アガサ・クリスティ/各務三郎訳
ミス・マープルのご意見は? 3
目 次
聖ペテロの指のあと
死の香草《ハーブ》
溺死
聖ペテロの指のあと
「さあ、マープルおばさん、こんどはあなたの番ですよ」甥のレイモンド・ウェストがいった。
「そうですわ、マープルおばさま。わたしたち、なにかとてもおもしろいお話がきけると思ってわくわくしていますわ」
そうあいづちを打ったのは女流画家のジョイス・ランプリエールだった。
「まあ、あなたがたは、わたしを笑い者にしたいのね」ミス・マープルはおだやかな声でいった。「世間から離れたこんな村でくらしてきたので、おもしろい経験なぞ、なに一つしていないだろう、と思っているんですね」
「とんでもない。村の生活が、なにも起こらないおだやかなものだなんて考えちゃいませんよ」レイモンドは熱心にいう。
「おばさんの口から、ぞっとするような事実を聞かされたあとですからねえ。セント・メリー・ミード村にくらべたら、広い世間なんて、なにも起きないおだやかな世界ですよ」
「そりゃあね、人間なんて、どこに住もうとたいして変わりゃしないものですからね。それに、村でくらしていれば、そばで、じっくりと観察できますからねえ」
「マープルおばさまつて、ほんとにふしぎな方ですのね。わたしもおばさまをマープルおばさまとお呼びしていいかしら? なぜだか、マープルおばさまって、呼びたくなってしまうんですの」
「そのわけがおわかりにならない?」
ミス・マープルがたずねた。ジョイスは、わけがわからない顔つきでミス・マープルと目をあわせたが、たちまち、顔が赤くなった。レイモンド・ウェストは、そばでもじもじしながら、咳ばらいしてみせた。ミス・マープルは、そんな二人を眺めながらにっこりしてみせると、また編み物に目を落した。
「たしかに、わたしは、これまでなにごともなく暮らしてきました。でもね、村で起きたちょっとした事件をいくつも解いたことがあるんですよ。なかには、とても巧妙に仕組まれた事件もありましたよ。まあ、そんな話をしてもしかたがありませんね。あなたがたにとっては、それほどおもしろくないでしょうしね。そう、こんな話――ジョーンズ夫人の編んだ手さげ袋を切ったのは誰か? とか、シムズ夫人は毛皮コートを買ったのに、まだ一度しか着ていないのは、なぜか? とかね。
そうした事件は、人間性を勉強したい人には、とても興味ぶかいのですよ。そうねえ、あなたがたがおもしろがりそうな経験もしていますよ。わたしの姪《めい》のメーベルのだんなさんの事件でしてね。
もう、十年か十五年くらい前のことでしてね。ありがたいことに、その事件もすっかり片がついて、みんなも忘れてしまっています。人が覚えていられる時間なんて、とても短いものなんですね。そのほうがありがたい、と、わたしはいつも思っているんですよ」
ミス・マープルは口をつぐんだ。なにかつぶやきはじめる。
「この段の編み目を数えなくっちゃ。目を減らしていくのが、ちょっとめんどうなの。一、二、三、四、五と。それから三つ裏編みしてと、これでいいわ。さて、何をお話してたかしら? そう、そう、かわいそうなメーベルのことでしたね。メーベルというのは、わたしの姪です。いい娘でしてね、ほんとうに。ただ、ちょっと足りないところがあるのです。なんでもメロドラマみたいに考えてしまいましてね。あわてたときなど、つい、大げさに話すくせがあるのです。
この娘は二十二歳のとき、デンマンさんと結婚しました。結婚してもうまくいかないだろう、とわたしは気をもみましたよ。それというのも、このデンマンさんという人はえらく怒りっぽい人でして、ぼんやりしたところのあるメーベルに我慢できそうもないからです――それに、デンマンさんの家系に精神病の血すじがあることも知っていましたからね。しかし、若い娘というものは、いいだしたら忠告など耳に入りませんでしょう。とうとうメーベルは結婚してしまいました。 結婚後は、メーベルと会う機会も減りましたね。一、二度、泊りがけで遊びにきてくれましたし、あちらに招待されたりもしたのですが、わたしは、よその家に泊りにいくのが、あまり好きじゃありませんでね、そのつど、口実をもうけては断っていました。
結婚十年で、デンマンさんが急に亡くなりました。二人のあいだには子どもがなかったので、遺産はそっくりメーベルにわたったのです。亡くなったとき、そちらさえよければ、手伝いにいってもいい、と手紙を書きましたよ。でも、あの娘は、とてもしっかりした返事をくれたのです。その手紙を読んだとき、当人はたいして、だんなさんの死を悲しんでいるわけではなさそうだと感じました。それも当然だろうと思いました。二人は長いこと仲が悪かったんですからね。ところが、それから三カ月もたたぬうちに、メーベルから、ひどく取り乱した手紙がきたのです。それには、来てほしいとあって、事態が、ますますややこしくなってきて、もう我慢できそうもない、というのです。
そこで、わたしはメードのクララにお手当てを払って休みをとってもらいました。それから銀食器のセットや、チャールズ王朝時代〔十七世紀の英国王チャールズ一世、二世の時代〕のふたつきコップを銀行にあずけて、出かけることにしました。
メーベルはノイローゼになっていました。マートル・ディーン荘というのが、屋敷の名前でしてね。かなり広くて、りっぱな調度品もそろっていました。住んでいるのは、メーベルの亡くなっただんなさんの父親のデンマン老人、老人のつきそい看護婦と、料理人とメード。それにメーベルです。老人のデンマンさんは、すこし頭がおかしくなりかけていました。このデンマン老人は、おだやかで、見かけはふつうの人と変わらないのですが、ときどき妙な言動をするのです。まえにもいいましたように、デンマン家には精神病の血すじがあったのです。
わたしは、メーベルのひどい変わりようにびっくりいたしました。神経がぴりぴりしているのに、なにがあったのかとたずねても、なかなか話してくれません。そんなときには、遠まわしにあれこれきくのがいいんですよ。メーベルがいつも手紙で書いてくるお友だちのギャラハー家の人たちのことをきいてみました。きいてみておどろいたのですが、近ごろじゃほとんどつきあっていない、というのですよ。ほかのお友だちのこともたずねてみたのですが、返事は同じです。
自分でからに閉じこもってしまうのはおろかなことだし、友だちと縁を切るなんてもっともよくないことだと、いってきかせました。すると、メーベルは、いきなりほんとうのところをしゃべりはじめました。
『あたしはなにもしてやしない。むこうがいろいろいうんだわ。この村じゃ、あたしと口をきく人なんて一人もいないの。あたしが本通りを歩いていると、みんな顔をそむけてしまう。口もききたくないのよ。あたしはハンセン氏病患者みたいだわ。もう、たくさん、がまんできない。屋敷を売って外国へでもいけっていうの? それにしたって、あたしがこんなふうに追いだされなくちゃならない理由がどこにあるの? あたしは、なにもしていないのよ』
わたしはひどく気がもめました。そのとき、お年寄りのヘイ夫人の襟巻きを編んでいたのですが、あまり、びっくりしたので、編み目を二つ落してしまいましたよ。ずいぶんたってから、そのことに気づいたのです。
『まあ、まあ、メーベルったら、ずいぶんびっくりさせてくれるわねえ。それにしても、いったい、どういうことなの?』
メーベルは子どものころから、やっかいでしてね。なにかたずねても、きちんと返事がかえってこない。ほんとに世話のかかる子でしたよ。こんどのことでも、意地の悪い噂《うわさ》をされているとか、噂話しかできないひま人がいるとか、いろんなことを言い触らす人たちがいるとか、はっきりしないことばかりいうのです。
『そのことはよくわかりました。あなたのことでなにか妙な噂が流されているのですね。それがどんな噂なのか、あなたにはよくわかっているんでしょう。その噂を話してちょうだい』
『あんまりひどい噂ですもの』メーベルは歯をくいしばるようにしていいました。
『そりゃ、ひどい噂でしょうよ。わたしはどんなにひどい噂をきかされても、おどろきはしませんよ。さあ、メーベル、村の人たちがどんな噂をしているのか、はっきり話してちょうだい』
そんなわけで、メーベルは、すべてを話してくれたのです。ジョフリー・デンマンの死にかたが、あまりに急なことだったので、いろんな噂がたったらしいのです――はっきりいいますとね――メーベルがだんなさんを毒殺した、という噂が流れたんですよ。
みなさんもごぞんじでしょうが、噂話ほどひどいものはありません。なにしろ、対決しようにも敵は目の前にいないのです。否定したくても、本人のいないところでこそこそ話をするのです。そんな話に尾ひれがついていっても、誰にも止めることはできないのです。わたしには、確信していることが一つだけありました。メーベルが毒を盛るような人間ではないことです。メーベルは、たぶんなにかつまらない、ばかなことをやったかもしれない。だからといって、あの子やあの子の家庭がめちゃめちゃにされていいことにはなりません。
『火のないところに煙は立たない、というでしょ。メーベル、なんでそんな噂が立ったのか、おばさんに話してちょうだい。なにかあったはずでしょ』
メーベルの話すことは、とりとめがなく、ただ、なにもありゃしない、夫のジョフリーが急に死んだだけだと、いいはるのです。夕食のときには、どこも悪くなかった、それが、夜中にいきなり重態になってしまった、というのです。お医者さんを呼びにやったけど、着いてから二、三分後には死んでしまった。毒キノコを食べたせいだろうといわれた、などというのです。
『そうなの、人が急死すると、噂がたつものなのよ。でも、ほかになにかわけがあったはずですよ。だんなさんのジョフリーとけんかしたあとだったとかね』
その日の朝、朝食のときにけんかをした、とメーベルは答えました。
『それを召使いたちがきいていたのね?』
『でも、部屋にはいなかったわ』
『いいかい、メーベル。部屋のすぐ外にいたんでしょうよ』
メーベルの甲高《かんだか》いヒステリックな声は、よくひびくのです。だんなさんのジョフリー・デンマンも腹を立てると、大声でがなりたてる人でした。
『けんかの原因はなんだったの?』
『いつものことだわ。いつだつて同じことでけんかになるのよ。くだらないことからはじまるの。ジョフリーはかっとなって、ひどいことをいいだすんだわ。だから、わたしも思っていることをいってやるのよ』
『それじゃ、あなたがたはいつもけんかをしてたことになるわね?』
『だって、わたしが悪いんじゃない……』
『いいかい、メーベル。どっちが悪いかをきいているんじゃないの。こんな村だと、どんな秘密もすぐ知れわたってしまうものなのですよ。あなたがた夫婦は、いつもけんかばかりしていた。ある朝、あなたはひどいけんかをして、その夜、ご主人は急死して、死因もわからなかった。それだけ? ほかになにかわけがあるの?』
『ほかになにかわけがあるって、どういうこと?』
メーベルはふてくされた顔になりました。
『どういうつもりもありませんよ。あなたが、ほかにもつまらない真似をしたかどうか、きいただけ。いいかい、メーベル。隠さずに話しておくれ。わたしは、あなたを助けてあげたいから、きいているんですよ』
『ほかにはなにもしてないわ。それに、もう、どうにもなりはしない。死ぬしかないんだわ』メーベルは、やけになっていいました。
『すこしは神さまを信じなさい。いいかい、メーベル、わたしにはわかっているんですよ。おまえは、なにか隠していますね』
メーベルは小さいころから、なにかしら隠しだてをする癖がありましてね。わたしは、そのことをよく覚えているのです。ですから、時間はかかりましたが、なんとか聞きだすことができました。メーベルは、その日の朝、薬屋までいって砒素《ひそ》〔ネズミ退治などに使われる劇薬〕を買ったんだそうです。もちろん、砒素を買うときにはサインをしなくちゃなりません。そのことを薬屋がいいふらしたのです。
『お医者さんはどなたなの?』
『ローリング先生よ』
ローリング先生なら、わたしは顔だけは知っていました。いつだつたか、メーベルが教えてくれたのです。ローリング先生は、はっきりいうと、よぼよぼのご老人でしてね。わたしくらい人生を長く生きていると、お医者の診断はあまり当てにならないことがわかってしまうのです。お医者にも、名医もいれば、ヤブ医者もいるのです。名医にしたところで、患者のどこが悪いのかわからないことが半分はあるのです。ですから、わたしはお医者の診断は信用しませんし、処方してくださる薬だって飲まないのですよ。
わたしは、いろいろ考えたあげく、ボンネット帽をかぶると、ローリング先生を訪ねていきました。先生は、わたしの考えたとおりの人でした――人が好くて、親切。話しぶりもはっきりしなくて、気の毒なほどの近視で、耳も遠くなっている。おまけに、ちょっとしたことでも、すぐ腹を立てるような人でした。
わたしが、ジョフリー・デンマンの死因についてたずねると、たちまちふんぞりかえって、食用になるキノコと毒キノコについて、いろんなことをまくしたてましてね。女料理人に問いただすと――料理したキノコのうち、『ちょっとあやしそうな』キノコが一つ二つまじっていた。でも、店が売ったものだから、大丈夫だと思った。でも、あれからよく考えてみると、たしかにあやしかった――そう答えたそうです。
『そんなものでしょうかねえ。はじめはちゃんとしたキノコだといっていたのに、しまいには、紫の斑点があるオレンジ色のキノコにしてしまうものです。ああした人たちは、その気になると、とんでもないことを口にするものですからねえ』
わたしは、そういっておきました。
ジョフリー・デンマンさんは、医者が着いたときには、口もきけなかったそうです。口をぱくぱくするだけで、二、三分後には死んでしまった、と先生は話してくださいましたよ。ローリング先生は、診断書のことでは自信満々でした。でも、強がりなのか、それとも本気で信じているのか、そのへんは、わたしにもわかりませんでした。わたしは、その足で家にもどると、メーベルに、砒素を買った理由を問いただしてみました。
『どうして砒素なんかを買ったの?』
メーベルは、いきなり泣きだしました。
『死ぬ気だったの。あんまり不幸だから、飲んで死んでしまおう、と思ったんだわ』
『まだ、その砒素はもっている?』
『すててしまったわ』
『だんなさんは、具合が悪くなったとき、どうしました? あなたを呼んだ?』
