ミス・マープルのご意見は? 4
アガサ・クリスティ/各務三郎訳
目 次
巻尺殺人事件
すばらしいメード
管理人の老女
教会で死んだ男
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巻尺殺人事件
ミス・ポリットはノッカーをつかむと玄関ドアをそっと叩いた。しばらく待ってからもう一度。左わきの包みもかかえなおす。
包みのなかにはスペンロー夫人が新調したグリーンの冬服。まだ仮り縫いがすんでいない。ミス・ポリットが左手にぶらさげているのは黒い絹のバッグで、なかには巻尺、ピンクッション(針山)、大型の裁《た》ちばさみ。
ミス・ポリットは背が高くて、やせている。鼻がとがっていて、口はすぼんでいる。髪は灰白色。
ノッカーで三度目を叩こうとして彼女はまよった。通りを見まわしたとき、早足でやってくる女性の姿が目に入った。
「こんにちは、ミス・ポリット」ミス・ハートネルは、いつもの大声で声をかけてきた。年は五十五歳、日にやけた顔で明るい人なのだ。仕立て屋のミス・ポリットも挨拶した。
「こんにちは、ミス・ハートネル」
その声はかぼそく、がさついたところはまるでなかった。むかし、ある貴婦人のメードをしていたのである。
「あのう、スペンロー夫人はおでかけなんでしょうか?」
「そんなことはないと思うね」とミス・ハートネル。
「それがへんなのです。新しい服の仮り縫いにうかがったのです。午後の三時半というお約束でしたの」
ミス・ハートネルは腕時計を見た。
「そうね、三時半をすこしまわってるわ」
「ええ、三回ノックしたのですけど、返事がありません。それで、スペンローさんは約束を忘れてお出かけになったのか、と考えていたところです。ふだんなら、約束を忘れるような方じゃありません。新しい服をあさって着たい、とおっしゃっていたんですよ」
ミス・ハートネルは門をくぐってやってくると、キングサリ荘の玄関まできた。
「メードのグラディスがいてもいいはずよねえ――ああ、そうか、今日は木曜日だわ――グラディスの休日なの。スペンロー夫人は眠りこんでいるんだわ。あなたの叩きかたじゃ、起きそうもないね」
ミス・ハートネルはノッカーをつかむと、思いきり玄関ドアを叩いた。おまけにドアを手でどんどん叩いた。大声でさけんでみる。
「ちょっと、だれかいないの?」
だれもこたえない。ミス・ポリットはつぶやいた。
「やはり、スペンロー夫人は約束を忘れてお出かけになったんだわ。出なおしてくることにしましよう」
彼女は、小道をたどって門のほうにもどりかけた。
「そりゃないね、出かけちゃいないわ。だったら、あたしが会ってるはずだものね。ちょっと窓からのぞいてみよう。そうすりゃ、生きてるものがいるかどうかわかるから」
ミス・ハートネルは、最後の言葉が冗談だとわからせようと、いつもの明るい声で笑ってみせた。そして、すぐそばの窓から、家のなかをのぞきこんだ――おざなりにのぞいてみただけだったが、それもスペンロー夫妻がふだんは客間を使わないのをよく知っていたためだった。夫妻はたいてい奥の居間を使っていた。
おざなりにのぞいてみただけだったが、ミス・ハートネルは見てしまった。生きていないものを見てしまったのである。彼女は、窓ごしに、暖炉のまえのカーペットに横たわっているスペンロー夫人を発見した――夫人は死んでいた。
あとで、ミス・ハートネルは、そのときの模様をこんなふうに話した。
「そりゃ、なんとかして舞いあがらないよう、自分にいいきかせたわ。ポリットときたら、もう、わけがわからなくなっちまったらしかった。だから、いってやった。『ほら、落ち着くんだよ。あたしはポーク巡査を呼びにいくから、あんたはここに残っといで』あのひと、残りたくないみたいなことをいってたけど、あたしはかまってられなかった。ああいったひとには、きっぱりした態度が必要なんだから。騒ぎたてればすむってものじゃないものねえ。だから、あたしはかけだそうとしたんだけど、ちょうどそのとき、家のかどのところにスペンローさんがやってきてね」
そこで、ミス・ハートネルは、意味ありげに口をつぐんだ。まわりの人たちは、ここぞとばかり、質問をあびせかけた。
「ねえねえ、スペンローさんは、どんなようすだった?」
そこでミス・ハートネルは、しゃべりたかったことを口にすることになる。
「実のところ、すぐになにかあるな、と思ったね。スペンローさんときたら、落ち着きはらっていたからねえ。奥さんが死んだと聞かされても、おどろいたようすはなかったみたい。ほかの人はなんていうか知らないけど、奥さんが死んだと聞かされたら、あわてふためくのが、ふつうじゃないかねえ」
聞いている人たちは、みんなうなずいてみせた。警察も同じ考えだった。スペンロー氏が平然としていたのを怪しんで、すぐさま、夫人が死ぬと、スペンローの立場がどうなるかを調べあげた。
スペンロー氏の商売は夫人が出資してはじめられたこと、また夫人の財産だが、二人が結婚してすぐに作成された遺書によると、全額スペンロー氏が相続することになっていたことなどもわかった。おかげで警察はますますスペンロー氏を怪しく思うようになったのである。
やさしい顔だが、口にとげがあると陰口をいわれる年寄りが牧師館のとなりに住んでいる――それがミス・マープルだ。殺人事件が発見されて三十分とたたないうちに、そのミス・マープルの家をたずねた人物がいた。ポーク巡査だった――彼はもったいぶった手つきで手帳をめくりながら、話をきりだした。
「さしつかえなければ、二、三おたずねしたいのですがね」
「スペンロー夫人が殺された事件のことでしょ?」
ミス・マープルはいった。
ポーク巡査はびっくりした。「いったい、どうしてそのことをごぞんじなんです?」
「魚よ」
その言葉だけで、ポーク巡査には、わけがわかった。魚屋の小僧からきいたにちがいない。ミス・マープルの夕食の魚といっしょに、殺人事件のニュースもとどけたのだ。ミス・マープルは、おちついた口調で話をつづけた。
「客間の床に、首を絞められて倒れていたんですってね――凶器は、たぶんごく細いベルト。とにかく、凶器はみつからなかった」
ポーク巡査はしぶい顔になった。
「あのフレッドめ、なんでそこまで知ってたんだ――」
ミス・マープルは、たくみに口をはさんだ。
「あなたの制服には、留め針が刺してあるわね」
ポーク巡査はおどろいてピンを見た。
「よくいうでしょう――針を見つけたら、ひろっておけ。その日一日、幸運にめぐまれる。ほんとうかもしれませんよ。そう、そう、なにをおききになりたいの?」
ポーク巡査は咳ばらいした。まじめな顔つきになると、手帳をひろげてみた。
「アーサー・スペンロー氏、つまり被害者の夫ですが、こう話しています――午後二時半ごろ、あなたから電話があり、相談したいことがあるから、三時十五分ごろきてもらえまいかという話でした――これにまちがいありませんか?」
「とんでもない」と、ミス・マープルはいった。
「二時半にスペンロー氏に電話なさらなかった、とおっしゃるのですか?」
「二時半にもなにも、電話などしちゃいませんよ」
「へえ!」ポーク巡査は、満足げに口ひげをぺろりとなめた。
「スペンローさんは、ほかにどんなことをおっしゃってました?」
「スペンロー氏の話はこうです――電話をもらったので、たずねてみた。家を出たのは三時十分すぎです。たずねたところ、出たのはメードで、『ミス・マープルはお出かけです』といわれた」
「そこのところはあたっているわ。スペンローさんはお見えになったのだけれど、わたしは婦人会の集りに出かけていたのですよ」
「へえ!」またもや、ポーク巡査は声をあげた。
ミス・マープルはとがめるようにいった。「おまわりさん、あなたはスペンローさんを疑っておいでなの?」
「いまの段階じゃはっきりしたことはいえません。しかし、名ざしはできませんが、何者かがひっかけようとしているようですね」
「スペンローさんだとおっしゃりたいの?」――ミス・マープルは考えこみながらいった。ミス・マープルはスペンロー氏に好感をもっていた。やせた小柄な人物で、話しぶりもかたくるしくて、古くさいところがあった。紳士そのものといってもいい。彼のような人物が田舎に住みつくなんて、似合わない。それまでは、ずっと都会で暮らしてきたのである。
スペンロー氏は、ミス・マープルに、そのわけを打ち明けたことがあった。
「こどものころから、いつの日か田舎に住んで花を育てたいと思っていました。むかしから花々に魅力を感じていたのです。ごぞんじのように、妻は花屋をやっていました。わたしが出会ったのも、その店だったのですよ」
スペンロー氏は、淡々と話したが、かえって二人のロマンスがくっきりと浮かびあがった。若くて愛らしいスペンロー夫人がたくさんの花のなかに立っている姿が見えてくるほどだった。
それでもスペンロー氏は花のことなどほとんど知らなかった。花のタネや球根のこと、剪定《せんてい》や花壇の植付けのこと、一年草と多年草の区別についてなど、考えたこともなかったのである。スペンロー氏の頭のなかには、甘い匂いのする色あざやかな花々が咲きみだれる小さな庭のイメージしかなかった。
彼は、園芸のことならなんでもミス・マープルに相談をもちかけていた。そして、ミス・マープルのこたえを小さな手帳にしきりに書きこんできた。
スペンロー氏はものしずかな人物だった。夫人が殺されたとき、警察が彼に目をつけたのも、そんな性格がわざわいしたのかもしれなかった。警察は、慎重に調査して、殺されたスペンロー夫人について、のこらず洗いあげた――そのことは、たちまちセント・メリー・ミード村じゅうに知れわたった。
殺されたスペンロー夫人が、はじめて勤めにでたのは大きな屋敷で、仲働き、つまり料理女とメード役をしていた。庭師と結婚して勤めをやめると、二人してロンドンで花屋をひらいた。花屋は成功したが、庭師だった夫は病気になり、あっけなく死んでしまった。未亡人になった彼女は、花屋をつづけ、どんどん店をひろげながら、客の人気をあつめていった。
やがて、大金で店を売ると、二度目の人生の旅に出発した――中年の宝石商スペンロー氏と結婚したのである。スペンロー氏は親から小さな店を受けついでいたのだが、商売はあまり繁昌《はんじょう》してはいなかった。結婚後まもなく、スペンロー氏は宝石店を売りはらうと、セント・メリー・ミード村に住みつくようになった。
スペンロー夫人には財産があった。花屋を売った金は投資にまわしていた――彼女は、≪霊のお告げ≫のまま投資していた。その聖霊は夫人に思いがけない利益を与えてくれていたのである。
投資はすべて成功した。なかにはものすごい値上がりをした株もふくまれていた。
そうはいっても、スペンロー夫人は心霊《しんれい》術にのめりこみはしなかった。心霊術師や心霊会に興味をなくしてしまい、かわりに、いろいろな深呼吸法を伝授する怪しげなインド宗教に熱中した。
それもわずかのあいだのことで、夫人はセント・メリー・ミード村に住みつくようになると、むかしのように伝統的なイギリス国教会の信者にもどってしまっていた。牧師館によく顔を出し、教会の礼拝にも熱心に通った。買い物は村の店ときめ、田舎の出来事に興味をしめし、村の人たちとブリッジを楽しんでいた。それが、あっというまに殺されてしまったのだ。
州警察本部長メルチェット大佐は、スラック警部を部屋に呼んだ。
スラック警部は自信家だった。スペンロー夫人殺人事件にも確信をいだいていた。
「犯人は夫のスペンローですよ」
「そう思うかね?」
「まちがいないですね。あの顔を見ただけでじゅうぶんです。ぜったいに有罪です。女房が殺されたというのに、悲しそうな顔ひとつ見せないのです。殺しておいて、なにくわぬ顔で帰宅したんですよ」
「それにしても、悲嘆にくれる夫を演じてみせてもよさそうじゃないか?」
「そんな男じゃないです。内心うれしくてしかたがないんですよ。それに紳士のなかには芝居ができないものがいるものです。堅苦しいところが身にしみついてしまったんですね」
「スペンローには、ほかに女がいるのかね?」メルチェット大佐がたずねた。
「いまのところ、女がいるようすはつかんでいません。なんといっても、スペンローは食えない男です。うまく立ちまわっているのかもしれません。わたしの見るところ、妻君に飽きがきたようです。妻君は金持ちですが、いっしょに暮らすには、なかなかやっかいな女だったようです――いつも、なにかの会合に出かけてばかり。そこで妻君を始末して、のんびり暮らそうと思ったんじゃないですかね」
「なるほど、そうとも考えられるな」
「それにきまってます。じっくりと計画をねったんです。電話があったふりをして――」
メルチェット大佐は口をはさんだ。
「電話がかかってきたという証拠はないのかね?」
「いえ、ありません。あの男が嘘をいったか、あるいは誰かが公衆電話から電話したことになります。村には公衆電話は二つしかありません。ひとつは駅、もうひとつは郵便局です。郵便局からはかけないはずです。ブレード夫人がいつも目を光らせていますからね。駅の公衆電話のほうは可能性があります。二時二十七分に列車が着くと、けっこう混雑します。でも、かんじんなのは、電話をかけてきたのはミス・マープルだった、とスペンローが申したてていることです。それでいて、その事実はなかったんです。ミス・マープルの家から電話をかけた事実はなく、ミス・マープル自身は婦人会に出かけていました」
「スペンローは家からおびき出されたのかもしれない――夫人を殺したかった人物が電話したのかもしれない」
「テッド・ジェラードのことをお考えでしょう? あの青年についても調査しました。テッドには動機がありません。スペンロー夫人を殺しても得になることがなにもないのです」
「しかし、評判は悪いよ。主人の金をごまかして、信用をなくした男じゃないか」
「悪事をはたらかなかった、とはいいませんが、自分から主人に使いこみを白状しています。それも使いこみに気づいてない主人にですよ。ただ、こう考えることはできます――主人に疑われたとかんづいて、先に改心したと見せかけて白状した」.
