ミス・マープルのご意見は? 1
アガサ・クリスティ/山崎昂一訳
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目次
はじめに
火曜日の夜の集会
女神像の家
金塊紛失事件
血染めの敷石
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はじめに
セント・メアリ・ミード村のミス・マープルの家に、甥の作家、女流画家、元ロンドン警視庁の警視総監、教区の牧師、弁護士の六人が顔をあわせる。そして各自が結末を知っている事件の話を披露して、その話を聞いたそれぞれが解決を提出するという「遊び」をやることになる。この集まりは毎週火曜日におこなわれたので「火曜日の夜会」と名づけられた。
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火曜日の夜の集会
「不可解な謎だ」
レイモンド・ウェストはもうもうと煙をはき出し、わざと意識的に愉しそうな様子で、その言葉をくりかえした。
「不可解な謎だ」
満足げに彼はあたりを見まわすのだった。そこは幅ひろい真黒な梁《はり》が天井をはしっている古い部屋で、専用の上等な古びた家具が備えられていた。だからレイモンド・ウェストは満足そうにながめていたのである。彼の職業は作家で、一点非のうちどころもないという雰囲気が好きであった。ジェーン叔母さんの家はその造作が彼女の個性にぴったりだったから、いつも彼をよろこばせるのであった。彼は炉床のむこう、叔母が大きな安楽椅子にまっすぐ腰をおろしている方へ眼をむけた。ミス・マープルはウェストのあたりをきつくしぼった、にしき織りのドレスを着ていた。メクリン・レースがボディスの前から波形にあしらわれていた。黒いレースの長手袋をつけて、つかねあげられた雪のように白い髪のたばの上には黒いレースの帽子がのっている。何か白い、やわらかい、ふわふわしたものを彼女は編んでいるところだったのだ。優しい、思いやりのありそうな色のうすれた青い眼が、甥と甥の招いた客の方を、静かにたのしそうに眺めわたした。その眼はまず、意識的に陽気な顔をしたレイモンドその人の上にとまり、次に黒い髪を短く刈り上げて、はしばみ色とも緑色ともつかぬ不思議な眼をした画家のジョイス・ラムプリエールの上に、次には一分のすきもない身だしなみの通人、サー・ヘンリー・クリザリングの上にそそがれた。この部屋にはそのほかに二人の人がいた。年輩の教区牧師ペンダー博士と、その上からばかりものを見て、ちゃんとそれを通して見たことのない眼鏡をかけた、乾からびたような小男の弁護士ピザリック氏である。こういう人達すべてを、つかの間注視した後で、優しい微笑を唇のあたりに浮かべながら、ミス・マープルはふたたび編み物にとりかかった。
ピザリック氏は物を言う前にするのが癖の、乾いた小さな咳ばらいをした。
「君の言っていることはどういうことだね、レイモンド? 不可解な謎だって? へえ――でそれがどうしたというのだね?」
「どうってことはないのですよ」とジョイス・ラムプリエールが言った。「レイモンドはその言葉のひびきと、自分がその言葉を口にしているという感じがお気に召しているのだわ」
レイモンド・ウェストはとがめるような視線をちらりと彼女の方におくり、それを見た彼女は頭を後ろにそらせて笑った。
「あの人はペテンにかけるつもりでいるのね、ミス・マープル?」と彼女は問いただした。「おわかりでしょう、きっと」
ミス・マープルは彼女を見て優しくほほえんだが返事はしなかった。
「人生それ自体が、ひとつの不可解な謎ですよ」と牧師はまじめくさって言った。
レイモンドは椅子の上でおきなおってから、衝動的な身ぶりで煙草をほうり投げた。
「わたしが言おうと思っていることは、そういうこととは違います。哲学の話などするつもりじゃなかったのです」と彼は言った。「現実におこったまぎれもない平凡な事実、しかもおこったけれども誰も説明したもののいない事柄について考えていたのです」
「お前が話そうと思っているのと、ちょうど同じことを知っていますよ」とミス・マープルが言った。「たとえば、ミセス・キャラザーズは昨日の朝、奇妙な経験をしたそうです。エリオットのお店で、えりぬきの小エビを二ジル買ったの。それからもう二軒よそのお店へ行って家へかえってみたら、その小エビをもっていないことに気がついたのです。前に行った二軒のお店へもどってみたけれども、その小エビはどこにも見当らなかったそうですよ。今となってみると、ただごとではないような気がします」
「ひどくいかがわしいお話ですな」サー・ヘンリー・クリザリングがまじめくさって言った。
「もちろん、いろいろな説明が考えられますわね」とミス・マープルが言った。その頬は興奮で前よりもいくらかうっすらと赤くなっていた。「たとえば、誰かほかの人が――」
「ねえ叔母さん」どこか面白そうにレイモンド・ウェストが言った。「そういうような市井の出来事のつもりじゃありませんでした。殺人や失踪――サー・ヘンリーがその気になれば何時間でも話してくれることのできるような事について考えていたのです」
「でも自分の職業のはなしはしたくありませんね」サー・ヘンリーが控え目に言った。「困りますね。自分の職業のはなしはきらいです」
最近までサー・ヘンリー・クリザリングはスコットランド・ヤードの警視総監だったのだ。
「警察の力では解決不能の殺人や事件が、たくさんあるようですわ」ジョイス・ラムプリエールが言った。
「それは公認の事実というものでしょうな」ピザリック氏が答えた。
「実際にはどういう種類の頭脳が一番うまく謎を解明することができるのでしょうか? ふつうの警察の捜査係は想像力が不足だという点で、きっとうまくゆかないだろうという気がいつもするのですがね」とレイモンド・ウェスト。
「それはしろうとの考え方ですよ」とサー・ヘンリーがそっけなく言いきった。
「ほんとうに相談役が必要ですわ」ジョイスはそう言ってにっこりした。「心理学と想像力が必要な場合には、どうぞここの作家のお力を――」
彼女はレイモンドにむかって皮肉たっぷりに頭をさげたが、彼は依然として本気であった。
「ものを書くという仕事は人聞性に対する洞察力を与えてくれるのです」と彼はきまじめに言った。「ふつうの人が見おとしている動機が作家にはわかるかもしれませんよ」
「ねえ、お前」とミス・マープルが言った。「たしかにお前の書くものはひどく鮮やかです。でもね、お前が言っているほど実際にそんなにおもしろくないものだと人間を考えているのでしょうか?」
「叔母さん」とレイモンドはおだやかに言った。「あなたが考えていられることは、そのままでいいのです。どんな方法であれ、それをこわすなどということは、わたしは絶対にいたしません」
「わたしが言いたいのはね」編み目を数えながら、ちょっと顔をしかめてミス・マープルは言った。「非常に多くの人は悪でも善でもなくて、ただひどく愚かだということなの」
ピザリック氏はもう一度、例の乾いた小さな咳ばらいをした。
「レイモンド」と彼は言った。「君は想像力にあまり重きをおきすぎていると思わないかね? 想像力というものは、ひどく危険なしろものだ。われわれ法律家は知りすぎるほどよく知っているのだが。証拠物件を公正によりわけ、事実をとり出して、それを事実として見ること――それが真実に到達するただひとつの論理的な方法のような気がする。わたしの経験では、それが成功するただひとつの方法だと言い添えてもいい」
「ばあ!」と怒ったように黒い頭を後ろへのけぞらせてジョイスが叫んだ。「この勝負ではきっとわたしが皆さんをうちまかすことうけあいですわ。わたしは女であるだけじゃなくて――何とおっしゃろうと、男性にはないかんを女は持っていますの――同時に芸術家なのですから。あなた方にはおわかりにならないこともわかります。それにまた、一人の芸術家としてあらゆる種類の人間やあらゆる状態の人間の間をうろつきまわった経験がありますわ。ここにおいでのミス・マープルがたぶん知ることができないような人生を知っています」
「さあどうかしら」とミス・マープルが言った。「ひどくつらい悲しいことが、村の中にもおこることがありますもの」
「はなしてもよろしいでしょうか?」と笑いながらペンダー博士が言った。「牧師を非難するのが現今の風潮であることはよく知っていますが、わたし共はいろいろなことを聞いていますし、外部の世界に対しては封印された書物のように開かれることのない人間の性格の一面を知っているのです」
「なるほどね」とジョイスが言った。「わたし達はかなりよく人間全体を代表している集まりのようですわ。クラブをつくってみたらどんなものでしょう? 今日は何曜日? 火曜日かしら? そのクラブを火曜日の夜会と呼ぶことにしましょうよ。毎週顔をあわせて、会員はひとりずつ順番に問題を提出することにきめましょう。自分が知っていて、もちろんそれに対する答えも知っている何か不思議な事件をもってくるのです。ええと、わたしたち何人かしら? ひとり、ふたり、さんにん、よにん、ごにん。ほんとうは六人あればいいのだけど」
「あなた、わたしを忘れていますよ」と明るく笑いながらミス・マープルが言った。
ジョイスは少しびっくりしたが、すばやくそれをかくした。
「それはすてきですわ、ミス・マープル」と彼女は言った。「あそびたいと思っていらっしゃるとは存じませんでしたの」
「とても面白いだろうと思いますわ」とミス・マープルが言った。「特にこんなに多くの聡明な殿方が出席していらっしゃるのですからね。わたくし自身は聡明じゃないかもしれませんが、近年ずっとセント・メアリ・ミードに住んでいれば誰だって人間性に対する見識は持っていないはずがありません」
「きっと有益なご協力をいただけるでしょう」とサー・ヘンリーが、うやうやしく言った。
「誰から始めましょうか?」とジョイスが聞いた。
「それについては疑問の余地はないと思います」とペンダー博士が言った。「サー・ヘンリーのような著名な人物に、われわれと同席していただくという幸運に恵まれている場合には――」
彼は言葉を中断させたままで、サー・ヘンリーの方にもったいぶって頭をさげた。サー・ヘンリーは一、二分のあいだ黙っていた。ついに彼はため息をついて脚をくみなおしてから話し始めた。
「あなた方がおのぞみのようなものを、わたしが寸分たがわずに選択することはいささかむつかしいように思いますが、偶然そういう条件にぴたりと合っている場合を知っているようです。みなさんも一年前の新聞で、この事件の記事をなにかお読みになったかもしれません。その当時この事件は不可解の謎として捜査を断念されてしまいました。でもたまたま、ごく最近、その解答がわたくしの手に入ったのです。
事実は非常に単純なことです。ほかにもいろいろありましたが、缶詰のエビの夕食を三人の人が食べたのです。その夜おそくなってから三人が三人とも気分が悪くなり、急いで医者がよびにやられました。そのうちの二人は助かりましたが、一人は死んでしまいました」
「ああ」とレイモンドがうなずくように言った。
「申し上げる通り、そのような事実そのものはひどく単純なものでした。死亡はプトマイン中毒によるものと考えられ、そういう趣旨で証明書が発行されて、犠牲者は当然埋葬されてしまったのです。ところが事態はそれで落着しなかったのです」
ミス・マープルはこっくりと頭をうなずかせた。
「うわさがたったのでしょうね」と彼女は言った。「いつでもたつものです」
「さて、わたしはこの小さなドラマの演技者諸君の説明をしなくてはなりません。その夫妻をジョーンズ夫妻、それから妻の茶のみ友だちをミス・クラークと呼ぶことにしましょう。ジョーンズ氏はある製薬会社の出張販売員でした。野卑で、はでなかんじの美男子、年のころは五十くらいでしょうか。妻の方は四十五才くらいの、かなりありふれた女性でした。家政婦で茶のみ友達のミス・クラークは六十才、にこやかで赤味がかった顔色の頑丈で陽気な女でした。だれ一人として大して面白そうな人物じゃない、とも言えるでしょうな。
ところで事の始まりは妙なぐあいにおこったのです。ジョーンズ氏はその前の晩、バーミンガムの小さなセールスマン用ホテルに泊っていました。偶然、吸取紙綴りの中の吸取紙が、その朝新しいものにかえられており、寝室係のメイドはこれ以上整備するものは何もないようだったので、ジョーンズ氏がそこで手紙を書いた直後、吸取紙を鏡にうつしてしらべてたのしんだのです。数日後、ミセス・ジョーンズの死が缶詰のエビをたべた結果と新聞紙上で報道され、寝室係のメイドはそのときになって同僚の使用人たちに、吸取紙の上に自分が判読した言葉を教えてやったのです。その言葉は次のようなものでした――『すべて女房しだい……あの女が死んだら俺は…|…たくさんの《ハンドレッズ・アンド・サウザンズ》……』
ご記憶かもしれませんが、そのころ妻が夫に毒殺されたという事件がありました。その事件がこれらのメイド達の想像力をかきたてるのに、大した手間はかからなかったという訳です。ジョーンズ氏は自分の妻を殺して何十万ポンドにもなる財産を相続しようとたくらんだのだ! と。たまたまメイド達の中の一人が、ジョーンズ夫妻のいた市場のひらかれる小さな町に住む親戚をもっていました。彼女はその親戚に手紙をやり、親戚から返事をもらいました。ジョーンズ氏はその地方の医者の娘で三十三才になる美人の若い女性に、ずっとご執心だったようです。悪いうわさがひろがりました。内務大臣には請願書が出されるし、ジョーンズ氏が自分の妻を殺害したと告発している無数の匿名の手紙が、スコットランド・ヤードに舞いこんできました。あてにならない田舎の人のかげ口かうわさ――わたし達はその中にそれ以外のなにか真実があろうなどと考えたことは一度もなかったと今では言ってもかまいますまい。けれども、世論をしずめるために、死体発掘の命令が出されたのです。その事件は確実な根拠の全然ない世間のとり沙汰がつきまとっている場合のひとつでした。ところがそれは意外にも正しいということがわかったのです。解剖の結果、死んだ婦人は砒素中毒でなくなったのだということを明白にするに充分な量の砒素が検出されたのです。どのようにして、そして誰によって、その砒素が飲まされたかを実証するのが、その地方の官憲と共に活動していたスコットランド・ヤードに与えられた仕事だったのです」
「まあ!」とジョイスが言った。「面白いお話ですわ。ほんものね」
