アガサ・クリスティ
アクロイド殺人事件
目 次
謎の電話
池の中の結婚指輪
黒い靴? 茶色の靴?
四十ポンドの行方
早朝の訪問客
あとがき
登場人物
ジェームズ・シパード……アクロイド家の主治医
カロリン・シパード……シパード医師の姉
ロージャー・アクロイド……実業家で村の長者
ラルフ・パトン……アクロイドの亡妻の連れ子
ラッセル嬢……アクロイド家の家政婦
セシル夫人……アクロイドの実弟の未亡人
フロラ嬢……セシル夫人の一人娘
ブラント少佐……アクロイドの親友、狩猟家
パーカー……アクロイド家の執事
レイモンド……アクロイドの秘書
ウルスラ……アクロイド家の小間使
チャールズ・ケント……ラッセル嬢のかくし子
デビス警部
ラグラン警部
メルローズ署長
エルキュル・ポワロ
謎の電話
朝食
フェラス夫人が死んだのは九月十六日と十七日のあいだ……木曜日の夜であった。私が呼ばれたのは金曜日の朝で、その時はもう死後数時間たっていたから、何とも手の下しようがなかった。
私が再びわが家に帰ったのは、午前九時すこしすぎていた。私は合鍵《あいかぎ》で表戸をあけて入った。
玄関でわざとひまどって帽子をかけたり、秋の朝寒《あさざむ》にそなえて持って出たオーバーをかけたりして、ぐずぐずしていた。はっきりいうと私はひどく気が顛倒《てんとう》していて、何ともいえない重い気分であった。といっても、私はそれから数週間にわたって起こるはずの事件について、何か予知していたというのではなかった。しかし私は本能的に、何かの異変が目前にせまっていることを感じていたのである。
左手の食堂から、姉のカロリンが、「ジェームズ、あなたなの?」と声をかけた。
聞かでものことだ。私にきまっている。実をいうと私がぐずぐずしていたのも、この姉のためである。キップリングの言葉に従えば、|ねこいたち《ヽヽヽヽヽ》族の標語は『行け! しかして探しだせ!』
というのだそうだ。もし、姉カロリンを動物に見立てるとしたら、まさにこの|ねこいたち《ヽヽヽヽヽ》族である。もっともカロリンの場合には、この標語の前半はあてはまらない。彼女は家にじっとすわっていながら、知りたいだけのことは何でも探り出すのである。おそらく女中や出入りの商人たちが、姉の情報局員を勤めているのかもしれない。姉が外出するのは、情報をあつめるためではなく、家にいて手に入れた情報を撤《ま》きちらすためである。
私が家へ帰ってすぐに姉と顔を合わせるのをためらったのも、実は姉のそういった性癖《せいへき》に怖れをなしていたからである。フェラス夫人の死に関して、私の唇を洩れる一言一句は、一時間半とたたないうちに、村中に撒きちらされてしまうであろう。
フェラス夫人の夫は一年前に死亡した。それについて姉は、何の根拠もないのに、夫人が夫を毒殺したのだと主張している。姉はフェラス氏が飲酒過多の結果、急性胃炎を起こして死亡したという私の答を、いつも冷笑している。砒素中毒と胃炎とは、その徴候がほとんど同じである点には、私も同感であるが、姉は私とぜんぜん違った角度から、フェラス氏の死を考察していた。
かつて姉はこんなこともいった。
「夫人の顔を一目みたらわかるじゃないの」
フェラス夫人は盛りはすぎたが、まだうば桜とはいいきれない、非常な美人で、いつもパリ仕立ての清楚《せいそ》な服装をしているので、いっそう上品に見えた。だが、世間にはパリから流行の衣装を取りよせる婦人はいくらもあるので、それをもって彼女たちが夫を毒殺する理由とはならない。
「ジェームズ、そんなところでいつまでも何をしているの? なぜ早く来て朝ごはんを食べないの?」
「姉《ねえ》さん、いますぐ行きます。オーバーをかけているところですよ」
「オーバーを半ダースもかけるくらいの暇《ひま》がかかっているじゃないの!」
私は食堂へ入って行って、卵とベーコンの皿の前にすわった。べーコンはもう冷めていた。
「今朝はずいぶん早かったのね」と姉が口を開いた。
「ええ、キングス・パドック荘へ行ったんです。フェラス夫人のところへ!」
「それは知っていますよ」
「どうしてご存じなんです?」
「アンニーから聞きました」
アンニーは女中である。いい娘だが、少しお喋《しゃ》べりである。
姉は細い鼻の先をかすかにふるわせている。これは姉が何かに興味を持った場合とか、ひどく興奮した時の徴候である。
「もう手おくれでした。たぶん睡眠中に死んだのだろうと思います」
「そんなことは知っていますよ」と姉はいった。私はむっとして、
「姉さんが知っていらっしゃるはずはないではありませんか。私はまだ誰にも話していませんよ」
「牛乳配達に聞いたんです。フェラス家の料理人から聞いたんだそうよ。どうして死んだの? 心臓麻痺?」
「牛乳配達からお聞きにならなかったのですか?」私は皮肉をいったが、それは無駄であった。
「牛乳配達は知りませんでしたのよ」と姉はまじめに答えた。
とにかく姉は、遅かれ早かれ聞きださずにはおかないから、私の口から彼女の耳に入れても同じことである。
「夫人はベロナールの飲みすぎです。近ごろ不眠症にかかって、べロナールを用いていましたから、おそらく分量を間違えたのでしょう」
「そんなことがあるものですか。あの人は自分から分量を増して飲んだんですよ」
「姉さんは何の理由もなく、またしてもそんなことをおっしゃる。フェラス夫人が自殺する理由がどこにあります? 財産はあり、未亡人といっても、まだあの若さで何の不足がありましょう」
「どういたしまして、あなただって、近ごろどんなに夫人のようすが変ったか、気がついたでしょう。夫人のようすが変ったのは、六か月このかたですよ。急にやつれが見えて来たではありませんか。それにあなただって、たったいま、夫人が不眠症にかかっていたといったでしょう」
「で、姉さんの診断はどうだとおっしゃるのです。不幸な恋愛の結果ですか?」私は冷やかにいった。
姉は頭をふった。
「後悔!」姉はこきみよげに、ずばりといった
「後悔ですって?」
「そうですとも。あの人が夫を毒殺したといっても、あなたは信じませんでしたね。私は今になって、いよいよ私の説が確実だということがわかりましたのよ」
「姉さんの説は論理的ではありませんね。殺人をやるぐらいの女だったら、後悔なんてするもんですか」
「そういう女もあるかもしれませんが、フェラス夫人は違いますよ。夫人は苦痛をしのぶことのできない女だったから、一時の感情にかられて、夫を殺してしまったんです。フェラスのような男を夫に持った女は、きっといろいろと苦痛があったに違いありません。だから、あの人が自分のしたことを後悔して、悩んでいたことは同情できるのよ」
私は、姉の言葉のある部分に同感していただけに、かえって激しく反駁《はんばく》したが、姉は平気で自分の想像にふけっていた。
「見ていてごらんなさい、あの人はきっと告白状を残していきましたよ」
「遺書のようなものはいっさいありません」私はうっかりいってしまった。
「まあ! じゃあ、あなたも、そのことを調べたのね。やっぱりあなたも私と同じことを考えていたのね?」
「ああいう場合には、医者の立ち場から自殺ではないかということを、一応は考えるのが常識ですからね」と私は姉の言葉をおさえるようにいった。
「審問があるでしょうか」
「あるかもしれません。それは私次第です。もし過失で睡眠剤を飲みすぎたという私の確信を公表すれば、審問なんていうことは自然と問題でなくなるでしょう」
「で、あなたはそういう確信を持っているの?」姉は鋭くたずねた。
私はそれには答えないで、食卓をはなれた。
土地の人々
私と姉のカロリンとの間にかわされた話題について語りつづける前に、この土地のようすを少し説明しておく必要があると思う。わが村、キングス・アボットは、他の村とたいして変りはないだろう。一番近い町といえば、九マイル離れたクランチェスターである。
村の主要な建物をあげれば、大きな停車場と小さな郵便局、それに互いに競争している二軒の雑貨店などである。屈強な男たちは若いうちに村を出てしまいがちで、村に残っているのは未婚の女たちや、退職軍人という手合いばかりである。われわれの気ばらしとか楽しみといえば、まずむだ話ぐらいのものであろう。
村で最も大きな邸宅は、フェラス氏の死後、夫人に残されたキングス・パドック荘と、ロージャー・アクロイド氏の所有する、ファンレイ・パーク荘である。
アクロイド氏は、いかにも典型的な地主という感じの紳士で、とくに私の興味をひいていた。
彼は古風な喜歌劇の第一幕に緑色の村を背景に登場する、赤ら顔の狩猟家を想わせるような人物である。ところが、アクロイド氏は田舎地主でなんかない。彼は車輌製造業で大いに成功した、年のころ五十前後、血色のいい顔の、動作もきびきびした人物である。彼は牧師とたいへんに親密で、自分の費用となるとひどくけちだという噂《うわさ》であるが、教会のためには惜しげなく寄附しているし、クリケット競技や、婦人クラブ、廃兵救済会などにたいへん力を入れている。
アクロイド氏は二十一歳の青年時代に恋をして、六つ年上の美人と結婚した。彼女の名はパトンといって、ひとり息子を抱えた未亡人であった。が、彼女は怖ろしい酒乱で結婚四年にして酒のために死んだ。それ以来、アクロイド氏は独身を通した。妻の連れ子のラルフは母親が死んだ時まだ七歳であった。それが今では二十五歳になっている。アクロイド氏はその息子を実子のように可愛がって育てたのだが、なかなかの道楽者で、常に継父の苦労の種になっていた。しかし村の人たちは誰でもこの若いラルフを愛している。その理由の一つは彼がまれな美貌の青年だからである。
前にもいったように、アボット村の人々は噂話がすきである。で最初からアクロイド氏とフェラス夫人が親密にしているのに注目していた。フェラス氏が死んでから二人の間はいっそう接近した。二人がよくつれだって歩いているのを見かけて、村ではフェラス夫人が夫の喪があけ次第アクロイド夫人になるのだろうと噂していた。実際この二人は誰の眼にも一脈相通ずるところがある。アクロイド氏の妻はあきらかに飲酒によって死んだし、フェラス夫人の夫は生前、永いあいだ大酒家として知られていた。アルコール暴飲者の犠牲になっていたこの二人が、以前の配偶者との生活の中でたえしのんできた苦痛を、お互いにうめ合わせるのは最も適当なことだと見られた。
フェラス一家がこの村の住人になったのは一年ほど前のことであるが、古くから住んでいるアクロイド氏には、過去十数年というもの、たえず噂話の絶え間がなかった。ラルフが青年に成長してゆく間中、家政婦の代るごとに、私の姉とその一味の者たちの取り沙汰が活溌になるのであった。その中の最後の家政婦はラッセル嬢という女性で、これは五年間、他の連中の二倍の年月、この噂の的になっていた。フェラス夫人の出現がなかったら、これは更にいっそう発展したかもしれなかった。それにもう一人カナダからアクロイド氏の義妹が未亡人になって、突然、娘のフロラをつれてやってきた。アクロイド氏の弟で、これまで一度も成功したことのない人の未亡人セシル・アクロイドである。
私の貧弱な形容詞でいうなら、ラッセル嬢は、唇をへの字なりにして、|すっぱい笑い《ヽヽヽヽヽヽ》というのを浮かべながら、
「お気の毒なセシル夫人! 夫の兄弟のお情けにすがるなんて、どんなにつらいことでしょうね。お情けのパンは苦いと申しますわね」というふうに絶大な同情を口にしている。
フェラス夫人の事件が話題にのぼった時、セシル夫人がそれに対してどんな意見を持っていたか私は知らない。だが、アクロイド氏が再婚しないでいるほうがセシル夫人の立ち場を有利にするのは明白な事実だ。彼女はフェラス夫人に会うと、いつも精いっぱいとはいえないが、大そう愛想よくしていた。姉はそんなことは彼女の本心でなんかあるものかといっている。
私はこれらのことを、あれこれと心に浮かべながら、機械的に往診に出かけた。とくに興味をひかれるような患者を持っていなかったせいか、私の考えはとかくフェラス夫人の死の謎にもどっていくのであった。はたして夫人は自殺したのであろうか? もしそうとすれば遺言を認《した》ためるはずである。私の経験では、自殺を決心した女は、かならずそこに至るまでの心境を書き残すものである。
私が夫人を最後に診《み》たのはいつだったろう?たしか一週間とはたっていない。その時の夫人のようすはどう考えてみても異状はなかった。
だが、私は、言葉こそかわさなかったが、つい昨日夫人の姿を見かけたことを急に思いだした。
そのとき夫人と一緒に歩いていたのはラルフであった。私はラルフが村に帰っているとは知らなかったので驚いた。私はラルフは継父と喧嘩をして家をとびだしてしまったこととばかり思っていた。すくなくも六か月ちかくラルフをこの辺に見かけなかった。二人は並んで歩きながら、顔を寄せあって、夫人が何か熱心に話していた。
ある未来のことが私の頭をかすめたのは、たぶん彼らの姿を見た時だと思う。むろん今日のような形になって現われるとは予期しなかったが昨日、ラルフとフェラス夫人が熱心に内証ばなしをしていた事実が私を不安にさせた。
私がそんなことを考えながら歩いていると、町角で、ばったり、アクロイド氏に出あった。
「シパード君。ちょうど君に会いたいと思っていたところだ。どうもとんでもないことになったものだ」とアクロイド氏がいった。
「もうお聞きになったのですか」
アクロイド氏はうなずいた。彼がどんなに打撃をうけたかということは、一目で明らかであった。彼の大きな赤い頬が急にくぼんだように見えた。日ごろ快活な人だけに、いっそう気を落としたのが目立っていた。
「実に、君の想像以上に困ったことになったのだ。君に話したいことがあるのだが、つきあってもらえまいか」と彼は声を落していった。
「今はだめです。これから三人の患者を見まわらなければならないし、十二時までに家へ帰って外科患者を診なければならないのです」
「それではと……きょうの午後……いや、今晩一緒に食事をしよう、七時三十分。君の都合は?」
「それなら何とかなります。どうしたのですか。ラルフがどうかしましたか」
私はなぜそんな質問をしたのか自分でもわからない。たぶんラルフがこれまで、たびたび事件を起こしたからであろう。アクロイド氏は私の言葉の意味を解しかねたように、ぼんやり私の顔を見つめていた。私は何か非常な事件がどこかに起こっているにちがいないと感じはじめた。私はこれまで、アクロイド氏がこんなに取り乱しているのを見たことがない。
「ラルフ? いや、いや、ラルフではない。ラルフはロンドンにいる。畜生め! ああいけない、ガネット婆さんがやってくる。私はこのいまいましい事件について、あの女と話すのはごめんだ。じゃあ、シパード君、今晩会おう。七時三十分にね!」
私がうなずくと、アクロイド氏はさっさと歩み去った。ラルフがロンドンにいるって?
だが昨日の午後、この村にいたではないか。するとラルフは昨夜《ゆうべ》おそくか、あるいは今朝早くロンドンヘ帰ったとみえる。それにしても、アクロイド氏の口ぶりでは、幾か月もラルフがこの辺によりつかないような印象をあたえた。この謎を解くひまもなく、私は情報にうえているガネット婆さんに捕まってしまった。この女も姉のカロリンと同じ性格を全部そなえている。ただしカロリンのあの一足とびに結論をうみだす才能はもっていない。ガネット老嬢は息ぎれと質問でわくわくしていた。
フェラス夫人はお気の毒なことをした。世間では夫人が数年前からコカイン中毒にかかっていたといっている。そんな噂をたてるなんて、実にひどいことだ。けれども、あるたしかな筋の話によると、全く根も葉もないことではないらしい。火のないところに煙はたたずというからでアクロイド氏は夫人のそうした、いまわしい秘密を知って婚約を破棄してしまった。婚約していたことはたしかである。むろんこうしたことは医者は職業柄よく知っているにちがいない。しかし、医者は患者の秘密は厳守するそうだから……等々、ガネット老嬢は、なんきん玉のような眼で私の顔を穴のあくほど見つめながらしゃべりたてた。私の顔色から、何かさぐりだそうという肚《はら》である。だが、姉のカロリンで修行のつんでいる私は、無表情な顔をして、あたらず触らずのことをいうように馴らされている。
この場合、私は、ガネット老嬢が世間のろくでもないゴシップの仲間入りをしないでいられるのは、まことに結構なことだという挨拶をしてやった。自分ながらみごとな反撃だと思った。それは彼女を窮地におとしいれた。私は彼女が落ちつきを取りもどさないうちに、置きざりにして来てしまった。
家へ帰ると、待合室に患者がつめかけていた。私はそれらを診察してしまってから、昼食の前、すこし庭でも歩きながら今朝からのできごとをもう一度ゆっくり考えてみようと思っていると、まだ一人患者が待っているのを発見してぎょっとした。アクロイド家の家政婦、ラッセル嬢だった。どうして私がそんなにぎょっとしたのか自分でもわからない。
彼女は、背の高い美人であるが、ひどく冷たい感じがする。きびしい眼つき、一文字にかたくむすんだ唇、もし私がこんな家政婦の下に働く女中であったら、足音を聞いただけで縮みあがってしまうにちがいない。
「お早うございます、シパード先生。私、膝をみていただきたいのでございます」とラッセル嬢はいった。
診察してみたが、実のところ何の異常もみとめることができなかった。瞬間私はラッセル嬢がフェラス夫人の死因について聞き出そうと膝の痛みなどを創作したのではないかと思った。
ラッセル嬢は薬品棚に眼をやっていたが、
「私はこういう薬品には信頼できませんわ。薬なんていうものは害になる場合が多いのではございませんか。たとえばコカインなんか……」といった。
「それは場合によりますね」
「コカイン中毒者は上流社会に多いそうではございませんか」
ラッセル嬢は私なんかより遙かに上流社会に通じていると思う。私は別に彼女と議論しようとは思わない。
「先生、もし私どもがほんとうに麻痺薬の奴隷になった場合には、それを治療する方法はないものでございましょうか」
こういう質問に対して、いいかげんな返事などしておけるものではない。私がその問題についてちょっとした講義をすると、彼女は注意ぶかく耳をかたむけていた。私は彼女がやっぱりフェラス夫人の件に興味を持っているのではあるまいかと疑って、
「その一例としてベロナールは……」といいかけた。だが妙なことには、彼女はベロナールには少しも興味を持たないらしく話題をかえて、
「専門家にも見破ることのできないような毒薬なんてあるものでございましょうか」とたずねた。
「ああ、あなたは探偵小説を読んでおいでですね」というと、彼女はそれを肯定した。
「探偵小説の要素はめったにない毒薬を手にいれることですね。たとえば南アメリカあたりから、ある種の土人が矢の先にぬる誰もきいたことのないような毒を、何とかして手に入れるんですね。そうした毒で瞬間に死んでしまい、しかも西洋科学でそれを探りだすことのできないもの。あなたがおっしゃるのは、そうした種類のものではありませんか」
「そうですの。ほんとうにそんなものがございますかしら?」
私は首をふった。
「残念ながらありませんな。もっともアメリカ・インディアンが毒矢に用いるクラウリという植物からとった毒素は……」とそれについて、くわしく説明したが、彼女はふたたび興味を失ってしまった。彼女はその毒薬が私の薬局にそなえてあるかどうかたずねた。そして私が「否《ノー》」と答えると、彼女はそうだろうと思ったという顔をした。そして急に帰って行った。私が診察室の戸口から彼女を送りだした時に、ちょうど昼食の鐘がひびいてきた。
かぼちゃを作る男
昼食の時、私が晩はアクロイド氏宅で食事をする旨《むね》を話すと、姉は文句をいうどころか、反対に、
「それは素敵だわ。きっといろいろと詳しい話がきかれるでしょうよ。それはそうと、ラルフはいったいどんな面倒を起こしたんですの?」というのであった。
「ラルフですって? ラルフなんかどうもしやあしませんよ」私はあっけにとられていった。
「それならどうしてファンレイ荘に帰らないで、『いのしし屋』なんかに泊っているんでしょう」
私はちょっとの間、ラルフが村の宿屋に滞在しているという姉の言葉に反対しようと思ったが、考え直した。姉がそうだという以上は、そうにちがいないのだ。
だが私は驚きのあまり、つい自分の得た情報はみだりに口外しないという大切なおきてを破って、
「アクロイド氏は、ラルフがロンドンヘ行っているといいましたよ」といってしまった。
「あら……」という姉のほそ長い鼻が興奮にふるえてきた。
「ラルフはきのうの朝、『いのしし屋』へやってきて、今日もまだいますよ。ゆうべは女の子と連れだって歩いていましたっけ」
「どうせ相手は女給でしょう?」
「いいえ、だから私はへんだと思うのよ。ラルフは誰かに会いにきたのよ、相手は誰だかわからないけれど……でも私にはたいてい想像がついていますわ」
私が根気よくだまって姉の顔を見つめていると、彼女は「相手はいとこにきまっていますわ」
といった。
「フロラですか?」私はびっくりして問いかえした。
いうまでもなく、ラルフとフロラは血縁ではないが、アクロイド氏がラルフを養子としているからには、この二人をいとこ同志とみるに何のさしつかえもない。
「そうよ、フロラ・アクロイドよ」
「フロラに会うのなら、なぜファンレイ荘へ行かないのでしょう」
「秘密に婚約しているからですわ」
私は姉の推量に多くの欠陥を見いだしたが、それを指摘する前に、最近となりへ引っ越してきた男の方に話題がうつってしまった。その男の身許がぜんぜんわからないということが姉の大きな悩みである。さすがの姉も、彼が外国人であることのほかは、まだ何も探りだしていない。
「ねえ、姉さん。あの人の以前の職業については疑う余地がないと思いますよ。あの人は退職理髪師にきまっています。あの髭をごらんなさい!」と私がいうと、姉はそれを拒否した。
彼女は、もし彼が理髪師であったら、あんなまっすぐな髪のままにしてはおかない、ちゃんとウェーブをかけているはずだ。理髪師というものはみんなそうだというのである。私は姉の長談義をのがれて庭へ出た。私はどっちかというと園芸に趣味を持っているほうである。
私がせっせとたんぽぽの根を抜いていると、不意に隣りから、「しまった!」という叫びとともに、何か私の耳をかすめて飛んできた。地面にぴしゃりと落ちたのは何と、かぼちゃであった! 私は奮然として、立ちあがった。見ると石垣の上に顔があらわれた。卵なりの頭には真っ黒な髪が、疑わしいほどふさふさとしている。それにすばらしく大きなひげが鼻下に翼をひろげ、二つの小さな眼が、ぱちぱちと愛嬌をたたえている。これがわが謎の隣人ポワロ氏である。彼はたちまち雄弁にあやまりはじめた。
「いや、はや、何ともお詫びのしようがありません。百万言をついやしても、申しひらきができないほど、恐縮なことでございます。私は数週間前からこのかぼちゃを栽培しておりましたんですが、今朝急にこのかぼちゃがいとわしくなりましたので、者どもにひまをつかわそうと決意したのでございます。そこで私は、一番大きな奴をつかみ、失《う》せやがれ! とばかり投げたのが、この始末でございます。どうぞご勘弁ねがいます」
私の怒りはとけてしまった。しかし、隣家の男が垣ごしにかぼちゃをなげる癖があるのは閉口だと思った。相手は私の心をよんだとみえて、
「どうぞ思い違いなさらないで下さい。私はけっして、むやみに物を投げる道楽は持っておりませんから……しかしあなたは私のように自分のいそがしい商売にあきあきして畑いじりでもして、のんびりと暮そうと思いたった男が、やっぱり以前のいそがしい生活にあこがれている自身をみいだした時の気持をご理解になれるでしょうね」といった。
「それは私にもよくわかります。誰でも過去の生活にみれんを持つものです。私など世界中を旅行したいというのがかねての希望でした。ところが一年前にその夢を実現するだけの遺産がふところに転げこんできたのに、ごらんのとおり、まだこうして村医者をやめられないでいる始末です」
「つまり習慣のくさりに繋《つな》がれているとでもいうのでしょうな。われわれは目的のために働くが、さて目的を達してしまうと張合いがなくなってしまうものです。私など実に愉快な仕事をしておったのですからね。おそらく世界中で私のしていた商売ほど、面白いものはないだろうと思いますよ」
「といいますと?」一瞬、私の胸に姉の精神が宿った。
「つまり人間学ですよ」
私はいよいよもって隣家の男の前身は理髪師なりとにらんだ。理髪師というものは、いろいろな人間に接するから人間の心理をよく学んでいるものだ。
「それに私は永年ほとんど一日も離れたことのなかった友人と別れてしまいました。時には私をびっくりさせるような、途方もない男でしたが、私にはかけがえのない、いい友達でした。私はその男の、頑固なところさえ、今になるとなつかしく思うくらいです。ことに私が天からさずかった才能を発揮した場合に、その男がどんなに感心したり、驚いたりしたかということを考えると、実にさびしくなります」
「そのご友人は亡くなられたのですか」
「いいえ、生きていて景気よくやっております。だが遠い南アメリカに暮しておるんですよ」
「南アメリカですか!」私は行きたいと思っていた南アメリカと聞いただけでも、ため息をもらしてしまった。ポワロ氏は私の顔をじっと見つめて、
「あなたも南アメリカヘおいでになりたいのですか」とたずねた。
「一年前に行けばいかれたのですがね。自分ながら、ばかなことをしてしまいました。せっかくの資金を水の泡にしてしまったのです」
「ほう、株でもなすったのですか」
私は悲しくうなずいた。だが、それにもかかわらず、この奇妙な小男がおそろしくまじめくさっているので私は心ひそかにふきだしたくなった。
「ポーキュパインの油田に投資なすったんですか」
「さいしょ私もそう思ったのですが、結局西オーストラリアの金鉱につぎこんでしまったのです」
ポワロ氏は、はかりがたい表情をうかべて、私の顔を見つめていた。やがて、
「宿命ですな」とつぶやいた。
「何が宿命なんです」私は少しいらいらして問いかえした。
「つまり私が、ポーキュパイン油田や西オーストラリアの金鉱のことを、本気に考えておられるあなたの隣家に住むようになったのは宿命です。あなたは、やはり赤とび色の毛髪がお好きでいらっしゃいますか」
私はあっけにとられて、相手の顔を見つめた。するとポワロ氏は急にからからと笑って、
「いや、どうぞ、決してご心配なく……私は気がちがっているんでも何でもありませんから。むろん、私の質問はとっぴにはちがいありませんが、南アメリカにいる私の友人というのは若い男で、女性はすべて美しく善良であると考えていたのでした。だが、あなたは相当のご年配ですし、医者でいらっしゃるから、世の中のすいも甘いもご存じでしょう。とにかくお隣り同志のよしみで、私の作りましたかぼちゃを一個お姉上様にさしあげさせていただけませんでしょうか」
といって、身をかがめたと思うと、みごとなかぼちゃを両手にささげて立ちあがった。私は礼をのべてそれを受け取った。
「今朝の収穫はまことに申し分ないものでございました。こうしてお隣りの方、しかも遠くにいる私の親友にどこか似通った方とお近づきになったのですからね。それはそうと、あなたはこの村の人たちのことは、何でもよくご存じでいらっしゃいましょうから、ちょっとおたずねしたいのですが、あの髪の黒い、眼のきれいな青年は誰ですか? よく、そり返って口もとに微笑をたたえて歩いている好男子がいますでしょう」
「それはラルフでしょう」と私は言下に答えた。
「今までこの辺に見かけない青年です」
「あの青年はアクロイド氏の養子なのですが、しばらく村にいなかったのです」
「そうそう、ラルフ君のことなら私はアクロイド氏からたびたびきいておりますよ」
「あなたはアクロイド氏をご存じですか」私は驚いてたずねた。
「ロンドンで働いていた頃の知りあいです。私はあの人に私の以前の職業を村の人に話さないように頼んでおいたのです。私は名声なんかほしくありませんし、世をしのんでいるのは気楽でいいものですからね」
「なるほどね」私は何と相槌《あいづち》をうっていいかわからなかった。
「ラルフ君はアクロイド氏の姪の美しいフロラ嬢と婚約しましたね」
「誰からそんなことをお聞きでした」
「一週間ばかり前にアクロイド氏から聞きました。アクロイド氏はかねがねそうなるように望んでいたとかで、たいへん喜んでいました。アクロイド氏は無理にラルフを承知させたらしいのですが、そういうことは賢明でないと思いますね。第一、いくら遺産がもらえるからといって、青年たる者が養父を喜ばすために結婚するという法はありませんよ。結婚は自分自身を喜ばすためのものでなければならんです」
私の考えは根底からくつがえされた。アクロイド氏が、理髪師などに姪《めい》と養子の結婚問題をうち明けたりするはずはない。アクロイド氏は目下の者たちに対して好意を示すが、親しみすぎて威厳を失なうようなことはしない。私はポワロ氏が理髪師だったという考えを捨てなければならなくなった。
私は心の動揺をかくすために最初に心にうかんできたことを口にだした。
「あなたはどうしてラルフに目をおつけになったのです。好男子だからですか」
「いやいやそれだけではありません。むろんあの青年は、女流作家などがギリシアの神になぞらえるような好男子にはちがいありません。しかし私が特に目をつけたのは、あの青年のどこかに私の腑《ふ》におちないところがあるからです」ポワロ氏は何か私の知らない内面的な面からラルフを観察しているようだった。
その時、私は姉に呼ばれたので、ポワロ氏に挨拶をして家へはいった。姉は外から帰って来たばかりだとみえて、まだ帽子をかぶっていた。そして私の顔を見るなり、
「私はアクロイドさんにお会いしましたよ」
「それで?」
「私の方から呼びとめたんですがね。何だかたいへん急いでいるようでしたわ。でも私、追いかけて行ってラルフのことを聞いてみたんです。アクロイドさんはラルフが村へ帰っていると聞いて、ずいぶん驚いていらしったわ。そして、何かのお間違いでしょうなんて失礼なことをいうのよ。ねえ、私が間違えるなんて! それからアクロイドさんはラルフとフロラが婚約したことを話してくれましたわ」
「そのことなら私も知っていますよ」
「誰からきいたの?」
「隣りの主人から」
姉は明らかに賭け玉が二つの数字の間を迷っている時のような動揺を顔にうかべた。だが彼女はすぐに話をわきへそらしてしまった。
「私はアクロイドさんに、ラルフが『いのしし屋』に泊っていることを話してあげたわ」
「姉さん、あなたはそんなふうに何でも耳に入ったことを片端《かたはし》からしゃべりちらすその癖が、いろいろと害になるだろうということを考えてみたことはないんですか」
「ばかおっしゃい、誰でも物事は知っておかなければなりませんわ。私は自分の耳に入ったことを皆に聞かせる義務があると思っているんですよ。アクロイドさんは大そう感謝していらしたわ」
「それで?」まだまだ報告はつづくものとみたので、私は相槌をうった。
「たぶんアクロイドさんはすぐ『いのしし屋』へいらしたと思うのよ。でも、ラルフには会えなかったでしょう」
「どうしてです?」
「どうしてかっていうと、私が森を抜けて帰ってくると……」
「何ですって? 姉さんが森を抜けてきたんですって?」
と私が聞きとがめると、カロリンは柄にもなく顔を赤らめて、
「だって、こんなにいいお天気でしょう。それにちょうど紅葉の季節で、一年中で一番森がきれいな時だから」
私の知るかぎり、姉は一年中のどの季節だって森の景色など見むきもしない人である。姉にとって森はいつだって足が濡れ、頭にいろいろな気味悪い虫けらが落ちてくる場所でしかない。
いうまでもなく姉が森を抜けたということは、|ねこいたち《ヽヽヽヽヽ》の本能を発揮したにすぎない。そこはアクロイド家の地つづきになっている森で、村の若者たちが人目をさけて娘たちと語りあう唯一の場所である。
「それからどうしたんです?」
「で、私が森を通ってくると、話し声が聞こえたんです。一人はたしかにラルフでしたが、相手の女は誰だかわかりませんでした。むろん私は他人の話など聞く気はなかったんですが……」
「それはそうでしょうとも」と、私は皮肉をいってやったが、カロリンには通じなかった。
「でも、あたりが静かだものですから、自然と聞こえてしまったんですよ。女の方が何かいうとラルフが怒ったようにそれに答えたんですよ――だけれど、そんなことをしたら親父はほんとうに僕を勘当してしまって、一銭だってあてがってくれやしないからね。親父は今までだって、いいかげん僕にあいそをつかしているんだもの。もうしばらくの辛抱だから我慢してくれ。親父さえお陀仏《だぶつ》になれば、僕は大金持になるんだからね。あいつはけちんぼうだが、金はうなるほど握っているんだ。へたなまねをして遺言状の書きかえでもされたら、ばかをみるからね。万事僕にまかしておいてくれ、決して心配することはない……そこまで聞いた時、私は運わるく枯枝《かれえだ》をふんでしまったので、二人とも急に声をひそめて森の奥の方へ行ってしまったのよ。まさかその後をつけるわけにもいきませんでしょう。それで相手の女が誰だったか見とどけられなかったんです」
「で、姉さんは息をきらせながら『いのしし屋』へとんで行って、気分が悪いとか何とかいって、ブランデーを一杯註文したんでしょう。そしてラルフの相手があそこの女給かどうかをたしかめて来たとおっしゃるんでしょう」
「ところが女給ではなかったのよ。実際、私はフロラではないかと思ったんだけれど……ただ……」
「ただ、フロラじゃア話が面白くないというのでしょう」
「でも、フロラでないとしたら、いったい誰でしょう」姉は近所に住む若い娘たちの名を片はしから心にならべて、その場合にあてはまるような娘を物色しているらしかった。私は、それをしおに往診にまわるといって家を出た。もうラルフが宿に帰っている頃だと思って、私は足を『いのしし屋』に向けた。
私はこの村の中で誰よりも一番ラルフを理解していると思っている。私は彼の母親をしたしく知っていたから、他の人たちにわからないラルフの性格をよく理解しているのである。彼がある点まで母親の遺伝を享《う》けていることはたしかだ。彼は母親の致命的な飲酒癖はつがなかったが、ごく弱い性格を持っている。今朝もポワロ氏がいったとおり、彼はまれな美貌の持主である。六フィートゆたかな均整のとれた体格、運動家らしい、のびのびとした優雅な動作、いつも微笑のあふれている美しい日やけのした顔、彼は生れながらにして、人をひきつける力をそなえている。
彼はわがままで贅沢で、恐いもの知らずの青年で、不思議に友達から愛されている。私はこの青年のために何とか力になってやろうと思っている。
宿へゆくと、ちょうどラルフが帰って来たところだと聞いたので、案内も乞わずに彼の部屋を訪ねた。私はちょっとの間、姉の話を思いうかべてこの訪問をうしろめたく思ったが、すぐにそんな心配の必要はないと思った。ラルフは満面に微笑をたたえて、
「ああ、シパード先生、よく来てくれました! このいやな村でたった一人会いたいのは、あなただけですよ!」といいながら、両手をひろげて私をむかえた。
「どうしたというのです」と私は眉をひそめた。ラルフは困ったような笑い方をして、
「語ればながい物語ですがね。何しろすべてが思うようにいかないんですよ。まあ一杯やりませんか」
「ありがとう、ご馳走になりましょう」
ラルフは呼鈴をおしてから、どっかりと安楽椅子に腰をおろした。
「酒落《しゃれ》や、冗談ではないんです。ほんとに僕はもう抜きさしならぬはめになって弱っているんです」
「いったい、どうしたんです」
「親父ですよ、あのやっかいな親父の件ですよ」
「お父さんがどうかなさったんですか」
「まだ今のところはどうってこともないんですが、これからやろうとしていることがあるんです」
そこへ給仕があがって来たので、ラルフは飲物を注文したが、急に眉をひそめて考えこんだ。
「そんなに、重大なことなんですか?」
「今度という今度は、僕もがまんができないぐらいなんです」ラルフの調子にはいつになくまじめなものがあった。この青年がこんなに思いつめるからには、よくよく重大なことにちがいない。
「実際、どう切り抜けていいか見当がつかないんです」
「何か知りませんが私でお役に立つなら……」と、私は遠慮がちに申し出た。
ラルフはきっぱりと首をふって、
「ありがとう、先生。ですが、あなたにご迷惑をおかけしては悪いです。一応自分で処理してみましょう」彼はしばらく唇をかんで黙りこんでいたが、
「そうです。やっぱり僕ひとりで処理した方がいいです」
とつぶやいた。
アクロイド家の晩餐
私がアクロイド家の玄関のベルをおしたのは、あと五、六秒で、七時三十分という時であった。
執事のパーカーがすぐに戸をあけてくれた。
よく晴れた夜のことで、私はぶらぶら歩いて行ったのである。広い玄関へ入ると、パーカーが背後からオーバーを脱がしてくれた。ちょうどその時、アクロイド氏の秘書のレイモンド君が、両手にあまる書類を持ってアクロイド氏の書斎へ行くところであった。
「先生、今晩は! お食事においでになったのですか? それともご診察ですか?」レイモンド君は、私が薬かばんをテーブルにおいたのを見てきいた。私は食事に来たのだが、いつ何とき患者に呼ばれないともかぎらないから、その用意をして来た旨を答えた。
レイモンド君はうなずいたが、
「どうぞ客間でお待ちください。ご婦人方はじきにお見えになりましょうから」といい残して、アクロイド氏の書斎の方へ行った。
パーカーはレイモンド君が私と応対している間に引きさがってしまった。一人になった私は、壁にかかっている鏡の前でネクタイをととのえた。そしてまっすぐに客間へ向った。ちょうど私が戸のハンドルに手をかけた時、部屋の中でガラス戸がしまるような音がした。けれども、その時は別段その音に注意をはらわなかった。
私が扉をあけて部屋へ入ると、出会いがしらにラッセル嬢が出て来て、危く鉢合せをするところであった。二人は互いにあやまりあった。
私ははじめて家政婦のラッセル嬢が、なかなかの美人であることに気がついた。まだ白毛のまじらない黒い髪で、ハッとしてばら色に上気した頬をしていると、日頃の冷たい感じが目立たなかった。彼女がまるで走ったあとのように息をきらせていたので、私はぼんやりと、外出して来たのか知らと思った。
「私の参ったのが少々早すぎたようですね」
「いいえ、そんなことございません。もう七時半すぎておりますもの。でも、先生が今晩お食事に見えることはちっとも存じませんでしたわ。ご主人が何ともおっしゃらなかったものですから」
私はラッセル嬢が私の食事に来たことをあまり喜んでいないのを感じたが、その理由はわからなかった。
「膝の痛みはいかがですか」
「ありがとうございます。相変らずでございますわ。もうセシル夫人がこちらへお見えになる頃ですから、私、失礼いたします。今お部屋の花のぐあいを、ちょっと見にまいったところですの」ラッセル嬢はそわそわして部屋を出て行った。
私は彼女がその部屋にいたことを、特にいいわけしたのを訝《いぶか》しく思いながら、窓の方へゆっくりと歩いて行った。その時ふと、庭へ出るフランス窓が開いているのを見て、さっき聞いたガラス戸をしめるような音は何だったろうと思った。
私は別段これという理由もなく、ガラス戸をしめるような音が気になりはじめた。
ストーブの火がくずれる音だったろうか?