『呼ばなかったわ』メーベルは首をふりました。
『呼び鈴を何度も鳴らしたわ。五、六回くらいかしら。ようやく、メードのドロシーがききつけて、料理女を起こしたあと、二人で階下へおりてきたのですわ。ジョフリーの様子を見て、ドロシーはふるえあがった。あの人は苦しがってうわごとをいっていました。ドロシーは料理女を残しておいて、わたしの部屋までとんできたわ。わたしは起きだして、様子を見にいったの。見たとたん、重病だとわかったわ。運の悪いことに、お父さんのつきそい看護婦のブリュースターは、お休みの日で帰ってなかった。だから、どう扱っていいか、誰もわからなかった。わたしはドロシーをお医者まで走らせたあと、料理女とつきそうことにしたわ。でも、二、三分もしたら、がまんできなくなってしまった。こわくて、見ていられなかった。部屋をとび出して、部屋に逃げ帰ってとじこもってしまったの』
『まったく、自分勝手な人だねえ。親切心がないのかい? そんな真似をするから、ろくなことをいわれないんだよ。自分でもわかっているだろうがね。まったく、どうしようもないねえ』
つぎに、わたしは召使いたちから話をきくことにしました。料理女は、しきりにキノコのことを話そうとしましたが、わたしはとめました。キノコのことなら、もう、うんざりするほど医者からきかされていたからです。わたしは、二人に、その夜の主人の具合についてくわしくきいてみました。ひどく苦しがっておいでで、なにも飲みこめなくて、ただ、しめつけられるような声でなにかおっしゃるだけでした。それもうわごとみたいで、よくわかりませんでした――二人とも、そう話したのです。
『うわごとって、どんなうわごとなの?』わたしは気になってたずねてみました。
『なにか魚のことだったと思います。ねえ、そうだったでしょ?』
料理女はドロシーにたしかめるようにいいました。ドロシーはうなずいてみせました。
『|魚がひと盛り《ア・ヒープ・オヴ・フィッシュ》だったかしら、そんなふうにおかしなうわごとでした。あたしは、おかわいそうに、ご主人は気がへんになったと、わかりました』
それだけでは、はっきりした様子はわかりません。わたしは困ってしまって、つきそい看護婦のブリュースターから話をきこうとして、部屋まで出かけました。ブリュースターは、五十歳くらいのやせた中年女でした。
『あの晩、留守にしていて気の毒なことをしましたわ。先生がいらっしゃるまで、どなたも手当をしてさしあげなかったらしいですね』、
『うわごとをいってばかりいたそうですね。しかし、プトマイン中毒〔食中毒の一種〕の症状で、うわごとをいうとは、おかしくないかしら?』
『場合によりけりじゃないでしょうか?』
つきそいのブリュースターの返事です。わたしは、老人の具合についてきいてみました。ブリュースターは首をふってみせて、
『とても具合が悪いんですよ』
『からだが弱っておいでなの?』
『いいえ、そうじゃないんです。からだのほうはとても丈夫なんですよ――ただ、視力だけはずいぶん落ちています。ひょっとすると、わたしどもより長生きなさるんじゃないかしら。でも、ボケがずいぶんはげしくおなりです。病院に入れてさしあげたほうがよろしいと、デンマンさんご夫妻には申しあげたんですよ。でも、奥さまが、どうしてもいやだ、とおっしゃるのです』
メーベルのためにいっておきますとね、あの子は気持がやさしいのですよ。まあ、わかったのは、そのくらいでしてね。わたしは、いろいろ考えてみましたが、残された道は一つだけだと思いました。噂はひろまるだけですから、遺体発掘の許可をとって検死解剖をしてもらうことで、いいかげんな噂の根を絶つしかない。そう結論したのですよ。
メーベルは、もちろん、大さわぎをしました。その理由はセンチメンタルなだけで――故人の安らかな眠りをさまたげたくないとかね――しかし、わたしもいいだしたらきかないほうなんですよ。
死体解剖の件でいろいろおしゃべりするのはやめにしときましょう。とにかく、発掘許可がおりて、検死とかいうんですかね、それが行なわれましたが、その結果は、あまりよくありませんでした。
砒素の痕跡は認められない――よかったのはそれくらいでしてね――検死報告書の文章はこんな具合でした――故人を死にいたらしめた原因は判明せず。
こんな具合ですから、まるで問題解決にはなりませんでした。村では、あいかわらず噂がひろまるだけでしてね――検出できない毒を盛ったなどと、ろくなことをいわないんですよ。わたしは検死解剖をなさった病理学者にお会いして、いくつかうかがってみたのです。でも、ほとんど返事をはぐらかされてしまいました。それでも、その口ぶりから、毒キノコによる死亡ではないと確信していることはわかりました。
話をうかがううちに、ある考えがうかんできました。そこで、どんな毒薬なら、ああした症状が出るか、おききしてみました。病理学者さんは、長々と説明してくださいましたが、白状しますと、ほとんど理解できませんでしたよ。まあ、わかったのはこんなことくらいでした――なにか強い植物性アルカロイドによる死が考えられる。
それを聞いて思いついたのです。ジョフリー・デンマンも精神病の血を受けついでいるとしたら、気が変になって自殺する可能性がないだろうか? ジョフリーは、以前医学を勉強していたことがあって、毒薬についてもくわしかったのです。自殺の線はあまり見こみはありませんが、わたしには、それくらいしか考えつかなかったのですよ。考えあぐねてしまう、とは、そんなときに使う言葉でしょうねえ。
ところで、今どきの若い人たちに笑われるかもしれませんが、わたしは、ほとほと困ってしまったときには、いつも、ちょっとしたお祈りをするのですよ――道を歩いているときだろうが、バザーに出かけているときだろうが、場所はおかまいなしです。
そうしますと、ちゃんとお答えくださるんです。それは、問題とはまるで関係のなさそうな、ごくつまらないことだったりします。でも、それがお答えなのです。こどものころ、わたしは、ベッドの頭のところに聖書の言葉を書いた紙をピンでとめておいたものです。「求めよ、さらば与えられん」みたいな言葉です。
その日の朝、わたしは本通りを歩いていました。いっしょうけんめいに、お祈りをしながらね。そして、目をつむっておいてから、あけてみました。わたしの目になにがとびこんできたか、おわかりになるかしら?」
五人は、それぞれ、おもしろそうな表情をうかべてミス・マープルをみつめた。しかし、誰も、ミス・マープルの見たものを当てられなかった。
「わたしの目にとびこんできたのは魚屋の店の窓でした。そこにあったのは一つだけ――生《なま》のタラでした」
ミス・マープルは、うれしそうに五人を見わたした。
「やれやれ、お祈りに答えてあらわれたのは、生のタラなんですか!」甥のレイモンド・ウェストがいった。
「そうですよ、レイモンド」ミス・マープルはまじめな顔でいった。
「それに、タラがあらわれたからって、ばちあたりなことをいうものじゃありません。神さまはすべてお見とおしですからね。目をあけたとき、わたしが最初に見たものはタラの黒い斑点でした――聖ペテロの指のあとといわれる斑点です。その由来は、みなさんごぞんじですわね〔新約聖書マタイ伝。イエスはペテロに、最初にとれた魚が口にふくむ銀貨を神殿に納めよ、といった。タラの斑点はそのときについたペテロの指のあと、という伝説がある〕。そのとき、わたしはしみじみと思いました――そう、わたしには聖ペテロのような強い信仰心が足りなかった、とね。そこで、わたしは二つを結びつけて考えました。信仰とお魚をね」
元警視総監のヘンリー卿は、あわてて鼻をかんだ。女流画家のジョイスは、笑いをこらえて唇をかみしめている。
「魚のほうは、どうして思いついたのかしら? そう、死にかけていたデンマンがうわごとに魚のことをしゃべった、と料理女とメードからきいたからです。わたしは確信していました。謎を解くカギは、デンマンのうわごとにあるはずです。わたしは、まっすぐ家へもどって、よく調べてみようと思いました」
ミス・マープルは、ちょっと口をつぐんだ。
「みなさんもお気づきでしょうが、言葉というものは、背景とか前後関係によって、受けとり方がちがってくることが多いものです。ダートムア地方にグレー・ウェザーズ(grey wethers)という名前をもったストーン・サークル〔古代の環状列石〕がありますわね。その土地のお百姓さんと話しているときに、グレー・ウェザーズが話題に出れば、そのお百姓さんは、あなたがストーン・サークルのことを話しているのだと思うでしょう。じっさい、あなたが話題にしたのは、お天気が曇っていることなのにね〔grey weather〕。同じように、ストーン・サークルのことを話そうとしているのに、その言葉だけが耳に入った人は、あなたがお天気のことを話していると思いこむことだってあるでしょう。
わたしたちは、前に話しあったことをもう一度べつなところでくり返すことがあります。そんなとき、内容は同じでも、たいてい、じっさいの言葉とはちがっています。つまり、正確な言葉づかいをくり返してはいないのですよ。わたしは、料理女とメードのドロシーと、べつべつに会うことにしました。ご主人がうわごとにいった言葉は、|ひと盛りの魚《ア・ヒープ・オヴ・フィッシュ》にまちがいないか、と料理女にきいてみました。まちがいない、という返事です。
『そういう言葉だったのね? それとも、なにかの魚だった?』
『そうなんです。魚の名前をおっしゃってました。でも、思い出せないんですよ。|ひと盛りの《ア・ヒープ・オヴ》――なんだったかしらねえ? たしか、食卓に出すような魚じゃなかった。|スズキ《パーチ》だったか|川カマス《パイク》だったか。いいえ、ちがうわ。Pではじまる魚の名前じゃありませんでしたね』
メードのドロシーのほうも、だんなさまはなにか魚の名前をおっしゃってました、といいました。
『あまり聞いたことのない魚だったと思います。|ひと山の《ア・パイル・オヴ》――さあ、なんだったかしら?』
『|ひと盛り《ア・ヒープ・オヴ》といったの? それとも|ひと山の《ア・パイル・オヴ》?』
『あとのほうだと思います。でも、やっぱり、はっきり思い出せないわ――そっくりそのままの言葉を思い出すって、ほんとにむずかしいんですね。でも、よく考えてみると、|ひと山の《ア・パイル・オヴ》とおっしゃったような気がしてきました。そうだわ、魚の名前ですけど、Cではじまる名前でした。でも、|タラ《コッド》じゃないし、|ザリガニ《クレイフィッシュ》でもないわ』
これからお話することは、わたしの得意なことなんですよ」
と、ミス・マープルはいった。
「そりゃ、わたしは薬のことはなにも知りませんよ――薬なんて、あぶなくて、やっかいなものですしね。わたしは祖母が書いてくれたヨモギギク茶の煎じ方を持っていましてね。これが、どんな薬よりも効くんですよ。
ところで、デンマン家には医学の本が何冊もありました。そのうちの一冊は薬の索引《さくいん》の本でした。ジョフリーは、なにかの毒を飲んだはずだと思いましてね。わたしは、その毒薬を調べてみようとしたのです。
まず、Hの項からはじめました。Heからはじまっていました。しかし、Hの項には、それらしい薬はありませんでした。そこで、Pの項を調べだしたのですが、すぐに見つかりましたよ――なんだとお思いになります?」 ミス・マープルは、勝利の瞬間をひきのばすように、出席者を見まわした。
「パイロカルピン〔ヤボランジから採れる薬。発汗、ひとみを縮小する効能がある〕だったのですよ。口がきけなくなった人が、なんとかしてその単語を吐き出そうとしたんですねえ。パイロカルピンという単語などきいたことがない料理女には、どんなふうにきこえるでしょう?〈|コイのひと山《ア・パイル・オヴ・カープ》〉とききとっても、おかしくないでしょう」
「なんと、これはおどろきましたな」ヘンリー卿はいった。
「わたしはまったく考えつきもしませんでした」そういったのは、ペンダー牧師。
「じつにおもしろい。いや、まったくもって、おもしろい」これはペサリック弁護士。
「索引で調べて、さっそく、そのページをあけてみました。そこには、パイロカルピンと、目に与える効用、それに事件とは関係のなさそうないろいろなことが書かれていました。でも、最後のほうで、とても重要な文章をみつけましたアトロピン〔ベラドンナなどから採れる薬品。けいれんを抑えたり、ひとみを拡大させる効能がある〕の解毒剤《げどくざい》として効能がある。
目の前がぱっと明るくなったような気分でした。そりゃ、ジョフリー・デンマンが自殺をするような人物ではないと確信してはいました。それを読んだとき、これこそ事件の真相だとはっきりわかったのです。それなら、つじつまがぜんぶ合いますものね」
「ぼくの推理を話すのはやめますよ」レイモンドがいった。「さきを話してくださいよ、ジェーンおばさん。そして、はっきりしたという事件の真相なるものを話してくださいよ」
「わたしには薬のことなどわかりゃしません」ミス・マープルはいった。
「でも、わたしの目がかすんだとき、お医者さんは硫酸アトロピンが配合された目薬をさすようにと、処方箋を書いてくださったことがあるのです。わたしは、すぐに二階へいってデンマン老人に会いました。そして、はっきりいったのです。
『デンマンさん、わたしにはぜんぶわかりましたよ。でも、なぜ息子さんに毒を飲ませたりしたのです?』
デンマン老人は、しばらくのあいだ、わたしをみつめていました――よく見ると、老人ですが、なかなかりっぱな顔立ちの人でしたよ――それから、いきなり高笑いをはじめました。はじめて耳にするような恐ろしい笑い声。ほんとうにぞっとしましたわ。同じような笑い声をきいたことがありますよ。ジョーンズ夫人が気が狂ったときのことです。
『そうさ、わしがジョフリーを片づけてやったのだ。わしはあいつより頭がいいからな。ジョフリーのやつ、わしをこの家から放り出そうとしていた。このわしを病院にとじこめるだと? 二人が話しているのをこの耳で聞いたんだよ。
そりゃ、メーベルはいい嫁だ――わしのことをかばってくれた。だが、ジョフリーにゃ、かないっこないことはわかっている。そのうちに、ジョフリーに押しきられてしまうだろう。いつだつて、やりたいようにやる男だからな。だが、わしが片づけてやった、わしの愛する息子めを片づけてやったのさ。あは、は、は!