「疑いは当然のことながら、夫にかかりました。彼は妻の死によって得をしたからです。ホテルの寝室係のメイドがロマンチックな空想をした何十万ポンドという額ではなくて、手がたいところ八〇〇〇ポンドという程度でしたけれども。自分の稼いだ金は別として、彼は自分の金は何ももっていませんでした。そして女性とのつきあいにだけ特別に、かなりお金を使う癖のある男でした。ジョーンズ氏が医者の娘に想いをよせていたといううわさを、わたし達はできるだけ細心に調査しました。ところが、二人の間には一時つよい友情関係があったことは明らかなように思われるのに、二カ月前に突然絶交してしまったのです。そしてそれ以来、お互いに会っている様子は見えませんでした。その医者という人は、率直で疑わしいところの少しもないタイプの年輩の人でしたが、解剖の結果をみてすっかり驚いてしまいました。彼は真夜中ごろに招かれて、三人が三人とも苦しんでいるところを見つけた人でした。一目でミセス・ジョーンズが重態であると見てとり、苦痛をやわらげてやるためアヘンの丸薬をとりに人を医局へもどしたのでした。だがいろいろと手をつくしたにもかかわらず、彼女はなくなりましたけれども、何か手落ちがあったなどとは一瞬たりとも疑ってみたことはありませんでした。彼女が死んだのは一種の腸詰中毒によるものだと彼は信じていました。その晩の夕食は、缶詰のエビにサラダ、トライフル菓子〔ワインに浸したスポンジケーキ〕にパンとチーズだったのです。運の悪いことに、そのときのエビはひとかけらも残っていませんでした。――全部たべてしまって空きかんは捨ててしまったのです。彼はグラディス・リンチという若い女中に問いただしてみました。彼女はひどくおろおろして、涙を流したり、うろたえたりしてしまいましたので、要領を得た返事をさせることは無理だと彼は悟りました。でも彼女は、くりかえし、くりかえし、その缶詰は全然膨脹していなかったこと、なかのエビは完全に正常な状態だったように思われたことを、断言したのです。
わたし達が手がかりにしなければならなかった事実は以上のようなものです。もしもジョーンズが、残酷にも自分の妻に砒素を飲ませたとするならば、夕食のときにたべた食物の中へはどこへも毒物をいれることはできなかったということは明瞭なようです。三人が三人とも同じ食物を一緒に食べたのですからね。また――もうひとつの重要な点になりますが――ジョーンズ自身、夕食がテーブルに運ばれているときに、バーミンガムから帰ってきたのです。ですから、前もって何かの食物の中に一服盛ろうと思っても、そういう機会は全然なかったでしょう」
「お茶のみ相手の家政婦はどうなのです?」とジョイスが聞いた。――「陽気な顔をしたあの頑丈な女は」
サー・ヘンリーは、うなずいた。
「わたし達はミス・クラークを見落していたわけじゃありません。保証いたします。でもこの犯罪に対して、彼女がどういう動機をいったい持つことができたか疑問に思われたのです。ミセス・ジョーンズは彼女に、遺産などは一切残していませんでしたし、自分を使ってくれる人が死んだ場合の損得をさしひきして考えると、別な勤め口を見つけなければならないという結果にしかならないのです」
「そういう理由だと、彼女は関係がなさそうね」とジョイスが考えこみながら言った。
「ところが部下の一人の警部が、まもなく重大な事実を発見したのです」サー・ヘンリーは話しをつづけた。「その晩夕食の後で、ジョーンズ氏は台所までやってきて、気分が悪いとうったえていた妻に飲ませるのだからと、一杯のコンスターチをつくるように言ったのです。グラディス・リンチがそれを用意するまで、彼は台所で待っていて、できあがると妻の部屋まで自分で持っていったのですよ。それでこの事件には決着がついたようなものだと思いますな」
法律家はうなずいた。
「動機はわかった」指先をとんとんたたき合わせながら、彼は言った。「機会もあった。製薬会社の出張販売員だったのだから、毒薬に近づくことも簡単にできる」
「それに道義心の弱い人間だった」と牧師が言った。
レイモンド・ウェストは、サー・ヘンリーをじっとみつめていた。
「この話には、どこかにわながあるね」と彼が言った。「なぜ彼を逮捕しなかったの?」
サー・ヘンリーはいくぶんにが笑いをした。
「それがこの事件の具合の悪いところなのだ。ここまでは万事とんとん拍子にはこんだのだが、それから思わぬ故障にぶつかったのさ。ミス・クラークを問いただしてみると、容器に入っていたコンスターチは全部、ミセス・ジョーンズじゃなくて、彼女が飲んでしまったというものだから、ジョーンズを逮捕しなかったのだ。
さよう、彼女はミセス・ジョーンズの部屋に行ったようです――それが彼女の習慣だったのですが。ミセス・ジョーンズはベッドに起き上っていて、容器に入ったコンスターチがそのそばに置いてありました。
『すこしばかり、気分がよくないのよ、ミリー』と彼女は言いました。『夜エビをたべたものだから、罰があたったのだわ。コンスターチを一杯もってきてってアルバートにたのんだの。でも、もらってみると、どうも欲しくないような気がするわ』
『もったいない』とミス・クラークが言ったのです。――『それにまた、塊りもなくてよくできていますよ。グラディスはほんとに料理が上手だわ。この頃の若い娘でコンスターチ一杯満足につくれるのはめつたにいないようですよ。わたし、それを自分でいただきたいわ、ひどくおなかが空いているのですもの』
『例のばかげた方法を実行したのでしょうね』とミセス・ジョーンズが言いました。
ことわっておかなくちゃなりませんが」サー・ヘンリーが突然言葉をきった。「ミス・クラークは、だんだんふとってゆくのにびっくりして、世間でバンティング式として知られている一連のやせる方法〔脂肪・糖分を抑えておこなう減量法〕を実行中だったのです。
『ミリー。それは身体のためによくないわ。ほんとによくないわよ』ミセス・ジョーンズは言い張るのでした。『もしも神様があなたをふとらせたのだとしたら、神様はあなたにふとってもらいたいというおつもりなのよ。その容器のコンスターチを全部飲んでしまうといいわ。何よりも身体のためになるでしょう』
それですぐさまミス・クラークは食べ始め、実際にその容器のものを全部たいらげてしまったのさ。だからね、夫に不利なわれわれの訴訟事実は、それで徹底的に潰滅してしまったのだ。吸取紙の上にうつった文字の説明をもとめられると、ジョーンズは実にあっさりと説明をつけたものだ。その説明によると、その手紙はオーストラリアに住んでいて、彼に金の無心をしてきた弟からの手紙の返事に書いたものということだった。自分は完全に妻の援助にすがっている――万事女房次第の身の上であることを手紙で指摘したのだ。妻が死ねば金が自由になるだろう。そしてできる場合には、弟の援助もしよう。残念ながら援助はできかねるが、この世の中には同じような不幸な境遇の人達が、|何十万人も《ハンドレッズ・アンド・サウザンズ》いるのだ、と」
「それでその訴訟事実も瓦解したのですか?」
「それでその訴訟事実も瓦解してしまいましたよ」とサー・ヘンリーが重々しく言った。「何も手がかりをもたないでジョーンズを逮捕するという危険を、おかすことはできなかったのです」沈黙がながれた。それからジョイスがきいた。
「それで全部なのですね?」
「それが昨年じゅうつづいたような状況です。ほんとうの解決は現在、スコットランド・ヤードの手ににぎられています。二三日たったら、たぶん新聞でその記事をよまれるでしょう」
「ほんとの解決ですって」ジョイスが考えこみながら言った。「不思議ねえ。みんなで五分間考えて、それから話すことにしましょうよ」
レイモンド・ウェストはうなずいて、自分の時計で時間をはかった。五分たつとペンダー博士の方をみた。
「最初にお話になりますか?」と彼はたずねた。
老人は首をふった。「白状しますが」彼は言った。「全く見当がつきませんな。ある点では、その夫が罪をおかした当人だと考えないわけにはゆかないのだが、どういう方法でやったのか、見当もつきません。まだ発見されていない何かの方法で、夫が妻に毒薬をのませたにちがいないと言うことができるだけです。もっともその場合には、こんなに時がたってしまった後ではどういう風にそれが解明されるべきか見当もつかないのですけれども」
「ジョイスは?」
「その茶のみ友達の家政婦ですよ!」と断定的な口ぶりでジョイスが言った。「絶対にその家政婦だわ! 彼女はどんな動機をもっていたかもしれないじゃありませんか? 年をとって、ふとっていて、美しくなかったからといって、そのまま彼女が自分でジョーンズに惚れていなかったということにはならないわ。何か別な理由でその妻を憎んでいたかもしれませんよ。家政婦でいるという状態を考えてごらんなさい。――いつでも愉快にしてご気嫌をとり、息をころして自分を抑圧していなくちゃならない、ということですわ。たまたま、もうそれに我慢ができなくなって、それで彼女を殺したのですわ。たぶん、彼女は砒素をコンスターチの容器の中へ入れたのでしょう。だから、それを自分でたべたという話は全部うそなのですよ」
「ピザリックさんは?」
法津家はいかにも専門家らしく、両手の指先をくみあわせた。「わたしは意見をのべるのをさしひかえたい。そういう事実について意見をのべるのを、さしひかえたい」
「でも意見を言わなくちゃいけませんわ、ピザリックさん」ジョイスが言った。「判決を保留して『人権侵害をさけて』などと言ったり、合法的な態度をとったりというわけにはゆきませんわ。正々堂々と勝負をなさらなくてはいけません」
「その事実については」ピザリック氏が言った。「とりたてて言うべきことは何もないようです。残念ながら、こういう種類の事件をあまりにも沢山みてきましたので、夫が罪をおかしたのだ、というのがわたしの個人的な見解です。その事実全部にわたるただ一つの説明は、ミス・クラークが何かの理由で彼をかくまったのでしょうな。二人の間には、なにか金銭的なとりひきがあったかもしれません。彼は自分が嫌疑をかけられていると自覚していたのでしょう。それで彼女は、これから先、貧しい生活があるばかりと知っていたので、相当な額の金を支払ってもらうかわりに、コンスターチを飲んだという話をする約束をしたのかもしれません。もしそれが実情だとすれば、もちろんそれは不法なことです。実際ひどく不法なことですよ」
「わたしは、どなたの意見にも賛成しませんね」レイモンドが言った。「この事件の中のひとつの大切なファクターを忘れていられます。医者の娘ですよ。この事件に関するわたしの解釈を説明しましょう。缶詰のエビはくさっていたのです。中毒症状をおこした理由はそれでわかります。医者がよびにやられた。医者は他の人よりも沢山エビをたべたミセス・ジョーンズが、ひどく苦しんでいるのを見てとって、あなたが話されたように、数個のアヘンの丸薬をとりにやる。彼は自分でとりにゆくのではなくて、とりにやるのです。使いの者にアヘンの丸薬をわたすのは誰か? 医者の娘にきまっていますよ。たぶん娘が父のために薬を調剤するのでしょう。彼女はジョーンズに惚れていたので、その瞬間にこの娘の性質の中の、もっとも悪しき本能がすべて頭をもたげる。そして彼を自由にしてやる手段は、自分の手中にあると自覚するのです。彼女が渡してやる丸薬には、純粋な白い砒素がふくまれている。それがわたしの解答です」
「じゃ、サー・ヘンリー、教えて下さいな」ジョイスが熱心に言った。
「ちょっと待って下さい」サー・ヘンリーが言った。「ミス・マープルがまだ話していられませんよ」
ミス・マープルは悲しげに首をふった。
「おやおや」と彼女は言った。「次の編み目を落してしまったわ。お話がとても面白かったものですからね。ひどく悲しい事件ですよ。山の上に住んでいたハーグレーヴズのおじいさんのことを思い出します。一緒に暮らして五人も子供をうませた一人の女に、お金を全部残して死んでしまうまで、あの人の奥さんは露ほどの疑いも持っていなかったのです。その女は前に、その家の女中をしていました。とってもいい娘ですよ、毎日――もちろん金曜はだめですけれども――マットレスの裏をかえしてくれるものとあてにしていていいくらい、とミセス・ハーグレーヴズはいつも言ったものでした。ところがハーグレーヴズのおじいさんは、近くの町の一軒の家にこの女をかこって、相もかわらず教区委員をやって、日曜ごとに献金ざらをまわしつづけていたのですからね」
「ねえジェーン叔母さん」いくらかじれったそうに、レイモンドが言った。「亡くなったハーグレーヴズさんが、この事件にどんな関係があるのですか?」
「このお話をきいて、わたしはすぐにあの人のことを思い出したのですよ」ミス・マープルが言った。「いろいろな事実がひどくにかよってはいませんか? 気の毒な娘が今では自白してしまったのでしょう、そういうわけで、サー・ヘンリー、あなたが事の次第を知っていられるのでしょうね」
「どの娘がです?」レイモンドが言った。「ねえ叔母さん、あなたは何の話をしていらっしゃるのですか?」
「グラディス・リンチという、あの気の毒な娘ですよ、もちろん。――あの医者が話しかけたときに、ひどくおろおろした人ですよ。――かわいそうに、そうなるのも無理はありませんね。その気の毒な娘に、きっと人殺しをさせてしまったのでしょうから、悪者のジョーンズは絞首刑になるほうがいいと思います。気の毒に、その娘もまた絞首刑になるでしょうね」
「ミス・マープル、あなたは少しばかり思いちがいをなさっていられるようですな」ピザリック氏が口をひらいた。
だがミス・マープルは頑《かたく》なに首をふって、サー・へンリーの方を見た。
「当っていやしませんか? 疑問の余地はないように思えるのです。|あられ砂糖《ハンドレッズ・アンド・サウザンズ》――それにトライフル菓子――その関係がわからないはずはないという意味ですの」
「トライフル菓子と|数十万のお金《ハンドレッズ・アンド・サウザンズ》がどうだというのです?」レイモンドが叫んだ。
叔母は彼の方に顔をむけた。
「料理をする人は、ほとんどいつでもトライフル菓子の上に、|あられ砂糖《ハンドレッズ・アンド・サウザンズ》をかけるものですよ」彼女が言った。「あの小さい、ピンクと白のまじった砂糖のつぶのことです。もちろん、あの人達が夕食にトライフル菓子をたべたということと、その夫が誰かに|あられ砂糖《ハンドレッズ・アンド・サウザンズ》のことについて手紙を書いていたということを聞いたときに、二つのことがひとりでに一緒に結びついてしまったのです。それに砒素が入っていたのですよ、|あられ砂糖《ハンドレッズ・アンド・サウザンズ》の中に。彼はそれを、その娘のところにあずけておいて、トライフル菓子の上にかけるように言いつけたのですわ」
「でもそれは不可能なことです」ジョイスが早口に言った。「みんなでトライフル菓子をたべたのですもの」
「ああ、それはちがいます」ミス・マープルが言った。「憶えているでしょう。その家政婦はバンティング式やせ方をやっていたのですよ。あなたがバンティング式やせ方を実行しているなら、トライフル菓子のようなものは、一切口にしないでしょう。ジョーンズは自分がとったトライフル菓子から、|あられ砂糖《ハンドレッズ・アンド・サウザンズ》をかきとって、お皿の横に残しておいたのでしょうね。りこうな思いつきですけれども、ひどく不らちなものです」
他の人達の眼は、みなサー・ヘンリーの上にとまって動かなかった。
「まったく妙なことですが」おもむろに彼は言った。「ミス・マープルが、偶然本当のことを言いあてられました。俗に言うように、ジョーンズはグラディス・リンチに妊娠させてしまったのです。彼女はほとんど自暴自棄になってしまいました。彼は自分の妻を邪魔にならぬように亡きものにしたいと思い、妻が死んだらグラディスと結婚すると約束したのです。彼は|あられ砂糖《ハンドレッズ・アンド・サウザンズ》に毒薬を混ぜ、その使い方を指示して彼女に与えました。グラディス・リンチは一週間前に死にました。子供はお産のときに死んだので、ジョーンズは別な女をつくって彼女をすてたのです。臨終のときに、彼女は真相を自白しました」
ちょっとの間、皆だまっていた。それからレイモンドが口をひらいた。
「いや、ジェーン叔母さん。これは叔母さんむきのお話でしたね。一体どうやって、うまく真相を言いあてることができたのか、想像もできません。台所の小娘がこの事件に関係があるなどと、わたしだったら絶対に思いつかなかったでしょうね」
