アガサ・クリスティ
「ポワロ参上!」2
目 次
グランド・メトロポリタンの宝石盗難事件
消えた遺言書
戦勝舞踏会事件
マーキット・ベイジングの謎
解説
グランド・メトロポリタンの宝石盗難事件
「ポワロ、気分転換もいいもんだぜ」と僕は言った。
「そう思うかね、君?」
「断然そう思うね」
「へえ?」とわが友は微笑しながら言った。「すると準備はできているんだろうね?」
「行くかい?」
「いったい、どこへ引っぱって行くつもりだい?」
「ブライトン(ロンドン南方の海浜)さ。ロンドンの僕の友人がとてもいいことをこっそり教えてくれたのさ。それに――目下のところ、金なら、俗にいう『くさるほど』ある。グランド・メトロポリタンで週末をすごしたら、まったくすばらしい気分が味わえると思うね」
「それはかたじけない。ありがたくお受けするよ。君は年長者に対しては、暖かい心をお持ちだ。暖かい心というものは、究極においては、灰色の小さな脳細胞全部に匹敵するほどの値打ちがあるもんだ。いや、いや、そういう私自身が、ときどきそのことを忘れがちなんでね」
僕はポワロの含蓄のある言葉を額面どおりには受けとらなかった。彼はどうもときどき僕の精神能力を、過少評価するきらいがあるように思える。だがポワロが、手ばなしで喜んでいるようすなので、少々の不満はおもてに出さないことにした。――
「それなら問題ないや」と僕は急いで言った。
土曜日の夕方には、僕たちはグランド・メトロポリタンで、陽気な客たちに混じって夕食をとっていた。世界中の紳士淑女がブライトンで一堂に会したような感がある。婦人連の衣裳はきらびやかで、宝石類は――上品な趣味というよりも、単に飾りたてるという代物も時たま見受けたが――目を奪うようだった。
「なんと、これは観物《みもの》だね!」とポワロはつぶやいた。「成金の邸宅へ来たみたいだ、そう思わんかね、ヘイスティングズ!」
「まったくね。しかし、まさか全部が全部、成金というわけでもあるまい」
ポワロは悠々とあたりを見まわした。
「こうたくさんの宝石を見せつけられると、探偵のかわりに、犯罪者に宗旨《しゅうし》変えをしておけばよかった、という気を起こさせるな。腕っこきの泥棒なら、ねがってもない機会だ! ヘイスティングズ、あの柱のそばにいるたくましいご婦人を見てごらん。まるで宝石の満艦飾だ!」
僕はポワロの視線を追った。
「何だ、ありゃオパルゼン夫人じゃないか」僕は声をあげた。
「知り合いかね?」
「いささかね。あの婦人のご亭主は、最近の石油ブームで、一身代つくった、金持ちの株屋なんだよ」
夕食後、僕らは休憩室でオパルゼン夫妻とばったり顔を合わせた。僕はポワロを紹介した。数分間、言葉をかわして、最後にいっしょにコーヒーを飲んだ。
ポワロが、夫人の豊かな胸を飾っている二、三の高価な宝石に讃辞を呈すると、夫人は、即座に顔を輝かせた。
「わたし、このほうにはまるで目がありませんのよ、ポワロさん。宝石にはまったく恋いこがれておりますの。主人のエドは、わたしの急所をのみ込んでいまして、商売がうまくいきましたときには、いつも、新しい石を買ってきてくれますの。ポワロさんは宝石に興味がおありですの?」
「私も何回か宝石事件に関係したことがございます、マダム。職業がら、世界的に有名な宝石を手がけた経験もあります」
ポワロは慎重に仮名を使って、ある王室に伝わる歴史的な宝石とそれにまつわる話を物語った。オパルゼン夫人は、かたずをのんで耳を傾けていた。
「まるでお芝居でも見るようなお話じゃありませんこと!」
ポワロが話しおえると夫人はそうさけんだ。
「わたし、自分でも来歴のある真珠を持っております。どこへ出しても恥ずかしくないすばらしいネックレスだと思いますの――真珠の粒といい色合いといい、それはよくできたものですわ。ちょっととりに行ってまいりましょう」
「いや、マダム」とポワロは押しとめた。「そんなにまでしていただかなくても。どうぞおかまいなく!」
「でも、わたし、お見せしたいのよ」
健康美にあふれる夫人は、足早に、エレベーターのほうへ歩いて行った。僕と話をしていたご亭主が、ポワロのほうへ、物問いたげな視線を向けた。
「奥さまが、どうしても私に、真珠のネックレスを見せてくださるとおっしゃっておききにならんのです」とポワロは釈明した。
「ああ、真珠のことでですか」オパルゼン氏は、満足げにほほえんだ。「あれなら一見の価値はありますよ。値段のほうも相当なものでしたがね! ですが、それだけの値打ちは充分にあります。いつ手放しても、買い値で――もしかするとそれ以上に売れるでしょう。現在のような景気がつづけば、将来手放すようなことにならないともかぎりません。ロンドンではお話にならぬくらい、金ぐりが逼迫《ひっぱく》しておりましてね。それもこれも全部、あのいまいましいE・P・D(超過利得税)が原因ですわ」彼は漫然と話しつづけたが、話が専門的なことにはいってきたので、僕にはよくわからなかった。
しかし小さなボーイが近づいて来て、オパルゼン氏の耳に何かささやいたので、話は中断されてしまった。
「え、なに? すぐ行くよ。取り乱してはいないだろうね、家内は? ちょっと失礼」
彼はあわただしく立って行った。ポワロは椅子の背にもたれて、細巻きのロシア・タバコに火をつけた。そして、からのコーヒー・カップを慎重な手つきで、きちんと一列にならべて、嬉しそうに、にんまりと笑った。
数分たった。オパルゼン夫妻は、もどってこない。
「おかしいな」と僕はしびれをきらした。「いつもどってくるんだろう」
ポワロは、立ちのぼる煙りの輪をみつめながら、意味ありげに言った。
「もどってこないさ」
「どうして?」
「それはだ、事件が起きたからさ」
「どんな事件だい? どうしてそれがわかる?」僕はふしぎに思ってたずねた。
ポワロは笑った。
「つい今しがた、支配人が事務室から、あわただしげに出て来て、二階へかけあがっていったよ。ひどく動顛していた。エレベーター・ボーイが、取りつぎのボーイの一人と、しきりに話しこんでいた。エレベーターのベルが三回鳴ったのに、ボーイのほうは気がつかないくらいだ。第三には、給仕たちまで、放心状態になっている。給仕さんの気を奪うからには――」ポワロは断定的な口調で、頭をふった。「きわめて重大な事件が発生したにちがいない。ああ、やっぱり思ったとおりだ! 警察が来たよ」
ちょうどそのとき、二人の男がホテルにはいって来た――一人は制服の警官で、もう一人は私服。二人はボーイに声をかけて、すぐに二階へ案内されて行った。まもなく、その同じボーイがおりて来て、僕らのところへやって来た。
「うえまでお越しいただけないだろうか、とのオパルゼンさまのご伝言でございます」
ポワロは、さっと立ち上がった。まるで、呼ばれるのを待ち受けていたみたいだった。僕もまけずに、すばやくそのあとにつづいた。オパルゼン夫妻の部屋は、二階だった。ボーイはドアをノックして、ひきさがった。
「どうぞ!」という声に応えて、二人は中へはいった。室内には奇妙な光景が展開していた。その部屋は、オパルゼン夫人の寝室だが、部屋の中央では、安楽椅子に顔をうずめた、ほかならぬ夫人その人が、はげしくすすり泣いている。なんとも驚きいった愁嘆場である。ふんだんにぬりたくったお白粉の上に、涙が太い筋になって流れている。オパルゼン氏のほうは、はらだたしげに、大股で室内を行きつもどりつしている。
二人の警官は部屋の中ほどに立ち、一人はノートを手にしている。ホテルの部屋づきの女中は、おびえきった表情で、暖炉のそばに立ち、部屋の反対側には、夫人の小間使いらしいフランス女が、両手をふりしぼって、泣きじゃくり、女主人に負けず劣らず、鳴咽《おえつ》の声をあげているというありさま。このとりこみのさなかに、微笑を浮かべたポワロが、悠然とはいっていったのである。すると、その肥満体にしては驚くほどの身軽さで、オパルゼン夫人が椅子からはね起きて、ポワロのもとに駆けよった。
「ポワロさん、エドが何と申しましょうとも、わたしは、運命というものを信じますわ。こうして今晩、あなたにお目にかかれたのも、偶然ではございません。もしあなたが、わたしの真珠をとりもどしてくださらなければ、誰に頼んだってあれはもう永久にわたしの手にはもどりませんわ」
「おちついてください、おちついて、マダム」ポワロはなだめるように、夫人の手をさすった。「ご安心ください。うまくいきますよ。エルキュール・ポワロがここにおります!」
オパルゼン氏は警部のほうをふり向いた。
「このかたをお呼びしても、さしつかえないでしょうね?」
「けっこうですよ」警部はいんぎんに答えたが、ポワロのことを完全に黙殺するような態度だった。「奥さまのご気分がよくなられたのなら、ひとつ、前後のもようをお話しいただけますか?」
オパルゼン夫人は、うつろなまなざしをポワロに向けた。ポワロは椅子まで彼女をささえて行った。
「おかけなさい、マダム。興奮なさらずに、ひとつ、一部始終をお話しください」
こう、つっぱなされたので、オパルゼン夫人はていねいに涙をぬぐい、話しだした。
「わたし、夕食をすませてから、ここにおいでのポワロさんにお見せしようと思って、ネックレスをとりに、階下からあがってまいりました。女中とセレスティーヌはいつものようにいっしょにおりましたが――」
「奥さま、いつものようにとは、どういう意味でございますか?」
夫人は説明した。
「わたし、小間使いのセレスティーヌがこの部屋にいないときには、誰もはいって来てはいけない、ときめましたの。女中は毎朝、セレスティーヌのいる前で部屋の掃除をいたします。そして夕食のあとで、また同じようにベッドの仕度をととのえに来ます。そうでなければ、決して部屋にはいりません。ところで、いま申しましたように、わたし、部屋にまいりました。そしてこの引き出しのところへ来まして」と彼女は、両袖の化粧机の右手のいちばん下の引き出しを指さした――「宝石ケースを出して、鍵をあけました。ケースには別に異状はございませんでしたが――ネックレスが見当たりません!」
警部はせわしげにノートをとっていた。
「それを最後に見たのはいつですか?」
「夕食をとりに下へ行ったときですわ」
「まちがいありませんか?」
「絶対にたしかです。あのネックレスをつけていこうかどうしようかまよいましたが、結局、エメラルドをつけることに決めて、真珠のほうは、ケースにもどしましたから」
「宝石ケースの鍵をかけたのはどなたです?」
「自分でいたしました。鍵は鎖につけて首にかけてございます」夫人はそういいながら鍵をとり出してみせた。
警部はケースを調べて、肩をすくめた。
「犯人は合い鍵をもっていたにちがいないですな。さしてむずかしいことではありませんよ、この鍵はきわめて単純なやつですから。ところで、ケースに鍵をしてから、どうなさいました?」
「ケースを、いつもの場所に、いちばん下の引き出しにしまいました」
「引き出しには鍵をかけなかったのですね?」
「はい、いつもかけませんもの。わたしがもどりますまでは、小間使いが部屋におりますから、その必要はございません」
警部の顔はいかめしくなった。
「すると、こういうことですかな。つまりあなたが夕食に行くまでは、ネックレスはケースの中にあった。そしてそれから小間使いは一歩も部屋を出なかった、と」
こう言われてはじめて、自分の立場のおそろしさに慄然《りつぜん》としたのか、セレスティーヌは不意に鋭い悲鳴をあげて、ポワロのもとへかけより、支離滅裂なフランス語で、まくしたてた。
「そんな中傷は恥知らずです! あたしが奥さまのものを盗んだと疑われているなんて! 警察がお話にならないくらい頭が悪いことは誰でも知ってることです! でも、あなたはフランス人だから――」
「ベルギー人ですよ」とポワロがさえぎったが、セレスティーヌはそんな訂正には耳をかそうとしなかった。
「あの恥知らずの女中が、ひとりで涼しい顔をしているのに、あたしだけがぬれ衣《ぎぬ》を着せられるなんて、そんなことをあなたが賛成なさるはずはありませんわ。あんないやな女ったら、ありゃしない――ずうずうしい赤っ面《つら》で――生まれつきの泥棒だわ。あたしは初めから、あの女は油断がなりませんと申しあげたのよ。だから、奥様の部屋を掃除するときは、いつもあの女から目を離さなかった。あのまぬけのお巡りったら、女中の身体検査でもやってみるといい。それでも奥様の真珠が出てこないとしたら、あいた口がふさがらないわ!」
この長広舌は、早口のとげとげしいフランス語でまくしたてられた。だが、セレスティーヌは、その合い間に、ゼスチュアをたっぷりはさんだので、ホテルの女中にも、やっとおぼろげながら、その意味がわかったらしい。女中は怒ってまっかになった。
「この外国女が、真珠をとったのはあたしだと言ってるなら、それはうそです!」女中は興奮して叫んだ。「そんなもの、見たこともありゃしない」
「女中を調べてください!」フランス女が金切り声を出した。
「このうそつき――なんてしらじらしい」セレスティーヌの前にたちはだかって、女中が言った。「自分で盗んだくせに、あたしのせいにしようとする気ね。あたしが部屋にはいったのは、奥さまがいらっしゃるほんの三分前のことだよ。あんたこそ、いつものように、まるでねずみを狙う猫みたいにずっとここにすわっていたじゃないの」
警部は横目でセレスティーヌにせんさくするような視線を向けた。
「それはほんとうかね? あんたは、この部屋から、一歩も離れなかったのかね?」
「たしかにあたしは、あの女を一人にはしませんでした」セレスティーヌは、いやいやその事実を認めた。「でも、あたし、このドアを通って、二回、自分の部屋へまいりました――一度は糸巻きをとりに、二度目ははさみをとりに。きっとそのあいだに盗んだんだわ」
「あんたがいなかったのは、長い時間じゃないわよ」女中は怒ってやりかえした。「行ったかと思うと、すぐもどって来たじゃないの。身体検査なら望むところよ。こう見えても、うしろ暗いところなんかありませんからね」
このときドアにノックの音がした。警部が歩いて行った。来訪者を見ると、その顔が明るくなった。
