アガサ・クリスティ作/川崎淳之助 他訳
ミス・マープルのご意見は? 2
目 次
はじめに
茶飲み相手
四人の容疑者
クリスマスの悲劇
別荘事件
はじめに
場所は変わって、今度はセント・メアリ・ミード村の名士バントリー大佐夫妻の家。「第1巻」と同じ趣向で「お遊び」がおこなわれるが、今回の出席者は、元ロンドン警視総監ヘンリー・クリザリング卿、女優ジェーン・ヘリア、医師ロイド、それにミス・マープルである。
茶飲み相手
「ところでロイド博士」とミス・ヘリアは言った。「あなたは身の毛のよだつようなお話しを何かご存知ないのですか?」
彼女は彼を見て微笑んだ――それは毎晩劇場に通う観客を誘惑した例の微笑であった。ジェーン・ヘリアはひところイギリスきっての美人だと言われていたが、嫉妬深い、同じ俳優仲間はいつもこんな口のきき方をするのだった。「モチ、ジェーンは芸術家なんてものじゃないわ。演技をすることができないんですもの――あたしのいう演技の意味があなた方におわかりだとすればだけどね。問題はあの目なのよ!」
ところでその「目」は、今という今、白髪のまじった年輩の独身の医師のうえに、うったえるように注がれていた。彼はこの五年間というもの、セント・メアリー・ミードの村の人達のために働いてきたのだった。何げない素振りで、博士は(最近気持がわるくなるほど体にぴったりしてきた)チョッキをひっぱった。そして信頼しきって話しかけてくる愛らしい女性を失望させまいとして、急に頭をひねりはじめた。
「わたくしは」とジェーン・ヘリアは夢中になって言った。「こんばんは何となく犯罪についておしゃべりしたい気がしますの」
「それはすばらしい」と主人役のバントリー大佐は言った。「すばらしいね、全くすばらしい」こう言うと、彼は心の底から大声を出して豪傑笑いをした。「なあ、ドリー?」
彼の妻は(春の花壇のことを考えていたが)社交生活の急場のエチケットに急いで気がつくと、熱狂的に同意した。
「もちろんすばらしいですわ」と彼女は心から言ったが、何が何やら漠然としていた。「わたくしいつもそう思っていましたの」
「まあ、あなたも?」と年とったミス・マープルは言った。彼女の目はほんのわずかまばたいた。
「わたしたちは身の毛のよだつ話などあまり知りませんよ――ましてセント・メアリー・ミードで起こった犯罪事件など全然ですよ、ミス・ヘリア」とロイド博士は言った。
「それは驚きましたね」とヘンリー・クリザリング卿は言った。この前ロンドン警視庁の総監は、ミス・マープルの方をむいた。
「わたくしはセント・メアリー・ミードが犯罪と悪徳の、明らかな温床だということをここにいらっしゃる友人からいつも聞いて存じています」
「まあ、ヘンリー卿!」とミス・マープルは頬をぽっと赤らめながら抗議した。「そういうことについては、わたくしはたしかに何も言ったことなどありませんよ。今までわたくしがしゃべったたった一つのことは、人間というものはどの村でも、他所《よそ》の村と同様に同じものなんだということです。ただ、わたくしには、ずっと身近でそれに接する機会とひまがあるだけなのです」
「でもあなたはずっとここで生活をなさっていたわけではないでしょ」とジェーン・ヘリアは博士の方を向いたまま言った。「あなたは世界中のありとあらゆる奇妙な場所――つまり事件が起こるような場所にいらしったことがあるんでしょ!」
「もちろんそうですが」とロイド博士は、絶望的に考えこんで言った。「ええ、もちろん……そうですとも……ああ! ありました!」
彼はほっと吐息《といき》をつくと、椅子に深く腰を沈めた。
「実は今から数年前のことでした――もうほとんど忘れてしまいましたけどね。しかしあの事件は全く奇妙な事件でした――実際奇妙でした。それに話の糸口をわたくしにつかませた決定的な偶然の一致というのもまた不思議なことでした」
ミス・ヘリアは椅子をわずかばかり彼の方に引いた。そして口紅をちょっとあててから、期待顔で待ちかまえた。他の人々も興味深げな顔を向けた。
「あなた方の中にカナリア諸島をご存知の方がいらっしゃるかどうかは存じませんが」と博士はきり出した。
「きっとすばらしい所にちがいありませんわ」とジェーン・ヘリアは言った。「あれは南太平洋にあるんでしたわね? それとも地中海だったかしら?」
「わしは南アフリカに行く途中、そこに立寄ったことがありますよ」と大佐が言った。「テネリフェの山頂は、そこに夕日が沈んでゆくとき、すばらしい景色ですよ」
「これからお話しする事件というのは、そのテネリフェではなくてグラン・カナリア島で起こった事件です。かなり前のことなんですがね。わたくしは健康を害したので、英国での開業医の仕事を止めて、国外に行くことを余儀なくされました。で、ラス・パルマスで開業したのです。そこはグラン・カナリアの首府なんです。わたくしはそこでいろいろと生活を楽しんでいました。気候は温和で日が照りつけ、すばらしい海水浴場がありました。それに(わたくしは泳ぐことときたら目がないほど好きですが)港内での海の生活はわたくしを魅了してしまいました。世界中からやってくる船はラス・パルマスに寄港します。ご婦人方が帽子屋のならぶ商店街に興味を奪われるよりはるかに興味を奪われて、毎朝防波堤に沿って歩いたものでした。
申しあげる通り、世界中の船はこのラス・パルマスに寄港するんです。あるときは数時間、またあるときは一日か二日も泊っています。メトロポールというこの町きってのホテルにいらっしゃれば、あなた方はあらゆる人種や国籍の人に会えるでしょう。彼らは渡り鳥なんです。テネリフェへ行く人々でさえ、普通ここにやって来て、他の島へ渡る前に、一日か二日は滞在するのです。
わたくしのお話は、そこ、つまりメトロポール・ホテルで、一月のある木曜日の夕方に始まります。ちょうどダンスが行われていました。わたくしと友人はテーブルの前に腰をかけてその情景をみまもっていました。イギリス人や、他の国籍の人びとが適当にあちこちに加わっていました。しかし踊り手の大部分はスペイン人でした。オーケストラがタンゴをはじめたとき、スペイン人の六組だけが踊りはじめました。皆、名手でしたので、わたくしたちは見ながら感嘆していました。特に一人の女性などは絶讃の嵐をまき起こしました。背は高く、美人で、身のこなしもやわらかく、まるで飼いならされた雌ヒョウのようにやわらかく踊っていました。しかし何か危険な雰囲気がそのまわりにうずまいていました。友人にそう話しかけると、彼はうなずきました。
『ああいった種類の女というものはね』と彼は言いました。『かならず過去を持っているんだよ。人生は彼女たちを見のがしはしないからね』
『美しいということがおそらくは、危険な所持品なんだろうね』とわたくしは言いました。
『美しいだけじゃないよ』と彼は主張しました。『何かもっと別のものがあるんだ。もう一度彼女を見てごらんよ。何か事件が、あの女に、というか、あの女がもとで起こらずにはすまないぜ。いま言ったように、人生は彼女を見のがしはしないよ。奇妙な、手に汗をにぎるような事件がきっと彼女を取り巻いてくるよ。みてさえいれば、それがわかるさ』
彼は一息つくと、にっこり笑って更にこうつけ加えました。
『ちょうどだね、あそこにいる二人のご婦人をみさえすれば、どちらにも何ら異常なことが起こりっこないのがわかるだろう。ちょうどそれと同じさ! 彼女たちは、安全だが役に立たない生きものとしてつくられているんだ』
わたくしは彼の視線を追いました。彼の言う二人の婦人は、町に着いたばかりの旅行者でした――というのは、その日の夕方、オランダのロイド船が入港して船客は着いたばかりだったのです。
彼女たちをみたとき、わたくしは友人の言う意味が即座にわかりました。彼女たちは二人のイギリス婦人でした――あなた方がきっと外国で見かけるような、全く気持のよいイギリスの旅行者たちでした。年は二人とも四十がらみだったと申すべきでしょう。一人は色の白い女で、少しばかり――ええ――ほんの少しばかり肥っていました。もう一人は色の黒い女で、ほんのわずか――ええ、またもやくりかえしますがわずか――やせていました。彼女たちはいわゆるとっておきのご婦人といった感じで、仕立のよいツイードを、上品に目立たぬように着ていました。化粧は何もしていませんでした。育ちのよいイギリス婦人独特の、物腰のやわらかい、落着いた雰囲気をつくっていました。どちらも目立つようなところは少しもありませんでした。幾千人もの同じ女性と変りはありませんでした。恐らくベデカー旅行案内書の助けをかりて、見たいと思うものは何でもみ、その他のものにはみんな目をつむっていたでしょう。それに、たまたま行きあわせた土地にあるイギリスの図書館を利用したり、イギリスの教会に通ったりしたでしょう。それにどうやら二人のうち片方か、それとも両方ともが少々スケッチをやっているようでした。さらに、友人が言うように、明らかに世界の半分は旅行したらしいのですが、何ら刺激的、ないしは目新しいものに出っくわした様子がないんです。わたくしは彼女たちから目を戻して、半ばとじられた、うっせきしたような目《まな》差しをした、例のスペイン女の方にむけました。そして、にっこりと笑いました」
「かわいそうな人たち」とジェーン・ヘリアは溜息をつきながら言った。「だけど自分自身のことを最大限によくみせないなんて、ほんとに馬鹿な人達だと思いますわ。ボンド・ストリートの例の女――そうヴァレンタインは――たしかにすばらしい女性です。オードリー・デンマンは彼女のところに往き来しています。『ダウンワード・ステップ』というお芝居で彼女をごらんになりました? 第一幕では女学生に扮してすばらしい演技をみせてくれました。でもオードリーはあと一日で満五十才になるんですって。でもね、偶然わかったことなんですが、彼女の本当の年は六十の方に近いんですって」
「お話しを続けて下さい」とバントリー夫人はロイド博士に言った。「わたくし、身体のしなやかなスペインの女たちの話、大すきですわ。わたくしがどんなにお婆ちゃんで肥っているかを忘れさせてくれますからね」
「残念ですが」とロイド博士は弁解するように言った。「実はこの話はそのスペイン女の話じゃないんです」
「ほんと?」
「そうなんです。たまたま友人とわたくしが見込み違いをしたんです。スペインの美人さんには、少くともはらはらするようなことは何も起こりませんでした。彼女は船会社の社員と結婚し、わたくしが島を離れるときには五人の子持ちで肥る一方だったんですから」
「まるでこの村のイズレイエル・ピーターズの娘みたいですね」とミス・マープルは批評した。「俳優になってから、あまりにも美しい脚をもっていたのでパントマイムで男の主役に抜てきされた、女の子です。彼女はそのためかえって不幸になるだろうって誰もかれもが噂してました。でも彼女は巡業セールスマンと結婚して立派に身を落ちつけましたよ」
「村出身の好敵手ですな」とヘンリー卿はやわらかに言った。
「いえいえ、わたくしの話は二人のイギリス婦人のことなんです」と博士はつづけた。
「何か事件が彼女たちに起こったのですか?」とミス・ヘリアは息をはずませて言った。
「そうです、起こりました――しかもその翌日にですよ」
「ええ?」とバントリー夫人は話をはげますように言った。
「これは単にめずらしいもの見たさになんですがね、その晩わたくしは出掛ける間際にホテルの宿帳をのぞいたのです。彼女たちの名前はすぐみつかりました。バッキンガムシャー、コートン・ウエア市リトル・パドックス街ミス・メアリー・バートン並びにミス・エイミー・デュラント、とありました。わたくしは、こう名乗る人たちに、こんなに早く出逢おうとは夢にも思っていませんでした――しかも全く悲劇的な状況の下でです。
翌日わたくしは二三の友人とピクニックに出掛ける手筈をととのえておりました。わたくしたちは昼食を携行して車で島を横断し(覚えている限りでは――そう、大分昔のことになるのですが)ラス・ニエーベスとかいう所に行く筈でした。そこは、泳ぎたければ泳ぐこともできる、ちょうどうまく入江になっている内港でした。出発がいくらか遅れたことはさておいてです、この計画は時間通り実行されたので、途中ちょっとピクニックとばかりしゃれこみ、お茶の前に一泳ぎしてからラス・ニエーベスに向けて出発しました。
海岸に近づくと、すぐわたくしたちはすごい騒動に気がつきました。まるでこの小さい村のありとあらゆる人間が海岸に集まったようでした。みなはわたくし達の姿をみつけるとすぐ車の方に走って来て、興奮しながら説明をはじめました。わたくしたちのスペイン語は、あまりうまいものではなかったので、わたくしにわかるまで数分かかりました。しかしとうとうわかりました。
無鉄砲な二人のイギリス婦人が水浴びに海に入ったのですが、一人は遠くへ行きすぎて溺れそうになってしまったのです。もう一人は追いかけていってつれもどそうとしたのですが、今度は彼女の力がなくなってしまいました。もし一人の男がボートにのって沖に漕ぎ出してゆき、救い上げなかったら、助けに行った婦人も溺死してしまったでしょう――もう一方の婦人は助けるどころではなく、すでに死んでいました。
わたくしは、ことの次第がのみこめるやいなや、群衆をおしわけて砂浜へと急ぎました。最初は、例の二人のご婦人だとは気がつきませんでした。黒のメリヤスの水着とぴったりした緑のゴムの水泳帽をつけた、肥った婦人は、心配そうに顔を上げましたが、わたくしに気づいた様子はありませんでした。彼女は友だちの死体のわきにひざまずいて、何か手なれぬ恰好で人工呼吸をやろうとしていました。医者ですが、とわたくしが告げると、彼女はほっとため息をもらしました。わたくしは、彼女にマッサージをするようすぐどこかの小屋へ行くことをすすめ、服も乾かすように命じました。わたくしたち一行のつれの婦人が彼女につきそって行きました。わたくし自身は溺れた婦人の死体の上にのり、一生懸命人工呼吸をやってみましたが、無駄でした。生命が消え去っていたのは歴然としていました。ついに、わたくしは残念ながらあきらめなければなりませんでした。
わたくしは小さい漁師小屋に向かい、そこで悲しいニュースを伝えなければなりませんでした。生存者はすでに彼女自身の服をつけていました。わたくしはすぐに昨晩ついた二人のご婦人の一人だと気がつきました。彼女は悲しい報せをごく静かに受けとりました。どんなに強烈な個人的な感情よりも彼女の心を打ちのめしたものは、明らかにこの事件全体の恐怖感だったのです。
『かわいそうなエイミー』と彼女は言いました。『かわいそうな、かわいそうなエイミー。この人はここで思いっきり泳ぐんだって前々から楽しみにしていたんですのよ。泳ぎは上手だったんですのに。わたくしにはこんなこと信じられません。一体どうしてこんなことになったんでしょう、先生?』
『おそらく痙攣《けいれん》のためです。ことの起こりを正確に話して下さいませんか?』
『わたくしたち二人はしばらくの間あちこちを泳ぎまわっていました――そう、二十分くらいだったと思います。わたくしは上がろうと思ったのですが、エイミーはもう一度沖へ行くと言い出しました。そして実際出かけて行きました。すると突然彼女の叫び声がきこえました。助けを求めているんだとすぐわかりました。わたくしはできるだけスピードをつけて泳ぎ出しました。わたくしが泳ぎついたとき、彼女はまだ浮いていました。しかし夢中になってしがみついてきましたので、二人とも沈んでしまったのです。もし男の人がボートで来てくれなかったら、わたくしだってきっと溺れ死んでいたでしょう』
『こういったことはよくあることです』とわたくしは言いました。『溺れるのを助けることは生易しいことではありません』
『ほんとうに恐しいことですわ』とミス・バートンは続けました。『わたくしたちは昨日着いたばかりですの。それでこの晴天とわずかな休暇を喜んでいました。それなのに今ではこんな――こんな恐ろしいことになるなんて』
そこでわたくしは、死んだ女性のくわしいことをたずね、できることなら何でもしてあげるが、スペインの警察当局は完全な情報を要求するだろうと説明しました。彼女はよろこんで詳細を話してくれました。
亡くなった婦人のミス・エイミー・デュラントは彼女の友人で、五カ月ほど前に彼女の家に雇われたのです。二人は非常に仲よくしていましたが、ミス・デュラントは自分の家族のことについてはほとんど話をしませんでした。彼女は幼いとき孤児となって伯父さんに育てられ、二十一のときから自分で生計を立てたんだそうです。それはそうとして……話はこれで終りなのです」
博士はきっぱりと言い切った。
「ちっともわかりませんわ」とジェーン・ヘリアは言った。「それで終りですの? 大へん悲劇的だと思いますが、でも、それは何も――そう、いわゆる身の毛のよだつものじゃありませんわね」
「まだ続きがあるんでしょう」とヘンリー卿は言った。
「ええ」とロイド博士は言った。「その後があるんです。おわかりのように、ちょうどそのとき、一つの奇妙な事態がもちあがりました。もちろんわたくしは漁夫らに、彼らが見たものをあれこれたずねました。彼らは目撃者だったからです。すると一人の婦人が興味ある話をしました。そのときは何の注意もはらわなかったんですが、後になってその話が心に浮かんできたのです。いいですか、ミス・デュラントは助けを呼びもとめたときにはまだ溺れてはいなかった、とこう彼女は言い張りました。この女性の証言によると、相手の女性は彼女のところに泳ぎつくと、わざとミス・デュラントの頭を水の中に突っ込んだというんです。先ほども言ったように、わたくしはあまりその話に注意をはらいませんでした。全くおかしい話なのです。こういったことは、海岸からみるとまたちがってみえるものですからね。あるいはミス・バートンは友だちを失神させようとしたのかもしれません。というのは、恐怖にとりつかれてしがみついてくれば、二人とも溺れ死ぬことがわかっていたのですから。しかし、いまいったスペイン婦人の話によれば、それはまるで――ええ、そうです、まるでミス・バートンがわざと溺死させようとしたように見えたのです。
先ほども言ったように、わたくしはそのときこの話に注意を払いませんでした。後になって思い出したのです。難問はこのエイミー・デュラントなる女性の身元を調べることでした。交友関係は何もないようでした。ミス・バートンとわたくしは、彼女の持ち物をたんねんに調べてみました。すると一つの住所がみつかったので、手紙を送ったのですが、そこは彼女がただ持ち物を置いておくために借りていた部屋にすぎないことがわかりました。そこの女主人は何も知っていませんでした。部屋を借りに来たとき一度あったきりなのです。ミス・デュラントは、いつでも戻って来られるような、自分の部屋とでも言えるような場所をかねがね持ちたいと言っていたというのです。一、二の結構な古い家具、とじつけにした何冊かの英国美術院の画集、競売で買ったトランクいっぱいの道具類などがそこにありましたが、個人的なものは何もありませんでした。女主人の話によると、父親も母親も幼いころインドで亡くなり、牧師だった伯父に育てられたそうです。しかし伯父が父方なのか母方なのかは言わなかったそうです。ですからデュラントという名前は手がかりにはなりませんでした。
その暮らしは特別に神秘的というものではありませんでした、ただ満足のいくものではなかっただけです。そういう環境には、高慢で無口で、孤独な女の人もたくさんいるにちがいありません。ラス・パルマスに残された彼女の持ち物の中に二枚の写真がありました――少々古ぼけてかすれかかっていました。二枚とも、入れられていた額にあわせてまわりを切りとってあったので、写真屋の名前はありませんでした。それから、彼女の母親か、おばあさんらしく思われる銀板写真が一枚ありました。
ミス・バートンは、ミス・デュラントを雇ったときの二人の身元保証人に思い当たりました。一方の名は忘れてしまったそうですが、もう一人の方は一生懸命になってやっと思い出しました。それは、オーストラリアに出かけて現在では内地にはいない婦人の名前だとわかりました。もちろん彼女の返事がとどくには長い時間かかりました。しかし残念なことには、返事は着いたものの、何ら特別に参考となるものはありませんでした。彼女の話によると、ミス・デュラントは、家政婦を兼ねた話し相手として彼女のうちにいたのですが、とても有能で、かつ魅力的だったそうです。しかし彼女の個人的な問題や交友関係については何も知らないと言って来ました。
