アガサ・クリスティ
「ポワロ参上!」1
目 次
マースドン荘園の悲劇
格安アパートの冒険
ハンター荘の謎
百万ドル公債の盗難
マースドン荘園の悲劇
僕は二、三日所用で、町を外にしていたが、かえってみると、ポワロが例の小さな旅行鞄をバンドでくくっているところだった。
「|A la bonne heure《ア・ラ・ボン・ヌール》〔ちょうどよかった〕、ヘイスティングズ。あんまり遅いんで、いっしょに行かれんのじゃないかと心配してたんだ」
「すると、なにかまた事件で呼ばれたのかい?」
「そのとおり、だが今度のは一見したところでは、解決の見込みがたちそうもない。なんでも大枚五万ポンドの生命保険に、つい二、三週間前に加入したマルトレイヴァーズなる人物が死亡してね、ノーザン・ユニオン保険会社から、その辺の事情を調査してくれと私に依頼してきたんだ」
「それで?」僕は大いに興味をそそられた。
「もちろん、通常の自殺に関する条項は保険証書に記載してある。つまり契約後二年以内に本人が自殺した場合は、保険料は返却されないのだ。マルトレイヴァーズ氏も保険会社専属の医者から当然診察は受けたのだが、それによると、血気盛んな年頃はいくぶん過ぎてはいるが、きわめて健康な状態にあるというわけで合格している。それがだ、水曜日――つまり一昨日――エセックスにある自邸のマースドン荘園内の庭で、死体となって発見された。死因は、ある種の内出血だと記載されている。これ自体は別段珍しいことではないが、マルトレイヴァーズの財産状態について、最近どうもかんばしからぬうわさが立っていたんだね。そこで保険会社は、調査して故人が破産に瀕していたことが事実であることをつきとめたんだ。
さあそうなると、話はすっかり変わってくる。マルトレイヴァーズには美人の若い妻があったということはだよ、彼がその妻のためになけなしの金をかき集めて保険料を支払い、しかるのちに自殺したということが考えられるのだ。べつに珍しいことじゃないからね。いずれにせよノーザン・ユニオン会社の取締役である私の友人のアルフレッド・ライトから、とにかく事件の真相を調べてくれと頼んできたのだ。しかし成功する望みはあまりもてない、と彼にも言っておいたよ。死因が心臓麻痺なら、まだしも気が楽なんだがね。心臓麻痺というのは、患者の死因がはっきりしない場合、無能な田舎医者がよく使う言葉なんだ。しかし内出血というやつは、かなりはっきりしたもんだからね。いずれにせよ、もうすこし調べる以外に手がない。五分で、君の旅行仕度をすませるんだ、ヘイスティングズ、それからリヴァプール・ストリートまでタクシーを飛ばそう」
一時間後に、僕らはグレート・イースタン線のマースドン・リーの小駅で下車した。駅でたずねると、マースドン荘園はそこから約一マイルのところとのことだった。ポワロが歩くことにきめたので、二人は大通りを歩いて行った。
「ところで、どういう作戦なんだい」と、僕はきいた。
「まず医師を訪問するよ。マースドン・リーには、一人しか医者がいないことを確かめておいたからね。ラルフ・バーナード博士さ。ほら、ここがその家だ」
その家は高級なコッテージ風の建物で、道路から少しひっ込んだところに建っていた。門柱にかかっている真鍮の表札には、医師の名前が書いてある。僕らは通路をわたって、ベルを押した。
ちょうどうまい時刻に訪問したということがわかった。診察時間にあたっていたが、その時には、待たされている患者が一人もいなかったからだ。バーナード医師は、かなり年輩の、いかつい肩をした猫背の男で、なんとはなしに肌ざわりのいい人物であった。ポワロは自己紹介をしてから、訪問の目的を説明して、この種の事件については、保険会社としても、充分調査せねばならぬ事情を言いそえた。
「ごもっとも、ごもっとも」バーナード医師はあいまいな返事をした。「マルトレイヴァーズ氏は、ああいう金持ちでしたから、多額の生命保険にもはいっていたんですな」
「金持ちだとお考えですか、先生?」医師は、この質問に驚いたようだった。
「ちがうんですか? 彼は自動車を二台持っていましたし、それに非常に安く買ったはずにもせよ、あの美しく大きなマースドン荘園を維持して行くのは、なみたいていのことじゃないでしょう」
「しかし最近は、かなりの損失を受けたとか、聞いておりますが」医師をしげしげとみつめながら、ポワロは言った。
しかし医師は、悲しそうに頭を振っただけで、
「そうですか? なるほど。それならば、生命保険にはいっていたことは、細君にとっては幸いでしたな。細君というのは、たいへん美しい、チャーミングな若い婦人ですが、このいたましい破局に直面してすっかりうちのめされています。気の毒に、神経がまいっちまったのです。私もできるだけのことはして慰めたのですが、なにしろショックがあまりにも大きすぎるので」
「最近マルトレイヴァーズ氏を診察されたことは、おありですか?」
「いや、まるっきりありません」
「なんですと?」
「マルトレイヴァーズ氏はクリスチャン・サイエンティスト(病気に対して精神治療をおこなうキリスト教の一派)だとか、とにかくそれに類したかただと聞いておりましたんでね」
「でも、検死はなさったんでしょう?」
「いたしました。園丁が呼びに来ましたから」
「で、死因は、はっきりしていたんですね?」
「絶対たしかです。唇に血がついていましたが、出血の大部分が内出血であることは間違いありません」
「死体は、発見された場所に、そのまま横たわっていましたか?」
「そうです、誰も手を触れてはいませんでした。死体は小さな植え込みのはしに横たわっていました。カラスを射っていたところらしく、かたわらに、カラス射ちの小ライフル銃が落ちていました。内出血は、突発的におこったに違いありません。どうみても胃潰瘍でしょうな」
「射たれたという疑いはないのですね?」
「とんでもない」
「失礼しました」ポワロは謙虚にいった。「ですが私の記憶に誤まりがなければ、最近のある殺人事件で、医師が初めは、心臓麻痺と診断したものの――その後、警官が頭に貫通銃創のあることを指摘したので、前言をひるがえしたということがありましたが」
「誰が見てもマルトレイヴァーズ氏の死体には、弾創は一つも発見できますまい」バーナード医師はそっけなく言った。「さて、みなさん、ほかにご用がないのでしたら――」
僕たちは気を利かした。
「いろいろと質問に答えてくださってありがとうございました、先生。死体解剖の必要はございませんでしょうね?」
「むろんありません」医師は、卒倒せんばかりだった。「死因は明瞭です。したがって私の職業がら、故人の近親者をいまさら不当に苦しめる必要は認めません」
そういって医師は、背を向けて、我々の顔前でドアをピシャリとしめてしまった。
「バーナード医師なる人物をどう思うね、ヘイスティングズ?」荘園のほうへ歩きながらポワロはたずねた。
「いうなれば、もうろく爺いだね」
「まったくだ。君の性格判断は、つねに深遠だな」
僕はむずがゆくなって、ポワロを盗み見たが、彼はまじめそのものだった。とはいうものの、目をパチクリさせて、いたずらっぼくつけ加えた。
「換言すれば、美しい女性が対象にあらざる場合はだよ」
僕は冷やかにポワロを見返した。
二人が、荘園の邸に到着すると、中年の小間使いがドアをあけてくれた。ポワロは自分の名刺と、保険会社からマルトレイヴァーズ夫人にあてた手紙を渡した。小間使いはちいさな居間に僕らを案内して、夫人にとりつぐべく引きさがって行った。十分ほどすると、ドアがあいて、未亡人の喪服をつけた、すらりとした姿態の婦人が、しきいぎわに現われた。
「ポワロさんですか?」夫人は、ためらいがちに言った。
「奥さま!」ポワロはうやうやしく立ちあがって、夫人のほうにはせよった。
「おとりこみのさいちゅうに突然おじゃましてお詫びの言葉もございません。なにせ仕事は仕事で進めねばなりませんので」
マルトレイヴァーズ夫人は、ポワロに寄り添われて椅子にかけた。その日は泣きはらして、まっかだった。しかし、一時的に取り乱したにせよ、そのずばぬけた美貌は、隠しようもなかった。年の頃二十七、八、つぶらな青い目で、いくぶんとがり気味の愛らしい口もとをした、すばらしい美人である。
「夫の保険について何かございましたのね? でも、いまうかがわなくてはなりませんかしら――こんなに早く?」
「奥様、元気をお出しになってください、元気を! なくなられたご主人はかなり高額な生命保険をおかけでした。ですから、こういう場合、保険会社としては、いつも得心のゆくまで二、三の細かい点を調べなければならないのです。会社側は、その点の調査を私に委任しました。私も自分の権限の及ぶかぎりは、この事件で奥さまにあまり不愉快な思いをおかけしないようにいたします。その点はご安心なさってください。さて、水曜日のあのいたましい出来事をかんたんにお話しねがえませんでしょうか?」
「お茶の時間なので着換えをしておりましたら、女中がやって参りました――なんでも園丁の一人がたったいま邸にかけつけてきて、主人の――」
夫人の声はしだいにかすれて行った。ポワロは相手の気持ちをくむように、その手を押えた。
「わかります。わかります! で、昼すぎにはご主人をごらんでしたね?」
「いえ、昼食後は見かけません。わたくし切手を買いに村のほうへまいりました。主人はきっと庭のなかをぶらついていたのだと思いますわ」
「カラス射ちにですか?」
「はい、主人はいつも、カラス射ちの小さなライフル銃を持っておりました。そのときも遠くで銃声が一、二発鳴ったのを耳にしました」
「その銃は今どこにございますか?」
「ホールにあると思います」
彼女は部屋を出てホールへ案内して行った。そして銃を見つけるとポワロに手渡した。彼はそれを、ひとわたり調べた。
「二発撃ってありますね」夫人の手に銃を返しながらポワロは言った。「ところで奥さま、もしおさしつかえなければ――」
彼は言いにくそうに言葉を切った。
「召使いに、ご案内させましょう」夫人は顔をそむけてつぶやくように言った。
小間使いが呼ばれて、ポワロを二階へ案内して行った。僕はこの美しい、不幸な女性と二人きりにされてしまった。何か話したものか、それとも口をつぐんでいたものか、判断に窮して、二、三のあたりさわりのない話もしてみたが、彼女はうわの空で答えるだけだった。二、三分たってから、ポワロはもどって来た。
「ご親切にいろいろありがとうございました、奥さま。この件については、これ以上ご迷惑をおかけすることはあるまいと思います。ところで、ご主人の財政状態について何かご存知のことがございましょうか?」
彼女は首を振った。
「いえ、いっこうに存じません。その方面のことについては、わたくし、ひどくうといものですから」
「なるほど。それではご主人がなぜ、ああして突然、生命保険におはいりになったのか、思いあたることでもございませんでしょうか? 以前にはたしか保険におはいりになっていなかったはずですが」
「ええ、わたくしたち結婚してからまだ一年そこそこにしかなりません。ですが、主人が生命保険にはいりました理由は、自分の命が長くないと、本気で思い込んでしまったからですわ。主人は自分が死ぬことについて、強い予感を抱いておりました。まえに一度、出血したことがありますので、二度目の出血が起これば、命取りになることを自覚していたのだろうと思います。こんな悲観的な恐怖は、なんとかわたくしも捨てさせようと努力いたしましたが、でも、主人の予感のとおりになってしまいました!」
目に涙をうかべながら、夫人は気品のある別れの挨拶を述べた。僕らが通路を下りて行くと、ポワロは彼独特の身ぶりをした。
「|eh bien《エー・ビアン》〔さて〕これでよしと! ロンドンへ帰ろう、君。どうやらこの鼠穴には、鼠はいなそうだよ。だが、それにしても――」
「それにしても、なんだい?」
「ちとくいちがいがある、それだけのことさ! 君は気がついたかね? 気がつかないって? もっとも人生そのものがくいちがいに満ちてはいるがね。たしかにあの男が自殺できたはずはない――口の中が血でいっぱいになるような毒薬なんて、あるもんじゃない。いやいや、すべては明白で公明正大だという事実を認めねばなるまいて――ところであれは誰だろう?」
長身の青年が、ドライブウェイを僕らのほうにむかって大股に歩いてくるところだった。青年はそしらぬ顔で僕らとすれちがった。が、僕はその青年が、熱帯地方で生活したことを物語る、青銅色の顔をした、やせた、非常に健康そうな男であることを認めた。落葉を掃き集めていた園丁が一人、仕事の手を休めていたので、ポワロはいそいでそばにかけつけた。
「あの紳士はどなたなのか教えてくれないか? 君は知っている?」
「名前は思い出せませんが、聞いたことはございます。この前の週に、一晩ここへお泊まりになりました。たしか、火曜日でした」
「いそぐんだ、君、あとをつけよう」
僕らは遠ざかり行く青年の姿を追って車道をいそいだ。家の横手のテラスに、喪服をまとった人影がちらりと見えた。獲物の姿が視界からそれたので、二人はさらにあとを追った。こうして、僕らは、あの二人の会合の目撃者になってしまった。マルトレイヴァーズ夫人は、立っている場所からよろけそうになった。顔は著しく蒼白になっている。
「あなた」彼女は、あえいだ。「あなたは船に――東アフリカへ行く途上だとばかり思っておりましたのに?」
「弁護士からニュースを聞いたので、出発しなかったのです」青年は説明した。「スコットランドにいる伯父貴が、突然亡くなって、僕にもいくらか遺産を残してくれました。で、こういう場合、旅行は見合わせたほうがいいだろうと考えたのです。それにまた、新聞でこちらのご不幸を知りましたので、なにか僕にもできるお手伝いはないかと思って、お伺いしたわけですよ、後かたづけをする人手が、きっと要るのではないかと思いまして」
そのとき、両人は僕らのいることに気がついた。ポワロは進み出て、実はステッキをホールに忘れてきたのだと、お詫びかたがた釈明した。あまり気が進まないようすで――と僕の目には映ったのだが、マルトレイヴァーズ夫人は、やむなく青年をわれわれに紹介した。
「ポワロさんですわ、こちらはブラック大尉」
数分間、とりとめのない話をかわすうちに、ポワロは、ブラック大尉がアンカー・インに宿泊している事実を引き出した。忘れたはずのステッキはもちろん見あたらなかった。が驚くにはあたらない。ポワロは陳弁これつとめてから、二人は退出した。
