アガサ・クリスティ
ポワロ参上! 3
目 次
呪われた相続
潜水艦の設計図
ヴェールをかけた貴婦人
プリマス急行
呪われた相続
僕はポワロと共同して、これまでに、多くの怪事件を調査してきたが、そのなかでも、数年の長きにわたって、僕らの関心を持続させ、そして、ついにはポワロのもとへ持ちこまれて最後の謎をとくにいたった、あの驚くべき一連の事件に匹敵するものはあるまいと思う。僕らが、リムジュリア一家の歴史に、関心を持ったそもそものはじめは、戦時中のある晩のことだった。ポワロと僕はその当時、再会したばかりで、二人はベルギー時代の昔日の旧交を大いにあたためたのである。
彼は陸軍省に依頼されて、ちょっとした事件を扱ったが――陸軍省が完全に満足するように、それを、かたづけたところであった。そこで、僕らはカールトン・クラブで、高級将校を一人まじえて夕食をとっていた。将校は食事の合い間に、ポワロに向かって、しきりに賛辞をあびせていた。その将校は、誰かと約束があって、急いで出かけなければならなかった。そこで僕とポワロは、将校の例にならって出かける前に、のんびりと食後のコーヒーを飲んだのである。
僕らが食堂から出ようとしていると、聞きおぼえのある声が僕を呼んだ。ふりむいて見ると、それはフランスで知り合った青年、ヴィンセント・リムジュリア大尉だった。大尉は年上の男と、いっしょにいたが、顔の似ている点から、それが血縁の人間であることは一見して明らかだった。はたしてそのとおりだった。その人物は、若い大尉の叔父にあたるヒューゴー・リムジュリア氏だと、僕らに紹介された。
僕はリムジュリア大尉とは、さして懇意というわけではなかった。しかし、彼は気持ちのいい青年で、その態度にはどことなく、夢みるようなところがあった。大尉は、なんでも十六世紀の宗教改革以前から、連綿としてつづいている由緒正しい裕福な名家の出だと、そう聞いたことがあるのを僕は思い出した。ポワロと僕は、かくべつ急ぎの用事もなかったので、青年の招きに応じて、二人の新来の友人のテーブルに腰をおろした。叔父のヒューゴーは四十年配の、いかにも学者らしい、猫背の男だった。そして目下のところ政府の依頼で、ある化学上の研究にたずさわっているらしかった。
われわれの会話は、長身の色の浅黒い青年が、つかつかとテーブルのところへやって来たので中断されてしまった。その青年は明らかに、なにか精神の動揺に苦しんでいるようなようすだった。
「よかった! お二人とも、ここにいたのか」青年は大声をあげた。
「どうしたんだい、ロジャー?」
「君の父上がね、ヴィンセント。馬から落ちたんだ。若い馬から」その青年が二人をわきのほうに連れて行ったので、あとの言葉は聞きとれなかった。
数分のうちに、大尉とその叔父は、あたふたと僕らにわかれを告げた。ヴィンセント・リムジュリアの父親が、若い馬に試乗中、致命的な事故にあい、明朝までは命が保《も》つまい、という話だった。ヴィンセントは顔面蒼白、この知らせを受けて呆然自失のありさまだった。ある意味で、これは僕には驚きであった――というのは、フランスにいた当時、父親に関して大尉が洩らした二、三の言葉から、彼と父親との仲が、それほどうまくいってはいないらしいと、僕は思っていた。だから、今の彼の父親を思う感情のひれきが、いささか僕には意外だったのである。
色の青黒い青年は、大尉の従兄のロジャー・リムジュリア氏だ、と紹介された。そして彼はその場に残ったので、三人は、いっしょにぶらぶらそとへ出て行った。
「ちょっと妙なことですよ、これは」とロジャー青年はいった。「たぶん、ポワロさんの興味をひくだろうと思いますね。あなたのおうわさは、ポワロさん、ヒギンスンから、うかがいました」(ヒギンスンというのはさいぜんの高級将校のことである)「彼は、あなたが心理学の達人だと申しております」
「いかにも、私は心理学を勉強しております」ポワロは周到な返事をした。
「僕の従弟の顔をごらんになりましたか? 彼は徹底的に打ちのめされていたでしょう、ね? そのわけをご存じですか? じつは、古色蒼然たる因縁話があるんですよ。お聞きになる気がございます?」
「よろこんでうかがいたいですね」
ロジャー・リムジュリアは自分の時計を見た。
「時間はたっぷりあります。僕はヴィンセントたちと、キングズ・クロス駅で落ちあうことになっています。さて、ポワロさん、リムジュリア家は旧家です。中世時代にさかのぼりますが、その頃、リムジュリァ家の当主が、自分の妻の貞操に疑いを抱いたのですね。妻は自分の潔白を誓いましたが、夫は耳をかさなかった。子供が一人ありましたが、――夫はその子は自分の子供ではない、だから絶対に自分の跡を継がすまいと誓ったのです。それから彼がなにをしたかは、忘れましたが――きっと、母と子を生き埋めにするとかなんとか、そういった、中世の人間の考えそうなことを実行したんでしょうね。とにかく、彼はこの二人を殺してしまったのです。妻はあくまでも、自分の無実を訴えながら、リムジェリア家を永遠に呪いながら死んで行きました。リムジュリア家の嫡男《ちゃくなん》は、けっして家のあとを継がないだろう――と、そういう呪いだったのです。
さて、月日がたつにつれて、その夫人の潔白は青天白日のごとく明らかになりました。その夫は、きっと苦行衣を着て、死ぬまで僧院の庵室の中で祈祷にあけくれる余生を送ったと思います。しかし、奇妙なことに、その日から今日まで、リムジュリア家の長男で、無事に家督を相続した人間は一人もいないのです。相続は、いつも叔父や甥や次男坊の手に移って、長男は一度だってしたためしがないのです。ヴィンセントの父親は五人兄弟の次男坊でして、長兄は子供の頃に死んでいます。もちろん、ヴィンセントは戦争中ずっと、ほかの者はさておいても、自分が呪われた星の下に生まれた人間であることはまちがない、とそう思いこんでいました。しかしおかしなことに、二人の弟が戦死しても、彼自身は無事にすんだのです」
「じつに、興味深い家系ですね」ポワロは考え深げにいった。「しかし、今のところは、大尉の父上が瀕死の状態なんですから、ヴィンセント大尉が長男として相続するわけでしょう?」
「そのとおりです。呪いも昔話になりました――この生活難の現代には、そんなものは通用しませんよ」
ボワロは頭をふった。まるで相手のおどけた口調には、賛成しかねるといわんばかりであった。ロジャーは自分の時計に、また目をやって、もう失礼しなければならない、といった。
翌日、ヴィンセント・リムジュリア大尉の悲惨な死の知らせが、僕らの耳にとどき、この話はさらに尾をひくことになった。大尉はスコッチ郵便車に乗って北に向かっていたところ、夜分に客室のドアをあけて、線路にとびおりたのであった。戦闘神経症に加えて父親の事故を知ったショックが、一時的な精神錯乱をひき起こしたものと思われた。大尉の父親の兄弟にあたる新しい相続人ロナルド・リムジュリアに関連して、同家につきまとう奇妙な迷信話が、人の口の端にのぼった。ロナルドの一人息子はソンムの戦いで戦死していたのである。
僕はヴィンセント大尉の生涯の最後の晩に、ぐうぜん、大尉と再会したということが機縁となって、リムジュリア家に関することになら、なんにでも、僕らが関心を抱くようになってしまったのだ、と思う。なぜなら、それから二年後に、ロナルド・リムジュリアが死んだとき、僕らは多少の興味をもってそれに注目したからである。ロナルドは本家の遺産を相続した当時、すでに不治の病いにおかされていた。そしてロナルドのあとをついだ弟のジョンは、かくしゃくたる老人で、イートン校に在学するむすこが一人あったのである。
非業の宿命が、リムジュリア家の上に、暗い影を投げていることはたしかだった。父親が相続した、ちょうどそのつぎの休日に、その少年は、銃が暴発して致命傷を負ってしまった。つづいて、その父親も、すずめ蜂に刺されて頓死するにおよび、一家の資産は、あげて、五つ年下の末弟ヒューゴーの手に渡ることになった――それは忘れもしない、例の運命の夜、カールトン・クラブで僕らが会った人物である。
しかし、僕らの個人的な関心は、リムジュリア家をおそった一連の驚くべき不祥事のうわさを口にする程度にとどまっていた。ところが、僕らが、もっと積極的に事件に介入することになるときが迫っていたのである。
ある朝、「リムジュリア夫人」の来訪が告げられた。夫人は年の頃三十歳前後、長身のきびきびした女性で、その態度は、決断力と健全な常識の持ち主であることを示していた。夫人の言葉には、かすかにアメリカなまりがあった。
「ポワロさんですの? はじめまして。宅の主人のヒューゴー・リムジュリアは数年前に、一度お目にかかったことがあるそうですが、でもそのことはお忘れでございましょうね?」
「はっきりと覚えておりますよ、奥さま。カールトン・クラブでお目にかかりました」
「まあ、なんてすばらしい記憶力でございましょう。ところで、ポワロさん、わたくし、いま悩んでおりますの」
「なんでございますか、奥さま?」
「うちの長男のことなんですが――わたくし男の子が二人ございます。上のロナルドは八歳で、弟のジェラルドは六歳です」
「そのさきをどうぞ、奥さま。なんでロナルド君のことでお悩みになる必要があるのです?」
「ポワロさん、ロナルドはこの半年のあいだに、三度も死にはぐっております。一度は溺れかけて――わたくしども一家が、今年の夏、海水浴にまいったときのことです。二度目は子供部屋の窓から落ちました。そして三度目は食中毒で死にかけたのです」
おそらく、ポワロの顔には、彼が内心考えていることを、あまりにも雄弁に物語る表情が浮かんでいたのだろう。なぜなら、リムジュリア夫人が、ほとんど息もつかずに急いでしゃべったからである。
「もちろん、わたくしのことを、ものごとを針小棒大に考えるばかな女だとお考えでしょうが」
「いえ、とんでもない。どんな母親でも、そんな事故が重なれば、動顛《どうてん》するのが、当然というものです。ですが、私がどうすれば、奥さまを助けてさしあげることができるものか、見当がつきかねます。|le bon Dieu《ル・ボン・ディユー》(全能の神)ではございませんから、波をしずめることはできません。子供部屋の窓については、鉄棒でもおかいになることをおすすめします。それから食事の件は、――つまり、親ごさんのご注意いかんということではございませんかな?」
「でも、どうしてこんな事故が、ロナルドにばかりおきて、弟のジェラルドには起こらないんでしょうか?」
「ぐうぜんでございましょう、奥さま――|le hasard《ル・アザール》(偶然)で!」
「そうお思いですの?」
「では奥さま、あなたとご主人さまはどうお考えなのです?」
リムジュリア夫人の顔が、かすかに曇った。
「夫のヒューゴーに訴えても、無駄ですの――耳を貸そうといたしません。おそらく、お聞きおよびのことと思いますが、リムジュリア家には、呪いが――長男はけっして相続できないという呪いがかけられていると思われています。ヒューゴーは、その呪いを信じています。リムジュリア家の来歴にとりつかれて、極度に迷信深くなっているのです。わたくしの懸念を申しましたところ、夫は、それは呪いのせいで、わたくしどもは、それから逃れられないのだ、と申すだけです。でも、わたくしはアメリカ生まれの女ですわ、ポワロさん。アメリカでは呪いなんてものがあるとは、本気にしておりません。呪いというものは、由緒正しい旧家の景物だくらいにしか考えていないのです――つまり、その家のレッテルのようなものではございませんかしら? わたくし、以前にはミュージカル・コメディのほんの端役《はやく》の女優でございましたが、その頃、ヒューゴーと知り合いました――そして、わたくし彼の家系の呪いなんて、たんなる言葉のあやにすぎないと思っておりました。冬の夜に、炉辺で話すのにふさわしい昔話のようなものだと。でも、それが、いざわが子の上にふりかかってまいりますと――ポワロさん、わたくし、子供たちがかわいいのです。でも、わたくしには手も足もでません」
「そこで、あなたは家代々の伝説を信じる気持ちにおなりになったのですね?」
「伝説なんてものが、ツタの茎をノコギリで切ることができますでしょうか?」
「なんとおっしゃいました、奥さま?」とポワロは大声を出した。その顔には驚愕《きょうがく》の色が浮かんでいた。
「わたくし、伝説が――それとも、亡霊と呼んでもかまいませんが――ツタの茎をノコギリで切ることができるもんでしょうか、と申しあげたんですわ。海水浴に行ったときのことを申しているのではございません。ロナルドは四つのときから泳げるのですが――そうはいっても、男の子が無茶をして、とんでもない目に会うことは、ままあることです。子供たちは二人とも、たいへんな腕白ですの。二人はツタの茎を利用して、よじのぼったりおりたりできることを発見しました。それで平生そうしておりました。ところがある日のこと――そのときは弟のジェラルドが家におりませんでしたが――ロナルドがあまり、ひんぱんにのぼりおりしましたら、茎が切れて、墜落したのです。さいわい、けがはたいしたことはございません。でも、わたくし自分で行ってツタを調べてみました。すると、茎が刃物で切られているのです。ポワロさん、故意に切断されていたのですわ」
「その点のお話は、たいへん重大でございますぞ、奥さま。弟さんのほうはそのとき、家の近くにはおられなかった、とおっしゃいましたね?」
「はい」
「で、食中毒のときはいかがでした、やはり家にはおりませんでしたか?」
「いえ、二人ともおりました」
「おかしいな」とポワロはつぶやいた。「ところで奥さま、お宅に同居されているのは、どんな方たちですか?」
「保母のミス・ソーンダーズと、夫の秘書のジョン・ガーディナー――」
夫人はちょっと当惑したのか、そこで言葉をとぎらせた。
「それからほかには、奥さま?」
「ロジャー・リムジュリア少佐が――ポワロさんは、このかたにあの晩、いっしょにお会いになったと思いますが――たびたび泊まりにまいります」
「なるほど――そのかたは、お従弟さんでございましたね?」
「遠縁の従弟ですわ。リムジュリア家の分家の人間ではございませんが、でも、いまとなっては、あのかたが、夫の一番近い親戚だと思います。とても、いいかたで、家族の者みんなから好かれております。子供たちは、それはもうたいへんな、なつきようですわ」
「お子さんがたにツタをよじのぼることを教えたのは、ロジャー氏ではありますまいね?」
「ロジャーかもしれません。危い遊びを教えることは、しょっちゅうですから」
「奥さま、私はさきほど失礼なことを申しあげましたが、どうかお許しください。たしかに、現実に危険が迫っています。私は奥さまをお助けできるものと考えます。そこで奥さまに、私ども両名を、お宅に、ご招待くださって、滞在させていただきたい、と申しあげます。ご主人は反対なさいますまいね?」
「そんなことはございませんわ。でも宅はそんなことは、無駄だと思いますでしょう。わたくし、主人が手をこまねいて、子供を見殺しにするような態度が、たまらなく腹立たしいのです」
「おちついてください、奥さま。私どもに組織的な準備をさせていただきたいのです」
僕らは、たちどころに、身支度した。そして、翌日には汽車に乗って北部へ急行していた。ポワロは夢想にふけっていたが、それからさめると、だしぬけにこういった。
「ヴィンセント大尉が墜落したのは、これと同じような列車からだったね?」
彼は「墜落」という言葉を、かすかに強調した。
「まさか、事故死じゃなかったというんじゃあるまいね?」僕は反問した。
「ヘイスティングズ、もしもだね、リムジュリア家の人間の死因には――謀殺のうたがいが考えられる場合もある、といったら、君は驚くかね? たとえば、ヴィンセント大尉の場合だ。それから、イートン校に在学していた少年のことだ――銃の暴発というものは、つねにまぎらわしいものだよ。かりにロナルド少年が子供部屋の窓から落ちて死んだとしたら――これほど自然で、不審の念を抱かせないものはないだろう?