「そんなことはありませんよ」ミス・マープルが言った。「でもあなたはわたしが知っているほども世の中を知りませんね。あのジョーンズのようなタイプの――野卑で陽気な男。家の中にきれいな若い娘がいると聞いたとたん、彼はその娘をそっとしてはおかないだろうと確信したのです。まったく悲惨なことです。話しいい話題でもありませんね。そのことで、ミセス・ハーグレーヴズが実際にうけたショックと、しばらくのあいだ村中にひろまったうわさは、とても話すことはできません」
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女神像の家
「さあ、ペンダー博士、何を話して下さるおつもりですか?」
老牧師はやさしくほほえんだ。
「わたしは静かなところでばかり暮らしてきました」彼は言った。「波乱の多い出来事などは、ほとんどわたしの方へはやってこなかったのです。でもむかし、若かったころに、一度ひどく不思議で、いたましい経験をしました」
「まあ!」ジョイス・ラムプリエールが、はげますように言った。
「わたしはそれを忘れたことがありません」牧師はつづけた。「そのとき、その経験はわたしに深い印象をあたえました。今日にいたるまで思い出そうとほんの少し努力するだけで、一見、人間力とは全くちがう力によって一人の男が死ぬほどうちのめされている様子を見たおそろしい瞬間の畏怖の念を、くりかえし感ずることができるのです」
「ぞくぞくさせるじゃないか、ペンダー」サー・ヘンリーがぼやいた。
「あなたがおっしゃるのと同じように、わたしもぞくぞくしているのです」相手は答えた。「それ以来、雰囲気という言葉を使う人々を笑えなくなりました。たしかにそういったものが存在しています。ある場所には、その威力を人に感じとらせることができるような、良い力、あるいは邪悪な力が、深くしみこんでいるのです」
「ラーチさんのところのあの家は、ひどく縁起のわるい家なのですよ」ミス・マープルが言った。「スミザーズのおじいさんは、お金をみんななくしてしまって、家を立ちのかなくちゃならなくなったのです。それからカースレイクさんのところで、その家を借りたところが、ジョニー・カイスレイクが二階から落ちて脚を折るし、ミセス・カースレイクは保養にフランスの南部へ行ってしまわなければならなくなってしまいました。そして今度はバーゲンさんの一家が手に入れたのですけれども、気の毒にバーゲンさんは、入る早々手術しなくちゃならないそうですよ」
「そういう事柄には、かなり多すぎるくらいの迷信がつきまとっていると思いますね」ピザリック氏が言った。「不注意にまき散らされる馬鹿げたうわさで、大変な損害が財産にあたえられているのです」
「ひどく乱暴な個性をもっていた幽霊を、一人か二人知っていますよ」サー・ヘンリーがくすくす笑いながら言った。
「わたしの考えでは」レイモンドが言った。「ペンダー博士に話をつづけてもらうべきじゃないでしょうか」
ジョイスは立ちあがって二つの電灯のスイッチを切り、ゆらめく炉の火の光で、部屋がわずかにてらされるようにした。
「雰囲気がでましたよ」彼女は言った。「さあ、まいりましょう」
ペンダー博士は彼女に、にっこりとほほえんでから、椅子にもたれかかって鼻眼鏡をとり、静かに感慨ぶかそうな声で、話を始めた。
「みなさんの中でどなたか、ダートムアを知っている方が、いられるかどうかは全然わかりません。わたしが今お話しようと思っている場所は、ダートムアの境界の地方にあるのです。数年間、買い手がつかないまま売り物に出されていたのですが、そこは大変美しい地所でした。その場所は冬にはたぶん、少しばかり荒涼とした感じになるのでしょうが、ながめは素晴らしいものでした。そしてその地所そのものに、ある奇妙で風がわりな特徴があったのです。ヘイドンという人が――サー・リチャード・ヘイドンです――その地所を買いました。わたしは彼が大学にいたころ知り合いだったのです。数年の間、彼の消息は不明でしたが、古い友情の絆《きずな》がまだつづいていました。だから『沈黙の森』へゆかないかという彼の招待に、わたしは喜んで応じたのです。彼が新しく買った土地は、そういう名でよばれていました。
その家の滞在客は、大して多くありませんでした。リチャード・ヘイドン自身に、従兄のエリオット・ヘイドンがいました。ヴァイオレットという蒼白い、あまり目立たない娘をつれた、レイディ・マナリングという身分の高い婦人がいました。キャプテン・ロジャースという人とその人の妻もいましたが、これは馬にばかり乗っている、陽やけした赫《あか》ら顔の人達で、馬と狩りのためにだけ生きているという風でした。若い医師のサイモンズ氏という人もいましたし、ミス・ダイアナ・アシュレイもいました。最後に名をあげた人のことは、わたしはいくらか知っていました。彼女の写真は、しばしば社交新聞にのりましたし、社交シーズンの名うての美人連の中の一人だったのです。彼女の容姿は実際、目もさめるようなものでした。髪は黒くて背がすらりと高く、うすいクリームがかった、なめらかな色合いの美しい肌をしているのです。そして、つりあがったように顔にななめについている半ば閉じられたような黒い目が、奇妙にきりりとした東洋風な感じを、彼女に与えているのでした。話す声がまた、すばらしいもので、ふかい調子の鈴のような声でした。
友人のリチャード・ヘイドンは、彼女にすっかり心をうばわれていると、ひと目でわかりました。そして招かれた客の全部は、彼女を招くための道具立てとしてそろえられたにすぎないのだと察しをつけました。彼女自身の気持は、わたしにはそれほどはっきりしませんでした。好意の示し方が、ひどく気まぐれだったのです。今日はリチャードに話しかけて、他の人には一顧も与えないかと思うと、次の日には彼の従兄のエリオットをちやほやして、リチャードという人間がいることなど気がつかないような顔をする。するとその次にはまた、もの静かで内気な医師のサイモンズ氏に、魂もとろかすような微笑をあたえるという風なのです。
わたしが着いた次の朝に、主人役の友人がその場所をくまなく案内してくれました。そこの家そのものは、ごくありきたりのもので、デヴォンシャー産の花崗岩でつくられた頑丈ないい家でした。長い年月、雨風にさらされてもびくともせぬようなつくりでした。ロマンチックではないけれども、ひどく住み心地のよい家というわけです。その家の窓から、パノラマのようにつづくこの地方の荒地を、風雨にさらされた岩山をいただいてはてしなく起伏する丘陵の景観を、一望におさめることができました。
わたし達に一番近い岩山の斜面には、遠い昔、新石器時代の遺物である、いろいろな環状列石がありました。別な丘陵には、古墳があって、それは少し前に発掘され、いくつかの青銅器が発見されていたのです。ヘイドンは考古的な事物に、これから興味をもとうとしていたところなので、大変な勢いで夢中になって、わたし達に話しかけてくるのでした。彼の説明によれば、この地域に限って特に過去の遺物が多い、ということでした。
新石器時代に小屋に居住していた人達、古代ドルイド僧、古代ローマ人達、更には初期のフェニキア人達の跡さえ、見出されたのです。
『でもこの場所はその中でも一番面白いところなのだ』と彼は言いました。『その名前は知っているはずだがね――沈黙の森だ。それで、その名が何に由来するかは、ひどくかんたんにわかるよ』
彼は自分の手で指さしました。この土地のその部分にかぎって、大地は全くむき出しで、――岩やヒースやワラビがあるばかりでしたが、家から百ヤードばかりのところに、ぎっしりと植えられた木立がありました。
『あれはひどく古い時代の遺物なのさ』とヘイドンが言いました。『あの木立は枯れたり、また植えなおされたりしてきたのだ。だが全体としては、昔――たぶんフェニキア人が移住した時代にそうであったように、非常に多くのものが保存されてきている。見にゆきましょう』
わたし達はみな、彼のあとについてゆきました。その木立の中にわたし達が入りますと、奇妙に重苦しい感じが、わたくしにのしかかってきました。それが沈黙だったと思います。そのあたりの木に、巣をかけている鳥などは一羽もいないようでした。ものさびしくもまた恐ろしげな感じが、そのあたりに立ちこめているのです。妙な笑いを浮かべてヘイドンが、わたしの方を見るのが眼につきました。
『この場所はどんな感じがする、ペンダー?』彼はわたしにたずねました。『敵意を感ずるかね、おい? でなければ不安な気持かな?』
『いやな気がするね』わたしは静かに答えました。
『お説ごもっともだ。この場所は、君の信仰に敵対した多くの古代の宗教の一つが、根城にした所だったのさ。これはアスターティの森なのだ』
『アスターティだって?』
『アスターティともいうし、イシュターとも、アシュトレスともいう。何とでも呼びたいように言うがいいのさ。ぼくは、アスターティというフェニキア名が好きだ。アスターティの森として知られている森が――山の壁の北にあるとぼくは思う。証拠は何もない。だがここが正真正銘のアスターティの森だと信じたいのだ。ここ、この生え茂った、まるい木立の中で、聖なる儀式がとりおこなわれたのだ』
『聖なる儀式ですって』ダイアナ・アシュレイがつぶやきました。その眼は、夢見るように、はるかな眼つきでした。『どんなものだったんでしょうね?』
『だれから聞いても、けして評判のよい儀式じゃありませんね』キャプテン・ロジャースが、大きな意味のない笑い声をたてながら、言いました。『相当猛烈なしろものだったのでしょうな』
ヘイドンは、彼のことは少しも気にとめませんでした。
『森の中央には、神殿があるわけなのだ』と彼は言うのです。『神殿のことまで、うんぬんすることはできないが、ぼくは自分勝手なささやかな空想にふけってきたのさ』
その瞬間、木立の中央にある小さな空地に、わたし達は足を踏みいれたのです。その真中には、石でつくられた、あずまやににかよったものがありました。ダイアナ・アシュレイは、物問いたげにヘイドンの方を見ました。
『ぼくはそれを偶像の家と呼んでいるのだ』彼は言いました。『アスターティの偶像の家なんだよ』
彼は先に立って、そこまで案内しました。内部には、荒けずりのままの黒たんの台座の上に、三日月形の角をはやした女を象《かたど》った、奇妙な小さな像が、ライオンの上に腰をおろして、休んでいたのです。
『フェニキア人達のアスターティだ』ヘイドンが言いました。『月の女神ですよ』
『月の女神ですって』ダイアナが叫びました。『そうだわ、わたし達今夜は、むちゃくちゃの底ぬけ騒ぎをやりましょうよ。仮装がいいわ。月の光をあびてこの場所へやってきて、アスターティの儀式を挙げるのです』
わたしは突然身動きしました。すると、リチャードの従兄のエリオット・ヘイドンがすばやくわたしの方に顔をむけたのです。
『こういうことは、おきらいでしょうね、神父さん?』彼は言いました。
『ええ』わたしは、重々しく答えたのです。『きらいです』
彼は妙な眼つきで、わたしをながめました。『でもほんの馬鹿げた真似でしかないのです。ここが、本当に聖なる森だなどと、ディック(リチャード・ヘイドンのこと)は知っているはずがありまぜん。ただ彼の空想ですよ。思いつきをもてあそぶのが好きですからね。そして、いずれにしても、もしそれが――』
『――もしそれが?』
『いや――』彼はぐあい悪そうに笑いました。『あなたは、ああいうようなものは信じていらっしゃらないのですね? あなたは、牧師ですからね』
『牧師だから、信ずべきではない、とは思っていません』
『でも、ああいうような事は、みな終ってしまって、結末のついていることじゃありませんか』
『そうは思いません』わたしは、ものおもいにふけりながら言いました。『こういうことだけは知っています。わたしは概して、雰囲気に敏感な人間ではないのですが、ここの木の茂みの中に入ってきてからずっと、奇妙な感じや、不吉な脅迫感が、わたしのまわりに立ちこめているのを感じつづけているのです』
彼は不安げに、自分の肩ごしに眼をはしらせました。
『そうですね』彼は言った。『なんだかどうも変ですね。おっしゃることはわかります。でも、そんな気をおこさせているのは、ただわたし達の想像力なのじゃないでしょうか。どう思う、サイモンズ?』
その医師は返事をするまえ一、二分ほど黙っていました。それから静かにこう言ったのです。
『いやな気がするね。なぜだかわからない。でもとにかく、いやな気がするよ』
その瞬間、ヴァイオレット・マナリングが、わたしの方へやってきました。
『この場所はひどくきらいですの』彼女は叫びました。『ここから出ましょうよ』
わたし達はそこを離れました。ほかの人々も、わたし達の後についてきました。ただ、ダイアナ・アシュレイだけが、後までぐずぐずしていました。肩ごしにふりむいたとき、彼女が偶像の家の前に立って、熱心に中の像をのぞいている姿が見えました。
その日はめずらしく暑くて、よく晴れた日でした。そしてその晩、仮装パーティをしようというダイアナ・アシュレイの提案は、おおかたの賛成によって、うけいれられたのです。いつものような笑い声や、ひそひそ話があって、それから気ちがいじみた内緒の針仕事がはじまりました。わたし達がみな夕食に出るための支度をととのえたときには、いつものような陽気な叫び声があがりました。ロジャースとその妻は、新石器時代の小屋の居住者になりました――それで炉の前の敷物が突然なくなってしまったのです。リチャード・ヘイドンは自分をフェニキアの水夫だと言い、その従兄は山賊の頭《かしら》になりました。医師のサイモンズはコック長になりました。レイディ・マナリングは病院の看護婦で、その娘はサルカシアの奴隷でした。わたし自身は僧侶になって、いささか暖かすぎるくらい服を着こんで飾りたてました。ダイアナ・アシュレイは一番後からおりてきましたが、ぶかっこうな黒い仮装服に身をつつんでいましたので、わたし達みんなにとっては、いささか期待はずれだったのです。
『未知なるもの』うきうきと彼女は宣言しました。『それがわたしの名前ですの。さあ、お願いですから、夕食にまいりましょう』
夕食の後で戸外に出ました。暖かくて、さわやかで、美しい夜でした。そして月がのぼりかけていたのです。
わたし達はそぞろ歩きをしたり、おしゃべりをしたりして、時間はひどく早くたってしまいました。ダイアナ・アシュレイがわたし達のところにいない、と気がついたときは、一時間も後になってからだったにちがいありません。
『たしかに寝室へは行かなかった』とリチャード・ヘイドンが言いました。
ヴァイオレット・マナリングが首をふりました。
『ええ、ちがいますわ』彼女が言いました。『十五分ほど前にあの方が、あっちの方にいっておしまいになるのを見ましたの』彼女は話しながら、月の光を浴びて、黒々と影のように見える例の木立のほうを指さしたのです。
『あの人は何をしているのだろう』リチャード・ヘイドンが言いました。『なにか悪ふざけだよ、きっと。行ってみよう』