「きみは、疑いぶかいところがあるね、スラック。ところで、ミス・マープルと会って話をしたかね?」
「ミス・マープルはこの事件にからんでいるんですか?」
「とんでもない。ただ、彼女にはいろいろなことが耳に入る。いちど話をきいたほうがいいね。ミス・マープルは年寄りだが、頭のほうはじつに鋭いからね」
スラック警部は話題をかえようとした。
「ひとつ気づいたことがあるのです。スペンロー夫人の最後の仕事はメードでした――ロバート・アバクロンビー卿の屋敷です。その屋敷は宝石どろぼうに入られたことがあるのです――高価なエメラルドがいくつも盗まれましたが、犯人は逮捕されませんでした。考えてみますと、事件はスペンロー夫人がメードをしていたころに起きています。もっとも、彼女は、そのころ若い娘にすぎませんでしたが。彼女がその事件に関係していたとお考えになりませんか? それにスペンローは、小さな宝石店を経営していました――盗品の売買をする隠れみのにぴったりだと思います」
メルチェット大佐は首をふった。
「その事件はすんでしまっている。夫人はそのころ、スペンローとは知り合っていなかった。わたしはその事件のことはよくおぼえているのでね。
息子が事件にからんでいた、というのが警察の見解でね――ジム・アバクロンビーといって、若いくせにえらく金使いが荒く、借金だらけだった。ところが、宝石盗難事件の直後、息子は借金をぜんぶ返している――ある金持ち女がかわりに支払ったそうだが、真相はわからずじまい――父親のロバート卿が捜査に口ばしをいれて、事件をうやむやにしてしまったのだよ」
「たしかに、そうとも考えられますね」スラック警部はいった。
ミス・マープルは、スラック警部がたずねてきたのをよろこんだ。メルチェット大佐のいいつけで来た、と聞くとひどくよろこんだ。
「メルチェツト大佐は、よく、わたしのことを覚えていてくださったわね」
「あなたのことは、じつによくおぼえています。セント・メリー・ミード村のことなら、あなたにきくのがいちばんだ、といわれました」
「いい方だわ。でも、今度の事件のことはなにも知りませんよ」
「村での噂《うわさ》はおききになっているでしょう?」
「そりゃねえ――でも、ああしたつまらない噂は調査の役に立ちそうもないわね」
スラック警部は、あいそよくいってみせた。
「おたずねしたのは、警官としてじゃないのですよ。あなたのご意見をうかがいたかったのです」
「つまり、こういうことでしょ?――村の人たちの噂が知りたい。その噂がどこまでほんとうなのか?」
「おっしゃるとおりです」
「わかりました。たしかにいろんな噂が流れれているわ。噂は二派にわかれているの。ひとつは夫犯人説ね。とにかく、こうした事件になると、夫にせよ妻にせよ、残されたほうが容疑者にされやすいわね」
「そのようですな」スラック警部は、慎重な口ぶりになる。
「ここは小さな村でしょ。だから、お金のことがいつも話題になるの。金を持っていたのはスペンローの奥さんのほうだから、奥さんが死んで、だんなさんは得をした、という噂が流れるのね。世の中がよくないと、思いやりのない、いいかげんな推測がもっともらしくささやかれるのよ」
「スペンローは金に困っていましたよ」
「そうかもしれないわ。スペンローさんは、奥さんを絞め殺して、裏口からぬけ出して、野原を突っきってわたしの家にくる――わたしから電話があった、といってね。それから自分の家にもどって、留守のあいだに奥さんが殺された、という。犯人が浮浪者かどろぼうだと思わせる計画……たしかに、もっともらしくきこえるわね」
「金のこともありますが、あの夫婦が、このところ仲が悪いとしたら――」
しかし、ミス・マープルはスラック警部をさえぎっていった。
「まあ――あのお二人の仲が悪いなんてことはなかったわ」
「なぜ、ごぞんじなんですか?」
「夫婦げんかなどしたら、あっというまに知れわたってしまうのよ! メードのグラディス・ブレントが村じゅうにふれまわるにきまってますよ」
警部は自信なさそうにいってみる。
「メードは知らなかったかもしれませんよ」
ミス・マープルは、警部をあわれむような微笑をうかべた。
「それから、こんな噂もあるわね。テッド・ジェラード犯人説よ。テッドはハンサムな青年なの。ハンサムだと、うわべだけでよく見られることがあるものね。牧師代理をしているけれど、とても人気があるわ。娘さんたちは、朝も夕方も礼拝の時間になると教会に出かけているわ。年輩の婦人となると、教会の奉仕活動にせいを出すしまつ――スリッパやスカーフをこしらえてはジェラード牧師代理のところに持っていくの。若い男にとっては、ありがためいわくね。おや、なんの話をしてましたっけ? ああ、テッド・ジェラードのことでした。ジェラードもいろいろ噂されています。しじゅう、スペンローの奥さんをたずねている、とね。奥さんの口からうかがった話だと、宗教のことしか話題にならない、まじめに話しあうのですって。わたしは、そうだと信じていますよ。教会の活動に熱心でしたからね」
ミス・マープルはひと息つくと、また話しだした。
「わたしには、ほかになにかあるとは、とうてい思えませんでしたよ。でも、人の口には戸はたてられない、というでしょう。スペンローの奥さんは、若い牧師代理に夢中で、大金まで貸している――たくさんの村人がそう思いこんでいますよ。事件の当日、ジェラード牧師代理が鉄道の駅にいたという話は、たしかにほんとう。二時二十七分の列車に乗ったんですものね。もちろん、乗ったふりをして反対側から降りて構内を通り、柵を乗りこえれば、だれにも顔を見られずにすむわね。そうすれば、だれにも見られずにスペンロー家にいくことができますよ。スペンロー夫人がちょっと変わった服装で殺されていたから、そんな噂が出たんでしょうねえ」
「ちょっと変わった服装といいますと?」
「日本のキモノ姿だったの、ふつうのドレスじゃなかったのよ」
ミス・マープルの顔がすこし赤くなった。
「まあ、そんなわけで、かんぐる人もいるのですよ」
「あなたもそうお考えですか?」
「とんでもない。スペンローの奥さんは、あたりまえの服装をしていた、と思っていますよ」
「あたりまえの服装だとお考えなんですね?」
「あの場合は、といっておきましょう」
ミス・マープルの表情はおちついていて、なにか思いかえしているようだった。
「話をうかがっていると、夫に不利な動機がくわわった感じがしますね――嫉妬《しっと》ですよ」と、スラック警部はいった。
「そんなことはありません。スペンローさんは嫉妬をする人じゃないのです。よく気がつく性格ではありませんよ。奥さんが家出しても、針山《ピンクッション》にさしてある手紙を読んで、はじめて、そうかと気づくような性格なのですよ」
スラック警部は、自分をみつめるミス・マープルの目つきに首をひねった。彼女の話しぶりは、こっちが知らないなにかを伝えたがっているようだぞ。
ミス・マープルは、言葉を強めて話しかけた。
「なにか手がかりをつかみましたか、警部さん?――現場をごらんになりました?」
「いまどき、指紋やタバコの灰を残していくような犯人はいませんでね、ミス・マープル」
「でも、こんどの事件は古いタイプの犯罪のようですよ」
「どういう意味でしょう?」スラック警部はとがった声になった。
ミス・マープルはのんびりした口調でこたえた。
「ポーク巡査から話をお聞きになると、よろしいと思いますよ。犯行現場についた最初の人ですものね」
スペンロー氏はデッキチェアに腰をおろしていた。困りきった顔である。低いけれども、はっきりした声で話しだした。
「ようやく、わたしの立場がわかりかけましたよ。むかしほどではありませんが、耳は聞こえますからね。小さな男の子がうしろからはやしたてるのをはっきりきいてしまいました。『やーい、クリッペン!』とね〔クリッペンは妻殺しで絞首刑になった医師〕つまり、あの男の子は、わたしが愛する妻を殺した、と考えているんでしょう」
ミス・マープルは、しぼんだバラの花をつみとりながら、こたえた。「たしかに、その男の子は、そういいたかったのでしょう」
「しかし、あんな子供がどうしてそう思うようになったんでしょうか?」
ミス・マープルは咳ばらいした。
「おとなたちの話をきいたにちがいないでしょう」
「すると――村の人たちは、そんなふうに考えているということですか?」
「セント・メリー・ミード村の人たちの半分はね」
「しかし、ミス・マープル――なぜ、そんな考えができるのでしょう? わたしは心から妻を愛していました。かわいそうに、妻はわたしほどには田舎の生活になじめませんでした。しかし、夫婦だからといって、なにからなにまで同じ考えなどあり得ません。それに、妻に死なれて、さびしい思いをしているのは、このわたしなのですよ」
「そうでしょうね。でも、いわせていただくと、あなたは悲しんでいるように見えませんね」
スペンロー氏は、細いからだをぴんとのばしてみせると、
「むかし、わたしは中国の賢人の伝記を読んだことがあります。愛する妻を連れ去られたその賢人は、その後も、ふだんと変らず、ドラを鳴らしながら町を歩くのでした。その忍耐づよい態度に、町の人たちは感嘆したのです」
「でも、セント・メリー・ミード村の人たちは、そう考えちゃくれませんよ。中国の賢人の話などなんとも思わないのです」
「しかし、あなたは理解してくださった」
ミス・マープルはうなずいて、話しはじめた。
「ヘンリーという伯父がいましてね。とても自制心の強い人でした。≪感情をおもてに表わすなかれ≫が口癖でしたね。このヘンリー伯父も花が大好きでしたよ」
とたんに、スペンロー氏は身をのりだしてしゃべりだした。
「まえから考えていたのですが、敷地の西につる棚をこしらえるというのはどうでしょう? ピンクのばらか紫の藤をはわせるのです。それに、ほら、白い星形の花……名前が出てこないのですが――」
ミス・マープルは、甥っ子の三歳のこどもにでも話しかけるような口調でいった。
「絵入りのすてきなカタログがありますよ。ごらんに入れましょう――わたしはこれから村まで出かけますからね」
スペンロー氏は、カタログを手にして庭先に腰かけ、うれしそうにながめていた。
ミス・マープルは部屋にもどると、いそいで服を茶色の紙につつむと、急ぎ足で郵便局へむかった。郵便局の二階に仕立て屋のミス・ポリットが住んでいるのだ。ミス・マープルはすぐには二階へ行こうとはしなかった。時間は午後二時三〇分ちょうど。あと一分もすると、隣り町のマッチ・ベナム行きバスが郵便局の前でとまる。
バスが来たとき、局長夫人があわてて小荷物をかかえて外へ出てきた。郵便物のほかの荷物もかかえている。セント・メリー・ミード郵便局では、お菓子とか安い本、おもちゃなども売っており、それは局長夫人の副業となっていた。
四分間、ミス・マープルは郵便局にひとりだけ残されることとなった。
局長夫人がもどってくるのを見て、ミス・マープルは二階へあがっていった。灰色の古いクレープ地の服を流行の服に仕立てなおしてほしい――彼女は、ミス・ポリットに注文したのである。できるだけやってみましょう、といって、ミス・ポリットは引き受けた。
州警察本部長のメルチェット大佐は、ミス・マープルがたずねてきたと知って、おどろいていた。
「ほんとうにごめんなさいね、おいそがしいところをすみませんねえ。いつも親切にしていただいて――うかがったのも、スラック警部よりも、あなたにお話したほうがよいと思ったからですの。ひょっとしてポーク巡査に迷惑がかかっちゃ気の毒だと思いましてね。ほら、現場のものに手を触れちゃいけない、というでしょう?」
メルチェット大佐は、まごつきながらいった。
「ポークですか? セント・メリー・ミード村の巡査でしたな。ポークがなにかやらかしたのですか?」
「現場で留め針をひろって、制服に刺していたのです。気づいたのはわたしだけですが、あれはスペンローさんの家でひろったものにちがいないのですよ」
「わかりました。でも、その留め針がどうかしたのですか? たしかに、ポーク巡査はスペンロー夫人の死体のそばで留め針をひろっています。きのう、スラック警部のもとに出頭して話しています。たしかに、文句をいわれてもしかたがない行為です――現場に手を触れるな、が鉄則ですからね。でも、その留め針がどうかしましたか? どこにでも転っている留め針で、ご婦人がたはどなたも使っているものですが」
「それがちがうのですよ、メルチェット大佐。男のかたには、ふつうの留め針にしか見えないでしょう。でも、ちがうのです。とても細い留め針で、一箱単位で売られているものなのです。仕立て屋しか使わない針なんですよ」
メルチェット大佐は、ミス・マープルの顔をまじまじとみつめた。彼女がなにをいいたいのかわかったのだ。
「ええ、わたしにはすぐにわかりました。スペンロー夫人は、日本のキモノ姿でしたわね。そのかっこうで客間にいたのは、新しい服の仮り縫いのためだったのです。ミス・ポリットは、寸法をはかりましょう、といいながら巻尺で首を絞めました――巻きつけたら、首をぎゅっと絞めるだけ――かんたんですわ。あとは、おもてに出てドアを閉める。そして、来たばかりという顔で、玄関ドアをノックしていればいいのですもの。ただ、留め針を落としたので、彼女が家のなかにいたことがわかってしまったのですよ」
「すると、スペンローを電話で呼び出したのは、ミス・ポリットなんですね」
「ええ、電話をしたのは郵便局からで、時間は二時三十分でした――ちょうどそのころバスが着くので、郵便局にはだれもいなくなるのですよ」
「しかし、ミス・マープル、なぜ、あの女は殺したりしたんです。殺す動機がないんじゃありませんか?」
「考えてみますとね、この事件のもとはずいぶん昔にさかのぼるのです。それで、思いだしたことがあるのです。わたしには二人のいとこがいましてね――アントニーとゴードンというのです。アントニーはやることなすことが、ぜんぶうまくいきました。ところが、ゴードンのほうはかわいそうに、まるでだめ。手に入れた競走馬は骨折、買った株も値がさがり、投資した土地の値もさがる……。あの二人の女性ですが、アントニーとゴードンと同じだったのではないでしょうか」
「どこが同じなんですか?」
「むかし、宝石盗難事件がありましたね。たいそう高価なエメラルドがいくつか盗まれた、ときいております。お屋敷にはメードと仲働きがいました。その後、仲働きは庭師と結婚して、花屋をはじめましたが、その資金がどこから出たのか、だれも知りませんね? こたえは、盗んだ品物の分け前。仲働きはその金をうまく運用して、金はたまる一方でした。ところが、メードのほうは不運つづきで、とうとう仕立て女になってしまいました。やがて、二人はまた会ったのです。はじめのうちはなにごとも起きなかった。しかし、テッド・ジェラード牧師代理が登場してから、おかしくなったのです。スペンローの奥さんは、犯した罪で良心がとがめて、宗教に救いをもとめていました。若い牧師代理はきっと、罪をみとめて、自首することをすすめたんだと思いますよ。スペンローの奥さんは、その気になったんでしょうね。でも、ミス・ポリットには、その気持が理解できません。そんなことをされたら、むかしの罪で刑務所暮らしをすることになってしまう。だから、そんなまねをさせるものか、と思ったのです。ミス・ポリットは、ひねくれ屋でした。お人好しのスペンローさんが、絞首刑になっても、平気な顔をしてるような人ですよ」
メルチェット大佐は、ゆっくりした口調でいった。
「あなたの推理を確かめることはできそうです。ポリットという女がアバクロンビー家のメードをしていたかどうかはすぐにわかります。しかし、それがわかったとしても――」
「あとは簡単ですわ。証拠をつかまれたら、白状してしまうような人です。それにですね――わたしは彼女の巻尺を持っているのです。きのう、彼女の部屋から、ええ――持ち出したのです。服の仕立て直しを頼みにいったのですよ。巻尺がなくなっていること、警察が入手したことなどがわかれば、法律のことは知らないから、もう逃がれられない、と思いこむでしょうね」
ミス・マープルは安心させるようにいい、にこにこしながら、こうつけくわえた。
「めんどうなことは起きませんよ。うけあってもよろしいわ」
ミス・マープルの声は、大佐が陸軍士官学校の入学試験をうけたとき、合格するにきまっている、と安心させてくれた、大好きな伯母の声によく似ていた。おかげで、彼は合格したのだった。
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すばらしいメード
「マダム、お話してもよろしいですか?」
若いメードのエドナは、ミス・マープルにいった。そのとき、エドナは女主人と話しあっていたのだから、その言葉使いは、ちょっとへんだった。ミス・マープルは、ちらっと、そのことが頭に浮かんだが、口には出さなかった。
「かまいませんよ、エドナ。ドアをしめて、こっちにおいで。それで話というのは?」
命じられるままにドアをしめて、進み出たエドナだったが、エプロンのはじを指でつまんだり、大きく息を吸ったり、はいたりしている。
「どんな話だね、エドナ?」ミス・マープルは、うながすようにいった。
「はい、いとこのグラディスのことなんです」
「おや、なにかまずいことをしでかしたのかい?」
グラディスの名前を耳にしたミス・マープルは、すぐに悪い予感がした。
「いえ、ちがうんです、マダム、そんなことじゃありません。グラディスはそんな娘じゃありません。ただ、どうしたらいいかわからないんです。仕事を失ったのです」
「そりゃ気の毒だね。たしか、オールド・ホール荘にいたんだったね。あのアパートにいるスキナー姉妹のメードをしていた?」
「はい、マダム。それでグラディスは困ってしまって……」
「だって、これまでつとめ先をなんどもかわってるんじゃなかったかい?」
「はい、マダム。グラディスときたら、しょっちゅうやめるんです。腰をおちつける気なんかないみたい。でも、それは自分からやめたんです」
