アガサ・クリスティ
「ポワロ参上!」6
目 次
二重の罪
あなたのお庭はどんな庭?
黄色いアイリス
スペイン櫃の秘密
二重の罪
わたしが部屋をたずねたとき、友人のポワロは仕事づかれでがっくりしていた。
腕輪がなくなったとか、かわいい子ネコがいなくなったとかいって、富豪の夫人たちは、この偉大なるエルキュール・ポワロ探偵のもとにかけこんでくるんだ――。そういって、ポワロは腹を立ててみせた。
この小男の友人はかわった性格をしている。フランダース人らしいけちなところと、芸術家らしさの両方がある。
おもしろくもない事件をたくさん引き受けてしまうのは、フランダース人らしい金銭欲が芸術家の気質をおさえこんでしまうからだ。まるで金にならない事件を引き受けることだってある。その事件がおもしろそうだと感じたときだ。
まあ、こんなわけで、ポワロの仕事のしすぎは性格のせいなのである。ポワロもそのことはよくわかっている。わたしが、一週間ばかり休暇をとって南海岸地方の有名なリゾート、エバーマスに出かけようよ、と誘うと、簡単に承知してくれた。
エバーマスでの休暇は楽しいものだった。四日目のこと、ポワロが封を切った手紙を手にしながら、やってきた。
「ねえ、|きみ《モナミ》、友人のジョゼフ・アーロンズをおぼえてるだろう、演劇プロダクションをやってる男さ」
わたしはようやく思いだした。ポワロには友人がたくさんいる、それもごみ掃除人から侯爵まで、いろいろな友人がいるのだ。
「ところで、へイスティングス、そのジョゼフ・アーロンズが、いまチャーロック・ベイにいるんだ。からだのぐあいが悪いようだし、ちょっとした心配ごとをかかえている。会いにきてくれないか、と手紙でいってきたんだ。どうも断わるわけにはいかない。ジョゼフ・アーロンズは信頼できる友人で、気もいいんだ。これまでも、わたしはいろいろ世話になっているしね」
「いいとも。チャーロック・ベイはきれいなところらしいよ。それに、わたしは行ったことがないんだ」
「だったら、仕事と遊びが一度にできることになるな。汽車のほうは、きみが調べてくれるね?」
「たぶん、一、二度乗りかえをすることになるだろうね」わたしは顔をしかめた。「田舎の鉄道のことだからね。南デヴォン海岸から北デヴォン海岸にいくのに、まる一日かかることだってあるんだ」
ところが、調べてみたら、乗りかえはエクスター駅での一回だけだとわかった。汽車もりっぱだという。
いいことをきいたので、ポワロに知らせてやろうと急いでもどる途中、快速バス会社の営業所のまえを通りかかった。そこにはこんな案内が出ていた。
明日、チャーロック・ベイ一日観光旅行
出発、午前八時三〇分
デヴォン州のすばらしい景色が楽しめます
わたしは、営業所でこまかい点をいくつかきいて、すっかり満足しながらホテルにもどった。ところが、この話にポワロはすこしも乗ってこないのだ。
「ねえ、なぜバス旅行がいいんだね? 汽車のほうが正確だろう。汽車なら、タイヤがパンクすることがない。交通事故だって起こらない。だいいち、風が吹きこむこともない。窓さえしめておけば、すきま風が吹きこむことはないんだからな」
バス旅行でこっちが気にいってるのは、新鮮な空気を吸えることなんだがねえ、というようなことをにおわせてみた。
「雨が降ったら、どうするんだい? イギリスの天気ときたら、まったくあてにならないんだから」
「バスには幌《ほろ》がついているから大丈夫さ。それに大雨だったら、バス旅行は中止になるよ」
「やれやれ、いっそのこと雨になってほしいね」
「わかったよ、それほどいうのなら……」
「いや、いいんだよ、きみ。きみがバス旅行をしたいのはわかっているんだ。たまたま厚手のマントにマフラーも二枚もってきている。ところで、チャーロック・ベイでの時間はたっぷりあるのかね?」ポワロはため息をつきながらいった。
「うーん、それだけの時間はないと思う。チャーロック・ベイでひと晩とまることになるだろうな。
観光バスはダートムア〔デヴォン州中央部の高原地帯〕をまわることになっている。昼食はマンカンプトンでとることになる。チャーロツク・ベイに着くのは夕方の四時ごろになるだろうね。帰りのバスの出発が五時だから、このエバーマスにもどるのは十時ごろになる」
「へえ、そんな観光バス旅行に出かける連中がいるのかねえ。そうすると、わたしたちは帰りのバスには乗らないわけだから、とうぜん、料金は安くなるんだろうね?」
「そんなわけにはいかんだろう」
「話してみるべきだね」
「ねえ、ポワロ、けちなことをいうなよ。金ならずいぶん稼いでるじゃないか」
「いいかい、けちでいうのじゃない。これは取引きの問題なんだ。わたしが百万長者だったとしても、いわれるままに金を払ったりはせんよ」
やっぱり、ポワロの主張は通らなかった。快速バス営業所の切符売りの男は、冷たく、おちつきはらって、ポワロの申し出をきっぱりとはねつけた。切符売りにいわせると、わたしたちは帰りのバスにも乗るべきなんだそうだ。チャーロツク・ベイで降りて、もどらないのなら、特別料金をいただきたいくらいです、みたいなことまでいわれてしまった。ポワロはすごすごと規定料金を払ってバス会社を出ることになった。
「イギリス人は金勘定がわからない国民らしいね」ポワロはぶつぶついった。「ほら、へイスティングス、若い男がいたろう。あの若い男は、マンカンプトンで降りてしまうといいながら、だまって料金を全額払ってしまったじゃないか」
「へえ、気がつかなかったな。そうだとしても、はたして……」
「あの若くてきれいな女性に見とれていたね、きみは。五番の席を予約した女性さ。わたしたちの隣りの席だよ。ああ、きみ、わたしにはよくわかるさ。わたしは十三番と十四番の席を予約しようとした――中央の席なら風にも当たらないと思っていたからね――ところが、きみは横から口をはさんで、三番と四番の席を予約してしまった」
「まあ、そんなところさ」わたしは顔が赤くなった。
「髪の色は赤茶だった――きみが見とれるのは、いつも赤茶色の髪の女性だね」
「とにかく、きみが観察していた、おかしな青年よりも、彼女のほうが見てて楽しいよ」
「そいつは見方の問題さ。わたしには、あの若者のほうがおもしろかった」
意味ありげなポワロの口調にひっかかったので、思わず彼の顔を見た。
「ふーん、どうしてだい?」
「いや、たいしたことじゃない。あの若者が口ひげを生やそうとしてたからだよ。まだ、口ひげと呼ぶには、なさけないがね」
ポワロはりっぱな口ひげをやさしくなでてみせた。そしてつぶやくようにいった。
「口ひげを生やすのは芸術なんだ。だから、口ひげを生やそうとする人物の気持がよくわかるのだよ」
ポワロの話をきいていると、まじめなのかおもしろがっているのか、よくわからないことが多い。わたしはいちばん無難な方法をとった――だまっていたのである。
あくる朝はいいお天気だった。日の光りがかがやき、すばらしい一日になりそうだった。ところが、ポワロはお天気には目もくれなかった。厚い服を着たうえで、ウールのチョッキ、防水コート、重いオーヴァー、それにマフラーを二つ用意した。おまけに出発前には、インフルエンザの錠剤を二つのんだ。
わたしたちの荷物は小さなスーツケースが二個だった。きのう見かけたかわいい女性の荷物は小さなスーツケース一個、ポワロの気を引いた口ひげの若い男も同じ。ほかの乗客たちは荷物を持っていなかった。四つの荷物は運転手があずかることになり、わたしたちはそれぞれの席についた。
「きみは新鮮な空気が大好きだったね」
ポワロは、そういって、わたしを窓ぎわの席に追いやると、自分はかわいい女性の隣にすわってしまった。どう考えても、わたしに意地悪をしたとしか思えない。
ところが、そのうちポワロはむくいを受けることとなった。六番座席の男がうるさい人物で、ふざけてみたり、さわぎたてたりする。そこでポワロは席をかわってさしあげましょうか、と申しでるはめになってしまったのだ。
彼女はよろこんで席をかわった。おかげで彼女はわたしたちと口をきけるようになり、やがて、われわれ三人は楽しいおしゃべりができるようになったのである。
彼女はとても若かった。十九歳そこそこといった感じで、少女みたいに無邪気だった。そのうちに旅行の目的をうちあけてくれた。エバーマスで古美術品店をしている伯母のいいつけで出かけてきたのである。
その伯母さんは、父親に死なれて、ひどい貧乏ぐらしをしていたが、父親が残したたくさんの美術品があったので、なけなしの資金で店をひらいた。その店が大当りで、伯母さんの名前も業界で知られるようになった。
メアリー・デュラントというのが若い女性の名前だが、伯母とくらすようになり、古美術を勉強するうちに、そのおもしろさにひかれて、家庭教師や金持ちの話相手になるよりも古美術商になりたいと思うようになった。ポワロは、うなずきながら聞いていた。
「お嬢さんなら、きっと成功しますよ。ただ一つだけ忠告させてください。むやみに人を信用しないことですよ。世の中には、悪人がたくさんいます。このバスにだって、よからぬ連中が乗っているかもしれない。用心が肝心ですぞ」
彼女はぽかんと口をあけたまま、ポワロをみつめた。ポワロはわけ知り顔にうなずいて、
「じっさい、そのとおりなんですよ。おもてだけじゃ判断できない。あなたと話しているこのわたしだって、指名手配中の犯人かもしれないです」
ポワロは、おどろいているメアリーに、なんども目をぱちぱちさせてみせた。
昼食のためにバスはマンカンプトンでとまった。ポワロが給仕に二こと三ことささやくと、われわれ三人は窓ぎわの席に案内された。窓の外はひろい中庭になっていて、二十台ほどの大型観光バスが駐車していた――観光バスは全国各地からやってきていた。ホテルの食堂は満員で、かなりさわがしかった。
「休日となると、どうしてこう遊びに出かけたがるのかねえ」わたしは顔をしかめた。メアリー・デュラントもうなずいた。
「最近は、エバーマスも、夏になるとひどいものですわ。むかしとは大ちがいだと、伯母はいいます。人が多くて、歩道を歩くにも苦労するほどですもの」
「でも、おかげで店はもうかるでしょう、お嬢さん?」
「うちのような店はだめですわ。珍らしくて貴重な品物しかあつかっていませんもの。伯母のおとくいはイギリスじゅうにいらっしゃいます。これこれの時代のテーブルや椅子、ある種類の磁器が欲しい、と手紙で注文なさるんです。伯母は、それらの品を仕入れて、おとどけするのです。こんども、同じ仕事なのですわ」
わたしたちが興味をみせたので、メアリーは話をつづけた。
J・ベーカー・ウッドというアメリカの紳士で細密画《ミニアチュア》にくわしくて、収集家でもある人物がいる。ミス・エリザベス・ペン――というのがメアリーの伯母の名前だった――は、つい最近、細密画のセットを仕入れたのだが、そのセットはとても貴重なものだった。彼女は、ウッド氏に手紙を書き送って、どんな細密画であるかとか、売り値も知らせた。すぐにウッド氏から返事がきた。説明どおりの細密画なら買いたいから、滞在中のチャーロック・ベイまでだれかにもたせてほしい、とのこと。
そんなわけで、ミス・デュラントが伯母のかわりに出かけてきたのだという。
「ほんとうにすばらしい美術品ですわ。でも、そうした品物にあれだけのお金を払う人がいるなんて、わたしには考えられませんわ。五〇〇ポンドなんですもの! 五〇〇ポンドですよ! カズウエイ〔英国の有名な細密画家〕の絵のセットだそうです。カズウェイでよかったのかしら? あたし、いつも作者の名前をごっちゃにしてしまうんですの」
ポワロはにっこりした。
「経験がたりないだけですよ、マドモアゼル」
「勉強がたりないのですわ。古美術品のことを仕こんでもらっていません。ほんとうに、おぼえることが多いのですの」メアリー・デュラントはため息をついた。
そのとき、彼女はいきなり目をみはった。窓にむかって腰かけていた彼女の目は中庭にむけられていた。なにかいうと、彼女はさっと立ちあがって、食堂をとびだしていった。しばらくすると、息を切らしながらもどってくると、言い訳をした。
「あんなふうにとびだしたりして、すみません。男の人がバスからわたしのスーツケースを持ち出すのが見えたものですから。追いかけたのですが、まちがってました。ご自分のスーツケースだったんです。わたしのとそっくりだったのです。まったく、ばかなことをしましたわ。わたしのスーツケースを盗んだ、みたいにいってしまって」
メアリー・デュラントは思いだして笑った。しかし、ポワロは笑わなかった。
「どんな男でした、マドモアゼル? 人相を話してください」
「茶色の服でした。背がひょろながい若い男の人で、とてもかっこうの悪い口ひげを生やしてましたわ」
「なるほど。ほら、きのう話した若者だよ、へイスティングス。あなたはその青年とは、きのうも会ってますよ」
「いいえ、会ったことがありませんわ。でも、どうしてそんなことをお聞きになりますの?」
「いや、べつに。ちょっとへんだと思ったものでね――ただ、それだけですよ」
ポワロはだまりこんでしまった。それっきり、わたしとメアリーの会話に入ってこなくなった。そのうちに、彼女の言葉が気になったらしく、ポワロが口をはさんだ。
「マドモアゼル、いま、なんとおっしゃいました?」
「帰りのバスじゃ、あなたがおっしゃった≪悪人≫に気をつけなくっちゃ、といったんですわ。ウッドさんは、いつも現金支払いなんです。五〇〇ポンドものお札を身につけることになれば、悪人にねらわれやすくなりますもの」
メアリー・デュラントは笑ったが、ポワロは笑ってみせたりはしなかった。チャーロック・ベイではどのホテルを予約しているのか、とたずねたのである。
「アンカー・ホテルですの。小さくて、高くないのです。でも、いいホテルですわ」
「おやおや、アンカー・ホテルねえ。こちらのへイスティングスも、そこに泊まるつもりだったんですよ。偶然ですねえ」ポワロはわたしにめくばせした。
「チャーロック・ベイには長く滞在なさいますの?」
「ひと晩だけです。ここには仕事で寄ったのですよ。マドモアゼル、わたしの商売がなにか、わかりますか? おわかりにならんでしょうねえ」
メアリーは、いくつかの職業を考えたらしいが、口にしなかった――警戒心があったのかもしれない。それでも、やっと思いきったように奇術師という言葉を口にした。ポワロは、ひどくおもしろがつた。
「なるほどねえ、奇術師か。すると、このわたしが帽子からウサギをとり出す男と考えたわけだ。いや、そうじゃありません、マドモアゼル。わたしは奇術師とは正反対なものなんです。奇術師はものを消失させます。しかし、わたしは消失したものを、ふたたびとりだしてみせるのです」
ポワロは、大げさにからだをのりだした。次にいう言葉を印象づけようとするためである。
「このことは秘密ですよ、マドモアゼル。あなただけに打ち明けましょう。じつは私立探偵なのです」
おどろくメアリーの顔を見ながら、ポワロはうれしそうに椅子にもたれかかった。メアリー・デュラントは魔法にかかったような顔で、ポワロをみつめた。会話はそこまでだった。おもてでさまざまな自動車の警笛が鳴りはじめたからである。そろそろバスの出発の時間なのだ。
ポワロと連れだって歩きながら、わたしは昼食をいっしょにしたメアリーに魅力があることを話した。ポワロはうなずいた。
「たしかに魅力があるよ。しかし、頭が弱いことも事実じゃないかな?」
「頭が弱いんだって?」
「きみが腹を立ててどうする。美しくて、赤茶色の髪の女性でも、頭が弱いことだってあるさ。彼女みたいに、他人のわたしたちに秘密を打ち明けたら、どうしようもないばかと思われてもしかたがないよ」
「それは、わたしたちが信用できると思ったからだよ」
「それこそ、ばかのいうことさ。わきまえていれば、だれだって信用できる人物に見える。彼女は五〇〇ポンドを受けとったら、気をつけなければ、といったろう。ところが、もう五〇〇ポンドを身につけているんだからね」
「細密画のかたちでね」
「そうさ、細密画のかたちでだよ。現金と細密画、どっちにしたって大した差はないさ」
「でも、そのことは、わたしたちしか知っちゃいないよ」
「そうかな。給仕や隣りのテーブルの人たちだって聞いている。細密画のことを知っている人なら、エバーマスには、何人もいるにきまっているね。マドモアゼル・デュラントは、たしかに魅力的だよ。しかし、わたしがミス・エリザベス・ペンだったら、なにをおいても、彼女に常識というものを教えこむね」
ポワロは、口をつぐんだが、すぐに声の調子をかえて話しだした。
「乗客が昼食をとっているあいだに、大型観光バスからスーツケースを盗みだす――こんなやさしい仕事はないと思うよ」
「それじゃ、だれかに見られるにきまってるよ、ポワロ」
「見られたっていいさ。自分の荷物を運んでいるとしかみないよ。おおっぴらに運びだせば、あやしむ人などいない」
「つまり、こういいたいのかね、ポワロ――あの茶色の服の男が盗んだ――でも、あれは、本人のスーツケースだったんじゃないか?」
ポワロは顔をしかめた。
「そうらしいね。でも、おかしいと思わんかね、へイスティングス。バスが着いたときに、スーツケースを持って出ればよかったんじゃないかね。あの男は、ここで昼食をとらなかったのは、きみも知ってるだろう」
「ミス・デュラントが窓とむきあった席にすわらなかったら、彼の姿は目にはいらなかっただろうね」わたしは考えこみながらいった。
「まあ、スーツケースは彼のものだったんだから、なにも起きなかったわけだがね。この話はもうやめておこうよ」
自分からそういったくせに、ポワロは、バスが走りだすと、またもやメアリー・デュラントに、よく考えて行動しないと危ない目にあうと忠告した。彼女はすなおに聞いていたが、冗談だと受けとめているようすだった。
バスは、四時にチャーロック・ベイに着いた。運よくアンカー・ホテルで部屋をとることができた――横丁にあるむかしふうの感じのいいホテルだった。
ポワロはいくつかの品物をとりだすと、ジョゼフ・アーロンズを訪ねるために、ポマードで口ひげの手入れをはじめた。そのとき、あわただしくノックの音がした。
「どうぞ」わたしは返事をした。おどろいたことに、現われたのはメアリー・デュラントだった。まっ青な顔で、大粒の涙がこぼれそうになっている。
「すみません――とんでもないことになってしまって――でも、私立探偵だとおうかがいしたもので」
しまいの言葉はポワロにむけられたものだった。
「なにがあったのですか、マドモアゼル?」
「あたし、スーツケースをあけたんです。そのなかのワニ皮の小ケースに細密画がおさまっていました――ええ、もちろん、鍵はかかっていましたわ。でも、こんなになってしまって――」
ミス・デュラントは、ワニ皮張りの小さな四角いケースをさし出した。ケースのふたがゆるんでしまっていた。ポワロは、小ケースを受けとった。小ケースはこじあけられていた。かなりな力がいったにちがいない。ポワロはたしかめながら、うなずいた。
「細密画セットはどうなりました?」
ポワロは聞いたが、返事はわかりきっていた。
「失くなっていました。盗まれたんです。あたし、どうしたらいいのかしら?」
「ご安心なさい。この友人は、エルキュール・ポワロです。名前くらいきいたことがあるはずです。ポワロなら、きっと細密画をとりもどしてくれますよ」
「ポワロさんですって。あの有名な探偵のポワロさんですのね」
ミス・デュラントの声には、尊敬の念がこもっていた。ポワロは、うれしさを押し殺した声でいった。
「ええ、そうです、わたしがエルキュール・ポワロ。だから、このわたしに安心してまかせることですね。できるかぎりのことはしてさしあげましょう。ただ気がかりなのは、おそすぎたのではないか、ということです。ところで、スーツケースのほうもこじあけられていたのですか?」
メアリー・デュラントは首をふった。
「よろしければ、スーツケースを見せていただけませんか?」
わたしたちは彼女の部屋へいった。ポワロはじっくりとスーツケースを調べてみた。鍵であけられているのはまちがいない。
「これをあけるのはじつに簡単さ。こうしたスーツケースの鍵はたいてい同じようなものだからね。まずは、警察に知らせておかなくちゃいけないな。それから、できるだけ早くベーカー・ウッド氏と連絡をとらなくちゃならない。これはわたしがしよう」
わたしはポワロと歩きまわりながら、「おそすぎたのではないか」といったのは、どういう意味なのか、きいてみた。
「わたしは彼女に奇術師とは正反対の商売――つまり消えたものをとりだす商売――だと話した。しかし、犯人に先手をとられたとなるとね。わからないかな、いや、すぐにわかることさ」
ポワロは電話ボックスに入った。五分後に出てきた彼は深刻な表情になっていた。
「やはり心配したとおりになったよ。三十分まえに、細密画を持ってウッド氏を訪ねた女がいる。ミス・エリザベス・ペンの代理のものだといったそうだ。ウッド氏は細密画をすっかり気にいって、現金で支払ったそうだ」
「三十分まえだって! だったら、わたしたちがここに着くまえじゃないか」
ポワロは謎めいた笑みを浮かべた。
「快速バスはたしかに速いね。しかし、スピードの出る車で、マンカンプトンを出発すれば、わたしたちより、一時間は早くこのチャーロック・ベイに着けるだろうな」
「これからどうする?」