わたし達はミス・アシュレイが何をしていたのか、いささか知りたくなって、一緒に出かけました。でもわたしだけは、あの暗い、不吉な予感のする木立の地帯に入るのは、奇妙に気がすすまなかったのです。自分よりも、もっと強い何ものかが、わたしをひきとめ、入ってはいけないと、わたしを説得しているような気がしました。あの場所は本質的に不吉なところだ、と今までにもましてはっきりと確信しました。他の人達の中にも、わたしと同じ感じを持った人もあると思うのです。それを認めるのを、いやがったでしょうけれども。木立は月の光もとおさないほど、ぎっしりと植えられてありました。わたし達のまわりには、ささやく声や嘆息をつく声など、いくつものやわらかな物音がしていました。極端にうす気味の悪い感じがしましたので、みんなは言い合わせたように、ぴったりと寄りそいました。
急に木立の真中の、からりとひらけた場所に出て、わたし達は驚きのあまり、その場に根が生えたように立ちすくんでしまったのです。というのは、むこうの偶像の家の戸口のところに、透明な紗《しゃ》をきっちりと身体にまきつけ、二本の三日月形の角を黒い髪のたばから生やした、きらきら光る姿が、つっ立っていたからでした。
『大変だ!』リチャード・ヘイドンが言いました。その額から、汗がふき出しました。
でもヴァイオレット・マナリングはもっと聡明でした。
『まあ、ダイアナじゃありませんか』と彼女は叫びました。『どうやったのでしょう? あらまあ、何だか別人のようですわ!』
戸口の人影は手をさしあげました。一歩前へふみ出てから、高く美しい声で聖歌を歌いました。
『わたしは、アスターティのみこなのです』低い声で彼女はつぶやきました。『あまり近よらないように、気をつけなさい。なぜなら、わたしは手に、死をもっているのです』
『およしなさいよ、ねえ』レイディ・マナリングが抗議しました。『あなたのおかげで、わたし達はぞっとしているのです。ほんとですよ』
ヘイドンは彼女の方へとび出しました。
『おお、ダイアナだ』と彼は叫びました。『君はすばらしい』
わたしの眼はそのころ、月の光になれてきましたので、今までよりもっとはっきりと、ものが見えるようになりました。彼女は実際、ヴァイオレットが言ったように、全く別人のようでした。その顔はこれまでよりもずっと東洋風で、その眼は今までにもまして、なにか残忍なものをその光のなかにたたえている長い裂け目のようでした。そして唇のあたりにただよっている奇妙な微笑は、わたしがこれまでその唇のあたりに見たことのないものでした。
『気をおつけなさい』警告するように彼女は叫びました。『女神に近づいてはなりません。だれかわたしに触れる人があれば、それは死です』
『すてきだよ、ダイアナ』ヘイドンは叫びました。『でも、どうかやめてくれないか。なんだかぼくは――ぼくはいやな気がするのだ』
彼が草地をとおって、彼女の方へゆきかけますと、彼女は彼の方へ手をふりおろしました。
『おやめなさい』彼女は叫びました。『もう一歩近よると、アスターティの魔法であなたを打ちますよ』
リチャード・ヘィドンは笑って足を早めました。そのとき突然、奇妙なことがおこったのです。彼は一瞬たじろいでから、よろめいて、まっさかさまに倒れたようでした。
彼は二度とおきあがらないで、地面にうつぶせに倒れた場所で横たわっていました。
ダイアナは急にヒステリックに笑い始めました。林間の空地の静寂をやぶる、奇妙なおそろしいものおとでした。
怒りの言葉をつぶやきながら、エリオットが前へとび出しました。
『こんなことにはがまんができない』と彼は叫びました。『おきろよ、ディック、おきろよ、おい』
でもまだ、リチャード・ヘイドンは、倒れた場所に横たわっていました。エリオット・ヘイドンは彼のそばに近づき、ひざまずいて、静かに彼を仰向かせました。彼はその上にかがみこんで、顔をのぞきこみました。
それから急に立ちあがって、少しのあいだ前後にゆらゆらゆれながら立っていました。
『お医者さん』と彼は叫びました。『お医者さん、お願いですから来て下さい。ぼくは――ぼくは彼が死んでいると思います』
サイモンズは前へかけ出してゆき、エリオットはひどくゆっくり歩きながら、わたし達のところへもどりました。彼はわたしには理解しかねるような眺め方で、自分の手を見おろしていました。
その瞬間に、ダイアナから、とてつもない悲鳴があがったのです。
『あの人を殺してしまったわ』彼女は絶叫しました。『おお、どうしよう! そんなつもりじゃなかったのに、殺してしまった』
そして彼女は、しわくちゃなかたまりのようになって草の上に倒れ、完全に気を失ってしまいました。
ミセス・ロジャースが悲鳴をあげました。
『おお、この恐ろしい場所から逃げましょうよ』彼女は泣き叫びました。『ここではどんなことが起こるかわからないわ。おお、おそろしい!』
エリオットがわたしの肩をつかまえました。
『そんなはずはないよ、君』彼はつぶやきました。『そんなはずはないよ、ね。人間があんな風にして、殺されるわけがない。それは――それは自然に反する』
わたしは彼をなだめようとつとめました。
『なにかの説明はできるよ』わたしは言いました。『君の従兄は、思いもかけず、どこか心臓がわるかったに違いない。ショックと興奮で――』
彼はわたしをさえぎりました。
『君にはわかっていないのだ』と彼は言いました。彼はわたしが見れるように、両手をさし上げました。そしてわたしは、その手の上に赤い血痕をみとめたのです。
『ディックはショックで死んだんじゃない。刺されたのですよ、心臓まで突き刺されたのです。しかも武器などどこにもない』
わたしは疑わしげに彼をみつめました。そのときサイモンズが、死体の検査を終えて立ちあがり、わたし達の方へやってきました。彼は蒼白になって、全身がたがたふるえていました。
『ぼくらはみんな気が変になっているのだろうか?』彼は言いました。『この場所は何だろう――こんなことが、ここで起こりうるなんて?』
『じゃ、本当なのだね』わたしは言いました。
彼はうなずいたのです。
『傷は、長くて細い短剣でつくられるような傷だ。だが――あそこには短剣など一本もないのですよ』
わたし達はみんな、お互いに顔を見合わせました。
『でも、あそこにあるにちがいないよ』エリオット・ヘイドンが叫びました。『ぬけおちたのにちがいない。きっと、どこか地面の上にあるさ。さがしてみよう』
わたし達は地面をさがしまわりましたが無駄でした。ヴァイオレット・マナリングが急に言いました。
『ダイアナが手に何かを持っていましたわ。短剣のようなものでしたよ。わたしは見たのです。彼女が彼をおどかしたとき、それがきらきら光るのがみえたのです』
エリオット・ヘイドンが首をふりました。
『彼は彼女のところから、三ヤード内にすら近づいていなかったのですよ』
レイディ・マナリングは、地面に倒れているダイアナの上にかがみこんでいました。
『手の中には今は何もありませんよ』と彼女が知らせました。『それから、地面にも何も見あたりませんわ。たしかにお前は見たのだね、ヴァイオレット? わたしは見ませんでしたよ』
医師のサイモンズ氏が、ダイアナのところへやってきました。
『この人を家へつれてゆかなくちゃ』彼は言いました。『ロジャース、手をかしていただけますか?』
わたし達で協力して、意識のないダイアナを家まではこびこんだのです。それから引きかえして、サー・リチャードの死体をはこびこみました」
ぺンダー博士は、詫びるように、突然言葉をきって、あたりを見まわした。「最近ではみなさんがもっといろいろな知識をもっています」彼は言った。「探偵小説が流行していますからな。死体は発見された場所に、そのままにしておかなくてはいけないということは、町の鼻たれ小僧でさえ知っています。しかしその当時は、現在と同じような知識をわたし達は持たなかったのです。したがって、リチャード・ヘイドンの死体を、あの四角い花崗岩の家の寝室にはこびこんでしまったのです。執事が自転車に乗って――十二マイルも乗ってゆかねばならないところです――警官をさがしに、さしむけられました。
エリオット、ヘイドンが、わたしを少し離れたところへひっぱっていったのは、その時でした。
『ねえ』と彼は言うのです。『ぼくはあの木立へもどってみようと思う。武器をさがさなくちゃならない』
『もし武器があったとしたらね』わたしは疑わしげに言いました。
彼はわたしの腕をつかんで、はげしくゆさぶりました。『君は例の迷信的なつまらない考えをおこしている。彼の死は超自然的なもののせいだと、君は考えているのだね。よろしい、ぼくはたしかめるために、あの森へもどる』
わたしは彼のそうした行為に、奇妙なほどいや気がさしました。思い切らせようとできるだけのことはしましたが、何の効果もありませんでした。あのぎっしり生え茂った、まるい木立のことを考えただけでも、背筋がつめたくなりました。そしてこれ以上もっと不吉なことがおきそうな、強い予感がするのでした。しかしエリオットは、まったく頑固だったのです。思うに彼自身とても、おびえてはいたのですが、それを認めようとはしませんでした。この不思議な事件の根底までつきとめようという決意を全身にみなぎらせて、彼は出かけて行ったのです。
ひどくおそろしい夜でした。誰ひとり眠ることもできず、眠ろうと考えることもできませんでした。警官は到着すると、あからさまに、事件全部を本当にはしませんでした。彼らはミス・アシュレイをきびしく追及したいという強い要求を表明しましたけれども、医師のサイモンズの意向を考慮にいれないわけにはゆきませんでした。というのは、彼はその考えには、激しく反対したのです。ミス・アシュレイは失神状態から回復しましたが、彼は強い睡眠剤を彼女に与えました。彼女は絶対にその翌《あく》る日まではそっとしておかねばなりませんでした。
朝の七時ごろになってはじめて、だれかがエリオット・ヘイドンのことを思い出しました。それから急にサイモンズが、彼はどこにいるかとたずねました。わたしはエリオットのしたことを説明しました。するとサイモンズのきびしい顔が、心もち、前よりもっときびしくなりました。『ゆかなければよかったのに。それは――それは無鉄砲なことだ』彼は言いました。
『何かわざわいが彼の身におこったにちがいないとは思いませんか?』
『おこっていなければいいが。神父さん、あなたとわたしで、見にゆく方がいいと思います』
彼の言うことはもっともだとはわかっていましたが、その仕事をするための元気を出すには、ありったけの勇気をふりしぼらねばなりませんでした。わたし達は一緒に出発して、もう一度あの縁起の悪い木立の中へ入りました。わたし達は二度彼を呼びましたが、返事がありません。一、二分してから、例の空地へ入りました。そこはまだ早い朝の光の中で、ほの白くうすぼんやりとみえました。サイモンズがわたしの腕をぐいと掴《つか》み、わたしはおしころしたような叫び声をあげました。昨夜、月の光の中でわたし達がこの空地を見たときには、一人の人間の死体が草地にうつぶせになって、横たわっていました。今、まだ早い朝の光の中で、同じ光景がわたし達の眼にうつったのです。エリオット・ヘイドンは、彼の従兄が横たわっていた、まさにその場所に横たわっていたのでした。
『しまった!』とサイモンズが言いました。『彼もやられた!』
わたし達は一緒に草地を走りました。エリオット・ヘイドンは意識はありませんでしたが、かすかに息はありました。そして今度は、何がこの悲劇の原因となったかについては、疑問がありませんでした。長くて細い青銅の武器が、傷の中に残っていたのです。
『心臓じゃなくて、肩をやられたのだ。運がよかったのさ』と医師が言いました。『うそいつわりのないところ、どう考えるべきかわたしにはわからない。とにかく彼は死んではいないのだから、何が起こったのか、話してくれるだろう』
でもそのことこそ、エリオット・ヘイドンがなし得ないことだったのです。彼の説明は極端に漠然としたものでした。彼は短剣を探しまわったが無駄でした。それでついに探索を断念して、偶像の家の近くに立ちどまっていました。木の茂みのあたりから彼をじっと見つめているものがある、とだんだん確信するようになったのはそのときでした。こういう感じを打ち消そうとして彼はたたかいましたが、それをふり払うことはできませんでした。冷たい妙な風が吹き始めたのだと彼は言いました。その風は木立からではなくて、偶像の家の内部から吹いてくるような気がしたのです。ふりむいて、その中をのぞきました。小さな女神の姿がみえました。そして幻覚にかかったような気がしました。女神の姿はだんだんと大きくなりました。それから突然こめかみの間に、なぐられたような感じのするものを何かうけて、彼はよろよろと後ろへさがったのです。そして倒れながら左の肩に、鋭い焼けるような痛みを意識しました。
その短剣は今度は、丘の上の古墳から発掘されて、リチャード・ヘイドンが買ったものに相違ないと鑑定されたのです。彼はそれをどこにしまっておいたのか、家の中だったのか、それともあの森の偶像の家の中だったのか、知っているものは誰もいないようでした。
警察は彼がミス・アシュレイによって刺殺されたのだという意見でしたし、また常にそういう意見になるでしょう。しかし彼女は彼から三ヤード以内にいたことはなかったという、わたし達が合同で出した証拠のために、彼女に対する嫌疑を確認することはできませんでした。それでこの事件は不可解な事件となってしまい、今もってそうなのです」
沈黙があった。
「何も言うことはなさそうです」ついにジョイス・ラムプリエールが言った。「まったくひどくおそろしくて――薄気味わるいお話です。ご自分では何も説明はおもちじゃないのですか、ぺンダー博士?」
老人はうなずいた。「もっています」と彼は答えた。「説明はもっています。――つまり、説明のようなものなのです。かなり奇妙なものなのですが――でもそれはまだ、わたしの心に説明できかねる、ある部分を残しているのです」
「わたしは降神術の会にいったことがありますの」ジョイスが言った。「そして何とおっしゃろうとけっこうですが、ひどく不思議なことが起こりうるのです。この件はある種の催眠術ということで、説明できるのではないでしょうか。その少女は実際にアスターティのみこになったのです。そしてどうにかして、彼女は彼を刺殺したのにちがいないと思いますの。たぶんミス・マナリングが、彼女の手の中に見た短剣を投げつけたのでしょう」
「でなければ投げ槍だったかもしれない」とレイモンド・ウェストが言い出した。「結局のところ、月光というものは大して強くないものだ。彼女は槍のようなものを手に持っていて、遠くから彼を刺したのだろう。それから、集団的な催眠状態ということも考慮に値いすると思う。つまりですね、あなた方は、彼が超自然的な力でうちたおされるのを見る覚悟をしていた。だからそれが、そのように見えた、ということです」
「わたしはミュージック・ホールで、武器やナイフによって、いろいろすばらしい芸当がなされるのを見た経験があります」サー・へンリーが言った。「一人の男が木立のあたりにかくされていて、もちろんそれは、玄人《くろうと》だということに同意するが――そこから充分正確に、ナイフか短剣を投げようと思えば投げることもできた、ということはあり得ると思う。それはかなり無理なこじつけに思えることは認めますが、唯一の実際に可能な説のような気がしますね。もう一人の人がはっきりと、誰かが木立の中から彼をみつめているという感じをうけていたのをご記憶でしょう。ミス・アシュレイが手に短剣をもっていたとミス・マナリングが言って、持っていなかったと他の人達が言ったことについては、わたしは驚きません。もしみなさんがわたしのような経験をお持ちならば、同じ事柄を五人の人が説明した場合には、とても信じられないほど、てんでばらばらにちがっているものだ、と承知なさるでしょう」