「すると、なにかい。こんどは、ご主人からひまを出された、ということかね?」
「はい、マダム。だから、グラディスは気が転倒してしまって……」
ミス・マープルはちょっとおどろいたようだった。グラディスは休日にはときどきエドナを訪ねてきて、台所でお茶を飲んでいく。肥っていて、よくくすくす笑う女の子だが、わりあいしっかりしている……ミス・マープルは、グラディスを頭のなかに描いてみた。
「それが――ミス・スキナーは疑って……」
「ミス・スキナーはなにを疑っているのだね?」ミス・マープルはしんぼう強くたずねた。
エドナは、ようやく、きちんと話しだした。
「グラディスはたいへんなショックでした。だって、ミス・エミリーのブローチがなくなって、大さわぎになったんですもの。それまで、一度もそんなことは起きなかったんですよ……だれだって、そんなことは起きてほしかないですよね。どうしたらいいか、わかりませんよね。
グラディスもブローチさがしを手伝いました。ミス・ラヴィニアが警察に知らせるといいだしたりしたんですけど、ブローチは見つかったんです。それも、鏡台の引出しのいちばん奥につっこんであったんです。グラディスはほっとしました。
そのつぎの日、お皿がわれていました。ミス・ラヴィニアは大さわぎして、グラディスに、ひと月のうちにやめてもらう、といいだしたんです。グラディスは、お皿のせいじゃない、と感じました。お皿は口実で、ほんとうはブローチのせいだと思ったんです。
ブローチを盗んだけど、警察に知らせるといい出したから、そっと返した――スキナー家の人はそう考えている……でも、グラディスは、盗みをするような娘《こ》じゃありません、絶対です。おとしいれられた――あの娘《こ》はそう思っています。若いメードがそんな目に会わされたら、もう、めちゃくちゃでしょ、マダム?」
ミス・マープルはうなずいてみせた。自分かってでうぬぼれたところがあるグラディスには、さほど好意を持っていなかったが、根っからの正直者だと信じていたのである。ミス・マープルは、うろたえる彼女の気持がよくわかった。
「マダムなら、なんとかしていただけるんじゃないか、と思いました。グラディスは、ほんとに困っているんです」
「安心おし、といっておやり。もし、ブローチを盗《と》っていないのなら――わたしはそんな真似をする娘じゃないと信じていますよ――あわてることはありませんからね」
「うわさがひろまりますわ」エドナは暗い表情でいった。
「今日の午後、出かけていって、ミス・スキナーと話しあってみようかね」
「ありがとうございます、マダム」
オールド・ホール荘は、ヴィクトリア朝様式の大きな建物で、まわりは森と猟園《りょうえん》にかこまれていた。そのままでは貸したり売ったりできなかったので、ある投資家が、四階建ての家にセントラル・ヒーティングの設備をつけて、各階を賃貸しすることにした。庭は共同で使うことになった――この計画はみごとに当った。
一階を借りたのは、風変りなところがある老女だった。金持ちの彼女はメードと住みながら、毎日野鳥にえさをやるのを楽しみにしていた。
二階には、引退した判事夫妻が住むことになった。三階には、新婚の若い夫婦。四階には二カ月ほどまえに引っ越してきたスキナー姉妹が住んでいた。
四組の入居者たちには、たがいに共通する点がなかったので、つきあうことがなかった。管理人は、それがありがたい、といっていた。つきあっていて仲たがいが生じると、管理人が文句をいわれるからである。
ミス・マープルは、その人たちとは顔みしりていどだった。スキナー姉妹の姉にあたるミス・ラヴィニアは、ある会社につとめているという話だった。妹のミス・エミリーはからだが弱く、ゆううつ病のためにほとんどベッドから出なかった。セント・メリー・ミード村では、なあに気の病《やまい》さ、とうわさされている。
それでも、姉のミス・ラヴィニアだけは、病気を耐えしのぶ悲運の妹に同情していた。そして、気まぐれをいいだす妹のために、よろこんで村まで使い走りをしてやるのだった。
もし、ミス・エミリーが騒ぎたてる半分でもつらいのなら、とっくにへードック医師を呼んでいる――セント・メリー・ミード村の人たちは、そういいあつていた。ところが、そんなうわさを耳にすると、ミス・エミリーは、ばかにしたように目をつぶり、わたしの病気はもっとやっかいなものよ、とつぶやくのだった――ロンドンの名医でも首をかしげたほどで、とびっきりの名医がとびっきり新しい治療をほどこさないかぎり直らないそうである。
そんな名医の出現を待っているのだから、田舎の医者など、病気の名前さえわかるはずがない、というのである。
ずけずけものをいうミス・ハートネルは、こんな口をきいている。
「あたしにいわせれば、ミス・エミリーはおりこうね。だってへードック先生に往診を頼まないんだから。先生なら、れいのあけすけな口調で、どこも悪くありませんな、起きてもよろしい、ただ騒ぎたてるのだけはやめるんですな、っていうでしょうからね。ほんとは、そうしたほうがからだのためにゃいいんだけどねえ」
しかし、そんな治療をすすめてくれる医者がいないので、ミス・エミリーは、ソファに横になり、まわりに奇妙な丸薬容器をならべて、出された料理以外の料理を食べたがる生活を送っていた。
ミス・マープルを迎えたのはしずんだ顔のグラディスだった。ミス・ラヴィニアは居間にいたが、立ちあがってミス・マープルとあいさつをかわした。その部屋は、まえには客間の一部だった。その客間が仕切りがつけられて、今では居間、食堂、客間、浴室……などになっていた。
ラヴィニア・スキナーは、五十歳くらいの背の高い、やせた女性だった。ぶあいそうな女性で、声もぶあいそうだった。
「こんにちは。エミリーは、ぐあいがよくなくて寝てるんですよ。あれも、お会いできれば元気が出るんだろうがねえ。でも、だれとも会いたくない日があってねえ。かわいそうに、あれもよくがまんしてますよ」
ミス・マープルは、ていねいに受けこたえをした。セント・メリー・ミード村での話題といえば、たいていが召使いのことだった。だから、そちらに話をもっていくのはかんたんだった。気だてのいいグラディス・ホームズがひまをとると耳にしたが……とミス・マープルはいった。
ミス・ラヴィニアはうなずいて、
「来週の水曜日にやめるんですよ。ものをこわされましてね。二度と手に入らない品なんでねえ」
ミス・マープルはため息をつくと、近ごろじゃ、いろいろがまんしなくては、といってみた。こんな田舎ですから、メードがなかなかいませんでねえ。本心から、グラディスにひまを出すおつもりですの?
「たしかにメードはなかなか見つかりませんよ。デヴァルーさんのお宅は、メードのきてがなくってね……それも、あたりまえかもしれないですよ――夫婦げんかはしょっちゅうだし、夜っぴてラジオのジャズをきいている――食事だって不規則です。あの若奥さん、家事はなにもできないそうです。あれじゃ、だんなさんがかわいそうですね。
それから、インド人判事のラーキンスさんですけどね、メードにやめられたばかりです。判事さんがわがまま放題だから、奥さんは、ふりまわされっぱなしよ。あれじゃ、メードもいつくはずがないですよ。カーマイケル夫人のところのジャネットは長つづきしてます――でも、あたしにいわせれば、どうしようもないメードですよ。だって、あのお年よりをばかにしてかかるんですよ」
「グラディスのことを考えなおす気はありませんの? ほんとうに気のいい娘なんです。わたしはあの娘の家族をよく知っていますが、正直で、りっぱな人たちばかりですよ」
ミス・ラヴィニアは首をふった。
「それなりのわけがあるんです」
「ブローチがなくなった件でしょう。わたしは――」
「まあ、だれがいったんです? あの娘《こ》ですね? はっきりいって、あたしは、あの娘《こ》が盗んだと信じていますよ。あとでこわくなって、そっと戻しておいた――もちろん、証拠もなしに、こんなことをいっちゃいけないんでしょうけどねえ」
ミス・ラヴィニアは話題をかえようとしていった。
「エミリーに会ってもらえませんか、ミス・マープル。きっと喜ぶでしょう」
ミス・マープルは、おとなしくミス・ラヴィニアについていった。ノックにこたえる声がして、二人は部屋に入った。
スキナー姉妹が借りている階で、いちばんいい部屋だった。ブラインドが半分降りているので、うす暗い。ミス・エミリーはベッドに横になっていた。なんだか、うす暗がりとわけがわからない病気を楽しんでいるような感じである。
ミス・エミリーは、灰色がかった黄色い髪をぼさぼさにしたままだった。やせているのだが、うす明かりのなかでは顔がはっきりしない。目につく、もじゃもじゃの巻き毛は、できそこないの鳥の巣みたいだった。プライドの高い鳥だったら、けっして見せびらかそうとはしないだろう。部屋には、オーデコロン、かびが生えかけたビスケット、防虫剤のにおいがたちこめている。ミス・エミリーは、うす目をあけて、かぼそい声でいった――今日はとてもぐあいが悪いのよ。
「自分がどれだけ、まわりの人に迷惑をかけているか、わかっています。そう思うことが病気にいちばん悪いのですけれどね。ラヴィニアは、よく世話をしてくれますわ。ねえ、ラヴィニア、悪いんだけど、湯たんぽのお湯をいつものようにしてくれない――多すぎると重苦しいし、少なすぎると、すぐに冷たくなってしまうわ」
「ごめんよ、どれ、わたしてちょうだい。ちょっと、お湯をすててくるわ」
「できることなら、ぜんぶ入れかえてくれない? それから、ラスク・ビスケットがもうないの――いえ、いいの、なくたってかまわないの。うすめの紅茶とレモン一切れがあればいいわ――レモンもないの? まあ、わたし、レモンなしじゃ紅茶が飲めないわ。けさのミルク、ちょっとおかしかったみたい。だから、わたし、紅茶にミルクをいれなかったのよ。でも、いいわ、紅茶など飲まなくってもだいじょうぶ。ただ、気分がよくないだけ。牡蠣《かき》って栄養があるそうね、ちょっと食べてみたいわ。いいえ、いいの。もう時間もおそいから、出かけるのもたいへんだわ。あたし明日まで食べなくっても平気よ」
ラヴィニアは、村まで自転車でいかなくっちゃ、みたいなことをぶつぶついいながら、部屋を出ていった。ミス・エミリーは、弱々しそうな笑顔をうかべて、まわりに迷惑をかけるのが、なによりもいやなんです、といった。
その夜、ミス・マープルは、話してみたが失敗したようだ、とエドナに話してきかせた。グラディスが盗んだといううわさは村じゅうにひろまっていた。ミス・マープルには、そちらのほうが気がかりだった。
郵便局に出かけたとき、ミス・マープルはミス・ウェザビーにつかまった。
「ねえ、ジェーン。あのグラディスのことだけど、スキナーさんがもらった紹介状には、仕事熱心で、まじめで、りっぱな人物とあったけど、正直者とは書いてなかったんだって。ずいぶん意味ありげだと思うわ。ブローチのことでなにかあったって耳にしてるものねえ。やっぱりねえ、いまのご時世だもの、よほどのことがないかぎり、メードにひまを出すわけがないもの。
それにしても、スキナーさん家《ち》じゃ、かわりを見つけるのがたいへん。オールド・ホール荘ときいただけで、きっと断わられてしまうね。あそこにいるメードたちは、ちかごろじゃ、休日に家に帰るにも気をつかっているそうよ。見てらっしゃい、スキナーさん家じゃ、メードのきてがないわ。そのうちに、あのなまけ者の妹がベッドから出て働くことになるんでしょうよ」
スキナー家が紹介所から、けちのつけようがないすばらしいメードを雇ったと知ったとき、セント・メリー・ミード村の人たちは、はぎしりしてくやしがった。
「そのメードは三年つとめていたんだけど、最高の紹介状を持ってきましてね。自分から田舎で働きたいといっていて、グラディスよりお給料が低くてもかまわない、というんです。ほんとうに、わたしたち運がよかったんですわ」
これは、ミス・マープルが魚屋の店先で、ミス・ラヴィニアの口からきいた言葉である。
ミス・マープルはこう思った。
「まったく、ほんとうにしては話がうますぎるわ」
村人たちは、そんなメードなら、ぎりぎりになって約束を取り消してくるだろう、といいあった。
ところが、村人たちの予言はみごとにはずれた。メアリー・ヒギンズという、家庭の宝ともいうべきメードが、タクシーで村をとおり抜けてオールド・ホール荘へむかうのを村人たちは目撃することになった。顔だちもなかなか良く、品もあり、服装もきちんとしていたそうである。
ミス・マープルが、オールド・ホール荘に出かけたのは、教会でひらくバザーに屋台を出してほしい、と頼むためだった。ドアをあけたのは新しいメードのメアリー・ヒギンズだった。年のころは四十くらいで、黒い髪をきれいにまとめている。ばら色の頬、ふっくらしたからだつきで、黒い服に白いエプロンと白い帽子姿、みごとなメードとしかいいようがなかった。
「むかしのメードを絵に描いたみたい」
とあとで、ミス・マープルは話したが、たしかに、声は高からず低からず、話しかたもていねいだつた。グラディスが、鼻にかかる大きな声でしゃべるのとは、大ちがいだった。ミス・ラヴィニアは、このまえのときよりも迷惑そうなそぶりは見せなかった。妹の世話があるから、屋台を引き受けられないと断ったが、それでも、かなりな寄付金をもうし出たうえ、ペン拭《ふ》きと赤ん坊のソックスを出品すると約束したのである。
ミス・マープルは、家のなかがうまくいっているようですね、といってみた。
「メアリーは、ほんとうによくやってくれましてね。まえのメードにひまを出してよかったと思ってるんですよ。メアリーは、かけがえのないメードです。料理はうまいし、片づけ上手で、この住いもすみずみまで掃除がゆきとどくようになりましてねえ――マットレスも毎日、ひつくり返してくれるのです。それにエミリーの世話もほんとうによくしてくれます」
あわててミス・マープルはエミリーのぐあいをたずねた。
「このごろ、あまりぐあいがよくないんですよ、かわいそうにねえ。ときどき、わがままをいったりしてね。自分じゃ気持がおさえられないんですよ。なにか食べたいというから、こしらえて食べさせようとすると、もう食欲がなくなったなんていいましてね――そのくせ、三十分もたつと、また食べたい、といいだすしまつ。けっきょく新しくこしらえることになって……病人の世話もたいへんですよ――ありがたいことに、メアリーは気にせずにやってくれます。病人のわがままには慣れている、といいましてね。なんでも心得ているのです。ほんとうに助かります」
「ほんとうに、よかったですね」と、ミス・マープルはいった。
「ええ、そう思います。神さまにお祈りしたおかげで、メアリーがつかわされたと思っています」
「あまり、すばらしいメードなので、ほんとうとも思えないくらいですね――わたしだったら――そのう、すこしは気をつけたくなりますね」
ラヴィニア・スキナーは、ミス・マープルの言葉の裏がわからないようだった。
「ええ、メアリーには、気をくばって、できるだけのことをしてやるつもりです。あれがいなかったら、わたしはどうしたらいいかわからないくらいですものね」
「出ていく準備がすむまで、出ていきはしませんよ」
そういって、ミス・マープルは、女主人の顔をじっとみつめた。
「家に心配ごとがなければ、いろいろ考えなくてもすむんですけどねえ。ところで、おたくのエドナはどうなんです?」
「よくやってくれてますよ。そりゃ、とびきりよく働くとはいえませんがね。おたくのメアリーとはちがいます。でも、この村の者だから、エドナのことはなんでもわかっていますよ」
ミス・マープルが帰ろうとして戸口まできたとき、病人の怒っている声がひびいた。
「この湿布はからからに乾いてしまってるわ――アラートン先生はおっしゃってたわ。乾くまえに、いつも取りかえるようにって。もう、はがしてちょうだい。紅茶とゆで卵がほしいわ――ゆで卵はきっかり三分半よ。よくおぼえておいてね。それから、ラヴィニアを呼んできて」
働き者のメアリーが寝室から出てくると、ラヴィニアに話しかけた。
「エミリーさまがお呼びです、マダム」
それから、ミス・マープルがコートを着るのを手伝い、コウモリ傘を手わたすと、ドアをあけた。ミス・マープルは傘を受けとろうとして失敗した。ひろいあげようとして、ハンドバッグを落とした。バッグの口は開いたままだった。メアリーは、こまごましたものをていねいにひろいあつめた――ハンカチ、手帳、古い皮の札入れ、二シリングが二枚にペニーが三枚、それにしま模様のペパーミント砂糖菓子だった。
ミス・マープルは、ペパーミント砂糖菓子を受けとると、どぎまぎしながらいった。
「おやおや、このお菓子はクレメント夫人とこの坊やのだわ。あの子がしゃぶっていたものね。わたしのバッグをいたずらしていたから、あのときに入れてしまったのね。まあ、ねばねばしているわ」
「わたしが、かたづけておきましょうか?」
「まあ、どうもありがとう」
メアリーはかがみこんで、最後に残った小さな手鏡をひろうと、ミス・マープルにわたした。ミス・マープルはうれしそうな声をあげた。
「まあ、ありがたいこと、割れなかったわ」
ミス・マープルは、スキナー家から立ち去った。メアリーはドアのところに立ったまま、ペパーミント砂糖菓子を持ち、仮面のような表情で見送っていた。
それから十日間、セント・メリー・ミード村の人たちは、スキナー家の宝であるメードについて、いろいろきかされても我慢しなければならなかった。十一日目、村は大さわぎとなった。メードのメアリーが姿をくらましたのである! ベッドには眠ったようすはなく、玄関のドアは、すこし開いたままだった。夜のうちに、こっそり出ていったのである。消えたのはメアリーだけではなかった。ミス・ラヴィニアのブローチ二個、指輪五個、ミス・エミリーの指輪三個、ペンダント、ブレスレット、それにブローチが四個も、消えてしまったのである!
