノール氏が、彼らの手のとどかないところに逃げようと計画しているのです。最初マルトが考えたのは、きっとその逃亡を防止することだったでしょう。しかし、もっと大胆な考えが浮かびました。それは、ジャンヌ・ベロルディの娘にふさわしいものでした。今のところ、ルノール氏は、ジャックと自分との結婚の邪魔になっている。もし、ジャックが父に背《そむ》けば、彼は貧乏人になります。それは決して、マルトの望むところではありません。実際は、マルトは、ジャックを毛筋ほども思っていなかったと思うのです。彼女は、熱情をかりたてることはできますが、実は冷たく、勘定高い母親の性格をついだ女なのです。また、自分のほうでも、ジャックの愛情をしっかりと握っている自信がなかったのかも知れません。彼女は、彼を迷わし、とりこにはしたものの、父親は雑作なく彼を遠くへやってしまうことができるから、もし彼が自分から離れていたら、彼を失うことになるかも知れないと思ったのでしょう。しかし、ルノール氏が死ねば、ジャックは巨万の富の半分を相続して、すぐにも結婚の運びになり、今までのように、何千というようなはした金ではなく、何百万という財産が転げ込むことになるのです。彼女のかしこい頭脳は、それが簡単であることをすぐに理解しました。実にやさしいことです。ルノール氏は、自分を死亡させる種々な情況を作りあげています。彼女は、ちょうどいい時機に出ていって、その茶番劇を陰惨な現実に変えてしまえばいいのです。それから、私の眼を間違いなくマルトに向けさせた第二の点は、短刀でした! ジャックが記念品として、三本作らせた短刀の一本を母親に、一本をベラに贈ったのでしたら三本目のをマルトに与えたということは、まったくあり得ることではないでしょうか?
そこで、要約すると、マルトに対して四つの点があげられるのです。
(1)マルトは、ルノール氏の計画を立ち聞きすることができた。
(2)マルトは、ルノール氏の死によって、直接の利益を得ること。
(3)マルトは悪名高きベロルディ夫人の娘であること。私の意見によれば、ベロルディ氏に直接手を下したのはコンノーであったとしても、道徳的にベロルディ夫人が夫殺しの犯人であること。
(4)ジャック以外に、第三の短刀を持っていた者があるとすれば、マルトがただ一人それに該当すること」
ポワロは、そこで言葉を切って、咳払いをした。
「もちろん私は、マルトのほかに、もう一人、ベラという女性の存在を知った時には、あるいは彼女が、ルノール氏を殺したかも知れないと思いました。しかし、この解答は感心しなかったのです。なぜなら、君にも前に指摘したように、私のような練達の士ともなれば、自分の力量にふさわしい敵に立ち向うのを好むものなのですよ、ヘイスティングス君。それにしても、犯罪というものは、自分の好みに任せて受け取るべきものではなく、あるがままを受け容れなければなりません。ベラが、記念品の短刀を持ってふらふら歩きまわっていたなどとは、誠にありそうもないことです。しかし、また、彼女が常日ごろ、ジャックに復讐しようと考えていたかも知れませんね。彼女が実際に出てきて、殺人を告白した時には、それですべては終ったと思われました。それにもかかわらず、私はなおも満足しなかったのですよ。君、私は満足しなかったのです……
私はもう一度、この事件を細かく検討してみました。そして、その結果は、やはり同じでした。もしベラ嬢でなかったといたしましたら、その犯罪を行なうことのできた人はマルトよりほかにないという結論に達したのです。ところが私は、マルトに対する証拠を一つも握っていないのでした。
そこへ君が、ドルシー嬢からきた手紙を見せてくれたのです。私はそれで、もう一度、この事件を検討するチャンスをつかんだのです。一番最初の短刀は、ドルシー嬢によって盗まれ、海中へ投げ込まれてしまいました……それが姉の所有品だと思っていたのです。ところが、実際は、姉のものではなかったのです……それはジャックからマルトに贈られたものだったのです。そうなると、ベラ嬢に贈られた短刀は、まだ嬢の手許にあるはずです! 私はそのことを一言も君に話しませんでした(それは恋愛沙汰にかかりあっている時ではありませんでしたからね)。とにかく、私はドルシー嬢を探し出して、私の必要と思うことを打ちあけて、姉の所持品の中を、探してもらうようにしたのです。ですから彼女が(私のいったとおりに)その大切な記念品を持って、ロビンソン嬢として私に会いに来てくれた時の、私の得意さを想像してください!
