アガサ・クリスティ/松本恵子訳
エッジウェア卿の死
目 次
一 男爵夫人の宣言
ポワロ、口髭を論ず
ポワロ、ジェーンの依頼に応ず
金のいれ歯をした男
男爵の返信の行方
彼女、とうとうやりましたか!
ジェーンのアリバイ
口にくわえた薔薇の花
ポワロの狼狽
二 黄金の小函
ポワロ、誓いをたてる
Dとは何者か? それを探せ
顔の半面がかくれる帽子
私は父を憎んでいました
新男爵ロナルドの証言
小さなオムレツでも食べましょう
十三番目の客
ジャップ警部の意見
三 マーシュ大尉の逮捕
執事は失踪した
ポワロ、探偵の礼儀を講ず
マートン侯母堂の来訪
カーロッタの最後の手紙
私はあなたを信じます
私どもは、間違っておりました
破られていた手紙の一頁
鼻眼鏡をかけた女性
四 パリスと巴里《PARIS》
中断された電話
ポワロ、手紙の謎を解く
路上のインスピレーション
エリス鼻眼鏡をかけて帰る
ポワロ、借りを返す
ポワロ、種を明かす
人間記録《ヒューマン・ドキュメント》
登場人物
エッジウェア卿……男爵家四代目の当主、変質者的性格の持ち主
ジェーン・ウィルキンソン……エッジウェア卿夫人でアメリカ系女優
カーロッタ・アダムズ……アメリカ人の女優
ブライアン・マーティン……映画俳優
マーシュ大尉……エッジウェア卿の甥
ジェラルディン……エッジウェア卿の先妻の娘
オルトン……エッジウェア卿の執事
キャロル……エッジウェア卿の秘書
エリス……ジェーン・ウィルキンソンのメイド
ドライバー……婦人帽子店主
マートン侯爵……独身の貴族
マートン侯爵未亡人……マートン侯爵の母
ロス……新進舞台俳優
ジャップ警部……ロンドン警視庁警部
ヘイスティングス大尉……退役将校
エルキュール・ポワロ……私立探偵
一 男爵夫人の宣言
ポワロ、口髭を論ず
世間の記憶は、はかないものである。あれほど激しい興奮と興味を巻きおこした、エッジウェア男爵事件でさえ、すでに過去の出来事として葬られてしまっている。実際あれほど世間を騒がせた事件はなかった。
わが友エルキュール・ポワロが、あの事件に関係したことは当時、ついに公表されなかった。それはポワロの希望によるものであった。彼は自分があの事件にたずさわったことを、あまり発表したがらなかった。というのは、ポワロの見解によると、あの事件は、彼の失敗の一つだというのである。彼は、あの事件の正しい足どりをつかみ得たのは、往来で、ゆきずりの他人が、ふともらしたある言葉のお陰だと力説していた。
それはそうかも知れないが、事件の真相を明らかにしたのは彼の天才によるもので、もしポワロがいなかったら、果たして犯人をつきとめることができたかどうかは疑問である。
それゆえ、もうそろそろ私が、あの事件について自分の知っているかぎりを、そのまま書いてもいい時機ではないかと思う。私はあの事件に関する一部始終を知っているし、それにこれを世に発表するのは、かの一世を悩殺した女性の希望を満たすことにもなるであろう。
私は、あの整然としたこぎれいな居間で、ポワロ氏が絨緞の縞模様に沿ってゆっくりと歩きながら、巧妙をきわめた驚嘆すべき事件の真相を語った日のことを、今でもはっきり覚えている。
私は、あの時ポワロ氏が語り出したように、昨年六月のロンドンの劇場の場面から書き始めることにする。
カーロッタ嬢は、当時ロンドンを熱狂させていた。彼女はその前年に、二三の昼興行《マチネー》に出演して大成功をおさめ、その年は三週間興行に契約して、その晩が千秋楽の前夜であった。
カーロッタ嬢はアメリカ娘で、背景や扮装の助けを借りずに、単独で、いく場かの寸劇を演じるのであった。それに彼女はあらゆる外国語を巧みに使いこなせるようであった。当夜の外国ホテルの一景などは、実にすばらしいものであった。彼女はアメリカ人の旅行者、ドイツ人の旅行者、中産階級の英国人家族、いかがわしき女たち、落ちぶれた貴族たち、疲れはてた分別くさい顔をした給仕たち、などをつぎつぎと登場させていった。その描写劇は深刻な場面から陽気な場面へ、そして再び深刻な場面へと展開していった。病院の一室で死んでゆくチェコの女を演じた時には、観客たちは胸のふさがる思いをさせられたが、次の瞬間には、商売熱心な歯医者が患者にお世辞たらたらで治療をするところを演じて、見物は腹をかかえて笑わされた。
最後の演出物《だしもの》は『人物模写』と銘をうって、これも驚くほど達者であった。メークアップなどは全然なしで、彼女の顔は突然に消えてしまって、有名な政治家とか、女優とか、社交界の美人などに、変貌するかのように見えた。彼女は一人の人物を演ずるごとに、短い挨拶の言葉を述べるとか、ちょっとした演説を行なった。それがまた実に堂にいったもので、それぞれの急所を突くの感があった。
最後の人物模写は、ロンドンで評判になっていた有名なアメリカ女優ジェーン・ウィルキンソン嬢であった。これもすばらしい出来ばえであった。彼女の唇からほとばしり出る、たあいのない文句が、力強い感情をこめて訴えるような調子を帯びているので、つい何か人を感動させるような深い意味があるごとく感じさせられた。その声も深味のある、ちょっとかすれた、何ともいえない魅力のある調子をだして聞き手を酔わすのであった。妙に暗示的で控え目な仕草、いく分からだをゆする癖、全体の雰囲気から、個性の強い天性の美貌まで写しだすので、一体どうしてそんなことができるのか、私には考えがつかなかった。
私はかねてから、美しいジェーンの崇拝者であった。彼女の情緒ゆたかな演技には、いつも感激していた。そしてジェーンが美人であることは認めるが、彼女は女優ではないと公言する人々に、面と向かって彼女は非常な演技力を持っていると力説するのが常であった。
しばしば私を感動させた、あの宿命的な調子をおびたいく分しゃがれた声を聞き、あのゆっくりと手を握りしめたり、開いたりする上品で小気味の良い動作や、劇的な場面の終末にいつも彼女のやる、突如頭を後方へやり、顔にかかる髪を後ろへ振りあげる仕草などを、カーロッタが模写するのを目のあたりに見ていると、少し無気味な感じがした。
ジェーンは結婚して一旦引退はするが、一二年後には再び舞台に返り咲くといったたぐいの女優の一人であった。
彼女は三年前に、金持ちだが、変人だという評判のエッジウェア男爵と結婚したが、噂によるとじきに別居してしまったということである。
とにかく、結婚して十八か月目にはアメリカで映画に主演していたし、今シーズンはロンドンで評判になっていた劇に出演していた。
カーロッタの、巧みだがいく分悪意のある模写を見て、私はこうして槍玉にあげられる本人は、この模写をどんなふうに受け取るだろうと考えていた。その人たちは、有名になることを喜ぶであろうか……いい広告になるというので。それとも自分たちの商売の手を、故意にあばかれて、当惑しているであろうか……カーロッタは、いわば商売仇の手品師みたいなもので、「ああ、あんなのは古い手ですよ、とても簡単なものですわ。あの人の手を、私やってお目にかけましょうか!」というふうにもとれる。
私は、もし自分が槍玉にあげられている本人であったら、ひどく不愉快な思いをするだろうという結論に達した。もちろん当惑していることは、表面にださないだろうが、断然よろこびはしないと思った。
私がこうした結論に達した時に、舞台から聞こえている快いジェーンのかすれた笑い声が、反響するように私のうしろから聞こえてきた。
はっとして後ろを振り向くと、ちょうど私のすぐ後ろの席に、その時の模写の対象になっていたエッジウェア男爵夫人というよりも女優ジェーンが、なかば唇を開いて、前へ身を乗りだすようにしているではないか!
私はすぐに自分の結論の誤りに気がついた。ジェーンは喜びと興奮に唇を開き眼をかがやかして、舞台に見とれているのであった。『人物模写』が終ると、彼女は激しく拍手をし、笑いながら同伴者をかえり見た。それはギリシアの神のようなタイプの非常な美貌の持主で、舞台よりも銀幕で顔なじみの、当時もっとも人気のあった映画俳優ブライアンで、ジェーンは数本の映画に彼と共演していた。
「すばらしいじゃありません?」と、ジェーンがいった。
「あなたは、すっかり興奮しているようだなあ」と、ブライアンは笑った。
「そうよ、まったくすばらしいものね。私が考えていたより、ずっとうまいわ」
それに対してブライアンが、面白そうに何かいったが聞き取れなかった。舞台ではカーロッタが、また別の即興劇を始めた。
その後に起こったことを、私はいつもふしぎな偶然の符合だったと思っている。
劇場を出てから、ポワロと私はサボイ・ホテルへ夕食をしに行った。
われわれのすぐ隣のテーブルには、ジェーンとブライアンとほかに二人、私の知らない人が着席していた。私がポワロに、その美男美女がいることを知らせていると、別の二人連れがその先のテーブルについた。その女のほうは見覚えのある顔であったが、妙なことには、すぐには誰だか見当がつかなかった。
だが、ふとそれがついさっき自分が熱心に見物していた、カーロッタであることに気がついた。連れは私の知らない男だった。身だしなみが良く、陽気で、何となく頭がからっぽという感じの顔つきで、私の好きなタイプの男ではなかった。
カーロッタは、黒ずくめのめだたない服装をしていた。彼女の顔はたちまち注意をひくとか、すぐ思いださせるという種類のものではない。それは変化にとんだ感受性の強い顔だちで、人物模写には非凡の才能を示すにあつらえ向きであった。まったく異なった性格を雑作なく表現することのできる顔だが、顔そのものはあまり特徴のないものであった。
私はこうした自分の考えをポワロに語った。彼は卵なりの頭をちょっとかしげて、熱心に耳を傾けながら、鋭い視線を問題の二つのテーブルに投げていた。
「なるほど、あれがエッジウェア男爵夫人ですか、あのご婦人の舞台を見たことがありますよ。なかなか美人ですね」
「それに立派な女優です」
「そうでしょうか?」
「ポワロさんは、異議がおありのようですね」
「私の考えでは芝居によりけりだと思いますね。もし劇の中心人物で、周囲が彼女を取り持ってくれさえすれば、自分の役柄をうまく演ずるでしょうが、脇役や性格的役柄を、充分にこなせるかどうか疑わしいと思われます。彼女のために、そして彼女について書かれた脚本でなくてはうまくいかないでしょうね。あのご婦人は自分自身のほかには、関心を持たないタイプの方のように見受けられます」と言葉を切ってから、ポワロは突然に、
「ああいうタイプの人物は、非常に危険な世渡りをするものでございますよ」とつけ加えた。
「危険ですって?」私はあっけにとられていった。
「君は私のつかった言葉に驚いたようですね。さよう、確かに危険だと思われますね。ああいう性格の女性というものは、ただ一つのこと……自分自身だけより見つめていないものだからです。そういう種類の女性は、周囲の危険や冒険……人生の相反する利害や人事関係など眼中におかない。それどころか、そういう女性は自分のすぐ前にある道だけしか目に入らないものですからね。したがって早晩、破局がくるというわけですね」
私は興味を覚えた。そして自分はそういう見方に気がつかなかったことを、ひそかに自認した。
「では、もう一人のほうは?」
「カーロッタ嬢ですか」
ポワロはちらと彼女のテーブルに眼をやって笑いながらいった。
「さて、あのご婦人について、私に何を語れとおっしゃるのかね」
「ただどんな印象を受けられたかと思って」
「おやおや、今晩は私に、手相を見て性格を語る占い師になれとおっしゃる」
「あなたは、たいていの占い師よりもすぐれていらっしゃる」
「そう信用されると、私もつい心を動かされますよ。ヘイスティングス君、われわれ人間は、それぞれ不可解な謎であり、激情や欲望や性癖などの相反しあっている迷路のようなものだということをご承知ではないですか? まさにそのとおりなのですよ。人はそれぞれ何かの批評を下すが、十のうち九までは誤っているものですからね」
「エルキュール・ポワロは、さにあらずですね」私は微笑しながらいった。
「それはポワロだってですよ! あなたがいつも私のことを、うぬぼれが強いと考えておいでのことは、私も承知していますがね、しかし実際、私は非常に謙遜な人間なんですよ」
「あなたが謙遜ですって?」私は笑った。
「そうですとも……ただ白状するとこの口髭だけは多少自慢にしてはいますがね。ロンドンじゅうどこへ行っても、私のこの髭に匹敵するのはございませんからね」
「その点、ご安心なさい、決してそれ以上のが見つかることはありますまい。ところで、あなたはカーロッタ嬢に批評を下すような危険はおかさないとおっしゃるんですか」
「かの君は芸術家にてぞおわします! その一言につきるではございますまいか」
「とにかく、あなたは彼女の人生行路には、危険はないとお考えなのですね」
「われわれはみんな、危険な人生行路を歩まねばなりません。不幸は常に、われわれにおそいかかろうと、待ち伏せております。それはそうと、君の質問については、カーロッタ嬢は成功すると思われますね。抜け目がないばかりでなく、何かそれ以上のものをお持ちですし、君もあのご婦人がユダヤ系だということにお気づきでしょうね」
私は気がつかなかったが、そういわれて見ると、いくらかユダヤ人の血がまじっているように思われた。ポワロは何か、ひとりうなずいていた。
「商魂たくましきユダヤ人の血すじをひいておいでだから、成功すると見たのです。とは申すものの、危険という問題が出ております以上は、あの方の行路にも危険横町があることを申しそえましょう」
「と、おっしゃると?」
「金銭崇拝心です。金銭に対する愛着ゆえに、ああいうご婦人は、とかく慎重な用心深い本道を踏みはずすものでございますからね」
「人間だれしもみんな、そうではないでしょうか」
「それは確かにそうですが、少なくもあなたや私は、金銭にともなう危険を見|透《すか》しておりますでしょう。私どもは金と危険を秤《はかり》にかけることを心得ております。ところが、あまり金を欲しがると金だけが眼について、そのほかのものは全部かげにかくれてしまうものです」
ポワロがあまり真剣になっているので、私は笑い出し、
「ジプシー女王のエスメラルダなんかは、いい例ですとも」と茶化すようにいった。
だが、ポワロは|びく《ヽヽ》ともしないで、言葉をつづけた。
「人間の心理というものは、なかなか興味があるものです。心理学に興味を持たなくては、犯罪に興味を持つことはできません。専門家にとって心をひかれるのは、単なる殺人そのものではなく、その背後に横たわるものなのです。私の申す意味はお解りでしょうね」
私はよく解る旨《むね》を答えた。
「君と一緒に事件の解決にあたる場合、君はいつも私に肉体的活動を強いようとしますね。君は私が細かな点を調べるために、床《ゆか》を四つ這いになったり、足跡の寸法を測《はか》ったり、煙草の灰を分析したりすることをお望みになります。ヘイスティングス君、君はどんな問題でも、安楽椅子によりかかって眼を閉じている時に、一番解決の道に近づくという点を、どうしても納得なさらないようですね」
「僕には納得いきませんね。僕が安楽椅子に腰かけて眼を閉じていたら、眠ってしまうだけで、それ以外のことは何も起こりっこありませんよ」と私はいった。
「それは、私も気がついております。妙なことですね。そうしている時には、睡気を催すどころか、頭脳がもっとも活発に活動するはずですのに、どうしてでしょうね。心的活動ぐらい興味ぶかく、刺激的なものはないのですがね。小さな脳細胞を働かせるのは、一種の快楽ですよ。迷霧を通して真理に導いてもらうのに、一番頼りになるのは、この小さな脳細胞だけですよ」
私はどうも、ポワロがこの小さな脳細胞のことに及ぶと、いつも注意をわきへそらしてしまう癖がある。とにかく耳にたこができるほど、この文句を聞かされているので……。
この場合、私の注意は隣りのテーブルの四人連れのほうへさまよっていった。ポワロの長談義が終りに近づいた時、私はくすくす笑いながらいった。
「ポワロさん、あなたは射止めましたよ。ごらんなさい、あの美しい男爵夫人はあなたに見とれていますよ」
「きっと誰かに、私だということを聞かされたのでございましょう」
といって、ポワロは一生懸命に謙遜ぶって、自分は取るにたらない人間のような風をよそおうとした。
「きっとその見事な髭のせいですね。男爵夫人は、その髭の美しさに目を奪われているようです」と私はいった。
「それはそうでしょうとも、この髭はほかに類がございませんですからね」といってポワロは、そっと自慢の髭をなでて、言葉をつづけた。
「ヘイスティングス君、君の生やしているのは、いわゆる歯ブラシ型と申すので、まったくひどいですよ、無茶苦茶ですよ、自然の成長を故意に妨害しているというものです。そんなのは、ぜひやめていただきたいものですね」
私はポワロの忠告など、無視していった。
「これは驚いた! 男爵夫人が席を立って、われわれのところへ何かいいに来るらしいですよ。ブライアン氏が止めています。夫人は聞き入れないようです」
まさに、ジェーンはさっと席をはなれて、われわれのテーブルに近づいて来た。ポワロは立ち上がって、うやうやしくお辞儀をしたので私も立った。
「ポワロさんでいらっしゃいません?」
彼女は柔らかいかすれ声でいった。
「さようでございます」
「ポワロさんに、お話したいことがありますのよ。ええ、どうしてもお話しなければなりませんわ」
「どうぞ奥様、おかけくださいまして」
「いいえ、ここではだめ、内密にお話したいんですの。三階の私の部屋においでくださいません?」
ブライアンもそばへ来て、笑いながら非難するようにいった。
「ジェーン、少し待ちたまえ、われわれは食事の途中だし、ポワロさんだってそうなんだから」
しかし、ジェーンはそうたやすくは意志を曲げなかった。
「なぜなのよ、ブライアン、それがどうしたっていうの? お食事なんか部屋へ運ばせればいいじゃないの。給仕にそういいつけてちょうだい。それからね、ブライアン……」
ジェーンは彼が行きかけるのを追いかけるようにして、しきりに何か無理じいをしている様子であった。ブライアンは眉をひそめ、首をふってそれに反対しているようであったが、彼女がいっそう力を入れていい張るので、ついに肩をすくめて、聞き入れたらしかった。
ジェーンは彼に話している最中に、二三度カーロッタのテーブルに視線を投げたので、私は彼女がブライアンに何か強《し》いているのは、カーロッタに関係のあることではないかと思った。
自分のいい分が通ったので、ジェーンは晴れ晴れした顔をしてもどって来て、
「さあ、すぐ階上《うえ》へ行きましょう」と輝くばかりの微笑で、私も仲間に引きこんでしまった。
彼女はわれわれが自分の計画に同意するかどうかなどということは、てんで考えてもみないらしかった。彼女は、いい訳らしいそぶりも見せずに、われわれを引っさらっていくのだった。
「ポワロさんに今晩ここでお会いするなんて、とても幸運でしたわ。何もかも私の思うとおりになるなんて素晴しいわ。私、どうしようかしらと、さんざん考えたり、迷ったりした揚句、ふと顔をあげると、ポワロさんがちゃんと隣のテーブルにいなさるじゃないの! そこで私は、ああポワロさんは、きっと私にどうしたらいいか教えてくださるわと、自分にいいきかせたのよ」
ジェーンはエレベーターのほうへ行く途中、そんなふうに話しつづけていたが、エレベーター係に「三階へ」というために言葉を切った。
「何なりと、私にお助けすることができますれば……」とポワロがいいかけると、
「たしかに助けてくださることがおできなさるわ。あなたがとても驚異的な存在でいなさることは、私よくきいていますもの。私は誰かにこのもつれから救いだしてもらわなければならないので、それをしてくださるのは、ポワロさんよりほかにないと思いますのよ」
われわれは三階でエレベーターをおりた。彼女は先に立って廊下のはずれにある扉の前に立ちどまり、贅沢なサボイ・ホテルでも特に贅沢な部屋へ招じた。
ジェーンは白い毛皮のコートを椅子の上に投げかけ、宝石をちりばめたハンドバッグをテーブルの上に投げだすと、椅子にふかぶかと体をしずめていきなり、
「ポワロさん、私は何とかして、夫を追っぱらってしまわなければなりませんのよ!」と宣言した。
ポワロ、ジェーンの依頼に応ず
ポワロはあっけに取られたが、我に返ると、ひとみを踊らせていった。
「しかし奥様、旦那様追放は、私の畑ではございません」
「それは私、ぞんじておりましてよ」
「奥様に必要なのは弁護士でございます」
「そこが、ポワロさんのまちがっていなさるところですわ。私は弁護士には、もううんざりしているとこなんですのよ。私は立派な弁護士にも、いかさま弁護士にも頼んだんですけど、一人だって役に立たなかったんですもの。弁護士なんていうものは法律を知っているだけで、からっきし、常識がないみたい」
「で、私には常識があるとお考えなのでございますか」
彼女は笑った。
「あなたは、猫髭でいらっしゃると聞いてますわ」
「何でございますか、猫髭と申しますのは……私には理解できませんでございます」
「ほら、ラジオの鉱石受信器についているあれですのよ」
「奥様、私に頭脳が、あるにしろないにしろ……いや無能とは申しませんが、奥様のその件は私のあつかうべきものではございません」
「どうしてでしょう? これは事件というよりも、一種の問題ですのに」
「ああ、問題でございますか」
「しかも困難な問題ですわ。ポワロさんは、まさか困難にたちむかえないような方ではいなさらないでしょうね」とジェーンは持ちかけた。
「奥様のご洞察力には敬服いたしました。しかしそれにしましても、私は離婚に関する調査はごめんこうむります。それはあんまりかんばしくない仕事でございますのでね」
「あら、私あなたに夫の行状をスパイしていただくつもりはありませんのよ。そんなのは何の役にも立ちませんわ。ただ私はあの人からのがれたいんですのよ。それにはどうしたらいいか、きっとポワロさんなら教えてくださると思うの」
ポワロは少し間をおいてから、答えたが、その声には前とはちがった調子があった。
「では第一にお聞かせいただきたいのは、どういう訳で奥様は、そのように、エッジウェア男爵と別れたいとおっしゃるのでございますか」
ジェーンは何のちゅうちょもなく、即座にすらすらと答えた。
「だって、私、ほかの人と結婚したいんですもの。それよりほかに理由のありようはないじゃありませんか」
という彼女は青い眼を無邪気に見開いていた。
「しかし、離婚の承諾をおとりになるのは、さしてむずかしいことではございますまいが」
「ポワロさんは、私の夫を知りなさらないからよ。何ていったらよろしいかしら……あの人はとても変っているんですのよ……普通の人じゃないのよ」
ジェーンは身ぶるいをして言葉をきったが、
「あの人は、結婚なんかするべき人じゃないんだわ、ほんとうなんですのよ、何て説明したらよろしいかしら……とにかく奇妙な人ですわ。最初の奥さんは逃げてしまったでしょう? 生れて三月《みつき》の赤ちゃんを置きっぱなしにしてね。あの人はとうとう離婚に承諾しなかったんで、その奥さんは外国で、みじめな死に方をしなすったんですって、私こわくなってしまいましたのよ。で、アメリカへ逃げて行ったんですの。私には離婚の口実がないんです。たとえ理由をこしらえたって、あの人は取りあげませんもの。あの人は気狂いみたいなところがあるんですのよ」
「アメリカのある州では、簡単に離婚おできになるのではございませんか」
「イギリスに住むとなると、そんなの役に立ちませんわ」
「奥様は、イギリスに永住なさりたくていらっしゃるのでございますか」
「ええ」
「奥様が再婚なさろうとしておいでになる相手の方は、どなたでいらっしゃいますか」
「マートン侯爵ですわ」
私は思わず息をのみこんだ。マートン侯爵はこれまで、花婿《はなむこ》探しをしている母親たちの失望の種になっていた。侯爵は修道僧めいた性格で、こちこちの英国カトリック信徒で、恐ろしく見識ばった母親の前侯爵未亡人のいいなり放題になっていると噂されている。支那陶器の蒐集家で美術趣味に没頭して、女性には一向に関心を持たないということであった。
「私、あの方に夢中になっているのよ。あの方は、私がこれまで会った人たちと全然ちがうんですもの。今までに、こんなロマンチックなことって、起こったことがありませんのよ。それにとても好男子で……夢みる修道僧って感じですわ……」と、ジェーンは感傷的にいった。そしてちょっと間をおいて、
「私、離婚すれば舞台を思いきってしまうつもりですの、何だか私もう舞台にはあまり関心をもたなくなってしまったんですのよ」
「現在のところ、エッジウェア男爵が奥様のロマンチックな夢を、邪魔しておられると申すわけでございますね」
ポワロはそっけない調子でいった。ジェーンは椅子の背によりかかって、考え込みながら、
「ええ……それが私を破局に追いこむんですのよ。これがシカゴだったら、雑作なくあの人をかたづけてしまえるんですけれど、イギリスでは暴力団が存在していませんしね……」
「奥様、この国では、人間は誰でも生きる権利があるとみなされております」
「私にはそういうことは、よくわからないわ。でもこの国の人たちだって、政治家の中のある人物がいないほうが、国家のためになると思うでしょうね。男爵のことをよく知っている私は、あの人なんかいなくなったって、少しも損失どころか、かえって社会のためになるくらいと思うのよ」
その時、戸をたたく音がして、給仕が夕食の料理を運んで来た。ジェーンは彼が聞き耳をたてているのを喜ぶ様子で、自分の問題を論じつづけた。
「ですけれどね、ポワロさん、私はあの人をあなたに殺していただきたくはありませんわ」
「とんでもない!」
「私ね、ポワロさんだったら、きっとうまくあの人を説き伏せて下さると思ってるのよ。たしかに、あなたならあの人の頭に、離婚という考えをお入れになることができなさるわ」
「奥様は私の他人を説き伏せる力を、過大に評価しておいでになります」
「そんなことおっしゃって……ポワロさん、あなたならきっと、何かいい手をお考えになれますとも……」彼女は前へ身を乗りだすようにして、再び青い眼を大きくして言葉をつづけた。
「あなたは、私が幸福になればいいとお思いになりません?」
彼女の声はやさしく低くて、人を引きつけるような快いひびきをもっていた。
「私は、誰でもが幸福になればいいとぞんじます」ポワロは用心深くいった。
「私は、ほかの人のことなんか考えていないわ……自分のことだけ」
「奥様は、いつもご自分のことだけを考えておいでのようでございますね」
「あなたは、私を利己主義だとお思いになりますの?」
「奥様、私はそういうことは申しません」
「どっちかというと、私はそうなんですのよ。でも、私|不幸《ふしあわせ》になるのはとてもいやなんですもの。そういうことは私の演技にまで影響するんですのよ。で、あの人が離婚に同意してくれるか、死ぬかしなかったら、私はとても不幸《ふしあわせ》になりますわ」
彼女は、なおも考えながら語りつづけた。
「どっちかといえば、死んでくれたほうが、ずっといいんですわ。つまり、そうすれば、私は完全にあの人を追い払ってしまったという気持ちになれますもの」
そこで彼女は同情を求めるように、ポワロを見つめて、
「ポワロさん、私を助けてくださいますわね」といって、白い毛皮のオーバーを取りあげて立ち上がり嘆願するようにポワロの顔をじっと見つめながら、
「もしあなたが、やって下さらなければ……」
その時、廊下に起こった騒がしい話し声が開け放った戸口から聞こえてきた。
「私がお引き受けしなかったら?」
「私、すぐにタクシーをよんで、自分で出かけていって、あの人を殺《ばら》してきてしまうわ」といいすてて、ジェーンは笑いながら次の部屋へ姿を消してしまった。ちょうどその時、ブライアンが、カーロッタ嬢とその連れの男と、ジェーンのテーブルで食事をしていた二人をつれて入って来た。その二人はウィッドバーン夫妻として私に紹介された。
「おや、ジェーンはどこへ行きました。僕は使命を果したことを報告したいんですよ」
ジェーンは口紅を手に持ったまま、戸口に現われた。
「連れて来たの? すてきだわ、カーロッタさん、私ね、あなたの演技に感服してしまったのよ。で、ぜひお近づきになりたいと思ったの。ここへいらして、私が顔を直している間お話してくださらない? すっかりくずれて、ひどいことになってしまっているから……」
カーロッタはその誘いに応じて、隣りの部屋へ入って行った。ブライアンはどっかりと椅子に腰をおろした。
「ポワロさんは、しかるべく捕虜にされてしまいましたね。ジェーンは、あなたを戦闘に参加させるように説き落しましたか? 早晩あなたは陥落するにきまっていますよ。ジェーンは、否《ノー》という言葉を知らない人間ですからね」
「きっと、今までそういう言葉にであったことがおありにならないでしょう」
「実に興味ある性格の人ですよ、ご法度《はっと》なんてジェーンには何の意味もなさないんですからね。道徳なんていう言葉は通用しませんよ。僕のいうのは、ジェーンがふしだらだという意味ではないですよ。非道徳とでもいうほうが適しているかも知れない。ジェーンは人生で、ただ一つのことしか眼中に置かないんです。つまり自分のほしいものしか見ないんです」
ブライアンは椅子によりかかって、煙草のけむりを天井に吹きあげながら、しゃべりつづけた。
「あの人はきっと、いい気持ちになって、誰かを殺して、警察が捕えて絞首刑に処するなんていったら、大いに感情を害するでしょうよ。厄介なことには、彼女は平気で捕えられてしまうだろうということです。ジェーンはまったく無考えですからね。もし殺人をやるなんていう場合には、タクシーで堂々と乗りつけ、自分の名を名乗って、家の中へ入っていって、ピストルか何かでうち殺してくるでしょうね」といって、ブライアンは、声をあげて笑った。
「どういうところから、あなたは、そういうふうにおっしゃるのでしょうかね」ポワロはつぶやいた。
「ええ?」
「あなたは、あのご婦人をよくごぞんじのようですね」
「そういうことになるでしょうね」
ブライアンは再び笑ったが、私にはその笑いに、ただならぬ烈《はげ》しさがあるように思われた。
「あなた方も、僕の説に賛成でしょう?」
彼は、ほかの人たちに同意を求めた。
「そうですとも! ジェーンは利己主義者ですよ。もっとも女優というものは、そうなくてはなりませんでしょうけれど、つまりね、あの人が自分の個性を表現するとなればですね」とウィッドバーン夫人がいった。
ポワロは、だまってブライアンの顔を見ていたが、その眼には、私には全然理解のできない奇妙な何か思惑のあるらしい表情が浮かんでいた。
その時、ジェーンがカーロッタを従えて、隣室からしずしずと現われた。ジェーンはそれが何を意味しているか知らないが、思う存分に『顔をなおして』きたようであった。しかし私の見たところでは前と同じで少しも変っていなかった。
夕食会はなかなか陽気であったが、時折、何となくなじむことのできない空気が底に流れているような感じがした。
ジェーンには、少しも狡猾《こうかつ》なところがあるとは思われなかった。彼女は明らかに、一度に一つ以上のものを見つめることのできない女性であった。彼女はポワロと会見したいと希望すると、時を移さず実行に移し目的を果したのであった。それで彼女は明らかに上機嫌であった。彼女がこのパーティにカーロッタ嬢を加えたいと望んだのは、単なる彼女の気まぐれだろうと私は解釈した。彼女は自分の見事な模造品を目の前に置いて、子供のようによろこんでいた。私が感じていた底流は、どうもジェーンに原因しているものではないらしい。そうなると、どこから来たものであろう?
私は食卓を囲んでいる人々を、順々に観察していった。ブライアンだろうか……そういえば、彼の振舞《ふるまい》はたしかに不自然である。だがそれは単に映画俳優の特徴にすぎないかも知れない。また自信たっぷりの虚栄心が強い男は一つの役を演じる場合にはわけなく自己をわきへ押しのけてしまうものだ。
とにかくカーロッタ嬢は、いたって自然に振舞っていた。彼女は響きのいい低い声で話をする、おだやかな女性であった。私は彼女が幸いすぐそばにいたので、充分に観察することができた。彼女は独特の魅力をもっているが、それは控え目なものだと思われた。それに耳ざわりだとか感にさわるというような分子は一つも含まれていない、何となくなごやかな調和を感じさせるところがある。彼女の外見そのものが控え目である。柔らかい黒い髪、ほとんど色のないような淡青《うすあお》い眼、青白い顔、変化しやすい感受性の強い唇……それは誰でも好きになる顔だが、服装が変ると会っても誰だかちょっと思い出せないような顔である。
彼女はジェーンに愛想よくされたり、お世辞をいわれたりして、いい気持ちになっているようであった。私はさもありなんと思ったが、ちょうどその瞬間、私の早まった意見を変えなければならないようなことが起こった。
カーロッタはその時、ポワロのほうをむいて何か話しているジェーンを、テーブル越しにじっと見つめた。その眼つきに好奇心の強い、せんさく好きな色が浮かんでいた。それは思慮深く要点をつかんでいるというふうに見えるとともに、その淡青《うすあお》い眼には非常にはっきりと敵意があるのを私は認めた。
たぶん、それは私の想像かも知れない。あるいは職業的ねたみの現われかも知れない。ジェーンは成功の頂点に達した有名な女優であるし、カーロッタは成功を目ざして、階段をのぼり始めているところであった。
次に私はほかの三人に眼を移した。ウィッドバーン夫妻はどうかというと、氏は背の高いやせこけた男で、夫人はまるまると肥った色白で、思ったことは何でも口に出してしまう女性である。この夫妻は金持ちで、舞台に関係のあるものに対しては何によらず熱情をもっている人たちらしい。この二人は実際、ほかの話題には少しも興味を示さなかった。私が最近イギリスを離れていたので、その方面の消息に通じていないのを知ると、ついに夫人は丸い肩を私に向けてしまい、それきり私の存在など思いだしもしなかった。
最後の一人は、カーロッタにつきそって来た丸い快活な顔つきの青年であった。私は最初からこの青年が少し冷静を欠いているように思ったが、酒杯を重ねるにつれて、ますますそれがはっきりしてきた。彼はひどく侮辱されたという気持ちに悩んでいるように見えた。なぜかというと、食事中の前半は陰気にだまりこんでいたが、後半はまるで私を旧友の一人とでも思い込んでいるように何かと打ちあけ話をするのであった。
「ねえ、君、そうだろう……もし女の子をものにしようと思ったら、押しの一手でいけってね……何もかもぶちこわしてさ。言ってはならないことなんか、一つも言わないみたいな顔をしてさ……だが彼女はそういう種類の女性ではないんだ。……清教徒の先祖……ほらメイフラワー号でアメリカ大陸へ渡った……いまいましいことに彼女は生一本なんだ……僕のいう意味はね……ええと、僕は何をいっていたんだっけ……」
「それは不運なことでしたね」と私はなだめるようにいった。
「まったくいまいましいことさ! 僕はね、いまいましいことに、このパーティのためにさ、仕立屋から借金せざるを得なかったんだよ。そいつは実に気のきいたやつでね、僕の仕立屋がさ。僕はずっと前から、そいつには借りがあるんだ。それがわれわれ二人の間を結ぶきずなになっているってわけさ。ねえ君、このきずなほどいいものはないぜ、君と僕……君と僕……それはそうと、君は一体誰だったっけね」
「僕の名はヘイスティングスだ」
「そんなこというなよ、君がスペンサーというやつだっていうことを、僕は誓ってもいい。親愛なるスペンサー、僕は彼にイートン校で会って五ポンド借金したんだ。僕にいわせると、顔なんてやつはどれもこれも同じようなものさ。たとえば支那人なんか大勢いたって、どれが誰なんだか区別がつきっこないよ」
彼はそこで悲しげに頭をふり、急に元気づいて、ぐっとシャンペン酒をのみほした。
「とにかく、僕はあのいやな黒ん坊でないことはたしかだ」というと彼は自分のその言葉に慰められたと見えて、いろいろと希望にみちた意見をはきだした。
「ねえ、君、明るい面を見たまえ! いいかい、明るい面を見たまえっていうことさ。僕だって、やがてはだね、さよう、七十五歳ぐらいになれば金持ちになるよ。伯父貴が死ねばね、そうなれば仕立屋の借金ぐらい返してやれるさ」
彼はそのことを考えて、幸福そうに微笑した。
この青年には、何か妙に好もしいところがあった。彼は丸い顔で、まるで砂漠の真ん中に島流しになったような感じの、ばかばかしいほど小さな口髭をはやしている。
気がつくと、カーロッタ嬢は彼のほうをちらと見て席を立った。それでこの夕食会は散会となった。
「あなたにここへ来ていただいて、ほんとによかったわ。私は何でも、突発的にやってしまうのが好きなんですのよ。あなたはそうじゃありません?」とジェーンがいった。
「いいえ、私は何かする前に、とても注意深く計画をたてることにしています。そのほうが苦労をしないですみますもの」
カーロッタの様子には、何かしらぎこちないところがあった。ジェーンは笑ってそれに答えた。
「そうね、とにかく、結果はあなたのしたことを正当化するわね。私は今までに今夜のあなたの芝居ほど楽しんだものはなくてよ」
カーロッタの顔がやわらいだ。
「とてもご親切ですのね、そうおっしゃっていただいて私うれしく思います。私は激励が必要なのです。私たちはみんなそうです」
「ねえ、君、ジェーンおば様と、握手をして今夜のご馳走のお礼を申し上げておいとましようよ」と、黒いちび髭をはやした青年がいった。
彼が真っ直ぐに戸口から歩み去った様子は、まるで一意専心の権化のようであった。カーロッタはいそいでその後を追った。
「ひとのことをジェーンおば様なんて呼んで、一体どこから舞いこんで来たのかしら。あんなのがいるの、ちっとも気がつかなかったわ」と、ジェーンがいった。
「あんな子のことなんか眼中におきなさるな。あれはオックスフォード大学演劇部で一番光っていた少年だったんでございますのよ。今のあの子を見て、誰がそんなことを考えられましょう、天才児長じて凡人になるのを見るなんて、ほんとうに嫌な気がいたしますのね。さあ、私どももおみこしをあげなければ」といって、肥った夫人がおみこしをあげると、ウィッドバーン氏もその後について出て行った。
「ところで、ポワロさん」
「はい、エッジウェア男爵夫人」
彼は微笑を返した。
「おねがいだわ、私をそんな呼び方なさらないで! そんな名は忘れさせていただきたいのよ。もしあなたが欧州一の無情な方でなかったら!」
「とんでもない。私は無情な人間ではございません」
私は、ポワロがシャンペンを飲み過ぎたのではないかと思った。一杯でも過ぎるくらいなのだから。
「では、私のために会いに行って、私のお願いしたようにして下さいます?」
「行ってお目にかかってまいりましょう」と、ポワロは用心深く約束をした。
「そして、もしあの人があなたの申し出を拒絶した場合……どうせ断るにはきまってますわ……あなたは、もっといいことを考えて下さるわね。世間ではポワロさんのことを英国一の利口な方だっていってますもの」
「奥様は、無情という場合には欧州一とおっしゃる。利口という場合には、英国一とおっしゃるのでございますか」
「もしこの事件をうまくやって下されば、世界一と申し上げますわ」
ポワロは、相手の言葉をさえぎるように顔をあげて、
「奥様、私は何も約束はいたしません。心理学的興味から、旦那様にお目にかかる手段《てだて》をとるだけでございます」
「おすきなだけ、あの人の心理分析をしなさるといいわ。もしかしたら、あの人のためになるかも知れないから。とにかく、私のために何としても骨を折って下さらなければ。ねえ、ポワロさん、私どうしたって、自分のロマンスをものにしたいの。さぞセンセーションを起こすことでしょうねえ」
ジェーンは、夢みるような調子で最後の言葉をつぶやいた。
金のいれ歯をした男
それから五六日たって、朝の食事についていた時、ポワロは開封したばかりの手紙を私のほうへ投げてよこして、
「これを、どう思いますね」といった。
それはエッジウェア男爵から来たもので、固くるしい形式ばった言葉で、翌日午前十一時に会見するというのであった。
実をいうと私はひどく驚いた。あの時のポワロの言ったことを、私は酒の上のことと軽くとっていて、本気にジェーンとの約束を実行に移すとは思っていなかったのだ。
血のめぐりの早いポワロは、私の心中を読みとって瞳をおどらせた。
「そうなんですよ。決してシャンペンのせいだけではなかったのです」
「僕は、そんなつもりではなかったです」
「ところが、そうですとも。君は心のなかで困った老人だ、酒ですっかりいい気持ちになって、実行する気もないようなことを引き受けてしまった……と考えておいでだったようですね? しかし、それはちがいます。ポワロの約束は神聖でございますぞ」とポワロは胸をはって、もったいぶった様子でいった。
「もちろんですとも。僕はよく知っていますよ。ただ、あなたの判断が、多少はアルコールの影響を受けたのではないかと思っただけです」と、私は急いでいった。
「ヘイスティングス君、私は自分の判断に、あなたのいうような影響は受けない習慣でございます。どんなに上等の、味の枯れているシャンペンも、どんなに美しい魅力のある金髪婦人も、ポワロの判断には、なんらの影響もおよぼしません。ヘイスティングス君、私は単に興味を覚えただけのことです」
「ジェーンの恋愛事件にですか」
「厳密にはそうといえませんね。君のいう恋愛事件と申すようなのは、ごくありふれたものですよ。非常な美人が成功への道をたどる、その段階に興味を持ったのです。もしマートン侯爵が、地位や財産をもっていなかったら、夢みる修道僧を思わせるようなロマンチックな顔だちなどは、あのご婦人の興味をひかないでしょう。私の気を引いたのは、この事件の心理的な点ですよ。つまり性格の相互作用ですね。私はエッジウェア男爵を親しく研究する機会を得たことを、よろこびますね」
「あなたは、ご自分の使命をうまく果せるとは思っていらっしゃらんのですか」
「そんなことはないですとも。人間だれでも、それぞれ弱点をもっております。ヘイスティングス君、私が心理的に事件を研究するからと申して、自分に課された使命を成功させるために全力をつくさないなどとは思わないでください。私はいつだって自分の創意を働かせるのを、大いにたのしむのです」
私はポワロが例の灰色の脳細胞の講義をはじめるのではないかと恐れをなしていたが、ありがたいことにはそれはのがれた。
「すると、われわれは明日十一時に男爵邸へ行くんですね」
「われわれ?」ポワロはからかうように眉をあげた。
「ポワロさん、まさか僕をおいてきぼりにするんじゃありますまいね。僕はいつもあなたについて行くことになっているではありませんか」
「それは奇怪なる毒死事件とか、暗殺と申すような、犯罪の場合だったら、君の心をよろこばせるでしょうが、単なる社交界の調停事件などはどんなものですかね」
「もう何もいいっこなし。僕は行きますよ」
ポワロはやさしく笑った。ちょうどその時、紳士の訪問が取りつがれた。
実に驚いたことには、その訪問者というのは映画俳優のブライアンであった。昼間見るとずっと老けていた。たしかに好男子であるが、荒れた美しさという感じである。ふと麻薬常用者ではないかという考えが、私の心をかすめた。一種の神経興奮のようなものをただよわせているので、きっとそうだろうと思われた。
「ポワロさん、おはよう。あなたもヘイスティングス大尉も、まともな時間に朝飯をやっておられるんですね、ところで、あなたは今ひどくおいそがしいんではないですか」
ポワロは愛想よく微笑した。
「いいえ、目下のところ、これという特別重要な仕事はもっておりません」
「ほんとですか? 警視庁からよばれてもいなければ、王族のために細心の注意を要するある調査を引き受けているのでもないといわれるのですか。そんなこと、信じられんですね」と、ブライアンは笑った。
「あなたは小説と実際とを混同しておいでになります。ほんとうに、目下失業中なのです。ただし失業手当はまだ受けておりませんがね」ポワロは微笑しながら答えた。
「そいつは、僕にとって幸運だった。ねえ、ポワロさん、僕のことを一つ引き受けてくれませんか」
ポワロは考え深く、相手の顔を見守っていた。が、ちょっと間をおいていった。
「あなたは、何か難問題を持っておいでになりましたのですね」
「はあ、実はこうなんです……実は持って来たともいえるし、持ってこないともいえるんです」といってブライアンは笑ったが、それは神経的な笑いであった。ポワロは、なおも相手の顔を見つめながら椅子をすすめた。私とポワロは並んでいたので、ブライアンは私たちの向こう側に腰かけることになった。
「では、お話を伺いましょう」
ブライアンはそれでもまだ、話し出しにくそうであった。
「弱ったことに、僕は洗いざらい話すわけにいかないんです。なかなか難しいですよ。そいつは、みんなアメリカで起こったことでしてね」といって、彼はためらった。
「アメリカでね。それで?」
「最初は、何でもないことだと思っていたんです。実は汽車旅行をしていた時に、僕はある男に気がついたんです。醜悪な小男で、髭はなく、眼鏡をかけて金歯をいれているんです」
「ほう、金歯をね!」
「そうなんです。そいつが問題なんです」
ポワロは何度もうなずいた。
「お話がわかってきました。おつづけ下さい」
「それでですね、僕はその男に気がついたのです。それはニューヨークへ向かう旅行中だったんです。それから六か月後に、ロサンゼルスへ行った時、またその男に気がついたんです。どうして気がついたか、自分でもわからんのです。その時は、まだ別に何とも思っていませんでした」
「それで?」
「それから一か月後にシアトルへ行った時、着くとまもなく、またしてもその男に会ったじゃありませんか? ただし、その時は顎髯をはやしていました」
「たしかに、妙なことですね」
「そうでしょう? もちろん、その時もまだ、僕は、別に自分に関係があるなんて考えなかったですが、次にまたロサンゼルスで顎髯なしの彼を見かけ、シカゴでは口髭をはやして眉毛の形を変えているし、山村へ旅行した時には浮浪者に変装しているにいたって、僕は不審を抱き始めたんです」
「無理もありません」
「それで僕も、自分が尾行されているのだと気がついたのです。おかしな話ですが、疑う余地がないです」
「実に驚くべきことでございますね」
「そうなんですよ。その後、僕は確信したんです。どこへいっても、その男がいろいろに変装して、どこか僕の身近にいるのでした。幸い金歯のおかげで、僕はすぐにそいつだと気がついたんです」
「さよう、その金歯はまことに幸運なことでございましたね」
「そうです」
「失礼ですが、あなたはその男に口をお聞きにならなかったのですか。そのように、しつこくつきまとう理由をお尋ねにならなかったのですか」
「いいえ、一二度は、尋ねてみようかと思ったんですが、思いとどまったのです。そんなことをすれば、相手に警戒させるだけで、何の得るところもないにきまっていると思ったからです。もし僕がその男に感づいたと知れば、やつらはきっと、僕が気のつかないような男を彼と交代させるでしょうからね」
「その結果は、その重宝な目じるしになる金歯を入れていない男ということになると申すわけですね」
「そのとおりです。僕の考えはまちがっているかも知れんですが、そう思ったんです」
「あなたは、ただ今『やつら』とおっしゃいましたね、その『やつら』と申すのは誰のことなのですか」
「便宜上そういっただけです。なぜということなしに、漠然と背後に『やつら』があると仮定したんです」
「そう信じるには、何か理由がおありですか」
「何もないです」
「誰があなたを尾行させているのか、どういう目的なのか、あなたは全然想像がつかないとおっしゃるのですか」
「さっぱり見当がつかんのです。すくなくも……」
「おつづけください」ポワロは勇気づけるようにいった。
「僕には、ある考えがあるんです。いいですか、単なる当て推量《ずいりょう》ですけれど……」ブライアンはのろのろといった。
「時によると、当て推量が非常な成功になることもございますよ」
「今から二年前に、ロンドンで起こったある出来事にかかりあいがあると思うんです。それはちょっとした出来事なんですが、合点のいかない忘れることのできないものなんです。僕はたびたびそのことを心にうかべて、ふしぎに思ったり、途方にくれたりしているんです。当時、僕にはどうしても説明がつかなかったので、この尾行はその出来事に、何か関連しているのではないかと考えずにはいられないんです。だが、どうしても、なぜだか、どうしてだか、僕には分らんです」
「たぶん、私にはわかるかも知れませんね」
「はあ、しかし……厄介なことには、その出来事というのを今話すわけにいかんのです。一日二日のうちには話せると思うんです……」
ブライアンは再び途方にくれた様子を見せたが、先を語るようにうながすポワロの視線に強いられて、思いきったように言葉をつづけた。
「実は……ある女性に関係があるもので……」
「なるほど、そのご婦人はイギリス人でいらっしゃいますね」
「はあ……でも、どうしてそれがお分りで?」
「いたって簡単なことです。今はお話しになれないが、一日二日のうちには話せるだろうとおっしゃるからには、あなたはそのご婦人の同意を得るおつもりでいらっしゃる。したがって、そのご婦人はイギリスにおいでになる。それに、あなたが尾行されていらした間、そのご婦人はイギリスにおいでだったにちがいありません。もしそのご婦人がアメリカにいらしたのだったら、あなたは当時、会おうとされたはずです。それで、確実とは申せませんが、過去十八か月間イギリスにいらした方なら、おそらくイギリス人でいらっしゃるだろうと思ったわけです。いかがです。相当、見事な推量でございましょう」
「相当どころかたいしたものですよ。で、ポワロさん、もし僕が彼女の承諾を得たら、この事件を調べてくれますか?」
ポワロは心のなかで、その件を検討していると見えて、しばらく黙っていたが、ようやく口を開いた。
「あなたは、なぜそのご婦人のところへ行かれる前に、私のところへおいでになったのですか」
「それがですね……僕は彼女に、この事件をはっきりさせるようにすすめようと思って……つまり、あなたにかたづけてもらおうということで……僕のつもりでは、もしあなたに調査してもらうとなれば、何一つ公にする必要はないと思って」とブライアンはためらいながらいった。
「場合によりけりですね」と、ポワロは静かに答えた。
「それは、どういう意味ですか」
「もし、少しでも犯罪にからんでいるようなら……」
「ああ、犯罪なんかには関係ないですよ」
「そうはいいきれないでしょう。関係があるかも知れません」
「しかし、彼女のために……あの……、僕らのために、最善をつくしてくれるでしょうね」
「それは、あたりまえです」
ポワロはちょっと間をおいてから、
「あなたを尾行している男の年頃はいくつくらいかお聞かせください」
「まだ中年に達していないやつです。三十ぐらいです」
「ああ、それは実にすばらしいことですね。さよう、それで全体が大そう面白くなってまいりました」
私はポワロの顔を見つめた。ブライアンも見つめていた。ポワロの言い草は、たしかに、われわれ二人にとって不可解であった。ブライアンは眉をあげて私に質問した。私は頭を振った。
「はい、そのことは、話全体を非常に興味あるものにいたしました」とポワロは繰り返した。
「もっと年取っていたかも知れんですが、僕にはそう思えませんです」ブライアンはあやふやにいった。
「いや、いや、あなたの観察はまったく正確です。ブライアンさん、それは大そう面白うございます。とても興味がございます」
ポワロの謎めいた言葉にどぎもをぬかれて、ブライアンは何をいっていいのか、次にどうしたらいいのか途方にくれているようであった。そして話を脱線させはじめた。
「この間の晩は愉快なパーティでしたね。ジェーンのような横暴な女はありませんよ」
「あのご婦人の眼に映《うつ》るものは一つきりでございます。一度に一つのものしか見えないのです」ポワロは微笑しながらいった。
「そして眼をつけたものは、必ずうまくものにしてしまう、世間がよくゆるしておくものだ!」
「誰でも美しいご婦人のすることなら、容赦するものでございます。もしあのご婦人が獅子っ鼻で、色黒で、よごれた髪をしておりましたら、どんなものでしょうかね?……あなたのいわれるように、|うまくものにする《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》ことができますかどうか」
「そりゃできませんとも。だがあの人の専横には、僕もときどき腹が立ってしまう。それでいて、やっぱり僕はジェーンに対して献身的なんです。彼女、少々頭が変《へん》なんじゃないかと思うこともあるけれど」
「変《へん》どころか、申し分ない頭のよさをもっておいでですよ」
「僕のいうのは、頭が悪いっていう意味ではないんです。あの人は自分の利益のことならちゃんと始末できるんです。なかなか鋭い商魂をもっていますよ。僕のいうのは道徳上のことです」
「なるほど、道徳上ね……」
「あの人はいわゆる非道徳家なんです。善悪なんていうものは、あの人の人生には存在していないんです」
「さよう、先夜も私どもは、そうした種類のお話をいたしましたっけね」
「われわれは、今は犯罪について話しているところです……」
「そうでございますとも」
「僕はね、ジェーンが犯罪をおかしたって、驚きませんね」
「あなたはたびたびあのご婦人と共演なすったから、性格などよくごぞんじというわけですね」
「そう、僕はあの人のことなら、何もかも知りぬいています。ジェーンは誰だって、やすやすと殺せる女です」
「なるほど、短気だというわけでございますね」
「いいえ、そういう意味ではないのです。あの人は胡瓜《きゅうり》のごとくに冷静という組です。僕のいうのは、あの人は自分の邪魔になるものは、何も考えずに、平気でどけてしまうということです。しかも、誰も彼女を道徳上から責めるわけにいかないんです。あの人は、何者であろうと、自分の行手をはばむ者は死ぬべきだと考えているような女性なんです」
ブライアンのその最後の言葉には、今までなかった悲痛な調子がでていた。私は、彼の胸にその時、どんな思い出が浮かんだんだろうと考えた。
「あなたは、あのご婦人が殺人をするだろうとお考えなのですか」
ポワロはじっと青年の顔を見つめていた。
ブライアンは深く息をすいこんだ。
「僕はそう思いますね。たぶん近い将来において、あなたは僕の言葉を思いだされるでしょう……僕は彼女をよく知っているんですからね。あの人は朝の茶を飲むように、やすやすと人殺しをしますよ。ポワロさん、ほんとうですよ。わかるでしょう。僕のいう意味……」
「はい、おっしゃる意味はよくわかっております」ポワロは、静かにいった。
「僕は、彼女を知りつくしているんです」とブライアンはくり返した。
彼はちょっとの間、眉をひそめてだまっていたが、調子を変えていった。
「さっき話した用件については、いずれ知らせますから……ポワロさんは、引き受けてくださるんでしょうね」
ポワロは一二秒、それに答えないで彼を見守っていたが、ようやく、
「はい、お引き受けいたしましょう。真相をつかまえます。……興味あることですから」といった。
そのいい方には、何か妙なところがあった。
私はブライアンといっしょに階下へ行った。出口のところで彼は私に尋ねた。
「ポワロ氏は一体どういうわけで、あの男の年齢のことをあんなふうにいったのか、わかりますか。あの男が三十ぐらいだという点が、どうして興味があるんですかね。僕にはさっぱりわけが分らない」
「僕にだってわかりません」と私はいった。
「てんで意味がないみたいだ。もしかすると、僕をからかったのかも知れない」
「いや、ポワロ氏はそういう人ではありません。ポワロ氏がいった以上は、その点が重要なのです」
「その点がはっきり分るとありがたいんだが、君にも分らないと聞いて、僕は安心した。自分だけが阿呆《あほう》だなんていうのはいやだからね」
ブライアンは帰って行った。私は部屋へもどるなりポワロに質問をむけた。
「尾行者の年齢の要点はどこにあるのですか」
「お気の毒に、ヘイスティングス君にはお分りにならないのですかねえ」と、微笑して首を振った。それから、
「全体として、私どもの会見をどう思いましたか」と尋ねた。
「判断を下す材料がないではありませんか、もう少し話を聞かなければ、何ともいいようがない……」
「もっと知らなくても、ある概念そのものが、何かをあなたに暗示しませんですか」とポワロにいわれても、私には何も暗示を受けるような考えが浮かんでこなかったが、ちょうどそのとき電話のベルが鳴りだしたので私は自分の無智をさらさないですんだ。
受話器を取りあげると、きびきびした能率的なはっきりした女の声が聞こえてきた。
「こちらはエッジウェア男爵の秘書でございます。男爵は明日、急に巴里《パリ》へ旅行しなければならなくなりましたので、恐縮でございますが、明朝のお約束を取り消していただきたいのでございます。もしもそちら様のご都合がおよろしければ、本日十二時十五分すぎに数分間ポワロ様にお目にかかる時間がございます」
私はポワロに相談した。
「よろしいですとも、本日参りましょう」
私はその返事を伝えた。
「結構でございます。では本日、十二時十五分でございますね」
きびきびした事務的な声でそういうと、女秘書は電話をきった。
男爵の返信の行方
私はこの会見を非常に楽しみにして、ポワロとともにリージェント・ゲートにある男爵邸へおもむいた。私はポワロのように心理的興味のとりこにはなっていないが、ジェーン男爵夫人の口からもれた、男爵に対する言葉に好奇心を抱かされていた。私は自分の判断がどんなものであるかを知りたくて、たまらなかったのだ。
なかなか堂々たる邸宅で、建築も立派で美しく、いささか陰気な感じがした。窓に盆栽箱などついていないし、そのほかにも、そうした軽薄な装飾的なものは一つもなかった。
待つ間もなく、すぐに玄関の扉を開けたのは、家の外観にふさわしい、白髪の老執事ではなかった。それどころか、われわれを迎え入れたのは、これまで見たことのないほどの、若い美男子であった。背が高く、金髪で、ギリシア神話に出てくる太陽神アポロの彫刻のモデルになりそうな青年である。美貌にはちがいないが、声が優しすぎて何となくにやけているところが、私の気にいらなかった。それに妙なことには、誰かごく最近に会った人物を想いださせたのに、それが誰だったか、どうしても思い出せなかった。
男爵に会いに来た旨を告げると、
「どうぞ、こちらへ」といって、玄関の広間を横切り、階段の前を過ぎて、広間の突き当りにある戸口へ導いた。
彼はその戸を開けて、何となく信用の置けない感じのする猫なで声で、われわれの到着を主人に告げた。
われわれが招じられたのは、書斎のような部屋であった。壁は書物の列でうずめられ、家具はくすんで厳めしいが、豪華なもので、椅子は形式ばっていて、かけ心地のいいものではなかった。
われわれを迎えるために立ちあがったエッジウェア男爵は背が高く、五十がらみで、濃い色の頭髪には白毛がまじり、顔はやせていて冷笑的な口許をしていた。見るから不機嫌で、厳《きび》しい人物らしい。妙に秘密っぽい眼をしている。私はその眼つきに何やら、たしかに変なものがあると思った。
男爵の様子は固くるしく、形式ばっていた。
「ポワロ氏で? それからこちらはヘイスティングス大尉で? どうぞおかけ下さい」
われわれは腰かけた。部屋は冷えびえとしていた。一つしかない窓から、わずかに光線が入ってくるだけで、薄暗いために寒々とした雰囲気をかもしだしているのであった。
男爵は、ポワロの筆跡の手紙を取りあげた。
「ポワロさんのお名はよく知っております。あのポワロさんですね」といわれて、ポワロは頭をさげてその讃辞に答えた。
「ところで、そのポワロさんがこの件でどういう役割を演じておられるのか、私にはまったく理解ができないのであります。あなたは私の……妻に代って、私に面会したいといわれるのでありましたね」男爵は妻という言葉を、いいにくそうに口にした。
「そうなのでございます」
「ポワロさんは、犯罪の捜索をなさる方と聞いておりましたが」
「難問を解くのが私の職業でございます。たしかに犯罪に関する難問はございますが、ほかの難問もございます」
「なるほど。で、これはどれに属するものでありましょうか」
男爵の軽蔑的な口吻《こうふん》が露骨になってきたが、ポワロはそんなことは気にとめなかった。
「私はエッジウェア男爵夫人の代理として、あなた様にお近づきする光栄を得ました。ご承知のように、男爵夫人は離婚を希望しておられます」
「そのことなら、私は充分に承知しております」
男爵は冷やかにいった。
「夫人の提案は、あなたと私とでこの問題を審議するようにとのことでございます」
「何も審議するようなことはないのであります」
「と申しますと、あなたは拒否なさるのでございますか」
「拒否する? そのようなことは決してないのであります」
何はともあれ、これはポワロにとって思いもよらないことであった。ポワロが面くらうなどということはめったにないことだが、この時ばかりはすっかりやられてしまった。彼の様子ときたら実に滑稽であった。口をぽかりと開け両手をひろげ、眉をあげて、まるで漫画のような格好であった。
「これはしたり! あなたは拒絶なさいませんと?」
「ポワロさんが何をそのように驚いておいでなのか、私は諒解にくるしむのであります」
「しからば、あなたは奥様の離婚に同意なさるのでございますか」
「同意でありますとも、そのことはよく承知のはずであります。私は手紙にその旨を書き送ったのであります」
「あなたは、手紙にそう書いておだしになったのでございますね」
「さよう、六か月前に」
「どうも腑《ふ》に落ちません。まったくわけがわかりません」
男爵は何もいわなかった。
「私は、あなたが主義として離婚に反対を唱えておいでになると、承っておりました」
「私の主義が、あなたに係わりあるとは思われんですな。私が最初の妻を離婚しなかったのは事実であります。私の良心がそれをゆるさなかったのであります。私の再婚が誤りであったことは、正直に認めます。妻が離婚を申し出た時、私はぴったりと拒絶しました。六か月前に、妻は手紙で再びその問題を強要してよこしました。妻は映画俳優かなにかと結婚したがっているようでありました。そのころには、私の所見も変っておりましたので、ハリウッドにおった妻にその旨を書き送ったのであります。いかなる理由で、妻があなたを私の許へよこしましたのか、皆目わからんです。金の問題でありましょうかな」
この最後の言葉が出た時、男爵の唇に再び冷笑が浮かんだ。
「甚だしく奇妙なことでございます。何か、私にはまったく理解のできない事実があるようでございます」とポワロはつぶやいた。
「金についてはですな、私は、経済上の取りきめをする意志は毛頭ありません。ほかの男と結婚したいというのでありましたら、そうする自由を与えますが、私から一銭なりとも受ける理由はないのでありますから、そういう要求はしないはずであります」
「経済的取りきめの問題などは、出ておりませんのでございます」
男爵は眉をあげて、
「ジェーンは、金持ちと結婚するとみえますな」と、皮肉につぶやいた。
「何か、私に理解できないものがあるようでございます。男爵夫人は弁護士を通じて、再三あなたに交渉されたように承りましたが」
ポワロは困惑した様子で、考えをまとめようとするように、額にしわをよせていた。
「そうであります。イギリス人の弁護士、アメリカ人の弁護士、あらゆる種類の弁護士、三百代言にいたるまで。最後に、さきほども申したとおり、自分で手紙を書いてよこしました」
