パーカー・パイン1
アガサ・クリスティ/小西宏訳
目 次
作者まえがき
中年の人妻の事件
不満な軍人の事件
悩める淑女の事件
不満な夫の事件
ある会社員の事件
金持の夫人の事件
解説
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作者まえがき
ある日、コーナーハウスで昼食をとっていたわたしは、背後のテーブルでかわされている統計の話に、思わずうつとりと聞き惚《ほ》れてしまいました。ふり向いてみると、禿げた頭とめがねと明るい微笑が、ぼんやり映りました――つまり、パーカー・パイン氏の顔が見えたのです。それまで、わたしは統計のことなど考えたことは一度もありませんでしたが(じつは今でもめったに考えません!)、パイン氏たちが議論をたたかわしているその熱中ぶりが、わたしの関心をかきたてたのです。ちょうど新しい連続短編ものを考えていたところでしたから、わたしはすぐさま、大まかな手法と骨子を決め、引きつづいて楽しい気持で書き始めました。作者自身が気に入っている作品は「不満な夫の事件」と「金持の夫人の事件」です。後者の題材は執筆の十年ほど前、わたしがショーウィンドーを眺めているさいに、見ず知らずの婦人から話しかけられた言葉から思いついたものです。その婦人は、さもいまいましそうにいいました。
「わたしの持っているお金全部で、いったいなにができるのか知りたいもんだわ。ヨットは船酔いするし――自動車なら二台、毛皮のコートは三着持っているわ――高価な食事もとりすぎて胸がむかつくし」
わたしはびっくりして、こうつぶやきました。
「病院は?」
「病院ですって?」その婦人は、ふんと鼻をならしました。「慈善なんておかどちがいよ。わたしは自分のお金を、それ相応に楽しみたいのよ」そういって、柳眉《りゅうび》を逆立てて立ち去りました。
むろん、これは今から数えて二十五年も前のお話です。今日なら、こうした悩みは、すべて所得税係のお役人が解決してくれるでしょうし、そうなれば、あのご婦人は、なおさら柳眉を逆立てることでしょうね。
アガサ・クリスティ
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中年の人妻の事件
なぜ、ひとの帽子をそのままにしておいてくれんのだ、と怒った声でぶつぶついうと、びしゃんと戸がしまった。そしてパッキントン氏は八時四十五分発ロンドン行きの列車に乗るために出かけてしまった。パッキントン夫人は朝食のテーブルにすわったままだった。顔には血の気がさし、唇をきっと結んでいる。夫人が、わっと泣き伏さない理由は、最後の瞬間に、むらむらっと怒りがこみあげてきて、悲しみにとって代わったからだ。
「もう我慢ができない、できるもんですか!」そういうと、夫人はしばらく考えこんでいたが、やがてつぶやいた。「あばずれ。ずる賢い根性悪《こんじょうわる》の小娘のくせに! ジョージったら、どうして、あんなばかなまねをするんでしょう!」
怒りがしだいにうすれて、悲しみがもどってきた。涙が目に浮かんで、中年のパッキントン夫人の頬をつたって流れ落ちた。
「もう我慢できないって、口でいってみたところでしようがないわ。いったい、どうしたらいいかしら?」
急に夫人は孤独と無力感、痛切な悲哀を感じた。ゆっくりと新聞をとりあげると、さいぜんも目にした第一面の広告を読んだ。
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あなたは幸福ですか?
幸福でないかたは、
パーカー・パイン氏にご相談ください。
リッチモンド街十七番地
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「くだらないわ! ほんとに、くだらないわ」そういってからパッキントン夫人は、「でも、ちょっと行ってみるだけなら――」
というわけで、パッキントン夫人は十一時に、多少いらいらしながら、パーカー・パイン氏の個人事務所に通されるしだいになったのである。
いまも述べたように、パッキントン夫人はいらいらしていたが、パーカー・パイン氏と顔を合わせるや、一目で心の安らぎを覚えた。パイン氏は|でぶ《ヽヽ》というほとではないが、大男だった。頭はいや味なく禿げあがり、度の強いめがねをかけた目は小さくキラキラ光っている。
「どうぞおかけください」といってから、「わたしの広告をごらんになって、おいでになったんですね」とパーカー・パイン氏は誘いの水を向けた。
「ええ」と答えて、パッキントン夫人は、そこで口をつぐんだ。
「すると、あなたはおしあわせじゃないんですな」パーカー・パイン氏は陽気な、こともなげな口調でいった。「幸福なひとは、きわめて稀れです。どんなに少ないものか、おわかりになったら、びっくりなさいますよ」
「そうですの?」と夫人は答えたが、他人が幸福であろうと、なかろうと、自分には関係ないことだ、という気がした。
「あなたには興味がおありにならんでしょう。しかし、わたしには非常に興味があるのです。なにしろわたしは、これまで三十五年間、官庁で統計を集めることに従事してきた人間です。いまでは退職しましたが、わたしが得た経験を新しい方法に使ったらどうかと、ふと思いついたのです。なに、きわめて簡単なことです。世の中の不幸は五大項目に分類できます。これ以上ではないことは断言してよろしい。疾病《しっぺい》の原因がわかりさえすれば、治療は不可能ではありません。わたしは、いわば医者のようなものです。医者はまず患者の病症を診断し、次に治療の方法を勧告します。どんな治療も役に立たない病症があります。そういう場合には、わたしは率直に処置なしと申しあげます。しかし、これだけは断言しますがね、パッキントン夫人、もしわたしが治療を引き受けたら、回復は保証されたも同然です」
そんなことってあるかしら? これは冗談かしら? でも、ひょっとするとほんとうかもしれない。パッキントン夫人は希望をもってパイン氏の顔をみつめた。
「あなたの病気を診断しましょうか?」パーカー・パイン氏は微笑を浮かべた。そして椅子にもたれかかって指先を合わせた。「ご主人が悩みの種ですね。あなたとご主人はまずまず幸福な結婚生活を送ってこられた。ご主人は、きっと成功者なんでしょう。この病気には若い女性が関係していますね――たぶんご主人の事務所にいる若いお嬢さんが」
「タイピストです。いやらしい、厚化粧のあばずれ女です。口紅と靴下とカールした髪でかざり立てた女」パッキントン夫人の口から、言葉が|せき《ヽヽ》を切ったようについて出た。
パーカー・パイン氏は慰めるようにうなずいた。「べつにどうこういう仲じゃない――これがご主人の言い草でしょうな、きっと」
「そのとおりに申しますわ」
「だからその娘さんときれいにつきあって、彼女の退屈な生活に多少の明るさ、多少の喜びをあたえてやれることがなぜいけないのか? かわいそうに、あの娘《こ》はろくに楽しみもないんだ、これが、きっと、ご主人の気持でしょうな」
パッキントン夫人は気負いこんでうなずいた。
「ばかも、休み休みいってもらいたいですわ! 主人はあの女を川遊びに連れて行きます。わたしだって川遊びは大好きですわ。でも、五、六年前に主人は、川遊びはゴルフのじゃまになるといいました。ところがあの女のためならゴルフを犠牲にできるんですからね。わたしは芝居が好きです――ジョージはいつも疲れてるから外出はできないといっていました。ところが今じゃあ、あの女をダンスに連れて行くんですのよ――ダンスに! そうして、帰って来るのが明けがたの三時です。――わたしはわたしは――」
「そしてきっとご主人は、女というものはたいへんなやきもちやきだ。まるで|しっと《ヽヽヽ》の原因がないのに、わけもなく|しっと《ヽヽヽ》すると嘆いておられるんでしょう?」
またパッキントン夫人はうなずいた。
「そのとおりです。どうしてあなたは全部ご存じなんですの?」夫人は語気鋭くたずねた。
「統計ですよ」パーカー・パイン氏は、こともなげにいった。
「わたしはとてもみじめなんですの。いままでずっとジョージのためにつくしてきました。結婚した当初は、指が節くれだつまで働きました。主人が出世するように、仕えてきました。他の男になんか目もくれたことはありませんわ。主人の衣類をつくろい、おいしい食事をつくり、家計を上手に、経済的に、きりもりしてきました。ところが、こうしてひとかどの身分になって、生活を楽しむこともでき、少しは出歩いたり、かねがねやろうと楽しみにしていたことができるようになったら――ああ、このしまつですわ」パッキントン夫人はごくんとつばをのみこんだ。
パーカー・パイン氏は重々しくうなずいた。
「あなたの病症は完全にわかりました」
「それで――手当てしていただけますの?」パッキントン夫人は蚊《か》のなくような声を出した。
「もちろんですとも、奥さん。治りますよ、だいじょうぶ、治りますとも」
「どうやって?」パッキントン夫人は、目をまるくして期待して、答えを待った。
パーカー・パイン氏は静かにきっぱりとした口調で、
「万事おまかせねがいましょう。謝礼金は二百ギニーです」
「二百ギニーも!」
「そうですとも、あなたなら、それくらいの謝礼金を払う余裕がおありですよ、パッキントン夫人。かりにも手術なら、それくらいの金額はお払いになるでしょう。幸福とは、からだの健康とまったく同じくらいたいせつなものです」
「後払いでよろしいんでしょうね?」
「とんでもない。前払いで願います」
パッキントン夫人は立ち上がった。
「わたし、どうもまだ決心がつきかねますわ――」
「先物買いにですか?」パーカー・パイン氏は愉快そうにいった。「あなたのお考えも、もっともです。なにせ多額のお金を賭けるのですからね。わたしを信用なさることが先決です。前払いをして、思いきってやってみること。これがわたしの条件です」
「二百ギニーもね!」
「そうですとも、二百ギニー、大金ですよ。では、ごめんください、パッキントン夫人。もしお気持が変わりましたら、お知らせください」パーカー・パイン氏は、いっこうに気を悪くしたふうもなく、笑顔《えがお》で夫人と握手した。
パッキントン夫人が立ち去ると、パイン氏は机の上のブザーを押した。めがねをかけた若い女が姿を見せた。
「ファイルを頼む、ミス・レモン。それからクロードに、まもなく用があると伝えておいてください」
「新しいお客さんですの?」
「新しいお客さんだ。今のところちゅうちょしているが、そのうちにもどってくるだろう。たぶんきょうの午後四時頃でも。彼女を登録しておいてくれ」
「A項ですか?」
「むろん、A項だよ。人間、誰もが自分の不孝は独特なものだと考えているんだから、おもしろいね。そうそう、クロードに注意しておいてくれたまえ、あまり外国ふうにはしないようにとね。香水はつけず、髪は短く刈ったほうがいい」
パッキントン夫人が、再度パーカー・パイン氏の事務所に来たのは四時十五分すぎだった。彼女は小切手帳を取り出して小切手を作ると、それをパーカー・パイン氏に渡した。領収書が渡された。
「それで?」パッキントン夫人は希望をこめてパイン氏の顔を見た。
「それでは」とパーカー・パイン氏は笑顔でいった。「お宅へお帰りください。あす第一便で二、三の指令をお届けします。それを実行してくださればよろしい」
パッキントン夫人は楽しい期待を抱いて帰宅した。パッキントン氏は、もし朝の食卓でのけんかがむしかえされたら、自分の立場を主張してやろうと、防衛気分で帰宅した。しかし妻が闘争気分ではないらしいので、ほっとした。妻はいつになく、しとやかだった。
パッキントン氏はラジオを聞きながら、あのかわいいナンシーに毛皮のコートを買ってやったら、はたして受けとってくれるだろうかと思案していた。ナンシーがとても気位《きぐらい》の高い娘であることは、わかっていたから、彼女の感情を害したくはない。しかし、ナンシーは寒いと嘆いていた。彼女のあのツイードのコートは安物だ。あれでは寒さを防げない。たぶん彼女の気にさわらないように、うまくいえば――
近いうちに、また一晩いっしょに外出しなければならない。あんな娘をしゃれたレストランに連れて行くのは楽しみだな。パッキントン氏は数人の青年が自分のことをうらやましがっていることを知っていた。ナンシーはとびきりの美人だ。それに自分を好いている。あなたには、おかしなところなんか、ちっともないわ、と彼女がいっていたっけ。
彼が目を上げると、妻の目とぶつかった。急に良心の呵責《かしゃく》を覚えて、どぎまぎした。マリアはなんと狭量な、疑い深い女だろう! ほんの些細《ささい》な幸福さえ、亭主に許そうとしないのだ。
彼はラジオのスイッチを切って、寝室へ行った。
翌朝、パッキントン夫人は思いがけない手紙を二通受け取った。一通は有名な美容院からの予約済みを確認する印刷物で、二通目は洋裁店との予約だった。三通目はパーカー・パイン氏からのもので、当日リッツで昼食をごいっしょにしたいという招待状だった。
パッキントン氏は今夜は商用で人に会わなければならないから、夕食はいらないかもしれないといった。夫人はただうわの空でうなずいただけだった。そこでパッキントン氏は、山の神の嵐を避けられたことにほくほくしながら、家を出た。
美容師は思い入れよろしくいった。こんなに、ほったらかしになさって? 奥様、なぜでございますの? 何年も前にお手入れなさるべきでしたわ。でも、まだ手おくれではございません。
いろいろの手当てが彼女の顔にほどこされた。押されたり、もまれたり、蒸されたり。顔料が塗られ、クリームが塗られた。白粉がはたかれた。手を変え品を変えて、入念に仕上げられた。
やがて鏡を渡された。ほんとに若く見えること、と彼女は思った。
洋裁店の儀式も同じように彼女の胸をわくわくさせた。店から出た時、彼女はスマートで近代的で、さっそうたる気分だった。
一時半、パッキントン夫人は約束どおりリッツヘ行った。パーカー・パイン氏は一分《いちぶ》の隙もない服装で、例の、相手を落ちつかせ安心させるような雰囲気をただよわせて彼女を待っていた。
「お美しい」パイン氏は経験を積んだ目で彼女を頭のてっぺんから爪先までながめた。「差しでがましいようですが、あなたのために、ホワイト・レディを注文しておきました」
パッキントン夫人はカクテルをたしなむ習慣はなかったが、あえて異議はとなえなかった。刺激的な液体をおそるおそるすすりながら、彼女は慈愛あふれる指導者の話に耳をかたむけた。
「ご主人を仰天させなければなりません、奥さん。おわかりですね――はっとさせるのですよ。そのお手伝いをするように、わたしの若い友人をご紹介しましょう。きょうは、その男といっしょに昼食を召し上がってください」
その時、一人の青年が左右を見まわしながら、やって来た。青年はパーカー・パイン氏を認めると、優雅な身のこなしで近づいて来た。
「こちらはクロード・ラトレル氏、こちらはパッキントン夫人」
クロード・ラトレル氏は、たぶん三十歳足らずだろう。優雅で、丁重で、服装は非の打ちどころがなく、すばらしい美貌の持ち主だ。
「初めまして」クロードはつぶやくようにいった。三分後、パッキントン夫人は二人用の小テーブルをはさんで、新しい相談相手と向かい合っていた。
はじめのうち、彼女ははにかんでいたが、ラトレル氏はすぐに彼女をくつろいだ気分にさせた。彼はパリをよく知っているし、リヴィエラにもかなり長く滞在したことがあった。彼はパッキントン夫人にダンスはお好きですかとたずねた。夫人は好きだが、主人が夜分出かけることを好まないので、この頃はめったに踊りません、と答えた。
「でも、|あなた《ヽヽヽ》を家にとじこめておくなんて、そりゃいけませんね」クロード・ラトレルは、にっこり笑って、まばゆいばかりの美しい歯並を見せた。「近頃の女性は男性にやきもちをやかせることを許しませんよ」
パッキントン夫人は、|しっと《ヽヽヽ》はこの場合、問題ではないと、あやうくいいかけたが、押えてしまった。要するに、そう考えたほうが気持がいいではないか。
クロード・ラトレルは、陽気にナイトクラブの話をした。翌晩、パッキントン夫人とラトレル氏は、評判のいいレッサー・アーケインジェルに行くことに決めた。
パッキントン夫人は、このことを夫に話すのが、いささか気になった。ジョージは、そんなことは常識はずれで、それにこっけいだと思うだろうという気がした。しかしこの点、なんの苦労もしないですんだ。彼女は心配のあまり、朝食の時、口に出せないでいたが、二時になると。パッキントン氏から電話がかかってきて、夕食はロンドンですますと伝えてきたのである。
その夜は大成功だった。パッキントン夫人は娘の頃ダンスが上手だったので、クロード・ラトレルの巧みなリードで、すぐに流行のステップを覚えてしまった。ラトレルは彼女のガウンをほめ、髪形もほめた(その朝も彼女のために、一流の美容師との予約が決められていたのである)。別れを告げる時、ラトレルは胸がわくわくするような態度で彼女の手にキスした。パッキントン夫人がこんなに楽しい晩をすごしたことは、じつに数年ぶりのことだった。
目くるめくような十日間がつづいた。昼食をとり、お茶をのみ、タンゴを踊り、夕食をとった。夫人はクロード・ラトレルの悲しい幼年時代の身の上話を聞いた。彼の父親が財産を全部なくした悲惨な事情も聞いた。彼の悲恋、そして女性全般に対する彼の悲哀も。
十一日目に二人はレッド・アドミラルで踊っていた。パッキントン夫人は、夫が彼女をみつけるよりも前に夫の姿を認めた。ジョージは事務所から若い娘を連れて来ていた。二組とも踊っているさいちゅうのことだった。
「いかが、ジョージ」踊りの輪が二人を近づけた時、パッキントン夫人は浮き浮きと声をかけた。
夫の顔がまず赤くなり、次に驚きで紫色になるのを見ているのは痛快だった。うしろめたさと、驚愕の念が入りまじった表情だ。
パッキントン夫人は、この場の女主人公になったような気がして楽しかった。みっともないジョージ! 夫人はもう一度自分のテーブルにもどると、この二人づれを見守った。ジョージったら、ずんぐりしていること。それに、あんなに頭が禿げて、むりしてあんなに、飛び上がって! 二十年前の旧式の踊り方だわ。みっともないジョージ、よっぽど若返りたいのだわ! それに、かわいそうに、ジョージと踊っているあの娘は、それが好きなふりをしなければならないのだわ。娘はもう、うんざりだという顔をしていたが、その顔はジョージの肩越しにあるので、彼の目には見えないのだ。
わたしの立場のほうが、ずっとうらやましがられてしかるべきだわと、パッキントン夫人は満足げに思った。夫人は如才なくだまっているクロードをながめた。このひとのほうが、よっぽど、わたしのことをよく理解してくれているわ。クロードは決して気にさわることを口にしない――夫というものは、年を経《と》ると、必ずといっていいほど、気にさわることを口にするものだが。
夫人はまたクロードを見た。二人の視線が出会った。クロードは微笑を浮かべた。うれわしげで、ロマンティックなその美しい黒い瞳が、やさしく彼女の目をのぞきこんだ。
「もう一度踊りましょうか?」彼は、そっといった。もう一度踊った。まるで天国だった。
夫人はいまにも脳溢血を起こしそうな夫の視線が、自分たちを追っているのを意識していた。ジョージにやきもちを焼かせてみたいと考えたこともあったっけ、と彼女は思い出した。あれはずいぶん昔のことだ。でも、今はもうジョージに|しっと《ヽヽヽ》してもらいたくなかった。そんなことになったら、ジョージの気持は転倒してしまうだろう。なぜあの人の気特を乱す必要があるの? みんな一人残らずこんなに幸福だというのに。
パッキントン氏が帰宅して一時間たってから、夫人が帰って来た。パッキントン氏はとまどって自信のないおももちだった。
「ふむ、やっとご帰館かね」
パッキントン夫人はちょうどその朝、四十ギニーで買ったばかりのイヴニング用の肩掛けをぬいで、微笑を浮かべた。
「ええ、ただいま」
ジョージはせきばらいをした。
「ええと――妙なところで会ったものだね」
「そうね」
「おれは――ええと、あの娘をどこかに連れてってやるのが親切だと思ったんだよ。あの娘は家庭では苦労が多くてね、で――ええと、ほんの親切心からね」
パッキントン夫人はうなずいた。みじめなジョージ――とびあがって、あんなに上気して、ひとりでいい気になって。
「おまえがいっしょにいた男は誰なんだい? おれの知らん男だろう、え?」
「ラトレル、というのよ。クロード・ラトレル」
「どうして知り合いになったんだね?」
「あら、ある人が紹介してくれましたのよ」パッキントン夫人は、あいまいに答えた。
「おまえがダンスに出かけるなんて少々おかしいね――いい年をして。あまり、はしたないまねをするんじゃないよ」
パッキントン夫人は微笑した。彼女は世の中のすべてのものに対して、ひどくなごやかな気分だったので、はっきりした答えは口に出さなかった。彼女はやさしくいった。
「気分を変えることは、いつもいいものよ」
「気をつけたほうがいいよ。いいかね、ああいうのらくら男が、うろつき回っているんだ。中年の女ってものは、おそろしくばかなことをすることがある。念のためにいっておくが、柄にもないことをして、おれの顔に泥をぬるんじゃないぜ」
「あの運動はとても有益なのよ」
「うむ――それはそうだ」
「あなただって、そうお考えでしょう」夫人は優しくいった。「大切なのは幸福であることでしょう? あなたが十日ほど前の朝、そうおっしゃったのを覚えていますわ」
夫は射《い》るような視線を向けたが、妻の表情に皮肉の色はなかった。彼女はあくびをした。
「もうやすまなくちゃ。それはそうと、ジョージ、わたし、このところ、ひどくぜいたくしてしまいましたの。たいへんな請求書が来ると思いますわ。でも、いいですわね?」
「請求書?」
「ええ、洋服のね。それからマッサージに、髪のセット、とてもぜいたくしてしまいましたの――でも、かまわないことね」
彼女は二階へ上がっト行った。パッキントン氏はあいた口がふさがらなかった。マリアは今夜の一件に関しては、ひどく愛想がいい。まったく気にしていないようだ。しかし急に金を使うくせがついたのは厄介なことだ。マリアが――あの倹約のお手本が!