いや、決してそういう種類のものではなかった。それとも、ひきだしの閉まる音だったろうか? そうでもない。
つぎに私の目にとまったのは、銀テーブルと呼ばれるガラス張りの飾り棚で、その蓋は持ちあがるようになっていた。そばへ行くと、ガラスごしに中にならべてある骨董品が見えた。古銀貨、チャールズ一世が幼少の折にはいたという靴、それから、黒曜石《こくようせき》で彫った支那人形、そのほかさまざまな珍らしい品があった。私はその支那人形を手にとって、よく見ようと思って蓋を持ちあげると、指さきがら蓋がすべり落ちた。
私はその音が、さっき戸の外できいた怪しい音だったことを知った。私は自分の耳をたしかめるために、二、三度同じことをくり返してみた。そんなふうにして飾り棚の中をのぞいているところへフロラ嬢が入って来た。
フロラ嬢を好かない人間があるかも知れないが、彼女の美しさに心をうたれない者は、まずないといってもいい。ことに彼女に好意をよせている人々にとって、彼女はこの上もなく愛らしい乙女である。彼女のもっとも人目をひく点は、なめらかな雪の肌と、黄金色の美しい頭髪である。湖水のようにすんだ空色の瞳、ばら色の頬、少年のようなまっすぐな肩、すんなりとした腰の線、さえざえとした健康美は、医者の眼に特に心地よくうつった。
フロラ嬢は私のそばに立って、飾り棚をのぞきこみ、チャールズ一世が赤ん坊の時に、ほんとうにこの靴をはいたかどうか疑わしいといった。そして、
「とにかく誰がはいたとか、誰が使ったとかいって、こんな物を大さわぎするのは、ほんとうにばかげていると思いますわ。今では、はくわけにもいかなければ、使うこともできないんですものね。このジョージ・エリオットが『フロス河の水車』を書いたときに使ったペンだってごらんなさい、ただのペンにすぎないでしょう! もしそんなにエリオットの『フロス河の水車』がよかったら、普及版を一冊買って読んだ方がいいと思いますわ」
「フロラさんは、そんな古い小説などをお読みにならないでしょうね」
「先生、どうしてそんなことおっしゃるの? 私、『フロス河の水車』は愛読しましたのよ」
私は近頃の若い女性の好んで読むものには、いつも恐れをなしているので、フロラのこの告白を喜ばしく思った。
「シパード先生は私にお祝いをいってくださらないのね。お聞きになったでしよう?」といって、フロラは左手をさしだして、中指にはめた真珠の指輪を見せた。
「私はラルフと結婚しますのよ。伯父さまは大そうお喜びになっていらっしゃるわ。これで私がいつまでもアクロイド家の人でいられますからって」
私はフロラの両手をにぎって、
「おめでとうございます、あなたのご幸福を心からお祈り申し上げます」といった。
「私たちは一か月ばかり前に婚約したんですけれど、昨日ようよう発表したんですの。伯父さまは、クロス・ストンの館《やかた》に手をいれて、私たちに下さるんですって、それで私たちはクロス・ストンヘ行って農園をするということになっているんですけれども、実は冬の間はあそこで猟をして社交の季節には町へ帰り、夏はヨットで海へでかける計画なんですの。私は海が大好きですわ。もちろん母の会とか婦人会とか教会の仕事には、私だって喜んでお手伝いするつもりですわ」
フロラ嬢は何のくったくもなく語りつづけた。そこヘセシル夫人が衣《きぬ》ずれの音とともに入ってきて、くどくどと遅刻のいいわけをした。残念ながら私はセシル夫人を好まない。彼女はくさりと歯と骨でできているような、世にも不愉快な女性である。どんなにべらべらしゃべっている最中でも、冷たい眼をじっとすえている。夫人は指輪と骨でごつごつした手をのべて私と握手するとともに、盛んに目をうごかしはじめた。
……フロラの婚約を聞いたか? あらゆる点から見て申し分のない縁組ではないだろうか? この若い人たちは一目見て恋におちた。こんな似合いの夫婦はめったに求められるものではない
というようなことを、ながながとしゃべったあげく、
「シパード先生、私はこれでやっと母親の役目をはたしたような気がして、肩が軽くなりましたわ」
とため息をして、どんなにこまやかな母性愛を抱いているかを示したが、浅葱色《あさぎいろ》の眼は、依然として冷たく光っている。
「私は先日から考えていたんでございますよ。あなたはアクロイド家の古いお友達でいらっしゃるから、義兄もあなたのご意見を尊重いたしておりますわ。……私のような貧しい未亡人の立ち場はほんとうにむずかしいものでございますのよ。フロラに財産を持たせることだって考えてやらなければなりませんし……義兄はいくらか分配してくれるでしょうけれど、あの人はお金のことになると少し変っているのでございますよ。これは実業家としてはあたり前のことでしょうけれど……で、もし先生から義兄におすすめ下さいまして、何とかフロラの将来が保証されますようにお骨折り願えないものでございましょうか。……フロラは先生とは誰よりも親しくしておりますし、私どもは、ついこの二年ばかりのお近づきでございますけれども、何ですか先生とは古いおなじみのような気がいたしておりますのよ」
だが、いつ終るとも知れないセシル夫人のおしゃべりも、ふたたび客間の戸があいたので中断された。私はほっとした。他人の家庭のことなどにかかり合うなんて私の性にあわないし、フロラ嬢に財産をわけてやれとアクロイド氏を説き伏せるなんて、思いもよらないことである。もう少しで私はそれを口にだしていうところであった。
「先生は、ブラント少佐をご存じでいらっしゃいましょう?」
「よく存じております」
ブフント少佐を直接知らないとしても、名を知らぬものはおそらくないであろう。それほど有名な狩猟家である。ブラント少佐とアクロイド氏とは性格が極端に異なっているし、ブラント少佐はたしかアクロイド氏より五つぐらい年下である。生活態度も全然ちがっているのに、この二人は若い頃からの親しい友人関係をいまだにつづけていて、少佐は二年に一回ぐらいアクロイド家を訪れ、二週間ほど滞在するのが常である。誰でもアクロイド家の閾《しきい》をまたいだ者は、すばらしい角をもった動物の首が、おびただしく飾られているのに眼をみはるであろう。それらは皆この二人の変りなき友情を語るものである。
ブラント少佐は狩猟家独特のゆっくりした、それでいて軽い足さばきで部屋へ入って来た。少佐は中肉、中背で、がっしりした体格、日やけした浅黒い、どっちかというと表情にとぼしい顔をしている。彼の灰色の眼は、たえず遠いところの出来事を見つめているような印象をあたえる。
彼はあまり口をきかない。何かいう場合には、まるで無理に言葉が口から押しだされてくるかのように早口である。その時も例のとおり、
「今晩は、シパード先生」といったきり、ストーブの前にすっくと立って、アフリカの奥地に何かひどく面白い事件が起こっているのでも眺めているような眼つきで、私たちの頭ごしに窓の外を見つめていた。
「ブラント少佐。アフリカのお話をして下さらない?」とフロラ嬢がいうと、女ぎらいで通っているはずの少佐は嬢と連れだって、飾り棚の中をのぞきこみながら、親しげに顔をよせて何か話をしていた。
私はまたセシル夫人のうち明け話になやまされるのはやりきれないと思ったので、その朝の新聞に出ていた変り種のスイートピーの話をはじめた。夫人は園芸のことなどは何も知らないが、流行に遅れまいという心がけから、毎日の新聞記事には精通している。したがって、アクロイド氏と秘書のレイモンド君が出て来るまで、スイートピーが二人の話題をつないでいた。間もなくパーカーが食事の支度ができたと知らせに来た。
あまり陽気な晩餐ではなかった。アクロイド氏は何か考えこんでいて、ろくに食物に手もつけなかった。フロラも伯父のうかない様子に引きこまれて黙りこんでしまったしブラント少佐は相変らず無口なので、私とセシル夫人とレイモンド君の三人だけが会話の中心になっていた。
食事が終るとすぐにアクロイド氏は、私の腕をとって書斎へつれて行った。
「コーヒーをすました後は、もう誰もわれわれの邪魔をしないようにとレイモンドにいいつけておいたから、二人きりでゆっくり話ができる」と説明した。
私はそれとなくアクロイド氏を観察した。うたがいもなく彼は非常に興奮している。二、三分落ちつかないようすで部屋の中を行ったり来たりしていたが、パーカーがコーヒーを盆にのせて運んでくると、彼はストーブの前の安楽椅子にうずくまった。
書斎は居心地のいい部屋で、一方の壁に書棚がよせてあって、椅子はみんな大きく紺色の皮張りである。窓ぎわにすえた大きな机の上には、書類がきちんと積みかさねてあって、わきの丸テーブルの上には、いろいろな雑誌や新聞がのせてあった。
「近頃また、食後に背が痛んで困るから、いつもの薬をいただきたいです」アクロイド氏はコーヒーを飲みながらいった。
アクロイド氏が、私を特に別室へ招じたのは、氏の健康上の相談をするためであると家人に思わせることにしてあったのを私は思いだして、
「私もそんなことではないかと思い、薬を持参しました」と調子を合わせた。
「それはよかった。ではすぐいただきましょう」
「玄関のテーブルの上に薬かばんをおいて来ましたから、取って来ましょう」
「わざわざあなたが行かれることはない。パーカーをとりにやればよろしい。パーカー、先生のかばんを持って来てくれ」
「かしこまりました」パーカーは頭をさげて引きさがった。
私がすぐ口を開こうとすると、アクロイド氏は手をあげてそれを制した。
「まだ、待ってください。私がたえられないほど神経過敏になっているのが、おわかりでしよう」
いわれるまでもなく、それは明白だ。私も不安になって来た。一種の予感のようなものが私におそいかかって来た。
「窓がしまっているかどうか、たしかめて下さいませんか」
アクロイド氏は気ぜわしくいった。
私はちょっと驚いた。そして立って行って窓をあらためた。それはごく普通のガラス窓で、上部だけが少しあけてあり、青い厚いカーテンがかけてある。
私が窓の前に立っている間にパーカーが私のかばんを持って来たので、
「大丈夫ですよ」といって、私は自分の席にもどった。
「桟《さん》をおろしましたか」
「はい、はい。あなたは今晩はよほどどうかしておられますね」私はパーカーが出て行ってしまうのを待っていった。
アクロイド氏はちょっと間をおいて答えた。
「私はまるで地獄にいるような気持だ! いや、そんな薬なんかどうでもよろしい、パーカーの前をとりつくろっただけです。奉公人というものは好奇心が強いですからね。さア、ここへ来て腰かけてください。廊下の戸も閉っていましょうな」
「はい、誰にも聞かれる心配はありません。ご安心なさい」
「シパード君、私が過去三十四時間どんなに苦しんだか、誰も想像がつかんでしょう。もし誰かの家が突然にくずれ落ちるなんてことがあるとしたら、今私がそれを体験しているんです。無論ラルフのこともありますが、それは今問題にすることではありません。私がこんなに悩んでいるのは、全く別のことです。私は一体、これをどうしていいのか自分にも判断がつかないんですが、どうしても数時間のうちに解決しなければならないのです」
「そのご心配というのはどういうことですか」
アクロイド氏は一、二秒、だまりこんでいた。彼はひどくいいにくそうにしていたが、いよいよ口をひらくと、実に思いがけない驚くべき質問がとびだしたのである。
「シパード君、あなたはアシレイ・フェラス氏の最後の病気の時に、診察しましたっけね。そうではなかったですか?」
「そうです。私が診ました」
彼はつぎの質問を口にだすには、前よりもっと骨を折っているようであった。
「あなたは一度も死因を疑ったことはありませんでしたか……たとえば、フェラス氏が毒殺されたというような」
私はちょっとの間だまっていたが、相手が姉のカロリンではなくアクロイド氏なので、思いきって答えた。
「実のことを申しますと、私も最初は決してそんな疑いは持たなかったのですが、姉のむだ口をきいているうちに、ふと思いあたったことがありました。しかしこれは単なる私の想像で、決して根拠があるわけではないのですから、そのおつもりで……」
「彼は毒殺されたのだ」アクロイド氏は苦しそうな重い口調でいった。
「誰にです?」私は鋭く聞きかえした。
「自分の妻にです」
「どうしてそんなことをご存じなんです」
「夫人自身で私に話しました」
「いつ?」
「きのうです、ついきのうです、だのにもうあれから十年もたったような気がする……」
私はだまって相手があとをつづけるのを待っていた。
「シパード君、これはあなただけの胸に納めておいてください。私はこの重荷をひとりでは負いきれないので、あなたの忠告を聞かせてもらいたいのです。さっきいったように、私は全くどうしていいのか思案にあまっているのです」
「どうぞすっかりお話しください。私にはどうも、まだよく飲みこめません。どうしてまた、フェラス夫人があなたにそんな告白をするようなことになったのです」
「それはこういうわけなのです。三か月前に私はフェラス夫人に結婚を申しこんでことわられました。その後また申しこむと、今度は承諾しましたが、先夫の喪があけるまでわれわれの婚約を発表することを拒みました。それで私はきのう夫人を訪問して、フェラス氏が死んでから、もう一年と三か月もたったのだから、これ以上われわれの婚約を秘密にしておく法はないというと、夫人は不意に何の予告もなしに、涙とともにこの恐るべき告白をしたのです。むろん前から夫人のようすにどうも腑に落ちないところがあるとは思っていましたが、実に思いがけないことでした。夫人は、大酒飲みの野獣のような夫をきらっているところへ私と知りあい、私にたいする愛がつのるとともに、ますます夫を憎む気持が嵩じ、ついに恐しいことをやってしまったというのです。毒を盛ったというのです! 実に冷酷な殺人ではありませんか!」
私はアクロイド氏の顔に恐怖と嫌悪の情がありありと浮かんでいるのを見た。フェラス夫人もそれを見たにちがいない。アクロイド氏は愛のためにすべてを許しうる人ではない。彼はまじめな典型的な紳士で、どんな場合にも法律を無視することのできない人物である。
彼はなおも、ひくい単調な声で語りつづけた。
「それでフェラス夫人の告白によると、夫人のこうした罪跡を知っている者が一人あって、その人間が、たえず夫人を脅迫して多額の金をゆすっていたので、夫人はそのために狂人になりそうだといっていました」
「それは何者ですか」
突然、私の眼前にフェラス夫人とラルフが並んで、顔と顔をつけるようにして何か話していた光景がうかんだ。私は一瞬間、不安な胸さわぎを覚えた。もしやして……だが、そんなことはありえない。今日の午後、ラルフに会った時のあのほがらかな挨拶ぶりを思いあわせ、自分の危惧《きぐ》がばかげていると思った。
「夫人はその男の名はいいませんでした。実のところ、夫人はその脅迫者が男だともいわなかったのですが、私の考えでは男だろうと……」
「むろん男にきまっているでしょう。あなたには誰だか見当がつきませんか」
アクロイド氏はそれに答えないで、うめき声をあげて両手で顔をおおってしまった。そして、
「そんなばかなことはない。そんなことを考えるなんて、気狂い沙汰《ざた》だ。私は自分の心をかすめたこのばかばかしい疑念を、あなたにさえうち明けるのを、ためらいます。しかし、これだけはあなたのお耳にいれておきましょう。夫人の口ぶりから想像すると、その憎むべき脅迫者は、私の家族の一員らしいのです。むろんそんなことのあろうはずはないと思います……私の思い違いかもしれません」
「で、あなたは夫人になんとおっしゃいましたか」
「なんといってみようもないではありませんか。夫人からこうしたことをうち明けられて私が第一に考えたことは、市民として私のとるべき義務は何であろうかという問題でした。夫人はすぐに私の心を読みとって、二十四時間の猶予を与えてくれといいました。私はその間この事件を胸ひとつに秘めておくことを約束したのです。夫人はどうしても脅迫者の名をいいませんでした。
それは私がその場からその悪漢のところへ直行して、男をたたき殺すようなことをするだろうと心配したためらしいのです。夫人は二十四時間のうちに、かならずその男の名を私に知らせると誓いました。けれども私はその時、夫人がどんな決心をしていたかは、少しも気づきませんでした。シパード君、夫人を自殺させたのは私です。私は間接に夫人を殺したようなものです」
「いや、そういうふうに物事を簡単に考えてはいけません。あなたは夫人の自殺に、いささかも責任をもたれる必要はないのです」
「問題は私のとるべき道です。気の毒な夫人は亡くなられました。いまさら夫人の過去をあばく必要があるでしょうか」
「私もあなたと同感です」
「しかし、もう一つの考え方からいけば、夫人は犯した罪のつぐないをしたとしても、夫人を苦しめ、夫人を自殺にまで追いつめた脅迫者を罰しないで、このままにしておくことは正当でしょうか」
「なるほど。あなたはその男を探しだそうというお考えなんですか。すると、だいぶいろいろなことを公けにしなければならなくなりますね」
「私もその点を考えて、迷っているんです」
「悪人を罰するという点は私も賛成しますが、そのために支払うべき多くの犠牲も考えなければなりませんでしょう」
アクロイド氏は立ちあがって、しばらく部屋の中を歩きまわっていたが、ふたたび椅子《いす》に腰をおろして、
「シパード君。この問題はこのままにしておきましょうか。夫人から何もいってこないかぎり、過去は過去として葬っておきましょうか」
「夫人から何かいってくるとは、どういう意味ですか」私は好奇心をもってたずねた。
「私はかならず夫人が何か私に伝言を残したにちがいないと思うのです。何かの方法で、どこかに書いたものがあるという気がするのです」
「しかし、夫人は遺書のようなものは書かなかったようです。そういうものは何も見あたりませんでした」
「シパード君、私はかならず夫人から手紙がくると信じているのです。夫人は自殺すると同時に、すべてを明白にしようという意志を持たれたに違いありません。それほど苦しめられた男に復讐する気持を持たなかったはずはありません。もし私が最後の場面に居合わせたら、夫人はきっとその男の名を私に告げたでしょう」
「それはそうですね。あなたがお考えになるように夫人から……」と私がいいかけたところへパーカーが音もなく戸をあけて入って来たので、私は言葉をきった。
「だんな様、お手紙がまいりました」
パーカーは銀盆にのせた数通の手紙をアクロイド氏にさしだした。そして、そこにあったコーヒー茶わんをまとめて部屋を出て行った。
私がふたたびアクロイド氏に向き直った時、氏はまるで化石になったように、じいッと、細長い空色の封筒を見つめていた。他の郵便物はゆかに落ちていた。
「夫人の筆蹟だ!」アクロイド氏はささやくようにいった。
「夫人はこれをゆうべ自殺する前に投函されたに違いない」
彼は封をきって、ぶあつな手紙を取りだした。そして急に私の顔を見あげて、「たしかに窓は閉っておりますか」といった。
「閉っていますとも! どうしてそんなに、気になさるのですか」
「私はどういうものか今晩は、誰かに監視されているような気がしてならないんです。おや、あれは何ですか?」
アクロイド氏はぎょっとして戸口をふりかえった。私もかちりと鍵のうごくような音を聞いたので、立って行って廊下をのぞいたが、誰も見えなかった。
「神経のせいかな」とアクロイド氏はつぶやいた。そしてもっていた手紙を開いて低い声で読みはじめた
愛するロージャー・アクロイド様
命《いのち》をもってつぐなえ。そういう言葉を私はあなたのお顔から読みとりました。それゆえ私は自分の前にひらかれた唯一の道をとります。私は過去一年間、私の生涯を地獄にした男をあなたのお手にゆだねて罰していただきます。今日の午後、私はその男の名をあなたに申し上げませんでしたが、手紙でお知らせすることをお約束しました。
私はご存じのとおり、子供もなければ、近い身寄りもございませんから、どんなことが公けにされても決して心配することはございません。
愛するロージャー様。どうぞ私のおかした罪をお許しください。女のあさはかさから、あなたにまでご迷惑を及ぼしたことを考えますと……
「シパード君、お許しください。この手紙は私ひとりで読むべきものらしいから」といって、アクロイド氏は読みかけた手紙をたたんで封筒に入れてしまった。
「後でひとりになってから読みましょう」
「そんなことをおっしゃらないで、今読んでおしまいなさい」
アクロイド氏は、驚いたように私の顔を見あげた。
「いや、声をだしてお読みくださいという意味ではありません。私がここにいるうちに、終りまで読んでおしまいなさいというのです」
「いいえ、あとにしましょう」アクロイド氏は首をふった。
けれども、私はなぜだか自分のいいぶんを通そうとした。
「すくなくとも、その男の名だけでもお読みになったらどうです」
ところがアクロイド氏は、恐ろしくつむじまがりで、すすめればすすめるほど、反対するので、私のいいぶんはむなしくなってしまった。
パーカーがその手紙を持って来たのは九時二十分前で、私がその部屋を出たのは、かっきり九時十分前であった。その時はまだ読み終らない手紙がテーブルの上にのっていた。私は戸口に立った時、もう一度部屋の中を見まわして何か私のしのこしたことはないかと考えたが、何もなかった。私は首をふって、部屋を出た。そして、うしろの戸をしめた。
私はじき近くにうろうろしているパーカーの姿に驚かされた。私の顔を見てひどくきまり悪そうにしていたから、ことによると立ち聞きをしていたのかもしれない。何と肥った、あぶらぎった顔をした男だろう! どうも一癖《ひとくせ》ありげな眼つきが気になる。
「アクロイド氏はお一人でいたいとおっしゃって、特にそのことをお前に伝えておいてくれといわれた」と私は冷やかにいった。
「さようでございますか。私は呼鈴をお鳴らしになったと思いましたものですから……」といいわけをしながらパーカーは、私を玄関まで送って来てうしろからオーバーを着せかけてくれた。
表へ出ると、月は雲間にかくれて、何もかも黒く沈んでいた。
私がちょうど館の門を出たとき、教会の時計が九時を報じた。私は左手に折れて村の方へ帰って行こうとすると、町角でぱったりと、一人の男に会った。
「アクロイド家へ行くのはこの道でいいんですか」男はしゃがれ声でたずねた。
私は相手を見つめた。彼は帽子をまぶかくかぶって、オーバーの襟《えり》をたてているので、ほとんど顔は見えなかったが若い男らしく、その声は教養のない者らしく荒っぽかった。
「すぐそこに番小屋の木戸がありますよ」
「ありがとうござんす。わしはこの土地に不案内なもんでしてね」と、彼はいわでものことをつけ加えた。
立ちどまって見送っていると、男は木戸を入っていった。妙なことに、彼の声は誰か私の知っている人を思いださせたが、誰だか考えつかなかった。
それから十分後に私は帰宅した。例によって姉カロリンの好奇心に悩まされた後、私は十時にあくびをしながら立ちあがって、もうやすみましょうといった。それは金曜日の夜であった。毎週、金曜日のならわしで、私が柱時計をまいている間に、姉は家中の戸じまりを見まわった。われわれが二階へ向ったのは十時十五分すぎであった。ちょうど階段をのぼりきった時、下の廊下で電話のベルがけたたましく鳴った。
私はすぐに階段をかけおりて、受話機を取りあげた。
「何だって? えっ? よし、すぐ行くから!」
私はもう一度階段をかけあがって、薬かばんの中に二、三の品を押しこんだ。
「パーカーからの電話です。アクロイド氏が何者かに殺されたのを、いま家の者が発見したというのです」私は大声で姉に知らせた。
殺人
私は時をうつさず車にとび乗って、アクロイド家へいそいだ。車からとびおりて、あわただしく玄関の呼鈴をおしたが、誰も出てこないので、私はいらいらしてもう一度ならした。
やがて鍵をがちゃがちゃ鳴らして、パーカーが戸をあけた。彼は無神経な顔で、平然と戸口に立ちふさがっている。私は彼を突きのけるようにして玄関へ入り、
「どこだ?」と鋭くたずねた。
「何でございますか」パーカーは落ちつきはらっている。
「お前の主人だ、アクロイド氏はどこだ! 何をぼんやりしているんだ! 警察へ知らせたかね?」
「警察へ? 警察へ知らせたかとおっしゃるのでございますか」パーカーはまるで幽霊でもあるかのように私を見つめている。
「パーカー、一体どうしたっていうんだ! お前がいったように、お前の主人が殺されたというなら……」
「御主人様が! 殺された! そんなこと、とんでもない!」
パーカーは喘《あえ》ぐようにいった。
今度は私の方があっけにとられて、彼を見つめた。
「五分ばかり前にお前は私のところへ電話をかけたろう。アクロイド氏が殺されているのを発見したと!」
「いいえ、どういたしまして! 決してさようなことをいたしました覚えはございません」
「お前は私が誰かにかつがれたというのかね? アクロイド氏には何の変りもないというのかね?」
「質問をお許し下さい。先生は、誰かが私の名をかたって先生にお電話したとおっしゃるのでございますか」
「私が電話で聞いたとおりを聞かせてやろう……シパード先生でいらっしゃいますか、こちらはアクロイド家のパーカーでございます。どうぞすぐおいでくださいまし、旦那様が殺されたのでございます……ということで、私は驚いてかけつけたのだ」
私とパーカーは互いに顔を見合わせた。
「そういう電話をかけるなんて、いたずらにもほどがございます。あんまりではございませんか」パーカーはようやく我れにかえると、にがにがしげにいった。
「アクロイド氏はどこにおられるかね」私はとつぜんに質問した。
「まだ御書斎だと存じます。ご婦人方はもうおやすみになりましたし、レイモンド様とブラント少佐殿は撞球室《どうきゅうしつ》におられます」
「ちょっとでも御主人にお目にかかって帰ろう。邪魔されるのを好まないかも知れないが、冗談にもせよ、こんないやなことを聞くと、気がかりだからね。何事もないことをこの眼でたしかめておきたい」
「ごもっともでございます。私も何やら心配でございますから、お差し支えなければ、お部屋の入口まででもお供させていただきとうございますが……」
「ああ、いいとも。さあ行こう!」
私はパーカーを後にしたがえて、右手の戸をおして小さな控え室へ入って行った。そこからアクロイド氏の寝室へ通じる階段があった。私はすぐに書斎の戸をたたいた。
返事がないのでハンドルをまわしてみたが、戸には鍵がおりていた。
「ごめんくださいまし」パーカーはなりに似合わない身軽さで片ひざを床《ゆか》について眼を鍵穴にあてがった。そして立ちあがりながら、
「鍵はちゃんと鍵穴にさしこんだままになっております。旦那様はきっと内がわから鍵をおろして、ひと眠り遊ばしていらっしゃるのでございましょう」といった。
私も身をかがめて、パーカーの言葉をたしかめた。
「そうらしいね。それにしても私は御主人を起こすつもりだよ、パーカー。御主人の口から直接に何事もなかったと聞かずに、このまま家へ帰るわけにはいかないよ」
そういいながら私は、ハンドルをがたがたやって、
「アクロイドさん! アクロイドさん!」と呼んでみた。
だが依然として返事がないので、私は肩ごしにパーカーをふり返って、
「私は家の人たちをむやみに驚かしたくないがね」というと、パーカーは心得て、私たちがいま入って来た玄関の広間との境いの戸を閉めてきた。
「これで大丈夫だと存じます。撞球室は建物の向うがわでございますし、ご婦人方の寝室や奉公人たちのおりますところもあちら側になっておりますから」
私はうなずいて、力まかせに戸をたたいた。
「アクロイドさん! アクロイドさん! シパードです。ここをあけて下さい!」
部屋の中はひっそりとしている。錠をおろした部屋の中には、全く人のけはいもしない。私とパーカーは顔を見合わせた。
「パーカー、どうもおかしいよ。戸をこわそうではないか私が責任を持つから」
「さようでございますか、先生がそうおっしゃるなら」パーカーは気がすすまぬようすであった。
「私はアクロイド氏の身について本気に心配になってきたんだよ」
私はあたりを見まわして、そこにあった頑丈な樫の木の椅子を取りあげた。私とパーカーとで、その椅子の両はしをつかんで、力まかせに戸にたたきつけた。一度! 二度! 三度目についに戸があいて、私たちは部屋の中へのめりこんだ。
アクロイド氏は私が帰る時に見たと同じように、ストーブの前の安楽椅子に腰かけていた。がっくりとたれた頭が一方によっているので、ちょうど上衣の衿《えり》の下に突き刺さっている、まがった金物が光っているのが、はっきり見えた。
パーカーと私は、だらりと前かがみになっているアクロイド氏を見おろす位置まで、近づいた。
「うしろから突き刺されたんだ! 恐ろしいことだ!」パーカーははげしい息づかいで叫び、ハンケチで額の汗をぬぐった。そしてアクロイド氏の首に刺さっている短刀を抜き取ろうとした。
「さわってはいけない! すぐ警察へ電話をかけてこのことを報告するんだ。それからレイモンド君とブラント少佐にも知らせてくれ給え」と私は口早にいいつけた。
「かしこまりました」パーカーはなおも額の汗をぬぐいながら廊下を走って行った。
私のなすべきことはごくわずかであった。私は死骸の位置を動かさないように注意し、短刀にはぜんぜん手をふれないでおいた。アクロイド氏が死んでから、かなりの時間がたっていた。
やがて廊下に若いレイモンド君のあわただしい声が聞こえた。
「何だって? ほんとうかね! 医者はどこにいる」
戸口まで来たレイモンド君は、真青になって立ちすくんだ。ブラント少佐が彼を押しのけて先に部屋へ入って来た。
「ああ、やっぱりほんとうだったのか!」レイモンド君がその後からいった。
ブラント少佐はつかつかと椅子のそばまで歩みより、死骸をのぞきこんだ。私は彼がパーカーのように短刀の柄に手をかけようとするらしく思ったので、あわてて手をあげて彼を後へ引きもどし、
「何にも動かしてはなりません! 警官がくるまでこのままにしておかなければなりません」といった。
ブラント少佐は、はっと気がついてうなずいた。彼の顔はいつものように無表情であるが、さすがにマスクのような冷たい顔にも、いくらか感情のうごきが見えた。
レイモンド君もようやくわれわれの仲聞に加わって、少佐の肩ごしに死骸をのぞきこみ、
「恐ろしいことだ!」と、低い声でいった。
彼は平静を取りもどしたが、いつもかけている鼻眼鏡をハンケチで磨いている手がかすかに慄えていた。
「泥棒でしょうね。どこから入ったんだろう。窓から? 何か盗まれたんでしょうか?」といいながら、彼は机に近づいた。
「あなたは盗賊のしわざだと思いますか」と、私はゆっくりといった。
「それよりほかに考えようがありません。自殺なんていうことはあり得ないでしょうからね」
「むろんですとも。自分で自分の首を後から刺して自殺するなんて不可能ですから、他殺に違いありませんよ。しかし動機は何でしょう」私は人々の顔を見まわした。
「アクロイド君は敵などつくる人ではない。盗賊のしわざにきまっている。だが、賊は何を狙ったんだろう? 見渡したところ、どこにも異状はないように見えるが……」少佐はきちんと片づいた部屋の中を見まわした。
レイモンド君は机の上の書類を調べていたが、
「何もなくなっているものはありません。ひきだしの中をかきまわした形跡もなし、実に不思議ですね」とつぶやいた。
「床に手紙が落ちているではありませんか」
ブラント少佐は顎でアクロイド氏の足もとをさした。そこにはさっきのまま、二三通の手紙が落ちていた。だが、フェラス夫人から来た空色の封書はどこにも見あたらなかった。私がそれを口に出そうとした時、玄関のベルがなって、騒がしい人声が聞こえ、つづいて警察官の一行がパーカーに案内されて来た。
「やあ、皆さん! 実にとんだことでした。アクロイド氏のような立派な紳士が、こんな災難にあわれるとは、心痛にたえないことです。パーカーの話では他殺だそうですが過失、あるいは自殺というような疑いはありませんか。先生のご意見は?」
「ぜったいに自殺ではありません」と私は答えた。
警部は死体のそばへよって、
「手はふれなかったでしょうね」と鋭くたずねた。
「私が脈の有無をたしかめた以外は、誰も手をふれませんでした」
「なるほど、すべての状況からみて、疑いもなく他殺ですな。では前後の模様を聞きましょう。まず最初に死体を発見したのは誰ですか」
私は最初からの状況をこまかに説明した。
「電話で知らせて来たといわれるんですね。パーカーからですね」
「私は決してお電話などした覚えはございません。じっさい今晩は、一度も電話室のそばへ参りませんでした。この点はほかの者たちも証明してくれます」と、パーカーは熱心に申したてた。
「それはおかしい。で、先生、その声はたしかにパーカーでしたか」
「さア、そういわれるとそうだったと断言できませんね。私の方では最初からパーカーときめてかかっていましたから、声のことなどに注意しませんでした」
「ごもっともです。で、先生はここへかけつけて、戸を破って入り、アクロイド氏のこの姿を発見されたというわけですね。先生のお考えでは、死後どれぐらいたっておりますか」
「少くも三十分、あるいはもっと経っているかもしれません」と私はいった。
「入口の戸は内がわから錠がおりていたとおっしゃいましたね、窓はどうでした」
「窓は、夕方私がここへきた時に、アクロイド氏に頼まれてちゃんと閉めて桟をおろしておきました」
警部は窓に近づいて、カーテンをのけた。
「とにかく今はこのとおりあいています」
警部のいうとおり窓はあいていた。下の方のガラス戸はいっぱいに上へ押しあげてある。警部は懐中電燈をだして、窓の外を照らし、窓わくを検べて、
「そうです。犯人はここから入って、ここから出て行ったのです。ご覧なさい!」
強い電燈の光に照しだされた地面に、はっきりと足跡が見えた。それは踵《かかと》にゴムをつけた靴らしい。その中の一つは内がわに向き、もう一つ、やや薄く、外向きの跡がある。
「疑う余地はありませんな。何か貴重品でなくなっている物はないですか!」
レイモンド君は首をふって、
「私どもの見たところでは何も盗まれておりません。それにアクロイド氏はこの部屋には、貴重品というような物はおいておかれませんでした」と答えた。
「なるほど。犯人は窓があいているのを見て、ここへ入ってきて、恐らくうたた寝をしていたアクロイド氏をみて、いきなり後から刺し殺したのでしょう。ところが急に恐ろしくなって、一物も得ず逃げ去ったのでしょう。しかし、これだけはっきりした証拠を残して行ったのだから、ぞうさなく犯人をあげることができるでしょう。どなたか、この辺に怪しい者を見かけませんでしたか」
「そうそう、今晩、私が帰るとき、門のそばで一人の男に会いました。その男は、私にアクロイド家へ行く道をたずねました」私は急に思いだして警部に答えた。
「それは何時ごろでした」
「ちょうど九時でした。門を出た時に教会堂の鐘が鳴っているのを聞きましたから」
「どんな男でしたか」
私はできるだけ詳しく男のようすを話した。警部はパーカーに向って、
「そういう人相の男を玄関に迎えなかったかね」
「いいえ、今晩シパード先生がお帰りになって後、玄関へはどなたもお見えになりませんでした」
「裏口へは?」
「たぶん誰もこなかったろうと思いますが、奉公人たちにたずねて参りましょう」
パーカーが行きかけると、警部は大きな手をあげて、
「よろしい。それは私がたずねる。それよりもまず時間をはっきりさせなければならない。アクロイド氏に最後に会ったのは誰だろう」
「おそらく私だろうと思います。私が暇《いとま》をつげたのは、ええと何時でしたかな……そう、たしか九時十分前くらいだと思います。その時アクロイド氏は、誰にも邪魔されたくないからといわれたので、私はそのことをパーカーに伝えました」と私がいうそばからパーカーも、
「そのとおりでございます」といった。するとレイモンド君が、
「アクロイド氏は九時半にはたしかに生きておられました。僕はアクロイド氏が、ここで誰かと話をしている声を聞きました」とつけ加えた。
「誰と話しておられたのですか」
「それは僕にはわかりません。僕はシパード先生と話しておられるものとばかり思っておりました。僕はその時しらべていた書類の中にわからないところがあったので、アクロイド氏にたずねるつもりできたのですが、シパード先生と何か相談があるから、邪魔をしてはならぬといい渡されていたことを思いだして、すぐ引っ返してしまったのです。しかしただ今の先生のお話では、その頃はもうとうに先生が帰られた後だったのですね」
私はうなずいた。
「さよう。私は九時十五分すぎに家へ帰って、それから電話がかかってくるまで、どこへも出かけませんでした」
「すると九時半にこの部屋へ来ていたのは誰だったのでしょう。あなたではないかね?」警部がブラント少佐に向っていったので、私は、
「こちらはブラント少佐ですよ」と注意した。
「ああ、ブラント少佐殿でいらっしゃいますか」警部は急にていちょうな態度になって、
「少佐殿はたしか一昨年の五月にもこちらにご滞在でしたね」といった。
「六月です」少佐はぶっきらぼうにいった。
「ああ六月でしたか。ただ今も申し上げましたように、今晩九時半にアクロイド氏とこの部屋で話しておられたのは少佐殿ではありませんでしたか」
「食後は一度も会いませんでした」少佐は簡単に答えた。
警部はふたたびレイモンド君に向って、
「あなたは会話の内容を聞きませんでしたか」
「僕はほんのちょっと聞いただけでした。その時、僕はシパード先生と話しておられるものとばかり思っていたもんですから、アクロイド氏のいわれたことを、少しへんだと思いました。ちょうど私がここへきた時、アクロイド氏は……目下のところ資金欠乏につき貴君《きくん》の要求をいれることは不可能である。加うるに……といっておられました。むろん私はすぐに引き返してしまいましたから、その後は聞きませんでした。けれども僕は妙だと患いました。なぜかというと、シパード先生が……」
「借金を申しこむとか、他人のために寄付を中し入れるはずはありませんから」と、私はレイモンド君の言葉をむすんだ。
「金の要求ですね。これは有力な手がかりの一つです。パーカー、君は今晩、誰も玄関から家へ入れなかったというのだね」
「さようでございます」
「すると、その相手の男を家へ入れたのは、アクロイド氏自身に違いない、それにしても……」
警部は考えこんでいたが、
「とにかく、アクロイド氏は九時三十分まで生きていたということはたしかだ。しかし、それがアクロイド氏の生きていた最後の瞬間だったかもしれない」
その時、パーカーが咳ばらいをしたので、警部は、
「何だね」と、物いいたげなパーカーの口もとをみつめた。
「ごめんくださいまし。あのレイモンド様の後でフロラ嬢様が旦那様にお会いになったはずでございます」
「フロラ嬢が?」
「さようでございます。それは十時十五分前ぐらいだったと存じます。その時お嬢様は私に、旦那様が誰も妨げてはならないと申されたとおっしゃいました」
「アクロイド氏がフロラ嬢に伝言されたというのかね」
「そういうわけではございませんが、私がいつものようにソーダ水とウイスキーをのせた盆をささげて参りますと、このお部屋から出ておいでになったお嬢様が、ご主人が誰も来てはならないとおっしゃったからと、私をお制しになりました」
警部は改めて注意ぶかくパーカーの顔を見た。
「お前はその前にもうアクロイド氏から来てはならぬといい渡されていたはずではないか」
「仰せのとおりでございます」と、どもりながらいったパーカーの手がふるえていた。
「それだのに書斎へ入ろうとしたのか」
「私はつい忘れてしまいましたんで……毎晩その時刻にソーダ水とウイスキーを持ってまいることになっておりましたので……それに何か別にご用はないかどうか伺いましょうと存じまして……いつもの習慣でうっかりいたしましたんでございます」
この時、私はパーカーが何か後ろ暗いことがあるらしく、ひどく狼狽《うろた》えているのに気づいた。
彼は全身をふるわせ、むやみと手足を捻じまげたりして、落ちつかないようすをしている。
「とにかくフロラ嬢にすぐ会わねばならぬ。またここへ戻るとしても、用心のためにこの部屋はそっくりこのままにして、厳重に戸じまりをしておこう」と警部がいった。
彼は自分で窓を閉じ、桟をおろした上で、われわれを従えて廊下へ出た。そしてアクロイド氏の寝室に通じる階段を見あげると、後をふり返って巡査に、
「ジョン、君はここに立番していてくれ給え。誰もあの部屋へ入れてはならない」といった。
すると、パーカーが遠慮がちにそれに抗議した。
「ごめんくださいまし。あのお、お玄関に出ますあの戸に錠をおろしてしまいますと、ほかにはこちらへ入る通り路がないのでございます。あの階段は且那様の寝室と浴室専用になっておりますです。もう一つ入口がございましたのですが、且那様はそこを釘づけにさせておしまいになりました。旦那様はご自分のお部屋は完全に独立させておかれるのをお好みになったのでございます」
ここであたりの状況をはっきりさせるために、私はアクロイド家の右翼の建物の内部について説明しておくことにする。玄関から廊下を右へ入る戸があって、そこを入ると右手に書斎の戸があり、正面に小さな階段があって、そこにはパーカーが説明したとおり、二間の部屋を一つにした大きな寝室と、それにつづいて浴室と便所がある。
警部は一目でそれらの配置をのみこみ、われわれ一同が玄関の広間へ出ると、戸に錠をおろして鍵をポケットにすべりこませながら、部下に小声で何か命令した。
「われわれは何よりも窓下の靴跡を調べなければなりませんが、その前にまずフロラ嬢に会いたいものですな。嬢はアクロイド氏の生前、最後に会われたのですから、フロラ嬢はこの事件をもう知っていますか」
レイモンド君は首をふった。
「かえって知らせない方がよろしい。気が顛倒すると、私の質問に答えられなくなりますから。ただ盗賊が入ったから、すぐ服を着て階下《した》へくるようにとおっしゃってください」
その使者にたったレイモンド君はじきに戻って来て、
「フロラ嬢はすぐこちらへ見えます。あなたのいわれたとおりに申し上げておきました」と報告した。
それから五分とたたないうちに、薄桃色の日本風の着物を羽織ったフロラ嬢が、心配そうな顔をして階段をおりてきた。
「今晩は、お嬢さん。今ごろお呼び立てしてお気の毒です。実は盗賊が入りましたので、少しお嬢さんのお力添えを願いたいのです。この部屋は何ですか? 撞球室ですか、では恐れ入りますがこちらへ入っておかけ下さい」
フロラは撞球室の壁によせてある長椅子に腰をおろして警部を見あげた。
「どうしたんでございます? 何か盗《と》られましたの? 私から何をお聞きになろうとおっしゃるんでしょう?」
「お嬢さんは、パーカーの申しますには、十時十五分前ごろ、伯父様の書斎から出ておいでになったということですが、それはほんとうでしょうか」
「そのとおりでございます。私は伯父様に、おやすみなさいをいいに参ったのでございます」
「時間に間違いはありませんでしたか?」
「その頃だったと思いますが、はっきりはわかりません。もう少し遅かったかもしれません」
「その時、伯父様はお一人でしたか?」
「はい、一人でした。シパード先生がお帰りになった後でしたから」
「もしやしてお嬢さんはその時、窓があいていたかどうかお気づきではありませんでしたか?」
「さア、どうでございましたでしよう、カーテンがかかっておりましたから」
「伯父様のごようすにいつもと変ったところはありませんでしたか?」
「いいえ、いつものとおりでした」
「お嬢さんはその時、伯父様とどういうお話をなすったか、ありのままを私にお聞かせくださいませんか」
フロラは記憶をたどるように、しばらく間をおいて、
「私は部屋へ入って行って、おやすみなさい、おじ様、私今晩はつかれましたから、お先に失礼させていただきますわ……といって伯父に接吻をいたしました。伯父はその晩、私の着ていたドレスがよく似合うと申されました。それから、大そういそがしいから、さっさと行っておやすみ、とそう申されました」
「伯父様は特に誰にも書斎にこないようにといわれましたか?」
「そうそう、すっかり忘れていましたわ。伯父は、今晩はもう何にもほしくないから、パーカーにそういっておくれ。それからもう何にも用はないからここへこないように……と申されました。ちょうど私が廊下へ出るとパーカーに会いましたから、伯父の申されたことを伝えたのでございます」
「ああ、そうでしたか」と警部は、うなずいた。
「何を盗まれたんでございますの?」
「実はまだよくわからないのです」警部はためらいながらいった。
フロラの眼に急に恐怖の色がうかんで来た。
「どうしたんでございますの? あなたは何か私にかくしていらっしゃいますのね」
その時、ブラント少佐は、いつもの控えめな物腰で、警部とフロラの間に立った。彼女が半ば助けを求めるように手をさしのべると、少佐はそれを両手でとって、まるで幼い者にするように優しくその手をなでた。彼女はあたかもその鈍重な岩みたいな態度のうちに慰めと安全感を見だしたように、少佐を見あげた。
「フロラさん、大変な不幸が起こったのです。あなたの伯父様は……」
「伯父がどうかいたしましたの?」
「どんなにお驚きになるかしれませんが、実は伯父様が亡くなられたのです」
フロラは危く倒れかかった。
「いつ? いつですか?」彼女は恐怖におびえた眼をすえて、ささやくようにいった。
「たぶん、あなたがお会いになった、じき後だったろうと思われます」
フロラは喉に手をやって小さな叫びをあげた。私は倒れる彼女を急いでだきとめた。私とブラント少佐は、気絶しているフロラを寝室へはこんだ。そしてブラント少佐にセシル夫人を起こして事件を知らせるように頼んだ。
フロラは間もなく気がついた。私はセシル夫人に彼女の看護をまかせて、ふたたび階下へ戻った。
兇器
階段をおりて行くと、ちょうど台所に通じる廊下から出てきた警部に会った。
「奉公人たちを訊問してみましたが、皆そろって今晩は、誰も裏口へたずねて来た者はないといっております。先生がお会いになったという男のことがすこぶるあいまいですが、もう少し何かはっきりした点をお話し願えませんでしょうか」
「それはむずかしいですな。なにしろ真っ暗な晩でしたし、それに相手は帽子をまぶかにかぶり、オーバーの襟を立てておりましたんですからね」
「なるほど。するとその男は顔を見られないように隠していたというわけですね。たしかに先生のご存じない男でしたか」
私はその男の声にどこか聞き覚えがあるように感じたことを思いだしたので、そのことを警部に語った。
「荒っぽい、無教育な人間らしい声だったといわれるんですね」
私はそれに同意を示したが、荒っぽいという形容はいささか大げさではないかという気がした。
男が顔をかくしていたとなれば、声だってかえたかもしれない。
「先生、恐れ入りますが、もう一度書斎へおいで願えませんか。二、三おたずねしたいことがありますから」
私はこころよくそれを承諾した。廊下の戸口に立ちどまったデビス警部は錠をあけて、われわれが書斎へ通じる廊下へ入ると、ふたたび背後の戸を閉じて錠をおろした。
「邪魔されたり、立ち聞きされたりしたくないですからね」
と、警部はむずかしい顔つきでいった。そして、
「時にゆすりというのは、どういうことなのですか、先生!」とたずねた。
「ゆすりですって!」私は驚いて叫んだ。
「それはパーカーの想像にすぎないのでしょうか、それとも何か根拠があったのでしょうか」
「もしパーカーがゆすりのことを知っていたとすれば、彼がここの戸の外で鍵穴に耳をつけて立ち聞きしたに違いありませんね」
「おさっしのとおりです。私はパーカーの今晩の行動についてきびしく追求したのです。どうもあの男の態度に気にくわないところがありますのでね。何か知っているらしい。それで訊問していくうちに、奴は恐れ入って、誰かに金をゆすられていたというようなことを聞いたと白状したのです」
私は即座に自分のとるべき方針をきめて、
「あなたからそういう話を持ちだしていただいて、ちょうどよかったです。実は私はさっきからそのことをあなたに話したものかどうか迷っていたのです。そのことを今ここで申し上げましょう」といって、私はその晩の出来事をくわしく語った。
熱心に耳をかたむけていた警部は、私の言葉が終ると、
「実に驚くべき話ですな。で、その手紙が完全に紛失してしまったというのですね。残念なことですな、全く残念なことです。それさえあれば、われわれの求めている殺人の動機を、はっきりつかむことができたでしょうに」といった。
「おっしゃるとおりです」と私はうなずいた。
「で、アクロイド氏は、家族の者の中に疑わしい者があるというようなことをいわれたとおっしゃるんですね。もっとも家族の者という言葉にはだいぶん幅がありますがね」
「といわれると、奉公人も含むというわけですか。あなたはまさかパーカーがわれわれの求める男だと考えておられるのではないでしょうね」
「そうも考えられますな、彼は先生が書斎から出られた時も、廊下にうろうろして立ち聞きしていたようですし、それから後、フロラ嬢も、あの男が書斎へ入ろうとしているのを見かけたのですからね。ことによると、フロラ嬢が行ってしまってから書斎に入ってアクロイド氏を刺し殺し、内がわから錠をおろして、自分は窓から出て裏口から家へ入ったのかも知れません。先生はどうお考えですか」
「あなたのその推理には、たった一つ不都合なところがあります。もしアクロイド氏が私の帰ったあとで、例の手紙を読んでしまったなら、いつまでも安閑と書斎で考えこんでなんかいるはずはないでしょう。もしパーカーが脅迫者であることを知ったら、即座に呼びつけて、詰問したでしょう。その結果は二人がいい争って、アクロイド氏は家中にひびき渡るような大声をあげたに違いありません。ご存じのとおり、アクロイド氏は非常な癇癪《かんしゃく》持ちでしたからね」
「しかし、アクロイド氏は手紙を読むひまがなかったかも知れないでしょう。九時半にアクロイド氏は誰かと話をしておられたとすると、先生が帰られた直後に誰か来て、その訪問者が帰ると、つづいてフロラ嬢がおやすみなさいをいいに来たのでは、十時近くまでは手紙を読むひまがなかったわけですな」
「それでは電話の件はどう推定しますか」
「むろんパーカーに決っていますよ、きっと先生に電話をかけてしまってから、急に心配になったので内がわから錠をおろし、窓をあけて盗賊が入った体《てい》にこしらえ、自分はぜんぜん何も知らなかったといい張ることにしたのでしょう。そうに違いないですよ」
「そうでしょうかね」私は疑ぐりっぽくいった。
「とにかく電話の件は交換局で調べれば明らかになります。もし先生のお宅にかけた電話がこの家から出たものとすれば、パーカーに違いありません。しかし、これは当分のあいだ秘密にしておくんですな。動かすべからざる証拠をあつめてしまうまでは、パーカーを眼中においてないように見せかける必要があります。われわれは先生が見かけられたという例の謎の男に目星をつけているごとく装っていましょう」
警部は机の前の椅子から立ちあがって、安楽椅子の死体のそばへ行った。
「兇器は有力な手がかりとなるでしょう。これは骨董品らしいですな」
彼はかがんで短刀の柄をしさいに検べて、満足げにうなずいた。そして用心深く短刀の柄の下の方に手をかけて傷口から兇器を抜きとり、柄に手をふれないように注意しながらそれを持って行って、ストーブの棚に飾ってあった陶器の茶わんの上にそっとおいた。
「たしかに美術品ですな。ざらにある品ではない」彼はひとりうなずきながらいった。
それは全く美しい細工である。先端のするどい細長い刃で、柄には精巧な模様が金銀ではめこみ細工になっている。警部は用心深く刃の先に指をふれて鋭利さをためし、さも感嘆したように顔をしかめて、
「こりゃ鋭い! これじゃア子供だって、バターを切るように容易に人間を突き刺すことができる。その辺にだしっばなしにしておくには危険なおもちゃだ!」とつぶやいた。
「検屍を行ってよろしいですか?」
「どうぞ!」
私はめんみつに検屍を行った。私がそれをすますと、警部は、
「それで?」と、説明をうながした。
「専門語をはぶいて説明しましょう。まず右手ききの人物が背後から、一突きに刺したもので、即死です。被害者の表情から推察すると、本人は死の瞬間まで予期していなかったものと見えます。恐らく被害者は何者に襲われたかも知らなかったでしょう」
「奉公人なんていうものは、猫のように足音を立てずに家中を歩きまわるものですからね。恐らくこれはしごく簡単な事件でしょうな。短刀の柄をごらんなさい」
私はいわれるままに、柄をのぞきこんだ。
「先生にははっきり見えないかも知れませんが、私には歴然と見えます……指紋がね」と、警部は指紋というところで、声を落としていった。彼は自分のあげた効果を鑑定するかのように、二、三歩後へさがった。
「なるほど、ありますね」と私は静かにいった。
私は自分が指紋の知識など何も持っていないと思われたくなかった。それに私だって探偵小説や新聞の三面記事ぐらいは読んでいるし、これでも人なみな才能を持った人間である。もし短刀の柄に足の指紋でもついているとすれば、これは別問題だ。そうだったら私はどんなにでも驚きと恐怖の表情をつくって見せたであろう。
警部は、私が冷淡なようすをしているのが不満らしく、もう一度短刀をのせた陶器の茶わんを取りあげて、
「レイモンド君に一つ見せて、感想を聞いてみましょう」といい、私をうながして撞球室へ行った。
いうまでもなく、書斎へ通じる廊下の戸にはふたたび錠がおろされた。警部は展覧物を捧げて、
「レイモンド君、この短刀に見覚えがありますか」とたずねた。
「知っていますとも、それはブラント少佐がアクロイド氏に贈られた骨董品です。何でもモロッコから……そうじゃない、ギリシアから来た品だそうです。するとそれが兇器に使用されたのですか? 実に驚くべきことですね。そんなことはあり得ないと思われますが、しかし同じ短刀が二つあるとも考えられませんしね。ブラント少佐をお呼びして来ましょうか?」レイモンド君は答も待たずに急いで部屋を出て行った。
「なかなかいい青年ですな。正直そうな、そして聰明らしい感じで」と警部はいった。
私もそれに同意した。彼は二年前からアクロイド氏の秘書をつとめている青年で、私は彼が怒ったり機嫌をわるくしたりしているのを見たことがない。それに彼は非常に役に立つ秘書であった。
一、二分して、レイモンド君がブラント少佐を伴って来た。彼は興奮した調子で、
「私のいったとおりでした。それはギリシアの短刀だそうです」といった。
「ブラント少佐はまだ兇器を見ておられないはずですがね」と警部がとがめるようにいうと、ブラント少佐は落ちついて答えた。
「私は書斎へ入った瞬間に、あの短刀に気がつきました」
「なぜその時にすぐそのことをいわれなかったのですか」警部は疑ぐりぶかくいった。
「いうべき時でない時に、むやみに口をだすのは、間違いのもとになるものです」少佐は冷やかに相手の視線を受け返した。
警部は口の中でぶつぶついいながら後を向いて、短刀を少佐につきつけるようにさしだして、
「たしかにこれに違いないのですか」と念をおした。
「絶対に疑う余地はありません」
「これらの骨董品はふだんどこにおいてあったのですか」
それに答えたのは秘書であった。
「客間の飾り棚の中にありました」
「えっ?」私は思わず声をあげた。
人々はみんな私の顔を見つめた。
「何ですか、先生!」警部は私に聞いた。
「なに、つまらないことです」
「何ですか? 先生」警部はさらに私の言葉をうながした。
「ほんのちょっとしたことなんですが……私が今晩こちらへ食事に参った時、客間へ入る前に中であの飾り棚の蓋がしまる音を聞いたものですから……」と私はいいわけがましく説明した。
「どうして先生はそれが飾り棚の蓋だとおわかりでしたか」
警部の顔にはありありと疑惑のかげがさしていた。
私は後になってそんなことをするのではなかったと思うような、面倒くさい説明をながながとさせられた。警部は私が語り終ると、
「先生が飾り棚をのぞかれた時、この短刀はその中にありましたでしょうか」とたずねた。
「どうだったか気がつきませんでしたが……しかし、当然あの中にあったはずでしょうね」
「家政婦を訊問してみましょう」といって警部はすぐに呼鈴をおした。
間もなくパーカーに呼ばれて家政婦のラッセル嬢が部屋へ入って来た。彼女は警部の質問にたいして、
「私は飾り棚に近よった覚えはございません。私はあのとき客間の花がしおれていはしないかと思って見に行ったのでした。そうそう今思いだしましたわ。銀の飾り棚の蓋があいていました……そんなところあけ放しにしておくものではありませんから、私もとどおりに閉めました」といって挑戦的に警部の顔を見つめた。
「なるほど。で、あなたはその時、この短刀が飾り棚の中にあるのを見ましたか」
ラッセル嬢は警部のさしだした短刀を静かにながめて、
「私には、はっきりしたお答はできません。私はいつなんどきご家族の方々が階下《した》へおりておいでになるかわからなかったので、急いで部屋を出て行こうとしておりましたから飾り棚の中など見てはいられませんでした」
「ああそうですか、どうもご苦労でした」
警部はもっと何かラッセル嬢にたずねたそうなようすをしたが、嬢の方ではそれで訊問が終ったものとみて、さっさと部屋を出て行った。
「なかなかしっかり者らしいですな」と、警部は彼女の後を見送りながらつぶやいた。そして、
「先生、飾り棚は窓の前にあるのでしたっけね」というのを、レイモンド君が引き取って、
「はア、左手の窓の前です」と私のかわりに答えた。
「で、窓はあいておったですか」
「はア、両方ともあけ放しになっておりました」
「まア、それはたいして問題ではありますまい。誰か……単に誰かという意味で……いつでもの短刀を持ちだすことができたというだけのことで、はっきりいつという点は少しも問題にはならないです。レイモンド君、私は朝になってから署長と一緒にもう一度来るから、それまで戸の鍵はあずかっておきます。メルローズ署長は現場をあるがままにしておくことを望まれるでしょう。署長はよそへ晩餐に招かれて行って、今夜はあちらに泊られたはずです」
われわれは警部が兇器をのせた茶わんを取りあげるのを見ていた。彼は、
「これは注意して包装しておかにゃならん。いろいろな点で重要な証拠品となるものだから」といった。
それから間もなく私とレイモンド君と撞球窒を出てくると、彼は、面白そうにくすくす笑った。