僕らは、大急ぎで村にとってかえして、ポワロはアンカー・インに直行した。
「さて、ここで大尉殿が帰るまで、みこしを据えるとしよう」
そう言ってからポワロは説明した。
「さきほど私は次の列車でロンドンに帰ることを力説したが、それは君も気がついたろう? おそらく私の言わんとしたことの意味はわかっただろうね。それにしても――マルトレイヴァーズ夫人が、あのブラック青年を見たときの顔色に気がついたかね? 明らかに彼女はとりみだしたし、彼のほうは――|eh bien《エー・ビアン》〔そうさね〕献身そのものだったよ、そう思わんかね? ところで彼は、火曜日の晩――つまりマルトレイヴァーズ氏の死ぬ前日にここに泊まっていた。ヘイスティングズ、私たちはブラック大尉の行動も調査せにゃならんよ」
三十分ほどたったころ、僕らは獲物が宿屋に近づいてくる姿を見つけた。ポワロは外に出て彼に話しかけ、すぐさま予約しておいた部屋につれてきた。
「私たちが、ここまでやってきた任務のことをブラック大尉にお話ししてたんだ」ポワロは説明した。
「で、大尉さん《ムッシュー・ル・カピテーン》、このことはご了解いただけると思いますが、私は、マルトレイヴァーズ氏の死亡直前の精神状態をつかみたいのです。さりとて、つらい質問の矢を浴びせて、不当にマルトレイヴァーズ夫人を苦しめたくもない。ところであなたは事件の直前に、マルトレイヴァーズ邸にいらしたそうなので、なにか参考になることをお話しいただけるだろうと思いますが」
「むろん、できるかぎりお役に立ちたいと思います。しかし、かくべつかわったことには何も気がつきません。マルトレイヴァーズ氏は、僕の家族の古くからの知り合いでしたが、僕自身はあまりよく存じあげないのです」
「いつおこしになりましたこちらへ?」
「火曜日の午後です。私の乗る船が十二時頃ティルベリーを出航するので、ロンドンヘは水曜日の朝早く行きました。ですが、あるニュースを聞いたので予定を変更しました。おそらく私がマルトレイヴァーズ夫人に説明していたのをお聞きになったと思いますが」
「たしか、東アフリカにもどられるところだったとか」
「そうです。世界大戦以来ずっと行ってないもんですから――広い土地です」
「いかにもね。ところで火曜日の晩餐のさいの話はどんな内容でしたか?」
「ふむ、よく覚えていません。ありきたりの世間話でした。マルトレイヴァーズ氏が、僕の家族の安否をたずね、そのあとでドイツの賠償問題を論じ合いました。それから夫人が東アフリカについていろいろと質問したので、僕が一席ぶちました。そんなところでしたが」
「ありがとう」
ポワロは、ちょっと口をつぐんでいたが、それからものやわらかに言った。
「おさしつかえなければ、ちょっとした実験をやってみたいのです。今あなたは、ご自分の意識が知っていることを全部お話しなさったが、こんどはあなたの潜在意識に質問させていただきたい」
「精神分析というやつですか?」ブラックは、驚きの色を示した。
「いやいや」ポワロは安心させるように言った。
「こういうことなんです。私があなたに一つの言葉をいうと、あなたが別の言葉で答えてくださる。とまあこんなぐあいです。どんな言葉でも、最初に頭に浮かんだものでけっこうです。では始めましょうか?」
「どうぞ」ブラックはゆっくりと答えたが、不安そうな顔つきだった。
「言葉を記録してくれないか、ヘイスティングズ」ポワロはそう言って、ポケットから大きな時計をとり出し、かたわらのテーブルの上に置いた。
「始めます。昼」一瞬、間をおいてから、ブラックが答えた。
「夜」
問答が進んで行くと、彼の答えはしだいに早くなった。
「名前」
「場所」
「バーナード」
「ショー」
「火曜日」
「晩餐」
「旅行」
「船」
「地方」
「ウガンダ」
「話」
「ライオン」
「カラス射ちライフル」
「農園」
「射撃」
「自殺」
「象」
「牙」
「かね」
「弁護士」
「どうもありがとう。ブラック大尉、では三十分以内にまたちょっとお時間をいただけますね?」
「どうぞ」若い将校はけげんそうにポワロをながめて、腰をあげながらひたいをぬぐった。
「さてと、ヘイスティングズ」
背後でドアがしまると、ポワロは笑顔を向けた。
「わかったかね、それともわからんかね?」
「君のいう意味がわからないが」
「この単語のリストから得るところはないかね?」
僕はそれを丹念に検討してみたが、頭を振らざるをえなかった。
「それでは助け船を出そう。まず第一に、ブラックは、正常なタイム内で、すらすらと答えた。したがって彼は、隠さねばならぬようなやましい覚えはない、ということがわかる。『昼』に対して『夜』、『名前』に対して『場所』。これらは順当な連想といえる。ところで次の『バーナード』で、私は反応をためしたんだ。もし彼がちょっとでもバーナード医師に会っていれば、例の田舎医者を連想させたかもしれないのだ。だが明らかに彼は会っていなかった。そのあとで『火曜日』という問いに対して『晩餐』と答えたが、しかし『旅行』と『地方』という言葉には『船』と『ウガンダ』と答えた。これは明らかに、海外旅行こそ彼にとっては重要なことであって、この土地に旅行して来たことはそれほどでもない、ということを示している。『話』という言葉は、彼が夕食のときにした『ライオンの話』を連想させた。私が『カラス射ちライフル』とつづけると、まったく予想外な『農園』という言葉で答えたし、『射撃』に対して、即座に『自殺』と応じた。この組み合せは明白だね。つまり彼の知ってる男が、農園のどこかで、カラス射ちライフル銃を使って自殺したということなんだ。それに僕の意識には、まだ晩餐のときに話した物語が残っている、ということも覚えていてもらいたいね。私が再度ブラック大尉を訪問して、彼が、あの火曜日の夜、晩餐の食卓で話した物語をもう一度くり返してくれと頼んだら、私のいうことがそれほど真相からかけ離れてはいないことを、君も認めるだろうよ」
ブラックは、この点については、非常にすなおだった。
「ええ、今、そういわれてみると、あのときそんな話を二人にしゃべりました。アフリカである男が、農場の中で自殺をしたんです。ライフルを自分の口に突っこんで射ったので、弾丸は脳味噌のなかに止まっていました。医者達はひどく診断に苦しんだのです――それというのも唇の上にちょっぴり血がついていただけでしたから。しかしそれが何か?――」
「それが、マルトレイヴァーズ氏と、なにか関係があるのか? とおっしゃるんでしょう。どうやらあなたは、マルトレイヴァーズ氏の死体のかたわらに、カラス射ちライフルがあったことをご存知ないようですな」
「すると僕の話が、彼に暗示をあたえたとおっしゃるんですか?――おお、そんなおそろしいことが!」
「気にすることはありません――いちがいにそうとも言いきれません。さてと、私はロンドンに電話をかけなければならない」
ポワロはながながと電話口で話しこんでから、思案顔でもどって来た。午後になるとポワロは、一人で出かけて行った。そしてようやく七時になったころに、これ以上ぐずぐずしてはおられぬ、今までのニュースをあの若い未亡人に知らせる必要があると言い出した。すでに僕は十二分に未亡人に対して同情を抱いていた。無一文のままあとに残され、しかも夫が自分の将来を保障するために自殺したとわかっては、どんな女性にとっても耐えられぬ重荷だろう。とはいえ、当初の悲しみが過ぎ去れば、あのブラック青年が、夫人のよき慰め手になるかもしれない、そういうひそかな希望を僕は抱いてもみた。青年は明らかに夫人を讃美しきっている。
夫人との会見は、いたましいことだった。彼女はポワロが述べたさまざまの事実を頑として信じなかった。だがついに説得されるや、わっと泣き出してしまった。死体を解剖した結果、僕らの疑惑が事実となって現われたのである。ポワロもこの気の毒な未亡人にはひどく同情していた。しかし結局は、彼も保険会社にやとわれた身となれば、どうすることもできないではないか? いとまを告げる身仕度をしながら、彼はやさしく夫人に言った。
「奥さま、余人はさておき、あなたこそは、この世に死者はいないのだ、ということを悟られるべきですよ」
「それはどういう意味ですの?」夫人は目を大きく見ひらいて、口ごもった。
「いままで、降霊術の会合に参加なさったことはありませんか? あなたは霊媒の素質がございましょう」
「人からそういわれたことはございます。でも、まさかあなたは降霊術をお信じにはなりませんでしょう?」
「奥さま、私はふしぎなものを見たこともございます。この家には幽霊が出ると、村で噂しているのをご存知ですか?」
彼女はうなずいた。そのとき、小間使いが食事の用意ができた旨を告げに来た。
「ちょっとお待ちになって、何か召し上がっていらっしゃいまぜん?」
僕らは、その申し出を喜んで受けた。僕らが同席していれば、必然的に夫人の悲しみも多少なりとも紛れることができようと考えたのである。ちょうどスープが終わったとき、ドアの外で悲鳴が起きて、瀬戸物のこわれる音がした。われわれははっとして腰を浮かした。小間使いが胸に手をあてて、姿を現わした。
「男のかたが――廊下に立っています」
ポワロはいそいでとび出したが、すぐにもどってきた。
「誰もいませんよ」
「そうでございますか?」小間使いは意気地なく言った。「でも、それで私はっとしたんですわ!」
「どうしたわけなんだ?」
小間使いは声をひそめてつぶやいた。
「わたし――わたし、ご主人さまだと思いました――そう見えたんです」
マルトレイヴァーズ夫人がギョッとしたのが僕にわかった。自殺者は成仏《じょうぶつ》できぬという昔からの迷信が僕の頭に浮かんだ。夫人もそのことを思い出したにちがいない。というのは、すぐさま悲鳴をあげてポワロの腕をつかんだからだ。
「聞こえません? あの窓を三度たたく音が? 主人が家の回りを歩くときにいつもあんなふうに窓をたたいたのです」
「ツタですよ、窓ガラスにツタが触れたんですよ」と僕は叫んだ。
しかし、恐怖の影がしだいにみなに迫ってきた。小間使いはすっかり取り乱していた。食事がすんだとき、マルトレイヴァーズ夫人は、ポワロに向かって、どうかがこのまますぐに帰らないでくれと、哀願するありさまだった。彼女は一人きりで残されることを、明らかに恐れている。僕らは小さな居間で腰をおろした。風が激しくなって家の周囲で異様なうなり声をあげていた。部屋のドアのかけがねが二度までもはずれて、ドアが音もなくひらいた。そのつど、夫人は恐怖にかられて、僕にしがみついた。
「ああ、このドアまでが、魔法にかかったらしい!」とうとうポワロは、腹を立てた。そして立ち上がり、もう一度それを閉めてから、錠前の鍵を回した。「鍵をかけてやろう、そら!」
「そうなさらないで」夫人はあえいだ。「万一それが今、あいたら――」
彼女がまさにそう言ったとき、不可能なことが起こった。鍵をかけたドアがゆっくりとあいたのだ。僕のすわっている場所からは、廊下を見とおせなかった。が、夫人とポワロの位置は廊下に向かい合っている。彼女は、長い金切り声を上げて、ポワロのほうに身をよじった。
「主人を見まして?――廊下のあそこに」彼女はさけんだ。
ポワロは、とまどった顔で彼女をじっと見おろしてから、ゆっくりと頭を振った。
「あたくし、見ましたわ――主人を――あなたもごらんになったはずです」
「奥さま、私は何も見ません。奥さまはどうかなすってらっしゃる――気が顛倒なさって」
「いいえ、あたくし、完全に正気ですわ――ああ、神さま!」
そのとき突然、予告もなしに明りがちかちかしたかと思うと、消えてしまった。暗闇のなかから、窓をたたく大きな音が三回響いた。マルトレイヴァーズ夫人のうめき声がきこえた。
そして――僕も見た!
二階のベッドで見たあの男が、われわれと向かい合って、かすかに幽霊のような光をただよわしながら立っているではないか。くちびるには血がついている。男は右手を上げて、指さした。と突然強い光が、指さきから発したようだった。その光はポワロと僕の上を素通りしてマルトレイヴァーズ夫人の上に落ちた。恐怖にひきつった彼女の蒼白な顔と、そして、さらに『ある』ものが僕の目に映った!
「たいへんだ、ポワロ! 夫人の手を見たまえ、右手だ。まっかだよ!」
夫人の目が、自分の右手に落ちるや、へなへなと床の上にくずおれてしまった。
「血だわ」彼女はヒステリックに叫んだ。「そう、血だわ。あたしが殺した。あたしがやったんです。夫がそういうかっこうをしてみせたので、あたしが引き金の上に手をかけて引いたんです――あの人から助けてください――助けて! 化けてきたわ!」
彼女の声は、しだいにちいさくなって、のどがゴロゴロ鳴った。
「あかりを」ポワロが元気よく言った。すると魔法のように、あかりがついた。
「こういうわけさ、聞いたかい、ヘイスティングズ? それにエヴァレット君も? ああそうそう、こちらはエヴァレット君、劇団の一流メンバーだよ。今日の午後、私はこの人に電話したんだ。メイキャップは大したもんだろう? マルトレイヴァーズ氏と、瓜ふたつの扮装をして、小さな懐中電灯と燐光を使って、適切な印象を与えてくれたんだ。それから、ヘイスティングズ、私が君なら彼女の右手には触れないよ。赤ペンキで、ああなっているんだ。あかりが消えたとき、私は彼女の右手を、ぐっと握ったのは君も気がついたろう? ところで、汽車に乗りおくれちゃいかん。ジャップ警部が、窓の外にいる。ついてない晩だったね――しかし折にふれて窓をたたいていたからこそ、ジャップはああして時間をかせぐことができたんだよ」
「ちょっとした手ぬかりがあったんだ」風雨をついて、二人が勇ましく歩いて行くと、ポワロはまた話し出した。「医師は、故人がクリスチャン・サイエンティストだったと考えていたようだったね。そんな印象を医師に与えることのできた人物は、マルトレイヴァーズ夫人以外に、あると思うかね? ところが、私たちに対しては、夫が自分の健康状態について、きわめて憂慮すべき予感を抱いていたかのごとく、彼女は説明した。それにまた、あのブラック青年がふたたび姿を見せたとき、どうして彼女は、あんなに驚いたのか? 最後にもう一つ、夫の喪に服する場合、妻たるものは、それ相応の装いをしなければならぬという世間のしきたりのあることは、私も知ってはいるが、まぶたをあんなに毒々しく赤く染めるというのは好かんね! 君は気がつかなかったかい、ヘイスティングズ? 気がつかないって? 毎度のことだが、君は明きめくらだ!