というわけで、そこには――そうです、何も異常なものは見当りませんでした。ところでわたくしに不安の念を起こさせたのは、こうやって二つ並んだ事実でした。一つはこの、誰もが何もしらないミス・デュラントという女性の存在、もう一つはスペイン婦人の奇妙な話のことです。そうです、更に、わたくしはそれに三番目の事実をつけ加えましょう。最初わたくしが死体の上に腰をかがめ、一方ミス・バートンが漁師小屋の方に歩いていったとき、彼女はこちらを振り返ったのですが、まるで心配しきっているとしか説明できないような表情で振り返ったのです。――一種の胸苦しい不安といったものだったと思うのですが、それがわたくしの頭にやきつけられました。
そのときはその表情も何か特別なものとしてわたくしの心を打ったわけではありません。友だちの上に起こった恐ろしい悲劇のためだと思いました。しかし、もうお気づきでしょうが、二人はそれほどの間柄ではなかったことが後でわかりました。二人の間には、献身的な愛情も、狂うほどの悲しみもなかったのです。ミス・バートンはエイミー・デュラントが好きだったこと、そしてその死によってショックを受けたこと――ただそれだけのことなのです。
しかしそうだとすると、一体、あの恐ろしげな、ひどく心配げな様子はどうしてなのでしょう? わたくしがいつも思い出すのはその問題でした。わたくしがそう狙いをつけたのは間違っていませんでした。全く心ならずもでしたが、一つの答えが頭の中でできかかっていました。仮にスペイン婦人の話が真実だったとしたらどうでしょう。つまりメアリー・バートンが故意に、しかも冷酷にエイミー・デュラントを溺死させようとしたらどうでしょう。彼女は助けるとみせかけてうまく彼女を水中に押しこんだのです。そして自分はボートで助けられたのです。彼女たちはどこからみても遠く離れた淋しい海岸にいました。そこへわたくしが姿を現わしたのです――彼女にしてみれば考えてもみなかったことです。医者! しかもイギリス人の医者だとは! ミス・デュラントよりずっと長い時間沈んでいた人でも人工呼吸で助かっているということは、彼女は百も承知していました。しかし彼女は自らの役割を演じなければならなかったのです――しかもこのわたくしを犠牲者のそばに置いて行く破目になったのです。最後に一度ふり返ったとき、恐ろしげな、はげしい苦悩が彼女の表情にあらわれました。エイミー・デュラントは息を吹きかえして、彼女の知っていることを話しはしないだろうか?」
「まあ」とジェーン・ヘリアは言った。「わたくしこわいわ」
「こういった角度から考えると、事件全体がいっそう凶悪なものに思われました。そして、エイミー・デュラントの性格というものがいっそう不可解なものに思われてきました。エイミー・デュラントとは何者だったのでしょう? なにゆえに、とるにたらぬ給料とりの、家政婦をかねた話し相手にすぎぬ彼女が、その女主人に殺されなければならないのでしょう? 彼女はほんの数カ月前にミス・バートンにやとわれたばかりです。メアリー・バートンは彼女を国外につれて行きましたが、この島に着いた翌日にもう悲劇が起こったのです。二人とも、気持のよい、ごく常識的な、洗練されたイギリス婦人でしたのに! すべてが奇怪だ、わたくしは心の中でこう咳《つぶや》きました。もうわたくしの想像力とやらはそのときにはすっかりつかい果たしていました」
「では、何もなさらなかったのですね?」とミス・ヘリアはたずねた。
「お嬢さん、わたくしに何ができたでしょう? 証拠は何もなく、目撃者の大多数はミス・バートンと同じことをくりかえしているのです。わたくしはわたくしなりに、あるちょっとした顔の表情から、考えようと思えば全く考えることが可能だった一つの嫌疑を抱いていました。わたくしになしえた、そして現になした唯一のことは、広範囲の調査がエイミー・デュラントの交友関係についてなされるのを見ることでした。わたくしは、その後機会あって、イギリスに参ったとき、わざわざ彼女の部屋の女主人に面会しました。結果は先ほどお話しした通りです」
「しかし事件には何か怪しいことがあるとお感じになっていたのでしょう?」とミス・マープルは言った。
ロイド博士はうなずいた。
「実は、わたくし二六時中そうじゃないかと疑ぐっていた自分が恥かしくてなりませんでした。この美しく気持のよいイギリスの貴婦人に、不正で冷血な犯行の嫌疑をかけるなんて、このわたくしは一体何なんだ? わたくしは、彼女が島に滞在したわずかの間にできるだけ親切をつくそうと最大の努力を払いました。またスペインの警察当局と一緒になって彼女に助力の手をさしのべました。異国にいる邦人を助けるため、イギリス男子としてできることは何でもやったつもりです。しかし彼女は、わたくしが彼女に嫌疑をかけ彼女をさけているのを知っていたのは間違いありません」
「島には彼女はどれほど滞在していたんですの?」とミス・マープルはたずねた。
「二週間ほどだったと思います。ミス・デュラントは島に埋葬されました。イギリスに帰ったのはそれから約十日後だったと思います。ショックのため気持が全く顛倒《てんとう》していたので、彼女は計画通りにそこで冬を過ごすことはできないと思いました。これは彼女の言葉通りですがね」
「事件のため彼女の気持が顛倒したように見えまして?」とミス・マープルはたずねた。博士はためらった。
「そうですね、何か彼女の容貌に影響を与えたかどうかわたくしにはちょっと」と彼は慎重に言った。
「たとえばもっと肥ったりなど?」とミス・マープルはきいた。
「まあ、ほんとに――そんなことをおききになるなんて、妙ですね。あ、思い出しました。たぶんそうだったと思います。彼女はそう、どちらかと言うと肥り出した感じでした」
「まあ恐い」とジェーン・ヘリアは体をふるわせて叫んだ。「まるで――まるで犠牲者の血を吸って肥ってゆくお話みたいですわ」
「しかし別の点でわたくしは彼女を不当に取り扱っているのかもしれません」とロイド博士は続けた。「彼女はたしか島を去る前にちょっとしたことを言ったのですが、それは全く別の面を暗示することばでした。きっと、彼女には極めて徐々に頭をもたげてくる良心――やがて時がたって犯した罪の凶悪さに気がつく良心、こういったものがあるのかもしれません。いやあると信じます。
彼女がカナリア諸島を去る前の晩のことでした。彼女は急に会いに来てくれというんです。そしてわたくしが八方手をつくして助力してやったことを心から感謝するのです。もちろんわたくしはことを軽く考えて、自分はこういう状況の下では当然のことをしたまでだと言いました。それからちょっとばかり二人は沈黙していました。やがて突然彼女はこう質問をしました。
『あなたは』と彼女はききました。『自分勝手に私刑を加えることは正しいことだとお考えになりますか?』
わたくしはこう答えました。だいぶむずかしい質問ですが、わたくしは総じてそうは考えていません。法は法です。わたくしたちはそれを守るべきです、とね。
『法律に効力がないときでもですか?』
『おっしゃる意味がちっともわかりませんが』
『説明しにくいことですが、たとえば人が明らかに不正と思われること――つまり犯罪とみなされることを、きわめて正当で十分な理由から犯すことはないとは言えませんね』
犯罪者の多くは、おそらくそういう考えから悪事を働いたのでしょう、とわたくしはドライに答えました。すると彼女は思わず身を引きました。
『でもそんなことって、恐ろしいことだわ』と彼女はつぶやきました。『恐ろしいことですわ』
それから彼女は口調を変えると、何か眠れそうな薬をくれといい出しました。そしてずっと眠ることができない――彼女はためらっていましたが――あの恐ろしいショックを受けてからというもの、眠ることができない、と言いました。
『それが原因だとおっしゃるんですね? あなたには、何もほかに思い悩む事実はないのですね? 心配なことは何も?』
彼女の話し方はもの荒々しく、何か疑ぐっているようでした。
『悩みごとというものは時には不眠症の原因になるものです』とわたくしは軽い口調で言いました。
彼女は一瞬考えこんだようでした。
『とおっしゃると、未来のことを悩むって意味なんでしょうか? それとも塗りかえのきかぬ過去のことを悩むって意味なんでしょうか?』
『両方です』
『過去のことを悩むんだったら何の役にも立ちません。いくらあなたでも呼びもどすことはできませんわ――ええ! 何の役に立ちます! 考えてはいけません、考えたりしてはいけませんわ』
わたくしは彼女に適度の眠り薬を一服処方してから別れました。帰る途々、わたくしは今しがたしゃべった彼女の言葉に少なからずギョッとしました。『いくらあなたでも、呼びもどすことはできませんわ!』いったい何をだ? 誰をなんだ?
この最後の会見は、これから起こることをある程度わたくしに覚悟させたんだと思います。むろん待っていたわけではありませんが、現にそれが事実となって起こったとき、わたくしはびくともしませんでした。というのは、メアリー・バートンは、誠実な婦人としてわたくしをずっと感銘させてきたからです――弱い犯罪者としてではなく信念の人としてです。彼女はその信念を行動によって示し、それを確信する限りにおいて寛容な態度をとろうとはしませんでした。あの最後の会話で彼女は自分の信念に疑問を持ちはじめたようです。何か、彼女の言葉がきびしい霊の探求者の抱く最初の感情――つまり良心の苛責を暗示しているように思われました。
破局は、当時人もまばらになっていたコーンウォールの小さな海水浴場で起こりました。たしか――そう――三月の末だったと思います。わたくしは新聞で読みました。ある婦人がそこの小さなホテルに泊っていましたが――名前はミス・バートンとかいう名前でした。その習癖が非常に変っていて、一種独特だったのです。これは万人のみとめるところでした。夜分、部屋の中をあちこち歩きまわっては、何かひとり言をつぶやき、両隣りの客をねかせなかったそうです。で、ある日教区牧師を訪ねて、知らせなければならない重大な話があると言いました。彼女は罪を犯したと告白したのです。それから話の先をつづけもしないで突然立ち上がり、またいつかお訪ねしたいと言いました。牧師は、少々頭がおかしいのではと思ったので、彼女の自己非難を本気にしはしませんでした。
翌朝になると彼女が部屋から失踪しているのが発見されました。一枚の書き置きが検死官宛てに残されていました。次の通りです。
わたくしは昨日牧師さんにお話して、すべてを告白しようといたしました。けれどそれは許されませんでした。あの女がそうさせないのです。わたくしはたった一つの方法でしか償いをすることができません――命の代償に命を差し出すことです。わたくしの命は彼女の命と同じ道を辿らなければなりません。わたくしもまた深い海の中で溺れなければならないのです。今までは、自分の行動が正しいと信じていました。今にしてみればそうではなかったのがわかりました。もしエイミーの許しを乞うなら、わたくしは彼女の所に行かなければなりません。どうか、どなたもわたくしの死によって非難を受けることがありませんように。
メアリー・バートン
彼女の服は近くの孤立した入江に捨ててあったのが発見されました。そこで服をぬぎ、意を決して海に泳ぎ出していったことは明らかでした。そこの海は流れが危険で、海岸沿いに人を押し流してゆくので有名でした。
死体は発見されませんでしたが、やがて死亡推定の許可が出されました。彼女は十万ポンドの遺産を持つ裕福な婦人でした。彼女はそれを遺言せずに亡くなったので、法律上もっとも近い親族にあたる――オーストラリアの従兄達の家族に渡されました。各紙はミス・デュラントの死が友人の気を狂わせたのだという説を書き立てて、慎重な論調でカナリア諸島の悲劇に言及していました。審理の際、一時的発狂による自殺という普通の判断が陪審の答申として出されました。
そういうわけで、エイミー・デュラントとメアリー・バートンの悲劇は終りをつげたのです」
長い沈黙があった。やがてジェーン・ヘリアはふっと大きく喘《あえ》いだ。
「まあ、でもそこでお止めになってはいけませんわ――一番面白いところで。さあ、続けて下さい」
「しかし、いいですか、ミス・ヘリア、これは連載小説ではないんですよ。実話なんです。実話ってものは適当なところでやめなくては」
「でも、やめないでちょうだい」とジェーンは言った。「わたくし、知りたいんですの」
「実はここがわたくしたちの頭の使い所なんですよ、ミス・ヘリア」とヘンリー卿は言った。「なぜメアリー・バートンは友だちを殺したのでしょう? これがロイド博士の出された課題なんですよ」
「ええ、そうでしょうね」とミス・ヘリアは言った。「彼女は恐らくいろいろの理由があって彼女を殺したんでしょう。という意味はですね、いや、ほんとうはわたくし知らないんです。ひょっとしたら、彼女の神経にさわったんじゃない? それともやきもちを焼いたんじゃないかしら? もっともロイド博士は男の人のことについては何もおっしゃいませんでしたわね。でも船には男の人もいたはずですわ――汽船だとか船旅だとかには、そういう話ってよくあるじゃないですか」
ミス・ヘリアはちょっと息を切らせてだまった。彼女のあでやかな頭の外面は、あきらかに内面よりすぐれていることが聞き手の心に印象づけられた。
「わたくしはいろいろと考えてみたいと思います」とバントリー夫人は言った。「でも一つにしぼらなければなりませんね。わたくしはね、こうだと思います。ミス・バートンの父親は、エイミー・デュラントの父親の破産によって財産をつくったので、エイミーはその復讐をしようと決心したのです。あら! そうじゃない、あべこべだわ。なんて厄介なんでしょう! でもなぜ金持の雇い主が貧しい雇い人を殺したりするでしょう? わかりました。ミス・バートンにはエイミー・デュラントがもとで自殺した弟がいたのです。ミス・バートンはじっと時期をうかがっていました。エイミー・デュラントは落ちぶれてゆきました。ミス・Bは彼女を家政婦を兼ねた話し相手として雇いました。そしてカナリア諸島に連れて行き、復讐をとげたのです。いかが?」
「すばらしい」とヘンリー卿は言った。「まったくわたしたちはミス・バートンに弟がいたなんて知りませんでしたよ」
「みんなそう結論するでしょ」バントリー夫人は言った。「もし弟がいなかったら動機がないでしょう。だから弟がいたにちがいありません。どう、ワトスン君?〔シャーロック・ホームズの親友〕」
「まったくすばらしい考えだ、ドリー」と夫は言った。「しかし単なる推量にすぎないじゃないか」
「もちろんそうよ」とバントリー夫人は言った。「わたくしたちにできることはそれだけですわ――推論するだけですわ。手がかりは何もありませんもの。さあ、あなた、ご自分の推定したところをお話し下さい」
「実のところ、なんと言ってよいかわからないんだが、彼女たちが一人の男のことで争ったんだというミス・ヘリアの思いつきには何か一理あると思うね。いいかね、ドリー、ひょっとするとそれは、誰かえらい牧師さんだったのかもしれないよ。彼女たちは、二人ともが彼の法衣か何かに刺繍をしてあげた。そして彼はデュラント婦人のを先に着た、たしかにそんなところだったんだ。どたんばになって彼女がある牧師のところに行ったのを考えてごらん。こういった女性は美男子の牧師に夢中になるものなんだ。こんな話は何度もきいているだろう」
「わたくしはわたくしなりに、少し微妙な解釈を是非しなければと思います」とヘンリー卿は言った。「もっともこれは単なる推測だってことは認めますがね。こうなんです、ミス・バートンは恐らくいつも精神が錯乱していたのです。こういうケースはご想像になる以上にあるのです。彼女の狂気はだんだん激しくなり、ある種の人間をこの世から抹殺するのが自分の義務だと盲信するに至りました――たぶん、いわゆる不幸な女をです。ミス・デュラントに関しては、あまり多くのことは知られていません。ですから彼女が過去を持っていた――それも『不幸』な過去を持っていたということは大いにありうることです。ミス・バートンはこのことを知って、一家皆殺しをしようと決心しました。後になって自分の行為に対する正義感が彼女を苦しめ始め、良心の可責に打ち負かされました。彼女の最後は彼女が完全に発狂したことを示しています。さて、あなたはわたくしに同意するとおっしゃって下さい、ミス・マープル」
「残念ながら、同意いたしかねます」とミス・マープルは弁解するように微笑していった。「彼女の最後は、彼女が非常に賢明で機智に富んだ婦人だったことを示していると思います」
ジェーン・ヘリアはかすかに叫び声をあげて、話をさえぎった。
「まあ! わたくし、なんて馬鹿だったんでしょう! もう一度考え直してもよいかしら? こうだったにちがいないわ、恐喝ですよ! 家政婦の方が彼女をゆすったんですよ。ただ、自殺したことが賢明だなんて、なぜミス・マープルがおっしゃるのかわかりません。ちっとも理解できませんけど」
「ああ、そうそう」とヘンリー卿は叫んだ。「いいですか、ミス・マープルはセント・メアリー・ミードで起こった、全く同じような事件をご存知なんですよ」
「あなたって、いつもわたくしのことをお笑いになるのね、ヘンリー卿」とミス・マープルは責めるように言った。「そうおっしゃられると白状しますが、トラウト夫人のことをちょっと思い出しましたの。ご承知のようにあの人は別々の教区で死んだ三人の老婦人の代りに養老年金を引き出していたんです」
「それはずいぶんこみ入った、頭脳的な犯罪のようですな」とヘンリー卿は言った。「しかし、わたくしたちの当面の課題に何か手がかりを与えてくれそうには思えませんが」
「もちろんそうですわ」とミス・マープルは言った。「役には立たないでしょう――あなたにはね。でも世の中にはひどく困窮している家族だってあるんですから、養老年金だって子供たちには地獄に仏だったのです。部外者がそれを理解するのはむずかしいと思います。でも、わたくしの真意はこうなんです。一体にふけた婦人というものは、他のあらゆるふけた婦人と大へん似かよっているという事実にこの事件全体の帰趨《きすう》がかかっているということです」
「ええ?」とヘンリー卿は、鼻をつままれたように言った。
「わたくしの説明はいつも上手じゃないんです。言いたいのはですね、ロイド博士が初めに二人の婦人についてお話しになったとき、どちらの婦人がどちらなのか、ご自分でもわからなかったということです。もちろんホテルの他の人にもわかっていたとは思われません。たしかに一日か二日後だったら、皆わかったでしょう。しかし、着いた翌日に二人のうち一人が溺れてしまったのですから、もし生き残った方が自分はミス・バートンだと言ったら、誰だって、この人はミス・バートンではないかもしれないなどと思いつくものはいないでしょう」
「そうお考えですか――ああ! なるほど」とヘンリー卿はゆっくり言った。
「そう考えるのがごく自然な方法ではありませんか。バントリー夫人も、ほらたった今、そう考え始めたところですよ。どうして金持の雇い主が貧しい家政婦をかねた話し相手を殺さなければならないんです? 逆の場合の方がずっとありそうではありませんか。つまりです――ものごとってそんな風に起こるものですわ」
「そうでしょうか?」とヘンリー卿は言った。「驚かせますねえ」
「しかし、もちろん」とミス・マープルは続けた。「彼女はミス・バートンの服を着なければならなかったでしょう。しかし少々きつかったでしょうから、容姿は総体的にいって少々肥って見えたでしょう。だからこそわたくしは、さいぜんそのことを質問したのです。きっと殿方だったらこうお考えでしょう、肥ったのはご婦人であって、小さくなったのは服ではないとね――でもそれは全く正しい言い方ではありません」
「でもエイミー・デュラントがミス・バートンを殺したのなら、そのためにどんな利益を得たわけですか?」とバントリー夫人はきいた。「だって永久に誤魔化すわけにはいきませんものね」
「誤魔化しおおせたのは、ほんの一カ月かそこらでした」とミス・マープルは指摘した。「その間じゅう、彼女だと気がつきそうな人をさけて旅行していたんだと思います。これが、ある年代の婦人ってものはお互いに似通ってみえるといった意味なのです。もちろん皆さんはパスポートがどんなものかご存知でしょうが、彼女のパスポートに貼られていたのが別人の写真だなんてわからなかったのです。やがて三月に彼女はこのコーンウォールの土地にやって来て、妙な行動をして人目を引きはじめたのです。その結果、人々が海岸で彼女の服を発見し、最後の手紙をよんだとしたら、常識的な結論など考えつきもしなかったでしょう」
「というと?」とヘンリー卿はたずねた。
「死体がなかったのです」とミス・マープルはきっぱりとした口調で言った。「思わせぶりに不正な行為や良心の苛責をほのめかしたりすることを含めて、皆さんの注意をそらすたくさんの『おとり狂言』がなかったとしたら、これこそきっと皆さんを目の前でぎょっとさせる事実です。死体はなかったのです。これは全く重要な事実です」