「やれやれ、へイスティングス、きみはいつもてきぱきしてるよ。まず警察に知らせる。それから、ミス・デュラントのためにできるだけのことをしてやろう。ああ、そうだった、そのまえにJ・べーカー・ウッド氏を訪ねて話をきかなくっちゃね」
そこで、わたしたちはウッド氏を訪ねることにした。かわいそうに、ミス・デュラントは伯母に叱られることを考えて、おどおどするばかりだった。ポワロは、シーサイド・ホテルヘむかう途中で話した。
「まあ、叱られるのもしかたないだろう。時価五〇〇ポンドの細密画入りスーツケースを忘れて、昼食をとりに出かけてしまったんだからね。しかし、きみ、この事件には、おかしな点が一つ二つある。細密画セットをおさめていた小ケースがその一つだろう――なぜ、小ケースをこじあけたんだろうね?」
「細密画を盗むためじゃないか」
「しかし、それではおかしすぎる。いいかい、われわれが昼食をとっているすきに、犯人が自分のもののような顔で彼女のスーツケースを盗み出したとしよう。スーツケースをあけることなど、じつに簡単なことだ。小ケースをこじあけなくとも、そのまま自分のスーツケースに入れて、逃げ出せばいい。わざわざ小ケースの鍵をこわすようなまねをしなくてもすむじゃないか」
「小ケースに細密画が入っているかどうかを確かめたかったのかもしれないよ」
ポワロは納得しない表情だった。しかし、議論をつづけてはいられなかった。ウッド氏の部屋まできていたからである。わたしは、顔を見るなりウッド氏がきらいになってしまった。ウッド氏はがさつな感じの大男で、大粒のダイヤモンドの指輪をしていた。彼は、すぐさま、まくしたてた。
「もちろん、あやしいところなどなかった。あやしんでどうする? 女は細密画セットをとどけにきた、といったんだ。なるほど、みごとな細密画だったよ。札の番号をひかえておいたか、だって? するわけがない。ええと、ポワロさんだったかな、とにかくこんな質問をあびせるとはどういうつもりだね?」
「いやいや、これ以上、お手間はとらせません。あと一つだけ、おうかがいします。細密画をとどけにきた女の人相をきかせていただけませんか。若くて美人でしたか?」
「いや、若くはなく、美人でもなかったね。中年の背の高い女だった。髪は灰色、顔はしみが多くて、口にはうっすらと毛がはえていた。サイレン〔海にすむ魔女。歌で船乗りをおびき寄せて殺す〕みたいな女だって? とんでもない」
部屋を出たとたん、わたしは大声でいった。
「ポワロ、聞いたかい、口ひげだってさ」
「ありがたいことに、この耳はちゃんときこえるよ、へイスティングス」
「それにしても、なんとも不愉快な男じゃないか」
「たしかに、あの態度はほめられたものじゃない」
「もう犯人をつかまえたも同じだね。あとは身元をつきとめるだけだ」
「へイスティングス、きみも単純な男だな。アリバイというものがあるんだよ」
「あの男にはアリバイがあるのかい?」
ポワロは意外なことばを口にした。
「あってほしいものだね」
「きみの困ったところは、ものごとをややこしくすることだな」
「まったく、そうだよ、|きみ《モナミ》。きみなら、なんというか――つまり、逃げない野鳥をつかまえるなんて、きらいなのさ」
ポワロの予言は当っていた。われわれのバスに乗っていた茶色い服の男の身元がわかった――ノートン・ケーンという人物だった。マンカンプトンに着くと、その足でジョージ・ホテルに泊り、その日の午後は、ホテルから出ていなかったのである。あやしい点といえば、わたしたちが昼食をとっているときに、自分の荷物をバスから持って出た、というミス・デュラントの証言だけである。
「そのことは、すこしもあやしくないさ」
ポワロは考えこみながらいった。そういうと、ポワロはだまりこんでしまい、事件の話を受けつけなくなってしまった。しつこくたずねると、口ひげについて考えているところだ、きみも考えたほうがいい、などと答えた。
ポワロは、その日の夜、演劇プロダクションのジョゼフ・アーロンズと会っていた。ベーカー・ウッドについて、アーロンズから、いろいろ聞きだしているはずだ。
ウッドとアーロンズの二人は、同じシーサイド・ホテルに滞在している。だから、アーロンズにはウッドについてのこまごました情報が耳に入ってくる。ポワロがどんな情報を聞きだしたか知らない。口をとざして、いっこうに話そうとはしないのだ。
地元の警察の事情聴取を受けたあと、メアリー・デュラントは、早朝の汽車でエバーマスへ帰っていった。
われわれはジョゼフ・アーロンズと昼食をともにした。そのあとで、ポワロは、わたしにこういった。
「演劇プロダクションの問題はすっかりかたづいたよ。もう、いつでもエバーマスにもどれる。しかし、帰りはバスでなくて汽車にしたいね」
「ポケットのものをすられたくないとか、また、べつの悩める乙女にぶつかりたくない、と考えたのかい?」
「汽車の旅だって、同じような目に会うことがあるよ、へイスティングス。汽車にしたいのは、できるだけ早くエバーマスにもどりたいからだ。事件の調査をすすめたいのでね」
「事件の調査だって?」
「そうだよ、へイスティングス。マドモアゼル・デュラントは、わたしに救いを求めてきた。いまは警察が捜査中だが、だからといって、わたしが事件から手を引いてもいいことにはならない。チャーロック・ベイまでやってきたのは、旧友アーロンズに頼まれたためだった。よその土地で困っている人を見すてたなどと、このエルキュール・ポワロはいわれたくないのだよ」ポワロはそっくりかえってみせた。
「しかし、こんどの事件じゃ、バス会社の営業所で若い男に目をつけたときから興味を示していたじゃないか。ただ、わたしには、あの若者に目をつけたわけがわからないがね」
「ほんとうにわからんのかね、へイスティングス? わかるはずだがねえ。ま、いいさ。そのわけは、もうちょっと、だまっていることにするよ」
われわれは、チャーロック・ベイを出発するまえに、警察に出かけていき、警部としばらく話しあった。
ノートン・ケーンから事情聴取をした警部は、あの若者の態度には好感がもてなかった、とポワロにうちあけた。むやみに威張ってみせたり、知らないの一点ばり、そのくせ、話にはつじつまのあわないところがあった、というのである。
「ただ、手口が、こちらにはさっぱりわからないのです。盗んだ品物を共犯者にわたし、その共犯者が、ただちに車をとばした、とも考えられます。しかし、それはたんなる推理です。共犯者とその車を発見しなければ、逮捕するわけにはいきません」
ポワロは、もっともらしい顔でうなずいていた。汽車に乗りこむと、さっそく、わたしはポワロにきいてみた。
「警部の推理は当っていると思うかい?」
「いや、まちがっている。相手はもっと利口さ」
「だったら、話してくれたっていいじゃないか」
「いまはだめだ。きみもわかっていることだが、これがわたしの悪いくせさ。秘密は最後までとっておくのが好きでね」
「その最後とやらは、近いのかい?」
「ああ、すぐそこまできているよ」
六時をすこしまわったころ、汽車はエバーマスに着いた。ポワロはすぐさま「エリザベス・ペン」の店に車をのりつけた。
その古美術店はしまっていたが、ポワロがベルを鳴らすと、すぐにドアがあいた。あらわれたのはメアリー・デュラントで、わたしたちとわかると、おどろきと喜びの表情になった。
「どうぞ、おはいりください。伯母にも会ってくださいね」
われわれは奥の部屋に案内された。かなりな年の婦人が出てきて、あいさつをした。白髪で、ピンクがかった肌と青い目の婦人で、細密画に描かれた女性のようだった。高価なむかしのレース製ケープを、かがんだ肩にかけている。
「こちらが有名なポワロさんですのね。メアリーから話はききましたが、とても信じられません。ほんとうに、品物をとりもどしていただけますの?」
快い、低い声でエリザベス・ペンはいった。ポワロは、しばらく彼女をみつめていたが、おじぎをした。
「マドモアゼル・ペン――すばらしい変装でしたね。ただ、口ひげは、ほんものを生やしたほうがよかったですよ」
ぎょっとして、ミス・ペンはあとずさった。
「きのう、店はおやすみになりましたね」
「午前中は店をあけていました。でも、頭痛がひどくなったので、家に帰りましたよ」
「家じゃなかったでしょう。頭痛には、新鮮な空気がいちばんです。だから、外へ出かけたのじゃないですか? チャーロック・ベイの空気を吸えば、すぐに元気になりますからねえ」
そういうと、ポワロはわたしの腕をとって戸口にむかった。そして、ふりむくようにして、ミス・ペンに話しかけた。
「おわかりでしょうが、わたしにはすべてがわかっているのですぞ。こんどの道化芝居もこのあたりで幕にしなければなりますまい」
ポワロの声にはおどすようなひびきがあった。ミス・ペンはまっ青な顔で、口もきけず、うなずいてばかりいた。ポワロはミス・デュラントにむきなおった。
「マドモアゼル、あなたは若い、それに魅力もある。しかし、こんな悪事に首をつっこんでいると、その若さも魅力も刑務所の壁のなかでうもれることになりますぞ――そんなことになれば、このエルキュール・ポワロも残念に思うでしょう」
そのまま、ポワロは通りに出た。わたしは彼のあとを追った。なにがなんだか、わたしにはわからなかった。
「|きみ《モナミ》、たしかにわたしははじめから興味があったさ。つまり、バス会社であの若者が、マンカンプトンで降りるといいながら、席を予約したときからだよ。あのとき、メアリー・デュラントは急に若者に注意をむけたのだよ。ノートン・ケーンなる若者は、若い娘の気を引くような顔ではない。バスに乗ってから、なにか起きそうな感じがした。
ケーン青年がミス・デュラントの荷物をもち出そうとした。それを目撃したのは彼女だけだ。それに食堂での席のことだが、窓とむきあった席を選んだのは彼女だったのをおぼえているだろう――ふつうの女性なら、そんな真似はしないね。
そして、あとになってから、ホテルにやってきて盗難にあったと話した――小ケースがこじあけられていたが、それがおかしいというのは、きみにも話したとおりだ。
そのあと、どうなったか? ベーカー・ウッド氏は盗難品に大金を支払うことになった。そうなると盗まれた細密画セットは、ミス・ペンに返されることになる。彼女が、その細密画を売れば、千ポンドの金を手にすることができる。ひそかに調査してみたところ、ミス・ペンの商売はだめになりかけていた――店をしめなければならなくなっていたんだよ。わたしは自分にいいきかせた――この事件は伯母とめいが共謀しているぞ、ってね」
「それじゃ、ノートン・ケーンを疑ったことはなかったのかい?」
「|きみ《モナミ》、あの口ひげを見たろう。犯罪者だったら、きれいにひげをそっているか、立派なつけひげをしているさ。あの利口なミス・ペンは、チャンスにとびついた。彼女はピンクの肌をした老女だね。しかし、ぴんと背をのばし、大きな編みあげ靴をはき、顔にしみを描いて、鼻の下に、まばらなひげをつけたとしよう。どう見えるかな? ベーカー・ウッド氏は、男みたいな女といったね。これを聞いたら、だれでも、≪女に変装した男≫と疑うだろうさ」
「ミス・ペンが、きのうチャーロック・ベイに行ったというのはほんとうかい?」
「まちがいないよ。きのう、きみは汽車の時刻表について話したろう。エバーマス発十一時の汽車は、午後二時にチャーロック・ベイに着くとね。帰りの汽車はもっと速いよ――わたしたちが乗った汽車さ。四時五分にチャーロック・ベイを出たが、エバーマスには六時十五分に着いたよ。
細密画のことだが、はじめから小ケースには入っていなかったんだ。スーツケースに入れるまえに、わざとこじあけておいたものさ。マドモアゼル・メアリーは、悩める乙女の役を演じて、おろかな男二人の気持を引きつけるだけでよかった。それでも、その二人のうちの一人は、けっしておろかではなかった――なにしろ、このエルキュール・ポワロだったんだからね」
ポワロの推理は気にくわなかったので、いそいで、口をはさんだ。
「ポワロ、きみは、よその土地で困っている人を助けたい、といった。だったら、わたしをだましたことになるぞ。たしかに、このわたしをだましたんだ」
「とんでもないよ、へイスティングス、きみをだましたりするものかね。きみの勘違いをほうっておいただけさ。わたしは、べーカー・ウッド氏のことをいっていたんだからねえ。アメリカ人のウッド氏はよその土地で、災難にあってしまったのだ。
考えてみると、まったく腹が立ってくるねえ――あれはさぎだよ。よけいに料金をとるんだからね。チャーロック・ベイまでの料金が往復料金と同じなのだ。観光客はいい迷惑だ。まったく腹が立つ。
べーカー・ウッド氏は、たしかに気にくわない人物さ。しかし、観光客だよ。それに、わたしたちも観光客だよ、へイスティングス。観光客は団結して立ちあがるべきだ。このエルキュール・ポワロは、どこまでも観光客の味方になるぞ!」
あなたのお庭はどんな庭?
エルキュール・ポワロは、手紙の束を目の前にきちんと重ねた。
まず、いちばん上の手紙をとりあげて差し出し人をたしかめる。封筒を裏返して、つぎに小さなペーパーナイフできれいに封をきる。そのペーパーナイフは、朝食のときの楽しみのために、テーブルにおいてあった。
ポワロは中身をとりだした。中身はもう一つの封書だった。紫色の封蝋《ふうろう》で封じられていて、≪親展・極秘≫と書いてある。エルキュール・ポワロは卵形の頭をかしげ、ちらっと眉をひそめた。
「すぐ開けてあげるよ」
つぶやきながら、もう一度ペーパーナイフをとりあげると封をきった。なかから手紙がでてきた――ふるえる細い字で書かれている。ところどころにはっきりと下線がひいてあった。
ポワロは手紙をひろげて読んだ。文章の出だしにまた≪親展・極秘≫と書いてあった。
右上に住所と日付――バッキンガムシャー、三月二十一日。
ポワロさま
このところ悩んでいるわたくしを心配した友人から、あなたに相談するようにすすめられました。ただ友人はじっさいの事情を知っているわけではありません――わたくしの胸のうちにしまっているからです――とても人に話せることではありません。
友人は、あなたが分別のある方だから、警察ざたになる恐れはない、とうけあってくださいました――もし、わたくしの疑いがあたっていたとき、警察とかかわりあいになるのは、どうしても避けたいのです。
しかし、わたくしの疑いが、まったくまちがっていることも考えられます。ちかごろでは、頭もすっきりせず、夜もよく眠れないのです。この冬には大病をいたしましたので、自分で調査することもできません。また調査の方法も知りませんし、その能力もないのです。
くり返しになりますが、ことは家庭の事情にかかわるやっかいな問題でして、いろいろ考えたとき、わたくし自身、すべてを胸のうちにおさめておこう、という気になるかもしれません。ほんとうのことがわかりさえすれば、自分の手で処理できるでしょう。また、そうしたほうがいいとも考えております。
この件をひき受けていただけるようでしたら、お知らせください。
アメリア・バロービー
ポワロは手紙を二度読んだ。また、ちょっと眉をひそめる。手紙をわきにおくと、つぎの手紙にとりかかった。
十時きっかりに、ポワロは秘書のミス・レモンの部屋にはいっていった。彼女は、その日の仕事の指示を待っていた。ミス・レモンは四十八歳。とっつきにくい感じの女性である。やせて骨ばっている。ポワロと同じくらい整理・整頓が好きである。ポワロは、その日の朝とどいた手紙の束をわたした。
「すまないが、全部の手紙にことわりの返事を書いてください。ことわりの文句は丁寧《ていねい》に、しかしはっきりとね」
ミス・レモンは、手紙に目を走らせながら、それぞれに象形文字のような記号を書いていった。彼女しか読めない暗号みたいなものである。
その記号は「やさしく」とか「ぴしゃりと」、「なだめる」や「そっけなく」などを意味している。ミス・レモンは、すばやく記号をつけ終えると、つぎの指示は? というようにポワロを見あげた。
ポワロは、アメリア・バロービーの手紙をわたした。ミス・レモンは、封筒の中身をとりだすと、目を通して、どういうことですか? という表情でポワロを見た。
「どうすればよいのでしょう、ポワロさん」
彼女は、速記メモの上で鉛筆をくるくると動かしてみせた。
「その手紙を読んだ感想をきかせてください、ミス・レモン」
彼女は、ちょっと顔をしかめながら、鉛筆をおいて、もう一度、文章に目を通した。ミス・レモンにとって、手紙の内容とは、うまい返事を書くための材料でしかない。それなのに、雇い主のポワロは、たびたび彼女が人間であることを思いださせるようにしむけるのである。完璧な機械に近いミス・レモンは、他人のやることには、まるで興味がない。だから、意見をもとめられるのは、ちょっと迷惑に思うのである。
ミス・レモンの人生への情熱は、あらゆることを分類し、整理することに向けられていた。完全な分類整理法をつくりだすことが、彼女の夢だった――いや、じっさいにそんな方法を夢見ることもあった。それでも、ポワロは、ミス・レモンがとても知性が高く、人間の問題についても、きちんとした意見がいえる女性であることをよく知っていた。
「どう思いますか」
「かなりなお年ですね。それに、ひどくとり乱しているようですわ」
「なるほど、とり乱している、と思うんですね」
「ひどく秘密めかしています。これでは、なにもわかりませんわ」
「そうだね、わたしも気づいた」
ミス・レモンは速記用メモ帳に手をそえてみせた。仕事をさせてください、というそぶりである。
「いつでもうかがいます、と返事を書いてください。こちらに来られるなら、それもけっこうですとね。それから返事はタイプじゃなく、手書きにしてください」
「わかりました、ポワロさん」
ポワロは、べつの郵便をいくつかとりだした。
「こっちは請求書です」
ミス・レモンの手がすばやく動いて、仕分けしていく。
「この二通のほかは支払っておきますわ」
「その二通はどうして支払わないのです? 金額にまちがいはありませんよ」
「この二通の店は、ごく最近、取引きするようになったばかりです。支払い請求にすぐさま応じるのは、よくありません。信用できる客だと思われたくて、早く支払ったように思われてしまいます」
「ほう。イギリス商人の気質《きしつ》について、ずいぶんくわしいんですねえ」ポワロはつぶやくようにいった。
「商人たちのやり口なら、よく知っていますわ」ミス・レモンは、さも苦々しげにいった。
ミス・アメリア・バロービーへの手紙は、すぐに送られたが、返事はこなかった。たぶん、自分で解決したのだろう――ポワロはそう考えた――それにしたって、仕事を頼まなくてもよくなった、という返事くらいあってもよさそうなものなのに。
五日後のことだった。朝、仕事の指示を受けたあと、ミス・レモンが話しだした。
「あのミス・バロービーさんのことですけど、返事がないのも無理はありません――亡くなっています」
「へえ――亡くなったのか」ポワロはしずかな声でいった。返事をしたのか、きき返しているのか、わからない口調だった。
「地下鉄のなかで新聞を読んでいて気がついたんです。破っておきましたわ」
ミス・レモンは、ハンドバッグのなかから、新聞の切り抜きをとりだした。
ミス・レモンは「破る」といったが、はさみできれいに切ってあった。さすがにミス・レモンだけのことはある、とポワロは感心した。
その記事は、モーニング・ポスト紙の「誕生・死亡・結婚」欄にのっていた。
「アメリア・ジェーン・バロービー。三月二十六日、チャーマンズ・グリーンのローズバンク荘にて急死。七三歳。故人の希望により、献花は辞退」
読みなおしながら、ポワロは「急死ねえ」とつぶやいた。
やがて、気をとりなおしたように彼はいった。
「ミス・レモン、すまないが、手紙を書いてほしい」
ミス・レモンは鉛筆をとった。彼女の頭は分類整理法にむけられていたが、速記する手はすばやく動いていた。
バロービーさま
まだご返事をいただけませんが、金曜日にチャーマンズ・グリーンの近くで用事ができました。そのおりにお訪ねして、先日の用件について、さらにくわしいことをうかがいたく思います。エルキュール・ポワロ
「この手紙はタイプして出してください。すぐに投函すれば、今日じゅうにチャーマンズ・グリーンに着くでしょう」
あくる日、午前の第二便で黒枠の封書がとどいた。
バロービーおばあてのお手紙、読ませていただきました。おばは、さる二十六日に亡くなりました。したがって、お申しこしの件は、もはや無用のことと考えるしだいです。
メアリー・デラフォンテーン
「もはや無用のこと……かねえ。それはこちらに決めさせてもらうさ――さて、チャーマンズ・グリーンにでかけるとするか」
ポワロはにやりとした。
ローズバンク荘は、その名にふさわしい家だった。中流階級の家としては立派なものだった。
エルキュール・ポワロは、玄関にむかう小道を歩きながら、ときどき立ちどまって、両側にひろがるきれいな花壇を感心してながめた。バラの木は、まだみごとに咲くまでにはなっていなかったが、ラッパ水仙、早咲きチューリップ、青いヒアシンス……などが咲きほこっていた――花壇の一つは、一部分貝がらでふち取りされている。
ポワロはつぶやいた。
「子どもたちが歌う、古いイギリスの童謡があったな――どんなだっけ?
おへそのまがったメアリーさん
あなたのお庭は、どんな庭?
