パーカー・パイン2
アガサ・クリスティ/小西宏訳
目 次
ほしいものは全部手に入れましたか?
バグダッドの門
シラズの館《やかた》
高価な真珠
ナイル河の死
デルフォイの神託
解説
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ほしいものは全部手に入れましたか?
「|Par ici《パリシ》(こちらへどうぞ)、マダム」
ミンクのコートを着た背の高い婦人が、荷物をどっさり背負ったポーターのあとにつづいて、リヨン駅のプラットホームづたいに歩いていた。
婦人はこげ茶色の編み物の帽子を片方の耳から目にかけて斜めに深くかぶっていた。もう片方からは、つんと鼻先の上がった愛くるしい横顔と、貝がらのよぅな耳の上に房々とかぶった金髪の巻毛が見える。典型的なアメリカ人で、どこから見てもなかなか愛くるしいご婦人だったので、発車時刻を待っている客車ぞいに歩いて行く彼女の姿をふり返って見る紳士も一人ならずあった。客車の横腹のホルダーには、大きなプレートが差してある。パリ――アテネ。パリ――ブカレスト。パリ――イスタンブール。
この最後のプレートのところで、ポーターはぴたっと足を止めた。そして一つにまとめて縛ってあった紐をほどくと、スーツケースは重そうにずしりと地面にすべり落ちた。「|Voici《ヴォアシ》(ここでございます)マダム」
寝台車の車掌が、昇降口のステップの横に立っていた。車掌は進み出ると、おそらくは豪華でみごとな、ミンク・コートのせいでもあるのか、「|Bonsoir《ボンソワール》マダム」と|empressment《アンブレスマン》(丁重に)いった。
婦人は寝台車のうすっぺらな紙切符を車掌に渡した。
「六号でございますね。こちらへどうぞ」
車掌は敏捷に車内にとび込み、そのあとに婦人がつづいた。車掌のあとを追って、そそくさと廊下を急いでいた婦人は、すんでのところ、彼女の車室の隣りから出て来た、でっぷりとした紳士に衝突しそうになった。彼女は、やさしい目をした相手の大きな温顔を一瞬ちらりと見た。
「|Voici《ヴォアシ》(こちらへ)マダム」
車掌は車室を見せた。そして窓を開けてポーターに合図をした。係りのものが手荷物を運び入れると棚の上にのせた。婦人は腰を下ろした。
座席の傍らに、彼女は赤い小型のケースとハンドバッグを置いた。車内はむし暑かったが、コートを脱ぐことも思いつかないようすだった。彼女は窓の外をぼんやり見つめていた。人々はせわしげにプラットホームを行き来していた。新聞や、枕やチョコレートや、果物や、清涼飲料などの売り子がいた。売り子たちは品物を彼女の前に差し上げて見せた。しかし、彼女はぼんやりと視線を向けているだけで、そんなものは目に映らなかった。リヨン駅は彼女の視界から姿を消してしまっていた。彼女は悲痛なおももちだった。
「マダム、パスポートを拝見させていただけましょうか?」
そのことばにも彼女は無感覚であった。車掌は戸口に立って同じことばをくり返した。エルシー・ジェフリーズは、はっとしてわれに返った。
「なんですって?」
「パスポートを拝見、マダム」
彼女はハンドバッグを開けると、パスポートをとり出して車掌に渡した。
「けっこうでございます。ご用の節は、なんなりとお申しつけください」そこでちょっとものものしく間を置いてから、「イスタンブールまで、わたしもご同行いたしますので」
エルシーは五十フラン紙幣を出して車掌に渡した。彼は事務的な態度でそれを受け取ってから、ベッドの仕度はいつがよろしいか、夕食はどうしますかと尋ねた。
ひととおり話がついて車掌がさがると、ほとんど間髪を入れずに食堂車の係りが小鈴をやたらに鳴らして大声でわめきながら、廊下をあたふたと駆けて来た。
「|Premier service, Premier service《プルミエ・セルビス・プルミエ・セルビス》(第一回ご予約のかた)」
エルシーは立ち上がった。厚い毛皮のコートを脱いで、小さな鏡にちらりと顔を写してみてから、ハンドバッグと宝石ケースを取り上げると廊下へ出て行った。二、三歩歩き出すと、さいぜんの食堂車の係りが駆けもどって来た。その男を避けるために、エルシーは今は誰もいない隣りの客室の戸口に、ちょっとの間、身を退《ひ》いた。係りの男が通り過ぎて、さてこれからふたたび食堂車へ向かうという時、彼女は座席の上に置いてあるケースの名札に、なにげなく目を落とした。
それは、いくぶんくたびれているが、がっちりした豚皮のスーツケースだった。名札にはこう書いてあった。J・パーカー・パイン、イスタンブール行き。スーツケースそのものにはP・Pとイニシアルがついている。
彼女の顔に、はっと驚きの表情が浮かんだ。廊下でしばしためらっていたが、やがて自室にとって返すと、テーブルの上に雑誌や本といっしょにおいたタイムズ紙をとり上げた。
彼女の目は第一面の広告欄を追っていたが、目的のものは見つからなかった。かすかに眉をひそめて彼女は食堂車に向かった。
給仕はすでに客が一人席についている小さなテーブルに彼女を案内した――廊下でぶつかりそうになった例の紳士だ。事実、豚皮のスーツケースの持ち主である。
エルシーはそれとなく相手を見た。きわめて温厚な優しそうな人物で、ある種の、名状しがたいが、快い安心感を人にあたえる人物だった。彼はイギリスふうの控え目な態度で振舞った。そして果物がテーブルに出されると、はじめて口を開いた。
「こういう場所はひどく暑くしておくんですねえ」
「そうですわね」エルシーはいった。「窓を開けられるといいんですけど」
相手は残念そうに微笑した。
「無理ですな。わたしたち以外の客は皆、反対するでしょうからね」
彼女はそれに答えて微笑した。二人ともそれ以上は、何もいわなかった。
コーヒーが出た。例によって、判読しにくい勘定書もいっしょだった。何枚かの紙幣をその上に置くと、エルシーはやにわに勇気をふるいたたせた。
「あのう、失礼ですけど」彼女は小声でいった。「お名前をスーツケースで拝見しましたの――パーカー・パインとありましたが、ひょっとして、あの――もしやあなたは――?」
彼女がもじもじしていると、相手は急いで助け舟を出した。
「さようです。つまり」――と、相手は、エルシーが今までにタイムズ紙上で一度ならずお目にかかったことがあり、たった今も捜して見つからなかった広告文を引用した。――「『あなたは幸福ですか? 幸福でないかたは、パーカー・パイン氏にご相談ください』そう、まさしく、わたしが当の本人です」
「そうでしたの」エルシーはいった。「まあ、なんて――なんて、ふしぎなめぐり合わせなんでしょう!」
彼は首を振った。
「というほどでもありませんな。あなたからみれば、ふしぎなめぐり合わせかもしれませんが、わたしとしては、そうは思いません」彼は慰めるように微笑を浮かべて、それから身をのり出した。「では、あなたは不幸なんですね?」
「あたくし――」エルシーは話しかけたが口をつぐんだ。
「さもなければ、『なんてふしぎなめぐり合わせなんでしょう』とおっしゃることは、なかったでしょうからね」彼は指摘した。
エルシーはしばし沈黙していた。パーカー・パイン氏が目の前にいるというだけで、ふしぎなほど気持が休まるのを感じるのだ。
「え――ええ」とうとう彼女は認めた。「あたくし――不幸なんですの。少なくとも心配事がありますの」
パイン氏は思いやりをこめてうなずいた。
「そのう」彼女はつづけた。「とても奇妙なことが起こりましたの。そして、あたくしには、それがなんのことだか、さっぱりわからないんです」
「話してみてくれませんか」パイン氏はうながした。
エルシーは広告のことを思い浮かべた。彼女とエドワードは、たびたびそれを話題にして笑ったものだった。それがよもや、こんなことになろうとは考えてもみなかった――いや、話さないほうがいいかしら――もしもパーカー・パイン氏が山師《ヽヽ》だったら――でも、このひとはちゃんとしたひとに見える!
エルシーは覚悟を決めた。なんでもいい、この悩みを解消してくれるものならば……。
「お話ししますわ。あたくし、これから主人に会いにコンスタンチノープルへ行くところなんです。主人は近東諸国とひんぱんに取引きをしておりまして、今年は現地に行かなくてはならなくなりました。それで、二週間前に発《た》ちました。あちらで、あたくしを迎えるために手はずを整えておいてくれることになっていました。そのことを考えただけで、あたくし、とてもうきうきしていました。なにしろ外地へ出たことは一度もないんですから。あたくしたち、イギリスに六カ月滞在しました」
「お二人ともアメリカ人ですね?」
「ええ」
「そして、ご結婚なすってから、それほど長くはありませんね?」
「結婚して一年半ですわ」
「おしあわせですか?」
「ええ、もちろんですわ。エドワードは申しぶんない、やさしい夫です」そこでちょっとためらってから、「むろん、何から何までというわけにはいきませんけど。ほんのちょっぴり――そう、なんていうか、固苦しいんですわ。代々家系に清教徒が多いことやなにかで。でもいい人なんですのよ」彼女はあわててつけ加えた。
パーカー・パイン氏は考え深げに、しはらく彼女を見ていたが、やがていった。
「先をどうぞ」
「エドワードが出発してから一週間ほどたった時のことです。あたくしあの人の書斎で手紙を書いていましたら、しみ一つない真新しい吸取り紙に二、三行、字のあとがついているのに気づきました。ちょうどそのとき、吸取り紙が事件の鍵になっている推理小説を読んでいたところでしたので、おもしろ半分に鏡の前で写してみました。ほんの冗談だったんですの、パインさん――つまり、その、エドワードのことをさぐるなんて、そんなつもりじゃなかったんです。つまり、エドワードはとてもおとなしい人ですから、そんなこと夢にも考えられないんです」
「ええ、よくわかりますよ」
「それは簡単に読めました。最初に『妻』という文字があって、それから『シンプロン急行』、そしてその下に『ヴェネチアのちょっと手前が最適の時間だ』とありました」そこで彼女は口をつぐんだ。
「妙だな」パイン氏はいった。「まったく妙な話ですな。ご主人の筆跡だったんですね?」
「ええ、そうなんです。でも、いくら頭をひねってみても、こんなことばを使った手紙を、どんな事情で書いたのか見当がつきませんの」
「『ヴェネチアのちょっと手前が最適の時間だ』と」パーカー・パイン氏はくり返した。「まったく妙な話ですね」
ジェフリーズ夫人は身をのり出して、たのもしげにパイン氏の顔を見た。
「どうすればよろしいでしょう?」彼女はあっさりきいた。
「どうやらヴェネチアのちょっと手前まで待たなくてはなりませんな」そういってパイン氏は、テーブルの上から折込み式の時間表をとり上げた。「ここにわたしたちの列車時間表があります。ヴェネチアに着くのはあすの午後二時二十七分ですね」
二人は互いに顔を見合わせた。
「わたしにお任せください」パーカー・パイン氏はいった。
二時五分過ぎだった。シンプロン急行は十一分遅れていた。メストレを通過したのは十五分ほど前のことだ。
パーカー・パイン氏は、ジェフリーズ夫人とともに彼女の車室にすわっていた。今までのところ、旅は快適で平穏だった。だが、何か起こるとすれば、もうそろそろ起こりそうな時刻だ。パーカー・パイン氏とエルシーは顔を見合わせた。彼女の胸はどきどきして、すがりつくようなまなざしで、安心させてほしいと、相手の目を見つめていた。
「落ちついてらっしゃい」彼はいった。「絶対にだいじょうぶ。わたしがここにいますからね」
突如、廊下に悲鳴があった。
「あらたいへん――たいへんよ! 汽車が燃えてるわ!」
エルシーとパーカー・パイン氏は、はじかれたように廊下にとび出した。逆上したスラヴ系の顔の女が、大げさに指さしていた。前のほうの客室の一つから煙がもくもくと吹き出している。パーカー・パイン氏とエルシーは廊下を走った。他の乗客もこれに加わった。問題の客室には煙が充満していた。まっさきに駆けつけた人たちは、咳こんで後ずさりした。車掌が姿を現わして、大声をあげた。
「その客室は空です! 騒がないでください。|messieurs et dames《メシュー・エ・ダーム》(みなさん)。|Le feu《ル・フー》(火)は消しとめます」
興奮した質問と答えがいっせいにとりかわされた。列車はヴェネチアと本土を結ぶ鉄橋の上を走っていた。
突然パーカー・パイン氏はきびすを返すと、背後の人混みをかきわけて、エルシーの車室に向かって廊下を急いだ。スラヴ系の顔をしたさいぜんの女が座席にすわって、開いた窓から深呼吸をしている。
「失礼、マダム」パーカー・パイン氏はいった。「部屋をおまちがえのようですね」
「わかってます、わかってます」スラヴ女はいった。「|Pardon《パルドン》(ごめんなさい)。ショックなんです。気が転倒して――心臓が……」彼女は座席に深々ともたれて、開いた窓を示した。そして息もたえだえに呼吸をした。
パーカー・パイン氏は戸口に立ったまま、父親のような安心感をあたえる声でいった。
「こわがることはありませんよ。火事が大事にいたる心配は、まったくありません」
「大したことないんですか? まあ、よかった! ほっとしたわ」彼女はなかば腰を浮かした。「じゃ、自分の部屋にもどることにしますわ」
「まだ、いけませんな」パーカー・パイン氏は手まねで、そっと彼女を押しもどした。「しばらくお待ちいただきたいのですがね、マダム」
「ムシュー、乱暴はよしてください!」
「マダム、お待ちねがいましょう」
彼の声は冷やかに凛《りん》とひびいた。女はじっと腰をおろして、彼の顔を見つめていた。そこヘエルシーがやって来た。
「発煙弾のようですわ」エルシーは息をきらしていった。「たちの悪いいたずらですわね。車掌さんはかんかんでした。皆にたずねてまわって――」彼女は部屋の中にいる、もう一人の人物に気がついて絶句した。
「ジェフリーズさん」パーカー・パイン氏はいった。「あなたは緋色の小箱に何を入れています?」
「宝石類ですわ」
「おそれ入りますが、全部|揃《そろ》っているかどうか、中身を調べていただけませんか」
とたんにスラヴ女はべらべらとしゃべり出した。彼女は自分の感情をより率直に表現しようとしてか、急にフランス語を使いはじめた。一方、エルシーは宝石ケースをとり上げた。
「まあ!」彼女は叫んだ。「鍵が開いてるわ」
「……|et je porterai plainte a la Compagnie des Wagons-Lits《エ・ジュ・ポロトレ・プレーント・ア・ラ・コンパニー・デ・ヴァーゴン・リー》(あたしは寝台車の車掌に文句をいってやりますよ)」スラヴ女はしゃべり終えた。
「なくなってるわ!」エルシーは叫んだ。「すっかりないわ! あたくしのダイヤの腕輪。それからパパにもらったネックレスも、エメラルドとルビーの指輪も。それに、きれいなダイヤのブローチもいくつか。真珠はつけていてよかったわ。ああ、パインさん、どうしましょう?」
「車掌を呼んで来てくれませんか」パーカー・パイン氏はいった。「車掌が来るまで、わたしはこの婦人が、この車両から出ないように見張っていますから」
「|Scelrat! Mostre!《セレラ・モンストル》(悪党! ならず者!)」スラヴ女は金切り声をあげた。そして、もっとひどい罵詈《ばり》ざんぼうを浴びせかけた。列車はヴェネチアに入って行った。
そのあとの三十分間に起きたことは、要約して述べるとしよう。パーカー・パイン氏は数人の役人に、それぞれ数カ国語の言葉で交渉した――だが結果は彼の敗北に終わった。嫌疑をかけられた当の女は身体検査を承諾した――そして身の潔白を立証したのである。彼女は宝石を身につけてはいなかった。
ヴェネチアとトリエステの中間で、パーカー・パイン氏とエルシーはこの事件を論じ合った。
「あなたが事実上、最後に宝石を見られたのはいつのことです?」
「けさですわ。あたくし、きのうつけていたサファイアのイヤリングをはずして、飾りのない真珠のとつけかえましたの」
「で、そのさい、宝石類はそっくりそのまま、あったんですね?」
「そうですわね、とくに全部に目を通しはしませんでした。でも、いつもと変わりないように見えました。指輪の一つくらいは、なくなっていたかもしれませんが、それ以上じゃありませんわ」
パーカー・パイン氏はうなずいた。
「では、けさ車掌がこの車室をかたづけに来た時はどうでした?」
「あたくし、ケースを持って食堂車にいました。いつも持ち歩くことにしているんですの。さきほどとび出した時以外は、手離したことありませんわ」
「それでは、あのぬれぎぬを着せられたと言い張った、スバイスカ夫人とか自称する女が犯人に|ちがいない《ヽヽヽヽヽ》。しかし、いったい彼女は盗んだものをどう処分したんだろう? ここにいたのはわずか一分半ばかりだから――ちょうど合鍵でケースを開けて、中身をとり出す暇はある――そうだ、しかしそれから?」
「誰かほかの人に渡したのでは?」
「むずかしいですな。わたしは、しゃにむに人混みをかきわけて廊下を歩いてきたんですよ。もし、この車室から出て来た者がいたら、目にとまったはずです」
「もしかしたら、窓から誰かに投げたのかもしれませんわ」
「名推理です。だが、たまたまその時、列車は海の上を渡っていた。鉄橋の上にさしかかっていたのです」
「じゃ、どうしても車内に隠してあるのにちがいありませんわ」
「捜してみましょう」
アメリカ人らしく、てきぱきと、エルシーは捜査を開始した。パーカー・パイン氏はいくぶん気のり薄のていで、それに加わった。熱が入っていないのをとがめられると、彼は弁解した。
「トリエステで少々大事な電報を打たなくてはと考えていたもので」
エルシーは彼の弁明を冷たく聞き流した。パーカー・パイン氏は彼女の心証をすっかり害してしまっていた。
「さぞお怒りのことと思いますが、奥さん」彼は低姿勢でいった。
「そう、あまり役に立っていただいたとは申せませんわね」彼女はきめつけた。
「でも奥さん、わたしは探偵ではありません。その点をお忘れなく。盗難や犯罪はまったく専門外でして、人間の心の問題が、わたしの領分なんです」
「そりゃあ、あたくし、この列車に乗り込んだ時は、ちょっぴり悩んでいましたわ。でも今のあたくしにくらべれば、くらべものになりませんわ! 大声をあげて泣き出したいくらいよ。あたくしのきれいなあの腕輪――それから婚約した時にエドワードがくれたエメラルドの指輪」
「むろん盗難保険は、かけていらっしゃるんでしょうね」パーカー・パイン氏は口をはさんだ。
「保険ですって? わかりません。そう、かけていると思います。でもこれは気持ちの問題ですわ、パインさん」
列車はスピードを落とした。パーカー・パイン氏は窓外をのぞいた。
「トリエステだ。電報を打たなくてはなりません」
「エドワード!」
イスタンブールのプラットホームで、急いで迎えに駆けつけた夫を見て、エルシーの顔はパッと輝いた。宝石をなくしたことさえ、当面彼女の頭から消え失せた。吸取り紙の奇妙なことはもう忘れていた。夫と別れて二週間になること、きまじめで固苦しいけれど、じつは夫がとてもすてきなひとだということ、ただそれだけしか念頭になかった。
二人が駅を出ようとしていると、エルシーは親しげに肩をポンとたたかれた。振り返ると、パーカー・パイン氏だった。彼は温顔を愛想よくほころばせていた。
「奥さん、半時間以内にトカトリアン・ホテルまでお越しくださいませんか? いいお知らせがあるかもしれませんので」
エルシーはどっちつかずのようすで、エドワードを見た。それから二人をひきあわせた。
「こちら――あの――主人ですの――こちらはパーカー・パインさん」
「奥さまがあなたに電報をお打ちになったことと思いますが、じつは奥さまの宝石類が盗まれました」パーカー・パイン氏はいった。「なんとかとりもどせるように、できるだけのお手伝いはしております。約半時間のうちには、知らせが入ると思います」
エルシーは、うかがうようにエドワードの顔を見た。彼はたちどころに答えた。
「行ったほうがいいよ。トカトリアン、とおっしゃいましたね、パインさん。承知しました、家内をうかがわせるようにいたしましょう」
エルシーがパーカー・パイン氏の居間に通されたのは、ちょうどそれから半時間後のことだった。彼は立ち上がって彼女を迎えた。
「わたしにご失望ですな、奥さん。いやいや、否定なさることはありません。手品の真似をするわけではありませんが、わたしは、できるだけのことはする男です。この中をちょっとごらんください」
彼はテーブル越しに、頑丈な小型のボール紙製の箱をすべらせてよこした。エルシーは箱を開けた。指輪、ブローチ、腕輪、ネックレス――全部そっくりそのまま入っていた。
「パインさん、なんてまあ! なんて――すばらしいんでしょう!」
パーカー・パイン氏は、つつましく微笑した。
「あなたのご期待にそむかずにすんでなによりです、奥さん」
「まあ、パインさん。あたくし、ほんとに恥ずかしいわ! トリエステ以来、あたくし、あなたにつんつんしていたのに――それが、こうして……。でも、どうやって手に入れましたの? いつ? どこで?」
パーカー・パイン氏は考え深げに首を振った。
「話せば長くなります。いずれお耳に入るでしょう。いや、もうじき、お耳に入るでしょう」
「なぜいま、お聞きしてはいけませんの?」
「いろいろと事情がありましてね」パーカー・パイン氏は答えた。
そこでエルシーは好奇心を満たされないまま、帰らなければならなかった。
彼女が辞去すると、パーカー・パイン氏は帽子とステッキをとりあげてペラの街に出て行った。彼はひとりで、ほほえみながら歩いて、やがてゴールデン・ホーン〔イスタンブールの港〕を見下ろす、こじんまりした喫茶店にやって来た。その時刻には、ほとんど客がいなかった。反対側にはイスタンブールの回教寺院が、ほっそりした塔を午後の空にくっきりと浮き出させていた。きわめて美しい眺めであった。パイン氏は煙を下ろしてコーヒーを二つ注文した。濃厚で甘いコーヒーが運はれて来た。ちょうど自分のに口をつけた時、向かい側の席に一人の男がすべり込んだ。エドワード・ジェフリーズである。
「きみにもコーヒーを注文しておきましたよ」パーカー・パイン氏は小さなカップを指さしていった。
エドワードはコーヒーを横へ押しやった。そしてテーブル越しに身をのり出した。
「どうしてわかったんです?」と彼はたずねた。パーカー・パイン氏は、陶然《とうぜん》としてコーヒーをすすった。
「奥さんは吸取り紙の上で発見したことをお話しになりましたかね! なに、話されない? じゃ、いまに話されるでしょう。いまのところ、胴《ど》忘れしておられるのですな」
彼はエルシーの発見したことを語った。
「ま、こういうわけでして、それがヴェネチアの少し前で起きた奇妙な事件とぴったり一致するんですな。何かの事情で、あなたは奥さんの宝石類を盗もうとたくらんでいた。だが『ヴェネチアのちょっと手前が最適の時間だ』という文句はどういうわけか? まるで意味をなさないように思えましたね。なぜ、あなたは、あなたの――手先――に、つごうのいい場所と時間を選ぶように、任せなかったのか?