女か! とジョージ・パッキントンは頭を振った。あの娘《こ》の兄弟たちが最近おちこんだ経済的窮境、もちろん、おれは喜んで助けてやった。が、それでも――くそ、ロンドンの景気は、あまりよくないんだ。
ため息をつくと、今度はパッキントン氏がゆっくりと階段を上がって行った。
その当座、効果をあらわさなかった言葉が、後になって、思い出されることが、よくあるものだ。翌朝になると、初めてパッキントン氏のいったいくつかの言葉が、切実に妻の意識にしみこんできた。
のらくら男、中年女、おそろしくばかなこと。
パッキントン夫人は、しんは勇気のある女性だった。彼女は腰をおろして、事実を率直に考えてみた。ジゴロ〔男のダンサー。女たらしの代名詞〕のことは新聞でいろいろ読んだことがある。中年女の愚行についても読んだことがある。
クロードはジゴロかしら? そうかもしれない。でも、ジゴロは相手から金をもらうものだけど、クロードはいつもわたしにおごってくれる。それもそうだけど、おごっているのはパーカー・パインさんであって、クロードじゃない――いいえ、それどころか、ほんとうはわたし自身の二百ギニーなんだわ。
わたしは中年のばかな女かしら? クロード・ラトレルは、かげでわたしのことを笑っているのかしら? そう考えると彼女の顔に赤味がさした。
でも、それがどうだというの? クロードがジゴロで、わたしが中年のばかな女だとすれば、クロードに何かやるべきだったのだわ。金のシガレットケースかなにかを。
奇妙な衝動にかられて彼女は、即刻アスプレイへかけつけた。シガレットケースを選んで、代金を払った。彼女は昼食のためにクラリッジでクロードに会うことになっていたのだ。
二人がコーヒーをすすっている時、彼女はそれをバッグの中から取り出した。
「ささやかなプレゼントよ」彼女は小声でいった。
クロードは顔を上げて、眉をひそめた。「ぼくにですか?」
「ええ。お気に――お気に召すといいけれど」
クロードは片手でケースをわしづかみにすると、食卓越しにさっと突き返した。
「なぜこんなものをばぼにくださるんです? ぼくはいただきませんよ。お納めください。納めてください。さあ」彼は怒っていた。黒い目が光っている。
彼女は、「ごめんなさい」とつぶやいて、バッグの中へもどした。
その日は二人とも気まずい思いですごした。
翌朝、クロードから電話がかかってきた。「お会いしたいのです。きょう、昼からお宅へ伺ってもよろしいでしょうか!」
三時にどうぞ、と彼女は告げた。
彼は蒼白なおももちで、ひどく緊張していた。たがいにあいさつをかわした。気まずさが、いっそうつのった。
だしぬけにクロードは、ぱっと立ち上がると、彼女に面とむかった。
「あなたはぼくをなんだと思っていらっしゃるんです? このことをお尋ねしたいので伺ったのです。ぼくたちは友だちでした。そうでしょう? そうです、友だちでした。それなのに、あなたはぼくが――ええ、ジゴロだと思っていらっしゃるんだ。女性をくいものにする男のくずだと。そうでしょう、え?」
「いいえ、そんなこと」
クロードは彼女の抗議に耳をかさなかった。顔がまっ青になった。
「いえ、たしかにそう思っていらっしゃるんだ! ええ、そのとおりですとも。ぼくはそれをいいたくて、やって来たのです。そのとおりですとも! ぼくはあなたを連れてまわるように、あなたを楽しますように、あなたにいいよるように、あなたにご主人のことを忘れさせるようにという命令を受けていたんです。それがぼくの仕事でした。下劣な仕事でしょう、え?」
「なぜ、わたしにそんなことをお話しになるの?」
「ぼくは手を引いたからです、もう続けて行くことができません。|あなた《ヽヽヽ》が相手ではだめです。あなたはちがう。あなたはぼくが信じ、頼り、尊敬できる女性です。ぼくがこういうのも口説《くぜつ》のうちだ、とお思いですね」彼は夫人のそばに、にじりよった。「そうではないことを説明しましょう。ぼくはお別れします――あなたゆえに。あなたゆえに、ぼくは現在のいまわしい人間から生まれ代わって一人の男になるつもりです」
クロードは不意に彼女を抱きよせた。彼の唇が彼女の唇に押しつけられた。それから彼女を放すと、離れて立った。
「さよなら、ぼくはくだらない男でした――いつも。しかしこれからは、そうでないことを誓います。あなたはいつだか人事広告欄の広告を読むのが好きだとおっしゃったことを覚えていますか? 毎年この日のその欄に、ぼくが忘れずに、ちゃんとやっているという伝言をあなたはごらんになるでしょう。そうすれば、あなたが僕にとって、どんなに大切な方だったか、おわかりになります。もう一つ、ぼくはあなたから何も受け取りませんでした。でもあなた自身には受け取っていただきたいものがあります」彼は自分の指から印形《いんぎょう》つきの無地の指輪を抜いた。「これはぼくの母のものでした。あなたにこれを持っていていただきたいのです。じゃ、さようなら」
金の指輪を手にして、呆然《ぼうぜん》とその場に立ちつくしている夫人をあとに、クロードは立ち去った。
ジョージ・パッキントンは早く帰宅した。妻はうつろな顔でじっと火をみつめていた。そして、優しいが放心したような口調で受け答えをした。
「なあ、マリア」夫は唐突《とうとつ》にいった。「あの娘《こ》のことだがね」
「はい、あなた?」
「おれは――おれは決しておまえの気持を乱すつもりはなかったんだよ、いいかね。あの娘のことだよ。べつになんでもないんだよ」
「わかっていますわ。わたしはばかでした。もしあなたがそれで幸福になれるのなら、好きなだけ、その娘さんとお会いになればいいわ」
こういわれると、ジョージ・パッキントンとしてはうれしくなるのが当然だった。が、ふしぎなことに、めんくらってしまった。世の亭主たるもの、妻からけしかけられて、若い娘を連れまわったところで、楽しいわけがあるだろうか? とんでもない。くそおもしろくもない。ジョージ・パッキントンの、伊達《だて》男で火遊びしているたくましい男という気分は、たちまち雲散霧消して、ペシャンコになってしまった。彼は急に疲労をおぼえ、ポケットの中が、ひどく軽くなったような気がした。あの娘はちゃっかりしている。
「なんなら、おまえといっしょに、しばらく、どこかへ行ってもいいよ、マリア?」彼は、はれものにさわるように申し出た。
「あら、わたしのことなら、かまわなくてよ。ちゃんと幸福ですわ」
「しかし、おまえを連れて行きたいんだよ。リヴィエラへ行ってもいいね」
パッキントン夫人は、離れたところから微笑を向けた。
気の毒なジョージ。夫人は夫が好きだった。夫はほんとうに感傷的な人だ。夫の人生には彼女の人生にあるようなすばらしい秘密はないのだ。彼女はいっそうやさしく微笑した。
「それはすてきでしょうね、あなた」
パーカー・パイン氏はミス・レモンに話しかけていた。
「接待費は?」
「百二ポンド十四シリング六ペンスです」ミス・レモンがいった。ドアがさっとあいて、クロード・ラトレルが入って来た。
「おはよう、クロード、万事好調だろうね?」パーカー・パイン氏がいった。
「そうだと思います」
「指輪は? ところで、なんという名前を刻んだね?」
「マチルダ、一八九九年と」クロードはゆううつそうにいった。
「なかなかいい。で、広告にはどんな文句を?」
「『ちゃんとやっています。まだ覚えています。クロード』」
「書きとっておいてくれたまえ、ミス・レモン。人事広告欄、十一月三日、期間は――ええと、費用は百二ポンド十四シリング六ペンスか。よろしい、十年間にしよう。それでわたしたちに残る利益は九十二ポンド二シリング四ペンスになる。いいところだ。ちょうどいいところだ」
ミス・レモンは出て行った。
「パインさん」クロードが突然大声をあげた。「ぼくはこんなのはいやです。卑劣なトリックですよ」
「おやおや!」
「卑劣なトリックですよ。あのひとはりっばな婦人でした――いいひとです。彼女にあんなうそ八百をいい、こんな歯の浮くようなことをつめこむなんて、ああ、いやだ。胸がむかむかする!」
パーカー・パイン氏はめがねを直すと、科学的興味を持って、クロードの所を見た。そして、「これはこれは!」と、そっけなくいった。「君のいささか――えへん――いかがわしい生涯で、きみが良心の呵責《かしゃく》を感じたのは、これがはじめてのように思うがね。リヴィエラで流したきみのかずかずの浮名は、とくに厚顔無恥なものだったし、カリフォルニアのきゅうり王の細君、ハッティ・ウェスト夫人からの搾取ぶりは、君の恥しらずの金銭本能によってことさら目に立ったものだ」
「ところが、ぼくは心境の変化をきたしたんです。あれは――いけなかった。あのトリックは」クロードは口ごもるようにいった。
パーカー・パイン氏は、お気に入りの生徒に訓戒をあたえる校長先生のような口調で、
「クロード君、君は善行をほどこしたんだよ。君は一人の不幸な女性に、どの女性も望んでいるもの――すなわちロマンスをあたえたのだ。女はね、一時の激情なら、ずたずたに引き裂いてしまうし、しかもそこからはなんの利益も得ないものだが、ロマンスなら大切に保存して、末長くながめることができるのだ。わたしは人間性を知っている。いいかね、君、女というものは何年間もああいう出来事の思い出で、生きられるものなのだよ」パイン氏はせきばらいをした。「わたしたちはパッキントン夫人に頼まれた任務を、りつぱに遂行したのだ」
「でもぼくは好かないな」クロードはそうつぶやくと、部屋を出て行った。
パーカー・パイン氏は、引出しから新しいファイルを取り出すと書きこんだ。凄腕のジゴロに興味深い良心の痕跡が認められた。注――今後の進展を研究のこと。
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不満な軍人の事件
ウィルブリアム少佐はパーカー・パイン氏の事務所のドアの外でためらってから、自分をそこへ来させることになった朝刊の広告に、あらためて目を通した。それはひどく簡単なものだった。
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あなたは幸福ですか?
幸福でないかたは、
パーカー・パイン氏にご相談ください。
リッチモンド街十七番地
[#ここで字下げ終わり]
少佐は大きく息を吸うと、スイングドアを通って、あたふたと控え室にかけこんだ。器量の悪い若い女がタイプライターから顔を上げて、いぶかしげに彼をみつめた。
「パーカー・パインさんは?」ウィルブリアム少佐は顔を赤らめながらきいた。
「どうぞ、こちらへ」
少佐は女に案内されて奥の事務室の中へ――もの柔らかなパーカー・パイン氏のいる部屋へ入って行った。
「こんにちは。さあ、おかけください。で、ご用件は?」
「わたしはウィルブリアムというもので――」客は口をひらいた。
「少佐ですか? 大佐ですか?」パーカー・パイン氏がきいた。
「少佐です」
「ほう! では、最近海外からお帰りですか? インドですか? 東アフリカですか?」「東アフリカです」
「さぞいい土地でしょうな。ところで、あなたはご帰国になった――が、それがお気に召さない。悩みの種はそれですね?」
「まったくそのとおりです。もっとも、どうしてそれがわかったのか――」
パーカー・パイン氏は意味ありげに手を振った。
「なにせ、知ることがわたしの商売ですから。いいですか、わたしはこれまで三十五年間、官庁で統計を集めることに従事して来た人間です。いまでは退職しましたが、わたしが得た経験を新しい方法に使ったらどうかと、ふと思いついたのです。なに、きわめて簡単なことです。世の中の不幸は五大項目に分類できます。これ以上でないことは断言してよろしい。疾病《しっぺい》の原因がわかりさえすれば、治療は不可能ではありません。
わたしはいわば、医者のようなものです。医者はまず患者の病状を診断し、次に治療の方法を勧告します。どんな治療も役に立たない病症があります。そういう場合には、わたしは率直に処置なしと申します。もしわたしが治療を引き受けたら、回復は保証されたも同然です。
ウィルブリアム少佐、実を申しますと、帝国建設退役者――とわたしは呼んでおりますが――の九十六パーセントは不幸なのです。従来の活動的な生活、責任にみちた生活、危険をはらんだ生活にひきかえて――現在はどうでしょう? 苦しい家計、陰欝《いんうつ》な天候、それに全般的にいって、岡にあがった魚のような感じではありませんか」
「まさしく、おおせのとおりだ。わたしは退屈なことが気にいらんのです。退屈と、くだらぬ村の出来事に関する長ったらしいおしゃべりが。しかし、わたしになにができますかね? 恩給のほかに少々の貯えはある。コバムの近くに手頃な小さい家も持っている。しかし狩りをしたり、射撃をしたり、釣りをするほどの余裕はない。結婚もしていない。近所の人間は、気持のいい連中ばかりだが、島国根性からは抜け出ておらんのです」
「一口に申せば、生活が単調なのですね」
「単調もいいところです」
「あなたは興奮がお好きなのでしょう、たぶん危険なことがね?」
軍人は肩をすくめた。「このブリキのポットのように小さな国には、そんなものは払底《ふってい》していますな」
「失礼ですが」と、パーカー・パイン氏はくそまじめな顔でいった。「そうおっしゃるのはまちがいです。このロンドンには、どこへさがしに行ったらいいのか、それさえ知っていれば、危険も、興奮もたくさんあります。あなたは、われわれイギリス人の生活の平穏で快適なうわっ面《つら》だけを見ておいでだ。ところが別の面があるのです。もしお望みなら、その別の面をお見せすることもできますよ」
ウィルブリアム少佐はパイン氏の顔をみつめて、考えこんだ。
パイン氏には人を安心させる何ものかがあった。太っているとはいえないまでも、大柄な男だ。上品なはげ方をした頭と、度の強いめがね、小さいきらきら光る目。そして、ある種の雰囲気――頼りになるという雰囲気の持ち主である。
「でも、念のため申しあげておきますが、危険な要素が付随しますよ」パイン氏は話をつづけた。
軍人は目を輝かせた。
「それはご心配無用」と、そういってから、だしぬけに、「で――謝礼は?」
「謝礼金は五十ポンド、前払いでお願いします。もし一カ月たって、あなたがまだ同じ退屈な状態のようでしたら、お金はお返しいたします」
ウィルブリアムは考えていたが、やがて口をひらいた。
「まったく公正な話ですな。承知しました。すぐ小切手をさしあげます」
取引きは成立した。パーカー・パイン氏は机の上のブザーを押した。
「今一時です。若いお嬢さんを昼食に連れて行ってくださいませんか」パーカー・パイン氏はいった。ドアが開いた。
「ああ、マドレーヌ、ウィルブリアム少佐を紹介しよう。少佐は、あなたを昼食に連れてってくれますよ」
ウィルブリアムは、かすかに目をパチパチさせたが、それも無理はなかった。部屋に入って来たその娘は、髪が黒く、ものうげな風情で、すばらしい目と、黒い長いまつげ、顔色も申しぶんなく、しかも赤い口元は肉感的だった。それに、美しい衣服が優雅な肢体を引き立たせている。頭のてっべんからつま先まで、彼女は一点、非の打ちどころがなかった。
「ええ――喜んで」ウィルブリアム少佐はいった。
「ミス・ド・サラです」パーカー・パイン氏は紹介した。
「おそれいります」マドレーヌ・ド・サラは小声でいった。
「お宅の住所は控えておきました。明朝あらためて指令をお届けしましょう」パーカー・パイン氏はいった。
ウィルブリアム少佐と美しいマドレーヌは出かけて行った。
*
マドレーヌが帰って来たのは三時だった。
パーカー・パイン氏は目をあげて、「どうだね?」とたずねた。
マドレーヌは首を振った。
「あたしをこわがってるのよ。妖婦だと思っているのね」
「そうだろうと思った。で、わたしの指図どおりにやったね」
「ええ。あたしたち、思うぞんぶんほかのテーブルの客の品定めをしましたわ。彼の好きなタイプは金髪、青い目、すこし血の気の薄い、あまり背の高くない女《ひと》ね」
「なら、お安いご用だ。B項を取ってくれたまえ。目下どんな持ち駒があるか調べてみよう」パーカー・パイン氏はリストを指で追っていたが、やがて、ある名前のところで止まった。「フリーダ・クレッグ。そう、フリーダ・クレッグなら申しぶんないだろう。このことではオリヴァー夫人に会っておいたほうがよさそうだな」
*
翌日、ウィルブリアム少佐は、つぎのような文面の短い手紙を受け取った。
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きたる月曜日の午前十一時、ハムステッドのフライアーズ・レイン、イーグルモントへおもむき、ジョーンズ氏をおたずねください。あなたはグワーヴァ船舶会社から来た者だとおっしゃってください。
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手紙に従って次の月曜日(たまたま定休日だった)、ウィルブリアム少佐はフライアーズ・レインにあるイーグルモントヘ出かけた。もっとも出かけたとはいうものの、決してそこには到着しなかった。というのは、その途上で、ある事件が起こったからである。
まるで世界中の夫婦者がハムステッドヘ行くのかと思われるほどの混雑ぶりだった。ウィルブリアム少佐は人波にもまれ、地下鉄で息がきれ、フライアーズ・レインの所在地を捜すのに骨を折った。
フライアーズ・レインは両側に、道から引っ込んで家が立っている袋小路で、わだちの跡の多い、寂しい道路だった。家はいずれも大邸宅だが、すでに昔日の面影はなく、荒れるにまかされている。
ウィルブリアムは、門柱についているなかば消えかかった名前をのぞきながら歩いて行った。すると、急に物音が聞こえた。少佐ははっとなって聞き耳を立てた。それは押し殺されたような叫び声だった。
また聞こえた。今度は、「助けて!」という言葉が、かすかに聞き取れた。ちょうど彼が前を通っている家の塀の中からだ。
寸刻もためらわずに、ウィルブリアム少佐はガ夕ガタの門を押し開けて、雑草におおわれた車寄せに通じる道を音も立てずに走って行った。植込みの中では、一人の娘が二人の大きな黒人につかまって、身をよじり、回りこみ、足で蹴って、勇敢に戦っていた。頭を振りほどこうと娘は必死の努力をしたが、黒人の一人が手で彼女の口をふさいでいる。
娘との戦いに気をとられて、どちらの黒人もウィルブリアムが接近してきたことに気がつかなかった。娘の口をふさいでいた黒人が、あごへ激しいパンチをくらって、ふらふらとあとしざりしたとき、はじめてそれと気がついたありさまだった。不意を打たれて、もう一人の男は娘をつかまえていた手を放して、向き直った。ウィルブリアムは身がまえた。もう一度、彼の鉄拳が飛んで、黒人はよろよろっと後退して倒れた。ウィルブリアムは、背後に迫っていたもう一人のほうに向き直った。
しかし、二人目の男は、倒れたあとで立ちあがると、門のほうへいちもくさんにかけ出した。仲間もその例にならった。ウィルブリアムは二人の後を追ったが、思い直すと娘のほうを振り向いた。娘は木にもたれて、あえいでいた。
「ああ、ありがとうございました――」娘は息をはずませていた。「こわかったわ」
ウィルブリアム少佐は運よく助けてやった相手をはじめてみた。二十一、二歳の金髪で青い目、少し血の気の薄い美人だった。
「もしあなたが来てくださらなかったら!」彼女は息をはずませた。
「さあ、さあ、もうだいじょうぶです」ウィルブリアムは、なぐさめるようにいった。「しかし、ここからは出たほうがいいでしょうな。あの連中がもどってこないとも限りませんからね」
娘の唇にかすかな微笑が浮かんだ。
「もどってこないと思いますわ――あんなに、あなたからぶたれた後ですもの。ほんとに、すばらしかったわ!」
彼女の暖かい賛嘆の目差《まなざ》しを受けて、ウィルブリアム少佐は顔を赤らめた。
「どういたしまして」とあいまいに答えた。「当たり前のことですよ。ご婦人がお困りだったんですから。さあ、わたしの腕につかまれば、あるけますか? ひどいショックだったでしょう、まったく」
「もう、だいじょうぶですわ」とはいうものの、それでも娘は差し出された少佐の腕を取った。まだ少しふるえている。門から出て行く時、彼女は振り返って、家をながめた。
「おかしいわ。どうみてもあき家だわ」とつぶやいた。
「たしかにあき家ですな」と少佐は、鎧《よろい》戸を閉めた窓や、荒れはてた全体のようすを見上げて、同意した。
「でも、ホワイトフライアーズにちがいありませんわね」と彼女は門の上のなかば消えかかった名前を指さした。「あたし、ホワイトフライアーズに行くつもりでしたのよ」
「もう何も気にしないほうがよろしい。一、二分すれば、タクシーをつかまえられる。そうしたらどこかへ行って、コーヒーでも飲みましょう」
小道の終わりまで来て、それからもっと人通りのある通りへ出た。運よくちょうどタクシーが、とある家の前で乗客をおろしたところだった。ウィルブリアムは声をかけて、運転手に行く先を告げ、二人は乗り込んだ。
「話そうとしないほうがよろしい。じつと後ろへよりかかっていなさい。なにしろ、ひどい目にあったばかりなんだから」ウィルブリアムは連れに注意した。
彼女は感謝して、笑顔を向けた。
「ところで――えーと――わたしの名前はウィルブリアムです」
「あたしはクレッグです――フリーダ・クレッグと申します」
十分後、フリーダはコーヒーをすすりながら、小さなテーブル越しに、救いの神を感謝の目差しで見つめていた。
「夢のようですわ。悪夢のよう」クレッグは身ぶるいした。「でも、ほんの少し前まで、あたし、自分の身に何か起こるといいと思っていましたの――どんなことでも! でも危ない目は、もうこりごりですわ」
「どんないきさつなのか話してください」
「ええ、でもはっきりお話しするには、あたし自身のことをいろいろお話ししなければなりませんけど」
「どうぞご遠慮なく」ウィルブリアムは会釈した。
「あたし、|みなしご《ヽヽヽヽ》なんですの。父は船長でしたけれど――あたしが八つの時なくなりました。母は三年前になくなりました。あたしはロンドンでおつとめしています。ヴァキュアムガス会社の事務員です。ところで先週のある晩、下宿へ帰ってみますと、一人の紳士が、あたしに会おうと待っていました。弁護士で、メルバーンから来たリード氏というかたでした。
そのかたは、とても礼儀正しくて、あたしの家族についていくつか質問しました。何年も前に、父と知り合いだったそうなんです。実際に、リードさんは父のために法律上の問題をなにかと処理してくれていたのです。それから、リードさんは訪問の目的を話しました。『クレッグさん、実はお父上がなくなる数年前に、お父上が結んだ金融上の取引きの結果として、あなたも利益をお受けになるだろうと考えていい理由が、わたしにはあるのです』むろん、あたしは非常に驚きました。『その問題については、たぶんあなたは何も聞いていないでしょう。ジョン・クレッグにしても、そのことを真剣に考えていなかったと思います、おそらくね。ところが、思いがけなく、それが現実のものとなったのです。しかし、あなたがその権利を主張できるかどうかは、あなたがある書類を持っているかどうか、その点にかかっているようです。その書類はお父上の所有財産の一部というわけですが、もちろん価値のないものとして破棄されてしまったかもしれません。お父上の書類を何か保存してありますか?』
母が父のものをいろいろと、古い水夫用衣服箱にしまっていたので、あたしはざっと調べてみたことがありますが、重要そうなものは、なにもみつからなかったと説明しました。
『その書類の重要性は、たぶん、あなたにはおわかりにならんでしょう』とそのかたは微笑を浮かべていいました。
そこで、あたしは衣服箱へ行き、中にはいっているわずかな書類を取り出して、リードさんのところへ持って行きました。リードさんは書頼を見ましたが、どれが問題の件と関係がある書類なのかどうか、即答できないといいました。そして、一応それは持って帰って、もし何かわかったら、あたしに知らせるから、といいました。
すると土曜日の最後の便で、リードさんから手紙が来ました。それによると、この問題について相談があるから自宅に来てほしいということです。住所はハムステッド、フライアーズ・レイン、ホワイトフライアーズです。で、あたしはけさ十一時十五分前に、そこへ行くはずだったのです。
その住所を捜すのに、すこし手間どってしまいました。でも、やっと見つかったので、急いで門を入って、家へ向かっていると、突然あの恐ろしい二人組が植込みの中からとびかかってきたのです。悲鳴をあげるひまもありませんでした。一人があたしの口をおさえました。あたしは首を振りほどくと、助けを求めて叫びました。すると運よく、あなたが聞きつけてくださったのです。もしあなたがいらっしゃらなかったら――」彼女は口をつぐんだ。言葉よりも表情のほうが、彼女の気持を雄弁に表わしていた。