「これはよかった。婦人警官を一人、呼びにやったんだが、ちょうど来てくれました。さしつかえなければ、隣りの部屋に行ってもらおうか」
警部は女中のほうを見た。女中はつんと頭をそらして、敷居をまたいで行った。婦人警官がすぐあとにつづいた。
フランス女はしゃくりあげながら、椅子にくずおれた。ポワロは室内を見まわした。
「そのドアはどこへ通じています?」ポワロは、窓のそばのドアをあごでしゃくりながらたずねた。
「となりの部屋でしょうね。いずれにしても、この部屋のほうからボルトがかってあります」と警部が答えた。
ポワロはそのドアのところへ行って、押してみた。それからボルトをはずして、また押した。
「向こう側からもかってある。ふむ、するとこれは問題外だな」
彼は窓辺に歩みより、順ぐりに、一つずつ調べていった。
「これも――得るところなしか。バルコニーさえついていない」
「たとえついていたとしても」警部はじれったそうに言った。「捜査の参考にはならんでしょう。小間使いが一歩も部屋を出なかったとすれば」
「|Evidemment《エヴィダマン》(そのとおりです)」とポワロは答えたが、すましたものだった。「そのお嬢さんが、絶対に部屋を出なかったと断言されるならね――」
女中と婦人警官が、隣りの部屋から姿を現わしたので、ポワロの話は中断された。
「なにもありませんでした」婦人警官は簡潔に報告した。
「なくて幸いだわ」女中はしとやかに言った。「あのおしゃべりのフランス女は恥じるべきよ。罪もない娘を泥棒よばわりしてさ」
「まあまあ娘さん、わかったよ」警部はドアをあけながら言った。
「誰も君を疑ったりせん。もういいから、君の仕事につきなさい」
女中は不承々々出て行きながら、「この女も調べるんでしょうね」とセレスティーヌを指さした。
「そうだとも!」警部は女中の顔前でドアをしめ、鍵をかけてしまった。
こんどはセレスティーヌが婦人警官につきそわれて、隣りの小部屋にはいる番だった。数分して、もどって来た。彼女の身辺からもなにも発見されなかった。
警部の顔は深刻になった。
「宝石が出てこなかったとしても、君には署まで同行してもらわなければならんようだ、ミス」そう言ってから、警部はオパルゼン夫人のほうを向き、「残念ながらマダム、あらゆる証拠からおして、こうせざるを得ません。この女が身につけていないとなると、室内のどこかに隠されていることになります」
セレスティーヌは鋭い悲鳴をあげて、ポワロの腕にしがみついた。ポワロは上体をかがめて、何かを娘の耳にささやいた。彼女は疑わしげに、ポワロの顔を見あげた。
「Si, si, mon enfant(だいじょうぶだよ、娘さん)――さからったりしないほうが身のためです」そう言って警部のほうを向いた。「よろしいでしょうか、ムッシュー? ちょっとした実験をやりたいのです――なに、ほんの私の思いつきでしてね」
「その内容によりけりですな」警部はどっちともつかぬ返答をした。
ポワロは再度、セレスティーヌに声をかけた。
「あんたは自分の部屋に糸巻きをとりに行ったと話したね。それはどこにおいてあったの?」
「たんすの上ですわ、ムッシュー」
「それから、はさみは?」
「それも同じ場所ですわ」
「それほど面倒でなければね、娘さん、その二度の動作をくり返してみてくれませんか? あんたはここにすわって、仕事をしていたんだっけね?」
セレスティーヌは腰をおろした。それからポワロの合図で立ちあがって、隣りの部屋に行き、たんすの上から目的の品をとると、もどって来た。ポワロは彼女の動作と、てのひらの上においた懐中時計の両方を交互に見つめていた。
「もう一度、やってください、マドモアゼル」
二回目の実演がすむと、彼は手帖に何やら書きとめて、ポケットに時計をしまった。
「ありがとう、マドモアゼル。それから、警部さん、お手間をおかけしました」ポワロは会釈した。
警部はこう丁重に礼をつくされて、いくぶん、おかんむりを直したらしい。セレスティーヌはポロポロ涙を流して、婦人警官と私服につきそわれて出て行った。
それから、警部はオパルゼン夫人の許しを得て、室内をひっかきまわし始めた。引き出しをあけ、戸棚をひらき、ベッドをめちゃめちゃにしたり、床をたたいたり。オパルゼン氏は疑わしそうな目つきで、そのさまをながめていた。
「本気で見つかるとお考えですか?」
「そうです。根拠がある。小間使いは室外に持ち出す余裕がなかったのですからな。奥さまの盗難発見がはやすぎたので、彼女の計画がひっくり返ってしまったのです。たしかに室内にありますよ。二人のうちのどっちかが、隠したにちがいないが――女中のほうがやったとは、どうも考えられませんからな」
「考えられないどころか――不可能です!」とポワロが静かに言った。
「え?」警部が目をみはった。
ポワロはおだやかに微笑した。
「ひとつ実験してお目にかけましょう。ヘイスティングズ、私の時計を手に持ってくれないか――気をつけてね。わが家の家宝なんだから! ところでさきほど、娘さんの動作を計ったところ――部屋をあけた最初の時間は十二秒、二回目は十五秒です。さて、私の動作にご注目ください。奥さま、おそれ入りますが、宝石ケースの鍵をお借りしたいのですが。ありがとうございます。ヘイスティングズ、『始め』と合図してくれたまえ!」
「始め!」と僕は言った。
ポワロは、信じられぬほどの敏捷さで化粧机の引き出しをあけた。宝石ケースを出す、鍵をさしこむ、ふたをあける、宝石を選び出す、ふたをしめて鍵をかける。そして引き出しの中にもどして、もとどおりにそれをしめる。まったく目にもとまらぬ早わざだった。
「どうだね、君?」彼は息をきらせて僕にきいた。
「四十六秒だよ」僕は答えた。
「いかがです?」ポワロは一同を見まわした。「女中がネックレスを隠すどころか、それを盗む時間さえなかったのは、明白です」
「すると、犯人は小間使いですな」警部は満足げに言って、また捜査にとりかかった。そして隣りにある小間使いの寝室にはいって行った。
ポワロは考えこむように眉をひそめていたが、突然、オパルゼン氏に質問の矢をはなった。
「そのネックレスには、そのう、むろん、保険はかかっていたでしような?」
オパルゼン氏は、その質問を受けて、ちょっと驚いたようだった。
「ええ、まあそうですが」とためらいがちに答えた。
「でも、それがなにになりますの?」夫人が泣き声を出した。「わたしがほしいのは、ネックレスです。二つとないものです。お金がかえったところでどうにもなりませんわ」
「わかりますよ、マダム」ポワロは慰めるように言った。「お気持ちはよくわかります。婦人にとっては情緒がすべてです――そうではございませんか? しかしご主人のほうは、それほど繊細な感受性はお持ちではありますまいから、むろん、保険をかけておいたことに、多少の慰めをお感じになるでしょう」
「もちろんですとも、もちろん」オパルゼン氏はいくぶん、あいまいに言った。「ですが――」
そのとき、警部の勝利の叫び声が聞こえて、オパルゼン氏の言葉はさえぎられてしまった。警部は指の先に何かぶらさげて出て来た。
夫人は悲鳴をあげて、椅子から立ちあがった。まるで別人の感がある。
「あ、あ、わたしのネックレス!」
彼女はそれを両手で胸に抱きしめた。
「どこにありました?」オパルゼン氏がきいた。
「小間使いのベッドです。ワイヤー・マットレスのスプリングの中です。あの女が盗んで、女中がくる前にそこに隠したのにちがいありません」
「拝見させていただけますか、マダム」ポワロがやさしく言った。そして夫人の手から受けとると、しさいに調べて、それから一礼して、返した。
すると警部が言った。
「恐縮ですが、奥さま、これは、当分のあいだ、お預りしなくてはなりません。犯人を告発するために必要です。ですが、できるだけ早くお手もとにもどすようにはいたします」
オパルゼン氏は顔をくもらせた。
「どうしても要《い》るんですか?」
「残念ながら、そうです。単なる手続き上のことですが」
「エド、お渡しなさいな! そうしていただいたほうが気が楽だわ。誰かに盗まれそうだなんて考えたら、夜もおちおち眠れないわ。なんていう性悪女でしょう! でもあの女が盗んだとは、とても本気にできません」
「もういいよ、お前、そう興奮しなさんな」
誰かがそっと僕の腕をおさえた。ポワロだった。
「退散しようかね? どうやら私たちの手つだう必要はなくなったようだ」
しかし、外へ出ても、ポワロはぐずぐずしていた。それから驚いたことに、こういうのである。
「となりの部屋を見て行きたいな」
ドァには鍵がかかっていないので、二人は中へはいった。それは二間つづきの部屋で、空室になっていた。目ざわりなほど埃《ほこり》がつもっている。神経質なわが友は、窓ぎわのテーブルの上についている四角い跡のまわりを指でこすりながら、独得のしかめ面をした。
「まだお役ごめんではないらしい」ポワロは憮然《ぶぜん》たる面もちで言った。
彼は窓の外に目をすえて、しきりになにか考えているらしい。
「なんだい? どうしてこの部屋に来たんだい?」僕はたまりかねて、きいた。
はっとポワロはわれに返った。
「|Je vous demande pardon, mon ami《ジュ・ヴー・ドマンド・パルドン・モナミ》(どうも失敬、きみ)。私は、ドアがほんとうにこちら側からも、ボルトがかってあったかどうか、調べたかったのだよ」
「なるほど」さいぜん二人がいた部屋との境になっているドアを僕は一瞥《いちべつ》した。「ボルトはかってあるね」
ポワロはうなずいた。しかし依然として考えこんでいる。
「それにしても、これがなんか関係があるのかい? 事件は解決ずみだぜ。君の才能を発揮できるようなチャンスがあればよかったんだがね。しかしこんどの事件は、あの警部のようなぼんくらでも、まちがえっこないようなものじゃないか」
ポワロは頭をふった。
「事件は未解決だよ、君。誰が真珠を盗んだのか、それを発見するまでは、事件は終わらんよ」
「しかし、犯《や》ったのは小間使いだろう!」
「どうして、そういうんだね?」
「なぜって」僕は口ごもった。「現に彼女のマットレスの中から発見されたもの」
「これはこれは!」ポワロはもどかしそうに言った。「発見されたのは真珠じゃないよ」
「なんだって?」
「模造品さ」
僕は息がとまるほど驚いた。ポワロは静かに微笑していた。
「あの警部は、どうみても宝石については無知だね。すぐに、てんやわんやの大騒ぎさ!」
「行こうぜ!」僕は彼の腕をつかんだ。
「どこへ?」
「さっそくオパルゼン夫妻に教えるべきだ」
「そうは思わんね」
「しかし、あの気の毒な夫人は――」
「君のいうその気の毒なご婦人はだ、真珠が安全なところに保管されていると思いこんでいるほうが、よくおやすみになれるだろう」
「しかし、泥棒がまた盗むかもしれない」
「例によって君は、よく考えもせずに、すぐ口にだす。オパルゼン夫人が今晩、夕食前に細心の注意をはらって、宝石ケースへ入れて鍵をかけた真珠が贋物でないと、君はいい切れるのかね? 本物はずっと以前に盗まれてしまったかもしれないんだよ」
「え?」僕は頭が混乱してきた。
「まさにそうなんだよ。私たちは出直しさ」ポワロはにっこり笑った。
彼は部屋を出てから思案するように一息入れて、それから廊下のはしに行き、女中やボーイ連のたまりになっている小さな控え室の外で足をとめた。さきほどの女中が、そこで小法廷をひらいている最中で、自分のなまなましい経験を、聴衆たちにことこまかに報告していた。女中は、その途中で言葉をとぎらせた。ポワロはいつものいんぎん無礼な会釈をした。
「おじゃましてすまんね。お手数でも、オパルゼン氏の部屋の錠をあけてくれるかね」
女中は勇んで立ちあがった。僕とポワロは女中といっしょにまた廊下をもどって行った。オパルゼン氏の部屋は廊下の反対側にあり、ドアが夫人の部屋と向かい合っている。女中が合い鍵で錠をはずしたので、僕たちは中へはいった。女中が引きかえそうとすると、ポワロが呼びとめた。
「ちょっと。君はオパルゼン氏の荷物の中に、こんなカードを見たことがあるかね?」
彼はまっしろな、かなりつやのある見なれぬカードをとり出した。女中はそれを受けとって、しげしげとながめた。
「いえ、見たことはございません。それに、殿方のお部屋は、たいていボーイがお世話しますので」
「なるほど。いやどうも」
ポワロはカードをとり返した。女中は退席した。彼はなにか考えあぐねているようだった。
「すまないが、ヘイスティングズ、ベルを鳴らしてくれないか。三度鳴らしてボーイを呼ぶんだ」
僕は好奇心に駆られて、いわれるままにした。その間、ポワロはくずかごの中身を床にぶちまけ、すばやくその中身を漁《あさ》っていた。
ほどなく、ボーイがやって来た。ポワロは同じ質問をボーイにあびせて、調べてみるようにと、カードをわたした。しかし答えは同じだった。ボーイはオパルゼン氏の持ちものの中に、そんなカードを見たことはなかった。ポワロは礼を言った。ボーイはひっくり返ったくずかごと、床に散乱した中身に、せんさくするような視線を投げて、心もち気がかりなようすで引きさがった。紙くず類をまたごちゃまぜにして、くずかごにもどしながら、ポワロの口をついて出た言葉は、おそらくボーイの耳にはいったにちがいない。
「しかもネックレスには、たっぷり保険がかかっている――」
「ポワロ、それは」と僕は叫んだ。
「君にはわからんよ」ポワロは打てば響くように言った。「例によって、君にはかいもくわからん! 信じられないが――たしかにそうなんだ。ところで私たちのねぐらに帰るとしようか」
二人は黙々と、部屋に帰った。またしても驚いたことに、ポワロは、すばやく着換えをしたのである。
「今夜、ロンドンへ行くよ。どうしても必要なんでね」と彼は説明した。
「なんだって?」
「絶対に必要なんだ。実際の頭脳の仕事(ああ、この小さな灰色の脳細胞よ!)は終わったから、その裏づけをしに行くんだ。見つけるつもりだよ! エルキュール・ポワロに一杯くわそうたって、そうは問屋がおろさん!」
「そのうちに高慢の鼻が折れるぜ」彼のうぬぼれが鼻について僕は言った。