そこで、突然、要点が読めました。奥さんの宝石類は、あなたがロンドンを発つ前に盗まれてまがいものとすりかえられていたのです。だがその解決では、あなたはご不満だった。あなたは高潔にして良心的な青年でした。召使かほかの無実の人間に嫌疑がかかるのをあなたはおそれたのです。あなたの家人や知人のなんぴとにも疑いがかからない方法と場所で――盗難は実際に起こらなければならなかったのです。
あなたの共犯者は宝石ケースの鍵と発煙弾を持たされた。正確に、その時刻に彼女は急を告げて、奥さんの車室にとび込み、宝石ケースの鍵をあけ、中のまがいものを海中に投げ込む。たとえ嫌疑をうけて身体検査をされたところで、不利な証拠は何もあがらない。なにしろ、宝石類は手元にないのですからね。
さて選定された場所の意味が、これで明らかになります。もし単に宝石類が線路のわきに投げ捨てられただけなら、いずれ発見されるでしょう。だから列車が海上を通過しているその瞬間が重要になってくるわけです。一方あなたは、当地でくだんの宝石類を売却する手はずをたてていました。盗難が現実に起こったら、あとは、ただその宝石類を引き渡すだけでよかった。しかしながら、わたしの打った電報が、その寸前にあなたに届いた。あなたはわたしの指示にしたがい、宝石の入った箱をトカトリアンに預けて、わたしの到着を待った。そうしないと、この事件を警察の手にひき渡しますぞという脅迫を、わたしが実行に移すことがわかっていたからです。それであなたは、わたしとここで落ち合うという指示にも従いました」
エドワード・ジェフリーズは哀願するようにパーカー・パイン氏を見た。顔立ちのととのった、長身金髪の青年で、まるいあごと、ひときわつぶらな目をしている。
「なんと説明したら、わかっていただけるやら」と彼は絶望的にいった。「あなたにはきっと、ぼくがそこいらの泥棒と同じに見えるでしょうね」
「とんでもない」パーカー・パイン氏は答えた。「その逆ですよ。あなたはお気の毒なくらい正直な人だ。わたしは人間のタイプを見わけるのはお手のものです。あなたはどう見ても犠牲者の部類に属する人物です。さあ、すっかり話してごらんなさい」
「それは――ゆすり――の一語につきるのです」
「なるほど?」
「あなたは家内をごらんになった。|あれ《ヽヽ》がとんなに純潔無垢でけがれを知らぬ女であるか、おわかりいただけたと思います」
「そのとおりですよ」
「彼女はまったくおどろくほど純粋な理想を持っています。もしも彼女が――ぼくのしたことについて何か感づいたら、ぼくと別れるでしょう」
「どうですかな。だが、それは問題の要点ではありません。あなたは何をしでかした、というんです? どうやらご婦人関係のことのように思いますが?」
エドワード・ジェフリーズはうなずいた。
「結婚後ですか――それとも前?」
「前です――むろん前です」
「なるほど。で、どういうことなんです?」
「まったく、なんでもないことなんです。そこがこの話の辛《つら》いところなんですよ。西インド諸島のホテルでのことでした。ロシター夫人というたいへん魅力的な女が滞在していました。彼女の夫というのが横暴な男で、なんともひどい癇癪《かんしゃく》持ちでした。ある晩、拳銃で彼女をおどかしたのです。そこで夫から逃がれて、ぼくの部屋へ逃げて来ました。彼女は恐怖で半狂乱のていでした。彼女は――朝まで置いてくれと頼んだんです。ぼくには――ほかにどうしようもなかったのです」
パーカー・パイン氏は青年の顔をじっと見つめた。青年も隠せずに、じっと見返した。パーカー・パイン氏はため息をついた。
「ということは、つまり、はっきりいって、あなたは罠にかかったわけですよ、ジェフリーズさん」
「ほんとに――」
「そうなんです。まったく古い手です――ですが騎士気どりの青年にたいしては、しばしば成功を収める手です。それであなたがたの結婚が近いことが公表されると、脅迫して来たというわけでしょう?」
「ええ、手紙が来ました。もしも、これこれの額の金を送らなければ、未来の舅《しゅうと》に全部ぶちまけるというのです。ぼくがどうやって――あの若い女の愛情を夫から自分に向けさせたか、とか、彼女がぼくの部屋にかよって来るのを人に見られたこととか、そんなことが書いてありました。その夫は離婚訴訟を起こすというのです。パインさん、実際、ありとあらゆることが、ぼくをもっとも下劣な無頼漢にしたてあげてあったのです」彼は苦しそうに額を拭《ぬぐ》った。
「ええ、よくわかりましたよ。そこであなたは金を払った。それからは時々、脅迫がくり返された」
「ええ、それであげくの果てに、こういうことになりました。ぼくは、他人の現金に手をつけることだけはできませんでした。それでこの計画を思いついたのです」彼は冷えたコーヒーをとりあげて、ぼんやりとそれを見つめてから飲んだ。「どうしたらいいでしょう?」彼は哀れっぽくきいた。「ぼくはどうしたらいいのでしょう、パインさん?」
「わたしのいうとおりにしてください」パーカー・パイン氏はきっぱりといった。「あなたを苦しめている相手には、わたしが当たりましょう。それから、奥さんのことは、これからまっすぐに帰って真実をお話しなさい――あるいは少なくともその一部をね。真実を述べるのを避けなければいけない唯一の点は、西インド諸島で実際に起こった事実に関するところだけです。自分が――その――さっきもいったように、まんまとわなにひっかかったという事実は隠さねばなりませんよ」
「でも――」
「ジェフリーズさん。あなたにはご婦人というものがおわかりになっていない。ご婦人に、ドンファンと、女にひっかけられるような男とどっちかを選ばせたら、ドンファンを選ぶのに決まっています。ジェフリーズさん、あなたの奥さんは愛らしくて純情で、高潔な心の持ち主です。だから、あなたとの結婚生活から奥さんが刺激を受ける唯一の方法は、奥さんが自分で放蕩者を改心させたと思いこむことだけですよ」
エドワード・ジェフリーズはポカンとして相手を眺めた。
「冗談をいっているのではありません」パーカー・パイン氏はいった。「現在、奥さんはあなたを愛しておられる。だが、もしもあなたが、ほとんど退屈ともいえる、その善良で正直な一面ばかりを今後も奥さんに見せつづければ、奥さんの愛情が変わるかもしれんというきざしが、わたしには見えるのです」
エドワードはたじろいだ。
「さあ、奥さんのところへいらっしゃい」パーカー・パイン氏はやさしくいった。「何もかも隠さずに告白するんですよ――つまり思いつく限りのことをいうのです。それから次に、奥さんと会ってからというもの、こんな生活とはすっかり縁を切ったと弁明なさい。奥さんの耳に入れないために盗みまでやった、というのです。奥さんは熱狂的にあなたを許してくれるでしょう」
「でも実際には、何も許してもらうことがないのに――」
「真実とはなんです? わたしの経験から申せば、真実とは往々にして、ものごとを台なしにしてしまうものですよ! 結婚生活では女に『嘘をつかなくてはならない』というのが根本原理です。女はそれが好きなのです! さあ、行って許しを乞いなさい。そして末長く楽しく暮らすことです。おそらく奥さんは今後、美人が現われるたびに、あなたに油断なく目を光らせることでしょう――そういうのをいやがる男性もいますが、あなたはそうではないと思いますな」
「ぼくはエルシー以外の女性には、絶対に目を向けたいと思いません」ジェフリーズは、あっさりいってのけた。
「けっこうです」パーカー・パイン氏はいった。「ですが、わたしなら、それは奥さんに知らせないようにしますね。どんな女性でも、あまり平坦な人生を好まないものですからね」
エドワード・ジェフリーズは立ち上がった。「あなたは本気で?」
「経験者は語る、ですよ」パーカー・パイン氏は力をこめていった。
[#改ページ]
バグダッドの門
[#ここから1字下げ]
ダマスカスの都には、四つの大いなる門あり……
[#ここで字下げ終わり]
パーカー・パイン氏はフレッカー〔イギリスの詩人〕の詩のひとくさりを小声で口|誦《ずさ》んだ。
[#ここから1字下げ]
運命の裏門、砂漠の門、災厄《さいやく》の洞窟、恐怖のとりで
われはバグダッドの門、ディアルべキル〔悪魔〕の通路なり
[#ここで字下げ終わり]
彼はダマスカスの街にたたずんでいた。オリエンタル・ホテルの外には六車輪の大型プルマン車が一台とまっているのが見えた。あす砂漠を越えて、彼とあと一人をバグダッドに運ぶのだ。
[#ここから1字下げ]
その下をくぐるなかれ、おお隊商《キャラバン》よ
はたまた歌いつつ、くぐるなかれ
鳥どもの死に絶えたるに
なお鳥のごとく、何ものかさえずる
あの静寂を聞きたまいしや?
下をくぐれ、おお隊商《キャラバン》よ
運命の隊商《キャラバン》。死の隊商《キャラバン》よ!
[#ここで字下げ終わり]
今ではこれと対照的だ。過去においてバグダッドの門は死の門であった。隊商《キャラバン》は四百マイルの砂漠を越えなければならなかった。何カ月もの長い退屈な旅路。しかし今では、どこにでもあるガソリンを食う怪物が、三十六時間で旅をすませてしまう。
「なんておっしゃって、パーカー・パインさん?」
それは一行の中で一番若くて美しいミス・ネッタ・プライスの意気ごんだ声だった。聖書の教えに絶えず飢えていて、おまけにひげでも生やしてやしないかと思えるほど厳格そのものの叔母《おば》につきまとわれているものの、ネッタはなんのかんのと他愛ないことをしては、けっこう楽しんでいた。もっとも、叔母のほうのミス・プライスが気づいたら、おそらく許しそうもないことだったが。
パーカー・パイン氏はフレッカーの詩を復唱してきかせた。
「まあ、いかすわね!」ネッタがいった。
空軍の制服を着た男が三人そばにいたが、そのうちの一人で、ネッタを崇拝している男が突然、話に割り込んで来た。
「まだまだこの旅行には、いかすことがありますよ。いまだに護衛隊が時どき賊に狙撃されるんですからね。それに道に迷う人だって――往々にしてあるんですよ。そうなると、われわれが捜索に狩り出される。五日間も砂漠で行方不明になった男がいましたよ。幸い水はたっぷり持っていましたがね。それから道路は穴ぼこだらけです。ひどい穴がありますよ! 一人死にましたがね。いや、ほんとの話ですよ! やっこさん眠っていて頭を車の天井にぶっつけたんです。それで一巻の終わりですよ」
「六輪車でですの、オルークさん?」年かさのほうのミス・プライスがきいた。
「いや――六輪車じゃありませんでしたが」青年は答えた。
「でも、いくらか見物もしなくちゃあね」ネッタが大声をあげた。
叔母は案内書をとり出した。
ネッタは尻ごみした。
「叔母さんたら、聖パウロが窓から吊り下ろされた場所なんかに行きたがるんですもの」彼女はささやいた。「あたしは断然|市場《バザール》が見たいのよ」
オルークは間髪を入れずに答えた。
「ぼくといっしょにいらっしゃい。まずストレートという通りから出発して――」
二人はこっそり、その場を離れた。
パーカー・パイン氏は傍らにひっそりと立っている男の方を向いた。ヘンスリーという名前で、バグダットの公共事業庁に勤務している男だ。
「ダマスカスというところは初めて見ると、ちょっと、がっかりしますね」パイン氏は、弁解がましくいった。「少々ひらけすぎてるんですね。電車、モダンな住宅、そして商店」
ヘンスリーはうなずいた。口かずの少ない男だ。
「世界の果て――だと思いがち――ですがね」彼は|とつとつ《ヽヽヽヽ》としゃべった。
別の男がふらりとやって来た。由緒あるイートン校のタイを結んだ金髪の青年である。愛嬌はあるが、やや間のびのした容貌で、どうやら悩みごとがあるような顔つきだ。その男とヘンスリーは同じ職場で働いているのだ。
「やあ、スメザースト」友人が声をかけた。「捜しものかい?」
スメザースト主任は首を振った。この青年は頭のめぐりがいくらかおそい。
「ぶらぶらしてるだけさ」スメザーストは、あいまいに答えて、それから急にわれに返ったようすで、「今夜はお祝いをしなくちゃな、どうだい?」
友人二人はいっしょに歩み去った。パーカー・パイン氏は地方紙のフランス語版を買った。
記事は、さしておもしろいものではなかった。地方のニュースは彼にとってなんの意味もなかったし、どこにも大した事件は起こっていないようだった。彼は「ロンドル〔ロンドン〕」という見出しのついた短い二、三の記事に目をとめた。
初めのは財政関係の記事で、二番目の記事には背任横領の金融業者、サミュエル・ロング氏の立ちまわり先と推定される土地のことが出ていた。彼の使い込みは、いまや三百万という額に達し、当人は南米に到着したという噂だった。
「三十になったばかりの男にしては上出来だな」パーカー・パイン氏はいった。
「なんですって?」
パーカー・パイン氏がふり向くと、一人のイタリア人と顔が合った。ブリンディシからベイルートまで同船してきた男だ。
パーカー・パイン氏は自分のことばを説明した。イタリア人のシニョール・ポーリは何度もうなずいた。
「大した悪党ですよ、あの男は。イタリアでも被害をこうむりましたが、なにしろ世界中を信用させたんですからねえ。毛並みもいいという話ですが」
「イートンとオックスフォードの出身ですよ」パーカー・パイン氏は用心深くいった。
「つかまると思いますか?」
「どれだけ捜査陣を出し抜いてるかということになりますね。まだイギリスにいるのかもしれない。どこにいるのかわかったもんじゃありません」
「われわれといっしょにここにいるかも?」イタリア人は、はっはっと笑った。
「考えられることですな」パーカー・パイン氏は、くそまじめな調子をくずさなかった。「ひょっとするとわたしが彼かもしれませんよ」
シニョール・ポーリは驚いて相手を見た。それから冗談とわかって、オリーブがかった褐色の相好《そうごう》をくずした。
「ほう! そいつは大したもんだ――いやまったくの話。しかしあんたは――」
彼は視線をパーカー・パイン氏の顔から、だんだん下に移した。
パーカー・パイン氏は、その視線の意味するものを的確につかんだ。
「外見によって判断してはなりませんよ」彼はいった。「ちょっとばかし――そのう――肉をつけるのは簡単なことだし、それで、かなり老けた感じを出すことができますからね」
パイン氏は、うっとりとしていい足した。「それに、むろん毛髪をそめるという手もあるし、顔料もある。国籍を変えることだってできます」
ポーリは気味悪そうに後ずさりした。イギリス人というやつは、どこまで本気なのか、彼にはさっぱりつかめないのだ。
パーカー・パイン氏は、その夜、映画を見て楽しんだ。そのあと、さる「夜の歓楽境」に案内された。彼の目から見れば、それは歓楽境といえるようなものではなかった。さまざまなご婦人たちが踊りを見せたが、どうにも|Verve《ヴェルプ》(活気)がなかった。拍手も気が入っていない。
突然パーカー・パイン氏はスメザーストを見つけた。くだんの青年は一人でテーブルについていた。顔はまっかで、パーカー・パイン氏には、彼がすでに度を過ごして飲んでいることがわかった。パイン氏はつかつかとそばに行って、青年といっしょになった。
「けしからん、あの女たちの客扱いはなんだ」スメザースト主任はくだを巻いた。「二杯――三杯――何杯も飲ませてやった。それなのに女はげらげら笑いながら、イタリア野郎かなんかと、どこかへ行きやがる。けしからんとは、このことだ」
パーカー・パイン氏は同情した。そしてコーヒーをすすめた。
「いまアラクが来るよ」スメザーストはいった。「なかなかいけますぜ。まあためしてみなよ」
パーカー・パイン氏はアラク産の酒の特性を知っていた。そこで気転をきかせて、切りあげるようにいってみたが、スメザーストは首を振った。
「ちょいと困ったことがあってね。憂さ晴らしをしなくちゃ。あんたがおれの立場ならどうするかは知らんよ。おれは仲間を裏切るのは、きらいなんだよ、な? つまり――それでも――いったいどうすれはいいんだってことよ?」
彼はいまはじめて気がついたかのように、パーカー・パイン氏の顔をしげしげと見た。
「あんたは誰だい?」と酒の勢いで、ぞんざいな口をきいた。「仕事はなんだよ?」
「信用詐欺でね」パーカー・パイン氏は穏やかにいった。
スメザーストは強い関心を示して相手をみつめた。
「なんだって――あんたもかい?」
パーカー・パイン氏は、財布から切抜きを取り出して、スメザーストの前のテーブルの上に置いた。
「あなたは不幸ですか?――不幸なかたはパーカー・パイン氏にご相談ください」
スメザーストは苦労して、それに焦点を合わせた。
「こいつはやられた」彼は思わず大声をあげた。「つまり何かい、そのう――あんたのところへ人が相談にくるっていうのかい?」
「皆さんが信用してくれます」
「どうせくだらん女どもが、わんさと来るんだろう」
「女性はたくさん来ますよ」パーカー・パイン氏はみとめた。「が、男性も来られる。お若いの、あなたはいかがです? いま、忠告が必要ではないですか?」
「うるさいぞ」スメザースト主任はいった。「他人の知ったこっちゃない――おれだけのことだ。ちくしょう、アラクはどこだ?」
パーカー・パイン氏は気の毒そうに首を振った。
スメザースト主任は手におえないので、あきらめることにした。
バグダット行きの一隊は午前七時に出発した。一行は十二人だった。パーカー・パイン氏にシニュール・ポーリ、ミス・プライスとその姪《めい》、三人の空軍士官、スメザーストとヘンスリー、それからべンテミアンというアルメニア人の母親と息子。
旅は平穏に始まった。ダマスカスの果樹も間もなく背後になった。
曇天で、若い運転手は気がかりそうに二度空を見上げた。彼はヘンスリーとことばをかわした。
「ルトバのあちら側ではずいぶん降《ふ》ったんでね。立ち往生なんてことにならなきゃいいが」
一行は正午に停車した。四角い紙箱に入った昼食が配られた。二人の運転手がお茶をいれ、紙コップに注《つ》いで配った。一行はふたたび果てしない平野を越えて車を進めて行った。
パーカー・パイン氏は、あののろのろと進む隊商《キャラバン》と、何週間もかかる昔の旅路のことに思いを馳《は》せた――
ちょうど日没の頃、一行はルトバの砂漠の|とりで《ヽヽヽ》に到着した。大きな門には閂《かんぬき》がかかっていなかったので、車は門を通過して、とりでの中庭に入って行った。
「いかす感じね」ネッタがいった。
手や顔を洗ったあとで、彼女はぜひ散歩に行きたいといい出した。オルーク航空大尉とパーカー・パイン氏がおともを申し出た。出かけようとしていると、マネージャーがやって来て、暗くなってからだと道がわからなくなるから、あまり遠出をしないようにと頼んだ。
「ちょいと行ってみるだけですよ」オルークは約束した。
あたりの景色がいっこうに変わりばえがしないので、散歩はまったくおもしろくなかった。
一度パーカー・パイン氏はかがんで何かを拾いあげた。
「なんですの?」ネッタはめずらしそうにきいた。
パーカー・パイン氏は彼女のほうへさし出した。
「有史以前の燧石《ひうちいし》ですよ、ミス・プライス――一種の|きり《ヽヽ》ですな」
「――それで――殺し合いをしたのかしら?」
「いいえ――もっと平和な用途があったのですよ。だが、もし殺そうと思えば、できたでしょうな。殺したいという願望《ヽヽ》が問題なんです――道具だけでは、どうということはありません。道具なんか、どこにでも転がっているものですよ」
夕闇が迫って来たので、三人はとりでに駆けてもどった。
いろいろな缶詰料理の夕食が終わったあと、一同は、ゆっくりとタバコをふかした。車は十二時に出発する予定だった。
運転手は心配顔だった。
「近くに土地の悪いところがあるんです。立ち往生するかもしれません」
一同は大型車に乗り込んで場所をとった。ミス・プライスはスーツケースの一つに手が届かないというので、ご機嫌ななめだった。
「寝室用のスリッパを出したいの」彼女はいった。
「それよりゴム長が要《い》りそうですよ」スメザーストがいった。「この状態だと、泥の海に立ち往生しそうですよ」
「あたしストツキングの換えも持って来ていないのよ」