トリ貝の殻《から》、エゴの木よ
かわいい娘《メード》も、せいぞろい
せいぞろい、とまではいかないが、童謡みたいに、かわいい女の子がでてきたぞ」
玄関のドアが開いて、帽子とエプロン姿のかわいいメードがあらわれた。口ひげを生やした外国紳士が、なにかいいながら近づいてくる――彼女はうさんくさそうな目で、ポワロをながめていた。ぱっちりした青い目とバラ色のほお……とてもかわいいメードじゃないか――ポワロのほうはそう考えていた。
ポワロは帽子に手をやると、話しかけた。
「失礼ですが、ミス・アメリア・バロービーのお宅はこちらですか」
小さなメードは、はっと息をのんだ。ぱっちりした目がますます大きくなった。
「まあ、ごぞんじなかったのですか。バロービーさんはお亡くなりになったの。ほんとに急に亡くなったの。火曜日の夜のことでした」
彼女は、そこで口をつぐんだ。外国人への不信感がそうさせたのである。いっぽうでは使用人にありがちであるが、病気や死のこととなると、話さずにいられないのである。
「おどろきましたな。わたしは、お約束どおりに今日うかがったのです。それでは、こちらにお住いのもう一人のご婦人にお目にかかりたいのですが」
ポワロは、そしらぬふりをしてたずねた。メードは、あやふやな口ぶりでこたえた。
「奥さまのこと? ええ、お会いになれるかもしれませんけど、奥さまはなんとおっしゃるか、わからないわ」
「会ってくださいますよ」
ポワロは名刺をわたした。きっぱりとした口調のききめはあった。
バラ色のほおをしたメードはあとずさりして、ポワロを玄関ホールの右手の居間に案内した。そして、名刺を持って女主人を呼びにいったのである。
ポワロは居間を見まわした。ごくふつうの居間だった――オートミール色の壁紙。まわりの壁の上は|飾り帯《フリーズ》、ぱっとしないクレトン木綿ばりの椅子、バラ色のクッションとカーテン、くだらない陶器の置き物や飾りもの。どれもが、つまらないものばかりで、これはと思うようなものは一つもなかった。
ポワロは感覚が鋭かった――突然、だれかに見られていると感じて、ふりむいた。
フランス窓のところに少女が立っていた――青白い顔、まっくろな髪の小がらな女の子が、疑いぶかそうな目でみつめていた。少女は居間にはいってきた。ポワロがかるくおじぎをしてみせると、いきなりいった。
「なぜ、ここに来たの?」
ポワロはだまっていた。眉《まゆ》をちょいとあげてみせる。
「弁護士じゃないのね」
きちんとした英語。しかし、イギリス人とは考えられない話し方だった。
「なぜ、弁護士と思ったの?」
少女は、むっつりした顔でポワロをみつめた。
「ひょっとしたら、弁護士じゃないか、と思っただけ。あのひとは自分のしてることがわからなかったわ。だから、そのことをいいにきた、と思った。あたし、知ってるわ――不当な圧力。そういうんでしょ。でも、ちがうわ、まちがってる。あのひとは、あたしにお金をくれようとしてたわ。だから、あたしはお金がもらえるはずなんだ。弁護士がいるのなら、自分でやとう。お金はあたしのものなんだわ。あのひとは、そう書いたんだもの」
少女は、あごを突き出し、目をきらきらさせながら、いいはった。ドアが開いて、背の高い女がはいってきた。
「カトリーナ!」
少女は首をすくめた。顔が赤くなり、なにかぶつぶついいながら、フランス窓からでていった。
ポワロは、ただの一声でおさえつけた女にむきなおった。その声には威厳があった。それに軽蔑《けいべつ》もふくまれていたし、育ちのよい者がもつ皮肉っぽさも感じられた。これが当家の女主人、メアリー・デラフォンテーンだな――たちまちポワロはさとった。
「ポワロさんでしょうか? お手紙はさしあげましたが、まだ着かないようですわね」
「ああ、そうでしたか。わたしはロンドンを離れていましたので」
「まあ、そうでしたか。それでわかりました。デラフォンテーンと申します。こちらは、わたくしの主人です。ミス・バロービーはわたくしのおばにあたりますの」
デラフォンテーン氏が、あまりしずかに部屋にはいってきたので、ポワロは気づかなかった。背が高く、白髪まじりの男で、はきはきしたところがない。やたら、あごを指でこする癖がある。なんども妻の顔をうかがうところをみると、この場の話しあいは、妻にまかせきっているらしい。
「お悲しみのところを、突然うかがって申しわけありません」ポワロはおくやみをのべた。
「あなたのせいでないことはよくわかりました。おばは火曜日の夜、亡くなったのです。ほんとうに突然のことでした」
「まったく、考えてもいなかったことでした。まいりましたよ」
デラフォンテーン氏はいいながら、外国人の少女が消えたフランス窓のあたりをじっとみつめた。
「申しわけありませんでした。これで失礼させていただきましょう」ポワロはドアのほうに歩きだした。
「しばらく……ええと、アメリアおばとなにか約束があったとか、おっしゃいましたね」デラフォンテーン氏が声をかけた。
「その通りです」
「そのことについて、お話しくださいませんか。わたくしどもで、なにかお役に立つことがあるかも……」メアリー・デラフォンテーンが、夫の言葉をひきとるようにいった。
「ごく内密な話でしてね。じつは、わたしは私立探偵なのです」
ポワロはなに気ない口調でいった。デラフォンテーン氏は、いじっていた小さい陶器の人形をたおしてしまった。妻のほうは、わけがわからない、という表情をうかべた。
「私立探偵さんですか? その探偵さんがおばとお会いになる約束をなさっていたんですね。とても考えられないことですわ! いかがでしょう。もう少し話していただけませんこと、ポワロさん――とてもおかしなことですもの」
ポワロはしばらくだまっていた。用心ぶかく、言葉をえらびながら、話しだした。
「じつは、わたしも、どうすればよいか決めかねているのですよ」
「そのう――おばはロシア人のことで、なにかいってませんでしたか」デラフォンテーン氏が話にわりこんできた。
「ロシア人ですか?」
「ええ、ほら――ロシアの共産主義者とか赤軍《せきぐん》のこととか」
「ばかげたことはおっしゃらないで、ヘンリー」
「悪かったね……わたしは、ただそう思っただけでね」
デラフォンテーン氏はあやまった。メアリー・デラフォンテーンは、ポワロをじろじろみつめた。青い目――忘れな草のような青だった。
「なにかお話していただけると、うれしいのですが――じつを申しますと、聞かせていただけるとありがたい理由がありますの」
デラフォンテーン氏は警告するような目で妻を見やった。
「めったなことはいわないほうがいいよ、おまえ――なにもなかったかもしれないじゃないか」
またもや、妻はじろりと見るだけで夫をだまらせてしまった。そして、
「いかがでしょう、ポワロさん」
ゆっくりと、重々しくポワロは首をふった。いかにも残念そうに見せかけて、きっぱりとことわった。
「いまのところは、なにもお話しないほうがよろしいかと思います、奥さま」
ポワロは、おじぎをすると、帽子を手にしてドアにむかった。玄関の階段のところで、立ちどまると、ポワロはメアリーに話しかけた。
「庭いじりがお好きのようですね、奥さま」
「ええ、そうなの。庭の手入れには気をくばっていますわ」
「りっぱなお庭ですねえ」
ふたたび、ポワロはおじぎをすると、大またに門に向かった。門をでて右手に曲ったとき、ポワロはちらりと振りかえった――青白い顔のカトリーナが、二階の窓から、彼をみつめていた。ポワロはうなずいた。
「まちがいない、この穴にはネズミがいるぞ! ネコとしては、つぎにどんな行動をとるべきかな」
決心したポワロは、近くの郵便局まで歩いていった。そこで彼は二回電話をかけた。どうやら、うまくいったようだった。つぎに、ポワロはチャーマンズ・グリーン警察署に出かけていき、シムズ警部に会いたい、といった。
シムズ警部はがっしりした体格の大男で、あいそがよかった。
「ポワロさんですな、そうだと思いましたよ。つい今しがた、あなたのことで本署の署長から電話があったばかりでしてね。あなたがおみえになるかもしれない、といわれたんです。どうぞ、わたしの部屋においでください」
ドアがしまると、警部はポワロに椅子をすすめて、自分も腰をおろした。なにか知りたそうにポワロをみつめた。
「かぎつけるのが、ずいぶん早いんですね、ポワロさん。われわれが怪しむまえに、ローズバンク荘のことで訪ねていらしたんですからな。なんでまた、目をつけたんです?」
ポワロは、故アメリア・バロービーからの手紙をとりだすと、警部にわたした。警部は興味ありそうな顔で読んだ。
「たしかにおもしろい。ただ、厄介《やっかい》なのは、どうにでも解釈できるということでしょう。もうちょっと明確に書いておいてほしかったですなあ。そうすれば、こっちとしても大助かりだったのにねえ」
「それとも、助けなどいらなかったのかもしれませんよ」
「どういうことです?」
「本人が生きていたかもしれない」
「そこまで考えておいでですか――その考えはまちがっているともいえませんがね」
「警部さん、ローズバンク荘の出来事について、くわしく話していただけませんか。こちらはなにも知らないのですよ」
「いいですよ――アメリア・バロービーは火曜日の夜、夕食のあとで急病になりました。ひどい症状でしてね。ひきつけやらなにやらでね。医者が呼ばれました。でも、着いたときには死んでいたのです。医者ははじめ、なにかの発作で死んだと思いました。しかし、いろんなことを考えると、納得がいかなかったんですな。おくやみをいったり、あれこれいったりしたあげく、それでも、はっきり死亡診断書を書くわけにはいかない、といいました。
いまのところ、家族は、わかっておりません。死体解剖の結果を待っている状態です。しかし、警察は、もうすこしくわしいことがわかっていましてね――医者はわかったことを話してくれました。死体解剖は、警察医とその医者が協力してやりましたが、死因はまちがいようもないものでした。ミス・バロービーは大量のストリキニーネ〔神経興奮剤の劇薬〕を飲んだために死んだんです」
「なんとねえ!」
「まったくひどい手口ですよ。問題は、だれがストリキニーネを飲ませたか、です。死ぬ直前に飲ませたことはまちがいないところです。まず考えられるのは、夕食のとき、食べものにまぜたのではないか、ということ――でも、正直いって、それは無理なんです。夕食の料理はアーティチョーク〔朝鮮アザミのつぼみ〕のスープ――ふたつきの深い皿で食卓にだされました。それから、魚のパイ、アップル・タルトでした。
デラフォンテーン夫婦、ミス・バロービーの三人が、同じ食卓についていました。ミス・バロービーには、看護婦らしいこともする付き添いがいます。ロシア人との混血でしてね、でも食事はいっしょじゃなかったんです。あとで食べたのです。メードもいますが、その夜は休みで外出していたそうです。
メードは、スープをストーヴにのせ、魚パイをオーヴンにいれておいてから外出しました。アップル・タルトは冷たいままでした。三人が同じものを食べたのです――どうにもわからないんですが、どうやったらストリキニーネみたいな劇薬を食べさせることができるんですかねえ。だいたいストリキニーネは胆汁《たんじゅう》みたいに苦いものです。医者に聞いたんですが、千倍にうすめた液でも、すぐわかるそうです」
「コーヒーならどうですか」
「コーヒーだったら、飲ませることができそうですね。しかし、ミス・バロービーはコーヒーを飲んだことがなかったそうです」
「なるほど、おっしゃるとおり厄介《やっかい》な事件ですね。ミス・バロービーは、食事のときになにを飲みました?」
「水でした」
「ますます厄介ですね」
「こっちは頭をかかえてしまいます」
「ミス・バロービーはお金持ちでしたか」
「たいへんな金持ちだったそうです。もちろん、われわれには、どれほどの金持ちかは正確にはつかめていません。デラフォンテーン夫婦のほうは、かなり金に困っていたようです。こっちのほうは、われわれが調べてみたんですがね。ミス・バロービーが家計を援助していました」
「そうすると、あなたはあの夫婦を疑っているんですね。どっちがあやしいんです?」
ポワロは、かすかな笑顔をみせて、たずねた。
「とくにどちらをということはわかりません。しかし、疑っていることは確かです。近い親類といったら、彼らだけですし、ミス・バロービーが死ねば、かなりの財産を相続するのです。そんな場合、人間がどう考え、どう行動するか――これまで、われわれはいやというほど見せつけられてきていますよ」
「ときとして、人間にあるまじき行動に走るというんですね――なるほど、それは確かです。ところで、ミス・バロービーはほかに飲み食いしたものはなかったんですか」
「うーん、じつはですね……」
「ああ、やっぱりね。なにか、ごぞんじだと思ってましたよ――スープに魚パイにアップル・タルト、それだけじゃねえ。いよいよ、とっておきの情報を聞かせていただけるんですね」
「さあ、それはどうでしょう。こういうことなんですよ――老婦人は、食事の前にオブラートに包んだ薬を飲んでいたのです。ほら、丸薬や錠剤みたいな薬じゃないんです。米の粉でつくった薄い紙みたいなもので、飲みにくい粉薬を包むんです。きれいに消化されてしまうのです」
「なるほどねえ。薬をストリキニーネととりかえて、オブラートに包めば、かんたんに飲ませられる。水といっしょに飲んだら、味もわからずにのどを通ってしまいますね」
「ええ。ただ厄介なことがあるのです。女の子がその薬を老婦人に飲ませた、ってことですよ」
「あのロシア人との混血児ですか」
「ええ、名前はカトリーナ・リーガー。ミス・バロービーのつきそいです。けっこう、こき使われていたようですよ。あれを持っておいで、これを持っておいで。背中をかいておくれ。薬を用意おし。薬屋までお使いにいっておくれ……といろんな雑用をさせられていました。ああしたお年寄りのことはごぞんじでしょう――根はやさしいんですが、まわりのものを黒人奴隷みたいに使いまくるんです」
聞いていたポワロは、だまって笑った。
シムズ警部は話をつづけた。
「ざっとこんなぐあいでしてね。どうも、しっくりこないのです。カトリーナに毒殺するような動機があるのか? ミス・バロービーが死んだら、仕事がなくなってしまいます。ちかごろじゃ、仕事にはなかなかありつけません――それにカトリーナは、ほかになにかができるわけでもありません」
「もし、オブラートの小箱がおきっぱなしになっていたら、家のだれもに、すりかえる機会があったことになりませんか?」
ポワロは疑問を投げかけた。
「もちろん、そのことは調べてみましたよ、ポワロさん。われわれとしても、あれこれ調べてはいるのです。最後の薬は、いつ処方されたか。薬はふだん、どこにおいてあったか。こつこつと忍耐づよく仕事を進めなくてはなりません――それが最後には、事件解決に結びつくのです。そうそう、ミス・バロービーには弁護士がいましてね。明日、会うことになっています。銀行の支店長とも会います。やることがいろいろ残っているんですよ」
ポワロは立ちあがった。
「シムズ警部、ご好意に甘えて、もう一つお願いがあるのです。事件の進みぐあいを教えていただけませんか。電話ででも知らせていただけると、たいへんありがたいのです――これが、わたしの電話番号です」
「よろしいですとも、ポワロさん。一人より二人のほうが、よい知恵も浮かぶというものです。それに、あなたはミス・バロービーから手紙をもらって、事件の調査をすでにはじめておられる」
「お世話をかけますね、警部」
ポワロは警部としっかり握手をして、立ち去った。
あくる日の午後、シムズ警部から電話があった。
「ポワロさんですな。シムズ警部です。例の事件がおもしろいことになりそうですよ」
「ほんとうですか。どうか、話してください」
「そうですね、まず一番目。これがなかなかのものでしてね。ミス・バロービーは、めいのメアリー・デラフォンテーンにはわずかな遺産しか残していません。ほとんどの財産はカトリーナ・リーガーが相続するんです。――カトリーナのゆきとどいた世話に対する感謝のしるしとして……みたいな遺言状でしたよ。やっかいな事件も、これで先がみえてきましたよ」
ポワロの心に、ある場面がよみがえった。ふくれっつらの顔、はげしい声――お金はあたしのものだわ。あのひとは書いたんだからね。だから、もらえるのよ――カトリーナにとって、遺産をもらえるのは、あたりまえのことだった――とっくにわかっていたことなのだ。
「二番目ですがね――カトリーナのほかにオブラートをいじった者はいません」
シムズ警部の声が電話の向うでひびいた。
「まちがいありませんか?」
「カトリーナ自身も否定していません。このことをどうお思いですか」
「とてもおもしろいですね」
「われわれとしては、あと一つだけ知りたいのですよ――カトリーナがどうやってストリキニーネを入手したか、という証拠です。それがやっかいなんですよ」
「すると、まだ入手先をつきとめてはおられないのですね?」
「まだ、手をつけたばかりなんですよ。今朝、検死審《けんししん》〔死因を明らかにするための法廷でのやり取り〕が、すんだばかりですからね」
「検死審の結果はどうなりました?」
「一週間の延期になりました」
「カトリーナのほうはどうなりましたか?」
「殺人容疑で留置しました。こちらとしては危険をおかしたくないのです。妙な仲間がいて、逃亡させようとするかもしれませんからね」
「いや、カトリーナには友だちはいないと思いますよ」
「ほんとうですか。なぜ、そのことがわかるのですか、ポワロさん」
「いや、そう感じただけですよ。ほかになにかありませんか」
「たいしたことはありません。最近、ミス・バロービーは、株を売り買いしていたようです――かなりの損をこうむったらしい。なんだか、妙な気がしますが、この事件とは関係ないと思います――まあ、いまのところは、というほうがいいでしょうがね」
「たぶん、おっしゃるとおりでしょう。いや、とても参考になりました。電話くださってほんとうにありがとう」
「どういたしまして。約束は守る男なんです。あなたも関心がおありのようですからね。それに、事件の解決に手をかしていただくこともあるかもしれません」
「そうできれば、いいと思います。たとえば、カトリーナの友だちをさがし出すことで、お手伝いできるかもしれません」
「カトリーナには友だちはいない、とおっしゃいませんでした?」シムズ警部はおどろいた声でいった。
「あれはまちがいでした。ひとりいるんですよ」
エルキュール・ポワロはきっぱりといった。シムズ警部がなにかきこうとする前に、ポワロは電話を切った。考えこむような表情をうかべたポワロは、ミス・レモンの部屋にはいっていった。彼女はタイプライターにむかって仕事をしていた。雇い主が近づくと、彼女はキーから手を離して、なにかご用ですか、という顔で見あげた。
「ある人物の過去について、考えてほしいんですがね、ミス・レモン」
困ったことね、という顔で、彼女は両手をひざにそろえてみせた。
ミス・レモンの楽しみは、タイプを打ったり、請求書をチェックして支払ったり、書類を書いたり、事務上のいろいろな手続きをすることである。しかし、想像力を働かせて、ある人物の身になって考えることなど、ただ退屈なだけだった。それでも、いやなことでも、仕事の一部だと思ってがまんすることにした。
「ロシア人の少女だと思ってくださいよ、わかりましたね」ポワロは説明をはじめた。
「あなたは、このイギリスには友だちもいなくて、一人ぼっちです。いろんなわけがあって、ロシアには帰りたくありません。いまは、老婦人に雇われて、つきそい、話し相手、そのほかの雑用をしながら暮らしています。だまって、おとなしく働いているのです」
「はあ」
ミス・レモンはおとなしく答えてみたが、相手がどんな老婦人かわからずに、だまって働いている自分の姿が、まるっきり浮かんでこなかった。
「その老婦人は、あなたが気にいったんですね。遺産を与えようと決心して、そのことをうちあけました」
「はい」ミス・レモンは、そう答えるしかなかった。
「そのうちに、老婦人はあることに気づきました。お金のことだったかもしれない――あなたが老婦人に正直でなかったことだったかもしれません。それとも、もっと重大なこと――あなたが飲ませた薬の味が、ふだんとはちがっていた。食べさせた食物で中毒した――だったかもしれない。とにかく、老婦人はあなたを疑いはじめました。有名な探偵、名探偵の名に恥じない人物――そう、このわたし、エルキュール・ポワロに手紙を書いたのです。わたしは、すぐに会いにいくと返事を書きました。偉大な人物は行動もすばやいのです。ところが、名探偵が着いたときには、老婦人は死んでいた。そして、遺産は、あなたのものになる……どうです、あなたなら、老婦人を殺しますか?」
「ロシア人なら、じゅうぶん考えられますわ。でも、わたし自身の意見をいわせていただければ、老婦人の話し相手になぞ、けっしてなりませんわ。自分のするべき仕事がはっきりしたほうが好きですもの。もちろん、わたしは、人殺しなど考えたこともありませんわ」
ポワロはため息をついた。
「へイスティングスがいなくてさびしいですよ。彼はじつに想像力ゆたかな人物だった。ロマンティックな男なんですよ。だから、そのゆたかな想像力は、いつでもまちがいだらけでしたがね――それでも、おかげでこっちにヒントを与えてくれていた」
ミス・レモンはだまっていた。へイスティングス大尉のことは、まえから聞かされて知っていたが、あまり関心がなかったのである。彼女は目の前のタイプライターにはさまれている打ちかけのタイプの用紙をながめていた。早く仕事にもどりたいのである。
「すると、あなたがロシア人なら殺すかもしれないんですね?」ポワロはじっと考えこみながら、きいた。
「ポワロさんは、そうお考えになりませんの?」
「わたしも、そうするかもしれない」
ポワロは、またため息をついた。電話が鳴った。ミス・レモンは電話にでるために部屋を出ていった。もどってきて、いう。
「また、シムズ警部さんからお電話です」ポワロは、いそいで自分の部屋にもどった。
「|もし《アロー》、|もし《アロー》。え、こんどはなんでしょう?」
シムズ警部は、ミス・レモンに話したことをくり返すはめになった。
「ストリキニーネの小さな包みが、あの子の寝室から発見されました――マットレスの下におしこんであったんです。つい、いましがた、巡査部長がやってきて報告しました。これは、動かぬ証拠になりますよ」
「たしかに、動かぬ証拠のようですね」
ポワロの声がかわった。突然、自信ありげな口ぶりにかわったのである。受話器をおくと、ポワロは書きもの机にむかった。無意識のうちに机の上のものをきちんとならべながら、つぶやいた。
「たしかに、なにかがまちがっている。わたしは感じるのだ。いや、ただ感じるだけじゃないぞ。この目で見たもの。それはなんだったか。さあ、働いてくれ、わが小さな灰色の脳細胞よ。よく考えるんださあ、思いだせ。論理的でつじつまがあっていることだけを思い出し、考えるのだ。あの少女はお金のことを心配していた。デラフォンテーン夫婦。そうだ、夫はロシア人たちのことを口にしていた――おろかなことだ、しかし、口にした当人がおろかだから、しかたがない。部屋、庭――ああ、そうだ、庭だ!」
ポワロはすわりなおした。緑の目が輝いている。さっと立ちあがると、となりの部屋にはいっていった。
「ミス・レモン。すまないが、その仕事をやめて、わたしの調査を手伝ってくれませんか」
「調査ですって、ポワロさん。そっちは苦手なんですが……」ポワロは、ミス・レモンをさえぎった。
「いっか、あなたは商人のことならなんでもわかっている、といいましたね?」
「もちろんですわ」自信たっぷりな口ぶりだった。
「それなら、ことは簡単です。チャーマンズ・グリーンに出かけていき、魚屋を見つけてほしいんですよ」
「魚屋ですって?」びっくりして、ミス・レモンは聞きなおした。
「そうですよ。ローズバンク荘がふだん買っている魚屋です。魚屋がみつかったら、主人に聞いてほしいことがあるのです」
ポワロは細長い紙をわたした。ミス・レモンは受けとると、気のなさそうな顔で、書かれていることをメモした。そして、うなずいてみせると、タイプライターにふたをした。
「これから、二人してチャーマンズ・グリーンにいきます。あなたは魚屋をみつけてください。わたしは警察に顔をだすつもりです。ベーカー・ストリート駅から乗れば三十分で着きます」
チャーマンズ・グリーンに着いたポワロが、警察署にでむくと、シムズ警部はおどろいた顔でむかえた。
「これは、これは、ポワロさんもすばやいですな。一時間前に電話で話しあったばかりですよ」
「あなたにお願いがありましてね。カトリーナという女の子に会わせてほしいのです――名字はなんといいましたっけ?」
「リーガーです。カトリーナ・リーガー。よろしいですよ、反対する理由もありませんしね」
カトリーナは、この前よりずっと顔が青白く、ずっと機嫌が悪かった。ポワロは、やさしく話しかけた。
「いいかね、信じてほしいんだよ――わたしは、きみの味方なんだ。だから、ほんとうのことを聞かせてほしい」
カトリーナの目が光った。
「あたし、ほんとうのことをいった。みんなにほんとうのことを話した。あのひとが毒殺されたとしても、それは、あたしがしたことではない。みんな、まちがい。あんたたちは、あたしにお金がはいるのを邪魔する気よ」
耳ざわりな声だった。まるで、隅に追いつめられた哀れな小ネズミのようだ――ポワロはそう思った。
「オブラートのことを話してほしいのですよ。オブラートをいじったのは、きみだけなのかい?」
「そういったわ。ちゃんと話した。あの日の午後、薬屋さんでいただいてきた。ハンドバッグにいれて帰った――夕食がはじまるちょっと前よ。オブラートに包んである粉薬を一つ、お水といっしょに、ミス・バロービーにさしあげたんだわ」
「だれも、さわらなかったんだね」
「そうよ」
追いつめられた小ネズミは、きっぱりと答えた――なかなか勇気がある。
「ミス・バロービーは夕食のとき、スープと魚パイとタルトしか食べなかった。そうだったね」
「そうよ」
うちひしがれた声。どこにも光りがみつけられない暗い、くすぶった目。ポワロは、カトリーナの肩をかるくたたいた。
「いいかね、勇気をだしなさい。自由になれるチャンスはある――それにお金だって、きみのものになるさ。楽な生活もね」
カトリーナは、疑ぐりぶかい目でポワロをみつめかえした。ポワロといっしょに部屋をでると、シムズ警部が話しかけた。
「ポワロさん、電話でおっしゃったことがわからなかったんですよ――たしか、カトリーナに友だちがいる、とおっしゃいましたね」
「ええ、います。このわたしです」
ポワロは、そう答えると、警察署をでていった。首をひねって、なにかいいたそうなシムズ警部があとに残された。
喫茶店「緑のネコ」が待ちあわせの場所だった。ポワロのほうが先に待つことになったが、すぐにミス・レモンもやってきた。ミス・レモンは、すぐに話しだした。
「魚屋はハイ・ストリートにありました。名前はラッジです。ポワロさんのおっしゃったとおりでした。一ダース半きっかりです。ラッジさんの話したことは、ぜんぶメモしてきました」
ミス・レモンは、そのメモをポワロにわたした。ポワロの口から、ネコが満足してのどを鳴らすような低いうめきがもれた。
エルキュール・ポワロは、ローズバンク荘にひとりで出かけていった。前庭に立つポワロのうしろで夕日が沈んでいた。メアリー・デラフォンテーンが姿をあらわした。
「ポワロさんですの? またいらっしゃったんですか」メアリーの声には、おどろきがこもっていた。
「ええ、もどってきたんですよ。はじめて、こちらにうかがったとき、わたしの頭に、ある童謡が浮かびました。
おへそのまがったメアリーさん
あなたのお庭は、どんな庭?