一方私は、マルト嬢をあかるみに引き出すように工作したのです。私の要求でルノール夫人は、息子を勘当し、翌朝になれば、父の遺産は一ペニーたりとも手がつけられないように処置すると宣言したのです。これは非常手段でしたが、また必要なことだったので、ルノール夫人は危険を覚悟の上で承知されました。ところが不幸にして、夫人は寝室をかえたことを、私に知らせることを考えませんでした。おそらく夫人は私がその事実を知っていると思い込んでおられたのでしょう。マルトはルノール家の巨万の富を得ようとして、最後の大胆な行為をして……失敗したのでした!」
「僕にまったくわからないのは、どうしてマルトが僕らに気づかれずに、家の中へ入ったかということです。あれは実際に奇蹟でした。僕らはマルトをマーガレット荘に残してきて、まっすぐにジュヌビエーブ荘へいったのに……僕らの先廻りをしているとは!」
「ところが、私どもは彼女を残してきたのではなかったのです。私どもが彼女の母親と玄関で立ち話をしている間に、彼女は裏口からぬけ出していったのです。つまり、アメリカ流にいうと、このエルキュール・ポワロが『出し抜かれ』たというわけです!」
「しかし、あの窓に映っていた影は? 僕らは途中で振り返って見たんですからね」
「ああ、あれですか。ドーブリーユ夫人が、二階へ駈け上っていって、娘の代理をつとめたのですよ」
「ドーブリーユ夫人がですって?」
「そうですよ。一人は年とっていて、一人は若い。一人は瞳も髪も黒く、一人は青い瞳で金髪です。しかし、窓に影を映すには、二人の横顔の輪郭は、実によく似ておりますからね。私でさえ気がつきませんでしたからね……私は大ばか三太郎でしたよ。私は十分に時間があると思っていたのです……彼女が、ジュヌビエーブ荘へ忍び込むのは、もっとずっと後のことだと思っていたのです。彼女は利口者でしたよ。あの美しいマルト嬢は」
「それで、ルノール夫人を殺すのが目的だったんですね」
「そうです。そうすれば全財産が息子のものになりますから……ところで君、夫人の死は自殺ということになるところだったのです。マルトの死体の傍に、綿とクロロホルムの壜と、致死量のモルヒネの入った皮下注射器が落ちていましたよ。わかりますか? まず、夫人にクロロホルムを嗅がせ、意識を失ったところで、針をちくりとさすという寸法だったのです。朝までに、クロロホルムの匂いは消えてしまっておりますでしょうし、注射器がルノール夫人の手許に転がっていますし、そうすると、あの優秀なる判事殿は何というでしょう。……ああ、お気の毒な夫人だ! いわないことじゃない! あれだけ心配したところへ、この喜びで、刺激が強すぎたのです。頭が変になったのも不思議はない。私のいったとおりじゃないですか? 何としてもこのルノール事件は、徹頭徹尾悲劇でしたなあ……とね。
とにかく、ヘイスティングス君、マルトの計画どおりには事が運ばなかったのです。まず第一に、ルノール夫人は目を覚まして、マルトの来るのを待ちうけていました。つかみ合いが始まりました。しかし、ルノール夫人はまだ衰弱しているのでした。マルトには最後のチャンスがあったわけです。自殺という案はだめになりましたが、強い手でルノール夫人を沈黙させてしまえば、私どもが遠くで戸を叩いている間に、小さい絹梯子で逃げてしまい、私どもより先にマーガレット荘へ帰っていたでしょう。そうなれば、彼女に対する証拠を挙げるのは困難になるでしょう。しかし、彼女はついに追い詰められてしまいました。エルキュール・ポワロにではなく、鋼鉄のような手首をもった、可愛らしい軽業師にね」
私は、この物語全体を、もう一度考え直してみた。
「いつからあなたは、マルトを疑い出したのですか、ポワロさん。あの女が庭で口論を立ち聞きしたと、いった時からですか」
ポワロは微笑した。
「君、初めてメルランビーユへ乗り込んで来た時のことを覚えていますか? そして、門のところに美しい娘さんが立っていたのを? 君が私に、若い女神に気がつかなかったかと尋ねた時、私は、ただ、心配そうな眼をした娘を見ただけだと、いったでしょう? 私はそれで、最初からマルトのことを考えていたのです。|心配そうな眼をした娘《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》! なぜ彼女は心配しているのであろう? ジャックのためではない。なぜなら、前夜、彼がこの土地へ来たことは知らなかったのだから」