わしは夜中にこっそり部屋にいった。あいつは、ベッドのわきに水の入ったコップを置いておくんだ。夜中に目が覚めたとき、いつも飲んでいた。わしはコップの水をすててやった――はっ、は、は――それから、コップに目薬のびんの中味をぜんぶ入れてやった。目を覚ましたとき、それとは知らずに飲んでしまうってわけさ。大さじ一杯分しかないが、それだけありゃ、じゅうぶんだ。
やつは飲んでくれたよ。朝になって、みんながやってきて、やさしい声で打ち明けてくれたよ。わしが、さぞおどろくだろうと案じてな。はっ、はっ、は、は、は!』
これで、事件は終り。もちろんデンマン老人は病院に入れられてしまいました。じっさい、気がへんになった人を裁判にかけるわけにはいきませんものね。ことの真相が公けになると、みんなは、メーベルのことを気の毒がってね。ひどい疑いをかけたことにあやまったりしましたよ。
しかし、ジョフリーが飲んだものの正体に気づいて、すぐに解毒剤をもってくるようにいおうとしたから、わかったのです。もし、そんなことがなかったら、真相はわからずじまいだったでしょうね。
アトロピンの症状って、とてもはっきりしているはずですよね――瞳孔がひらいてしまうとかね。でも、さきほどお話したようにローリング先生って、ひどい近眼で、おまけにお年寄りでしょう。わたしが調べたような薬の本――とてもおもしろいことが出ているんですねえ――その本をお読みになっていたら、プトマイン中毒とアトロピン中毒がわりあい似ていることがおわかりでしたでしょうね。でも、魚屋でタラを見ると、聖ペテロの指のあとを思い出すようになりましたよ」
長いあいだ、だれもだまっていた。
「まったく、あなたは、たいした方ですねえ」ペサリック弁護士は口をひらいた。
「ロンドン警視庁に話して、あなたのご意見をうかがわせるようにしますかな」元警視総監ヘンリー卿がいった。
「それでも、ジェーンおばさんにもわからないことがあるんですよ」作家のレイモンドがいいだした。
「おやおや、そうかしらねえ」ミス・マープルはいった。「夕食のちょっと前だったでしょう? あなたは、ジョイスをさそって夕日を見に出かけましたね。とても、すてきな場所ですよ。ほら、ジャスミンの生垣があったでしょ。牛乳屋が、うちでメードをしていたアニーに結婚を申しこんだのもその場所でしたよ」
「やれやれ、ぼくたちのロマンスをぶちこわさないでくださいよ、ジェーンおばさん。ジョイスとぼくたちは、牛乳屋とアニーたちとはまるっきりちがうんです」
「それはまちがいですよ。人間って、だれも似たりよったりです。しかし、ありがたいことに、みんなは自分たちだけはちがう、と思いこんでいるようね」
死の香草《ハーブ》
「さて、B夫人」
前警視総監のヘンリー・クリザリング卿が、せきたてるようにいった。
「まえにもいいましたわ。B夫人なんて呼ばないでくださいな。安っぽくきこえますもの」
女主人のバントリー大佐夫人は、ヘンリー卿をかるくにらんでみせた。
「それじゃ、シェヘラザードさま〔「千夜一夜物語」に登場する語り手の姫〕」
「もっと悪いわ、シェヘ――あら、うまくいえませんわ。わたしはお話がへたですのよ。嘘《うそ》だとお思いなら、アーサーにおききになったら?」
「なあ、ドリー、おまえは、とてもうまく話せるよ。ただ、おもしろおかしく話せないだけだよ」
そういったのは、夫のバントリー大佐。
「そうなのですよ」
バントリー夫人は、目のまえにあった球根カタログをとると、ぱたぱたさせた。
「みなさんのお話をきいていますと、なぜあんなにおじょうずだろう、と思いますわ。『彼はいった、彼女はいった、わたしはふしぎに思った、みんなは思った、だれもがひそかに考えていた』――そんなふうには、とてもお話できません。ほんとうですの。それに、わたくし、お話するようなことは、なにも知りませんわ」
「そんなはずはありませんよ」ロイド医師は、白髪の頭を大げさにふってみせた。
ミス・マープルは、やさしい声でいった。
「うまく話せますとも、ねえ」
バントリー夫人は、がんこに首をふりながら話しつづける。
「みなさんは、わたしの暮らしがどれほど退屈か、ごぞんじないんですよ。召使いや台所のメードを苦労してさがしたり、町に服を買いに出かけたり、歯医者にいったり、アスコット〔毎年六月に同地で競馬が開催される〕へ出かけたり、アーサーは競馬がきらいですけれどもね。それに庭のこともありますし……」
「ああ、庭ね。あなたが庭に夢中なのは、よく知っていますよ、バントリー夫人」そういったのはロイド医師である。
「庭があったら、さぞ楽しいでしょうね」と、女優のジェーン・ヘリアがいった。
「土いじりで、手がよごれたりしなければねえ。あたし、お花が大好きですもの」
「庭ねえ」ヘンリー卿はいった。
「庭のことで話がありませんか? B夫人、毒の球根、死の水仙、死の香草《ハーブ》とかが、あるんじゃないですか?」
「まあ、おかしいわ。そういわれると思いだしましたわ。ねえ、アーサー、クロダラム・コート荘の出来事をおぼえているでしょう?」
「忘れるはずがないよ。まったく妙な事件だったよ。ドリー、あのときのことを話したらいいじゃないか」
「あなたが話してくださったらいいわ」
「何をいっている。さあ、話しなさい。ボートは自分で漕ぐものさ。わしの話は、もうすましているんだからね」
バントリー夫人は大きなため息をついた。両手をしっかりと組み合わせる。ほんとうに困りきった表情である。話しだしたが、早口になった。
「でも、この話は、みじかいんですの。死の香草《ハーブ》――それで思いだしたんですけれど、〈セージと玉ねぎ〉の話と呼んだほうがいいと思いますの」
「セージと玉ねぎですか」ロイド医師がたずねた。
バントリー夫人はうなずいてみせた。
「その料理のおかげで事件が起きたんですの。アーサーとわたしは、アンブローズ・バーシー卿のお屋敷クロダラム・コート荘に滞在していました。ある日のこと、セージといっしょにジギタリスの葉もいっしょに摘《つ》んできたのです。不注意といったって度がすぎますわねえ。
その日の夕食に、それらの葉をつめたカモ料理が出たのですが、おかげで全員がひどい中毒を起こしたのですわ。それで、女性がひとり――アンブローズ卿が後見なすっていたお嬢さん〔親のない未成年者が大人になるまで、その財産を管理すること〕でしたが――かわいそうに亡くなりましたの」
バントリー夫人は、口をつぐんだ。
「おやまあ、なんとも気の毒なお話ですねえ」ミス・マープルがいった。
「ほんとうに、お気の毒でしたわ」
「それで、どうなりました?」
前警視総監のヘンリー卿がたずねた。
「話はそれでおしまいですわ」と、バントリー夫人。みんなは、あっけにとられた顔になった。短い話だとはきいていたが、こんなに短いとは思っていなかったのである。
「いくらなんでも、それでおしまいのはずがないでしょう? たしかに悲劇的な事件ですが、わたしたちが解く謎がないでしょう」ヘンリー卿が文句をつけた。
「そりゃ、その先の話もありますわ。でも、それをお話したら、すぐにわかってしまうんですもの」
と、バントリー夫人はこたえた。なんといわれてもきかないわ、という顔で、出席者を見まわしたが、なさけない声でこんなことをいった。
「わたしは、事件をおもしろおかしくお話できないと、おことわりしたでしょう」
「なるほどねえ」ヘンリー卿はすわりなおして、眼鏡をかけ直した。
「たしかに、胸がわくわくしてきましたよ、シェヘラザード姫。われわれの知恵をためそう、とおっしゃるんですな。わざとそんな話しかたをして、こちらの好奇心をあおってみせたのでしょう。『二十の扉』〔出題者に二十まで質問してあてるゲーム〕をやれ、とおっしゃりたいのですな。それじゃ、ミス・マープルから、はじめてください」
「料理女についておききしたいのですが」と、ミス・マープルはいいだした。「その料理女はひどいおばかさん? それとも、料理のことをなにも知らなかったのでしょうか?」
「たしかにばかな女でしたよ」と、バントリー夫人。「あとで、さんざん泣いてみせて、香草は自分が摘んだのでない、セージの葉だといって渡された、だから、セージだと思った、といいましたよ」
「自分で頭を働かすタイプじゃなかったんですね」と、ミス・マープルはいった。「かなりな年で、料理の腕はたしかだったのでしょうねえ」
「あら、ぴったりですわ」と、バントリー夫人。
「こんどは、あなたが質問する番ですよ、ミス・ヘリア」ヘンリー卿がうながした。
「まあ、あたしが質問するんですの?」ジェーン・ヘリアはしばらく考えていた。そのうちに、情けない声でいった。
「やっぱり――あたし、どんなことを聞けばいいのか、わかりませんわ」彼女は、美しい目でヘンリー卿に助けをもとめた。
「それじゃ、ドラマティス・ペルソニー〔登場人物〕について質問したらいかがです?」ヘンリー卿は、ほほえみながら、こたえた。
ジェーン・ヘリアは、首をひねっている。
「つまり、舞台に出てくる順に登場人物のことをきけばいいのですよ」ヘンリー卿はやさしくいった。
「あら、いい考えね」
バントリー夫人は、関係者たちを指で数えはじめた。
「アンブローズ卿――シルヴィア・キーンさん(亡くなったお嬢さんの名前ですわ)――それにシルヴィアの女友だちで、滞在客の一人だったモード・ワイさん。黒い髪の、みっともない顔の娘さんでしたけれど、なんだか魅力的でした――どうしてでしょうね? それから、カールさん――この方は、アンブローズ卿と本のことで話しあうためにいらしていました。ほら、めずらしい本があるでしょう。ぜんぶラテン語で書いてあるかびくさい羊皮紙《ようひし》の本ですよ。ジェリー・ロリマーさんもいました――おとなりの〈妖精《フェアリーズ》〉屋敷に住んでおいででした。
カーペンター夫人もいましたわ。ネコちゃんみたいに、いつでも、どこか居ごこちのよさそうな場所にもぐりこんでいる人がいるでしょう。中年のカーペンター夫人もそんな人でしたわ。たぶん、ミス・シルヴィアの話し相手に雇われていたのでしょう」
「こんどはわたしの番でしょうね。ミス・ヘリアのとなりにすわっていますからね。質問はたくさんありますよ。いまお挙げになった人物たちが、どんな性格なのか、簡単に話していただきたいですな、バントリー夫人」
「まあ」バントリー夫人は困った顔になった。
「まずアンブローズ卿はどんな人物ですか?」
「ええ、りっぱな姿、顔だちの老人ですわ――老人といっても、それほどのお年じゃなく、まだ六十まえだと思いますわ。でも、とてもからだがお弱くて――心臓が悪くて、階段ものぼれないほどでしたわ――だから、お年寄りに見えたんでしょうね。二階へあがるのにエレベーターを使っておいででした。とても上品な方でしたわ――洗練された物腰とでもいうんでしょう。それなら、ぴったりですわ。けっして声を荒らげたり、あわてたりなどしませんの。みごとな白髪で、声がとても魅力的でした」
「うまいですねえ。アンブローズ卿のことがよくわかりますよ。次はシルヴィアというお嬢さんです――ええと名字はなんでしたっけ?」
「キーンさんですわ。きれいなお嬢さん、ほんとうにおきれいでした。金髪で、すばらしい肌をしていましたわ。ただ、おつむのほうはねえ。悪いけれど、かなり足りない感じでしたね」
「おい、おい、ドリー、そこまでいっちゃまずいよ」バントリー大佐が文句をつけた。
「そりゃ、アーサーなら、そうは思わないでしょうよ」バントリー夫人は、そっけない声でいった。
「でも、ほんとに、頭が空っぽでしたもの――話すことといったら、愚にもつかないことばかり」
「わしが会ったなかでもとびきり優雅な娘さんだったよ」バントリー大佐は、心からいった。「テニスをしているところを見ただろう――じつに魅力があったな。それにおもしろい娘さんだった――まったく、楽しい娘さんだったよ。そこがかわいかった。若い男たちもわしと同じ気持だろうさ」
「それはまちがいよ。近ごろの青年は、あなたみたいには思いませんよ。アーサー、あなたみたいな変り者なら、若い女の子にべったりくっついて話しこむんでしょうがねえ」
「若さなんて意味がありませんわ」女優のヘリアが口を出した。「S・Aがなくっちゃ」
「S・Aって何ですの?」ミス・マープルがたずねた。
「セックス・アピールですわ」
「セックス・アピールねえ。わたしの若いころには、〈目にものをいわせる〉といったものでした」
「その表現はなかなかけっこうですな」ヘンリー卿はいった。
「バントリー夫人、さっき、話し相手のことを〈ネコ〉のようだ、とおっしゃいましたね」
「ネコじゃありませんわ。ネコと〈ネコちゃん〉じゃ大ちがいですもの。そう、のどを鳴らすようなしゃべりかたをする、ものしずかで色の白い大柄な女の人でしたよ。いつも、やさしくって。アデレード・カーペンターさんって、そんな人でしたわ」
「年はいくつぐらいです?」
「そうですね、四十ぐらいでしょうか。クロダラム・コート荘には、かなり長くいましてね――シルヴィアさんが十一になったときからです。人当りのいい人でしてね。貴族の親類はたくさんいるけれども、お金がない。夫に先立たれて生活に困る未亡人……よくある話ですね。わたしは、あまり好きじゃありませんでしたよ――だからといって、遊んで暮らしている人も好きじゃありませんわ。それから、わたしは、〈ネコちゃん〉も好きじゃありませんわ」
「カール氏は、どんな人物です?」
「そうね、よく見かける年輩のねこ背の方といっていいかしらね。あまり目立たないので、うまくおぼえられない人っているでしょう。カールさんって、そんな人ですわ。カビくさい本の話になると、よくしゃべるんですの。アンブローズ卿もカールさんのことはくわしくは知らないご様子でしたわ」
「隣りに住んでいるジェリー氏はどんな人です」
「とても魅力的な青年でしたわ。シルヴィアさんの婚約者でした。だから、あんなに悲しがっていたのでしょう」
「それでは――」いいかけて、ミス・マープルは口をつぐんでしまった。
「え、なんでしょう?」
「いいえ、なんでもありませんわ」