「たまたま、わたしが来あわせてほんとうによかった。まったく、あの二人の悪党をつかまえてやりたかった。おそらく、あなたは前にあいつらを見たことはないんでしょうな?」
彼女は首を振った。
「どういうことだと、お考えになりまして?」
「むずかしいですな。しかし、かなり確実なことがひとつあるようです。たぶん、お父上の書類の中に、誰かがほしがっているものがあるんですよ。そのリードとかいう男は、書類に目を通す機会を得ようとして、あなたに口から出まかせの話をした。が、明らかにお目当てのものがそこになかったんですよ」
「まあ! そういえば、ふしぎですわ。土曜日に家へ帰ってみたら、あたしの持物がいじくりまわされた形跡がありましたわ。実をいうと、下宿のおばさんが、好奇心からあたしの部屋をかき回したんじゃないかと疑っていましたの。でも、そうなると――」
「まちがいなく、それですよ。誰かがあなたの部屋へ入る許しを得て、部屋を捜したが、目的のものがみつからなかった。その男はそれがなんであろうと、あなたがその書類の価値を知っていて、身につけて持ち回っているものと考えて、あの待伏せを計画したのです。もしあなたが持っていたならば、おそらくとられていたでしょう。持っていなければ、あなたをつかまえて、どこに隠してあるのか、口を割らせようとしたのです」
「でも、いったいどんな書類なんでしょう?」フリーダは、思わず大声をあげた。
「わかりませんね。でも、こんなことまでやるところをみると、その人間にとっては、かなり貴重なものであることは確かですな」
「そんなことってあるかしら」
「さあ、どうですかね。お父上は船乗りだった。辺鄙《へんぴ》な土地へも、いろいろと行かれたことでしょう。ご自分ではそれと知らぬままに、なにかたいへんな価値のあるものを偶然、入手されたのかもしれません」
「ほんとうにそうお考えですの?」娘の青白い頬が、興奮のため桃色にそまった。
「ほんとにそう思いますよ。問題は、次にわれわれは何をすべきかということです。警察へ届けるおつもりはないでしょうな?」
「ええ、いやですわ」
「たいへん、いいことをおっしゃる。届けたところで、瞥察はなんの役にもたつまいし、不愉快な思いをするのが関の山でしょう。ところで、あなたにどこかで昼食をさしあげることをお許しいただきたい。そのあとで、下宿までお送りして、あなたが無事に帰宅されたことを確かめさせていただきたい。なんなら、そのあとで、いっしょにその書類を捜してみてもよろしい。なぜならば、いいですか、書類はきっとどこかにあるはずなんですからな」
「父が自分で破ってしまったのかもしれませんわ」
「むろん、そういうことも考えられます。しかし相手側は、どうやらそう思ってないようですから、こっちにも望みがないとはいえません」
「いったい、どんなものなのでしょう。宝島の地図かしら?」
「いや、まったくそうかもしれませんよ!」ウィルブリアム少佐は叫んだ。彼の身内にひそむ子供っぽい夢が、この考えを大歓迎したのである。「しかし、その前にまず、昼食をとりましょう、クレッグさん!」
二人はいっしょに楽しく食事をした。ウィルブリアムは東アフリカでの生活のことを、すっかりフリーダ・クレッグに物語った。象狩りのもようを話すと、娘はスリルを感じた。食事が終わると、少佐は彼女をタクシーで送って行くといいはった。
彼女の下宿はノッティング・ヒル・ゲイトの近くだった。下宿に着くと、フリーダは下宿のおかみとちょっと話をした。それからウィルブリアムのところへもどって来て、三階にある彼女の小さい寝室兼居間へ案内した。
「やっぱり、あたしたちの思ったとおりですわ。土曜日の朝、新しい電線を引くといって、男がひとり調べに来たんですって。なんでも、あたしの部屋の電線工事にぐあいの悪いところがあるとかいって。それで、あたしの部屋にしばらく入っていたそうですわ」
「お父上のその衣服箱を拝見しましょう」
フリーダはウィルブリアムに真鍮のわくをはめた箱を見せた。
「ほらね、空っぽでしょう」とふたをあげながらいった。
軍人は考えこんでうなずいた。「それで、ほかにはどこにも書類はないんですね?」
「ないと思います。母はなんでもここにしまっていましたから」
ウィルブリアムは衣服箱の内側を調べた。突然、彼は叫び声をあげた。「裏張りのここに切れ目がある」そういって注意深く手を差し入れて、あちこちさぐつた。「何か裏に入っている」
次の瞬間、彼は発見した物を引き出していた。幾重にも折りたたんだ、きたない一枚の紙だ。彼はそれをテーブルの上でのばした。フリーダがその肩越しにのぞきこんで、がっかりしたように叫んだ。
「妙なしるしがたくさんついているだけですわ」
「おやこれはスワヒリ語で書いてある。スワヒリ語だ、よりによって! 東アフリカの現地語ですよ」少佐は大声をあげた。
「まあ、なんて変わっているんでしょう! じゃ、あなたはお読めになれますのね?」
「読めますとも。しかし驚くべきことだな」彼は紙を窓ぎわへ持って行った。
「なにか大事なことでも?」フリーダはふるえ声でたずねた。ウィルブリアムは紙片を二度読んでから、娘のところへもどって来た。
「さあ」と含み笑いをしながらいった。「ちゃんと、ここにあなたの隠された宝ものがありますよ」
「隠された宝ものですって、まさか? スペイン人の黄金とか、沈没したガリオン船〔昔のスペインの大帆船〕とか、そういったものなんですの?」
「それほどロマンティックではないでしょうな、たぶん。しかし、せんじつめれば同じことになる。この紙には象牙の隠し場所が書いてあるのです」
「象牙ですって?」娘はあっけにとられた。
「そうです。象ですよ、ね。象を射ってもいい頭数は法律で決められています。ある狩人がこの法律を大幅に破って、逃走した。が、追跡されて、彼はそれを埋めた。とてつもない量です――そしてこの紙は、その捜し方をかなりはっきり示している。さあ、われわれは、これを捜さなければなりませんよ、あなたとわたしで」
「じゃ、ほんとうにそれは大金になるとおっしゃいますの?」
「まったくあなたにはひと財産ですよ」
「でもどうしてその紙きれが、父の持ち物にはいっていたんでしょう?」
ウィルブリアムは肩をすくめた。
「きっとその男が死にかけてでもいたんでしょう。秘密を守るためにスワヒリ語で書いて、お父上に渡したのかもしれません。お父上はたぶんなにかのことで、その男を助けてやったんでしょう。が、お父上にはこれが読めなかったので、大事なものとは思わなかった。これはわたしの推測にすぎませんが、まあ、それほど見当ちがいのことでもないと思いますね」
フリーダはため息をついた。
「わくわくするようなお話ね!」
「問題は――この貴重な文書をどうすべきかです。ここに置いておくわけにはいかない。もう一度捜しに来るかも知れませんからね。といって、わたしに預ける気はないでしょう?」
「もちろんお預けしますわ。でも――あなたが危険な目にお会いになるんじゃありません?」
「こう見えても、わたしは古強者《ふるつわもの》です」ウィルブリアムは凄味《すごみ》をきかせた。「わたしのことなら心配ご無用」そういって紙をたたむと財布の中にしまった。「明晩、あなたに会いに来てよろしいですか? それまでに計画を練りあげて、地図でその場所を調べて見ましょう。あなたは何時に都心からお帰りです?」
「六時半ごろ帰ります」
「それはいい。相談をすませてから、夕食にお誘いしてもよろしいでしょうな。なんといっても、お祝いすべきですよ。じゃ、失礼。あす六時半に」
ウィルブリアム少佐は翌日、約束の時間どおりに到着した。ベルを鳴らして、ミス・クレッグにお会いしたいと告げた。玄関に出て来たのは女中だった。
「クレッグさんですか? 外出中です」
「あ、そう!」ウィルブリアムは中に入って待つという気にはなれなかった。「じゃ、あとでまたこよう」
彼は外の道をぶらぶらしながら、内心では、さっそうと彼のほうへ歩いて来るフリーダの姿が見えるのを、今か今かと心待ちにしていた。時間はどんどん経過した。六時四十五分。七時十五分。まだフリーダはこない。彼は不安の念におそわれた。フリーダの家に引き返すと、またベルを鳴らした。
「ええと、わたしはクレッグさんと六時半に約束しておいたのだ。クレッグさんがいないことは確かかね、それとも――え――何か伝言でも?」
「あなたはウィルブリアム少佐さんで?」女中がたずねた。
「そうだよ」
「なら、あなたにお手紙が来ています。使いの人が持って来ました」
ウィルブリアムはそれを女中から受け取ると、封を引きさいた。次のような文面だった。
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ウィルブリアム少佐
ちょっと奇妙なことがおこりました。今はこれ以上書きたくありませんが、ホワイトフライアーズでお会いくださいませんか? これを受け取ったらすぐそこへ来てください。 かしこ
フリーダ・クレッグ
[#ここで字下げ終わり]
ウィルブリアムはすばやく頭を働かせながら、眉《まゆ》に八の字を寄せた。そして片手で、放心したようにポケットから一通の手紙を引っ張り出した。自分の洋服屋へあてた手紙だった。
「ええと、切手を一枚譲ってもらえんかな」彼は女中にいった。
「パーキンズ夫人が、つごうしてくれるでしょう」
女中はすぐ切手を持ってもどって来た。一シリングが支払われた。次の瞬間、ウィルブリアムは地下鉄の停車場へ向かって歩き出し、通りすがりにポストへ封筒を投函した。
フリーダの手紙が彼をひどく不安にした。なんだってあの娘は、一人で、きのうの不吉な事件の場所へ行くようなことになったのだろう?
彼は首を振った。よりによって、こんなばかなことをするなんて! リードという男がまた出現したのだろうか? あの娘を説き伏せて、信用させてしまったんだろうか? なんだって彼女はハムステッドくんだりへ行ったんだろう?
彼は時計を見た。間もなく七時半だ。彼女は、彼が六時半に出発するものと考えているだろう。一時間おそい。おそすぎる。彼女が気をきかせて、何かヒントをあたえておいてくれればよかったのに。
その手紙が、|ふに落ちなかった《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》。なんとなく、その自主的な調子がフリーダ・クレッグらしくない。
彼がフライアーズ・レインに着いた時は、八時十分前だった。もう暗くなりかけていた。彼は油断なく周囲を見まわした。人影はない。静かに、そっとぐらぐらの門を押すと、門はちょうつがいのところで音もなく揺れた。車道に人気《ひとけ》はなく、家は暗かった。左右に目をくばりながら、慎重に通路を進んで行った。不意打ちをくらうのはまっぴらごめんだ。
突然、彼は足を止めた。ほんの一瞬、一条の光が鎧戸の一つから洩れたのだ。すると、この家は無人ではない。誰かが中にいる。そっとウィルブリアムは植込みの中に入って、家の裏手へ回った。とうとう、めざすものがみつかった。一階の窓の一つに鍵がかかっていなかった。それは流し場のような部屋の窓だった。彼は窓わくを上げて、懐中電灯で(ここへ来る途中、買って来たのだ)人のいない内部をぐるりと照らしてから、中へはい上がった。
流し場のドアを、おそるおそるあけてみる。なんの物音もしない。もう一度懐中電灯を照らす。台所だ――誰もいない。台所の外には、六段の階段と家の正面の部分に通じているドアがあった。
彼はドアを押しあけて、耳を澄ました。何も聞こえない。忍び足でドアを通ると玄関の広間に出た。依然として物音はしない。右と左にドアがついている。彼は右手のドアを選び、しばらく耳を澄ましてから、ハンドルを回した。軽く回った。すこしずつドアを開けて、中に足を入れる。
もう一度、懐中電灯を照らした。その部屋は家具もなく、がらんとしていた。
ちょうとその時、背後で物音がしたので、さっと振り返ったがおそかった。何かが頭にふりかかってきた。彼は前のめりにばったり倒れると、気絶してしまった……。
意識を回復するまで、どのくらいの時間がたったのか、ウィルブリアムには、かいもく見当がつかなかった。苦痛を感じながら、意識をとりもどした。頭ががんがん痛い。動こうとしたが、それもできないことがわかった。ロープで縛られているのだ。
突然、頭がすっきりした。と同時に記憶がよみがえった。そうだ。頭をなぐられたのだ。
壁の高いところから射す弱光で、ウィルブリアムは自分が小さな地下室にいることがわかった。あたりを見まわして、思わず、どきっとした。数フィートのところにフリーダが、彼と同じように縛られて、横たわっているではないか。彼女の目は閉じていたが、彼が気づかわしげに見守っていると、ふっとため息をついて、目を開いた。彼女はとまどったような目で彼を見つめたが、相手の正体がわかると、喜色がぱっとその目に浮かんだ。
「あなたも! いったい、どうなさったの?」彼女はいった。
「あなたをひどい目にあわせてしまった。わたしは、わなの中にまんまと落ちてしまったのです。ところで、あなたは、わたしにここへ会いに来てくれという手紙をくれましたか?」
娘は驚いて目をまるくした。
「あたしがですって? でもお手紙をくださったのはあなたですわ」
「え、わたしが手紙をあげたって?」
「ええ、会社で受け取りましたわ。下宿じゃなくて、ここで会うようにって、お手紙に書いてありましたわ」
「二人に同じ手を使ったんだ」ウィルブリアムはうめくようにいった。それから事情を説明した。
「わかりましたわ。じゃ、その狙いは――」
「あの紙片をとるためですよ。われわれはきのう、尾行《つけ》られていたにちがいない。それで、わたしに目をつけるようになったんだ」
「それで――あれは取られてしまったんですの?」
「残念ながら、わたしはさわることも、見ることもできない」軍人は縛られた両手をくやしそうに眺めた。
その時、二人とも思わずビクッとした。というのは人声が、それも宙からひびいてくるような人声が聞こえたからだ。
「そうとも、ありがとう。まんまとちょうだいしたぜ。間違いなしだ」
その目に見えない声に、二人は身ぶるいをした。
「リードさんだわ」フリーダがつぷやいた。
「リード氏というのはおれの名前の一つだよ、お嬢さん、ほんの一つにすぎん。ほかにも名前はたくさんある。ところで、気の毒だが、お前たちは二人でおれの計画のじゃまをした――これは断じて許されない行為だ。お前たちがこの家を知ったことも重大問題だ。お前たちはまだ警察にこのことを知らせてないが、いずれはそうするかもしれん。残念ながら、その点でお前たちを信用することはできんようだ。お前たちは約束するかもしれん――しかし約束というものはめったに守られるものではない。そして、いいか、この家はおれにとって重宝この上なしなんだ。まあいうなれば、おれの手形交換所ってとこだ。ここは地獄の一丁目、行きはあっても帰りはない。ここからお前たちは行くんだ――どこかへな。気の毒だが、もう行きかけている。かわいそうだが――しかたがない」
声はちょっととぎれたが、また話し出した。
「血は流さん。おれは血を見るのがきらいなんでな。おれのやりかたは、ずっと簡単で、それにそう苦しくもあるまいよ。さあ、やるとするか。じゃ、あばよ、お二人さん」
「おい!」口をひらいたのはウィルブリアムだった。「わたしはどうなってもかまわん。しかし、このお嬢さんは何もしなかったんだ――何も。このひとを逃がしてもなんの損もあるまい」
しかし返事はなかった。
その時フリーダが悲鳴をあげた。
「水――水が!」
ウィルブリアムは痛むからだをひねって、彼女の視線を追った。上の天井に近い穴から、水が絶え間なく、ちょろちょろと注ぎこんでくる。
フリーダはヒステリックに絶叫した。
「あたしたちを溺死させようとしているのよ!」
ウィルブリアムの額に汗がふき出した。
「まだあきらめるのは早い。助けを求めて叫ぼう。きっと誰かの耳に届くはずだ。さあ、二人でいっしょに」
二人はあらん限りの声でわめき、絶叫した。声がかれて出なくなるまで、やめなかった。
「どうもだめらしい」やがてウィルブリアムは悲痛な声を出した。「ここは地下の深いところで、ドアにも防音がしてあるのだ。要するに、われわれの声が聞こえるものなら、さるぐつわをかませただろうからな」
「ああ! それもこれも、みんなあたしが悪いんですわ。あなたまで巻き添えにしてしまって」フリーダが叫んだ。
「そんな心配はご無用ですよ、お嬢さん。わたしが心配しているのはあなたのことだ。わたしはこれまでも何度も窮地に陥っては、それを切りぬけてきた男です。気を落としてはいかん。あなたを救い出してみせますよ。時間はたっぷりある。水の流れぐあいでは、最悪の事態になるまでに数時間はあるでしょう」
「あなたって、なんてすばらしい方でしょう! あなたのような方にお会いしたのは、生まれて初めてですわ――本の中以外では」
「ばかなことを! 常識にすぎません。ところで、このいまいましい綱をゆるめなければ」
十五分後に、引っ張ったり、よじったりしたあげく、ウィルブリアムは、いましめがはっきりゆるんだのを感じて満足した。やっとのことで、頭をまげ、手首を持ち上げて、結び目を歯で攻撃できるようにした。
両手が自由になると、あとはただ時間の問題だった。からだは引きつり、こわばっていたが、自由の身になると、娘の上にかがみこんだ。一分後に、彼女も自由になった。
その時までに、水かさは、まだ彼らのくるぶしに達する程度だった。
「さあ、ここから出ることです」軍人はいった。地下室のドアは数段上がったところにあった! ウィルブリアム少佐は、それを調べてみた。
「ここはなんのことはない。薄っぺらな材料だ。ちょうつがいのところで、はずれるだろう」ウィルブリアムはドアに肩をあてて持ち上げた。
メリメリと木がきしんで、パリッとこわれ、ドアがちょうつがいからはずれた。
外側に階段があった。そのてっぺんにもう一つドアがあった――全然ちがう造り――がっちりした木材で、鉄のかんぬきがかけてある。
「これは少し手ごわいぞ」ウィルブリアムはいった。「おや、これは運がいい。鍵がかかっていない」
彼はそれを押しあけて、あたりをうかがっていたが、やがて来るようにと娘を手招きした。二人は台所の背後の廊下に出た。次の瞬間、二人は星空の下のフライアーズ・レインに立っていた。
「ああ!」フリーダは、ちょっぴりすすりあげた。「ああ、なんてこわかったんでしょう」
「かわいそうに」ウィルブリアムは彼女を抱きよせた。「あなたは、すばらしく勇敢だった。フリーダ――いとしい天使――あなたはもしや――つまり、そのう、わたしはあなたを愛している。フリーダ、結婚してくれませんか?」
双方にとって、きわめて満足のできる適当な間を置いてから、ウィルブリアム少佐はくすくす笑いながら、いった。
「おまけに、われわれは、まだ象牙の隠し場所の秘密を握っているのです」
「でも、あれは取られてしまったんでしょ!」
少佐はまた忍び笑いをした。
「ところが、さにあらずでね! わたしはにせの写しを書いておいた。そして、あなたに今夜ここで会う前に、ほんものは洋服屋宛ての手紙に入れて、投函して来たのです。奴らはにせものを取った――そうして奴らにおめでとうといいたいね! わたしたちがこれからなにをするか、あなたにはわかるかな? 新婚旅行に東アフリカへ行って、埋蔵物を捜し出すんですよ」
*
パーカー・パイン氏は事務所を出て、階段を二つ上がった。家の一番上のひと部屋に、今ではパイン氏の部下の一員である通俗小説家のオリヴァー夫人がすわっていた。
パーカー・パイン氏はドアをこつこつたたいて中へ入った。オリヴァー夫人はタイプライター一台、何冊かのノート、散乱した原稿、それにリンゴを入れた大きな袋までのっている机に向かってすわっていた。
「たいへんけっこうな節書でしたよ、オリヴァー夫人」パーカー・パイン氏は愛想よくいった。
「うまく行きましたか? それはどうも」
「あの『地下室に水』の一件ですがね、次の機会には、もう少し独創的なのが――たぶんね?」パーカー・パイン氏はそう提案した。
オリヴァー夫人は頭を振って、袋からリンゴをひとつ取り出した。「そうは思いませんよ、パインさん。いいですか、世間の人はあんなものを読むのに慣れています。水かさを増す地下室の水とか毒ガスとか、いろいろね。それを前もって知っていると、現実にわが身にふりかかった時、格別のスリルを感じるのです。大衆なんて保守的なものですわ、パインさん。古くから使いふるした道具立てが好きなんですよ」
「そりゃ、あなたならよくご存じでしょうね」パーカー・パイン氏は、この女流作家の成功した四十六冊の創作が、ことごとく、イギリスとアメリカでベストセラーとなり、フランス語、イタリア語、ハンガリー語、フィンランド語、日本語、アビシニア語にさかんに翻訳されている事実を念頭において、相手のいいぶんを認めた。「費用はいかほどです?」
オリヴァー夫人は紙を手元に引き寄せた。
「全体からみて、とてもおやすいですよ。パーシイとジェリー、あの二人の黒人は、ほんの少ししか取りませんでした。俳優のロリマー青年は五ギニーで、喜んでリード氏の役を演じてくれました。地下室の人声は、もちろん、レコードでした」
「ホワイトフライアーズは、わたしにとって、きわめて重宝な場所です。はした金で買ったのですが、すでに十一回も、手に汗にぎるドラマの舞台となりました」
「ああ、うっかりしてました。ジョニーのお駄賃が、五シリングです」オリヴァー夫人がいった。
「ジョニー?」
「ええ、壁の穴から、じょうろで水を注いだ少年ですよ」
「ああ、なるほど。ところで、オリヴァー夫人、あなたは、どうしてスワヒリ語をご存じなんです?」
「知りませんよ」
「なるほど。じゃ大英博物館ですね、きっと?」
「いいえ。デルフリッジの情報局ですわ」
「いやはや、現代商業の方便とは、すばらしいもんですね!」パイン氏はつぶやいた。
「わたしが気にしているのは一つだけ、あの新婚のお二人が、あそこへ行っても、埋蔵物なんか何もみつかるまいってことですわ」
「この世では、人間、なにもかも手に入れるってわけにはいきませんよ。すくなくとも彼らは新婚旅行をしたことになるでしょうからね」パーカー・パイン氏はいった。
*
ウィルブリアム夫人はデッキ・チュアに腰をおろしていた。夫は手紙を書いていた。
「フリーダ、きょうは何日かね?」
「十六日よ」
「十六日だって、しまった!」
「なんですの、あなた?」
「なんでもないよ、ただジョーンズという男のことを思い出しただけだよ」
どんなに幸福な夫婦の間にも、打ち明けられぬことがあるものだ。
「畜生、あそこへ行って、金を返してもらうべきだったな」とウィルブリアム少佐は考えた。それから、根が公平な人間であるから、彼は相手の立場になって考えてみた。「要するに、契約を破ったのはわたしのほうだ。もしジョーンズに会いに行けば、何かが起こったんだろう。そうして、とにかく、結果からみて、もしわたしがジョーンズに会いに行く途上にいなかったならば、フリーダの助けを求める叫び声も聞かなかったろうし、二人は永久に出会わなかったかもしれん。だから、間接的には、おそらく先方に、五十ポンドをとる権利があるんだろうよ!」
ウィルブリアム夫人もまた、とつおいつ、物思いにふけっていた。
「あの広告を信じて、三ギニー払うなんて、あたしって、なんてばかだったんでしょう。もちろん、それ相応のことは何もしてもらわなかったし、全然何も起こらなかったわ。もし、なにが起こるか、それがわかっていたら、――まずリード氏、次にチャーリーが、奇妙なロマンティックなあらわれ方で、あたしの人生に登場してくることがわかってさえいたら。それに|純然たる偶然の機会がなかったら《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、うちのひとに決して出会わなかったと思うとね!」
彼女は振り向いて、夫にほれぼれした微笑を向けた。
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悩める淑女の事件
パーカー・パインの机の上でブザーが遠慮がちに鳴った。
「はい?」大人物はいった。
「若いご婦人がお目にかかりたいとのことです。面会の約束はございませんが」秘書が告げた。
「お通ししたまえ、ミス・レモン」その直後に、彼は訪問客と握手していた。「おはようございます。どうぞおかけください」
娘はすわって、パーカー・パイン氏をみつめた。かわいらしい娘で、とても若い。ウェーヴがかかった黒髪で、襟あしに巻毛が一列に並んでいる。頭にかぶった白い縮み帽子から、薄い靴下や上品な靴にいたるまで、美しく着飾っている。が、あきらかに、そわそわしていた。
「あなたがパーカー・パインさんですのね?」彼女がたずねた。
「そうです」
「あの――あの――広告を出していらっしゃるかたですわね?」
「広告の主です」
「もし幸福で――幸福でない者は――あなたの――あなたのところへ来るようにと」
「さようです」
彼女は勇を鼓《こ》して話し出した。
「じつは、わたしとても不幸なんです。だからお訪ねして、ただ――ただお会いするだけでもと思いまして」