「以前、あなたは拒絶されたのでございましたね」
「そうであります」
「しかし夫人の手紙を受け取られて、考えをお変えになったのでございますね。男爵はなぜ、考えをお変えになったのでございますか」
「手紙のせいではありません。ただ私の所見が変化したばかりのことであります」
「その変化が、何やら突然すぎるように思われますが」
男爵はそれには答えなかった。
「何か特別の事情が、あなたの心境に変化をもたらしたのではございますまいか」
「それは私個人のことでありまして、その問題に入るわけにはまいらないのであります。露骨ないい方で恐縮でありますが、自分の品格を下げるような関係を断つことの利益に、追々と気がついたとでも申しましょうか。私の第二の結婚は、ミステークでありました」
「奥様も、同じことをおっしゃいました」
「そうですか」
男爵の眼に奇妙なひらめきが現われたが、すぐに消えてしまった。
彼は会見が終ったことを示すように立ちあがった。そしてわれわれが別れを告げると、いくらか、寛《くつろ》いだ様子になった。
「お約束を変更したことをおゆるしねがいます。明日|巴里《パリ》へ参らにゃなりませんので」
「決してご心配なく」
「実は美術品の売り立てがありましてな、私が眼をつけている小さな像……そのほうでは申し分のないできで……凄いものなのであります。私はそうした、ぞっとするような不気味なものが好きでしてな、どうも変った趣味なので」
再び奇妙な薄笑いが浮かんだ。私は近くの棚の書物を見ていたが、カサノヴァの回想録だの、サド侯爵のものだの、中世紀の拷問記だのと、変態性を扱ったものが眼についた。
私はジェーンが夫のことを話した時の身振りを思いだし、それが単なる芝居でなかったことを知った。エッジウェア男爵がどんな人間か、私が想像したとおりであった。
男爵は非常にいんぎんに、別れの挨拶をすると同時に呼鈴をおした。われわれが書斎を出ると、例の美貌の執事が玄関で待っていた。書斎の戸を閉じる時に、ちらと後をふり返って見て、私は危く驚きの声をあげるところであった。
つい今しがたまで、あんなに愛想のよかった男爵の顔が、まったく変ってしまっていた。唇が引きつれ歯をむきだし、眼は怒りに燃えて狂暴な形相になっているのであった。
二人の妻が男爵の許から逃げ出したのも無理はないと思った。われわれとの会見の間中、よくもあんなに自己を抑制して、丁寧に振舞っていたものだと、男爵の鉄のごとき意志の力には、感嘆するばかりであった。
ちょうどわれわれが玄関口へついた時、右手の戸が開いて若い娘が姿を現わし、われわれを見ると戸口でためらった。
それは背の高いやせた娘で、顔は白く髪は黒かった。黒い瞳をおどろいたように大きくして、私をじっと見つめたが、すぐ影のように部屋へ引っこんで戸を閉じてしまった。
われわれは往来へ出た。ポワロはタクシーを呼び止め、サボイ・ホテルへやるように命じた。
「ヘイスティングス君、この会見は、予想していたのとは、まったくちがっていたんですよね」
「そうでしたね。エッジウェア男爵は実に変った人物ですね」
私が最後に書斎をふり返った時のことを話すと、ポワロは何か考えこみながらゆっくりとうなずいていた。
「狂人の一歩手前に来ているという感じですね。いろいろと奇妙な悪癖の常習者で、あの冷厳たる外見の下に、深く根ざしている残忍性をひそめている人物にちがいない」
「奥さんが二人とも出ていったのは無理もありませんね」
「まさにそのとおり」
「ポワロさんは、われわれが出てくる時に、ちらと姿を見せたお嬢さんに気がおつきになりませんでしたか、真っ白な顔をした、髪の黒い」
「気がつきましたとも。物におびえている不幸《ふしあわせ》らしい令嬢でしたね」という、ポワロの声はおもおもしかった。
「あれは誰でしょうね」
「男爵の令嬢でしょう。一人あるはずですから」
「おびえたような顔つきでしたね。あの家は、若いお嬢さんには陰気すぎるんではないでしょうか」
「たしかにそうですね。さあ、着いた。さて奥方にいい報告をお聞かせしましょう」
ジェーンが部屋にいるということで、ボーイがわれわれを案内して行った。戸を開けたのは、白髪をきちんと結って、眼鏡をかけた中年の女であった。寝室から、ジェーンのかすれぎみの声が聞こえてきた。
「エリスや、ポワロさんだろう。おかけになっていただいて、私、何かひっかけるぼろをさがしてすぐ行くからね」
ジェーンのぼろというのは薄い紗の化粧着のことで、からだをかくすよりもむしろ、露わすようなものであった。彼女は待ち遠しそうに、
「どうだったの?」といいながら出てきた。
ポワロは立ちあがって頭をさげた。
「まさに上首尾でございます」
「なあに? それ、どういう意味なの」
「エッジウェア男爵は、欣然《きんぜん》として離婚に同意されましたのでございます」
「何ですって?」
ジェーンの呆気にとられた表情は真実のものであった。さもなければ、彼女は実にすばらしき女優である。
「ポワロさん! あなたうまくやってくだすったのね! 一度こっきりで! やってしまうなんて! あなたはまったく天才ね。一体全体、どんなふうに持ちかけなすったの?」
「マダム、私はそのおほめを受けるわけにはまいりません。男爵は六か月前に、拒絶を取り消す旨、あなた様へ、お手紙なすったのでございます」
「それ何のこと? 私に手紙をよこしましたって? どこへ?」
「あなた様が、ハリウッドにご滞在中だったころとぞんじます」
「私、受け取らなくてよ。きっと、どこかへ迷いこんでしまったんだわ。そんなことは知らないで、私この数か月というもの、考えたり、計画したり、じれたりして、気がちがいそうになっていたのよ」
「男爵は、あなた様が俳優と結婚しようと希望しておいでになると思っておられるようでございます」
「そうでしょうとも、私、そういってやったんですもの」
ジェーンは子供っぽくうれしそうに微笑したが、急に心配そうな表情になって、
「ポワロさん、あなた、まさか私とマートン侯爵のこと、あの人にいいはしなかったでしょうね!」
「いや、いや、ご心配ご無用、私は分別のある男でございます」
「だってね、あの人は、変に卑屈なところがあるのよ。マートン侯爵と結婚するとなれば、私のほうが社会的に上になっちまうでしょ。だからあの人きっと、こそこそ細工して私の計画を駄目にしちゃうにきまってるんですもの。ところが映画俳優が相手となれば、別ですからね。とにかく、私びっくりしたわ。まったくよ、エリス、お前だって、びっくりしたでしょう?」
女中はさっきから、寝室から出たり入ったりして、居間の椅子のあちこちに投げかけてあるさまざまな外出着をかたづけていた。その間、われわれの会話を聞いていたらしかったが、いよいよ私の思ったとおり、彼女は女主人から何でも打ち明けられていることを証明した。
「ほんとうにねえ、奥様。殿様は以前とはずいぶんお変り遊ばしたらしゅうございますね」とエリスは、悪意のある調子でいった。
「そうねえ」
「あなた様は、男爵の態度が理解おできにならないのでございますね。不可解にお思いになるのでございますか」とポワロがいった。
「そりゃ、そうよ。でもそんなことは問題じゃないわ。気を変えたんだったら、何で気が変ったかなんてことはどうでもいいじゃないの、そうでしょ?」
「そのことは、奥様には興味がおありでないのでございましょうが、私には興味を起こさせます」
ジェーンは、ポワロのいったことには注意を向けなかった。
「問題は、とうとう私は自由になったっていうことなの」
「奥様、まだでございます」
「これから自由になるといえばいいのね。どっちだって同じことよ」
ポワロは、同じこととは考えないという顔つきであった。
「侯爵は巴里《パリ》にいます。すぐ電報を打たなければならないわ。きっとあの年老いた母上様がお騒ぎ遊ばすこってしょうね」
「奥様、すべてご希望どおりに運びましたことをおよろこび申し上げます」ポワロは立ちあがった。
「さようなら、ポワロさん。ほんとうにありがとうございました」
「私は、何もいたしませんでした」
「とにかく、ポワロさんは、いいニュースを持って来てくだすったわ。とても感謝してよ! ほんとに」
部屋を出てから、ポワロは私にむかって、
「あのとおり、あのご婦人は自分だけのことしか考えられない女性だ。大切な手紙がどうして自分の手に入らなかったのか、考えてもみなければ、好奇心も持たない。あのご婦人は商魂にかけては信じがたいほどのたくましさを持っているが、全然知性がないことに君も気がおつきでしょう。さて、さて、神様は何もかも下さるというわけにはいかないものだ」
「エルキュール・ポワロ以外の者にはですね」
「私をおからかいだね。とにかく河岸《かし》を散歩しましょう。私は考えを整然と順序よく並べなければならない」私はご託宣がでるまで、つつしんで沈黙していた。
テムズ河にそって歩きだした時、ポワロは口を開いた。
「あの手紙は興味をそそりますね、あの謎をとく四つの解答がある」
「四つですって?」
「さよう。その一は郵便局で紛失した。そういうことは起こり得る。しかし、そうたびたびあることではない。宛先がまちがっていた場合であったら、ずっと前にエッジウェア男爵の許へ返送されているはずである。だから、私はこの解答は除外する。
解答その二は、あの美しいご婦人が手紙を受け取らないといったのは嘘である。これはあり得ることである。あのチャーミングなご婦人は、自分の利益のためなら、子供みたいに平気で、嘘をつく可能性がある。ところで、ヘイスティングス君、さような嘘があのご婦人にとってどんな利益があるか、私にはわからないのです。男爵が離婚に同意したのを知っていながら、私を交渉に行かせるなんて、意味をなしません。
解答その三。エッジウェア男爵が嘘をついている。この場合、嘘をつく可能性が夫人よりも男爵のほうにあることは、誰にでもうなずける。では、なぜに六か月前に手紙をだしたというつくり話をしたのか? なぜに、私の申し出にすなおに同意しなかったのか? だが、私は男爵が、手紙をだしたことを信じよう。たとえ、男爵がいかなる理由で、突然に考えを変えたかはうかがい知ることはできないとしても。
解答その四。誰かが、その手紙を握りつぶした。ヘイスティングス君、ここでいよいよ、われわれは興味ある思索分野に入ってきた。なぜかと申しますと、手紙はアメリカか、あるいはイギリスか、どっちかで握りつぶされたことになる。
誰にしろ、この結婚解消を欲しない者が握りつぶした。ヘイスティングス君、私はこの事件の背後に何がひそんでいるかを発見するために、大いに努力しますよ。何かある。……確かに何かある。……何か……私がほんのちらと見ただけのものが……」
彼女、とうとうやりましたか!
その翌日は六月三十日であった。
ジャップ警部が、ぜひわれわれに会いたいといって、階下に待っていると知らされたのはちょうど九時半であった。
警視庁の役人に会うのは数年ぶりであった。
「ああ、あの好漢ジャップ、一体何の用ですかね」とポワロはいった。
「助力を求めに来たんでしょう。何か面倒な事件にはまりこんでしまって、あなたに引っぱり出してもらいに来たんですね」と私はいった。
私はポワロのようにはジャップを歓迎しない。私は彼がポワロの智慧をやたらに借りることには文句はない。……これはポワロにとって、一種のお世辞を意味するもので、ポワロは喜んでいるのだからかまわない。私の気に喰わないのは、ジャップがポワロの智慧なんか借りていないような顔をする偽善的な態度である。私は正直な人間が好きなのだ。私がそれをいうと、ポワロは笑った。
「ヘイスティングス君は、犬でいうと、ブルドッグ種だね。しかしジャップだって、体面があるということを考えてやらなければなりませんね、少しぐらい見栄《みえ》をはるのは、あたりまえですよ」
私はそんな見栄をはるのは、馬鹿げているといったが、ポワロは同意しなかった。
「それは外見だけの……つまらないこと……だが、人々には大切なことですよ、自尊心を保つ上にね」
私個人としては、少しくらいの劣等感を与えたってジャップには何の害も及ぼさないと思ったが、そんなことを論じていたってはじまらないと思った。それに私は、ジャップが何しに来たのか早く知りたかった。
ジャップは元気よくわれわれに挨拶をした。
「これから朝食というところですな。まだポワロさんは、四角な卵を産む鶏を手に入れませんか」
これは、以前ポワロが、卵の大きさがまちまちなので、彼の均斉感を傷つけるとこぼしたことに触れたのである。
「まだですよ、で、こんなに早朝、なんのご用でおいでなすった、ジャップさん」ポワロはにこにこしながらいった。
「早朝でなんかないですよ……私にとっては。何しろもう二時間も仕事をしてきたんですからね。何の用で、あなたに面会に来たかというと、殺人事件のためです」
「殺人?」
「エッジウェア男爵が昨夜、リージェント・ゲートの自邸で殺されたのです。夫人に首を刺されたのです」とジャップはいった。
「夫人に?」と私は叫んだ。
閃光のように、前の日の朝、ブライアンのいった言葉が、私の記憶に浮かんだ。彼はこういうことが起こるという予言的な知識をもっていたのであろうか? 私はまた、ジェーンが雑作なく『夫を殺《ばら》してやる』といったことを思いだした。ブライアンは彼女のことを非道徳家だといった。彼女はたしかに、そういうタイプである。無神経で、自我が強くて、間抜けだというブライアンの判断は確かであった。
「そうなんです。知っておいででしょう。有名な女優ジェーン・ウィルキンソンで、三年前に男爵と結婚したのですがね、二人の間はうまくいかなくて、夫人は別居していたのです」
ポワロは、腑《ふ》に落ちない面持で尋ねた。
「何があなたに、男爵を殺したのは夫人だと信じさせたのですか、ジャップさん」
「信じたも信じないもないです。姿を見られているんです。少しもかくすようなことはしないで、堂々とタクシーを乗りつけて」
「タクシーで……」私は思わず、おうむ返しに叫んだ。あの晩、サボイ・ホテルでジェーンのいった言葉が私の記憶によみがえった。
「呼鈴をならして、エッジウェア男爵は在宅かと尋ねたのです。それは十時でした。執事が取り次ぐというと、夫人は落ちつき払って、……その必要はありません。私はエッジウェア男爵夫人です。書斎でしょうね……といって、さっさと歩いて行って書斎の戸を開け、中へ入って行って背後に戸を閉じたのです。
執事はおかしいと思ったけれども、いいのだろうと、そのまま地階のほうの部屋へおりて行ったのです。それから十分ぐらいたってから、玄関の戸が閉る音を聞いたそうです。とにかく夫人は長くはいなかったわけです。執事は十一時ごろ家中の戸締りをしにまわり、書斎の戸を開けてみると、中が暗かったので、主人は寝室へ行ったものと思っていた。すると今朝女中が死体を発見したのです。後頭部の髪の生え際《ぎわ》を刺されていたのです」
「呼び声とか、何か物音は聞こえなかったのですか」
「何も聞かなかったといいます。書斎はかなりよく防音されていますし、それに、自動車の交通の激しい往来に面した建物ですからね。ああいう刺しかたでは、瞬間に死んだでしょう。脳脊髄を貫いて延髄に達している……というようなことを医師がいいました。その急所を一突きにやれば、どんな人間でも瞬間死だそうです」
「すると犯人はその急所を知っていたわけで、医学的知識をもっていたことを示しておりますね」
「そうです。その一点だけは、夫人に有利だということになりますが、十中一までは僥倖ですからね。うまく運を突き当てたともいえます。人によると驚くべき幸運をもっているものでしょうね」
「その結果、絞首台行きとなりますと、幸運とは申せますまい」とポワロがいった。
「そうですとも、もちろん夫人は馬鹿ですよ。そんなふうに乗りこんで行って、名乗りをあげるなんて!」
「実に奇妙だ」
「いうまでもなく、そんなことをするつもりはなかったんでしょうな。男爵といい争いになり、不意にナイフをふりあげて刺してしまったのでしょう」
「それは小ナイフでしたか」
「医師のいうには、何かそうした種類の兇器だろうということです。どんなものにしろ、夫人はそれを持ち帰ってしまったのです。傷口には刺さっておらんでした」
ポワロは不満足らしく首をふった。
「いや、いや、そんなことではありますまい。あのご婦人はそんなふうに短気を起こして、突発的なことをなさるような人柄ではありません。それに小ナイフを持ち去るなんて、あのご婦人のしそうもないことです。そういうことをするご婦人はまずありますまい。ことにジェーン・ウィルキンソンはそういうことはしないと思います」
「ポワロさんはあの婦人を知っておいでなのですか」
「知っております」
ポワロはそれ以上はいわなかった。ジャップは詮索したそうに、彼の顔を見つめていたが、ついに質問した。
「ポワロさんは、何か隠しておいでですね」
「ああ、そうそう。それで思いだしましたが、ジャップさんは何しにいらしたのでしたっけね。まさか旧友と一日を過ごしに来られたというわけではないでしょうね、たしかに、そんなことではありません。あなたはいたって簡単な殺人事件をもっていらしたのでしたね。犯人もわかっている。動機もはっきりしている……ところで、何が確実な動機なのですか」
「ほかの男と結婚したがっておりました。一週間とたたない前に、そういったのを聞いた者があります。また嚇《おど》し文句を口にしたのを聞いた者もあります。タクシーで乗りこんで行って、かたづけてしまうといったそうです」
「あなたはなかなか事情に通じておいでになる。誰か親切な人物がついていると見えますね」
というポワロの眼は質問をしているように見えたが、そうだとしても、ジャップには通じなかった。
「ポワロさん、私どもの耳にはいろいろなことが入りますんでね」と彼は無神経な返事をした。
ポワロはうなずいて、その日の朝刊のほうへ手をのばした。それはうたがいもなく、ジャップが待っている間に拡げ、われわれが部屋へ入って行った時に、性急にわきへ投げだしたものであった。ポワロは機械的に、それを中のページのところで折り返し、しわをのばしてきちんとそろえた。彼の眼は新聞に注がれていたが、彼の心は何かの謎に、深く注がれているようであった。やがて彼は、
「あなたは、私の質問にまだお答えになりませんね。すべてがとんとん拍子に行っているのに、なぜ私のところへおいでになったのですか」
といった。
「あなたが昨日の朝、男爵家を訪問されたと聞いたものですから」
「なるほど」
「で、それを聞くやいなや、私はこう考えたのです……何かあるぞ。男爵がポワロ氏を招いたのはなぜだろう? 男爵は何を感づいていたのだろう? 何を恐れていたのだろう? これは一定の行動をとる前に、ポワロ氏に面会したほうがいいだろう……というわけでしてね」
「一定の行動とおっしゃるのは、どういう意味ですか。あのご婦人を逮捕するということですか」
「そのとおりです」
「あなたは、まだあのご婦人に会われないのですね」
「会いましたとも、第一にサボイ・ホテルへ行きました。彼女がわれわれをまいてしまうような危険をおかしたくないですからね」
「それで、あなたは……」
そこでポワロは言葉をきってしまった。それまで考え深い様子で自分の前の新聞にそれとなく眼を注いでいた彼が、そのとき表情を変えた。彼は頭をあげて以前と異なった語調で、
「で、ご婦人は何といわれました? ええ、何といわれました?」と尋ねた。
「もちろん型通りに陳述を求め、警告を与えました。あなたに、英国の警察は公明正大でないとはいわせませんよ」
「愚かながら、私の見解ではそうです。だが、後をおつづけ下さい。奥方様は何といわれましたか」
「ヒステリーを起こしました。ころげまわり、両腕を上へあげ、最後に床へぶったおれました。とてもうまくやったですよ。見事な演技でしたよ」
「するとあなたは、そのヒステリーはほんものではないと睨《にら》んだわけですね」
ジャップは下品にウインクした。
「あなたは、どう思われたのですか。私はそんなトリックには、引っかからんですよ。彼女は気絶なんかしたんではないですとも、真似していたんですよ。大いに楽しんでやっていたと断言しますね」
「そうでしょう。たしかに、あり得ることです。それから、どうしましたか」
「それから芝居をつづけましたさ。うめいたり、うなったりして……それから、ぶっちょう面《づら》した女中が気つけ薬をかがせると、ようやく正気を取りもどし、顧問弁護士をよんでくれといったです。弁護士の指図なしでは、何も証言しないというのです。最初にヒステリーの発作を起こし、次は弁護士とくる、これが自然の行動といえましょうか」
「この場合、いたって自然だといえますね」と、ポワロはおだやかにいった。
「彼女が有罪で、それを自認しているからですか」
「そういう意味ではありません。あのご婦人の性格として自然だと申すのです。まず、夫の死を突然に知らされた場合の妻の役割をいかに演ずべきかという彼女の概念をあなたに与えたのです。俳優としての本能を満足させてしまうと、持ち前の抜け目なさが弁護士を呼ばせたのです。彼女が人工的な場面を創作して、それを楽しんだからといって、何も有罪の証拠にはなりません。それは彼女が生れながらにして女優だということを証明するだけです」
「しかし、彼女が無罪であり得るはずはないです。これだけは確かです」
「あなたは確信をもっておいでですね。おっしゃるとおりかも知れません。何も陳述しなかったとおっしゃってましたね。一言もいいませんでしたか」
「弁護士に会うまでは一言もいわないというのですよ。女中が弁護士に電話をかけました。私は部下を二人残して、ここへ来たわけです。事件を進行させる前に、どんなことが起こったか、よく知っておくほうがいいと思ったもので」
「それでいて、あなたは確信をもっているとおっしゃるのですか」
「もちろんですとも。しかし、私はできるだけ多くの事実を集めたいのです。いいですか、こりゃ大評判になりますぜ。こそこそ扱われるような事件ではないですからね。どの新聞も全面をこの記事で埋めるでしょうね。新聞というやつはどんなものか、ポワロさんもご承知でしょう」
「新聞といえば、ジャップさんはこの記事をどう思いますか、あなたは朝刊をあまり念をいれて読まれないようですね」といって、ポワロはテーブルの上にかがんで社交ニュース欄を指さした。ジャップはその記事を声を出して読みあげた。
――モンターグ・コーナー卿は、昨夜チズウィックの河畔にある邸宅において、非常に盛大な晩餐会を催した。来会者のなかにはジョージ卿夫妻、有名な劇評家ジェームズ・ブラント氏、オバートン映画撮影所のオスカー・ハマーフィルド卿、ジェーン・ウィルキンソン嬢(エッジウェア男爵夫人)その他……
ちょっとの間、ジャップは茫然自失のていであった。それから気を取りなおして、軽く皮肉った。
「これがどうだっていうんですか、こういう記事は、前もって新聞社へ送られるものです。いいですか、このご婦人は出席しなかったとか、あるいは遅刻したとか……十一時ごろ到着なんていうことにちがいないです。新聞に出ていることは何でも真実だと信じてはなりません。こういうことは心得ておくべきですよ」
「それは私もよく心得ております。ただ私は妙だなと思っただけのことです」
「こういう偶然の符合というものは、よく起こるものです。さて、ポワロさん、あなたが牡蠣《かき》のように口をとじておられることは、私は苦い経験でよく承知していますがね。なぜ、エッジウェア男爵が、あなたをよんだのか聞かしてくれませんか」
ポワロは首をふった。
「エッジウェア男爵が私をよんだのではなく、私のほうから会見を申し入れたのです」
「ほんとうですか? どういう理由ですか」
ポワロは、ちょっとためらった後、
「あなたの質問にお答えしましょう。しかし、私流にお答えしたいと思います」と、ゆっくりいった。
ジャップはうめいた。私は心ひそかに彼に同情した。ポワロはときどき、おそろしく他人をいらいらさせることがある。
「私はある人物に電話をかけて、ここへ呼びよせることを、あなたに要求いたします」とポワロはいった。
「どんな人物ですか」
「ブライアン・マーティン氏」
「映画俳優ですね。彼はこれとどんな関係があるのですか」
「ブライアンのいうことは、あなたに興味があるでしょうし、また助けにもなると思うのです。ヘイスティングス君、すみませんが」
私は電話帳をくって番号を捜しだした。
「ハロー、どなたですか」ブライアンの眠そうな声が聞こえてきた。
「ポワロ氏の代理の者ですが、エッジウェア男爵が殺害されたので、それについてあなたにおいでねがえると大変に好都合だとポワロ氏からのお願いなのです」
「おどろいたですね! 彼女、とうとうやりましたか! 僕、すぐいきます」と、ブライアンは急《せ》きこんでいった。
私がブライアンのいったとおりを伝えると、ポワロは満足げにうなずいて、
「彼女、とうとうやりましたか! といったのですね、では私の思ったとおりです」といった。
ジャップはふしぎそうに、ポワロを見つめた。
「私には理解できんですね、ポワロさん。あなたは最初、あの婦人が犯人ではないだろうというような口ぶりだったのに、今度は、もう前からそうと図星をつけていたようだ」
それに対して、ポワロは微笑しただけであった。
ジェーンのアリバイ
ブライアンは言葉どおりに、十分とたたないうちにやって来た。彼の到着を待つ間、ポワロは事件と無関係な問題ばかり話していて、ジャップの好奇心を満たすようなことは、爪ほども語らなかった。
われわれの提供したニュースは、ひどくこの若い俳優の気持ちを混乱させたとみえて、彼の顔は青ざめて、やつれていた。
「大変なことになったですね、ポワロさん。僕はしんそこから仰天してしまったが、驚いたとはいえないですね。僕はいつもこんなようなことが起こるんではないかと危ぶんでいたんです。昨日、僕のいったことを覚えていらっしゃるでしょう」
ブライアンはポワロと握手をしながらいった。
「おぼえておりますとも、あなたが私におっしゃったことは、よく覚えております。この事件を担当しておられるジャップ警部をご紹介しましょう」
ブライアンは、非難の視線をポワロに投げて、
「僕はちっとも知らなかった。そうならそうと耳打ちしておいてくれればいいのに」とつぶやき、警部にむかって冷やかにうなずいた。彼は唇をかみしめて椅子に腰かけた。
「分らないなあ、どういう訳で僕に来いといわれたんですか、何も僕の関係したことでないのに」とブライアンは抗議した。
「関係があると思いますね。殺人事件の場合には、個人的反感などを持ちだしてはなりません」と、ポワロはおだやかにいった。
「分りました。僕はジェーンと共演しました。僕は彼女をよく知っています。とにかく、彼女は僕の友人です」
「にもかかわらず、あなたはエッジウェア男爵が殺されたと聞いた瞬間、犯人は彼女だという結論に飛びつきましたね」と、ポワロはそっけなくいった。
若い俳優はぎょっとして前へ身を乗りだした。
「そうすると……あなたは、僕の考えはまちがっているというんですか? ジェーンは何の関係もないというんですか?」彼の眼は飛びだしそうに見えた。
ジャップ警部が割り込んだ。
「いや、いや、ブライアンさん。彼女がやったんですとも」
青年は再び椅子の背によりかかった。
「僕はまた、とんでもない間違いをやったのかと思った!」
「こういう場合には、友情にほだされたりしてはなりませんぞ」ポワロはきっぱりといった。
「そりゃそうでしょうが、しかし……」
「ブライアンさん、あなたは人殺しをした婦人に味方したいと本気に希望しておいでなのですか。人間の犯罪のなかでも、もっとも兇悪な殺人を犯した人物に味方するのでございますよ」
ブライアンは溜息をついた。
「ポワロさんには分らないんだ。ジェーンは普通の殺人者ではないですよ。あの人は善悪の観念のない女なんです。まったくのこと、彼女には責任はないんです」
「それは陪審員の問題だ」と警部がいった。
「おや、おや、あなたはまるであのご婦人を告発していないようなことをおっしゃる。だがすでに警察では、犯人ときめているのです。ブライアンさん、あなたは知っておいでになることを全部私どもにお話しになるのを拒絶なさるわけにはまいりますまい。社会に対する責任がおありですからね」ポワロはとりなすようにいった。
ブライアンは溜息をついた。
「それが真実でしょうね、一体僕に何を話せというんですか」
ポワロはジャップ警部のほうを見た。
「君は男爵夫人、つまりジェーン嬢がエッジウェア男爵に対する脅し文句を口にするのを聞いたことがありますか」と警部が尋ねた。
「はあ、たびたび聞いたです」
「どんなことをいいましたか」
「もし男爵が自由を与えてくれなければ、殺《ばら》してやるといいました」
「で、それは冗談ではなかったですか」
「いいえ、本気にいったと思いますね。一度はタクシーを乗りつけて殺してやるといったことがあったです。ポワロさんも聞きましたね」
青年は助けを求めるようにいった。
ポワロは、うなずいた。
警部は質問をつづけた。
「さて、ブライアンさん。彼女はほかの男と結婚するために自由を欲していたということですが、相手の男は誰か知っていますか」
ブライアンはうなずいた。
「誰です」
「それは……マートン侯爵」
「マートン侯爵とは! これはどうも……」警部は驚きの口笛を発した。
「高級な獲物に飛びつくというわけだな。あの侯爵は英国一の金持ちといわれている」
ブライアンは、前にもまして元気なくうなずいた。
私にはポワロの態度が理解できなかった。彼は椅子の背にもたれ、両手の指と指を胸の上で突き合わせ、まるで蓄音機にレコードを選んでかけた男がすっかり満足して、その音楽を楽しんで拍子をとっているように、首をふっているのであった。
「男爵は夫人を離婚しようとしていたのではないですか」
「いいえ、絶対に拒否していたです」
「事実として、あなたはそれを知っているのですか」
「そうです」
そこで、ポワロは急に起き直って会話に割りこんだ。
「ジャップさん、さっきの話のつづきですがね、私はエッジウェア男爵夫人に、夫のところへ行って、離婚に同意するように骨をおってもらいたいと依頼されたのでした。それで今朝、男爵と会見する約束だったのです」
ブライアンは首をふった。
「それは無駄だったでしょう。男爵は同意しっこありませんでしたよ」
「あなたは、そうお思いでしたか」
ポワロはおだやかな視線をブライアンに向けた。
「それは確実なことですよ。ジェーンは百も承知でした。彼女はあなたが成功するなんていうことは、本気に考えていなかったでしょう。すっかり希望をすてていたんですからね。男爵は離婚問題に対して偏狂者でしたよ」
ポワロは微笑した。その眼はにわかに緑色の光を深めた。
「ブライアンさん、それはあなたの思いちがいですよ。私は昨日、エッジウェア男爵に会いました。そして|男爵は離婚に同意《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》されました」
この一片のニュースに、ブライアンがあっけにとられてしまったことは、疑う余地がなかった。彼は今にも眼が飛びだしそうな顔つきで、ポワロをしばらく見つめていた。
「あなたは……ポワロさんは会ったんですって? 昨日?」と彼は喘ぐようにいった。
「十二時十五分に」ポワロは几帳面にいった。
「そして男爵は離婚に同意したんですか」
「同意されました」
「なぜそのことをすぐに、ジェーンに知らせてやらなかったんです!」青年は非難するように叫んだ。
「知らせましたとも」
「知らせたんですか!」
ブライアンとジャップはいっしょに叫んだ。ポワロは微笑した。
「このことはいくぶん動機をそこなったようですね。さて、ブライアンさん、あなたの注意をこれに向けさせていただきましょう」
ポワロは新聞記事を示した。ブライアンは、無関心な様子でそれを読んだ。
「これがアリバイになるというんですか。男爵は昨日の晩に、射殺されたんではないですか」
「射たれたのではありません。刺されたのです」とポワロがいった。
ブライアンは、新聞をのろのろと下へ置いた。
「これは何の役にも立たんでしょう。ジェーンは、この晩餐会には行かなかったですからね」
ブライアンは残念そうにいった。
「どうして、それを知っておいでなのですか」
「忘れましたよ。誰かが僕にそういったのです」
「それは残念なことです」ポワロは考え深くいった。
ジャップ警部は、ふしぎそうにポワロの顔を見た。
「あなたが何を考えているのか、さっぱり分らんですね。今のあなたは、まるであの若い女性が、有罪であることを認めたくないように見受けられますな」
「いや、いや、ジャップさん。私はあなたの考えられるような反対党員ではございませんよ。しかし正直なところ、この事件に関するあなたの提示の仕方が、私の理解力に反抗するのです」
「理解力に反抗するとはどういう意味ですか、私の理解力には何ともないですがね」
私には、ポワロの唇に言葉が出かかって、ふるえているのが見えた。しかし彼はそれをのみこんでしまった。
「ここに若い女性がいます。あなたのいわれるには、彼女は夫を追い払ってしまいたがっていると、この点について私は議論しません。彼女自身が私にそう申したのですから。さて、彼女はそれに対してどう行動したでしょうか。彼女は自分が夫を殺そうと思っているということを、何度か大勢の人の前で、すきとおった大きな声で繰り返して公言しました。そしてある晩、その夫の家を訪ね、名乗りをあげて、彼を刺し殺して帰って来ました。あなた方は、これについて何とおっしゃる? 常識あることでしょうか?」
「もちろん、愚かなことですよ」
「愚かどころか、低能ですよ」
「さてと……」ジャップは立ちあがりながら
「犯罪者が度を失うのは、警察にとっては有利なことですよ。私はこれからサボイ・ホテルへ行かにゃならん」
「私どももお供させていただけますね」
警部は反対しなかったので、ポワロと私はいっしょに出かけた。ブライアンはしぶしぶ、われわれと別れて行った。彼はひどく興奮して神経過敏になっているようであった。別れぎわに、その後の事件の発展について、聞かせてくれるように熱心に頼んだ。
「神経過敏な奴ですな」と、ジャップが批評すると、ポワロも同意した。
ホテルでは、いかにも弁護士らしい顔つきの紳士が到着したところだったので、一同そろってジェーンの部屋へ向かった。ジャップ警部は、部下の一人と言葉を交わした。
「何か?」とジャップは簡潔に尋ねた。
「電話を使いたいといいました」
「誰に電話したのかね?」
「ジェイ商店へ喪服の注文です」
ジャップはいまいましげに舌打ちした。
一同は部屋へ入った。
エッジウェア男爵未亡人は、鏡の前でいくつもの帽子を選んでかぶってみているところであった。黒と白の薄物のようなドレスを着た彼女は、輝くばかりの微笑をうかべて、われわれを迎えた。
「まあ、ポワロさん、よく来て下すったこと」といい、弁護士にむかって、
「モリソンさん、来て下すって、うれしいわ。どうぞ私のそばへ腰かけて、どんな質問に答えたらいいか、私に教えてちょうだい。ここにいるお役人たちは、私が今朝出かけて行って、エッジウェアを殺したと思ってるらしいのよ」
「昨夜です、奥様」とジャップがいった。
「あなた、今朝十時っていったわ」
「午後十時といいました」
「私、午後だの、午前だのって、どっちがどっちか、わからなくなってしまうのよ」
「今は、ちょうど午前十時です」と警部は厳しくいった。
「呆れたわ! 私、こんなに早起きさせられるなんて、何年ぶりかしら? あなたが来たのはきっと夜明け前だったのね」
「警部殿、ちょっと伺いますが、このいまわしき不祥事が起こりましたのは、何時と承知いたすべきでありましょうか」モリソンは弁護士流のおもおもしい口調でいった。
「昨夜、十時前後です」
「じゃあ、よかったわ。私はパーティに行ってたから……あら!(彼女はあわてて手のひらを口にあてて)こんなこと、しゃべっていけなかったんじゃなかったかしら」といって、哀願するように、おどおどした眼つきで弁護士のほうを見た。
「もしエッジウェア男爵夫人が、昨夜十時に、パーティに出席しておられたのなら……その……警部殿に……その事実をお話しなされることは少しもさしつかえありません」
「そのとおりです。私はただ奥様の昨夜の行動についての陳述を願っただけであります」
「ちがうわ。あなたは、午前とか午後とか、へんなこといって、私をとてもびっくりさせたじゃありませんか。モリソンさん、私、その場で気絶しちまったんですのよ」
「男爵夫人、パーティのことをどうぞ」
「チズウィックのモンターグ・コーナー男爵家で開かれたの」
「何時にそこへ行かれましたか」
「お食事は八時三十分」
「何時にそこへ出かけられましたか」
「八時ごろ出かけたわ。途中、ちょっとピカデリーのパレスホテルへお友達にさよならをいいに寄ったわ。アメリカへ帰る人で、バンデューセン夫人。それでチズウィックへ着いたのは九時十五分前」
「あちらを何時に、出られましたか」
「十一時半ごろ」
「まっすぐここへ帰られましたか」
「ええ」
「タクシーで?」
「いいえ、ダイムラー・ギャレージから雇ったハイヤーで」
「あなたは晩餐会の席をはずされませんでしたか」
「それは……」
「外されたのですね」
「あなたのいう意味、私にわからないけど、食事中に、電話がかかってきて」
「誰からかかってきましたか」
「誰かがいたずらしたんじゃないかしら、だって……エッジウェア男爵夫人でいらっしゃいますか……っていうから……はい、さようでございますといったら、そのまま電話を切っちまったんですもの」
「電話をかけに家の外へ出られたのですか」
ジェーンはびっくりしたように大きく眼を見はって、
「もちろん、そんなことしないわ」
「食卓をはなれておられた時間は、どのくらいでしたか」
「一分半ぐらいのものね」
それでジャップ警部も行き詰ってしまった。私は確かに、警部はジェーンの陳述を一語だって信じていないと見てとった。それにしても、彼はその陳述を確かめるなり、あるいは反証をあげるなりするまでは、何ともしようがなかった。
ジャップは彼女に冷やかに礼を述べて、引きさがった。
われわれも暇《いとま》を告げたが、ジェーンはポワロを呼びもどした。
「ポワロさん、私に頼まれてくださらない?」
「よろしゅうございますとも、奥様」
「私のかわりに、あなたから巴里《パリ》にいる侯爵へ電報を打って下さいません? クリヨン・ホテルにいるのよ。あの人に知らさなければならないわ。でも、私から知らせるのは困るの。一二週間は、悲嘆に暮れている未亡人らしくしていなければいけないと思うから」
「奥様、電報を打つ必要がございますでしょうか。あちらの新聞にも出るはずでございますから」
「あらまあ、ポワロさんは何て頭がいいんでしょう! もちろん、そうね、電報なんか打たないほうがよろしいわ。私は今、自分の身分を保つために、何もかも間違いなくやるように気をつけなければならない立場なんですもの。未亡人らしく振舞わなければならないでしょう。おもおもしくもったいぶらなければね。私、あの人の霊前に蘭の花輪を供えようと思うのよ。このごろ一番お金のかかる贅沢な花輪になってるから。私、お葬式に行かなくちゃならないでしょうね、どうでしょう?」
「それよりもまず、審問法廷へおいでにならなければなりません」
「あら、そうでしたわねえ……」
彼女はちょっと考えた後、
「私ねえ、あの警視庁の警部さん、きらいだわ。ひとを嚇しつけてばかりいるんですもの……ねえ、ポワロさん」
「何でございますか」
「私、結局、気を変えてあのパーティに行って運がよかったと思うわ」
その言葉を耳にすると、戸口へ行きかけていたポワロは急に向き直った。
「奥様は、何とおっしゃいましたか? 気をお変えになりましたと?」
「ええ、私、失礼するつもりだったの……昨日の午後、ものすごく頭痛がしたんで」
ポワロは口をきくのがむずかしいように、二三度、唾をのみこんだ。
「奥様は、そのことを誰かにお話しになりましたか」
「ええ、話してよ。大勢の人たちとお茶をのんでいたんですもの。皆は私をカクテル・パーティに行かせようとしたんですけど、私、頭が割れそうに痛いから、真っ直ぐ家へ帰って、夜のパーティもことわってしまうっていったんですのよ」
「では、なぜ、気をお変えになったのですか」
「エリスが責めたてたから。そんなことする身分じゃないって。モンターグ老男爵はいろいろな方面に勢力があるし、それにひどく気難しやでしょ? じきに、つむじを曲げてしまうのよ。私、そんなこと平気なの。マートン侯爵と結婚してしまえば、あんな連中のご機嫌なんか取る必要ないんですもの。でもエリスはとても用心深いたちで、寸善尺魔ということもあるからって、……で、それでエリスのいうことも、道理《もっとも》だと思って、出かけたってわけなの」
「奥様は、エリスによほど感謝なさらなければなりませんね」
「そうらしいわ。これであの警部は、すっかり無駄骨折りになっちまうのね。そうでしょ?」彼女は笑ったが、ポワロは笑わなかった。彼は低い声でいった。
「それにしても、これは非常に考えさせられますね。さよう非常に考えさせられます」
「エリス」ジェーンが呼んだ。
女中は次の間から出て来た。
「ポワロさんがね、昨夜お前が、私を無理にパーティへ行かせたことは、とても幸運だったっていいなさるのよ」
エリスはちらと、ポワロを見ただけであった。彼女は何か不賛成だというような不機嫌な顔をしていた。
「奥様、お約束をお破りになるなどと申すことはなりません。あなた様はよく平気でお破り遊ばしますが、世間様は、いつも許しておいてくれるわけではございません。時にはひどい仕返しをされることもございます」
ジェーンは、われわれが入って来た時に試していた帽子を、もう一度かぶってみて、
「私、黒い帽子って大嫌いよ、でも未亡人として正しい服装だとあれば、仕方ないわね。この帽子どれもこれも、実にいやだわ。エリス、ほかの帽子店に電話かけてよ」
ポワロと私は、そっとその部屋をぬけだした。
口にくわえた薔薇の花
ジャップ警部が、どこへ行ってしまったのかわからなかったが、一時間ぐらいしてから、再び現われて、帽子をテーブルの上に叩きつけ、ひどいことになったといった。
「調査していらしたのですね」とポワロは同情するように尋ねた。
ジャップは苦《にが》りきって、うなずき、
「十四人の人たちが嘘をついたのでなければ、あの夫人がやったのではないですよ」とうめくようにいった。
「ポワロさんだからかまわず白状しますがね、私はこしらえごとだという証拠をつかむつもりだったのですよ。表面から見たところ、ほかの者がエッジウェア男爵を殺すことなんかできるはずはないです。あの夫人のほかだれ一人として、男爵を殺す動機をもっていないのです」
「私はそうは思いませんね。しかし、先をおつづけください」
「それで、さっきいったように、私はこしらえごとを見つけるつもりだったのです。ご承知のように劇壇の連中っていうのは、お互い同志仲間をかばいあっているものでしてね。しかし、私が今会ってきたのは、全然ちがう畑の連中です。昨夜のパーティに集ったのは、それぞれその方面の大物《おおもの》で、一人としてジェーン・ウィルキンソン嬢の親しい友人というわけではないのです。ある人たちは全然知らない者同士でした。だから、一人一人の証言は独立したもので、信ずるにたるものです。私はあの連中の一人でも、ジェーンが三十分くらい、席にいなかったことを証言してくれるようにと希望をもっていたのです。彼女は化粧を直しに行って来たとか、何とか理由をかまえて席をはずすことができたはずです。ところが、電話で呼ばれた以外には席を立たなかったのです。それに執事が電話室へ案内して行っています。それから執事がそばで聞いたのも、彼女がいったとおり、……はい、さようでございます。こちらはエッジウェア男爵夫人でございます……そこで電話がきれてしまった。というわけで、この電話は事件とは何ら関係がないことが判明したのです」
「そうかも知れませんが、しかし、たいそう興味がございますね。電話をかけてよこしたのは、男でしたか、女でしたか」
「女だということです」
「奇妙なことですね」ポワロは考えこみながらつぶやいた。
「まあ、そんなことはどうでもいいとして、もっと重要点へもどりましょう。昨夜の彼女の行動は陳述どおりなのです。九時十五分前に到着、十一時半に引揚げ十二時十五分前にホテルへ帰っています。彼女を乗せた車の運転手は、ダイムラー・ギャレージの常雇いの一人ですし、ホテルの者たちも、男爵夫人がその時刻に帰って来たことを確認しました」
「やれ、やれ、それでは決定的のように思われますね」
「ところが、エッジウェア男爵邸に男爵夫人を見た証人が二人いるのは、どうしたものでしょうかね。執事のほかに、男爵の女秘書も、彼女を見ているのです。二人とも天に誓って、昨夜十時に来たのは男爵夫人だというのです」
「執事は男爵家に雇われてから、どのくらいになるのですか」
「六か月です。なかなかの美男子です」
「そうですか。六か月にしかならないとすると、その前には男爵夫人を見ていないはずですから、それが男爵夫人だと確認することはできないと思われますがね」
「しかし彼は、夫人を新聞などによく出る写真で知っているのです。とにかく、女秘書は五六年前から、男爵家にいて夫人をよく知っていますから、これはもう絶対に確実ですよ」
「なるほどね……その秘書に会ってみたいものですね」
「では、これからいっしょに行こうではありませんか」
「ありがとうございます。喜んでお供させていただきましょう。時にジャップさん、ヘイスティングス君も、あなたのご招待のなかに含まれているのでしょうね」
ジャップはにやにや笑った。ポワロは、
「主人の行くところへ、犬はついて行くと申すのはいかがですか?」と、つけ加えた。このたとえはあまりいい趣味だとは思われなかった。
「カニング事件を思いださせられるですね、ポワロさん、覚えておいでですか。たくさんの人が、同時に、英国の異なった地方で、メリーを見たと証言したのでした。その証人は、皆信用の置ける立派な人たちでしたし、しかも、メリーというジプシー女は、二人とはないような醜悪な顔をしていたんですからね。あの謎はついに解かれないでしまったですが、こんどの事件もあれに非常によく似ていますな。それぞれ異なった場所にいた異なった人々が、同時に一人の女性を見たと誓っているんですからね。どっちの側のいうことが真実ですか?」
「それを発見するのは、むずかしいことではないのではございませんか?」
「あなたは、そういわれますが、このキャロル嬢というのは、実際にエッジウェア男爵夫人を知っているのですからね。つまり、彼女は夫人と同じ家に暮らして、朝夕顔を合わせていたんです。よもや見まちがいをするなんていうはずはないですよ」
「いずれそのことは判明いたしましょう」
「男爵をつぐのは誰ですか」と私は尋ねた。
「甥のマーシュ大尉です。浪費家だと聞いています」
「死んだ時刻について、医師は何と申しておりますか」とポワロが尋ねた。
「解剖を待たなければ、正確なことはわからんです。晩飯が、どの辺へいっているか見ないとね」
どうも、ジャップの表現は残念ながらあまり上品とはいえない。
「しかし、十時というのが、どうやら適中しているらしいですね。家のなかで、最後に見られたのは九時ちょっと過ぎに食卓を離れた時で、執事がウィスキーとソーダ水を書斎へ持って行ったのです。そして十一時に執事が寝床へ行った時には、書斎の燈火が消えていたというのですから、その時にはもう死んでいたにちがいないです。暗闇に坐っているはずはないですからね」
ポワロは、考え深い様子でうなずいた。間もなくわれわれが男爵家へ近づいた時には邸《やしき》の窓にはすべてブラインドがおろされていた。
美男の執事が戸を開けた。
ジャップが先に立って入って行き、その後にポワロと私がつづいた。玄関の戸は左開きなので、執事は左手の壁ぎわに立っていた。ポワロは私の右側にいたし、それに小柄なので、玄関の広間へ入った時はじめて執事はポワロを見た。私は執事の近くにいたので、はっと息をのむのを聞いて、さっとそのほうを見ると、彼が愕然とした表情を浮かべてポワロを凝視しているのを発見した。私はそのことを、何か貴重な資料になるかも知れないと思って、心にとめておいた。
ジャップは、右手の食堂へさっさと入って行って、執事についてくるように命じた。
「さて、オルトン、もう一度、よく注意して答えてもらおう。その女性が来たのは十時だね」
「奥方様でございますね。はい、さようでございます」
「どうしてお前は奥方様だと分ったのだね」と、ポワロが質問した。
「お名前を仰せになりましたし、それに私はお写真をよく新聞紙上で拝見し、舞台も拝見したことがございますので」
「どういう服装をしておられたね」
「黒い服装でいらっしゃいました。黒の散歩服に小さな黒い帽子、真珠の首飾りに灰色の手袋」
ポワロは質問の視線をジャップに向けた。
「白タフタの夜会服に貂《てん》の毛皮」と彼は簡潔に答えた。
執事は先をつづけた。彼の陳述はジャップから聞いたとおりであった。
「昨夜、誰かほかにご主人に会いに来た者はなかったかね」とポワロが尋ねた。
「いいえ、ございません」
「玄関は、どういうように戸締りしてあったのだね」
「エール鍵を使うようになっております。ふだんは、私が毎晩十一時に寝室へさがる前に閂《かんぬき》をかけておくのでございますが、昨晩はジェラルディンお嬢様がオペラへおいでになりましたので、閂ははずしておきましてございます」
「今朝玄関の戸はどうなっていたね」
「閂がかかっておりました。お嬢様がお帰りになった後におかけになったのでございます」
「お嬢様はいつお帰りになったか、君知っているかね?」
「十二時十五分前ぐらいだったとぞんじます」
「すると十二時十五分前までは、玄関は外側からは鍵がなければ開かないし、内側からはハンドルを廻すだけで開いたというわけだね」
「さようでございます」
「合鍵はいくつあるね」
「一つは御前《ごぜん》様がお持ちでございますし、もう一つは玄関の抽斗《ひきだし》のなかに入っておりますが、昨晩はお嬢様がお持ち遊ばしました。そのほかにあるかどうか、私はぞんじません」
「ほかに家の者で鍵を持っている人はないかね」
「いいえ。キャロル嬢は、いつも呼鈴を鳴らされます」
ポワロは、それ以上尋ねることはない旨を伝え、今度は秘書を捜しに行った。
キャロル嬢は大きな机にむかって、忙しげに書きものをしていた。彼女は快活で、能率的な顔つきをした四十五歳くらいの婦人で、金髪に白毛がまじっていた。鼻眼鏡をかけていて、その下から賢そうな空色の眼が、われわれにむかってきらめいていた。話しだした時、私はすぐに電話で聞いたあの澄んだ事務的な声を認識した。
ジャップが紹介すると、秘書は、
「ああ、ポワロさんでいらっしゃいますか。昨日の朝、電話でお打ち合わせをいたしましたっけね」といった。
「そのとおりでございます、お嬢様」
ポワロは非常に好印象を受けたように思われた。たしかに彼女は几帳面と清楚な人柄を示している。
「ジャップ警部さん、まだ何か、私にご用がおありですか」
「実は、こういうことなのです。昨夜ここへ見えたのは、確かにエッジウェア男爵夫人でしたか、それを伺いたいんです」
「そのことなら、これで三度目のお尋ねですわ。もちろん、私は、たしかに男爵夫人を見ました」
「あなた、どこでごらんになりましたのでございますか」とポワロが尋ねた。
「玄関の広間です。夫人は執事に二言三言何かおっしゃって、広間を通って書斎の戸口へおいでになったのです」
「で、あなたは、その時、どこにおいでになりましたか」
「二階におりました……階下《した》を見おろしていたのです」
「たしかに、あなたの見誤りではございませんか」
「お顔をはっきり見たんですもの、決して間違いありません」
「似ていたので見誤ったというようなことはございませんでしょうか」
「決して、そんなことありません、ジェーン・ウィルキンソンの顔は独特ですもの。たしかにあの方の顔でした」
ジャップは「どうです?」というように、ポワロをちらと見た。
「エッジウェア男爵には、敵がございましたでしょうか」ポワロが突然たずねた。
「馬鹿なことをおっしゃる! 現代人は敵なんか持っておりません。英国人はね!」
「しかし、エッジウェア男爵は殺されました」
「奥様がなさったのです」
「奥様というものは、敵ではないとおっしゃるのでございますか」
「ほんとうに、めったにない珍しいことだと思いますわ。今までこういう事件が起こったなんて、聞いたことがありません。私のいうのは、私どもの階級の社会でという意味です」
キャロル嬢の考えでは、殺人というものは、下層階級の酔っ払いによってのみ行われるものということになるらしい。
「玄関の鍵は、いくつございますでしょうか」
「二つです。一つはエッジウェア男爵がお持ちになり、一つは誰でも帰りの遅くなる人が持って出かけるように、玄関の抽斗に入れてあります。第三の鍵があったのですが、マーシュ大尉が紛失なすったのです。不注意なことですわ」
「マーシュ大尉は、たびたびこの家へおいでになりましたか」
「三年前までは、ここに住んでいらしたのです」
「どうしてこの家を去られたのですか」とジャップが尋ねた。
「ぞんじません。きっと伯父様とうまくいかなかったからでしょうね」
「あなたはそれについて、もっとごぞんじなのではございませんか」とポワロが、おだやかにいった。
彼女はすばやい視線をポワロに投げた。
「ポワロさん、私は噂話《ゴシップ》を好む人間ではありません」
「しかし、エッジウェア男爵と甥御《おいご》との間に容易ならぬ不和が生じたと申す風説に関して、真実のことをお話しくださることがおできになりましょう」
「それほど重大なことではありませんでした。エッジウェア男爵は一緒に暮らすのになかなか骨のおれる方でした」
「あなたでも、そうお思いになるほどでございましたか」
「私、自分のことをいっているのではありません。私はエッジウェア男爵と衝突したことはありません。男爵はいつも、私を信用していてくださいました」
「しかし、マーシュ大尉に関しましては……」
ポワロは、その問題を固持し、彼女にその先を語らせるようにおだやかに、せめたてていった。
「大尉は贅沢でした。で、負債ができました。そのほかにも、何か面倒があったようです……私、よくは知りませんが。二人は口論し、男爵は大尉を追いだしてしまったのです。それだけのことです」
それっきり彼女は唇をかたく閉じてしまった。それ以上はもう語らないつもりらしい。
この会見が行われたのは、二階の一室であった。われわれがその部屋を出た時、ポワロは私の腕をとった。
「ちょっと、ヘイスティングス君。ここに残っていてくれませんか。私はジャップさんといっしょにおりて行くから、私どもが書斎へ入るまで見ていて、それからおりて来てください」
私はずっと前から、ポワロになぜという質問をすることを断念していた。軽騎兵の標語のように「なぜとはきくな。命令を遂行するか、死するのみ」というわけで、幸いまだ死ぬところまではきていない。
私はポワロが自分の行動を執事がスパイしていると疑い、それを確かめるために、私にそんなことをさせるのだと思っていた。
私は二階の欄干から、階下《した》を見おろす位置に立っていた。ポワロとジャップは最初に玄関の戸のところまで行き、私の視界から消えてしまったが、今度は再び姿を現わして、ゆっくりと広間をぬけて書斎へ入って行った。私は執事が現われるかも知れないと思って、一二分待ったが、誰も現われなかったので、階段をかけおりて二人のところへ行った。
いうまでもなく、死体はほかへ移されていた。窓かけがおりていて電燈がついていた。ポワロとジャップは、部屋の中央に立って周囲を見まわしていた。
「ここには何もないですよ」とジャップがいっていた。
ポワロは微笑しながら、それに答えた。
「おや、おや、煙草の灰もなければ、足跡もない。ご婦人の手袋も……漂う香水の匂いもありませんね。探偵小説のなかの探偵が都合よく見つけるようなものは何もございませんね」
「探偵小説だと、警察官はいつだって、昼の蝙蝠《こうもり》のように盲目《めくら》にされてしまうんだからな」とジャップは歯をむきだして笑った。
「私は一度証拠物件を発見したことがございます。ところが、四センチでなく、四フィートの長さだったので、誰も信用いたしませんでした」と、ポワロは夢みるようにつぶやいた。
私はその時のことを思いだして笑った。そこで、自分の使命を思いだした。
「ポワロさん、大丈夫でしたよ。私は見守っていましたが、あなたが心配していらっしゃるように、誰もあなたをスパイしている者なんかありませんでしたよ」と私はいった。
「ヘイスティングス君の眼はどこについているのかね? 君は私が口にくわえていた、薔薇の花に気がつきませんでしたか」と、やさしくからかった。
「薔薇の花をくわえていた、あなたが?」私はびっくりしてきいた。
ジャップは横を向いて大笑いした。
「ポワロさん、笑い殺されそうだよ」彼はいった。「薔薇の花ですって? その次は何が出るんですか」
「私はカルメンのつもりになったのでございますよ」と、ポワロは平然としていった。
私は相手が気が狂ったのか、それとも自分のほうが変になったかしらと思った。
「ヘイスティングス君は、気がつかなかったのですか?」ポワロの声は非難するような調子だった。
「いいえ、第一、あなたの顔は見えなかったですよ」私は眼をみはっていった。
「たぶんそうだったのでしょう」ポワロは静かに頭をふった。
「さて、ここには何もないようですな。もしできたら、令嬢にもう一度会いたいですな。前に会った時には、あまり気が転倒しておって、何も聞きだせなかった」といって、ジャップは呼鈴を押して執事を呼んだ。
「令嬢に五六分お目にかかりたいと伝えてくれたまえ」
執事がさがると間もなく、キャロル嬢が入って来て、
「お嬢様は眠っています。お可哀相に、ひどいショックでした。あなたがお帰りになった後で、睡眠剤をさしあげたのでぐっすり眠っていらっしゃいます。一二時間しなければ、お目覚めにならないでしょう」
ジャップはうなずいた。
「とにかく、私の話せないことなんか、何一つお嬢様がお話しになれるわけはありません」
キャロル嬢はきっぱりといった。
「執事に対するあなたのご意見はいかがでございますか」とポワロが尋ねた。
「私は嫌いです。これは事実です。でも、なぜだか、自分でもわかりません」とキャロル嬢は答えた。
われわれは玄関の戸の前へ行った。
「あなたが昨夜、立っておいでになったのは、あそこではございませんでしたか」ポワロは突然に手をあげて階段の上を指さした。
「はい、なぜですか」
「そしてエッジウェア男爵夫人が、この広間を横切って書斎へおいでになるのを、ご覧になったのでございますね」
「はい」
「夫人のお顔を、はっきり、ご覧になったのでございますか」
「たしかに……」
「しかし、あなたは顔をご覧になることはおできになりませんでした。あなたの立っておいでになったところからは、後頭部だけより見えなかったはずでございます」
キャロル嬢の顔は怒りに燃えた。彼女は呆気《あっけ》にとられたらしかった。
「後頭部だって、声だって、歩きつきだって、そんなことどうせ同じことです。絶対に男爵夫人にまちがいありませんでした。ジェーン・ウィルキンソンにきまっています……あれは骨のずいまで悪い女です」といいすてて、彼女は二階へあがって行った。
ポワロの狼狽
ジャップ警部は警視庁へ帰ったので、ポワロと私はリージェント公園へ行って、静かな席を見つけた。
「今になって、あなたが薔薇の花をくわえていらした理由がわかりましたよ。最初、気が狂われたのかと思った」といって、私は笑った。
彼は、|にこり《ヽヽヽ》ともしないでうなずいた。
「ヘイスティングス君、あの秘書は危険な証人だということに、君も気がついたでしょう。危険というのは、あの婦人の観察が不正確だからです。あなたもお聞きだったでしょう。夜の訪問者の|顔を見た《ヽヽヽヽ》とはっきりいいましたろう。あの時、私はそんなことは不可能だと思いました。書斎から出てくる時ならですが、入って行く時には見えるはずはありません。そこでちょっと実験を行なってみたところ、私の思ったとおりでした。そこで、彼女にわなをかけたというわけで、はたして彼女はよりどころを変えてしまいました」
「しかし、信念は少しも変えませんでしたね。結局、声や歩きぶりはまちがいないと」
「いや、そういうわけにはいかない」
「なぜですか。声だの歩きぶりなんていうのは、最もよくその人の特徴を現わしているんではないですか?」
「その説には同感です。だから、そこで最も偽造しやすいということになりますね」
「ポワロさんは……」
「数日前へ記憶をもどしてごらんなさい。君は、私どもが劇場にいた晩のことを覚えていますか」
「カーロッタ嬢ですか? ああ、彼女は天才ですね」
「有名人の真似をするのは、あまりむずかしいことではありません。それにしても、あのご婦人は稀な才能をお持ちです。たしかに脚光や、距離などの助けを借りないでも、立派に、ある人物を演出できると思いますね」
不意にある考えが、私の心にひらめいた。
「ポワロさん、まさかあなたは、そんなことが可能だとは……いや、いや、それはあまりに偶然の符合すぎる」
「ヘイスティングス君が、それをいかに見るかによりけりですよ。ある角度から見れば偶然の符合でも何でもない」
「しかし、なぜカーロッタがエッジウェア男爵を殺す気になったのでしょう。第一彼女は男爵を知っていもしないではありませんか!」
「カーロッタが男爵を知っていないということを、君はどうして知っているのですか、ヘイスティングス君。そう早のみこみをするものではない。私どもが知らないところに、どんなつながりがあるかも知れない。私の仮定説は、君のとぴったりあっているというわけではないです」
「すると、あなたは仮定説をお持ちなんですか」
「持っております。最初から、カーロッタ嬢がこの事件に関係しているかも知れないという可能性が私の頭にぴんときていたのです」
「しかし、ポワロさん」
「待ちたまえ、ヘイスティングス君。まず二三の事実を組みあわせて見せてあげよう。エッジウェア男爵夫人は、いささかも口を慎むことをせず夫との関係を論じ、夫を殺したいとまで公言しています。それを聞いたのは私と君だけではない。給仕も聞いた。女中も、おそらくたびたび聞いたでしょう。ブライアンも聞いた、カーロッタも聞いたろうと思います。またそれを聞いた人たちは、それぞれ誰か、また別の人に話したでしょう。それからあの晩に、カーロッタがジェーンの真似をしたすばらしい演技が批評にのぼりました。エッジウェア男爵を殺す動機をもっていたのは、誰か? それは彼の妻である。
さて、ここでエッジウェア男爵を亡き者にしてしまいたいと望んでいる者がほかにあるとします。しかもその者の手近に、手頃な犠牲があります。ジェーンが頭痛を訴え、その晩は外出を見あわせると友人たちに告げた日に……|計画は実行に移された《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。
エッジウェア男爵夫人が、リージェント・ゲートの男爵邸へ入って行く現場を、誰かに目撃されなければならない。そして彼女は人の目にふれた。それだけでなく、男爵夫人であると名乗った。
これはあまりにお膳立てができすぎておりますね。これでは、どんな盲目《めくら》にでも疑惑を起こさせます。
まだほかに論点があります。……小さなものにちがいありませんが。昨日、男爵邸を訪れた女性は、黒い服装をしていました。ジェーン・ウィルキンソンは決して黒いものは着ません。私どもも彼女がそういったのを聞きましたね。そこで一つの仮定ができます。……昨日、男爵邸を訪れたのはジェーンではない、ジェーンに化けた女であった。だがその女が男爵を殺したでしょうか?