私は腕にかけた彼の手にぐいと力が入ったので、彼の視線を追うと、デビス警部がパーカーに小さな手帳を渡して、何か意見を求めているところであった。
「うまいもんじゃアありませんか。パーカーは容疑者というわけですね。どうでしょう、われわれも各自の指紋を提供しょうじゃアありませんか」といって、レイモンド君は名刺受けの上にのっていた名刺を二枚取りあげ、絹ハンケチで表面をぬぐった上で一枚を私に渡した。そして笑いなからデビス警部に、
「記念品を進呈しましょう。こちらはシパード先生の指紋、こちらは僕のです。ブラント少佐のはいずれ明朝」と気がるにいった。
青年というものは実に呑気なものだ。自分の友であり主人である人の残虐な事件でさえも、そう永くはレイモンド君の気持をしずめてはおかなかった。さもあるべきであろう。私自身などは、跳ねかえるような若々しい気分をとうの昔に失ってしまっている。
私が家へ帰ったのは夜がふけてからであった。私は姉が寝てしまっているようにと念じていたが、彼女はココアを熱くして待ちかまえていた。そして私がそれを飲み終るまでに、その晩の出来事をしぼりとるようにして聞きだしてしまった。私は脅喝《きょうかつ》の一件には何もふれないで、殺人に関することだけを事実のまま語った。
「警察ではパーカーを疑っているらしいですよ。いろいろと証拠があがっていますからね」と私は寝室へ行くつもりで立ち上りながらいった。
「パーカーですって? パーカーを容疑者にするなんてばかの骨頂だわ。その警部はよほどの能なしに違いないわ」
と、姉は吐きすてるようにいった。
池の中の結婚指輪《エンゲージリング》
隣家の男の職業
翌朝、私は重症患者がないのをいいことにして、簡単に往診をすまし、急いで家へ帰ると、姉が玄関へとびだして来て、
「フロラさんが来ていますよ」と声をひそめて告げた。
「何だって?」私はできるだけ自分の驚きをかくすようにした。
「もう半時間も前から、あなたを待ちわびていたんです」
と、いってカロリンは私を小さな居間へ引っぱって行った。フロラは窓ぎわの長椅手に腰をかけていた。彼女は黒い喪服を着て落ちつかないようすで指先をうごかしていた。私は彼女の顔つきにぎょっとした。ひどくやつれて血のけが失せていた。けれども話をはじめると言葉つきや態度がしっかりしていた。
「シパード先生。私、お力を拝借に上りましたのよ」
「そりゃどんなことだって、お力になりますとも」姉がそばから口を添えた。
フロラは姉の前で用件を話すのを好まないらしかった。そうかといってむなしく時をつぶすわけにもいかないと見えて、
「先生、お願いですから、私と一緒にお隣りへ行って下さいませんか」ときりだした。
「お隣りへ?」私はびっくりして聞きかえした。
「あの変てこな小男に会いにいらっしゃるんですか」姉もあきれたようにいった。
「ええ、そうですの。あなた方はあの方が誰だかご存じでしょうね」
「私どもは、以前理髪師でもやっていた人だろうと想像しているんです」と私がいった。
フロラは空色の眼を大きくして、
「あら、ご存じないの? あの方はエルキュル・ポワロなんですのよ! 私のいう意味おわかりでしょう……あの私立探偵の。何でもあの方は探偵小説の中に出てくるようなすばらしい探偵をたくさんなすったんですって。あの方は去年引退してこの村へいらしたんですの。伯父はポワロさんをよく存じあげていたんですけれども、ポワロさんは誰にも知られずに、静かに余生を送りたいからと伯父にお頼みになったので、わざと黙っていらしたんです」
「そういう人だったんですか」と私はゆっくりといった。
「もちろん先生はあの方のことお聞きになっていらっしゃるでしょうね」
「姉の説にしたがうと、私は時代遅れの老人なんだそうで……、たった今あの人のことを聞いたところです」と私はいった。
「驚きましたねえ!」と姉がいった。私には姉が何のことをいっているのかわからなかった。
おそらく真実のことを探りだし得なかった自身の失敗のことをいったのかもしれない。
「それであなたはポワロ氏に会いに行きたいとおっしゃるんですね。どういう訳で?」と私はのろのろといった。
「ジェームズ、何をいっているの! この殺人事件を調査していただくために決まっているではありませんか」と姉のカロリンがずけずけいった。
私はそれほどばかではない。カロリンはいつだって私の狙いがどこにあるか理解しないのだ。
「あなたはデビス警部に信頼できないとおっしゃるのですか?」私は姉にかまわず言葉をつづけた。
「むろんのことですわ。フロラさんばかりでなく、私だってあんな田舎警部になんか信頼しません」
これでは他人が聞いたら、まるで姉の父が殺されたようにとれるであろう。
「しかし、ポワロ氏はすでに引退してしまったとすると、この事件を引き受けてくれるかどうかわかりませんね」
「それだから先生にお願いするんですわ。先生から何とかして説きすすめていただきたいんですの」とフロラは簡単にいうのであった。
「あなたはたしかに賢明な方法だとお思いですか?」と私は重々しくいった。
「そうに決まっているじゃありませんか。もし何ならいっしょに行ってあげてもいいですわ」とカロリンが口をだした。
「ありがとうございます。でも私、先生に行っていただいた方がよろしいと思いますの」とフロラはいった。
彼女はカロリンのような女性に対しては、はっきりと物をいわなければならないことをよく心得ていた。遠まわしになどいったって無駄なのである。フロラは正面から姉の申し出をことわった後で、今度は相手の感情をきずつけないように巧妙に説明をつけた。
「だってシパード先生はお医者様でいらっしゃるし、それに一番最初に死骸をお見つけになったんですから。ポワロさんにいろいろと詳しくお話していただけで都合がいいと思いますのよ」
「ああそうですか」姉は不服そうな顔をした。
私はしばらく部屋の中を行ったり来たりして考えたあげく、
「フロラさん、悪いことはいわないから、私の忠告をお聞きなさい。この事件には探偵など引っぱりこまない方がいいですよ」と慎重にいった。
それを聞くと、フロラは頬を紅潮させて、さっと椅子から立ちあがり、
「先生がなぜそうおっしゃるか、私にはその意味がよくわかります。でも私はそれだからこそポワロさんをお願いしたいと申すんですわ。先生は心配遊ばしていらっしゃるのね! でも、私は決してそんな心配はしません、私は先生よりもよけいにラルフを知っていますから」と叫んだ。
「ラルフ? ラルフがどうしたんです」とカロリンがいったが、われわれは姉を眼中におかなかった。
「ラルフは気の弱い人に違いありませんわ。それはこれまでいろいろとばかなことをしましたし、時には悪いこともしましたでしようが、あの人は人殺しをするような人ではありません」とフロラは熱意をこめていった。
「いいえ、私は決して、ラルフをそんなふうに考えているのではないのです」と私はいい放った。
「それではどうして先生は、昨晩、伯父の死骸を見つけてから『いのしし屋』へいらっしゃいましたの?」とフロラは追求した。
私はちょっとまごついた。私はラルフを訪問したことなど誰にも気づかれたくなかったのだ。
「どうしてあなたはそんなことをご存じなんです」と私は反問した。
「私は今朝行って来ましたの。奉公人たちから、ラルフが『いのしし屋』へ来ていることを聞きましたんで」
「あなたは、ラルフが村へ帰っていることをそれまで知らなかったのですか」
「ええ、ちっとも知りませんでした。私びっくりしましたわ。どういうわけかと不思議に思って今朝訪ねて行きますと、宿の人が昨晩先生に申し上げたと同じことを私にいいましたんですの。ラルフは昨晩九時ごろ宿を出たきり帰らないんでございますって」
フロラは大胆に見返した。そしてあたかも私の顔にうかんだ表情にこたえるように、
「ラルフが帰らなくたって、何も不思議はございませんわ。どこへだって行く用はあるでしょうし、ことによったらロンドンヘ帰ったのかも知れませんわ」といった。
「荷物をおき放しにしてですか?」私は静かに問い返した。
「私、そんなことどうだっていいと思いますわ。きっと簡単に説明のつくことだと思います」
と、フロラはいらいらして来た。
「あなたはそのことでポワロ探偵を煩《わず》らわそうとおっしゃるのですか、そんなことをしないで、そっとしておかれる方がよろしいのではないですか。いいですか、警察ではラルフに少しも疑いをかけていないのですからね。あの連中はぜんぜん別の方面に眼を向けているんですからね」
「ところが警察では、もうちゃんとラルフに眼をつけておりますわ。ラグラン警部という鼬鼠《いたち》みたいないやな小男がクランチェスター町からやって来て、しきりにラルフのことを探っていますのよ。その警部が、今朝私のいく前に『いのしし屋』へ行ったそうです。宿の人がその時の模様をくわしく話してくれました。きっとラルフを犯人だと思っているんですわ」
「すると昨晩と方針がかわったらしいですね。彼はパーカーに眼をつけているデビス警部と、意見を異にしていると見えますな」と私はのろのろといった。
「へえ、パーカーにね」姉は軽蔑するようにいった。
フロラは私に近づいて手をかけながら、
「さア、先生、すぐポワロさんのところへ出かけましょう。あの方はきっと真実のことを探りだして下さいますわ」といった。
私は彼女の手の上にやさしく手をおいて、
「フロラさん、あなたは真実のことを知るのはいいとお思いですか。よく考えてごらんなさい」といった。
彼女は私の顔を見つめて、大きくうなずいた。
「先生は不安に思っていらっしゃるのね。私は確信を持っていますわ。私は先生よりもラルフをよく知っていますもの!」
「もちろん、ラルフがやったんではありませんよ! ラルフは無駄づかい屋で贅沢屋だけれども、いい青年だわ。それにあんな行儀のいい子はめったにありませんもの」今まで何かいいたくてうずうずしていたカロリンが口をはさんだ。
私は姉に殺人犯人の中にだって、行儀のいい男がいくらでもいるということを話してやりたいと思ったが、フロラ嬢が決意をかためている以上、私はそれに従わざるを得ない。それで「もちろん」の連発をともなう姉の攻撃が開始されないうちに、私はフロラをつれて出かけた。
ポワロ氏の住居『カラマツ荘』では大きな大黒ずきんをかぶった老婆が、玄関をあけて私たちを迎え入れた。ポワロ氏は在宅とみえる。
通されたのは、ごく普通のきちんと調った小さい居間であった。一分とたたないうちにきのう知り会いになったポワロ氏がにこやかに、
「先生ようこそ!」
と挨拶し、
「これはお嬢様!」
と、フランス風におじぎをした。
「たぶん昨夜の不幸な出来事をお聞き及びのことと思いますが……」と私が切りだすと、ポワロ氏は急にまじめな顔になって、
「むろん聞きましたとも、お嬢様にお悔《くや》みを申し上げます。私にできますことなら、何なりとお申しつけ下さい」
「フロラ嬢はその……」と、私がいいかけると、
「殺人犯人を探していただきたいのでございます」とフロラは歯ぎれのいい口調でいった。
「しかし警察で捜査にかかっておるのではございますまいか」
「あの人たちは間違いをするかも知れませんわ。現に間違った方向に進んでいるらしいのでございます。ポワロさんどうぞお力をお貸しくださいまし。もしお金の問題でございましたら……」
ポワロは彼女の言葉をおし止めるように手をあげて、
「お待ちください、お嬢様。もちろん私は金を問題にしないとは申しません。金というものは非常に役に立つものに決まっております。だが、それよりもっと重大なことをお嬢さまに飲みこんでいただかねばなりません。いったんお引き受けした以上は、私は最後までやりとげなければ止まないという点を、はっきり申し上げておきます。たとえ途中でお嬢様が警察に一任しておく方が無難だとお考えになるような事態にいたりましてもでございますぞ。よい猟犬というものは決して追跡を中途で放棄するようなことはいたしません」といった。
「私は真実を求めているのでございます」
フロラは相手の眼の中をまっすぐに見つめながらいった。
「真実を全部ですか?」
「全部の真実を!」
「それではお引き受けいたしましょう。どうぞ今のそのお言葉を悔いられることがございませんように祈ります。まず最初からの情況をお聞かせ下さい」ポワロ氏は静かにいった。
「シパード先生にお話し願いましょう。先生の方が私より精しくご存じでいらっしゃいますから」と、フロラがいった。
それで私は前述したとおりの事実をまとめて注意深く語った。ポワロ氏はおりおり質問をしたが、たいていは天井を見つめながら、だまって私の言葉に耳をかたむけていた。
私は前夜アクロイド家の門前で警部と別れたところで話を結ぶと、フロラが、
「それからラルフのこともお話しになって下さい」といった。
私はためらったが、フロラの眼顔にしいられて、家へ帰る途中『いのしし屋』へ廻った時の模様を語った。するとポワロ氏は、
「どういうわけで『いのしし屋』へお廻りになったのでしょうか」と質問した。
私は十分に自分の言葉を選んだ上で答えた。
「私は誰かがラルフにアクロイド氏の不幸を知らせるべきだと思ったのです。で、あの家を出てから自分よりほかにラルフが村へ来ていることを知っているものがないことを思いだしましたので」
「なるほど、それが先生が『いのしし屋』へ行かれた唯一の動機だったとおっしゃるのですね」とポワロ氏はうなずいた。
「そうです。それだけが目的だったのです」
「もしかしましたら……先生はたしかめにおいでになったのではありませんか」
「たしかめにですって?」
「先生は私の申し上げる意味を十分ご承知でありながら、わからないふりをしておいでになりますね。あなたはラルフ君が昨晩外出しなかったことを、たしかめることができたら、ご安心なすったのでしょうと思いますがいかがです」
「断じてそんなつもりはありませんでした」と私はきっぱりといい放った。
ポワロ氏は私に対して重々しく首をふって、
「ああ、先生はフロラ嬢ほど私を信頼して下さらないのでございますね。しかし遠慮のないことを申し上げますと、ラルフ君の失踪の理由をただす必要がございます。たしかにそれは重要な問題です。がまた、案外われわれが心配するほどのことでないかも知れません」
「私もそういうふうに考えておりますのよ」とフロラは熱心にいった。
ポワロ氏はそれきりこの問題をうちきって、すぐに警察へ行くといいだして、フロラ嬢を帰宅させ、私だけに同行を求めた。
われわれが警察署につくと、デビス警部がむずかしい顔をして立っていた。そのそばに署長のメルローズ氏と、フロラが鼬鼠《いたち》のような男と評したクランチェスター町から来たラグラン警部が立っていた。私は署長とは見知りごしなのでポワロ氏を紹介して事情を話した。署長は明らかに当惑の色をうかべ、ラグラン警部はかみなり雲のような険悪な顔つきになった。デビス警部だけは、署長が困っているのを、ちょっと愉快そうにしていた。
「事件は明白なのだから、しろうとになんか首を突っこんでもらう必要はない。パーカーに眼をつけるなんて間抜けな奴がいたものだ。おかげで二十四時間も無駄にしてしまった」と、ラグラン警部はデビスに皮肉をあびせた。
「アクロイド家の人々としたら、むろんいろいろと考えもありましょうが、警察の仕事を邪魔されるのは迷惑ですな。いうまでもなく、私はポワロ氏の名声はよく知っておりますが……」と、署長はいった。
「警察官というものは、残念ながら自家広告をするわけにはいかんのでね」とラグラン警部がいった。
この白けた座を救ったのは、ポワロ氏自身であった。
「むろん私はいったん引退した人間です。それゆえ、決して公然とこの事件にたずさわる考えはありません。むしろ私は自分の名が世間にでるのを極度にきらっておるのです。あくまでも陰であなた方のお仕事を少々お手伝いさせていただきたいと思っておるだけでございます」
警察の威信にかかわるとでも思っていたらしいラグラン警部は、ポワロの言葉にいくらか顔色をやわらげた。
「私はかねてからあなたのすぐれた手腕に敬服しておりました」と署長がいうと、ポワロ氏は、
「私は多くの経験を持っております。しかし私の成功はひとえに警察の援助によって得たものです。私は英国の警察には絶大の敬意をはらっております。もしラグラン警部が私を助手として用いて下すったなら、非常な光栄と存じます」
ラグラン警部の顔は得意そうにかがやいた。
署長は私をわきへ呼んで、声をひくめて、
「私はポワロ氏がこれまですばらしい手腕を示したことはたびたび耳にしておったです。できることなら、われわれはこの事件を警視庁の手にかけないで解決したいのです。ラグラン君はたいへん自信を持っておるのですが、私は彼の説の全部は肯定できないでおるのです。あなたもおわかりでしょうが、一人の手にまかせるよりも、大勢でやる方がたしかなのです。で、あの方は別段名声がほしくて出馬したいのではないらしいですな。どうでしょう、ですぎるようなことなく、われわれの仕事に参加してくれますでしょうか」
「むしろ、ラグラン警部に非常な名誉をもたらすことになるでしょうね」と、私はおごそかに答えた。
「ポワロさん、それでは今までの経過をお耳に入れておきましょう」と、署長は急に声を高めていった。
「ありがとうございます。シパード先生のお話では執事に懐疑がかかっておるそうですね」
「そんなのは人気取り演説みたいなものですよ。訓練された奉公人というものは、とかく何でもないことに疑惑を受けるような、控えめな態度をとるものですからね」と、ラグラン警部はそれに答えた。
「指紋は?」と、私は突っこんだ。
「パーカーの指紋なんかありませんでした。それからあなたのも、レイモンド氏の指紋も合いませんでした」
「ラルフ君の指紋はいかがでした」ポワロ氏はおだやかにたずねた。
私は彼の臆せず難局にぶつかっていく態度に、心ひそかに感激した。ラグラン警部の顔にも尊敬の色がうかんだ。
「なるほど、あなたは実に抜けめがない。私はあなたと協力して仕事をするのを満足に思います。われわれはラルフをあげしだい指紋をとるとしましょう」
「ラグラン君、私はどうも君の考えに同意できない。私はラルフを子供の時から知っているが、あれは決して人殺しなどする青年ではない」と署長は、いささか気色ばんでいった。
「あるいはね」ラグランは気のない返事をした。
「あなたはラルフに対してどんな証拠をつかんでおいでなんですか」と、私は尋ねた。
「昨晩、ちょうど九時に宿を出て、九時半ごろアクロイド家の付近で彼を見かけた者があります。しかもそれっきり宿には帰らず行方をくらましています。あの男は金につまっていたらしいです。それから私は踵にゴムのついた靴を一足押収して来ました。あの男は同じ靴を二足持っていて一足は自分ではいて出たのです。私はその靴を持って行って、窓下の地面に残っている靴跡に合わせて見るつもりです。靴跡は大切に保存するように巡査に見張らせてありますから」
「ではすぐ出かけるとしましょう。ポワロさんもシパード先生もいかがです。一緒においでになりますか」
われわれは署長の車に同乗した。アクロイド家の邸内に入ると、途中から道が二つに別れて、一つはまっすぐに玄関に通じ、一つは右手にまわってアクロイド氏の書斎の窓下へ出るようになっている。ラグラン警部は一刻も早く靴跡を見ようとあせって、途中で下車した。
「ポワロさんはどうなされます、ラグラン警部と一緒においでになりますか。それとも書斎を先にお検べになりますか」と、署長がたずねた。
ポワロ氏は後者をえらんだ。われわれを玄関に迎えたパーカーはすっかり落ちついて、日ごろの平静な態度になっていた。署長はポケットから鍵を取りだして、書斎に通じる廊下の扉をあけて、われわれを書斎へ導いた。
「ポワロさん。死体を他へうつした以外は、この部屋は兇行当時のままにしてあります」と署長がいった。
「で、死体はどこにありましたか」
私はできるだけ詳細にアクロイド氏の位置を説明した。その安楽椅子はまだストーブの前においたままになっていた。
ポワロ氏はその椅子に腰をおろして、
「さっきおっしゃった空色の封筒は、先生が部屋をお出になった時には、どこにございましたか」
「アクロイド氏はその右手の小さいテーブルの上におかれたのです」
ポワロ氏はうなずいて、
「その他は、すべて変りございませんでしたか」
「たしかに変りなかったと思います」
「メルローズ署長殿、まことに恐れ入りますが、ちょっとの間この椅子におかけになっていただけませんでしょうか。ありがとう存じます。それから、シパード先生、恐れ入りますが短刀がどの辺に刺さっておりましたか、はっきり位置をお示し下さいませんか」
私がいわれたとおりにすると、ポワロ氏は戸口に立って、
「すると短刀の柄がここから見えたわけでございますね。先生もパーカーも戸口ですぐ見えたというわけでございますね」
「はい、そうです」
つぎにポワロ氏は窓のそばへ行った。そして肩ごしに私をふり返って、
「死体が発見された時には、この部屋の電灯がついておりましたんですね」といった。
私はうなずいて、ポワロ氏のそばへ行き、一緒に窓わくについている泥靴のあとを見た。
「ゴム底の模様がラルフ君の靴のと符合しておりますね」とポワロ氏は静かにいった。
彼はふたたび部屋の中央に立った。そして物なれた敏捷な眼つきで部屋を残るくまなく見まわし、最後に、
「シパード先生、あなたはすぐれた観察眼をお持ちでいらっしゃいますか」とたずねた。
私は思いもよらない質問に驚いて、
「自分ではそのつもりでおります」と答えた。
「このストーブは焚《た》いてあったとみえますが、あなたがドアを破ってアクロイド氏の死体を発見された時に、火はどんな状態でございましたでしょう」
私は苦笑した。
「さア、それは気がつきませんでした。レイモンド君か、ブラント少佐が知っているかも知れません」
ポワロ氏は微笑しながら頭をふって、
「何事も手順よく運ばねばならぬものでございます。かような質問を先生にお向けいたしましたのは私の誤りでございました。誰でもおのおのの観察眼の向け方が違いますから……あなたには死体に関しておたずねしたらきっと詳しくお答えいただけると存じます。それから、テーブルの書類について一番正確な答のできるのはレイモンド氏でしょう。したがって、ストーブの火のことなどはパーカーに質問するのが順当でございました。ちよっと失礼いたします」ポワロ氏は
ストーブのそばの呼鈴のボタンをおした。
二三分してパーカーが戸口に現われた。
「お呼びでございましたか」パーカーはおどおどしながらいった。
「パーカー、入り給え。こちらの紳士がお前に何かたずねられるから」と、メルローズ署長がいった。
パーカーはいんぎんに腰をかがめて、ポワロ氏の質問を待った。
「パーカー、お前が昨晩、シパード先生とドアをこわしてこの部屋に入って、ご主人の死骸を見つけた時、ストーブの火はどうなっていたね」
「ほとんど消えかかっておりましてございます」
パーカーは即座に答えた。ポワロ氏は勝ち誇ったように嘆声をもらして、
「パーカー、よく見てごらん。この部屋はお前が昨晩最初に見た時と同じかね」
パーカーの眼は室内を一巡して、窓の辺でとまった。
「カーテンが引いてございました。それから電灯がついておりました」
「そのほかに?」
ポワロ氏は満足げにうなずいて質問をすすめた。
「はい、この椅子がもう少々前に出ておりましてございます」といって、彼は入口の左手と窓の間においてある、大きな安楽椅子を指さした。
「では、その椅子をお前が最初に見たとおりの位置においてごらん」
パーカーは問題の椅子を壁から二フィートたっぷり前へ引きだして、入口の方へ向けた。
「ああ、ここに謎がある。誰もこんな方に椅子を向けて腰をかける人はございますまい。いったい誰がこの椅子を元の位置に直しましたのでしょう。パーカーお前かね」
「いいえ、私は何よりもご主人のごようすに気が顛倒しておりまして……」
ポワロ氏は私に視線を向けて、
「先生でしょうか」
私は頭をふった。
「私が警察のお方とご一緒に入ってまいった時には、椅子はあたりまえの位置にもどしてございましたです。はい、それはたしかでございます」と、パーカーが口をはさんだ。
「不思議だ!」とポワロ氏はつぶやいた。
「レイモンド君か、あるいはブラント少佐が椅子を押しもどしたかも知れません。そんなことは大して重要ではなさそうですが」と私がいうと、ポワロ氏は、
「全く重要ではございません。それゆえとくに私は興味を持つのでございます」と、ゆっくりいった。
「ちょっと失礼します」署長はパーカーを伴って部屋を出て行った。
「パーカーは真実のことをいったとお思いになりますか」
と私がたずねると、ポワロ氏は、
「椅子のことでございますか、むろん真実でございましょうね。あなたもこういう事件をたびたびお扱いになっていらっしゃるうちに、ある一つの点が、いつも共通していることにお気づきになると存じます」といった。
「それはどういうことですか」私は好奇心をもってたずねた。
「事件の関係者は誰でもかならず何かちょっとしたことを隠しておくものでございます」
「私も何か隠しているというわけですかね」と、私は笑いながらいった。
「そうです。きっと先生も何か隠しておいでになります」
ポワロ氏は私の顔を注意ぶかく見守りながら、静かにいった。
「しかし私は……」と、私が赤くなるにつれてポワロ氏は微笑をうかべて、
「先生はラルフ君について知っておいでのことを全部お話し下さいましたでしょうか。いやご心配になることはございません、私は決して無理にお話し下さいとは申し上げません。いずれ私は知りたいだけのことは全部さぐりだすでございましょうから」といった。
「ポワロさん、あなたの探偵方法をお聞かせいただけませんか。たとえばストーブの火についての要点などを」私は自分の心の動揺をかくすために、急いで質問した。
「ああ、それはごく簡単なことでございます。あなたがアクロイド氏とお別れになったのは、九時十分前でございましたね」
「そのとおりです」
「その時は窓はしめて、桟をおろしてあって、入口のドアは錠がおりておりませんでしたね。それから十時十五分すぎに死体が発見された時は、入口のドアに錠がおりて窓はあいておりましたのでしたね。窓をあけたのは誰でしょう。申すまでもなく、それはアクロイド氏自身に違いないと見るべき理由が二つございます。その一つは部屋がたえられないほど暑くなったため。しかしストーブの火が十時十五分には消えかかっていたことと、昨晩は特別に気温が下っていたことを考えると、この理由は成立いたしません。そこで、その二は、アクロイド氏が誰かを窓から入れたということになります。それでもし、アクロイド氏が誰かを部屋へ入れたために窓をあけたとすれば、それは面識のある人物に違いありません。ことにアクロイド氏が窓の戸じまりに特別気を遣っておられたということですから、知らない人間のために窓をあけられるはずはないと思われますね」
「なるほど、そういうふうに考えると事は簡単ですね」
「事実を整然とならべればいたって簡単なものでございます。私どもがこれから研究しなければならないのは、昨晩九時三十分にアクロイド氏と話をしていた人物は何者かということでございますね。たとえその後でフロラ嬢がアクロイド氏に会われた時、何事もなかったといたしましても窓から部屋へ入った人物の身許を知るまでは、この謎をとくわけには参りません。ことによると、その男が後でまた忍びこむために、帰る前に窓をあけて行ったのかも知れませんね」
そこヘメルローズ署長が顔をかがやかして入って来た。
「昨晩のあやしい電話の経路が判明しました。あれはアボット駅の公衆電話から十時十五分にシパード先生のお宅へつながれたものでした。十時二十三分にはリバプール行の夜行列車がアボット駅を発車しております」
ラグラン警部の確信
われわれは互いに顔を見合わせた。
「もちろん署長は駅に照会されたでしょうね」と私がいった。
「一応はしましたがね、私はあまり期待はしておりません。あの駅はあのとおりですからね」と署長は答えた。
アボット駅は小さな村の停車場にすぎないが、鉄道からいうと重要な位置をしめていて、地方から来る列車がみんな集って来るし、急行列車も停車することになっている。駅には公衆電話が三つ備えてある。ちょうど電話のかかった時刻には三つの列車が三方からアボット駅に入った。
それらの列車は北行の急行に連絡している。その急行列車は十時十九分にアボット駅に到着し、十時二十三分に発車するのである。従ってその時刻の構内は雑沓《ざっとう》をきわめていて誰が公衆電話室へ入ったか、どういう男が急行列車に乗りこんだかなどということも明白にするのは至難である。
「だが、なぜ電話をかけたのでしょう。実におかしなことだと思うですね、私にはてんでその理由がわからんですな」と署長がいった。
ポワロは注意ぶかく本棚の上の陶器の置物をまっすぐにおき直しながら、
「理由はかならずございますね」と肩越しに相槌をうった。
「いったい、どんな理由があり得るでしょう」
「それがわかれば、私どもはすべてを知ることになりましょう。これは非常に珍らしいと同時に、非常に興味ある事件でございますね」
この最後の言葉のいい方に、何か説明できかねるようなものが含まれていた。私はポワロ氏がこの事件を皆とは全然ちがった角度から見ていることを感じたが、彼が何を見つめているのか私には見当もつかなかった。
ポワロ氏は窓のところへ行って、外をながめながら、
「シパード先生。あなたが門の外であやしい男にお会いになったのは九時だとおっしゃいましたね」と、私の方をふり返らないでたずねた。
「そうです。教会堂の時計が九時を打つのを聞きました」と私は答えた。
「その男が門を入ってから家へつくまで、つまりこの窓のところまでくるのに、どのくらいかかりますでしょう」
「外がわをまわれば五分ぐらい、正面の道路を右へ入れば二、三分でしょうね」
「それにはこの道を知っていなければなりませんですね。何と説明したらよろしいでしょうか……つまり前にも来たことがある……そうです、この邸内の地理を知っていたということになりましょうね」
「そのとおりですな」と、メルローズ署長がいった。
「申すまでもなく最近アクロイド氏が誰か特別の訪問者を受けられたかどうかがわかれば、自然にその謎の男の見当がつきましょうね」
「それはレイモンド君にたずねられたらわかるでしょう」と、私がいうと、
「あるいはパーカーに」と、署長がいった。
「あるいは両人にたずねるのでございますね」とポワロ氏は微笑しながらいった。
署長はすぐレイモンド君を探しに行った。私はパーカーをもう一度呼ぶために呼鈴をおした。間もなく署長は若い秘書をしたがえて戻って来て、ポワロ氏に紹介した。レイモンド君は相変らず溌刺《はつらつ》として丁寧であった。彼はポワロ氏と聞いて驚くとともに、名探偵と知り合ったことをひどく喜んでいるようすであった。
「ポワロさんがこの村に住んでいらっしゃるとは夢にも知りませんでした。あなたの探偵ぶりを眼のあたりに拝見するなんて、大した特典です。おや、これはどういうわけなのです。僕をここにすわらせて、血液検査でもなさろうというのですか」と、レイモンド君は上機嫌でいった。
気がつくと、いつの間にか例の安楽椅子がさっきパーカーの示した位置に引きだしてあった。
たぶん私がうしろをむいている間にポワロ氏がそうしたのであろう。
「レイモンドさん、この椅子は昨晩アクロイド氏の死体が発見された時、こういうふうに向いていたのだそうでございます。ところが誰かあたりまえの位置におきかえたのです。それはあなたがやったのではございませんか」
「いいえ、僕はそんなことしません。僕は椅子がこんなふうになっていたかどうかも気がつきませんでしたが、あなたがそうおっしゃるのなら、そうだったんでしょうね。とにかく誰かほかの者があたりまえの位置にもどしたんでしょう。椅子を動かしたために大切な証拠を損じてしまったんですか? それは困ったことですね」レイモンド君は何のためらいもなく即座に答えた。
「いや、いや、そんなことは大して重要ではございません。それよりも、あなたにおたずねしたいのは、最近誰か知らない人がアクロイド氏を訪問しませんでしたか」
秘書は二、三秒、眉をひそめて考えこんでいた。その間に呼鈴に応じてパーカーが現われた。
レイモンド君はようやく答えた。
「いいえなかったようです。僕には誰も思いだせません。パーカー君は覚えていないかい?」
「あの、何でございましょうか」と、パーカーが聞きかえした。
「今週中に誰か知らない人間が、アクロイド氏を訪ねてこなかったかというのだ」
執事はしばらく考えていたが、
「水曜日に若い男が参りました。何でもカーチス商会から来たとか申すことでございました」
というと、レイモンド君は気短かにそれを遮ぎるように手をあげて、
「そうそう、思いだした! だが、それはこちらの紳士のいわれた訪問者にはあてはまらない」
といってから、ポワロ氏に向って、
「アクロイド氏は録音機を購入しようとしておられたんです。録音機があれば仕事の能率をあげることができるというので。それで、カーチス商会に照会したものですから、店員をよこしたのです。しかしアクロイド氏は購入するとは、はっきり決定されなかったようです」と説明した。
ポワロ氏は執事の方を向いて、
「パーカー、私にその店員の風采を聞かせてもらえないだろうかね」といった。
「髪の毛が薄色で、背は低く、紺サージの背広を着た、きちんとした方でした。あの身分といたしましては大そう立派な若い衆でございました」
ポワロ氏は私をかえりみて、
「先生が門の外でお会いになった男は背が高うございましたね」
「そうです。六フィートぐらいあったでしょうね」
「すると、これは問題になりませんですな。パーカー、もうさがってもいいですよ」
すると、パーカーは秘書に向って、
「ハモンド様がおつきになりまして、何かお手伝いすることがあったら、させていただきたいということで、あなたにお目にかかりたいとおっしゃっておいででございます」
「ああ、そうか。すぐ行く」といってレイモンドが急いで出て行くと、ポワロ氏は説明を求めるように署長の顔を見た。
「ハモンド氏はアクロイド家の法律顧問です」とメルローズ署長はいった。
「レイモンドさんは、ますます多忙というところですかな。なかなか能率的な青年らしゅうございますね」と、ポワロ氏がつぶやいた。
「アクロイド氏は彼を非常に役にたつ秘書と認めておられたようです」
「こちらへ来てから、どれぐらいになりますか」
「二年ぐらいになりましょうな」
「たしかに自分の義務を忠実に遂行する青年と見受けられますが、趣味はどんなものを持っていましょうかな。スポーツなどに行くようすですか」
「秘書なんていうものはなかなか忙しくて、趣味や道楽を持つ暇はないようです。たしかレイモンド君はゴルフをやるようです。それから夏になればテニスを」と、メルローズ署長は微笑しながらいった。
「競馬などは?」
「いいえ、あの青年はそういう賭事はやらないようです」
それを聞くと、ポワロ氏はレイモンドに対する興味を失ったらしく、書斎をもう一度ゆっくりと見まわして、
「ここで見るべきものは、全部見たように思います」といった。
私もあたりを見まわして、
「もしこの壁に口があったらと思いますね」といった。
ポワロ氏は首をふって、書棚の上に手をおきながら、
「口だけでは十分でございません。眼も耳も持っていてほしいものでございますね。しかしこうした生命のない物体がいつも何の役にもたたないと思うのは間違いでございます。時によりますと、椅子だのテーブルというようなものが私に語ってくれます。彼等はそれぞれに何か伝言を持っておるものでございます」といって、戸口の方に歩いて行った。
「では、今日はどういう伝言があったのですか」と私はたずねた。
ポワロ氏は私をふり返って、肩をあげて、
「ひらかれた窓、錠をおろした扉、ひとりでに動いた椅子、この三つに向かって、なぜかとたずねてみましたが、何も答えてくれません」といった。
彼はわれわれに向かって頭をふり、胸をはって眼をしばたたいて見せた。そのようすが、滑稽なほど、もったいぶっていた。私はふと、この人がほんとうに手腕のある探偵なのだろうかと疑った。氏がこれまでかちえた名声は、偶然という幸運がもたらしたものではないだろうか。
メルローズ署長にも同じ考えがうかんだとみえて、彼は眉をひそめながら、
「ポワロさん、ほかに何かもっとご覧になりたいところがおありですか」と、そっけない調子でいった。
「兇器が入っていたと申す飾り棚を見せていただきましょう。それ以上は、もはやあなた方をお煩わせすることはないと存じます」
われわれは客間へ向ったが、途中で巡査が署長に何か耳うちして、連れだって行ってしまったので、私がポワロ氏に飾り棚を見せた。ポワロ氏は二、三度ふたを持ちあげて落としてみた後、だまって、フランス窓の戸をおして露台へ出たので、私もそれに従った。
ちょうどラグラン警部が家の角をまがってわれわれの方へやって来た。彼は満足そうであったが、相変らず不機嫌な顔をして、
「ポワロさん、残念ながら、これはたいした事件ではないですな。たしかにラルフが間違いを起こしたんです」といった。
ポワロ氏は失望の色をうかべて、
「すると、私はたいしてお役にたつことができないというわけでございますね」と穏やかにいった。
「またいつかの機会にお願いしますよ。もっとも、こんな小さな平和な村には、殺人事件なんてめったにないですがね」と、ラグラン警部は慰めるようにいった。
ポワロ氏は感嘆したように相手の顔を見つめて、
「それにしても、あなたは非常に敏速でいらっしゃる。どうしてそんなに早く結論に達することがおできになったのか、伺わせていただきたいものでございますね」といった。
「よろしいですとも、お話しましょう。第一に方式ですね、これはいつも私がやかましくいっていることなのです」
「ああ、私もそれを標語にしております。方式、整頓、それから小さな灰色の細胞という順になりますね」
「細胞?」
警部は眼をまるくした。
「頭脳の小さな灰色の細胞でございます」と、ポワロ氏は説明した。
「ああ、そうですか。もちろん誰だって頭脳を働かせますとも」
「ただし、多く働かせるか少く働かせるかでございますね。それから性格の相違ということも見逃してはなりませんですね。次に犯罪の心理、これはぜひとも研究する必要がございます」と、ポワロ氏がいった。
「ほう、あなたは例の精神分析というやつに取りつかれておられるんですな。私はこういうやぼな人間ですから……」と警部がいいだすと、
「ラグラン夫人は、そのお説にはご同意なさらないと存じます」と、ポワロ氏がいって、おじぎをした。
ラグラン警部はあっけにとられて、おじぎを返し、
「あなたは何か思い違いをしておられる。全く言葉というものはいろいろな意味にとれる厄介なものですな。私は自分の仕事のことを話しておるんです。第一に方式ですな。アクロイド氏が生きているのを十時十五分前に最後に見たのは姪のフロラ嬢でした。これが第一番目の事実です。そうじゃないですか」といった。
「あなたがそうおっしゃるのなら」
「そうですとも。それから十時三十分にここにおられる医師が、アクロイド氏は死後すくなくとも半時間はたっているといいました。先生、あなたはこの説を固持されますか」
「たしかに三十分あるいはもう少したっていたと思います」
「よろしい。それでかっきり十五分以内に犯罪が行われたという数字がでます。そこで私は九時四十五分から十時までに、家中の者がどこで何をしていたかを調べあげて、こういう一覧表をつくったのです」
ラグラン警部はポワロ氏に一枚の紙を渡した。私は後からのぞいて見た。それには、きちんとした筆跡で次のように書いてあった。
ブラント少佐 レイモンド氏とともに撞球室にいた。(レイモンド氏の証言)
レイモンド氏 捧球室。(前項参照)
セシル夫人 九時四十五分まで撞球を見物していた。九時五十五分寝室にしりぞく。(レイモンド氏とブラント少佐は夫人が階段をのぼって行くのを見送った)
フロラ嬢 書斎よりまっすぐに寝室へ行く。(パーカーおよび女中エルジーの証言)
――奉公人――
パーカー 食料室にいた。(家政婦ラッセル嬢の証言、嬢は九時四十七分そこへ行って、家政上の指図をするのに少なくも十分間はいた)
ラッセル嬢 右記参照。九時四十五分には二階の女中部屋でエルジーと話をしていた。
小間使ウルスラ 九時五十五分まで自分の寝室にいて、それから奉公人の溜り所へいった。
料理人クーパー 奉公人の溜り所にいた。
奥女中グラデス 同。
女中エルジー 二階の寝室にいた。(ラッセル嬢およびフロラ嬢の証言)
下女メリー 奉公人の溜り所にいた。
「料理人は七年前から勤めていますし、小間使のウルスラは十八か月間、パーカーはちょうど一か年になり、その他は最近来た者ばかりです。パーカーが何となくうさんくさい以外は、他に怪しむべきものはないです」
「なかなか行きとどいた表でございます。パーカーが犯人であるとは絶対に考えられませんですね」
ポワロ氏は表をラグランに返しながらいった。
「私の姉もそう申しておりました。姉のいうことはいつも的中します」と私がいったが、誰もそれに注意をはらわなかった。
ラグラン警部はなおも言葉をつづけた。
「これで家族全体の行動が十分に整理されていると思います。さて、次に有力な証言を得ています。それは門のそばの番小屋に住んでいるブラックという女がゆうべ窓かけを引いている時に、ラルフが門を入って家の方へ歩いて行くのを見かけたということです」
「その女のいったことはたしかでしょうか」と私は鋭くいった。
「たしかです。ラルフをよく知っている女ですから。で、彼は門を入ると、足早に右手の小道を入って行ったそうです。それは露台への近道です」
「それは何時ごろでしたか」無表情な顔をして椅子に腰かけていたポワロ氏がたずねた。
「きっかり九時二十五分すぎだったそうです」と警部は重々しくいった。
しばらく沈黙がつづいた後、ラグランがふたたび言葉をつづけた。
「すべてが明白です。一点の疑う余地もありません。九時二十五分すぎにラルフは番小屋のそばを通るのを目撃されています。九時三十分ごろにレイモンド氏は、誰かが金の無心をしているのをアクロイド氏が断わっている声を聞いています。その後にどんなことが起こったかを想像すると、ラルフは来た時と同様に、窓から帰って行ったのです。彼はむしゃくしゃしながら露台に沿って歩いて行くと、フランス窓をあけ放った客間の前にさしかかった……それは十時十五分前ごろでしたろう。フロラ嬢は伯父におやすみなさいをいっていた。ブラント少佐とレイモンド氏とセシル夫人は撞球室にいた。客間はからであった。ラルフはそこへ忍びこんで銀の飾り棚から短刀を取りだして書斎の窓にもどった。そして靴を脱ぎすてて窓をよじのぼって中へ入った。ここで詳細にわたって述べる必要はないと思いますが、彼はふたたび窓からすべり出て逃げ去ったのです。さすがに宿へ帰る勇気はなく、まっすぐに停車場へ行って、そこからシパード先生のところへ電話をかけたのです」
「なぜですか」とポワロ氏が静かにいった。
ラグラン警部の推理に聞き入っていた私は、その不意の言葉にぎょっとした。ポワロ氏は小さなからだを前へのりだした。その眼は異様な青い光を放っていた。ラグラン警部もその質問にいささか面くらったらしかったが、ちょっと間をおいて、
「なぜそんなことをしたかと、明確に判断を下すのは困難です。しかし殺人犯人というものは、とかく妙なまねをするものです。われわれのように警察に永らく勤めているとよくそういうのに出くわします。どんな利口な奴でも、時にはばかな間違いをやらかしますね。まア来て、この足跡をごらんなさい」
われわれは彼の後について露台の角をめぐって書斎の窓下へ出た。ラグラン警部の命令で巡査が、『いのしし屋』から押収して来た靴を持って来た。警部はその靴を地面の足跡にあてがった。
「このとおり、だいたいぴったりと合っています。というのは、この靴はこの足跡を残したものではないのです。その方は犯人がはいて行ってしまったのです。この靴は同じ型ですが、ラルフがはいて行ったのより、やや古いです。ごらんなさい、ゴムの踵が、こんなにすり減っています」
「しかし、ゴムの踵のついた靴をはいている者は、たくさんあるのではございませんか」とポワロ氏がいった。
「むろんそうです。これがほかの場合であったら、私はこんなに足跡を問題にはしないです」
「ラルフ君はよほどばかな男と見えますね……こんな証拠を残して行くなんて……」と、ポワロ氏は考えぶかい調子でつぶやいた。
「その件についてはですね。あの晩は天気がよくて地面がかわいていたんで、露台や石だたみの道の上には足跡が残っていません。ところが彼にとって不運なことには、ここへ通じる小路には最近水が湧いたと見えて、ぬかっています。ここをごらんなさい」
小さな石だたみの道が露台から五、六フィート先までつづいている。その終点から五、六ヤードのところに、一か所地面が濡れて、ぬかるみになっていた。そこを越すとまた足跡がいくつかあって、その中にゴムの踵の靴跡がはっきり残っていた。
ポワロ氏は警部とならんで、その小道をしばらく歩いて行ったが、急に顔をあげて、
「あなたは婦人の靴跡にお気づきでしたか」といった。
ラグラン警部はからからと笑って、
「そんなことは当然ではないですか。この道を数人の異なった女性が歩きました。それから男性も。ここは家への近道ですからね。だからここに残っている足跡の主を全部洗いだすなんて、およそ不可能なことですよ。結局、窓わくに残っていた足跡だけが重要なんです」といった。
ポワロ氏はなるほどというようにうなずいた。われわれが玄関の車寄せの見えるところまで行った時、警部が、
「ここから先を調べたって無駄です。このとおりずっと石だたみになっていて、こんなに固いんですから足跡なんか見つかりっこないです」といった。
ポワロ氏はふたたび黙ってうなずいた。しかし、彼の眼は庭の奥のあずまや……というよりも、むしろ離家《はなれ》に鋭くそそがれていた。それは、われわれの通って来た道から左手にあって、石を敷いた小道がついている。彼は警部が家へ入ってしまうのを待って、私に向かい、
「シパード先生、あなたは神様が私のところへ友人ヘイスティングス君のかわりに送って下すったお方に違いございません。私はあなたがずっと私を支持して下さるのに気がついておりました。ところで私はあの離家《はなれ》に興味を持っているのですが、いかがです。先生、ご一緒にあそこを探検してみようではございませんか」と眼をかがやかしていった。
ポワロ氏は先に立って入口の戸をあけた。中はうす暗かった。二、三の田舎風の腰かけと、クリケットの道具がおいてあるほか、折たたみ椅子がいくつか壁に立てかけてあるだけであった。
私はこの新しい友人の仕草をみて、あっけにとられた。彼はいきなり床に手をついて、四つんばいになって何か探しはじめた。そして、おりおり不満らしく首をふっていたが、やがて立ちあがって、
「何もない! むろん期待すべきではなかったかも知れませんが……」といいかけたが、急に緊張したようすになって、手をのばしたと思うと、腰かけの内がわから何かつまみあげた。
「何ですか、何を見つけたんです?」と私は叫んだ。
ポワロ氏は笑いながら、私の眼の前で手をひらいて、たなごころの獲物を見せた。そこには白麻の小さな布《きれ》はしがあった。
「あなたは、これを何だとお思いになりますか」ポワロ氏はじっと私の顔を見つめながらたずねた。
「ハンケチの切れっぱしか何かでしょう」と、私は肩をすくめていった。
彼はふたたびさっと身をかがめて何か拾いあげた。そして、
「さア、これは何だとお思いです」と、勝ち誇ったようにいった。
それは小さな羽根の軸で、たしかに、鵞鳥の羽根らしかったが、私はむなしく見つめるばかりであった。
ポワロ氏はそれをポケットヘ入れてしまうと、もう一度さっきの白麻を見て、
「先生はハンケチの布はしとおっしゃいましたね。おそらくあなたのおっしゃることは的中しておるかもしれませんです。けれども、こういうことを覚えていらして下さい……上等の洗濯屋はハンケチには糊をつけません」というと、ひとりうなずいてその麻きれを大切そうに紙幣《さつ》入れの中へしまった。
金魚池
われわれが家へもどった時には、ラグラン警部の姿は見えなかった。ポワロ氏は家に背を向けて露台に立ち、ゆっくりと左右に頭《こうべ》をめぐらして、あたりを見まわした後、
「りっぱな邸宅でございますね。誰がこれをつぐのですか」といった。
私はその瞬間まで財産相続ということはまるで念頭においてなかったので、この突然の質問に驚かされた。ポワロ氏は私の顔を鋭く見守りながら、
「あなたは今までそんなことを考えなかったとおっしゃるのでしょう」といった。
「はい、気がついていればよかったと思いますが……」と私は正直にいった。
「とおっしゃると、それはどういう意味なのでしょう?」
と考えぶかい調子でいったので、私が言葉をつづけようとすると、
「それを追求しても無駄でございましょう。おそらくあなたは今お心にうかんでいることを、そのままお話し下さらないでしょう」
「誰でも何かしら一つくらいは隠しているものですからね」と、笑いながら、ポワロ氏がさっきいった文句をくり返した。
「そのとおりです」
「あなたは依然としてそれを信じておいでになるんですか」
「今までよりも更にそう信じております。しかし、エルキュル・ポワロに物事を隠しおわすということは容易ではございません。彼は何事をも探りだす|こつ《ヽヽ》を心得ております」といいながら、彼は庭へ出る石段をおりはじめた。そして後をふり返って、
「今日は気持のいい日です、少し散歩しようではございませんか」といった。
私は彼について行った。
ポワロ氏は|いちい《ヽヽヽ》の木の生垣にかこまれた小道を左へ入って行った。その道の両側には花壇があって、道の行きづまったところに、金魚池と腰かけのある石敷きの休憩所があった。
ポワロ氏はその道を突きあたらないで、樹木の茂った丘にのぼる小道の方へまがった。その丘の一隅に雑木を切り開いてベンチがおいてあった。そこからは村のすばらしい全景を見晴らし、右手に休憩所と金魚池を見おろすことができた。ポワロ氏は田園風景に眼をそそぎながら、
「イギリスは、大そう美しゅうございますね」といった。それから急に微笑をうかべて、
「それからイギリス乙女も……下をごらんなさい、何と美しい絵ではございませんか」と、つけ加えた。
そういわれてはじめて私はフロラを認めた。彼女は小声で歌をうたいながら、今、私たちの通って来た小道をやって来た。彼女の歩調は歩くというよりも踊っているように見えた。黒い喪服を着ているにもかかわらず、彼女のようすは喜びにあふれている。彼女はとつぜんに爪先だちになって全身を旋風のように回転させたので、黒いドレスの裾《すそ》が美しい円をえがいた。同時に彼女は頭を後へふりあげて朗かに笑った。
そのとき木蔭から男が現われた。それはブラント少佐であった。フロラはぎょっとして顔色を少しかえた。
「びっくりしましたわ……私、あなたがいらっしゃるのを存じませんでしたわ」
ブラント少佐は無言でしばらく彼女の顔を見つめていた。
「私、あなたの一番好きなところは、愉快なお話をして下さる点ですわ」フロラはいくらか意地の悪い調子でいった。
ブラント少佐の日やけした顔が赤くなったように見えた。
「話し相手になってくれる人はありませんでした。若い時でさえも」と答えた少佐の声は、いつもと違って妙に卑下しているように響いた。
「それはずいぶん昔のことでしたでしょうね」
フロラは笑いを含んだ声でいったが、ブラント少佐はまじめであった。
「あなたはもう一度若くなるために霊魂を悪魔に売った男の話をご存じですか。その話のオペラがありましたっけね」
「ファウストのことでしょう」
「どうせあれは、ばかばかしいつくり話にきまっていますが、もしほんとうにそんなことができれば、霊魂を売る者だってあるでしょう」
「あなたがそんなことをおっしゃるのを誰か聞いたら、気が変におなりになったと思いますわ」フロラは半ば面白そうに、半ば困ったようにいった。
ブラント少佐はだまっていた、やがて視線をフロラから遠くへうつして、一本の木の幹を見つめ、そろそろアフリカヘ出かける頃だと考えているらしかった。
「あなたはまた、遠征に……あの何か撃ちにお出かけになりますの……」
「そのつもりです。ご承知のようにいつもやりますので……つまり狩猟のことです」
「玄関のあの頭はあなたがお撃ちになったんでしょう」
ブラント少佐はうなずいた。そして、唐突に、
「もしあなたが、毛皮をほしいとおっしゃるなら、捕ってきてさしあげます」といってしまってから、真赤《まっか》になった。
「まア、ほんとうに、きっとですのよ。お忘れになってはいやよ」と、フロラが熱心にいった。
少佐は急に雄弁になって、
「忘れるものですか。もう出かける時ですからね。私のような男は社交界にはとてもそぐわないのです。作法も知らないし、うまく喋べれませんし。たしかにもう森林へもどるべき時です」
といった。
「でも、まだお立ちになるのではないでしょう。どうぞもう少しいらして下さい。この騒ぎがすむまで……」といってから、彼女はちょっと顔をそむけた。
「私にいてほしいとおっしゃるのですか」
ブラント少佐は思案しながらも、率直にいった。
「ええ、私たちはみんな……」
「そうでなく、あなたのお考えを……」と、少佐はずばりといった。
フロラはそろそろと顔を少佐の方に向けて、彼の視線にぶつかった。
「ええ、私あなたにいていただきとうございますわ。そう申し上げる方が少しでもよろしいのでしたら」
「少しどころではありません。大いに」
二人は金魚池のほとりの石の椅子に腰をおろしたまま、しばらく無言でいた。二人とも次に何をいっていいのかわからないでいるようすであった。
「今日はほんとうに美しい朝ですわ。私、こんな騒ぎの最中ですのに、どうしても幸福な気持にならずにいられませんのよ。おあきれになるでしょう」
「それはごく自然なことです。あなたは二年前までは伯父君に一度もお会いになったことがないのでしょう。ひどくお嘆きになれないのも無理はありません。何もしいて人前を作ることはありません」と、ブラント少佐がいった。
「何ですか、あなたにお会いしていると、とても気が軽くなりますわ。すべてのことを簡単にして下さいますので」
「いったい、物事はすべて簡単なものです」
「そうとばかりはいえませんわ」
フロラの声は沈んでいた。ブラント少佐はアフリカの海岸から急に呼びもどされたように、フロラの顔を見た。彼はフロラの声の調子がかわった原因に何か解釈を下したとみえて一、二秒してから、不意にいいだした。
「フロラさん、ラルフ君のことは決して心配なさることはありませんよ。あの警部はばかですからね。誰だってラルフ君がやったなんて思うものですか、外部の者の仕業《しわざ》にきまっています。盗賊ですよ。それに違いありません」
「あなたは、ほんとうにそうお思いになって?」
「あなたは?」
「私ですか……ええ……むろんですわ」
そこでまた二人の会話は、ぷっつりと切れてしまった。しばらく間をおいて、フロラは急に快活になって、
「ほんとうのことをいいましょうか? 私がどうして今朝こんなに幸福な気持になったかをお話ししましょう。あなたはきっと私を無情な女だとお思いになるかもしれませんけれど……弁護士が……あの、ハモンドさんがいらしたからですのよ。あの方が伯父の遺言状を読んで聞かせて下すったんです。ロージャー伯父は私に二万ポンド遺して下すったのよ。考えてごらんなさい、二万ポンドですのよ!」
ブラント少佐は驚いたようすであった。
「あなたにとって、そんなに嬉しいことなのですか」
「嬉しいどころの段ではありませんわ。私に自由と生活を保証してくれますもの。もうこれからは、かき集めたり、計りごとをめぐらしたり、嘘をついたりしないですみますもの」
「嘘をつく?」ブラント少佐は、きびしい調子で相手の言葉をさえぎった。
フロラはあっけにとられていたが、
「私のいう意味おわかりになりません? お金持の伯父から、わずかばかりのお恵みをもらって、有難そうな顔をするという意味ですわ。流行おくれのオーバーを着たり、去年の帽子をかぶったりしていながら……」
「私はご婦人の衣服のことはちっともわかりませんが、あなたはいつも立派にしていらしたようではありませんか」
「それには相当の苦労をしなければなりませんでしたわ。もうこんないやなお話はやめましょうよ。私ほんとうに幸福ですわ! 自由ですわ……何をしようと勝手ですわ! 自分の意志で……」彼女は急に唇を閉じた。
「自分の意志で何をなさるのです」
「何でしたっけ、忘れてしまいましたわ。たいして重要なことではありません」
ブラント少佐は持っていたステッキで池の中をかきまわして、何か引きあげようとした。
「何をしていらっしゃいますの?」
「池の底に何か光ったものがあったんで何かと思ったのです。金のブローチのようでしたが、泥をかきたてたものでどこかへ見えなくなってしまいました」
「きっと王冠かも知れませんわ。メリサンドが水の中に見たような……」とフロラがいいだした。
「メリサンドというと……ああ、オペラの中にありましたっけね」と少佐は考えながらいった。
「ええそうですの。あなたはなかなかオペラ通でいらっしゃるのね」
「時々ひとに誘われて行くものですから……妙な娯楽ですね。土人が太鼓をテケテンテンと鳴らしながらやるわいわい騒ぎよりもっと悪い」と少佐は憂鬱《ゆううつ》な顔をしていった。
フロラは声をあげて笑った。
「私はメリサンドを覚えています。自分の親父ほども年上の老人と結婚したのでしたね」と、ブラント少佐は話をつづけた。そして小石を一つ拾って金魚池に投げてから、急にあらたまった態度でフロラに向い、
「フロラさん、ラルフ君のことについて何か私にできることがあったら、してさしあげましょうか。あなたはどんなにかご心配になっていらっしゃるでしょうね」
「ありがとうございます。でも、何もしていただくことはございませんわ。ラルフは大丈夫だと思いますの。世界中で一番えらい探偵をお願いしましたから、きっとほんとうのことを全部さぐりだして下さいますわ」とフロラは冷やかな調子でいった。
われわれは二人がちょっと顔をあげさえすればすぐ見える位置にいるので、別段たくらんだわけでもなかったのにこうして他人の話を立ち聞きするようなはめになったので、私はそれを気にして、相手にわれわれのいることを知らせようとしたが、ポワロ氏がだまっていろというように私の腕にかけた手に力を入れたので、余儀なくそのままにしていた。ところがポワロ氏は自分のことが噂にのぼるや、急にいそいそと立ちあがり、咳ばらいをして、