「それはそうと、ジャック君の工合はどうなんでしょうか」と、私はいった。
「ずっとよろしいのです。まだ、マーガレット荘におります。しかし、ドーブリーユ夫人は、逃亡してしまいました。警察で捜索中です」
「娘と共犯だったのでしょうか」
「それはわかりません。あの人は秘密を守ることのできる女性ですからね。私は、警察が、あの夫人を見つけるかどうか怪しいものだと思いますね」
「ジャック君は、聞かされたでしょうか」
「まだです」
「ひどいショックでしょうね?」
「そうでしょう。しかし、ヘイスティングス君、私はその点を疑うのです。彼の心はあの女にすっかり奪われていたでしょうか? 今まではベラ嬢を美しい歌で男を悩殺する海の魔女《サイレン》のように思い、ジャックがほんとうに愛しているのは、マルトだと考えていたのですが、その点をいろいろと再検討してみたら、私どもはもっと真相に近づくことができるのではないでしょうか? マルトは大そう美人でした。彼女はジャック君をとりこにしようと決心し、それに成功したのです。しかしジャック君がもう一人の女性と別れるのを妙に渋っていたのを思いあわせてごらんなさい。それからまた、ジャック君が、その娘さんを罪に巻き込むよりも、むしろ自分が喜んで断頭台に行こうとしたことを考えてごらんなさい。私にはちょっとした思いつきがあるのです。真実のことを知ったら彼は驚愕するでしょう……不快を感じるでしょう。そして偽りの恋はしぼんでしまうでしょう」
「ジローはどうしました?」
「大あわてでしたよ、あの人は! パリへ帰らないわけにいかなくなったのです」
我々は微笑を交わした。
ポワロは、まったく立派な予言者であった。ジャックに真相を聞かしてもさしつかえないと、医師がようやく許可した時、ポワロがすべてを打ちあけた。そのショックは実にひどかった。だが、ジャックは、私が想像したよりも、遙かに早く回復した。その困難な日々を生きぬくのに、母の愛情が大いに助けとなった。今ではこの母と子は、離れることのできない仲となっていた。
やがて、それ以上のことが息子に知らされる時がきた。ポワロは、自分が夫人の秘密を知っている事実を語り、ジャックに、父の過去を知らせずにおくべきでないと説いた。
「奥様、真実をかくしておくのは、決していいことではございません。勇敢にすべてを話しておしまいなさいまし」
ルノール夫人は、重い心でそれに同意した。そして息子は、自分が愛していた父が、実は法律上のお尋ね者であったことを聞かされたのであった。ジャックがいいたくてもいえないでいた質問は、すぐポワロによって答えられた。
「安心をしなさい、ジャック君。世間では何も知りません。私の知るかぎりでは、このことを警察に知らせなければならない義理合いはありません。この事件の間中、私は警察のためではなく、君の父上のために働いたのです。正義はついに彼に追いついてしまったのです。しかし、ルノール氏とコンノー氏とが、同一人物であることを、世間に知らせる必要はありません」
もちろん、この事件には、警察にとって、不可解な点が種々あったが、ポワロが、すべてを非常に、もっともらしく説明したので、それらの疑問は徐々にしずまっていった。
我々がロンドンへ帰って間もなく、私は、ポワロの部屋の暖炉の棚に、猟犬の置物が飾ってあるのに気がついた。私の物問いたげな視線に、ポワロは、うなずいて答えた。
「そうですよ! 私は五百フランをジローから取ったんですよ。すばらしい猟犬でしょう? これにジローと命名するつもりです」
五六日して、ジャックが顔に決意を浮かべて、我々を訪ねてきた。
「ポワロさん、お別れに来ました。僕はもうすぐに南米へ出発します。あの大陸には、父が相当な利権をもっていましたので、そこで新生活を始めようと思うんです」
「ひとりで行かれるのですか、ジャック君」
「母が一緒にいってくれます……それから、ストーナー君にも秘書として行ってもらいます。あの人も浮世離れした土地へ行きたがっているんです」
「ほかには誰も一緒にいかないのですか」
ジャックは赤くなった。
「あなたのいわれるのは……」