しかしだ、なぜ、片方の子供だけに事故が起こるんだろうね、ヘイスティングズ? 上の子の死によって、利益をうるのは誰か? それは弟だ、七つになる子供だよ! そんなばかなことが!」
「やつらはあとで、弟のほうも殺すつもりでいるのかもしれないな」
僕はそういったが、やつらとは誰をさすのかというだんになると、きわめて漠然とした考えしか持っていなかった。
ポワロは不満な面持ちで首をふった。
「食中毒の件がある。アトロピンを使うと、かなり食中毒と似た症状を呈するもんだ。ふむ、どうしても、私たちが現場にのぞむ必要があるな」
リムジュリア夫人は、ひどく喜んで僕らを迎えてくれた。そして、夫の書斎に案内してから、夫と僕らを残して退出した。ヒューゴー・リムジュリア氏は数年前に会ったときから見ると、がらっと変わっていた。猫背がさらに丸くなり、顔は妙なうすねず色をおびていた。ポワロが、この家に来た理由を説明しているあいだ、彼はじっと耳をかたむけていた。
「いかにも、実際的な常識家の家内には、ピタリですな!」やがて、彼はそういった。「ぜひとも、ご滞在ねがいますよ、ポワロさん。ご足労いただいたことを感謝いたします。しかしこれは、いまさらどうしようもないことなんです。道にそむいた者の運命は苛酷です。われわれリムジュリア家の人間は――なんぴとも、その運命をまぬかれえぬことを知っておるのです」
ポワロは、ノコギリで切断されたツタのことを持ち出した。しかしヒューゴーは、さして意に介さぬらしい。
「庭師の不注意でしょう――いかにも、刃物で切られたのかもしれません。しかし、その背後にかくされた意図は明らかです。このことは申しあげておきますが、ポワロさん、それはもう、あまり先のことであるはずがないのです」
ポワロは彼をしげしげと見つめた。
「なぜ、そんなことをおっしゃいます?」
「それというのも、わし自身の運命が定まっているからです。わしは昨年、医者に診てもらって、不治の病に冒されていることがわかりました――死ぬのもそう先のことではありません。しかし、わしが死ぬ前に、ロナルドは、死ぬでしょう。そしてジェラルドがあとを継ぐのです」
「では、二番目のお子さんに、もしものことがあったら?」
「ジェラルドには、なにごとも起こりますまい。あの子には、死の前兆は皆無です」
「しかし、もし、起こったら」ポワロは執拗にきいた。
「わしの従弟のロジャーが、つぎの相続人です」
僕らの会話は中断された。とび色のちぢれ髪で、背が高く、押し出しのいい男が、書類を持って部屋にはいって来たのである。
「それは、あとまわしにしよう、ガーディナー」ヒューゴーはそういってから、つけ加えた。「わしの秘書のガーディナーです」
秘書は軽く頭をさげて、愛想のいい言葉を二、三いって、ひきさがった。ととのった顔だちにもかかわらず、その男には、どことなく虫の好かないところがあった。それからまもなく、ポワロが、いっしょに美しい庭内を歩いているとき、僕はそのことをポワロにいった。いささか驚いたことに、ポワロも同感の意を表したのである。
「そうだとも、ヘイスティングズ、君のいうとおりだよ。私もあの男は好かんね。好男子すぎるよ。ああいう男は、いつも楽な仕事向きにできているのさ。おや、子供たちがいるぞ」
そのとき、二人の子供をつれてリムジュリア夫人が僕のほうへやって来た。二人とも愛くるしい少年で、弟のほうは母親そっくりに黒い髪だが、上の子はとび色のちぢれ髪だった。二人はちゃんと行儀よく握手をした。そして、たちまち、ポワロになついてしまった。おつぎに保母のミス・ソーンダーズに紹介された。しかし、これはなんともえたいのしれない婦人だった。これでこの家の人間は、ぜんぶだった。
数日間、僕らは楽しくくつろいですごした――もとより、油断はしなかったが、なにも起こらなかった。二人の少年は幸福な日々を送り、おかしなこともなさそうだった。僕らが到着してから四日目に、ロジャー・リムジュリア少佐が泊まりに来た。彼はいくぶん変わってはいたが、それでも、あいかわらず、のんびりした陽気な性分で、ものごとを、なんでも軽く扱うくせは抜けていなかった。明らかに、少佐は少年たちの大のお気にいりだった。子供たちは、彼の到着を知るや、歓声をあげて出迎え、すぐさま、庭の中でインディアンごっこをしようと、ひっぱり出してしまった。僕はポワロが、さし出がましく、そのあとについて行くのに気がついた。
翌日、二人の少年も含めて家族全員が、リムジュリア家と地所つづきのクレイゲイト夫人のお茶の会に招かれた。リムジュリア夫人は、僕らにもぜひ、行くようにすすめてくれた。しかし、ポワロがそれを断わって、自分は家に残っているほうがいいからというと、夫人はむしろほっとしたらしかった。
みんなが出かけてしまうと、ポワロは仕事にとりかかった。彼の仕事ぶりを見て、僕は頭のいいテリア犬を連想した。たしかに、ポワロが調べ落とした場所は、邸内にはどこにもなかったと思う。ところが、調査はすべて静寂かつ組織的に遂行されたので、彼の活動はまるきり気づかれなかった。しかし、けっきょく、不満足なままで終わったことは、明らかだった。僕らはテラスで、お茶の会には呼ばれていなかったミス・ソーンダーズと、いっしょにお茶を飲んだ。彼女は、
「坊ちゃんがたは、どうしても遊ぶといってききませんのですよ」彼女特有のボソボソした声で、そうつぶやいた。「でも行儀よくお遊びになって、花壇を荒らしたり、蜜蜂の巣のそばには行かないように――」
お茶を飲んでいたポワロが、そのまま動かなくなってしまった。まるで幽霊を見た人間のような顔つきだった。
「蜜蜂?」彼はかみつくようにきいた。
「はい、ポワロさま、蜜蜂ですわ。巣箱が三つございます。クレイゲイトの奥さまは、たいへんそれがご自慢で――」
「蜜蜂?」ポワロがまた、大声をあげた。それから、つとテーブルからはなれると、両手で頭をかかえて、テラスを行きつもどりつしはじめた。僕には、なぜポワロが、たんに蜜蜂の話が出ただけで、そんなに興奮するのか、わけがさっぱりわからなかった。
ちょうどそのとき、帰ってくる車の音が聞こえた。みんなが車からおりてくると、ポワロは玄関の石段に立っていた。
「ロナルドが刺されたよ」とジェラルドが興奮して大声をあげた。
「なんでもありませんわ。腫《は》れてもきませんもの。アンモニアをつけておきました」とリムジュリア夫人がいった。
「ちょっと見せてくださいよ、坊ちゃん。刺されたのはどこですか?」とポワロ。
「ここだよ、首のわきのとこ」とロナルドはさも重大そうにいった。「でも傷はないの。パパがね、『じっとして――蜂がついてるよ』っていったの。それで僕、じっとしてたら、パパがとってくれたんだけど、その前に刺したんだよ。でもたいしたことないや、ただ針でチクッとさしたみたいだもん。僕、泣かなかったよ。だって、僕もう大きいんだし、来年は学校へ行くんだもん」
ポワロは少年の首すじを調べて、それからまたうしろへさがった。そして僕の腕をつかまえて、小声でいった。
「今晩だよ、君、今晩、ちょっとひと仕事だ! これは内しょ――誰にも」
彼はそれ以上話すことを拒絶した。そこで僕は夜までずっと好奇心にかられて、いても立ってもいられない思いをしたのである。ポワロが早目に部屋に引きあげたので、僕もそれにならった。二人が階段をあがって行くとき、彼は僕の腕をつかまえて指令をあたえた。
「そのまま服を脱がないこと。たっぷり時間をおいてからあかりを消して、ここで私といっしょになるんだ」
僕はいわれたとおりに、やった。それから、時間を見はからつて行ってみると、ポワロはすでに待っているところだった。彼はしゃべらないようにと、身ぶりで合図した。そして二人は、抜き足さし足で子供部屋のほうへと行った。ロナルドは専用の小部屋にやすんでいた。僕らはその部屋にしのびこんで、いちばん暗いすみのほうへ陣どった。子供はすやすやと寝息をたてている。
「たしかに、ぐっすり眠っているね?」と僕はささやいた。
ポワロはうなずいた。
「薬のせいだよ」
「どうして?」
「そのときに大声を出さないように――」
「そのときって?」ポワロの言葉がとぎれたので、僕はそうきいた。
「皮下注射を刺したときにだよ、君! しっ、これ以上話しをするのはよそう――もっともこれから、なにかが起こるはずだ、という確信があるわけではないがね」
しかし、この点では、ポワロはまちがっていた。十分もたたぬうちにドアが、そっとあいて、誰かが室内にはいって来た。せわしげな荒い息づかいが聞こえた。足音はベッドのほうへ行って、それから突然、カチッという音がした。小さな電気ランターンの光が寝ている子供を照らした――が、その持ち主は依然として影になって見えない。その人物はランターンをおろした。そして右手に注射器を持って、左手を子供の首筋にあてた――ポワロと僕は同時にとびかかった。ランターンが床の上にころがった。僕らは、まっくら闇の中で侵入者と格闘した。相手はおそるべき力の持ち主だったが、とうとう押えこんでしまった。
「あかりを、ヘイスティングズ。この男の顔を見なきゃならん――これが誰の顔だか、それはよくよく知っているつもりなんだが」
ランターンを手さぐりしながら、僕自身もそれが誰だかわかるような気がした。なんとなく虫が好かないところから、僕はちょっとあの秘書ではないかと疑ってみたが、そのあとで、幼い二人の従弟の死によって利益を得る立場にいる男こそ、僕らが探していた怪物にちがいないと思いこんだ。
僕の片足がランターンにぶつかったので、それをひろいあげて、スイッチをいれた。その光に照らし出された顔は――なんと、それはヒューゴー・リムジュリア、ほかならぬ少年の父親ではないか!
ランターンはもうすこしで僕の手から落ちるところだった。
「そんなばかな」僕はかすれた声でいった。「そんなばかな!」
ヒューゴーは意識不明だった。ポワロと僕は彼をかかえて、その部屋まで運び、ベッドの上に寝かしつけた。ポワロはかがみこんで、そっと彼の右手からなにかをもぎりとり、それを僕に示した。注射器だった。僕は思わず身ぶるいした。
「中身はなんなの? 毒薬かい?」
「蟻酸《ぎさん》だと思うね」
「蟻酸?」
「そうなんだよ、おそらく蟻から採取したんだろうな。ヒューゴーが化学者だったことは君も覚えているだろう。これが成功すれば、死因は蜜蜂の刺し傷のせいにされただろう」
「なんだってまあ、自分の子供を! 君にはわかっていたのかい?」
ポワロは重々しくうなずいた。
「そうさ。むろんヒューゴーは正気ではない。どうやら彼は、リムジュリア家の伝説にとりつかれてしまったんじゃないかと思うよ。なんとかして財産を相続したいという強烈な欲望が、彼を駆って、一連の犯罪をおかさせてしまったんだ。おそらく、その考えが、はじめて彼の頭に浮かんだのは、あの夜、ヴィンセント大尉といっしょに北部行きの汽車に乗っているときだろう。彼は自分の期待を裏切られる予想に耐えられなかったんだな。ロナルドの息子はすでに死んでいるし、ロナルド自身は死にかけている病人だ。つぎにヒューゴーは銃の暴発というお膳立てをして、それから――これは、じつに今まで疑っていなかったんだが――蟻酸を頸部《けいぶ》に注射するという同じ手を使って、兄のジョンをまんまと殺したんだ。かくして彼の野望は実現した。彼はリムジュリア家の主人公におさまることになった。しかし彼の勝利も先の長いものではなかった――自分が不治の病にとりつかれていることがわかったからだ。彼は気狂いの固定観念――長男はリムジュリア家の相続人にはなれない、という考えを抱いていたんだ。海水浴のさいの事故も彼のしくんだことじゃないかと思う――うんと遠くまで泳いでみろと、子供をおだてたんじゃないかと思うよ。それが失敗したので、ツタを切り、そのあとで食べ物に毒を入れたんだ」
「悪魔のしわざだ!」僕は身ぶるいして、そうつぶやいた。「しかも、じつにぬけめなく計画を立てたもんだな!」
「いかにもね、君、気狂いのとほうもない正気くらい驚くべきことはないよ! 正気の人間のとほうもない狂気をのぞけばね! 私は、彼の頭がまったく常軌を逸するようになったのは、ごくさいきんのことで、そもそものはじめは、狂っているにしても、まだ組織的なところがあったと思うね」
「それじゃ僕がロジャーを――あの立派な男を疑ったことは」
「それはまあ、当然の仮定だよ、君。彼もまたあの夜、ヴィンセントと、いっしょに汽車に乗っていたんだし、それにヒューゴーとヒューゴーの子供たちが亡くなれば、つぎの相続人なんだからね。しかし、この仮定には事実の裏づけがない。ツタはロナルドだけが家にいるときに、ノコギリでひかれた――しかし、子供が二人とも死んでこそ、ロナルドの利益になろうというものだ。同じように、毒がしこまれたのもロナルドの食べ物だけ。そして今日一同が帰宅してみると、ロナルドが蜂にさされたというわけだが、それを裏づけるのはただ父親の言葉だけだよ。私はすずめ蜂に刺されて死んだジョン・リムジュリアのことを思い出して――そこで、はっきりわかったんだ!