まあ、そうなると、二つの可能性が考えられる。すなわち、ブラック青年の話が、マルトレイヴァーズ氏に自殺の巧妙な方法を暗示したのか、それとももう一人の聞き手である夫人が、同じように巧妙な殺人の手段を思いついたのか? 私はどららかというと、後者の意見に傾いた。ああいうやりかたで自分を射つためには、マルトレイヴァーズ氏は、おそらく足の指で引金を引かねばならなかったはずだよ。すくなくとも、私はそう思うね。そこでもしマルトレイヴァーズ氏の死体が、片方の靴を脱いだままで発見されていれば、私たちはまずまちがいなく、そのことを誰かから聞いたはずだ。こういう奇妙な点があれば、忘れられるはずがないもの。で、さっきも言ったように、私はこの事件は殺人であって自殺ではないという見解に傾いたのさ。ところが、この見解を裏づける証拠の片鱗すらないことを思い知らされた。そこで、細工はりゅうりゅう、ちょっとした喜劇を今夜、演じてみせたというしだいだ」
「まだ僕にはこの犯罪の全貌がよくわからないんだが」
「そもそものはじめっから、考えてみよう。いいかい、ここに抜け目のない狡猾《こうかつ》な女がいるんだ。彼女は夫が破産にひんしていることを知って、単に財産目当てに結婚した年上の夫に、うんざりしてしまった。そこで彼女は、多額の生命保険に夫を加入させて、それから自分の目的を達成するための方法を捜した。ふとしたことでそれが見つかる――青年将校の奇談がそれさ。翌日の午後、大尉どのはすでに航海中だと思いこんで、彼女は夫と一緒に庭を散歩する。『昨晩のお話、なんて奇妙なんでしょう!』そう夫に話しかける。『あんなやり方で、自分を射てるものかしら? できるかどうか、かっこうだけでもやって見せてくださらない?』人のいいマルトレイヴァーズ氏は実演してみせる。銃のはしを口にくわえたのだ。彼女は身をかがめて、指を引き金の上にあて、笑いながら見あげる。『ねえ、あなた』とずうずうしく声をかけ、『もしわたくしが引き金を引いたら?』そう言って――そう言ってだよ、ヘイスティングズ――彼女は引金を引いたんだよ!」
格安アパートの冒険
今まで僕が記録したさまざまな事件においては、それが殺人の場合でも、盗難の場合でも、ポワロの捜査はまずそういった中心の事実から出発して、そこから論理的推理の過程を経て、最後に輝かしい解決へ到達していったものである。ところが、今、僕が記録しようとしているこの事件では、一連の驚くべき状況の連鎖が、はじめはポワロの注意を惹いた一見とるにたりぬ出来事から出発し、最後には、最も異常な事件となって終結したのである。
僕はその夜、旧友のジェラルド・パーカーといっしょに過ごしていた。客と僕のほかにも、ざっと五、六人の者がその場に居合わせた。
話題は、パーカーが同席すれば遅かれ早かれそうなるにきまっているロンドンにおける貸家捜しという題目におちついた。それというのも、住宅やアパートが、パーカーの道楽だったからである。第一次大戦終結以来、彼はすくなくとも半ダースにおよぶさまざまのアパートや小住宅に住んできた。どこかに腰を落ちつけるやいなや、だしぬけに新しい掘り出し物を見つけ出して、カバンや手荷物をもってさっさと出て行くというぐあいなのだ。
パーカーの転居は、まずたいていの場合、彼自身にちょっとした金銭上の利益をもたらした。というのも、パーカーが、なかなか抜け目のない取引の頭脳を持っていたせいであるが、それは、転宅という楽しみに対する純粋な愛情がそうさせるからであって、なにもそのことによって金儲けをしようなどと望んでいたわけではないのだ。
一同は、しばらくのあいだ、専門家に対する初心者の尊敬をもって、彼のいうことに耳を傾けていた。それがすむと今度は僕らの番とばかり、みなでがやがやとおしゃべりをした。そして最後に、夫とともにその場にいた魅力的な小柄な新夫人のロビンスン夫人が座をさらってしまった。夫のロビンスンが、最近パーカーの知り合いになったばかりだから、僕はこの夫妻には初対面だった。
「アパートの話なんですけど、パーカーさん、あなた、わたくしどものちょっとした幸運をお聞きになりまして? わたしたち、アパートを見つけましたの――やっとのことで! モンタギュ荘ですわ」
「ほう」パーカーが言った。「僕の持論ですが、アパートっていうやつはいくらもあるもんですよ――値段しだいでね!」
「そのとおりですわ。でもこれは値段相応ではありませんの。ただみたいに安いんですわ。一年で八十ポンド!」
「しかし――しかし、モンタギュ荘といえば、たしかナイツブリッジのちょうどはずれにあるアパートじゃないんですか? あの大きなきれいなビルディングでしょう。それとも、どこかの貧民窟にある同名のぼろアパートのことなんですか?」
「いえ、ナイツブリッジにあるアパートですわ。だからこそ、すてきなんですわ」
「そりゃすてきですな! 驚くべき奇跡だ! しかしなにかからくりがあるにちがいありませんね。たとえば、そうとうな権利金とか?」
「権利金なしですわ」
「なんですと――おお、誰か僕の頭をおさえてくれ!」パーカーはうめいた。
「ですが、家具を買わされました」ロビンスン夫人がつづけた。
「ああ」パーカーは勇をふるって言った。「やっぱりからくりがあるんだ!」
「五十ポンドでした。それがきれいに据えつけられていますの!」
「もうこんな話はやめましょうや」パーカーが言った。「今の持ち主は、博愛趣味のキ印《じるし》にちがいない」
ロビンスン夫人は、いささか当惑げな面もちだった。彼女の優美な眉のあいだに、かすかにしわがよった。
「妙な話でしょう? まさか、あの――あの部屋にお化けが出るとでもお考えじゃございませんでしょうね?」
「幽霊アパートなんて、聞いたことがないですな」パーカーは、きっぱりと言った。
「そうね」ロビンスン夫人は、釈然としない口ぶりだった。「でも、それについては、私を驚かせるような――そのう、奇妙なことが、いくつかありましたわ」
「たとえば――」と僕はうながした。
「ほほう、わが犯罪専門家の注意を喚起したようですな! ロビンスン夫人、この男にはどうか腹蔵《ふくぞう》なくお話しください。ヘイスティングズは、謎ときの名人なんですよ」
どぎまぎして僕は苦笑した。とはいうものの、そう持ちあげられてみると、まんざら悪い気もしない。
「それほど奇妙なわけでもございませんのよ、ヘイスティングズ大尉。私ども、それまでは、周旋業者のストッサー・アンド・ポール商会を訪ねたことはございませんの。あそこは、間代の高いメイフェア荘しか手がけていないからです。でもとにかく行くだけは行ってみようと思いまして訪ねてみました――でも、周旋屋がいうのは、年に四百ポンド、五百ポンドの間代か、さもなければ莫大な権利金を必要とする物件ばかりでした。それで帰ろうとしましたら、八十ポンドのアパートがあることはあるのだがといい出しました。でも、そこへ行っても無駄足になるおそれがある。というのは、その物件は前々から周旋屋の帳簿に載っていてたくさんのお客を紹介してやったから、十中八九は、すでに借りられていると思う――|食いついて《スナップド・アップ》いるだろう、とその事務員が表現しました。ただお客さんたちは面倒くさがって、その結果を店のほうへ連絡してくれないので相かわらず新規のかたを紹介しているが、おそらく借り手のついてしまったアパートへ案内されては、お客さんのほうでもご迷惑でしょう、とまあそんな話でした」
ロビンスン夫人は、一息つくために、そこで言葉を切って、それからまた話しつづけた。
「わたくしたちは周旋屋に礼を言って、おそらく行っても無駄だろうということはよくわかったけど、それでも――ひょっとしたらうまく行くかもしれないから案内してほしいと、そう申し出たんです。で、わたくしたち三人は、タクシーをひろってすぐさまそこへまいりました。結局は行ってみなけりゃわかりませんものね。四号室というのは三階でした。私たちがちょうどエレベーターを待っておりますと、友人のエルシー・ファーガスンが――彼女もアパートを捜してるところでした――階段を駆け下りてくるじゃありませんか。『一度だけは、あなたに先んじたってわけね』そう彼女はいいました。『でも、うまくなかったわ、ふさがってるの』万事休すと思いましたが、でも夫が、ここは非常に安いんだから、もっとたくさん出せないこともない、権利金を出すと言えばきっとうまく行くかもしれないといい出したのです。もちろんそんなことはいやらしいことですし、こうやってお話しするのもお恥ずかしいのですけど、でもアパート捜しがどんなものかは、あなたもご存じでいらっしゃいましょう」
僕は住宅難と戦う場合には、人間性のいやしい面が、高尚な面を打ち負かすことがしばしばあるもので、それは自分もよく知っている、生存競争の周知の原則が、それにも適用されるのだと答えて彼女を慰めた。
「そこで、階段をあがって行きましたら、こんなことをほんとうにできましょうか――その部屋は、ちっともふさがってなんかいないんです。女中が部屋をずっと案内して見せてくれました。それからそこの女将《おかみ》という人にも会いまして、話はたちどころにきまりましたわ。すぐさま借りうけること、そして家具に五十ポンド支払うという取り決めです。その翌日、契約書に署名して、いよいよ明日、そのアパートの移ることになってますの!」ロビンスン夫人は、勝ち誇ったように一息ついた。
「それで、ファーガスン夫人のほうはどうなりました?」パーカーがたずねた。「君の推理を聞かしてほしいね、ヘイスティングズ」
「きまってるじゃないか、ワトソン君」僕は気軽にホームズのまねをした。「彼女は見当ちがいの部屋を訪ねたのさ」
「まあ、ヘイスティングズ大尉、あなたって、なんて頭のいいかたでしょう!」ロビンスン夫人は感嘆してそうさけんだ。
僕は、ポワロにこの場面を見せてやりたかった。ときどきポワロは、僕の能力を過少評価するきらいがあるから。
そのときの会合は、どちらかというと楽しいものだった。翌朝、僕はポワロにその話を知恵試しに話してきかせた。彼は興味をそそられたらしく、あちこちのアパートの部屋代のことをこと細かに質問した。
「妙な話だ」とポワロは考えこんだ。「ちょっと失礼、ヘイスティングズ、すこしぶらついてくる必要がある」
一時間ほどして帰宅したとき、ポワロの目は独特の興奮で輝いていた。彼はテーブルの上にステッキをおくと、話し出す前に例によって慎重な手つきで、帽子にブラシをかけてけばを立てた。
「うまいことにだ、君、目下私たちは手があいている。当面の調査に全面的に打ち込めるというものだ」
「なんの調査のことを言ってるの?」
「君のお友だち、ロビンスン夫人の新居の、驚くべき部屋代の安さのことさ」
「ポワロ、本気じゃないだろうね!」
「いや、本気だよ。考えてもみたまえ、君、あの種のアパートのじっさいの部屋代は、三百五十ポンドなんだ。たったいま、地元の管理人から確かめてきたがね。ところがそのへんてこな部屋は、八十ポンドでまた貸しされているのだ! なぜか?」
「なにかまずいことがあるにちがいないよ。ロビンスン夫人がいうように、お化けでも出るんだろう」
ポワロは不満そうに頭をふった。
「それからさらにだ、彼女の友だちが、もうふさがっている、と言ったにもかかわらず、行ってみると、こはいかに、まるっきりそんなことはなかった。これもなんとも妙な話じゃないか!」
「しかしそれは、その女性がちがう部屋に行ったせいだ、という僕の意見には君だってきっと同感だろう。これが唯一の妥当なる解決だよ」
「その点は、君のいうことがあたっているかもしれんし、またそうではないかもしれんよ、ヘイスティングズ。ほかの志望者がわんさと押しかけて、しかも、驚くほどの間代の安さにもかかわらず、ロビンスン夫人が到着したとき、その部屋はまだ借り手を求める状態にあったのだ。この事実は無視できんよ」
「それは、その件について、なにか行き違いがあったにちがいない、ということだろう」
「ロビンスン夫人が、早合点をするような人とも思えないな。じつに妙な話じゃないか、え? 夫人は信用のできる人だという印象を受けたかね、ヘイスティングズ?」
「非常に気持ちのいい人だったよ!」
「|Evidemment《エヴィダマン》(そうだろうとも)! 夫人は、君が私の質問に満足に答えられないようにしちまったくらいだからな。では彼女の風貌を話してくれたまえ」
「そうだな、長身で美貌だ。髪の毛はじつに美しい、とび色がかって――」
「いつも君はとび色の髪には弱いんだな! まあいい、で、それから」
「目は碧《あお》くて、いきいきした顔色で、それから――ま、こんなところだね」僕は支離滅裂に答えた。
「それから夫のほうは?」
「ああ、夫はまったくいいやつだよ――とりたてていうこともないが」
「色は黒いほうかね、白いほうかね?」
「そうだね――まあ中くらいだろうね。ふつうの顔だちだよ」
ポワロはうなずいた。
「そういう並みの男というものは、ざらにいるもんだ。いずれにせよ、君の説明を聞いていると、君は女性のほうに、より多くの共感と高い評価をあたえたようだな。この夫妻についてなにか知っているかね? パーカーはよく知っているんだろうか?」
「たしか、まだ浅いつき合いだと思うよ。しかし、ポワロ、君はよもや――」
「|Tout doucement, mon ami《トゥー・ドウスマン・モナミ》(お静かに、きみ)私が何を口にしたというのかね? 私が言ったのは――これは妙な話だ、ということだけだぜ。しかも、それを解明するめどは皆無ときている。たぶんロビンスン夫人の名前をべつにすればだがね、ヘイスティングズ?」