「とおっしゃると」とバントリー夫人は言った。「なにも良心の苛責などなかったでとも? 全く――投身自殺などしなかったとでもおっしゃるんですか?」
「もちろんです、彼女に限って!」とミス・マープルは言った。「またトラウト夫人の話になりますが、トラウト夫人は人の注意をそらすことが上手でした。しかし彼女はわたくしという好敵手に出会ったのです。わたくしは、良心の苛責にさいなまれた、お話しのミス・バートンの真相を見抜くことができます。投身自殺をしたとおっしゃるんですか? いえ、わたくしの推察が少しでも当っているとすれば、彼女はオーストラリアに飛んだのです」
「まったく、マープルさん」とロイド博士は言った。「あなたのご推察は当っています。またもや驚嘆させられましたな。あの日、メルボルンでわたくしはまったく驚天動地なことにぶつかったのです」
「それが最終的な偶然の一致としてお話しになったことなのですね?」
ロイド博士はうなずいた。
「そうです。それはミス・バートンにとってはつらい運命だったのです――いやミス・エイミー・デュラントにとってはね――まあ彼女をどう呼ぼうとかまいませんがね。わたくしはしばらくのあいだ船医をやっていましたが、メルボルンに上陸して街を散歩していたおり、初めて出会った人がコーンウォールで溺死したはずの、あのご婦人だったのです。わたくしに関する限りでは、彼女は万事休したと思ったのでしょう。で、無茶なことをやってのけました――つまりわたくしに秘密を打ち明けたのです。道徳的観念が恐らくは完全に欠けている、奇妙な婦人でした。彼女は九人家族の一番上で、ひどく貧しかったのです。彼女は、イギリスにいる金持の従妹ミス・バートンに、援助をたのんだことがありましたが、断られました。というのは、ミス・バートンが彼女の父親と喧嘩したことがあったからです。待っていられないほどお金が入用でした。というのは一番下の三人の子供がひ弱で、お金のいる治療が必要だったからです。エイミー・バートンは即座に、残酷な殺人の計画を決意したらしいのです。彼女は、付添い乳母として船賃をかせぎながらイギリスに向けて出発しました。彼女はエイミー・デュラントと名乗って、ミス・バートンの家政婦を兼ねた話し相手の職を獲得しました。彼女は一部屋を予約したり、家具を入れたりして、自分自身をひとかどの人間らしく仕立て上げたのです。溺死による殺人計画が突然頭にひらめきました。彼女は機会がやってくるのをじっと待っていました。そして幕切れの場面を演ずると、オーストラリアに戻り、やがて彼女とその兄や妹たちはミス・バートンのお金を法律上最も近い親族だといって相続したのです」
「全く大胆不敵な犯罪ですね」とヘンリー卿は言った。「ほとんど、例の完全犯罪という奴です。もしカナリア諸島で死んだのがミス・バートンだったとすれば、嫌疑はおそらくエイミー・デュラントに向けられるでしょう。そうすればバートン家との関係は明るみに出されたかもしれませんね。しかし、あなたがおっしゃるように、身代りと二重犯罪とが効果的にそれを消しました。たしかに完全犯罪に近いですよ」
「彼女はどうなりました?」とバントリー夫人はたずねた。「この事件ではあなたは何をなさったのです、ロイド博士?」
「わたくしはまったく妙な立場にありました、バントリー夫人。法律的な証拠はほとんど持ち合わせていませんでした。一方、医者としてのわたくしには明瞭にわかったんですが、外観は強くて元気でも、彼女には永くは生きられない、いくつかの徴候があらわれていました。わたくしは一緒に家に行き、家族に会いました――みな愛すべき家族で、一番上の姉には献身的で、彼女が罪を犯したなんて夢にも考えていませんでした。わたくしに何も証明ができなかったとき、なにゆえ彼らに悲しみをもたらすことができましょう? 告白は他の誰の耳にも入っていません。わたくしは自然の成り行きにまかせました。彼女は、会ってから六カ月後になくなりました。わたくしはしばしば、彼女が最後まで元気で、後悔はしなかったのではないかと思いました」
「絶対にそうじゃありませんよ」とバントリー夫人は言った。
「わたくしはそうだったと思いますわ」とミス・マープルは言った。「トラウト夫人がそうでしたもの」
ジェーン・ヘリアはかすかにふるえた。
「ほんとに」と彼女は言った。「このお話って、すごくぞっとさせますわ。わたくし、いったい誰がどっちを溺死させたのかまったくわからないわ。それにどうしてこのトラウト夫人がお話に入ってきたんですの?」
「入ってなんかきませんよ、あなた」とミス・マープルは言った。「彼女はこの村にすんでいる――単なる一個人にすぎませんよ――あまりすてきな人ではありませんけどね」
「まあ!」とジェーンは言った。「この村にですって。でも村では何も事件など起こったことはないでしょ?」彼女は溜息をついた。「わたくしって、どこの村で暮らしても、頭の方はだめなんだわ」
四人の容疑者
座談はまたひとしきり、発見されず罰せられなかった犯罪のことであれこれと交わされた。めいめいが代るがわるに自分の意見を主張した。バントリー大佐、その肥えた気の優しい夫人、ジェイン・ヘリア嬢、ロイド博士、そして老嬢マープルまでが、にぎやかにしゃべった。ただ一人、口をきかなかったのは、世間から見ればこの話題について語るのに一番ふさわしいはずの人だった。元ロンドン警視総監ヘンリー・クリザリング卿が黙って口ひげをひねりながら――というより撫でながら――半ば微笑を含んで、あたかも何か心に浮かんだ思いを楽しむもののように、静かに座していた。
「ヘンリー卿」とついにバントリー夫人がいった、「何かおっしゃって下さらないと、私、大声を立てますよ。罰せられずに済んでしまう犯罪って、たくさんありますの? それともありませんの?」
「あなたは新聞の見出しのことを考えておいでなのですな、奥さん。『スコットランド・ヤード(警視庁)また失敗』などという。それから迷宮入りの事件を表にしてずっと並べてある」
「思うに、ああいうことは全体の事件の数から見てほんのわずかのパーセントにしかならんのでしょうな?」ロイド医師がいう。
「そう、その通りです。解決して犯罪者が罰せられた数多くの事件は、まれにしか報道されず、評判にならないのです。しかし、そのことは今の話題の問題点ではありませんな。で、あなたがたは暴露しなかった犯罪とか、未解決の犯罪とかいってお話になさるが、実はそれは二つの別な種類のことを語っておられるのです。第一の範疇すなわち暴露しなかったというほうには、警視庁も耳にせず、その犯罪が行われたということすら誰も知らない事件のすべてが入る」
「でも、そんなのは、そうたくさんはございませんでしょ?」バントリー夫人がいった。
「ありませんかな?」
「ヘンリー卿! あなた、まさか」
「あるでしょうよ」老嬢マープルがいった。「随分たくさんあるに違いないと思いますね」
このチャーミングな老婦人は、独特の時代遅れな落ち着いた態度で、きわめて静かな口調で宣言した。
「ほう――、マープルさん」バントリー大佐がいった。
「いうまでもないことですけれどね」ミス・マープルがいった。「大衆のおおかたは愚かな人間ですわ。そして、馬鹿な人間は、何をやっても、すぐばれてしまいます。でも中には、頭の悪くない人も相当におりますからね。そういう人たちに、よほどしっかり主義とか信念とかが無かった場合、どんなことを仕でかすかと思うと、ぞっとするではありませんの」
「そうです」ヘンリー卿がいった、「頭の悪くない人間もかなりおります。爪の垢ほどの致命的なやり損いが原因で明るみに出た犯罪が実に多い。そのたびに我々は、もしこのちょっとしたやり損いがなかったら、この犯罪は果たして人に知られたろうか、と心に問うて見るのです」
「しかしそれは実に重大なことですな、クリザリングさん」バントリー大佐はいった「実に重大だ、全く」
「そうですかな」
「何ですと? そうですか、とは。大変なことではないですか」
「あなたは犯罪が罰せられずに済むといわれる。が、そうでしょうか? 法律によっては罰せられなかったかも知れない。しかし、動機の存在と犯罪の結果とは、法律とは無関係に自ら動き出してその姿を現わすものです。どんな犯罪でもそれ自身が罰をもたらすものだということは、とかく陳腐な説の例としてあげられるのですが、しかもなお、私の意見では、これ以上真実を衝いた説はありません」
「なるほど、なるほど」バントリー大佐がいった。「しかしそれにしても、重大だということに変りはない――その、ええ――重大だ」大佐はちょっと困って、言葉を切った。
ヘンリー・クリザリング卿は微笑した。
「百人のうち九十九人まではあなたのような考え方をすることは疑いないのですが」ヘンリー卿はいった。「しかしですな、重大なのは罪ではなく――無罪の場合なのです。そこが誰も認識していないところでして」
「わかりませんわ、わたくし」と女優ジェイン・ヘリアがいった。
「わかりますよ」老嬢マープルがいった。「トレントさんの奥さんのバッグの中のお金が半クラウン見えなくなったとき、一番ひどい目にあったのは、通いの女中さんをしていたアーサの小母さんでした。むろん、トレントさんご夫婦はアーサ小母さんの仕業だと思ったのですが、思いやりのある人たちですし子だくさんな上にのんだくれのご亭主を持っている小母さんの身の上を知ってますから、まあ――当然、思い切った態度には出ませんでした。でも、小母さんをそれからは違う目で見るようになりましたから、留守番を頼むことはしなくなりました。これは大変な待遇の変化ですよ。それでよその人たちもアーサのおかみさんに妙な感情を持つようになったのです。ところが、突然、その犯人が、家庭教師の女だったと知れましてね。その女がまたそんなことをするところが、開いたドア越しに鏡に映って、トレントさんの奥さんが見たのです。全くの偶然で――でも私は神のお示しといいたいのですけれど。まあそんなできごとが、ヘンり卿のおっしゃることの意味だと、わたくし、思いますのですがね。一般の人が興味を持つのは、だれがお金をとったのかということ、そして、犯人が実は一番そうらしくない人だと判ったということ――探偵小説のようにね! しかし、事件が死活問題になって深刻な迷惑をこうむったのは気の毒なアーサ小母さんだったのですわ。何も身に覚えのないことでね。あなたのおっしゃること、そういうことでございましよ、ヘンリー卿?」
「そうです、マープルさん、あなたは私の申すことをぴったりと言い当てて下さった。お話しの日雇い女はその場合、運がよかった。無実がはっきりしたのですから。しかし時には、誤まった容疑の重圧に押しつぶされて生涯を過ごしてしまう者もあるのです」
「何か一つの例を思い出しなさったんですの? ヘンリー卿」バントリー夫人がすかさずたずねた。
「実は、奥さん、そうです。実に奇妙な事件が一つありましてな。たしかに殺人が行われたと信じられながら、それを証明する手がかりのつかみようがない、という」
「毒、でしょう」思わずジェインが言葉をもらした。「徴候が残らないような、何か」
ロイド博士はもじもじと身動きし、ヘンリー卿はかぶりを振った。
「いやいや、お嬢さん。南アメリカ原住民の秘密の矢の毒、という類ではありません! そんなものだったらいいと思ったくらいでしてな。それよりはるかに当り前の、殺風景な事柄と取り組まねばならぬ――あまり簡単な当り前すぎる状況なので、実際、事実を犯人に結びつけようがないのです。ある年老いた紳士が階段を転げ落ちて首の骨を折った。始終起こるような気の毒な事件の一つに過ぎんのです」
「でも、本当はどういうできごとだったんですの?」
「どうしてわかりましょう?」ヘンリー卿は肩をゆすって答えた。「うしろから一押ししたのか? 木綿糸か細ひもを一筋、階段の上へ横に張って置いてつまずかせ、あとからそっと取り除いたか? 永久に判らんでしょう」「しかし、あなたのお考えではそれが――つまり、それは単なる事故ではなかったのですな? すると、どういうわけで?」ロイド医師がたずねた。
「ちょっと長い話になるが、しかし――左様、そうです、警察側としては確信を持っているのです。いま申した通り、事実を関係者の何者との関係にも帰着させ得る手がかりがなかった――証拠が余りに脆弱だということになりましょう。しかし、ここにまた、別な角度からの事件の見方がある――それが最前からの私のお話ししている趣旨なのだが。つまり、ここに、策を弄して何らかの方法で犯罪を行なったかも知れない容疑者が四人あったのです。一人がやったことで、三人は無罪である、と判っている。ところが、真相の判明せぬ限り、無実の三人は、恐ろしい疑惑の影を背負ったままになってしまうのです」
「どうも」とバントリー夫人が「その長いお話しというのを、伺った方がよさそうですわね」
「そう長いお話にせんでも、どうやら済むと思いますがな」ヘンリー卿がいった。「事情の発端は何とかつづめてお話しできる。それはあるドイツの秘密結社に関係のある話でして――シュワルツェ・ハンドという名の――いわばカモラ〔一九世紀初めにナポリで結成され脅迫・暴力を事とした秘密団〕の筋を引くような、あるいは世間の人がカモラについて持っておられる概念に合うような結社ですな。恐喝と暴力の組織です。これが大戦直後、全く突然に発足し、驚くべき発展を遂げました。数知れぬ人々がその犠牲になりました。官憲はなかなかこれをやっつけることができなかった。何しろこの仲間の秘密は用心深く守られ、誘導によってこれを裏切ってくれるような人物をみつけることは不可能に近かったのです。イギリスではあまり噂にものぼらなかったが、ドイツでは抵抗しがたいほどの力をもってたいへん世間を悩ましたものです。この組織が結局粉砕され解散の憂き目を見たのはローゼン博士という一人物の努力に負う所が多かった。このお人は、ひと頃、かの国の秘密探偵局内での傑物であった人で、巧みにこのシュワルツェ団の団員となり、その中心に入りこんで、全く、この秘密結社の没落をもたらすのに大いに役立つ働きをなしたのでした。
しかしながら、結局、それでこの人物は、自分をつけ狙う敵を持つ注意人物となって、ドイツを離れた方がかしこかろうと思われることになった――たとえ一時にもせよ、ですな。そこで彼は英国へ来ることになり、私ども英国のその筋の者も、ベルリンの警察から、彼についての通知を受け取りました。彼は英国へ着くと、早速私に面会しましたが、会って見ると、すっかり元気のない、投げやりで、あきらめた考え方をしているのですな。自分の未来の運命について確信を持っている様子です。
『逃れるわけには行きませんです、ヘンリー卿』と口ーゼン博士はいいました。『それだけは絶対です』髪の薄い大男で、力強い声で語りましたが、敗戦国である祖国のことを語るときだけ、ちょっと遠慮がちな口調になる、という風な人物でした。『これはもう、定まった結着なのでして、少しもかまいません。覚悟はできておるのです。この任務についた時に、私は生涯の危険に直面することになったわけです。予定しただけの仕事はなし遂げました。あの結社はもう二度と結成し直すことは出来ますまい。しかし、団員中の多くの者がばらばらに野に放たれており、彼らは残されたただ一つの可能な復讐だけは、しとげるでしょう――私のいのちを奪うことです。遅かれ、早かれ、単に時間の問題です。ただ私は、その時間をできるだけ長びかせたいと切望しているのです。と申すのは、非常に興味深い資料をいま、私は集成しておりますので――私の生涯の働きの成果の集録です。できれば、この仕事を完成したいのです』
という調子でローゼン氏の淡々たる中に一種の威厳さえ含んだ語調に、私は尊敬の念を禁じ得ませんでした。私は博士に、我々としてできるだけの警戒を怠るまいと申したのですが、彼はその言葉を払いのけて問題にしませんでした。
『いつか、早かれ遅かれ、私はやられます』と博士は繰り返しました。『その日が来ましても、みずからお責めになりませんように。あなた方として出来るだけのことはして下さった結果に違いないと、私は信じておりますから』
彼はそれから今後の計画にとりかかりましたが、それは極めて簡単なものでした。先ず落ち着いて寝起きし著述の仕事を進められるような閑静な田舎に小さな仮住居を求めたいと望みました。そして結局サマセット州の一閑村を選びました――キングズ・ネイトンという所で、鉄道の駅から七マイルも離れ、現代の文化からも、遠くく孤立した所です。大層気持のいい田舎家を買っていろいろ補修や改造をし、そこに落ち着いてこの上もなく満足な様子でした。暮らしの世話は保健婦のグレタ、それから秘書が一人、それに四十年近くも忠実に仕えてきた歳とったドイツ人の召使いに、このキングズ・ネイトンの人間で使い走りの下男兼庭師として雇った男、という四人がしてくれておったのです」
「四人の容疑者、ですな」ロイド博士が静かにいった。
「その通り。四人の容疑者です。あとは大してお話しする筋もないのです。キングズ・ネイトンでのおだやかな生活は五カ月続き、そこで一朝にして破滅の日が来ました。ある朝、口ーゼン博士は階段をころげ落ち、およそ三十分後に、死体として発見されました。事故が起こったと思われる時間には、ゲルトルートという年寄りのドイツ女は台所部屋にいて、ドアを閉めて置いたので物音を聞かなかった――と、当人が申し立てただけでした。グレタ嬢は庭園で何かの球根を植えつけていた――と、これも当人の話。庭師はドブズといいまして、小さな植木鉢小屋で、午前のお茶を飲んでいた、と、やはり当人の申し立てです。それから秘書は散歩に出ていた、とこれも当人の言葉以外に裏付けがない。誰にも現場不在証明《アリバイ》がない――一人一人が誰もまた他の者の話を裏付ける傍証ができないのです。ただ一つ確かなことがある。外部の者の仕業ではあり得ないということです。キングズ・ネイトンの小さな部落では、見知らぬよそ土地の者が来れば間違いなく目をつけられたはずです。裏も表もドアには鍵がかかり、合い鍵は家内の人々がめいめい持っている。そこでやはり、事はこの四人に絞られるわけです。しかも、どの一人も嫌疑をかけがたい事情の人物なのです。グレタという婦人は、ローゼン博士の兄弟の娘、すなわち博士の姪《めい》に当たるのです。女中はゲルトルートといって、申した通り四十年も忠実に仕えて来た者。庭師のドブズは、キングズ・ネイトンに生まれながらの土着の男です。秘書のチャールズ・テンプルトンは――」
「それだ」とバントリー大佐がいった。「その男はどうです? 私にはその男が怪しく思える。それはどういう素性の人間です?」
「ところがその男の素性こそ、その男が問題外である所似《ゆえん》なのでして――少なくともその時だけは、ですな」ヘンリー卿が重々しく、いった。「つまり、そのチャールズ・テンプルトンなる者は私自身の部下だったのです」
「ほう!」とバントリー大佐は、大いに度胆を抜かれた態《てい》だ。
「そうなのです。私は誰かを博士の身辺に置こうと考えたのでしたが、それと共に、村の噂を惹き起こしたくなかった。ローゼン博士は実際に秘書を求めていた。そこで、私はテンプルトンをその職に就かせたのです。彼は紳士であり、ドイツ語も流暢に話し、同時にまたすこぶる有能な人物でもありました」
「でも、それでは、一体、だれを怪しいとお思いになりますの?」バントリー夫人がすっかり当惑し切ったような、うわずった声音でたずねた。「四人ともみんな――そう、そんなはずありませんわ」
「左様、たしかに有り得べからざる事態のように見えます。しかし・事件を他の角度から見ることもできます。グレタ嬢はローゼン氏の肉親の姪であり、良いお嬢さんに違いありませんが、しかし、大戦の影響は、兄が妹に仇をなし、父が子に相対し、等々の例を、また、こよなく美しく淑やかな若いお嬢さん方が、最も世間を驚かすような思い切ったことを仕出かすこともあるのを、再三再四、我々に見せつけてくれました。同じことがゲルトルートにもあてはまりますし、彼女の場合にどんな他の力が働きかけているかも知れない。誰にわかりましょう? たとえば、主人と争いをしたとすれば、湧き起こった怒りは過去の忠実に仕えた年月が長いだけ、かえって執念深いものがありましょう。ああした階級の、年輩の女は、しばしば、驚くべき苛酷さを示すことがあるものです。それからドブズは? 彼とても、ローゼン氏の家族と何のかかわりもなかったというだけで、全くそうした心理の圏外にあったといえるでしょうか? 金の作用は強いものです。どういう事情でかドブズもその誘惑を受け、買収されることがなかったとも限りません。