それとも第三の人物が、あの家へ入って行って男爵を殺したでしょうか? もしそうとしたら、その人物はエッジウェア男爵夫人の訪問前でしたろうか。後だったでしょうか? もし後だったとすると、ジェーンに化けた女は、男爵に何といったでしょう。どういうふうに、自分の存在を説明したでしょう? 直接会ったことのない執事を欺くことはでき、近くで顔を合わせたのでない秘書の眼をごまかすことはできたでしょうが、夫を欺くわけにいかなかったはずです。それとも、その女が書斎へ入った時には死骸だけだったでしょうか。エッジウェア男爵は、彼女が家へ入る前……九時から十時の間に殺されたのでしょうか」
「ポワロさん、止してください! あなたは、僕の頭のなかをひっかき廻していらっしゃる!」
「いいえ、いいえ、そんなことはありません。私どもはただ、可能な事柄を考えているだけです。服を選んでいるようなものです。これはぴったりしているだろうか? いや、肩のところに皺《しわ》が出る。これはどうだろう? ああ、このほうがいい……だが、まだ少し窮屈だ。こっちはあまり小さ過ぎる……という工合に、完全にあうもの……真実を見つけるまで、いろいろと捜していくのです」
「あなたは、こういう兇悪な計画をたてたのは、誰だと感づいていらっしゃるのですか」
「それをいうのはまだ早すぎる。まず、エッジウェア男爵の死を望む動機をもつのは誰であるかという問題に入っていかなければなりません。もちろん、相続人の甥もいます。これはいくぶん薄弱かも知れませんが。それから、キャロル嬢はああいう独断的なことを申しましたが、敵という問題もあります。私の判断では、エッジウェア男爵は、敵をつくりやすい性格のようです」
「そうですね」私も同感であった。
「それが誰であろうが、その人物は自分が大丈夫安全だと思っていたにちがいありません。ジェーンが最後の瞬間に気を変えなかったら、アリバイがなかったでしょう。彼女はホテルの自分の部屋に引きこもっていたかも知れない。そうであったら、それを証明するのは困難であったかも知れない。そこで逮捕され、公判に付され……そして絞首刑になったかも知れませんね」
私は、身ぶるいをした。ポワロは語りつづけた。
「しかし、私の腑に落ちないことが一つあります。犯人がジェーンに罪をきせようとしたことは、はっきりしていますが、それなら、なにゆえの電話かということです。犯人はなぜ、チズウィックへいっているジェーンを電話口へ呼びだして、彼女が出席しているのを確かめると、すぐに電話を切ったのかということです。それは、誰かがあることを遂行するに当って、彼女がチズウィックへ行っているかどうか、確かめるためだと思えないでしょうか。それが九時三十分だったのなら、たしかに殺人の行われる前と見てよろしいでしょう。そうなると電話をかけた意図は、ジェーンの立場を有利にするためとより思えませんね。すると、ジェーンに罪をきせるつもりでいる犯人が、あの電話をかけるはずはないということになります。では電話をかけたのは何者でありましょう? 私どもの前にまったく異なった二つの情況が横たわっているように思われますね」
私はまったく煙に巻かれた形で、頭をふった。
「偶然の符合ではないでしょうか」と私はいった。
「いいえ、どれもこれも偶然の符合とはいえません。六か月前の件も説明がついていません。男爵の手紙が握りつぶされたことは、何かこの事件に関連した理由があるにちがいありません。どうも材料があまりに多過ぎて、まとめようがない」とつぶやいて、ポワロは溜息をした。そしてさらに言葉をつづけた。
「私どものところへ、ブライアンが話しに来た。あの話は……」
「ポワロさん、あんなのはこの事件とは何の関係もないじゃないですか」
「君は盲目《めくら》だ! まったく盲目で、わざと鈍感になっている。ヘイスティングス君には、全部が一つの模様を描きだしているのが見えないのですか。現在ではまぜこぜになっていますが、やがて、はっきりした模様になります。……」
私はポワロが、楽天家になりすぎているように思った。私はどれ一つとして、はっきりしているようには考えられない。私の頭脳は正直なところ、渦を巻いていた。
「駄目ですよ。カーロッタがやったなんて、僕には信じられない。彼女はどう考えても、とても……善良な人のように思われる。……」
といっているうちに、私は金を愛すといったポワロの言葉を心に浮かべた。金を愛す……ということが一見、計算しがたいことの根底となっているのであろうか? 私はあの晩、ポワロが何か霊感を受けたように感じた。ポワロはジェーンが、一風変った利己主義的な性格ゆえに何か危険に瀕しているのを見ぬいていたようであった。またカーロッタが貪欲ゆえに常道を踏みはずすのを見ていたようであった。
「ヘイスティングス君、私はカーロッタが殺人をしたとは思いませんよ。あのご婦人はそういうことをするには、あまり冷静で常識がありすぎます。おそらく殺人が行われるということは、聞かされていなかったでしょう。何も知らずに利用されたかも知れません。しかし、それでは……」
ポワロは眉をひそめて、言葉をぽつりときってしまった。
「たとえ、そうであったとしても、カーロッタは従犯者ということになりますね……今日の新聞を見て、それと気がつき……」
突然、ポワロが、荒々しく叫んだ。
「大変だ! ヘイスティングス君、早く! 早く! 私は盲目《めくら》だった! 低能だ! 大急ぎで、タクシーだ!」
私は呆気《あっけ》にとられて、眼をみはった。
ポワロは手をふった。
「タクシーだ! すぐに」
ちょうど一台通りかかった。彼はそれを呼びとめ、われわれは飛び乗った。
「君は、住所を知っていますか」
「カーロッタの住所ですか」
「そうですよ! 早く、ヘイスティングス君、早くだ! 一分たりとも貴重だ! 君には分らないのか?」
「分らんですね」
ポワロは舌打ちして、
「電話帳? いや、電話帳には出ていないだろう。劇場へ!」と叫んだ。
劇場ではカーロッタの住所を誰にも告げないことになっていたが、ポワロはうまく聞きだしてしまった。それはスローン・スクエアの近くにあるアパートであった。
「間にあえばいいがね! ヘイスティングス君、間にあうだろうかね!」
「何をそんなに急いでいらっしゃるんですか、僕にはわけがわからない。どうしたというんですか」
「私はのろまだったように思われます。こんなにはっきりしたことに気がつかないとは、私はのろまだった。ああ、どうか間にあってくれればいいが……」
二 黄金の小函
ポワロ、誓いをたてる
ポワロがそんなに慌《あわ》て騒ぐ理由は私には理解できなかったが、それには必ず、それだけの理由があるにちがいないということは解っていた。
カーロッタのアパート、ローズデュウ荘につくと、ポワロは車を飛びおりて、運転手に代金を払うなり建物のなかへ駈けこんで行った。居住者名簿に名刺が貼りだしてあったので、カーロッタの住居は二階だとわかった。
ポワロは上へ行っている昇降機がおりてくるのも待たずに、階段をかけあがって行った。そして呼鈴を押したり、扉をたたいたりした。
しばらく間をおいて、髷《まげ》を引き詰めにした中年のこぎれいな女中が扉を開けた。泣いていたらしく、眼ぶたを赤くしていた。
「カーロッタ嬢は?」ポワロは急《せ》きこんでいった。
女はポワロをじっと見つめながらいった。
「お聞きになりませんでしたか?」
「聞いたかって、何を聞いたというのですか」というポワロの顔は、死人のように青ざめた。何だか私には分らないが、ポワロの惧《おそ》れていたことはそれだったらしいと、気がついた。
女は、静かに首をふって、
「お亡くなりになりました。睡眠中に逝《い》っておしまいになりました。恐ろしいことでございます」
ポワロは戸口の柱によりかかった。
「おそかった!」
彼の落胆ぶりが、あまりにはげしかったので、女はもっと注意して彼を見た。
「失礼でございますが、あなた様はお友達でいらっしゃいましょうか? 前にお見かけした覚えはございませんが」
ポワロはそれには直接答えないで、
「お医者を迎えたでしょうね、何と申しましたか」
「睡眠薬の飲み過ぎだとおっしゃっていました。まだお若く、ほんとうにいい方でございましたのに! 睡眠薬なんて、恐ろしい危険物でございます。ベロナールだそうでございます」
「なかへ入らせてもらいましょう」と、ポワロがいった。女は明らかに疑念を抱いたらしく、
「私には……」といいかけた。
しかし、ポワロは自分の意志を通すつもりであった。で、自分に望む結果を得るに、もっとも有効と思われる手段をとった。
「私を入れてくれなければならない。私は探偵で、カーロッタ嬢の死因について、取り調べなければならないのだから」と、彼はいった。
女は息をのんで片側に寄り、われわれをなかへ入れた。
ポワロはたちまち、その場の支配権をにぎった。
「私があなたにいうことは、極秘ですぞ。他言無用。世間には、過失死と思わせておかなければなりません。どうぞ、ここへ招いた医師の氏名と住所を願います」
「カーリッスル町十七番のヒース先生でございます」
「あなたのお名前は?」
「アリス・ベネット」
「あなたは、カーロッタ嬢を、大切にしておいでだったようですね、アリスさん」
「そうでございますとも、とても好い方でした。私は去年こちらで出演なすった時も、ご用を勤めたのでございます。ちっとも女優らしいところがなく、ほんとうの淑女《レディ》でいらっしゃいました。上品なご趣味で、何でも優美なのがお好きでした」
ポワロは同情と注意をもって耳を傾けていた。もう先刻のような、いらいらした様子は少しも見えなかった。必要な情報を聞きだす場合、おだやかに着手するのが最良の方法だということは、私も気がついていた。
「さぞ驚いたことでしょうね」とポワロは優しくいった。
「はい、とてもびっくりいたしました。紅茶を持ってまいったのでございます。いつものように九時半に……私はよくおやすみになっていらっしゃるのだとばかり思っていました。で、窓かけをひきましたら、環がひっかかって、力いっぱいに引っぱりましたもので、ひどい音をさせてしまったのでございます。これはと思って振り返って見ましたが、その音にも眼をお覚ましにならないので、びっくりいたしました。それで急におやと思ったのでございます。寝姿が何となく不自然に思われたので、いそいで傍《そば》へ行って手にさわってみると、氷のように冷たいではございませんか。で、私は大声をあげましたんです」と言葉をきった。彼女の眼に涙が溢れてきた。
「恐ろしいことだったでしょうとも。お察ししますよ。カーロッタ嬢は、ちょいちょい睡眠薬を用いられましたか」
「時折、頭痛がすると何か薬を召しあがりました。壜に入っている小さな錠剤でございます。けれども昨晩召しあがったのは、何か別のお薬だと、お医者様がおっしゃってました」
「昨夜、誰か訪ねて来た人はありませんでしたか」
「いいえ、昨夜は外出なさいました」
「どこへ行くと、おっしゃいましたか」
「いいえ、何もおっしゃらずに、七時ごろお出かけになったのでございます」
「どんな服装をしていらっしゃいましたか」
「黒いお召しものでした。黒い服に、黒い帽子」
ポワロは私のほうを見た。
「何か宝石をつけておいででしたか」
「いつもしておいでになる真珠の首飾りだけでございました」
「手袋は? 灰色の手袋でしたか」
「そうでございます。手袋は灰色でございました」
「どんな様子でいらしたか、お聞かせください。陽気でしたか、興奮しておいででしたか、悲しそうでしたか、神経質になっていらっしゃいましたか」
「何かのことで喜んでおいでになったようでございました。冗談か何か面白いことでもおありになるように、ひとりで、にこにこしておいででございました」
「何時に帰っておいででした」
「十二時ちょっと過ぎでございました」
「その時のご様子は?」
「ひどく疲れておいででございました」
「気が転倒しているとか、悩んでいるというようなところは、おありになりませんでしたか」
「いいえ、何かのことで大喜びしていらっしゃるようにお見受けしました。ただ疲れきったというご様子で、どなたかに電話をかけようとなさいましたが、面倒になったから、明日《あした》の朝かけようとおっしゃいました」
ポワロの眼は興奮にぎらぎらしてきた。彼は前へ身を乗りだして、しいて無関心らしい調子で尋ねた。
「電話をかけようとなすった、相手の名を聞きませんでしたか」
「いいえ。ただ番号を呼びだしただけで、きっとお話し中か何かだったのでございましょう、ちょっとお待ちになりましたが、急に欠伸《あくび》をなさり、ああくたびれた、面倒くさくなったわとおっしゃり受話器をかけて、お召し替えをおはじめになったのでございます」
「電話の番号を覚えておいでですか? 思い出してください。ことによると重要かも知れませんから」
「局番はビクトリアでございましたが、あとはぞんじません。私、別に注意しておりませんでしたので」
「寝床へ入る前に、何か食べるとか飲むとかなさいませんでしたか」
「いつものように、牛乳を一杯召しあがりました」
「その牛乳は誰が用意しました」
「私でございます」
「昨日の晩は、誰かここへ来た人はありませんでしたか」
「いいえ、どなたも」
「昼間は?」
「どなたもいらした覚えはございません。カーロッタ様はお昼飯《ひる》とお茶は、外で召しあがり、夕方六時にお帰りになったのでございます」
「牛乳はいつ配達になりました? 昨夜さしあげた牛乳です」
「午後に配達になった新しい牛乳でございました。四時に少年が戸の外へ置いて行ったのでございます。でも牛乳には、何も変ったことはございませんでした。私、今朝の紅茶に入れて飲みました。お医者は、睡眠剤の飲み過ぎにちがいないと、はっきりおっしゃいました」
「私の考え違いかもしれない。そうにちがいありません。これから行って、お医者様にお目にかかりましょう。実はカーロッタ嬢には敵がおありでしたからね、アメリカは、いろいろと事情がちがいますので……」とポワロは言葉を濁した。そこでアリスは、すぐその餌にひっかかってしまった。
「ええ、知っておりますわ、私シカゴのギャングのことを読んだことがございます。悪い国らしゅうございますね。警察は何の役に立っているんでございましょうね、私どもの警察のようなわけにいかないらしゅうございますわ」
アリスの島国根性のおかげで、説明をする煩わしさから救われたのを知って、ポワロは感謝して牛乳の問題は打ち切りにした。
彼の視線は椅子の上に置いてあった、小型の旅行鞄に落ちた。
「カーロッタ嬢は昨夜外出される時に、あれをお持ちになったのですか」
「それは朝お出かけの時に、持っていらしたのでございます。そして午後にお帰りになった時には、持っておいでにならないで、夜、持ってお帰りになりましたんでございます」
「開けて見てもよろしいでしょうか」
アリスはどんなことでも、許可するのであった。あまり用心深くて疑り深い女にかぎって、一旦その猜疑心《さいぎしん》がとけてしまうと、子供のように扱いやすくなるものである。彼女はポワロのいうことには、何でも賛成するであろう。
鞄には鍵がかかっていなかった。ポワロはそれを開けた。私はそばへ行って背後から覗きこんだ。
「どうです、ヘイスティングス君、どうです」と、ポワロは興奮してつぶやいた。
中味はたしかに、暗示的であった。
扮装用品を詰めた箱があった。そのなかには、一インチぐらい身長を高くするために、靴のなかに入れる台が一組あるのを私は認めた。薄紙に包んだ灰色の手袋もあった。ジェーンと同系の金髪を、ジェーンと同じに中央からわけて、首すじのところでカールした、見事な鬘《かつら》があった。
「ヘイスティングス君は、まだ信じませんか」と、ポワロは尋ねた。
私はついその時までは疑っていたが、もはや疑わなかった。
ポワロは鞄を閉じて、女中をかえり見た。
「あなたはカーロッタ嬢が、昨夜誰と食事をともにされたか知っておいでですか」
「いいえ、ぞんじません」
「では昼食や、お茶をともになすったのは?」
「お茶はどなたと召しあがったかぞんじませんが、お昼食はドライバーさんとご一緒だったとぞんじます」
「ドライバーさんというと?」
「ご親友で、モファット街に帽子店をだしておいでになるご婦人でございます」
ポワロは手帳を取りだして、医師の住所の下に、その帽子店の所番地を書きこんだ。
「もう一つ伺いたいのですが、カーロッタ嬢が六時に帰宅された時にいわれたことか、あるいはされたことで、何かふだんと違っているとか、仔細《しさい》ありげだと思われたようなことはありませんでしたろうか。どんなことでもかまいませんが」
女中はしばらく考えた後、
「ほんとうに何も申し上げることはございません。私が紅茶をおいれしましょうかと申しましたら、もう飲んできたとおっしゃいました。それから」
「お茶を飲んできたとおっしゃいましたか?」と、ポワロは相手の言葉をさえぎったが、
「失礼、どうぞおつづけください」
「それから手紙を書いていらっしゃいました。お出かけの時間になるまで」
「手紙? 誰宛に書かれたのか、知っておいでですか」
「はい、アメリカにおいでになるお妹様へでございました。一週に二回ずつ、きちんとお書きになっていらっしゃいました。そして、郵便船に間にあうように、今晩中に投函するとおっしゃって、持ってお出かけになりました。けれども投函なさいませんでした」
「では、その手紙はここにあるのですね」
「いいえ、私が投函いたしました。昨晩寝床にお入りになってから、それをお思いだしになりました。それで私が一走りして出してまいりましょうと申し上げたのでございます。切手を余分に貼って、速達便にしておけば、大丈夫船に間にあいますから」
「郵便局は遠くですか」
「いいえ、ちょっとそこの角を、曲ったところでございます」
「その時、ここの入口の戸に錠をおろして行きましたか」
「いいえ、そのままにしておきました。いつも郵便をだしに行く時には、そうなのでございます」
ポワロは何かいいかけたが、思いとどまってしまった。
「ご遺骸をご覧になりますか、とてもお美しくていらっしゃいます」
女中は涙をうかべていった。
われわれは彼女の後について、寝室へ入って行った。
カーロッタはふしぎにおだやかで、サボイ・ホテルで会った時よりも、ずっと若々しい顔をしていた。まるで疲れた子供が、眠っているように見えた。
その死骸を見おろしているポワロの顔には、奇妙な表情が浮かんでいた。私は彼が十字を切るのを見た。
われわれが階段をおりはじめた時、ポワロは、
「ヘイスティングス君、私は誓いをたてました」といった。
私はポワロが何を誓ったか、尋ねなかった。私には想像がついていた。
ちょっと間をおいて彼はいった。
「少なくも一つだけ、私の心を軽くしてくれたことがあります。どうしたって、私はあのご婦人を救うことはできなかったのです。私がエッジウェア男爵の死を聞いた時には、すでにカーロッタ嬢は死んでいました。それが私を慰めます」
Dとは何者か? それを探せ
次の訪問は、女中が住所を教えてくれた医師のところであった。
彼は何となく、はっきりしない感じの老人であった。ポワロの名声は知っていたので、本人に直接会ったことをひどく喜んで、
「ポワロさん、何をしてさしあげましょうか」と、初対面の挨拶がすむと尋ねた。
「先生は今朝、カーロッタ嬢の死の床へ呼ばれておいでになりましたね」
「ああ、気の毒なことでした。うまい女優でしたなあ、あの女優のショーは二回見に行きました。かかる終りをとげるとは、まことにはや残念なことでございます。近頃の娘さんたちは、どうしてこう麻薬をつかいたがるのか、解《げ》せませんわい」
「すると先生は、カーロッタ嬢が麻薬常用者だったとお考えなのでございますか」
「職業上からは、そうとは申しかねます。とにかく、彼女は皮下注射はしておらなかったです。針の痕跡はありませんでした。明らかに、口から摂取しておったものと見られますな。女中は、彼女がいつも薬品を用いないでよく眠ったと申したですが、女中のいうことなんかは当てにならんですからね。毎晩、ベロナールを用いていたとは思われんですが、よほど以前から常用しておったものと考えられますな」
「どういうところから、そうお考えになるのでございますか」
「これです。はて、どこへ入れたっけかな?」
医師は小さな箱のなかをのぞいて、
「ああ、ここにあったです」
といいながら、小型の黒い皮のハンドバッグを引きだした。
「審問があるでしょうから、女中が余計なことをせんように、ここへ持って来ておいたのです」
彼はそのハンドバッグを開けて、黄金の小函を取りだした。その表面に、紅宝石《ルビー》でC・Aと頭文字が象嵌されていた。それは高価な贅沢品であった。医師はそのふたを開いた。なかには白い粉が八分目ぐらい入っていた。
「ベロナールです。この内側に何か書いてあるからご覧なされ」
小函の蓋の内側に、
うましき夢を結びたまえ
C・Aへ Dより
十一月十日 巴里にて
と刻んであった。
「十一月十日」ポワロは考え深くいった。
「今は六月ですから、彼女はこの麻薬を六か月以上は用いていたことを示しておるです。それに年が入っておらんですから、十八か月、あるいは二か年半かも知れんですな」
「巴里《パリ》……D……」ポワロは眉をひそめてつぶやいた。
「何ぞ、思い当るふしでもおありですかい。それはそうとこの件につき、いかなる点がポワロ氏の興味をひいたのか、そこをお尋ねしませんでしたっけな。自殺ではないか、それを知りたくておいでなさったのではないですかね。それは私にもわからんですな。こりゃ誰にもわからんです。女中の証言によりますと、彼女は昨日、すこぶる快活だったということですし、過失のように見えます。で、私の意見では過失死ですな。ベロナールというやつは実に気まぐれでしてな、非常に多量に服用しても、死ぬことができなかったり、ごく少量が致死量だったりする場合があるので、これは危険な薬品です。審問では、過失死と判定されるにちがいないです。残念ながら、私はこれ以上何らお役に立つことはできんようですな」
「そのハンドバッグを、検《しら》べさせていただけませんでしょうか」
「いいですとも、さあどうぞ」
ポワロは中味をだした。C・M・Aと刺繍した上等のハンケチ、粉白粉のパフ、口紅、一ポンド紙幣に小銭、それに鼻眼鏡が入っていた。
この最後に現われてきた品を、ポワロは興味をもって検べた。それは金縁《きんぶち》で、どっちかというと地味で月並な品であった。
「奇妙だ! カーロッタ嬢が眼鏡を用いていたとは知らなんだ。だが、きっと読書の時に、使っていたのでございましょうね」
医師はそれを取りあげて見た。
「いや、これは外出用ですな、しかも、かなり強い。この眼鏡をかける人物は、よほどの近視だったにちがいないですな」
「先生は、カーロッタ嬢が……」
「私は以前、嬢を診察したことはないです。たった一度、女中の指|腫《は》れでよばれて行っただけでしてな。さもなくば私はあのアパートへは出はいりすることはなかったでしょうな。あの節、会った時には、カーロッタ嬢はたしかに、眼鏡はかけておらんでしたよ」
医師に礼を述べて、われわれは辞去した。
ポワロは何やら腑《ふ》に落ちない面持だった。
「私の考えは、間違っていたらしい」
「扮装のことでですか」
「いやいや、あの件は証明がついたと思います。私の申すのはカーロッタ嬢の死についてです。たしかに、ベロナールを所持していたのですし、昨夜はひどく疲労していたので、熟睡しようと思って、睡眠剤をとったということはあり得ることですからね……」
そこまできて、ポワロは急に立ちどまり、激しく手をたたいて、通行人を驚かせた。そして、
「いやいや……なぜにあの過失が、かくも都合よく起こったであろうか? これは過失ではない、自殺でもない。そうだ、彼女は自分の役割を演ずることによって、自らの死の令状に署名したのだ。ベロナールが選ばれたのは、彼女が時折それを用いていたことが知られ、その函が所持品のなかにあったからだ。もしも、そうだとすると、殺人者は、カーロッタ嬢をよく知っている人物にちがいない。誰だろう? ヘイスティングス君、私はDとは何者かを知るために大いに努力しなければならない」と力をこめていうのであった。
ポワロが、いつまでも考えこんでいるので私は、
「歩いたらどうですか、他人がみんな僕らのほうをじろじろ見ていますよ」といった。
「えっ? うん、君のいうとおりだ。もっとも、私はじろじろ見られたって、一向さしつかえないですがね。そんなことは、私の頭に次々と浮かんでくる考えを、少しも邪魔しません」
「皆が笑いだしましたよ」
「そんなことは重要ではない」
私は賛成できなかった。私は何事によらず、人目につくことをするのは大嫌いだ。ポワロが気にする唯一のことは、彼の有名な口髭をそこなう惧《おそ》れのある湿気とか熱気だけである。
「タクシーで行きましょう」ポワロはステッキをふって流しの車をとめた。
ドライバー女史の婦人帽子店は、往来に面したところに、流行帽の見本にスカーフをあしらったのがウィンドウに飾ってあるだけで、ほんとうの店は二階にあった。かびくさい階段をのぼって行って、『どうぞお入りください』と書いた扉をあけると、婦人帽子でいっぱいになっている小さな部屋があった。
堂々たる金髪婦人が、怪しむようにポワロをちらと見てそばへ来た。
「ドライバー女史で?」とポワロが尋ねた。
「マダムはお会いになるかどうかわかりません、どんなご用で?」
「どうぞドライバー女史に、カーロッタ嬢の友人がお目にかかりにまいったとお伝えください」
金髪美人が取り次ぐまでもなく、黒ビロードの幕が激しくゆれて、焔のような赤毛の溌剌《はつらつ》とした小柄な婦人が現われた。
「何ですの?」
「ドライバー女史でいらっしゃいますね」
「そう、カーロッタがどうしたっておっしゃるの?」
「悲しいニュースを、まだお聞きにならないのでございますか」
「悲しいニュースと申しますと?」
「カーロッタ嬢が、昨夜、睡眠中にお亡くなりになったのでございます。ベロナールの飲み過ぎで」
女史は、眼を大きくして叫んだ。
「何ていうことでしょう! かわいそうなカーロッタ、信じられないくらいですわ。昨日はあんなに元気でしたのに!」
「にもかかわらず、これは事実でございます。ところで、マドモワゼル、ただ今はちょうど一時でございますが、昼食を私どもとご一緒にさせていただけませんでしょうか、いろいろとお尋ねしたいことがございますので」
女史はポワロを見あげ、見おろした。彼女は闘志満々たる女性で、フォックス・テリアを想わせる。
「あなたは、どなた?」女史はぶっきらぼうに質問した。
「私の名はエルキュール・ポワロ、こちらは友人のヘイスティングス大尉」
私はおじぎをした。女史の視線はわれわれ交互の上に動いた。
「お名前は伺っておりますわ。参りましょう」と、不意にいうと、女史は金髪嬢に声をかけた。
「ドロシー」
「何ですか」
「レスター夫人が、ご注文のあの帽子のことでお見えになるから、ちがった羽根飾りをいろいろとつけてお目にかけてね。じゃ、出かけてくるからね、そう時間はとらないと思うわ」
女史は小さな帽子を、一方の耳にかたむけて頭にのせると、すばやく鼻の頭に粉白粉をたたきつけ、ポワロをふり返って、
「支度ができました」といった。
数分後に、われわれはドーバー街の小さな料理店の食卓についた。ポワロは給仕に料理を注文し、われわれの前にカクテルが置かれた。
「さあ、訳を聞かせていただきましょう。カーロッタは一体、どんな事件に巻きこまれたとおっしゃるの?」とドライバー女史がいった。
「彼女は、何か事件に関係していたと、おっしゃるのでございますか」
「あら、一体どっちが質問するはずだったのでしょう! あなた? それとも私?」
「私でございましょうね、あなたとカーロッタ嬢は、たいそうお親しい間柄であったと伺っておりますが」ポワロは微笑しながらいった。
「そう」
「では質問させていただきますが、その前にはっきりさせておきたいことがございます。私が、あなたの亡くなられたお友達の利益のために努力していると申すことを、お心におとめおきいただきたいのでございます」
ドライバー女史がこの問題について熟慮している間、しばらく沈黙がつづいた。やがて女史は何度もうなずいて、
「あなたのお言葉を信じますわ。どんなことをお知りになりたいのか、おっしゃって」
「彼女は昨日、あなたと昼食をともになされたそうですね」
「そう」
「彼女は、昨夜の計画について、何かあなたにお話がございましたでしょうか」
「別に昨日の晩、どうするというようなことは話しませんでしたわ」
「しかし、何かおっしゃったでございましょう」
「そうですね。もしかするとあなたが聞きだそうとしていらっしゃることかも知れないと思うことをいいましたっけ。よろしくて? これは打ちあけ話みたいなものなんですからね」
「承知いたしました」
「そうね、まってください。……これは私の言葉で、説明したほうがよろしいわ」
「どうぞ」
「ではね、そう、カーロッタは興奮していました。あの人はめったに興奮することはないのです。そういう性質《たち》ではありません。はっきりしたことは何もいいませんでした。口外しない約束だといっていましたが、何かやるところだったようでした。私の想像では、何か大変な悪戯《いたずら》をするらしいのでした」
「いたずら?」
「あの人、そういいましたわ。何をするとも、どこでするとも、いつするともいいませんでしたわ。でも、よろしくって、カーロッタは冗談だの、いたずらなんかを面白がるような人柄ではありませんのよ。とても真面目で、性格のいい働き者でしたわ。私のいう意味は、誰かが、きっと無理にすすめて同意させたのだと思うのです。でも私の考えるには……よろしくて? あの人がそういったわけではありませんのよ……」
「よくわかりました。で、あなたのお考えでは?」
「私の考えるにはたしかに、それは何かお金に関係があることだろうと……だってお金以外のことで興奮する人ではありませんもの。カーロッタはそういう人でした。私、あんなに商売に頭のきく人に会ったことがないほどですわ、お金以外のことで、あんなに興奮したり喜んだりするはずはありません。きっとかなりの大金に関係のあることだったと思います。私の受けた印象では、あの人は何か賭けごとをして、我に勝算充分にありといった様子でした。でもほんとうは、そんなことがあるはずはありませんのよ、カーロッタは賭けごとなんかしませんでした。私、あの人が賭けごとをしたのを見たことがありませんもの。でも、とにもかくにも、お金が関係していたのは確実だと思いますね」
「彼女は、事実そういうことをおっしゃったわけではないのでございますね」
「そう、ただ近い将来に、こういうことができるとか、ああいうことができるというようなことをいっただけです。もうじきにアメリカにいる妹を、巴里へ呼び寄せることができるといっていました。あの人は妹のことというと夢中でした。妹は病身で、音楽好きだということでした。私の知っているのはこれで全部。ポワロさんがお聞きになりたかったのは、こんなことだったでしょうか」
「はい、これで私の推論が裏づけられました。実のことを申せば、もっと伺えるとぞんじておりました。カーロッタ嬢が秘密を守られる方とは承知しておりましたが、女性のことでいらっしゃるから、ご親友のあなたには、その秘密をお打ちあけになったかも知れないと思っていたのでございます」
「いろいろと打ち明けさせようと骨を折ったのですが、あの人は笑ってばかりいて、いずれそのうちに、すっかり話して聞かせるというのでした」
ポワロは、しばらく黙っていたが、
「あなたは、エッジウェア男爵の名はごぞんじでいらっしゃいますね」といった。
「ああ、あの殺された人ですのね。一時間ばかり前に、新聞売場のポスターで見ました」
「そうです。カーロッタ嬢はあの男爵とお知り合いだったでしょうか」
「いいえ、知らなかったでしょう。ええ、たしかに知り合いではありませんでしたよ。ちょっと待ってください……」
「何でございますか」ポワロは熱心にいった。
「何でしたっけ?」女史は眉間に皺を寄せて何か思いだそうとしていたが、
「そう、思いだしました。一度だけ、あの人が男爵のことをいったことがありました。ひどく憤慨してね」
「憤慨したとおっしゃると?」
「あの男爵のような男の残忍性と無理解のために、ほかの人間の生涯を台なしにさせておくという法はない……というようなことをいいましたっけ。そして、ああいう男こそ死んだほうが皆のためになるというものだって……そんなことをいいましたわ」
「カーロッタ嬢がそういうことをおっしゃったのは、いつごろのことでございますか」
「そうですね、一か月ぐらい前のことでした」
「どうして、それが話題にのぼったのでございましょう」
ドライバー女史は、しばらく考えていたが、ついに首をふって、
「思いだせませんね、突然に男爵の名が飛び出してきたとか、何とかいうのではなかったでしょうか。もしかしたら新聞に何か出ていたのだったかも知れません。とにかく、私は、カーロッタが知りもしない男のことで、そんなにやっきとなって憤慨するのを、とても変だと思ったのを覚えています」
「たしかに変でございますね」と、ポワロは考え深い様子で相槌をうったが、ふと質問した。
「あなたは、カーロッタがベロナールの常用者だったことを、ごぞんじですか」
「いいえ、それは知りませんでしたね。私はあの人が、そんなものを飲むのを見たこともありませんし、聞いたこともありませんでした」
「あなたは、彼女のハンドバッグに、紅宝石《ルビー》でC・Aという頭文字を蓋に象嵌《ぞうがん》した黄金の小函が入っているのを、ごらんになったことがおありでございましょうか」
「黄金の小函? いいえ、見たことありません」
「あなたは、もしかして、カーロッタ嬢が去年十一月にどこにおられたか、ごぞんじありませんか」
「まってください……十一月……末にアメリカへ帰って行ったんですし、その前には巴里《パリ》にいましたわ」
「ひとりで?」
「もちろんですとも! すみません。あなたはそんなつもりでおっしゃったのではなかったんでしょう? 巴里《パリ》というと、すぐ悪いほうにとるのはどういう訳でしょう。実際は立派ないいところですのにね。カーロッタは週末旅行を楽しむというような人ではありませんでした。もしもあなたが、それをおっしゃるのでしたら」
「いいえ、私は非常に重要な問題についてお尋ねしようと思っていたのでございます。カーロッタ嬢が、特別に関心を持っておいでになった男性はございませんでしたか」
「その答えなら否《ノー》です。私の知るかぎりでは、カーロッタは自分の仕事と、病身の妹だけにうちこんでいました。いつも一家を背負って立っているという態度でした。厳密にいって、その答えは否《ノー》です」
「厳密にいわなかったといたしましたら?」
「最近、カーロッタが誰か男の人に、関心をもったとしても、私は驚きませんね」
「なるほど!」
「いいですか、これは私の想像にすぎませんのよ、あの人の様子から想像しただけのことですからね。あの人の様子が、少し以前と変ったのです。夢見るというのではありませんが、何かぼんやりしていたのです。何だか、いつものあの人みたいでなく……そうね。何て説明したらいいでしょう。つまりね、女同士の勘《かん》とでもいうんでしょうか……もちろん、間違っているかも知れませんよ」
ポワロはうなずいた。
「ありがとうございました。そう、もう一つ伺うことがございました。カーロッタ嬢のお友達で、Dという頭文字のつく方がございましたでしょうか?」
「D……ダ……ド……いいえ、Dの字のつく人はなかったと思います」
ドライバー女史は考え考え答えた。
顔の半面がかくれる帽子
私はポワロが、それ以外の答えを予期していたとは思わない。けれども、やはり彼は悲しげに頭をふって見せた。彼は考えこんでしまった。
ドライバー女史は、テーブルの上に肘をついて、前かがみになっていた。
「さあ、今度は私が何か聞かせていただく番ではないでしょうか?」
「第一に、讃辞を捧げさせていただきましょう。私の質問に対するあなたのお答えは、まことに理智的でございました。非常に頭脳《あたま》がさえておいでになる。何か私に、お聞かせすることがあるかとのお尋ねでございますが、あまり多くはないとお答え申し上げます。ごくわずかですが、ある事実をお聞かせいたしましょう」
そこで、ちょっと言葉をきってから、ポワロは静かに語った。
「昨夜、エッジウェア男爵は書斎で殺されました。昨晩十時ごろ、あなたのお友達のカーロッタ嬢と思われるご婦人が訪問して、自らを男爵夫人と名乗って、男爵に面会を求めました。彼女は金髪の鬘《かつら》をかぶり、あなたもごぞんじでしょうが、ジェーン・ウィルキンソンという芸名で知られている男爵夫人そっくりに変装していました。カーロッタ嬢は、もしそれがカーロッタ嬢なら、数分間いただけでした。彼女は十時五分すぎに男爵邸を出ましたが、自宅へは真夜中すぎまで帰りませんでした。彼女はベロナールの量をまちがえて飲み、寝床へ入りました。これで、私の質問の要点がいくらか、おわかりになりましたでございましょう」
女は深く息をすいこんだ。
「はい、わかりました。ポワロさんのおっしゃることは間違いないと思います。私のいうのは、カーロッタだったという点は間違いないということです。なぜかというと、カーロッタは昨日私のところから、新しい帽子を買って行きました」
「新しい帽子?」
「はい、あの人は顔の半面が、陰になるような型の帽子がほしいといいましたわ」
さて、この私の手記が、いつの年代に読まれるかわからないから、ここで帽子のことについて一言、説明を加えておくとしよう。これまでに、いろいろと婦人帽の流行を見てきた。鐘形《クローシ》といって、顔をすっかり陰にしてしまって、友達の顔を見つけるのに苦労し、匙《さじ》を投げてしまうという代物《しろもの》、前へのめらせてかぶる型、空気の流通よく頭の後ろへ押しつけておく型、ベレー帽、そのほか雑多な型があった。で、この特筆すべき六月には、スープ皿を裏返しにしたような形で、まるで吸いつけたみたいに一方の耳の上にぴったりとかぶり、頭髪と顔の半面をむきだしにするのが流行していたのであった。
「そういう帽子は、普通、頭の右側にかぶるのではございませんでしょうか」とポワロが尋ねた。
婦人帽子店主はうなずいた。
「けれども、私どもでは反対側にかぶるのも、用意してございます。お客様のなかには、左の横側よりも右のほうを見せるのをお好みになる方《かた》もございますし、それから、髪を一方でばかり分けていらっしゃる方もありますので。で、カーロッタが、顔の半面を陰にしなければならない特別の理由がありましたでしょうか」
私は男爵邸の玄関の扉が、左へ開くようになっているので、家へ入って行く時には、顔の左側が執事に丸見えになる事実を心に浮かべた。それと、あの晩気がついたことだが、ジェーンの左の眼許に小さな黒子《ほくろ》があるのを思いだした。
私はすっかり興奮して、そのことをいった。ポワロは激しくうなずいて、それに同意した。
「さよう、さよう、ヘイスティングス君、完全なる理由ありですよ。さよう、それが帽子購入を説明しています」
ドライバー女史は、急にはっとして坐り直した。
「ポワロさん、まさか、あなたはカーロッタがやったなんて考えないでしょうね。男爵を殺したなんて、そんなこと考えないでしょう? カーロッタが男爵のことをけなしたというだけのことで、あの人がやったなんて考えないでしょうね」
「私はそんなふうには考えません。しかし、それにしても、彼女が男爵のことをそんなふうに罵《ののし》ったということは奇妙だと思われます。私はその理由を知りとうございます。男爵が、何をしたのでございましょう。彼女がそんなふうに罵ったのには、何かわけがあるはずでございます。彼女は何を知っていたのでございましょう」
「私、知りません。でも、あの人が殺したのではありません。あの人は……そんなことをするには……あまりに洗練されていました」
ポワロは、賛意を表するようにうなずいた。
「さよう、さよう、大そういい表現をなさいました。それは心理学的要素の一つでございます。これは科学的犯罪ですが、洗練されたものではございません」
「科学的?」
「殺人者は、神経索が通っている頭蓋底の致命的な神経中枢に達するためには、どこを刺せばよいかを正確に知っていました」
「医者がやったみたいね」ドライバー女史は考え深くいった。
「カーロッタ嬢は誰か医師を知っておいででしたか? 私の申すのは、ご友人のなかに医師はございませんでしたか」
「きいたことありません。とにかく英国にはありませんでした」
「もう一つ質問があります。カーロッタ嬢は眼鏡をおかけでしたろうか」
「眼鏡? いいえ決して」
「ああ!」ポワロは眉をひそめた。
私の心に一つの幻影が浮かんだ。強度のレンズで、拡大された近視眼を持つ石炭酸くさい医師。これは馬鹿げている!
