アガサ・クリスティ/古賀照一訳
オリエント急行殺人事件
目 次
第一部 犯行
第二部 証言
第三部 エルキュール・ポワロの瞑想
解説
登場人物
ラチェット……アメリカの老人
マッキーン……ラチェットの秘書
マスターマン……ラチェットの召使
アーバスノット大佐……イギリス人
メアリー・デベナム……イギリス人の家庭教師
ドラゴミロフ公爵夫人……ロシア亡命貴族
ハッバード夫人……中年のアメリカ人
グレタ・オルソン……スウェーデン婦人
アンドレニイ伯爵夫妻……ハンガリーの外交官夫妻
ハードマン……アメリカ人、私立探偵
アントニオ・フォスカレリ……アメリカに帰化したイタリア人
ピエール・ミシェル……車掌
コンスタンチン博士……ギリシア人、医師
ブック……国際寝台車会社の重役
エルキュール・ポワロ……ベルギー人、探偵
第一部 犯行
第一章 タウルス急行の重要な乗客
シリアの冬の朝五時であった。首都アレッポのプラットホームに、「タウルス急行」と鉄道案内に示されている列車が停車《とま》っていた。食堂車一|輛《りょう》、寝台車一輛、客車二輛の編成である。
その寝台車に通じるステップのそばで、一人の目もあやな制服姿の若いフランス陸軍中尉が、赤い鼻の頭とピンと上にカールした髯《ひげ》の両端だけをのぞかせて、あとは耳の上までマフラーでおおった小柄な男と話していた。
凍付《いてつ》くような寒さだ。こんな時の、名士のお見送りは、ぞっとしない仕事だったが、デュボス中尉は男々《おお》しくつとめを果していた。優雅な言葉が、彼の唇から、洗練されたフランス語でもれてくる。彼も何が起こったのか、全然事情に通じないわけではない。もちろん、こうした場合の常で、いろいろ噂《うわさ》が流れているのだ。彼の将軍の機嫌が日増しに悪くなっていた。そんな時、このベルギー人がやって来た。英国からはるばるやって来たとのことである。それからの一週間は、奇妙に緊張した一週間だった。そのあと、いろいろのことが起こった。非常に有名な将校が一人自殺し、もう一人が退官した。突然、不安が解消し、警戒態勢が解除された。将軍は急に十年も若返ったように見えた。
デュボス中尉は、将軍とこのベルギー人との会話をもれ聞いたことがあった。「あなたはわれわれを救ってくださったのだ」と将軍は感動して、白い大きな髯《ひげ》をふるわせながら言った。「あなたはフランス陸軍の名誉を救ってくださったのです。――あなたは流血の大事件を未然に防いでくださったのです! 私の願いを聞いてくださって、お礼の申し上げようもありません。それにわざわざ遠くから来てくだすって――」
こう言われて、この異国人(その名をエルキュール・ポワロという)は「いや、私こそ昔、あなたに生命を救われたことを忘れることができません」という言葉をいれて、礼儀正しい挨拶《あいさつ》を返した。すると将軍は、これに対して、過去のあの事件は何も自分の功績ではないと挨拶を返し、さらに、フランスだとか、ベルギーだとか、光栄だとか、名誉だとか、そんなことを口にし、そして二人は互に心から抱擁し合い、その会話を終えたのだった。
デュボス中尉には、いったい何の事なのか依然として不明だった。ただ、タウルス急行で帰国するポワロ氏をお見送りする任務をおおせつかり、前途有望な若い士官にふさわしい熱意と情熱をもって、この任務を果しているまでのことだった。
「今日は日曜ですから」とデュボス中尉は言った。「明月曜の夕刻にはイスタンブールにお着きになれます」
彼はもう何度もこのことを口にしていた。発車まぎわのプラットホームでの会話は、とかく同じ|せりふ《ヽヽヽ》の繰り返しになり勝ちなものだ。
「そうですね」とポワロ氏が言った。
「そちらには、数日ご滞在のご予定でございますか?」
「ええ、そのつもりです。まだ一度も行ったことのない町なので、素通りするのは残念ですからね」ポワロはパチッと指を鳴らして答えた。「急ぎの用はないし――二、三日、観光客として滞在しますかな」
「聖ソフィア寺院はたいへん立派でございます」デュボス中尉はそう言ったが、実は彼はまだ見たことがなかったのだ。
冷たい風がプラットホームを吹き抜けていった。二人は身震いした。デュボス中尉は、内緒でチラッと腕時計を見た。五時五分前――もう五分ぽっちだ!
だが、彼は時計を見たことを相手に気付かれたような気がして、またあわてて話し出した。
「この季節には、旅行者はたいへん少なくなりますね」と彼は寝台車の窓を見上げて、言った。
「そうですね」とポワロ氏はあいづちをうった。
「タウルス山中で、雪にとじ込められるようなことが起こらないといいのですが」
「そんなことが起こるんですか?」
「ええ、起こりましたとも。今年はまだですが」
「そんなことにならないようにしたいものですな。ヨーロッパ方面の天気予報はよくないようだが」とポワロが言った。
「たいへん、悪いようです。バルカン方面は大雪だそうです」
「ドイツもそうらしいですな」
「でも」とデュボス中尉は、ことばが途切れそうになったので、急いで、「明晩には、七時四十分にコンスタンチノープルにお着きになれます」と言った。
「そうでしたな」とポワロは、その場しのぎに、口から出まかせに言った。「聖ソフィア寺院は、たいへんすばらしいそうですね」
「素晴らしいものだと思います」
そのとき、ふたりの頭の上で、寝台車のブラインドがあき、若い女が外をのぞいた。
メアリー・デベナム嬢は、先週の木曜日にバグダードを出発してから、わずかしか眠っていなかった。キルクークまでの汽車の中でも、モズールの宿でも、また昨日の夜汽車の中でも、ほとんど眠っていなかった。しかも今、寝室の暖房が熱すぎて眠ることができず、横になっているのにあきて、起き上がり、外をのぞいたのだ。
ここはアレッポにちがいないわ。でも、もちろん、見るものなんてないにきまってるけど。うす暗い、長いプラットホームがあるきりだ。どこからかアラビア語でののしり合う声が聞こえてきている。窓の真下では、二人の男が、フランス語で話し合っている。一人はフランスの士官で、もう一人は大きな口髯をはやした小柄な男だ。彼女は思わず、ほほえんだ。こんなにしっかりと、厚いマフラーで顔を包んだ人は見たことがないわ。きっと外はひどい寒さに違いない。だから、汽車の暖房が、こんなにひどく熱いんだわ。彼女は窓を少し開けようとした。だが、ぴくりとも動かない。
寝台車つきの車掌が、二人の男のところへやって来た。もう発車ですから、ご乗車下さいと注意した。すると小柄の男は、ちょっと帽子をとった。卵みたいに丸い頭だこと! メアリー・デベナム嬢は、心配ごとも忘れて、クスリと笑った。なんて面白い顔をした小男だこと。誰だってこの人を見たら笑っちゃうわ。
デュボス中尉が別れの挨拶をした。前もって準備し、最後の瞬間までしまっておいたのだ。たいへん美しく、ねりにねった言葉だ。
ポワロも負けずに美しい言葉で挨拶を返した。
「ご乗車ねがいます」と車掌がいった。
ポワロはいかにも残念そうな様子で乗車した。そのあとにつづいて車掌も乗りこんだ。ポワロ氏は手を振った。デュボス中尉は敬礼した。汽車は、ガチャンと一揺れして、ゆっくり動き出した。
「やれやれ!」とエルキュール・ポワロ氏はつぶやいた。
「ブルルルル……」デュボス中尉は、急に寒さが身にしみてきた。……
「どうぞこちらへ」と車掌は芝居じみた身振りで、ポワロの荷物のきちんと整理された、きれいな寝室を指さした。
「お荷物はここに置いてございます」
車掌の差し出した手はいかにも思わせぶりだった。エルキュール・ポワロはその中に小さく折りたたんだ札《さつ》を握らせた。
「ありがとうございます」車掌は、とたんにきびきびして、てきぱきと、「お客さまの御乗車券は私がお持ちしております。パスポートもどうぞ。お客さまはイスタンブールで下車なさるのでございますね?」
ポワロはうなずいた。
「旅行客は多くないんだろうね?」
「はい、他にお二人だけでございます。――お二人ともイギリスの方で、お一人はインドからおいでの陸軍大佐、もう一人は、バグダードからいらしたお若いご婦人でございます。――ほかにご用はございませんでしょうか?」
ポワロはペリー酒の小瓶を一本注文した。
朝の五時に汽車に乗るなんて、全く不便なものだ。夜明けまでにまだ二時間もある。ポワロ氏は、昨夜ほとんど眠っていなかったし、むずかしい仕事を立派に果した安心感も手伝って、座席の隅に丸まって、眠りこんでしまった。
目が覚めた時は、九時半だった。彼は熱いコーヒーを飲もうと思って、食堂車へ出かけていった。
その時、食堂の客は一人きりだった。明らかに、さっき車掌から教わったあの若いイギリス婦人にちがいない。彼女はすらりと背が高く、黒い髪をして――おそらく二十八歳位かと思われる。食事をする様子や、コーヒーのお代りをする態度には、一種てきぱきした敏捷《びんしょう》さがあった。世間や旅行について豊かな知識を積み重ねている様子だ。汽車の中のこの熱さに適した、薄い黒の旅行服を着ているのだ。
エルキュール・ポワロは、たいくつまぎれに、気づかれないように、そっと彼女を観察しはじめた。
年こそ若いが、どこへ出ても、ちゃんとやっていける、節度を心得た才知ある女性にちがいない。目鼻立ちのととのった顔や、繊細で青白い皮膚の色も気に入った。きちんとウェーヴした艶のある黒い髪や、涼しい、個性的でない灰色の目も好ましかった。――だが、彼女は、いささかしっかり者すぎて、俺《おれ》のいう「可愛い女」ではないな、とポワロは判断した。
しばらくして、別のお客が食堂へ入って来た。背の高い、四十代のやせぎすの男で、陽やけした顔のこめかみあたりに白髪が見えた。
「インドから来た陸軍大佐だな」とポワロは思った。
男は若い女に軽く会釈《えしゃく》した。
「お早う、デベナムさん」
「お早うございます。アーバスノット大佐」
大佐は立ったままで、若い女と向かい合った椅子に手をかけて、
「よろしいですか?」ときいた。
「どうぞ、おかけになって」
「じゃあ――長話で朝食のお邪魔はいたしませんから」
「はあ、どうぞ。私も長話にはお相手いたしませんから」
大佐はその席に腰をおろした。
「ボーイ」と横柄《おうへい》な口調で呼んだ。
彼は卵とコーヒーを注文した。
彼は、ちょっとエルキュール・ポワロの方を見たが、すぐ関心のない様子で目をそらせてしまった。イギリス人の心の中を正確に読みとれるポワロには、大佐が「なんだ、外国人か」と思ったのが、分った。
二人は、いかにもイギリス人らしく、ほとんどしゃべらなかった。ほんの二言三言、言葉を交わすと、やがて若い女は席を立ち、自分の部屋へ戻っていった。
お昼にも、この二人はまた同じテーブルに坐って、ポワロを全く無視した。朝食の時よりは、二人の会話ははずみ、アーバスノット大佐はインドのパンジャプ地方の話をしたり、また時々、相手にバグダードのことを尋ねたりした。彼女がそこで家庭教師をしていたことが、それでポワロに判った。話しているうちに、二人は、いくたりかの共通の友人のあることを発見して、急に親しくなり、へだてがとれた。二人はトミーなんとかという老人やジェリーなんとかいう人物のことを語り合った。それから、大佐は、彼女に、まっすぐイギリスへお帰りなのか、あるいはイスタンブールで途中下車なさるのかと尋ねた。
「わたくしは、まっすぐ帰りますの」
「それは少し心残りじゃありません?」
「二年前この線を通った時、三日ばかりイスタンブールに滞在したことがありますものですから」
「ああ! なるほど。実は、まっすぐお帰りのほうがうれしいです。僕もそうなので……」
と大佐はちょっと赤くなって、ぎこちなくおじぎのような恰好をした。
「大将、ちょっと変だぞ」ポワロは少しずつ興味をいだき始めた。「船旅と同じで、汽車の旅にも危険はあるもんだな」
デベナム嬢は、それは結構ですこと、と平静に答えた。その態度には、自制の色が見えた。
それから、大佐が彼女を寝室へ送っていくのを、エルキュール・ポワロは見送った。折りしも列車は、タウルス山脈の雄壮な風景の中に突き進んでいく。二人は肩を並べて通路に立ち、シリア峡谷を見おろしていた。とつぜん、若い女の口からため息がもれた。そのそば近くにきていたポワロの耳に、女の低いつぶやきが聞こえた。
「ああ、何て美しい! もしも――もしも――」
「何です?」
「もしもこれが、心から楽しめる身の上でしたら!」
アーバスノットは答えなかった。彼の角ばった顎《あご》の線がちょっと厳しく、怒りを含んだように見えた。
「だから、あなたはこんなことに係り合いにならなきゃよかったんですよ」と彼はいった。
「シッ! お願い、黙って」
「ああ! 大丈夫ですよ」大佐は一瞬どぎまぎした視線を、ポワロへ投げかけてきた。それからまたつづけた。「しかし、僕は、あなたが家庭教師をしているのが好きじゃない――暴君のような母親や、うんざりする餓鬼《がき》どものことを考えると」
彼女は、ほんのわずか晴れやかなひびきをたてて笑った。
「そんなふうにお考えになってはいけませんわ。虐待された家庭教師という神話は、もう大昔に打ち破られた神話です。子供の親のほうが、わたくしにいじめられやしないかと心配しているくらいですのよ」
二人はそれ以上口をきかなかった。アーバスノット大佐は、感情を色に出したことを恥かしく思ったのだろう。
「どうやら、俺がここで観《み》ているのは、どうも奇妙な小喜劇のようだな」と何かを考えながらポワロはつぶやいた。
このことは、実はあとになってから、思いあたる種となるのである。
その晩、十一時半頃に、汽車はトルコ南部のコニア市に到着した。あの二人のイギリスの旅行者は脚をのばしに下車し、雪の降りこむプラットホームを往ったり来たりした。
ポワロ氏は、ガラス窓ごしに、活気にみちた駅を眺めるだけで満足した。だが、十分ほどしてから、急に、外の空気を吸ってくるのも悪くないな、と思いついた。用心深く、上着やマフラーでたっぷり身をつつみ、長靴の上からオーヴァシューズをつけた。こうして彼は、慎重にプラットホームへ降りて、その端へ向かって歩き出した。そして機関車の向こうまでいった。
すると、話し声が聞こえた。貨車のかげに二つのぼんやりした人の形があった。
アーバスノット大佐が話していたのだ。
「メアリー――」
それを女の声がさえぎった。
「いまは駄目。いまは駄目よ。すっかり済んだら、何もかも終ってしまったら――その時なら――」
ポワロは、そっと引き返した。納得のいかない思いがした。
彼には、昼間のあの落ち着いた、しっかりしたデベナム嬢の声だとは、ほとんど認めがたかったのだ。
「おかしいな」とポワロはつぶやいた。
その翌日、彼はこの二人が喧嘩でもしたのかといぶかしがった。二人ともほとんど口をきかないのだ。若い女は心配ごとでもありそうな様子だった。彼女の目の下には黒い隈《くま》ができていた。
午後二時半頃、とつぜん汽車が止まった。いくつかの頭が、窓から突き出た。数人の男たちが線路のそばに集まって、食堂車の下をのぞき込んだり、指さしたりした。
ポワロは窓から身体を乗り出し、急ぎ足で通りかかった車掌にきいてみた。車掌の答えを聞いて、首を引っこめ、振り返ったとたん、すぐ後に立っていたメアリー・デベナム嬢と、あぶなくぶつかりそうになった。
「どうしたのでしょう?」とデベナム嬢はせき込んでフランス語できいた。「どうして止まったのでしょうか?」
「何でもありません。食堂車の下の部分が燃え出したらしいんです。たいしたことはないようです。もう消えてしまいました。いま修繕しているところです。絶対に危険はありません」
彼女は危険なんてことは、全然問題ではないのだとでもいったような、ちょっと意外な態度を示した。
「ああ、そうですの。わかりましたわ。でも時間が!」
「時間?」
「汽車が遅れますでしょう」
「かも知れませんね」ポワロはそれを認めた。
「でも、わたくしたち、遅れることはできないんですの! この汽車が、六時五十五分に着いて、それからボスポロス海峡を渡り、その対岸を九時発の、シンプロン・オリエント急行に接続してくれなくてはいけませんの。もし、一、二時間遅れれば、接続できなくなりますわ」
「ありうることですな」とポワロは答えた。
彼はしげしげと彼女を眺めた。窓につかまった女の手が顫《ふる》えている。唇もわなないている。
「ひどくお困りなのですか?」と彼は尋ねた。
「ええ、とても困るんです。わたくし――わたくし、どうしてもあの汽車に乗らなくては」
彼女は背をむけて、アーバスノット大佐の方へと通路を歩いていった。
しかし、彼女の心配は不要だった。十分後に、汽車は再び出発した。途中で遅れをとり戻し、わずか五分の延着で、ハイダパッサ駅についた。
ボスポロス海峡は荒れていた。その横断はポワロにはぞっとしないものであった。彼は船の中であの二人の道づれとはぐれて、会えなかった。
ガラタ橋に到着すると、ポワロは自動車でまっすぐトカトリアン・ホテルへ向かった。
第二章 トカトリアン・ホテル
トカトリアン・ホテルでは、ポワロはバス付きの部屋を頼んだ。それから、管理人のデスクの方に歩いていって、手紙は来ていなかったかときいた。
手紙が三通と、電報が一通来ていた。電報を見て、ポワロの眉はちょっとつり上った。思いがけなかったのだ。
彼がいつものように、ていねいに、ゆっくりと封を切ると、印刷された文字がはっきり浮き出てきた。
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「やれやれ、困ったな」とポワロは腹立たしくつぶやいた。ちらりと柱時計を見上げた。
「私は今晩|発《た》たなければならなくなった」と彼は管理人にいった。「シンプロン・オリエント急行は何時発かね?」
「九時でございます」
「寝台は取れるかな」
「大丈夫だと思います。こんな季節には、簡単にお取りできます。汽車はほとんどがら空きでございますから。一等になさいますか、それとも二等に?」
「一等」
「承知いたしました。どちらまでおいででございますか」
「ロンドンまで」
「はい。ロンドンまでの切符とオリエント急行の寝台券をお取りいたします」
ポワロはまた柱時計を見た。八時十分前だ。
「まだ食事をする時間はあるかしら?」
「ございますとも」
小柄のベルギー人ポワロはうなずいた。彼は予約した部屋を取り消し、ホールを横切って食堂へ行った。
給仕に注文していると、誰かが彼の肩に手をかけた。
「やあ、思いがけない所でお会いしましたな」と後から声がかかった。
声の主《ぬし》は、小柄でがっちりした年輩の紳士で、髪を短く刈っている。彼はいかにもうれしそうに笑った。
ポワロは席からとび上った。
「やあ、ブックさん」
「やあ、ポワロさん」
ブック氏は、ポワロと同じベルギー人で、国際寝台車会社の重役であり、ずっと以前、ポワロがまだベルギー警察のスターであった頃からの知り合いであった。
「随分遠くまでいらしたんですね」と、ブック氏が言った。
「ええ、シリアに小さな事件があったもので」
「ほう! で、いつお帰り?」
「今夜です」
「そいつは素敵だ! 私もだ。私は用事で、ローザンヌへ行くんです。あなたはシンプロン・オリエント急行に乗るのですね?」
「ええ、たった今、寝台券を頼んだところです。ここに数日滞在の予定だったんですが、重大な用件があるからロンドンに帰れという電報を受取ったものだから」
「やれやれ、事件、事件ですね」とブック氏はため息をついた。「だが、仕方がないですな。なにしろ現代の売れっ子ときてるからね、ポワロさん!」
「たいした手柄《てがら》もあげてないのにね」
エルキュール・ポワロは、謙遜しようと努めるのだが、まるでうまくいかない。
ブック氏は笑い出した。
「じゃ、また後で」
エルキュール・ポワロは、スープで口髯を汚さないように苦心した。
スープを飲み終え、次の料理のくるのを待ちながら、あたりを見回した。食堂には五、六人の客があるだけで、その中の二人が、エルキュール・ポワロの興味をひいた。
その二人は、そう遠くないテーブルについていた。若い方の男は明らかにアメリカ人とわかる、人好きのする三十歳前後の青年だが、しかし、この小さい探偵の注意をかきたてたのは、この青年ではなく、その連れの男だった。
彼はおそらく六十代と思われた。やや離れたところから見ると、慈善家らしい柔和な風貌をしている。少し禿《は》げかけた頭、丸い額、真白な入れ歯の見える微笑《ほほえ》んだ口許《くちもと》、こうしたすべてが、慈悲ぶかいその人柄を語っているように見える。しかし目だけが、この印象を裏切っていた。それは小さい、落ちこんだ、狡猾《こうかつ》な目だった。それだけではない。この男が、連れの若者に何か注意を与えながら、部屋を見回して、一瞬ポワロにその眼差《まなざ》しを落とした時、不意にその眼差しに不思議な兇悪性と、不自然な緊張が現われたのだ。
すぐに、彼は立ち上った。
「ヘクター、勘定を払いなさい」と彼はいった。
その声にはいくらかしわがれた調子がある。奇妙に柔和な、それでいて油断のならない声だ。
ポワロがロビーの友人の所へ行ったとき、さっきの二人の男は、ちょうどホテルを引き上げて行こうとしているところだった。荷物が運び降ろされていた。若者がそれを指示していた。やがて、青年はガラスのドアを開けて、言った。
「すっかり用意できました、ラチェットさま」
年輩の男は、ぶつぶつ言って、出て行った。
「ねえ」とポワロが言った。「あの二人をどう思う?」
「アメリカ人じゃないかな」とブック氏が言った。
「もちろんアメリカ人だが、彼らの人柄をどう思うか、それをきいているんだけど」
「青年の方は感じがいいじゃありませんか」
「もう一人は?」
「ほんとう言うと、私はあの男は好きじゃありませんな。不愉快な印象を受ける。あなたはどう?」
エルキュール・ポワロは、しばらく考えてから言いだした。
「あの男が、食堂で私の側を通ったとき」と、彼はついに言った。「私は異様な印象を受けたんです。まるで、野獣――残忍で、しかも獰猛《どうもう》な猛獣!――その獰猛な猛獣が側を通りすぎたみたいな」
「でも彼は、最高に立派な紳士に見える」
「その通り。肉体――つまり鳥籠――これは何もかもご立派だ――しかし籠の格子《こうし》のすきまから野獣が外をのぞいている」
「空想家だな、ポワロさんは」とブック氏が言った。
「そうかも知れない。でも私は、悪魔が自分の側を通ったという印象をぬぐうことができない」
「あの立派なアメリカ紳士が?」
「あの立派なアメリカ紳士がさ」
「そうかねえ」とブック氏は楽しそうに言った。「そうかも知れない。世の中には悪魔がいっぱいいるからね」
その時、ドアが開いて、管理人が彼らの方へやって来た。申し訳なさそうな、おどおどした様子をしている。
「実に驚いたことでございます。旦那さま」と彼はポワロに言った。「汽車には一等寝台が一つも残っていないのです」
「なに?」とブック氏が叫んだ。「こんな時期に? ああ、きっとジャーナリストか――政治家の団体にちがいないね?」
「よく存じませんが」管理人はいんぎんにブック氏の方に向き直って答えた。「とにかく、そういうわけでございまして」
「ああ、そう」とブック氏はポワロの方に向きをかえた。「ご心配はいりません。何とかいたしますよ。いつも十六番だけは取ってあるのだから。車掌の取っておきなんですよ!」彼は微笑《ほほえ》んでから、柱時計を見上げた。
「やあ、出掛ける時間だ」といった。
駅につくと、褐色《かっしょく》の制服を着た寝台車の車掌から、うやうやしい挨拶で迎えられた。
「おいでなさいまし。旦那様のお部屋は一番でございます」
車掌は赤帽を呼んで、彼らの荷物を、中ほどの「イスタンブール トリエスト カレー行」という札の出ている車輛へ運んでいった。
「今夜は満員だそうだね?」
「信じられないことでございます。旦那様。今夜は、まるで世界中の人が一度に旅行をはじめたようで!」
「とにかく、ここに居《お》られる紳士のために部屋を見つけてくれないか。私の友人なんだ。十六番の部屋をあげたまえ」
「あれもふさがっております、旦那様」
「なに? 十六番が?」
二人は目くばせを交わしあった。やがて車掌はほほえみをうかべた、彼は中年の背の高いやせた男だ。
「はい、ふさがっております、旦那様。申し上げましたように、満員で――いたるところ満員でございます」
「いったい何事が起こったんだね?」とブック氏は腹立たしそうに尋ねた。「どこかで会議でもあるのかな? 団体客なんだね」
「いいえ、ほんの偶然なのです。ただ多数の人たちが今夜、一度に旅行なさることになっただけでございます」
ブック氏はいら立って舌打ちした。
「ベルグラードまで行けば、アテネから来る車輛が連結される。それにブカレスト=パリ間の車輛もある。――しかし、ベルグラードに着くのは、明晩だ。今夜をどうするかだ。二等も空いていないのか?」
「二等なら、一つ空いております」
「じゃあ――」
「しかし、ご婦人と|こみ《ヽヽ》のお部屋で……。もう、ドイツのご婦人がはいっておられます。――小間使さんですが」
「やれやれ、そいつは困った」とブック氏が言った。
「どうぞ、御心配なく」とポワロは言った。「私は普通客車で行くよ」
「それはいかん。それは無茶だ」と彼は再び車掌の方に向き直った。「客は皆乗ったのか?」
「お一人だけ、まだお見えになりませんが」と車掌はためらい勝ちにゆっくり答えた。
「それで、先を言いなさい」
「七番です――二等の。お客さまはまだお見えになっておりません。あと四分しかありませんが」
「どういう人?」
「イギリス人で」と車掌は乗客名簿を見ながら言った。「A・M・ハリスとおっしゃいます」
「縁起のいい名前だぞ」とポワロが言った。「ディケンズの小説に出てくる。M・ハリスは遂に来ないことになっている」
「ポワロ氏の荷物を七番へ運びなさい」とブック氏が言った。「もしM・ハリスが来たら、お客様は遅すぎました――客室をそんなに長く空《から》にしておくわけにはまいりませんから――とか何とか言って片付けよう。M・ハリスなんかどうだっていいさ」
「では、そういたします」と、車掌は言った。
彼は赤帽に、ポワロの荷物を運ぶ部屋を教えた。
それから自分は通路からさがって、ポワロを列車に乗車させた。
「端から二番目のお部屋でございます」と言った。
ポワロは通路を歩きだした。ほとんどの乗客が自分の部屋の外に出て、立っているため、早くは進めない。
「失礼、失礼」とポワロは、時計の音のように規則的に言いつづけた。やっときめられた部屋についた。部屋の中で、スーツケースに手を延ばしているのは、あのトカトリアン・ホテルで出会った背の高い若いアメリカ人だった。
彼は、ポワロが入っていくと眉をひそめた。
「失礼ですが、お間違えじゃありませんか?」と彼は言った。それから、たどたどしいフランス語で「お間違えじゃありませんか」
ポワロは英語で答えた。
「あなたはハリスさんですか?」
「いえ、僕はマッキーンです。僕は――」
しかし、この時、さっきの寝台車の車掌が、ポワロの肩ごしに話しかけてきた。息をつまらせた申し訳なさそうな声だ。
「この汽車は満員なのでございます。こちら様にここへおはいり願うことにさせていただきます」
そう言いながら車掌は、通路の窓を開け、ポワロの荷物を入れはじめた。
ポワロは、車掌が申し訳なさそうな口調でいうのを、おもしろく聞いていた。おそらく、青年は、この寝室を独り占めさせてくれれば、チップをはずむと車掌に約束したのだろう。でも、どれほど多額のチップでも、会社の重役が乗車してきて、命令するのにはかなわない。
車掌は、スーツケースを棚の上にのせると、寝台から出てきて、言った。
「では、ご用意ができました。旦那様は上段の七番でございます。一分後に発車です」
彼は通路を急いで行ってしまった。ポワロは改めて寝室へはいって行った。「珍しいことだ。車掌が、自分で乗客の荷物の世話をしてくれるとは! 聞いたためしがない!」とポワロは愉快そうに言った。
同室の旅行者はほほえんだ。迷惑な表情は消えてしまっていた――諦《あきら》めた方がいいと思ったのであろう。
「たいへんな混みようですね」と彼は言った。
汽笛が鳴り、機関車が長い、沈痛な叫びを上げた。二人の男は通路に出て行った。
外で声がした。
「ご乗車ください」
「出発ですね」とマッキーンが言った。
しかし、汽車はまだ動き出さなかった。汽笛がもう一度鳴った。
だしぬけに若者が言った。「もし下段がおよろしければ――そのほうが、万事にお楽でしょうから、お代りしましょう。僕は平気ですから」
好感のもてる青年だな、と思いながらポワロは断った。「いや、いや、とんでもありません――」
「かまわないんですよ――」
「御親切は有難いのですが――」
二人は譲り合った。
「たった一晩だけですから――ベルグラードで――」とポワロが説明すると、
「ああ、そうですか。ベルグラードでお降りになるんですね――」
「いや、そういう訳でもないんですが――」
突然、車体が大きく揺れた。二人は窓に倒れかかった。外の明りのついた長いプラットホームがゆっくりと後ずさりしていくのが見えた。
オリエント急行は、ヨーロッパ横断の三日間の旅に出発したのだ。
第三章 ポワロ拒絶する
その翌日、エルキュール・ポワロは、昼食時間にすこし遅れて食堂車へ入って行った。彼は早く起きて、ほとんど一人で朝食をとり、朝の間ずっとカスナ事件のノートを調べていた。ロンドンから彼の帰りを急がせてきた事件である。同室の青年の顔さえほとんど見なかった。
ブック氏はすでに席に着いていた。ポワロに手で合図《あいず》して、自分の向かいの席をすすめた。ポワロは席についた。そのテーブルはたいへんいい席だった。まっ先に料理が運ばれ、その料理もとびきり上等だ。
すばらしいクリーム・チーズを食べる頃になって、やっとそれまで食べるのに夢中だったブック氏は少しずつ話しはじめた。彼は、食事の席で、哲学的になる男だった。
「ああ」と彼はため息をついて、「もし私に、バルザックの文才があったらなあ! 断然、この光景を描く」と手を振った。
「いい思いつきですな」とポワロはいった。
「やあ、賛成? これを描いた人はまだいないね。しかも――ロマンの趣《おもむ》きもある。われわれの周《まわ》りには、あらゆる階級、あらゆる国籍、あらゆる年齢の人々がいる。これら互に未知の人間同士が、三日間を共に過ごすことになるのだ。一つ屋根の下で眠り、食べる。互に離れることができない。三日間が過ぎると、人々は分れ分れに出発して、めいめいの道をすすみ、多分、再び相会うことはない」
「しかし」とポワロが言った。「もし事故でも起きたら――」
「いや、そんなことはない――」
「あなたの立場からは、縁起でもないでしょう。しかし、万一のことがあると、多分ここにいる皆の者が、死という一つのきずなによって結びつけられる」
「もう一杯おやりなさい」ブック氏はあわてて酒を注《つ》いだ。「どうも病的ですな、あなたは。消化不良でしょう?」
「そうかもしれない」と、ポワロは肯定した。「シリアの食物が、私の胃袋に合わなかったようですな」
彼は酒をすすった。それから椅子によりかかって、考え深そうな目で、食堂車のなかを見回した。十三人のお客が坐っていた。ブック氏の言ったように、あらゆる階級や国籍の人々だ。彼は、観察しはじめた。
向かいのテーブルには、三人の男がいた。三人とも別々の旅行者らしいが、給仕が気をきかせて、ここに一まとめにしたらしい。色の浅黒い、大柄なイタリア人は食事に満足し、歯をほじっていた。彼の向かいの、やせた、身ぎれいなイギリス人は、よく訓練された召使に見られる無表情な顔をしていた。そのイギリス人の隣りは、派手なスーツを着た大きなアメリカ人だ――多分、旅行商人であろう。
「だから、これは大きくふっかけなくちゃ駄目ですよ」とアメリカ人が鼻にかかった大声で言った。
イタリア人は楊枝《ようじ》をとり、それで勝手な身振りをしながら、
「確かにそうだ。私の言いたいのもそこです」と言った。
イギリス人は窓外を眺めて、咳《せき》払いしている。
ポワロの視線は次へ移っていった。
小さいテーブルには、世にも醜い顔の老婦人が、まっすぐな姿勢で坐っている。しかし、それは独特の醜さだった――嫌悪《けんお》を起こさせるよりはむしろ魅力をそそるものだ。彼女は実にまっすぐな姿勢で坐っていた。首のまわりに、ものすごく大粒な真珠の首飾りをつけていた。大きすぎて、本物とは思えないほどだが、実は本物だ。両手には沢山の指環をはめていた。黒|貂《てん》のコートを肩から後にはねている。とても小さく高価な、黒い帽子が、その下の黄色いガマのような顔とはなはだ不均合《ふつりあい》だ。
婦人はいま給仕に、澄んで上品だが、しかし、まるで専制君主みたいな語調で命令していた。
「私の部屋に炭酸水を一瓶と、オレンジジュースを大きいコップに一つ届けておきなさい。それから、夕食は、ソースなしのチキンと――ボイルド・フィッシュを何か準備しておきなさい」
かしこまりました、と給仕は鄭重《ていちょう》に返事をした。
彼女は上品に、ちょっと頭を動かして立ち上がった。彼女の視線はポワロの視線と出合ったが、貴族特有のおおらかな無関心さで、すぐ視線はそれた。
「あれは、ロシアのドラゴミロフ公爵夫人ですよ」ブックが小声でささやいた。「彼女はロシア人です。御主人の公爵が革命前に全財産を現金に換えて、外国に投資したので、たいへんな大金持。ま、コスモポリタンというところですな」
ポワロはうなずいた。彼はドラゴミロフ公爵夫人のことは聞いていた。
「彼女は人格者ですよ」とブック氏が言った。「罪悪のように醜い顔だが、人々を感動させる人柄です。賛成でしょう?」
ポワロはうなずいた。
他の大きいテーブルには、メアリー・デベナム嬢が、もう二人の婦人たちと坐っていた。一人はチェックのブラウスにツイードのスカートをはいた背の高い中年の女である。彼女は、色あせた黄色い豊かな髪の毛を、不似合な大きい束髪《そくはつ》にたばねて、眼鏡をかけ、羊のように長い柔和な、人の好い顔をしている。そしてもう一人の女の話を聞いていた。その女は、感じのいい顔立ちの頑丈《がんじょう》な年輩の婦人で、低く、はっきりと、単調に、のべつ幕なしにしゃべっていた。
「――それで、娘が申しますの『ママ、この国で、アメリカ式でやろうたって、無理よ。ここの人たちは生れつき、無精なんですから。どしどし仕事をするなんて思いもおよばないのよ』って。でもね、娘たちの大学がしていることをお知りになったら、あなたがたびっくりなさいます。優秀な教授がそろっていらっしゃるんですのよ。まったく教育にまさるものはございませんわね。西洋思想を東洋に適用して、認めさせることにすっかり成功したんですもの。娘が申しますには――」
汽車がトンネルに入った。その静かな単調な声は消されてしまった。
次の小さいテーブルには、アーバスノット大佐が一人で坐っている。彼の視線は、メアリー・デベナム嬢の後頭部に釘《くぎ》づけになっている。二人は別々に坐っていた。同じテーブルにすることは簡単にできたのに。なぜか?
おそらく、メアリー・デベナム嬢が反対したんだと、ポワロは考えた。家庭教師をしていると、用心深くなるものだ。外見が大切なんだ。自活しなければならない若い女は、慎重にならざるをえないのだ。
ポワロの視線は食堂の別の側に移った。一番|隅《すみ》の壁ぎわには、黒い服の中年女が坐っていた。彼女は品のない無表情な顔をしている。ドイツ人かスカンディナヴィア人らしいと彼は考えた。たぶん、ドイツの婦人の女中だろう。
そのこちらで、一組の男女が、身をのり出してさかんに活発に話し合っている。男は英国製のゆるやかなツイードの服を着ていた。――だがイギリス人ではない。ポワロには後姿しか見えないが、頭の形や肩の恰好でわかるのだ。大きな、立派な体格をしている。突然、男が横を向いたので、ポワロはその横顔を見た。三十歳余りの、大きく美しい口髯をつけたたいへんな好男子だ。
彼と向き合っているのは、やっと二十歳くらいの、まだ若い少女であった。ぴったりした黒いタイトの上衣《うわぎ》とスカートに白いサテンのブラウスをつけ、小さいしゃれた黒いつばなし帽を、流行にそって、上品にななめにかぶっている。真白な皮膚に、大きな褐色のひとみと漆黒《しっこく》の髪をした、美しい異国的な顔だ。長いパイプで巻タバコをすっている。指の爪は真赤にマニキュアされている。プラチナの台の大きなエメラルドの指輪をはめている。その目つきや声には、男心をそそるものがある。
「美しい――それに、しゃれてる」ポワロがささやいた。「夫婦かな?」
ブック氏はうなずいた。
「たしか、ハンガリー公使ですよ」と彼は言った。「美しい夫婦だ」
客は、あと二人だけだった。――ポワロと同室のマッキーンと、彼の主人のラチェット氏。ラチェットはポワロの方を向いて坐っていた。ポワロは再び、その感じの悪い顔や慈悲の仮面をかぶった、小さい、冷酷な目をじっと、観察した。
ポワロの顔に現われた変化をブック氏は見つけた。
「あの野獣を見てるんですね?」
ポワロはうなずいた。
ポワロのコーヒーが運ばれてきたので、ブック氏は立ち上がった。彼はポワロより先に食事をはじめていたので、しばらく前に終っていた。
「私は部屋へ帰るから」と彼は言った。「あとで、話しにいらっしゃい」
「よろこんで」
ポワロは、コーヒーをすすり、リキュール酒を注文した。給仕は勘定の箱をもって、テーブルからテーブルへと回りはじめた。
あの年輩のアメリカ婦人が甲《かん》高く、やりきれない声をはりあげた。
「娘が、『食券一冊もっていれば、何の面倒もないわ――全然、面倒がないわ』と言っていましたのよ。それなのに、とんでもございません。一割のチップもとられます。炭酸水の瓶だの――なんだか奇妙な飲み水の瓶まであります。それなのに、エヴィアン水もヴィシー水もないなんて、変じゃございません?」
「あれは――なんて言いましたかしら――この国の飲料水をつかわねばならないのです」と羊のような顔付の女が説明した。
「そうですの。でも、変ですわね」彼女は自分の前のテーブルの上の釣銭の山をいやらしそうに眺めた。
「給仕のくれた、この奇妙な貨幣をごらんあそばせよ。ディナールだか何だか知らないけれど、まるで紙屑みたいじゃございません? 娘が言いましたのよ――」
メアリー・デベナム嬢は、椅子を後へひいて、他の二人にちょっと会釈《えしゃく》して出ていった。アーバスノット大佐も立ち上って、その後につづいて行った。アメリカ婦人も、いま軽蔑したお金を集めて、もう一人の婦人を小羊のようにしたがえて、出ていった。ハンガリーの夫妻もすでに消えていた。食堂車にはポワロとラチェットとマッキーンだけが残った。
ラチェットがマッキーンに何かささやくと、マッキーンは食堂車を出て行った。それから、ラチェットは席を立ち、マッキーンにつづいて行こうとはせず、意外にも、ポワロの向かいの席に腰をかけた。
「火をかしてくださいませんか?」と彼はいった。その声は柔かく――ちょっと鼻にかかっていた。「私はラチェットと申します」
ポワロは軽くうなずいた。ポケットをさぐり、マッチ箱をとり出して相手に渡した。相手は受け取ったが、火をつけなかった。
「エルキュール・ポワロさんではありませんか?」と彼はいった。
ポワロはまたうなずいて、
「その通りです」
探偵ポワロは、こちらが口をきる前に正体を見抜いている相手の異様に鋭い眼力に、目をみはった。
「私の国では、す早く、話の要点にはいります。ポワロさん。私のために一つ、仕事を引き受けて下さい」
エルキュール・ポワロの眉がわずかにつり上った。
「近頃は、仕事を制限しています。ごくわずかしか引き受けていないのです」
「ごもっともです。わかります。でもポワロさん。これは金になる仕事です」
彼は、柔かい、説得力にとんだ声で、繰り返した。「金になります」
エルキュール・ポワロは、一、二分黙っていた。そして言った。
「私に望まれるのはどんな仕事ですか、ラチェットさん?」
「ポワロさん。わたしは金持です。――大金持です。こういう地位にある者には敵があります。私には一人の敵があるのです」
「たった一人ですか?」
「その質問は、いったいどういう意味ですか?」ラチェットは鋭く尋ねた。
「私の経験では、人が、あなたの言われたように敵をもつ地位にある場合には、普通、敵はたった一人にとどまらないはずなのです」
ラチェットは、ポワロの答えに、安心したように見えた。彼は、急いで言った。
「なるほど、わかりました。だが、一人か、大勢かは、問題じゃないのです。問題なのは、わが身の安全です」
「安全?」
「私の生命はおびやかされています。ポワロさん、たしかに私は、相当わが身を守ることのできる男です」彼は上衣のポケットから小型の自動銃を取り出して、一瞬それをちらつかせた。そして、ドスのきいた口調で続けた。「私は寝ているすきをねらわれるような男ではありません。しかし安全の上にも安全をという上策をとりたいのです。あなたは金の出し甲斐《がい》のある方だ。ポワロさん、考えてください――莫大な金ですよ」
ポワロは、しばらく考えながら、相手を見つめていた。その顔は全く無表情だった。心の中で何を考えているのか、それは、うかがい知れないところだ。
「残念ですが」とやがてポワロは言った。「お引き受けできません」
ラチェットは、鋭くポワロを見つめて、
「では、金額を言って下さい」と言った。
ポワロは頭を振った。
「おわかりになりませんね。私は仕事の上ではたいへん幸運でした。自分の必需品や道楽に使う金は十分もっています。私は、今は自分に興味のある仕事しか引き受けないのです」
「いや、お見事です」とラチェットが言った。「二万ドル出しましょう」
「駄目です」
「これ以上は望まれても、出すわけにはまいりません。どれ位の値打の仕事かは、私も知っていますからね」
「私もです――ラチェットさん」
「私の申し出の何がお気にいらないのです?」
ポワロは立ち上った。
「私的なことでまことに失礼だが――私はあなたのお顔が気にいらないのです、ラチェットさん」
こう言って、彼は食堂車を出て行った。
第四章 深夜の叫び声
その夜、九時十五分前に、シンプロン・オリエント急行は、ユーゴスラヴィアの首都ベルグラードに到着した。
発車は九時十五分だったので、ポワロはプラットホームに降りた。が、長くはいなかった。寒気がひどく、ホームに屋根はあるが、外はたいへんな雪が降り続いていたのだ。彼は寝室にもどった。プラットホームで、足踏みをしたり、腕を振り回したりして暖をとっていた車掌が、話しかけてきた。
「お荷物は、一番の、ブックさんの寝室にお移しいたしました」
「しかし、ブックさんはどこへ?」
「ただ今、アテネから到着して連結された普通客車の方にお移りになりました」
ポワロは友人をさがしに行った。ブック氏はポワロの抗議をかわして、
「いや、なんでもない。なんでもない。ここの方が、都合がいいんです。あなたは英国へまっすぐ行くのだから、カレー直通の車輛の方がいい。私はここで結構ですよ。とても静かでね。この車輛には、私と小さいギリシア人の医者しかいません。ああ、すごい夜だ! こんな大雪は何年振りからしい。汽車が止まらなきゃいいが。それが心配の種でね」
定刻九時十五分に、汽車は発車した。間もなく、ポワロは立ち上り、友人にお休みを言い、通路を通って、自分の車輛にもどった。彼の車輛は、食堂車の手前だった。
旅も二日目にもなると、旅客同士も打ちとけてくる。アーバスノット大佐が、ポワロの部屋のドアの前で、マッキーンと話していた。
マッキーンは、ポワロを見ると、口から出しかかっていた言葉を急いで、のみこんだ。不意をうたれて、びっくりしたらしいのだ。
「おや」と彼は叫んだ。「お降りになったと思っていたんですが。ベルグラードで降りるとおっしゃっていらしたんじゃありませんか」
「思い違いでしょう」ポワロは笑って答えた。「ああ、今思い出した。ちょうど、そのことを言いかけていた時、汽車がイスタンブールを発車になったんでしたね」
「しかし、あなたのお荷物――ありませんよ」
「別の部屋へ移したのです――それだけのことです」
「そうですか」
彼はまたアーバスノット大佐と話しだし、ポワロは通路を先へ進んだ。
ポワロの部屋から二つ目のドアの前で、あの初老のアメリカ婦人ハッバードが、羊のようなスウェーデンの女性と立ち話をしていた。ハッバード夫人は、雑誌を相手に押しつけていた。
「どうぞお持ち下さいましよ。私は他にも読むものが沢山ございますから。ほんとに、こわいみたいな寒さでございますわね?」
夫人は、愛想よく、うなずいた。
「おそれいります」とスウェーデンの女性が言った。
「どういたしまして。今夜よくお休みになれば、明日の朝は、頭痛も直っていらっしゃいますわよ」
「ただの風邪《かぜ》ですもの。お茶でも作って飲むことにしますわ」
「アスピリンは持っていらっしゃる? わたしは沢山持っておりますのよ。およろしいんですの? では、お休みなさいませ」
スウェーデンの女性が行ってしまうと、アメリカ婦人は、話好きらしく、ポワロのほうを向いた。
「お可哀そうに。あの方はスウェーデン人ですのよ。お見うけしたところでは、ミッションの先生をしていらっしゃるらしいんですの。とても好い方だけど、英語が余りお話しになれないもので。私が娘のことをお話するのは、ひどく興味をもって聞いていらしたんだけれど……」
ポワロは、いまでは、ハッバード夫人の娘のことについては知りつくしていた。乗客の中で、英語を理解する者なら誰でも知っているはずだ! 娘夫婦が、スミルナ市の大きなアメリカ系大学の職員であることとか、これはハッバード夫人の初めての東洋旅行であるとか、彼女が、トルコ人やそのだらしのない慣習や道路の状態についてどういう考えをもっているかとか、について。
彼らの隣りのドアが開いて、やせて色の青白い従僕が出て来た。ポワロが、ちらと中をのぞくと、ラチェット氏がベッドの中に起きあがっている姿が見えた。ラチェットは、ポワロを見た。すると、その顔色が変って、みるみる怒りで青黒く黒ずんだ。そのまま、ドアが閉められた。
ハッバード夫人は、ポワロをちょっとわきへ引っぱっていった。
「私、あの人が怖《こわ》くて仕方ありませんのよ。ええ、召使の方でなしに――もう一人の――主人のほう。あの男には、確かに、あの男には、何かうしろ暗いところがありますのよ。娘がいつも、私のことを、とても勘が鋭いと申しますの。『ママが虫の知らせをうけると、必ず当たるんだから』ってこう申しますのよ。その私があの男に何かを感じて仕方がないんですの。あの人は私の隣りの部屋でしょ、それが、私にはやりきれなくてやりきれなくて。私、昨夜も境のドアに鞄を立てておきましたのよ。ドアの把手《とって》を回す音が聞こえたような気がしたもので……ほら列車強盗殺人事件、お読みになったでしょう。あの人がその犯人だって聞かされても、私なら驚きませんわね。私のこんな勘なんて、馬鹿げてるみたいですけれど、でも確かなんですのよ。私、とてもあの男が怖くて! 娘が気楽な旅だって申してましたんですけれど、どうして、気楽なものですか。こんなこと言って笑われるかもしれませんが、何か起きそうな気がして仕方ないんですのよ、きっと何かが。それに、いまのあの善良そうな若い人、あの人がよくもあんな男の秘書をしていられますこと」
アーバスノット大佐とマッキーンとが通路をこちらへやって来た。
「僕の部屋へ行きましょう」と、マッキーンが話している。「まだ、ベッドを作ってありません。あなたのインド政策について、はっきり僕が頭のなかに入れておきたいと思っていることは――」
二人は通りすぎ、マッキーンの部屋へと通路を歩いていった。
ハッバード夫人はポワロにおやすみなさいを言った。
「私はすぐベッドに入って、読み物でもいたしましょう。お休みなさい」
「お休みなさい。奥さん」
ポワロは自分の寝室へ入っていった。ラチェットの部屋の向こう隣りだ。服をぬいでベッドに入り、三十分ほど読書してから灯《あか》りを消した。
ポワロは、幾時間か後、目を覚ました。びっくりして、目を覚ましたのだ。彼は、どうして目を覚ましたか知っていた。――どこかすぐ近くで、悲鳴に近い大きなうめき声がしたのだ。それと同時に、ベルの音が鋭く鳴り渡ったのだ。
ポワロは起き上って、灯りをつけた。汽車が止まっているのに気付いた。――多分、駅だろう。
悲鳴がポワロを不安にした。ポワロは隣りがラチェットの部屋なのを思い出した。ベッドから出て、ドアを開けた。そのとき、寝台車つきの車掌が、通路を急いでやって来て、ラチェット氏のドアをノックした。ポワロは自分の部屋のドアを細目に開けて、見つめた。車掌はもう一度ノックした。ベルが鳴った。ずっと先の別のドアのところに灯りがついた。車掌はそちらを振りむいた。
その時、隣りの部屋から声が聞こえてきた。
「Ce n'est pas rien, je me suis trompe(何でもありません。私の間違いでした)」
「そうですか」
車掌はまたあたふたと立ち去り、灯りの見えるドアをノックした。
ポワロはベッドに戻り、ほっとして灯りを消した。彼は腕時計を見た。一時二十三分前だった。
第五章 犯罪
ポワロはなかなか寝つかれなかった。一つには、汽車の震動が止まってしまったからだ。もし外が停車場だとすれば、奇妙に静かだ。それにひきかえ、車内はいやにざわついていた。ラチェットが隣りの部屋を歩きまわっているのが聞こえた。続いて、洗面器をおろす音、水の流れ出る音、水をはねかえす音、洗面器をもとに戻す音。それから足音が外の通路を通っていった。誰かが寝室用のスリッパを引きずる足音だ。
エルキュール・ポワロは、ベッドに横になって、天井《てんじょう》を見つめていた。なぜ、外の駅がこんなに静かなんだろう? 喉の渇きをおぼえた。いつもの炭酸水を頼むのを忘れていたのだ。再び腕時計を見た。ちょうど一時十五分だ。彼はベルを鳴らして、車掌を呼び、炭酸水を頼もうとした。彼はベルの方に手を延ばしたが、静寂のなかに、別のベルの音のなるのを聞いてためらった。一人の車掌は、一度にいくつものベルに応対はできないのだ。
リーン……リーン……リーン……
ベルはつづけて鳴った。――車掌はどこにいるんだろう? ベルを鳴らしている人間はだんだんいら立ってきたようだ。
リーン……
ボタンを指で押しっぱなしにしているのだ。
突然、あわただしい足音を通路にひびかせて、車掌がやって来た。ポワロの部屋から遠くないドアをノックした。
つづいて、車掌の鄭重《ていちょう》な謝《あや》まる声と、女のがみがみまくしたてる声が聞こえた。
ハッバード夫人だ!