ヘンリー卿は、あやしむように老夫人を見た。しばらく考えていたが、彼はたずねた。
「若い二人は婚約してどのくらいですか? もう長いんですか?」
「婚約して一年ぐらいでしょう。それまでシルヴィアが若すぎるという理由で、アンブローズ卿が反対していたのです。婚約期間が一年つづいて、アンブローズ卿も二人の仲を認めるようになり、まもなく結婚することになっていました」
「ほほう、その若いご婦人には財産がありましたか?」
「ほとんどなかったでしょう――一年に、せいぜい百か二百ポンドです」
「財産めあての殺人というつもりかい、クリザリング?」友人のバントリー大佐は、笑った。
「それじゃ、質問はロイド医師にゆずることにして、わたしは退場するよ」と、ヘンリー卿はいった。
「医者としては、医学上のことをおききしたいですね」と、ロイド医師は前置きして、「検死審で提出された医学上の証拠を知りたいのです――われらが女主人がおぼえておいでなら」
「くわしくおぼえていませんわ。でも、ジギタリン〔ジギタリスの葉から抽出される劇薬成分〕による中毒死――ジギタリンでよかったかしら?」
ロイド医師はうなずいてみせた。
「ジギタリスは――ふつうキツネノテブクロと呼ばれていますが――心臓病に効果があります。特効薬になっているんですよ。それにしても珍らしいケースです。ジギタリスの葉を料理して食べたとしても、死ぬはずがないのですよ。
毒草や毒の実を食べると死ぬ、というのは大げさなんです。毒成分を抽出するには、それなりの器具のあつかいと方法を知っていて、それも注意ぶかくやらないと失敗することを、ほとんどの人は知りません」
「先日、マッカーサー夫人からツーミー夫人あてに特別な球根が送られてきましてね。ツーミー家の料理人が玉ネギとまちがえて料理に使ったので、ツーミー家のみなさんはひどい中毒になりましたよ」
そういったのは、ミス・マープルだった。
「でも、死にはしなかったでしょう?」と、ロイド医師はいった。
「ええ、死にはしませんでしたよ」
「あたしの知ってる女の子は、プトマイン中毒〔食中毒の一種〕で死にましたわ」女優のジェーン・ヘリアがいった。
「わたしたちは犯罪を調べているんですよ」と、前警視総監のヘンリー卿はいった。
「犯罪ですって?」ミス・ヘリアはびっくりしていった。
「あたし、事故だとばかり思っていましたわ」
「たんなる事故なら、バントリー夫人だって、こんな話をしないと思いますよ」ヘンリー卿はやさしい声でいった。「見かけは事故のようですが、裏にはなにか悪だくみが隠されているのだと思いますよ。こんな事件がありましてね――パーティによばれた客たちが、夕食後おしゃべりをしていたのです。壁には、古い銃器のたぐいがいっぱい飾られていました。客の一人が、ただふざけるつもりで馬上用拳銃をとりはずすと、べつの客を狙って射つまねをしたのです。ところが、銃には実弾がこめてあったために、死んでしまいました。わたしたちがまずやったことは、誰がひそかに拳銃に弾をこめておいたかを突きとめることでした。つぎに、話題をそちらにもっていき、そんなくだらない騒ぎになるようにしむけた人物を探しました――なぜなら、馬上用拳銃を発射した男には、殺す動機などまったくなかったからです。
これと同じ謎が、バントリー夫人の話にあると思います。ジギタリスの葉をセージの葉にまぜておけば、どんなことになるか、よくわかっていて、やってのけているのです。そんなことから、料理女は容疑者からはずしてもいいでしょう――ここまではよろしいですね? ここで謎が生じます。葉を摘んで台所へ持っていったのは誰か、ということです」
「それなら、かんたんですわ」
バントリー夫人が答えた。
「葉を摘んだのが誰かは知りませんけれど、すくなくとも、それを台所に持っていったのはシルヴィア本人でしたよ。サラダ用の野菜や、香草、小さなニンジンなどを摘むのは、彼女の日課でした――庭師にいいつけても、いわれたようには摘んでくれないからです。庭師は、若くてやわらかいものを摘むのをいやがるものですの――りっぱに成長するのをながめるのが好きなのです。ですから、シルヴィアさんやカーペンター夫人がちゃんと気をつけていたのです。それに、じっさいセージにまじってジギタリスが生えていましたからね。まちがえても不思議はないのですよ」
「しかし、シルヴィアが摘んだのはたしかでしょうか?」
「いまとなっては、それは誰にもわかりません。シルヴィアさんが摘んだのだろう、と思えるだけですわ」
「あて推量は危険ですよ」ヘンリー卿がいった。
「でも、カーペンター夫人じゃないことを、わたしは知っています」バントリー夫人はいった。「その日の朝、たまたま、わたしとカーペンター夫人はテラスに出ていたのです。早春にしては、暖かくておだやかな朝でした。シルヴィアさんは一人で庭に降りていきました。そのあと、モード・ワイさんと腕をくんで歩いている姿を見かけましたわ」
「二人は仲がよかったのですね」ミス・マープルがいった。
「ええ」バントリー夫人は、そう答えたものの、なにやらいいたげになったが、口をつぐんでしまった。
「モード・ワイは、屋敷に長く泊っていたのですか?」ミス・マープルがたずねた。
「二週間ぐらいだったと思います」
「ミス・ワイのことがお好きじゃないんですね」ヘンリー卿が口を出した。
「いいえ、好きでしたわ。ほんとうに好きだったんですのよ」バントリー夫人の声には、困ったようすがあらわれていた。
「なにか隠していらっしゃいますね、バントリー夫人」
ヘンリー卿はとがめるようにいった。
「いま気づいたことがあるのですが、それは、わたしの口からはいいたくありません」ミス・マープルが口をはさんだ。
「なにをお気づきになられたのです?」バントリー夫人はききかえした。
「シルヴィアさんとジェリーさんが、婚約しているとお話になられましたね。だから、ジェリーさんはひどく悲しんでいた、とおっしゃいました。けれども、奥さまの声は、悲しんでいない、といったように聞こえましたわ――つまり、説得力に欠けたいいかたでしたよ」
「ほんとうに鋭いかたですねえ」バントリー夫人はいった。「なんでもお見透しなんですね。ええ、わたくし、べつのことを考えていました。でも、お話していいものかどうか、迷っているのです」
「だったら、話してください。なにか疑うことがあるなら、隠しておいちゃいけないですよ」
「それじゃ、お話しましょう。ある晩のこと悲劇の起きる前の晩のことですわ――わたしは、夕食の前にテラスに出ていました。客間の窓は開いていました。なかにジェリー・ロリマーさんとモード・ワイさんがいたのですが、ジェリーさんが――そのう――彼女にキスしていたのです。その場のふんいきでキスしてしまったのかどうかは、誰にもわかりませんわ。ただ、わたくし、アンブローズ卿がジェリー・ロリマーを嫌っているのを知っておりました。浮わついた若者だと思っていたのでしょう。でも、はっきりいえるのは、モード・ワイさんがジェリーを心から好きだったということですわ。彼女がジェリーをみつめる目つき――ぼうっとなって、ほかのことなど目に入らないのですもの。シルヴィアさんよりもモード・ワイさんのほうが、ジェリーとお似合いのカップルになれると、わたくしは思いましたわ」
「ミス・マープルより先にきいておきたいのですがね」と、ヘンリー卿がいった。「その悲劇のあとで、ジェリー・ロリマーとモード・ワイは結婚したんでしょうか?」
「ええ、結婚しました――六カ月あとでしたけれどね」
「すばらしいですな、シェヘラザード姫。この話をしだした当初とは、まるでちがう話しぶりじゃないですか」ヘンリー卿はいった。「最初はむき出しの骨だけでした――今は、たっぷり肉がついてきましたよ」
「それじゃ、食人鬼《しょくじんき》〔死体を食べる鬼〕みたいですわ」バントリー夫人はいった。「それに肉なんていいかたはいやですわ。菜食主義者がよくいうでしょう。『けっして肉など口にしません』そんなふうにいわれると、おいしいビーフステーキまでまずくなってしまいますものね。
古書趣味のカールさんが菜食主義者でしてねえ。朝食には、いつも〈ふすま〉〔小麦のぬか〕みたいなおかしなものを食べていたのです。あごひげを生やしたねこ背の年輩の男性って、もの好きな方が多いんですのよ。新案特許の下着などを着たりして――」
「おいおい、ドーリー、なぜカール氏の下着のことを知っているんだね?」
「知りやしません。ただ推理しただけですよ」バントリー夫人は、すましてこたえた。
「前言とり消しをいたします――こんなふうにいいかえますよ――バントリー夫人のお話に出てくる人物たちは、おもしろい、とね。いや、じっさい、目に見える感じがしてきました――そうでしょう、ミス・マープル?」と、ヘンリー卿はいった。
「人間って、おもしろいものですねえ、ヘンリー卿。ふしぎなものです。あるタイプの人間って、いつも同じような行動をするんですものねえ」
「女二人に男一人ですか。むかしから、果てしなくつづく三角関係ですな。事件の謎のもとは、三角関係なんですか? わたしには、そう思えるんですがね」ロイド医師が咳ばらいして、遠慮がちに口をひらいた。「わたしは考えていたんですよ、バントリー夫人――あなたもジギタリスで中毒を起こしたのでしょうか?」
「もちろんです。アーサーもほかのみなさんもぜんぶですわ」
「それをおききしたかったのです――全員が中毒症状を起こしたのですね。それが何を意味するか、おわかりですね? さきほどのヘンリー卿の話では、射たれたのは一人で、部屋にいた人たち全員を射つ必要はありませんでした」
「だれがだれを射ったの? あたし、わかりませんわ」女優のミス・ヘリアがいった。
「つまり、こういいたかったのですよ。誰が事件を計画したかわからないけれど、かなりおかしな人物だということです。計画としてはいいかげんだし、人の生命をなんとも思っていません。一人を殺す目的で、その場にいた八人全部に毒を食べさせる人間がいるとは考えられませんよ」
「よくわかります」ヘンリー卿は考えるような顔になった。「たしかに、わたしはその点を見すごしていました」
「すると、毒殺しようとした本人も毒を食べたことになりません?」ミス・ヘリアがいった。
「夕食の席に出てこなかった人がいますか?」ミス・マープルはたずねた。
バントリー夫人は首をふって、
「みなさん、出席なすってましたわ」
「ロリマーさんはいなかったでしょう。お隣りの人だし、お泊りじゃなかったはずですが」
「いいえ、ロリマーさんは、その晩夕食をごいっしょなすったのです」バントリー夫人はこたえた。
「まあ、それじゃ、まったく話がちがってきてしまうわ」ミス・マープルの声は高くなった。じれったそうに顔をしかめる。「とんでもないことを考えていました。まったく、おばかさんでしたねえ」彼女は、つぶやくようにいった。
「ロイド先生、あなたのご指摘で気になる点があるのですよ」ヘンリー卿がいった。「死んだ女性だけが致死量の毒をとったことを、どうやって証明するのですか?」
「いいえ、証明はできません。わたしもその点を指摘しようとしていました。もし、死んだ女性が狙われていた人物ではなかったとしたら? とね」
「え?」
「食中毒の場合、症状は人によってまちまちなんです。一皿の料理を数人が分けあって食べたとしましょう。どういう結果になるか? そのうちの一人か二人はごく軽い症状、ところが、ほかの二人は重態、一人は死亡――こんなことが起こるのです。食中毒では、はっきりした結果は出ないのですよ。しかし、そこに別の要素が加わることがあります。
ジギタリンは、心臓に直接働きかける薬です――ですから、特定の病気に処方される薬ですね。その家には心臓が悪い病人がいましたね。すると、その病人が狙われたとも考えられるんじゃないでしょうか? ほかの人たちにとっては、命に別条なくとも、心臓病の人には命とりになる――犯人はそう考えたのかもしれません。症状のあらわれかたはまちまちだと申しあげましたが、薬の人間に与える効き目は、まったく当てにならない、という証拠になります」
「アンブローズ卿ですな。先生は、彼が狙われていた、とお考えなのですね? うーん、なるほど。女の人が死んだのは、犯人のミスだとはねえ」ヘンリー卿はいった。,
「アンブローズ卿が死ぬと、だれが遺産を相続しますの?」ジェーン・ヘリアがたずねた。
「もっともな質問ですね、ミス・ヘリア。わたしがついていた職業でも、まっさきにそのことを聞くのですよ」前警視総監のヘンリー卿はいった。
「アンブローズ卿にはご子息が一人いらっしゃいました。マーティン・バーシーさんですわ」バントリー夫人の口調がおそくなった。
「ずいぶん前からけんか別れの状態でした。遊び人だったんでしょう。でも、アンブローズ卿は相続人からはずすことができませんでした。クロダラム・コート荘を相続できるのはバーシーさんだけという条件になっていました。そのために貴族の称号と財産は、マーティン・バーシーが受けつぐことになったのです。
それでも、アンブローズ卿には自由になるほかの財産がかなりありましてね、それらはシルヴィアさんが相続することになっていました。なぜ、わたしがこのことを知ったかといいますとね、この事件のあと、一年もたたないうちにアンブローズ卿が亡くなったからですの。シルヴィアさんが亡くなってからも、アンブローズ卿は遺書を書きかえなかったのです。その財産は、国のものになったか――それとも、近縁者として、バーシーさんが相続なすったか――わたくし、よくおぼえていませんの」
「そうなると、遺書は、事件の現場にいなかった息子と、アンブローズ卿を殺すつもりで、自分が死んでしまったシルヴィアにとって利益になった……」ヘンリー卿は考えこんでしまった。「どうも、ぴんときませんな」
「もう一人の女の人は、なにももらえなかったんですの?」ミス・ヘリアが尋ねた。「バントリー夫人がおっしゃってた、ネコちゃんみたいな女の人ですけど」
「遺書には名前がありませんでしたよ」バントリー夫人は答えた。
「ミス・マープル、話をきいていませんね」ヘンリー卿がいった。「ぼうっとしておいでですよ」