ピザリック氏は咳ばらいをした。
「しかしそういう理論だと、ひとつの本質的な事実を見落しているように思いますね」と彼は言った。「武器はどうなったのです? ミス・アシュレイは、現に空地の真中につったっていたのだから、投げ槍をぬきとることはできなかったでしょう。もしもかくれていた人殺しが短剣を投げたとするならば、それなら短剣は、その男を仰向けにしたときに傷の中にまだ残っていたはずです。こじつけの理論はみなすてて、冷厳な事実に直面しなくてはならないと思いますな」
「それで冷厳な事実は、わたし達をどこへつれていってくれるのです?」
「いや、ひとつのことは非常に明瞭だと思えるのです。彼がうちたおされたときには、誰もその人の近くにいなかった。だから刺そうとして刺すことができた、ただ一人の人間は、彼自身だったのです。自殺ですよ、実際は」
「しかし、一体なぜ彼は自殺したいなどと思うのだろう?」疑わしげにレイモンド・ウェストはきいた。
法律家はもう一度咳ばらいをした。「ああ、それは理論の問題のむしかえしだ」彼は言った。「今のところ、わたしはいろいろな理論には関心がないのです。超自然的なものをのぞいて――もっともそんなものは、わたしは少しも信じてはいないのですがね――それが、そういう事態のおこり得た唯一のおこり方であるような気がします。彼はわれとわが身を突き刺したのですよ。そして倒れたときに、彼の腕はとび出して、傷口から短剣をもぎとり、むこうの木立のあたりへそれを投げとばしてしまったのです。なんだか、ありそうもないことだけれども、可能なできごとであると思います」
「言いたくはないと思うのですが」ミス・マープルが言った。「実際、そのお話をきいて、ひどく途方にくれるばかりですの。でも奇妙なことというものは、実際おこるものなのです。去年、レイディ・シャープレイの園遊会で、時計式ゴルフの準備をしていた男が、その文字盤の一つにつまずいたのです。――意識がまったくなくなってしまって、五分ほど生きかえりませんでした」
「なるほどね、叔母さん」レイモンドがやさしく言った。「でもその人は突き刺されなかったのでしょう?」
「もちろん、突き刺されはしませんよ」ミス・マープルが言った。「それはわたしがこれから言おうと思っていることです。もちろん気の毒なサー・リチャードを突き刺すことのできた方法は一つしかないのですが、先ず第一に、何が原因で彼がつまずいたかわかっていればいいのにと思うのです。もちろん木の根だったかもしれません。彼は無論、ダイアナばかりをみつづけていたのでしょう。そして月あかりのある夜は、誰でも物につまずくものなのですから」
「サー・リチャードを突き刺すことができるには、ただ一つの方法しかない、とおっしゃるのですね、ミス・マープル」彼女を奇妙な眼でみつめながら、牧師は言った。
「それはひどく悲しいことなので、そのことを考えたくはないのです。その方は、右利きの方でしたね? 自分の左の肩を突き刺すためには、その人は右利きだったにちがいないということなのです。わたしは、大戦のときのかわいそうなジャック・ベインズを、いつもひどく気の毒に思っていました。憶えていらっしゃるでしょうが、アラスでの激戦の後で、彼は自分の足を射ったのでした。わたしが病院へ見舞いに行ったとき、彼はわたしにそのことを話してくれ、そして、ひどくそれを恥じていました。この気の毒なエリオット・ヘイドンも、自分のよこしまな犯罪によって、大して得はしなかったでしょうにね」
「エリオット・ヘイドンが――彼がやったと考えていらっしゃるのですね?」レイモンドが叫んだ。
「それ以外の誰が、どんな方法でやることができたか、わたしにはわからないのです」やさしく驚いて、眼をみひらきながら、ミス・マープルは言った。「ピザリックさんが賢明にも言われているように、異教の女神というような雰囲気を――そんなもの、すてきだとは少しも思いませんが――すべて無視して事実を直視してみるならばという意味です。エリオットが最初にリチャードのところへゆき、彼を仰向けにさせたのです。そしてもちろんそのときには、自分の背をみんなにむけねばならなかったでしょう。そして山賊の頭《かしら》の服装をしていたのですから、きっとベルトの中に、ある種の武器をもっていたにちがいありません。わたしが若い娘だったころ、山賊の頭目の服装をした人と踊ったおぼえがあります。その人は五種類のナイフと短剣をもっていました。それが相手の娘にとっては、どれほどやっかいで不愉快なものであったか、お話もできません」
すべての眼はペンダー博士の方にむけられた。
「わたしは真相を知りました」彼は言った。「その悲劇がおきてから、五年後です。それは、エリオット・ヘイドンがわたしに宛て、書いた手紙の形できたのです。わたしがいつでも彼を疑っているような気がしている、と手紙の中で彼は書いていました。それは突然の誘惑だったと言うのです。彼もまたダイアナ・アシュレイを愛していましたが、貧しい四苦八苦の法廷弁護士にしかすぎませんでした。リチャードをころしてしまって、その称号と財産を相続するならば、すばらしい将来の見通しが自分の前に開けていると彼は思ったのです。彼が従兄のそばにひざまずいたとき、短剣がベルトからぐいと突き出たのでした。考える暇もないうちに、彼はそれを突き刺して、またベルトにもどしたのです。彼は嫌疑をそらすために、後で自分の身体を突いたのでした。彼はその手紙によれば、二度と帰ってこない場合にそなえて、南極探検に出発する夜、わたしに手紙を書いたのです。彼にもどってくるつもりがあるとは思いません。そして、ミス・マープルが言われたように、罪を犯しても何も得たものはなかった、ということも知っています。『五年間』と彼は書いていました。『ぼくは地獄で暮らしつづけました。せめて、名誉ある死に方をすることによって、自分の犯した罪をあがなうことができればいい、と願っています』」
話がとぎれた。
「そして彼は名誉ある死に方をしました」サー・ヘンリーが言った。「話のなかでは、君は本名を話さなかったね、ペンダー博士。だが君の言う人が誰かわたしはわかるように思う」
「わたしが言ったように」老牧師はつづけた。「その説明が、事実をまったくおおいつくしているとは思わない。あの森の中には、邪悪な力が、エリオット・ヘイドンの行為を指示した力がひそんでいると、いまだに考えています。現在でさえ、アスターティの偶像の家のことを考えるたびに、身ぶるいが出るのです」
[#改ページ]
金塊紛失事件
「わたしがこれからしようと思っている話が、はたして規則にかなったものであるかは疑わしいのです」レイモンド・ウェストが言った。
「なぜならその解答を提供することができません。でも事実そのものは非常に面白く不思議なものなので、一つの問題としてあなた方に提出してみたいと思うのです。そうすればたぶん、わたし達の間でなにかの論理的な結論に到達することができるかもしれません。これから話す出来事の起こった時日は、二年前、ニューマンという人と聖霊降臨節の次の三日間を、コーンウォールで過ごすために出むいた折のことでした」
「コーンウォールですって?」ジョイス・ラムプリエールがするどく問いかえした。
「そうですよ。なぜ?」
「何でもありません。ただ変だと思っただけですの。わたしの話も、コーンウォールのある場所についてなのですわ。――ラトホールという小さな漁村なのですけれども。あなたの話も同じだなどとおっしゃらないで下さいね」
「いや、ちがいます。わたしの村はポルパランというのです。コーンウォールの西海岸にあって、ひどく荒れ果てた岩だらけの場所です。そのときより数週間前に人の紹介でそのニューマンという男を知り、ひどく面白い話し相手だとわかりました。頭がよくて、遊んで暮らしてゆけるだけの資産家だったその男は、ロマンチックな想像力の持主でした。ごく最近の道楽が高じて、彼は「ポール館」を借り受けていたのです。彼はエリザベス時代の権威でしたので、スペインの無敵艦隊が大敗を喫して逃走するありさまを、生き生きと眼《ま》のあたりに見るような言葉で、わたしに説明してくれました。あまり熱が入っているので、彼は実際にその光景の目撃者だったのだ、と想像することもできるくらいでした。霊魂再来説には何かがあるのじゃないでしょうか? 不思議です――ほんとに不思議だと思います」
「あなたはひどくロマンチックですね、レイモンド」やさしく彼の方を見て、ミス・マープルが言った。
「現在のわたしがロマンチックだなんて、とんでもないことです」ちょっと閉口気味に、レイモンド・ウェストが言った。
「でもこのニューマンという奴には、そいつががっしりつまっていたのです。そういうわけで、過去の奇妙な生き残りとして、彼はわたしの好奇心をひきました。無敵艦隊に所属していて、カリブ海沿岸地方から莫大な金塊をつみこんだことが知られている一隻のある船が、コーンウォールの海岸の沖合で、あの有名で危険きわまりない蛇岩《サーペント・ロック》に、のりあげて難破したことがあったらしいのです。ここ数年の間、その船をひきあげて、財宝を手に入れようという試みがなされている、彼はそう語ってくれました。伝説の宝船の数は、本当の船の数を大幅に上まわっていますけれども、そういう話はめずらしいものじゃないとわたしは思います。そのために会社がつくられましたが、破産しました。そしてニューマンはその物件の――でなければ何と呼んでいただいても結構ですが――権利を二束三支で買いとることができたのでした。彼はその仕事全部に、だんだんとひどく熱をいれるようになりました。彼の説によれば、それは単に新式の科学的な、最尖端の機械を使うか使わないかの問題にしかすぎないのだそうです。黄金はそこにあるのです。だからそれを引き揚げることができるということは全然疑っていませんでした。
彼の話をきいていたとき、物事はしょっちゅうそんな風に起こるものだ、ということがふと頭に浮かびました。ニューマンのような金持の男は、ほとんど努力もしないで成功してしまう。しかも彼の掘り出し物の、金銭上の実際的な価値などは、たぶん彼にとってはなんの意味もないのでしょう。彼の情熱はわたしにも感染してしまったと言わなくてはなりません。わたしはガリオン船が海岸伝いに吹き流され、嵐をうけて飛ぶように走り、そして黒い岩にのしあげて打ち砕かれるさまを思いうかべたのでした。ガリオン船という言葉だけでも、ロマンチックなひびきを持っているのです。『スペインの黄金』という言葉は、中学生をわくわくさせるのですが――大人の血もまた沸き立たせずにはおきません。更にわたしはそのとき、小説をひとつ書いていて、そのいくつかの場面を十六世紀に設定していたのですが、その「ポール館」のあるじから、またと得がたい地方色を摂取することができるだろうという、見込みもたちました。わたしはその金曜の朝に、元気いっぱい、旅行にたのしい期待をよせながらパディントン駅をはなれたのです。客車は一人の男が乗っているほかは、からっぽでした。そしてその男は反対の隅に、わたしと向き合って腰をおろしていました。背の高い軍人のような風貌《ふうぼう》の人でした。ところがわたしは、前にどこかでその人に会ったことがあるという印象をぬぐい去ることができなかったのです。しばらく考えこんだのですが徒労でした。でもとうとう思いつくことができたのです。わたしの同行者はバッジワース警部でした。エヴァスン失踪事件について、つづきものの記事をわたしが書いていたときに、彼にばったり出会ったことがあるのです。
わたしは彼の注意を喚起して、わたしのことを思い出させました。それからすぐに、非常に愉快に話しつづけました。ポルパランにゆくつもりだと彼に話しますと、それは奇妙な偶然の一致だ、わたしもまたそこへゆくところだから、と彼が言ったのです。詮索《せんさく》好きだと思われるのはいやでした。ですから何の用でそこへゆくのか彼にきかないように気をつけました。そのかわりに、わたしは自分がその場所に興味をもっていることを話し、難破したスペインのガリオン船の話をしました。驚いたことに、警部はその話はみな知っているようでした。『それはフアン・フェルナンデス号のことでしょう』と彼は言いました。『その船から金塊を引き揚げようとして、無益な投資をしたのは、あなたのお友達が最初ではないでしょう。ロマンチックな考えですよ』
『それではその話全部はたぶん伝説なのでしょうね』わたしは言いました。『これまでそこで難破した船など一隻もなかったのじゃないですか』
『いやいや、その船はまさしくそこで沈んでいるのです』警部が言いました――『沢山のほかの船もろともですよ。どれほど多くの難破船がその海岸のあの区域にあるか、知ったらびっくりなさるでしょう。実のところ、わたしが今あそこまでゆく用件はそれなのです。あそこは六カ月前にオトラント号が難破した場所なのです』
『その記事を読んだおぼえがありますね』わたしは言いました。『人命は失なわれなかったかと思いますが?』
『人命は失なわれませんでした』警部が言いました。『でもほかのある物がなくなったのです。一般には知られていないことですが、オトラント号は金塊をつんでいたのです』
『それで?』大いに興味をもって、わたしは言いました。
『もちろん引き揚げ作業のときに潜水夫に仕事をさせたのですが、金塊はなくなっていたのですよ、ウェストさん』
『なくなっていた!』わたしは彼に眼をすえたまま言いました。『一体どうしてなくなってしまったのです?』
『それが問題です』と警部が言いました。『岩礁が船の金庫部屋を破って、ぱっくりと穴をあけたのです。潜水夫がそこから中に入ることは容易でしたが、その金庫部屋がからっぽなことがわかりました。問題はその金塊が難船する前に盗まれたのか、それとも難船した後で盗まれたのか、ということです。一体、その金塊は金庫の中にずっとあったのでしょうか?』
『不思議な事件のようですね』わたしは言いました。
『金塊というものがどんなものか考えてごらんになると、ひどく不思議な事件なのです。ポケットの中へ突っこもうと思えばつっこめる、ダイヤモンドのネックレスじゃありません。どんなに重くて扱いづらく、どんなに大きなものか考えてごらんになったら――いや、何から何まで絶対に不可能に思われるのです。船が出帆する前なら、何かちょろまかす手段もあったかもしれません。でもそうでない場合には、ここ六週間のうちに盗まれたにちがいないのです。――それで事情を調査しにゆくところなのですよ』
ニューマンがわたしを迎えようと駅で待っている姿を見かけました。彼は自分の車を持ってきていなくて申し訳ないとわびるのでした。というのは、車はいくつかの必要な修理をするために、トルロに行っていたからです。そのかわりに、その地所に付属している農場用のトラックで出迎えてくれたのです。
「わたしは勢いよく彼の側にとび乗り、漁村の狭い町並みを注意深く、うねりくねって進んでゆきました。五分の一の傾斜度くらいある急な坂をのぼりつめ、曲りくねった小道を少しばかり走り、それから『ポール館』のみかげ石の柱のある門の中に入りました。
そこは非常に美しいところでした。断崖の上の高いところにあって、すばらしい眺望が海の方にひらけていました。その家の一部は三、四百年ばかりたっていましたが、現代風なそでが、つけたされていました。家の背後には、七、八エーカーばかりの耕地がつづいていました。