「そう怒るなかれだよ、君。僕は君の力を――君の友情をあてにしてるんだよ」
「もちろん協力はするさ」僕は自分の短気を恥じて、熱心に言った。「どんな用だい?」
「今、私がぬいだ上衣の袖ね――あれにブラシをかけてくれないか? ほら、白い粉がついてるだろう。いくら君でも、さっき化粧机の引き出しのまわりを私が指でこすっていたのには気がついたろう?」
「いや、気がつかなかったな」
「君は私の行動に注目しなくてはいかんよ。指に粉がついていたのだが、少々興奮していたので、袖につけてしまったのだ。悲しいかな、理性なき行動――私の信条に反するものであった」
「だが、その粉はなんだい?」
「ボルジア家(イタリアのルネサンス期の政治家。政敵をつぎつぎに毒殺したという)の毒薬ではないよ」ポワロはしゃあしゃあと言った。「君が想像をたくましくするのは無理もないがね。フレンチ・チョークなんだ」
「フレンチ・チョークだって?」
「そうさ。家具屋が引き出しのすべりをよくするために使うやつさ」
僕は笑い出した。
「じっさい君は喰えない男だな! 僕はなにか重大なことかと思った」
「|Au revoir《オー・ルヴォワール》(では失敬)。これで助かったよ。時間を節約して飛行機で行くよ」
ポワロの背後でドアがしまった。僕は皮肉とも愛情ともつかぬ笑いを浮かべて、彼の上衣をとりあげ、ブラシをとるべく手をのばした。
翌朝、ポワロから連絡がないので、僕は散歩に出かけたが、旧友たちにめぐり合ったので、連中のホテルで昼食を共にした。それから午後には、そろってドライブに出たところ、タイヤがパンクして帰りがおくれてしまった。僕がグランド・メトロポリタンに帰った頃には、時刻は八時をまわっていた。
ポワロの姿が最初に目にとまった。すっかり満足して、相好をくずしているオパルゼン夫妻にはさまれたポワロは、いつもより、なおさら小柄に見えた。
「よう、ヘイスティングズ!」彼は歓声をあげて、僕を迎えにとび出した。「私を抱いてもらいたいね。万事、上首尾だったよ!」
さいわい抱擁はほんの形ばかりのものでよかった――これは相手がポワロの場合、べつに額面どおりに受けとらなくてもいい言葉なのだ。
「というと――」僕が口をひらいた。
「ほんとにすばらしかったわ!」肥った顔いっぱいに笑みを浮かべながら、オパルゼン夫人が言った。「ねえ、エド、真珠をとりもどすことがポワロさんにできなければ、もうそれができる人なんて、ほかにはいないって、あたしが言ったとおりじゃなくて?」
「そうだね、いやまったくお前が言ったとおりだ」
僕はいぶかしげに、ポワロを見た。彼はうなずいた。
「わが友ヘイスティングズは、英国流にいうと五里霧中なんですな。まあかけたまえよ、君、かくもめでたく解決できた事件の経過を話してきかせよう」
「解決できたって?」
「いかにもさ。やつらは逮捕されたよ」
「誰が?」
「女中とボーイさ。君は疑わなかったのかい? 君とわかれる前に、フレンチ・チョークのヒントをあたえておいたのに?」
「家具屋が使うものだ、という話だったが」
「たしかにそのとおりさ――引き出しのすべりをよくするためにね。ということは、音をたてずに引き出しを開閉したいと望んだ人間がいたわけだ。誰がそれに当てはまるね? 明らかにホテルの女中だけだよ。あまりにも巧妙な計画だったので、すぐには目につかなかった――このエルキュール・ポワロの目にさえね。まあ聞きたまえ。こういう手口なんだ。ボーイは隣りの空部屋で待機している。フランス人の小間使いが部屋を離れる。電光石火のように女中は引き出しをあけて宝石ケースをとり出し、ボルトをはずして、ドアごしに隣りの部屋にいるボーイに手渡す。ボーイはかねて用意の合い鍵を使って、悠々とケースをあけ、ネックレスをとり出し、機の熟するのを待つ。セレスティーヌが二度目にまた部屋を離れる。それっ! とばかり、ケースは女中の手にもどされて、もとの引き出しにおさまる。奥さまがおいでになって、盗難が発見される。女中のほうは、大いに憤慨してみせて、身体検査を要求する。そして、青天白日の身となって退場する。前から準備しておいたネックレスの模造品は、当日の朝、女中の手でフランス娘のベッドに隠しておく――最後の仕あげにね!」
「しかし、ロンドンへはなにしに行ったの?」
「カードのことを覚えているかい?」
「もちろん、僕にはわけがわからなかったし、いまだにわからないよ。あれは」
僕はオパルゼン氏のほうをちらっと見て、口ごもった。
ポワロはうれしそうに笑った。
「|Une blague《ユヌ・ブラーグ》(はったりさ)! ボーイにいっぱいくわせてやったんだ。あのカードは表面に特殊加工がしてあるのだ――指紋採取用にね。私はスコットランド・ヤードに直行して、親愛なるジャップ警部に会い、事件を打ち明けた。私の予想どおり、指紋は、しばらく前から指名手配をされていた、二人の有名な宝石泥棒のものだと判明したさ。ジャップは僕と同道して、二人を逮捕した。ネックレスはボーイの荷物の中から発見されたよ。ぬけ目のない二人組だが、悲しいかな、方法を誤まったね。すくなくとも三十六回くらいは君に話してあるだろう、方法を欠いては――」
「すくなくとも、三万六千回だよ!」と僕はさえぎった。「だけど、やつらの方法が、どこで破綻をきたしたんだい?」
「ねえ、君、ホテルの女中やボーイに化けるのは名案にはちがいないがね――やるからには手をぬくなかれ、さ。やつらは空部屋を埃だらけにしていた。だから男がドアのそばの小テーブルの上に宝石ケースを置いたとき、四角い跡がついてしまった――」
「思い出したよ」と僕はさけんだ。
「それまでは、私も決め手がなかった。しかしそのとき――わかったのさ!」
一瞬、沈黙がつづいた。
「というわけで、真珠はあたしの手もとにもどりましたわ」オパルゼン夫人が、まるで古代ギリシア悲劇の合唱隊のような声を出した。
「なるほどね、ところで僕は夕食をとりたいな」
ポワロがいっしょについて来た。
「これは君の手柄だね」
「|Pas du tout《パ・デュ・トゥー》(とんでもない)」ポワロはすましたものだった。「ジャップと地方警察の例の警部が功績をわけあうさ。しかし」彼はポケットをたたいた。「オパルゼン氏から小切手をちょうだいしたよ、どんなもんだい。こんどの週末は予定どおりにはいかなかったね。来週、またここへこようじゃないか――そのせつは私がおごるからさ」
消えた遺言書
ミス・ヴァイオレット・マーシュが持ちこんできた問題は、僕らを日常の型にはまった仕事から解放して気分転換の役割を果たしてくれた。ポワロはその女性から、相談にあがりたいという短い事務的な手紙を受けとったので、翌日の十一時にご来訪ねがいたいという返事を出しておいた。
彼女は時間どおりにやって来た――長身の美しい若い女性で、小ざっぱりした平服を身につけ、臆するところのないきびきびした態度だった。社会へのり出して成功しようという若い女性の一人であることは、一見して明らかだった。僕自身は、いわゆる新しき女性の熱心な礼讃者ではなかったから、その美貌にもかかわらず、あまり好感は抱かなかった。
「私の用件といいますのは、ちょっと変わった性質のものなんですのよ、ポワロさん」すすめられた椅子に腰をおろしてから彼女は口を切った。「私の生い立ちから始めて、一部始終をすっかりお話ししたほうがよさそうに思いますわ」
「どうぞ、お話しください」
「私は孤児でした。父はデヴォンシャーの小自作農の家に生まれた二人兄弟の一人で、農地は貧弱なものでした。長兄のアンドルーはオーストラリアに移民しましたが、そこでとても順調に行きました。土地の投機に成功して、大金持ちになったのです。弟のロジャーは(私の父のことですが)百姓生活にはまったく性が合いませんでした。父はどうにかこうにか、すこし独学して、小農園の事務員の地位を獲得しました。そして、いくぶん自分より身分の上の女と結婚しました。私の母は貧しい芸術家の娘でした。父は私が六歳のときなくなり、私が十四歳のときには、母も墓の中の父のあとを追ってしまったのです。そこで私の唯一の親戚はアンドルー伯父だけになりました。伯父はそれから間もなくオーストラリアから帰国して、生まれ故郷にクラブトリー荘園という小さな土地を購入しました。伯父は弟の孤児になった子供にひどく親切にしてくれまして、私を自分の家に引きとり、あらゆる面において、まるで自分の娘のように待遇してくれたのです。
クラブトリー荘園というと大げさに聞こえますが、実は農場、つまり一軒の古い農家にすぎません。農耕ということは、生まれつき伯父の血の中にあるらしく、さまざまの近代的農作の実験にひどく熱を入れていました。私に対する愛情はともかくとして、伯父は女性のしつけについては、一種独得の徹底した考えの持ち主でした。伯父自身はほとんど無学にちかい人でしたが、驚くほどよく頭の切れる人で、伯父のいう『書物の上の知識』というものにはあまり価値を認めていないのです。その意見によると、娘というものは、実際的な家事と酪農の仕事を覚えて家庭の役に立つようになるべきで、書物の上の勉強は極力すくなくすべきだ、というわけですの。伯父はこの方針にそって私を養育しようと計画しました。私はひどく失望しましたし、迷惑なことでもありましたわ。だからあからさまに反抗しました。自分はかなりいい頭を持っているという自信もありましたし、家事労働にはまるっきりむいていないことを自覚していたからです。この問題をめぐって、伯父と私は何度も激論をたたかわせました。おたがいに深い愛情を相手に対して抱いてはいましたが、二人とも意地っばりだからですわ。
さいわい奨学金を受けることができましたので、あるていどまで、私は自分の好きな道を進むことに成功しました。私がガートンへ行く決心をしたとき、危機がおとずれました。母が残してくれた遺産がすこしばかりありましたから、私は神があたえてくれた賜物を有効に使う決心を固めたのですが、長時間にわたる最後の議論を伯父とかわしました。伯父は事実を率直に私に示しました。伯父にはほかに身内がないので、私を唯一の相続人にするつもりでいたのです。前にも申しましたように、伯父はたいへんな金持ちでした。もし私がこうした『浮わついた考え』に固執すれば、伯父からは一文ももらえなくなることを覚悟しなければなりません。私は礼儀は失しないまでも、決心は変えませんでした。私はこれからも伯父には深い愛情を抱くだろうが、それでも自分自身の生活は送らなければならない、と告げました。二人はこの点で意見がわかれたのです。
『お前は自分の才能をうぬぼれているのだよ、娘や』これが伯父の最後の言葉でした。『わしは学のない人間だが、それでもいつの日か、お前と知恵くらべしてみよう。どちらのいうことが正しいか、やがてわかることだろう』
これは九年前のことです。週末には折にふれて、私は、伯父といっしょにすごしました。伯父の人生観はすこしも変わりませんでしたが、それでも二人の間はしっくり行っていました。伯父は私が大学に入学を許可されたことも、また理学士の学位をとったことにも一言もふれませんでした。この三年越し、伯父の健康はおとろえて、一と月前に亡くなりました。
やっと私がここへうかがった本題にはいりますわ。伯父はまったくとっぴな遺言書を残したのです。その文面によると、クラブトリー荘園とその中にあるものは、伯父が死んでから向こう一年間、私の自由になるが――『その期間内に、私の賢明な姪は、その知恵のあるところを証明することができよう』という言葉が書いてあるのです。その期間が終わって『私の知恵のほうが彼女のそれよりもまさることが証明されたならば』邸と伯父の莫大な財産は、あげていっさい、各種の慈善事業に寄付される、ということですの」
「それはあなたがマーシュ氏のただ一人の血縁であることを考え合わせると、少々酷ですな」
「私はそうは考えません。アンドルー伯父がはっきり警告したにもかかわらず、私は自分の道を選びました。伯父の願望に従おうとしなかったからには、伯父は自分がやりたいと思う人間に遺産を遺すことは完全に自由でしょう」
「遺言書を作成したのは弁護士ですか?」
「いいえ、印刷した遺言書の書式に書かれて、邸内に住んで伯父の世話をしていた夫婦者が証人になっています」
「そんな遺言書なら無効にする可能性があるかもしれませんね?」
「そんなことは私、考えるだけでもいやですわ」
「するとあなたは遺言書を、伯父上のほうからのスポーツ的挑戦とお考えですか?」
「そのとおりですわ」
「たしかにその解釈もなりたちますな」ポワロは考え深げに言った。「その古い邸内のどこかに、伯父上は、紙幣の大金か、あるいはおそらく第二の遺言書をかくしたのでしょう。そして一年間の猶予をあたえて、あなたの創意でそれを見つけ出せ、というわけなんですな」
「そうですわ、ポワロさん。で、あなたの創意のほうがきっと私よりもすぐれているだろうと、考えましたから、私、ポワロさんを信用して相談にあがりましたの」
「それはそれは! まことにありがとうございます。私の灰色の脳細胞をあなたのお役に立てましょう。ご自分ではまだ捜されませんか?」
「ざっと当たってみただけですわ。でも私、伯父の疑う余地のない能力については、高く評価しておりますから、容易にできる仕事だとは思っておりません」
「遺言書かその写しを、そこにお持ちですか?」
ミス・マーシュはテーブルごしに書類を手渡した。ポワロはざっと目をとおして、ひとりでうなずいた。
「作成されたのは三年前。日付は三月二十五日で、時間まではいっている――午前十一時と――これはなかなか暗示的ですな。これで捜査範囲がせまくなる。たしかに私たちが捜さなければならぬものは第二の遺言書ですよ。三十分後に作られた遺言書でもあれば、最初の遺言書はひっくり返ってしまう。よろしい、マドモワゼル、あなたが持ちこまれてきた問題はなかなかおもしろいし、巧妙でもある。私は喜んで問題解決のために一肌ぬぎましょう。伯父上が頭のいいかたであったとしても、エルキュール・ポワロの灰色の脳細胞に彼のそれがまさるはずがありません!」
(まったくポワロのうぬぼれときたら手ばなしなんだから!)
