アガサ・クリスティ/中村妙子訳
牧師館殺人事件
目 次
一
五
十
十五
二十
二十五
三十
解説
登場人物
ジェーン・マープル……探偵好きの老婦人
レイモンド・ウェスト……ジェーンの甥
レナード・クレメント…牧師。本編の語り手
グリゼルダ…レナードの妻
デニス……レナードの甥
ルシアス・プロザロー大佐……治安判事
アン・プロザロー……ルシアスの後妻
レティス・プロザロー……ルシアスの先妻の娘
ロレンス・レディング……画家
ストーン博士……考古学者
グラディス・クラム……ストーンの秘書
ヘイドツク……医師
ホーズ……副牧師
メアリ……牧師館のお手伝い
アーチャー……メアリの恋人
エステル・レストレンジ……謎の女性
プライス・リドリー……村の有閑婦人
キャロライン・ウェザビー……村の有閑婦人
アマンダ・ハートネル……村の有閑婦人
メルチェット大佐……州の警察部長
スラック……警部。メルチェットの部下
一
ある水曜日の牧師館の昼食《ひるげ》どき――私はこの物語をそこから書き起こすことにする。いろいろな事実が複雑にからみあっているこの種の話しの場合、発端をどこに求めるか、これはいささか問題だ。その昼食の際の会話はおおむね事件とは何の関係もなかったが、それでも後の展開に影響をおよぼすことになる暗示的な出来ごとも一つ二つ話題にのぼったのだ。
さて昼食の食卓でボイルドビーフ(ついでながら、おそろしく固い代物《しろもの》だった)を切り終えて腰をおろしたとき、私ははなはだ聖職者らしからぬ気持で、次のような感想を洩《も》らした。
「プロザロー大佐をだれかが殺してくれれば、社会に大いに貢献することになると思うがね」
すると甥《おい》のデニスがすぐさま口を出した。
「万一、血の海に浸っているプロザローさんの死体が発見されたりしたら|こと《ヽヽ》だよ。伯父さんのいまの発言は、どうしたって不利な証拠になるからね。伯父さんが聞き捨てならないことをいったと、まずメアリが証言するだろうし――ねえ、メアリ? それだけじゃない。そういいながら、凶暴な手つきで肉切りナイフを振りまわしたことまでね」
メアリはもっと給料の高い|わり《ヽヽ》のいい地位につくまでの、いわばつなぎに牧師館のお手伝いの地位に甘んじている娘だが、この言葉をまったく無視してしごく事務的な大声で「お野菜です」といって、ひびの入った皿をデニスの鼻先にじゃけんな手つきで突き出した。
妻は私の顔を見て、同情に堪えぬという口調できいた。
「プロザローさん、そんなにひどかったの?」
私はすぐには答えなかった。野菜の皿を食卓の上にガチャンと音を立てて置いたメアリが、今度は私の前にばかに水っぽい、まずそうな|すいとん《ヽヽヽヽ》の一皿を突きつけたからだった。「ああ、いや、結構だ」そう私が呟《つぶや》くと、メアリはそれを手荒くテーブルの上にほうりだして食堂から出て行った。
「わるいわね、あたしが主婦として最低だもんだから」と妻は心底すまなそうにいった。
妻が最低の主婦だということについては、私にも異論はない。妻の名はグリゼルダ、牧師の妻らしい温良貞淑そうな名だが、牧師の妻らしさはこの名前に尽き、グリゼルダには温良貞淑なところはみじんもなかった。
神に仕える牧師は結婚すべきではない――そう私はかねてから考えていた。知り合って二十四時間しかたっていないグリゼルダに結婚を申し込むという唐突なことをなぜしたのか、それは私自身にもいまもって解けぬ謎《なぞ》だ。結婚とは人生の重大事であり、熟慮検討の後、はじめて決断すべき事柄であることや、その際、趣味や性向の一致が重大な条件となることを、私はよくよく承知していた。
グリゼルダは私よりほとんど二十歳も年下で、たいていの男を夢中にさせるほどかわいらしく、そのうえ物事を真面目に取ることができぬたちだった。主婦としてはおよそ無能で、いっしょに住んでいると閉口させられることがきりなくあった。そもそも彼女は教区を、彼女を面白がらせるためにこしらえられた一大ジョークと受け取っているらしい。妻の品性の涵養《かんよう》には夫も責任がある――そう思って私もそれなりに努力してきたのだが、いまのところ、その努力はことごとく失敗に終っていた。そんな次第で、私はいまでは結婚前以上に、独身生活こそ牧師にとって願わしい境涯だと確信している。そうしたことをグリゼルダにしばしばほのめかしてみたが、いつも笑いとばされていた。
「グリゼルダ、おまえだってもう少し気をくばれば――」と私はいいかけた。
「あたし、これでもずいぶんつとめているつもりよ。でもつとめればつとめるほど、かえつてまずい結果になるみたいなんですもの。あたしって生れつき、有能な主婦って柄《がら》じゃないのね。何もかもメアリに任せて、居心地のわるい暮らしや、お話にならないほどひどい食事をいさぎよく我慢する覚悟をするほうがいっそましだって、このごろやっとわかってきたの」
「だがそれじゃあ、夫たるこの私はどうなるんだね?」と私は非難がましくいって、聖書を自分に都合よく引用する悪魔の卑怯《ひきょう》なひそみにならおうとした。「かしこい妻は家事をよくかえりみ……」
「あなたねえ、何もライオンに八つ裂きにされるわけじゃなし」とグリゼルダはみなまでいわせずに遮った。「火あぶりにされもしないんですもの。幸運だと思うべきだわ。まずい食べものと埃《ほこり》だらけの部屋、ときおり雀蜂《すずめばち》の死骸《しがい》が片隅に転がっているくらい、べつに大騒ぎするほどのことでもないでしょ。ねえ、それよりプロザロー大佐が何ていったか、もっと聞かせて。初代教会のクリスチャンたちは小うるさい教区委員なんてものを背負いこんでいなかっただけ、あなたより運がよかったわね」
「まったく威張りくさったじいさんだからなあ。最初の奥さんが逃げだしたっていうけど、無理もないよ」とデニスがいった。
「逃げるよりほかに、どんな手があったっていうの?」と妻。
「グリゼルダ、そんな言いかたはやめてもらいたいね」と私は厳しい口調でたしなめた。
「ねえ」とグリゼルダは愛情をこめて私を見つめた。「教えてちょうだい。大佐は今度はどんな文句を並べたの? ホーズさんが礼拝のときにしょっちゅううなずいたり、首をがくがくさせたり、十字を切ったりしているってこと?」
ホーズは私たちの教会の副牧師で、三週間前に着任したばかりだった。高教会派的《ハイ・チャーチ》な、格式ばった見解をもっていて、金曜日にはかならず断食している。いっぽうプロザロー大佐は、教会内における儀式的な行為一般に、おりあるごとに強く反対していた。
「今回はホーズ君のことではなかったよ。話のついでに触れた程度でね。問題は、ミセス・プライス・リドリーが献金袋にいれた一ポンド札をめぐってだった」
ミセス・プライス・リドリーはわが教会の篤信《とくしん》の信徒である。息子が世を去ってちょうど×周年とかで早朝礼拝に出たミセス・リドリーは奮発して一ポンド札を献金袋に入れた。ところが後に掲示された献金額に関する報告では十シリング札が最高額ということになっており、ミセス・プライス・リドリーはさっそく、これはどうしたことだと文句をいった。そこで私はしごく妥当な答として、ひょっとしたら一ポンド札と十シリング札を取り違えてお入れになったのではといってみた。
「われわれ誰しも、ひところのように若くありませんから」と私は婉曲《えんきよく》にいった。何とかことを収拾するつもりであった。「思い違いというものは、いってみれば歳月の取り立てる罰金のようなものです」
ふしぎなことだが、私のこの言葉にミセス・リドリーはますますかっとなったようだ。「このところ妙なことばかり起こっているのに、何も感じておいでにならないとは驚きますね」――そう捨てぜりふを投げつけると、肩を怒らせて立ち去ったのだが、苦情を今度は、人もあろうにプロザロー大佐にぶちまけたらしい。大佐は、おりあるごとに悶着《もんちやく》を起こすことを至上の喜びとしているたぐいの人間だ。今回もそれだったのだが、たまたま彼が私のところにねじこんできたのがけさ、つまり水曜日で、水曜日の朝は私は教区の学校で教えることになっており、そのためにどうにも落ちつかず、一日じゅう調子が狂うのがつねだった。
「プロザローさんにも楽しみが必要なんじゃないかしら」とグリゼルダは、自分としてはできるだけ公正な総括をしようとしているのだといわんばかりの口調でいった。「だってあの人の場合はあなたと違って『牧師さま』と呼んでちやほやしてくれる取り巻き連中がいるわけじゃなし、スリッパーにでこでこと刺繍《ししゆう》をして贈ってくれる人も、クリスマスにベッドソックスを編んでくれる人もいないんですもの。おまけに、あの人の奥さんや娘は、とっくにあの人にうんざりしてるわ。せめてもどこかで大きい態度を取ると気が晴れるんでしょうよ」