「おや――わたしは、バジャーという薬屋の老人のことを考えていたのですよ」ミス・マープルはいった。「とても若い家政婦を雇っていましてね――自分の娘というよりも孫といったほうがいいくらいのね。身うちや親類の人たちは、遺産をあてにしていたのですが、バジャーさんは、誰の名前も遺書には書かなかったのです。バジャーさんが亡くなったとき、びっくりするじゃありませんか、その若い家政婦と秘密に結婚して二年もたっていたことがわかったのです。
バジャーさんは薬屋で、ろくに教養もない、ごく平凡な老人でした。アンブローズ・バーシー卿のほうはバントリー夫人がおっしゃったように、とても品のいい紳士です。でも、やはり人間のすることは、どこにもちがいがないのですよ」
それきり、ミス・マープルはだまってしまった。
ヘンリー卿は、ミス・マープルをじっとみつめると、彼女の青い目が、やさしく、からかうようにみつめ返していた。
ジェーン・ヘリアが、沈黙を破った。
「カーペンター夫人って美人でしたの?」
「ええ、とても静かな人。はなやかな感じはなかったわ」
「思いやりあふれる声の女性だったな」そういったのはバントリー大佐である。
「のどを鳴らすような声だったわ、ごろごろってね」と、バントリー夫人。
「そのうち、おまえだって、ネコと呼ばれるようになるさ」
「家庭でそう呼ばれるのはうれしいわ。わたし、女の人ってあまり好きじゃないの。男の方と花が好きなの」
「すばらしいご趣味ですな。はじめに男を挙げてくださったとはうれしいかぎりですよ」
「どう、気転がきくでしょう? ところで、わたしの出した謎のほうは、どうなりまして? なにも隠さずにお話したつもりよ、ねえ、アーサー? フェアにお話したでしょう?」
「ああ、きちんと話した。競馬審理委員会も、このレースぶりに文句をつけたりはせんと思うよ」
「それじゃ、まず、こちらの男の方からね」バントリー夫人は、ヘンリー卿を指さした。
「すこし、まわりくどくなりますがね。まだ、はっきりこうだ、という確信がないものですからね。まず、アンブローズ卿からいきますか。彼には、あんな風変りなやりかたで自殺する気はなかったはずです――そうかといって後見をしている女性を殺しても、なんらの利益もありませんしね。そこで、アンブローズ卿は舞台から退場することになります。
カール氏には、シルヴィアを殺す動機がありません。彼がアンブローズ卿を殺すとしたら、珍らしい写本の一、二冊を盗むつもりだったでしょうが、そんな真似をしたら、すぐにわかってしまいます。そんなわけで、カール氏が犯人とはとうてい考えられません。バントリー夫人は、カール氏の下着のことで、うたがわしそうにおっしゃいましたが、やはり白ですな。
ミス・ワイですが、彼女にはアンブローズ卿を殺す動機がありません。シルヴィアを殺したい動機なら、大いにありそうですがね。彼女はシルヴィアの婚約者がほしかった。バントリー夫人なら、どんなことをしてでも手に入れたかった、とおっしゃるでしょうな。ミス・ワイは、事件の日の朝、庭でシルヴィアといっしょでしたから、葉を摘んだ可能性はあります。やはり、彼女を容疑者からはずすことはできませんね。
ロリマー青年――彼には動機があります。婚約者のシルヴィアを消せば、もう一人の女性と結婚できる。それにしても婚約者を殺すとは度が過ぎるというもの。近ごろじゃ、婚約解消など、どうってことはありませんからね。もし、アンブローズ卿が死んでくれたら、貧乏なシルヴィアは金持ちになれる。そして、その彼女と結婚できます。この考えがあたっているかどうかは、ロリマー青年の経済状態がうまくいっているか、どうかにかかってきます。彼の屋敷が借金のかたに押えられていて、しかも、そのことをバントリー夫人がわざと隠しておいでなら、わたしとしては文句をつけたいところですよ。
つぎはカーペンター夫人です。この人物もあやしい。白い手をしているということのほかに、香草《ハーブ》が摘まれた時間には、りっぱすぎるアリバイがあるからです――わたしは、アリバイなど信じません。ほかにも疑う理由がありますが、今は口にしないことにしましよう。
これまでのところ、容疑者を一人にしぼるとすれば、それはミス・モード・ワイです。ほかの誰よりも情況証拠がそろっているからですよ」
「おつぎのかた」といって、バントリー夫人はロイド医師を指さした。
「ヘンリー卿の推理はまちがっていると思いますね。それは、狙われたのはシルヴィアだと思いこんでおられる点です。狙われたのはアンブローズ卿だと、わたしは思います。ロリマー青年は、ジギタリスの毒のことなど知らないと思います。どちらかといえば、あやしいのはカーペンター夫人でしょう。長いあいだ家族の人たちと暮らしてきましたから、アンブローズ卿の健康状態のことをよく知っていたはずですし、シルヴィアに葉を摘ませにいかせるくらいわけのないことです。ほら、おばかさんだとおっしゃってたでしょう、バントリー夫人? 動機は? といわれるとねえ。わたしにはわかりません。しいて想像すれば、アンブローズ卿が、ある時期に書いた遺書には彼女も相続人として名前がのっていた。わたしに考えられるのは、そのくらいですよ」
バントリー夫人は、ジェーン・ヘリアを指さした。
「どういえばいいのかわかりませんけど、このことだけはいえますわ。シルヴィアが犯人かもしれない――バントリー夫人は、アンブローズ卿は彼女の結婚に反対だったとおっしゃいましたね。なんといっても、香草《ハーブ》を摘んできたのは彼女ですものね。アンブローズ卿が死ねば、お金が入るし、結婚だってすぐにできます。彼女は、カーペンター夫人と同じように、アンブローズ卿の健康状態をよく知っていたはずですわ」
バントリー夫人は、ゆっくりとミス・マープルを指さした。
「さあ、こんどは、わたしたちの先生の番ですわ」
「ヘンリー卿は、問題点をはっきりと、よくわかるように話してくださいました」と、ミス・マープルは、話しだした。
「それに、ロイド先生のおっしゃったことも納得できます。お二人のおかげで、いろんな点がはっきりしてきました。ただ、ロイド先生は、ご自分のおっしゃったことに、裏があるのを見逃がしておいでですね。先生はアンブローズ卿の主治医じゃありませんから、心臓がどんなぐあいに悪かったのかまでは、おわかりにはなれませんわね?」
「おっしゃる意味がわかりませんがね、ミス・マープル?」と、ロイド医師。
「アンブローズ卿の心臓には、ジギタリンが毒になるとお考えでしょう? でも、そうだといい切れるでしょうか? ほかの場合も考えられますわね」
「ほかの場合といいますと?」ロイド医師がたずねた。
「前におっしゃったでしょう。ジギタリンは心臓病の特効薬になるって?」
「それがどうかしたんですか?」
「つまり、アンブローズ卿がジギタリンを持っていてもふしぎはないということですよ――あやしまれずにね。こういうことですわ(どうも、わたしは話が下手ですね)。だれかに致死量のジギタリンを飲ませたい、としますね。そのときにも全員が中毒するようにしくむのはかんたんです――ジギタリスの葉を使えばすみますからね。ほかの人が軽い中毒ですみ、一人だけが死んでも、あやしまれることはありません。ロイド先生もおっしゃったように、中毒の場合、症状のあらわれかたはまちまちですものね。死んだ女のかたが、ほんとうにジギタリスの葉を食べて死んだのか、それともほかの毒で死んだのかと、誰もきいたりはしません。アンブローズ卿は、ジギタリンをカクテルかコーヒーに入れたのでしょう。あるいは、強壮飲料だといって飲ませたのかもしれないのです」
「すると、後見人のアンブローズ卿がかわいがっていたシルヴィアを殺した、とおっしゃるんですか?」
「そうですよ。バジャーさんと若い家政婦の場合と同じです。六十歳の老人が二十歳の女の子と恋愛するなんておかしい、とお思いでしょうが――そんなことはよくありますよ――アンブローズ卿のような独りよがりの老人の場合、恋することで自分がおかしくなってしまったのでしょうね。狂気にかられてしまったのです。
アンブローズ卿は、シルヴィアが結婚すると考えるだけで自分の気持が押えられませんでした――できるかぎり反対してみたのですが、むだに終わってしまいました。嫉妬で気が狂ったようになり、やがて、ロリマー青年にわたすくらいなら、シルヴィアを殺してしまおうと思うようになったのです。
計画はかなり前から練っていました。ジギタリスの種をセージのなかにまいておいたのですものね。やがて、その時がきました。アンブローズ卿は、ご自分で摘むと、シルヴィアにいいつけて台所へ持っていかせました。考えるだけでも恐ろしいことですわ。でも、できるだけ彼の身になって考えてあげなければねえ。あの年ごろの紳士は、若い女の子のこととなると、ときどきばかげた真似をするものですものね。わたしの村でも、前にいた教会のオルガン弾きは――まあ、スキャンダルを口にするのはやめておきましょう」
「バントリー夫人、ミス・マープルの話はほんとうですか?」ヘンリー卿がたずねた。
バントリー夫人は、うなずいてみせた。
「ほんとうのことですわ。わたくし、あの悲劇はただの事件だとばかり思っていましたの。でも、アンブローズ卿が亡くなったあとでしたが、一通の手紙がとどいたのです。わたしに郵送するようにメモを残しておいたのですね。手紙には事件の真相が書かれていました。なぜ、わたしに打ち明ける気になられたのかはぞんじませんよ――ただ、わたしとアンブローズ卿はとても気が合っていたことは確かですわ」
誰もが一言も口をきかなかった。バントリー夫人は、それを沈黙の非難と受けとめたらしかった。彼女は早口で話しだした。
「アンブローズ卿の信頼を裏切ったと、考えておいでなんでしょう? でも、そうじゃありませんわ。登場人物の名前は全部変えておきましたもの。アンブローズ・バーシー卿はほんとうの名前じゃありません。わたくしがはじめに、その名前を口にしたとき、アーサーがぽかんとした顔でわたしをみつめていたことに気づかなかったようですね。はじめのうち、アーサーは、わたしのいうことがわかりませんでした。名前をすっかり変えてしまったのですものね。雑誌や本の最初に『この物語に登場するすべての人物は、まったく仮空の人物である』と書いてあるのを真似しましたの。だから、みなさんは、ほんとうは誰のことか、おわかりにはなりませんわ」
溺死
ロンドン警視庁の前警視総監ヘンリー・クリザリング卿は、小さなセント・メリー・ミード村に近い、友だちのバントリー夫妻の家に招待されてきていた。
土曜日の朝だった。ヘンリー卿は十時十五分ごろ、朝食のためにおりてきたところ、食堂の入口で、あぶなく女主人のバントリー夫人と衝突しそうになった。食堂から走り出てきた夫人は、ひどく興奮していた。
バントリー大佐は食卓にすわっていたが、顔はふだんよりも赤くなっている。
「おはよう、クリザリング。まあ、かけたまえ」
キドニー〔羊・豚などの腎臓〕にベーコンをそえた皿をまえにして腰をおろしたヘンリー卿に、主人のバントリー大佐が話しかけた。
「ドリーは、とりみだしているんだよ」
「ああ――そうらしいね」
ヘンリー卿はおだやかな口ぶりでこたえた。ヘンリー卿は首をひねった。バントリー夫人はおちついた女性で、めったに興奮したりしないのである。夢中になる話題は、園芸のことくらいなのだ。
「けさ、ちょっとした事件を知ったので、気が動転してね――村の娘が、ほら、酒場〈青いイノシシ〉亭のエモットの娘さ……」
「〈青いイノシシ〉亭なら、知っているよ」
「なかなかかわいい娘でね。それが妊娠しちまった。よくある話さ。そのことでドリーと口げんかになってね。まったく、くだらんよ。女には道理が通用せんのだよ。ドリーときたら、その娘の肩をもつばかりでね――男はけだものだとか、なんだとか……。男女の仲なんて、そう簡単なものじゃない――ちかごろでは特にね。女のほうだって、承知しているのさ。女の子をくどく男だって悪党とはかぎらんのだよ。サンドフォード青年は、好感がもてる男さ。ドン・ファンというより、おろかな若者といったところかな」
「その娘さんを妊娠させたのは、サンドフォードという青年なのかね?」
「そうらしいね。もちろん、彼から聞きだしたわけじゃない」
大佐は言葉を選びながら話した。
「うわさ話にすぎんのだよ。あなただって、この土地のことはわかってるだろう? とにかく、わたしはよくは知らんのだよ。それに、ドリーとちがって、きめつけたり、非難がましい口はききたくないのさ。検死などがあったんじゃねえ」
「検死だって?」
「おや、話さなかったかな? その娘は身投げしてしまった。だから、みんな騒いでいるのだよ」
バントリー大佐はおどろいてみせた。
「やっかいなことだな」ヘンリー卿がいった。
「まったくさ。こっちもあまり考えたくないね。若くて、かわいい娘だった。父親がきびしくてね。我慢できなくなったんじゃないかな」
「どこで身投げしたのだね?」
「川だよ。水車小屋のあたりから流れが早くなっている。そのあたりに橋がかかっていてね。警察じゃ、そのあたりでとびこんだのじゃないかと考えている。まったく考えるのもいやなことだよ」
バントリー大佐は大げさに音をたてて新聞をひらくと、痛ましい事件から、政府の新しい不正行為に目をうつした。
ヘンリー卿は、村の悲劇にはたいして関心はもたなかった。朝食がすむと、芝生のすわりごこちのいい椅子に腰をおちつけて、帽子をふかくかぶると、うとうとしはじめた。十一時半ごろ、メイドが芝生をちょこちょこと歩いてやってきた。
「ミス・マープルがおみえになりました。お話したいことがあるそうです」
「ミス・マープルだって?」
ヘンリー卿は、おどろいて立ちあがると、帽子をかぶりなおした。彼はミス・マープルをよく知っていた。おだやかで、ものしずかな老嬢だが、するどい洞察力の持ち主である。多くの未解決の事件をこのありふれた〈村の老嬢〉が、みごとに解決してみせた――そのことをヘンリー卿はよくおぼえていた。
ヘンリー卿はミス・マープルをひどく尊敬していた。そのミス・マープルがなんの用事で会いにきたのだろう?