「さいわい、目下のところ手がけている重要な仕事もない。ヘイスティングズと私は、今夜クラブトリー荘園にまいりましよう。伯父上の世話をしていた夫婦者というのは、まだそちらにいるのでしょうね?」
「はい、べーカーという名前ですわ」
翌朝からほんものの捜索が始まった。前の晩おそく、僕らは到着していた。ベーカー夫妻はミス・マーシュからの電報を受けとって、僕らの到着を待っていた。気さくな夫婦だった。夫のほうはしわのよった陽焼けした顔で頬が赤く、まるでしなびたリンゴといったところ、女房は造作の大きなほんとのデヴォンシャー女だった。
その晩、旅行と、駅から八マイルのドライブに疲れてしまって、ロースト・チキン、アップルパイそれにデヴォンシャー・クリームの夕食をすませると、僕らは早々にベッドに引きあげてしまったのだ。二人はいま、すてきな朝食を平らげて、故マーシュ氏の書斎兼居間である小さな鏡板をはめ込んだ部屋に腰をおろしている。きちんと内容摘要を付した書類がぎっしりつまっている折りたたみ式デスクが壁にむかっておいてあり、皮張りの大型の安楽椅子はそこが主人の平常の休息場所であることを、はっきり物語っている。大きなさらさ張りの長椅子が反対側の壁にそってならび、窓下につくりつけた深くて低い数脚の椅子も、同じように色あせた、昔風の織りかたのさらさ張りである。
「いいかね、君」ポワロは細身のタバコに火をつけながら言った。「作戦計画をたてなくてはならんよ。いままでに邸内を一わたり当たってみたが、手がかりはこの部屋の中でみつかる、というのが私の見解だね。デスクの中の書類を、これから細心の注意で調べる必要がある。もちろん、その中に遺言書がみつかるとは私も思っていない。だが一見なんの変てつもない書類の中に、第二の遺言書の隠し場所を示す手がかりがひそんでいるということは考えられるからね。ところで手はじめに、すこし聞き込みをする必要がある。君、すまないがベルを押してくれないか」
僕はベルを押した。反応が現われるのを待つあいだ、ポワロは行ったり来たりして、満足げに周囲を見まわしていた。
「このマーシュという人物は組織的な頭の持ち主だね。この書類の束が整然と内容の摘要を付されている工合を見たまえよ。おのおのの引き出しの鍵には象牙の名札がついているし――壁にはめこんだ飾り棚の鍵にしてもしかりだ。どうだい、棚の中の陶磁器が整頓されていることは、まったく気持ちのいい眺めだ。目ざわりになるようなものは何も――」
彼の目が汚れた封筒のついているデスクの鍵にとまるや、ぷっつり言葉がとぎれてしまった。眉をしかめてポワロは鍵穴から鍵をはずした。それには『折りたたみ机の鍵』と読みづらい宇で書きなぐってある。ほかの鍵についているきちんとした表書きとは似ても似つかぬ字だ。
「まったく異貫の筆蹟だ」ポワロは額にしわをよぜた。「私は断言してもよいが、ここにはもはやマーシュ氏の個性は見られない。しかしそのほかに誰が邸内にいたというのだろう? ミス・マーシュただ一人だが、私の見た目に狂いがなければ、彼女もまた組織と秩序を重んじる若い婦人だし」
べーカーがベルに応えてやって来た。
「君の細君をいっしょにつれて来てくれないか。二、三たずねたいことがあるのだ」
彼は姿を消して、まもなく女房をつれてもどって来た。ベーカー夫人はエプロンで手を拭きながら、満面に笑みを浮かべている。わかりやすいかんたんな言葉で、ポワロは彼の仕事の目的を説明した。べーカー夫妻はすぐさま同情の色を示した。
「ヴァイオレットお嬢さまのもんがとりあげられちまうなんて、そんなことがあるもんでねえだよ」と女房が言った。
「なにからなにまで慈善事業さいくなんて、むごい話だべ」
ポワロは質問を進めて行った。ベーカー夫妻は遺言書の立会人になったことを完全に記憶していた。ベーカーは、事前に近くの町へ二枚の遺言書用紙を買いにやらされていた。
「二枚?」ポワロが鋭く言った。
「そうでがす、もししくじったときの用意に二枚買うんだべ、と思っただが、やっぱり旦那はしくじりましただ。あっしらが一枚に署名してから――」
「それは何時ごろのことだった?」
ベーカーは頭をかいた。女房のほうが早かった。
「そういえば、あれはココアをいれるんで、十一時にあたしがミルクをかけたときだっただ。お前さん、覚えてないのかい? あたしたちが台所へ帰ってきたら、ぐらぐら煮えくり返っていただよ」
「で、そのあとは?」
「たしか一時間ほどあとでした。また呼ばれましただ。『しくじったので、もう一度全部やり直さなくてはならん。手数をかけて悪いが、もう一度署名してもらいたい』と旦那さまがおっしゃったです。あっしらはそのとおりしました。そのあとで、旦那さまはたっぷり心付けを下さいました。『お前たちには遺言では何も残さん。そのかわり、わしの生存中は、毎年、わしが死んだときの貯えになるように、これだけの金をやる』とそうおっしゃって、たしかにお言葉どおり実行してくださっただ」
ポワロは考えこんだ。
「あんたがたが二度目に署名したあとで、マーシュ氏は何をしたか、覚えているかね?」
「店屋の|つけ《ヽヽ》を支払うために、村へいらっしたです」
そうとなると、この点はあまり有望とはいえない。ポワロはべつのほうから当たって行った。彼はデスクの鍵をとりあげた。
「これはご主人の筆跡かね?」
僕の気のせいかもしれないが、べーカーが答える前に一、二秒の間があいたような気がした。
「へえ、そうでがすが」
(うそをついたな。しかしなぜだろう?)と僕は考えた。
「ご主人は邸を誰かに貸したことがあるかね?――この三年の間に、他人がここにいたことはあるかね?」
「いんや」
「訪問客も?」
「ヴァイオレット嬢さまだけですだ」
「いかなる人間も、この室内へはいった者はいないのかね?」
「そうです」
「あんた、職人たちのことを忘れてるだよ」女房がはたから注意した。
「職人たち?」ポワロは女房のほうを向いた。「なんの職人です?」
女房の説明によると、二年半ほど前に職人が修理のために邸にはいったらしい。それが何の修理であったか、その点になると、ベーカー夫人はきわめて漠然とした印象しか持っていなかった。彼女の見たところでは、なんでもそれは主人の気まぐれみたいなもので、まったく不要不急のものであったらしい。その期間中、職人は書斎へもはいってた。しかし何をしていたのかは、彼女はいえなかった。主人がべーカー夫婦のいずれをも、仕事の進行中は部屋に足ぶみさせなかったからだ。間の悪いことに、夫婦とも、修理に雇った会社の名前を覚えておらず、ただプリマスにある会社ということしかわからなかった。
「うまく行ったよ、ヘイスティングズ」ベーカー夫妻が部屋をあとにするや、両手をこすり合わせながらポワロがいった。「明らかにマーシュ氏は第二の遺言書を作り、そのあとでプリマスから、適当な隠し場所を造るべく職人を呼びよせたのだ。床をあげたり、壁をたたいたりして時間を浪費するかわりに、プリマスへ直行しよう」
ちょっと手間はかかったが、必要な情報は入手することができた。一、二度あたったあとで、マーシュに雇われた会社が見つかったのである。
その会社の従業員は、すべて勤続年数の長いものばかりだったので、マーシュ氏の指図で仕事をした二人の男を見つけるのは簡単なことだった。彼らはその仕事をそっくり憶えていた。さまざまなこまかい仕事にまじって、古風な暖炉の煉瓦の一つをはずしてその下に空洞を作り、継ぎ目がわからぬように煉瓦を切るという仕事があった。二番目の煉瓦をはしのほうから押すと、煉瓦全体が持ちあがるような工合に作ったのである。ひどく手のこんだ仕事だったが、老人はその仕事にひどい気の入れようだった。以上の話をしてくれたのはコーガンという名前の、やせた大男で、半白の口ひげを生やしていた。教養のある人物のようだった。
僕らは意気揚々とクラブトリー荘園に引き返した。そして書斎のドアに鍵をかけて、新しく仕入れた知識の効果を試してみた。煉瓦の表面にはなんのしるしも認められなかったが、言われたとおりに二番目の煉瓦を押すと、深い空洞がポッカリ口をあけた。
ポワロは勢いこんで片手をさし入れた。突然、得意の絶頂にあったその顔が、驚愕の色に包まれた。彼の手がつかんだものは、紙束の黒こげになった燃え屑だけ。それ以外には空洞の中には何にもなかった。
「くそ! 誰かに先手を打たれた!」ポワロが怒りにもえて言った。
二人は紙のもえがらを、こわごわ調べてみた。明らかに、僕らが捜していたものの断片だった。ベーカーの署名の一部分が残っていたが、遺言書の内容は知るよしもない。
ポワロは手をこまねいて茫然たるありさまだ。その表情は、これほど手ひどい打撃を受けた場合でなければ、おどけていると見えたかもしれない。
「私にはわからん」と彼はうめいた。「だれが燃やしたのだ? 何の目的で?」
「ベーカー夫婦だろうか?」と僕が示唆した。
「|Pourquoi《プールクワ》〔なぜだい〕? どちらの遺言書も彼らには何も遺贈していないのだから、あの夫婦としては、この邸が慈善事業の所有に帰するよりも、ミス・マーシュといっしょにここにいることのほうを好むだろう。あの遺言書を破棄することが、どうしてある人間の利益になり得るのか? 慈善事業の利益にはなるさ、もちろん。しかし慈善事業そのものを疑うわけにもいかんしな」
「おそらく老人が決心を変えて、自分の手で燃やしたんじゃないかな」
ポワロは立ちあがり、例によって注意深くひざのほこりをはらった。
「そうかもしれん。それは君の賢明なる観察の一つだよ、ヘイスティングズ。さて、これ以上ここでやれることはない。故人ができることは全部やってみたんだから。私たちは首尾よく故アンドルー・マーシュと知恵くらべをしたのだが、不幸にして、成功したとはいうものの、彼の姪《めい》は裕福にはなれなかった」
僕らはすぐさま駅に向かって自動車を走らせたので、特急ではなかったが、ロンドン行きの列車をちょうどつかまえることができた。ポワロは元気がなく不満そうだった。僕のほうは疲れてしまって、隅のほうで眠りこけていた。突然トーントン駅から列車が動き出したとき、ポワロが金切り声をあげた。
「急いで、ヘイスティングズ! 起きてとびおりるんだ、おりるんだったら!」
無我夢中で、気がついてみると、二人はプラットホームに立っていた。帽子も旅行鞄も車内に残したままで、列車は闇の中へ消えて行った。僕はカンカンだったが、ポワロは一向に意に介さない。
「まったく私はばかだった! ばかもばか、大ばか者だ! これからは灰色の脳細胞を二度と自慢するのはよそう!」
「いずれにせよ、そりゃ、けっこうなことだ」僕はむっつりとして言ってやった。「しかし、いったいぜんたい、これはなんのまねだ?」
頭の中で論理の糸をたぐっているときの例にもれず、ポワロはまったく僕に注意をはらわなかった。
「店屋の|つけ《ヽヽ》だ――まったくそれを計算に入れなかった! だが、どこだろう? どこだろう? あわてるな、私がまちがうわけがない。すぐ引き返すんだ」
言うはやすく、行なうはかたし。僕らはどうにかエクゼター行きの普通列車をつかまえ、そこからポワロがハイヤーをやとった。クラブトリー荘園にまいもどったのは午前一、二時ごろ。べーカー夫妻の迷惑もかまわずに、やっとのことでたたき起こすと、ポワロは一心不乱、すぐさま大股に書斎にはいって行った。
「私はばかの三倍どころか、三十六倍のばかだったよ、君」ポワロはそう優渥《ゆうあく》なるお言葉を賜った。
「これを見たまえ!」
デスクにつかつかと進むと、鍵を抜き出してその封筒をひらいた。僕はあっけにとられてポワロを見つめた。いったいポワロは、なんだって大きな遺言書用紙を、このちっぽけな封筒の中に見つけだそうなんて気を起こすことができたんだろう? 細心の注意で、ポワロは封筒をあけて平らにおいた。それから火をつけて、封筒の無地の内側に炎をかざした。二、三分するとかすかな文字が浮き出て来た。
「見たまえ、君!」
ポワロは誇らしげにさけんだ。僕は見つめた。アンドルーが全財産を姪のミス・マーシュに贈るむねの簡潔な文面が、ほんの二、三行のかすかな文字でしたためられてある。日付は三月二十五日、十二時三十分。証人は菓子屋のアルバート・パイクならびにその妻ジェシー・パイク。
「しかし、これは合法的なものかね」僕は息をきらして言った。
「私の知るかぎりでは、あぶり出しインクで遺言書を書いてはならん、という法律はないね。遺言者の意図は明白だし、受益者はそのただ一人の親戚だからな。それにしても、アンドルー氏の頭のいいことはどうだね! 彼は遺言書を捜す人間の手順を全部見越していたのだ――このまぬけの私がやったことを。二通の書式を買って召使いに二度署名させ、それから、きたない封筒の内側に書いた遺言書とあぶり出しインクのはいった万年筆を持って外出した。そして、なんとか口実をつくって自分の署名の下に菓子屋夫婦の署名をもらい、それをデスクの鍵に結びつけてひとりほくそ笑んだのだな。もし姪が彼の計略を看破すれば、彼女が自分の生き方や高等教育を選んだことが正しかったと立証したわけで、彼の財産をまったく自由に使うだろうってわけだ」
「しかし、彼女は看破しなかった、そうだろう?」僕はゆっくりと言った。「どうも、ちと公正じゃないな。ほんとうは老人が勝ったんだ」
「いやそうじゃあるまい、ヘイスティングズ。抜けているのは君の知恵だよ。ミス・マーシュは、事件をすぐさま私の手に委ねることによって、彼女の知恵の抜け目なさと女性の高等教育の価値を立証したわけだ。常に専門家をやとえとね。彼女は遺産に対して権利のあるところを充分に立証したわけだ」
故アンドルー・マーシュがそれをどう考えるか、僕には疑問だった――大いに疑問だった!