ポワロは笑った。
車掌と夫人の論争はしばらく続いた。その九十パーセントまではハッバード夫人の声で、あと十パーセントは、それをなだめる車掌の声だ。やっと、けりが付いたらしく、ポワロははっきりと聞いた。
「お休みなさいませ、奥様」
ポワロは自分のベルを押した。
車掌はすぐやって来た。彼はいらいらした、心配そうな顔をしていた。
「すまないが、炭酸水を」
「かしこまりました」ポワロの眼がおかしそうに笑っているのを見て、車掌はほっとしたような様子で言った。
「あのアメリカのご婦人のお客様は――」
「どうかしたの?」
車掌は額の汗をぬぐった。
「この時刻を考えてもみて下さいまし! あのお客様は自分の部屋に男の人がいるっておっしゃってきかれないのです。考えてもごらん下さいまし。こんな狭い部屋にそんな!」車掌は手で身振りをしながら言った。「どこに隠れていられるものですか? ま、それで言い争いとなったわけでして。そんなことがあるはずがないと申し上げても、お客様は強情でいらして。私が目を覚ましたら、男の人がいたの一点ばり。では、どうして、その男の人はドアから外へ逃げ、そのドアの内側の差込み錠をかけられますか、とお尋ねしました。でも、やはり耳をかそうとはなさいません。それでなくても、こちらはもうさんざん苦労しておりますのに、この雪で――」
「雪?」
「ええ。お客さまはまだご存知なかったのですか? 汽車は止まっております。雪溜りの中へ突っ込んでしまったのです。どのくらいしたら動き出せるか、皆目《かいもく》分かりません。以前、七日間、降り込められたことがございましたが……」
「ここはどこ?」
「ユーゴスラヴィアのヴィングコヴツィーとブロドとの間です」
「それは弱ったな」ポワロは当惑して言った。
車掌は引き下り、炭酸水をもって戻ってきた。
「お休みなさいませ」
ポワロは一杯飲んで、眠りかかった。
ちょうど、うつらうつらし始めた時であった。また何かで目が覚めた。こんどは何か重いものがドアに倒れかかったようであった。
彼は飛び起きて、ドアを開け、外を見た。何もない。ただ、右手の通路のかなり向こうを、真赤なキモノに身をつつんだ一人の婦人が歩み去っていっただけだ。左手の通路のはずれでは、車掌が、小さな椅子に腰かけて、大きな紙に数字を書きこんでいた。一切は死んだように静かだ。
「確かに、俺の神経はどうかしているぞ」とポワロはつぶやいて、ベッドに戻った。今度は朝まで眠った。
目を覚ました時、汽車はまだ止まったままだった。彼はブラインドを上げ、外を見た。厚い雪の壁が汽車を取りかこんでいた。
時計を見た。九時をすぎていた。
彼は、十時十五分前に、いつもの通り身支度して、食堂車へ行った。中では、皆が、こぼし合っているところだった。
乗客たちの間にあった壁も、いまやすっかり取りはらわれてしまった。皆、共通の不運で一つに結ばれたのだ。ハッバード夫人が一番派手にこぼしていた。
「娘が『世界中で一番楽な旅なのよ。ただ乗っていさえすれば、パラスへ着いてしまうんだから』と言ってくれてましたのよ。それなのに、これじゃ、何日も何日もここで足どめですわねえ」彼女は泣き声を出した。「私の予約の船はあさって出帆しますのよ。どうしたらそれに乗り込めるかしら? 取り消そうにも電報も打てないし、どうしましょう? ほんとに気が狂いそうになりますわ」
イタリア人が、自分はミラノに急用があるのだと言った。すると大男のアメリカ人が、「それはお気の毒」だが、しかし、そのうち汽車が動くから、何とか間にあいますとも、と慰めた。
「私の姉と姉の子供たちが、私を待っていますのよ」スウェーデンの婦人はそう言って、泣き出した。「延着の連絡一つできず、みんな何と思っていることでしょう。きっと、私が災難にあったと思って心配していますわ」
「どのくらい、ここにいることになるんでしょう?」とメアリー・デベナム嬢が尋ねた。「どなたかご存知ないかしら?」
そのデベナム嬢の声にはいらだたしさがこもっていた。しかし、先日タウルス急行が停車した時に彼女が示した狂おしい不安の影が、そこにはないことに、ポワロは気づいた。
ハッバード夫人が、また騒ぎたて始めた。
「この汽車には、ものの分る人間は一人も乗りあわしていませんのね。何かやってみようとする人は一人もいやしない。そろいもそろって能なしの外国人ばっかり。もしこれが私の国のアメリカだったら、誰かがきっと飛び出して何か打開策を講じようとするに違いないのに!」
アーバスノット大佐は、ポワロの方を向いて、御念のいった英語なまりのフランス語で言った。
「あなたは、この鉄道の重役でいらっしゃいましたね。何かわれわれにおっしゃっていただけることはございませんでしょうか――」
ポワロは笑って、訂正した。
「いや」彼は英語で言った。「私ではありません。私の友人のブック氏と取り違えていらっしゃる」
「ああ! それは失礼しました」
「どういたしまして。ご無理もございません。彼が前にいた部屋に、私が今いるのですから」
ブック氏は食堂車にはいなかった。ポワロは他に誰がいないかに注意して見まわした。
ドラゴミロフ公爵夫人とハンガリー公使夫妻がいなかった。それに、ラチェットと彼の従僕と、ドイツ人の女中も見えなかった。
スウェーデンの婦人が目を拭いた。
「私、馬鹿ですわ」と彼女は言った。「泣いたりしてすみません。何事が起こっても、つまりは、天のおさばきですもの」
しかし、このキリスト教精神は、ほかの人々からはかけ離れていた。
「それも結構ですがね」とマッキーン氏が不安そうに言った。「でも、ここに幾日も閉じ込められるかも知れません」
「いったい、ここはどこでしょうか?」とハッバード夫人が涙ぐんで、尋ねた。
ユーゴスラヴィアだと聞いて、彼女は言った。
「ああ! あのバルカン山脈の中の。じゃあ、万事休すですのね?」
「しっかりしておられるのはあなたお一人ですね」とポワロはメアリー・デベナム嬢に言った。
デベナム嬢はちょっと肩をすくめて、
「だって、どうしようもないじゃあございません?」
「あなたは哲学者ですね。お嬢さん」
「超然とした態度だとおっしゃいますの? でも、その態度はむしろ利己的なものから来てるのじゃないかしら。無駄な感動はしないことにしてるんですの」
彼女は、ポワロを見ようとさえしなかった。その視線は彼を通りすぎて、窓外の深く積もった雪の方へと注がれていた。
「あなたは、しっかりしていらっしゃる」と、ポワロは優しく言った。「あなたは、われわれの中で一番しっかりしていらっしゃる」
「いいえ、決してそんなことはございません。私より、はるかにしっかりしていらっしゃる方がいらっしゃいます」
「とおっしゃると?」
彼女は、突然我にかえり、自分が、見知らない人、今朝《けさ》までにほんの数語を交わしただけの外国人と話していることに気づいた様子だった。
彼女は、上品な、しかし、よそよそしい笑いにまぎらした。
「例《たと》えば――例えば、あの老貴婦人。あなたもきっと、もうお気づきでしょう。たいへん醜くいらっしゃるけれど、たいへん魅力的な老婦人。あの方が、小指を上げて、上品な声でお命じになったら――汽車は走り出しますわ」
「汽車は、私の友人のブック氏でも走らせます」とポワロは言った。「でも、それは彼がこの鉄道の重役だからで、しっかりしているためではありませんがね」
メアリー・デベナム嬢は微笑《ほほえ》んだ。
朝の時間は過ぎた。ポワロと数人の人々は食堂に残った。こんな時には、皆と一緒にいるのが、時間をすごす一番いい方法なのだ。ポワロはハッバード夫人の娘について、いろいろと聞かされた。また、亡夫ハッバード氏が朝起きて、オートミールつきの朝食をとる時から、夫人の手編みのベッド用ソックスをはいて夜寝るまでの、生涯にわたる習慣を聞かされた。
ポワロが、スウェーデンの婦人から、伝道の目的について、何が何だか訳のわからない説明を聞いていた時、寝台車つき車掌の一人がやって来て、そばに立った。
「失礼いたします」
「え?」
「ブックさまのご伝言です。ちょっとお越しいただきたいと申しておられます」
ポワロは立ち上り、スウェーデンの婦人に会釈して、車掌のあとから、食堂車を出て行った。
それは、彼の車輛つきの車掌ではないが、しかし、背の高い好男子であった。
ポワロは車掌について、彼の車輛の通路を通り抜け、次の車輛の通路を通って行った。車掌はドアをたたき、わきに立って、ポワロを中へ入らせた。
その部屋はブック氏のではなかった。それは二等で――多分ちょっと大きいので選ばれたらしい。大勢の人がいた。
ブック氏は奥の一隅の小さい椅子に腰をかけていた。彼と向かい合った窓ぎわの片隅で、色の黒い小柄な男が外の雪を見ていた。ポワロが前にすすむのをはばむように、ブルーの制服を着た大きな男(列車長)とポワロの寝台車つきの車掌が立っていた。
「やあ! ようこそ」とブック氏は叫んだ。「さあ、入ってください。あなたが必要なんです」
窓ぎわの小柄の男が、席をあけたので、ポワロは、二人の間を分けて通り、ブック氏と向かい合って腰をおろした。
ブック氏の顔の表情を一目見たとたんに、何かただならぬことが起こったことは判っていた。
「何が起きたんです?」とポワロは尋ねた。
「それなんですよ。最初がこの雪――この立往生――そしてこんどは――」
彼は息をのんだ。すると、寝台車つきの車掌の口から締めつけられるようなうめき声がもれた。
「そして、こんどは何?」
「こんどは、一人の乗客が寝台の中で死んでいた。――刺し殺されて」
「乗客? どの乗客が?」
「アメリカ人。名前は――名前は――」ブックは自分の前のメモを調べた。「ラチェット。――ラチェットだったね?」
「はい、そうです」と車掌があえいだ。
ポワロは車掌を見た。車掌は白墨のように白かった。
「この人は坐ってもらったほうがいいです」とポワロは言った。「そうしなかったら、気絶しますよ」
列車長が少し体をよけると、車掌は隅へ坐り、両手で顔をおおった。
「ブルルル! これは一大事だ!」とポワロが言った。
「まったく一大事だ。殺人――それだけでも最大の災難なのに、それに加えて、事情が普通ではありません。ここでわれわれは立往生している。ここに何時間も――あるいは何日間も――立往生かもしれない。もう一つの事情があります。この汽車は通るさきざきで、その国の警官が乗り込むことになっています。しかし、このユーゴスラヴィアだけは、それがありません。おわかりでしょう?」
「これは、ひどくむつかしいことになりましたね」とポワロは言った。
「さらに悪いことがあります。コンスタンチン博士――ああ、御紹介するのを忘れていました――こちらがお医者のコンスタンチン博士。――ポワロさんです」
色黒の小柄な男が頭を下げた。ポワロもおじぎを返した。
「コンスタンチン博士は、死亡時刻は、午前一時頃だという見解です」
「こういうことは、正確に言うのはなかなか困難です」と医者は言った。「しかし、昨夜の十二時から今朝の二時の間に死が起こったことは断言できると思います」
「ラチェットを最後に見たのは何時でしたか?」とポワロが尋ねた。
「彼が一時二十分前に生きていたことは分かっています。その時、彼は車掌と話しています」とブック氏が言った。
「その通りだ」とポワロが言った。「あれは、私自身も聞いている。あれが最後ですか?」
「そうです」
ポワロが医者の方に向き直ると、医者は言葉をついだ。
「ラチェット氏の寝室の外窓は大きく開けられていました。犯人はそこから逃げたようになっています。しかし、私の考えでは、開かれた窓は策略です。誰かが窓から逃げたとすれば、雪にはっきり足跡が残るはずです。だが、足跡は全くありません」
「犯行が発見されたのは――何時ですか?」とポワロが聞いた。
「ミシェル君!」
寝台車つきの車掌は、居ずまいを正した。その顔はまだ真っ青で、おびえていた。
「この方に、起こったことを正確に話しなさい」とブック氏が命じた。
車掌は、いくぶん、ぎこちなく、話しだした。
「このラチェット氏の従僕の方が、今朝、いく度もドアを叩きました。返事がありませんでした。すると、いまから三十分ばかり前に、食堂車の給仕が来ました。ラチェット氏が昼食を召し上るかどうか知りたかったのです。十一時頃でした。
私は合い鍵でドアを開けました。ところが、ドアには内側から鎖もかかっており、びくともしません。ご返事もありません。中はひどく静かで、寒々としています。窓が開け放たれ、雪が降りこんでおります。私は、多分ラチェット氏は発作《ほっさ》でも起こしたのだと思いました。すぐ列車長を呼び、二人は鎖をこわして、中へはいりました。すると、ラチェット氏は――ああ! 何ていう恐ろしい!」
車掌はまた両手で顔をおおった。
「ドアは鍵がかかり、鎖が内側からかかっていたんですね」とポワロが考えこみながら言った。「自殺じゃありませんか」
ギリシア人の医者は、皮肉な笑いをうかべた。
「いったい自殺する男が、自分を十か所も、十二か所も――十五か所も刺すでしょうか?」と医者は尋ねた。
ポワロは目をみひらいた。
「何という残忍さだ」と彼は言った。
「女ですね」と、初めて列車長が口を開いた。「それからすると、女ですね。女だけです。そんな刺しかたをするのは」
コンスタンチン博士は、考えこんで、首をひねった。「たいへん腕力のある女にちがいない」と彼は言った。「私は、専門的なことは言いませんが――混乱するだけですから――しかし、あの刺し傷の中には、硬い骨や筋肉を刺し通すほどの強い力でやったものが二、三あることは、確かです」
「あまり科学的な犯罪ではないな」とポワロが言った。
「ひどく非科学的です」とコンスタンチン博士が言った。「出たらめに、手当りしだいに刺した傷のようです。中には、ちょっと、かすっただけで、ほとんど傷にもなっていないのもあります。犯人は、目をつぶったまま、狂ったように、めくらめっぽう何度も突き刺したといった様子です」
「女ですね」と列車長がまた言った。「女というものは、そんなものなんです。女はカッとなるととんでもない力を出すものです」
彼があまり、まじめくさって、一人でうなずいているので、みんなは、彼はきっと身に覚えがあるのに違いないと推測した。
「あなたのそういう知識に参考になるかもしれないことを、ちょっと知っているんです」とポワロが言った。「ラチェット氏は、昨日私に話しかけてきたのです。そして私に分かったかぎりでは、生命の危険にさらされているとのことでした」
「『ばらされる』と言ったんでしょう、それはアメリカ式英語ですな」とブック氏が言った。「それじゃ女ではありませんね。ギャングかヤクザですよ」
列車長は、自分の説が駄目になったので、痛い顔をした。
「それにしては、手口が素人《しろうと》すぎるようですね」とポワロは言った。この否定的な口調には、その道の専門家らしい確信がみなぎっていた。
「乗客の中に一人、大きなアメリカ人がいましたね」とブック氏が、自分流の考えを辿《たど》って、言った。「派手な服装の平凡な顔をした男だ。いつもガムを噛んでいて、あまり良い階級の人間ではないように思える。こういえば誰だか、君にはわかるだろう?」
呼びかけられて、寝台車つきの車掌はうなずいた。
「はい、十六番のお客様です。しかし、あの方であるはずはありません。あの方の部屋の出入りは、私のところから一目瞭然《いちもくりょうぜん》ですから」
「いや、そうとも言えない、必ずしもそうとも言えない。しかし、それは、これから調べることにしよう。で、さしあたっての問題は、われわれは何をなすべきかだ」
ブック氏はポワロを見た。
ポワロもブック氏を見返した。
「ねえ」とブック氏が言った。「あなたには私が何を求めているかおわかりだろう。私はあなたの力を知っている。どうかこの調査の指揮をとって下さい! いや、いや、お断りにならないでください。これは、われわれにとって、重大な事件なのです――私は国際寝台車会社を代表して言っているのです。ユーゴスラヴィアの警察が到着するまでに、解決していれば、なんと好都合なことでしょう! もしそうでないと、いろいろ不便や面倒がおきて、罪のない人々に、どんな迷惑がかかることでしょう。――そのかわり――あなたが事件の謎《なぞ》を解いてくれたら、われわれは言います。『殺人事件が起こりました。――これが犯人です!』」
「私にその謎が解けなかったら?」
「なにを言うんです」ブック氏の声には、一段と敬愛の情が深まった。「私はあなたの名声を知っているんです。あなたの手法もいくらかは知っています。この事件は、あなたにはうってつけのものです。乗客全部の身元調査をしたり、証言の裏付け捜査をしたり、――こうしたことには時間と果てしない不便がともないます。しかし、あなたはよくおっしゃっていましたね。事件を解くためには、ただ椅子によりかかって、考えるだけでいいのだ、って。それをやってみてください。
乗客に会ってみる、死体を調べてみる、手がかりを調査する、とにかく、――私は、あなたを信頼し切っていますよ! あなたの言葉が、はったりじゃないことを確信しています。さあ、椅子にねそべって考えてください――(あなたの口癖の)あの灰色の小さな脳細胞を働かせてください。――そうしたら、あなたにはきっと分かりますよ!」
彼は前にのり出し、愛情をこめて、友人を見つめた。
「あなたの信念には負けた」とポワロは感動した様子で言った。「あなたの言うとおり、これは難しい事件ではなさそうだ。この私自身が、昨夜――だが、こんな話は、今はやめましょう。実は、この事件には、好奇心をそそられているのです。ついさっきまでは、ここに閉じこめられる間中、さぞ退屈に苦しめられるだろうと思っていたのですが。だが、今は――事件が私の手のなかに転がりこんだのです」
「では、引き受けてくれますね?」とブック氏は熱心にきいた。
「承知しました。引き受けましょう」
「ありがとう――われわれはあなたの指図にしたがいます」
「はじめにイスタンブール=カレー車輛の図面、それに各寝台の乗客の名前のメモを見せていただきます。それから、乗客のパスポートと切符を見せてください」
「ミシェル、それを持ってきなさい」
車掌は部屋を出ていった。
「この列車には、ほかにどんな乗客がいますか?」とポワロが尋ねた。
「この車輛には、コンスタンチン博士と私だけです。ブカレストからの車輛には、びっこの老紳士が一人です。この人は車掌のよく知っている人です。その向こうにも普通客車がいくつかついています。しかしこれは、われわれには関係がありません。昨夜、夕食後に境のドアに錠をかけてしまいましたから。イスタンブール=カレーの車輛の前は食堂車だけです」
「とすると」ポワロはゆっくり呟《つぶや》いた。「イスタンブール=カレーの車輛の中から殺人犯人を探しださねばならないわけだな」
それから医者のほうに向きなおった。
「このことをあなたはさっきほのめかされたのですね?」
ギリシア人の医者はうなずいた。
「十二時三十分に、汽車は積雪の中にはまりこみました。それ以後、だれ一人、下車できなかったはずです」
ブック氏はおごそかに言った。
「犯人は、われわれと一緒に――あきらかにこの汽車のなかにいる……」
第六章 女か?
「まず最初に」とポワロは言った。「私は、マッキーン青年と話してみたい。彼から、貴重な情報を得られるかもしれない」
「承知しました」とブック氏が言った。
彼は列車長のほうを向いた。
「マッキーン君をここへ呼んできなさい」
列車長は部屋を出て行った。
車掌が一包みのパスポートと切符をもって戻ってきた。ブック氏はそれを受けとった。
「ご苦労、ミシェル。では自分の場所に戻ってよろしい。君の証言は正式に後でとるから」
「承知いたしました」
ミシェルは出て行った。
「マッキーン青年と会った後で」とポワロは言った。「お医者さんは、殺された男の車輛へ一緒に行っていただきましょう」
「結構です」
「それがすんだら――」
その時、列車長が、ヘクター・マッキーンと一緒に戻ってきた。
ブック氏は立ち上った。
「ここは少し狭苦しくてなんですが」と彼は愛想よく言った。「マッキーンさん、私の席へどうぞ。ポワロさんと向き合ってお坐り下さい。――そうそう」
彼は列車長のほうを向いて、
「食堂車にいる人たちに全部|退《ど》いてもらいなさい」と言った。「そこを、ポワロさんが自由に使えるようにしなさい。面会は食堂でしませんか?」
「ええ、それがたいへん便利です」とポワロが賛成した。
マッキーンは、そこここを眺めながら立ったままでいた。彼はフランス語の流暢《りゅうちょう》な会話の意味を何一つ理解することができなかったのだ。
「ナニカアッタノデスカ? ナゼ――?」と、彼はやっとたどたどしいフランス語でしゃべり始めた。
ポワロはきびきびした身振りで、彼を隅の席に坐らせた。彼は席につくと、また始めた。
「|ナゼ《ヽヽ》――?」とフランス語で言い出したが、後がつづかず、母国語にもどった。「汽車の中で何が起こったのですか? 何か起こったのですか?」
彼は一人一人を見て言った。
ポワロはうなずいた。
「その通りです。ある事件が起きました。驚かないでください。君のご主人のラチェット氏が死んだのです!」
マッキーンの口は口笛を吹く時のようにとがった。だが、かすかに目がかがやいたことをのぞけば、彼は驚きも悲しみもみせなかった。
「あいつら、とうとうやりましたか」と彼は言った。
「それは、どういう意味です、マッキーンさん?」
マッキーンはためらった。
「あなたは、ラチェット氏は殺されるとでも思っていたのですか?」とポワロは言った。
「殺されたのではなかったのですか?」今度は、マッキーンが驚いた様子だった。
「ええ」と彼はゆっくりと言った。「僕はそう思っていたのです。眠っているうちに死んだのですか? へえ、あの老人は頑丈で――頑丈で――まるで……」
彼は、ぎこちなく笑って、口をつぐんだ。
「いや」と、ポワロは言った。「全くあなたの推測どおりです。ラチェット氏は殺されました。刺し殺されました。しかし、どうしてあなたは、ラチェット氏は死んだと聞いただけで、殺されたと解ったんですか? 理由をうかがいたいですね」
マッキーンはためらった。
「じゃあ、はっきりさせてください」と彼は言った。「あなたは正確には誰ですか? そしてどういう資格で僕に質問なさるのですか?」
「私は、この国際寝台車会社の代表者です」ポワロはちょっと言葉をきってから、また言い足した。「私は探偵です。私の名前はエルキュール・ポワロです」
もし彼が、名前の効果を期待していたとしたら、あてはずれであったろう。マッキーンは、「ああ、そうですか」と言っただけで、相手が言葉をつづけるのを待っていた。
「たぶん、私の名前はご存知でしょう」
「ええ、なんだか聞いたことはあるようですが――ただ、僕はいつも、それはドレスメーカーだと思っていました」
エルキュール・ポワロは苦《にが》い顔をして、相手を見て、「これは信じられない!」と言った。
「何が信じられないのですか?」
「いや、何でもありません。さあ、当面の問題をすすめよう。マッキーンさん、死んだラチェットについて、あなたの知っていることは何でも話してください。あなたは、彼とご親戚《しんせき》ではなかったんですか?」
「いいえ。僕は彼の秘書です。――いや、でした」
「秘書をどのくらい?」
「一年余りです」
「どうぞ、できるだけ詳しくお話しください」
「ええと、ちょうど一年余り前、ペルシアにいた時、ラチェット氏に会いました――」
ポワロは中断した。
「それまで何をしていました?」
「僕は、ニューヨークから石油発掘の仕事に来ていました。これについてはすべてをお話しする必要はないと思います。仕事はどうもうまくゆかず、同僚も僕も弱り果てました。そのとき、ラチェット氏が同じホテルへ泊り合わせたのです。彼はちょうど自分の秘書とけんか別れしたところでした。それで僕に秘書の職を申し出ました。僕は承知しました。僕はすっかり困っていましたし、給料のいい職をみつけて、よろこんでしまったのです」
「で、それから?」
「主人と私は旅行してまわりました。彼が世界見物したいと思っていたからです。彼は外国語を一つも知りませんでしたので、不自由していたのです。で、僕は秘書というより、旅行の案内役ということになったわけです。愉快な生活でした」
「では、あなたのご主人についてできるかぎり詳しく話してみて下さい」
若者は肩をすくめた。困惑の表情が顔にあらわれた。
「それは難かしいですね」
「御主人の詳しい名前は?」
「サミュエル・エドワード・ラチェット」
「アメリカ市民でしたね?」
「はい」
「彼はアメリカのどこの出ですか?」
「知りません」
「では、あなたの知っていることを話して下さい」
「実をいえば、僕はまるっきり何も知らないのです! ラチェット氏は、自分のことや、アメリカでの生活について話したことが全くないのです」
「それはどうしてでしょうか?」
「わかりません。彼は自分の若い頃のことを恥じているんじゃないかと、僕は思っていました。世間にはよくあることですから」
「その説明で、納得できましたか?」
「正直のところ、納得できませんでした」
「彼には親戚はありませんか」
「そんなことは一度も聞いたことがありません」
ポワロは、この点をさらに押しすすめた。
「それは何故かと、考えてみたことはありませんか、マッキーンさん」
「ええ、まあ、あります。第一、僕はラチェットは本名であるとは思っていません。彼は、誰からか、あるいは何かから逃れるために、アメリカを離れたに違いないと思うのです。そして、それに成功していたと思います。――数週間前までは」
「それからは?」
「彼は、手紙――脅迫状を受けとりはじめました」
「それを見ましたか?」
「ええ。彼の手紙を整理するのは僕の仕事でしたから。最初の手紙は、二週間ほど前に来ました」
「その手紙類は、棄ててしまいましたか?」
「いいえ、まだ、一、二通は、僕の書類つづりにとってあります――一通は、ラチェットが怒って破り棄てました。お持ちしましょうか?」
「どうか、そうしてください」
マッキーンは部屋を出て行った。二、三分すると戻ってきて、ポワロの前に、うす汚い二枚の紙を置いた。
最初の手紙は次のように書いてあった。
お前はわれわれを欺いて、逃げおおせると思うのか? 絶対そうはさせぬぞ。ラチェットよ、われわれはお前を|やっつけ《ヽヽヽヽ》に出発した。必ず|やっつけるぞ《ヽヽヽヽヽヽ》!
署名はなかった。
ポワロは、眉をつりあげただけで、黙って次の手紙を取り上げた。
ラチェットよ、われわれは必ずお前をつかまえる。近いうちに。われわれはお前を|やっつけてやる《ヽヽヽヽヽヽヽ》、覚悟しろ。
ポワロは手紙を下に置いた。
「文章は単調だ!」と彼は言った。「筆跡より、ずっと単調だ」
マッキーンはポワロを見つめた。
「おわかりにならないでしょうが」とポワロは愉快そうに言った。「こうしたものを見るには、年季がいるものなんです。この手紙は、一人が書いたものではありません。マッキーンさん、これは二人か三人が一字ずつ代って、書いたものです。しかも、この文字は印刷されている。筆跡鑑定を困難にするためです」
ポワロは言葉をきって、それからまた言った。
「ラチェット氏が、私に救いを求めたことを知っていますか?」
「|あなたに《ヽヽヽヽ》?」
マッキーンの驚いた口調から、青年がそれを知らなかったことが、確かとなった。ポワロはうなずいた。
「そう、彼はおびえていたんです。彼は、最初の手紙を受けとった時、どうしましたか、言ってください」
マッキーンはためらった。
「言いにくいんですが。彼は――彼は――いつもの通り、静かに笑って、受け流してしまいました。しかし、なんとなく」――マッキーンはちょっと震えて――「平静をよそおいながらも、内心、何かあるようでした」
ポワロはうなずいた。それから思いがけない質問を発した。
「マッキーンさん。正直に、正確に、ご主人をどう思っていたのか話して下さいませんか? あなたは彼を好きでしたか?」
ヘクター・マッキーンは、しばらく黙っていたが、それからついに答えた。
「いいえ、好きではありませんでした」
「なぜです?」
「はっきりとは言えません。いつも、僕には気持のいい態度で接してくれていたのですし……」
マッキーンは言葉を切り、やがてまた言いだした。「正直に言いましょう。ポワロさん。僕は、ラチェットが嫌いで、信用していませんでした。彼は、残酷で、危険な男だと僕は思っていました。僕がこう考えるのは、別にはっきりした理由がある訳ではありませんが」
「ありがとう、マッキーンさん。もう一つだけ聞きますが、あなたが最後にラチェットを見たのは何時ですか?」
「昨夜の、大体」――と、しばらく考えてから――「十時だと思います。僕は彼の手紙の代筆をするために、部屋へ行きました」
「何についての?」
「彼が、ペルシアで買った瓦と古代陶器です。送られて来た品が、彼の買ったものと違っていたのです。このことについていらだたしく、くどい手紙を書かされました」
「その時が、ラチェット氏の生きているのを見た最後だったのですね?」
「はい、そう思います」
「ラチェット氏が最後の脅迫状を受けとったのは、何時《いつ》か知っていますか?」
「わたしたちがコンスタンチノープルを発った日の朝です」
「もう一つ、お聞きしたいことがあります。マッキーンさん、あなたは、御主人と、うまくいっていましたか?」
青年の目が突然光った。
「それは、背中を鳥肌《とりはだ》立たせるような恐ろしい質問ですね。しかし、あるベストセラーの中の文句じゃありませんが、『僕に音《ね》をあげさせることはできない』。ラチェット氏と僕とは、きわめて仲良くやっていましたよ」
「マッキーンさん、あなたの姓名とアメリカの住所を教えてください」
マッキーンは自分の名前――ヘクター・ウィラード・マッキーンと、ニューヨークの住所を書いた。
ポワロは座席のクッションに背中を寄りかからせた。
「ひとまず、これで終りです、マッキーンさん」と彼は言った。「すみませんが、ラチェット氏の死亡事件は、しばらく秘密にしておいて下さい」
「彼の従僕のマスターマンには、知らせなくてはならないでしょう」
「たぶん、彼はもう知っていますよ」とポワロはあっさり言った。「もし知っていたら、しばらく、口外《こうがい》させないようにしてください」
「おやすいことです。彼はイギリス人ですから、彼のいわゆる『他人のことにおせっかいをやくな』を実行するでしょう。彼はアメリカ人を軽蔑し、その他の外国人は全然無視している男ですから」
「御苦労でした。マッキーンさん」
アメリカ青年は部屋を出て行った。
「どうでした?」とブック氏は聞いた。「あなたは、あの青年の証言を信用しますか?」
「彼は正直で、まっすぐな性格らしいですな。もしこの犯罪に何らかの関係があるとしたら、ラチェットを愛している振りをするのが当然なのに、彼は自分を偽らなかった。ラチェット氏は、私に救いを求めて、断られた一件を、彼に話さなかったらしいが、しかしそれがあやしいとは、私は考えません。ラチェットという男は、何でも自分の企《くわだ》てをかくしておく人間のようですからね」
「ではあなたは、少なくとも、あの青年は無罪だと言うんですね」とブック氏がうれしそうに言った。
ポワロはちらりと、とがめるような目で友人を見た。
「私は、最後の瞬間まで、ありとあらゆる人間を疑います」と彼は言った。「でも、あの真面《まじ》目《め》で、頭のよさそうなマッキーンが、カッとなって、敵を十二回も十四回も突き刺すとは信じがたい。それは、彼の性格と全く――矛盾します」
「そうですね」とブック氏は考えこみながら言った。「あれは、憎悪のあまり逆上して気が狂った男の仕業《しわざ》で――むしろ、ラテン民族の性格を思わせるものがある。さもなければ、われわれの友人の列車長の主張したように、女ですね」
第七章 死体
ポワロは、コンスタンチン博士をしたがえて、次の車輛の、刺し殺された男の部屋へ出かけて行った。車掌が来て、自分の合鍵でドアを開けた。
二人の男は中へ入った。ポワロは不審そうに医者のほうを振り向いた。
「この部屋の中は、どれくらい、動かされましたか?」
「何にもさわっていません。私は死体を調べる時、動かさないように注意しました」
ポワロはうなずいて、周囲を見回した。
最初に感じたことは、たいへん寒いということだ。窓はできる限り大きく開け放たれ、ブラインドは引き上げられていた。
「ブルルル」とポワロがつぶやいた。
医者は面白そうなほほえみをうかべて、言った。
「閉めないほうがいいと思ったのです」
ポワロは、窓を注意深く調べた。
「あなたの言われた通りです」と彼は言った。「誰もここから抜け出た者はいません。窓を開けたのは、そう思い込ませるためでしょう。しかし、この雪のためにせっかくの犯人の計略は不成功に終ってしまった」
彼はていねいに窓|枠《わく》を調べた。ポケットから小さい箱をとり出して、その上に粉を少し振りかけた。
「指紋は全然ありません」と彼は言った。「拭きとったのです。しかし、指紋があったとしても、少ししか役に立たないでしょう。近頃の犯人は、めったなヘマはやりませんからね」
ポワロは快活に言い足した。
「そういう訳だから、窓は閉めましょう。これじゃあ、ここは冷蔵庫です!」
ポワロはこう言って、窓を閉めた。それから、初めて、寝台に横になっている死体に注意を向けた。
ラチェット氏は仰向けに横たわっていた。そのパジャマの上衣は、赤ちゃけた血の斑点がつき、ボタンがはずされ、背中の方にまくれあがっていた。
「傷を調べてみる必要があったのです」と医者が説明した。
ポワロはうなずいた。彼は死体の上にかがみこんだ。それから、ちょっと眉をしかめて、身を起こした。
「ひどいものだ」と彼は言った。「誰かがここに立って、何度も何度も突き刺したにちがいない。正確には、傷はいくつですか?」
「十二です。一つ、二つはほんのかすり傷くらいのものです。その反対に、少なくとも、三つは致命傷と思われます」
医者の口調には、何かポワロの注意をひくものがあった。ポワロは、鋭く医者を見た。小柄のギリシア人は、不審そうに眉をしかめて、死体を見おろしている。
「何か腑《ふ》におちない点があるのですか?」とポワロは物やわらかく尋ねた。「話してください。この傷には、何か不可解な点があるのでしょう?」
「あるんです」と医者は、うなずいた。
「それは何ですか?」
「この二つの傷――ここと、ここの――」と医者は指さした。「これは、二つとも深い傷で、どちらも血管を切断しています――しかも――傷口が開いていません。この傷からは、思ったより出血していないのです」
「と言うと?」
「この傷を受けた時、この男はすでに死んでいた――少し前に死んでいた――ということになります。しかし、そんな馬鹿なことはないでしょう」
ポワロは考えて、言った。
「犯人が、一度逃げ出してから、果たして死んだかどうか不安になって、引きかえし、とどめを刺したと考えるほかはない。しかし、そんな馬鹿げたことはありえない! そのほかにおかしな点は?」
「そう、一つあります」
「で、それは?」
「ここの傷をごらん下さい――この右肩のそばの――右腕の下の。私のこの鉛筆をお持ちになってください。こういう傷がつけられますか?」
ポワロは手でやってみた。
「|はっきりと《ヽヽヽヽヽ》」と彼は言った。「わかりました。右《ヽ》手では、実にむつかしい――ほとんど不可能だ。まるで逆手で突いたようだ。しかし、この傷が左《ヽ》手で突いたものなら――」
「そうです。ポワロさん。この傷は、おそらく、左《ヽ》手で突いたものでしょう」
「では、犯人は左|利《き》き? いや、そう簡単にはきめられますまいね?」
「お説の通りです、ポワロさん。他の傷のいくつかは、はっきり、右利きなのです」
「二人。またもや、二人説にもどったのか」と探偵はつぶやいた。
突然、ポワロは尋ねた。
「電灯はついていましたか?」
「それはわかりません。毎朝十時頃、車掌が消すことになっていますから」
「スイッチを見ればわかるでしょう」とポワロは言った。
彼は調べた。天井の灯りのスイッチは切ってある。枕元のスタンドも消してある。
「ふーん」と彼は考えこんで、言った。「こうしてみると、大シェークスピアでも書きそうな、第一と第二の二人の犯人説、という仮定が成立しそうだ。第一の犯人は、ラチェットを刺し、灯りを消して部屋を出て行く。第二の犯人は暗い部屋に入ってきて、すでに相手が殺されているのを知らずに、少なくとも二回、死体を刺す。こんな考えはいかがです?」
「すばらしい!」小柄の医者は感嘆して叫んだ。
ポワロの目が光った。
「そう思いますか? それは嬉しい。だが、私には、少しばかり馬鹿ばかしい説明みたいな気がするんです」
「他にどんな説明がありえますか?」
「私自身、ちょうど、そのことを、考えているところです。犯人が二人いたのは偶然でしょうか? 犯人二人説をとらなければ辻棲《つじつま》があわないような点が、他にもあるのでしょうか?」
「あると思います。さきほど申し上げたように、傷の中の幾つかは、力の不足のためか、それとも決断がにぶっていたためか――弱々しい傷です。力弱いかすり傷です。しかし一方、この傷と――これとは――」と医者はまた指でさした。「大きな力が必要です。筋肉をつらぬいているのですから」
「あなたの見解では、それは男の仕業なのですね?」
「その通りです」
「女には絶対にできませんか」
「若い、たくましい、運動家の女性が、特にはげしい憎悪に狂った時なら、できたかも知れないでしょうが、私の考えでは、ありそうにもないことです」
ポワロは、しばらく黙っていた。
コンスタンチン博士が、不安げに尋ねた。
「私の申した点は、お分かりですね?」
「よく分かりました」とポワロは言った。「すばらしくはっきりしてきました! 犯人は、大力の男であり、また弱々しい女であり、右利きの人間であり、また左利きの人間です。あ! 奇妙|奇天烈《きてれつ》とはこのことだ!」
彼は、突然、怒ったように話しだした。
「一方、被害者は――いったい何をしたのか? 叫んだのか? 格闘したのか? 防いだのか?」
ポワロは、手を枕の下につっこんで、ピストルを抜き出した。昨日、ラチェットが彼に見せたものだ。
「弾丸はいっぱい詰めてある」と彼は言った。
二人はあたりを見回した。ラチェットの昼間着ていた服が壁の釘にかかっていた。洗面台の蓋と兼用にできている小テーブルの上には、いろいろの物がある――水の入ったコップの中の入歯、空のコップ、炭酸水の瓶、大きいフラスコ、葉巻の吸いがらが一つと、紙の燃えがらと、マッチの燃えさしが二本入っている灰皿。
医者は、空のコップを取り上げて、嗅《か》いでみた。
「被害者の抵抗しなかった理由はこれです」と彼は静かに言った。
「麻酔剤ですか?」
「そうです」
ポワロはうなずいた。彼は二本のマッチ棒を取り上げて、丹念に調べた。
「糸口《いとぐち》がつかめましたか?」と小柄の医者が熱心に尋ねた。
「この二本のマッチ棒は形がちがいます」とポワロは言った。「こっちのほうが、もう一本より扁平でしょう?」
「それは、この汽車で使っている、紙のカヴァーに入ったやつです」と医者が言った。
ポワロは、ラチェットの服のポケットを探していたが、やがてマッチ箱をとり出した。彼は注意深くそれを比べた。
「丸いほうのは、ラチェットが使ったものです」と彼は言った。「扁平のほうも、彼が持っていたかどうか、調べてみましょう」
しかし、扁平なマッチは見当らなかった。
ポワロの目が部屋の中を見回しはじめた。それは鳥の目のように光って、鋭かった。この目ににらまれたら、何物も逃れ去ることはできないであろう。
ポワロは小さい叫び声を上げて、床《ゆか》から何かを拾い上げた。
それは、たいへん優雅な、小さい白麻のハンカチーフだった。片隅には、Hという頭文字が刺繍してある。
「女持ちのハンカチーフですな」と医者が言った。「列車長が正しかった。この事件には女が関係している」
「しかも、都合よく、自分のハンカチーフを置き忘れていった!」とポワロが言った。「正に小説や映画にある通りだ――しかも、捜査が容易なように、頭文字まで入れて」
「まったく、もっけの幸いでしたなあ」と医者は感嘆の叫び声をあげた。
「そうでしょうかね?」とポワロが言った。
ポワロの声の調子に、医者は驚いた。
しかし、医者がその訳を聞こうとする前に、ポワロはまた床に身をかがめた。
今度は彼は手の平の上につまみあげた――パイプ掃除器を。
「それは、ラチェット氏の所持品かも知れませんね」と医者が言った。
「彼のどのポケットにもパイプはないし、また巻タバコも、タバコ容れもありませんよ」
「では、それは犯人の証拠品ですね」
「おお! 確かに。これもまた、至極好都合な落し物というわけです。今度は男の方の証拠品だ! この事件では手掛りがないとこぼすことはできませんね。こんなに手掛りが沢山なんだから。ところで、兇器はどうしました?」
「兇器らしいものは、全然見当りませんでした。犯人が持ち去ったにちがいありません」
「なぜだろう?」とポワロは考えこんだ。
すると、死んだ男のパジャマのポケットを丹念にさぐっていた医者が、「あっ!」と叫び声をあげた。
「この品物を見落していました」と彼は言った。「私は、上着のボタンをはずした時に、一緒にこれもどけてしまっていたんです」
彼は、胸ポケットから、金時計を取り出した。時計はケースがひどくへこんで、針は一時十五分を指していた。
「さあ、これで、犯罪の時刻がわかります」とコンスタンチン博士が勢いこんで叫んだ。「私の計算と一致します。私は、十二時から今朝の二時の間だと申しましたが、おそらく一時頃だったんです。こういうことは、正確な時間は知りにくいものです。さあ、これこそ確証です。一時十五分。これが犯行の時刻です」
「なるほど、そうかも知れませんな。確かにそうかも知れませんな」
医者は不思議そうに相手を眺めた。
「失礼ですが、ポワロさん。私には、あなたのお考えがよく分かりません」
「私自身にも分かりません」とポワロは言った。「なんだか、全く分からないのです。それで、ごらんの通り悩んでいるのです」
ポワロは吐息をついて、小さいテーブルの上にかがみ、燃えた紙きれを調べた。そうしてつぶやいた。
「さし当って必要なのは、旧式の婦人帽の箱です」
コンスタンチン博士は、この突飛な言葉の意味を聞き返すのを忘れていた。ポワロが彼に質問する時間を与えなかったのだ。ポワロはドアを開け、通路に出て、車掌を呼んだ。
車掌が走って来た。
「この車輛には、ご婦人は何人いますか?」
車掌は指でかぞえた。
「一人、二人、三人――六人です。アメリカの老婦人、スウェーデン婦人、若いイギリス婦人、アンドレニイ伯爵夫人、それにドラゴミロフ公爵夫人とその小間使さん」
ポワロは考えこんでいた。
「みんな帽子箱を持っていますね?」
「はい」
「持って来てください――ええと――そうだ、スウェーデン婦人のと小間使さんのを。希望はその二つだけです。二人には税関の規則だとか、何とか適当に言って」
「ちょうど、よろしゅうございます。ただ今、お二人とも、お部屋にはいらっしゃいませんから」
「では、急いで」
車掌は出て行き、二つの帽子箱を持って帰って来た。
ポワロは、小間使の箱を開けて、すぐ投げ出した。次にスウェーデン婦人のを開け、満足の叫び声を上げた。ていねいに帽子を動かして、針金で編んだ半球形の帽子台を取り出した。
「ほら、これが必要な代物《しろもの》なんですよ。十五年前は、帽子箱といえば、こんなふうに作られていたものです。針金で網巻き仕立てに円く盛りあがらせた部分に、ハットピンを通して帽子をとめたのです」
ポワロは説明しながら、手際よく、網巻きの針金を二本引き抜いた。そして帽子箱を包み直し、車掌に、もとの所へ戻してくるように言った。
ドアが閉まると、再び、ポワロは医者のほうに向き直った。
「先生、私は専門的な方法には頼らないのです。私が追求するのは、指紋とか、タバコの灰とかではなく、人の心理なのです。しかし、この事件では、ちょっと科学の手助けに頼ろうと思っているのです。部屋には、手掛りは沢山あります。しかし、そういう手掛りは、果して本当の手掛りでしょうか?」
「私にはあなたのおっしゃることが全然分からないんですが、ポワロさん」
「では、一つの例を挙げましょう――婦人用のハンカチーフが見つかりましたね。あれは女が落したものでしょうか? あるいは、男が犯行後に、一つ、女の犯行のように見せかけてやろう、か弱いかすり傷もつくって、わざと何度も刺してやろう、また、すぐ見つかる場所へ、ハンカチーフを落しておいてやろう、などと思ったのかも知れません。これは一つの可能性です。他の考え方もあります。女が犯人であって、それを男の犯行のように見せかけるために、わざとパイプ掃除器を落したのではないか? あるいは、実際に二人の犯人が――男と女ですが、――それが別々に行動し、互に不注意にも、手掛りを落して行ったとも想定できます。しかし、これはあまりにも偶然すぎます!」
「しかし、帽子箱はどうしたんですか?」と医者は不思議そうに尋ねた。
「ああ! それはこれから話すところです。いま言ったように、時計が一時十五分で止っていることや、ハンカチーフやパイプ掃除器などという手掛りは、本当の手掛りかも知れないし、または偽の手掛りかもしれない。この点についてはまだ断言はできません。だが、ここに一つだけ、偽の手掛りではないと信じられるものがあります。もちろん、これだって、間違いかも知れませんが。実はこの扁平なマッチです、コンスタンチンさん。このマッチこそ、ラチェットではなく、犯人の使ったものだと私は信じます。何か証拠となる紙きれを焼きすてたのです。メモかも知れない。もしそうだとすれば、そのメモには、犯人の手掛りとなる何かが、手抜かりか、失策があったに違いない。その何かをこれから発見しようというわけです」
ポワロは部屋を出て行き、数分後に、小さいアルコールランプと、はさみごてを持って戻って来た。
「これは、私の口髯をカールするために使う|こて《ヽヽ》でしてね」と彼は言って、それを示した。
医者は、好奇心にもえて彼を見つめていた。ポワロは、さきほど帽子からぬいた円状の二本の針金を平らにし、その一本の針金の上にこげた紙片を、注意ぶかくのせて、その上に素早くもう一本の針金を渡して押え、それをはさみごてではさみ、その全体をアルコールランプの炎にかざした。
「これはほんの、間に合わせの道具なんですがね」と彼は肩ごしに言った。「何か結果がえられるといいのですがね」
医者は、成り行きを、注意深く見守っていた。針金が赤く熱されてきた。突然、文字がかすかに現われてくるのが見えてきた。文字がゆっくりと現われてきた――火の文字が。紙が非常に小さいので、三字半の文字だけしか見えなかった。
幼いデイジー・アームストロングを忘――
「あっ!」と、ポワロが鋭い叫び声をあげた。
「何か分かりましたか?」と医者が尋ねた。
ポワロの目はかがやいていた。彼は|こて《ヽヽ》を注意深く下に置いた。
「ええ」と彼は言った。「殺された男の本名が分かりました。彼がアメリカを去らねばならなかった理由もわかりました」
「彼の名前は?」
「カセティ」
「カセティ」コンスタンチンは、顔にしわを寄せた。
「その名は聞いたことがある。数年前だ。だが、どうも思い出せない……アメリカで起きた事件じゃありませんでした?」
「そうです」とポワロが言った。「アメリカの事件です」
それ以上、ポワロは説明しなかった。彼はあたりを見回して、言葉をつづけた。
「詳しくは、後でお話しましょう。見るべきものは全部見たかどうかを、まず確かめることにしましょう」
彼は、もう一度、す早く、手ぎわよく、死んだ男の上着のポケットをさぐったが、もうこれといったものは何もなかった。隣室へ通じる境のドアを押してみた。これには向こうから鍵がかかっていた。
「わからないことが一つあるのです」とコンスタンチン博士が言った。
「もし犯人が窓から逃げ出したのでもなく、またこの境のドアも向こうから鍵がかかっており、そのうえ通路のドアは内側から鍵がかかっているうえに、鎖までかけてあったとすると、犯人は、どうしてこの部屋から逃げ出したんでしょうか?」
「手足を縛られたまま箱に入れられた人間が――消え失せたとしたら、見物人は、そう言うでしょう」
「というと――?」
「もし」とポワロは説明した。「犯人が窓から逃げたと信じこませるつもりだったら、当然、他の二つの出口からは不可能と見せかけるでしょう。箱の中の『消え失せた人間』同様、これはトリックです。このトリックがどのようになされたのかを見破るのが、われわれの仕事です」
彼は、境のドアに、こちら側から鍵をかけた。
「ひょっとして」と彼は言った。「あの素晴しいハッバード夫人が、犯罪の詳細を、娘に書き送ってやろうとして、見にくるといけませんからな」
彼はもう一度見回した。
「この部屋での仕事はもうありません。ブック氏のところへ行きましょう」
第八章 アームストロング幼児誘拐事件
ブック氏はオムレツを食べ終ったところだった。
「乗客には、すぐ食堂車で昼食をすませてもらったほうがいいと思ったんです」と彼は言った。「すぐ後片づけをして、ポワロさんが乗客の取り調べができるようにと思ってね。取り調べの前に私たち三人分の食事を、ここへ持ってくるように注文しておきました」
「よく気がききますね」とポワロは言った。
三人とも空腹でなかったので、食事はすぐ終った。ブック氏はコーヒーをすすりながら、待ちかねたように、皆の心を占めている問題に触れた。
「どうでした?」
「ええ。被害者の正体はつきとめました。彼がアメリカを去らねばならなかった、のっぴきならない理由もわかりました」
「彼は誰です?」
「新聞でアームストロング家の幼児|誘拐《ゆうかい》事件を読んだ記憶があるでしょう? あの男が、小さいデイジー・アームストロングを殺した――カセティです」
「思い出した。私は詳しいことは憶えていないが――ショッキングな事件でした」
「アームストロング大佐は、ヴィクトリア十字勲章所有者の英国人です。彼は半分アメリカ人です。彼の母はニューヨーク・ウォール街の百万長者W・K・ヴァン・デル・ハルトの娘だから。彼は、当時最も有名なアメリカの悲劇女優リンダ・アーデンの娘と結婚し、アメリカに住み、一人の子供があった――女の子で、両親から溺愛されていました。この少女が、三歳のとき、誘拐され、身代金として、途方もない巨額の金が要求されました。その後の混み入ったことは抜きにしますが、二十万ドルという莫大な金が支払われた後で、幼児の死体が発見されました。少なくとも二週間前に殺されたのでした。公衆の憤怒は極度に達しました。しかも悪いことがつづきました。アームストロング夫人は、みごもっていましたが、その打撃で、死児を早産し、つづいて自分も亡くなりました。絶望した夫は、ピストル自殺をとげたのです」