「それはそうと、カーロッタ嬢は映画俳優のブライアン氏をごぞんじでしたろうか」
「はい、知っていましたとも。子供のころから知っていました。あの人がそういっていましたもの。でも、あまり会ってはいなかったと思います。ときたま会うだけ。いつかブライアンのことをとても、自惚《うぬぼ》れているといっていましたよ」
女史は腕時計を見て、おどろきの声をあげた。
「あら大変! 飛んで帰らなければ。ポワロさん、いくらかお役に立ちまして?」
「立ちましたとも、これからまた、何かとご助力を仰がねばなりませんでしょう」
「よろしいですとも。誰かが、この悪魔のいたずらを上演したのです。私どもは誰がやったか捜しださなければなりませんわ」
女史はわれわれにむかってうなずき、不意に白い歯を見せて微笑すると、彼女独特の唐突さで、さっと店を出て行ってしまった。
ポワロは勘定を支払いながら、
「面白い性格だ」とつぶやいた。
「僕は、好きだな」と私はいった。
「敏感な人に会うのは、いつだって愉快なものですよ」
「少し冷血漢ではないですかね、親友の死を聞かされても、僕の思ったほど気が転倒した様子もなかった」
「めそめそする組ではないです」とポワロは、あっけなくいった。
「この会見で、予期した収穫がありましたか」
「駄目でしたね、非常に多くを期待していたのだが……カーロッタ嬢に黄金の小函を贈ったDなる人物をさぐりだす手がかりを得たいと思ったのだが、その点、私は失敗でした。不幸にして、カーロッタ・アダムズは内気な娘でした。自分の友達のことや、当然あるはずの恋愛事件などについて、むやみにしゃべらないご婦人でした。一方、彼女に悪戯を持ちこんだのは、友人ではなかったかも知れません。何かスポーツ的な理由で金を賭けるというようなことから、ほんとにちょっとした知りあいの人に頼まれたのかも知れません。その人はカーロッタ嬢が、黄金の函を持ち歩いているのを見て、そのなかに何が入っているかを発見する機会を得たかも知れません」
「しかし一体どうやって、彼女にそれを飲ませたのでしょう」
「女中が手紙を投函しに行っていた間、アパートの戸が開けてありました。いや、これは私を満足させない。あまりに偶然の機会に頼りすぎる。さあ、もっと仕事をせねばなりません。まだ可能な手がかりが二つあります」
「どれですか」
「第一はビクトリア局へかけた電話。カーロッタ嬢が帰宅してから、成功の報告をするために電話をかけるということはあり得ると思われるのです。一方十時五分すぎから、真夜中まで、彼女はどこへ行っていたか。悪戯の張本人に会う約束になっていたかもしれない。そうなると、電話をかけた相手は、単なる友人ということになる」
「第二の手がかりは何ですか」
「ヘイスティングス君、私が希望をかけているのはそれですよ。手紙、妹へ書き送った手紙……これはあり得ることにすぎないかも知れませんが、その手紙に、カーロッタ嬢はその悪戯だか、何だかについて、詳しく書いたかも知れないということです。その手紙は外国へ行くもので、読まれるのは一週間後ですから、秘密を書いたところで裏切りにはならないと考えたでしょうからね」
「そうだとしたら、すばらしいですね!」
「あまり多くを期待するわけにはいきませんよ、ヘイスティングス君。僥倖を頼むだけのことだから。それよりも、私どもは別の末端から仕事に取りかからなければなりません」
「別の末端とは、何のことですか」
「エッジウェア男爵の死によって、たとえ、どんなに少しでも、利益を得る人々の研究です」
「甥と、妻以外にですか」
「それから男爵夫人との結婚を望んでいる人物」と、ポワロはつけ加えた。
「侯爵ですか、彼は巴里《パリ》にいます」
「そうにちがいありません。しかし、ヘイスティングス君、彼も利益を得る組であることは否定できません。それから家のなかの人々、執事もそのほかの奉公人たちも。その人たちだって、男爵に対してどんな怨みを抱いているかわかりませんからね。しかし、私が第一に当ってみたいのは、男爵夫人ジェーンとの再度の会見です。あの女性は、抜け目がないから、何か暗示を与えるかも知れません」
われわれは、もう一度サボイ・ホテルへ足を向けた。夫人は洋服箱だの、薄い包み紙だのに取り囲まれて、どの椅子にも、優雅な黒い衣裳が投げかけてあった。ジェーンは真剣な顔をして、熱心に、また別の黒い帽子を鏡の前でかぶってみているところであった。
「まあ、ポワロさん、おかけなさい。どこか腰かけるところがあったら。エリス、少しかたづけない?」
「奥様は、チャーミングにお見えになります」
ジェーンは、まじめな顔をして、
「ポワロさん、私あんまり偽善的な真似はしたくないのよ。でも、外見はつくろわなければなりませんものね。私のいう意味、気をつけなければいけないってこと。そりゃそうと、私、侯爵からとてもすてきな電報をいただいたの」
「巴里《パリ》からでございますか」
「そう、巴里から。もちろん、用心怠りなしで、お悔みということになっているのよ。でも私にはその裏にひそんでいる言葉がちゃんと読みとれるわ」
「およろこびを申し上げます」
「ポワロさん、私考えていましたのよ。すべてが奇蹟のように思われますの。おわかりでしょう、私のいう意味。こうして今は、私の難儀は、すっかり終ってしまったんですもの。離婚なんて、うんざりする問題はなくなったし、何の煩わしさもなし、私の行手には何の邪魔もなく何もかも、とんとん拍子でしょう。私なんだか、宗教的な気分になってきましたのよ」
ジェーンは胸の上に両手をおいて声を落し、まるでいみじくも神聖なる想いを告げる天使のような様子をした。
私はあきれて息をのんだ。ポワロは頭を一方にかしげて彼女を見つめていた。彼女は大まじめであった。
「奥様は、そんなふうにお感じになったのでございますか」
「私の思うとおりになったんですもの。私このごろずっと、考えて考えて、考えぬいていたのよ……もしもエッジウェアが死んでくれたらと。そしたら、死んだじゃないの! まるで私のお祈りにこたえたみたいに」ジェーンはおそろしげにささやいた。
ポワロはせきばらいをした。
「奥様、私はそんなふうな見方ができるとは申せません、何者かが、あなた様のご主人を殺したのでございます」
彼女はうなずいた。
「それは、そうね」
「その何者かが、誰だろうと、お考えになりませんのですか」
ジェーンは、ポワロを見つめた。
「それがどうだっていうの? 何も関係しないでしょう? 侯爵と私は、四五か月もたてば、結婚できるんですもの……」
ポワロは苦心して自制した。
「それはわかっております。けれどもその問題は別として、奥様は、誰が私の夫を殺したのだろうとご自分に尋ねてごらんになったことがおありなさらないのでございますか」
「いいえ」彼女は、その考えにおどろいたようにいった。彼女がそのことについて考えているのが私にもよくわかった。
「それを知ることに興味をお持ちになりませんでしょうか」
「あまり興味ないわ。きっと警察で見つけてくれるわ。あの人たちとてもあざやかなんでしょ?」
「そういわれております。私も下手人を探しだすのを自分の仕事にいたします」
「そうなの? おかしいわねえ」
「なぜおかしいとおっしゃるのですか」
「わかんないわ」
彼女の眼は衣裳のほうへそれていった。彼女は黒いサテンのコートを羽織って、鏡に自分の姿を映してみた。
「それについて、ご異議はございませんか」
ポワロは眼をおどらせながらいった。
「異議なんてなくてよ。私あなたが、あざやかにやってくだされば、うれしいと思うだけよ。ご成功を祈るわ」
「私は祈っていただくよりも、奥様のご意見をお聞かせいただきたいのでございます」
「意見って、何の意見?」
ジェーンは後ろをふり返って、気のない返事をした。
「奥様は、誰が、エッジウェア男爵を殺したろうとお思いになりますか」
ジェーンは首をふって、
「全然見当がつかないわ」
彼女は試すように肩をくねらせてみて、手鏡を取りあげた。
「奥様! 誰があなたのご主人を殺したとお考えでございますか……」
ポワロは大声で力強くいった。今度は、その言葉が相手に通じた。彼女は驚いたような視線をポワロに投げて、
「きっと、ジェラルディンよ」といった。
「ジェラルディンとは誰でございますか」
しかし、ジェーンの注意は再びわきへそれて行った。
「エリス、右肩のところをちょっとつまんでおくれ。あのポワロさん、何でしたっけ? ああ、ジェラルディンね、あの人の娘よ。エリス、そっちじゃない、右の肩よ。そのほうがいいわ。あら、ポワロさん、お帰りになるの? 私はとても感謝しているのよ。私のいう離婚のこと、結局そんな必要がなくなったけれど。私、いつまでも、あなたのことをすてきな方だと思ってるでしょうよ」
私はジェーンを二度見ただけであった。一度は舞台の上で、一度は昼食をともにした時。彼女はその時も私が考えていたとおり、身も魂も衣裳に吸いとられてしまっていて、ポワロに次の行動をとらせるような言葉を、口から出まかせに投げつけたのであった。彼女の心は、しっかりと彼女自身に集中していた。
われわれが表通りへ出た時、ポワロは、
「驚くべきだ!」と敬虔《けいけん》な態度でいった。
私は父を憎んでいました
われわれが部屋へ帰ると、テーブルの上に、どこからか届けられた手紙が載っていた。
ポワロはそれを取りあげて、いつもの器用な手つきで開封してみて、笑いだした。
「噂をすれば、影がさすとやら、ほれ、ヘイスティングス君、ごらんなさい!」
私は、手紙を受け取った。
便箋の上部にリージェント・ゲート十七番と印刷してあって、読みやすそうに見えていて案外読みにくい垂直体の特徴のある筆跡で書いてあった。
前略
今朝、あなたが警部とともにこの家へおいでになったと聞きましたが、お話をする機会がなかったのを残念に思います。もしご都合がつきましたら、今日の午後、いつでも私のために数分お時間をおさきくださいましたら、大変にありがたいと思います。
ジェラルディン・マーシュ
「妙だなあ、何であなたに会いたいというのでしょうね」
「若いご婦人が、このポワロに会いたがるのが妙だとは、そりゃ、聞こえませぬ、ヘイスティングスさん!」
ポワロには、どうも場ちがいの冗談という実にわるい癖がある。
「さあ、すぐ出かけましょう」といってポワロは、自分の帽子から、ありもしないほこりを、もったいぶった手つきで払い落して、頭に乗せた。
ジェラルディンが自分の父親を殺したかも知れないという、ジェーンの口から出た無責任な意見は私にはひどく馬鹿げて聞こえた。で、私はポワロにそういった。
「頭脳ですよ! 頭脳ですよ! あなたがた英国人にいわせると、ジェーンは兎の頭脳をもっている……つまり、脳味噌が足りないということですが、これは兎にとっても侮辱ですよ。ちょっと兎について考えてみましょう。兎は存在し、繁殖しております。この事実は、自然界で兎は智慧が進んでいるしるしです。あの美しきエッジウェア男爵夫人は歴史も知らない、地理も知らない、古典も知らないにちがいありません。支那(中国)の哲学者老子という名も、彼女には犬の品評会で受賞した狆《ちん》の名だぐらいに思われ、フランスの文豪モリエールをドレスメーカーの店の名だと思うでしょう。ところが、衣裳を選ぶとか、金持ちになろうとか、得のいく結婚なんていうことになると、彼女の成功は驚異的です。エッジウェア男爵を殺したのは誰かということに関する哲学者の意見は、私には役に立ちません。哲学者の見解による殺人の動機は、非常に見事で、非常に数多く、どれときめるのは困難ですから、哲学者で殺人者になるのは僅少《きんしょう》です。しかし、エッジウェア男爵夫人の不注意な放言は、私には大そう役に立ちます。なぜかと申すと、彼女の見解は物質的で、人間性の最悪面の知識を根拠としたものだからです」
「きっと、そこに何かあるのでしょうね」と私は譲歩した。
「さあ着きました。私は若い令嬢が、なぜそんなに急いで私に会いたがっておいでなのか知りたくてたまりません」
「それは自然の欲求ですよ」と私はやりかえした。「あなたはつい十五分ばかり前に、そうおっしゃったですね。何か珍奇なものを、間近で見る自然の欲求と」
「この前に会った時、彼女の胸に深い印象を与えたのは、きっと君ですよ。ヘイスティングス君!」
ポワロは呼鈴を押しながらいった。
私はあの時、戸口に立っていた令嬢のおびえた顔を思いだした。あの燃えるような黒い瞳と白い顔が今でも眼に見える。ちらと見ただけなのに、私は強い印象を受けた。
われわれは二階の大きな応接間へ通された。一二秒ほどして、ジェラルディンが入って来た。
以前に見た時も気がついたあの何か思いつめたような激しい感じが、今度はさらに度を増していた。このやせた背の高い、大きな燃えるような眼をした白い顔の令嬢はすばらしい画像であった。
令嬢は落ち着き払っていた……彼女の若さからいって、珍しいほどであった。
「こんなにすぐおいでくだすって、ほんとうにありがとうございます。ポワロさん。今朝お目にかかりませんで、失礼いたしました」
「おやすみになっていらっしたのでございましょう?」
「はい、キャロルさんが……父の秘書ですの……すすめるものですから。あの方とても親切にしてくださいました」
令嬢の声に、何となく不満らしい調子があるのを、私はふしぎに感じた。
「どんなふうにして、お嬢様のお役に立ちましたらよろしゅうございましょうか」とポワロがきりだした。
彼女は少しためらった後、
「父が殺された前の日に、あなたは父に会いにおいでになりましたね」
「さようでございます」
「どうしてなのですか? 父があなたにおいでねがったのですか」
ポワロは、すぐには答えなかった。何か思案している様子を見せた。思うにこれは賢明に計画された彼の行動であった。こうして相手に先をしゃべらせる術《て》なのである。彼女の気短かな性格を見越していた。彼女は何事も急いでやらなければ、気がすまないのだ。
「父は何かを恐れていたのですか。聞かせてください。どうぞ聞かせてください。私はそれを知りたいのです。誰を恐れていたのです? なぜですか? あなたに何を話しましたか? どうして、何もいってくださらないのですか」
彼女のわざとらしい落ち着きは、自然なものではないと私は睨んでいた。果たして、じきにそれは崩れてしまった。令嬢は前へ身をかがめ、手をひざの上で神経質に組んだりほぐしたりした。
「エッジウェア男爵と私との間で交わされた会話は、内密のものでございました」
ポワロはゆっくりといった。彼の眼は、一瞬も令嬢からはなれなかった。
「では……それは……何か家族の者に関係があったのでしょう。どうして、あなたは、だまって、私を苦しめていらっしゃるのです。なぜ話してくださらないのです。私はそれを知る必要があるのです。ほんとうに必要なのです」
再びポワロはさも困ったように、ゆっくりと首をふった。
「ポワロさん、私は娘です。娘として父のことを知る権利があります。父が恐れていたのは、きっと自分の生命に関することだったにきまっています。私に何も知らせずにおくなんて、不公平です……私に聞かせないなんて」
「では伺いますが、お嬢様は心からお父上を愛しておいでになりましたか」
彼女はその問いに刺されたように、身をひいた。
「父を愛していた? 愛していた? 私が……私が……」とささやくようにいっているうちに、突然彼女は自制力を失ってしまった。堰《せき》を切ったように高笑いがほとばしり出た。彼女は椅子によりかかって、笑って、笑って、笑いぬいた。
「とても滑稽だわ! そんな質問をするなんて、とても滑稽!」彼女はあえぎながらいった。
そのヒステリカルな高笑いが、誰にも聞かれずにはすまなかった。戸が開いて秘書のキャロル嬢が入って来た。彼女は決然として能率的であった。
「さあ、さあ、ジェラルディンさん、そういうことをしてはなりません。静かにおしなさい、いけません。お止めなさいまし、すぐにお止めなさい!」
キャロル嬢の高飛車な態度は、すぐに効果をあらわした。ジェラルディンの笑いは次第におさまっていった。彼女は眼を拭って坐り直した。
「ごめんなさい。私今まで、こんなことしたことがないんです」
キャロル嬢は、なおも心配そうに令嬢を見守っていた。
「もう大丈夫、キャロルさん。私、大馬鹿ね」
突然に彼女は微笑した。それは唇をゆがめた苦笑いであった。彼女は身体をしゃんとさせ、誰の顔も見ずに、真っ直ぐ向いていた。
「ポワロさんが、私に父を愛していたかとお尋ねになったんです」と彼女は、冷たく澄んだ声でいった。
キャロル嬢は、あいまいに「まア!」といった。それは彼女の不決断を示すものであった。だが令嬢のほうでは、高い嘲《あざけ》るような声で言葉をつづけた。
「嘘をいったほうがいいかしら、真実をいったほうがいいかしら? 真実をいうべきね。私は父を愛してなんかいませんでした。憎んでいました!」
「ジェラルディンさん!」
「隠すことないでしょう? あなたは父を憎んでいませんでした。なぜかというと、父はあなたに触れることができなかったから! あなたは、父がどうにもすることのできないごく少数の人の一人でした。あなたは父を単にいい給料を支払ってくれる雇主としか見ていませんでした。彼の怒りや、変態性なんかについて、あなたは全然あずかり知らないことでした。あなたはそんなものは無視していました。私、あなたが何ておっしゃるか知っています。人間は誰でも、何かしら、我慢しなければなりませんとおっしゃるんでしょう。あなたは快活で、物にこだわらない、あなたは大変に強い女です。あなたは、まったく非人情です。それに、あなたの立場は、いつ何時でも、この家から出て行ってしまえます。私はそういう訳にはいきません。この家の者ですから」
「ジェラルディンさん、そこまでおっしゃることはないと思いますよ。父と娘とがうまく折り合わないのは、世間にざらにあることです。でも世のなかは、そういうことを口にださないほうがいいものですよ」
令嬢は、彼女に背を向けて、ポワロに話しかけた。
「ポワロさん、私、父を憎んでいました! 父が死んだのを喜んでいます! これは私にとって自由を意味します……自由と独立です。私には犯人を捜そうなんていう気持ちは、ひとつもありません。父を殺した人は、殺すべき理由……充分な理由があったのだと思います。犯人はきっと自分のしたことを正義づけているでしょう」
ポワロは考えこみながら、令嬢の顔をじっと見つめていた。
「お嬢様、そういう考えをお持ちになるのは危険でございますね」
「犯人を絞首台に送ったからといって、父が生き返るでしょうか?」
「それは駄目でございます。けれどもほかの罪もない人たちが殺されるのを救えるかも知れません」
「私には理解できません」
「一度人殺しをした人間は、たいていは再び人殺しをするものでございます。時には二度、三度とくり返すことがあるものでございます」
「私、そんなこと信じません。普通の人がそんなことをするはずがありません」
「殺人狂でなくてはそんなことをしないと、おっしゃるのでございますか。ところが、そうでないのでございます。最初は良心と激しく闘ったあげく、一人の邪魔者をどけてしまいます。すると次にくるものは発覚の危険におびやかされ、それをのぞかなければならない。第二の殺人は道徳的苛責が薄らいでいるから、もっと容易に行われます。今度はちょっとした疑いだけでも、第三の殺人をおかします。こうして次第に、技術的自負心が強められていくのでございます……そうなると、殺人も一種の商売になってしまいます。しまいには、人殺しが面白くなったりするものでございます」
令嬢は両手に顔を埋めた。
「恐ろしいこと! 恐ろしいことです。そんなこと真実ではありません」
「では、その第二の殺人がすでに起こったと申しあげたら、いかがでございますか? 犯人は自分を救うために第二の犠牲者をだしました。殺人者は、再び殺人を行ないました」
「ポワロさん、それはどういうことですか、ほかの人殺しですって? どこで? 誰を?」とキャロル嬢が急きこんでいった。
ポワロは静かに首をふった。
「これは単なる例え話にすぎないのでございます。失礼いたしました」
「ああ、そうでしたか、私、ほんとうのことかと思ってしまいました。さあ、ジェラルディンさん、あなたの途方もないむだ話がおすみになったのなら」と女秘書が口をだした。
「あなたは、私の味方でいらっしゃるようで」ポワロがいった。
「私は死刑には反対です。それ以外ではあなたと同感です。社会の安全を保たなければなりませんからね」
ジェラルディンは立ち上がって、髪を後ろへ撫でつけた。
「すみませんでした。私、馬鹿なまねをしてしまって。ポワロさんは、まだ父がなぜあなたをお呼びしたか、私に話すことを拒絶なさるのですか」
「お呼びしたんですって?」キャロル嬢は、ひどく驚いた調子でいった。
「お嬢様は誤解しておいでになります。お話しするのを拒絶したわけではございません」ポワロは、打ち明けざるを得なくなった。
「私は、あの時の会話のうち、どの点までを秘密にしておかなければならないかを考慮していたのでございます。お父上は私をおよびになったのではございません。私は依頼人のために会見を申し込んだのでございます。その依頼人はエッジウェア男爵夫人でございます」
「あら、そうだったのですか!」
令嬢の顔には異常な表情が浮かんだ。最初、私は失望かと思ったが、すぐに安堵《あんど》だとわかった。
「私、大馬鹿でした。私は父が、何か危険が身に迫っているのを苦にしたのかとばかり、思っていました。愚かなことでした」
傍からキャロル嬢が口をだした。
「ポワロさんが、第二の殺人をその女がやったとおっしゃった時、私、ぎょっとしましたよ」
ポワロはそれには答えないで、令嬢にむかっていった。
「お嬢様は、男爵夫人が殺人罪を犯したとお信じになりますか」
彼女は首をふった。
「いいえ、信じません。あの人がそんなことをするなんて考えられません。あの人はあまり気取りすぎて、人工的です」
「ほかにそんなことをする人があるとは考えられませんよ。ああいう種類の女は、道徳観念をもっていませんからね」とキャロル嬢がいった。
「あの人と限ることはないでしょう。あの人はここへやって来て、会見しただけで帰ってしまって、その後で、ほんとの犯人……きっと狂人か何かが入って来たのかも知れません」と、ジェラルディンは説明を試みた。
「一体殺人犯人というのは、精神欠陥があるものだということは確かです。内分泌腺……」とキャロル嬢がいっている時、戸が開いて男が入って来たが、間がわるそうに立ち止った。
「失礼、誰もいないと思っていたので」
ジェラルディンは機械的に、紹介の労をとった。
「ポワロさん、従兄《いとこ》のエッジウェア男爵です。あら、いいのよ、ロナルド。邪魔でなんかないの」
「ほんとかい、ダイナ。ポワロさんご機嫌よう。あなたの脳細胞は、この特殊な家庭の謎に作用中ですか」
眼の下にいくぶんたるみのある、鼻下にまるで大海にぽつんと浮かぶ孤島のような小さな髭を蓄えている、陽気で、少しお人好しらしい丸い顔を、私は、どこかで見たようだと自分の記憶をたどった。
いかにも、それはジェーンの夕食会の時、カーロッタに付き添って来たマーシュ大尉、現在のエッジウェア男爵であった。
新男爵ロナルドの証言
新男爵の眼は鋭敏であった。彼は私がちょっと驚いたのをすぐ見てとって、
「ああ、君、思いだしましたね、ジェーン伯母様の小さなパーティでいっしょになったのを。あの時、僕はいささかきこしめしていたっけね。でも、誰にも気づかれないですんだつもりでいたんだよ」と、愛想よくいった。
ポワロは令嬢と女秘書に、別れの挨拶をしていた。
「僕がお見送りしよう」大尉は気軽にいった。
彼はわれわれの先に立って、階段をおりながら話しつづけた。
「人生はおかしなものですよ。ある日、たたきだされたと思うと、今度はその家の主人になる。誰にも悲しまれざる僕の伯父は、三年前に、僕をこの家からたたきだしたんです。だが、こんなことは、ポワロさんはすでにごぞんじでしょうね」
「その事実は耳にいたしました」ポワロは落ち着きはらって答えた。
「そうでしょうとも、こういう種類のことは、洗いださなければなりませんからね。熱心な探偵犬は、こういうことをかぎださずにはおかないですよ」
大尉はにやりと笑った。
それから食堂の戸をさっと開けた。
「まあ、お帰り前に一杯やってください」
ポワロはそれを辞退した。私もことわった。しかし青年は、自分の飲みものを調合し、喋りつづけた。
「ほんの一夜の間に殺人が行われ、債権者の絶望の具であった僕が、商人の希望の的と変じた。昨日は破産が眼の前に迫っていたのに、今日は豊かな富が流れこんでいる。神よ、ジェーン伯母様を祝福したまえだ!」
彼は酒杯をのみほすと、いくぶん態度をかえてポワロに話しかけた。
「正直なところ、ポワロさんは、ここで何をしていられるんですか。四日前にジェーン伯母様は、この無礼なる暴君よりわらわを解きはなつは誰ぞやと、芝居気たっぷりにいったと思ったら、見よ、彼女は解放された! まさか、あなたの働きではないでしょうね。名探偵エルキュール・ポワロによる完全犯罪」
ポワロは微笑した。
「私は令嬢ジェラルディンのお手紙によって、今日の午後は、こちらへ伺ったのでございます」
「用心深い回答ですね、ポワロさん。そうでなく、ほんとうにここで何をしておいでなんですか? あなたは何かの理由で、僕の伯父の死に特別の関心をよせておいでになるのでしょう」
「私はいつでも、殺人に興味を抱いております」
「しかしあなたは殺人は犯さない、非常に用心深い。あなたはジェーン伯母様に用心ということを教えてあげるべきでしたよ。僕がジェーン伯母様といっても、悪く思わないでください、こいつがとても面白いんです。この間僕が、ジェーン伯母様っていった時の、あの人の嫌な顔を見ましたか? 僕が何者だか、てんでわからないでいましたっけね」
「ほんとうでございましょうか?」
「知らないはずですよ。あの人が家へ来る三月前に、僕は追んだされてしまったんだから」
マーシュ大尉のお人よしらしい、ぼんやりした表情が一瞬消えた。だがすぐに軽い調子で言葉をつづけた。
「美しい女だが、優雅なところがない。手段が露骨なきらいがあるですね、そうでないですか?」
ポワロは、肩をすくめて、
「あり得ることです」
「あなたは、彼女がやったのではないと思っているんですね。あなたも彼女にまるめこまれたっていう訳か」
「私は美に対して非常な関心をもっておりますが、証拠に対しても同様でございます」とポワロはごく静かな調子でいった。
「証拠ですって?」大尉は鋭くいった。
「あなたは、エッジウェア男爵夫人が、昨夜、この家へ来ていたといわれる時刻に、チズウィックのパーティに出席していたことをごぞんじないと見えますね」
「なあんだ、結局行ったのか。女ってそんなもんだ! 夕方六時にはどんなことがあったって、行くものかと宣言してさばさばしたくせに、きっと十分とたたないうちに気が変ってしまったんだ。人を殺す計画をたてる場合、女が何をどうするといったからって、決してそれを計算に入れるものではないですよね。そいつで、いつも殺人団《ギャング》の最善をつくした計画が不首尾になってしまうんだ。こんなこといったからって、僕は自分に罪を帰《き》そうとしているんではないですよ。ポワロさん、僕にはあなたの心に浮かんでいることが読めないとはいわせませんよ。当然の容疑者は誰か? 悪名高き、ろくでなしの甥なり」
彼はくすくす笑いながら、椅子の背によりかかった。
「僕はね、ポワロさんの脳細胞に無駄骨を折らせないようにしてあげているんですよ。ジェーン伯母様が、あの晩はどこへも行かなかった。決して、決して出かけなかった云々《うんぬん》といった場合、誰か現場付近で僕を見かけた者はないかと、尋ね歩く必要はないです。僕は伯父のところへ行きましたよ。そこであなたはこう考える。悪い甥の奴が、金髪の鬘《かつら》と巴里《パリ》仕立ての帽子で変装して行ったにちがいないとね?」
表面いかにも形勢を楽しんでいるような様子で、彼はわれわれ二人を眺めた。
「僕には動機があります。ええ、ありますとも。で、僕はあなたに、とても価値のある重要な情報を提供しましょう。僕は昨日の朝、伯父に面会しに行きましたよ、何しに? 金をせびりに!……ここであなたは、舌なめずりするんだな。そう、僕は金を無心しに行って、一文も貰えずに帰って来た。そしてその晩に、エッジウェア男爵が死んだ。エッジウェア男爵の死、こいつはなかなかいい標題になる。本屋の棚で目立つですよ」
若い男爵はそこで言葉を切ったが、ポワロは依然として何もいわなかった。
「僕は、あなた方に聴き手になってもらって、とてもいい気持ちになっているんですよ。ポワロさんもヘイスティングス君も、まるで幽霊を見ているか、あるいは今にも幽霊が現われるのを待っているような顔をしている、そんなに緊張しないで、まあ竜頭蛇尾的結末を待つんですね。さてと、どこまで話したっけ? そうそう、悪い甥の不利な立場の説明だった。罪を、結婚によって伯母となった憎い女にかぶせてしまおうとする……。かつて、女形を演じて好評を博した甥は、その演技力をいかす。若い女らしい声で、自分はエッジウェア男爵夫人だと名乗り、彼女をまねた歩き方で、執事の前をさっと通りぬける。何の疑いも起こらない。愛すべき伯父君は、おお、ジェーン! と叫ぶ、僕は、おお、ジョージ! といって両腕をひろげて伯父に抱きつき、ナイフで首根っこにぐさりと一突きする。そのあとは、医者の領分だから説明ははぶくとして、にせ夫人は退場、そして、結構な一日の仕事を終って、寝床へ入ると……」
彼は笑い声をあげて立ち上がり、もう一杯酒を注《つ》いで、ゆっくりと椅子にもどった。
「ここまでは、うまくいったですね。ところが次にぶつかるのが、この事件の難点、すなわち失望とくる! 背負い投げを喰わされたような、癪にさわる感じだ。さて、ポワロさん、今度はアリバイにきます」
彼はそこで酒を飲みほした。
「僕はいつも、このアリバイを非常に面白いと思う。探偵小説を読んでいて、アリバイのところへくると、僕はいつでも坐り直して注意を向ける。こいつはすごくいいアリバイですよ。これには三人のユダヤ人が登場する。非常に金持ちで、非常に音楽好きの人々です。彼らはコベント・ガーデン劇場の特等席《ボックス》を買い、そこへ将来の見こみある青年を招待した。その将来の見こみある青年とは、かくいう僕なんですよ、ポワロさん。僕が歌劇を好きか? 否《ノー》ですよ、しかし、僕は劇場へ行く前にグロブナー広場で食べたすばらしい晩飯を楽しんだし、帰りにどこかでご馳走になった食事も大いに楽しんだ。もっとも僕はラケル嬢を抱いて踊らされて、二日後までも腕が痛くて閉口したですがね。とにかく伯父の生命の血が流れている最中に、僕はダイヤモンドのイヤリングを飾った美しい耳に、たわいもないことを楽しくささやいていたという訳ですよ。これでポワロさんも、僕がこんなに正直に何でもぶちまけてしまえる訳がおわかりでしょう」
彼は椅子の背によりかかった。
「あなた方を、あきあきさせたんではないでしたか? 何か質問はないですか」
「私は少しもあきませんでした。ご親切におっしゃってくださるのですから、ちょっとした質問をさせていただきます」とポワロはいった。
「よろこんで答えましょう」
「あなたは、カーロッタ嬢といつごろからのお知り合いでいらっしゃいますか」
この青年は、こういう質問を受けるとは、まったく予期していなかったらしい。彼は、今までとはまるで違う表情を顔にうかべて、急にいずまいを直した。
「一体何で、そんなことを知りたいというのです。今まで話していたことと、どんな関係があるんですか」
「私は好奇心をもったのでございます。ほかのことに関しては、あなたは説明すべき点はあますところなく説明してくださいましたので、もうお尋ねすることは一つもございません」
若い男爵は、敏捷な視線をポワロに投げた。彼はポワロがそんなにおとなしくひきさがるよりも、もっと疑念を抱いてくれるほうを望んでいるようなふうに見受けられた。
「カーロッタ・アダムズですね? おまちなさい、一年くらいになりますかね、もっとになるかも知れんです。僕はカーロッタが去年はじめてロンドンの舞台に出た時に、知り合いになったんです」
「彼女をよくごぞんじでいらっしゃいますか」
「かなり知っています。あの人は、ひどく親しくなるという性質ではないですからね。内気というんでしょう」
「しかし、あなたは彼女をお好きなのではございませんか」
彼はポワロを凝視した。
「どういうわけであなたは、あの人にそんなに関心を持っているのか、知りたいですね。先夜、僕が彼女と一緒にいたからですか? そう僕は非常に好きです。彼女は同情深くて、人の話によく耳をかし、相手に自分だってすてたものでないという気持ちを抱かせてくれる人です」
ポワロはうなずいた。
「よくわかります。では、あなたは悲しまれるでしょう」
「悲しむ? 何をですか?」
「彼女の死を」
青年は驚いて飛び上がった。
「何ですって? カーロッタが死にましたって?」
彼はそのニュースに、すっかり茫然としてしまった。
「ポワロさん、からかっているんでしょう。カーロッタは僕が最後に会った時は、健康そのものだったですよ」
「いつでしたか」ポワロは急いで尋ねた。
「たしか、一昨日だったと思います」
「とにかく死にました」
「おそろしく突然のことだったんでしょうね。何だったのです? 交通事故ですか?」
ポワロは天井を見あげて答えた。
「いいえ、睡眠剤の飲み過ぎでございます」
「気の毒に! 実に気の毒なことをした!」
「そうですね」
「残念なことですよ。あんなにうまくやっていたのに! 彼女は妹を呼び寄せるところだったし、そのほかいろいろと計画をたてていたのに。実際、僕は口にはいえないほど悲しいですよ。可哀相に!」
「さよう、若くして死ぬのは悲しいことでございます。死にたくない時に、前途に希望ある人生がひらけている時に、生きるべきすべてのものをもっている時に、死ぬのはまことに悲しいことでございます」
若い男爵はふしぎそうにポワロを見た。
「ポワロさん、僕はどうもあなたがいう意味がよくわからんですね」
「そうですか?」
ポワロは立ち上がって、手をさしだした。
「私は自分の考えを発表したのでございます。少々、強かったかも知れません。なぜなら、私は若い人が生きる権利を奪われるのを見るのが、嫌なのでございます。では、さようなら、エッジウェア男爵」
「はあ……さようなら」
彼はいささか、呆気《あっけ》にとられたようであった。戸をあけたとたんに、私は危くキャロル嬢と鉢合わせをするところであった。
「ああ、ポワロさん、あなたがまだお帰りにならないと聞きましたので。ちょっとお話したいことがあるのですが、二階の私の部屋へ来ていただけませんか」
われわれが女秘書の私室へ入ると、彼女は戸をしめるなり、
「ジェラルディンのことなのですけど」といった。
「それで?」
「先程あのお嬢様は、いろいろと馬鹿げたことを申しました。馬鹿げたことです、たしかに。お嬢様はふさぎこんでいらっしゃるのです」
「神経過敏になやんでおいでのようでございますね」とポワロはやさしくいった。
「そうですとも、実のことを申しますと、お嬢様はあまりお幸福《しあわせ》ではありませんでした。正直なところ、エッジウェア男爵は変った方《かた》でした。子供を育てることになんか関係すべき人ではないのでした。男爵はジェラルディンさんを怖がらせてばかりいました」
「なるほど、どうやら私にも想像がつきます」
「ほんとうにおかしな人でした。何ていったらいいか、わかりませんが……ひとに自分を恐ろしがらせて喜ぶという気味の悪い趣味だったのです」
「さようでございますか」
「あの方はなかなかの読書家で、かなり知識をお持ちでしたが、それでいて、何かひどく普通でないところがあったらしいのです。私はその面にぶつかったことはありませんが、とにかく変だったのです。奥様が逃げたのも無理はありません。私はあの奥様を、ちっともよく思っていませんのですよ。あの女優はエッジウェア男爵と結婚した罰で、さんざん嫌な思いをして、とうとう逃げだしてしまったのです。けれども、ジェラルディンさんは逃げて行くわけにはいきません。男爵は長い間、ご自分の娘のことなど忘れたように放っておくかと思うと、急に思いだしたように、いじめぬくのでした……まるで……こんなこといっていいのでしょうか……」
「よろしゅうございますとも」
「私、ときどき、男爵が自分を捨てて行った前の奥様への腹いせに、お嬢様をいじめているのではないかと思いました。ジェラルディンさんのお母様という方は、大そう温和《おとな》しくて優しい方だったようです。私はいつもお気の毒に思っておりました。ほんとうは、こんなことをお喋りするのではありませんが、お嬢様があんなとんでもないことをおっしゃったものですから、ポワロさんに、事情を知っていただきたいと思ったのです。何も知らない人は自分の父親のことをあんなふうにいうのを聞いたら、ずいぶんおかしな娘だと思うでしょうから」
「よくわかりました。エッジウェア男爵は結婚なさらないほうが、およろしかったように思われますね」
「そうですとも」
「男爵は三度目の結婚を考えておいでになりませんでしたろうか」
「どうしてそんなことができましょう? 二度目の奥様が生きていらっしゃるのに」
「離婚して、ご自由な身におなりになれば」
「男爵は二人の奥様で、いいかげん手をやいていたんですもの」とキャロル嬢は冷やかにいった。
「するとあなたは、三度目の結婚の問題などなかったとお考えなのでございますね。でもほんとうに誰もございませんでしたか、男爵の意中の人というようなのは? よくお考えくださいまし、誰もいませんでしたでしょうか」
キャロル嬢は頬を紅くした。
「何を聞きだそうとしていらっしゃるのか、私には見当がつきません。とにかく、そういう相手は一人もありませんでした」
小さなオムレツでも食べましょう
帰りの車のなかで、私は、
「どういうわけで、エッジウェア男爵が、また結婚するつもりだったかも知れないということについて、キャロル嬢に質問したんですか」と好奇心をもって尋ねた。
「そういう可能性があったかも知れないと思っただけのことですよ」とポワロはいった。
「なぜですか」
「エッジウェア男爵が離婚に対する考えを、どうしてあんなふうに急に変えたのか、私はその説明を求めているのですよ。どうも不思議でならないので、何かあると思ってね」
「そういえば、何かおかしいですね」と私も考えながらいった。
「ねえ、ヘイスティングス君、男爵は夫人が私どもに話したことを裏書きしましたでしょう。夫人はあらゆる種類の弁護士をさしむけたが、男爵は頑として聞きいれなかった。どうしても、離婚をゆるさなかったということでした。それなのに、突然に譲歩したとはね!」
「男爵がそういったのでした」と私は、ポワロに注意した。
「そのとおり。ヘイスティングス君の観察は正しいです。男爵がそういった。男爵が書き送った手紙の内容がどんなものであったか、何の証拠もない。もしかすると男爵はあのとき嘘をついたのかも知れません。男爵は何か理由があって、作りごとを語り、人前をつくろったのかも知れません。そうではないでしょうか? なぜかということは、私どもにはわかりません。しかし、男爵が離婚承諾の手紙を書いたと仮定すると、それを書いた理由がなければならない。そこで男爵が、急に結婚したいと望む相手に出会ったのではないかという想像が、その理由として自然に生じてくるのではないでしょうか。この想像は、男爵が突然に意見を変えたことを、よく説明します。それでああいう質問をしたわけですよ」
「キャロル嬢は決定的に、その考えをくつがえしてしまいましたね」
「さよう、キャロル嬢は……」ポワロは冥想的につぶやいた。
「あなたは、今何を考えていらっしゃるんですか」私はいらいらして尋ねた。
ポワロは、とかく声の調子に疑惑をほのめかす傾向がある。
「キャロル嬢が嘘をつくどんな理由があるというんですか」と私は追求した。
「ありません、何も。けれどもヘイスティングス君、キャロル嬢の証言を信用するのは困難ですよ」
「彼女が嘘をついていると思っていらっしゃるんですか。なぜですか? 真正直な人のようじゃないですか!」
「それはそうです。故意の嘘と、他意のない不正確とを区別するのは、時には非常にむずかしいものです」
「それはどういう意味ですか」
「あらかじめ考えた上で欺《あざむ》く……これは別のことです。けれども、自分の知っている事実や、自分の抱いている考えや些末《さまつ》のことにはこだわらないで、本質的な真実だけを信じ切ってしまう……これが真正直な人の特質ですからね。いいですか、キャロル嬢はすでに一つの嘘を語りました。見えるはずのないジェーンの顔を、見たといったではありませんか。では何が、キャロル嬢にそういうことをいわせたのでしょうか? 彼女は二階の欄干から下を見おろして、ジェーンが玄関に立っているのを見ました。彼女はそれがジェーンだと思いこんでいたので、正確な細目にはこだわらずに、顔を見たといったのです。それで私は、顔が見えなかったはずだと指摘したのですが、彼女にしてみれば、ジェーンだったのだから、顔を見ても、見なくても、そんなことは問題でないという訳です。ほかの場合でもこれと同様なのです。自分が知っていると思っている。そこでよく覚えている事実に基づく理性によらず、自分の持っている知識によって答えるのです。ねえ、君、こういう訳で、あまり決定的な証言は一応は疑ってみなければならないものですよ。そこへいくと、不確かな、よく覚えていない、ちょっと考えてから答える証言のほうが、どんなに信頼することができるかもしれません!」
「やれ、やれ、ポワロさんは、僕が前から抱いていた証言に対する考えを、すっかりひっくり返してしまう」と私はいった。
「エッジウェア男爵が、再び結婚するつもりだったかという私の質問に答える代りに、キャロル嬢はその考えを、一笑に付してしまいました……なぜかというと、そういうことは、彼女が今まで考えてもみなかったからです。彼女は毛筋ほどでも、そういう徴候が見えたかどうか、考えてみようともしませんでした。それで私どもは依然として、この問題では一歩も出ていません」
「彼女はあなたに、ジェーンの顔を見たはずはないと指摘されても、一向に驚いた様子を見せなかったですね」私は考えこみながらつぶやいた。
「そうでしたね。それで私は、キャロル嬢は意識的の嘘つきではなく、正直で不正確な頭脳の持主だときめたわけです。意識して嘘をつく理由は……そうだ……それも一つの考えだ……」
「何ですか?」私は熱心に答えを求めた。
しかし、ポワロは首を横にふった。
「ある考えが浮かんできたのですが、これはありえない……さよう、到底ありえないことです」といっただけで、それ以上語ることをポワロは拒んだ。
「あの人は令嬢を、非常に可愛がっているようですね」
「そうです。私どもとの会見の時も、一生懸命に、令嬢に加勢しようとしておりましたね。時に、ヘイスティングス君の、令嬢ジェラルディンに対する印象はいかがでしたか」
「僕は非常に気の毒に思っています。心から同情しますね」
「ヘイスティングス君は、いつも優しい心を持っていますね。悩める美女は、いつでも君の心を乱す」
「ポワロさんだって、そうではないですか?」
ポワロは重々しくうなずいた。
「そうです。あの令嬢の生活は、今まで幸福ではありませんでした。それは、あの顔に、はっきりと書いてありました」
「とにかく、あの令嬢がこの犯罪に、少しでも何か関係しているというようなジェーンの言い草は、実に馬鹿げていると思いませんか。ポワロさん」と、私はやっきとなっていった。
「令嬢のアリバイは、きっと立っていると思うのですが、ジャップ警部からは未だ何も聞いておりません」
「ポワロさんは彼女に会い、彼女と話をしておきながら、まだアリバイが必要だと主張なさるんですか?」
「だがね、君。会って話をしたということが、どんな成果をおさめたというのですか。彼女は非常に不幸な境遇を経た。彼女は父を憎み父の死を喜んでいることを自認した。そして彼女は昨日の朝、父が私どもに何を話したかをひどく気に病んでいた。これだけのことを私どもは知った後にあなたは彼女のアリバイが不必要だというのですか?」
「彼女の率直さだけだって、彼女の潔白を証明しているじゃありませんか」
「開放的性格は、あの家族の特徴ですよ。新しいエッジウェア男爵なんかどうです……手持札をテーブルに並べて見せた、あの雅量はどうですか?」
「まったくそうでしたね、なかなか独創的な方法でしたね」
私は食堂での光景を想い浮かべて、微笑した。
ポワロはうなずいた。
「何といいましたっけ……先手《せんて》をだした」
「先手を打った、です……僕たちは、すっかり手玉にとられた形でしたね」
「君は奇妙な考えを持っていますね。君は手玉に取られたかも知れませんが、私は、手玉に取られたとは感じませんよ。それどころか、私は背負い投げを喰わしてやったと思っておりますよ」
「ほんとですか?」
私はそんな様子を見なかったので、疑ぐりっぽくいった。
「いいですか、私は聞いていました。耳をかたむけていました。そして黙って相手にいうだけいわせておいて、いきなり、全然、別のことを質問しました。君も気がついたでしょうが、その質問は、わが勇ましき君の度胆《どぎも》をぬきましたっけね。君は、気がつきませんでしたか」
「僕は、彼がカーロッタの死を聞いた時のあの恐怖と驚きは、純粋だったと思いますね。あなたにいわせれば、巧妙な芝居だったかも知れませんが」
「それはどうともいえませんですが、ほんものらしく思われたという点は、私も同感ですね」
「なぜ、あんなふうに皮肉な調子でいろいろな事実を、われわれの頭にたたきこんだのだとお思いになりますか? 単に面白がってやったことなんでしょうか」
「そういうことはあり得ますね。君たち英国人は、ユーモアに対して私ども外国人にはまったく思いも及ばないような考えを持っていますからね。しかし、あれは一種の作戦だったかも知れません。秘められた事実というものは、重要な疑惑を招くものですし、開放的に打ち明けられた事実というものは、実際以上に、軽く受け取られるものですからね」
「たとえば、あの朝の伯父との喧嘩のことなんかは?」
「そうですとも、マーシュ大尉はその事実が、どうせ発覚すると見越していたから、先まわりして、見せびらかしたのです」
「あの人は見かけほど、脳たりんではないんですね」
「どういたしまして、脳がたりないどころか必要に応じていくらでも使えるだけの頭脳をもっていますよ。あの人はちゃんと自分の立場を心得ていて、自分の持ち札をテーブルの上へ並べて見せました。ヘイスティングス君は、ブリッジをしますね。一体どんな場合に、そういうことをするか知っているでしょう」
「ポワロさんだってブリッジをするではありませんか、ちゃんと知っているくせに……自分の手に勝ち札が全部集ってしまった場合に、無駄な時間潰しをしなくてすむように、手のうちを見せて勝負を終らせるためにやるじゃありませんか」
「そのとおりです。けれども場合によっては、別の理由でその手を用いることもありますよ。ご婦人方のお相手をした時、私は一二度、そういう場合もあることに気がつきました。いきなり持ち札をさっとテーブルの上に投げだして、私のところへ全部くることになると宣言して、さっさと新たにカルタを切り直します。相手があまり馴れていない連中ですと、うかうかとその手に乗ってしまって、うやむやに勝負がついてしまうということになるのです」
「するとあなたは、新男爵マーシュ大尉のは、その手だと考えていらっしゃるんですね」
「ヘイスティングス君、私は、度を過ごした傍若無人ぶりは、大そう興味あることだと思いますよ。それから、もうそろそろ夕食にする時間ではないかと思いますね。どうです、小さなオムレツでも食べようではありませんか。そして九時ごろに、もう一か所訪問しなければなりません」
「どこですか」
「まず食事第一にしましょう。最後のコーヒーを飲んでしまうまでは、この事件を論じないことですね。食事中は、私どもの頭脳も胃袋に奉仕すべきですよ」
そこでわれわれは、ポワロのなじみの、ソーホー街の小さな料理店に行き、うまいオムレツと、舌びらめのバター焼きとひな鶏のむし焼きと、食後はポワロの大好物のラム酒にひたしたスポンジケーキを食べた。
そしてコーヒーを飲み終ると、ポワロは愛情をこめた微笑を、私にあびせながらいった。
「私はね、君が知っている以上に、君を頼りにしているのですよ。君はしばしば、私に正しい方向を示してくれます」
私は今まで、そんなことをいわれた覚えがなかったので、嬉しくも思い、面|喰《くら》いもした。
「ほんとですか、ポワロさん! 僕はとても嬉しいです。僕はいろいろな点で、あなたから非常に学ぶところがあったと思うんです」
「そんなことはありません。あなたは私から何も学びませんよ」
「そんなこと!」私はあっけにとられた。
「そうですとも。人間は誰でも、他人から学ぶはずはないものです。各自が自分の力を最大限に発展させるべきで、他人の真似などしようとするものではありません。私はヘイスティングス君に、第二位のポワロになどなってもらいたくありませんね。私は、君が最上位のヘイスティングス君であるように望んでいるのです。で、君は最上位ですよ。私は君のなかに、正常な精神の例証を見出しているのです」
「僕は異常でないことを希望しますね」
「いや、いや、君の智能は美しいまで完全に平均しております。君は穏健そのものですよ。そのことが私にとって、どういう意味をもっているか、ヘイスティングス君に解りますか? 犯人が犯罪を企てる場合の第一の努力は欺くことです。誰を欺こうとするかというと、彼の心にその対象として浮かんでくるのは、尋常な、正常な人物です。実際には、そんな人物は存在せず、こんな言い方は数学的抽象にすぎません。しかし、君はたしかにそうした人物に最も近い。時には君は不思議な鈍感の底まで沈んでいって(失礼)、時には標準以上へ浮かびあがってすばらしい閃きを見せることがあるが、全体としての君は驚くべきほど正常な人間です。それがどんなふうに、私に益となっているかと申しますと、ちょっと、こんなことなのです。ちょうど鏡を見るように、私は君の心に、犯人が私に何を信じさせようとしているかが映っているのを見るのです。これは恐ろしく助けとなり、また暗示を与えてくれるのです」
私にはよく解らなかった。ただポワロのいうことは、あまり讃辞を呈しているものでないように思われた。しかしポワロはすぐに私の気持ちを読んでしまって、
「私の表現は、大そうまずかったですね。君には、私に欠けている犯罪心理に対する洞察力があります。君は犯人が、私に何を信じさせようと望んでいるかを示してくれます。これは偉大なる賜物《たまもの》ですよ」
「洞察力……そうですね。私には何かを見抜く力はあるらしいです」といって、テーブルの向こう側に眼をやると、ポワロは細巻きの煙草をくゆらしながら、とても親切な眼つきで私を見ているのであった。私はちょっときまりが悪くなって、
「さあ、事件について話し合いましょう」といった。
ポワロは上を向いて眼をつむり、静かに煙草の煙をはきだした。
「さあ、何でも質問してください」
私はそういわれると、自分も同じように椅子の背によりかかって、眼を細めながら第一問を投げた。
「誰がエッジウェア男爵を殺したのか?」
ポワロは、すぐに坐りなおして激しく首をふった。
「だめ、だめ、そんな質問はない。君はまるで探偵小説を読んで、最初から理由も何もなしに、登場人物を一人一人これが犯人ではないかなと想像し始める人のようですね。それは私だって、かって一度そういうことをしたこともありましたよ。それは非常に特殊な事件でした。これはちょっとした私の手柄話でしてね、いずれそのうちに、聞かしてあげますよ。それはそうと、私どもはこの事件について何を話しておりましたのでしたっけね」
「あなたがいくつか提出された問題についてでした」
「さよう、さよう、第一問はすでに論じ合いましたね、エッジウェア男爵は離婚に対する考えを、なにゆえに変えたか? それに対する回答が一二、私の頭に浮かびました。その一つは、ヘイスティングス君も知っていますね。
第二問は、その手紙はどうなったのであろうか? エッジウェア男爵とその妻が結ばれたままになっていることは誰の利益になるであろうか?
第三問、昨日の朝、書斎を出しなに、君が後ろをふり返った時に見た、男爵の顔の表情は、何を意味するものか? ヘイスティングス君は、それに対する何か回答を得ましたか」
私は首を横にふった。
「僕には訳がわからないんです」
「君は、そんなふうに想像したのではありませんでしたか。ときどきヘイスティングス君は少々想像力を働かせ過ぎるきらいがありますからね」
「いいえ、僕は絶対にまちがいありません」と、私は激しく首をふった。
「よろしい、ではそれも説明を加えるべき事実の一つです。私の第四問は、あの鼻眼鏡に関するものです。ジェーン嬢もカーロッタ嬢も眼鏡を用いたことがないとすると、あれがカーロッタ嬢のハンドバッグのなかにあったのは、何と説明したらよろしいのでしょうか?
それから第五問は、誰が、なにゆえに、チズウィックの晩餐会にジェーンが出席しているかどうかを、電話で確かめたのか?