「だいじょうぶですよ。あなたはじっとしていらっしゃい。野郎だけが外に降りて押せばいいんです」
「いつもソックスの換えは持ち歩くことにしてるんだ」ヘンスリーはオーバーのポケットをたたいていった。「まさかの時の用心にね」
車内灯は消された。大きな車は夜の閣の中に出発した。道はあまりよくなかった。小型車ほどは揺れなかったが、それでも時たまひどくゆれた。
パーカー・パイン氏は前部の席を占めていた。通路の向こうにアルメニア婦人がひざかけやショールにくるまっていた。息子はその背後にいた。パーカー・パイン氏の背後には二人のミス・プライスがいた。ポーリ、スメザースト、ヘンスリー、それに空軍士官たちは後部の席だ。
車は闇の中をつっぱしった。パーカー・パイン氏はなかなか寝つけなかった。なんとも窮屈な格好だった。アルメニア婦人は足を投げ出して、彼の領分を侵している。いずれにせよ、彼女自身は楽な姿勢だった。
ほかの者はみんな眠っているらしかった。パーカー・パイン氏がうとうとしかけていると、突然、衝撃を受けて、彼は車の天井に跳ね上がった。後部からは眠そうに文句をいう声が聞こえた。「気をつけろい。首を折ろうってのか?」
やがて眠気がもどって来た。数分後に、パーカー・パイン氏は窮屈そうに首をうなだれて眠りに落ちた……。
突然、パイン氏は目をさました。車は停まって、男が何人か外へ降りていた。ヘンスリーがぽつりといった。
「立ち往生です」
ようすを見ようとして、パーカー・パイン氏は、用心しいしい泥の中へ降り立った。もう雨はやんでいた。事実、月が昇っていた。そしてそのあかりで、運転手たちがジャッキや石を使って車を持ち上げようと、やっきになって作業しているさまが見えた。大部分の男たちが手伝っている。車の窓からは、三人の婦人が顔を出して眺めていた。ミス・プライスとネッタは興味津々、アルメニア婦人は険悪の情を隠しきれないでいる。
運転手の命令一下、男の乗客たちは従順に車を持ちあげた。
「あのアルメニア人の息子はどこだ?」オルークがきいた。「やつにも手を貸してもらおうぜ」
「スメザースト主任もだ」ポーリが口を出した。「やつもいないぞ」
「あいつめ、まだ眠ってるぞ、見ろよ」いかにもスメザーストは首を前に垂れ、全身をぐつたりさせて席にすわったままだった。
「起こしてこよう」オルークがいった。
彼は乗車口からとびこんだが、ややあって、ふたたび姿を現わした時には口調が変わっていた。「ちょっと。やつは病気らしいんだ。軍医はどこだい?」
白髪まじりの落ちついた空軍医ロフタス少佐が、車輪のそばの人群から離れた。
「どうしたんだね?」
「それが――わからないんです」
軍医は車内に入った。オルークとパーカー・パイン氏がそれにつづいた。軍医はぐつたりとなったスメザーストのからだの上にかがみ込んだ。ちょっと見て、さわるだけで充分だった。
「死んでいる」ロフタスは静かにいった。
「死んでいるって? でもどうして?」質問が矢つぎばやに浴びせられた。
「まあ、なんておそろしい!」といったのはネッタだった。
ロフタスはいらだたしそうに周囲を見まわした。
「てっきり天井に頭をぶっつけたんだな。ひどい穴ぼこが一カ所あった」
「確かにそのせいなんですか? ほかに何か?」
「よく診《み》てからでないと、なんともいえんよ」ロフタスはそっけなくいって、困ったように周囲を見回した。女たちはこわごわ、そばに寄ってきた。外にいた男たちも、いっせいに、車内に入りはじめた。
パーカー・パイン氏は運転手に話をした。彼は屈強な、体格のいい青年で、婦人客を一人ずつ順番に抱え上げると、泥の上を越えて乾いた地面に下ろした。マダム・ペンテミアンとネッタとは軽々と運ばれたが、どっしりしたミス・プライスの重量には、さすがの彼もよろめくしまつだった。
車内は軍医が検死できるように、すっかり空《から》になった。
男たちは車を持ち上げる作業にもどった。まもなく太陽が地平線の上に昇った。すばらしい上天気だった。泥は急速に乾いて来たが、車はエンコしたままだった。ジャッキはすでに三つ折れ、今までのところは、いかなる努力も水泡に帰した。運転手は朝食の用意を始めた――ソーセージの缶詰を開け、お茶のために湯を沸かした。
少し離れたところでは、ロフタス少佐が診断を下していた。
「外傷もないし痕跡もない。さっきもいったように、天井で頭を打ったのにちがいないね」
「自然死ということで、なっとくされるんですね?」パーカー・パイン氏はたずねた。
その声には何か含むところがあったので、軍医は、はっとしてパイン氏の顔を見た。
「ほかに一つだけ可能性がある」
「というと」
「誰かが砂袋のようなもので後頭部を殴打したということだ」少佐の声は弁解がましくひびいた。
「まずあり得ないことでしょうね」もう一人の空軍将校のウィリアムスンがいった。彼は童顔の青年だった。「つまり、誰にも見られずに、そんなことはできないという意味です」
「みんな眠っていたら?」軍医が示唆《しさ》した。「犯人には、その確信が持てませんよ」相手が指摘した。「立ち上がったりなんかしたら、誰かが目をさましたはずです」
「もしもできるとすれは」ポーリがいった。「それは彼の後ろにすわっていたものだけだ。頃合いが見はからえるし、席から立ち上がる必要もない」
「スメザースト主任の後ろにすわっていたのは誰だね?」軍医はたずねた。
オルークがすぐさま答えた。
「ヘンスリーです、少佐――だからその線はだめでしょう。ヘンスリーはスメザーストの無二の親友でした」
沈黙がつづいた。やがてパーカー・パイン氏の確信のある穏やかな声がひびいた。
「どうやらウィリアムスン空軍大尉が何かご存じのようですな」
「ぼくですか? 別に――その――」
「いえよ、ウィリアムスン」オルークがいった。
「なんでもないんですよ、ほんとに――」
「話せよ」
「ちょっと話を小耳にはさんだだけなんですが――ルトバの中庭でのことです。ぼくはシガレットケースを捜しに六輪車にもどったんです。あちこち捜していましたら、男が二人、車のすぐ外で話をしていました。一人はスメザーストでした。彼は――」
ウィリアムスンはことばを切った。
「さあ、先をつづけろよ」
「仲間を裏切るにしのびないとかなんとか、いっていました。非常に悩んでいるようすでした。それから『バグダットに着くまでは黙っている――が、そのあとは一分でもだめだ。あんたは早く逃げなきゃならん』」
「それで、相手の男は?」
「わかりません。誓ってもいい、ほんとうです。暗かったし、相手は一言二言しゃべりましたが、聞きとれませんでした」
「あなたがたの中で、スメザーストをよく知っているのは誰ですね?」
「その仲間《ヽヽ》という言葉は、ヘンスリー以外のものを指しているとは考えられませんね」オルークはゆっくりといった。「ぼくはスメザーストを知っていましたが、それも、ごくわずかです。ウィリアムスンはここへ来たばかりだし――ロフタス少佐もご同様です。ご両人とも以前に彼に会っておられないと思いますが」
二人はそのとおりだといった。
「ポーリ、あなたは?」
「あの青年に初めて会ったのは、ベイルートからレバノン越えの車中でです」
「あのアルメニア人は?」
「仲間のはずがありません」オルークはきっぱりといった。
「そこで少々つけ足したい証拠があるんですがね」パーカー・パイン氏はいった。
そして、ダマスカスのカフェで、スメザーストとかわした会話をくり返して聞かせた。
「彼は『仲間を裏切りたくない』といういい方をしたんですね」オルークは考え込みながらいった。「それに悩んでもいた」
「ほかにどなたか、つけ加えることはありませんか?」パーカー・パイン氏はたずねた。
軍医は咳ばらいをして、
「別に関係ないかもしれんが――」ときり出した。
すると、ぜひどうぞと周囲からはげまされた。
「スメザーストがヘンスリーに向かって『きみの課で機密漏洩《きみつろうえい》があることはいなめまい』といっていたのを小耳にはさんだだけのことなんだが」
「いつのことです?」
「きのうの朝、ダマスカスを出発する直前だった。わたしは二人が仕事の話をしているんだとばかり思っていた。まさかこんな――」軍医は口をつぐんだ。
「皆さん、なかなかおもしろいではありませんか」イタリア人がいった。「一かけらずつみんなが証拠を持ち寄っている」
「砂袋といわれましたね、軍医」パーカー・パイン氏はいった。「そんな凶器が手製でできますか?」
「砂はいくらでもある」軍医はそっけなくいって、手で砂をすくい上げた。
「ソックスの中に砂を入れたら――」オルークは、そういいかけてちゅうちょした。
誰もが昨夜ヘンスリーのいった短いことばを思い出した。
『いつもソックスの換えを持ち歩いてるんだ。まさかの時にね』
座がしんとしずまった。やがてパーカー・パイン氏は静かにいった。
「ロフタス少佐、ヘンスリー氏の換えのソックスは、いま車の中にあるオーバーのポケットに入っていると思います」
一同の視線は、しばし地平線上を行きつもどりつしているふさぎ込んだ人影にそそがれた。死体が発見されてからというもの、ヘンスリーは皆から離れて、ひとり遠ざかっていた。彼が死者と親友の仲だったことがわかっているので、みんなは彼がひとりでいたい気持をくんで、そっとしてやっているのだった。
パーカー・パイン氏はことばをつづけた。「ソックスをここへ持って来てくれませんか?」
軍医はちゅうちょした。
「わたしはどうも――」とつぶやくと、彼方《かなた》をさまよっている人影にふたたび目を転じた。「なんだか悪いことをするようで――」
「ぜひ、お願いしますよ」パーカー・パイン氏はいった。「なにしろ事態が事態ですからね。わたしたちはここに島流しの身です。どうしても真相を知らなければなりません。あなたがソックスをとって来てくださったら、解決に一歩近づくような気がするのです」
ロフタスは素直に背を向けて行った。パーカー・パイン氏はシニョール・ポーリをちょっとわきに呼びよせた。
「スメザースト主任の通路の反対側にすわっていたのはあなたでしたね?」
「そうですよ」
「誰か立ち上がって車内を通りませんでしたか?」
「イギリスのご婦人のミス・プライスだけですよ。後部の手洗いに行ったんです」
「つまずいたりしませんでしたか?」
「そりゃ車の動揺で、少しはよろめきましたよ」
「動いているところを見かけたのは、あの人だけですか?」
「ええ」
イタリア人はふしぎそうにパイン氏の顔を見ていった。
「いったいあなたはどなたなんです? 指揮をとってはいるが、軍人じゃないしな」
「わたしは世間を、たくさん見て来たんですよ」パーカー・パイン氏はいった。
「旅行したんですね?」
「いや、オフィスにすわっていましたよ」
ロフタスがソックスを持ってもどって来た。パーカー・パイン氏はそれを受け取って調べた。靴下の片方の内側には、濡れた砂がまだくっついていた。
パーカー・パイン氏は深く息を吸った。
「これでわかりました」彼はいった。
一同の視線は地平線上をさまよっている人影にそそがれた。
「差しつかえなけれは、死体を拝見したいのですが」パーカー・パイン氏はいった。
彼は軍医といっしょに防水布におおわれたスメザーストの死体が置いてあるところへ行った。
軍医はおおいをどけていった。
「見たところで、しようがない」
しかしパーカー・パイン氏の両眼は、死者のネクタイに釘づけになった。
「すると、スメザーストはイートン出身だったのか」パイン氏はいった。
ロフタスはびっくりしたような顔をした。
それから、パーカー・パイン氏のことばが、彼の驚きになおいっそう拍車をかけた。
「あのウィリアムスンという青年について、何かご存じですか?」
「いや全然。ベイルートで会ったばかりだよ。わたしはエジプトから来た。でも、なぜだね? たしかに――」
「つまり、彼の証言によって、わたしたちは一人の男を絞首刑にしようとしている、そうじゃありませんか?」パーカー・パイン氏は陽気にいった。「だから、念には念を入れなくてはね」
パイン氏はまだ、死者のネクタイとカラーに興味があるようだった。それから、驚きの声を上げた。「あれを見ましたか?」
カラーの裏に小さな血痕がついている。
彼はむき出しにした首を、しげしげとのぞきこんだ。
「この男は頭をなぐられて殺されたんじゃありませんよ、軍医さん」と威勢よくいった。「刺されたんですよ――頭蓋骨の基部を。ごく小さな刺し跡が見えるでしょう」
「わたしの見落としだ!」
「あなたは先入観を持っておられた」パーカー・パイン氏は弁明するようにいった。「頭部の打撲というね。これを見落とすのも当然です。傷もほとんど、目につきませんからね。小さい鋭利な凶器で、さっと一突き、即死でしょうね。被害者は叫び声一つ、あげなかったでしょう」
「スティレットー(目打ち)だというのかね? きみは、ポーリが――」
「イタリア人とステイレットーとは、よく結びつけて考えられます――おや、車が来ましたよ!」
観光用自動車が一台、地平線の上に姿を現わした。
「よかった」オルークが二人のところへ来ながらいった。「ご婦人方はあれに乗って行ける」
「殺人犯はどうします?」パーカー・パイン氏はたずねた。
「ヘンスリーのことですか――」
「いや、ヘンスリーのことではありません」パーカー・パイン氏はいった。「ヘンスリーの潔白なことは、たまたまわかっていましたよ」
「わかっていたって――どうして?」
「つまり彼のソックスには砂が入っていたんです」
オルークは目を丸くした。
「わかってますよ、きみ」パーカー・パイン氏は穏やかにいった。「筋道が立たないように聞こえるのでしょう。でも、そのとおりなのです。スメザーストは頭をなぐられたのではない。つまり、刺し殺されたのです」
パイン氏は、ひと息入れてから先をつづけた。
「カフェでわたしとスメザーストがかわした会話のことば、お話ししましたね。あれを思い出してください。その中で、さきほどきみは、きみ自身が意味深長だと思うことばを指摘しましたね。しかしわたしにピンと来たのは、ほかのことばだったのです。わたしが彼に、商売は信用詐欺だというと、彼は『なんだって? あんたもかい?』といったのです。どうも妙だとは思いませんか? 官庁関係の公金横領を『信用詐欺』といいますかねえ? 信用詐欺という言葉はたとえばの話、失踪中のサミュエル・ロング氏のような人間になら、いっそうぴったりしますがね」
軍医は目を見張った。オルークはいった。「ええ、たぶん――」
「わたしは冗談に、失業中のロング氏が一行の中にいるかもしれんといいました。もしそれが事実だとしたら――」
「なんですって――そんなばかな!」
「ところが、さにあらず。わたしたちは、パスポートと本人の口から聞いたこと以外おたがいに何を知っていますね? わたしはほんとうにパーカー・パイン氏でしょうか? シニョール・ポーリはほんとうにイタリア人でしょうか? どう見てもひげ剃りの必要な、あの男性的な年配のほうのミス・プライスはどうでしょう?」
「でも彼は――スメザーストは――ロング氏を知らなかったんじゃ――」
「スメザーストはイートン校出身です。ロングもイートンにいました。口に出さなくても、スメザーストはロングを知っていたかもしれない。一行の中に彼がいるのに気がついたのかもしれない。もしそうだとしたら、どうします? 彼はひとが好いから、このことについて悩むでしょう。そしてとうとうバグダッドへ着くまでは何もいうまいと腹を決めた。だが、そのあとはもう、だまってはいますまい」
「|われわれ《ヽヽヽヽ》の中にロング氏がいると思うのですね」まだ呆然としているオルークはそういってから、ため息をついた。
「あのイタリア人にちがいない|絶対に《ヽヽヽ》……それともアルメニア人はどうだろう?」
「外国人をよそおって外国人のパスポートをもらうのは、イギリス人のままでいるよりも、はるかに困難なことです」パーカー・パイン氏はいった。
「じゃ、ミス・プライスが?」オルークは信じられんといったふうに叫んだ。
パーカー・パイン氏はいった。
「いや、犯人は|このひと《ヽヽヽヽ》です!」
パイン氏は一見親しげな態度で、片手を傍らにいる男の肩に置いた。だがその声には、親しさなどみじんもなく、つかんだ指には力がこもっていた。
「ロフタス空軍少佐。別名サミュエル・ロング氏。どちらでもお好きなように」
「でも、そんなばかなことが――ありえないことだ」オルークは口ごもった。「ロフタスはもう何年も軍にいるんですよ」
「でも、今までに会ったことは一度もないでしょう? この中に、顔見知りの者は一人もいない。これは当然ほんもののロフタスじゃありません」
それまで黙々としていた男は、やっと口を開いた。
「これがわかったとは大したもんだ。ところで、どうしてわかったね?」
「きみがスメザーストは頭を打って死んだなどと、愚劣なことをいったからだよ。きのうダマスカスで立ち話をしていた時、オルークが、その考えをきみに植えつけたのだ。きみは考えた――なんと簡単じゃないか! と。きみは一行中、唯一の医師だ。きみのいうことはなんでも、うのみにされるだろう。きみはロフタスの装具と医療器具を持っていたから、きみの目的のために手頃な小道具を選ぷことなど、ぞうさなかった。きみは前によりかかってスメザーストに話しかける。そしてしゃべっているさいちゅうに、その小さな凶器をずぶりとやる。それからもう二、三分しゃべっている。車内は暗い。疑うものなど、いやしない。
お次に死体の発見となる。きみは診断を下した。だが、それは、きみが考えていたほど簡単ではなかった。疑わしい点が、いくつか生じた。きみは後退して、第二の線で食い止めねばならなかった。ウィリアムスンが小耳にはさんだ、きみとスメザーストとの会話をくり返して聞かせた。ところがその相手はヘンスリーのことだと受けとられたので、きみは得たりとばかり、ヘンスリーの課に機密漏洩があるというむちゃな話をでっちあげた。そこでわたしは最終的なテストをおこなったのだ。靴下と砂のことを持ち出したのです。きみは片手に一杯砂をつかんでいた。わたしは真相を知ったために、きみに靴下を捜して来てくれと頼んだ。だがその点で、きみはわたしの真意をとりちがえた。ヘンスリーの靴下はすでにわたしが調べてあったのです。どちらにも砂は入ってなかった。つまり、きみが入れたのです」
サミュエル・ロング氏はタバコに火をつけた。
「おそれいったよ。運のつきだな。だが、ついてるあいだは、うまく逃げたもんだ。エジプトに着いた時、追手は夢中になっておれの足どりを追っていた。そこでたまたまロフタスに会った。ロフタスは、ちょうどバグダッドの部隊に赴任するところで――先方には誰も知り合いがないという話だった。こんな絶好の機会を逃がしてたまるものか。おれはやつを買収した。二万ポンドについたが、それくらいのはした金はなんでもない。ところが、そのあとで運悪くスメザーストに出くわしてしまった。あの世界一の阿呆にね! イートン校では、おれの子分みたいなもんで、その当時、少々おれを英雄視していたもんだ。だからやつはおれのことを密告するという考えを好まなかった。おれは必死にくどいた。そこでとうとうやつはバグダッドに着くまでは何もいわないと約束した。じゃ、バグダッドに着いたら、おれはどうすれはいいんだ? 何もありゃしない。こうなったら残る手段はただ一つ――やつを消すことだ。しかし断わっておくが、おれは根っからの人殺しじゃない。おれの才能は、もっと別の方面に向いているんだ」
彼の表情が変わった――顔をしかめた。そしてぐらりと揺れると、ばったり前のめりに倒れた。
オルークは彼の上にかがみ込んだ。
「たぶん青酸カリでしょう――タバコに入っていたんです」パーカー・パイン氏はいった。「賭博師が最後の骰子《さい》を投げて敗れたのです」
パイン氏は周囲に広がる広大な砂漠を見まわした。太陽がじりじりと照りつけている。ダマスカスを出たのはついきのうのことだった――あのバグダッドの門のそばを。
[#ここから1字下げ]
その下をくぐるなかれ、おお隊商《キャラバン》よ、
はたまた歌いつつ、くぐるなかれ。
鳥どもの死に絶えたるに
なお鳥のごとく、何ものかさえずる
あの静寂を聞きたまいしや?