ただ一つだけ確からしいことがあります。何か、通信か、命令かが外部から来たに相違ないということです。それでなければ、五カ月の間、無事にほうって置いたのは何のためか? そうではない、結社の手先があえて動き出さなかったのに違いない。ローゼンの不信行為がまだはっきりせず、裏切りの源を突きとめて行って、間違いなくローゼンから出ているということが確かめられるまで、行動を延期していたのです。それから、疑いなく、家内のスパイに通知を送ったのに違いない――『殺せ』という通告です」
「凄いわ!」といってジェイン・ヘリアが身をふるわせた。
「しかし、果たしてどういう方法による通告だったか? それが私の解明しようとした点で――私としては、事件の謎を解く唯一の希望はそこにありました。四人の中の一人に何かの方法で直接に接近するか、または通信するかした者があった違いない。そして、命令が到達するや否や一刻の猶予もなく実行に移されたはずだ――と私には判っておったのです。それがシュワルツェ団の特徴でしたからな。
私は問題の解明に乗り出しました。あなたがたがお聞きになったらそんな詰まらぬ些細なことを、と驚かれるに違いないような点から、突つ込んで行ったのです。当日の午前に、その家を訪れた人間は誰々だったか? どんな人物もはぶくことなしに、考慮に入れました。これがそのリストです」
元警視総監はポケットから一枚の封筒を取り出して、その中から一枚の紙を抜き出した。
「先ず、肉屋、羊の首の肉を持って来たという。取り調べの結果、その通りでした。食料品屋の雇い人。もろこしの粉を一袋、砂糖二ポンド、バター一ポンド、コーヒー一ポンドを運んで来た。同じく調査の結果、間違いないことが確認されました。郵便配達、グレタ嬢に広告を二通、ゲルトルートへ近隣からの手紙一通、ローゼン博士へ三通の手紙のうち一通は外国の切手と消印、秘書のテンプルトン君へ手紙二通、そのうち一通は外国の消印」
ヘンリー卿は言葉を切って今度は一束の書類を封筒から取り出した。
「これはご自分でご覧になった方が面白いでしょう。いろいろな関係者から手渡されたものや、屑籠《くずかご》から拾い集めたものです。隠しインキの検出その他諸種の実験が、専門家によって試みられたことはいうまでもありません。そういった種類の現象を見出す望みは全くありません」
一同はそれを見ようと寄り集まった。カタログが二枚、一つは植木造りから、一つはロンドンの有名な毛皮会社からのもの。二枚の請求書、一通は庭園用の種の代金の請求で土地の種屋から、一通はロンドンの文房具商から、どちらもローゼン博士宛のもの。それから同じくローゼン氏宛の手紙で、次のような文言であった。
親愛なローゼン――ヘルマス・スパス博士の所から帰ったばかりです。先日エドガー・ジャクスンを見ました。彼とエイマス・ペリーとはいま青島《チンタオ》から帰って来たところです。正直な話(in all Honesty)、私は彼らの旅を羨む気にはなれません。近況お知らせ下さい。いつか申した通り、あの人に気をつけて下さい。誰のことかお判りですね。同意はなさらないでしょうが。――あなたの、ジョージーヌより
「テンプルトン君への郵便物はこの勘定書、ごらんの通り洋服屋からの請求書ですが、それと、ドイツにいる一友人からの手紙とでしたが」ヘンリー卿は話を続けた、「手紙の方は、残念なことに、テンプルトン君が散歩の途中で破いてしまいました。最後に一つ、ここにゲルトルートが受け取った手紙があります」
親愛なるシュワルツ夫人――私たちはあなたが金曜日の晩にソウシャル教会にお出でになれますように願っております。牧師さんもあなたが来ることを望むとおっしゃっています。全員であなたを観迎です。ハムの製法は大へんにけっこうで、かんしゃしています。この手紙が役に立って、あなたが私のいる金曜日にお目にかかれることをねがいつつ。まごころをこめて エマ・グリーン
ロイド博士は微笑みを浮かべて一読し、バントリー夫人も同様だった。
「わたしは、この最後の手紙は、事件の関係から除外して差し支えないと思いますな」医師は言った。
「私も左様に思ったのですが」ヘンリー卿がいった、「念のため、一応グリーン夫人及びソウシャル教会というものの存在を確かめることに致したのです。念には念を入れろ、と申しますからな」
「それはマープルさんの口癖と同じだが」と微笑しながらロイド医師がいった。「あなたは、どうやら夢想に気をとられておいでのようですが、マープルさん。何を考え出されたのです?」
マープル老嬢ははっとして我れに帰った。「まあ、ぼんやりしていまして」と彼女はいった。「わたくし、いまローゼン博士あての手紙の中の『正直な話(in all Honesty)』という言葉の頭字のHが、なぜ固有名詞のように大文字で書いてあるのか、考えていたのですわ」
バントリー夫人はその手紙を手にとって見た。
「本当だわ、まあ!」夫人はいった。
「皆さんお気づきだと思っていましたわ!」ミス・マープルがいった。
「その手紙には明らかに警告の意味が含まれておる」バントリー大佐がいった。「最初からわしの注意を惹いたのはそのことだった。わしだって見かけほどぼんやりしとるわけじゃない。うむ、たしかに警告だ――誰にだろう?」
「この手紙にはちょっと妙なところがあるのです」とヘンリー卿が、「テンプルトンの話では、ローゼン博士は朝食の時にその手紙を開いて見たが、テンプルトンの方へ投げてよこして、この差出人がどんな男か全然心あたりがない、といったという」
「あら、でもこの手紙の主は男じゃありませんわ」ジェイン・ヘリアがいった。「ジョージーヌ、と女名前になっているじゃありませんの」
「それは何ともいえませんな」とロイド医師が、「読みにくい署名文字ですから、本当はジョージイかも知れませんよ。ただちょっと見たところでは確かにジョージーヌの方に近いようだ。ただ私の気になるのは、筆蹟が男の字だということです」
「さ、そこが、面白いところですぞ」バントリー大佐がいった。「ローゼン氏がそんな風にテーブル越しにその手紙を投げてよこしたこと、全然心あたりがないようなふりをしたこと。その場の誰かの顔つきを読もうとしたのか。だれの顔――姪の顔か? 男の顔か?」
「料理女だって、わかりませんよ」バントリー夫人が意見を添えた。「ちょうど朝御飯を運んで来たところで、室内にいたかも知れませんよ。でも、わからないのは――本当に妙なのは――」
夫人はむずかしい顔で手紙を見直している。ミス・マープルもそのそばへ顔を寄せた。ミス・マープルの指が延びて紙面に触れた。二人はちょっとささやき合った。
「でも、どうして秘書のかたは、もう一枚の手紙というのを破いてしまったんでしょう?」ジェイン・ヘリアが不意に疑問のことばを発した。「なんだか――おお! わからないけど――なんだか変だわ、どうしてドイツなどから便りがあるのかしら? でも、もちろん、秘書は疑う余地のない人物だというなら、それは――」
「でもヘンリー卿は、そうはおっしゃらなかったですわ」とミス・マープルは、バントリー夫人とのささやき合いをやめて直ぐ目を上げて言った。「ヘンリー卿は四人の容疑者といわれただけですわ。そうするとその中にはテンプルトンというお人も含むことになりますわ。そうでしょうか、ヘンリー卿?」
「実は左様なのです、マープルさん。私はにがい経験から一つの真理を学びました。どんな人物でも、疑う余地がないと決めてしまってはいけない、ということでした。私は三人の人物については、たとえいかに罪を犯しそうに見えなくても、ことによったら犯人かも知れない、という理由をさっき申し上げましたが、当時は、同じ考え方をチャールズ・テンプルトンにあてはめることはしなかったのでした。しかし最後には、最前申したような原則にしたがって突きつめて行って、テンプルトンにもそれをあてはめて見るに到ったのです。そして、こういう事を認めざるを得なかったのでした。すなわち、どんな陸軍でもどんな海軍でもどんな警察でも、その陣容の中に何人かの叛逆者を含んでいるということです。まことに心苦しい考えではありますが、認めざるを得ませんでした。そこで私は、冷静に、チャールズ・テンプルトンに対する容疑を突きつめにかかりました。私は、ヘリア嬢がいま発せられた疑問と全く同じものを心に問うて見たのでした。なぜテンプルトンは、家内の人々の内でただ一人、自分の受け取った手紙を出して見せられなかったのか――加えて、その手紙は、ドイツ発の消印の物だったとは? なぜドイツから手紙が来るのか? この最後の質問は気軽なものですから、私は実際に彼にたずねて見たのです。テンプルトンの答えは、何でもない満足なものでした。母の妹がドイツ人と結婚している。手紙はその娘であるドイツの従妹から来たのだというのです。そこで私としては、それまで知らなかった重大なことが一つ、わかりました――つまり、チャールズ・テンプルトンはドイツの人との間に何か関係がある、ということです。そしてそのことが、テンプルトンをはっきりと容疑者のリストに加えることになりました――大いに疑いを増したわけです。彼はこの私自身の部下である――私が常に気に入り、信頼して来た男である。しかし、法と公正の名において彼の名を容疑者名簿に載せることを私は認めざるを得ませんでした。
さ、そこでです、私にはわからん! わからんのです――また、今後も絶対に判ることもありますまい。殺人犯人をやっつけるという問題ではないのです。それより百倍も重大な問題のように私には思えることなのです。それは、正しい人間――だろうと思われる人物の全経歴を損うという罪なのです――疑いのために――私があえて無視し得なかった嫌疑のためにです」
老嬢マープルが咳ばらいをして、おだやかにいった、「そうするとヘンリー卿、今のお話のご様子では、そのテンプルトンさんという若いかたのことだけを、あなた様としてはそんなに気にしておいでなのですか?」
「左様、ある意味では、ですな。論理的には四人全部に通じることとも申せましょうが、実際にはそれは問題にならんのです。たとえば、庭男のドブズですが――私の心の中では彼にも疑いのかかるところがあるにしても、実際問題としてそれが彼の境涯に影響を及ぼすことはないでしょう。村じゅうの誰一人として、ローゼン博士の死を偶然の事故としか思っていないのですからな。女中のゲルトルートの方は、それに比べれば幾分の影響はあります。たとえば、グレタ・ローゼン嬢のゲルトルートに対する態度に多少の変化をもたらしたに違いない。しかしそんなことは、ゲルトルートにとってそれほど重大なことではないかも知れません。
グレタ・ローゼン嬢はというと――左様、ここが事件の急所で、最も困ったことなのです。グレタさんはすこぶる美人であり、チャールズ・テンプルトン君は若い美男子であり、五カ月というもの、外界との交渉も気晴らしもなく、起居を共にし協力して暮らしたのですからな。避けがたい事態が起こりました。二人は互いに愛し合うようになりました――たとえ、互いに言葉でその事実を認め合うところまでは行っていなかったにしてもです。
そこで、破局が来たわけです。今から三カ月前のことになりますが、私がこちらへ戻ってから一日二日経つと、グレタ・ローゼン嬢が私に会いに訪ねて来ました。あの田舎家は売ってしまって、ドイツに帰るつもりだといい、伯父さんの身に関係した事がらも、万事結末をつけて行くとのことでした。私が退職したことは知っていながら個人的に面会に来たので、全くこっそりと秘密な用件で、私に会いたかったというのです。しばらくはためらって遠まわしにものを言っていましたが、やがて腹を割って話しかけて来ました。どう思うか? あの手紙のことを、ドイツで発信された――自分はそのことばかり心配して、考えに考え抜いたが――チャールズが破って捨てたという手紙のことを。あれは何でもないでしょうか? 心配ないものにきまっている。とグレタさんは無論チャールズの言葉を信じているのですが、しかし――うむ! もし彼女が本当に知っていたら! もし彼女が確かなことを知っていたとすれば――。
おわかりでしょう。私も同じ思いです。信用してやりたい気持――しかし一方、恐ろしい疑いの心が潜んでいて、心の奥に無理に押し殺してはあるものの、やはり頑張っていて消えないのです。私はグレタ嬢に向かって全く隠しだてなく自分の気持を話し、彼女も同じように打ち明けてくれるようにと申したのです。そして、彼女としてチャールズの身を案じ、チャールズもまたグレタさんの身を案ずるような、お互いの立場になっていたかどうかをたずねました。
『そうだと申せましょう』とグレタ嬢は答えました。『ええそうですわ。私どもはとても幸福でした。本当に申しぶんのない日々の生活が続きましたわ。わかっておりましたわ――お互いの心と心で。急ぐことはありませんでした――好きなだけの時間が許されていたのですもの。いつかはあの人が私を愛していると打ち明ける日が来る、そして私も同じ気持だとそのとき話せばいい――ああ! でもお判りでございましょう! 今はすっかり変ってしまいました。黒い疑いの雲が二人の間をへだてて――心は重く押しつづめられて、顔を合わせても互いに言うべき言葉を知らないのでございます。あの人にしても、私と同じ状態にあるのでございましょう――私たちはそれぞれに、心の中でつぶやいております、『確信さえ持てれば』と! ですから、ヘンリー卿、私はお願いに参ったのでございます。どうぞ私におっしゃって頂きたいのです、『安心しなさい、伯父さんを殺したのが何者にもせよ、チャールズ・テンプルトンでないことは確かだから!』そうおっしゃって下さい! ああ、おっしゃって下さい! お願いです――お願いです!』
そして、残念ながら」ヘンリー卿は叫んで、握った拳を音高くテーブルの上に打ち下ろした、「私にはそれがいえなかったのです。もう日々に遠く、遠く、離れて行くばかりでしょうな、あの二人は――間に立ちふさがる亡霊のような疑惑の影にへだてられて――克服しがたい亡霊です」
椅子の背に身をもたせて、ヘンリー卿の顔は疲れて血の気がなく黒ずんでいた。元気なく一二度頭をふった。
「それ以上は何ともなりませんので、ただ――」ヘンリー卿は再び姿勢を正し、その顔にはわずかに妙な微笑が現われて消えた――「ただマープルさんのご助言を待つばかりです。いかがでしょう? マープルさん? どうもその手紙があなたのお役に立つらしい、という気がしますのですがな。
ソウシャル教会のことを書いたやつです。それをごらんになって、事件のすべてが氷解するような、よく似たできごとか、人かの例に思い当たってはいただけませんか。幸福になりたいと望みながら破滅に瀕している二人の若い者のために、何かの力を添えてやっては頂けないでしょうか?」
ヘンリー卿の訴えには、気まぐれな態度の蔭に、何か真剣な調子があった。彼は、この弱々しい時代遅れの老嬢の頭脳の力を、非常に高く評価するようになっていた。彼はほとんど絶対の希望に近いものを両眼に浮かべてテーブル越しに老嬢をみつめた。
ミス・マープルは咳ばらいして、服の襟のかざりをなでた。
「ちょっとアニー・パウルトニのことが思い出されます」と彼女は素直に答えた。
「むろん、この手紙の意味はすっかりわかりますけれど――バントリさんの奥さんや私にはね。ソウシャル教会のことを書いた方ではございませんよ。もう一つのですわ。永いことロンドンのような所に住んでいらっしゃって、庭師でもないのですから、ヘンリー卿、あなたがお気がつかれそうもないのは、ごもっともですわ」
「え?」ヘンリー卿が言った。「何に気がつくので?」
バントリー夫人は手を伸ばして、種屋のカタログを一枚抜き出した。そしてそれを開いて得意げに声高く読み上げた。
「ドクター(Dr)ヘルマス・スパス――純種のライラック。すばらしく見事な花が、非常に長く丈夫な茎の先に咲く。切り花及び庭園装飾に申しぶんなし。目を驚かす美の豪華版。
エドガー(Edgar)ジャクスン。立派な型をした菊のような花、色は鮮やかな赤れんが色。
エイマス(Amos)ペリー。はでな赤色、すこぶる飾りばえがする。
青島《チンタオ》(Tingtau)。はなやかなオレンジ色、庭木として見栄えがし、切り花にして長持ちがする。
「正直《オネスティ》(Honesty)」
「かしら字のHが大文字だった、あれですよ」ミス・マープルがささやいた。「『正直《オネスティ》』。ばら色に白い影のある、全く申しぶんない形の花」
バントリー夫人はカタログを机上に置いて、激しく爆発するような威勢のいい口調で、
「ダリヤです!」
「そして今の花の名のかしら字を並べるとDEATH(死)となりますわ」ミス・マープルが註をつけた。
「しかしその手紙はローゼン博士その人に宛てて来たものですが」ヘンリー卿が、異議をはさんだ。
「そこが利口なところですわ」老嬢がいった。「それと、その文句の中の警告の隠し方と。ローゼンさんはどうなさるでしょう、知らない名前の一ぱい書いてある手紙を、知らない人から受けとったら。ええ、むろん、秘書に投げて渡すでしょう」
「では、やっぱり!」
「いえ、違います!」ミス・マープルがいった。「犯人は秘書ではありません。それどころか、これこそ、秘書ではないということを本当にはっきりと示している証拠ですわ。もし自分への指令だったら、この手紙を残して置いて後で人目につくようなことをするはずがありませんわ。同様に、ドイツから自分あてに来た手紙を破ってしまって後で怪しまれるようなことをするはずもありませんわ。本当に、その秘書のかたの潔白は――申さば――ありありと明瞭ですわ」
「とすると誰が――」
「さあ、まあ、はっきりしていると存じますね――絶対間違いないといえるほどでしょうが。朝飯の食卓にはもう一人いたはずで、その人も――その場合の状況として極めて当然に――手を差し出して手紙を取り上げ読んだでしょう。つまりそれですわ。さっきのお話し通り、その人も同じ配達の郵便で草花のカタログを受け取って――」
「グレタ・ローゼン嬢か」ヘンリー卿がゆっくりと言った。「それではあの人か私を訪問したのは――」
「殿がたにはどうも、見破れないこともあるものですわ」ミス・マープルがいった。「そしてとかく、私ども年寄りの女のことを――まあ、とにかく、女の物の見方がお気に召さないようですわ。でも、そうばかりも申せません。女の気持は女の方がよくわかるものですわ、いやなことですけれど。二人の間に、越えられない警戒の壁ができたのだということ、間違いないと私は思いますの。その若い秘書のかたは、不意に何か、その女の人に対する根強い反感におそわれたのでしょう。本当に直感的にグレタさんに対する疑いを持ち、その疑いを隠すことができなかったのでしょう。そして私、グレタさんがあなたを訪問したのは全くごまかしのためだったことは間違いないと思いますわ。彼女は大丈夫、安全な立場にはいました。それでもあなたの疑いをお気の毒なテンプルトンさんにはっきりと結びつけて、完全に身をかわしたのですわ。グレタさんの訪問があるまでは、あなたもテンプルトンさんの容疑にそれほどの確信を持ってはおいででなかったでしょ」
「しかし、確かにあれは何でもないと思うのですがな、あの婦人の言った――」ヘンリー卿がいいかけた。
「殿がたには」ミス・マープルが静かにいった、「見破れないことなのですわ」
「それではあの女は――」ヘンリー卿はことばを切った。「あの女は冷酷無惨な殺人をおかして、何の報いもないのか!」
「まあ! いいえ、ヘンリー卿」ミス・マープルがいった。「報いがないどころですか。あなた様も、私も、そんなこと信じられるわけがございませんわ。最前あなたがご自分でおっしゃったではございませんか。とんでもないことです。グレタ・ローゼンは罰を逃れることはありませんでしょう。先ず、とても妙な団体の組織に関係して抜きさしならなくなっているに違いありません。恐喝者や暴力団の仲間、それが身の破滅の原因になり、大方は悲惨な最期を遂げるようになるでしょう。あなたのおっしゃる通り、犯人の身の上をあまり気にするには及びませんわ――大切なのは無実の人の身の上です。テンプルトンさんという方、きっとそのドイツにいる従妹のかたと結婚なさるのでしょうが、そのかたからの手紙を破いたところを見ると――そりゃ、怪しく見えるでしょうが――私どもがこうやって話しているのとは全く違った意味の言葉の使い方をした手紙らしく思われますわ。その手紙に目をとめ、また見たがろうとする、もう一人のお嬢さんの目を恐れたためも少しはあったかと思われます。そのグレタさんとのことで、多少のロマンスもあったに違いないと私は思います。それからドブズのこと――もちろん、おっしゃる通り、その男の身の上にかかわって来るようなことは、ほとんどないでしょうし、これからも望み通りのお茶菓子で暮らせるでしょうけれど。それに気の毒なゲルトルートの身の上もありますわ――それでわたくし、さっきアニー・パウルトニのことを思い出しましたの。可哀そうなアニー・パウルトニ。五十年も忠実につとめた揚げ句が、ご主人のラム嬢の遺言書を盗んだという疑いを受けましてね。何の証拠もなかったのですけれど。それを気に病んでがっくりしてしまったのでした。そのアニーが亡くなった後で、茶箪笥の中の秘密の引き出しからその遺言書がみつかりまして、主人のラム嬢というお年寄りがそこへ安全にしまって置いたのだということがわかりましたのですよ。でも、その時はもう手遅れで、気の毒なアニーのためには何にもなりませんでした。私が憐れなそのドイツ女のゲルトルートのことを案じるのも、そこですわ。人間、歳をとるほど、とても苦しみに負けやすくなります。私はテンプルトンさんより、むしろゲルトルートの方にずっと強く同情しますわ。テンプルトンさんの方は、若くて好男子で、間違いなくご婦人がたに好かれるようなお人柄だけに、まだしもですわ。ゲルトルートに手紙を出して、ねえ、ヘンリー卿、お前の潔白はすっかり判然としたと、いってやって下さいましな。永年仕えたご主人が亡くなって、くよくよしているに違いありませんし、そこへ自分が疑われていると感じては――ああ! 思ってもたまらないことですわ!」