トリ貝の殻《から》、エゴの木よ
きれいな娘《メード》も、せいぞろい
しかし、この場合はトリ貝の殻ではありませんでした。そうでしたね、奥さん」
ポワロは指さしてみせた。はっと息をのむ音。ポワロは聞きのがさなかった。メアリー・デラフォンテーンはだまって立っている。その目が説明を求めるようにポワロにむけられていた。ポワロはうなずいてみせた。
「|そうですよ《メ・ウイ》、わたしにはわかっているのです。メードは夕食の用意をして、外出しました――メードもカトリーナも、夕食にはそれしか出なかった、と誓うはずです。ただ、あなたがたご夫婦だけは知っています――あなたが一ダース半のカキを買って帰ってきたことですよ。おばさんへのちょっとしたごちそうです。カキなら、ストリキニーネをいれることは簡単ですね。するっとのどを通ってしまいます。しかし、カキの殻《から》が残ってしまう――ゴミバケツに捨てるわけにはいきません。メードに気づかれてしまいます。それで、あなたは花壇の縁飾りにしようと思いついた。しかし、数が足りなかった。すばらしい花壇なのに、カキ殻を飾ったために、バランスがくずれてしまった。貝殻のせいで、不協和音がまじってしまいました。はじめて、おたくにうかがったとき、花壇が妙に気にくわなかったのも、そのせいだったんですよ」
メアリー・デラフォンテーンがいった。
「あの手紙でおかしいと思ったんでしょう――おばが手紙を書いたことは知っていました――でも、わたくしは、どこまで書いたのか、わからなかったのです」
ポワロは、あいまいに答えてみせた。
「すくなくとも、家族のだれかが関わっていることはわかっていました。もし、カトリーナを疑っていたのなら、秘密にことを運ばなくてもいいわけです。あなたかご主人がミス・バロービーの有価証券を、自分の利益のために、だまって売り買いしていた。ミス・バロービーは、その事実をつかんでおられた――」
メアリー・デラフォンテーンはうなずいた。
「わたしたちは何年ものあいだ、すこしずつやっていました。でも、おばに気づかれるとは思っていませんでした。それがまちがいだったのです。やがて、おばが私立探偵に調査させるつもりでいることを知りました。それに、カトリーナに遺産を残すつもりでいることもわかったんです――あんな、みすぼらしい小娘に財産をやるなんて!」
「だから、罪をかぶせるために、カトリーナの部屋にストリキニーネを隠したのですね。たとえわたしが、どんなことをさぐりだしても、自分たちが安全でいられるように細工した。罪もない子どもを犠牲にしようとしたのですよ。あなたには、人間らしい心はないのですか、奥さん」
メアリー・デラフォンテーンは肩をすくめただけだった――忘れな草に似た青い目で、ポワロをじっとみつめていた。
ポワロは、はじめて、ローズバンク荘をたずねた日のことを思いだした。彼女の演技はみごとだった――夫のほうは、へまばかりやっていた。たいした女――人間らしさのない女だ。
「人間らしい心ですって? あんな、みすぼらしい小ネズミに、ですの?」
メアリー・デラフォンテーンの声には、他人を見くだすひびきがあった。
ポワロは静かにいった。
「あなたは、これまでの人生で、二つのものしか愛したことがなかったのですね――一つはご主人です」
ポワロは、メアリーのくちびるがふるえているのを見た。
「二つ目――それはあなたの庭です」
ポワロは、まわりを見た。まるで、女主人の罪をあばいたことを、美しい花たちにわびるような目だった。
黄色いアイリス
エルキュール・ポワロは、壁にすえつけになった電気ヒーターに向って長々と足を伸ばした。きちんとしているものが大好きな彼には、赤熱したバーが規則正しく並んでいる電気ヒーターを見るのが、なにより好きだった。
「石炭の火というやつは、いつも形が定まらず、でたらめなものだ」と彼は考えていた。「決して左右対称になることなどありっこない」
その時、電話のベルが鳴った。ポワロは立ち上りながら腕時計に眼を走らせた。十一時半だった。こんな時間に電話をかけてくるなんて、いったい誰だろう――彼はいぶかしんだ。そうだ、きっと電話のかけ違いだろう。
「それとも」と、彼は奇妙な微笑を浮かべて、一人|呟《つぶや》いた。
「新聞社でも持っている大金持かなにかが別荘の書斎で死んでいるのが発見されでもしたのかな。左の手には斑点のある蘭の花を握りしめ、胸には料理の本から破かれた頁がピンでとめてあったりして――」
そんなことを考えて一人|悦《えつ》に入りながら、彼は受話器をとり上げた。
と、同時に声が聞えてきた――柔らかく、しゃがれた女の声だった――その声の調子には、せっぱつまったようなあせりが感じられた。
「エルキュール・ポワロさんですか? エルキュール・ポワロさんですか?」
「エルキュール・ポワロです」
「ポワロさん、すぐいらして下さい――すぐ――わたし、危険にさらされているんです――とても危いんです――わたしにはそれがよくわかっているんです――」
ポワロは鋭く言った。
「あなたはどなたです? どこからおかけになっているのですか?」
電話の声は前よりもかすかになった。だが、いっそう急《せ》きこんで言った。
「すぐおいでになって下さい――人一人が生きるか死ぬかの問題なんです――『白鳥園』におります――すぐいらして下さい――黄色いアイリスの花のあるテーブルです――」
声がとぎれた――奇妙なとぎれ方だった――電話は切れてしまっている。
エルキュール・ポワロは受話器を掛けた。彼の顔には途方にくれたような表情が浮かんでいる。彼は歯を噛みしめたまま呟いた。
「ふうん、ちょっと変だな」
彼が『白鳥園』の入口を入ると、デブのルイジが急ぎ足に歩みよって来た。
「これはいらっしゃいまし、ポワロ様。お席をお取りいたしますか?」
「いや、いいんだよ、ルイジ。わたしは友だちを探しに来たんだ。中へ入って、探してみよう――多分、まだ来ていないと思うがね。ああちょっと、君、聞きたいことがあるんだ――あすこの隅のテーブルには黄色いアイリスがかざってあるが、他のテーブルはみなチューリップ――桃色のチューリップがかざってあるのに、どうして、あのテーブルにだけ黄色いアイリスの花がかざってあるのかね?」
ルイジは肩をすぼめた。
「お客様のご註文なのでございますよ! 特別のご註文なのでございます。きっと、あちらにいらしておられるご婦人方の中に、特にあの花のお好きな方がいらっしゃるのでございましょう。あれは、アメリカのお金持、バートン・ラッセル様ご予約のテーブルでございます」
「ああ、ご婦人がたの、むら気のせいかね?」
「そんなようにうけたまわりましたが」とルイジ。
「あのテーブルに、わたしの友人が坐っている。ちょっと行って会って来よう」
ポワロは、二、三組のカップルが踊っているダンスフロアのまわりをまわって、そのテーブルに近よった。
問題のテーブルには六人分の席が用意されてあった。しかし、いまはただ一人しか坐っていない。しょんぼりした恰好の若い男が一人、じっと思いをこらすようにしながらシャンパンを飲んでいた。
その男は、ポワロがわざわざ会いにやって来た人物でないことは明らかだった。トニー・チャペルが加わっているようなパーティで、危険な事件とかドラマチックな事件とかが起こるとは、とうてい考えられないことだった。
ポワロはテーブルのわきで、上品に立ちどまった。
「ああ、そちらにいるのは、わたしの友人のアンソニー・チャペル君じゃありませんか?」
「これはこれは――名探偵のポワロさんですか――」青年は大声を上げた。「アンソニーなんて呼ばんで下さいよ。友だちの間ではトニーで通ってるんですからね」彼は椅子をひとつ、後ろにひいた。
「さあ、ここへおかけ下さい。犯罪の話でもしましょうや! さあ、犯罪のために乾杯とゆきましょう」彼はあいたグラスにシャンパンを注いだ。「しかし、ポワロさん、あなたは、この歌とダンスと快楽の殿堂でなにをなさっているのです? ここには死骸はありませんよ。あなたに提供したくとも、死骸など、ひとつもありませんや」
ポワロはシャンパンをすすった。
「とても愉快そうですね?」
「愉快そうですって? それどころか、悲惨のまっ只中に足を踏みこんだところなんですよ――嘆きにくれているところです。ホラ、いま演奏されている曲が聞えるでしょう。なんの曲だか、ご存知ですか?」
ポワロは注意深く言ってみた。
「多分、あなたの恋人があなたをおいていってしまった、とかなんとかいう曲なのではありませんか?」
「まあ、当らずと言えど遠からずというところですね」と青年は言った。「だが、当ってはいませんよ。『恋ほど悲しいものはない』という題名の曲です」
「ほう?」
「僕のお気に入りの曲ですよ」トニー・チャペルは悲しげに言った。「僕のお気に入りのレストランで、お気に入りのバンドがお気に入りの曲を演奏している――そして、僕のお気に入りの女性もいる。それなのに、彼女は他の男と踊っているんです」
「それで、メランコリーというわけですか?」とポワロ。
「その通りです。ポーリンと僕は、ちょっと口げんかをしてしまったのです。なにしろ、彼女は、僕が五言ぐらいしか言わないのに、九十五言ぐらいしゃべるのですからね。僕の言った五言とは、『でもね、君、僕の言うことも聞いてくれたまえ』と、これくらいです――すると彼女はまた九十五言ぐらいくり返すので、どうしても話が進みません。まったくのところ」とトニーは、やるせなそうにつけ加えた。「毒でも飲んで死んでしまいたいくらいですよ」
「ポーリンとは?」ポワロが聞いた。
「ポーリン・ウェザビー。バートン・ラッセルの義妹です。若くて、きれいで、すごく金持ちなんです。今夜は、バートン・ラッセルのパーティなんですよ。ご存知でしょう、バートン・ラッセルは? 財閥のアメリカ人ですよ。――野心満々の個性ある人物です。彼の細君がポーリンの姉さんだったんです」
「で、このパーティには、ほかにどんな人がいらしてるんですか?」
「音楽が終れば、また席に戻ってきますから、あなたもお会いになれますよ。まず、ローラ・ヴァルデスが来ています――ご存じでしょう。メトロポール劇場の新しいショーに出ている南米生まれのダンサーです。それから、スティーブン・カーター。カーターはご存知ですか――外交官です。とても口のかたい男で、むっつりスティーブンで通っています。『僕にはそういうことを話す自由がないんだ、云々』なんてようなことを言う男です。ああ、みんな戻ってきましたよ」
ポワロは立ち上がった。彼は、バートン・ラッセル、スティーブン・カーター、色の浅黒い、人好きのするローラ・ヴァルデス、そして、非常に若く、非常に美しく、矢車菊にも似た眼の持ち主、ポーリン・ウェザビーの各人に紹介された。
バートン・ラッセルは言った。
「ほう、こちらが、あの有名なエルキュール・ポワロさんですか? お眼にかかれて非常に光栄です。こちらへお坐りになって、我々の仲間入りをなさいませんか? しかし、あなたのほうに別のお約束があるなら――」
トニー・チャペルが口をはさんだ。
「きっと、死骸と約束があるんでしょう。そうでなければ、百万長者が失踪したか、それも、ボリオブーラ王のダイヤかなにかがなくなりでもしたのですか?」
「おやおや、あなたは、わたしが職務から離れることはないとでもお考えなのですか? わたしは自分で楽しむために出歩くことは出来ないのですか?」
「きっと、あなたは、ここにいるカーターと約束がおありなのでしょう。彼は先だってジュネーブから帰ったばかりですし、現在のところ、国際情勢は険悪化していますからね。盗まれた設計図をみつけ出さないと、明日にでも戦争がおっぱじまるなんて工合なんじゃないのですか?」
ポーリン・ウェザビーが辛らつな口調で言った。
「トニー、あなたって、そんな馬鹿みたいなことしか言えないの?」
「ごめんよ、ポーリン」トニー・チャペルは、再びうなだれて、だまりこんでしまった。
「あなたはずいぶん厳格なのですね、お嬢さん」とポワロ。
「わたし、いつでも馬鹿ばっかり言ってるような人は嫌いです」
「いや、それでは、わたしも注意しなくてはいけませんな。まじめなことばかりしゃべるようにいたしましょう」
「いえ、違いますのよ、ポワロさん。あなたのこと申し上げたんじゃありませんの」
彼女はポワロのほうに笑顔を向けて質問した。
「あなたって、本当にシャーロック・ホームズみたいな方ですの? 素晴しい推理をなさるんですか?」
「ああ、推理ですか――実生活においては、そんなに簡単なものではありませんよ。だが、ひとつ、ためしてみましょうか? あの黄色いアイリスはあなたのお好きな花なのでしょう?」
「全然違いましたわ、ポワロさん。わたしの好きな花はスズランとバラですの」
ポワロはため息をついた。
「これは失敗しましたな。では、もう一度やってみましょう。今夜、それもいまからほんのちょっと前に、あなたはある人物に電話をおかけになりましたね」
ポーリンは笑い声を上げて、手を叩いた。
「当たりましたわ」
「それは、ここへお着きになってすぐですね?」
「また当たりました。ここのドアを入ってすぐ、電話をかけたんですの」
「いや、それはちょっとまずいですな。あなたは、このテーブルのところへおいでになる前に電話をなさったのですか?」
「ええ」
「いや、こりゃまったくまずい」
「とんでもない。あなたって方、なんて頭がいいんだろうって思ってますのよ。どうして、わたしが電話をかけたなんてことがおわかりになったのですか」
「お嬢さん、それは大探偵の秘密なのですよ。それから、あなたが電話をおかけになったのは――Pではじまる名前の人――でなければ、Hではじまる名前の人だったのではありませんか?」
ポーリンは笑った。
「それははずれましたわ。わたし、出すのを忘れて家においてきてしまったとても大事な手紙を出しておいてくれるようにって、女中に電話したんですの。女中の名前はルイズですわ」
「わからなくなりました――まったく、わけがわからなくなりました」
再び、音楽がはじまった。
「どうだい、ポーリン?」とトニーが訊いた。
「いま踊ったばかりなんですもの、そんなにすぐは踊りたくはないわ!」
「ああ、なんてことだ!」トニーは、ひどく情けなそうな声を出した。ポワロは、彼の隣りに坐っている南米生まれの娘に囁《ささや》いた。
「お嬢さん、わたしはあなたにダンスの申しこみをしたいのはやまやまなのですが、だめなんですよ。なにしろ、年をとりすぎておりますものですからね」
ローラ・ヴァルデスは言った。
「あーら、あなたが、そんなことおっしゃるなんてヘンですわよ。あなたはまだお若いです。あなたの頭の毛、まだまっ黒ではありませんか」
ポワロは少したじろいだ。
「ポーリン、わしは、お前の義兄として、また後見人として頼むのだが、一緒に踊ってはくれないだろうか。いま、ワルツを演奏しているが、わしの踊れるのはワルツだけなのだからね」
「ええ、いいですわ、踊りましょう」
「ああ、いい子だね、ポーリン。まったくお前はいい子だよ」
二人は席を立って行った。トニーは椅子にそっくりかえった。そして、スティーブン・カーターをにらみつけた。
「君はまったくものをしゃべらん男だな、カーター」と彼は言い出した。
「なにかしゃべって、このパーティを楽しくしたらどうなんだい?」
「おい、チャペル、いったい、どういうことなんだい?」
「わからんのか、お前――えっ、わからんのか?」トニーは、彼にくってかかった。
「おい、君!」
「じゃあ、飲みたまえ。しゃべりたくないなら、飲みたまえ」
「いや、飲みたくないよ」
「なら、俺が飲む」
スティーブン・カーターは肩をすくめた。
「あそこに知った男がいるので、ちょっと失礼して話してきます。イートン校で一緒だった男なんですよ」
スティーブン`カーターは立ち上がると、少し離れたテーブルのほうへ歩いて行った。
トニーは憂うつそうに言った。
「ええい、イートンの同級生なんて糞喰らえだ」
エルキュール・ポワロは、相変らず、わきに坐った肌の浅黒い美人に向って話しかけていた。
「ちょっとおうかがいしたいのだが、あなたのお好きな花はなんでしょうな?」
「おや、なんでまた、そんなこと、お聞きになるのですか?」ローラは一筋縄ではいかなかった。
「お嬢さん、わたしは、ご婦人に花を贈る時には、そのご婦人の一番お好きな花をお贈りしたいと思っておるのですよ」
「あら、素敵ですわ、ポワロさん。じゃあ、お話ししましょう――わたくしは、大きな赤いカーネーション――そうでなければまっかなバラが大好きです」
「結構ですな――まったく結構なご趣味です。すると、あなたは、黄色いアイリスなどはお好きじゃないのですか?」
「黄色い花?――ええ、好きではないです――あれはわたしの体質に合わないのです」
「そうですか――では、お嬢さん、今夜、あなたはここへおいでになってから、どなたかお友だちに電話なさいましたか?」
「わたくしが? お友だちに? いえ、しません。おかしなこと、お聞きになるのですね!」
「いや、このわたしという人間はとても好奇心が強いのでしてね」
「本当ですのね」彼女は黒い眼をクリクリさせながら彼を見た。「とても危険な方ですわ」
「いえいえ、危険なことはありません。言うなれば、とても有用な男――危機に際してはとても有用な男ですよ。おわかりになりますか」
ローラはくすくす笑った。白いなめらかな歯が見えた。
「いえいえ」と彼女は笑いながら言った。「あなたは危険な方です」
エルキュール・ポワロはため息をついた。
「どうもおわかりにはならんようですね。こりゃ、非常におかしな工合ですな」
トニーは放心からさめたように、急にしゃべり出した。
「ローラ、どうだい、イッチョウ踊らないかい? さあ、来たまえ」
「ええ、行くわ。ポワロさんは勇気がないようだから!」
トニーは彼女の身体に腕を巻き、フロアのほうに行きかけながら、肩ごしにポワロに言った。
「あなたは、これから起こる犯罪のことでも考えておいでなさい。
ポワロは言った。「意味深長な言葉ですな、それは。うん、まったく意味深長だ――」
彼は一、二分の間、じっともの思いにふけりながら坐っていた。そして立ち上がると、指を上げた。ルイジが飛んで来た。イタリア人の彼は幅びろの顔にこぼれんばかりの笑みを浮かべていた。
「君、ちょっと知りたいことがあるのだ」
「なんでもおっしゃって下さい」
「このテーブルに坐っている人たちの中で何人の人が、今夜、電話をかけたか、それが知りたいのだがね」
「それならわかっております。お若いご婦人――白い服を着たご婦人が、ここへお着きになるとすぐ、電話をお使いになりました。そして、そして、その方が外套をクロークへ置きにいらっしゃると、もう一人のご婦人が、クロークから出ておいでになって、電話ボックスヘお入りになりました」
「すると、あの南米生まれのお嬢さんも電話をかけたのか! それは、彼女が場内へ入る前だったかね?」
「さようでございます」
「他には?」
「ございません」
「こりゃ、ちょっと頭をひねらなくちゃいけなくなったぞ」
「さようでございますか」
「そうとも。ルイジ、今夜――特に今夜は知恵を働かさなくてはならなくなったようだよ! なにか起こりかけているんだ。ところが、わたしには、なにが起こりかけているのだか、さっぱりわからんのだ」
「わたくしに出来ますことなら、なんでも――」
ポワロはルイジにそばを離れるようにと合図した。ルイジはそっとひき退って行った。スティーブン・カーターがテーブルに戻ってきたのだった。
「まだ取り残されたままですよ、カーターさん」とポワロは言った。
「えっ――ああ――まったくですね」とカーター。
「あなたはバートン・ラッセルさんとはお親しいのですか?」
「ええ、ずいぶん前からの知り合いです」
「彼の義理の妹さん、ミス・ウェザビーは、とてもチャーミングな方ですな」
「ええ、きれいな娘です」
「彼女ともお親しいのですか?」
「ええ、とっても」
「ああ、とっても――とっても、ですか」とポワロ。
カーターは眼をみはって彼を見た。
音楽が終って一同が席に戻ってきた。バートン・ラッセルがウェイターに言った。