[#ここで字下げ終わり]
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シラズの館《やかた》
パーカー・パイン氏が、バグダッドに寄ってからペルシャへ向けて発《た》ったのは午前の六時だった。
小型飛行機では乗客用の場所は限られているし、座席の幅は狭く、とうていパーカー・パイン氏の巨体では居心地よくすわれようはずがなかった。道づれは、ほかに二人――一人は血色のよい大男で、パーカー・パイン氏の判断ではおしゃべりな習性の持ち主と思われた。もう一人は毅然《きぜん》たる態度の、おちょぼ口でやせぎすな婦人である。
いずれにせよと、パーカー・パイン氏は考えた――。わたしに身の上相談を持ちかけて来そうな顔じゃないな。
そのとおりだった。小柄な婦人は奉仕と喜びに満ちたアメリカ人の宣教師で、血色のよい男はさる石油会社の社員であった。飛行機が出発する前、二人は連れのパーカー・パイン氏に各自の生活をかいつまんで話して聞かせた。
「わたしは一介の観光客でしてね」パーカー・パイン氏はさも残念そうにいった。「これからテヘランとイスファハンとシラズヘ行くところなんですよ」
そして地名を口にしただけで、ただもうそのひびきに魅せられて、パイン氏はもう一度くり返した。テヘラン、イスファハン、シラズ。
パーカー・パイン氏は眼下の風景を眺めやった。平坦な砂漠だった。彼はこの広漠たる無人の境の神秘をひしひしと感じた。
ケルマンシャーでパスポートの検閲と税関のために飛行機は着陸した。パーカー・パイン氏の鞄が開かれた。とある小さな紙箱を検閲するさいに、ちょっとした興奮が起こって、質問が浴びせられた。パーカー・パイン氏はペルシャ語は、からきしだめだったので、事態はややこしくなった。
飛行機のパイロットが近づいて来た。金髪のドイツ青年で、日焼けした顔に紺青の目をした美男子である。
「どうかしましたか?」彼は屈託なくたずねた。
パーカー・パイン氏は真に迫るパントマイムを演じていたが、さしたる効果が見えなかったところなので、ほっとしたように彼のほうに向いた。
「南京虫取り粉なんですよ。先方に説明していただけますかね?」
パイロットは頭をひねった。「え?」
パーカー・パイン氏はドイツ語でくり返して訴えた。パイロットはにやっと笑うと、その文句をペルシャ語に通訳した。いかつい悲壮なおももちをしていた係官たちは喜んだ。悲壮な表情がゆるんで徽笑した。笑い出すものさえ、いたくらいだった。彼らはそれをなかなかユーモラスな思いつきだと考えたのだ。
三人の乗客はまた座席につき、飛行はつづけられた。ハマダンでは低空飛行をして郵便物を投下したが着陸はしなかった。
パーカー・パイン氏は眼下に目をこらして、バビロニア、メディア、ペルシャの三カ国語で、ダリウス王がその帝国と征服地の広大さを記した、かのロマンティックな場所べヒストゥンの岩が見えるかどうかのぞいてみた。
テヘランに到着したのは一時だった。いっそう煩瑣《はんさ》な警察の手続きをとらなけれはならなかった。例のドイツ人のパイロットがやって来て、パーカー・パイン氏がチンプンカンプンの長ったらしい質問に答え終わると、微笑を浮かべながらかたわらに立っていた。
「わたしはなんていったんです?」パイン氏はドイツ人にたずねた。
「あなたのおとうさんのクリスチャン・ネームは観光客《ツーリスト》。あなたの職業はチャールズ。おかあさんの旧姓はバグダッド。そしてあなたはハリエットから来たってね」
「いけませんか?」
「いいえ、ちっとも。何か答えてやりゃ、連中はそれですむんですよ」
パーカー・パイン氏はテヘランに失望した。情けないほど近代化している。その翌日の夕方、パイン氏が自分の投宿しているホテルに入って行くさい、たまたまへル・シュラーガル、つまり例のパイロットと出会ったので彼はそのことをいった。その場の思いつきで、彼が夕食に招待すると、ドイツ人は承諾した。
ジョージ王朝ふうの給仕がかしこまって注文をとりついだ。食事が運ばれて来た。やがて、多少べとつくチョコレート菓子 |la tourte《ラ・トゥールト》が出て、デザートという段になると、ドイツ人がいった。
「すると、あなたはシラズへ行かれるんですね?」
「ええ、飛行機で行きます。そしてシラズからイスファハンとテヘランヘは鉄道です。あすシラズ行きの飛行機を操縦してくださるのはあなたですか?」
「いいえ、ぼくはバグダッドヘ帰ります」
「こちらにはもう長く滞在で?」
「三年になります。うちの航空便は開設されてからまだ三年です。今までのところ事故は一度もありません――|unberufen《ウンべリューフェン》(くわばら、くわばら)!」彼は厄よけにテーブルに手を触れた。
厚手のカップに入れた甘いコーヒーが運ばれた。二人はタバコをくゆらした。
「ぼくが初めて運んだ客は二人の婦人でした」ドイツ人はなつかしそうにいった。「二人のイギリス婦人です」
「それで?」パーカー・パイン氏はいった。
「一人は名門の若い女性で、お国のさる閣僚のお嬢さんでした――なんていったっけ、そう――レディ・エスター・カー。美人でした。とても美人でしたが、気が狂っていました」
「気が狂ってた?」
「完全にキじるしなんです。シラズにある大きな民家に住んで、東洋ふうなドレスを着て、ヨーロッパ人には会わないのです。あれが上流婦人の生活といえるでしょうか?」
「そんな人はほかにもいましたよ」パーカー・パイン氏はいった。「レディ・ヘスター・スタナップという婦人ですが――」
「あのひとは気違いです」相手は唐突にいった。「彼女の目を見ればわかりますよ。戦時中、ぼくの潜水艦の艦長だった人と同じ目です。彼は今、精神病院に入ってますよ」
パーカー・パイン氏はもの思いに沈んだ。彼はレディ・エスター・カーの父親であるミチャルデヴァー卿をよく覚えていた。卿が内相をしていた当時、その下で働いたことがあったのだ――なごやかな青い目をした金髪の巨漢だ。ミチャルデヴァー卿夫人にも一度会ったことがある――黒髪で、すみれ色がかった青い目をした有名なアイルランド美人だった。夫妻とも端麗で健全な人物だったが、それでもカー家には精神異常の血が流れていて、一代おきに時たま現われるのであった。ヘル・シュラーガルがその点を強調するのでパイン氏は奇異に感じた。
「それで、もう一人の女性は?」彼はなにげなくたずねた。
「もう一人の女性は――亡くなりました」
相手の口調にただならぬものを感じたパーカー・パイン氏は、きっと目をあげた。
「ぼくも木石《ぼくせき》ではありません」ヘル・シュラーガルはいった。「あの人はぼくにとって、こよなく美しい人でした。おわかりでしょう、こういうことは突然起こるものなのです。あの人は、花――そう、花でした」彼は深いため息をついた。「ぼくは二人に会いに一度――シラズの館《やかた》へ行きました。レディ・エスターから招かれたのです。ぼくの恋するひと、ぼくの花は、何かをおそれていました。ぼくには、それがわかりました。その次に、ぼくがバグダッドからもどった時、あの人が死んだと聞きました。死んだのです!」
彼はひと息入れてから、考え深げにいった。
「もう一人の女が殺したのかもしれない。なにしろ気違いですからね」
彼はため息をついた。パーカー・パイン氏はべネディクティンを二杯注文した。
「このキュラソーは上等でございます」ジョージ王朝ふうの給仕は、そういってキュラソーを二杯運んで来た。
翌日、正午過ぎにパーカー・パイン氏は、はじめてシラズを目《ま》のあたりにした。飛行機は荒涼たる狭い谷をはさむ山なみと、すべてが乾燥し切った荒野の上を飛びつづけて来たのであった。それから、突然シラズが視界に入った――それは荒野のただなかにあるエメラルド・グリーンの宝石だった。
パーカー・パイン氏はテヘランに失望していたので、シラズを楽しんだ。ホテルの原始的な様式にも、また、ホテルに劣らず原始的な道路にも肝をつぶさなかった。
ちょうど、シラズはペルシャの祭日のさなかだった。ナン・ルズ祭りは前夜から始まっていた――ペルシャ人が十五日間にわたって新年を祝うお祭りなのだ。彼はひとけのない市場《バザール》を抜け、街の北側にある広々とした広場にやって来た。シラズじゅうがお祭り気分だった。
某日、彼は街の近郊を歩いていた。詩人ハーフィズ〔ペルシャの中世紀の大詩人〕の墓へ詣でて来たところで、その帰り道にとある一軒の館《やかた》を見て、魅せられてしまった。青と、バラ色と、黄色のタイルではりめぐらされたその館は、オレンジの木とバラと噴水のある緑の庭園にかこまれていた。夢の館だ、彼はそう思った。
その夜、イギリス領事と食事をともにした時、パイン氏はその館のことをたずねた。
「まさしく魅惑的な館でしょうが、え? あれは富裕なルリスタンの前総督が建てたものでしてね。地位を利用して私腹を肥《こや》していたのですよ。現在はイギリス婦人の所有になっています。その婦人のことは、きっとお耳にされたことでしょう。レディ・エスター・カー。正真正銘の気違いですよ。すっかり現地人になり切っています。イギリスと名のつくものには人でも物でも見向きもしないんですよ」
「若いかたですか?」
「こんなくだらん真似をするには、ちと若過ぎますな。三十そこそこでしょう」
「ほかにも、そのかたといっしょにイギリス婦人が一人いたんでしょう? 亡くなつたとか?」
「そう、あれは三年ほど前です。じつはたまたま、わたしがここに赴任して来た翌日のことでした。前任者のバラムが急死しましてね」
「その婦人の死にかたは?」パーカー・パイン氏は単刀直入にたずねた。
「二階の中庭というか。バルコニーから転落したんですな。その人はレディ・エスターの女中だか、|つきそい《コンパニオン》だか、失念しましたがね。ま、いずれにせよ、朝食の盆を運んでいて、後ろへ踏みはずしたんですな。まったく気の毒な話で、手のほどこしようがなかった。下にあった石で頭蓋を骨折したのです」
「なんという名前でした?」
「キングといったと思います。いやウィルスだったかな? ちがう、あれは宣教師のほうだ。なかなか器量の良い娘でしたよ」
「レディ・エスターは取り乱していましたか?」
「ええ――いや存じませんな。ともかくひどく変わった人でして。わたしには理解できませんよ。そう、なんていうか横柄な人でね。ただものじゃないことが、すぐにわかりますよ、わたしのいう意味が、おわかりならね。ギラギラした黒いひとみと、人を見くだした態度には閉口しました」
領事は弁解がましく笑い出したが、それから、ふしぎそうに相手を見た。パーカー・パイン氏はどうやら宙をにらんでいる。タバコをつけようとしてすったマッチは、そのまま手の中で燃えつきようとしていた。とうとう指のところまで燃えて来たので、パイン氏は熱さのあまり悲鳴をあげて落とした。それから領事のあっけにとられた表情に気がついて微笑した。
「失礼しました」
「何か空想にふけっておいででしたな?」
「あれこれとね」パーカー・パイン氏は謎めかして答えた。
二人は話題を変えた。
その夜、石油ランプの光の下で、パーカー・パイン氏は一通の手紙を書いた。文書を作るのにひどく手間どったが、出来上がりはきわめて簡単なものになった。
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レディ・エスター・カー様へ、パーカー・パイン氏より一筆差し上げます。これより三日間、ファース・ホテルに逗留致しておりますので、ご相談ごとがあれば、いつでもご連絡ください。
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彼は切抜きを同封した――あの有名な広告だ。
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あなたは幸福ですか?
幸福でないかたは、
パーカー・パイン氏にご相談ください。
リッチモンド街十七番地
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「これでうまくいくはずだ」パーカー・パイン氏は、あまり寝心地のよくないベッドに、おそるおそるもぐり込みながらいった。「ふーむ、ほぼ三年とね。うむ、これでよしと」
翌日、四時頃に返事が届いた。英語のわからないペルシャ人の召使が届けに来た。
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パーカー・パイン氏には、今夜九時にご足労願えれは幸甚《こうじん》に存じます。レディ・エスター・カー
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パーカー・パイン氏は、にっこりした。
その夜、彼を出迎えたのは先刻の召使だった。彼は案内されて暗い庭を通り、館の裏手へ回っている戸外の階段を登って行った。そこからドアを通って案内され、露天のバルコニーのようなところへ通された。東洋ふうの大きな寝椅子《デイヴアン》が壁ぞいに置かれ、その上に、みごとな肢体がもたれていた。
レディ・エスターは東洋ふうの衣装をつけていた。彼女の東洋趣味は、一つには、どうやら彼女の豊かで東洋ふうな美貌によく似合うからではないかとも思われた。領事は彼女のことを横柄な女だといっていたが、確かに横柄な顔だった。あごをつんと突き出して、高慢ちきな眉をしている。
「パーカー・パインさんね? そこにおすわりなさい」
彼女は重ねてあるクッションを指さした。薬指には、家紋の盾を彫刻したエメラルドの指輪がさんぜんと輝いている。先祖伝来の家宝で、ひと財産はするにちがいない、とパーカー・パイン氏は踏んだ。
すわるのはちょっとむずかしかったが、彼は従順に腰を下ろした。彼のような体格の持ち主が、体裁よく地面にすわるのは、容易ではない。
召使がコーヒーを持って現われた。パーカー・パイン氏はカップを受けとると、うまそうにすすった。
女主人は東洋式にのんびりかまえる習慣を身につけていて、すぐには会話に移らなかった。半眼を閉じて、彼女もコーヒーをすすった。やがて彼女は口を開いた。
「あなたは不幸な人を助けるというのですね。少なくとも広告には、そううたってありましたが」
「そうです」
「なぜわたしによこしたのです? あれは旅行中に商売をする時の――手口ですか?」
彼女の声にはどことなく、突っかかるようなひびきがあった。が、パーカー・パイン氏は聞き流した。彼はあっさり、こう答えた。
「いいえ、わたしの旅行の目的は、仕事からすっかり解放されることです」
「それでは、なぜ、あれをわたくしによこしたのです?」
「それはあなたが――不幸だと信じられる理由があるからです」
一瞬、沈黙が流れた。彼はひどく好奇心にかられた。相手はどう出るだろうか? 彼女は一分ほどで態度を決めた。そして声をたてて笑った。
「どうやらあなたは、世を捨ててわたしのように同胞と祖国から離れて暮らしているものは、不幸だからそうしているのだとお思いになったようね! 悲しみ、失望――何かそういったものがわたしを世捨て人にしたとお思いなのね? まあ、あなたなんかに、わかりっこないでしょうよ。あちら――イギリスでは、わたしは陸に上がった魚でした。でもここでは生き甲斐を感じます。わたしは心では東洋人です。この隠遁生活が、たまらなく好きなのよ。はばかりながら、あなたには、おわかりになりますまい。あなたの目から見れば、わたしは」――彼女は一瞬ためらった――「気違いでしょうね」
「あなたは気違いではありません」パーカー・パイン氏はいった。
その声には落ちついた確信がみなぎっていた。彼女はふしぎそうに相手を見た。
「でも、世間ではわたしのことをそういってるようよ。くだらない人たち! 世の中は十人十色です。わたしは完全に幸福なのよ」
「しかもなお、あなたは、わたしをお招《よ》びになった」パーカー・パイン氏はいった。
「あなたに会ってみたいという好奇心を起こしたことは認めます」彼女は逡巡《しゅんじゅん》した。「それにわたし、あちらへ――イギリスへ帰りたい気持は、さらさらないけど! それでも、時には、あちらでどういうことが起こっているのか、知りたい気持は――」
「あなたが捨てて来られた世界のことが?」
彼女はうなずいて、そのことはを認めた。
パーカー・パイン氏は話しはじめた。なめらかな、説いて聞かせるような声で静かに語りはじめ、あの点、この点を強調する時には、ほんの心もち調子を高めて。
ロンドンのこと、社交界のゴシップ、有名な男や女のこと、新しいレストランやナイトクラブ、競馬や狩猟の集《つど》い、別荘地のスキャンダル。また、衣装のこと、パリからのファッション、すてきなお買い徳品のある下街の小さな店のことを話し、劇場や映画館について述べ、映画界のニュースを伝え、新規にできた田園ふうの郊外住宅のことを語り、球根や園芸を話題にのせ、おしまいにロンドンの夕暮れの親しみやすい光景を話して聞かせた。電車やバス、一日の仕事を終えて家路に急ぐ人々の群、彼らを待っているささやかな家庭、そして、イギリスの家庭の、奇妙でしかも心を打つ生活様式全体について語った。
それは手ぎわよく事実を並べて、広範にわたる知識を駆使したみごとな演技であった。
レディ・エスターはうなだれた。横柄な態度は影をひそめた。しばし涙が静かに彼女の頬をつたっていたが、彼が話し終えると、彼女は恥も外聞もかなぐり捨ててあからさまにむせび泣いた。パーカー・パイン氏は一言もいわずに相手をじっと見守っていた。その顔には、実験を終えて期待どおりの結果を得た人の持つ、静かな満足感が浮かんでいる。
やがて彼女は顔を上げた。そしてにがにがしげにいった。「さぞ――ご満足でしょうね?」
「今では――そう思います」
「どうして我慢ができるかしら、どうして? 永久にここを離れず、二度と誰にも会えないなんて!」腹わたを絞られるような、悲愴な叫びだった。やがて、赤面して自制心を取りもどした。「さあ、どうなの?」彼女は激しいけんまくで詰めよった。「はっきりおっしゃったらどうなの?『そんなに帰りたけりゃ、どうしてさっさと帰らないのか?』って、なぜいわないの!」
「いいえ」パーカー・パイン氏は首を振った。「あなたにしてみれは、口でいうほどたやすいことではありません」
ここではじめて、恐怖の色が彼女の目に浮かんだ。
「帰れないわけをご存じ?」
「知っているつもりです」
「ちがうわ」彼女は首を振った。「わたしの帰れないわけが、あなたに察しのつくはずがありません」
「わたしは察しているのではない」パーカー・パイン氏はいった。「観察し――分析するのです」
彼女は首を振った。
「あなたには、わかりっこないわ」
「どうやら、あなたに納得していただかなくてはなりませんな」パーカー・パイン氏は楽しそうにいった。「当地へ来られた時、エスターさん、あなたはたしかにバグダッドから新しい飛行便で来られましたわ?」
「そうよ」
「その時のパイロットはへル・シュラーガル青年で、彼は後で、あなたに会いに、ここへ来ました」
「そうよ」
今度の「そうよ」は、なんとも説明はつかないが、とにかく前とはちがってもの柔らかだった。
「あなたには、お友だちというか、|つきそい《コンバニオン》の人がおられましたね――亡くなられたが」鋼鉄のように冷やかで挑戦的な声だった。
「つきそいよ」
「その人の名前は?」
「ミュアリアル・キング」
「あなたはその人が好きでしたか?」
「好きってどういう意味?」彼女は口をつぐんで自分を押えた。「とにかく重宝な人だったわ」
彼女の横柄な口ぶりを聞いて、パーカー・パイン氏は領事のいったことを思い出した――『ただものじゃないことが、すぐにわかりますよ、わたしのいう意味がおわかりならね』
「亡くなった時、あなたは悲しまれましたか?」
「わたしが――当然だわ! ところでパインさん、なんのために、そんなことをお聞きになるの?」彼女は腹立たしげにいうと、返事を待たずにつづけた。「ご足労を感謝するわ。でも、わたし少し疲れました。いくらお払いすればよろしくて?」
だがパーカー・パイン氏は動じなかったし、腹を立てた気配もまったくなかった。彼は平然として質問をつづけた。
「その人が亡くなってから、ヘル・シュラーガルはここに訪ねておりません。もし彼が来たら、あなたはお会いになりますか?」
「とんでもない」
「絶対に拒絶なさるのですね?」
「絶対よ。ヘル・シュラーガルに足踏みしてもらうわけにはまいりません」
「なるほど」パーカー・パイン氏は考え深げにいった。「それ以外に、あなたにはいいようがありませんものね」
彼女の閉じこもっていた傲慢《ごうまん》という鎧《よろい》が少し破れた。彼女は不安そうにいった。
「そ、それ、どういう意味?」
「エスターさん、あなたはシュラーガル青年がミュアリアル・キングに恋をしていたのをご存じですか? 彼は多情多感の青年です。今でも彼女の思い出を胸に秘めています」
「あのひとが?」ほとんとつぶやくような声だった。
「ミュアリアルはどんな女性でした?」
「どんな女性って、それ、どういう意味なの? わたしが知ってるわけがないでしょう?」
「時には彼女をごらんになったはずですが」パーカー・パイン氏は優しくいった。
「ああ、そのこと! 若くて、とても器量のいい娘だったわ」
「年はあなたくらい!」
「ええ、ちょうどそうよ」そこで間《ま》をおいて、「なぜ、あなたは――そのう――シュラーガルが彼女を愛していたとお考えなの?」
「本人がわたしにそういったからです。そう、そのものずばりの言葉でした。わたしのいうとおり、彼は多感な青年です。喜んでわたしに打ち明けましたよ。彼女があんな死に方をしたのでひどく動転していました」
レディ・エスターは、さっと立ち上がった。
「あなたは、わたしが殺したとお考えなの?」
パーカー・パイン氏のほうは、さっと立ち上がりはしなかった。彼はさっと動作をするような男ではない。
「いいえ、あなたが殺したとは思って|いませんよ《ヽヽヽヽヽ》。だからこそ、こんなお芝居はやめて、早くお帰りになったほうがいいと思っているのです」
「お芝居って、なんのこと?」
「真実は、あなたが、おじけづいたということです。そうです、ひどくおじけづいたのです。あなたは主人殺しで責められるだろうと考えた」
女は、びくっとした。パーカー・パイン氏はつづけた。
「あなたはレディ・エスター・カーではない。それはここへ来る前からわかっていましたが、念のため、あなたをテストしたのです」柔和で、思いやりのある微笑が、彼の顔に広がった。「今しがた、わたしは、四方山《よもやま》話をしながら、あなたを観察していましたが、あなたは、いつもエスター・カーでなく、ミュアリアル・キングとして反応を示しました。安い店、映画館、郊外住宅、バスや電車で帰宅する話――あなたはこれらすべてに反応を示された。しかし別荘地のゴシップ、新しいナイトクラブ、メイフェアのおしゃべり、競馬の集い――こうした話は、どれ一つあなたにとって、意味がなかった」
パイン氏の声は、一段と説いて聞かせる父親のような口調になった。
「腰をおろして、事情を話してください。あなたはレディ・エスターを殺さなかった。だが殺人罪で告発されるかもしれないと思ったのです。さあ、いったいどういうことだったのか話してみてください」
彼女は大きく息を吸った。そしてもう一度寝椅子に腰を下ろすと話し出した。|せき《ヽヽ》をきったように言葉がどっと口をついて出た。
「そもそもの初めからお話ししなければなりません。わたし――わたしあの人を恐れていました。あの人は気違いでした――手のつけられないほどではありませんが、すこし狂っていました。あの人、わたしをここへ連れて来ました。わたし、ばかみたいに喜びました。ひどくロマンティックだと思ったんです。つまり、ばかだったのね。お抱えの運転手のことでちょっとした事件があったのです。あの人は男狂い――ひどい男狂いでした。運転手のほうは、とりあおうとしなかったので、それが表沙汰になりました。あの人の友人たちがそれを知って、笑いものにしたんです。それであの人、家族から離れて、ここへ来たのです。
砂漠の一人暮らし――それもこれも、みんなあの人の体面を保つためのポーズでした――しばらく我慢して、それから帰国するはずでしたの。ところが、あの人、ますます、おかしくなって来たんです。そこへあのパイロットが登場しました。あの人は――彼に惹《ひ》かれたようでした。彼は、わたしに会いにここへ来たのです――でも、あの人は――そのう、おわかりになりますわね。でも彼は、ピシャッとはねつけたにちがいありません。