「彼女の名前はステラだよ」僕はぎごちなく言った。「しかし、それがどうして――」
ポワロが耳ざわりなしのび笑いを洩らしたので、僕の言葉はとぎれてしまった。ポワロにはべらぼうにおもしろいことがあるらしい。
「で、ステラはすなわち星《スター》を意味するんじゃなかったかい? すばらしい!」
「それがいったい――」
「で、星は光明をあたえるとね! |Voila《ヴァラ》(いいかい)! 落ちついてくれよ、ヘイステイングズ。体面を傷つけられたようなふりをしないでもらいたいね。いっしょにモンタギュ荘に行って、二、三、きいてみようや」
僕は喜んで同行した。アパートは、よく手入れの行き届いた、しゃれた建物だった。制服を着たポーターが、入口のところで陽なたぼっこをしていた。ポワロが話しかけた。
「ちょっとうかがうが、ロビンスン夫妻は、ここにお住まいかね?」
ポーターは口が重くて、明らかに気むずかしい、あるいは疑い深い性質の男だった。ろくすっぽ、僕らのほうを見もしないで、彼はぶつくさ答えた。
「四号室、三階」
「ありがとう。いつからここにお住まいか、教えてもらいたいんだが」
「六カ月」
僕はびっくりぎょうてんして前へ乗り出した。ポワロの意地の悪い微笑を意識しながら。
「そんなばかな。君はなにか勘ちがいしてるんだ」僕はそうさけんだ。
「六カ月です」
「たしかかい? 僕が言ってる夫人というのは、背が高くて、赤みがかった金髪の美人で――」
「そのとおりでさあ。ミカエル祭(九月二十九日)に越して来ました。ちょうど六カ月前です」
ポーターは僕らに対して興味を失ったらしく、のろのろとホールへ引っこんで行った。僕は外にいるポワロのあとを追った。
「|Eh bien《エー・ビヤン》(どうだい) ヘイスティングズ?」わが友は、意地悪くきいた。「これでも気持ちのいいご婦人というものは、いつも真実を語るものだという確信があるかね?」
僕は答えなかった。
これから何をするつもりなのか、どこへ行くのかと僕がたずねる前に、ポワロはさっさとブロントン・ロードめざして歩いていた。
「周旋屋へ行くんだよ。私はモンタギュ荘にぜひ二部屋借り受けたいのだ。私の見込みに誤まりなければ、遠からずしてあそこでおもしろい事件がいくつか発生するだろうよ」
幸運にも空き部屋があった。五階の八号室が家具つきで週十ギニーだった。ポワロは即座に一カ月借りることにした。そしてふたたび通りに出るや、僕の抗議を封じた。
「当節は私だって金くらい工面するさ! 私だって気まぐれにふけっていけないわけもあるまい? ところでヘイスティングズ、拳銃を持ってるかね?」
「あるよ――どこかに」いささかスリルをおぼえて、僕は答えた。「すると君は――」
「それが必要になると考えているのかね? ってわけかね。どうやらそうらしいんだ。お気に召したらしいね。毎度のことだが、はでで、ロマンチックなことが君のお気に召すんだな」
その翌日、僕らは仮りの住まいに移転した。部屋は気持ちよく飾られていた。建物の中における位置は、ロビンスン夫人の部屋と同じだが、それより二階うえにあった。
移転の翌日は土曜日だった。午後になるとポワロは正面のドアをすこしあけたままにした。そして、どこか下のほうからガタンというドアの音が響くや、急いで僕を呼びよせた。
「手すりごしに見てごらん。あれが君の友人たちかね? 見つからんように」
僕は階段ごしに首を伸ばした。
「あれが彼らだ」僕は小声で非文法的な答えをした。
「よし、しばらく待とう」
半時間ほどたった頃、目のさめるような、きらびやかな衣裳をまとった若い女性が姿を現わした。満足の吐息を洩らして、ポワロは忍び足で室内へもどって来た。
「そうなんだ、主人と女主人のつぎは女中の外出ときた。となると目下、部屋はからっぽにちがいない」
「なにをやらかそうというんだい?」
僕は不安になってきいた。
ポワロは小走りに元気よく調理付属室にはいると、石炭昇降器のロープをたぐりよせた。
「これから塵埃《じんあい》処理の要領で下へ降りようというのさ」彼はうれしそうに説明した。「だれも私たちには気がつくまい。日曜音楽会、日曜の午後の外出、そして英国の日曜の――ロースト・ビーフの食事のあとのうたたね――こうしたことがすべて、エルキュール・ポワロの行動から彼らの注意をそらせるのだ。きたまえ、君」
ポワロはお粗末な木製の装置に乗りこんだ。僕も慎重にそのあとにつづいた。
「これから部屋に押しこむのかい?」僕はあやしんでそう言った。
ポワロの返事は、あまり安心のできるものではなかった。
「きょうのところは、そうじゃないよ」
ロープをたぐりながら、二人はゆっくりと三階までおりて行った。ポワロは調理付属室へ通じる木製のドアがあいているのを目にするや、満足の歓声をあげた。
「どうだい? どの階の調理付属室のドアも日中はみんなあけっぱなしなんだよ。私たちがやったように、誰でもその気になればこれを使って、昇降できるんだな。夜もまたしかり――いつもそうとはかぎらんだろうがね――そこで、これに対する対策を講じようというのさ」
そういいながら、ポワロはポケットから道具をとり出して、その場で手ぎわよく仕事にとりかかった。目的はドアのボルトに手を加えて、昇降機の内側からあけられるようにすることだった。作業は三分ほどでこと足りた。それからポワロは、ポケットに道具をしまいこんで、もう一度、僕らの部屋へと昇って行った。
月曜日に、ポワロは終日、外出していた。しかし夕刻になって帰宅するや、満足げな吐息をついて、椅子にどっかと腰をおろした。
「ヘイスティングズ、ちょいとした話を聞かせようかね? 君にうってつけの話でね、その話をすれば、きっと君の好きな映画を思い出すよ」
「話してほしいね」と僕は笑いながら言った。「どうやら、それは実話で、君が苦心してでっちあげた話ではなさそうだ」
「正真正銘の実話だよ。この話の正確度は、警視庁のジャップ警部が保証するだろう。というのは、この話は、警視庁を通して私の耳に届いたものなんでね。六カ月ちょっと前のことだが、アメリカ政府のある省から、海軍の重要書類が盗まれたのだ。その書類は、最重要な軍港の防御施設の配置図だから、外国たとえば日本などにとってみれば、莫大な価値があろうというものだ。嫌疑はその省の下級官吏のルイジ・ヴァルダルノというイタリア生まれの男にかけられたが、その男は、書類の紛失と同時に、姿を消してしまった。ルイジ・ヴァルダルノが犯人であるにせよ、ないにせよ、その二日後に、ニューヨークのイースト・サイドで、射殺された彼の死体が発見されたのだ。書類は見あたらなかった。ところですこし以前から、ルイジは最近世に出た若い歌手のミス・エルザ・ハートとひんぱんに往来していた。彼女はワシントンのアパートに兄といっしょに住んでいるという。
ミス・エルザの素姓はかいもく知られていない。そしてヴァルダルノが死んだ頃、彼女も突如として行方不明になってしまった。彼女は一皮むけば腕っこきの国際スパイで、いままでにさまざまな変名を使って、けしからん仕事をしてきたと信ずべき節《ふし》があるのだ。アメリカの秘密警察は、全力をつくして彼女の跡を追いながらも、いっぽう、ワシントン在住の、さりげない特定の日本の紳士がたを監視していた。警察ではエルザ・ハートが行方をくらましたからには、きっと問題の日本の紳士と連絡をとるだろうと、相当の確信をもってにらんでいるのだ。しかも、その紳士たちの一人が、急に二週間前に、英国へ向けて出発してしまった。したがって、いちおう表面上からみれば、エルザ・ハートは英国にいるということになりそうなんだ」
ポワロはそこで一息入れて、おだやかに言い足した。
「エルザ・ハートの公式の人相書きはつぎのとおりだ。身長、五フィート七インチ、碧《あお》い目、とび色の髪、美貌、ひいでた鼻、とくに目立つような傷跡なし」
「ロビンスン夫人だ」僕はあえいだ。
「いかにも、その見込みはあるんだ、いずれにせよ」ポワロは僕の言葉を修正した。「それにだ、色の浅黒い、どこかの外国人が、ついこの今朝がた、四号室の住人について問い合わせていたということも耳にしたよ。したがって、どうやら君は今晩、安眠することは断念して、私といっしょに階下の部屋で徹夜しなけりゃならんようだよ――君のすばらしい拳銃で武装してね、|bien entendu《ビヤン・ナンタンデュ》(もちろん)!」
「いうにやおよぶだ」僕は意気ごんでさけんだ。「いつから始めるんだい?」
「夜の十二時が、もっともらしくもあるし、かつ適当な時間のようだ。その前には何ごとも起こるまい」
十二時きっかりに、僕らは抜き足さし足、昇降機に忍びこみ、三階までおりて行った。ポワロが操作すると木製のドアはさっと内側にひらいた。二人は室内にはいあがった。それから配膳室を抜けて、台所にはいり、ホールへ通ずるドアを細目にあけたまま、二脚の椅子にのうのうと腰をおろした。
「さて、あとは待つばかりだ」ポワロは満足そうに目をとじた。
僕には待つことがたまらなく長く感じられた。眠るのがこわかったのだ。まるで八時間もそこにいたかのような気がした頃――あとになってわかったのだが、実際にはちょうど一時間と十二分しかたっていなかった――かすかな、引っかくような音が聞こえてきた。ポワロの手が僕の手にさわった。僕は立ちあがり、つれだってそっとホールのほうへ移動して行った。音はそこから聞こえてくるのだ。ポワロは僕の耳もとに口をよせた。
「正面のドアの向こうだよ。錠前を切っている。私が合図するから、そうしたら、やつの背後から襲いかかって、すばやく押さえつけてくれ。気をつけてな、ナイフを持ってるだろうから」
やがてメリメリと音がして、ドアからちいさな光の輪が射してきた。その光はすぐに消えて、ドアがソロソロとあいた。ポワロと僕は、壁に身をよせた。僕らのそばを通りすぎるさいに、その男の呼吸が聞こえた。それから、彼は懐中電灯をつけた。彼がそうするや、ポワロは僕の耳もとで言った。
「|allez《アレ》(それ)」
二人は同時にとびかかった。ポワロはすばやい身のこなしで、侵入者の頭に明るい色のウールのスカーフをまきつけた。いっぽう僕は、そいつの腕を羽交い絞めにした。あっという間に、音もなくすんでしまった。男の手から短剣をもぎとり、僕はポワロが巻きつけたスカーフでさるぐつわをかました。そして拳銃を彼の見えるところに出して、じたばたしても無駄なことを悟らせた。男がもがくのをやめると、ポワロはその耳もとに口をよせて、早口になにごとかをささやいた。一分ほどすると男はこっくりとうなずいた。ポワロは片手を動かして沈黙を命じると、先に立って部屋を出て、階段をおりて行った。捕虜がそのあとにつづき、僕は拳銃を手にして、しんがりをつとめた。外の通りに出ると、ポワロは僕のほうを向いた。
「あの角を曲がったところで、タクシーが客待ちしているんだ。拳銃をわたしたまえ。もうその必要もあるまい」
「しかし、もしこいつが逃げようとしたら?」
ポワロは笑いを浮かべた。
「逃げようとはすまい」
すぐに僕はタクシーを伴なってもどって来た。見知らぬ男の顔からは、スカーフがとりはずされていた。僕は驚きのあまり、ぎょっとした。
「日本人《ジャップ》じゃないぜ」とポワロに声を殺して告げた。
「いつもながら観察は君の長所だね、ヘイスティングズ! 何ものも君の目をくらませない。たしかにこの男は日本人じゃない。彼はイタリア人だよ」
三人はタクシーに乗りこんだ。ポワロがセント・ジョンズ・ウッドの番地を告げた。こうなると僕はまったく五里霧中の状態だった。捕虜の面前で、ポワロに行き先をききたくはなかったので、この場の推移を見きわめようと、僕はいたずらに空しい努力をつづけた。車は道路から奥まったところに建っている小さな邸の玄関で停まった。一人の徒歩旅行者が、ちょっぴりきこしめしているらしく、千鳥足で舗道を歩いてきて、ポワロにすんでのところでぶつかりそうになった。ポワロは何か男に鋭く言ったが、僕には聞きとれなかった。われわれ三人は邸へ通じる階段をあがって行った。ポワロはベルを鳴らして、二人にすこしわきへよるようにと合図した。応《こた》えはなかった。そこでポワロはまたベルを鳴らし、それからノッカーをつかんで、しばらく、がんがん鳴らしつづけた。やがて、入口の上に突然明かりがついて、ドアが用心深く細目にあいた。
「いったい何の用だ?」男の声がつっけんどんにきいた。
「医者に用があるんだ。女房が病気になっちまった」
「ここに医者はおらんよ」
男はドアをしめようとした。しかしポワロは、巧みに片足をすき間につっこんで、怒り狂ったフランス人のふりを完璧に演じてみせた。
「なんだと、医者はおらんだと? きさまを訴えてやるぞ。こいと言ったらくるんだ! ここにすわりこんで一晩中、ベルとノッカーを鳴らしてやらあ」
「まあ君――」医師はドアをもう一度あけた。ドレッシング・ガウンにスリッパというなりで、ポワロをなだめようと、周囲に不安げな視線をなげて、前へ出て来た。
「警察を呼ぶぞ」
そう言ってポワロは、階段をおりかけた。
「いや、頼むからそれはやめてくれ!」医師はポワロのあとを追った。
ポワロが鮮やかに一突きすると、男はよろめいて、階段の下へ倒れてしまった。つぎの瞬間、三人はドアの中にすべりこんで内側からボルトをかってしまった。
「早く――ここへ」ポワロは先に立って、もよりの部屋にはいり、明かりのスイッチをつけた。「それから君は――カーテンのうしろへ」
「|Si signor《シ・シニョール》(はい、わかりました)」イタリア人は、窓を覆っている、バラ色のビロードのひだの背後にすばやく身をすべらせた。