それが大さわぎのはじまりだった。三階に住む結婚したばかりのデヴァルー夫人は、鍵をかけてなかった引出しからいくつかのダイアモンドを、また結婚の贈り物である高価な毛皮コートを何着も盗まれた。引退したインド人判事の二階の住居では、宝石と大金が盗まれた。いちばんの被害者は一階のカーマイケル老夫人だった。高価な宝石類ばかりか、貯めこんできたお金をそっくり盗まれてしまったのである。
その日はメードのジャネットの休日で、彼女は夕方から出かけていた。女主人は、いつものように、夕方の庭を散歩しながら、パンくずをまいて野鳥を呼びよせていた。あのすばらしいメードのメアリーが、オールド・ホール荘のぜんぶの合鍵を用意していたのは、明らかだった。
セント・メリー・ミードの村人たちは、事件を知ると、ひそかに意地悪いよろこびを味わった。ミス・ラヴィニアが、メアリーがどれほどすばらしいメードであるか、自慢しまくっていたからである――やっぱり、ただの泥棒だったんじゃないの!
おどろくべき事実がわかった。メアリーを派遣した紹介所もあわてることになった――紹介状を持ってきたメアリー・ヒギンズなる女がにせ者だとわかったからである。たしかにメアリー・ヒギンズという女性はいた。しかし、彼女はむかし、ある牧師の妹の家で働いていたことがあるが、いまはコーンウォール州でのんびり暮らしている、ということだった。
「あざやかな手口だ」スラック警部はいった。
「犯人の女には仲間がいますよ。一年まえにノーサンバーランド州で、同じような事件がありましてね。仲間がだれか、わからなかったし、犯人の女も逃亡したままです。しかし、マッチ・ベナム警察は、うまくやるつもりですよ」
スラック警部は自信家なのである。
ところが、事件から数週間たったが、メアリー・ヒギンズの行方はまるっきりわからなかった。スラック警部はけんめいに捜査をつづけたが、彼の評判は落ちるだけだった。
ミス・ラヴィニアは、ぐちをこぼしっぱなし。ミス・エミリーは、ますますからだのぐあいが悪くなって、とうとうへードック医師に往診を頼むことまでした。
村人たちは、みんなへードック医師の診断を知りたがったが、医師にきくわけにはいかなかった。それでも、医師の薬剤士助手ミークのおかげで、病気のようすがはっきりとわかった。
ミークは、プライス・リード夫人の家のメード、クララとデートしていた。そのとき、ミークはへードック医師が処方した薬の名前をこっそり話したのである。それによると、薬はオオウイキョウとカノコソウを調合したもので、軍隊で仮病をつかう兵士に飲ませるものだという。
それからしばらくすると、ミス・エミリーは、回復がはかばかしくないので、彼女の病気にくわしいロンドンの専門医に診てもらうために引っ越したいといいだした。
「そのほうが、姉にも都合がいいから」と、ミス・エミリーはいった。
オールド・ホール荘の四階は、また貸しされることとなった。
それから数日後、ミス・マープルは、あわてたようすで、マッチ・ベナム警察署にスラック警部をたずねた。
スラック警部は、ミス・マープルのことが気にくわなかった。それでも州警察本部長のメルチェット大佐が、ミス・マープルを高く評価しているのは知っていた。だから、警部は、いやいや彼女と会うことにしたのである。
「こんにちは、ミス・マープル。なにかご用ですか?」
「いま、おいそがしいでしょうか?」
「仕事はいっぱいですが、数分くらいならかまいませんよ」
「こみいったことなので、うまく話せるかどうかわかりませんわ。とにかく、わたしはむかしの教育しか受けてませんのでね――家庭教師から教わったのは、イギリスの王さまの即位年とか一般教養みたいなもの――小麦の三大病とは何か……胴枯れ病、白カビ病、それから、何でしたっけ……黒穂《くろほ》病でした?」
「お話というのは、黒穂病のことなんですか」スラック警部は、つい口がすべって、顔を赤くした。
「まあ、ごめんなさい。つい、話がそれてしまって」ミス・マープルは、けっして黒穂病のことを話したかったわけではない、といって、「話のなりゆきで、口に出ただけでしてね。針がどのように作られるとか、なんだとかね。ゆきあたりばったりの知識を教えこまされるんですよ。わたしがお話したいのは、ミス・スキナーのメードだったグラディスのことなんですよ」
「メアリー・ヒギンズでしょう」
「それは二番目のメード。わたしが話したいのはグラディス・ホームズ――ちょっと生意気なところがある娘さんで、自分勝手なところはあるけれど、根は正直なのです。正直者だということを、まず知っておいてほしいの」
「グラディス・ホームズには嫌疑《けんぎ》はかかってませんよ」
「それはわかっています――でも、それでよけいに困ったことになりました。おわかりのように、世間の人はあれこれ考えるでしょう……おや、まあ、やっぱりわたしは話しべたですねえ。つまり、こういいたいの。メアリー・ヒギンズをつかまえないと問題は解決しない、とね」
「おっしゃるとおりです。そのことで、なにか考えがあると?」
「そうなの。ひとつ、うかがってよろしいかしら? メアリーの指紋は検出されましたか?」
「それが、なかなかずるがしこい女でしてねえ。盗むときにはゴム手袋をはめてたらしいんです。おまけに、自分の寝室や流しをきれいに拭《ふ》いていっとるんですよ。だから指紋はひとつも検出できなかったのです」
「もし、指紋があったら、お役にたちますか?」
「もちろんです。ロンドン警視庁には犯罪者の記録がありますからね。こんどの事件がはじめてというわけじゃないでしょう」
ミス・マープルは、うれしそうにうなずいてみせた。ハンドバッグをあけると、小さなボール箱をとり出した。なかにあったのは、小さな手鏡だった。
「これに、あのメードの指紋がついています。はっきりとね――ねばねばしたものに触ったあとですもの」
スラック警部は、ミス・マープルの顔を穴のあくほどみつめた。
「女の指紋をとるつもりだったんですか?」
「もちろんよ」
「それじゃ、あなたは、あの女のことを疑っていたんですか?」
「そうですよ。あまりにもすばらしいメードだと聞きましてね。ミス・ラヴィニアには、それとなく話したのです。でも、気づくそぶりさえ見せなかったわ。警部さん、そんなメードがいるって考えられます? 人間だれしも欠点があります――家事をやらせれば、そんなことはすぐにわかりますよ」
「なるほど、おかげで助かりました。指紋をロンドン警視庁に送って照合してもらいましょう」
スラック警部は、おちつきをとりもどした。ミス・マープルが首をかしげてじっとみつめている――警部は気づいて、口をつぐんだ。
「ねえ警部さん、もうすこし、このあたりを捜査したほうがいいんじゃありません?」
「どういうことです、ミス・マープル?」
「説明しづらいんですけどね。おかしなことに気づくはずですよ。それは、ごく些細《ささい》なことかもしれません。わたしは、そのことに気づいていました――それはグラディスとブローチがなくなった出来事です。グラディスは正直な娘です。ブローチを盗んだりはしませんよ。それなのに、なぜ、ミス・スキナーは、あの娘が盗んだなどと考えたんでしょうかね? ミス・スキナーは頭のにぶい人じゃありませんよ。いいえ、その逆です。その彼女が、なぜ、仕事ができるメードをやめさせたがったんでしょうか。メードのかわりはなかなかいないというのにね?――おかしいじゃありません? そのことに気づいたら、また、別のおかしいことに気づいたの。ミス・エミリーはゆううつ病でしたわね。でも、お医者さまに往診を頼もうとしなかったわ。ゆううつ病の人は話し相手になってくれるお医者さまが好きなもの。でも、ミス・エミリーは診てもらおうとしなかったわ」
「なにをおっしゃりたいのですか、ミス・マープル?」
「つまりね、スキナー家のミス・ラヴィニアもミス・エミリーもおかしな人たちってこと。ミス・エミリーは一日じゅううす暗い部屋にとじこもっているわ。彼女の髪がかつらでなかったら、わたしは、自分のかもじ〔部分かつらのこと。ミス・マープルは白髪を結い上げているが、かもじでふくらませている〕を食べてみせるわ。つまり、こういうことです――やせて、青い顔、灰色の髪をして、ぐちばかりこぼしている女性が、ばら色の頬、ふくよかな感じの黒髪の女性と同一人物だったとしても、ふしぎはない。それから、わたしの知るかぎりじゃ、ミス・エミリーとメアリー・ヒギンズがいっしょにいるところを見た人物はひとりもいなかったわ。オールド・ホール荘の四つの住居のようすを調べたり、合鍵をとったりするには、かなりな時間がかかったでしょうね。田舎娘のメードを追いだしたのは、盗みの準備ができたからですよ。
ある晩、ミス・エミリーはいそぎ足で田舎道を出かけていき、あくる日、メアリー・ヒギンズとなって駅に着いたのです。そして、仕事が終ると、メアリー・ヒギンズは姿を消して、追跡捜査がはじまった、というわけです。
警部さん、メアリーがどこにいるか教えてさしあげましょう――ミス・エミリー・スキナーのベッドの上ですよ。信じられないのなら、ミス・エミリーの指紋をとってみることね。わたしのいうことが正しい、とわかるでしょう。ずるがしこい二人組のどろぼう――それがスキナー姉妹なのです。でも、今度こそ逃げられないでしょうね。わたしは正直な村の娘が、あんなふうに汚名を着せられたことに我慢がならなかった! グラディス・ホームズは正直な娘よ。それをみんなにわからせてやりたい、それだけですわ――それじゃ、よろしく!」
スラック警部があっけにとられているうちに、ミス・マープルはさっさと部屋を出ていった。
「まいったねえ。ほんとうにそうなのかねえ?」スラック警部はつぶやいた。
まもなく、スラック警部はミス・マープルの推理が正しかった、と知るはめになった。メルチェット大佐は、スラック警部の手柄をほめた。ミス・マープルのほうは、グラディスをお茶に呼び、エドナといっしょに飲みながら、こんど良いつとめ先が見つかったら、腰をすえて働きなさい、とよくいってきかせた。
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管理人の老女
「ぐあいはどうですか?」
へードック医者は患者にたずねた。患者のミス・マープルは、からだを起こすと、たよりない笑みをうかべた。
「よくはなっているようですわ。でも、気分がめいってしまいましてねえ。あのまま死んだほうがよかったかしらん、などと思ってしまうのですよ。なんといっても、こんな年寄りですからね、だれも心配しちゃくれませんよ」
へードック医師は、ふだんのそっけない口調でいった。
「そう、インフルエンザがなおりかけると、患者はそんな気分になります。気分転換になるものが必要ですな――いわば精神の強壮剤です」
ミス・マープルは、首をふって、ため息をついてみせる。
「だから、そのための薬を持ってきたんです」
へードック医師は、そういうと、大きな封筒をベッドの上にぽんと放った。
「あなたにぴったりの薬ですよ。謎解きみたいなものです」
「謎解き?」ミス・マープルは身をのりだした。
「このわしが物語を書いたんだよ」へードック医師の顔がなんとなく赤くなる。「ほら、物語によくあるでしょうが、〈彼はいった〉とか、〈娘は考えた〉とかね。そんなふうに書いてみてね――でも、物語自体は、ほんとうにあったことでね」
「それがどうして謎解きになるのです?」
ミス・マープルがたずねた。へードック医師は、にやりとしてみせた。
「どう解くかは、あなたしだい。ふだんのあなたみたいに、お利口さんかどうか見てみたくってね」そんな捨てぜりふをはいて、へードック医師は帰っていった。ミス・マープルは、原稿をとりあげると読みはじめた。
「花嫁さんはどこなの?」ミス・ハーモンが明るい声でいった。
セント・メリー・ミード村は大さわぎになっていた。ハリー・ラクストンが、美人でしかも金持ちの若い妻をつれて外国から帰ってくる。その花嫁をみんなが見たがっていた。手がつけられない腕白ハリーが幸運をひろって帰ってきた、まあ、よかったじゃないか、と村人の多くは思った。かつて、村人たちはハリーを憎んだりはしなかった。少年のハリーは、やたらパチンコで窓ガラスを割るのだが、そのくせ、見つかると、ごめんなさいとあやまってしまう――窓ガラスを割られた人は、その顔をみると、つい怒りもとけてしまうのである。
ハリーときたら、窓ガラスをこわす、果物を盗む、ウサギを密猟する――と手がつけられなかった。とうとう借りた金も返せなくなる、タバコ屋の娘とややこしいことになるしまつ。そっちはなんとかしてもらったが、村にいられずにアフリカにいくことになったのである。
それでも、村の中年女性たちは、ハリーを憎んだりしなかったのである。
「まあまあ、あの遊び好きも、おちついて暮らすことになるでしょうよ」
そして――その放蕩《ほうとう》息子が帰ってきた――おちぶれるどころか、成功者としてである。ハリー・ラクストンは、心をいれかえて、いっしょけんめいに働き、若いフランス系の美人にめぐりあい、結婚したのである。その美人は財産家の相続人だった。
ハリーには、ロンドンに住むことも、よその土地の屋敷を買って住むこともできた。それでも、彼は故郷にもどってきたのである。そして、ロマンチックにも、荒れた土地・屋敷を買ったのである。少年時代をすごした家は、その敷地のなかにあった。
その屋敷はキングスディーン館《やかた》と呼ばれ、七〇年近くも住む人がいなかった。長い年月がたち、屋敷はくずれかけている。
年よりの管理人夫婦は、屋敷の隅に住んでいた。広すぎてうす気味悪い屋敷は、庭の草木はのびほうだいで、恐ろしい魔法使いの棲家《すみか》のようだった。
ハリーの育った家は、父親のラクストン少佐が長いあいだ借りていたもので、感じのいい建物だった。少年だったハリーは、キングスディーン館の敷地をうろつきまわっていたので、木々の枝のはりぐあいから、古い館のすみずみまで知りつくしており、大好きな場所になっていた。ラクストン少佐は数年前に死んでいたので、ハリーはもう村にもどってはこない、と思われていた――ところが、彼は花嫁を連れて、少年時代をすごした村にもどってきた。
おおぜいの大工や手伝いが屋敷をとりこわし、金の力で、それこそ、あっというまに新しい館が建てられた――その館は、木々のあいだでローズ・ホワイトに輝いた。つづいて庭師たちがあらわれ、さらに家具屋の貨物自動車が何台もやってきた。新しい館が完成すると、使用人たちがやってきた。最後に、りっぱなリムジン車から玄関に降り立ったのがハリー・ラクストン夫妻だった。
セント・メリー・ミード村の人たちは、われがちに訪問した――大きな家に住むプライス夫人は、村の社交界のリーダーだと思っており、花嫁歓迎パーティをわが家でひらきたい、と招待状を送った。
すばらしいパーティだった。そのためにドレスを新調した婦人たちも何人かいた。花嫁はどんな女性だろうか、早く会ってみたいものだ、と、だれもが興奮して話しあった――まるでおとぎ話じゃないの!