それ以来、あの人は、わたしに当たるようになりました。ものすごいけんまくで、おどかすのです。二度とおまえを帰国させない、おまえはわたしの思いのままだ、奴隷だというのです。そのとおり――わたしは奴隷でした。わたしに対して、生殺与奪《せいさつよだつ》の権を握っていたのです」
パーカー・パイン氏はうなずいた。事情がしだいに明らかになってきた。レディ・エスターは、その一族の者と同じ道をたどって、徐々に正気の境を越えて行ったのだ。そして一方、世間知らずで、ろくに旅行の経験もない娘は、おびえきって、いわれたことをすべて真《ま》に受けたのだ。
「ところがある日、わたしの堪忍《かんにん》袋の緒が切れました。あの人に反抗したのです。いざとなったら、わたしのほうが強いのだといってやりました。下の石にたたきつけてやるともいいました。あの人はふるえあがりました、ほんとうにふるえあがったのです。それまでは、わたしを虫けら同然に見くびっていたんでしょうね。わたし、彼女のほうに一歩進み出ました――わたしの意図を、あのひとがどう考えたのか、それはわかりません。あの人は後ずさりをして――そして――縁から落ちたのです!」ミュアリアル・キングは両手に顔を埋めた。
「それから?」パーカー・パイン氏は優しくうながした。
「わたしは動転しました。わたしが突き落としたと、いわれると思いました。誰もわたしのいうことには耳をかさないだろうと。そして、この土地のおそろしい部屋に投獄されるだろうと思いました」彼女の唇が、ぴくぴくふるえた。パーカー・パイン氏は彼女にとりついていた、|いわれ《ヽヽヽ》もない恐怖をまざまざと見る思いがした。「それから、ふと思いつきました――もしも落ちたのがわたしだったら! 新しいイギリスの領事が赴任して来ることは知っていました。前の領事さんは亡くなったのです。
召使たちのことはなんとか処理できると思いました。彼らから見れば、わたしたちは二人とも頭のおかしいイギリス女だったのですから、一人が死ねば、一人があとを継《つ》ぐだけのことです。わたしは彼らにたんまりお金を握らせて、領事をお連れするように命じました。領事が来ると、わたしはレディ・エスターとして迎えました。わたしはあの人の指輪をほめました。領事はたいへん親切で、万事手配をしてくれました。わずかでも疑いを持つ者は、誰もいないようでした」
パーカー・パイン氏は考え深げにうなずいた。名門の威信。レディ・エスター・カーは、ほんとうの狂人だったかもしれないが、それでもレディ・エスター・カーに変わりはない。
「それから、あとになって」ミュアリアルはつづけた。「こんなことしなければよかったと思いました。わたし自身狂っていたことがわかりました。芝居をしながらここに居つづけなければならない羽目に陥ったのです。ここから脱け出す方法を思いつけないのです。この期《ご》におよんで真相を告白したところで、なおさらわたしが殺したように見えるだけです。ああ、パインさん、わたしはどうしたらいいんでしょう? どうしたらいいんでしょう?」
「どうするって?」パーカー・パイン氏は体躯の許す限り威勢よく立ち上がった。「さあ、これからいっしょにイギリス領事のところへ行きましょう。たいへん親切な、やさしい人ですよ。あまり愉快とはいえない手続きを二、三すまさなくてはなりません。何もかも、すらすらと運ぶとはお約束しませんが、殺人のかどで、絞首刑になることはありませんよ。それはそうと、なぜ朝食の盆が死体といっしょに発見されたのです?」
「わたしが投げたんです。そこに――そこにお盆があったほうが、よけいわたしらしく見えるだろうと思って。ばかなことでしたかしら?」
「いや、むしろ巧妙な手口です。じつをいうと、その点で、もしかすると、あなたがレディ・エスターを消したのじゃないかとも考えたのです――つまり、あなたにお会いするまでのことですがね。お会いしてみて、あなたがほかのことはさておいても、決して人を殺すようなひとではないことがわかりました」
「つまり、わたしには勇気がない、という意味ですの?」
「あなたはそんなふうに反応を示す人ではありません」パーカー・パイン氏は微笑を浮かべた。「さて、そろそろ出かけましょうか? 気にそまぬ手続きが待ちかまえていますが、わたしがついていてあげましょう。それから――ストレタム・ヒルへ帰りましょう――ストレタム・ヒルでしたね? やっばり思ったとおりだ。わたしがあのバスの特定の番号を口にした時、あなたの顔が引きしまるのがわかりましたよ。さあ、行きましょうか?」
ミュアリアル・キングは尻込みした。
「みんなは絶対に信じてくれませんわ」彼女は神経質にいった。「あの人の家族も誰も、あの人が、あんなふうにふるまったなんて信じやしないわ」
「任せておきなさい。あそこの家系のことは、わたしも多少、心得ています。さあ、もう引っ込み思案はやめにしましょう。テヘランには気もそぞろな青年がいることをお忘れなく。バクダッド行きは彼の飛行機に乗れるよう手配しましょう」
女は微笑して額を染めた。
「参りましょう」と、ぽつりといった。それからドアに向かつて歩きながら振り返った。「わたしがレディ・エスター・カーでないことが、会う前からわかっていたとおっしゃいましたわね。いったいどうしてですの?」
「統計ですよ」
「統計ですって?」
「ええ。ミチャルデヴァー卿夫妻は、お二人とも青い目の持ち主でした。領事が、その令嬢はギラギラした|黒い《ヽヽ》目だといった時、これはどうもおかしいぞと思ったのです。茶色の目の人間が、青い目の子供を産むことはありますが、その逆はありえません。それこそ科学的事実です、ほんとうに」
「あなたって、すばらしいかたね!」ミュアリアル・キングはいった。
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高価な真珠
一行は疲労を覚える、長い一日をすごした。日陰でも三十六度という気温の早朝、アンマンを出発し、暗くなりはじめた頃に、やっとのことでペトラという幻想的で、とてつもない赤い岩の町の中心にあるキャンプに入った。
一行は七人、かっぷくのよいアメリカの富豪、ケイレブ・P・ブランデル氏。その秘書で、やや無口だが、黒髪で男前のジム・ハースト。疲れた顔のイギリスの政治家、サー・ドナルド・マーヴェル下院議員。世界的に有名な初老の考古学者、カーヴァー博士。勇ましいフランス人、デュボスク大佐。どうも正体がつかみにくいが、イギリス人特有の、ものがたい堅実な雰囲気を発散しているパーカー・パイン氏なる人物。そして最後に、ミス・キャロル・ブランデル――六人の男性の中の紅一点だという自意識の、いささか過剰な女性というわけである。
一行は、それぞれ寝るためのテントなり洞穴なりを選んでから、大テントで夕食を取った。近東の政治談義の花が咲いた――イギリス人は用心深く、フランス人は慎重に、アメリカ人はやや愚かしく、そして、考古学者とパーカー・パイン氏はわれ関せず、という態度だった。二人とも聞き手役のほうが好きらしく、ジム・ハーストもそうだった。
やがて一同は自分たちが見物にやって来た町を話題にした。
「言葉にはいえないほどロマンティックね」キャロルがいった。「そのう! なんていったかしら?――そうそう、ナバテア人が太古に、ほとんど有史以前に、ここに住んでいたと考えるとね!」
「それほど昔じゃないでしょう」パーカー・パイン氏がおだやかにいった。「ねえ、カーヴァー博士?」
「ああ、それはほんの二千年前のことですよ。そして、もし追いはぎがロマンティックなものなら、ナバテア人もロマンティックということになりますな。連中は、いうなれば、金のある暴力団で、旅人に彼らの専用の隊商道路を通るようにしむけて、ほかの通路は全部安全でないように仕組んだのです。ペトラは、連中がゆすり取った分捕品の倉庫ですよ」
「単なる盗賊にすぎないとお考えなのね?」キャロルがきいた。「ありきたりの泥棒だと?」
「泥棒という言葉は、あまりロマンティックではないですな、ミス・ブランデル。泥棒という言葉は、けちな|こそ《ヽヽ》泥を連想させる。盗賊というほうがもっと大きなものを連想させますよ」
「現代の金融家はどうですか?」パーカー・パイン氏が、キラッと目を輝かせていった。
「それはパパの答えることだわ!」キャロルがいった。
「金をもうける人間は人類を益す」ブランデル氏は金言めいたことをいった。
「人類はそれほど感謝していませんよ」パーカー・パイン氏はつぶやくようにいった。
「正直とはなんでしょう?」フランス人が質問した。「それは|ニュアンス《ヽヽヽヽヽ》であり、しきたりです。国がちがえば、意味もちがってくる。アラビア人は盗みを恥じないし、嘘をつくことも恥じとは思いません。アラビア人にとっては、誰から盗むのか、また、誰に嘘をつくのか、それが問題なんです」
「いかにも、そこが見解の相違するところですな」カーヴァーは同意した。
「そこに西洋の東洋に対する卓越性が示されている」ブランデルがいった。「こうした哀れな東洋人が教育を受ければ――」
サー・ドナルドが、ものうげに話に加わった。
「教育なんて、くだらんもんですよ、ね。ろくでもないことをたくさん教える。つまり、わたしのいう意味は、なにものをもってしても、人間の本質を変えることはできんということです」
「というと?」
「そう、わたしのいいたいのは、たとえばですね、一度泥棒をしたものは、いつでも泥棒をするということです」
一瞬、座がしらけた。それからキャロルが蚊について、熱心に話し出して、父親がその後押しをした。
サー・ドナルドは、いささかめんくらって、隣りのパーカー・パイン氏へ小声でいった。
「わたしは失言したようですな――どうしてかな?」
「変ですね」パーカー・パイン氏はいった。
一瞬、座がしらけたにせよ、一人の人物だけは、それに気づかなかった。考古学者は、夢見るような、ぼんやりした目差しで、黙々と、すわっていた。話がとぎれると、彼はまったくだしぬけに話し出した。
「いいですか、わたしも同感ですね――とにかく、反対の見解からね。人間は、本質的に正直か、それとも不正直かです。なんぴともそれから逃げることはできません」
「すると、たとえばの話ですが、その場の出来心が、正直な人間を罪人にすることはないとお考えなんですね?」パーカー・パイン氏はたずねた。
「あり得ませんな……」カーヴァーはいった。
パーカー・パイン氏は、そっと首を振った。
「あり得ないことはないと思いますね。つまり、考慮すべき因子がきわめてたくさんあります。たとえは破滅点が、それです」
「なにをさして破滅点というのです?」ハースト青年が初めて口をひらいた。よく透《とお》る魅力的な声の持ち主だ。
「頭脳は、きわめて重いものを支えるように調節されています。危機を――正直な人間を不正直な人間に変える危機を促進するものは、まことに些細なものかもしれません。それだからこそ大部分の犯罪は、つじつまのあわぬものなのです。原因は、十中九まで、その些細な重量超過です、限度まで荷物をしょったラクダなら、わら一本乗せても背骨が折れるでしょう」
「あなたの論旨は心理学ですね、きみ」フランス人がいった。
「もし犯罪者が心理学を心得ていたら、どんな犯罪者になるでしょうかね!」パーカー・パイン氏はいった。そしてこの考えを、愛情をこめて、説きつづけた。「あなたが会われる十人の人間について、その点を考えてごらんなさい。少なくともそのうちの九人は、適切な刺激をあたえると、あなたの思うままに行動させることができますよ」
「あら、それを説明してくださいな!」キャロルが大声を出した。
「強く出ると、へこむ人間がいます。大喝一声してごらんなさい――そういう人間なら服従します。また、つむじ曲がりの人間がいます。そういう人間には、あなたが行ってほしいと思う方向と反対の方向におどしてやればよろしい。それから、暗示を受けやすい人間がいます。一番ありふれたタイプです。これは、自動車の警笛を聞くと、自動車を見たと思う人間です。郵便受けががたがたなるのを聞くと、郵便配達人を|見た《ヽヽ》と思います。人が刺されたと|聞くと《ヽヽヽ》、傷口にナイフを見る人間です。または、もし人が射たれたと聞くと、ピストルの音を聞いたと思う人間です」
「あたしなら、誰からもそんな暗示をかけられることはないと思うわ」キャロルは信じられないといった口調でいった。
「お前は利口だから、暗示にはかからないよ、キャロル」父親がいった。
「あなたのおっしゃるとおりです」フランス人は、考え深げにいった。「先入観、というやつが人間の感覚を狂わすんだ」
キャロルはあくびをした。
「あたし洞穴へ引きとろおっと。へとへとに疲れてるのよ。アバス・エフェンディが明朝は早く出発しなければといってたわ。なんでも、あたしたちを、|いけにえ《ヽヽヽヽ》の場所へ連れて行くそうよ――どんなところか知らないけど」
「若くて美しい娘たちを、いけにえに捧げる場所ですよ」サー・ドナルドがいった。
「あら、あたしはごめんだわ! じゃ、皆さん、おやすみなさい。あら、あたしイヤリングを落としちゃったわ」
デュボスク大佐がテーブルの向こうに転がっていたイヤリングを拾い上げて、彼女にかえした。
「それは本ものですか?」サー・ドナルドがだしぬけにたずねた。しかし、たしなみも忘れて、ドナルドは彼女の両方の耳についている大きな一つはめの真珠を、じっと見つめた。
「れっきとした本ものですわ」キャロルはいった。
「八万ドルもしましたよ」彼女の父親は、得意そうにいった。「それなのに、この子はゆるくはめておくので、ぬけ落ちてテーブルをころがりまわるのです。わしを破産させたいのかね、娘や?」
「でも、パパなら新しいのを買ってくださることになっても、破産しないでしょう」キャロルは、あまえたようにいった。
「そうだろうな」父親は唯々諾々《いいだくだく》としていった。「銀行の残高を気にせずに、イヤリングを三組買ってやれるさ」彼は鼻高々と見まわした。
「けっこうなご身分ですな!」サー・ドナルドがいった。
「では、皆さん、わしもそろそろ引きとります。おやすみ」ブランデルはいった。ハースト青年もいっしょに席をはずした。
他の四人は、まるで同じ感慨にかられたみたいに、たがいに微笑をかわした。
「これで、彼が金を惜しまないことがわかって幸甚ですな」サー・ドナルドは、うなるようにいった。そして「金が自慢の豚おやじめ!」と毒づいた。
「金を持ちすぎているんですね、ああいうアメリカのやからは」デュボスクがいった。
パーカー・パイン氏はしずかにいった。
「金持が貧乏人から正当に評価されるということはむずかしいことですね」
デュボスクは吹き出した。
「羨望と悪意ですかね? あなたのおっしゃるとおりですよ、ムシュー。わたしたちは皆、金持になりたいし、何回も真珠を買いたいですよね。ただ、こちらのムシューを除けば」
彼は、カーヴァー博士に会釈した。博士はいつもそうであるらしく、また、ぼんやりとしていた。片手で小さいものをいじくっている。
「え?」博士はわれに返った。「いや、確かに、わたしは大きな真珠なんかほしいとは思いませんよ。もちろん、金はつねに役に立ちますが」博士の口調はいつもの調子にもどった。「しかしこれを見てごらんなさい。真珠よりも百倍もおもしろいものです」
「なんですか? それは」
「黒い赤鉄鉱で作った円筒形|印形《いんぎょう》で、拝謁の場面が彫られています――一人の神が、彼よりも偉い、王座についている神に請願者を紹介している場面です。請願者は供物として子山羊を連れていて、王座にいる崇高な神は、従僕に、棕櫚《しゅろ》の枝の縄払いで縄を追い払わせているところです。このあざやかな銘は、男はハムラビ王の召使だと書いています。したがって、ちょうど四千年昔に作られたものにちがいありません」
博士はポケットから細工用粘土のかたまりを取り出して、テーブルの上に少し塗りつけ、それに少量のワセリンを塗ると、その上に印形を、押すようにして、ころがした。それから、ポケット・ナイフで、四角い粘土をはがして、そっとテーブルからこじ上げた。
「ほらね?」と博士はいった。
彼がさきほど説明した場面が、粘土の上にはっきりと鮮明にうつし出されて、一同の眼前にくり広げられた。
しばしの間、一同は過去の魔力にとらえられた。すると、外からブランデル氏の声が、その場の興をそぐように聞こえてきた。
「おい、諸君! わしの荷物を、このいまいましい洞穴から出して、テントに入れてくれんかね! ノーシーアムがひどく刺すんだよ。これじゃ一睡もできん」
「ノーシーアムというと?」サー・ドナルドがきいた。
「たぶん、|すなばえ《ヽヽヽヽ》でしょう」カーヴァー博士がいった。
「ノーシーアム〔目に見えないものという意味〕とは気に入ったな。このほうがはるかに暗示的な名前だ」パーカー・パイン氏はいった。
一行は、翌朝早く、岩の色や斑紋にさまざまな嘆声を発してから、出発した。この「バラのように赤い」町は、まったく、自然が最も豪華で、はなやかな気分のときに作り出した造化の|たわむれ《ヽヽヽヽ》であった。一行はゆっくりと進んだ。なにしろカーヴァー博士が目を地面に落としたまま歩き、時々立ち止まっては、小さな物を拾い上げるからである。
「考古学者というものは、いつでもすぐそれとわかりますね――ほらね」とデュボスク大佐は笑いながらいった。「空も、丘も、自然の美にも目をくれない。頭を下げて、捜しながら歩くんですよ」
「ええ、でも何を捜しておいでなの?」キャロルがいった。「あなたが拾い上げていらっしゃるものはなんですの、カーヴァー博士?」
かすかな微笑を浮かべて、考古学老は泥だらけの陶器の破片を二つ差し出した。
「あんながらくたを!」キャロルは軽蔑したように叫んだ。
「陶器は黄金より興味深いものです」カーヴァー博士はいった。キャロルは不信のおももちだった。
一行は鋭い曲がり角に来て、岩を切った二、三の墓のそばを通った。上り坂は多少、骨が折れた。べドウィン人の案内人たちは先に立って、片側の切り立つ絶壁へは全然、目もくれずに、無造作に、けわしい斜面をさっさと上がって行った。
キャロルはいくぶん青い顔をしていた。一人の案内人が上からかがみこんで、手を伸ばした。ハーストが彼女の前にとび上がって、彼の杖を、絶壁側に柵《さく》のようにして差し出した。キャロルは目まぜで彼に感謝して、一分後には、無事に広い岩の道に立った。ほかのものも、のろのろと。あとにつづいた。太陽はもう高くなって、熱気が感じられ出した。
とうとう頂上に近い、広い台地に着いた。あとひといきで大きな四角い岩塊からなる頂上へつく。ブランデルは案内人に、あとは自分たちだけでのぼるからと合図した。べドウィン人たちは、気持よげに、並んで岩にもたれると、タバコをすいはじめた。数分後に、一行は頂上に到着した。
そこは奇妙な、がらんとした場所だった。四方が谷に望んで、眺望はすばらしいの一語につきた。一同は西に岩をきざんだ水鉢と、いけにえを捧げる祭壇のようなもののある飾りのない長方形の床の上に立った。
「いけにえのための崇高な場所ね」キャロルは、はしゃいでいった。「でも、いけにえをここへ引き上げるまでに、時間がかかったことでしょうね!」
「昔はジグザグの岩道のようなものがあったのです」カーヴァー博士が説明した。「別の道を下りて行けば、その跡が見えるでしょう」
一同は、それからしばらく意見をかわしたり、話したりした。その時、小さなカチンという音がした。カーヴァー博士はいった。
「またイヤリングを落としたんでしょう、ミス・ブランデル」
キャロルはあわてて手を耳にやった。
「あら、ほんとだわ」
デュボスクとハーストが、あたりを捜し始めた。
「ここにあるはずですよ」フランス人はいった。「ころがって行くはずがない。ころがって行くような場所がありませんもの。ここは四角な箱のようなものです」
「まさか岩の割れ目に落ちこむなんてことは、ないでしょうね?」キャロルがきいた。
「岩の割れ目なんて、どこにもありませんよ」パーカー・パイン氏はいった。「ご自分でごらんになるとよろしい。ここは完全に平坦です。おや、何か見つけましたね。大佐?」
「ただの小石ですよ」とデュボスクは苦笑して、投げ捨てた。
しだいしだいに違った気分――緊張感――が捜索の中に生まれた。声にこそ出さなかったが、「八万ドル」という言葉が、みんなの頭にあった。
「たしかにつけていたんだね、キャロル?」父親が、かみつくような声を出した。「つまり、わしのいう意味は、上がって来る途中で落としたのではないかということだが」
「この台地に上がった時は、つけていたわ」キャロルがいった。「ほんとうよ。だって、カーヴァー博士がゆるんでいるといって、しめてくださったんですもの。そうでしたわね、博士?」
カーヴァー博士は同意した。みなの胸中にあった思いを口に出したのはサー・ドナルドだった。
「これはいささか不愉快な事件ですな、ブランデルさん。あなたはゆうべ、あのイヤリングの値段をわたしたちにお話しになった。片方だけでも、ひと財産の価値があります。もしイヤリングがみつからなければ――どうも、みつかりそうもないが、わたしたちは一人のこらず、ある程度、嫌疑をかけられることになります」
「だから、当事者の一人として、わたしは身体検査をしてもらいたいですね」デュボスク大佐が口をはさんだ。「もらいたいどころか、権利として要求します!」
「わたしも調べてください」ハーストはいった。不愉快そうな声だった。
「ほかのかたは、どうお考えですか?」サー・ドナルドが一同を見まわした。
「異議ありません」パーカー・パイン氏はいった。
「名案ですな」カーヴァー博士はいった。
「わしも加えてもらいましょう、皆さん」ブランデル氏がいった。「わしには、理由があるのです、強調したくはないが」
「むろん、あなたのお好きなように、ブランデルさん」サー・ドナルドは、いんぎんにいった。
「キャロル、お前は下におりて、案内人たちといっしょに待っていてくれんかね?」
ひとこともいわずに、娘は一行から離れて行った。彼女の顔はこわばって、けわしかった。そこには、絶望の色があって、それが少なくとも、一行のうちのある人物の注意をひいたのである。いったいあの表情は何を意味するのだろうかと、その人物は考えた。
捜索は続行された。それはきびしい徹底的なものだった――そして、まったく収穫はなかった。一つだけ確かなことがあった。イヤリングを身につけているものは、誰もいないということだ。意気消沈した小さな一隊は下山を相談し、案内人の描写や説明は、なかばうわの空で聞きながした。パーカー・パイン氏が、ちょうど昼食のために着替えをすました時、人影が彼のテントの入口へあらわれた。
「パインさん、入ってもよろしくて?」
「どうぞ、お嬢さん、さあ、どうぞ」
キャロルが入ってきて、ベッドに腰を下ろした。彼女の顔には、昼前に彼の注意をひいたのと同じ、けわしい表情が浮かんでいる。
「あなたは人が不幸なときに問題を解決するというふれこみでしたわね、そうでしょう?」
「わたしは休暇中です、ミス・ブランデル。いかなる依頼も引き受けませんよ」
「でも、この件は引き受けてくださるわ」娘は平静にいった。「ねえ、パインさん、あたしは世界じゅうで一番みじめな思いをしていますのよ」
「悩みの種はなんです? 例のイヤリングの一件ですか?」
「そのとおり。あなたのおっしゃるとおりよ。ジム・ハーストが取ったのじゃありません、パインさん。あたしには、ちゃんとわかるんです」
「どうも、おっしゃることがわかりかねますね、ミス・ブランデル。なぜ、彼が取ったなんて感ぐる人がいるのですか?」
「前歴からですわ。ジム・ハーストはかつて泥棒だったのです、パインさん。彼はあたしの家で逮捕されました。あたし――あたし彼がかわいそうでした。彼はとても若くて、絶望的な顔をして――」
それにすばらしい美男だし、とパーカー・パイン氏は考えた。
「あたしは彼に更生する機会をあたえるようにとパパを説得しました。パパは、あたしのためなら、どんなことでもしてくれるんです。で、パパはジムに機会をあたえ、ジムは更生しました。パパは彼を信頼して、仕事の機密を全部まかせるようになりました。そして、いずれは立ち直ったことでしょう。いえ、もしこの事件が起きなければ、立ち直ったはずですわ」
「立ち直るという意味は?」
「あたしは彼と結婚したいと思っているし、彼もあたしと結婚したがっているということです」
「すると、サー・ドナルドは?」
「サー・ドナルドは父の考えで、あたしの意中の人ではありません。あたしがサー・ドナルドのような気どり屋と結婚したがるとお思いになって?」