「なんという悲劇だろう。思い出しました」とブック氏が言った。「しかし、私の記憶が正しいなら、もう一人死んだのではなかったかしら?」
「ええ、――可哀そうなフランス人かスイス人の子守り女です。警察は、この少女が犯罪について何か知っていると信じたのです。少女の必死の否定を信じませんでした。ついには、絶望のあまりこの不幸な少女は、窓から身を投げ死んでしまったのです。やがて、少女が、まったく犯罪に無関係で、潔白だったことが証明されましたが、後の祭りだったのです」
「考えただけでもゾッとするね」とブック氏は言った。
「約六か月後、このカセティという男が、幼児を誘拐したギャングの首領として逮捕されました。この一味は過去にも、同じやり口を重ねていたのです。警官がかぎつけたと思うと、人質を殺して死体を隠し、犯罪が発見される前に、出来る限りの金を引き出すのです。
ところが、やがて、はっきりしたのです。カセティこそ張本人だと。しかし、彼は、それまでに獲得した巨大な財産と、多くの人々に対してもっている秘密の勢力によって、一たん逮捕されながら、証拠不十分により釈放されてしまっていたのです。そのうえ、公衆にリンチを受けかけるところを、またしても逃げのびたのです。今こそ、私には何もかもはっきりしてきた。彼は名前を変えて、アメリカを去り、それ以来、有閑紳士として、国外を旅行し、利子で暮していたのです」
「ああ! 何というけだものだ!」ブック氏の口調は、本当に胸がむかつくようだった。「そんな奴なら、死んだ方がましだ、全く」
「私も同感だ」
「しかし、よりによって何も、このオリエント急行の中で殺されなくたってよさそうなものだ。他にも場所はあるのに」
ポワロは微笑した。いかにも寝台車会社重役のブック氏らしい意見がおかしかったのだ。
「これから考えてみなければならない当面の問題は」とポワロは言った。「この殺人は、かつて、カセティに裏切られたギャング仲間の仕業なのか、それとも、個人的な復讐行為なのか、ということです」
ポワロはそう前置きして、紙の燃えがらの上に現われた言葉について、説明し始めた。
「もし、私の推測が正しければ、この手紙を焼いたのは犯人です。何故か?『アームストロング』の文字が印されてあったからです。この文字は、この謎を解く鍵です」
「今、アームストロング家で生き残っている者がいるだろうか?」
「残念だが、私は知らない。アームストロング夫人の妹について読んだ記憶はある」
ポワロは、自分とコンスタンチン博士の共通の結論を説明した。ブック氏は、腕時計のこわれていたことを聞いて、目をかがやかした。
「それで、犯行の正確な時刻がわかるじゃありませんか」
「そう、とても好都合だ」とポワロは言った。
その口調には何とも言えない何かがあったので、他の二人は不思議そうにポワロを見た。
「あなた自身、ラチェットが一時二十分前に車掌と話し合っていたのを聞いたと言いましたね?」
ポワロは、昨夜経験したことを、そのまま話した。
「なるほど」とブック氏は言った。「それで、そのカセティ――いや、やはり前の通りラチェットと呼ぼう――ラチェットは、少なくとも、一時二十分前には確かに生きていたということになる」
「正確には、一時二十三分前」
「では、正確には、十二時三十七分には、ラチェット氏は生きていた。少なくとも、これは一《ヽ》|つ《ヽ》の事実だ」
ポワロは答えなかった。前方を見つめたまま考えていた。
ドアがノックされ、食堂の給仕が入ってきた。
「食堂車が空きました」と彼は言った。
「そちらへ行こう」ブック氏が立ち上がった。
「私もご一緒していいですか?」とコンスタンチン博士が聞いた。
「ええ、どうぞ。ポワロさんの反対がなければ」
「いいですとも、いいですとも」とポワロは言った。
彼らは「さあ、どうぞお先へ」「いや、あなたこそ、どうぞお先へ」と、ちょっと礼儀正しく、譲り合ってから、部屋を出て行った。
第二部 証言
第一章 寝台車つき車掌の証言
食堂車では、準備がすっかりととのえられていた。
ポワロとブック氏とは、テーブルの片側に並んで腰をかけた。医者は、隣りのテーブルに坐った。
ポワロのテーブルの上には、赤インクで乗客の名前が書き込まれたイスタンブール=カレーの車輛の平面図が置いてあった。
テーブルの一方の側には、パスポートと切符が山と積まれていた。用紙、インク、ペン、鉛筆があった。
「これで、結構です」とポワロが言った。「すぐにも、審問も開始することができます。最初に、寝台車つき車掌の証言をとりましょう。あなたはあの男について何かご存知でしょう。彼はどんな人物ですか? 彼の言葉に信用がおけますか?」
「確かだと言えます。ピエール・ミシェルは、わが社に十五年以上勤務しています。フランス人で――カレー市の近くに住んでいます。実に道義心に富んだ、正直な男です。頭はたいしてよくないでしょうが」
ポワロは納得《なっとく》して、うなずいた。
「結構です。では呼んでください」と彼は言った。
ピエール・ミシェルは、やや落ちつきを取り戻したようだが、まだひどく神経がたかぶっていた。
「私の務めに、何か手落ちでもあったのでなければ、いいのでございますが」とミシェルは心配そうに、ポワロからブック氏へと目を走らせて言った。「恐ろしい事件が起こったものです。でも、何か私に、関係があるとお考えでございましょうか?」
ポワロは、この男の怖れをしずめて、質問をはじめた。最初に、ミシェルの姓名、住所、勤続年数、とこの線の勤続年数を尋ねた。こういったことは、ポワロはすでに知っていたが、この判で押したような質問は、この男を気楽にさせた。
「では」とポワロは言った。「昨夜の事件に入りましょう。ラチェット氏が寝床に入ったのは――何時ですか?」
「夕食がすむとすぐです。ベルグラードを発つ前でした。その前の晩もそうでした。ラチェット氏は、夕食をしている間に、ベッドを作っておくようにとお命じになりましたので、私はそういたしました」
「その後、誰が、彼の寝室に入りましたか?」
「あの方の従僕と、若いアメリカ人の秘書の方です」
「そのほかには誰か?」
「ございません。私は存じません」
「よろしい。それが、あなたのラチェットを見たり、あるいは、声を聞いたりした最後だったんですね?」
「いいえ。お忘れですか。彼は、一時二十分ほど前に、ベルを鳴らしました。――汽車が止まったすぐ後で」
「何が起こったかを、正確に?」
「私がドアをノックしました。でも、ラチェット氏は、お呼びになったのですが、私の間違いだったとおっしゃいました」
「英語で、あるいはフランス語で?」
「フランス語でです」
「彼の言葉通りにいえば?」
「Ce n'est pas rien. Je me suis trompe.」
「その通りだ」とポワロは言った。「私もそう聞いた。ところで、あなたは、そのまま立ち去ったんですね?」
「はい、そうです」
「あなたは自分の席へもどったのですか?」
「いいえ。ちょうど、別のベルが鳴ったので、そちらへ行きました」
「ところで、ミシェルさん。一つ重要な質問をします。あなたは、一時十五分にはどこにいましたか?」
「私ですか? 私は、通路の端の自分の小さい座席に――通路に向かって坐っていました」
「確かですね?」
「はい――少なくとも――」
「え?」
「私は、隣りのアテネからの車輛へ行って、同僚と話していました。雪について話しておりました。それは、一時を過ぎて間もない時刻でした。正確には言いかねます」
「あなたが戻ったのは――何時です?」
「ベルが鳴りました。――これは申し上げたと思います。アメリカのご婦人で、何回もお鳴らしになりました」
「私も思い出した」とポワロが言った。「そして、その後は?」
「その後ですか? あなたさまのベルにお答えして、炭酸水を持ってまいりました。それから三十分ほど後になって、他の部屋のベッドを作りました――若いアメリカの方、ラチェット氏の秘書の」
「あなたが彼のベッドを作りに行ったとき、マッキーンさんは一人で部屋にいましたか?」
「十五番室のイギリスの大佐が、一緒におられました。お二人は坐って話をしていらっしゃいました」
「大佐は、マッキーンさんの部屋を出てから、何をしましたか?」
「ご自分の部屋へお戻りになりました」
「十五番室は――あなたの座席のすぐ近くですね?」
「はい、通路の端から二つ目のお部屋です」
「彼のベッドはもう作ってあったのですね?」
「はい。お食事をしていらっしゃる間に、私が作りました」
「それは何時頃です?」
「正確には、言うことができません。確か二時はすぎていませんでした」
「その後は?」
「その後、私は朝まで自分の席に坐っていました」
「隣りの車輛へは、もう行かなかったんですね?」
「はい」
「あなたは、居眠りはしませんでしたか?」
「しなかったと思います。汽車が止まっていましたから、いつものように居眠りすることは出来ませんでした」
「誰か乗客が通路を行ったり来たりするのは見ませんでしたか?」
車掌は考えた。
「ご婦人が一人、通路の向うの端のお手洗いに行かれたと思います」
「どのご婦人が?」
「わかりません。通路のずっと向こうで、私には、後姿しか見えませんでした。その方は、竜の模様の、真赤なキモノを着ていらっしゃいました」
ポワロはうなずいた。
「で、その後は?」
「朝まで、何もありませんでした」
「確かですね?」
「あ、失礼しました。あなた様が、ドアを開けて、ちょっと、外をのぞかれました」
「そうです」とポワロが言った。「あなたが、そのことを憶えているかどうか知りたいと思っていたのです。何か重いものが私のドアにぶつかるような音で、私は目を覚ましたのです。あれは何だったと思いますか?」
車掌はポワロを見つめた。
「いいえ、何でもなかったと思います。確かに何でもなかったと言えます」
「では、私が悪い夢でも見たのでしょう」とポワロは考えこみながら言った。
「もし」とブック氏が言った。「あなたの聞いた物音が、隣りの部屋のことでないのなら」
ポワロはそれに耳を借そうとしなかった。車掌の前ではまずいと思ったのであろう。
「次の問題に移りましょう」とポワロは言った。「昨夜、殺人犯が汽車に乗ったと仮定します。その男が、犯行を行なった後で、汽車から逃げられないことは確かでしょうか?」
ピエール・ミシェルは頭を横にふった。
「その男が、どこかに隠れることもできないでしょうか?」
「残るくまなく、探したとも」とブック氏が言った。「その考えは捨てた方がいいな、ポワロさん」
「それに」とミシェルが言った。「誰かが寝台車に乗り込んだら、きっと、私の目についたはずです」
「最後に止まったのはどこでした?」
「ヴィングコヴツィーです」
「それは何時でしたか?」
「十一時五十八分に発車の予定でしたが、天候のため二十分遅れました」
「誰か、普通客車のほうから来たものはありませんか?」
「いいえ。夕食後は、普通客車と寝台車との境のドアは鍵をかけてしまいました」
「あなたは、ヴィングコヴツィーで汽車から降りましたか?」
「はい。私はいつもの通り、プラットホームに降り、汽車の昇降口のそばに立っていました。他の車掌も同じです」
「前のドアはどうなっていましたか? 食堂車に近い方のドアは?」
「いつも内側から鍵がかかっています」
「今は、鍵はかかっていない」
車掌は驚いたようだったが、すぐに明るい顔になった。
「きっと、お客様のどなたかが、雪を見るために、お開けになったのでしょう」
「多分そうでしょうな」とポワロは言った。
彼は考えこみながら、一、二分間、テーブルをたたいた。
「旦那様、私をお叱りなさらないのですか?」車掌はおずおずと言った。
ポワロはやさしく笑いかけた。
「あなたは不運だったまでですよ」とポワロは言った。「ああ! もう一つ、忘れないうちに。あなたがラチェット氏のドアをノックしていた時、ちょうど、また別のベルが鳴ったと言いましたね。実は、私も聞いた。それは誰でしたか?」
「ドラゴミロフ公爵夫人のベルでした。小間使さんを呼ぶようにとのことでした」
「あなたはそうしたんですね?」
「はい」
ポワロは考えこんで、自分の目の前の平面図を調べた。やがて、彼はお辞儀をして、
「これで終りです」と言った。「いまのところは」
「ありがとうございます」
車掌は立ち上った。彼はブック氏の方を見た。
「心配しない方がいい」とブック氏は親切な口調で言った。「君の務めに落ちどがあったとは思えないんだから」
ピエール・ミシェルは、喜んで、部屋を出て行った。
第二章 秘書の証言
一、二分、ポワロは考えこんでいた。
「現在までに判明している事実から考えて」とやがて彼は言った。「マッキーン君に、先を話させるのがいいでしょう」
若いアメリカ人が、すぐに姿を現わした。
「やあ」と彼は言った。「事件はその後どうです?」
「まあまあというところです。あなたと話した後で、判明しましたよ――ラチェット氏の身元が」
「へえ?」とヘクター・マッキーンは、好奇心をそそられた様子で、前に乗り出した。
「ラチェットは、あなたの推察通り偽名でしたよ。ラチェットはカセティだった。この男は有名な幼児誘拐の業師《わざし》で――世間を騒がしたデイジー・アームストロング誘拐事件も、カセティの仕業ですよ」
激しい驚きの表情が、マッキーンの顔に現われた。そして、それは暗い表情に変った。
「極悪人め!」と彼は叫んだ。
「あなたは、今まで御存じなかったのですか、マッキーンさん?」
「もちろんですとも」とアメリカの青年は断固として否定した。「もし知っていたら、そんな男の秘書なんかする前に、私の右手を切断してましたよ!」
「ひどいショックを感じていられるようですね、マッキーンさん?」
「それには特別の理由があるのです。ポワロさん、僕の父は、あの事件を担当した地方検事でした。僕は、アームストロング夫人に一度ならず会っています――美しい方でした。気持のやさしい方だものだから、嘆き悲しみの極に陥っていらっしゃいました」マッキーンの顔は暗くなった。「もし人間が、自分の犯した罪の報いをうけるものであるとしたら、ラチェット、あるいはカセティこそは、ずばりそのものです。彼が死んだのを僕は、よろこぶ。あんな奴は、生きてちゃいけなかったんだ!」
「あなたが、できればあの男を殺したかったと思っているくらいですか?」
「ええ、僕は、――」と彼は言葉を切って、まるで犯人みたいに顔を赤くした。「いや、僕はどうも自分が犯人だと疑われても仕方のないことばかり自分から言ったりして……」
「もしあなたが、雇い主の死を聞いて、大仰な悲しがりかたをしてみせたら、それ以上に怪しまれますよ、マッキーンさん」
「そんなこと僕にはできません。たとえ死刑台から救われるためでも」と彼は語気荒く言った。
それから、彼はつけ加えた。
「立ち入っておたずねして恐縮ですが、どうして、分かったのですか? カセティの正体が」
「彼の部屋で見つかった手紙の断片から」
「しかし、確かに――つまり、その――あの老人はそれじゃあ、ずいぶん不注意だったんですね?」
「それは、見方によりますな」とポワロは言った。
この言葉は、青年には、よくのみこめなかったらしい。彼は相手の気持をさぐろうとするように、ポワロの顔を見つめた。
「私の仕事は」とポワロは言った。「この汽車に乗っている、すべての人の行動を明らかにすることです。ご立腹なさらないでください。きまりきった手続きに従っているまでのことですから」
「判りました。続けて下さい。そして、できれば僕自身の無罪証明を、僕にはっきり教えて下さい」
「あなたの部屋の番号をお聞きする必要はないわけです」とポワロは笑いながら言った。「私も一夜を共にしたのだから。二等寝室の六番と七番でしたね。私が移ってからは、あなた一人ですね」
「その通りです」
「さて、マッキーンさん。昨夜、食堂を出てからのあなたの行動を説明して下さい」
「おやすいことです。僕は自分の部屋へ戻り、少し読書して、ベルグラードでは、プラットホームへ降りましたが、余り寒いので、また車内へもどりました。しばらくの間、隣りの部屋の若いイギリスの婦人と話をしました。それから、あのイギリス人のアーバスノット大佐と、話しこみました。――確か、僕らが話していた時、あなたがお通りになったと思います。それから僕は、先ほど申し上げた通り、ラチェット氏の部屋へ行き、彼が書いて欲しいといった手紙の要点を書きとりました。お休みなさいと言って、部屋を出ました。アーバスノット大佐は、まだ通路に立っていました。彼の部屋は、もうベッドの用意ができていたので、僕は、彼を自分の部屋へ来ませんかと誘いました。飲みものを二つ注文し、それを飲みました。世界の政治やインド政府の話、わがアメリカの財政状態の困難なことから、ウォール街の危機などを議論しました。僕は普通は、イギリス人とは親しくならないようにしています――彼らは頑固ですから――しかし、あの人は好きでした」
「彼があなたの部屋を去ったのは何時だったか、知っていますか?」
「かなり遅くでした。二時になろうとするところだったと思います」
「あなたは、汽車が止まったことに気づきましたか?」
「ええ。変だなあと思ったんです。それで外をのぞくと、雪が深く積っているのが見えました。しかし二人とも心配はしませんでした」
「アーバスノット大佐が最後にお休みなさいと言ってからあとは、どうでしたか?」
「彼は、まっすぐ自分の部屋に行き、僕は、車掌を呼んで、ベッドを作るように頼みました」
「車掌がベッドを作っている間、あなたはどこにいましたか?」
「ドアの外側の通路に立って、タバコをすっていました」
「それから?」
「それから、僕はベッドに入って、朝まで眠りました」
「夜の間、あなたは一度も汽車から降りませんでしたか?」
「アーバスノット大佐と僕とは、――なんという名の所だったかしら?――そうだ、ヴィングコヴツィーで、ちょっと脚をのばしに降りました。しかし、ひどい寒さで――吹雪《ふぶき》でした。二人とも、すぐまた、逃げ帰りました」
「どちらのドアから汽車を降りましたか?」
「僕たちの部屋に一番近いドアからです」
「食堂車の隣りのですか?」
「ええ」
「それに鍵がかかっていたかどうか憶えていますか?」
マッキーンは考えた。
「ああ、そうです。かかっていたように思います。何か棒のようなものが、ハンドルのところに渡してありました。そのことですか?」
「そうです。汽車にもどるとき、あなたはその棒を元通りにしておきましたか?」
「いいえ――しなかったと思います。僕が後から入りました。どうも、そうしたような記憶がありません」
彼は突然言い足した。
「それは重大なことですか?」
「かも知れません。ところで、あなたとアーバスノット大佐が坐って話している間、部屋の通路に面したドアは開けてあったのでしょうね?」
ヘクター・マッキーンはうなずいた。
「憶えていたら話して欲しいのですが、汽車がヴィングコヴツィーを発車してから、大佐が戻って行くまでに、誰か通路を通った者はいませんでしたか?」
マッキーンは眉をよせた。
「車掌が一度通ったと思います」と彼は言った。「食堂車の方から来ました。それから、ご婦人が一人、逆にそちらへ向って行きました」
「どの婦人が?」
「わかりません。注意していなかったのです。僕は、アーバスノットと議論していました。何か真っ赤な絹の服を着た女が、ドアを横切ったのを憶えているだけです。僕は見ようとしなかった。ともかく、そのひとの顔は見えませんでした。ご存じのように、僕の部屋は、食堂車の方に向いて腰かけるようになっているので、そちらへ向かって行く女は、通ったとたんに、後姿しか見えないのです」
ポワロはうなずいた。
「その婦人は、お手洗いへ行ったのでしょう?」
「そう思います」
「彼女の戻って来るのを見ましたか?」
「さあ、いいえ。注意されてみると、僕は、彼女の戻るのは見ませんでした。しかし戻ったにちがいないでしょう」
「もう一つ質問します。あなたはパイプをすいますか、マッキーンさん?」
「いいえ、すいません」
ポワロは、しばらく黙った。
「いまはこれだけです。ラチェットの従僕に会いたいですね。ところで、あなたと彼は旅行のとき、いつも二等で旅行しましたか?」
「彼はそうでした。僕は普通一等で行きます。――出来ればラチェットの部屋に続いた部屋でした。そうすれば、大部分の彼の荷物を僕の部屋に置いておき、いつでも、お望みの時、僕に荷物を取らせたり、僕を呼んだりできるからです。しかし、こんどは、一等の寝室は、彼のあの一室の他は、全部、予約ずみでした」
「わかりました。御苦労さまでした、マッキーンさん」
第三章 従僕の証言
アメリカ人と、入れ代りに、昨日すでに、ポワロが注意していた、あの無表情な顔の青白いイギリス人が入って来た。彼は、直立の姿勢で立って待った。ポワロは席につくように言った。
「あなたは、ラチェット氏の従僕さんですね?」
「はい、そうです」
「お名前は?」
「エドワード・ヘンリー・マスターマン」
「お年は?」
「三十九歳」
「住所は?」
「クラークンウェル区、フライア街二十一(ロンドン)」
「ご主人が殺されたことを聞きましたね?」
「はい、まことにとんだことで」
「あなたがラチェット氏を最後に見たのは何時だったか、それをおっしゃって下さい」
従僕は考えた。
「昨晩の九時頃でした。九時か、九時ちょっと過ぎでした」
「何があったかを正確におっしゃって下さい」
「私は、いつものように、ラチェット様の所へ行ってご用をお聞きしました」
「詳しく言うと、あなたのいつもの仕事は何ですか?」
「旦那様の服をたたんだり、吊《つる》したりすること、義歯を水の中につけたり、夜中に必要なものをととのえたりすること、そんなことです」
「彼の様子は、いつもと全く同じでしたか?」
従僕はしばらく考えた。
「さようです。いらいらしていらっしゃいました」
「どういうふうに――いらいらって?」
「読んでいらっしゃった手紙のことでです。この手紙を私の部屋へ入れたのはお前だろうとお尋ねになりました。もちろん、私はそんなことはいたしません、と申し上げました。しかし、旦那様は、私に毒づかれ、私のした一つ一つのことのあらさがしをなさいました」
「普段はそんなことないのですか?」
「いいえ。普段から怒りっぽい方でした。――何かというとすぐ、いらいらなさいました」
「御主人は、睡眠薬を使ったことがありますか?」
コンスタンチン博士は、少し前にのり出した。
「汽車旅行のときは、いつも使われました。そうしないと眠れないとおっしゃって」
「いつもどんな睡眠薬か、知っていますか?」
「確かなことは分かりません。瓶には名前が書いてありませんでした。『睡眠薬、就寝時服用』とあるだけで」
「昨夜は飲みましたか?」
「はい。私がコップの中にそれを入れて、洗面台の上に用意しておきました」
「彼が、実際に飲むのは見ませんでしたか?」
「はい」
「次に何をしました?」
「もうご用はございませんか、とお尋ねし、それから、朝は何時にうかェいましょうかとお聞きしました。ベルを鳴らすまでは来る必要はないとおっしゃいました」
「いつもそうでしたか?」
「はい、そうです。いつも、起きられる前に、ベルを鳴らして車掌をお呼びになり、車掌に私を呼ぶように頼まれるのです」
「彼はふだん早起きですか、朝寝坊ですか?」
「ご気分次第でした。時には朝食にお起きになったり、時には昼食までお起きにならなかったりで」
「それで、あなたは、今朝遅くなっても、呼ばれないのに驚かなかったわけですね?」
「はい、そうです」
「ご主人には敵があることを知っていましたか?」
「はい」
男は平然として、答えた。
「どうして、それを知ったのですか?」
「手紙のことで、マッキーンさんと話し合っておられるのを聞きましたもので」
「あなたは、ご主人に愛情をもっていましたか、マスターマンさん?」
マスターマンの顔が、普通より、なおいっそう無表情になった。
「それにはお答えしたくありません。あの方は気前のいい主人でした」
「だが、あなたは御主人を好きではなかったのでしょう?」
「私はアメリカ人をそんなに好きではないと、申しておきましょう」
「アメリカにいたことがありますか?」
「いいえ」
「新聞で、アームストロング誘拐事件について読んだ記憶がありますか?」
男の頬がかすかに色づいた。
「はい、ございますとも。小さいお嬢さまではありませんでしたか? 実に怖ろしい事件でございました」
「あなたの御主人のラチェットが、その事件の首謀者だったことを知っていましたか?」
「いいえ、少しも」召使の声には、初めて、熱と感情がこもった。「そんなこと信じられません」
「しかし、本当なんです。では、あなたの昨晩の行動に移りましょう。これは、きまりきった、いつもの手続きなので、御了承下さい。あなたは、ご主人の部屋を出て後、何をしましたか?」
「マッキーンさんに、ご主人のお呼びを申し上げました。それから、自分の部屋へ行き、本を読みました」
「あなたの部屋は――」
「一番隅の二等です。食堂車の隣りです」
ポワロは平面図を見た。
「そう――そして、どちらの寝台?」
「下のほうです」
「四番ですね?」
「はい、そうです」
「あなたは、誰かと一緒でしたか?」
「はい、大柄なイタリア人です」
「彼は英語を話しますか?」
「はあ、一種の英語を」従僕の口調にはあざけりがこもっていた。「彼は、アメリカにいたのです――シカゴ――だそうです」
「あなたと彼とはずいぶん話をしましたか?」
「いいえ。私は本を読む方が好きなのです」
ポワロはほほえんだ。彼には場景をありありと思いうかべることができたのだ。大柄でおしゃべりなイタリア人に、この紳士のなかの紳士気どりの従僕君が、木で鼻をくくったようなあしらい方をしている場景を。
「失礼ですが、何を読んでいましたか?」とポワロがきいた。
「今は、アラベラ・リチャードソン夫人の『愛のとりこ』を読んでおります」
「いい作品ですか?」
「たいへん面白い作品だと存じます」
「では、本筋の話を続けましょう。あなたは部屋へ戻って、『愛のとりこ』を読んでいた――何時までですか?」
「十時半頃に、イタリア人が、休みたいと言いましたので、車掌を呼び、ベッドを作ってもらいました」
「それから、あなたはベッドに入り、眠ったのですか?」
「ベッドに入りましたが、眠りませんでした」
「どうして、眠りませんでした?」
「歯が痛みました」
「おお、それは、それは――歯の痛みはつらいですからね」
「ひどく痛みました」
「何か手当をしましたか?」
「ちょうじ油を少しつけましたら、痛みはちょっと和《やわ》らぎましたが、でも、まだ眠ることはできませんでした。枕元の灯《あか》りをつけて、読みつづけました――気をまぎらそうとして」
「全然眠らなかったのですか?」
「はい。朝の四時頃に、やっと眠りました」
「あなたの同室の人は?」
「あのイタリア人ですか? ああ、あの方は高いびきでした」
「彼は一晩中、一度も部屋を出なかったのですか?」
「はい」
「あなたもですか?」
「はい」
「夜中に何かもの音を聞きませんでしたか?」
「聞かなかったと思います、特に変った音は。汽車が止まっていたので、あたりは全く静かでした」
ポワロは、一、二分間黙っていた。それから、言った。
「さて、これですみましたが、この事件に何か参考になるようなことはお気付きないでしょうか?」
「残念でございますが、何もございません」
「御存じの限りでは、ご主人とマッキーンさんとの間で、喧嘩とか、仲たがいのようなものはありませんでしたか?」
「いいえ、ありません。マッキーンさんは、大そう気持のいい紳士でした」
「あなたは、ラチェット氏の所へ見える前には、どこにお務めでした?」
「グロスヴノー・スクエア(ロンドン)のヘンリー・トムリンソン卿の所につとめておりました」
「なぜ、そこをやめたのですか?」
「卿が東アフリカへ行かれ、もう私の務めが不必要になったからです。しかし、必ず、私の証人に立って下さるはずでございます。何年もおつかえしてまいりましたから」
「ラチェット氏の所には――どの位?」
「九か月余りでございます」
「ご苦労さまでした、マスターマンさん。ついでですが、あなたはパイプは吹かしますか?」
「いいえ、私は巻タバコだけで――カスパースでございます」
「どうもありがとう。では、これで」
ポワロはうなずいて、退場をうながした。
従僕はちょっと、ためらった。
「ぶしつけでございますが、ご年輩のアメリカ婦人が、何と言いましょうか、犯人のことは何もかも知っているとおっしゃって、たいへん興奮していらっしゃるようでございますが」
「それでは」とポワロは笑って、答えた。「次はその御婦人にお会いしましょう」
「私が呼んでまいりましょうか? 先ほどから、もうずいぶん前から、どなたかその道の責任ある方に会いたいと言いはっておられます。車掌さんがなんとかなだめようと骨を折っていましたが」
「その御婦人に、ここへいらしていただいて下さい」とポワロは言った。「さっそく、お話をうかがいたいから」
第四章 アメリカ婦人の証言
ハッバード夫人が食堂車へやって来たが、息がつまって言葉もはっきり言えないくらいに、興奮していた。
「さあ、教えて下さい。ここの責任者はどなた? 私は大へん重大な情報をもっておりますのですのよ、たいへん重大な。一刻も早くその責任者にお話したいんですのよ。もし、みなさんがたのなかに――」
彼女は落ち付かない目つきで三人の男の顔を次ぎ次ぎに見廻した。
ポワロが前にのり出した。
「私におっしゃってください、奥さま」と彼は言った。「だが、まず、お掛けになってください」
ハッバード夫人は、ポワロの向かいの椅子にどっかりと腰をおろした。
「私のお話したいというのはこうなんですのよ。昨夜、この汽車で人殺しがありました。そしてその犯人は、まさしくこの私の部屋の中に居たのでございますよ!」
彼女は自分の言葉に劇的な効果を与えるために、言葉を切った。
「それに間違いございませんか、奥さん?」
「もちろん、間違いございませんですとも! まあ! 私は正気で申し上げているのでございますのよ。洗いざらいお話しましょうか。私はベッドに入り、眠ってしまいました。そのうち、ふと、目が覚めました――あたりは真暗でした。――気がつくと、私の部屋の中に男がいるじゃありませんか。あまりの恐ろしさに、私は叫ぶこともできません。分っていただけますわね? じっと横になったまま、神様、お助け下さい、私は殺されます! とお祈りしていました。とても、言葉では言いあらわせませんわ、その時の恐ろしさときたら! 強盗に襲われた汽車のこと、本で読んだことのある暴行事件を想い出して、その怖いことったら。でも、どうしたって、私の宝石は盗まれやしない、と思いましたのよ。だって、靴下の中へ入れて、枕の下へ隠してたんですもの。――でもあんまり寝心地のいいものじゃありませんわね。でこぼこして具合が悪くて。でも、そんなことはどうでもよござんすわねえ。あら、私どこまでお話しましたっけ?」
「目が覚めたら、お部屋に男がいたというところまでです」
「そ、そうでしたわね、そこで私は目をつぶって、じっと横になっていましたのよ。どうしたらいいのかを考え考えして。こんな恐ろしい目にあっていることを娘が知らなくて、不幸中の幸いだと思いましたわ。そのうち、ふっと知恵が浮かんで、手さぐりで、車掌を呼ぶために、ベルを押しました。ところが、いくら押しても何の手応えもない。心臓がいまにも止まりそうだったわ。てっきり乗客が一人残らず殺されてしまったのだろうと思って。ともかく、汽車は止まってしまっているし、あたりには、いやな静けさがひしひしと感じられる。それでも、私はベルを押しつづけましたわ。そのうち、やっと、通路を走ってくる足音がして、ドアにノックの音が聞こえて、ああ、その時のほっとしたことったら。『お入り』と私は叫ぶと同時に、スイッチをひねりました。ところが、部屋には誰もいないじゃありませんか」
ハッバード夫人にしてみれば、これは話の落ちというよりは、劇的クライマックスなのであった。
「それから何が起こりましたか、奥さん?」
「私は車掌に、今のことを話しましたが、信じてもらえないんですの。全部、私のみた夢だと思っているんですのよ。私が、寝台の下を見てちょうだいというのに、車掌は、あそこは男の入る余地はないと言うんですもの。いかにも男の姿はどこにも見えません。でもたった今まで、そこにいたのは確かなんですもの。それに私を落ち着かせようとする車掌の態度ったら、全くアタマにきちゃいますわ。私、ありもしないことを空想する女じゃありませんもの。ええと――あなた様のお名前は何とおっしゃいましたか?」
「ポワロです。こちらは鉄道会社の重役のブック氏とコンスタンチン博士」
ハッバード夫人は「皆さま、初めまして」と三人に上《うわ》の空で挨拶して、それからまたお喋《しゃべ》りにとりかかった。
「それに、私もあの時は、いつもほどは頭がはっきりしておりませんでしたの。入って来たのは隣室の男――あの殺された気の毒な男だとばかり思ってましたの。それで車掌に、お隣りとの境のドアを調べるように申しました。すると、やっぱり、差し込み錠がかかっていません。そのことを、私、すぐに注意しました。私は車掌に錠をかけてくれと頼んだうえ、車掌が出て行ってしまった後、起き上って、念のために、ドアにスーツケースを立てかけましたの」
「それは何時でしたか、ハッバードさん?」
「さあ、わかりませんわ。時計は見ませんでしたもの。それほどびっくりしていましたんですのよ」
「それで、今のあなたのご意見は?」
「あら、この上なく簡単ですわ。私の寝室にいた男が犯人です。他の誰が犯人です?」
「犯人は隣室へ戻ったとお考えなんですね?」
「どこへ行ったか、そんなこと、私が知るものですか。じっと目をつぶったままだったんですもの」
「ことによると、ドアから通路に出たのかも知れませんね」
「さあ、それはなんとも、私、目をつぶったままだったんですもの」
ハッバード夫人は、けいれんしたようなため息のつき方をした。
「あああ、あの恐ろしかったこと! もし娘が知ったら――」
「奥さん、あなたがお聞きになったのは、隣りの、つまり殺された男の部屋のドアの辺りで、誰かの動く音ではなかったのでしょうね?」
「いいえ、とんでもない――何てお名前でしたかしら?――ああ、ポワロさん、あの男は、|間違いなく《ヽヽヽヽヽ》、|私の部屋の中におりました《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。それに、ここに証拠がありますもの」
勝ちほこったように、夫人は、大きなハンドバッグを皆の前に引っぱり出して、そのなかに手を突きこんだ。
彼女はとり出し始めた。二枚の大きい清潔なハンカチーフ、角ぶちの眼鏡、アスピリンの瓶、グラウバー塩一箱、セルロイドのチューブ入りの、きれいな緑色のハッカ・ドロップ、鍵の束、ハサミ、アメリカ旅行会社の小切手、ひどく不器量な子供の写真一枚、数通の手紙、にせの宝石の首飾り五つ、それに、小さい金属製のボタン一つ。
「このボタンをごらん下さいな。これは、私のボタンではありません。また、私の持物から落ちたのでもありません。今朝起きた時、見つけたものですのよ」
夫人がそれをテーブルの上に置くと、ブック氏は、前にのり出して、叫び声を上げた。
「寝台車つき車掌の制服のボタンだ!」
「これは、ごく自然に説明がつくものだろうさ」とポワロは言った。
彼は優しく夫人の方を向いた。
「このボタンは、車掌があなたのお部屋を探しまわった時か、あるいは昨晩、ベッドをつくった時、車掌の制服から落ちたものですよ」
「あなたがたのお気持が分からないわ。私に反対することしか、考えていらっしゃらないみたいですのね。ああ、聞いて下さいな。昨晩私は眠るまで雑誌を読みましたのよ。灯りを消す前に、私はその雑誌を窓の近くの床に立てかけてあった小さいケースの上に置きました。お分かりになりました?」
人々は、分かったと答えた。
「それから、車掌は、ドアの近くから、寝台の下をのぞき込み、それから部屋の中へ入り、私の部屋と隣室との間のドアに差し込み錠をかけました。車掌は決して窓の近くへは行きませんでした。だのに、今朝、このボタンが、雑誌のま上に落ちていたのです。これを何とお呼びになるか、お伺いしたいものですわね?」
「私はそれを証拠品と呼びます」とポワロは言った。
その答えは、婦人を満足させたらしかった。
「信じてもらえないってことは、クマンバチに攻められることより頭にくるものですから、私は」と彼女は説明した。
「あなたは、われわれに最も興味ある、貴重な証拠を提供してくださったのです」とポワロは慰めるように言った。「では、二、三質問してもかまいませんか?」
「さあ、どうぞ」
「あなたは、あのラチェットという男のことに神経質になっていらっしゃったのに、どうして境のドアに差し金をおかけにならなかったのですか?」
「かけておきましたとも」と、ハッバード夫人は反射的に答えた。
「かけておかれた?」
「ええ、実を申しますと、あのスウェーデン婦人――とてもいい方ですわ――あの方に差し込み錠が下りているかどうかお尋ねしたら、下りてるとおっしゃいましたの」
「どうして、あなたはご自分でごらんにならなかったのです?」
「私は、ベッドに入っていて、ドアの把手《とって》には洗面具袋が下がっていて、見えなかったからですの」
「あなたがスウェーデン婦人にそれを頼まれたのは何時でした?」
「ちょっとお待ちください。十時半か十一時十五分前頃でした。私がアスピリンを持っているかどうかを彼女が尋ねに見えた時です。私は彼女にアスピリンのあり場所を教え、私の鞄から出してもらいました」
「あなたご自身は、ベッドの中にいらしたのですね?」
「ええ」
突然、彼女は笑い出した。
「あの方――すっかりお困りになって。間違えて、お隣りの寝室のドアを開けてしまったのです」
「ラチェット氏のドアを?」
「ええ。でも、汽車の中って、ドアが皆閉っていると、見分けがつきにくいでしょう。あの方、間違えて開けてしまったのです。それで、すっかりどぎまぎしてお困りになったんですの。すると、男が笑って、何かひどいことを言ったようですのね。可哀そうに、あの方、すっかりあわててしまって。『あっ、間違いまして。ごめん遊ばせ。まあ、そんな……立派な紳士ならそんな』って言うと、あの男が『婆あすぎて相手にならんよ』と言いました」
コンスタンチン博士が、思わず笑い出すと、ハッバード夫人はすぐに、彼をにらんで、縮み上らせた。
「よくない男です」と彼女は言った。「婦人に対して、ああいうことを言うなんて。それを笑うのもよくありませんわ」
コンスタンチン博士は、あわてて謝まった。
「その後、ラチェット氏の部屋から、何か物音が聞こえませんでしたか?」とポワロが訊いた。
「さあ――別にたいして」
「それはどういう意味ですか、奥さん?」
「あの――」と彼女は言葉を切って、「あの男の鼾《いびき》がきこえました」
「ほお! 鼾をかきましたか?」
「ひどく。一昨晩は私、まるで眠れませんでしたのよ」
「男があなたの部屋にはいって来たことで、あなたがおびえた後は、鼾は聞こえませんでしたか?」
「でも、ポワロさん、そうでしょう? 彼は死んでいたんですもの」
「ああ、その通りでした」とポワロは言った。彼は、考えあぐねた様子をした。
「ハッバードさん。あなたはアームストロング誘拐事件を覚えていらっしゃいますか?」と、やがてポワロは尋ねた。
「ええ、覚えています。まんまと逃げ失せたあの悪漢のずるがしこさ! 私、自分の手で捕えてやりたかった」
「彼は逃げおおせませんでしたよ。死にました。昨夜死んだのです」
「まさか、あの男が――?」ハッバード夫人は、興奮のあまり、椅子から半ば、飛び上った。
「そうです。ラチェットがあの男だったのです」
「まあ! なんということでしょう! 早速娘に手紙で知らせてやらなくては。だから昨夜、私が言わないことじゃなかったでしょう、あの男は人相が悪いって? 私の勘が当りましたわね。私の娘がいつも申しておりますのよ、『ママの勘は凄い。お金をありったけ賭けたって安心よ』って」
「ハッバードさん。あなたは、アームストロング家に、誰かお知り合いはありませんか?」
「いいえ。あの方たちの社会は交際の人選がたいへんきびしくせまかったもので。アームストロング夫人は、この上もない美しいお方で、ご主人も、奥さまをたいへん大切になすっていらっしゃったと、いう評判でしたけど」
「なるほどね。いや、ハッバードさん。おかげで大いに――全く、大いに助かりました。あなたの詳しいお名前を教えていただけますか?」
「キャロリン・マーサ・ハッバードです」
「ここに住所をお書き下さいませんか?」
ハッバード夫人は書きながらも、話すことを止めなかった。
「私、なかなか気が静まりませんわ。カセティが――よりによってこの汽車にいたなんて。虫の知らせを感じたのですわね、ポワロさん?」
「正に的中ですね、奥さん。ときに、あなたは、赤い絹の化粧着をお持ちですか?」
「まあ、奇妙な質問ですこと! でも、それは持っておりませんわ。私、化粧着は二枚持っておりますのよ――一枚はピンクのフランネルで、船の上などで着るのに、暖かくて気持のいいもの、もう一枚は、娘のプレゼントで、紫色の絹の、ちょっと田舎風のものです。でも何のために、私の化粧着のことなどお知りになりたいんですの?」
「実は、奥さん、誰か真赤なキモノを着た人が、昨夜、あなたかラチェットの部屋へ入ったのです。あなたが先ほどおっしゃったように、同じドアが閉っている時には、部屋の区別がつきませんからね」
「でも、赤いガウンの方は、私の部屋へはまいりませんでしたわ」
「では、その方はラチェットの部屋へ入ったにちがいありませんな」
ハッバード夫人は唇をとがらせてそっけなく言った。
「だからといって、私には関係ありませんわ」
ポワロは前にのり出した。
「では、隣りの部屋で女の声をお聞きになったのですね?」
「どうしてあなたにお分かりになりましたの、ポワロさん。でも、そうはっきりとは――でも実は、声を聞きましたの」
「だが、たった今、隣室で何か物音をお聞きにならなかったかとお尋ねした時、あなたはラチェットの鼾以外には何も聞かなかったとおっしゃいましたね」
「ええ、それも本当ですのよ。彼はある時は鼾をかいたのです。でも、またある時は――」ハッバード夫人は赤くなった。「口にしてよいことではありませんもの」
「女の声が聞こえたのは、何時でしたか?」
「よく解りません。ちょっと目が覚めたら、女の話し声が聞こえていて、それで女の人のいることがよく分かりましたのよ。これで、どういう男だか判った、でも、今更、驚きはしないわ、と、そう思ったんですの。そのうち、私はまた眠ってしまいました。こんなことは、無理に言わされなければ、三人の未知の紳士方の前でお話しすべきことではありませんわね」
「それは、男が、あなたの部屋にはいってきた前ですか?」
「まあ、それは、たった今お聞きになったことと同じじゃありませんか! 彼が死んでしまったなら、女と話すことができますか?」
「失礼。あなたは、僕を、なんて馬鹿な奴だとお思いでしょうね」
「あなたでも、時には混乱なさることもおありなのね、と思っただけですわ。それより、あの男が怪物のカセティだってことが、私ゆるせませんわ。いったい娘がなんて言うことでしょう――」
ポワロは如才なく手伝って、ハンドバッグの中身をしまわせ、ドアの方へ送っていった。
最後の瞬間に、彼は言った。
「ハンカチーフをお落しになりましたよ、奥さん」
ハッバード夫人は、ポワロの差し出した小さい白麻のハンカチーフを見た。
「いいえ、私のではありません。私のは、ここに入っております」
「失礼。これにHという頭文字が入っていたので、つい――」
「まあ、変ですわね。でも、確かに私のではありません。私のには、CMHという字が入っていますもの。それに、実用的なお品で――こんな高価なパリの贅沢品ではありません。そんなハンカチで鼻をふいて、どこがいいのでしょうね?」
男三人は誰一人、この質問には二の句がつげない様子だった。ハッバード夫人は意気揚々と引きあげていった。
第五章 スウェーデン婦人の証言
ブック氏は、ハッバード夫人が残していったボタンをいじっていた。
「このボタンがね。分からないな。結局、ピエール・ミシェルが、何か関係しているのでしょうか?」と彼は言った。彼は言葉を切ったが、ポワロが返事をしないので、また続けた。
「どう思いますか、ポワロさん」
「そのボタンね。犯行の可能性の暗示になりはする」とポワロは考えこみながら言った。
「だが、私たちの聞いた証言を検討する前に、次にスウェーデン婦人に会うことにしましょう」
彼は、自分の前のパスポートの山から引っぱり出した。
「ああ、これだ。グレタ・オルソン、四十九歳」
ブック氏が、食堂の給仕に命じると、間もなく、黄ばんだ灰色の髪をした、小羊のような長い柔和な顔の婦人が案内されて来た。彼女は、近眼らしい目付で、眼鏡の中からポワロを眺めたが、しかし、ひどく落ち着いていた。
彼女はフランス語が分かり、話せたので、会話はフランス語で行なわれることになった。ポワロは最初に、すでに知っていたことだが――彼女の姓名や年齢や住所を尋ねた。それから、職業をきいた。
彼女はイスタンブール近くのミッション・スクールの舎監だった。高級看護婦でもあった。
「もちろん、昨夜、起こったことをご存じでしょうね」
「はい。たいへん恐ろしいことです。アメリカのハッバード夫人は、犯人が夫人の部屋に現にいたのだと、おっしゃっておりました」
「お嬢さん。ラチェットが生きていたのを、最後に見たのは、あなただそうですね?」
「よく分かりませんが、そうかも知れません。私、間違って、あの方の部屋のドアを開けてしまいました。本当に、恥かしい思いをしました。全く、間の悪い誤ちでした」
「あなたは、はっきり、彼を見ましたか?」
「はい。本を読んでおりました。あわてて謝り、引きさがって来ました」
「彼は何か言いましたか?」
上品な婦人の頬はちょっと赤くなった。
「彼は笑って、二言三言申しました。でも――よく聞こえませんでした」
「それから、あなたは何をなさいましたか?」とポワロは尋ね、手際よく話題をうつした。
「アメリカ婦人のハッバードさんの所へ行きました。私は彼女にアスピリンをお持ちかどうか尋ねました。彼女はそれをくださいました」
「彼女は、あなたに、彼女の部屋とラチェットの部屋の間のドアに、差し金がかかっているかどうかと尋ねましたか?」
「はい」
「で、かかっていましたか?」
「はい」
「それから?」
「それから、私、自分の部屋へ戻り、アスピリンを飲み、横になりました」
「それは何時でしたか?」
「ベッドに入ったのは、十一時五分前でした。ねじを巻く前に、時計を見ましたので」
「すぐ、眠れましたか?」
「いいえ。すぐには。頭は大分よくなりましたが、しばらく目を覚ましていました」
「あなたの眠る前に汽車は止まったのですか?」
「そうではないように思います。ちょうど、私がうとうとしかけた時、汽車が駅に着いたようです」
「それはヴィングコヴツィーでしょう。で、あなたの部屋は、これですね?」彼は図面の上で、それを指摘した。
「はい。それです」
「あなたは、上段ですか、下段ですか?」
「下段の十番です」
「同室の方がありましたか?」
「はい。若いイギリスのご婦人です。たいへん可愛いく、とても優しい方です。バグダードから来られたのです」
「汽車が、ヴィングコヴツィーを発車してから、彼女は部屋を出ましたか?」
「いいえ。確かに出ませんでした」
「あなたは眠っていらっしゃったのなら、なぜ、確かと言えるのですか?」
「私は、とても浅くしか眠りません。いつも、物音で目を覚まします。もし彼女が上の寝台から降りれば、私が目を覚ますことは確かです」
「あなたご自身は、部屋を出ましたか?」
「いいえ、今朝まで」
「あなたは、絹の赤いキモノをお持ちですか?」
「いいえ。私のは、ジャージ地の、とても気持のいい化粧着です」
「では、あなたとご一緒のデベナム嬢は? 彼女の化粧着は何色ですか?」
「よく東洋で売っている、淡い藤色です」
ポワロはうなずいた。それから、彼は親密な口調で言った。
「あなたは、なぜこの旅行をなさっているのです? 休暇ですか?」
「はい。休暇で家へ帰るところです。まず、ローザンヌへ行き、妹の所で、一週間ほど、滞在いたします」
「すみませんが、あなたのお妹さんの住所姓名を、ここへ書いて下さいませんか?」
「よろこんで」
彼女は、ポワロの渡した紙と鉛筆をとり、言われるままに、住所と姓名を書いた。
「あなたは、アメリカへ行ったことがありますか?」
「いいえ。一度行きかけたことがあって、その時は、病身の婦人の付き添い役だったのですが、最後になって駄目になってしまいました。とても残念でした。アメリカ人はたいへん親切ですし、学校や病院の建設には、大金を投げ出しますし、また大そう実践的ですし……」
「あなたは、アームストロング誘拐事件について何か、ご記憶ですか?」
「いいえ。それは何ですか?」
ポワロは説明した。
グレタ・オルソン嬢は憤慨した。彼女の黄色い束髪が怒りにふるえた。
「この世の中に、そんな悪い人間がいるなんて! 信仰がぐらつきます。お気の毒なお母さん。私の心はその方のために痛みます」
優しいスウェーデン婦人は、温和な顔を赤らめ、目に涙を浮かべて、出て行った。
ポワロは紙の上に、せっせと何かを書きこんだ。
「何を書いているのですか?」とブック氏が尋ねた。
「正確に整理しておくのが、私の癖なのです。出来事を時間の順序に並べた表をつくってみたのです」
彼は書き終ると、紙をブック氏に渡した。
九時一五分 汽車、ベルグラード発車。
九時四〇分前後 従僕、ラチェットのそばに睡眠薬を置いて、部屋を出る。
十時前後 マッキーン、ラチェットの部屋を出る。
十時四〇分前後 グレタ・オルソン、ラチェットを見る(生きていた最後)。
注――ラチェットは読書中だった。
零時一〇分 汽車、ヴィングコヴツィー発車(遅延)。
零時三〇分 汽車積雪に入り停車。
零時三七分 ラチェットのベル鳴る。車掌答える。ラチェット言う、Ce n'est pas rien. Je me suis trompe.