「だからって、あんなふうに突っかかる必要はないだろうに」私は少しいきりたっていた。「自分のいっていることがどんなにゆゆしい意味をもっているか、よくわかっていないんだろうがね。プロザロー大佐は教会の帳簿を総点検するというんだよ――不正流用があるかもしれないからだとさ。ひどいじゃないか、『不正流用々』とはね! この私が教会の基金を横領しているとでも思っているんだろうか」
「あなたがそんなことをしてるなんて疑いをかけてる人は、一人だっていやしないわ」とグリゼルダはいった。「あなたは誰が見たって裏も表もない、清廉潔白そのもののような人ですもの。だからじつのところ、ほんとはすばらしいチャンスを目の前にしてるわけよね。あたし、あなたがいっそ海外伝道援助基金を横領しちゃえばいいのにと思ってるくらいよ。宣教師って大嫌い――昔から嫌いだったわ」
いやしくも牧師の妻たる者がこんな気持をあけすけに述べるとはと、私はそくざに叱責《しつせき》しようと思ったのだが、あいにくこのときメアリが生煮えのライス・プディングを持って入ってきた。これは生煮えじゃないかと私が遠慮がちに文句をいったのに対してグリゼルダは、日本人は生煮えの米を常食しているからあんなに頭がいいのだと妙な理屈をつけた。
「こういうライス・プディングを日曜まで毎日食べてれば、きっとすばらしくインスピレーションに富んだお説教ができるわ」
「たまらないな」と私は身震いした。「とにかくプロザロー大佐は明日の夕方、ここにくるそうだ。いっしょに会計薄を調べようというんだよ。だから男子信徒会の話の準備はどうしても今日じゅうにすませておかなければならない。キャノン・シヤーリー著の『実在』からの引用があったので調べているうちについ興に乗って読みふけってしまって、話の準備のほうは思うように進んでいないのだ。ところでおまえは午後からは何をするつもりだね、グリゼルダ?」
「義務を果たすつもりよ。牧師夫人としての義務をいそいそとね。四時半にお茶、かたがたスキャンダルの交換よ」
「誰だれがくるんだね?」
グリゼルダはつつましげな表情を浮べて、指折り数えた。
「ミセス・プライス・リドリー、ミス・ウェザビー、ミス・ハートネル、それからあのこわもてのミス・マープルよ」
「ミス・マープルはどっちかというと私は好きだね。すくなくとも、あの人にはユーモアのセンスがある」
「あの人は村いちばんの金棒《かなぼう》ひきよ。村で起こったことなら、何だって知ってるわ。それに、そこからひどい当て推量をするのよ」
グリゼルダは前にもいったように私よりずっと年が若い。私のように四十代も半ばになると、最悪のことこそつねに真実だと肝に銘じるものだ。
「ぼくはお茶には帰らないよ、グリゼルダ」とデニスがいった。
「意地わる!」
「ごめん。テニスに誘われているんだ。ほんとだよ。プロザロー家にね」
「意地わる!」とグリゼルダがまたいった。
長居は無用とばかり、デニスはそこそこに逃げだし、グリゼルダと私は書斎に行った。
「今日はどんなスキャンダルが話題にのぼるかしらね」とグリゼルダは机の上に腰をおろしていった。「たぶんストーン博士とミス・クラムのことよ。ひょっとするとミセス・レストレンジについても。そうそう、あたし、昨日ミセス・レストレンジを訪問したんだけど留守だったのよ。ええ、あの人の話はどうしたって出るわ。とてもいわくありげじゃない、あんなふうに一人でこの土地にやってきて家を借り、しかもめったに外出しないっていうのは? 探偵小説にでもありそうだわ。『青ざめた美しい顔の、神秘に包まれた、かの女性は何びとか? どんな過去を背負っているのか? それは知る人のない謎だ。彼女にはどことなく無気味な雰囲気がまつわっていた』とかなんとか。お医者のへイドック先生は、あの人について何か知ってるみたいだけど」
「探偵小説の読みすぎだよ、グリゼルダ」と私はやんわりいった。
「そういうあなたはどうなのよ? 読みかけの『階段の血痕《けつこん》』がどこにいったのかと思って、この間、あたし、ずいぶんあちこち探しまわったのよ。あなたはここでお説教の準備をしてらしたわ。さんざん探したあげくにどこかで見かけなかったかってあなたにきいてみたら、どこにあったと思って?」
私はわれにもなく赤面した。
「ぱらぱらめくっていたら、ちょっと目を引く文章があったんでね――」
「目を引く文章ってどういうのか、あたしちゃんと知っててよ」こういってグリゼルダは朗読口調でいった。「そのとき、とても奇妙なことが起こった! グリゼルダは立ち上がって部屋を横切り、年輩の夫に愛情をこめてキスをした……」そしてその言葉どおり、妻はわたしにキスをした。
「それがそんなに奇妙なことだろうかね?」
「もちろんよ。あなた、気づいてないの? あたし、閣僚か、従男爵か、お金持の重役か、三人の下級将校のうちの誰かか、立居振舞のすばらしくチャーミングなプレイボーイか、とにかくよりどり見どり、誰を夫に選ぶこともできたのよ。なのに結局、あなたを選んだんだわ。あなただってびっくりしたんじゃない?」
「ああ、あのときは驚いたよ。その後もしばしば、どうしておまえが私のような者の所にきてくれたのか、ふしぎに思うことがあるよ」
グリゼルダは笑った。
「それはね、自分に絶大な権力があるような幻想をもったからなの。ほかの人たちはあたしのことを、ただもうすてきだと思っていたわ。あたしを妻にできれば願ってもないと考えたでしょうよ。でもね、あなたにとってあたしは、あなたが本来大嫌いな、けっして賛成できないもののすべてを代表する女じゃない? それなのにあたしの魅力には逆らえなかったんですもの! そう考えたら、あたしの虚栄心がまずまいっちゃったのよ。誰かさんの秘密の、甘美な罪の象徴になるほうが、ほかの連中の帽子の羽根飾り程度で終るよりずっといかすからよ。あたし、あなたにひどく居心地のわるい思いをさせて、しょっちゅうとんでもない刺激を与えてるのに、あなたのほうは、いまでもあたしに気も狂わんばかりに夢中なんですもの。そうでしょ?」
「もちろん、私はおまえがたいへん好きだよ、グリゼルダ」
「あらまあ、レン、ただ好きっていうのとは違うわ。あなたはあたしにどうしようもないくらい夢中なのよ。ほら、いつかあたしがロンドンで泊ることになって、あなたに電報を打ったのに着かなかったことがあったじゃない? 郵便局長の奥さんの妹に双子が生れて、あわただしさに取りまぎれて奥さんが電報の配達を忘れちゃって。あのとき、あなたったらあたしのことを死ぬほど心配して、とうとう警視庁《スコットランド・ヤード》に電話までして、大騒ぎしたじゃありませんか?」
自分の愚かしい行動を思い出させられるのは、誰にとってもいい気持のものではない。たしかにそのとき私は、自分でも後からふしぎに思ったほど騒ぎたててしまったのだが。
「よかったらグリゼルダ、私は男子信徒会の話の準備をしたいんだがね」
グリゼルダはいらだたしそうに溜息《ためいき》をつき、片手で私の髪の毛を一度くしゃくしゃに逆立ててから撫《な》でつけた。
「あなたのような人の奥さんとして、あたしはどう考えても勿体《もつたい》ないわ。あたし、いっそ、あの画家のロレンスと問題を起こしちゃおうかしら。いいえ、本気よ、あたし。教区がこの一大スキャンダルで活気づくことを考えるだけでも愉快ですものね」
「スキャンダルなら、すでにここにはありすぎるくらいだよ」と私はおだやかにいった。
グリゼルダは笑って指先でキスを送り、フランス窓から外に出て行った。
二
グリゼルダは人を落ちつかなくさせる天才だ。昼食の食卓から立ったとき私は、信徒会でパンチの利いた話をするための準備に取りかかるにふさわしい気分になっていたと思う。ところがグリゼルダと話したために何となくそわそわして、準備にさっぱり身が入らなくなってしまった。
やっとどうにか本腰で考えをまとめにかかったときだった。レティス・プロザローがふらっと入ってきた。「ふらっと」と書いたのは言葉の綾《あや》ではない。これがレティスという娘にまさにぴったりの表現だからである。小説の中で読むかぎり、ふつう若い男女はエネルギーというか、フランス人のいう|生きる喜び《ジョア・ド・ヴィーヴル》、すなわち若さの特権であるすばらしい活力に満ちあふれているものらしい……しかし現実に私の行き会うたいていの若者は妙に存在感に乏しく、何かこう生霊《いきりよう》という感じがする。
その午後のレティスはとくに生霊の風情を漂わせていた。なかなか美しい娘で、背が高く、色白で金髪だった。いつも捕えどころのないぼんやりした様子をしている。窓からそれこそふらっと入ってきて黄色いベレー帽を上《うわ》の空でぬぎ、大して関心はないが少々びっくりしているといった口調で呟いた。「まあ、牧師さん、いらしたの?」