イギリス青年に対するこの形容については、なにも意見を表明せずに、パーカー・パイン氏はたずねた。
「それでサー・ドナルド自身は?」
「たぶんあたしが、貧しくなったあのひとの領地に役立つとでも思っているんでしょう」キャロルは軽蔑したようにいった。
パーカー・パイン氏は状況を考えてみた。「二つのことをおききしたい。昨夜こんな発言がありましたね。『一度泥棒をしたものは、いつも泥棒をする』と」
娘はうなずいた。
「今になって、あの発言が引き起こしたと思える、座がしらけた理由がわかりましたよ」
「ええ、ジムはいたたまれなかったでしょうし――あたしとパパもそうでした。だからあたしは、それがジムの顔に出るのではないかと思って、とっさに思いついた言葉を口走ったのですわ」
パーカー・パイン氏は思い入れよろしく、うなずいた。それからたずねた。
「ではどうしてお父上はきのう、ご自分も身体検査されることを主張なさったのでしょうか?」
「それがおわかりになりませんでしたの? あたしにはわかっていました。パパは、この出来事は、ジムにぬれぎぬをきせるために仕組んだでっちあげだと、あたしが勘ぐるんじゃないかと、それを気にしたんですわ。なにしろパパは、あたしが、あのイギリス人と結婚することに熱をあげているんです。ですから、パパはジムに対して卑劣なまねをしたのじゃないことを、あたしに示したかったんです」
「なるほど、それで、すっかり事情がわかりました。一般的な意味ではそうだということです。今回の詮議《せんぎ》には、ほとんど参考になりませんがね」
「手を引こうというおつもりじゃないでしょうね?」
「いや、いや」彼はちょっとだまってから、またいった。「いったい、あなたがわたしにしてほしいとお望みのことはなんなのです、ミス・キャロル?」
「あの真珠をとったのがジムではないことを証明してほしいの」
「それで万一――失礼ですが――ジムだったら?」
「もしあなたがそう思っていらっしゃるなら、まちがいよ――大まちがいだわ」
「ごもっともです。でも、あなたはほんとうにこの事件を綿密に考えてごらんになりましたか? あの真珠を見てハースト氏が出来心に駆られたとは思いませんか? 売却すれば、大金が入るでしょう――投資をする元手とでもいいましょうか――それがあれば彼も独立できるし、したがって、あなたのお父上の同意の有無にかかわらず、あなたと結婚できることになります」
「ジムはとらなかったのよ」娘はあっさりいった。
今度はパーカー・パイン氏も彼女の主張を入れた。
「よろしい、最善をつくしてみましょう」
彼女はそそくさとうなずくと、テントを出て行った。パーカー・パイン氏が代わってベッドに腰を下ろした。彼は瞑想にふけった。それから突然、含み笑いをした。
「われながら頭の働きが鈍くなったもんだ」と声に出していった。
昼食の時、パイン氏は、ひどく陽気だった。
午後は平穏無事に過ぎた。大部分の者は午睡していた。パーカー・パイン氏が、四時十五分すぎに、大テントに入って行くと、いるのはカーヴァー博士だけだった。博士は陶器の破片をいくつか調べていた。
「おや!」パーカー・パイン氏はそういって、椅子をテーブルのほうへ寄せた。「ちょうどお会いしたいと思っていた人がいらっしゃる。あなたが持ち回っておいでの細工用粘土を、かしていただけませんか?」
博士はあちこちのポケットをさぐってから、棒状の粘土をとり出すと、パーカー・パイン氏へ差し出した。
「いや」パーカー・パイン氏は手を振って、それをしりぞけた。「わたしのほしいのは、それではありません。ゆうべあなたが持っていた塊りがほしいのです。率直にいって、わたしがほしいのは粘土ではありません。その中身です」
ちょっと間があった。それからカーヴァー博士はしずかにいった。
「どうもおっしゃる意味がわかりかねるが?」
「おわかりのはずですがね。わたしはミス・ブランデルの真珠のイヤリングがいただきたいのです」
一分ほど完全な沈黙がつづいた。それからカーヴァー博士は片手をポケットにすべりこませて、無細工な形をした粘土の塊りを取り出した。
「あなたは頭がいいな」そういう博士の顔は無表情だった。
「事情をお話ししていただきたいですね」パーカー・パイン氏はいった。彼の指はせわしく動いて、よごれた真珠のイヤリングを粘土の中から引き抜いた。「ほんの好奇心からですがね」と彼は弁解するように、つけ加えた。「でも事情をうかがいたいもんですね」
「話しましょう。あなたが、ただどうしてわたしに目をつけたのか、それを話してくれたらね。あなたは何も見ていなかった、そうでしょう?」
パーカー・パイン氏は首を振った。
「わたしは考えただけです」
「はじめは、まったくの偶然にすぎなかったのです」カーヴァーはいった。「けさ、わたしはあなた方の後ろにいて、イヤリングが目の前に落ちているのにぶつかったのです――たったいま、あの娘の耳から落ちたのにちがいない。彼女は、それに気づいていなかった。誰も気づいていない。わたしはそれを拾い上げて、ポケットに入れました。彼女に追いついたらすぐ、返すつもりでした。ところがすっかり失念してしまった。
それから、あの登り道の中途で、わたしは考え始めました。この宝石は、あのばか娘にはなんの値打もないものだ――彼女の父親は値段なんかには頓着せずに、かわりを買ってやるだろう。しかるに、わたしにとっては絶大な価値がある。この真珠を売れは、探検隊の費用ができるはずだ」博士の無表情な顔がくずれて生き生きとしてきた。「近頃では、発掘のために寄金集めがむずかしいことをご存じですか? いや、ご存じないでしょう。あの真珠を売れは、すべてが簡単にはこぶはずです。わたしが発掘したい遺跡がひとつある――遠くバルチスタン〔インド北西部〕にね。そこには、すぎし時代の全貌が発掘されるのを待っているのです……
あなたが昨夜、口にされた言葉が、わたしの心に浮かびました――暗示にかかりやすい証人のことです。あの娘はそのタイプだと思いました。頂上についた時、わたしは彼女にイヤリングがゆるんでいるといって、それをしめてやるふりをしました。わたしが実際にしたのは、小さい鉛筆の先を彼女の耳に押しつけただけです。数分後に、わたしは小石を落としました。彼女は、イヤリングはさっきまで耳についていて、いましがた落ちたのだと、すすんで証言しました。そうしている間に、わたしは真珠をポケットの中の代用粘土の塊りの中に押しこみました。これがその間のいきさつです。あまりかんばしい話ではありません。さあ、こんどはあなたが話す番です」
「わたしの話は、大してありません」パーカー・パイン氏はいった。「あなたは地面からものを拾い上げた、ただ一人の人物でした。それであなたに目をつけたのです。あの小石に意味があることが、わかりました。あなたがやった|からくり《ヽヽヽヽ》を暗示してくれたのです。それから――」
「つづけてください」カーヴァーはうながした。
「なにしろ、ゆうべあなたは正直というものについて少々、気負いすぎて話をされましたよね。あまり主張しすぎる――シェイクスピアの言葉をご存じでしょう。まるで、なんとなく、あなたが自分にいいきかせようとしているように見えました。それに、金を極端に軽蔑された」
パイン氏の前にいる人物の顔には、しわがより、疲労の色が浮かんでいる。
「わたしはもうおしまいです。あなたがそのやすぴかものを彼女に返してくださるんでしょうな? 妙なことですよ、未開人の装飾本能です。旧石器時代までさかのぼって見られる現象です。女性の最初の本能の一つです」
「あなたはミス・キャロルを誤解していらっしゃるようですね。彼女は頭がいい――その上、やさしい心の持ち主です。この事件を他言するようなことはないと思います」
「だが父親は、そうはいかんでしょう」考古学者はいった。
「まず、だいじょうぶでしょう。いいですか、『パパ』にしても他言をはばかる理由が、あるのですよ。このイヤリングの片方に四万ドルの価値なんかありません。五ドルも出せば充分でしょう」
「というと――」
「そうです。あの娘は知りません。彼女は、れっきとしたほんものだと思っています。わたしは、ゆうべ疑問を持ちました。ブランデル氏は自分の財産について、少々はったりをきかせました。ことがうまく運ばないで、ばつが悪くなったら――そう、うわべをとりつくろって、はったりをきかせるのが一番いい手です。ブランデル氏は、はったりをきかせたのです」
突然、カーヴァー博士はにやりと笑った。愛嬌のある、少年のような笑いで、初老の男の顔に見ると場違いの感じがする。
「すると、わたしたちは一人残らず、哀れな人間なんですな」博士はいった。
「そのとおりです」パーカー・パイン氏は引用した。「同類、あいあわれむとね」
[#改ページ]
ナイル河の死
グレイル卿夫人はいらいらしていた。フェイヨウム号に乗船した瞬間から、彼女は何かにつけて文句をいい通しだった。第一、船室がお気に召さなかった。朝日はとにかくとして、午後の太陽は我慢できない。姪《めい》のパメラ・グレイルが気前よく、自分にあてがわれた反対側の船室をゆずった。グレイル卿夫人は不承々々それをゆずり受けた。
彼女は看護婦のミス・マクノートンに、やれ、ちがうスカーフを渡してくれたの、やれ、彼女の小さな枕を出しておかずに、荷造りしてしまったのといっては、がみがみ叱りつけた。また、夫のジョージ卿には、ちがった首飾りを買って来たといっては、あたりちらした。ほしかったのは瑠璃のほうで、ラピスラズリじゃない。ジョージのばか!
グレイル卿はおどおどしていった。
「ごめんよ、おまえ、悪かったね。取り換えに行って来るよ。時間はまだ充分ある」
彼女は夫の秘書のパズル・ウェストには、がみがみいわなかった。誰もパズルには、がみがみいわない。彼の微笑が、口を開く前に相手の気持をやわらげてしまうからだ。
だが、いちばんひどい被害をこうむったのはアラビア人の通訳だった――が、高価な服を着て、押し出しの堂々としたこの男は、ものにも動じないようであった。見知らぬ男が一人、籐《とう》椅子にすわっているのを見つけた夫人は、それが同乗の船客であることに気がつくと、烈火のように立腹したのである。
「事務所じゃ、船客は、わたしたちだけだと、はっきりいってましたよ! シーズンも終わりだから、ほかには客はいないって!」
「そのとおりでございます、奥さま」モハメッドはいった。「あなたとお連れさまと、殿方がお一人、それだけでございますよ」
「わたしたちだけだって聞いて来たんですよ」
「おおせのとおりで、奥さま」
「なにがおおせのとおりなもんですか! 嘘をおつき! あの男はそこで何をしているの?」
「あのかたは、あとから来ましたのです、奥さま。あなた方が切符をお買いになったあとです。けさになって、乗ることを決めたのです」
「誰がなんといおうと、わたしゃだまされたのです!」
「だいじょうぶでございますよ、奥さま。あの人はおとなしい紳士、たいへんりっぱで、たいへんおとなしい人です」
「ばかをおいいでないよ? 何もわからないくせに。ミス・マクノートン、どこにいるんです? ああ、そこなの。そばにいるようにって何度もいったでしょ。わたしゃ気が遠くなるかもしれないんだよ。船室へ連れて行って、アスピリンを服《の》ませておくれ。モハメッドをそばへ来させるんじゃないよ。あれときたら、『おおせのとおりで、奥さま』をくり返すんだから、わたしゃ、わめき出したくなるよ」
ミス・マクノートンは何もいわずに腕を差しのべた。彼女は三十五歳くらいの、背が高く、もの静かで暗い感じの美人だった。彼女はグレイル卿夫人を船室にすわらせると、クッションで背中を支えてやり、アスピリンを服ませて、相手がぶつぶつ文句をいいつづけるのを拝聴していた。
グレイル卿夫人は四十八歳だった。十六の時から、金がありあまっているという不満に苦しんで来た女性で、十年前に貧乏男爵ジョージ・グレイル卿と結婚した。
夫人は大柄で、顔立ちに関する限り悪いほうではなかったが、気むずかしい表情に、しわがより、おまけに厚化粧のおかげで、なおのこと、年と気性の欠点がきわだって見えた。髪は、プラチナ・ブロンドに染めたり、赤茶色に染めたりするのをくりかえしたせいで、くたびれていた。その上ごてごてと着飾りすぎていたし、装身具も過剰だった。
ミス・マクノートンが能面のような顔で待っている間に、夫人は話し終えた。
「グレイル卿に、あの男を船から|どうでも《ヽヽヽヽ》下ろすようにいってちょうだい! わたしゃひとりでいたいんだよ。このところ、なにもかも――」夫人は目を閉じた。
「はい、奥さま」そういってミス・マクノートンは船室を出て行った。
夫人の逆鱗《げきりん》にふれた、例の出港まぎわに乗り込んだ船客は、まだデッキ・チェアにすわっていた。彼はルクソール〔テーベの遺跡で知られるナイル河畔の町〕に背を向けて、ナイル河越しに、濃緑色の線の上に黄金色に輝く丘を凝視していた。ミス・マクノートンは通りすがりに詮索するような視線をちらりと投げた。
グレイル卿はロビーにいた。卿は当惑のおももちで、首飾りを手にして眺めていた。
「ねえ、ミス・マクノートン、これでいいだろうかね?」
ミス・マクノートンは瑠璃をすばやく一瞥《いちべつ》して、「たいへんけっこうですわ」といった。
「奥さまの気に入ると思うかい――え?」
「まあ、だんなさま、そうは申しませんわ。なにしろ奥さまのお気に召すものは、なにひとつございませんもの。まったくそのとおりなんですから。ところで奥さまからのおことづけですが、あの目ざわりな船客を追い払ってほしいとのことでございます」
グレイル卿は唖然《あぜん》とした。
「どうやって? あの男になんていえばいいんだい?」
「むろん、だんなさまには、おできになりません」エルシー・マクノートンの声は、きびきびして思いやりがあった。「手の打ちようがなかったとおっしゃればよろしいのですわ」彼女ははげますようにいい足した。「だいじようぶでございますよ」
「だいじょうぶだと思うかね、きみ!」卿はこっけいなほど深刻な顔をした。
エルシー・マクノートンの声はさらに思いやりをこめていった。
「お気になさる必要はございません、だんなさま。ご病気のせいですわ」
「あれはほんとに悪いのかね、看護婦さん?」
看護婦の顔に、さっと暗い影がよぎった。こう答えた彼女の声には、どことなく奇妙なひびきがあった。
「ええ、おぐあいは――あまりはかばかしくございません。でもご心配あそばしますな、だんなさま。決してご心配はいりません。ほんとうに」彼女は優しく微笑すると出て行った。
涼しそうな白いドレス姿のパメラが、ひどく、ものうげなようすで入って来た。
「あら、おじさま」
「やあ、パム」
「なにを持ってらっしゃるの? あらすてき!」
「きみがそう思ってくれてありがたいよ。どうおばさまもそう思うと思うかね?」
「おばさまって、どんなものでも好きになれないのよ。どうしておじさまがあんな人と結婚したのか、わからないな」
グレイル卿は沈黙した。競馬の失敗、押しかける債権者たち、そして傲慢《ごうまん》ながら美しい女の姿が走馬灯のように頭に浮かんだ。
「かわいそうなおじさま」パメラがいった。「きっと必要に迫られたのね。それにしてもおばさまったら、あたしたちにひどく当たるじゃない、そうでしょう!」
「病気になってからというもの――」グレイル卿は話しはじめたが、パメラがそれをさえぎった。
「おばさまは病気じゃないわ! 仮病よ。いつでも、したい放題のことをやれるのよ。アスワンにいた時には――そう――|こおろぎ《ヽヽヽヽ》みたいに陽気だったじゃないの。ミス・マクノートンは、あれが仮病だってこと知ってるに決まっててよ」
「ミス・マクノートンがいなかったら、どうなることやら」グレイル卿はため息をついた。
「なかなか|そつ《ヽヽ》のない人だわ」パメラは認めた。「でもね、あたしはおじさまほど、あの人を買ってはいないことよ。反対なさらないで。おじさまは彼女のことを、すてきだと思ってらっしゃるわ。ある意味ではそのとおりよ。でも彼女って正体がつかめないわ。何を考えてるのかまるでわからない。それにしても、あのいじわるばあさんの扱いかたは堂に入ってるわね」
「おいおい、パム、おばさまのことを、そんなふうにいうもんじゃないよ。とにかく、きみにはとてもよくしてくれるじゃないか」
「そう、あたしたちの勘定は全部払ってくれるわね。でもこんな暮らし、どうかと思うわ」
グレイル卿は、もっとあたりさわりのない話題に移った。
「わたしたちといっしょに来ることになったあの男のことは、どうしたもんだろうね? おばさまは船を借り切りにしたいんだよ」
「それはむりな注文ね」パメラは涼しい顔でいった。「あの人は、とても感じのいい人よ。パーカー・パインという名前なんですって。どうも、もと記録保存課にいたお役人さんのようよ。そんな課があるかどうか知らないけど、おかしなことに、あたし、その名前を、どこかで聞いたおぼえがあるみたいなの。パズル!」秘書が、ちょうどその時、部屋に入って来た。「パーカー・パインって名前、どこで見たのかしら?」
「タイムズ紙の第一面、人事広告欄ですよ」青年は即答した。「『あなたは幸福ですか? 幸福でないかたはパーカー・パイン氏にご相談ください』」
「へえ! すごくおもしろいじゃないの! カイロまで行くあいだに、あたしたちの悩みを全部話しちゃいましょうよ」
「ぼくには悩みなんかありません」パズル・ウェストは無造作に答えた。「これから黄金のナイル河を下って寺院を見るのですから」――彼は新聞をとり上げたグレイル卿のほうを、ちらっと見た――「ごいっしょにね」
最後の言葉は、低いささやき声だったが、パメラにはわかった。彼女の目と彼の目が合った。
「あなたのいうとおりね、パズル」彼女は気軽にいった。「生きてるっていいもんだわ」
グレイル卿は立ち上がって出て行った。パメラの顔が曇った。
「どうしたんです、かわいいひと?」
「あたしのいやらしい義理のおばが」
「心配いりません」パズルは急いでいった。「あの人が何を考えていようと、こっちの知ったことじゃない。さからわないことですよ、ね」彼は声を出して笑った。「いいカモフラージュです」
パーカー・パイン氏が太った姿をロビーに現わした。その背後から、絵から抜け出したような姿のモハメッドが自分のせりふをしゃべろうとしてやって来た。
「みなさん、今から出発です。二、三分のうちに右手にカルナックの神殿を通過します。ではこれから、父親のために羊の焼肉を買いに出かけた少年の物語をいたしましょう……」
パーカー・パイン氏は額を拭《ぬぐ》った。彼はデンデラの神殿を見物してもどったばかりだった。ロバに乗るのは自分のからだに合わない運動だな、という気がした。ワイシャツを着換えようとした時、化粧台の上に立てかけてある手紙が彼の目にとまった。開いてみると、次のように書いてあった。
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拝啓
ご相談いたしたきことがあります。あなたがアビドスの神殿に行かれず、船におとどまりいただければ幸甚に存じます。 かしこ
アリアドネ・グレイル
[#ここで字下げ終わり]
パーカー・パイン氏の柔和な大きい顔に微笑がひろがった。彼は一枚の紙についと手をのばすと、万年筆のキャップを取った。
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親愛なるグレイル卿夫人(と、したためた)いかんながら、ただいま小生休暇中につき仕事はいたしておりません。
[#ここで字下げ終わり]
彼は署名して給仕に手紙をことづけた。着換えをすっかりすませた時、また、手紙が届いた。
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親愛なるパーカー・パイン様
あなたが休暇中でおられる由、うけたまわりましたが、相談にのってくだされば、百ポンドお支払いするつもりでございます。 かしこ
アリアドネ・グレイル
[#ここで字下げ終わり]
パーカー・パイン氏は眉をあげた。彼は考えこんで、万年筆で自分の歯をこつこつとたたいた。アビドスも見たかったが、百ポンドは百ポンドだ。それにエジプトは想像以上にどえらく金がかかった。
[#ここから1字下げ]
親愛なるグレイル卿夫人(と、したためた)アビドスの神殿には参りません。 草々
J・パーカー・パイン
[#ここで字下げ終わり]
パーカー・パイン氏が船を下りないといったので、モハメッドはひどく悲観した。
「すばらしい神殿ですよ。お客さま方はみなさん、あの神殿を見たがります。乗り物を仕度させましょう。椅子を持ってこさせて、船員にかつがせましょう」
パーカー・パイン氏は、こうした気をそそる申し出をことごとくしりぞけた。
ほかのひとたちは出発した。パーカー・パイン氏は甲板《デッキ》で待っていた。やがてグレイル卿夫人の船室のドアが開いて、当の夫人が甲板《デッキ》に足を引きずるようにして姿を現わした。
「お暑い午後ですこと」彼女はいんぎんに声をかけた。「お残りになったのね、パインさん。なかなか賢明でいらっしゃるわ。ロビーでごいっしょにお茶でもいかが?」
パーカー・パイン氏は、素早く立ち上がってあとにつづいた。彼が好奇心にかられたことはいなめない。
どうやらグレイル卿夫人は、要点に触れにくいとみえて、話題をあちこちと移していた。だが、やがて声音《こわね》を変えてしゃべり出した。
「パインさん、これからお話しすることは絶対に秘密ですのよ! ご承知いただけますわね?」
「むろんですとも」
彼女はことばを切って深呼吸をした。パーカー・パイン氏は待った。
「わたし、主人がわたしに毒を服《の》ませているのかどうか知りたいのです」
パーカー・パイン氏が期待していたことは、とにもかくにも、こんな話ではなかった。彼はあからさまに驚きの色を見せた。
「これはまことにゆゆしいいいがかりですぞ、奥さま」
「そりゃ、わたしだって、ばかではないし、きのうきょう生まれたわけでもありません。このところ、ずっと疑惑を抱いてきたのです。ジョージが出かけると、わたしぐあいがよくなるのです。食欲は出るし、まるで自分がちがった女のように感じます。これには何かわけがあるはずです」
「奥さま、あなたは容易ならぬことを口にしておられる。念のため申しあげますが、わたしは探偵ではありません。いうなれば、心の悩みの専門家というところで――」
彼女は相手のことばをさえぎった。
「おや、それでは、こうしたことがわたしを悩ますとはお思いにならないのね。――わたしは警官を求めているのではありません――はばかりながら、自分のことくらい自分で気をつけられます――わたしがほしいのは確信です。どうしても|知らなくては《ヽヽヽヽヽヽ》なりません。わたしは、ひねくれ者ではありませんよ、パインさん。公正にふるまうものに対しては、わたしも公正にふるまいます。それはおたがいさまです。わたし、これまで自分のなすべきことは果たして来ました。主人の借金を払ってやりましたし、主人に関する限り、お金を出し惜しみしたことはありません」
パーカー・パイン氏はつかの間、グレイル卿に対する憐憫《れんびん》に心がうずいた。
「それにあの娘のことでも、衣装もパーティもあれもこれも、なんでも自由にさせています。ありきたりの感謝をしてくれれば、それでいいのです」
「感謝はこっちから求めて得られるものではありませんよ、奥さま」
「ばかおっしゃい!」グレイル卿夫人はそういって先をつづけた。「さあ、そういうことなんです! 真相を突きとめてください! もし、それがわかったら――」
パイン氏はふしぎそうに彼女を見た。
「わかったら、どうなんです?」
「それはこっちのことよ」彼女はきっと唇を結んだ。
パーカー・パイン氏は、しばしためらったが、やがて口を開いた。
「失礼ですが、奥さん、あなたはわたしにすっかり打ち明けておられないような印象を受けますが」
「ばかばかしい。あなたに探り出してもらいたいことは、ちゃんと話しましたよ」
「ええ、でもその理由《ヽヽ》は?」
二人の視線が合った。先に目を伏せたのは彼女だった。
「理由はいわなくても、はっきりしていると思いますけと」
「いいえ。それというのも疑問の点が一つあるのです」
「なんですの!」
「あなたはご自分の疑惑が当たっていることを証明してほしいのですか、それともちがっていることを証明してほしいのですか?」
「失礼な、パインさん!」夫人は怒りに身をふるわせて、すっくと立ち上がった。
パーカー・パイン氏は穏やかにうなずいた。