間一髪、というところだった。ちょうど彼が視界から消えたとき、婦人が一人、屋内にかけこんで来た。背の高い赤い髪の女性で、ほっそりしたからだに緋《ひ》のキモノをまとっている。
「夫はどこですの?」彼女はすばやい、おびえたような視線を投げた。「あなたがたはどなた?」ポワロは前に進み出て一礼した。
「ご主人さまが冷たい夜気にあてられるおそれは、まずあるまいと存じます。足にはスリッパをおはきのようにお見受けしましたし、ガウンはなかなか暖かいものですから」
「あなたはどなた? 私の家で何をしているんです?」
「私どもがどちらも、いままで奥さまにお近づきいただいたことがないことはたしかです。なかんずく遺憾なことは、私どものうちの一人が、特にあなたに会うためにニューヨークから参ったことです」
カーテンがわれて、イタリア人が出て来た。彼が僕の拳銃をふり回しているのを見て、僕は髪の毛が逆立つ思いがした。きっとポワロが車中で、うっかり落としたのにちがいない。
婦人は、つんざくような悲鳴をあげて、身をひるがえして逃げようとした。しかしポワロが閉ざされたドアの正面にがんばっている。
「通らせてください」彼女は金切り声で言った。「殺されます」
「ルイジ・ヴァルダルノをばらしたのは、どいつだ?」イタリア人は拳銃をふりまわしながら、しゃがれ声で言って、一人一人に拳銃を擬《ぎ》した。動こうにも動けなかった。
「おいポワロ、こいつはたまらんよ、どうしたらいい?」僕は叫んだ。
「ごしょうだから、ぺちゃくちゃしゃべるのをやめてもらいたいね、ヘイスティングズ。私たちの友人は、私が合図するまでは射たないことを保証するよ」
「あんたが保証するって、え?」イタリア人はうす気味のわるい流し目をつかった。
僕にはとても保証のかぎりではなかった。しかし婦人は死物狂いでポワロのほうへ向いた。
「なにがあなたの望みなんです?」
ポワロは一礼した。
「ミス・エルザ・ハートに、いまさらなにが必要かと申し立てて、あなたの知性を侮辱する必要はあるまいと存じます」
すばやい動作で婦人は、黒いビロード製の大きな猫をかたどった電話機のカバーをひったくった。
「書類はこの裏打ちの中に縫い込んであるわよ」
「賢明ですな」ポワロは感服したようにつぶやいて、ドアのわきに身をよせた。「ご機嫌よう、奥さま、あなたが逃げのびるあいだ、ニューヨークから来たお友だちは私が押さえておきます」
「このばか野郎」大男のイタリア人はそうわめき、拳銃をあげて、逃げて行く夫人の後ろ姿めがけて水平射ちに射った。同時に僕がとびかかった。
しかし拳銃はむなしくカチッと音がしただけだった。ポワロがやんわりと叱責するような口調で言った。
「ヘイスティングズ、君はいつも君の親友を信用しないんだな。私は、自分の友人ですら装填したピストルを携帯するのを好まんのだから、いわんやゆきずりの男にそんなまねを許すはずがあるまい。いやいや、君」最後の言葉はしゃがれ声で毒づいているイタリア人に対してだった。ポワロはおだやかな叱責口調であとをつづけた。
「よく考えてみたまえ。これは君のためを思ってやったことなんだよ。私は君を絞首刑から救ったんだ。そうは言っても、あの美しい女性が逃《ず》らかるだろうなんて考えなさんな。この邸は監視されているのだ、正面も背後も。彼女は警官の腕のなかに、まっすぐとびこんで行ったも同然さ、どうだね、これで気が安まったかね? もちろん、こうなれば君は部屋を退却していいよ。しかし気をつけて――よく気をつけてな。私は――ああ、やつは行ってしまった! そして私の友人のヘイスティングズは、私にとがめるような視線を浴びせている。しかしこれはすべて、単純しごくなことなんだ! モンタギュ荘の四号室に応募した、おそらく数百人にも及ぶ人間のなかから、ロビンスン夫妻だけが、初手からおあつらえむきの人間だと見なされたことは明らかだよ。なぜか? 何がこの夫妻を、ほかの連中の中から選ばせたのか――事実、たった一目見ただけでね。彼らの風采かね? そうかもしれん。しかし、それほど並みはずれた風采というわけではあるまい。しからば、それは彼らの名前ということになる!」
「だけど、ロビンスンという名前には、べつに並みはずれたところはないぜ。まったくありふれた名前だ」
「ああ、まさにそのとおり! それが問題の急所なんだ。エルザ・ハートとその夫だか、兄だか、正体はなんでもいいが、とにかくその同伴者は、ニューヨークからやって来て、ロビンスン夫妻名義で、アパートを借りた。ところが突然彼らは、マフィア団とかカモラ団とか、ルイジ・ヴァルダルノが所属していたにちがいないその種の秘密結社に追跡されていることを知ったのだ。彼らはわかりきった計画を思いついた。追跡者たちが、自分たち夫婦のどちらをも、個人的には面識のないことを明らかに承知していたのだな。そうなるとこれ以上簡単な策はあるまい? 彼らは自分たちの部屋を、とび切り安い間代で提供した。部屋を捜しているロンドンの数千人におよぶ若い夫婦者のなかには、数組のロビンスン夫妻がいないはずはない。要するに時間の問題にすぎない。電話帳でロビンスンという名前を見れば、美しい髪のロビンスン夫人が、おそかれ早かれまずかならずやってくるだろう、ということはわかるさ。さて、そのつぎは何が起こる? 復讐者のご到着さ。その男は夫婦者の名前を知っている。住所を知っている。襲撃する! 万事が終わって復讐が成就する。ミス・エルザ・ハートはもう一度、命からがら逃げ出したというわけさ。ところでヘイスティングズ、君はほんもののロビンスン夫人――あの気持ちのいい誠実な女性を僕に紹介しなくちゃならんよ! 自分たちの部屋に押し込まれたことを知ったら、どんな気がするかね――いそいで引き返さなくてはならん。ああ、あの音はジャップ警部一行の到着だな」
ノッカーでたたく大きな音がした。
「君はどうして、この住所を知っていたの?」ポワロのあとからホールへ向かいながら、僕はきいた。「ははあ、もちろん君はにせのロビンスン夫人が、例のアパートから移ったときに、あとをつけたんだな」
「|A la bonne heure《ア・ラ・ボン・ヌール》(ご名答)ヘイスティングズ。やっと君も自分の灰色の脳細胞を使ったね。さて、ジャップをちょいと驚かせてやろう」
ポワロはそっとドアのボルトをはずして、すき間から猫の頭をつき出すと鋭い声で、「ニャオー」と叫んだ。
スコットランド・ヤードの警部は、もう一人の男とならんで外に立っていたが、思わず飛びあがってしまった。
「なんだ、ポワロさんの、いつもの悪ふざけか!」猫のうしろからポワロの顔がのぞくと、警部はそう言った。「中へ入れてくださいな、君」
「私たちのお友達を無事に怪我もさせずに迎えてくれましたか?」
「ええ、獲物は首尾よく手に入れました。しかし、例のものは持っていません」
「なるほど、それで家宅捜査に来たんですな。私はヘイスティングズと出発するところなんだが、その前に飼い猫の歴史と習性について、ちょっと君に講義しておきたいね」
「いったいぜんたい、あなたはすっかり頭がいかれちまったんですか?」
「猫は」とポワロは熱弁をふるった。「古代エジプトにおいては崇拝の対象であった。黒猫が行く手をさえぎれば、それはいまだに幸運のしるしと見なされておる。この猫は今夜、君の行く手をさえぎったのであるぞ、ジャップ。動物や人間の内臓を語ることは、英国においては、礼儀正しいこととは見なされておらない。さりながら、この猫の内臓はまったく精巧にできておる。それは裏張りのことを指している」
急にうめき声をあげるや、ジャップのとなりにいた男が、ポワロの手から猫をひったくった。
「あ、紹介するのを忘れていた」ジャップが言った。「ポワロさん、こちらは合衆国秘密警察のバート氏です」
アメリカ人の熟練した指先は、自分の捜し求めていたものを感じとっていた。彼は片手をさし出した。一瞬、口をきこうにも言葉が出ないありさまだった。それからバート氏は、やっとの思いでこう言った。
「お目にかかれてうれしいです」
ハンター荘の謎
「どうやら私も、こんどは死なんでもすむらしいよ」ポワロはそうつぶやいた。
流行性感冒の回復期の患者から、こういう楽観的な言葉が洩れたので、僕はご同慶のいたりだった。
僕自身がまずその病気にかかって、おつぎがポワロの番だった。今、ポワロはベッドの上に身を起こし、枕をつっかえにして、頭には毛のショールをすっぽりと巻きつけ、彼の指示にしたがって僕が調合した、どうみても有害無益な薬湯を、ゆっくりとすすっている。そしてその目は、炉棚の上を飾っている、大きさの順序にきちんと配列された薬びんの列を、楽しそうにながめていた。
「まったくだよ」と僕の小柄な友人は話しつづけた。「いま一度、私はよみがえったぞ、悪人どもの恐怖の的、偉大なるエルキュール・ポワロはね。まあ君、考えても見たまえ、私の記事が、社交界ゴシップにちょっぴり出てるんだ。うそじゃないさ! ほら、これだよ。『犯罪者諸君、おおいに稼ぎたまえ! エルキュール・ポワロは――彼はまさにヘラクレスのごとし! ――われらの愛すべき社交界の探偵は、諸君を逮捕《グリップ》することができないのだ。その理由は何か? 彼自身が流感《グリップ》にかかってしまったからである!』」
僕は吹き出した。
「けっこうなことだね、ポワロ。君はまさに社会的な名士になりつつあるわけだ。それに運のいいことに、病気中も、君が食指を動かすような興味ある事件を逃さないですんだしね」
「そのとおりだよ。やむを得ず手放してしまった事件も二、三あるが、それほど惜しいようなものでもなかった」
そのとき、下宿のおかみがドアから顔を出した。
「階下に男のかたが見えておりますよ。ムッシュー・ポワロか、さもなければ大尉さんにぜひお会いしたいって。お見かけしたところ、ひどくお急ぎのようで――でもりっぱな殿方ですわ――お名刺をいただきました」
おかみは名刺を僕に手渡した。
「ロジャー・ハヴァリング氏」と僕は読みあげた。
ポワロが書棚のほうへ頭を動かしたので、僕は言われるままに『紳士録』を取りだした。それを僕の手から受けとると、ポワロは性急にページをめくった。
「五代目ウィンザー男爵の次男。一九一三年、ウィリアム・クラッブの四女、ゾウと結婚か」
「ふむ!」と僕は言った。「それはフリヴォリティ劇場の舞台に出ていた娘のことじゃないかな――もっともそのときはただのゾウ・キャリスブルックだったけど。なんでも彼女は大戦前に、ロンドンの青年と結婚したとかいう話だったが」
「ヘイスティングズ、君、興味があるなら下に行って、お客さんの用件を伺ってくれないか? 私は失礼するとお伝えしてくれたまえ」
ロジャー・ハヴァリングは四十がらみの、着こなしがうまく、スマートな身なりの男だった。しかし、その顔は憔悴して、明らかに、ひどい心労に悩まされているところらしい。
「ヘイスティングズ大尉ですか? たしか、ムッシュー・ポワロのお友達でしたな。実は今日これからポワロ氏に、ぜひともダービーシャーまで私と同道していただかなくてはならんのです」
「それはちょっと不可能ですね。ポワロは流感にかかって、目下|病臥《びょうが》中です」
ハヴァリングは顔を曇らした。
「こまりましたな。それは私にとってたいへんな打撃です」
「ポワロにご相談なさりたいという用件は、重大なことですか?」
「むろん、そうです! 私の無二の友人でもある叔父が――こともあろうに、昨夜、殺されてしまったのです」
「このロンドンでですか?」
「いや、ダービーシャーなんです。私はロンドンにおりまして、今朝、妻から電報を受けとりました。そこでさっそく、ここにうかがって、ムッシュー・ポワロにこの事件を引き受けてくださるようお願いしようと決心したしだいで」
「ちょっとお待ち願えませんか」
不意に頭にひらめいたものがあったので、僕はそう答えた。階段をかけあがって、手短かに依頼の件をポワロに伝えた。彼は僕の機先を制して先に言った。
「わかったよ。君は自分で行ってみたいんだろう? なにもいかんわけはないさ。君だって今じゃ私の方法ぐらいは承知しているはずだからな。ただひとつ念を押しておくが、毎日かかさずに調査事項を詳しく連絡してもらいたい。そして、私が電報で指示したら、そのとおりに動くんだ」
僕は喜んでその言葉に同意した。
一時間後に、スピードをあげてロンドンから急速に離れて行く、ミドランド鉄道の一等車の中で、僕はハヴァリング氏と向かいあって腰をおろしていた。
「ヘイスティングズ大尉、まず最初に、私たちがこれから行こうとしている、事件発生の場所、ハンター荘のことを頭に入れていただかなくてはなりません。それはダービーシャーの荒地のどまんなかにある、小さな狩猟小舎なのです。私どもの実際の邸はニューマーケットの近くにありまして、初夏の社交期間中はロンドンで、アパートを借りることにしています。その間、ハンター荘は家政婦が管理してくれまして、私どもがときどき、週末を利用して出かけるさいには、諸事万端とりはからってくれるのです。もちろん狩猟シーズン中はニューマーケットの本邸から、召使いを数人つれて参ります。ところで、叔父のハリントン・ペースは(ご存知かもしれませんが、私の母はニューヨークのペース家の出なのです)、この三年間、私どもと同居しておりました。叔父は私の父とも兄とも『うま』が合わなかったのですが、私にいくぶん、放蕩息子の『け』があったのが幸いしてか、かえって叔父は私に愛情をそそいでくれました。もちろん、こちらは金欠病、叔父は金持ち――いいかえれば、つまり、叔父が経費を持ってくれた、というわけです!