『ようこそ、ポール館にいらっしゃいました』ニューマンが言いました。『あの金のガリオン船も歓迎しています』そう言って彼は正面のドアのむこう、帆を全部はった一艘のスペインのガリオン船の完全な模写がかかっている方を指さしたのです。
第一日の夜は非常にたのしくて、有益なものでした。主人はフアン・フェルナンデス号に関係のある古い写本を見せてくれました。彼はわたしのために海図をひろげ、その上に点線で場所を示してくれ、それから潜水装置のプランを示しました。そのプランが完全にわたしを煙《けむ》にまいてしまったと言ってもいいでしょう。
わたしはバッジワース警部に偶然会った話をしましたが、彼はひどくその話に関心をもちました。
『この海岸のあたりの人間は、変な連中です』考えこみながら彼は言うのでした。『密輸と難破貨物を拾うことは親ゆずりなのです。船が連中のいる海岸で沈むと、自分達のポケットに入ることになっている合法的な利得だと考えないではいられないのですね。あなたに会わせたい男が、ここに一人いるのです。彼はおもしろい男で生き残りなのです』
翌日の朝は明るくて晴れやかでした。わたしはポルパランヘつれてゆかれ、そこでニューマンの潜水夫、ヒギンズという男に紹介されたのです。無表情な人間で、極端に無口なので、彼が会話に口をさしはさむ言葉は大抵、イエスかノーだけでした。高度に技術的な問題について彼と議論した後で、わたし達は三錨《スリー・アンカー》亭に席を移しました。大コップ一杯のビールが、この尊敬すべき男の舌をいくらかゆるめたのでしょうか。
『ロンドンから刑事さんがやってきましたな』彼はもぐもぐ言いました。『去年の十一月にあそこで沈んだあの船が、とてつもなく沢山の金塊を積んでいたという話なのですよ、なあに、沈んだのはあの船が最初じゃねえし、あの船が最後になるわけでもねえ』
『ヒヤ、ヒヤ』三錨亭の亭主がわりこみました。『お前のそこで言っていることは、本当のことだ、ビル・ヒギンズ』
『そうだと思うね、ケルヴィンさん』ヒギンズが言いました。
わたしはいくらかの好奇心をもって、亭主をながめました。彼は奇妙に広い肩をして、真黒に陽にやけた驚くべき顔つきの男でした。両眼は血走っていて、人目をさける妙にこそこそしたところがありました。これが、面白い生き残りの男だと言ってニューマンが話してくれた男ではなかろうか、とわたしは思ったのです。
『わしらはおせっかいなよそ者など、この海岸にきてもらいたくはないのだ』どこか残忍な調子で彼は言いました。
『警察のことかね?』笑いながらニューマンがたずねました。
『警察もそれから他の者もだ』意味ありげにケルヴィンが言いました。『そのことを忘れなさんなよ、旦那』
『ねえ、ニューマン。あれはぼくには、まったく脅迫のように聞えるのだが』帰路、丘をのぼっているときにわたしは言いました。
友人は笑いました。
『ばかな。ここいらあたりの人間に迷惑はかけないよ』
わたしは疑わしげに首をふりました。ケルヴィンには、何だか不吉で野蛮なところがありました。彼は、誰にもわからないような奇妙な企みをひそかに考えているのかもしれないという気がしました。
わたしの不安が始まったのは、その瞬間からだろうと思います。あの最初の夜は充分ぐっすりと眠ったのですが、次の夜はうとうととしか眠りませんでした。一面の曇り空に雷のきそうな気配がたちこめていて、日曜の朝は暗くて陰うつでした。わたしはいつでも自分の感情をかくすのが下手なのです。だからニューマンはわたしの中におきた変化に気がつきました。
『どうかしたのかね、ウェスト? 君は今朝はおそろしく神経過敏になっているね』
『さあどうかな』わたしは白状しました。『でも恐ろしい予感がするのです』
『それは天候のせいだよ』
『そうだろうね、たぶん』
わたしはそれ以上言いませんでした。午後になってから、ニューマンのモーターボートに乗って出かけましたが、雨がひどく強く降ってきましたので、わたし達は喜んで岸にもどって、乾いた服に着かえました。
そしてその夜、わたしの不安はだんだんとつのっていったのです。戸外では嵐が咆哮していました。十時近くなって、暴風雨はおさまりました。ニューマンは窓から外を眺めました。
『晴れかけている』彼は言いました。『もう三十分もたてば、からりと晴れた夜になることうけあいだ。そうなったら散歩におもてへ出てみようかな』
わたしは欠伸《あくび》をしました。『おそろしく眠い』とわたしは言いました。『昨夜はあまり眠らなかったのだ。今夜は早目に寝ようか』
わたしは言ったとおりにしました。前の晩はほとんど眠っていなかったのです。その晩は重苦しく眠りました。しかもわたしの眠りは安らかではありませんでした。おそろしい災厄の予感で、わたしの心はまだおしひしがれていたのです。いくつもこわい夢を見ました。もの凄い深淵や大きな裂け目の夢でした。そしてひとたび足をすべらせればたちどころに死だ、と承知していながら、わたしはその間をさまよっていたのです。眼がさめて時計の針が八時を指しているのを知りました。頭がひどく痛み、夜みた夢のおそろしさがまだ後をひいていました。
この恐怖感は非常に強く後をひいていましたので、窓のところへ行ってそれを引き上げたとき、新たな恐怖の念におそわれてわたしは飛びのきました。というわけは、わたしの眼に入った最初のもの――でなければわたしが見たと思った最初のものは――一人の男がむき出しの墓穴を掘っている姿だったのです。
わたしが気をとりなおすには、一、二分かかりました。それから墓掘り人足は実はニューマンの園丁で、その墓穴は大地にしっかりと植えられる瞬間を持ちわびながら、芝生の上にころがっていた、三本の新しい薔薇の木用のものだったのだ、と悟ったのです。
園丁は顔をあげてわたしを見つけ、帽子に手をふれました。
『お早うございます。結構な朝でございますね』
『いい朝のようですな』わたしはまだ憂鬱な気分を、完全にふりはらうことができなかったので、半信半疑で答えました。
しかしその園丁が言ったように、たしかにさわやかな朝でした。太陽は輝いていましたし、空の色は、その一日の晴天を約束している澄みきった薄い青でした。わたしはあるメロディーを口笛でふきながら朝食におりていったのです。ニューマンは一人の女中も屋敷の中へは住まわせませんでした。近くの農家に住んでいる中年の姉妹が、かんたんな彼の用をたすために、毎日かよっていました。わたしが部屋へ入ったとき、その中の一人がテーブルの上にコーヒー・ポットをおくところでした。
『おはよう、エリザベス』わたしは言いました。『ニューマンさんはまだおりて来ないの?』
『きっと朝早くお出かけになったのでございますよ』彼女は答えました。『わたし達がまいりましたときには、家の中にいらっしゃいませんでした』
そのとたん、わたしはまた不安な気持になりました。ニューマンは前の日二日とも、朝はかなりおそく朝食におりてきたのです。いつだって彼は早起きだとは思われませんでした。そんな予感に動かされて、わたしは彼の寝室まで走ってゆきました。部屋は空っぽでした。その上、彼のベッドには寝たあとがなかったのです。彼の寝室をちょっとしらべてみて、もう二つのことがわかりました。もしニューマンが散歩に出たとするならば、夜着ていたものを着て出かけたのにちがいありません。というわけは、それがなくなっていたからです。
わたしの不吉な予感は、あたっていたのだ、と今や確信しました。ニューマンは出かけたのです――そうしたい、と言っていたように――夜の散歩に。なにかの理由で彼はもどってきませんでした。なぜ? 事故にでも会ったのでしょうか? 断崖からおっこちたのでしょうか? すぐさま捜索しなくてはなりません。
数時間のうちに、わたしは大勢の手伝いをあつめ、一緒に崖にそったり、下の岩の上にいったり、あらゆる方向をさがしました。でもニューマンの足跡すら見あたりませんでした。
絶望して、わたしはバッジワース警部をさがし出しました。彼の顔はひどく深刻になりました。
『わたしには、犯罪がおこなわれたような気がしますね』彼は言いました。『いささか真面目でない奴が、この地域にいくらかいるのです。三錨亭のあるじのケルヴィンに会われましたか?』
会ったとわたしは言いました。
『あいつは四年前、刑務所でひどいことをやったのを御存じですか? 殴打事件ですよ』
『そう聞いても別に驚きはしません』わたしは言いました。
『あなたのお友達は自分に関係のない事柄に、少しばかり立ち入りすぎる、とこの土地では一般に噂《うわさ》しているようですな。何か重大な危害にでもあわれていなければよいが』
捜索は更に以前の倍も活発につづけられました。わたし達の努力は、その日の午後おそくなってから始めてむくいられました。自分の地所の隅にある深い溝の中で、わたし達はニューマンを発見したのです。両手と両足はなわでしっかりと縛られ、叫び声を出せないようにハンカチが口のなかに押しこまれていました。
彼はひどく消耗して、たいへんに苦しんでいました。でも手首やくるぶしを少しさすり、ウイスキーのびんからながながと一飲みした後で、起こった事件の説明をすることができました。
空がからりと晴れたので、彼は十一時ごろ散歩に出かけたのです。断崖にそってかなりの距離を歩き、たくさんの洞穴があるために、密輸業者の入江という名で普通には知られている地点まで、彼はやってきました。ここで数人の男が、小さなボートから何かの荷をおろしているところを見つけましたので、何がおきているのか確かめるために、ぶらぶら下っていったのです。そのものが何であったとしても、たいへんに重いもののように思われました。そしてそれは、一番遠くの洞穴のなかの一つへ運びこまれているところでした。
何か悪事じゃないのかという疑惑の念は全然いだかなかったのですが、それでもやはり、ニューマンは妙だなと思いました。彼はみとがめられないで、彼らにひどく近寄ってしまったのです。突然、急を知らせる叫び声があがりました。そしてその途端に、二人の腕っぷしの強い船乗りがおそいかかり、彼を気絶させてしまいました。次に彼が意識をとりもどしたときに、彼は自分がある種の自動車の上でころがっているのに気がついたのです。そしてその自動車は、彼が推測しうるかぎりでは、たえずガタガタいいながら海岸から村に通ずる小道づたいに進んでゆくところでした。おどろいたことには、そのトラックは彼の家の門のところで中へ折れました。そこで男達がひそひそ言葉をとりかわした後、しばらくの間発見されることはまずあるまいと思われる深い溝の中へほうりこんだのでした。それからトラックはたち去りました。四分の一マイルほど村に近いところにある、もう一つの門から出ていったな、と彼は思ったのでした。彼は自分を襲った連中については、たしかに船乗りで、言葉から判断すればコーンウォールの人間だ、ということのほかは、何も説明できませんでした。
バッジワース警部はたいへん興味をもちました。
『そこは、金塊が隠されてあった場所に違いない』彼は言いました。『どうにかこうにかして、それは難破船から引きあげられ、どこかの人里はなれた洞穴の中に隠匿されていたのです。わたし達が密輸業者の入江のあらゆる洞穴を捜査したこと、そして今度はもっと範囲を広げて捜査しようとしていることがわかっているのです。明らかに彼らは深夜、既に捜査されてしまって、たぶん二度と捜査されることのない洞穴に、その品物を移しつづけていたのです。不幸にして、少くとも十八時間がたっていますので、彼らはその品物を処分してしまったでしょう。彼らが昨晩ニューマンさんをつかまえたのなら、今となってはその場所に、その品物の一部でもみつけることはできないでしょう』
警部は捜索するために急いでたち去りました。彼は、金塊が隠匿されていたという確固たる証拠を発見したのでした。だが金塊はもう一度移されてしまい、その新しい隠し場所については全然手がかりがなかったのです。
しかしながら、手がかりは一つありました。そして警部は翌朝、自分でそれを指摘してくれました。
『その小道は自動車がほとんど使わない道なのです』彼は言いました。『だから一、二の場所でわたし達は非常にはっきりと、いくつかのタイヤの跡を手に入れることができたのです。ひとつのタイヤからついた三角形の跡があって、それがまったく間違いようのないしるしを残しています。それはこの門の中へ入って行っていることを示しています。あちらこちらに、それがもう一つの門から出て行ったという、かすかな痕跡があります。だからそれこそわたし達が探しているその自動車だということには、疑問はありません。ところでなぜ彼らはむこうの方の門から外へ出て行ったのか? そのトラックは村から来たのだということが、わたしには明瞭であるような気がするのです。村でトラックを持っている人間は沢山はいません。せいぜい二、三人です。三錨亭のあるじのケルヴィンは一台持っているのです』
『ケルヴィンのもとの職業は何だったのです?』ニューマンがたずねました。
『あなたがそんな質問をなさるなんて変ですね、ニューマンさん。若い頃ケルヴィンは、くろうとの潜水夫でした』
ニューマンとわたしとは顔を見合わせました。パズルは少しずつ符合していきつつあるように思われたのです。
『あなたはケルヴィンが、海岸にいた連中のなかにまじっているのを認めませんでしたか?』警部がたずねました。
ニューマンは首をふりました。
『それについては、何も言うことができないようです』彼は残念そうに言いました。『実際に何かをたしかめる時間がなかったのです』
警部はたいへん親切にも、わたしが彼について三錨亭へゆくのを許してくれました。車庫は横町に面していました。大きなとびらは閉められていましたが、そのそばの小路をつたってゆきますと、車庫の中へ通じている小さな戸口を見つけたのです。そしてその戸口はあけられていました。タイヤをほんのちょっと検査するだけで警部には充分でした。
『つかまえたぞ、まちがいない!』彼は叫びました。『後部左車輪に、あの車の跡と寸分ちがわない模様がある。さあ、ケルヴィンさん、この証拠から何とか逃げ出せるほど、君はりこうだとは思えないね』」
レイモンド・ウェストは息をいれた。
「それで?」ジョイスが言った。「それだけでは問題にするようなことは何も見あたりませんよ――その金塊が見つからなかったというのでなければ」
「たしかに金塊は見つかりませんでした」レイモンドが言った。「そしてケルヴィンも逮捕されなかったのです。彼はひどく利口で警察の手には乗らなかったのでしょう。しかし彼がどういう風にそれをやったのか、わたしには全くわかりません。当然のことですが、彼はひとまず逮捕されました――タイヤのしるしという証拠にもとづいて。しかし、とんでもない故障がおこったのです。車庫の大きなとびらのちょうど真向いのところに、夏のあいだ一人の女流画家が借りていた別荘がありました」
「ああ! 例の女流画家のひとりというわけですね」笑いながらジョイスが言った。
「おっしゃるとおり、『例の女流画家のひとりです!』そもそもこの人が数週間ずっと病気で、したがって病院の看護婦二人に看病してもらっていたのです。夜直にあたっていた看護婦は、安楽椅子を窓のところまでひきよせました。その窓にはブラインドがおろしてなかったのです。トラックが彼女の眼にふれないで車庫から出られるはずはないと、彼女は主張しました。そして実際その晩、自動車は車庫から出なかったと誓ったのです」