ヒューゴー・リムジュリアは、私立の精神病院に移されて、数カ月後にそこで亡くなった。未亡人は一年後に、とび色の髪の秘書、ジョン・ガーディナー氏と再婚した。ロナルドは広大な父親の不動産を相続して、その後はずっと健在である。
「やれやれ、これでもう一つの迷いも消したね」僕はそうポワロにいった。「君は首尾よくリムジュリア家の呪いを処理したわけだ」
「そうかな」とポワロはひどく、考え深げにいった。「うまくやったかどうか、どうもひどくうたがわしいな」
「それはどういう意味かね?」
「いいかい、君、私の答えは意味深長な一言――赤《レッド》だよ!」
「血のことかい?」僕は畏怖のあまり声を殺した。
「あいかわらず、君はメロドラマ調の想像力を働かせるんだな、ヘイスティングズ! 私はもっとずっと散文的なこと――ロナルド少年の髪の色のことを指していったんだよ」
潜水艦の設計図
特別配達の使いが一通の手紙を屈けて来た。ポワロはそれに目を通した。読むにつれて、彼の目には興奮と興味の色が浮かんできた。そして言葉すくなに、配達人に声をかけてひきとらせると、僕のほうを向いた。
「君、大至急、荷物の支度をまとめてくれたまえ。これからシャープルズ荘まで行くんだ」
アロウェー卿の有名な別荘の名前が出たので、僕はびっくりした。今回、あらたに組織された国防省の大臣であるアロウェー卿は、内閣の有力な閣僚であった。大工業会社の社長サー・ラルフ・カーティスとして、下院で頭角を現わしたアロウェー卿は、今や、大物としての呼び声が高く、総理のデイヴィッド・マカダム氏の健康が、はたして巷間《こうかん》に伝えられているようなものであれば、次期内閣首班の最有力候補と目されている人物である。
そとでは、大型のロールスロイスが、待機していた。車が夜の闇の中をすべり出すと、僕はポワロに矢つぎばやに質問をあびせた。
「いったい、こんなおそい時間に、なんの用だろうね?」時刻は十一時をまわっていた。
ポワロは頭をふった。
「緊急の用であることはちがいないな」
「数年前、アロウェー卿が下院議員当時、なにかいまわしいスキャンダルがあったっけ――たしか、配当をごまかしたとかいう話だったが。けっきょく、身のあかしはかんぜんに立ったんだけど、たぶん、またそんな類《たぐい》のことがもちあがったんじゃないかな?」
「それだったら、なにもこんな深夜に、呼び出す必要はまずないだろうよ、君」
僕も、なるほどと思わざるを得なかった。そこであとの行程は、沈黙のうちに経過することになった。ロンドンをはなれるや、強力なエンジシを持つ車は、急速にスピードをあげて、十二時前すれすれに、シャープルズ荘に到着した。
カトリックの坊主みたいな執事が、すぐにアロウェー卿が待ち受けている小さな書斎に案内した。卿は、はじかれたように椅子から起きて、僕らを出迎えた――長身|痩躯《そうく》、見るからに権力と活力が身内からほとばしり出ているような人物であった。
「ポワロさん、ようこそおいでくださった。政府があなたの助力をおねがいするのは、これで二度目ですな。戦時中にあなたがしてくださったことは、夢にも忘れておりません。さいしょは総理が、あの奇想天外な方法で、誘拐されたときでした。あなたのすばらしい推理と――それに機敏な処置とでもいいますか――それによってあの窮境が打開できたのです」
ポワロの目がピカッと光った。
「すると閣下、こんどもまた――機敏な処置を必要とする新しい事件ですか?」
「最大の緊急事です。ハリー卿と私は――あ、ご紹介しよう――こちらは軍令部長のハリー・ウェアデール卿――こちらはポワロさんと、それから――大尉の――」
「ヘイスティングズです」と僕は自分で名のった。
「おうわさはかねがね聞いておりますよ、ポワロさん」ハリー卿は握手をかわしながら、そういった。「じつに、不可解きわまることが起こりましてな。これを解決してくだされば、お礼の申しようもありません」
僕は一目見てこの軍令部長に好感を持った。古武士の風格をそなえた武骨な軍人である。
ポワロは、もの問いたげなまなざしで、二人を見つめた。するとアロウェー卿が、あとを受けて説明した。
「ポワロさん、いうまでもなく、これからお話しすることは、ぜんぶ、極秘のことと心得ていただきたい。じつは重要書類が紛失しました。新しい乙型潜水艦の設計図が盗まれてしまったのです」
「いつのことです?」
「今夜――それも三時間たらずまえのことです。ことの重大さは、あなたにもおわかりいただけるでしょう。設計図の紛失は、絶対に外部に洩れてはならんのです。なるべくかんたんに、前後のもようをお話ししてみましょう。私がこの週末に招待した客人は、ここにおられるハリー・ウェアデール卿と奥さんと――ご子息さん、それにロンドン社交界では有名なコンラッド夫人です。夫人がたは早目に寝室に引きとりました――だいたい十時ごろです。ご子息のレナルド・ウェアデール君もそうです。ハリー卿は、新型潜水艦の構造について、私と話し合う目的もあり、この書斎にやって来ました。そこで私は秘書のフイッロイ君に、そこのすみの金庫から設計図をだして、すぐに使えるように整理しておくよう命じました。関係書類も、いっしょにです。秘書が、それをしているあいだ、卿と私はテラスを散策して葉巻をふかし、暖かい六月の夜気をたのしみました。やがて葉巻もつきたので、おしゃべりを切りあげ、仕事にとりかかることにしたのです。そのとき、ちょうどテラスのはしからふりむくと、書斎のフランス窓から人影がでてきて、テラスを横切り、そのまま消えていく姿が見えたような気がしました。ですが、私はほとんど意に介さなかった。フイッロイが部屋にいるもんだとばかり思いこんでいたので、なにか、ふつごうなことが起ころうとは、夢にも思わなかったのです。その点はむろん、慙愧《ざんき》にたえません。ところで、それから二人がテラスをひき返して、この窓から部屋に入ると、ちょうどフイッロイもホールのほうから部屋へ入って来るところでした。
『必要になりそうなものは、ぜんぶ出してあるね?』
『出してございます、アロウェー卿。書類はぜんぶデスクの上にそろっております』秘書はそういってから、就寝のあいさつをしました。
『ちょっと待ってくれ』私はデスクへ行きながらいった。『なにか、いい忘れたもので必要なものがあるかもしれん』
私はデスクの上の書類にざっと目を通して『君はいちばん大事なものを忘れてるじゃないか、フイッロイ。かんじんの潜水艦の設計図を!』
『設計図なら、ちゃんと一番上にございますよ、アロウェー卿』
『いや、見あたらんぞ』私は書類をめくりながらいった。
『でも、たった今、そこへおいたばかりですが!』
『しかしないものはないぞ』
フイッロイは当惑げな面持ちで、そばへよって来ました。信じられぬ事態です。私たちはデスクの上の書類をめくり、金庫の中も調べてみました。しかしとうとう設計図が紛失したこと――しかもそれは、フイッロイが部屋をあけた約三分間というわずかの隙《すき》のあいだの出来事だったことを、いやでも認めざるをえなくなってしまったのです」
「なぜ秘書のかたは、部屋をあけました?」ポワロはすばやくきいた。
「わたしもそれをきいたのです」ハリー卿が大声でいった。
「こういうことなんです」アロウェー卿がいった。「フイッロイがデスクの上に書類を並べおわったときに、女の悲鳴が聞こえたのではっとした。ホールに飛び出して行くと、階段の上にコンラッド夫人のフランス人の小間使がいる。娘はまっさおな顔をして気もそぞろに、いま幽霊を見た――背の高い白ずくめの人影が音もなく歩いて行った、というんですな。そこでフイッロイは娘の恐怖を笑いとばして、ばかなことをいうもんじゃないとか、なんとかそんな意味のことを、もすこしましな言葉でいったのです。それから彼はこの部屋へもどって来たが、ちょうどそのとき、私とハリー卿も窓からはいって来た、というわけなのです」
「すると、きわめて、はっきりしているようですね」ポワロは考えこみながらいった。「その小間使が共犯かどうか、それが唯一の問題です。彼女は外で潜伏していた相棒と打ち合わせのうえで悲鳴をあげたのか、それとも、犯人はただ、機会がくるのを待っていただけなのか? 犯人は男でしょうね――閣下がごらんになったのは女ではないでしょう?」
「それはどうともいえません、ポワロさん、ただ――影だったので」
海軍大将が妙な鼻音を立てたので、いやでも、その場の注意を喚起せざるをえなかった。
「閣下もなにかご意見がおありのようですが」ポワロが微笑を浮かべながら静かにいった。「あなたも人影をごらんになりましたか、ハリー卿?」
「いや、わしは見とらんが、アロウェーだって見やせんのです。木の枝が動くかなんかしたんだな。それであとから盗難騒ぎが持ちあがったので、アロウェーは、テラスを通る人影を見たとかいう結論にとびついてしまったのだ。彼は自分の想像にだまされている、それだけのことだよ」
「私は平常、想像力の強い男だとは見られていないよ」アロウェー卿はかすかな微笑を浮かべてそういった。
「そんなことは意味がない、われわれはみな想像力があるんだからな。針小棒大にものをとることは誰にだってあることだよ。わしは長いあいだ、海で暮らして来たので、陸の人間の目よりも、自分の目のほうを信用しておる。わしもテラスを見わたしておったから、もしなにか動いたとすれば、わしの目にとまったはずなんじゃ」大将はやっきとなって、その点を力説した。ポワロは立ちあがり、足ばやに窓のところへ歩いて行った。
「よろしいでしょうか? なるべくなら、この点をはっきりさせておく必要がありますので」
彼はテラスへ出た。一同もそのあとにつづいた。ポワロはポケットから懐中電灯をとり出すと、テラスをふちどっている芝生のはしを照らした。
「犯人はテラスのどの辺を通りました、閣下?」
「フランス窓のまえあたりでしたな」
ポワロは、それからまだ数分間、電灯を照らして、テラスのはしからはしまで歩いて回った。それから灯を消すと、からだを起こした。
「ハリー卿のおっしゃるとおりで――あなたの感ちがいですよ、閣下」ポワロは静かにいった。「今夜は宵《よい》のうちに、かなり雨がふりました。ですから、あの芝生の上を歩いた人間がいるとすれば、かならず足跡が残ったはずです。ところが、そんなものは見あたりません――まるっきりありません」
ポワロの目は卿の顔から大将の顔へと移った。アロウェー卿は当惑の態《てい》で、なっとくできぬらしかった。いっぽうハリー卿は、それみたことかと、悦に入った。
「わしのいうことに、まちがいはないさ。どこにいようと、わしはこの目を信じておる」
この率直な、船乗り気質の権化ともいうべき言葉を聞いて、僕は口辺に微笑が浮かぶのを押えきれなかった。
「そうなると、お邸《やしき》の中にいるかたが問題になります」ポワロはこともなげにいった。「なかへ、もどることにしましょう。さて、閣下、フイッロイ氏が階段にいる小間使と話しているあいだに誰かが、隙をみてホールから書斎へ入ることはできましたでしょうか?」
アロウェー卿は頭をふった。
「まったく不可能です――その場合には、フイッロイのそばを通らなければなりません」
「では、フイッロイ氏自身は――この人は大丈夫でしょうね、え?」
アロウェー卿の顔に血がのぼった。
「あの男のことなら、確信をもって受け合います。彼がいかなる意味にせよ、この事件に関係があるなどとは、絶対にありえないことです」
「なにからなにまで、ありえないことのようですね」ポワロはいくらかそっけなくいった。「おそらく設計図に翼が生えて飛んでいったんでしょうか――|Comme ca《コム・サ》(こんなふうに)!」
ポワロはおどけたケルビム天使よろしく、プウッと息をふいた。
「どう考えても、ありうべからざることだ」アロウェー卿がじれったそうにいった。「しかしポワロさん、かりそめにもフイッロイを疑ってもらってはこまりますよ。まあ考えてもください――もし彼が図面を手に入れたいと思ったらですよ、なにも手をかけて盗まなくたって、設計図を複写すれぱ、それですむことでしょうが?」
「そのとおりです、閣下」ポワロが同感の意を表した。「|bien juste《ビヤンジュスト》(まさに適切なる)お言葉です。閣下が理路整然と組織的な精神の持ち主であることがそれでわかります。|L'Angleterre《ラングルテール》(イギリス)はあなたのようなかたが、いらっしゃるのでしあわせです」
アロウェー卿はこう、とつぜん賛辞を浴びせられて、いささか、めんくらったようだった。ポワロはまた当面の問題にもどって
「みなさんが夕方すわっておられた部屋は――」
「客間のことですか? それがなにか?」
「客間にもフランス窓がございますね。さきほど閣下が、そちらのほうへ歩いて行ったとおっしゃいましたから。そうなると誰かが客間の窓からぬけ出して、フイッロイ氏が不在中に、この窓から書斎に入り、また同じ手で帰って行ったとは考えられませんでしょうか?」
「しかしそれだったら、われわれの目にとまったはずだな」と大将が異議を唱えた。
「あなたがたが背を向けて、べつの道を歩いているときでしたら、気がつきませんでしょう」
「フイッロイは、二、三分間、部屋をあけただけです。われわれがテラスのはしまで行って、もどってくるだけの時間ですよ」
「じっさいは、どうでもよろしいのですが――可能性の問題です、現状では唯一の可能性がその点にかかっています」
「だが、われわれが外に出たときには、誰も客間におらなかった」と大将がいった。
「そのあとで、やってきたのかもしれません」
「あなたのいう意味は、こうですか」アロウェー卿がゆっくりといった。
「つまり、フイッロイが小間使の悲鳴を聞いてとび出したときには、すでに何者かが客間にひそんでいた。そして窓づたいにこの部屋へかけつけて、フイッロイがもどって来る寸前に、客間を脱出した、と?」
「これはまた組織的なお考えです」ポワロは一礼していった。「完全に的《まと》をついたお言葉です」
「おそらく使用人の一人だろうか?」
「それともお客さんの一人でしょう。悲鳴をあげたのは、コンラッド夫人の小間使でした。このコンラッド夫人というかたは、いったい、どんなご婦人でしょうか?」
アロウェー卿はちょっと考えてから、
「さいぜん、夫人は社交界で有名なひとだと、私はいったが、大きなパーティをひらいたり、どこにも顔を出すという意味では、いかにもそうなのです。しかし彼女が、どこから来た人間なのか、どんな素姓なのか、それを知っている人間はほとんどいません。外交団や外務省関係の人間と、極力、交際しています。秘密情報部では、彼女をいささか疑惑の目で見ているようです――なぜそうなのか、とね?」
「なるほど。で、夫人はこの週末に招待されて――」
「そこで――とでもいいましょうか?――彼女を直接この目で観察したいと思ったのです」