「お嬢様、ごめん下さいましよ。そう法外なお褒《ほ》めの言葉をいただきますと、だまっているわけに参りません。よく世間で自分の噂を聞くとろくなことはないと申しますが、今の場合は全く別でございます。私は赤面しないうちにお話のお仲間入りさせていただくとしましょう」といって、丘をくだって池のほとりへ出た。
「ブラント少佐、この方がポワロさんでいらっしゃいます。お名前はお聞きになっていらっしゃるでしょう」と、フロラが紹介した。
「ブラント少佐のご高名はかねがね伺がっております。ここでお目にかかったのを幸い、この事件について少し伺わせていただきたく存じます」ポワロ氏はいんぎんに挨拶をしていった。
ブラント少佐は質問を待つように相手の顔を見つめた。
「あなたが最後にアクロイド氏にお会いになったのは、いつでしたか」
「晩餐の時です」
「それから後、お会いにもならなければ、声もお聞きになりませんでしたか」
「会いませんが、声は聞きました」
「それはどういうことなのでしょうか」
「私は露台へぶらりと出て……」
「それはいつごろでございました?」
「九時半ごろでした。私は客間の窓の前を行ったり来たりして歩きながら煙草をすっていると、アクロイド氏が書斎で何かいっている声が聞こえて来たのです」
ポワロ氏はかがんで、小さな雑草を抜きながら、
「書斎の話し声が露台まで聞こえますでしょうかね」とつぶやいた。
彼はブラント少佐の方を見ていなかったが、私は少佐が顔を赤くしたのに気がついた。
「露台のはずれまで行ったからです」と、少佐は不本意そうに説明した。
「ああ、なるほど……」ポワロ氏はおだやかな調子で相手の言葉をうながすようにいった。
「私はその時、婦人の姿をちらと見かけたのです。気のせいだったかも知れないですが、やぶ蔭に白いものが動いたので、それをたしかめようと思って露台のはずれまで行くと、アクロイド氏が秘書に話しているのが聞こえたのです」
「レイモンドさんに話していましたって?」
「そうです。私はその時そう思ったのですが、私の思い違いらしいです」
「アクロイド氏はレイモンドさんの名を呼びかけましたか」
「いいえ」
「それではどうしてレイモンドさんと話をしているとお思いになったのでしょう」
「なぜかといいますと、その……私が露台へ出てくるちょっと前に、レイモンド君がアクロイド氏のところへ書類を持って行かなければならないといっていたからです。それに私はほかの人が書斎にいるということは、てんで念頭においておりませんでしたから、いちずにレイモンド君と思いこんだのです」と、ブラント少佐は苦労して説明した。
「その時の言葉を多少なりとも覚えていらっしゃいますか」
「何も覚えておりません。ごくありきたりのことだったと思います。それに私はほかのことを考えていましたから」
「それはたいして重要なことではありません。それはそうと、あなたは死体を見にいかれた時、書斎に入って、戸口の近くの安楽椅子を壁ぎわへ押しつけはしませんでしたか」
「椅子ですって? いいえ、私がそんなことをするはずはないでしょう」
ポワロ氏は肩をすくめて見せただけで、それには答えず今度はフロラに質問を向けた。
「お嬢様にお聞かせ願いたいことが一つございます。あなたがシパード先生とご一緒に飾り棚の中をごらんになった時、短刀はいつもの場所にございましたでしょうか、それともございませんでしたでしょうか」
フロラは顎《あご》を突きあげて、
「ラグラン警部も同じことを私に聞きましたわ。私その時、たしかに短刀はなかったと申しましたのに、ラグラン警部は短刀がちゃんとあったと考え、ラルフが夜忍びこんで盗んだんだと決めています。あの人は私を信じないんですわ。私がラルフを庇《かば》って嘘をついていると思っているんですのよ」と憤慨するようにいった。
「あなたはそうじゃないんでしょうね」と私は念をおした。
「あら、シパード先生までそんなことをおっしゃるなんて、あんまりですわ!」
フロラは足ぶみをして叫んだ。
ポワロ氏は巧みにその場を救った。
「ブラント少佐。あなたは池の中に何か光るものがあるといっておられましたが、ほんとうでございますね。とどくかどうか試してみましょう」
彼は池のふちに膝をつき、腕まくりをしてそっと水の中へ手を入れたが、十分に注意したにもかかわらず池の底の泥が渦をまいて、目的物を見えなくしてしまったので、空手を引きあげなければならなかった。
ポワロ氏は悲しげに手についた泥を眺めた。私がハンケチをだしてすすめると、彼はひどく恐縮しながら、それで手をふいた。ブラント少佐は時計をだして見て、
「やがて昼食の時間ですから、そろそろ家へ帰った方がいいでしょう」といった。
「ポワロさん。あなたもご一緒に昼食《おひる》を召し上って下さいませんか、母にもお会いになっていただきとうございます。母は大そうラルフを可愛がっておりますのよ」
「お嬢様、ありがとう存じます。喜んでお受けいたします」
「それからシパード先生もね」
私はちょっと、ためらった。
「ねえ、先生、ぜひ!」
実は私はそれを望んでいたので、それ以上の儀礼は抜きにしてその招待に応じた。私たちはブラント少佐とフロラ嬢を先にたてて家の方へ向った。
ポワロ氏はフロラ嬢の頭髪を顎でさして、小声で、
「すばらしい髪ですね。ほんとうの金髪です! 美男子のラルフ君とは好一対ではございませんか」
私は探るように相手の顔を見つめたが、彼は服の腕に少しばかりついた水を気にして大さわぎをはじめた。彼の緑色の服と、いやに身のまわりのことを気にするようすは、猫を想起させる。
「むだ骨折りでしたね。池の中にあったのは、ほんとに何だったのでしょうね」と、私は同情していった。
「見せてさしあげましょうか」
私が驚いて眼をみはっていると、彼はうなずいて、
「エルキュル・ポワロは、目的物を手に入れる確信なしに服装を乱すような真似は決していたしません。むだに変なかっこうをしたり、服をよごしたりするなんて、ばかげております。私はばかげたことはいたしません」といった。
「しかし、あなたはさっき、取りそこなったではありませんか」
「物事は慎重にしなければならぬ場合もございます。あなたはご両親に何でもお話しになりますか、何もかもをでございますよ。先生。私はそうは思いません。あなたはごりっぱなお姉様にも、すべてをお話しになりませんでしょう、そうじゃございませんか。さきほど私は皆様に空手をお目にかける前に、とった品はちゃんと片方の手に移しておきました。このとおり」といいながら、彼は左手を私の前にひらいて、掌《てのひら》にのせた金の小さな輪を見せた。それは婦人の結婚指輪であった。
「内がわをごらんなさい」
私は命じられたとおりに指輪を手にとって、内がわに刻んである細い文字を読んだ。
―|R《アール》より三月十三日―
私はポワロ氏の方を見たが、氏は小さな懐中鏡をのぞいて、身づくろいをしている最中で髭をなでつけるのに忙がしくて、てんで私になど注意をはらっていなかった。私はポワロがそれ以上この指輪については何もふれたくない意向だと見てとった。
小間使
家へ入ると、広間にセシル夫人が小柄なしなびた感じの男と立ち話をしていた。顎の角ばった、灰色の鋭い眼つきのその男は、全身に法律家と書き散らしてあるような感じであった。
「ハモンドさんも食事にお残り下さいましたの。ハモンドさんはブラント少佐をご存じでいらっしゃいますわね。それから、こちらはシパード先生、やはり義兄の親しいお友達でいらっしゃいます。それからこちらは……」
夫人がポワロ氏の顔を見ていいよどんでいると、フロラが、
「お母様。この方が今朝お話ししたポワロ探偵でいらっしゃいますのよ」
「ああ、そうでしたわね。そうそう、この方がラルフの行方を探して下さるのでございます」
「お母様。ポワロさんは伯父様を殺した犯人を見つけて下さるのよ」
「あら、まア、私としたことがどういたしましよう……私、今朝はもうすっかり気が顛倒しておりますのよ。何て恐ろしいことでございましょう。私は何かの間違いであってくれればいいと思いますの。義兄は妙な骨董品をいじるのが好きでございましたから、誤まって手がすべったとか、何とか……」
ポワロ氏はハモンド弁護土に近づいて、何か低い声で話しかけた。二人が窓ぎわへ行ったので、私もその後につづいたが、ふと気がついて、
「お邪魔ではないでしょうか」と聞いた。
「いいえ、どういたしまして。先生と私とは手をつないでこの事件の解決にあたらねばなりません。先生抜きにいたしましたら、私は途方にくれてしまいます。私はハモンドさんに少々うかがいたいことがございますのでね」とポワロは熱意をこめていった。
「あなたはラルフ君のためにお骨折り下さるんですね」
弁護士は用心ぶかくいった。
ポワロ氏は首をふって、
「そういうわけではございません。私は正義を擁護するために行動いたします。フロラ嬢からアクロイド氏の死の謎を解くようにご依頼を受けておりますので」
ハモンド氏は少々驚いたらしかった。
「私はどんな点からも、ラルフ君がこの事件に関係があるとは考えられません。どんなに情況がラルフ君に不利に見えましょうとも、たとえ彼が金につまっているという事実があろうとも……」
「ラルフ君はそんなに金につまっておられましたのですか?」とポワロ氏がすかさずたずねた。
「ラルフ君はいつだって金に困らないことなんてありませんでした。いくらあっても水のように指の間からこぼしてしまうんですからね。それで年中、義父を煩らわしていました」と、彼はそっけなく答えた。
「最近もやはりそんな状態がつづいておりましたのでしょうか?」
「さア、それはどうかわかりません。アクロイド氏は別に何もいっておられませんでした」
「ハモンドさんは、アクロイド氏の遺言の内容をご承知でいらっしゃるのでございましょうね」
「そうです。それが私のここへ参った主な用件です」
「それでは、私がフロラ嬢のご依頼でこの事件を扱っております以上、その内容をうかがってもよろしゅうございましょうな」
「内容はしごく簡単です。法律的ないい方によりますと、二、三の遺産および遺贈を支払いたる後……」
「たとえば?」とポワロ氏が言葉をはさんだので、ハモンド氏は少し驚いたようであった。
「一千ポンドを家政婦ラッセル嬢に、五十ポンドを料理人エンマ・クーパーに、五百ポンドを秘書レイモンド氏に、その他病院慈善事業などに……」
ポワロ氏はそこで手をあげて、
「慈善寄付金などには興味はございません」といった。
「そうですね。それではと、まずセシル夫人には生涯、毎年一万ポンドの生活費を生みだすだけの株券、フロラ嬢には即時に二万ポンドの現金、ラルフ君にはアクロイド商会に関するいっさいの利権およびその他の財産が全部ゆくことになります」
「アクロイド氏は巨万の富を持っておられたのですね」
「そうです。非常な資産家でした。したがってラルフ君は大金持になるわけです」
しばらく沈黙がつづいた。ポワロ氏とハモンド氏とは互いに顔を見合わせていた。
「ハモンドさん、ちょっと!」
ストーブの前にいたセシル夫人が悲しげな声で呼んだので、ハモンド氏はその方へ行った。ポワロ氏は私の腕をつかんで窓のそばへいざない、
「シパード先生、あのかきつばたをごらんなさい。すばらしいではございませんか。まっすぐに、のびのびして気持がよろしい!」と、大きな声でいっておいて、私の腕をぐっとおしてから声をひそめた。
「あなたは、ほんとうに私に力をお貸し下さいますか、この事件の解決に」
「むろんですとも。願ったり、叶ったりです。私は単調な生活に退屈しきっているところですから」
「結構です。それでは私どもは同僚ということになりますね。間もなくブラント少佐が仲間に加わりましょう。セシル夫人のお相手に閉口しているようですから。ところで、さっそくあなたに、やっていただきたいことがございます。私はあることを知りたいのですが、相手方には私の知りたがっていることを悟らせたくないということをご承知願いたいのです。それで質問をだす役をあなたにお引き受けいただきたいのでございます」
「どういう質問でしょうか」
「フェラス夫人の名をだしていただきたいのです」
「というと?」
「ごく自然な調子で、フェラス夫人の夫が死んだ時に、ブラント少佐がこの土地に来ておられたかどうかということを、聞いていただきたいのです。私の申し上げる意味がおわかりでしょうね。そして相手が答える時に、それとなく顔色をうかがっていただきたいのです。よろしゅうございますね」
それ以上の打ち合わせをする暇もなく、ブラント少佐がわれわれの方へやって来た。私は露台をそぞろ歩きしようと誘った。少佐はすぐに賛成したが、ポワロ氏は後に残った。私はおそ咲きのばらを眺めながら、
「考えてみると夢のようですね。ついこの水曜日にあんなに元気で、私と一緒にここを歩き、このばらを眺めたアクロイド氏が、わずか三日後の今日は、もうこの世の人ではないのですから、はかないものですね。フェラス夫人も亡くなりましたし……ブラント少佐はたしかフェラス夫人をご存じでしたね」
ブラント少佐はうなずいた。
「あなたは今度こちらへおいでになってから、フェラス夫人にお会いでしたか」
「先週の火曜日にアクロイド氏とともに訪問しました。全く思いがけないことでした。なかなか魅力のある婦人でしたが、どこか変なところがありましたね。深みがあるというのですか、ちょっと底知れない感じのする人でしたね」
私は相手の落ちついた灰色の眼の中を見つめていたが、その中に何も見出だすことはできなかった。
「少佐は以前にもフェラス夫人に会われたことがおありですか」
「この前に私がここに滞在した時、フェラス夫妻もここに泊りに来ておりました」といって、ちょっと間をおいてから少佐は、
「不思議なことですね。その時と今度と、わずかの間のことだったのに、あの婦人があんなに変ってしまうなんて」とつけ加えた。
「どんなふうに変ったのですか」
「急に十年も年をとったように見えました」
「少佐はフェラス氏が亡くなった時、こちらにおいででしたか」
私はできるだけ何気ない軽い調子できいた。
「いいえ、おりませんでした。話に聞くと夫人にとってかえって厄ばらいしたようなものだそうですね」
「たしかにそうかも知れません。アシレイ・フェラスは決して模範的な夫ではありませんでしたからね」と私は用心ぶかく同意した。
「悪党ですよ」
「いや、悪党というほどの男ではありませんでした。ただ金をよけいに持ちすぎていたのが悪かったのです」
「ああ、金ですか。金というやつは、世の中のあらゆる悶着のもとですね、あっても無くても悪い」
「少佐もやはり金に禍《わざわい》されている組ですか」
「幸い私はちょうどいいだけの金しか持っておりません。余りもしなければ、足りなくもない」
「それは結構なご身分ですね」
「ところが現在はあまり結構ではないのです。一年前に遺産が入ったのですが、無理にすすめられて、つまらない事業に投資して、すっかり失敗してしまいましたからね」
私は少佐に同情して、自分も同じような苦い経験をしたことを語った。
やがて食事を知らせる鐘が鳴ったので、われわれは食堂へ向かった。ポワロ氏は私をちょっと引きとめて、
「いかがでした?」とたずねた。
「いささかも疑わしい点はありませんでした」
「少しもようすが変りませんでしたか」
「一年前に遺産を享けついだということですが、そんなことは誰にだってあることですし、私は誓って公明正大な人物だと思いますね」
「ごもっとも! ごもっとも! そんなに気におかけにならないで下さい」と、彼はまるで、むずかっている子供をなだめるような調子でいった。
われわれはぞろぞろと食堂へ入って行った。この食堂でアクロイド氏と晩餐を共にしてから二十四時間とたっていないなんて信じがたいことである。
食後、セシル夫人は私をわきへ呼んで長椅子に一緒に腰かけて、愚痴をこぼしはじめた。
「私、くやしくてなりませんのよ。義兄は私を信頼していてくれなかったと思うと、……あの二万ポンドはフロラでなく私に托してくれてもいいはずですわ。当然母親である私が、あの娘《こ》の財産を保管してやるべきではありませんか。それだのに私を無視するなんて、あんまりひどいと思いますのよ」と、つぶやきながら夫人はハンケチを取りだしたが、別に拭うべき涙などはなかった。
「しかし、セシル夫人、フロラさんは何といってもアクロイド氏の血をうけた姪ですからね。もしもあなたがアクロイド氏の血をわけた妹であれば、これはまた問題が別ですがね」と私はいった。
「でも、自分の親身の弟の嫁である私の気持も考えてくれてもよさそうなものですわ。いったい義兄はお金のこととなると、とても妙でしたよ。決してけちん坊だというわけではありませんでしたけれども、私ども母娘《おやこ》はずいぶんと苦労いたしましたわ。娘に小遣銭もあてがってくれないんですもの。それは勘定書はちゃんとはらってやってくれましたけれども、ちょっとしたアクセサリー一つ買うにも、いちいち値段や用途を説明させられたんですもの、たまったものじゃありませんわ……あら、私何を申し上げようとしていたんでしたっけ……ああ、そうそう、私どもはそんなわけで、自分のお金というものは一ペニーも持ちませんでしたのよ。フロラはいつもこぼしていましたわ。年ごろの娘がそんなふうにされたら、誰だって恨みますわね。といってフロラは決して伯父を軽んずるようなことはしませんでしたけれど……全くロージャー・アクロイドという人は、お金にたいして妙な考えを持っていたんですのよ。ハンカチに穴があいているから買ってくれといっても、頑として聞き入れないような変人でしたからね。……第一……考えてごらんあそばせ。千ポンドなんて大金をやるなんて……あんな女に……」といって、セシル夫人は化粧をくずさないように用心して、ハンケチでまつ毛の先をそっと拭った。
「どの女にですか」
「家政婦のラッセルですわ。あの女には何か腑に落ちないところがあるんですのよ。私は度々そのことを注意したんですが、義兄は耳をかすどころか、いつもあの女のことを珍らしくしっかりした婦人だと褒めていましたわ。あの女はなかなかずうずうしくて、ロージャーをすっかり丸めこんであわよくばロージャーと結婚でもする気でいたらしかったんですよ。だから私を眼の敵《かたき》にしていましたわ。無理もありませんわ。私がその計画をひっくり返してしまったんですもの……」
私はどうしてこのセシル夫人のおしゃべりから逃れようかと、途方にくれているところへ、ハモンド氏が暇《いとま》をつげに来たので、ほっとして立ちあがった。
「審問はどこでいたしましょう。ここですか、それとも、『いのしし屋』にいたしますか」と、私がハモンド氏にいうと、セシル夫人はふきげんな顔をして、
「審問ですって? そんなことをいたしますの? いやですわねえ」といった。
ハモンド氏は咳ばらいをして、やむを得ないというようなことをつぶやいた。
「でも、シパード先生が何とかして下さいません?」
「それは私の権限ではどうにもなりません」と、私はそっけなくいった。
「もし過失で死んだとしましたら……」
「いいえ、アクロイド氏は殺されたのです」と、私は遠慮なくいった。
セシル夫人は小さな叫びをあげた。
「審問があっても、私何も答えることはございませんわ」
「さア、どういうことになりますか私にはわかりません。おそらくレイモンド君がお力添え下さるでしょう。レイモンド君はこの家の事情に一番精通しておりますから、だいたいの審問に答えられるでしょうね」と私がいうと、弁護士もうなずいて、
「奥様、決してご心配なさることはありません。ご不快な質問をお受けになるようなことはないでしょう。何か現金の必要がおありでしたら用意して来ましたから、おいて参りましょうか」
「現金は十分ございます。昨日義兄が百ポンドの小切手を現金にいたしましたから」
「百ポンド?」
「はい、奉公人の給料その他今月の支払いのお金で、まだ一つも手がついていないはずですわ」
「その金はどこにあります、机の中ですか」
「いいえ、あの人は間違いないようにというので、現金はいつも自分の寝室の古ぼけたカラーの箱に入れておきますのよ。おかしな人でしてね」
「私が引き揚げる前に、その金があるかどうかたしかめておく必要がありますね」と、弁護士がいった。
「そうですね。すぐご案内しましょう……ああ、そうか、あそこのドアには錠がおりていましたっけ」と秘書がいった。
パーカーを呼んでたずねると、ラグラン警部は、家政婦の部屋で何か追加の質問をしているということであったが彼はじきに鍵を持ってわれわれのところへやって来た。ラグラン警部にドアをあけてもらって、われわれは書斎の前の廊下を通って階段をのぼった。寝室の戸はあけっぱなしになっていて、カーテンを引いた部屋の中は暗く、寝台の上は前夜のままにかけぶとんが折り返してあった。ラグラン警部はカーテンをしぼって、日光を入れた。レイモンド君は花梨木《かりん》の箪笥の一番上のひきだしをあけた。
「現金を錠もおろさないで入れておくのですか」と警部がいった。レイモンド君はちょっと顔を赤らめて、
「アクロイド氏は、家の者たちを絶対に信用しておられました」と答えた。
「なるほど、なるほど!」警部はあわてていった。
秘書はひきだしから丸い革ばりのカラーの箱を持って来て、その中からふくらんだ紙幣入れを取りだした。
「この中に現金が入っているのです。たしかに百ポンド手つかずにあるはずです。昨晩、食事に出られる前に、着がえをしにこられた時、僕の眼の前でその中へ入れられたのです」
紙幣束《さつたば》をかぞえ終ったハモンド弁護士は、ふいに顔をあげて、
「百ポンドといいましたね。ところがここには六十ポンドしかない」と鋭くいった。
「そんなはずはありません!」と叫んで、相手の顔を見つめたレイモンド君は、いきなり弁護士から紙幣束をとって自分で一枚ずつ声をだしてかぞえた。弁護士のいうとおり六十ポンドよりなかった、
「どうしたんでしょう、おかしいですね!」と、秘書は眉をひそめた。
「あなたは、アクロイド氏が昨晩着がえをしにこの部屋へこられた時に、その紙幣束をそこへ入れられるのを見ていたとおっしゃるのですね。アクロイド氏はしまう前に何かに支払われたのではないか、よく考えてみて下さい」とポワロ氏がたずねた。
「それはもうたしかです。アクロイド氏が……私は百ポンドの金をふところに入れて食事へ行くのはいやだよ。あまりさもしいからね……といわれたのを僕ははっきり覚えています」
「すると、この件はいたって簡単にかたづきますね。アクロイド氏が昨夜のうちに四十ポンドを何かに支払われたかあるいは、誰かが盗んだかということになります」とポワロ氏がいうと、ラグラン警部も、
「それは明白なことです。奥さん、昨晩この部屋へ入った奉公人は誰ですか」と、セシル夫人にたずねた。
「たぶん女中が寝具をなおしに来たでしょうと思います」
「それはどの女中ですか。身許をご存じなのですか」
「最近来た娘ですが、ごくありふれた温和《おとな》しい田舎娘ですわ」
「この件を明らかにしなければなりませんね。もしアクロイド氏が四十ポンドを誰かに支払ったとすれば、それはこの犯罪に関係があるに違いないです。奥さんのお考えでは奉公人の中でほかに怪しい者はありませんか」
「いいえ、ございませんわ」
「何か以前に紛失したことはありませんか」
「いいえ」
「誰か暇を取ったものはありませんか、あるいは暇をくれと申し出ているものはありませんか」
「小間使が暇を取りますわ」
「いつですか」
「きのう申し出たようでございます」
「奥さんに申し出たのですか」
「いいえ、私は奉公人のことなどには何も関係いたしません。家事向きのことはラッセルが一人で切りまわしておりますから」
警部はしばらく考えこんでいたが、ひとりうなずいて、
「ラッセル嬢と話してみよう。それからエルジーに会わなくては」とつぶやいた。
ポワロ氏と警部と一緒に家政婦の部屋へ行った。ラッセル嬢は相変らず泰然としてわれわれを迎えた。
エルジーはアクロイド家に来てから五か月になる。善良な娘で、仕事は早く、上品で、なかなかりっぱな履歴を持っているし、どんなことがあっても他人の所有物などに手をつける娘ではないと、家政婦は断言した。
「小間使はどうですか」
「あれも申し分のない娘です。大そう温和《おとな》しくて、お嬢さんらしく、その上優秀な働き手です」
「そんないい娘が、どうして急に暇を取るのです」と警部がたずねた。
ラッセル嬢は唇をつぼめた。
「私のせいじゃアありませんわ。たぶんきのうの午後、亡くなったご主人にお叱言をいただいたからでしょう。ウルスラは書斎を受け持っているものですから、机の書類をまぜこぜにしてしまったとかで、ご主人に叱られたようです。私はそれが原因だろうと思いますが、直接あの娘におたずねになったらよろしいでしょう」
ラグラン警部はそれに同意した。私は食事の時に給仕に出たウルスラに注意していたが、すらりとした娘で、鳶色の髪を後に低くきりっと巻きあげ、利口そうな灰色の眼をしていた。家政婦に呼ばれて部屋へ入って来た彼女はしゃんと立って、例の灰色の眼でわれわれの方をじっと見つめた。
「お前がウルスラだね」と、警部が訊問をはじめた。
「はい、さようでございます」
「お前は暇を取るそうだね」
「はい」
「なぜなんだね」
「ご書斎のお机の上の書類をまぜこぜにしてしまいましたので、且那様が大そうご立腹あそばしたのです。それで私がお暇をいただきましょうと申し上げましたら、旦那様は一刻も早く出て行けとおっしゃったのでございます」
「お前は昨晩、主人の寝室へ入らなかったかね」
「寝室はエルジーさんの受け持ちでございますから、私はあちらはのぞいたこともございません」
「お前は知っているかね。昨晩、主人の寝室にあった大金を盗んだ者があるのだ」
さすがの彼女もむっとして顔色をかえた。「私、お金のことなど少しも存じません。私がお金を盗んでご主人からお暇が出たなどとお考えになったら、たいへんなお間違いでございます」
「私はお前が盗んだといっているわけではないから、そんなに怒ることはないだろう」と警部がいった。
「私の荷物をお調べ下すってもよろしゅうございます」
娘は冷やかに警部を見つめながら、さげすむようにいった。
その時ポワロ氏は不意に言葉をはさんだ。
「アクロイド氏がお前に暇をだされたのは……あるいはお前が暇を取るといいだしたのは、きのうの午後のことだったですね、そうでしょう」
娘はうなずいた。
「その会見はどれくらいつづきましたか」
「会見とおっしゃいますと?」
「書斎でアクロイド氏とお前が会見したことをいっているのです」
「私、存じません」
「二十分ぐらいでしたか、それとも半時間ぐらい?」
「半時間ぐらいでございました」
「それより長くはありませんでしたか」
「たしかに半時間以上はかかりませんでございました」
「どうもありがとう」
私は好奇心をもってポワロ氏を眺めていた。彼は机の上のものを、さっきから並べたり、崩したりしていたが、灰色の眼は不思議な光をたたえていた。
「それではもうよろしい」と警部がいった。
ウルスラは部屋を出て行った。警部はラッセル嬢に向って、
「あの娘はここへ来てから、どれくらいになるんですか。あれの履歴書をお持ちですか」
ラッセル嬢は最初の質問には答えないで、近くの書類戸棚のそばへ行って、ひきだしをあけて書類のとじこみをだして来た。そしてその中の一枚を抜き取って警部に渡した。
「ふむ、別に怪しい点はないですね。リチャード夫人、グランジ夫人、フォリオット夫人と、この前の雇主たちはどういう身分の人たちなんですか」
「この州でも相当な家柄の人たちです」と、ラッセル嬢は答えた。
「では、もう一人の方を呼んで下さい、エルジーを」
エルジーは大柄な娘で、可愛らしいが少し足りないような顔つきをしていた。彼女はわれわれの質問にはきはきと答え、金の紛失に対してはなみなみならぬ関心と憂慮を示した。
警部はエルジーを立ち去らせてから、
「あの娘には少しも怪しいところはないようですね」といった。そして、もう一度ラッセル嬢に向って、
「パーカーはどうですか」とたずねた。
ラッセル嬢は唇をきゅうとつぼめただけで返事をしなかった。
「あの男にはどこか腑に落ちないところがあるが、厄介なことには、あの男にそんな機会があったとは思えん。……彼は食後は後片づけでずっと忙しかったろうし、それにしっかりしたアリバイが立っている。……私は克明にアリバイの点は調べあげたんだから……では、ラッセル嬢、ありがとうござんした。今のところ、この件は現状維持ということにしておきましょうな。アクロイド氏が自ら支払ったものとみるのが、一番至当でしょうね」と警部はいった。
ラッセル嬢はそっけなく、われわれを送りだした。私はポワロ氏とともに家を出た。
「ウルスラがまぜこぜにして、アクロイド氏を怒らせた書類というのは何でしょうね。その辺に謎があるのではありますまいか」と私は沈黙をやぶった。
「秘書の話では、机の上にはたいして書類はおいてはなかったそうでございます」とポワロ氏は静かにいった。
「そうですか。しかし……」といいかけて私が言葉をきると、ポワロ氏が、
「先生はアクロイド氏がそんな些細なことで立腹されたなんて、おかしいと思っていらっしゃるのでしょう」
「そのとおりです」
「しかし、はたして些細《ささい》なことだったのでしょうかね」
「もちろん、私どもにはどんな書類であったかわかっておりませんからね、しかし、レイモンド君の言葉によれば……」
「レイモンドさんはちょっとの間、この枠からはずしておきましょう。先生はあの娘をどうお思いになりますか」
「どっちの娘です、小間使ですか」
「さようです。小間使のウルスラでございます」
「|よさ《ヽヽ》そうな娘ではありませんか」と、私はためらいながらいった。
ポワロ氏は私のいった言葉をくり返したが、私が「よさ」というところにちょっと力を入れたのに、ポワロ氏は「そうな」というところに力を入れていった。
「よさ|そうな《ヽヽヽ》な娘ですね」とつぶやいてから、少し間をおいて、ポケットをまさぐって一枚の紙片を取りだし、
「いいものをお目にかけましょう。ここをごらん下さい」といった。
私に渡したのはラグラン警部が今朝ポワロ氏に渡したものと同じであった。ポワロ氏の指さしたところを見ると、小間使いのウルスラの上に×印がついていた。
「あなたは、あの時お気づきにならなかったかも知れませんが、この表の中でウルスラのアリバイだけは誰もほかに証人はないのでございます」
「あなたはまさか、そんなことお考えになっておられるんではないでしょうね」
「シパード先生、私は何だって考えます。ウルスラがアクロイド氏を殺したかも知れません。しかし残念ながら私には彼女がそんなことをする動機がわかりません。先生はいかがです」といって、ポワロ氏は私の顔を穴のあくほど見つめたので、私は何だか落ちつかない気持ちになった。
「先生は動機はおわかりになりませんか」とポワロ氏はくり返していった。
「私にはいかなる動機も思いあたりません」と、私はきっぱりいった。彼の凝視がゆるんだ。彼は眉をひそめて、
「脅迫者が男とすると、ウルスラを脅迫者と見なすわけにはいかないと……」とひとりごとをいった。
私は咳ばらいをして、
「しかし、そうなると……」と、私がためらいながらいいかけると、ポワロ氏は不意に顔をあげて、
「ええ、何かおっしゃいましたか」
「いや、たいしたことではありません。ただ厳正にいいますと、フェラス夫人の遺書には男とも女ともはっきり書いてありませんでした。ただある人がとあったのでしたが、アクロイド氏と私とは男に違いないと決めてかかっていたのです」
ポワロ氏は私の言葉には耳を傾けていないらしかった。彼はまた、ひとりごとをつづけた。
「とすると、それは不可能であるし、そうだ、全く不可能だ、これでは考え方を組み立て直さなければならない……すべてを整然と、あるべきところに納まるように並べないと、とんでもない間違いをやるぞ……」
彼は急に私の方を向いて、
「マルビイはどこです?」
「クランチェスターの反対がわの町です」
「どのくらいの遠さですか」
「そうですね、十四マイルぐらいもありましょうか」
「先生にマルビイへいっていただくことはできませんでしょうか。明日はいかがでしょう」
「待って下さい……明日は日曜日でしたね、よろしいです。マルビイへ行って私に何をしろというのです」
「ウルスラの以前の雇主のフォリオット夫人にお会いになって、ウルスラのことをできるだけ精しく探りだしていただきたいのです」
「よろしいです。しかし、私はそういう仕事は不得手でしてね」
「今は仕事の得手、不得手などを問題にしておる場合ではございません。この一事に人間一人の生命がかかっているかもしれないのですから」
「ああ可哀そうなラルフ! ポワロさん、あなたはラルフの無罪を信じておいでになるでしょうね」
私は深い吐息とともにいった。
「シパード先生、あなたはほんとうのことをお聞きになりたいのですか」と、ポワロ氏は、厳しい顔で私の顔を見つめながらいった。
「もちろんです」
「では、おきかせしましょう。すべてがラルフ君の有罪を仮定するようになっております」
「何ですって?」
「さようです。あの|とんま《ヽヽヽ》な警部は……そうです。あの人はたしかに|とんま《ヽヽヽ》です……あらゆるものをラルフ君の有罪に結びつけております。だが、私は真実を求めております。ところが真実はどれも私をラルフの方へ導いて行きます。動機、機会、方法等を私は正確にあばくつもりです。私はフロラ嬢に約束いたしました。あの若いお嬢様は確信を持っておいでになる……ゆるぎない確信を……」
と、ポワロ氏はひとりうなずきながらいうのであった。
ポワロ氏の訪問
私は翌日の午後、マルビイのフォリオット家を訪問した。フォリオット夫人は、背の高い、栗色の髪をもじゃもじゃにした女性で、愛嬌《あいきょう》たっぷりの微笑をうかべて私を迎えてくれた。
「突然にお邪魔しましてたいへん恐縮ですが、お宅で以前使っておいでになった小間使につきまして、いろいろと聞かせていただきたいと思いまして伺いました。ウルスラ・ボーンという娘です」
ウルスラの名がでたとたんに、彼女の顔から微笑が消えてしまい、態度ががらりと冷たくなった。不愉快そうな表情をうかべて落ちつかないようすを見せた。
「ウルスラでございますか」
彼女はためらいがちにいった。
「そうです。たぶん奥様はその名を覚えておいでにならないかとも思いますが」
「あら、覚えておりますわ。よく覚えております」
「奥様はあの娘の勤めぶりに、ご満足でしたか? お宅にどのくらいご奉公しておりましたのでしょうか」
「一年か二年でしたわ。私、はっきり覚えておりません。たいへん役にたつ娘でした。あなたもきっとご満足なさると思います。あの娘がアクロイド家からお暇を取るなんてちっとも存じませんでした」
「奥様、あの娘について何でもよろしいから、お聞かせ願えませんでしょうか」
「何でもですって?」
「つまりどこから来たか、両親はどういう人か、そんなようなことですね」
フォリオット夫人の顔はいよいよ冷やかになった。
「私、何も存じません」
「お宅へくる前はどこにおりましたんでしょうか」
「そんなこと、私忘れてしまいましたわ。そんなこまごましたことまでお調べになる必要があるんでしょうか」
夫人のおどおどしたようすのうちに、一抹の怒りがひらめいた。そして頭をぐいとあげて私の顔を見つめた。
私は驚きと謝罪を態度に現わして、
「決してそんな必要というわけではありません。奥様がこうした質問にお答えになるのをそれほどご不快を感じられるとは夢にも思いませんでしたので、たいへんに失礼いたしました」
彼女の怒りは消えたが、当惑のようすがふたたび現われた。
「いいえ、私お答えするのなんか何とも思いません。そんなこと決してありません。不愉快になどなる理由はないではございませんか。ただ、私、とても妙だと思ったのです。ただそれだけのことです」
医師という職業のおかげで、私は相手が嘘をいっているのを見抜く術を修得していた。私はフォリオット夫人の態度から、夫人が私の質問に答えるのをひどく嫌っているのを知った。彼女はひどく不安らしく、すっかり取り乱して、何か隠していると思われた。彼女は他人を瞞着するとか、ごまかすというような事をしたことがないと見えて、子供にもわかるほど当惑の色をうかべるのであった。
それと同時に、彼女はウルスラについてぜんぜん語る意志のないことをも私は悟った。ウルスラの身辺にいかなる秘密があっても、決してフォリオット夫人から聞きだすわけにはいかないであろう。私はあきらめた。もう一度彼女を騒がせたことをあやまり、帽子を受け取ってフォリオット家を辞去した。
村へ帰って二、三の患者を往診して家へ帰ると、もう六時近くであった。姉は茶道具を前において、疲れきったような顔をしていた。その顔色から、私は姉が何か情報を得たか、あるいは盛んに情報を撒きちらした後に違いないと推察した。
私が自分のすきな安楽椅子に腰かけて、心地よく燃えているストーブの火の前に楽々と足をのばすと、姉は、
「今日の午後、私はずいぶん愉快にすごしましたよ」と切りだした。
「そうですか。ガネット嬢でも見えたんですか」と私はたずねた。
「違いますよ。もう一度あててごらんなさい」彼女はひどく満悦のていであった。
私は姉の情報局員の連中をひとりひとりゆっくりと考えだしては名をあげたが、そのたびに姉は勝ちほこったように首を横にふっていたが、しまいに自分から情報をぶちまけてしまった。
「ポワロさんですよ!」
「ポワロ氏は何をしに来たのです?」
「もちろん私に会いに来たんですよ。あの方は、弟様とたいへんにお親しくなったのですから、ついでにお美しいお姉様にもお近づきになりたいんですって……あなたのお美しいお姉様ですってさ」
「どんな話をしたんですか」
「ご自分のことだの、今まで扱ったいろいろの事件だの、それからモルタニアのポール殿下のことだの、あなたも知っているでしょう。ほら踊子と結婚した……」
「ポール殿下や踊り子なんかどうでもいいですよ。で、ポワロ氏は殺人事件のことは何も話しませんでしたか」
「もちろんお話しなさったわ。だって、ほかにどんな話題がこの村にあるっていうの。私はいろいろな点でポワロさんの見方を正してあげたわ。とても喜んでいらしたことよ。あの方は私のことを生れながらにして探偵の素質を持っているとおっしゃったわ。そして人間性に対する心理学的本能を持っているんですって」
彼女は、まるでうまいクリームを浴びるほどなめた猫みたいであった。ごろごろ喉を鳴らしている。
「あの方は小さな灰色の脳細胞とその働きについてお話しになったわ。そしてご自分の脳細胞は特製だといっていらしたわ」
「そんなことをいうでしょうさ。あの人の名は謙遜というのではありませんからね」
「あなたはどうしてそうアメリカ人みたいに何でもずけずけというんでしょう! あの方はできるだけ早くラルフを探しだして、自分の立場を説明させるのが肝要だとおっしゃっていらしたわ。ラルフが行方をくらましていることは、審問の時にたいへんに不利な印象を与えるだろうって心配していらしたのよ」
「それに対して姉さんは何といいました」
「私もあの方の説に同意しましたわ。それから私は世間の人たちがすでにそのことを問題にしているのを話してあげましたわ」
「姉さん、あなたは森で立ち聞きしたことをしゃべったでしょうね」
「話しましたとも」
姉は満足そうにいった。
私は立ちあがって部屋を歩きはじめた。
「姉さん、あなたはご自分のしていることをご存じなんですか! あなたがラルフの首に綱をまきつけたことは、あなたがその椅子に坐っていらっしゃると同様に確実なんですよ」と私は姉を責めた。
「どういたしまして、私はあなたがなぜあのことをポワロさんに話さなかったんでしょうと思って、あきれているところですよ」
姉は冷静であった。
「私はラルフ君を愛しているから、洩らさないように注意していたんです」
「ところが私もラルフを愛しているから、事実をみんな話したんですよ。私はラルフがやったのではないと信じているから、真実のことをいったって害にならないと思っています。ポワロさんには何もかも知らせてあげるべきですわ。もしラルフが殺人のあった晩に例の女と連れだって歩いていたとすれば、その謎の女を連れてくればアリバイがたつではありませんか」
「そんなりっぱなアリバイがあるなら、なぜラルフは出て来て申し開きをしないんでしょう」
と、私はいい返した。
「きっと女に迷惑をかけるのを心配しているんでしょう。けれどもポワロさんがその女を探しだして、ラルフの身のあかしをたてる義務があることをいい聞かせなすったら、きっと自分から出頭するでしょうよ」
「姉さんはご自分の空想でロマンチックなおとぎ話をでっちあげてしまいましたね。あんまりつまらない小説ばかり読みふけるからですよ。だから、いつも私がいっているではありませんか」といって、私はふたたび安楽椅子に腰をおろした。
「ポワロさんは姉さんにもっと質問しましたか」と私はたずねた。
「あの朝あなたのところへ来た患者たちのことを聞きましたわ」
「患者ですって?」
私はうたぐり深く聞きかえした。
「そうですよ。幾人きて、どういう人たちだったかということ」
「姉さんはそれを正確に答えたとおっしゃるんですか」
「あたりまえじゃないの。ここの窓から診療室へ行く通路がよく見えますからね。それに私はなかなか記憶がいいんですよ」
「たしかにいいですね」と、私は機械的に答えた。
「いいこと? ベネットのお婆さんが来たでしょう。それから、指をいためた男の子が農園から来たでしょう。ドリィが指にささった針を抜いてもらいに来たでしょう。それから、汽船からあがったアメリカ人の給仕と……四人ね、そうそうジョージ・エバンスが腫物《はれもの》を見てもらいに来ましたし、最後に……」
姉はあの朝の患者を一人一人かぞえあげたが、そこで思わせぶりに言葉をきった。
「それから?」
彼女は、聞かせどころとばかりに大見得をきって、
「ラッセル嬢!」と一字一字に力を入れていい終ると、椅子の背によりかかって、意味ありげに私の顔を見た。姉に意味ありげに見つめられると、それを黙殺するわけにはいかない。
「それがどうだというんです。ラッセル嬢が来たって不思議はないでしょう。膝が痛むから診察してもらいに来たのですからね」
「膝痛《ひざいた》ですって? そんなことは大嘘! あの人はほかに目的があって来たんですよ」
「何ですって?」
彼女もその目的が何であるかを知らないことを認めた。
「何かあるんですよ。ポワロさんもしきりにそれを突きとめたがっていらしたわ。どうもあれは謎の女よ、あの女には何か腑に落ちないところがあるわ。ポワロさんもそう思っていなさるのよ」
「セシル夫人もきのう私にそれと同じことをいいましたよ。ラッセル嬢は、何か腑に落ちないところのある女だって」と私はいった。
「ああ、そうだ、セシル夫人! もう一人いたわ!」と、カロリンは何だかわけのわからないことをつぶやいた。
「もう一人って、何ですか」
姉は私の問いに答えなかった。彼女はひとりでうなずきながら編物をかきあつめて、晩餐のお支度と称する藤色の絹のブラウスと、金のロケットで正装するために二階へあがって行った。
私はそこに残ってストーブの火を見つめながら姉の言葉を考えていた。ポワロ氏はほんとうにラッセル嬢のことを調べに来たのであろうか。それとも姉のゆがんだ心が彼女の考えに従ってすべてを解釈したのであろうか? あの朝のラッセル嬢のようすには、これといって怪しいところはなかった。すくなくも……私はふとラッセル嬢が話題を麻痺薬から毒薬と毒殺にもっていったことを思いだした。
しかしそんなことは何でもない。アクロイド氏が毒殺されたわけではないし……だが妙だ……私は二階で姉がかなきり声をあげているのを聞いた。
「ジェームズ、何をぐずぐずしているの。もう晩ごはんだっていうのに、早く着がえをおしなさい!」
私はストーブに石炭をくべて、従順《すなお》に二階へあがって行った。
何をおいても家庭の平和を保つのが大切だ。
黒い靴? 茶色の靴?
テーブルを囲んで
月曜日に合同審問があった。
私はアクロイド氏の死因とおよその時間を証言した。死因検査官の一人がラルフの欠席にふれたが、たいして追求もしなかった。
審問の後で、私はポワロ氏とラグラン警部と三人で少し話しあった。ラグラン警部は沈んだ調子で、
「ポワロさん、どうも面白くないことになりましたよ。私は公正な判断を下したいと思っているのです。私は土地の者でラルフとはまんざら知らない仲ではなし、決してあの青年を犯人にしたくないのですが、こうすべての情況が悪いと、どうにもしかたないです。われわれの手には証拠がたくさんあがっています。しかし、これはラルフが反証をあげることができるかもしれないのです。それならなぜラルフが出て来て釈明しないのでしょう」
だが、ラグラン警部の言葉の裏には私の気づかなかった深い意味があった。ラルフの人相書は英国内のあらゆる停車場と港々に電送されていた。彼の下宿や日ごろの彼の立ちまわり先はそれぞれ見張られている。そのような非常線をラルフが突破できるはずはない。われわれの知るかぎりでは、彼は荷物も持たなければ金も持たずに出て行ったのである。
「当夜、ラルフを駅で見かけた者は一人もないのです。ラルフがこの土地の者で皆に顔を知られているのに、誰も見かけないのは不思議ですな。それにリバプール港からもまだなんの情報も入っておらんです」と警部は言葉をつづけた。
「あなたはラルフ君がリバプール港へ行ったとお考えですか」とポワロ氏がたずねた。
「駅から電話のかかった時刻が、ちょうどリバプール行の列車が出る三分前でしたからな。たぶんそんなことだろうと推定しておるです」
「しかし、それは追手の方向を迷わす手段であったかも知れませんね。おそらく電話の狙いはそんなところにあったのでしょう」とポワロ氏はいった。
「それも一案ですな。あなたはほんとうに電話の件をそういうふうに解釈しておられるんですか」
「さア、私にもわかりません。しかしこれだけは申し上げることができます。私はこの電話の謎がとけると同時に、殺人の謎がとけると信じております」
「ポワロさんは以前にもそれと同じことをいっていらっしゃいましたね」
私は不思議に思って、ポワロ氏の顔を見つめた。
「私はいくど考えても、結局この一点にかえってくるのです」と、ポワロ氏はうなずきながらいった。
「あなたのその見解はまったく見当違いのように思われますが……」と私はいった。
「私はそれほどまでには思わないが、ポワロ氏はあまり電話の件にこだわりすぎとると思う。それよりもわれわれは物的証拠に重きをおく方がいい。たとえば、兇器の指紋のごとき……」と警部がいいかけると、ポワロ氏は興奮した時のくせで急にフランス訛《なまり》をまじえて妙なことをいいだした。
「警部さん、お気をつけなさいましよ、……袋みち……ではないお国では何とおっしゃる……それ道が行きどまりになっておりますところ……」
ラグラン警部があっけにとられて相手の顔を見つめているので、私はそれを引き取って、
「袋小路《ふくろこうじ》のことですか」といった。
「さよう。袋小路に入ったって、行きどまりで、どこへも出られません。指紋なんて袋小路かも知れませんですよ」
「それはあの指紋がにせ物だという意味ですか。そういうことは書物では読みましたが、私の経験ではまだ一度もぶつかったことはないです。とにかく、にせ物にしろ、本物にしろ、あの指紋はわれわれをどこかへ導くに違いないです」と、ラグラン警部がいった。
ポワロ氏はだまって肩をすくめて、両腕をだらりと下げて、フランス人のよくやる「いや、いや」という仕草をしただけであった。
ラグラン警部は指紋の拡大写真を何枚も示して、専門的な講釈をはじめた。そしてポワロ氏の無関心な態度にやきもきして、
「さア、どうです、ポワロさん。あなたはこれらの指紋があの晩あの家にいた者の指紋だということは認めるでしょうね」といった。
「もちろんでございますとも」
ポワロ氏は大きくうなずいて見せた。
「私は家中の者の指紋を、上は老婦人から下は女中下男にいたるまで、取ったのですよ」
あのお洒落のセシル夫人が、自分のことを老婦人なんていうのを聞いたら、さぞ憤慨するであろう。
「誰も彼もみんなの指紋ですぞ」と警部はくどくどしくいった。
「私のもね」と私はさりげなくいった。
「ところが、兇器に残された指紋に符合するものはこの中に一つもないのです。いうまでもなく兇器の指紋はラルフか、あるいはシパード先生のいわれた例の謎の訪問者が残したものですな。われわれがこの二人を捕えたなら……」
「それまでに、さぞ無駄な時間が空費されることでございましょうね」
ポワロ氏はまたしても横槍を入れた。
「それはどういう意味ですか」
「あなたは家中の人の指紋を全部とったとおっしゃいましたが、それは確実でございましょうかね」
「もちろんですとも」
「一人も見落しはありませんですか」
「一人も」
「生きている者も、死んでいる者もでしょうか」
ラグラン警部は、ポワロのいっている意味を解しかねて、ちょっと当惑のていであったが、ようやく、
「と、おっしゃると……」といいかけた。
「警部さん、死人の指紋は?」といわれて、ラグランはその意味を飲みこむまでに、さらに二、三秒かかった。
そこで、ポワロ氏は静かに説明した。
「私の申しますのは、あの短刀の指紋はアクロイド氏ご自身のものだという意味でございます。それをたしかめるのはたやすいことでございます。死体はまだありますから」
「しかしなぜですか、その焦点はどこにあるんです。ポワロさん、まさかあなたは自殺説をだしておるんではないでしょうな」
「いいえ、私の推理では、犯人は手袋をはめていたか、あるいは手に何か巻きつけていたのです。そして兇行の後でアクロイド氏の指を短刀におしつけて指紋を残したと見ておるのでございます」
「なぜですか」
ポワロ氏はふたたび肩をすくめて、
「錯綜《さくそう》した事件を、いっそう錯綜させるためにです」といった。
「では、検べて見るんですな。だが、最初どういうところから、そういう考えを得られたんですか」
「実は、最初あなたが短刀の指紋をお見せ下すった時でございます。私は波型だの渦巻型だのという指紋の知識は皆無なのでございますが、指紋の位置が尋常でないということに気づいたのでございます。人を刺すのに、短刀をあんな握り方するものではありません。といって、右手に短刀を持って肩越しに自分を刺したとしたら、ああ正確に刺せるものではありません」
ラグラン警部は小柄な外国人を見つめていた。ポワロ氏はひどく無頓着なようすで、上衣の袖の泥をはじき落としていた。
「なるほど、それも一つの見方ですな。はたしてどうか検べて見ましょう。しかし、あなたのその推理が的中しないとしても決して失望することはないですよ」とラグラン警部がいった。
彼はできるだけ相手をいたわるような調子をだそうとしていた。ポワロ氏は彼が立ち去るのを見送って、眼を輝かしながら私をふり返った。
「これからはあの方の自尊心を、もう少し大切に扱うように気をつけなければなりませんですね。さて、私どもは自分たちのもくろみどおりにしてもよろしいことになりましたが、家庭の団欒《だんらん》などいかがでございましょう」
ポワロ氏のいう『家庭の団欒』なるものは、それから半時間後にアクロイド家の食堂で行われた。テーブルを囲んだのは議長格のポワロ氏、セシル夫人、フロラ嬢、ブラント少佐、レイモンド君、それに私の六人で、奉公人はこの会議には加わらなかった。
一同が席につくと、ポワロ氏が立ちあがって挨拶をした。
「私は、ある目的のために皆様にこうしてお集りいただきましたのですが、まずお嬢様にお願いしたいことがございます」
「私にですの?」
フロラがいった。
「さようでございます。お嬢様はラルフ君と婚約していらっしゃるのですから、ラルフ君が一番信頼しておられます。もしあなたがラルフ君の居所をご存じでしたら、どうぞ出て来られるようにおすすめ下さい……いや、ちょっとお待ち下さい、私の申し上げることを全部お聞きになった上で、よくお考えになってお答え下さいまし」
ポワロ氏は何かいおうとするフロラをおし止めて言葉をつづけた。
「たとえ情況がどんなに不利に見えましても、ラルフ君が出頭して釈明されたなら必ずそれを打開できると存じます。こうして行方をくらまし、沈黙しておられることは、どういう意味に取られるかおわかりでしょう。有罪を語るものとしか取れません。お嬢様、もしあなたが真実にラルフ君の潔白を信じておいでになるのでしたら、取り返しのつかないことにならないうちに、出てくるようにおすすめになって下さい」
「取り返しがつかないことになりますって?」
フロラは青ざめた顔をして低い声でいった。
ポワロ氏は前へ身をのりだして、非常におだやかな調子で、
「よろしゅうございますか。ポワロ小父さんがあなたにお願いするのでございますよ。この年老いたポワロ小父さんは、たくさんの知識とたくさんの経験を持っております。私は決してお嬢様を陥《おとしい》れるようなことはいたしません。どうぞ私を信じて、ラルフ君がどこに隠れておりますかお明かし下さい」といった。
フロラは立ちあがって相手の顔を見ながら、
「ポワロさん、私誓って申し上げます。私ほんとうにラルフがどこにおりますか存じません。殺人のあった日も、その後も、私は一度もラルフに会いもいたしませんし、何の便りも聞きません」と、きっぱり答えて席についた。
ポワロ氏はちょっとの間だまってフロラを見つめていたが、不意に、
「なるほど! そうか!」と叫んで、テーブルを激しくたたいた。彼はふたたびむずかしい顔つきになって、
「では、ここにおいでになる皆さまにお願いいたします。セシル夫人、ブラント少佐、シパード先生、レイモンド君! あなた方はみんなラルフ君の親しい友人でいらっしゃいますね。もしどなたでも、ラルフ君がどこに隠れているかご承知ならお話し下さい」
永い沈黙がつづいた。ポワロ氏は一人一人の顔を順々に見ながら、
「お願いいたします。どうぞおっしゃって下さい」と低い声でいった。
依然として誰も答える者はなかった。だが、ついにその沈黙がセシル夫人によって破られた。
「ラルフが出てこないのはほんとうに変ですわ……全く変ですわ! こんな場合に出てこないなんて、その裏に何かありそうに思われるではありませんか。フロラや、かあさんはお前の婚約が正式に発表してなかったのをどんなに幸いだと思っているか知れないのよ」と、悲しげな声でいうと、
「お母様!」と、フロラが怒りを含んだ声で叫んだ。
「神様のご摂理ですわ……シェークスピアが美しい詩でうたいましたように……神、われらの終りをかたちづくり給う……ですわ」とセシル夫人は宣言した。
「セシル夫人、いくら何でも足首の太いのまで神様に責任を持たせるわけにはいかないでしょうね」といって、レイモンド君は朗かな笑い声をあげた。
彼は緊張した空気をやわらげるつもりだったらしいが、セシル夫人は咎《とが》めるような視線をなげて、ハンケチを取りだした。
「フロラは、いやな噂の種にならないですんだのですわ。私は一時《いっとき》だってラルフが気の毒なロージャーの死んだことと関係があるなんて考えたことはありませんのよ。決してそんなこと考えませんわ。でもねえ、ラルフが少年時代にたびたび空襲にあったことを考えなければなりませんわ。ああいう時のショックが幾年かたってから現われるものだそうですのね。そういう人たちは、発作的にしたことに対して、少しも責任はないんだと申しますわね。自分で抑えようとしても、どうにもならないんだと申しますもの」
「お母様! まさかラルフがしたなんて考えていらっしゃるんではないでしょうね!」とフロラが叫んだ。
「私、どう考えていいかわからないのよ。ほんとうにどうしたらいいんでしよう……もしラルフが有罪になったら、この家はどうなるんでしょう!」
レイモンド君は、荒々しく椅子を後へおしやった。ブラント少佐は相変らず落ちついて考えこんだようすで見守っていた。
「ほら、爆弾痴呆症とかいうのがあるではありませんか……それに、ロージャーは、いつもあの子にお金の不自由をさせておきましたわ……それはあの子のためを思ってでしょうけれど……あなた方は皆、私に反対していらっしゃるらしいけれど、どうしたってあの子が出てこないのが変じゃありませんか。だから私はフロラの婚約をまだ発表していなかったことを有難いことだと思わずにはいられませんのよ」
「明日発表になりますわ!」と、フロラはすきとおった声でいった。
「お前、何をおいいなの!」
セシル夫人は顔色をかえた。
フロラは秘書に向っていった。
「レイモンドさん、どうぞ明日の新聞に、クロニクルとタイムズとに、私の婚約を発表して下さい」
「そうすることがたしかに賢明だとお考えになるなら、いたしましょう」と、秘書は慎重に答えた。
彼女はせわしくブラント少佐をかえりみて、
「あなたは理解して下さいますわね。それよりほか私にしようがございませんもの、こんな場合ですから、私はラルフのために立たなければなりません。そうお思いになりません?」といって、フロラは探るように少佐の顔を見た。しばらくしてから少佐はうなずいた。
セシル夫人は泣き声をあげてそれに反対したが、フロラは動じなかった。するとレイモンド君が、
「フロラさん。僕はあなたのお考えには敬意を表します。しかし少し早まりすぎはしませんか。一日二日お待ちになってはどうです」といった。
「明日ときめます! お母様、こんな中途半端なことをしていたって何もいいことはありませんわ。私は自分の友達に対して不誠実でありたくないんです!」とフロラがいった。
「ポワロさん。何とかおっしゃって下さいませんの?」
セシル夫人は涙をうかべて嘆願した。するとそばからブラント少佐が、
「何もいうことはないでしょう。お嬢様は正しいことをしようとしておられるのですから。私はあくまでもフロラ嬢に味方します」といった。
「ブラント少佐、ありがとうございます」といって、フロラは彼の方に手をさしだした。
「お嬢様、この老人はあなたの勇気と誠実に敬意を表させていただきます。ところで私がこんなことを申し上げたからといって、決して誤解なさらないで下さいまし……私はぜひともお願いしたいことがございます……どうぞ婚約を公表なさることを二日間だけご猶予いただけませんでしょうか」とポワロ氏が申し出た。
フロラがためらっていると、
「これはお嬢様のためであると同時に、ラルフ君の利益になることなのでございます。あなたは眉をひそめておいでになりますね。なぜ私がこういうことを申し上げるかおわかりにならない。だが、決して私は間違ったことは申しません。あなたはこの事件を私の手におゆだねになった以上は、私の邪魔をなすってはいけません」とポワロ氏がいった。
「私は気がすすみませんけれども、ポワロさんがそうおっしゃるのなら、そのとおりにいたしましよう」