これらの疑問が私を苦しめている。……これに対する回答を得さえすれば、私はもっと幸福になれる。……それを納得いくように説明する仮定を引きだすことができただけでも、私の自尊心はこのように苦しまないですむだろうに!」
「そのほかにも、まだいろいろな問題がありますね」
「たとえば?」
「カーロッタを、悪戯《いたずら》の仲間に巻き込んだのは誰か? あの晩十時以前と、以後に、カーロッタはどこにいたか? 彼女に黄金の小函を贈ったDとは何者か?」
「そうした問題は明白な事実で、少しも不思議なところはありません。それらは単に、私どもが知らないというだけのことで、いつ何時、私どもが知るかも知れないことです。いいですか、ヘイスティングス君、私の問題というのは、心理的なものなのですよ。つまりこの小さな脳細胞の……」といいだしたので、私はまたこの講義を長々と聞かされるのは、やりきれないので、何としても中止させなくてはならないと思い、
「ポワロさん、今夜、どこか訪問する予定だったのではありませんか」と切りだした。
「そうでしたっけね。電話で都合を聞いてみましょう」
といって、ポワロは席を立って行ったが、じきにもどって来て、
「さあ君、出かけましょう、都合よくいきましたよ」
「どこへいくんですか」
「チズウィックのモンターグ卿の邸宅です。私はあの電話の呼びだしについて、もう少し知りたいのでしてね」と、ポワロはいった。
十三番目の客
テムズ河畔のチズウィックにあるモンターグ卿の邸宅に着いたのは、十時ごろであった。
われわれは美しく羽目板をはりめぐらした、広い玄関へ招じ入れられた。右手の開け放った戸口からろうそくを灯した磨きあげたテーブルのある食堂が見えた。
「どうぞ、こちらへ」と、執事はわれわれを案内して広い階段をのぼり、二階の、河を見晴らす細長い部屋へつれて行った。
「エルキュール・ポワロ様」と、執事は取りついだ。
それは美しく調和した部屋で、笠でほの暗くしたランプの光が、古風な雰囲気をかもしだしていた。開け放った窓に面した一隅に、小テーブルを囲んで四人の人が、カード遊びをしていた。われわれが入って行くと、その中の一人が立って来て、挨拶をした。
「ポワロさんとお近づきになりますのは、非常なよろこびです」
私は興味をもってモンターグ卿を見守っていた。小さな理智的な黒い眼をして、頭髪を注意深く分けていた。背は五フィート八インチぐらいであろう、その態度は決定的に気障《きざ》であった。
「ご紹介させていただきます。こちらはウィッドバーンご夫妻」
「私ども、前にお目にかかりましたわねえ」と、ウィッドバーン夫人がいった。
「それから、ロス君」
ロスは金髪の快活な顔をした、二十二歳ぐらいの青年であった。
「せっかくのご勝負のお邪魔をいたしまして、何ともおわびのしようもございません」とポワロはいった。
「どういたしまして、カードをだしたばかりで、まだ始めていなかったのです。コーヒーはいかがですか、ポワロさん」
ポワロは辞退したが、結局、主人ご自慢の古酒を、なみなみと注いだ杯を受けた。
われわれが、それをちびりちびり飲んでいる間に、モンターグ卿は日本の版画のこと、中国の漆器のこと、ペルシャ絨毯《じゅうたん》のこと、フランスの印象派画家たちのこと、近代音楽のこと、アインシュタイン博士の学説のことなどをしゃべりまくった。そして最後にようやく、椅子の背に寄りかかって、われわれに慈悲深げな微笑を送った。彼は自分の演技を、充分に楽しんだらしかった。
「さて、モンターグ卿のご親切に、そういつまでも甘えておりますわけにはまいりませんから、この辺で、今夜お訪ねいたしました用件について、申し上げさせていただきましょう」と、ポワロがいうと、卿は鳥の爪を思わせるような手をあげて、それを制した。
「おいそぎになることはありません。時間はまだ、充分にありますですから」
「そうですのよ、このお宅へ伺うと、すっかり落ちついてしまいますわ。とてもすばらしくて」といって、ウィッドバーン夫人は溜息をした。
「私は億万ポンドやるといわれても、ロンドンに住む気にはなれませんですな。ここでは、あの昔なつかしい平和な雰囲気にひたっていることができますですからね」
「結局、お金なんて、何でしょう、つまらないものでございますわ」とウィッドバーン夫人が、考え深くいった時、ウィッドバーン氏がズボンのポケットの金貨をじゃらじゃらいわせて、夫人に、
「あなた、何です!」とたしなめられた。
「このような雰囲気のなかで、犯罪のことなど触れますのは、ゆるしがたいこととぞんじますが……」とポワロが恐縮しながら、切りだした。
「どういたしまして、犯罪も一種の芸術とみられます。探偵は芸術家と申してもよろしいでしょう。私はもちろん、警官のことを申しているのではありませんです。今日も警部が、ここへまいりましたが、あの連中は変っておりますな。たとえば、あの有名なイタリアの彫刻家ベンベヌート・チェリーニの名も知らないのですからな」とモンターグ卿がいうと、ウィッドバーン夫人は急に好奇心を見せて、
「その警部は、ジェーンのことで来たのでございましょうね」といった。
「あのご婦人にとって、昨夜こちらへ来ておられたことは大そう幸運だったようでございます」とポワロがいった。
「さようでしたな。私はあの婦人が美しくて才能があることを知っておりましたので、何か役に立ってあげたいと思いましてな、それで昨夜の会に招待したのでした。経営者になりたい希望を抱いておりましたので。ところが私は、それとはまったく異なった方面であのご婦人の役に立ってさし上げるようなことになったようであります」とモンターグ卿がいった。
「ジェーンは幸運をつかみましたわ。あの人はエッジウェア男爵を亡きものにしたいと、死ぬほど思っていましたら、ごらん遊ばせ、誰かが出かけていってそんな面倒からジェーンを救ってくれたのでございますものね。あの人はこれで若いマートン侯爵と結婚するでございましょうよ。皆がそう申しておりますわ。あの侯爵のご母堂がやきもきしておいで遊ばすっていうことでございますのよ」とウィッドバーン夫人がいった。
「私は非常に好印象を受けましたです。なかなか聡明なご婦人で、ギリシアの芸術について、しばしば非常にうがったことをいわれましたです」
私はそれを聞いて、ジェーンがあのかすれ声で、そうでございますわね、とか、ほんとうに、何てすばらしいではございませんか、などといっている光景を、胸に描いてひそかに微笑した。モンターグ卿は、自分の語るところに耳を傾け、適当な相槌を打つ聞き手は、その道に通じている聡明な人物と思いこむタイプの一人であった。
「とにかく、エッジウェアは変った奴だったからね。相当敵もあったさ」と、今度はウィッドバーン氏が言葉をはさんだ。
「誰かが男爵の後頭部にナイフを刺したとか申しますのほんとでございますか、ポワロさん」とウィッドバーン夫人がいった。
「奥様、さようでございます。まことに見事な手ぎわで、科学的な業《わざ》でございます。さて、また本題にもどらしていただきますが、エッジウェア男爵夫人が、こちらの晩餐の食卓についておられました時に、電話がかかってまいったそうでございますね。実はその電話について、情報を得たいとぞんじまして、伺ったのでございます。で、こちら様のご奉公人衆に、質問させていただけませんでございましょうか」
「よろしいですとも、よろしいですとも、ポワロさん。ロス君、その呼鈴をおしてくれたまえ」
呼鈴に応じて、丈の高い中年の執事がうやうやしく部屋へ入って来た。そしてモンターグ卿から、何用で呼ばれたか説明をきくと、謹んでポワロにむかって頭をさげた。
「電話が鳴った時に誰が答えたのかね」と、ポワロが質問をはじめた。
「自分が出ましてございます。電話室は、広間から離れたところにございますので」
「電話をかけて来た人は、エッジウェア男爵夫人へといいましたか、ジェーン・ウィルキンソン嬢へといいましたか」
「エッジウェア男爵夫人をお呼びしてくれとおっしゃられましてございます」
「その時の言葉のやりとりを、そのまま聞きたいのだがね」
執事は、しばらく考えた上で答えた。
「自分の記憶しておりますところでは、私が、もしもしと申しますと、先方で、そちらはチズウィックの四三四三四番ですかと尋ね、自分がそうだと答えますと、そのまま待つようにと申し、また別の声がチズウィック四三四三四番かと尋ね、そうだと答えますと、エッジウェア男爵夫人は晩餐の席においでですかといわれ、自分が、男爵夫人は見えておいでになりますと答えますと、男爵夫人にお取りつぎ願いますといわれましたので、自分は食堂へまいり、それをお伝え申しあげますと、男爵夫人は席をお立ちになりましたので、自分は電話室へ、ご案内申し上げましてございます」
「それから?」
「男爵夫人は受話器をお取り遊ばされ、もしもし、どなた様でいらっしゃいますかと仰せになり、つづいて、はいさようでございます、こちらはエッジウェア男爵夫人でございますと申されましたが、その時、自分は電話室を出てまいるところでございましたが、男爵夫人はお呼び止めになり、電話が切れてしまったと仰せになり、誰かが笑って受話器をかけてしまったらしいとのことで、電話をかけてよこした方が、お名を名乗られたかどうかお聞き遊ばしましたので、先様では、何ともおっしゃられませんでした旨を、申し上げましてございます」
ポワロは眉をひそめて、しばらく考えていた。するとウィッドバーン夫人が、
「ポワロさんは、その電話が何か殺人と関係があると、本気にお考えになっていなさるんでございますか」と尋ねた。
「何とも申し上げようがございません。奥様、ただ奇妙なことだと思うだけでございます」
「よく人は冗談に、電話をかけたりするものでございますよ。私も一度、そんな目に遭ったことがございますわ」
「奥様、そういうことは、いつも起こるというわけのものではございません」
ポワロは再び、執事に質問した。
「電話をかけてよこしたのは男の声だったかね、それとも女の声だったかね」
「ご婦人の声だったとぞんじます」
「どんな声でした。高い声? それとも低い声?」
「低い声でございます。注意深い、どっちかと申しますとはっきりした声でございました。自分の気のせいでございましたか知れませんが、外国人の声のように聞こえましてございました。|R《アール》の発音が強かったように思います」
「お前はその声を聞いたら、電話の声だとわかると思うかね」
「はっきりと申し上げかねますでございます。わかるかも知れないとぞんじます。はあ、たしかにわかるはずだとぞんじます」
「どうもありがとう」
「どういたしまして」
執事は頭をさげて退出した。
モンターグ卿は非常に親切で、あくまでも、よき時代の魅惑を客人に与える役を演じつづけ、われわれを引きとめた。皆でブリッジをすることになったが、賭金があまり大きいし、それに私はカードの勝負はあまり好まないので、失礼して、ロスと二人で見物した。勝負の結果は、モンターグ卿とポワロの大勝ちであった。
われわれは卿に厚く礼を述べて辞去した。ロスも一緒に来た。三人が夜の街道へ出た時、ポワロは、
「不思議な御仁だ」といった。
晴れたいい晩だったので、われわれは電話で自動車を呼んでもらうのをよして、タクシーが見つかるまで、ぶらぶら歩くことにした。
「さよう、不思議な御仁だ!」とポワロは再びつぶやいた。
「非常な大金持ちです」と、ロスは感情をこめていった。
「そうでしょうね」
「あの人は僕が気に入ったらしいんです。永つづきしてくれればいいんだがなあ。ああいう人を背景にもつということは、大したことですからね」
「ロス君は俳優ですか?」
ロスはそうだと答えた。彼は自分の名がただちに認められなかったのを不満に感じている様子であった。彼は最近、ロシアものの陰気な翻訳劇に主演して、驚くべき成功をおさめたのであった。
ポワロと私とで、ようやく彼をなだめた後で、ポワロは何気ない様子で尋ねた。
「君はカーロッタ嬢をごぞんじだったのではありませんか」
「いいえ、僕はさっき夕刊で、彼女の死亡の記事を読みました。何か睡眠剤の飲みすぎだそうですね。女の子たちがよく麻薬を用いるのは、馬鹿げたことですよね」
「悲しいことです。彼女は才能がありましたのにね」
「そうだったらしいですね」
彼も自分の演技以外には、誰にも興味を持たないという俳優特有の性格を現わした。
「君は、カーロッタのショーを見たことがないんですか」と私は尋ねてみた。
「いいえ、ああいうのは、僕の畑ではないから。場当りだけのことで、永つづきはしないですよ」
「ああ、タクシーが来ました」といって、ポワロはステッキをふった。
「じゃ、僕は歩きます。ハンマースミスから地下鉄でまっすぐ家へ帰りますから」とロスはいった。彼は突然に、神経質な笑い声をあげた。「奇妙なことがあったんだ、昨夜《ゆうべ》の晩餐会でね」
「どんなこと?」
「われわれは十三人だったんですよ。誰かが急に欠席してしまったんでね、僕は食事が終るころまで、気がつかなかったんだ」
十三は縁起のわるい数だし、そんな時に一番先に立った者は、不運に見舞われるという迷信があるので、私はつい、
「で、最初に立ったのは誰だったんです」と、尋ねた。するとロス青年は、妙にヒステリックなくすくす笑いをして、
「僕だったのさ」といった。
ジャップ警部の意見
帰宅すると、ジャップ警部がわれわれを待っていた。
「引き揚げる前に、ポワロさんとちょっとお喋りをしようと思って、寄ってみたですよ」とジャップは快活な調子でいった。
「ようこそ! で、その後いかがですか」
「たいして調子よくいっておらんです。真実のことをいうとね」
彼は、いささかしょげた顔をしていた。
「ポワロさん、何かいいことはないですか?」
「あなたにお聞かせしたいと思う、ちょっとした思いつきが一つ二つありますがね」と、ポワロがいった。
「あなたのちょっとした思いつきですか! あなたはある意味で、慎重そのものですからなあ。いやその思いつきというのを、伺うのはよしておきましょう。あなたのその妙なかっこうの頭のなかには、もっとすばらしいやつが詰っているはずなんだがなあ!」
ポワロは、その讃辞を何やら冷たい態度で受けた。
「ポワロさん、私が知りたいのは、あの婦人の謎について、あなたがどういう考えをもっておられるか、それなんですよ。あれはどういうことなのですか、彼女は何者なのですか」
「私がジャップさんに話したいと思っていたのは、まさにそれなのです」といって、ポワロは警部がカーロッタのことを聞いたかどうか尋ねた。
「名は聞いたことがあるですが、どういう人物だったか、ちょっと思いだせんですな」
ポワロは説明した。
「ほう! 物まねが得意ですと? で、あなたはその女をこの犯罪にどう結びつけられたんですか。あなたはそれからどうしたのですか」
ポワロは、われわれの取った足どりと、われわれの手繰《たぐ》りだした結論とを話した。
「こりゃたしかに、あなたの説は正しいらしい。服に、帽子に、手袋に、それから金髪の鬘《かつら》と……そうにちがいない。ポワロさん、あなたはまったく腕利きだ。そいつは抜け目のない手際だ! もっとも彼女が、邪魔者は殺せということになったとは、私には考えられない。そいつはちとうがちすぎる。その点では私とあなたの見解はまったく一致せんですな。あなたの仮定は、いささか空想的に思われます。私はあなたよりも余計に、経験を積んでおるです。私は舞台裏の悪漢の存在という説には、信を置けんですな。カーロッタがその女の役を演じたのはいいですが、私はそこに、一二の註釈を入れたいですな。彼女は自分自身の目的をもって、男爵家へ乗りこんで行った。その目的は、彼女が大金を入手すると口外していた点から察するに、強請《ゆすり》だったと思われる。二人は少し口論をした。そのうちに彼は険悪になる。彼女もいらいらしてくる。そこで、彼女は彼をやっつけてしまった。私にいわせれば、彼女は家へ着くとすっかりまいってしまう。彼女は殺すつもりではなかったのだ。それで後悔の末に、睡眠剤を多量にとってもっとも安易な逃げ道を選んだと、私は考えますな」
「ジャップさんは、それで事実全体を網羅するとお考えなのですか」
「それは、まだわれわれの知らん事実が、いろいろありましょうさ。だが、これは捜査をつづけるには格好の仮説です。それからもう一つの説明は、悪戯《いたずら》とこの殺人とは、何の関係ももっておらんということですな、この二つは奇妙な偶然の暗合にすぎんです」
ポワロがその説に賛成していないことは、私には解っていた。しかし、彼はただ、あいまいに、
「そういうこともございましょうね」とつぶやいただけであった。
「あるいはですな、こういうのはどうですか? 悪戯《いたずら》はいたって無邪気なものであった。それを誰かが聞いて、これはおれたちの目的を達するには、もってこいだと考える。こいつは悪くないですな。だが、私としては、第一の考えのほうを取りますよ。男爵とあの娘との間に、いかなるつながりがあるかを、何とかして探りださにゃならんですな」
ポワロは、女中が投函したアメリカ行きの手紙のことを話した。ジャップはその手紙が大きな手がかりになるだろうということに、ポワロと意見が一致した。
「それを手に入れる手配をすぐしましょう」といって、彼は小さな手帳に覚え書きをすると、それをポケットにしまいながら言葉をつづけた。
「私はカーロッタ嬢が、殺人者であってくれればいいと思いますよ。なぜかというと、私には誰もほかに思い当る者がないですからね。新しく男爵になったマーシュ大尉には、歴然とした動機がある。履歴も悪いし、金詰りだったし、それでいて金使いは荒いし、その上兇行のあった日の朝、伯父男爵といさかいをしている。この事実は大尉が自分でしゃべったので、大分価値が下がってしまっているが、とにかく、彼は犯人に誂え向きだが、残念ながらアリバイをもっている。彼は金持ちのユダヤ人の家族とともに、オペラへ行っている。調べたら間違いなかった。彼はその家族と晩餐をともにし、オペラへ行き、その後でソプラニスで食事をした。そんな訳ですからなあ」
「では、令嬢は?」
「男爵の娘のことですか。彼女も昨夜は外出しているんです。ウエストとかいう一家の人たちと夕食をし、オペラへ同行し、その後で家まで送ってもらっている。家へ着いたのは十二時十五分前だったというから、彼女も除外される。秘書の女も異常なし、きびきびした立派な女です。次に執事だが、私はあまり好きだとはいえない。男の癖に、あんなに器量がいいなんて不自然ですよ。何かうさんくさいところがあるし、また、彼がエッジウェア男爵にどうして雇われるようになったか、その辺のこともすこぶる怪しい。私は彼の行動を詳細に調べてみたんですが、殺人の動機というようなものは見出せんですな」
「新事実は何も出てまいりませんか」
「出てきましたです。一つか二つほど。それが何らかの役に立つものやら、はっきりいえんですがね。その一つはエッジウェア男爵の鍵が紛失しておることです」
「玄関の鍵ですか?」
「そうです」
「それは面白いことですね。たしかに」
「非常に意味があるかも知れんですし、あるいはまた何でもないことかも知れんです。それよりも、もっと重要と思われる事実があるのです。エッジウェア男爵は昨日、小切手を現金に替えているのです。たいした金ではないですがね。……百ポンドです。それを全部フランス紙幣で、受け取ったというのです。今日フランスへ旅行するために引きだした金だと判っています。ところで、その金が紛失しているんですよ、ポワロさん」
「誰が話したのですか」
「キャロル嬢です。彼女が小切手を現金にしてきたと私に話したので、調べると、紛失していたという訳なんです」
「昨夜その現金は、どこに置いてありましたのですか」
「キャロル嬢は知っておらんでした。嬢は昨日の午後三時半ごろ、それを男爵に渡したのです。銀行の封筒に入ったまま。そのとき男爵は書斎におられたので、それを受け取ると、傍のテーブルの上に置いたということですがね」
「それは確かに考えるべき問題ですね。これは複雑化してきたようです」
「あるいは単純化かも知れんですな。それはそうと、傷のことですがね」
「どうでしたか」
「医師は、普通の小ナイフによる傷ではないというです。それに類したものだが、刃の形が異なっているし、おそろしく鋭利なものだというんです」
「剃刀《かみそり》ではありませんか?」
「いや、いや、もっと小さいものです」
ポワロは眉をひそめて考えこんだ。
「新しいエッジウェア男爵は、冗談をいうのが好きらしいですね、殺人の嫌疑をかけられているのを、面白がっているふうだ。われわれは若い男爵を、確かに疑っておる。こいつは少々おかしいですな」と、ジャップはいった。
「それは単なる利口さに過ぎませんでしょう」
「罪の自覚があるというほうが、ふさわしくはないですかね? 伯父の死は彼に非常に好都合だった。それはそうと、彼はあの邸宅へ引っ越しましたぜ」
「以前は、どこに住んでおりましたのですか」
「セントジョージ通りマーチン街、あまりぱっとしない場所ですよ」
「ヘイスティングス君、今の住所を書きとめておいてください」
私はいわれたとおりにしたが、少しおかしく思った。マーシュ大尉がリージェント・ゲートへ引っ越して来てしまったのに、以前の住所なんか、何の必要があるのだろう。
「私はカーロッタの仕業だと思うですよ。そこをたぐりだしたとは、ポワロさん、なかなか腕がいい。あなたは、もちろんそんなふうに劇場をあちこち巡って楽しんでおられるって訳ですな。あなたが偶然に遭遇するようなことに、私のほうは一向ぶつかる機会がないんだからなあ。惜しむらくは、はっきりした動機がないが、まあ小さなシャベルを使うように、こつこつやっていれば、やがて光が見えてくるでしょうな」
「たった一人、動機をもっているのに、あなたが少しも注意を払わない人物がありますね」と、ポワロがいった。
「それは一体、誰ですか」
「男爵夫人と結婚を希望しているという評判のたっている紳士です。つまり、マートン侯爵です」
「そうです。たしかに動機があるはずですね。しかし、あれだけの地位にある人物が、人殺しなんかするはずはないですよ。それに侯爵は、巴里《パリ》にいますからね」といって、ジャップは笑った。
「では、ジャップさんは、侯爵を重要な容疑者とはみなしておいでにならないのですね?」
「では、ポワロさんはどうなんですかい」といって、警部はポワロの考えを大笑いして立ち去った。
三 マーシュ大尉の逮捕
執事は失踪した
その翌日は、われわれにとってもジャップ警部にとっても多忙をきわめた一日であった。警部は、午後のお茶の時間にやって来た。
彼は真っ赤になって、ぷんぷんしていた。
「まったく、わたしゃ、えらいどじを踏んでしまったですよ」
「そんなことはございますまい。あなたに、そんなことはありようはずがありませんよ」と、ポワロは慰めるようにいった。
「大ありですよ。私はこの指の間から、あの執事を取り逃がしてしまったんですからな」
「失踪したのですか」
「そうなんです。消え失せやがったんです。……私が自分の大馬鹿に腹を立てているのは、あいつを特別疑ってみもしなかったってことなんですよ」
「まあ、気を落ちつけなさるんですね! さあ気を落ちつけて!」
「口でいうのはやさしいですさ。ポワロさんだって、本部で大目玉を喰らったら、落ちついてなんかいられんでしょうぜ! 奴はひょうたんなまず野郎なんだ! こんなふうにずらかられたなあ、私が初めてではない。奴は常習犯なんだ」
ジャップは額を拭って、しょげ返った様子をしていた。ポワロは同情して、めんどりが卵を産んだ時みたいな声をだした。私はこんな場合、英国人にとって一番ききめのあるウィスキーとソーダ水をグラスに注いで、陰気な警部の前に置いた。彼はやや元気づいた。
「なあに、私ゃかまわんがね」と、彼はいった。そのうちに、もっと快活に話しはじめた。
「私は、今でもまだあの男が殺人犯人とは、はっきり思いこめないですよ。もちろん、こんなふうに、突然に姿を晦《くら》ますなんてのは後ろ暗いことがあるにきまっておるですが、何かほかに理由があったんだろうと思う。いいですか、私は奴に接近しはじめておったんですよ、奴は二三のいかがわしいナイト・クラブに関係しておったようで、それがありきたりのではなく、ひどく趣向をこらしたみだらなものでね、実際、奴はやくざ男でさあ」
「だからといって、彼が殺人犯人というわけにはまいりませんね」
「そのとおり! 奴はけしからぬことはしておったが、必ずしも殺人犯人ではないですよ。私はいよいよもって、カーロッタだと確信を持ったですよ。もっとも、まだ何もそれを証明するものは、持っておらんですがね。今日部下をやって、彼女のアパートを検べさせたですが、何一つ手がかりになるようなものは見つからんでした。なかなかこすからい女で、手紙類は全然とっておかんのですからね。金銭上の契約に関する手紙が数通あっただけで、それはいろいろ付箋がついて、覚え書きがしてあったですよ。ワシントンにいる妹からの手紙が二通ばかりあったですが、これも公明正大なものだし、一つ二つ旧式な宝石だけで、新品や、高価なものは何も持っておらんし、日記はつけておらんし、銀行通帳にも小切手帖にも、何ら助けになるような点は発見されないでしたよ、癪にさわることだが、実際カーロッタ嬢というのは、てんで私生活なんて持っていなかったようだ!」
「彼女は控え目な性格でした、これは私どもの見解からいたしますと、気の毒千万なことでございます」と、ポワロは考え深くいった。
「私は彼女の身のまわりの世話をしていた女とも話してみたし、彼女の友人だったという婦人帽子店をやっている女にも会ったですが、何のたしにもならんでしたよ」
「あなたは、ドライバー嬢をどう思いましたか」
「彼女はなかなかスマートな、抜け目のない女性ですな。彼女も何の助けにもならんでしたがね。そんなことには驚かんです。私はこれまで、相当数の家出娘の捜索に当ったですが、家族の者たちや、友人たちのいうことはみな同じ文句ですよ。……快活で愛情深い性格で、男友達なんかは一人もなかった……ところがそいつはみんな、真実ではない。そんなのは不自然だ。女の子は男友達を持つはずだ。もし男友達が一人もないなんていうんだったら、何か変なことがあるにちがいない。そういう友人や家族の者たちの、見当ちがいな実意が、刑事に余計な苦労をさせるんだ」
ジャップはそこで、一息入れるために言葉を切ったので、私は再び杯に酒を注いでやった。
「ありがとう、ヘイスティングス大尉。でだね、私はそんな苦労なんか何とも思いはせん。捜査の仕事というものはね、どこまででも飛びまわって、捜して捜して捜しぬくものなんだ。カーロッタなる女性と食事に行ったり、ダンスに行ったりした若い男が、一ダース近くもあったのを探りだしたが、どれも同じことで何らの手がかりにもならんかったです。そのなかには、新しくエッジウェア男爵になった男だの、映画俳優のブライアンだのというのがあるですが、一人として特別どうという深い関係はなかった。あなた方の、背後に男ありという考えは間違っていたですよ。ポワロさん、彼女は共犯者なんかなしに、単独でやったにきまっておるですよ。私はね、目下殺された男と彼女との関係を洗っているところですがね、必ず何かがあるに違いないです。私は巴里《パリ》へ行って来にゃならんと思うです。例の黄金の小函に巴里と刻んであるし、女秘書も故エッジウェア男爵は去年の秋、骨董品の売買のために数回、巴里へ行ったと証言しておるですしね。私はどうしても、巴里まで行ってくる必要があるです、明日審問法廷で、取調べが行われることになっておるですが、どうせ日延べになるでしょうから、午後の船に乗るつもりですよ」
「ジャップさんは、まこと凄い精力家でおいでなさる。私は驚嘆しておりますよ」
「そうですよ。ポワロさんは近来、ちと怠けておられるね。あなたはそこにじっと坐って、考えておるだけだ。あなたのよくいう、小さな脳細胞なんか当てにしていたって駄目ですよ。物事はじっとしていたって、来てくれるものじゃない。こっちから出かけて行って、とっつかまえにゃならんものですからな」
その時、小柄な女中が扉をあけた。
「旦那様、ブライアンさんという方が、お目にかかれましょうか、それともお忙しくていらっしゃるでしょうか、とおっしゃいます」
ジャップは、勢いよく立ち上がった。
「じゃ、私は失礼するですよ。スター連はみんな、ポワロさんのご意見を仰ぎにくるらしいですな」
ポワロはつつましやかに肩をすくめた。ジャップは陽気な笑い声をあげた。
「ポワロさんはもう、百万長者になられたでしょうな。その金をどうされるですか? 貯蓄ですか?」
「確かに勤倹貯蓄を励行しておりますよ、金の処分といえば、故エッジウェア男爵は、どう処分されましたでしょうか」
「嗣子《しし》にゆく世襲相続財産を除いたものは、全部令嬢に、それから秘書のキャロルに五百ポンド、そのほかには何の指定もなく、いたって簡単な遺言状でしたよ」
「で、それはいつ作成されたものですか」
「夫人が男爵の許を去った後ですから、二年以上前でしょうな、それはそうと、男爵は夫人を遺産相続からまったく除外する旨を明記しておいたですよ」
「執念深い男だ」とポワロはつぶやいた。
「じゃ、また」と元気よくいって、ジャップ警部は帰って行った。
入れちがいに、ブライアンが入って来た。一分のすきもない服装をして、非常にハンサムに見えた。それにもかかわらず、私は彼がやつれて、みじめになっているように思った。
「ポワロさん、お伺いするのが大変に遅れてすみません、それに結局ポワロさんの貴重な時間を無駄にしたことになり、僕は面目なくてならないです」
「ほんとうですか?」
「そうなんです。僕は例の女性に会ったんです。そして説得したり、懇願したりしたんですが、彼女はこの件を、あなたにお頼みすることを承諾してくれないんです。そんな訳で、打ち切りにするよりほかないのです。僕は、あなたを煩わせたことを、実に何とも申しわけなく思っているのです」
「いや、どういたしまして、私はかくありなんと予期しておりました」と、ポワロは愛想よくいった。
「予期していたと、いわれるのですか」
ブライアンは不思議そうな顔をした。
「さよう、あなたが、ご友人と相談するとおっしゃった時、すでに、こういう結果になるだろうと予知しておりました」
「では、ポワロさんは仮説をお持ちなんですね」
「探偵というものはいつでも、仮説を持つものですよ、ブライアン。それは当然そうあるべきです。しかし、私は、自分のを仮説とは申しません。私はそれを、ちょっとした思いつきをもっていると申します。それが探偵としての第一階段ですからね」
「で、第二階段は?」
「ちょっとした思いつきが正しいと解った時、私は第二階段に達したことを承知いたします。大そう簡単なことでございます」
「あなたの仮説……つまりあなたのその、ちょっとした思いつきというのを、聞かしていただきたいですね」
ポワロは静かに頭をふった。
「探偵というものは決して語らない、これが探偵の掟でございます」
「何かほのめかしてくださることもできないんですか」
「いいえ。私が申し上げられるのは、あなたが金歯のことをおっしゃった時に、すぐに私の仮説が成立したということだけでございます」
「僕には、からっきし解りませんね。一体何をいっていらっしゃるのか、見当もつきません。せめてヒントでも与えてくださればいいのに」と、ブライアンは白状した。
ポワロは微笑して、首をふった。
「話題を変えようではありませんか」
「そうですね、でも第一に、手数料のことを……どうぞおっしゃって下さい」
「手数料?……私は何もいたしませんでした」と、ポワロは激しく手をふった。
「僕はあなたのお時間を……」
「興味のある事件に際しては、私は金銭には触れないことにしております。あなたの持っていらした事件は特別に私の興味をそそりました」
「それはよかったです」と、俳優は何やら落ちつかないふうにいった。彼はひどく、みじめな気持ちになっているらしかった。
「さあ、何かほかのことをお話しようではございませんか」
ポワロはやさしくいった。
「今僕が階段ですれちがったのは、警視庁の人だったのではありませんか」
「そうです。ジャップ警部です」
「薄暗かったので、はっきりわからなかったんです。それはそうと、あの人は僕を訪ねて来て、ベロナールを飲み過ぎて死んだ、気の毒なカーロッタのことをいろいろと尋ねましたっけ」
「あなたは、カーロッタ嬢をよく知っておいでなのですか」
「あまりよくは知っていないです。アメリカにいたころ、子供同士の友達だったんです。こっちへ来てから、一二度出会ったくらいのもので、しみじみと会って、話したということはなかったです。あの人が死んだと聞いて、僕は非常に気の毒に思いました」
「あなたはカーロッタ嬢を、お好きでしたか」
「はあ、彼女は珍しいほど、何でも気軽に話せる人でした」
「大そう同情深い性格の方でしたね、私もそう思いました」
「警察では、自殺だったろうと考えているらしいですね。僕は警部の役に立つようなことは、何一つ知らんでした。カーロッタは昔から、自分を語らない人だったんです」
「私は自殺だとは思いません」とポワロはいった。
「過失とは、とうてい思われませんね、僕もあなたと同じ考えです」
ちょっと沈黙がつづいた後、ポワロは微笑しながらいった。
「エッジウェア男爵の死は、興味をそそられるものになってまいりましたね、そうじゃございませんか」
「絶対に驚くべきものですね。あなたはごぞんじなんですか。……警察では、何かわかっているんでしょうか。……誰がやったか……ジェーンはもうすっかり除外されたんですね?」
「さよう……警察では、非常に有力な容疑者を見つけました」
ブライアンは、興奮した様子であった。
「ほんとですか? 誰ですか?」
「執事が失踪いたしました。あなたもお解りでしょう。……逃亡は自白も同様だと申すことを」
「執事がですって、まったく驚きますね」
「目立って美貌の男でした。いささか、君の面影しのばるる」と、讃辞を呈するように、ポワロはおじぎをした。
私は……ああ、そうだった! 初めて会った時、あの執事の顔がどこか見覚えあると思ったのは、そのせいだったのか……と気がついた。
「それはお世辞でしょう」といって、ブライアンは笑った。
「いやいや、そんなことがあるものですか、お若いお嬢さん方は、女中も、フラッパーたちも、タイピストも、社交界の令嬢方も、みんなブライアンさんを崇拝しておりますではございませんか。あなたに心を奪われない者がありましょうか!」
「いくらもあります」とブライアンはいった。そして急に立ち上がって、
「じゃ、どうもありがとうございました。ポワロさん、おさわがせして、ほんとうにすみませんでした」といって、われわれ二人と握手した。
突然、私は彼が前より老けて見えるのに気がついた。彼の面《おも》やつれが、さらに目立っていた。
私は好奇心でいっぱいになり、彼が背後に戸を閉じるのを待ちかねて、自分の知りたいと思っていたことをぶちまけた。
「あなたは、ブライアンがアメリカで自分の身に起こったあの奇怪なできごとを調査するという考えを、全面的に取り消しにくるのを、ほんとうに予期していらしたんですか」
「ヘイスティングス君は、私がそういうのをお聞きでしたね」
「しかし、それでは……」
私はそのことを理論的に辿《たど》ってみた。
「すると、あなたはブライアンが、相談するといった相手の女性が誰であるか、知っておいでになるわけですね」
ポワロは微笑した。
「私には、ちょっとした思いつきがあります。前にも申したように、金歯のことが出た時から感づいたことで、もしも私のちょっとした思いつきが正しければ、相手の女性が誰で、なぜブライアンが私に相談することに同意しなかったか、私にはわかっております。私はこの事件の全貌を、はっきりと知っております。君だって、神様からいただいた頭脳を、使うことができさえすれば、分るはずですよ。ときどき私は、神様は手落ちで、君に頭脳をくださるのをお忘れになったのではないかと、疑いたくなることがありますね」
ポワロ、探偵の礼儀を講ず
エッジウェア男爵や、カーロッタ嬢の死に対する予審法廷の模様は省略するとしよう。カーロッタ嬢の場合は、過失死の評決がくだされ、エッジウェア男爵の場合は死体の確認と、医師の証言があっただけで、法廷は延期となった。胃の内部を分析した結果により、死んだ時間は夕食をとってから一時間とは経過していなかったということで、最初の推定どおりに、十時から十一時までの間と判定された。
カーロッタが男爵夫人ジェーンを演じた事実には、いっさい触れなかった。執事の失踪は新聞に公表され、全体の印象では、彼がお尋ね者と目されているようであった。男爵夫人が当夜、訪問したという執事の証言は、彼のずうずうしい作りごとと見なされた。女秘書の陳述が執事の証言を裏書きしていることも、法廷には持ち出されなかった。どの新聞にも、殺人事件に関する記事が掲載されたが、真実の報道は何も出ていなかった。
とかくするうち、ジャップ警部は大いに活動していた。ポワロが不活発な態度をとっているので、私は少々心配になっていた。年のせいではないかという疑惑が……これは今初めてのことではないが……私の心をかすめるのであった。彼は自分の態度について、あまり納得のいく響きのない言い訳をした。
「私ぐらいの年頃になりますとね、余計な骨折りをしないですますようになるものですよ」
「しかし、ポワロさん。あなたはまだそんなに老境に入っていないと思います」と、私は抗議した。
私は彼に、活を入れる必要があると思った。現代式にいうと、暗示療法をほどこすのである。
「ポワロさんは、とても元気ですよ、今が働き盛りじゃありませんか。力が溢れているところですよ。その気にさえなれば、あなたはここで出馬して、この事件にすばらしい解決を与えることができるんですよ」と、私は熱心にいった。
ポワロは家にじっと腰かけていて、謎を解くほうが好きだと、答えるのであった。
「しかしポワロさん、そんなことはできませんよ」
「全然できないというものでもありませんよ。ほんとうですよ」
「僕のいう意味は、われわれは何もしていないということです。ジャップ君は、あらゆることをやっているのに!」
「それは私にとりまして、まことに結構なことですね」
「僕には結構でなんかないですよ。僕はあなたに何かしてもらいたいんです」
「私はしておりますよ」
「何をしていらっしゃるんですか」
「待っております」
「何を待っていらっしゃるんですか」
「わが猟犬、獲物を持ち来るを待つ……というわけです」
「それはどういう意味ですか」
「あの愛すべきジャップ君のことですよ。犬を飼っていながら、何も自分で吠えることはありますまい。ジャップ君は、君の賞讃する肉体的精力の結果を、ここへ持って来てくれます。あの人は私の持っていない、さまざまな機構を意のままにできるのです。あの人はきっと、間もなく情報をもって来てくれますからね」
強情な調査の一撃で、ジャップが材料を徐々にまとめあげていることは、確実であった。巴里《パリ》では失敗であったが、二三日後には、満足らしい様子でやって来た。
「遅々たる仕事ですよ、だがようやくある一点に達したです」と彼はいった。
「それはおめでとう。どんなことが起こりましたのですか」
「私は発見したですよ、あの夜九時に、金髪婦人が小型旅行鞄をユーストン駅の荷物預り所に預けて行ったということをね。係員はカーロッタ嬢の鞄を見て、たしかにその品だと確認したですよ。アメリカ製なので、こっちのとはいくらか違っているんでね」
「ああ、ユーストン駅でねえ。男爵邸から一番近い大きな駅はあすこでしたね。疑いもなく、あのご婦人は化粧室で変装して、鞄を預けて行ったのです。それを受け取りに来たのは、いつでしたろうか」
「十時半、係員は、同じ婦人が取りに来たといったです」
ポワロはうなずいた。
「それから、まだほかのことにぶつかったです。私には、カーロッタが十一時にストランド街の『角の家』という喫茶店にいたと信じる理由があるです」
「まことにすばらしきことでござる! 一体どうして、そういう事実にであわれたのでしょうか」
「実をいえば、多少は偶然のチャンスだったですな。ご承知のように、新聞に紅宝石《ルビー》で頭文字を彫りつけた黄金の小函のことが出ましたね。それを土台にして、記者が若い女優の間に、麻薬使用が流行しているということを取りあげて、記事を書いたんですがね、例の日曜付録のロマンチックなやつですよ。曰く、死を秘めたる運命の黄金小函! とか、前途ある若い娘のいたましき姿というようなことだの、彼女は最後の夜をどこに過ごせしや? 彼女はいかに感ぜしや、とか何とか書いた訳ですよ。
で、その喫茶店の女給の一人がそれを読んで、自分がその晩に給仕をした婦人が、そういう小函を持っているのを見かけたので、よく覚えている。その小函にはC・Aと記してあったのも覚えている、というので彼女はすっかり興奮して朋輩たちに話し、新聞社にこれを知らせたら、いくらか金をくれるだろうかということになったんですな。
それで若い記者が、すぐそれに飛びついて、今晩の『夜の叫び』という夕刊に、ひどく甘っちょろい読みものがでるはずなんです。才能ある女優の最後の時! とか、彼女の待ちし男は、ついに姿を現わさざりき! とか、そういえば、何か様子がちがっていると思ったとかいう女給の同情的な直感などを感傷的に書き綴ったものですよ。ポワロさんも知っているでしょう、例のくだらぬ文章でさ」
「で、そういう記事が、どうしてこんなに早くあなたの耳に入りましたのですか」
「なあにね、われわれんとこと『夜の叫び』とは仲よしでね。なかでも機敏な若い記者が、私からほかのネタを貰おうというんで、そいつをくれたんでね。で、私はすぐにその喫茶店へ飛んでいったという次第ですよ」
物事はそうなくてはならないのだ。私はポワロに対して、一抹のあわれみを感じた。ジャップがこうして、それらのニュースを直接に手に入れている……彼のことだから必ず大切な細かい点を聞きだすのを忘れているにちがいないが……のに、ポワロはここに坐って、平気な顔をして二番せんじのニュースで満足している。
「私はその女給に会いましたがね、あまり疑う余地はないと思うですね。その娘はたくさんの写真のなかから、カーロッタのを選びだすことはできんでした。娘は、その婦人の顔を、特別に注意していなかったから、気がつかなかったというのでさあ。ただ若くて頭髪の色は濃く、やせ型で、非常に立派な服装をしていたというんです。それから、新しい帽子をかぶっていたです。帽子なんかを、そんなに見ないでいいから、顔をもっとよく見ておいてくれたらよかったと思うですよ」
「カーロッタ嬢の顔を観察するのは容易なことではありませんね。変化に富み、感受性が強く、流動性がありますから」
「あなたのいわれるとおりですよ。私はそんなふうに、分析はしてみたんでしたがね。娘はその婦人は黒い服を着て、黒い帽子をかぶり、小型旅行鞄を持っていたといいました。娘はそんなに立派な服装をした貴婦人が、旅行鞄を自分で持って歩いているのは変だと思ったので、その鞄のことをよく覚えていたのだといったです。で、彼女はいり卵とコーヒーを注文したが、そうやって時間を潰して、誰かを待っていたらしかったということですよ。腕時計をつけていて、絶えずそれを見ていたともいったです。女給が勘定書を持って行った時に、小函に気がついたというんですがね、何でもその黄金の小函をハンドバッグから取りだして、テーブルの上に置いてじっと見守っていた。そしてその蓋を開けて、また閉じてしまい、何かうれしそうな夢見るような様子で、微笑しておった。女給はその函が特別にきれいだったので、気がついたとかで……私も自分の頭文字を紅宝石《ルビー》でいれた黄金の函がほしいわ……といったですよ。カーロッタは勘定を払った後も、しばらく坐っていて、そらからまた時計を見て、ついに諦めた様子で店を出て行ったそうです」
ポワロは眉をひそめていた。
「それは、逢引《あいびき》だった。誰かと会うはずだったのに、相手が現われなかった。カーロッタは、後刻その相手に会ったでしょうか、それとも会えないで帰宅し、電話をかけようとしたのでしょうか? 何とかして、それを知りたいものです。……どうかそれを知りたい」
「それがポワロさんの仮説なんですな、背後に謎の男ありとね。背後にひそむ男なんていうなあ神話ですよ。彼女が誰かを、待っていたのではなかったかも知れないとは、私だっていわんですよ。彼女は男爵との要件を満足に解決した後で、誰かと待ち合わせていたということは、あり得ますさ。とにかく、われわれには、どういうことが起こったか分っておるですよ。彼女は周章狼狽《しゅうしょうろうばい》して男爵を刺してしまった。だが彼女は、そういつまでも狼狽はしていない、彼女は駅へ行って変装をとき、旅行鞄を持って、逢引《あいびき》に行った。そこでよくいう、反動におそわれたんですよ。自分のしたことが、急に恐ろしくなった。その上友達が現われなかったので、万事休すという状態になったんですな。相手は彼女がその夜、エッジウェア男爵のところへ行ったことを知っていた人間かも知れない。そこで彼女はもう駄目だと思い、小函から麻薬を取りだした。それを致死量だけ飲めば、万事が終ってしまう。とにかく、絞首刑はまぬかれることができる。こりゃ、あなたの顔に、鼻があるがごとくに明白な事件ですよ」
ポワロは疑うように手を鼻のほうへ持って行ったが、その指が口髭のほうへおりて行った。彼はその髭を、誇らしげにそっとなでた。
「背後にひそむ謎の男なんていうのは、何の証拠もないですよ。まだ男爵と彼女との関係の証拠は、何も発見できんですが、それは単に時間の問題で、やがて洗いだせますよ。巴里《パリ》の件では失望したですが、九か月前なんて、長い月日ですからなあ。でも、まだ調査をさせているですから、何か明るみに出てこないともかぎらんですよ。あなたは、そうは思わんのでしょう。あなたは、つむじ曲りの頑固頭だからねえ」ジャップは自分の占めている地の利を頑強に確保していこうとした。
「あなたは最初に私の鼻を侮辱し、今度は私の頭ですか!」
「こいつは形容詞で、侮辱ではないですよ」と、ジャップはなだめるようにいった。
「それに対する答えは、どうつかまつりましてだ」と、私はいった。
ポワロは何のことかわけが解らない様子で、二人を交互に見くらべた。
「別に、ご命令はござらぬか」ジャップは戸口のところで振り返り、おどけた調子で尋ねた。
ポワロは相手をゆるすように、微笑を送った。
「命令はなし、提案はあり」
「はて、それは何ですか、いってくださいよ」
「私の提案は、タクシー会社へ回覧状を配布して、殺人のあった夜、コベント・ガーデン付近から男爵邸へ客を乗せて行った運転手を捜しだすことです。往きだけでなく、帰りも乗せたと思われますね。そうです、往復の乗車賃をとった車を見つけることですね。時刻はおそらく十一時二十分前ごろだったでしょう」
ジャップは目をみはった。その様子は、敏捷なテリア種の犬のように見えた。
「そうか、それが思いつきというやつなんですな。よろしい、やってみましょう。別に害にはならない。それにポワロさんは、ときたま気のきいたことをいわれるからなあ」と彼はいった。
警部が帰って行くやいなや、ポワロは立ち上がって、大変な勢いで帽子にブラシをかけはじめた。
「君、質問はよしてくださいよ。それよりも、ベンジンを持って来てください。私のチョッキに今朝オムレツが一かけら降下いたしましたんでね」
私はベンジンの壜《びん》を取って来た。
「今度だけは、質問しなくてすむと思いますよ。あまりに明白なことですからね。しかし、あなたはほんとうに、そうだと考えていらっしゃるんですか」と私はいった。
「目下のところ、私は化粧に専念しております。ところで、失礼ながら、君のネクタイは面白くないですね」
「これはとても、上等なんですがね」
「かつては、そうだったでしょう。だがもう今では、あなたがご親切にも私のことをいってくだすったように、そのネクタイも老境に入っているという感じですね。頼むから、取りかえてください。それから、右の袖にブラシをおかけなさいよ」
「これから国王様のところへでも、行こうというのですか」と、私は皮肉をいった。
「いいえ。実はね、今朝の新聞にマートン侯爵が、マートン屋敷へ帰館されたとあるのを見ましたんでね。あのお方は英国貴族のなかでも、第一級だと申しますから、できるだけの敬意を表そうと思うのですよ」
「なぜ、われわれはマートン侯爵を訪問するんですか」
「お目にかかりたいからです」
ポワロから聞きだすことができたのは、それだけであった。私の服装がポワロの批判的な眼をよろこばすだけに立派にととのったところで、ようやくわれわれは出発した。
マートン屋敷で、ポワロは従僕に約束があったかどうかを尋ねられた。ポワロはないと答えた。名刺を持って行った従僕は、間もなくもどって来て、失礼なれど、殿様は今朝非常に多忙であらせられるので、といった。ポワロは直ちに傍の椅子にどっかりと腰をおろして、
「よろしゅうござる、お待ち申そう、必要とあらば数時間なりと、お待ち申そう」といった。
しかしながら、その必要はなかった。おそらく、しつこい訪問者を撃退する最も手近な方法としてであろう、ポワロは面会したいと望んでいた紳士の御前へ通された。
侯爵は年のころ二十七歳ぐらいで、やせて弱々しいので、外見上すこしも、人をひきつけるようなところはなかった。頭髪は何ともいいようがないほど薄くて、こめかみの辺は禿げあがっていた。小さくて苦虫をかみつぶしたような口許で、はっきりしない夢みるような眼つきをしていた。その部屋には数基の十字架や、さまざまな宗教的な芸術品があった。広い書棚にも、神学書以外のものは何もないようであった。彼は侯爵というよりも、やくざな若い小間物商人に見えた。彼は子供のころひどく病弱だったので、家庭で教育を受けたと聞いていた。これがたちまちにして、ジェーンの捕虜になった男であった! これは実際、極端にばかばかしいことであった。彼の態度はしかつめらしく、われわれに対する応対は礼儀を欠いていた。
「たぶん私の名をごぞんじと」とポワロがいいかけると、
「私は知りません」
「私は犯罪心理学の研究をしております」
侯爵は沈黙していた。彼は、書きかけの手紙を前に置いて、テーブルにむかって腰かけていた。彼はいらいらした様子で、手にしたペンでテーブルをたたいていた。
「どういう理由で、私に会いたいというのですか」
彼は冷やかに尋ねた。
ポワロは侯爵と向かいあって腰かけ、窓を背にしていた。侯爵は窓に面していた。
「ただいまのところ、私はエッジウェア男爵の死に関する情況の調査に当っております」
弱々しいが強情な顔は、筋一本動かさなかった。
「そうですか、私は男爵とは、面識はございませんでした」
「しかし、あなたは男爵の妻、すなわちジェーン・ウィルキンソン嬢と、知りあっておいでだったと承知しております」
「それは確かです」
「あなたはジェーン嬢が、夫の死を希望する強力な動機を持っていたことをお気づきでしたか」
「そういうことには何も気づいていませんでした」
「では閣下に単刀直入にお尋ねしますが、あなたは間もなく、ジェーン嬢と結婚されるのではありませんか」
「私が誰かと婚約すれば、その事実が新聞に発表されるでしょう。では、さようなら」と、彼は立ち上がった。
ポワロも立ち上がった。彼は間が悪そうに、うなだれていた。
「私はそんなつもりではなかったので……ご容赦ねがいます……」とポワロは吃《ども》りながらいった。
「さようなら」
侯爵は前より声を高めて、くり返した。
ポワロも諦めてしまった。そしていつもの、望みなしという身ぶりをして部屋を出た。これは実に、不面目きわまる退出であった。
私はポワロには、気の毒な気がした。彼のいつもの大言壮語もいっこう役に立たなかった。大探偵も、侯爵にとっては油虫以下にしか見えないにちがいない。
「うまくいきませんでしたね。何という強情な、手におえない奴なんでしょう。あなたは実際に、何であの男に会いたかったんですか」
「私はね、侯爵とジェーンとが、ほんとうに結婚するかどうかを知りたかったのですよ」
「彼女はそういっていましたね」
「ああ、彼女はそういっていたですね! しかし、あのご婦人は自分の目的にかなうことなら、何でもいうご婦人の一人です。ご婦人のほうでは、結婚することにきめていても、侯爵のほうでは、その事実に気がつかないでいるかも知れませんからね」
「とにかく侯爵は、耳の痛いいやみをいって、あなたを追っぱらいましたね」
「あの人は新聞記者に答えると、私に返事しましたね。ところが、私はそれをちゃんと知っております。どういう状態になっているか、はっきりと私は知っておりますよ、はい」といって、ポワロはうれしそうに、くすくす笑いだした。
「どうして知ったのですか、あの人の態度でですか」
「どういたしまして、あの人が手紙を書いていたのを、ヘイスティングス君も気がついたでしょう」
「はい」
「いいですか、私が若いころ、まだベルギーの警察に勤務していたころ、文字をさかさにして読む練習をしたのが、大そう役に立ちましたよ。侯爵があの手紙にどんなことを書いていたか、聞かしてあげましょうか……最愛の君よ、そんなにいく月も待っているなどということはとうてい私にはたえられません。わが崇拝する美しきわが天使ジェーンよ、あなたが私にとってどんなに大切か、どうしていいあらわすことができましょう? あなたは、そんなにもお苦しみになった! あなたの麗しい性格……」
「ポワロさん! よしてください!」
私はけしからんことだと思って、叫んだ。
「そこまで書いてあったのです、あなたの麗しき性格……私だけが、それを知っているのでございます」
私は気が転倒した。ポワロは自分のやったことを、無邪気に喜んでいるのであった。
「ポワロさん、そういうことをするものじゃないですよ、他人の親書を読むなんて」
「ヘイスティングス君は、馬鹿げた行ないだとおいいなのですね。私が今したことを、してはならないなんて、それこそ馬鹿げていますよ!」
「そういうのは、尋常の勝負ではないです」
「私は勝負ごとなどしておりません、殺人は勝負ごとではありませんよ。とにかく、ヘイスティングス君、尋常の勝負などという言葉は使わないことですね。近頃はもう、そういう言葉ははやりませんよ。そんな時代遅れの言葉を使うと、人が笑いますよ。若い美しいお嬢さん方に、笑われますよ、尋常に勝負つかまつろうなんていったらね」
私は黙ってしまった。私はポワロがそんなふうに気軽に、他人の手紙を盗み読みしたことが、我慢ならなかった。
「そんなことする必要が、なかったじゃないですか。あなたがジェーンに頼まれて、エッジウェア男爵のところへ行ったことを話しさえしたら、侯爵はきっとあなたをもっとちがう扱い方をしたでしょうに!」
「でも、私にはそういうことは、できませんでした。ジェーン・ウィルキンソンは、私の依頼人ですからね。私は依頼人の私事を、他人に話すわけにはまいりません。私は秘密裡に、あの使命をはたしたのでした。それを他言するのは、名誉になりますまい」
「名誉だなんて!」
「まさしく!」
「しかし、ジェーンは侯爵と結婚するのでしょう?」
「といって、あのご婦人が侯爵に、何の秘密ももたないという意味にはなりません。君の結婚に対する考えはひどく旧式ですね。君の提案したようなことは、私にはなし得ませんでした。私は探偵としての礼儀を重んじなければなりません、この礼儀というのは真面目に考えるべきものですからね」
「そうですか、世のなかには、いろいろな礼儀とやらがあるらしいですね」
マートン侯母堂の来訪
その翌日受けた訪問は、この事件全体を通じて、私にとって最も驚くべきことであった。
私が自分の部屋にいるところへ、ポワロが眼を輝かして、そっと入って来た。
「君、訪問者ですよ」
「誰ですか」
「マートン侯爵のご母堂」
「何て不可思議なことだろう! でご老体は、何用で来たんですか」
「私といっしょに階下《した》へくれば、わかりますでしょう」
私はすぐそれに応じ、二人で応接間へ入って行った。
老侯爵夫人は小柄で、鼻柱の高い鼻と専横な眼をもった女性であった。背は低いが、ずんぐりしているとはいえなかった。時代ばなれのした黒いドレスを着ているにもかかわらず、彼女はどこからどこまでも、堂々たる貴婦人であった。また私の受けた印象では、彼女は冷酷ともいうべき性格をもっていた。息子が消極的であるのに反して、母親は積極的であった。彼女の意志の力はすさまじいものであった。彼女は全身から、活力を発散しているように思われた。この夫人に近づいた者が、みな彼女の独裁下におかれるのも、無理のないことだ。
老貴婦人は柄つきの眼鏡を取りあげて、まず私をしげしげと観察し、次にポワロに眼を向けた。それから彼に話しかけた。彼女の声はすき透っていて、抵抗しがたい調子があった。それは命令をし、常にその命令が服従されつけている者の声であった。
「あなたはエルキュール・ポワロさんですね」
「さようでございます。奥様」と、ポワロはいんぎんに頭をさげた。
彼女は私を見た。
「これは友人のヘイスティングス大尉でございます。私の扱います事件の助手を勤めます」
老夫人の眼は一瞬だが疑いをおびたが、承認するように、うなずいた。そしてポワロのすすめた椅子についた。
「ポワロさん、私はまことに、面倒なご相談にまいったのでございます。それに私のお願いの件は、ごく内密にしていただきたいと申すことを、お含みおきいただきとうございますが」
「それは申すまでもございません。奥様」
「あなたのことを私に聞かせてくだすったのは、ヤードレー伯爵夫人でございます。あの方のあなたに関するお話しぶりや、感謝しておいでになるご様子から、私はあなたこそ、私をお助けくださるただ一人のお方だと思ったのでございます」