プロザロー大佐の邸《やしき》であるオールド・ホールからは林の中を走る小径《こみち》があって、これが牧師館の裏門の前の、通称「裏道」に通じている。オールド・ホールの住人が牧師館をおとずれるときはぐるっと回って道路づたいに玄関の前に出るかわりに、たいていは裏門から入ってじかに私の書斎の窓の所にやってくる。だから私はレティスが窓から入ってきたことには大して驚かなかったが、「まあ、牧師さん、いらしたの?」とは何たる言いぐさだろうと、ちょっとむっとした。牧師館にくれば牧師に出会うのは当りまえだろう。
レティスは大きな安楽椅子の一つに身を沈めると所在なさそうに髪の毛をひっぱりながら天井を見上げた。
「デニスはどこかにいます?」
「昼食のときから会っていないよ。テニスをしにお宅に行くといっていたようだが」
「あら」とレティスはいった。「いやあね、いま行っても、うちには誰もいないと思うわ」
「たしか、あなたに誘われているということだったよ」
「だったら、そうなんでしょ。でもそれ、金曜日の話だわ。今日はもう火曜日ですもの」
「いや、水曜日だよ」
「まあ、どうしましょ!」とレティスはいった。「あたし、誰かに昼食の招待を受けていたのに忘れちゃって。これで三度目よ、すっぽかしたのは」
大して困っている顔でもなかった。
「グリゼルダさんはいます?」
「庭のアトリエじゃないかな――ロレンス・レディングの絵のモデルになっているんだよ」
「ロレンスっていえば、あたし、一揉《ひとも》めしたのよ――お父さんと。お父さんたら、ひどいこというんですもの」
「一揉めって、何が原因だったんだね?」
「あたしがロレンスのモデルになってるってことで。お父さんが聞きつけて騒ぎだしたの。水着を着てモデルになって何がわるいの? 海に行けば誰だって水着を着るわ。水着姿でモデルになっちゃいけないって理屈は通らないんじゃない?」
いったん言葉を切って、レティスはまた続けた。
「大体、おかしいのよ、うちのお父さんは。若い男っていうと、門前払いを食わせるんですもの。もちろん、ロレンスもあたしも大憤慨よ。でもこれからは、お宅のあのアトリエで描《か》いてもらうことにしようと思うの」
「困るね。お父さんが禁止しておられるものを」
「ああ!」とレティスは嘆息した。「つまらないことばかり気にするのね、誰も彼も。くさくさしちゃうわ。あたし、もう限界よ。少しでもお金があれば、どこかに行っちゃうんだけど、でも、一文なしじゃ、どうにもならないわね。いっそ、お父さんが気を利かして、ぽっくり死んでくれるといいんだけど」
「そんなことを軽々しくいいちらすのは感心しないね、レティス」
「いいたくもなるわ。お父さん、お金にひどくきたないんですもの。あたしを生んだお母さんが家を出たのだって、ふしぎはないわ。あのねえ、あたし、何年もの間、お母さんは死んだものと思いこんでいたのよ。どんな青年と駆け落ちしたの? すてきな人だった?」
「それは、あなたのお父さんがここに移ってこられる以前のことだから」
「お母さん、その後、どうなっちゃったのかしら。アンもそのうち、誰かと不倫の恋をするんじゃないかと思うわ。アンはあたしを嫌ってるのよ――うわべはとてもよくしてくれるみたいだけど、おなかのなかではね。あの人だってだんだん年を取ってきてるし、それで焦ってるのよ。いずれ、何か起こるわ。危険な年齢ですものね」
レティスは午後じゅう、わたしの書斎でのらくら過すつもりでいるのだろうか。
「あたしのレコード、ここいらに置いてなかったかしら?」
「いいや」
「癪《しやく》にさわるったらないわ。どこかに置き忘れたのはたしかなんだけど。飼ってた犬もいなくなっちゃったし、腕時計もどうなっちゃったんだか。でも腕時計はどうでもいいのよ――どうせ動かないんだから。ああ、眠たいなあ! どうしてこう眠たいのかしら? けさだって十一時まで寝てたのによ。人生ってまったく、くさくさするわねえ。そうそう、あたし、もう行かないと。三時にストーン博士に古墳を見学させてもらう約束なの」
わたしは時計を見やって、もう四時二十五分前だといった。
「ほんと? いやあね。まだあたしを待ってるかしら。それともあたしに構わずに行っちゃったかしら。とにかく出かけてって何とかしたほうがよさそうね」
レティスは立ち上がって、入ってきたときと同様、またふらっとフランス窓から出たが、立ち去りぎわに、ろくに後ろを振り返りもせずにいった。「デニスにいっといてね」
私は機械的に「ああ」と答えたが、しばらくしてから、何を「いっといて」と頼まれたのか、さっぱりわかっていないことに気づいた。だがおそらく大したことでもあるまい。私はいつしかストーン博士のことを考えていた。博士は有名な考古学者で、このところ村の宿屋の青猪《ブルー・ボア》館に投宿して、プロザロー大佐の所有地内にある古墳の発掘を監督している。博士と大佐は、発掘地のことですでに何度か衝突していた。レティスに発掘作業を見せると博士が約束したとは、いったいどういう風の吹きまわしだろうと私はちょっと面白く思った。
あれで、レティスには意地のわるいところがある。博士の秘書のミス・クラムとうまが合うかどうか? ミス・クラムは二十五歳の健康そうな女性で、とかく動作が騒々しかった。血色がよく、活力|横溢《おういつ》という感じで、大口を開いて笑うとばかにぎっしり並んだ歯がむきだしになった。
ミス・クラムについて、村の評判は二つに分れていた。尻軽な女だという意見と、それどころか、お固いことこのうえなし、さきざきストーン博士夫人の地位におさまるつもりらしいという意見とがあった。とにかくミス・クラムは、あらゆる点でレティスとは好対照の女性だった。
オールド・ホールの空気が和合している一家のそれとはほど遠いのは、私にも想像がついた。プロザロー大佐は五年ほど前に再婚していた。いまのミセス・プロザローは風変りな感じの、しかしきわめて端正な目鼻立ちの女性で、継娘《ままこ》のレティスとの仲があまりしっくりいっていないことはうすうす察しがついた。
さて、話の準備のほうは、あいかわらず進展していなかった。レティスが出て行った後でもう一度邪魔が入ったのだ。今度は副牧師のホーズで、プロザロー大佐がどんなことをいっているのか、ききにきたのだった。私はホーズに、プロザローさんはかねてからきみのカトリック的偏向を嘆いておられるが、今回の訪問の目的はべつなところにあったようだと話した。同時に私なりに率直な意見を述べて、教会に関することでは私の指示に従ってもらわないと困るとはっきりいってやった。ホーズは私の忠告を、おおむね素直に受けいれてくれた。
ホーズが帰った後私は、どうしてもう少しこの副牧師が好きになれないのだろうかと後ろめたい気持になった。好き嫌いは理屈ではないが、クリスチャンらしくないということは否めない。
机の上の時計を見ると、針はすでに五時十五分前を指していた。私はほっと溜息をついた。この時計で五時十五分前なら、実際には四時半ということだ。私は客間におもむいた。
教区の婦人たちのうちの四人が紅茶|茶碗《ちやわん》を手に座っていた。グリゼルダはテーブルの向うに座を占め、この場の雰囲気にせいぜい自然に溶けこんでいるような顔をしていたが、なまじ取り澄ましているので、ふだんよりいっそう場違いに見えた。
私は婦人たちの一人一人と握手して、ミス・マープルとミス・ウェザビーの間の椅子に腰をおろした。
ミス・マープルは白髪の老婦人で、おだやかな、チャーミングな物腰の人だった。ミス・ウェザビーは感傷性と意地わるさをないまぜにしたような人となりだが、二人のうち、要注意は、どっちかというと一見やさしいミス・マープルだということを、私は知っていた。
「あたしたち、いまストーン博士とミス・クラムのことをお話ししていましたの」とグリゼルダが蜜《みつ》のように甘い声でいった。
デニスのつくったけしからぬ|ざれ歌《ヽヽヽ》の一節がふと頭に浮んだ。
ミス・クラム
石《ストーン》に
目がくらむ
この歌を大声で吟じて、みんながどんな顔をするか見きわめたいというばかげた衝動を、私はさいわい何とか抑えることができた。と、ミス・ウェザビーが「ちゃんとした娘さんだったら、ぜったいになりませんわよねえ」といって、さも感心しないといいたげに薄い唇をゆがめた。
「|ならない《ヽヽヽヽ》って――何にです?」と私はきいた。
「独身男の秘書なんてものにですわ」ほとほと呆《あき》れかえったといわんばかりの口調。
「まあ、でも」とミス・マープルがいった。「既婚の男のほうが、もっと始末がわるいものですよ。ほら、あのモリー・カーターのことを考えてごらんなさいな」