「書いてやります、マープルさん」ヘンリー卿が言った。そして不思議そうにミス・マープルをみつめた。「ですが、私にはどこまでもあなたという方がのみこめませんな。あなたの見解はいつも私の予期したものとは全くかけ離れておりますのでな」
「私の見方は、とるに足らない、視野の狭いものかも知れませんわ」
ミス・マープルはつつましく答えた。「わたくしはこのセント・メアリ・ミードの村より一歩も出たことがございませんので」
「しかもなお、国際的怪事件ともいうべきものを解決して見せて下さった」ヘンリー卿がいった。「つまり、あなたにその知識とお力があったからです。そう申さざるを得ません」
ミス・マープルは顔をあからめて、ちょっと顔を上げて反り身に構えた。
「私、自分の育った時代の標準から申せば、立派な教育を受けたつもりでおります。姉と私のために、ドイツ人の家庭教師が一人ついておりました――いわゆる|ドイツ嬢《フロイライン》〔ドイツ婦人の家庭教師を英国で一般にそう呼ぶ〕ですわ。大層センチメンタルな人でしてね。私どもに花言葉を教えてくれまして――近年は忘れられてしまった教養ですけれど、本当に結構なものですわ。たとえば、黄色いチューリップは『遂げられぬ恋』のことで、エゾギクは『わたしは嫉妬に燃えてあなたの足元に死ぬ』という意味、などです。例のこの手紙の署名はジョージーヌ、これはドイツ語ではゲオルギネで、たしかダリヤのことと覚えておりますわ。それで何もかも一ぺんにわかりましたの。私、ダリヤの花言葉を思い出して、ああ、どわすれしてしまって。年をとると記憶力が衰えてしまいまして」
「とにかく、『死《デス》』の意味ではなかったのですな」
「いえ、違います、でも何だか恐しいではございませんか。世の中には、大層悲しいことが一ぱいありますわ」
「ありますわね」バントリー夫人が嘆息と共にいった。「だから有難い境涯だと思いますわ、花あり、友あり」
「我々も最後尾に置かれるの光栄を有しましたぞ、皆さん」ロイド医師がいった。
「毎晩、劇場へ私あてに紫の蘭を贈って来て下さる男のかたがありますけど」ジェイン・ヘリアが夢みるようにいう。
「ご好意をお待ちしています――の意味ですわ」ミス・マープルが明かるくいった。
ヘンリー卿は妙な咳払いを一つにして横を向いてしまった。
ミス・マープルが不意に叫び声をあげた。
「思い出したわ。ダリヤの意味は『裏切りと嘘』ですわ」
「すばらしい」ヘンリー卿がいった。「全く素晴らしい」
クリスマスの悲劇
「私は抗議したいことがありますがな」元ロンドン警視総監ヘンリー・クリザリング卿がいった。
彼の両眼はおだやかにまたたいて、そこに集う人たちを見まわした。あるじのバントリー大佐は両脚をぐっと伸ばして壁のストーヴの上のマントルピースを、軍隊行進のなかの怠け者の兵士をみつめるように睨《にら》んでむずかしい顔をしている。その細君は、着いたばかりの郵便で来た苗のカタログをそっと見ており、医師のロイドは卒直な嘆美の眼で女優ジェイン・ヘリアをみつめているし、見られているその美女自身は思いにふけるように自分のテの桃色にみがいた爪に見入っていた。ただ一人、年輩の独身女マープルのみが姿勢正しく坐していたが、その薄い碧色の両眼がヘンリー卿の視線と合うと、卿の言葉に応ずるようにまたたいた。
「抗議ですって?」ミス・マープルがいった。
「きわめて真剣な訴えです。ここに六人の集まりがあり、三人ずつ、男と女を代表しております。そこで私は、しいたげられた男性群を代表して抗議いたしたい。今夜ここで三つの物語が提供されたが――語り手は男性ばかり三人です! 婦人がたがその責任を果たしておられないことについて抗議を申し立てます」
「あら!」バントリー夫人が大いに憤慨の調子でいった。「わたしたち、立派につとめを果たしたはずですわ。お話を最も賢いうかがいかたで拝聴したじゃございませんか。正しい女らしい態度でふるまったつもりですわ――自分が立役者になるような差し出がましいことはしないのが女の礼儀ですもの!」
「鮮かな弁解です、が」とヘンリー卿が「それはいけません。大層すぐれたご婦人の先達は、アラビアン・ナイトの中にもありますぞ! そこでお願いしましょう、シェヘラザード姫」
「それ、私におっしゃるの?」バントリー夫人がいった。「だって私、お話しするような材料、ありませんわ。血や謎の中に身を置いた経験なんて無いんですもの」
「血なまぐさい話に限ることはありません」ヘンリー卿がいった。「わたくしは三人のご婦人の中の一人はやさしい愛らしい謎の物語をお持ち合わせに違いないと思います。さあ、マープルさん――『日雇い女の奇妙なめぐり合い』とか『母の会の怪』とかいったところを。私をセント・メアリ・ミード村に失望させて頂きたくないものですな」
ミス・マープルは首を左右にふった。
「あなた様の興を引くような話は何もございませんわ、ヘンリー卿。もちろん、この地にもそれなりの小さな不思議な出来ごとはありますけれど――たとえば消え失せた小海老の怪事件といった取るに足らないものですわ。あなた方には面白くも何ともございませんでしょう。わかって見るとあんまり詰まらないことなのですもの。ただ人間の性質というものをかなりはっきりと示してはくれましたけれど」
「あなたは、人間性に頼り浸ることを、私に教えて下さいましたよ」ヘンリー卿の口調は厳粛だった。
「あなたはどうです、ヘリアさん?」バントリー大佐が訊いた。「あなたにはいろいろ面白い経験もおありのはずだが」
「そう、全くだ」とロイド医師が言った。
「わたくし?」ジェインがいった。「私に――自分の身の上に起こったことを話せとおっしゃるの?」
「お友だちの身の上でもよろしいですよ」ヘンリー卿が口を添えた。
「さあ!」とジェインがあいまいな調子で、「わたくし、なにも変わったことに出遭った覚えがありませんわ――つまり、そういう不思議な事件なんて。そりゃ、花だとか、妙な手紙だとか、そんなことなら無論――でも、それが男の人ってものの当り前でございましょ? どうも、これという――」ジェインは言葉を切って物思いに気をとられた様子だった。
「さっきの小海老のお話をうかがうのがよさそうですな」ヘンリー卿がいった。「それでは、マープルさん」
「ご冗談がお好きですのね、ヘンリー卿。海老のことはほんのそらごとですわ。でも今、わたくし、思いつきましたの。ある出来事を思い出しました――それは、はっきり申せばただの出来事どころではない、もっとずっと深刻なことで――悲劇、ですわ。それは、ある点では、私自身もそれに巻きこまれた出来事でして、それに対して自分のとった行動については、私、少しも残念に思ったことはありません――そう、後悔の念は少しもありません。ただこれは、セント・メアリ・ミードに起こったことではございませんのです」
「それは残念ですな」ヘンリー卿がいった。「が、まあ何とか我慢いたしましょう。あなたを当てにしておれば、間違いないと思っていました」
ヘンリー卿は形を正して、さあ聞こうという心がまえを見せた。ミス・マープルはちょっと頬をそめた。
「うまくお話しできればいいと思いますが」老嬢はじれったそうに口を切った。「お話がまとまらずがちになりはしないかと思いますの。人間はとかく急所を外して脱線しやすいものでして――その癖、脱線していることを自分では気がつかないものですわ。それに、出来事の順序をきちんと正しく思い出すのは本当に難かしいことですわ。お話がまずくても我慢していただかなくてはなりません。もうずっと以前の出来事でございます。申し上げた通り、これはこのセント・メアリ・ミードの村とは関係のないことでございます。実は、かかり合いになってしまったのは、水療院《ハイドロ》で」
「水上飛行機ですの?〔ハイドロには、この意味もある〕」とジェインが限を見開いて聞き返す。
「あなたはご存じないでしょうねえ」といってバントリー夫人が説明してやる。バントリ氏が傍から言葉を添えて、
「野蛮な場所ですよ――全く野蛮だ! 朝早く起きて、いやな味のする水を飲まねばならん。婆さん連がうようよしている。たちの悪い井戸端会議ばかりだ。全く、思い出しても胸が――」
「まあ、アーサ」細君がおだやかにたしなめた。「あなた、あそこのお蔭で助かったのに」
「婆さん達がうようよして、ろくでもない噂ばかりしている」バントリー大佐はまだぶつぶついっている。
「残念ながら、おっしゃる通りかも知れません」ミス・マープルがいった。「私自身、そういう婆さんで――」
「マープルさん」大佐が、どきんとして、あわてて叫んだ。「わしは決して――」
頬を紅潮させながらも、ミス・マープルは、軽く手まねで、大佐を制した。
「でもそれは確かに事実ですわ、バントリー大佐。ただ私、それについて申したいことがあるんですの。ちょっと考えをまとめさせて下さい――そう。つまり、碌でもない噂ばなし、とおっしゃる――そう、それは盛んに行われています。皆さんがそれを毛ぎらいして非難なさいます――特に若いかたがたは。私の甥など、作家ですが――うまい作品をいくつも書いている、と私は思うのですけれど――何の証拠もなしに人の性格を品さだめしてしまう行いをひどくやっつける言葉を口にしていたことがございました。そしてそういう行いがどんなにけしからぬことか、など、いろいろと非難するのでございます。ですが、私の申したいことは、そうした若い人たちの誰もが、ただ机の上で考えることしかしない、ということですの。実地をたしかめて見ようとしません。本当に、問題の要点というのはこういうことに尽きると思います。つまり、いわゆる井戸端会議での噂が、実は当たっていることがとても多い、ということなのですわ。わたくしの考えます所では、もし実際に真相を調べてごらんになりましたら、十中の九まで、噂の通りだということがわかりますでしょう! 実は、それだからこそ、世間の人が噂に迷惑するのですわ」
「想像力が、刺激によって強められる――」とヘンリー卿がいった。
「いえ、そうではありません、全然違いますわ! 本当は訓練と経験のたまものですわ。人に聞いた話ですが、あるエジプト学者は、例の奇妙な種々の甲虫を見せられると、その外見と感じとで、西暦前何世紀ごろの物か、またはバーミンガム出来の模造品かすぐ判るそうでございます。それでいて、判別の方法のはっきりした規則は自分でも説明できないことがあるそうでございます。理窟ぬきに、ただ判っている、というほかは無いのでございましょう。そういう物を扱うだけで過ごして来た生涯なのですわ。
そして、私の申したいのも、そこなのです。失礼な言い方をいたしますと、わたくしも、判っている、といいたいのですわ。甥のいわゆる『ごくつぶしの婆さん連』は閑《ひま》がいくらでもあり、その間、おもな興味は他人の人柄ということに注がれておりますのです。そこで、つまり、人を見ることにかけては専門家とでもいうべき者になってしまいます。当今の若い人たちは――私共の若い頃には話せなかったようなことものびのびと語り合いますが、一面、その精神はとても純真で世馴れない所があります。誰をも、また何でも、信用します。誰かがそれに注意を与えようとしますと、どんなに穏やかにいわれましても、その人に向かって、頭が古いとか――それから、ええ、台所の流しのようだとか申しますわ」
「と申すと」とヘンリー卿が「流し元が、どうして悪いのです?」
「その通りですわ」ミス・マープルが力をこめていった。「どこの家でも必要この上ない物には違いありません。ただ、ロマンチックな所でないことは確かですわ。そこで、はっきり申せばわたくしとても、人なみに感情はありますし、心ない言葉によって心を傷つけられたこともちょいちょいございました。殿がたというものが家事に興味をお持ちにならないのは存じていますけれど、先ずお話し致したいのは私の家にいた女中のイーシルのことで――きりょうもよし、どんなことにも申しぶんなく働く娘《こ》でございましたが。ところが、私、はじめに一目見た時からその娘がアニー・ウェブや憐れなブルイット夫人の娘と同じタイプの女だと直ぐわかりました。何かのきっかけさえあれば自分の物と人の物の区別がなくなる娘です。そこでその月のうちに暇を出し、正直で真面目な娘だという証明は書いてやりましたけれど、エドワードさんの奥さんに、この娘は雇わない方がいいと、蔭で内密に注意して上げました。それで先刻お話しした甥のレイモンドがひどく怒りましてね、こんなたちの悪いことは聞いたことがないって――そう、たちが悪い、ですって。で、その女中はアシュトン卿夫人の小間使いに雇われまして、その夫人には私から注意してあげる義理もございませんでしたが――何が起こったとお思いになります? 夫人の下着の飾りを皆切り取って持ち去られ、ダイヤモンドのブローチが二つなくなり――その娘は夜中に出て行ったきり、いまだに消息がわかりません!」
ミス・マープルは言葉を休めて、長い溜息を一つしてから、また話を続けた。
「あなた方は、こんなことはケストン鉱泉水療院で起こったこととは何の関係もないとおっしゃるでしょうが――ある意味で共通しているのです。つまり、私がサンダーズ夫妻を一目見た時から、その旦那が奥さんを亡き者にしようとしているな、と悟って、はっきりそう信じたのと、同じ理窟なのですわ」
「えっ?」ヘンリー卿が言って、身を乗り出した。
ミス・マープルは冷静な顔つきをヘンリー卿の方へ向けた。
「左様です、ヘンリー卿、わたくし心にはっきりと感じました。サンダーズという人は体格も風采もいい、血色のよい顔つきの男で、立居振舞いもていねいに、万事に人好きのする風でした。妻に対してもあんなによい夫はまたと無いように見えました。でも私にはわかりましたのです! この男は細君を殺そうとしている」
「マープルさん――」
「はあ、そうでございましよう、あなたのおっしゃろうとなさること、判ります。さっき申した、私の甥のレイモンド・ウェストもそう言うでございましよう。証拠のかけらもないのに、と申すでしょう。でも私、憶えておりますわ、ウォルタ・ホウンズという、グリーン・マン館を経営していた男のこと。ある夜、細君と一緒に家へ帰る途で、細君が河へ落ちて――男は保険金を手に入れました! そして、他にも一人二人、今まで、罪のつぐないをせずに横行闊歩している者を知っております――一人は我々と似たり寄ったりの身分の、おつき合い仲間ですわ、嘘ではありません。夏の休暇に奥さんを連れてスイスへ登山に出かけました。私、その奥さんに、お止しなさいと注意して上げましたが――可表そうに、怒るかと思ったら腹も立てませんでね――笑っただけでした。私のような変な年寄りが、ハリーというその最愛の夫のことをそんな風にいうのが、可笑しかったのでございましょう。さあ、それで、事故が起こってハリーは今、ほかの女と結婚して暮らしておりますわ。でも、わたくしにどうすることができましょう? 判っておりましたのです。でも証拠がございません」
「まあ! マープルさん」バントリー夫人が叫んだ。「あなた、まさか――」
「あなた、こういうことは、ざらにあるんですよ――本当に、とても多いのですわ。そして、殿がたは、ことにそういう気になり勝ちなのですね。意志の強い、実行力のある人ほど、かえってそうなのです。偶然の事故のように見せかけられる場合だったら、易しいことですわ。とにかくわたくしサンダーズ夫妻を見た時、すぐ悟りました。それは電車に乗っていた時でした。車内が満員で、私は仕方なく屋上の席に乗っていたのでした。私たち三人とも立ち上がって降りようとしたとき、サンダーズさんの旦那のほうが身体の重心を失って真っ向から奥さんのからだに倒れかかり、奥さんは真つ逆さまに階段を下へ落ちました。幸いに運転手がとても頑丈な若者だったので、受けとめてくれたので大事に到らなかったのでしたが」
「でもそれは、本当の事故だったのでしょ、きっと」
「むろん事故でした――事故としか見えませんでした。ですがサンダーズという人は前に海上貿易の船の乗組員だったと自分でいいましたよ。ぐらぐらするボートの上でからだの平衡を保てる人が、たかが電車の階上の席で、わたしのような年寄りの女でさえよろけない時に、バランスを失ったりするものですか。馬鹿々々しい!」
「とにかく、あなたが確信を持たれた、ということは判りました、マープルさん」とヘンリー卿がいった。「その時、その場で心を定められたのですな」
老婦人はうなずいた。
「私は確信を持ちました、それに、その後間もなく、街路を横切るときに起こった、またちょっとした出来事が、更に私の確信を強めたのでした。そこで、ヘンリー卿、あなたにお伺いしたいのですけれど、どうしたらよろしいのでしょう? 一人の善良な、自分の生活に満足している、幸福な、いじらしい奥さんがあって、間もなく殺されようとしているのです」
「あなたという方は、すっかり私の度胆を抜かれましたよ」
「それは、あなたが、今どきの人と同じように、事実に立ち向かおうとなさらないからですわ。あなたも、そんなことは有り得ないことだとお考えになりたいのですわ。でもこれは本当のことですし、わたくしには判っておったのでした。ですが人間の力は全く情けないことに、思うにまかせぬものですわ! たとえば、私、警察に行って話すこともできませんでした。若い奥さんに注意して上げても無駄だということも判っていました。奥さんの方は旦那に頼り切っているのです。私はできるだけ二人のことについて探り出すことを仕事にしました。ストーヴを囲んで縫い物をする雑談の機会はいくらでもあります。サンダーズ夫人は(グラディスという名でしたが)針仕事よりおしゃべり一方という風でした。結婚してから、まだそう長くはない様子でした。旦那はいずれ自分の物になる筈の財産の予定もあるそうでしたが、さし当たりは経済的に困っていて、実際、奥さんのわずかな収入で暮らしているのでした。よくある話ですわ。奥さんはその年金の元金に手をつけられないのを残念がっていました。誰かの分別らしいにおいがするじゃありませんか? しかし、とにかくそのお金はグラディスさんの権利で、死ねばその遺産として残る――私はそういうことも調べ上げました。そうして夫婦は、結婚後、直ぐにお互いを相続者として、それぞれの遺言書を作製してありました。とても涙ぐましいことですわ。もちろん、万一のことでもあったら――というのが始終気になっていることでしょうし、一方、本当にお金に困っていて――水療院内でも一番上の階の安い部屋を借りていて、同じ階には、院に勤めている女中たちの室ばかり、という中に囲まれて暮らしている有様で――火事の場合などとてもあぶない、ただ、非常梯子のついているのがちょうどご夫婦の室の窓の外でした。私は、心配して、そこにバルコニーがあるか訊ねて見ました。危険な場所ですわ、バルコニーというものは。トン、と一突きされたら――ね!」
「わたくし、サンダーズ夫人に、バルコニーへ出ないように約束させました。それに関係した悪い夢を見た、と申したのです。奥さんもこれは気にしましてね――迷信というものも使い途はあるものですわ。この奥さんは綺麗な人で、きめの細かい色白で、縮れのない髪を後ろで丸めていました。とても人を信じ易い性質なのですね。私の申したことを旦那に何度も話して聞かせているのです。で、旦那のほうが私を妙な目つきで見ていることが一二度ありました。彼は簡単に信ずるたちではなかったのです。そして、私があの時あの電車に乗っていたことも知っていたのですわ。