ミス・マープルは応接室に腰をおろしていた。いつものことながら、背すじをしゃんとのばしている。そばには、外国製のはでな色の買物かご。ほおが赤らんで、なんだかおちつかない様子だった。
「お目にかかれてうれしゅうございます、ヘンリー卿。こちらにお泊りだとききまして……突然うかがうなんて失礼だとは思いましたが……」
「こちらこそ、お会いできてうれしいですよ。あいにく、バントリー夫人はでかけていましてね」
ヘンリー卿は、ミス・マープルの手をにぎりながら話しかけた。
「ええ、肉屋の前を通りかかったとき、主人のフティットと話しておいででした。ヘンリー・フティットが、きのう轢《ひ》かれましてね――いえ、フティットの飼っている犬の名がヘンリー・フティットなんですの。毛の短いフォックス・テリアで、気性のあらい犬ですよ。どういうわけか、肉屋はよく飼っていますね」
「なるほど」ヘンリー卿はあいずちを打つしかなかった。
「バントリーの奥さまがお留守のほうがよろしいのですよ。あなたにお話ししたかったものですから。それが、あの悲しい事件のことなのです」
「ヘンリー・フティットが轢《ひ》かれたことですか?」
ヘンリー卿は、めんくらいながらきいた。ミス・マープルは、とがめるような目でヘンリー卿を見た。
「いいえ、ちがいますよ。ローズ・エモットの事件のことにきまっているじゃありませんか。もう、お聞きになっていらっしゃるでしょう」
ヘンリー卿はうなずいてみせた。
「バントリー大佐からききました。たしかに悲しむべき事件ですな」
ヘンリー卿は首をかしげた。ローズ・エモットの件で、なぜミス・マープルが話しにきたのか見当がつかなかったからである。ミス・マープルはすわりなおした。ヘンリー卿もまた腰をおろした。彼女が話しだしたとき、まじめな口ぶりになっていた。きびしささえただよっている態度。
「ヘンリー卿、おぼえておいでだと思いますが、ごいっしょに楽しいゲームをしたことがございますね。それぞれが迷宮入り事件を話し、みんなが真相をあてるゲームでした。あのとき、わたしのことを、まずまずの推理力があるとおっしゃってくださいました」
「あなたは、わたしたち全員を負かしたのです。真相をつかむみごとな才能をみせてくだすった。そのたびに、村での事件を例にとりながら、手がかりをつかんでおられましたね」
ヘンリー卿は笑いながら話したのだが、ミス・マープルは笑顔をみせようとしなかった。まじめくさった表情をくずそうとはしないのである。
「あなたのお言葉にはげまされて、うかがったしだいです。あることをお話しても、あなたなら、笑いとばすことはなさらないだろう、と思ったわけなのです」
ヘンリー卿は、ミス・マープルが本心からあることを話したがっている、とさとった。
「笑ったりするものですか」ヘンリー卿はしずかな声でこたえた。
「この娘さんローズ・エモットは、身投げして溺れたわけじゃございませんよ、ヘンリー卿――殺されたのです……それに、わたしは犯人を知っております」
おどろきのあまり、ヘンリー卿は、口がきけなかった。ミス・マープルの声はひどくしずかでおちついている。その態度は、ごくあたりまえのことを話しているようだった。
「たいへんなことじゃないですか、ミス・マープル」やっと息をついて、ヘンリー卿はいった。
ミス・マープルはしずかに何度もうなずいた。
「わかっております――だからこそ、こうしてうかがったのですよ」
「しかし、ミス・マープル、わたしのところにおいでになっても、どうにもなりませんよ。警察をやめた一市民にすぎんのです。おっしゃることが事実なら、警察に話すことですね」
「それが、できそうにないんですの」ミス・マープルはいった。
「なぜ、できないのです?」
「あなたがおっしゃるような≪証拠≫は、まるでないからです」
「すると、推測にすぎんということですか?」
「そうおっしゃってもかまいません。ほんとうは推測などじゃありませんけれどもね。わたしにはわかっているのです。ひょんなことから、わかったんですけれどもね。でも、その理由をドレウィット警部に話しても――ええ、笑いとばすことでしょうね。しかたがないことです。ひとが知っている特別な知識を理解するのは、とてもむずかしいことですからね」
「それはどんな知識ですか?」
ヘンリー卿はききかえした。ミス・マープルは、かすかにほほえんだ。
「野菜売りのピーズグッドがいましてね。荷車を引いて行商しているのですよ。何年かまえ、めいの家にきたとき、ニンジンのかわりにカブラをおいていってしまいましてね――」
ミス・マープルは、わざと口をつぐんでみせた。
「|エンドウマメ《ピーズグッド》とは野菜売りにぴったりの名前ですね。……同じような事実があったので、それから判断なさったわけですね」
「わたしは人間がどういうものかわかっています。長いあいだ、ひとつの村に住んでいますと、いやでもわかってしまうものなのですよ」
ミス・マープルは、ヘンリー卿の目をまっすぐにみつめた。ほおのピンク色がますますあざやかになっている。その目はしっかりと相手の目をとらえていた。ヘンリー卿は、人生経験がとてもゆたかだった。彼は、ためらうことなく、決断をくだした。ミス・マープルの話は、ばかげていて、ありそうにもないことかもしれなかったが、彼は、すぐに信じたのである。
「あなたを信じますよ、ミス・マープル。しかし、このわたしにどうしてほしいのですか? それに、なぜ、わたしに話したのかも、わからんのですよ」
「なんども、この事件を考えてみました。さきほどもお話ししたように、証拠がないので警察に話してもむだなことです。だから、まず、この事件に目をむけていただきたかったのです――ドレウィット警部も、あなたの話なら、きっときくはずです。もちろん、事件の捜査がすすむことになれば、州警察本部長のメルチェット大佐も、かならず、あなたの指示にしたがうはずですわ」
ミス・マープルは訴えるように相手をみつめた。
「ところで、どんな手がかりをお持ちですか?」
「紙にある人物の名前を書きましょう……それをさしあげます。もし、捜査の結果、その人物が事件と関係ないと判断なされば……まあ、そのときは、このわたしはとんでもないまちがいをやらかしたことになりますね……」
ミス・マープルは口をつぐんだ。かすかに身ぶるいすると、また話しだした。
「でも、おそろしいことです――ひどい話ですよ――もし、無実の人が絞首刑になるとしたら、とんでもないことですよ」
「そんなことがあってたまるものですか――」
ヘンリー卿はおどろいて、大きな声をあげた。ミス・マープルは心配そうな表情でヘンリー卿を見た。
「わたしの思いちがいかもしれません――でも、とてもそうは思えませんの。ドレウィット警部は、たしかに頭がよろしいかたです。でも、なまじの頭のよさが、かえってわざわいになることもあります。ものごとが見きわめられないのですね」
ヘンリー卿は、ふしぎそうな目で、ミス・マープルをみつめていた。
ミス・マープルは、小さな手さげ袋をひらくと、小さなメモ帳をとりだして一枚を切りとった。慎重な手つきで、ある名前を書くと、おりたたんでヘンリー卿に手わたした。ヘンリー卿は、紙切れをあけて、名前を見た。心あたりのない名前だったが、眉がかすかにあがった。彼は、ミス・マープルを見ながら、ポケットに紙切れをしまいこんだ。
「なるほど、これは妙な仕事になりそうですな。こんなことをするのははじめてでしてね。しかし、あなたを信用していますよ」
州警察の一室――ヘンリー卿は、本部長のメルチェット大佐とドレウィット警部とむきあっていた。州警察本部長は背のひくい男で、軍人出身者らしく態度がおうへいだった。背の高い、がっしりした体格の警部は、ひどくものわかりがよさそうだった。ヘンリー卿はにこやかな顔でいった。
「出しゃばるようで、気がひけるんだがね……自分でも、なぜ、こんなことをいうのか、よくわからんのでね」(たしかに、そのとおりだった!)