一時一七分前後 ハッバード夫人、男が寝室にいると信じ、ベルを押して車掌を呼ぶ。
ブック氏は感心したようにうなずいた。
「なるほど、こうするとたいへんはっきりしますな」と彼は言った。
「何か変だと感じることはありませんか?」
「いや、何もかも明瞭で、はっきりしている。犯行が一時十五分に行なわれたことも明らかだと思いますね。時計もその証拠だし、ハッバード夫人の証言とも一致します。私が犯人を当ててみましょう。ねえ、私は、あの大柄のイタリア人だと思う。彼は、アメリカから――シカゴから来た。それに、イタリア人の武器は短剣で、しかも彼らは、一度ではなく、必ず数回突くということですよ」
「おっしゃる通りですな」
「疑問の余地はない。これで謎は解決です。明らかに、あのイタリア人とラチェットとは、例の誘拐事件の共謀者だったのです。カセティという名前はイタリアの名前だ。何かで、ラチェットが彼を裏切った。あのイタリア人は、ラチェットをつけ回し、まず、彼に警告の手紙を送り、最後に、むごたらしい方法で復讐したのだ。一切は単純明快だ」
ポワロは疑わしそうに首を振った。
「そう簡単明快でもなさそうだね」と彼はつぶやいた。
「僕は、これが真相だと確信する」とブック氏はいよいよ自信をつのらせて、言った。
「あの歯痛の従僕の、イタリア人は絶対に部屋を出なかったという証言はどうなります?」
「それは難点だ」
ポワロは目を光らせた。
「そうです。それが困るところですね。ラチェットの従僕が歯痛をおこしたのは、あなたの説にとっては不運で、イタリア人にとっては非常に幸運なんですな」
「なあに、今に説明はつきますよ」とブック氏は、驚くべき確信をもって言った。
ポワロは、再び首を横にふった。
「いや、そう簡単にはいかないでしょうな」と彼はまたつぶやいた。
第六章 ロシア公爵夫人の証言
「ピエール・ミシェルがこのボタンについて、何というか、聞いてみることにしよう」とポワロは言った。
寝台車つき車掌が呼ばれた。彼は、不審そうに皆を見た。
ブック氏は咳払いをした。
「ミシェル君」と彼は言った。「ここに、君の制服の上着のボタンがある。あのアメリカ婦人の部屋で見つかったんだ。それについて、何か説明があるかね?」
車掌の手が、自動的に制服の上着にいった。
「私はボタンをなくしていません」と彼は言った。「何かの間違いにちがいありません」
「それは変だな」
「私にも、説明はつきません」
車掌は驚いた様子だったが、当惑した様子や後暗い気配はみえなかった。
ブック氏は、意味ありげな口調で言った。
「見つけられた時の情況からおして、このボタンは、昨夜、ハッバード夫人がベルを鳴らした時、夫人の部屋にいた男が、落としたものに違いない」
「しかし、そこには、誰もいませんでした。あのご婦人の妄想にちがいありません」
「夫人の妄想ではない、ミシェル君。ラチェット殺しの犯人が、夫人の部屋を通り抜けて――|このボタンを落としたのだ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》」
ブック氏の言葉の意味が分かると、ピエール・ミシェルはいきり立った。
「それは違います! それは違います!」彼は叫んだ。「あなたは私を犯人だとおっしゃるのですね。私、私は潔白です。私は絶対に潔白です。どうして、私が、一度も見たこともない人を殺すのでしょうか?」
「ハッバード夫人がベルを鳴らした時、君はどこにいた?」
「前にも申し上げたように、隣りの車輛で、同僚と話をしていたのです」
「その同僚を呼ぼう」
「そうして下さい。そうしてくださるようにお願いします」
隣りの車輛の車掌が呼ばれた。彼は直ちに、ピエール・ミシェルの言ったことを確認した。彼は、その時、ブカレストから来た車輛の車掌もそこに居合せたと、付け加えた。三人の車掌は、雪が惹き起こした列車の立往生について、話し合っていた。十分間ほど話した時、ミシェルが、ベルの音が聞こえたようだと言った。彼が境のドアを開けたので、皆にはっきり、ベルの音が聞こえた。ベルは繰り返し鳴った。ミシェルは、それに応ずるために、急いで行った。
「お解り下さいましたでしょう。私は罪を犯していません」とミシェルは不安そうに叫んだ。
「では、寝台車つき車掌の制服の上着のこのボタン――君はこれをどう説明するね?」
「説明はできません。私には謎でございます。私のボタンは、みな揃っております」
他の二人の車掌たちも、ボタンは落とさなかったと断言した。さらに、ハッバード夫人の部屋へは、一度も入ったことはないと断言した。
「ミシェル君。落ちつきなさい」とブック氏は言った。「ハッバード夫人のベルに応ずるために走って行った時のことを思い出してみなさい。君は通路で誰かと出会わなかったかね?」
「いいえ」
「誰かが、通路を、反対の方角に行くのを見なかったかね?」
「いいえ、それも」
「不思議だ」とブック氏が言った。
「それは大して、不思議でもない」とポワロが言った。「それは、時間の問題です。ハッバード夫人は目を覚まして、自分の部屋に誰かいると気付いた。一、二分の間、目を閉じたまま、身を固くして横になっていた。おそらく、その時、男は通路へ逃げたのでしょう。それから夫人はベルを鳴らし出した。しかし、車掌はすぐには来なかった。三、四回目のベルを車掌は聞いたのです。その間、充分、時間はあったと言えます――」
「何をする時間? 何をする時間です? 列車は、厚い雪の壁にかこまれているのですよ」
「この謎めいた犯人には、二つの逃げ道があります」とポワロはゆっくりと言った。「一つは、通路の両端のトイレットのどちらかへ隠れること、もう一つは、――部屋のどれかの中へ消えることです」
「しかし、部屋はどれもふさがっていました」
「そうです」
「犯人は自分自身の部屋へ戻ったという意味なのですね」
ポワロはうなずいた。
「なるほど、なるほど」とブック氏はつぶやいた。「犯人は、車掌のいなかった、十分の間に、自分の部屋から出て来て、ラチェットの部屋へ入り、彼を殺して、内側からドアに鍵をかけ、差し込み錠をかけ、ハッバード夫人の部屋を通りぬけて、車掌の来るまえに、無事に自分の部屋へ戻ったのですね」
ポワロはつぶやいた。
「それほど簡単ではありません。コンスタンチン博士も、そう言われるでしょう」
ブック氏は身振りで、三人の車掌に帰るようにと合図した。
「まだ、八人の乗客に会わねばなりません」とポワロが言った。「五人の一等乗客――ドラゴミロフ公爵夫人、アンドレニイ伯爵夫妻、アーバスノット大佐、ハードマン氏。三人の二等乗客――デベナム嬢、アントニオ・フォスカレリ、小間使のシュミット嬢」
「まず、誰に会います――イタリア人?」
「イタリア人に御執心ですな! でも、折角ですが、最高級のところから始めましょう。おそらく、公爵夫人は数分間ぐらいは、われわれに会って下さるだろう。ミシェル君。そうお伝えして」
「はい」車掌がそう言って、部屋を出て行こうとした。
「君、夫人に、もしここへおいで下さるのが、お手数でしたら、お部屋へお訪ね致しましてもよろしゅうございます、と申し上げてくれたまえ」とブック氏が声をかけた。
しかし、ドラゴミロフ公爵夫人は、それを辞退した。彼女は、心もち首をかしげて食堂車へ現われた。そして、ポワロの向かいに腰をかけた。
彼女のガマのような小さい顔は、昨日より一そう黄色く見えた。彼女は、確かに醜い。しかし、ガマのようでありながらも、一見して感じとられる内面的な力と知的な能力を現わしている黒い、威厳のある、宝石のような目を、彼女は持っていた。
その声は、奥深く、非常に明瞭ではあるが、かすかに、かん高いひびきがあった。
夫人は、ブック氏の美辞麗句の謝罪をさえぎった。
「謝る必要はありません。殺人があったことは聞いています。当然、乗客全部を調べねばなりません。よろこんで、出来るだけのご助力はします」
「まことに有り難うございます」とポワロが言った。
「どういたしまして。それは義務です。何をお知りになりたいのです?」
「あなた様のお名前とご住所を。ここにお書き込み願えませんでしょうか?」
ポワロは一枚の紙と鉛筆を差し出したが、公爵夫人は、それをわきへ退けた。
「あなた、お書きになれるでしょう。何も難かしくありません。――ナタリア・ドラゴミロフ、パリ、クレーベ・アヴェニュー、十七番地」
「このご旅行は、コンスタンチノープルからお邸へのご旅行でございますか?」
「ええ、オーストリア大使館に滞在していました。小間使と一緒です」
「恐縮でございますが、昨夜、ご夕食後のご行動を簡単にお話し願えませんでしょうか?」
「いいですとも。私は食堂車にいる間に、ベッドを作るように車掌に指示しました。夕食後、すぐベッドに入りました。十一時まで、読書をして、灯りを消しました。リューマチが痛くて眠れませんでした。一時十五分前頃にベルを鳴らして、小間使を呼びました。マッサージをさせ、それから、眠くなるまで、本を読ませました。小間使がいつ出て行ったか、正確には分かりません。三十分後か、もう少し後だったでしょう」
「その時、汽車は止まっていましたか?」
「汽車は止まっていました」
「何か――変った物音を、その頃お聞きになりませんでしたか?」
「何も変った物音は聞きません」
「小間使の方の名前は何といいますか?」
「ヒルドガード・シュミット」
「長くお使いになっていらっしゃいますか?」
「十五年間」
「信頼のおける人物でございますか?」
「絶対に。彼女の両親は、ドイツにある、亡くなった主人の領地の出身です」
「あなた様は、アメリカにいらっしゃったことが、おありでございますね?」
突然、話題が変ったので、老婦人は、眉をつり上げた。
「幾度も」
「いつか、アームストロングという名前のご一家――悲劇の起こったご家庭です――とお知り合いではいらっしゃいませんでしたか?」
公爵夫人は、いくらか感動をおびた声で言った。
「私の友人の家です」
「それでは、アームストロング大佐をよくご存じでいらっしゃいますね?」
「大佐は少しですが、夫人のソニア・アームストロングは、私の名づけ娘です。私は彼女の母の女優リンダ・アーデンと仲良しでした。リンダ・アーデンは天才で、世界最高の悲劇女優の一人でした。マクベス夫人や、マグダの役では、彼女におよぶ者はありません。私は、彼女の芸術の礼賛者であるばかりでなく、個人的な友人でした」
「お亡くなりになりましたか?」
「いいえ、まだ存命中です。しかし完全な隠退生活を送っています。病身なので、ほとんどソファに横になったままです」
「二番目のお嬢さまがおありだと思いましたが?」
「ええ、アームストロング夫人より、ずっと年下です」
「その方はご健在ですか?」
「もちろん」
「どこにおられますか?」
老夫人は、鋭い視線をポワロにおくった。
「どういう理由で、そういう質問をなさるのです。それが、現在の問題――この列車の殺人事件と何の関係があるのです?」
「こういう関係があるのです。殺された男は、アームストロング夫人のご息女を誘拐し、殺害した男だったのです」
「おお!」
ドラゴミロフ公爵夫人は眉をよせて、ちょっと居ずまいを正した。
「では、私から見れば、この殺人は実に立派な行為です! 少し偏《かたよ》った見方は、許していただけるでしょう」
「当然至極です。ところで、お答えにならなかった質問にもどります。リンダ・アーデンの次女、アームストロング夫人の妹様は、どこにいらっしゃいますか?」
「申しあげることができません。私は、若い人たちとは接触をもっていません。何年か前に、英国人と結婚して、イギリスへ行ったと思いますが、今、その名前を思い出せません」
彼女はちょっと言葉をきって、それから、言った。
「まだ、何かお聞きになりたいことがありますか?」
「もう一つだけ、少し個人的な質問です。あなた様のお化粧着の色は」
彼女は、ちょっと眉をつり上げた。
「そんな質問をなさるには、理由がおありでしょう。私の化粧着は、青のサテンです」
「もう何もございません。私の質問に、てきぱきお答えいただきまして、まことに有難うございました」
夫人は、重い宝石のきらめく手をちょっと動かした。
彼女が席を立つと、同時に、他の人たちも、立ち上った。すると彼女は立ち止まって、言った。
「失礼ですが、あなたのお名前は? なんだか、お顔に見覚えがあるようですが」
「私の名前はエルキュール・ポワロと申します――どうぞお見知りおきを」
彼女はちょっと黙っていた。それから、
「エルキュール・ポワロ」と彼女は言った。「そうだ、今思い出しました。これは運命です」
彼女は姿勢を正し、幾分ぎごちない歩調で歩み去った。
「|実に偉大な女性だ《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》」とブック氏は言った。「彼女をどう思います?」
しかし、エルキュール・ポワロは、ただ頭をふっただけだった。
「不思議だ」と彼は言った。「彼女はどういう意味で運命《ヽヽ》といったのだろう」
第七章 アンドレニイ伯爵夫妻の証言
アンドレニイ伯爵夫妻が次に呼ばれた。しかし、伯爵だけが食堂車へ入ってきた。
彼は面と向かい合ってみると、堂々として、美しい男だった。六フィートに余る背丈、広い肩、すらりとした腰つきをしていた。彼は非常に仕立てのいい、イギリス製ツイードを着こなし、長い口髯と頬骨の線がなかったら、イギリス人とは見られなかったであろう。
「何かご用ですか?」と彼は言った。
「ご承知のように」とポワロは言った。「事件が起きましたので、乗客の方全部から、お話をうかがうことになりました」
「ごもっともです」と伯爵は気軽に言った。「あなたの立場はよく分かります。でも、私も妻も、余り、お役に立たないかも知れません。私たちはよく眠っていて、全然何の物音も聞きませんでしたから?」
「あなたは、殺されたのはどの男か、お気付きですか?」
「大きなアメリカ人でしょう――とても不愉快な顔をした。彼は、食事のとき、そこのテーブルに坐っていました」
彼は頭で、ラチェットとマッキーンが坐っていたテーブルを示した。
「そうそう、その通りです。私は、男の名前をご存じですかと、お聞きしたのです」
「いいえ」
伯爵は、ポワロの問いに面食らった面持ちだった。
「彼の名前が知りたいのなら」と彼は言った。「彼のパスポートにのっているでしょう?」
「パスポートの名前は、ラチェットです」とポワロが言った。「しかし、それは、彼の本名ではありません。彼は、アメリカの有名な幼児誘拐事件の犯人のカセティという男です」
そう言いながら、ポワロはじっと伯爵を見守ったが、伯爵には、全然動揺の色もなかった。
ただちょっと目を見開いただけだ。
「ほう!」と伯爵は言った。「それは、きっと事件に手掛りを与えることになるでしょう。全く途方もない国ですね、アメリカは」
「伯爵、あなたは、アメリカにいらしたことがおありでしょう?」
「私はワシントンに一年間いました」
「たぶん、アームストロング家をご存じでしょう?」
「アームストロング――アームストロング――思い出せませんが。余り大ぜいの人たちに会っているので」
彼は笑い、肩をすくめた。
「ところで、現在の問題に戻ることにして」と彼は言った。「もう何かお役に立つことはありませんか?」
「あなたがお休みになったのは――何時ですか、伯爵?」
エルキュール・ポワロの目は、図面の上に落ちた。アンドレニイ伯爵夫妻は、続きの十二番と十三番の部屋である。
「私たちは、食堂車にいる間に、一方の部屋にベッドをつくらせました。戻って、しばらくは、もう一方の部屋に腰かけていました――」
「それは何番の部屋でしたか?」
「十三番です。私たちは、トランプでピケをしました。十一時頃に、妻は休みました。車掌に私の部屋のベッドをつくらせ、私もベッドに入りました。私は朝まで、ぐっすり眠りました」
「あなたは、汽車が止まったことにお気づきでしたか?」
「今朝まで、気づきませんでした」
「奥様は?」
伯爵は微笑んだ。
「妻は、汽車旅行のときは、いつも睡眠薬を使います。いつものように、トリオナールをのみました」
伯爵は言葉を切った。
「少しも、お役にたてなくて恐縮です」
ポワロは彼に紙とペンを渡した。
「有難うございました、伯爵。形式的なことですが、あなたのお名前とご住所をお書き下さいませんか?」
伯爵は、ゆっくりと注意深く書いた。
「これは、私が書いた方がいいのですよ」と彼は快活に言った。「私の領地の方の綴りは、その言葉におなじみのない方には、ちょっと難かしいですから」
彼は紙をポワロに渡して、立ちあがった。
「妻がここへ来るのは不必要でしょうね」と彼は言った。「彼女は、私以上に何も申し上げることはありませんから」
ポワロの目がちょっときらめいた。
「おそらく、そうでございましょう」と彼は言った。「しかし、ほんの一言だけ、伯爵夫人とお話したいと思います」
「それは、全く不必要です」
伯爵の声が厳然とひびいた。
ポワロは優しく、相手に向ってまたたきした。
「ほんの形式にすぎません」と彼は言った。「しかし、私の報告には必要なのです」
「では、どうぞ」
伯爵は、しぶしぶ譲った。そして外国式の短いおじぎをして、食堂車を出て行った。
ポワロはパスポートに手をのばした。そこには伯爵の名前と肩書きが書いてあった。その次ぎには――妻同伴。洗礼名エレナ・マリア。旧姓ゴールデンバーグ、年齢二十歳。その上に、一滴の油がついている。いつか、不注意な役人が落としたのでもあろうか。
「外交官のパスポートですね」とブック氏が言った。「怒らせないように注意しないといけませんね。あの人たちは、この殺人事件には何の関係もないのだろうから」
「大丈夫ですよ。うまくやりますよ。ほんの形式なんですから」
アンドレニイ伯爵夫人が食堂車へ入ってきたので、彼の声は低くなった。はにかみ勝ちな、すばらしく魅惑的な美女である。
「私にお会いになりたいそうで」
「ほんの形式なんです、伯爵夫人」
ポワロは、いんぎんに起立し、彼女を向いの席に招じた。「昨夜、この事件の手掛りとなるようなことを何か見たり、聞いたりなさらなかったかどうか、お尋ねしたいのですが」
「何も存じません。私眠っておりました」
「例えば、お隣りの部屋が騒々しかったのを、お聞きになりませんでしたか? お隣りのアメリカ婦人がヒステリーの発作を起こし、ベルを鳴らして車掌を呼んだのですが」
「私、何も聞きませんでした。睡眠薬を飲んで眠っておりました」
「ああ! そうでしたね。では、これ以上、お引き止めする必要はございません」夫人が急いで立ち上ったので、「ちょっと、お待ち下さい。ここにある事項、あなたの旧姓や年齢や何かに間違いございませんか?」
「間違いありません」
「では、その意味で、このメモへ、サインをお願いします」
彼女は手早く、優美な、ななめの筆跡をのこすサインをした。
エリナ・アンドレニイ。
「ご主人とご一緒にアメリカにいらしたことがありますか?」
「いいえ」と彼女は微笑んで、少し顔を赤くした。
「その頃は結婚しておりませんでした。結婚してからまだ一年です」
「ああ、そうでしたか。有難うございました。ついでですが、ご主人はタバコを召し上りますか?」
彼女は歩き出そうとした姿勢のまま立ち止まり、そしてポワロを見つめた。
「ええ」
「パイプですか?」
「いいえ。巻タバコと葉巻です」
「ほう。いや、有難うございました」
しかし彼女は、何かためらっていた。その目は、ポワロを不思議そうに見つめている。黒い、アーモンド形の、それは何という美しい目だろう。ひどく長いまつげは、その繊細な白い頬におおいかぶさるようだ。唇は、外国風に真紅で、かすかに開いている。異国風な美女なのだ。
「なぜ、そんなことお尋ねになりますの?」
「奥さま」とポワロはきゃしゃな手を振った。「探偵というものは、あらゆる質問をするものです。例えば、あなたの化粧着の色を、お教えくださいますか?」
彼女は目をみはった。それから笑い出した。
「小麦色のシフォンです。そんなこと本当に重要ですの?」
「たいへん重要です、奥さま」
彼女は興味ありげに聞いた。
「では、あなたは、本当に探偵ですの?」
「どうぞよろしく、奥さま」
「でも、ユーゴスラヴィアを通過する時は、この汽車に探偵は乗っていないと思っていました――イタリアに着くまでは」
「私は、ユーゴスラヴィアの探偵ではありません。私は国際探偵です」
「国際連盟の方ですか?」
「私は世界に属しています」とポワロは芝居気を出して言った。そして続けた。「おもに、ロンドンで仕事をしています。あなたは英語をお話しになれますか?」ポワロは英語でつけ加えた。
「ええ、ほんの少し」
彼女のアクセントは魅力的だった。
ポワロは、もう一度おじぎをした。
「これ以上、お引きとめはいたしません。いかがです。そう怖くはございませんでしたでしょう?」
彼女は微笑み、頭を下げ、立ち去った。
「可愛い女性ですね」とブック氏は感嘆して言った。
彼は嘆息をついた。
「ところで、たいして、役に立ちませんでしたね」
「ええ」とポワロは言った。「あの二人は、何も見ず、何も聞かなかったという人たちですからね」
「では、例のイタリア人に会いますか?」
ポワロは、しばらく返事をしなかった。ハンガリー外交官のパスポートの上の油をみつめていたのだ。
第八章 アーバスノット大佐の証言
ポワロは、ふとぎくりとして、我に返った。その目が、ブック氏の熱心な目に出会った時、それはちょっとかがやいた。
「ああ、ブックさん」と彼は言った。「私は、上にこび下を見くだす俗物になったらしい! 一等乗客が終ってから、二等に移りたいのです。次は、あの好男子のアーバスノット大佐に会うことにしましょう」
大佐のフランス語はとても覚束ないものだと分かったので、質問は英語ですることにした。
アーバスノットの姓名、年齢、住所、軍隊での地位が確かめられた。ポワロは続けた。
「いわゆる賜暇《しか》――つまり休暇で、インドからお国へお帰りになるところですね?」
アーバスノット大佐は、一にぎりの外国人ごときが何を言おうと、歯牙《しが》にもかけないという様子で、いかにも真のイギリス士官らしく簡潔に答えた。
「その通り」
「しかし、インド東洋汽船会社の船ではお帰りにならないのですね?」
「その通り」
「なぜですか?」
「私は個人的な理由で、陸路をえらんだのです」
彼の態度は、『お前だって、陸路じゃないか、おせっかいな青二才め』と言っているようだった。
「インドから真直ぐ、いらっしゃったのですか?」
大佐は、そっけなく答えた。
「カルデア(バビロニア南部)のウル(アブラハムの生地といわれる)の見物に一晩、バグダードで旧友の兵器団将校と一緒に三日間」
「バグダードに三日間滞在なさったのですね。あの若いイギリスのご婦人のデベナム嬢もバグダードからいらっしゃったようです。あちらでお会いになりましたか?」
「いや、会いません。キルクークからニシビンへの軽便鉄道に乗り合わせて、初めて、お会いしました」
ポワロは前にのり出した。彼はわざとベルギー訛《なま》りをひびかせて、言葉たくみに、言った。
「あなたに、お願いがあるのです。この汽車で英国人は、あなたとデベナム嬢のお二人だけなのです。ぜひあなた方に、お互いについてのご意見をお聞かせいただきたいのです」
「そんな、無茶な」
アーバスノット大佐は、冷たく言った。
「いや、この犯罪はどうも女によって行なわれたらしいのです。被害者は十二回余りも刺されております。列車長でさえ、一目で『これは女だ』と申しました。とすると、私の最初の仕事は何でしょうか? それはこのイスタンブール=カレーの車輛で旅行しているすべての婦人を、アメリカ人のいわゆる『ひとわたり』当たってみることです。しかし、英国のご婦人を判断することはむつかしいのです。ひどく内気でいらっしゃるからです。そこで、正義のために、あなたにお願いしたいのです。あのデベナム嬢は、どういうお方でしょうか? 何か知っていらっしゃることはありませんでしょうか?」
「デベナム嬢は」と大佐はやや優しい口調で言った。「レディです」
「ほう!」とポワロはいかにも満足そうな様子で言った。「では、デベナム嬢は、この犯罪に関係なさるような方でないとお考えですね?」
「とんでもない」とアーバスノットは言った。「あの男とは、全くの赤の他人です――彼女は一度も彼を見たことさえありません」
「あなたにそう言ったのですか?」
「そうです。彼女は、一目見てすぐ何ていやな顔なんでしょう、と言っていました。あなたのお考えのように、それは何も証拠があってのことではなく、単なる推測にすぎないように私には思えるのですが、かりに婦人が関係しているとしても、デベナム嬢だけは無関係であることを、私は断言できます」
「ご熱心ですね」とポワロは微笑を浮かべて、言った。
アーバスノット大佐はポワロを冷やかに、にらんだ。
「それはいったいどういう意味です」と彼は言った。
にらまれて、ポワロはたじろいだ様子をみせた。目を伏せて、自分の前の書類をいじった。
「まあ、そんなことは、取るにたりないことです」と彼は言った。「では、実際的な事実に移りましょう。この犯罪は、ある信ずべき根拠からおして、昨夜の一時十五分過ぎに起こったことが明らかです。そこで職掌がら、すべての乗客の方に、その時刻に何をしていたかをお聞きしているのです」
「分かりました。一時十五分に、私は、確か、あの若いアメリカ人――殺された男の秘書――と話していました」
「ほう! あなたが彼の部屋におられたのですか? それとも、彼があなたの部屋にいたのですか?」
「私が彼の部屋にいました」
「それは、マッキーンという名前の青年でしたね?」
「その通り」
「彼は、あなたの友人ですか、お知り合いですか?」
「いや、この旅行で初めて会った人間です。私たちは、昨日ふと会話を交して、互いに興味を抱いたのです。私は普通アメリカ人を好みません。――何の役に立つものも持たないうえに――」
ポワロは、マッキーンの『英国人』に対する酷評を思い出して、微笑した。
「――ところが、私はあの青年が好きになりました。彼はインドの現在の情況について、間のぬけた馬鹿らしい思想を抱いていました。あれが、アメリカ人の一番悪いところで――彼らはセンチメンタルで、理想家すぎるのです。まあ、ともかく、彼は私の話に関心をもちました。私は、インドには三十年近い経験をもっています。私は、アメリカの財政状態についての彼の話に興味を抱きました。それから、私たちは、世界政治一般について語りました。時計を見て驚きました。二時十五分前でした」
「その時刻に会話を打ちきられたのですね?」
「その通り」
「それから、何をなさいましたか?」
「自分の部屋へ戻り、寝床に入りました」
「あなたのベッドはすでに、作ってありましたか?」
「その通り」
「そのお部屋は――ええと――十五番――食堂車から遠い方の、端から二番目ですね?」
「その通り」
「あなたが部屋に行かれた時、車掌はどこにいましたか?」
「通路の隅の、小さいテーブルに坐っていました。そして、私が自分の部屋へ入った時、ちょうど、マッキーン君が車掌を呼びました」
「どうして呼んだのですか?」
「ベッドをつくらせるためだと思います。彼の部屋は、まだベッドが作られていませんでしたから」
「ところで、アーバスノット大佐、これは、よくお考えになってから、お答え下さい。あなたがマッキーン君と話していらっしゃった間に、誰か、ドアの外の通路を通りませんでしたか?」
「かなり大勢の人が通ったと思います。私は注意を払っていませんでした」
「ははあ! しかし、私が申し上げているのは――最後の一時間半の間のことです。あなたは、ヴィングコヴツィーでお降りになりましたね?」
「その通り。しかし、ほんのちょっとの間です。吹雪で、寒さがひどかったのです。暖い車内に戻ってほっとしました。普通だったら、この線の列車は暖房がききすぎていて、けしからんと思っているのですが……」
この線の寝台車会社重役であるブック氏がため息をついた。
「どなたにもお気に召すようにするのは、たいへん難かしいことでございます」と彼は言った。「イギリスの方が窓を開けられる――こんどは、他の国の人が来て、閉めてしまわれるというわけで。たいへん難かしいものでございます」
ポワロもアーバスノット大佐も、ブック氏には注意を払わなかった。
「では、思い出してください」とポワロは激励するような語調で言った。「外は寒かったので、あなたは車内に戻りました。また腰をかけて、煙草をすった。――巻煙草でもいい、パイプでもいい」
彼は一瞬間、言葉を切った。
「私はパイプ、マッキーン君は巻タバコをすいました」
「汽車はまた出発した。あなたはパイプをふかす。あなたは、ヨーロッパや――世界のことを論じている。夜もふける。ほとんどの乗客は寝床に入ってしまった。誰かドアのそばを通る――思い出しませんか?」
アーバスノットは、眉をしかめ、思い出そうとした。
「わかりませんね。全然、注意していなかったのです」
「しかし、あなたは、軍人独特の細部に対する観察力をお持ちです。いわば、無意識のうちに、注意なさる」
大佐はまた考えたが、頭を振った。
「分かりません。車掌以外には、誰が通ったのか覚えていません。ちょっと、待ってください――女性が一人、通ったようです」
「女性を見ましたか? その女性は年寄りでしたか――若かったでしょうか?」
「見ませんでした。そちらを見ていなかったのです。ただ、さらさらという音と、匂いがしただけです」
「匂い? いい匂いでしたか?」
「そう、何か果物のような、分かりますか、つまり、百ヤード離れていても匂うような、しかし」と大佐は急いでつけ足した。「それは、宵の口のことだったかも知れません。今、おっしゃったように、いわば無意識のうちに、見たにすぎないのですから。女性――匂い――かなり強い匂いだなと、夜の何時かに、そう思ったのです。でも、それが|何時か《ヽヽヽ》ははっきり分かりません――ただ、そうだ、確かヴィングコヴツィーを過ぎてからでした」
「どうしてですか?」
「その匂いをかいだ時を――思い出したのです。――ちょうど、私が、スターリンの五か年計画が失敗だったことについて話している時でした。女性――という想いから、ロシアにおける女性の地位の問題が頭に浮かんだのです。ロシアのことが話に出たのは、会話の終り頃でした」
「もっと、はっきりとお分かりになりませんか?」
「どうもね。おそらく、終りの三十分以内に違いないでしょう」
「それは、汽車が止まった後ですか?」
大佐はうなずいた。
「その通り。それはほぼ確実です」
「では、次に移りましょう。アメリカにいらっしゃったことがおありですか、アーバスノット大佐?」
「いいえ。行きたいと思いません」
「アームストロング大佐という方をご存じですか?」
「アームストロング――アームストロング――私はアームストロングという人は、二、三人知っています。第六十連隊に、トミー・アームストロングがいたが――彼ではないでしょうね? それから、セルビー・アームストロング――彼は、ソムで殺されました」
「私の言っているのは、アメリカの女性と結婚したアームストロング大佐のことです。彼の一人っ子は誘拐され、殺されました」
「ああ、そうそう、そのことについて、読んだ記憶はあります――悲惨な事件でした。私は、アームストロングに実際には会ったことはないが、もちろん、話には聞いていました。トビー・アームストロングという好漢だということでした。誰からも愛されて、抜群の経歴をもち、ヴィクトリア十字章の受章者で」
「昨夜、殺された男は、そのアームストロング大佐の幼い一人っ子を殺した犯人だったのです」
アーバスノットの顔が、厳しい表情に変った。
「ふむ、では、それは悪漢の当然の末路だと思いますね。正当に、絞首刑か――電気椅子で殺されるほうが一層よかっただろうとは考えますが」
「では、アーバスノット大佐、あなたは、個人的な復讐よりは、法による裁きと処刑をお望みですか?」
「そう、コルシカやマフィアのように、血の争いをしたり、互いに殺し合うということはいけません」と大佐は言った。「やはり、陪審裁判が穏当な機構でしょう」
ポワロは考えこんだ様子で、一、二分、大佐をみつめた。
「そうですね」とポワロは言った。「なるほど、あなたのお考えは、ごもっともです。では、アーバスノット大佐、これで、お尋ねすることは何もありません。でも、昨夜、何かあなたが変だなとお思いになったことはありませんか――あるいは、今、思い出してみて、怪しいなとお思いになるようなことはありませんか? 何でもいいのですが」
アーバスノットは、一、二分考えていた。
「ありません」と彼は言った。「何もありません。ただ――」彼はためらった。
「どうぞ、続けてください。お願いします」
「いや、実に何でもないことです」と大佐はゆっくりと言った。「ただ、あなたが|何でも《ヽヽヽ》と言われたので」
「そうです。そうです。その先を」
「いや、何でもありません。些細《ささい》なことです。ただ、私が部屋に帰る時、私の部屋の隣りのドア――お分かりでしょう、一番隅の――」
「ええ、十六番ですね」
「そのドアが細目に開いていました。中から男が、ぬすみ見するように外をのぞいていました。そして、あわててドアを閉めました。もちろん、何でもないのでしょうが――ただ、ちょっと変だなと思ったのです。もし何かが見たいのなら、ドアを開けて、顔を突き出すのが普通ですからね。私の注意をひいたのは、ぬすみ見るような、その態度でした」
「なるほど」とポワロは疑念にとらえられているらしい様子で言った。
「これは何でもないことだと思います」とアーバスノットは弁解がましく言った。「ただ、深夜のことだものだから、――あたりはとても静かで――推理小説じみた、何かこう――不吉な感じがするので――実際は何でもないことですが」
彼は立ち上った。
「もうご用がなければ――」
「ご苦労さまでした、アーバスノット大佐。もう何もありません」
士官は、しばらくためらっていた。初めの『外国人』に質問されるのを嫌悪した態度は消え去っていた。
「デベナム嬢のことですが」と彼ははにかむように言った。「彼女が正しいことは、私が保証します。彼女は pukka sahib です」
彼は少し赤くなって、出て行った。
コンスタンチン博士が好奇心にみちみちた様子で尋ねた。「pukka sahib とはどういう意味ですか?」
「それは」とポワロが言った。「デベナム嬢の父や兄弟も、アーバスノット大佐と同じような種族だという意味ですよ」
「なあんだ!」とコンスタンチン博士は失望して言った。「じゃあ、全然この犯罪には関係がないことですね」
「その通り」とポワロは言った。
ポワロは、テーブルの上を軽くたたきながら、考えにふけっていた。やがて、顔を上げた。
「アーバスノット大佐はパイプをふかす」と彼は言った。「ラチェット氏の部屋で、私は、パイプ掃除器を見つけた。ラチェットは葉巻しかすわない」
「ではあなたは――?」
「パイプをふかすと判ったのは大佐だけだ。それに、彼は、アームストロング大佐について知っている――多分、実際に彼を知っていたのでしょう、そうだと決して言わないだろうが」
「では、あなたは彼を――?」
ポワロは激しく頭を振った。
「そんなことは――不可能だ――全く不可能だ――あの高潔な、好人物で、立派な英国紳士が、敵を短剣で、十二回も刺すなどということは!ねえ、不可能なことだとは思いませんか?」
「心理的考察ですね」とブック氏が言った。
「心理は尊重しなければならない。この犯罪には署名があります。それがアーバスノット大佐の署名でないことは確かです。だが、とにかく、今は次の会見に移りましょう」
今度は、ブック氏も、イタリア人とは言わなかった。しかし肚《はら》のなかではイタリア人のことを考えていたのだ。
第九章 ハードマン氏の証言
一等寝台の最後の客――ハードマン氏――が尋問される番であった。あの派手な服装の大柄なアメリカ人だ。昨日食堂車で、イタリア人と召使と一緒にテーブルについていた人物だ。
彼は、あらいチェックのスーツにピンクのシャツ、光るネクタイピンをつけ、チューインガムをかみながら、食堂車に入って来た。この男は、大きな、よく肥えた、粗野な顔を、上機嫌にほころばせていた。
「お早うございます」と彼は声をかけた。「何かご用ですか?」
「この殺人事件について、もうお聞き及びでしょうね、ハードマンさん」
「もちろんですとも」
彼は、器用にチューインガムを口の中で動かした。
「私たちは、この汽車の乗客全部の方にお会いする必要があるのです」
「結構です。調べるには、それしか方法がないでしょうからね」
ポワロは、自分の前のパスポートをみつめた。
「あなたは、サイラス・ベスマン・ハードマン、アメリカ合衆国市民、四十一歳、タイプライターのリボンのセールスマンですね?」
「そうですとも」
「イスタンブールからパリへご旅行中ですね」
「そうです」
「理由は?」
「商売です」
「いつも一等でご旅行なさるのですか、ハードマンさん?」
「そうですとも。旅費は会社もちですからね」
彼はウィンクしてみせた。
「では、昨夜の事件に移ることにしましょう」
アメリカ人はうなずいた。
「あの事件について、何かお話し願えることがありませんか?」
「まったく何もありません」
「ああ。それは残念ですね、ハードマンさん。では、昨夜夕食後、あなたがなさったことを正確にお話していただけますか?」
アメリカ人は、初めて返事をしぶった。そして、やがて、言った。
「失礼ですが、あなた方はいったいどなたですか? お教えください」
「こちらは、寝台車会社重役のブックさん。そちらは、死体を調べられたお医者です」
「あなたご自身は?」
「私はエルキュール・ポワロです。鉄道会社から、この事件の調査を依頼されました」
「あなたのお名前は聞いていました」とハードマン氏は言った。そして、一、二分考えていたが、「いっそ、言っちまった方がいいかな」と呟いた。
「ご存じのことは全部お話し下さるように、おすすめします」とポワロはすげなく言った。
「あなたは、私に、私が何かを知っていたならばと、おっしゃいましたね。しかし、私は何も知りません。全然何も知りません――今申し上げた通りで。しかし、私は何かを知らなくちゃいけないのです。それでユーウツなんです。知らなくちゃいけないのだから」
「何ですか、どうぞ、説明してください。ハードマンさん」
ハードマン氏は、ため息をついた。チューインガムを口から出し、ポケットの中につっこんだ。と同時に、彼の人柄は全く変ったように見えた。お芝居じみたところがうすれ、生《き》のままの人間が現われた。鼻にかかったふくみ声も変ってしまった。
「そのパスポートには少し嘘《うそ》があります」と彼は言った。「これが本当の私です」
ポワロは、自分の前にぴたりと置かれた名刺を見つめた。ブック氏がその肩ごしにのぞき込んだ。
サイラス・B・ハードマン
マックネイル探偵事務所
ニューヨーク市
ポワロはその名前を知っていた。それは、ニューヨークで一番有名な、一番信用のある私立探偵社の一つである。
「では、ハードマンさん」と彼は言った。「これにはどういう仔細があるのか、聞かせてください」
「もちろんです。こういう事態になったのですから。僕は、今度の事件とは関係のない二人組の犯人を追って、ヨーロッパへ渡って来たんです。この追跡はイスタンブールで終りました。僕は所長に電報を打ち、帰任の知らせを受けました。なつかしのニューヨークへ帰ろうとしていた時、これを受け取ったのです」
彼は一通の手紙を差し出した。
トカトリアン・ホテルの用箋であった。
拝啓――小生は、貴下がマックネイル探偵事務所の所員であられる由、承りました。本日、午後四時に、小生の部屋までご足労願えれば幸甚に存じます。
S・E・ラチェット、と署名されている。
「ほう、それで?」
「僕は指定の時刻に尋ねて行きました。ラチェット氏は事情を打ち明けました。彼の受け取った二通の手紙を、僕に見せました」
「彼はおびえていましたか?」
「平気をよそおっていましたが、内心は確かにおろおろしていました。彼は僕に一つの提案をしました。僕に、彼と同じ汽車でパリまで行き、護衛してくれというのです。そこで、同じ汽車で同行したのですが、何者かに殺されてしまいました。それで僕はくさりきっているところです。全く間の抜けた話です」
「彼は何か指示を与えましたか?」
「ええ、詳しい指示を。まず、僕が彼の隣りの部屋で旅行すること。ところが、これはお流れになってしまいました。僕は十六番しか取れず、それさえも一苦労でした。あの部屋は、車掌がいざという時のために取っておく予備室らしいのですね。まあ、そんなことはどうでもいいんですが。で、その部屋の様子を見回すと、十六番はなかなかかっこうな位置を占めている。イスタンブール寝台車の前には食堂車しかなく、プラットホームに出る前部の昇降口は、夜はドアを閉めたまま。犯人の通り得る唯一の道はプラットホームに出る後部の昇降口か、あるいは、後の車輛から車内を通って入るほかなく――いずれの場合も、僕の部屋の前を通らねばならない」
「あなたは、殺しに来そうだという人物については、多分、ご存じないのでしょうね」
「いや、大体は知っています。ラチェット氏が話してくれました」
「何ですって!」
三人の男は、おどろいて一斉に身体をのり出した。
ハードマンはつづけた。
「小柄な、髪の黒い、女のような声をした男、――あの老人はそう言いました。また、最初の晩ではないだろう、二晩目か三晩目らしい、とも言いました」
「彼は何かを知っていたんだな」とブック氏が言った。
「確かに、秘書に話していた以上のことを知っていたのです」とポワロは考えこみながら言った。「彼の敵のことについては何か話しましたか? 例えば、|なぜ《ヽヽ》彼の生命が狙《ねら》われているのか、など」
「いいえ。そういうことになると、とても無口でした。ただ、そいつが、自分の血を狙い、生命を奪おうとたくらんでいるのだ、とだけしか言いませんでした」
「小柄で――髪の黒い――女のような声の男」とポワロは考えこんで、呟いた。
それから、鋭い視線をハードマンに注いで言った。
「もちろん、あなたは、彼が実際には誰であったかをご存じでしょうね?」
「彼って?」
「ラチェットです。彼の正体を見抜いていたのでしょう?」
「どういうことです?」
「ラチェットはカセティです。アームストロング殺人事件の犯人です」
ハードマンは長い口笛を吹いた。
「これは驚いた!」と彼は言った。「本当ですか! いや、僕は知りませんでした。あの事件が起きた時には、西部へ行っていました。新聞で、彼の写真は見たわけですが。しかし、新聞の写真というのは、生みの母親でさえ見分けがつかないものですからね。カセティの写真だって、本人だと分かる人は、ほとんどいないでしょう」
「あなたは、アームストロング事件に関係のある人の中で誰かを知りませんか? 例の人相――小柄で、髪が黒く、女のような声に思い当るような人を」
ハードマンはしばらく考えていた。
「難かしいですね。あの事件に関係のあった者は、ほとんど皆死んでしまっていますから」
「窓から身を投げた少女もいましたね。覚えていますか?」
「そうだ。それはいい点にお気づきです。彼女は、たしか外国人でした。イタリア人の親戚をもっていたかも知れない。しかし、アームストロング事件の他の事件も、忘れることはできませんね。カセティは、この種の誘拐事件をいくつもやっていますからね。アームストロング事件だけに、しぼることはできませんよ」
「なるほど。だが、今度の犯罪はアームストロング事件に関係していると信じられる理由があるのです」
ハードマン氏は、その理由を聞きたそうな目を上げた。だが、ポワロは答えない。アメリカ人は頭を振った。
「アームストロング事件では、ああいう人相をした人間に思い当りません」と彼はゆっくりと言った。「しかし、もちろん、僕の関係した事件ではないから、余りよくは知らないのですが」
「では、あなたのお話を続けて下さい、ハードマンさん」
「もうほとんど言うことはありません。僕は、昼間眠り、夜になると起きて見張りをしていました。最初の晩は、怪しいことは何も起こりません。昨晩も、僕の知っている限りでは、同じでした。僕は、自分のドアをちょっと開けて、見張っていました。見知らぬ者は通りませんでした」
「それは確かですか。ハードマンさん?」
「確かです。外部から汽車に乗ってきた者もなく、後部の車輛から車内を通ってきた者もありません。誓います」
「あなたの場所から車掌を見ることはできますか?」
「ええ。車掌は、僕のドアの真向かいの、あの小さい席に腰かけていました」
「車掌は、汽車がヴィングコヴツィーで停車してからは、全然席を離れませんでしたか?」
「最後の駅のことですか? ええと、そうだ、彼は二度ベルに応えました。――あれは、汽車が止まったすぐ後でした。その後は、彼は、僕の前を通って、後の車輛に行きました――十五分間ばかり、そちらにいました。狂ったようにベルが鳴ったので、車掌は走って戻ってきました。僕は何ごとなのかと、通路まで出てみました。――探偵ってのは、こんなとき神経質になりますからね――すると、なんでもない、アメリカ婦人なんです。彼女は、つまらないことで、何やかやと大騒ぎしているところです。僕は苦笑しました。それから、車掌は、また別の部屋へ行ったり、来たりして、誰かのために炭酸水の瓶を持って行きました。それから後は、車掌は席に落ちついていましたが、しばらくして、一番はずれの部屋に、誰かのベッドを作りに行きました。その後は、今朝の五時頃まで、彼は動かなかったと思います」
「車掌は全然眠りませんでしたか?」
「分かりません。眠ったかも知れません」
ポワロはうなずいた。自動的に、その手はテーブルの上の書類を整理していた。彼はもう一度、旅券を取り上げた。
「ここへ御署名をお願いします」と彼は言った。
ハードマンは求めに応じた。
「あなたのことを証明できる方はいらっしゃらないでしょうね?」
「この汽車にですか? そうですね。無いこともありません。あの若いマッキーン君ですがね。僕は彼をよく知っているのです――ニューヨークの彼のお父さんの事務所で会ったことがあるから――しかし、他の大勢の探偵たちの中で、僕のことを覚えているかどうか分かりませんね。やはり、雪が止んでから、ニューヨークへ電報を打たれる他ないでしょうね。でも大丈夫です。僕は嘘は言っていません。では失礼します。皆さん。あなたにお会いできて幸いでした、ポワロさん」
ポワロはシガレット・ケースを差し出した。
「でも、多分、あなたはパイプの方がお好きでしょうね?」
「いいえ」
彼は一本とって、元気よく出て行った。
三人の男は、互いに顔を見合せた。
「本物だとお思いですか?」とコンスタンチン博士が聞いた。
「ええ。タイプで分かりますよ。それに、嘘なら、簡単に分かってしまいます」