「君を心から愛しているお嬢様……君のために喜んで生命を棄てようとしたお嬢様のことですよ」
「どうしてあの人に頼めるものですか……あんなことの起こったあとで、僕があの人のところへいって……一体僕に、どんな辻褄の合わない話ができるっていうんでしょう?」
「女性というものは、そういう話にうまく辻褄を合せてくれる、驚くべき才能をもっているものですよ」
「しかし、僕はあまりにばかだったので!」
「私どもは、誰でも、何かにつけて、そうなのです」とポワロが、哲学的にいった。
しかし、ジャックの表情が固くなった。
「ほかにもまだあります。僕は父の息子です。それを知っていて、誰が僕と結婚してくれるでしょう?」
「君は父上の子だといわれるが、ここにいるヘイスティングス君は、僕が遺伝学を信じているということを証明するでしょう……」
「それならなおのこと……」
「まあ、お待ちなさい。私はある夫人を知っております。勇気のある、忍耐強い、偉大な愛情をもち、崇高な犠牲を払える……」
青年はポワロを見あげた。その眼はやわらいだ。
「僕の母ですね!」
「そうです。君は父上の子であると同時に、母上の子でもあるのです。ベラ嬢のところへおいでなさい。そして何もかもお話しなさい。何事もかくしてはなりません……そしてあのお嬢様が何とおっしゃるか、みてごらんなさい」
ジャックは決心がつきかねる様子であった。
「子供としてでなく、一個の男子として……過去の運命に打ちひしがれ、今日の運命にうなだれている男。しかし、新しい素晴らしき人生を期待している男として、彼女のところへ行って、生涯をともにしてくれるように頼んでごらんなさい。君が気がつかないかも知れませんが、君たちの愛情は、火の中で鍛えられたのです。そして、お互いに愛情がかけていないことが、わかったのです。二人とも、お互いのために、生命を投げ出し合ったのです」
さて、このつつましき記録係りである、ヘイスティングス大尉は、どうしたであろうか?
彼が海を越えて、ルノール家の農場へ行ったという話もあるが、今はこの物語りの終りにあたって、ジュヌビエーブ荘の庭園の、ある朝のことを記録しておきたい。
「僕は君のことを、ベラとは呼べませんよ。君の名ではないんだから。しかし、ドルシーというのは、どうも、なじめない気がするし、だから、やっぱりシンデレラということにしますよ。シンデレラは、王子様と結婚しましたね。僕は王子ではないけれども……」と私がいうと、彼女はそれをとめた。
「シンデレラは、よく警告しておきましたわ。いいこと、彼女はお姫様に変るとはお約束しませんでしたのよ。彼女は、つまり、ただの皿洗い女にすぎませんし……」
「今度は王子がとめる番ですよ。その時、彼が何ていったか知っていますか」
「……畜生!……と王子はいって……それからキッスをしました」
そして、私は、その言葉どおりに行動した。(完)
訳者あとがき
クリスティ女史が、推理小説家として彗星のように英国文壇に現れ、世界中の推理小説愛好者から喝采を受けるようになったことについて、次のような挿話が伝えられている。
ロンドン社交界のお歴々の集まる晩餐会で、話題が推理小説に及んだ時、血なまぐさい殺人事件などを扱う小説、とくに推理力を働かせなければならない作品は、とうてい女性には書けないという点で、大方の意見が一致した。
そこでクリスティ女史は、それに対して女性といえども推理小説を書く能力を持っていると主張し、それを実証するために「スタイルズ荘の怪事件」という長編小説を書いた。
それは第一次世界大戦中(一九一四年七月――一九一八年十一月)で、女史は赤十字病院に薬剤師として奉仕している最中、勤務の余暇にこつこつと書いたもので、終戦後一九一九年に出版されたのであった。
この第一作が非常に評判となり、つぎつぎとすばらしい作品が世に送られ、一作ごとに熱狂的な歓迎を受けた。こうして、女史が推理小説界に女王として君臨しようとは、出版社も女史自身も夢想だにしなかったであろうといわれている。
一九五〇年に、女史は第五十冊目の長編推理小説を発表し、その出版記念会には内外の有名無名の読者から、熱誠を込めた祝詞が寄せられた。それらの読者の中の一人で、当時の英国首相アトリー氏は、祝詞のなかで次のように言っている。