「それはたいへんな問題だとは思いませんわ」ジョイスが言った。「看護婦はもちろん眠ってしまったのです。看護婦というのは、いつでもそうなのですもの」
「そういうことは――ええ――実際におこると認知されてはおります」裁判官のようにピザリック氏が言った。「しかし、わたし達は充分な検討もしないで、事実をうけいれているように思われます。病院の看護婦の証言をうけいれる前に、彼女の誠意を精密に調査すべきです。そのようにあやふやな即断にともなって生ずるアリバイは、人の心に疑念をおこさせがちなものです」
「女流画家の証言もあるのです」レイモンドが言った。「苦しかったので、その晩はほとんど眼がさめていた。そして、自動車の音は異常なもの音なのだし、その晩は嵐の後でひどく静かだったのだから、自動車が車庫を出れば、きっとその音が聞えたでしょう、と言いきったのです」
「フーム」と牧師が言った。「それはきっと後からつけたした事実だろう。ケルヴィン自身は何かアリバイを持っていましたか?」
「彼は家にいて十時以降は寝てしまったと言い張りましたが、その陳述を支持する証人を出すことはできませんでした」
「看護婦は眠ったのですわ」ジョイスが言った。「それから患者もそうだったのです。病人と言うものはいつでも、一晩中まんじりともしなかった、などと考えるものです」
レイモンド・ウェストは聞きたそうにペンダー博士の方をみた。
「おわかりかな、わたしはケルヴィンというその男を気の毒に思っております。わたしにはひどく『世間の噂だけで人を判断する』という場合のように思われるのです。ケルヴィンは監獄にいたことがありました。タイヤのしるしはともかくとして――それはたしかに、偶然の暗合というにはあまりにもはっきり目立ったことのようですが――彼の前歴のほかは、ひどく彼に不利なところがあるとは思われません」
「あなたは、サー・ヘンリー?」
サー・ヘンリーは首をふった。
「あいにく」彼は笑いながら言った。「わたしはこの事件について、いくらか知っているのです。話してしまったらいけないでしょうな」
「それでは、ジェーン叔母さんは? 何か言うことはありませんか?」
「ちょっと待ってね」ミス・マープルは言った。「まちがって編み目を数えたかもしれないわ。二つが裏編み、三つが普通、一つはずして、二つが裏編み――はい、いいですよ。何て言ったの?」
「ご意見はいかがです?」
「あなたはわたしの意見が好きではないのでしょう。若い人達は決して好きにはならないのです。知っていますよ。何も言わない方がいいでしょう」
「ばかな、ジェーン叔母さん。意見を言って下さい」
「それじゃ、ねえレイモンド」編み物を下におき、向かい側の甥《おい》の顔をながめながら、ミス・マープルは言った。「あなたは友人のえらび方にもっと注意しなくちゃならないと思います。あなたはひどく信じやすくて、ひどくかんたんに欺されるのですよ。それというのもあなたが作家で、想像力がひどくゆたかだからでしょう。スペインのガリオン船のあのお話だってね! もっと年をとっていて、もっと人生の経験をつんでいたら、たちどころに警戒したことでしょうにね。ほんの数週間前に知ったばかりという人のこともそうですよ!」
サー・ヘンリーは突然わっと大笑いして、ぴしゃりとひざをたたいた。
「今度はやられたな、レイモンド」彼は言った。「ミス・マープル、あなたは大したものですよ。おい、君の友達のニューマンにはね、別な名前があるのだ――実のところいくつも他の名前を持っているのさ。現在彼はコーンウォールじゃなくて、デヴォンシャーにいる――正確にはダートムアだが――つまりプリンスタウン刑務所の囚人ですよ。わたし達は金塊盗難事件で彼を逮捕したのじゃなくて、ロンドンのある銀行の金庫をおそって強奪した事件でつかまえたのだ。それから彼の前科を調査し、盗まれた金塊の大部分が、『ポール館』の庭に埋められているのを知ったわけです。なかなか気のきいた思いつきでしたな。あのコーンウォールの海岸一帯には、金塊をいっぱい積んで難破したガリオン船の話が沢山あるのです。それで潜水夫を使っている訳も説明できるし、もっと後には金塊をもっている説明もつくというものだ。しかしながら身代りが必要だったので、その目的のためにはケルヴィンが理想的だったのだ。ニューマンは自分の書いたささやかな喜劇をまことに手際よく演じた。そして作家としての名声をもったわれらの友人レイモンドは、つみのない証人となったのさ」
「でもタイヤのしるしは?」ジョイスが異議を申し立てた。
「ああ、わたしはね、すぐそれがわかりました。自動車のことは何も知らないのですけれども」ミス・マープルが言った。「車輪をよくとりかえていますよ、ね――とりかえているところを、よく見たことがあるのです――それで、もちろんケルヴィンのトラックから車輪をひとつ取りはずして、小さな戸口から露地へ持ち出し、ニューマンさんのトラックにつけたのです。それで一方の門からトラックを海岸まではこび、金塊を満載して別な門から入って来させたのです。それからその車輪をまたもつていって、ケルヴィンさんのトラックに、もとどおりとりつけたにちがいありません。その間に誰かほかの者が、ニューマンさんを溝の中で縛りあげたのでしょう。彼にとってはひどく不愉快で、発見されるまでには予想していたよりずっと長い時間がかかったのでしょうね。園丁と自称していた人は、そういう方面の仕事に精を出していたのだろうと思います」
「なぜ『園丁と自称していた』などとおっしゃるのです、ジェーン叔母さん?」レイモンドが不思議そうに聞いた。
「おやおや、その人は本物の園丁だったはずがないじゃありませんか?」ミス・マープルが言った。「園丁というのは聖霊降臨祭後の最初の月曜日には、仕事はしないものです。だれでも知っていることですよ」彼女はにっこり笑って、編み物をきちんとたたんだ。
「わたしに正しい手がかりを与えてくれたのは、ほんとうはその些細な事柄だったのです」と彼女は言った。彼女はむかいにいるレイモンドをじっとみた。
「家をもって自分の庭をもつようになれば、こういう些細な事がわかるようになりますよ」
[#改ページ]
血染めの敷石
「おかしなことですけれど」ジョイス・ラムプリエールが言った。
「わたしの話をあまりしたくはないのです。それはずっと以前――正確には五年前におこったことなのですが――それ以来ずっと、なんだかわたしにつきまとっていて頭をはなれません。表面は晴れやかで明るいお話なのに――その底にぞっとするほど薄気味の悪いものがかくされているようです。不思議なことにはその当時描いたスケッチが、同じような雰囲気の色合いになってしまいました。最初見ると、陽の光の降りそそいでいる小さくて急|勾配《こうばい》なコーンウォール風の町並みをラフにスケッチしたものにしかすぎません。でもじっと長いこと見ていますと、何か不吉なものがしのび寄ってくるのです。その画は売りませんでしたが、以来ながめたためしがありません。その画は画面を壁の方にむけてアトリエの隅っこに生き長らえています。
その土地の名はラトホールといいます。風変りな小さいコーンウォールの漁村で、まったく絵のように美しいところです――美しすぎるのかもしれません。『古きコーンウォールの茶店』のような雰囲気が、かなり多すぎるほどその土地にはただよっているのです。そこには仕事着を着て髪を短かく切った女の子が、羊皮紙の上に金言を手で彩飾して書いている店があります。美しくて風変りですが、わざとらしい感じがありました」
「ぼくは知らないね」レイモンド・ウェストはそう言ってから、うめいた。「いまいましい遊覧バスのせいだろうな。そこへゆく道がどんなに細くっても、絵のように美しい村なら見落すわけはないのに」
ジョイスはうなずいた。
「ラトホールまで通じている道は細くて、家の屋根のようにひどく急なのです。さあ、わたしの話をすすめましょう。わたしはスケッチをするために、二週間ばかりコーンウォールに来ていました。ラトホールにはポラーウィズ・アームズ館という古い宿屋があります。その宿屋は千五百何年かにスペイン人がこの土地を砲撃した際、建ったまま残されたただ一軒の家ではなかったかと推定されていたものです」
「砲撃されたのじゃない」むずかしい顔をしながら、レイモンドが言った。「歴史的に正確であるようにつとめて下さいよ、ジョイス」
「さて、とにかく彼らはこの海岸のどこかへ大砲を揚陸して、発射したものですから、家は倒れてしまったのです。いずれにしても、それが話の要点ではありません。その宿屋は前のポーチのようなものが、四本の柱の上にたてられている素晴らしく古いところでした。かっこうな位置について、仕事をしようと腰を落着けかけたばかりのとき、一台の自動車が丘をはらばいながら、うねくねと下ってきました。もちろんその車は宿屋の前にとまろうとしたのでした――それはわたしにとってはちょうど一番具合の悪い場所だったのです。乗っていた人達がおりました――男一人と女一人でしたが――わたしは別に気にもとめませんでした。女は一種のふじ色のリネンのドレスを着て、ふじ色の帽子をかぶっていました。
やがて男がまたあらわれて、たいへんありがたいことには、車を船着き場の方へ運転していってそこへおいてきました。彼はわたしの側をとおり過ぎて、ぶらぶら宿屋の方へひきかえしてゆきました。ちょうどそのとき、いまいましいことに別な自動車がくねくねと下りてきて、見たこともないほど鮮やかな更紗《さらさ》のフロックを着た、一人の女がそこから出てきました。真紅のポインセチアの花模様の衣裳だったと思います。そして彼女は大きな、麦わら帽子をかぶっていたのです――『キューバン』というのでしょうか? すばらしく鮮やかな真紅色でした。
この女性は車をその宿屋の前にはとめずに、さきの車のそばにとめました。それから車を出てくると、彼女を見たさきの男がびっくりして叫んだのです。『キャロル』彼はさけびました。『何とまあすばらしいことだ。こんな辺鄙《へんぴ》な場所で君に会うなんて。しばらくぶりですね。やあ、マージェリーがいるんです――ぼくの妻ですよ。会ってやって下さい』
彼らは宿屋の方へ並んで道をのぼってゆきました。するともう一人の女がちょうど戸口から出てきて、二人の方へおりてくるのが見えたのです。わたしの側を通るときに、わたしはキャロルと呼ばれた女性をほんのちらりとながめました。真白に白粉をぬったあごと、燃えたつばかりに真紅にぬられた唇を見たくらいのものでしたが。そしてわたしは気になったのです――気になっただけなのですが――マージェリーが彼女に会って、ひどく喜ぶかどうかと。わたしはマージェリーを近々と見てはいませんでしたが、遠くで見ると彼女はやぼで、ひどく固苦しくて、いやにお上品な人のように思われました。
さてそんなことはもちろんわたしの全く知ったことではありませんでしたが、人は誰でも、奇妙なことで、ほんの少しばかり人生をかいま見ることがあるものです。そうするとそれについて考えないではいられなくなります。その人達が立っていた場所からでは、わたしの方へ流れてくる会話の断片を聞きとることができるだけでした。その人達は水浴の話をしているところでした。デニスという名前らしいその夫は、ボートに乗ってこの海岸をぐるりと漕ぎたいというのです。一マイルほど先に充分見る値打ちのある有名な洞穴がある、彼はそう言っていました。キャロルも洞穴を見たがっていました。ただし崖づたいに歩いていって、陸地の側からそれを見たらどうかしらと言うのです。ボートは大嫌い、と彼女が言いました。とどのつまり、その人達は話しあったとおりに決めました。キャロルは崖の道づたいに行って洞穴で二人に会うことになり、そしてデニスとマージェリーはボートに乗ってぐるりと漕いでゆくつもりでした。
その人達が話すのを聞いていたら、わたしも水浴をしたいなと思いました。たいへんに暑い午前で、特にいい仕事をしようという気もありませんでした。午後の日光は、事実上、午前よりももっと魅惑的だろうとも考えたのです。それでわたしは材料をとりかたづけ、わたしの知っている小さな浜へ行きました――それは洞穴から正反対の方向にあって、どちらかと言えばわたしのみつけだした場所でした。わたしはそこですてきにたのしく泳いでから、昼食に罐詰のタンとトマトを二個たいらげました。そして午後になってから、スケッチを進めてゆこうという確信と熱意にみちあふれてもどってきたのです。
ラトホールの村全部がまどろんでいるような気がしました。午後の光線について考えていたことは正しかったのです。陰影がもっとずっと効果的になっていました。ポラーウィズ・アームズ館はわたしのスケッチの基調となっていました。太陽の光線が、ななめに傾いて射しこんできては前の地面にあたり、相当に珍らしい効果を出していました。水浴に行った人達は無事にもどったのだな、とわたしは察しました。なぜなら真紅とダーク・ブルーの二枚の水着がバルコニーからさがっていて、日なたで乾いていたからです。
スケッチの片隅が何だか少しうまくいっていなかったので、ちょっとの間その上にかがみこんで、修正するために何かしていました。ふたたび顔をあげたとき、一人の人物がポラーウィズ・アームズ館の一本の柱によりかかっていたのです。その人は魔法でそこに現われたような気がしました。彼は船乗りの服装をしていましたので、漁夫じゃないかしらと思いました。しかし長くて黒いあごひげをつけていましたので、極悪非道なスペイン人の船長のモデルをさがしているところだったなら、彼よりもっとうってつけな人間など想像することもできなかったでしょう。その様子を見ますと、まるで永遠に柱のつっかえ棒をするつもりになりきっているかのような気がしましたけれども、彼が行ってしまわないうちにスケッチに描きいれようと、とりつかれたようにあたふたと仕事をしなくてはなりませんでした。
しかしながら彼はその場所を離れてしまいました。でもわたしが描き終わってしまったあとだったのは幸いでした。彼はわたしのところへやってきて話し始めました。まあ、何とおしゃべりな人だったことでしょう。
『ラトホールは』彼は言いました。「とても面白い場所ですよ』
そんなことはとっくに知っていました。しかしそう言ったのですけれども、彼のおしゃべりから逃げることはできませんでした。この村の砲撃――破壊というつもりなのです――に関するありとあらゆる歴史をきかされました。それからポラーウィズ・アームズ館の主人は不死身とも思われるような男だったことも。自分の家の戸口で、スペインの船長の刀に刺し貫かれたこと、そしてその血が敷石の上にほとばしって、数百年の間だれもその血痕を洗いおとすことができなかったこともふくめて、一切合切の歴史をきかされたのです。
その話は、午後のけだるくてねむい感じとうまく調和していました。その男の声はひどく快いものでしたが、しかし同時に、その下には、むしろぎょっとするような調子がなにか流れていました。ひどく媚びへつらうような態度でしたが、その底では彼は残忍な男なのだと感じました。
この男をみているだけで、スペインの宗教裁判所や、スペイン人のやったあらゆる事柄のおそろしさが、これまで理解していたよりもずっとよくわかってくるのでした。