私は私で、とても心配でした――居ても立ってもいられないほど――だって、どうすれば彼を出し抜くことができるのか、わからないのですもの。水療院の中で起こることは防げますわ。ただ二こと三言、サンダーズさんに向かって、私が彼を怪しんでいることを匂わせればいいのですもの。しかしそれは、彼が計画を後へ延ばす、というだけにしかなりません。いえ、私、こう思いこむようになりました――この上は思い切った方策があるのみだ――何とかして、こちらから彼に罠《わな》をかけてやる外はない。あの男をうまく導いて、私の仕組んだ通りの手順でグラディスの命を狙わすことができれば――さ、そこで彼の化けの皮が剥がれ、グラディスも否応なしに真実に直面することになるだろう、たとえそのあめにどんなひどい精神的打撃を彼女が受けたとしても止むを得ない、とそんな風に考えもしました」
「いや、あなたには私も度胆を抜かれました」ロイド博士がいった。「で、どんな名案をお用いになりました」
「一つ思いついたつもりだったのですけれど――ご心配なく」ミス・マープルはいった、「男は私には利口すぎる相手でした。それまで待っていませんでした。私が疑っているらしいと思うと、こちらがはっきり肚《はら》をすえない先に力を揮《ふる》いました。彼はわたくしが何か突発事故の起こるのを予想しているのを悟っていました。それで、仕事をはっきりと人殺しの形に置き換えてしまいました」
小さな喘《あえ》ぎが座の人々の間に伝わった。ミス・マープルは一つうなずいて唇をぎゅっと引き緊めた。
「少しお話の仕方があらっぽくなったようです。何とか出来事を正確にお伝えするように努めましょう。私はあれから、いまだにずっと辛い思いをしておりますのです。何とかして、私が食いとめるべきだったと思われるのでございます。でも、さすがに当局は立派にお調べになりました。私としては、できるだけのことは致したのでした。
その時は、妙に不気味な雰囲気だった、としか言いようのない感じが漂った日でした。皆の頭の上から何かがのしかかっているような気がしました。わざわいの予感とでもいいますか。先ず、この水療院で休憩室の給仕をしていたジョージのことがありました。永年つとめていて、そこへ泊りに来る誰ともおなじみの男でしたが、気管支炎から肺炎になって、四日目で亡くなってしまったのです。それは悲しうございましてね。誰も彼もしょんぼりしてしまいました。ちょうどクリスマスの四日前でした。そこへまた、仲働きの女中の一人が――とてもいい娘でしたが――指の先から破傷風になって、発病から一昼夜もたたずに、ぽっくり死んでしまった、というわけなんですの。
私は応接間で、トロロウプ嬢というお人と、カーペンター夫人という年寄りの奥さんと一緒に話をしていましたが、カーペンター夫人ははっきりと故意に不幸を喜ぶような気分になっていまして、すっかりそれを楽しんでいるような風で――よくありますわね。
「見ていらっしゃい」と夫人はいいました。「これだけじゃ済みませんよ。諺があるでしょ? 二度あることは三度ある。たしかにそうだってこと、何度も経験しましたわ。もう一人、だれか死にますよ。間違いありません。それもじきにですよ。二度あることは三度ある」
言い終って夫人がひとつ首をこっくりとやって縫い物の針を運び出した時に、私がふと顔を上げるとサンダーズ氏がその室の戸口に立っていました。ちょっとのあいだ態度をつくろわずにうっかりした様子でしたので、私は男の顔つきをあからさまに観てとりました。私、あの縁起の悪いカーペンター夫人の言葉がその後の計画を男の頭にそっくり植えつけたのだと、いつまでも信じておりますの。そのとき彼の心が活発に働いているのが顔に出ていました。彼はいつもの愛想のよい笑いを浮かべて室内へ入って来ました。
「クリスマスの買い物のご用はありませんか?」サンダーズは言いました。「私はこれからケストンの町へ出かけますが」
一二分そこにいて、笑って雑談してから、出て行きました。何しろ私は内心大いに思いわずらっておりましたので、直ぐに申しました。
「サンダーズさんの奥さんはどこにいらしって? どなたかご存じ?」
トロロウプさんの話ではサンダーズ夫人は友人のモーティマーという人の家ヘトランプのブリッジ遊びをやりに出かけたということでしたので、私もちょっとの間は気が休まりました。それでもまだひどく、心配になって、どうしたらよいのか心が定まりません。三十分ほどしてから私は階上の自分の室へ戻りました。その時、私の主治医のコウルズ先生が階段を下りて来るのと、私が上がって行くのと出会ったので、ちょうどリューマチの手当てのことを聞きたいところでしたから、その場で直ぐ私の部屋へ一緒に来てもらいました。その時、先生は、内緒だといって私に、女中のメアリが気の毒にも亡くなったことを話しました。この宿の支配人がこのことが当分は漏れないように望んでいるから、私も黙っていてくれと医師は言いました。無論わたくしは、そのことはもう皆が知っていて、この一時間というもの――可哀そうな女中が息を引きとってから今まで、その噂で持ち切りだったなどということは、医者には申しませんでした。こういう噂というものは必ず直ぐに知れ渡るものですし、世馴れた人ならばそんなことはよく心得ている筈なのですが、コウルズ先生というお人は、いつもどんなことでも信じていられるような、単純で気をまわさないたちでした。そこからまた、その直ぐ後で、私が驚いて心配せずにはいられない話が出て来ましたのです。というのは、医師が別れぎわにこんなことを話しました。サンダーズさんから細君をちょっと診てやってくれと頼まれたというのです。どうもこの頃、気分が悪そうに見える――消化不良とか、いろいろな徴候がある、といったということでした。
ところが、紛れもないその同じ日に、グラディス・サンダーズは私に、お腹の調子がとても良くなって有難いと告げているのです。
お判りでしょう? 例の男に対する私の疑いは百倍にもなってすっかりぶり返しました。彼は手筈を整えている――どういうやり方に向かってだろう? 私がコウルズ医師に打ち明けようかどうしようかと迷っている間に、医師は立ち去ってしまわれました――もっとも、本当に話したとしても、どう話したらいいのか言葉が見つからなかったでしょうけれど。わたくしが自分の室を出て来ると、ちょうど問題の男――サンダーズ――が上の階から階段を下りて来ました。外出の服装をしていて、私に町で何か用を足して来て上げることはないかと聞きました。私には、この男に対して礼儀正しくするだけで、精一杯でした。それから直ぐに休憩所へ行ってお茶を注文しました。その時がちょうど五時半だったことを覚えています。
さて、それからの出来事を、はっきり判るようにお話ししたいと一生懸命で、骨が折れますわ。七時十五分前、私がまだラウンジにいる時に、サンダーズ氏が帰って来ました。二人の紳士と一緒で、三人とも少し酔っていい気持になっていました。サンダーズは二人の友達を待たせて置いて、私がトロロウプ嬢と坐っている席の方へまっすぐにやって来ました。そして、妻に贈るクリスマスプレゼントについて私たちの助言が欲しいと言うのでした。それは化粧鞄でした。
「何しろ、あなた」とサンダーズは言いました。「わたしはただのがさつな船乗りでして。どうしてこういう品物のことがわかりましょう? 見本が三種類来ておるんですが、よく判る目で見てご意見を伺わして頂きたいのです」
私たちは無論、喜んでお役に立ちましょうといい、するとサンダーズは階上の自分の所まで来てくれないか、品物を持ち出して来ると、いつ家内がやって来て見られるかも知れないから、というのです。そこで、私とトロロウプさんはサンダーズと一緒に階上へ行きました。続いて起こった出来事は一生忘れられないでしょう――今でも小指の先までぴりぴりする感じですの。
サンダーズが寝室のドアを開いて電灯のスイッチを押しました。私たちのどちらが先に目にしたか――
サンダーズ夫人が床の上に倒れていました、俯向《うつむ》けになって――死んで。
私が真っ先に駈け寄りました。膝をついて、手をとって脈に触れて見ましたが無駄でした。腕そのものがもう冷くて、硬くなっているのです。頭の直ぐ傍の所には砂を詰めた靴下が――それで奥さんを殴り倒した武器でしょう。トロロウプ嬢は、性根の無い人で、ドアの所で捻り声を上げ続けながら、自分の頭を抱えているばかりです。サンダーズは大声を上げて「家内が、家内が」と叫びながら死骸を目がけてとんで来ました。私は彼を押しとめて、死体に触らせませんでした。だって、その時私は、この男が殺《や》ったことだと信じていましたし、それで何かを彼が取り除くか隠すかし兼ねないと思ったからですわ。
「何にも触ってはいけません」私はいいました。「退《の》いていて下さい、サンダーズさん。トロロウブさん。下へ行って支配人を連れて来て」
私は死体のそばに膝まずいて、そこに残っていました。サンダーズを独りで死体の傍に置きたくなかったのです。そのくせ、私、この男が芝居をやっているのだとしたら全く見事なものだと、認めないわけには行きませんでした。すっかり面食らい、取り乱し、茫然としてしまったように見えました。
支配人は直ぐ現われました。室内を素早く見まわして、それから我々を皆、外に出して室のドアに鍵をかけました。支配人ですから合い鍵は持っていました。それから警察へ電話をかけに出て行きました。警察が来るまでにははっきり一年もかかったような気がしました。(後で判ったことですが、電話が故障で、混線していたのでした)支配人は仕方なく、使いの者を警察の派出所まで走らせたのでしたが、水療院は町を出はずれて、高台の荒地のとっつきまで登った所ですもの。それにそのあいだ、カーペンター夫人が我々みんなを大いに苦しめたものでした。夫人は自分のいった諺『二度あることは三度ある』の予言が、こうも早く実現したので、すっかりいい気持になっていました。サンダーズはというと戸外を夢中にうろつきまわって、頭をかかえて捻ったり、いろいろと悲嘆のさまを演じているということでした。
でも、とうとう警官が到着しました。支配人やサンダーズと一緒に階上へ行きました。しばらくして、私を呼びに来ましたので、私も上って行きました。警部がいて、テーブルに向かって何か書き留めていました。知的な風貌に好感の持てる人でした。
『ジェイン・マープルさんですな?』警部はいいました。
『はい』
『被害者の死体が発見された時に居合わせておられた、ということですが?』
私はそうだといって、出来事をそのままに述べました。質問に対して筋の通った答をする相手に出会って、警部もほっとした様子でした。何しろ気の毒に、その前にはサンダーズや、エミリー・トロロウプ嬢を相手にしたのですから。トロロウブさんなど、すっかりおびえて、へなへなになっていたことでしょうし――きっとそうですわ、仕様のないお人でしたもの! 私の母がいつも私に教えて、淑女というものは常に人中では落ち着いているだけの自制心を持っていなければいけない、どんなに肚の中では弱っている時でも人前はしっかりして見せなければ、といっておったのを、わたくし、忘れません」
「実に立派な徳目です」ヘンリー卿が荘重にうなずいた。
「私が陳述を終ると、警部が言いました、『ありがとうございました。ところで、申しにくいが、もう一度貴女に、死骸を見て下さるようにお願いしたいのですが、よろしいですか。あなたが最前、部屋へおはいりになって死骸を発見なさった時の死体の位置や様子と、今の位置と、そのままでしょうか? 少しも動かされていませんか?』
私はサンダーズ氏がいじろうとするのを止めたことを話し、警部も納得して肯きました。
『あのサンダーズ氏はひどく逆上しておられるように見えます』警部はいいました。
『そう見えますわね――確かに』私は答えました。
私は別に『見える』という言葉に特に力を入れたつもりはありませんでしたが、警部はちょっと鋭い目つきで私を見つめました。
『では、死体は発見の時とそっくり同じ状態と見てよろしいですな?』と彼はいいました。
『あの帽子以外は、そうですわ』私は答えました。警部は顔を上げて鋭く私を見ました。
『とおっしゃると――帽子が?』
私は説明して、さっきは帽子が哀れなグラディス・サンダーズの頭にかぶさっていたが、今は死体の傍に置かれてある、と話しました。私はもちろん、警官のしたことだと思っていたのです。警部はしかし、強くそれを打ち消しました。それまで何一つ、動かしも触りもしなかったというのです。警部は立ってその哀れな俯向けの死体を見下ろして、当惑したように眉をひそめて考えていました。グラディスは外出着で――それは大きな燕脂《えんじ》のツイードコートにねずみ色の毛皮の襟がついていました。帽子は、赤いフェルトの安物で、死骸の頭の直ぐ傍に落ちていました。
警部はしばらくの間、黙って立っていました。そして自分の心に問うように眉根に皺を寄せて考えていましたが、やがて一つの考えが、さっと、思い浮かんだ様子で
『もしかして、あなた、覚えておられませんか、死体の耳にイヤリングがついていたか、または、被害者はイヤリングをつけている習慣であったかどうか?』
ところが幸いに、わたくしは、いつも物事を細かく観察しておくたちでしてね。別に先刻、特に注意しておったわけではなかったのですが、帽子の縁の下から、きらきら光る真珠がのぞいていたのを覚えていましたので、警部の前の方の質問に対して、そうでしたと答えることができました。
『ではそれではっきりしました。この婦人の宝石箱が狙われたのです――大した値打ちのある物は入れてなかった筈ですが――それに指輪も指から皆抜かれています。犯人はイヤリングを奪《と》るのを忘れたに違いない。そして犯罪が発見された後で、その耳飾りをとりにもう一度戻って来たのですな。冷静な常習犯だ! それでなければたぶん――』室内をにらみまわして、警部はゆっくりと言いました。『この部屋にかくれていたのかも知れないな――あなた方が死体をみつけた時も、ずっと』
でも、私、その考えは否定しました。私自身、ベッドの下までのぞいて見たのですものと説明しました。それに支配人は衣裳戸棚の戸も開いて見ましたし、ほかに大人の隠れられるような所はないのです。その戸棚の中の帽子入れの戸棚だけは鍵がかかっていましたけれど、それは狭いところへ何段も棚のついたものですから、誰も隠れるなどというわけには行きません。警部は私がすっかり説明する間、ゆっくりとうなずいていました。
『なるほど、よくわかりました』警部はいいました。『それならば、私がはじめ言った通り、犯人は一度逃げてから引っ返して来たに違いない。非常に落ちついた常習犯だ』
『でも支配人がドアに鍵をかけて合い鍵は持って行ったのですけれど』
『それは問題でありません。バルコニーと非常梯子――あれが泥棒の入って来た道です。ことによると、ちょうどあなた方が入って来られたので、奴の仕事を邪魔したかたちになったかも知れない。慌てて窓から忍び出て、皆さんが出て行ってから、戻って来て仕事を続けた』
『本当に』とわたくし申しました、『泥棒だったんでしょうか?』
警部はぶっきら棒に『そう、そうらしいですが、違いますか?』
でもその声音《こわね》には、私が嬉しくなるような調子がありました。この警部が、妻に逝《い》かれた男やもめの悲しみを演ずるサンダーズさんのおしばいを、なかなか、そうまともには受けとっていないことが感じられたのです。
わたくし、率直に認めますけれど、たしかに私は自分の知り人については、自分の観察した通りに信じこんでそれに執着しているたちです。フランス語でいうイデーフィクセ(固定観念)ですわね。私はそのサンダーズという男が妻を殺そうとしたことをはっきり知っていました。私が考慮に入れることのできないのは、あの奇妙な非現実的な『偶然の一致』という考えですの。私のサンダーズという男についての考えは――確信を持っていましたが――完全に正しく、また真実だったのです。彼は悪党でした。でも、その偽りの悲嘆の有様には私、ちっとも欺されていなくても、その驚きや茫然自失といったかっこうをすばらしくうまいものだと思った、その時の感じは忘れません。全く自然《ナチュラル》に見えたものでした――当然《ナチュラル》、の意味がお判りかしら。警部と話をした後で、私、妙な疑い、自分の信じていたことをおかしいと思う感じにおそわれたことも確かですわ。と申すのは、もしサンダーズがこの恐ろしい犯罪をおかしたのなら、非常梯子づたいにそっと戻って来て、グラディスの耳のイヤリングを取って行かなければならない理由なんて、考えられませんもの。どう考えても利口な仕業ではないし、サンダーズはとても賢い男で私がはじめから彼を危険な男だと感じていたのもそこなのですからね」
ミス・マープルは一同を見渡した。
「もう、私の言おうとすることはおわかりでしょう? 世の中には思いがけないことの起こることが、随分多いものですわ。私が確信を持っていた、ということが私を盲目にしていたのだと思われるのです。結論は不意に胸に浮かんで強い打撃を与えました。だって、ここではっきりしたことは、全く疑いの余地もなく、サンダーズ氏がこの犯行をやれた筈がないということですもの――」
驚きの息づかいがバントリー夫人の咽喉をもれた。ミス・マープルはその方へ向き直った。
「わかりますよ、あなた、私が話しはじめた時は、こんなことになるとは思いなさらなかったでしょうね。私だって事件の始まりには予想もしなかったの。でも事実は事実ですから、間違っていたと判ったら、謙虚にはじめからやり直さなければなりません。サンダーズが肚《はら》からの人殺し向きの悪者であることは判っていました――その私の固い信念をくつがえすようなことは何も起こってはいないのです。
さあ、そこであなた方は実際にその前後に起こった事がら、そのものを一々お聞きになりたいだろうと思います。先ず、サンダーズ夫人は先刻お話しした通り、その日の午後を友人のモーティマーという家でそこのご夫婦とトランプのブリッジをして過ごしたのです。そこを暇《いとま》を告げたのが六時十五分頃。友人の家から水療院までは歩いて十五分ぐらい――急げばもっと早い。だから六時半ごろには帰って来た筈です。帰って来た姿を見た者がないのですから、横の通用口から入ってそのまま急いで自分の室へ上がってしまったに違いない。そこで着替えをして(ブリッジ遊びに着て行った仔鹿のコートとスカートは戸棚の中にかかっていました)もう一度、外出の支度をしていたことは確かで、その時に一撃をくったのでしょう。誰におそわれたのか自分でも判らない間の出来事だったかも知れないとみな言い合いました。砂を詰めた袋は大変に武器として役に立つらしいですね。すると襲撃者はやっぱり室内に隠れていたのかとも思われるのですね、大きな洋服箪笥の戸棚の一つに隠れていたのかも知れない――グラディスがあけなかった戸棚にですね。
今度はご亭主のサンダーズの行動について。これは外出したのが、申した通り、五時半ごろで――もうちょっと後かも知れません。二軒ほどの店で買い物をして六時頃『大鉱泉館』というホテルへ入り、そこで二人の友人に会いました――あとで一緒に水療院へ連れて帰って来た二人です。三人で、球を撞いたり、私の想像ではハイボールか何か大いにがぶ飲みもしたのでしょう。二人の友だちはヒッチコックとスペンダーという名でしたが、六時以後ずっとサンダーズと一緒で離れなかったことは確かなのです。一緒に水療院まで歩いて帰って、はじめてサンダーズは二人の傍を離れて私とトロロウプさんの所へやって来た、というわけです。それが、さっきも申したように、大体七時十五分前頃で――その時は奥さんのグラディスはもう死んでいた筈なのです。私自身でその二人の友だちとも話して見たことも申し上げておきます。二人とも虫の好かない男でした。どちらも気分のよくない、また紳士らしくもない男でしたが、ただ一つ、遊び歩いている間、ずっとサンダーズが一緒だったと言ったとき、これは確かに本当のことだな、という確信を私、持ちました。
もう一つ、小さな出来事が問題として現われて来ました。トランプ遊びの最中にサンダーズ夫人が電話に呼び出されたというのです。リトルワスという男からかかって来たのです。それからグラディスは何だかそわそわして嬉しそうで――そのためか一二度ひどい間違いをやりました。そして、友人の家ではもっと遊んで行くだろうと思っていたのに、早目に切り上げて帰って行ったのでした。
サンダーズは、妻の友人でリトルワスという名に心当たりがあるかと聞かれて、そんな名前は聞いたこともないといいました。そして私にも、それはグラディスの今までの様子からも裏書きされるように思われました――グラディスもリトルワスという知り合いなどあった様子はなかったのです。それなのに、電話から戻って来ると照れくさそうに笑って赤い顔をしていたというのです。して見ると電話の主が誰にもせよ、偽名を使ったように思われます。そしてそこに何か怪しいものが認められるじゃありませんか?