「ごもっとも。でもそれではお答えになりませんよ」
「まあ!」彼女は二の句がつげなかった。そしてさっさと部屋から出て行った。
取り残されたパーカー・パイン氏は、もの思いに耽《ふけ》った。あまり深く考えこんでいたので、誰かが入って来て向かい側に腰をおろしたとき、それとわかるほど、びくっとした。ミス・マクノートンだった。
「これはまた、みなさん早いお帰りですね」パーカー・パイン氏はいった。
「ほかの人たちはまだですわ、わたし頭痛がするといって一人で帰って来ましたの」そこで彼女はちゅうちょした。「奥様はどこかしら?」
「船室で横になっておられるんでしょう」
「ああ、それならだいじょうぶだわ。わたしが帰って来た事を知られたくありませんの」
「それじゃ、あの方のために帰って来たのではないのですね?」
ミス・マクノートンは首を振った。
「いいえ、あなたにお目にかかろうと思いまして」
パーカー・パイン氏は驚いた。ミス・マクノートンなら、他人から忠告を求めないでも、自分で自分の問題を、ちゃんと処理できるひとだと、のっけからそういいたいくらいだった。どうやら彼の黒星らしい。
「わたしたちが乗船した時から、わたしはあなたに注目していました。あなたは経験豊かで、公正な判断をお持ちの方だと思います。じつは、ぜひご相談にのっていただきたいことが、ございますの」
「しかしですね――失礼、ミス・マクノートン――あなたは、ふつうなら他人の意見を求めるようなタイプの方ではありません。いうなればご自分の判断に依存することで満足しておられる方です」
「ふつうならそうですわ。でも、いまは特殊な立場にいるのです」彼女はしばしためらっていたが、「ふつう、わたしは患者のことはお話ししませんの。でもこの場合は、お話しする必要があると思います。パインさん、わたしが奥さまのおともをしてイギリスを発《た》った時、奥さまは見かけだけのご病人でした。はっきりいえば、これといって悪いところはなかったのです。もっとも、こういういい方は当たらないかもしれません。ひまとお金がありあまっていると、誰でも必ず病的な症状が出てくるものです。毎日|床《ゆか》を磨いて、五、六人の子供たちの面倒を見ていたら、奥さまもまったく健康で、そしてずっと幸福になっておられたことでしょう」
パーカー・パイン氏はうなずいた。
「病院付きの看護婦なら、こうした神経症患者をたくさん見るものです。奥さまはご自分の病気を楽しんでおられました。わたしのお役目は、あの方の苦痛を軽く見ないで、精いっぱい気転をきかせること――その上で、わたし自身できるだけ旅行を楽しもうということですの」
「なかなか如才《じょさい》ないですな」
「でもパインさん、事情が前とは変わって来たのです。奥さまが現在、訴えられる苦痛は本物で、気のせいではなくなったのです」
「というと?」
「わたし、奥さまが毒を服まされているのではないかと疑念を持つようになったのです」
「いつからです?」
「三週間前から」
「誰か――とくに思い当たる人物がありますか?」
彼女は目を伏せた。はじめて彼女の声から真実味が消えていた。
「いいえ」
「それでは、わたしがいいましょう、ミス・マクノートン。あなたは特定の人物を疑っておられる。その人物とは、グレイル卿だ」
「まあ、とんでもない、あの方だなんて信じられませんわ! あの方はほんとにお気の毒な、子供っぽいかたです。あの方が冷血な毒殺魔のはずがありません」彼女は苦しそうな声でいった。
「しかし、あなたはグレイル卿が留守になると奥方の容態がよくなり、病気の周期が、卿の帰宅と符合することに気づいていましたね」
彼女は答えなかった。
「どんな毒薬だと思います? 砒素?」
「その種のものでしょう。砒素か、アンチモニーか」
「それで、あなたはどんな処置を講じました?」
「極力、奥さまの食物や飲み物を監督しています」
パーカー・パイン氏はうなずいた。
「夫人自身あやしんでおられるふしはありますか?」とさりげなくたずねた。
「いいえ、確かに気づいてはいらっしゃらないと思います」
「ところが、さにあらず。奥さまは気がついていますよ」
ミス・マクノートンは仰天した。
「あなたの想像以上に夫人は隠しごとがお上手ですな。ご自分の秘密を、たくみに隠しておく方法を心得ておられる」
「ほんとうに驚きましたわ」ミス・マクノートンは、かみしめるようにいった。
「もう一つお聞きしたいのですがね、ミス・マクノートン、奥さまは、あなたがお気に入りですか?」
「さあ、考えたこともございませんわ」
二人の会話は中断された。ローブを後ろになびかせたモハメッドが、顔を輝かせて入って来たのだ。
「奥さまが、あなたのお帰りになった物音を聞いて、お呼びになっています。なぜ、こないのかと、おっしゃっています」
エルシー・マクノートンは、あわてて立ち上がった。パーカー・パイン氏も立ち上がった。
「明朝早くご相談することにしてよろしいですか?」彼はたずねた。
「ええ、それが一番、好つごうですわ。奥さまは朝寝坊ですから。とにかくわたし充分気をつけます」
「夫人も気をつけることでしょう」
ミス・マクノートンは立ち去った。
パーカー・パイン氏が、次にグレイル卿夫人を見たのは、夕食間ぎわのことだった。夫人はすわってタバコをくゆらせながら、何か手紙らしきものを燃やしていた。パイン氏には目もくれないところから、まだ腹を立てているなと推測した。
夕食後、パイン氏はグレイル卿、パメラ、パズルといっしょにブリッジをした。誰もあまり気が乗らないようすで、ブリッジも早々にお開きになった。
パーカー・パイン氏が起こされたのは、それから何時間も後のことだった。起こしに来たのはモハメッドだった。
「奥さまがたいへん病気です。看護婦さん、ひどくおびえています。わたし、医者呼んで来ます」
パーカー・パイン氏は急いで服を着た。彼はパズル・ウェストと同時に船室の入口に到着した。
グレイル卿とパメラが中にいた。エルシー・マクノートンは必死になって病人を看護していた。パーカー・パイン氏が到着した時、最後の痙攣《けいれん》が気の毒な婦人を襲った。からだは|くの字《ヽヽヽ》に曲がって硬直した。それからぐったりと枕に沈んだ。
パーカー・パイン氏はパメラを外に連れ出した。
「なんておそろしい!」彼女は半泣きになっていった。「なんておそろしいんでしょう! おばさまは――あの、おばさまは――?」
「亡くなられたのかって? ええ、ご臨終のようです」
彼はパズルに彼女を任せた。グレイル卿が呆然として船室から出て来た。
「あれがほんとうに病気だったとは、考えたこともなかった」卿はつぶやいていた。「夢にも思わなかった」
パーカー・パイン氏は卿を押しのけて、つかつかと船室の中に入って行った。
エルシー・マクノートンの顔は蒼白で、引きつっていた。
「お医者を呼びに行きました?」彼女はたずねた。
「ええ」それから彼はいった。「ストリキニーネ?」
「はい、あの痙攣《けいれん》から見て、まちがいありません。ああ、こんなことが起こるなんて!」彼女は椅子に腰をおろして、さめざめと泣いた。パイン氏はその肩を優しくたたいた。
その時、彼にある考えがひらめいた。あたふたと船室を出ると、ロビーに行った。灰皿の中に小さな燃え残りの紙片があった。判読できたのはほんの数語だった。
夢のカプセ
焼いてください!
「ふうむ、これはおもしろい」パーカー・パイン氏はいった。
パーカー・パイン氏はカイロのさる高官の部屋にすわっていた。
「つまり、これがその証拠物件だよ」と彼は考え深げにいった。
「ああ、かなり完全なものだね。犯人は大バカ野郎にちがいないな」
「グレイル卿は、おつむがいいとはいえないがね」
「それはどうでもよろしい」相手は話の要点をくり返した。「グレイル卿夫人は牛肉エキスを一杯所望する。看護婦が作った。それから、その中にシェリーを入れなくてはならない。グレイル卿がシェリーを渡す。二時間後グレイル卿夫人は明らかにストリキニーネの中毒症状で死ぬ。ストリキニーネが一包みグレイル卿の船室から発見され、卿のタキシードのポケットの中にも、ちゃんともう一包み入っていた」
「至れり、つくせりだよ」パーカー・パイン氏はいった。「ところでストリキニーネの出所はどこだったね?」
「その点に少々、疑問がある。看護婦がいくらか持っていた――グレイル卿夫人が心臓発作を起こした時のために――。だが彼女は二度矛盾したことをいっている。最初、自分の手持ちには手をつけていないといったのに、こんどは、手をつけた、といっている」
「あやふやとは、まったく彼女らしくないな」と、パーカー・パイン氏。
「わしの考えでは、彼らはグルだね。あの二人はおたがいに弱味を握っているのだ」
「ありうることだな。だが、もしミス・マクノートンが殺人を計画したら、もっとうまくやっただろうね。あれはそつのない女だもの」
「さあ、そこだよ。わしはグレイル卿が一枚噛んでいると見るね。彼には、ごくわずかしかチャンスがないからね」
パーカー・パイン氏はいった。
「とにかく、できるだけのことをしてみよう」
彼は美しい姪を捜し出した。
パメラは蒼白になって柳眉をさかだてた。
「おじさまは絶対にそんなことしないわ――絶対――絶対よ――」
「それじゃ誰です?」パーカー・パイン氏は穏やかにいった。パメラがぐっと身を近づけた。
「あたしの考えてることをいいましょうか? |おばさまは自分でやったのよ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。近頃すごくへんだったの。妄想癖があったのよ」
「どんな妄想?」
「へんな妄想よ。たとえばパズルだわ。おばさまは、いつもパズルが自分にまいっているってほのめかしていたわ。パズルとあたしは――あの――あたしたちは――」
「わかってますよ」パーカー・パイン氏は微笑しながらいった。
「パズルに関することは全部、まったくの妄想よ。おばさまは、あのかわいそうなおじさまを恨んでいた。それで、あんな話をでっちあげて、あなたにお話ししたのだと思うわ。そのあとでストリキニーネをおじさまの船室とポケットの中に入れて、自分で毒を服《の》んだんだわ。そういうことする人って、いくらもいるでしょ?」
「いますよ」パーカー・パイン氏は認めた。「しかし、わたしは夫人がそうしたとは思いませんね。あえていわせていただくなら、あの方はそんなタイプじゃありません」
「でも、あの妄想は?」
「そう、その点をウェスト氏にたずねてみましょう」
パイン氏が行ってみると、青年は自室にいた。パズルは質問にすらすらと答えた。
「ばかみたいな話ですが、奥さまは、ぼくがお気に入りでした。ですから、ぼくとパメラのことをあえて奥さまのお耳に入れなかったのも、そのためです。グレイル卿にいって、ぼくを首《くび》になさったでしょうからね」
「きみは、お嬢さんの自殺説もありうることだと考えますか?」
「そうですね。可能だとは思いますが」青年はあいまいだった。
「だが、そうともいい切れない」パーカー・パイン氏は静かにいった。「何かもっといい手がかりをつかまなくては」彼は一、二分、瞑想に耽っていた。「自白が一番いいな」そう勢いよくいって万年筆と紙を一枚をとり出した。「さあ、ここへ書きたまえ」
パズル・ウェストはあっけにとられて、相手の顔を見つめた。
「ぼくに? いったいどういうことです?」
「ねえ、きみ」――パーカー・パイン氏の声は、まるで父親のようだった――「わたしには全部わかってるんだよ。どうやって、あのひとの好い奥がたを誘惑したか。どんなにあのかたが良心のとがめを味わっていたか。どうやって、きみがあの文なしの美しい姪御さんと恋をしたか。どんな計画をたてたか。じわじわと毒殺する方法だ。そうすれは、胃炎が原因になった自然死として通るかもしれない――でなければ、グレイル卿が罪をかぶることになるだろうとね。なにしろ、きみは症状が起きる時を、卿がおられる時と合わせるように慎重にやったからね。
それから、きみは奥がたが疑念を抱いて、わたしに相談したことに気づいた。急げ! とばかり、きみはミス・マクノートンの手元からストリキニーネを盗んで来た。そして、そのうちのいくらかをグレイル卿の船室とポケットの中に入れ、致死量をカプセルに詰めると、奥がた宛てに、『夢のカプセル』だと書いた手紙を同封した。
ロマンティックな発想だな。看護婦が出て行きしだい、奥がたは服《の》むだろう。そして誰も何も気づくまい。ところが、きみは一つまちがいを犯したよ。奥がたに、手紙を焼くようにと書いたのは無駄だったね。女というものは、そんなことはしないもんだ。カプセルのことを書いた部分も含めて、あの手紙はそっくりそのままわたしの手元にあるんだよ」
パズル・ウェストは真青になった。美貌はすっかり影をひそめて、罠《わな》にかかったねずみのような顔になった。
「ちくしょう!」彼はうなった。「それじゃ、きさまは全部知ってるんだな。ちくしょう、邪魔だてしやがって、このお節介のパーカーめ」
パーカー・パイン氏は、前もって、わざわざ半開きのドアの外に数人の証人を立ち聞きさせておいた。彼らが飛び込んで来たおかげで、暴力を受けることはまぬがれた。
パーカー・パイン氏は、友人である例の高官と事件を論じ合っていた。
「それで、こっちにはこれっぽっちも証拠がなかったんだよ! なにしろ『これを焼いてください!』と書いた、ほとんど判読できないきれっぱしがあっただけなんだからね。筋書の一部終始を推理して、それで彼をためしてみたんだが、これが効《き》いたな。偶然、真相にぶつかったってわけだよ。あの手紙のおかげだね。グレイル卿夫人は、彼が書いたものは全部焼いてしまっていたんだが、彼氏はそれを知らなかった。
まったくいっぷう変わったご婦人だったね。わたしをたずねて来た時は、どうも見当がつかなかった。夫人は夫が自分に毒を服ませていると、わたしの口からいって欲しかったんだ。そうとなれば、あのウェスト青年と出て行くつもりだった。しかし、公正にふるまいたかったのだ。ふしぎな人物だったな」
「あの娘はかわいそうに、苦しむだろうね」相手はいった。
「なに、すぐ回復するさ」パーカー・パイン氏はこともなげにいった。「なにしろ若いからね。それより、グレイル卿が、手遅れにならないうちに、もう少し楽しい思いをすべきだと切に思うね。十年間、虫けら同様に扱われて来たんだからね。しかし、これからはエルシー・マクノートンが、とても優しくしてくれるだろうよ」
パイン氏はにっこり笑った。それからため息まじりにいった。
「これから、名前をかくしてギリシアへ行くつもりなんだ。ほんとに休暇をとらなくてはね」
[#改ページ]
デルフォイの神託
ウィラード・J・ピーターズ夫人は、実際のところ、ギリシアは好きでなかった。そして、デルフォイについては、内心では全然感心していなかった。
ピーターズ夫人の心の故郷は、パリとロンドンとリヴィエラだった。彼女はホテル生活を享楽する婦人だったが、彼女の抱いているホテルの寝室という概念は、柔らかい毛の絨毯《じゅうたん》、豪勢なベッド、枕もとのシェードのついたスタンドもふくめて、おびただしい数の照明設備、ふんだんな湯と水、ベッドのそばの電話、これがあれば、お茶、食事、ソーダ水、カクテルの注文ができるし、友だちと話もできるというわけだ。
デルフォイのホテルには、こういうものは皆無だった。が、窓からの眺望はすばらしい。ベッドは清潔だし、白色塗りの部屋も清潔だった。椅子と洗面台と箪笥がひとつずつ。入浴は順番で行なわれたが、こと湯に関しては、時どきがっかりすることがある。
デルフォイに行ったことがあると、吹聴《ふいちょう》できたら、すてきだろうなと夫人は考えて、古代ギリシアに関心を持とうと、いっしょうけんめいに努めてみた。しかし、生やさしいことではなかった。古代彫像はあまりにも未完成で、頭や腕や足が欠けていて、お話しにならない。内心ひそかに夫人は、亡夫の故ウィラード・ピーターズ氏の墓に立てられた翼のある美しい大理石の天使のほうが、はるかにましだと思った。
しかしこうしたひそかな見解は、すべて表に出さないように注意していた。息子のウィラードから軽蔑されるのをおそれたからだ。夫人がこのひんやりした居心地の悪い部屋に、ふくれっ面の女中と、不平顔の運転手につきまとわれて、こうしているのも、すべてウィラードのためだった。
それもこれも、ウィラード(最近までジュニアと呼ばれていたが、本人はひどくきらっていた)は、ピーターズ夫人の十八歳の息子で、彼女は、熱狂的に息子を崇拝していたからである。過去の芸術に対する異様な情熱の持ち主はウィラードのほうだった。息子に目のない母親を、このギリシア一周旅行にひっぱり出したのも、やせて、青白く、めがねをかけた、消化不良のウィラードだった。
彼らはオリンピアヘ行って来たが、ピーターズ夫人はひどくごたごたした所だと思った。パルテノンは気に入ったが、アテネはどこにも取柄のない町だと思えた。そしてコリントと、ミケーネの見物は、彼女と、運転手の二人にとって難行苦行だった。
デルフォイに来て、すべての望みが絶たれた、とピーターズ夫人は味気ない気持で考えた。道を歩いて、廃墟《はいきょ》を見る以外には、まったくなにひとつすることがなかった。ウィラードはいつも長時間、ひざまずいて、ギリシア語の碑文を判読しては、こういうのだった。
「おかあさん、ちょっとこれを聞いて! すばらしいじゃないの?」それから、ピーターズ夫人には退屈の極致としか思えないものを、声を出して読みあげるのだ。
けさ、ウィラードは、何かビザンチンのモザイクを見に、早く出かけてしまった。ピーターズ夫人は、本能的にビザンチンのモザイクを見れば、ぞっとする(精神的な意味と同じく、文字どおりの意味でも)だろうと感じたので、ごめんこうむることにした。
「わかったよ、おかあさん」ウィラードはいった。「じゃ、一人きりで劇場にすわったり、競技場《スタジアム》に上がったりして、全体を眺めわたして、じっくり味わいたいんだね」
「そのとおりだよ、おまえ」ピーターズ夫人はいった。
「ここがおかあさんの気に入ることは、わかっていたんだよ」ウィラードは得意げにそういうと出て行った。
そういうわけで、ため息をつくと、ピーターズ夫人は顔をあげて、朝食に行く仕度をした。
食堂へ行ってみると客は四人だけで、すいていた。ピーターズ夫人にはひどくふう変わりなスタイルと思える服装をして、ダンスにおける個性表現の技術について話し合っている母娘《おやこ》。夫人が列車を下りるさい、彼女のためにスーツケースをおろしてくれた、トンプスンという名前の太った中年の紳士、それからゆうべ到着した新客で、頭のはげた中年の紳士。
この紳士は朝食に最後まで残っていたので、ピーターズ夫人は、すぐ、彼と話をはじめた。彼女は愛想のいい婦人で、話し相手がほしかったのだ。トンプスンはその態度から、どうみても近よりがたかったし(ピーターズ夫人にいわせると、イギリス型の無口だが)母娘づれはひどくお高くとまって、インテリぶっていた。もっとも娘のほうはウィラードとはかなり親しげだった。
ピーターズ夫人は、新客がきわめておもしろい人物であることを知った。彼はインテリぶらず、しかも博識だった。ギリシア人について、彼女にいくつかのおもしろい親しみのある四方山《よもやま》話を語ってくれた。その話を聞いて、ギリシア人は単に書物の中だけの退屈な歴史ではなく、まるで現実に生きている人間のように夫人には思えたほどだった。
ピーターズ夫人はこの新しい友人に、ウィラードのことを、なにからなにまで話してきかせた。彼がどんなに頭のいい子か、そして「カルチュア」という言葉を彼のミドル・ネームにしてもよかったというような話をした。この人あたりのいい柔和な紳士には、どことなく話がしやすいものがあった。
彼自身は何をする人か、また、名前はなんというのか、ピーターズ夫人は聞き洩らしてしまった。彼は目下、旅行中で、仕事から(なんの仕事だろう?)完全な休暇をとっているのだという事実以外は、自分のことをなにもしゃべらなかった。
とにもかくにも、その日は予想外に早くすぎて行った。母娘《おやこ》づれとトンプスン氏は、依然として無愛想なままだった。ピーターズ夫人と彼女の新しい友人は、博物館から出て来たトンプスン氏とばったり出会ったが、彼はすぐに反対の方向へ折れてしまった。
新しい友人はちょっと眉をひそめて、そのうしろ姿を見送った。
「おや、あの男は誰だっけな!」
ピーターズ夫人は相手の名前を教えたが、それ以上のことはできなかった。
「トンプスン――。いや、あの男に会ったことはないと思うが、それでも、あの顔には見覚えがあるな。しかし、どうもよくわからん」
午後、ビーターズ夫人は緑陰《りょくいん》で静かな午睡を楽しんだ。彼女が読もうとして持って来た本は、息子にすすめられたギリシア美術に関する名著どころか、「川蒸汽の謎」と題する通俗読み物だった。殺人が四つ、誘拐が三つ、それに危険な犯罪者たちが徒党を組んだ大集団が出てくる話だった。ピーターズ夫人はむさぼるようにそれを読むと、元気が出て、気持が慰められた。
夫人がホテルへもどったのは四時だった。てっきりこの時間にはウィラードはすでに帰っているものと思いこんでいた。べつに不吉な予感など感じていなかったので、ホテルの主人から、昼の間に見知らぬ男からことづかったものですといって渡された手紙を開くのを、あやうく忘れるところだった。
ひどくきたない手紙だった。うわの空で夫人はそれを開封した。初めの数行を読むと、夫人は顔面蒼白になり、片手を差し出して身を支えた。外国人ふうの筆蹟だが、書いてある言葉は英語だった。
[#ここから1字下げ]
奥さん(という書き出しで)
この手紙をあんたに届けるのは、息子さんが、われわれによって、きわめて安全な場所に、人質として補えられていることを知らせるためだ。もしあんたがこの命令に忠実に従えば、りっぱな青年紳士になんの危害も加えないようにしよう。われわれは息子さんとひきかえに、英貨一万ポンドの身代金を要求する。もしあんたがこのことをホテルの主人なり、警察なり、それに類する人間に洩らしたら、息子さんは殺されるだろう。その点をよく考えてもらうために、この手紙をさしあげるのだ。あす、金の支払い方法に関する指示をあたえる。もし従わなければ、りっぱな青年紳士の両耳を切断して、あんたのもとにお届けする。そして次の日もまだ従わなければ、息子さんは殺されるだろう。念のため断わっておくが、これははったりではない。よくお祈りをして――何よりも――他言無用のこと。
黒まゆのディミトリアス
[#ここで字下げ終わり]
この気の毒な婦人の精神状態をのべる必要はあるまい。要求はとてつもなく、しかも愚劣な文章だったが、それでも無気味な危機感は、彼女の胸にひしひしと感じられた。ウィラード、彼女の息子、愛児、線の細い、きまじめなウィラード。
とるものもとりあえず警察へ行きたい。周囲の人々に訴えたい。でもたぶん、そうしたら――と彼女は身ぶるいした。
それから、勇気をふるい起こして、彼女はホテルの主人――ホテルで英語の話せる唯一の人間を捜しに、部屋から出て行った。
「だいぶ遅くなったのに、息子がまだ帰りませんのよ」と彼女はいった。
愛想のいい小男は、彼女ににっこり笑ってみせた。
「まったくですね。ムシューはロバを返されました。歩いて帰るおつもりでしょう。もうお帰りになってもいい時間ですが、きっと途中で、ぶらぶらなさっているのでしょう」主人は、こぼれるような愛想笑いを浮かべた。
「あのう」とピーターズ夫人はだしぬけにいった。「この近くに、たちの悪い人がいますかしら?」
たちの悪い人という言葉は、この小男の英語知識には入っていなかった。ピーターズ夫人は、そのいわんとするところを、もっと平易に表現した。彼女がその答えとして受け取ったのは、デルフォイのまわりの人間はみな、きわめて善良で、きわめておとなしく――みな外国人に対して好意を持っている人間ばかりです、という保証の言葉だった。
言葉が彼女の口辺まで出かかったが、彼女はそれをかみ殺した。あのいまわしい脅迫が、彼女の舌をしばりつけたのだ。もしかすると、ほんのこけおどしかもしれない。でも、もしそうでなかったら? アメリカにいる彼女の友人の一人が子供を誘拐されたことがあった。そして、その友人が警察に届けると、子供は殺されてしまった。現にそんなことが起こったではないか。
彼女は、頭がどうかなりそうだった。どうしたらいいだろう? 一万ポンド――彼女にとって、ウィラードの身の安全にくらべれは、それがなんだろう? でも、どうしたら、そんな大金を手に入れることができるだろう?