「彼は、たいへん興味ある証言をしましたね」とブック氏が言った。
「まったく」
「小柄で、髪が黒く、甲高い声をした男」とブック氏は、考えこみながら、言った。
「この汽車にいる誰にも該当しない人相ですよ」とポワロは言った。
第十章 イタリア人の証言
「さて、今度こそ」とポワロはいたずらっぽく目を光らせて、言った。「ブックさんお気に入りの、イタリア人に会うことにしましょう」
アントニオ・フォスカレリは、す早く猫のような足どりで、食堂車へやって来た。彼は笑いを浮かべている。陽やけし、浅黒い顔の、典型的なイタリア人だ。
彼は、フランス語を、ちょっとイタリア訛りが出るにはでるが、しかしきわめて流暢《りゅうちょう》に話した。
「お名前は、アントニオ・フォスカレリさんですね?」
「そうです」
「国籍は帰化米国人ですね?」
アメリカ人は微笑した。
「はい。商売上便利ですから」
「あなたは、フォード自動車会社の代理店経営者ですね?」
「ええ、そうでして――」
すると、それからとうとうたる熱弁が始まった。それを終えた頃には、三人の男はフォスカレリの商売上のこと、その旅行、収入、アメリカおよびほとんどのヨーロッパ諸国に対する見解に至るまで、何から何までを聞かされた。もし聞かされないことがあるとすれば、それは取るに足りないことであろう。頭のなかから、相手に伝えるべき知識を引っぱり出してこなければならない人間ではないのだ。知識の方から噴き出してくるのである。
彼は善良な、子供っぽい顔を満足げに、ほころばせていた。最後の雄弁な身振りで話を終えると、ハンカチーフで額を拭った。
「そんなわけで」と彼は言った。「私は大きな商売をやっています。時代の先端をいっています。これがセールスマンシップというものです!」
「あなたは、ここ十年間、アメリカに出たり入ったりしていらっしゃるのですね?」
「そうです。ああ! 初めて船に乗った日――はるばるアメリカへ向けて出発した日のことを思い出しますよ! 母や、妹が――」
ポワロは、その追憶の洪水をせき止めた。
「アメリカに御滞在中、あの殺された男に出会ったことがありますか?」
「いや、ありません。でも、ああいった種類の人間なら知っていますよ。知っていますとも」と彼は、意味ありげに指を鳴らした。「ご立派な紳士で、ご大層な服装をしていて、その実、中身はとても邪悪な奴。私の経験からいえば、あの男は、したたかな悪漢ですな。本当ですよ」
「御見解は全く正確です」とポワロはさりげなく言った。「ラチェットは、幼児誘拐犯カセティです」
「だから、言わないことじゃない。なにしろ人相見にかけちゃあ――私は年季がはいっていますからね。年季が入らなきゃ、この商売はできない。商売といやあ、コツを覚えるのはやはりアメリカに限りますな」
「あなたは、アームストロング事件を覚えていますか?」
「よくは覚えていませんが、ええ、名前は知っています。女の子――赤ん坊――でしたな?」
「そうです。非常に悲劇的な事件でした」
この見解に、このイタリア人だけが初めて、反対した。
「いや、そういう事件なら、ざらにありますよ」と彼は悟ったような言い方で、言った。「アメリカのような、ああいう大文明国では――」
ポワロはそれを遮《さえぎ》った。
「あなたは、アームストロング家の誰かに会ったことがおありですか?」
「いや、ないと思いますね。でも、何とも言いかねますな。ちょっと数字をお見せしましょう。なにしろ昨年一年でも、私の取引きは――」
「どうぞ要点だけにして下さい」
イタリア人は、両手を振って、謝る身振りをした。
「あい済みません」
「昨夜の食事のあとのあなたの行動を、正確にお話し下さい」
「よござんすとも。昨夜はできる限り長く、この食堂車にねばっていました。ここの方が、面白いのです。私は、同じテーブルのアメリカ紳士と話していました。彼はタイプライターのリボンを売るのが商売でしたな。それから、私は自分の部屋へ戻りました。部屋は空っぽでした。同室のあの哀れなイギリス人さんは、ご主人の部屋へ呼びつけられて行ってたわけで。そのうちやっと、大将が戻って来ました――いつもの陰気な顔付をして。話しかけても乗ってきません――『イエス』と『ノー』と言うだけです。イギリス人というのは、まったく哀れな種族ですな――第一思いやりがない。隅っこにかしこまって、坐って、本を読んでいるだけです。それから、車掌がやってきて、二人のベッドを作ってくれました」
「四番と五番ですね」とポワロはつぶやいた。
「その通りです――はずれの部屋で。私のベッドは上段で、私はそこに上がり、タバコをすったり、読み物をしたりしました。大将は、歯痛を起こしたらしいのです。とても強い匂いのする薬の小瓶をとり出して、ベッドに横になって、うなっていました。そのうち、私は眠ってしまいました。時折り目を覚ますと、いつも大将はうなっていました」
「彼は、夜中に一度も部屋を出なかったかどうか、ご存じですか?」
「出なかったですな。もし出れば、音でわかります。もしドアがあけば、通路からの灯りで――自然に目が覚めますよ、国境の税関の調べかと思って」
「彼は主人の話をしたことがありますか? 主人に対しての悪口を言ったことがありますか?」
「なにしろ、大将はてんで口をきかんのですから。他人に親しみってものを抱かない男なんですからな。魚みたいな人間でさ」
「あなたは、タバコをすうと言われましたが――パイプですか、巻タバコですか、それとも葉巻ですか?」
「巻タバコだけです」
ポワロが巻タバコを差し出すと、イタリア人は一本ぬき取った。
「あなたは、シカゴにいらっしゃったことがありますか?」とブック氏が聞いた。
「ありますとも――すばらしい町ですな――しかし、私のよく知っているのは、ニューヨークやクリーヴランド、デトロイトなんでしてね。あなたは、アメリカにいらっしゃったことは? ほう、おありじゃない。では、ぜひいらっしてごらんなさいな。あすこは――」
ポワロは一枚の紙を彼の前に押しやった。
「どうぞ、これに署名して、住所をお書き下さい」
イタリア人は気取った書体で書いた。そして、彼は立ち上った。――相変らず、にこにこして。
「これで終りですか? もうお尋ねになりたいことはおありじゃないので? では、みなさん、ごめん下さい。この雪から列車がぬけ出られるとよろしいのですがね。私はミラノに約束があるので――」と彼は悲しそうに頭を振った。
「このままじゃ、取り引きがオジャンになってしまいます」
彼は出ていった。
ポワロはブックを見た。
「彼は、アメリカに長い間いたし」とブック氏は言った。「それにイタリア人です。イタリア人は、剣を使います! それに彼らは大嘘つきでね! 私はイタリア人が嫌いだな」
「今に分かりますよ」とポワロは笑いながら言った。「あるいは、あなたが正しいのかも知れない。しかし、この点だけは、はっきりしておきますが、あの男には、何一つ不利な証拠はないのです」
「では、心理的見地からはどうです? イタリア人は刺しませんか?」
「刺しますとも」とポワロは言った。「ことに、喧嘩でカッとなった時にはね。しかし、これは――そういう種類の犯罪ではない。これはきわめて綿密に計画されて遂行された犯罪だと思いますね。これは、見通しのきく、優秀な頭脳をもった者の犯罪です。どう言ったらいいかな――|ラテン民族《ヽヽヽヽヽ》の犯罪ではない。冷静な、機略に富んだ思考力ゆたかな頭脳の持ち主の犯罪――アングロ・サクソン系の頭脳の持ち主でしょうね」
彼は、最後の二つのパスポートを取り上げた。
「では、次は」と彼は言った。「メアリー・デベナム嬢に会いましょう」
第十一章 デベナム嬢の証言
食堂へ入ってきた時のメアリー・デベナム嬢の姿は、ポワロの以前の印象を一層強めた。
黒のスーツに、フランス製のグレーのブラウスをひどく端正に着こなし、なめらかにウェーヴした黒髪は、きちんと整っていた。その態度も、髪と同様、もの静かできちんとしていた。
彼女は、ポワロとブック氏の向かいに坐り、物問いたげな様子で、二人を見つめた。
「あなたのお名前はメアリー・ハーミオン・デベナム、お年は二十六歳ですね?」とポワロが始めた。
「はい」
「国籍はイギリスですね?」
「はい」
「どうぞ、ご住所をこの紙にお書き下さいませんか?」
彼女はそれに応じた。その筆跡は、きれいで、はっきりしていた。
「さて、お嬢さん。昨夜の事件について、何かお話しいただけませんか?」
「何も申し上げることはありません。私はベッドに入り、眠っておりましたから」
「この汽車で犯罪が起きて、さぞ、ご迷惑でしょうね?」
この質問は、意外であったに違いない。彼女は灰色の目をみはった。
「おっしゃる意味が分かりかねますけれど」
「たいへん単純な質問をしているつもりですが……。もう一度申し上げますと、この汽車で犯罪が起きて、さぞご迷惑でしょうね?」
「私、昨夜の事件をそんな見方では、見ませんでした。ですから別に、迷惑だとは申し上げられません」
「犯罪――これもあなたにとっては、日常茶飯の事柄に入るのでしょうか?」
「もちろん起こってもらっては嬉しくない事柄でございますわ」とメアリー・デベナムは静かに言った。
「あなたは、実に典型的なアングロ・サクソンでいらっしゃる。感情を表にお現わしにならないお人柄だ」
彼女はちらと、微笑んだ。
「ヒステリーになってまで感情を表に現わすことは、嫌でございますわ。それに、結局、人間は毎日死んでおりますもの」
「それは、確かに死んでおります。しかし、殺人はきわめてまれにしか、起こっておりません」
「そうでございますね」
「あなたは、なくなった人間とお知り合いではなかったのですね?」
「私、昨日ここで昼食のときお会いしたのが最初でございます」
「どう、お感じになりましたか?」
「別に気にとめませんでしたもの」
「悪人という印象をお持ちになりませんでしたか?」
彼女はちょっと肩をすくめた。
「本当に、私、そういう印象を受けたとは申し上げられません」
ポワロは、じっと彼女を見つめた。
「あなたは、私のこうした質問のしかたを、少し軽蔑していらっしゃるでしょうね」
と彼はいたずらっぽく目を光らせて言った。「イギリスの尋問はこんなふうではないと、お考えですね。何事も簡潔で、はっきりして――事実が重視され――実に整然として事務的だと。しかし、私には、私なりに小さな独創があるのです。私は、まず参考人を見て、その人柄を把握しそれに応じた質問をするのです。先ほど、あらゆることについて自分の意見を洗いざらい話したがる紳士の方と面接いたしました。その紳士が話の焦点からそれないようにと、私は注意して、『イエス』か『ノー』あれかこれかで答えてもらうようにしました。その次が、あなたです。すぐに私は、あなたが理路整然とした方だと知りました。あなたは、必要な当面の問題にだけ話をしぼる方です。簡潔で要をえたお答えをなさる方です。もって生れた性質というものがどうしようもないからこそ、私はあなたの性質とは逆に逆にと質問をしてみているのです。どう|お感じ《ヽヽヽ》になりますかとか、どういう印象をお受けになりますかとか。この方法がお気に入りませんでしたか?」
「そう申しては失礼ですが、何か、時間の浪費みたいに思えます。例えば、ラチェットの顔が好きか嫌いかなどということは、犯人を探すのに何の役にも立たないことのように思えます」
「ラチェットが誰であるかご存じですか、デベナムさん?」
彼女はうなずいた。
「ハッバード夫人が、皆さんに話していらっしゃいました」
「あなたは、アームストロング事件をどうお考えですか?」
「全く忌まわしい事件です」と彼女は短く答えた。
ポワロは、何事かを考えながら相手を見つめた。
「あなたは、バグダードからいらっしゃったのでしたね?」
「はい」
「ロンドンまでですか?」
「はい」
「バグダードでは何をしておいででした?」
「二人の子供たちの家庭教師をしていました」
「休暇が終ったら、また、その仕事におもどりですか?」
「決まっていません」
「なぜですか?」
「バグダードは不便です。適当な仕事がありましたら、ロンドンで職につきたいと思っています」
「そうですか。あなたはご結婚なさるのかと思っていました」
デベナム嬢は答えなかった。彼女は目を上げ、真正面からポワロの顔をみつめた。
その美しい目は、はっきり「あなたは、何て無作法な方でしょう」と言っていた。
「あなたは、同室の御婦人――オルソン嬢をどうお思いです?」
「感じのいい、素直な方のように思います」
「彼女の化粧着は何色ですか?」
メアリー・デベナムは驚いて目を見はった。
「茶色がかったラクダ色の毛糸編みです」
「なるほど! ところで、ぶしつけですが、あなたの化粧着は、アレッポからイスタンブールヘ行く途中でお見受けしたのですが、淡い藤色でしたね、確か」
「ええ、そうです」
「他に化粧着はお持ちですか? 例えば、赤いガウンなど?」
「いいえ、あれは私のではありません」
ポワロは前にのり出した。猫がネズミに飛びかかる勢いなのだ。
「では誰のです?」
彼女は、少し身を退いて、目を見はった。
「存じません。でもなぜですか?」
「あなたは、『いいえ、私はそういう品は持っていません』とはおっしゃいません。『あれは私のではありません』と言われました。――つまり、他の誰かが現に持っているものだという意味になりますね」
彼女はうなずいた。
「この汽車の誰かですか?」
「はい」
「それは誰のですか?」
「ただ今申し上げた通りです。私、知りません。私は、今朝五時頃、汽車が長く止まっているような感じがして目を覚ましました。駅かも知れないと思って、ドアを開け、通路をのぞきました。すると、誰か真赤なキモノを着た人が、通路の向こうの方に見えました」
「あなたは、それが誰かご存じないのですね?その女性は金髪でしたか? 黒髪でしたか? それとも、灰色でしたか?」
「なんとも申せません。キャップをかぶった後姿を見ただけなのですから」
「体つきは?」
「背は高くて、ほっそりしていたと思いますが、でも、よくは分かりません。そのキモノには、竜の刺繍がしてありました」
「そう、そう、その通りです。竜」
ポワロはしばらくの間、黙りこんでしまった。そして、やがて一人ごとをつぶやいた。
「判らない。判らない。どれもこれも意味をなさない」
それから、顔を上げて、彼は言った。
「これ以上、ここにいらしていただく必要はございません、お嬢さん」
「ああ!」彼女は意外そうだったが、すぐに立ち上った。
しかし、ドアのところで、一瞬ためらってから、また戻ってきた。
「あのスウェーデンのご婦人――オルソンさんでしたかしら――あの方、相当気にやんでいらしたようでした。あの男の生きている姿を最後に見たのはあの方だと、あなたから言われたとおっしゃって。そのため、あなたから疑われているのではないかとお考えのようで。それは誤解だといってさし上げてもよろしいでしょうか? 本当にあの方は、蠅一匹殺せない人なんですもの」彼女はほほえみをうかべながら、そう言った。
「あの方がハッバード夫人にアスピリンをもらいに行ったのは、何時でしたか?」
「十時半ちょっと過ぎでした」
「どの位行っていましたか?」
「五分位です」
「それから、また部屋を出ましたか?」
「いいえ」
ポワロは医者の方を向いた。
「ラチェットが、その頃殺されたということもありえますか?」
医者は頭を横に振った。
「では、お友だちを、安心させて上げてもいいでしょうね」
「有難うございます」デベナムは急にポワロに微笑した。それは、思わずつりこまれてしまいそうな微笑だった。「あの方は、羊のような方なのです。心配して、泣き声まで洩らしていらっしゃいましたのよ」
彼女はくびすを返して、出て行った。
第十二章 ドイツ貴婦人の小間使の証言
ブック氏は、不審そうにポワロを見た。
「私には、全くあなたが分からない。いったい何をしようとしているのです――何を?」
「私はね、ひび割れを探していたんだ」
「ひび割れ?」
「そう――あの若い女性の冷静さの仮面の下にね。彼女の|冷静さ《ヽヽヽ》をぐらつかせたいと思っていたのだ。成功しただろうか? 分からない。ただ、これだけは判っている――私がああいう突っこみ方をしようと彼女が予期していなかったということは」
「彼女を疑っているんですね」とブック氏がゆっくり言った。「なぜです? 彼女は、たいへん魅力的なお嬢さんじゃありませんか――こんな犯罪とは、一番縁の遠い人ですよ」
「賛成ですね」と、コンスタンチンが言った。「彼女は冷静です。感情的にならない。男を刺したりはしません。法廷で闘うでしょう」
ポワロは、嘆息をついた。
「これは、不用意な、突発的な犯罪だという考え方をお二人とも捨てなくては駄目です。デベナム嬢を疑う理由は、二つあります。一つは、私があることを立ち聞きしたためです。あなたがたはまだご存じないことですが」
彼は二人に、アレッポからの旅行中に立ち聞きした、あの不思議な言葉のやり取りを話した。
「確かにおかしい」と聞き終って、ブック氏は言った。「これははっきりさせる必要がある。もし、あなたの今言った事柄通りだとしたら、あなたの疑われるのも、もっともです。それなら二人は事件に関係していることになる――彼女とあの頑固なイギリス人とは」
ポワロはうなずいた。
「だがまた、これを裏切る反証があるのです」とポワロは言った。「もしこの二人が二人ともこの事件に関係しているとすれば、どういうことが予想できますか――互いに相手のアリバイを証明しようとする。そうじゃありませんか? しかし――そんなことは起こらなかったのです。デベナム嬢のアリバイは、彼女がこれまで一度も会ったこともないスウェーデン婦人によって立証されており、アーバスノット大佐のアリバイは、殺された男の秘書のマッキーンによって、保証されています。この謎の解決は、それほど簡単ではないのです」
「彼女を疑う、もう一つの理由があると、さっきあなたは言いましたね」とブック氏がうながした。
ポワロは微笑した。
「ああ、あれですか! しかし、これはほんの心理的なことでしてね。デベナム嬢がこういう犯罪を計画することは可能だろうかと、私は考えてみたのです。この事件の背後には、冷静で、知的な、機略に富んだ頭脳が存在すると、私は確信しているのです。そして、デベナム嬢はこれに該当する」
ブック氏は頭を横に振った。
「あなたの思い違いだと思うね。私には、あのイギリスの若い女性が罪を犯すとは考えられないよ」
「なるほど」とポワロは言って、最後のパスポートを取り上げた。「ともかく、リストの最後の人物、小間使のヒルドガード・シュミットに会いましょう」
呼び出しを受けて、ヒルドガード・シュミットは食堂車に入って来た。そして、うやうやしく立ったまま、待った。
ポワロは坐るようにと、うながした。
彼女は坐り、両手を膝におき、質問されるのを、静かに待った。たいして頭がいいというのではないが――物静かな――立派な人柄のようである。
ポワロの、ヒルドガード・シュミットに対するやり方は、メアリー・デベナムに対する時とは、まるで反対だった。
たいへん親切な、やさしい態度で、相手を気楽にさせてから、名前と住所を書かせて、ポワロはおだやかに質問に入っていった。
会話はドイツ語で行なわれた。
「私たちは、昨夜起こったことについて、できる限り、いろいろと知りたいのです」と彼は言った。「犯行そのものについては、あなたが多くをご存じであるはずはないと分かっています。しかし、あなたにとってはなんでもないことでも、実は私たちに貴重なものを、あなたは見るなり、聞くなりなさっているかも知れないのです。お判りですね?」
だが、相手は判った様子もなかった。その肥った、善良そうな顔に、相変らず静かで愚鈍な表情を浮かべたまま、答えるのだ。
「私は何も存じません」
「例えば、奥さまが、昨夜、あなたをお呼びになったのは、ご存じでしょう?」
「はい、それは」
「その時間を覚えていますか?」
「存じません。私が眠っておりました時に、車掌さんが来て、私を呼びましたので」
「なるほど。そんなふうに、呼び出されるのは、いつものことなのですか?」
「珍らしいことではございません。奥さまは、夜分、時々、私をお呼びになりました。よくお休みになれないのです」
「なるほど。あなたは呼び出しを受けて、起きたのですね。化粧着を着たのですか?」
「いいえ。ちゃんと服に着換えました。奥さまのところに、化粧着でうかがうようなことはいたしません」
「たいそう上等の化粧着でもですか?――真赤のでしたね?」
ヒルダは目をみはった。
「紺色のネルの化粧着でございます」
「ふうん! いや、続けてください。今のは、ほんの冗談です。で、あなたは、公爵夫人のところへいらしたのですね。そこで何をしました?」
「マッサージをして、それから、ご本を読んでさしあげました。私は声を出して読むことは、上手ではありません。でも奥さまは、その方がよい、その方が睡くなってよいとおっしゃいます。そして、お睡くなられましたので、私に、戻ってもよいとおっしゃいました。それで、私は本を閉じ、自分の部屋へ戻りました」
「それは何時だったか、判っていますか?」
「いいえ」
「では、あなたはどの位、公爵夫人のところにいらっしゃいましたか?」
「三十分ほどでございます」
「なるほど。それで?」
「まず、私は自分の部屋から、毛布を一枚、奥さまのところへお持ちしてまいりました。暖房はきいておりましたが、大そう寒い夜でございましたので。私が、奥さまの上に毛布をお掛けしますと、お休みなさいと申されました。私は、炭酸水をお注《つ》ぎしました。それから灯りを消して、お部屋を出ました」
「それから?」
「もう何もございません。私は、自分の部屋にもどって、眠りました」
「通路で誰かに会いませんでした?」
「いいえ」
「例えば、竜のついた真赤なキモノを着た婦人に会いませんでした?」
彼女は、柔和な目を大きくして、ポワロを見た。
「いいえ、車掌さんの他には、誰もいませんでした。どなたも眠っていらっしゃいました」
「では、車掌には会ったんですね?」
「はい」
「車掌は何をしていましたか?」
「車掌さんは、どなたかのお部屋から出ていらっしゃいました」
「なんですって?」とブック氏が前に乗り出した。
「どの部屋です?」
ヒルドガード・シュミットは、また、おびえたような様子をした。ポワロは、たしなめるような一べつを友人に投げた。
「当然」とポワロは言った。「車掌は、夜、時々、ベルに答えねばなりませんからね。それがどの部屋だったか、覚えていますか?」
「中ほどでございました。公爵夫人のお部屋から二つか、三つ目の」
「ほう! 正確に、どの部屋だったか、そして何が起こったか、おっしゃっていただけませんか?」
「車掌さんは、もうちょっとで私にぶつかりそうになりました。私は毛布を持って、自分の部屋から奥さまのお部屋へ行くところでした」
「その時、車掌がある部屋から出て来て、あなたに鉢あわせしそうになったんですね? 彼は、どちらへ行くところでしたか?」
「私の方へです。私に謝ってから、食堂車の方へ通路を通って行きました。ベルが鳴りはじめましたが、車掌さんはそちらに行かなかったと思います」
彼女は言葉を切り、そして言った。
「どうしてなのか、私には判りませんけれど――」
ポワロは、安心させるように、言った。
「きっと、時間の問題なのです。よくあることですよ。車掌君は昨夜、忙しかったらしい。――まず、あなたを起こし、それから、他のベルの鳴ったところへ行かなくちゃならないし」
「それは、私を起こしに来た車掌さんではございません。別の車掌さんなのでございます」
「ほう! 別の車掌! あなたは、前にもその人に会いましたか?」
「いいえ」
「ふうん! 今会っても、その顔が判ると思いますか?」
「はい、判ると思います」
ポワロはブック氏の耳に何かをつぶやいた。ブック氏は立って、ドアの方に行き、命令を与えた。
ポワロは気のおけない、親しみのある態度で質問を続けた。
「シュミットさん。あなたはアメリカへいらしたことはおありですか?」
「ございません。素晴らしい国でございましょうね」
「殺された男が何者か、たぶん、あなたはお聞きでしょうね――幼児殺しの犯人だということを?」
「はい、うかがいました。恐ろしいおぞましい犯罪でございますこと。神様は、そんなことをお許しになりません。ドイツには、そんな恐ろしい犯罪はございません」
目には涙が浮かんでいた。強い母性的な魂がゆすぶられたのだ。
「恐ろしい犯罪でした」とポワロは重々しく言った。
彼はポケットから、一枚の白麻のハンカチーフを取り出して相手に渡した。
「これはあなたのハンカチーフですか、シュミットさん?」
相手は、しばらく黙って、それを調べていたが、暫くたってから、顔を上げた。その顔はいくぶん上気している。
「あの! いいえ。私のではございません」
「Hという頭文字がついているでしょう。それであなたのかも知れないと思ったのですが」
「おお! これは貴婦人のハンカチーフでございます。たいへん高価なハンカチーフで。手縫いの刺繍がしてございます。パリ製だと存じますけれど」
「あなたのでなければ、どなたのだか、ご存じありませんか?」
「私が? まあ、いいえ」
三人の男たちの中で、ポワロだけが、彼女の返事の中に、躊躇のひびきのあるのを聞き分けた。
ブック氏がポワロの耳にささやいた。ポワロはうなずき、小間使に言った。
「三人の寝台車つきの車掌が来ます。あなたが、昨夜、公爵夫人のところへ、毛布を持って行こうとした時、出会ったのは、どの車掌か、教えてください」
三人の男が入って来た。ピエール・ミシェルと、アテネ=パリ車輛の大柄で金髪の車掌と、ブカレスト車輛の肥って、屈強な車掌である。
ヒルドガード・シュミットは、三人を見ると、直ちに頭を振った。
「いいえ」と彼女は言った。「昨夜、会った車掌さんは、この方たちの中にはいません」
「しかし、この汽車には、三人しか車掌はいないのです。あなたの間違いじゃないでしょうか」
「確かでございます。この方たちは皆、背が高くて大きくていらっしゃる。でも私が見ましたのは、小柄で髪の黒い人でした。それに小さい口髭をつけておりました。『ごめんなさい』と言った時のその声は、女のように弱々しい声でした。本当に私、よく覚えているのでございます」
第十三章 乗客の証言の綜合
「小柄で、髪の黒い、女のような声の男」とブック氏が言った。
三人の車掌とヒルドガード・シュミットとは、もう退場していた。
ブック氏は、絶望的な身振りをした。
「しかし、私には、何も分からない――まるで何も! あのラチェットが語った敵は、やはり、汽車に乗り込んでいたのだろうか? それなら、今はどこにいるのだろう? どうして、その男は、空気となって消え失せることができたのだろう? 私の頭はから回りしだした。頼むよ、何とか言ってください。教えて下さい、どうして、こんな不可能なことが可能でありうるのか!」
「なかなかの名言ですな」とポワロは言った。「不可能なことが可能であったはずがない。だから、その不可能なことは、不可能に見えるだけであって、実は、可能なことにちがいない」
「では、早く説明してくださいよ、昨夜この汽車で、どんなことが起こったのかを」
「私は魔法使いじゃありませんよ。あなた同様、私も途方に暮れているんです。この事件は、ひどく奇妙な具合に進んでいるものだから」
「全然、進んじゃいない。同じところに止まったままだ」
ポワロは首を振った。
「いや、そんなことはない。私たちは次第に、進んでいる。確実なことを知ってきている。乗客の証言を聞いたのだし」
「でも、何が判りました? 何も分かってはいないでしょう」
「私はそうは思わない」
「何も判ってないとは、言いすぎだけれど。アメリカ人の、ハードマンとドイツ人の小間使と、そりゃあ多少参考になることは言ってくれた。しかし、そのために、かえって、事件の全貌は一段と不可解になった」
「いや、いや、そうじゃあありませんよ」とポワロはなだめるように言った。
ブック氏は、つっかかって来た。
「じゃあ、言ってもらいましょう。エルキュール・ポワロの知恵のあるところを伺いましょう」
「ご同様に、大いに途方にくれているところだと、さっき言ったでしょう? しかし、やっと問題とまともに取り組めるには取り組めたのです。私たちの知ってきた事実をきちんと秩序だてることが、できるにはできたのです」
「それをどうぞ、おっしゃって下さい」とコンスタンチン博士が言った。
ポワロは咳払いして、吸取紙をまっすぐにした。
「今までに分かったところまでで、事件を検討してみましょう。まず、明白な事実がいくつかあります。ラチェット、あるいはカセティは、十二か所を刺されて昨夜死んだ。これが第一の事実です」
「確かにその通りですな――認めましょう」とブック氏は皮肉な身振りで言った。
エルキュール・ポワロは少しもひるまず、平静につづけた。
「死体の奇怪な外観については、コンスタンチン博士と私とで充分話しあったことなので、今はとばして後まわしにしましょう。第二の重大な事実は、犯行の時間《ヽヽ》だ、と私は思います」
「それもまた、私たちの知った二、三の事実のなかの一つですな」とブック氏が言った。「犯行は今暁の一時十五分に行なわれた。すべての事柄がこれを証明しますな」
「すべての事柄じゃない。それは言いすぎです。その見解を肯定する数多くの証拠があるというまでのことです」
「どうやら、それだけは認めていただけて、うれしいですよ」
ポワロは、そんな横槍にはかまわず、落ち着いて、先をつづけた。
「犯行時刻については、三つの可能性があります。
第一の可能性としては、犯行は、あなたも言うように、一時十五分。これは、ドイツ人ヒルドガード・シュミットの証言によって支持され、コンスタンチン博士の証言とも一致します。
第二の可能性としては、犯行は一時十五分以後。これは現場の証拠の時計は、故意に置き忘れられたのだという見方です。
第三の可能性は、犯行は一時十五分以前。これも前と同じ理由で、現場の時計はわざと毀されたという見方です。
さて、もし第一の可能性を、最も自然であり、最も多くの証拠によって支持されているものとして、受け入れるならば、それから派生するいくつかの事実も受け入れねばならない。まず、犯行が、一時十五分に行なわれたならば、犯人は汽車から脱出できなかった。そのため、次の疑問が起こります。犯人はどこにいるのか? 犯人は誰《ヽ》か?
まず、証言を注意ぶかく検討してみましょう。わたしたちは、第一に、ハードマンという男から――小柄で髪の黒い、女のような声の――男の存在について聞いている。ハードマンによると、ラチェットは彼に、この男について語り、この男から守ってもらうために彼を雇ったということです。この話を支持する証拠はありません――ハードマンの言葉があるにすぎません。
次の問題を検討してみましょう。果してこのハードマンは、彼の自称する通りのニューヨークの探偵事務所の所員であるのか?
この事件で、私に非常に興味のあるのは、警察官に与えられている便宜を、私たちは一つも与えられていないということです。私たちには、これらの乗客の証言の真偽を調べることができません。ただ推理に頼るだけです。これが私には非常に面白いのです。これは、ありきたりの仕事ではないのです。理知に頼る他はない仕事です。『ハードマンの自分自身についての証言は受け入れることができるかどうか?』と私は自問します。私は決断して『イエス』と答えます。私は、ハードマンの自分自身についての証言は受け入れることができるものだという意見なのです」
「あなたは、アメリカ人のいわゆる勘――つまり直感に頼られるのですね?」とコンスタンチン博士が言った。
「とんでもない。私は、いろいろの可能性を検討した上で決断するのです。ハードマンは、贋《にせ》の旅券で旅行している――これだけでも、すぐに疑いのたねになります。こういう場合にのぞんだ時、警察が行なう最初のことは、ハードマンを拘留しておき、電報で、本人の証言が真実かどうかを確かめることです。だが、大勢の乗客の場合には、証言の真偽をいちいち確かめるのは困難です。特に嫌疑のかかっている人間でない限り、そういう方法はとらないでしょう。だが、ハードマンの場合は簡単です。彼が自称する通りの人物であるかどうか。すべては、すぐに明らかにされることです」
「あなたは、あの男を嫌疑の外におかれるのですね?」
「いいえ。あなたは誤解していらっしゃる。私の知る限りでは、アメリカの探偵たちは、誰でも、ラチェットを殺してやりたいと、心の中で思わない者はありますまい。まあ、これは余談ですが、ともかく、私は、ハードマン自身の説明はそのまま信用することができると思います。だから、ラチェットが彼を見つけて、雇ったという話も、いかにもありうることであって、もちろん、絶対に真実とはいえないが、まずは本当でしょう。もし、これを本当だと認めるなら、その裏付けがあるかどうかを調べねばなりません。ところが、その裏付けは思いがけない所に――ヒルドガード・シュミットの証言に現われているのです。彼女が見た寝台車の車掌の制服を着た男の人相が、ハードマンの話したラチェットの敵の人相とぴったり一致するのです。他にも何か、この二つの証言の裏付けはないでしょうか? あります。ハッバード夫人が自分の部屋で見つけたボタンです。もう一つ、これを確認する証言があるのです。あなた方はお気づきにならなかったかも知れませんが」
「何ですか?」
「アーバスノット大佐とヘクター・マッキーンの二人が、車掌が彼らの部屋の前を通ったと言ったことです。二人は、その事実を重要視しませんでした。しかし、ピエール・ミシェルは、ある特別な場合以外は、自分の席を離れなかったと断言しており、特別な場合もアーバスノットとマッキーンの坐っていた部屋の前を通って、車輛のはずれへは行かなかったはずです。
こういうわけですから、この寝台車の車掌の制服を着た、女のような声をした、小柄で髪の黒い男の話は――直接にしろ間接にしろ――四人の証言で立証されているのです」
「ちょっとした点についてですが」とコンスタンチン博士が言った。「もし、ヒルドガード・シュミットの話が本当なら、どうして、本物の車掌は、ハッバード夫人のベルに応えに行った時に、ヒルドガードに会わなかったのでしょうか?」
「それは説明がつくのではありませんか。ミシェルがハッバード夫人のベルに応えに来た時、小間使は自分の女主人の公爵夫人の部屋にいたし、最後に彼女が自分の部屋へ戻った時には、今度はミシェルの方がハッバード夫人の部屋に入っていたのです」
ブック氏は、この話の終るのを待ちかねていた。
「もっともです、もっともです、ポワロさん」と彼はじりじりして言った。「あなたの注意力と着実なやり方には敬服の他ありませんが、しかし残念なことに、まだ問題の核心にせまってはいらっしゃらない。私たちは皆、その男の存在は認めています。しかし、問題は――|その男はどこへ行ったか《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》? です」
ポワロは、そうではないというしるしに、頭を横に振った。
「あなたは間違っている。本末を転倒している。『その男はどこへ消え失せたか?』と自問する前に、『その男は事実、実在したのか?』と私は自問するのです。なぜなら、もしその男が、作りもの――架空の人間――だったとしたら、その男を消え去らせるのは、まことに簡単なことなんですからね! で、私はまず、そういう血肉をもった作りものでない人間が、実際に存在しているのかどうかということを、はっきりしてかかろうとしているわけです」
「そういう人物が実際にいるということになったのだとしたら、――では――その男はいま、どこにいるのですか?」
「これに対する解答は二つだけです。その男は、いまもこの汽車のなかの、われわれには思いも及ばない、途方もなく巧妙な場所に隠れているか、さもなければ、いわゆる一人二役です。つまり、その人間は――ラチェットの恐れた男であり――また、ラチェットさえ見破れなかったほど巧みに変装している、この列車の乗客なのです」
「それはいい思いつきだ」と、ブック氏は顔を輝やかして言った。しかし、また、再び顔を曇らせた。「だが、一つの難点がある――」
「男の身長。あなたはこのことを言いたかったのでしょう? ラチェットの従僕を除けば、すべての乗客は大男ばかりです――イタリア人も、アーバスノット大佐も、ヘクター・マッキーンも、アンドレニイ伯爵も。従僕が残りますが、これはどうも、犯人くさくはない。しかし、ここに、もう一つの可能性があります。『女のような』声を思い出してください。性の転換が考えうる。男が女に変装するか、あるいはその反対に、女が男装しているかもしれない。背の高い女が男装すれば、小柄に見えます」
「しかし、それなら、ラチェットは知っていたでしょう――」
「おそらく、彼は知っていた。あるいは、もうこれまでにも、首尾よくその目的を果すため、その女は男装して彼の生命を狙ったことがあるかも知れない。ラチェットは、彼女が再び同じ変装をするだろうと予想して、ハードマンに、男を探すように話した。そしてわざわざ、女のような声とつけ加えたのかも知れない」
「それもあり得ることだ」とブック氏が言った。「しかし――」
「まあ、聞いて下さい。これから、検屍のときにコンスタンチン博士が気づいた、いくつかの矛盾についてあなたにお話しようと思うんですから」
彼は、死体の傷の様子から推して到達した彼と医者との結論を話した。ブック氏はうなりだして、また、頭をかかえこんだ。
「分かるとも」とポワロは同情して言った。「あなたの気持はよく分かるとも。頭が空まわりを始めたのでしょう」
「何もかもが幻想じみてる」と、ブック氏が叫んだ。
「その通りです。実に不合理で――不可能で――あり得ないことばかりです。私自身、何度そう口に出して言ったかわからないくらいだ。しかし、事件はちゃんと目の前に|事実としてある《ヽヽヽヽヽヽヽ》んです。事実から逃れることは誰にもできないんです」
「何もかもが狂っている!」
「そう、狂っていますとも。しかし、だからこそ、逆にこれは実際は、とても簡単な事件かも知れない、という気持に、私は時々おそわれるのです……。だが、これも私の『つまらない考え』の一つに過ぎないのかもしれない」
「二人の殺人犯」とブック氏が唸《うな》った。「それが、わがオリエント急行列車のなかに……」
それを思うと、ブック氏は泣きたくなるのだ。
「さあ、では一つ、この幻想を、いっそう幻想的にしてみるとしようじゃないですか」と、ポワロは愉快そうな声をあげて言った。「昨夜、この汽車に、二人の謎の人物が現われました。一人は、寝台車つき車掌で、ハードマン氏の言う人物に該当する人物で、これはヒルドガード・シュミットとアーバスノット大佐と、マッキーン氏が目撃しています。もう一人は、赤いキモノを着た婦人――ほっそりと背の高い女性――で、ピエール・ミシェル、デベナム嬢、マッキーン氏と私が目撃しており――アーバスノット大佐がその匂いをかいでいる! この女性は誰であったか? その汽車の中には、自分が赤いキモノを持っていると言った者は一人もいない。この女性もまた消え失せてしまったわけです。この女性は、贋の寝台車つき車掌と同一人物であったのか? それとも、全く別の人物であったのか? この二人は、いまどこにいるのか? それに、車掌の制服と、赤いキモノはどこにあるのか?」
「やあ! 少しばかりはっきりして来ましたな」とブック氏は勢いこんで立ち上った。「乗客全部の荷物調べをしなくっちゃ。きっと何かの役に立ちますよ」
ポワロも立ち上った。そして、
「私が予言しておきましょうか」と、言った。
「その品々のありかを知っているのですか?」
「ちょっと心あたりがありますな」
「どこなのです?」
「赤いキモノは、男の乗客の一人の荷物の中に、そして、車掌の制服は、ヒルドガード・シュミットの荷物の中にみつかるでしょう」
「ヒルドガード・シュミット? ではあなたは――?」
「あなたの考えていることとは違う。私はこう考えるのです。もしヒルドガード・シュミットが犯人なら、制服は彼女の荷物の中にある|かも知れない《ヽヽヽヽヽヽ》。――しかし、もし彼女が潔白なら、|確かに《ヽヽヽ》、そこにあると」
「しかし、どうして――」とブック氏は言いかけて、止めた。
「――あの物音は何が近づいてくる音だろう?」と彼は叫んだ。「まるで機関車でも動きだしたみたいだな」
物音はだんだん近くなってきた。女の甲高い叫び声と、それに抗弁する声がいりまじった音だ。食堂車の端のドアが押し開らかれた。ハッバード夫人が飛び込んできた。
「ああ、こわい」と彼女は叫んだ。「こわいったらこわくって。私の洗面用具入れに、私の洗面用具入れに、大きな短剣が――血まみれになって」
突然、前のめりになって、彼女は、ブック氏の肩の上に、倒れかかって気絶した。
第十四章 兇器しらべ
ブック氏は気絶した婦人の頭を騎士的というには少々荒っぽく、テーブルの上にのせた。コンスタンチン博士は、大声で、食堂の給仕を呼んだ。給仕は走って来た。
「このご婦人の頭をこのままにしておいて」と、医者は言った。「気がついたら、コニャックを少し飲ませなさい。分かったね?」
医者は、ポワロとブックの後を追って行った。博士は、事件の方に全関心を奪われて――気絶した中年の婦人などには、まるで関心がないのだ。
ハッバード夫人は、むしろ、そっけないこういうやり方をされたために、早く正気づいたらしい。二、三分後には起き上り、給仕の差し出すグラスのコニャックをすすりながら、またしゃべり出した。
「ああ、恐ろしかったのなんのって。あの恐ろしさは、この汽車にのっている誰にも判りっこないわ。子供の頃から、とても感じ易い性ときているものだから、あたくしは、ちらと血を見ただけでも――おお――考えただけでも、ぞーっとして気が遠くなる」
給仕は、もう一度グラスを差し出した。
「もう少しいかがです、奥さま」
「そのほうがいいかしら? でも私は、ずっと絶対禁酒主義者なのよ。どんな時にもお酒やぶどう酒に手をつけたことがないの。私の家族は、一人残らず禁酒家だし。でも、これは、ほんのお薬なんだから――」
夫人は、再びコニャックをすすった。
その頃、ポワロとブック氏とすぐその後につづくコンスタンチン博士は、食堂車を出てイスタンブール寝台車の通路を、急ぎ足に、ハッバード夫人の部屋へ駆けつけていた。
乗客の全部が戸口に群らがっているようだった。車掌が当惑した様子で、その乗客たちをドアの外に押し返そうとしていた。
「御覧になるものは何もありませんから」と、車掌は同じことを数か国語で、繰り返していた。
「すみません、通してください」とブック氏が言った。
彼は肥った体で、人垣をかき分けて、ハッバード夫人の部屋へ入っていった。ポワロがその後につづいた。
「おいでくださって、ほっとしました」と、車掌は嘆息をついた。「お客の皆さまが中へ入ろうとなさるのです。あのアメリカのご婦人が――ひどい悲鳴をお上げになって、――今度という今度はハッバード夫人がお殺されになったのだと思いました! 走って行くと、夫人が、まるで狂人のように、わめき散らして、あなた様にお会いするんだと叫ばれて、出て行かれました。道々、皆さんに、これこれこうだと触れ廻りながら、あちらへ行ってしまわれました」
車掌は手でさし示して、こうつけ加えた。
「そこでございます。私は手を触れておりません」
隣室との境にあるドアの把手に、大きな縞模様のゴム製の洗面用具入れがかかっている。その下の床の上に、真直な短剣が一ふり落ちているのだ。――柄には浮彫り細工があり、刃は先細りになった安っぽい、まがいの東洋ものだ。刃には錆《さび》のような汚点がついている。おそらく、ハッバード夫人の手から落ちた場所から、動かされてはいまい。
ポワロは、それを注意して拾い上げた。
「なるほど」と彼はつぶやいた。「ぴったりですな。紛失していた兇器は、正しくこれですな、博士?」
医者もそれを調べた。
「そう注意ぶかく扱う必要はありませんよ」とポワロが言った。「そこには、ハッバード夫人の指紋しか残っていないでしょうよ」
コンスタンチン博士の調査は、長くかからなかった。
「確かに、この剣です」と彼は言った。「どの傷にも符合しましょう」
「まさか、そんなことはないでしょう」
博士は驚いたようであった。
「もう偶然の一致は沢山ですよ。昨夜、二人の人間が、ラチェットを刺すことを決めた。しかも、その二人が、同一の兇器を選んだ、などというのは、余りにも出来すぎていますな」
「偶然の一致といっても、そのことなら、そんなにたいしたことではありませんよ」と、医者が言った。「このまがい物の東洋刀は、大量生産されて、コンスタンチノープルの市場にどっと積み込まれている品物なんですから」
「でも、そのことは、少ししか私の疑いをやわらげませんな。ほんの少ししか」とポワロは言った。
彼は考えこみながら、自分の前のドアを見つめた。そして、ドアの洗面用具入れを上げて、把手をまわしてみた。ドアはびくともしない。把手より一フィートほど上に差し込み錠があった。ポワロはそれを抜いて、もう一度、まわしてみたが、やはりドアは動かない。
「このドアは、さっき私たちが向こう側から、差し込み錠をかけたのです」と、医者が言った。
「その通りです」と、ポワロは上の空で言った。おそらく、何か他のことを考えているのだ。考えが壁にぶつかったみたいに、眉の根をよせている。
「別に何も矛盾はないでしょう?」と、ブック氏が言った。「犯人は、この部屋を通り抜ける。彼が境のドアを後に閉める時、洗面用具入れに触れる。とっさに、その中に血まみれの剣を押しこむ。そして、ハッバード夫人を起こしてしまったとは知らず、別のドアから通路に出る」
「おそらく」とポワロはつぶやいた。「あなたの言う通りに犯人が行動したに違いない」
だが、彼の困惑した表情は消えていないのだ。
「どうしたんです?」と、ブック氏が尋ねた。「まだ、なにか納得できないことがあるのですか?」
ポワロは、すばやい視線をブック氏に投げた。
「気がつきませんか? やはり気づいていませんね。いや、つまらないことですがね」
車掌が部屋の中を覗いた。
「アメリカのご婦人が戻って来られました」
コンスタンチン博士は、ちょっと気がとがめる顔色になった。ハッバード夫人を幾分お粗末に扱ったことを思い出したからである。しかし、彼女は、彼を非難しなかった。別の問題に夢中になっていたからである。
「私、これだけははっきり申し上げておきます」と、彼女は戸口までやって来るやいなや、息をはずませて言った。「もう、このお部屋は、これ以上は一分でもいたたまれません! たとえ、百万ドルくださっても、今夜ここへ眠ることはお断りですわ」
「しかし、奥さん――」
「あなたがおっしゃろうとしていることは、分かっております。ですから、私は、そんなことはお断りです、と言っているのです! 一晩中、通路に坐っていたほうがましですわ」