しかし、いろいろな点では、口うるさい人でしたが、現実に、いっしょにやっていけないというほどの人柄ではありませんでしたから、私ども三人は、とてもむつまじく暮らしておりました。
二日前のことです。ロンドンで遊び暮らして、すこし疲れをみせた叔父は、一両日ダービーシャーへ骨休めに帰ろうといい出したのです。そこで妻は家政婦のミドルトン夫人に電報を打ち、その日の午後に、三人で別荘へ向かいました。昨日の夕方、私は所用があって、ロンドンヘもどって来ましたが、妻と叔父はあとにのこりました。そして、今朝になって、この電報を受けとったというしだいです」
彼は僕に電報を手渡した。
昨夜ハリントン叔父殺サル」スグカエレ」優秀ナ探偵ヲ同道サレタシ」ゾウ
「すると、あなたもまだくわしいことはご存知ないのですね?」
「そうなんです。おそらく夕刊には載るだろうと思いますが、警察が乗り出していると見てまちがいありますまい」
エルマーズ・デールの小さな駅についたのは三時頃だった。そこから五マイルの道程を自動車でとばして、荒涼たる荒地のどまんなかにある、灰色の小さな石造の建物に到着した。
「淋しい場所ですね」僕はあまりぞっとしない気分だった。
ハヴァリングはうなずいた。
「なんとかして、この別荘はもう願いさげにしますよ。二度とふたたびここに住む気にはなれません」
二人が門の錠をあけて、せまい通路をオーク材のドアに向かって歩いて行くと、顔見知りの人物が、中から姿をあらわして出迎えてくれた。
「ジャップじゃないか!」僕は声をあげた。スコットランド・ヤードの警部は、僕のほうに親しげに微笑をなげてから、連れに声をかけた。
「ハヴァリングさんですね? 私はこの事件を担当するためにロンドンから派遣された者です。おさしつかえなければ一つ二つ、うかがいたいことがあるのですが」
「妻は――」
「奥さまにはすでにお目にかかりました――家政婦も同様です。お手間はとらせません。私もここで調べるべきことは一応すませましたので、村のほうへ帰りたいのです」
「ですが、今のところ私はいっこうに――」
「ごもっともです」ジャップはなだめるように言った。「しかし、それはそれとして、二、三の謎の点について、ご意見をうかがいたいのです。このヘイスティングズ大尉は私と知り合いですが、大尉に邸へご足労ねがって、あなたの到着を知らせてもらいましょう。ところで大尉、ポワロさんはどうなさいました?」
「流感にやられて、寝こんでます」
「そうですか。それはどうもご愁傷さまで。あの人ぬきで、あなた一人じゃ、まるで馬のつかない馬車みたいですな?」
この聞きずてのならぬ冗談をあとにして、僕はドアに向かった。ジャップがドアを閉めておいたので、僕はベルを鳴らした。やがて、黒い服を着た中年の婦人がドアをあけた。
「ハヴァリング氏はまもなく到着されますよ」と僕は説明した。「警部がいま引き留めておられるんだ。僕はこの事件を調査するために、ハヴァリング氏とロンドンから同行して来たものです。昨夜のできごとを簡単に話してくれませんか?」
「どうぞお入り下さい」
そう言って彼女は僕の背後でドアをしめた。ホールのあかりはうすぐらかった。
「昨晩、お食事がすみましたあとで、男のかたが一人お見えになりました。ペースさまにお会いしたいとおっしゃいましたが、言葉つきから見て、ぺースさまのアメリカのお知り合いだろうと思いまして、銃器室にお通ししました。それからぺースさまにその旨を申しあげました。そのかたはご自分の名前をおっしゃいませんでしたが、もちろん今から考えますと、すこしおかしいような気がいたします。ぺースさまはどうも合点がいかぬようにお見受けしましたが、それでも奥様に、『ゾウ、ちょっとごめんよ、何の用なのか、その男に会ってみよう』とおっしゃって、銃器室へ行かれました。私は台所にもどりましたが、まもなく、大きな声が聞こえました。まるでお二人で口論でもなさっているような気配です。私がホールに出てまいりますと、ちょうど奥さまもおいでになりました。そのときでございます。銃声が響いたかと思うと、しーんと物音ひとつしなくなりました。奥さまと私が銃器室のドアに駆けつけましたが、鍵がかかっていますので、窓のほうへまわらなければなりませんでした。ところが、窓はあけっぱなしで、室内にはぺースさまが、射たれて、血まみれになって倒れておいでなのです」
「その男はどうしました?」
「私どもが駆けつける前に、きっと窓から逃げてしまったのだと思います」
「で、それから?」
「奥さまのお言いつけで、私が警察を呼びにまいりました。徒歩で五マイルの道のりです。警察のかたがたをつれてここにもどってまいりました。お巡りさんが一人、一晩中ここにいてくれましたが、今朝になって、ロンドンから警部さんが到着されました」
「ペースさんに面会を申し込んだ男はどんな風采でした?」
家政婦が考えこんだ。
「黒いあごひげをはやしてまして、年の頃はそう、中年くらい、明るい色のオーバーを着ておりました。アメリカ人のような話しかたをしたということ以外には、とくに気のつくようなこともございません」
「なるほど。それではハヴァリング夫人にはお目にかかれるかな」
「二階にいらっしゃいます。お伝えしてまいりましょうか?」
「そう願いたいね。ご主人はジャップ警部といっしょにそとにいるが、ロンドンからご主人と同行して来た男が、至急お話ししたがっているとお伝えしてください」
「かしこまりました」
僕は事件の全貌をつかみたくて、じりじりしていた。ジャップ警部は二、三時間、僕を出しぬいているが、それでも、こちとらに先を越されまいとする警部の懸念から察すると、まんざら追いつけないこともなさそうである。ハヴァリング夫人は手間どらせなかった。二、三分すると、階段をおりてくる軽い足音がした。顔をあげると、目の覚めるように美しい女性が僕のほうへ歩いてくる。炎色のジャンパーを着ていたが、それが彼女のか細い少年のような姿態をひきたたせていた。黒い髪の上には、炎色の革帽子がのっている。目前の悲劇をもってしても、彼女の個性の輝きを曇らすことはできないと見える。
僕は自己紹介した。彼女は承知しているというふうにうなずいた。
「むろん、あなたと、それからお友だちのムッシュー・ポワロのおうわさはしょっちゅううかがっておりますわ。お二人でいろいろとすばらしいお仕事をなさったということじゃありませんの、そうでしょう? あなたにこんなに手まわしよくお越しねがうなんて、うちの主人も隅におけませんわ。ところで何か質問がおありとか? こんどの恐ろしい事件について、必要なことをすべて知っていただくには、それがいちばん、手っとり早い方法ですわ」
「恐縮です、ハヴァリング夫人。それではうかがいますが、例の男が訪れて来たのは何時でした?」
「たしか、九時になるころでした。夕食をおえて、わたしと叔父が食後のコーヒーとタバコでくつろいでいるところでした」
「ご主人はすでにロンドンへ出発されたあとですね?」
「さようです。六時十五分の汽車でたちました」
「駅までは自動車ですか、それともお歩きで?」
「私どもの車はここに持って来ておりません。エルマーズ・デールのガレージから車を一台、汽車に間に合うように来てもらいまして、それに乗ってまいりました」
「ペースさんは平常のとおりでしたか?」
「まったくいつものとおりでしたわ。どこから見ても変わったところはありませんでした」
「それでは、その訪問者の人相をご説明ねがえますか?」
「それはできませんの。わたし、その男には会っていませんもの。家政婦のミセス・ミドルトンが、そのまま銃器室へ案内して、そのあとで、叔父のところに取りつぎましたから」
「叔父上は何とおっしゃいました?」
「叔父はちょっと困惑したようでしたが、すぐに会いに行きました。五分ほどしてから、激昂《げっこう》した二人の声が聞こえてきました。わたしはホールに駆けつけましたが、あやうく、ミセス・ミドルトンと鉢合わせするところでした。そのとき銃声が響いたのです。銃器室のドアは内側から鍵がかかっていましたので、わたしたちは家の右手をまわって窓のところに行かなければなりませんでした。もちろん、それですこし手間どったため、犯人はまんまと、姿をくらますことができたのです。かわいそうな叔父は――」と彼女は口ごもった――「頭を射ちぬかれていました。一目見るや、わたしにはすぐに叔父が死んでいるのがわかりました。そこで、ミセス・ミドルトンを警察へ行かせました。私は気をつけて現場に手を触れぬように、そっくり発見したときの状態のままにしておくようにいたしました」
僕は賛成のしるしにうなずいてみせた。
「で、兇器についてはどうです?」
「ええ、そのことについては、あたし推理いたしましたのよ、ヘイスティングズ大尉さん。主人の連発拳銃《リヴォルヴァ》が二つ、壁にかけてありましたが、そのうちの一つがなくなっているのです。そのことを教えましたら、警察は残っていたほうを持ち帰りました。弾丸が摘出されれば、警察で確かなことがわかるだろうと思いますが」
「銃器室を拝見させていただけますか?」
「どうぞご遠慮なく。警察の捜査は終わりましたから、死体はございませんけど」
夫人は犯行の現場に案内してくれた。時を同じくして、ハヴァリングがホールヘはいって来た。夫人は口早に言いわけして、夫のもとへ駆けよって行った。そこで僕は一人きりで調査に着手することになった。
調査の結果は期待はずれだったことをここで述べておこう。推理小説の中だと、手がかりにはこと欠かないものだが、現実に捜査してみると、なにもかもありふれたものばかり、目をひくものといえば、敷物の上の血痕があるだけだった。
僕は綿密にくまなく調査して、所持してきた小型カメラで部屋の写真を二枚とった。窓の外の地面も調べてみたが、みなの足跡でめちゃめちゃに荒らされてしまったもようなので、これと取りくむのは時間の浪費だと見切りをつけた。
これで、僕はハンター荘の要所々々は全部見たことになる。エルマーズ・デールに引き返して、ジャップ警部と連絡をとる必要があるので、僕はハヴァリング夫妻に別れを告げて、駅から僕らを乗せて来た自動車に乗って出発した。
ジャップはマトロック・アームズ館にいた。彼はすぐに死体を見せに僕を連れて行った。ハリントン・ペースは小柄のやせた男で、きれいにひげをそっていた。一見したところ、典型的なアメリカ人だった。後頭部を射ぬかれていたが、拳銃は至近距離から発射されている。
「ちょっと横をむいたすきに」とジャップが説明した。「相手の男が拳銃を壁からはずして射ったのですな。ハヴァリング夫人が渡してくれた拳銃にも全部|装填《そうてん》してありましたから、もう一つのほうも装填してあったのでしょう。まったくおかしなことをするもんだな。装填した拳銃を二丁、壁に飾っておくとは!」
「この事件については、どうお考えです?」
気の滅入るような部屋をあとにしながら、僕はきいた。
「私は最初、ハヴァリングという男に目をつけました。というのはですね」僕が驚きの声を発したのに気がついて、「ハヴァリングは過去に二、三、暗い影をしょってるのです。彼がオックスフォードの学生のころに、父親の振り出した小切手のうちの一枚の署名について、何か思わしくないトラブルがあったのです。もちろん、一切合財もみ消されてしまいましたがね。それから、目下かなりの借金でふうふう言ってますが、その借金たるや、叔父貴に打ち明けて、助けてもらえるような性質のものではないのです。そういうわけで、叔父が死ねば、彼に有利な遺書が残されるだろうくらいのことは、容易に察しがつきます。私は彼に眼をつけましたね。彼が妻に会う前に、私が尋問したかった理由はそれなんです。しかし夫婦の陳述は、ぴったり符合する。私は駅に行ってみたが、彼が六時十五分の列車で発ったこともまちがいない。その列車は十時半頃、ロンドンに到着する。彼の言によると、それからまっすぐクラブへ行ったとのことですが、もしこれが裏づけられれば――彼が黒ひげを生やして、当地で自分の叔父を射殺したとは考えられぬことになります!」
「それもそうですね。ところで、あの黒いあごひげのことをどう解釈するか、それをうかがいたかったのですが?」
警部はまばたきをした。
「あのひげは、おそろしく早く伸びたもんです――エルマーズ・デールからハンター荘に行く五マイルの間に伸びたわけです。私が今までに会ったアメリカ人は、たいていきれいにかみそりを当てていましたな。もちろん、われわれとしては、ペース氏のアメリカ人関係の交際範囲の中に犯人を追求しなくてはならんでしょう。私は最初に家政婦を、ついで夫人を尋問しましたが、二人の話は完全に一致しました。ただし残念なことには、ハヴァリング夫人が例の男を見ていない。あのひとは頭のきれる婦人ですから、もし会ってさえいれば、何か手がかりになるようなことに気づいたかもしれませんが」
そのあとで、僕は腰をおろして、ポワロにあてて、長文の報告をつづったが、その手紙を投函する前に、さらに各種の情報を書き加えることができた。
弾丸は摘出され、その結果、警察に保管されている拳銃と同じ種類ものから発射されたことが判明したのだ。さらに問題の夜のハヴァリング氏の行動も、調査と裏づけの結果、実際に、例の汽車に乗ってロンドンに到着したことには、疑問の余地のないことが立証された。そして第三には、耳目をそばだてるような新事態が発生したことである。ロンドン郊外のイーリングに住む一紳士が、今朝、地方鉄道の停車場に向かって、ヘイヴン・グリーンを横断したさいに、柵のあいだに茶色の紙包みが押し込んであるのに気がついた。そこで明けてみると、中から一丁の拳銃が出てきたので、それを地方警察署に届け出たが、その日のうちに、その拳銃こそわれわれが捜索していたもので、ハヴァリング夫人が警察に渡したものと対のものであることが判明したのである。
こうしたことを、僕は報告書に追記した。翌朝、朝食をとっている最中に、ポワロからの電報が届いた。
モトヨリ黒ヒゲノ男ハ、ハヴァリングニアラズ。君カ、ジャップシカ考エヌ思イツキナリ。家政婦ノ人相ト、今朝ノ彼女ノ服装ヲ電報デ知ラセヨ。ハヴァリング夫人ニツイテモ同様。現場写真ヲトッタリシテ、時間ヲ浪費スルナカレ。アノ写真ハ露出不足ニシテ、非芸術的
ポワロの電文は必要以上におどけているとしか思えない。おそらく僕が現場にいて思うぞんぶんに事件を捜査しているのが、少々ねたましいのだろう。二人の女性の服装の詳細を知らせろなどとは、噴飯《ふんぱん》ものであるが、それでも素人の僕としては、およぶかぎりの手をつくして、彼のいうとおりにした。
十一時にポワロからの返電が到着した。
手オクレニナラヌウチニ、ジャップ警部ニ家政婦ヲ逮捕スルヨウ伝達スベシ
僕はあっけにとられて、ものも言えぬままに、電報をジャップに渡した。彼は声をひそめてぼやいた。
「ポワロさんは天才ですからな! あの人がそういうからには、何かわけがあるんでしょう。私もあの女にはほとんど注意を向けなかった。すぐに逮捕していいものかどうか、どうも決心がつきかねますが、とにかく彼女を監視しましょう。二人で行って、もう一度会ってみようじゃありませんか」
しかし、時すでに遅かった。しとやかな中年のミドルトン夫人、一見したところ、あれほど常識的でりっぱな女性が、かき消すように姿をくらましてしまったのだ。
行李が一つ残されているだけで、中身は日常の衣類にすぎなかった。それだけでは、彼女の身許や立ち回り先を調べる手がかりにはならない。
ハヴァリング夫人から、われわれはできるかぎりいろいろの事情を聞き出した。
「三週間ほど前、それまでの家政婦のエメリー夫人が辞めましたときに、あのひとを雇い入れました。有名なマウント・ストリートのセルボーン周旋屋からの紹介でしたわ。私どもでは、使用人は全部あの店から雇い入れることにしております。店からは五、六人の女を紹介してよこしましたが、あのミドルトン夫人がいちばんみてくれもよく、身許証明も確かでした。わたしは彼女を雇い入れることをその場で決めて、その旨《むね》を周旋屋に通告しました。しとやかで申しぶんのない家政婦でしたわ」
どうみても謎は深まるばかりである。拳銃が発射されたときに、彼女はハヴァリング夫人といっしょにホールにいたのだから、彼女自身が犯行をおかしたことはありえないが、そうは言っても、この殺人になんらかの関係があることは、まずまちがいない。それでなければ、突然、姿をくらましたわけがわからないではないか?