「既婚の男で奥さんと別居している場合は、もちろん、お話のほかですけどね」とミス・ウェザビー。
「別居していない場合だって、問題がないわけじゃありませんわ」とミス・マープルが声を低めた。「こんな例もありましたっけ――」
どう考えてもあまりかんばしくない、そうした思い出話を早々に打ち切らせようと、私は慌てて口をはさんだ。
「ですが、近ごろの若い女性は男とまったく同じ意識で職業につくんじゃありませんかね」
「雇い主と地方に同行したり、同じ宿屋に泊ったり――そんなこともその意識とかに入るんですの?」とミセス・プライス・リドリーが厳しい口調で抗議した。
ミス・ウェザビーがミス・マープルにささやくのが聞こえた。
「しかもね、青猪《ブルー・ボア》館じゃ、寝室はみんな同じ階に並んでいるんですって……」
ミス・ハートネルは日焼けした顔のあけすけなタイプで、教区の貧しい人たちに恐れ憚《はばか》られているが、このとき野太い声でいった。
「それじゃかわいそうにストーン博士は、何も気づかないうちに取っ捕まっちまいますよ。誰が見たってあの人は、まだ生れていない赤ん坊同様、無邪気なものですからね」
まったく言い回しとはおかしなものだ。並みいる婦人たちはいずれもそういう慣用句以外では、「まだ生れていない赤ん坊」などという慎みのない言葉は口にするのもはしたないと思っているのだろうが。
「でも、気色《きしよく》がわるいわね」とミス・ハートネルは言葉を続けた。この人はいつも、いわでものことまで口にする傾向がある。「あの学者さん、ミス・クラムより少なくとも二十五は年上じゃないの」
ミス・ハートネルが「二十五は年上」といったとたんに若いグリゼルダを妻にしている私に要らぬ気兼ねをしたのか、ミス・ウェザビー、ミセス・プライス・リドリー、それにミス・マープルの三人がてんでにまるで関係のないことを話しだした。ある者は計画中の聖歌隊の少年たちの遠足について、ある者は母の会の最近の例会における嘆かわしい出来ごとについて、もう一人は教会堂内の隙間風《すきまかぜ》について。ミス・マープルはグリゼルダのほうに、おかしそうに目をきらりと光らせた。
「あのう、ひょっとしたらミス・クラムは、興味のある仕事につきたかっただけじゃありません?」とグリゼルダがいった。「ストーン博士のことだって、雇い主としてしか考えていないんじゃないでしょうか?」
お客はぴたりと口をつぐんだ。四人が四人とも、グリゼルダの意見に賛成しかねるらしい。やがてミス・マープルがグリゼルダの腕を軽くたたいていった。
「あなたはまだお若いから。お若いかたはみなさん、そりゃあ無邪気ですものねえ」
グリゼルダは憤然として、「あたし、無邪気なんかじゃありませんわ」といい放った。
「だから」とミス・マープルはグリゼルダの抗議を頭から無視して続けた。「誰についても、いい面しかごらんにならないんですわ」
「ミス・クラムが、あの禿頭《はげあたま》の退屈な人と結婚したがっている――ほんとにそう思っていらっしゃるんですの?」
「ストーン博士は、あれでなかなかお金持のようですからね。ただ――ちょっと癇癪《かんしゃく》もちみたいですね。ついこの間も、プロザロー大佐とかなり深刻な口争いをなさったらしいし」
一同は興味ありげに身を乗りだした。
「プロザロー大佐は博士のことを、『何も知らんくせに』と罵《ののし》っていらっしゃいましたっけ」
「まあ、プロザローさんらしいこと。でも専門家のことを『何も知らんくせに』なんて、たしかに的はずれもいいとこですわね」とミセス・プライス・リドリーがいった。
「ええ、プロザローさんらしい言いぐさですね。でもはたして的はずれかどうか」とミス・マープルが答えた。「ほら、いつか福祉関係の係員だという触れこみでこの村にやってきた女の人がいましたっけね。一通り寄付金を集めると、それっきりどこへか行ってしまって。調べてみたら福祉になんぞ、何の関係もありゃしなかったじゃありませんか。人間ってとかく信じやすくって、他人さまの言い分をそのまま鵜呑《うの》みにしてしまうところがありますからねえ」
すくなくともミス・マープルを「信じやすい」と形容する気は私にはない。
「あの若い絵描《えか》きのレディングさんのことでも、一騒動あったとか?」とミス・ウェザビーがいった。
「ええ、プロザロー大佐がレディングさんを追い出しなすったんですって。何ですか、レディングさん、水着姿のレティスを描いていらしたらしいんですの」
「あの二人の間には何かあると、わたし、とうから|睨んで《ヽヽヽ》いましたわ」とミセス・プライス・リドリーがいった。「レディングさんはこのところしょっちゅう、オールド・ホールに入り浸っていましたしね。レティスもかわいそうに、母親がいないんですから。継母《けいぼ》じゃ、そりゃ、躾《しつ》けのほうは行き届きませんよ」
「ミセス・プロザローは、あの人なりによくやっていると思いますがね」とミス・ハートネル。
「小ずるいんですよ、若い娘《こ》って」とミセス・プライス・リドリーが嘆かわしげに呟《つぶや》いた。
「でもちょっとしたロマンスじゃありませんか」と柄にもなくやさしいところのあるミス・ウェザビーがいった。「レディングさんは様子もいいし」
「だけどどうせ、自堕落ですよ」とミス・ハートネル。「そうに決まってますとも。絵描き――パリ――モデル――裸体画!」
「それにしても水着姿のレティスを描くなんてねえ」とミセス・プライス・リドリーがまたいった。「どうかと思いますよ」
「レディングさん、あたしの絵も描いて下さってますのよ」とグリゼルダが口をはさんだ。
「水着を着てじゃないんでしょ?」とミス・マープル。
「さあ、もっとひどいかも」とグリゼルダはおごそかな口調でいった。
「いけない人ね」とミス・ハートネルが鷹揚《おうよう》な口調でいったが、ほかの婦人たちは少しショックを受けたようだった。
「レティスは牧師さまに、お父さんとレディングさんのいさかいについて何か話しまして?」とミス・マープルがきいた。
「私にですか?」
「ええ、レティスがさっき、庭をお書斎の窓のほうに回って行くのが見えましたから」
ミス・マープルはつねにあらゆることを見逃さない。庭いじりは彼女の場合、一種の煙幕のようなもので、強力な双眼鏡で野鳥の生態を観察する習慣も、しばしばまるでべつな用向きに役立っているらしい。
「ああ、そんなこともいっていましたね」と私はうなずいた。
「ホーズさんは、何か心配ごとでもおありのようにお見受けしましたけれど」とミス・マープルは続けた。「過労ということはありませんの?」
「そうそう」とミス・ウェザビーが興奮した口調でいった。「すっかり忘れていたわ。取っておきのニュースがあったのに。わたしね、ヘイドック先生がミセス・レストレンジのお宅から出ていらっしゃるところを見たのよ」
一同は顔を見合せた。
「ミセス・レストレンジ、ご病気なんでしょうかね?」とミセス・プライス・リドリーがいった。
「だとしたら急病だわね」とミス・ハートネル。「だって今日の午後三時ごろにはあの人、庭を歩いてたわ。とても元気そうでしたよ」
「ミセス・レストレンジとへイドック先生は前からのお知り合いに違いありませんよ」とミセス・プライス・リドリーがいった。「でもそのことについては、あの先生、一言《ひとこと》もおっしゃいませんね」
「おかしいわね」とミス・ウェザビー。「何もいわないというのは妙ですよ」
「ほんとはね」とグリゼルダが秘密めかしく声をひそめ、それからちょっと間《ま》を置いたので、一同は興奮してまたまた身を乗り出した。「あたし、たまたま知ってるんですけど、ミセス・レストレンジのご主人は宣教師だったんですの。そりゃあ、痛ましいお話。ご主人はね、まあ、どうでしょう、原住民に――食べられちゃったんですって。それでミセス・レストレンジは泣く泣く酋長《しゅうちょう》の奥さんに――ええ、第一夫人になって。それをヘイドック先生の探検隊が救い出したんだとか」
一同は興奮した様子で顔を見合せたが、ミス・マープルがすぐ微笑をふくんだ、たしなめるような口調で、「いい加減になさいな、いけない人ね!」といってグリゼルダの腕をもう一度軽くたたいた。「口から出まかせをいうなんて、賢いことじゃありませんよ。こしらえごとをいいちらしているうちに相手が本気で信じてしまうことがあって、そうなると、ことがこみいってきますからね」
座が急に白け、客のうちの二人は失礼するというように腰を浮かせた。
「ロレンス・レディングとレティス・プロザローの間にはほんとに何かあるのかしら。あなた、どうお思いになって、ミス・マープル?」とミス・ウェザビーがきいた。