フロラはしばらくしてから答えた。そしてふたたび椅子についた。するとポワロ氏は、
「さて、皆様にもう一度申し上げます。私は何としても真実をつかむつもりでおりますことを、皆様にご記憶願います。真実というものは、それ自体がどんなに醜くありましても、それを追い求める者にとっては微妙な美しさを持っておるものでございます。私はごらんのとおりの老人で、昔ほどの精力は持っておらないかも知れません」といって、彼は皆の反対の声がかかるのを予期するようにちょっと言葉をきった。
「恐らくこれは私の扱う最後の事件かも知れません。だが、皆様、エルキュル・ポワロは失敗をもって最後の幕を閉じるようなことはいたしません。私はすべてを知るつもりでございます。皆様がどんなにお隠しになっても、私は知りたいだけの事実を探りだしてお目にかけます」
ポワロ氏は最後の言葉を挑戦的にわれわれの顔にたたきつけるようにいった。われわれ一同、いささかたじろいだが、レイモンド君だけは相変らず上機嫌のていで、
「皆がどんなに隠してもとは、どういう意味ですかね」と眉をあげて見せた。
「文字どおりです。あなた方は必ず何かしら隠しておいでになる。ことによるとごくつまらない、どうでもいいようなことかも知れません。しかし、探偵にとっては、どんな些細なことでも知らなければならない大切なものでございます。皆様はそれぞれに何か隠しておいでになる。さアいかがです。私の申すとおりでございませんか」
ポワロ氏は人々の心の底を見抜くような鋭い視線を一人一人に浴びせた。われわれはみんな眼を伏せてしまった。
「私は皆様の答を得ました」と、ポワロ氏は妙な笑い声をあげて席を立ち、「さアどうぞ真実をお語り下さい!」といった。
誰も答えなかった。
「どなたもお話し下さらないのですか!」
ポワロ氏はふたたび妙な笑い声をあげて、「残念なことでございますな」とつぶやいて、部屋を出て行った。
羽の軸
その晩、食事をすませてから、私はポワロ氏の求めに応じて隣家を訪問した。玄関へ見送りに出た姉は一緒に来たそうな顔をしていた。
ポワロ氏は、私を歓迎した。彼は小テーブルの上にアイリッシュ・ウイスキー(私の大嫌いな)の壜とソーダ水のサイフォンとコップをだしてくれて、自分のためには熱いチョコレートを用意していた。後になって、このチョコレートは彼の特別好きな飲み物であることを知った。
ポワロ氏はいんぎんに姉のことをたずね、非常に面白い方だといった。
「あなたは姉をすっかりおだてておしまいになりましたね。日曜日の午後はいかがでした」と私がいうと、彼は眼を輝かして笑った。そして、
「私はいつも熟練家を得ることを心がけておりますよ」と曖昧なことをいって、その説明はしなかった。
「とにかく、あなたは村のゴシップを真実も嘘も取りまぜてお聞きになったでしょう」
「それから非常に貴重な情報も」と彼は静かにつけ加えた。
「たとえば?」
ポワロ氏は首をふって、
「あなたはなぜ私に真実を語って下さらなかったのですか。ラルフ君の行動について全部を知らなければならぬ場合ですのに。もしあの日あなたのお姉様が森を通られなかったとしても、誰かほかに通った者があったかも知れませんでしょうに」と私を攻撃した。
「それはそうかも知れません。あなたは私の患者たちに対してどういう興味を持っていらっしゃるのですか」と、私も突っかかるようにいった。
ふたたびポワロ氏の眼が輝いた。
「先生の患者全体というわけではございませんよ。一人だけに興味を持ちましたのです」
「最後に来た患者ですか」と、私はよけいな事をいってしまった。
「さよう。私はラッセル嬢がもっとも興味ある研究材料であることを発見いたしました」
「あなたも、セシル夫人や私の姉のように、ラッセル嬢を不審に思っていらっしゃるのですか」
「ほう、そんなことをいう方もありましたんですか」
「姉はきのうの午後、あなたにそんなことを申しあげませんでしたか」
「なるほど、あるいはそうかも知れませんね」
「しかし、何の根拠もないことなのです」と私はうち消してしまった。
「ご婦人方というものは実に驚異でございます! よく根も葉もないことをいろいろと創作なさり、それがまた不思議に的中するのです。とは申しますが、実はご婦人方は無意識のうちに、われわれの及ばぬ微細な観察をしているものです。その観察の断片をつぎ合わせたものが直感になるのです。これでも、私は心理学には特別自信を持っておりますので、その辺のことがよくわかるのでございます」
ポワロ氏は得意げに胸をはった。そのようすがあまりばからしくて、私は危くふきだすところであった。ポワロ氏はおもむろにチョコレートを一口すすって、注意ぶかく口髭をぬぐった。
「あなたは実際にどういうふうにお考えなのか、お聞かせ願えませんでしょうか」と、私はわれ知らずいってしまった。
ポワロ氏は茶わんを下において、
「あなたはそれをお知りになりたいのですか」
「そうです」
「あなたは、私の見たものを皆ごらんになりました。したがって、あなたと私の考えは同一のはずではございますまいか」
「あなたは私をひやかしていらっしゃるのでしょう。もちろん私はこうしたことについては全くのしろうとですからね」と私は堅くなっていった。
「あなたはまるで機関車がどうして動くか知りたがっている子供のようでいらっしゃる。あなたは家庭医としてこの事件を見るのではなく、家族の誰に対しても何の関心も持たない赤の他人の探偵の眼で見ようと望んでおいでになるのですね。探偵という者は誰をも他人と見、誰をも疑わしいと見るものです」と、ポワロ氏はにこにこしながらいった。
「おっしゃるとおりでしょう」
「そこで一つあなたにちょっとした講義をしましょう。第一に、あの晩にどういうことが起こったかという、明瞭な事実をあつめることです。しかもそれを語る者が嘘をついているかも知れないということを絶えず心にとめていなければなりません」
「どうしてそんな嘘なぞつくのでしょう」と、私は首をかしげた。
「必要だからです……嘘をつく必要があることはたしかでございます。さて、第一にシパード医師は九時十分前にアクロイド家を出ましたね。しかし、どうして私はそれを知っておるのでしょうか」
「私がそう申し上げたからです」
「しかし、あなたは真実のことをいっていらっしゃらないかも知れません。また、時計が違っていたかも知れません。ところがパーカーが、あなたが九時十分前に辞去されたと証言しましたので、あなたの陳述が受け入れられたのです。次に、あなたは九時に門の近くで怪しい男にお会いになった。だが、どうして私がそれを知っておりますでしょう」
「私があなたに……」といいかけると、ポワロ氏はじれったそうなようすでそれを遮り、
「まアお待ち下さい! 先生は今晩は少々ぼんやりしておいでになる! 先生が私にそうおっしゃったからといって私がそうだと承知するはずがございますまい。ところで私はその謎の男は決して先生の錯覚ではないといいきれます。と申すのは、その男が先生に会います数分前にガネット嬢の女中に、やはりアクロイド家へゆく道をたずねたという情報を得たからでございます。そこで私は謎の男について二つの事実をつかむことができました。その一は、謎の男はこの土地の者ではない。その二は、途中で二度も道をたずねたところから推して、その男がアクロイド家を訪ねる目的が秘密を持っていなかったということが考えられます」
「ああ、なるほど」
「それで、その男のことをもっと詳しく調べるのが私の役目でございます。彼は『いのしし屋』によって酒を飲みました。あそこの女給が、その男はアメリカから来たばかりだと自分でもいっていたし、また言葉つきにもアメリカ訛《なまり》があったと申しております。あなたはその男がアメリカ訛があったことにお気がつきませんでしたか」
私はちょっと考えて、あの晩のことを思いうかべた後、それに答えた。
「ああ、そうおっしゃればそうでした。しかし、訛があったとしても、ごくわずかでした」
「さて、次にこういう物がございます。私が拾ったのを、あなたはご記憶でしょうね」
ポワロ氏は小さな羽の軸を私の方へさしだした。私は奇異の感にうたれてそれを見つめているうちに、ずっと前に何かの書物で読んだことを思いだした。ポワロ氏は私の顔色をよんでうなずいた。
「そうです、ヘロインです。雪とも申します。麻痺薬常用者は、その中に入れて携帯し、鼻孔にさしこんで吸いこむのです」
「モルヒネ塩化水素」と、私は無意識につぶやいた。
「アメリカでは普通こうして麻痺薬を用います。もう一つこれによって私どもの得ました知識は、その男がカナダかアメリカから来た男だということです」
「どうしてあなたは最初、あの離家《はなれ》に眼をおつけになったのですか」
私は好奇心をもってたずねた。
「それはこういうわけでございます。ラグラン警部はあの小道を、家へ入る近道と早合点していましたが、私はあの時ふと、離家に眼をとめて、あそこで誰か逢引きをする場合に、あの小道を通るだろうと考えましたのです。あなたのお会いになった謎の男は、玄関へ行ったのでもなければ裏口へまわったのでもなく、あの小道を抜けて、離家へ行ったのです。それから誰かが家の中からその男に会いに行ったのです。それで私は何か証拠を探そうと思って、あすこへ入って行った結果、二つのものを手にいれました。白麻の布《きれ》はしと、この羽の軸」
「白麻の布はしは、どういうことになります?」
ポワロは眉をあげて、
「あなたの小さな灰色の細胞をお働かせ下さいよ。糊のついた白麻の布はしなんて、実にはっきりしているものではございませんか」と、すげなくいった。
「さア、私にはちっともはっきりしておりませんね。とにかく、その男が隣家へ誰かに会いに来たとして、その誰かとは誰なんでしょう」と、私は話題をかえた。
「そこです! あなたはセシル夫人とその令嬢が、以前カナダに居住しておられたことをご記憶でしょうね」
「それで今日あなたは、あの人たちに何か隠していると、お責めになったのですね」
「まア、そんなことかも知れません。さて、それは別として、あなたは小間使のウルスラの話をどうお考えになりますか」
「どの話ですか」
「暇を取るという話です。奉公人に暇をだすのに三十分もかかるものでしょうか。重要な書類云々というのも怪しいではございませんか。それからあの娘が九時半から十時まで自分の寝室にいたと申しておりますが、それは誰も証人がございません」
「どうも、こんぐらかってしまって、私にはよく飲みこめませんね」
「私にとってはますます明瞭になって来ております。時にあなたのご意見を伺わしていただきましょう」
「ちょっと、思いついたことを、出がけに走り書きして来たので……」と、いいわけをしながら、私はポケットから紙片を取りだした。
「なかなか結構です。あなたは方式を心得ておいでになりますね。では、それをお聞かせいただきましょうか」
私は、いささかまごつきながら、読みはじめた。
「まず大切なのは、物事を論理的に見ることである……」
「ああ、私の友人のヘイスティングス君も、いつもそう申しておりました。そのくせあの人は決して論理的ではなかったのです」と、ポワロ氏は言葉をはさんだ。
一 九時三十分、アクロイド氏の話し声が聞こえた。
二 同夜、ラルフが書斎へ窓から入ったことが、靴跡によって想像される。
三 同夜、アクロイド氏は非常に神経質になっていたから、知っている者以外は部屋へ入れなかったであろう。
四 九時三十分にアクロイド氏と話をしていた人物は、金の請求をしていた。ラルフが金に困っていたことは周知の事実である。
右四項参照――九時三十分にアクロイド氏と話をしていたのはラルフであることは疑いない。だが、アクロイド氏は十時十五分に、フロラ嬢が書斎へ行った時には、まだ存命していた故、アクロイド氏を殺したのはラルフではない。ラルフは窓をあけ放しにして帰った。その後から犯人が書斎へ忍びこんだのである。
「で、その犯人というのは誰ですか」とポワロ氏がたずねた。
「アメリカから来た男です。ことによるとパーカーが手引したかも知れません。また、フェラス夫人を脅迫していたのは、パーカーかも知れないとも考えられます。もしパーカーとすれば、あの時、戸の外で立ち聞きして、万事休すと思って、相棒にそのことを話したのでしょう。それで男は、パーカーに渡された短刀で、アクロイド氏を刺し殺したのです」
「なるほど、あなたはなかなか頭脳をよくお働かせになりますね。しかし、まだまだ不備な点がたくさんあります」
「たとえば?」
「電話の件、前に引きだしてあった椅子……」
「あなたは、ほんとうにあの椅子のことをそんなに重要視していらっしゃるのですか?」
「あまり重要でないかも知れません。ことによると、何かの拍子に椅子が前へのめり出たのかも知れません。そしてブラント少佐かレイモンド氏が、あわてていたために、無意識に後へおしたのかも知れません。それから紛失した四十ポンドを、どう始末しますか?」
「アクロイド氏がラルフに与えたのでしょう。最初は断っていても、ラルフに負けてしまったかも知れません」
「まだ一つ説明のつかないことがございましたね」
「何ですか」
「どうしてブラント少佐は、九時三十分に、アクロイド氏が話していた相手を、レイモンド氏と思いこんだのでしょう?」
「そのことはブラント少佐が説明したはずですが……」
「あなたは、あれで十分説明がついたとお思いですか。まあ、私はその点を強調しようとは思いませんから、それでいいとして、それよりも、ラルフ君の失踪を先生はどう説明なさいますか」
「それはなおむずかしい問題です。だが、医者の立場から申しますと、ラルフ君は恐怖心にかられて、気が顛倒してしまったのでしょう。誰でもラルフ君の立場にあったら、夢中になって逃げ穏れするに、違いありません。あの青年はもともと気の弱い男でしたし、自分が金のことで養父といい争った後、まもなく養父が何者かに殺されたと知ったら、もはや自分は遁れられないと思いこんで、身を隠したのでしょう。罪のない人間は、かえって警察を恐れ、やましい行動をとるものです」
「そうです。おっしゃるとおりです。しかし、われわれはある一点を見逃してはなりません」
「ああ、あなたのいおうとしておいでになることは、わかります。ラルフ君が養父の死後、巨万の富を継ぐということでしょう」
「それも動機の一つです」
「一つといいますと?」
「あなたは三つの個々の動機が、われわれの前に横たわっていることにお気づきになりませんか。その一は、空色の封筒のフェラス夫人の手紙を誰か盗んだ者があります。それは脅迫者の仕わざにきまっております。その脅迫者はラルフ君であったかも知れません。レイモンド氏の話によりますと、ラルフ君は近ごろずっと、アクロイド氏に金の無心をしていなかったそうです。それはラルフ君が、どこかほかに金の入る道があったことを意味しております。その二はラルフ君は何か女性関係の失策をして、それが養父の耳に入るのを怖れていたこと、その三は、今もあなたのおっしゃった、遺産相続の件でございます」
「これは困ったものです。そうなるといよいよラルフ君にたいする嫌疑が濃くなるばかりではありませんか」
私は当惑していった。
「そうでしょうか。その点私と先生とは、ぜんぜん見解が違うようでございますね、私は三つの動機は、あまり多すぎると思います。こう動機が重なってくると、かえってラルフ君の無罪を考えさせられます」とポワロ氏はいった。
セシル夫人
アクロイド氏が死んだ金曜日の晩から月曜日の晩までの出来事は、以上でつきている。私のこの記述は、ポワロ氏自身の手記といってもいいほどである。その間、私はシャーロック・ホームズにおけるワトスンのように、ポワロ氏と行動をともにしていたが、それ以後、私は私の仕事にいそがしく、ポワロ氏はポワロ氏で自身の仕事に追われてしまい、われわれ二人は以前のようにしばしば会う機会はなかったし、ポワロ氏は私に何もうち明けてくれなかった。しかし私はポワロ氏の行動をよく知っていた。アボット村のような小さな村に住んでいれば、人の噂はひとりでに耳に入ってくる。
ところで私は火曜日の早朝、セシル夫人の迎えを受けた。たいへんに急を要するような口上だったので、私は彼女がひどく加減が悪いのだろうと思って、大急ぎで出かけた。
夫人はすっかり病人らしく、寝床に横たわっていて、骨ばった手で私と握手すると、寝台のわきの椅子に私をかけさせた。
「奥さん、どうなさいました」
私はいつも患者が予期している親切な調子でいった。
「私、すっかり神経衰弱になってしまいましたわ。これはきっと義兄があんなことになったので、驚いたせいですわ。その時は自分で気がつかないでいて、後になって張りつめていた気がゆるむと、反動でこんなことになるのだそうですのね」と、セシル夫人は訴えた。
私は最初から夫人が病気のために私を招いたのではないと見抜いていたから、軽くあしらって強壮剤をすすめ、さて、夫人がいったいどんな用件で私を招んだのか話しだすのを待っていた。
「それにきのうは、あんな目にあいましたでしょう?」といって、患者は、私がその後をすぐつづけるのを予期しているかのように、言葉をきった。
「どんな目に、おあいになりました?」
「あら、先生、覚えていらっしゃいませんの? あのずうずうしい、フランス人だか何だか知りませんが、ポワロとかいう男が、私たちを、まるで罪人のように責めたではございませんか。私は、あれで、かっとしてしまいましたのよ。義兄が死んで悲しんでいる最中に、あんまりだと思いますわ」
「それはお気の毒でしたね」と私はいった。
「あんなふうに、私どもに向かって喚《わめ》いたりして、いったい何のつもりなんでしょう。私は自分の義務ぐらい心得ておりますわ。何か隠しておくなんて、夢にも思わないことですのに……私は自分の力の及ぶかぎり、警察のお手伝いしておりますつもりですよ」
夫人はそこで言葉をきったので、私は、
「そうですとも」と相槌をうった。そろそろ夫人が何を気にやんでいるのか、わかりかけて来た。
「誰も私が主婦としての責任をつくしていないなんていえる人はございますまいよ。ラグラン警部だって十分に満足しておりますわ。それですのに、あの外国のおちびの成り上り者は、何が不足であんな騒ぎを起こしたんでしょう。ほんとうにあんな変てこな人見たことがありませんわ。まるでレビューに出てくる滑稽なフランス人そっくりですわ。私、あんな探偵なんか雇ったフロラの気が知れませんのよ。私に一言の相談もしないで、勝手にそんなことをするなんて……フロラは独立心がありすぎますわね、私はあの子の母親ですし、社会的地位も持っていますのにさ。あの子はまず第一に、私に相談すべきだったのでございますよ」
私は、だまって聞いていた。
「あの人は何を考えているんでしょう。それを私は知りたいと思いますのよ。あの人は本気で私が何か隠していると想像しておりますんでしょうか。あの……あの人は、昨日はっきりと私を責めておりましたんでしょうか」
私は、肩をすくめて見せて、それに答えた。
「奥さん、そんなことはどうでもよろしいではありませんか。あなたが何も隠していらっしゃらないのなら、相手が何といおうと、それは奥さんにかかわりのないことですからね」
するとセシル夫人は、例のとっ拍子もない調子で、
「奉公人の口なんて、ほんとうに煩《うる》さいものですわ。何《なん》の彼《か》のといらないことを、喋べるんですからね」といいだした。
「奉公人たちが、どんなことを喋べっているのですか」と私はたずねた。
セシル夫人は鋭い視線をなげて、私をたじろがせた。
「先生は、きっとご存じでいらっしゃるんですわ。あなたはいつもポワロと一緒にいらっしたんですもの。そうでしょう」
「それは一緒におりましたが」
「それならご存じのはずですわ。いらないお喋べりをしたのは、ウルスラっていう娘でしょう。あの女は暇を取って行くものですから、できるだけあとに迷惑を残して行こうっていうのですわ。何て腹黒いんでしょう。奉公人なんてみんなそんなものですわ。それで、先生はその場においでになったのですから、あの女のいったことをすっかりお聞きになったんでございましょう? 私は奉公人のお喋べりのお蔭で、あなた方に変に思われるなんて、我慢なりませんの。あなた方は、まさか奉公人のいったことなど、そのままこまごまと警察に報告なさるんではないでしょうね。殺人とは何の関係もない、内輪のことなどいちいち明るみへだされては迷惑ですわ」
私はセシル夫人のこの饒舌《じょうぜつ》の背後にもっと重要な心配ごとが隠されているのを察した。きのうテーブルを囲んだ六人の中で、すくなくもセシル夫人は何かを隠していたのである。それを探りだすのは、私の役目である。
「奥さん、もし私があなたでしたら、自分からすっかり話してしまいますね」と、私は鎌をかけた。
夫人は軽い叫び声をあげた。
「まア、先生、どうして不意にそんなことをおっしゃいますの? まるで……まるで何か私が……いいえ、私が説明すれば何でもないことなんですわ……」
「それなら、なぜそうなさらないのですか」
セシル夫人は、レースのついたハンケチを取りだして、涙をおさえながら語りだした。
「先生は、私の立場をポワロに説明して下さいますでしょうね。……だって外国人というものは、なかなか私どもの考え方を、理解しないものでございますから……どうして私がつらい思いを忍ばなければならなかったか、先生にはおわかりにならないかも知れませんけれど……先生ばかりではありませんわ、誰にだってわかりませんわ。殉難者……永い殉難者の生活、それが私の生涯でございましたわ。私は死んだ人の悪口をいうのはいやですけれども、つまらないちょっとした買い物の請求書まで……ロージャーはまるで年収わずか数百ポンドの貧乏人のように……レイモンドさんに聞いたんですけれど、義兄はこの地方で一番のお金持だったんだそうですのね」
「それで? あなたは請求書のことを話しておいでになったんでしたっけね」と、私はつづきをうながした。
「そうなんですの、あの恐ろしい請求書! 中には私、ロージャーに見せたくないのもありましたのよ。たとえば男の人には納得のいかないような必要品ですわ。義兄はそんなものは不必要だというに決まっていますもの。そんなのがだんだん積ってしまって、ねえ、おわかりでしょう。知らない間に溜ってしまうんですもの」
夫人はその驚くべき不思議な事実にたいして、悔みの言葉でも求めるように、悲しげな眼つきで私を見あげるのであった。
「とかく、そういったものですね」と私は同意を表した。
そこで夫人の声の調子が、がらりと変った。今度は挑戦的になった。
「先生、私はそれですっかり神経衰弱になってしまいましたの。夜は眠れなくなりましたし、心臓が急にどきどきして来たりして。そこヘスコットランド人から一通の手紙が参りましたの……実際は二通ですわ。二人とも不思議にもスコットランド人なんですの……一人はブルース・マックファーソン氏、もう一人はコリン・マクドナルドと……」
「その名はたしかにスコットランド人ですが、あの連中の祖先にはセミ族の血が入っているようですね」と、私はぶっきらぼうにいった。
「約束手形だけでも十ポンドから一万ポンドにもなってしまいましたの……私、その一人の方へ手紙を書きましたんですけれど、何か面倒が起こったらしいんですのよ……」とセシル夫人は記憶をたどるようにしていった。
私はいよいよ危険区域に近づいてきたことに気づいた。要点に話をもって行くのに、これほど厄介な相手は、めったにない。
セシル夫人は、
「こうなると、遺産に頼るよりほかございませんわ。おわかり下さいますでしょう。もちろん、ロージャーが私にいくらかくれることはわかっておりましたけれども、どれくらいもらえますか、見当がつきませんでしたの。で、私は別に秘密をかぎだすなどという、いやしい気持ではなく、ただ、ほんのちょっと遺言状をのぞいて、自分のもらう分がどれくらいあるか知りさえすれば、ほかで何とか融通がつくと思いましたので……」といって、夫人は私の顔をちらと、ぬすみ見た。夫人にとって非常に微妙な場面に立ち到ったのである。幸いにして言葉というものは上手に使えば、露骨な事実の醜悪さに仮面をかけることができるものである。
「私は先生にかぎって、私を誤解なさることはないと信じておりますし、また、ポワロさんにも私の立場を正しく説明していただけると思いますから、申し上げますわ、金曜日の午後に……」といいかけて、夫人は決心しかねたように言葉を飲みこんでしまった。
「金曜日の午後にですね。それで?」と私は励ますように夫人の言葉をくり返した。
「皆が外出しておりましたの……私はそう思っておりましたんですけれど……それで私はロージャーの書斎へ参りました。そこへ参るには、私はちゃんとした用があったんですのよ。全く何のやましいこともありませんでしたの。ただ机の上に書類がたくさん積み重ねてあるのを見たとたんに|ふと《ヽヽ》ロージャーは遺言状を机のひきだしに入れておくかも知れないと思ったんです。私はとても、せっかちなんですの。子供の時から何でも前後の考えもなく、ぱっとやってのける性質なもので。それに義兄は鍵を……ほんとうに不注意な事ですわ……一番上のひきだしの鍵穴にさしこんだままにしてありましたのよ」
「なるほど、それで奥さんは、机のひきだしの中を、お探しになったというわけですね。で、遺言状をお見つけになりましたか」と、私は夫人の陳述をなめらかにすすめさせるつもりでいった。
ところが、セシル夫人は小さな叫びをあげたので、私は自分が外交手腕に乏しいことに気づいた。
「探しごとするなんて、何てひどいことをおっしゃるんでしょう。先生が、そんなふうにお取りになるなんて……」
「失礼しました。私は口下手だものですから」と、私は急いでいった。
「男の方って、ほんとうに変ですわ。私が義兄の立場でしたら、自分の書いた遺言状の条項を発表するのに何の異議も持ちませんけれど、男って、いやに秘密主義なんですのね。お蔭で時によると自分をまもるためにちょっとした手段を講じなければならないはめに陥るんですわ」
「で、そのちょっとした手段を講じた結果は?」と私はたずねた。
「それを私はお話し申し上げようとしているんですわ。ちょうど私が一番下のひきだしをあけたところへ、ウルスラが入って来ました。ひどく、ばつの悪いことになりました。もちろん、私はすぐひきだしを閉めて立ちあがりました。そして、机の上のほこりを指先につけてみせて、掃除の不行届きを吃りました。でも私、あの女の態度が気に入りませんでしたわ。それは神妙なようすはしていましたけれども、とてもいやな光る眼で私をじっと見ていましたのよ。私の申し上げる意味おわかりでしょう。ひとをばかにしたような眼つきでしたの。私は最初からあの女はきらいでした。そりゃ奉公人としたら申し分ありませんでしたわ。何かいわれると、いちいち、はい奥様、といいますし。当世風の女たちのように、女中の制服をつけるのをいやがったりいたしませんし。パーカーのかわりに玄関に出したって、居留守を使う時など、ご不在でございますと、すらすらと申しますしね。それに食事のお給仕の時などよく普通の女中がやるように、お腹の中で変な音をさせたりしませんし……あら、どこまでお話しいたしましたかしら?」
「いろいろとよい点はあるけれども、ウルスラにはどうしても好感は持てないというところまで、お話しになりました」
「そうなんですの……あの女は何か変なところがありました。ほかの奉公人たちと違うところが……あんまり教育がありすぎるんですわ。近ごろはもう、貴婦人もそうでない者も見分けがつかない世の中になりましたわね」
「で、次にどういうことが起こったのですか」
「別に何も起こりはしませんでしたわ。ただ、ロージャーが入って来ただけです。私はあの人が散歩に出ているとばかり思っていました。で、あの人は……いったい何事ですか……といいましたから、私は……何でもありませんの、お兄様。私は雑誌を取りに参りましただけでございます……といって、漫画雑誌を一冊取って出て来ましたんですの。ウルスラは後に残りましたわ。あの女が義兄にちょっとお話ししたいことがあるといっているのが聞こえました。私はひどく気が顛倒《てんとう》していましたんで、まっすぐ自分の部屋へ来て横になりましたんですの」
しばらく沈黙がつづいた後で、
「先生、あなたからポワロさんに誤解のないように、説明して下さいますわね。先生だって、こんなことほんの些細なことだっておわかりでしょう。でもポワロさんに何か隠しているだろうと責められた時に、このことがすぐ私の胸にうかんで参りましたんですの。ウルスラはきっと勝手なお話をこねあげたでしょうと思いますから、どうぞ先生からよくお話しになって下さいましね」
「それで全部ですか。奥さんは何もかも私にお聞かせ下すったでしょうか」と私はたずねた。
「はあ、みんなですわ」と夫人はきっぱりいった。
けれども、ちょっとためらいの色をうかべたので、私は夫人が何かまだ隠していると察した。
その時、私がすかさず次の質問をだしたのは、全く霊感のひらめきにすぎなかった。
「奥さん、客間の飾り棚の蓋をあけっ放しにしておおきになったのは、あなたではありませんか」
「どうしてそんなことご存じですの」と、ささやくように呟いた夫人の顔は、頬紅《ほおべに》でも隠しきれないほど赤くなった。
「ああ、やっぱり奥さんだったのですね」
「ええ、実はこういうわけでしたの。このあいだ見ました雑誌に骨董品のことが出ていて、小さなものでも莫大な価格のあるものの写真があったんです。その中に家にあるのとよく似た品があったものですから、比べてみて、そうらしかったらロンドンヘ行く時に持って行って、値踏みをしてもらおうと思いましたんです。もしそれがたいした価格のものとわかれば、ロージャーをびっくりさせることができますでしょう?」
私はセシル夫人の説明をそのまま受け取って、何もいわないことにした。なぜそんなことを密《ひそ》かにする必要があったかと反問することさえさしひかえた。ただ、
「なぜ、蓋をあけたままにしておかれたのです? 閉めるのをお忘れになったのですか」とたずねた。
「私、露台の外に誰かくる足音がしたものですから、あわててそのまま客間を出てしまいましたの。パーカーが玄関の戸をあけて先生をお迎えした時、私、階段をあがっていたんですの」
「ああ、それはきっとラッセル嬢だったのでしょう」と私は呟いた。
セシル夫人がアクロイド氏の骨董品に対して抱いた計画が何であろうと、私にはどうでもよかった。それよりも私が興味を持ったのは、ラッセル嬢がフランス戸から客間へ入って来た事実と、彼女が息をきらせていたのは、走って来たせいであろうという、私の推定が的中していたことである。彼女はどこへ行って来たのであったろう? 私は離家を考えた。それから白麻の布はしを思いだした。
「ラッセル嬢は、ハンケチに糊をつけているでしょうね」
と、私は思わず口にだしていった。
セシル夫人が、びくっとしたので、私はわれに返り、立ちあがった。
「ほんとうにポワロさんに工合よくおっしゃって下さるでしょうね」
夫人は心配そうにいった。
「それはもう、たしかに承知いたしました」
私はそれから更に、夫人がくどくどと自己弁護をするのを聞かされた上で、ようやく部屋を出ることができた。
小間使のウルスラが玄関にいて、私にオーバーを着せかけてくれた。私は今までよりも注意して彼女を観察した。彼女は眼を泣きはらしていた。
「ウルスラ。お前は金曜日にアクロイド氏に書斎へ呼びつけられたといったが、お前の方からアクロイド氏に何か話があるといったんだそうではないか」とたずねてみた。
彼女はしばらく眼を伏せていたが、
「私は何としてもお暇をいただくつもりでございましたから」と、曖昧《あいまい》なことをいった。
私はそれっきり何もいわなかった。ウルスラは私のために玄関の戸をあけた。そして、私が外へ出ようとした時に不意に低い声でいった。
「あの、先生、恐れ入りますけれど、ラルフ様のご消息が何かございましたでしょうか」
私は首をふって、彼女の顔を探るように見た。
「ラルフ様はお帰りになるはずでございますわ……どうしてもお帰りにならなければなりませんわ……どなたもラルフ様の居所をご存じないのでございますか」
彼女は哀訴するような眼つきで私を見あげた。
「お前は知らないのか」と私は鋭くたずねた。
「いいえ、私ちっとも存じません。どうして、どなたかラルフ様のお友達が、あの方にご帰館あそばすように、おっしゃってあげないのでございましょう」
私はウルスラが、もっと何かいいそうに思い、待っていたが、次の言葉に驚かされた。
「警察では殺人があったのは何時だと申しておりますのでございましょう。十時ちょっと前でございましょうか」
「十時十五分前から十時までの間ということになっている」
「十時十五分前よりも、もっとずっと前ではございませんでしたでしょうか」といって、彼女はそれが肯定されるのを希望しているように、熱心に私の答を待つようすであった。
「それは問題にはならない。フロラ嬢が十時十五分前には伯父ごに会っておられるのだから」
ウルスラは顔をそむけたが、今にも倒れそうに見えた。
私は家へ向って車を走らせて行くみちみち、
「なかなか美人だ、すばらしく美しい」と考えていた。
姉のカロリンは家にいた。彼女はまたポワロ氏の訪問を受けたといって、得意になっていた。
「私はこの事件で、あの方の手伝いをしてあげているのよ」
私はちょっとを不安を感じた。この上彼女の探偵的才能を煽《あお》りたてられたら、どんなことになるか知れない。
「姉さんは、ラルフと一緒にいた謎の女を探しに、近所かいわいを歩きまわろうというんですか」
「ことによったら自分の興味で調べるかも知れませんよ。だけれど、ポワロさんに、探りだしてくれと頼まれたのはもっと別のことです」
「どんなことです」
「あの方は、ラルフの靴が黒いか茶色かということを知りたがっていらっしゃるのよ」と、カロリンは恐ろしくもったいぶっていった。
私は姉の顔を凝視した。私は自分がこの靴の問題に関して、全く無能であることを自覚していた。その重点がどこにあるのか、てんで見当もつかなかった。
「茶色に決まっていますよ。私は見たんですもの」と私はいった。
「ジェームズ、私のいっているのは、短靴のことではありませんよ。編上げのことなんです。ポワロさんは、ラルフが宿に持って来ていたのは、茶の編上げ靴か、それとも黒だったかをたしかめたがっていらっしゃるんです。これはラルフにとってたいへんに重要なことなんですって」
「それで、姉さんはどうやってそれをたしかめるつもりなんですか」
姉はそんなことは造作ないと答えた。なぜなら、家の女中のアンニーが、ガネット老嬢のところの女中のクララと仲よしだし、クララはさっそく編上げの靴を探りに、『いのしし屋』へ出かけて行ったという。何しろガネット老嬢は姉には忠実な協力者であるからすぐクララに外出を許し、そんなことを調べることぐらい、大急行でやってのけてしまえるというわけである。
その日の昼食のテーブルで、姉は何気ない調子で、
「ラルフの靴のことね……」といいだした。
「靴がどうしたっていうんです」
「ポワロさんはたぶん茶靴だったろうと考えていらしたのよ。ところが、それは間違いで、黒の編上げが、ほんとうだったのよ」
姉はいく度もひとりうなずいていた。彼女は自分がポワロ氏より一点勝ちこしだと自惚《うぬぼ》れているようすであった。
私は答えなかったが、靴の色がこの事件とどんな関係があるのだろうと不審に思っていた。
レイモンド君
その日私は、ポワロ氏の戦術がさらに功を奏したことをたしかめた。彼の挑戦は、人間の本能に対する彼の豊富な知識をたくみに利用したものであった。恐怖と罪の混合剤がまずセシル夫人に真実を吐かせてしまった。彼女が第一に反応を現わしたのである。
その午後、往診をすまして家へ帰ると、姉はレイモンド君が来て、いま帰ったところだと告げた。
「レイモンド君は私を訪ねて来たんですか」
私は玄関の釘にオーバーをかけながらたずねた。
姉は私のそばをうろついていた。
「あの人が会いたいのはポワロさんなんですよ。お隣りへ来たんだけれども、ポワロさんがお留守だったので、あなたが行先を知っているかも知れないというんで、聞きに来なすったのよ」と姉はいった。
「さア、どこへ行ったのか、私は知らないですね」
「私、家で待っているようにすすめたんですけれど、もう三十分もしたら、もう一度お隣りを訪ねて見るといって、街道を下って行ってしまいましたわ。惜しいことしたのよ。ポワロさんは、ほとんど入れ違いに帰って来なすったんですもの」
「ポワロさんも、ここへ見えたんですか」
「いいえ、自分の家へ帰って来たっていうことですよ」
「どうして姉さんにそんなことがわかりました」
「横の窓をごらんなさい」と、姉は簡単に答えた。
私はそれでこの会話は終ったものと思ったが、姉はそうは思わなかった。
「あなた、行くの?」
「どこへです?」
「お隣りへよ」
「何しに行くんです?」
「レイモンドさんが特別に何かポワロさんに会う用があるらしかったから、あなた行ってみれば、どんな用件なのかわかるじゃあありませんか」
私は眉をあげて、
「好奇心は、私の陥りやすい罪悪ではないですからね。隣りの人が何をし、何を考えているかなんて知らなくとも、私は結構、安楽に暮していられますよ」と冷淡に答えた。
「嘘ばっかりおっしゃい、あなただって、私と同じぐらい知りたがっているくせに! あなたはただ、私ほど正直でないだけのことよ。あなたときたら、いつだってお体裁をつくろってばかりいるんですもの」と姉はいった。
「そうですかね」といって、私は医局へ引っこんでしまった。
それから十分ほどして、姉はジャム壼らしいものを手にして部屋へ入って来た。
「ジェームズ、あなたこの枇杷《びわ》のジェリーをお隣りへ届けて下さらないこと? 私ね、ポワロさんが家庭でつくったジェリーを一度も味わったことがないって、いいなすったから、さしあげる約束したんですのよ」
「どうしてアンニーをやらないんです」
「アンニーは繕《つくろ》いものをして、手が離せないんです」
姉と私は互いに探るように顔を見合わせた。
「いいです。だが、私はこの変てこなものを持って行ったって、玄関で渡してさっさと帰ってしまうばかりですからね」
姉は眉をあげて、
「あたり前じゃありませんか、誰がそれ以上何かしてくれっていいました」といった。
これはまさに姉の勝ちである。
「ですが、もしポワロさんにお会いしたら、編上げ靴のことをお話しておいて下さいよ」と、姉は私が玄関の戸をあけた時、いいたした。私は靴の謎をぜひとも聞きたいと思っていたのでぎくりとした。
ポワロ氏はいかにも嬉しそうに、椅子からとび立って来て私を迎えた。
「さア、どうぞおかけ下さい。大きい椅子がお好きでしょうか、それとも小さい方のにいたしましょうか。部屋が暑すぎはいたしませんでしょうか?」
ストーブに火が盛んに燃えている上、窓がみんな閉めきってあって、息がつまりそうであったが、私はだまっていた。
「イギリス人は新鮮な空気に対して病的でございますね。新鮮な空気というものは、その所属する戸外では大そう結構なものでございますが、何も家の中まで闖入《ちんにゅう》させることはございますまい。だが、こんな平凡なことを論じるのはやめにいたしましょう。時に、あなたは私に何か持って来て下さいましたね」
「二つ持って来ました。まずこれは姉から」といって、私は枇杷のジェリーの壺を渡した。
「これはご親切にありがとうございました。お姉様は約束を覚えていて下さいましたね。それからもう一つは?」
「情報とでも申しますかね」といって、私はセシル夫人との会見の模様を語った。ポワロ氏は熱心に耳をかたむけたがいっこうに興奮しなかった。
「それで、ある一点は明瞭になりました。それに、飾り棚の蓋があけ放しになっていたから、通りしなに閉めたという家政婦の言葉が裏書きされたという点で、ある価値を持っておるというわけですね」と、ポワロ氏は考えこんだようすでいった。
「それではラッセル嬢が客間の花の工合を見に客間へ入ったという弁明をどうお考えになりますか」
「ああ、あれには私どもはたいして重きをおきませんでしたよ、そうでございましょう。むろん、あれはあの婦人が客間にいた理由を説明しなければならない急場を救う口実でございますよ。それで、あの家政婦が飾り棚の中の品をいじったと思われておりましたが、こうなると、別にあの婦人が客間にいた理由を深さねばなりませんですね」
「そうです。誰に会いに行ったのでしょう。また、何の用があったのでしょう?」
「先生はあの婦人が誰かに会いに行ったとお考えになりますか?」
「私はそう思います」
沈黙がつづいた。
「それはそうと、姉から伝言を托されて参りました。ラルフ君の編上げは茶色ではなく、黒だったそうです」といいながら、私はポワロ氏の顔をじっと見守った。私は困乱の色がひらめくのを見てとった。だが、それはすぐに消えてしまった。
「お姉様は、茶色でないという点、絶対に確実でいらっしゃるのでしょうか」
「絶対にそうでないと申します」
「ああ、さようですか。それはどうも残念なことで……」
ポワロ氏はがっかりしたようすであったが、すぐに別の話題に入った。
「家政婦のラッセル嬢が金曜日の朝、先生のご診察を受けに来た時、治療上の話でなく、他にどんな話題が出ましたかお伺いしてもぶしつけではございますまいね」
「決してそんなことはありません。私の診察が終った後で毒薬とその発見上の困難さや、麻痺薬とその常用患者のことなどについて語り合いました」
「特にコカインについて質問がございましたでしょうね」
とポワロ氏がいった。
「どうしてそんなことを知っておられるのですか?」私は驚いてたずねた。
それに答える前に、ポワロ氏は立って行って新聞の綴じ込みから九月十六日金曜日づけの新聞を一枚抜きだして来て、コカイン密輸入に関する記事を指さした。
「ラッセル嬢の頭にコカインを持ちこんだのは、この記事です」
私はポワロ氏の意味をよく飲みこめなかったので、説明を求めようとしたが、レイモンド君が来たので、その話はそのままになってしまった。
レイモンド君は相変らず元気がよく、上機嫌であった。
「先生、いかがです。ポワロさん。僕は朝から二度も訪ねて来たのです。何としてもあなたにお目にかかりたかったので」と、彼はポワロにすすめられた椅子に腰をおろしながら、われわれ二人に挨拶をした。
「私は座をはずした方がいいのではないですか」私はぎこちない調子でいった。
「先生、そんな必要はありません。僕はある告白をしに来ただけのことなんです」
「ほう、それはどうも」ポワロ氏は、いんぎんな態度のうちに興味をうかべていった。
「実はたいしたことではないのですが、きのうの午後以来良心に責められていたものですから。ポワロさんは、私たちみんなが何かを隠しているとおっしゃいましたが、まさに僕は有罪なんです。私はあることを隠していたんです」
「レイモンドさん、それはいったい、どんなことなのでございましょうか」
「さっきもいったようにたいしたことではないんですが、僕は借金があるのです。ひどく困って途方にくれているところへ、ちょうど遺産がころげこんで来たのでした。五百ポンドあれば僕は借金の淵から浮かびあがるばかりでなく、いくらか余裕ができるというわけです」彼は誰にでも好感を抱かせる例の正直な調子で、われわれに向かって、にこにこしながらうち明けた。
「ご存じのように、うたぐり深い警察の連中に、うっかり金につまっていたなんていおうものなら、すぐ眼を光らせますからね。しかし、僕はばかでしたよ。僕は十時十五分前からずっと撞球室にブラント少佐と一緒にいて、水も洩らさないアリバイが立っているんですから、何もこわがることはなかったんです。それだのに、ひた隠しにしていたんですが、何か隠しているとポワロ氏にどなられた時、僕は良心にとがめられて、いやな気持になったんです。で、僕は心を軽くしたかったんです」彼はふたたび椅子からたち上がって、われわれに向かって微笑した。
「あなたはまことに賢い青年でいらっしゃる。誰でも何か隠していると知った場合には、私はそれを最悪のものと邪推してかかるのが常でございます。あなたはいいことをなさいました」と、ポワロ氏は満足そうにうなずいた。
「僕は疑いがはれて嬉しいです、ではお暇《いとま》します」レイモンド君は晴々と笑った。
若い秘書のうしろに戸が閉ってしまうと、
「たった、あれっきりのことだったんですね」と、私は呟《つぶ》やいた。
「そうです。ごく些細なことです。しかし、あの青年があのとき撞球室にいなかったとしましたら、これはどういうことになりましょう。五百ポンド以下の金のためにでも、人殺しをする者はいくらもありますからね。単なる金額が問題ではなく、一人の人間を参らせるかに、どれくらいの金額があればたりるかということにあるので、つまり相対的の問題になりますね。先生は、あの家族の中でアクロイド氏の死によって、利益を得る人々が幾人もあることを、お考えになったことがおありですか。セシル夫人、フロラ嬢、レイモンド君、家政婦のラッセル嬢と、こう数えてくると利益を得ないのはブラント少佐一人きりではございませんか」
ポワロ氏が少佐の名をあげた時の調子が、あまり妙だったので、私はその意味を解しかねて、氏の顔を見あげた。
「それは、どういう意味なのですか?」
「私の詰問をうけた人たちの中で、二人だけ私に秘密をうち明けました」
「ブラント少佐も何か隠しているとお考えなんですか」
「それについて、イギリスの諺《ことわざ》がございますね……英国人はただ一つのことだけ隠しておく、それは恋である……と申すでしょう。しかし、ブラント少佐はあまり上手に隠しておりませんね」
「そうですね、時には。ところで、もうそろそろ一足とびに結論に入るわけにいかないものでしょうか」
「それはどういうことでございます?」
「われわれは、フェラス夫人を脅迫していた人物が、アクロイド氏を殺した犯人であると仮定しておりましたが、それは誤りではないでしょうか」
ポワロ氏は大きくうなずいて、
「大そう結構! 大そう結構! 私はあなたがそこに気がおつきになるかどうかと、危ぶんでおりました。だが、私どもは一つ大切な点を記憶していなければなりません。それは手紙の紛失です。もっとも、あなたのおっしゃるように、あながち殺人者が取ったという意味にはなりますまい。ことによるとあなたが最初に死体を発見された時に、パーカーがすばやく取ったかも知れませんですね」
「パーカーがですって?」
「そう、パーカーです。私はいつもパーカーに考えを持って来てしまうのです。殺人犯人としてではございませんよ。けれども、フェラス夫人を脅迫していた謎の悪漢としてパーカーほど、さもありなんと思われる人物は他にございません。彼はフェラス氏の死に関する情報を、フェラス家の奉公人たちの一人から得たかも知れません。とにかく不意の客人、たとえばブラント少佐などよりも、パーカーの方がそういう機会を多く持っているはずでございますからね」
「あるいはパーカーが取ったのかも知れません。私があの手紙の紛失に気がついたのは、そんなに後になってからのことではありませんでしたから」
「どれぐらい後でございました? ブラント少佐やレイモンド君が部屋へ入って来た後でしたか、それとも前でしたか」
「思いだせませんね。前だったかも知れません、いや、後でした、たしかに後でした」
「すると道が三つに別れますね。その中ではっきりした道はパーカーに向かっております。いかがでしょう、これからご一緒にアクロイド家へ行っていただけませんか、パーカーを試験したいと思いますので」と、ポワロ氏はいった。
われわれはただちにアクロイド家に向かった。ポワロ氏は令嬢にお目にかかりたいといったので、フロラが応接間へ来た。
「お嬢様、あなたにちょっとした秘密を打ち明けに参ったのでございます。実はまだどうもパーカーの潔白を信じきれませんので、お嬢様に助手を勤めていただいて、ちょっとした実験をいたしたいと思うのでございます。私はあの晩のパーカーの行動の一部を、再演させたいのでございます。それにつきまして、なんとか口実をつくらなくてはなりませんですね。ああ、いいことがありました。廊下の話し声が露台に聞こえるかどうか、試すのだということにしましょう。では、恐れ入りますが呼鈴を鳴らしてパーカーをお呼び下さい」
私が呼鈴を押すと、間もなくパーカーがいつもの控えめなようすで戸口に現われた。
「お召しでございましたか」
「ああ、パーカー、私はちょっとした実験をしたいのだよ。あの晩、ブラント少佐が書斎の窓の外の露台に立っていた時、書斎の話し声が聞こえたというのだが、はたしてお嬢様ときみとの会話が、あそこへ聞こえるかどうか試したいのでね。あの時のとおりをここでくり返してもらいたいのだよ。そうそう、お盆か何かきみがその時、持っていたものを、取って来た方がよかろうね」
パーカーが立ち去ると、われわれは書斎の前の廊下へおもむいた。間もなく外廊下の方に、ちんちんという音が聞こえて、パーカーがサイフォンとウィスキー壜とグラスを二つのせた盆を捧げて来た。ポワロ氏は興奮したようすで手をあげ、「ちょっと待って! 何もかもあの晩と同じにしなければいけない、それが私の方式なのでね」といった。
「外国でよくいたします、実地検証とか申すのでございますか」とパーカーがいった。彼は落ちつきはらって、ポワロ氏の次の命令を待っていた。
「パーカー、きみはなかなか心得ているね。探偵小説を読んでいるとみえる。さて、間違いなく、あの晩のとおりを演じてもらおう。きみは、外廊下から、こっちの廊下へ入って来たのだね。それから、お嬢様はどこにいらっしゃいました?」
「ここでございます」フロラは書斎の戸の前に立った。
「そのとおりでございました」と、パーカーがいった。
「私はちょうど戸を閉めたところでございました」
「さようでございました。お嬢様はまだ戸のハンドルにお手をおかけ遊ばしていらっしゃいました」
「さア、芝居をはじめて下さい」と、ポワロ氏がいった。
フロラが片手を戸のハンドルにかけて立つと、パーカーが外廊下の仕切りの戸口から入って来た。彼は閾《しきい》をまたぐと、ちょっと立ち止った。そこでフロラが、
「ああ、パーカー。伯父様は今晩はもう何もいらないから、邪魔しないようにっておっしゃってよ」と高い声でいってから、ポワロ氏をふり返って、
「これでよろしゅうございまして?」と声を落としていった。
「私はたしかお嬢様が今夜という言葉をお使い遊ばしたように記憶しております」と、パーカーはいった。それから声を高めて芝居がかった調子で、
「かしこまりました、お嬢様。では、いつものように戸締りをいたしまして、よろしゅうございましょうか」
「ああ、どうぞ」
パーカーは、きびすを返して戸口から出ていった。その後からフロラがついて行って、広間の正面の階段をのぼりはじめた。
「これでよろしゅうございまして?」と、フロラはうしろをふり返ってたずねた。
「まことに結構でございました。それはそうと、パーカー。きみはあの晩、たしかにグラスを二つのせて行ったのかね? 一つは誰のためなのだね?」とポワロ氏は、もみ手をしながらいった。
「いつも二つ持ってあがることになっておりましたのでございます。ほかにもっと何かいたしますことがございましょうか」と、パーカーがいった。
「何もない。どうもご苦労だった」
パーカーは最後まで、もったいぶったようすで引きさがった。
ポワロ氏は広間の真中につっ立って、何か考えこんでいた。フロラは階段をおりて来て、われわれの仲間に加わった。
「ポワロさんの実験は成功でございましたの? 私にはよくわけがわかりませんでしたけれども……」
ポワロ氏は感嘆したように彼女に微笑みかけながら、
「それはそうと、あの晩パーカーの持って来たお盆の上には、ほんとうにグラスが二つのっておりましたのでしょうか」といった。
フロラはちょっと、眉間《みけん》に皺《しわ》をよせて考えていたが、
「私、思いだせませんわ。二つあったような気がいたしますけれど……そのことがあなたの実験にそんなに大切でございますの?」といった。
ポワロ氏は彼女の手を取って、軽くたたきながら、
「それはこういうことなのでございます。私はいつでも人が真実を話しているかどうかを試して見るのでございます」といった。
「で、パーカーは真実のことを申しまして?」
「まアそうでしたろうね」と、ポワロ氏は考え深くいった。それから数分後、私とポワロ氏は、村へ向かって歩いていた。
「グラスに関する問題の要点はどこにあったのですか?」
と私が好奇心をもってたずねると、ポワロ氏は肩をすくめて見せた。
「あの場合、何とかいわなければかっこうがつきません。グラスでなくても、何でもよかったのでございます」
私はポワロ氏の顔を見つめた。
「とにかくですね、先生。私は知りたいと思っていたことを知りましたのです。まア、この問題はこのへんで打ちきっておくといたしましょう」と、ポワロ氏はいつになく重々しい調子でいった。
麻雀の夕べ
この晩、私の家では麻雀《マージャン》の夕べを催した。この手軽なもてなしは、近ごろアボット村の流行になっている。お客たちは夕食後に雨靴、雨外套でやって来た。皆でコーヒーを飲み、ずっと後になってから菓子にサンドウィッチにお茶をだすことになっている。
当夜のお客はガネット老嬢と、教会の近くに住むカーター大佐であった。こうした集《つど》いには、ひどくゴシップの花が咲くもので、時にはゲームの進行を妨げることもあった。私のところでは最初はトランプをやっていたのだが、それがまたお話にならないほど、すごいお喋べりトランプであった。われわれは麻雀の方がずっと平穏であることを発見した。トランプの時のように、誰それが札を引きそこなったというような、いらいらした文句は出なくなったし相変らず勝手な批評はするが、以前のような辛辣《しんらつ》な気分がなくなった。
「シパード君、寒い晩だね。アフガン遠征を思いだすよ」
カーター大佐はストーブの前に立って背中をあぶりながらいった。
姉はガネット老嬢がからだ中に巻きつけて来たさまざまな防寒具を脱がせるために自分の部屋へ連れて行っていた。
「そうですかね」と私は気のない返事をした。
「アクロイド氏の事件は、実に奇々怪々ですな」大佐はコーヒーを受け取りながら言葉をつづけた。
「いろいろ複雑しているらしい。これは君と僕との間だけの話だが、何か脅迫云々ということが絡《から》まっているらしいね」といって、大佐は世事に明るい男同志というような顔で私を見た。そして、
「どうせその背後には女があるね。たしかに女がいるよ」とつけ加えた。
ちょうどその時、姉のカロリンとガネット老嬢が部屋へ入って来た。ガネット老嬢がコーヒーを飲んでいる間に、姉は麻雀の箱を持って来て、牌《ぱい》をテーブルの上にあけた。
「洗牌《しいぱい》! 上海《シャンハイ》ではこうして牌をかきまぜることを洗牌といいますよ」
カーター大佐は物知り顔でいった。
だが、大佐は上海になど行ったことがないというのが姉と私との、ひそかな意見である。それどころか彼は世界大戦の時に、インドで戦線へ送る食糧係りをつとめていただけで、戦地へは一歩も踏みこまなかったはずである。しかし、大佐はあくまでも軍人として振る舞っているし、アボット村では誰でもちょっとした特性を気ままに発揮することが許されている。
「さア、はじめましょう」と姉がいいだした。
一同テーブルについた。われわれは互いに誰が一番早く牌を並べてしまうか、ひそかに競争していたので、約五分間は完全な沈黙がつづいた。
「ジェームズ、早くおはじめなさい。あなたが東風《とんふぉん》よ」
私は捨牌した。二、三回まわる間、折々、三《さん》筒子《ぴん》! 二万《りゃんわん》! ポン! というような単調な言葉が沈黙を破るだけであった。そそっかしやのガネット老嬢は、たびたび間違えてポンの取り消しをした。
「今朝フロラに会いましたよ。ポン! ああ、間違えました」
「四筒! どこであったの?」
「向うでは気がつかなかったんですよ」
ガネット老嬢は小さな村でなければ見かけないような、意味深長なようすでいった。
「あら、そうなの、吃《ちゃう》!」姉は興味ありげにいった。
「この頃は、|ちゃう《ヽヽヽ》とはいわないで、|ちい《ヽヽ》と発音するんじゃありません?」ガネット老嬢はちょっと話をそらした。
「ばかげているわ、そんなの! 私はいつだって、|ちゃう《ヽヽヽ》っていっているのよ」と姉がいった。
「上海クラブでは、|ちゃう《ヽヽヽ》といっておりましたっけ」とカーター大佐がいったので、ガネット老嬢は口をつぐんだ。
一、二回ゲームに身を入れた後、姉は、
「あなたフロラのことを何とかいっていらしたわね。誰か連れでもありましたの?」とたずねた。
「そりゃ大ありよ」とガネット老嬢がいった。
二人の婦人は何か情報の交換をしたらしく、眼を見合わせてうなずいた。
「ほんとう? そうなの! でも私、別に驚きはしないわ」
と姉がいった。
「カロリンさん、あなたの番ですよ。捨牌して下さい!」
と大佐が姉にいった。彼はゲームにばかり熱中して、ゴシップなどに無関心な、無骨者のように振る舞ったが、話もごまかされてはいなかった。
「私はねえ……ちょっと、あなたが捨てたのは筒子《ぴんず》だったの? ああそうじゃないわね……で私はねえ、フロラはとても運がいいと思ってよ。幸運この上なしだわ」
「ガネットさん、どうしたんです。僕はその緑発《りゅうふぁ》をポンしますぞ! で、フロラ嬢が幸運だというのは、どういうことなのです? 僕があの令嬢について知っておることは、非常な美人だということだけですね」と大佐がいった。
「私は犯罪のことはあんまり知りませんけれど、たった一つだけいうことができると思うんです。第一に出る質問は、被害者が生きているのを最後に見たのは誰かということでしょう? そしてその人が嫌疑者と見られるんですわ。ところで、フロラは、伯父さんが生きているのを見た最後の人です。これはフロラにとって、とても都合の悪いことですよね。それで、私の考えでは、ラルフが行方をくらましているのは、フロラに当然かかる懐疑をそらすためだと思うのよ」と、ガネット老嬢は自信たっぷりにいった。
「そんなばかなことはありませんよ。フロラ嬢のような若いお嬢さんに、伯父を刺し殺すなんてそんな冷酷なことができるものですか」と私は抗議した。
「さア、それはどうかわかりませんよ。私は図書館から借りて来て、パリの闇黒街のことを書いた本を読んでいますが、もっとも恐しい犯罪者は、天使のような顔をした若い娘が多いということですからね」と、ガネット老嬢はいった。
「それはフランスのことじゃないの」と姉がすかさずいった。
「それはそうですな。外国では奇妙な事件がありますよ。インドの市場《バザー》で起こった事件ですがね……」と大佐が語りだした。