僕はその後の経過をポワロに打電して、これからロンドンに帰って、セルボーン周旋屋に当たってみるつもりだと言ってやった。間髪を入れずにポワロからの返電が届いた。
周旋屋ノ調査ハ無用。ソノ女ノコトハ夢ニモ知ルマイ。女が初メテハンター荘ニ到着シタトキニ、イカナル乗物ヲ利用シテ来タカ、ソノ点ヲツキトメヨ
狐につままれたような気がしたが、僕は命じられたままに動いた。エルマーズ・デールの交通機関というのは、たかがしれている。村のガレージにはおんぼろフォードが二台、それに駅馬車が二台あるきりだ。しかし、問題の日には、いずれの乗物も利用されていなかった。ハヴァリング夫人に質問したところ、ミセス・ミドルトンにはダービーシャーまでの旅費を支給しておいたとの由だった。ハンター荘までなら、ハイヤーなり馬車なりを利用するのに充分な金額である。二台のフォードのうちの一台は、いつも客待ちのために、駅前に駐車していることになっている。したがって、その点を考え合わせると、黒ひげの男にせよ余人にせよ、兇行の晩に駅で目撃された見なれぬ人間は、一人もいないということになる。
そうなると、どう考えても、犯人は現場まで自動車で乗りつけ、逃走するさいの助けになるように待機させ、そして、その同じ自動車が、謎に包まれた家政婦を、新しい場所へ運んで行った、という結論になる。
ロンドンの周旋屋への照会は、ポワロの予言を裏づけることになった。ミドルトン夫人なる女性は、その店の記録には一度も載ったことがなかった。ハヴァリング夫人から申し込みを受けたので、店のほうからは、何人かの候補者を差しむけた。しかし、夫人が契約手数料を店に送って来たときには、いったいどの女を採用したのか、その点に言及するのを落としていた、というしだいなのである。
多少しょげて、僕はロンドンに引きあげた。ポワロは、けばけばしい絹のガウンをまとって、暖炉のそばの安楽椅子でくつろいでいた。彼は嬉しそうに僕に会釈した。
「|Mon ami《モナミ》(わが友)ヘイスティングズ君! 無事でなによりだった。まったく君の顔を見ないと淋しくってね! ところで、仕事はおもしろかったかね! ジャップといっしょにうろちょろしてたんだろう? 思うぞんぶんに、聞き込みと調査をやったかね?」
「ポワロ」と僕は大声を出した。「この事件はかいもく謎につつまれている。迷宮入りになるぜ」
「たしかに、私たち自身が、事件解決の光栄をになうことはできんよ」
「そうじゃないよ。固くてなかなか割れないくるみのような事件だというんだよ」
「ああ、そういう意味なら、私はくるみ割りの名人だよ! 正真正銘のリスだね! これしきのことでは、私はまいらん。ハリントン・ペース氏を殺した人間なら、私ははっきり知っているんだから」
「知ってるって? どうしてそれをつきとめたの?」
「私の電報に対する君の有益なる返電によって、真相に到達したんだ。ヘイスティングズ、ひとつ理路整然と事実を検討してみようじゃないか。ハリントン・ペース氏は相当な財産の持ち主で、その財産は、彼が死ねばまちがいなく、甥のふところに入ることになっている。これが問題点の第一。彼の甥が、にっちもさっちもいかぬほど財政的に苦しい状況にあることは周知の事実。これが問題点の第二。甥は同じく、そのう――道徳的に、いささかだらしない性格の持ち主と言ったらいいかな――つまり、その点も周知の事実。これが問題点の第三さ」
「しかし、ロジャー・ハヴァリングが、ロンドンヘまっすぐ旅行したことは証明ずみだぜ」
「|Precisement《プレシゼマン》(そのとおり)――ハヴァリング氏は、エルマーズ・デールを六時十五分に出発しているし、ぺース氏は、彼が出発する前には殺されていない。もし、それが事実に反するなら、警察医が死体を解剖したときに、正しい兇行時刻を発見したはずだよ――と、そういうわけで、ハヴァリング氏は叔父を殺さなかった、という結論は正確にひき出すことができる。ただしだ、ここにハヴァリング夫人という人物が残っているんだ、ヘイスティングズ」
「そんなばかな! 拳銃が発射されたときには家政婦が夫人といっしょにいたもの」
「いかにも家政婦がね。だが、彼女は消えちまった」
「見つかるさ」
「私はそうは思わんね。あの家政婦には、妙にえたいの知れないところがあるのだ、そう思わんかね、ヘイスティングズ? 私はすぐに気がついたよ」
「彼女は自分の役割を果たして、それからきわどいせとぎわで、どろんをきめこんだのだと思うな」
「すると、その役割というのは?」
「おそらく、仲間の黒ひげを手引きしたのさ」
「とんでもない。あの女の役目はそんなもんじゃないよ。彼女の役割は、君がいま言ったように、拳銃が発射された瞬間に、ハヴァリング夫人のためにアリバイを提供することなんだ。彼女を発見することは絶対に誰でもできんよ、君。あれは架空の人間だからね! あの偉大なシェイクスピアの言葉をかりれば『そんなお人はありましねえ』というやつさ」
「それはディケンズだよ」僕は微笑を押えきれずに口ごもった。「しかし、それはどういう意味なんだい、ポワロ?」
「ゾウ・ハヴァリングは、結婚前に女優だった。君もジャップも薄暗いホールで、家政婦に会ったきりだ。地味な黒ずくめの服を着た中年の女が、聞きとりにくい声でしゃべっているんだ。それに決定的なことは、君も警部も、家政婦が呼びに行った村の警官も、家政婦と女主人を二人いっしょに同時にいるところを見た者はいないんだな。私の言いたかったのはそれだよ。
頭がきれて度胸もあるあの女にとっては、そんなことはお茶の子さいさい。奥さまを呼んでまいりますと嘘をついて二階にかけあがり、はでなジャンパーと帽子をかぶり、白髪まじりのかつらの下に押し込んでいた黒い毛を外に出す。なれた手でちょっと細工すれば、化粧は落ちてしまうし、紅をほんのりとさしただけで、鈴のような美しい声のゾウ・ハヴァリングが出現するというからくりさ。
誰も特に家政婦をしげしげと見るやつなんかいない。なぜかって? だって家政婦と犯行を結びつけるものなんか何もないからね。それに、家政婦自身、アリバイがある」
「しかし、拳銃はイーリングで発見されたじゃないか? ハヴァリング夫人が、あそこへ持って行けたはずがないよ」
「それはロジャー・ハヴァリングのしわざさ――しかしそれがやつらの失敗なんだ。そのために、私はしっぽをつかんだ。たまたま現場にあった拳銃で殺人を犯した人間なら、その場に投げすてるのがふつうで、ロンドンくんだりまで、身につけて運んだりせんよ。その動機は明々白々、犯人たちは、警察の目を、ダービーシャーからずっと離れた土地へ集中させたかったのだ。やつらは、警察をできるかぎり、ハンター荘の近辺から引き離したかったのだよ。
もちろん、イーリングで発見された拳銃は、ペース氏を射ったものとはべつものだ。ロジャー・ハヴァリングは、その拳銃を一発カラ射ちして、ロンドンへ携帯し、アリバイをつくるために、自分のクラブへ直行した。それから、すばやく、郊外連絡線でイーリングに引き返す。わずか二十分ですむことだからね。そして小包みを例の場所へ置いて、またロンドンへ舞いもどったのだ。
あの魅力的なご婦人、彼の細君は、夕食後に、ペース氏の隙をうかがって射った――彼が背後からやられたことは、君も忘れてはいまい? これももうひとつの重要な点なんだ! ――拳銃に新しく装填して、もとどおりに壁にかけ、そのあとで、例の芝居を必死になって演じたのさ」
「信じられないことだな。それにしても」僕はポワロの推理に魅せられながらも、つぶやいた。
「それにしても、それが真相なんだ。|Bien sure《ビヤン・シュール》(確かに)君、真相なんだよ。しかし、あのごりっぱな夫婦を法廷にひっぱり出すとなると、これは別間題だ。ジャップ警部には詳細を手紙で連絡してやったから――彼としても、極力、手を打たなければなるまいが――しかし、残念ながら、あの夫婦は運命の手に――なんなら|le bon Dieu《ル・ボン・デュー》(神の手に)と言ってもいいが――ゆだねるほかはあるまいね」
「悪人というやつは、緑の月桂樹みたいに栄えるものだね」僕は慨嘆した。
「しかし、つぐないをしなけりゃならんよ、ヘイスティングズ。つぐないは必ずあるもんだ、|Croyez-moi《クロワイエモア》(私を信じたまえ)!」
ポワロの予言は的中した。ジャップは、ポワロの説を真相だと確信はしたものの、ハヴァリング夫妻を有罪判決に持ち込むのに必要な証拠を蒐集できなかった。
ペース氏の莫大な資産は、あげて殺人夫婦の手に帰した。しかしながら、復讐の女神は突如として彼らに襲いかかった。新聞紙上で、パリ行きの飛行機事故で死んだ遭難者たちの中に、ハヴァリング夫妻の名前を発見したとき、僕は正義の裁きがおこなわれたことを知ったのである。
百万ドル公債の盗難
「なんとまあちかごろは公債盗難が多いんだろう!」ある朝のこと、僕は新聞紙をかたわらにほうり出して嘆息した。
「ポワロ、ひとつ探偵商売さらりとやめて、泥棒稼業に転じようじゃないか!」
「君はそのう――なんというんだっけな――そうそう一攫千金を狙おうというのかね、え?」
「こんどの盗難記事を見たまえよ。ロンドン・スコティッシュ銀行からニューヨークヘ向けて送られた百万ドル相当の公債が、オリンピア号の船内で、いともあざやかに消えちまったんだぜ」
「|mal de mer(船酔い)というものがなくて、それに海峡をこえるために数時間以上も、船酔い防止のラヴェルギエの優れた呼吸法を実行するむずかしささえなければ、私は喜んで、ああいう大型の定期船に乗りこむね」ポワロはうっとりとしてつぶやいた。
「ほんとうかい」僕はきおい込んで言った。「定期船のなかには、完璧な宮殿みたいに豪華な船があるはずなんだ。屋内プール、社交室、レストラン、遊歩場――まったく、こんな宮殿が海に浮かんでいるなんて、信じられないくらいだ」
「私だって船に乗ってるから、そのぐらいは知ってるさ」ポワロは悲しそうに言った。「君がいまならべた、そんなくだらぬものには、私は用はないよ。ところがだ、君、犯罪の天才どもが、いわば正体を隠して旅行していることを、ちょっと考えてもみたまえ! いみじくも君が呼んだように、この浮かぶ宮殿に乗りこめば、選りぬきの犯罪世界における|haute noblesse《オート・ノブレス》〔大貴族〕と顔をあわせるにちがいないんだ!」
僕は吹き出してしまった。
「なんだ、お目当てはそっちのほうか! 君は公債をちょろまかした男と一戦をまじえたかったんだろう?」
そのとき、下宿のおかみがはいって来た。
「若いご婦人が、ポワロさん、あなたにお会いしたいそうですよ。これが名刺です」
名刺には「ミス・エスメ・ファーカー」と刷ってある。ポワロはテーブルの下にもぐってパンくずをひろいあげると、それを注意深くくずかごに入れてから、おかみにその女性を招じ入れるように合図した。
やがて、僕がいままで会った女性のなかでもとびきり美しい部類にはいる女性が部屋に姿を現わした。年のころは二十五歳、つぶらな褐色の目で、容姿もすばらしかった。上等の服を着こなして、物腰も非の打ちどころがない。
「どうぞおすわりください、お嬢さん、これは友人のヘイスティングズ大尉で、私の小さな問題をさばく協力者なんです」
「わたくしが今日持ち込んでまいりましたのは、大きな問題じゃないかと思いますの、ポワロさん」腰をおろしながら、僕のほうに愛想よく会釈して、彼女は言った。「おそらく新聞でお読みになったことと存じますが、オリンピア号の公債盗難事件のことなんです」
ポワロの面上になにか驚愕の色が浮かんだにちがいない。彼女は急いであとをつづけた。
「あなたがたはきっと、ロンドン・スコティッシュ銀行のような大会社とわたしがどんな関係があるのか、ご不審にお思いでしょう。見ようによってはなんの関係もございません。でもべつの見かたをすれば、なにからなにまで関係していると申せますの。ポワロさん、わたしフィリップ・リッジウェーさんと婚約をしております」
「はあ、で、フィリップ・リッジウェーさんとおっしゃるかたは――」
「公債が盗まれたさいの責任者ですの。もちろん面と向かってあのひとを非難することはできません。いずれにしても彼の過失ではございませんもの。そうは申しましても、彼はこの事件で半狂乱のありさまです。それにあの人の叔父さんという人が、きっと彼が公債を所持していると不注意に口をすべらせたせいにちがいないと言い張っておりますの。あの人にとって、こんどのことは致命的な出世の妨げですわ」
「叔父さんというのはどなたです?」
「ロンドン・スコティッシュ銀行の共同支配人、ヴォヴァサーさんです」
「ファーカーさん、ひとつ事件の一部始終をお話しねがえましょうか?」
「けっこうですわ。ご承知のように、銀行では、アメリカにおけるクレジットを拡張する方針から、この目的にそって、百万ドルの戦時公債を送ることに決定いたしました。ヴォヴァサーさんはこの任務のために出張する人物として、ご自分の甥を選びました。長年、銀行内部で責任ある地位についておりますし、ニューヨークにおける銀行業務の詳細に精通しているからですわ。オリンピア号は二十三日にリヴァプールから出航しました。公債は当日の朝、銀行の二人の共同支配人、ヴォヴァサーさんとショーさんからフィリップに手わたされました。二人の支配人は、彼の面前で、公債をかぞえ、包みにして密封しました。それから、フィリップはすぐさま自分の旅行鞄の中に入れて鍵をかけました」
「ふつうの錠前のついた旅行鞄ですか?」
「いえ、ショーさんが執拗に主張なさったので、それに合う特製の錠前をハブス商会に作らせて、とりつけたのですわ。フィリップはいま申しあげたように、包みをトランクのいちばん奥に入れました。ところがニューヨークに着く二、三時間前に盗まれてしまったのです。船内をくまなく捜査しましたが、手がかりは皆無。公債は、文字どおり、空中にこつぜんと消えてしまったみたいなんですの」
ポワロは顔をしかめた。
「しかし絶対に消えたのではありませんな。というのは公債の包みは、オリンピア号がドック入りをしてから半時間のうちに、小さな束に分散して売りに出されたと、私は聞いておりますからね! こうなると、つぎの仕事はどうやら私がリッジウェーさんにお目にかかることのようですな」
「わたし『チェシャー・ケーズ』で昼食をごいっしょにしていただきたいと、あなたに申し上げようと思っていたところですわ。フィリップがそこにくるはずですの。わたしと待ち合わせをしたんですけど、この事件でわたしがポワロさんのところにご相談にあがったことはまだ知りませんの」
僕らは、この提案に即刻、同意して、タクシーを走らせた。
フィリップ・リッジウェー氏は、われわれより前に到着していた。自分の婚約者が、まったく見知らぬ二人の男を同道しているのをみて、ちょっとあっけにとられたようだった。長身でスマートな好男子だが、三十をそれほど越しているはずがないのに、額のあたりには、ちらほらと白髪がまじっている。ミス・ファーカーは彼のところへ行って、その腕に手をおいた。
「あなたにご相談しないでこんなことをして、ごめんなさいね、フィリップ。エルキュール・ポワロさんをご紹介しますわ。このかたのおうわさは、あなたもしょっちゅう耳にしていらっしゃるはずよ。それからこちらがお友だちのヘイスティングズ大尉」
リッジウェーはひどく驚いたらしい。
「もちろんお名前はかねがねうかがっております。ポワロさん」彼は握手をかわしながら言った。ですが、エスメが、僕の――僕たちの難問をあなたに相談しようと考えていたとは寝耳に水でした」
「事前に相談したら、あなたが反対するんじゃないかと思ったのよ、フィリップ」ミス・ファーカーがしとやかに言った。
「それで君は大事をとったんだね」彼は微笑を浮かべた。「僕はポワロさんがこのとほうもない謎に光明をあたえてくださることを願うよ。というのは率直に白状するけど、僕は気苦労と不安で気が狂いそうなんだ」
事実、その顔はゆがんで憔悴し、彼が耐えしのんでいる緊張の色だけが、あまりにも鮮やかに現われているだけだった。
「まあまあ、それはそれとして、まず食事をしましょうや」とポワロは言った。「食事をしながら、衆知を集めて、どういう手が打てるか考えてみましょう。リッジウェーさん自身の口から、お話をうかがいたいですね」