とにかく、そこで残された謎はこうです。強盗説、は何だか本当らしくないし――それともサンダーズ夫人が誰かに会いに外出の用意をしていたという説をとるか。非常梯子づたいにあの室へ来たのはその相手の男か? そして喧嘩になったのか? それともその男は欺《だま》し討ちに不意を襲ったのか?」
ミス・マープルは言葉を切った。
「なるほど」ヘンリー卿がいった。「で、その解答は?」
「どなたかお判りかと思ったのですが」
「私、当て物は全然駄目」とバントリー夫人、「サンダーズがそんな見事なアリバイを持っているのがどうも残念だけれど、マープルさんが納得なさったものなら大丈夫でしょう」
ジェイン・ヘリアがその美しい頭部を揺がすと、質問を発した。
「どうして、帽子の戸棚だけ鍵がかけてありましたの?」
「まあ、あなた、なんという頭の良い」とミス・マープルがいって、晴れやかな笑顔を見せた。「私が不思議に思ったのも全くそのことでしたわ。理由は知れて見ればあっけなかったですけれど。その戸棚には刺繍をしたスリッパが一足と、ポケットハンカチーフが何枚か、可哀そうなグラディスが旦那へのクリスマスの贈り物として縫い取りをしかけたのが入れてあったのです。それで、見られないように鍵をかけて置いたのです。合い鍵はグラディスのハンドバッグの中にありました」
「まあ!」ジェインがいった。「では結局、それは大したことじゃなかったんだわ」
「あら、ところが」ミス・マープルがいった。「それこそ、本当に大した肝腎なことだったのですわ――犯人の計画を根こそぎ狂わしてしまったことだったのですわ」
一同は皆、老婦人をみつめた。
「私自身二日間も判らずに考えていたことでした」ミス・マープルは言った。「私も考えに考え抜きました――そして突然に、はっと思い当たって、何もかもはっきりしました。わたくし、警部さんの所へ行って、あることをやって見て下さいと頼んで、それをして見てもらいました」
「何をしてくれとお頼みになったのです」
「例の帽子を被害者の頭にかぶせて見て下さいと頼んだのですわ――もちろん、かぶせられませんでした。全然頭に合わないのです。それはグラディスの帽子ではなかったのですわ」
バントリー夫人はじっと目を据えて、
「だって、はじめの時はサンダーズ夫人の頭にかぶっていたんでしょ?」
「グラディスの頭ではなかったので――」
ミス・マープルは声を沈ませてちょっと言葉を切ったが、また続けた。
「私たちはわけなくそれを哀れなグラディスの死骸と思いこんでしまったのですわ。でも顔を見たわけではなかったのです。申したでしょ、俯向けになっていて、頭の上の帽子が何もかも隠していたのですわ」
「でも殺されたのはグラディスさんでしょう?」
「ええ、あとでね。私たちが警察に電話している時には、グラディス・サンダーズはまだ生きてピンピンしていたのですわ」
「というと、誰かがサンダーズ夫人のふりをしていた、ということですの? でも、たしかにあなたが死体に触って見た時に――」「それは確かに死体でした、間違いなく」ミス・マープルが力をこめていった。
「しかし、そんなことが」とバントリー大佐がいった。「間違いにも場違いにも、そうやたらに死骸を自由に扱える筈がない。では、その――その最初の方の死体は、後でどうしたのだろう?」
「犯人が元へ戻したのですわ」ミス・マープルがいった。「まがまがしい計画ですけれど――実に頭のいい思いつきには違いありません。応接室での私たちの話が犯人にそれを思いつかせたのです。亡くなった女中のメアリの死体――あれを使えばいいじゃないか? とですね。いいですか、申したでしょう、サンダーズ夫婦の室は女中たちの部屋の並んでいる真ん中にありました。メアリの部屋はほんの二つ先でした。葬儀屋は暗くならなければ来ない筈です――犯人はそれも計算に入れたのです。その死体をバルコニーづたいに担ぎ込んで(五時にはもう真っ暗な季節ですから)自分の奥さんの服の一着と、大きな赤い外套を着せました。さ、そのあとで、帽子戸棚を明けようとしたら鍵がかかっていたのです! ほかに仕方はありません、メアリの帽子を一つ、とって来ました。これで気のつく者は、まさかあるまい。砂袋を死体のそばに置きました。そうして置いて、自分のアリバイをつくるために外出したのです。
それから妻に電話しました――リトルワス氏という名前を使って。妻に何といって話したかは判りませんが――グラディスは物ごとを信じやすいたちですからね、さっき申した通り。とにかく、ブリッジの集まりを早く抜けて真っ直ぐに水療院へ帰らないようにいいつけ、七時に水療院の構内で非常悌子の近くで会うことを取り決めたのです。多分、グラディスにびっくりさせるような良いことがあるとでもいったのでしょう。
さてホテルに友だちを訪ねて連れ立って水療院へ帰り、トロロウプさんと私が自分と一緒に偽の犯行の跡を見るように、仕組んだのでした。サンダーズは自分で死骸を裏返そうとする真似までして見せたものです――それを私が押しとどめてしまったんですわ! それから警官が呼びにやられ、サンダーズは院の構内へよろめき出て行きました。
だれも、犯行のあった後と思いこんだ時刻についてサンダーズのアリバイを追求する者はありませんでした。妻と顔を合わせ、非常梯子を連れて登り、自分たちの室へ入る。大方、その時はもう死骸について何か話をしてあったかも知れませんね。グラディスが死体の上に身を屈めてのぞき込む、途端にご亭主は砂袋を取り上げて殴りつける。――ああ本当に考えると胸が痛みますわ、今でも! それから手早くグラディスの着ているコートとスカートを脱がせて、衣裳戸棚に懸け、メアリの死体に着せて置いた服を妻の死体へ着せ替える。でも帽子だけは合いません。メアリの髪はシングル型に刈り込んでありましたけれどグラディス・サンダーズは、さっき申した通り、大きく巻いた髪の束が頭の後ろに載っているのです。止むを得ず、帽子は死体の側に置いて、先刻と違うことに誰も気がつかないようにと祈るほかはなかったのでした。それから、気の毒なメアリの死骸をメアリの部屋へ運び返して、もう一度元の通りに形を整えて置いたのです」
「それはちょっと、信じ難いように見えますがな」ロイド医師が言った。「千番に一番の兼ね合いですよ。警官の到着が早かったらどうなります」
「電話線が故障で通じなかったと申し上げたでしょう」ミス・マープルが言った。「それも犯人の細工の一つだったのですわ。あまり早く警官に来られては、どうにも仕様がないからですわ。警察は乗り込んで来ると、支配人の事務室でかなり時間をとってから現場である寝室へ上って行きました。ここに犯人の一番大きな弱点がありました――二時間前から死んでいた筈の死骸と、死んで三十分経つたばかりの死体との違いに、目をつける者がないとも限らないということ。でもサンダーズは、犯罪現場の最初の発見者たちが専門知識を持っていない筈だという事実を勘定に入れていたのです」
ロイド博士はうなずいた。
「本当の犯行は七時十五分前頃か、その見当に行なわれたと推定されるところでしょうが、私の推測では」と医師はいった。「実際は七時か、あるいはそれより数分遅れて行なわれたのでしょう。警察医が検屍をしたのは、早くて七時半ごろだったでしょう。警察医にも犯行時刻ははっきり判る筈がありません」
「それをしっかりつかむべき人間は、私だったのですが」ミス・マープルはいった。「可哀そうなグラディスの手に触ったら氷のような冷たさでした。それでもそのちょっと後で例の警部さんが、殺人が行なわれたのは私たちがその室へ入る直前だったに違いないような口ぶりで話をしていたのに――それでも私、何も気がつかなかったのですわ!」
「随分いろいろと気がついておられたではありませんか、マープルさん」ヘンリー卿が言った。「事件は私がその職にあるより前のことですな。私は耳にした覚えもない。結局どうなりましたか?」
「サンダーズは死刑になりました」ミス・マープルは晴れやかにいった。「立派な処置ですわ。あの男を法の手に引き渡すお手伝いを勤めたこと、私、悔《くや》んだことはありません。近頃の死刑廃止の人道論には我慢ができません」
老嬢の緊張した顔つきがなごやかになった
「でもわたくし、あの気の毒な女の人の命を助けるのに失敗したことで、何度も激しく自分を責めたものですわ。しかし、誰がいきなり一足とびに結論へ飛んでしまう、一人の婆さんの話に耳を傾けてくれるでしょう? ええ、ええ、――誰に判りましょう? 多分、人生が未だ幸福である間に死ぬ方がグラディスにとっても、なまじ生き続けて、不幸と幻滅を味わい、信じた者に裏切られてにわかに恐ろしいものに変わってしまったような世の中に生きて行くより、かえってよかったでしょう。グラディスはあの悪党を愛し、信じたままでした。正体を知ることなしに死んだのですわ」
「本当に、それで」ジェイン・ヘリアがいった、「その奥さんはそれで良かったのですわ。本当に申しぶんなかったのですわ。私ももし――」彼女は言葉を切った。
ミス・マープルはこの名高い、美しい、功なれる女性ジェイン・ヘリアを見て、穏やかにうなずいた。
「わかりますよ、あなた」すこぶるおだやかに、優しく「そうでしょうとも」
別荘事件
「わたくし、あることについて考えていましたの」とジェーン・ヘリアは言った。
彼女の美しい顔は、同意を期待する子供が浮かべるあの信じきったような微笑で輝いた。それはロンドンで夜毎に聴衆をうならせるような、そしてまた今までに写真屋たちの財産をふやしてきた微笑でもあった。
「それというのは」と彼女は注意ぶかく続けた。「わたくしのある友達に起こったことなのです」
みなは、励ますような、だが少しばかりそうとも言いきれないざわめき声を立てた。バントリー大佐、バントリー夫人、ヘンリー・クリザリング卿、ロイド博士、それに年配ののミス・マープルは一様に、ジェーンの「友達」とはジェーン自身のことだと確信した。彼女は、他人に関することだったらどんなことも、忘れずにいたり興味を持ったりすることはできなかっただろう。
「わたくしの友達は」とジェーンは続けた。「(その名前は言いたくはありませんが)女優でした――たいへん有名な女優でした」
誰も驚いた表情はしなかった。ヘンリー・クリザリング卿は心の中でこう考えた。「さてと、彼女がこの作り話を続けて行くのを忘れて、『彼女』と言う代りに『わたくし』と言ってしまうまでに、どのくらいの言葉を口にするだろう?」
「友達は地方の巡業に行っていました――これは一年か二年前のことです。地方の名前はあげないほうがよいと思います。生まれはロンドンからあまり遠くない川沿いの町でした。かりにその名前を――」
彼女は口をつぐんだ。その眉《まゆ》は何という名前にしようかと戸惑った。単なる地名をひねり出すことですら、彼女には重荷のように思われた。ヘンリー卿は助け舟を出した。
「リバーベリーとでもしてみたら?」と彼は真面目な顔をして言った。
「そう、それで結構ですわ。リバーベリー、忘れずにいましょう。さて、お話ししているように、この人物――つまりわたくしの友達――は一座の人達と一緒にリバーベリーにおりました。するとある非常に奇妙なことが起こったのです」
彼女はふたたび眉をひそめた。
「望んだことを」と彼女はくりごとを言うように言った。「ずばりと言うことはほんとにむずかしいことです。人間って、ものごとをごちゃまぜにしてしまうと、真っ先に間違ったことをしゃべってしまうものですわ」
「見事な切り出しですよ」とロイド博士は励ますように言った。「続けて下さい」
「つまり、いま言った奇妙なことが起こったのです。わたくしの友達は警察に出頭するようにと言われました。彼女は出かけて行きました。ある川沿いの別荘に押し込み強盗があって、警察が若い男を逮捕したらしいのです。彼は非常におかしな物語をしゃべりました。その結果警察は彼女を召喚したのです。
彼女はそれまでに一度も警察に行ったことはありませんでした。しかし警察はとても丁寧でした――本当にとても丁寧でした」
「恐らくそうだと思いますね」とヘンリー卿は言った。
「巡査部長さんが――たしか巡査部長さんだったと思いますが――でなかったら警部さんだったかもしれませんが――彼女に椅子をすすめてくれました。そして事情を説明してくれたのです。もちろん、それが何かの間違いだってことはわたくしにはすぐわかりました――」
「そら」とヘンリー卿は思った。「わたくしか! ほれみつけた。こんなことだと思った」
「わたくしの友達はそう言いました」とジェーンは尻尾《しっぽ》を出したことに少しも気づかずに言った。「彼女は、ホテルで代役の俳優と一緒に本読みをやっていたし、それにこのフォークナー氏なる人物のことは聞いたこともないと説明しました。すると巡査部長さんは言いました。『ミス・ヘ――』」
彼女は急に言葉を切ると顔を赤くした。
「ミス・ヘルマンなんでしょう」とヘンリー卿は目をきらりと光らせて助けた。
「ええ――そうです、それで結構ですわ。どうも。巡査部長さんは言いました。『そうですミス・ヘルマン、わたしも間違いにちがいないと思ってました。何しろあなたがブリッジホテルにいらしたことは知っていたんですからね』それから彼は面通《めんとお》しに異議があるかとききました――それとも面通しさせられることに、なのだったかわたくし思い出せませんわ」
「それは全然問題じゃありませんよ」とヘンリー卿は保証するように言った。
「とにかく、その若い男となんです。そこでわたくしは言いました。『もちろん異議はありません』そこで警察では彼をつれてきて言いました。『こちらがミス・ヘリアです』あら――まあ!」とジェーンは口を開いたまま言葉をとめた。
「構いませんよ、あなた」とミス・マープルは慰めるように言った。「わたくしたちは今まで想像にたよらなければならなかったんですからね。それにあなたは、地名だとか実際に重要なことを何も教えてくださらないんですもの」
「実は」とジェーンは言った。「わたくし誰かほかの人に起こったふうに話をしようと思ったのです。でもほんとうにむずかしいことですわね。というのは、人間ってそうするのを忘れてしまうんですもの」
みなは、それがむずかしいことを保証した。慰められ保証されたので、彼女は少しばかり複雑な物語をはじめた。
「彼は愛嬌のある男でした――まったく愛矯のある男でした。若くて赤みがかった髪をした人でした。彼の口元はわたくしを見た瞬間ほころびました。すると部長さんは言いました。『これがご婦人なのかい?』彼は答えました。『いえ、全然ちがいます。俺は何て馬鹿だったんだろう』そこでわたくしは彼の方をみてほほえみながら、構いませんことよ、と言いました」
「その情景が想像できるね」とヘンリー卿は言った。
ジェーンはまゆをしかめた。
「そうね――どう話していったらいいかしら?」
「いったいそれが何だったのかをみんなに話したらどうですか?」とミス・マープルは言った。その言い方があまりにもおだやかだったので、誰も皮肉だとは思わなかった。「つまりその若い男の間違いは何だったかとか、押し込み強盗事件のことだとかね」
「あら、そうね」とジェーンは言った。「その若い男は――レスリー・フォークナーっていう名です――前にある芝居を書いたんです。実際のところ、もう五、六編は書いているでしょう。もっともどれも取り上げられたことはありませんでしたけどね。ところで彼は他でもないその芝居を送ってきて、読んでくれといってきたことがあるんです。わたくしその芝居については何も知りませんでした。というのは手許に送られて来る芝居は何百ってありますし、そのうえ自分ではほとんどそれを読まないものですから――読むのは、何かそれについてわたくしが知っているお芝居だけですわ。とにかく、送られてきたんです。それにフォークナーさんはわたくしから手紙をもらっていたらしいんです――でもすぐそれはわたくしが出したのではないことがわかりました――お解りになりますね――」
彼女が案じ顔に話を途切らせたので、一同は解ったと言った。
「文面はこうだったのです、お芝居を拝読させていただきましたが大へん気に入りました。それについてお話しをしにいらっしゃいませんか、こう書いてありました。行先も書きそえてあったのです――リバーベリーの別荘って。そういうわけでフォークナーさんは有頂天になって喜び、とんできて、その場所――別荘にかけつけました。小間使いがドアを開けると、彼はミス・ヘリアに面会を求めました。小間使いは、ミス・へリアは中で彼を待っていますと告げて応接室に通しました。すると一人の婦人がそこへ出て来ました。彼はもちろん婦人をわたくしだと思い込みました――しかしそれはおかしなことです。というのは、彼はわたしがお芝居に出ているのを見たことがあるはずだし、それにわたくしの写真だってみんな知っているわけですからね」
「それこそ、イギリス中でね」とバントリー夫人は即座に言った。「でも、写真と本人とはずいぶん違っていることがよくありますものジェーン。それにフットライトの向う側にいるときと、舞台にいないときとでは大へんな違いがあるわ。あなたのように犯人の面接試験に合格する人ばっかりとはかぎらないわ、ね」
「そうね」とジェーンは少し落着きをとりもどして言った。「それはそうかもしれないわ。とにかく、彼はその女のことを背が高く色白で、それに大きな青い目をした美しい婦人だと言っていました。それでわたくしは彼女の容貌がひじょうにわたくしに似ていたにちがいないと思いました。彼はそのときたしかに疑ってはいませんでした。彼女は腰を下ろすと、彼の芝居について話しをはじめました。そしてそれをやってみたいと言いました。二人がしゃべっている間に、カクテルが運び込まれ、フォークナー氏は一杯のんだのです。そう――以上が彼の覚えている全部です――カクテルをのんだっていうことだけです。目がさめてみると、というか、意識が戻ったとき、そう何と表現しても結構ですが――彼は道路の上にのびていたんです。もちろん生垣のそばにです。そのおかげで車にひかれる危険は全然ありませんでした。彼は奇妙な、そして不安な気持におそわれました――強くそう感じたので、立ち上がると、どこに行こうとするのかもわからずに道沿いによろよろと歩いて行きました。彼は、もしちゃんと正気でいたのなら、別荘に引き返して、起こった事実を確かめてやろうと思ったと言いました。しかし彼は自分が間抜けでまごまごしているような気がしました。そして何をしようとしているのかもわからずに歩きつづけました。多少なりとも正気に返りかかったとき、警察が彼を逮捕したのです」
「どうして警察は逮捕したのです?」とロイド博士は聞きました。
「あら! 申し上げませんでしたかしら?」とジェーンは目を大きく見開いて言った。「何てわたくしって間抜けなんでしょう。押込みの嫌疑のためにです」
「押し込みだとはおっしゃいましたけど――場所とか品物とか動機についてはおっしゃらなかったわ」とバントリー夫人は言った。
「ところでその別荘なんですが――それはもちろん彼が訪ねた別荘ですけど――わたしのものではありませんでした。ある男の所有でした。その名前は――」
ジェーンはまた眉をひそめた。
「またわたしに名付け親になってもらいたいのですか?」とヘンリー卿は言った。「匿名は無料でつけてあげましょう。持ち主の特徴を言って下さい。名前をつけてあげます」
「それはある金持ちの実業家に買われていました――あるナイト〔爵士〕にです」
「ハーマン・コーエン卿ではどう?」とヘンリー卿は言った。
「大へん結構ですわ。彼はそれをある婦人のために買ったのです――彼女はある俳優の奥さんで、自分でも女優をやっていました」
「俳優さんをクロード・リーゾンという名前にしましょう」とヘンリー卿は言った。「そしてご婦人のほうはたぶん芸名の方で知られているでしょうから、ミス・メアリー・カーと呼ぶことにしましょう」
「全くお上手ですわね」とジェーンは言った。「どうしてこういったことをすらすらとお考えになれるのかしら。さて、おわかりのように、これはいわばハーマン卿と、――たしかハーマン卿とおっしゃいましたね――それにご婦人のための週末の別宅というわけだったのです。もちろん、彼の奥さんはそれについて何も知りませんでした」
「よくあるケースですね」とヘンリー卿は言った。
「そのうえ彼はこの女優商売の女に、非常に高価なエメラルドをも含めて、かなり多くの宝石を与えていました」
「ほう!」とロイド博士は言った。「今や核心に近づきつつあるわけですな」
「この宝石類は宝石箱に入れて鍵をかけたまま別荘に置いてありました。警察では非常に不注意なことだと言っています――誰だって持って行けたんですからね」
「わかるかね、ドリー」とバントリー大佐は言った。「いつもわしはお前に何て言ってる?」
「いえ、わたくしの経験からすると」とバントリー夫人は言った。「ものをなくすのはきまって、恐ろしく用心深い人たちですわ。わたくしは宝石を宝石箱に入れて鍵をかけたりしませんわ――ひきだしの中にばらばらにして入れたり、靴下の中にはさんだりしています。恐らく、もし――何といいましたかしらその女の人の名前?――そうメアリー・カーがわたくしのようにしていたら、盗まれはしなかったと思いますわ」
「やっぱり盗まれたでしょう」とジェーンは言った。「というのは、ひきだしというひきだしは全部こわして開けられ、入っていたものはそこら中に散らばっていたんですから」
「ではほんとうは宝石を探していたのではありませんわ」とバントリー夫人は言った。「秘密の書類かなんかを探していたのですよ。よく本にあるじゃない」
「秘密の書類のことは存じておりません」とジェーンはいぶかしげな顔つきをして言った。「聞いたこともございませんわ」
「とり乱してはいけませんよ、ミス・ヘリア」とバントリー大佐は言った。「ドリーのめちゃくちゃなわき道の話題なんか真面目に考えなくてもいいんですよ」
「押し込み事件の方をどうぞ」とヘンリー卿は言った。
「はい。さてと、ある人物から警察に電話がかかってきたんです。その人はミス・メアリー・カーだと名乗りました。彼女は、別荘が押し込みにやられたと知らせたのです。そして、その朝、別荘を訪れた赤みがかった髪をした若い男の人相をおしえたのです。女中は彼の挙動に何か不審な点があると感じたので中に入ることを拒絶したというのです。しかし後刻、彼女は彼が窓から抜け出るところを目撃したというのです。彼女は男の人相を非常に正確に陳述したので、警察はわずか一時間後に彼を逮捕しました。そのとき、彼は一部始終を話すと、わたくしが差し出し人となっている手紙を見せました。そういうわけで、さっき申し上げたように、警察はわたくしを召喚しました。わたくしをみたとき、彼は、さいぜんお話しした通りのことを言いました――全然わたくしとは別人だ! と」
「全く奇妙な話ですな」とロイド博士は言った。「フォークナー氏はこのミス・カーと面識があったんですか?」
「いえ、ありませんでした――というよりないと申し立てたのです。しかし、一番奇妙な部分を、まだお話ししていませんね。警察はもちろん別荘に行きましたが、すべて陳述のとおりでした――ひきだしはひっぱり出され、宝石は消えうせていました。しかし別荘全体に誰ひとりいなかったのです。数時間後になってはじめてメアリー・カーは戻ってきました。帰ったとき彼女は警察に電話などしたおぼえはないし、そんなことは初耳だと言いました。彼女はその朝、ある支配人から電報を受けとったらしいのですが、それは彼女にある重要な配役を申し入れたもので、またある約束を申し出たものでした。そこで彼女は当然のことですが、その約束を果たすために急いでロンドンに出ていったのです。行ってみると、それが全くの悪戯《いたずら》だったことがわかりました。支配人は電報など打ちはしなかったというのです」
「彼女を邪魔にならないようにしておくなんて、全く月並な手ですな」とヘンリー卿は批評した。「召使いの方はどうなんです?」
「そっちの方にも同じようなことが起こりました。たった一人しかいませんでしたが、彼女も電話をかけられました――明らかにメアリー・カーからですが、あるとても大切なものを置き忘れてきたというんです。彼女は女中に、寝室のひきだしの中に入っているハンドバッグを持ってくるように命じました。一番早い列車でと。女中は、言われた通りのことをやりました。もちろん家に鍵をかけてです。ところが落ち合うために教えられたミス・カーのクラブに行ってみると、待っても無駄だったのです」