パーカー・パイン氏は待った。もっと話があると感じたからだ。
「わたし――わたしとても困っていますの」彼女は神経質に両手を握りしめた。
「そうらしいですね。打ち明けていただけますか?」
その点が彼女としても腹を決めかねているところのようであった。彼女は必死の思いで、まじまじと、パーカー・パイン氏の顔をみつめた。それから突然せきを切ったように、話し出した。
「ええ、お話しします――やっと決心がつきましたわ。わたし心配で気が狂いそうなんです。どうしたらよいのか、誰のところへ相談に行ったらよいのかわからなかったのです。その時、あなたの広告を目にしましたの。こんなのどうせ|いんちき《ヽヽヽヽ》だろうとは思いましたが、それでも頭にこびりつきました。なんとなく心の慰めになるような文句だったのです。それで、わたしこう思いました――そう、会いに行ってみるだけなら、べつに損にはならないだろうと。その気になればいつでも口実をつくって、帰ることができるだろう、もしだめ――ええ、もしだめでも――」
「そのとおり、まったく、そのとおりです」
「それはつまり――そのう、人を信用するかどうかということですわ」
「それで、わたしを信用できるとお考えですね?」パーカー・パイン氏は笑顔でいった。
「おかしなことなんですけど」と娘は無意識のうちに失礼なことを口走った。「あなたのことを何ひとつ存じあげないのに! でも、あなたなら、ちゃんと信用できますわ」
「ご心配なく、あなたのご信頼を裏切ることはありませんよ」
「では、お話しいたします。わたしの名前はダフニ・セント・ジョンです」
「なるほど、ミス・セント・ジョン」
「ミセズですわ。わたし――わたし人妻ですの」
「ほう!」パイン氏は彼女の左手の薬指にプラチナの指輪を認めたので、あっさりかぶとを脱いで、つぶやいた。「いや、これはとんだ失礼を」
「結婚していなければ、こんなに心配はいたしません。つまり、それほど問題にはならなかったってことですわ。ジェラルドがどう思うか、じつは、ここ――ここにすべての悩みのたねがあるんです!」
彼女はバックに手を突っ込み、何か取り出して、机の上に放り出した。それはキラキラ光りながら、パーカー・パイン氏のほうへころがって来た。
大きなダイヤモンドを一つはめこんだプラチナの指輪だった。
パイン氏は拾い上げると、窓ぎわへ持って行き、窓ガラスでためしてから、宝石商が使うレンズを目にあてて、念入りに調べた。
「すばらしいりっぱなダイヤモンドです」とテーブルへもどりながらいった。「少なくとも二千ポンドぐらいの値打ちはありましょうな」
「そうです。盗まれたんです。わたしが盗んだんです! それで、どうしたらよいのやら見当がつきませんの」
「おやおや! これはまたおもしろいことを」
依頼人は泣き出して、小さすぎて役には立ちそうもないハンカチを目に当てた。
「さあ、さあ、なにもかもうまくいきますよ」パイン氏は声をかけた。
女は涙をふいて、すすりあげた。
「そうでしょうか? ほんとに|そう《ヽヽ》でしょうか?」
「もちろんですとも。さあ、一部始終を話してみてください」
「じつは、そもそも、わたしがお金に困ったことがはじまりですの。わたしって、とてもぜいたくな女なんです。そしてジェラルドは、それをいやがっています。ジェラルドって、わたしの夫ですわ。わたしよりだいぶ年上で、とても――ええ、倹約家なんです。借金するなんて、めっそうもないことだと思っています。ですから、わたし夫には話しませんでした。で、数人の友だちとル・トウケー〔北フランスの賭博場〕へ行き、運がよけれは賭博に勝って、金繰《かねぐ》りをつけられるかもしれないと考えたのです。はじめは勝ちましたが、後で負けました。そこで、もっと続けてやらなきゃだめだと思いました。で、やりました。そうしたら――そうしたら――」
「なるほど、なるほど、くわしいことをお話しになる必要はありません。まえより困ったことになったのですね。そうなんでしょう?」
ダフニ・セント・ジョンはうなずいた。
「そうなるまでに、わたしジェラルドには、どうしても打ち明けることができなかったんです。主人は賭けごとが大きらいですから。どうにも身動きがとれなくなってしまいました。ところで、あたしたちはコバムのそばのドートハイマー家へ泊まりがけで行くことになりました。先方はたいへんな富豪ですし、夫人のナオミはわたしの同窓生なんです。美しい、かわいい方です。ところで、わたしたちの滞在中に、この指輪の台がゆるんでしまいました。わたしたちがおいとまする朝、ナオミさんはこれをロンドンへ持って行って、ボンド・ストリートの行きつけの宝石店に預けてくれとわたしに頼みました」
「さあ、いよいよむずかしいところへ差しかかりましたね。お話しを続けてください、セント・ジョン夫人」パーカー・パイン氏は助け舟を出した。
「よもや、他言はなさらないでしようね?」女は哀願するようにたずねた。
「依頼人の秘密は神聖です。それに、いずれにせよ、セント・ジョン夫人、もうかなりお話ししてくださったのですから、たぶん、わたしが自分でも話の結末をつけることができましょう」
「そのとおりね、いいですわ。でも、口にするのは、いやなの、とても恐ろしくひびくんですもの。わたしボンド・ストリートへ行きました。あそこには、もう一軒、店があります――ヴィローズって店が。そこは――模造の宝石商です。突然わたしは分別を失ってしまいました。指輪を持ってその店に入り、実物そっくりの模造品を作ってくれ、外国へ行くので、本ものの宝石を持って行きたくないのだとうそをつきました。店のほうでは、至極当然なことと考えたようでした。
そういうわけで、わたしは人造宝石の模造品を受け取りました――とてもよくできていて、本ものと見分けがつかないほどです――わたしはそれを書留にしてドートハイマー夫人へ送りました。例の宝石店の名入りの箱を持っていましたから、万事、うまく行きました。それに本職なみの小包の包装をしたのです。それからわたし――わたし――本ものを質に入れました」彼女は両手で顔をおおった。「よくもあんなことができたもんだわ。よくもあんなことが。わたしはいやしい、卑劣な、そこらにいる泥棒も同然ですわ」
パーカー・パイン氏は咳ばらいをした。「まだお話は全部おすみじゃないでしょう」
「ええ、まだですわ。これは、じつは六週間ほど前のことですの。わたしは借金を全部払って、けりをつけましたが、でも、むろんその間中、ずっとみじめな気持でおりました。するとそれから年老いた従兄《いとこ》が死んで、わたしはいくらかのお金を相続しました。わたしはなにをおいてもまっ先に、例の気がかりな指輪を質受けしました。それはちゃんと、ここにあります。ところがたいへん厄介なことが起こりました」
「と、おっしゃると?」
「わたしたち、ドートハイマー家と仲たがいしてしまったのです。ルービン・ドートハイマー卿がジェラルドにすすめて買わせた株のことが原因ですの。ジェラルドはそのために大損をしたので、ルービン卿に八つ当たりをしたのです――それで、ああ、ほんとうに困ったわ――そのために、あのう、わたしは指輪がお返しできなくなってしまったのです」
「匿名でドートハイマー卿夫人へ送り返せませんか?」
「そんなことをしたら、なにもかも露顕《ろけん》してしまいますわ。彼女は自分の指輪を調べて、それがにせものだとわかれば、たちどころに、わたしのやったことを見抜いてしまいますわ」
「夫人とはお友だちだとおっしゃいましたね。真相を全部打ちあけて――率直にあやまってごらんになっては?」
セント・ジョン夫人は首を振った。
「わたしたち、それほどの仲ではありません。金銭や宝石の問題となると、ナオミは容赦しない人です。わたしが指輪を返せば、まさか裁判沙汰にはしますまいが、それでも、会うひとごとに、わたしのしたことを吹聴《ふいちよう》しかねません。そうなれば、わたしの身は破滅ですわ。ジェラルドにも知れますし、夫は絶対にわたしを許しません。ああ、どっちを向いても恐ろしいことばかり!」彼女はまた泣き出した。「わたし、いくら考えぬいても、どうしたらいいかわかりませんの。ああ、パインさん、なんとか助けていただけませんか?」
「いくらかはね」パーカー・パイン氏は答えた。
「おできになりますの? ほんとうに?」
「もちろんです。さっきは、わたしの長い経験から、最も簡単な方法がつねに一番よいので、おすすめしたのです。そうすれば予期せざる事態の紛糾がさけられます。とはいえ、あなたが反対なさるのも一理あります。今のところ、この不幸な出来事を知っている者は、誰もおりませんね、あなたご自身のほかは?」
「それに、あなたですわ」セント・ジョン夫人がいった。
「ああ、わたしは勘定外です。それなら、あなたの秘密は今のところ安全です。必要なことは、二つの指輪を何か怪しまれない方法ですりかえることだけです」
「そうなんですよ」女はせきこんでいった。
「むずかしい方法ではだめです。すこし時間をかけて一番いい手段を考えてみなけれはなりません――」
彼女はパイン氏の言葉をさえぎった。
「でも時間がありません! だからわたし気が気じゃないんです。彼女は、石を新しい指輪の台に、はめさせようとしているんです」
「どうしてそれをご存じで?」
「まったくの偶然からですわ。先日、ある婦人と昼食をいっしょにしているとき、わたし、そのひとのはめている指輪をほめました――大きなエメラルドでした。最新のものだという話でした――そうしてナオミ・ドートハイマーも、そういうふうにダイヤモンドをはめかえようとしていると話してくれたんです」
「そうなると、早いとこ手を打つ必要がある、というわけですね」パーカー・パイン氏は考えこんでいった。
「そうです、そうなんですわ」
「つまり口実をつくって、先方の屋敷へ入ることです――それもなるべくなら、召使の資格ではなくてね。召使には高価な指輪を取り扱う機会がほとんどありません。何かご自分で名案がございますか、セント・ジョン夫人?」
「そう、ナオミは水曜日に盛大なパーティを開くことになっています。そして例のわたしのお友だちがいうには、彼女はショー・ダンサーを数人捜しているそうです。もう決まったかどうかは存じませんが――」
「それなら、なんとかなるでしょう。もしすでに決まっていたら、少々高くつくだけのことです。もう一つうかがいますが、電源のメイン・スイッチのあり場所はご存じですか?」
「たまたま、よく知っておりますわ。ある晩おそく召使がみな寝てしまってから、ヒューズがとんだことがありますので。ホールの奥の箱ですわ――小さな食器戸棚の中の」
パーカー・パイン氏の求めに応じて、彼女は見取り図をかいた。
「さあ、これで、万事うまく行きますよ」パーカー・パイン氏はいった。「ですから、ご心配なく、セント・ジョン夫人。指輪はどういたしましょう? わたしがここでお預かりしましょうか、それとも、水曜日まで、お手元においておかれますか?」
「そうね、わたしが持っていたほうがよさそうですわ」
「では、これ以上はご心配なく、よろしいですね」パーカー・パイン氏は彼女をさとした。
「それであのう――謝礼のほうは?」彼女はおずおずとたずねた。
「それは今のところお預けにしましょう。どのくらいの費用がかかったか、水曜日にお知らせします。だいじょうぶ、謝礼金はしるしばかりのものですみますよ」
パイン氏は彼女をドアまで送り、それから机の上のブザーを鳴らした。
「クロードとマドレーヌを、こちらへよこしてくれたまえ」
クロード・ラトレルは、イギリスきっての典型的な美男の不良ダンサーであり、マドレーヌ・ド・サラは最も魅力的なヴァンプ〔男たらしの妖婦〕である。
パーカー・パイン氏は二人を観察して、満足の色を浮かべた。
「さっそくだがね、仕事ができたんだよ。君たちは国際的に有名な舞踊《ぶよう》家になるんだ。じゃ、クロード、この仕事は慎重にやってくれたまえ。首尾よくいくように……」
*
ドートハイマー卿夫人は舞踏会の準備に充分満足を覚えた。彼女は花の飾りつけを眺めて、気に入ると、最後の指図を二、三、執事にあたえ、夫に向かって、今のところ万端|遺漏《いろう》のないむねを告げた!
レッド・アドミラルからのダンサー、ミカエルとファニータが最後のどたん場になって、ファニータの足首の捻挫のため契約を履行できなくなったことが一抹の失望の念をあたえたが、その代わりに、二人の新しいダンサーをよこす(そう電話で告げて来た)ことになっていた。
二人のダンサーは時間どおりに到着し、ドートハイマー卿夫人はご満悦だった。夜会は成功|裡《り》に進行していった。出演したジュールとサンチャの踊りは、すばらしいの一語につきた。野性的なスペインの回転ダンス。次は堕落者の夢というダンス。次は絶妙なモダン・ダンスの披露。
「余興」が終わると、ふたたびふつうのダンスがはじまった。美男のジュールがドートハイマー卿夫人に一曲お相手を、と申し出た。二人は流れるように踊った。ドートハイマー卿夫人は、このような完璧なパートナーと組んだことは初めてだった。
ルービン・ドートハイマー卿は魅力的なサンチャを捜した――が、だめだった。彼女は舞踏室にいなかった。
彼女は、じつは、人気《ひとけ》のない広間の小さな箱の近くで、手首にはめた宝石で飾った時計に目をすえていたのだ。
「奥さまはイギリス人ではございますまい――イギリス人のはずがありません――こんなに上手にお踊りになるんですから」ジュールはドートハイマー卿夫人の耳元にささやいた。「奥さまは妖精、風の精でいらっしゃる。ドローシニカ・ぺツローフカ・ナヴァローヴィッチ」
「それは何語?」
「ロシア語でございます。英語でいうのをはばかることは、ロシア語でいうことにいたしております」ジュールは、ぬけぬけと口から出まかせをいった。
ドートハイマー卿夫人は目を閉じた。ジュールは夫人をぐっと抱きよせた。
突然、電灯が消えた。暗やみでジュールは身をかがめて、彼の肩に置かれた手にキスをした。夫人がその手を引っ込めようとすると、彼はそれをとらえて、もう一度、彼の肩まで持ち上げた。すると、どうしたわけか、指輪が夫人の指から抜けて、彼の手の中に落ちた。
ドートハイマー卿夫人にはほんの一秒くらいにしか思えぬうちに、また電灯がついた。ジュールは夫人に向かって微笑した。
「奥さまの指輪が抜け落ちました。よろしゅうございますか?」彼はそれを夫人の指にはめ直した。そうしながらも、彼の目は口ほどに、多くのことを告げていた。
ルービン卿はメイン・スイッチのことを話していた。
「ばかなやつがいたずらをしたとみえる」
ドートハイマー卿夫人は、そんな言葉はうわの空だった。あの暗黒の数秒間は、こよなく楽しかった。
パーカー・パイン氏が木曜日の朝、事務所へ着くと、すでにセント・ジョン夫人が待ち受けていた。
「お通ししてくれ」とパーカー・パイン氏は命じた。
「どうでした?」彼女は、ひどくいきごんでいる。
「お顔の色が悪いですね」パイン氏はとがめるようにいった。
彼女は首を振った。
「ゆうべは眠れなかったのです。どうかしらと思って――」
「では、これが経費の請求書です。汽車賃、衣装代、それからミカエルとファニータへ五十ポンド。合計六十五ポンド十七シリング」
「けっこうですわ! でも昨夜のことは――うまくいきまして? 計画どおりに?」
パーカー・パイン氏は、びっくりしたように彼女の顔を見た。
「奥さま、むろんだいじょうぶですとも。それは、おわかりのことと思っていましたが」
「ああ、助かった! わたし、もしや――」
パーカー・パイン氏は非難するように首を振った。
「失敗という言葉は、この事務所では許されない言葉です。もし、成功できないと思ったら、わたしはお引き受けすることを断わります。わたしがお受けしたからには、その成功は事実上、保証されたも同然です」
「あのひと、ほんとうに指輪を取りもどして、何も疑わなかったんですのね?」
「全然。作戦はきわめて巧妙に行なわれました」
ダフニ・セント・ジョンは、ため息をついた。
「重荷がおりましたわ。で、費用はいかほどだとおっしゃいましたっけ?」
「六十五ポンド十七シリングです」
セント・ジョン夫人は、ハンドバッグを開けて、金を勘定した。パーカー・パイン氏は礼をいって、領収書を書いた。
「でも謝礼のほうは? これは実費だけでしょう」ダフニは口ごもった。
「この件は謝礼金なしです」
「あら、パインさん! そんなことってありませんわ!」
「いや、奥さま、それはお断わりします。わたしは一ペニーだっていただきません。そんなことをしたら、わたしの主義に反します。これが領収書です。それから――」
巧妙なトリックを披露するさいの手品師のような得意の笑顔を浮かべながら、彼はポケットから小さい箱を引っ張り出して、テーブルの向こうへ押しやった。ダフネはそれを開けた。中には、どこから見ても前のとそっくりなダイヤモンドの指輪がおさまっていた。
「まあ、いけすかない!」セント・ジョン夫人はそれを見て、顔をしかめた。「あなたって、なんていやな人なんでしょう! あんたを窓からほうり出してやりたいわ」
「それはお断わりですね。往来の人がびっくりしますよ」パーカー・パイン氏はいった。
「これが本ものじゃないことは、確かなんでしょうね?」
「確かですとも! あなたが先日、見せてくださった指輪は、ちゃんと、ドートハイマー卿夫人の指にはまっていますよ」
「それじゃいいのよ」ダフニは幸福そうな笑い声を立てて、立ち上がった。
「あなたがそんなことを、わたしにおききになるとはおかしいですね。もちろん、クロードはあまり頭のいい男ではありません。うっかりして、まちがえてしまったおそれもあります。だから、その点を確かめるために、わたしはけさ専門家にこれを見せました」
セント・ジョン夫人はいささか唐突に、また腰を下ろした。
「あら、で、なんといいました?」
「これは、けたはずれにりっぱなイミテーションだといいました」パーカー・パイン氏は、にっこり笑った。「一流の細工です。さあ、これで安心なさったでしょうね?」
セント・ジョン夫人はなにかいいかけたが、口をつぐんでしまった。そしてパーカー・パイン氏の顔を凝視した。
パイン氏はもう一度、デスクの後ろの椅子にもどって、彼女をあわれむような目で眺めた。
「火中の栗を拾う猫とは」彼は夢みるような口調でいった。「ぞっとしない役どころですな。うちの部下にやらせたい役柄ではない。いや、これは失礼、何かおっしゃいましたか?」
「わたし――いいえ、何も」
「よろしい。じゃ、ちょっとした話をおきかせしましょう、セント・ジョン夫人。さる若いご婦人の話です。金髪のご婦人というところですな。彼女は結婚してはおりません。姓はセント・ジョンではなく、クリスチャン・ネームもダフニではありません。それどころか、本名はアーネスティン・リチャーズで、最近までドートハイマー卿夫人の秘書をしていた女性です。
さて、ある日、ドートハイマー卿夫人のダイヤモンドの指輪の台がゆるんだので、ミス・リチャーズは、それを直させるためにロンドンまで持って来ました。ここまでは、あなたの話ときわめて似ていますね? で、あなたの頭に浮かんだ考えと同じ考えがミス・リチャーズにも浮かびました。彼女は指輪の模造品を作らせたのです。しかし、なかなか先見の明のある娘さんで、早晩、ドートハイマー卿夫人が、にせものであることを発見する日が来るだろうと思いました。そうすれば、夫人は、誰に指輪をロンドンヘ持って行かせたかを思い出して、ミス・リチャーズは、たちどころに疑われてしまいます。
そこでどうなったのか? まず、わたしのにらんだところでは、ミス・リチャーズは、ラ・メルヴェイユーズ美容院で金を使いました――ナンバー・セブンの横分けでしょうな」――彼の視線は無心に客のウェーブのかかった髪にとまった――「色を暗褐色に染めて、それからわたしを訪れたのです。わたしに指輪を見せて、それが本ものであることをわたしに得心させ、そうすることによって、わたしの疑惑を解いたのです。それがすみ、すりかえ計画のおぜん立てができると、娘さんは指輪を宝石商へ届け、宝石商は当然それをドートハイマー卿夫人へかえしました。
ゆうべ、もう一つのにせものの指輪がウォータルー停車場で、発車寸前にラトレル氏に大急ぎで手渡されました。ラトレル氏がダイヤモンドに目が利《き》くはずはないと、いとも適切にミス・リチャーズは考えたのです。しかし、わたしは万事が公明正大であることを確かめたいばっかりに、宝石商の友人を汽車に乗りこませるように手配しておきました。その男は指輪を見て、即座に断言しました。
『これは本もののダイヤモンドじゃない。みごとな人造宝石の模造品だ』とね。
むろん、要点は、おわかりでしょうね、セント・ジョン夫人? ドートハイマー卿夫人がにせものに気づけば、いったい何を思い出すでしょう? 電灯が消えた時、彼女の指から指輪を抜いた、魅力的な若いダンサーですよ! 夫人が調査すれば、はじめに契約したダンサーは買収されて、邸《やしき》へこなかったことがわかるでしょう。そして、めぐりめぐって、わたしの事務所までたどって来るとなると、セント・ジョン夫人という依頼人の話をわたしがしたところで、それは、きわめて根拠の薄弱な話と思われるでしょう。なにしろドートハイマー卿夫人はセント・ジョン夫人という人のことなど、全然知らないのですからね。わたしの話は、みえすいた嘘に聞こえるでしょう。
もうおわかりでしょうね、わたしがそんなまねを許すはずのないことが? そんなわけで、わたしの友人のクロードはドートハイマー卿夫人の指に、彼がいったん抜きとったその同じ指輪をはめ直したのです」
パーカー・パイン氏の笑顔は、もう前ほど慈愛にあふれたものではなかった。
「これでわたしが謝礼金を受け取れない理由がおわかりですね? わたしは人を幸福にすることを保証しています。が、あなたを幸福にしなかったことは明らかです。もう一つだけ申しあげましょう。あなたは、お若い。おそらく、こんな類《たぐ》いのことをやろうと試みたのははじめてでしょう。ところが、わたしは、あなたと違って、比較的、年もとっているし、統計の収集に長い経験を持っています。その経験から請け合いますがね、不正事件の八十七パーセントは、引き合わないものです。八十七パーセントですよ。よくお考えになることですな!」
荒々しい動作で、自称セント・ジョン夫人は立ち上がった。
「口先のうまい、おいぼれの人でなし! ひとの気を引いておいて、なにさ! 費用まではらわせて! それにずっと――」彼女は言葉をつまらせて、ドアへ突進した。
「あなたの指輪を」とパーカー・パイン氏はそれを差し出した。
彼女は指輪をひったくって、それに目をくれると、開いた窓から放り投げた。
ドアがバタンと鳴って、彼女は出て行った。 パーカー・パイン氏は興味を持って、窓から往来を眺めた。
「案の定、大騒ぎがはじまった。玩具を売っている男には、なにがなにやら、さっはりわからんのだな」
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不満な夫の事件
疑いもなく、パーカー・パイン氏の最大の資産の一つは、その同情的な態度にある。それは信頼を招く態度だ。彼の事務所の中に入るやいなや、依頼人がとりつかれる一種の麻痺状態を彼はよく心得ていた。必要な打明け話の道を開いてやるのがパイン氏の仕事なのである。
この日の朝、彼はレジナルド・ウェイド氏という新しい依頼人と相対して、すわっていた。ウェイド氏は口下手なタイプのご仁《じん》だと、パイン氏はすぐに見抜いた。感情と関係のあることは、どんなことでも言葉に表現するのが苦手なタイプなのだ。
彼は長身で横はばが広く、柔和な気持のよい青い目と、よく日焼けした顔色をしていた。口のきけない動物のようなあわれっぽい様子で、パーカー・パイン氏をみつめながら、放心したように、短い口ひげを引っ張っている。
「あなたの広告を拝見しましてね」彼は吐き出すようにいった。「来たほうがいいだろうと思いました。変な話ですよ、でも人には決してわかりませんや、なんのことだか」
パーカー・パイン氏は、こうした暗号のような言葉を正しく解釈して助け舟を出した。
「事態がうまくない時には、一かばちかやってみるもんですよ」
「それです、まさにそれです。わたしも、思いきりやってみたい――運を天にまかせてね。パインさん、どうもぐあいが悪いのです。どうしたらいいのか、わたしにはわからない。むずかしいんですよ、ひどくむずかしいんです」
「そこがわたしのお役に立つところですよ。どうしたらいいか、|ちゃん《ヽヽヽ》とわかっています! わたしはあらゆる種類の悩みの専門家です」
「へえ――少々むずかしい仕事ですね、それは!」
「そうとはかぎりませんよ。人間の悩みは簡単に数項目に分類できます。不健康がある。退屈がある。夫のことで悩んでいる奥さんがある。奥さんのことで」――と、そこで一息入れて――「悩んでいる夫がある」
「じつは、お説のとおりなんです。まさにドンピシャリです」
「お話をうかがいましょう」
「話といっても、たいしてありません。家内はよその男と結婚できるように、離婚してくれというのです」