彼女は声を立てて泣き出した。
「おお! もし私の娘がこれを知ったら、――もし、この私を見たら、どんなに――」
ポワロはきっぱりと、さえぎった。
「奥さんは、誤解していらっしゃる。ご言い分は、至極ごもっともです。お荷物は、すぐ別の部屋へ移させましょう」
ハッバード夫人はハンカチーフを顔からはなした。
「本当ですの? ああ、それでほっとしましたわ。でも、確かどのお部屋も満員だから、きっと誰か殿方のお部屋に――」
ブック氏が言った。
「あなたのお荷物は、全部この車輛から移させます。今度のお部屋は、ベルグラードで連結になったお隣りの車輛になります」
「まあ、それなら結構ですわ。私、特別神経質ってわけじゃありませんけど、でも、死んだ方のお隣りの部屋に眠るのはね――」と、彼女は身震いした。「気が狂っちまいますわ」
「ミシェル」と、ブック氏が呼んだ。「君、このお荷物を、アテネ=パリ車輛の空いた部屋へ移しなさい」
「かしこまりました――これと同じ――三番室にいたしましょうか?」
「いや」と、ポワロは、ブック氏が答える前に言った。「全然、別の番号の方がいいでしょう。例えば十二番室」
「分かりました」
車掌は荷物を取った。ハッバード夫人は、嬉しそうにポワロの方を振り返った。
「本当に、おかげさまで。助かりましたわ」
「どういたしまして。ご一緒に、部屋の様子を見にまいりましょう」
ハッバード夫人は、三人の男に送られて、新しい部屋へ行くと、上機嫌で見廻した。
「いいお部屋ですこと」
「お気に召しましたか、奥さん? これは、いままでおいでになったお部屋と、寸分違わない部屋です」
「そうね。――ただ向きが違うだけですね。でも、そんなことは構いません。この汽車は、時々、前に進んだり、後向きに走ったりしますから。私、娘に申しましたのよ。『お母さんはね、機関車の方を向いているお部屋がほしいのよ』って。すると娘が、『ママ、お気の毒さま。ママが眠って、目が覚めると、機関車は反対向きに走っているわ』って。娘の言ったことが、本当でした。昨夜、ベルグラードへ着く時と、出発の時とでは、向きが逆でした」
「ともかく、これですっかりご安心ですね?」
「さあ、そうとも言えませんわね。だって、汽車は雪に閉じ込められたままですし、それに対して、誰も何も手を打たないし、私の予約した船は、あさって出航してしまいますもの」
「奥さま」と、ブック氏が言った。「私たちは、皆御同様ですよ――一人残らず」
「それはそうですわね」と、ハッバード夫人は認めた。「でも、真夜中に、殺人犯に部屋の中を通られた人は、他に誰もおりませんわね」
「私にはまだ判らないことなのですが」と、ポワロが言った。「もし、あなたのおっしゃるように、隣室との境のドアに差し込み錠が掛かっていたのなら、犯人はどうしてあなたの部屋へ入れたのかということです。錠が掛かっていたというのは、確かですか?」
「ええ、あのスウェーデンの方が、私の目の前で、かけてくださったのです」
「ではその場面をここで再演してみましょう。あなたはベッドに横になっていらした。――そうです――あなたは、ご自分では見えなかったと言われましたね?」
「ええ、洗面用具入れのためにね。ああ、新しい洗面用具入れを買わなくちゃ。これは、見ただけで胸が悪くなりますもの」
ポワロは洗面具入れを取り、それを隣りの部屋との境のドアの把手に下げた。
「確かに――おっしゃる通りでした」と、彼は言った。「差し込み錠は、ちょうど把手の下になります。――洗面用具入れに隠れてしまう。あなたが横になっていらっしゃる場所からは、錠が掛かっているかどうかは見ることができませんね」
「ええ、前からそう申し上げていますわ!」
「そして、スウェーデンのオルソン嬢は、こんなふうに、あなたとドアとの間に立っていた。彼女はためしてみて、錠はかかっていると言った」
「そうです」
「しかしですね、奥さま。彼女が間違えたのかも知れません。いいですか」と、ポワロは熱心に説明した。「この錠は、ちょっと金具がつき出ているだけで、右へ倒せばドアに錠がかかり、左に倒せば錠がはずれます。彼女はただドアを押してみただけかも知れませんね。隣室の方の錠が下りていたのを、こちら側の錠がかかっているのと、思いちがいしたのかも知れませんね」
「でも、もしそうだったら、あの方少しお馬鹿さんですわ」
「奥さま、たいへん親切で可愛い人でも、必ずしも利巧だとは限りません」
「もちろん、そうですわねえ」
「ところで、奥さま。あなたがスミルナヘ旅行なさった時も、この線でしたか?」
「いいえ。船で真直ぐイスタンブールまで行きました。娘のお友だち――ジョンソンさん(とても立派な、お目にかけたいような方です)――が、私を出迎えてイスタンブール中をご案内下さったのです。でも、ひどくつまらない町でした――どこもかしこも崩れかかっていて。それに、回教のお寺ばかりで、そこの人はみな靴の上に大きな変なものをはいているし――あら、どこまでお話したかしら?」
「ジョンソン氏がお出迎えになったところまででしたよ」
「そうそう。それから、ジョンソンさんに見送られて、私はフランス船でスミルナに向かい、そちらでは娘の夫が、波止場で待っていてくれました。ああ、今度のことを、彼が聞いたら、何て言うでしょう! 娘は、この線が一番安全で、楽なのだと申しておりましたのよ。『ただ汽車に乗ってさえいれば、真直にパラスへ着いてしまい、そこにはアメリカの急行列車が待っててくれますわ』って。だのに、おお、船の予約をどうして取り消すのかしら? 連絡してやらなくちゃ。でも、今はそれさえできない。本当に困っちゃったわ――」
ハッバード夫人は、また涙ぐみはじめた。さきほどから、ポワロは少々もて余し気味だったが、この機会をのがさなかった。
「まったくご災難でしたね、奥さん。車掌にお茶とビスケットを持ってこさせましょう」
「そんなにお茶をいただいて、いいのかしら」と、ハッバード夫人は涙ぐみながら言った。「イギリス人なら、それが習慣でしょうけれど」
「では、コーヒーを。奥さまは元気づけに何かおとりにならないといけませんから」
「さっきのコニャックのせいで、頭が大分変ですから、では、コーヒーをいただきましょう」
「結構ですね。奥さまは、腕力を回復なさらなくてはいけません」
「まあ、奇妙なことをおっしゃいますのね」
「しかし、まず、順序として、あなたの荷物を調べさせていただけますか?」
「何のために?」
「私たちは、これから乗客全部の荷物を調べようとしているところです。不愉快なご記憶を新たにおさせするようなことは好みませんが、しかし、あなたの洗面用具入れの件もあり――お判りになっていただけますね」
「ええ。それならどうぞ。またあんなに怖い目に会うのはごめんですものね」
調査は手早くすんだ。ハッバード夫人は最少限度の荷物――帽子函、安物のスーツケース、一杯もののつまった旅行鞄、それだけを持って旅行していた。その三つの中身も簡単で、あやしいものはなかった。その調査も二分以上はかからないところだったが、ハッバード夫人が、『私の娘』や、二人のかなり不器量な子供たちの写真を、『私の娘の子供たち、可愛いでしょう?』などと、説明つきで見せてたりしたので、長びいてしまった。
第十五章 乗客の荷物しらべ
ポワロは、ハッバード夫人に、あれこれ、ていねいな言い逃れをしたり、コーヒーを持ってくるよう命じましょうと言ったりして、やっと、二人の友人と共に、彼女の部屋を引き上げることができた。
「やれやれ、はじめのクジは空クジだったが」と、ブック氏が言った。「次は誰にしますか?」
「車輛の端から順にやって行った方が単純公平でいいでしょうな。まず、十六番ということになります――あの愛すべきハードマン氏から」
ハードマン氏は、葉巻をふかしていたが、三人を、愛想よく迎えた。
「さあ、どうぞお入りください、皆さん――と言いたいところですが、ここは、パーティにはちょっと狭すぎますな」
ブック氏が、訪ねて来た目的を説明した。大柄の探偵は、よく分かったというようにうなずいた。
「いいですとも。本当言うと、なぜもっと早くそれをおやりにならないのかと、不思議に思っていました。ここに、僕の鍵束があります。ポケットも、お調べになりたいなら、さあ、どうぞ。鞄は、僕が下ろしましょうか」
「車掌にさせます。ミシェル!」
ハードマン氏の二つの旅行鞄の中身は、すぐ調べが終り、無事にパスした。しかし、中身には不当に大量の酒類が含まれていた。ハードマン氏はウィンクをした。
「国境でも、鞄を調べられることは殆んどないのでね。――特に、車掌を買収しておけば。僕は、トルコ紙幣を一握りつかませておいたので、今までは、めんどうはありませんでしたがね」
「でも、パリでは?」
ハードマン氏はまたウィンクをした。
「パリへ着くまでには」と、彼は言った。「たいてい飲み終ってしまってるし、残りのやつは、ヘヤ・ローションのレッテルを貼った瓶へ移してしまいまさ」
「禁酒法にはご賛成でないようですね」と、ブック氏が微笑を浮かべて、言った。
「さあ」と、ハードマン氏が言った。「禁酒法があっても、僕は少しも困りませんよ」
「ほう!」とブック氏が言った。「スピーキイージー(もぐり酒屋)ですか」
ブック氏は、この俗語を、じっくりと味わうように、発音した。
「アメリカ語という奴は、まことに奇妙で、意味深長ですな」と、彼は言った。
「アメリカへは、ぜひ行ってみたいですね」と、ポワロが言った。
「あちらに行かれて、きびきび目の覚めるような、進んだやり口を覚えてこられるといいですな」と、ハードマンが言った。「ヨーロッパは、目覚める必要がありますよ。半分眠ってるんだから」
「確かに、アメリカは進歩の国ですね」と、ポワロは同意した。「アメリカ人には感心するところが多い。ただ――私はたぶん旧式なんでしょう――アメリカの婦人より、自分の国の婦人のほうが魅力がありましてね。フランスやベルギーの女性は、愛嬌がよくて、魅力的で、――これに匹敵する女性は、他の国にはいないと思いますな」
ハードマンは顔をそむけて、しばらく窓外の雪をのぞいていた。
「ポワロさん。おそらく、あなたのおっしゃる通りでしょう」と彼は言った。「しかし誰でも、自国の女性が一番好きなんじゃありませんか」
彼は雪に目を痛められたように、目をしばたたいた。
「雪ってまぶしいものですね」と、ハードマンは言った。「こんなことがあると、神経がいらいらしますな。殺人だとか、雪で立往生だとか、しかも、何もすることはない。ただぶらぶらして時間をつぶしているだけだなんて。忙しく誰かを追いかけるなり、何かをするなりしたいもんですな」
「まさしく精力的な西部精神ですな」と、ポワロは微笑して、言った。
車掌が鞄を元にもどすと、三人は次の部屋へ移った。アーバスノット大佐は、片隅に腰かけて、パイプをふかしながら雑誌を読んでいた。
ポワロが用件を説明した。大佐はすぐ承諾した。荷物は二箇の重い革のスーツケースだった。
「あとの荷物は、船便で送りました」と、彼は説明した。
大佐の鞄の中は、大抵の軍人同様、きちんとしていた。荷物の調査は、ほんの数分しか、かからなかった。ポワロは一函のパイプ掃除器に気付いた。
「いつも同じ種類のパイプ掃除器をお使いですか?」と、彼は尋ねた。
「手に入るときは、いつも、それにしています」
「なるほど」と、ポワロはうなずいた。
このパイプ掃除器は、殺された男の部屋の床の上で見つけたものと全く同じ品なのだ。
コンスタンチン博士は、通路に出るとすぐ、そのことを注意した。
「全く同じ品です」と、ポワロもつぶやいた。「しかし、殆んど信じられない。彼の性格からいえば、そんなことはしそうにもないのですから。性格に外れたことは、人はやらないものですから」
次の部屋のドアには鍵がかかっていた。ドラゴミロフ公爵夫人の部屋である。ドアをノックすると、夫人の深い声が、「お入り!」と呼んだ。
ブック氏が代表役をつとめた。彼はたいへんいんぎん鄭重に用件を説明した。
公爵夫人は、小さいガマのような顔に、なんの表情も浮かべずに、黙って聞いていた。説明が終ったとき、
「もし必要ならば」と彼女は静かに言った。「やむを得ないことです。小間使が鍵をもっています。持ってこさせましょう」
「鍵は、いつも小間使さんが持っておられるのですか?」と、ポワロが尋ねた。
「そうです」
「では、もし夜中に、国境で税関がお荷物を拝見したいと言ってきた時は?」
老夫人は肩をすくめた。
「そんなことは、ほとんどあり得ません。しかし、そんな場合は、車掌に、小間使を呼びにやらせます」
「では、あなた様は、小間使さんを絶対に信用なさっていらっしゃるのでございますね?」
「そのことなら、前に申し上げました」と、公爵夫人は静かに言った。「私は信用しない人を雇いません」
「確かに」と、ポワロは何かを考えながら言った。「今日では、信用ということは実に貴重なことです。信用できる不器量な婦人のほうが、小綺麗な少女より、およろしいでしょう――例えば、小いきなパリ女などよりは」
公爵夫人の黒い聡明な目が、ゆっくり動いて、自分の顔の上に釘づけになるのを、ポワロは見た。
「いったい何のあてこすりをなさっているつもりなのですか、ポワロさん?」
「いや、何でもございません。何でもございません」
「いいえ、何かがおありです。私が小いきなフランス女を付きそわせるべきだと、お考えなのでしょう?」
「そのほうが普通でございましょうね」
夫人は頭を振った。
「シュミットは献身的につくしてくれます」と夫人は、一語一語はっきりゆっくりと言った。「献身――それはお金では買えません」
問題のドイツ婦人が鍵を持って入って来た。公爵夫人はドイツ語で、旅行鞄を開けて、お調べできるようになさいと言いつけた。そして通路から部屋のなかに入らずに、外の雪を眺めた。
ポワロは、鞄の調査をブック氏にまかせて、夫人のそばに立った。
夫人は、微苦笑を浮かべて、ポワロを見つめた。
「おや、あなたは、私の鞄の中身をごらんにならないのですか?」
彼は頭を振った。
「あれは、ほんの形式的なことでございます」
「本当ですの?」
「あなた様の場合は、確かに本当です」
「でも、私は、ソニア・アームストロングを知ってもいましたし、愛してもいました。あなたは、どうお思い? 私が、あんなカセティのような悪党《ヽヽ》を自分の手を汚して殺すようなことはないと? まあ、そうかも知れません」
公爵夫人は、しばらく黙っていたが、やがて言った。
「あんな男に対して、私がどうしたかったか、お分かり? 私は召使たちを呼んで命令してあげたかった。『この者を鞭《むち》で打ち殺して、ゴミ箱に棄てなさい』と。若い頃でしたら、そうしたに違いありません」
ポワロは、じっと耳を傾けているだけで、言葉をさしはさまなかった。
突然、公爵夫人が権高な様子で彼を見つめた。
「何も言わないのですね、ポワロさん。あなたは何を考えつづけていらっしゃるのです?」
ポワロは正面から相手をみつめた。
「あなたのお力は、あなたのご意志の中にあるのであって、――あなたのお腕の中にあるのではない、と考えているところでございます」
夫人は、指に指環をはめ、鳥の爪のような黄色い手をもった、自分の細い腕を見下ろした。
「本当に」と、彼女は言った。「この腕には、力がありません――少しも――。それが不幸なのか、幸福なのか、私には判らないけれど」
そして、夫人は、自分の部屋の方を、不意に振り返った。中では、小間使が、鞄に品物をつめているところだ。
公爵夫人は、ブック氏の陳謝の言葉をさえぎった。
「お謝りになる必要はありません」と彼女は言った。「殺人事件が起こったのです。必要なことは行なわれねばなりません。遠慮はいりません」
「まことに恐れ入ります」
夫人は軽く頭を下げた。三人は部屋を出た。
その隣りの二つの部屋のドアには、鍵がかかっていた。ブック氏は立ち止まって頭をかいた。
「弱ったな」と彼は言った。「こいつはまずい。外交官のパスポートだからね。この方たちの荷物は免除ですよ」
「税関の検閲なら免除だが、しかし、殺人は別です」
「分かっている。でも――めんどうは起こしたくないし――」
「ご心配無用。伯爵夫妻は、もの分かりのいい人たちです。あのドラゴミロフ公爵夫人だって、たいへん親切だったじゃありませんか」
「彼女は実に|偉大な女性《ヽヽヽヽヽ》だ。この伯爵夫妻も、同じ貴族なんだが、しかし、どうやら、伯爵は気性の激しい人のように思える。あなたが、夫人に質問したいと主張した時、ご機嫌が悪かった。今度はもっとご機嫌ななめになるよ。どうです――ここは除外しては。結局、あの二人は事件とは何の関係もないのだし。不必要にごたごたさせたくないですからね」
「私は賛成できない」とポワロは言った。「アンドレニイ伯爵は、もの分かりのいい方だと思う。ともかく当ってみましょう」
ブック氏の返事も待たずに、彼は鋭く十三番のドアをたたいた。
中から声が叫んだ。「お入り!」
伯爵は、ドア近くの片隅に腰をかけ、新聞を読んでいた。伯爵夫人は、その向かいの窓ぎわに身体をもたせかけていた。頭の後に枕がある。彼女は今まで眠っていたらしかった。
「失礼いたします、伯爵」とポワロが始めた。「お邪魔いたします。ただ今、この車輛のご乗客のお荷物を全部調べさせていただいております。大方は、単なる形式です。でも、調べは行なわなくてはなりません。あなた様は外交官のパスポートをお持ちだから、こうした検査は拒否なさる正当な権利がおありだと、ブックさんは申しておられますが……」
伯爵は、ちょっと考えた。
「ご心配ありがとう」と、やがて彼は言った。「しかし、私だけが例外にしてもらおうとは思いません。私たちの荷物も、他の乗客同様調べていただきましょう」
彼は夫人の方を向いた。
「かまわないでしょう、エレナ?」
「どうぞ」と伯爵夫人は、何のためらいもなく言った。
手早く、ほんの形式的な検査が始まった。ポワロは、照れ隠くしのためか、なんでもないことを取りあげては、話のつぎ穂にしているようであった。たとえば、頭文字入りの青いスーツケースと頸飾りをとりおろしながら、「おや、奥さまのケースのラベルは、みなしめっておりますね」などと言った。この問いには、伯爵夫人は、答えなかった。彼女は、男たちが隣りの部屋の自分の荷物を調べている間、こうしたことに少々うんざりしたのか、隅にうずくまったまま、夢みるように窓の外を眺めていた。
ポワロは、最後に、洗面台の上の小さい戸棚を開け、その中身――スポンジや顔クリームや粉白粉や、トリオナールというラベルの貼ってある小瓶――にす早く一べつを与えて、検査を終えた。
そして、二人にていねいに挨拶をして、検査の一行は部屋を出た。
ハッバード夫人の部屋、殺された男の部屋、ポワロ自身の部屋が続いた。
一行は、二等室にやって来た。その最初は、十番と十一番のメアリー・デベナムとグレタ・オルソンの部屋で、デベナム嬢は本を読んでいたし、オルソンはぐっすり眠っていたが、入っていくと目を覚ました。
ポワロが、おきまりの挨拶をした。スウェーデン婦人は動揺し、メアリー・デベナム嬢は静かに落ち着いているように見えた。
ポワロは、スウェーデン嬢に向かって言いだした。
「失礼ですが、先にあなたのお荷物を調べさせていただきましょう。その後で、アメリカのご婦人の様子を見てさし上げて下さいませんか。隣りの車輛へ部屋をおかえしたのですが、たいへんなものを見つけられたので、まだひどく興奮していらっしゃるのです。あの御婦人のところへコーヒーを持っていくようにボーイに命じておきましたが、必要なのは、本当は第一には話し相手のようなのです」
善良な婦人は、たちまち同情した。
「今すぐに参ります。本当に、たいへんなショックを受けられたことでしょう。あの可哀そうな夫人は、ただでさえ、このご旅行で興奮なさっていらっしゃる。娘さんを置いていらしてるんですもの。もちろん、すぐ行って上げましょう」――彼女のケースには鍵がかかっていなかった。「――そして、塩化アンモニウムをお持ちしましょう」
彼女は急いで出て行った。彼女の荷物は、すぐに調べ終ってしまった。それは極端に貧弱だった。帽子函から針金がなくなっていることには、あきらかに、気づいていなかった。
デベナム嬢は読みさしの本をひざにおいて、ポワロを見守っていた。ポワロに求められると、鍵を手渡した。ポワロはケースを下ろして、開けた。彼女は言った。
「ポワロさん。どうしてあの方を追い払われたのですか?」
「私が? アメリカのご婦人を見てもらうためです」
「ご立派な口実ですね。――でも、口実には違いありませんわね」
「あなたのおっしゃることが分かりません」
「充分お分かりのくせに」
彼女は微笑した。
「あなたは、私を一人きりになさりたかったのです。そうじゃございません?」
「あなたは、私の口の中に無理に言葉を押し込もうとなさるのですね」
「そして、あなたの頭に思想を、とおっしゃるのですか? いいえ。そんなことはありません。思想はすでにそこにあります。当りましたでしょう?」
「お嬢さん。一つの諺《ことわざ》があります――」
「『弁解は自由なり』こうおっしゃろうとなさったのでしょう? 私にも多少の観察力と常識のあることを信じて下さい。何かの理由で、あなたは、私がこの忌まわしい事件について知っていることがあると、思い込んでいらっしゃる――まるで見たこともない男が殺された事件について」
「あなたの空想です。お嬢さん」
「いいえ、決して空想ではありません。本当のことをおっしゃらないのは、時間の浪費だと思います。――|やぶ《ヽヽ》の中を真直につつかずに、あちこち打《た》たいているようなものです」
「あなたは、時間の浪費がおいやなのですね。要点に真直に触れることをお望みなのですね。では、直截な方法で行きましょう。まず、私がシリアからの旅行中に、もれ聞いた言葉の意味をお尋ねします。コニア駅で、私はイギリス人のいわゆる『脚のばし』に汽車から出ました。あなたの声とアーバスノット大佐の声とが、夜の闇の中から聞こえてきました。あなたは彼に、『いまは駄目、いまは駄目よ。すっかり済んだら。何もかも終ってしまったら』とおっしゃいましたね。あの言葉は何という意味ですか?」
彼女は、非常に静かに言った。
「殺す――という意味だとお考えなのですか?」
「お聞きしているのは、私ですよ」
彼女は嘆息をついた。――しばらく考え込んでいた。やがて、我にかえったように彼女は言った。
「あの言葉には意味があります。しかしその意味はあなたに、申し上げることはできません。でも、私は、この汽車であのラチェットという男を見るまでは、一度も会ったことがないのです。それだけは、名誉にかけて、申し上げることができます」
「でも――あなたは、あの言葉を説明するのを拒まれるのですか?」
「ええ――あなたがそういうふうにお尋ねになるのなら――お断りします。あの言葉は私の計画していた仕事に関係したことです」
「その仕事は、今は終ってしまったのですね?」
「どういう意味ですか?」
「終った、のですね?」
「なぜ、そうお考えになるのですか?」
「では、お嬢さん。もう一つの出来事を思い出してください。汽車がイスタンブールに着く日、汽車が遅れたことがありました。あなたはひどくいらいらしていらした。こんなにも平静で、自制心の強いあなたが、その平静さを失っていらした」
「連絡に遅れたくなかったのです」
「あなたはそうおっしゃいました。しかしオリエント急行は毎日イスタンブールを出ています。そして、たとえ連絡に遅れたとしても、二十四時間遅れるにすぎません」
デベナム嬢は、はじめて落ち着きを失ったようだった。
「あなたには、とても分かっていただけません。私の友だちが、ロンドンに着くのを待っており、一日遅れても、手筈が狂って、ひどく厄介なことになることが……」
「ああ、そうですか? お友だちが、あなたのご到着を待っていらっしゃるのですね? その方たちに、迷惑をおかけしたくないのですね?」
「当然ですわ」
「でも――奇妙ですね――」
「何が奇妙ですか?」
「この汽車でも――私たちはまた遅れました。今度のが、もっとひどい遅れなのに、あなたはお友だちに電報を打つこともできず、また、その人たちに、長――長――」
「長距離《ロング・ディスタンス》? 電話のことでしょう」
「ああ、そう、イギリスで、ポートマント・コールというのです」
デベナム嬢は、思わず微笑した。
「長距離電話《トランク・コール》です」と、彼女は訂正した。「あなたのおっしゃる通り、電報も電話も通じなくて、困りはてております」
「でも、お嬢さん、今度は、あなたの態度は全く違います。あなたはもういらだたしそうにしていらっしゃらない。冷静で、達観していらっしゃる」
メアリー・デベナムは赤くなり、唇を噛んだ。もはや微笑しようとさえしなかった。
「お答えにならないのですか、お嬢さん?」
「でも、何もお答えすることはありませんもの」
「なぜあなたの態度が変化したかについてですが……」
「あなたは、何でもないことに、少し大騒ぎなさるのではありませんか、ポワロさん?」
ポワロは、両手をひろげて謝る様子をした。
「多分、それは私たち探偵の欠点でしょう。私たちは、人間が常に一貫した態度をとってくれることを期待するのです。態度の矛盾を放っておけないのです」
メアリー・デベナムは答えない。
「あなたは、アーバスノット大佐をよくご存じですか?」
話題が変ると、彼女はほっとしたようだった。
「この旅行で初めてお会いしたのです」
「このラチェットという男を、大佐が前から知っていたかも知れないと思われる理由はありませんか?」
彼女ははっきりと首を振った。
「決してありません」
「なぜ確信がおありなのですか?」
「話し振りからです」
「でもお嬢さん、私たちは、殺された男の部屋の床の上で、パイプ掃除器を見つけたのです。そして、アーバスノット大佐はパイプをふかす唯一人の乗客なのですが……」
ポワロは彼女をじっと見つめた。だが、彼女は一向に驚きの色も感情の動きも見せずに、言っただけである。
「たわごとですわ。馬鹿々々しい。アーバスノット大佐ほど、犯罪に縁遠い方はありません。――ことに、こんなお芝居みたいな犯罪なんかには」
これは、ポワロ自身が考えていたことに他ならなかったので、危く相手に賛成するところだった。しかし、そのことはおくびにも出さずに、言った。
「あなたは、大佐を良くご存じないとおっしゃいましたね」
彼女は肩をすくめた。
「大佐のような性格の方を、私、よく知っておりますもの」
ポワロは優しく言った。
「『何もかも終ってしまったら』――という言葉の意味をまだ説明していただけないでしょうか?」
彼女は冷たく言った。
「これ以上申し上げることは何もありません」
「結構です」とエルキュール・ポワロは言った。「私が自分で見つけましょう」
彼はおじぎをして、部屋を出て、ドアを閉めた。
「あれでよかったのですか?」とブック氏が尋ねた。「彼女に、警戒させることになり――彼女を介して、大佐にも警戒させることになる」
「兎を捕えようと思うなら、まず穴の中にイタチを投げ込むことです。兎がいれば、飛び出してくる。私がやったのもそれです」
一行は、ヒルドガード・シュミットの部屋へ入って行った。
婦人は用意して、立ち上った。その顔は、慇懃《いんぎん》ではあるが、無表情である。
ポワロは、座席の上の小さい鞄の中身に、す早く目を通した。それから車掌に、網棚から大きいスーツケースを下ろさせた。
「鍵は?」と彼が言った。
「鍵はかかっていません」
ポワロは掛け金をはずし、蓋を開けた。
「あっ!」と彼は言って、ブック氏の方を向いた。「私の言ったことを覚えていますか? ちょっと見てごらんなさい!」
|スーツケースの一番上に《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|急いで丸めた茶の寝台車つき車掌の制服がのせてあるではないか《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。
ドイツ女の鈍感な顔が突然変化した。
「あっ!」と彼女は叫んだ。「それは私のではございません。そこにそんなものを、私は入れません。イスタンブールを発ってからそのケースの中は一度も見ませんでした。全く、全く、本当でございます」
彼女は懇願するように、一行の顔を眺めた。
ポワロは、やさしく彼女の腕をとり、彼女を慰めた。
「よろしい、よろしい、大丈夫ですよ。あなたを信じています。心配しなくてもよろしいのです。あなたが上手な料理人だってことを確信するのと同じ位に、あなたがここへこの制服を隠したのでないことを、私は確信しています。ねえ、あなたは上手な料理人でしょう?」
婦人はまごついて、思わず、微笑した。
「はい、さようでございます。どのご主人もそうおっしゃって下さいました。私は――」
突然、彼女は口を開けたまま言葉を切り、またおびえたようであった。
「いや、いや」と、ポワロは言った。「大丈夫です。どうしてこういうことが起こったかを、私がかわりに説明して上げましょう。あなたの見た制服の男は、殺された男の部屋から出て来た。彼はあなたとぶつかった。それが、彼にとっての不運です。誰にも見られたくないと思っていたのだから。それでは、彼はどうすべきだったんでしょう? 着ている制服を脱がねばならない。これは今や、護身具ではなくて、危険な目印となったのだから」
ポワロは、熱心に聞いているブック氏とコンスタンチン博士のほうに視線を移した。
「ごらんのように、外は雪だ。この雪は、彼の計画のすべてを狂わせてしまった。この服はどこへ隠すことができるだろうか? どの部屋も満員だ。しかし、彼は、ドアが開けられ、誰もいない部屋の前を通りかかる。この部屋は、今ぶつかりそうになった女の部屋にちがいない。男はその部屋へ忍び込んで、制服を脱ぎ、急いで、網棚の上のスーツケースの中に押し込む。これで、しばらくは発見されないだろう」
「で、それから?」と、ブック氏が言った。
「それは今から検討することです」とポワロは警戒するような眼差しで言った。
ポワロは制服を持ち上げた。三つ目のボタンがなくなっている。ポワロはそのポケットに手を入れて、車掌の合鍵を取り出した。それは、各客室のドアを開けるのに使われているものだ。
「これで、この男が鍵のかかったドアを通り抜けることのできた理由が分かりましたな」と、ブック氏が言った。「ハッバード夫人に質問する必要はなかったね。鍵がかかっていようと、いなかろうと、男は簡単に境のドアを通り抜けることができた。結局、車掌の制服を着るからには、車掌の合鍵を持っていないこともないでしょう」
「そうです」と、ポワロが言った。
「こんなことぐらい、もっと早く気付くべきでしたな。覚えていますか、ミシェルが、ベルに答えて入った時、ハッバード夫人の部屋の通路へのドアは、鍵がかかっていたと言ったことを」とブック氏が言った。
「さようでございます」と、車掌が言った。「そのために、私は、奥さまは夢をみていらしたに違いないと思ったのでございます」
「しかし、今となって考えれば、その謎は訳なくとけるね」と、ブック氏はつづけた。「きっと犯人は境のドアにも鍵をかけておくつもりだったのだが、おそらく、ベッドの中から動く音が聞こえたので、びっくりしてしまったのだ」
「こうなれば」と、ポワロが言った。「今度は、赤いキモノを見つけるまでですな」
「そうだ。しかし、最後の二つの部屋は男性ですよ」
「でも、調べてみましょう」
「おお! むろんです。それに、私は、ポワロ君がさっき言ったことを思い出しましたよ」
ヘクター・マッキーンは、こころよく検査を承諾した。
「早く調べてください」と彼は悲しそうな微笑を浮かべて言った。「僕は、自分がこの汽車の中で一番疑われている人物に違いないと思っていますから。あの老人が全財産を僕に残すという遺書をあなた方が見つけさえすれば、それですべては解決というわけなんでさ」
ブック氏は、疑わしそうな目つきで、彼を見た。
「いや、これはほんの冗談ですよ」と、マッキーンはあわてて言った。「実際は老人は一セントも僕に残してくれませんでしたよ。僕は外国語や何かで、老人に役に立つ男だったという、それだけのことでしたよ。なにしろ世界漫遊の旅に出て、アメリカ語以外は何も話せないなら、さんざんな目に会いますからね。言語学者ではありませんが、僕は、フランス語、ドイツ語、イタリア語で買物をしたり、ホテルで用を足すぐらいはできますからね」
彼の声は、ふだんより少し大きかった。愛想よくはしていたが、調べられるのが、どことなく不安らしかった。
ポワロが身を起こした。
「何もありませんな」と、彼は言った。「せめて、財産を残すという遺書でもあるといいのに!」
マッキーンが嘆息をもらした。
「やれやれ、それでホッとしましたよ」と、彼はおどけて言った。
一行は最後の部屋にやってきた。
大柄のイタリア人の荷物からも、従僕の荷物からも、何も出てこなかった。
三人の男は、車輛の端に立ち、互いに顔を見合せた。
「次は何をしますか?」と、ブック氏が尋ねた。
「食堂車へ戻りましょう」と、ポワロは言った。「もう調べられるだけはすべて調べた。乗客の証言も聞いたし、荷物の検査も終ったし、私たち自身の目でいろいろ見てもきたし、もう、これ以上、手がかりを期待することはできません。これからは、私たちの頭を使わねばならないんです」
ポワロはポケットから、タバコのケースを取り出した。空だった。
「すぐ後から行きます」と彼は言った。「タバコを取って来なくちゃならないから。これは、たいへん難解な、たいへん奇妙な事件です。あの赤いキモノを着ていたのは誰か? そのキモノは、今どこにあるのか? 私はそれが知りたい。この事件には何かがある。――ある要素が――どうしても私にはつかめない何ものかがあるのです! これは、わざと難かしく仕組まれているために難かしくなっている事件だ。しかし、それはあとで御一緒に考え合ってみましょう。では、ちょっと失礼」
彼は急いで通路を通り、自分の部屋へ行った。補充のタバコは、旅行鞄の一つにしまってあった。
ポワロはその鞄を下ろして、錠をあけた。
彼は目をみはって立ちすくんだ。
鞄の一番上に、竜の刺繍のついた薄地の赤い絹のキモノがきちんとたたんで置いてあるのだ。
「うむ」と、彼はつぶやいた。「やったな。挑戦か。よし、応ずるぞ」
第三部 エルキュール・ポワロの瞑想
第一章 どの乗客か?
ポワロが食堂車へ入って行くと、ブック氏とコンスタンチン博士が話し合っていた。ブック氏は意気銷沈しているように見えた。
「やあ、来た来た」と、彼はポワロを見て、言った。
そして彼が席につくと、ブックはつづけた。
「もしあなたがこの事件を解決したら、私は奇跡を信じるよ!」
「この事件をそんなに気にやんでるのですか?」
「気にやむともさ。どっちが頭だか、尻尾だか、見当もつかないんだもの」
「私も同感ですね」と、医者が言った。そして、興味ありげに、ポワロを見た。「率直に言って」と、彼は言った。「あなたが次に何をなさるつもりなのか、私には分かりませんよ」
「分からない?」とポワロは何かを考えこみながら、言った。そして、タバコのケースを取り出し、細い巻タバコに火をつけた。その目は目の前のものでない何かを追っている。
「私にとっては、そこが、この事件の面白みなのです」と彼は言った。「私たちは、捜査のあらゆる正常な手段を奪われています。いったい私たちが聞いた乗客の証言は真実を語っているのでしょうか、それとも嘘なのでしょうか? それをつきとめる手段もありません――ただ自分自身の判断が残されているだけです。つまり、頭脳を活《い》かして使う以外に手段はありません」
「それはたいへん結構ですが」と、ブック氏が言った。「しかし、その場合あなたは何を根拠にするのですか?」
「今も言いましたね。私たちには乗客の証言もあるし、私たち自身の目で見た証拠もあります」
「大した証言ですね――乗客の証言とは! まるで何の役にもたたないでしょう、あんなの」
ポワロは首を振った。
「私はそうは思いません。乗客の証言は、興味あることをいくつか教えてくれていますよ」
「そうですか」とブック氏は疑わしそうに言った。「そこのところが、私には分からない」
「それはあなたが聞いていなかったからです」
「じゃ、言ってください。――私が何を聞きそこなったのか?」
「一例を挙げましょう――私たちが聞いた第一の証言――マッキーンの証言です。私から見れば、きわめて重要な一つの言葉を、彼は吐いているのです」
「手紙についてですか?」
「いや、手紙についてではありません。私の記憶では、彼の言葉はこうでした。『僕たちは旅行してまわっていました。彼は世界中を見物したいと思っていたのです。だが、彼は外国語を一つも知りませんでしたので、思うようにはいきませんそこで、僕は秘書というより、旅行案内人の役目を果たしたわけです』」
ポワロは、次ぎ次ぎに医者とブック氏の顔を見た。
「どうです。まだ分かりませんか? それじゃあ困りますね。――だって、つい先ほども、また彼は同じことを言ったばかりですよ。『アメリカ語以外は何も話せないのなら、さんざんな目に会いますからね』と」
「というと?」ブック氏は、まだけげんな面持ちをしている。
「ああ、では判りやすく一言で言いましょうか。こうなのです! |ラチェットはフランス語が話せない《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。ところが、昨夜車掌が彼のベルに応えに行った時、間違いでした、用はない、とフランス語で車掌に答えたのです。しかも片言のフランス語しか知らない者の言葉ではなく、そこで用いられたのは、Ce n'est pas rien. Je me suis trompe. という完全にこなれたフランス語だったのです」
「その通りだ!」と、コンスタンチン博士が興奮して叫んだ。「もっと早くそれに気づくべきだった! 思い出した、なるほど、だからこそ、あなたはその言葉に力をいれて二度も私たちの前で繰り返して言われたのですね。それであなたは、こわれた時計の示す一時十五分という時刻を信用しなかったわけですね。ベルの鳴った十二時三十七分には、ラチェットはもう死んでいたのだ」
「そして、フランス語で返事したのが、その犯人だったのだ!」と、ブック氏が感動的な話の結びかたをした。
だが、ポワロは手を上げて、不賛成の意を示した。
「そんなに先走らないで下さい。確実に分かったこと以外はみだりに仮定しないようにしましょう。確かなことは、その時刻、十二時三十七分に、ラチェットの部屋に、|誰か別の人《ヽヽヽヽヽ》がいたこと、その人はフランス人か、あるいはフランス語を流暢に話すことができる人だということです」
「全くあなたは注意深い」
「一歩一歩前進しましょう。ラチェットがその時刻に死んでいたという確証《ヽヽ》を私たちは持ち合わせていないのだから」
「夜中にうめき声がして、あなたは目をさましたのでしたね」
「ええ、そうです」
「すると、ある意味では」と、ブック氏は考えながら言った。「いまの発見は、大して役に立ちませんね。誰かが隣室で動きまわるもの音を、あなたは聞いたのでしたね。その誰かは、ラチェットではなくて、他の男だったんだ。おそらく、その男が手についた血を洗いおとしたり、犯行の後始末をしたり、証拠になる手紙を焼きすてたりしていたのだ。それから男は、あたりが静かになるまで待ち、安全で、時はよし、と思った時に、ラチェットのドアに内側から鍵をかけ、鎖をかけた。それからハッバード夫人の部屋に通じる境のドアの鍵をあけ、部屋を通り抜け、通路へ逃げたのだ。とすると、私たちが考えていた通りなのであって、――|違うのは《ヽヽヽヽ》、|ラチェットは《ヽヽヽヽヽヽ》、|三十分ほど早く殺されていたということです《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。アリバイをつくるためにわざとあの時計の針を、一時十五分にしたのだ」
「大したアリバイにもなりませんな」と、ポワロが言った。「時計の針がさしていた一時十五分――犯人が、実際にその犯行現場を立ち去った正確な時刻がそれだ、というのではね」
「そうだな」と、ブック氏はちょっと困った表情を浮かべた。「では、あの時計は、どういう意味をもっていると思うのですか?」
「もしも針が動かしてあるならば、――|もしも《ヽヽ・》ですが――この時刻には何か意味があるにちがいありません。直ちに思い浮かぶのは、この一時十五分という特定の時刻に、確実なアリバイを持っている者が疑わしいということです」
「そうです。そうです」と、医者が言った。「その推理は正しい」
「私たちは、犯人が部屋に入った時刻にも、ちょっと注意を払う必要があります。犯人はいつ入る機会をつかんだか? もし本物の車掌の共犯を仮定しないなら、犯人の入った時刻は唯一回――汽車がヴィングコヴツィーで停車していた時だけです。ヴィングコヴツィーを出発してからは、車掌は通路の方を向いて坐っていました。もし乗客なら車掌の制服を着た男に注意を払わないでしょうが、贋の車掌に気がつく唯一人の人は本物の車掌のはずです。しかし、ヴィングコヴツィーに停車中は、車掌はプラットホームに出ていた。邪魔はないわけです」
「そして、私たちの先ほどの推理によれば、その犯人は乗客の一人に違いないのです」と、ブック氏が言った。「これでは、また――逆戻りです。どの乗客か?」
ポワロは微笑した。
「私は表をつくりました」と彼は言った。「よかったら、ごらんになりませんか。記憶がはっきりしますよ」
医者とブック氏は、一緒にその表をじっと見つめた。それは乗客と会った順序にしたがって、手際よく、秩序正しく書かれていた。
一、ヘクター・マッキーン――アメリカ人。二等、六番室。
動機 被害者との交際からいって、殺意の生ずることもありうる。
アリバイ 午前零時から午前二時まで。(零時から一時三十分までは、アーバスノット大佐によって、一時十五分から二時までは、車掌によって証明される)
不利な証拠 なし。
疑わしい情況 なし。
二、車掌――ピエール・ミシェル――フランス人。
動機 なし。
アリバイ 午前零時から午前二時まで。(零時三十七分にラチェットの部屋から声がした時、通路でポワロによって目撃されている。一時から一時十六分まで、他の二人の車掌によって証明される)
不利な証拠 なし。
疑わしい情況 車掌の制服は、彼に嫌疑をかける意図でなされたものらしいので、その発見により、かえって、彼に有利となる。
三、エドワード・マスターマン――イギリス人。二等、四番室。
動機 被害者の召使であるから、その関係から殺意の生ずることもありうる。
アリバイ 午前零時から午前二時まで。(アントニオ・フォスカレリによって証明される)
不利な証拠または疑わしい情況 なし。但し、彼は車掌の制服に合う身長と大きさをしている唯一人の男である。しかし、彼がフランス語をうまく話すとは思われない。
四、ハッバード夫人――アメリカ人。一等、三番室。
動機 なし。
アリバイ 午前零時から午前二時まで――なし。
不利な証拠または疑わしい情況 彼女の部屋に男がいた一件は、ハードマンおよびシュミットによって立証された。
五、グレタ・オルソン――スウェーデン人。二等、十番室。
動機 なし。
アリバイ 午前零時から午前二時まで。(メアリー・デベナムによって証明されている)
注意――ラチェットの生きているのを見た最後の人。
六、ドラゴミロフ公爵夫人――帰化フランス人。一等、十四番室。
動機 アームストロング家と親交があった。又、ソニア・アームストロングの教母。
アリバイ 午前零時から午前二時まで。(車掌と小間使によって証明されている)
不利な証拠または疑わしい情況 なし。
七、アンドレニイ伯爵――ハンガリー人。外交官のパスポートを所有。一等、十三番室。
動機 なし。
アリバイ 午前零時から午前二時まで。(車掌によって証明されている。――一時から一時十五分までは含まれない)
八、アンドレニイ伯爵夫人――同上。十二番室。
動機 なし。
アリバイ 午前零時から午前二時まで。トリオナールを服用し眠る。(夫によって証明されている。戸棚にトリオナールの瓶)
九、アーバスノット大佐――イギリス人。一等、十五番室。
動機 なし。
アリバイ 午前零時から午前二時まで。一時三十分まで、マッキーンと談話。自分の部屋に戻り、後、部屋を出ず。(マッキーンおよび車掌によって立証されている)
不利な証拠または疑わしい情況 パイプ掃除器。
十、サイラス・ハードマン――アメリカ人。一等、十六番室。
動機 不明。
アリバイ 午前零時から午前二時まで。部屋を出ず。(マッキーンおよび車掌によって立証されている)
不利な証拠または疑わしい情況 なし。
十一、アントニオ・フォスカレリ――アメリカ人。(イタリア生れ)二等、五番室。
動機 不明。
アリバイ 午前零時から午前二時まで。(エドワード・マスターマンによって証明されている)
不利な証拠または疑わしい情況 なし。但し、使用された兇器は彼の性格に合致するといわれる。(ブック氏の説)
十二、メアリー・デベナム――イギリス人。二等、十一番室。
動機 なし。
アリバイ 午前零時から午前二時まで。(グレタ・オルソンによって証明されている)
不利な証拠または疑わしい情況 ポワロのもれ聞いた会話。およびその説明を拒否した点。
十三、ヒルドガード・シュミット――ドイツ人。二等、八番室。
動機 なし。
アリバイ 午前零時から午前二時まで。(車掌と女主人によって証明されている)就寝後、十二時三十八分頃に車掌に起こされ、女主人のところへ行く。
注意 これらの乗客の証言のすべては、車掌の、午前零時から一とき(この時車掌は隣りの車輛に行った)まで、および一時十五分から二時までの間、ラチェットの部屋に出入した者はないという陳述によって裏付けされている。
「この記録は、ご存じのように」と、ポワロが言った。「私たちの聞いた証言を、分かりやすく並べた要約にすぎません」
ブック氏は顔をしかめながら、それを返した。
「これでは一向に何もはっきりしては来ませんな」と、彼は言った。
「では、こちらの方が、お好みに合うかも知れない」と、ポワロは微笑をうかべながら、第二の紙片をブック氏に手渡した。
第二章 十の疑問
その紙には、次のように書かれていた。
解明を必要とする件
一、Hの頭文字入りのハンカチーフ。それは誰のものか?
二、パイプ掃除器。アーバスノット大佐が落したのか? それとも他の人か?
三、赤いキモノを着たのは誰か?
四、寝台車つき車掌の制服で変装した男、あるいは女は誰か?
五、なぜ時計の針は、一時十五分を指しているのか?
六、この時刻に殺人は行なわれたのか?
七、殺人はそれ以前か?
八、それ以後か?
九、ラチェットが、二人以上の犯人によって刺されたのは確かであろうか?
十、彼の傷は他にどう説明され得るか?