戦勝舞踏会事件
前ベルギー警察隊の隊長である僕の友人、エルキュール・ポワロは、ふとしたことからスタイルズの怪事件に関係することになった。そして、その成功は一躍ポワロの名声をひろめ、彼も犯罪事件の解決に専心する胆《はら》を固めることになったのである。いっぽう僕のほうは、ソンムの戦いに負傷して陸軍を除隊になったので、とうとうロンドンでポワロと居《きょ》をともにすることになった。そして、ポワロの手がけた事件の大部分を僕が身近にいて見聞しているところから、その中でも、もっとも面白い事件をえらんで、記録してみてはどうか、というすすめを受けた。そうとなれば、僕は当時、あれほど広く世人の関心をかきたてた、例のおどろくべき怪事件から筆を起こすのが、いちばん適当ではなかろうかと考える。その事件とは、すなわち戦勝舞踏会事件のことである。
その事件では、ほかのもっと難かしい事件の場合ほどには、ポワロ独特の方法が、じゅうぶんに示されていないかもしれない。しかしセンセーショナルな特徴や有名人が関係している点、諸新聞が鳴りもの入りで報道したことなどからみて、|cause celebre《コーズ・セレーブル》(大事件)の資格はじゅうぶんあろうというものだし、前々から、僕はポワロとこの事件解決の関係を公表することは、まさに必要なことであると痛感していたのである。
うららかな春の朝のこと、僕らはポワロの部屋に腰をおろしていた。例によって小ざっぱりと、みなりを整えた小柄な友は、卵型の頭をちょっとかしげて、新しいポマードを念いりに口ひげになすりつけていた。ある種の無邪気な虚栄は、ポワロの特色ともいうべきもので、それは秩序と方法に対する彼の一般的な嗜好《しこう》と合致するものだった。僕が読みかけていたデイリー・マンガー紙が床の上に落ちた。ポワロの声で、物思いにふけっていた僕は、はっとわれに返った。
「いったい、なにを、そうじっくり考えこんでいるのかね、君?」
「じつをいうとね、戦勝舞踏会の晩に発生した、例のわけのわからん事件のことで頭を悩ましていたんだよ。新聞はその記事で、いっぱいだしさ」
そういいながら、僕は指で新聞をたたいてみせた。
「そうかい?」
「読めば読むほど、事件全体が謎に包まれてしまうんだ!」僕はそういいながら、熱中してしまった。「誰がクロンショー卿を殺したのか? ココ・カートネーが同じ晩に死んだのは単なる偶然の一致か? 不慮の死か? それとも彼女が故意にコカインの致死量を飲んだのか?」そこで言葉を切ってから、僕は大仰《おおぎょう》につけ加えた。「こうした疑問を、僕は自問自答しているんだよ」
ところが、どうしたことかポワロはこの話にのってこない。鏡に見入ったまま、
「たしかに、この新しいポマードは口ひげにはとてもいいぞ!」とつぶやいただけだった。それでも僕と視線が合うや、いそいでいいだした。「まったくだ――で君はその疑問に対してどう答えるんだね?」
だが僕が答える前に、ドアがあいて、下宿のおかみがジャップ警部の来訪を告げた。
この警視庁の警官とは、旧知の間柄だったから、僕らは喜んで招じ入れた。
「よう、ジャップ君、いかなる風向きで、ご光来ですかな」ポワロは大声を出した。
「やあ、ポワロさん」ジャップは腰をおろし、僕に向かって会釈しながら「じつはですね、どうみても、あなたのお気に召すだろうと思われる事件を手がけているんですよ。それで、いったい、あなたがこの菓子に手をつける気がおありかどうか、それを知りたくて参上したわけです」
ポワロはジャップのことを、惜しいかな方法には欠けてはいるがといいながらも、その能力はかなり高く評価していた。しかし、僕にいわせれば、ジャップの一番の取りえは、相手に好意をあたえると見せかけて、そのじつ、相手から好意を引き出してしまう、巧みな技術にあると思う。
「例の戦勝舞踏会の件ですよ」ジャップはおっかぶせるようにいった。「どうです、手がけてみたいでしょうが」
ポワロは僕に笑顔を向けた。
「ヘイスティングズなら、いずれにせよ、その気になるだろうね。今しがたも、その件を持ち出していたところなんだから、|n'est ce pas, mon ami《ネ・ス・パ・モナミ》(君、そうだね)?」
「それはそれは」ジャップは、ていねいにいった。「それならポワロさんにも、その気になってほしいですね。この種の事件の内幕を知ると、話の種になりますからね。さて用件を申しあげましょう。ポワロさん、事件のあらましはご存じですね?」
「新聞種だけならね――ジャーナリストの憶測というものは、読者を誤まることがあるものだ。一部しじゅうをもう一度話してくれたまえ」
ジャップはゆっくりと脚を組んで話しはじめた。
「いまでは誰でも知っている話ですが、せんだっての火曜日に、戦勝祝賀大舞踏会が開催されました。近ごろでは、安っぽいパーティまで舞踏会だなんて称していますが、この舞踏会はほんものです。コロサス・ホールで開かれました。ロンドン中の名士が、一堂に会しましたが、その中には、若いクロンショー卿の一行もいたわけです」
「卿の|dossier《ドシエ》(略歴)は?」とポワロがさえぎった。「卿のバイオスコープ――いや、なんといったっけね――バイオグラフかい(どちらも間違い、正しくはバイオグラフィー)」
「クロンショー子爵は五代目の当主で、年齢二十五歳、金持ちの独身者で、たいへんな芝居好きです。噂によると子爵はアルバニー劇場のコートネー嬢と婚約していたそうです――彼女は友だち仲間では、通称ココといわれている女優で、誰が見ても、すばらしい美人です」
「なるほど、Continuez(その先をどうぞ)!」
「クロンショー卿の一行は六人でした。卿自身と伯父のユーステス・ベルテン閣下、美しいアメリカ人の未亡人マラビー夫人、若い俳優クリス・デイヴィッドスンとその妻、それに、ほかならぬココ・コートネー嬢です。ご承知のように、仮面舞踏会でしたから、クロンショー卿の一行もなんとかいう昔のイタリア喜劇の扮装をしていました」
「|Connedia dell'Arte《コメデイア・デラルテ》(一六世紀のイタリアの即興劇)だな」とポワロはつぶやいた。
「いずれにせよ、その衣装はユーステス・ベルテン氏の収集の中にある陶器人形のセットをまねたものです。クロンショー卿はアルルキャン(道化)に、ベルテンはパンチネロ、マラビー夫人はその相手役のパルチネラ、デイヴィッドスン夫妻は、ピエロとピエレット、そしてコートネー嬢は、もちろんアルルキャンの相手役のコロンビーネに扮しました。ところで、その晩は宵のうちからなにやら雲行きがおかしかったのです。クロンショー卿はむっつりして、いつもとようすがちがう。一同が夕食をとるべく主人役の卿が予約しておいた小さな部屋に顔をそろえると、卿とコートネー嬢が、ぜんぜん口をきかないのに一同は気づいた。明らかに彼女は、それまで泣いていたらしく、ヒステリー寸前の状態で、食事は味気ないものになってしまいました。そして一同がその部屋を出ると、コートネー嬢はクリス・デイヴィッドスンのほうを向いて『踊り飽きた』から、家まで送ってもらいたいと、きこえよがしにいったのです。青年俳優はクロンショー卿を見て、ちゅうちょしました。それから二人をつれて、部屋に引き返したのです。
しかし、二人を和解させようという彼の努力は無駄でした。そこでデイヴィッドスンはタクシーをひろい、泣きぬれているコートネー嬢をそのアパートまで送り届けました。ひどくとり乱してはいたものの、それでも彼女はデイヴィッドスンに、ことのしだいを打ち明けず、ただ、くり返しくり返し『いまにクロンチに思いしらせてやるから!』といっていただけです。われわれが、コートネー嬢の死を、単なる不慮の死ではないのかもしれないと推定する唯一のヒントは、これなんですが、かといって、そう決めこんでしまうには、薄弱な根拠です。デイヴィッドスンは、どうやら彼女をなだめて落ちつかせましたが、時すでにコロサス・ホールヘもどるにはおそすぎるので、彼は、まっすぐチェルシー街の自邸に引き上げましたが、ほどなく妻がもどって来て、彼が出発したあとで発生した恐ろしい悲劇のニュースを知らせたのです。
クロンショー卿は、舞踏会が進行するにつれて、ますます不機嫌になっていったようです。卿は、しじゅう仲間から、はなれていたので、夕食後に卿を見かけたものは、ほとんどいません。午前一時半頃、全員が仮面をぬぐ大カドリーユのはじまる直前に、卿の仮装を知っている同僚のディグビー大尉が、ボックス席に立ったまま、その場のさまをじっと見つめている卿の姿をみとめました。
『ハロー、クロンチ!』と大尉は大声をあげた。『おりてきて、いっしょに、踊ろうや!そんなところで、なんだってぽつねんと不景気な顔をしてるんだい? さあ、こいよ、ドンチャン騒ぎの始まり、始まり!』
『よしきた!』とクロンショー卿は応じた。『ちょっと待ってくれ。人ごみにまぎれると、君がわからなくなるからな』
卿はそういいながら踵《きびす》を返してボックスからはなれました。ディグビー大尉はデイヴィッドスン夫人と、いっしょにいたのですが、卿がくるのを待ちうけました。ところが数分たっても現われない。大尉はとうとうしびれを切らしてしまいました。
『あいつ、こちとらが一晩中待っているとでも思っているのかな?』
その時、マラビー夫人が仲に入って来たので、二人は事情を説明しました。
『あらまあ』美貌の未亡人はうきうきした調子で叫んだ。
『あのかた、今夜はむずかって、いらっしゃるのね。みんなで手わけして探しましょうよ』
捜査が始まりましたが、卿の姿はいっこうに見あたりません。そのうちに、マラビー夫人の頭に、ひょっとすると、一時間前に、会食した例の小部屋に卿がいるのではないかという考えが浮かびました。そこで一同が行ってみると、なんたる光景でしょう! たしかに、アルルキャンはおりました。ですが、テーブル・ナイフを心臓につき刺されて、床に倒れていたのです!」
ジャップは言葉を切った。ポワロはうなずいて、専門的な興味をむき出しにしていった。「|Une bell affaire《ユヌ・ベル・アフェール》(おもしろい事件だな)! で、加害者に関する手がかりはないのかな? もっとも、あるはずがないだろうが!」
「まあそういうわけで、あとはポワロさんもご存じでしょう。悲劇は二重だったのです。翌日にはあらゆる新聞が大見出しで、ベッドの中で人気女優のコートネー嬢が死んで発見されたこと、その死因がコカインの服用によるものであることを、簡単に報道したのです。ところで、これは過失でしょうか、それとも自殺でしょうかね? 証人として喚問されたミス・コートネーの小間使は、女主人が麻薬常習者であったことを認めました。そこで過失死の評決が答申されたのです。しかしだからといって、われわれは自殺の可能性を頭から無視するわけにはいきません。特にまずいことは、彼女が前夜の仲たがいの原因について、なにも手がかりを残さずに死んでしまったことです。なお小さなエナメルの箱が卿の死体から発見されました。ココという名前がダイヤモンドで象嵌《ぞうがん》してあり、中には半分ほどコカインがはいっていました。ミス・コートネーの小間使はその箱が女主人の持ち物であり、最近は、かならずそれを携帯していたことを認めました。彼女はどうしてもやめられなくなってしまって、コカインをその中にいれていたんですね」
「クロンショー卿自身もコカインを常用していたのかね?」
「ぜんぜんありません。卿は麻薬の点になると、たいへんな強硬意見を持っていました」
ポワロは考え深げにうなずいた。
「しかし、その箱が卿の手もとにあったからには、卿はミス・コートネーが麻薬中毒者であったことは知っていたわけだな。それはきわめて暗示的だな、そうじゃないかね、ジャップ?」
「ははあ!」ジャップはいくぶんあいまいに答えた。
僕は微笑した。
「それでまあ、これが事件全体の概要なんですが、あなた、どうお考えになります?」
「まだ公表されてない手がかりで、なにか発見したものはないの?」
「ええ、こんなものがありました」ジャップはそういいながら、ポケットから小さなものをとり出して、ポワロにわたした。エメラルド・グリーンの絹糸で造った小さな玉の房飾りで、手荒くもぎとったのか、ふぞろいの糸がぶらさがっていた。
「死体となった卿の手が、これを固くにぎりしめていたのです」警部は説明した。
ポワロは無言のままそれを警部に返してたずねた。
「クロンショー卿には敵がいましたかね?」
「誰にも心あたりがありません。卿は非常に評判のいい青年のようでした」
「卿の死で利益を受ける人間は?」
「伯父のユーステス・ベルテン閣下が爵位と資産を継承します。この人物には疑問の点が一、二あります。数人の者が例の小食堂で、激論がかわされるのを聞いていまして、論争者の片方はベルテン氏だったとはっきりいっています。激昂《げっこう》のあまり、卓上からテーブル・ナイフをひっつかんでグサリ、なら話は合いますがね」
「ベルテン氏は口論のことをなんといっている?」
「給仕が一人、酒に酔っていたので叱責したのだ、と主張しています。それにまた時刻も一時半よりも一時に近かったといっています。ご承知のように、ディグビー大尉の証言はかなり、正確に時間を決定します。大尉がクロンショー卿に話しかけてから、卿の死体発見までは、わずか十分程度の間隔しかなかったのです」
「まあ、いずれにせよ、パンチネロに扮したベルテン氏は、背中が丸くふくれた、ひだ飾りのある衣装を着ていたんだろう?」
「衣装のこまかい点は正確には知りませんが」ジャップはそういって、ふしぎそうにポワロの顔を見た。「しかしそれがまたなんで、この事件と関係があるんです、どうにもわかりかねますな?」
「わからない?」にんまり笑ったポワロの表情には軽べつの色があった。そして落ちついて話しをつづけたが、双眼が緑色にキラキラ光っている。これは僕にはおなじみのもので、ポワロが興奮すると、いつもそうなるのである。
「その小食堂にはカーテンがかかっていただろう、え?」
「ええ、ですが――」
「その背後には人一人隠れられるくらいの隙間があったね?」
「ええ――たしかに小さな、くぼみはありましたが、しかしどうしてそれをご存知です――あの場所へ行かれたことはないんでしょう、ちがいますか、ポワロさん?」
「ないとも、ジャップ。カーテンの存在は、私の推理だよ。それがないと、このドラマは合理的でなくなるんだ。人間、常に合理的でなくてはいかんよ。ところで、みんなは医者を呼ばなかったのかい?」
「むろん、すぐに呼びました。ですが、処置なしだったんです。つまり死因は即死だったのです」
ポワロはじれったそうにうなずいた。
「むろん、そうだろうとも。ところが、その医者は検死裁判では証言したんだろう?」
「ええ」
「それで、なにか異常な徴候があるとはいわなかったかな――つまり死体を診察して医師が驚いたような、なにか異常な所見は?」
ジャップは小男をまじまじと見つめた。
「ええ、ポワロさん。あなたの意図はわかりかねますが、医師は死体の四肢に緊張と硬直があったと述べています。まったく説明に窮していましたが」
「ははあ! ははあ! |Mon Dieu《モン・デュー》(なんとね)! ジャップ、それはひどく意味深長なことだよ、そうだろう?」
しかし、ジャップには、それが、いっこうに意味深長ではないらしかった。
「あなたが毒薬のことを考えておられるのでしたらね、ポワロさん、さいしょに人を毒殺しておいて、それからナイフを突き刺す人間なんて、いったい、いるもんですか?」
「じっさい、奇妙なことだな」
「で、ほかに、なにかごらんになりたいところは? もし死体が発見された部屋をお調べになりたいんでしたら――」
ポワロは手を振った。
「ぜんぜんそんな気はありません。君の話の中で私の興味をひいた唯一のことは――クロンショー卿の麻薬問題についての見解だよ」
「するとごらんになりたいものはありませんね?」
「一つだけ」
「なんです?」
「衣装の手本になった陶器人形のセットが見たいな」
ジャップは目を丸くした。
「へえ、ポワロさんは変人ですな!」
「なんとか、そうしてもらえるかね?」
「おのぞみなら、これから早速バークリ・スクエアに行きましょう。ベルテン氏も――いや今では卿と呼ばなくてはいけませんが――反対はしますまい」
僕らはさっそく、タクシーに乗って出かけた。新しいクロンショー卿は不在だった。しかしジャップの乞いに応じて、一同はコレクションの逸品が収められている「陶器室」へ通された。ジャップはたよりなげに周囲を見まわした。
「いったい、どうやって目的の品を見つけるのか、私には見当がつきませんよ、ポワロさん」