日やけした顔の明るいミス・ハーモンは、出席者をかきわけながら、客間にやってくると、花嫁さんはどんな人なの? と声高にいった。
やせて小柄なミス・ブレントは、気むずかしいことで知られていたが、こう答えた。
「とてもチャーミングなひとよ。とても上品で、とても若いわ。なんでもそろっているのだもの、ほんと、だれだってうらやましくなるわよ。美人で、生まれがよくって、お金持ちで――なんでも一流なんだから。おまけにハリーを愛しているのよ!」
「まだ、結婚したてじゃないの」と、ミス・ハーモン。
ミス・ブレントは、ほそい鼻をふるわせながらいった。
「まあ、そんなにはっきりいわなくっても」
「みんなも、ハリーがどんな男かわかってるでしょ?」と、ミス・ハーモン。
「どんな男だったかはわかってるわ。でも、今じゃ――」
「男なんて変わらないものよ。うそつきは死ぬまでうそつきだわ。わたしはよくわかっているの」と、ミス・ハーモン。
「まあ、かわいそうに。でも、花嫁さんはハリーに苦労させられるでしょうね。だれか忠告してあげたらいいわ。むかしのハリーのことはなにも知らないでしょうからね」ミス・ブレントは、そういいながら、うれしそうな顔になった。「なにも知らないんじゃ、花嫁さんがお気の毒というものだわ。困ったことになったわね。この村には薬屋といえば、一軒しかないのだものね」
むかし、ハリーがもめごとを起こしたのはタバコ屋の娘だったが、その娘は薬屋のエッジ氏と結婚しているのだ。
「花嫁さんがマッチ・ベナムへ靴を買いに出かけるようになったら、耳に入ることになるわ」
「ハリー・ラクストンのことだから、自分の口から花嫁さんに話すと思うわ」と、ミス・ハーモンがいった。
二人は意味ありげな顔でうなずきあった。
「とにかく、あの花嫁さんは知っておいたほうがいいわね」と、ミス・ハーモン。
「ひどい人たちだわ! どうしようもない人たちね!」
クラリス・ヴェーンは、ぷりぷりしながら伯父のへードック医師にいった。彼女は背が高く、黒い髪の美人で、気だてはいいのだが、かっとするところがある。今も、クラリスは大きな茶色い目をきらきらさせながら怒っている。「ばあさんたちときたら――ほのめかしたり、あてこすりをいったりして……!」
「ハリー・ラクストンのことをかね?」
「ええ、あのタバコ屋の娘とのことよ」
「ああ、あのことかい。若い男だったら、あんなことはよくしでかすものさ」
「ええ、そうよ。でも、すんだことじゃないの。なぜ、今になってむしかえしたりするのかしら? まるで死人をあさる食人鬼《しょくじんき》だわ」
「いいかね、クラリス、この村じゃ話のたねがないのだよ。だから、むかしのスキャンダルにしがみつくのだよ。それにしても、なぜ、おまえがそんなに腹を立てなくてはならんのかね?」
クラリス・ヴェーンは、顔をあからめると唇をかんだ。へんにくぐもった声になると、
「あの二人……とてもしあわせそうだわ。ラクストンご夫婦のことよ。二人とも若くて、愛しあっているわ。お似合いの夫婦よ。それなのに、かげ口をきいたり、ほのめかしたりして、二人の仲に水をさすことをする……考えるだけで腹が立つわ」
「なるほどね」
クラリスは話しつづけた。
「ハリーからきいたばかりだけど、キングスディーン館を再建できて、とてもしあわせだって。長いあいだの夢だったから、うれしくて、眠れないほどですってよ……少年みたいな口ぶりで話すのよ。それに奥さん……これまでしあわせつづきだった人よ。なんでもあるんだわ。伯父さんはお会いになったでしょ。どうごらんになって?」
へードック医師は、すぐには答えなかった。ルイーズ・ラクストンは、ほかの人たちにはうらやましい女性と見えるかもしれない。それでも、甘やかされて育った金持ちの娘なのだ。医師は、何年かまえに流行した歌のくりかえしの部分が頭に浮かんだ――かわいそうだね、金持娘――。
ほっそりした小柄なからだ、亜麻色の巻き毛が顔をつつみこんでいる。人なつこい感じの大きな青い目。
ルイーズは、あまり元気がなかった。ながながとつづく歓迎のあいさつで疲れていた。もう、帰らしてもらえないかしら? ハリーは、いまにもそういってくれるかもしれない。彼女はちらっと夫を見やった。肩はばが広くて、背が高い夫は、そうぞうしいだけの退屈なパーティを心から楽しんでいた。
――かわいそうだね、金持娘――
ふーっ。ルイーズはほっとしてため息をついた。
ハリーは、うれしそうな顔で妻をふりかえった。ラクストン夫婦は車で帰るところだった。
「たいへんなパーティでしたわねえ」
「ああ、すごかったな。でも、気にすることはないさ。これですんだんだ。あの年寄り連中は、こどものころのぼくを知ってる。きみをしっかり観察できたから、連中も気がすんだろうさ」
ハリーは笑ってみせた。ルイーズは顔をしかめた。
「このさきも、おおぜいの人に会わなくちゃならないの?」
「それはないよ。館に挨拶《あいさつ》しにくるだろうけど、こちらも挨拶まわりがすんだら、それでおわり。あとは自分の好きなことをしたり、友だちをつくったりすればいいのさ」
ルイーズはしばらくだまっていたが、口をひらいた。
「このあたりに、おもしろい人がいるのかしら?」
「そりゃいるさ。ここらは田舎だから、きみには、退屈な連中かもしれないがね。趣味といったら、庭いじりか、犬とか馬だよ。きみも乗馬をやるといい。きっと楽しいよ。イグリントンで馬をみつけたから、見にいくといいね。よく調教されていて、きれいな馬だ。悪い癖はないし、元気のいい馬だよ」
車はスピードをおとして、キングスディーン館の門に入ろうとした。そのとき、道路のまんなかに奇怪な人物がとびだしてきた。ハリーはののしり声をあげて、急ハンドルを切った。その人物はこぶしをふりあげて、車のうしろから、なにか叫んだ。ルイーズは夫の腕にしがみついた。
「あれはだれなの?――あのこわいおばあさんは」
顔をしかめながら、ハリーはいった。
「マーガトロイドばあさんだ。夫婦でキングスディーン館の管理人をしていた。三十年近くね」
「なぜ、あなたに腹を立てているの?」
ハリーの顔が赤くなった。
「うん――古い館をこわされたから、恨んでるんじゃないかなあ。それにクビにされたしね。亭主のほうは二年前に死んでる。村の人たちは、それで気がへんになった、といってるよ」
「それじゃ――あの人くらしていけなくなるわ」
ルイーズは、ひとごとのようにいったが、どこか芝居がかっていた。金持ちの考えることは、あまり現実味がないものなのだ。
ハリーは腹を立てていった。
「いいかい、ルイーズ。あのばあさんには退職金をやったんだぜ――大金だったんだ。住む家だってあてがってやったし、なにも不足はないはずだ」
ルイーズには、わけがわからなかった。「だったら、なぜ、腹を立てているの?」
ハリーは、眉がくっつきそうなほど顔をしかめた。
「こっちが知りたいよ。気がくるってるんだろうさ! あのばあさん、古い館が好きだったんだ」
「だって、こわれかけていたんでしょう」
「そうだよ――いまにも崩《くず》れそうだった――雨もりはするし――だいいち、危なくって、住めたものじゃない。それでも、マーガトロイドばあさんには大事な家だったんだろう。長いこと住んでいたからね。でも、それがどうだっていうんだ――あいつは気がくるっているだけさ」
「あのひと――わたしたちを呪ってたわ。ああ、ハリー、あんなことしてほしくないわ」
気がちがった老女のおかげで、新しい家は毒気《どくけ》によごされたようだった。車で出かけるときも、乗馬で出かけるときも、犬を連れて散歩に出かけるときも、老女はルイーズを待ちぶせしていた。
まばらな白髪《しらが》頭に、ひしゃげた帽子をのせたかっこうで、道路にうずくまって、ルイーズに、なにやら呪いの言葉をはきかけるのだ。
あのばあさんは気がくるっている――ハリーがそういうのももっともだと、ルイーズは考えるようになった。そう考えても気が安まるわけでもなかった。
マーガトロイドばあさんは、けっして館のなかには入りこまなかった。はっきりおどし文句をならべるわけではなかったし、暴力をふるうわけでもなかった。ただ、門のまえにうずくまっているだけなのだ。
警察に訴えてもむだなことだ。いずれにせよ、ハリー・ラクストンは追い払うのを嫌がったのである――そんな真似をしたら、村人たちは、ばあさんに同情してしまう、というのだ。ハリーは、マーガトロイドばあさんのことを軽く考えていた。
「気にしないほうがいいよ。そのうち、いやがらせにもあきてしまうさ」
「そんなことはないわ――わたしたちを憎んでいるんですもの。わたしには、わかるの。わたしたちが不幸になるよう呪っているわ」
「あのばあさんは魔法使いじゃないんだよ。そりゃ、顔かたちは似てるけどね。あまり気に病まないほうがいい」
ルイーズはだまってしまった。セント・メリー・ミード村に越してきたころは、気分がたかぶっていたが、それがおさまってしまうと、奇妙なさびしさを感じ、やるせない気持ちになるのだった。それまでロンドンや南仏のリヴィエラでくらしてきたのである。イギリスの田舎の生活など考えたこともなければ、くらしたいとも思っていなかった。
園芸についても、花をつむことくらいしか知らない。犬の世話もろくにできない。顔があう隣人は退屈な人ばかり。ルイーズが楽しめたのは乗馬だけだった。ハリーと馬で出かけることもあった。ハリーが農地の見まわりでいそがしいときには、ひとりで出かけた。
彼女は、ハリーが買ってくれた美しい馬を軽く走らせながら、森や小道のながめを楽しんだ。その、感覚のするどい栗毛の馬プリンス・ハルも、うずくまる老女を見ると、鼻を鳴らして、あとずさりするのだ。
ある日、ルイーズは思いきった行動に出た。彼女が歩いて散歩に出かけたときのことである。彼女はマーガトロイド老人に気づかぬそぶりで通りすぎてから、いきなりふりかえると、まえに立ちはだかった。
「どういうこと? どういうわけなの? 目的は何なの?」
ルイーズは、息をはずませながら、きいた。
老女は目をしばたたいてルイーズをみつめた。白髪がうすくなった、ジプシーじみた女で、こすからそうな顔つきだった。うたぐりぶかそうな目はやにだらけだった。ルイーズは酔っぱらっているのではないか、と思った。
マーガトロイドは、あわれっぽい声だが、それでもおどすような調子でいった。
「わしの目的かね? きまっとるじゃないか! わしから取りあげたものだ。キングスディーン館から、わしを追いだしたくせになにをいう。わしは娘のころからずっと、もう四十年も住んできたんじゃ。このわしを追いだしたからには、おまえさんがたに不幸が舞い降りるのじゃ!」
「住む家だってもらったじゃないの。それに――」
ルイーズの言葉がとぎれた。老女が両腕をふりまわした。ルイーズは悲鳴をあげた。
「あんな家などほしくないわい。わしがほしいのは、わし自身の家じゃ、むかしから手をかざしてきたわしの暖炉じゃ。あんたらにしたって、新しく館を建ててもろくなことにならんぞ。黒い不幸にみまわれることになるのじゃ。黒い悲しみ、黒い死、わしの呪い! そのきれいな顔もくさってくるのじゃ」
ルイーズは、その場から逃げだした。足がもつれた――こんな土地にいたくないわ! 館を売って、遠くへいきたい!
そのときは簡単にいきそうだった。ところが、ハリーはいうことをきいてくれなかった。
「この土地から逃げるんだって? この屋敷を売れっていうのか? あんな気ちがいばあさんにおどかされたからだって? きみのほうこそおかしいんじゃないか?」ハリーはまくしたてた。
「あのおばあさんがこわいの――そのうちに、きっとなにかが起こるわ」
ハリー・ラクストンはぶすっとしていった。
「マーガトロイドばあさんのことは、ぼくにまかせてくれ、なんとかしてみせるさ」
クラリス・ヴェーンとルイーズは友だちづきあいをするようになった。性格や趣味はちがっていたが、年が似かよっていたためだろう。ルイーズは、クラリスと話していると、安心できた。クラリスはしっかりした性格で、自分でもそのことがわかっていた。ルイーズはマーガトロイドにおどかされていると話したが、うるさいだけでこわがるようなことではないと思ったらしかった。
「たしかにわずらわしいでしょう。でも、ばかばかしくはなくって?」
「でも、クラリス――おびえあがることだってあるのよ。心臓がとびあがるくらいよ」
「おびえたりすることじゃなくってよ。それにあの人だって、あきてしまうでしょうよ」
ルイーズは、しばらくのあいだ黙っていた。
「どうかなさって?」クラリスがたずねた。
ルイーズは、やはり沈黙したままだったが、口をひらくと、はげしい勢いでしゃべりだした。
「わたし、この土地がきらいだわ。ここに住むのもきらい、森やこの館、しずまりかえった夜、フクロウの気味悪い鳴き声もきらいよ。もう、なにもかも、人間だってきらいだわ」
「人間って?」
「村の人たちよ。うわさ話ばかりしている年寄りの女の人たちよ」
「どんなうわさをしていますの?」クラリスの声が鋭くなった。
「知らないわ。でも、いろんなことを話しあっているの。もう、うんざり。信用できない人たちばかりよ」
「うわさ話しかできないのよ。あの人たちのことは忘れなさいな。どうせ、口から出まかせのことばかりだもの」
「ここへきたのがまちがいだったわ。でも、ハリーがこの村の話ばかりして……」
この人、ハリーを心から愛しているのだわ、とクラリスは感じた。
「もう、おいとまするわ」
「車でお送りするわ。また、いらしてね」
クラリスはうなずいた。ルイーズは新しい友だちがたずねてきてくれて、うれしく思っていた。ハリーも妻が明るくなったのをよろこんで、クラリスがいつもたずねてくれるといいね、とすすめた。
ある日のこと――ハリーがいいだした。
「うれしい知らせがあるよ」
「まあ、なんでしょう?」
「マーガトロイドの件がかたづいたんだ。あのばあさん、アメリカに息子がいるんだ。そこで、船代はこっち持ちだが、息子のところにやることにしたんだ」
「まあ、よかったわ、ハリー。わたしも、ようやくキングスディーン館になれてきたの」
「そりゃ、よかった。こんなにいいところはほかにはないからねえ」
ルイーズはかすかに身ぶるいした。迷信じみた恐怖は、そう簡単にふりはらうことはできなかったのだ。
セント・メリー・ミード村の婦人たちは、むかしのハリーのことを花嫁にふきこみたくてうずうずしていた。しかし、ハリーのほうは、うまく立ちまわって、そうさせなかった。ある日、ミス・ハーモンとクラリス・ヴェーンがエッジ薬局で顔をあわせた。ミス・ハーモンは防虫剤、クラリスは硼酸《ほうさん》〔消毒・化粧水などに使う〕を買いに来たところだった。そこへ、ハリー・ラクストン夫妻が顔を出した。
ハリーは二人に挨拶すると、カウンターにむかって、歯ブラシがほしい、といった。
「おや、ベラじゃないか、ここで会えるなんて!」
店がいそがしそうなので、エッジ夫人が奥からあらわれたのである。白い歯をみせながら、にこにこしてハリーを迎えた。いまは体重がふえて、顔もふくらんでしまっているが、それでも、黒い髪の美人といってもいいくらいだ。大きな茶色の目には、あたたかみがあふれている。
「そう、そのベラよ、ハリーさん。ひさしぶりにお目にかかれてうれしいわ」
ハリーは、そばにいる妻にいった。
「むかしの話だけど、ベラとぼくは恋人どうしだったんだ。ぼくがむちゅうだったんだけどね」
「そうでしたわね」エッジ夫人はいった。
ルイーズは笑いながらいった。
「うちの主人も、むかしのお友だちに会えて、よろこんでいますの」
「わたしたちは、あなたを忘れたことがありませんわ、ハリーさん。ご結婚なさって、荒れたキングスディーン館を建てなおしたとうかがって、おとぎ話みたいと思っていたんですよ」
「元気そうで、ぼくも安心したよ」
おかげさまで、とエッジ夫人はこたえて、どんな歯ブラシがいいか、という話に移っていった。
ミス・ハーモンはがっかりした顔になった。ようすをうかがっていたクラリスは、おどりあがるほどよろこんだ――うまくやったわね、ハリー。ご婦人連中にひと泡ふかせたんだもの。
へードック医師は姪《めい》に話しかけた。
「マーガトロイド夫人がキングスディーン館のあたりをうろついて、奥さんに拳《こぶし》をふりあげたり、ののしったりするときいた――なぜ、あんなばかげたことをするのかね?」
「ばかげたことじゃすまされないわ。ルイーズさんはこわがっているんですもの」
「心配するにはおよばない、とルイーズさんに話してあげなさい――あのマーガトロイド夫婦は、管理人をしていたころから、屋敷が古くなったことで文句を言いづめだった――あの夫婦があそこから出ていかなかったのは、夫のマーガトロイドが飲んだくれで、ほかに仕事がなかったからだ」
「ルイーズさんに話しておくわ。でも、信じてもらえるかしら? あのおばあさんは、すごい顔でののしるんですって」
「マーガトロイドばあさんは、こどものころのハリーをかわいがっていたんだがな。どうもよくわからん」
「でも、そのことは片づきそうですって。ハリーが船代を払って、アメリカヘやってしまうときいたわ」
それから三日後――ルイーズが落馬して死んだ。
事故の目撃者は、パン屋の配達自動車に乗っていた二人の店員だった――ルイーズが馬に乗って門を出たとき、老女がとびだしてきて、道のまん中に立ちはだかり、なにかわめきながら、腕をふりまわした。馬はおどろいて狂ったように走りだした。ルイーズ・ラクストンは、まっさかさまに地上に投げだされた。
ハリー・ラクストンは青い顔でかけつけた。ルイーズは配達車に運びこまれて館につれていかれたが、意識を回復せず、医師が来るまえに死んだ。
――ここで、へードック医師の手記は終っていた。