「では、解明できるかどうか、一つやってみましょう」とブック氏は、この知恵だめしに、少し元気づいて、言った。
「ハンカチーフから始めましょう。あくまで秩序正しく、組織的にやりましょう」
「そうですとも」と、ポワロは満足そうにうなずいて答える。
ブック氏は、やや講義調で、つづけた。
「Hという頭文字の女性は、三人います――ハッバード夫人と、中の名をハーミオンというデベナム嬢と、女中のヒルドガード・シュミットです」
「そう! だが、この三人の中の誰です?」
「それは決め難いが、私はデベナム嬢に一票入れるとしましょう。なぜなら、彼女はメアリーという名ではなく、二番目のハーミオンという名で呼ばれていたかも知れないから。それに、彼女には、怪しいところがあるから。ポワロさんがもれ聞いたあの会話は、確かに不可解だし、しかも彼女がその説明を拒んでもいます」
「私は、アメリカ婦人に一票入れます」と、コンスタンチン博士が言った。「あれは、たいへん高価なハンカチーフですが、世間周知のとおり、アメリカ人は、金に糸目をつけませんからね」
「では、お二人とも、小間使は除外なさるのですね?」と、ポワロが尋ねた。
「ええ、本人も言ったように、あれは上流社会の人のハンカチーフです」
「では、第二問――パイプ掃除器。アーバスノット大佐が落したか、あるいは他の人か?」
「この方が難問ですね。イギリス人は、人を刺したりしません。この点ではあなたのおっしゃる通りです。他の誰かがパイプ掃除器を落したのだという意見を私はとります。あれは、あの脚長のイギリス人に罪を負わせようとした策略です」
「ポワロさんの言われたように」と、医者が口を入れた。「証拠品を二つも落としておくのは手ぬかりも度がすぎます。私もブック氏に賛成です。ハンカチーフは本当の不注意ですが――その証拠に、誰一人自分のだと認めません。一方、パイプ掃除器は、贋の遺留品です。だからこそ、アーバスノット大佐は、一向にあわてもせずに、自分がパイプを吹かすことや、同じ種類の掃除器を使っていることを平気で認めたのです」
「巧みな推理ですね」と、ポワロは言った。
「第三問――赤いキモノを着ていたのは誰か?」とブックが言い出した。「これには、実のところ、私は全然歯が立たないのです。コンスタンチン博士、あなたはこの問題について何かお考えがありますか?」
「ありません」
「じゃあ、これは私たちの負けですな。だが、次の問題は少しは可能性がありそうですね。寝台車つき車掌の制服で変装した男あるいは女は誰か? まず、確実にそうでない人の名前をあげて行きましょう。ハードマン、アーバスノット大佐、フォスカレリ、アンドレニイ伯爵、ヘクター・マッキーン。この人たちは、背が高すぎます。ハッバード夫人、ヒルドガード・シュミット、グレタ・オルソン。この三人は肥りすぎています。残るのは、召使、デベナム嬢、ドラゴミロフ公爵夫人、アンドレニイ伯爵夫人――だが、誰もそれらしい匂いがしない! デベナム嬢は、同室のグレタ・オルソンが、また召使は同室のアントニオ・フォスカレリが、それぞれ、一度も部屋を出なかったことを誓っています。公爵夫人は、ヒルドガード・シュミットが、ずっと部屋にいたことを誓っています。アンドレニイ伯爵夫人は、睡眠薬を飲んで眠っていたと、夫の伯爵が証言しています。従って、変装した人は誰もいないということになる。そんな馬鹿なことがありえようか!」
「かのユークリッドも言うように、ですか」と、ポワロがつぶやいた。
「しかも、あの四人の中の一人に違いない」と、コンスタンチン博士が言った。「でなければ、外部から入り込んできた誰かであって、どこかに隠れていることになる――だが、これは不可能だということに意見は一致している」
ブック氏は、表の次の問題に移った。
「第五問――なぜ、こわれた時計の針は一時十五分を指しているのか? これに対しては、二つの説明ができます。第一は、犯人がアリバイを確立するために針を一時十五分に進めた。そして部屋を出ようとすると、人々の動くもの音が聞こえて、出られなくなった。第二は、――待ってください。――考えが浮かんだ――」
ブック氏が考え出そうと苦心している間、二人は神妙に待っていた。
「分かった」と彼はついに言った。「時計を細工したのは、車掌に化けた犯人とは別の人間なのです! それは、私たちが、第二の犯人と呼んだ人物――左利きの人物――言いかえれば、赤いキモノを着た女なのです。この女が、後からやって来て、自分のアリバイをつくる目的で、時計の針を後へ戻したのです」
「素晴らしい」とコンスタンチン博士が叫んだ。「考えたもんですね」
「なるほど」と、ポワロが言った。「その女は、暗闇の中で、ラチェットがすでに死んでいるのも知らずに突き刺した。しかし、なぜか彼がパジャマのポケットに時計を持っていることを知り、それを取り出して、目茶苦茶に針を後へ回してから、叩きつぶしたというわけですな」
ブック氏は、冷やかにポワロを見た。
「あなたには、何かもっといいお考えがあるのですか?」と、彼は尋ねた。
「今のところは――ありません」と、ポワロは言った。
「でも」と、彼はつづける。「あなた方は、あの時計についての一番興味ある点に気付いていないと思います」
「それは、第六の問題と関係しているのではありませんか?」と医者が尋ねた。「殺人はこの時刻――一時十五分に行なわれたか?――という問いに、私は『否』と答えます」
「私も賛成です」と、ブック氏が言った。「『それ以前か?』というのが次の問いです。私は然りと答えます。あなたもですか、博士?」
医者はうなずいた。
「はい。しかし、同時にその次の『それ以後か?』の問いに対しても、私は然りと答えます。私は、ブックさん、あなたの説に賛成ですし、ポワロさんも、ただ言質《げんしつ》を取られたくないのでしょうが、賛成だろうと思いますね。第一の犯人は一時十五分以前に来て、第二の犯人は一時十五分以後に来たのです。そして、左利きの問題についても、さっそく、乗客の誰が左利きか、確かめるべきではないでしょうか?」
「その点も、なおざりにしていた訳ではありません」と、ポワロが言った。「お気づきだったでしょうが、私は乗客の一人々々に、名前や住所を書かせました。これは決定的なものではありません。というのは、左利きの人でも、ある特定のことは右手でやり、その他のことは左手でやるという人もいますから。ある人は、右手で書き、左手でゴルフをします。でも、全然無駄でもありませんでした。私に頼まれた人は誰も皆右手で、ペンを持ちました。――例外として、ドラゴミロフ公爵夫人だけが、書くことを拒みました」
「ドラゴミロフ公爵夫人、ありえないことだ」と、ブック氏が言った。
「彼女に、あの特徴のある左利きの傷を負わせる力があるだろうか」とコンスタンチン博士は疑わしそうに言った。「あの特徴のある傷は、相当の力でやったものです」
「女性には出せない力でしょうか?」
「いいえ、そうとは言い切れません。しかし、年とった女性には無理だと思います。それに、ドラゴミロフ公爵夫人の身体は、特に弱っています」
「これは、体力を越えた精神力の問題かも知れません」と、ポワロが言った。「ドラゴミロフ公爵夫人は、偉大な人格と、強力な意志の持ち主です。しかし、この問題から、ちょっと離れましょう」
「第九と第十の問い。ラチェットが二人以上の犯人によって刺されたのは確かであろうか。またその傷は他にどう説明されうるか? 私の意見では、医学的に言えば、あの傷に対する他の説明はありません。一人の人間が、最初は弱く、次に強く、初めは右手で、次には左手で刺し、それから三十分ほど間をおいて、死体に新しい傷を負わせたことになります。――それでは、意味をなしません」
「そうです」と、ポワロが言った。「意味をなしません。犯人が二人なら、意味が通ると思いますか?」
「あなた自身の言葉を使えば、『他にどう説明されえましょうか』」
ポワロは、前方を真直ぐ見つめていた。
「私が考えこんでいるのもそのことです」と、彼は言った。「私が絶えず考えつづけているのは、そのことなのです」
彼は椅子の背によりかかった。
「これからは、万事はここが頼りです」と彼は自分の額をたたいた。「私たちは、すべてのことを調べつくしました。事実はすべて、私たちの目の前にあります。――順序よく、秩序立てて配列されています。乗客は、順番にここに坐り、一人ずつ証言しました。私たちが外側から知りうることはすべて、知り尽しました」
ポワロは、ブック氏に親しみ深い微笑を投げかけた。
「さっき冗談を言いましたね――椅子にもたれかかって、真相をたぐり出すんだと。さあ、これから、その冗談を実行に移すことにしましょう。――あなた方の目の前でね。あなたがたも同じようになさって下さい。三人とも目をつぶって考えましょう……」
「この列車の乗客の一人、あるいは一人以上の人がラチェットを殺した。では、そのなかの誰が殺したのでしょう?」
第三章 あるヒント
たっぷり十五分間、三人は考えに耽《ふけ》っていて、口をきかなかった。
ブック氏もコンスタンチン博士も、ポワロの言葉にしたがうことにしたのだ。彼らは、矛盾しもつれあっている迷路を通って、すっきりと胸のすくような解決に到達しようと努力した。
ブック氏の頭のなかには、次のような考えが駆けめぐっていた。
「むろん、僕は考えるさ。だが、もう実は僕はさんざん考えつくしたのだ。……明らかに、ポワロは、あのイギリスの女性デベナム嬢がこの事件に関係していると考えている。だが、僕には、そんなことは殆んどありえないことだと思える……イギリス人というのは、ひどく冷静だ。おそらく、それは彼らが幻想を抱くことがないからだろう……しかし、こんなことは問題じゃない。あのイタリア人のフォスカレリは、犯行をおかさなかったらしい――残念だ。同室のイギリス人の従僕が、彼は一度も部屋を出なかったと述べており、あの従僕が、嘘をつくとは思えないからだ。それに、嘘をつく必要もない。イギリス人を買収するのは容易じゃない。彼らはひどくそっけないからな。要するに、今度という今度は、ぴんからきりまで、|ついて《ヽヽヽ》ないな。いったいこの汽車は、何時《いつ》動き出すのだろうか。何とか救助策が施されなくちゃならないのに。この辺の国ときたら、すごくのろまなんだからなあ……何時間もたったあげくでないと、事を起こさない。しかも、この辺の警察ときたら、この上もなく扱いにくい。――尊大にそっくり返っていて、怒りっぽいし、いばりたがる。この事件を知ったら、待っていましたとばかりに大騒ぎすることだろう。なにしろ、奴らにはめったにお目にかかれない事件だからな。新聞という新聞が書き立てることだろう……」
こうしてブック氏の考えは、またもや、もう何百回も重ねた同じどうどうめぐりをくり返した。
コンスタンチン博士の考えは、次のように動いた。
「奇妙な人物だなあ、このポワロという小柄の男は。天才かな? それとも変人かな? この男はこの謎をとくだろうか? 不可能だ。解決の見込みがあるとも思えない。まるで手がかりのつかみようがない……あるいは、皆が皆、嘘をついているのかも知れない……そうだと判っても、私には解決の糸口となりはしない。皆が嘘をついているとしても、真実を語っていたとしても、同じように私には手がかりは出てこない。あの傷は奇怪だ。私には判らない……まだピストルで射たれた傷の方が判りやすい。――ガンマンという言葉は、ピストルで射つという意味をあらわすにちがいない。奇妙な国だ、アメリカは。私も行ってみたいものだな。実に思い切ったことをやる国だからな。私も、帰ったら、デメトリウス・ザゴーネ君をつかまえよう――彼はアメリカ行きの経験のある男で、現代式な考えの持ち主だからな……今頃、妻のジアは何をしているだろう。もし、ここにこうしている私のことを妻が知ったら――」
コンスタンチン博士の考えは、完全に家庭への思いにのめりこんでいった。
エルキュール・ポワロは、じっと坐ったままである。
眠っているようにも見えかねない。
約十五分もの間、ぴくりとも動かないでいたポワロの顔の上で、突然、その眉毛がゆっくりと動きはじめた。軽い吐息がもれた。彼は低くつぶやいた。
「しかし、やはり、こうだ。もしこうなら――もしこうなら、これですべての説明がつく」
彼の目が開いた。その目は、猫の目のように緑色に光っていた。彼は優しく言った。
「どうでした、私は考えつきましたよ。あなたがたは?」
二人とも、めいめいの思いに耽っていたので、声をかけられて、驚いてわれに返った。
「私も考えましたよ」と、ブック氏が、ちょっとうしろめたそうな口調で言った。「しかし、結論にまで到りません。犯罪の究明は、あなたの本職で、私のではありませんからな」
「私も一生懸命考えました」と、だいぶ好色な思いにふけっていた医者が、顔を赤らめもせずに、言った。
「いろいろの場合を仮定してみましたが、一つとして私の満足のいく結論は考えつきませんでした」
ポワロは、にこにこして、うなずいた。それは、次のように言っているようだった。
「それで結構です。そうおっしゃるのが当り前です。それでもあなた方は、私のほしいと思っていた入れ智恵を与えてくださいました」
ポワロは坐り直し、胸を張り、口髯をなで、もの慣れた講演者が公衆に向かって語りかけるような態度で話しだした。
「皆さん。私は頭の中で、事実の再検討を行ない、また乗客の証言の再吟味をしました結果――次ぎの結論に達しました。今はまだ漠然としていますが、私たちの知っている事実をすべて解明しつくすことができる結論を見出したのです。しかし、これは、極めて異様な解明であって、それが真実の唯一の解明であるかどうかは、まだ断定はできない。断定するためには、ある実験をしなければならないのです。
まず、真相を暗示してくれると思われる点を二、三申し上げます。第一は、ブック氏が、この汽車で初めて私と一緒に昼食をとられた時に、この場所で申された言葉です。ブック氏は、私たちが、あらゆる階級、あらゆる年齢、あらゆる国籍の人々に取りまかれている事実を指摘なさいました。この事実は、一年のこの厳寒の季節ではたいへん珍らしいことです。手近かな例が、アテネで連結されたアテネ=パリ車輛、ブカレストで連結されたブカレスト=パリの車輛は殆んど空なのです。それに、始発駅で、ついに姿を現わさなかった乗客が一人あったことも思い出すことにしましょう。これには意味があるように思います。この他にも、小さい点ですが、真相を暗示すると思われる事実が二、三あります――例えば、ハッバード夫人の洗面用具入れの位置、アームストロング夫人の母堂の名前、ハードマン氏の護衛の方法、私たちの見つけたあの焼けた紙片を、ラチェット自身の焼き捨てたものだと、マッキーン氏が言った言葉、ドラゴミロフ公爵夫人の洗礼名、アンドレニイ伯爵夫人のパスポートの上の油のしみ、などです」
二人は彼を見つめていた。
「これらの点は、あなた方に何らかの暗示を与えませんでしょうか?」と、ポワロは尋ねた。
「全然」と、ブック氏が率直に言った。
「では、博士は?」
「私にも、あなたが何を言っておられるのか、さっぱり判りませんが」
ブック氏は、今ポワロの述べた中でのただ一つの物証となるパスポートのことが気にかかってきて、それをパスポートの山の中からさがし出すことに、とりかかった。やがて、何やらぶつぶつ言いながら、アンドレニイ伯爵夫妻のパスポートをひき出して、それを開いた。
「あなたの言うのはこれですか? このきたないしみですか?」
「そうです。かなり新しい油のしみです。それのついている場所に気がつきましたか?」
「伯爵夫人の項の初め――正確に言えば、夫人の洗礼名のところです。しかし、私には、まだ要点がピンと来ませんね」
「では、別の角度から近付いてみることにしましょう。犯罪の現場で見つけたハンカチーフに話を戻しましょう。さっきも、話し合ったように、――Hの頭文字をもつ乗客は三人でした。ハッバード夫人、デベナム嬢と小間使のヒルドガード・シュミットです。さて、このハンカチーフを、別の観点から観察してみましょう。これは、非常に高価なハンカチーフで――パリ製の、手縫いの刺繍のある贅沢品です。頭文字を別にしたら、乗客の中の誰が、このハンカチーフの所有者にふさわしいでしょう? ハッバード夫人ではない。彼女は服装に度外れな大金を投ずるようなことはしない堅実な婦人です。デベナム嬢でもない。あの階級のイギリス婦人は、皆上品な麻のハンカチーフをもち、二百フランもしそうな高価な白麻のものは使いません。もちろん、小間使のシュミットでもない。しかし、この汽車には、こんなハンカチーフの所有者にふさわしい女性が二人います。この二人の女性と、Hという頭文字が結びつくかどうか考えてみよう。私が選び出すその二人のなかの一人、ドラゴミロフ公爵夫人は――」
「でも、公爵夫人の洗礼名はナタリアですよ」と、ブック氏が半畳をいれた。
「その通りです。だからこそ、彼女の洗礼名は、私が今言ったように暗示的なのです。もう一人の女性は、アンドレニイ伯爵夫人です。こういえば、すぐ何かにお気づきでしょう――」
「まさか、ポワロ君!」
「その通り。彼女のパスポートの洗礼名は、油の|しみ《ヽヽ》で歪《ゆが》んでいます。偶然ついた|しみ《ヽヽ》だと、誰でも言うでしょう。しかし、この洗礼名をよく見てください。エレナ Elena。この Elena の代りにヘレナ Helena だと仮定しましょう。この頭文字のHをEに書きかえ、その次の小文字のeを上から書きつぶしてしまうのはごく簡単なことです。――そして、その書きかえを隠すために油を一滴落すのです」
「ヘレナ」と、ブック氏が叫んだ。「これはいい思いつきですな!」
「ええ、思いつきですとも! 私のこの思いつきの確証になるようなことなら、どんな小さなことでも探しまわったのです。そしてそれを見つけ出したのです。伯爵夫人の鞄に貼った一枚のラベルが、ちょっと濡れていました。しかも、そのラベルは、夫人のケースにきざんだ名前の最初の頭文字が隠れるように貼ってありました。このラベルは、濡らしてはがし、それを別の場所に貼りかえたものです」
「そう言われれば、信ぜざるを得なくなりますが」と、ブック氏が言った。「しかし、あのアンドレニイ伯爵夫人が――まさか――」
「さて、今度は、向きを変えて、全く別の角度からこの事件に近付いてみてください。犯人はこの殺人を、人々にどう見せかけようとしたのでしょうか? 雪が犯人の最初のプランをすっかり打ち壊してしまったことを覚えておいてください。今しばらく、雪がなくて、汽車が予定通り進行していたと想像してみましょう。すると、何が起こったでしょうか?
この殺人は、今朝早く、おそらくイタリアの国境辺りで発見されたことでしょう。乗客は、先ほどのと同じような証言を、イタリア警察にも言ったことでしょう。秘書のマッキーン氏は脅迫状を出して見せたことでしょうし、探偵のハードマン氏は被害者から護衛を依頼されていた話をしたことでしょうし、ハッバード夫人は曲者《くせもの》が自分の寝室を通り抜けた顛末《てんまつ》を熱心に話したことでしょうし、またボタンは発見されたことでしょう。ただ、二つの点だけが違っていただろうと思います。一つは、曲者は一時ちょっと前にハッバード夫人の部屋を通り抜けたことになり――車掌の制服は、どちらかの便所の中に脱ぎ捨ててあったことになるでしょう」
「というと?」
「|犯行は《ヽヽヽ》、|外部のものの仕業のように見せかける計画だった《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》だろうということです。犯人は、十二時五十八分に到着予定のブロードで、汽車から逃げたと見せかけるつもりだったのでしょう。誰かが夜中に見馴れぬ車掌が通路を通ったのを見かけたと証言することにし、一方制服は目立つ場所に脱ぎ捨てておくことになったことでしょう。そうすれば、乗客には何の疑いもかかりません。こんなふうに外部の人間の犯行と見えるように計画されたのです。
しかし、汽車の事故が万事を変えてしまうのです。犯人が、長い間被害者の部屋に留まっていた理由もおそらくここにあります。犯人は、汽車が走り出すのを待っていました。しかし、|汽車は動かない《ヽヽヽヽヽヽヽ》ということに、ついに気付きました。別の計画を立てねばならなくなりました。さもないと、殺人犯がまだ車内にひそんでいることが皆に知られてしまうからです」
「そう、そう」とブック氏は待ちきれずに言った。「それですっかり分かりました。しかし、ハンカチーフはどうなるのですか?」
「もう少し廻り道をしますが、またそこへ戻ってくるつもりです。まず注意して欲しいのは、ラチェットへの脅迫状は馬鹿げたものだということです。あれは、安っぽいアメリカの探偵小説の中から、そのまま抜き写したものかも知れません。本物《ヽヽ》ではないのです。ただ警察に見せるためのものなのです。私たちの考えねばならないのは、あの脅迫状をラチェットが本気にして怖がったかどうか? ということです。外に現われたところでは、その答えは『否』のようです。彼がハードマンに打ち明けたことからすると、これはラチェット自身がよく知っている者の、はっきりした私怨による敵のようです。もちろんハードマンの話を真実として受け取ってのことですが。しかし、確かにラチェットは、その脅迫状とは全く性質の違うもう一通の手紙を受け取った。――それは、私たちが現場で発見した、あのアームストロングの子供云々の手紙です。ラチェットが、ことの真相に気づかないでいる時、生命がねらわれている理由を、はっきり彼に理解させるために、この手紙は書かれたものです。これは、私が何度も言ってきたように、人に見られたくなかった手紙です。だから犯人は、まずそれを消滅させようとした。これが犯人の計画の第二の障害でした。第一は雪、第二は、私たちがその手紙のきれ端の文句を読んだことです。
それでは、それほど注意ぶかくその手紙を焼きすてようとしたのは何故か。それはただ、次ぎの理由によるのです。この汽車にはアームストロング家ときわめて密接に関係のある誰かが乗っており、その手紙が見つけられれば、すぐにその人に疑いがかかるに違いないからです。
さて、ここで、私たちの発見した他の二つの証拠品を取り上げましょう。パイプ掃除器はさておくとします、それについてはすでに十分話し合いましたから。ハンカチーフに移りましょう。最も単純に考えれば、Hという頭文字の人物が犯人である、という手掛りになります。犯人が不注意にも、そこに落としたというわけです」
「その通りです」と、コンスタンチン博士が言った。「その女性は、自分がハンカチーフを落としたことに気付いて、すぐ洗礼名を隠す工作をしたのです」
「どうも気が早すぎますね。あなたは、私の考えている間に、いち早く結論にすっとんでしまいますね」
「まだ別の考え方があるのですか?」
「もちろんあります。例えば、あなたが犯罪を犯して、嫌疑を誰かに転じようと思う、と仮定してごらんなさい。そして、汽車には、アームストロング家と親密な関係にある誰かが乗っています――女性です。そこで、その女性のハンカチーフを現場に落とすとしてごらんなさい……、彼女は尋問され、彼女のアームストロング家との関係が明らかになります――さあ、どうです。動機も――不利な証拠もあるときている」
「しかし、そんな場合」と、医者が反対した。「その人は、自分が潔白なのを知っているから、名前を隠すような工作はしないでしょう」
「ああ、そうですか? あなたはそう思いますか? 警察の見解がそれですね。しかし、私は人間というものを、知っているつもりです。突然殺人犯の嫌疑が降りかかってきた時は、どんな潔白な人間でも頭が変になって、ひどく馬鹿げたことをしでかすものです。いいえ、油のしみや、ラベルを貼りかえたことが有罪を証明しているというのではありません。――それはただ、アンドレニイ伯爵夫人が、何らかの理由で、自分の名前を隠したがっているということを証明しているにすぎません」
「では彼女はアームストロング家と、いったいどういう関係があるとお考えなのですか? 彼女は、まだ一度もアメリカへ行ったことがない、と言っていますよ」
「その通りです。その上彼女は覚束ない英語を話しますし、また、誰の目にも目立つほどの、たいへんアメリカ離れのしたすがた形をしています。しかし、彼女が、どんな人物かを推測するのは困難ではありません。ついさっき私はアームストロングの母堂の名前を言いましたね。リンダ・アーデンといって、非常に有名な女優で――特にシェークスピア女優として。『お気に召すまま』の中に――アーデンの森と、ロザリンドという女主人公が出て来ますが、彼女はそこから思いついて、自分の芸名をつけたのです。リンダ・アーデン、この名前で彼女は世界中に知られましたが、それは本名ではなかったのです。本名は、ゴールデンバーグだったと思います――たしか、彼女は、中央ヨーロッパ人の血を受け――ユダヤ系かも知れません。アメリカには、いろいろの国民が流れ込んでいます。このアームストロング夫人の妹は、例の惨劇の時には、まだほんの子供で、ヘレナ・ゴールデンバーグという名前だったと思います。彼女は、リンダ・アーデンの次女です。彼女はアンドレニイ伯爵がワシントンの大使館に在任中に、彼と結婚したのです」
「しかし、彼女は英国人と結婚したと、ドラゴミロフ公爵夫人が言いましたよ」
「――しかも、公爵夫人はその英国人の名前を覚えていない! お尋ねしますが――そんなことがありますか? ドラゴミロフ公爵夫人は、偉大な婦人が偉大な芸術家を愛するように、リンダ・アーデンを愛した。彼女は、この女優の娘の一人の教母になった。それなのに、彼女は、もう一人の娘の結婚相手の名前をそんなに早く忘れてしまうものなのでしょうか? ドラゴミロフ公爵夫人は嘘をついたのだと言っていいと思います。彼女は、ヘレナがこの汽車に乗っていることを知っているのです。ヘレナの姿を見ているのです。彼女は、ラチェットが本当は誰であるかを聞くや否や、ヘレナが疑われることに気がついたのです。それで、私たちがアームストロング夫人の妹について質問したとき、とっさにごまかして――よく知らない、覚えていない、しかし、ヘレナはイギリス人と結婚したと思う――と真実から出来るだけ遠い嘘をついたのです」
食堂の給仕の一人が、向こう端のドアから、入って来て、彼らに近づいてきた。そしてブック氏に言った。
「お食事にしてよろしゅうございますか? 先ほどからご用意はできております」
ブック氏は、ポワロを見た。ポワロはうなずいた。
「よろしい、食事にしなさい」
給仕は反対側のドアから出て行った。やがてベルが鳴り、給仕の声を張りあげるのが聞こえた。
「一等乗客のみなさま。御夕飯のお仕度ができました。どうぞ、お出まし下さいまし」
第四章 伯爵夫人のパスポートの油のしみ
ポワロは、ブック氏と医者と三人で、一つの食卓に坐った。
食堂車へ集まった人々はひどく沈んでいた。殆んど、話をしなかった。お喋りのハッバード夫人さえ、不自然に静かだった。
ハッバード夫人は、席につきながら、つぶやいた。
「私、今夜は何もいただけそうもありませんわ」そのくせ、スウェーデン嬢が、夫人を自分に託された特別なあずかり人と見なして、親切にすすめると、何でも食べてしまった。
ポワロは、食事の前に、給仕頭の袖をひいて、何事かをささやいた。コンスタンチンには、その内命が何であったかを容易に推測できた。アンドレニイ伯爵夫妻のところへは、いつも最後に、料理が運ばれたからだ。そして、食事が終り、彼らの請求書が作られるのも手間どった。そのため、伯爵夫妻は食堂車に最後まで残ることになった。
やっと二人が立ち上り、ドアの方に歩き出した時、ポワロは身を起こして、その後を追った。
「失礼ですが、奥さま、ハンカチーフをお落としになりました」
ポワロは、小さい頭文字の入ったハンカチーフを差し出した。
伯爵夫人はそれを取って、ちらと見て、相手に返した。
「お間違いです。私のハンカチーフではありません」
「あなたのハンカチーフではない? 確かですか?」
「絶対に確かです」
「でも、奥さま、あなたの頭文字――Hという頭文字がついておりますよ」
突然、伯爵が向き直った。ポワロは彼を無視した。ポワロの目は伯爵夫人の顔に見入っていた。
伯爵夫人は、静かに、ポワロを眺めて答えた。
「おっしゃる意味が判りません。私の頭文字は、E・Aですもの」
「そうではありません。あなたの名前は、ヘレナです――エレナではありません。あなたは、リンダ・アーデンの次女ヘレナ・ゴールデンバーグ――アームストロング夫人のお妹さんのヘレナ・ゴールデンバーグです」
一、二分間、死の静寂があった。伯爵と伯爵夫人とは死んだように蒼ざめた。ポワロは一段と優しく、言った。
「否定なさっても無駄です。本当でしょう?」
伯爵が、憤然として叫んだ。
「君は何の権利があっていったい――」
夫人は、小さい手で彼の口をおさえるようにして、彼を遮った。
「ルドルフ、お止《や》めになって。私に話させてください。この方のおっしゃることを否定しても無駄です。それより、ご一緒に坐って、話し合いましょう」
その声は以前とはうって変っていた。依然として南国的な豊かな音声ではあったが、不意に歯切れのよい明瞭なものとなったのだ。初めて、純然たるアメリカ語となったのだ。
伯爵は黙っていた。彼は夫人の手の勧めるままに従った。二人はポワロの向かいに腰をかけた。
「あなたのおっしゃる通りです」と伯爵夫人は言った。「私、アームストロング夫人の妹、ヘレナ・ゴールデンバーグです」
「今朝は、そのことを私におっしゃいませんでしたね、伯爵夫人」
「ええ」
「つまり、ご主人もあなたも、おっしゃったことは全部、嘘の連続でしたね」
「君っ!」と、伯爵が怒って叫んだ。
「お怒りにならないで、ルドルフ。ポワロさんは、残酷な言い方をなさいますが、おっしゃることは否定できません」
「早速素直に事実を認めて下さって、有難うございました、奥さま。では、何故そうなさったか、また、何故パスポートの洗礼名をお変えになったか、その理由をお聞かせください」
「あれは、全部私のしたことです」と、伯爵が口をはさんだ。
エレナは静かに言った。
「ポワロさん、理由はご推察いただけましょう。殺された男は、私の小さい姪《めい》を殺し、私の姉を殺し、義兄の心を破壊させた男です。この三人は、私が最も愛していた人々であり、私の家庭――私の世界をつくっていた人たちなのです!」
彼女の声は情熱的にひびいた。さすがに彼女は感動的な演技力で大観衆を涙にむせばせた、あの母親の娘であった。
彼女は声をおとして静かにまた言った。
「この汽車に乗りあわせたすべての人々の中で、あの男を殺す最大の動機をもっているのは、おそらく、この私唯一人でしょう」
「彼を殺したのは、あなたではないのですね。奥さま?」
「誓います。また、私の夫も、私のことを知っていますから、誓ってくれるでしょう。――幾度もそうしたい誘惑にかられましたが、私があの男に手を上げたことは一度もありません」
「私も」と、伯爵は言った。「名誉にかけて、ヘレナは昨夜は一度も部屋を出なかったことを誓います。彼女は、さきほど私の言ったように、睡眠薬を飲んだのです。彼女は絶対に完全に潔白です」
ポワロは二人の顔を見くらべた。
「名誉にかけて」と、伯爵は繰り返した。
ポワロは軽く頭を振った。
「しかし、わざわざあなたはご自分で、パスポートの名前を変えていらっしゃるじゃありませんか?」
「ポワロ君」と、伯爵は、熱心に、情熱的に言った。「私の立場を考えて下さい。妻が忌わしい刑事事件のまきぞいになるのは、考えただけでも堪えられないじゃありませんか? 妻は潔白でした。私がそれを知っています。しかし、妻の言った家系のことは本当です。妻とアームストロング家との関係からして、すぐに疑われるでしょう。妻は尋問され――逮捕されるでしょう。運悪くこのラチェットという男と同じ列車に乗っていたからには、そうなるより仕方のないことだと思います。確かに何から何まで嘘を言ったことは私も認めます。――ただこの一つだけは別です。妻は昨夜、一度も部屋を出なかったのです」
伯爵は、すぐには反論できかねるほどの真剣味と熱意をこめて語った。
「あなたを信じないというのではありません」と、やがてポワロはゆっくりと言った。「お宅《たく》が、誇り高く、古い家柄であることは存じております。奥さまが、忌わしい刑事事件に引きずり込まれるのは、さぞかしご苦痛なことでしょう。ご同情いたします。しかし、奥さまのハンカチーフが、現に殺された男の部屋にあったことは、どう説明なさるのですか?」
「そのハンカチーフは、私のではありません」と、伯爵夫人が答えた。
「Hという頭文字があってもですか?」
「そうです。頭文字があってもです。私は、それに似たようなハンカチーフは持っておりますけれども、模様が違っております。もちろん、信じてはいただけないとは思いますが、これは確かなことです。このハンカチーフは私のではありません」
「誰かが、あなたに罪を負わせようとして、置いていったのかも知れませんね?」
彼女はかすかな微笑を浮かべた。
「結局、あのハンカチーフを、どうあっても私のものだと認めさせたいのですね? 本当に、ポワロさん、私のものではないのです」
彼女は真剣に言った。
「では、ハンカチーフがあなたのものでないのなら、どうしてパスポートの名前をお変えになったのですか?」
伯爵がこれに答えた。
「それは、Hの頭文字のはいったハンカチーフが発見されたということを聞いたからです。あなたにお会いする前に、私たちは一緒にこのことを話し合いました。もし妻の洗礼名がHで始まることが分かったら、たちまち疑いの的となり、一層きびしい尋問を受けることになると、私が妻に言ったのです。それに、とても簡単なことでしたからね――ヘレナをエレナに変えるのは――」
「伯爵、あなたは、たいへん優れた犯罪者の資質をそなえておいでですね」と、ポワロはそっけなく言った。「その天性の工夫力と、平気で司直の目をあざむこうとする冷酷な決断力」
「まあ、とんでもない」と、伯爵夫人が前にのり出した。「ポワロさん、事情はルドルフがいまご説明いたしましたでしょう」ここで彼女は、フランス語を英語に変えた。
「あのとき、私、こわかった――死ぬほどこわかったんです。すっかりおじけづいてしまっていたんです。何もかも明るみに出されやしないかと思って。疑われたり、牢獄に投げ込まれたりしやしないかと思って。私、恐ろしさで身体が石みたいになってしまったのです。ポワロさん、少しはお判りになっていただけません?」
彼女の声は愛らしく――深く――豊かで、――相手の胸を打つものがある。まさしく女優リンダ・アーデンの娘の声だった。
ポワロは、厳粛な面持で彼女を眺めた。
「あなたを信じることができるというならば、――そして、私はあなたを信じないとは言いません――それならあなたは私を助けて下さらなければなりません」
「あなたを助ける?」
「そうです。この殺人の理由は過去にあるのです――あなたのご家族を破壊し、若いあなたを悲嘆のどん底に突き落とした、あの悲劇にあるのです。私を、その過去の世界に案内して下さい。そうすればこの事件の全貌を説明する重要な鍵を、私が発見できるかも知れませんから」
「でも過去のいったい何をお話したらいいのでしょう? あの人々は、皆死んでしまいました」彼女は悲しそうに繰り返した。「みんな死んでしまいました。みんな死んでしまいました。ロバートも、ソニアも――可愛い、可愛いデイジーも。あの子は、とても愛らしくて――とても幸せで――可愛いカールをしていました。あの子が奪い去られて私たちは、みんな気が狂ってしまいました」
「他にも犠牲者がありましたね、奥さま。間接的な犠牲者かも知れませんが」
「気の毒なスザンヌですか? ええ、ついうっかりしていました。警察があの子を尋問しました。警察では、あの子が何か事件に関係していると信じ込んだのです。たぶん、あの子は――そうだったかも知れませんが、そうだとしても、何の気もなしに無邪気にやったことですわ。誰かとお喋りしていて、つい、デイジーの外出時刻をもらしてしまったのだと、私は思います。可哀そうに、あの子はすっかり逆上してしまいました。自分がデイジー殺しの責任者にされると思って」伯爵夫人は身震いした。「窓から身を投げましたの。ああ! 恐ろしい」
彼女は両手で顔をおおった。
「スザンヌの国籍は?」
「フランス人でした」
「姓は何と言いましたか?」
「おかしいようですが、覚えていません、――みんな、スザンヌと呼んでいましたので。きれいな、よく笑う少女でした。デイジーに献身的につくしていました」
「彼女は子守女でしたね?」
「ええ」
「乳母《うば》は誰でした?」
「正式の看護婦の資格をもった女性です。ステンゲルバーグという名前でした。彼女も、やはり、デイジーに献身的につくしていました――それに姉に対しても」
「では、奥さま、よくお考えになってから、次の質問にお答えください。あなたは、この汽車にお乗りになってから、誰かご存じの方にお会いになりませんでしたか?」
彼女は目を見開いた。
「私? いいえ、全然誰にも」
「ドラゴミロフ公爵夫人は、どうです?」
「ああ、あの方? もちろん、存じております。私、あなたのおっしゃるのは、誰か――誰か――あの当時からの知り合い、という意味かと思ったものですから」
「そうです、奥さま、あの当時からの知り合いという意味です。さあよく考えてください。幾年も過ぎ去ってしまっているのです。どの人だって、顔や姿がだいぶ変ってしまっているかもしれませんよ」
ヘレナは深く考えた。そして、言った。
「いいえ――確かに――一人もいません」
「あなたご自身には――当時は、小さな少女でしたね――誰か、ご勉強の相手をしたり、身のまわりの世話をしたりする人がついていませんでしたか?」
「ああ、いました――私の家庭教師で姉のソニアの秘書を兼ねていた人がありました。その人はイギリス人か、スコットランド人で――赤毛の、大柄な女性でした」
「彼女の名前は?」
「フリーボディさん」
「お若い方でしたか? お年寄りでしたか?」
「あの頃の私には、ひどく年とっているように見えました。けれどたぶん、四十を出てはいなかったと思います。スザンヌも、もちろん、私の衣類の世話や、小間使の役をしてくれました」
「お宅には、他には誰も住みこんではいませんでしたか?」
「召使だけです」
「では、奥さま、確かに――本当に確かに――この汽車で、あなたは当時の知り合いの人にはお会いにならなかったのですね?」
彼女は真剣な面持ちで答えた。
「はい。誰にも、全然誰にも会いません」
第五章 ドラゴミロフ公爵夫人の洗礼名
伯爵夫妻が立ち去ってしまうと、ポワロは二人の男たちの方を振り向いた。
「どうです」と、彼は言った。「だんだん解決へと進んでくるでしょう?」
「たいした腕前ですね」と、ブック氏が心から感嘆して言った。「私は、アンドレニイ伯爵夫妻がくさいなんて夢にも思わなかった。二人とも全くお手あげのようですな。彼女が罪を犯したことに間違いないようですな? だが、どうも、いたましいですな。まさか、死刑にはならないでしょうが、情状酌量で、せいぜい二、三年の刑でしょうな」
「あなたは、すっかり彼女を犯人と決めてしまったようですな」
「だって、そうに違いないのでしょう? 私は、あなたの見るからに頼もしい態度は、やがて汽車が雪からぬけ出して警察に引き渡すまで、事を穏便《おんびん》にすまそうとするはからいだと思ってたんだけど」
「伯爵の、妻は潔白だと――名誉にかけて誓った――あの強い断言をあなたは信じないのですか?」
「しかし、彼としては――当然――彼は他にどう言えますか? 彼は、自分の妻を熱愛している。何としても、妻を救いたい! で、彼は、上手に嘘をついたのです。――いかにも貴族ぶった態度で。だが、所詮嘘は嘘でしょう?」
「さあ。伯爵の言葉は真実だろうという、途方もない考えを持っていたのだが」
「いや、いや。ハンカチーフ、覚えているでしょう。あのハンカチーフがすべてを決定していますよ」
「ほう、あのハンカチーフを、私はそれほど決め手になるものとは思っていませんよ。もう何度も言ったように、あのハンカチーフの所有者には、二つの場合がありうると思っていますよ」
「でも、それにしても――」
ブック氏は突然口をつぐんだ。向こうのドアが開き、ドラゴミロフ公爵夫人が食堂車に入ってきたのだ。彼女は、真直ぐ彼らの方にやって来た。三人の男は立ち上った。
彼女は、他の二人を無視して、ポワロに言った。
「確か、あなたは」と、彼女は言った。「私のハンカチーフをお持ちでしたね」
ポワロは勝ちほこった眼差しを二人に投げた。
「これでございますか、奥さま?」
立派な麻の小さいハンカチーフを出した。
「それです。隅に、私の頭文字があります」
「しかし、公爵夫人、それはHという字ですが」と、ブック氏が言った。「あなたの洗礼名は――失礼ですが――ナタリア様ではございませんか」
彼女は、彼を冷たく見すえた。
「そうです。私のハンカチーフは、いつもロシア文字で頭文字が入れてあります。Hは、ロシア文字のNです」
ブック氏はたじたじとなった。この不屈な老貴婦人の前では、いつもブック氏は取り乱し、そわそわしてしまうのだ。
「今朝ほどは、これはあなたのものだとはおっしゃいませんでしたが」
「お尋ねにならなかったからですよ」と、公爵夫人はそっけなく言った。
「どうぞ、お掛けになって下さい」と、ポワロが言った。
彼女は嘆息をついた。
「そういたしましょうか」
彼女は坐った。
「このハンカチーフについては、皆さんにお手間はとらせません。あなたの次の質問は――どうして、私のハンカチーフが殺された男の死体のそばに落ちていたか、ということでしょう。それに対する私の答えは、私にも判りません、ということです」
「本当に、ご存じありませんか?」
「全く存じません」
「失礼ですが、奥さま、あなたのお答えにどれほどの信頼をお寄せすることができるのでございましょうか?」
ポワロはたいへん優しく言った。ドラゴミロフ公爵夫人は、さげすむように答えた。
「私が、ヘレナ・アンドレニイは、アームストロング夫人の妹だと申しあげなかったから、そんなことをおっしゃるのでしょう?」
「そのことについては、慎重に嘘をおっしゃいましたね」
「そうです。そんな機会がまた来たら、また嘘を言うでしょうよ。彼女の母は、私の友人でした。私は、自分の友人や、家族や、同族には――誠実でありたいと願っていますから」
「正義が行なわれるのに、できるだけ手をかそうとは、願っていらっしゃらないのでしょうか?」
「この事件こそは、正義――きびしい正義――が遂行されたと私は考えています」
ポワロは前に乗り出した。
「困っているのです、奥さま。このハンカチーフのことでは、あなたを信じてよろしいのでしょうか? それとも、あなたは、お友だちのお嬢さまをかばっておられるのでしょうか?」
「ああ! おっしゃる意味が分かりました」と夫人は気味悪い笑いを浮かべた。「ハンカチーフのことなら、わけなく確かめられます。私のハンカチーフを作るパリの店の住所をお教えしましょう。そこへ、問題のハンカチーフをお見せになれば、店では、私の注文で一年余り前に作った品だとお知らせするでしょう。そのハンカチーフは、私のものです」
彼女は立ち上った。
「もっと何か私にお尋ねになりたいことがありますか?」
「小間使さんは、今朝これを見せられた時、このハンカチーフを知っていたでしょうか?」
「きっと知っていたことでしょう。小間使は、それを見ても何も言わなかったのですか? ああ、それは、彼女も、やはり、忠実である証拠です」
公爵夫人は、かすかに首をかしげて、食堂車を出て行った。
「そうだったのか」と、ポワロは低くつぶやいた。「小間使に、あのハンカチーフは誰のだか知っているかと尋ねた時、ちょっと、ためらったのに、私は気付いたのです。小間使は、それはご主人のですと、認めようかどうかと迷ったのだ。しかし、これは、私のあの奇妙な考えの中心とどう適合するのだろうか? そうだ、うまく行きそうだ」
「ああ!」と、ブック氏は、彼特有の大げさな身振りをして言った。――「何と恐るべき老貴婦人であることか!」
「彼女にラチェットを殺すことができるでしょうか?」と、ポワロは医者に聞いた。
医者は頭を振った。
「あの傷は――激しい力で筋肉を刺し通していました――とても、とても、あんなか弱い身体では出来るものではありません」
「しかし、浅い方の傷は?」
「浅いほうなら出来ます」
「私は」と、ポワロが言った。「今朝、公爵夫人に、力は夫人の腕にあるのではなく、夫人の意志の中にあるのだと言った時のことを考えているのです。その言葉は罠《わな》でした。それを聞いて、公爵夫人が右手を見下ろすか、それとも、左手を見下ろすかを知りたかったのです。そのどちらでもなかった。夫人は両手を見下ろしたのです。しかし、夫人は不思議な返事をしました。『ええ、この腕には力がありません。それを悲しむべきなのか、喜ぶべきなのか分かりません』と。変った言葉でしょう。しかし、この言葉は、この犯罪についての私の推理にいっそう強い自信を与えてくれたのです」
「それは、左利きの件について決め手にはなりませんね」
「いや、そのことなら、アンドレニイ伯爵が、右側の胸のポケットにハンカチーフを入れたことに気づきませんでしたか?」
ブック氏は首を振った。彼の頭は、ここ三十分ほどの間にあらわにされた驚くべき事実のことで一杯だったのだ。彼はつぶやいた。
「嘘――また嘘――驚いたねえ。今朝から私たちは、いったい、どれほど嘘ばかり聞かされたことだろう」
「まだまだ嘘が見つかりますよ」とポワロは愉快そうに言った。
「そう思いますか?」
「そうでなかったら、私はがっかりしてしまうなあ」
「二重底もいいところだ」と、ブック氏は言った。「しかし、あなたはそれが嬉しそうに見えますね」と、彼は非難の響きをこめてつけ加えた。
「ところが、嘘には、こんな御利益《ごりやく》もあります」とポワロは言った。「嘘をついた人に、真実を真向うから突きつけると、たいてい、あっけなく兜《かぶと》をぬいでしまうものです。――驚きのためだけで。この効果を上げるために必要なのは、つぼにはまった推測をするだけです。
それが、この事件を解決に導く唯一の方法なのです。私は、乗客に一人ずつ順に会い、その証言を考察し、もしある言葉が嘘だとすれば、それはどの点なのか? また嘘をつく理由は何なのか? と自問してみる。そして、もしこれが嘘だとすれば――|もし《ヽヽ》ですよ――それはこういう理由で、またこういう点で嘘であるに違いないと自分で答えるのです。これを、一度、アンドレニイ伯爵夫人に試みて大成功しました。今から、他の数人に対しても同じ方法を試みてみるつもりです」
「だが、あなたのその推測が間違っていたらどうなります?」
「その時は、その人はともかく、完全に嫌疑の外におかれることになります」
「ああ! では、一種の消去法ですね」
「その通りです」
「では、次に誰をやりますか?」
「次ぎは、あの紳士中の紳士、アーバスノット大佐に当ってみることにしましょう」
第六章 アーバスノット大佐との二回目の会見
アーバスノット大佐は、二回目の会見のために、食堂車へ呼ばれて、いかにも不愉快そうであった。顔には苦りきった表情が浮かんでいた。彼は腰を下ろすなり、言った。
「何です?」
「二度もご足労願って、申し訳ありません」と、ポワロは言った。「まだ何か教えていただけそうなことがあると思いましたので」
「私はそうは思いません」
「最初に、このパイプ掃除器ですがね」
「なるほど」
「これは、あなたのものですか?」
「判りませんな。何も特別の印をつけてはおりませんから」
「しかしアーバスノット大佐、パイプを吹かすのはこのイスタンブール=カレー車輛の乗客中、あなた一人だけだということにお気づきですか?」
「それなら、おそらく、私のものでしょうよ」
「どこで見つかったか、ご存じですか?」
「全然知りません」
「殺された男の死体のそばで見つかったのです」
アーバスノット大佐は、眉をつり上げた。
「何故そこにあったか、その理由をお話しください、アーバスノット大佐」
「私が自分でそこに落としたと言われるのなら、私には覚えはないとお答えするほかはない」
「ラチェットの部屋に入ったことがおありですか?」
「口をきいたこともありません」
「口をきいたことも、殺した覚えもないのですね?」
大佐の眉が、再び嘲笑をふくんでつり上った。
「自分が殺しておいて、はい私がやりました、と答える奴もいないでしょう。が、実際、私は殺した覚えがありません」
「ああ、なるほど」と、ポワロがつぶやいた。「だが、それはたいしたことではありません」
「何ですって?」
「たいしたことではない、と言ったのです」
「ほう!」とアーバスノットは驚いた。彼の眼は不安の色をうかべてポワロを見た。
「というのは」と、ポワロはつづけた。「パイプ掃除器なんか、重要ではないのです。これが落ちていたもっともらしい説明なんぞ、私なら十くらい考え出せますからね」
アーバスノットは相手をみつめた。
「あなたにお会いしたかったのは、全く別のことのためです」とポワロは話を進めた。「多分、デベナム嬢からお聞き及びでしょうが、コニア駅で、彼女があなたに言った言葉を、私はつい立ち聞きしたのです」
アーバスノットは答えなかった。
「彼女は『いまは駄目。すっかり済んだら。何もかも終ってしまったら』と言いましたね。この言葉はどういう意味か、ご存じですか?」
「生憎《あいにく》ですが、ポワロさん、その質問には答えられません」
「なぜです?」
大佐はぎこちなく言った。
「あなたからデベナム嬢に、あの言葉の意味をお尋ねになったらいいでしょう」
「そうしました」
「で、彼女は断りましたか?」
「そうです」
「それなら、お判りになっていただけるでしょう、私に言えるわけがないことが」
「御婦人の秘密はもらすことが出来ないとおっしゃるのですね?」
「お好きなようにお取り下さい」
「デベナム嬢は、自分自身の私事に関することだと、私には言いました」
「それなら、なぜその言葉通りに受け取らないんです?」
「それは、アーバスノット大佐、デベナム嬢がたいへん疑わしい人物だからです」
「馬鹿な」と、大佐は激しく言った。
「馬鹿なことではありません」
「何も疑う理由がないでしょう」
「幼いデイジー・アームストロングが誘拐された当時、デベナム嬢は、アームストロング家の家庭教師であったという事実も疑う理由とはならないのですか?」
一瞬、死の静寂があった。
ポワロは優しくうなずいた。
「私たちは」と彼は言った。「あなたが考えていらっしゃる以上に多くを知っています。デベナム嬢が潔白ならどうしてその事実を隠したのでしょうか? どうして、自分はアメリカへは一度も行ったことがないなどと言ったのでしょうか?」
大佐は咳払いした。
「あなたの思い違いじゃありませんか?」
「私の思い違いではありません。どうして、デベナム嬢は、私に嘘をつかれたのでしょうか?」
アーバスノット大佐は肩をすくめた。
「彼女にお尋ねになるがいいでしょう。私は、やはりあなたの思い違いだと思います」
ポワロは声を高くして、給仕を呼んだ。給仕の一人が向こうの隅からやって来た。
「十一番室のイギリス婦人のところへ行って、こちらへおいでいただけるかどうか、お尋ねして来なさい」
給仕は出て行った。四人の男は黙って坐っていた。アーバスノット大佐の顔は、木彫りの彫刻のように、硬《こわ》ばって無表情だった。
給仕が戻って来た。
「ただ今、おいでになります」
「ありがとう」
一、二分して、メアリー・デベナム嬢が食堂車へ入って来た。
第七章 メアリー・デベナムの正体
彼女は帽子をかぶっていなかった。挑戦するように頭をもたげていた。後にかきあげて束ねた髪の流れるようなうねりと、形のよい鼻孔の曲線は、颯爽と荒海にのり出していく船の船首像を思わせた。この瞬間、彼女は実に美しかった。
彼女の目は、一瞬――ほんの一瞬、アーバスノットの方へ行った。
彼女はポワロに言った。
「私に御用がおありですの?」
「どうして、今朝、私たちに嘘をおつきになったか、それをお尋ねしたかったのです」
「あなたに嘘を? おっしゃる意味が判りかねます」
「あなたは、アームストロング家の悲劇の当時、あの家で生活していらっしゃった事実をお隠しになりましたね。アメリカには一度も行ったことがないなどと言われましたね」
彼女は一瞬たじろいだが、すぐ立ち直った。
「ええ」と彼女は言った。「その通りです」
「まだ、そんな嘘を」
「お間違えです。嘘だったことを認めているのです」
「ああ、ではお認めになるのですね?」
彼女の唇に微笑が浮かんだ。
「ええ、あなたに見抜かれてしまいましたから」
「ともかく、あなたは率直でいらっしゃる」
「他にどうしようもありませんもの」
「それはそうかも知れませんね。では、その嘘を何故おっしゃったかを教えてください」
「理由は、明白だと思いますけれど、ポワロさん」
「私には明白でないのです」
デベナム嬢は静かな、滑らかではあるものの、苦労のあとのしのばれる声で、言った。
「私は働いて生活しなければならない者です」
「とおっしゃると?」
彼女は目を上げ、正面から彼を見つめた。
「ポワロさん、相応な職業を得て、長く務め上げることが、女性にとってどんなに困難か、あなたご存じですか? 女性が、殺人事件で拘留されて、名前や写真まで、英国の新聞に出たら――普通の善良な中流階級のイギリス婦人で、その女性を自分の娘の家庭教師に雇いたいと思う人がいるとお思いですか?」
「別にさしつかえないと思いますがね――罪を犯したのでなかったのなら」
「まあ、罪なんて――罪の問題じゃありません――新聞種になることが問題なのです! 今までは、私、何とかやって来ました。収入のいい、気持のいい職場を得て暮らして来ました。で、今のこの地位を、何の役にも立たないことのために、危険にさらしたくはないのです」
「何の役にも立たないか立つかは、失礼ですが、あなたより私の方が心得ているところだと思いますがね、デベナムさん」
彼女は肩をすくめた。
「例えば、あなたは、個人識別についても、出来うる助言をして下さいませんでしたね」
「それ、なんのことでしょう」
「アンドレニイ伯爵夫人こそ、あなたがニューヨークで教えたアームストロング夫人の妹さんであること、それをご存じないはずがないでしょう?」
「アンドレニイ伯爵夫人が? いいえ」と、彼女は首を振った。「あなたには、不思議に思われるかも知れませんが、私には彼女が分かりませんでした。私が知っていた頃は、あんなにご成長なさっていらっしゃらなかったんですもの。三年以上もたっていますもの。伯爵夫人が、誰かに似ていらっしゃるとは思いましたけれど、思い出せなかったんです。すっかり外国風な身なりをなすってて――小さいアメリカの女学生とは結びつきませんわ。それに食堂車に入っていらっしゃるのを、偶然に、ちらとお見かけしただけで。それも顔より服装に気をとられていて――」彼女はかすかに微笑した。――「女って、そういうものですわ! それに――自分自身の心配ごとがあったものですから」
「あなたの秘密はお話しいただけないでしょうね、デベナムさん?」
ポワロの声は非常に優しくて、相手の心を動かす力をもっていた。
彼女は低い声で言った。