「シャンパンをもう一本もってきてくれたまえ大至急だ」
それから、彼は自分のグラスを上げた。
「さて、皆さん。乾杯をしましょう。実を言うと、今夜のパーティには、裏にちょっとした意味があるのです。ご承知のように、わたしは六人分の席を用意させました。集まった我々は五人です。つまり、ひとつ空席が出来るわけです。ところが、非常に奇妙な偶然のまわり合わせで、エルキュール・ポワロさんがおいでになったので、わたしはお願いしてパーティに加わっていただきました。
だがしかし、それがいかに適切な偶然であったか、まだ、あなたがたにはおわかりになっておりますまい。今夜の空席はある女性――このパーティにおいでになった方の記憶に残っているある女性のためのものなのです。皆さん、このパーティは、わたしの愛する妻、アイリス――四年前の今日死んだアイリスの追憶のために催したのです!」
テーブルをかこんだ人たちは、びっくりしたように身体を動かした。バートン・ラッセルは、顔の表情ひとつ変えず、グラスを上げた。
「彼女の追憶のために、みなさんに飲んでいただきたいのです。アイリスのために!」
「アイリスですって?」ポワロが語調鋭く言った。
彼は花を見た。バートン・ラッセルは、彼の視線を捕えて、ゆっくりとうなずいた。テーブルのまわりで囁きが起こった。
「アイリス――アイリス……」
誰もが驚愕したように、身動きひとつしなかった。バートン・ラッセルは、アメリカ風の抑揚で、ゆっくりと一本調子に話を続けた。
「わたしが妻の命日を、こんなふうに流行《はや》るレストランでの晩餐会という形で祝うということを、不思議に思われるかもしれません。しかし、それには理由があるのです――そうです、理由があるのです。なにもご存じないポワロさんのために、それを説明しておきましよう」
彼はポワロのほうに頭を向けた。
「ポワロさん、四年前の今夜、ニューヨークで晩餐会が開かれたのです。そこには、わたしの妻にわたし、ワシントンの大使館におられたスティーブン・カーター氏、数週間、わたしどもの家に滞在していたアンソニー・チャペル君、それにニューヨーク・シティホール劇場で踊っておられたヴァルデス嬢の各位が出席していました。ここにいるポーリンは」――と彼は義妹の肩を叩き――「まだ、十六才でしたが、特別扱いで晩餐会に出席していました。覚えているね、ポーリン?」
「ええ覚えてますわ」彼女の声は少しふるえていた。
「ポワロさん、その夜、悲劇が起こったのです。ドラムが鳴って余興がはじまった時でした。明かりが消えました――フロアの中央のスポットライトを残して、全部の明かりが消えたのです。そして、明かりが再びついた時、ポワロさん、わたしの妻はテーブルにつっ伏していました。彼女は死んでいたのです――すっかりこときれていました。彼女の飲み残したワイン・グラスの中から青酸カリが検出されました。そして、青酸カリの使い残りの紙箱が彼女のハンドバッグの中に発見されたのです」
「奥さんは自殺なさったですか?」とポワロ。
「結局、そうだろうということになったのです……わたしは失意のどん底に沈みました。多分、そうした行動をとるだけの理由があったのだろう――警察ではそう考えたのです。彼らの決定を受け入れました」
彼は急にテーブルを叩いた。
「しかし、わたしは満足しませんでした――そうです、四年間というもの、わたしは考え続け、心を悩まし続けたのです――だが、どうしても満足出来ませんでした。わたしにはアイリスが自殺したなどとは、どうしても考えられないのです。ポワロさん、わたしは、彼女が殺された――あのテーブルにいた人たちの中の誰かに殺されたに違いないと信じているのです」
「なんですって!」
トニー・チャペルが思わず立ち上がりかけた。
「静かにしたまえ。トニー君」とラッセルは言った。「まだ話はすんでいないのだ。彼らの中の一人がやった――いま、わたしはそれを確信しています。その人物が、闇にまぎれ、半分使った青酸カりの紙箱を彼女のハンドバッグの中に入れたのです。わたしは、その人物の正体を知っているつもりです。真相はわかっている――」
ローラが鋭い声を上げた。
「あなたは気が変なんです――狂っている――誰が彼女を殺そうなどと思うものですか! あなたは気が変なんです。もうここにいるのはいやです――」
彼女は言葉を切った。ドラムが鳴りはじめたのだ。
バートン・ラッセルは言った。
「余興がはじまります。これが終ってから、話を続けましょう。みなさん、その場所を動かないで下さい。わたしはバンドの所へ話しに行ってきます。ちょっと打ち合わせがあるのです」
彼は立ち上がって、テーブルを離れた。
「おかしなことをするもんだ」カーターが言った。「あの人は少し気が変になっている」
「気が狂っているのですよ」とローラ。
明かりが暗くなった。
「いけないわ!」ポーリンが叫んだ。そして、彼女は呟くように言った。「ああ、神様――ああ、神様――」
「どうなさったのです、お嬢さん?」ポワロが小さな声で言った。
彼女は囁くような声で答えた。
「こわいわ! まるで、あの時とそっくりなんですもの――」
「シーッ! シーッ!」と何人かの人の声がした。
ポワロは声を低めた。
「ちょっと耳を貸して下さい」彼はなにごとか囁いて、彼女の肩を叩いた。「それでなにもかもうまく行きます」彼は彼女を元気づけるように言った。
「ああ、神様!」ローラが叫んだ。
「どうしたのです?」
「同じ曲です――ニューヨークの夜の時と同じ唄です。バートン・ラッセルの差しがねなんですわ、きっと。いやですわ、わたし」
「元気をお出しなさい――元気を――」
急に静かになった。
一人の娘がフロアの中央に歩み出た。眼玉をグリグリさせ、白い歯をむき出した、石炭のようにまっ黒な娘だった。彼女は太い、しわがれた声――妙に哀れっぽい声で歌い出した。
あんたのことなど忘れちまった
あんたのことなど思い出さない
あんたの歩く歩きつき
あんたの話す話しっぷり
あんたのいつもの口ぐせも
なにもかも忘れちまった
あんたのことなど思い出さない
いまになってはもうわからない
あんたの眼が何色だったか……
あんたのことなど忘れちまった
あんたのことなど思い出さない
でも、だめ、だめよ
考えるのはあんたのこと
だめ、だめよ、だめなのよ
考えるのはあんたのこと……
あんた……あんた……あんた……
すすり泣くような調子だった。深みのある豊かなニグロの声は力強い響きを持っていた。その声は人々を魅了した――呪文を投げかけるようだった。ウェイターにも、それは感じられた。レストランじゅうの人が彼女をみつめ、彼女の発する感情の響きに魅了しつくされた。
ウェイターが静かにテーブルのまわりをまわりながら、グラスに酒を満たした。低い声で『シャンパンをおつぎしましょうか』と囁いて通るのだが、すべての人の注意は、ライトの中心の黒く光る点――アフリカに遠い祖先を持つ黒人の女に集中されていた。彼女は深みのある声で歌い続ける。
あんたのことなど忘れちまった
あんたのことなど思い出さない
でも、でも、それは嘘、嘘なのよ
あんたのことを考える、あんたのことを
あんたのことを
死ぬまで私は考える……
熱狂的な拍手が湧いた。そして、明かりがついた。バートン・ラッセルが戻って来て、自分の席にそっと坐った。
「まったく素晴らしい、素晴らしいね、彼女は――」トニーが叫んだ。
しかし、彼の声は、ローラの上げた低い叫びで途切られた。
「見て――見てよ――」
そして、彼らはみな、それを見た。ポーリン・ウェザビーがテーブルにつっ伏している。
ローラが叫んだ。
「死んだのよ――アイリスみたいに――ニューヨークでアイリスが死んだみたいに」
ポワロがとび上がるように席を立ち、他の人たちに席を立たぬようにと合図した。彼はつっ伏した娘の身体の上に身をかがめ、そっと彼女の手をとって、脈を探った。
彼の顔は蒼白で、こわばっていた。一同は彼をみつめた。誰も麻痺してしまったようだった。
ゆっくりとポワロはうなずいた。
「死んでいます――可哀そうに、わたしが彼女のそばに坐っていたのに。ああ、なんということだ! だが、決して犯人は逃がしはしないぞ」
顔色を灰色に青ざめさせて、バートン・ラッセルが呟いた。
「まるで、アイリスの時のようだ……彼女はなにか見たんだ――ポーリンは、あの夜、なにか見ていたんだ――ただ、彼女には確信が持てなかった――わしに、確信が持てないと言っていたんだ……早速、警察を呼ばなくちゃならん――ああ、可哀そうなポーリン」
ポワロが言った。
「彼女のグラスはどれです?」彼は、それを鼻の先きに持って行った。「うん、青酸の匂いがする。強烈な巴旦杏《はたんきょう》の匂いがする――方法も同じなら、毒も同じだ――」
彼はポーリンのハンドバッグを手にとった。
「彼女のバッグの中を見てみましょう」
バートン・ラッセルが叫ぶように言った。
「まさか自殺だとお考えなんじゃないでしょうな? 絶対に自殺ではありませんよ」
「ちょっと待って下さい」ポワロがバートン・ラッセルを制した。
「自殺ではありませんね。バッグの中にはなにもない。明かりがあまり早くつきすぎたので、殺人者にはひまがなかったのです。ですから毒はまだ彼が身につけているはずです」
「彼女かもしれませんよ」とカーター。
彼はローラ・ヴァルデスをみつめている。
彼女ははき出すように言った。
「なにを言うの――なにを言うつもりなの? わたしが彼女を殺したって言うの――そんなこと嘘です――絶対、嘘です。わたしがそんなことするはずありません!」
「君は、ニューヨークにいた時、バートン・ラッセルに惚れていたそうじゃないか。僕はそんなゴシップを聞いたことがある。アルゼンチンの女は嫉妬深いからね」
「そんなこと、みんな嘘です。それに、わたしはアルゼンチンの生まれじゃない。ペルーの生まれです。ああ、まったくなんてことを――」
彼女は、その後をスペイン語でまくし立てた。
「静かになさって下さい」ポワロが叫んだ。「話をするのは、このわたしの役目です」
バートン・ラッセルが重苦しい口調で言った。
「みんなの身体検査をしなけりゃならん」
ポワロは静かに言った。
「いやいや、その必要はありません」
「どういう意味です、その必要がないとは?」
「このわたし、エルキュール・ポワロにはわかっております。わたしは、心の眼で見通すのです。カーターさん、あなたの胸のポケットに入っている小箱を見せていただけませんか?」
「わたしのポケットにはなにも入っていません。いったい全体、なんだってそんな――」
「トニー君、ひとつ、ご面倒だが――」
カーターが叫んだ。
「なにをするんだ」
トニーは、カーターに抗《あらが》うすきも与えず、そのポケットから小箱をとり上げた。
「ありましたよ、ポワロさん、おっしゃるように」
「そんなこと、とんでもない大嘘だ」カーターは叫んだ。
ポワロはその小箱を手にとって、ラベルを読んだ。
「青酸カリです。これで証拠は出そろいました」
バートン・ラッセルがだみ声で言った。
「カーター! わしもそうだろうと思っていたんだ。アイリスは君と恋に落ちていた。君と駈け落ちしようと思っていたのだ。ところが、君は君の大事な未来のためにスキャンダルにまきこまれるのを怖れて、彼女を毒殺した。この大悪党め、絞首刑にでもされるがいい」
「静かに!」ポワロの声が響き渡った。しっかりした、権威のある声だった。「まだ、事件は終ったわけではありません。このわたし、エルキュール・ポワロから、まだ言うことがあります。ここにいるわたしの友人、トニー・チャペル君は、わたしがここへ着いた時、わたしが犯罪を探しに来たのだろうと言いました。そう、それは半分は当たっていたのです。わたしの心の中には、既に犯罪がありました――しかし、その犯罪を防止しようと、わたしはやって来たのです。そして、わたしは防止しました。殺人者は、非常にうまいプランを立てました――しかし、エルキュール・ポワロは、その一歩先きを進んでいたのです。わたしは大急ぎで考えをまとめました。そして、明かりが消えた時、お嬢さんの耳に素早く囁いたのです。彼女はとても機敏で、利巧でした。ポーリンお嬢さんは、自分の役割を上手に果たしました。さあ、お嬢さん、あなたが死んでいない証拠をお見せになって下さいませんか?」
ポーリンが起き上った。彼女は落ち着かない微笑を浮かべていた。
「ポーリンの復活よ」と彼女は言った。
「ポーリン」
「トニー!」
「僕の大事なポーリン!」
バートン・ラッセルは息を呑んだ。
「わしには――わしには、さっぱりわからんが」
「わかるようにしてさしあげましょうか、バートン・ラッセルさん。あなたの計画は失敗したのですよ」
「わしの計画?」
「そう、あなたの計画です。暗闇の中でアリバイを持っていたただ一人の人はどなたでした? それは、テーブルを離れた人――あなたです。バートン・ラッセルさんです。しかし、あなたは闇にまぎれて戻って来た。そして、シャンパンのびんを持ってテーブルをまわり、グラスを満たしながら、ポーリンさんのグラスに青酸カリを入れ、グラスをどけるふりをして、カーターさんの上に身をかがめ、そのポケットに半分からになった青酸カリの小箱をつっこんだ。一同の注意が他に集中されているし、暗闇の中なので、ウェイターに化けるのは至極簡単だったのです。それが、今夜、あなたがこのパーティをやった真の原因だったのです。人殺しをやるのに最も安全な場所は、群集のまっ只中だと言いますからな」
「一体、一体なんだって、わしがポーリンを殺さなくてはならんのだ?」
「多分、それは金の問題だったのでしょう。あなたの奥さんは、あなたを妹さんの後見人になさった。今夜、あなたはそのことにちょっとお触れになりましたね。ポーリンさんは二十才になりました。彼女が二十一才になるか、結婚するかすれば、あなたは奥さんの財産のすべてを返さねばなりません。わたしの察するところ、あなたにはそれが出来なかったのでしょう。あなたはその金で相場に手を出して使ってしまったのだ。あなたが、これと同じ方法で奥さんを殺したのか、それとも、奥さんの死は自殺で、それにヒントを得て、今度の計画を思いつかれたのか、どちらだか、それはわたしにはわかりません。しかし、今夜のあなたが殺人未遂で有罪であることだけははっきりわかっております。あなたがその罪で訴追されるか否か、それはポーリンさんのお心ひとつにかかっています」
「わたし、訴えません」とポーリンは言った。「ただ、わたしの眼につかぬところへ行ってしまって下さい。この国から出て行って下さい。わたし、スキャンダルは好まないのです」
「すぐ行かれたほうがいいですね、バートン・ラッセルさん。ご忠告申し上げますが、二度とこのようなことはなさらんように」
バートン・ラッセルは立ち上がった。その顔はピクピクけいれんしていた。
「こん畜生、ベルギーの小男のためにまんまとしてやられちまった」
彼は怒ったように大股に歩み去って行った。
ポワロはため息をついた。
「ポワロさん、なんて素晴らしいんでしょう……」
「いや、素晴らしかったのは、お嬢さん、あなたのほうですよ。シャンパンンを捨てて、あんなに上手に死人のまねをなさったのですから」
「ウワーツ」彼女は身をふるわせた。「思い出してもゾッとしますわ」
彼は静かに言った。
「わたしに電話なさったのも、あなただったのですね」
「ええ」
「なぜでした?」
「わかりません。とても不安だったのです――なぜだかわけがわからないんですけど、とてもこわかったのです。バートンはわたしに、アイリスの死を記念するために、このパーティをやるのだと言いました。彼になにか目論見があることが、わたしにはわかりました……でも、どんな目論見があるか、わたしには言わないのです。とても態度が変で、とても興奮しているので、なにか恐ろしいことが起こるのではないかと思ったのです――でも、まさか、彼の考えていたことが――わたしを殺すことだったなんて夢にも思いませんでしたわ」
「それで?」
「わたし、いろいろな人から、あなたのことをうかがっていたのです。ですから、あなたにここに来ていただくことが出来たら、その出来事がなんであろうと、食いとめることが出来るのではないかと考えたのです。で、わたし、お電話をして、わたしが危険にさらされていると申し上げ……不思議な事件に見えるようにしたのです」
「ドラマチックにやれば、わたしが注目するとお思いになったのですね? そのために、わたしはずいぶん頭を悩ましたのですよ。あの電話の話自体は、明らかに、いわゆる『まやかしもの』でした――本当のようには聞えなかったのです。しかし、その声音《こわね》に含まれた恐怖――あれは本物でした。そこで、わたしはやって来たのです――それなのに、あなたは、わたしに電話をなさったことをまっこうから否定なさった」
「ああしなければならなかったのですわ。それに、わたし、電話をしたのがわたしだとあなたに知られたくなかったのですもの」
「そうですか、しかし、わたしにはあなたであることがはっきりわかっていましたよ。最初からではありません。しかし、すぐに、テーブルの上の黄色いアイリスの花のことを知ることの出来るのはたった二人で、それはあなたかバートン・ラッセル氏か、どちらかだということに気がついたのです」
ポーリンはうなずいた。
「わたし、彼があの花を、わざわざテーブルにおかせるために注文した時、それを聞いてしまったのです」と彼女は説明して言った。「それと、彼が六人分の席を注文しておきながら、五人しか行かないということを知った時、わたしは疑念を抱いたのです――」彼女は言葉を切って唇を噛んだ。
「なにに疑念を抱かれたのですか?」
彼女はゆっくりと言った。
「なにか起こるんじゃないか――カーターさんになにか起こるんじゃないか、と恐れたのです」
スティーブン・カーターが咳ばらいした。そして、ゆっくりと、決然たる態度で立ち上がった。
「ええ……エヘン――ポワロさん、わたしは、あなたにお礼を申し上げなければなりません。あなたに大変おせわになりました。それなのに、すぐにこの場を辞するのは大変失礼なことなのですが、なにしろ今夜の出来事で――そのう――気が転倒しているものですから」
立ち去って行くカーターの後ろ姿を見送りながら、ポーリンは荒々しく言った。
「わたし、あの人嫌いです。いつでも、わたし、考えるんです――あの人のために、アイリスは自殺したんだと。でも、もしかすると……姉はバートンに殺されたのかもしれません。ああ、なんていやなことなんでしょう――」
ポワロは静かに言った。
「お忘れなさい、お嬢さん――お忘れになるのです――過去は過去……現在のことだけをお考えなさい――」
ポーリンは呟くように言った。「ええ――あなたのおっしゃる通りですわ――」
ポワロはローラ・ヴァルデスのほうを向いた。
「夜がふけたせいか、わたしにも勇気が出てまいったようです。もしわたしと踊っていただけるのなら――」
「ええ、もちろんですとも。あなたってかた――あなたってかた、まったく頭のよいかたなんですのね。ぜひ踊っていただきたいですわ」
「それは、どうも有難うございます」
トニーとポーリンの二人が取り残された。彼らはテーブル越しにお互いに身をのり出した。
「愛するポーリン」
「あら、トニー、わたし、一日中、あなたにガミガミ当たり通しだったわね。勘弁して下さる?」
「いいんだよ! また僕らの大好きな曲をやっている。踊ろうか」
二人は、お互いに微笑を交しながら踊りはじめた。
スペイン櫃の秘密
エルキュール・ポワロは、いつもの時間きっかりに、秘書のミス・レモンの小さな部屋にはいっていった。
ミス・レモンは四十八歳。精密機械のように仕事をすすめるタイプだが、想像力のないのが欠点である。
「おはよう、ミス・レモン」
「おはようございます、ポワロさん」
ポワロが腰をおろすと、彼女は、きれいに整理した朝の郵便をまえに置くと、自分の席にもどり、メモと鉛筆を持って、仕事の指示を待ちうけた。
めったにないことだが、今朝のポワロはいつもとは様子がちがっていた。手に朝刊を持って、記事に目をとおしているのである。
――謎のスペイン櫃《ひつ》事件の新事実!