しかしポワロはすでに、マントルピースの前に椅子を一脚引きよせて、すばしこい駒鳥のようにひょいとその上にとびのった。鏡の上には、わざわざしつらえた、小さな棚が一段ついていて、そこに六個の陶器人形がのっていた。つぶさにそれを吟味しながら、ポワロは二、三注釈を加えた。
「|Les Voila《レ・ヴォアラ》(これこれ)! イタリアの古代喜劇だ。三対ある! アルルキャンとコロンビーネ、ピエロとピエレット――これは白と緑のなかなか凝った服を着ている――それに紫と黄のパンチネロとパルチネラだ。パンチネロの衣装はなかなか精巧なものだ――ひだ飾りに縁飾り、背中のこぶにシルクハット。いや、私の思ったとおり、どうしてなかなか手のこんだものだよ」
ポワロは人形を、そっともとにもどすと、椅子からとびおりた。
ジャップは不満のようすだった。しかしポワロにはなにも説明する気がないことは明らかだったので、警部はその件については、しいて黙殺するような態度をとった。一同が帰り支度をしていると、邸の主人公が部屋にはいって来た。そこでジャップは僕とポワロを紹介する労をとった。
六代目のクロンシヨー子爵は五十がらみの年配で、人あたりのいい物腰の、整ってはいるが、放縦な顔つきの人物だった。ものうげな態度の気どりやで、明らかに不良老年といった感じがある。僕は一見して虫が好かなかった。彼はていちょうに僕らにあいさつし、名探偵ポワロの高名はかねがね耳にしている、自分でよければなんなりとお役に立ちたいといった。
ポワロは鋭く彼を見つめていた。
「甥ごさんには、あなたがご存じの敵はございませんでしたか?」
「まるっきりありませんな。その点はたしかです」と言葉を切ってから、「ほかにもなにかおききになりたいことがありましたら――」
「一つだけでございます」ポワロの声は真剣だった。「皆さんの衣装ですが――あれはご収集の人形を正確に複製したものでしょうか?」
「こまかい点までそっくりです」
「ありがとうございました、閣下。私がたしかめたかったのはそれだけです。では、失礼いたします」
僕らが急いで通りに出ると、ジャップがきいた。
「で、このつぎは? 私は警視庁へ報告しに行かなくてはなりませんが」
「|Bien《ビヤン》(けっこうだよ)! むりに引きとめません。私はもう一つだけ調べることがあるし、それがすめば――」
「どうなんです?」
「事件は結着するさ」
「なんですって? まさか! じゃ、あなたは誰がクロンショー卿を殺したのかご存じなんですか?」
「|Parfaitment《パルフェートマン》(完全にね)!」
「それは誰です? ユーステス・ベルテンですか?」
「ああ! 君、君は私のちょっとした趣味をご承知だろうが! 私はいつも最後の瞬間まで、事件の脈をこの両手に握っていたいんだよ。しかし心配無用。そのときになれば、すべてを明らかにするよ。私は名声はほしくない――それは君に進呈します。ただし私が自己流のやりかたで|denouement《デヌーマン》(事件の解決)をするのを大目に見てもらうという条件でね」
「それは、たいへんありがたいですな。もしそれで事件が解決するものなら! でも他言はなさらんでしょうね」ジャップがそういうとポワロは微笑した。「では、失礼して、私は警視庁へ行きます」
ジャップは大股に道路を歩き去った。ポワロは通りすがりのタクシーをとめた。
「これからどこへ行くの?」僕は好奇心にかられて、そうたずねた。
「チェルシー街へ行ってデイヴィッドスン夫妻に会うのさ」
ポワロは運転手に行く先を告げた。
「君は新しいクロンショー卿をどう思う?」と僕はきいた。
「君こそどう思うね、ヘイステイングズ?」
「僕は本能的に信用しないな」
「よく小説の中に出てくる『腹黒い伯父』だと思うのかね、え?」
「君はそうじゃないのかい?」
「私かね、私はクロンショー卿がひどく愛想がよかったと思っているさ」ポワロはどっちつかずの返事をした。
「そりゃ、それ相応の理由があったからだよ!」
ポワロは僕の顔を見て、悲しげに頭をふった。そして、なにかつぶやいたが、「組織的じゃない」といったように僕には聞きとれた。
デイヴィッドスン夫妻は、高級アパートの四階に住んでいた。デイヴィッドスン氏は外出中だったが、夫人は在宅だった。ポワロと僕は、けばけばしい東洋風のカーテンがかかった細長い、天井の低い部屋に案内された。部屋の空気は風通しが悪く、うっとうしい感じで、線香の強烈な芳香が鼻についた。デイヴィッドスン夫人は、すぐさま姿を現わした。小柄な美人だった。もし抜け目のない打算的な光が、その明るい青い目の中に見られなかったら、その楚々たる風情は、見る者に感動をあたえたかもしれない。
ポワロが、事件と僕らの関係を説明すると、夫人は悲しげに頭をふった。
「かわいそうなクロンチ――それにココも! 夫もわたくしもココが大好きでした。ですから、ココが死んだなんて胸がしめつけられるようですわ。で、わたくしにおたずねになりたいというのは、なんでございましょう? あのおそろしい晩のことを、またくり返してお話ししなければなりませんの?」
「いえ奥さま、私には奥さまのお気持ちを、いたずらにおさわがせする気など、毛頭ございません。じつは必要な話はぜんぶ、ジャップ警部からききました。私はただあの晩、奥さまがお召しになった衣装を拝見したいだけでございます」
夫人はちょっと虚をつかれたようすだったが、ポワロはよどみなくその先をつづけた。
「おわかりいただけると思いますが、奥さま、私はいつも私の国、つまりベルギーの流儀で仕事をすすめております。ベルギー警察では、常に犯罪を『再現』します。で、私も『実演』をすることができるのではないかと思いまして、もし、そうとなれば、申すまでもなく衣装類が重要になりますので」
夫人はまだ、いくぶん懐疑的のようだった。
「もちろん、わたくしも『犯罪の再現』ということは耳にしておりますわ。ですが、あなたがそれほど細かい点にまで、ご執心だとは存じませんでしたの。でも、さっそくその衣装をとってまいりましょう」
夫人は部屋から出て行った。そして、ほどなく、白と緑のサテンの優雅なドレスを持って来た。ポワロはそれを受け取って、調べてから、一礼して夫人の手にもどした。
「|Merci madame《メルシー・マダム》(ありがとうございました、奥さま)! 拝見しましたところ、どうやら緑色の房飾りを一つ、おなくしのようでございますな、この肩の上の」
「そうなんですの、舞踏会のさいに、ちぎれてしまいました。でも、わたくしそれをひろって、クロンショー卿に預ってくれるようにわたしました」
「それは夕食のあとでございますか?」
「はい」
「すると、事件の起こるさほど前のことではございませんな、おそらく?」
デイヴィッドスン夫人の青い目に、かすかな警戒の色が浮かんだ。しかし彼女はすばやく答えた。
「いえ、ちがいますわ、かなり前のことですわ。たしか、夕食の直後でした」
「さようですか。では、おうかがいすることは、これで、ぜんぶです。これ以上、お邪魔はいたしません。|Bonjour, madame《ボンジュール・マダム》(ごきげんよう、奥さま)」
アパートから出ながら僕はいった。
「これで緑の房飾りの謎がとけたね」
「どうかな」
「どうかなって、それはどういう意味だい?」
「私が衣装を調べていたのは、君も見ていたろう、ヘイスティングズ?」
「見たけど?」
「|Eh bien《エー・ビヤン》(ところがだね)、あの衣装の紛失した房飾りは、夫人の言葉のように、もぎとられたものじゃないね。それどころか、切りとられたもんだよ、君、はさみで切りとられたんだ。糸の長さにむらがない」
「へえ!」僕は頓狂な声を出した。「いよいよもって錯綜してきたね」
「反対だよ」ポワロは平然と答えた。「いよいよもって単純になってきたんだ」
「ポワロ」僕は声を出した。「僕はいまに君を殺してやるぜ! なんでもかんでも、すっかり割りきってしまう君の癖は、無性に僕の勘《かん》にさわるね」
「しかし私が説明するとだね、君、かならず、しごく単純なことになるんじゃないかね?」
「そうだとも。だから、しゃくにさわるんだ! 君の説明をきくだんになると、自分でもそれがわかったはずだ、という気がするんだもの」
「君だってできるはずなんだよ、ヘイスティングズ、君にだって。自分の考えをまとめる労をとりさえすればいいんだ! 方法をもってしなければ――」
「ああ、そうだろうとも」ポワロが十八番《おはこ》の言葉を口にしたら、そのあとに、えんえんと長広舌がつづくのを、僕はいやというほど知っているから、急いでさえぎったのである。「それじゃ、つぎにはなにをやるんだい? 君は本気で犯罪の再構成とやらをやるつもりなの?」
「いや、そうでもないさ。いうなれば、芝居は終わった。ただし、アルルキャンの出幕を追加せんことにはね?」
(おそらく読者はここで一息いれ、この犯罪を読者自身で解決したいと思われるだろう――そしてそのあとで、自分の解決が、作者のそれにどれくらい近いものか、ごらんになるのも一興であろう)
ポワロは翌日の火曜日に、例の不可思議な実演を演じてみせることになっていた。その準備は、ひどく僕の好奇心をそそった。両側がどっしりしたカーテンでしきられた部屋の一方に、白いスクリーンがとりつけられ、つぎには、照明道具を持った男が到着し、最後に、玄人《くろうと》の俳優の一団がやってきて、応急の楽屋にしつらえられたポワロの寝室へと消えて行った。
八時すこし前にジャップが到着したが、それほど愉快そうなようすではなかった。僕はジャップがポワロのこの案には、不賛成らしいなと見てとった。
「いかにもポワロさんのアイデアらしいな、例によって少々メロドラマじみている。しかしまあ、やって損するわけじゃないし、あのかたのいうように案外、われわれの手間を大幅に、はぶくことになるかもしれません。ポワロさんは、この事件については、はじめから、えらく調子がいい。私自身も、もちろん同じ手がかりはつかんでいますが」――僕は直観的に、ジャップが無理をしているのを感じた――「ですが、まあ、気のすむようにおやりなさい、と約束しましたからね。おや! みんなが来ましたぜ」
さいしょに、僕がそれまでお見それしていたマラビー夫人につきそって、新しいクロンショー卿がやって来た。夫人は黒髪の美人で、一見して神経質そうな女性だった。デイヴィッドスン夫妻がそのつぎ。僕がクリス・デイヴィッドスンにお目にかかるのも、同じくはじめだった。長身で色浅黒く、少々きざな美男子だが、俳優らしい、むぞうさな魅力をそえている。
ポワロはスクリーンの正面にみんなのための席をしつらえた。スクリーンは、煌々《こうこう》たるライトに照らされている。ポワロはスクリーン以外の部屋の部分が暗くなるようにスイッチを消した。彼の声が暗闇の中で響いた。
「紳士ならびに淑女のみなさま、一言ご説明申しあげます。六人の人物が、これからスクリーンの前を通過いたします。いずれもおなじみの人物ばかりです。すなわち、ピエロとピエレット、道化者のパンチネロと優雅なパルチネラ、軽快に踊る美しいコロンビーネに、人間の目には見えない妖精のアルルキャン!」
こうした前口上とともに、ショーは開幕した。ポワロが述べた人物たちが、つぎつぎにスクリーンの前におどり出て、一瞬、静止しては消えて行った。それからあかりがつき、ほっとしたため息が客席に流れた。誰もが、なにがなにやらわからなくて、いらいらしていた。僕には、この場のなりゆきが、ひどくあっけないように思われた。もし犯人がこの中におり、仮装を目撃して、たちどころに尻尾《しっぽ》をぬぐものと、ポワロがあてこんでいたとすれば、その趣向はみごと失敗したといわなくてはなるまい――すでに、もう先が見えているのだから。しかしながら、ポワロはいささかも動ずる気配がなかった。彼はにっこり笑って、前へ進み出た。
「さて紳士ならびに淑女のみなさま、まことにおそれいりますが、おひとりずつ順に、ただいま見たものがなんであるか、おきかせねがいたいと存じます。クロンシヨー卿から。いかがでしょう?」
卿はいくぶん、とまどったようだった。
「どうも話の筋がよくわからんが」
「ただいま見ましたものを、お話しくださればよろしいので」
「わしは――そのう――つまりだね、六人の人物がスクリーンの前を通って行ったが、彼らは例の昔のイタリア喜劇の扮装をしていったように思うが。あるいは――そのう――あの晩のわれわれと同じ扮装をしていた、といってもいいが」
「あの晩のことはご懸念におよびません、閣下」ポワロがさえぎった。「はじめのほうのことがうかがいたかったのです。奥さま、あなたもクロンショー卿にご同感でしょうか?」
ポワロはそういいながら、マラビー夫人のほうを向いた。
「わたくし――ええ、もちろんですわ」
「イタリア喜劇の扮装をした六人の人物をごらんになったことに、同意なさるわけで?」
「むろん、そうですわ」
「デイヴィッドスンさんは? あなたもご同様で?」
「ええ」
「奥さまは?」
「はい」
「ヘイスティングズは? ジャップは? 同感かね? みなさん同じお考えですか?」
彼はぐるっと一同を見わたした。その顔はいくぶん青ざめて、両の眼は猫の眼のように緑色に輝いていた。
「ところがですよ――みなさんは、ぜんぶまちがっておられる! ご自分の目にあざむかれたのです――戦勝舞踏会の夜に、あざむかれたのと、まったく同じです。『自分の目で物を見る』ということがよくいわれますが、それは、かならずしも、真実を見ることにはなりません。心眼で見なくてはいけないのです。小さな灰色の脳細胞を使わなくてはいけないのです! そうすれば、今晩も、舞踏会の晩にも、みなさんが見たのは六人の人物ではなく、五人だということがわかりましょう! ごらんなさい!」
あかりが、また消えた。一人の人物がスクリーンの正面にとび出して来た――ピエロだった!
「これは誰でしょう? ピエロでしょうか?」ポワロがたずねた。
「そうです」一同が叫んだ。
「もう一度ごらんください!」
ピエロはすばやい動作で、ゆったりした衣装をぬぎすてた。すると、舞台照明を受けてそこに立っているのは、きらびやかなアルルキャンではないか! と同時に、誰かがあっと声をあげて、椅子が一脚ひっくり返った。
「畜生!」うめくようなデイヴィッドスンの声がした。「畜生! どうしてわかったんだ?」
カチッと手錠のはまる音がして、ジャップの冷静な事務的な声が聞こえた。
「君を逮捕する、クリストファ・デイヴィッドスン――クロンショー子爵殺害の容疑だ――これから君のいうことは、君に不利な証拠として、使われるかもしれない」
それから十五分後のこと、凝った夜食が提供された。ポワロは満面に笑みを浮かべて、あいきょうをふりまきながら、僕らの熱心な質問に答えていた。
「ごく簡単なことでした。緑の房飾りが発見された情況から、それが犯人の衣装からもぎとられたものであることは、ピンときました。そこでピエレットのことは容疑者のリストから除いて(テーブル・ナイフを急所に突きさすにはかなりの力を必要とするからです)、犯人はピエロだと、見当をつけたのです。しかし、ピエロは殺人が行なわれるほぼ二時間も前に会場を去っています。したがって、ピエロはあとでまたもどって来て、クロンショー卿を殺したのか、しからずんば――|eh bien《エー・ビヤン》(つまり)立ち去る前に卿を殺したのか、そのいずれかにちがいありません! あの晩、夕食後に卿を見たのは誰でしょう? デイヴィッドスン夫人、ただ一人です。夫人の陳述は、なくなった房飾りを説明するために、慎重にでっちあげられた作り話ではないかと、私は疑いました。もちろん、その房飾りは、夫の衣装からちぎれた房飾りの埋め合わせをするために、彼女が自分の衣装から切りとったものです。しかし、そうだとなると、一時半にボックスの中で姿を見られているアルルキャンは、誰かの変装にちがいない、ということになります。当初、私はベルテン氏に共犯の可能性があるかどうか、ちょっと考えてみました。しかし、ベルテン氏の凝った衣装では、パンチネロとアルルキャンの一人二役を演じることは明らかに不可能です。いっぽう殺されたクロンショー卿と身長も同じで、職業俳優であるデイヴィッドスンなら、そんなことはまったく朝飯前です。
しかし、私を悩ませたことが、一つありました。まさか医者ともあろうものが、二時間前に死んだ死体と、十分前に死んだ死体との相違を見誤まるはずがありません! |eh bien《エー・ビヤン》(いかにも)! 医師はまさにそれに気づいたのです。ですが医師は診断に呼ばれたさいに、『この人物はどれくらい前に死んだのか』とはきかれずに、逆に、この人物は十分前には生きている姿を目撃されている、と教えられました。そこで医師は検死法廷で、不可解な異常硬直が四肢に認められると述べるにとどまったのです!