「ご安心くださいまし、最善をおつくしいたしますから」
老夫人はなおもためらっていたが、やがて思い切ったように要点に入った。その率直さは、記憶すべき夜、サボイ・ホテルで、ジェーンの示したあの唐突さを思い起こさせた。
「ポワロさん、私は自分の息子が、ジェーンという女優と結婚しないように、保証していただきたいのでございます」
たとえポワロは驚いたとしても、少しも表面にはださなかった。彼は老夫人を考え深い様子で見つめて、答えるまで少し時間をとった。
「奥様は、私にどうしてほしいと仰せになるのか、もう少し具体的に承《うけたまわ》らせていただけませんでしょうか」
「それはやさしいことではございません。こういう結婚は、大変な不幸を招くような気がいたします。きっと私の息子の生涯を破滅させることになりましょう」
「奥様は、そうお思いになりますか」
「確かにそうだとぞんじます。私の息子は大そう高尚な理想をもっております。あの子は世のなかのことを、何も知っておりません。あの子は同じ身分の若いお嬢様方には、目もくれませんでした。そういうお嬢様方は頭がからっぽで、軽薄だと思っているのでございます。けれども、ジェーンと申す女優は……それは大そう美しいと申すことは私も認めます。それにあの女は、男を奴隷のようにする力を持っております。あの女は私の息子を、魔法にかけたのでございます。でもありがたいことに、あの人は結婚の自由を持っておりませんでしたので、息子の迷いも成り行きにまかせておけばいいと思っておりました。ところが、あの女の夫は死にました……」
そこで言葉を切って、再び語りだした。
「で、二人は五六か月のうちに、結婚しようとしております。息子の幸福が、危険に瀕しているのでございます。ポワロさん、これは何としても、止めなければなりません」と、老夫人は断乎としていった。
ポワロは肩をすくめた。
「奥様、私は奥様の仰せになることが、正しくないとは申しません。この結婚が適当なものでないというお説には、私も同感でございます。けれども、誰が、どうできると申せましょう?」
「何とかしてくだされるのはあなたでいらっしゃいます」
ポワロは、ゆっくりと首をふった。
「そうですわ、どうしてもポワロさんに、助けていただかなければなりません」
「どのようなことも、役に立つとは思われませんですね、奥様。あなたのご子息は、あのご婦人に反対するような言葉には、決して耳をおかしにならないとぞんじますね。それにあのご婦人を、非難するような材料は何もございますまい。あのご婦人の過去を洗ってみましたところで、信用を傷つけるようなことがあるとは、思われません。あのご婦人は……何と申しましょう……注意深くて……」
「私、ぞんじております」
侯爵夫人は不機嫌にいった。
「ああ! ではもうすでに、その方面をお調べになったと申すわけでございますね」
ポワロの鋭い視線にあって、老夫人は少し顔を赤らめた。
「息子をこの結婚から救うためには、私のしないことは何もございません」
彼女は『何も』というところに、力を入れていった。そしてちょっと間をおいて、言葉をつづけた。
「このことに関して金銭などどんなにかかってもかまいません。いくらでもご希望だけの料金をおっしゃってください。何としても、この結婚は取りやめにしなければなりません。それをするのは、あなたでいらっしゃる!」
ポワロは、ゆっくりと首をふった。
「金銭の問題ではございません。私には何もできないのでございます。いずれその理由は申し上げます。それに私は、何とでもできるとは考えないのでございます。奥様、私はあなたのお役に立つことは、できないのでございます。もし私がご忠告申し上げましたら、無礼だとおぼしめしますでしょうか」
「どんな忠告ですか」
「ご子息に、反抗心を起こさせないようになさいまし! ご子息はご自身で、選択なさる年齢に達しておいでになります。ご子息の選択は、あなたの選択ではないのでございますから、ご自分が正しいにきまっているという態度を、お取りにならないことでございます。もしも、それが不幸だった場合は、その不幸を甘受なさいまし。そしてご子息が救いを求められたら、いつでも手をさしのべて、おあげになることでございます。ご子息を敵におまわしになりませんように!」
「あなたは、解らないのですね」
侯爵夫人は立ち上がった。彼女の唇は震えていた。
「奥様、私にはよく解っております。私は母の心を理解しております。エルキュール・ポワロほど、よく理解している者はございません。それで私は、自信をもって申し上げます。……忍耐なさいまし、と。あなたの感情をおかくしになって、落ちついて忍耐なさいまし、自然に解消する機会はまだございます。反対はご子息の片意地を、増すばかりでございます」
「さよなら、ポワロさん。私は失望いたしました」
「お役に立つことができなくて、まことに残念でございます。私は困難な立場にいるのでございます。実はエッジウェア男爵夫人ご自身が、すでに私のところへ、ご相談に見えられたのでございます」
「ああ、なるほど、あなたは反対側でいらっしゃるのですね。それでエッジウェア男爵夫人が、まだ夫殺しとして逮捕されないわけが解りました」
「何と仰せられますか? 奥様!」
「私の申したことをお聞きでしたろう。なにゆえに、あの女は、逮捕されないか? あの女はあの晩、あそこへ行きました。家へ入るところを見られました。書斎へ入るところを見られました。誰もほかに男爵に近づいた者がありませんでした。そして男爵は、死んでいるのを発見されました。それにもかかわらず、あの女は逮捕されません! この国の警察は骨のずいまで、腐敗していると見えます」
老侯爵夫人は震える手で、スカーフを首にまきつけると、わずかにうなずいただけで、席をけたてて部屋を出て行った。
「何たる勇猛なる女性だろう! 僕は感服しましたよ!」と私はいった。
「あのご夫人が天地万物をご自分の考えどおりにしようと、望んでおられるからですか」
「いや、あの夫人は息子の幸福だけを、胸においているからです」
ポワロはうなずいた。
「それはほんとうです。しかし、それにしても、侯爵がジェーン嬢と結婚するのは、そんなに悪いことでしょうかねえ、ヘイスティングス君」
「まさか、ポワロさんは、彼女がほんとうに侯爵を恋しているなんて、考えているんではないでしょうね」
「おそらく……いやたしかに、そんなことはないと思いますね。けれどもジェーン嬢は、非常に侯爵の地位に恋々としております。きっと自分の役を注意深く演じるでしょう。彼女は絶世の美人で、非常な野心家ですね、それは決して、破局とはなりません。侯爵はジェーン嬢と同じ理由で、承諾するお姫様と結婚したかも知れません。そうした場合には、世間では何も取り沙汰しません」
「たしかにそうです、しかし……」
「それから侯爵が、自分を熱烈に愛している女性と結婚したとしたら、それによって非常な利益を得るでしょうか? 私はこれまでにたびたび、夫を熱愛する妻を持ったことが、非常な不幸となった場合を見ました。彼女は嫉妬心を抱くようになり、夫に間の悪い思いをさせ、夫の時間も注意も全部、妻に与えることを要求いたします。こういうのは決して、安楽な身分とはいえませんね」
「ポワロさん、あなたはまったく、救うべからざる皮肉家ですね」
「どういたしまして、私はちょっと意見を述べてみただけですよ。いいですか、私はほんとうに、あの善良なママさん側なんですからね」
私は高慢な老侯爵夫人を、そんなふうに形容するのを聞いて、笑わずにはいられなかった。
「笑うことはないですよ。これは大そう重要なことです。私は考えなければなりません。非常に多くを、考えなければなりません」
「僕にはこの件について、あなたに何ができるっていうのか、解らんですね」
ポワロは、私のいうことなどには、注意していなかった。
「ヘイスティングス君も、気がつきませんでしたか、侯爵夫人が何もかもよく承知しているということを。どんなに執念深いか。ジェーン・ウィルキンソンに対するあらゆる証拠を、知っているということ」
「検事側のいい分で、弁護人側ではないですね」
「一体どうして、侯爵夫人が知ったのでしょうかね」
「ジェーンが侯爵に話し、侯爵がそれを母堂に話したんでしょう」
「そうですね。そういうことは可能です。しかし、私は……」
けたたましく、電話が鳴りだした。私は受話器をとりあげた。
私のほうではときどき、はいというだけであったが、やっと受話器をおいて、興奮しながらポワロにむかって、
「ジャップ警部からです。第一に、例によってあなたはすてきだ。第二に、アメリカから電報を受け取った。第三に、タクシーの運転手を見つけた。第四に、運転手の陳述を聞きに来ませんか。第五に、あなたはすてきだ、あなたがこの事件の背後に、謎の男ありと暗示を与えた時、あなたはその頭に、釘を打ちこんだも同様だと確信している。で、僕はわれわれがたった今受けた訪問者が、警察は腐敗しているといったことは、話さないでおきましたよ」
「ジャップは、ついに、納得したと見えますね。ところで、私がほかの可能な仮説に傾きかけた時になって、背後に謎の男ありという説が確認されるなんて、不思議なことですね」と、ポワロはつぶやいた。
「どんな仮説ですか」
「殺人の動機は、エッジウェア男爵自身とは何の関係もないかも知れないという説です。誰かジェーンを、殺人犯人として絞首台へ送りたいと望むほど、憎んでいた者があったと想像してみてください。これわが意見にて候」
ポワロは溜息をして、やおら立ち上がって、
「さあ、ヘイスティングス君、ジャップ警部が話すことを、聞きに行くとしましょう」
カーロッタの最後の手紙
ジャップ警部は、ぼうぼう髭の眼鏡をかけた男を、訊問しているところであった。彼は、しゃがれた、自分を憐れむような声をしていた。
「ああ、おいでなすったな。すべてが順調に航行中ですよ。この人が、ジョブソンというんですがね。六月二十九日の夜、ロング・エーカーで二人の人物を拾ったというのです」
「さいでござんすよ。いい晩でしてな、月やなんか出てて、若いご婦人と紳士が、地下鉄のところで呼び止めなすったんざんすよ」
「その人たちは、夜会服だったかね」
「へえ、紳士は白チョッキで、ご婦人は小鳥を縫いとりした真っ白いドレスざんした。コベント・ガーデン劇場から出て来たんだと思うです」
「何時ごろだね」
「十一時よほど回ってからでざんした」
「で、それからどうした」
「リージェント・ゲートまで行けば、どの家か教えるといいました。そして大急ぎでやれと、へえ、お客様はみんな、そう申しやす。まるでわしらが、ぐずぐずしたがっているみたいにね、こちとらは早く行って、また別の客ひろったほうがいいんざんすよ。お客様方はそんなこと、考えたこともねえんです。いいですか、それでまた、もしかして事故でも起こそうもんなら、みんな、わしらのせいになるってもんざんすよ」
「さっさと進めろ、その時には事故は起きなかったんだろうな?」と警部は気短にいった。
男はそうした話題からはなれるのは、気がすすまないらしかったが、
「いいえ、実際のこと事故なんざなかったです。リージェント・ゲート街までは、七分とはとらなかったです。そこで紳士が、ガラスをたたいたんで車を停めたです。それは八番館近くでざんした。で、紳士とご婦人は下車し、紳士はその場に立ちどまり、わしにも車を停めていろといいましたです。ご婦人は往来を横切って、向こう側の歩道を戻って行ったです。紳士は歩道に立ち、私に背を向けてご婦人を見送っていたです。両手をポケットにつっこんで。五分ばかりしたころ、紳士は何やら口のなかで叫ぶようなことをいって、ご婦人の行ったほうへ歩いて行きましたんざんす。わしはその後をじっと見ておったです。乗り逃げなんかされてはならんと思って、ああ、前に一度そんな目に合ったことがざんすんでね。すると向こう側の家の石段をのぼって、なかへ入《へえ》って行ったです」
「その男は、扉を押して開けたのかね?」
「いいえ、合鍵で入ったです」
「家の番号は?」
「十七番か、十九番だと思ったです。私《わし》に車をそこへ停めておけなんてのは、へんざんすから、私《わし》は見張っておったです。五分ばかりすると、紳士はご婦人と連れだって出て来て、車に乗りこみ、コベント・ガーデンのオペラ座へもどれといいましたんざんすが、そこまで行かないうちに車を停めさせて、たんまりと払ってくれたですが、何か面倒が起こりそうな気がしてたんでざんすよ」
「そんな心配いらないよ。それでは、これを見て、その時のご婦人がいるかどうか聞かしてくれないか」とジャップはいった。
そこには同じようなタイプの若い女性の写真が、十二三枚並べてあった。私は興味をもって肩越しにのぞいていた。
「これざんすよ」といって、男は少しも迷わずに、ジェラルディン・マーシュ嬢の写真を指さした。
「たしかかね」
「たしかですとも、青白い顔をして、濃い毛の髪で」
「では、このなかには?」
別の写真のひとたばが男に渡された。彼はそれを念入りに見た後、首をふった。
「さあ、私《わし》には、たしかとはいい切れんざんすね。まあ、この二人のうちの、どっちかといえばいえましょうが」
そのなかには、新男爵、マーシュ大尉の写真もまぜてあったが、運転手はそれを選びださなかった。だが、彼が選んだ二枚は、マーシュ大尉といくらかタイプの似通った男であった。
運転手が立ち去ってしまうと、ジャップ警部は、写真をテーブルの上に投げつけた。
「結構なことさ! まったく、あの貴族の、もうちっとはっきりした写真を手に入れたかったなあ。七八年も前にとった古写真じゃ、無理もないさ。この一枚が、ようやく手に入ったんでね。疑う余地なしだが、もっとはっきりした写真がほしいですよ。それであの二人のアリバイは、ぶちこわれてしまうんですからね。ポワロさんが、運転手のことを考えつかれたのは、さすがですな」
ポワロは、謙遜な様子をした。
「私は、令嬢と従兄と二人とも、あの晩オペラへ行ったことを知った時、幕合いに二人が一緒だったかも知れないと思ったのです。いうまでもなく、同伴者たちは、二人がオペラ座を出たとは思わないでしょう。しかし三十分あれば、男爵邸まで行ってくる時間は、たっぷりあります。新しいエッジウェア男爵が、アリバイをあまり強調されたので、私はたしかに何か変だと感じたのでしたよ」
「あなたは実際、すばらしい疑い屋ですなあ。さよう、あなたはまずまず正しい。これほど疑いをかけて大丈夫なのは、ほかにありますまいな。あの若殿が目ざす男であることは、確かですよ。これを見てください」といって、警部は一葉の紙を取りだし、
「ニューヨークから来た電報ですよ。警察でカーロッタの妹のルーシー・アダムズと連絡をとってくれたんですがね、例の手紙は今朝、郵便物としてルーシーに配達されたです。彼女は原文を手ばなすことは承知しなかったが、その写しを電送することには同意したというわけで、それがこれですが、この上なしの証拠です」
ポワロは、電文を非常な興味をもって読んだ。私も肩越しにのぞいた。
――以下は、ロンドン西南三区ローズ館八号より、ルーシー・アダムズに宛てたる六月二十九日付手紙の写しなり。
最愛の妹よ、先週はあんな走り書きの手紙でごめんなさい。いろいろと、気をくばらなくてはならないので、とてもいそがしかったのです。でも大成功よ! 新聞の批評もすてき、切符売上げも上々、そして誰も彼もがとても親切。こちらにいいお友達がたくさんできたので、来年は二か月ぐらい、劇場に出演しようと思っています。ロシア舞踊家のスケッチは、とてもうまくいっているし、それからパリのアメリカ婦人も成功、でも、外国ホテルのいく場面かの寸劇は、相変らず、一番受けているようです。私はとても興奮していて、何を書いているか自分でもわからないくらいよ、どういうわけか、聞かしてあげるけれど、その前に、どういう人がどんなことをいってくれたかを話しましょう。ヘルグシャイマーさんは、ご親切にも私を昼食会に招いて、モンターグ卿に会わせてくださるとおっしゃるのよ。卿は私の後援者になってくださるかも知れないというわけなの。この間は、ジェーン・ウィルキンソンに会ったのよ。彼女は私のショーを見に来たのよ。そして私の演じた彼女の真似を、とてもほめてくれたのよ。とにかく私のその模写が、これから私の話すことをもたらしたわけなの。実のところ、私はジェーンをあまり好かないのよ。なぜかというと、私の知っている人から最近聞いた話によると、あの人はとても残酷な仕打ちをし、それがとても陰険なやりかたなんですもの。でもここに、そんなことをくどくど書くのはよしましょう。あなたも知っているでしょう? 彼女は真実は、エッジウェア男爵夫人なのよ。私、男爵のこともいろいろと聞いているけれども、とにかく立派な男じゃないらしいわ。彼は自分の甥であるマーシュ大尉――前に手紙に書いたわね、を、とても恥ずべきほどひどい扱いをしたのよ――文字どおりに家からたたきだして、給与金もさしとめてしまったんですって。大尉は私にすっかり話したのよ。で、私とてもお気の毒に思っているのよ。彼は私の模写をとても楽しんでくれたの、そして彼は『エッジウェア男爵自身だって、かつがれてしまうと思いますね。どうです。あることで賭けをやってみる気はありませんか』といいました。それで私は笑いながら、『いくら賭けますか』といったのよ。ルーシー、その答えに私はまったく息がとまるほどたまげたわ。一万ドルだっていうのよ! 考えてごらんなさい、一万ドルよ! 誰かの馬鹿げた悪戯《いたずら》を、ちょっと手伝っただけでね。で、私いったわ、『ええ、大叛逆罪に問われる危険を冒して、バッキンガム宮殿においでになる国王に悪戯をするためにだって、私お芝居しますわ』と、そこで私たちは、額をあつめて細かい点を相談したの。
来週の手紙に、私が見破られたかどうか知らせるわ。だけれどね、ルーシー、私は成功しても失敗しても一万ドルは取れるのよ。すてきでしょう? この一万ドルが私たちにとって、何を意味するかっていうのよ! もう時間がないわ。これからその悪戯《いたずら》をしに出かけるところなのよ。可愛い、可愛い妹よ、さよなら。――あなたのカーロッタより。
ポワロはその手紙を下に置いた。私はその手紙が、彼を感動させたと見た。しかし、ジャップはまったく異なった反応を示した。
「われわれは、彼を射止めたですよね」と、うきうきした調子でいった。
「そうだね」と、ポワロはいった。その声は妙に、味気なくきこえた。
ジャップは、不思議そうに彼を見つめた。
「ポワロさん、どうしたんですか」
「何でもありません。私の考えたとおりではなかったが。それだけのことです」
ポワロは明らかに、不満な様子で、
「しかし、それにしてもそうあるべきです。さよう、そうでなければならないのです」と、自分にいいきかせるように呟《つぶや》いた。
「もちろん、そうですさ、なぜそんなことをいっているんですか」
「いや、いや、あなたは私を誤解しておいでなさる」
「あなたは、背後に何者かがいて、その者にあやつられてあの娘が無邪気にやったのだと、いったではなかったですか」
「はい、はい」
「では、これ以上、あなたは何を望まれるんですか」
ポワロは溜息をついただけで、何もいわなかった。
「あなたは奇妙な先生だねえ、何にも満足したためしがないんだからなあ。私にいわせれば、あの娘がこの手紙を書いたことは、ちょっとした幸運でしたよ」
ポワロは今までにない熱意を示して、それに同感した。
「これは、殺人者の予期していなかったことです。カーロッタ嬢が一万ドルの申し出を受けた時には、死の宣告に署名したのでした。殺人者は、あらゆる警戒をしたつもりでした……ところが、まったくの無邪気さから、彼女は彼の計画の裏をかいてしまいました。死人は語る、さよう、時によると死人は語ります」
「私はもう最初から、彼女が自力でやったとは思わんでしたなあ」と、ジャップはあつかましいことをいった。
「そうです、そうです」
ポワロは、ぼんやりした様子でいった。
「さて、私はこれからことを運ばにゃならん」
「あなたはマーシュ大尉、つまりエッジウェア男爵を逮捕するつもりですか?」
「なぜいけないのですか、事情が彼に不利なことは、徹底的に立証されているではないですか」
「まことにね」
「ポワロさんはこの件について、ひどく気を落しておられるようですな。実際は、あなたという人は、何でも面倒になるのが好きなんですなあ。こうして自分の仮説が立証されたのに、あなたは満足せん、われわれの掴んだ証拠に、どこか欠陥でも見えるというのですかね」
ポワロは首をふった。
「あの令嬢が従犯者かどうかは、私にはわからん、オペラから彼といっしょに家へ行ったのだから、承知していたにちがいないと思われる。彼女が知らなかったとしたら、なにゆえに彼は従妹をつれて行ったかというんだ。とにかく、あの二人が何というか聞くとしよう」
「私も立ち会わせて、いただけましょうか」
ポワロはいかにも、へりくだった調子でいった。
「いいですとも、ここに考えいたったのも、あなたのおかげですからなあ」
ジャップは、テーブルの上の電報を取りあげた。
私はポワロを傍へひっぱって、
「ポワロさん、どうしたっていうんですか」と、尋ねた。
「私は大そうみじめな気持ちなのです。これはとんとん拍子に、都合よく運んでおりますし、まことにはっきりしているように思われるのですが、何かしっくりしないところがあるのです。ヘイスティングス君、どこかで、何かある事実が、見落されている気がするのですよ。すべてがぴったりと合い、私が想像したとおりになっているのですが、それにもかかわらず、何か面白くないのです」
彼は悲しげに私を見守った。
私は何といっていいのか、途方に暮れた。
私はあなたを信じます
私は、ポワロの態度を理解するのは、むずかしいことを知った。一体彼は、はじめから何を予知していたのであろうか?
リージェント・ゲート街へ行く途中、ずっとポワロは、ひどく思い悩んでいるふうで眉をひそめていて、ジャップがひとり悦にいっているのに、少しも注意を払わなかった。
ついに彼は、溜息とともにわれに返って、
「とにもかくにも、新男爵が何をいおうとするか、私どもにわかりますね」とつぶやいた。
「利口だったら、何もいわんでしょうな。あまり熱心に陳述したために、自分を絞首台へ送った人間がいくらもあるですからなあ。ところで、われわれが彼らに警告を与えなかったとは、誰にもいわせんですよ、公明正大にやるんですからなあ。罪があればあるほど、うまく辻褄を合わせようとして、よけいつべこべ喋るものでねえ。彼らは常に、自分の嘘を第一に弁護士に提出すべきだということを知らんのですよ」
と、ジャップは溜息をついて、再び言葉をつづけた。
「弁護士だの検死官だのっていう奴は、警察の強敵ですよ。一目瞭然としている事件を、あの連中にこねくりまわされて、何度罪人を逃がされてしまったか知れん。弁護士連には、あまり文句をつけるわけにいかんと思いますよ。あの連中は、あっちをひん曲げ、こっちをねじくって、小細工する手数料を支払ってもらっておるんですからね」
リージェント・ゲート街に着いてみると、われわれの獲物は在宅であった。家族の者たちは、まだ昼飯の食卓を囲んでいた。ジャップ警部は男爵と内密に話したいと申し出た。われわれは書斎に通された。
間もなく、若い男爵がわれわれのところへ来た。彼の顔には、気易い微笑が漂っていたが、われわれをさっと見まわすと、ちょっと表情を変えた。唇は一文字に閉じられた。
「警部さん、きょうはお揃いで一体どうしたっていうんですか」
ジャップは形式ばって、来意を述べた。
「そういうわけですか」といって新男爵は椅子をひき寄せて、腰をおろし煙草入れを取りだした。
「僕は、ある陳述をしようと思うんです」
「どうぞ」
「僕としては、まったくばかばかしいことなんですがね、かまわないから話しますよ。小説の主人公がよくいうように……真実を恐れる理由は何もないから」
ジャップは何もいわなかった。彼の顔は依然として、無表情であった。
「そこに手頃な椅子とテーブルがあるから、君のお気に入りの者が腰かけて、僕の陳述を速記したらいい」と青年はいった。
おそらくジャップ警部は、これまで自分の計画したことが、こんなに思いやり深く取り運ばれた経験はなかったであろう。エッジウェア新男爵の提案は、取りあげられた。
「まず第一に、僕はちょっとした情報を得たので、僕の立派なアリバイが見事にくつがえされたのではないかと、強く疑う筋があるということです。頼みとするドルサイマー家は煙と消え失せて退場、代ってタクシーの運転手登場というわけなんですね」
「あの夜のあなたの行動は、全部知れておるです」
「僕はね、警視庁には、大いに敬服しているんですがね。それにしても、僕がほんとうに殺人を計画していたんだったら、タクシーを雇って現場へ乗りつけたり、その運転手を待たせておくなんていうことはしませんよ。あなたはそう考えませんでしたか? ああ、なるほど! ポワロさんはそう考えたんですね」
「はい、私もその点を考えました」とポワロはいった。
「計画的犯罪だったら、そんな真似はしませんよ。赤毛のつけ髭をして、鼈甲《べっこう》ぶちの眼鏡でもかけて、次の街までタクシーで行き、運転手を返してしまい、地下鉄に乗っていくとか、何とかうまくやりますよ……僕はこんなことくだくだいうのはよしましょう。五六千ポンドも料金を払えば、弁護人が、僕よりもずっとうまく、そこのところを述べてくれますからね。もちろん、僕にはあなた方の答えがわかっていますよ。犯罪は突発的なものだったというんでしょう、僕が車のなかに待っていて、それから、これこれしかじか、そのうちに……さあ、今行ってやれ……と考えた、なんていうんでしょう。
さて、僕は真相を語りますよ。僕はひどい金詰りに陥ったんです。こんなことは、あなた方には明白な事実でしょう。まったく絶望的だったんで、翌日までに金策ができなければ、破滅という有様。僕は伯父に頼んでみたんです。伯父が僕を愛していないのは判っていましたが、家名を考えるだろうと思ったからです。旧弊な人間は時によると家名のためには、金を惜しまないものなんだが、伯父は、皮肉で冷淡な点では、嘆かわしいほど現代的だったんです。僕は試しに、ドルサイマー氏に借金を申し込んでみようかと思ったんですが、見込みのないのは知れていたし、といって、彼の娘と結婚するなんてことは僕にはできない、それに彼女は僕を受け入れるには、あまり神経質すぎるんでね。ところで僕は、偶然にオペラで従妹に会ったんです。僕はめったに、彼女に会うことはないんですが、伯父の家に一緒に住んでいたころ、いつも優しくしてくれたんです。で、僕はつい、自分の困っていることをすっかり話してしまったんです。どうせ父親からいくらかは聞いているだろうと思って。すると従妹は気前よく真珠を用立てようと申し出たんです。それは母親からゆずられたものなんです」
若き男爵は言葉を切った。私は彼の声には、真実の感情がこもっているように思った。それとも私には信じられないほど、彼は巧妙にやったのかも知れない。
「で、僕はありがたい彼女の贈物を受けたんです。その真珠で必要な金を作ることができるし、僕は、うまくいったらそれを買いもどすからと誓ったのです。しかし、真珠はリージェント・ゲート街の家にあったので、二人で話し合ったあげく、一番いい方法はすぐに家へ行って、取ってくることにかぎるというわけで、タクシーに飛び乗って行ったんです。
われわれはタクシーを乗り着けて、家の者が音を聞きつけるといけないと思って、道路の向こう側に停車させました。ジェラルディンは下車して、往来を横切って行きました。彼女は玄関の合鍵を持っていたので、そっと家へ入って行って、真珠を持って来て僕に渡してくれることになっていたんです。彼女はもしかすると、召使いに会うかも知れないが、ほかの家人には誰にも会うことがないと思っていたのです。伯父の秘書のキャロル嬢は、いつも九時半には寝床へ入ってしまうのが常ですし、もしかすると、伯父は書斎にこもっているかも知れないということだったんです。
それで従妹は家へ入って行ってしまい、僕は歩道に立って煙草をすっていました。そしてときどき、彼女が出て来ないかと、家のほうを見ていたんです。さて、これから話すことは、あなた方はきっと信じないかも知れんですが、一人の男が僕のわきを通り過ぎて行ったので、見ていると驚いたことには、その男は十七番の家の石段をのぼって行くのでした。そして家の中へ入って行きました。僕はその時、十七番と思いこんでいたんですが、遠くから見ていたんだから何ともいえんですがね。で、その事実が二つの理由で、僕を驚かせたのです。第一は、その男が鍵を用いて家へ入って行ったこと、第二は、その男が有名な俳優に似ていると思ったことです。
僕はあまり驚いたので、その事実を確かめようという気になったんです。ちょうど僕は十七番の家の合鍵を、ポケットに持ち合せていたんです。それは三年前に紛失したと思っていたのが、思いがけなく、二三日前に出てきたので、その朝伯父に返すつもりでいたんです。しかし、二人で激しくいい争ったりして、すっかり忘れてしまっていたんですが、着替えをした時に、ポケットのなかのものを入れ替えたんで、その時持ち合せていたんです。
僕は運転手に待っているようにいって、急いで往来を横切り、十七番の石段をのぼって、合鍵で玄関の扉を開けました。玄関には誰もいませんでした。さっきの訪問者が、たったいま家へ入った形跡がどこにもなかったので、僕はちょっと立ちどまって、周囲を見まわしました。それから書斎のほうへ近づきました。さっきの男は、伯父のところへ行っているのかも知れないと思ったのです、もしそうなら、話し声がするはずだのに、書斎の扉の前へ行っても、何も聞こえないのでした。
僕はそのとき急に、自分がとんでもない、馬鹿な真似をしていることに気づいたのです。リージェント・ゲート街は、夜は薄暗いので、男は十七番ではなく、その先の家に入ったのかも知れないのに、僕は何というばかなことをしたんだろうと思ったんです。何だってそんな奴の後をつける気になったのか、自分でもわからないんです、もし伯父が不意に書斎から出てきて、僕を見つけたら、僕はずいぶん間の悪い思いをしなければならない。それにジェラルディンにも迷惑をかけるだろうし、第一、せっかくの計画が形なしになってしまう。とにかく男の様子が、何か人に見られたくないことをしているという印象を僕に与えたのです。幸い誰にも見つからなかったし、できるだけ早く外へ出なければならない。
というわけで、忍び足で玄関の戸口まで行ったところへ、ジェラルディンが真珠の首飾りを持って、階段をおりて来たんです。
彼女は僕を見てびっくりしました。僕は彼女を家から連れだして、説明しました。
僕らは急いで劇場へもどり、ちょうど幕のあがるところへ着いたのです。暑い晩だったので、数人の客が涼みに外へ出ていました。
あなた方が、何というか僕は知っていますよ。なぜそれをすぐに語らなかったかと、いうんでしょう。では、僕があなた方にいいますがね。自分の目の前に殺人の動機がぶらさがっているのに、問題の夜、殺人のあった現場に自分が実際に行ったということを、そんなに気軽にしゃべることができますかっていうんですよ。
正直なところ僕は、おじけづいたんですよ! たとえ、僕らのいうことを信じてもらえたとしても、僕にもジェラルディンにも、いろいろと面倒が起こると心配したんです。僕らは殺人とは何の関係もないし、僕らは何も見なかったし、何も聞かなかった。僕は確かにジェーンがやったと思っていたんです。だから何も自分が巻きこまれることはない、僕は伯父との口論や、金に困っていることを話しましたね、それは、どうせあなた方が嗅ぎだしてしまうにきまっているし、隠せば隠すほど、疑いを深め、僕のアリバイを、きっと詳しく調査するだろうと思ったからです。ドルサイマー家の人々は僕がずっと劇場にいたと本気に思いこんでいたんです。幕合いの三十分間を、従妹と過ごしたことに対して、あの連中は何の疑いも持ちませんでした。それからまた従妹は、私とずっと一緒にいて、私が一度も劇場を出なかったと、証言するにきまっていましたしね」
「ジェラルディン嬢は、それを秘しておくことに同意したですか」
「そうです、ニュースが入るとすぐに、僕は従妹に前夜の小旅行のことは、絶対に秘密にしておくように警告したんです。劇場で最後の幕合いには、ずっと僕と一緒だったこと、二人で少し往来を散歩しただけということに打ち合せてあったんで、彼女はそれを承知したんです。
後になってこんな陳述するのは、立場が悪いということは、わかっています。しかし、僕がいま語ったことは真実です。僕はジェラルディンの真珠を、今朝現金に替えた男の住所氏名を、話すこともできます。ジェラルディンに尋ねてみれば、僕のいったことを一言のこらず裏書きするでしょう」
若い男爵は、椅子によりかかって、ジャップ警部を見守った。
警部は相変らず無表情な顔をしていた。
「男爵は、ジェーン・ウィルキンソンが殺人を犯したと思ったと、いわれるんですか」
「警部君だって、そう思ったんじゃないですか、執事の陳述があった後は」
「カーロッタ嬢と、あなたの賭けは、何だったんですか」
「カーロッタ嬢との賭けですって? それはどういう意味なんです。カーロッタが賭けでどうしたっていうんですか」
「あなたは、あの夜、カーロッタにジェーンの模写をやらせて、一万ドルの金を与えると申し出たことを否定はしませんでしょうな」
「一万ドルを申し出たって? 馬鹿なことを! 誰かが彼女をからかったんだ。僕は一万ドルなんて出す金は持っていない。あなたは、つまらぬ大発見をしたもんだ。彼女がそんなことをいったんですか? あっ、そうか! 僕は忘れていた、彼女は死んだんでしたね」
「さよう、彼女は死にました」と、ポワロは静かにいった。若い男爵は、われわれ一人一人に眼を移した。彼は前には陽気であったが、今は顔は青ざめ、おびえた眼つきをしていた。
「僕には何のことだか理解ができない。僕がいま話したことは真実なんです。あなた方は僕を信用しないんでしょうね、誰一人として」と、男爵はいった。すると、驚いたことには、ポワロが、一歩前へ進み出て、
「私は、あなたを信じます」といった。
私どもは、間違っておりました
ポワロと私は、自分たちの部屋にいた。
「一体全体……」と私がいいかけると、ポワロは、未だかつて見たこともないほど大げさな身ぶりをして、私をだまらせてしまった。彼は両腕を空気のなかで、泳ぐようにふりまわして、
「頼むから、ヘイスティングス君、今はよしてくれたまえ! 今はいけない、今はいけない」といった。そして、まるで順序だの方式だのという言葉を聞いたことのない人みたいに、帽子をつかんで頭に乗せるなり、大あわてで、部屋を飛びだして行ってしまった。それから一時間ほど経って、ジャップ警部が訪ねて来た時には、まだ帰っていなかった。
「小さなパパはお出かけかね」と、彼は尋ねた。私はうなずいた。
ジャップは椅子に腰をおろすと、ハンケチをだして、額《ひたい》を拭いた。暑い日であった。
「全体どうしたっていうんですかなあ。あの人が前へ出て……私はあなたを信じます……といった時には、私は鳥の羽根でおされても、ひっくり返るほどたまげたですよ。まるでロマンチックな通俗劇に出て、芝居でもしているようなふうだったですね、ヘイスティングス大尉、私ゃまいったですよ」
私もまいってしまったので、そういった。
「そして、さっさと出て行ってしまったんですからなあ。あれについて、何とかいっていたですか」
「何もいいませんでした」と私は答えた。
「一つもいわんでしたか」
「全然、何もいいませんでした。僕が何かいおうとすると、手をふって払いのけてしまうし、ここへ帰って来て、質問をしかけると、腕をふりまわして僕を黙らせてしまい、帽子をつかむなり、またどこかへ飛びだしていったんです」
われわれは、顔を見合せた。ジャップは意味深長に、額をたたいて、
「に、ちがいない」といった。
私もついに、同意せざるを得なかった。ジャップは、前にもしばしばポワロのことを少し気が変だといった。それはいつもポワロが何を志しているのか、ジャップに理解できない場合である。ここで私はポワロの態度を自分が理解できないことを白状しなければならない、もし気が触れていないとすれば、少なくもポワロは恐ろしく移り気なのにちがいない。自身のたてた仮説が、こうして見事に確証されたとたんに、その説を棄ててしまうとは!
どんな熱心な彼の支持者でも、これにはびっくり仰天させられるにきまっている。私はがっかりして、頭をふった。ジャップは言葉をつづけた。
「私はいつも、あの人を変っているといっておったですよ。物事をあの人独自の角度から見る癖がある……それがまた、奇妙なんだ。あの人は一種の天才だっていうことは、私も認めるがね、それより世間でいうでしょう、天才と狂人とは紙一重だと……。あの人はむかしから物事を難解にするのが好きでしたよ。一目瞭然たる事件なんてのはあの人の性《しょう》にあわんのだ。曲りくねったやつでなくては、いかんのさ。あの人は実社会から引退してしまって、自分の好きなゲームをしているんですよ。老婦人がカードの独り遊びをして楽しんでいるようなものだ。うまくいかなければ、ちょっとごまかしをやるという訳でね。ただし彼のはその反対で、あまりやすやすとうまくいくと、ちょっとごまかしてむずかしくしてしまうんだ。私はそんなふうに見ておるですよ」
陰気な沈黙の最中に、ポワロがさっそうと部屋へ入って来た。彼はすっかり落ち着いていたので、私はほっとした。
彼は非常に注意深く帽子をぬいで、ステッキとともにテーブルの上に置いた。それからいつもの椅子に腰かけた。
「ジャップさん、よくおいでくだすった。私はできるだけ早く、あなたに会いたいと思っていたところですよ」
ジャップは答えないで、彼を見守っていた。彼はそれがほんの序の口だと知っていたので、ポワロが説明をするのを待っていた。
ポワロは、ゆっくりと、注意深く説明し始めた。
「ジャップさんよ。お聞きなされ! 私どもは間違っておりました。すっかり間違っておりました。それを認めるのは心苦しいことでございますが、私どもは誤りをいたしました」
「いいですよ」と、ジャップは大胆にいった。
「けれどもよくはないのです。悲しいことです、私は心から悲しんでおります」
「何もあの若い男のために、悲しむことはないですよ。彼は当然に受くべき報いを、受けるんですからなあ」
「私が悲しむのは、あの若者のためでなく、ジャップさん、あなたのためですよ」
「私ですって? いや、私のことなんざあ、案じることはないですよ」
「けれども私は悲しいのです。このコースをあなたに取らせたのは、誰だと思います? 私です。このエルキュール・ポワロです。私があなたに、この追跡をさせたのです。カーロッタ嬢にあなたの注意を向けさせたのは、私です。アメリカへだした手紙のことを、あなたに知らせたのは私です。この道へのあらゆる段階をあなたにさし示したのは私でした」
「どうせ私は、ここまで辿り着いたですよ。ただ、あなたが、ちっとばかり私より先だったばかりのこってすよ」とジャップは冷やかにいった。
「さようかも知れませんです。しかしそれでは、私は慰められません。もしもあなたが、私の、ちょっとした思いつきに耳をかしたために、あなたの威信を傷つけるようなことになりましたらば、私は自分を激しく責めなければなりません」
ジャップは、単に面白がっているだけのようであった。彼はポワロが不純な動機から、そんなことをいっていると取ったらしかった。彼はこの事件の上首尾な解決が、自分にもたらす名声に対する不平を、ポワロが述べていると思ったのだ。
「大丈夫ですよ、この仕事で、あなたに負うところがあったことを、世間に知らせるのを忘れるようなことはしないですからね」といって、彼は私にむかって、眼くばせをした。ポワロは、じれったそうに舌打ちをしていった。
「ああ! そんなことではないのです。私は名声などほしくございません。それどころかはっきり申しますとね、ジャップさん、あなたは失敗を覚悟なさらなければなりません、しかもそれはこのポワロのせいなのです」
ジャップは、ポワロのひどくしょげ返った顔を見て、急に声をあげて大笑いした。ポワロは無念やる方なしという顔をした。
「ポワロさん、かんべんして下さいよ。あなたがまるで雷雨にあって死にかかっている家鴨《あひる》みたいな顔をしているんで、つい笑ってしまって……さあ、もうそんなことは全部忘れてしまいましょうぜ。私は名声でも罵倒でもよろこんで受けますさ。私はあなたを重要人物にしますよ。こすからい弁護人が、男爵を無罪にしてしまうかも知れんですよ。陪審員どもは、実に当てにならんですからね。だがそうなったとしたって、私には何の責めもかからんです。たとえ犯人を服罪させることができんとしても、世間では、われわれが真犯人を捕えたことは知るですからね。あるいはまた、何かの拍子に、第三の女中か何かがヒステリーを起こして、自分がやったのだといいだしたところで、私は自分の苦い薬をのんで、あなたが私を迷路へ連れこんだことになんざあ、文句をつけんですよ。これなら、充分に公平でしょうぜ」
ポワロは彼を優しく、悲しげに見つめた。
「あなたは自信をお持ちですね、常に自信を! あなたは決して立ちどまって、これでいいのかと自らに問うことをなさらぬ。決して疑ったことも、訝《いぶか》ったこともおありなさらぬ。あなたは決して、これはあまり容易すぎると、お考えになったこともない!」
「そうですさ、私は断じてそんなことはせんですよ。私もいわせてもらいますがね、あなたがいつも軌道をはずされるのは、そこなんですぜ。なぜに物事が、やさしくてはいかんのですか? やさしいからって何が悪いのですかね」
ポワロは彼の顔を見て溜息をつき、両腕を半ばあげて首をふった。
「これで終了! もうなにもいいません」
「ありがたい! では、実際問題に入るとしましょう。私が何をしていたか、聞かせましょうかね」
「どうぞ!」
「さてと、私は令嬢ジェラルディンに会ったですがね、その語るところは、男爵とぴったり一致しておったです。あの二人は共謀だったかも知れんですが、私はそうは思わんです。私の意見では、彼が彼女を威嚇したんですな。とにかくあの令嬢は、十中八九まで彼氏にほれこんでいるですな。彼が逮捕されたと知って、すごく騒ぎ立てたですよ」
「秘書のキャロル嬢はどうしましたか」
「たいして驚かんようでしたな。もっとも、これは私の考えにすぎんですがね」
「真珠の件はどうでした。あの話はほんとうでしたか」と私は尋ねた。
「絶対でしたよ。彼は翌朝、真珠の首飾りで金策をしたです。だがそんなことは、本筋には関係ないですよ。思うに、オペラ座で従妹に会った時に、計画を頭に浮かべたんですな。絶望していたところに……ここにのがれ道あり……と頭にひらめいたんですな。彼は何かそうしたことを考えておったんです。だから合鍵を持っておったんです。私は偶然に持ち合せていたという話は、信じませんよ。で、彼は、従妹と話をしているうちに、彼女を巻きこめば、自分の安全を強化することができると考えたんですさ。彼は彼女の感情にうったえ、真珠のことをほのめかし、彼女はそれに乗って、二人は出かけて行った。彼女が家のなかへ入るやいなや、彼は後からついていって書斎へ入った。おそらく老男爵は、椅子でうたた寝をしておったでしょう。とにかく彼は一二秒で仕事をやって、書斎を出て来た。彼は家のなかで、従妹にぶつかるとは予期しなかったであろう。彼はタクシーのそばを、往ったり来たりしているところを、従妹に見られる予定だった。また彼は運転手にも、娘が家から出てくるのを待つ間、煙草をすいながら往ったり来たりしていたと思わせておくつもりだったらしい。
もちろん彼は依然として、金に困っていると見せかけなければならんので、真珠を抵当にする必要があった。それから犯行のことを耳にすると、従妹を嚇して、二人で男爵邸を訪ねたことを極秘にさせた。二人はあくまでも、幕合いを劇場で過ごしたということにしたっていうわけですな、まったく単純なアリバイですよ」
「では、なぜ二人はそうしなかったのですか」と、ポワロは鋭く尋ねた。
ジャップは、肩をすくめた。
「気を変えたんでしょうな。あるいは彼女がかくしおおせないと思ったんでしょう。あの令嬢は神経過敏ですからな」
「そうです、神経質なお嬢様です」と、ポワロは瞑想に耽っている様子でいった。
そして一二秒してから、言葉をつづけた。
「マーシュ大尉にとって、幕間に単独で劇場を出たほうが、もっと単純でもっとやさしかったろうということを、ジャップさんは考えませんでしたか。タクシーを外に待たせておいたり、いつ何時、気が転倒して相手を裏切るようなことをするか知れないような、神経質なお嬢さんを同伴したりしないで、一人で行って合鍵で家へ入り、老男爵を殺して、そっと帰って来てしまうほうが、ずっとよろしいのではないでしょうか」
ジャップはにやにや笑った。
「あなたや私なら、そうしたでしょうさ。われわれのほうが、マーシュ大尉より頭がいいですからなあ」
「私はそうとはいいきれないと思います。私には大尉は、利口な人物に思われます」
「しかし、ポワロさんほど、利口ではないですよ! どうです、そいつは確かでしょう」といって、ジャップは笑った。ポワロは彼を冷やかに見つめた。ジャップはなおも語りつづけた。
「もし大尉が無罪なら、なぜにカーロッタ嬢にあんな芸当をやらせたんでしょうかな。あの芸当には、ただ一つより理由はない、つまり実の犯人をかばうため」
「そこのところは、私もまったくジャップさんと同感です」
「どこかに共通点があるのは、よろこばしいことですなあ」
「カーロッタ嬢に話したのは、ほんとうに大尉だったかも知れませんね。一方、実は……いや、それはあまりに馬鹿げている……」とつぶやいていたポワロは、急にジャップに向かって質問の矢を放った。
「カーロッタ嬢の死に対する、あなたの仮説はどういうのですか」
ジャップは、咳払いをした。
「私の考えは、過失死に傾いておるですな。うってつけの過失というところですかな。大尉が関係したとは思わんです。オペラがはねてから後の、彼のアリバイは間違いないものです。彼は料理店で一時過ぎまで、ドルサイマー家の人々と一緒におったです。カーロッタはずっと前に、寝床に入って眠っていたですし、こりゃ確かに犯罪者がよくつかむいまいましい幸運だったにちがいない。もしあの過失死が起こらなかったら、彼は彼女に関する計画を持っておったと思うですね、第一に彼は、彼女に神をおそれさせ、真実を告白するなら、殺人者として逮捕されるといい聞かせ、その上でさらに、多額の金で話をつけたと思われるですな」
ポワロは、彼の顔をまっすぐに見つめながら、
「あなたは、カーロッタ嬢が、その重要な証言をしないために、ほかの婦人が罪もないのに、絞首台に送られるのを、黙って見ていると思いますか」と詰問した。
「ジェーンは絞首刑になんか、ならんですよ。モンターグ卿のパーティに出席した人たちの証言は、強力なものですからな」
「しかし殺人者は、それを知らなかったかもしれません。彼はジェーンが死刑になり、カーロッタは沈黙を守るということを計算に入れていたかも知れません」
「ポワロさんは、話好きなんですね、あなたは絶対に、マーシュ大尉は悪いことなんか何もしない潔白な男だと確信しておられるんですか? あなたは、男がこそこそと十七番の家へ忍びこむのを見たという、彼の話を信じるんですか」
ポワロは、肩をすくめた。
「あなたは、彼がその男を誰だと思ったといったか知っておられるですか」
「想像がつくと思います、たぶんね」
「彼は映画俳優のブライアンだと、思ったといったんですぜ。エッジウェア老男爵に一面識もない男ですがね、ポワロさんは、それをどう考えられます」
「そういう人が、合鍵を使って家へ入って行くのを見たら、誰でも不思議に思うでしょうね」とポワロはいった。
ジャップは、軽蔑を表わすように、激しく舌打ちをした。
「あの晩、ブライアン氏がロンドンにいなかったと聞いたら、あなたは、びっくりされるでしょうな。彼は若い女性をモルシーへ食事に連れて行って、真夜中までロンドンへは帰らなかったです」
「そうきいても、私は驚きません。その女性はやはり同じ職業の方ですか」
「いや、帽子店をやっておる女ですよ。事実、それはカーロッタ嬢の友人のドライバー女史です。あなたも彼女の証言が嫌疑を除外したことに、同意されるでしょう」
「私はそのことで争論しているのではありません」
「事実、あなたはよく承知している癖に! ありゃあ、その場ででっちあげた作り話で、誰も十七番にも、その両隣の家へも入った者なんか、なかったんでさあ。それだけでも、男爵閣下は嘘つきだってことがわかるですよ」といって、ジャップは笑った。
ポワロは、悲しげに頭をふった。
ジャップは立ち上がった。彼はすっかり元気を取りもどしていた。
「いいですか、われわれは正しいと。わかったですね」
「十一月に、巴里《パリ》にいたDは誰ですか」
ジャップは肩をすくめた。
「きっと大昔の物語でしょうな。六か月前にこの犯罪とは無関係に、若い女性が記念品をもらうわけにはいかんものですかねえ。われわれは物事の軽重をみる必要がありますな」
「六か月前と……」とつぶやいているうちに、突然ポワロの眼に光があらわれた。
「ああ、わが愚かしさよ!」
「ポワロさんは、何をいっておられるんですか」と、ジャップは私に尋ねた。
ポワロは立ちあがって、ジャップ警部の胸を手のひらでたたきながらいった。
「お聞きなさい! どうしてカーロッタ嬢の女中は、あの函に見覚えがなかったのでしょうか? どうしてドライバー女史は、あれに見覚えがなかったのでしょうか?」
「それはどういう意味ですかい」
「なぜかというと、あの黄金の小函は新しいものだったからです。カーロッタは貰ったばかりだったのです。巴里《パリ》にて十一月……それは結構です……疑いもなくそれはあの小函が、記念品として贈られた時なのです。けれども、それがカーロッタ嬢に渡されたのは、最近だったのです。ごく最近に買われたばかりなのです。ジャップさん、どうかそれを調べてください。それが一つのチャンスになるのです。こちらで買ったものでなく、外国で買ったものです。たぶん巴里でしょう、もし英国で買ったものだったら、宝石商が申し出たはずです。写真が各新聞に掲載されたのですからね。そうです。きっと巴里です。どこかほかの外国の町かも知れませんが、私は巴里だと思います。お願いですから、ぜひ調査してください。私はこの謎のDなる人物が誰だか、どうしても知りたいのです」とポワロは熱心にいった。
「別に害にはならんし、私自身そんなものにはあまり大騒ぎせんのだが、できるだけのことをやってみましょうぜ。多く知れば知るほどいいんだから」ジャップはわれわれにむかって、陽気にうなずいて帰って行った。
破られていた手紙の一頁
「さあ、昼食をしに行きましょう」と、ポワロは、私の腕に手をかけ、微笑しながら、
「私には希望があるんですよ」と説明した。
私はマーシュ大尉の有罪には、少しも納得がいかなかったが、ポワロが日ごろの元気を取りもどしたのを見てうれしく思った。私はポワロもジャップの議論におされて、ついに同じ意見を抱くようになったのだと、想像した。黄金の小函を買った人物を、捜しだすというのは、単に面目を保つ上の口実にすぎないのだろうと思った。
われわれは、上機嫌で昼食をともにした。
ちょっと私に、面白く思われたのは、向こうの隅のテーブルで、ブライアンとドライバー女史が食事をしているのを見つけたことであった。ジャップの話したことを思い合せて、私はロマンスがあるなと感づいた。
二人もわれわれに気がつき、ドライバー女史は手をふって挨拶を送った。
われわれが食後のコーヒーを飲んでいる時、女史は連れを残して、われわれの食卓へやって来た。彼女は相変らず、きびきびとして精力的であった。
「ポワロさん、私ここへかけて、お話してもよろしくって?」
「どうぞ! どうぞ! お目にかかって嬉しいかぎりでございます。ブライアンさんも、おいでいただけませんでしょうか」
「来ないようにいったんですの。私カーロッタのことをお話したいんで」
「さようでございますか」
「あなたは、カーロッタの男友達のリストがほしいといいなすったわね、そうでしたでしょう?」
「さようでございますとも」
「私、さんざん考えて、考えぬいたんですのよ。時によると、なかなかおいそれと物事をまとめられないものね。はっきりと前のことを思いだすには、その時にはたいして気にもとめなかったような、ちょっとした言葉や文句をいろいろと思いださなければなりませんのね。で、カーロッタのいったことを、あれこれと考えては思いだしていくうちに、ようやくある結論に達したんですの」
「なるほど」
「私ね、あの人が好きになりかけた男性は、マーシュ大尉だったと思うんですけれど。ほら今度男爵をついだ人」
「どういうわけでマーシュ大尉だったと、お考えになるのでございますか」
「それはこうなんです。ある時、カーロッタは、一般的なことみたいにして話していたんですが、不運な男のこと、そういう不幸《ふしあわせ》が、性格にどんな影響を及ぼすかということ、たとえ根が立派な性格の男でも、転落していくこともある。一つの罪が次の罪を産むという工合に、というようなことを話したことがあるんですのよ。女というものは男に惚れると、まず、自分をごまかし始めるものだって、よく年寄りたちがいうのを聞いたんですけどね! カーロッタは結構分別があるくせに、まるで世のなかのことは何も知らない大馬鹿みたいに、こんなことを喋るんですもの、私は、おや、こりゃ何かあるぞ! と感づいたんです。あの人は名はいわなかったんです。ただ一般の人のことみたいに、話してたんですのよ。けれども、そのすぐ後で、マーシュ大尉のことを話して、ひどく不都合な待遇を受けていると思うといったんですのよ。あの人はひどく無雑作に話していましたわ。その時には、私は二つのことを結びつけようともしなかったんですが、今にして思えば、マーシュ大尉のことをいっていたんですわね。ポワロさんは、どう思いなさる?」
彼女は熱心に、ポワロの顔を見あげた。
「マドモワゼル、あなたは大そう価値のある情報を、与えてくださったとぞんじます」
「よかった!」
ポワロは親しみ深く、彼女の顔を見守った。
「たぶん、あなたはお聞き及びとぞんじますが、あなたが今お話しになりましたマーシュ大尉……つまりエッジウェア男爵は、逮捕されましたのでございます」
彼女は驚いて、ぽっかり口をあいていた。
「まア……じゃ、私のちょっとばかり考えたことが、少々おそすぎましたのね」
「遅すぎるということは、決してございません。おわかりでございましょう、私にとりましては、何事も遅すぎることはございません。まことにありがとうぞんじました」
彼女はブライアンのところへ、もどって行った。
「ポワロさん、たしかにこれは、あなたの確信を動揺させましたね」と私はいった。
「いいえ、ヘイスティングス君、それどころか確信を強めましたよ」
その元気のいい主張にもかかわらず、私は彼がひそかに、ぐらつき始めているのだと思った。
その後数日間というもの、彼は一度もエッジウェア男爵事件には触れなかった。私がその事件について何か話しだしても、少しも興味を示さず、はかばかしい返事もしなかった。言葉をかえていうと、彼はこの事件からすっかり、手を引いてしまった形であった。彼の空想的な頭脳のなかに、どんな考えが漂っていたとしても、今はそれが具体化していないことおよび彼の最初の判断が正しいもので、マーシュ大尉は当然罪を問われているのだという事実を肯定せざるを得ないのであった。ただ、ポワロであるがゆえに、こうした事情を公然と認めるわけにいかないのである。それで彼は興味を失ったふりをしているのだ。
これが、ポワロの態度に対する私の解釈であった。彼は裁判所の起訴手続きに対して、全然興味を持たなかった。もっともこれは、純然たる形式的なものに過ぎなかったが。彼はほかのことに忙しがっていて、この問題が出ても一向に関心を持とうとしなかった。
それは朝食の時であった。ポワロは例によって器用な手つきで山積した手紙の仕分けをしていた。すると突然彼は喜びの叫びをあげて、アメリカの切手の貼ってある封書を取りあげた。
彼は小さな紙切りナイフで開封した。彼があまりうれしそうにしているので、私は興味をもって見守っていた。そのなかには、手紙とかなり部厚なものが同封してあった。
ポワロは手紙を二回も読み返して、私のほうを見あげた。
「ヘイスティングス君、これを見たいでしょうね」
私はその手紙を受け取った。それには次のように書いてあった。
ポワロ様
あなたの大そうご親切なお手紙に私は心をうたれました。何もかもが私には腑に落ちないことばかり感じられます。私のたえがたい悲嘆は別としまして、私の最愛の世にも優しい姉カーロッタについてほのめかされておりますことが、みんな私には侮辱に感じられるのです。ポワロ様、姉は麻薬など常用いたしませんでした。それは確かなことです。姉はそういうものに対して、恐怖を抱いておりました、そのことをよく姉が口にしたのを私は聞きました。もし姉がお気の毒な方の死に、一役を演じたとしましてもそれはまったく無邪気なものだったと思います。姉から私のところへ来た手紙が、それを立証しています。あなたのお指図に従って、姉の手紙をそのまま同封いたします。姉の書いた手紙を、手放すのは嫌ですけれども、あなたはきっと気をつけて扱いになり、私のところへ送り返してくださることと思いますし、それにあなたのおっしゃるように、姉の死の謎を解く助けになるのでしたら、お送りすべきだとぞんじます。