「でも、それは、出来ません――出来ません」
そして、突然、何の前ぶれもなく、延ばした両腕の中に顔を伏せて、胸もはり裂けんばかりにわっと泣きくずれた。
大佐は、はじかれたように立ちあがり、ぎこちなさそうに彼女のそばに立った。
「ね――さあさあ――」
大佐はそう言いかけて言葉をきり、ふいに向き直って、恐ろしい顔でポワロをにらみつけた。
「この小生意気な小便小僧め! 忌まいましい貴様の身体の骨という骨をたたき折ってやるぞ!」と、彼は叫んだ。
「まあまあ、大佐殿」と、ブック氏がなだめた。
アーバスノットは、また彼女の方に向き直った。
「メアリー――お願いだから――」
デベナム嬢は立ち上った。
「何でもありません。大丈夫です。ポワロさん、もう私にご用はないでしょう? もしありましたら、あちらへお出ましください。――ああ、何って馬鹿なんでしょう――私って、何って馬鹿なことをするんでしょう!」
彼女は急いで、食堂車を出て行った。アーバスノットは、その後を追う前に、もう一度ポワロの方を振り向いた。
「デベナム嬢は、この事件には何の関係もない――何もない。聞こえますか? 君が彼女を苦しめ、干渉するというなら、私が相手になる」
彼は大股に出て行った。
「怒ったイギリス人を見るのは好きだな」と、ポワロが言った。「たいへん面白い。イギリス人は怒れば怒るほど口下手になりますな」
しかし、ブック氏は、イギリス人の怒りには興味はなかった。友人ポワロの素晴しさに感嘆しきっていたのだ。
「|あなたは実に素晴しい《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》」と彼は叫んだ。「またしても、ぴたりだ。奇蹟みたいに素晴しい推理だ。恐ろしいくらいだ」
「どうして、こうも見事に推理できるのか、信じられないほどだ」と、コンスタンチン博士も感嘆して言った。
「いや、今度は、たいした手柄とは言えません。これは推理したのではないのです。アンドレニイ伯爵夫人が言ったのです」
「どうして? まさかそんなことを?」
「伯爵夫人に、家庭教師や友人のことを私が尋ねたのを覚えていますね? もしメアリー・デベナムがアームストロング事件に関係しているとすれば、家庭でこうした種類の仕事をしていたに違いないと、前々から私は思っていたのです」
「なるほど。しかし、アンドレニイ伯爵夫人は全然違う人のことを言いましたよ」
「その通り。背の高い、赤毛の中年女とね。――デベナム嬢とあらゆる面で正反対の女性です。そこが大いに注目をひくところです。しかも、それから、彼女はす早く名前をでっちあげねばならなかった。この時に無意識に連想が働いてしまった。彼女がフリーボディさんと言った、のを覚えているでしょう」
「ええ、それで?」
「ご存じないかも知れないが、ロンドンには、最近まで、デベナム・フリーボディと呼ばれた店があります。デベナムという名前が頭の中をよぎった時、これはいけないと、伯爵夫人は、急いで別の名前にとびついたのです。そして、一番手近かなところにあったのがフリーボディという名前だったというわけなのです。私にはすぐ、ごく自然に、ははあんと判ったのです」
「では伯爵夫人はまた嘘を言ったのですね。どうしてなのでしょう?」
「おそらくは、友人への誠実のためでしょう。おかげで事はいっそう面倒になりましたよ」
「全くです」と、ブック氏が烈しい口調で言った。「しかし、この列車の乗客は、誰も彼もが嘘をついているのでしょうか?」
「それを」と、ポワロは言った。「これからはっきりさせるわけです」
第八章 さらに驚くべき新事実
「さあ、もう何事が起きても驚かないぞ」とブック氏が言った。「何事にも驚かないぞ! たとえ乗客の全部がアームストロング家の者であったと証明されたとしても、私は驚かないぞ」
「それは、意味するところの深い、重大な言葉ですよ」と、ポワロは言った。「それでは一つ、あなたのごひいきの容疑者イタリア人は何と釈明するか、会ってみる気はないですか?」
「では、またあなたの素晴らしい推理をやろうというのですか?」
「その通り」
「全くこれは実に奇々怪々な事件ですね」と、コンスタンチン博士が言った。
「いや、たいへん自然な事件ですよ」
ブック氏は大げさに両手を拡げて、滑稽な絶望の仕草をした。
「もしこれをしも、あなたが自然な事件と呼ぶならば、おおポワロ君――」
だが、あとの言葉が出て来ない。
その間に、ポワロは食堂車の給仕に、アントニオ・フォスカレリを呼んでくるように頼んだ。
大柄のイタリア人は、用心深い目つきで入って来た。そして、罠にかかった動物のように、そわそわした目つきで、三人を見くらべた。
「何の御用ですか」と、彼は言った。「私には言うことは何もありませんよ――絶対に何も。神に誓って」と言って、彼はテーブルをどんと叩いた。
「いや、あなたには、まだ何か言うことがあります」とポワロはきびしく言った。「言いなさい。真実を!」
「真実?」彼は不安な視線をポワロに投げた。自信と温和とは彼の態度からすっかり消え去っていた。
「私はもう知っているのですよ。しかし、あなたが自発的に話してくださる方が、あなたの身の為です」
「まるでアメリカの警察みたいな言い方じゃないですか。『どろを吐け』と奴らは言うんだ――『どろを吐け』と」
「ほう! では、あなたはニューヨークの警察で調べられた経験がおありですね?」
「いや、とんでもない。私には罪になる何の証拠もなかったんだ――でも、取調べを受けなかったわけではありませんがね」
ポワロは静かに言った。
「それは、アームストロング事件の時ですね? あなたは運転手でしたね?」
ポワロの目はイタリア人の目を見つめた。荒々しい様子がこの大柄の男から消えた。彼は穴のあいた風船のようだった。
「知っているのなら――どうして聞くんです?」
「今朝、あなたはどうして嘘をついたんです?」
「仕事のためです。それに、私はユーゴスラヴィアの警察を信用していない。奴らはイタリア人を目の敵にしてるんです。とても私を正当に扱ってくれないでしょうからね」
「おそらく、正当に扱ってくれますよ」
「とんでもない、私は昨夜の事件には何の関係もありませんよ。一度も自分の部屋を出やしないんだから。それはあの馬面のイギリス人が証明できます。あのラチェットという――ブタ野郎を殺したのは私じゃない。そんな証拠はどこにもないはずだ」
ポワロは紙に何か書き込んでいた。やがて顔を上げて静かに言った。
「では、よろしい。お引きとり下さい」
フォスカレリは、しかし不安そうに立ち去りかねていた。
「犯人は私でないと分かりましたね――私はこの事件に何の関係もありませんよ」
「お帰り下さいと言っているのです」
「陰謀だ。私を罪におとすつもりでしょう? それも、とっくに電気椅子にかかっているのが当然のあのブタ野郎のために! あいつが死刑にされなかったのは社会の恥だ。もし俺だったら――もしこの俺があのとき捕まっていたら――」
「しかし、それは君ではない。君は子供の誘拐に関係はない」
「何ですって? おお、あの小さいお嬢さま――あの方は一家の光でした。『トニオや』って、この私をそうお呼びになった。自動車にのってハンドル握って運転の真似をなさったり。一家中の皆から可愛がられていたお嬢さま! 警察の奴でさえお嬢さまの可愛さは判ったほどだ。ああ、あの美しい可愛いいお嬢さま!」
フォスカレリの声は優しくなっていた。目には涙が浮かんできた。突然彼はくるりと踵《くびす》を返すと、大股に食堂車を出て行った。
「ピエトロ!」と、ポワロが呼んだ。
食堂車の給仕が走って来た。
「十番室――スウェーデンのご婦人を」
「かしこまりました」
「またですか?」とブック氏が叫んだ。「いや、違います。――あの女性だけは、そんなことはあり得ませんよ。あり得ないことですよ」
「だが、確かめなくてはなりませんよ。よしんば乗客の全部にラチェット殺しの動機があるということが証明される結末になるにしても、ともかく一人一人確かめなくてはならないんです。全部の人に当ってみれば、誰が犯人かを、はっきり断定することができるようになりますよ」
「私は頭がぐるぐる回り出した」と、ブックがうなった。
グレタ・オルソンは、給仕に助けられて入って来た。彼女は激しく泣いていた。
ポワロの向かいの椅子に崩れるように身を置いてからも、大きなハンカチーフの中で泣きつづけていた。
「さあ、ご心配なさらないで、オルソンさん、ご心配なさらないで」とポワロは彼女の肩を叩いた。
「ただ、二言三言、真実を言って下されば、それで終りです。あなたは、デイジー・アームストロングさんをお育てしていた乳母さんでしたね?」
「そうです――その通りです」可哀そうな婦人は泣きつづけた。「ああ、デイジーさまは天使でした――小さくて、お可愛いい、この乳母を信じ切っていらした天使さま。親切と愛しかご存じない天使さま。――それがあのよこしまな悪人に奪い去られて――むごい仕打ち――お気の毒なお母さまと――日の目も見ずに亡くなられたもう一人のお子様。あなた方には、とてもお判りにはなれません。――ご存じないんですもの――でも、もしあなた方も私と同じようにあの場に居合わせたら――もし、あの恐ろしい事件の全部をごらんになったら――私は、今朝、本当のことを申し上げるべきでした。でも怖かったのです――怖かったのです。私は、あの悪人が殺されて、とても嬉しゅうございました。――もうあいつは、二度と再び、小さい子供たちを殺したり、苦しめたり出来ませんもの。ああ! 私、口もきけません――何と言っていいのやら……」
彼女は、いっそう激しく泣き出した。
ポワロはその肩を優しく叩きつづけた。
「なるほど――なるほど――解りました――何もかも解りました――何もかも。もうあなたには聞きません。私が考えていたことが真実であることを認めてくださっただけでも十分です。よく解りました」
涙にかきくれて、口もきけずに、グレタ・オルソンは立ち上り、ドアの方へ、手さぐりで歩いて行った。ドアに着いたとたんに、外から入って来た男とぶつかった。
男は従僕のマスターマンだった。彼は真直ぐポワロのところにやって来た。いつものように、無感動な声で、静かに話し出した。
「お邪魔ではありませんか。直ちにお目にかかって、真実をお話しするのが一番いいと思いましたので。私は、戦争中、アームストロング大佐の従卒でした。戦後は、ニューヨークで大佐の従僕をしておりました。今朝は、その事実を隠しており、申し訳ありません。たいへん悪うございました。それで、いっそ参上して一切を申し上げようと思い立ったわけでして。しかし、どうかあのトニオを疑わないで下さい。彼は蠅一匹殺せない男です。それに、昨日は一晩中一度も部屋を出なかったことを、誓って証言いたします。ですから、彼は決してあの殺人を行なうことはできませんでした。トニオは外国人ですが、たいへん心の優しい人です――小説にでてくる悪い人殺しのイタリア人のような男ではないのです」
彼は、言葉を切った。
ポワロは、じっと相手を見つめた。
「話したいことはそれで全部ですか?」
「それだけです」
彼は黙っていたが、ポワロが話さないので、ちょっと、お詫びのおじぎをして、しばらくためらってから、入って来た時と同じように、静かに、つつましく食堂車を出て行った。
「これは」と、コンスタンチン博士が言った。「本で読んだ推理小説よりも奇妙|奇天烈《きてれつ》な事件ですな」
「同感です」と、ブック氏が言った。「あの車輛の十二人の乗客の中で、九人もアームストロング事件に関係があることが明らかになった。さて、お次ぎには何がとび出すか? ところで、次ぎは誰でしょうね?」
「その質問にはもう答えたも同然ですな」と、ポワロは言った。「ほら、アメリカの探偵ハードマン君がやって来た」
「では、彼も白状しにやって来たのですか?」
ポワロが答える前に、アメリカ人は彼らのテーブルのそばにやって来た。彼は油断のない目付で一同を見渡してから、腰を下して、ゆっくりと言い出した。
「いったい全体この汽車はどうしたんです? まるで精神病院みたいじゃないですか」
ポワロの目がキラリと光って、相手を見た。
「たしか、あなたはアームストロング家の園丁だったのじゃありませんか、ハードマン君?」
「あそこには庭園はありませんよ」とハードマンがきっぱりと答えた。
「では、執事ですか?」
「そんな仕事が務まるほど礼儀正しい私じゃありませんからね。私はアームストロング家とは何の関係もありませんや――どうやらこの汽車の中で、関係のないのは、私一人らしいですな! ところで、あなたはこの事件を解決できますか?――お聞きしたいもんですな。解決できますか?」
「いささか不思議な事件ですからねえ」とポワロは柔かく答えた。
「不思議な事件ですとも!」と、ブック氏が叫んだ。
「ハードマンさん、この犯罪についての御意見をお持ちではありませんか?」と、ポワロが聞いた。
「いや、ありませんな。お手あげですよ。てんで判らんですよ。乗客全部が犯人ではないでしょうし、といって、その中の誰が犯人かといえば、見当もつかない。ところで、ポワロさん、みんながあの一家と関係があるってことが、どうして、あなたに判ったのですか。伺いたいもんですな」
「なあに当てずっぽうにすぎませんよ」
「当てずっぽうなら実に見事なもんですね。全く、素晴しい当てずっぽうの名人ですな」
ハードマン氏は椅子によりかかって、感嘆のまなこで、ポワロを見つめた。
「失礼ですが」と、彼は言った。「あなたを見て、それほどの名人だと思う人はいませんね。いや、あなたには兜をぬぎますよ、全く」
「いや恐縮です、ハードマンさん」
「とんでもない。こちらこそ恐縮しますよ」
「ともかく」とポワロは言った。「問題はまだ解決しているわけではありません。私たちは、ラチェット氏を殺したのは誰かを知っていると、権威をもって言うことができるでしょうか?」
「私なんぞはだめです」とハードマン氏は言った。「私にはまるで何も言えないんだから。ただあなたに感嘆しているばかりです。ところで、まだあなたの当っていないあと二人の乗客は、どう推測をなさるんです? あのアメリカの老婦人と、公爵夫人の小間使さん。あの二人だけがこの列車の乗客の中で無罪なのですか?」
「もし」とポワロは笑いながら言った。「あの二人が、アームストロング家の家政婦と料理人でないとすればね」
「さあ、もうこの世の中に何が起きても驚かないぞ」とハードマン氏はすっかりあきらめて言った。「精神病院だ――全くぴったりだ――精神病院だ!」
「ああ、それはあなた、少し行きすぎですよ。乗客の全部が全部アームストロング家の関係者とは、偶然の一致にしては、度がすぎますよ」とブック氏が言った。「まさか全部ということはありえない」
すると、ブック氏を見ながら、ポワロが言った。
「あなたは分かっていないんだ。全然分かっていないんだ。それなら答えてごらんなさい、誰がラチェットを殺したのだと思いますか?」
「あなたは知っているのですか?」と、ブック氏が反駁した。
「ええ、知っていますとも」と、ポワロは言った。「それもたった今知ったわけじゃない。どうしてあなたに判らないかが不思議なほどはっきりしていることですよ」
ポワロはハードマンを見て尋ねた。「あなたは?」
探偵は首を振った。そして、不思議そうにポワロを見つめた。
「私には判りません」と彼は言った。「私には全然判りません。いったい彼らの中の誰です?」
ポワロは、しばらく黙っていた。そして、それから言った。
「すみませんが、ハードマンさん、乗客を全部ここへ集めてくださいませんか。この事件には、二つの解答があり得ます。それを二つとも、皆さんの前でご披露したいと思うのです」
第九章 ポワロ、二つの解決を提出する
乗客たちはぞくぞくと食堂車へやって来て、テーブルのまわりに腰をかけた。彼らは皆、多少、不安と期待の入りまじった、同じような複雑な表情をしていた。スウェーデンの婦人は、まだ泣いており、それをハッバード夫人が慰めていた。
「さあ、しっかりしなくてはいけませんよ。何もかもすっかり良くなるのですからね。取り乱してはいけません。たとえ、私たちの中の一人が忌わしい殺人犯であっても、それがあなたでないことは、私たちよく分かっています。ほんとにあんな恐ろしいこと、考えただけで気が狂いそうだわ。さあ、ここへお坐りなさい。私がおそばにいますよ。何も心配しないで」
ポワロが立ち上ったので、ハッバード夫人は黙った。
寝台車つき車掌は戸口でうろうろしていた。
「私はいてもよろしいでしょうか?」
「いいですよ、ミシェル」
ポワロは咳払いした。
「皆さん。どなたも、少しは英語をご存じの方ばかりだと思いますから、英語でお話します。皆さんにお集まりいただいたのは、サミュエル・エドワード・ラチェット――別名カセティの死について検討するためです。さて、この犯罪には二つの解決があり得るのです。私はその二つを皆さんの前で申し上げ、ここにいらっしゃるブック氏とコンスタンチン博士に、そのどちらの解決が正しいか、ご判断願うことにしたいと思います。
さて、皆さんはこの事件のいろいろの事実をご存じです。ラチェット氏は、今朝、刺し殺されて発見されました。彼が生きていた最後は、昨夜の十二時三十七分で、その時、彼はドア越しに車掌と話をしました。彼のパジャマのポケットの中の時計は、ひどく破損されていましたが、一時十五分で止まっていました。死体を検屍されたコンスタンチン博士は、死亡時刻を十二時から午前二時までの間であると推定されました。ご存じの通り、十二時半に汽車は積雪の中で立往生しました。それ以後は|誰も列車から離れることはできませんでした《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。
ニューヨーク探偵社の社員ハードマン氏の証言によれば、(いくつかの頭がハードマン氏の方を振り向いた)氏に見られずに、氏の部屋(向こう端の十六番室)の前を通ることはできないはずであります。したがって、殺人犯はこの特別車輛――イスタンブール=カレー車輛の乗客の中から見つけねばならないという結論に達しました。
これが、私たちの見解|でした《ヽヽヽ》」
「えっ? なぜ、|でした《ヽヽヽ》なんです?」と、ブック氏が突然、驚いて叫んだ。
「さて、これから私は皆さんの前で、二つの説を申しあげて、その一つをとっていただこうと思います。といっても、これは、とても簡単なことなのです。ところでラチェット氏には、彼が恐れていた敵がありました。彼はハードマン氏に、この敵の人相を語り、もし襲われるとすれば、多分イスタンブールを出発して二日目の夜だと話しました。
さて、皆さん。私が思うには、ラチェット氏は、この敵について、彼が話した以上のことを知っていたのです。敵は、ラチェット氏が予期していた通り、ベルグラードか、あるいはヴィングコヴツィーで、アーバスノット大佐とマッキーン氏が、プラットホームに降りる時開けたドアから汽車に乗り込んだのです。犯人は寝台車つき車掌の制服を用意し、それを普通の服の上に着こみ、合鍵を持っていました。その合鍵でラチェットの錠のかかった部屋のドアを開けて、中へ入ることができました。ラチェット氏は睡眠薬を服用して熟睡していました。この男はラチェットをきわめて残忍な方法で刺し殺し、ハッバード夫人の部屋に通じる境のドアから部屋を出て行きました――」
「そうです」と、ハッバード夫人は言って、うなずいた。
「その男は、通りがかりに、使用ずみの短剣を、ハッバード夫人の洗面用具入れの中に突っ込みました。彼は気付かずに、制服のボタンを一つ落としました。それから、部屋を通り抜けて、通路に出ました。急いで制服を空いていた一室のスーツケースの中に押し込み、数分後に、普通の服で、発車直前に汽車から降りていったのです。再び同じ出口から――食堂車に近いドアからです」
全員が大きくあえいだ。
「すると、時計はどうなります?」と、ハードマンが尋ねた。
「すっかり説明がつきます。ラチェット氏がツアリブロードで|時計を一時間遅らせるのを忘れたのです《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。彼の時計は、中央ヨーロッパの時間より一時間早い東ヨーロッパの時間を指したままだったのです。ラチェット氏が殺されたのは、十二時十五分だったのです――一時十五分ではなかったのです」
「しかし、その説明はおかしい!」と、ブック氏が叫んだ。「十二時三十七分に、部屋から聞こえたあの声はどうなります? あれは、ラチェットの声か――さもなければ犯人の声です」
「必らずしもそうではありません。第三者かも知れません。誰かがラチェットのところへ話しに行って、彼が死んでいるのを見つけた。彼は車掌を呼ぼうとして、ベルを押した。そして、あなたもおっしゃるように、不安になって来た――嫌疑がかかるのを恐れ、ラチェットである振りをして話した」
「そういうことも無きにしもあらずですね」と、ブック氏がしぶしぶ認めた。
ポワロは、ハッバード夫人を見た。
「奥さん、何かおっしゃろうとなさっていたのでしょう?――」
「ええ、でも何を言おうとしていたのかはっきりしませんの。私も、自分の時計を遅らせるのを忘れたのでしょうか?」
「ちがいますよ。あなたは男が部屋を通り抜けるのを無意識のうちに聞かれたのだと思いますね。後になって、男が部屋にいるような悪夢を見て、驚いて目を覚まし、ベルを鳴らして車掌を呼ばれたのです」
「なるほど、そうかも知れませんね」とハッバード夫人はうなずいた。
すると、ドラゴミロフ公爵夫人が、真正面からポワロを見て言った。
「では、私の小間使のヒルダが、やはり一時十五分頃、通路でもう一人の別の車掌に会ったという証言は、どう説明なさるのです?」
「たいへん簡単です。あなたの小間使さんは、私の見せたハンカチーフを、あなたのものだと知っていました。それで彼女は無器用にもあなたをかばおうとしたのです。彼女は男に出会うには出会いました――しかし、もっと早く――汽車がヴィングコヴツィー駅に止まっていた頃に、出会ったのです。彼女は、あなたのために水ももらさぬアリバイを作ろうという気持から、後で会ったと主張したのでしょう」
公爵夫人はうなだれた。
「あなたは、何もかも考え抜いておいでです。私――私、敬服いたしました」
一座は静まりかえった。
次ぎの瞬間、コンスタンチン博士が、急に、握りこぶしでテーブルを打ったので、一同は驚いて飛び上ってしまった。
「いや、違う」と、彼は言った。「違う、違う、断じて違う! 今のは水のもれ出る穴だらけの説明です。それは沢山の細かい点で不完全です。犯罪は決してそんなふうには行なわれやしない。――ポワロ氏は、そんなことは百も承知に違いないんだ」
ポワロはちらりと妙な目つきで医者を見た。
「なるほど」と彼は言った。「では、第二の解決を申し上げねばならないでしょう。しかし、この第一の解決も、そう無下には見棄てないでおいていただきたい。ブックさん、今にきっとあなたもこの第一の解決に賛成なさる時がくるでしょう」
彼は再び皆の方に向き直った。
「この事件には、もう一つの解決があります。私がこの解決へ到った経路を申し上げます。
私は、全部の方の証言を聞き終った時、椅子によりかかり、目を閉じて、考え始めました。その中から、いくつかの注意すべき点が現われてきました。私は、これらの点を二人の同僚に話しました。その中にはパスポートの上の油のしみなどのように――すでに説明ずみのものもありますが、まだ申し上げていない点をざっと説明いたしましょう。第一の最も重要なことはイスタンブールを出発した第一日目、昼食の時、食堂車で、ブック氏が私に言った――ここに集まった乗客は種々雑多で、ありとあらゆる階級と国籍を網羅していて、たいへん興味深い、という言葉でした。
私は彼に同感でした。しかし、事件後にふと、この乗客たちの特別な特徴を思いうかべた時、こうした集団が、他のいかなる場合にあり得るだろうか、と考えてみたのです。その答えは――アメリカだけにありうる現象だということでした。
アメリカには、ちょうどこうした、いろいろな国民――イタリア人の運転手、イギリス人の家庭教師、スウェーデン人の保母、フランス人の女中などから構成された家庭があるかも知れない。そこで、私は私流のやり方で推測を始めました。――つまり、プロデューサーが劇の配役をきめるように、乗客一人一人に、アームストロング劇の中の役を割りふっていきました。そして非常に面白い、満足のいく結果が出たのです。
次に、私は頭の中で、乗客一人一人の証言を検討してみて、ある不思議な結果を得ました。まず第一に、マッキーン氏の証言をとり上げてみましょう。最初の会見は全く申し分なくすみました。しかし二回目に、マッキーン氏は、ちょっと奇妙な言葉を口にされました。私がアームストロング事件に触れた手紙を発見した話をしますと、彼は、『しかし、たしか――』と言いかけて言葉を切り、それから「あの老人にしては不注意なことをしたもんですね」と申されました。
しかし、それは、彼が言おうとした言葉ではないように、私は感じました。彼が言おうとしたのが、『しかし、たしか、あれは焼いたはずだ!』という言葉だったとしたらどうでしょう。そうすれば、マッキーン氏は、あの手紙のことも、またそれを焼いたことも知っていた――別の言葉で言えば、彼は犯人か、あるいは、犯人の共犯者ということになります。これで話の筋は通る。
次に従僕さんです。彼は、主人は汽車で旅行する時は、睡眠薬を飲む習慣だと言いました。これは本当でしょう。しかし、ラチェットは、昨夜睡眠薬を飲もうとしたでしょうか? 彼の枕の下のピストルが、従僕さんの証言は嘘だということを示しています。ラチェットは、昨夜は見張っているつもりだったのです。ですから、彼は、知らずに催眠薬を飲まされたのに違いありません。誰に? 明らかに、マッキーン氏か従僕さんにです。
さて、次に探偵ハードマン氏の証言に移ります。彼が私に言われた自分の身許についての言葉は、これを私は全部信用しております。しかし、ラチェット氏を護衛するために取られた実際の方法を考えてみると、彼の話はいかにも馬鹿げています。ラチェットを守る唯一の効果的な方法は、その部屋で一夜をともに過ごすか、あるいは、その部屋のドアを見守ることのできるある場所にいることです。ハードマン氏の証言が明らかにすることのできた要点は、『他の車輛にいる人は決してラチェットを殺すことができなかったということです』。その証言によって、犯人は、明白にイスタンブール=カレー車輛の中にいることに限定されることになるのです。これは私には不思議な、説明のつかない事実に思われました。で、これは保留して、後で考えることにしました。
皆さんは、デベナム嬢とアーバスノット大佐との間に交わされた数語を、私がもれ聞きしたことを、もう多分ご存じでしょう。私に興味深いことはアーバスノット大佐が彼女を|メアリー《ヽヽヽヽ》と呼んでおられたこと、また、彼が彼女とは明らかに親密な間柄にあったということです。しかし、大佐は彼女とは二、三日前に会ったばかりだと申されました。だが、私は大佐のようなタイプのイギリス人を知っております。大佐のような人は若い女性に一目で恋に陥ちたとしても、ゆっくりと、礼儀正しく近づくもので――不謹慎なことをみだりに口走ったりは致しません。それ故、私は、アーバスノット大佐とデベナム嬢とは、実際には以前から親密だったのを、何かの理由があって、通り一ぺんの道ずれ同志のように装おっていられるのだと断定しました。今一つ、これは小さいことですが、デベナム嬢が、長距離電話という意味の『ロング・ディスタンス』という純然たる米語を、いかにも馴れ馴れしく使われたことです。しかも、ご自分は、まだ一度もアメリカへ行ったことがないと私におっしゃっていることです。
別の証言に移ります。ハッバード夫人は、床に横たわっていた私には境のドアに差し込み錠が掛かっていたかどうか見えなかったので、オルソン嬢に、代って見てもらったと、おっしゃいました。さて、もし夫人の部屋が二番か四番か十二番か、そういう偶数番号でしたら、おっしゃることは確かに本当で、――差し込み錠は、ドアの把手のすぐ下にあります。――しかし、三番室のような奇数番号の部屋では、差し込み錠は把手の上部についていて、把手にさがった洗面用具入れで見えなくなるようなことはないのです。それ故、私は、ハッバード夫人の言われたあの曲者が部屋に入ってきた云々というお話は、事実無根のでっち上げの作り話なのだと、結論せざるを得なかったのです。
ここで、ちょっと、時間《ヽヽ》について触れることにしましょう。あの壊れた時計について、私に最も興味深いと思われたのは、その発見された場所です、――それはラチェットのパジャマのポケットという、時計を入れておくには全く不自由であり、ありそうにもない場所なのです。しかも、床《とこ》の枕許には時計掛けまであるのです。それ故、私は、この時計は故意にポケットに入れられて、壊されたものであると、確信しました。従って犯罪は時計の示す一時三十分に行なわれたのではありません。
では、それ以前に行なわれたか? 正確に言って、十二時三十七分でしょうか? ブック氏は、私が、丁度その時、大きい叫び声で目を覚ましたのを理由に、この時刻を主張されました。しかし、ラチェットが多量に睡眠薬を飲まされていたとすれば、叫び声を上げることはできません。また、もし叫ぶことができたとすれば、身を守るために何か闘ったはずですが、そんな抵抗のあとは全然見られません。
秘書のマッキーン氏が一度ならず二度も(しかも二度目は、くどい位に)ラチェットはフランス語を話すことはできなかったと言われたのを、私は覚えております。で、私は、十二時三十八分に起きたすべての出来事は、この私を目あてに演ぜられた喜劇であったという結論に達しました。時計のトリックぐらいは、誰にでも見抜けるでしょう――探偵小説では、ありふれた手です。彼らは、私がそれを見抜くに違いないこと、その上、私が才智を働かせて、ラチェットはフランス語を話せないのだから、十二時三十七分に聞いた声は彼の声であるわけはなく、ために、ラチェットはすでに殺されていたに違いないと、私が判断するに至ることを、予測したのです。しかし私は十二時三十七分には、ラチェットはまだ生きていて、睡眠薬のききめで、眠り込んでいたのだと確信しています。
しかし、計略は成功しました! 私はドアを開けて通路を見ました。この耳ではっきり、フランス語の返事を聞いたのです。もし私が、その言葉の意味が分らないほどのひどい鈍感な男ならば、私の注意をひかねばなりません。もし必要ならば、マッキーン氏が通路に堂々と出て来ることもできたでしょう。『失礼ですが、ポワロさん、あれは、ラチェット氏の話し声ではありません。彼はフランス語は話すことができません』と言うことさえできたでしょう。
では、犯行の本当の時刻は何時でしょうか? また彼を殺したのは誰か?
私の見解では、これは、一つの意見にすぎませんが、ラチェットの殺されたのは二時に最も近い時間、つまりコンスタンチン博士の推定時刻の最後の時間です。
彼を殺したのは誰か、については――」
ポワロは、言葉を切って、聴衆を見つめた。みんな申し分のないほどの緊張ぶりである。誰の目も彼の上に注がれていた。針の落ちる音さえ聞こえるほどに静まり返っていた。
ポワロはゆっくり話し出した。
「乗客の中の誰か一人を犯人と断定するのはたいへんな難しさだという事実に、私は驚かされました。それは、奇妙な偶然によって、各々のアリバイが、『思いもかけない人』によって証明されているからです。つまり、マッキーン氏とアーバスノット大佐はお互いのアリバイを証明しています。――しかも、この二人が以前からの知り合いであったとは、ほとんど考えられないのです。同様のことが、イギリス人の従僕さんとイタリア人との間にも、また、スウェーデン婦人とイギリス人の若い女性との間にも起こっているのです。私は思わずつぶやきました、『これはとんでもないことだ――まさか全部の人々がこの事件に関係しているはずはないじゃないか』
しかし、皆さん、私には段々分かってきました。やはり、全部の人がこの事件に関係していたのです。アームストロング事件に関係のある、かくも多くの人々が、偶然にも同じ汽車で旅行するなどということは、有りそうにもないばかりではなく、|不可能な《ヽヽヽヽ》ことです。これは、偶然ではなく、計画《ヽヽ》に違いないのです。私は、アーバスノット大佐が、陪審裁判について言われたのを覚えています。陪審員は十二人から成っています――ここには十二人の乗客がいます、――ラチェットは十二回刺されていました。これでずっと、私を悩ましていたこと――この閑散な時季に、イスタンブール=カレー車輛が異常に多くの乗客で満員だった原因が明らかになりました。
ラチェットは、アメリカで裁きを逃れました。だが、彼の有罪に疑問の余地はありません。私は、自発的に集まり、ラチェットに死を宣言し、急迫した事情のため、自ら彼の死刑執行人となった十二人の陪審員を、心に思い描きました。するとこの仮定によって、直ちに事件の全貌が、正しい秩序のもとに輝き出たのです。
私は、これを、各人めいめいが自分に割り当てられた役割を演じた、一つの完璧な寄木細工《モザイク》であると見立てました。ある一人に嫌疑がかかれば、一人あるいはそれ以上の人が証人となって、その嫌疑をうけた人を救い出し、事の成行きを混乱させてしまうような仕組みになっているのです。例えばハードマンの証言は、他の車輛の乗客が疑いをうけてアリバイを立証できない場合に、その人を救い出すために用意したものです。イスタンブール発寝台車の乗客に危険はありません。あらゆる細部にわたって、反証が前もって作成されてあったからです。この全体は、きわめて巧妙に計画された組立て絵遊戯であって、新しい事実が明るみに出ればでるほど、事件の解決はいっそう困難となるように組み立てられていたのです。友人のブック氏が言いましたが、この事件は奇怪なまでに不可能に思われました! けだし、まさしくそういう印象を与えるためにこそ意図されたものだったからです。
このような解釈はすべてを説明していないでしょうか? そうです、説明しています。傷の多様性――これは十二人がめいめい、一刺しずつ刺したからです。贋の脅迫状――これは、ただ証拠として提出されるためだけに書かれた作り物だったのです。(もちろん、ラチェットの手許に彼の運命を予告する本物の手紙が置いてあったのですが、それは、マッキーン氏が焼き棄て、贋の手紙と取り替えたのです)それから、ハードマン氏が、ラチェットに雇われたという話は――もちろん、初めから終りまで嘘です――『小柄で髪の黒い女のような声の男』という謎の男の人相は、これは本当の車掌に嫌疑がかからないようにするためでもあり、また、男とも女とも取られるようにと都合よく作りあげた人相なのです。
殺すのに短剣をえらんだのは、ちょっと考えれば奇妙ですが、考えてみると、いろいろの事情によく適合しています。短剣は、強い者も弱い者も――誰にでも利用できる武器ですし、音も出ません。私が間違っていなければ、一人一人、ハッバード夫人の部屋を通って、ラチェットの暗い部屋に入って――突き刺したのです! 刺した当人さえも、どの一突きが実際に彼を殺すことになったかは知らないのです。
ラチェットが受けとった最後の手紙は、おそらく枕許にあったのでしょうが、注意深く焼き棄てられました。こうしてアームストロング事件に関係していることを指し示す手掛りをなくしておけば、汽車の中の乗客の誰も嫌疑をうける理由は全くなくなるのです。もし汽車が順調に走っていたら、この犯罪はおそらく、外部の者の仕業と断定されたことでしょう。『小柄で髪の黒い女のような声の男』が、ブロード駅で汽車を降りるのを、実際に目撃したという証言をする乗客も、二人や三人は出てきたことでしょう。
ところが、雪のために汽車が立往生となって、計画の一部が不可能になったと判った時、陰謀者たちがどうしたか、私はそれを正確には知りません。察するに、緊急協議の結果、計画通り決行ということに決まったのでしょう。そのため、乗客の全部が嫌疑の対象になったのは事実ですが、しかし、一応そのことは前もって予想されて、対策が立てられてあったことも事実です。しかも事件の成行きをいっそう混乱させる対策さえ講じられていました。二つのいわゆる『手掛り』が、殺された男の部屋に落としてあったのです。――一つは、最も強力なアリバイを持ち、アームストロング家との関係が最も証明困難な、アーバスノット大佐に嫌疑のかかるパイプ掃除器。もう一つの手掛りは、ドラゴミロフ公爵夫人に嫌疑のかかるハンカチーフ。公爵夫人は高い社会的地位と特にか弱い身体の持ち主であり、小間使と車掌の二人によって裏打ちされているアリバイのために、どの方面からいっても難点がないのです。その上さらにいっそう混乱させるために、『えたいの知れないもの』が登場した――赤いキモノを着た謎の女です。そしてこの場合も、この私がこの女の目撃者にさせられているのです。私のドアに重い物がぶつかりました。私は起き上って、外を見ると、――遠くに赤いキモノが消えていくのが見えました。この女の目撃者としては、車掌、デベナム嬢、マッキーンの三名が選ばれています。その赤いキモノを、私が食堂車で皆さんと面接を行なっている間に、私のスーツケースの一番上に入れておかれた方は、ユーモアの感覚をお持ちだと思います。このキモノが誰のものであるか、私は知りません。でも、アンドレニイ伯爵夫人のものではないかと推察しています。というのは、夫人の荷物の中には、シフォンのネグリジェが一枚しかありませんでしたし、これは、化粧着というよりは訪問服としか思えない非常に豪華なもので、結局化粧着は見当らなかったからです。
マッキーン氏は、注意して焼き棄てた手紙の一部が消滅しきってはおらず、アームストロングの文字が残ってしまったことを聞き知ると、直ちに、この知らせを他の人に伝えたに違いありません。このため、最も危険になったのはアンドレニイ伯爵夫人の立場で、ご主人は直ちに、パスポートを書き変える手段をとったのでした。これは、しかし、お二人にとっての第二の不運でした!
さて乗客は一人残らず、アームストロング家との関係を、全面的に否定する協定をしていました。皆は、私がすぐにはその真実を確かめる手段のないことを知っており、私の疑いが誰か特定の一人にそそがれない限り、問題の真の核心をつくことはできないものだと信じたのです。
さらにもう一つ考慮しなければならないことがあります。以上の私の説が正しいとすれば、そして、正しいに違いないと信じているのですが、それならば、明らかに、寝台車つき車掌自身が、この陰謀に関係していることになります。しかし、そうなれば、犯人は十三人になり、十二人ではなくなります。どうやら、私は、探偵のきまり文句『大勢の中の一人が犯人である』の反対で、この十三人の中の一人、しかも一人だけが潔白であるという問題に直面します。では、この潔白な人は誰か?
ここで私は、たいへん奇妙な結論に達しました。この犯罪に役割を演じなかった人は、実は最もそうしそうな動機を持っていた人だという結論に達したのです。それは、アンドレニイ伯爵夫人です。私は、ご主人が妻は昨夜部屋から一度も出なかったと、名誉にかけて厳かに誓われた時の真剣さに深く心をうたれました。私は、アンドレニイ伯爵が、いわば、夫人の代理をつとめられたのだと断定しました。
そうなれば、ピエール・ミシェルは、確かに十二人の中の一人です。しかし、彼の共謀はどう説明できるのか? 彼は、この会社に長年勤めてきた誠実な人物です――この犯罪に加担するために買収されるような男ではありません。とすれば、ピエール・ミシェルは、アームストロング事件に関係があるに違いありません。しかし、それはきわめて信じ難いことです。私は、自殺した子守女がフランス人であったことを覚えていました。あの不幸な少女が、ピエール・ミシェルの娘だと仮定してみましょう。そうすればすべての説明がつきます――また犯罪の舞台に、ここが選ばれたことの説明もつきます。他に誰か、この劇でどんな役割を演じたか明らかでない人がいるでしょうか? アーバスノット大佐は、アームストロング夫妻の友人であると断定しました。多分、戦争中ご一緒に活躍されたのでしょう。
小間使のヒルドガード・シュミットは、アームストロング家で働いていた女中さんだと推測できます。私は、おそらく、食いしんぼうなのでしょうが、直感的に、いい料理人を見抜いてしまいます。私は彼女にかまをかけてみました――彼女は見事にひっかかりました。私が君はいい料理人だと分かる、と言いますと、彼女は、『はい、そうです、私のご主人様たちはそうおっしゃって下さいます』と答えました。しかし、小間使として雇われているなら、自分の腕をふるう機会はめったになかったはずです。
次は、ハードマンさんです。彼は、確かにアームストロング家に属していない人物のようです。しかし彼は、あのフランスの少女と恋愛していたのではないかと想像します。私が外国の女性の魅力について話すと、――私の求めていた反応がありました。突然、目に涙が浮かびましたが、彼は雪で目が痛くなったようにごまかしました。
残るのは、ハッバード夫人です。ハッバード夫人は、いわばこの劇のもっとも重要な役割を演じた人物です。ラチェットの部屋と通じている部屋を占め、誰よりも嫌疑のかかり易い立場でした。必然的に、頼りになるアリバイは何もありません。彼女が演じた役割を演じるためには――彼女は全く自然に、少々滑稽なアメリカの、娘に甘い母親を演じましたが――立派な芸術家であることが必要となってきます。が、アームストロング家に縁のふかい芸術家が一人おりました――アームストロング夫人の母――女優リンダ・アーデンは……」
ポワロは言葉を切った。
その時、旅行中ずっと使っていた声とは似ても似つかない、柔く、豊かな、夢みるような声で、ハッバード夫人が言った。
「私は、今度の事件では、自分がずっと喜劇的な役割を演じているつもりでいました」
彼女は、夢みるような口調で、続けていった。
「あの洗面用具入れの失敗は全くの手抜かりでした。やはり、いつも下稽古が大切なものでございますね。一度練習いたしますには、いたしましたのですけれど――その時は偶数番号のお部屋であったようでございます。差し込み錠が違った場所にあろうとは、少しも存じませんでした」
彼女は、ちょっと姿勢を正して、真正面からポワロを見た。
「あなたは何もかもご存じでいらっしゃる。本当に、素敵なお方です。しかし、それでも、あなたは、ニューヨークのあの恐ろしい日にどんなことがあったかは、ご想像になれないでしょう。私は悲しみで気が狂いそうでした。――雇用人たちも皆そうでした――アーバスノット大佐もそこに居合せていらっしゃいました。ジョン・アームストロングの親友でいらっしゃるのです」
「私は、戦場で、彼に生命を救われたのです」と、アーバスノットが言った。
「私たちは、その時、その場で決定しました――あるいは私たちは気が狂っていたのかも知れません――私には分かりませんが――カセティのまぬがれた死刑宣告を、私たち自らの手で執行することを。私たちは全部で十二人――いえ、十一人でした――その時、スザンヌの父親は、もちろん、フランスに居りましたもの。最初は、私たちは、死刑の執行人をくじで決めようと考えましたが、最後に、こうして全員で執行する方法を決定しましたの。提案したのは運転手のアントニオでした。細部にわたる点は、後に、メアリーが、ヘクター・マッキーンと一緒に考え出しました。ヘクターは、いつも私の娘のソニアを熱愛していました。カセティがお金の力で、どんなにうまうまと逃げおおせたかを詳しく、私たちに説明してくれたのもヘクターです。
計画を完成するためには、長い年月がかかりました。まず、ラチェットの行方《ゆくえ》を突きとめねばなりません。ハードマンが、ついにそれをやってくれました。次に、マスターマンとヘクターとが、ラチェットに雇われねばなりません。――二人がだめなら、少なくとも一人は。それもやりとげました。それから、スザンヌの父親に相談をしました。アーバスノット大佐は、十二人がいいと強く主張なさいました。その方が整然としているとお考えのようでした。大佐は短剣で刺し殺すのは余りお好きではなかったのですが、これが、私たちに一番無難だと判ったので、賛成なさいました。スザンヌの父親は同意しました。スザンヌは彼の一人娘だったのです。ヘクターから、ラチェットが早晩オリエント急行で、東洋から帰ってくるという知らせを受けました。この汽車には、現に、ピエール・ミシェルが働いているので、絶好の機会でした。それに、他人に罪をきせるようなことも防ぐことができます。
私の次女のヘレナの夫にも、もちろん知らせました。娘婿は娘と一緒にどうしてもついて来ると言い張りました。ミシェルの勤務している時に、ラチェットが旅行日を選ぶように、ヘクターがうまく事を運びました。私たちはイスタンブール=カレー車輛の部屋全部を予約するつもりでしたが、運悪く、一部屋だけとれませんでした。それは会社の重役さんのために、ずっと以前から予約されていたのでした。もちろん、ハリス氏は仮空の人物でした。でも、ヘクターの部屋に他人が同室するのはまずいことだったのです。そして、最後の瞬間に、|あなた《ヽヽヽ》がいらしたのです……」
彼女は言葉をきった。そして、それから、また続けた。
「さあ、これですっかりお分かりでしょう、ポワロさん。あなたは、これをどうなさるおつもりですか? もしすべてを表沙汰になさらねばならないのなら、この私、私一人だけに、罪をきせていただくことはできませんか? 私は、喜んで、あの男を十二回も刺してやったことでしょう。それは、あの男が、単に私の娘や娘の子供たちの死に対してばかりではなく、現に生きて、幸福に暮らしていたかも知れない他の子供たちの死に対しても、責任があるからです。さらには、デイジーの前にも何人もの子供たちが殺されており――将来もまた、何人も殺されるかも知れないからです。社会も彼に、死刑を宣告しました。私たちは、その死刑の宣告を執行したまでのことです。でも、この人たち全部にその責任を負わせる必要はありません。この人たちは、皆さん、たいへん誠実な魂の持ち主です。――それに、可哀そうなミシェル――また、メアリーとアーバスノット大佐とは――愛し合っておりますし……」
彼女の声は、人々のぎっしりつまった部屋中に力強くこだまして感動的であった――かつて、ニューヨークの大観衆を酔わせた、あの深い激しい、人の心をゆさぶる女優リンダ・アーデンの声である。
ポワロは、ブックの方を見た。
「あなたはこの鉄道の重役です、ブックさん」と、彼は言った。「あなたのご意見は?」
ブック氏は咳払いした。
「私の意見としましては」と彼は言った。「あなたが前に述べた、あの第一の解決のほうが正しい――絶対に正しい。私は、汽車が着いたら、この解決をユーゴスラヴィアの警察に提出したいと思います。あなたもご賛成でしょう、博士?」
「もちろん、賛成ですとも」と、コンスタンチン博士が言った。「医学的証言についていえば、――ええと――ええ、すでに私の幻想的な見解を、一つ二つ申し上げたつもりでいますから」
「では」と、ポワロが言った。「私は、自分の解決を皆さまの前に残して、この事件から退場させていただくのを名誉と存ずるものであります」  (完)
解説
一、本書は、「推理小説の女王」アガサ・クリスティ(Agatha Mary Christie)女史の Murder on the Orient Express の全訳です。初版は一九三四年ですが、本書は底本として Fontana Books April, 1961 を使用しました。
一、原著者アガサ・クリスティ女史については、いまさら多言を要しないところでしょう。しかし、女史の略歴のなかで、本書に関係が深いと思われるおおむねのところを、改めてお伝えしておくことは、意味のないことではないと思われます。
a 一八九一年、イギリス、デヴォン州のトーケーに生まれる。現在の国籍はイギリス。ただし、結婚前の国籍はアメリカ。つまり、父親はニューヨーク出身のフレデリック・アルバン・ミラー(Frederick Alvan Miller)というアメリカ人なのである。母親はイギリス人。
b 幼少のころ、父親死亡。学校にも行かず、家庭教師にもつかず、母親の手一つで教育をうける。極端に孤独。空想上の友人を何人も作る。となり近所の実在の子供たちよりも、はるかに実在の友人となる。こころのなかで、さまざまなお話を作りあげては、これらの空想上の友人に語って遊ぶのを常とする。
c 十六歳のとき、パリの音楽学校のオペラ歌手専攻科に入学。しかし、たちまち退学する。声量に自信のなかったことや、生来のはにかみ癖などが原因であるらしい。
d トーケーの隣人である傑《すぐ》れた推理作家、「赤毛のレドメイン」や「闇からの声」などの作者イーデン・フィルポッツの指導と激励のもとに、十九歳のころより小説を書き始める。
e 一九一四年、アーチボルド・クリスティ大佐と結婚。夫はフランス戦線に従軍、アガサはトーケー陸軍病院特志看護婦。推理小説耽読。うさばらしに、自分も書く気になって、処女作「スタイルズ荘殺人事件」を仕上げる(一九二〇年刊行)
f 一九二八年、アーチボルド・クリスティ大佐と離婚。旅行癖がつく。
g 一九三〇年、カルデア地方の古都ウルの遺跡発掘中の考古学者マックス・マロワン(Max Mallowan)と知り合い、再婚。以来、ほとんど毎年数か月、夫とともに、シリア、イラクなどの中近東地方を旅行することとなる。
一、以上の略歴の一部さえ知っておけば、本書「オリエント急行殺人事件」を書いた女史の心理を、それこそ「推理」するには、充分であろうと思われます。
第一に、これは、推理小説の形をかりた、さりげない「イギリス人批判」の書です。批判の自由さは、自分が半アメリカ人、半イギリス人の孤独者であること、および、国際的な大旅行者であることからきています。しかし、その批判は、透徹してはいるが冷酷ではない。寛大ではないが、否定的ではない。自己批判を通しての、他人の批判だからです。他人を笑うことを通して、自分を笑っているからです。しかも、その批判なり、憫笑《びんしょう》なりは、感情的でもなければ、湿っぽくもない。そこには、なんともいえない平衡感覚がある。そこから、穏和で上品なユーモアが生れてくる。
これが、女史の作品の第一の魅力です。これをぬきにしては、一九三〇年以来の約三十五年間の女史の約六十冊の推理小説の総売上げ部数五億冊という奇蹟に近い数字は、考えられないことです。さらにまた、これをぬきにしては、イギリスの女王が御自身からまでも、「クリスティの新しいお芝居はまだ上演されないのか」とシーズン毎に御下問があるほど、クリスティ女史の、これは小説ではなくて芝居ですが、作品が熱狂的に喜ばれる第一の原因は、ありえないことでしょう。
一、ここで、クリスティ女史の芝居について触れておくことが大切なようです。どうも女史はたいへん、芝居がすきであるらしいのです。なにも芝居を今まで十八編も書いている、ということからだけではない。たとえば、デートリッヒが主演した映画がきて日本にも有名になった短編「情婦」を始めとして、「クラブのキング」その他十編ばかりの短編、および長編では、人がすぐ思いつく「三幕の殺人」、それから本書「オリエント急行殺人事件」その他、女史の作品には舞台の女流演技者、なかでも女優が主人公、または重要な役割を果たす人物として、しばしば登場する。これは、女史がオペラ歌手となろうとして果たせなかった。いわば負数の夢の、フィクションによる正数化という意味だけではない。さらに、殺人者とは演技者だ、そして推理小説とは、その殺人者という演技者が主役となるお芝居だ、一晩の娯楽を与える見世物だという認識が、女史の思想の根底にあるからではないでしょうか。
そういえば、代表作となっている「アクロイド殺人事件」などは、最後まで非殺人者を演技する真犯人を主役とする芝居と、いえるのではないでしょうか。そう考えれば、女史の語り口が、一人や二人の心情の内部に入るのではなくて、全登場人物を外部からだけ描く、いわば客観的描写に終始しているのも、判る気がするというものです。人物の客観化。そこにまた、ユーモアの生まれる所以《ゆえん》もあるというものです。
一、客観化の徹底、ということは、さらにもう一つのことを意味します。それは、「小説とは、作者の不在証明だ」というアンドレ・ジッドの言葉の完璧な実践が、女史の作品だということです。その作品、たとえば「オリエント急行殺人事件」では、作者の主観や個人的感情が露骨に語られないばかりか、はっきりと消されている。従って読者は、いきなり物語の世界に入って行ける。つまりは、いきなり芝居の舞台を前にすることができる。小説は、ほとんど芝居と等しくなるわけです。
もっとも、実はアンドレ・ジッドの言葉は、小説が呈示している悪と罪の世界の真の主役たる犯人は作者だが、書き終った瞬間、もはや作者は一種の贖罪《しょくざい》をすますことになるのであって、つまりは作者はもうそこにはいないのだ、という意味で言われたものであるのでしょう。そういう意味での作者の魂のドラマは、それでは、クリスティ女史の作品にあっては、何であり、どこにあるのか。そうなるとその手がかりは、女史の作品のなかのどれにも見つからない。作者は、いいえ、これはただのエンタテインメントですよ、というばかりです。完全犯罪と呼ぶより他はありません。
一、推理小説の面白さとは、結局は、肩すかしの見事さに、つきます。その点では、代表作「アクロイド殺人事件」を始めとして、クリスティ女史は堂にいったうまさです。肩すかしとは、一つは、犯人の意外性、ということです。その点では、この「オリエント急行殺人事件」など、文字通り、読者に「あっ」と叫ばせる見事さです。
一、最後に、文章について一言しておきます。クリスティ女史五十冊目の推理小説出版記念によせた祝辞のなかで、時の英国首相、労働党首アトリーは、「わたくしはまた、他の推理作家に絶えてないものを、女史が持っているのに感服するものであります。それは、英語を実に簡潔明瞭に書く才能をもっていられる点であります」と述べています。まさしくその通りです。ただ小生の才能のつたなさが、ドライで痛快なまでに「簡潔明瞭」な英語を日本語に移し植えることに成功しなかったことを、お詫び申し上げます。しかし、可能な限りの努力は払ったつもりであります。文章の楽しさは、誰よりもクリスティの作品にあっては、その作品世界を味わう上での重大な要素であろうと思われるのです。しかし、これについて論じるのには、他日の機会を待たねばならないでしょう。
一九六二年(訳者)
訳者紹介
古賀照一《こがしょういち》一九一九―。福岡県戸畑市生まれ。昭和二〇年東京大学文学部哲学科を卒業して、大学院仏文科に進む。専攻はフランス象徴詩。都立女子専門学校教授を経て、法政大学教授。二八年新潮社よりゾラ「ナナ」を翻訳出版し、以後英仏二十世紀文学の翻訳に努める。その他、アラン「情念について」「音楽家訪問」ミルン「赤い館の秘密」等の訳書がある。
◆オリエント急行殺人事件◆
アガサ・クリスティ作/古賀照一訳
二〇〇三年一月二十日 Ver1