「|Parfaitement《パルフェートマン》(なるほど)! すると夫人のほうが、みごとに閣下を出し抜いた、とも考えられますな」
アロウェー卿は憮然たる面持ちだった。ポワロが話しつづけた。
「閣下、夫人に聞こえるようなところで、閣下とハリー卿が、ご相談なさろうとしていたことを、なにか口に出されましたか?」
「いかにもね」と卿はみとめた。
「ハリー卿が『さあ、これから潜水艦の件にとりかかるか!』――とまあ、そんなことをいったな。ほかの人間は部屋から離れていたが、夫人は本をとりにもどって来ていたっけ」
「なるほど」ポワロは考え深げにいった。「閣下、もうだいぶおそい時間ですが――これは急を要する事件です。できればお邸のかたがたに、これからすぐに質問してみたいと思いますが」
「むろん、そうとりはからいましょう」アロウェー卿が答えた。「ただ厄介なことに、われわれは設計図紛失のことを極力、公表したくないのです。ウェアデール夫人とレナード君はいいとしても――コンラッド夫人のほうは、もし事件に関係がないとすると、いささか立場がちがいますからな。なにか重要書類が紛失したというていどにし、書類の内容とか紛失前後の状況にはふれずに話してみたらどうです?」
「私もそれと同じことを申しあげようと思っておりました」ポワロは、にっこり笑った。「じっさい問題として、女性が三人おいでですからね。大将閣下には失礼かもしれませんが、いかに良妻といえども――」
「いや失礼なことはないさ」ハリー卿はいった。「女はみな、おしゃべりだよ、いやはや! だがわしは家内が、もうすこしおしゃべりをして、ブリッジのほうをすこし控えてくれたらと思っておるんだ。しかし今どきの女なんてそんなものじゃよ、ダンスをするか、賭けごとでもしておらんと、楽しくないらしいて。ではジュリエットとレナードを起こしてこよう――よろしいね、アロウェー?」
「たのむ。私はフランス人の小間使を呼びに行こう。ポワロさんも小間使に会っておきたいだろうし、彼女にコンラッド夫人を起こしてもらえばいいからな。じゃ、これからちょっと、見てきましょう。そのあいだに、フイッロイをよこしますからな」
フイッロイ氏は青白い、とっつきのわるい顔をしたやせた青年で、鼻眼鏡をかけていた。彼の話はアロウェー卿がすでに話したことと寸分たがわなかった。
「君の解釈はどうです、フイッロイさん」
秘書は肩をすくめた。
「事情を知った人間が、戸外で機をうかがっていたにきまっていますよ。窓ごしに中のようすを見てとって、私が部屋をあけたときに、しのびこんだのでしょう。アロウェー卿が逃げる犯人の姿を見かけたとき、すぐに追跡しなかったのが、かえすがえすも残念です」
ポワロは彼に、ほんとうのことは教えずに、逆に質問した。
「例の小間使の話は――つまり幽霊を見たとかいう話は本気にしますか?」
「まさか、ポワロさん!」
「いや、私がいう意味は――つまり彼女は本気でそう思いこんでいたのか、という意味ですよ?」
「さあ、その点は、私にはわかりません。彼女はたしかに仰天していたようでした。両手で顔をおおって」
「ははあ!」ポワロはまるで一大発見でもしたみたいに嘆声を発した。「ほんとにそうですか――ふむ、きっと美人でしょうな?」
「かくべつ、そうも思いませんが」フイッロイ氏は押えた声でいった。
「小間使のご主人であるコンラッド夫人には会わなかったでしょうね?」
「いえ、じつは会いました。夫人は二階の廊下にいて『レォニー!』と小間使を呼んでいましたが、私を見ると――むろん隠れてしまいました」
「二階にねえ」ポワロは眉をひそめた。
「むろん、この事件が私にとって、ひどく気まずいものであることは、よくわかっています! でもアロウェー卿が、じっさいに犯人が逃げる姿を、たまたま目撃されたので、たすかったようなものです。いずれにせよ、私の部屋と――それに身体検査を、ぜひやっていただきたいですね」
「ほんとにそう希望しますか?」
「むろんですとも」
それに対して、ポワロがどう答えるつもりであったかはわからない。というのは、ちょうどそのとき、アロウェー卿が姿を現わして、二人の婦人と、レナード・ウェアデール青年が客間で待っていると告げたからである。
二人の婦人はよくにあうネグリジェを着ていた。コンラッド夫人は、三十五歳の金髪美人で、いくぶん|embonpoint《アンボンポワン》(肥満)気味であった。ジュリエット・ウェアデール夫人は、四十にはなっているだろう。背が高く黒髪でひどくやせた婦人だが、いぜんとして美貌は失せていなかった。手足は優雅だった。しかし、なんとなくその態度は落ちつきを欠いて、そっけなかった。むすこのほうは、どちらかというと女性的な顔で、豪放らいらくな父親とは、およそ対照的な存在であった。
ポワロは、さいぜんの打ち合わせどおり、あらましの話を述べてから、皆さんのうちでどなたか、調査の参考になるようなことを見聞しなかったかどうか、それをうかがいたいのだ、と切り出した。
まずコンラッド夫人のほうを向いて、恐縮だが、当時の夫人の行動を正確にお話しねがいたいと申し出た。
「そうですわね……。わたくし二階へ行ってから、ベルを鳴らして小間使を呼びましたわ。でも姿を見せないので外に出て、名前を呼びました。するとあの娘が、階段で誰かと話している声が聞こえましたわ。わたくしの髪にブラシをあてさせてから、さがらせました――なんですかひどくそわそわしておりました。わたくし、それからちょっと本を読んで、それからベッドに入りました」
「あなたはいかがです、ウェアデール夫人?」
「そのまま二階へ行ってやすみましたわ。とても疲れていましたので」
「本はどうしたの、あなた?」コンラッド夫人がにっこり笑いながらいった。
「本ですって?」ジュリエット夫人の顔が赤くなった。
「そうよ、ほら、わたくしがレオニーをさがらせたとき、あなた階段をあがっていらしたじゃないの。本をとりに客間に行ったんだって、そうおっしゃってよ」
「あら、そうでしたわ。本をとりに行きましたの。あたし――うっかりして」
ジュリエット夫人は神経質に両手をぐっと握り合わせた。
「奥さまはコンラッド夫人の小間使の悲鳴をお聞きになりましたでしょうか?」
「いいえ! 聞きません!」
「それはふしぎですね――なぜって、そのときは客間にいらしたはずですからね」
「なにも聞きませんでした」夫人はきっぱりと答えた。
ポワロはレナード青年のほうを向いた。
「あなたはいかがです?」
「なにも聞かないな。二階へ行って、さっさと寝ちゃいました」
ポワロはあごをなでた。
「やれやれ、これでは参考になることは皆無のようですな。どうもこれしきのことで、せっかくお寝み中のところをお邪魔してしまって、なんとも申しわけございませんでした。幾重にもお詫び申し上げます」
さかんに身ぶりを交じえて詫びながら、ポワロは一同を送り出した。そして生意気な顔をした美人の小間使を伴ってもどって来た。アロウェーとウェアデールは夫人たちと、いっしょに部屋から出て行った。
「さて、お嬢さん」ポワロは早口にいった。「ほんとのことを話してくれませんか、うそいつわりのないところをね。なぜあんたは階段で悲鳴をあげたの?」
「あら、旦那さま、あたし背の高い――白ずくめの人影を見たもんですから――」
ポワロは人差し指をせわしくふって、娘の話をやめさせた。
「うそいつわりなしに、といったはずだよ。私があててみようかね? 彼氏はあんたにキスしたろうが? レナード・ウェアデール君のことだがね」
「そうですわ。だからどうだとおっしゃいますの、ムッシュー? キスがどうかしましたの?」
「あの状況では、いかにも自然なことだろうね」ポワロはいんぎんにいった。「私なりここにいるヘイスティングズは――いや、ところでそのときのことを話してくれないか」
「あのかたは背後から来て、あたしをつかまえたんです。それでびっくりして、きゃっといったんですわ。わかっていたら大声なんかあげませんでしたわ――でもまるで猫みたいにとびかかってきたんですもの。そしたら、|M. le secretaire《ムッシュー・ル・スクルテール》(秘書の方)が出てきたので、レナードさまは階段をかけあがって逃げてしまいました。ですから、あたしの口から、そんなことがいえないじゃありませんか? とくに |jeune homme comme ca《ジュンヌ・オンム・コム・サ》――|tellment comme il faut《テルマン・コム・イル・フォー》(あんな立派な若い殿方)に。だから幽霊を見たなんてうそをついたのですわ」
「なるほど、そういうわけか」ポワロはあいそうよくいった。「そのあとで、あんたはご主人の部屋へあがって行ったんだね。ところで奥さんの部屋はどちらかね?」
「廊下のつきあたりですわ」
「すると書斎のま上だな。いや、お嬢さん、これ以上はお引きとめしないよ。|la prochaine fois《ラ・プロシェーヌ・フォア》(このつぎは)大声を出さないことだね」
ポワロは小間使の手をとって送り出すと、微笑を浮かべてもどって来た。
「おもしろい事件じゃないか、え、ヘイスティングズ。私はぼつぼつわかりかけてきたよ。|Et Vous《エ・ヴー》(君は)?」
「レナード青年は階段でなにをしてたんだろうね? 僕はあの男は好かんな、ポワロ。あれは根っからの道楽むすこだよ」
「私も同感だよ、君」
「フイッロイは正直な男のようだね」
「アロウェー卿も、その点は太鼓判を押していたな」
「しかしどうも秘書の態度には、くさいところがある――」
「話がうまくできすぎている、というんだろう? その点は私も感じているよ。ところでコンラッド夫人のほうは、どうみても、かんばしくない」
「それに部屋が書斎のま上ときている」僕は仔細《しさい》らしくいって、ポワロの顔を注視した。
彼はかすかな笑みを浮かべて頭をふった。
「それはだめだよ、君。あの小ぎれいな淑女が、煙突をくぐってしのびおりたり、バルコニーからぶらさがったなんて、まさか本気にはできないやね」
ポワロがそう話していると、ドアがあいて、驚いたことには、ジュリエツト・ウェアデール夫人が、そっと室内に入って来たのである。
「ポワロさん」夫人は心持ち息をはずませていった。「じつは、あなたにだけ、ちょっとお話ししたいのですが?」
「奥さま、ヘイスティングズ大尉は私の分身みたいなものです。この男のことは無視して、この場にいないものとお考えくださってお話しくださればけっこうです。さあ、どうぞおかけください」
夫人は腰をおろしたが、目はじっとポワロにすえたままだった。
「お話というのは、じつは――ちょっと申しあげにくいことですの。あなたがこの事件の担当者ですわね。それでうかがいたいのですが、もしその書類とやらがもどれば、捜査は打ち切っていただけましょうか? つまり、お返しすれば、なにも質問しないでいただけましょうか?」
ポワロは夫人をじっと見すえた。
「それはこういうことですか、奥さま。書類を私の手もとに届けてくださる――そうでございますね? それから私が書類をどこから入手したかは、せんさくしないという条件をつけて、アロウェー卿にお返しする?」
夫人は軽く頭をさげた。
「そのとおりですわ。でもこのことは公表しないとお約束していただかなくてはなりません」
「アロウェー卿も、かくべつ公表なさる気がおありとは思いませんが」ポワロは重々しくいった。
「それではご承知くださいます?」夫人は勢いこんでいった。
「ちょっとお待ちください、奥さま。それは書類がいつ私の手にとどくか、それによりけりです」
「すぐお届けしますわ」
「正確には、どのくらいです?」
「そう――十分もあれば」夫人は小声でいった。
「承知しました、奥さま」
夫人は急いで部屋から出て行った。僕は口をつぼめて、ヒューツとロ笛を吹いた。
「君はこの状況を要約できるかね、ヘイスティングズ?」
「ブリッジさ」僕は一言のもとにいった。
「ああ、君は海軍大将の不注意な言葉を忘れなかったんだな! いや、たいした記憶力だ! ご同慶のいたりだよ、へイスティングズ」
僕らはそれ以上は、言葉はかわさなかった。というのは、アロウェー卿が入って来て、もの問いたげにポワロを見つめたからである。
「目星はつきましたかな、ポワロさん? あなたが質問されても、あまり参考になる答えは、えられなかったのではないですか?」
「そんなことはございません、閣下。じゅうぶん、事件の解明に役立つ答えがえられました。これ以上お邪魔する必要もなくなりましたから、お許しをえて、さっそくロンドンへ帰らせていただきたいと思います」
アロウェー卿は唖然《あぜん》となった。
「だが――だが君はなにを発見したのかね? 誰が書類をとったのか、わかったのかね?」
「そうですとも閣下、わかりました。いかがでしょう――犯人の名前を伏せて書類をお返ししたなら、その場合、捜査はこれで打ち切っていただけましょうか?」
アロウェー卿は穴のあくほど、ポワロを見つめた。
「金と引き換えに、ということかね」
「いいえ、閣下、無条件にお返しするのです」
「むろん、設計図がもどることが、大事なことだが」アロウェー卿はゆっくりといったが、いぜんとして、わけがわからず、ふにおちかねているようすだった。
「それでは閣下、私は本心からそうなさるようにおすすめいたします。閣下と海軍大将と秘書のかたしか設計図の紛失を知りません。ですから、それがもどったことも、このお三人が知ればすむことです。それから私があらゆる面で、あなたのおためを考えていることはお信じください――そして事件の謎は私におまかせください。閣下は私に設計図の奪還を求められた――私はそれを果たしました。ですから、それ以上は目をつぶってくださるのです」ポワロは立ちあがって片手を差し出した。「閣下、お会いできて欣懐《きんかい》のいたりです。私はあなたを――そしてイギリスにたいするあなたの献身を信じております。閣下は強い確信に満ちた手でイギリスの運命を指導なさるでしょう」
「ポワロさん――私はベストをつくすことを誓います。これは私の過誤か、あるいは徳なのか――とにかく私は自分を信じているのです」
「偉人とは、みなそういうものです。この私にしても、しかりですが!」ポワロは大見栄をきった。
数分のうちに自動車が玄関にまわされた。アロウェー卿は石段の上から、惜別の情をこめてわかれのあいさつをした。
「偉大なる人物だな、ヘイスティングズ」車が動き出すとポワロがいった。「頭があり、機略があり、力がある。国家再建のこの困難な時代に、指導者としてイギリスには、なくてはならぬ傑物だよ」
「その点はぜんぶ同感だがね、ポワロ――しかし、ジュリエット夫人のことはどうなの? 夫人が直接アロウェー卿に書類を返すことになるのかい? 君が一言の断わりもなしにいなくなったことがわかったら、夫人はどんな気がするだろうね?」