私はアガサ・クリスティ女史のすばらしい創意と、秘密を摘発する最後の段階に至るまで、実に巧妙に極秘にしておく才能を称賛し、また楽しむ者であります。さらにまた、私は他の探偵小説家の持っておらぬ、女史の要素に敬服しております。その要素とは、女史が英語を実に簡潔明瞭に書く才能を持っておられる点であります。
これは確かにそのとおりであるから、この訳書が、読者にとって英語を勉強する手引きとなり、原書を読まれるようにと、希望する。
アガサ・クリスティ女史は一八九一年に、英国デボンシャーのトウケイに生まれ、幼いころから美しい田園風景の裡に自由な空想と、文学趣味豊かな母の愛に恵まれて、すくすくと成長し、将来女流作家になる夢を抱いていたという。十六歳の時、音楽の修行にパリへ行った。
彼女は考古学者マックス・ワロワン氏と結婚し、ダート川に臨む古風な邸宅で創作に専念しながらも、ワロワン氏が発掘旅行に近東地方その他の地へ出かける時には同行し、その仕事に協力するというふうで、幸福な家庭の主婦である。
クリスティ女史の創造した名探偵のエルキュル・ポワロは、コナン・ドイルの創造した、シャーロック・ホームズと共に、まるで現存している人物という錯覚を抱かせるほど、読者にとって親しみ深い存在である。
といっても、ポワロはけっして映画俳優に抜擢されるような好男子でもなければ、性格俳優という風貌でもなく、その辺で見かけても誰も気づかないような存在である。いや、そんなことはない。気づかないどころか、誰でも彼を見ると、今どき珍しい男がいたものだと訝《いぶか》りながら、その卵型の頭を小鳥みたいに傾けて、緑色の眼を無邪気に見張っている人物に注意するであろう。というのは、彼が鼻下に蓄えている、みごとな美しい髭のせいである。
ポワロは誰かが、そのつばめの羽根をひろげているような髭に注目しているのに気がつくと、すこぶる満悦のていで、チックで固めて、ぴんとさせたその髭を、そっとなでるであろう。
それはポワロの自慢のもので、どんなに忙しい時でも、この髭の手入れだけは怠らない。それに彼は、滑稽なくらい身だしなみに気をつけるたちで、服にはいつもブラシをかけ、シャツにも、ネクタイにも、靴にも細心の注意を払い、常に一糸乱れぬ服装をしている。ちょっとしたほこりでも、目に止まらないほどの汚点でも、我慢のできない性分である。もし砂漠を自動車で旅行するような場合があったら、ポワロは櫛とブラシを使いつづけ、チックで固めた大切な髭が乱れはしないかと絶えず気にしていて、窓外の景色も目に入らなければ、いつも連れ立って歩くヘイスティングス大尉の話も、耳に入らないだろうと評されているほどである。
たいへんに礼儀正しく、とくに女性に対しては優しく慇懃で、言葉使いもていねいであるが、自分でも「ポワロはライオンになりますぞ!」というように、ふだんは温厚な彼も、時と場合によっては、すさまじい剣幕で不正者を威嚇して本音を吐かせることもする。
何かというと、「あなたの小さな脳細胞をお働かせなさい」というし、「私のちょっとした思いつき」ということを口にする癖がある。ところが、ポワロのこの「ちょっとした思いつき」というのが、実はなかなかのくせ者なので、それが彼の脳細胞に浮かんでくると、彼の眼は猫のようにきらきら光り出すのが常である。
とにかく、ポワロは愛嬌があって、人情味豊かで、何となくユーモラスな感じがするので、誰にでも親しまれ、好感を持たれる存在である。
彼の大好物は、オムレツとチョコレートと牛乳で、煙草は婦人好みの細巻きを愛用している。
こういう人物を世に送り出した、作家クリスティ女史とはどういう人物かというと、女史自身の告白によると、たいていの食物は何でも好きで、食べることを楽しむが、アルコール分を含んだものは嫌いで、酒類をいっさい口にしない。煙草も、どうしても好きになれない。
愛好しているのは花で、海に対しては熱狂的な愛着を持っている。芝居は好きだが、トーキー映画や、ラジオや、その他騒がしい音は我慢がならない。したがって、市中に住むのは好まない。旅行はよくするが、たいてい近東地方で、とくに砂漠に魅力を感じているとのことである。
こういうことを知っていると、作品を味わうのに役立つであろう。
なお、最後になったが、本書の原題は The Murder on the Links、クリスティが著した三作目の長編である。(訳者)