こうなると、あとは私の理論どおりに、万事すらすらとはこびました。デイヴィッドスンは夕食の直後、つまり皆さんもご記憶のように、彼が食堂へ卿をつれて引き返した時に、クロンショー卿を殺害したのです。それからミス・コートネーを伴って、舞踏会をあとにし、アパートのドアのところで彼女とわかれ(中へ入って、彼女を慰めようとした、という彼の証言はまっかなうそです)、大急ぎでコロサスヘとって返したのです――しかし、こんどはピエロではなしにアルルキャンに化けました――外側の衣装をぬげば、なんなく姿が変わってしまいますからね。
亡き卿の伯父は、いぶかしげな目差《まなざ》しで、前にのり出した。
「だが、そうだとすると、デイヴィッドスンは、さいしょから犠牲者を殺そうと準備して、舞踏会へ来たことになりますな。そもそも彼の動機はなんだったのです? その動機がわしにはとんと見当がつかんが」
「ああ! そこで第二の悲劇――ミス・コートネーの死が問題になるのです。誰もが見逃がしていた簡単な点が一つあります。ミス・コートネーはコカイン中毒で死んだ――しかし彼女のコカインは、クロンショー卿の死体から発見されたエナメルの箱にはいっています。しからば、彼女を殺すことになった薬を、彼女はどこから入手したのか? それを彼女に与えることができた人間は唯一人――デイヴィッドスンだけです。そうなると、なにもかも説明がつきます。彼女がデイヴィッドスンと仲がよかったわけも、自宅まで送ってくれと彼にたのんだわけも説明がつきます。麻薬の常用については異常なほどの反対論者であったクロンショー卿は、彼女がコカインに耽溺《たんでき》しているのを発見して、デイヴィッドスンがそれを彼女に供給しているのではないかと疑ったのです。むろん、デイヴィッドスンは否定したでしょう。しかし卿は舞踏会の席上で、ミス・コートネーの口から真相をひき出そうと決心しました。卿はこの気の毒な女性をゆるすことはできても、麻薬を売買して生活しているような男には、絶対に容赦はしなかったでしょう。デイヴィッドスンは悪事の露見と、身の破滅に直面したわけです。そこでなにがなんでもクロンショー卿の口をふさごうと決心して、舞踏会へのぞんだのです」
「すると、ココの死は過失死だったのですかな?」
「デイヴィッドスンによって、巧妙に仕組まれた事故ではないかと思います。彼女は卿にたいしてひどく腹をたてていました。第一には卿に叱責されたこと、第二には、コカインをとりあげられたことです。そこでデイヴィッドスンは、彼女にさらに多くの薬をあたえて、たぶん『旧幣なクロンチ』にたいするあてつけとして、薬の服用量をふやすように、暗にすすめたのでしょう!」
「もう一つ聞きたいけど」と僕がいった。「カーテンの背後のくぼみのことなんだがね。どうしてそのことがわかったの?」
「そんなことは君、簡単しごくなことじゃないか。給仕たちがあの小部屋に出たり入ったりしていたからには、どうみたって、死体が発見された時のまま、ずっと床の上にころがっていたはずがないじゃないか。部屋のどこかに、死体が隠されていた場所があるにちがいない。そこで私はカーテンがあり、その背後には、くぼみがあると推理したわけさ。デイヴィッドスンはそこへ死体をひきずりこみ、後刻、ボックスの中でみなの注意を喚起しておいてから、最後にホールを立ち去る前に、またぞろ死体を引き出しておいたんだ。やつの巧妙きわまる措置《そち》の一つだね。頭の切れる男さ!」
しかし僕は、ポワロの緑色の目の中に、つぎのような語られざる言葉を、まぎれもなく読みとったのである。
「しかし、このエルキュール・ポワロほどには、きれないよ!」
マーキット・ベイジングの謎
「けっきょく、あの地方みたいなところは、ありませんでしょうが、え?」ジャップ警部はそういって、はなはだお上品なやりかたで鼻孔から大きく息を吸い、口からぷうと吐き出した。
ポワロと僕もその意見には心から賛成だった。週末を利用して、みんなでマーキット・ベイジングの小さな田舎町へ行こうというのは、このスコットランド・ヤードの警部の、かねてからの懸案であった。ひとたび職をはなれると、ジャップは熱心な植物学者だった。そして信じられぬほど長ったらしいラテン語名前を持つ微細な花々について、一席弁じたてるのであったが、そのときの熱中ぶりたるや、犯罪事件を扱うときよりも、はるかにすさまじいものがあった。
「あそこなら、誰もわれわれを知らないし、こっちも知り合いはないですからね。そこがねらいなんですよ」ジャップが説明した。
しかし、結果的には、そううまくはこばなかった。というのは、そこから十五マイルほど離れた村で、かつて砒素中毒事件が発生したことがあり、そのさいに、ロンドン警視庁から来たジャップと接触した巡査が、たまたまその地に転任になっていたからである。とはいえ、警察界の大物に再会して、その巡査が感激しているさまは、ジャップの幸福感を強めただけだった。
日曜日の朝、僕らは村の宿屋の食堂に腰をおろして、食事をとった。大陽はさんさんと輝き、サネカズラの巻きひげは窓辺に茂り、一同はすっかり、ご機嫌であった。べーコン・エッグスは上等だし、コーヒーはそれほど、いただけないにしても、飲めないことはないし、それにぐらぐら煮えたぎっている。
「これが人生ってもんですね」ジャップがいった。「隠退したら、私は田舎にささやかな土地を持つつもりですよ。こんなぐあいに、犯罪とは縁を切ってね!」
「|Le crime, il est partout《ル・クリム・イ・レ・パルトゥ》(犯罪はどこにもあるよ)」そういってポワロは正方形のパンをむしゃむしゃ食べながら、窓の下わくのところで、人目もはばからずに、からだのバランスをとってとまっている雀を見て眉をひそめた。
僕は陽気に口ずさんだ。
兎の顔はかわいいが
兎のやること恥しらず
どうにも君にはいえません
兎のやったひどいこと
「いやあ」ジャップは、うしろにそっくり返りながらいった。「私は卵をもう一つに、べーコンをもう一、二枚、食べられそうな気がしますね。あなたはいかがです、大尉?」
「同感ですね」僕は衷心からそう答えた。
「君はどう、ポワロ?」
ポワロは頭をふった。
「頭の働きが鈍くなるほど、胃の|ぶ《ヽ》につめこむもんじゃないよ」
「私はもうちょいと、胃袋につめこむ危険をおかしたいですな」ジャップが声をあげて笑った。「なにせ私の胃袋ときたら特大ですからね。ところで、あなたは肥ってこられましたな、ポワロさん。あ、ちょっと、君、ベーコン・エッグスのおかわりをたのむ」
だが、そのとき、堂々たる風采の人物が入り口を、ふさぐようにして姿を現わした。ポラード巡査だった。
「失礼ですが、警部にちょっとお話をしたいのです。ご意見をうががいたいと思いまして」
「私は休暇中なんだ」警部があわてていった。「仕事ならごめんだよ。いったい、なんの事件だい?」
「リー・ハウスにいる紳士が――自殺したのです――頭を射って」
「そりゃ、それ相応の理由があってのことだろう」ジャップが散文的に笑った。「借金か、女か、そんなところだろう。残念ながら、お役には立てんな、ポラード」
「しかし問題は、その男が自殺できたはずがない点にあるのです。すくなくとも、ジャイルズ博士はそうおっしゃってます」
ジャップはカップをおいた。
「自殺できたはずがないって、そりゃ、どういうことかね?」
「ジャイルズ博士が、そうおっしゃるんです」ポラードはくり返した。「そんなことは、まったく不可能だと。それでひどく、頭を悩ましておいでです。内部からは錠がかかって、窓にはボルトがおりていました。しかし博士は断じて自殺できたはずがないと、その点に固執しておられます」
それで話はきまってしまった。おかわりのべーコン・エッグスは手をふって、さげられた。数分後に一同は、リー・ハウスの方向にできるだけ早く歩いて行った。そのあいだに、ジャップは熱心に巡査に質問した。
故人はウォルター・プロザローという名前の世捨て人のような中年男であった。彼は八年前にマーキット・ベイジングにやって来て、不規則な形をした、いまにもこわれそうなほど荒廃した、リー・ハウスという屋敷を借りたのである。そして自分は屋敷の一隅に住み、身のまわりの世話は、いっしょに連れて来た家政婦にさせていた。家政婦の名前は、ミス・クレッグといい、たいへんりっぱな女性で、村中の人から尊敬されていた。ごく最近、プロザロー氏のところに、パーカー夫妻という客がロンドンから来て滞在中であった。今朝ほど、家政婦が主人を呼びに行ったところ、いくら呼んでも返事がなく、ドアに鍵がかかっていることがわかった。そこで彼女は驚いて、警察と医師に電話したのである。ポラード巡査とジャイルズ博士は、ほとんど同時に到着した。二人は力を合わせて、やっとのことで寝室の樫の木のドアをぶちこわした。
プロザロー氏は頭部をピストルで射って、床の上に倒れていた。右手にそのピストルをにぎっていた。一見、明らかに自殺のようであった。
ところが、死体を検査してみて、ジャイルズ博士は、どうにも頭をひねってしまった。そこでとうとう、巡査をわきに呼んで、不審の点を彼に伝えた。その結果、ポラードはすぐさまジャップのことを思い出し、あとのことは医師にまかせて、宿屋にかけつけて来た、というしだいであった。
巡査の話が終わるころ、一行は、雑草が生い茂る庭にかこまれた、広い荒廃した屋敷、リー・ハウスに到着した。正面のドアはあいていたので、すぐに中に入ってホールを抜け、人声が洩れてくる小さな居間へと行った。部屋の中には四人の人物がいた。きざっぽい服装の油断のならぬ、いやらしい顔つきの男と――僕は一目見て、嫌悪を感じた――美人だが品のない、同じタイプの女と、ほかの人間からは離れて立っている、小ざっぱりした黒服を着た女――これが家政婦だろうと僕は見当をつけた――それに、ツイードの服を着た、いかにも頭がきれて、やり手らしい顔の長身の男、明らかにこの人物が、この場を切り盛りしていた。
「ジャイルズ博士」巡査がいった「スコットランド・ヤードのジャップ警部と二人のお友だちです」
医師は、僕らにあいさつして、ここにいるのはパーカー夫妻だと教えてくれた。それから、彼のあとにつづいて二階へ行った。ポラードはジャップの合図に従って、邸内の人間でも見張るのか、階下に残った。医師は先に立って階段をあがり、廊下を歩いて行った。つきあたりのドアが一枚あいて、蝶番《ちょうつがい》からはちぎれた木片がぶらさがっていた。そしてドアそのものもこわれて、部屋の内側の床に倒れていた。
僕らは中へ入った。死体はまだ床の上に横たわっていた。中年であごひげを生やした男だが、額のあたりは白髪になっている。ジャップはそばに行って、死体のかたわらにひざまずいた。
「どうして発見したときのままにしておかなかったんです?」ジャップがブツブツいった。
医師は肩をすくめた。
「自殺にきまっている、と考えたもんですからね」
「ふむ!」ジャップがいった。「弾丸は左耳のうしろから頭に入っているな」
「そのとおりです。どうみたって彼が自分を射つなんて、できっこありませんよ。それだったら、自分の手を頭のうしろに、ぐるっと曲げなきゃなりませんからね」
「しかし、手にピストルを握っていたんでしょうが? そうそう、ピストルはどこです?」
医師はテーブルのほうへあごをしゃくった。
「ピストルを握っていたんじゃありません。手の中にあっただけで、五本の指が握りしめていたんじゃないのです」
「あとから持たせたんですな。見えすいたことだ」ジャップは、そういって武器を調べた。「弾丸は一発射たれている。指紋の点を調べてみましょう。しかし出てくるのは、どうもあなたの指紋だけじゃないですかね、ジャイルズ博士。死後どのくらい経過しています?」
「昨夜ですね。私は推理小説に出てくる名医じゃありませんから、死亡時刻を一時間かそこらに限定することはできません。大ざっぱにいって、死後十二時間くらいでしょうね」
それまでポワロは、なんの動きも見せようとしなかった。僕のかたわらに残って、ジャップの仕事ぶりを見つめ、彼の質問に耳をかたむけていた。しかしときおり、ひどく敏感に、くんくん空気を嗅いで、まるでなにかふにおちかねるようすだった。僕も嗅いでみたが、興味をひくような匂いは、なにもなかった。室内の空気はまったく新鮮で、異臭はなかった。ところが、ポワロはあやしむように鼻をうごめかしている。まるで、僕が気づかない匂いを、彼の鋭敏な鼻が調べているみたいであった。
やがて、ジャップが、死体からはなれると、ポワロはそのそばにひざまずいたが、傷にはなんの関心もむけなかった。僕ははじめ、ピストルを持っていた手の指を調べているのかと思ったが、すぐにポワロが興味をよせたのは、上着の袖の中にあったハンカチであることがわかった。死体はダーク・グレーの背広を着ていた。やがてポワロは腰をおこした。しかし、ふにおちかねるのか、その目は依然としてハンカチに吸いよせられていた。
ジャップはポワロに、こっちへ来てドアをおこすのに手をかしてください、と声をかけた。僕はそのすきに、自分で死体のそばにひざまずき、袖からハンカチを出して、しさいに調べてみた。それはまったく、清潔な白麻のハンカチで、一点のしみもよごれも、なかった。それをもとにもどして、僕は頭をふった。さっぱりわけがわからなかった。
ポワロとジャップは、ドアをおこした。二人は鍵を探しているのだったが、しかしその甲斐はなかったようだ。
「これできまりましたね」ジャップがいった。「窓はしまって、ボルトがかかっていた。だから犯人はドアから外に出て鍵をかけ、鍵はそのまま、持ち去ったんですよ。犯人のやつ、プロザローは自分で内側から鍵をかけて自殺したと思われるだろう、鍵のないことは、気づかれずにすむだろう、と考えやがったんですよ。そうでしょう、ポワロさん?」
「私も同感だ。しかしドアの下から室内に鍵をすべりこませておいたほうが、ずっと簡単で、安全だったはずだがな。そうしておけば、鍵は鍵穴から落ちたように見えるから」
「はあ、なるほど。でも誰でもポワロさんみたいな名案の持ち主とはかぎりませんぜ。まったく、あなたが犯罪に手を出したら、しまつにおえませんな。ご感想はいかがです、ポワロさん?」
ポワロはどうも途方にくれているように僕には見えた。彼は室内を見まわし、おだやかに弁解口調でいった。
「ずいぶん、たばこを吸ったんだな、この人は」
それは事実だった。暖炉は吸がらでうずまり、大型の安楽椅子のそばの小テーブルの上の灰皿も、いっぱいになっていた。
「昨夜は二十本くらい吸ったにちがいありませんな」ジャップはそういって、かがみこみ、暖炉の中身を注意深く検討して、それから灰皿に注意を移した。「ぜんぶ同じたばこで、吸った人間も同じです。なにもうるところはありませんね、ポワロさん」
「うるところがあるとはいわなかったさ」わが友はつぶやいた。
「おや、これはなんだ?」死体のかたわらの床に落ちていた、なにか明るい、キラキラ光るものにジャップはとびついた。「こわれたカフス・ボタンだ。誰のものだろうな? ジャイルズ先生、すみませんが、下に行って家政婦をよこしてくれませんか」
「パーカー夫妻はどうします? ひどく、ここから発ちたがっていますよ――ロンドンに急用があるとかいう話で」
「そりゃ、そうでしょう。いつまでも、引きとめておくわけにも行きますまいて。しかし目下の状況では、どうやら彼氏が気を使わなきゃならん急用は、ここにありそうですな。家政婦をよこしてください。そして、パーカーの亭主も細君も、ずらからせないように、あなたもポラードも気をつけてください。今朝がた、この部屋に誰か屋敷の者が入りましたかね?」
医師は考えこんだ。
「いや、ポラードと私が、なかにいるあいだ、みんな外の廊下に立っていました」
「まちがいありませんか?」
「絶対にたしかです」