「ヘイスティングズ、君にちょっと質問をしよう。夫人は私のところへ話しに来たとき、なぜその場で設計図をわたさなかったのか?」
「手もとになかったんだろう」
「そのとおりだ。夫人が自分の部屋からとってくるとしたら、どれくらいかかるだろうか? あるいは邸内の隠し場所からでも? いや答えるまでもないよ。君に教えてあげるが、おそらく二分半もあれば、充分たりるだろう! ところが、夫人は十分間の余裕を要求した。なぜか? それは明らかに、べつな人間からとりあげてくる必要があったからだ。書類が外部の者の手にわたるまえに、その人間を説得する必要があったのだよ。ところで、その人間とは誰か? どうみても、コンラッド夫人じゃない。自分の家族の一員、夫かむすこのどちらかだ。しからば、いずれが犯人らしいか? レナード・ウェアデールはまっすぐベッドに行ったと申したてた。しかし事実じゃないことは、こっちにはわかっている。そこで、もし、母親のウェアデール夫人がむすこの部屋へ行って、もぬけのからであることを知ったとしたら、どうだったろうね。夫人はゆえしらぬ恐怖にかられて下におりて行った――なにしろ、あれはドラ息子だからね! 息子は見つからなかったが、夫人はあとになって、自分の部屋からは一歩も離れなかった、というむすこの申し立てを聞いて、そのためにむすこが犯人だ、という結論に飛躍してしまったのだ。それだからこそ私に会いに来たのだよ。しかしだ、君、私らはジュリエット夫人の知らないことを知っている。夫人のむすこが書斎に忍びこんだはずはないのだ。なにせ彼氏はそのとき、美しいフランス娘の尻を追いまわしていたんだからな。しかし、夫人は知らないんだ、レナード青年にアリバイがあることを!」
「それじゃいったい、書類を盗んだのは誰なんだい? もう全員を容疑者からはずしちまったじゃないか――ジュリエット夫人、むすこ、コンラッド夫人、それにフランス人の小間使、と」
「そのとおりだ。君の小さな灰色の脳細胞を使ってみたまえ。解答は目のまえにぶらさがっているよ」
僕は無表情に頭をふった。
「いや、わかるんだよ! もっと、つきつめて考えればいいんだ! いいかね、フイッロイが書斎から出て行く。そのさいにデスクに書類を残しておく。数分後にアロウェー卿が書斎に来て、デスクに行ってみると、書類はなくなっている。この場合には二つのことしか考えられないね。フイッロイが書類をデスクにおかずに、自分のポケットにしまいこんで行ったのか――しかしこれは、理屈に合わん。なぜなら、アロウェー卿も指摘したとおり、彼ならいつでも都合のいいときに、図面を複写できたはずだからね――しからばアロウェー卿がデスクに行ったときに、書類はちゃんとそのうえにあったわけだ――するとその場合には、卿が自分のポケットに入れたことになる」
「アロウェー卿が犯人だって」僕はあいた口がふさがらなかった。「しかしなぜ? なぜなんだい?」
「昔、なにかスキャンダルがあったと、君が教えてくれたじゃないか。だが、けっきょくのところ、そのうわさが事実だったとしたら、どうかね? イギリスの政界にあっては、スキャンダルというものは許されない。もし過去のスキャンダルがむし返されて、現在でも、その人間に非ありと立証されたら――その人間の政治的生命は終わりを告げてしまうんだ。だから、卿が恐喝され、その代償として潜水艦の設計図を要求されたと考えてみようじゃないか」
「すると卿は下劣な売国奴かい!」僕は大声を出した。
「いやいや、そうじゃないさ。頭もきれるし機転にも富む人物だよ。いいかい、君、かりに卿がこの設計図を複写して――卿は頭のきれる技術屋だから――要所要所にちょっと手を加えて、設計図が実用に供さぬようにしたら、どうだろうね。卿はそのいかさま設計図を敵の手先――コンラッド夫人に渡す。しかし、にせものだという疑惑を起こさせないためには、設計図盗難の芝居を打つ必要がある。卿は邸内の人間に嫌疑がかからぬよう、懸命になって、窓から逃げる人影を見たようなふりをした。しかし、その点を海軍大将から執拗につっこまれてしまった。そこでつぎには秘書に嫌疑がかからぬように、しきりに気を使ったのだ」
「だけど、それはあくまで君の推測だろう、ポワロ?」僕は異議をとなえた。
「心理学だよ、君。本物の設計図を人手にわたすような人物だったら誰に嫌疑がかかろうが、涼しい顔をしているはずだ。それなら、なぜ卿は盗難の詳細がコンラッド夫人の耳に入ることをおそれたのか? それは、つまり、卿は宵のうちに、にせものをわたしてしまっておいたからだよ。だから盗難がそのあとで発生したという矛盾を彼女に知らせたくなかったのさ」
「しかし君のいうとおりだろうかねえ?」
「むろん、私のいうとおりさ。私はアロウェーに、偉大なる人物が偉大なる人物に語りかけるようにして話したのだ――すると、卿は完全に理解してくれた。まあ、いずれ君にもわかるだろうがね」
確実なことが一つある。それはアロウェー卿が総理大臣に就任した当日、小切手と署名入り写真が到着したことだ。その写真にはこう書いてあった。
――細心なるわが友エルキュール・ポワロヘ――アロウェーより
たしかに乙型潜水艦は、わが国の海軍関係者を狂喜させたらしい。この潜水艦は、現代の海戦に革命をもたらすだろうといわれている。さる強国が、なんでも同型の潜水艦を建造しようと試みたが、その結果は、みじめな失敗におわった、ということも僕は耳にした。しかし僕はいまだに、あのときのポワロの話はあくまでも推測にすぎまいと思っている。そのうちにポワロはまたぞろ、推測とやらをやるだろう。
ヴェールをかけた貴婦人
ポワロがしばらくまえから、しだいに不機嫌になり、いらいらしてきたのに、僕は気づいていた。さいきんはおもしろい事件が一つもなく、僕の小さな友人がそのするどい機知や、めざましい推理力を発揮する機会に恵まれなかったからである。
今朝も彼は、じれったそうに『チャー』といって、新聞紙をほうり出した――これは彼が好んで使う口ぐせで、まるで猫のくしゃみそっくりにきこえる。
「やつらは、私をおそれているよ、ヘイスティングズ。イギリスの悪党どもは私をおそれている! 猫がいれば、小ねずみどもはチーズによりつかんからな!」
「大部分の悪党は、君の存在すら知らんのじゃないかな」僕は笑いながらいった。
ポワロはいまいましそうに僕を見た。彼はいつでも、全世界の人間が、エルキュール・ポワロのことを考えたり、話題にしたりしているものと思っているのだ。なるほど、ロンドンでなら彼も名前をあげたが、しかし彼の存在が犯罪世界に恐慌をきたしているとまでは、とても考えられない。
「先日、ボンド・ストリートで発生した白昼の宝石泥棒はどうだい?」僕はきいた。
「あざやかな仕事だ」ポワロは、賛意を表した。「しかし、私の好みに合わんな。|Pas de finess, Seulment de l'audace《パ・ド・フィネス・スールマン・ド・ローダス》(巧妙じゃない、単に大胆なだけだ)! 鉛をつめたステッキをもった男が、宝石商の窓ガラスをぶち破って、高価な石を、わしづかみにする。まともな市民諸君が、すぐさま男をとっつかまえる。警官が到着して、男は血だらけの手に宝石を握ったまま逮捕される。警察へ連行してみると、その宝石はぜんぶ、人造宝石だということが判明する。ほんものは、共犯者――つまりさきほどの、まともな市民諸君の中にいた共犯者にわたしておいたんだね。奴は豚箱にぶちこまれるだろうさ――たしかにね。しかし釈放されたあかつきには、ちょいとした一財産がお待ち申しているという寸法なんだ。たしかに、まずくはないな。しかし、私だったら、もっとうまくやれるな。ときどきね、ヘイスティングズ、私は自分の道徳的|性分《しょうぶん》が残念でならないよ。法律に反するような仕事をするのも、気分転換にはもってこいだろうにな」
「元気を出せよ、ポワロ。君は自己の領域では、当代ならぶものなき人物なんだぜ」
僕は新聞紙をとりあげた。
「ここにオランダで怪死したイギリス人の記事が出てるよ」
「新聞なんていつだってそうさ――あとになってから、それはかん詰の魚を食べたせいであって、死因には、まったくの不審の点はない、ということになるんだ」
「そんなら、ご自由に愚痴をこぼしたまえだ!」
「|Tiens《ティアン》(おや)!」窓ぎわへぶらついて行ったポワロが声をあげた。「小説の中に出てくるような『ふかくヴェールをかけたご婦人』っていうのが、通りを歩いてくるぞ。階段をあがった。ベルを鳴らした――ここに相談にくるぞ。どうやら風向きはおもしろくなりそうだな。あの女性のように、若くて美しい婦人というやつは、よほどの大事件でもないかぎり、ヴェールなんか、かけないからな」
ほどなく訪問客が案内されてきた。ポワロがいったとおり、女はふかくヴェールをかけていた。したがって、彼女が黒のスペインふうのヴェールをあげるまでは、その顔立ちがわからなかったが、ポワロの直感は適中していた。髪の黒いつぶらな青いひとみのたいへんな美人である。その高価なすっきりした装いから、僕は一目で彼女が上流社会の婦人であることを推察した。
「ポワロさん」その女性はやわらかい音楽的な声でいった。「じつは、わたくし、ひどく困っておりますの。あなたに助けていただけるかどうかも、心もとないのです。でも、あなたのすばらしいお仕事ぶりを耳にしましたので、文字どおり、藁《わら》にもすがる気持ちで、不可能なことをやっていただきにうかがいました」
「不可能なことなら、いつでも大歓迎です。どうぞその先をお話しください」
美しい依頼人はためらいを見せた。
「ですが、率直にお話しくださいよ。どんな点でも伏せてはなりません」ポワロはいいそえた。
「あなたを信用して申しあげますわ」彼女は不意に口を切った。「ミリセント・カースル・ヴォーンのことはおききになりましたでしょうね」
僕は興味にかられて、彼女を見つめた。レディ・ミリセントと若き公爵サウスシャーとの婚約は数日前に公表されていた。なんでもレディ・ミリセントはアイルランドの貧乏貴族の五女とかで、サウスシャー公との縁組みなら、イギリスでは最上の部類にはいるものだ。
「わたくしが、そのミリセントでございます。婚約のことは、あなたもお読みでございましょう。わたくし、世界中でいちばん幸福な女であるべきなんです。ところがポワロさん、わたくし、ひどく困っております。ある男が、おそろしい男がいまして――ラヴィントンという名前ですわ――なんとご説明したらいいものか。わたくしが書いた手紙が一通ありまして――十六歳のときに書いたものなのです。それをその男が――」
「このラヴィントン氏に宛てた手紙ですか?」
「いえ、ちがいます――彼にではありません! 若い軍人さんに――わたくしの大好きなかたでしたが――そのかたは戦死してしまいました」
「なるほど」ポワロはやさしくいった。
「愚かな手紙でしたわ、軽率な。でもほんとにポワロさん、それだけのものなんです。ただその中の文句が――解釈のしようによっては、べつの意味にもとれますの」
「なるほど。で、その手紙がラヴィントン氏の手中に帰したのですね?」
「はい、そして彼はわたくしを脅迫するのです。とても工面のできようがない莫大な額のお金を支払わなければ、その手紙を公爵に送るって」
「汚ない野郎だ!」僕は思わずどなってしまった。「どうも失礼しました。レディ・ミリセント」
「あなたの未来のご主人さまに打ち明けたほうが、よろしいのじゃありませんか?」
「それはできませんわ、ポワロさん。公爵は一風変わった性質のかたで、嫉妬《やきもち》やきで疑いぶかく、物ごとを悪くとりがちなんです。それくらいでしたら、わたくし、いますぐ婚約を解消したほうがましですわ」
「おやおや」ポワロはあからさまに顔をしかめた。「では私にどうしろとおっしゃるのです?」
「ラヴィントンさんに、あなたをお訪ねするようにいうのがいいのではないかと思いましたの。この件についての相談は、あなたに一任してあるからと、通告したいのですわ。そうすれば、あの人の要求額を、あなたに減額していただけはしないか、と思いまして」
「どのくらいの金額を要求しました?」
「二万ポンド――とても、できっこございません。千ポンドでさえ、できるかどうかあやしいものですわ」
「あなたが近く結婚されるという点を考えれば、おそらく工面できないこともないでしょうが――しかし、その半額も借りられるかどうか、ですかねえ――。それに――よろしい、あなたが金を払うなんて、おもしろくありませんな! いや、このエルキュール・ポワロの才覚をもってすれば、そんな男は鎧袖一触《がいしゅういっしょく》です! ラヴィントン氏とやらをよこしてください。彼は手紙を身につけて来ますかね?」
彼女は頭をふった。
「そうではないと思います。とても用心ぶかい男ですから」
「彼が手紙を持っているということは、まちがいないでしょうね?」
「わたくしが彼の家へ行ったときに見せびらかしましたわ」
「彼の家へいらしたと? それはどうも不謹慎ですね」
「そうでしょうか? 死物ぐるいでしたわ。わたくしが嘆願すれば、きいてもらえるかもしれないと思ったのです」
「おや、おや、ラヴィントンのような男にはいくら頼んだって無駄ですよ! それどころか、相手がどれくらいその手紙に執着しているか、その度合いがわかって大喜びでしょう。どこに住んでおりますか、そのすてきな紳士は?」
「ウィンブルドンのヴオナ・ヴィスタです。わたくし日がくれてから、そこへまいりました――」――ポワロがうめいた――「とうとうしまいに、警察に知らせるから、といってやりました。でも彼は、おそろしい、人を小ばかにした笑い声をあげただけです。『どうぞ、ご自由に、レディ・ミリセント』ってそういいました」
「いかにも、これは警察沙汰にはできんでしょう」とポワロはつぶやいた。
「『だが、そんな、ばかなまねはおやめになったほうが、よろしいでしょうな。いいですか、これがあなたの手紙で――この小さな中国製のパズル箱に入れてあるんだ!』そういって、見ぜびらかしたのです。わたくし、ひったくろうとしましたが、彼は機先を制して、おそろしい笑いを浮かべながら、たたんでまた小さな木箱にしまってしまいました。『ここに入れておけば絶対安全。それに、この箱はとても安全な場所にかくしてあるから、絶対にあなたには見つからん』わたくしの視線が小さな壁金庫のほうへ向きますと、彼は頭をふって、笑い出しました。『そんなところよりも、もっと安全な場所ですよ』って。ああ、なんていやらしい男でしょう! ポワロさん、わたくしを助けていただけましょうか?」
「このポワロをご信頼ください。なんとか方法を講じましょう」