つぎの日、へードック医師はミス・マープルを往診した。うれしいことに、彼女の頬はピンクになっており、動作も生き生きしていた。
「陪審員ミス・マープルの評決は出ましたか?」
「え、どんな事件でしょう、へードック先生?」ミス・マープルはききかえしてみせた。
「困りますねえ、わたしの口から説明させるおつもりですか?」
「ああ、管理人のおばあさんがとった奇妙なふるまいのことね。なぜ、あんなおかしなまねをしたんでしょうね? そりゃ、だれだって自分の家から追い出されたら腹を立てるでしょう。でも、その家は彼女のものではありませんね。それに、住んでいても、不平を言いつづけてきたのです。だから、彼女の行動はぜったいにおかしいわね。ところで、管理人のおばあさんは事件のあとどうなりました?」
「リヴァプールへ逃げました。ルイーズの事故で恐ろしくなったんです。アメリカ行きの船を待っているでしょうね」
「だれかさんにはすべて好都合ってわけね。ええ、〈管理人の老女の謎の行動〉のことは、考えてみましたよ。簡単だったわ――買収があったんでしょ?」
「それが結論ですか?」
「そうね。管理人の老女の行動は不自然だった――そうするようにいわれていた。つまり、だれかに金をもらってやったことにちがいないわ」
「そのだれかをごぞんじなんですね?」
「ええ、わかったつもりよ。男の人の好みの女性は、いつまでも変らないものなのですよ」
「どういう意味でしょう?」
「そう考えたら、事件の真相がおわかりのはずよ。ハリー・ラクストンは、黒い髪で明るい性格のベラ・エッジに夢中だったことがあるわ。先生の姪ごさんも同じタイプですね。しかし、死んだハリーの奥さんは正反対のタイプ――金髪でもの静かだわ。ハリーの好みではありません。つまり、ハリーは金目当ての結婚をしたの。おまけに金のために奥さんを殺したのよ」
「殺した、とおっしゃいましたか?」
「ええ――ハリーは女には魅力的な男ですけど、まるで節操がなかったわ。奥さんの財産を手に入れたら、あなたの姪ごさんと結婚するつもりだったと思いますね。ハリーはエッジ夫人に話しかけているところを見られたそうね。でも、わたしにいわせれば、彼女のことはなんとも思ってないわ。そう思いこませていただけ。かげであやつっていたんだと思いますね」
「殺したとおっしゃいましたが、どんな方法で殺したんでしょう?」
ミス・マープルは、しばらくのあいだ、夢みるように青い目をあそばせていた。
「タイミングね――パン屋の配達車がくるころをみはからっていたの。パン屋の店員たちは、おばあさんを見ていたから、馬があばれたのも、そのせいだと思いこんだの。でも、わたしは空気銃かゴム・パチンコを使ったためだと思いますね。ええ、馬が門のところにさしかかったときを狙ってね。だから、馬はあばれて、ラクストン夫人をふり落したのですよ」
ミス・マープルは顔をしかめて、口をつぐんだ。
「落馬して死ぬケースはよくあるわ。でも、ハリーは用心して、つぎの手段も用意した。ぜったいに失敗しないようにね。薬屋のエッジ夫人なら、こっそりと強い薬をわたすことができるわ。ハリーがエッジ夫人に会っていたとすれば、目的はそれしかないわ。
ハリーは、あなたが到着するまえに、その薬を使うこともできた。女性が落馬してひどいけがをした。意識がもどらないままに死んだとしましょう。そんな場合には、医師だって、あやしんだりしないでしょう。ショックかなんかで死んだと診断するでしょうね」
へードック医師はうなずいた。
「あなたが疑ったのは、なぜですか?」
ミス・マープルがたずねた。
「頭がよかったためじゃないんです。ほら、よくいわれるでしょう――頭のよい殺人者はうぬぼれて警戒心を失いがちになる。あの日、妻を失ったハリーにおくやみの言葉をかけました――じっさい、男にとっては悲劇そのものですからね。ハリーは長椅子に身を投げだして、悲劇の夫の役を演じてみせました。ところが、そのとき、ハリーのポケットから皮下注射器が転げおちたのです。彼はあわててひろいあげたのですが、青くなったその顔を見て、わたしは疑いだしたのです。
ハリー・ラクストンは健康すぎるほど健康だ、薬などいらないからだだ。その彼がなぜ注射器を持っているのだろう? そこで、わたしは検死のときに、二、三調べてみたのです。ストロファンツス〔アフリカ産の植物。種が猛毒で、毒矢に塗って狩りに使用する。強心剤ストロファンチンの原料〕が検出されましたよ。あとは簡単でしたね。ハリー・ラクストンの所持品のなかから強心剤ストロファンチンが発見されました。ベラ・エッジは警察に尋問されて、薬品をわたしたと白状しました。最後に、マーガトロイドばあさんが追求されて、呪いの芝居を演じたのは、ハリーに頼まれたためだと白状しました」
「クラリスは立ち直りました?」
「ええ、あの男に惹かれていたのですが、心配するほどじゃありませんでした」
へードック医師は、手記をとりあげた。
「さすがですね、ミス・マープル。百点満点の推理でした――医者としてのわたしの腕も満点でしょう。あなたはすっかりなおったようですよ、ミス・マープル」
[#改ページ]
教会で死んだ男
牧師館の裏から、菊の花をいっぱい抱えたハーモン牧師夫人が姿をあらわした。ふだんばきの丈夫そうな靴は花壇の土にまみれており、彼女の鼻にも泥の粒がくっついているが、まるで気づいていないようだ。
ハーモン夫人は、牧師館の門をあけるのにちょっと苦労した。蝶つがいがさびているうえに、とれかかっているのである。風が巻きおこって、くたびれたフェルト帽をかしげた。まえよりもしゃれたかぶりかたになったが、バンチ・ハーモンは、「まったく、もう!」
楽天家の両親は、彼女にダイアナという名前をつけてくれたのだが、少女時代に、どういうわけかバンチ〔房とか束という意味〕と呼ばれ、それ以来、バンチとしか呼ばれなくなってしまったのである。
菊の花をしっかり抱えて、なんとか門をすり抜けた彼女は、教会の庭から入口へと歩いていった。
十一月の空は、おだやかだが湿気をたっぷりとふくんでいる。曇り空を雲がかすめるように流れ、ところどころに青空が顔をのぞかせている。教会のなかは暗くて、寒かった。礼拝のときにしか暖房を入れないのである。
「うー、寒いわ」バンチはからだをふるわせた。「さっさとすませてしまいましょ、風邪をひいて死んだらたまらないものね」
もちまえのすばやい身のこなしで、必要な小道具を持ってきて並べた――花びん、水、剣山《けんざん》。
「ユリがあればいいのにねえ。やせた菊には、もう、うんざり」
彼女はすばやく菊を剣山にいけていった。
いけかたには、とりたてて独創性とか芸術性があるわけではない。彼女自身がそうであるからだ。それでも、素朴で、見た目にも快い感じのいけかたである。だいじそうに花びんをかかえると、彼女は側廊を祭壇にむかって歩きだした。そのとき、日光が礼拝堂に射しこんできた。
日の光は、東の窓にはめこまれたステンドグラスから射しこんだ――青と赤のガラスしか使ってないそまつなステンドグラスは、ある金持ちの信者が寄贈したものだった。それでも、いきなり輝きだすと、息をのむほど美しい。
「まるで宝石だわ」バンチは思った。
とつぜん、彼女の足がとまった。前方に目をこらす。聖壇へあがるステップに黒いものがうずくまっていた。
バンチは、そっと花びんを置くと、近づいていった。人がうずくまるようにして倒れていた。彼女は、かたわらにひざまずくと、そっとあおむけに起こした。指で脈を調べた――ひどく弱い脈で、不規則にうっている。顔色もまっさおだった。まあ、この人、死にかけているわ。
男は、年のころは四十五ぐらい、みすぼらしい黒っぽい背広を着ている。彼女は、ぐったりした手をそっと放すと、もう片方の手に目をやった。胸のところで、指を握りしめている。よく見ると、大きな布のかたまりかハンカチらしいものを胸にしっかりと押し当てている。握りしめた指のまわりには、乾いた茶のしみがとび散っていた。血が乾いたんだわ――バンチは思った。彼女は眉《まゆ》をひそめて、立ちあがった。
そのとき、男はとじていた目をひらいた。その目が、バンチをじっとみつめた。しっかりした目つきだった。生気があり、すべてわかっているという感じだった。男のくちびるが動いた。バンチはききとろうとして、かがみこんだ。男は、一言いった。
「サンクチュアリ〔聖なる場所〕」そういったとき、男の顔にかすかな笑みが浮かんだように思えた。
「サンクチュアリ……」男はもう一度いった。ききまちがえたわけではなかった。
男は、かすかに長いため息をつくと、目を閉じた。バンチは、もう一度男の脈を調べた。まだ脈はあったが、前よりも弱くなり、ときどきとぎれそうになっている。彼女は、きっぱりと立ちあがった。
「動いちゃだめよ、だれか呼んできますからね」
男は、ふたたび目をあけた。その目は、東のステンドグラスの窓から射しこむ日の光にむけられているようだった。なにかつぶやいたが、バンチにはよくききとれない。まさか、夫の名前じゃ? そう思って彼女はどきりとした。
「ジュリアンといったの? ジュリアンを探しにここへ来たの?」
しかし、答えはなかった。男は目を閉じたままだった。呼吸は浅く、とまりかけている。
バンチは、いそいで礼拝堂から出ていった。ちらっと時計に目をやると、すこしほっとしたようにうなずいた。グリフィス先生は、まだ診療所にいらっしゃるわ。診療所は教会から歩いて二、三分のところにある。
彼女は、ノックしたり呼び鈴を押したりなどしなかった。さっさと待合室を通り抜けて、グリフィス先生の診療室へ入っていった。
「すぐ来てくださいな。教会で男の人が死にかけているんです」
しばらくしてかんたんに男を診たあと、グリフィス医師は立ちあがった。
「牧師館に移してもいいですか? そちらのほうが手当がしやすいのです――まあ、むだでしょうがね」
「よろしいですとも。これからもどって準備をしてきます。ハーパーとジョーンズを連れてきましょうか? この人を運ばせましょう」
「お願いします。牧師館で電話して救急車を呼びたいのですがね――ただ、それまで保《も》つかどうか……」グリフィス医師は最後まで口にしなかった。
「内出血をしていますの?」
医師はうなずいて、
「どうやって、礼拝堂にもぐりこんだんでしょうね?」
「この人、ひと晩じゅうここにいたのだと思いますわ」バンチは考えながら、いった。「ハーパーは、朝、仕事にとりかかる前に鍵をあけますの。でも、礼拝堂のなかには入りませんもの」
五分ほどして、電話をすませたグリフィス医師が居間にもどってきた。けが人は毛布を敷いたソファの上に横たわっていた。医師の診察がすみ、バンチはあたりを片づけると、洗面器をかかえて水を捨てにいった。
「さて、これですんだ」グリフィス医師はいった。「救急車を呼んだし、警察にも連絡しました」
彼は眉をひそめながら、目を閉じて横たわっている患者を見おろした。患者の左手はときどきぴくぴく動いて、わき腹をかきむしっている。
「射たれています」グリフィス医師はいった。「かなりな至近距離から射たれたのです。傷口の血を押えるために、ハンカチをまるめてふさいでいたんですよ」
「そんな目にあっても長いあいだ歩けるのでしょうか?」バンチはたずねた。
「ええ、じゅうぶん考えられることです。致命傷を負った男が、立ちあがって、なにごともないように道を歩きだし、五分か十分たって、いきなり倒れたケースもありますよ。ですから、この男も教会で射たれたとはかぎりません。いや、教会で射たれたんじゃないですね。どこか離れた場所で射たれたのでしょう。
しかし、もしかすると、自殺かもしれません。それにしても、なぜ、牧師館ではなく、教会へ入っていったのでしょうな」
「そのことなら、わかりますわ。その人は、サンクチュアリ、といいましたもの」
「サンクチュアリですって?」医師はバンチの顔をみつめた。
「ジュリアンが来ましたわ」玄関から入ってくる夫の足音をききつけて、バンチはいった。「ジュリアン、こちらへ来てくださいな」
ジュリアン・ハーモン牧師が居間へやってきた。はっきりしない話し方、学者のような態度のおかげで、じっさいより老けて見られてきた。
「おや、おや?」
ジュリアンは、ちょっとおどろいたように、外科の医療器具とソファに横になっている男をながめた。バンチは、ふだんと同じように言葉少なに説明した。
「その人、礼拝堂で死にかけていたの。射たれているわ。その人を知ってる、ジュリアン? あなたの名前を口にしたようなんだけど」
牧師は、ソファに近よって、死にかけている男を見おろした。
「かわいそうに」そういいながら、首をふると、「いや、知らない人だよ。一度も会ったことがないと思うね」
そのとき、死にかけている男が目をひらいた。彼は、グリフィス医師、ジュリアン・ハーモン牧師、その妻バンチと見ていったが、その目は、バンチの顔でとまった。
グリフィス医師がすすみ出た。
「なにか、いいたいのかね?」
しかし、男はバンチの顔を見たままだった。やがて、弱々しい声でいった。
「お願いします――お願い――」
そして、かすかにからだが震えたかと思うと、息を引きとった。
へーズ巡査部長は、鉛筆の芯《しん》をなめて、手帳をめくった。
「それで、おわりですか、ハーモン夫人?」
「ぜんぶお話しましたわ。上着のポケットにあったものは、そこにありますわ」
財布、W・Sの頭文字《イニシャル》がついた古い懐中時計、ロンドンからの往復切符の半券――それらがへーズ巡査部長のそばのテーブルにのせてあった。
「あの人の身元はわかりまして?」
「エクルズという夫婦から署に電話がありましてね。どうも旦那のほうの弟らしいんですよ。名前はサンドボーン。長いこと病気をしていて、精神状態も悪かったそうです。近ごろじゃ、ますますひどくなっていた、といいます。おととい、家を出たまま帰らなかった。そのときに拳銃を持って出たんだそうです」
「それで、あの人は、この村へ来て、自殺した、というのですか? でも、なぜです?」
「まあ、精神がまいっていたのでしょう……」
バンチは、口を出した。
「それをききたいわけじゃありませんわ。なぜ、この村へ来たか? ってこと」
へーズ巡査部長にも、その理由はわからなかったらしい。はっきりしない口調でこたえた。
「この村へは、五時十八分のバスで来たことはわかっています」
「そうなの。でも、どうしてこの村へ?」バンチはくいさがる。
「わたしは知りませんよ、ハーモン夫人。なにもわかっていませんからね。精神状態がおかしくなれば……」
「そんな人なら、どこで自殺しても同じでしょ。でも、わざわざこんな小さな田舎村ヘバスでくることはないでしょ。ここには知り合いもいなかったんでしょ?」
「まだ、そこまでわかっていません」
へーズ巡査部長は、弁解するように咳《せき》をしてみせると、立ちあがった。
「エクルズ夫妻が会いにくると思いますが――さしつかえなければ……」
「わたしはかまいませんわ。当然ですもの。わたしとしては、なにか話してあげたい、と思ってるくらいですわ」
「それじゃ、これで失礼しますよ」
へーズ巡査部長はいった。
「それにしても、こんどの事件が殺人事件でなくてほっとしましたわ」
バンチは、巡査部長を玄関まで送りながら、いった。一台の自動車が牧師館の門の前でとまっていた。へーズ巡査部長が気づいていった。
「エクルズ夫妻が来たようですよ、奥さん」
バンチは、これからむかえるきびしい試練に立ちむかうために自分をはげました。
「いざとなったら、ジュリアンがなんとかしてくれるわ。牧師が話せばあの人たちも救われたと感じてくれるでしょう」
エクルズ夫妻がどんな人たちなのか、彼女には予想がつかなかった。しかし、あいさつをしながら、少しおどろいていた。エクルズ氏は、血色のいい太った人物で、明るく、おどけた性格のようだった。妻のほうは、ちょっとはでな感じだ。小さなおちょぼ口が卑《いや》しい印象だし、声も細くて甲高い。
「おわかりくださるでしょうか、こんどのことは、ひどいショックでしたわ、ハーモン夫人」エクルズ夫人がいった。
「よくわかりますわ。どうぞ、おかけになって。すこし早いと思いますが、お茶でもいかが?」
エクルズ氏は、むっくりした手をふっていった。
「いやいや、ご好意はうれしいが、どうか、おかまいなく。ただ、そのう――わたしどもは、かわいそうなウィリアムがいい残したことが知りたいだけでしてね」
「弟は、長いこと外国で暮らしていましたの」エクルズ夫人はいった。
「きっと、いやな目にあったんでしょうね。家に帰ってきてからというもの、落ちこんで、ろくに口をきかなかったんですのよ。こんな世の中には耐えられないとか、生きていてもしかたがないとか、もうしましてねえ。かわいそうに、弟のビル〔ウィリアムの別称〕は、いつもふさぎこんでいましたの」
バンチは、だまって二人の顔をながめていた。
「ビルは、だまって主人の拳銃をもちだしましてね。どうやら、そのままバスに乗ってこの村へ来たようですわ。弟は気晴らしをするつもりだったんでしょう。あたしたちの家にいては、なにもする気が起きなかったのでしょう」
「かわいそうになあ」
エクルズ氏は、ため息をついた。しばらく、会話がとぎれたが、エクルズ氏は話しだした。
「あれは、なにかいい残したでしょうか? 死ぬまえに、なにかいい残していないでしょうかね?」
エクルズ氏は、豚に似ている目を光らせて、バンチの顔をじっとみつめた。エクルズ夫人のほうも、答えが気にかかるらしく、からだをのりだした。
「いいえ、なにもおっしゃらなかったわ」バンチはおちついた口調でこたえた。「弟さんは亡くなる前に、サンクチュアリを求めてこの教会にいらしたのです」