医師は、家政婦を呼びにいった。
「いいかたですな、あの先生は」ジャップが満足げにいった。「ああいうスポーツ好きの医者の中には、えらく話せる人がいますよ。ところで誰がこの男を射ったんでしょうね? どうも屋敷にいる三人の人間の誰かのようですが、あの家政婦は、まず疑えませんな。なんにしろ八年間、いっしょにいたんですから、その気になればいつでも射てたわけです。このパーカー夫妻というのは何者でしょうね。どうも夫婦とも人好きのするご面相じゃないな」
ここでミス・クレッグが登場した。やせぎすの、ほっそりした婦人で、きれいな白髪をまんなかからわけていた。態度も落ちついて、もの静かであったが、それでもどことなく人をして尊敬させるようなものがあった。ジャップの質問に答えて、彼女は故人に十四年間仕えて来た、と語った。故人は寛大な思いやりのある主人でした。パーカー夫妻に会ったのは、三年前にとつぜん泊りにやって来たのがはじめでした。自分たちで、かってに押しかけて来たので――主人はたしかに、パーカー夫妻に会うのは喜んでいませんでした、というのが彼女の意見であった。ジャップが彼女に見せたカフス・ボタンは、プロザロー氏の持ち物ではなかった――その点はまちがいない、と彼女は断言した。ピストルのことを質問されると、たしか主人は、それと同じ武器を持っていたはずです、と答えた。主人はいつも、鍵をかけてしまっていました。数年前に、一度見たことがありますが、それが今どこにあるかは知りません。昨夜、銃声は耳にしませんでした。でも、それも驚くにはあたりません。なにしろ広い荒廃した屋敷ですし、自分とパーカー夫妻が使っている部屋は、建物の反対側にありますから。プロザロー氏が、いつベッドに入ったかは知りません――自分が九時半に自室にさがったとき、主人はまだ起きていました。主人は寝室にひきとっても、すぐにはベッドに入らない習慣です。いつも夜半まで起きていて、本を読んだり、たばこをふかしているのです。大へんな愛煙家でした、云々《うんぬん》。
すると、ポワロが質問をはさんだ。
「原則として、ご主人は窓をあけておやすみでしたかね、それともしめて?」
ミス・クレッグは考えこんだ。
「平常はあけておりました。すくなくとも、いちばん上はあけておりました」
「ところが今はしまっている。どういうわけかご存じですか?」
「いえ、存じません。風がはいるので、しめたのではないでしょうか」
ジャップは、さらに二、三の質問をしてから、家政婦をさがらせた。つぎに、パーカー夫妻にべつべつに会った。パーカー夫人は、めそめそしてヒステリー気味であり、パーカーのほうはどなりちらして悪態をついた。彼はカフス・ボタンが自分のものであることを否定したが、それは前もって、夫人が、夫のものだと認めていたので、いっこうに彼の立場をよくすることにはならなかった。それに自分はプロザロー氏の部屋に入ったことは、一度もないと否認した。そこでジャップは、すでに逮捕状を請求するのに、じゅうぶんな証拠をにぎったと考えるにいたった。
ポラードに後事を託すと、ジャップは大あわてで村にもどり、警察本部に電話連絡をとった。ポワロと僕は、宿までぶらぶら歩いて行った。
「いつになく、口かずがすくないね。この事件は君の興味をひかないの?」僕はそうきいた。
「|Au contraire《オー・コントレール》(それどころか)、ものすごく興味があるよ。しかし、どうもわけがわらん」
「動機は不明だが」僕は考えこみながら、いった。「たしかにパーカーは悪党だな。動機が欠けていることを除けば、彼に不利な証拠は歴然としている。動機だって、いずれ判明するかもしれないよ」
「とくに意味深長なことがあるんだが、君は気がつかんかね、もっとも、ジャップは見落としてしまったが」
僕はふしぎそうに、ポワロを見た。
「君の奥の手はなんだい、ポワロ?」
「死んだ男はなにを袖口にかくしていたか?」
「ああ、そりゃハンカチさ」
「ご名答、ハンカチだよ」
「水夫はハンカチを袖に入れてるね」僕は頭をしぼって答えた。
「いい着眼だ、ヘイスティングズ。しかし私が考えているのはそれじゃない」
「というと、ほかになにか?」
「そうさ。私は再三再四、あのたばこの匂いを考えている」
「僕はなんの匂いもしなかったな」ふしぎに思って僕は大声をあげた。
「私だってそうさ、|Cher ami《シェ・ラミ》(君)」
僕は真剣に彼を見つめた。ポワロが人をからかっているのかどうか知ることは、容易なわざではない。しかし、彼はまったく真剣そのもので、ひとりで眉をしかめていた。
検死裁判は二日後におこなわれた。そのあいだに、新しい証拠が明るみに出た。一人の浮浪人がその当日、壁をよじのぼって、リー・ハウスの庭にしのびこんだことを白状したのである。その男は、鍵のかかっていない物置で、それまでも、たびたび眠ることにしていた。男は十二時頃に、二階の一室で大声でいい争っている二人の男の声を聞いた、と証言した。片方が大金をせびり、片方が怒って拒絶していた。茂みの背後にかくれていた彼には、明るい窓を行きつ、もどりつする二人の男が見えたのである。その一人は屋敷の主人、プロザロー氏として、彼がよく知っている人物であり、そしてもう一人はパーカー氏だった、と言下に証言した。
パーカー夫妻が、プロザローをゆすりにリー・ハウスに来たことは、今や明らかであった。そしてさらにあとから、故人の本名はウェンドーバーという元海軍大尉で、一九一〇年、重巡洋艦メリソート号の爆沈に関係のある人物だったことが判明するにおよんで、事件は急転直下、解決のきざしをみせるにいたった。つまり、ウェンドーバーがメリソート号爆沈に一役買っていることを、つきとめたパーカーが、とうとう彼の所在をつきとめて、口留め料を請求したところ、ウェンドーバーは、それを支払うことを拒絶した。そして口論しているうちに、ウェンドーバーがピストルを出したので、パーカーがそれをもぎとり、相手を射ってしまい、その結果自殺に見せかけようと細工した、ということのようであった。
パーカーは弁護保留のまま裁判にかけられることになった。僕らは警察裁判所の法廷に列席した。帰りがけにポワロは、頭をふって大きくうなずいた。
「そうにちがいない」彼は小声でひとりごとをいった。「そうだとも、そうにちがいないんだ、これ以上ぐずぐずしてはおれん」
彼は郵便局に行って、一通の手紙をしたため、それを特別配達に託した。宛先が誰なのか、僕には見えなかった。それから、二人は、忘れられぬ週末をすごした例の宿屋へと帰った。
ポワロは、そわそわして、窓ぎわへ行きつ、もどりつしていた。
「客を待っているんだよ」彼は説明した。「まさか――まさか、私がまちがっているはずはあるまい? そらみろ、彼女が来たぞ」
待つほどもなく、ミス・クレッグが部屋に入って来たので、僕はまったく、たまげてしまった。ミス・クレッグは、いつになく落ちつきを欠いて、まるで駆けて来たみたいに息を切らせていた。ポワロを見つめる彼女の目には恐怖の色があった。
「どうぞ、おかけなさい」ポワロは親切にいった。「私の推理はあたっていましたろう、ちがいますか?」
答えるかわりに、彼女はわっと泣きくずれた。
「どうして、あんなことをしたのです」ポワロが、やさしくきいた。「なぜです?」
「わたくし、主人を愛しておりました。あのかたが子供のころから、わたしは子守りをしておりました。ああ、どうかお許しください!」
「できるだけのことはしてあげますよ。しかし、私も無実の人間が絞首刑になるのを見のがすわけにはいかない――たとえその人間が不愉快きわまる悪党であってもね、その点はわかってくれるでしょう」
彼女は身を起こして低い声でいった。
「わたくしだって、最後まで見のがすことはできなかったと思います。しなければならぬことなら、わたくし、どんなことでもいたします」
そういって、立ちがり、急いで部屋を出て行ってしまった。
「彼女が射ったのかい?」僕には、なにがなにやら、さっぱりわからなかった。
ポワロは微笑して頭をふった。
「自殺なんだよ。彼が右の袖にハンカチを入れていたことを、君は覚えているかい? それを見て、私には彼が左利きであることがわかったんだ。パーカー氏と激論をかわしたあとで、旧悪が露見することをおそれて彼は自殺したんだ。朝になって、いつものように、主人を起こしに来たミス・クレッグは、彼が死んでいるのを発見した。たった今、彼女が語ったように、彼女はウェンドーバーを幼年時代から知っているので、彼をこの恥ずべき死に追いこんだパーカー夫妻にたいして、深いいきどおりを感じたんだね。パーカー夫妻が殺したも同然だと考えたんだ。それから、とつぜん、彼女は、パーカー夫妻が惹起《じゃっき》したこの事実にたいするむくいとして、夫妻を窮地におとし入れるチャンスがあることを発見したのだ。故人が左利きであることを知っているのは彼女だけだ。そこで、ピストルを死者の右手に移しかえて窓をしめ、ボルトをかった。階下の部屋で拾ったカフス・ボタンを一つ落として、外に出、ドアに鍵をかけて、鍵は持ち去ったのだ」
「ポワロ」僕はすっかり感激してしまった。「君はなんて、すばらしいんだ。それをみんな、わずかハンカチ一枚の手がかりから推理したんだね!」
「それとたばこの煙だよ。もし窓が一晩中しまっていて、あのたばこが、ぜんぶ吸われたとすればだよ、室内には当然、むっとするほど、たばこの匂いがこもっているべきじゃないか。ところが空気は、まるで新鮮だった。だから私はたちどころに、窓は一晩中あいていて、朝がたにしめられたにちがいないと推理したんだ。そして、その点が推理の筋としては、ひどく興味が深かったな。私は、どうしても、犯人が窓をしめたいと思うような状況を考えつかなかった。もし自殺説が通らなければ、窓はあけたままにして、犯人がそこから逃げたように見せかけるほうが、犯人の利益になるはずなんだ。むろん、浮浪者の証言を聞いて、私の疑いは確実になったよ。窓があいていないかぎり、やつに二人の男の話し声が聞こえたわけがないものな」
「すばらしい!」僕は、心からそういった。「ところで、お茶でもどう?」
「生粋《きっすい》のイギリス人流にいうならばだね、どうやらここで、シロップはいただけそうもありませんね、とそういうところかね?」(完)
解説
作品中の人物の印象があざやかで、今なお生き生きとしてわれわれの周囲にいるような感じを起こさせることは、なかなか容易ではない。推理小説の場合は作家の創造した探偵を、作品の都度起用するのだから、なじむ機会はすこぶる多いにもかかわらず、名前に伴なってすぐ影像の浮かんでくるものは、必ずしも多くない。
クリスティ女史のエルキュール・ポワロなどは、そのごく少数の例であるが、女史はそれを至難な短編の形式においても成功させているのである。女史以前に、ポオのデュパン、フリーマンのソーンダイク、オルツィの隅の老人、チェスタートンの神父プラウン、ブラマーのカラドス、ポーストのアブナーなど、短編で成功した作家はあったが、処女作の「スタイルズ荘の怪事件」の刊行された一九二〇年は、この作品やクロフツの「樽」などを境にして、長編時代に移る時期であった。そういう風潮にもかかわらず、先達のたどった道を避けることなく、一九二一年から二四年にかけて、短編のポワロ探偵譚を雑誌に発表した。「ポワロの事件簿」(※)として、一巻にまとめられたのが一九二四年である。女史としても先輩をしのごうという意気込みで筆を染めたのだろうから、探偵の風貌と推理法に特色を出そうとして、おのずと一種の気迫がにじみ出ている。
探偵たる者は行動すべきである、探偵は精力に充ちていなければならぬ、東奔西走、埃だらけの道路をはいまわって、小さな拡大鏡でタイヤの跡を捜すべきだ、タバコの吸殻や燃え残りのマッチを集めるべきだというのが、探偵への一般の要望だろうが、ポワロはこれに対して、「自分の部屋で静かに腰をおろしていれば、それで充分です。問題はこの中の灰色の脳細胞です。脳細胞はひそかに、黙々として、任務を果たしています」(首相誘拐事件)と、得意の推理法を披露する。
この方法が極端になれば、ベッド・ディテクティヴとなるもので、「ハンター荘の謎」がいい例である。ポワロの協力者のヘイスティングズ大尉は、名誉の負傷で除隊になってからは、新兵徴募の仕事をあてがわれていたので、毎晩夕食後にはポワロを訪れて、事件について駄べりあうのが習慣であった(首相誘拐事件)。大尉はかねてから自分の価値を彼が過少評価していると愚痴をこぼしていたが、幸か不幸かポワロが流感に襲われて臥床しているとき、ハンター荘で事件が起こった。大尉はひとりで現場におもむき調査するが、その報告をベッドで読むだけで、ポワロは犯人を指摘してみせる。
いかにも心理探偵の本領を発揮しているのだが、決して、たんねんな捜査をおろそかにしているわけではない。「イタリア貴族の怪死」では、客人の食事のようすから真相を見いだすのも、周到な観察にもとづくもので、彼の無邪気な自慢癖のもたらす大みえだと思えばよい。
だから時には犯人を心理的に推理したものの、裏づける証拠をあとから捜さなければならない。それでいて、自分の知性には事件は明々白々だが、あまり天賦も才も恵まれない人は犯行確認のために調査をしたほうがいい、などと、憎まれ口をきいている(百万ドル公債の盗難)。
扱われた事件も、「首相誘拐事件」のように、第一次大戦中の秘話を今となって公表するといった形のものもあれば、大戦後のロンドンの住宅難をとりあげて、当時の世相を背景にした「格安アパートの冒険」のようなものもある。
後者は珍しく格安の貸室にめぐりあった人の話に疑いをいだくもので、例のドイルの「赤毛連盟」の記憶をよび起こす人もあろう。そういえば「消えた遺言書」は、莫大な遺産を残した伯父が、その遺言書のありかを捜しあてれば譲ると、姪の知力をためすもので、ポオの「盗まれた手紙」に比べられよう。
さすがに女性作家のものだけに、血なまぐさい事件が多くないのも特色である。「西方の星」や「グランド・メトロポリタンの宝石盗難事件」は宝石の、「格安アパートの冒険」は機密書類の、「百万ドル公債の盗難」では公債の盗難を扱い、「首相誘拐事件」や「ダベンハイム氏の失踪」では、失踪事件をとりあげている。
女流作家のすぐれた着想の一つとして、ポワロを極端なおしゃれに仕立てたことも挙げられよう。小さなスポンジでせっせと服を拭いている彼は、捜査のためエジプトに出かけたときには、砂漠で靴の埃を気にして、事件どころではなさそうに見える。それは「エジプト人墓地の冒険」のさいで、女史は、有名なミイラの呪いによって発掘者が次々に死んでいった話にメスを入れている。一九三〇年に女史は考古学者のマローワンと結婚し、自身も発掘の手伝いをするようになったのである。
背の低い小柄な外国人の名探偵の言動は、ユーモラスでもあり、小ざかしくもあるが、その名声は彼の生国の皇帝陛下のお耳にも達していたほどである。「首相誘拐事件」では、イギリス首相の失綜の調査に出馬しているが、一介の私立探偵の下宿を大臣が訪ねて来たのも、陛下のお勧めと希望によるものだという。ポワロは、「陛下は私をお忘れなかった」と感激する。ホームズやリュパンの例とともに、時代色の反映であろう。
顕著なトリックを発明しているわけではないが、短編のコツを心得て、人物を躍動させたもので、第一短編集として大きな光彩を放っている。(中島河太郎)
※ 「ポワロ参上!」の1〜4に収めた十六編の短編は、すべてこの短編集から採った作品です。なお、この短編集に収められた他の六編「西方の星」「首相誘拐事件」「ダベンハイム氏の失踪」「クラパムの料理女」「イタリア貴族の怪死」「エジプト人墓地の冒険」は、本書店刊行のクリスティ短編集「情婦」に収められております。
◆「ポワロ参上!」2◆
アガサ・クリスティ/小西宏訳
二〇〇四年十一月二十日