「当節、きわめてありふれたお話ですな。ところで、あなたは、どうやら、この問題に関しては、奥さんと見解を異にするってわけですね?」
「わたしは家内が好きです」ウェイド氏はあっさりいった。「つまり――そのう、わたしは家内が好きなんです」
率直で、少々、ふがいない言葉だが、かりにウェイド氏が、
「わたしは家内を崇拝しています。彼女が踏んであるく地面でも拝みます。彼女のためなら命を捨ててもくやみません」といったとしても、パーカー・パイン氏には、これほどピンとはこなかっただろう。
「そうはいってもですよ」と、ウェイド氏はつづけた。「わたしに何ができるっていうんです? 要するに、人間なんて無力なもんですよ。もし家内がそのべつの男のほうが好きなら――そう、男らしくふるまわなければならない、身を引くなりなんなりね」
「奥さんが、わかれたがっているとおっしゃるんですね?」
「もちろんです。わたしのほうから家内を離婚裁判所中ひきずりまわしたりなんかできませんよ」
パイン氏は考え深げに相手を眺めた。
「でも、あなたはわたしのところへ来ましたね? そのわけは?」
相手は照れたように笑い声を立てた。
「わかりません。なにしろ、わたしは頭のいい人間じゃない。物ごとをじっくり考えるのが苦手なんです。あなたなら――そのう、何か名案を授けてくれるかもしれないと思いましたが、猶予期間は六カ月です。家内も同意してくれました。もし六カ月の終わりになっても家内の心境に変化がなければ――ええ、そのときは、わたしは出て行きます。あなたなら一つか二つ、ヒントをあたえてくだされるだろうと思いましてね。今じゃ、わたしのすることなすことが、家内の気にさわるんです。
ねえ、パインさん、ことのしだいは、こういうわけなんです。わたしは頭のいい男じゃありません! ボールの類を打つのが好きでしてね。ゴルフの試合やテニスの好試合が好きなんです。音楽や芸術や、そういったものは得手《えて》じゃありません。ところが家内は頭のいい女です。絵やオペラやコンサートが好きですから、わたしに退屈するのも当然です。その別の男は――髪を長くのばしたきざな男ですが――そういうことならなんでも知っていて話し相手ができます。が、わたしにはできません。ある意味では、頭のいい、美しい女が、わたしのような阿呆《あほう》にあきあきするのもわかりますがね」
パーカー・パイン氏はうなった。
「あなた方は結婚して――何年になりますか?……九年? それであなたは、そもそものはじめからそういう態度を取っていたんでしょうね。間違っていますよ。あなた、とんでもない間違いですよ! 女性に対しては決して下手《したで》に出てはいけません。彼女はあなたを、あなたがご自分にあたえる評価どおりに取るでしょう――それも自業自得です。あなたはご自分のスポーツの腕前を自慢すべきでしたよ。絵画や音楽を『家内の好きなあのくだらんもの』というべきでした。奥さんが、うまくゲームのできないことを残念がるべきでした。下手《したで》に出ることはいいですが、あなた、結婚生活にはおかどちがいです! 女性はそんなものに辛抱できるもんじゃありません。奥さんがそういう夫婦生活をがまんできなくなったのも無理はありませんよ」
ウェイド氏は当惑して、パイン氏の顔を見た。
「じゃ、わたしはどうすれはいいでしょう?」
「それがたしかに問題ですね。九年前になすべきだったことはいろいろありますが、今ではもう手おくれです。新しい手を使わなくてはならない。あなた今までに他の女性と情事を持ったことは?」
「もちろんありませんよ」
「ちょっとした浮気という意味ですが?」
「女に、あまりわずらわされたことはありません」
「それは間違いです。今からおはじめなさい」
ウェイド氏は目を丸くした。
「ねえ、いいですか、ほんとうにわたしにはできませんよ。つまり――」
「この件では、あなたにご迷惑はかけません。所員の一人をこの目的のために提供しましょう。あなたに必要なことはその女性がなんでもお話ししますし、彼女にたいするあなたのご配慮は、もちろん、単に仕事の上のことと了解いたします」
ウェイド氏は、ほっとした顔になった。
「それならけっこう。でも、あなたはほんとうに――つまりですね、アイアリスは前よりもわたしを追っ払うことに熱心になるような気がしますが」
「あなたは人間性というものを理解しておられませんね、ウェイドさん。それに、女性の気持にいたっては、なおさら、理解しておられない。目下のところ、あなたは、女性の立場から見れば、単なる『でくのぼう』です。あなたを必要とするものは誰もいない。誰も必要としないものに、女性がどんな必要を感じますか? 皆無ですよ。ですが、べつな観点に立ってごらんなさい。あなたが、奥さんと同じように、自由を回復することを待ち望んでいることを、奥さんが発見したらどうでしょう?」
「そうなれば当然、喜ぶでしょう」
「当然そのはずですがね。ところが喜びませんよ! おまけに、あなたが魅力的な若い女性、それもいくらでも相手をより好みできるような女性を誘惑したとなったら。たちまち、あなたの株は上がります。奥さんは自分の友だちが皆、あなたのほうが奥さんにあきて、もっと魅力的な女性と結婚したがっている、というだろうと考えます。そうなれば奥さんは、気が気じゃありません」
「そうお考えですか?」
「断言しますよ。あなたは、もう『あわれなレジ』ではなく『あのずるいレジ』になるでしょう。まったく月とスッポンほどの違いですよ! てっきり奥さんは相手の男と手を切らないで、しかもあなたを取りもどそうとするでしょう。が、取りもどせません。あなたは分別くさくなって、奥さんにいままでの彼女の言いぶんを全部くり返していってやるのです。『別れたほうがずっといい』 『性格が合わない』とね。
かりにあなたが一度も奥さんを理解したことがないという奥さんの言いぶんが真実だとしても、一方また、奥さんのほうでもあなたを一度も理解したことがないということも、また真実なることがわかるでしょう。しかし当面、わたしたちはこの問題に深入りする必要はありません。必要な時が来たら、くわしい指令をお届けしましょう」
ウェイド氏は、それでもまだ疑心暗鬼のていだった。
「あなたはほんとうに、この計画がうまく行くとお考えなんですね?」と疑わしげにきいた。
「絶対確実とは申しません」パーカー・パイン氏は慎重な言葉づかいをした。「奥さんが相手の男に首ったけで、あなたの言動はいっさい馬耳東風という可能性もないでもありませんが、まずそんなことはあるまいと思います。たぶん奥さんは退屈のあまり、この火遊びにはまってしまったのでしょう! あなたが愚劣にも奥さんをとりまいた盲目的な献身と絶対的な誠実の雰囲気から生まれた退屈からね。もしあなたがわたしの指令に従えば、まず、九十七パーセントはあなたに有利でしょう」
「けっこうです。やりましょう。ところで――えーおいくらですか?」
「謝礼金は二百ギニー、前払いでお願いします」
ウェイド氏は小切手帳を取り出した。
ロリマー荘は午後の光を浴びて美しいたたずまいを見せている。アイアリス・ウェイドは長椅子に横たわって、甘美な色彩の一点を形成していた。藤色の微妙な色あいの服を着た彼女は、上手な化粧で、三十五歳よりはずっと若く見える。
彼女は友人のマシントン夫人に話しかけていた。二人はいつも話が合った。二人とも株式や持株やゴルフの話を交互にするスポーツ好きの夫が悩みのたねなのだ。
「人間てこうして自分も生き、相手にも生きさせることを学ぶのね」とアイアリスは話を結んだ。
「あなたってすばらしい方ね」マシントン夫人はそういったが、すぐにいい足した。
「ねえ、あのお嬢さん、|どなた《ヽヽヽ》?」
アイアリスは片方の肩を、ものうげにすくめてみせた。
「わたしにきいても、だめよ! レジが見つけて来たのよ。レジのちょっとした友だちなんですって! おもしろいこと。あなたも知っていらっしゃるでしょう、うちのひとって原則として若い女には目もくれないのよ。それなのにわたしのところへ来て、エヘンとか、エーとかいったあげくに、週末にあのミス・ド・サラを招待したいというのよ。もちろん、吹き出しちゃったわ――これが笑わずにいられて。あの|レジ《ヽヽ》がなのよ、ね! それで彼女は来ているのよ」
「だんなさま、どこであの人とお知り合いになったの?」
「知らないわ。その点はひどく、とぼけているの」
「たぶん、前々からのお知り合いなのね」
「あら、そんなことないわ」とウェイド夫人はいった。それから、「もちろん、わたしは喜んでいますわ――とてもね。つまり、こうなってくれると、わたしにとって、何かとやりやすくなるのよ。なぜって、わたし|今まで《ヽヽヽ》レジのことが気になっていたの。なにしろ、いい人でしょう。だから、わたしシンクレアに向かって口ぐせのようにいってきたのよ――そんなことをしたらレジをひどく傷つけるだろうってね。でも、なあにレジは、すぐに克服するだろうとシンクレアはいい張るのよ。どうやら彼のいうとおりらしいわ。二日前まで、レジは傷心の態《てい》だったけど――今じゃあの娘さんを連れて来たがるんですもの! さっきもいったように、わたし|おもしろくて《ヽヽヽヽヽヽ》しようがないわ。レジが楽しんでいるのを見るのが好きなのよ。かわいそうに、あの人わたしがやきもちをやくかもしれないと、本気で考えたらしいのよ。ばかばかしいったら、ありゃしない!『もちろん、お友だちを連れていらっしゃいな』ってわたし、いってあげたわ。かわいそうなレジ――まるで、ああいう娘さんが自分のことをかまってくれるとでも思っているみたいね。彼女はただ楽しんでいるだけなのに」
「とても魅力的なかたね」マシントン夫人がいった。「危険なほど魅力的といっていいわ、わたしのいう意味がおわかりならね。男のことしか念頭にないといった娘さんよ。なんとなく、ほんとうに良家のお嬢さんという気がしないわ」
「そうかもしれないわ」
「すばらしい服を着ているじゃない」
「少し外国ふうすぎるわ、そうお思いにならない?」
「でも、とてもぜいたくなものよ」
「金持なのね。いかにも金持って顔をしてるわ」
「あら、こっちへくるわよ」マシントン夫人はいった。
マドレーヌ・ド・サラとレジ・ウェイドは、芝生を横切って歩いて来た。二人は笑い声をあげたり、語り合ったりして、とても幸福そうだった。マドレーヌはひらりと椅子に身を投げかけると、かぶっていたベレー帽をぬぎすてた。そして、えもいわれず美しい黒い巻毛に両手を入れてかき上げた。まぎれもない美人である。
「ほんとうにすばらしい午後をすごしましたわ!」と彼女は大きな声を出した。「ひどく暑いわ。わたし、きっとひどい顔をしているでしょうね」
レジ・ウェイドはきっかけの言葉が出たので、そわそわと話しはじめた。
「あなたの顔は――あなたの顔は――」そこでちょっと笑い声をあげた。「いや、やめた」と口をつぐんだ。
マドレーヌの視線と彼の視線が合った。万事のみこみ顔の彼女の一瞥《いちべつ》だった。マシントン夫人は目ざとくもそれに気がついた。
「あなたはゴルフをなさるべきですわ」マドレーヌが女主人にいった。「たいへんなご損ですわよ。なぜおはじめになりませんの? わたしの友だちで習いはじめて、とても上手になったかたがおりますわ。そのかた、あなたよりもずっと年上ですの」
「わたし、そういうものに興味がありませんの」アイアリスは冷やかに答えた。
「あなたはスポーツが苦手ですの? まあ、おかわいそうに! それじゃ仲間はずれになったような気持でしょうね。でも奥さま、近ごろは、ほんとうにコーチのしかたがとても上手ですから、たいていどんな人でも、かなりうまくなりましてよ。わたしも去年の夏はとてもテニスの腕があがりました。もちろんゴルフは見込みがありませんけど」
「とんでもない!」レジがいった。「あなたはコーチが必要なだけですよ。きょうの午後、あんなにうまくブラッシー・ショットができたじゃありませんか」
「あなたがコツを教えてくださったからよ。あなたってすばらしい先生ですわ。たいていの人は教えることが、からきしだめなのに、あなたには天分がおありになるのね。あなたのようにやれたら、どんなにすばらしいでしょう――なんでもおできになるんですものね」
「とんでもない。わたしは全然だめ――なんの役にも立ちません」レジはどぎまぎした。
「こんなご主人をお持ちになって、さぞかし肩身のお広いことでございましょうね」マドレーヌはウェイド夫人のほうにふり向いて、いった。「いったいどんなふうにして長年の間、ご主人をひきつけておくことが、おできになったのですの? きっとあなたは、とても頭がいい方なのね。それともご主人を人目につかないように、隠しておおきになったの?」
女主人は返事をしなかった。そしてふるえる手で本を取り上げた。
レジは、着替えるとかなんとか、もごもごいって、その場を離れた。
「わたしをこちらへお招きくださって、ほんとうにご親切さま」マドレーヌは女主人に向かっていった。「女の方の中には、ご主人の友だちをとても邪推する人がおりますわ。でもしっとするなんて愚劣ですわ。そうお思いになりません?」
「ほんとうにそうね。わたしがレジを|しっと《ヽヽヽ》するなんて、思いもよりませんわ」
「あなたはすばらしい方ですわ! だって、ご主人が女性にとって、とても魅力的な男性だということは誰にだってわかることですもの。結婚していらっしゃると聞いた時、わたしショックを受けました。どうして魅力的な男性って、みんな、若い時に女につかまってしまうんでしょうね?」
「レジをそんなに魅力的だと思ってくださって、うれしいですわ」
「あら、だってそうじゃありませんこと? 男っぷりはいいし、スポーツの腕はとびきりいいし。それにあのかたの女性に対して無関心をよそおったあの態度。あれが、わたしたちに、ぐっときちゃうんですわ、もちろん」
「あなたは男友だちをたくさんお持ちなんでしょうね」ウェイド夫人はいった。
「ええ、そうですわ。わたしは女性より男性のほうが好き。女性がわたしにほんとうに親切にしてくれたことはありません。なぜだかわかりませんけど」
「たぶん、あなたがその方たちのご主人に親切すぎるからでしょうよ」とマシントン夫人は、きんきんひびく笑い声を立てながらいった。
「ええ、時々、みなさんがお気の毒になります。あんなにたくさんのすばらしい男性が、あんなに退屈な奥さんにしばりつけられているんですもの。ほら、『芸術家づいた』女やインテリぶる女ですよ。だから男性がたが、誰か若くて、話し相手になる頭のいい女性をほしがるのも当然ですわ。わたし結婚と離婚についての近代的な考えかたって、なかなか筋が通っていると思いますわ。まだ若いうちに、趣味や考えを同じくする人と再出発する。そのほうが結局みんなにいいんですもの。つまり、インテリぶる奥さんたちは、たぶん、自分たちを満足させてくれる同じようなタイプの髪を長くのばした男をひろいあげるでしょう。失敗には見切りをつけて、再出発するのは賢明な策だと思いますわ、ねえ、そうお思いになりません、奥さま?」
「そうですとも」
その場の雰囲気の中に含まれた一種の冷たさが、マドレーヌの意識に浸透したらしい。彼女はお茶のために着替えるとかなんとかいって、二人のマダムのそばを離れた。
「近頃の娘って、虫が好かないわね」ウェイド夫人がいった。「頭の中は、からっぽのくせに」
「一つだけ頭の中で考えていることがありますよ」マシントン夫人がいった。「あの娘《こ》はレジを恋していますよ」
「ばかばかしい!」
「ほんとうですよ。たったいま、彼女がだんなさまを見る目つきに気がついたのよ。彼が結婚していようと、していまいと、そんなことはちっともおかまいなしですよ。自分のものにするつもりですよ。ほんとにいけすかないったらありゃしない」
ウェイド夫人はしばし沈黙していたが、それからあいまいな笑い声をあげた。
「だから、どうだっていうの?」
やがて、ウェイド夫人も二階へ上がった。夫は自分の着替え室で着替えのさいちゅうだった。鼻歌を歌っている。
「楽しいんでしょうね、あなた?」ウェイド夫人は声をかけた。
「ああ、え――まあ、うん」
「うれしいですわ。わたし、あなたに幸福になっていただきたいの」
「うん、まあね」
芝居をすることはレジ・ウェイドの得手《えて》ではなかったが、たまたま、こうして芝居をしているという自意識から生まれた強い狼狽《ろうばい》の念が、上手な芝居と同じような効果を発揮した。彼は妻の視線を避け、妻から話しかけられると、ビクッとした。彼は恥じて、こうした狂言を嫌悪した。だからどんなことでも、これ以上適切な効果を生むことはできなかっただろう。まさに彼はうしろめたい夫の見本だった。
「あのひととは、いつ頃からのお知り合いなの?」ウェイド夫人が不意にたずねた。
「え――誰?」
「ミス・ド・サラですよ、もちろん」
「さあ、よく覚えてないな、つまり――ああ、かなり前かな」
「ほんとう? 一度も口にしたことはありませんでしたわね」
「そうかな? 忘れていたんだろう」
「忘れていたですって、あきれたわ!」ウェイド夫人は藤色のひだを、さっとひるがえして出て行った。
お茶のあとで、ウェイド氏はミス・ド・サラにバラ園を見せた。
二人は自分たちの背中を二対の目で引っかかれていることを意識しながら、芝生を横切って行った。
「ねえ」無事にバラ園の人目につかないところにくると、ウェイド氏はほっと気持を楽にした。「ねえ、もうこんな芝居はやめたほうがいいですよ。家内はさっきも、まるでわたしを憎んでいるような目つきで見ましたよ」
「ご心配なく。絶対にだいじょうぶよ」マドレーヌがいった。
「そう思いますか? つまり、わたしとしては、家内を敵に回したくないのです。お茶の時にも、数回嫌味をいわれました」
「だいじょうぶよ」マドレーヌは、くり返した。「あなたの演技だってりっばなものよ」
「ほんとうにそう思いますか?」
「ええ」そこで声をひそめて、彼女はつづけた。「奥さんがテラスのかどをまわって、こっちへいらっしゃるわ。わたしたちのようすを見たいのよ。わたしにキスなさったほうが、よろしくてよ」
「え!」ウェイド氏はビクビクした。「するんですか? つまり――」
「キスなさい!」マドレーヌはピシャリといった。
ウェイド氏はキスした。演技上の熱意の欠如はマドレーヌによって補足された。彼女は両腕をまわして抱きついた。ウェイド氏はよろめいた。
「ああ!」と彼はいった。
「とてもおいやだった?」とマドレーヌがいった。
「いや、もちろん、いやではないが」ウェイド氏は失礼にならないようにいった。「ただ――ただ、あまり不意だったもんで」と思い悩んだ調子で、つけ加えた。
「わたしたち、ずいぶんながく、バラ園にいたじゃないですか、そうでしょう?」
「そう思いますわ。わたしたちは、ここで、ちょっと点をかせいじゃったわね」
二人は芝生へもどった。マシントン夫人が彼らに、ウェイド夫人は横になるために家の中へ入つてしまったと知らせた。
後刻、ウェイド氏は不安なおももちでマドレーヌのもとへやって来た。
「家内はひどい状態です――ヒステリーです」
「けっこうですわ」
「家内は、わたしがあなたにキスしたところを見たのです」
「だって、奥さんに見てもらうつもりで、したわけですもの」
「そりゃわかってます。でも、まさかそうとは、あれにはいえませんよ、ね? わたしは言葉に窮《きゅう》して、ただ――ただ――ええと、その場のはずみでああなってしまったんだと、いいました」
「すてきだわ」
「家内は、あなたのことを、わたしと結婚しようとたくらんでいる、ふしだらな女だというんです。それでわたしはカッとなりました。――それでは、あなたにとって、あまりひどいと思ったからです。つまり、あなたは、ただ仕事をしているだけですからね。わたしは、あなたに最上の敬意を払っているし、きみのいうことは、まるっきり見当ちがいだといってやりました。そして家内が、なおもそのことをいいつづけたので、つい怒ってしまったのです」
「ますます、すてき!」
「すると、家内はわたしに向こうへ行ってくれ、もう二度とわたしと話したくないというのです。荷物をまとめて出て行くとか、いいました」彼の顔はうろたえていた。
マドレーヌはほほえんだ。「それに対する答えを教えてあげますわ。出て行くのはこっちだ、こっちが荷物をまとめてロンドンヘ退散するんだと、奥さんにおっしゃい」
「でも、わたしは、そんなことはしたくない!」
「それでいいのよ。なにも行く必要なくてよ。奥さんは、あなたがロンドンで楽しい思いをすると思うと、たまらないでしょうからね」
翌朝、レジ・ウェイドは新しい報告を持って来た。
「家内はよく考えてみたが、あと六カ月同居することに同意したのに、わたしが出て行くのは公正でないと、いうんです。でもわたしが自分の友だちをここに連れて来たのだから、彼女も自分の友だちを連れて来ていけない理由はない。そういって、シンクレア・ジョーダンを呼ぶつもりでいますよ」
「それが例の相手ですの?」
「そうです。だから、断じて、わたしの家には足踏みさせません!」
「入れなくちゃいけないわ。心配しなくてもだいじょうぶ。そのひとのことは、わたしが引き受けます。ですから奥さんには、こうおっしゃい。いろいろ考えたあげく、きみのいうことには反対しない。それからミス・マドレーヌに、もっと滞在をつづけるように頼んでもかまわんだろうね、と」
「やれやれ!」ウェイド氏はため息をついた。
「さあ、元気を出して。細工はりゅうりゅうよ。あと二週間――そうすればあなたの悩みは全部解消だわ」
「二週間? ほんとうにそう思いますか?」ウェイド氏はきいた。
「そう思いますかって? 確信していますわ」マドレーヌはいった。
*
一週間後、マドレーヌ・ド・サラはパーカー・パイン氏の事務所に入って、ぐったりと椅子にもたれた。
「妖婦《ヴァンプ》の女王登場」パーカー・パイン氏は笑顔でいった。
「ヴァンプですって!」マドレーヌは、うつろな笑い声をあげた。「ヴァンプとして、こんなに骨の折れる仕事をしたことは初めてだわ。あのひとったら、奥さんにとり憑《つ》かれているの! まあ一種の病気ね」
パーカー・パイン氏は微笑した。
「そう、まったくだね。|しかし《ヽヽヽ》ある意味では、それでわたしたちの仕事がやりやすくなったわけだ。なあ、マドレーヌ、わたしだって、なにも、そうそうお安く誰にも彼にも、きみの魅力を見せつけようってわけじゃないよ」
娘は笑い声をあげた。
「あのひとに、まるで本気みたいに、キスまでさせなけれはならなかったときの苦労といったらないわ!」
「きみには新しい経験だったね。ところで、仕事は完了したかね?」
「ええ、万事好調だと思うわ。わたしたち、ゆうべ、物すごい騒ぎを演じたのよ。ええと、わたしの前の報告は三日前でしたわね?」
「さよう」
「で、まえにもお伝えしたように、わたしのほうは、あのみじめな虫けらのような男、シンクレア・ジョーダンを一度見れば充分でしたわ。ジョーダンはわたしに――とくにわたしの服装から、わたしが金を持っていると思ったのでね。もちろん、ウェイド夫人は柳眉を逆立てたわ。夫と愛人の二人の男が、わたしを夢中になって、ちやほやしてるんですもの。わたしは、すぐ、どちらのほうを好むか、それを見せつけたの。シンクレア・ジョーダンと夫人の面前で、ジョーダンをからかったの。服装と、髪の長さを嘲笑してやったわ。それに彼の足が内わに足〔がにまたの反対〕であることもすっぱぬいてやったわ」
「すばらしい手《ヽ》だ」パーカー・パイン氏は満足げにいった。
「ゆうべ、一切合財のものが爆発したの。ウェイド夫人は胸のもやもやをぶちまけたわ。わたしが彼女の家庭を破壊したと、責めたのよ。レジ・ウェイドがシンクレア・ジョーダンの一件を口に出すと、夫人は、それは彼女の不幸と孤独の結果にすぎないと、いったわ。夫の放心状態には、しばらく前から気づいていたが、その原因までは考えおよばなかったと、ね。夫と自分はいつもこよなく幸福だったし、自分は夫を熱愛し、夫を、夫だけをほしいのだと、いったのよ。
わたしは、そんなことをいっても、もう手遅れよ、といってやったわ。ウェイド氏は、ちゃんと指令どおりにふるまったわ。彼はそんなことは、自分の知ったこっちゃない、といったわ! わたしと結婚するつもりなんだ、と! ウェイド夫人は好きなだけ早くシンクレアといっしょになるがいい。離婚手続きをすぐはじめていけない理由はない。六カ月待つなんて、ばかげている、と。
二、三日中に、必要な証拠物件をそろえて、彼女の弁護士に離婚訴訟を依頼するがいい、自分はわたしなしでは生きられないのだと、いったのよ。すると、ウェイド夫人は自分の胸をつかんで、心臓が苦しいとかなんとかいい出したので、ブランディーを飲ませなくちゃならない始末よ。でも彼氏、弱気を起こさなかったわ。けさ、ロンドンヘ来ましたから、夫人もきっと、今頃はあとを追って来ているに違いないわ」
「それでは、もうだいじょうぶだな」パイン氏は楽しげにいった。「きわめて満足すべき事件だった」
ドアがパッとあいた。戸口にレジ・ウェイドが立っている。