それが、ポワロが読んでいた記事の大見出しだった。
「ところで、ミス・レモン、スペイン櫃がどんなものか、知ってますか」
「もとは、スペインで作られた大きな箱でしょう。ふつうエリザベス朝時代〔一五五八〜一六〇三〕のものを指します。真鍮の飾りがたくさんついていますわ。よくみがいておけば、見ばえがします。わたくしの姉も持っていますけど、リンネルをしまっていますわ」
「あなたのお姉さんなら、家具はほこり一つついてないでしょうねえ」
ポワロは、また新聞にもどって、事件に登場する人たちの名前をたしかめた。
リッチ陸軍少佐、クレートン夫人、マクラーレン海軍中佐、スペンス夫妻。
五人の男女がパーティに出席した。その部屋の壁ぎわには大きなスペイン櫃。軽い食事をとり、おしゃべりやレコードの音楽でダンスを楽しんだ……。しかし、六人目の男がいた。しかも、スペイン櫃のなかで殺されていたのである。
もし、へースティングスがいたら、この事件を大よろこびするだろう。ロマンティックな想像をふくらませて、くだらないことをしゃべりまくるだろう……ポワロは思った。
ため息をつくと、彼はミス・レモンをみつめた――タイプライターのおおいをはずして、今日の仕事のスケジュールを指示してくださいという顔でポワロを見ている。死体がはいっているスペイン櫃など、くだらないと思っている顔だ。ポワロは、思わず新聞をミス・レモンにつきつけた。
「この新聞の顔写真をどう思いますか。これが被害者の妻……クレートン夫人です」
ミス・レモンは新聞をとりあげると、ちらっとながめていった。
「わたくしたちは、クロイドン・ヒースに住んでいたことがあります。そこの銀行支店長の奥さんに似ているところがありますわ」
「ほう、その奥さんはどんな人でした?」
「アダムズ夫人は若い芸術家との仲で、いろんな噂《うわさ》が立てられました――そのうちにアダムズ支店長はピストル自殺をしたのです。しかし、芸術家は夫人と結婚できませんでした。そして毒を飲みました。アダムズ夫人が結婚したのは若い弁護士でしたわ――そのあとも、いろいろトラブルが起きたようでしたけど、わたしたちは引越したので、くわしいことはぞんじません」
「アダムズ夫人は美しい女性でしたか?」
「そうですね――美人というよりも、なにか人を惹きつけるものがありました……」
「なるほど、人を惹《ひ》きつけるものねえ……この世のサイレン〔ギリシア神話に登場する海の魔女。歌で水夫を誘惑する〕ですね。トロイのヘレンやクレオパトラは美人で、しかも人を惹きつけたが……」
「わたしは、そんなことなど考えたこともございません。それより、今日の仕事はどうなさいますか?」
ミス・レモンは、人間の情熱をあっさりかたづけると、タイプライターのキーを指でいじりまわした。
「しかし、ミス・レモン、あなたの仕事は、口述筆記や書類の整理や電話のとりつぎとか手紙をタイプすることだけじゃないんですよ――まあ、あなたはりっぱな秘書ですけど、人間相手の仕事をしているのです。それに、そのほかにも、わたしの仕事を手伝ってほしいのです」
「わかりました、ポワロさん。で、わたしはなにをすればよろしいのですか」
ミス・レモンはしんぼう強かった。
「わたしはこの事件に興味があります。新聞記事をあつめてください。そして、あなたの意見をきかせてください」
ポワロは自分の部屋にもどると、わびしそうな微笑《ほほえ》みをうかべた。
「ああ、へースティングスがなつかしいよ。彼なら、新聞記事をぜんぶ信じこんで、とんでもない推理をくだして、わたしをおもしろがらせてくれるだろうに……」
ミス・レモンは、タイプした書類を持ってポワロの部屋にやってきた。
「これが情報ですわ、ポワロさん。しかし、信頼すべき事実はせいぜい四〇パーセントくらいでした。まったく、新聞は、ちょっとした事実から、いいかげんな記事を書くものですね」
「それでもひかえ目な数字ですよ。ありがとう、ミス・レモン」
スペイン櫃事件の事実ではっきりしたものは次のとおりだった。
――ゆたかな生活を送っているチャールズ・リッチ少佐(独身、四十八歳)が、自分のアパートメントで、数人の友人を招いて、夜のパーティをひらいた。友人たちとは……
クレートン夫妻――アーノルド・クレートンは大蔵省の上級役人で五十五歳。妻のマルガリータは「夫よりすこし年下」
若いスペンス夫妻――ジェレミー・スペンスは下級役人で三十七歳。リッチ少佐とは最近知りあったばかりだった。妻はリンダ。
ジョック・マクラーレン中佐は独身で四十六歳。リッチ少佐とクレートン夫妻とは、むかしからの友人だった。
その夜のパーティに出席できなかった人物がいた。アーノルド・クレートン氏である。氏は、スコットランドに急用がもちあがり、キングズ・クロス発八時十五分の汽車で出発したはずだった。
パーティは、ふつうのパーティだった。酒に酔っぱらう者はいず、そうぞうしくもなく進んで、十一時四十五分に終った。
出席者たちは、いっしょに同じタクシーで帰っていった。マクラーレン中佐が、クラブで降りたあと、マルガリータ・クレートンがスローン街からすこし奥まったカーディガン・ガーデンズで降りた。そのあとで、スペンス夫妻はチェルシーの自宅まで帰った。
あくる日の朝――惨劇が発見された。
朝はやく出勤してきた、リッチ少佐の召使いウィリアム・バージェスは、朝のお茶を主人に運ぶまえに、掃除をするために居間にはいった。そのとき、スペイン櫃が置かれている明るい色のじゅうたんに、黒くて大きなしみがついているのを見て、おどろいた。
そのしみが櫃から流れているようだったので、バージェスは櫃のふたをあけた――そこには首を刺されたクレートンの死体が横たわっていた。
バージェスは、あわてふためいて通りにとびだして、警官を呼んだ。
――これが事件のあらましだった。
もうすこし、くわしいこともわかった。
警察は、すぐにクレートン夫人に連絡して事情をたずねた。夫人が最後に夫と会ったのは、前の日の夕方六時を少しまわったころだった。家に帰ってきた夫はいらいらしており、財産のことで急用ができたため、スコットランドまで出かけるはめになった、といった。夫人には一人でパーティに出席するようにすすめた。
マクラーレン中佐の話によると、クレートン氏は中佐のクラブ会館をたずねて、酒を飲みながら、出席できなくなった理由を説明した。しばらくして、懐中時計をとりだすと、キングズ・クロス駅にいくまえに、リッチ少佐をたずねて事情を説明する時間がありそうだといい、ここに来るまえに電話してみたが、線が故障していたらしい、とも話した。
召使いのウィリアム・バージェスの話――
クレートン様は七時五十五分ごろ、いらっしゃいました。主人はまもなく帰りますから、部屋でお待ちください、ともうしあげました。急ぐから伝言を残していこう、キングズ・クロス駅にいく途中なのだ……そう、おっしゃったので、居間にご案内いたしました。
パーティのためのカナッペ〔薄いパンの上にアンチョビなどを載せたもの〕をつくるために、わたくしは台所にもどりました。十分ほどたつと、リッチ少佐が台所においでになり、スペンス夫人のためのトルコ・タバコを買いにいくよう命じられました。すぐに買ってきて、居間においでの少佐にお渡ししました。クレートン様の姿が見えませんでした。たぶん、汽車に間に合うために、だまって出ていかれたのでしょう。
リッチ少佐の話はかんたんだった。
わたしがもどったとき、クレートンさんはいなかった。メモもなかったから、彼が来たことも知らなかった。クレートン夫人がきて、はじめてスコットランドに出かけたことを聞いた。
その日の夕刊には二つの新しい記事がのった。
「悲しみにうちひしがれた」クレートン夫人が、カーディガン・ガーデンズのアパートメントを離れて、友人の家に身をかくしているらしい……。
二つ目の記事――チャールズ・リッチ少佐、アーノルド・クレートン殺害の容疑で、警察に留置さる。
「やはり、リッチ少佐は逮捕されたか。まったく、おどろくべき事件だ。そう思いませんか、ミス・レモン」ポワロはミス・レモンを見あげながらいった。
「よくあることですわ、ポワロさん」ミス・レモンの返事はそっけなかった。
「しかし、刺し殺されて、スペイン櫃にいれられる事件は、よくあることじゃないですよ。しかし、わたしがおどろくべきことといったのは、リッチ少佐の行動です」
「でも、リッチ少佐とクレートン夫人は、とても親しい仲だったらしいですわ。新聞記事では、ほのめかしている程度で、事実かどうかはわかりませんでしたけれど」
ポワロはため息をついた。ミス・レモンと事件のことを話すと、妙につかれるのだ。彼は、なつかしい友へースティングスを思いうかべた。
「なるほど、少佐はクレートン夫人に恋している……そして夫を殺したいと思っていた――ここまではいいでしょう。ところで、二人が好きあっていたのなら、急いで殺す必要があっただろうか。クレートン氏が離婚に反対していたことは考えられます。しかし、リッチ少佐は退役軍人です。軍人は、あまり頭が良くないと世間ではいいますね。でも、少佐の行動はあまりにもばかげているのですよ」
ミス・レモンはだまっている。
「さあ、少佐の行動をどう思います?」
「どう思うって、わたくしがですか」
自分の意見をいうのが苦手なミス・レモンは考えこんでしまった。完全な書類整理方法について、いろいろ考えるのは大好きだったが、事件について話そうとすると、頭の回転がストップしてしまう。
「そうですね――わたしは……」
「なにが起きたかでもいいのです――あの日の夕方、クレートン氏は居間でメモを書いていた。そこヘリッチ少佐がもどってくる……さあ、あなたなら、どうしますか」
「クレートンさんを見つけて……そう、口げんかになる。そしてクレートンさんを刺し殺してしまう。正気にかえって、スペイン櫃に死体を隠します……なぜって、すぐにもお客がやってくるかもしれませんもの」
「うまいですね――さあ、客たちがやってきた――死体はスペイン櫃の中です。パーティがはじまり、夜がふけて終った……それから、あなたはどうします」
「それから、寝室にいって……まあ、とても眠るどころじゃありませんわ」
「やっとわかりましたね……人殺しのあと、ゆっくり寝られるわけがありません。しかも、朝になったら、召使いがきて、死体を発見する危険があるのです」
「でも、召使いのバージェスが櫃の中を見ない可能性もありますわ」
「じゅうたんにたくさんの血が流れていても?」
「リッチ少佐は、血に気づかなかったかもしれません」
「それでは、あまりにも不注意じゃないですか」
「きっと、あわてていたんだと思いますわ」
ポワロは両手をあげて、絶望のしぐさをした。ミス・レモンは、さっさと部屋を出ていってしまった。
ポワロは、大きな石油会社の事件をかかえていた。幹部の一人が不正を働いているらしい。それをつきとめるのを依頼されていた。灰色の脳細胞を働かせるだけで、大金がかせげる。血も流れない、知的なゲームのような事件である。
しかし、スペイン櫃の事件は、ドラマティックで、ポワロの心をわくわくさせる。ヘースティングスがいたころは、彼が興奮して、事件についてしゃべりまくるのを、冷たい目で見ていた……ところが、彼がいなくなると、ポワロ自身がへースティングスのまねをしようとしている。
ポワロは、スペイン櫃事件のなぞを解きあかしたい、と思った……リッチ少佐はどんな人物なのか、召使いのバージェスはどんな男か、マルガリータ・クレートンはどんな女なのか。そして……被害者アーノルド・クレートン。被害者の性格は、事件でもっとも重要な要素になるのである。クレートンの親友であるマクラーレン中佐やスペンス夫妻は、どんな人間で、事件についてどう考えているのだろう。
ポワロは、あれこれ考えてみた。なぜ、これほど、気持がおどるのだろう――結論はこうだった。事件全体を考えあわせたとき、リッチ少佐が殺人をしたはずがない。それは少佐の行動が証明している。しかも、警察は少佐を殺人事件の容疑者と思いこんでいる。事件が解けるのは自分だけだ、そう考えてポワロはわくわくしているのだった。
事件の原因はたぶん女のことだろう。ある男がかっとなって、もう一人を刺し殺した。ここまではいい――しかし、この場合、妻の恋人が夫を刺し殺している。ふつうなら、夫が妻の恋人を殺すところだ。凶器は短剣。あまり見かけない凶器だが、手近にあったものだろう。殺人は計画的なものではなかった――召使いが近くにいたし、いつ客がくるかわからないからだ。
そのとき、電話が鳴った。ポワロはしばらくほうっておいた。ふとミス・レモンが帰ってしまったことを思いだした。召使いのジョージは外出しているのかもしれない。ポワロは受話器をとりあげた。
「ポワロさんね?」
「はい」
「よかったわ、わたくし、アビー・チャタートンよ。これから、すてきなカクテル・パーティをするの。来てくださらないこと? じつは、パーティなど、どうでもいいの。あなたの助けがほしいの。とても重大なことなのよ。お願い、つごうをつけて、いらしてくださらない?」
ポワロは、熱のこもった美しい声におされて、だまっていた。
チャタートン夫人の夫チャタートン卿は上院議員もつとめている。代々の貴族で、たまに議会でつまらない演説をするくらいで、非凡な人物というわけではない。いっぽうチャタートン夫人は、社交界のスター、宝石のなかの宝石。彼女の行動、話す言葉がニュースになる。アビー・チャタートンは、また話しだした。
「ぜひいらしてくださいな。あなたのすてきなおひげをちょっとなでつけたら、それでいいの」
ちょいとなでつけてすむわけにはいかなかった――ポワロはまず、きちんと身仕度をした。口ひげをなでつけるのは最後になったが、アパートを出発した。
チャタートン夫人の邸はチェリントン街にあった。中から動物園の動物がわめきたてているような声がきこえてくる。チャタートン夫人は二人の大使とラグビーの名選手とアメリカ人の宣教師にとりかこまれていたが、ポワロの姿を見つけると、いそいで近づいてきた。
「ポワロさん、おいでくださってほんとにありがとう。あら、そんなマティーニなぞ、およしになって。もっと特別な飲み物を差しあげますわ。モロッコの族長が飲むシロップみたいなものなの。二階のわたくしの部屋にありますわ」
チャタートン夫人は先に立って階段をあがりはじめた。ふりかえりながら、ポワロに話しかける。
「今日のパーティは延期しようと思いました。でも、そうしたら、なにか特別なわけがあると疑われてしまいます。召使いたちには特別手当を出すと約束しました。もし、新聞記者にもれたら、大ぜいがおしかけてくるでしょう? ただでさえかわいそうなあの人は、ひどい目に会っているんですものね」
エルキュール・ポワロは、だまって夫人について階段をあがっていった。ある部屋まできたとき、夫人はドアをあけて、大声で話しかけた。
「マルガリータ、お連れしたわ。ほら、ここにいらっしゃるわ」
夫人は、ポワロを部屋におしこむと、またしゃべりだした。
「ポワロさん、こちらがマルガリータ・クレートンさんよ。わたくしの親友なんですの。マルガリータ、こちらが名探偵エルキュール・ポワロさん。ポワロさんなら、あなたを助けてくださるわ。そうですわね、ポワロさん?」
アビー・チャタートン夫人はポワロの返事も待たず、部屋から出ていってしまった。
窓ぎわの椅子に腰かけていた女性は立ちあがると、ポワロに近づいてきた。広くて美しいひたい。つばさのようにひろがる黒い髪。灰色の目の間隔がひろかった。ハイネックの黒いガウンが美しいからだの線と、白モクレンのような肌を浮きたたせている。ポワロは、紹介されなくても一目で彼女とわかっただろう。美人というよりも非凡な顔立ちだった。古代イタリア人のような、どこか奇妙なバランスをたもつ顔だった。
「アビーがいいましたわ。ポワロさんなら助けてくださるって」
その口調には、どこか子供っぽさがあった。彼女はすがりつくような目でポワロの顔をのぞきこんだ。ポワロはじっと彼女の目を見返した。まるで名医がはじめて診る患者をみつめるような目である。
「ほんとうに、わたしに助けることができるとお思いですか?」クレートン夫人のほほが赤くなった。
「なんておっしゃいました? わたしにどうしてほしいのですか?」
「あら、わたくしのことはごぞんじだと思っておりましたわ」マルガリータ・クレートンはおどろいた口調になった。
「ぞんじております。あなたのご主人が殺され、リッチ少佐が逮捕されたのでしたね」
「リッチ少佐は人殺しじゃありませんわ」
「なぜ、そうお思いになるのですか」
「あたくし、少佐をよくぞんじております」
「どの程度、リッチ少佐について知っておられるのですか?」
クレートン夫人は、質問の意味がよくわからなかったらしい。
「五年かしら。いいえ、もう六年になると思いますわ」
「わたしがおたずねしたのは、その意味ではありません。これから、うるさい質問をするかもしれませんが、おゆるしください。ただ、真実を話していただかねばなりません。ときどき、ご婦人は嘘をつきます。それが女性にとっての武器になることもありますからね。しかし、この世には、真実を話さなければならぬ相手がいるのですよ。神父と美容師、それに私立探偵の三人です。ただ、私立探偵の場合は、信用したときだけですがね。いかがです、このわたしを信用なさいますか?」
マルガリータは深く息をすった。
「はい、いたします」
「それで、わたしにどうせよ、というのです? ご主人を殺した犯人を見つけることでしょうか」
「ええ――まあ、そうですわ」
「しかし、それは二の次ですね? すると、チャールズ・リッチ少佐の容疑をはらしたいのですか?」
マルガリータ・クレートンは、強くうなずいた。
「立ち入ったことをおたずねします――あなたとリッチ少佐は恋人どうしですね?」
「はい。でも、ベッドをともにしたことはありません」
「それでも、あなたがたは互いに愛しあっておられるのですね?」
「そうですわ」
「ご主人を愛していらっしゃらなかったのですか」
「愛しておりませんでした」
「ずいぶん、はっきりしたご返事ですね。結婚後、何年になりますか?」
「十一年になりますわ」
「亡くなられたご主人アーノルド・クレートン氏について話していただけませんか――どんな性格のかたでした?」
「さあ、なんとお答えすればよろしいでしょう。あたしにもよくわかっていなかったようです。たしかに――ものしずかで、無口な人でした。何を考えているか、誰にもわからなかった……頭はよかったですわ。みなさんも才能ゆたかな人だとおっしゃって……ええ、仕事のことですわ……それから、どういえばいいのかわかりませんが……けっして弁解しない人でした」
「ご主人は、あなたを愛しておられましたか?」
「ええ、そうにきまっていますわ……そうでなかったら、あんなに気にしたりしなかった……」
マルガリータ・クレートンは突然、口をつぐんだ。
「ほかの男のことですね? つまり、ご主人は嫉妬ぶかい人だったのですね?」
「そのはずですわ……ときどき口をきかなくなりました……何日もですの」
ポワロは、考えこむようにうなずいた。
「あなたのことで、これまでトラブルはありませんでしたか?」
「トラブルですか。あなたは、ピストル自殺しようとしたあの青年のことをおっしゃっているんですね」クレートン夫人のほほが赤くなった。
「ええ、そうしたトラブルです」
「あたくしは、あの青年の気持を知りませんでした……かわいそうに思っていたのです――とても内気で、ひとりぼっちのようにみえましたもの。きっと神経がまいっていたんですわ。それから、二人のイタリアの方がいました――決闘したのです――ばかげていますわ。ほっとしたのは、お二人とも死ななかったからです。はっきりもうして、あのお二人のことは何とも思っておりませんでした」
「そうですか――あなたがいる、それだけでトラブルが起きたのです。わたしは、これまで同じことを見てきました。あなたは、そんな男たちについては気にしてはいませんね。しかし、リッチ少佐のことでは心配しておられる……」
ポワロはしばらくだまっていた。
「ところで、クレートン夫人。わたしの知っているのは新聞記事だけです。記事にある事実によれば、ご主人を殺す機会があったのは二人だけです。チャールズ・リッチ少佐と召使いのウィリアム・バージェスの二人です」
クレートン夫人はきっぱりいった。
「チャールズが殺したのでないことは、わたくしが知っていますわ」
「では、召使いが殺した?」
「さあ、よくわかりません、でも、それではへんですわ」
「しかし、その可能性はあるのです。ご主人は少佐のアパートをたずねた。死体はそこで発見されたからです。もし、召使いの話が真実なら、リッチ少佐がご主人を殺したことになる。召使いの話がうそなら、召使いがご主人を殺して、リッチ少佐がもどってくる前に死体をスペイン櫃に隠したことになります。そして、あくる朝、血に気がついたふり、死体を発見したふり、をするだけでいい。殺人容疑はリッチ少佐にかかるはずです」
「でも、なぜ、召使いが、アーノルドを殺さなければならないのでしょう?」
「たしかにわかりませんな。動機がわからない。ご主人が召使いの悪事を知っておられた。それをリッチ少佐に教えようとしたために殺された――そうとも考えられる。召使いのバージェスのことで、ご主人はなにか話したことはありませんか?」
マルガリータ・クレートンは首をふった。
「おぼえておりません。アーノルドは、他人のことを話す人ではありませんでした。無口な人だったともうしあげましたわね」
「自分がなにを考えているかをしゃべったりはしなかったんですね……わかりました。ところで、バージェスについて、どう思いますか?」
「あまり人目につく男ではありません。召使いとしては、よくやっていたんじゃないでしょうか。よく働きますが、気がきくほうではありません」
「年令は?」
「三十七か八くらいでしょう。戦時中は将校の当番兵だったそうですわ」
「リッチ少佐のところでは、どのくらいつとめているのですか?」
「それほど長くはないですわ。一年半くらいでしょうかしら」
「あの夜のことをお聞かせ願えませんか。着いたのは何時ですか?」
「八時十五分すぎでした」
「どんなたぐいのパーティでしょうか?」
「そうですわね――お酒とかんたんな食事です。フォアグラをのせたトースト、スモーク・サーモン。ときどき熱いお米料理も出ますね……近東の料理で、あちらにいたとき、チャールズは覚えたのだそうです――でも、冬のパーティのときが多いわ。レコードはいつもかけます。チャールズはすばらしいステレオ式の蓄音器《プレーヤー》を持っていますの。主人とジョック・マクラーレンはクラシック音楽がとても好きですわ。先日はダンス音楽でした――スペンスご夫妻はダンスに夢中なのです。気のおけない友人どうしのしずかなパーティでした。チャールズはすてきなホスト役をつとめておりました」
「なにか変ったことはありませんでしたか? いつものパーティとは変ったところはなかったでしょうか?」
「変った点ですか――いま、なにか思い出しかけたんですけれど……」
マルガリータ・クレートン夫人は眉をひそめた。しばらくして首をふった。
「ああ、だめですわ。たぶん、何も変ったことはなかったのでしょう。あの夜は、楽しかったですわ。みなさんもくつろいで楽しそうでした……でも、そのあいだじゅう、あれがあそこにあったんですのね」クレートン夫人はからだをふるわせた。
「あまり考えないことです。ご主人はスコットランドへ出かける予定だったそうですね。用件は何だったのでしょう?」
「くわしいことはぞんじません。主人の土地を売る件で、なにか問題があったようですの」
「あの日、ご主人は、どうおっしゃったのでしょうか。できるだけ正確に話していただけませんか?」
「主人は電報を手にして、あたくしの部屋にまいりました。
『やっかいなことになったよ。夜汽車でエディンバラまで行かねばならなくなった。あすの朝いちばんでジョンストンに会う……せっかくうまくいっていたのにな』
それから、こういいましたわ。
『ジョックに電話して、きみを迎えに来るように伝えようか』
『タクシーをひろえば、すむことですわ』あたくしは答えました。
『帰りはジョックかスペンス夫妻が送ってくれるだろう』主人は、そういいました。
かばんに身のまわりのものをつめるつもりだ、汽車に乗るまえにクラブで軽い食事をとる――そういって出かけたのが、見おさめになりました」
クレートン夫人の最後の言葉はふるえていた。ポワロは夫人をじっとみつめていた。
「ご主人はその電報をあなたに見せましたか?」
「いいえ」
「ところで、リッチ少佐の弁護士は誰ですか」
夫人が答えると、ポワロは、弁護士の住所を書きとめた。