「わざわざ、おいでいただくとは、うれしいかぎりですね」と本部長。
「お目にかかれて光栄です、ヘンリー卿」といったのは警部。
警察本部長は、ひそかに思った。
「かわいそうに、バントリー大佐の家じゃ、よほど退屈しているんだな。大佐ときたら、政府の悪口をいうばかり。奥方のほうは、球根のことばかりしゃべっているんだろう」
警部のほうは、こう考えていた。
「大事件でないのが残念だな。ヘンリー卿はロンドン警視庁でも優秀な人物だったそうじゃないか。こんな簡単な事件じゃねえ」
州警察本部長は大声でいった。
「くだらん事件なんですよ。はじめは投身自殺らしかったんですがね。妊娠していたのです。ところが、警察医のへードックは慎重な男でしてね。両腕……二の腕にあざがついているのに気がつきました。死ぬまえについたあざなんです。そこをつかまれて川に放りこまれたと思われます」
「かなりな力がいりますね?」
「そうでもありません。争ったようすはありません――不意を襲われたのかもしれません――すべりやすい木の橋です。手すりもないから、つきとばすくらいは簡単なのです」
「事件がおきたのが橋のところというのはたしかなのですね?」
「ええ、少年の証言があります。ジミー・ブラウンという十二歳のこどもです。反対岸の森にいたんですが、橋のあたりで悲鳴がして、水に落ちる音がきこえた、と話しています。暗くなりかけていたので、なにも見えなかったそうです。そのうちに、なにか白いものが川を流れてくるのが見えたので、助けを呼びに走りました。みんなしてひきあげたんですが、手おくれでした」
ヘンリー卿はうなずいてみせた。
「その少年は、橋の上に人影を見かけなかったのかね?」
「いいえ。もう暗くなりかけていましたし、あたりは夕もやがかかっていたのです。少年には、事件の前後に、だれか見かけなかったかと、きくつもりではいます。少年が身投げだと思いこんだのもあたりまえの話です。だれもが、はじめはそう考えていたのですよ」
「ところが、手紙が出てきたのです」ドレウィット警部は、ヘンリー卿に話しかけた。
「その手紙は娘のポケットにあったのです。画家が使う鉛筆で書かれていて、びしょぬれでしたが、なんとか読みとりました」
「なんと書いてありましたか?」
「サンドフォード青年からの手紙でしてね。〈わかった。八時半に橋で会う――R・S〉とありました。ジミー・ブラウンが悲鳴と水音をきいたのが、八時半ごろでした。
サンドフォードに会ったことがありますか? この村にきて一カ月ほどになりますかね。ちかごろ、若い建築家たちは、風変りな家を建てていますが、サンドフォードもそんな一人ですよ。いま、アーリントンに頼まれて家を建てています。どんな家が建つんですかねえ――最新流行の家になるんでしょうよ。ガラスの食卓、鋼鉄と帯《おび》ひもでできた外科手術に使うような椅子などがあるようなね。そのことと今度の事件とは関係ないが、とにかく、サンドフォードという男はそんなやつなんですよ。ロシアの過激主義者《ボルシェビキ》〔革命的な共産主義者〕みたいに、道徳なんてないんですよ」
「女をくどくのは、大昔からやってきたことでね。まあ、人殺しほど起源は古くないがね」ヘンリー卿はおだやかな口調でいった。
メルチェット大佐は、ヘンリー卿をまじまじとみつめた。
「ええ、まあ、たしかにその通りですよ」
ドレウィット警部が口をだした。
「まあ、今回の事件は、簡単なのですよ、ヘンリー卿。サンドフォード青年が女を妊娠させてしまった。そこでロンドンに逃げ帰ろうとしたんです。ロンドンには恋人がいるのです――育ちのいい、かわいい娘さんで、婚約しているのですよ。もし、その恋人に知られたら、婚約は解消されてしまいます。サンドフォードは、橋でローズに会い――夕がたでもやもかかっていて、あたりには誰もいません――肩をつかんで川に投げこんだんです。まったく、ひどい男ですよ――どんな刑になっても文句はいえませんよ」
ヘンリー卿は、一、二分だまっていた。田舎に住む人間のはげしい偏見を感じとったのである。流行の建築などは、昔ながらのセント・メリー・ミード村では受け入れられっこないのだ。
「このサンドフォードがおなかの子の父親というのは、たしかですか?」ヘンリー卿はたずねた。
「まちがいありません。ローズ・エモットは父親にうちあけています。結婚してもらえると思ってたんですよ。あんな男が結婚するはずがないんです!」
やれやれ、中期ヴィクトリア朝時代のメロドラマの世界にとびこんでしまったようだ――ヘンリー卿は思った――疑うことを知らない純真な娘、ロンドンからきた悪党、きびしい父親、恋の破局……足りないのは、娘を愛する村の若者だけじゃないか。そうだ、そろそろ、そのへんをきいてみるか。
「ローズ・エモットには、村にボーイフレンドはいなかったですか?」
ドレウィット警部がこたえた。
「ジョー・エリスのことですか? ジョーはいい男ですよ。大工なんです。ローズもジョーをだいじにしてれば……」
メルチェット大佐はうなずいてみせた。
「身のほどをわきまえることだよ」
「今度の事件で、そのジョー・エリスはどういっていますか?」ヘンリー卿がたずねた。
「だれにもわかりゃしません。ジョー・エリスは、とても無口な男なんです。ローズのすることなすことをぜんぶ正しいと信じているのです。ローズのほうは、いいようにあしらっていましたよ。ジョーは、いつか、きっと自分のところにもどってくると信じていた――と、思いますね」
「その男に会ってみたいね」ヘンリー卿がいった。
「ええ、われわれも話を聞くつもりでいたんです」とメルチェット大佐がいった。
「なにひとつ見落としたくないのでね。まず、被害者の父親のエモット、つぎにサンドフォードと考えていたんですがね。エリスはいちばんあとにまわしたいんですよ。それで、いかがですか?」
ヘンリー卿は、それでけっこうだと、こたえた。
トム・エモットは、自分が経営する居酒屋〈青いイノシシ〉亭にいた。背が高く、がっしりした中年男で、気性がはげしそうなあご、きょろきょろとおちつかない目の持ち主だった。
「みなさん、よくおいでなさいました――おはようございます、メルチェット大佐。どうぞ、こちらへ。おちつけますから。なにか、お飲みになりますか? いらない? ま、よろしいようになさってください。
かわいそうな娘のことでいらしたんでしょうな。あの娘は、ローズは、いい子だったんです。孝行娘の手本みたいな子でした――それが、あのブタ野郎――ごめんなせえよ、ひでえことをいって――が来おって。結婚の約束をしたんですぜ。あんな野郎は法の手でしっかりさばいてくだせえよ。あいつが殺したんでさ。人殺しのブタめ、わしらの顔に泥をぬりくさって! ああ、かわいそうなローズ!」
「娘さんの口から、サンドフォードがおなかの父親だときいたのかね?」メルチェット大佐は、きびきびした口調でたずねた。
「もちろんでさ。この部屋で、あの子はそういったんでさ」
「それで、あんたは、娘さんになんといったのかね?」
ヘンリー卿がよこから口をはさんだ。
「あの子にですかい?」トム・エモットは、不意をつかれて、口ごもった。
「ああ、たとえば、家から出ていけなどとおどかしたりはしなかったかね?」
「あっしは……そのう、かっとしてたもんで――ま、あたりまえでしょうが。みなさんがたも、そうお思いでしょう。だが、もちろん、あっしは追いだしたりはしなかった。そんなまねなどできるわけがねえ」
トム・エモットは、腹をたててみせた。まるで道徳家のような態度である。
「とんでもねえこった。それにしても、いったい、警察はどうするつもりか、それをおききしてえくらいでさ。あの子のためにも、あの野郎をとっちめてもらいてえ。それができねえのなら、金を払ってもらおうじゃないか」エモットは、こぶしでテーブルをたたいた。
「娘さんを最後に見たのは、いつだったね?」メルチェット大佐がたずねた。
「きのう――お茶の時でさ」
「どんな様子だった?」
「さあて――ふだんと変らなかった。なにも気づかなかったな。もし、あっしが気づいてれば……」
「気づかなきゃ、どうもできんだろう」ドレウィット警部は、冷たい口ぶりでいった。
三人は〈青いイノシシ〉亭を出た。
「エモットという男とは、あまりつきあいたくないね」ヘンリー卿はいった。
「ひどい男でしてね。チャンスがあれば、サンドフォードから、金をしぼりとっていたにちがいありませんよ」メルチェット大佐がいった。
つぎに会ったのは、建築家のレックス・サンドフォードだった。青年は、ヘンリー卿が無意識のうちに考えていたようなタイプとは、まるでちがっていた。背が高く、色白で、ひどくやせていた。青い、夢見るような目、もじゃもじゃの髪をのばしている。しゃべりかたにどこか女っぽいところがあった。州警察本部長のメルチェット大佐は、身分を名乗り、ついでに、ヘンリー卿たちも紹介した。そのあと、すぐに訪ねた用件をいい、事件の夜の行動を話すように求めた。
「おわかりだと思いますが、こちらには強制する権利はありません。また、あなたの話が証拠として利用されることもあります。この点をはっきりわかっていただきたい」
「ぼくには……なんのことだかわかりません」サンドフォードはいった。
「ゆうべ、ローズ・エモットが溺死したことは、ごぞんじですね?」
「ええ、まったくひどい話です。ほんと、ぼくは一睡もできなかった。きょうだって仕事になりゃしない。責任――とても責任を感じてるんです」青年は両手で髪をかきむしった。髪がもっとくしゃくしゃになった。
「そんなつもりじゃなかった。なのに、あんなことになるなんて、ローズがあんなことをするなんて――夢にも思わなかった」テーブルにむかって腰をおろすと、両手で顔をおおった。
「サンドフォードさん、ゆうべの八時三〇分、どこにいたか、うかがっているのですがね」
「外出してました――散歩に出たんです」
「ミス・エモットに会うためですね?」
「ちがいます、ひとりでした。森を通ったりして、ずっと歩いていたんです」
「それじゃ、この手紙をどう説明してもらえますか。死んだローズ・エモットのポケットにあったんですよ」
そういうと、ドレウィット警部は、おちつきはらった声で、手紙を読みあげた。
「どうです、この手紙はあなたが書いたんじゃないというんですか?」
「いいえ、そんなことはいいません。たしかに、ぼくが書きました。ローズが会ってほしいと、いってよこしたからです。しつっこいんです。ほかにどうしようもなかった。だから、手紙を書いたんです」
「そんなふうに、話してくださればいいんですよ」と警部。
「でも、ぼくは、いかなかったんだ!」サンドフォード青年の声が、かん高くなり、口調もはげしくなった。
「ほんとうにいかなかった――そのほうがいいと思ったんです。あしたには、ロンドンにもどるつもりでした。だから会わないほうがいいと思った。ロンドンに帰ってから手紙を書いて――なんとか、話をつけようと思った」
「ローズ・エモットが妊娠していたこと、父親があなただということは、ごぞんじでしたね?」
サンドフォード青年はうめき声をあげたが、返事はしなかった。
「そのことはまちがいありませんね?」
サンドフォードは、顔をうつむけるだけだった。
「そうだと思うけど」はっきりしない声だった。
ドレウィット警部は、うれしさを隠しきれなかった。「ああ、なるほどね。ところで、あなたのいう≪散歩≫ですがね。途中でだれかに会いましたか?」
「おぼえていません。たぶん、だれにも会わなかったと思います」
「そいつは困ったな」
「どういうことですか?」サンドフォード青年は、警部をにらんだ。
「散歩にいこうがいくまいが、そんなことは、ぼくの勝手でしょう。ローズの自殺とどんな関係があるんです」
「なるほど。ところがですね、ローズ・エモットは自殺したんじゃないんです。だれかの手によって、水に放りこまれたのですよ、サンドフォードさん」
「ローズが……」その恐ろしい意味がのみこめるまで、一、二分もかかった。
「まさか! それじゃ、ローズは――」
サンドフォードは椅子にへたりこんでしまった。メルチェット大佐は、立ちあがった。
「いいですね、けっしてこの家から出ないようにしてください」三人は、そろって家を出た。警部と州警察本部長は目くばせしあつた。
「もう、じゅうぶんじゃないですか、本部長」と警部がいった。
「ああ、令状《れいじょう》を出してもらって、サンドフォードを逮捕するんだな」
「あ、しまった、手袋を忘れてしまった」
ヘンリー卿は、いうと、いま出てきたばかりの家にもどっていった。サンドフォード青年は、まだ椅子に腰をおとしたままのかっこうでいた。ぼんやりと前をみつめている。
「きみに話しておきたいことがあって、もどってきたんだよ。わたし自身は、きみを助けてあげたい。なぜ、その気になったかは、いまは口にできない。ただ、きみにその気があるなら、できるだけ手短に、ローズという娘さんとのことを話してほしいんだがね」
「ローズは、きれいでした。とてもきれいで、男なら、まいってしまうような娘なんです。それに――彼女のほうから誘ってきたんだ。ほんとうなんです。誓ってもいい! ぼくにつきまとって……ここじゃ、話し相手もいないし、だれからも好かれていないようだった――それに、ローズはほんとにきれいだったし、男とは遊びなれてるようだった。だから……」
サンドフォード青年は口ごもった。しばらくして顔をあげると、
「それが、おかしなことになった。結婚してくれって、いいだしたんです。どうすればいいんです。ぼくはロンドンに婚約者がいるんです。もし、このことがばれたら、なにもかもおしまいです。けっして許してはくれないでしょう。たしかに、ぼくはくだらない男ですよ。でも、どうしたらいいかわからない。ただ、ローズに会うのを避けるだけでした。ロンドンに帰って、弁護士と相談したうえで、ローズとは金やそのほかのことをきめよう、そう思ったんです。ああ、なんてばかだったんだ。ぼくは殺人事件の容疑者になっちまった。でも、警察はまちがってる。ローズは自殺したんですよ、そうにきまってますよ」
「自殺するといって、きみをおどかしたことがありますか?」
サンドフォードは首をふった。
「ありません。それにローズは自殺するタイプじゃありません」
「ジョー・エリスという男をどう思うね?」
「大工のジョー・エリスですか? 気のいい田舎者です。たいくつな男です――でも、ローズには首ったけです」
「やきもちを焼いてたんだろうな」
「すこしはね――でも、にぶい男です。態度にあらわすような男じゃないんです」
「なるほどね。それじゃ、これで失礼しよう」ヘンリー卿は、連れのところにもどった。
「メルチェット大佐、もう一人の男――エリスといったね――に会っておいたほうがよくはないかな……サンドフォードを逮捕するまえにね。逮捕してから、まちがいだとわかったら、やっかいだからね。殺しの動機としては、嫉妬はかなりなものですよ――その線の殺人はたくさんあるからね」
「おっしゃるとおりです。しかし、ジョー・エリスは人殺しができる人間じゃありません。ハエ一匹殺せない男なんです。ジョーがかっとしたところを見た者はいないんですよ。それでも、やはりジョーに会って、ゆうべの行動をきいといたほうがいいと思います。今なら、家にいるかもしれません。バートレット夫人の家に下宿してましてね。バートレット夫人は、だんなに死なれて、洗濯ものの注文をとって生活をしています。ちゃんとした女性です」
小さな木造住宅は、掃除がゆきとどいて、きれいに片づいていた。ドアをあけたのは、がっしりした体格の、背の高い中年の女だった。青い目の愛想《あいそう》のいい顔。
「おはよう、バートレットさん。ジョー・エリスはいますか?」ドレウィット警部が話しかけた。
「十分ばかしまえに帰ってきたところです。どうぞ、おはいりください」バートレット夫人はいった。