大佐の話は無限につづき、しかもいっこうに面白くないものであった。第一、インドで数年前に起こった事件と、つい一昨々日この村で起こった事件とは比較にならない。
麻雀にかこつけて、巧みに大佐の話の腰を折ったのは姉であった。毎度のことながら、姉の計算違いを私が訂正する間の不快な沈黙の後で、ふたたびゲームがつづけられた。
「私はラルフについて、ある意見を持っていますのよ。……でも、今は発表しないことにしているんです」と姉がいった。
「あら、そうなの、カロリンさん。吃! ああ、そうじゃない、ポン!」とガネット老嬢がいった。
「そうなのよ」と姉は強くいった。
「あの靴のことはあれでよかったの? 黒で」と、ガネット老嬢がたずねた。
「ええ、あれでよかったのよ」
「目的はどこにあったんでしょうね」
姉は何もかも心得ているというふうに唇をつぼめて首をふった。
「ポン! ああポンじゃなかったわ。先生はいつもポワロさんにあってらっしゃるから、秘密をいろいろご存じでしょうね」とガネット老嬢がいった。
「とんでもない!」と私はうち消した。
「ジェームズは内気すぎるんですよ。あら、暗槓《あんかん》だわ!」
大佐は口笛を鳴らした。ちょっとの間、ゴシップは打ちきりとなった。
「しかもあなたの風だ。それに、あなたは役牌を二つもポンしているじゃアないですか! さア、われわれはよほど慎重にやらにゃいかん。カロリンさんに凄い手役がついてしまったからな」
一同はしばらくの間、不必要な会話は抜きにして勝負に専心した。
「ポワロ氏というのは、実際そんなに偉い探偵なんですかなあ」とカーター大佐がいった。
「世界一有名な方《かた》ですわ。あの方は世をしのぶためにこの村へ来ていらっしゃるのよ」と姉がもったいぶった調子でいった。
「吃! 全くアボット村の名誉ですわね。それはそうと、私のところの女中のクララと、アクロイド家の女中のエルジーとは大の仲よしなんですがね、そのエルジーが何を話したと思います? あの家で大金がなくなったんですって。で、エルジーの意見では小間使いが何かそれに関係しているというんですよ。その小間使いは近く暇を取ることになっているんだとかで、毎晩ひどく泣いているそうですがね。私にいわせれば、あの娘は、ギャングの一味に違いありませんよ。あのウルスラという娘はどうも怪しいですよ。ほかの奉公人たちとは誰とも交際しませんし、公休日にだって、いつも一人きりで出かけるし、何としても怪しいですよ。女子親交会に出席するようにいってやった時だって、頭から断わってしまうんですもの。いつかも、それとなくあの娘の身許を探ってやろうとしたんですが、うわべばかり悪丁寧《わるていねい》にして、あつかましくも私をだまらせてしまったじゃありませんか」
ガネット老嬢はそこで息をつくために言葉をきった。すると、女中の問題には全く興味を持たない大佐は、上海《シャンハイ》クラブでは活撥な競技をすることが鉄則になっているといった。
それで一巡《ひとめぐ》りだけは活撥なゲームがつづいた。
「あのラッセル嬢というのが、金曜日の朝、ジェームズの診察を受けるふりをして、ここへ来たんですよ。私はあの人が毒薬のありかを探りに来たのに違いないと思うんです。五万《ううわん》!」と姉がいった。
「吃! そりゃまた、とっぴな考えだわね。それ、あたっているかしら?」とガネット老嬢がいった。
「毒薬といえば……ええ、何ですって? 僕が捨牌しなかったって? おお、八筒子《ぱあぴん》」と大佐がいった。と同時にガネット老嬢が、
「麻雀《あがり》!」と叫んだ。
姉はがっかりしたように、
「紅中《ほんちゅん》一つあれば、ポンが三組になるところだったのに」といった。
「私は最初から紅中の手持が二枚あったんですからね」と私はいった。
「ジェームズったら、いつでもそんなへまをやるのね。あなたはゲームの精神がないからだめよ」と姉は憤慨した。
私としては、むしろ上手にやったつもりだ。姉がここで上ったりしたら、大金を支払わなければならないことになる。ガネット老嬢の麻雀《あがり》なんて高が知れている。姉だってその点をガネット老嬢に指摘していた。
勘定がすんで、新しい手ではじめられた。
「私がさっき話しかけたことね」と姉がいうと、ガネット老嬢が、
「どんなことなの?」と熱心にたずねた。
「ラルフについての私の考えなんですけれどね」
「それで? 吃!」
「今から吃! なんて、弱い証拠よ。もっと大きな手がつくまで待つものよ」と姉が手きびしくいった。
「私、知っていてよ。それよりラルフのことを知っているって、何なの?」
「私はラルフがどこに隠れているか、およその見当がついているのよ」
われわれはみんな手をとめて、姉の顔を見つめた。
「カロリンさん、それは面白い。それはあなたご自身の考えなんですか」と、カーター大佐がいった。
「ぜんぜん私ひとりの考えとはいえないかも知れませんけれど、あなた方、ここの玄関の廊下にかけてあるこの地方の大きな地図を知っていらっしゃるでしょう」
われわれはみんなうなずいた。
「この間ポワロさんが家へいらした時、帰りがけに、あの地図を見て、アボット村に一番近い大きな町はクランチェスターですね、というようなことをおっしゃったのよ。そんなこと、あたりまえのことなのよね。けれどもポワロさんが帰ってしまってから、私の頭にぴんと来たことがあるの」
「どんなことが来たの?」
「あの方のいった意味よ。ラルフはクランチェスターにいるという……」
私が点棒の入れものをひっくり返して、姉に、そそっかしいと叱言《こごと》をいわれたのは、その時であった。だが、姉は自分の大切なお喋べりの方に気を取られていて、いつもほど手きびしくはなかった。
「カロリンさん、クランチェスターですと? まさかそんなことはないでしょうな、あんまり近すぎる」と大佐がいった。
「近いからですわ。考えてごらんなさい。ラルフは汽車に乗ってどこへも行きはしませんよ。あの人はきっとクランチェスターまで、歩いて行ったのです。誰だってそんな近いところに隠れているとは夢にも思いませんものね」と、姉は勝ちほこったようにいった。
私は姉の説にたいして何か条も反対の理由をあげたが、いったんこうと思いこんだが最後、決して自説をまげない姉である。そこへガネット老嬢が、
「そういえば、今日の午後にね、私が散歩していたら、ポワロさんの車がクランチェスターの方から走って来て私とすれ違って行ったんですよ」と意味ありげにいった。
われわれは互いに顔を見合わせた。
「あら、まあ、私、いつの間にか麻雀《あがり》になっていたのに、ちっとも気づかないでいたわ」と、ガネット老嬢がとつぜんにいった。
姉の注意は、推理からそれてしまった。彼女はガネット老嬢にたいして配牌の種類が多すぎたり、吃が多すぎたりしてはゲームをつづける価値はないことを指摘しはじめた。ガネット老嬢は平気な顔をして聞いていたが、自分の勘定を集めながら、
「あなたのいう意味はよくわかってよ。でも、結局最初の配牌のいかんによるんではなくて? そうでしょう」といった。
「自分がその気でかからなかったら、決して大きな手はつきませんよ」と姉は主張した。
「でも、こういう勝負ごとは、めいめいが自分の考えでやるものだと思うのよ。とにかく私は勝越しになっているわ」ガネット老嬢は自分の点棒入れを見おろしながらいった。
相当の負けをしている姉は一言もなかった。
次の番がはじまって間もなく、アンニーが、紅茶の支度をして運んで来た。姉とガネット老嬢はこうした勝負ごとの場合には、たいてい少し不機嫌になるのが常である。
ガネット老嬢が捨牌するのに少しぐずぐずしていると、姉は、
「あなた、もう少しさっさとしたらどうなの? 支那人は牌を下へおく時、とても早いんで、まるで小鳥が羽ばたきするような音がするのよ」といった。
それから数分間、一同は支那人のごとくにゲームを進行させた。
「シパード君はいっこう今度の事件について話してくれないじゃないか。名探偵と手をつないでいるくせに、事件がどう運んでいるか、匂わせもしないなんて、横着だぜ」とカーター大佐が快活にいった。
「ジェームズはほんとうに変な人よ。自分の知っている消息を話し得ないでいるんですもの!」と、姉は不満な眼つきで私を見た。
「私、ほんとうに何も知らないんですよ。別に隠しているわけではないんです。ポワロ氏は自分の感想をめったに述べない人ですからね」
「利口な人なんだなア。巧みに体をかわして、決して尻尾《しっぽ》をつかませぬという|てあい《ヽヽヽ》だ。外国の探偵というのは、皆すばらしい奴だからね」と、大佐はくすくす笑いながらいった。
「ポン! あがったわ」と、ガネット老嬢は低いながらも勝ちほこったようにいった。
事態はいよいよ緊迫して来た。三回もつづけざまに勝ちをガネット老嬢に奪われるとは、厄介なことになったものだ。新たに配牌をはじめた時、姉はさっそく、その不満を私にたたきつけた。
「ジェームズ、あなたは全く退屈な人ね。まるで、でく人形みたいにそこに坐っているきりで、何一つ話さないでいるなんて!」
「でも、私は実際何も知らないんですから。姉さんのご希望のような話は持ち合わせていないんですよ」
「ばかおっしゃい。たしかに何か興味のあることを知っているくせに」
姉は牌をよりわけながらいった。
私はすぐには答えなかった。何しろ、私は自分の手に圧倒されて興奮していたのだ、配牌そのままで上がりだなんて、話には聞いていたが、自分がその幸運をつかもうとは夢にも思わなかった。私は手持の牌を全部表へ向けてならべて、
「役満《やくまん》! 上海クラブでいう天和《てんほう》ですよ!」と、おさえきれない喜びとともに披露した。
大佐の眼がもう少しで飛びだしそうに見えた。
「これは驚いた! 僕はこんなのにはじめてお目にかかるよ!」と彼はいった。
私がカロリンの嘲弄と、思いがけぬ勝利に刺戟されて、つい向こうみずなことをしてしまったのは、この時であった。
「興味のあることといえば、Rよりという文字と年月日を刻んだ結婚指輪などはどうですか」
といって、私はその指輪を発見した時の模様からその場所、年月日まで喋べってしまった。
「三月十三日といえば六か月以前ではありませんか」と姉がいった。
まるでバベルの塔がくずれたように、あらゆる意見や想像が騒々しく出たが、その中から三つの推理が生れた。
一 カーター大佐の意見――ラルフはフロラと秘密に結婚していた。これは最も単純な説である。
二 ガネット老嬢の説――故アクロイド氏はフェラス夫人と秘密に結婚したのである。
三 姉の説――ロージャー・アクロイド氏は家政婦ラッセル嬢と結婚していたのだ。
その晩おそくなって、私たちが寝室へ行く時になって、姉は更に第四の推定を提出した。
「ねえ、お聞きなさいよ。私、ジョフリー・レイモンドとフロラが結婚したということもあり得ると思いますよ」
「しかし、それならRよりでなく、Gよりのはずでしょう」と私がいうと、
「でも、近ごろの娘たちは、よく男の苗字をいいますからね。だから、レイモンドのRでいいわけでしょう。それにガネットさんが、さっきフロラが誰かと連れだって歩いてたって話したではありませんか」と姉はいった。
厳密にいえば、私はガネット老嬢がそんなことをいったのは聞かなかったが、姉の暗示を解く能力を尊重しておいた。
「誰かというのなら、ブラント少佐なんかはどうです」
「そんなばかなことがあるものですか。少佐はフロラを崇拝しているかも知れません。あるいは恋しているかも知れませんけれども、フロラの方が、近くにレイモンドという若い好男子がいるのに、何を好んで自分の父親ほどの少佐なんか相手にしましょう。フロラの方では盲人にかまうように少佐をあしらっているかも知れませんがね。若い娘というものは、なかなか狡猾《こうかつ》ですから。でも、たった一つあなたに聞かせておいてあげることがあるわ。フロラは、ラルフのことなど、爪ほども愛していやあしませんからね。これだけはたしかですよ」と姉は断言した。
四十ポンドの行方
パーカー
翌朝になって、私は天和、すなわち役満に有頂天《うちょうてん》になって、つい無分別なまねをしてしまったことを思いだして後悔した。ポワロ氏は指輪を発見したことを別に秘密にしてくれとはいわなかった。しかし、一方ポワロ氏はアクロイド家の人たちに指輪のことは一言も話さなかった。したがってその事実を知っているのは私一人であった。それを思うと私は自らを有罪とするのである。麻雀の席で喋べったことだから、たちまち村中に野火のように広まってしまうに相違ない。
私は、いつ何時《なんどき》ポワロ氏に激しく叱責されるか知れないと覚悟していた。
フェラス夫人とアクロイド氏の葬儀は十一時から執行された。それはじつに憂鬱な、印象深い式であった。アクロイド家の人々は全部参列した。
式が終ってから、会葬者の中にいたポワロ氏が私の腕をとって、自分の家まで一緒に歩いて行こうと誘った。私はポワロ氏の厳粛な顔つきを見て、前夜のお喋べりが彼の耳に達したのではないかと心配したが、それは私の思いすごしであった。ポワロ氏は全く別の問題を考えこんでいることが、じきにわかった。
「こういうわけなのでございますよ。実は先生のご助力を仰いで、ある証人を調べたいのです。その男を訊問していくうちに恐怖を与えて、真実を吐かせるのです」とポワロ氏はいった。
「どの証人のことです?」
「パーカーです。今日十二時までに私の家へ来るように申しつけておきましたから、もうおおかた来て待っておりますでしょう」
「あなたはどういうお考えなのです?」
私はポワロ氏の横顔をちらと見た。
「私はあの男に満足していませんのです」
「あなたはフェラス夫人を脅迫していたのは、パーカーだとお考えなのですか?」
「それも一つですが……」
「とおっしゃると?」
私はポワロ氏の返事を待った。
「実は、私はパーカーであってくれればいいと思っております」
ポワロ氏の沈痛な面《おも》もちと、何かそれを色どる理解しがたいものが、私を沈黙させてしまった。
われわれがポワロ氏の家へつくと、パーカーがさっきから待っているということであった。
われわれが客間へ入って行くと、彼はうやうやしく立ち上った。
「パーカー、お早う、ちょっと待っておくれ」ポワロ氏はオーバーを脱ぎはじめた。
「お許し下さいませ」パーカーはさっとそばへ寄ってポワロ氏のオーバーを脱がせ、手袋とともに、戸口に近い椅子の上にきちんとおいた。ポワロ氏はパーカーの仕草を満足そうに眺めていた。
「ありがとうよ、パーカー。まアそこへおかけ。話がちょっと永びくからね」とポワロ氏にいわれると、パーカーは椅子に腰をおろして、恐縮したように首をたれた。
「さて、パーカー。きみは何のためにここへ呼ばれたと思うかね?」
パーカーは、ちょっと咳をして、
「亡くなられたご主人のことについて、何ぞおたずねになるためのお呼びだしと、承知いたしております」
「まさにそのとおり! そこでおたずねするがね。きみは人をゆすった経験が相当あるのではないかね」
「旦那様!」パーカーは憤然として立ち上がった。
「パーカー! そんなに興奮して見せることはない。正直者が傷つけられるといったような芝居はおよし。きみはゆすりはよく心得ているはずだ」と、ポワロ氏は静かにいった。
「とんでもない……私は今まで決して……決して……」
「こんなに侮辱されたことはないというのかね? それでは、きみはなぜあの晩、|ゆすり《ヽヽヽ》という言葉を耳にして後、書斎の話を立ち聞きしようと苦心したのだね?」
「私は、そのような覚えはございません」
「きみの前の主人は誰だったね」ポワロ氏の質問は不意うちであった。
「前のご主人とおっしゃいますと?」
「お前がアクロイド氏のところへくる前に仕えていた主人だ」
「エラビイ少佐でございます……」
「そうだろう。エラビイ少佐は麻痺薬の中毒患者だったね。お前は少佐について旅行していたね。それからバーミューダにいた時に面倒が起こったろう、殺人事件がね。その時、たしかエラビイ少佐は重要な関係者であったが、どういうわけか公けにはならないで事件は葬られてしまった。その真相をきみは知っていた。エラビイ少佐は、きみにその秘密を守らせるためにどれくらいの金を支払ったかね」
パーカーは口をあいたまま、ポワロ氏の顔を見つめていた。彼は粉砕されてしまった。
彼の頬はふるえた。
「わかったろう、私はすっかり調べあげたんだ。私のいったとおりだろう。少佐は終生きみから莫大な金をゆすり取られていたじゃないか。さて、私がここで聞きたいのは、きみの最近の経験だ」
パーカーは相変らず、眼をみはっていた。
「隠しても無駄だ。このポワロは、一から十まで知っている。エラビイ少佐のことは、私のいったとおりだろう」
パーカーは不承不承にうなずいた。彼の顔は真青《まっさお》になっていた。
「けれども、私はアクロイド様の髪の毛一本も傷つけた覚えはございません。私は神かけて誓います。私はエラビイ少佐の件が、露顕するのではないかと、びくびくしておりましたが、決してアクロイド様を……いいえ、決して私が殺したのではございません」と、彼は叫ぶように声を高めた。
「あるいはきみはほんとうのことをいっているのかも知れない。きみには人殺しをする度胸はないだろう。だが、私は何としても真相をつかまなければならない」
「それでは何でも申し上げましょう。且那様のお知りになりたいことは何でも申し上げます。あの晩、立ち聞きをいたしましたのは事実でございます。ちょっと小耳にはさんだ言葉に好奇心を持ちましたもので……それに、ご主人がシパード先生とお二人きりで書斎に籠《こも》っておしまいになったり、誰も近づけてはならないとおっしゃりましたので、変に思いましたのでございます。私が警察の旦那方に申し上げたことは、みんな神様のご存じのことで、嘘いつわりはございません。私は……脅迫と申す言葉を聞きましたので……」彼はそこで言葉をきった。
「それできみは何か自分のためになる材料になると思ったのだろう」ポワロ氏は穏やかにいった。
「はい、さようでございます。アクロイド様が脅迫されておいでになるというなら、私だっていくらかありつけると思ったのでございます」
ポワロ氏の顔に不思議な表情がうかんだ。
彼は前へのりだして、
「きみはあの晩以前に、何かアクロイド氏が脅迫されているということを想像するようなことはなかったかね」
「いいえ、どういたしまして。あんなに、きちょうめんなりっぱなお方が、脅迫されておいでになるなんて、全く想像も及びませんでした」
「きみはどの程度まで立ち聞きしたかね?」
「あまりたくさんは聞きませんでした。少し良心がとがめたとでも申しましょうか、それに自分の仕事もございましたので、二、三度、お書斎の前まで忍んで参りましたが、無駄でございました。最初の時はシパード先生が不意に出ておいでになり、もうすこしで現場を見つかるところでございました。二度目の時には玄関の広間でレイモンド様がお書斎の廊下の方へおいでになるところでしたし、三度目にウィスキーの盆を持って参った時には、お嬢様に追い返されてしまいましたのでございます」
ポワロ氏は相手の真実をためそうとするように、永い間パーカーの顔を見つめていた。
「旦那様、どうぞ私をお信じ下さいまし、私は警察が旧悪を洗いだして、私を容疑者にするのではないかと思って、そればかり心配しておりました」と、パーカーは熱心にポワロ氏の顔を見かえした。
「よろしい、きみを信じるとしよう。だが、もう一つ要求がある。きみは銀行の通帳を持っているだろう。それを持って来てお見せ」
「はい、かしこまりました。実は手許に持っております」
パーカーは少しも狼狽《あわ》てるようすもなく、ポケットから緑色の表紙の通帳をだした。ポワロ氏は中をあらためてみて「ああ、きみは今年になってから、五百ポンドの国民貯蓄公債を購入しているね」
「はい、私の預金が千ポンドを越えましたので……前のご主人……あのエラビイ少佐からの分と、それから今年は競馬でたいへんに運がよくて……旦那様もご存じでございましょうが、人気のない馬がジュビリーに勝ちましてございますね。私は幸いにもあの大穴で二十ポンド儲けたのでございました」
ポワロは通帳を彼に返した。
「では、もうこれで帰ってよろしい。私はきみがほんとうのことを話してくれたと思う。もしきみが私に嘘をいったのだとすると、きみにとって非常に不利なことになるのだからね」
パーカーを帰してしまうと、ポワロ氏はふたたびオーバーを着はじめた。
「またお出かけですか」と私がたずねると、
「そうです。私どもはこれからハモンド弁護士を訪問しなければなりません」ポワロ氏はいった。
「あなたはパーカーのいったことを信じますか?」
「顔色でわかります。彼が非常にうまい役者でしたら別ですが、彼は本気に脅迫を受けているのは、アクロイド氏自身だと思いこんでいるようでございます。もしそうなら、彼はフェラス夫人の事件とは何の関係もないことが明白でございます」
「もしパーカーでないとすると誰でしょう?」
「さて、誰でしょう? とにかくハモンド弁護士を訪問すれば一つの目的を達することになります。それによって、パーカーが全く無罪になるか……あるいは」
「あるいは?」
「今朝はものを半分よりいわない悪い癖が出たようですから、どうぞ気になさらないで下さい」とポワロ氏は弁解するようにいった。
「それはそうと、私はあなたに白状しなければならないことがあります。実はついうっかりして、指輪のことを喋べってしまいました」
と私は、もじもじしながらいった。
「どの指輪のことですか?」
「あなたが金魚池でお拾いになった指輪です」
「ああ、そうでしたっけね」ポワロ氏はにこにこ笑いながらいった。
「ちっともかまいません。私は決してあなたを支配しているわけではございません。あなたが話したく思われた時には、何をお話しになってもかまいません。で、お姉様はあれに興味をお持ちになりましたか」
「むろんです。センセーションを巻き起こしました。それについて、いろいろな推理が飛びだしました」
「そうでしたか。しかし、真実の説明というものは、眼に現われてくるものでございます」
「そうですかね」私は気のない返事をした。
ポワロ氏は面白そうに笑った。
「もっとも、賢い男はそのかぎりにあらずですが……ああ、もうハモンドさんのお宅です」
弁護士は事務室にいて、すぐにわれわれを迎え入れた。
ポワロ氏はさっそく用件をきりだした。
「まことに恐れ入りますが、ある情報を得たいと存じまして、お邪魔に伺いました。あなたは、故フェラス夫人の顧問弁護士を勤めておられたと承《うけたまわ》っておりますが……」
ハモンド氏の仮面のような冷やかな顔に、一瞬、驚きの色がひらめいた。
「さようです。夫人の財政はすべて私どもに相談された上で処理されておりました」
「それでは、あなたにおたずねする前に、シパード先生からお話をお聞き願いたいと存じます。先生、ご面倒でも、先週の金曜日の晩に、あなたとアクロイド氏との間にかわされた会話を、ハモンドさんにくり返してお聞かせ下さいませんか」
「よろしいですとも」といって、あの妙な晩の出来事をくわしく話した。
ハモンド氏は熱心に耳をかたむけていた。
「これで全部です」と私は語り終っていった。
「脅喝!」弁護士は考え深くつぶやいた。
「あなたはびっくりなさいましたか」とポワロ氏がたずねた。
弁護士は鼻眼鏡をはずして、ハンケチで磨きながら、
「いや、びっくりしたという言葉はあてはまらんでしょう。私は前々から何かそんなことがあるのではないかと、疑念を抱いておりました」と答えた。
「それで、夫人が実際に支払った金額がどれくらいであったかを御承知なのは、ハモンドさん、あなただけでいらっしゃる」
「そのことなら何も隠す必要はありません。お話ししましょう。夫人は過去一年間にかなりの証券を現金にかえて、銀行預金にくり入れましたが、それを他には投資されませんでした。また、夫人の年収は大きなものでしたし、加うるにフェラス氏の死後はごく質素に生活しておられたですから、それらの証券を売った金は、何か特別の用途にあてられたと想像しておりました。で、ある時、その金の用途について質問しましたところ、夫人は親戚のある貧しい家族を援助しているのだと答えられましたので、私はそれっきりその問題には触れませんでした。今日のお話を伺うまでは、たぶんフェラス氏が生前に関係した女にでも、その金がいっているものとばかり思っていました」
「で、その金額は?」とポワロ氏がたずねた。
「総計二十万ポンドに達しております」
「わずか一年間に二十万ポンドですか!」と私は叫んだ。
「フェラス夫人は非常な金満家でした。しかし、殺人の賠償というものは、容易に払いきれるものではございません」
と、ポワロ氏はそっ気なくいった。
「もう何かほかに私から申し上げることはありませんか」
とハモンド氏がたずねた。
「ありがとうございました。これで結構です。お忙しいところを錯乱《ヽヽ》おさせ申して申しわけございませんでした」
ポワロ氏は立ち上がった。
われわれが外に出てから、私はポワロ氏に、
「あの場合に錯乱《ヽヽ》という言葉をおつかいになるのは変ですね。あれは精神障害の場合だけに用いる言葉ですから」と注意した。
「ああ、そうでしたか、どうも私の英語は不完全で困ります。英語はなかなかむずかしゅうございますね」
「あの場合は、お騒がせしたとか、お邪魔したとかいうのが適当でしょうね」
「どうもありがとうございました。さて、あなたはパーカーを、どうお思いになりますか。二十万ポンドの現金をにぎった男が、奉公をつづけておりますでしょうか。偽名で二十万ポンドを銀行に預金しておくということはあり得るかも知れませんが、私はまずパーカーの言葉を信じなければならないと思います。あの男は悪漢としても、ごく度胸のない小悪漢です。こうなると、あと残るところはレイモンド君と、ブラント少佐ということになりますね」
とポワロは、考え深くいった。
「まさかレイモンド君ではないでしょう。あの青年は五百ポンドの金に困っていたというくらいですから」と私は反対した。
「そんなことを自分でいっておりましたっけね」
「それから、ブラント少佐の方は……」
「ブラント少佐のことなら、お聞かせすることがありますよ。他人のことを探りだすのが私の役目ですからね。いつか少佐が遺産のことをいっていたのを覚えておいででしょう。あれについて調べて見ましたところが、その金額が二十万ポンド近いものでした。あなたはこれについて、どうお考えになります?」
私はあっけにとられて、しばらくは言葉も出なかった。
「そんなことはあり得ません。ブラント少佐のような名のある人が……」
「さア、何ともいえませんね。少なくも少佐は大きな考えを持っている人物です。実のところ私も少佐が|ゆすり《ヽヽヽ》をするような人物とは思いませんがね……それからもう一つ、あなたが想像もなさらないようなある可能性がございますので」
「それは何ですか」
「火でございますよ、アクロイド氏自身が、あなたのお帰りになった後で、あの青い封筒を火にくべてしまったかも知れないということです」
「そんなことは万々ないと思いますが、あるいは私が帰った後で考え直して、そんなことをしたかも知れませんね」
われわれはちょうど家の前まで来たので、私は急に思いついて、ポワロ氏をあり合わせ料理に招待した。これは姉を喜ばすと思ってやったことであったが、さて、女の意を迎えるのはなかなか困難なものである。
三人の前に二切れの肉と玉ねぎといろいろな野菜の寄せ集め料理が現われたのには困った。
しかし、姉はそういつまでも不機嫌になっている人ではない。彼女はポワロ氏に向って、ジェームズは笑うけれども、自分は菜食主義だといってその場をつくろった。
食後ストーブの前に腰かけて煙草をくゆらしていると、姉が直接ポワロ氏に切りだした。
「ラルフの居所が、まだわかりませんの?」
「どこを探したらよろしいでしょうね」
「私は、あなたがあの人をクランチェスターでお見つけになったんだと思っていましたわ」
「クランチェスター? クランチェスターとはまた、どういうわけでございましょう」ポワロ氏は当惑したようにいった。
私はちょっと意地わるく、
「姉の情報局員の一人が、きのうあなたがクランチェスター街道を車で帰って来られるのを見かけたのだそうです」と説明した。
ポワロ氏の困惑が消えた。彼は大笑いした。
「ああ、あれは歯医者へ行った帰りですよ。じき痛みがとまったので、すぐ帰るつもりでしたのに、医者はどうしても抜くといってきかないので弱りました。抜きさえすればもう二度と痛まないと申しましてね」
姉はまるで針に刺されたゴム風船のようにしぼんでしまった。われわれはラルフのことをいろいろと話しあった。
「弱い性格ですが、決して悪人ではありません」と私は主張した。
「しかし、弱い性格は赴《おもむ》くところを知りません」とポワロ氏がいった。
「全くですわ、ジェームズがそのいい例です。この人はまるで水のように弱いから、私がついていなかったら、何をしでかすか知れませんよ」と姉がいった。
「姉さん、そういちいち私を引き合いにださなくてもいいでしょう」と、私はいらいらしていった。
「ジェームズ、あなたは実際に気が弱いことよ。私はあなたより八つ年上ですからね……ええ、かまいませんわ。ポワロさんに年のことを知られたって……」
「とてもそんなにはお見えになりません。全く想像もつかないことでございます」とポワロ氏はいんぎんにいった。
「とにかく私は八つも年長なんですから、あなたがまっすぐに成人するように注意するのは、自分の役目だと思っているんですよ。今だって、私が気をつけてあげていなかったら、あなたはどんな悪いことをしでかすか知れやしませんわ」
「そうでしょうとも。ことによると、美しい|したたか者《ヽヽヽヽヽ》と結婚したかも知れませんよ」私は天井に向って煙草の煙を吹きながらいい返した。
「したたか者といえば……」といいかけて、姉はふと言葉をきってしまった。
「何ですか」私は好奇心をそそられた。
「何でもありませんよ。ただ、じき近くにいる人のことを思いだしたからですよ」姉は急にポワロ氏に向って、
「ジェームズは、あなたが犯人は家族の中にいると見こみをつけていらっしゃるといっていましたが、もしそういう見こみなら、それは間違っていましてよ」といった。
「さア、私は間違いはしたくないと思いますが、……あなたのお考えは?」
「私は、かなりはっきりと事実をつかんでおりますのよ。ジェームズからも聞きましたし、その他からもいろいろと聞きこんでおりますんで。私の考えでは、万が一家族の中に犯罪を行う機会を持った人があったとすれば、二人しかないと思います。それはラルフとフロラです」
「姉さん、何をおっしゃるんです」
「ジェームズ、黙っておいでなさい。私は自分のいっていることを知っているんですから。パーカーはフロラが書斎から出て来たところを見ただけで、アクロイドさんがあの人におやすみというのを聞いたわけではないでしょう。だから、その時フロラは伯父さんを殺したのかも知れないといえますわね」
「姉さんたら!」
「ジェームズ、私は何もフロラがやったといっているんではありませんよ。やることができたかも知れないといっているんです。考えてごらんなさい、レイモンドさんもブラント少佐もセシル夫人も、みんな、アリバイがあるでしょう。それから、あのラッセルという女だって……そうなると、残るはフロラとラルフだけではありませんか。で、あなたは何というか知らないけれど、私はラルフが犯人とは決して信じませんよ、あの青年は小さな子供のころから、私たちの知っている子ですからね」
ポワロ氏はしばらくの間、だまって自分の煙草の煙を見あげていたが、やがて、不思議に印象的な、やさしい、夢みるような声で語りだした。それはいつものポワロ氏とは全く違った調子であった。
「われわれは、ごく普通の男を頭にうかべてみましょう。殺人なんていうことを、まるで考えたことのない男です。けれどもその男の胸には弱さが流れております。その男はそのまま行けば一生何事もなく終り、人々から尊敬されつつ安らかに墓場へ行きます。しかし、万一その男が何か機会にぶつかった時、たとえば、困難とか……あるいは人命にかかわるような秘密を偶然につかんだとします。最初その男は善良な国民としての義務をはたすために、それを公表しようと考えます。しかし、そこに金の誘惑があったために、彼の性格の弱さがものをいってしまいます。しかも莫大な金の誘惑です。しかも自分がだまってさえいれば、その金がころげこむ……はじめは、その程度だったのですが、最初のひとにぎりが彼をあくことを知らぬどん慾の淵に引き入れて行きます。彼は足許に口を開いた金鉱に酔いしれてしまい、止《とどま》るところを知らないことになります。ところで、相手が男の場合と違って女というものは、秘密をどうしても持ちこたえられないものです。世の中には妻を一生涯だましおおせて平気で秘密を墓場まで持って行ってしまう男がたくさんありますが、妻の方では夫を欺ききれないで、ついに自殺してまでも秘密を夫にぶちまけてしまうという例が多いのでございます。あまりに追いつめられると、窮鼠《きゅうそ》猫をかむのたとえのとおり、自ら死地に飛びこんでも、心の重荷をおろしてしまうものでございます。この場合もその例に洩れませんでしたろう。かくして金の卵を生む家鴨《かも》を殺してしまったことになりました。だが、それですべてが終ったのではありません。その男が次に直面しなければならなかったのは、事実の暴露です。ところで、その男はもはや一年前の男と同じではありません。一度道徳の垣を踏みこえた男は、やぶれかぶれです。己の滅亡を防ぐためには手段を選びません。そして、ついに短刀を突き刺しました」
ポワロ氏はしばらく沈黙した。まるで彼によって部屋の中に呪文《じゅもん》がかけられたようであった。私は彼の言葉が生みだした印象を説明することはできない。とにかく、そこに居合わせた者の胸に恐怖をたたきつけるように、容赦ない心理分析と、残忍なほど鮮明な光景を描きだす力を持っていた。
「後になってその短刀は抜きとられました。そして彼はまた平常のおだやかな人間に立ち返るでしょう。しかし、もしもふたたび必要が起これば、彼はもう一度短刀をつかむでしょう」とポワロ氏は、静かにいった。
姉はついにたまりかねて、
「あなたは、ラルフのことをいっていらっしゃるんですのね。あなたは正しいかも知れません。または、間違っているかも知れませんが、とにかく一言の弁明も聞かないで、罪をきめるって法はありませんわ」と叫んだ。
その時、電話の鈴《ベル》がけたたましく鳴った。私は廊下へ出て行って、受話機を取りあげた。
「何ですって? そうです、シパード医師です」といって、私は一、二秒話を聞いて、簡単に答えると、受話機をかけて客間へもどった。
「ポワロさん、怪しい男がリバプールで挙げられたそうです。チャールズ・ケントという名で、あの晩、アクロイド家へ行った男らしいから、私にすぐリバプールまで見に来てくれという警察の電話です」と私はいった。
チャールズ・ケント
それから三十分後に、私はポワロ氏を誘い、リバプール行の列車でラグラン警部と落ち合った。
警部は明らかにひどく興奮していた。
「ほかに得るところがないとしても、恐喝事件に関連して何か得るかも知れませんですな。電話で聞いたところによると、その男はなかなか強情な奴で、コカインをやっておるそうです。だが、われわれなら、わけなく泥を吐かせることができますよ。多少なりとも、動機があることがわかれば、アクロイド氏を殺した犯人と見て差し支えないでしょう。しかしそうなると、ラルフの失踪が意味をなさなくなるしどうにもすべてがこんぐらかっていて手がつけられない。それはそうとポワロさん、例の兇器の指紋ですがね。あれはやはりアクロイド氏のでしたよ。私も最初そんな気がしたのですが、どうもあまり|とっぴ《ヽヽヽ》すぎると思いましてね……」とラグラン警部は上機嫌で喋べりつづけた。
私は、ラグラン警部が巧みに面目をつくろったのを心ひそかに微笑した。
「リバプールの男ですが、まだ逮捕されたのではございますまいね」とポワロ氏がいった。
「いや、単に容疑者として拘留されただけです」
「で、その男は何と申し立てております」
「まだこれといって材料は上がっておらんようです。なかなかこすっからい奴で、悪態ばかり吐いておって何も吐かんらしいです」
リバプールに着いて、ポワロ氏が意外なほど歓迎されたのに驚いた。われわれを出迎えたヘイズ署長は、かつてポワロ氏の協力を得て、ある難事件を解決したことがあるとかで、口をきわめてポワロ氏を激賞した。
「ポワロ氏が出馬されたら、事件はすぐ解決しますとも。私はあなたがもう、引退されたものとばかり思っておりました」
ヘイズ署長は快活な調子でいった。
「そうですよ。私は引退いたしましたんですよ。だが、この引退と申すのは実に厄介なものでしてね。毎日、来る日も来る日も単調に暮すのは全くやりきれませんよ」
「それはそうでしょうとも。それであなたはわれわれの掘り出し物を見物においでになったんですね。こちらがシパード先生でいらっしゃいますね? あなたがその男の首実験をして下さるわけですな」
「はっきりできるかどうかわかりませんが……」と、私はあいまいな返事をした。
「どうしてその男を捕まえたのですか」とポワロ氏がたずねた。
「ご承知のように、人相書が配布されていましたし、それに警部新聞にもございましたし、まだ、何もわかっておりませんが、その男にはアメリカ訛があります。それにあの晩、アボット村の付近にいたことを肯定しております」
「私も一緒にその男に会わせていただけましょうか」とポワロ氏がいった。
「よろしいですとも、どうぞご自由に。この間、警視庁のジャップ警部に会いましたら、あなたのことをたずねておりましたっけ。何でもあなたがこの事件に内々で携《たずさわ》っておられると聞いたといっておりました。あなたはラルフがどこに潜伏しているかご存じなんでしょうね。それを聞かせていただけませんか」署長は如才なく質問した。
「さア、そういうことを今お答えしてよろしいものでしょうか……」ポワロ氏は巧みに回答をさけた。私は味をやるなと思って、唇にうかんで来た微笑をそっとかみ殺した。
それから間もなく、われわれは若者と会見した。彼は二十二、三歳の青年で、背が高く、やせていて、微かに手がふるえていた。一見して相当の腕力家であることがわかる。頭髪は濃い栗色、眼は空色で絶えず動いていて、相手の視線をまともに受けとめない。私はあの晩、誰かに似ていると思ったので、改めてこの若者に似た人物を思いだそうとしてみたが、全然そういう人物はうかんでこなかった。
「さア、ケント、立つんだ! お前に会いに来られたお客様だ。この中の誰かに見覚えないかね」と署長がいった。
ケントはぶっちょう面をして、われわれ三人を睨《にら》みまわしたきり答えなかった。彼の眼は三人を順々に見て行った後、ふたたび私の上にとまった。
「先生、どうです」と、署長は私をかえりみた。
「背丈は同じくらいですね。そのほか全体が問題の男らしく思われますが、それ以上私には証言できません」と私はいった。
「これはいったい何のことだ! おれが何したっていうんだ!」と、ケントはどなった。
「そうです。この男に違いありません。この声に聞き覚えがあります」と私はいった。
「おれの声に聞き覚えがあるって? どこで聞いたというんだ」
「先週の金曜日の晩、アボット村のアクロイド家の門のそばで、私に道をたずねたではないか」
「そうか!」
「お前はそれを肯定するか」と署長がたずねた。
「おれは貴様らが何のために、そんなことを聞くのか、その理由を知るまでは何も肯定しないぞ」
「君は近ごろ新聞を読まないのかね」
ポワロ氏ははじめて口を開いた。青年は眼を細めて、
「そうだったのか! あすこの家の老人が殺されたということは読んだが、貴様らはおれがやったことにしようっていうんだな」
「君はあの晩あすこへ行ったね」ポワロ氏は穏やかにいった。
「どうしてそんなことを知っている」
「これで知ったのだ」
ポワロ氏はポケットからだしたものを、青年の眼の前に突きつけた。それは離室《はなれ》で拾った羽の軸であった。
青年の顔色がかわった。彼は半ば手を差しだした。
「雪さ。だが、これは空《から》だ。あの晩|離室《はなれ》に君が捨てて行ったのを私が見つけたのだ」とポワロ氏は考え深い調子でいった。
「この|小さな外国の雄鴨《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》どんは何でも知っているらしいが、新聞にあの老人が殺されたのは、十時十五分前から十時までの間だって書いてあったのを覚えているだろうな」
ケントは半信半疑のようすでポワロ氏を見つめながらいった。
「そうだったですね」と、ポワロ氏は同意した。
「だが、ほんとうにそのとおりだったんかね。おれはそいつを知りたいんだ」
「それは、こちらの紳士が聞かせて下さるだろう」ポワロ氏はラグラン警部をかえりみていった。
警部はちょっとためらってヘイズ署長の方を見、ポワロ氏の顔を見てから、同意を得たように答えた。
「そのとおりだ、十時十五分前から十時までの間だ」
「そうときまりゃ、貴様らはおれを拘留しておく理由はないぜ。おれはあの晩九時二十分すぎにはあの家を出てしまっていた。『犬と口笛』へ行って聞いて見てくれ。そいつはクランチェスター街道のアボット村から一マイルも離れたところにある酒場だ。おれはそこでちょっとばかり人騒がせをやらかしたんだ。十時十五分前から十時までの間、おれは、あの家の近所なんぞ、うろついちゃいなかった。さあ、どんなもんだい」
ラグラン警部は何やら手帳に書きこんだ。
「さア!」と、ケントは相手の返事を要求した。
「調査する。もしお前のいったことが事実なら、何も文句はない。とにかく、お前はあの晩何しにアクロイド家へ行ったのだ」
「ある人間に会いに行ったんだ」
「誰だ」
「そんなことは貴様の知ったこッちゃない」
「お前、言葉を慎しんだらどうだね」と署長がたしなめた。
「言葉を慎しむなんて、くそ喰えだ! おれは自分の用事であすこへ行ったんだ。おれが殺人のある前にあの家を出てしまったのがわかりゃ、お巡りどもに用はないはずだ」
「君の名はチャールズ・ケントだね。どこで生れたのかね?」ポワロ氏がいった。
青年はポワロ氏を見つめていたが、にやにや笑いながら答えた。
「おれはこれでも生粋のイギリスっ子だぜ」
「そうだろう。私もそう思った。それに君の生れた土地はケント州だろう」ポワロ氏は探るようにきいた。
「なぜだい? おれの名がケントだからか? それが一体どうしたっていうのさ! ケントって名の奴はみんなケント生れだというのか、ふふん!」
「場合によってはね。君もその場合を知っているだろう」
ポワロ氏は落ちつきはらって答えた。
その調子に何か深い訳があるらしく聞こえたので、警察官たちは驚いてポワロ氏の顔を見た。ケントは、煉瓦のように真赤になって、今にもポワロ氏に飛びかかりそうなようすを示した。だが、彼は考え直したらしく、わざとらしい笑い声をあげて、横を向いてしまった。ポワロ氏は満足らしく、一人うなずいて部屋を出た。
一同が署長室へもどると、ラグラン警部が、
「あの男の陳述をたしかめましょう。嘘をついているとは思われないんですが、あの晩アクロイド家へ行って何をしたのか、それをはっきりさせる必要がありますな。どうもわれわれの求むる恐喝者らしく思われるです。と同時に彼の陳述を正しいものとすれば、彼は殺人に関係がないはずだ。とにかく逮捕された時十ポンドという大金を所持しておったそうだから、例の四十ポンドはあの男の手に渡ったものと見て差し支えないでしょうな。紙幣の番号が合っておらんが、それはどこかで替えたかも知れん。アクロイド氏は彼に金を渡した。それで彼は一刻もぐずぐずしておらんで、急いで立ち去ったに違いないと……しかし、ケント州生れというのは、取り立てて何か意味があるのですか」
「何でもありません。ほんの私の思いつきでございます。私の|ちょっとした思いつき《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》は有名なものですよ」とポワロ氏はおだやかに答えた。
「ほんとうですか」ラグラン警部は疑わしそうにポワロ氏の顔を見つめた。
署長は大声をあげて笑った。
「ジャップ警部もよくポワロ氏の|ちよっとした思いつき《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》のことをいっていたっけ! ひどく空想的に聞こえるが、その実ポワロ氏の場合は、実に意味深長なんだからね」
ポワロ氏は微笑しながら、軽く挨拶して往来へ出て行った。
私はポワロ氏とホテルで昼の食事をした。私はポワロ氏がもはや事件全体を見きわめてしまって、最後の糸をたぐるばかりになっていることを悟った。
しかし、その時はまだ私は事実に対して何らの疑念も抱いていなかった。私は彼の自信をみくびっていた。そして自分に謎となっていることが、ポワロ氏にも謎なのだとばかり思っていた。
その時の私のおもな謎は、チャールズ・ケントなる青年が、アクロイド家へ何の用で行ったのかということであった。私はいく度もこの質問をくり返してみたが、どうしても満足な答が出ないので、ついにポワロ氏にきいてみた。それに対するポワロ氏の即答は、
「わが友よ、私も知っているとは思わない」というのであった。
「ほんとうですか?」私は信じかねて問い返した。
「ほんとうですとも。たぶんあなたは、もしも私が、あの男はケントで生れたから、あの晩、アクロイド家へ行ったのだと申し上げても、その意味がおわかりにならないでしょうね」
私は彼の顔を見つめた。
「私にはてんで意味がわかりませんね」
「ああ、そうでしょうね。まあ、とにかく私にはちょっとした思いつきがあるんですよ」と、ポワロ氏は私を憐れむようにいった。
フロラ嬢
翌朝、往診をすまして帰ってくる途中で、ラグラン警部に呼びとめられた。私が車を歩道によせると、警部はステップに足をかけて、
「シパード先生、お早う。あの男のアリバイは十分でしたよ」といった。
「チャールズ・ケントのですか」
「そうです。『犬と口笛』の女給サリーが、あの男をはっきり覚えていて、五人の写真の中からちゃんとケントのを見わけたわけです。あの男が酒場へ行ったのは、ちょうど十時十五分前だといいますし、『犬と口笛』はアクロイド家から一マイルはたっぷりあるですからね。女給はケントがかなりの金を持っていて、ポケットから紙幣束《さつたば》をつかみだしたのを見たといっておるのです。やぶれた靴をはいているような男が、そんなに金を持っていたんで、びっくりしたというわけでね。これで例の四十ポンドの行方がはっきりしたというもんですよ」
「で、男は相変らずアクロイド家へ行った目的を語るのを拒んでいるのですか」
「まるで騾馬《らば》みたいに強情な奴だそうですよ。今朝リバプールのヘイス署長とちょっと電話で話したんですがね」
「ポワロ氏は、あの男があの晩アクロイド家へ行ったわけを知っているといっていましたっけ」
「ほんとうですか」警部は熱心に聞きかえした。
「ポワロ氏は、あの男はケント州で生れたから、あの家へ行ったのだというのです」私は自分にわからなかった謎を、相手に引き渡してしまう快感をはっきりと味わった。
ラグランはしばらく腑に落ちない顔をして、私を見つめていたが、やがて、鼬鼠《いたち》のような顔に冷笑をうかべて、自分の額をたたきながら、
「奴さん、ここがちょっとどうかしておるですね、どうもそうらしいと思っていたんですよ。可哀そうにそれで引退してこの村へやって来たんですな、どうもそういう血統らしいですよ。あの人の甥《おい》に一人おかしなのがいるってことですよ」
「ポワロ氏にそんな甥があるんですか」私は驚いていった。
「あの人は先生に話さんでしたか、おとなしそうですが、ひどい気違いだっていう話ですよ」
「誰からそんなことを聞きました」
「先生のお姉さんから聞いたんですよ」警部はにやにや笑いながらいった。
全く姉には驚いてしまう。彼女は誰の家庭の秘密でも、どん底まで嗅ぎださずにはおかない。不幸にして私は、姉にそれらの秘密を胸ひとつに納めておかせる能力を持ち合わせていない。
「まア、お乗りなさい。これからポワロ氏のところヘケントの消息を知らせに行きましょう」
といって、私は警部のために車のドアをあけた。
「とにかく、あの爺さんは気違いかも知れませんが、あの指紋の件などは、なかなか役に立ったですよ。ケントについて何か空想をたくましゅうしておるらしいから、会ってみたら案外役に立つようなことをいうかも知れんですな」
ポワロ氏はいつものように微笑をうかべて、いんぎんにわれわれを迎えた。彼はわれわれがもたらした情報に耳をかたむけながら、時折うなずいていた。
「一マイルも先の酒場で|くだ《ヽヽ》をまいていた男が、同時刻に人殺しをすることができんのは、わかりきっておるですからね」とラグラン警部はがっかりしたようにつけ加えた。
「では、ケントをすぐに放免するのですか」ポワロ氏がたずねた。
「それよりほか仕方ないでしょうな。現金を身分不相応に持っておるというだけの理由で、これ以上拘留しておくわけにはいかんですから」
警部は煙草に火をつけて、マッチの燃えさしを炉辺にたたきつけた。ポワロ氏はそれを拾って、きちんと吸殻入れへ入れた。その動作はきわめて機械的で、彼はぜんぜん違うことを考えているらしかった。ややしばらくしてから、ポワロ氏は、
「もしも私があなたでしたら、まだケントを放免しないでおきますね」と、思いだしたようにいった。
「それは、どういう意味ですかね」警部は眼をみはった。
「ケントを放免するのはまだ早いというのですよ」
「あなたは、まさかケントが殺人に関係があると考えておられるんじゃないでしょうな」
「そうではないかも知れませんが、まだ、どうともはっきりしておりませんですから」
「しかし、今も話したとおりの事情で……」といいかける警部を、ポワロ氏は手をあげて制しながら、
「まアお聞きなさい。私はありがたいことに、聾《つんぼ》ではありませんから、あなたのお話はよく聞きましたよ。しかし、あなた方は、間違った方向からこの事件に近づこうとしていらっしゃるのではないでしょうか」
「どうも呑みこめんですな。さっきもいったように、アクロイド氏は十時十五分前にはまだ生きておったんですぜ。あなたもそれは認めたはずだが」警部は穴のあくほどポワロ氏を見つめた。
ポワロ氏はちょっとの間、相手の顔を見守っていたが、急に微笑をうかべて頭をふり、
「私は証拠をつかまないうちは何事も承認いたしません」
といった。
「十分な証拠があるではないですか。フロラ嬢の証言が」
「フロラ嬢がアクロイド氏に『おやすみなさい』をいったということですか? 私は日ごろから若いお嬢さんのおっしゃることは信じないのです。たとえ魅力のある美しいお嬢さんでも」
「しかし、パーカーはフロラ嬢が書斎から出て来るところを見たではないですか!」
「いや、違います! パーカーは見ておりませんでした。私はその点を先日のちょっとした実地検証でたしかめたのです。先生もあの時のことをご記憶でいらっしゃいましょうね。パーカーはフロラ嬢が片手をハンドルにかけて戸の前に立っておいでのところを見ただけです。令嬢が書斎から出てこられるところを見たわけではございません」
ポワロ氏は激しい語調で一気にのべた。
「それでは、フロラ嬢はどこに行っていたというんです。書斎よりほかに行きようはないではないですか」
「たぶん、階段だったでしょう」
「階段?」
「さよう……それが私のちょっとした思いつきなのです」
「あの階段はアクロイド氏の寝室よりほかに行けないわけですがね」
「そのとおり」
「あなたはフロラ嬢がアクロイド氏の寝室に行ったのだと考えるんですか、そりゃそうかも知れんですな。だが、それなら何も嘘をつくことはない」警部はなおもポワロ氏の顔を見つめながらいった。
「そこが問題です。伯父の寝室に何の用で行ったか? それを考えてください」
「あなたのいう意味は……金ですか? まさかあなたは例の四十ポンドをフロラ嬢が取ったのだなんて、仄《ほの》めかしておるんじゃないでしょうな」
「私は何も仄めかしなどしておりません。それよりも、まあお聞きなさい。あの母娘にとって生活は決して楽ではありませんでした。いろいろと買物があったでしょうが、あの婦人たちは細細《こまごま》とした金でいつも面倒な目にあっていました。アクロイド氏は金の問題になると妙にやかましい人でしたから、若い娘さんにとって、どんなに人知れぬ苦心があったか知れません。その結果を想像してごらんなさい。彼女は伯父の寝室に忍びこんで、金を持って階段をおりて来ました。すると途中まで来た時に、廊下のはずれにグラスのかちあう音が聞こえたので、パーカーが書斎へやってくるのに違いないと思いました。彼女としては何としても階段にいるところを見られてはならないのでした。パーカーはきっと変に思い、忘れないでいるでしょう。もし金の紛失が発覚すれば、パーカーは、彼女が階段をおりてくるのを見たことを、きっと思いだすにきまっております。だが、彼女は、書斎の前まで駆け寄るだけの間がありました。そして、片手をハンドルにかけて、パーカーが現われた時、ちょうど書斎から出てきたように見せかけました。彼女はとっさに、その夕方アクロイド氏のだした命令をくり返していいました。そして自分の部屋へ行く階段をのぼって行ったのです」
「しかし、それならなぜ、そのことをいわなかったのですか、事実の真相を明らかにすることが、この事件にとってどれほど大切であるか令嬢は承知のはずではないですか」
と警部は反駁した。
「フロラ嬢としては、のっぴきならぬ羽目になったのでしょう。最初は伯父が殺されたとは知らなかったので、警官に盗賊が入ったのだと聞かされて、てっきり例の金の紛失が発覚したと思いこんだに違いありません。それで、パーカーにいった嘘を警官の前でくり返してしまったのです。彼女は伯父の死んだことを知って、気が顛倒してしまったのです。しかも近ごろの若いご婦人は、よほど深い原因がないかぎり、伯父の死を聞いたぐらいで気絶したりいたしません。さて、フロラ嬢は最後まで嘘をつき通すか、あるいはすべてを告白するよりほか道がなくなったのです。けれども、若い美しい令嬢には、自分が盗んだと告白する勇気がなかったのです。特に、自分を高く評価していてくれる人の前では」
ラグラン警部は、拳骨でテーブルをたたいて、
「そんなことは信じられんですな……全く信じられん……で、あなたはずっとそんなことを考えていたんですか」
「そういうことはあり得ると、私は最初から考えておりました。私はフロラ嬢が何か私どもに隠しておいでなのに気づいておりました。それをたしかめるために、先日シパード先生にお立会い願って実地検証を行ったのです」
「あの時、ポワロさんはパーカーを調べるのだといっておられましたね」私は、詰《なじ》るようにいった。
「あの時も申し上げましたように、何とかいっておかねばなりませんでしたからね」ポワロ氏は弁解するようにいった。
警部は立ち上がって、
「さて、そうなるとこれからすぐに行ってフロラ嬢を取っちめにゃならん。ポワロさんも同行して下さいますな」
と宣言した。
「よろしゅうございます。シパード先生の車に乗せていただきましょう」
私は喜んでこれに応じた。
フロラ嬢に面会を求めると、われわれは撞球室へ案内された。
フロラ嬢はブラント少佐と、窓ぎわの長椅子に腰をかけていた。
「お早うございます。お嬢さん、実は内々であなたにたずねたいことがあるんですがね」と警部がいうと、ブラント少佐はすぐに立ち上がって戸口の方へ歩きかけた。すると、フロラが呼びとめた。
「ブラント少佐、お行きになさらないで下さいまし。少佐にいていただいてもかまいませんでしょう?」
フロラは警部をふり返ってたずねた。
「それはご自由ですがね。職務上二、三、突っこんだ質問をせにゃならんので、おそらくお嬢さんも人払いした方がいいと思うでしょうな」と警部はずけずけといった。
フロラはラグラン警部の顔をじっと見つめた。彼女の顔が青ざめて来た。彼女はブラント少佐に向かって、
「私、あなたに、ここにいていただきますわ。警部さんがどんなことを私におっしゃろうとも、私、全部あなたに聞いていただいた方がいいと思いますの」
ラグラン警部は肩をすくめた。
「そういうご希望なら、ここでやりましよう。さてお嬢さん。ポワロ氏は私にあることを仄めかしたのであります。ポワロ氏は、先週の金曜日に、あなたは、書斎には入らなかった。アクロイド氏におやすみをいいもしなかったし、会いもしなかった。あなたは書斎ではなく、アクロイド氏の寝室に通じる階段にいた時に、パーカーが広間を抜けて書斎の廊下へ近づいてくる音を聞いたのだろうということを仄めかしたのですがね」
フロラの視線がポワロ氏に移った。老人はうなずいて見せて、
「お嬢様、先日、テーブルを囲みました時、私は何でも正直に打ち明けていただきたいとお願いいたしましたね。そして、ポワロ小父さんに隠しておいても、どうせ探りだしてしまいますと申し上げましたね。そのとおりでございましたでしょう? いかがです? お嬢様のおっしゃりにくいことを私が申し上げましょう。あなたはお金をお取りになりました。そうでございましょう?」
「金だって!」ブラント少佐がむっとして叫んだ。
水をうったような沈黙がつづいた。やがてフロラが決心したように立ち上がって語りだした。
「ポワロさんのおっしゃるとおりです。私はお金を取りました。私は盗んだのです。私は盗人です、ええ、ごくありふれた小泥棒です。これで皆さん、おわかりになったでしょう。私は真実のことが明るみに出て、かえってせいせいしました。この数日間、このことが悪夢のように私を苦しめていました」
彼女は急に腰をおろして、両手で顔をおおった。そして指の間からかすれた声で語りつづけた。
「あなた方は、私どもがここへ参ってから、どんな生活をしたか、おわかりにならないでしょう。いろいろと欲しいものはたくさんある。それを手に入れるために口実をもうけ、嘘をつき、人を瞞し、商人の支払いはかさみ、来月は来月はと、商人にいいわけをいって暮して来たのです。考えるだけでも、ぞっとします。ラルフと私を結びつけたのも、こんなことが原因でした。私たち二人とも気が弱かったのです。私はラルフの困っている境遇に同情しました。自分が同じ立場にいたからでございます。私どもは弱くて自分の意志で立っていけなかったのです。二人ともみじめで、無力だったのです」
フロラは、ふとブラント少佐を見あげて、じれったそうに、