安うけ合いも、けっこうだが、これは、ちっとやそっとで、解決する事件じゃないぞ――ポワロが、ていちょうに美しい依頼客を見送りに階下に行ったとき、僕はそう考えた。彼がもどって来たので、そういうと、彼も元気なく、うなずいた。
「いかにもさ――解決策なんて、すぐに浮かぶもんじゃないよ。あのラヴィントン先生のほうが先手だからな。どうやって、やつを出しぬいたものか、今のところは見当がっかん」
ラヴィントン氏は、その日の午後、ときをうつさずやって来た。レディ・ミリセントがこの男を形容した、いやらしい男、という言葉は、まさにそのものずばりだった。僕は靴のつま先がむずむずした。あまりむずむずするので、この男を階下にけ落したくなったくらいだ。彼はどなりちらし、いばりちらし、ポワロの下手に出た提案を鼻であしらい、終始、この会談の主導権を握っているのは自分だということを、見せつけたのである。僕はいつになく、ポワロの気勢があがらないような気がしてならなかった。ポワロは意気沮喪《いきそそう》して、がっくりきたようだった。
「ではみなさん」ラヴィントンは帽子をとりあげていった。「これ以上お話ししても、得るところはないだろうね。要点は、つまりこうだ――なにせ、レディ・ミリセントが、ああいう美しいご婦人だからおまけしておこう」彼はいやらしい流し目をした。「一万八千ポンドで手をうとう。わしは今日、パリに向けて発《た》つ――むこうに出むかなきゃならん、ちょっとした用事があるのでね。で、火曜日にもどってくる。そこで火曜日の夕刻までに、金が支払われなければ、例の手紙は公爵へ送るよ。レディ・ミリセントに金の工面ができんなどとはいわせないよ。なにせ、あれだけの美人なら、よろこんで金を貸してくれる男友だちがいるはずだ――要するに、彼女がうまく持ちかければすむ話さ」
僕は顔面を紅潮させて、一歩前にふみ出した。しかしラヴィントンは、いうだけいうと、さっさと部屋から出てしまった。
「畜生! なんとか手をうたなきゃならん。君は手も足も出ないようだな、ポワロ」
「君は勇み肌だけど――灰色の脳細胞のほうはみじめなもんだな。私はラヴィントン氏に、自分の能力を見せつけようとは思わんよ。私が気の弱い人間に見えれば見えるほど、こうつごうなんだ」
「どうして?」
「妙なもんだ」ポワロは思い出すかのようにつぶやいた。「レディ・ミリセントのくる直前に、法律に反するような仕事をしたいもんだと、自分でいっていたんだからな!」
「留守中に、やつの家に押しこもうっていうのかい?」僕は息をきらしていった。
「ヘイスティングズ、君はときどき、ひどく血のめぐりがよくなるんだな」
「もし、やつが手紙を携行してるとしたら」
ポワロは頭をふった。
「それはありそうもないな。やつは、あきらかに、難攻不落だと考えている、かくし場所を、家の中につくっているんだから」
「いつ、そのう――やらかすんだね?」
「明晩。十一時にここを出発するとしよう」
その時間に、僕は出発の準備をすませていた。黒の背広に黒のソフトという、いでたちである。ポワロはにんまり笑った。
「うってつけの服装だね。さて、ウィンブルドンまで地下鉄で行こう」
「なにか持って行くんじゃないのかい? 七つ道具かなんかを?」
「ヘイスティングズ、エルキュール・ポワロは、そんな子供だましの手は使わないよ」
僕はそう一喝されて引きさがったが、好奇心でむずむずしていた。
二人がヴオナ・ヴィスタの小さな郊外住宅の庭園に入りこんだのは、ちょうど夜の十二時だった。家はまっくらで森閑《しんかん》としている。ポワロは家の裏手の窓に直行して、その上下式の窓を音もなくあけて、中へ入るように命じた。
「どうしてこの窓があくことを知っていたんだい?」どうにもふにおちないので、僕はそっとたずねてみた。
「今朝がた、留め金をのこぎりで切っておいたからさ」
「え?」
「そうなんだよ。かんたんなことさ。ここへ来てね、でたらめな名刺とジャップ警部の正式な名刺を出したんだ。ラヴィントン氏が不在中に防犯錠をつけて欲しいとのことだったので、警視庁から推せんを受けて参上しました、といったのさ。家政婦は大喜びで招じ入れてくれたよ。どうやらさいきん二度ほど泥棒がはいりかけたらしいのだ――あきらかにラヴィントン氏のべつなお客さんがたが、私らと同じ考えをもったのだね――しかし、大事なものはとられなかったのだ。私は窓をぜんぶ、吟味して、ちょいとした細工をほどこしてから、召使たちに、明日までは窓に電気が通じているから、手を触れないようにといって、それから、はい、さようなら、ってもんさ」
「まったく。ポワロ、君はすご腕だな」
「こんなことは、お茶の子さいさいだよ。さて、仕事だ! 召使たちは階上で寝ているから、目を覚まされるおそれはほとんどないだろう」
「金庫がどこかの壁に作りつけてあると思うがな?」
「金庫だと? ばかばかしい! 金庫なんざないよ。ラヴィントン氏は抜け目のない男だ。いいかね、やつは金庫よりも抜け目のない、かくし場所を工夫しただろうさ。金庫なんて誰でもさいしょに目をつけるからな」
そこで僕らは、組織的に、あらゆる場所の捜査を開始した。しかし数時間かかって家さがししても、得るところはなかった。ポワロの顔面には、かんしゃくの徴候が現われ出した。
「えい、畜生、ポワロが負けるのか? そんなばかな! 落ちつくんだ。考えるんだ。推理するんだ。そうだ! 小さな灰色の脳細胞を使うんだ!」
ポワロは、しばらくのあいだ手をやすめて、眉をよせて考えこんでいた。やがて、おなじみの緑色の光が、その両目に浮かんできた。
「なんというまぬけだ! 台所だ!」
「台所だなんて不可能だよ。召使がいるじゃないか!」
「そのとおり。百人中、九十九人までがそういうだろうさ。それだからこそ、台所がうってつけの場所なんだ。いろんな世帯道具にうずまっている。|En avant《アン・ナヴァン》(前進)、台所へ!」
僕はまったく、懐疑的な気持ちでそのあとにつづき、ポワロがパン入れの大箱にもぐりこんだり、鍋類をたたいたり、ガス・オーヴンの中に頭をつっこむさまをながめていた。しかしとうとう見ているのにもあきて、書斎へもどってしまった。僕には、かくし場所はここだ、いや、ここにしかない、という確信があったので、さらに綿密に探してみた。しかし、時刻はすでに四時十五分をまわっており、したがって夜明けもまぢかいことに気づいたので、台所へもどって行った。
まったく、驚いたことに、ポワロは石炭置き場の中に入りこんで、清潔な薄色の背広をめちゃめちゃにしていたのである。彼は顔をしかめて見せた。
「まったくだよ、君、服を台なしにするなんて、およそ私の天性に反することだよ、そう思わんかね?」
「だけどラヴィントンが、手紙を石炭の下に埋めるはずはないだろう?」
「君の目はどこについてるんだ、私の調べているのは石炭じゃないよ」
なるほど、石炭箱の背後の棚には薪がいくらかつんであった。ポワロは、それを一本一本、器用におろしているところだった。とつぜん、彼は、押し殺した歓声をあげた。
「君のナイフを! ヘイスティングズ!」
僕はナイフを渡した。ポワロがそれを薪につきさすと、急に丸太は二つに割れた。それは巧みに丸太を鋸《のこぎり》で引いてあり、まんなかが空洞にくりぬいてあった。その穴から、ポワロは中国製の木箱をとり出した。
「うまい!」
僕はわれを忘れて大声を出した。
「静かに、ヘイスティングズ! あまり大声を出すなかれだ。さあ、出よう、夜が明けないうちに」
ポケットに木箱をすべりこませると、ポワロは身軽に石炭置き場からとび出して、一生けんめい埃《ほこり》をはらった。そして、はいって来たときと同じ箇所から、家の外に抜け出すと、急いでロンドンの方角へ向かって歩き出した。
「しかし、なんともとっぴな場所だね! あれじゃ、誰かが薪を使ったかもしれないじゃないか」
「この七月にかね、ヘイスティングズ? それに薪の山の一番下にあったんだ――じつに巧妙な場所だよ。あっ、タクシーだ! さあ家に帰ったら、顔を洗って、さわやかな一眠りといこう」
その夜は興奮のあまり、僕はなかなか寝つけなかった。ちょうど、一時前に、やっと起き出して居間に行くと、ポワロが安楽椅子にもたれて、かたわらにおいた、中国製の木箱からとり出した手紙を、のうのうと読んでいるので僕は驚いてしまった。
ポワロはあいそうよく僕に笑顔をむけて、手にした紙をたたいてみせた。
「レディ・ミリセントのいったとおりだよ。公爵がこの手紙を見たら、絶対にようしゃせんだろうな! 私なんかお目にかかったことがないような、とほうもない愛の言葉が書きつらねてあるよ」
「そうだろうさ、ポワロ」僕はいくぶんむかついてそういってやった。「君がその手紙を読むとはけしからんよ。そんなはしたないまねはすべきじゃない」
「それをポワロがやったのさ」わが友は、落ちつきはらっていった。
「それからまだある。昨日ジャップの名刺を使ったそうだが、それも正当な行為とはいえないな」
「しかしこれは、ゲームじゃないからね、ヘイスティングズ。犯罪事件の捜査なんだよ」
僕は肩をすくめた。見解の相違ともなれば、いかんともしがたい。
「階段に足音がするぞ。レディ・ミリセントだろう」とポワロがいった。
美しい依頼人は顔に不安の色を浮かべて入って来たが、手紙とポワロの手にある木箱を目にするや、それは喜びの色に変わった。
「まあ、ポワロさん、なんてすばらしいんでしょう。どうしておさがしになりましたの?」
「あまりほめた方法ではないんですよ。しかし、ラヴィントン氏が訴えることはないでしょう。これがあなたのお手紙ですね?」
彼女はそれを一べつした。
「そうですわ。まあ、なんてお礼を申しあげてよいやら! あなたは、すばらしい――すばらしいかたですわ。どこにかくしてありましたの?」
ポワロは説明した。
「なんて頭がいいんでしょう!」そういって彼女は、テーブルから小箱をとりあげた。「わたくし、これを記念にいただいておきますわ」
「それは私がちょうだいしたいと思っておりました――やはり記念のために」
「こんなものより、もっとましなものを記念にお贈りしましょう――結婚式の当日に。このご恩は忘れませんわ、ポワロさん」
「あなたのお役に立った、ということが、私には小切手をいただくよりも嬉しいのです――ですから、この箱はいただかしてください」
「いけませんわ、ポワロさん、わたくし、ぜひともこれが必要なんですの」彼女は笑いながらいった。
彼女は手をのばしたが、ポワロの方が早かった。ポワロは箱の上に手をのせた。
「私はそうは思いません」ポワロの口調が変化した。
「それはどういうことですの?」彼女の声もこころもち、するどくなったようだ。
「とにかく、まだその中にある中身を出してお目にかけましょう。ほら、この穴は半分しか使っていないのです。上の半分には危険な手紙が入っていましたが、下の半分には――」
彼は器用に指をうごかして、それから、手をさし出した。手のひらにはキラキラ光る四個の大粒の石と、二個の乳白色の大きな真珠がのっていた。
「先日、ボンド・ストリートで盗まれた宝石――だろうな」とポワロはつぶやいた。「ジャップが説明してくれるだろう」
驚いたことには、ほかならぬそのジャップ警部が、ポワロの寝室から出て来たのである。
「まんざら知らぬ顔でもないでしょう」ポワロがレディ・ミリセントに向かって、ていちょうにいった。
「畜生、どじったか」レディ・ミリセントが、がらっと態度を変えた。「このくえない古狸め」彼女は親しみと畏怖がまじった目でポワロを見た。
「よう、ジェルティ」ジャップ警部がいった。「勝負は終わったようだな。こんなに早くお前さんにお目にかかろうとはな! 相棒もつかまえたぞ、先日ラヴィントンとか称してここへ来た男だ。本物のラヴィントンのほうは、またの名をクローカーともリードともいったが――このまえ、オランダで、そのラヴィントンにナイフをお見舞い申しあげたのはどのギャングだい? やつが品物を持っていると、おまえさん、そうにらんだんだろう。ところがやつは持っていなかった。やつはまんまとおまえにいっぱいくわせて――自分の家にかくしたんだ。お前は二人の男を探しにやった。それから、このポワロさんをカモろうとした。そしたら、すばらしい幸運からポワロさんが、それを見つけたってわけだ」
「よくしゃべるわね!」さいぜんまでのレディがいった。「静かにしてよ。神妙について行くわよ。こう見えても、れっきとした貴婦人なんだからね。じゃ、みんな、ハイチャ!」
「靴がまずかったよ」僕が仰天して、ものもいえずにいると、ポワロがうっとりとした口調でいった。「私は今までに君のお国のイギリス人を観察してきたが、貴婦人、それも生まれついての貴婦人というものは、常に靴にはやかましいものなんだな。たとえ、みすぼらしい服装をしていても、靴は上等なものをはくんだよ。ところが、このレディ・ミリセントときたら、しゃれた高価ななりのくせに、安物の靴をはいている。君か私かが、ほんもののレディ・ミリセントに会ったことは、まずありそうもない。彼女はほとんどロンドンにはいないし、あの女狐は一応、ほんものとして通用するていどに、うわべは似たところがある。いまもいったとおり、靴がまず私に疑念を起こさせ、それから彼女の物語――とヴュール――両方とも少々、大時代だよ。上半分に、にせの脅喝用の手紙を入れた中国製の木箱のことは、ギャング全員に知れわたっていたにちがいないな。しかし薪のほうは、いまは亡きラヴィントン氏の思いつきだろう。いいかい|Par exemple《パレ・クザンプル》(たとえば)ヘイスティングズ、二度と昨日みたいなことを口にして私の感情を傷つけてもらいたくないね、私が犯罪世界で名前が売れていないなどとね。|ma foi《マ・フォア》(じっさい)やつらは、手におえないとなると、私を利用するほどなんだからな!」
プリマス急行
イギリス海軍士官、アレック・シンプスンはニュートン・アボット駅のプラットフォームから、プリマス行き急行列車の一等車に乗りこんだ。赤帽が重いスーツ・ケースを持って、あとからついて来て、ケースを網棚にあげようとしたが、青年士官はそれをとめた。
「いや――座席へおいといてくれ、あとでのせるから。ごくろうさま」
「ありがとうございます」赤帽は気前よくチップをはずんでもらって出て行った。
ドアがピシャッとしまった。スピーカーが鳴りわたった。『この列車はプリマス港へ直通。トーケー方面はお乗りかえください。つぎの停車駅はプリマス港』
汽笛一声、列車はゆっくりと停車場から離れて行った。
客室はシンプスン大尉一人だけであった。十二月の空気は冷え冷えとしていたので、大尉はドアをしめた。すると、そこはかとない匂いが鼻についた。大尉は眉をひそめた。なんだろう、この匂いは! それは大尉が入院中、足の手術を受けた当時のことを思い出させた。なんだ、クロロフォルムじゃないか、そうか!