「あのひとはここにいますか?」彼はそう尋ねながら部屋の中に進んだ。「どこです?」そこでマドレーヌが目に入った。「いとしい人!」そう叫ぶと、彼はマドレーヌの両手をつかんだ。「いとしい人、いとしい人。あなたは知っているでしょう、ね。ゆうべ、わたしが本気だったことを――わたしがアイアリスにいった言葉は、一つのこらず本気だったことを? なぜこんなに長いあいだ、盲目であったのか、わたしにはわからない。でも、この三日間はわかっていました」
「わかっていたって、なにを?」マドレーヌは気乗り薄の口調でいった。
「あなたを熱愛していることがです。わたしにとって、あなた以外に、この世に女性がいないことが。アイアリスは離婚訴訟を起こせばいいんだ。それがすんだら、わたしと結婚してください、ね? 結婚するといってください。マドレーヌ、わたしはあなたを熱愛している」
彼が呆然自失の態《てい》のマドレーヌを両腕にかき抱いたちょうどその時、ドアがまたパッとあいた。今度は着つけの乱れた緑色の服を着た、やせた婦人が入って来た。
「思ったとおりだわ!」新来の婦人はいった。「あなたのあとをつけて来たんですよ! この女のところへ行くことは、ちゃんとわかっていましたからね!」
「まあまあ、奥さん――」あっけにとられていたパーカー・パイン氏は、やっとわれに返って口をひらいた。
が、婦人はパイン氏には目もくれずにまくし立てた。
「ああ、レジ、まさかあなたはわたしの気持をふみにじるつもりではないでしょうね! とにかく帰って来て! このことについてはもうひと言もいわないわ。わたしもゴルフを習うわ。あなたのきらいな友だちとはつきあいません。せっかく、こうして長年のあいだ幸福に暮らして来たのに――」
「わたしは今まで幸福だったことなんか一度もない」なおもマドレーヌに目をすえながら、ウェイド氏はいった。「なにをいってるんだ、アイアリス、君はあの阿呆なジョーダンと結婚したがっていたじゃないか。なぜ、さっさとそうしないんだ? なぜそうしに行かないのだ?」
ウェイド夫人は泣き叫んだ。
「あんな男、大きらい! 見るのもいや」そういってマドレーヌのほうを向いた。「このすべた! おそろしい男たらし――わたしから夫をぬすんで」
「あなたのご主人なんかほしくないわ」マドレーヌは、狂ったように、いった。
「マドレーヌ!」ウェイド氏は苦悶の表情で、彼女をみつめた。
「お願い、出て行って」
「でも、これは芝居じゃない。本気なんです」
「いや、出て行って!」マドレーヌはヒステリックに叫んだ。「|出て《ヽヽ》行って!」
レジは未練がましくドアへ行った。
「またもどって来ますからね」そう念を押した。「これが最後じゃありませんよ」ドアをバタンと鳴らして、彼は出て行つた。
「あんたのような娘はむちで打たれて、焼印を押されるのが当然だわ!」ウェイド夫人は叫んだ。「あんたが現われるまで、レジはいつも天使のようにやさしかったのに。今はすっかり人が変わって、別人のようだわ」むせび泣きながら、夫人はそそくさと、夫のあとを追って出て行った。
マドレーヌとパーカー・パイン氏は顔を見合わせた。
「処置なしだわ」マドレーヌは悲愴な声を出した。「あの人はとてもいい人――好感のもてる人よ――でも結婚したいとは思わないわ。そんなことになるなんて、考えたこともないわ。あのひとにキスさせた時の苦労を知ってくださればね!」
「いやはや! 残念ながら、わたしに判断の誤りがあったな」パーカー・パイン氏は悲しげに首を振って、ウェイド氏のファイルを手元に引きよせると、それに書きこんだ。
失敗――当然な原因による。
注意 原因は予想しておくべきであった。
[#改ページ]
ある会社員の事件
パーカー・パイン氏はじっと回転椅子にもたれて、訪問客を観察した。客はがっしりしたからだつきの四十五歳くらいの小男で、思い悩んでおとおどした臆病な目は、不安のまじった希望の色をこめて、彼をみつめている。
「新聞で、あなたの広告を拝見しました」小男は、そわそわした口調でいった。
「なにかお困りですね、ロバーツさん?」
「いいえ――必ずしもそうではないのですが」
「不幸なんですか?」
「そうともいいたくありません。いろいろ、おかげをこうむっていることがたくさんありますから」
「わたしたちは皆そうです。しかし、そうした事実を思い出さなければならない時は、悪い徴候といえますね」
「そうです」小男は勢いこんでいった。「そのとおりです。まさにそのものずばりですよ、先生」
「ご自分のことをすっかりお話しになったらどうです?」パーカー・パイン氏はすすめた。
「お話しすることはあまりないのです、先生。さっきも申しあげたとおり、わたしには感謝することがたくさんあります。小金もどうやら貯えました。子供たちは強くて健康です」
「じゃ、あなたの望みは――なんですか?」
「わたしは――わたしにも、わかりません」彼は顔をあからめた。「さぞ、ばかげた話に聞こえるでしょうね、先生」
「そんなことはありませんよ」
巧みな質問によってパイン氏は、さらにいろいろの私事を聞き出した。ロバーツ氏が有名な会社に勤めていることや、遅々とではあるが、しかし確実に昇進してきた話も聞いた。彼の結婚や、それ相応の世間体を保ち、子供たちを教育し、彼らに「小ざっぱりした服装」をさせるための苦労話、予算と計画を立て、切りつめたり節約したりして、毎年数ポンド貯える話なども聞き出した。それは実際、生き抜こうとする絶え間ない努力で綴られた人生航路の話であった。
「というわけで、――そのう、事情はおわかりでしょう」ロバーツ氏は告白した。「家内はいまのところ家におりません。二人の子供を連れて実家の母親のもとへ行っているのです。子供たちには気分転換になるし、家内にとっても息ぬきです。しかし、わたしまで世話になる余地はないし、かといって、家族そろってよそへ行く余裕もありません。そこでひとり居残って、新聞を読んでいると、あなたの広告が目に入って、考えさせられてしまいました。わたしは、当年四十八歳になります。で、ちょっと考えてみました。世間じゃ、いろいろな事件が起こっているというのに、とね」ロバーツ氏は話を終えた。ものたりなそうな、都会なれのしていない心情が目に現われている。
「あなたの望みは十分間でも、すばらしい思いをしてみることですね」パイン氏はいった。
「ええ、わたしなら、そういういい方はしませんが、でも、たぶん、あなたのおっしゃるとおりでしょう。ちょっと、はめをはずしてみたいのです。そうすれば、あとは感謝してもとのはめへもどりますよ――ただ、なにか頭を使うことがありさえすればいいんです」彼は心配そうに相手の顔を見た。「そんなことは、できない相談でしょうね、先生? じつは――じつは、たくさんお払いする余裕はないのです」
「いくらなら、お払いになれます?」
「五ポンドでしたら、なんとかなります、先生」彼はかたずをのんで返事を待った。
「五ポンドね。ええと、五ポンドで何かできるんじゃないかという気がします。あなたは危険なことは、まっぴらですか?」パーカー・パイン氏は鋭い声でつけ加えた。
青白いロバーツ氏の顔に、ほんのりと血の気がさした。
「危険、とおっしゃいましたか、先生? ああ、まっぴらどころか、わたしは――わたしは今までに一度も危険を冒したことがないんです」
パーカー・パイン氏は微笑した。
「あす、もう一度、ご足労ください。そうすれば、あなたにしてあげられることを、お話しいたしましょう」
*
ボン・ボワヤジュールは一般には、あまり知られていない小さなホテルである。そこのレストランは少数の常連の行く場所で、新客はいい顔をされない。
そのボン・ボワヤジュールへパイン氏がやって来て、おなじみさんとして、うやうやしくむかえられた。
「ボニントンさんはおいでかね?」と彼はたずねた。
「はい、いつものテーブルにおいででございます」
「よろしい。そのテーブルへ行こう」
ボニントン氏というのは、いささか鈍重な顔つきで、軍人のような風采の紳士だった。彼は喜んで友人を迎えた。
「やあ、パーカー。久しぶりじゃないか。君がここに来ているとは知らなかった」
「時々来るんだよ。とくに旧友をつかまえたい時はね」
「おれのことかね?」
「君のことだ。じつはね、ルーカス、わたしたちが先日話し合った件について、よくよく考えてみたんだがね」
「ピーターフィールドの件かね? 新聞で最新の記事を見たかね? いや、見たはずはないな。きょうの夕方まで出ないはずだからな」
「最新の記事とはなんだね?」
「昨夜、連中がピーターフィールドを殺したんだ」すました顔でサラダをたべながらボニントン氏はいった。
「なんてことだ!」パイン氏は大声をあげた。
「ああ、おれは驚かないね。つむじまがりの老いぼれだよ、ピーターフィールドってやつは。なにしろ、われわれのいうことを聞こうとしないんだからな。図面を自分の手もとに置くと強情をはってさ」
「やつらは図面をとったのかね?」
「いや。どこかの女がやって来て、教授にハムの製法を書いたものを置いていったらしいんだ。あの老いぼれのばかは、いつものように、うっかりして、そのハム製法を金庫に入れて、図面のほうを台所に置いたんだよ」
「運がよかったな」
「まさに天佑《てんゆう》にして神助《しんじょ》というところかね。しかし、あれをジュネーヴへ持って行かせるにはだれがいいのか、おれにはまだ見当がつかん。メイトランドは入院中だし、カースレイクはベルリンにいる。わたし自身はここを離れられん。そうなると、フーパー青年ということになる」そういってボニントン氏は友人の顔を見つめた。
「君の意見は依然として、変わらんのかね?」パーカー・パイン氏はたずねた。
「絶対だね。やつは買収されてるんだ! ちゃんとわかってる。証拠はこれっぽっちもないがね、しかしだ、パーカー」そういってボニントン氏は友人の顔を眺めた。「おれには不正なことをするやつは、ちゃんとわかるんだ! ところで、おれはあの図面をジュネーヴへ届けたい。ある発明が、ある国へたいして、金銭的に取引きされないこと、これが肝心のことなんだ。こいつは自発的にゆずり渡されるのだ。なにしろ、かつてないほど巧妙な平和的な意思表示だから、ぜひともやりとげなければならん。ところが、フーパーは悪党だ。いいかね、やつは列車の中で麻酔薬を飲まされることになるにきまっている! もし、飛行機で行けば、どこかつごうのいい地点で不時着になるのが|おち《ヽヽ》だ! しかしだ、くそ! おれはやつを見のがすことはできん。規律だよ。規律は保たなければならんよ! 先日、君に話した理由もそれなんだ」
「だれか心当たりの人間はいないかという話だったね?」
「そうだよ。商売がらきみなら知ってるかもしれんと思ったんだ。むずむずしている無鉄砲な人間をね。おれが派遣する人間は消される公算が大だ。君のほうからの人間なら、おそらく、全然疑われることはあるまい。それにしても度胸のある人間じゃないとだめだな」
「やりそうな人間の心当たりはあるよ」
「冒険をおかしてやろうという人間が、まだいるとはありがたい。じゃ承知してくれるね?」
「承知した」パーカー・パイン氏は答えた。
*
パーカー・パイン氏は指令を要約していた。
「それでは、はっきりおわかりになったでしょうね? あなたは一等寝台でジュネーヴまで旅行するのです。ロンドンを十時四十五分に出発、フォークストン、ブーローニュ経由、ブーローニュで一等寝台に乗る。ジュネーヴには翌朝の八時着。あなたの連絡先の番地はこれです。それを暗記してください、破りすてますから。そのあとで、このホテルヘ行って、次の指令を待つこと。フランスとスイスの手形と通貨で、充分な金がここにあります。おわかりですね?」
「はい、先生」ロバーツの目は興奮で輝いていた。「失礼ですが、先生、そのう――わたしの運んで行くものは何か、多少なりとも教えていただけるでしょうか?」
パーカー・パイン氏は慈愛にみちた笑顔を浮かべると、おごそかにいった。
「あなたは帝政ロシアの王冠についていた宝石の秘密の隠し場所を示してある暗号を携帯していくのです。いうまでもなく、ボルシェヴィストのスパイがあなたを狙止しようと、虎視耽々としています。ですから、もしご自分のことを話す必要が生じた場合は、思わぬ遺産を相続したので休暇をとって、ちょっと海外旅行を楽しんでいるところだ、とおっしゃることをおすすめしますね」
*
ロバーツ氏はコーヒーをすすって、ジュネーヴ湖を見渡していた。彼は幸福であると同時に、失望していた。幸福なのは、生まれてはじめて、外国に来たからである。その上、二度とふたたび滞在することはあるまいと思えるような一流のホテルに滞在しているし、金のことで心配する必要は、さらにないのである! 専用の浴室つきの部屋、みごとな食事、ゆきとどいたサービス。こうしたことすべてを、ロバーツ氏は大いに享受した。
彼が失望していたのは、これまでのところ冒険といってよいほどのものには道中でなにひとつ、出くわさなかったからだ。変装したボルシェヴィストとか、怪しげなロシア人が行手をさえぎることもなかった。列車の中で、流暢《りゅうちょう》な英語をしゃべるフランス人のセールスマンと楽しく世間話をかわしたことが、旅行中、唯一の対人関係だった。彼は命じられたとおりに、書類をスポンジ・バッグに隠して来て、指令どおりに、それを手渡した。克服しなければならぬ危険も、手に汗にぎる脱出というような事態も起こらなかった。そこでロバーツ氏は失望していたのである。ちょうどその時、背の高い、あごひげを生やした男が小声で「|Pardon《パルドン》」といって、小テーブルの向かい側にすわった。
「失礼ですが」と男はいった。「あなたはわたしの友だちをごぞんじと思います。P・P〔パーカー・パイン〕という頭文字ですが」
ロバーツ氏は心地よいスリルを感じた。とうとう怪しげなロシア人があらわれたぞ。「そ――そのとおりです」
「ではわれわれは、おたがいに了解し合ってるわけです」見知らぬ男はいった。
ロバーツ氏は探るようにその男を見た。こんどこそ本番らしい。相手は五十歳ぐらいで、外国人らしいが、堂々たる押し出しの男だ。片めがねをかけて、ボタン穴に色のついた小さな勲章の綬《じゅ》をさしている。
「あなたは、申しぶんないやり方で、使命をまっとうされた」見知らぬ男はいった。「もう一つ仕事を引き受けるつもりがおありかな?」
「もちろん、おおありです」
「よろしい、あすのジュネーヴ発パリ行きの列車の寝台を予約してください。九号の寝台といってね」
「もし、ふさがっていたら?」
「空《あ》いています。空いているように取りはからってあるでしょう」
「九号の寝台」ロバーツはくりかえした。「ええ、わかりました」
「旅行中、あなたに『失礼ですが、ムシュー、あなたは最近、グラースにいらっしゃいましたね?』ときく者がいたら、それに対して、あなたはこう答えてください。『はい、先月』そうすると、その人物はこういいます。『あなたは|かおり《ヽヽヽ》に興味がおありですね?』そこであなたは『はい、わたしはジャスミン合成油のメーカーです』と答えるのです。その問答がすんだら、あとはあなたに話しかけたその人物の指図にいっさいをまかせるのです。ところで、武器はお持ちですかな?」
「いいえ」小柄なロバーツ氏はドギマギした。「いいえ。考えてもみませんでした。つまり――」
「すぐに、ご用立てできますよ」あごひげの男はそういって、あたりをうかがった。近くには誰もいなかった。なにやら堅くて、ピカピカしたものがロバーツ氏の手の中に押し込まれた。「小さい武器だが、威力はあります」見知らぬ男は笑顔でいった。
生まれてこのかた回転拳銃《レボルバー》を撃ったことなど一度もないロバーツ氏は、おっかなびっくりポケットにすべり込ませた。いつ何時、暴発するかもしれないと思うと、あまりいい気持はしない。
二人は、もう一度、合言葉を復習した。それからロバーツの新しい友だちは腰をあげた。
「幸運を祈ります。無事にやりとげられるように。あなたは勇気のある方だ、ロバーツさん」
勇気があるだろうか? 相手が立ち去ると、ロバーツ氏は考えた。とにかく、殺されたくないことは確かだ。そいつだけはまっびらだ。こころよい戦慄が背筋を走った。が、そうともいいきれぬ戦慄も、ちょっぴりまじっていた。
彼は自分の部屋へもどって、拳銃を調べてみた。依然としてその仕かけには自信が持てず、使うはめに陥ることのないようにと祈った。
座席を予約するために外出した。
汽車は九時半にジュネーヴを出発した。ロバーツは余裕をみて駅に到着した。寝台車の車掌は彼の切符と旅券を取って、ボーイが彼のスーツケースを網棚の上にのせる間、わきに寄っていた。網棚には別な荷物も乗っていた。豚皮のケースとグラッドストン・バッグだ。
「九番は下段でございます」と車掌がいった。
ロバーツが客車から出ようとしてふり向くと、ちょうど乗りこんで来た大男とぶつかってしまった。二人はたがいに「失礼」といって離れた――ロバーツは英語で、相手の男はフランス語で。その男は大柄のたくましい男で、頭部にはきれいにかみそりをあてている。ぶ厚いめがねをかけ、めがね越しに、その目が、うさんくさそうに、こちらのようすをうかがっているようだった。
いやな奴、小柄なロバーツは内心そう思った。
彼はこの旅の道連れに何か漠然と不吉なものを感じた。九号の寝台を取るように命じられたのは、この男を見張るためだったのだろうか? そうかもしれない、と彼は勘ぐった。
また列車の通路へ出た。発車の予定時刻までにまだ十分はあったので、プラットホームをぶらつこうと思ったのだ。通路の途中で、彼はちょっとわきによって足をとめ、一人の婦人が通るのに道をゆずった。女はちょうど列車に乗りこんで来たところで、車掌が切符を手に先導していた。女はロバーツの前を通る時、ハンドバッグを落とした。ロバーツはそれを拾い上げて、女に渡した。
「ありがとう、ムシュー」女は英語でそういったが、なまりがあって、ゆたかな、ひくい音色の、非常に魅惑的な声だった。通りすがりに、女はためらいがちに小声でいった。
「失礼ですが、ムシュー、あなたは最近グラースにいらっしゃいましたね?」
ロバーツの心臓は興奮のあまりとび上がった。それでは、自分はこの美しい女性の指示に一任されることになるのだ――なにしろ、彼女はまごうことなき美女だったからだ。ただ美しいだけでなく、貴族的で豪箸《ごうしゃ》だった。毛皮の旅行用コートを着て、いきな帽子をかぶっている。首のまわりには真珠の首飾り。髪は黒く、唇は真紅だ。
ロバーツは指示されたとおりの返答をした。
「はい、先月」
「あなたは、|かおり《ヽヽヽ》に興味がおありですね?」
「はい、わたしはジャスミン合成油のメーカーです」
彼女は顔を伏せて、ささやくようにこういうと、通り過ぎた。
「列車が出発したら、すぐ通路で」
次の十分間はロバーツにとって、まるで数年間のように待ち遠しく思えた。やっと汽車は動き出した。彼はゆっくりと通路を歩いて行った。毛皮コートの婦人が窓を開けようとやっきになっていた。彼はかけつけて手助けをした。
「ありがとう、ムシュー。全部閉めきるようにっていわれる前に、ちょっと風を入れようと思って」それから柔らかい、低い声で早口にいった。「国境を通過して、わたしたちの道連れが眠ってしまったら――その前はだめですわ――洗面所に入って、反対側のコンパートメントヘ抜けて来てくださいな。おわかりですね?」
「はい」彼は窓を下ろして、声を大きくした。「これでよろしいですか、マダム?」
「お手数をかけました」
彼は自分のコンパートメントへもどった。道連れの男は、すでに上段の寝台に寝そべっていた。ロバーツの寝仕度が簡単なことは、いうまでもない。事実、編上げ靴と上着を脱いだだけだ。
ロバーツは自分の服装のことを考えてみた。もし婦人のコンパートメントに行くとなれば、どうみても服を脱ぐわけにはいかない。
スリッパがあったので、それを靴の代わりにはき、それから横になって、あかりを消した。数分たつと、上段の男はいびきをかきはじめた。
十時を回った頃、列車は国境に着いた。ドアがパッとあいて、お定まりの質問を受けた。関税品をお持ちの方は? それからまたドアがしまった。やがて列車はべルガルドを抜けた。
上段の寝台の男は、また、いびきをかきはじめた。ロバーツは二十分ほど時間をつぶしてから、そっと立ち上がり、手洗所のドアを開けた。中に入ると、すぐ、ドアにボルトをさして反対側のドアに目をやった。そこにはボルトはさしてなかった。彼はちゅうちょした。ノックすべきだろうか?
おそらく、ノックするなんてばかげているだろう。が、ノックせずに入るのは、どうも気がすすまない。そこで中間をとり、ドアを静かに一インチほど開けて待った。思い切って、小さなせきばらいまでしてみた。
たちどころに反応があった。ドアがあいて腕をつかまれると、反対側のコンパートメントへ引きずりこまれた。そして女は彼の背後のドアをしめると、ボルトをかった。
ロバーツは思わず息をのんだ。これほど美しい生物が地上に存在しようとは、彼は夢想だにしたことがなかった。彼女はクリーム色の絹モスリンとレースでできた、長いふわふわしたガウンを着ていた。廊下に通じるドアにもたれかかって、息をはずませている。ロバーツは窮地に追いこまれた美人の話はなんども本で読んでいたが、今、はじめて、目のあたりに実物を見たのだ――わくわくするような光景だった。
「ああ、よかった!」女はつぶやいた。
この婦人がまだごく若いことにロバーツは気がついた。しかも彼女の美しさは、まるで別世界から来たもののように思えるほどだった。とうとうロマンスにぶつかったぞ――しかも、ほかならぬ自分がその渦中にいるのだ!
彼女は低い、せきこんだ口調で語った。英語は上手だが、抑揚は完全に外国ふうだった。
「あなたが来てくださって、ほんとうにうれしいわ。とてもこわかったのよ。ヴァシリエヴィッチが列車に乗っているわ。どういう意味かおわかりですわね?」
どういう意味か全然わからなかったが、ロバーツはうなずいてみせた。
「うまく|まいて《ヽヽヽ》きたと思っていたの。うかつだったわ。わたくしたち、これからどうしましょう? ヴァシリエヴィッチは、この隣りのコンパートメントにいます。どんなことがあっても、宝石を渡してはなりません。たとえわたくしが殺されても、宝石を渡してはなりません」
「あなたを殺させもしないし、宝石を渡しもしませんよ」ロバーツは断乎としていった。
「じゃ、宝石をどうしたらいいのかしら?」
ロバーツは彼女の背後にあるドアに目を移した。
「ドアにはボルトがさしてあります」
女は声をあげて笑った。「ヴァシリエヴィッチには、ボルトをかけたドアなんか、ものの数ではありません」
ロバーツは、いやが上にも自分の愛読書の登場人物の一人になった。
「やるべきことは一つしかありません。それをわたしに渡してください」
彼女は凝わしそうにロバーツを見た。
「二十五万ポンドの価値がある品物ですわ」
ロバーツの顔が紅潮した。
「わたしを信頼してください」
女はまだ一瞬ためらったが、それから「信頼しましょう」といった。彼女はすばやい動作をした。あっというまに、一足の巻いた靴下――薄手の縞の靴下――を彼のほうに差し出していた。「おとりになって、あなた」と彼女はあっけにとられているロバーツへそういった。
それを受け取ると、彼にはすぐわかった。靴下は空気のように軽くはなく、意外にずっしりとしている。
「あなたのコンパートメントへお持ちになって。朝になったら、わたくしに返してくださればいいわ――もし――もし、わたくしが、まだここにいましたらね」
ロバーツはせきばらいをした。
「ええと、あなたのことですが」そこで言葉を切った。「わたしは! わたしはあなたの護衛をしなけれはなりません」それから、エチケットのことを考えて苦慮するあまり顔を赤らめた。「つまり、ここじゃありません。あっちにいきましょう」彼は手洗所のほうへうなずいてみせた。
「もしここにいるのがよろしかったら――」彼女はあいている上段の寝台へ、ちらっと目を向けた。
ロバーツはゆでダコのように赤くなって抗議した。
「とんでもない。あそこでだいじょうぶです。必要のさいは、大声で呼んでください」
「ありがとう、お友だち」女はやさしい声でいった。
彼女は下段の寝台にすべりこみ、毛布を引き上げ、感謝の笑顔を向けた。彼は手洗所にしりぞいた。
突然――てっきり二時間ほどたった頃――物音が聞こえたような気がした。彼は耳をすました――が、何も聞こえない。たぶん空耳だったのだろう。しかしそうはいっても、たしかに隣りのコンパートメントから、かすかな物音が聞こえたような気がする。もし――もしも――
彼はそっとドアを開けた。コンパートメントは彼が出てきた時と同じで、天井に小さな青い電灯がついていた。そこに立ったまま、目がなれるまで薄闇に目をこらしていた。やがて寝台の輪郭が浮かび上がってきた。
寝台には人気《ひとけ》がない。あの女性がそこにいないのだ! 彼はスイッチをひねって、電灯を全部つけてみた。コンパートメントは空っぽだった。突然、彼は鼻をひくひくさせた。ほんのかすかなにおいだが、それがわかった――あの甘い、いやらしいクロロフォルムのにおいだ!