現在では、金と預金の現金払い戻しについては困難が山積している。彼女の手元にあるのは、数百ポンドの信用状だけだった。
山賊たちに、この事情がわかってもらえるだろうか? 彼らには分別があるだろうか? 待ってくれるだろうか?
女中が夫人のもとへ来ると、夫人は剣もほろろに追い払った。夕食のベルが鳴った。そして気の毒なこの婦人は食堂へかり立てられた。彼女は機械的に食事をとった。誰も目に入らなかった。彼女に関するかぎり、食堂には誰も人がいないのも同然だった。
デザートの果物と同時に、一通の手紙が夫人の前に置かれた。彼女はひるんだが、その筆蹟は、目にするのを恐れていた筆蹟とは、まるで違っていた――きちんとした、達者なイギリス人の筆蹟だった。夫人はさして興味も持たずにそれを開けたが、内容は興味をそそるものだった。
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デルフォイでは、もはや神託を仰ぐことはできませんが、パーカー・パイン氏に相談することは|できます《ヽヽヽヽ》。
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その下には、広告の切抜きがピンでとめられており、紙の一番下には旅券の写真がはりつけてあった。それは昼前に同席した頭のはげた友人の写真だった。
ピーターズ夫人は印刷された切抜きを二度読んだ。
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あなたは幸福ですか? 幸福でないかたは、パーカー・パイン氏にご相談ください。
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幸福? 幸福? 今までに、これほど不幸《ヽヽ》な人間がいただろうか? これはまさに祈りに対する答えではないか。急いで、彼女は、たまたまハンドバッグの中に持ちあわせていた紙きれに走り書きした。
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どうぞわたしを助けてください。十分後に、ホテルの外でお会いくださいませんか?
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彼女はそれを封筒に入れると、窓ぎわのテーブルにいる紳士に届けるように給仕に命じた。十分後、その夜は冷えびえとしていたので、毛皮のコートにくるまってホテルを出ると、ピーターズ夫人はゆっくりと廃墟に通じる道を歩いて行った。パーカー・パイン氏は夫人を待っていた。
「あなたがここにいてくださったのは、ほんとに神様のお恵みですわ」ピーターズ夫人は息を切らせていった。「でも、どうしてわたしが、おそろしい苦境におちいっていることが、おわかりになりましたの? それをうかがいたいですわ」
「人間の顔ですよ、奥さま」パーカー・パイン氏はやさしくいった。「わたしはすぐ何か起こったなとピンときましたが、それが何かは、あなたからうかがおうと思って、お待ちしているのです」
話は、いっきに口をついて出た。彼女が手紙を渡すとパイン氏は懐中電灯の光で読んだ。
「ふむ。驚くべき文章だ。じつに驚くべき文章だ。この中のいくつかの点は――」
しかしピーターズ夫人は、手紙のこまかい点についての論議に耳を傾ける気分ではなかった。ウィラードのことでどうすれはいいのか? いとしい、ひよわなウィラード、ただそれだけで頭がいっぱいだった。パーカー・パイン氏は彼女のなぐさめになった。彼はギリシアの山賊の生活を美しい一枚の絵のように物語った。彼らは人質をとくに大切に扱うはずです。なにしろ人質は有望な金鉱のようなものですから。しだいにパイン氏は彼女を落ち着かせていった。
「でも、わたしはどうしたらよろしいんでしょう?」ビーターズ夫人は泣き声を出した。
「あすまでお待ちなさい。つまり、このまま警察へ届け出たほうがいいとお考えなら、話は別ですが」
ピーターズ夫人は恐怖にかられた悲鳴で彼をさえぎった。いとしいウィラードは、たちどころに殺されてしまうではないか?
「ウィラードを無事に取りもどせると、お考えですのね?」
「その点はまちがいありません」パーカー・パイン氏はさとすよぅにいった。「問題はただ、一万ポンドを払わずにご令息を取りもどせるかどうかですよ」
「わたしのほしいのは息子だけですわ」
「わかってます。わかってます」パーカー・パイン氏は、なだめるようにいった。
「ところで、その手紙は誰が持って来ました?」
「ホテルの主人の知らない男です。えたいのしれない」
「ははあ! その点に可能性がありますね。あす、手紙を持って来る男のあとをつけてみるのも一案です。あなたはご令息の戻って来ないことを、ホテルの人たちに、どう説明なさるおつもりです?」
「考えてみませんでしたわ」
「それでは、と」パーカー・パイン氏はちょっと考えこんだ。「ご令息の帰ってこないことについて、あなたは、驚きと心配の念を、きわめて自然に示したらよろしいでしょうね。捜索隊を出すこともできますし」
「まさかあの人非人たちが――?」彼女は息がつまってしまった。
「いや、いや、誘拐とか、身代金とかさわぎたてないかぎり、奴らは卑劣なことをするはずがありません。要するに、あなたがご令息の失踪をちっとも騒ぎ立てないで、平然としているほうが不自然ですよ」
「じゃ、全部おまかせしてよろしいの?」
「それがわたしの仕事ですから」パーカー・パイン氏はいった。
二人はまたホテルのほうへ引き返しかけたが、あやうく大柄な人物と衝突しそうになった。
「誰でした?」パーカー・パイン氏は鋭い語気でたずねた。
「トンプスン氏じゃないかしら」
「ほう!」パーカー・パイン氏は考え深げにいった。「トンプスンでしたか? トンプスンとね――うむ」
ピーターズ夫人はベッドへ入りながら、手紙についてのパーカー・パイン氏の考えは名案だと思った。誰にせよ、手紙を持って来た者は山賊と接触がある人間に違いない。彼女は気分が安らかになって、意外に早く眠りこんだ。
翌朝、着換えをしていると、窓ぎわの床の上に何かが落ちているのにふと気がついた。それをひろいあげた――そしてぎゅっと、胸がしめつけられるような思いをした。前と同じ、きたない、安っぼい封筒。前と同じ憎らしい文字。彼女は封をやぶった。
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おはよう、奥さん。よく考えてみたかね? 息子さんは元気だし、傷一つ、受けていない――今までのところはね。しかし、われわれは金をいただかなければならない。あれだけの大金をつくるのは容易ではないだろうが、あんたはダイヤモンドの首飾りを持って来ているという話だ。とびきり上等の石とか。金の代わりに、それですますことにしよう。いいかね、あんたのやるべきことはこうだ。あんたか、またはあんたの代理の誰でもいいが、その首飾りを競技場《スタジアム》へ持ってくるのだ。そこから、大きな岩のそばに一本、木が立っているところまで歩く。こちらでは見張っているから、来る人間は一人だけにする。そうすれは首飾りと引きかえに息子さんを渡す。時間はあす午前六時、日の出の後だ。もしその後で警察に捜査させれば、われわれはあんた方の自動車が停車場へ向かう時、息子さんを撃つ。
これが最後通告だよ、奥さん。もし明朝、首飾りを渡さなければ、息子さんの両耳をあなたに届ける。その次の日に、彼は死ぬ。
失礼、奥さん
ディミトリアス
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ピーターズ夫人は、あわててパーカー・パイン氏を捜しに行った。彼は手紙を丹念に読んだ。
「ほんとうですか、このダイヤモンドの首飾りのことは?」
「そのとおりですわ。主人が十万ドルで買ってくれたものです」
「事情に通じた泥棒だな」パーカー・パイン氏はつぶやいた。
「なんですって?」
「いや、ちょっと事件の形勢を考えていたのですよ」
「まあ、パインさん、そんな悠長なことをしている時間はありませんわ。息子を取りもどさなくては」
「しかし、あなたは勇気のあるかたです、ピーターズ夫人。一万ポンドをおどし取られても平気でいられますか?」
「そりゃ、もちろん、そういう言い方をなさるんならね!」ピーターズ夫人の中にいる勝ち気な女性と母性愛が相剋《そうこく》した。「仕返しをしてやりたくてたまりませんわ! 卑怯な悪党ども! わたしは息子を取りもどしたら、その瞬間にね、パインさん、このあたりの警察全部をさしむけてやります。そして、必要とあれば、ウィラードとわたしを停車場へ運ぶのに、装甲車を雇いますよ!」ピーターズ夫人は復讐に燃えて顔面を紅潮させた。
「そう――ですね。でもね、奥さん、やつらのほうでも、そういう処置にそなえるのではないかと思います。ウィラードがいったん、あなたの手にもどったら、あなたが当然、この界隈《かいわい》に非常体制をしくだろうことは彼らも心得ていますからね」
「では、どうしようとおっしゃるの?」
パーカー・パイン氏は微笑を浮かべた。
「わたしが思いついた、ちょっとした計画をためしてみたいんです」彼は食堂をぐるっと見まわした。人影はなく、両端のドアは閉まっていた。「ピーターズ夫人、アテネにわたしの知人がいます――宝石商です。彼は優秀な模造ダイヤの専門家です――一級品ですよ」彼の声は、ささやきに変わった。「電話で呼びましょう。彼はよりぬきの宝石を持って、きょうの午後こちらへ来ることができましょう」
「と、おっしゃると」
「彼に本もののダイヤを抜き取って、人造宝石の模造品と取りかえさせるのです」
「まあ、こんな気のきいた名案てあるかしら!」ピーターズ夫人は感嘆のおももちでパイン氏をみつめた。
「しっ! そんなに大きな声を出さないで。ちょっと手つだっていただけますか?」
「もちろんですわ」
「誰も電話の声の聞こえるところに来させないでください」
ピーターズ夫人はうなずいた。
電話は支配人の事務室にあった。支配人はパーカー・パイン氏が電話番号を捜すのを手伝ってから、いんぎんに部屋を空《あ》けた。そして部屋から出ると、ピーターズ夫人が外にいるのを知った。
「パーカー・パインさんをお待ちしていますのよ」夫人はいった。「ごいっしょに、散歩にまいりますので」
「ああ、さようでございますか、奥さま」
トンプスン氏も玄関の広間にいた。彼は二人のほうへやってくると、支配人をつかまえて話を始めた。デルフォイには貸し別荘はないか? ない? しかしホテルの上のほうに一軒あるはずだが?
「あれはギリシアのかたの持ち家でございます、ムシュー」
「では、ほかに別荘はないんだね?」
「アメリカのご婦人がお持ちの別荘がございます。村の反対側ですが、今のところ閉まっております。イギリスの画家のかたが、お持ちになっている別荘もございます――イテアを見下ろす断崖の上にございます」
ピーターズ夫人は横から口を入れた。生来彼女は声が大きかったが、わざと、大声をあげた。
「まあ、ほんとうに、こんなところに別荘を持ちたいですわね! 自然のままの姿で、損なわれていませんもの。わたしこの土地が、ほんとに気に入りましたわ。あなたはいかが、トンプスンさん? でも別荘がほしいとおっしゃるくらいですから、むろん、あなたもお好きにきまってますわね。こちらはお初めてでいらっしゃいますの? そんなはず、ございませんわね」
彼女はパーカー・パイン氏が事務室から出て来るまで、一歩も退《ひ》かずにまくしたてた。パーカー・パイン氏は、かすかに賞賛の微笑を彼女に向けた。トンプスンはゆっくりと階段を下りると、道に出た。そこで、インテリぶった母娘《おやこ》と出会った。母娘づれは、むき出しの腕にあたる空気を冷たく感じているようであった。
万事好調。宝石商は夕食の直前に、他の観光客をぎっしりつめこんだ自動車で到着した。ピーターズ夫人は首飾りをその男の部屋へ持って行った。宝石商は感嘆のあまり、うめき声をあげた。
「奥さま、ご心配なく。細工はりゅうりゅうですよ」彼は小さな袋からいくつかの道具を出して、仕事にとりかかった。
十一時に、パーカー・パイン氏がピーターズ夫人の部屋のドアをたたいた。
「さあ、どうぞ!」
パイン氏は彼女に小さなセーム革の袋を渡した。彼女は中をのぞいた。
「わたしのダイヤね!」
「しーっ。こっちがダイヤの代わりに人造宝石を入れた首飾りです。ずいぶんきれいでしょう、いかがです?」
「ほんとうにすばらしいわ」
「アリストプーロスはそつのない男です」
「感づかれるようなことは、ないでしょうね?」
「感づくわけがありませんよ。やつらは、あなたが首飾りを持って来ていることを知っています。あなたが、それを渡すのです。このトリックに気づくわけがありませんよ」
「ええ、ほんとうに、すばらしいわ」ピーターズ夫人は首飾りを返しながら、くりかえした。「あなたが届けてくださいます? それとも、あまり虫のいいお願いかしら?」
「わたしが届けますとも。ちょっと手紙を拝見。やつらの指令をはっきり頭に入れておきますから。ありがとう。じゃ、おやすみなさい。そして|Bon courage《ボン・クラージュ》(元気をだしてください)。あすの朝食は、ご令息といっしょに召しあがれるでしょう」
「ああ、それがほんとうなら!」
「さあ、心配しないで。万事わたしにおまかせなさい」
ピーターズ夫人は安らかな眠りにつけなかった。眠ると、恐ろしい夢を見た。数台の装甲車に分乗した武装した山賊が、パジャマ姿で山をかけ下りて来るウィラードに一斉射撃を浴びせる夢だった。夫人は目をさましてほっとした。やっと夜明けの薄光がさして来た。起き上がって、着換えをした。そして腰をおろして待った。
七時に、コツコツとドアをたたく音がした。夫人の咽喉《のど》はからからになって、ほとんど声が出せなかった。
「どうぞ」といった。
ドアが開いて、トンプスン氏が入って来た。夫人は目を丸くして相手を見た。言葉が出て来ない。とんでもないことが起こるという不吉な予感がした。ところが、トンプスン氏が口をひらくと、その声は完全に自然で、さりげなかった。ゆたかな、柔和な声だった。
「おはようございます、ピーターズ夫人」
「あなたはなんだって、なんだって――」
「こんなに朝早くお伺いしたことを、お許しいただかなけれはなりません」トンプスン氏はいった。「しかし、処理しなければならない用件がございまして」
ピーターズ夫人は目に非難の色を浮かべて、前にのり出した。
「じゃ、息子を誘拐したのはあなたなのね! 山賊なんかじゃなかったのね!」
「たしかに山賊ではありません。どうにも承服しかねるやりかたでした。無風流ですよ、どう見てもね」
ピーターズ夫人は一本気の婦人だった。
「息子はどこです?」怒れる雌虎のような目で問いつめた。
「じつは、すぐドアの、外にいらっしゃいます」トンプスン氏はいった。
「ウィラード!」
ドアがさっと開いた。血色が悪く、めがねをかけて、無精ひげを生やしたウィラードが、母親の胸にだきしめられた。
トンプスン氏は優しくそのさまを見つめた。
「どっちみち」とピーターズ夫人は、突然われにかえると、トンプスン氏に向き直った。
「このことであなたを訴えますからね。ええ、訴えますとも」
「そりゃあ、おかあさんの感ちがいだよ」ウィラードがいった。「この方が僕を助けてくださったんだよ」
「おまえはどこにいたのさ?」
「断崖の端にある家だよ。ここから、ちょうと二マイルのところの」
「それから失礼ですが、ピーターズ夫人」トンプスン氏はいった。「あなたの財産を、お返しします」
彼は薄葉紙でいいかげんにくるんだ小さな包みを彼女に渡した。紙がほぐれて、ダイヤの首飾りが現われた。
「もう一つの小さな袋にはいった宝石は、大切にしまう必要はありません、奥さん」トンプスン氏は笑顔でいった。「本ものの石は、まだ首飾りにはまったままです。あのセーム革の袋には優秀な模造宝石が入っているのです。あなたのお友だちがいったように、アリストプーロスはまったく天才ですよ」
「なんのお話だか、さっばりわかりませんわ」ピーターズ夫人は弱々しくいった。
「この事件を、わたしの観点から見てくださらなければなりません」トンプスン氏はいった。「ある特定の名前が使われていたことが、わたしの注意をひきました。わたしは、はばかりながら、あなたと例の太ったお友だちのあとをつけて、ホテルの外へ出て、きわめて興味深い会談を――率直に申し上げて――立ち聞きしました。わたしには、それがひどく意味深長で、いわくありげに思えたので、支配人に秘密を打ち明けました。彼はあなたの口先のうまいお友だちがかけた電話番号を書き留め、さらに、給仕がけさ、食堂におけるあなた方の話を立ち聞きするように手はずをととのえてくれました。
計画全体が、きわめて明白に運ばれました。あなたは悪がしこい二人の宝石泥棒の被害者となるところだったのです。連中は、あなたのダイヤの首飾りのことをすっかり知っていました。
当地まであなたの後をつけて来て、ご令息を誘拐し、いささかこっけいな『山賊』の手紙を書いたのです。そして計画の張本人を、あなたが信頼するようにお膳立てしたのです。
あとは、すべて簡単です。例のりっぱな紳士は、あなたに人造ダイヤの袋を渡してから――仲間といっしょに姿をくらます。けさになっても、ご令息が帰ってこないとなれば、あなたは気違いのようになられるでしょう。お友だちも帰ってこなければ、あなたは彼まで人質になったものと思いこむでしょう。やつらは誰かがあす、あの別荘へ行くように手はずしておいたのでしょうね。その人物がご令息をみつけるという寸法で、あなたとご令息とが額を集めて相談する頃には、あなたも、いっぱい食ったことに、うすうす気づくだろうというわけです。しかし、その時分には、悪党どもは、まんまと逃げおおせているはずでした」
「で今は?」
「ああ、今はちゃんと留置場に入っています。わたしがそのように手配しました」
「悪党め」ピーターズ夫人は、自分がすっかり相手を信用していたことを腹立ちまぎれに思い出した。「口先のうまい悪党め」
「どしがたいやつですよ」トンプスン氏は同意した。
「どうしてあなたにわかったのか、ふしぎだな」ウィラードは感嘆の声をあげた。
「あなたは、とても頭のいい方ですね」
相手はどういたしまして、とばかり首を振った。
「いや、いや、本名を伏せて旅行しているときに、自分の名前が勝手に使われているのを聞けば――」
ピーターズ夫人は、相手をまじまじとみつめた。
「あなたはいったいどなたですの?」彼女はだしぬけにきいた。
「わたしがパーカー・パイン氏です」と紳士は説明した。
[#改ページ]
解説
名実ともに「推理小説の女王」の名にふさわしいアガサ・クリスティは、長短編あわせて六十冊を越すその作品の中で、五指にあまる名探偵たちを創造してきたが、そのうちのヒッグ・スリーは、いうまでもなくエルキュール・ポワロ、ミス・マープル、そして本書のパーカー・パインということになるだろう。クリスティはこの三人の名探偵に、三者三様の背景をあたえている。すなわち、エルキュール・ポワロは前ベルギー警察隊の隊長という履歴が示すように刑事専門の玄人《くろうと》探偵、ミス・マープルはセント・メリー・ミード村の詮索ずきな老嬢、そしてパーカー・パインは退職官吏の民事専門の素人探偵というぐあいである。
パーカー・パインは前二者とちがって短編だけにしか活躍していないから、かならずしも同列に論ずるわけにはいかないが、読者はなによりもまず、ポワロとの類似性を強く感じられるだろう。作者はポワロを小男のベルギー人、パーカー・パインを大男の典型的なイギリス人に仕立てて、両者に明瞭な区別をあたえているが、これは実はわれわれのような東洋の読者にとっては、さほど本質的な意味を持たないことだ。それよりも、卵型の禿頭、柔和な微笑、いんぎんな態度、経験主義的な推理の様式というクリスティ好みの探偵像において、両者はまさしく双生児あるいは分身といえる。
元来、クリスティの作品は、殺人を扱っても、重苦しさとか陰気な感じをあたえないところに特色があるが、本書では、その特徴がいっそうのびのびと発揮されている。前半の六編(本デジタル版1に収録)はいささかコミックな身の上相談の連続短編、後半の六編が犯人捜しの本格短編である。全十二編中、もっとも高く評価されるのは「シラズの館」であろう。犯人追究の決め手を欠くパーカー・パイン氏がロンドンの状況を物語って、その反応で相手の正体を看破する推理のきれのよさは、クリスティの作品中でも第一級のものである。つぎは、最後の「デルフォイの神託」というところか? このクリスティ得意のミスディレクションにひっかからない読者がいるとしたら、そのひとは推理小説を読む楽しみを喪失した不幸な人間として、パーカー・パイン氏のもとに相談に行かなくてはなるまい。(厚木淳)