ミス・マープルはちょっと考えてからいった。「わたしならそうは申しませんね。レディングさんのお相手はレティスじゃありますまいよ。まるっきり、べつな人じゃないでしょうかね」
「でもプロザロー大佐は――」
「あのかたは、どっちかっていうと鈍感なたちだとわたし、思ってますの。見当違いなことをかたくなに信じつづけるような。ほら、ジョー・ハックネルね、以前|青猪《ブルー・ボア》館をもっていた? 娘と村のベイリー青年のことを何のかのと騒ぎたてましたけど、結局のところベイリーの相手はジョー自身のお侠《きゃん》なおかみさんのほうだったんですからね」
こういいながらミス・マープルはグリゼルダの顔を意味ありげに見つめた。私はとつぜん激しい怒りがこみあげるのを覚えた。
「ミス・マープル、われわれはとかく、よけいなおしゃべりが過ぎやしませんかね。愛は人の悪を思わず、と聖書にもあります。前後の考えもなく取りかわされる、意地のわるい噂話《うわさばなし》のおよぼす害悪には、計り知れないものがあると思いますよ」
「牧師さまは世間離れしていらっしゃいますからね。わたしのように長年、人間性を観察してまいりますと、人間にはあまり期待しなくなりましてねえ。たしかに無責任なおしゃべりはいいことではありませんし、意地がわるいとも思いますが、当っていることだってよくありますわ。そうじゃないでしょうか?」
ミス・マープルの別れぎわの一言は私の胸を鋭く刺した。
三
「意地わるだわ、あのおばあさん」ドアが閉まるやいなやグリゼルダはこういって鼻をしかめたが、私を見てふと笑った。
「レン、あなた、あたしとロレンス・レディングのこと、ほんとに疑ってるの?」
「とんでもない」
「でもあなたったら、ミス・マープルがそうほのめかしてるものと思いこんで、あたしの名誉を守ろうとひどくいきりたったじゃありませんか。すてきだったわ。ちょうど――そうね、『怒れる虎』って感じ」
一瞬、私は.どぎまぎした。いやしくもイギリス国教会の牧師たる者が、「怒れる虎」にたとえられるような態度をとるのは感心しない。
「一言《ひとこと》ピシリといっておくべきだと思ったのだよ。しかしグリゼルダ、おまえももう少し気をつけてものをいったほうがいいと思うがね」
「原住民に食べられたって話? それともロレンスがあたしのヌードを描いているような口ぶりをしたこと? あたしが首まで隠れるような毛皮のついた、厚ぼったいマントを着てモデルになってるんだってことを、あのおばあさんたちが知ってたらねえ。あれだったら、法王に謁見しても恥ずかしくないくらいよ。罪ふかい素肌なんて、ほんの一インチだって露出していないんですもの。実際、すばらしく清らかな図だわ。それにロレンスったら、あたしに恋を打ち明けようという素振りも見せないのよ――どうしてだか、わからないけど」
「もちろん、おまえが人妻だということを承知してるからさ」
「ノアの箱舟から出てきたばかりみたいな言いかた、しないでちょうだいな、レン。年輩の男を夫にもつ、魅力に富む若妻は若い男にとって、いわば天から降った授かり物よ。いいえ、あの人があたしに恋を仕掛けないのには、何かほかの理由があるに違いないわ――あたしに魅力が乏しいわけじゃなくて。だってあたし、このとおり、とてもいい女なんですもの」
「まさかおまえ、あの男が恋を打ち明けることを願っているわけじゃあるまい?」
「そんなこと――ないけど」とグリゼルダは、人妻にふさわしからぬためらいを言外に含ませていった。
「あの男がもしもレティス・プロザローを愛しているなら――」
「ミス・マープルはそう思っていないみたいだったわ」
「あの人だって勘違いすることはあるさ」
「いいえ、ミス・マープルは勘違いなんかしないわ――けっして。ああいうおばあさんの勘は、いつだって当ってるのよ」グリゼルダはちょっと口をつぐみ、それからちらっと私を横目で見た。「あなた、あたしを心から信じてるわよねえ。ロレンスとあたしの間に何かあるなんて、思ってもいないでしょ?」
「何をいうんだね?」と私はびっくりしていった。「もちろんだよ」
グリゼルダは私に近よって軽くキスをした。
「ああ、あなたがこんなに騙《だま》しやすくないといいんだけど。だってあなたったら、あたしのいうことを何でも頭から信じちゃうんですもの」
「そりゃ、当然だろう。しかしグリゼルダ、少しは気をつけて軽率なことをいいちらさないようにしてくれないと。今日ここへきたような婦人たちはユーモアの感覚をまるで欠いている。何もかも本気で取っちまうんだから」
「あの人たちの生活に必要なのは、一つまみの不道徳よ。そうした要素がちょっぴりでもあれば、ほかの人のあらさがしにあれほど浮き身をやつさないと思うわ」
こういって、グリゼルダは客間から出て行った。私は時計を見て、とうにすませているはずだった訪問をするためにそそくさと家を出た。
いつものことでその水曜の夕拝の出席者は少なかったが、礼拝後、聖衣室でローブをぬいで出てくると、会堂内はすでにがらんとしていて、一人の婦人が窓の一つの下に立って見上げているばかりだった。私たちの教会にはいくつか、なかなか見事な時代もののステンドグラスがあり、会堂そのものも一見の価値があった。私の足音に気づいて婦人は振り返った。ミセス・レストレンジであった。
お互いに少しためらった後、まず私が口を切った。
「私どもの小さな会堂をどうお思いです? お気に召しましたか?」
「さっきまで内陣の仕切りを拝見していましたの。とても美しゅうございますのね」
ミセス・レストレンジの声音《こわね》は快かった。低いが、発音が一音一音はっきりしていて聞きとりやすかった。
「きのうは奥さまがおいで下さったのに留守をしておりまして残念でしたわ」とミセス・レストレンジは付け加えた。
私たちは会堂に関して二言三言《ふたことみこと》言葉をかわした。ミセス・レストレンジは教会史について、また教会建築についてなかなか造詣《ぞうけい》のふかい、教養ゆたかな女性のようだった。私たちは会堂を出てしばらくいっしょに歩いた。会堂から牧師館への道の一つはミセス・レストレンジの家の前を通る。ミセス・レストレンジは門の所で立ちどまり、微笑を浮べていった。
「ちょっとお寄りになりませんか? わたくしの模様替えをどうお思いか、ご感想をうかがわせていただきたいと思いますの」
招きに応じて、私はリトル・ゲーツ荘に立ち寄った。ミセス・レストレンジのこの住まいは以前はイギリス領インド軍の大佐の居宅だったもので、かつてごたごたと並んでいた真鍮《しんちゅう》のテーブルやビルマ土産らしい偶像などがなくなっているのを見て、私は心からほっとした。客間はごく簡素なしつらえだったが、趣味は高雅で、調和の取れた、落ちついた雰囲気がみなぎっていた。
けれども私は、これほどの女性が何だってセント・メアリ・ミードのような小さな村に住むようになったのだろうと、それまでにもまして不審に思わずにはいられなかった。このように世慣れた女性がこうした田舎の村にひっそりと埋もれて暮らすなんて。
客間の照明は明るく、私はこの神秘に包まれた女性をはじめて近くからとくと観察することができた。
ミセス・レストレンジはすらりと背が高く、かすかに赤みをおびた金髪と対照的に黒い眉毛と睫毛《まつげ》が目立ったが、染めているのか、自然なのか、それは見当がつきかねた。染めているのだとしたら、なかなか絵画的な効果を上げていた。顔は、表情が動かないときはちょっとスフィンクスのような感じで、ほとんど金色の輝きをおびているように見える双眸《そうぼう》が一種不可思議な印象を与えた。
服装は洗練されているし、育ちのよさを示すように物腰もゆったりしている。それでいてどことなく矛盾した、心騒ぐものを感じさせるのはどうしてか。謎の女性――まさにそんな言葉がぴったりだった。彼女には無気味な雰囲気がある――そうグリゼルダはいった。もちろん、そんな言いかたはばかげている。いや、しかし――はたしてそんなにばかげているだろうか? ふと何の脈絡もなく、心に浮んだ思いがあった。「この人がいったん何かを決意したら、何ものにもめげずに行動するだろう」
ミセス・レストレンジと私は、絵画や書物、由緒ある教会堂など、ごくありきたりの話題について話し合った。しかし私はなぜか、相手が本当に話したいと思っているのはじつはもっと違う性質のことなのではという気がしてならなかった。
一、二度私はミセス・レストレンジが心を決めかねているようなためらいの表情を浮べてこっちを見ているのを感じた。そのくせ、話題が個人的な色彩をおびたものになるのを極力避けているようだったし、夫のことも、友だちのことも、親類のことも、いっさい口にしなかった。