「何だってそんなふうに私をごらんになるの? まるで私のいうことが信じられないというように。私は泥棒です。でも、今こそ真実の私になりました。私はもう嘘をつかなくてもいいのです。私はあなたの考えていらっしゃるような若くて無邪気で純な娘のふりをしなくてもいいのです。あなたがもう二度と私の顔を見たくないとお思いになってもかまいません。私は自分を憎んでおります。いやしめております。でもたった一つ信じていただきたいことがございます。それはもし、私が真実のことをいう方がラルフのためになるのでしたら、もっと早くこのことをいいましたわ。けれども、真実のことをいえば、なおラルフの嫌疑が濃くなると思いましたから、黙っていたのです」
「ラルフですか! いつもラルフ、ラルフですね」と、ブラント少佐はいった。
「あなたにはおわかりにならないのね。決してわかって下さらないんですわ」
フロラは怨《うら》めしげにいった。それからもう一度ラグラン警部に向かって、
「私、何もかも肯定します。私はお金に困っていましたのです。私はあの晩は食卓を離れて後、一度も伯父に会いませんでした。お金のことについては、どんな処置でもお取りになって下さい。もうこうなれば私、何だって平気ですわ」といってしまうと、彼女は急に湧き溢れて来た涙をおさえて逃げるように部屋を出て行った。
「やっぱりそうだったのか」ラグラン警部は気の抜けたような声でいった。彼はどうしていいのか途方にくれているようすであった。
ブラント少佐がつかつかと警部の前にすすみ出た。
「ラグラン警部、あの金はある特別の用途のため、アクロイド氏から私が受け取ったのです。フロラ嬢はラルフ君をかばうために、ああいう虚偽の自白をされたのです。事実はいま私が申し上げるとおりです。私は証人席に立つことも辞しません」といい終って、少佐は部屋を出て行こうとした。ポワロ氏がすぐその後を追って、
「少佐、ちょっとお待ち下さい」
少佐はいらいらしたようすで立ちどまり、
「何ですか」といって、眉間に皺をよせてポワロ氏を見おろした。
「私は少佐の作り話にはだまされません。決してその手にはのりませんよ。金をとったのはフロラ嬢であることに間違いございません。だが、あなたのフロラ嬢をおかばいになる精神はりっぱでございます」と、ポワロ氏は早口にいった。
「私はあなたのご意見には、少しの興味も持っておりません。失礼をさせていただきます」と冷やかにいって、ブラント少佐は部屋を出て行こうとした。
ポワロ氏は少しも感情を害したようすもなく、少佐の腕に手をかけて引きとめた。
「お待ち下さい。私の申し上げることもお聞き願いたい。私にはもっと申し上げることがございます。先日私は皆さんが何かしら隠しておいでになると申し上げましたが、私はあなたが何を隠しておいでになるか、よく存じております。あなたは、フロラ嬢を愛しておいでになる。フロラ嬢を一目見た瞬間から……そうでございましょう? どうぞあからさまに、こういうことを申し上げる非礼をお許し下さい。イギリスでは、どうして恋愛を何か不名誉な秘密ででもあるように隠しておかなければならないのでございましょうか。あなたはフロラ嬢を愛していらっしゃる、それをあなたは一生懸命に隠そうとしていらっしゃる。それもよろしいでしょう。けれども、この、ポワロの忠告に従われて、そのことをフロラ嬢にだけはお明かしになる方がよろしゅうございますぞ」
ブラント少佐は落ちつかないようすで、もじもじしながらポワロ氏の言葉を聞いていたが、最後の結びの言葉は、彼に釘を一本うちこんだらしかった。
「それはどういう意味なのですか」と少佐は、鋭くきき返した。
「あなたはフロラ嬢がラルフ君を愛していると考えておいでですが、ポワロはそうは考えません。フロラ嬢は、伯父の意を迎えるためと、どうにもたえきれなくなった現在の生活から遁れるために、この結婚を承知したのでございます。フロラ嬢はラルフ君を好きではありましたろう、二人の間には十分な理解と同情がございましたでしょうが、恋愛というものではありませんでした。フロラ嬢が愛しているのはラルフ君ではございません」
「それはどういう意味なのですか」ブラント少佐は日焦けした顔を赤らめていった。
「少佐よ、あなたは盲目でいらっしゃる。あの可愛らしいお嬢さんは、信義を重んじていらっしゃるのです。ラルフ君に嫌疑がかかっている間は、ラルフ君に味方するのがフロラ嬢の正義観なのです」
「私の姉もそういっていましたよ。フロラはラルフを爪ほども愛していないといっていました。姉のいうことは不思議にあたるのです」と、私は少佐を励ますようにいった。けれども、少佐は私の言葉などには耳もかさないで、ポワロ氏に話しかけた。
「あなたはほんとうにそうお思いになりますか……」といいかけて、少佐は黙ってしまった。
彼は自分の思っていることをうまく言葉にあらわし得ない、いわゆる口べたに属する人物である。
ポワロ氏はそんなことの不得手な人間があるとは知らないで、
「もし私の申し上げることをお疑いになるのでしたら、お嬢様にご自分でおたずねになったらよろしい。それとも、こんな金の事件などあったから、もうそんな気はなくなったとでもおっしゃいますか」といった。
ブラント少佐は怒ったような笑い声をあげて、
「私がそんな人間だと思うんですか。ロージャーは実際、金のことになると、妙にやかましい男でした。フロラ嬢はそんなに困っていながら、現在の伯父に打ち明けることもできなかったなんて、実に気の毒なことでした。ほんとうに可哀そうに!」
ポワロ氏は考えこみながら、横手の戸口に眼をやって、
「フロラ嬢は、きっと庭でしょう……」とつぶやいた。
「私は無類の大ばかでしたよ。まるでデンマークの芝居みたいに、とんちんかんな会話ばかりしていました。だが、あなたは有徳の士だ、ポワロさん! どうもありがとう」
少佐は、がっしりした手をのばして、ポワロ氏が顔をしかめるほど強く握手してから、庭へ出て行った。
ポワロ氏は痛む手をさすりながら、
「無類の大ばかなんていうことはない。恋の捕虜《とりこ》となった大ばかですわい」と、愉快そうにつぶやいた。
ラッセル嬢
ラグラン警部は、しょい投げを喰わされてしまった。彼だってわれわれと同様にブラント少佐の義侠心から出た嘘にはだまされなかった。村へ帰る途中、彼は愚痴をこぼしつづけていた。
「これですべてが引っくり返された。ポワロさん、あなたは前からそれに気がついておったんですか」
「そうですね、気がついておりました。はい、気がついておりましたとも。かなり前から私はその考えを持っておりましたんですよ」と、ポワロ氏はいった。
その考えにようやく三十分ばかり前に到達したばかりの警部は、情けない顔をしてポワロ氏を見つめていた。
「皆のアリバイが全部役に立たなくなってしまったのですよ、すっかり駄目になってしまった。もう一度やり直さにゃならん。九時三十分以後、皆が何をしておったか調べるんだ。九時三十分と、こいつにしっかりと喰いさがらにゃならん。ケントに対するあなたの見解はまさに正しかったですね。われわれはまだあの男を放免しないでおいたです。さてと、九時四十五分に『犬と口笛』にいたとすると、走れば十五分くらいで行けるわけだな。レイモンド君が聞いた声はケントだったかも知れない。例のアクロイド氏に金の無心をして断わられていた男は……だが、一つだけ明らかなのは、電話をかけたのはケントでないことだ。駅は半マイル反対の方向だし、『犬と口笛』からだと一マイル半も離れているんだから、十時十分まで酒場にいたとすれば……畜生! このくそ電話め! どうもこの電話が邪魔になってならない!」
「全くですよ、不思議なことです」と、ポワロ氏もそれに同意した。
「ラルフ君が窓から書斎へ入って伯父の死骸を見つけたとしますね。そうしたら、ラルフ君が電話をかけたかも知れんですぜ。当然自分に嫌疑がかかると思って、その場から高飛びしてしまったということは、あり得るんじゃないですか」
「なぜラルフ君は電話をかけましたでしょう」
「老人がほんとうに死んだかどうか|ふたしか《ヽヽヽヽ》だったんで、できるだけ早く、医者をやって診させたかったんでしょうな。だが、自分は巻きこまれたくないというわけだ。どうです、この推理は? 相当なもんじゃないですかね」警部は胸をはって得意げにいった。彼はすっかり自分の説に満足してしまっていたから、われわれが何かいったって、どうせ耳もかさなかったろう。
ちょうどその時家へついたので、ポワロ氏とラグラン警部は警察署へ歩いて行き、私自身は長い間待たせてあったたくさんの患者を診察するために、医務室へとびこんだ。
最後の患者を帰してしまうと、私は仕事場と称する奥の小さな部屋に閉じこもった。私は自分の手製の無線電信器を自慢にしていた。姉は私の仕事場をきらっていた。私は自分の道具類をそこにおいておくので、女中に部屋の掃除をさせなかった。私が故障して役に立たないといって放りだしてあった目覚時計を解体して修理にかかった時、急に戸があいて、姉がのぞきこんだ。
「ジェームズ、やっぱりここにいたのね! ポワロさんがあなたに会いたいんですって」
私は姉の不意うちにびっくりして、こまかい機械の部品を取り落したので、少し不機嫌になった。
「会いたいっていうなら、ここへ連れていらしたらいいでしょう」
「ここに?」
「いいじゃありませんか」
姉は不賛成らしく、鼻で返事をして引っこんだが、間もなくポワ口氏を案内してくると、戸を叩きつけるように閉めて、引っこんだ。
「こんなところに雲隠れしてらっしゃいましたね。だが、まだそうやすやすと暇はさしあげられませんよ」ポワロ氏は手をもみながらいった。
「ラグラン警部の方のご用はおすみですか」
「今のところ用はありません。それより先生はいかがです。もう患者はすっかりすましておしまいになりましたか」
「はア、全部すましました」
ポワロ氏は椅子に腰をおろすと、卵のような頭を一方にかしげて、何かすばらしい冗談に興じているようなようすで、
「先生、それはお間違いでしょう、まだ患者が一人残っておりますよ」といった。
「あなたがどこかお悪いのですか」
「いや、私はごらんのごとく健康そのものでございます。実を申しますと、私のちょっとした陰謀なのでございます。私はある婦人に会いたいのですが、私の家ですと世間の口がうるさい。そこで先生に一つ粋《いき》をきかしていただいて、こちらの診察室でひそかに会わせていただきたいというわけでございます。その婦人は前に一度先生の診察をうけに参ったことがございます」
「ラッセル嬢ですか?」
「そのとおり。いろいろと話し合いたいことがございますので、今日手紙を届けて、こちらで落ち合うように約束しましたんですが、ご異存はございますまいね」
「結構ですとも。つまり私も立ち合わせて下さるというわけでございますね」
「それはもう当然でございます。あなたの診察室なのでございますから」
「とにかく全体が非常にこみ入った筋書ですね。まるで万華鏡のようにあなたが一振りするたびに、ぜんぜん違った新事実が展開してくるんですからね。ところで、あなたは今度はまたどういうわけで、そんなにラッセル嬢に会いたがっていらっしゃるのですか」と、私は手にしていたピンセットを投げだしてたずねた。
ポワロ氏は眉をあげて見せて、
「そのわけは明白この上なしではございませんか」とつぶやいた。
「またそれだ。あなたに取ってはすべてが明白かも知れませんが、私はいつでも霧の中を手探りという次第です」と私は不平をいった。
ポワロ氏は快《こころよ》げに頭をふって、
「ご冗談おっしゃってはいけません。先生こそ何もかもご承知のくせに! 一例をあげますと、フロラ嬢の件など、ラグラン警部はあんなに驚きましたが、先生は落ちつきはらっておいでになりましたではありませんか」
「私はフロラ嬢が盗んだなんていうことは夢にも思いませんでした」と私は抗議した。
「あるいはそうかも知れません。しかし、私は先生のお顔を観察しておりましたが、ラグラン警部があんなにびっくりして信じきれないであわてておりましたのに、先生のお顔には少しもそういうところが現われませんでした」
私はちょっと考えた後、
「あなたのいわれるとおりかも知れません。私はフロラ嬢が何か隠しているだろうと感づいていましたから、ああした真相が現われても、無意識に予期していたことだったのでしょう。ほんとうにラグラン警部の驚きようってありませんでしたね」
「全くでございましたね。お気の毒に、あの方は考え方をすっかり変更しなければならなくなりましたからね。私はあの方の気が顛倒《てんとう》しているところにつけこんで、いいことを納得させてしまいました」
「どんなことです」
ポワロ氏はポケットから何か書いた紙片を取りだして、声をあげて読んで聞かせた。
「去る金曜日、アクロイド氏の変死以来、行方厳探中のラルフ・パトン(アクロイド氏の甥)は、アメリカヘ高飛びの目的にて、リバプール港付近に潜伏中のところを本日官憲の手によりて逮捕されたり」彼は読み終るとそれをたたんで、
「この記事が明日の新聞に出ます」といった。
私はあきれ返ってポワロ氏の顔を見つめた。
「しかし……しかし、それは真実ではありません。ラルフ君はリバプールにはいなかったでしょう」
ポワロ氏はにこにこしながら、
「そのとおり、あなたはすぐに見透しておしまいになる。リバプールで逮捕されたなんて虚報です。ラグラン警部は私がこれを新聞紙上に発表すると申しましたら、ひどく反対いたしました。ことにその理由を私が明らかにしませんでしたので、よけいに不服だったのでしたが、これが新聞に出ると、大そう面白い結果が生ずるからと説き伏せ、結局、ラグラン警部には決してこの記事の責任は負わせないということで承知させましたんです」
私がポワロ氏の顔を見つめていると、ポワロ氏は微笑してうなずいた。私はついに、
「私は負けましたよ。いったいあなたはそれからどんな結果を得るつもりなのですか」ときいた。
「そこはあなたの脳細胞をお働かせにならなくては」と、ポワロ氏はまじめな調子でいった。
そして立って来て、私のいじっていた細々した機械の部分品をのぞきこんで、
「あなたは機械類をほんとうにお好きだと見えますね」といった。
誰でもそれぞれ何か道楽を持っているものだ。私はさっそく自分で組み立てた無線電信器を見せた。ポワロ氏が非常な興味を示したので、私は得意になって、たいしたものではないが、家庭に便利な二、三の発明品をだして見せた。
「これはたしかに、あなたは医者におなりになるよりも発明家になられた方がよろしゅうございましたね。ああ、呼鈴が鳴っております。あなたの患者が来たらしゅうございますから、診察室へ参りましょう」
私は前にも、ラッセル嬢の顔に残っている美にうたれたが、今朝はまたそれを新たにした。飾りのない黒い服を着て、背がすらりと高く、相変らず誰にもたよらない、しっかりとしたようすをして、黒い大きな瞳をもち、いつも青白い頬に今日は紅をさしてある。若いころは定めしすばらしい美人であったろう。
「お早うございます。どうぞおかけ下さい。シパード先生がご親切にこの診察室を使うことをお許し下さいましたから、ゆっくりお話しいたしましょう。ぜひいろいろとあなたに伺いたいことがございますので」ポワロ氏がいった。
ラッセル嬢はいつものように落ちついたようすで椅子に腰かけた。内心不安を感じていたかも知れないが、表面には少しもそんな色は見せなかった。
「わざわざこんなところでお目にかかるなんて、ずいぶん妙なことですわね」と彼女はいった。
「ラッセルさん、あなたにお聞かせするニュースがございます」
「そうでございますか」
「チャールズ・ケントがリバプールで逮捕されました」
彼女は顔の筋一つうごかさなかった。ただこころもち眼を大きくして、
「それがどうしたというのでございますか?」と、少し突っかかるようにいった。
その時、私はふとケントの顔に見たと同じ表情が、彼女の顔にうかんだのを見た。それはここのところずっと私が思いだそうとして思いだし得ないでいたことである。二つの声とも、一つは荒々しく下品で、一つはひどく上品でやさしいが、その調子に不思議に共通したものがあった。私があの夜アクロイド家の門の近くで聞いた声が誰かに似ていると思って、しきりに考えていたのだが、今それがラッセル嬢に似ていたことに気がついた。私が自分の発見に満足してポワロ氏を見ると、氏も目立たぬようにうなずき返した。
ラッセル嬢の反問に対して、ポワロ氏はフランス式に両手をひろげて見せて、
「あなたが興味をお持ちになるでしょうと思いましたのです」と、穏やかにいった。
「たいして興味はございませんわ。チャールズ・ケントとは何者でございます?」
「それは、殺人のありました晩にアクロイド家へ来た男です」
「そうでございますか」
「幸いその男のアリバイは立ちました。十時十五分前には、この村から一マイルはなれた酒場におりました」
「それは運がようございましたわね」
「ところで、私どもはまだその男がアクロイド家で何をしていたのかわからないのです。たとえば、誰に会いに行ったかということもはっきりしないのです」
「ああ、そのことでございますか。それならば私、何のお役にもたてませんわ。私の耳にはそんな噂は一つも入っておりませんから」
といって、彼女は立ちあがる気配を見せたが、ポワロ氏は、それをおし止めて、
「ところが今朝になって新事実があがりましたのです。アクロイド氏が殺されましたのは、十時十五分前から十時までの間ではなく、それ以前ということになりました。つまりシパード先生が帰られてから、すなわち九時十分から十時十五分までの間に何者かがアクロイド氏を刺したということになりますのです」とポワロ氏はゆっくりといった。
私はラッセル嬢の頬からさっと血の気がひいて死人のような蒼白い顔になるのを見た。彼女はぐらぐらして来たからだを支えるように前へかがんだ。
「でも……お嬢さまが……お嬢さまがおっしゃいましたわ……」
「フロラ嬢は嘘をついていたのだと自白なさいました。令嬢はあの晩、一度も書斎へお入りにならなかったのです」
「そういたしますと?」
「そうなりますと、私どもの求むる犯人は、チャールズ・ケントではないかということになります。ちょうどその時刻にあの邸宅へ行って、しかも、どういう目的で行ったかということを明らかにできないでおりますから……」
「何をしていたか、私が申し上げることができます。あの人はアクロイド様の髪の毛一本にも触れませんでした。決して書斎の近所へも参りませんでした。あの人がしたのではないことは私が証言いたします」
彼女の鉄のような自制心も、ついにくずれてしまった。彼女の顔には恐怖と絶望がうかんで来た。
「ポワロさん……ポワロさん、どうぞ私をお信じ下さいませ」
彼女は危うく倒れそうになった。
ポワロ氏は立って行って彼女の肩をなだめるように軽くたたきながら、
「それは信じますとも、……信じますとも、……そのかわり真実のことをすっかりお聞かせいただかなければなりません」といった。
ちょっとの間、彼女の顔に疑惑の影がさした。
「あなたのおっしゃることは真実でございましょうか」
「チャールズ・ケントが殺人の容疑者だと申し上げたことですか? そのとおりです。けれどもあなたはケントを救うことがおできになります。あの晩、何をしにアクロイド家へ行ったのかはっきりしさえすればよろしいのですから」
「あの人は私に会いに来たのでございます」と、彼女は低い声で早口にいった。
「で、私が会いに出て行って……」
「離室《はなれ》でお会いになったのですね。それは私も存じております」
「どうしてそれをご存じですの」
「いろいろなことを知るのがポワロの役目でございます。私はあなたがあの晩早く、離室《はなれ》へ書付をおいていらしたのを知っております。あなたは夜、何時にそこへ行くということを書いておおきになったのです」
「そうでございます。私はケントが訪ねてくるという手紙をよこしましたから、家の人たちに知られたくないと思いまして、あの離室《はなれ》へ来るように、前もって手紙に図面を書いてやりました。けれども万一、私の行くまで待っていてくれないようなことがあっては困ると思いまして、九時十五分ごろに行くからと書いておいて参りました。その時、奉公人たちに見られないように、客間のフランス戸をぬけて戻って参りましたので、戸口のところでシパード先生にお目にかかったのでございます。私は離室《はなれ》から走って来て、呼吸《いき》をきらせておりましたから、きっと先生は変にお思いのことと存じました」
「それから? あなたは九時十分すぎに離室《はなれ》でケントにお会いになったのですね。そして、あなた方はどういう話をなさいました」
「それは、どうも……」
「こういう場合ですから、すっかりおっしゃって下さい。あなたのお話しになることは、決してこの部屋から外へ洩れません。シパード先生も私も秘密は厳守いたします。チャールズ・ケントはあなたの息子さんでしょう。そうじゃございませんか」
彼女は真赤になって、うなずいた。
「これは誰にも知られていないことでございます。ずっと昔、私がケント州におりました頃のことでございます。私は正式に結婚いたしませんでしたので……」
「それで、あなたはその土地の名を息子さんの苗字になすったのですね」
「私は働いてあの子を養いました。私は決して自分が母親であることをあの子に話しませんでした。そのうちにあの子はお酒を飲むことや、麻薬を用いることを覚えて、手におえなくなりましたので、旅費をこしらえてカナダヘやってしまいました。それから二年ほど音信がございませんでしたが、あの子はどこからか自分の身許を探りだして、私が母親であることを知ってしまい、たびたびお金の無心をして参りました。そのうちにこちらへ帰って来て、私に会いにくると申して参りました。私は自分の過去が明るみへ出ましたら、もはや家政婦としての地位を保って行くことができなくなりますから、どうしても公然とあの子を家へ迎えるわけには参りませんでした。それで、離室《はなれ》で人目をさけて会ったのでございます」
「それでは、あの朝シパード先生のところへいらしたのは、どういうわけでした」
「何とかして麻薬の中毒から救う方法がないかと思ったからでございます。あの子は麻薬を用いない前は、それほど悪い子ではなかったのでございます」
「なるほど。では、本筋へ戻りましょう。で、ケントはあの晩|離室《はなれ》へ来ましたか?」
「はい、私が参りました時に、もう来て待っておりました。あの子はたいへんに不機嫌で荒っぽくなっておりました。私は自分のところにあっただけのお金をみんな持って行って、あの子にやりました。私どもはほんのちょっと話をしただけで、じきにあの子は帰って行ってしまいました」
「それは何時でした」
「たぶん九時二十分か二十五分ごろだったろうと存じます。私が家へ戻りました時には、まだ半にはなっておりませんでしたから」
「どっちの道を帰って行きましたか」
「来た時と同じに、番小屋の門を入ったところで表玄関へ行く道と一緒になる、あの小道を帰って行きました」
「それから、あなたはどうなさいました」
「私はすぐに家へ戻りました。その時ブラント少佐が煙草をふかしながら、露台を往ったり来たりしていらっしゃいましたから、私は庭を遠まわりして横の入口から入りました」
ポワロ氏はうなずいて、豆手帳に二、三、何か書きこんだ。
「ありがとうございました。もうこれで十分です」と、彼は何か考えこみながらいった。
「何でございましょうか? 私はこのことをラグラン警部にもお話ししなければなりませんのでしょうか」
彼女はためらいながらいった。
「そういうことになるかも知れません。しかし、急ぐことはございますまい。ゆっくりと条理をたてて事件の解決をすすめていくとしましょう。チャールズ・ケントはまだ正式に殺人罪に問われているわけではありません。情勢によって、あなたのお話を公けにしないですむようになるかも知れません」
ラッセル嬢は立ちあがって、
「ポワロさん、どうもありがとうございました。ご親切にしていただきまして、……ほんとうにご親切にして下さいました。あなたは、私を信用して下さいますわね。チャールズはこの凶悪な殺人には何の関係もないことをお信じ下さいますでしょうね」といった。
「九時半に書斎でアクロイド氏と話をしていた男は、あなたの息子さんではないということが確かめられたようです。まあ勇気をお持ちなさいまし。やがてすべてがよくなりましょうからね」
ラッセル嬢は帰って行った。ポワロ氏と私は後に残ってしばらく話をした。
「こうなるとわれわれは、またしてもラルフ君のところへ戻ってこなければなりませんね。あなたは一体どうやってチャールズ・ケントが会いに来た相手を、ラッセル嬢と目星をおつけになったのです。顔が似ているのに気づかれたからですか」と私はたずねた。
「私はケントに会うずっと前から、謎の男とラッセル嬢とを結びつけておりました。あの羽の軸を発見した時からです。羽の軸は麻薬を連想させました。それからラッセル嬢があなたを訪問して麻薬中毒患者の話をしたということを思い合わせたのです。つづいてあの朝の新聞にコカインの記事が出ていたことを発見いたしました。それで私にはすべてがはっきりいたしました。ラッセル嬢はその朝、誰かコカイン中毒者から手紙をもらったに違いない。そうして、その朝の新聞記事を読んだのであなたのところへ試験的に二、三の質問をしに来たのです。彼女は新聞記事がコカインに関するものだったので、コカインのことを持ちだしたのでしたが、あなたがあまり興味を示されたので、急に探偵小説や痕跡を残さない毒薬のことに話題をそらしてしまったのです。私は彼女に、息子か兄弟か誰か好ましからぬ男性があるに違いないと見込みをつけました。さて、そろそろお暇《いとま》しなければなりません。もう昼飯時でございます」
「いかがです、私どもで食事をしていらっしゃいませんか」と私はすすめた。
ポワロ氏は首をふった。彼の眼にかすかな光りがきらめいた。
「今日は失礼いたしましょう。お姉様を二日もつづけて菜食主義者におさせしてはお気の毒でございますから」
このとおり、ポワロ氏には何もかも見抜かれてしまうのだと思って、私はやりきれない気がした。
早朝の訪問客
新聞記事
いうまでもなく姉は、ラッセル嬢が診察室を訪れたことを見のがしはしなかった。私は姉にしつこく質問されるだろうと思って、膝痛みに関するまことしやかな説明を用意していた。けれども、彼女は反対訊問する気分にはなっていなかった。姉の意見によると、ラッセル嬢が今日来た真実の理由を私は知らないが、姉はよく知っていたのだそうである。
「鎌をかけに来たんですよ。ジェームズ。そうにきまっていますとも。臆面もなくあなたに鎌をかけに来たんですよ。私にはよくわかっています。まあだまって私のいうことをお聞きなさいったら。あなたはてんでそんなことに気がつかなかったでしょう。男なんて単純だから、すぐ引っかかってしまうのよ。あの人はあなたがポワロさんに信用されているのを知っているもので、いろいろと聞きだしに来たんだわ。あなたは私が何を考えているか、想像がついて?」
「姉さんは突拍子もないことを考えるんだから、私にはとても想像がつきませんよ」
「そんな皮肉をいったって何にもなりませんよ。ラッセル嬢はきっとアクロイドさんが殺されたことについて、もっと何かくわしいことを知っているに違いありませんよ」といって、姉は得意げに椅子によりかかって私の顔を見つめた。
「姉さんはほんとうにそう思っているんですか」私は気のない返事をした。
「ジェームズ、あなた今日はひどく元気がないのね。てんで活気がないわ。きっと肝臓のせいよ」
われわれの会話はそれから後、全く個人的なことに及んでしまって、この事件とは関係がないから、省くことにする。
ポワロ氏の発案による記事は、予定のごとく翌日の新聞に現われた。私にはその目的は全くわからなかったが、その記事が姉に及ぼした影響は、たいへんなものであった。
彼女は全くそんなことを口にしたことがありもしないのに、自分は最初からそんなことだろうといっていたのだと主張しはじめた。私はあきれて眉をあげたが、別に争おうとはしなかった。
しかし、姉の方ではさすがにいくらか良心にとがめたとみえて、
「そりゃ私は、はっきりリバプールとはいいませんでしたさ。でも、ラルフがアメリカヘ高飛びするだろうと思っていましたわ。あの有名な毒殺鬼クリップンだってそうでしたからね」とつけ加えた。
「クリップンは不成功に終りましたっけね」
「可哀そうに、とうとう捕ってしまったのね。こうなると絞首台からあの人を救うのは、あなたの役目よ」
「私に何ができるというんですか」
「だって、あなたはお医者じゃありませんか。あなたはラルフを小さい時から知っているんでしょう。精神的に責任はないという点を証明するのよ。私、ついこの間本で読んだんだけれど、ブロードムーアの精神病院はとても完備していて、患者はまるで高級のクラブにでもいるように幸福に暮しているっていうことですよ」
私は姉の言葉で、全く別の言葉を思いだして、
「ポワロさんに精神病の甥があるなんて、私はまるで知りませんでしたよ」といった。
「あら、知らなかったの? あの方すっかり私に話して下すったわ。ほんとうにお気の毒ね。家族の身になったら、どんなにつらいでしょうね。今は家においてあるんですけれども、だんだん始末がわるくなって来たから、どこか病院にでも入れなくてはならないだろうって、ポワロさんも心配していらしてよ」
「姉さんはポワロ家に関することは、ほとんど全部知りつくしてしまったでしょうね」
私は姉を怒らせてやろうと思っていった。けれども姉は平然として、
「ええ、たいていのことはね。誰でも心配ごとを誰かに打ち明けてしまうと、とても気が軽くなるものよ」といった。
「自分からその気になって打ち明けたのだったらそうでしょうが、無理に根ほり葉ほりして聞きだされたんだったらこれはまた問題が別でしょうね」と私はいった。
姉はまるでキリスト教の殉教者が受難を楽しんでいるようなようすで、私を見つめただけであった。
「ジェームズ、あなたはほんとうに|むっつりや《ヽヽヽヽヽ》ね。誰か打ち明けたり自分の知っている情報を洩らしたりするのが大嫌いなのね。それだもので誰でも自分と同じにしなけれはいけないと思っているんでしょう。私は他人の内証ごとなんか、無理に聞きだしたことなんてありませんからね。たとえばポワロさんが、そういっていらしたように、今日の午後に家へ見えたとしても、私は今朝早くポワロさんの家へ着いたのはどなたですかなんて、たずねやしませんよ」
「今朝早くですって?」
「ええ、とても早く、まだ牛乳屋の来ないうちでしたわ。何てことなしに窓の外を見ていたら……男でしたよ。箱型の自動車で来たんです。帽子の縁《へり》をおろして、オーバーの襟を立てていたから顔は見えませんでしたがね、私にはおよそ見当がついていますわ。きっと私の考えが当っていますよ」
「姉さんの考えって何ですか」
姉は妙に声をひそめて、
「警視庁の鑑識課の人ですよ」といった。
「鑑識課の人ですって? 姉さん!」私はあきれ返った。
「まあ、だまって聞いていらっしゃい。私のいうことはきっと当りますからね。この間の朝ラッセルが来たのは、あなたの毒薬が目あてだったんですよ。アクロイドさんはきっとあの晩の食物に毒をもられたんです」
私は声をあげて笑った。
「そんなばかなことがあるものですか! 短刀で刺し殺されたんだということは姉さんだって知っているではありませんか」
「死んだ後で偽証をつくるために刺したんですよ」と姉はいった。
「私は検屍したんですよ。だから自分のいうことに責任を持っています。あの傷は死後に与えられたのではありません。あの一突きが死因をなしていました。これは明白な事実です」
姉はなおも疑うように私の顔をまじまじと見ているので私は癪にさわって、言葉をつづけた。
「姉さん、私は医者の資格を持っていますか? それとも持っていないとおっしゃるんですか」
「あなたは医者の資格を持っていますさ。すくなくも私はあなたが資格を持っていることは知っていますよ。だけれど、あなたは想像力をからっきし持っていないのね」
「姉さんに想像力をみんな取られてしまって、残念ながら私は親から受けつぐ分は何もなかったのでしょう」と私は冷やかにいった。
午後にポワロ氏が訪ねて来たので、私は姉の策略を興味をもって眺めていた。姉は例の早朝の訪問客について、できるだけ遠まわしに聞きだしにかかった。私はポワロ氏の眼色で、彼が姉の目的を察していることを知った。彼はたくみに姉の質問をそらして行くので、さすがの姉も術策つきたようすであった。
ポワロ氏はこの智恵の戦いを十分に楽しんだ後、椅子から立ちあがって、私を散歩にさそった。「こう肥りすぎて参りましたので、少し目方を減らさなければなりません。先生も一まわりなさいませんか。それから帰って来て、お姉様に一つお茶のご馳走になりましょう」
「是非どうぞ、お待ちしておりますわ。あなたのお客様もお連れになりましては?」
「ご親切にありがとうございますが、友人はひとりで休息しておりますから、いずれそのうちに、おちかづきを願いましょう」
「大そう古いお友達だそうですのね。近所の者がいっておりましたわ」姉は最後の智恵をしぼっていった。
「ほう、そんなことを申しておりましたか。では出かけるといたしましょう」
われわれの足は、自然とアクロイド家の方へ向かった。私は前もってそんなことだろうと察していた。私はそろそろポワロ氏の方式を理解しはじめた。どんなちょっとした見当違いのことでも、みんな本筋につながっているのだ。
「お願いがあるんでございますがね」とポワロ氏はついに用件をきりだした。
「今晩、私の宅でちょっとした相談会を開きたいのでございます。先生もご出席くださいましょうね」
「伺いますとも」と私はいった。
「それからアクロイド家の方たちにもご出席願いたいのでございます。セシル夫人、フロラ嬢、ブラント少佐、レイモンド君と、これだけの方にいらして下さるように、あなたからお伝え願いたいのでございます。今晩九時からということにいたしましょう。お願いできましょうか」
「よろしいですとも。しかし、なぜあなたご自身でおっしゃらないのです」
「私が参りますと、いろいろと質問を受けるからでございます。なぜです? 何のために? というふうに、そして私の考えを聞きだそうとされますでしょう。あなたもご承知のように、私は時がくるまで自分の考えを発表するのを好まないのでございます」
私はちょっと微笑した。
「あなたにも前にお話しした私の親友のヘイスティングスは、いつも私のことを人間|牡蠣《かき》だと申しておりました。けれどもこれは不当な批評でございます。事実、私は決して自分の内容を他人にかくしたりいたしません。ただ、皆さんの方でそれを読みとって下さらないだけのことでございます」
「で、あなたのお使いにアクロイド家へ行くのはいつがいいでしょう」
「もしよろしければ、ただ今お願いしたく存じます。もうすぐそこですから」
「あなたも家へお入りになりますか」
「いいえ、私は屋敷内を散歩いたしましょう。そして、十五分後に番小屋の木戸のところで落ち合いましょう」
在宅していたのはセシル夫人だけであった。夫人は一人きりで早目のお茶を飲んでいるところで、私をよろこんで迎えた。
「先生、ほんとうにありがとうございました。ポワロさんにあのことをよく飲みこませて下さいまして、とても感謝しておりますわ。でも、世の中って、どうしてこう次から次へと面倒ばかり起きるんでございましょう。先生はもうお聞きになりましたでしょう。フロラのことを」
「と、おっしゃると?」私は用心深くたずねた。
「新しい婚約のことですわ。フロラとブラント少佐の。むろんラルフと較べて申し分ないとはいえませんけれども……でも当人の幸福が第一でございますからね。フロラに必要なのは、頼りになるようなしっかりした年上の人ですわ……それに、ブラント少佐は有名な方ですしね。先生は今朝の新聞にラルフが捕ったニュースが出ておりましたの、ご覧になりまして?」
「はい、見ました」
「恐ろしいことですわ」セシル夫人は眼を閉じて身ぶるいをした。
「レイモンドさんが驚いて、リバプールヘ電話をかけるやら大騒ぎをいたしましたのよ。でも、警察ではどうしても何も聞かせてくれないんだそうでこざいますの。それでレイモンドさんは、ラルフが捕ったというのは、でたらめな記事に違いないといっているんでございます……ほら、新聞で申しますわね……虚報って、あれに違いございませんわ。で、私は皆に奉公人たちの前であの記事のことを話してはならないといい渡しておきましたの、ほんとうに何という恥かしいことでしょう。もしもラルフと結婚していたのでしたら、どんなことになりましたでしょう」
セシル夫人は苦痛にたえきれないように眼を閉じた。私はこれでは一体いつになったらポワロ氏の伝言をすることができるかしらとじりじりした。
私がそれを切りだそうとすると、それより先に夫人がまた喋りだした。
「先生はきのうラグラン警部と宅へおいでになりましたわね。あのラグランというのは野獣のような男ですわ。フロラを脅して、ロージャーの部屋からお金を奪ったなんていわして。あんなことなんでもないことですのに。あの娘は少しばかりのお金を借りに行ったんですわ。でも、ロージャーに書斎へ来てはならないといい渡されていたものですから、いつも伯父が現金をしまっておくところを知っていて、いり用なだけ借りて来たんですのに」
「フロラさんは、そういっていらしたんですか」
「いいえ、先生。でも、近ごろの若い娘たちがどんなか、先生だってご存じでいらっしゃるでしょう。ちょっとした暗示をかけられると、すぐそのとおり芝居をしてしまいますのよ。先生は催眠術のことなんか、よくご存じでいらっしゃいますわね。警部が盗んだ、盗んだとわめきたてたから可哀そうにあの娘は精神錯乱ですか、異常ですか、私いつもこの二つの言葉をごっちゃにしてしまいますのよ。そんなことになってしまって、自分でお金を盗んだような気持になったんですわ。私はもう、あの時すぐにそう見抜いてしまいましたの。でも私、つくづく何が幸福になるかわからないと思いましたわ。あんな誤解のためにフロラとブラント少佐が結ばれることになったんでございますものね。私はフロラには一時ずいぶん気をもみましたのよ、先生。あの娘とレイモンドさんの間に何かあるのではないかというようなことを、私本気に心配いたしましたわ。ちょっと考えてごらん遊ばせよ、一文なしの秘書などと結婚したらどんなことになるでしょう……」セシル夫人の声がだんだん癇《かん》ばしって来た。
「そんなことになりましたら、奥さんにとって大打撃でしたろうね。さて、今日うかがいましたのは、ポワロ氏からの伝言を持って参ったので、今晩九時に皆さんでポワロ氏宅へお集り願いたいのだそうです」
「私も?」
セシル夫人はひどく心配そうな顔をしたので、私は急いでなだめて、ポワロ氏が何を望んでいるかを説明した。
「そうでございますか。ポワロさんがそうおっしゃるなら参らなければなりませんわね。でも、どんなご用なんでしょう。私、前もってそれを伺っておきとうございますわ」
私は用件の内容については自分も知らないことを、言葉をつくしていった。
「そうでございますか。それでは他の者たちにも申し聞かせて、九時までに伺いましょう」
そこで私は暇《いとま》をつけて、約束のとおり木戸のところに待っていたポワロ氏と落ち合った。
「お約束の十五分よりだいぶ遅れてしまいました。何しろあの夫人が話しだしたが最後、なかなかこっちが用件を切りだす隙《すき》がないものですから、たいへんお待たせしてしまって」
「どういたしまして。私は大いに楽しみました。この邸《やしき》は実に立派なものでございますね」とポワロ氏がいった。
われわれが家につくとまるで見張っていたかのように、姉自身が玄関の戸をあけて私をびっくりさせた。彼女は唇に指をあてて見せた。彼女の顔には何かもったいぶったような表情と、興奮があらわれていた。
「ウルスラが、あのアクロイド家の小間使が来ていますよ。食堂へ通しておきました。可哀そうにひどく取り乱していましたわ。ポワロさんにすぐお目にかかりたいって、いっておりますの。私、お茶を飲ませたり何かして、できるだけ介抱してやりました。誰だって、あの姿を見たら同情せずにはいられませんわ」と姉は声をひそめていった。
「食堂でございますか?」とポワロ氏がいった。
「どうぞ、こちらへ」といって、私は食堂の戸をさっとあけた。
ウルスラはテーブルの前にすわっていた。彼女は今まで突っ伏していたらしく、両腕をテーブルの上にのせて、眼を赤く泣きはらしていた。
「ウルスラ・ボーン」と私がつぶやくと、ポワロ氏は私のわきをすり抜けて、両手をさしのべながら彼女に近づき、
「ウルスラ・ボーンではございませんね、ウルスラ・パトンでございましょう、いや、ラルフ・パトン夫人!」といった。
ウルスラの話
しばらくの間、ウルスラは黙ってポワロの顔を見つめていたが、大きく一つうなずくと、急に力つきてしまったように泣きくずれた、姉は私をおしのけて彼女の背に腕をかけ、肩を軽くたたきながら、「まあ、まあ、そんなに心配なさるな。もう大丈夫よ、ね。みんなよくなるから」となだめた。
姉の好奇心と醜聞|漁《あさ》りのかげにも、親切な気持は十分にあった。ちょっとの間だが、ウルスラの悲嘆にくれているようすに、姉はポワロ氏の黙示に対する興味さえ失ってしまった。
やがてウルスラはすわり直して眼をぬぐいながら、
「ほんとうに私、弱虫でばかですわ」といった。
「いいえ、決してそんなことはありません。この一週間、あなたがどんなに気をはりつめていらしたか、私どもにはよくお察しがつきますよ」と、ポワロ氏はやさしくいった。
「さぞ、つらい思いをしたでしょう」と私もいった。
「あなたはどうして私どものことをご存じでいらっしゃいましたの? ラルフからおきき遊ばしましたの」
ポワロ氏は首をふった。
「あなたは、なぜ私がこちらへ伺ったかご存じでいらっしゃいますわね。これでございます……この記事にラルフが捕ったと書いてございます。こうなっては今さら何をかくしても及びませんわ」
ウルスラは例の新聞記事の切り抜きを示した。
「新聞記事だからとて、決していつも正確とは申せません」ポワロ氏はいくらか恥入ったようにつぶやいた。そして、
「とにかく、あなたは私にすべてを打ち明けにおいでになったのでしょうね。今、私どもが必要なのは真実でございます」
ウルスラは疑わしげにポワロ氏を見あげながらためらっていた。
「あなたは私を信用なさらないのですか。それにしてもあなたは、わざわざ私を探してこのお宅までおいでになったのではありませんか。なぜでしょうか」
「なぜかと申しますと、私はラルフを犯人とは信じないからでございます。あなたはりっぱな探偵でいらっしゃいますから、ほんとうのことを探りだして下さると思って、それで私お目にかかりに参ったのでございます。それに……」彼女は低い声でいった。
「それに?」
「あなたは大そうお情けぶかい方だと伺っておりましたから……」
ポワロ氏はいく度もうなずいて、
「結構なことです。……結構なことです。実は私もあなたのご主人が無罪であることを信じております。けれども、四囲の状況がラルフ君を不利にしております。ラルフ君を救いだすために、私は知るべきことを全部知らなければなりません。たとえラルフ君の不利と思われるようなことでも、知らなければなりません」
「あなたは、ほんとうによく理解して下さいますわね」とウルスラはいった。
「そうです。ですから、最初からのことをすっかりお話し下さい」
姉は安楽椅子に、さも居心地よさそうに納まって、
「私を追いはらわないで下さいよ。私はこの娘がどうして小間使なんかに化けていたか知りたいと思うんですよ」といった。
「化ける?」私は聞きとがめた。
「そうですわ。どうしてそんなことをしたの? 賭《かけ》でもしたの?」
「生活のためですわ」とウルスラは冷やかにいった。そして、急に勇気が出たように、身の上話をはじめた。
彼女はアイルランドの相当な家柄の家庭に育った娘である。家が没落し、父の死後、娘たちはそれぞれ社会に出て自らの生計をたてなければならなかった。彼女の一番上の姉は、フォリオット大佐と結婚した。私がポワロ氏に頼まれて、日曜日に面会したのはその姉であった。さればこそあの夫人は私の訪問をあんなに迷惑がったのであると、今にして思い当った。ウルスラは自活する決心をしたが、奉公したことのない若い女性に与えられる唯一の地位である子守になる気がしなかったので、小間使を志願した。彼女はそうかといって、お嬢様小間使といわれるのは好まなかった。彼女はあくまでもまともな小間使として立ちたいと考えたので、姉のフォリオット家に勤めていたという証明書を書いてもらって、アクロイド家に住みこんだのであった。彼女は一人超然としている気風だったので、仲間からとかくの批評を受けたが、奉公ぶりは、仕事が早くて気が利き、役に立って忠実だというので満点であった。
「私は愉快に働きました。それに、自分の時間も十分にいただきました」と彼女は説明した。
それから後、彼女はラルフに会い、彼と恋仲になり、ひそかに結婚までしてしまったのであった。最初彼女は秘密の結婚に反対したが、ラルフは継父が一文なしの娘と結婚することを許さないにきまっているからといって、無理に彼女を説き伏せたのである。ラルフはいい時機をみて、継父の許可を得ると誓った。すなわち、借金をすっかり返してしまい、自分も何か職業につき、彼女を養えるようにした上でなければならないといった。それで彼女はついに納得してラルフ・パトン夫人となったのであった。しかし、ラルフのようなお坊ちゃんが、そうやすやすと腕一本で独立できるものではない。彼は継父にすがって借金を返してもらおうとしたが、金額があまり大きかったので、継父はひどく怒ってしまい、もう何もしてやらぬと宣告した。それから数か月して、ラルフは再びアクロイド家へ出入りを許された。アクロイド氏はラルフとフロラを結婚させたい意志を持っていたので、いきなりそのことをラルフに申し渡した。そこで生来気の弱いラルフは、一番楽で一番手っ取り早い解決法にとびついた。ラルフもフロラも恋の愛のというのではなかった。二人にとってこの結婚は、一種の取引きにすぎなかった。アクロイド氏が提出した希望条件に、二人は同意しただけなのである。フロラは自由と金と、よりよい生活のために伯父の意志に従い、ラルフは彼のおちいっていた経済的窮地からのがれ出る機会にとびついたのである。
彼は元来、将来の計をたてるような性質ではないが、漠然と、ある時機が来たら、フロラとの婚約を解消すればいいと考えていたらしい。
ラルフが一番おそれたのは、ウルスラに知られることであった。彼はウルスラの性格が強く断乎としていて、そんな表裏のある行為を極度に嫌うことを、本能的に感じていた。
そこへ進退きわまるような事態が生じた。日ごろから独断的なアクロイド氏は、突然に婚約を公表することにきめた。氏はラルフには相談せず、フロラにだけ話した。フロラはそんなことには無関心であったから、別に反対もしなかった。このニュースはウルスラの上に爆弾のように落ちて来た。ラルフは彼女に呼びつけられて、町から急いでやって来た。二人は森で会った。その時の会話の一部を私の姉が聞いたのであった。ラルフはもうしばらく黙っていてくれと、彼女に懇願した。ウルスラの方では彼と同じくらいの熱心さで、これ以上二人の仲をかくしておけないと主張した。彼女は時をうつさず真相をアクロイド氏に打ち明けるといった。決心をかためたウルスラは、その日の午後アクロイド氏と会見し、真実を打ち明けてしまった。二人の会見は暴風をまき起こした。もしアクロイド氏が自分自身の心配ごとに捉《とら》われていなかったら、もっと猛烈なものであったろう。それにしても事態は悪かった。アクロイド氏は自分を瞞着した人間を、許すような人物ではない。彼の|うっぷん《ヽヽヽヽ》は主としてラルフに向けられたが、彼はウルスラが非常に金持の息子を、うまくたぶらかしたと見ていたから、自然ウルスラもその毒舌をあびることになった。双方で許すべからざるような激しい言葉のやり取りをした。
その晩、ウルスラはかねてラルフとしめし合わせてあったので、横手の戸口から家を抜けだして、離家《はなれ》で彼と会った。二人の会見は双方の罵《ののし》り合いとなった。ラルフはウルスラが悪い時機に発表したために、自分の目算《もくさん》をめちゃめちゃにしてしまったと責め、ウルスラは彼の二心を責めた。二人はついに気まずく別れてしまった。それから半時間ほどたってから、アクロイド氏の死体が発見されたのである。その夜以来、ウルスラはラルフに会いもしなければ音信《たより》も聞かなかったというのであった。
私はその話を聞くほどに、いよいよ何たる事実であろうかと思った。もしアクロイド氏が生きていたなら、さっそくに遺言状の書きかえをしたに違いない。私は彼をよく知っているから、彼が第一に考えたことだろうと思う。彼の死はラルフとウルスラにとって、もっけの幸いであった。
ウルスラが唇を閉じて、今日まで秘密を守り通したのはもっともなことである。
私の瞑想はポワロ氏の声に破られた。彼の重々しい音声から、私は彼もやはり情勢の重大性に気づいていることを察した。
「ウルスラさん、私は一つおたずねしなけれぱならないことがあります。あなたは正直に答えて下さらなければなりません。その一言にすべてがかかっておりますのですからね。あなたが離家《はなれ》でラルフ君と別れたのは何時でしたか、正確に答えるように、よくお考え下さい」
ウルスラは心外にたえぬというように、淋しく笑って、
「あなたは私がそのことを、一度も考えても見なかったとお思い遊ばすんでしょうか。私がラルフに会いに行きましたのは、九時半でございました。ブラント少佐が、お客間の前の露台を歩いていらっしゃいましたので、お目に止らないように、薮を抜けていかなければなりませんでした。ですから離家へ着きましたのは十時二十七分前ごろになったと存じます、ラルフは私を待っておりました。私どもは十分とは話していなかったと存じます。私が家へ戻りましたのが、ちょうど十時十五分前でございましたもの」
私は今になって、彼女がこの間、私にしきりと時間のことをたずねた理由を悟った。もしアクロイド氏が十時十五分前よりも、もっと早く殺されていたことが証明されればラルフに疑いがかかる心配はないと思ったのであろう。
私はポワロ氏の次の質問によって、氏もそれと同じ考えをうかべているのを察した。
「誰が先に離家を出ましたか」
「私でございます」
「ラルフ君を離家に残して来たのですか」
「さようでございます。あなたはまさか、そんなことをお考えになっていらっしゃるんではございませんでしょうね……ラルフが……」
「私が何を考えるかなどと申すことは、重要ではございません。あなたは家へ帰ってから何をしましたか」
「私は自分の部屋へ入りました」
「何時まで部屋にいましたか」
「十時ごろまでおりました」
「誰かそれを証明する人がありますか」
「私が部屋にいたことでございますか? いいえ……あら……そうなると私が……私が疑われることになりますのね……」彼女の眼に恐怖がうかんだ。
「あなたが、窓から書斎に入って、椅子に腰かけていたアクロイド氏を刺し殺したという疑いを受けるというのですか」と、ポワロ氏はウルスラのいおうとしたことをいった。するとわきから姉が、
「よっぽど間抜けでなければ、そんなばかなこと考える人ありませんよ」と憤慨するようにいって、ウルスラの肩を軽くたたいた。
「恐ろしいことですわ! 恐ろしいことですわ!」ウルスラは両手に顔を埋めてつぶやいた。
姉は彼女をやさしくゆすって、
「心配しなくても大丈夫ですよ、ポワロさんだって本気でそんなこと考えていらっしゃりはしませんよ。でも、私あなたの夫のラルフのことは、たいして考えてあげる気がしませんわ、自分だけ逃げて行って、あなた一人にこんな苦労をかけるなんて、ずいぶんですよ」といった。
ウルスラは激しく頭をふった。
「いいえ、そんなことありませんわ。あの方は自分のことで逃げたりいたしませんわ。今になって私、わかりましたわ。あの方はお継父様が殺されたと聞いて、私がしたのだと思いこんでおしまいになったに違いございません」
「そんなふうに考える気づかいはありませんよ」と、姉はなぐさめるようにいった。
「私はあの晩、あの方にとてもひどく当りましたの。あの方がいおうとなさることに、てんで耳もかしませんでした。あの方がほんとうに私を思って下さるなんて、信じようともいたしませんでした。私はとても強情で冷酷でした。あの方に向かって、自分の心に浮かんで来ただけの、残酷な冷たい言葉をあびせて、あの方を私がどんなに悪く思っているかいってあげました。できるだけあの方の気持を傷つけようとしたのでございます」
「あの人を傷つけたなんていうことがあるものですか。男の人に何をいったからって、心配することはありませんよ。男なんていうものは、とてもうぬぼれが強くて、どんな悪口をいわれたって、決して相手が本気でいっているとは思わないものですからね」
ウルスラは、神経質に手をねじったり、元へ戻したりしながら語りつづけた。
「私は殺人事件があってから、あの方が出て来ないので、ずいぶん気に病みました。ちょっと私も、もしやしたらと心配しましたが、あの方にそんなこと、できるはずはないと思いましたの。でも、私はあの方に出ていらして、無罪をはっきりとおっしゃっていただきたいと思いました。私はあの方がシパード先生を大そう好きでしたから、もしやしたらシパード先生が、あの方の隠れているところを、ご存じかも知れないと考えておりました」
そこでウルスラは私の方を向いて、
「それで先日、先生にあんなことを申し上げたのですわ。もしご存じなら、伝言をしていただこうと思ったのでございます」
「私がですか?」と私は叫んだ。
「ジェームズがあの人の居場所を知っているはずなんか、ないじゃありませんか」と、姉はとがめるようにいった。
「そんなはずないとは存じましたけれども、ラルフはよくシパード先生のことを話していましたから、私はアボット村であの方が一番仲のいいお友達といえば、シパード先生だと思っておりましたので」
「ほんとうに私は現在のところ、ラルフ君がどこにいるか全然しらないのです」と私はいった。
「それはたしかにそのとおりです」とポワロ氏もいい添えた。
「でも……」ウルスラは腑に落ちないように、新聞の切り抜きを指さした。
「ああ、そんなものはでたらめですよ。私はラルフ君が逮捕されたなんて、ぜんぜん信じません」と、ポワロ氏はちょっと困ったような顔をしていった。
「それでは……」とウルスラがいいかけると、ポワロ氏は追いかけるように、
「もう一つ私の知りたいことがございます。ラルフ君はあの晩、短靴をはいていたか、編上げ靴をはいていたかということです」
ウルスラは首を横にふって、
「私、気がつきませんでしたわ」といった。
「残念なことです。もっとも無理もないことでございます。さて、奥様、質問はこれで終りでございます。どうぞご心痛なさいませんように。勇気をおだし下さいまし、そしてこのエルキュル・ポワロをご信頼ください」とポワロ氏は、頭を一方にかしげて、自信たっぷりに人さし指をふりながら、彼女に微笑を送った。
小集会
「さあ、ウルスラさん、二階へ上がって少しお休みなさい、もう何も心配することはありませんよ。ポワロさんがいいようにして下さいますからね」
姉は立ち上がってウルスラの手を取った。
「でも私、お屋敷へ帰らなければなりませんわ」
彼女はおぼつかなげにいった。
「そんなことはありませんよ。私のところへ来た以上は、私が面倒を見てあげますから、遠慮することなんかありませんよ。ねえポワロさん、そうでございましょう」
「ああ、それがよろしいでしょうね。今晩、私の家で小集会がありますので、それにお嬢さん……これは失礼、奥様にもご出席願いたいのです。九時から私の家で開きます。是非ともおいでいただく必要がございますのですから、どうぞそのお含みで」とポワロ氏がいった。
姉はうなずいた。そして、ウルスラをつれて部屋を出て行った。二人の背後に戸が閉まると、ポワロ氏はふたたび椅子に腰をおろして、
「これでまずよろしい、すべてのことが、ひとりでにまっすぐになって行く」とつぶやいた。
「いよいよもって、ラルフの形勢が悪くなるばかりではないですか」と、私は心細い調子でいった。
「そうです。しかしこれは当然予期していたことではございますまいか」と、ポワロ氏はうなずきながらいった。
私は彼の言葉をいささか解しかねて、彼の顔を見つめた。彼は椅子の背によりかかって、眼を半ば閉じ、両手の指さきを互いに合わせていたが、不意にため息をして首をふった。
「どうしたんですか」と私はたずねた。
「私はときどき親友のヘイスティングスが、無性に恋しくなるのです。いつかあなたにお話しした、あの友人です。現在はアルゼンチンにいます。私が大きな事件にぶつかる時には、いつも彼がそばにいて私を助けてくれたものです。そうです、よく私の仕事を助けてくれました。あの男はときどき怪我の功名をやることがありました。よく突拍子もないことをいいだしますが、それが不思議に私に謎をとく糸口をあたえてくれるのでした。それから、あの男は事件の経過を一々記録にとっておいてくれました。それがまた非常に興味がありました」
私は相手の注意をひくために、軽く咳ばらいをして、
「実は私も……」と口ごもると、ポワロ氏は椅子に起き直って、眼を輝かせながら、
「何でございます? 何をおっしゃろうとなすったのです?」
「実は、私もヘイスティングス氏の書かれたものを読んだことがあるものですから、自分でも真似ごとをして見たのです。こういう種類の事件に関係するのは、おそらく私にとって二度とない経験でしょうから、その記録をとっておかないのは惜しいと思ったものですから」
私はあがけば、あがくほど、自分のいうことが、辻つまが合わなくなるような気がして、だんだん顔がほてってくるのを感じた。
ポワロ氏は椅子からとび上がった。私は彼がフランス流に首っ玉に抱きついてくるのではないかと思って、ぎくりとしたが、幸い彼は自制してくれた。
「それはすてきですね。あなたは事件の進展につれて、あなたの印象をお書きになったのですか」
私はうなずいた。
「すばらしい! ぜひ拝見させて下さい。今すぐ読ませていただきたいものです」とポワロ氏は叫んだ。
私はそんなに急な求めに応じる用意がなかった。私は二、三のある詳細な記述を、もう一度はっきり思いだしてみようとして、頭脳をしぼりあげた。
「しかし、何が書いてあるかわかりませんから、どうぞ気を悪くなさらないで下さい。おりおり個人的なことにわたっているかも知れませんから」と、私はどもりながらいった。
「かまいませんとも、あなたはときどき私のことを、滑稽化してお書きになったというのでしょう。ヘイスティングスだって、ずいぶん失礼なことを書きましたよ。しかし、私はそういうことには超越しておりますから、いっこう差し支えございません」