「サンクチュアリって? どういうことなんでしょ?」エクルズ夫人は、とまどった声になった。
エクルズ氏がわって入った。
「神聖な場所のことだよ」と、じれったそうにいう。
「牧師の奥さんがおっしゃるのは、つまり――罪のことだ。ほら、自殺は罪悪だからね。ウィリーは、たぶん自分が罪をおかしたと気づいたんだよ」
「亡くなる前になにか、いおうとなさいました。『お願いします』それだけいうのが、やっとでしたわ」
エクルズ夫人は、ハンカチで目を押えて、鼻をすすった。
「まあ、きくだけでもつらいわ」
「おいおい、パチ、とり乱してはだめだよ。いまとなっちゃ、どうにもならんことだ。まったく、ウィリーはかわいそうなことをした。しかし、いまは天国にいるんだよ。ハーモン夫人、いろいろお世話になりました。あまり、おじゃましてはいけませんね。牧師の奥さんとなると、なにかとお忙しいでしょうからね」
二人はバンチと握手をして、立ちあがった。ふと、エクルズ氏はふりかえると、こういった。
「そうそう、ひとつ、おききしたかったんですよ。ウィリーの上着のことなんですが、奥さんがお持ちなんでしょうか?」
「上着ですか?」バンチは眉をひそめた。
「弟の形見になるものがほしいのですわ。身うちのことですもの」エクルズ夫人がいった。
「弟さんの持ち物といえば、懐中時計、財布と、汽車の切符、それだけでした。ぜんぶ、へーズ巡査部長にお渡ししましたわ」
「それじゃ、けっこうですわ」エクルズ夫人はいった。「わたしたちに渡してもらえるでしょうからね。財布には、書類がはいっていたはずですが」
「財布には一ポンド札しか入っていませんでしたわ」
「手紙みたいなものは入ってなかったでしょうか?」
バンチは首をふった。
「どうも、お世話になりました。ところで、弟が着ていた上着ですが、それも巡査部長が持っていったのですか?」
バンチは、思いだそうとして眉をひそめた。
「いいえ、そうじゃなかったようです……ええと、傷口を診るために、先生とわたしとで、上着を脱がしました」
バンチは部屋のなかに視線を遊ばせた。
「きっと、タオルや洗面といっしょに二階へ運んだんだわ」
「ハーモン夫人、さしつかえなければ……その上着をいただけませんか?……なんといっても、最後に身につけていたものですからね。それに、弟の思い出となる品物ですしね」
「よくわかりますわ。お渡しする前にクリーニングに出しましょうか? じつは――ひどく血で汚れているのですよ」
「いえいえ、そんなことは、すこしもかまいませんよ」
「あの上着――どこへ置いたのかしら? ……ちょっと待ってくださいね」
バンチは二階へあがっていったが、数分後におりてきた。
「お待たせしました」バンチは、息をはずませながらいった。
「通いのメードが、クリーニングに出す服といっしょに片づけてしまっていたのです。ですから、見つけるのに時間がかかってしまって。さあ、どうぞ。包装紙でくるんであげましょうか」
エクルズ夫妻は、なんども断ったが、バンチは上着をくるんだ。夫妻はばかていねいに礼をのべたてて、帰っていった。
バンチは、廊下をゆっくりともどりながら、書斎に入っていった。ジュリアン・ハーモン牧師は顔をあげて、にっこりした。説教の案を考えていたところだった。説教の内容が、キュロス王〔前六世紀のペルシア帝国の王〕の支配下にあったユダヤとペルシアの政治関係に深入りしすぎているのではないか、と首をひねっていたのである。
「なんだね?」おもしろいことでも期待するような口調である。
「ねえ、ジュリアン、サンクチュアリとは、正確にはなんなの?」
「そうだね」ジュリアン・ハーモンは、書きかけていた説教の草稿を、さっさとわきへどけた。
「サンクチュアリ――聖所――とは、古代ローマ、古代ギリシア時代では神殿《セラ》の中、つまり神像が安置されていた場所を意味していた。ラテン語では祭壇《アラ》のことだが、これには『保護』の意味もふくまれている」
ハーモン牧師は学者らしい口調でつづけた。
「キリスト教の教会におけるサンクチュアリの権利がはっきり承認されたのは、紀元三九九年のことだ。犯罪者や破産した人たちが教会に逃げこむと、教会は彼らをかくまい、保護する特別な権利を主張できる。追っ手は教会に踏みこめないのだよ。イギリスにおけるサンクチュアリの権利がはじめて言及されたのは、古代イングランドのケント地方の王エセルバートが六〇〇年に発令した法典でね……」
ハーモン牧師はそのあとも説明をつづけていたが、自分が披露している博識ぶりに耳をかたむけている妻の表情に気づいて、いつものようにまごつく破目になった。
「ねえ、あなたってすてきよ」
バンチは、かがみこむと、夫の鼻のあたまにキスした。ジュリアンは、うまく芸をしてほめられた犬のような気分になった。
「エクルズ夫妻がさっきまでいたのよ」
「エクルズ夫妻だって? 知らない人たちだが……」牧師は首をかしげた。
「あなたは知らないわ。教会で死んだ男の人の姉とその旦那さんよ」
「だったら、わたしに声をかけてくれたらいいのに」
「その必要はなかったわ。あの人たちには、慰めの言葉などいらなかったもの」
バンチは考えこむ顔になった。
「ねえ、どうかしら? 明日のことなんだけど、シチュー鍋をオーヴンに入れておけば、あとは自分でやってくれないかしら、ジュリアン? ロンドンで大セールをしているから、いってこようかと思って……」
「セールって? つまりヨットやボートなどで使う帆のことかい?」
牧師はぽかんとして妻を見あげた。バンチは笑ってしまった。
「そうじゃないの。バローズ・ポートマン店で、白生地の特別大セールをやっているの。シーツ、テーブルクロス、タオル、布巾《ふきん》などのこと。うちの布巾など、使いすぎてぼろぼろになっているわ」
バンチは、また考えこむ顔になると、こういった。
「それに、ジェーンおばさんにも会いたいし」
やさしい顔の老婦人、ミス・マープルは、甥のレーモンドが住む一間のアパートでのんびりしていた。ロンドンでの二週間を楽しんでいたのである。
「レーモンドはやさしい子でねえ。奥さんのジョーンと二週間ほどアメリカに出かけているの。留守のあいだ、ここで、のんびりしたらとすすめてくれたの。そうそう、バンチ、あなたの気になる話というのをきかせてちょうだい」
ミス・マープルは、バンチの名づけ親で、これまでも彼女をかわいがってきた。バンチがお気に入りのフェルト帽をうしろにずらして、話し出すと、にこにこして耳をかたむけた。
バンチは、よけいなことはいわず、はっきりと話した。彼女が話しおえると、ミス・マープルは、うなずいてみせた。
「なるほどね、よくわかったわ」
「だから、どうしてもおばさんに会いたくなったの。だって、わたしは頭がよくないし」
「そんなことはありません、あなたは頭がいいわ」
「いいえ。ジュリアンなら頭はいいけど」
「たしかにジュリアンは、知識も教養もじゅうぶんだわね」と、ミス・マープル。
「そうなの。ジュリアンは教養があるけど、わたしにあるのは感覚よ」
「あなたは判断力にすぐれているわ、バンチ。それに、とても知性的よ」
「わたし、どうしたらいいか、まるでわからないの。ジュリアンにきくわけにもいかないし――だって、あの人ったら、品行方正すぎて……」
バンチがなにをいいたいのか、ミス・マープルにはよくわかった。
「あなたのいいたいことはわかるわ。女は、どこか男とはちがっているものね。事件のことは、わかったわ。でもね、あなたが、どう思ったか、をきかせてちょうだい」
「おかしいことだらけなの。教会堂で死にかけていたその男の人は、サンクチュアリの本当の意味を知ってたわ。その言葉を口にしたときったら、ジュリアンそっくりの口調だったの。博識で教養のある人って意味よ。もし、そんな人が自殺をはかったとしたら、そのあとで苦しみながら教会にきて、サンクチュアリなんて口にするかしら? ほら、サンクチュアリって、誰かに追われたときに教会に逃げこめば安全ってことでしょ。追っ手はつかまえることができないの。むかしは、警察も手が出せなかったそうよ」
バンチは、これでいいのかしら、という顔でミス・マープルを見た。ミス・マープルはうなずいてみせた。バンチは、また話しはじめた。
「あの人たち――エクルズ夫妻よ――は、まるでちがうタイプ。教養もないし、下品だった。ほかにもおかしいことがあるわ。懐中時計――死んだ人が持ってた時計よ。裏にW・Sと頭文字があったわ。でも、内側――わたし、ふたを開けて見たの――には、とても小さな字で、『ウォルターへ――父より』と彫ってあったわ。日付もね。ね、ウォルターよ。でも、エクルズ夫妻は、あの人をウィリアムと呼んでいたわ」
ミス・マープルがなにかいいかけたが、バンチは話しつづけた。
「そりゃ、洗礼名で呼ばれるとはかぎらないわ。洗礼名がウィリアムでも、『|でぶ《ポーキー》』とか『|ニンジン《キャロット》』と仇名で呼ばれることもあるわ。でも、姉さんだったらウォルターをウィリーとかビルとは呼ばないわ」
「エクルズ夫人は、その人の姉さんじゃないってことね」
「ええ、姉さんのはずがないわ。夫婦ともいやな感じの人たち。牧師館にやってきたのも、死んだ人の持物が欲しかったこと、死ぬ前になにをいったか知りたいだけだったわ。なにもいい残さなかった、とわたしがいったら、二人ともほっとした顔になったもの。きっと、男の人を射ったのはエクルズだったんでしょ」
「殺人事件だ、ということ?」ミス・マープルがいった。
「そうだと思うわ。だから、おばさんに相談したかったの」
バンチの言葉を、なにも知らない人がきいたら、へんに思うかもしれない。しかし、ミス・マープルが殺人事件で名探偵ぶりを発揮してきたことは、「知る人ぞ知る」事実なのである。
「男の人は死ぬ前に、『お願いです』といったわ。わたしになにかを頼みたかったんだと思うの。困ったことに、わたしには、それがどんなことかさっぱりわからないの」
ミス・マープルは、すこし考えてから、こんなことをいいだした。それは、バンチが考えていたことでもあった。
「それにしても、なぜ、その人は、あそこの教会堂で倒れていたのかねえ?」
「つまり、保護を求めるのなら、どこの教会だって同じだ、ってことね。一日に四便しかないバスに乗って、さびしい村までくる必要がないもの」
「きっと、来るだけの理由があったはず」と、ミス・マープル。
「誰かに会うためね。チッピング・クレッグホーンは、小さな村だわね、バンチ。あなたなら、その相手が誰なのか見当がつくはずですよ」
バンチは、村の住人たちをいろいろ思い浮かべてみたが、よくわからないというように首をふった。
「その人は名前を口にしなかった?」
「ジュリアン。そう、きこえたわ。ひょっとしたらジュリアだったかも。でも、チッピング・クレッグホーン村には、ジュリアって女の人はいないわ」
バンチは、目を細めて、その時の光景を思い浮かべた――男は聖壇へあがるステップで倒れている。日光が、赤と青のステンドグラスから射しこんで、宝石《ジュエル》のように輝いている。
「宝石《ジュエル》だわ!」だしぬけにバンチは、大声をあげた。「宝石《ジュエル》といったんだわ。東窓のステンドグラスが日光で宝石のように輝いていたもの」
「宝石ねえ」
ミス・マープルは考えこむようにいった。
「あっ、いちばん、かんじんなことを忘れてたわ」と、バンチがいいだした。
「おばさんに会いに来たのも、そのためだったんですもの。エクルズ夫妻が、死んだ人の上着をすごく欲しがったの。先生が診察なさるとき、二人で脱がせた、くたびれきった背広よ――そんなものをなぜ欲しがったんでしょう。形見の品だといったけれど、そんなのはおかしいでしょ。
とにかく、わたしは二階へとりにいこうとしたわ。あがっていく途中で思いだした。男の人が、片方の手で服をさぐるようなかっこうをしたことをよ。だから、背広が見つかると、あちこち調べてみたの。裏地の一個所が別の糸で縫いなおされていたわ。さっそく、ほどいてみると、小さな紙切れが出てきた。とり出したあと、同じ色の糸で縫いなおしておいたから、エクルズ夫妻が気づくはずがないと思う。そのあとで、服を渡しながら、遅くなった理由をならべたてたの」
「その紙切れって?」ミス・マープルがきいた。
バンチはハンドバッグをあけた。
「このことはジュリアンにも話してないわ。エクルズ夫妻に返せ、というにきまっていますもの。だから、おばさんに見せたほうがいいと考えたのよ」
「パディントン駅の手荷物預り証ね」ミス・マープルは一目見ていった。
「背広のポケットには、パディントン行きの往復切符の半券が入っていたわ」
二人は顔を見あわせた。
「すぐに行動せよ、ってことね」ミス・マープルは、きっぱりいった。「でも、よくよく用心してかからないとね。ねえ、バンチ、今日ロンドンヘくるとき、誰かに尾行されてなかったかい?」
「尾行ですって!」バンチは思わず大声をあげた。
「そんな、まさか!」
「尾行されてたかもしれないよ。なにが起きるかわからないから、用心にこしたことはないの」
ミス・マープルは、すばやい動きで立ちあがった。
「あなたがロンドンに来たのは、バーゲンセールで買い出しをするため、としておきましょ。そうすると、これから二人でその店へいくのが、もっともらしいわ。出かける前に、ちょっと打ち合わせをしておきましょうね。わたしのほうは、いまのところビーバーの毛皮の襟《えり》がついた古いツィードのコートは、着ることもないし……」
それから、一時間半後のこと――着て歩くにはどうかと思うくたびれた服姿の二人は、それぞれ、家庭用のリンネル製品の包みを持って食堂の椅子に腰をおろしていた。「リンゴの枝」という名の、みすぼらしい小さな食堂である。二人は、元気づけに肉とキドニー〔腎臓〕入りのプディングを食べ、デザートにアップル・パイとカスタード・プディングを注文した。
「顔ふきタオルときたら、ひどい品物なんだからねえ」ミス・マープルは息がはずんでいるようだった。
「おまけにJの字がついているの。まあ、レーモンドの奥さんがジョーンだからよかった。どうしても必要になるまで使わないでおきますかね。わたしがひょっとして早死にでもしたら、使ってもらえるでしょうよ」
「わたしは、グラスふきの布巾が、どうしても欲しかったの」と、バンチ。「それに、とても安かったんだもの。ただ、赤毛の女にさらわれてしまったけど、あっちのほうがもっと安かったわ」
そのとき、「リンゴの枝」食堂に、頬紅と口紅を濃くぬった若い女が入ってきた。あちこちと見まわしたあと、まっすぐ二人のテーブルにやってきた。彼女は、ミス・マープルのそばに一通の封筒を置いた。
「お持ちしましたわ」
「ああ、ありがとうね、グラディス。世話をかけましたねえ」
「どういたしまして、なんでもないことです」
グラディスはいった。
「主人のアーニーはいつもいうんですよ。『おまえはミス・マープルのお宅で働けたから、いいことをたくさん教わったんだぞ』って。それに、あたしも、お役に立てると、うれしいんです」
グラディスが立ち去ると、ミス・マープルはいった。
「ほんとうに、いい娘だねえ。頼みごとは、よろこんでやってくれるんだもの」
彼女は封筒の中味をたしかめると、バンチに話した。
「いいかい、ようく気をつけておくれ。そういえば、あの若い警部さん、まだメルチェスターに勤務してるの?」
「さあ、転勤していなければいいと思うけど」
「もし、転勤していたら、署長さんに電話するわ。まだ、わたしをおぼえているでしょう」
「忘れるはずがないわ。おばさんのことを忘れる人っているわけがないもの。ふつうの人じゃないんですもの」
バンチは、パディントン駅に着くと手荷物預り所へいき、預り証をさし出した。しばらくして、きずだらけの古いスーツケースを受けとり、プラットホームヘいった。帰りの列車では、なにも起きなかった。列車がチッピング・クレッグホーン駅に着くと、バンチは、古ぼけたスーツケースを手にして降りた。
列車から降りたときだった。プラットホームを走ってきた男が、いきなりスーツケースをバンチの手からひったくると、そのまま逃げた。
「つかまえて!」バンチは金切り声をあげた。
「その男をつかまえて、つかまえて! わたしのスーツケースを盗《と》ったの!」
のんびりした田舎の駅の改札係りは、ようやく気づいて、
「おい、あんたそんなことしちゃ、だめじゃ……」
男は、改札係りに体当りをして、駅から走り出た。外には自動車がとまっている。男は自動車にスーツケースを放りこむと、とびのろうとした。そのとき、男は、うしろから肩をつかまれた。
「きみ、これはどういうことだ?」
アベル巡査部長だった。そこへ、バンチが、息を切らして駅からかけつけた。
「わたしのスーツケースをひったくったのよ」
「ばかなことをいっちゃ困る」男はいった。「とんだいいがかりだ。これは、わたしのスーツケースだ。これを持って、さっき列車から降りたところでね」
「それじゃ、どちらの言い分が正しいか、はっきりさせましよう」
アベル巡査部長は、そういうと、おちつきはらった態度で、バンチをみつめた。この巡査部長が、休日には彼女とバラの肥料のやりかたで、いろいろ話しあっている仲だとは、誰もわからないだろう。
「それで、奥さんは、そのスーツケースがご自分のものだ、とおっしゃるんですね?」
アベル巡査部長はたずねた。
「そうよ、まちがうはずがないわ」
「で、そちらのかたは?」
「このスーツケースはわたしのものですよ」
長身で、身なりのいい、黒い髪の男は、ゆっくりと話し、お高くとまっている。自動車から女の声がとんできた。
「そのスーツケースはエドウィンのよ。そっちの女の人は、なんのつもりでいんねんをつけるの?」
「誰のスーツケースか、はっきりさせる必要がありましてね」.