しかしその目には終始、差し迫った、訴えるような奇妙な表情が湛《たた》えられていた。「お話ししましょうか?」そのまなざしはこう語りかけていた。「申し上げたいことがあるんです。いわせて下さい。そしてどうかわたくしに力を貸して」
だが、そうした表情もやがて消えた――それともすべては私の思い過ごしだったのだろうか? 謁見は終った――そんな印象を受けて、私は立ち上がって暇《いとま》を告げた。部屋を出るときに見返ると、ミセス・レストレンジは思い迷っているような、心もとなげな面持《おももち》で立っていた。ふと衝動的に私は後もどりしていった。
「何か私にできることがありましたら――」
ミセス・レストレンジは口ごもった。「ありがとうございます――」
それっきり、二人とも押し黙って向い合っていた。ミセス・レストレンジがようやくいった。
「どうしたらいいか、わかるとよろしいんですけれど。わたくし、とても困っておりますの。でもたぶん、わたくしを助けて下さることは、どなたにもおできにならないと思いますわ。ご親切におっしゃっていただいて心から感謝しておりますが」
それ以上もう何もいいそうにないと思われたので、私はリトル・ゲーツ荘を辞した。歩きだしながら私は、ミセス・レストレンジのことをまだしきりに思いめぐらしていた。セント・メアリ・ミード村の住人はおしなべてミステリーに慣れていない。
そんなふうに考えこんでいたもので、門を出た所でミス・ハートネルがいきなり前に立ちはだかったとき、私は不意を打たれてたじろいだ。とびかかる――そんな言葉がぴったりだった。とびかかって相手を否応《いやおう》なく押えこむのだ――ミス・ハートネルという人はいつも。
「見ていましたよ、ちゃんと!」とミス・ハートネルはねちねちと(本人はユーモラスな口調のつもりらしかったが)いった。「わたし、もう興奮してしまって! さあ、話して下さいな」
「話すって何をです?」
「あの謎の女性についてですよ、もちろん! あの人、未亡人ですか? それともどこかにご亭主が生きているんですの?」
「そんなことはわかりませんよ。ミセス・レストレンジは何もおっしゃいませんでしたからね」
「妙だわねえ。そういうことって、どうしたって口にのぼるものでしょうに。いわないのは、何かわけがあるんじゃないでしょうか。そんな気がしますねえ」
「さあ、私にはいっこうに」
「あら! でも無理もないわ。ミス・マープルもおっしゃっているように、牧師さまは世間離れしておいでですからねえ。だけどどうなんでしょう、あの人、ヘイドック先生とはやっぱり古い知り合いなんでしょうか?」
「ヘイドック先生の話は出ませんでしたから、それはわかりませんね」
「ほんとに? じゃあ、どんな話をなさったんですか?」
「絵とか、音楽、書物について少々」と私は嘘《うそ》いつわりのないところを述べた。
ミス・ハートネルの話題は噂話に限られていたから、彼女は「そんなばかな」といわんばかりの、うさんくさそうな顔をした。次の質問の矢がとんでくるまでのその一瞬のためらいを私は見逃さず、「おやすみなさい」といい残して、そそくさと歩きだした。
村の、もう少し先の家を一軒訪問して牧師館に歩みを返した私は、庭に通ずる裏門に向った。当然ミス・マープルの庭先を通るわけで、ここは前にもいったようにいわば危険地帯である。しかしいくらミス・マープルでも、私がいましがたミセス・レストレンジの家に立ち寄ったことを聞きつけている気遣いはまずないだろう――そう思って、いちおう安心していた。
門の掛け金を掛けながら、私はロレンス・レディングがアトリエがわりに使っている小屋をちょっとのぞいて、グリゼルダの肖像画の進捗《しんちょく》状況を見て行こうと思った。
裏門からはいってすぐ左側のアトリエの中に誰かいようなどとは想像もしなかった。人声がまるで聞こえなかったからだ。私自身の足音も芝生に吸いこまれて、中の人間には聞こえなかったのだろう。
ドアを開けた瞬間、私はどぎまぎして足を止めた。二人の男女がひしと抱きあって、いましも熱烈なくちづけをかわしている最中であった。
二人の男女――ロレンス・レディングとミセス・プロザローだった。
私はあわてて退却して書斎に行き、椅子に座ってパイプを出しながらつらつら考えた。思いがけない場面に大きなショックを受けていた。その午後レティスと取りかわした話からも私は、レティスとロレンスの間にある種の了解が育ちつつあるとほとんど信じこんでいた。レティス自身もそう思っているらしかった。継母《けいぼ》のアンに対してロレンスがとくべつな感情をいだいているなどと、レティスが想像もしていないことは明らかだった。
恋の三角形――厄介千万な事態だ。私は不本意ながらミス・マープルの炯眼《けいがん》に舌を巻いていた。ミス・マープルだけは見かけに騙《だま》されずに、事態をかなり正確に把握していたようだ。私は彼女のグリゼルダヘの意味ありげな目くばせの意味を、まったく取り違えていたのだ。
人もあろうにアン・プロザローがロレンス・レディングと。アンはいつも私に「シーザーの妻」を連想させた。物静かで、感情をめったに表わさぬあのアンが胸の奥底深く熱い想いを秘めていようとは。
こんな物思いにふけっていたとき、ガラスをそっとたたく音に私は立ち上がって窓辺に歩みよった。アン・プロザローが立っていた。私が窓を開けると案内も待たずに入ってきて、息を弾ませて部屋を横切り、長椅子に腰を落した。
私はそれまで本当の意味でアン・プロザローを見たことがなかったのではないだろうか。私が知っていた沈静な女性はどこへ行ったのか、呼吸も荒くそこに座っているのは、追いつめられて必死になっている雌鹿といった感じの女性であった。このときはじめて私は、アンがめったにいないくらいの美人だということに気づいた。
褐色の髪、白皙《はくせき》の額《ひたい》、深くくぼんだ灰色の目。青ざめた頬に血がのぼり、胸が大きく波打っていた。まるで彫像にとつぜん生命が通《かよ》ったかのようだった。私はこの変貌《へんぼう》に驚いて、思わずせわしくまばたきをした。
「すぐこちらに伺うほうがいいと思いましたの」とアンはいった。「牧師さまはあの――ついいましがたあたくしたちをごらんになって……」私は肯定するように頭を垂れた。
アンは静かな口調で続けた。「あたくしたち、愛しあっております……」
苦悩と動揺は覆うべくもなかったが、唇にはかすかな笑みが漂っていた。たぐいなく美しいもの、すばらしい何かを目《ま》のあたりに見ている女の微笑であった。
私がなお沈黙していると、アンは重ねていった。
「牧師さまとしてはもちろん、よくないことだとお考えでございましょうね?」
「それ以外のことが私にいえるわけもありますまい?」
「え――ええ――それは――」
私はできるだけおだやかにいった。
「あなたにはご主人がいらっしゃる――」
みなまでいわせず、アンはいきなり遮《さえぎ》った。
「もちろん――わかっております――わかっておりますわ。何度もそう自分にいい聞かせもしました。あたくし、もともと無節操な女ではありません――けっして。それにあたくしたちの間柄にしても――あの――ひょっとして牧師さまのご心配になっていらっしゃるようなものではないのです」
「それを伺ってうれしく思います」と私がいかめしい口調でいうと、アンはかすかに震える声できいた。
「それで、主人にお話しになるおつもりでしょうか?」
「紳士ならしないことも牧師ならする――世間はそう考えているようですが、それは違います」と私は無表情にいった。
アンは感謝の思いをこめて私を見つめた。
「あたくし、不仕合せですの。とても。このままの状態を続けて行くことはできません。もうどうにも我慢できないのです。といって、どうしたらいいか、それもわからずにおりますの」いくぶんか、ヒステリックな甲高い声音で彼女は続けた。「あたくしの生活がどんなにみじめか、牧師さまにはとてもおわかりになりますまい。ルシアスとの結婚の当初から、あたくし、つらくてなりませんでした。あの人と暮らして仕合せな女なんて、世の中には一人だっていないでしょう。いっそ、あの人が死んでくれれば――とさえ思います。ひどいことをいうとお思いでしょうけど、ついそう考えてしまいますの……やぶれかぶれなんですわ。どうにもなりっこないといった」こういいさして、アンははっとしたように窓のほうを見つめた。
「何でしょうか? 誰か外にいるようですけど。ロレンスかもしれませんわ」
私は窓の所に行ってみた。ちゃんと閉めたつもりだったのだが開いていた。私は外に出て、庭を見まわした。人影はどこにも見えなかった。だが、私自身も人の気配を感じていた――たしかに誰かいた。それともアンの口調につられて、そう思いこんだのだろうか?