一同がすばらしいステーキとプディングに舌つづみを打っているあいだに、フィリップ・リッジウェーは、公債が紛失してしまうまでの状況を物語った。彼の陳述は、どの部分もミス・ファーカーの話と符合した。彼が語り終えると、ポワロが話を引きとって質問をした。
「正確にいうと、なにがきっかけで、公債が盗まれていることを発見されたのですか、リッジウェーさん?」
彼は、いくぶんつらそうに、にが笑いした。
「トランクは目と鼻のところにありました、ポワロさん。見のがすはずがありませんよ。トランクは寝台の下から半分ほど引き出されて、鍵をこじあけようとした周りの部分が、きずだらけになっていました」
「しかし、トランクは鍵を使ってあけられたとか、聞きましたが?」
「そうなんです。やつらはこじあけようとしたが、果たさなかったのです。けっきょく、どうにかして錠前をあけたのにちがいありません」
「奇妙だ」ポワロの目の中に、おなじみの緑色の光がきらめき始めた。
「なんとも奇妙だ! やつらはトランクをこじあけようと、さんざっぱら時間を費やして――そのあげくのはてに――|Sapristi!《サプリスティ》〔畜生〕――鍵ならそのあいだずっと自分たちの手元にあったことに気がついたというのかね――ハブス商会の錠前はどれでもみんな、ただ一つしか造らないというのに」
「ですから、犯人どもが鍵を入手できるはずがないのです。僕は夜も昼も肌身はなさず持っていましたから」
「それは確かですか?」
「誓ってもいいです。それに、もし彼らが鍵か、あるいは合鍵を持っていたのなら、なんの必要があって、一見してこじあけられそうもない錠前をいじくるのに、無駄な時間を費やしたのでしょう?」
「ああ! それはまさしく私たちが直面している問題ですよ! 私はあえて予言しますが、事件の解決は――さきゆき解決をつけたとしての話ですが――この奇妙な事実にかかっているといえますよ。それではもう一つおたずねしますが、怒らないで答えてください。鍵をかけずに鞄を放置することはなかった、という点について、あなたは絶対に確信がありますか?」
フィリップ・リッジウェーはただポワロを見つめただけだった。ポワロは詫びるような身振りをした。
「ああ、そうですか、しかしこうしたことは、起こりがちなものなんです、私は請け合いますがね! よろしい、公債はトランクから盗まれた。犯人は、それをどうしたか? いかなる手をつかって、公債といっしょに上陸できたか?」
「あっ!」リッジウェーがさけんだ。「まったくですね。どうしてなんでしょう。そのしらせは税関当局に連絡されたので、船から上陸した人間は、徹底的に調べられたのです!」
「公債はかなりかさばった包みでしょう」
「そのとおり、かさがありました。ですからあの包みが船内に隠されていたとは、まず考えられない――いずれにせよ、船内にはなかったのです。というのは、オリンピア号が到着してから半時間のうちに、公債が売りに出されてしまったからです。それは、僕が電報を打って公債の番号を通知するかなり前のことです。あるブローカーなどは、盗まれた公債の何枚かをオリンピア号入港の前に買ったとさえ断言しています。しかし、誰にせよ電報で公債を送ることはできません」
「電報ではだめでしょう、しかし索《ひ》き船が舷側に来ましたか?」
「港湾当局の船が一隻だけです。それも警報が発せられて、全員が警戒を始めたあとのことです。僕自身も、索き船に公債が手わたされるのではないかと監視していました。とにかくポワロさん、この謎を考えると、僕は気が狂いそうなんです! 世間では、僕が自分で盗んだんだろうと、いい始めています」
「しかし君だって、上陸のさい身体検査をされたんでしょう、ちがいますか?」ポワロはやさしくたずねた。
「そうなんです」
青年はけげんそうにポワロを見つめた。
「私の言う意味がおわかりにならんようですな」ポワロは謎のような微笑を浮かべた。「さて、私は銀行で二、三の質問をしたいのですがな」
リッジウェーは名刺をとり出して、簡単な走り書きをした。
「これを出せば、叔父がすぐにお会いすると思います」
ポワロは彼に礼を述べ、ミス・ファーカーにわかれを告げてから、スレッドニードル街にあるロンドン・スコティッシュ銀行の本店へ向けて出発した。リッジウェー青年の名刺を出すと、カウンターとデスクがごちゃごちゃと並ぶ間をくぐり抜け、入金係と出金係のわきを通って二階の小さな事務室へ案内された。そこが共同支配人の部屋だった。支配人は銀行商売の年期をへて、髪の白くなった二人の重厚な紳士で、ヴォヴァサー氏は短い口ひげをはやしていたが、ショー氏はきれいにそりあげていた。
「あなたはまったく個人的な調査機関なんでしょうな?」ヴォヴァサー氏が口をきった。「いや、そうでしょうな。いうまでもなく、当行としては、スコットランド・ヤードに事件を委せていますのでな。マクニール警部がこの事件を担当しています。たいへん腕っこきの警官のようです」
「おおせのとおりです」ポワロはいんぎんに答えた。「ですが、甥ごさんの件につきまして、二、三、質問をさせていただきたいのです。例のトランクの錠前のことですが、どなたがハブス商会に注文なさいました?」
「私が自分で注文したが」ショー氏が答えた。「この件については、私はどの行員も信用しなかった。鍵のほうは、リッジウェー君が一つ持ち、ほかの二つはヴォヴァサーと私が保管している」
「すると、鍵に手を触れた行員は誰もいないのですね?」
ショー氏は物問いたげにヴォヴァサー氏をふり返った。
「鍵は二十三日にわれわれが保管した場所に安全にしまわれています。そう言ってもまちがいないでしょう」ヴォヴアサー氏が言った。「わしの同役は不幸にも二週間前から病気になりましてな――ちょうどフィリップが出発した当日からです。彼は回復したばかりのところです」
「重い気管支炎は、私のような年輩の人間にとっては冗談ごとではないからね」ショー氏は残念そうに言った。「私の不在によってヴォヴァサー君の仕事の負担が重くなったのではないかと気になるよ。特にこの予想外の突発事故のためにね」
ポワロはさらに二、三の質問をした。僕の見たところでは、叔父と甥のあいだの親密の度合いが正確にはどれくらいのものか、それをポワロははかりたがっていたようだ。ヴォヴァサー氏の返答はそっけなく固苦しいものだった。甥は信用の厚い銀行職員で、叔父が知っているような、借金も財政的困難もない。過去において同じような任務を託されたこともある。ということで、とうとう僕らは丁重な会釈とともに送り出されてしまった。
「がっかりしたな」二人が通りへ出るやポワロが言った。
「もっと得るところがあると思ったのかい? なにしろ相手があんな固苦しい老人じゃね」
「私ががっかりしたのは、年寄りたちの固苦しさじゃないよ、君。私は、君のお気に入りの小説がいうところの『鷲のような目をした辣腕の金融業者』にお目にかかれるだろうと期待して銀行支配人に会ったわけじゃない。私は事件にがっかりしたのさ――あまりにもあっけない!」
「あっけないって?」
「そうさ。これはまるで児戯に類するような、簡単な事件だということが君にはわからないかね?」
「すると、君は公債を盗んだのが誰だか知っているのかい?」
「知っているともさ」
「だがそんな――僕らは――いったい――」
「そうあわてないで、おちつきたまえ、ヘイスティングズ。今すぐ、どうこうしようというわけじゃない」
「だがなぜだい? 何を君は待っているんだい?」
「オリンピア号をさ。火曜日にはニューヨークから帰ってくるはずだ」
「しかし、公債を盗んだ犯人を知っているなら、なぜ手をこまぬいているんだね。ずらかってしまうかもしれないぜ」
「逃亡犯罪人引き渡し条約のない南洋の島へかい? いやいや、逃げたところでこの犯人は性に合わぬ生活を送らなきゃならん。私がなぜ待つかといえばだ――|eh bien《エー・ビアン》〔つまり〕エルキュール・ポワロの知性にとっては、事件は明々白々たるものではあるが、あまり天賦の才に恵まれない人間――たとえばマクニール警部だが――にとっては、犯行を確認するために、二、三の調査をしたほうがいいだろう、と考えたからさ。天才は常に凡人のことを考慮に入れなくてはならんよ」
「なんとね、ポワロ! いいかい、僕は君がきりきり舞いをするざまが見られるくらいなら、大金を払っても惜しくないやね――たった一度でいいから。まったく君はあきれるほどのうぬぼれ屋だ!」
「そう怒りたもうな、ヘイスティングズ。じっさい、君が私を嫌悪するときが、ままあることを知ってるよ! ああ天才のむくいとはつらいものかな!」
小男が胸を張って、ひょうきんにため息をついたので、僕は思わず吹き出してしまった。
火曜日に、僕とポワロはノースウェスタン鉄道の一等車に乗ってリヴァプールへ急行した。ポワロは、彼の抱く嫌疑ないしは確信なるものを僕に打ちあけることを頑として拒絶した。そして、僕が彼のように事態の真相に到達していないことを、ことさらに驚いてみせて悦に入っていた。僕は論争することをいさぎよしとせず、わざと無関心の城壁をきずいて、その背後に、好奇心を押し殺してしまった。
巨大な大西洋航路の定期船が碇泊する埠頭《ふとう》につくや、ポワロは敏速に行動を開始した。仕事というのは、オリンピア号の四人のボーイに会って、二十三日にニューヨークヘ渡航したポワロの友人について質問することであった。
「年配の紳士で眼鏡をかけているんだ。かなり病弱なため、ほとんど船室から外に出なかったお客さんなんだがね」
その人相風体は、フィリップ・リッジウェーの船室と隣り合ったC二四号室の船客、ヴェントナー氏に符合するらしかった。ポワロがいかにしてヴェントナー氏の存在と、その個人的風貌を推測したのかははかりかねたが、僕はわくわくするような興奮を感じた。
「その紳士は、船がニューヨーク港についたとき、最初に上陸した人たちの一人ですか?」僕は口をはさんだ。
「いえ、ちがいます。いちばんあとで船からお降りになったほうですね」
拍子ぬけがして、僕は引きさがった。ポワロがにやにやしながら僕を見ていた。彼はボーイに礼をいい、紙幣を一枚にぎらせて、二人は引きあげた。
「万事上首尾だったね」僕は熱中していった。「しかし、ボーイの最後の返事は、君の貴重な仮説をひっくり返したにちがいあるまい。にやにや笑うのはご自由だがさ!」
「あいかわらず、君には何もわからないんだね、ヘイスティングズ。あの最後の答えは、逆に、私の理論の要石《かなめいし》だよ」
僕はやけになって、両手をふった。「かってにしやがれ」
ロンドンめざして走っている汽車に乗り込んでから、ポワロは数分間、せわしげになにかしたためていたが、やがてそれを封筒に入れて封をした。
「これはマクニール警部に宛てたものだ。通りすがりにスコットランド・ヤードに置いてこよう。それからランデヴー・レストランに行くんだ。ミス・エスメ・ファーカーを、夕食に招待しておいたからね」
「リッジウェーはどうなんだい?」
「あの男のことかい?」ポワロは目をぱちぱちさせて問い返した。
「君はまさか――いやそんなはずは――」
「どうも君は支離滅裂な考えかたをするくせが昂じてきたね。実際問題として、私はそんなことは考えていないよ。もしリッジウェーが犯人なら――これは完全にありうることだが――事件はひどくおもしろいものになったろうよ。組織的に頭を使う仕事になったろう」
「しかし、ミス・ファーカーにとってはおもしろいとはいえまい」
「おそらく、君のいうとおりだろう。だからなにごとも天の配剤なんだよ。さて、へイスティングズ、二人で事件を再検討してみようじゃないか。そうしたくて君はうずうずしているんだからな。密封された公債の包みはトランクから抜け出して、ミス・ファーカーの言をかりれば、空中に消えてしまったという。しかし、私たちはこの空中消失説を採るわけにはいかない。科学が進歩した現段階では、そんなことは考えられんからね。そうとすれば、どういう手を使うと、そういうふうに見せかけられるか、その点を考えようじゃないか。公債がひそかに陸上げされたとは信じられない、ということは衆目の見るところだが――」
「そのとおりだ。しかし僕たちも知るとおり――」
「君は知っておるかもしれんがね、ヘイスティングズ、私は知らんよ。私はそんなことはどう見てもありえないから、信じない、という見解をとったのだ。その場合、二つの可能性が考えられる。公債は船内に隠されているのか――これも同様にかなり困難なことだが――それとも水中に投げすてられたのか」
「浮きをつけて、ということかね?」
「浮きなしにだよ」
僕は目をまるくした。
「しかしもし公債が水中に投げすてられたとすれば、ニューヨークで売りに出されることは不可能だったろう」
「君の論理的頭脳は見あげたもんだな、ヘイスティングズ。公債はニューヨークで売却された。それ故に水中に投げすてられたのではないとね。そうなるとそれはどういうことを意味するのか、わかっているだろうね?」
「また出発点へ逆もどりじゃないか」
「|Jamais de la vie!《ジャメ・ド・ラ・ヴィ》〔絶対にそんなことはないさ〕小包が水中に投じられて、しかも公債がニューヨークで売却されたからには、それはつまり小包の中に公債がはいっていたはずがないということになるのさ。小包の中身は、たしかに公債だったという証拠がいったいあるかね? いいかい、リッジウェー氏はロンドンで彼の手に小包を託されたときから、いっぺんもあけていないのだぜ」
「そうだね、しかし――」
ポワロはもどかしそうに手をふった。
「まあ私のいうことを聞きなさい。公債が公債としてむき出しのまま最後に目撃されたのは、二十三日の朝、ロンドン・スコティッシュ銀行の事務室の中でだった。そしてそれはオリンピア号入港の半時間後には、ニューヨークに姿を現わしている。それに、ある男――といっても誰も本気にする者はいないのだが――の言によれば、実際にはオリンピア号入港前のことらしいという。そうだとなれば、公債は初めからオリンピア号の船内にはなかったのではないか? そう考える以外には、公債がニューヨークに到着できたという事実を証明できまい? 大西洋航路の記録を保持するジャイガンティック号が、オリンピア号と同じ日にサザンプトンを出航しているのだ。ジャイガンティック号で運ばれた公債は、オリンピア号より一日早くニューヨークに到着したはずだ。そう考えれば、すべては明々白々、事件の謎はひとりでに解けてくるよ。封印された包みは単なる偽装品にすぎない。すり換えをやったときは銀行の事務室の中だったにちがいない。あの場にいた三人のうちの誰にとっても、本物の包みとすり換えるにせ物を用意しておくことは、朝飯前だったろう。こうして公債はニューヨークにいる共謀者のもとへ、オリンピア号が入港しだい売却すべしという指示とともに送られて行った。しかし、いかにも公債が船内で盗まれたという痕跡を偽装するためには、オリンピア号に誰かが乗りこむ必要があった」
「しかし、どういうわけで?」
「もしリッジウェーがちょっと包みをあけてみて、それがにせ物だと気づいたなら、嫌疑は即刻ロンドンに飛ぶからさ。オリンピア号の隣室にいた男は、ちゃんとひと仕事したんだよ。盗難にすぐ注意が向けられるように、わざとらしく鍵をこじあけるふりをして、それから合鍵で実際にトランクの錠をあけ、包みを海中に投げすててから、いちばん最後の客にまじって船を降りたのさ。もちろん、その男は目をかくすために眼鏡をかけ、リッジウェーに会う危険をさけるために、病身をよそおっていた。そしてニューヨークに上陸するや、すぐ次の便船で引き返したのだ」
「しかし誰が――あの中の誰なんだい?」
「合鍵を持った男、錠前を注文した男、郊外の自宅で重い気管支炎にかかって|いなかった男《ヽヽヽヽヽ》――|enfin《アンファン》〔要するに〕堅苦しい老人のショーだよ! 社会的に地位の高い犯罪者というものも、たまにはいるもんだよ、君。ああ、お嬢さん、ここにおりますよ。私は成功しましたぞ! よろしいですかな?」
そう言ってにっこり笑いながらポワロは、あっけにとられている少女の両頬に軽くキスしたのである!(完)
◆「ポワロ参上!」1◆
アガサ・クリスティ/小西宏訳
二〇〇四年十一月二十日