「リッチ少佐に面会したいので、弁護士あてに紹介状を書いていただけませんか? それから、ジョック・マクラーレン中佐とスペンス夫妻にも話をうかがいたいので、一筆おねがいします。玄関払いを食わされるのはいやですからね」
書きおえた夫人が書きもの机から立ちあがると、ポワロはいった。
「あとひとつ、おうかがいします――ジョック・マクラーレン中佐とスペンス夫妻のことです」
「ジョックは、あたくしの少女時代からのお友だちですわ。気むずかしそうに見えますけれど、とてもりっぱな人で、信頼していますの。明るい性格じゃありませんが、頼りになる人です。アーノルドとあたくしは、いつも意見をきくことにしていますの」
「ジョック・マクラーレン中佐も、あなたに恋しているのですね?」ポワロの目がかすかに光った。
「ええ、そうですわ」
マルガリータ・クレートン夫人は楽しそうに答えた。
「ジョックは、ずっとあたくしが好きでした――いまでは、あたくしに恋することが習慣みたいになっているのですわ」
「スペンス夫妻についてはいかがでしょう?」
「おもしろいご夫婦ですね――いいお仲間ですわ。リンダ・スペンスは、とても頭がよろしいのです。アーノルドは彼女と話すのが好きでした。それに魅力的ですの」
「リンダさんとあなたはお友だちですか?」
「あのひととあたくしが? そうかもしれません。でも、心から好きかといわれると自信がありません。とても意地が悪いのです」
「スペンスさんはいかがですか?」
「ああ、ジェレミーね。すてきなかたですわ。とても音楽が好きで。絵のことにもくわしくて、あたくし、ときどき展覧会にごいっしょしますの」
チャタートン卿の邸を出たとき、ポワロはつぶやいた。
「この事件はどう展開するんだろう。わたしにはわからない」
カクテル・パーティはにぎやかだったが、ポワロは、誰にもつかまえられずに邸から通りに出てしまった。
彼はマルガリータ・クレートンのことを考えていた。どこか魔女めいた魅力があり、しかも無邪気そうに見える。世間では、しばしば彼女のような女性が犯罪のもとになるものなのだ。マルガリータのような女は、自分の手でナイフを握らなくても、犯罪者となる可能性をひめている……しかし、マルガリータ・クレートン本人の場合はどうだろう? ポワロにはわからなかった。
ポワロが予想していたとおり、リッチ少佐の弁護士は事件解決の役に立ちそうもなかった。クレートン夫人がなにもしないほうが依頼人のためになる。はっきりと口にはしなかったが、弁護士はポワロに、そんな意味のことを話した。
ポワロが弁護士をたずねたのは、そうしたほうがあとの捜査がやりやすい、と考えたからだった。内務省やその下のロンドン警視庁犯罪捜査局に知りあいがいる。留置されているチャールズ・リッチ少佐に面会することは簡単だった。クレートン事件の担当はミラー警部だった。ポワロは、あまり彼が好きではなかった。ミラー警部は、敵意こそみせなかったが、ポワロをばかにしていたのである。
ポワロがたずねてきたことを知ると、警部は部下の部長刑事にむかっていった。
「あんな老いぼれじいさんに、時間をつぶされるとは困ったものだ。それでも、ちゃんと応待しなくちゃならんとはねえ」
ミラー警部は、ポワロが部屋にはいってくると、いやに明るい声で話しかけた。
「この事件をなんとかするつもりなら、帽子からウサギをとりだす手品でも使わないとだめですよ、ポワロさん。リッチ少佐しか殺しができなかったんです」
「召使いのバージェスをのぞけばね」
「なるほど、あの召使いがいましたな。たしかに可能性はありますよ。でも、むだですよ、動機がまるっきりないんです」
「ずいぶん確信しておいでですね。動機というものは、ひどく奇妙なものでしてね」
「とにかく、召使いは、クレートンとはつきあいなんてないのです。経歴にも、やましいところはなにもありません。頭だって正常そのもの……これ以上、召使いについて調べてみたってしかたがありますまい」
「わたしがほしいのは、チャールズ・リッチ少佐が犯罪をおかしてはいない、という事実です」
ミラー警部は、意地悪そうに、にやりとした。
「さては、あの女に説得されたんですな。なかなか、たいした女でしょう。もし、機会さえあったら、あの女自身が手をくだしていたかもしれない」
「そんなばかな!」
「わたしは、ああいう女を知っていたんです。無邪気な青い目の女でした。それが、なにくわぬ顔で、夫を二人までかたづけていた。夫が死ぬたびに、悲しみにうちひしがれた未亡人の役を演じてみせた。陪審員たちは、すこしでも有利な点があったら、無罪の判決をくだしたでしょうよ。ところが、あれほど決定的な証拠があったから、どうにもできなかったんだ」
「ねえ、警部。ここで議論はやめようじゃないですか。わたしが知りたいのは、信頼できる小さな事実です。新聞も書いてはいますが、いつも真実とはかぎりませんからね」
「新聞はおもしろおかしく書きたてるものですからね。で、なにを知りたいのです?」
「正確な死亡時間ですね」
「なにしろ、死体発見は、次の日の朝です。まあ、死後十〜十三時間と推定されます。つまり、前夜十時から深夜の一時までの間です……被害者は頸静脈を刺されています――即死だったはずです」
「凶器は?」
「イタリア短剣です――とても小さい剣で剃刃《かみそり》みたいに鋭い。だれのものかもわかっていません……まあ、根気よく時間をかけて調べればわかりますよ」
「電報に興味があるんですがね。アーノルド・クレートンをスコットランドまで呼ぼうとした電報です……電報はほんものだったのですか?」
「ちがいますね。あちらではトラブルなどありませんでした。土地売買の件にせよ、ほかのことにせよ、万事順調にいっていました」
「それじゃ、電報を打った人物がほかにいるわけだ――その電報はどこにあるのです?」
「どこかにあるでしょう……クレートン夫人の話を信じたわけじゃありません。召使いのバージェスも、被害者から、電報のおかげでスコットランドまで行くことになった、ときいています。マクラーレン中佐も、そのことはきいています」
「クレートン氏がマクラーレン中佐に会ったのは、何時でしたか?」
「彼らのクラブ会館――軍人クラブというのです――で、軽い食事をとったのが、夕方の七時十五分ごろです。そのあと、クレートンはタクシーでリッチ少佐のアパートにいきました。着いたのが八時すこし前です。そのあとは……」ミラー警部は両手をひろげてみせた。
「あの夜、リッチ少佐の言動におかしな点がなかったか、だれか気づいていませんか?」
「ポワロさん、証人の話がどれほど信用できないかは、よくごぞんじでしょう。見聞きしないことまで、見たとか聞いたとか思いこんでしまうんです。こんどの事件でも、スペンス夫人がいい例です。彼女は、リッチ少佐が、あの夜ずっとうわの空だった、と話しましたよ。なにかをたずねても、おかしな返事をしていた。≪なにかに心を奪われていた≫みたいだ、と話してくれました。ほんとですかねえ。まあ、櫃のなかに死体をほったらかしにしてあるのです。どうやって処分していいか考えていたんでしょうよ」
「リッチ少佐は、なぜ自分の手で死体を処分しなかったんでしょうな」
「たぶん、怖気《おじけ》づいたんでしょう。それにしても、あくる朝までそのままにしておくとは気がしれない。あのアパートには夜の警備員がいないのです。自動車の大きなトランクに死体をつめて、郊外まで運べばすむことです。死体を車に運びこむのを見られる危険はあったかもしれない。しかし、アパートは横丁に面しています。それに車で中庭まで乗りいれることもできたんですよ。朝の三時ごろなら、人目にもつかんはずです。ところが、リッチ少佐ときたら、ベッドにもぐりこむと、朝まで眠りこけた。警察がやってきて、ようやく目が覚めたんですよ」
「まるで無実の人のようにね」
「どうお思いになってもけっこうですよ。しかし、ポワロさん、ほんとうにリッチ少佐が無実だと信じているのですか?」
「わたし自身でリッチ少佐に面会するまで、どうとも答えかねますね」
「面会すれば無実かどうか、わかると思っているんですか」
「それはどうですかね。わたしが知りたいのは、リッチ少佐が、事件後に見せたおろかな行動が、本心からのものか、どうかということでしてね」
ポワロは、関係者全員に会ってからチャールズ・リッチ少佐に面会するつもりだった。まず、マクラーレン中佐に会うことにした。
マクラーレン中佐は、日焼けした、背の高い、無口な人物だった。いかつい顔つきだが、表情は明るい。内気で、口をひらかせるまでがたいへんだった。マルガリータからの紹介状を指でいじりながら、やっと、話しだした。
「マルガリータがあなたに話すように書いています。よろこんで協力しますよ。でも、お話することはあまりないのです――これまで、マルガリータのいうなりになってきたのですよ――彼女が十六の時からずっとです」
「率直に答えていただければよろしいのですよ――リッチ少佐が犯人だとお思いですか?」
「ええ、そう思います。マルガリータは犯人じゃないと考えていますが、ほかに考えようがない。やはり、あの男が犯人ですよ」
「リッチ少佐とクレートン氏は仲が悪かったでしょうか?」
「いいえ、チャールズとアーノルドは親友でしたよ。だから、まるでわけがわからないのです」
「リッチ少佐とクレートン夫人の交際のことが……」
マクラーレン中佐がポワロをさえぎった。
「くだらない! 新聞は、すべてそのことをほのめかしている……名誉毀損で訴えられるのが、恐ろしいんだろうさ。
クレートン夫人とリッチ少佐は、仲のいい友だち。ただそれだけです。彼女には友だちがたくさんいる。わたしも彼女の友だちです。ずいぶん長いあいだの友だちです。しかし世間じゃ、そんなことは知りもしない。リッチ少佐とマルガリータのあいだも、同じことです」
「あなたは、二人が恋人どうしとは思っておられないのですね」
「もちろん、思っちゃいない。スペンスの底意地の悪い奥さんは、どう考えているか知りませんがね。どんなことでもしゃべりまくる女ですからね、あの女は」
「しかし、クレートン氏は、妻とリッチ少佐とのあいだになにかある、と疑っていたんじゃありませんか?」
「断言してもいい――クレートンは、まったく、考えてはいなかった。もし、疑っていたのなら、このわたしが知らないはずがない。アーノルド・クレートンとわたしは親友どうしだったのです」
「クレートン氏は、どんなタイプの人でした?」
「そうですね、おとなしい男でした。しかし頭はよかった――才能を感じさせました。一流の財務官僚でしたよ。大蔵省のエリート役人です。読書好きでした。切手の収集もしていたし、音楽にもくわしかった。ダンスはしませんでしたね。外を出歩くタイプじゃなかった」
「クレートン夫妻は幸福だったとお思いですか?」
マクラーレン中佐はすぐには答えなかった。
「そうですね……幸福だったと思いますよ。クレートンは彼なりにマルガリータを愛していました。彼女のほうも好きだったはずです。別れ話を考えておいでなら、見当ちがいですよ」
ポワロはうなずいた。
「あの日の夕がた、クレートン氏はあなたと軍人クラブで食事をしましたが、どんな話が出ましたか?」
「スコットランドに行かなくてはならなくなった、といっていました。心配そうでしたね。ところで、わたしたちは食事をしたわけではなく、彼がサンドイッチ、わたしのほうは一杯の酒だけでした。時間もなかったし、わたしはパーティに出かけるところでした」
「クレートン氏は、電報のことは話しましたか?」
「ええ」
「あなたは、その電報をじっさいに見ましたか?」
「いいえ、見ませんでした」
「クレートン氏は、リッチ少佐をたずねるといってなかったですか?」
「たずねたいが、時間がとれるかどうか、とはいいました。『マルガリータか、きみから説明してもらえるね』とか『妻を家まで送りとどけてくれないか』ともいいましたね。しばらくして別れたんですが、おかしなところはまるでなかったな」
「クレートン氏は、電報がほんものではない、と疑ってはいませんでしたか?」
「にせの電報だったんですか?」マクラーレン中佐はおどろいた表情になった。
「まず、まちがいないでしょう」
マクラーレン中佐は、一瞬ぼうっとしていたが、すぐに立ちなおった。
「そりゃ、まったくおかしい。でも、なんのためでしょう? 彼をスコットランドに連れだそうとした目的はなんです?」
「それを知りたいものですな」
エルキュール・ポワロは、首をひねっているマクラーレン中佐をそのままにして、その場を去った。
スペンス夫妻はチェルシー地区の小さな家に住んでいた。リンダ・スペンスはうれしそうにポワロを迎えた。
「どうか、話してくださいな。マルガリータはどうしています? いま、どこに隠れているの?」
「さあ、それは、わたしの口からはもうせません」
「いったい、どこに消えたのかしら? でも、裁判がはじまれば、証人として姿をあらわすはずね。それだけは逃れることはできないわ」
ポワロは、見さだめるようにリンダをみつめた。現代風な美人だったが、ポワロ好みの美人ではなかった。わざと乱した髪、きつい目つき、日焼けした肌、口紅のほかは化粧はしていない。ひざまで届くだぶだぶの明るい黄のセーター。ぴっちりした黒のスラックス姿。
「こんどの事件で、あなたはどんな役目を負ってらっしゃるの? リッチ少佐を助けだすことね? たいへんなお仕事!」
「すると、少佐が犯人だと考えておいでなんですね?」
「もちろんだわ、ほかに誰がいて?」
「あの運命の夜、リッチ少佐はどんなでした? ふだんと変りなかったですか……それとも?」
リンダ・スペンスは、にらむような目つきで考えこんだ。
「いつもの少佐らしくなかったわ――どこかちがっていたわ」
「どこがちがっていました?」
「そうねえ、ええと、人を刺し殺したばかりといったふうで……」
「しかし、そのときには、そのことはごぞんじなかったでしょう?」
「そりゃ、そうですわ」
「ほかに、どこがちがっていましたか?」
「そうねえ――ぼうっとしていたわ。でも、なぜだか知りませんでしたわ。いまから考えると、たしかに、どこかちがっていたように思うの」
ポワロはため息をついた。
「リッチ少佐のアパートにはじめに着いたのは、どなたでしたか?」
「あたしたちです。ジムとあたしでした。それから、ジョック・マクラーレン中佐。おしまいがマルガリータだったわ」
「クレートン氏のスコットランド行きの話が出たのはいつでした?」
「マルガリータが来たときね。彼女、リッチ少佐にこういったの。『アーノルドが残念がっていました。急用のために、夜行列車でエディンバラに出かけることになりました』『それは残念だな』が少佐の返事だったわ。『すまない。きみはもう知っていると思っていた』とマクラーレン中佐がいったわ。そのあとで、お酒になったの」
「マクラーレン中佐ですが、夕方にクレートン氏と会ったとは、一度も口にしなかったんですね? 駅にいく途中、立ち寄ったことを話さなかったのですね?」
「きいていませんわ」
「電報の件ですが、おかしいとはお思いにならなかったのですね?」
「なにがおかしいんですの?」
「にせ電報だったのです。エディンバラでは、だれも電報について知らなかったのです」
「やっぱりね。へんだと思ったわ」
「電報の件で、なにか心当りがおありなのですね」
「まあ、わざと知らないふりをなさるのね。だれかがクレートンさんを追い払うために電報を打ったんでしょ」
「つまり、リッチ少佐とクレートン夫人はあの夜、いっしょに過ごす計画をたてた、ということですか?」
「あなたもうわさはごぞんじなのね」リンダはおもしろがっている顔をした。
「すると、あの電報は、二人のうちどちらかが打ったと?」
「ありそうなことね」
「リッチ少佐とクレートン夫人は恋人どうし、とお思いなのですね?」
「うわさではね」
「クレートン氏は二人の仲を疑っていましたか?」
「とにかく、アーノルド・クレートンはとても変っていた。どんなことでも胸にしまっておくタイプなの。あの人は知っていた、と思うの。ただ、だまっていただけ。みんな、クレートンさんを感情のない乾ききった枝みたいな人だと思っていたかもしれない。あたしは、そうは思わなかった。クレートンさんがリッチ少佐を刺し殺したのなら、びっくりしなかったわ。なぜって、クレートンさんは、異常なくらい嫉妬ぶかかったんじゃないか、と思っていましたもの」
「おもしろい考えですね」
「でも、マルガリータを刺したほうがクレートンさんらしいわ。オセロみたいにね。マルガリータには男をひきつける魔力があるんですものね」
「美しい人ですね」ポワロは、わざとひかえ目な言葉を選んでいった。
「それ以上のなにかがあるのよ。男を狂わせるなにかがあるわ」
「クレートン夫人のことはよくごぞんじなんですね」
「だって、あたしの親友の一人よ――でも、信用する気にはなれないわ」
ポワロは話題をマクラーレン中佐に移した。
「ジョック・マクラーレン中佐ね。彼はクレートンとほんとうの親友なの。それにマルガリータに飼いならされたネコなのよ。長いあいだ、彼女をしたっているわ」
「すると、クレートン氏はジョック・マクラーレン中佐にも嫉妬《しっと》していたんですね?」
「まさか! マルガリータは中佐が好きだったけれど、恋人のようにあつかっていなかったわ……へんよねえ、中佐はとてもすてきな人なのに」
ポワロは、召使いのウィリアム・バージェスの話をもちだした。しかし、バージェスがすばらしいサイド・カー〔カクテルの一種〕をこしらえる人物であることくらいしか、話が進まなかった。しかし、リンダ・スペンスは頭の回転がはやかった。
「バージェスがクレートンさんを殺した、と考えていらっしゃるの? 考えられないわ。そういえば、リッチ少佐が短剣で殺したことも考えられないことだわ。少佐の性格なら、なにかで殴り殺すか、絞め殺すほうがふさわしいわ」
ポワロは、またため息をついた。
「また、オセロの話になりましたね。なるほどオセロか……それで、ちょっとしたことを思いつきました」
ドアが開く音がした。
「あら、ジェレミーが帰ってきたわ。お話になります?」
ジェレミー・スペンスは三十代。身だしなみのきちんとした、妙におちつきはらった男だった。
スペンス夫人は、台所のシチュー鍋をみてくる、とその場に二人を残していった。
ジェレミー・スペンスは、事件にまきこまれるのを嫌がっていた。話すのは役に立ちそうもないことばかり――クレートン夫妻とはしばらく前に知りあった。リッチ少佐のことはよく知らない。あの夜の少佐はふだんと変りなかった。クレートンとリッチ少佐は仲がよかったようだ……。
話しているあいだも、ジェレミー・スペンスは、早く帰ってほしいことを、はっきりと顔に出していた。
「いろいろ質問されるのに嫌気がさしていらっしゃるようですね」ポワロはいった。
「警察でさんざんたずねられました。もう、うんざりですよ。見たり聞いたりしたことはぜんぶ話しました……忘れてしまいたいですよ」
「そりゃ、たいへんでしたね。事件にまきこまれるのは、じつに嫌なものです。自分がどう考えているか、ということまでたずねられるのですからね――たとえば、クレートン夫人はリッチ少佐と共謀して夫殺しをしたと思うか……などとね」
「とんでもない、そんなことなど考えてもいませんよ……」ジェレミー・スペンスは、あわてふためいた声でいった。
「奥さんは、そう考えていらっしゃるようですよ」
「女なんてそんなものですよ――いつでもおたがいにナイフで傷つけあうんです。マルガリータは、同性からの受けが悪いのです――魅力がありすぎるのですよ。それにしても、彼女がリッチ少佐と夫殺しをはかったと考えるのは、あまりにもばかげている!」
「同じような事件がくりかえされているのです。たとえば凶器。ああした短剣は男より女が持ちたがるものなのです」
「警察は、あれがマルガリータのものだといってるんですか、そんなはずがない! あ、つまり……」
「わたしはなにも聞いておりませんよ」
ポワロは、スペンスのおどろきの顔をみて、なにかを知っている、とさとった。
「失礼ですが、ポワロさん、わたしを助けることはむずかしいと思いますよ」
リッチ少佐は、がっしりしたあご、日焼けした細い顔の陸上選手タイプの男だった。どこかグレーハウンド犬のようだ――ポワロは、だまって少佐をみつめていた。
「クレートン夫人が、なんとかしようとして、あなたを面会によこしたことはよくわかります。しかし、まずいですね。クレートン夫人にとっても、わたしにとっても、まずいですよ」
「どういうことですか?」
リッチ少佐は、ちらりとうしろに目をやった。看守は、規則どおりに、すこし離れたところで立っているだけだった。いらいらする気持をしずめるように、リッチ少佐はひくい声になった。
「警察は動機をさがすのにやっきになっています――クレートン夫人とわたしの仲を疑っているのですよ。クレートン夫人がどう話したかはべつとして、わたしたちは友だちどうし。それ以上のことはないのです。だから、クレートン夫人は、わたしのために動くのはまずいのですよ」
ポワロは、その考えは問題にしていなかった。
「そんなことよりも、われわれはもっと事件解決に役立つことを考えるべきですね」
「弁護なら、弁護士がしてくれます。有名な弁護士ですよ」
ふいに、ポワロはにっこりした。
「なるほどね。外国人のわたしじゃ当てにならない? わかりました。もう、帰りましょう。わたしは、あなたに会えた。目的は達したのです。あなたの経歴はわかっている――サンドハースト陸軍士官学校をトップで卒業。陸軍大学も卒業……。わたしはこの目であなたを確かめてみたかったのですよ――あなたは、ばかな男ではなかった」
「それが事件と関係があるんですか?」
「もちろん、あるのです! あなたほどの頭のいい人物が、あんなやりかたで人殺しをするわけがない。たしかにあなたは無実ですね。どうです、召使いのバージェスについて話していただけませんか」
「バージェスのことですか?」
「あなたはクレートンを殺していない。とすれば、残るのはバージェスだけです。しかし、なぜ殺したか? それが問題です。その理由を推理できる人物は、あなたのほかにいません――いかがですか、リッチ少佐。なぜ、バージェスは殺したのですか?」
「まるで見当もつきません。わたしも、同じことを考えたのです――たしかにバージェスには殺すチャンスがありました。わたし以外には、殺せる人物といったら、バージェスだけでしたからね。ただ困るのは、バージェスが殺したとは、とても考えられないことです。人殺しができるような男じゃないのです」
「弁護士はどう考えていますか?」
「記憶喪失になったことはないか、そればかりきくんです」
「弁護士は、凶器のことをききましたか?」
「あれは、わたしのではありません。見たこともないのです」
「見たこともない、というのはたしかですか?」
「ええ。しかし、ああした短剣は室内装飾によく使われています……どこの家でも見かけますから……」リッチ少佐は、あやふやな口調でいった。
「ご婦人がたの客間には、よく飾ってありますよ――ひょっとしたら、クレートン夫人の家の客間で見たことがあるんじゃないですか?」
「そんなはずはない!」
リッチ少佐は大声でいった。看守が顔をあげて二人を見た。
「|けっこうです《トレビアン》。おっしゃるとおりでしょう――でも、大声を出さなくてもわかりますからね。しかし、あの凶器によく似た短剣をどこかで見たんじゃありませんか?」
「見たことはないと思う……骨董品店で見たことがあったかもしれませんが……」
「たぶん、そうでしょう。それじゃ、これで失礼しましょう」ポワロは立ちあがった。
「つぎはバージェスだ。やっとこれで終りになる」ポワロはつぶやいた。
こんどの事件は、関係者たちから、いろいろ聞きだすことができた。しかし、召使いのバージェスについての知識は、だれも持っていなかった。どんな男なのか、ヒントや手がかりは得られなかった。召使いのバージェスはリッチ少佐のアパートでポワロを待っていた。マクラーレン中佐に電話連絡をたのんでおいたのである。
「わたしがエルキュール・ポワロです」
「はい、お待ちしておりました」
バージェスは、うやうやしい手つきでドアをおさえながら、ポワロを迎えた。玄関に立つと、左手が居間になっている。バージェスは、帽子とコートを受けとると、ポワロのあとから居間にはいった。
「ああ、ここだね、あれが起きたのは?」ポワロはまわりをながめながらいった。
「さようでございます」