大尉はドアをまたあけて、列車の進行方向とは逆の座席に移った。そしてポケットからパイプをとり出して、火をつけた。そのまま、しばらくじっとすわって、夜景をながめながら、たばこをくゆらせた。
そのうちに、とうとう彼は立ちあがって、スーツ・ケースをあけ、新聞、雑誌類をとり出すと、ケースをしめ、向かい側の座席の下へ、それを押しこもうとしてみた――が、どうもうまくいかない。なにか障害物がかくれていて、それが邪魔しているのだ。大尉はしだいに、いらいらしながら、なおも、けんめいに押しこんでみた。しかし、いぜんとしてケースは半分しか座席の下へはいらなかった。
「いったい、なんだって、はいらないんだろう?」大尉はそう、つぶやいて、ケースをすっかりひき出すと、身をかがめて座席の下をのぞきこんだ……。
つぎの瞬間、夜の闇の中に悲鳴がひびきわたった。非常通報の索《つな》が、あわただしく引かれた。そこで、大編成の列車はやむをえず急停車することになった。
「君《モナミ》」とポワロはいった。「君はプリマス急行の謎に、ひどく興味を持っていたね。これを読んでみたまえ」
僕はテーブルごしに、ポワロが軽くはじいてよこした手紙をとりあげた。そのものずばりの文面であった。
前略
ごつごうつきしだい、至急おいでいただければ幸甚のいたりに存じます。草々
イビニーザ・ハリディ
事件とこの手紙との関連が、はっきりわからなかったので、僕はもの問いたげな視線をポワロに向けた。
それに答えるかわりに、ポワロは新聞をとりあげ、声を出して読みあげた。
昨夜、怪事件が発生した。プリマス軍港に帰還途上の若い海軍士官が、自分の客室の座席の下から、心臓を一突きされた女の死体を発見したのである。その士官はただちに非常通報の索《つな》を引いたので、列車は急停車した。女は年齢、三十歳前後、ぜいたくな衣装を身につけているが、目下のところ、身許は不明。
「ところで、あとからつぎのことがわかったのだ。『プリマス急行の列車内で死体となって発見された女性は、ルパート・キャリントン卿夫人であることが判明した』とね。これで君も合点がいったろう? それとも、まだわからなければ教えて進ぜるが――ルパート夫人の結婚前の名前はフロッシー・ハリディ、つまりアメリカの鋼鉄王ハリディの娘なのさ」
「それで、父親が、君に来てくれというわけなんだね、そいつはすごい!」
「私は昔、ハリディのために、ちょっとした仕事をしてあげたことがあるんだ――無記名債券の件だったが。それから、ベルギー国王の訪問のために、私がパリにいたころ、フロッシー嬢のために一肌ぬいだことがある。|La jolie petite pensionnaire《ラ・ジョリ・プチット・パンショネール》(美しい寄宿生)だったよ! それに |jolie《ジョリ》(そうとうな)持参金もついていた! ところが、それがごたごたの種になってね。彼女はもうすこしで、とんでもないことをしでかすところだったのだ」
「どういうわけで?」
「ド・ラ・ロシュフール伯爵とかいう男がいてね。これが |Un bien mauvais suje《アン・ビヤン・モーヴェ・スジェー》t(たいへんな悪党)だった! いわゆる女たらしというやつだよ。純然たる漁色家で、ロマンチックな少女をたらしこむ手を心得ている男だ。さいわい、大事に至らぬうちに、そのうわさが父親の耳にはいった。そこで父親は、あわててアメリカへ娘を呼びもどしてしまったのだ。それから数年して、私は彼女が結婚したことを聞いたが、その夫なる人のことは、なにも知らない」
「ふむ」と僕はいった。「ルパート・キャリントン卿は誰に聞いてみても、かんばしからぬ人物だよ。競馬ですってんてんになってしまってね。ちょうど、そのきわどいときに、彼女の持参金がはいって来たんじゃないかと思うな。一分のすきもない色男だけど、あんな破廉恥な不良青年に、よくまあ嫁になる女が見つかったもんだ!」
「ああ、気の毒な娘さんだな! |Elle n'est pas bien tombee《エル・ネ・パ・ビヤン・トンベ》(ひどい相手にぶつかったもんだ)!」
「キャリントンは結婚してしまうとすぐに、自分が魅かれたのは、彼女ではなく、その持参金であることを露骨に示したんだろうね。結婚してからすぐに、夫妻は別居したはずだよ。さいきん、二人がはっきりと合法的に別居しようとしているうわさを、僕は聞いたもの」
「老ハリディは、ばかじゃないよ。娘の持参金には、そうとう、うるさい条件をつけたはずだな」
「そうだろうね。まあ、いずれにせよ、僕はルパート卿が金に窮しているといううわさが現にあるということを知っているんだ」
「あ、はあ! だけど――」
「なにが、だけど、なの?」
「いいかね、君、そう、いちいち口をはさまんでもらいたいね。君がこの事件に興味を持っていることはよくわかるよ。なんなら私といっしょに、ハリディ氏に会いに行ったらどうだね。あの角にタクシーがいるよ」
車に乗ると数分のうちに、僕らはアメリカの富豪が借りているパーク・レーンのすばらしい邸宅に到着した。書斎に通されると、待つほどもなく、がっしりとした、するどいまなざしで精かんなあごを持った大男がはいって来た。
「ポワロさんで?」とハリディ氏がいった。「おねがいの筋は申しあげるまでもないと思います。新聞でお読みのことでしょうし、わしは事態を手をこまねいて見ていられない性分の男です。たまたま、あなたがロンドンにおられることを耳にして、わしは例の債券問題のさいの、あなたのお手並を思い出しました。あなたのお名前は、ついぞ忘れたことがありません。わしはスコットランド・ヤードに事件を委《まか》せましたが、それとは別に、わしのために働いてくれる探偵が欲しいのです。費用の点は問いません。わしの全財産は娘のためにつくったものですが――娘は亡くなってしまいました。こうなれば最後の一セントまではたいても、あんなことをしでかした悪党を捕まえてやるのです! だからおねがいというのは、あなたが、このわしの期待にこたえてくださることなんです」
ポワロはかるく頭をさげた。
「お嬢さまには以前、パリで数回お目にかかったこともございます。ですから、なおのこと、よろこんでお引きうけいたします。さて、それでは、さっそくですが、お嬢さまがプリマスへ旅行なさった状況や、そのほか、この事件に関係がありそうだと思われるこまかい点を、お話ししていただきたいのですが」
「そもそもですね」とハリディは答えた。「娘はプリマスへ行こうとしておったのではないのです。娘はエヴォンミード・コートのスワンシー公爵夫人の邸宅でひらかれたハウス・パーティ(別荘などに客を招いておこなう)に出席しようとしていたのです。パディントン駅発十二時十四分の列車でロンドンを発ち、乗り換え駅のブリストルについたのが、二時五十分。プリマス行き急行の本線は、もちろんウェストベリー経由ですから、ブリストルの近辺を走っておりません。十二時十四分の列車はブリストルまではノン・ストップで、そのあと、ウェストン、タウントン、エクゼター、それにニュートン・アボットに停車します。娘はブリストルまで予約しておいた客室を一人で独占し、小間使が、となりの三等客車にひかえておりました」
ポワロがうなずくと、ハリディ氏は話しつづけた。
「エヴォンミード・コートのパーティは、舞踏会が五、六回もよおされる、ひじょうに派手なものになるはずでした。したがって、娘は自分の宝石類のほとんどぜんぶを携帯して行きました――その価格は、おそらく十万ドルちかいものでしょう」
「|Un moment《アン・モーマン》(ちょっとお待ちください)」とポワロがさえぎった。「どなたがその宝石類を保管しておりました? お嬢さんでしたか、それとも小間使のかたで?」
「いつも娘が自分で保管しておりました。青いモロッコ皮の小箱に入れまして」
「その先をどうぞ、ムッシュー」
「ブリストルで小間使のジェーン・メースンは、自分が預っていた女主人の衣装カバンと肩掛けをまとめて、女主人の客室のドアのところに行きました。ところが驚いたことには、娘はブリストルでは下車せずに、もっと先まで行くと告げたのです。メースンに手荷物をおろして、駅の一時預けに預けるようにと指示したのです。そして駅の食堂でお茶でも飲んで待つように、自分は午後のうちに上り列車でもどってくるから、と告げたのです。小間使はひどく、びっくりはしたものの、命令されたとおりにしました。つまり荷物を一時預けに預けてお茶を飲んでいたのですな。ところが上り列車がつぎつぎに到着しても、女主人はいっこうに姿を現わさない。そこで終列車の到着したあとで、小間使はカバンを預けたまま、その晩は駅の近くのホテルに泊まったのです。そして今朝になってこの惨事を新聞で読み、とるものもとりあえず、ロンドンにもどって来たというわけです」
「お嬢さんの、とつぜんの計画変更を説明する理由は、なにもございませんか?」
「いや、こういうことがあるのです。ジェーン・メースンの話によると、ブリストルについたとき、客室の中はフロッシー一人ではなかった。男が一人立って奥の窓から外を見ていたというのです。そのために、メースンには男の顔が見えなかったわけですが」
「その列車はもちろん、客室ごとにドアがついている通廊式ですね?」
「そうです」
「その通廊はどちら側についていました?」
「プラットフォーム側です。娘はメースンと話をかわすとき、通廊に立っていました」
「それでこの意外な出会いが――あ、ちょっと失礼!」そういってポワロは立ちあがり、いくぶんかたむいていたインクスタンドを、注意ぶかくまっすぐに直した。「|Je vous demande pardon《ジュ・ヴー・ドマンド・パルドン》(失礼しました)」ポワロはまた腰をおろして話しつづけた。「どうも曲がったものが目につくと、気になるたちなもので。妙なくせでございますな。ところで私が申しあげかけたことは、つまり、この意外な出会いが、お嬢さんの唐突な予定変更の原因ではないか、その点は、まちがいないとお考えでしょうか?」
「それが唯一妥当なる仮定でしょう」
「その問題の紳士が誰であるか、お心あたりはございませんか?」
富豪はちょっと、ためらっていたが、それから答えた。
「いや――まるっきりありません」
「それではと――死体発見のもようについては?」
「若い海軍士官が発見して、ただちにしらせたのです。車内には医師が乗り合わせていたので、死体を検べました。娘はクロロフォルムをかがされてから、刺し殺されたのです。医師は死後、約四時間経過していると、自分の所見を述べました。そうなると、凶行がおこなわれたのは、ブリストルを発ってからまもなく――おそらく、ブリストル=ウェストン間ないしはウェストン=タウントン間にちがいないということになる」
「で、宝石ケースは?」
「宝石ケースがですな、ポワロさん、見あたらんのですよ」
「もう一つ、おたずねします。お嬢さんの財産は――お亡くなりになると誰の手に渡りますか?」
「フロッシーは結婚の直後に全財産を夫に残すという遺言書を作りました」そこでちょっと口ごもってから、富豪は話しつづけた。「ポワロさん、これは申しあげておいたほうが、よかろうと思うが、わしは娘婿が破廉恥きわまる悪党だと思うのです。そこで、わしのすすめで、娘は合法的な手段により自由の身になる直前だったのです――これはべつに難かしいことではありません。娘の生存中は、夫が娘の金に手をつけられぬように条件をつけて、財産を譲渡しておいたのです。だがここ数年来、あの二人はかんぜんに別居してきたくせに、醜聞が表沙汰になることをおそれて、夫が金をせびると娘はしばしば、それに応じてやっておったのですよ。ですが、わしはこの問題のけりをつける決心をしたし、フロッシーも、けっきょく、それに同意したので、弁護士たちに訴訟手続きをとるように指示しておいたのです」
「それでキャリントン氏はどちらにおいでですか?」
「ロンドンにおります。たしかきのうは田舎に行ったと思いますが、昨夜、帰京したはずです」
ポワロはちょっと思案の態《てい》であったが、やがて口をひらいた。
「これ以上、うかがうことはないと思います、ムッシュー」
「小間使のジェーン・メースンに会ってみますか?」
「よろしければ、どうぞ」
ハリディはベルを鳴らし、従僕に言葉すくなに命令した。
数分すると、ジェーン・メースンが部屋にはいって来た。上品だが、とっつきにくい顔だちの女で、いかにも優秀な使用人らしく、悲しみをおもてに出すまいと無感動をよそおっていた。
「お手数だが、ちょっと二、三、聞きたいことがあるのでね。亡くなられた奥さまは、昨日の朝、出発前、まったくふだんと同じようなごようすだったかね? 興奮とか動揺の色はなかったかね?」
「いえ、ございませんでした!」
「しかし、ブリストルでは、別人の観があったでしょう?」
「さようでございます。すっかりとり乱して――ご自分でも、なにをおっしゃっておいでなのか、おわかりになってはいないのではないかと、お見受けするほど、そわそわしていらっしゃいました」
「正確には、なんとおっしゃいました?」
「はい、私の覚えておりますところでは、だいたい、こんなでした。『メースンや、わたし予定を変えなければならないわ。ちょっと用事ができたので――つまり、ここではおりられないのよ。このまま、先に行く必要があるの。あんたはカバンをもっておりて、一時預けに預けてちょうだいな。それから、お茶でも飲んで、駅でわたしがもどるのを待っていて』『ここでお待ちするのですか、奥さま?』と私はたずねました。『そうよ。駅からはなれないでね。あとの汽車でひき返してくるわ。いつになるかはわからないけど、それほどおそくなることはないと思うわ』『かしこまりました、奥さま』と私は申しました。私のほうからは質問する柄でもございませんでしたが、でも、ひどく妙な気持ちがいたしました」
「いつもの奥さまらしくなかった、ということだね?」
「はい、まるっきりでございますわ」
「あなたはどう思いました?」
「はい、私は客室の中にいらした殿方と、なにか関係がおありになるんだろうと考えました。奥さまはそのかたに話しかけはいたしませんでしたが、でも一、二度そちらのほうを向いて、これでいいのか、と意向をうかがっていらっしゃるようでした」
「しかし、その紳士の顔は見なかったんだね?」
「はい、そのあいだじゅう、私に背を向けて立っておいででしたから」
「その紳士のかっこうを説明できますか?」
「あかるい子鹿色のオーヴァーと旅行帽をお召しでした。背は高くて、やせぎすで、おつむのうしろの髪は黒うございました」
「誰か心あたりはありませんか?」
「いえ、存じあげません」
「ひょっとすると、ご主人のキャリントン氏ということはないかね?」
メースンは、いくぶんはっとしたらしい。
「まあ、そんなことはございませんでしょう!」
「しかし確信はないでしょう?」
「ちょうどご主人さまくらいの背かっこうでしたが――でも、まさかご主人さまだとは、思いもよりません。わたくし、めったにお目にかかりませんから……でも、ご主人さまでなかったともいいきれません」
ポワロは、じゅうたんからピンを一本ひろいあげて、それに目を落としながら、きゅっと眉をしかめた。そしてまた口をひらいた。
「あなたが奥さまの客室に行くまえに、ブリストルでその男が乗りこんで来た、ということは考えられますか?」
メースンは考えこんだ。
「はい、たぶん、そうだろうと思います。私の客室はひどく混んでおりましたので、外へ出るのに数分もかかってしまいました――そのうえ、プラットフォームはたいへんな人ごみでしたから、なおさら遅れてしまったのです。でもそんなぐあいでございましたから、そのかたが奥さまにお話しになった時間は、ほんの一、二分だったろうと思います。むろん、通廊のほうからおいでになったでしょうが」
「まずそういうことだろうな」
ポワロはいぜんとして眉をひそめながら、口をつぐんだ、メースンがいった。
「奥さまが、どんな服をお召しになっていらしたか、ご存じでしょうか?」
「新聞にいくらかのっていたね。でも、あなたの口から直接うかがいたいな」
「奥さまは、白いヴェールのついた白狐の毛皮のふちなし帽をおかぶりでした。それに青いフリーズ・コートとスカートをお召しで――電光色といわれている、光のかげんで青く見える色あいのものです」
「ふむ、するとかなり人目につくな」
「そうなんです」とハリディ氏がいった。「ジャップ警部も、その点が凶行のおこなわれた場所を決める手がかりになるかもしれぬ、と希望をもっておりますよ。娘を見た人間なら、覚えているはずですからな」
「|Precisement《プレシゼマン》(たしかにそのとおりです)!――いやどうもご苦労でした、マドモワゼル」
小間使は部屋から出て行った。
「さてと!」そういってポワロは、勢いよく立ちあがった。「これで私のほうからおききすることは、ぜんぶです――ただしですね、ムッシュー――こんどは、そちらから、なにもかも、ぜんぶお話しねがいたいのです――つつみかくさずに!」
「わしは話しましたがな」
「まちがいございませんか?」
「絶対にそうです」
「それなら、もうなにも申しあげますまい。私はこの件から手をひかなくてはなりません」
「それはまた、どうして?」
「あなたが腹蔵なくお話しくださらぬからです」
「わしはたしかに――」
「いや、あなたはなにか、かくしていらっしゃる」
一瞬、沈黙があった。それから、ハリディはポケットから一枚の紙をとり出すと、ポワロに渡した。
「あなたが追求なさっているのは、これでしょうな、ポワロさん――もっとも、どうして、このことをご存じなのか、わしにはわけがわからん!」