私はまだいくらかためらいながら、机のひきだしを掻きまわして、雑然と重ねた原稿を彼の手に渡した。私は他日単行本として出版するためにと思って、一章ずつ|くぎり《ヽヽヽ》をつけておいたので、『ラッセル嬢』のところまでできあがっていた。それゆえ、ポワロ氏に渡したのは全部で二十章にあたる分量であった。
私は遠くの患者へ往診しなければならなかったので、ポワロ氏と原稿を残して家を出た。八時ごろ帰宅すると、暖い食事の用意ができていた。ポワロ氏は七時半に食事をすまして、私の仕事部屋で例の原稿を読んでいるという事であった。
「ジェームズ。あなた、あの中に私のことを書く時、気をつけてくれたでしょうね」と姉にいわれて、私は眼を伏せてしまった。実は少しも気をつけたりしないで、ありのままを書いてしまったのである。
姉は私の表情を正確に読み取って、
「それは何を書いたってかまいませんがね……ポワロさんは理解があるから……あなたより、よっぽど同情があってよ」といった。
私は仕事部屋へ行った。ポワロ氏は窓のそばに腰かけていた。原稿はわきの椅子の上にきちんと重ねてあった。彼はその上に手をおいて、
「結構でございます。私は敬意を表します……あなたのご謙遜な態度に」といった。
「そうでしょうか」私はいささか鼻じろんだ。
「それから控え目な点にも敬服いたしました」
「そうでしょうか」私はまた同じことをくり返した。
「ヘイスティングスはそうではありませんでした。あの男の書いたものを見ますと、至るところに『私』という言葉が出て参ります。私が何をした、私が何を考えたというふうに。けれども、あなたはいつもご自身を目立たぬところに置いておいでになる。ただ、二、三か所に、はっきりと出ていますが、それは家庭生活の描写の場合に限っているようでございますね」
私はポワロ氏の輝く眼の前で顔を赤らめた。
「あなたはほんとうにどうお思いになりますか」私はおずおずしながらたずねた。
「あなたは私の率直な意見をお求めになるのですか」
「そうです」
ポワロ氏はまじめな態度になって、
「実に精細な記録だと存じます。あなたはご自分の関係していらっしゃる場面は控え目にしていらっしゃいますが、事実をそのまま忠実に記述していらっしゃいます」と親切な批評をしてくれた。
「で、これは何かのこ参考になりましたでしょうか」
「はい、かなり私の助けになりました。さあ、出かけましょう。家へ行って小宴会の会場を準備しなければなりませんですから」
姉は私たちを送りだしに玄関へ来て、一緒に来たそうにしていたが、ポワロ氏が巧みにその場を取りつくろった。
「是非あなたもお誘いしたいのでございますが、今晩集りますのはみんな容疑者ばかりで、その中から私は、犯人を探しだすのでございます」といった。
「それは、ほんとうですか」と私がいうと、
「あなたはそうお思いにならないのですね。エルキュル・ポワロの真価をまだ信じて下さらないと見える」とポワロ氏は冷やかにいった。
その時ウルスラが二階から下りて来た。
「もう支度はできましたか、それではすぐに出かけましょう。カロリンさん、どうもいろいろとありがとうございました。私はできるだけあなたのお役に立つようにしたいと存じます。ではおやすみなさい」
私たちは姉を一人のこして往来へ出た。彼女はまるでおいてきぼりを喰わされた犬のように、玄関の石段の上に立ってわれわれを見送っていた。
客間には客を迎える用意がしてあった。テーブルにはいろいろな飲物や、コップや、ビスケットを盛った皿などがならべてあった。
ポワロ氏は部屋の中をあっちこっちと歩きまわって、椅子の位置を直したり、ランプをおきかえたり、じゅうたんのしわを延ばしたりした。彼は特に照明の工合に気をくばり、人々が着席する椅子の方を明るくし、その反対がわにポワロ民自身の席らしく設けられた椅子のあたりを暗くした。
私とウルスラは黙ってポワロ氏のすることを眺めていた。
やがて玄関のベルが鳴った。
「皆さんがお着きになったようですね。用意ができたところで、ちょうどよろしゅうございました」とポワロ氏がいった。
戸があいて、アクロイド家の人々が入って来た。ポワロ氏は前へすすみ出て、セシル夫人と、フロラに挨拶をした。
「ようこそおいで下さいました。ブラント少佐も、レイモンドさんも」
レイモンド君は相変らず陽気であった。
「いったい何があるんです。何か科学機械でもあるんですか、われわれの手首に何か巻きつけて、心臓の鼓動を計算して、数学的に犯人を見出だそうというのですかね。何かそんな機械が発明されたっていうではありませんか」と笑いながらいった。
「私もそういうことを、書物で読んだことがございます。けれども、私は旧式ですから、古い方法でいたします。自分の小さな脳細胞を働かせるだけでございます。さて、皆さん、これからはじめますが、その前にご披露することがございます」
といって、ポワロ氏はウルスラの手を取って一同の前に立たせた。
「この淑女はラルフ・パトン夫人でございます。去る三月にラルフ君と結婚されたのでございます」
セシル夫人は小さな叫び声をあげた。
「ラルフが結婚しましたって! 三月に! そんなばかなことが! どうしてそんなことができましたでしょう! ウルスラと結婚しましたなんて! ポワロさん、ほんとうですの? 私、信じられませんわ!」
夫人はまるではじめて会う人のように、ウルスラを見つめた。
ウルスラは真赤になって、何かいおうとしたが、フロラがその時そばへ行って、彼女の腕に手をかけて、
「どうぞ気にかけないでちょうだいね、私たちはちっとも知らなかったから驚いたのよ。あなたとラルフはとてもよく秘密を守っていたのね。私、心からお祝いしてよ」といった。
「お嬢様はほんとうにご親切でいらっしゃいます。私はお嬢様がどんなにお怒り遊ばしても、当然だと存じておりましたのに。ラルフはほんとうにお嬢様にすまないことをいたしましたわ」ウルスラは低い声でいった。
「そんなこと気にしなくてもいいのよ。ラルフはそれよりほかに抜け道がなかったんですもの。私がラルフだってやっぱり同じことをしたでしょうよ。でも、ラルフが私にこの秘密を打ち明けてくれたらよかったと思いますわ。そうすればラルフのために、もっと都合よくことを運んであげましたのに……」とフロラがいった。
ポワロ氏は、軽くテーブルをたたいて咳《せき》ばらいをした。
「会議がはじまるんですわ。ポワロさんが私たちにお話を止めるように、合図をしていらっしゃるのよ。でも、一つだけ聞かせてちょうだい。ラルフはどこにいますの? 誰かそれを知っている人があるとすれば、あなたにきまっていますわ」とフロラがいった。
「でも、私、存じませんのよ、ほんとうに私、存じませんの……」ウルスラは泣きそうになっていった。
「リバプールで捕ったのではないですか。新聞にそう書いてありましたね」とレイモンド君がいった。
「ラルフ君はリバプールではありません」と、ポワロ氏は簡単にいった。
「事実、誰もどこにいるか知らないのです」と私がいった。
「ポワロ探偵をのぞいては、というんでしょう」とレイモンド君がいった。その冗談に対してポワロ氏は、
「私は何もかも知っております。それだけは覚えていて下さい」とまじめに答えた。
レイモンド君は眉をあげて、
「何もかもですか!」といって口笛を鳴らし、「こいつは大きく吹きかけたぞ!」といった。
「ポワロさん、あなたは本気でラルフがどこに隠れているか、想像がつくといわれるのですか」
私は信じかねてたずねた。
「あなたは想像するとおっしゃるが、私は知っていると申しましょう」
「クランチェスターですか?」
「いいえ、クランチェスターではありません」とポワロ氏は重々しく答えただけで、それ以上はいわなかった。
一同が彼の身振りで席についた時、もう一度戸があいて一人の人物が入って来て、戸口に近い席にすわった。それはパーカーと家政婦のラッセルであった。
「これで全員が揃いました。皆さんがここにおいでになる」といったポワロ氏の声には、満足の響きがあった。そしてその響きとともに、部屋の一方に集っている人々の顔に、不安のようなものがさざ波のように拡がっていくのが見えた。その響きはまるで罠《わな》がしまった音を聞くような感じを与えた。
ポワロ氏は、もったいぶったようすで紙片を読みあげた。
「セシル夫人、フロラ嬢、ブラント少佐、レイモンド氏、ラルフ・パトン夫人、ジョン・パーカー、エリザベス・ラッセル」彼は読み終ると、それをテーブルの上においた。
「一体これはどういう意味なんです」とレイモンド君がいった。
「私がただ今読みあげましたのは、容疑者でございます。ここに集っている方々は、それぞれアクロイド氏を殺す機会を持っておりました」とポワロ氏はいった。
セシル夫人は叫び声をあげて、いきなり立ちあがり、
「私はこんなこといやでございます。家へ帰らせていただきますわ」と泣き声でいった。
「奥様、それはなりません。私の申し上げることを全部お聞きになるまでは、どなたもお帰しするわけには参りません」ポワロ氏はきびしくいった。
しばらく間をおいてから、咳ばらいをして彼は言葉をつづけた。
「まず最初から経過を申し上げます。私はフロラ嬢からこの事件の審査を依頼されまして、シパード先生と、ご一緒にアクロイド家へ参りました。私はシパード先生とともに露台にそうて歩き、窓わくに残された足跡を見せていただきました。そこからラグラン警部にともなわれて、玄関に通じる正面道路へ出ました。その時、私は離室《はなれ》に目をつけ、後で中をくわしく検べた結果、二つのものを発見いたしました。糊をした白麻の布はしと羽の軸です。白麻の布はしは、私に女中のエプロンを暗示しました。私はラグラン警部から見せられた家族の人々の不在証明表により、小間使ウルスラのアリバイが正確に立っていないのに気がつきました。彼女の申し立てによりますと、九時半から十時まで寝室にいたというのです。しかしその間、彼女が離家にいたのではないかという想像がうかびました。もしそうであったら、誰かに会うためです。さてわれわれはシパード先生の証言により、その晩、誰か外からアクロイド家に来た者があったことを知りました。
それでこの謎はすぐ解けたように思われました。すなわちウルスラが離家へ会いに行ったのは、シパード先生が門の近くで会われた見知らぬ男である。その男が離家へ行ったということは、羽の軸によって推察しました。この羽の軸は麻薬の容器ですから、私はそこへ来た男は中毒患者とみました。そして、その男がアメリカから来たものと考えました、なぜなら、羽の軸を容器に用いることはイギリスでは致しません。で、シパード先生の証言により、その男がアメリカ訛であったということから、更に私の推理が裏づけされたと思いました。
けれども、私は一つの盲点にぶつかりました。時間の喰い違いです。ウルスラは九時半に離家へ行ったはずはありません。シパード先生がその男を見かけたのは九時でした。そうなると、そこに三十分のひらきが出ます。そこで私はその三十分の間に、あの離室《はなれ》で二組の男女が、別々に密会したと仮定してみました。この仮定のもとに捜査をすすめますと、はたして新事実があらわれて来ました。それは家政婦ラッセル嬢が、その朝シパード先生を訪ねて、麻薬中毒者の治療法について質問した事実です。それで私は問題の男に離家で会ったのはウルスラではなく、ラッセル嬢であることを知ったのです。それではウルスラが会いに行ったのは誰であろう? 私は内がわに『Rより』という文字と、年月日を刻んだ結婚指輪を金魚池から拾いました。次に私は、ラルフがその晩九時二十五分に、離家の方へ歩いて行くのを見かけたということを、番小屋の女から聞きました。それからまた、その日の昼間、ラルフが若い女と森の中を歩いていたということを知りました。
そこで私は、自分の得た材料を順序よく配列してみました。秘密の結婚、悲劇のあった日に婚約が発表された事実。森の中の争論。離家での夜の密会。これらの事実は自然ラルフとウルスラは、アクロイド氏を殺すべき最も有力な動機をもっていることを、証拠だてる結果となりました。
ところが、もう一つ意外なことが明白になりました。それは九時三十分に、書斎でアクロイド氏が話をしていた相手は、ラルフでないということです。その時刻には彼は離家でウルスラに会っておりました。そこでこの犯罪の中で、最も興味ある局面に達しました。九時三十分に書斎でアクロイド氏と話をしていたのは何者であるか? ラルフではない。ケントでもない……彼はすでに帰ってしまっていた。私はそこで最も賢い、最も大それた質問を自分にだしてみました。アクロイド氏のほかに誰か書斎にいたであろうか?」
ポワロ氏は前へ身をのりだして、この最後の言葉を勝ち誇ったようにわれわれに投げつけた。そして見事に命中させたというようなようすで、ふたたび椅子の背によりかかって一同を見まわした。
だが、レイモンド君はたいして感銘をうけなかったと見えて、おだやかに抗議を申しこんだ。
「ポワロさん、あなたは僕を嘘つきにしようというのですか。しかし僕ばかりでなく、ブラント少佐もアクロイド氏が誰かと話をしておられるのを聞いたんですからね。それは僕の使った言葉は、正確にアクロイド氏のいわれたとおりでなかったかも知れませんが、とにかく、ブラント少佐は露台におられたので、言葉は聞き取れなかったけれども、アクロイド氏の声をはっきりと聞いたと証言しておられるんですからね」
ポワロ氏はうなずいた。
「私はそれを忘れているわけではございません。しかし、ブラント少佐はアクロイド氏が、あなたと話していらっしゃるのだという印象を受けられたのでございますよ」と彼はしずかにいった。
レイモンド君はちょっとの間、あっけにとられていたがようやくわれに返って、
「けれどもブラント少佐は、それが思い違いだったことに気づかれました」といった。
「そのとおりです」と、ブラント少佐も同意を示した。
「それにしてもブラント少佐がそう思いこまれたには、何か理由があったはずでございます」といってポワロ氏は言葉を切ったが、相手を制するように手をあげて、
「いや、いや、あなたはその理由をおあげになるでしょうが、それでは十分でありません。私どもはもっと別の方面に理由を深さねばなりません。私はこういうふうに、推理をすすめたいと存じます。私はだいたい事件の当初から、一つのことに気がついておりました。それは、レイモンドさんが洩れ聞いた言葉の性質でございます。私はどなたもその点について何もいわれないのを、不思議に思っておりました。どなたも変に思われなかったとは……」ポワロ氏はそこで言葉を切って、ちょっと間をおいてからつづけた。
「近来、資金欠乏につき、貴君《きくん》の要求をいれることは不可能である。加うるに……というのを聞いて、あなたはどうお思いになります。何か変に思いませんか」
「ちっとも変ではありません。アクロイド氏はよく私に手紙の口述を筆記させられる時に、それと同じ文句を用いられました」とレイモンド君がいった。
「そうです。私の求めていたのはそれです。人と対談する場合に、そんな言葉づかいをするのはおかしいではありませんか。ほんとうの会話には、あり得ないことでございます。さて、もしアクロイド氏が、手紙を口述しておられたといたしますと……」
「あなたのいう意味は、朗読しておられたというのでしょう。それにしても誰かに読んで聞かせておられたんでしょうね」とレイモンド君が、ゆっくりといった。
「でも、どうしてですか、あの時、誰か他に書斎にいたという確認は一つもあがっておりません。アクロイド氏の声のほかは、誰の声も聞こえなかったということを頭において下さい」
「何ていったって、ああいう種類の手紙を一人で大声をあげて読むはずはありません。アクロイド氏が……気でも狂ったのなら別ですが……」
「あなたは一つ忘れていらっしゃることがございますね。水曜日にアクロイド家を訪問した人物のことを」ポワロ氏は静かにいった。
人々はポワロ氏を凝視した。
「覚えていらっしゃるでしょう。水曜日でございますよ。その男自身はさして重要ではありませんが、その男の代表していた会社が私に非常な興味を持たせました」
「録音機会社! ああ、わかりました。録音機ですね。あなたの考えておられるのはそれでしょう」と、レイモンド君が喘《あえ》ぐようにいった。
ポワロ氏はうなずいた。
「あなたは覚えていませんか、アクロイド氏が録音機に投資する約束をされたことを。私は好奇心から問題の会社に照会してみました。その回答はアクロイド氏がその代表者から、録音機を一台購入されたということでした。どうしてその事実をあなたに秘しておられたのか、私にはわかりません」
「きっと私を驚かせるつもりだったのでしょう。アクロイド氏はまるで子供みたいに、人を驚かせるのが好きでした。きっと、二、三日、僕にかくしておかれるつもりだったのでしょう。恐らく新しい玩具でも手に入れたように、一人でいじくりまわしておられたんでしょうね。それでわかりましたよ。ポワロさんのおっしゃるとおり、普通の会話にああいう文句を使うのはおかしいですからね」
「それで、ブラント少佐が書斎にいたのは、あなただと思われた理由に説明がつきました。口述の断片が耳に入って来たので、ブラント少佐の潜在意識は、あなたが書斎にいらっしゃるものと思いこんだのです。少佐の心はその時、全く別のことで一杯になっておりましたのです。白いものをちらと見かけたので、フロラ嬢だと思われたのでしょうが、もちろん、それは離家へ忍んで行くウルスラさんの白いエプロンだったのです」
レイモンド君は、最初の驚きからようやくさめて、
「とにかく、あなたのこの発見はすばらしいに違いありませんが……実際私はそんなことは考えても見ませんでした……それにしても根本の情況には少しも変化がないようですね。アクロイド氏が九時三十分に録音機に吹きこんでおられたとすれば、その時はまだ生きておられたことになりますもの。チャールズ・ケントはその時刻に現場付近にいなかったとすれば、ラルフ君が……」といいかけて、かれはウルスラの方をちらと見た。
彼女の顔は赤くなったが、しっかりした声でそれに答えた。
「ラルフと私は十時十五分前に別れました。あの方は決して母家《おもや》には近づきませんでした。それは確かでございます。あの方は決してそんな考えは持っておりませんでした。あの方はお継父様と顔を合わせるのを何より怖がっていました」
「僕は決してあなたのいうことを、信じないわけではありません。僕はずっとラルフ君の無罪を確信しているんです。しかし、われわれは法廷に立った場合のことを、考えなければなりませんからね。今のところラルフ君は非常に不利な立場にいます。けれども、一刻も早く出て来さえすれば……」と、レイモンド君がいいかけると、ポワロ氏がわきから、
「ああ、それがあなたのご忠告なのですね。ラルフ君に早くここへ現われてもらいたいとおっしゃるのが」
「そうですとも、もしあなたが知っておいでなのなら……」
「私が知っていると申し上げても、あなたはお信じにならないでしょうね。私はたった今、何もかも知っていると申し上げました。電話の件の真相も、窓わくの足跡も、ラルフ君のかくれ場所も……」
「どこにおりますんです!」
「あまり遠くではございません」ポワロ氏はにやにやしながらいった。
「クランチェスターですか?」と私はたずねた。
ポワロ氏は私の方に向き直って、
「あなたはいつもそうおたずねになりますね。クランチェスターという観念は、あなたの頭脳にこびりついていると見えます。ラルフ君はそこにおります」といって芝居がかったようすで指さした。皆の頭が一斉にその方へ向いた。
戸口にラルフが立っていた。
ラルフの話
私は何もいえず、ただ呆然とした。ただ皆の驚きさわぐ声が遠くに聞こえていた。けれどもようやく気をしずめて、我に返った時、ラルフは妻の手を取って私に微笑みかけていた。
ポワロ氏も笑いながら、
「どうでございます。私が三十六たび以上も、ポワロに何をお隠しになっても駄目ですと申し上げたではございませんか。このとおりかならず見つけだしてしまうのでございますからね」といった。それから他の人たちに向かって、
「先日、私どもがテーブルを囲んで、ちょっとした会議をいたしましたのを皆さんご記憶でしょうね、私を入れて六人でございました。あの時私は五人の方に向かって、何か隠しておいでになると詰問いたしました。その中の四人までは、それぞれ私に秘密を打ち明けて下さいましたが、シパード先生だけは何もお洩らしになりませんでした。けれども私は先生が何か隠しておいでになると感づいておりました。シパード先生は犯行のあった当夜、『いのしし屋』ヘラルフ君を探しにいらっしゃいましたがラルフ君はいませんでした。そこで私は、もしかして先生が、帰る途中でラルフ君に会われたとしたらと考えて見たのです。シパード先生はラルフ君の親友です。そして、ラルフ君は犯罪のあった場所から、まっすぐ帰って来たのです。先生は四囲の情況がラルフ君に不利なことを察しられたでしょう。ことによると世間で考える以上に、ラルフ君にとって不利だという理由を、知っておられたかも知れません」
「今さら隠しておいても無駄ですからここで申し上げます。あの日の午後、私がラルフ君を『いのしし屋』に訪ねた時、ラルフ君は最初のうち煩悶《はんもん》を打ち明けませんでしたが、後でウルスラさんと秘密に結婚したこと、それから窮地に陥った事情などを私に語りました。私はアクロイド氏の死体を発見すると同時に、もしその秘密が公けになればラルフ君かあるいは、彼の愛している女性に嫌疑がかかるに違いないと思いました。あの晩私は、ラルフ君にそのことを指摘しました。ラルフ君は愛妻に及ぼす嫌疑をさけるためには、どんな犠牲でもはらう決心をしました。それで……」私がいいよどむと、わきからラルフがその後をつづけた。
「逃亡を企てたのです。僕はウルスラが僕を残して家へ帰って行きましたから、もういちど、継父《ちち》に会見するのではないかと思いました。その日の午後、すでに継父《ちち》は妻に対して非常に無礼でした。それで僕はふと、継父が許しがたい侮辱を与えたので、妻は思わず前後の考えもなく……」
彼はそこで言葉をきった。
ウルスラは彼の手をふり放して、後ずさりした。
「まあ、あなた! あなたは私がそんな大それたことをしたとお思いになったのですか!」
「さあ、私どもはシパード先生の不届きな行為に話をもどしましょう。シパード先生はご自分の力の及ぶかぎり、ラルフ君を助けることを承諾なさいました。先生はラルフ君を警察の眼から隠すことに成功なさいました」
「どこへ隠したんです、先生のお宅へですか」レイモンド君がたずねた。
「いいえ、違います。あなたも私のしたように、ご自身におたずねになってごらんなさい。もしよいお医者が若い男をかくまう場合には、どんな場所を選ぶであろうか? それはどこか手近なところでなくてはなりません。私はまずクランチェスターを考えました。ホテル? いや下宿? 無論そうではありません。ではどこかしら? と考えた揚げ句に、私はついに療養所……神経病院を思いつきました。私は自分の推理をたしかめるために、気狂いの甥をつくりました。そしてシパード先生のお姉様に、どこかいい病院はないかご相談してみました。お姉様はシパード先生がいつも患者を送られる、クランチェスターに近い病院の名を二つ教えて下さいました。そこで私は、その二か所に照会してみました。すると、はたして土曜日の早朝、その病院の一つにシパード先生ご自身で、若い患者をつれて行かれたことが判明しました。その患者は偽名しておりましたがラルフ君であることを認知するのは造作ないことでした。必要な手続きをふんで、私はラルフ君を連れ戻す許可を得ました。で、ラルフ君はきのうの朝、未明に私の家へ到着されたのでございます」
「姉のいった鑑識課の役人というのは、そうだったのですか、少しも気がつかなかった」私は悲しくつぶやいた。
「それでおわかりになりましたでしょう。私があなたの原稿を拝見して、たいへんに控えめだと申し上げたわけが……あなたの手記は、ある点までは真実に書かれておりますが、それから先まではいっておりません」
私は当惑しきって、一言もなかった。
「シパード先生は最後まで、僕に対して信義を守ってくれました。先生は最良と思われたことをして下すったのですが、ポワロさんは、それが決して最良の道でなかったことを僕に教えて下さったのです。僕は堂々と運命に直面すべきだったのですが、病院では新聞を読まないから、事件がどんなふうに進展しているか、全然わからなかったのです」
「シパード先生は慎重そのものでした。しかし、私はどんなちょっとした秘密でも発見してしまいます。それが私の仕事なのでございます」と、ポワロ氏はそっ気なくいった。
「さあ、ラルフ君、それからどんなことがあったか、あの晩の話のつづきを話して下さい」と、レイモンド君はもどかしそうにいった。
「それから先は諸君の知ってのとおりで、僕がつけたすことは何もない。僕は九時四十五分ごろ、離家を出て、将来の方針を考えながら、道をぶらぶら歩きまわりました。僕はアリバイは立てられないけれども、あの晩は書斎に近づきもしなければ、継父《ちち》に会いもしなかった。生きている姿も死んでいる姿も見なかった。世間ではどう思おうと、ここにいる諸君だけにはそれを信じてもらいたいですね」
「アリバイがないんですか、そりゃ厄介ですね。もちろん僕はあなたを信じていますよ。しかし困ったことですね」
とレイモンド君がつぶやいた。
「でも、ことは簡単ですよ。非常に簡単でございますとも」と、ポワロ氏は快活な調子でいった。一同は彼の顔を見守った。
「おわかりでしょう? おわかりにならない? では申しましょう。ラルフ・パトン君を救うためには、真犯人が自白すればよろしいのです」と、いってポワロ氏は一同に微笑をあびせた。
「ほんとうですよ。今日この席にラグラン警部をお招きしなかったのは、実はそのためだったのです。私は自分の知っていることを、全部あの方に知らせたくなかったのです。……少なくとも今晩はあの方に話したくなかったのです」
彼は前へ身をのりだした。そして急に彼の音声と態度が一変した。彼は突如として威嚇的《いかくてき》な人物になった。
「皆さん! ポワロはアクロイド氏を殺した犯人が現在この部屋にいることを知っておりますぞ。犯人に申し渡します。明日になるとラグラン警部の手許に私の報告書が届きます。わかりましたか?」
息づまるような沈黙がつづいた。その最中に女中が一通の電報を盆に載せて入って来た。ポワロ氏は封を切った。
「われわれの間に殺人犯人がいるとおっしゃるのですか。誰です、それは?」ブラント少佐の響き渡る声が、不意に沈黙を破った。
ポワロ氏は読み終った電報を手の中にまるめた。そしてそれを叩きながら、
「わかりました」といった。
「それは何です?」レイモンド君が鋭く質問した。
「アメリカ合衆国に向かって航行中の汽船から来た無電です」
ふたたび死のような沈黙がつづいた。ポワロ氏は立ち上がって、
「紳士、淑女諸君よ、これで私の小集会は散会いたします。よろしゅうございますか、明日の朝になると、ラグラン警部に真相が知らされることをご記憶下さい」といって、うやうやしいおじぎをした。
真相
ポワロ氏の合図をうけて、一人あとに残った私は、いわれるままにストーブの前へ行って、足の先で太い薪のはじを動かしながら考えこんだ。
私は途方にくれていた。私は今夜こそ完全にポワロ氏の胸中がわからなくなってしまった。ちょっとの間、私はたったいま目撃した場面を、ポワロ氏のよく口にする道化芝居の一種で、氏が自分を興味ある重要な人物に見せかけるために演出したものと考えようとしていた。それにもかかわらず、私はその背後にひそむ真実味を悟らずにはいられなかった。彼の言葉には争うことのできない、真実の威嚇があった。しかし私は、なおも彼が全く間違った方向にあることを信じていた。
最後の客を送りだして玄関の戸を閉めてしまうと、ポワロ氏は炉辺へもどって来て、
「いかがです。あなたはどうお考えになりますか」と、静かにたずねた。
「私はどう考えていいのかわかりません。要点はどこにあるのですか。なぜ犯人にあんな念の入った警告を与えるかわりに、すぐラグラン警部に報告しないんです」と、私は正直なところをいった。
ポワロ氏は椅子に腰をおろして、ケースから細巻のロシア煙草を抜きだした。彼は二三分間、だまってそれをくゆらしていたが、
「あなたの脳細胞をお働かせなさい、私の行動の背後にはいつも何か理由がございます」といった。
私はちょっとためらったが、ゆっくり自分の意見をのべた。
「最初私の脳裡にうかんだことは、あなたは誰が犯人かご存じなかった。しかし、たしかに今日集った者の一人だと考えていらしたのだろうということです。それゆえ、あなたの言葉は未知の殺人犯人に、自白を強いるためのものと取りました」
ポワロ氏は賛成するようにうなずいて、
「なかなかよいご推量です。しかし当ってはおりません」
といった。
「それともあなたは犯人に知っていると思わせれば、あながち告白させなくても、アクロイド氏の唇を永久に閉じたように、明朝にならないうちに、あなたの唇を閉じに来るかも知れないとお考えになったのですか」
「つまり、私が自分を囮《おとり》にして、犯人に罠《わな》をかけたのだとおっしゃるのですか。どういたしまして、私は自分の命をかけて犯人をあげるほど英雄的ではございませんよ」
「それでは私にはあなたというものが理解できません。とにかく、あなたはああいう警告をして、殺人者を取り逃がす危険をおかしていらっしゃいますね」
ポワロ氏は頭をふって、
「彼は逃げることはいたしません。彼の前にはたった一つの道が開いているだけです。それは彼を自由へ導くものではありません」と重々しくいった。
「あなたはほんとうに今夜ここに集った人たちの一人が殺人犯人だと信じていらっしゃるのですか」と私は信じきれないでたずねた。
「そうです」
「誰ですか」
しばらく沈黙がつづいた。やがてポワロ氏は煙草の吸がらをストーブの中に投げ捨ててしんみりとした調子で語りだした。
「私がたどって来た道をもう一度、あなたとご一緒に一歩ずつ歩いてみましょう。あなたはそこであらゆる事実が、一人の男をはっきりと指しているのをご覧になるでしょう。さて、まず二つの事実と、特に私の注意をひいた、ごくわずかな時間の喰い違いからはじめましょう。第一の事実は電話です。もしラルフ・パトンが実際に犯人だとすると、電話をかけたことが無意味なばかげたことになります。そこで私は自分にラルフ・パトンは犯人でないといい聞かせました。
私はあの電話が家からでないことをたしかめました。と同時に、あの当夜、アクロイド家に居合わせた人々の中に犯人を探すべきだという確信を得ました。そこで電話をかけたのは共犯者とみなしました。私はこの自分の推理にはあまり満足しませんでしたが、しばらくそのままにしておくことにいたしました。
次に私は、電話をかけた動機を調べました。これはなかなか困難なことでした。私は結果を判断することよりも、動機を探さなければなりませんでした。つまり、電話のお蔭で殺人が翌朝でなく、その晩のうちに発見された事実です。あなたもこの点にご同感でしょう」
「はあ、おっしゃるとおりです。アクロイド氏は誰も邪魔してはならぬという命令をだされましたから、誰もその晩は書斎へ行く者はなかったのでしょうからね」と私は同意した。
「よろしい、そのとおりです。これで事件はだいぶ進行しました。けれどもまだはっきりとはしておりません。では、犯行が翌朝になって発見されるよりも、その晩のうちに発見されることは、犯人にとってどんな利益があるのでしょう? この質問にたいして私の得た答は、犯人はいずれは犯罪が発覚するものとみて、現場の扉が破られた時、あるいはその直後に、自分もそこに居合わせることを、確実にする必要があったということです。次に第二の事実は、壁ぎわから前へ引きだしてあった椅子です。ラグラン警部はあのことを眼中におきませんでしたが、反対に私はあの一事を特に重要視しておりました。
あなたは原稿の中に、書斎の見取図をきちんと書いておおきになりました。あれをご覧になればわかりますが、パーカーが証言した位置に、あの椅子を引きだしますと、ちょうど扉と窓との間に一直線を描きます」
「窓ですって!」と私は急ぎこんでいった。
「あなたも私の最初の考えと同じことを考えておいでですね。私は椅子を引きだしておけば、何か窓に関係のあるものが、戸口から入って来た人に見えないようにするためと想像しました。けれども、私はじきにその想像を捨ててしまいました。なぜかと申しますと、あれはよりかかりの高い大きな安楽椅子ですが、わずかに窓べりから下の方を隠すにすぎないことを知ったからです。ところで、窓の前に書籍や雑誌などを載せた、丸テーブルがあるのをご記憶でしょう。あの丸テーブルは、椅子を前へ引きだすと、完全に隠されてしまうのです。そこですぐに私は、真実に対する当初のおぼろげな予感を持ったのです。
もし、そのテーブルの上に、何か見られてはならないものが載っていたと想像します。何か犯人がそこにおいたと仮定します。でも、まだそれが何であったか見当がつきませんでした。だが、やがて私はその何かに対して、いくつかの非常に興味ある事実を知りました。たとえば、その何かは殺人者が犯行当時、すぐに持ち去ることのできないものだったということです。それと同時に、犯罪の発覚後、できるだけ早くそこから持ち去ることが肝要なものです。そこで電話は死体が発見された時、その場に犯人が居合わせる機会を与えるためだったのです。さて、現場には警官の到着する前に四人の人がおりました。あなたご自身と、パーカーとブラント少佐と、レイモンドさんです。私はパーカーを第一に除外しました。彼はいつ死体が発見されるとしても、当然その場には居合わせるにきまっている人物ですし、椅子が引きだしてあったことを私に語ったのは、彼だったからです。そこでパーカーに対する疑惑は晴れたのです。それは殺人者としてのことで、私はその時はまだ彼がフェラス夫人の恐喝者かも知れないと思っていました。レイモンドさんとブラント少佐は犯罪が翌朝早くなど発見された場合に、丸テーブルの上に品を見つけられないうちに現場に到着することはむずかしくないというわけで、依然として容疑者にかぞえなければなりませんでした。
さて、その品物は何でしょう? あなたは今晩、書斎から聞こえた会話の断片に対する私の論証を聞いていられましたね。私は、録音会社の代表者がアクロイド氏を訪問したと知るやいなや、録音機のことを念頭にうかべました。半時間前にこの部屋で私の申したことを、あなたはお聞きになりましたね、ここにいた人々はみんな私の推理に同感しましたが、ただ一つ、大切な事実を見のがしたようでした。もし皆が考えておりましたように、九時三十分にアクロイド氏が録音機に吹きこみをしておられたのでしたら、どうしてその録音機が、現場においてなかったのでしょう」
「それは私も気がつかなかった」と私はいった。
「アクロイド氏が録音機を購入された事実があがっているのに、われわれは氏の所有品の中に録音機を発見することができませんでした。そこで、テーブルから何か持ち去られたとしたら、その何かなる品が、録音機であるという結論に達しました。しかし、ここにもう一つ困難がありました、それは現場へかけつけた人々の注意の焦点は死体の上にありますから、その場合、テーブルの上の品物を、他の人々に気づかれずに片づけることは容易です。しかし録音機ほどのかさばるものを、簡単にポケットに隠すというわけにいきません。何か隠し場所がなくてはなりません。あなたにはおわかりでしょう。それでだいたい犯人の形ができあがりました。犯人は現場へまっすぐに行った人物で、朝になって死体が発見されたのでは、一番先に現場へ入ることのできない人です。それから、その人物は録音機を隠すのに都合のいいものを持って歩く人です」
「しかし、どういうわけで録音機を隠す必要があったのです」私は言葉をはさんだ。
「あなたもレイモンドさんと同じに、九時三十分に聞こえたのは、アクロイド氏が録音機に吹きこみをしておられた声だと思いこんでいらっしゃるんですね。しかし、この便利な発明品のことを、もう少しよくお考えになってみて下さい。これは言葉を吹きこんでおいて、後で秘書が機械をかけてその言葉を聞きながら、タイプに打つための道具ではございませんか」
「それでは、あなたは、アクロイド氏が……」と、私が喘ぎながらいうと、ポワロ氏は、うなずいた。
「そうです。九時三十分にはアクロイド氏はすでに死んでおりました。録音機がかかっていたのであって、人間が話していたのではありません」
「では、殺人者がその録音機をかけたのですね。すると、その時刻に犯人は書斎にいたわけですね」
「あるいは……しかし、機械にある装置をほどこしておけば、思う時間にひとりでにかかります。目覚時計などを応用すれば、簡単に行われるということも考えなければなりません。そうなると、犯人の要素に更に二つの条件が加えられることになります。その一は、犯人はアクロイド氏が録音機を購入したことを知っているもの。その二は、犯人は機械の知識を持っているもの。
私はこれだけのことを念頭において、窓わくの靴跡に来ました。ここで私は三つの結論を得ました。
(一)靴跡はラルフ・パトンのものかも知れない。彼は当夜、屋敷へ来ていたから、書斎へ窓から入って継父の死体を発見したかも知れない、これは仮定の一つです。
(二)この靴跡は、誰かラルフと同じ型の靴をはいていた者がつけたのかも知れない。しかし、家族の者にはこれと同型のものはない、それゆえ、外部から来た者に違いない。チャールズ・ケントは『犬と口笛』の女給の証言によると、破れた靴で、とうてい踵のゴム形がつくような代物ではない。
(三)この靴跡は、誰か巧妙にラルフに嫌疑をかける目的でわざわざつけたものである。この最後の結論を証明するために、ある事実をたしかめる必要がありました。ラルフの短靴を一足、警察が『いのしし屋』から押収して来ました。それは宿の者が磨いて下に置いておいたものであるから、ラルフにしろ、他の誰でもその晩はいたはずはない。警察の説によれば、ラルフはそれと同じ型の短靴をもう一足持っていて、それをはいていたのだろうというのです。私の調べたところでは、たしかにラルフは短靴を二足持っておりました。さて、犯人が当夜ラルフの靴をはいていたという私の推理が正しいとすると、ラルフはもう一足靴を持っていなければなりません。ところで私は、ラルフが三足ともみな同種類の靴を持っていたとは考えられなかったので、第三番目の靴は編上げだったろうと想像したのです。これは真実の目的をぼかすために、靴の色にかこつけて、あなたのお姉様に調べていただきました。その結果はあなたもご存じのとおり、ラルフ・パトンは別に編上げ靴を一足持っていることがわかりました。きのうの朝、ラルフ君が私の家へ着きました時に、最初にたずねたのは、あの事件のあった夜、彼のはいていた靴のことでした。彼は即座に編上げ靴をはいていたと答えました。彼は事実、現在もその編上げをはいております。他にはくものがないからです、そこで、私どもは更に犯人推定の一要素を加えることができます。すなわち犯人はその日、『いのしし屋』からラルフ君の靴を持って来る機会のあった人物です」
彼はちょっと息をいれてから、いくらか声を高めていった。
「更にもう一点加えましょう。犯人は兇行に用いた短刀を飾り棚から取りだす機会を持っていた人物です。あなたはあの晩集った者のうちの、誰でも短刀を取りだす機会があったとおっしゃるかも知れませんが、フロラ嬢が客間へ行った時には、もう短刀は飾り棚になかったことは確実だという証言があります」
そこでポワロ氏はもう一度、間をおいて、
「これですべてが明瞭になりました。もう一度、念のためにくり返してみましょう。あの日の昼間、『いのしし屋』へ行った人物、アクロイド氏が録音機を購入したことを知っていた人物、機械の知識を持っている人物、フロラ嬢が客間へくる前に、飾り棚から短刀を取りだす機会のあった人物、録音機を隠すに適当な品物を、たとえば黒い革かばんを持ち歩く人物、犯行が発見されてから、パーカーが警察へ電話をかけている間、書斎で一人きりでいた人物……それはすなわち、シパード医師です」
事実は語る
ちょっとの間、死のような沈黙がつづいた。
私は急に笑いだした。
「あなたは、気が狂っている」と私はいった。
「いいえ、私は正気です。ごくわずかな時間の喰い違いが最初から私の注意をあなたに向けさせたのです」
「時間の喰い違い?」私は腑に落ちなかった。
「そうなのです。あなたも、その他の人たちも、玄関から門まで歩いて五分よりかからないと申しました。近道をすれば五分もかかりません。それだのにあなた自身もまたパーカーも、あなたが玄関を出られたのを九時十分前だと証言しています。そして、あなたが門を出たのは、九時だとおっしゃいましたね。あの晩は特別に寒く、外をぶらぶら歩くような気持のいい気候ではありませんでした。あなたは何故、五分で歩けるところを、十分もおかかりになったのでしょうか。それからあの晩、書斎の窓の戸締りがしてあったと証言することができたのは、あなただけだったことも私の注意をひきました。アクロイド氏はあなたに窓の桟をおろしてくれといいましたが、氏自身でそれを確かめたわけではありません。もし窓の戸締りがしてなかったとすれば、あなたはその十分間に靴をはきかえて、窓から書斎に入ってアクロイド氏を殺し、九時に門を出ることができたかも知れないと考えられます。しかし、神経過敏になっていたアクロイド氏が、窓から入って来るあなたに気づかないはずはないから、当然、格闘が起こったでしょう。それであなたは書斎を出る前に、すでにアクロイド氏を殺したと仮定しました。そしてあなたはパーカーに送り出されてから離家《はなれ》へ走って行き、その日『いのしし屋』から盗って来たラルフ君の靴にはきかえ、ぬかるみを抜けて窓下へ行き、足跡を残して書斎に忍びこんで、入口の扉に錠をおろし、ふたたび離家《はなれ》へ戻って靴をはきかえて門を出たのです。先日あなたがセシル夫人に呼ばれておいでになった時、私はあそこへ行って実地にやってみましたが、ちょうど十分かかりました。それからあなたは家へ帰ったのです。録音機はあなたのアリバイをたてるために、九時三十分に鳴りだすように仕掛けがしてあったのです」
「ポワロさん、あなたはこの事件をあまり長くかかえすぎて、孵《かえ》しそこなってしまいましたね。いったい私がアクロイド氏を殺して、何の得るところがあったでしょう」と私はいったが、その声は自分の耳にも変にうつろに聞こえた。
「身の安全を計るためでした。フェラス夫人をゆすっていたのはあなたです。フェラス氏の死因を知っていたのは、主治医のあなたよりほかにないはずです。はじめて庭でお目にかかってお話しした時、あなたは一年ほど前に遺産が入ったとおっしゃいましたね。その後私はその遺産の出所を調べてみましたが、ついに判明しませんでした。あなたはフェラス夫人からゆすり取った二十万ポンドの出所をごまかすために遺産云々ということを考えついたのでしょう。あなたはそれを投機に空費したあげく、ふたたびフェラス夫人を搾《しぼ》りはじめました。その結果は、夫人にあなたの予期しなかったのがれ道をえらばせてしまいました。もしアクロイド氏がこの事実を知ったなら、決して容赦しなかったでしょう。あなたの生涯は破滅です」
「電話の件はいかがです? あなたは、さぞうまい理屈をつけるでしょうね」私は茶化すようにいった。
「正直なところ、電話の件は一番の難物でした。あの電話がアボット停車場からあなたのお宅へ、たしかに繋《つな》がれたということがわかったので、いっそう迷わされました。最初、私はあなたの巧妙なつくり話だと思いました。あなたがご自分のアリバイを立てるのに使った、重要な録音機をかくす機会をつかむために、あの時刻にアクロイド家へ出かける口実だと考えたのでした。はじめてあなたのお姉様を訪問した時、私は金曜日の朝、あなたが診察なすった患者のことをおたずねしましたが、あの時は全然ラッセル嬢のことなど、念頭になかったのです。ラッセル嬢の訪問は幸運な偶然事でした。お蔭で私は、自分の実際の目的をあなたの心からそらしてしまうことができました。実はあなたの患者のうちに、私の目ざす男がいたのです。それはアメリカ通いの汽船の賄方《まかないかた》でした。その男こそ金曜日の夜行列車でリバプールヘ出発するにふさわしい人物だと考えました。私は『オリオン号』が土曜日に出帆したのを確かめたばかりでなく、その賄方の姓名もわかっておりましたので、無電であることを問い合わせましたところ、さっきこのとおりその返事が参りました」
ポワロ氏は電信を私に示した。それには、
照会のとおり、シパード医師は小生に托して手紙を某患者の許に届け、当夜アボット駅より電話にて、その返事をすることを依頼された。その電話は単に「応答なし」と答えるのみであった。
「巧妙なやり口です。電話はたしかにかかって来ました。お姉様はあなたが電話へ出られるのを見ていました。ただあなたは電話で聞いたと称する文句を創作するだけでした」とポワロ氏はいった。
「大そう面白いお説ですな。だが、実際の役にたちますかどうですか」と私はあくびをした。
「あなたはすべての事実が、明朝ラグラン警部に報告されることをご記憶でしょうね。私はあなたの善良なお姉様のために、あなたに一つの遁れ道を提供しているのでございます。たとえば睡眠剤の飲みすぎというような方法もございますね。おわかりでしょう。申すまでもなく、ラルフ君の嫌疑ははらさなければなりません。私はあなたに例の興味ある手記を終りまでお書きになることをおすすめします。ただし今までのように控えめな態度を捨てて、ご自分のなすったことを、遠慮なくお書きになることを希望します」
「あなたはいろいろと入れ智恵をなさいますね。もうこれで全部おしまいですか」
「そうおっしゃられると、まだいい残したことがございました。あなたがアクロイド氏を沈黙させたように、私の口を閉じようとなすっても無駄です。ポワロを相手では、そういうことは決して成功いたしません。おわかりになりましたね」
「ポワロさん、私はそれほど愚《おろか》ではありませんよ」私は薄笑いしながら立ち上がった。「どれお暇《いとま》しましょう。いろいろと興味あることを伺わせていただいたり、お指図をいただいたりして、どうもありがとうございました」私はあくびまじりにいった。
ポワロ氏は立ち上がって、いつものように、いんぎんに頭をさげて、私を送りだした。
告白
午前五時。
私はひどく疲れている。だが、私の仕事は終った。あまり書きつづけたので腕がずきずき痛んでいる。
自分の手記がこんなふうに終ろうとは思わなかった。私は他日これをポワロ氏の失敗記として発表するつもりであったのに! 全く妙な結果となったものである。
私はラルフとフェラス夫人とが頭をよせて何か話している瞬間から、今日の破局をあらかじめ警戒していた。その時、私はフェラス夫人がラルフに秘密を打ち明けているのだと思いこんだ。
それは全く私の思い違いであったが、あの晩アクロイド氏の書斎に入ってアクロイド氏から話のあるまで、その考えが私の脳裡にこびりついていた。
気の毒な友、アクロイドよ! 私は彼に機会を与えたことをせめてもの慰めと思っている。私は彼に早く手紙を読むようにいく度もすすめた。だが、正直なことをいえば、彼のようなつむじ曲りに対して、手紙を読ませまいとするなら、ああして無理じいするのが上策だと、私は無意識のうちに感じていたのかも知れない。あの晩の彼の神経過敏ぶりは心理学的に興味があった。彼は危険が身に迫っていることを知っていた。それでいて、決して私を疑わなかった。
あの短刀は後で思いついたことである。私は自分の手ごろな小さい兇器を用意して行ったのだが、飾り棚の中に短刀が横たわっているのを見た時、出所をさとられる心配のある自分の兇器を使用するより、短刀を使う方が、はるかに得策だと考えた。
私は最初からアクロイド氏を殺すつもりでいた。フェラス夫人の自殺を知ると同時に、私は夫人が死ぬ前に秘密をアクロイド氏に打ち明けたに違いないと思っていた。あの日、途中で氏にあった時、ひどく思いわずらっているようすだったので、氏は夫人から真相を聞かされたものの、信じきれないので、私に弁明の余地を与えるつもりなのであろうと考えた。
それゆえ、私は家へ帰って予防策を講じた。ああ、もしアクロイド氏の心配というのが、ラルフに関するものであったら、何事もなくすんだであろうに! 録音機は二日前に修理のため、アクロイド氏から預かったのである。どこかにちょっとした故障が起こったので、アクロイド氏が会社へ返そうとしたのを、私が引き受けて家へ持ち帰ったのである。私は故障を直し機械に仕掛けをして、あの晩、薬かばんに入れて持って行った。私は自分ながら、すぐれた文才を持っていることを誇りとしている。いかなる作家でも、次の文章以外に、この間の消息を巧妙に表現し得ないであろう。
――パーカーが手紙を持って来たのは九時二十分前で、私が書斎を出たのは九時十分前であった。その時はまだ読み終らない手紙が、テーブルの上に載っていた。私は戸口に立った時、もう一度部屋の中を見まわして、何か自分の仕残した仕事はないかと考えたが、何もなかった。
これはすべて事実であった。けれども、この中の最初の文章に、朱線か点線でもつけておいたなら、誰か、九時二十分前から九時十分前までの間の十分間に、どんなことがあったろうと疑いを抱く人があったかも知れない。
私は戸口に立って部屋を見まわした時、自分の仕事に十分満足した。何一つ手ぬかりはなかった。窓ぎわの丸テーブルの上には録音機が載っていた。それは目覚時計の原理を応用して、九時三十分に発声するようにしてあった。そして安楽椅子を前へ引きだしてあったから、戸口からは録音機が見えないようになっていた。
実をいうと、私はパーカーを廊下に見かけた時には、ぎょっとした。この事実も私は忠実に記録しておいた。
後刻、私はパーカーが警察へ電話をかけに行っている間に、|私としてしなくてはならない《・・・・・・・・・・・・・》、|ごくわずかな事をするだけであった《・・・・・・・・・・・・・・・・》と書いておいたが、その|わずかな事《ヽヽヽヽヽ》というのは、録音機を薬かばんの中におしこみ、椅子をあたりまえの位置に戻しておくことであった。
私はパーカーが椅子の位置に気がつくとは、夢にも思わなかった。理論からいえば、死骸にのみ気を取られてしまって、他のことに気がつくはずはないのだ。けれども、永年奉公人としての訓練を経ている人間の、職業的習性を考えの中に入れておかなかったのは、千慮《せんりょ》の一失《いっしつ》であった。
私は、フロラが十時十五分前に伯父が生きていたと証言することを、前もって知っていたら、すべてがどんな好都合に運んだろうと思った。とにかく、フロラの証言は実に意外で、私は諒解に苦しんだ。実際、この事件の経過中、いろいろなことが起こって私を迷わしつづけた。まるで誰も彼もが手を貸したかの観があった。私が最もおそれたのは姉であった。私はやがては姉が嗅ぎだしてしまうのではないかと、びくびくしていた。私の気の弱さをいい出した時のようすが、どうも妙に思えた。だが、姉は決して真相を知ることはないであろう。ポワロ氏のいったとおり、私の前にはただ一つの逃げ道がある……。
私はポワロ氏に信頼する。彼とラグラン警部とは、二人の間だけで処理してくれるであろう。
私は姉にだけは知らせたくない、彼女は私を愛していてくれる。それに彼女は自尊心を持っている。……私の死は姉を悲しませるであろう。だが、悲しみは時が癒《いや》す……私はこれを書き終ったら、全部の原稿を密封して、ポワロ氏に宛てて上書をしておくつもりだ。
それから……何にしようか……ベロナール? これこそ善人栄え悪人滅ぶの理想に叶う結末であろう。といって私は決してフェラス夫人の死に対して、責任を感じているわけではない。それは彼女にとって当然の報いである。私は少しも彼女を哀れまない。
また、自分自身をもいささかも哀れまない。
それゆえベロナールときめよう。
私はつくづく、ポワロ氏が引退して、かぼちゃ作りなどしにこの村へ来なければよかったと思う。 (完)
あとがき
原作者アガサ・クリスティ女史 AGATHA CHRISTIE は、一九五〇年に第五十冊目の探偵小説を発表し、その出版記念には、内外の有名無名の読者から、熱誠をこめた祝辞が寄せられた。
その中の一人、時の英国首相アトリー氏からの一節に、
――私はアガサ・クリスティ女史のすばらしい創意と、秘密を摘発する最後の段階に至るまで、実に巧妙に極秘にしておる才能を非常に賞揚し、楽しむ者であります。また私は他の探偵小説家たちの持っていない女史の要素に敬服しております。それは女史が英語を実に簡潔明瞭に書く才能を持っておられる点であります――
とあるが、本書の読者も、まずこの二つの点に同感されることと思う。
クリスティ女史は英国デボンシャーの美しい田園に生まれ、幼少の時から自然に親しみ、自由な空想をはぐくまれ、作家的気分に理解ある母の愛の裡にすくすくと成長し、十六歳の時には音楽の勉強にパリに遊学した。
現在はダート川に臨む古風な邸宅に、夫の考古学者マックス・ワロワン氏と共に暮し、創作に専念しているが、ワロワン氏が発掘旅行に出かける時には同行して、その仕事を扶けるというふうに、幸福な家庭生活を送っている。
女史が探偵小説を書きはじめたについて、面白い挿話がある。それはある晩餐会の席上で、たまたま話題が探偵小説に及んだ時に、探偵小説のような血なまぐさい事件を扱い、しかも探偵が鋭い頭脳を働かして推理を進めていって、犯人を摘発するというような作品は、とうてい女性には書けないという説に、大体の意見が一致した。するとクリスティ女史は、女性といえども探偵小説を書けないはずはないと主張し、劇作家として有名なイーデン・フィリポッツ氏に激励されて書きあげたのが、「スタイルズ荘の怪事件」である。それは一九一九年、第一次世界大戦中のことで、クリスティ女史は赤十字病院に薬剤士として勤務する傍らこの小説を書いたという。
多くの出版社も、クリスティ女史自身も、その作品がよもやこれほど世界的に有名になり、多大の読者を熱狂させ、世界の探偵小説界の女王として君臨しようとは、夢想だにしなかったであろう。が、過去三十五年間に出版された女史の探偵小説は、一冊も駄作がなく、出版部数総計約五億冊に及んでいるといわれている。
女史は大抵の食物は何でも好きで、食べることを楽しむが、アルコール分を含んだものは大嫌いで、酒類はいっさい口にしない、煙草も、どうしても好きになれないと告白している。愛好しているのは花で、海に対しては熱狂的な愛着をもっている。芝居は好きだが、トーキー映画や、ラジオその他さわがしい音は我慢がならない、したがって市中に住むのは好まない。旅行はよくするが、大抵近東地方で、特に砂漠には魅力を感じているとのことである。これを知っていると作品を読む上に役にたとう。
クリスティ女史の探偵小説は長篇だけでも六十冊以上あるが、およそクリスティの愛読者は、みんなこの小柄でおしゃれで、フェミニストで、すばらしく頭脳のいいベルギー人の私立探偵に特別の親しみを持ち、彼の顔を見ないと、物足りなく感じるのが常である。小説中の人物でコナン・ドイルの創造したシャーロック・ホームズ探偵の次に登場して世界的の名声を博した探偵は、このエリキュル・ポワロである。私もポワロ探偵が大好きで、クリスティ女史の作品はどれでも愛読するが、ポワロ探偵が出現しないで事件が解決されてしまうと、がっかりし、ポワロの居所がわかれば電報で呼び寄せて、その意見を聞いてみたいほどである、では、それほどの魅力あるポワロ探偵とは、どんな人物かというと、実は決して映画俳優に抜擢されるような美男でもなければ、性格俳優という風貌でもなく、その逆で見かけても誰も気がつかないような存在である。いや、そんなことはない、気がつかないどころか、誰でも彼を見ると、今時珍らしい男がいたものだといぶかりながら、この卵型の頭を小鳥みたいにかしげて、緑色の眼を無邪気に見張っている人物に注意を払うであろう。というのも、鼻下に蓄えている見事な美しい髭のせいである。
ポワロは誰かが、つばめが羽根をひろげているような、その髭に注目しているのに気がつくと、すこぶる満悦のていで、チックで固めて、ぴんとさせたその髭を、そっと撫でるであろう。
それはポワロの自慢のもので、どんな忙しい時でも、この髭の手入れだけは怠らないのである。
それに彼は滑稽なくらい身だしなみに気をつけるたちで、服にはいつもブラシをかけ、シャツにでもネクタイにでも、靴にでも、細心の注意を払い、常に一糸乱れぬ服装をしている。ちょっとしたほこりでも、眼に止まらないほどの汚点でも、我慢のできない性分である。もし砂漠を自動車で旅行するような場合があったら、ポワロは櫛とブラシを使いつづけ、チックで固めた大切な髭が乱れはしないかと絶えず気にしていて、窓外の景色も眼に入らなければ、いつも連れ立って歩く親友ヘイスティングス大尉の話も耳に入らないだろうと評されているほどである。
たいへんに礼儀正しく、特に女性に対しては優しくいんぎんで、言葉使いもていねいであるが、自分でも「ポワロはライオンにもなりますぞ」というように、ふだんは温厚な彼も、時にはすさまじい剣幕で不正直者を威嚇して本音を吐かせることもする。
オムレツとチョコレート・ミルクが大好物で、煙草は婦人好みの細巻を愛用し、何かというと、「あなたの小さな脳細胞をお働かせなさい」というし、「私のちょっとした思いつき」ということを口にする癖がある。ところが、ポワロのこの「ちょっとした思いつき」というのが、実はなかなか曲者なので、それが彼の脳細胞に浮かんでくると、緑色の彼の眼は猫のようにきらきら光り出すのが常である。
とにかくポワロ探偵は、愛嬌があって、人情味ゆたかで、何となくユーモラスな感じがするので、誰にでも親しまれ、好感を持たれるのである。
私がここで申し上げたことが、ほんとうかどうかは、なにとぞこの作品をご愛読になり、ポワロの愉快な風格にお接しになったうえでご判断下さい。
[訳者略歴]
松本恵子《まつもとけいこ》 一九○一年北海道に生る。青山学院英文卒。青少年向きの海外名作を翻訳するかたわら、探偵小説の邦訳紹介、テレビドラマを執筆する。主訳書に「若草物語」「王子と乞食」「シェークスピア物語」「ノートルダムのせむし男」「アクロイド殺人事件」「青列車殺人事件」などがある。
◆アクロイド殺人事件◆
アガサ・クリスティ/松本恵子訳
二〇〇三年四月二十日 Ver1