「ふむ」とヘンリー卿は言った。「わかって来ましたよ。家が空だったとなると、窓の一つから内部に入りこむことは困難ではない、と思います。しかし、フォークナー氏の立場がどうなるかとなると皆目わかりません。また、もしそれがミス・カーでないとすれば、いったい誰が警察に電話したのでしょう?」
「それは誰にもわからいし、誰も発見さえしていないことです」
「奇妙なことですな」とヘンリー卿は言った。「その若い男というのは自ら名乗った人物に間違いないことは判明したんですか?」
「ええ、わかりました。その件はまったくそのとおりでした。彼は、わたくしによって書かれたと推定されている手紙さえ持っていました。それはわたくしの筆跡には似ても似つかないものでした――しかしそのとき、彼がそれに気がついていたとは思われませんでした」
「では、状況をはっきり説明いたしましょう」とヘンリー卿は言った。「もし間違っていたら訂正して下さい。ご婦人と女中とは家からおびき出されたのです。若い男はにせの手紙でそこにおびきよせられたのです――あなたが現にその週にはリバーベリーで公演なさっていたという事実によって筋書きを仕組んでです。若い男は麻酔剤を盛られ、警察はおとり電話をかけられて嫌疑を彼にむけたのです。実際にはある押し込みが行われたのです。宝石が盗まれたというんですね?」
「ええ、そうです」
「発見されましたか?」
「いえ、全然。実際問題として、ハーマン卿はできるだけものごとを口外しまいとしていたんだと思いますわ。でもそれは不可能だったのです。だから奥さんは離婚訴訟を起こしたんではないかしら。でもわたくし真相は存じません」
「レスリー・フォークナー氏のほうはどうなったんです?」
「結局は釈放されました。警察では十分な証拠がつかめなかったと言っています。事件全体が何か妙だとはおもいません?」
「明らかにおかしいですね。第一の問題は誰の証言を信ずべきかということです、それをお話しするに当たってです。ヘリアさん、あなたはフォークナー氏を信じたい気持でいるようですが、この事件に対するご自身の直観をのぞいて、いったいそう信ずる何か理由がおありなのですか?」
「い、いえ」とジェーンは心ならずも言った。「おそらくありません。でも、あの方はとてもよい方ですし、誰か他の人をわたくしと間違えたことについて大いに詫びていました。だからほんとうのことを陳述したにちがいないと確信しますわ」
「わかりました」とヘンリー卿はほほえみながら言った。「しかし、彼がいとも容易につくり話をこしらえたってこともありうるのをお認め願わなくちゃなりません。あなたからだと称して手紙をかくことだってできるわけですし、押し込み強盗をうまくやりおおせてから自分で麻酔薬をのむことだってありうるわけです。しかしこの問題全部の核心がいったいどこにあるのかわかりません。家に侵入し、仕事をやりとげて、音もなく消えるってことはやさしいことですよ――もしひょっとして誰か近所の人にでも目撃され、自分でそれに気がついたのでもなければね。そうだとなれば彼は急いで嫌疑を他に向け、近くに彼がいたことについての口実をつくる計画を練るでしょう」
「彼は裕福だったのですか?」とミス・マープルは聞いた。
「そうは思いません」とジェーンは言った。「いいえ、むしろ困っていたと思います」
「事件全体が奇妙にみえますな」とロイド博士は言った。「こう言わなくちゃなりませんが、もしわれわれがその若い男の証言を真実だと考えますと、この事件はいよいよ困難なものになってくるようですな。ミス・ヘリアのふりをした未知の女は、なぜこの未知の男を事件にまきこんだのでしょう? なぜ彼女はこんな手のこんだ喜劇をやらなければならないんでしょう?」
「ねえ、ジェーン」とバントリー夫人は言った。「若いフォークナーさんは取調べの際にメアリー・カーと顔をあわせたのでしょうか?」
「全然知りません」とジェーンは、思い出をたぐろうとして眉を八の字にしながらゆっくり言った。
「というわけはね、もし顔をあわせていなかったのなら、事件は解決ですよ」とバントリー夫人は言った。「正真正銘のところぴたりってわけですよ。例えばロンドンに出てくるようにって電話をもらったふりをするほどやさしいことがあって? パディントンか、さもなければどこかたまたま着いた駅から女中さんに電話をかける。そして彼女がロンドンに出むいてくるとき、ロンドンから引き返す。若い男が約束どおり訪問して麻酔薬をのまされる。それからできるだけ誇張して押し込み強盗の現場をつくり上げ警察に電話をし、身代り人の人相書を伝える。そしてまたロンドンに引き返す。やがて遅い汽車で帰宅し、驚いた無実の人のふりをする」
「でもどうして自分の宝石を盗まなければならないんだ、ドリー?」
「そんなことざらですわ」とバントリー夫人は言った。「とにかくその理由はいくつでも考えられるわ。すぐお金が入用だったのかもしれないわ――だって年寄りのハーマン卿は恐らく現金を与えようとはしないんでしょうから、彼女は盗まれたことにして、そっと宝石を売却するんです。こうも考えられますわ。彼女は、ご主人かそれともハーマン卿の奥さんに内報すると言ってきた何者かによって恐喝されたのかもしれません。それとも、彼女は既に宝石を売ってしまっていたのかもしれません。それでハーマン卿は怒りっぽくなって宝石をみせろとしつこく言うものですから、彼女は何か細工しなければならなかったのです。こういったことはよく小説にありますね。それとも、彼は宝石の象嵌《ぞうがん》をし直そうとしていたが、彼女は代わりに模造ガラスの宝石を買っていたのかもしれません。それとも――これは非常に面白い考えだわ、本にもあまりありませんが――彼女は宝石を盗まれたとふれこんで仰山な態度をする。すると彼が新しいのを買ってくれる。一つだったのが二つになるわけです。ああいった女というものは、たしかに、おどろくほど手管がこんでますからね」
「鮮やかね、ドリー」とジェーンは讃嘆して言った。「わたくし、考えてもみませんでしたわ」
「鮮やかにはちがいないが、当ってるとはジェーンは言ってないよ」とバントリー大佐は言った。「ぼくは実業家の紳士のほうに嫌疑をかけたいね。彼は、ご婦人を追い払っておくというああいった種類の電話のことぐらいは心得ているだろうし、そうすれば、別の新しいご婦人の手をかりて残りのことはたやすくやりおおせることもできるからね。まだ誰も彼にアリバイのことを聞こうと考えた者はいないようだね」
「あなたはどうお考えですか、ミス・マープル?」とジェーンは、謎をとこうと眉を八の字によせたまま黙って坐っていた老婦人のほうを振り返りながらきいた。
「そう、実際には何と言うべきかわからないのです。ヘンリー卿はお笑いになるかもしれませんが、今回はわたくしを助けてくれるような村の話が思い当たりませんの。もちろん、手掛りがつかめそうな点はいくつかあります。たとえば、召使いの問題です。あなたが――ゴホン――お話しになったような規律のない家庭では、雇われている召使いというものはおそらく家の事情というものを完全に知っているものです。ですから本当にちゃんとした女の子はそういった職業には就きません――いや、母親が一時《いっとき》たりと行かせはしないでしょう。ですからその召使いはまったく信頼できる性質の女ではなかったと考えることができると思います。ひょっとすると泥棒たちとぐるになっていたのかもしれません。彼らのために家をあけておいて、嫌疑をそらすためににせ電話の言伝てを信じるかのようにして実際にロンドンに出かけることもありうるでしょう。実を言いますと、これが一番考えられそうな解決法のように思われます。ただ、もし普通の泥棒の場合にすぎないのならば、全く奇妙に思われますし、召使いよりももう少し目鼻のきく利口な手合いが蔭にいたような感じですね」
ミス・マープルは一息入れてから、夢みるように続けた。
「わたくしには、こんな感じがしてなりませんの。そこには何かがあった――つまり、事件全体にかかわる何者かの個人的な感情というようなものが、どこかにあったのではないかと思えて仕方がないのです。例えば、何者かが悪意を抱いていたとすると? ハーマン卿がよい待遇をしてやらなかった若い女優さんがいたとしたら? こういったことが万事をより的確に説明するとは思いませんか? 彼をトラブルに巻き込むための周到な計画なのです。このあたりですね。でも――これじゃ全く満足のいくものではありません……」
「ね、博士、あなたはまだ何もおっしゃりませんが」とジェーンは言った。「わたくし、まるで忘れていましたわ」
「わたくしはいつも忘られているよ」としらがまじりの医師は悲しそうに言った。「わたくしは全く目立たない性格だからね」
「いえ、いえ」とジェーンは言った。「お考えになっていることを言って下さいません?」
「わたくしは、どの人の解決にも賛意を表したい感じなのですが――そのくせまったく同意するとも言えないんです。わたくし自身としては、あるこじつけの、恐らくはまったく間違っているかもしれない考えをもっているんです。つまりその奥さんが何かこれに関係があったのかもしれないってことなんです。ハーマン卿の奥さんがですね、そう考える根拠があるわけではありませんが――ただもし皆さんが、異常な――ええ実際まったく異常な行為、つまり不当な扱いを受けた奥さんというものが頭から信じ切って決行しようとするような異常な行為をお知りになれば、きっとびっくりなさるだろうと思います」
「まあ! ロイド博士」とミス・マープルは興奮して言った。「なんて見事なんでしょう。わたくし、今まであの可哀そうなペブマーシュ夫人のこと考えてもみませんでした」
ジェーンは彼女のほうを凝視した。
「ペブマーシュ夫人? いったい誰のことです、ペブマーシュ夫人って?」
「その――」とミス・マープルはためらった。「彼女の場合が役に立つかどうか知りません。洗濯女なんですがね。彼女はブラウスに留めてあったオパールのピンを盗んで、も一人の女の家にかくしたことがあるんです」
ジェーンはますます途方に暮れた。
「それであなたにはこんどの事件がはっきりわかったんですか、ミス・マープル?」とヘンリー卿は瞬きをしながら言った。
ところが、彼が驚いたことには、ミス・マープルは首を横に振った。
「いえ、そうならいいんですが。実を言いますと、わたくし全く五里霧中なんです。わたくしにはっきりわかることと言いますと、それは女性が結束するにちがいないということです――つまり、いざというときには、人間って、同性に味方しますからね。これがミス・ヘリアの話して下さった事件の教訓だと思います」
「この物語の独特な道徳的な意味はわたくしの関心からそれていると申し上げなければなりません」とヘンリー卿は重々しい態度で言った。「ミス・ヘリアが事件の答えを話して下さった後なら、あなたのおっしゃる点の意味がもっとよくわたくしにわかるかもしれません」
「ええ?」とジェーンは少しあわてた顔付だった。
「さいぜんからわたくしは、子供の言葉でいう『降参!』という言葉を考えてたんです。あなたが、いえあなただけが、ミス・マープルも負けたと告白しないわけにはいかないほど全く不可解な謎を披露なさる光栄をおもちなのです」
「皆さん降参なさったんですね?」ジェーンはきいた。
「そうです」ヘンリー卿は、皆がしゃべり出すのを待ってしばらくだまっていたが、もういちど自ら代弁者の役に立った。「つまり浮くも沈むも、今まで試験的に進めてきた、大ざっぱないくつかの解決法いかんによってです。男性軍からは一つ宛て、ミス・マープルからは二つ、まるまる一ダースはB夫人からの解決法です」
「いえ一ダースではありませんでしたわ」とバントリー夫人は言った。「一つの大きなテーマのバリエーションにすぎません。それにわたくしB夫人って呼ばれたくはないことを、何べん申し上げなければなりませんでしょうか?」
「じゃ、みなさんは降参なさったのですね」とジェーンは考えこむように言った。「これは面白いことです」
彼女は椅子に背をもたせて、ややぼんやりした様子で爪をみがきはじめた。
「ところで」とバントリー夫人は言った。「さあ、ジェーン、事件の解決はどうなの?」
「解決?」
「ええ。実際は何が起こったの?」
ジェーンは彼女をみつめた。
「全く見当がつかないんです」
「ええ?」
「ずっとどうなのかしらと考えつづけていたんですの。皆さんはほんとに鋭い方なので、どなたかがわたくしに教えて下さると思っていましたの」
一同は困惑の気持をいだいた。ジェーンが非常な美貌なのは結構なことなんだが――しかし、今という今、誰も愚かしさというものがすぎると思った。最も人間ばなれした愛らしさですらその弁解はできないであろう。
「というと、真実は永久に明るみに出なかったというんですか?」とヘンリー卿は言った。
「ええ。だからこそ、申し上げている通り、皆さんがわたくしに教えて下さることができるだろうと思ったのです」
ジェーンは傷つけられたようにみえた。それじゃ不平なの、と心で思ったのは明らかだった。
「あの――わしは――わしは――」とバントリー大佐は言いかけたが、言葉が出てこなかった。
「あなたは一番しゃくにさわる女の子ね、ジェーン」と彼の妻は言った。「とにかく、わたしは自分の言ったことが正しいと確信していますし、今後だってそうだと思うわ。もし、事件の人物全部の本名を教えて下されば、わたしはまったくそう確信するんですが」
「いえいえ」とミス・マープルが言った。「ミス・ヘリアにはそんなことはできませんよ」
「いえ、もちろんできますとも」とバントリー夫人は言った。「そうお高くとまっててはいけません、ジェーン。わたしたち年寄りは蔭口の一つもしなくちゃね。とにかく、実業家のえら物《ぶつ》はいったい誰だったの?」
しかしジェーンは首を横にふった。ミス・マープルは彼女なりの昔式のやり方で、彼女に加勢した。
「きっと、たいへん苦しい事件だったにちがいありませんわ」と彼女は言った。
「いえ」とジェーンは正直に言った。「わたくしこう思うの――わたくし、むしろ自分では楽しかったって」
「そう、きっとそうでしょう」とミス・マープルは言った。「単調さを破ったわけでしょう。ところで何の出し物に出ていたんですか?」
「『スミス』です」
「そうですか。それはサマセット・モームの作品の一つでしたね? 彼のものはみんなすばらしいと思います。ほとんどみんな見ています」
「この秋巡業に出るために今再演しているんでしょ?」とバントリー夫人はきいた。
ジェーンはうなずいた。
「さて」とミス・マープルは言った。「わたくし帰らなければなりません。まあ何て遅くなってしまったこと! でも大変楽しい晩でした。ほんとにめずらしいことでした。まあミス・ヘリアのお話が一等賞ですね。どう?」
「わたくしのことでお怒りになるなんて残念です」とジェーンは言った。「結末がわからないってことのためにです。わたくし、もっと早くそれを言っておくべきでした」
彼女の口調は打ち沈んでいた。ロイド博士はそのとき堂々と立ち上った。
「お嬢さん、どうしてそんな必要があります? あなたは、わたしたちが頭をひねるには正に恰好の問題を出して下さいました。ただ残念に思うのは、だれ一人もっともな解決をすることができなかったことです」
「ご自分におっしゃい」とバントリー夫人は言った。「わたしが現に解いたじゃありませんか。わたしは正しいと確信しています」
「おわかりでしょうか、わたくし、ほんとにあなたが正しいと信じていますの」とジェーンは言った。「おっしゃったことは全くありそうなことですもの」
「彼女の七つの解決の中のどれを言っているんですか?」とヘンリー卿はからかうように言った。
ロイド博士はいたわるようにしてミス・マープルがオーヴァーシューズをはくのを助けた。その紳士的な態度はこの老婦人が評したように「正にぴたり」だった。博士は古めかしい小別荘まで彼女を送ることになっていた。ウールのショールを何枚も羽織ると、ミス・マープルはもう一度みんなにおやすみを言った。彼女は最後にジェーン・ヘリアのところに行き、前かがみになって女優の耳もとで何か咳《つぶや》いた。びっくりした「まあ!」という声がジェーンの口をついて出た――その声は、みんなを振り返らせるほど大きな声だった。
ミス・マープルは、微笑んでうなずきながら、出て行った。ジェーン・ヘリアはその後ろ姿をじっとみつめていた。
「お寝みになります?」とバントリー夫人はきいた。「どうなさったのです? まるで幽霊でもみているように目を丸くなさって」
ふーっと溜息を一つしてジェーンは我れに返った。そして二人の男性に美しい、魅惑的な微笑を投げかけた。そして女主人の後について二階に上っていった。バントリー夫人は女の子の部屋に一緒に入った。
「火が消えてしまうところだわ」とバントリー夫人は、いい加減に火をかき起こしてみたが駄目だった。
「女中たちは火をちゃんと起こしてなかったんだわ。何て馬鹿な人たちでしょう。でもこんばんはちょっと夜更かしがすぎたわね。まあ、ほんとにもう一時過ぎよ!」
「彼女みたいな人達ってたくさんいると思います?」とジェーン・ヘリアはきいた。彼女は明らかに考えこんだまま、ベッドの横の所に坐っていた。
「召使いのこと?」
「いえ。あの奇妙な年寄りのご婦人――そう何ていう名前でした――マープル?」
「まあ、わたくし、わからないわ。おそらく彼女は小さい村にいる全く月並なタイプの人でしょう」
「ねえ」とジェーンは言った。「わたくし、どうしてよいかわからないの」
彼女は深い溜息をついた。
「どうしたのです?」
「苦しいんです」
「何のことで?」
「ドリー」とジェーン・ヘリアは恐ろしいほど厳粛な様子をした。「あの奇妙なお年寄りのご婦人が今晩戸口を出る前にわたくしにささやいたことが何だかおわかりになる?」
「わかりません。何なんです?」
「こう言ったのです。『もしわたしがあなただったら、そうはしませんよ。たとえそのときはあなたの友達だと思っても、決して他のどんな女性の力にも自分を任せすぎてはいけません』おわかりのように、ドリー、これは恐ろしいほど真実なのです」
「格言なの? そう、きっとそうね。でもどうしてそんなこと言ったのかわからないわ」
「きっとあなたは心から女性を信用することができないのね。けどわたくしはその力にたよりたいの。こんなこと考えてもみませんでしたけど」
「どんな女性のことを話しているの?」
「わたくしの代役のネッタ・グリーンです」
「いったいミス・マープルはその代役について何を知っているの?」
「きっとさぐりを入れただけよ――でもどうやってさぐりを入れたのかわからないわ」
「ジェーン、わるいけど、あなたが考えていることを今すぐ話してくれない?」
「考えてたのは、事件のことなの。お話して差し上げた事件のことなの。ね、ドリー、あの女なんです、おわかりでしょ――クロードをわたしから引き裂いたあの女のこと?」
バントリー夫人は、ジェーンの何度かの不幸な結婚の最初の結婚のこと――俳優のクロード・エイヴァベリーのことをすぐに思い出してうなずいた。
「彼は彼女と結婚したんです。結婚すればその先どうなるか、わたくしは彼に教えようと思えば教えられました。クロードはまだ気がついていませんが、彼女はジョゼフ・サーモン卿とできているんです――週末には、今晩お話しした別荘で一緒に過ごします。わたくしはバレればよいと思いました――誰もが彼女のような女のことを知ってくれればいいと思いました。でおわかりのように、押し込み強盗でもあれば、万事が明るみに出ざるをえないでしょう」
「ジェーン!」とバントリー夫人は喘いだ。「じゃあ、あなたは今までお話しになったこの物語を企らんでいたんですか?」
ジェーンはうなずいた。
「だからわたくし『スミス』を選んだのです。わたしは、ご承知のようにこの芝居では小間使いの身なりをします。そのためすぐそれを使えるでしょ。それで、署まで出頭するように言われたら、わたくしはホテルで代役と一緒に役の稽古をしていたということくらい全く簡単なことですよ。もちろん、実際に別荘へ行こうと決めました。わたくしがドアを開けてカクテルを運び込み、ネッタがわたくしの役をしなければならなかったわけです。フォークナーは二度と彼女に会うわけはありません。ですから身代りが彼女だと気がつく恐れは先ずありません。それにわたくしは部屋付きの召使いに扮して、全く別人のように見せることができます。おまけに誰も部屋付きの召使いなど一人前の人間としては見ませんからね。わたくしたちは彼をあとで道路に引っぱり出し、宝石箱を失敬して警察に電話をかけホテルへ戻ろうと計画しました。わたしは可哀そうな青年を苦しめたくはなかったけれど、ヘンリー卿は、そんなに苦しむことはなかったろうとおっしゃってくれたわ。でも彼女のほうは新聞やら何やらに書きたてられますわ――そうすればクロードはきっと彼女がどんな風な女だったのかわかるでしょう」
バントリー夫人は坐ってうめき声をあげた。
「まあ! わたくし何て馬鹿だったんでしょう! いつも――ジェーン・ヘリア、あなたってウソつきな子ね! あんな風に話をするなんて!」
「わたくし芸のうまい女優ですわ」とジェーンは満足げに言った。「人が何て言おうと、いつもずっとそうでしたわ。一度だって自分ってものを出したことがありませんでしょう?」
「ミス・マープルは正しかったわ」とバントリー夫人はつぶやいた。「独特の才能よ。そう、ほんとうに独特な才能よ。ねえ、ジェーン、あなたにわかるかしら、泥棒は泥棒なの、だからひょっとしたら、あなたも刑務所に入れられたかもしれないのよ?」
「いえ、皆さん誰もそうは想像しなかったでしょ」とジェーンは言った。「ミス・マープルさん以外はね」苦しそうな表情がまた彼女の顔にあらわれた。「ドリー、あなた彼女みたいな女性がたくさんいるとほんとに思ってらっしゃる?」
「率直に言えばそうは思わないわ」とバントリー夫人は言った。
ジェーンはまた溜息をついた。
「でも、こんな危い橋は渡らない方がいいわ。そんなことをすればわたくしはネッタの意のままになってしまうでしょう――これはほんとうです。彼女はわたくしを裏切ったり、恐喝したりするかもしれません。彼女はわたくしが計画の細目をひねり出すのを助けてくれましたし、献身的になると告白もしました。だけど女性のことに関しては誰もわかりはしません。そうです、ミス・マープルが正しかったんだと思います。あんな冒険、わたくしはやらないほうがいいんですわ」
「とおっしゃるけど、ね、実際危険を冒したじゃありませんか」
「いえいえ」とジェーンは青い目を大きく開いた。「おわかりになりません? そんなことまだ何も起こってはいないんです! わたくしは――そうです、いわゆる地方巡りの試演をやろうとしていただけよ」
「あなた方のお芝居の言葉って、正直に言ってわかりません」とバントリー夫人は上品に言った。「おっしゃってる意味はつまり、これからの計画なのであって、すでになされた犯行じゃないってわけ?」
「この秋、実行しようと思ってたのです――この九月に。でも今は何をすべきかわかりません」
「それをミス・マープルが言い当てた――つまり真実を言い当てて、しかもわたしたちには一言も教えてくれなかったわけですね」とバントリー夫人は腹を立てて言った。
「だからこそ彼女は、あんなことを言ったんだと思いますわ――女性が結束するってことについて。彼女は殿方の前でわたくしの気持をすっぱぬこうとはしなかったのです。気持のよい方ですわ。あなたがそれをご存知だったとしても構いません、ドリー」
「ね、そんな企てはおやめなさい、ジェーン。おねがい」
「たぶんやめるわ」とミス・ヘリアはつぶやいた。「またミス・マープルさんのような人に逢うかもしれませんものね」
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アガサ・クリスティ作
訳者 茶飲み相手・別荘事件/川崎淳之助 四人の容疑者/阿部主計 クリスマスの悲劇/桂英二
二〇〇五年二月二十五日