私がもどると、アンは前屈《まえかが》みになって深く面《おもて》を伏せていた。そっくりそのまま、「絶望」という題の絵になりそうな姿だった。
「どうしたらよろしいのでしょう?」彼女はもう一度繰り返した。「ほんとにどうしたら?」
私は彼女のわきに腰をおろした。そして立場上いうべきだと思ったことをいった。それなりに信念をもって話したつもりだったが、ついその朝、私自身、プロザロー大佐を殺す人間は社会に貢献することになると口走ったことを思い出して、後ろめたさを禁じえなかった。
何よりも私はアンに、無謀な行動は慎んでほしいと言葉を尽くして諌《いさ》めた。家を、夫を捨てるというのは、きわめてゆゆしい第一歩なのだからと。
アンが私の助言どおりにしようとすぐ決意したとは思わない。この年になれば恋の虜《とりこ》になっている人間を説き伏せようとしてもほとんど無意味だということぐらいわかる。しかし私の言葉に彼女はいくぶんか慰められたようで、やがて立ち上がって礼をいい、おっしゃって下さったことをもう一度考えてみようと思うと約束した。
だが彼女が立ち去ると、私ははげしい不安を感じた。これまで私はアン・プロザローの性格を正しく判断していなかったようだ。アンは追いつめられて必死になっている。埋《うず》もれていた情熱が目覚めたいま、必要とあれば何だってやってのけるだろう。それに彼女は自分より何歳か年下のロレンス・レディングを気も狂わんばかりに、それこそ命がけで愛しているのだ。どう考えてもこれは好もしくない状況だ。
四
その夜の食事にロレンス・レディングを招いていたことを、私はすっかり失念していた。それでグリゼルダが書斎にとびこんできて、あと二分で食事なのに何をぐずぐずしているのかといったとき、少し慌ててしまった。
「何もかもおいしく出来たと思うわ」とグリゼルダは二階に上がって行く私に階段の下から呼びかけた。「昼食のときにあなた、いったでしょ――もっと気をくばればって。だからちょっといいメニューを考えてみたのよ」
ついでながらその夜の食事は、グリゼルダの「つとめればつとめるほど、かえってまずい結果になる」という言葉の正しさを十二分に証明したといってよい。メニューの構想はなるほど野心的だったが、メアリは生煮えと煮すぎをどのように取り合せたらもっともひどい料理を食卓にのぼせられるかという実験に、あまのじゃくな満足を覚えているらしかった。グリゼルダは牡蠣《かき》を注文していた。新鮮な生牡蠣ならどんなに料理の下手なコックの手にかかってもまずくなる気遣いはないと思うのだが、あいにくとわれわれはこのご馳走にありつけなかった。牡蠣を開けるナイフがないことに、食べる間際になって気がついたのだ。
私はロレンス・レディングがはたして現われるかどうか、少々疑問に思っていた。口実をもうけて断るということも、容易にできるはずだったからだ。
しかし彼はちゃんと時間どおりに姿を現わし、われわれ四人は打ち揃《そろ》って食卓についた。
ロレンス・レディングが魅力的な男だということは否定できない。年は三十歳くらいだろうか。髪は漆黒だが、目ははっとするほど青く、生気にあふれて輝いている。何をやらせても器用な男で、テニスであれ、ゴルフであれ、クロケーであれ、見事にこなす。射撃の腕はずばぬけているし、素人芝居では名優、座談も最高にうまい。そんなふうだから、パーティを成功させるにはなくてならぬ人物とされている。父方か母方にアイルランド系の血がまじっているのかもしれない。画家として典型的なタイプではないが、現代風の、なかなか達者な絵を描くらしい。といっても、私は絵画のことはほとんどわからないのだが。
夕食の食卓についたとき、ロレンスは少々ぼんやりしていた。無理もなかったろう。が、それなりにそつはなく、グリゼルダもデニスも何も気づかなかった。あのアトリエの一件がなかったら私自身もおそらく、彼の様子にこれといってふだんと違うふしを感じなかったと思う。
グリゼルダとデニスはいつもに輪をかけて陽気で、ストーン博士とミス・クラム――前にもいったように二人のことはこのところ、村の語りぐさになっていた――について、たてつづけに冗談口をたたいていた。そんな二人を見守りながら、私はふとあることに思いいたって、いささか愕然《がくぜん》とした。グリゼルダは二十五歳、年からいえば私より、十六歳のデニスに近いわけだ。デニスは私をレン伯父さんと呼んでいるが、グリゼルダのことは伯母さんとはいわずにグリゼルダと呼びかけている。そんなことに思いいたって、私は何となく淋しかった。
こんな気持になったのは、アンと話したからに違いない。ふだんの私は、そうした無用の物思いにふけることがいたって稀《まれ》なのだから。
そうこうするうちにグリゼルダとデニスは調子に乗って、ときおりどうかと思うようなことまでいいだしていたが、私には二人を止める気はなかった。私はいつも、牧師が一人加わっているだけで食卓の会話が弾まなくなる傾向があるのを残念に思っていたのだ。
そのころにはロレンスもけっこう快活に会話の仲間入りをしていたが、それでもともすれば私のほうにちらちらと視線を走らせているようだった。だから食後彼が本を見たいとか何とかいって書斎に席を移すように仕向けたとき、私はべつに驚きもしなかった。
二人だけになると、ロレンスの態度はがらりと変った。
「あなたはぼくらの秘密を知ってしまわれましたね」と彼はいった。「で、どうするおつもりです?」
ロレンスに対しては、私はアンに対するよりずっと率直に意見を述べることができた。私の言葉をロレンスは冷静に受けとめた。
「もちろん、あなたがそうおっしゃるのは当然だと思いますよ。牧師さんとしてはね。べつに嫌みをいっているわけではありません。じつのところ、ぼく自身、あなたのいわれるとおりだろうと思っているのです。ですがアンとぼくの間のことは、ありきたりの情事とはわけが違うんですよ」
私は指摘した――世のはじめから人はいつも自分たちの場合はとくべつだといってきたと。ロレンスは奇妙な微笑に口もとを歪《ゆが》めた。
「つまり誰しも、自分たちの場合はとくべつだと考えるってことですか? おそらくね。しかしただ一つ、どうしても信じていただきたいことがあるんです」
こういって彼は、|いままでのところ《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》、二人の間には後ろめたいことは何一つない、といいきった。アンはじつに貞淑な女性だ。だがこれから先のこととなると、自分にもわからないのだと。
「これが小説なら」とロレンスは陰鬱《いんうつ》な口調で呟《つぶや》いた。「プロザローのじいさんがぽっくり死んでくれるんでしょうがね――そうなりゃ、誰にとってもいい厄介払いなんだが」
そんなことをいうものではないと私が抗議したのに対して、ロレンスは言葉を続けていった。
「いや、べつにあの男の背中にナイフを突き刺そうと思っているわけじゃありませんよ。あのじいさんを殺してくれる人間がいれば、そりゃ感謝感激ですがね。あの男のことをよくいう人間なんて、この世の中にゃ一人だっていやしないんですから。初代のミセス・プロザローにしてからが、よくもあいつを殺さなかったと思いますよ。何年も前に一度会ったことがありますが、場合によっては夫殺しぐらい平気でやりかねない、思いきった女のように見えましたね。一見冷静で、じつはたいへん危険だという印象を与える女性がよくいるものですが、プロザローはどこでも悶着《もんちゃく》を起こさずにはいない、小うるさい人間です。けちなこと、このうえなし、加えて癇癪《かんしゃく》を起こしたら手がつけられないときている。あの男の仕打ちに対してアンがどんなにじっと堪えているか。ぼくにわずかでも財産があれば、すぐにも彼女を連れてどこかへ行ってしまうんですがね」
私は語気を強めて真剣に忠告した。一刻もはやくこのセント・メアリ・ミード村を後にしなさい。きみがここにいれば、アンはこれまでにもまして不仕合せになるばかりだ。世間の口には戸は立てられない。噂《うわさ》はついには夫のプロザロー大佐の耳に達し――事態は彼女にとってこれ以上ないというくらい、わるくなるだろうと。
ロレンスはいいつのった。
「しかし、あなた以外には知っている人間はいないんですから」
「きみ、秘密を探りだす本能にかけては、村の住人は本職の探偵そこのけだよ。このセント・メアリ・ミード村じゃ、誰もが他人のプライヴェートな問題を熟知しているのさ。時間をもてあましている、ある年齢層のオールドミスにまさる名探偵は、イギリスじゅうにまたといないんだからね」
ロレンスは言下に、ご心配にはおよばないといった。村の連中は、自分の相手はレティスだと思いこんでいるからと。
「レティス自身もそう思っているかもしれないんだよ。それについて考えてみたことはないのかね?」
ロレンスはひどく意外そうな顔をした。「レティスはぼくのことなど、眼中にありませんよ。それはたしかです」
「もっとも」と彼は言葉を続けていった。「あの子はだいぶ変っていますからね。いつも夢でも見ているようにぼんやりしていますが、じつはあれで、ずいぶんと実際的なところもあるようです。心ここにあらずといったあの態度は、まったくのポーズですよ。何もかも承知のうえでああいう態度を取っているんです。それに、奇妙に執念ぶかいところもある。ふしぎとアンのことを憎んでいましてね、見るのもいやというほどらしいですよ。アンはいつもあの子に対して天使のようにやさしく、思いやりぶかく接しているのに」
天使のようにという言葉を、むろん私は掛け値なしに受け取りはしなかった。恋に溺《おぽ》れている若い男の目には、愛の対象の女性はつねに天使のように見えるものだ。しかし私自身の見るかぎりでも、アンはいつも継娘に対してやさしく、公正だった。その午後、アンについて語ったときにレティスの声音にこもっていた毒気に、私はすくなからず驚かされたものだった。
ロレンスとの内密の話はそこで打ち切りとなった。グリゼルダとデニスが入ってきて、ロレンスを年寄り扱いしていっしょに書斎にひきこもるなんてと私を責めたからだ。
「ああ!」とグリゼルダは安楽椅子の上に身を投げだしながらいった。「何かスリルのあることでも起こらないかしら。殺人事件――いえ、盗難事件でもいいわ」
「仮に泥棒に入ったとしても、この村には盗む値打ちのあるものなんかないと思いますね」とロレンスが調子を合せた。「せいぜい、ミス・ハートネルの入れ歯ぐらいかな」