姉が手紙のなかに特に書いたお友達は、なかったかとのお問い合せですが、もちろん姉はたくさんの方のことを書いてよこしました。でも特別な話というようなことは、ありませんでした。私どものずっと前からのお知り合いだったブライアンさんに、ジェニイ・ドライバーさん、それからマーシュ大尉と、この三人の方には一番多くお会いしていたようです。
何かもっとお役に立つようなことを、考えつくといいと思います。あなたはとても、ご親切な手紙をお書きくださいましたし、とてもよく私の気持ちを理解して、カーロッタと私とがお互いにどんな仲であったかを、よくお察しくだすっていらっしゃるのをありがたくぞんじます。
感謝をもって
ルーシー・アダムズ
二伸
警官がたった今、手紙を借りに見えましたから、もうポワロ様へ、お送りしてしまったと申しました。もちろん、これはほんとうではありませんが、何だかあなたに最初にお目にかけることが、大切だという気がいたしますので。ロンドン警視庁で、殺人犯人に対する証拠物件として必要らしいのです。あなたがあちらへ、お届けくださいますでしょうね。でもどうぞ、必ず、お取り戻しになるようにご配慮ください、カーロッタから私への最後の手紙なのですから、お願いいたします。
「あなたは手紙を、おだしになったんですね。どういうわけで、そんなことをなすったんですか。なぜカーロッタの書いた手紙の原文を、借りたんですか」
と、私は手紙を置きながら尋ねた。彼は私のいったカーロッタの手紙を熱心に読んでいた。
「ヘイスティングス君、正直なところ何ともいえないのですよ。ただもとの手紙が何か、説明のつかないことを説明してくれるかも知れない、という希望に望みをかけているのだというよりほかありませんね」
「僕にはその手紙の原文から、どうやって成功をつかもうというのか、さっぱりわかりませんね。カーロッタが自分で、女中に投函させたものです。誰も手品を使う余地なんか、なかったはずです。それに何度読んでみたところで、まったく、純然たる普通の手紙にすぎないではありませんか」
ポワロは溜息をついた。
「それは解っております。解っております。そこがむずかしいところなのです。なぜなら、ヘイスティングス君、実のところ、この手紙は不可能《ヽヽヽ》なものなのです」
「馬鹿なことを!」
「そうなのですよ。私が理由をあげていけば、お解りでしょうが、あることが何か……こう見ていくと、それぞれがちゃんと方式にかない順序よく、理解できるようになっていますが、この手紙のところへくると、ぴったりと合わなくなってしまうのです。一体どっちが間違っているのでしょうか? ポワロでしょうか? 手紙でしょうか?」
「あなたはよもや、エルキュール・ポワロが、まちがっているなんてことが、あり得るとは思わないでしょうね」と、私はつとめて物やわらかにいった。
ポワロは、非難の視線を私に投げた。
「私だって、まちがいをおかす時もあります。しかし、今の場合はそうではありません。こうしてはっきりと、この手紙が不可能に見えるのですから、たしかに|不可能なのです《ヽヽヽヽヽヽヽ》。この手紙に対するある事実が、私どもの眼をのがれております。それがどんな事実であるかを、私は発見しようとしているのです」
そこでポワロは問題の手紙を取りあげ、小型の拡大鏡を使って、再び研究を始めた。そして一枚ずつ熟読してしまうと、私に渡してよこした。もちろん私は、何の欠陥も発見できなかった。それは、しっかりした、かなり読みやすい字体で書かれていて、一語、一語、電報にあったとおりである。
ポワロは、深い溜息をついた。
「どこにも偽造の跡はありません……たしかに、みんな同じ手で書いたのです。にもかかわらず、私は不可能な手紙と申します……」
彼は急に言葉を切って、もどかしげな仕草で、私の手にある手紙を返すように要求した。私が返すと、彼は再び一枚一枚、ゆっくりと検《あらた》め始めた。
突然に、彼は叫び声をあげた。
私は食卓をはなれて、窓ぎわに立って外を眺めていたが、その声に、さっと目を向けた。
ポワロは、文字どおり興奮し、おののいていた。眼は猫のように、緑色の光を帯びていた。手紙をさす指は震えていた。
「どうです、ヘイスティングス君、ここをごらん……早く……来て見たまえ!」
私はそばへ走り寄った。彼の前に拡げてあるのは、手紙のなかほどのページであった。私には何の異状も見えなかった。
「わかりませんか? ほかの便箋はみんな、ふちがきちんと裁断してあるのに、これだけは、こんなにぎざぎざになっています。これは|二枚折りになった紙《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》だったのです。わかるでしょう。この手紙の|一ページが《ヽヽヽヽヽ》、|ここで切り取られている《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》のです」
この時の私は、きっと馬鹿みたいな顔をして、眼をみはっていたにちがいない。
「けれども、どうしてそんなことができたでしょう? わけがわからない」
「わけは、わかっております。こういうところに、思いつきの賢さがあらわれるのです。読んでごらんなさい……そうすれば君にもわかりましょう」
私には、問題のページの複写を添えるぐらいのことよりほか、何もできそうもない。
「おわかりでしょう。この手紙はマーシュ大尉のことを、語っているところで、とぎれています。彼女は彼を気の毒に思っている。と書いて、そのすぐあとに彼は私の模写をとても楽しんでくれたとあります。ところで、ここで次のページがなくなっております。この新しいページの『彼』と、前のページの『彼』とは、同一人物をさしているのではないと推定されます。賭けのことを申し入れたのは、誰か別の人物です。殺人者は何かの方法で、この手紙を手に入れたと見えます。その人物は、一ページを破り取ることによって、自分の存在を伏せてしまうと同時に、ほかの人物……彼もまたエッジウェア男爵を殺す動機を持っている男……に憎むべき罪がかかるように、工作したのです」
私はいくぶん感嘆してポワロを見つめていた。それは彼の仮説の真実性を完全に立証しているとは思われなかった。私には、カーロッタが前に半分破りすてた古い紙を、使ったかも知れないという考えが浮かんだ。しかし、ポワロがあまり有頂天になって喜んでいるので、私はこの平凡な可能性を持ちだす気にはなれなかった。それに結局、彼が正しいのかも知れないし! とはいえ、私は彼の推定に、一二難点のあることを、あえて指摘した。
「それにしても、その人物はどうやって、この手紙を手に入れたというんですか。カーロッタ嬢は、自分のハンドバッグから取りだして、直接に女中に投函させたのです。女中はそういいましたね」
「そこで私どもは、二つのうちのどっちかを取らなければならないことになります。女中が嘘をついたか、あるいはカーロッタ嬢があの晩、殺人者に会ったかですね」
私はうなずいた。ポワロはなおもつづけた。
「私にはこの後の可能性のほうが、有望らしく思われます。カーロッタ嬢が家を出てから、九時にユーストン駅で旅行鞄を預けるまでの間、どこで何をしていたか、まだ判っていないのです。その間にカーロッタ嬢は、殺人者とどこか約束の場所で落ち合った……おそらく二人は食事をともにしたかも知れないと、私は信じております。彼はきっと彼女に最後の指図をしたでしょう。この手紙に関して、はっきりと、どんなことが起こったかは、まだ私どもには判りませんが、想像することはできます。彼女は投函するつもりで、手に持って歩いたかも知れません。そして料理店で、テーブルの上に置いたかも知れません。彼は宛名を見て、危険だと感じたかも知れません。彼は巧みにそれを取り、何とか口実をつくって席を立ち、開封して読み、一ページだけ切り取って、席へもどると、元通りにテーブルの上に置くか、あるいは彼女が下に落ちたのを知らずにいたのを、拾ったというふうにいって渡したかも知れません。だが、その方法を正確に知ることは重要ではありません。しかし二つのことが、はっきりしています。カーロッタ嬢は、あの晩エッジウェア男爵が殺された後か、あるいは殺される前に、殺人者に会ったということです。彼女が喫茶店を出てから、短い会見を行なう時間はありました。ところで、彼女に黄金の小函を与えたのは殺人者だ……二人が初めて会った日のセンチメンタルな記念品だったかも知れない。もしそうなら殺人者は、あの小函に刻まれているDという頭文字のつく男だ」
「僕には黄金の小函の点がわかりませんね」
「いいですか、ヘイスティングス君、カーロッタ嬢は、ベロナールの常用者ではなかったのです。妹のルーシーがそういっておりますし、私もそれが真実だと信じております。彼女は眼の澄んだ麻薬愛用の傾向などない健康な女性でした。彼女の友人はみんな、それから女中までも、あの函に見覚えがないといっております。ではなにゆえに、彼女の死後、あれがハンドバッグの中に発見されたのでしょうか? それは彼女がベロナールを飲んだ。しかもかなり以前からの常用者だった。少なくも六か月前から……という印象を、創造するためだったと見られます。そこで私どもは、彼女がたとえ数分間でも、殺人者に兇行後会ったと考えましょう。二人はきっと、計画の成功を祝って乾杯したでしょう。殺人者は彼女が、翌朝眼を覚まさないだけの量のベロナールを酒の中へ入れておいた」
「ひどいことをする」私は身震いをしていった。
「さよう、きれいなやり方ではありません」と、ポワロは、そっけなくいった。
「あなたはこれを全部、ジャップ警部に話されるんですか」と、私はちょっと間をおいて、尋ねた。
「今のところは話しません、話すようなことが何もないではありませんか。あの優秀なるジャップは、きっとまたそんな馬鹿なことをいう! あの娘が、半ぴら紙に書いただけのことではないか……というにきまっておりますでしょうからね」
私は面目ない気持ちで、足元を見つめた。
「それに対して、私に何のいい分があるでしょうか? 何もございません。そのとおりだったかも知れませんからね。しかし私はそんなことはなかったと思っています。なぜかと申しますと、そういうことが、起こらないことが必要だったからです」といって彼は言葉を切った。彼の顔に夢見るような表情が、漂ってきた。
「考えてごらんなさい、ヘイスティングス君。もしものこと、その男が順序と方式というものを頭においていたとすると、彼は紙を破り取ったりしないで、きれいに切っておいたでしょう。そうすると、私どもは何も気がつかないでしまったでしょう、なんにもね!」
「すると犯人は、不注意な性質の男だったと推定するわけですね」と、私は微笑しながらいった。
「いや、彼は急いでいたのかも知れません。大そう不注意な破り方なのに君も気がついたでしょう。そうです、確かに彼は時間に迫られていたのです」
彼は、息をついで、再び語った。
「この一つは、君も気がついたでしょうね。その男、つまりDなる男は、当夜、大そう立派なアリバイを作っておいたろうということです」
「でも、リージェント・ゲート街で、まず殺人を行ない、それからカーロッタ嬢に会ったりしていながら、どうやってアリバイなんかつくれるか、僕にはわからないですね」
「まさにそのとおり、私のいいたかったのはそこなのです。彼はひどくアリバイが必要だったのですから、前もって用意しておいたに、ちがいないと申すのです。もう一つの点は、彼の名はほんとうにDで始まっているのでしょうか? それとも彼女の知っているあだ名を意味しているものでしょうか?」
彼はちょっと間をおいてから、低い声で、
「Dという頭文字のつく名、あるいはあだ名の男。ヘイスティングス君、私どもはその男を捜しださなければなりません。そうです、私どもはどうしても、捜さなければなりません」といった。
鼻眼鏡をかけた女性
翌日われわれは、思いがけない訪問者を迎えた。
ジェラルディン嬢の来訪であった。
ポワロが挨拶をして椅子をすすめている間、私は彼女を気の毒に思って見守っていた。彼女の大きな黒い瞳は、前よりもさらに大きく、さらに黒くなったように思われた。眠れなかったらしく、眼の下に黒いくまができていた。まだ少女といっていいような若さなのに、ひどく面《おも》やつれして、疲れ果てているように見えた。
「ポワロさん、私とても心配で気が転倒してしまって、もうどうしていいかわからなくなってしまいましたの、それでお目にかかりに来たんですけど」
「そうでしょうね」
彼の態度は厳かで、同情的であった。
「従兄《あに》があの日、あなたのおっしゃったことを、私に話しましたの。あの恐ろしい日……従兄が逮捕された日のことですけど、従兄が誰も自分のいうことを信じてくれないだろうといった時に、あなたが急に前へ出ておいでになって、……私はあなたを信じます……とおっしゃったって、それほんとうですか、ポワロさん」
「ほんとうでございます、マドモワゼル。私はそう申し上げました」
「私のいう意味は、あなたがおっしゃったことが、ほんとうかっていうのではありません。従兄の話を、あなたはお信じになったんですかということです」
「おっしゃったお言葉は真実でございます。私はマーシュ大尉が、男爵を殺されたとは信じません」と、ポワロは静かにいった。令嬢の顔に紅味がさしてきた。彼女は眼を大きく見はって、
「おお! それではあなたは、誰かほかの人がやったと考えていらっしゃるのね!」
「さようでございます。お嬢様」と、彼は微笑した。
「私、駄目なの、とても物をいうのが下手で、私のいう意味は……あなたはその誰が誰だか知っているとお思いになるの?」
彼女は熱心に、前へ乗りだすようにしていった。
「申すまでもなく、私にはちょっとした思いつきがございます。疑惑とでも申しましょうか」
「どうか、聞かしてくださいません? お願いですから」
ポワロは、首をふった。
「そういうことをしては……きっと不公平でございましょうね」
「では、あなたは誰かに対して、はっきりした疑惑をむけていらっしゃるのね」
ポワロは、どっちつかずにうなずいた。
「もう少し知らしていただけたらいいのに、そうすれば私もっと気が楽になりますし、もしかすると、私お役に立ってあげられるかも知れないんです。そうなのよ、私ほんとうに、あなたのお手助けできるかも知れませんのよ」
彼女の懇願は、相手の警戒心をなくしてしまうようなものであったが、ポワロは首をふるだけであった。
「マートン侯爵夫人は、まだ私の継母《はは》が犯人だと信じきっていらっしゃいますけど……」
令嬢は考え深い様子でいって、ちょっと質問するような視線をポワロに投げた。
彼は何の反応も示さなかった。
「でも、私には、どうしてそんなことができるか見当がつきません」
「お嬢様のお継母《かあ》様に対するご意見は?」
「そうね、私あまりよく知りません。父があの人と結婚した時には、私は巴里《パリ》の学校にいましたし、家へ帰って来た時には、あの人とても親切にしてくれました。私のいう意味は、あの人が私を眼中に入れないでいてくれたことなんです。私、あの人は頭がからっぽだと思ったわ。そして……そうね、金銭づくなのね」
ポワロは、うなずいた。
「お嬢様はマートン侯爵のご母堂のことを、おっしゃいましたが、ちょいちょいお会いになるのでございますか」
「ええ、とても親切なの、この二週間ばかりっていうもの、大方私あの方とご一緒だったんです。いろいろな噂だの、新聞記者だの、従兄が刑務所入りしたり、いろいろなことで、すごかったのよ。私にはほんとうのお友達が何もないような気がするんです」といって、彼女は身震いをした。
「でも侯爵夫人は、すてきでしたし、あの方の息子さんもよくしてくださいましたし……」
「お嬢様は、侯爵をお好きですか」
「はずかしがり屋らしいのね。固苦しくて、つき合いにくい感じ。でもお母様は、あの方のことばかりお話しになるから、私は実際よりも、あの方のことをよく知っているというわけです」
「なるほど、ではね、お嬢様、お聞かせください。あなたは、お従兄《にい》さんを愛していらっしゃるのですか」
「もちろんよ、この二年ばかりはあまり会っていませんけれど、その前は同じ家に暮らしていたんですし、そしていつも私は、すてきな人だと思っていたんですもの。いつも冗談をいったり、いろいろな計画を考えだしたりして、あの陰気な家をとても陽気にしていたんです」
ポワロは同情するように、うなずいたが、私をぞっとさせたような、残酷なことをいった。
「では、お嬢様はマーシュ大尉が絞首台にかけられるのを、ご覧になりたくないでしょうね」
「そうですとも! そんなこと、とても……とても……ああ、あの人だったら……継母《はは》であってくれたら……あの人にちがいありません。侯爵夫人は、そうにきまっているとおっしゃいました」
「ああ、もしもマーシュ大尉が、タクシーのなかに待っておられたらよろしかったのですがねえ」とポワロはいった。
令嬢は眉をひそめて、
「そうでしたら……どういう意味? 私、よくわかりませんけど」
「もし大尉が、あの男が家へ入って行くのを、つけておいでにならなければよろしかったのでございます。それはそうと、お嬢様は、あのとき誰か家へ入ってくるのをお聞きになりませんでしたか」
「いいえ、私、何も聞きませんでした」
「あなたは家のなかへお入りになって、何をなさいましたか」
「私、真珠を取りに、真っ直ぐ二階へかけ上がって行きました」
「もちろん、それを取っていらっしゃるには、しばらくかかりましたでしょうね」
「ええ、宝石函の鍵が、すぐ見つからなかったもので」
「よくそういうことがあるものです。急げば急ぐほど手間取ってしまいます。それであなたが階段をおりておいでになるまでに、相当時間がたったのでございますね。で、下へおいでになると、玄関にお従兄《にい》さんがいらっしゃるのをお見かけになったのでしたね」
「ええ、書斎からくるところを……」といいかけて、彼女は言葉をのみこんだ。
「よくわかります。ひどく驚きになりましたでしょうね」
「ええ、とても、びっくりしましたわ、お判りになるでしょう?」
彼女はポワロの同情のこもった調子に、感謝するように見えた。
「よくわかりますとも」
「従兄《あに》は、いきなり……持って来た?……と後ろから声をかけるんですもの、私飛び上がってしまいました」
「そうでしょうとも。前にも申しましたように、マーシュ大尉が外で待っておいでにならなかったのは惜しいことでした。そうしましたら、運転手は大尉が決して家へ入らなかったと、証言したでしょうに」
彼女はうなずいた。急に彼女の眼から涙が溢れ出て、膝の上に流れ落ちた。彼女は立ち上った。ポワロはその手をとった。
「あなたは、私に大尉を救ってほしいとおっしゃるのでございますね。そうでございましょう?」
「そうなの! そうなの! どうぞ、お願いですから……私がどんなに……」
令嬢は手をにぎりしめて、感情をおししずめようと、もがいていた。ポワロは優しくいった。
「お嬢様にとっての人生は、やさしいものではございませんでしたね、お察しできます。ヘイスティングス君、お嬢様にタクシーを拾ってあげてください」
私は、令嬢を送って階段をおりて行って、タクシーに乗せた。そのころには、彼女もすっかり落ち着いて、丁寧に礼を述べた。
部屋へもどってみると、ポワロは眉間に皺をよせて何か考えこみながら、往ったり来たりしているところであった。みじめな様子をしていた。
電話の鈴《ベル》が鳴って、彼の注意をひいたので私はほっとした。
「どなたですか? ああ、ジャップさんですか、こんにちは!」
私は電話に近づきながら
「何だっていうんですか」といった。
ポワロは、いく度も感投詞をくりかえしていたが、最後に、
「で、誰がそれを受け取りに行ったのですか、彼らは知っておりますか」
どんな答えだったかわからないが、ポワロの予期していたようなものではなかったと見えて、おかしいほどがっかりした顔をした。
「たしかですか?」
「……」
「いいえ、少々気が転倒しただけのことです」
「……」
「そうです、私の考えを、また組み立て直さなければなりません」
「……」
「何ですって?」
「……」
「それにしても、やはりその点は、私が正しかったわけです。そうです。あなたのおっしゃるようにごく細部です」
「……」
「いいえ、私はやはり同じ意見です。お願いですから、もっとあの辺の料理店を調べさせてくださいませんか。リージェント・ゲート街、ユーストン駅、トトナムコート路、それからオックスフォード街のあたりをずっと」
「……」
「そうです、女と男。それからストランド辺も、真夜中、ちょっと前ごろです。おわかりですね」
「……」
「しかし、はい、私もマーシュ大尉がドルサイマー家の人々と一緒だったことは知っております。しかし、世の中には、マーシュ大尉のほかにも人間はおりますからね」
「……」
「私が豚の頭をもっているなんて申すのは、美しいことではありませんね。とにかくですね、この件については、頼まれてくださいまし、お願いしますよ」
「……」
彼は受話器をもとへかけた。
「うまくいったんですか?」と私は気忙《きぜわ》しく尋ねた。
「うまくいったのでしょうかねえ、ヘイスティングス君、あの黄金の小函は、巴里で買われたものですよ。手紙で注文され、巴里でも、ああいうものを扱う専門店として有名な店から、出たものなのです。手紙の差出人はアッカレイ男爵夫人……注文書にはコンスタンス・アッカレイとサインをしてありましたのですが、もちろんそういう名の人物は実在しておりません。その注文書は、殺人のあった日の二日前で、紅宝石《ルビー》で手紙の主と推定される人の頭文字を入れ、蓋の内側に、日付と贈り先と贈り主の頭文字と言葉を刻みつけるようにと、指定してあったというのです。急な注文で、翌日受け取りに行くということになっていたのです。それは殺人のあった前日です」
「で、それを受け取りに行ったのですか」
「そうです。そして紙幣で代金を支払ったのです」
「誰が取りに行ったんですか」
私は興奮して尋ねた。私は事実に段々と近づきつつあると感じていた。
「ヘイスティングス君、それを受け取りに行ったのは女性だったのですよ」
「女ですって?」私は、驚きの声をあげた。
「そうですよ。背が低く、中年で、鼻眼鏡をかけた女性です」
私たちは完全に、煙に巻かれてしまい互いに顔を見合せた。
四 パリスと巴里《PARIS》
中断された電話
われわれが、クラリッジで催された、ウィッドバーン夫妻の昼食会へ行ったのは、たしかその翌日だったと思う。
ポワロも私も、特に出席したいとも思っていなかった。実のところそれは、われわれが受けた六度目の招待だったのである。ウィッドバーン夫人はなかなか根気のいい女性で、有名人が好きだった。
で、何度断られても、びくともしないで、しまいには、こっちの都合のいい日を申し出させるという手段に出たので、ついに降服を余儀なくさせられてしまったのだ。そんな事情だったので、われわれは早く行って、早くかたづけてしまったほうがいいと思った。
ポワロは、巴里《パリ》からの情報が入ってからは、ひどく秘密主義をとるようになってしまった。
その問題について私がいい出すと、いつも同じ返事をした。
「何やら、私には納得のいかないことがあるのです」
そして二三度、私は彼が独言《ひとりごと》をいっているのを耳にした。
「鼻眼鏡、鼻眼鏡と巴里、カーロッタのハンドバッグの鼻眼鏡……」
私は気分転換の方法として、昼食会を歓迎した。
若いロス青年も来ていて、すぐに私のそばにやって来て快活に挨拶をした。女より男のほうが多くて、彼は私の隣席につくことになった。ジェーンは、ほとんどわれわれの真向かいの席につき、彼女とウィッドバーン夫人との間に若いマートン侯爵が坐った。
侯爵は少し落ち着かない様子でいるように思われたが、それは単なる私の想像だったかも知れない。そこに集った人々が、彼の気に入らなかったのだと私は推察した。彼はひどく保守的で、何となく反動的若者という感じで、嘆かわしき間違いによって、中世に生きるべきだったのが、現代に生れ出てきてしまったような人物であった。その彼が、ジェーンのような極端に近代的な女性に迷いこんだというのは、まったく時代錯誤的な自然のいたずらである。
ジェーンの美貌を眺め、陳腐な言い草でも魅力あるものにする快い響きをもったかすれ声を聞いていると、若い侯爵が彼女にまいったのも無理はないと思った。けれども、誰でも完全なる美しさや、人を酔わせるような声などには、じきに馴れっこになってしまうものである。私はその時ふと、今でもすでに常識という光が、酔いしれている恋の霧を消し散らしはじめているのではないかと思った。実はジェーンにとって屈辱的な失言となった、ちょっとした言葉が彼女の口をついて出た時に、私はそういう印象を受けたのであった。
誰だったか忘れたが、『パリスの審判』という文句を口にした時、すぐにジェーンの美しい、すき透った声が、
「パリス?〔英語でのパリの発音〕 あら、近頃では巴里《パリ》の影響なんて全然ありませんわ。ロンドンとかニューヨークのほうが重きをなしていますのよ」といった。
パリスというのはもちろん、ギリシア神話に出てくるトロイアの王子で、この「審判」によってトロイア戦争の原因をつくった人物の名だったのに、彼女は都市の名とまちがえたのであった。
しかも、よくあることだが、ちょうど人々の会話がちょっととだえたところへ、その言葉が落ちてきたというわけで、非常に間の悪いことになった。私の右ではロス青年が、はっと息をのむのが聞こえた。ウィッドバーン夫人は急にロシアのオペラについて、一生懸命に話しだした。誰も彼も、あわてて、誰かにむかって、何かをしゃべりはじめた、ジェーンだけは、自分の失言に気づかないで、平気な顔をしてテーブルの端から端へと視線を移して、その光景を眺めていた。
その時、私はマートン侯爵に気がついた。彼は赤面し、唇を一文字に閉じて、少しジェーンから身を引いたように、私には見えた。
侯爵は、彼のような地位の男が、ジェーンのような教養のない女と結婚したら、こうした、ばつの悪い思いがけないできごとに遭うだろうという事実を、前もって味わう破目におちいったらしかった。
よくあることだが、私は、左手の席に坐っている子供のための昼興行《マチネー》を企画していた肥った貴婦人に、自分の頭に浮かんできたことを、いきなり話しかけてしまった。その問題の文句を私は覚えているが、それはこうであった。『このテーブルの一番はずれにいる、紫のドレスを着たあの突飛なようすの女性はどなたですか』ところで、それはその貴婦人の姉上であった! 私はしどろもどろに詫びて、ロス青年にむかって喋りだしたが、彼は『はい』とか『いいえ』とかいう返事よりしなかった。
両側から、肱鉄砲をくらった時、私は、ブライアンに気がついた。彼は遅れて来たらしく、その前には彼を見かけなかった。
彼は私と同じ側のずっと末席にいて、前へ身を乗りだして、非常に熱心に、美しい金髪の女性に何か話していた。
彼をそんな間近に見るのは久しぶりであったが、私はすぐに彼の顔つきが大変によくなっているのに気づいた。やつれた線は、ほとんど消えてしまい、前よりずっと若々しく、いかにも健康そうに見えた。彼は向かいあっている相手をからかったり、笑ったりして、上機嫌のようであった。
だが私は、それ以上ブライアンを観察する暇はなかった。というのは、その時、隣席の肥った貴婦人が私の無礼を許して、ご機嫌うるわしく、彼女の主催する慈善のための子供昼興行のすばらしさを長々と語りたまうのを拝聴させてくだすったのであった。
ポワロは、ほかに約束があったので、早目に暇《いとま》を告げなければならなかった。彼は某大使の長靴の不思議な失踪を調査中で、二時半に会見することになっていた。彼は私からウィッドバーン夫人に、別れの挨拶を伝えるようにいいつけていった。主人は大勢の客に取り巻かれて、挨拶を受けていて、なかなか近づけないので、私は自分の番がくるのを待っていた。すると誰か私の肩をたたいたので、ふり返るとロス青年であった。
「ポワロさんはいらっしゃらないですか? 話したいことがあるんですが」
私は、ポワロが、先に帰った理由を説明した。ロスは何かに驚いて、途方にくれているらしい様子であった。そばで、よく見ると、彼は何かのことで気が転倒しているらしかった。青ざめた緊張した顔つきをして妙に落ちつかない眼つきをしていた。
「何か特別にポワロ氏に会いたいことがあるのですか」と私は尋ねた。
彼は、のろのろと答えた。
「僕……わからないんです」
妙な答えなので、私はあきれて彼の顔を見つめた。彼は顔を赤らめた。
「変に聞こえるのは、僕も知っています。実は、とても奇妙なことが起こったんです。僕には判断のつかないようなことなんです。で、僕はその……つまり……ポワロさんの忠告を受けたいと思って……こんなことでポワロさんを煩わしたりしては、悪いと思うんですが……どうしていいかわからないもので、……」
彼の様子があまり途方に暮れているようで、みじめらしかったので、私はいそいで、彼を安心させるようにいった。
「ポワロ氏は約束があって行ったんですが、五時には帰宅するはずになっています。だから電話をかけるなり、そのころ訪ねてくるなりしたまえ」
「ありがとう。そうします。五時ですね」
「くる前に電話でたしかめたほうがいいですね」
「はあ、そうしましょう。ありがとう、ヘイスティングスさん。僕の考えでは、もしかすると非常に重要なことなのかも知れないんです」
私はうなずいて、再び甘ったるい言葉や、握手にいとまのない、ウィッドバーン夫人のほうを向いた。
私が役目をはたして帰ろうとしていると、私の腕に誰か手をすべりこませた。
「ひとを見限らないでよ!」と、陽気な声がいった。
それはドライバー女史であった。非常にスマートな様子をしていた。
「やあ、どこから現われたんですか」
「私は、あなたの次のテーブルでお食事していたの」
「気がつかなかった。商売はどうですか」
「ありがとう、すごい景気」
「スープ皿がうまく売れているんですね」
「あなたは失礼にもあの帽子をスープ皿なんて命名したけれど、大流行で、誰もかも頭に乗っけて歩くようになったかわりに、ひどいことになっているの。まるで水雷防御装具みたいに、鳥の羽をつけたのを、ひたいの真ん中へぶらさげるみたいにかぶるのよ」
「ふらち千万だな!」と私はいった。
「どういたしまして、誰か駝鳥を救済に乗りだしてくれなければね、彼らは失業手当を受けている状態なの」
彼女は笑って立ち去った。
「さよなら、私、今日は午後から商売を休むのよ。田舎を一走りしてくるの」
「そりゃいい、今日のロンドンは息がつまりそうだ」と私は賛意を送った。
私は公園をぶらぶら歩いて、四時過ぎに家へ着いた。ポワロはまだ帰っていなかった。彼が帰宅したのは五時二十分前であった。彼はいそいそして、見るからに上機嫌であった。
「ホームズ探偵は、大使閣下の長靴の行方をつきとめられたと見えますね」と私はいった。
「あれはコカイン密輸事件でしたよ、大変に巧妙な。最後の一時間は美容院で過ごしてきましたがね、そこに、君の多情多恨な心をたちまち奪うような、金茶色の髪のお嬢さんがいましたよ」
ポワロはいつでも、私が特に金茶色の髪に心を奪われるものと思いこんでいる。だがそんなことで別に争うまでもない。
電話が鳴った。私は電話機のほうへ行きながら、
「きっと、ロス君からでしょう」といった。
「ロス君?」
「ほら、チズウィックのモンターグ卿のところで会った青年ですよ。何かのことであなたにお目にかかりたいんだそうで」
私は受話器をとりあげた。
「もしもし、こちらはヘイスティングスですが」
ロス青年であった。
「ああ、ヘイスティングスさんですか、ポワロさんは帰られましたか」
「はあ、今ここにおります、電話で話しますか、それともここへ来ますか」
「たいしたことではないから、電話で話します」
「では、待ってください」
ポワロが来て、受話器を取りあげた。私はすぐそばにいたので、ロスの声が、かすかに聞こえた。
「ポワロさんですか」
その声は興奮しているらしく響いた。
「そうです。私です」
「あなたを煩わせては悪いと思うんですが、とても変だと思うことがあるんです。それは、エッジウェア男爵の死と関係があるのです」
私はポワロの様子が緊張したのを見た。
「続けて! 続けて!」
「あなたには、馬鹿げたことに思われるかも知れませんが……」
「そんなことありません。話してください」
「それは、『パリス』という言葉が僕に思いつかせたんです。つまり……」
その時、かすかに呼鈴がちりちりと鳴るのが聞こえた。
「ちょっと待ってください」とロスがいった。受話器を置く音が聞こえた。
われわれは待っていた。ポワロは送話器の前に、私は彼のわきに立っていた。
待つほどに、二分経った……三分……四分……五分……
ポワロは落ちつかない様子で、足を動かした。時計を見あげた。それから電話の|受話器架け《フック》を、上下にゆすった。そして交換手に話した。彼は私のほうを向いた。
「受話器がまだはずしたままになっていて、いくら呼んでも返事がないというのですよ。ヘイスティングス君、急いで電話帳で、ロスの住所を捜して! 私どもはすぐに、出かけなければなりません」
ポワロ、手紙の謎を解く
数分後、われわれはタクシーに飛び乗った。
ポワロの顔は、非常に心配そうであった。
「ヘイスティングス君、もしかすると……私はひどく心配しているのだが……」
「まさか、あなたは……」といいかけて、私は黙ってしまった。
「二度、殺人を犯した者は、きっともう一度殺すことをためらわないでしょう。私どもはそういう人物に立ちむかっているのです。彼は、命がけで戦っている鼠のように、身をくねらせたり、ひっくり返ったりしているのです。ロスは危険にさらされています。ロスは亡きものにされるかもしれません」
「彼が話そうとしたことは、そんなに重要だったんですか? 彼はそうは考えていないらしかったんですがね」
私は疑いをもって尋ねた。
「それは彼のまちがいでした。たしかに彼の語ろうとしたことは、絶対に重要だったのです」
「でも、それをどうして、誰かが知ったのでしょう」
「彼はあなたに話したといいましたね。ほかの人がたくさん周囲にいた、あの会場でです。狂気の沙汰です、どうして君は、彼を連れてこなかったのだ! なぜ私が彼の話を聞くまで、誰も近づけないようにして、保護しておいてくれなかったのだ!」
「僕は……そんなこと……決して……夢にも思わなかったんで……」と、私はどもりながらいった。
ポワロは急いで手をふった。
「君は自分を責めることはない! 君が知らなかったのは無理もない。……私だったら、すぐ気がついたでしょうが……ねえ、君、この殺人者は虎のように狡猾で無慈悲です。……ああ、遅いなあ、まるで永久に、到着できないみたいな気がする!」
ようやく、われわれはそこへ着いた。ロスはケンジントンの広場にある小さい家の二階に住んでいた。戸口の呼鈴のわきのみぞに、札がはめこんであって、それに案内が書いてあったから、すぐにわかった。玄関の戸は開けてあった。中へ入ると、大きな階段があった。
「ぞうさなく入ってこられますね、それに誰にも見られないで」と、ポワロは階段をかけあがりながら、つぶやいた。二階は区画された形になっていて、細長い戸は、エール鍵を使うようになっていた。ロスの名刺が扉の中央に貼ってあった。
われわれは、そこで立ちどまった。あたりは死のごとくにしずまり返っていた。
戸をおして見ると、驚いたことにはぞうさなく開いた。
われわれは中へ入った。
玄関は細長くて一方の戸は開けてあって、すぐ前の戸は居間へ通じていた。われわれは、その居間へ入って行った。それは表に面した大きな客間を二つに仕切ったものであった。そこは、安物だが、居心地よく調度が配置してあって空《から》だった。小さなテーブルの上に電話があって、そのわきに受話器が置いたままになっていた。
ポワロは急ぎ足で前へ進んで行って、あたりを見まわし、首をふった。
「ここではない。ヘイスティングス君、来たまえ」
われわれは後戻りをして玄関へ出るのに、別の戸口を通った。そこには小さい食堂があった。食卓の一方の側に、ロスが椅子からすべり落ちて、食卓のわきにうずくまっていた。
ポワロは、その上へかがみこんだ。
彼は青ざめた顔をして、立ち上がった。
「死んでいます。頭蓋骨の根元を刺されたのです」
それから後、長い間、その午後のできごとは、悪夢のように、私の心につきまとっていた。私は恐ろしい責任感を、追い払うことができなかった。
その夜おそく二人きりになった時、私は辛い自責の念を、ポワロに打ちあけた。彼は激しくそれを打ち消した。
「いいえ、いいえ、自分を責めることなどありませんよ。どうして、君に疑念を起こすことができたでしょう。第一に神様は、君に疑り深い性質をおさずけくださらなかった」
「あなただったら、疑惑を持ったんでしょうね」
「それは仕方がありません。私は一生殺人犯人を追跡してきたのです。殺人を一つ重ねるごとに殺す衝動が次第に強くなってくるのを、私は知っていました。そのうちに、ついに、ちょっとしたことが原因で……」
彼の言葉は、そこで、ぷつりときれてしまった。
彼は、無気味な発見をして以来、ひどく静かになってしまった。警官たちが到着し、同じ家に住む人々を訊問し、殺人事件に伴うあらゆる不愉快な型通りの仕事が、進められている間じゅう、彼は妙に黙りこんで、眼に思索的な表情を浮かべていた。今また言葉を途中で切った時、それと同じ夢見るような表情がもどってきた。
「ヘイスティングス君、今は後悔に時を費やしている時ではありません、『もしも』などといっている時ではありません。私どもに何かを語ろうとした青年が、死んだのです。それで私どもは、彼の語ろうとしたのは、何かたいそう重要なことだったにちがいないということを知ったのです。さもなかったら、彼は殺されなかったでしょう。もはや、彼が語ることができないとなったからには、私どもはそれを推定するよりほかありません。私どもを事実へ導いてくれる、ただ一つの手がかりを頼りに、探り当てなければなりません」
「パリスですか」と私はいった。
「そうです、パリス。この事件には何度か巴里《パリ》が浮かび上がってきましたが、不幸にして、それぞれ、異なった関係をもっているのでした。黄金の小函に刻んである巴里《パリ》という言葉、去年の十一月|巴里《パリ》にて。カーロッタ嬢がそのころ巴里《パリ》へ行っていたかも知れません。ロス君も行っていたかも知れません。誰かほかにロス君の知っていた人物が、その時行っていたでしょうか。彼は何か特別の事情の許に、カーロッタ嬢が誰かと一緒にいるところを見たのでしょうか?」と、ポワロは部屋を往ったり来たり、歩きつづけながらいった。
「そんなこと、われわれは知ることはできませんね」
「いいえ、知ることができます。私どもは知らなければなりません。ヘイスティングス君、人間の脳の働きというものは、ほとんど無限なものです。この事件に関連して、ほかに巴里《パリ》が出たことはないでしょうか? そう、鼻眼鏡をかけた背の低い女が、巴里《パリ》の宝石店へ行きましたね。彼女はロスを、知っていたでしょうか。犯行があった時、マートン侯爵は、巴里《パリ》へ行っていました。……エッジウェア男爵は、巴里《パリ》へ行こうとしていたのでした。ああ、そこに何かありそうですね。犯人は男爵が巴里《パリ》へ行くのを阻止するために、殺したのかも知れませんね」
彼は再び椅子に腰をおろし、眉を寄せた。すさまじい勢いで、集中している彼の考えが波打っているのを、私は感じることができるように思った。
「あの昼食会で、何が起こったのか? 何かちょっとした言葉が、ロスの知っていたある事実の重要性を、彼に認識させたのではないか? 何かフランスのことが、話題にのぼったのではなかったでしょうか? 君のテーブルの上座のほうで、何か巴里《パリ》のことが」
「パリスという言葉は出ましたが、そういう関係のものではありませんでした」
私はそこで、ジェーンの失言について話した。
「それがもしかすると説明になるかも知れませんね。パリスという一言だけで……何かあることをそれに結びつけるに充分だった……しかし、そのあることは何であったろう……ロス君はその時、何を見ていましたか、パリスという言葉が出た時、ロス君は何を話していましたか」
「彼はスコットランドの迷信のことを話していました」
「そして彼の眼は、どこへ向けられていましたか」
「確かではありませんが、ウィッドバーン夫人のいた上席のほうを見ていたと思います」
「夫人の隣には誰がいましたか」
「マートン侯爵、それからジェーン、それから誰だか僕の知らない人でした」
「侯爵! パリスという言葉が出た時に、ロス君が侯爵のほうを見ていたということはあり得ますね。いいですか。侯爵は、犯罪のあった日には、巴里《パリ》にいたか、あるいはいたことになっていたのです。もしかして、ロス君はその時、突然に、侯爵があの日|巴里《パリ》にいなかったことを示すあることを思いだしたのかも知れません」
「ポワロさん、それはあんまり……」
「わかっています。ヘイスティングス君は、それは馬鹿げているというのでしょう。誰だってそう思うでしょう。侯爵は犯罪の動機をもっていましたか? 持っていましたとも、非常に強い動機を。けれども侯爵が罪を犯したと仮定するなんて、それは馬鹿げています。侯爵はたいそう金持ちで、確実な地位を持っていますし、高潔な性格の持ち主であることは衆知の事実です。誰も侯爵のアリバイをそう詳しく詮索する者はありますまい。それにしても大ホテルに滞在して、アリバイを偽造するのは、そうむずかしいことではありません。午後の乗物を利用してロンドンまで来て、その日のうちに巴里《パリ》へ帰ることはできます。君、聞かしてください、パリスという言葉が出た時に、ロス君は何かいいましたか? 彼は何の感情も表わしませんでしたか?」
「僕は、ロス君がその時、激しく息をのみこんだのを覚えています」
「それから後刻、君に話しかけた時の、彼の様子ですがね。当惑しているとか、混乱しているというところはありませんでしたか」
「たしかに、そんな様子をしていました」
「まさしくそのとおり! ある考えが彼の頭に浮かんだのです。彼はそれを途方もないと考えたのです。馬鹿げていると! そして自分の考えを口に出すのを、ためらったのです。それでまず私に、話してみようと思ったのです。だが、しかし、彼が決心した時には、私はもう帰った後だったのです。実に残念なことでした」
「僕にもう少し話してくれればよかったのになあ」と私は嘆いた。
「そうです、もし少しでも……その時、君の近くに誰がいましたか」
「誰でもみんなといっていいくらいでしたね、皆がウィッドバーン夫人にさよならをいっていましたからね。僕は特別に誰って、気がつきませんでした」
ポワロは再び立ちあがった。そしてもう一度往ったり来たりして歩き始めながら、つぶやいた。
「私はまちがっていたのだろうか? ずっと私の考えていたことは、まちがっていたのだろうか?……」
私は同情をこめて彼を見あげた。どんな考えが、彼の頭のなかを往来していたのか私にはわからなかった。ジャップはポワロのことを、『まるで牡蠣《かき》のように口を割らない男』だといったが、警部のその言葉は、まことに、うがっていると思う。この瞬間、彼が自分自身と闘っているのだということだけは、私にもわかっていた。
「とにかく、この殺人をマーシュ大尉の仕業だとすることはできませんね」と私はいった。
「それは彼に有利な点です。しかし今この場合の私どもには、何も関係しないことですね」と、ポワロは、気のない調子でいった。そして前のように、急に椅子に腰をおろした。
「私が全部まちがっているはずはありません。ヘイスティングス君、私が以前、五つの質問を提出したのを、覚えていますか」
「何かそんなようなことを、ぼんやり覚えていますね」
「その五問は、
(一)エッジウェア男爵はなぜ離婚に対する考えを変えたか
(二)男爵が書いたといい、ジェーンは決して受け取らなかったという手紙の説明は何か
(三)あの日、私どもが男爵邸を去る時に、彼の顔に怒りの表情が浮かんだのはなぜか
(四)カーロッタのハンドバッグに入っていた鼻眼鏡は何をしたのであろうか
(五)なぜ、チズウィックへ行っていたエッジウェア男爵夫人に、誰かが電話をかけてすぐに切ってしまったのか……」
「思いだしましたよ。それが五つの質問でしたね」
「ヘイスティングス君、私はずっと心のなかに、あるちょっとした思いつきを抱いていたのです。背後にひそむ男は、誰かということに対する考えなのです。五問のうち三問まで、私は答えました。そしてその解答は、みんな私のちょっとした思いつきと、ぴったり合っているのです。しかしあとの二問は、私には答えが出ていないのですよ、ヘイスティングス君。
それがどういうことを意味するか、君にわかるでしょう。その人物に対する私の考えがまちがっているかも知れない、そして、その人物ではあり得ないかも知れない。さもないと、私に答えられないその二つの質問が、いつもからんでくるのです。どっちだろうね、ヘイスティングス君! どっちかしらね?」
彼は立ちあがって、テーブルのところへ行き、引出しの錠をあけて、アメリカから来たルーシーの手紙を取りだした。彼はジャップに、その手紙を二三日保管させてもらいたいと頼み、ジャップはそれに同意したのであった。ポワロはそれをテーブルの上にひろげて、熱心に読み始めた。
大分時が過ぎた。私はあくびをして、本を取り上げた。私はどうせポワロの研究の結果は、たいしたものではないだろうと思っていた。われわれはその手紙をすでに、何度読み返して、研究したか知れないのだ。手紙に書かれている問題の人物が、マーシュ大尉でないという事実のほかには、それが誰だったか、全然、示されていないのである。
私は、本のページを繰った。……
私は居ねむりをしていたらしい。……
突然起こったポワロの低い叫び声に、私は急に坐り直した。
ポワロは眼を緑色に光らせて、何とも形容のできない表情で、私を見守っていた。
「ヘイスティングス君、ヘイスティングス君」
「はい、何ですか」
「君は、私がもしこの犯人が順序と方式というものを頭においている人間だったら、このページを破り取らないで、切り取ったといったのを覚えていますか」
「覚えていますよ、それで?」
「私は、まちがっていました。この犯罪には徹頭徹尾、順序と方式が備わっています。このページは切らないで、破らなければならなかったのです。君、見てごらんなさい」
私は見た。
「どうです。おわかりでしょう」
私は首をふった。
「ポワロさんのおっしゃる意味は、犯人は急いでいたということですか」
「急いでいても、いなくても同じことです。君にはわかりませんかね。このページは破らなければならなかった……」
私は首をふった。
低い声で、ポワロはいった。
「私は愚《おろか》でした。私は盲目《めくら》でした。けれども今は……私どもはうまくやっていけますよ!」
路上のインスピレーション
つぎの瞬間、ポワロの気分が変化した。彼は急に立ちあがった。
私には全然わけがわからなかったが、同じようにいそいで立ちあがった。
「さあ、タクシーでいきましょう。まだ九時です。訪問するのに遅すぎるということはありません」
私は彼の後について、いそいで階段をおりていった。
「誰を訪問するんですか」
「リージェント・ゲート街へ行くのです」
私はこの場合、平和を守るのが上策だと判断した。ポワロが質問を受ける気分でないのを、私は見てとったのである。二人がタクシーに並んでいく途中、ポワロの指は神経過敏で、いらいらした調子で自分の膝をたたいていた。それはいつも落ち着きはらっている彼には、似合わないことであった。
私は心のなかで、カーロッタが妹に宛てた手紙の一語一語を繰り返していた。そのころには、私は全文を暗記してしまっていた。それからまた、破り取られたページについて、ポワロのいった言葉を何度も、思いだしていた。
しかしそれは、何の役にもたたなかった。私の知るかぎりでは、ポワロの言葉は、何の意味もなさなかった。なぜ、ページを破らなければならなかったのであろう? 私にはどうしても、わからなかった。
リージェント・ゲート街では、新しい執事がわれわれを迎えた。ポワロはキャロル嬢に面会を求めた。私は二階へ導かれて行く途中、またしても、以前のあの美貌の執事は一体どこへ行ってしまったのだろうと訝《いぶか》っていた。今までのところ、警察には、彼の消息はまったく知れていなかった。彼もまた殺されたのではないかと思って、私は悪寒を感じた。
愉快で、小ぎれいで、いかにも健康的なキャロル嬢の姿が、私をこうした幻想的な考えからよびさました。彼女はポワロを見て、大分おどろいたらしかった。
ポワロは、ていねいにおじぎをしながら、
「あなたがまだこちらにおいでになるのを知って、私はたいそう、うれしくぞんじます。もはやこの家には、おいでにならないのではないかと、心配しておりました」
「ジェラルディン様が、私の去るのを聞きいれないのです。私にいてほしいと頼みましたんです。それに、こんな場合、まったくあのお気の毒なお嬢様は誰かが必要なのです。ほかに何もいらないとしても、お嬢様には、発破をかける者が必要なのです。ポワロさん、私はいざとなると、ずいぶん能率的な発破かけになれるのです」
彼女の口元に作り笑いが浮かんだ。私は、彼女ならきっと新聞記者だの探報者なんかを、てっとり早くかたづけてしまうだろうと思った。
「あなたは、ほんとうに能率の良い模範でいらっしゃるように、お見受けしております。私は能率を非常に重んじておりますが、めったに能率的なお方はないものでございます。こちらの令嬢などは、現実的な頭をお持ちでありませんね」
「お嬢様は夢想家です。完全に非現実的です。前からそうでした。お嬢様が生活のために働かないですむのは、ほんとうに幸福なことです」
「そうでございますね」
「しかし、ポワロさん、あなたはまさか人が現実的だとか、非現実的だなんていうことを話し合いしに、ここへおいでになったのではないでしょう。私は、何をしてさしあげたらよろしいのですか」
私は、ポワロが相手からこんなふうに、要点を切りだされるのを、あまりよろこばないだろうと思った。ポワロはいくぶん、遠まわしに要点へ近づいていく癖があった。だが、キャロル嬢には、そんなのは現実的でなかった。彼女は強い眼鏡を通して、ポワロを疑りっぽく見守っていた。
「実は二三、はっきりさせておきたいことがあるのでございます。で、私はあなたの記憶力に頼ることができると思いまして、伺ったのでございます」
「それがなかったら、秘書の役はつとまりません」と、キャロル嬢はそっけなくいった。
「エッジウェア老男爵は、昨年の十一月に巴里《パリ》へお行きになりましたか」
「はい」
「その日付を伺えましょうか」
「調べましょう」
彼女は立ちあがって、引出しの錠をあけ、小さな綴じこみを取りだし、ページを繰《く》って、最後に、読みあげた。
「エッジウェア男爵は十一月三日|巴里《パリ》へ出発、同七日帰宅、それから十一月二十日に出かけ、十二月四日帰宅。そのほかに何か?」
「その時の目的は?」
「最初の時には、後で競売にだせるような、小像をいくつか買うためでした。第二回目の時には、私の知るかぎりでは、これという目当てがあって出かけたようではありませんでした」
「令嬢は、そのどっちかの時に、父上と一緒においでになりましたか」
「お嬢様は、どんな場合にも、決して男爵に同行なすったことはありません。男爵はお嬢様をお連れになるなんていうことは、考えてもごらんにならなかったでしょう。その当時、お嬢様は修道院の学校にいらっしたのですが、男爵は自分の娘に会いに行くなんていうこともまた、どこかへ連れて行くなんていうこともしなかったと思います。もしそんなことをしたら、私はびっくり仰天したでしょう」
「あなたご自身は、同行なさいませんでしたか」
「いいえ」
彼女は不思議そうにポワロを見ていたが、唐突にいった。
「あなたは、なぜこんな質問をなさるんですか、どういうわけなのですか」
ポワロは、それには答えなかった。その代り次のようなことをいった。
「令嬢は、従兄のマーシュ大尉を大変に好いておいでですか」
「ポワロさん。そんなことが、あなたにどんな関係があると、おっしゃるんです」
「令嬢は先日、私に会いにおいでになりました。ごぞんじですか」
「いいえ、知りませんでした。何を申し上げにいらしたのですか」
彼女はぎょっとしたらしかった。
「令嬢は……実際にそういう言葉をお使いになったのではありませんが、非常にお従兄さんを好いているとおっしゃいました」
「それだのに、なぜ、それを私にお尋ねになるのですか」
「なぜかと申しますと、私はあなたのご意見を伺いたいからでございます」
今度は、キャロル嬢は答えることにした。
「あまりに好きになりすぎていらっしゃると思います。以前からそうでした」
「あなたは今のエッジウェア男爵は、お嫌いですか」
「そうとはいいません。私は、あの方の役に立てないというだけのことです。あの方には、真剣なところがありません。それは愉快な人にはちがいありません。途方もないことをいって、他人を面白がらせたりします。でも私はお嬢様が、もう少し気骨のある人に、興味をお持ちなさればいいと思っています」
「マートン侯爵のような方ですか」
「私はあの侯爵はよく知りません。とにかく、あの方はご自分の地位に対する本分ということを、真面目にとっておいでになるようです。けれども、侯爵はあのたいした女……ジェーンを追いまわしています」
「ご母堂は……」
「それはご母堂は、侯爵がジェラルディン様と結婚なさるほうを望んでおいででしょうね。でも母親に、何ができましょう。息子というものはみんな、母親が結婚させたいと思う娘とは結婚しないものです」
「あなたはマーシュ大尉が、お嬢様を好いておいでだとお思いになりますか」
「現在のような状態では、好きだって好きでなくたって、そんなことは問題じゃありません」
「では、あなたはマーシュ大尉が、有罪の宣告を受けると考えていらっしゃるのですか」
「いいえ、私はあの方がやったとは思いません」
「でもやはり、大尉は有罪の宣告を受けられるかも知れませんね」
キャロル嬢は、それに答えなかった。
ポワロは立ちあがりながらいった。
「これ以上お邪魔してはなりません。それはそうと、あなたはカーロッタという女優をごぞんじですか」
「ええ、あの人の芝居を見ました。なかなか巧者ですね」
「さよう、なかなか巧者です……」
彼は何か考えこんでいるらしく、ぼんやりしていたが、急に気がついて、
「ああ、手袋を忘れました」といって、テーブルのほうへ引き返して手をのばした拍子に、袖口が、キャロル嬢の鼻眼鏡に触れて、下へ落してしまった。ポワロはまごついて、謝罪しながら取り落した手袋と、その鼻眼鏡とを拾いあげた。
「大変にお騒がせして、何とも申し訳ございませんでした。実は昨年、エッジウェア男爵が誰かと争われた証拠でもないかと思いましてね。それが巴里《パリ》に関する質問になった次第でございます。微かな望みかも知れませんが、令嬢は、犯罪者はお従兄《にい》さんではないと確信しておいでのようでしたので……令嬢は驚くほど確信をもっていらっしゃいました。ではさようなら、お騒がせしてまことに失礼いたしました」
われわれが戸口まで行った時、キャロル嬢が呼びもどした。
「ポワロさん、これは私の眼鏡ではありません。これでは何も見えません」
「何でございますか?」
ポワロはびっくりして、相手の顔を見つめていたが急に満面に微笑をみなぎらせた。
「私は何という、とんまでございましょう! 手袋とあなたの眼鏡とを拾うのに、こごんだ拍子に、自分の眼鏡がポケットから滑り落ちたのでした。両方とも同じようなので、取りちがえたのでございます」
二人は微笑しながら、眼鏡を交換し、われわれは、暇《いとま》を告げた。われわれが家の外へ出た時、私はいった。
「ポワロさん、あなたは、眼鏡なんか使わないじゃありませんか」
ポワロは、にこにこしながらいった。
「ご明察! 何とすみやかに要点をつかまれしことよ!」
「それは、カーロッタのハンドバッグに入っていた眼鏡でしょう」
「そのとおり」
「どうしてあなたは、キャロル嬢のものかも知れないと思ったんですか」
ポワロは、肩をすくめた。
「この事件の関係者のなかで、眼鏡をかけている唯一の人だからです」
「ところが、彼女のではなかったですね」と、私は考え深くいった。
「彼女はひどく念を入れて否定しましたね」
「あなたは、何という疑り屋なんでしょうね!」
「どういたしまして! どういたしまして! おそらく彼女は、真実のことを申したのでしょう。私は真実のことをいったのだと思います。さもなかったら、すりかえた品と気がつくはずはありません。どうです。私はなかなか器用にやったでしょう」
われわれは、足の向くままに町を歩いて行った。私はタクシーを拾おうといったが、ポワロは首をふった。
「私は考える必要があるのです。いっしょに歩いて助言してください」
私はもう何もいわなかった。蒸《む》し暑い晩であったし、別に急いで家へ帰ることもないと思った。
「巴里《パリ》に関する質問は、カモフラージュだったのですか」と、私は好奇心をもって尋ねた。
「全部がそうというわけではありません」
「まだDという頭文字の謎は解けていませんね。この事件に関係しているうちで一人として、Dという字のつく者がないのは、おかしいですね……おかしいです……ああ、そうか、ロス君の名はドナルドだからDがつく……ところで彼は死んでしまった」
「さよう、彼は死んでしまいました」と、ポワロは悲痛な声でいった。