彼はコンパートメント(もうボルトがかかってないことに彼は気づいていた)から通路へ出て、左右を見渡した。誰もいない! 彼の目は女のいたコンパートメントの隣りのドアに釘づけになった。ヴァシリエヴィッチは隣りのコンパートメントにいると、彼女はいっていた。ロバーツは慎重に取手を動かしてみた。ドアは内部からボルトがかってある。
いかにすべきか? ドアをあけろと要求すべきか? しかし拒絶するだろう――そして結局のところ、女はそこにいないのかもしれないのだ! それに、万一、彼女がいたとしても、この件を表沙汰にしたことにたいして、彼女ははたして感謝するだろうか? 二人がたずさわっているこの仕事では、秘密が第一ではなかろうか、と彼は推測した。
傷心のていの小男は、ゆっくりとあてもなく通路をさまよった。そしてどんじりのコンパートメントで立ちどまった。ドアが開いていて、車掌が横になって眠っていた。そして上の洋服かけには、車掌の茶色の制服の上着と、ひさしつきの帽子がかかっている。
たちどころにロバーツは方針を決定した。一分後に、彼はその上着と帽子を着こんで、急いで廊下をもどってきた。女のコンパートメントの隣りのドアの前で足をとめ、渾身《こんしん》の勇をふるって、断乎としてノックした。
呼びかけに対して答えがないので、彼はもう一度ノックした。「ムシュー」と彼はできるだけ上手なアクセントでいった。
ドアがちょっぴりあいて、頭がのぞいた――黒いあごひげを除けば、あとはつるつるに剃りあげた外国人の顔だ。怒った、毒々しい顔だった。
「|Qu'est-ce qu'il y a?《ケ・ス・キリア》(なんだね?)」男は吐き出すようにいった。
「|Votre passeport, monsieur《ヴォートル・パスポー・ムシュー》(旅券をどうぞ)」ロバーツは一歩さがって手招きした。
男はためらったが、それから通路に出て来た。それはロバーツが予期していたことだった。もし女が中にいるとすれは、この男は当然、車掌を中に入れまいとするはずだ。電光石火、ロバーツは行動した。満身の力でその外人を横につきとばすと――相手は虚をつかれた上に列車の振動が幸いした――コンパートメントにとびこんで、ドアを閉め、鍵をかけた。
ベッドの端のほうに、さるぐつわをはめられ、両の手首を縛られた例の女性がはすかいに横になっていた。彼が素早くいましめをとくと、彼女はため息をついて彼に倒れかかってきた。
「からだの力がぬけて気分が悪いわ」とつぶやいた。「きっとクロロフォルムだわ。あの男はあれを――とったかしら?」
「いいえ」ロバーツは自分のポケットをたたいて、「これからどうしましょうかね?」とたずねた。
女は起き直った。しだいに頭がはっきりしてくるらしい。彼女はロバーツの服装をじっと見つめた。
「あなたって、なんて頭がいいんでしょう。そんなことを考えつくなんて! あの男は、どこに宝石があるかいわなければ、わたくしを殺すといいました。わたくし、それはこわい思いをしていたら――そこへあなたが来てくださったのよ」突然、彼女は笑い出した。「でも、わたくしたち、あの男のうらをかいてやったわ! もう手も足も出せないでしょうよ。自分のコンパートメントへもどることさえできないわ。わたくしたちは朝までここにいなくちゃならなくてよ。たぶん、あの男はデイジョンでおりるでしょう。あと三十分もすれば、そこに停車するはずです。男はパリヘ電報を打ち、パリでまた、わたくしたちの追跡をはじめるでしょう。それまでに、あなたはその上着と帽子を窓からお捨てになったほうがよろしいわ。さもないと面倒なことになりかねないわ」
ロバーツはその言葉に従った。
「わたくしたち、眠ってはいけないわ。朝まで警戒をつづけなければ」そう女は断定した。
それは異様な、手に汗にぎる不寝番だった。午前六時に、ロバーツは用心深くドアを開けて外をうかがった。あたりには誰もいなかった。女はすばやく足音を忍ばせて自分のコンパートメントへもどった。ロバーツもあとからつづいた。彼は手洗所を通って、自分のコンパートメントへもどった。道連れの男は、まだいびきをかいている。
列車は七時にパリへ到着した。車掌は制服と制帽がなくなったと大騒ぎをしていた。が乗客が一人足りないことには、車掌はまだ気づいていなかった。
それから興味津々たる追跡が開始された。女とロバーツは、つぎつぎにタクシーを乗りついでパリ中を走り回った。ホテルやレストランもいくつとなく、一つのドアから入ると、別のドアから出て行った。やがて、女は、ほっとため息をついた。
「もうだいじょうぶよ、つけられていないわ。あの連中をまいてしまったのよ」
二人は朝食をとり、ル・ブールジェ空港へ自動車を走らせた。そして三時間後にはクロイドン空港に到着していた。ロバーツが飛行機に乗ったのは生まれて初めてだった。クロイドンでは、ジュネーヴでロバーツ氏に指令をあたえた人物と、どことなく似た感じのする、背の高い老紳士の出迎えを受けた。老紳士はとびきりの敬意をこめて、女に挨拶した。
「お車はこちらでございます。マダム」と老紳士はいった。
「この方はわたくしたちとごいっしょするのよ、ポール」女はいった。そしてロバーツヘむかって、「ポール・ステパニ伯爵です」と紹介した。
自動車はゆったりとしたリムジン型だった。およそ一時間走ってから、住宅の敷地に入り、堂々たる大邸宅の玄関の前に横づけになった。ロバーツ氏は書斎としてしつらえた部屋へ通された。そこで彼は例の貴重な靴下を手渡した。しばらくの間ひとり残されたが、やがてステパニ伯爵がもどって来た。
「ロバーツさん。なんとお礼を申しあげてよいやら。あなたは知勇を兼ねた人物であることを実証なさった」彼は赤いモロッコ皮のケースを差し出した。「あなたにセント・スタニスラウス勲章――月桂樹の勲十等をお贈りしたいと思います」
夢見心地で、ロバーツはケースを開き、宝石のついた勲章を眺めた。老紳士は、なおも話しつづけていた。「あなたのご出発前に、オルガ大公夫人が、じきじきにお礼申し上げたいとおおせられております」
彼は大きな応接間へ案内された。そこには、流れるような裳《もすそ》をなびかせた、目のさめるように美しい旅の同伴者が立っていた。
彼女が女王のように片手をふると、伯爵は二人を残して退出した。
「あなたは、わたくしの命の恩人ですわ、ロバーツさん」大公夫人はいった。
彼女は片手を差し出した。ロバーツはそれにキスした。突然、彼女は彼のほうへ前かがみになった。
「あなたは勇気のある方です」
彼の唇が彼女の唇と重なった。豊醇な東洋の香りが彼を取り巻いた。しばし、彼はそのほっそりした、美しい肢体を両腕で抱いた――
彼がまだ忘我の境地にいる時、誰かの声が話しかけた。
「自動車で、ご希望のところへお送りいたします」
やがて一時間後に、自動車はオルガ大公夫人を迎えにもどってきた。彼女はそれに乗りこみ、白髪の男も乗った。男は涼を求めて、あごひげを取ってしまっていた。自動車は、ストレタムにある一軒の家の前でオルガ大公夫人を下ろした。彼女が家へ入ると、年配の婦人がお茶のテーブルから顔を上げた。
「おや、マギー」
ジュネーヴ・パリ間の急行列車の中では、この娘はオルガ大公夫人だった。パーカー・パイン氏の事務所では、彼女はマドレーヌ・ド・サラ、そしてストレタムの家庭では、マギー・セイアーズ、実直な家庭の四女だった。
やんごとなきお方のなんたる零落《れいらく》ぶりであろう!
パーカー・パイン氏は友人と昼食を取っていた。
「おめでとう」友人がいった。「君の派遣した人物は、とどこおりなく、任務を遂行してくれた。トーマリ一味は、あの大砲の図面を手に入れそこなってカリカリだろう。君はその男に、なにを持って行くのか、教えたのかね?」
「いや、わたしは――えーと少々|潤色《じゅんしょく》したほうがいいと思ってね」
「えらく慎重なんだな」
「慎重というと正確じゃないね。じつは、その男に楽しい思いをさせてやりたかったんだよ。大砲じゃちょっと味気ないだろうと考えてね。少々冒険をさせてやりたかったんだ」
「味気ない!」ボニントン氏は相手の顔をじっと見つめた。「だって、あの連中は、その男を見つけしだい殺すところだったんだぜ」
「そうだね」パーカー・パイン氏は、やんわりと受け流した。「だが、わたしは使いの者を殺されたくなかった」
「君の職業では、金はたんまりもうかるのかね、パーカー?」ボニントン氏がたずねた。
「損するときもあるよ。つまり、損のしがいのある仕事の場合はね」
パリでは、三人の頭にきた紳士が、たがいにののしり合っていた。
「あのいまいましいフーパーの野郎め! がっかりさせやがる」
「図面は事務所の人間は誰も持って行かなかったぜ。だのに水曜日にゃ消えちまった。そいつは確かだ。だから|お前《ヽヽ》がへまをやったっていってるんだ」二人目がいった。
「おれじゃない」三人目が、ふくれっ面でいった。「列車には、小男の会社員以外にイギリス人はいなかったんだ。そいつはピーターフィールドとか、大砲とかは生まれて初めて聞くような顔をしていたよ。わかってるよ。おれは、そいつをためしてみたからな。ピーターフィールドや大砲のことは、そいつには馬の耳に念仏だったんだ」そういって、からからと笑った。「もっとも、そいつはボルシェヴィストにたいして、ある種のコンプレックスを持った奴だったがね」
*
ロバーツ氏はガス・ストーヴの前にすわっていた。膝の上にはパーカー・パイン氏からの手紙がのっていた。手紙には、「ある任務がとどこおりなく遂行されたことを喜ぶある人々からの」五十ポンドの小切手が同封してあった。
彼の肘かけ椅子の腕には図書館から借り出した本がのっていた。ロバーツ氏は手あたりばったりにあけてみた。『彼女は追いつめられて窮地におちいった美しい動物のように、ドアを背にして、うずくまっていた』
ああ、そんなことなら先刻承知だよ。
彼は別な文章を読んでみた。『彼は空気の匂いをくんくんかいでみた。かすかな、気持のわるくなるクロロフォルムのにおいが彼の鼻孔を刺した』
これも、また知っている。
『彼は両腕で彼女を抱いた。彼女の深紅の眉が、それに答えてふるえるのを感じた』
ロバーツ氏はため息をついた。あれは夢ではなかった。行きの道中はまったく退屈だった。が、帰りの道中ときたら! 楽しいかぎりだった。しかし彼は、わが家に帰って来たことを喜んでいた。人生はいつまでもああいう調子で過ぎるものではないと、漠然と感じていたのだ。オルガ大公夫人でさえ――あの最後のキスでさえ――すでに、夢のような非現実性を帯びていた。
妻のメアリーと子供たちはあす帰宅するだろう。ロバーツ氏は幸福な微笑を浮かべた。
メアリーはいうだろう。「すばらしい休暇だったわよ。 でも、あんたがひとりぼっちでここにいるのかと思うと、それが気になって」すると彼はいうだろう。「だいじょうぶだよ、おまえ。わたしは、社用でジュネーヴへ出張しなければならなかったんだ――ちょいと、むずかしい商談でね――ほら、わたしに送って来たものを見てごらん」そういって彼は五十ポンドの小切手を妻に見せるのだ。
セント・スタニスラウス勲章、月桂樹の勲十等を彼は思い出した。それを隠してしまっていたが、もしメアリーがみつけたら! 少々説明を要するだろうな……
ああ、こうしよう――外国で手に入れたのだといおう、骨董品だと。
彼はまた本を開き、幸福な思いで読んだ。もはや彼の顔には、ものたりなそうな表情はなかった。
彼自身もまた、冒険活劇のすばらしい主人公の一人なのだ。
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金持の夫人の事件
アブナー・ライマー夫人という名前がパーカー・パイン氏にとりつがれた。パイン氏はその名前を知っていたので、まゆを上げた。
ほどなく客は室内に案内されて来た。
ライマー夫人は背の高い骨太の婦人だった。ぶざまなからだつきで、着ているビロードのドレスや、厚い毛皮のコートをもってしても、その事実は、かくしおおせなかった。大きな手の指の関節は節くれだっている。ご面相は大きくだだっ広くて、ごてごてと塗りたくってある。黒い髪を流行の髪型に結って、帽子には、駝鳥の巻毛がたくさんついている。
夫人は会釈しながら、どすんと椅子に腰をおろした。
「こんにちは」夫人の声には、がさつな調子があった。「あんたが少しでも役に立つ人なら、お金の使い方を教えてちょうだいな!」
「これはまためずらしいことを」パーカー・パイン氏はつぶやいた。「当節、そんなことをおたずねになる人はめったにおりませんな。では、金の使いみちが、ほんとうに難題だとお考えなんですね、ライマー夫人?」
「ええ、そうよ」夫人はぶっきらぼうにいった。「毛皮のコートは三着あるし、パリ製のドレスなんか山ほどあるわ。自動車もあるし、自宅はパーク・レイン。ヨットもあるけど、海はきらい。悪いけど、あんたなんかには鼻もひっかけない高給な召使も大ぜい雇っているわ。旅行もいくらかしたし、外国も見て来たし。だから、もっと買い物や、遊ぶことを思いつけば、願ってもないことなのよ」夫人は希望をこめてパイン氏を見つめた。
「病院がありますよ」
「なんですって? お金を捨てろっていうの? 冗談じゃないわ。あたしのお金はね、念のためにいっときますけと、せっせと働いてかせいだものなのよ、汗水をたらしてね。もしわたしがそれをまるでごみ同然に手離すとでも思ったら――そりゃ、あんたの勘違いよ。あたしはそれを使いたいの。それを使って、何か楽しい思いをしてみたいのよ。だから、そういう線で、名案があったら、謝礼はたんとはずむわよ」
「あなたのご提案は、なかなかおもしろい。ところで、別荘のことはまだお話しになりませんでしたね」
「うっかり忘れてたけど、持っているわ。それだって死ぬほど退屈よ」
「もっとあなたご自身のことを話してくださらなければなりませんな。あなたの問題は、なまやさしいことでは解決できません」
「お話しするわ、喜んでね。あたしって、べつに自分の出身をはずかしいとは思っていないの。農家で働いていたのよ。ほんとうに、娘のころは。つらい仕事だったわ。それからアブナーと親しくなって――アブナーは近所の製粉所の職人でね。彼は八年間求婚し、それから二人は結婚したってわけ」
「で、幸福でしたか?」パイン氏はきいた。
「幸福だったわ。あたしには親切なひとだったのよ、アブナーはね。でも、あたしたちは生活苦と戦ったのよ。夫は二度失業するし、子供たちは次々生まれるし、四人のうち、男の子が三人で女の子が一人だったけと、結局、一人も育たなかったわ。もし子供たちが育っていたら、きっと事情は違っていたでしょうよ」彼女の顔はおだやかになり、急に若返ったように見えた。
「あのひとは肺が弱かったのよ――アブナーは。だから戦争にはとられなかった。でも銃後でりっぱに働いたのよ。職長に昇進したのよ。頭のいい人だったわ、アブナーは。ある製法を案出したのよ。で工場側は、それ相応の待遇をしてくれたわ。まあ、そういっていいと思うわね。それに対して、かなりの金をくれたの。アブナーはその金を新しい考案のために使って、それがどんどんお金を生んだわ。それから、自分で職人を雇う経営者となって、破産した会社を二つ買いとって立て直したの。あとはもう楽なもんよ。お金はどんどん入って来たし。今でも入ってくるわ。
それでね、はじめのうちは愉快でたまらなかったのよ。自宅や上等の浴室や召使を持ってね。もう料理や、拭き掃除や、洗濯ともおわかれ。ただ応接間の絹のクッションにもたれて、お茶がほしければ、ベルを鳴らすだけ――まるで伯爵夫人のようよ! まったく楽しい限りで、その楽しみにひたったわ。それから、あたしたちはロンドンに出て来たの。服を作るために、れっきとした洋装店へ行ったわ。パリや、リヴィエラにも行ったわ。ほんとうに愉快だった」
「それから!」パーカー・パイン氏はうながした。
「あたしたち、それに慣れっこになってしまったんだわね。まもなく、それほどおもしろいとも思えなくなったのよ。どう、食事だって気に入らない日までもあるしまつよ――自分たちが好きで選んだ料理がよ! お風呂にしたって――ええ、結局は、だれだって一日一回の入浴で、充分だわ。それにアブナーの健康が彼を苦しめ出してね。医者にはずいぶんお金をかけたわ、ほんとうに。ところが、ちっとも効《き》き目がないのよ。これをやったり、あれをためしたり。でも無駄だった。夫は亡くなったわ」彼女は口をつぐんだ。「若かったんですよ。まだ四十三でしたもの」
パイン氏は同情してうなずいた。
「それが五年前のことよ。お金はあいかわらず、どんどん入ってくるわ。でも、その金で何もできないなんて、むだなような気がするのよ。さっきもいったように、自分が持っていないもので、買いたいものを思いつけないのよ」
「いいかえれば」とパイン氏はいった。「あなたの人生は退屈なんです。あなたは生活を楽しんでいらっしゃらない」
「うんざりですよ」ライマー夫人は憂欝そうにいった。「友だちがないし、新しい友だちは、ただ寄付のお金がほしいだけで、陰では、あたしのことを笑い者にしているのよ。昔の友だちはあたしとつき合おうとしないわ。あたしが自動車で乗りつけると、はずかしがるのよ。あんた、何かしてくれるか、それとも何か提案してくれることができて?」
「できないご相談でもありませんな」パイン氏はゆっくりといった。「むずかしいでしょうが、成功の可能性はあると信じます。あなたが失われたものを取りもどしてあげられると思いますよ――人生にたいする興味をね」
「どうやって?」ライマー夫人は端的《たんてき》にきいた。
「それはわたしの職業上の秘密です。わたしは事前に方法をあかすことは絶対にいたしません。問題は、あなたが思いきってやってごらんになるかどうか、ということです。成功は保証しませんが、可能性は充分あると思います」
「それで、いくらかかるの?」
「異例の方法をとらなければならないでしょうから、したがって、高くつくでしょうね。料金は一千ポンド、前払いで願います」
「ずいぶん、ふっかけるじゃない?」ライマー夫人は感心したようにいった。「いいわ、やってみましよう。最高のお金を払うのはなれっこよ。ただ、わたしってお金を払うときは無駄金にならないように、充分、注意しているのよ」
「無駄金にはなりますまい。決してご心配なく」
「今晩、小切手を送るわ」ライマー夫人は立ち上がりながらいった。「ほんとうに、なぜあんたを信用する気になったのか自分でもわからないわ。ばかとお金はすぐ別れるっていうけど、あたしもばかかもしれないわ。でも、あんたって心臓ね、全部の新聞に、人を幸福にしてあげると広告するなんて!」
「あの広告は金がかかるのです。もし、わたしが約束をはたさなければ、あの金は無駄になるわけです。わたしは不幸の原因を知っていますから、したがってその反対の状態を生むにはどうしたらよいか、はっきりした考えをもっているのです」
ライマー夫人は疑わしそうに頭を振って、出て行った。そのあとに、高価な混合香水の香りをふんだんに残して。
美男のクロード・ラトレルが、ぶらっと事務所へ入って来た。
「僕の役どころですか?」
パイン氏は頭を振った。
「それほと単純なことじゃない。いや、これはむずかしい事件だよ。どうも、二、三、冒険をしなければならないようだな。思いきった手を打ってみなくてはな」
「オリヴァー夫人の役どころですか?」
世界的に有名な小説家の名前が出たので、パイン氏は微笑した。
「オリヴァー夫人は、実際、わたしたち全部の中で一番月並みだよ。わたしは大胆不敵な手を考えているんだ。ところで、アントロバス博士に電話をかけてくれたまえ」
「アントロバス?」
「ああ、彼の助けが必要になるだろう」
*
一週間後に、ライマー夫人は、ふたたびパーカー・パイン氏の事務所を訪れた。パイン氏は立ち上がって夫人を迎えた。
「遅くなりましたが、これはまったく止むをえざることでして」と彼はいった。「いろいろと準備をととのえなければなりませんでしたし、それに、ヨーロッパを半分、横断してこなければならない特別な人物の助けを確保する必要があったのです」
「へえ!」彼女は、疑わしそうにいった。千ポンドの小切手を支払ったし、その小切手はすでに現金に替えられているということが、絶えず、彼女の念頭にあったのである。
パーカー・パイン氏はブザーを押した。髪が黒で、東洋ふうの顔だちだが、白い看護婦服をきた若い娘が、ブザーに答えて姿を現わした。
「用意は全部できたかね、ド・サラ看護婦?」
「はい、コンスタンタイン博士はお待ちでございます」
「何をするというの?」ライマー夫人の声には、一抹の不安がこもっていた。
「東洋の魔術をお見せするのです、奥さま」パーカー・パイン氏はいった。
ライマー夫人は看護婦の案内で二階に上がった。そして、この家の他の部屋とはまるで趣きの違う部屋へ通された。東洋ふうのししゅうが壁をおおっている。柔らかいクッションを置いた長椅子があり、床には美しい敷物が敷いてある。一人の男がコーヒー・ポットの上にかがみこんでいたが、二人が入って行くと、からだを起こした。
「コンスタンタイン博士です」と看護婦がいった。
博士は洋服を着ていたが、顔は赤黒く、きれ長の黒い目で、その視線には異様に鋭い力がこもっていた。
「では、こちらが患者さんですね?」博士は低い、ひびく声でいった。
「あたし、愚者じゃないわ」ライマー夫人はいった。
「あなたのからだは病気ではない」医者はいった。「しかしあなたの魂は疲れている。われわれ東洋人は、そういう病気の療法を知っています。腰をおろしてコーヒーを飲んでください」
ライマー夫人はすわつて、香ばしい飲料のはいった小さな茶碗を受け取った。彼女がそれをすすっていると、医者は話をつづけた。
「この西洋では、人は肉体だけを治療します。しかし間違いです。肉体は一個の楽器にすぎません。曲がかなでられる楽器です。それは悲しい、ものうい曲かもしれません。また喜びに満ちた曲かもしれません。わたしがあなたに与えようとしているものは、このあとのほうの曲です。あなたは金をお持ちだ。それを使って、楽しむようにしてあげましょう。人生をいま一度、生き甲斐のあるものにしてあげましょう。それはやさしい――やさしい――いたってやさしいことです……」
医師と看護婦の顔がもうろうとして来た。彼女はこの上もなく幸福な気分で、しかも強烈な睡魔におそわれた。医者の姿がしだいに大きくなった。すべてのものが、しだいに大きくなっていった。
医師は彼女の目の中をのぞきこんでいた。
「お眠りなさい」と医者はいった。「お眠りなさい。あなたのまぶたは閉じてくる。あなたは眠る。眠る。眠る……」
ライマー夫人のまぶたは閉じた。彼女はすばらしい広大な世界にひたっていた。
*
目が開いた時は、ずいぶん長い時間がたったような気がした。いくつかのことをぼんやりおぼえていた――ふしぎな、あり得ない夢。それから目のさめた感じ。次にまた夢。自動車と、看護婦の制服を着た髪の黒い美しい娘が、自分の上にかがみこんでいたことなどを覚えていた。
とにかく、ライマー夫人はもうはっきりと目がさめて、自分のベッドの中にいた。
いや、これは自分のベッドだろうか? どうも感じがちがう。彼女自身のベッドのあのふかふかした心地よい柔らかさが欠けている。それは彼女がほとんど忘れかけていた過ぎし日のことをぼんやりと思い起こさせた。身動きをするとベッドがきしんだ。パーク・レインにあるライマー夫人のベッドなら絶対にきしむはずがない。
彼女はあたりを見回した。明らかに、これはパーク・レインではない。病院だろうか? いや、病院ではない、と彼女は断定した。またホテルでもない。がらんとした部屋で、壁は色あせた薄紫色だった。松材で作った洗面台があって、水差しと洗面器がのっている。松材の箪笥《たんす》と、ブリキのトランクもある。見慣れない服が、かけくぎにかかっている。つぎはぎだらけの掛け蒲団がのったベッドがあって、その中に彼女自身がいる。
「ここはどこなの?」と、ライマー夫人は口に出していった。
ドアが開き、太った小柄な女が、せかせかと入って来た。真っ赤な頬をした、ひとあたりのいい女だ。袖をまくり上げて、エプロンをかけている。
「おや!」と女はさけんだ。「目をさましたわ。おはいりになって、先生」
ライマー夫人は口を開けて、いろいろなことをいおうとした――が、いわずにおわった。というのは、太った女の後から部屋に入って来た男が、あの上品な、色の浅黒いコンスタンタイン博士とは、似ても似つかぬ人物だったからだ。それは腰のまがった老人で、ぶ厚いめがね越しに、じっと彼女を見つめた。
「よくなってきた」ベッドへ近よってライマー夫人の手首を取り上げながら、老人はいった。「じきによくなるよ、あんた」
「あたしがどうかしたんですか?」ライマー夫人はきいた。
「一種の発作にかかったんだよ」医者はいった。「一両日、意識がなかった。が、べつに心配することはないよ」
「ほんとにびっくりさせられたよ、ハンナ」太った婦人がいった。「それにお前ったら、わめきどおしで、妙なことばかり口走るんだもの」
「そうでしたな、ガードナー夫人」と医者は制止するようにいった。「しかし、患者を興奮させてはいかん。なあに、すぐに床上げして、また働けるようになるさ」
「でも仕事のことは気にしないでいいからね、ハンナ」ガードナー夫人はいった。「ロバーツのかみさんが手伝いに来てくれたから、うまくいってるよ。じっと寝て、よくなっておくれよ」
「どうしてあたしをハンナと呼ぶの?」ライマー夫人はたずねた。
「だって、お前の名前じゃないか」ガードナー夫人はあっけにとられた。
「いいえ、違うわ。あたしの名前はアミーリアよ。アミーリア・ライマー。アブナー・ライマー夫人だわ」
医者とガードナー夫人は、たがいに目くばせをかわした。
「さあ、じつと寝ておいで」ガードナー夫人は声をかけた。
「そう、そう、心配せずにな」医者はいった。
二人は出ていった。ライマー夫人は横になったまま、途方にくれてしまった。なぜ自分をハンナと呼ぶのだろう。それに彼女が自分の名前を名のった時、なぜあの二人は、あんな、くすぐったそうな、信じられないといった目くばせをかわしたのだろう? ここはどこなんだろう? 何が起こったというんだろう? 彼女はベッドからそっとぬけ出した。足元がちょっとふらついたが、ゆっくりと、小さな屋根窓へ歩いて行って、外を見ると――そこは農家の庭ではないか! まったく五里霧中の思いで、彼女はベッドヘもどった。前に一度も見たことのないこんな農家で、自分は何をしているんだろう?