頼りない感じだが、ものしずかな態度で、バージェスはこたえた。ぶかっこうな肩とひじ、白っぽい顔。言葉にはなまりがあるけれども、ポワロにはどの地方のなまりかはわからなかった――東海岸地方の生まれなのだろうか? 神経質な性格らしい――でも、あまり特徴のない男だな。自分から積極的な行動に出るタイプではない。うす青い目におちつきがない。そうした人物をうそつきだときめつける人たちがいるが、そうとはかぎらない。まつこうから相手の目を見つめるうそつきもいるのだ。
「ここは、いまどうしているのかね?」ポワロはたずねた。
「まだ、わたくしが世話させていただいております。リッチさまは、お手当てをくださり、よく管理するようにいってくださいました――それでも、そのうちに……」
「たぶんリッチ少佐は起訴されるだろうな。三カ月以内に裁判がはじまるだろう」
「わたくしには信じられません」
バージェスは首をふった。わけがわからないという表情だった。
「リッチ少佐が犯人だということかね?」
「いいえ、全部がです。あの櫃のことも――」
「あれが、問題のスペイン櫃だね」
ひじょうに大きな櫃で、黒光りするほど磨きこまれた木でできていた。真鍮の飾りが打ちつけられている。真鍮の大きな掛け金と、古い錠もついていた。
「すばらしい櫃だね」
ポワロはスペイン櫃に近づいた。スペイン櫃は壁ぎわに、現代風なレコード・キャビネットとならんで置いてあった。すぐ近くが窓。スペイン櫃とむきあうところにドアがあり、半分あいた状態になっていた。ドアは、色づけされた大きな革製の|ついたて《スクリーン》のおかげで、一部かくれていた。
「そのドアのむこうは、リッチさまの寝室になっております」
バージェスの言葉にポワロはうなずいた。ポワロの目が部屋の反対側にむけられた。二台のステレオ式のレコード・プレーヤーが、それぞれに、ひくい台の上に置かれていた。ヘビのようにコードがうねっている。安楽椅子がいくつか――それと大きなテーブル。壁には日本の版画のセットがかけられている。けっしてぜいたくではないが、居ごこちのよさそうな部屋だった。
ポワロは、召使いのウィリアム・バージェスをふりかえった。
「発見したときには、さぞ、おどろいたろうね」ポワロはやさしく話しかけた。
「肝をつぶしました。一生忘れられないでしょう」
召使いのバージェスは話しだした。言葉があとからあとからあふれ出てくるようだった。くりかえして話せば、出来事が心から消えてくれる、と思っているようだった。
「わたくしは部屋を掃除しようとしていました――オリーヴの実をひろおうとして、かがみました――そのとき見てしまったのです――小さなカーペットの赤黒いしみです。あのカーペットはありません。警察の調べがすんだあと、クリーニング屋に出しました。
なんだろう? わたしは思いました。『ひょっとすると血かもしれないぞ! でも、どこから流れてきたのかな、なにかのびんが割れたのかもしれない』わたくしは冗談めかして、ひとり言をいいました。それはスペイン櫃から流れていました――そこの下の部分に割れ目があったのです。なにも考えずに、わたくしはしゃべっていました。『いったい、どういうことかな』
わたくしは、ふたをもちあげました。こんなぐあいにです(召使いはその動作をしてみせた)。すると、あったのです――ひざを曲げた男の死体が横になって……まるでぐっすり眠りこんでいるみたいでした。首すじに、外国のナイフだか短剣だか知りませんが、突っ立っておりました――けっして忘れないでしょう。生きているかぎり、忘れられつこありません! あの恐ろしさ――いきなり、見てしまったのです」
バージェスは大きく息をついた。
「ふたを放りだすと、走って、通りまで出ました。警官をさがしまわりました――運よく、角を曲ったところで警官に出会いました」
ポワロは召使いの話にひきこまれていた。もし、これが演技なら、みごとなものだ。だが、とても演技とは思えない――じっさいに体験したことを話しているのだ。ポワロは、そう感じはじめた。
「リッチ少佐を起こそうとは思わなかったのかね」
「まるっきり、忘れていました。あまりにも恐ろしかった――ただ、部屋から逃げだしたかったのです。だれかに助けてもらいたかった……」
ポワロはうなずいてみせた。
「死体がクレートン氏だとわかっていたのかね?」
「わかりませんでした。でも、警官を連れてもどってきたとき、『これはクレートンさまだ!』と、いったのですよ。『クレートンとはだれだ?』警官がききました。『ゆうべ、お見えになった方です』わたくしは、そう答えたのです」
「なるほど――ゆうべクレートン氏がたずねてきた時間を正確におぼえているかな?」
「正確にはもうせませんが、七時四十五分ごろだと思います」
「クレートン氏をよく知っているのかね?」
「こちらにつとめさせていただいて一年半ほどになりますが、クレートンご夫妻は、しょっちゅうお見えになられました」
「クレートン氏だが、ふだんと変ったところはなかったのだね?」
「はい。すこし息を切らしていらしたようで――お急ぎのせいだと思いました。これから汽車に乗るところだとか、おっしゃっていました」
「かばんを持っていたはずだね。スコットランドに行くところだったから」
「いいえ、下でタクシーを待たせていたのだと思います」
「クレートン氏は、リッチ少佐が外出中だと知って、がっかりした様子だったかね?」
「気になさらなかったようでございます。ただメモを書いておこう、とおっしゃっただけで。クレートンさまは、ここにおいでになり、机のほうにいらしたので、わたくしは台所にもどりました。アンチョビの用意が遅れておったのです。台所は廊下のはじにありまして、物音がよく聞こえません。ですから、クレートンさまが出ていかれたのも、リッチさまがおもどりになられたのも気がつきませんでした――」
「そのあと、なにがあったのかね?」
「リッチさまがお呼びになりました。顔を出すと、この部屋のドアのところに立っておいででした。『スペンス夫人のためのトルコ・タバコを忘れていたよ。いそいで買ってきておくれ』買ってきて、そこのテーブルに置いたのです。そのときには、クレートンさまは汽車に乗るために出ていかれたものと思っておりました」
「すると、リッチ少佐の留守のあいだにたずねてきたのは、クレートン氏しかいないことになるな。ほかにたずねてきた人はいなかったのだね」
「はい、いらっしゃれば、ベルを鳴らさなければなりません」
ポワロは首をふった。だれも来なかったにちがいない。ほかの事件関係者の行動はすべてわかっている。
ジョック・マクラーレン中佐は、軍人クラブで知人といっしょだった。
スペンス夫妻は、パーティに出かける前に、二人の友だちと一杯やっていた。
マルガリータ・クレートンは、その時間には友だちと電話中。
彼らが、このアパートに来た可能性はまったくなかった。
ポワロは、ふたたび部屋を横切って、スペイン櫃に近づいた。ふたをもちあげると、楽にあがった。音ひとつしなかった。なかをのぞいたポワロは、小さな声をあげると、櫃の中にかがみこむようにして、指でさぐった。
「ここには穴があるね――うしろと横のほうだよ――ずいぶん新しそうな穴だ」
「穴でございますか」召使いのバージェスものぞきこんだ。「いままで気づきませんでした」
「小さな穴だな。これはなんのための穴だと思うね?」
「まるで見当がつきません。木を食う虫かなにかがあけたのでしょうか?」
「さあねえ」
ポワロは、スペイン櫃からあとずさりしていった。
「タバコを買ってもどってきたとき、この部屋でどこか変ったところはなかったかね? どんなことでもいい。椅子とかテーブルとかの位置が変っていたというような」
「そういえば……そこに|ついたて《スクリーン》がございますね。寝室のドアからのすきま風をふせぐために置いてあるのでございます。あれがもうすこし左に寄っておりましたです」
「こうかね」ポワロはついたてをすばやく動かしてみせた。
「もうちょっと、左で……ええ、そこでございます」
ついたては、スペイン櫃を半分ほど隠していた。ポワロが動かしたので、櫃はほとんど隠れてしまった。
「なぜ、動いたんだろう、どう思うね?」
「わかりませんです」
まるで、ミス・レモンのようだ――ポワロは思った。
バージェスはおずおずといった。
「寝室へはいりやすくするのに動かしたのではございませんか――ご婦人がたがお脱ぎになったコートを寝室に置きたいときのためです」
「そうかもしれない。しかし、ほかにも理由があったかもしれないよ。いま、スペイン櫃はついたてで見えなくなっている。櫃の下のカーペットもかくれているね。もし、リッチ少佐がクレートン氏を刺したのなら、血は櫃の底の割れ目から、すぐに流れだしたはずだよ。だれかが気づいてしまう――きみがつぎの朝に気づいたようにね。だから、ついたては動かされたのだ」
「そんなことは考えもしませんでした」
「照明はどうなっていたかね。明るかったか、それともうす暗くなっていたかな?」
「ごらんにいれましょう」
召使いはすばやくカーテンをひくと、二つの明かりのスイッチをいれた。やわらかな美しい光が流れたが、その明るさでは本を読むことはむずかしかった。ポワロは天井の明かりを見あげた。
「あれは、ついておりませんでした。めったにつけないのでございます」
ポワロは、うす暗い部屋を見まわした。
召使いのバージェスがいった。
「これでは血のしみは見えないと思います。暗すぎます」
「きみのいうとおりだ。それでは、なぜついたてが動かされたと思うね」
バージェスはからだをふるわせた。
「考えるだけで、ぞっといたします――リッチ少佐のようなごりっぱな紳士が、あのようなことをなさるなんて」
「リッチ少佐が殺したと思いこんでいるんだね。なぜ、殺したと思うね、バージェス?」
「リッチさまは戦争にいらっしゃいました。頭を負傷なさったのではないでしょうか。何年もたってから、いっぺんに悪くなることがある、と聞いたことがあります。突然おかしくなって、自分でもわけがわからないことをしでかすのです。そんなときには、いちばん身近にいる人とか愛している人をねらってしまうのだそうです」
ポワロは召使いをじっとみつめて、ため息をついた。ポワロの手が魔術師のように動くと、バージェスの手に、一枚の紙幣がすべりこんだ。
「ああ、おそれいります。しかし、わたくしは、こんなつもりで……」
「おかげで助かったよ。この部屋に案内してくれて、どんなふうだかわかったのだ。あの夜、なにが起きたのかも見せてくれた。不可能なことも可能になることがある。このことをおぼえておくことだね。可能性は二つしかないと思っていたが、わたしはまちがっていた。三つ目の可能性があったのだ」
ポワロは部屋を見まわして、かるく身ぶるいをした。
「カーテンをあけてくれたまえ。この部屋に光と風をいれるのだ」
バージェスから、帽子とコートを受けとると、ポワロは軽い足どりで街に出ていった。
家にもどると、ポワロはミラー警部に電話をかけた。
「クレートンのかばんはどうなりました? 夫人は、彼が自分で身のまわりのものをつめたといっていましたが」
「軍人クラブにありました。給仕にあずけてクラブを出ています。忘れてしまったにちがいないですな」
「どんなものがはいっていましたか?」
「ふつうの品物です。パジャマ、着がえシャツ、洗面道具などでした」
「それだけでしたか?」
「ほかになにがあると思ったんです?」
ポワロはその質問を無視して、いった。
「短剣のことですがね。スペンス夫人の家に通う掃除婦をつかまえてみることですよ。あそこで同じようなものを見たことはないか、ときくことですな」
「スペンス夫人? あの夫婦には短剣を見せました。二人とも知らないという返事でしたよ」
「だったら、もう一度、きくことですね」
「どういうことです?」
「きいたら、どう答えたか、わたしに教えてほしいのですよ」
「ポワロさん、なにを考えておいでなんですか?」
「『オセロ』を読むことですよ、ミラー警部。そして登場人物についてよく考えるんです。わたしたちは、登場人物の一人を見のがしていたんですよ」
ポワロは電話をきった。つぎにチャタートン卿夫人に電話したが、話し中だった。召使いのジョージを呼び、チャタートン卿夫人が出るまでねばるように命じた。チャタートン卿夫人の電話好きは有名だった。
ポワロは椅子に腰をおろすと、エナメル靴をぬぎ、足をのばして椅子によりかかった。
「『オセロ』のことは誰から聞いたんだったかな、そう、スペンス夫人だ。かばん……ついたて、眠るように横たわった死体。みごとに計画された殺人だ……そして、犯人は楽しみながら、やってのけたのだ」
チャタートン卿夫人が電話口にお出になりました、とジョージが知らせにきた。
「エルキュール・ポワロです。そちらにおいでのお客さまと話がしたいのですが」
「ええ、よろしいわ。ねえ、ポワロさん、調査のほうは、うまくいっているんでしょ?」
「なんとかなりそうです」
しばらくして、マルガリータのやさしい、しずかな声が受話器にひびいた。
「クレートン夫人、このまえ、パーティでなにか変ったことがなかったか、とおたずねしました。あのとき、なにか思いだしそうな顔をなさいました――でも、それがなんだったかはわからなかった。ひょっとして、それはついたての位置がおかしかったんじゃないでしょうか?」
「ついたて? あら、そうでしたわ。あれはいつもの場所とはちがっておりました」
「あの夜、ダンスをなさいましたか?」
「はい、すこしいたしました」
「どなたと踊られました?」
「ジェレミー・スペンスさんでした。あのかたは、とてもダンスがおじょうずですの。奥さまのリンダと踊っていらして、ときどき、あたくしが交替しました。チャールズもじょうずですけれど、スペンスさんほどではありません。ジョック・マクラーレンは踊りませんの。ジョックはレコード係りで、曲を選びだしてはかけていましたわ」
「あとでクラシック音楽を聴いたのですね?」
「はい、聴きました」
しばらく沈黙がつづいた。マルガリータが口をきった。
「ポワロさん、どういうことですの? そのことでなにかわかるのでしょうか――のぞみがあるのでしょうか?」
「クレートン夫人、まわりの人たちが、あなたをどう思っているか、ごぞんじでしょうか?」
「さあ――あたくしは……」
マルガリータ・クレートンは、とまどいながらいった。
「たぶん、ごぞんじありますまい。そんなことは考えたこともないのでしょう。それがあなたご自身の悲劇なのです。しかし、その悲劇は他人の身のうえに起きてしまい、あなたはぶじでいられるのです。
どなただったか、わたしにオセロについて話してくれました。先日、ご主人は嫉妬ぶかい方かとおたずねしましたね。あなたは、そうだとお答えになった。それも、まるで気にもとめない口ぶりでおっしゃった。まるで身の危険を感じなかったデスデモーナ〔オセロの妻。あやまった嫉妬にかられた夫に絞殺された〕のような口ぶりでした。彼女も、嫉妬には気づいていましたが、それは単に言葉でしか理解していなかったのです。なぜでしょう。デスデモーナ自身、それまで嫉妬を知らず、感じたこともなかったからなのですよ。たぶん、彼女ははげしい情熱の苦しみを味わったことがなかったからでしょう。
彼女は、夫のオセロを愛しました。それは、英雄である夫をロマンティックにうやまい尊敬することでした。そしてカシオ〔オセロの忠実な部下。デスデモーナをうやまっていた〕を親しい夫の友だちとして無邪気に愛したのです。デスデモーナは情熱のなんたるかを知らなかった。そのために、まわりの男たちは狂うことになった……わたしのいうことがおわかりでしょうか、クレートン夫人?」
返事はなかった――やがて、マルガリータの声がした。冷たく、やさしい、それでいて、どこかとまどっている声。
「あたくし……よくわかりません、あなたのおっしゃることが……」
ポワロはため息をついた。
「今夜、友だちとそちらにおうかがいいたします」そして電話をきった。
ミラー警部は頑固《がんこ》な人物だった。エルキュール・ポワロだって、こうと思いこんだらひきさがるような人物ではないのである。
ミラー警部は、ぶつぶついっていたが、とうとう降参して、ポワロの話をきき、頼みをききいれることになってしまった。
「……それにしても、こんどの事件に、なぜチャタートン卿夫人がわりこんできたのかな?」
「わりこんできたわけじゃありません。夫人は友だちに避難場所を提供したにすぎないのですよ」
「スペンス夫妻のことは、なぜわかったのですか?」
「ああ、短剣の出所《でどころ》のことですか。たんなる推理にすぎません。ジェレミー・スペンスが口をすべらしたために、思いついたのです。わたしはスペンスに、凶器はマルガリータ・クレートンのものだ、と話してみたのです。そのとき、彼はちがうことを知っている態度をみせました、はっきりとね。ところで、スペンス夫妻は、短剣のことはなんていいました?」
ポワロは、そのことを知りたがった。
「自分の家にあった飾りの短剣にとてもよく似ている――そう認めましたよ。しかし、数週間まえに見当らなくなり、それっきり忘れていたそうです。たぶん、リッチ少佐がスペンス家から盗んだんでしょうな」
「ジェレミー・スペンス氏は、うまく立ちまわる人物らしいですね……なるほど、数週間まえにね、計画はかなりまえから立てていたんだ」
ポワロのあとのほうはつぶやきだった。「え、なんのことですか」ミラー警部がききかえした。
「さあ、着きましたよ、警部」
タクシーはチェリントン街のチャタートン卿の邸《やしき》のまえで止まった。ポワロが料金を払った。
マルガリータ・クレートンは、二階の部屋で待っていた。彼女はミラー警部の姿を見ると、顔をこわばらせた。
「――ぞんじませんでしたわ」
「わたしが連れていくとお話した友だちが、だれだかわからなかった、ということですか?」
「ミラー警部は、あたくしのお友だちじゃございません」
「クレートン夫人、事件の解決の場にいたくないのですか――あなたのご主人が殺されたのですよ」ミラー警部が口をはさんだ。
「さて、だれがご主人を殺したかです……腰をおろさせていただきますよ、クレートン夫人」ポワロはすばやく警部の話をうけついで、いった。
マルガリータは、背もたれの高い椅子にそっと腰をおろして、二人の男とむきあった。
ポワロが話しはじめた。
「お二人とも、よく聞いてください。わたしは、あの運命の夜、リッチ少佐のアパートでなにが起きたかを知ったのです。まず、お話しておきましょう……わたしたちは、勝手な思いこみのためにスタートをまちがえたのです……それは、死体をスペイン櫃に隠せたのは二人しかいない、と思いこんだのです――つまりリッチ少佐か、召使いのウィリアム・バージェスのどちらか、ということです。ところが、わたしたちはまちがっていました。第三の人物がいたのです」
「それはだれなんです? エレベーター係ですか?」ミラー警部が疑いぶかそうに口をはさんだ。
「いいえ――第三の人物とはアーノルド・クレートン氏です」
「なんですって? クレートンが自分の死体を隠したとでもいうんですか? ばかばかしい」
「いや、死体でなく、生きた自分のからだです――つまり、クレートン氏は自分からスペイン櫃にかくれたのです。櫃にあけられた小さな穴を発見したとき、そのことがわかったのです――穴は空気穴なのです。あの夜、ついたてがいつもの場所からずらされていたのは、なぜ? それは部屋にいる人びとから、櫃をかくすためでした。そうすれば、櫃のなかの人物は、ときどきふたをあけて、からだをのばすことができます。また、部屋で起きていることを、はっきりと知ることができるのです」
「でも、どうしてですの。なぜ、アーノルドはスペイン櫃にかくれたりしたのです?」
マルガリータ・クレートンはおどろきの目をみはって、たずねた。
「あなたがそんなことをお聞きになるんですか、クレートン夫人? ご主人は嫉妬ぶかい方でした。それに無口でしたね。
≪どんなことでも胸にしまっておくタイプなの≫……スペンス夫人の言葉です。ご主人の嫉妬は強まるばかりでした――あなたはリッチ少佐の恋人か、そうではないのか? ご主人は、いつもそのことを考えつづけた……しかし、わからなかった。ご主人は知りたくてたまらなかった――そして思いついたのが、≪スコットランドからの電報≫です。だれも見なかった一通の電報、にせの電報なのです。旅行かばんが用意されたが、うっかりクラブに置き忘れてしまう。リッチ少佐が外出する時間をみはからってアパートをたずねる――ご主人は召使いにこういう。≪メモを書いておこう≫。召使いが台所に消えると、すぐさまスペイン櫃に穴をあけた。ついたてを動かしてから、櫃にもぐりこんだのです。
今夜こそ、ほんとうのことがわかる。妻はほかの客が帰ったあとも残るだろう。ひょっとすると、客たちといっしょにアパートを出てから、またもどってくるかもしれない。やがて、その夜――嫉妬に苦しめられていた人物は知ることになるのです……」
「まさか、クレートン氏が自殺したなどというんじゃないでしような、ばかばかしい!」ミラー警部はまじめにとりあおうとしなかった。
「もちろん、ちがいますね。刺したのは別の人物。クレートン氏がスペイン櫃にかくれているのを知っていた人物ですよ。まさに、計画された殺人でした。時間をかけて、ねりあげられた殺人の陰謀です。シェイクスピアの『オセロ』に登場する人物を思いだしてください。それはイアーゴです。若い将校で旗手でもあったイアーゴ。自分より先に昇進したカシオを憎み、昇進させたオセロ将軍を憎んでいたイアーゴ。
イアーゴは、アーノルド・クレートンの心にかすかな毒をそそぎこみました。正直で、信頼している友イアーゴ。アーノルド・クレートンは、イアーゴの言葉を信じたのです。そのため、クレートン氏の嫉妬の炎はもえあがりました。スペイン櫃に隠れる考えは、はたしてクレートン氏自身が思いついたのか? いいえ、そう思いこんでいたにすぎないでしょう。こうして殺人のための舞台はととのいました。
イアーゴの手には、数週間まえにひそかに盗んでおいた短剣がある。運命の夜――明りはくらく、蓄音機は鳴っている。二組の男女が踊っている。一人あまった男は、ついたてのそばのレコード・キャビネットのまえでいそがしくしている。そして、そっとついたてのうしろにまわりこむとふたをあけて、刺した! ずぶとい神経さえあれば簡単です」
「それなら、クレートンは悲鳴をあげたはずだ」
「薬をのまされていれば、声をたてないでしょう。召使いのバージェスは、≪まるでぐっすり眠りこんでいるみたいでした≫と話しています。クレートン氏はまさに眠っていた。彼に薬をのますことのできたただ一人の人物によって。軍人クラブでいっしょに酒をのんだ男によって」
「ジョックなの? ジョック・マクラーレンですの? だって、あたくし、少女のころから、ジョックのお友だちよ! なぜ、ジョックがそんなことを……?」
マルガリータの声はおどろきのあまり、少女のようにうわずっていた。ポワロは彼女に話しかけた。
「なぜ二人のイタリア人は決闘をしたのでしょう? 別の若者はなぜ銃で自殺しかけたのでしょうか? ジョック・マクラーレン中佐は、あなたをあきらめて、あなたがたのよき友でいようと思っていました。しかし、リッチ少佐があらわれました。彼にはショックでした。彼の心は憎しみと欲望の闇につつまれたのです。そして完全殺人計画、それも二人をほうむる計画をたてました――リッチ少佐はクレートン殺しで有罪判決を受けるのは、まずまちがいないのです。二人をかたづけてしまえば、あなたの心は自分にむけられる。マクラーレン中佐はそう考えました。そうなったら、クレートン夫人、あなたはマクラーレン中佐の推理どおりになったかもしれませんね? いかがです?」
クレートン夫人は、ポワロをみつめた。その目は恐怖におびえ、大きくひらいている。
「たぶん、あたくしは……わからないわ……」
だしぬけにミラー警部は、刑事であることを思いだしたようにいった。
「ごりっぱな推理ですな、ポワロさん。しかし、推理はあくまでも推理にすぎませんよ。どこに証拠がありますか。あなたの推理は、ほんとうらしく聞こえませんよ」
「いや、すべてほんとうのことです」
「だって証拠がない。証拠がなくては、警察は、手が出せません」
「ミラー警部、あなたはまちがっておいでだ。ジョック・マクラーレン中佐は、犯行をみとめるはずです。もし、このことを教えてやればね。つまり、マルガリータ・クレートンさんは、真実を知っているとわかったら……」
ポワロは口をつぐんだ。そしていった。
「そのことを知られたら、彼はマルガリータ・クレートンを失うことになるのです……そして、完全殺人はむだになってしまうのですよ」
◆ポワロ参上! 6◆
アガサ・クリスティ
二重の罪/あなたのお庭はどんな庭?/スペイン櫃の秘密 各務三郎訳
黄色いアイリス 静波尋訳
二〇〇六年一月二十五日