アベル巡査部長は、バンチにむきなおると、
「このスーツケースがあなたのものなら、中味もおわかりですね?」
「衣類ですわ」と、バンチ。
「ビーバー毛皮つきのロングコート。しみがついています。それから、ロンパー服が二着と靴が一足よ」
「なるほど、よくわかりました」
アベル巡査部長は、男にむきなおった。
「わたしは劇場の衣裳係りです」黒い髪の男は、もったいぶっていった。「このスーツケースには、アマチュア演劇の公演のために持ってきた舞台衣裳が入っているのです」
「わかりました。では、中味をあらためたいのですが、よろしいですね? 署へいってもいいのですが、あなたがお急ぎなら、そこの駅へいって開けてみてもけっこうですがね」
「それでけっこうです」黒い髪の男はいった。
「ついでながら、わたしはモス、エドウィン・モスといいます」
巡査部長は、スーツケースをさげて駅へいくと、改札係りに声をかけた。
「手荷物預り所で、これを調べるだけだよ」
アベル巡査部長は、手荷物預り所のカウンターにスーツケースを置くと、留め金をはずした。鍵はかかっていない。巡査部長をはさんで、バンチとエドウィン・モス氏が見まもる。二人の目があうと、火花が散った。
「へーえ!」
ふたを開けたとき、アベル巡査部長は声をあげた。なかには、かなりくたびれたツィードのコートが入っていた。襟にはビーバーの毛皮。ウールのロンパー服が二着と、ぶこつな靴も一足。
「奥さんがおっしゃったとおりですね」
アベル巡査部長は、バンチに話しかけた。
エドウィン・モス氏が見せた演技はみごとなものだった。びっくりし、あわてまくり、しきりに恐縮してみせる。
「ああ、もうしわけない。心からおわびします。どうか信じてください、奥さん。じつに、なんといっていいやら、まことにもうしわけないことをしました。じっさい、腹にすえかねるでしょう――まったく、このわたしとしたことが、とんでもないことをしでかしまして――」モス氏は時計に目をやると、
「こりゃ、いそがないと、まずい。わたしのスーツケースは、列車に乗ったままだ」
彼は、帽子に手をやってあやまるしぐさをすると、あわれっぽい声でバンチにいった。
「どうか、許していただきたい」モス氏は、その場から駆けだしていった。
「あのまま、見のがすつもり?」
バンチは、いたずらっぽい目つきで、アベル巡査部長にたずねた。巡査部長は、ゆっくりとウィンクしてみせた。
「遠くまで逃げられっこありませんよ、奥さん。刑事が尾行しているんです」
「まあ」バンチは、ほっとした。
「あの老婦人から電話連絡が入りましてね。ほら、数年前、この村においでになった方です。まったく賢い人ですねえ。今日のところは、署はいそがしいのですが、明日、警部か、わたしがお宅へうかがって話をきかせてもらうことになりますが、いかがでしょう?」
やってきたのは、ミス・マープルがおぼえていたクラドック警部だった。警部は、むかしからの友人のように、バンチに挨拶した。
「また、チッピング・クレッグホーン村で事件が起きましたね」
警部は、楽しそうに話しかけた。
「あなたも退屈しないですむでしょう、ハーモン夫人?」
「事件なんてないほうがいいわ。いらしたのは、わたしから事情をきくため? それとも、警部さんのほうが事件について話してくださるの?」
「まず、わたしのほうから説明しましょう」と、警部は話しだした。
「あのエクルズ夫婦ですが、われわれが目をつけていた者たちでしてね。この地方で強盗事件が数件起きているのですが、どうもこの夫婦がやったと思われるふしがあったのです。それから、エクルズの細君には、サンドボーンという弟がいるのです。外国から帰ってきたばかりの男ですが、教会で倒れていたのは、このサンドボーンでないことはまちがいありません」
「そのことなら、わたしにもわかっていたわ」バンチはいった。
「その人は、ウィリアムじゃなく、ウォルターという名前でしたもの」
クラドック警部はうなずいてみせた。
「教会で倒れていたのは、ウォルター・セント・ジョンという男です。この男は、二日前にチャリントン刑務所から脱獄しています」
「どうりでね。警察に追われたのでサンクチュアリに逃げこんだのね」
バンチは、つぶやくようにいうと、警部にたずねた。
「ウォルターはなにをやったんですか?」
「話はだいぶさかのぼりますがね。それに、かなりこみいっているのですよ。何年も前のこと、ミュージック・ホールの踊り手がいました。名前はたぶんごぞんじないでしょう。『アラビアン・ナイト』を扱った≪宝石の洞穴《ほらあな》を発見したアラジン≫という踊りが得意でした。彼女は踊り手としては二流でしたが――なんというか、そう魅力がありました。そんな彼女に、さるアジアの王族が熱をあげていろいろな贈り物をしたのですが、そのなかにみごとなエメラルドの首飾りもありました」
「インドの王様が持っていた由緒ある古い首飾りなのね」
バンチは、うっとりした表情でつぶやいた。クラドック警部は咳ばらいしてみせた。
「いや、現代のものでしたよ、ハーモン夫人。二人の恋愛はたいして長つづきはしませんでした。その王族は、男から金をまきあげることにかけては凄腕《すごうで》の映画女優にいかれてしまったのです。踊り子の芸名はゾビーダということにしておきましょう。ゾビーダはエメラルドの首飾りを大事にしていたのですが、そうこうするうちに、盗まれてしまいました。盗まれた場所は、劇場の彼女の楽屋でしたが、警察はゾビーダの狂言じゃないかと疑いました。名前を売るために、むかしからよく使う手ですし、ほかにもなにか不正な動機があるかもしれない、と警察では考えたのです。
けっきょく、首飾りは出てきませんでしたが、捜査のとちゅうで、警察は、さきほどの男ウォルター・セント・ジョンに目をつけました。ウォルターは、育ちもいいし、教育を受けた男でしたが、身をもちくずして、うらでは盗まれた宝石の故買《こばい》屋もしているとみられる、あやしげな宝石商人の店で宝石細工職人として働いていました。警察は、ウォルターが問題の首飾りを盗んだという証拠もつかみました。ところが、別の宝石盗難事件に関係していることがわかって、そちらの容疑で逮捕され、有罪判決を受けて刑務所に送られてしまいました。刑期はたいして長くなかったので、彼が脱獄したと知って、おどろきました」
「それにしても、なぜ、その人はこの村にきたの?」バンチはたずねた。
「警察としても、それを知りたいのですよ、ハーモン夫人。われわれはウォルターの足どりを追ってみました。脱獄した足でどうやらロンドンヘいったらしいのです。むかしの仲間には会った様子はありませんが、以前、劇場の衣裳係りをしていたジェーコブズ夫人という人物を訪ねています。この年輩の女は、ウォルターがあらわれた理由について、一言もしゃべりませんでした。アパートのほかの住人の話では、ウォルターがスーツケースを持ってジェーコブズ夫人の部屋を出たというんですがね」
「そうなの。そのあとパディントン駅でそのスーツケースを手荷物預り所へ預けてから、この村まできたのね」
「そのときには、エクルズという女とエドウィン・モスと名乗る男の二人が、彼のあとを尾けていたのです。連中はスーツケースを狙っていたんですよ。ウォルターがバスに乗ったと見るや自動車で先まわりして、待ちぶせしたにちがいないでしょう」
「そして、ウォルターは村でバスを降りたあとで射たれたのね」
「ええ、射たれたのです」と、クラドック警部。
「凶器はエクルズの拳銃ですが、射ったのはモスのほうだと思いますね。ところでハーモン夫人、ウォルター・セント・ジョンがパディントン駅で預けたスーツケースはどこにあるんです?」
バンチはにっこりしてみせた。
「ジェーンおばさんが持っていると思いますわ。そう、ミス・マープルのことよ。こんどのことは、おばさんの考えたことなの。前に雇っていたメードに頼んで、おばさんは、自分の服をスーツケースにつめると、パディントン駅で預けさせたの。わたしとおばさんは預り証を交換したわ。そして、わたしはおばさんのスーツケースを受けとって列車に乗ったというわけ。おばさんは、わたしが運んだスーツケースを誰かが奪うだろう、と考えていたらしいわ」
こんどは、クラドック警部がにっこりした。
「ミス・マープルは、そのことをわたしに電話してきましたよ。これから、わたしはミス・マープルに会うためにロンドンへいきます。あなたもごいっしょしませんか、ハーモン夫人?」
「そうねえ」バンチは考えこんでいた。
「そうだわ。じつはゆうべ歯が痛みだしたところなの。車に乗せていってくだされば、ロンドンの歯医者さんに診てもらうことができますわ」
「ぜひ、そうなさったほうがよろしい、と思いますね」
ミス・マープルは、クラドック警部の顔から、興味津々のバンチ・ハーモンへ視線をうつした。
「だいじょうぶ。まだスーツケースは開けていないわ」と、老婦人はいう。
「警察の方がいらっしゃるまえに、こっそり開けようなんて思っちゃいませんからね――それに鍵がかかっていましたからね」
彼女は、ヴィクトリア朝時代を生きてきた女性らしく、いたずらっぽい、ねこをかぶった笑みを浮かべてみせた。
「中味がなんだと、お思いですか、ミス・マープル?」クラドック警部がきいた。
「わたしの思うには、ゾビーダの舞台衣裳ね。警部さん、なにかとがったものをお持ち?」
スーツケースの鍵はすぐに開けられた。ふたが開いたとき、ミス・マープルとバンチの口からため息がもれた。窓から射しこむ日光は、たくさんの宝石を輝かせた――赤、青、緑、オレンジ……。
「アラジンの洞穴《ほらあな》ね。踊り子が舞台で身につけていた宝石なのね」ミス・マープルはいった。
「へー、この高価な衣裳を手に入れるために一人の男が殺されたというわけか」そういったのはクラドック警部だった。
「その踊り子は、抜け目がなかったのね」
ミス・マープルは、しみじみとした口調になった。
「本人は亡くなっているでしょう、警部さん?」
「ええ、死んだのは三年前です」
「その人は高価なエメラルドの首飾りを持っていたのね」ミス・マープルは考えこむようにいった。「首飾りからエメラルドをはずして舞台衣裳にとりつけた。誰が見ても、イミテーションだと思うにきまっているもの。それから、ほんものの首飾りそっくりな模造品をこしらえさせたのね。そのうちに、模造品の首飾りが盗まれた。それが売りに出されなかったのもわかるわ。泥棒は、盗んだあと、すぐに贋物だとわかったでしょうからね」
「封筒があるわ」
そういうと、バンチは、宝石のあいだがら封筒をとりだした。クラドック警部は、バンチから受けとると、なかから公文書らしい書類をとりだした。書類は二通あった。
「ウォルター・エドマント・セント・ジョンとメアリー・モスの結婚証明書です。ゾビーダの本名はメアリー・モスだったんですね」
「すると、二人は結婚していたんですね。それでわかりましたよ」ミス・マープルはいった。
「もう一通の書類は?」バンチがたずねた。
「出生証明書です――娘の名前はジュエルになっています」
「ジュエルですって? ジュエルはジルだわね、わかったわ!」バンチは大声をあげた。
「わかったわ。ウォルターという人が、なぜ、チッピング・クレッグホーンの村へ来たのか、がわかったわ。亡くなるときに、ウォルターがいった言葉もわかるわ。ジュエルだったのね。ほら、あのマンディさん。ラバナム荘に住んでいるご夫婦よ。ご夫婦は小さな女の子を引きとって育てているわ。とてもかわいがっているのよ。まるで、孫みたいね。そう、それで思いだしたわ。ジュエルというのですけど、みんなジルって呼んでいるの。マンディ夫人はね、一週間前に心臓発作で倒れたの。ご主人のほうは、かなり前から重い肺炎でした。二人とも入院することになっていたの。それで、このあいだから、わたしはジルをあずかってくれる人をさがしていたのよ。施設になど、あずけたくないんですもの。
きっと、こういうことだわ――刑務所で父親は、このことを知って脱獄した。そして、以前劇場の衣裳係りだった女性をたずねて、あずかってもらっていたスーツケースを返してもらった。宝石が母親のものなら、子どものために役立てることができますものね」
「たしかにそうですね、ハーモン夫人。宝石がほんものならね」
「ぜんぶほんものですよ」ミス・マープルが楽しそうにいった。
「やれやれ、やっと帰ってきてくれたね」ジュリアン・ハーモン牧師はやさしく声をかけると、ほっとしたようなため息をついた。
「おまえの留守のあいだ、バート夫人はそれなりにやってはくれたよ。ところが、昼食に、おかしな魚料理をとどけにきた。これにはまいった。せっかくだから、猫のティグラース・ピルサーにやったんだ、見むきもしない。しかたないから、捨ててしまったよ」
バンチは、膝の上でのどを鳴らしているティグラース・ピルサーをなでながらいった。
「この子は、お魚にうるさいのよ。おまえの口は上品だ、とよくいってきかせているわ」
「そういえば、歯のほうはどうなったね? ちゃんと診てもらったかい?」
「ええ、あまり痛くなかったわ。それでジェーンおばさんのところにも顔を出して……」
「ああ、あのおばさんね。元気にやっているのかい?」
「ええ、とても元気だったわ」
バンチはにっこりしてみせた。あくる日の朝、バンチは摘みたての菊の花をかかえて教会堂へいった。今日も日の光が東の窓から射しこんでいる。彼女は宝石のような光を浴びながら、聖壇に立った。ひくい声でなにかつぶやく。
「おじょうさんのことなら安心してね。悪いようにはしません。約束するわ」
バンチは信者用のベンチのあたりでひざまずいてお祈りをした。それから牧師館にもどると、二日のあいだにたまった家事にとりくみはじめた。