ガードナー夫人が盆にスープの碗をのせて、また部屋へ入って来た。ライマー夫人は矢つぎばやに質問をはじめた。
「この家であたしは何をしているの? 誰があたしをここへ連れて来たの?」
「誰も連れてきやしないよ、ハンナ。ここはお前の家ですよ。なんていったって、お前はこの五年間ここに住んでいるんだからね――でも、お前が発作を起こしやすいなんて、一度も気がつかなかったね」
「ここに|住んでいる《ヽヽヽヽヽ》? 五年間も?」
「そのとおりだよ。ねえ、ハンナ、まさかお前、まだ思い出せないというんじゃないだろうね?」
「あたしはここに住んだことなんか一度もなくてよ! あなたとだって初対面だわ」
「いいかね、お前はこんな病気にかかったんで忘れてしまったんだよ」
「あたしはここに住んだことなんか一度もありません」
「でも住んでいたんだよ、ハンナ」ガードナー夫人は不意に箪笥《たんす》へとんで行くと、額縁に入った色あせた写真をライマー夫人のところへ持って来た。
四人の男女が写っていた。あごひげをはやした男と、太った女(ガードナー夫人)、楽しそうに、はにかみ笑いを見せている長身のやせた男と、プリント地の服にエプロンをかけた誰か――それはなんと彼女ではないか!
唖《あ》然として、ライマー夫人はその写真を凝視した。ガードナー夫人は彼女のかたわらにスープをおくと、そっと部屋を出て行った。
ライマー夫人は機械的にスープをすすった。濃くて熱い上等のスープだった。その間じゅう、彼女の思いは千々に乱れていた。頭がおかしいのは誰だろう? ガードナー夫人か――それとも彼女自身か? 二人のどちらかが気違いにちがいない! しかし、あの医者もいたっけ。
「あたしは、アミーリア・ライマーだわ」彼女は声に出していった。「あたしがアミーリア・ライマーであることは、あたしが知っているわ。だから誰にも、そうじゃないなんて、いわせないよ」
彼女はスープを飲みほした。碗を盆の上へもどした。そのとき、ふと、たたんだ新聞が目にとまったので、取り上げて、日付を見た。十月十九日《ヽヽヽヽヽ》。パーカー・パイン氏の事務所へ行ったのは何日だったろう? あれは十五日か十六日だ。すると、彼女は三日間、病気だったにちがいない。「あの医者の悪党!」ライマー夫人は、むかっ腹を立てていった。
とはいえ、彼女はいくぶん、気が楽になった。何年ものあいだ、自分が誰なのかを忘れてしまう病症のあることは、耳にしていた。彼女は何かそういうことが自分の身に起こったのではないかと心配していたのだ。
彼女は新聞のページをめくり始めて、漫然と欄から欄へと目を通していたが、突然一つの文章が目にとまった。
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「ボタン軸」の製造王、アブナー・ライマーの未亡人にあたるアブナー・ライマー夫人は昨日、私立精神病院に入院した。過去二日間、彼女は自分がライマー夫人ではなく、ハンナ・ムアハウスという名前の女中だといい張っていたのである。
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「ハンナ・ムアハウスだって! じゃそういうわけなのね」ライマー夫人はひとり言をいった。「彼女があたしで、あたしが彼女。一種の身代わりのようね。いいわ、あたしたち、すぐもとどおりになれるわ! たとえ、あの口先のうまいパーカー・パインとかいう偽善者が何か計略をめぐらしているとしても――」
しかしその瞬間、彼女の目は、印刷されたぺージから彼女を見つめているコンスタンタインという名前に釘づけになった。今度は見出しの活字だった。
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コンスタンタイン博士の主張
日本への出発を前にしておこなわれた告別講演で、クローディアス・コンスタンタイン博士は、いくつかの驚くべき学説を発表した。すなわち、博士は、一つの肉体から別の肉体へ霊魂を移すことによって、魂の存在を証明することができると言明したのである。博士の主張によれは、東洋における実験中に、博士は二重移動――催眠術をかけられたAの肉体の魂を、催眠術をかけられたBの肉体へ移し、Bの魂をAの肉体へ移すこと――をおこなって、成功をおさめたという。催眠術の眠りからさめると、Aは彼女自身がBであると言明し、Bは彼女自身がAであると思いこんだ。
実験が成功するためには、いちじるしく似かよった肉体の持ち主を二人見つけることが必要であった。たがいに相似している二人の人間が交感することは、まぎれもない事実であった。これは双生児の場合に顕著に見られる現象である。しかし、社会的地位がひどく異なっていても風采がいちじるしく相似ていると、二人の他人同士の場合でも同じような構成の調和を示すものであることが明らかになった。
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ライマー夫人は新開をほうり出した。
「悪党! だいそれた悪党め!」
やっと全貌がわかった! これは彼女の財産を横領しようという卑劣な計画なのだ。このハンナ・ムアハウスという女はパイン氏の手先――それもたぶん、自分が悪事に加担しているとは知らない手先なんだろう。パインとあの悪党のコンスタンタインが、この奇想天外な計略をやってのけたのだ。
でも、あたしが正体をあばいてやる! 正体を暴露してやる! 告訴してやる! 皆にいいふらして――
突然、ライマー夫人は激怒の中でふみとどまった。あのはじめの記事を思い出した。ハンナ・ムアハウスは従順な手先ではなかったのだ。彼女は抗議し、彼女が何者であるかを言明したのだ。そしてどうなったか?「精神病院に監禁されてしまったんだわ、かわいそうに」ライマー夫人はひとりごとをいった。背筋に冷たいものが走った。
精神病院。そこは入ったら最後、絶対に出してもらえないところだ。正気だといえばいうほど、信じてもらえなくなる。入ったら、死ぬまでそこにいることになる。いや、ライマー夫人は、そんな危険をおかすつもりは、さらさらない。
ドアが開いて、ガードナー夫人が入って来た。「おや、スープを飲んだね、ハンナ。それはよかった。じきによくなるよ」
「あたしはいつ病気になったのです?」ライマー夫人はきいた。
「えーとね。三日前だったよ――水曜日ね。十五日だった。四時頃、ぐあいが悪くなったんだよ」
「ああ!」この悲鳴は意味深長だった。ライマー夫人がコンスタンタイン博士のところへ行ったのが、ちょうど四時頃だった。
「お前は椅子に倒れこんだんだよ」ガードナー夫人はいった。「『おお!』っていったんだよ。『おお!』こんなふうにね。それから、まるで夢を見ているような声で『あたしは眠る』っていうんだよ。『あたしは眠る』ってね。それから、ほんとうに眠ってしまったんでね。わたしはお前をベッドに移して、お医者さんを迎えに行ったんだよ。それからずっとお前はここにいるんだよ」
「たぶん」とライマー夫人は思い切ってきり出した。「あたしの身元を見分けられるものは何もないんでしょうね――つまり、あたしの顔をのぞけば」
「おや、そんな変なことをいって」とガードナー夫人はいった。「顔で見分けるよりもいい方法があるんなら教えてもらいたいね。でも、お前の気がすむんならいうけど、お前のあざがあるよ」
「あざ?」ライマー夫人は、ぱっと顔を輝かした。彼女にはそんなものはない。
「右肘の真下に赤あざがあるよ。自分で調べてごらんよ、ハンナ」
「それが証拠になるわ」ライマー夫人は自分にいいきかせた。彼女は自分の右肘の下に赤あざがないことを知っていた。そこで、ねまきの袖をまくり上げた。赤あざがそこにあった。
ライマー夫人は、わっと泣きくずれた。
四日後、ライマー夫人は床上げをした。それまでに、いくつも行動の計画を立ててみたが、結局、放棄してしまったのだ。
あの新聞記事をガードナー夫人と医者にみせて、説明してみようか。彼らは彼女の話を信じるだろうか。おそらく信じまいと、ライマー夫人は確信した。
警察へ行ってみようか? 警察は彼女の言葉を信じるだろうか? これまた、そうとは思えなかった。
パーカー・パイン氏の事務所へ行ってみようか? この考えは、たしかに一番彼女の気に入った。一つには、あの口先のうまい悪党を思いきり罵倒してやりたかったのだ。しかし、この計画を実行に移すには、致命的な障害があった。彼女は現在コーンウォールにいるという話だったが、そうなると、ロンドンへ行く旅費の持ち合わせがない。すり切れた財布の中にある二シリング四ペンスが彼女の財政状態を示しているようだった。
そういうわけで、四日後に、ライマー夫人は思いきって腹を決めた。さしあたり、この事態を甘受しよう! 彼女はハンナ・ムアハウスなんだ。よろしい、ハンナ・ムアハウスになりすまそう。当分この役を引き受けて、あとで、充分金がたまったら、ロンドンヘ出向いて、一か八か、あの詐欺師と対決してやろう。こう決心すると、ライマー夫人はまったく上機嫌に、むしろ一種皮肉な楽しみをさえ感じて自分の役割を引き受けた。まことに歴史は繰りかえすである。ここでの生活は彼女に娘時代を思い出させた。それは、なんと遠い昔のように思えたことか!
*
長年、楽な生活をしたあとなので、仕事は、少し辛かったが、最初の一週間がすぎると、彼女はいつの間にか、自分が農家の生活にとけこんでいることに気がついた。
ガードナー夫人は、気のいい親切な女だった。彼女の夫は無口な大男だが、やはり親切だった。写真でみた、足のひょろっとした男はいなくなっていたが、その代わりに別の作男が来ていた。四十五歳の陽気な大男で、話や頭のほうは、かんばしくなかったが、青い目には内気な輝きがあった。
何週間もすぎていった。やがて、ライマー夫人がロンドンへ行く旅費を支払うだけの金を持つ日が来た。しかし彼女は行かなかった。彼女は延期した。時間は充分ある、と思った。精神病院のことを考えると、いまだに心中おだやかではなかった。あの悪党のパーカー・パインは悪がしこい男だ。彼は医者に、この女は気違いだといわせて、誰も知らないうちに、自分を人目のつかない場所に押しこんでしまうだろう。
「それに、ちょっとした変化も悪くないわ」とライマー夫人は考えた。
彼女は朝早く起きて、骨身をおしまず働いた。新しい作男のジョウ・ウェルシュが、その冬、病気にかかり、彼女とガードナー夫人が看護した。この大男は、かわいそうなくらい二人に頼った。
春が来た――羊が子をうむ時だ。生垣には野花が咲き、空気には、そこはかとない柔らかさがただよっていた。ジョウ・ウェルシュはハンナの仕事を手伝ってくれた。ハンナはジョウのつくろいものをした。
日曜日には二人連れ立って、散歩に出ることもあった。ジョウは男やもめだった。彼の女房は四年前に亡くなっていた。女房が死んでからというもの、飲みすぎるようになったと、ウェルシュはすなおに告白した。
最近、彼はあまり飲み屋のクラウンへ行かなくなった。自分で服を何着か新調もした。ガードナー夫妻は声をあげて笑った。
ハンナはジョウをからかった。彼の無器用な点をひやかした。が、ジョウは気にかけなかった。はずかしそうだが、幸福そうな顔をしていた。
春がすぎて、夏が来た――その年はすばらしい夏だった。みんなが、一人残らずいっしょうけんめい働いた。
刈り入れが終わった。梢の葉は赤や金色に色づいた。
*
ハンナが、刈り取っているキャベツから顔を上げて、柵の上に身をのり出しているパーカー・パイン氏に気がついたのは、十月八日のことだった。
「あんた!」ハンナ、またの名ライマー夫人はかみついた。「あんたは……」
彼女が胸のうっぷんを、すっかりぶちまけるまでには、少々時間がかかった。いい終わったときには、息をはずませていた。
パーカー・パイン氏は、にこやかな微笑を浮かべた。
「まったく、おっしゃるとおりです」
「詐欺師でうそつき、それがあんたの正体よ!」ライマー夫人は前のせりふを繰りかえした。「あんたはコンスタンタインたちとぐるになって、催眠術を使って、かわいそうなハンナ・ムアハウスを監禁した――気違いといっしょに」
「いや」パーカー・パイン氏はいった。「その点で、あなたはわたしを誤解していらっしゃる。ハンナ・ムアハウスは精神病院にはいません。それというのも、ハンナ・ムアハウスなる女は実在しないからです」
「まさか。じゃ、あたしがこの目で見たハンナの写真はどうなの?」
「でっちあげですよ。いとも簡単にできることです」
「じゃ、彼女に関する新聞記事は?」
「もっともらしく、ごく自然に記事が二つのるように新聞をまるまる、でっちあげたんです。どうです、うまいもんでしょう」
「あの悪党のコンスタンタイン博士は?」
「偽名です――芝居の上手なわたしの友人が名のったのです」
ライマー夫人は鼻を鳴らした。
「ふん! それじゃ、あたしは催眠術にかけられたわけじゃないのね?」
「じつは、かけられなかったのです。コーヒーに混ぜてあったインド大麻の麻酔薬をお飲みになったのです。その後で、ほかの薬を飲まされて自動車でここまで運ばれ、意識が回復するまで、そのままにしておかれたのです」
「ガードナー夫人は、はじめから|ぐる《ヽヽ》だったのね?」
パーカー・パイン氏はうなずいた。
「きっとあんたに買収されたのね! それとも嘘八百をつめこまれたのか!」
「ガードナー夫人はわたしを信頼しています。昔、彼女のひとり息子が懲役を受けないですむように、はからってあげたことがあるのです」パイン氏はいった。
彼の態度にある何かが、その点についてはライマー夫人をだまらせた。
「あざのことはどうなの?」
パイン氏は微笑した。
「それはもう消えかけていますよ。もう六カ月もすれば、完全に消えるでしょう」
「じゃ、このばかなまねはいったい、どういうことなの? あたしをばかにして、女中としてここにとじこめて――あんなにたくさんのお金を銀行に持っているあたしをよ。でもいまさら、きく必要もないでしょうね。あんたが勝手に使ってしまったんでしょう。りっぱな人だこと。こんなことをした理由は、それなのね」
「あなたに薬がきいていた間に、わたしは確かにあなたから委任状をもらいましたし、あなたの――そのう――ご不在中は、財政の管理を引き受けて来たことはたしかです。しかし、念のため申し上げますがね、奥さま。初めにいただいた一千ポンドのほかは、あなたのお金を一シリングといえども着服してはおりませんよ。それどころか、上手な投資によって、あなたの財政状態は向上しています」パイン氏は彼女に笑顔を向けた。
「じゃなぜ」とライマー夫人はいいかけた。
「わたしのほうから、ひとつ、おたずねしましょう、ライマー夫人。あなたは正直なかたですから、正直にお答えくださるだろうと思います。わたしはあなたが幸福かどうかうかがいたいのです」
「幸福かですって! りっぱな質問だこと! 女の金を盗んでおいて、幸福かどうかきくなんて。ずうずうしいにも、ほどがあるわ」
「まだ怒っていますね。至極ごもっともです。しかし、わたしの不届きはさしあたり、棚上げにねがいましょう。奥さん、あなたが一年前のきょう、わたしの事務所においでになった時、あなたは不幸なかたでした。ではあなたは今も不幸だとおっしゃいますか? もしそうなら、わたしはお詫びを申しあげますし、お気のすむように、わたしに対し、ぞんぶんな処置をおとりになったらよろしい。さらに、わたしは、あなたからお支払いいただいた一千ポンドをお返ししましょう。さあ、ライマー夫人、あなたは現在も不幸な女性ですか?」
ライマー夫人はパーカー・パイン氏の顔をみつめていたが、やがて伏目がちにこういった。
「いいえ、不幸ではありません」感嘆の念が、いつしか、その声に加わっていた。「やっとわかったわ。おっしゃるとおりよ。アブナーが死んでから、このかた、あたしは今のように幸福だったことはないわ。あたし! あたし、ここで働いている人と結婚しようと思っているの――ジョウ・ウェルシュと。あたしたちの結婚予告は今度の日曜日にしてもらう予定だわ。つまり今度の日曜日ということに|なっていた《ヽヽヽヽヽ》のよ」
「しかし、むろん今となっては事情が違って来ましたね」
ライマー夫人の顔は紅潮した。一歩前にふみ出すと、
「違うって――それ、どういう意味? もし、あたしが世界中の金を持てば、それであたしは貴婦人になれるとお考えなの? あたしは貴婦人になんかなりたくないわ、おあいにくさま。レディなんて、能なしのごくつぶしだわ。無能なジョウは、あたしに似合いの男だし、あたしはジョウに似合いの女だわ。あたしたちはおたがいにぴったりだから、幸福になれるでしょう。あんたのことはね、おせっかいなパーカーさん、あんたは引っこんで、自分に関係のないことには口ばしを入れないでちょうだい!」
パーカー・パイン氏はポケットから書類をとり出して、彼女に渡した。
「委任状です。破ってしまいましょうかね? あなたはもうご自分の財産の管理をお引き受けになるでしょうから」
「あたしって、あんたにひどいことをいってしまったわ――でもまんざら、あたしのせいばかりともいえなくてよ。あんたは、くえない人だけど、それでも、あんたを信用することにするわ。七百ポンドは、ここの銀行に預けてちょうだい――それであたしたちが目をつけておいた農場が買えるわ。で、その残りは――そうね、病院に寄付するわ」
「まさか全財産を病院に寄付するとおっしゃるのじゃないでしょうね?」
「まったく、そのとおり考えているのよ。ジョウはやさしい、いい人だけど、気が弱いのよ。お金を持たせたら、堕落してしまうわ。あたし今ではお酒をやめさせたし、これからも近づけないつもりよ。ありがたいことに、はっきり決心がついたわ。あたしと幸福の間に、金銭を割りこませるようなことはしないつもりよ」
「あなたは、みあげたご婦人です」パイン氏はゆっくりといった。「あなたのようにふるまう女性は、千人に一人しかいますまい」
「じゃ、千人の女性の中で分別があるのは、たった一人だけってことね」
「わたしはあなたに脱帽します」パーカー・パインはいったが、その声には、いつもと違うひびきがあった。彼はおごそかに帽子をあげて、歩み去った。
「それから、ジョウには絶対に知らせないでね。いいわね!」ライマー夫人は背後から声をかけた。
彼女は、沈み行く太陽を背に、大きな青緑色のキャベツを両手にして、顔をそらし、肩を張って立っていた。それは夕日を背景にして、くっきりと浮かんだ、堂々たる百姓女の姿だった。
[#改ページ]
解説
名実ともに「推理小説の女王」の名にふさわしいアガサ・クリスティは、長短編あわせて六十冊を越すその作品の中で、五指にあまる名探偵たちを創造してきたが、そのうちのヒッグ・スリーは、いうまでもなくエルキュール・ポワロ、ミス・マープル、そして本書のパーカー・パインということになるだろう。クリスティはこの三人の名探偵に、三者三様の背景をあたえている。すなわち、エルキュール・ポワロは前ベルギー警察隊の隊長という履歴が示すように刑事専門の玄人《くろうと》探偵、ミス・マープルはセント・メリー・ミード村の詮索ずきな老嬢、そしてパーカー・パインは退職官吏の民事専門の素人探偵というぐあいである。 パーカー・パインは前二者とちがって短編だけにしか活躍していないから、かならずしも同列に論ずるわけにはいかないが、読者はなによりもまず、ポワロとの類似性を強く感じられるだろう。作者はポワロを小男のベルギー人、パーカー・パインを大男の典型的なイギリス人に仕立てて、両者に明瞭な区別をあたえているが、これは実はわれわれのような東洋の読者にとっては、さほど本質的な意味を持たないことだ。それよりも、卵型の禿頭、柔和な微笑、いんぎんな態度、経験主義的な推理の様式というクリスティ好みの探偵像において、両者はまさしく双生児あるいは分身といえる。
元来、クリスティの作品は、殺人を扱っても、重苦しさとか陰気な感じをあたえないところに特色があるが、本書では、その特徴がいっそうのびのびと発揮されている。前半の六編はいささかコミックな身の上相談の連続短編、後半の六編(本デジタル版2に収録)が犯人捜しの本格短編である。全十二編中、もっとも高く評価されるのは「シラズの館」であろう。犯人追究の決め手を欠くパーカー・パイン氏がロンドンの状況を物語って、その反応で相手の正体を看破する推理のきれのよさは、クリスティの作品中でも第一級のものである。つぎは、最後の「デルフォイの神託」というところか? このクリスティ得意のミスディレクションにひっかからない読者がいるとしたら、そのひとは推理小説を読む楽しみを喪失した不幸な人間として、パーカー・パイン氏のもとに相談に行かなくてはなるまい。(厚木淳)