ポワロはにっこり笑って、その紙片をひらいた。それは細い斜体で書かれた手紙だった。ポワロは声を出して読みあげた。
|Chere madame《シェール・マダム》(拝啓)
あなたと再会のときを持つことは、私にとって無上のよろこびです。あなたのやさしいお返事をいただいてからというもの、私はこの、せつない胸のうちをおさえることが、どうしてもできません。パリですごした、あの日々のことは夢にも忘れたことがありません。あなたが明日、ロンドンヘおたちにならなければならないとは、ずいぶん、むごいことではございませんか。でも遠からぬうちに、それもおそらくあなたがお考えになるよりも早目に、その面影を夢にも忘れられぬあなたと、再会の喜びを持つことでしょう。
とわに変わらぬ敬愛の念をこめて――
アルマン・ド・ラ・ロシュフール
ポワロは会釈して、ハリディにその手紙を返した。
「ムッシュー、あなたはお嬢さんが、ロシュフール伯爵と昔のよりをもどそうとなさっていたことは、ご存じなかったでしょうね?」
「まさに晴天のへきれきですよ! わしは娘のハンドバッグから、これを見つけました。あなたもご存じでしょうが、ポワロさん、この伯爵とかいわれておる男は、ひどくたちの悪い女たらしなのです」
ポワロはうなずいた。
「それにしても、どうしてこの手紙のことを知っておられたのか、うかがいたいですな」
ポワロは微笑した。
「ムッシュー、私は手紙のことは知りませんでした。ですが、探偵というものは、足跡を追求したり、たばこの灰を見わけたりすることだけが、能ではありません。探偵はまた同時に、すぐれた心理学者でなければならないのです! 私はあなたが娘婿をきらって信用されておらぬことを知っておりました。彼はお嬢さんの死によって利益を受ける人間です。さいぜんの小間使の話によって、例の謎の人物は、彼に酷似していることがわかりました。しかるに、あなたは彼の足どりには、さしたる注意をはらっておられない! なぜか? それはどうみても、あなたの嫌疑がべつの方向に向かっているからです。したがって、あなたはなにかをかくしておられる、とこういうことになるのです」
「ピタリですよ、ポワロさん。この手紙を発見するまでは、わしもルパートが犯人であると確信しておったのです。ところが、この手紙で、それがすっかりぐらついてしまいました」
「そうですね。伯爵は『遠からぬうちに、それもあなたがお考えになるよりも早目に』と書いております。あきらかに彼は、自分がまたぞろお嬢さんに接近しておることを、あなたにかぎつけられるまで、待つ気はなかったのです。十二時十四分の列車で、ロンドンから出発して、通廊からお嬢さんの客室に入った男は彼でしょうか? ロシュフール伯爵も、私の記憶にして誤りなければ、たしか長身で髪の黒いかたでした!」
富豪はうなずいた。
「では、ムッシュー、これでおいとまいたします。警視庁には、その宝石のリストがございましょうね?」
「ありますよ。まもなく、ジャップ警部がここに現われるはずです。よろしければ、お会いになってみてはどうです」
ジャップは僕らの旧友であった。彼は、親愛なる軽侮の色とでもいうような顔つきで、ポワロにあいさっした。
「で、あなたもお元気ですか、ポワロさん? われわれはお互いにものの見かたがちがっていますが、そうかといって、わだかまりはないようにしたいですね。あなたの灰色の脳細胞はいかがです、え? ご健在ですか?」
ポワロはにっこり笑った。
「ちゃんと働いているよ、ジャップ。その点はご心配なく!」
「それなら、けっこうです。ところで犯人はルパート卿でしょうか、それとも、ほかの悪党でしょうかね? もちろん、われわれは心あたりの場所には、目下、警戒の目を光らせています。もし宝石類が処分されれば、そのことはわれわれの耳に入るし、それにむろん、誰が犯人であるにせよ、そうそう、いつまでも宝石をねかせておくわけにはいきませんからな。そんなことは、まずありえません! ルパート・キャリントンがきのうどこにいたか、調べているところです。アリバイに、ちょっと、あいまいな点があるのです。いま、刑事を一人監視につけているんですがね」
「ご念のいったことで、しかし、どうも一日おそかったようだな」ポワロはすまして、そういった。
「あい変わらず、じょうだんをおっしゃいますね、ポワロさんは。私はこれからパディントンへ行きます。ブリストルとウェストンとタウントンへ行ってみます、なにせ私の管轄区域なのでね。じゃ失礼」
「今晩、わたしのところへよって、その結果を聞かせてくれないかな?」
「おやすいご用です。もし、もどってきましたらね」
「あの警部は、からだを動かして集めたことが正しい、と信じているんだ」ジャップが出て行くと、ポワロはそうつぶやいた。「現場へ行く。足跡の寸法をはかる。土とたばこの灰を集める! それで、てんやわんやだ! いいかげんに頭にきているんだよ! それだから、もし私が心理学なんか持ち出そうものなら、彼がなんというか、君にわかるかね? 彼はにやっと笑うよ! そして、ひとりごとをいうね――かわいそうなポワロ! 年は争えないもんだ! だんだん、ぼけてきやがつたな! とね。それでジャップ自身は『新時代のドアをノックする若き世代』というわけさ。|ma foi《マ・フォア》(いやはや)! ところが彼らきたら、そのドアなるものが、ひらいていることも気づかずに懸命にノックしているんだ!」
「それで、これからどうするつもりなの?」
「私たちは |Carte blanche《カルト・ブランシュ》(白紙で委任)されたのだから、三ペンス使って、リッツ・ホテルに電話してみよう――そこに例の伯爵が滞在しているとかいう話だからね。それがすんだら、なにしろ、足が少々疲れたし、二度ばかりくしゃみも出たから、私の部屋にもどって、おんみずからアルコール・ランプで |Tisane《ティザン》(せんじ薬)をつくるさ!」
そのあと僕は翌朝まで、ポワロと会わなかった。翌朝行ってみると、彼は平然と朝食を平らげたところだった。
「どうなの? なにか起きた?」僕は熱心にさぐりをいれた。
「なにも起こらんよ」
「しかし、ジャップは?」
「彼には会わなかったよ」
「伯爵は?」
「一昨日、ホテルをひきはらっている」
「例の殺人の日にだね?」
「さよう」
「それなら読めたぞ! 夫のルパート・キャリントンは白だ」
「ロシュフール伯爵が、リッツを引きはらったからかね? どうも君は結論を急ぎすぎるな」
「いずれにせよ、伯爵は尾行されて逮捕されるにちがいないよ! それにしても動機はなんだろうな?」
「十万ドル相当の宝石なら、誰にとっても、じゅうぶんな動機になるさ。しかし私が自分に問いかけている疑問はこうなんだ――なぜ彼女を殺したのか? なぜ、宝石だけを盗まなかったのか? とね。たとえ盗まれても、彼女は訴えはしまいからね」
「そりゃまた、どうして?」
「女だからさ、君。彼女は昔、この男を愛したことがあるんだ。それだから、宝石を失っても、口をつぐんでそれに耐えるはずだよ。それに伯爵のほうだって、こと女性に関するかぎりは、おっそろしくきれる心理学者だから――これが彼の成功の秘訣なんだが――その点はちゃんと、心得てるはずだよ。一方、もしルパート・キャリントンが彼女を殺したとすれば、なぜ宝石類を盗んだのかね。そんなものは、ぬきさしならぬ証拠になるじゃないか?」
「犯行をくらますためだろう」
「たぶん君のいうとおりかもしれん。おやジャップがきたぞ! 彼のノックはくせがあるからね」
警部は機嫌よさそうに、相好《そうごう》をくずしていた。
「お早う、ポワロさん。たったいま、帰ったところです。一仕事してきましたよ! あなたは?」
「私かね、私は自分の考えをまとめたよ」ポワロはすましてそう答えた。
ジャップはうれしそうに声をあげて笑った。
「年には勝てませんね」と声をひそめて僕にいってから、大声で、「そんなことは私ら若い者には役に立ちませんぜ」
「|Quel dommage《ケル・ドマージュ》(それがいけないかね)?」ポワロは聞き返した。
「それでは、私のしたことをお聞きになりたいですか?」
「はばかりながら、あててみようか? 君は犯行に使用されたナイフを、ウェストン=タウントン間の線路ぎわで発見したろう。それからウェストンで、キャリントン夫人に話しかけた新聞売りの少年に会ったのさ!」
ジャップはあんぐりと口をあけた。
「どうしてそれがわかりました? 例の全能なる『灰色の脳細胞』のしからしむるところだなんて、いわんでくださいよ!」
「脳細胞が全能であることを、君がとうとう、みとめてくれたとは欣懐《きんかい》のいたりだよ! どうかね、彼女は売り子にチップを一シリングもやったかね?」
「いえ、半クラウン(二シリング半)でしたよ!」ジャップは落ちつきをとりもどして、にやっと笑った。「ああいうアメリカの金持ちときたら、豪勢な使いかたをしますからねえ!」
「その結果、売り子は彼女のことをよく覚えていたわけだね?」
「そうですとも。半クラウンなんて、そうそう毎日もらえるわけじゃありませんからね。夫人は少年を呼びとめて、雑誌を二冊買ったのです。雑誌の一つには、表紙にブルーの服を着た女の写真がのっていました。『こんなのが、あたしには合うわね』と彼女はいったんです。ですから、少年は夫人のことを、はっきり記憶していましたよ。さあ、そうなれば私には、じゅうぶんです。医師の検証によれば、凶行は、タウントン着以前に、おこなわれたはずです。私は犯人どもが、すぐさまナイフをすてたものとにらんで、それを探しに線路づたいを歩きました。すると案の定、見つかりましたよ。タウントンで、犯人のことをきいてみましたが、なにせ、大きな駅ですから、駅員が気づかなかったのもむりもありません。犯人はおそらく、あとの汽車でロンドンヘもどったんですね」
ポワロはうなずいた。
「まずそうだろうね」
「ですが、私はもどってから、べつの情報をつかみました。犯人どもは、やっぱり宝石類を手放しましたよ! 昨夜大きなエメラルドが質入れされたんです――入れた男は警察が目をつけている連中の一人です。いったい誰だと思います?」
「私は知らないよ――小男だということ以外はね」ジャップは、ぎくっとした。
「ありゃ、まさにピタリですよ。かなり小男です。レッド・ナーキーなんですよ」
「レッド・ナーキーとはなに者です?」僕は質問した。
「腕っこきの宝石泥棒ですがね、殺しもやりかねません。いつもグレーシー・キッドという女と組んで仕事をするんですが、女のほうは今回は関係してないようです――彼女が盗品の残りを持って、オランダに高とびでもしていないかぎりはですが」
「ナーキーを逮捕したんですね?」
「しましたとも。ですが、われわれが捕えたいのはべつの男です。それを忘れんでくださいよ――キャリントン夫人と汽車で、いっしょだった男を捕えたいんですからね。その男がこんどの仕事の張本人であることは、まちがいありません。ですがナーキーは、口を割って相棒を売るようなことはせんでしょう」
ポワロの目が濃い緑色になったのに僕は気がついた。
「どうやらね」とポワロが、やさしくいった。「君のためにその相棒とやらを見つけてやることができそうだね」
「いつもの、ちょっとした思いつき、ってやつですか、え?」ジャップは、ポワロにするどい視線を投げた。「とにかく、あなたの年配で、けっこう犯人《ホシ》をあげることがあるのは、まったく驚くべきことです。もちろん、まぐれでしょうがね」
「そうかもしれん」とポワロはつぶやいた。「ヘイスティングズ、私の帽子とブラシをとってくれないか。よし! まだ雨がやまないのならなら、オーヴァシューズもね。あのせんじ薬の効果を台なしにしてはいかんからね。|au revoir《オー・ルヴォワール》(じゃまた)ジャップ!」
「ご成功を祈りますよ、ポワロさん」
ポワロは通りすがりの、さいしょのタクシーを呼びとめると、運転手にパーク・レーンへ行くようにと命じた。
ハリディの邸宅のまえに車がとまると、ポワロは敏捷《びんしょう》にとびおりて、運転手に金を払い、ベルを鳴らした。ドアをあけた従僕に低い声でポワロが来意をつげると、僕らはさっそく階上に通された。そしてこの邸の最上階まであがると、小じんまりした寝室に案内された。
ポワロの目が室内を、じろじろ見まわしていたが、やがて小さな黒いトランクにぴたっと吸いついてしまった。ポワロはそのまえにひざまずくと、貼ってあるラベルを、ためつすがめつ見ていた。それから、ポケットから、ねじれた針金をとり出した。
「ハリディ氏に、ご足労だが、ここまでおいでくださるように、とりついでくれたまえ」ポワロは肩ごしに従僕にいった。
(おそらく読者はここで一息いれ、この犯罪を読者自身で解決したいと思われるだろう――そしてそのあとで、自分の解決が、作者のそれにどれくらい近いものか、ごらんになるのも一興であろう)
従僕が出て行くと、ポワロはなれた手つきで、針金をトランクの鍵穴にさしこんで操作した。数分すると錠があいた。彼はトランクのふたをあけた。そして中に入っている衣類をすばやくひっかきまわすと、床の上にぶちまけてしまった。階段にゆっくりした足音が聞こえて、ハリディが室内にはいって来た。
「いったいなにをしているんです?」目を丸くしてハリディがきいた。
「これを、探していたんですよ」ポワロはトランクからあかるい青色のフリーズのコートとスカート、それに白狐の小さな婦人帽子をとり出した。
「ひとのトランクを、どうしようっていうんです?」
僕がふり向いてみると、小間使のジェーン・メースンが室内に入っていた。
「ヘイスティングズ、君、そのドアをしめてくれないか。ありがとう。それじゃ、ドアを背にして、立ってくれたまえ。さて、ハリディさん、グレーシー・キッド、別名ジェーン・メースンをご紹介しましょう。この女は、まもなくジャップ警部に護送されて、共犯のレッド・ナーキーと再会することになっています」
「かんたんしごくなことでしたよ!」ポワロはそういって、さらにキャビアをつまんだ。
「あの小間使が、女主人の服装のことに固執したので、私はさいしょにおやと思ったんです。なにがゆえに、私たちの注意をその点に向けさせようとやっきとなっているのか? それとブリストルで客室にいた謎の男については、小間使の証言しかない点を私は再考してみました。医師の検証が意味するかぎりでは、キャリントン夫人は、おそらく、ブリストル到着以前に殺されたかもしれないのです。だがもしそうだとすれば、小間使は共犯にちがいない。そして、もし共犯だとすれば、彼女はこの点を、彼女自身の証言だけにまかせて安心しているはずがないわけです。キャリントン夫人の服装は、えらく人目につくものでした。小間使というものは、ふつう、女主人の着る衣装について、かなり口出しをするものです。ところで、ブリストル通過後に、もし誰かが、青いコートとスカート、それに白狐の帽子を身につけた婦人を見たとすれば、その人間は、自分がキャリントン夫人を目撃しましたと、ちゅうちょなく証言するでしょう。
私は事件の再構成をはじめました。小間使は、女主人とまったく同じ服を用意しているはずです。彼女と共犯者は、キャリントン夫人にクロロフォルムをかがせてから刺殺しました。それもおそらく、トンネル通過のさいを利用してです。そして死体を座席の下にころがしておいて、小間使は、女主人になりすます。ですが、ウェストンでは人目につく必要がある。そこでいろいろな可能性を考え合わせたあげく、新聞売りの少年に白羽の矢が立った。いかなる方法で? 売り子にチップをはずむことによって、自分を強く印象づけるのです。そして同じく、二冊買った雑誌の一冊の表紙のことを口にして、自分の服装に注意をひかせる。ウェストンを発車してから、車窓からナイフをすて、いかにもこの地点で凶行がおこなわれたと思わせるようにして、着がえるか、あるいは例の服装の上から、雨ゴートでも着こんだのです。それからタウントンで下車して、できるだけ早く、ブリストルにとって返す。そこでは共犯者が、ちゃんと荷物を一時預けに預けてある。男は預けた札を彼女に手渡して、自分はロンドンへ引き返す。女は人待ち顔にプラットフォームに残って自分の役割を演じ、その夜はホテルへ泊まって、翌朝、まさしく彼女の申し立てどおり、ロンドンに帰って来たのです。
ジャップが調査からもどって来たとき、彼は私の推理をすべて裏づけてくれました。それに、有名な悪党が宝石を質入れしたことも教えてくれました。私はそれが誰にせよ、ジェーン・メースンが陳述した男の風態とは、まるっきり正反対の男にちがいない、とにらんでいたのです。その男がいつもグレーシー・キッドと、いっしょに仕事をしているレッド・ナーキーなる男であることを聞いたとき――さよう、私はどこに行けば、その女が見つかるかが、わかったのです」
「それで伯爵は?」
「伯爵のことは考えてみればみるほど、この事件とは無関係だという確信が強くなりました。あの紳士は殺人なんて危ない橋を渡るにしては、あまりにも慎重|居士《こじ》です。彼の性格とはとうてい符合しません」
「どうもポワロさん」とハリディがいった。「たいへん、お世話になりました。昼食後に私は小切手を書きますが、そんなことではとうてい、私の感謝の気持ちはあらわせません」
ポワロは、つつましく微笑して、私に向かって小声でいった。
「ジャップは、これで男をあげるだろうな。だけど、ジャップはキッドを検挙したものの、アメリカ人たちが俗にいうように、キッドを|とっちめてやったのは《ゴット・ヒズ・ゴート》この私だよ」(完)
◆「ポワロ参上!」3◆
アガサ・クリスティ/小西宏訳
二〇〇四年十二月二十日