私は過ぐる夜、こうして三人でぶらぶら歩いたことを思いだした。そしてその時のあることを思いだして、激しく息をすいこんだ。
「ポワロさん、覚えていますか?」
「何を覚えているかとおっしゃる」
「ロス君が食卓についた人間が、十三人だったということを話したではありませんか。そして一番最初に席を立ったのは、彼だったのです」
ポワロは答えなかった。私は、迷信がほんとうになった時に、誰でも感じるような少し落ちつかない気持ちになった。
「奇妙だ! あなたも奇妙だと思うでしょう」と、私は低い声でいった。
「何ですって?」
「僕はね、ロス君と十三という不吉な数のことを、奇妙だといったんです。ポワロさんは何を考えているんですか」
あきれた、というよりも愛想がつきたことには、突然ポワロが腹をかかえて大笑いした。何かひどく面白いことがあるらしく、からだをゆすって笑いつづけるのであった。
「一体、何をそんなに笑っているんです」
「おう! おう! おう!……何でもないです。このあいだ聞いた謎々のことを考えたらおかしくなったのです。君に聞かしてあげよう。足が二本で、羽毛があって、犬みたいに吠えるのは何か?」
「ひよこですさ。そんなのは子供のころから知っていましたよ」
私は、うんざりして、いった。
「ヘイスティングス君は、何でもよく知っておいでだ。君は『知りませんね』というべきです。そこで私が『ひよこ』というと、君は『ひよこは犬みたいに吠えたりしませんよ』という。すると私はこういう。『ああ! それはこの謎をもっと、むずかしくするために、いったのさ』どうでしょう、ヘイスティングス君。かりにDという頭文字の説明も、こんなところにあるとしたら?」
「何たる戯言《たわごと》です!」
「そうです。ある種の頭脳の持ち主以外の人には、戯言に聞こえるでしょうね。ああ、誰か聞いてみる相手がありさえすれば……」
われわれは、大きな映画館の前を通っていた。そこからぞろぞろ流れ出て来た人々が、それぞれ、自分たちのこと、奉公人のこと、友達のこと、異性のこと、なかには今見てきた映画のことなど話し合っていた。そうした一群とともに、われわれは道路を横断した。
「よかったわねえ。……ブライアンは、素敵だと思うわ、私、あの人の出る映画は欠かさないのよ。とうとう書類をもってあの崖を馬でかけおりていくところなんて、すばらしかったわ」と若い娘は溜息まじりにいった。
連れの男は、それほど熱中してはいなかった。
「馬鹿げた筋だよ。最初にエリスに尋ねるだけの頭さえありゃ、何でもないものをさ、すこし智慧の働く人間だったら、誰だってそうするんだ……」
それから先は聞こえなくなった。歩道へ着いて、ふと振り返ってみると、ポワロは、車が激しく往来する車道の真ん中に突っ立っているのであった。私は思わず眼を覆った。急停車するブレーキの軋みや、バスの運転手のわめき声が起こった。そのなかをポワロは悠然と歩いて、曲り角へたどり着いた。彼はまるで夢遊病者のように見えた。
「ポワロさん、気でもちがったんですか」と私はいった。
「いいえ、あることがぴんときたのです。ちょうど、あの時にね」
「ちょうどあの時なんて、とんでもない。もう少しで、それがあなたの最後の時になるところだったではありませんか」
「何はともあれ、ヘイスティングス君、聞いてください! 私は今まで盲目《めくら》で、つんぼで、無神経だったのです。ところが今や私は、すべての問題の答えがわかったのです。そうです。五問全部の解答を得ました。……実に簡単です。子供だましみたいなのです……」
エリス鼻眼鏡をかけて帰る
われわれは、家まで奇妙な散歩をした。
ポワロは明らかに、頭に次々と浮かんでくる考えをたどっているようであった。時折、声をひそめて何かつぶやいていた。一つ二つは私に聞き取れた。一度は『ろうそく』、それから『一ダース』というようなことをいった。もしも私がほんとうに頭がよかったら、彼が何を考えているのか、ついていけただろうと思う。それはまったく明白な証拠だったのだが、その時は、私にとって、ちんぷんかんぷんにしか聞こえなかったのであった。
家へ着くやいなや、彼は電話に飛びついた。彼はサボイ・ホテルを呼びだして、エッジウェア男爵夫人に話したいと申し込んだ。
「駄目ですよ、望みなし」と、私はいくぶんおもしろがっていった。私はポワロによくいうのだが、こんなに世のなかの消息に疎《うと》い人はない。
「知らないんですか、彼女は新しい芝居に出演するんです。劇場へ行っているにきまっていますよ。まだ十時半ですからね」といったが、彼は私になど注意を払わなかった。
ホテルの支配人は、私がいったと同じことをいったらしく、ポワロは、
「ああ、そうですか、では夫人の女中さんに願います」といった。
間もなく夫人の部屋に電話がつながれた。
「エッジウェア男爵夫人の女中さんですね。こちらはエルキュール・ポワロです。私を覚えていらっしゃいますか」
「……」
「よろしいですか。ある重要なことが起こったのですよ。それで今すぐに、あなたにおいで願いたいのですがね」
「……」
「しかし、非常に大切なことなのです。こちらの住所を申しますから、気をつけて聞いていらしてくださいよ」
彼は二度くりかえして、それをいうと、考え深い面持で受話器をかけた。
「どういうつもりなんですか。あなたはほんとうに、何か情報をもっていらっしゃるのですか」
「いいえ、私にある情報を与えるのは、彼女なのです」
「何の情報ですか」
「ある人物についての情報です」
「ジェーンですか?」
「ああ、男爵夫人についての情報なら、必要なだけ全部入手しております。裏も表も知っております」
「では、誰ですか」
ポワロは例の、人を極度にいらいらさせるような微笑を浮かべて、私に待って見ていろといった。
それから彼は大騒ぎをして、部屋をきれいにかたづけた。
十分後に女中が到着した。彼女は少し神経質になって不安な様子をしていた。小柄なからだにきちんと黒いドレスをつけて、疑わしげにそっと部屋のなかをのぞきこんだ。
ポワロは、いそいそと前へ進み出た。
「ああ、来てくださいましたね、たいそうご親切に! さあ、こちらへおかけください、エリスさんとおっしゃいましたね」
「はい、エリスでございます」
彼女はポワロのすすめた椅子に、腰かけた。そして両手を膝の上に重ねて、ポワロと私とを、かわるがわるに見た。血の気のない小さな顔は落ち着きを示し、薄い唇は一文字にむすばれていた。
「エリスさんに、まず最初に伺いますが、エッジウェア男爵夫人づきにおなりになってから、何年になりますでしょうか」
「三年でございます。旦那様」
「私の思ったとおりでした。あなたは奥様の身辺のできごとはよく知っておいでですね」
エリスは答えなかった。彼女は不満を示した。
「私の申す意味は、奥様に敵があるとしましたら、誰だか見当がおつきでしょうということなのです」
エリスは唇を、さらに固くむすんだ。
「たいていの女は、うちの奥様に意地の悪い仕打ちをしようとするのでございますよ、ええ、みんな奥様を嫌います。嫌な焼餅でございますよ」
「同性は、奥様を好かないというわけでございますね」
「そうなのでございますよ、奥様があまり美しくていなさるからでございます。それに奥様はいつでもお望みのものは、何でも手に入れて、おしまいになりますでしょう。劇場関係の仕事には、いろいろと嫌な焼餅がございましてねえ」
「男の方たちはどうでございますか」
「奥様は、殿方ですと、何とでも思いのままになさることが、おできになります。それはほんとのことでございますよ」
と、エリスはしなびた顔に、陰気な薄笑いをうかべていった。
「私も同感です。けれども、その事実を認めるとしましても、時にはそうはいかない場合も生じることがあるのではないかと……」といいかけて、ポワロは言葉を切ってしまった。そしてまた別の調子でいった。
「あなたは、映画俳優のブライアン氏をごぞんじですね」
「はい」
「よく知っておいでですか」
「はい、とてもよく知っております」
「こう申しても、まちがっていないだろうと思いますが、一年ほど前にブライアン氏は奥様と深い恋仲だったのではないでしょうか」
「首ったけでいらっしゃいました。恋仲だとは申しません。だったと申し上げます」
「そのころブライアン氏は、奥様が自分と結婚すると信じていらしたのですね。そうでしょう?」
「はい、そうでございます」
「奥様は本気で、ブライアン氏と結婚することを考えておいででしたか」
「はい、考えておいででございました。卿が離婚をお許しくださりさえすれば、結婚なすったのだとぞんじます」
「そこへマートン侯爵が、登場されたというわけでございますね」
「そうでございます。侯爵様はアメリカを旅行しておいでになったので、うちの奥様に一目ぼれなすったのでございます」
「それでブライアンさんの見込みは、おさらばになってしまったのでございますね」
エリスは、うなずいた。
「もちろん、ブライアンさんはたいしたお金儲けをしていらっしゃいますが、マートン侯爵はお金持ちの上に、地位もお持ちでございます。うちの奥様は身分のことに、とても夢中になる方でございます。侯爵様と結婚なされば、英国で一流の貴婦人の一人におなれになりますから」
女中の声はいやに気取っていたので、私は面白がって聞いていた。
「それで、ブライアン氏はお払い箱になったと申すわけでございますね。氏はひどく感情を害されましたでしょうね」
「あの方はおそろしい振舞いをなさいましたよ」
「ああ! そうですか」
「一度なんか、ピストルで奥様を嚇しました。それから人騒がせをしたり、まったく私も恐ろしくなりました。お酒ばかり召し上がって、めちゃめちゃにおなりでした」
「そうして最後には、おさまったのですね」
「そんな様子でございました。でもやはりつきまとっていらっしゃいます。私はあの方の眼つきが気に入りません。それで奥様にご注意申し上げたんですが、奥様は笑っていらっしゃるだけなのでございます。奥様はご自分の力を知って楽しむというふうな方なのでございます。その意味は、旦那様、おわかりでいらっしゃいますね」
「はい、私にはあなたのおっしゃる意味が、わかると思います」と、ポワロは考えこみながらいった。
「でも近頃は、私どもはあまりあの方をお見かけしません。私は、これはいいことだと思っております。あの方もそろそろ、気が鎮まっていらしたのだとぞんじます」
「たぶんね」
ポワロのいった言葉に、何か彼女の心を打つものがあったとみえて、彼女は心配そうに尋ねた。
「旦那様は、まさか奥様の身が、危ないとお考えになっていらっしゃるのではございませんでしょうね」
「そうです。奥様は非常な危険に瀕《ひん》しておいでになると思います。しかし、その危険はご自分でもたらしたものです」
ポワロの手は、ストーブの上の飾り棚に沿って、あてもなく動いていたが、それが、薔薇をさした花瓶にひっかかり、花瓶がひっくり返って、水がエリスの頭と顔にかかった。ポワロはそそっかしい人ではないのを知っている私は、その事実から、彼の心がひどく乱れている証拠だと推定した。彼はすっかり狼狽し、大急ぎでタオルを持って来て、女中の顔や首をやさしく拭いてやったり、詫びの言葉をおしげなくあびせたりした。
最後に一ポンド紙幣が、彼の手から彼女の手に移された。そして彼は、わざわざ来てくれたことを感謝して彼女を戸口まで送って行った。
「まだ早うございます。奥様のお帰りになる前に、おもどりになれますよ」と、ポワロは時計をちらと見ていった。
「大丈夫でございます。奥様は夜食にお出かけのはずでございますし、それに特別においいつけのあった時以外は、私はいつもお帰りをお待ちしないで、先に休ませていただくことになっておりますんですから」
突然、ポワロは意表に出た。
「失礼ですが、あなたはびっこをひいていらっしゃいますね。どうかなさいましたか」
「何でもございませんのです。足が少し痛むので」
「ああ、底豆でございますね」
ポワロは、同病相憐れむという調子でつぶやいた。
まさしく底豆であった。ポワロは自分に、驚くほどよく効いたという薬や手当のことを、こまごまと述べた。
ついにエリスは帰って行った。
私は好奇心で一杯になっていた。
「さて、ポワロさん」と私はいった。
ポワロは、私の熱心さを見て微笑した。
「今晩はもうこれでおしまいです。明日の朝早く、ジャップ警部に電話をします。それからブライアン氏にも電話をかけます。あの人はきっと、何か興味あることを私どもに話してくれますでしょう。それから、私は、あの人に借りがあるから、それを、返そうと思うのです」
「ほんとですか?」
私は横目でポワロを見た。彼は妙なふうに、ひとりで、にやにやしていた。
「とにかく、あなたは、ブライアンに、エッジウェア男爵を殺した嫌疑をかけるわけにいきませんよ。ことに今晩、ああいう話を聞いた後ではね。それでは復讐をして、ジェーンに得をさせることになるではありませんか。女の夫を殺してやって、女がほかの男と結婚する便宜をはかってやるなんていうのは、どんな男にとってもあまりに利害関係を離れすぎていますよ」
「何と深遠なる判断ではござらぬか!」
「もうそんな皮肉はよしてください。あなたは一体さっきから、何を騒ぎ立てていらっしゃるんですか」と、私は少しいらいらしていった。すると、ポワロは、問題のものをかかげて見せて、
「エリスの鼻眼鏡ですよ。彼女が忘れていったのです」
「そんなでたらめを! エリスはちゃんと鼻眼鏡をかけて、帰って行ったではありませんか!」
ポワロは、静かに頭をふった。
「ちがいます! 絶対にちがいます。エリスが、かけていったのは、カーロッタ嬢のハンドバッグに入っていた鼻眼鏡ですからね!」
私は息がとまるほど、驚いた。
ポワロ、借りを返す
翌朝、私がジャップ警部に電話をかけることになった。
彼の声は元気がなく聞こえた。
「ああ、ヘイスティングス大尉ですかい。今度は一体、何があるっていうんですね」
私は、ポワロの伝言をした。
「十一時に来い? はい行きますよ。ロスの死について、われわれを助けてくれるような材料はないですかなあ。何かあれば、何とかしようもあるですが、全然何の手がかりもないですからねえ。実に奇怪な事件でさあ」
「僕の考えでは、何かあなたに材料があるらしいですよ。とにかく、非常にうれしそうにしていますからね」
「そりゃいいぞ! よろしい、ヘイスティングス大尉。では行きますからね」
次に私はブライアンを呼びだして、ポワロにいいつかったとおりを伝えた。ポワロが何か興味あることを発見したので、きっとブライアン氏がそれを聞きたいだろうと思うからと。どんなことだと聞かれたから、ポワロは私に何も打ちあけないから、私にはわからないと答えた。しばらく間をおいてから、ブライアンは、
「よろしいです。伺います」といって、電話を切った。
驚いたことには、そうこうするうちに、ポワロはドライバー女史に電話をかけて、その席に出るように誘った。
彼は落ちついて、厳かな様子をしていた。私は何も質問しなかった。
ブライアンが第一番に到着した。彼は健康で元気であったが、私の気のせいか、何か不安げなところがあるように見えた。ほとんど同時ぐらいに、ドライバー女史が到着した。彼女はブライアンを見て驚き、彼も同じように驚いていた。
ポワロは椅子を二つ前へだして、二人を腰かけさせた。彼は時計をちらと見た。
「もうすぐ、ジャップ警部が見えるでしょう」
「ジャップ警部ですって?」
ブライアンは、ぎくりとした。
「はい、私は警部に、警察官としてでなく、友人としてここへ来てもらうことにいたしましたのです」
「なるほど」
彼はそれっきり沈黙してしまった。ドライバー女史は彼のほうをちらと見たが、すぐ視線をそらしてしまった。彼女は今朝は、何かに心を奪われている様子であった。
ちょっと遅れて、ジャップが部屋へ入って来た。彼はブライアンやドライバー女史を見て、いささか驚いたらしかったが、そぶりには表わさなかった。彼は例のおどけた調子で、ポワロに挨拶をした。
「さて、ポワロさん、こりゃどういうことなんですかい、あなたのすばらしき方式とやらのご披露かな?」
「いいえ、すばらしいことなど、何もございません。ほんのちょっとしたお話です。ごく単純なお話で、どうしてもっと早く気がつかなかったのかと、お話するのがはずかしいくらいでございます。皆様のおゆるしを得まして、私はこの事件の、そもそもの初めから、述べさせていただきたいとぞんじます」
ジャップは、溜息をついて、時計をだして見た。
「一時間以上かからんのだったら……」
「それはご安心ください。そんなに長くはかかりません。いかがです、あなたは、誰がエッジウェア男爵を殺したか、誰がカーロッタ嬢を殺したか、誰がロス青年を殺したか、お知りになりたいのでしょう」
「私ゃ、その最後のを、殺した人間を知りたいですなあ」とジャップは用心深くいった。
「私の申し上げることをお聞きになれば、何もかもおわかりになるでしょう。よろしいですか、私は謙虚に話します」
ポワロが謙虚になるなんて、信じがたいことだと私は思った。
「私は一歩一歩と、自分のたどった道をあなた方に、示してお目にかけます。私がどんなふうに瞞着《まんちゃく》されたか、私がどんなに間抜けで鈍感であったか、私がどんなにわが友ヘイスティングス君との会話を必要としたか、それから赤の他人の口からもれた偶然の会話が、私を正しい追跡の道へ導いたことなどを、全部皆様にご披露申し上げます」
そこでポワロは休み、咳払いをして、私がいう『お説教声』で語り始めた。
「私は、サボイ・ホテルでの夕食会から始めます。エッジウェア男爵夫人は、私に近づいて言葉をかけ、内密の会見を申し込みました。夫人は夫を追い払いたいと希望しました。その会見の終りに……私はそういうことを公言するのは、賢いことではないと思いましたが、……夫人はタクシーで乗りこんで行って、自分で夫を殺してやるといいました。その言葉は、ちょうどそのとき部屋へ入って来たブライアン氏に聞かれました」
ポワロは、ブライアンのほうをふり向いて、
「そうでしたね」といった。
「僕らはみな聞きました、ウィッドバーン夫人も、マーシュ大尉も、カーロッタ嬢も、あのとき居合せた者は全部聞きました」と映画俳優はいった。
「ああ、そうです。おっしゃるとおりです。で、私は男爵夫人のその言葉を、忘れることはありませんでした。ブライアン氏は、夫人のその言葉を私の心にしっかりと刻みつける目的で、翌朝私を訪ねて来ました」
「そんなことないです……僕が来たのは……」と、ブライアンが、怒りを含んで叫ぶのを、ポワロは手をあげて制した。
「あなたは、表向きは、自分が尾行されているという、でたらめの作り話をしに来ました。子供だって見抜けるような嘘っぱちを。あなたはきっと古い映画の筋からとったのでしょう。承諾を得なければならないある女だの、金歯によってあなたが気づいたという男だのと。いまどき、金歯を入れている若い男などありません、特にアメリカではね。金歯などというのは、救いがたき時代おくれの歯科医術ですよ。すべてが、馬鹿げた作り話でした。あなたはでたらめな話をした後で、真実の訪問の目的に入りました。……エッジウェア男爵夫人に対する私の心をかくらんに来たのです。夫人が夫を殺す時の下地をつくるために、その点をはっきりさせたのです」
「あなたが何を話しているのか、僕にはさっぱりわからない」
ブライアンはつぶやいた。彼の顔は死人のように青ざめていた。
「あなたは、男爵が離婚に同意するだろうという考えを、嘲笑しました。あなたは私がその翌日男爵に面会しに行くと思っていましたが、実はその約束が変更されたのでした。私はあの日、会いに行くことになり、男爵は離婚に同意しました。これで男爵夫人が殺人を犯す動機は、なくなってしまいました。その上、男爵はそのことについてすでに手紙を夫人に宛ててだしたと語りました。
しかし男爵夫人は、決して、その手紙を受け取らないと断言しました。夫人が嘘をついたのか、男爵が嘘をついたのか、さもなければ、誰かがその手紙を握りつぶしたのです。誰でありましょう?
そこで私は、なぜブライアン氏は私のところへあんな嘘を話しに来たのだろうかと、自分に尋ねてみました。いかなる内面的力にかりたてられたのであろうか。それで私は、あなたがあの夫人に猛烈に恋をしているという考えを持ちました。エッジウェア男爵は、自分の妻が俳優と結婚したがっているのだと私に話しました。さて、そういうことだったが、夫人のほうで心変りしたとします。エッジウェア男爵の離婚承諾の手紙が到着したころには、夫人はあなたではなく誰かほかの人との結婚を望んでいた! そうなるとあなたが、その手紙を握りつぶす理由がでてくる」
「僕はそんなことした覚えはない。……決して」
「やがて、あなたにいいたいだけのことをいわせてあげますから、今は私の話を聞いていてください。
さて、そうなるとあなたの心境は、いかなるものでしょう……拒絶されたことのない、世間に甘やかされてきた偶像の心境は? 私の考えたところでは、それは名状しがたい激怒で、エッジウェア男爵夫人にでき得るかぎりの危害を与えたいという欲求だったと思われます。彼女に与える危害としたら、彼女が殺人罪に問われ……絞首刑になる。これにこしたものはないでしょう」
「こりゃ、たまげた!」とジャップがいった。
ポワロは、彼にむかっていった。
「そうなのです。私の頭のなかで形づくられ始めた、ちょっとした思いつきは、それだったのです。いろいろなことが、その考えを支持するように現われました。カーロッタ嬢には、二人の主なる男友達がありました。……マーシュ大尉とブライアン氏。そこでカーロッタに一万ドルの金を提供して、人をかつぐために一芝居するように申し入れたのは、金持ちのブライアン氏であったということは、あり得ることです。マーシュ大尉が一万ドル与えるといっても、カーロッタ嬢は信用するはずはなかったと思われるのでした。彼女は、大尉が、ひどく金に困っているのを、知っていました。それでブライアン氏のほうが、有望な解決とみたのです」
「僕はそんなこと……僕はしません」
俳優の唇から、しゃがれ声が出た。
「カーロッタ嬢が妹に書き送った手紙の写しが、アメリカから電報で来た時には、私はすっかり狼狽してしまいました。私の推理がまったく誤っていたように思われたのです。しかし後になって私はある発見をしました。その手紙の原物を送ってもらいましたので、最初全文だと思って読んでいた手紙の一ページが抜けていることがわかり、『彼』とあるのはマーシュ大尉ではなく、誰かほかの人をさしているものだろうという推理が生れたのです。
もう一つ証拠がありました。マーシュ大尉は逮捕された時に、自分はブライアン氏があの夜男爵邸へ入って行くのを見たと思うと、はっきり陳述しました。しかし容疑者から出た証言では、重要視されません。それにブライアン氏にはアリバイがありました。それは当然のことです。予期されていたことです。ブライアン氏が殺人者でありましたのなら、アリバイは絶対に必要でした。そのアリバイを確証した人物は、ただ一人……ドライバー女史だけでした」
「それがどうだっていうの?」女史は鋭くいった。
「何でもございませんよ、マドモワゼル。ただその同じ日に、あなたがブライアンさんと昼食をともにしていらっしゃるのをお見かけしたことと、あなたがわざわざ、私どものテーブルまでおいでになって、お友達のカーロッタ嬢が、特別に親しくしておいでだったのは、マーシュ大尉だったと、私に信じさせようとなすったと申すだけのことでございます。信ずべき筋から、私はブライアン氏だったと思っておりましたが……」
「そんなこと絶対にない」と映画俳優は、きっぱりといった。
「あなたは気がつかなかったのでしょうが、私は、それは真実だと思います。エッジウェア男爵夫人に対するカーロッタ嬢の嫌悪の情が、一層よくそれを語っております。その嫌悪は、あなたゆえのものだったのです。あなたは、夫人にすげなくされたことを、みんなカーロッタ嬢にお話しになりましたでしょう。そうじゃありませんか?」
「そうです。……僕は誰かに、話さなければいられない気持ちだったのです。それに彼女は……」
「同情深かった。そうです。あの方は同情心の厚い方だと、私も気がついておりました。それはそれでよろしいとして、次に、何が起こったでしょうか。マーシュ大尉の逮捕、それですぐにあなたはいくぶん元気を取りもどしました。あなたの抱いていた心配は、すべて解消しました。エッジウェア男爵夫人が、最後の瞬間に気を変えてパーティに出席したために、あなたの計画に食い違いが生じたにもかかわらず、ほかの人間が身代りになって、あなたのすべての懸念を取り去ってくれました。ところが昼食会で、あなたは、あの快活な、だが少し血のめぐりの悪い青年ロス君が、ヘイスティングス君に何かいったのを聞いて、自分の身辺が、思ったほど安全でないことを知らされました」
「それはちがう! 僕は何も聞きません……ほんとうに何も……聞きませんでした……」と俳優はわめいた。彼の顔には汗が流れ、眼は恐怖に狂ったように見えた。
すると、その時、この朝のできごとのなかでも最も驚愕すべきことが起こった。
「まったくそのとおりです。さあ、ブライアンさん、これであなたが、このエルキュール・ポワロにでたらめな作り話をもって来た罰は、充分にお受けになったですね」と、ポワロは静かにいうのであった。
私たち一同は息をのんだ。ポワロは夢見るように、語りつづけた。
「皆様、おわかりでしょう。私は自分の誤りを、すっかりお目にかけました。さてここに、五つの問題がございました。それに対する解答、三つまでは適中しておりました。誰が手紙を握りつぶしたか? その問いに答えるのは、明らかにブライアン氏でした。もう一つは、何が急にエッジウェア男爵の決心を変え、離婚を承諾させたかという質問です。それに対する私の考えは、男爵が誰かとまた結婚するつもりだったか……それを証明するような事実は、発見できませんでしたが……あるいは恐喝が、からんでいたのではないかと申すことです。エッジウェア男爵は奇怪な趣味の人でした。彼に関するある事実を明るみにだしたところで、英国の法律では、妻に離婚の権利を与える役には立たないとしても、妻はそれを世間に発表すると嚇して、男爵の決心を動かす梃子《てこ》に使えたかも知れません。私はそういうことだったろうと考えました。エッジウェア男爵は、そうした醜聞に家名をけがされたくなかったのでしょう。それの怒りが、男爵の顔に、誰も見ていないと思った時に、もの凄い形相となって表われたのでしょう。また私が何もいいださないうちに、『手紙のせいではない』と、男爵が妙に急いでいったわけにも説明がつきます。これが三つ目の疑問の解決です。
あとに二つの問題が残りました。カーロッタ嬢のハンドバッグに入っていた、彼女のものではない鼻眼鏡の問題。それからなぜチズウィックで食卓についていた男爵夫人のところへ、電話がかかってきたかという問題。ところがこの二つの問題のどちらも、ブライアン氏に結びつけることはできませんでした。
そこで私はブライアン氏に対する自分の考えが誤っているか、あるいはこの二つの問題が誤っているか、どちらかだという結論に達するよりほかありませんでした。私は絶望して、もう一度手紙を読み直しました。そしてあることを発見しました! そうでございます。あることを発見したのでございます!
ここにその手紙がございます、ごらんなさいまし。紙が破り切ってございます。このとおり、ぎざぎざになっております。そのいちばん初めの『h』の前に何かの文字の切れ端のようなものが見られます。もしもそれが『S』であったとしたなら……前のページの最後にある『彼(he)』というのが、このページにつづいているのではなく、破り取られたページに『彼女(she)』と書いてあって、それが、この次のページに、つづいていたとしたら? そうなるとカーロッタ嬢に、この悪戯《いたずら》の賭けを申し込んだのは、男ではなく女だということになります!
私はこの事件に関係のある女性の名を書きだしてリストを作ってみました。男爵夫人ジェーンのほかに、四人でした。男爵の令嬢ジェラルディン、秘書のキャロル嬢、ドライバー女史、マートン侯爵のご母堂。
この四人のなかで、一番私の注意をひいたのはキャロル嬢でした。彼女は眼鏡をかけていました。あの夜家にいました。男爵夫人に罪をかぶせようとねがったために、不正確な証言をしました。非常に能率的な女性で、こうした犯罪を遂行するだけの勇気をもっています。動機は大変にあいまいでしたが、男爵のところで数年間働いていたのですから、何か私どもには気のつかない動機があったかも知れません。次に私は令嬢ジェラルディンを、どうもこの事件から除外できないような気がしました。令嬢は父親を憎んでいました。自身私にそう申しました。神経質で、すこぶる興奮しやすい性格です。もしもあの夜、令嬢が家へ入って行った時に、巧みに父親を刺し殺し、それから真珠の首飾りを取りに二階へ行ったのだといたしましたら、自分の熱愛している従兄が、タクシーのなかで待っていないで、家へ入って来ているのを見出した時の苦悩はどんなだったでございましょう!
この線に沿っていくと、令嬢の取り乱した態度が充分に説明されます。それは令嬢の無罪を語るものかも知れませんし、また従兄が真実に、罪を犯したのではないかという不安によるものと説明されるかも知れません。カーロッタ嬢のハンドバッグのなかに、発見された黄金の小函にDという頭文字が刻んでありましたが、ジェラルディン嬢の愛称がダイナということが、従兄の口から出たのを聞きました。それから、令嬢は昨年の十一月には巴里《パリ》の修道院の学校にいましたから、巴里《パリ》でカーロッタ嬢に会ったかも知れません。
あなた方は、マートン侯爵夫人をリストに入れるのは、あまりに空想的だとお考えになるかも知れませんが、夫人が私を訪ねて来られた時、私は狂信的な女性とみました。夫人は全生涯をかけて、令息を熱愛しています。その令息の生涯を破壊しようとしている女を、亡きものにする企みなら、自ら計画しかねないと思われました。
次はドライバー女史です……」
ポワロはそこで言葉を切って、ドライバー女史のほうを見た。彼女は無遠慮に、頭を傾げて彼を見返した。
「私はどうなの?」
「何も申し上げることはございません。ただ、あなたがブライアン氏のご友人だということと、あなたの名の頭文字がDだということだけでございます」
「そんなの、大したことでないわ」
「もう一つございます。あなたは、こういう犯罪をなさるだけの頭脳と勇気を、お持ちでいらっしゃいます。誰もこれに疑問を抱く人は、ございますまい」
女史は、煙草に火をつけた。
「おつづけになって!」と彼女は快活にいった。
「ブライアン氏のアリバイは真物《ほんもの》か否か、それを判断しなければなりませんでした。もし真実のものだったとすれば、マーシュ大尉が家へ入って行くのを見たのは、誰であったろうか。それを考えているうちに、私は急にあることを思いだしました。男爵家の美貌の執事は、ブライアン氏に非常によく似ていたのでした。マーシュ大尉の見たのは、彼だったという仮説をたててみました。主人が殺されているのを、最初に発見したのは彼だったというのが、私の考えでした。それに主人のわきには、百ポンドのフランス紙幣を入れた封筒が置いてありました。彼はそれを盗んで、家を忍び出て行って、悪党仲間に預けてきて、エッジウェア男爵の合鍵を使って家へ入ったのです。彼は犯罪が翌朝、女中によって発見されるまで知らん顔をしていました。彼は男爵を殺したのは、男爵夫人だと確信しておりましたし、盗んだ紙幣は紛失が発見される前に、すでに英国の金に替えてしまっていたので、自分の身が危険だとは少しも考えていませんでした。しかし、男爵夫人のアリバイが立ち、警視庁では彼の身許を洗いはじめたので、愕然として逃亡したのです」
ジャップ警部は賛成するように、うなずいた。
「ところで私はまだ鼻眼鏡の問題をかたづけなければなりませんでした。もしキャロル嬢が持ち主でしたら、この件はかたづくように思われました。彼女は手紙を、握りつぶすことができました。カーロッタ嬢と、細部の打ち合せをすることもできましたし、殺人のあった晩に彼女に会った時に、鼻眼鏡が過《あやま》ってカーロッタ嬢のハンドバッグにまぎれこんだのかも知れません。
しかし鼻眼鏡は、明らかにキャロル嬢とは何の関係もなかったのでした。私はがっかりして、ヘイスティングス君と家へ歩いて帰って行く途中、心のなかでいろいろなことを、順序よく方法に叶うように整理しようと試みておりました。すると、奇蹟が起こったのです!
最初にヘイスティングス君は、一定の順序をたてて、いろいろなことを話していました。そしてモンターグ卿の晩餐会で、ロス君が、食卓についた十三人のなかの一人で、彼が一番先に席を離れたということをいいました。私は頭のなかに、自分の考えを次々と並べていたので、ヘイスティングス君の話にあまり注意しておりませんでしたが、その時、厳密にいえば、そんなことはないということが、私の心にひらめいたのでした。ロス君は食事が終ってから、一番先に席を離れたかも知れませんが、エッジウェア男爵夫人のところへ、食事中に電話がかかってきたとすれば、一番先に席を離れたのは、ロス君ではなく男爵夫人だったはずです。夫人のことを考えているうちに、ある謎を思いだしました。私はその謎が、男爵夫人の子供っぽい知性にぴったりするような気がしたのでした。私はその謎を、ヘイスティングス君に話したのですが、彼はビクトリア女王のように、さっぱり面白がりませんでした。次に私は、男爵夫人ジェーンに対するブライアン氏の気持ちを詳しく知るには、誰に尋ねたらいいだろうと考えこんでおりました。男爵夫人自身に尋ねても、聞かせてもらえないのはわかっておりました。やがて道路を横断しはじめた時、通行人の短い言葉が私の耳に入りました。
彼は連れの女性に、誰だかが、
『エリスにきいてみればよかったんだ』といったのでした。その瞬間に、全体のことが電光のように私の脳裡にひらめいたのでした……」
ポワロは、あたりを見まわした。
「そうです、そうです。鼻眼鏡、電話の呼び出し、巴里《パリ》で黄金の小函を受け取りに行った背の低い女、もちろん、それは、男爵夫人ジェーンの女中エリスにきまっております。私は一歩一歩とたどって行ったのでございます。ろうそく……にぶい光……バンデューセン夫人……すべてが、私にわかったのでございます!」
ポワロ、種を明かす
ポワロは、われわれを見まわした。
「さて、皆様、これから、あの晩にどのようなことが起こったか、ほんとうのお話をさせていただきましょう」と、彼は、おだやかな調子で、語りだした。
「カーロッタ嬢はアパートを七時に出ました。彼女はそこからタクシーを拾って、ピカデリーのパレス・ホテルへまいりました」
「何ですって?」と私は叫んだ。
「ピカデリーのパレス・ホテルへでございます。その日の昼間のうちに、彼女は、バンデューセン夫人と名乗ってそこに部屋をとっておきました。彼女は度の強い眼鏡をかけていました。皆様もご承知のように、強い眼鏡はたいそう顔の相を変えるものでございます。彼女は船に連絡するリバプール港行きの夜行列車に乗るので、荷物はもうだしてしまったのだといって、部屋を予約したのです。八時三十分に、エッジウェア男爵夫人が到着して、バンデューセン夫人の部屋へ案内されました。そこで二人は、服装を取りかえました。金髪の鬘《かつら》をかぶり、白タフタのイブニングドレスを着て、貂《てん》のコートをはおり、エッジウェア男爵夫人ジェーンではなく、カーロッタ嬢がホテルを出て、チズウィックのモンターグ卿邸へ車で行ったのでした。そうです。完全にできることです。私はモンターグ卿のお宅へ、夜伺ってみました。食卓にはろうそくが灯してあるだけで、電灯は薄暗くお客のなかには誰もジェーンを親しく知っている人はおりませんでした。そこにはジェーンの金髪と、世界によく知られているかすれ声と態度とがありました。まことに造作ないことでございました。もしそれで、人々を瞞着することができなかったとしても、不成功の場合の手筈は、ちゃんとできておりました。エッジウェア男爵夫人は濃い髪の鬘《かつら》をかぶり、カーロッタの服装をし鼻眼鏡をかけて、ホテルの勘定を支払い、旅行鞄をタクシーに乗せてユーストン駅へ行きました。彼女は手洗所で鬘を取りのぞき、旅行鞄を荷物預り所に預けました。エッジウェア男爵夫人はリージェント・ゲート街へ行く前に、チズウィックへ電話をかけて、エッジウェア男爵夫人にお話したいといいました。カーロッタは電話口で、もし万事うまくいった場合は、ただ『さようでございます』といえば、いいことになっていたのです。申すまでもなく、カーロッタはその電話のほんとうの目的は、知りませんでしたでしょう。その合図の言葉を聞いて、エッジウェア男爵夫人はすぐにリージェント街へ行って、エッジウェア男爵に面会を求め、名乗りをあげて書斎へ入って行きました。そして第一の殺人を犯しました。もちろん夫人は、キャロル嬢が二階から見ていたことは知りませんでした。男爵夫人は十二人の陪審員と裁判官に対して、反証をあげるのは執事の陳述だけだと思っていたことでしょう。ところでその執事は、前に一度も男爵夫人を見たことがなかったのですし、それに顔の半面がかくれて、彼から顔がよく見えないような帽子をかぶっていたのです。
彼女は男爵邸を出るとユーストン駅にもどり、再び鬘で金髪をかくし旅行鞄を受け取りました。さて彼女はカーロッタがチズウィックから帰ってくるまで、時間をつぶさなければなりません。二人は大体の時間を打ち合せてありました。彼女は『角の家』という喫茶店へ行って、時の経つのをもどかしがって、おりおり時計を見ていました。その間に次の殺人の準備をしました。彼女は巴里《パリ》から取りよせた黄金の小函を、カーロッタのハンドバッグに入れました。たぶんその時に、ハンドバッグのなかの手紙を見つけたのでしょう。それとも、もっと前だったかも知れません。とにかく、その宛名を見るとすぐに、危険を嗅ぎつけたのです。開封して見ると、彼女の危惧《きぐ》が正しかったことがわかりました。
おそらく最初は、その手紙を全部破り棄ててしまうつもりだったのでしょう。けれどもすぐに、もっと有効な方法に気がつきました。一ページだけ取ってしまえば、有力な殺人の動機をもつマーシュ大尉に疑惑がむくように読みとられるのを知ったのです。万一、マーシュ大尉にアリバイがあったとしても、彼女《ヽヽ》という言葉が抹殺してある以上は、必ず犯人は男とみなされると考えたのです。それで彼女《ヽヽ》という文字のある一ページを急いで破り取って、封筒へもどし、ハンドバッグのなかへ返しておいたのです。
やがて時間が来たので、彼女はサボイ・ホテルの方向へ歩いて行きました。そして自分の身代わりを乗せたとおぼしい車が通るのを見ると、足を早め、男爵夫人になりすましているカーロッタとほぼ同時にホテルへ入り、階段をのぼって行きました。彼女は目立たない黒い服を着ておりましたから、誰も気がつきませんでした。
ジェーンはカーロッタといっしょに、自分の部屋へ入りました。女中のエリスはいつものように、先に退《さが》って寝てしまっていました。二人はそこで再び服を取りかえました。そしてきっと、ジェーンはカーロッタに、成功を祝って一杯飲もうと申し出たのでしょう、その飲みもののなかに、ベロナールが入っていたのです。彼女は成功を祝し、翌日一万ドルの小切手を送ると約束しました。カーロッタはアパートへ帰りました。彼女は非常に眠くなりました。友達に電話をかけようとしました。たぶんブライアン氏か、あるいはマーシュ大尉でしょう。二人とも、電話はビクトリア局です。彼女はひどく疲れを覚えて、電話をかけるのを断念しました。ベロナールが効きはじめたのです。彼女は寝床へ入りました。そして永久に眠ってしまったのです。こうして第二の殺人も、成功しました。
さて、今度は第三の殺人です。それは昼食会でした。モンターグ卿はエッジウェア男爵が殺された晩、自分のところの晩餐会で、エッジウェア男爵夫人と交わした会話を引き合いに出しました。それはやさしいことでした。しかし、その後で復讐の女神が彼女におそいかかりました。その会話のなかに、『パリスの審判』という言葉が出ました。そしてジェーンは、それを自分の知っている流行の都|巴里《パリ》と取りちがえました。
ところが彼女の向かい側に、チズウィックの晩餐会にも出席していた青年が坐っていました。彼はその晩、エッジウェア男爵夫人がホメロスだのギリシア文化などを論じているのを聞いていました。カーロッタ嬢は読書家で教養のある婦人でした。青年は理解ができませんでした。彼はあの夜あれほど知性に富んだ会話をしていたのに今こうして『パリスの審判』のことも知らずにいるのを不審に思って、夫人を見つめていました。そのうちに、突然、|これは同じ女ではない《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》ということがぴんときたのです。彼はひどく気が転倒しました。彼は自分の考えに自信が持てませんでした。誰かに相談したかった、そして私のことを思いだしました。で、ヘイスティングス君に話しかけました。
それを夫人は聞いてしまいました。彼女は頭の働きが鋭敏なので、自分が何か失策をしたことをすぐに悟りました。彼女は私が五時まで帰宅しないと、ヘイスティングス君がいったのを聞きました。彼女は五時二十分前に、ロス青年のアパートへ行きました。彼は戸をあけて彼女を見て驚きました。けれども彼は恐れるなどという気持ちは、みじんもありませんでした。屈強な青年は女を恐れたりしません。彼は彼女を伴って、食堂へ入って行きました。彼女は何か作り話をして聞かせました。きっと彼女は膝まずいて、彼の首に腕をかけたのでしょう。そして前にやったように、敏捷、的確な一撃を加えたのです。たぶん、彼は呻き声をあげ……それでおしまいになったでしょう。こうして、彼の口も封じてしまったのでした」
沈黙がつづいた。やがて、ジャップがしゃがれ声でいった。
「あなたは、彼女がみんなやったといわれるのですか」
ポワロはうなずいた。
「しかし、男爵が離婚する意志をもったのに、なぜ、そんなことをしたんですか」
「なぜなら、マートン侯爵は英国カトリック教会の大黒柱だからです。侯爵は、夫がまだ生きているのに、その妻だった女性と結婚しようなどとは、夢にも思わないでしょうから。彼は狂信的な節操をもった若者です。彼女は未亡人になれば、彼と結婚できると確信しておりました。疑いもなく、彼女は離婚を試験的に提案してみたのですが、彼はその餌には飛びついて来なかったのでしょう」
「ではなぜあなたを、エッジウェア男爵のところへ行かせたのですか」
それまで、四角ばっていたポワロは、急にいつもの彼らしい、寛いだ態度になった。
「それは私の目をくらますためでございます! 殺人の動機がないという事実を、私に証明させるためでございます。はい、あのご婦人は、人もあろうに、このエルキュール・ポワロを猫の手に使おうとしたのでございますよ。そして、それに成功したのでございますからね! 何という不思議な頭脳でございましょう! 子供みたいでいて狡猾で、あのご婦人は芝居がおできになります! あの方が、決して受け取ったことがないと断言した男爵の手紙のことを話した時の驚きようなど、ほんとうに見事に演じたものでございましたよ。三つの犯罪に対して、あのご婦人は少しでも、後悔したことがございますでしょうか? 私は決して、そんなことはなかったと、誓ってもいいとぞんじます」
「僕はジェーンがどんな女か、あなたに話しましたよ。あなたに話したじゃないですか。僕は彼女が彼を殺すと思っていましたよ。予感がしたんです。で、僕は何だか彼女が、うまく逃げてしまうんではないかと心配していたんです、あの女は利口です……半分馬鹿みたいでいて、悪魔のように利口なんです。僕はあの女が苦しめばいいと思う!……僕はあの女が苦しめばいいと思う! 絞首台へつるされればいいと思う!」
ブライアンは顔を真っ赤にして、だみ声になって叫んだ。
「まあ、まあ」といって、ドライバー女史は、公園でよく聞く、乳母が子供をなだめるような調子で、彼をなだめた。
「それから、ほれ、Dという頭文字と、十一月|巴里《パリ》にてと蓋の内側に彫った黄金の小函、あいつはどうしたんですかなあ」とジャップ警部がいった。
「男爵夫人が手紙で注文し、女中のエリスが受け取りに行ったのでございます。エリスは包みを受け取って代金を払っただけで、包みの内容は少しも知らなかったのでございます。それから、男爵夫人はバンデューセン夫人を演じるのに使う、鼻眼鏡もエリスから借りました。夫人はカーロッタのハンドバッグに、それを入れておいて忘れたのでございます。これが夫人の一つの間違いでございました。
ああ、実に、これらのことはみんな、往来の真ん中に立っていた時に、私の頭に浮かんできたのでございます! あのバスの運転手が私にあびせました言葉は、無礼なものでございました。けれどもたしかに、どなられ甲斐がございました。エリス! エリスの鼻眼鏡! エリスが巴里《パリ》に、黄金の小函を受け取りに行った! そしてその結果、ジェーンが浮かびあがってきた! ジェーンは鼻眼鏡のほかに、まだ何かエリスから借りたにちがいございませんね」
「何ですか?」
「足の底豆を切りとるナイフ……」
私は身ぶるいをした。
ちょっとの間、沈黙がつづいた。
その時、ジャップ警部が返事を頼りにするような、妙な声でいった。
「ポワロさん、これは真実ですか」
「さよう、ほんとうでございますとも」
今度はブライアンが、彼独特の言葉で不服そうにいった。
「もしもし、僕を一体、どうしてくれます? いかなるわけで、今日僕をここへ呼んだのですか。なぜ、僕を死ぬほど嚇したんですか」
ポワロは、彼を冷やかに見返しながらいった。
「あなたを罰するためです。あなたの無礼をこらしめるためでございますよ。あなたは、よくもこのエルキュール・ポワロを愚弄しようとなされましたな!」
するとドライバー女史が、笑いだした、彼女はさんざん笑ったあげくいった。
「ブライアン、いい気味だわ」
それからポワロにむかって、
「私ね、マーシュ大尉が犯人でなくて、とてもうれしいですよ。私は前から、あの人好きでしたよ。それから私は、うれしくて、うれしくてたまらないんですよ。カーロッタを殺した犯人が、罰せられないでしまうなんていうことがなくて! それからブライアンのことですがね、ポワロさんにお話しますけど、私、この人と結婚するんですのよ。でね、もしこの人がハリウッド流に一年か二年して離婚しては、また誰かと結婚するなんて気でいるんだったら、生涯で一番大きな間違いをすることになるんですよ。この人は私と結婚したが最後、一生私にとっついていなければならないんですからね」
ポワロは彼女を見た。彼女の意志の強そうな顎を見た。……それから、彼女の焔のような髪を見た。
「それは可能でございますね、きっとそのとおりでございましょう。私は、あなたのことを、何でもなさるだけの勇気を持っておいでになると申し上げましたね、そうです。映画スターと結婚する勇気さえおありになる!」
人間記録《ヒューマン・ドキュメント》
それから一日二日後に、私は急にアルゼンチンへ呼びもどされた。それでジェーンにはついに会わないでしまった。ただ新聞で、彼女の裁判の模様と死刑判決がくだされたことを読んだだけであった。意外にも……すくなくも私には意外にも、彼女は事実をつきつけられて、完全に打ち砕かれてしまった。自分の利口さを誇り、自分のやるべき役割を演じていられる間は、彼女は間違いをしなかったが、一度誰かに実態を見破られたとなると、すっかり自信を失って、まるで子供同様に、自分の欺瞞を持ちこたえていけなくなった。彼女は反対訊問にあうと、ひとたまりもなくまいってしまった。
前に述べたようなわけで、私はあの昼食会でジェーンに会ったのが、最後であった。しかし、彼女のことを考えると、いつも私の眼前に浮かんでくるのは、サボイ・ホテルのあの部屋で、彼女が真剣な余念のない顔つきで、高価な黒い衣装を着てみている光景であった。あの時の彼女は、少しも気取らない、自然の姿だったと私は信じている。彼女は自分の計画を遂行してしまったので、もはや何の不安も心配も感じなくなっていたのだ。おそらく彼女は、自分の犯した三つの殺人に対して、何ら悔いるところもなかったろうと思われる。
私はここに、彼女の手記を再録することにする。これは彼女が死後、ポワロに送るように指定したもので、非常に美しく、まったく良心を持たない女性の特徴を、実によく語っているものだと思う。
――親愛なるポワロ様、私は今までのことを思い返してみて、これをあなたに書きのこしておくべきだと感じたのです。私は、あなたがときどき、ご自分の扱った事件の記録を、世間に発表なさるのを知っております。けれどもあなたは、まだ一度も、本人が自ら綴った手記を、発表なすったことはないと思います。私は自分がどんなふうにやったかを、はっきりそのままを、世間の人々に知ってほしいと思うのです。私は今でもまだ、とてもうまく計画が立てられていたと思っています。あなたがいらっしゃりさえしなかったら、何もかもよくいったのでした。私はそれを考えると口惜しく思いますが、あなたとしては、仕方ないことだったのでしょう。もしこれをあなたにお送りしたら、あなたはきっとこれを、とても目立つように扱ってくださると思います。そうしてくださいますわね。私はいつまでも、世間に記憶されていたいのです。私は、自分がほんとうに、比類のない人物だと思っています。ここの人たちも、みんなそう思っているようです。
そもそも、事の起こりは、私がアメリカでマートン侯爵と知り合った時からです。私はすぐに、もし自分が未亡人だったら、あの人は結婚してくれるだろうと思ったのです。不幸にも彼は離婚にたいして、妙な偏見を持っていました。私はそれを征服しようとしてみましたが、無駄でした。それに彼は、依怙地《いこじ》なところがある人なので、私は注意深くやらなければなりませんでした。
私は間もなく、夫が死んでしまわなければならないことに気がついたのですが、どういうふうにかたづけていいか、わからないでいたのです。アメリカにいるのでしたら、何とでもなるのですけれど。……私はずいぶん、あれこれと考えたのですが、どういうふうに処理していいかわかりませんでした。すると突然に、私はカーロッタが、私の模写をするのを見たのです。そしてすぐに、一つの方法を、思いつき始めたのです。彼女の助けを借りれば、私はアリバイをたてることができる。その同じ晩、私はあなたを見て、急にあなたを頼んで、夫のところへ離婚話をしに行ってもらうのはなかなかいい考えだと思いついたのです。同時に私は、自分で行って夫を殺してやるということを口走ったのです。なぜかというと、人というものは真実のことを少し馬鹿げたいい方をすると、誰も信用しないのを知っていたからです。私は契約なんかする時に、よくその手を使いました。それにそういうことをすると、実際よりも高く自分が評価されるものです。二度目にカーロッタに会った時、私は自分の趣向を彼女に持ちだしました。私は賭けだといいました。彼女はすぐにそれに乗ってきました。彼女があるパーティで、私のふりをしてうまく通せたら、一万ドルが彼女のものになるということにしたのです。彼女はとても熱心になり、服を取りかえることとか、いろいろと彼女の思いつきが取り入れられました。でも自分のところでは、エリスがいるのでできませんし、カーロッタの家でも、女中がいるので工合が悪いのでした。もちろん彼女は、なぜ工合が悪いのか納得がいきませんでした。それには、ちょっと困りました。私は理由はいわずに、ただいけないといい張りました。彼女は私がわからずやだと思ったらしく、とうとう折れて、それからホテルに部屋を借りる計画が成立したのです。私はエリスの鼻眼鏡を持って行きました。
で、私はじきに、彼女をも亡きものにしなければならないことに気がつきました。可哀相ですけれども、もともと彼女の模写はまったく無礼きわまるものでした。あの模写が私の目的に好都合でなかったら、私は激怒したことでしょう。私は自分では使ったことはありませんが、ベロナールを手許に持っていましたから、とても造作ないことでした。それにあるインスピレーションが、不意に起こったのです。それは彼女を麻薬常用者ということにしたら、なおいいということです。私は自分が他人から貰ったと同じ黄金の小函を誂え、彼女の頭文字をいれさせ、蓋の内側にあの字を刻ませたのです。私はいいかげんな頭文字と、十一月、巴里《パリ》ということを入れておけば出所をたどるのが、よほどむずかしくなるだろうと考えたのです。私はその注文の手紙を、リッツホテルで昼食をした時に書いて、エリスを受け取りにやりました。もちろんエリスは、どんな品か知りませんでした。
あの晩はすべてが、うまく運びました。私はエリスが巴里《パリ》へ使いに行っている留守に、底豆を切るのに使う小さなナイフを、無断借用しておきました。それはとがっていて、よく切れるものでした。私はあとですぐに、もとへもどしておいたから、エリスは気がつきませんでした。どこを刺せばいいかということは、サンフランシスコで、お医者さんが教えてくれたのです。彼は脳脊髄のことを話していたのです。そして非常に注意しないと、全神経の集中している延髄に達して、即死するようなことになるのだといいました。私はその正確な場所を、いく度も示してもらいました。私はそれを映画のなかで、応用するのだと彼に話したのです。
カーロッタが妹に手紙を書いたのは、大変に不謹慎なことでした。誰にもしゃべらないという約束だったのです。一ページを裂き取って『彼女』をなくして、『彼』を残しておいたら、とてもいいと気がついたのは、頭がよかったと思います。あれは私ひとりで考えついたことなのです。私はほかのどのことよりも、あの点を一番自慢にしているのです。誰でも私のことを頭がいいといいます。……でも、ああいうことを考えるには、真実の頭脳を要すると思います。
私はすべてのことを、注意深く考えておきました。そして警察の人が来た時に、計画しておいたとおりにしました。私はあの場面を、とても楽しんだのでした。私は彼がほんとうに、私を逮捕する気かと思いました。私は晩餐会にいた人たちの証言を、警察でも信じると思っていましたし、カーロッタと私が服を取りかえたことなんか、誰も見破れっこないから、安全だと思っていました。
その後は、私はすっかり満足して、幸福な気持ちになっていました。私は幸運をつかんでいるし、何もかもほんとうに工合よくいっていると思っていました。侯爵老夫人は、私にとてもひどく当りましたが、マートン侯爵はやさしくしてくれました。侯爵はできるだけ早く、私と結婚したがっていましたし、少しも疑っていませんでした。
ロスの件は、まったく運が悪かったのです。今でも私は、ロスがどうして私のことを見破ったのか、はっきりわかりません。パリスというのが人の名でもあり、場所の名でもあるというようなことですが、今になってもまだ、私にはパリスというのが誰のことか、わかりません。とにかく男に、そんな名をつけるなんて馬鹿げていると思います。
一旦運が悪くなりだすと、どこまでも悪運がついてまわってくるのは、ほんとうに不思議なことです。私は早く、ロスを何とかしなければならなかったのです。そして、それもうまくいきました。私はアリバイをつくることを考えたり、利口にたちまわることを工夫する暇がありませんでしたから、うまくいかなかったかも知れないのですが。あれから後、私は安全だと思っていました。
もちろん、エリスは、あなたによばれて行って、いろいろと質問されたことを、私に話しました。でも私は、ブライアンに何か関係のあることだと思いこんでいました。私には、あなたが何を探りだそうとしているのか、考えつきませんでした。あなたはエリスに巴里《パリ》へ包みを受け取りに行ったかどうか、お尋ねになりませんでしたね。きっとあなたのおっしゃったことを、エリスが私に話した時に、私が嗅ぎつけるとお思いになったのでしょう。まったく私にとっては、まったく不意打ちでした。私には信じることができませんでした。あなたが私のしたことを、何もかも知っていらしたなんて、気味が悪い気がします。
私はもうだめだと感じたのです。運命には抗しがたしです。運が悪かったんですのね。あなたはご自分のしたことを、すまなかったと、お思いになったことがおありかしら? 結局、私は自分の思うままに、幸福になりたかったのでした。私というものがなかったら、あなたはこの事件には、何も関係なさらなかったでしょうに。私はあなたが、こんなに凄く賢い方とは思いませんでした。あなたは、利口そうには見えませんでした。
私の容色が少しも衰えないのは不思議です。あんな恐ろしい裁判だの、あの反対側の人がひどいことをいったり、私を質問責めにしたりしたのに!
私は前より青ざめて、やせましたが、何だかそのほうが、私に似合います。皆は私のことを、すばらしく勇敢だといいます。大勢の人の見ている前で、絞首刑にするんではないのですね。残念なことだと思います。
今までに、私のような女殺人者は確かになかったと思います。
もう、お別れしなければならないと思います。とても変ですわ。私は少しも現実を認識していないみたいです。私は明日、最後の懺悔をするために、牧師様におあいするところです。
あなたをゆるす(私は敵をもゆるさなければなりませんから)ジェーン・ウィルキンソン
二伸
あなたは、私のろう人形が、マダム・タッソー館に陳列されるとお思いになりますか?
◆エッジウェア卿の死◆
アガサ・クリスティ/松本恵子訳
二〇〇五年九月五日