エプロンで手をふきながら、バートレット夫人は、三人を小さな客間に案内した。剥製の鳥、陶製の犬が飾られている部屋で、ソファ一つに、ありきたりの家具がいくらかあるていどだった。
バートレット夫人は、てきぱきと客のための席をこしらえると、じゃまっけな飾り棚をかかえてどけた。そして部屋を出ると、大声で呼んだ。
「ジョー、警察のかたがみえてるよ」
台所の奥から返事がかえってきた。
「手を洗ったら、いきますよ」
バートレット夫人は、にっこりした。
「バートレットさん、こっちにきてかけてくださいよ」メルチェット大佐がいった。
「とんでもございません」バートレット夫人はあわてていった。
「ジョー・エリスは下宿人としては、どうですか?」
メルチェット大佐はなにげない口調でたずねた。
「あんなにありがたい下宿人なんていませんよ。とてもしっかりした若者ですよ。お酒は一滴も飲みません。大工の腕だって立派なものです。この家のことだって、なにかと手伝ってくれるんですよ。あそこの棚は、ジョーがとりつけたものですし、いまだって、台所の食品戸棚をとりつけていたところなんですよ。頼めば、なんでもやってくれます――ほんとに気軽にやってくれて、手間賃を払おうとしても受けとらないんです。ほんとに、ジョーみたいな若者など、めったにいるもんじゃありませんよ」
「いつか、運のいい娘さんがジョーをつかまえることになるだろう。ところで、ジヨーは、溺死したあのローズ・エモットに、かなり気があったらしいね」
バートレット夫人は、ため息をついた。
「見てて、こっちがうんざりするくらい。ローズが歩いた地面までありがたがっているほどですものね。それなのに、ローズのほうじゃ、ジョーに目もくれないんですよ」
「ジョーは、夜をどうやってすごしていますか?」
「たいてい、家にいますわ。ときどき、はんぱな仕事を持ち帰ってやってるようです。それに通信教育で簿記も勉強していますよ」
「なるほどね。ゆうべは家にいましたか?」
「ええ、いましたよ」
「たしかですか、バートレットさん」ヘンリー卿が、きびしい声でたずねた。
バートレット夫人は、ヘンリー卿にむきなおった。
「もちろんですわ」
「八時から八時半ごろ、どこかに出かけたりしませんでしたか?」
「いいえ。台所の食品戸棚をつくっていたんですもの、わたしも手伝っていました」
バートレット夫人は笑った。
ヘンリー卿は彼女の笑顔をみつめた。疑いの念がわいてきたのである。そのとき、ジョー・エリス本人が部屋にはいってきた。背が高く、肩幅のひろい若者だった。田舎の好男子といったところである。内気そうな青い目、人のよさそうな笑顔。おとなしい巨人という言葉がぴったりする若者である。
最初にたずねたのは、メルチェット大佐だった。
「ローズ・エモットの死について調べているのだよ。彼女のことは知っているね、エリス?」
「ああ、知ってる」口ごもりながら、いった。「いつか結婚したいと思ってたよ。でも、かわいそうに……」
「ローズが妊娠していたことは聞いていたね?」
「ああ、あいつがすてたんだ。でも、そのほうがよかったさ。結婚したって、どうせ不幸になるだけだったさ。その話をきいたとき、これでローズもおれのところにくると思った、おれがめんどうを見るつもりだったんだよ」
「その話をきいてもかね?」
「ローズが悪いんじゃない。うまいことをいわれて、たぶらかされただけだよ。ローズから、ちゃんときいたさ。川にはまって死ぬこたあなかったんだ」
ジョー・エリスの目に怒りの色が浮かんだ。
「ゆうべの八時半ごろ、どこにいた?」
「ここにいました、食品戸棚を組みたててました。奥さんにきいてください」すぐに返事がかえってきた。
気のせいかな?――ヘンリー卿は首をかしげた。あまりにも返事が早すぎる。――頭の回転がにぶい男にしては、いやにすばやい返事じゃないか。まるで答えを用意していたようだ。青い目の光が心配そうに見えるのは気のせいだろうか。まさか?――
ヘンリー卿は思った。
そのあと、二、三の質問をぶつけてから、三人はバートレット家を出た。そのまえに、ヘンリー卿は、口実をもうけて、台所をのぞいてみた。バートレット夫人は、ストーヴのところでいそがしそうに働いていた。ヘンリー卿を見て、にっこりした。新しい食品戸棚が壁ぎわにあり、まだ道具や木切れがそのままになっている。
「ゆうべ、エリスがつくっていたのは、それですか?」
「はい、すてきな戸棚でしょう? ジョーはほんとに腕がいいんでございますよ」
バートレット夫人はすらすらと答えた。しかし、あのエリスの答えぶり――気のせいだろうか? いや、なにかを隠している。
「エリスを問いつめてみなければならんな」ヘンリー卿は思った。台所を出ようとしたとき、彼は乳母車にぶつかった。
「赤ちゃんが目を覚まさなければいいんだが」
バートレット夫人は、けたたましい声で笑った。
「おや、まあ。わたしにゃ子どもなんかいませんよ――ほんとは欲しいところですよ。その乳母車は、洗濯ものを運ぶのに使うんでございますよ」
「ああ、そうでしたか――」ふと、思いついて、ヘンリー卿はたずねた。
「バートレットさん、ローズ・エモットはごぞんじでしたね。ほんとうは、ローズをどう思っていました?」
バートレット夫人は、けげんそうな顔をした。
「そうでございますねえ――浮わついた娘でしたよ。でも、死んだ人のことは……あまり悪くいうのもねえ」
「しかし、これは事件ですから、ぜひお話しいただかねば……」
ヘンリー卿は、バートレット夫人を説きふせようとした。夫人は、相手の顔をじっとみつめながら考えている様子だった。ようやく決心がついたらしい。
「どうしようもない悪《わる》でしたよ。でも、そんなことをジョーにはいえませんでした。あの娘はジョーをいいようにあしらっていたのです」
ヘンリー卿にはわかっていた。ジョー・エリスみたいな男は、弱みにつけこまれやすいのである。すぐに相手を信じこむ。それだけに真相を知ったとき、痛手をこうむるのもはげしいのだ。ヘンリー卿は、わけがわからなくなったまま、バートレット家を出た。目の前に壁が立ちはだかっている感じ。
ジョー・エリスは、ゆうべおそくまで家で仕事をしていた。バートレット夫人が仕事ぶりを見ていたのだ。どっちかがうそをついていることがあるだろうか? もし、そうだとしても、証拠はなに一つない――あるのはただ一つ。ジョー・エリスのあまりにも早く返ってきた答えだけ――まえもって用意していたように思える答えっぷりだけだった。
「これで、すべては明らかになったようだな」メルチェット大佐がいった。
「そうですね。サンドフォードが犯人ですよ。議論するまでもありません。事実がこれだけはっきりしていてはねえ。わたしはこう考えます――娘と父親が、サンドフォードをゆすった。しかし、やっこさんにはあまり金がない。そうかといって、ロンドンの婚約者に知られたくもない。やけくそになって殺しちまった……そんなところじゃないんでしょうか?」ドレウィット警部はヘンリー卿に話しかけた。
「そのようだね。しかし――サンドフォード青年は暴力タイブの人間とは考えにくいのでねえ」
ヘンリー卿は、反対意見をのべてみたが、自分でも確信しているわけではなかった。ごくおとなしい動物でも、追いつめられたら、思いがけない行動に出ることもあるのだ。
「いちど、少年に会ってみたいね」思いついたようにヘンリー卿はいった。「ほら、悲鳴をきいたという少年だよ」
ジミー・ブラウンは、かしこそうな少年だった。年のわりに小さく、こすからそうな顔をしていた。自分の話をきいてもらいたがり、事件の夜のことを大げさに話そうとしたが、その話はいい、といわれてしょげかえった。
「すると、きみはむこう岸、つまり、村からみて、川を渡ったところにいたことになるね。橋に近づいたとき、そっちにだれかいなかったかね?」ヘンリー卿は話しかけた。
「森でだれか歩いてたよ。おれ、サンドフォードさんだと思ったんだ。ほら、へんてこな家をたててる建築家さ」
三人は、たがいに見やった。
「悲鳴をきく十分ばかり前のことだね?」
少年はうなずいた。
「ほかにだれか見かけなかったかね――村側の川岸のあたりで?」
「男の人が道を歩いてきたよ。口笛をふきながら、ゆっくり歩いてた――ジョー・エリスだと思うな」
「見えなかったはずだぞ」ドレウィット警部がぴしゃりといった。「暗くなりかけてたし、もやもかかっていたんだぞ」
「だって口笛をふいてたもんね。ジョーはいつでも同じ節《ふし》しかふかないんだ――≪しあわせはおいらの願い≫。それしか知らねえんだ」
ジミーは現代っ子らしく、古くさい人間をばかにした。
「ほかの人でもふけるじゃないか。ところで、その男は橋にむかって歩いてきたのかい?」
そうたずねたのは、メルチェット大佐。
「ちがうよ、村のほうに歩いてった」
「だれかは知らないが、その男は、事件とは関係ないだろうな。悲鳴と水音をきいて二、三分たってから、下流に流されている人を見て、助けを求めて走った。橋をわたって、まっすぐ村までいった――そうだったね? かけだしたとき、橋のあたりでだれかを見かけなかったかね?」
メルチェット大佐がたずねた。
「川のそばの道に、手押し車をおしてる男が二人いたと思うけどな。でも、遠かったから、こっちに来るのか、むこうに行くところかもわからなかった。ジャイルズさんちがすぐ近くだったから、おれ、走ったんだ」
「よくやってくれたな、ぼうや。おちついて、やるべきことをやった。ボーイスカウトにはいっているのかね?」
「うん」
「いや、よくやってくれたね」
ヘンリー卿はだまって、考えていた。ポケットから紙切れをとり出してながめながら、首をひねった。こんなことがあり得るだろうか?――いや、そうともかぎらないぞ。
ヘンリー卿は、ミス・マープルを訪ねることにきめた。
ミス・マープルは、ヘンリー卿を古めかしい客間に案内した。きれいだが、すこし調度品が多すぎる感じである。
「捜査の進みぐあいをご報告しようと思いましてね」とヘンリー卿はいった。
「どうもうまくないんですよ。警察はサンドフォード青年を逮捕する気なのです。わたしも、彼が犯人に思えましてねえ」
「すると、なにも発見できない……つまり、わたしの推理をうらづけるものは見つかっていないのですね?」ミス・マープルは、困った顔になった。心配そうな表情である。「もし、わたしがとんでもない思いちがいをしていたら……。経験ゆたかなあなたなら、きっと真相をつきとめてくださるんでしょうが……」
「ただ、わたしには信じられんのですよ。動かしがたいアリバイがあるのです。ジョー・エリスは、台所で、ひと晩じゅう食品戸棚をとりつけていましたし、バートレット夫人もいっしょにいたというのです」
ミス・マープルが、はっと息をのんだ。からだをのりだした。
「でも、それはおかしいですわ。金曜日の夜ですものね」
「金曜日の夜?」
「ええ――金曜日の夜。金曜日の夜、バートレット夫人は、しあげた洗濯ものをとどけてまわるんですよ」
ヘンリー卿は椅子にもたれかかった。ジミー少年が話した口笛の男のことが頭に浮かんだ――そうか――すべてがぴったりくるぞ。ヘンリー卿は立ちあがると、ミス・マープルの手をしっかりとにぎった。
「ようやく、わかりました。できるだけのことはしてみましょう……」
五分後――ヘンリー卿は、バートレット夫人の家にいた。陶器の犬がならんでいる小さな客間で、ジョー・エリスとむかいあっていた。
「エリス、ゆうべのことで、きみはうそをついたね。八時から八時半にかけての時間、台所で食品戸棚をつくっていた、といったのは、うそだ。ローズ・エモットが殺される二、三分前に、川ぞいの道を橋にむかうきみを目撃した人がいる」
ジョー・エリスは息をのんだ。
「ローズは殺されたんじゃない――ちがうんです。おれは関係ない。自分でとびこんだんです――もうどうにでもなれ、とローズは思ってた。おれには、これっぽちも、ローズを傷つける気はないんです――そんなこと、考えたこともない」
「だったら、なぜ、家にいたなどとうそをついたんだ?」
ヘンリー卿はきびしくせめた。
ジョー・エリスは、目をきょろきょろさせていたが、うつむいてしまった。
「おれ、こわくなっちまって。あのへんにいたところを、ここの奥さんに見られた。ローズが死んだことは、そのあとすぐに聞いたんですよ――奥さんは、おれが疑われるかもしれない、といった。おれはずっと家にいたことにしたんだ。奥さんも、いっしょにいたことにする、といってくれた。ほんとに、いいひとなんだ。いつも、おれによくしてくれてる」
ヘンリー卿は、だまったまま客間を出ると、台所にいった。バートレット夫人は流しで洗いものをしていた。
「バートレットさん、ぜんぶわかりましたよ。もう、白状したらどうですか――無実の罪でジョー・エリスが絞首刑になってもかまわない、とは思わないでしょう。
わたしの口から、事件の真相を話しましょうか――あの夜、あなたは洗濯ものをとどけたり、注文をとるために外出しました。途中でローズ・エモットに出会った。この若い娘がジョーをそでにして、よそ者と仲よくしている――あなたは、そう思った。妊娠したローズをジョーは助ける気でいる。そんな彼女と結婚してもいい、とジョーは思いつめている。
ジョーが下宿するようになって四年。あなたは、彼を愛するようになった。彼と結婚したかった。あなたはローズを憎みましたね――こんなだらしのない、つまらない娘に、愛するジョーが奪われかけている。そう思うと、我慢できなくなってしまった。バートレットさん、あなたは力が強い。ローズの肩をがっちりとつかむと、川につきおとした。そのすぐあとに、あなたはジョーと出会ったのです。ジミー・ブラウン少年が、あなたがた二人を見たのですが、遠くからでした――暗くなっていたし、もやも出ていました。乳母車を手押し車とまちがえて、男二人が押しているものと思いこんでしまった。あなたはジョーに、疑われるかもしれないといい、アリバイ工作をしました。ほんとうは、あなた自身のアリバイのためにね。
いかがです、わたしの話におかしなところがありますか?」
ヘンリー卿は息をつめた――相手はどう出るか?
バートレット夫人は、エプロンで手をふきながら、ヘンリー卿のまえに立った。ようやく決心がついたらしい。
「おっしゃるとおりです」落ち着きはらった声。「なぜ、あんなことをしでかしたのか、自分でもわかりません。あんな恥知らずな娘にジョーをわたすものか……そう思うと、かっとしたんでしょう。わたしは、これまで幸せじゃありませんでした。死んだ主人はひどい男でした。ひねくれた根性の男で、病気ばかりしていました。それでも、死ぬまで看病をしてやりましたよ。やがて、ジョーが下宿するようになりました。こんなに白髪がありますけど、わたしはそれほど年をとってはいません。まだ四十になったばかり。ジョーはすばらしい人です。彼のためなら、どんなことでもしてあげるつもりでした。ほんとに、子どもみたいな人で、おとなしくて、人を疑うことを知りません。それを、あのローズが――」
バートレット夫人は、言葉をのみこみ、感情をおさえようとした。こんなことになっても、彼女は気強くふるまっていた。ヘンリー卿の顔をのぞきこむようにしていった。
「だれにも、わかるまい、と思っていました。どうして、おわかりになったのですか?」
ヘンリー卿はしずかに首をふった。
「見破ったのは、わたしじゃありません」
ヘンリー卿は、ポケットにはいったままの紙切れを思いだしながら答えた。それには、古めかしい書体で、こう書いてあった。
「ミル住宅区二番地、ジョー・エリスが下宿している家のバートレット夫人」
ミス・マープルは、こんども正しかったのである。
◆ミス・マープルのご意見は? 3
アガサ・クリスティ/各務三郎訳
二〇〇六年一月二十五日