彼が話しかけている間じゅう、わたしはスケッチを描きつづけていました。そして興奮して彼の話を聞いているうちに、その場所にはないものを何か描きこんでしまっているのに突然気がついたのです。ポラーウィズ・アームズ館の戸口の前、日光が降りそそいでいるあの真白い四角な敷き石の上に、わたしは血痕を描きこんでいました。心が手をつかってそんないたずらをすることができたということは、異様なことのような気がしました。しかしもう一度宿屋の方を見わたしたとき、わたしはまたショックをうけました。わたしの手は眼にみえたもの――真白な敷き石の上の血の滴《しずく》を描きこんだにしかすぎなかったのです。
一、二分、瞳をこらしてみつめました。それから眼を閉じて自分に言いきかせました。『くだらない考えはおよしなさい。あそこには何もないのよ。ほんとうだわ』それからまた眼をあけましたが、血痕は相変らずそこにありました。
いたたまれないような気が突然しました。わたしは漁夫のとめどのないおしゃべりをさえぎったのです。
『あのね』わたしは言いました。『わたしあまり眼がよくないんですの。むこうの敷石の上にあるのは、血痕ですかしら?』
彼は甘やかすように、やさしくわたしを見ました。
『最近は血痕などありませんよ、お嬢さん。わたしがお話していることは、ほぼ五百年も前のことなのです』
『そりゃそうですわ』わたしは言いました。『でも今――敷き石の上に』言葉は口の奥で消えてしまいました。わたしは知っていたのです――彼はわたしが見ていたものを、見ようとはしなかったのだ、ということを知っていたのです。わたしは立ちあがり、ふるえる手で道具をまとめ始めました。わたしがそうしているときに、今朝自動車に乗ってきた若い男が旅館の戸口から出てきました。彼は当惑したように、通りをあちらこちらとながめました。頭上のバルコニーでは、彼の妻が出てきて水着をあつめました。彼は車の方へ下っていったのですが、突然くるりとむきを変え、道を横切って漁夫の方へやってきました。
『ねえ、おい』彼は言いました。『あそこの二台目の車に乗ってきたお嬢さんが、今までに戻ってきたかどうか知りませんか?』
『一面に花模様のあるドレスを着た方ですか? いいや、旦那、見かけませんでしたな。崖づたいに今朝、洞穴の方へゆかれましたよ』
『そうだ、そうだ。ぼくらはみな一緒にあそこで泳いだのだ。それから彼女は歩いて帰るために、ぼくらと別れたのだが、それから見かけないのだよ。今ごろまで時間がかかるはずはない。ここいらあたりの崖は危険じゃないのかね?』
『通る道によりけりですよ、旦那。一番いい方法は、この土地をよく知っている者を一緒におつれになることですな』
彼はひどくはっきりと、自分のことを念頭においていったのです。そしてそのことについて詳しい話を始めかけたのですが、その若い男は無遠慮に後をさえぎって、バルコニーにいる妻に声をかけながら宿屋の方へかけもどりました。
『ねえ、マージェリー、キャロルはまだもどってこないのだよ。変じゃないかい?』
マージェリーの返事は聞えませんでしたが、夫はつづけました。
『さあ、これ以上待っているわけにはゆかないよ。ペンリザーへゆかなくちゃならないのだ。用意はできたかい? 車をまわすよ』
彼は言ったとおりにしました。そして、その人達二人は、一緒に乗って行ってしまったのです。とかくするうち、わたしの空想がどんなにこっけいなものであったかを証明するために、わたしは徐々に勇気をふるい起こしていました。自動車が行ってしまうと、わたしはむこうの宿屋へゆき、敷き石を綿密にしらべました。もちろんそこには一滴の血痕もありませんでした。いいえ、はじめっからそれは、わたしの歪んだ想像力の所産だったのです。しかしながらどうした訳か、そのせいでこのできごとは、今までよりもっと身の毛もよだつものになったような気がしました。漁夫の声がきこえたのは、わたしがそこに立っていたときでした。
彼は不思議そうにわたしを見つめていました。『お嬢さん、ここに血痕がみえたと思われたのですか、え?』
わたしはうなずきました。
『それはたいへん不思議なことだ。それはたいへん不思議なことだ。お嬢さん、ここには迷信があるのです。もし誰かがそういう血痕を見た場合は――』
彼は言葉をきりました。
『それで?』わたしは言いました。
彼は独特のやわらかな声で話をつづけました。抑揚はコーンウォール風でしたが、発音はそれと意識せずともなめらかで、上品なものでしたし、コーンウォール風な言いまわしなど全くありませんでした。
『お嬢さん、誰かが例の血痕を見た場合には、二十四時間以内に死がおとずれるという言いつたえがあるのです』
そのうす気味の悪さと言ったら! その話をきいて背すじが、ぞくぞくするような感じがしました。
その男は説得するように話をつづけました。『お嬢さん、教会にはひどく面白い銘板があるのです、死について書き記してある――』
『もうけっこうですわ』わたしはきっぱりと言いました。そして急にくるりと後ろをむいて、わたしが泊っていた別荘の方へ道をのぼっていったのです。ちょうどそこへ着いたとき、遠くの方に、キャロルと呼ばれていた女性が、崖ぞいの道をつたってやってくるのが見えました。彼女は道をいそいでいました。灰色の岩を背景にしていると、彼女の姿は何か毒のある真紅の花のようなおもむきがありました。その帽子は血のような色でした……
わたしは身ぶるいしました。実際、血にとりつかれていたのです。
しばらくして彼女の自動車の音がきこえました。彼女もまたペンリザーへゆくつもりだったのかしら、と思いました。でもそれとは反対の方向の左の方へ道をとりました。わたしはその車が丘をはいのぼって消えてしまうのを見まもっていました。するとどういうわけか、前よりも呼吸が楽になりました。ラトホールは静かでねむそうなその本来の姿に、ふたたびかえったような気がしたのです」
「もしそれで全部なら」ジョイスが話をやめたときに、レイモンド・ウェストが言った。「すぐさま、判決をくだします。消化不良ですよ、食後に眼の前にちらつく斑点ですね」
「それで全部じゃないのです」ジョイスが言った。「そのつづきをきかなくちゃいけませんわ。二日たってから、新聞で『海水浴の災禍』という見出しの下で、そのつづきを読みました。キャプテン・デニス・デイカーの妻、ミセス・デイカーが、不幸にもランディア入江の海岸沿い少し先の地点で溺死したてんまつを、新聞は報道していたのです。彼女とその夫は、そのとき、土地のホテルに滞在中で、水浴にゆきたいと言っていたのですが、風が冷たくなりました。キャプテン・デイカーは冷たすぎると言って、彼とホテルに滞在していた数人の客は、近くのゴルフ場に行ってしまったのです。しかしミセス・デイカーは、自分は大して寒いとは思わないからと言って、ひとりでその入江までゆきました。妻がもどってこないので、夫は驚いて、友人とつれだって海岸へ行ったのです。彼女の衣類が岩のそばにあるのを彼らは見つけることはできましたが、その不幸な婦人の形跡はなにも発見できませんでした。彼女の死体は一週間ほどたって、その海岸のかなり下手の地点の浜に流れついたとき、はじめて発見されたのです。死亡前におこったひどい打撲傷が頭部にありました。彼女は海にとびこんで、岩に頭をうちつけたにちがいないという憶測でした。わたしが理解しえたかぎりでは、彼女の死はわたしが血痕をみたときからちょうど二十四時間後におこったようです」
「抗議します」とサー・ヘンリーは言った。「これは問題というものじゃない――幽霊ばなしです。ミス・ラムプリエールはあきらかに霊媒ですな」
ピザリック氏は、いつもの咳ばらいをした。
「ひとつの点が頭にうかぶのです」彼は言った。「頭部のその打撲傷ですよ。もちろん殺人の可能性を除外してはならないと思います。でも手がかりにするデータがわたし達に何かあるのか、わたしにはわからないのですよ。たしかに、ミス・ラムプリエールの見た幻覚もしくは幻は面白いと思いますが、われわれの判断をもとめていられる点がどこなのか、わたしにははっきりわからないのです」
「消化不良と偶然の一致ですよ」レイモンドが言った。「そしていずれにせよ、その人達は同じ連中だとあなたは確信することができないじゃありませんか。その上に、たたりとか何とかは、実際ラトホールに住んでいる人達にあてはまるだけですよ」
「わたしの感じでは」サー・ヘンリーが言った。「気味の悪い船乗りが、この話に何か関係があるようですな。でも、ミス・ラムプリエールはほとんどデータを与えてはくださらなかった、ということはピザリック氏と同意見です」
ジョイスはペンダー博士の方を見たが、彼はにっこり笑いながら首をふった。
「たいへんに面白いお話です」彼は言った。「でも手がかりになるデータがほとんどない、ということは、サー・ヘンリー並びにピザリック氏と同意見のようです」
ジョイスはそれから不思議そうに、ミス・マープルの顔をみた。するとミス・マープルは彼女にほほえみかえした。
「ねえ、ジョイス。あなたはちょっぴり公平を欠いているとわたしも思います」彼女は言った。「もちろん、わたしにとっては事情がちがいます。つまり、わたし達は女性だから、衣服についての問題を正しく判断している、ということですの。殿方に出すには公平な問題だとは思いません。ひどく急いで着替えした、ということだったにちがいありません。何という悪らつな女でしょうね! そして男のほうは、もっとひどく悪らつですわ」
ジョイスは彼女をまじまじと見た。「ジェーン叔母さん」彼女は言った。「ミス・マープルというつもりだったのですわ、わたしは――ほんとにわたし、あなたは真相を知っていらっしゃると思います」
「それで、ね」ミス・マープルは言った。「その問題は、現在ここに、じっとすわっているわたしにとっては、昔のあなたの場合よりずっとやさしいのです――それに画家だから、あなたは雰囲気にひどく敏感なのですね? 編み物をしながら、ここに腰をおろしていますと、ただ事実がわかるだけなのです。血痕が水着から敷石の上に滴り落ちていたのですわ。もちろん罪をおかした人達は、敷き石に血のあとがあるとは知らなかったのです。かわいそうに、若いのにかわいそうに!」
「失礼ですが、ミス・マープル」サー・ヘンリーが言った。「わたしは未だにまったく見当がつかないのですが。あなたとミス・ラムプリエールは、おはなしになっていらっしゃることが、わかっていられるようにおみうけします。でもわたしたち男は、まだまったく見当がつきません」
「それじゃ、このお話の結末を申し上げましょう」ジョイスが言った。「一年たってからでした。わたしは小さな東海岸の海水浴場にいてスケッチをしていました。そのとき突然、そういう感じをよくもつものですが、何か前におこったことがあるという、あの奇妙な感じにおそわれたのです。わたしの前の敷き石の上に、二人の人間、つまり一人の男と一人の女性がいました。そしてその人達はもう一人の人、つまり真紅のポインセチアの花模様の服をきた一人の女性に挨拶していました。『キャロル、何とまあすばらしいことだ! 何年ぶりかで君に会うなんて。ぼくの妻を知らないね? ジョーン、こちらが古い友人のミス・ハーディングだ』
わたしはすぐに、その男が誰かわかりました。わたしがラトホールで見たのと同じデニスでした。妻の方はちがっていました――つまり、マージェリーという人のかわりに、ジョーンという人だったのです。でも彼女は同じタイプでした。若くて、かなりやぼで、ひどく目立たない人だったのです。わたしは一寸の間、気が変になりかけているのじゃないかと思いました。その人達は泳ぎにゆこうと話しあっていました。わたしのしたことをお話しましょう。たちどころに、まっすぐ警察署へ行ったのです。警察ではたぶん、わたしが逆上していると考えるだろうと思いましたが、意に介しませんでした。ところがたまたま、万事まったくうまくいったのです。スコットランド・ヤードからきた一人の人がそこにいたのです。彼はまさにこの事件のことで来ていたのでした。ほんとは、話すのもおそろしいことですけれど――警察はデニス・デイカーに疑惑をもつようになったのだと思われます。それは彼の本名ではありませんでした――いろいろな場合に、いろいろな名前を使っていたのです。彼は親戚や友達のいない、いつもはもの静かで目立たない多くの娘達と近づきになり、彼等と結婚して、その生命に多額の保険をかけたのです。そしてそれから――おそろしいことですわ! キャロルという女は、彼のほんとの妻でした。そして二人はいつも同じ計画をやりおおせていました。実際のところ、それで警察が彼を捕えるようになったのです。保険会社が疑惑をもつようになりました。彼はいつも新しい妻をつれて、どこかの静かな海水浴場にやってくる、するともう一人の女が現われて、みんなで一緒に泳ぎにゆく、ということになるのです。それから妻は殺害され、キャロルが妻の衣裳を着て、彼と一緒にボートに乗って帰ってくる。そして、仮定のキャロルがもどったかどうか尋ねた後で、それがどこであろうとその場所をはなれるのです。村を出はずれるとキャロルは、自分の花やかな衣裳とあざやかな化粧にまた変ってその場所にもどり、自分の自動車に乗って走り去るというやり方でした。彼らは潮流がどちらの方へ流れているかということを、いつも知っていましたので、その海岸ぞいで潮の流れる方向にあるとなりの海水浴場で、にせの溺死事件がいつもおこるのでした。キャロルが妻の役を演じてどこかの人の気配のない海岸までゆくのです。そしてそこの岩のそばに妻の衣裳を残し、自分は花模様の衣裳をきてその場を去り、夫が彼女と一緒になれるまで、ひっそりと待っているのでした。
二人がかわいそうに、マージェリーを殺したとき、血がいくぶんかキャロルの海水着にとび散ったのにちがいない、と思いますの。ところが赤い海水着だったものですから、ミス・マープルがおっしゃるように、二人はそれに気がつかなかったのです。でもそれをバルコニーからつるしたときに、しずくがたれたのです。うっ!」彼女は身ぶるいした。「まだ眼にみえるようですの」
「もちろん」サー・ヘンリーが言った。「今でははっきり思い出しました。デイヴィスというのが、その男の本名だったのです。多くの別名のうちのひとつがデイカーだったということは、まったく失念していました。その二人は稀にみる狡猾《こうかつ》な手合でしたな。誰もその正体の変化を見ぬけなかったのは、あきれたことだという気がいつもするのです。ミス・マープルがおっしゃるように、衣裳というものは、顔よりももっと容易に見分けがつくものだと思います。しかし非常に巧妙なたくらみでしたな。というのは、わたし達はデイヴィスに嫌疑をかけていたのですが、いつも非のうちどころのないアリバイをもっているように思われましたので、彼に罪を承服させることは容易じゃなかったのです」
「ジェーン叔母さん」不思議そうに彼女をみながらレイモンドが言った。「どうしてそれがわかるのです? あなたは非常に平穏な生活をおくってこられましたのに、何をきいてもびっくりなさらないようですね」
「わたしはいつでも、この世でおたがいにひどくにかよっているものを見つけるのです」ミス・マープルが言った。「ほら、ミセス・グリーンのことがありましたね。五人の子供を埋めた――そしてその一人一人に保険がかけられていた例の――。それで人は当然のことですが、この女に疑惑をもつようになり始めたのです」
彼女は首をふった。
「村の生活にはとても多くの不道徳なことがおこります。あなた方若い人々が、世の中はひどく不道徳なところだなどとさとることの決してないよう願っているのです」
[#改ページ]
◆ミス・マープルのご意見は? 1
アガサ・クリスティ/山崎昂一訳
二〇〇五年二月二十五日