「たしかにガチガチとひどい音がするわね、あの入れ歯は。でも盗むだけのものがないっていうのは間違ってるわ。オールド・ホールには時代もののすばらしい銀器があるそうよ。食塩入れやチャールズ二世時代の台付きの大鉢なんかは、何千ポンドもするらしいわ」
「オールド・ホールに盗みに入ろうものなら、プロザローじいさんに軍隊用の拳銃で撃たれるよ」とデニスがいった。「あいつのことだ、大喜びでぶっぱなすだろうからね」
「あら、もちろん、こっちが先回りしてホールドアップを掛けるのよ。でも誰か、拳銃をもってるかしら」
「ぼくの所にモーゼル式のピストルが一|挺《ちよう》ありますがね」とロレンスがいった。
「ほんと? まあ、わくわくするわ! でもどうしてそんなもの、もってるの?」
「戦争の遺産ですよ」とロレンスはぽつりといった。
「プロザローじいさん、その銀器を今日、ストーンに見せていたよ」とデニスが口をはさんだ。「ストーンのやつ、せいぜい興味ありげなふりをしてたっけ」
「あの二人、古墳のことでけんか別れしたんじゃなかったの?」とグリゼルダ。
「仲直りしたんだって。でもいったい何が出てくると思って、古墳なんか|しこしこ《ヽヽヽヽ》掘り返すのか、気が知れないな」
「大体、あのストーンって男がぼくにはどうも解《げ》せないんだ」とロレンスがいった。「学者にありがちなうっかり人間っていうのか、どうかすると自分の専門についてさえ、何も知らないんじゃないかって気がすることがあるよ」
「すべては恋の悩みからさ」とデニスがいった。「グラディス・クラム、うるわしの人よ、君の歯の白さに、わが胸はおののく。いざきたれ、いとしの君、わが花嫁となれかし。青猪《ブルー・ボア》館の寝屋《ねや》に永遠《とわ》の契りを君と――」
「デニス、いい加減にしなさい」と私は叱った。
「さて、失礼しましょうか」とロレンス・レディングがいった。「ご馳走さまでした、ミセス・クレメント。楽しい夜を過ごさせていただいてどうもありがとう」
グリゼルダとデニスがロレンスを送って行った。しばらくしてデニスが一人で書斎にもどってきたが、何となく落ちつかぬ様子で、顔をしかめて家具を蹴《け》りながら、所在なげにひとしきり書斎の中を歩きまわっていた。
わが家の家具はどれも古びていてみすぽらしく、これ以上ひどくなりようもないほどくたびれた代物《しろもの》だったが、私はいちおう、「蹴るのはやめなさい」と注意した。
「ごめんなさい」とデニスは謝ったが、しばらく間《ま》を置いていきなり吐きだすようにいった。
「噂話って、まったく頭にくるなあ!」
私はちょっとびっくりした。「いったい、どうしたんだね?」
「伯父さんに話したほうがいいかどうか、わからないんだよ」
私はますます驚いていた。
「下らないったらありゃしない。根も葉もないことをあちこちしゃべりまわって。それもはっきりいうわけじゃないんだ。意味ありげにほのめかすだけでさ。でたらめの噂話をするやつは地獄に失せろといいたいよ――ごめんなさい、伯父さんの前で地獄なんていって。とにかく伯父さんには話せないや。ひどすぎるもの」
私はデニスの顔をしげしげと見たが、何がひどすぎるのか、押してきこうとはしなかった。だがどういうことだろう? 何にせよ、こうまで気にするとは彼らしくもない。
そこヘグリゼルダが入ってきた。
「いま、ミス・ウェザビーから電話があったわ。ミセス・レストレンジが八時十五分に家を出たきり、まだもどっていないんですって。どこへ行ったのか、誰も知らないそうなの」
「どうして知っているわけがあるんだね?」
「だってへイドック先生の所でもないのよ。それはたしかなんですって。ミス・ウェザビーがヘイドック先生のお隣のミス・ハートネルに電話してみたけど〔ヘイドック医師の隣りは実はミス・マープル〕、ミセス・レストレンジが見えた様子はないってことなの。あそこにお客があれば、ミス・ハートネルが気づかないわけはないわ」
「この村の人たちはみんな、いったい、いつ食事を取るのかねえ。窓ぎわに立って外の様子を眺めながら食べるとしか、考えようがないよ」
「それだけじゃないのよ、あなた」とグリゼルダはさもうれしげにいった。「青猪《ブルー・ボア》館のことだけど、ストーン博士とミス・クラムの部屋はやっぱり隣合せですってよ。でもねえ」ここが肝心のところだといわんばかりに人さし指を振った。「二つの部屋をつなぐドアはないそうよ!」
「それを聞いてご連中、さぞがっかりしたことだろうね」
グリゼルダは声を上げて笑った。
木曜日は振り出しからしてよくなかった。よりによってこの日、教区の二人の婦人が会堂の装飾について言い争いを始めたのだ。私は、激怒に文字どおり身を震わせている二人の中年女性の仲裁役として、口論に決着をつけるべく呼び出された。私の立場は心苦しいものだったが、単に生理的現象として見るなら、それはそれでなかなか興味ある一幕だっただろう。
この一件は何とかかたづいたが、今度は礼拝の間じゅうキャンディをしゃぶっていた聖歌隊員の二人の少年を叱るという役目が待っていた。もっと身をいれて訓戒すべきだと思いながら軽く叱責《しつせき》するだけですませようとしている自分を意識して、少々気が咎めた。
次がオルガニストだった。この人は日ごろから怒りっぽいので知られているが、今度も何か気に染まぬことがあったらしくひどく硬化しており、なだめるのに苦労した。
そこへ持ってきて、教区の困窮家庭の人々が四人、ミス・ハートネルに対する反感をおおっぴらに口にしたといって、ミス・ハートネルがかんかんになってやってきた。
何とかなだめて帰ってもらい、ようやく会堂を出たとき、プロザロー大佐と出会った。治安判事である彼は、三人の密猟者を罪に定めてきたとかで上機嫌だった。
「峻厳《しゅんげん》な態度――何が必要だといって、当今これほど必要なものはない」と大佐は大音声《だいおんじょう》でいった。少々耳が遠いので自然と声を張り上げるのだ。「刑罰には、見せしめという意味合いもある。アーチャーが昨日出所して、わしに復讐してやるといっとるそうだ。生意気な! だが、わしは気になどせんよ。恐喝される者ほど、長生きするともいうからね。やつが今度、わしの雉子《きじ》を盗んだところを取っ捕まえたら、小生意気なことをいった分まで罰してやるさ。近ごろは万事に手ぬるくていかん! わるいことをした人間をそれなりに罰するのは、当然きわまることだ。妻子もあるのだし情状酌量を――とよくいわれるが、まったく下らんよ。話にもならんて。妻子が路頭に迷うなどと泣き言を並べたからって、犯した罪の結果を逃れるべきではない。わしは相手によって手加減をせん――医師、弁護士、牧師、密猟者、酔っぱらい――誰によらず、法を犯している者が法の裁きを受けるのは当然しごくだ。これについては牧師さん、あんたも同じ意見だろうがね?」
「お忘れのようですが、牧師という立場上、私は一つの徳目を何にもまさって評価しています――慈悲がそれです」
「ははん。だがわしは厳正な人間だ。それは誰も否定できんじゃろう」
私が黙っていると彼は気色《けしき》ばんでいった。
「何だって答えん? 何を考えとるんじゃね?」
私はちょっとためらったが、思いきっていった。
「神の前に立ったときに自分は生涯正しい人間だったという申し開きしかできないとしたら、残念しごくだという気がしますね。それは私自身もまた、正義をもってのみ裁かれるということを意味するでしょうから……」
「下らんことを! われわれに必要なのは、もう少し戦闘的なキリスト教じゃよ。わしはつねに義務をきちんきちんと果たしてきたと自負しとる。まあ、この話はここまでとしておこう。約束どおり、夕方牧師館に立ち寄るつもりだが、差し支えなかったら六時でなく、六時十五分にしてもらいたいのだ。その前に村のある男に会わなきゃならんから」
「こちらはそれでけっこうですよ」
プロザロー大佐は杖《つえ》を大きく振りまわしながら反《そ》っくり返って歩み去った。その姿を見送って向き直ったとき、ホーズと出会った。けさはまた、見るから具合わるそうに見えた。近ごろ彼の領域の問題のうちに収拾がつかなくなっているもの、棚上げにされているものが多いので、私はやんわり注意するつもりでいたのだが、立っているのがやっとといった様子、血の気のない顔を見て、これは病気に違いないと思った。
ホーズにそういうと、彼はそんなことはないといったが強く否定はせず、そのあげく、じつはあまり気分がよくないのだと白状した。私がはやく帰って寝たまえというと、そうするつもりらしかった。
昼食を急いで取った後、私は教区民の家を何軒か訪問した。グリゼルダは木曜の割引き運賃を利用してロンドンに出かけていた。
私が帰宅したのは四時十五分前で、日曜の説教の大筋を考えるつもりだったのだが、出迎えたメアリが、レディングさんが書斎で待っているといった。
書斎に行くと、ロレンスが悩ましげな様子で歩きまわっていた。青ざめた、やつれた顔をしていた。
私が入って行くと、ロレンスはくるっと向き直った。
「ああ、牧師さん、昨日あなたがいわれたことをずっと考えていたんですよ。ゆうべはほとんど眠れませんでした。ご忠告にしたがってぼくはやっぱり、ここを早急に去ることにします」
「きみ――」
「アンについてあなたがいわれたことはまったくそのとおりです。ぼくがここにいればあの人を苦しめるだけです。アンを――罪もない彼女を、そんな目に会わせるわけにはいきません。やっぱり去るべきだと思います。これまでのところ、ぼくはあの人にかえってつらい思いをさせてきたようです。そんなつもりはなかったのですが」
「きみは唯一の正しい決断を下したと思うよ」と私はいった。「つらいだろうが私を信じてくれたまえ。結局はそれが最良の道だ」
ロレンスの様子から、事情をよく知らない第三者だからそんなふうにあっさりいえるのだと思っていることは明らかだった。
「アンのことに気をくばってくれますね? あの人には親身になってくれる友人が必要です」
「私にできることは何でもするよ」
「ありがとうございます」ロレンスは私の手をかたく握りしめた。「あなたはいい人だ、牧師さん。ぼくは今夜アンに会ってはっきり別れを告げるつもりです。荷作りをして、たぶん明日はここを引き払うことになるでしょう。苦しみを長びかせてもどうしようもありませんからね。アトリエを使わせて下さってありがとうございました。ミセス・クレメントの肖像画を完成できないまま去るのは残念ですが」
「そのことなら気にしないでいい。じゃあ、さようなら。神の祝福を祈っているよ」
ロレンスが去ると、私は説教をまとめにかかったが、思うように進まなかった。ロレンスとアン・プロザローのことが頭にこびりついて離れなかったのだ。
いささか濃すぎる、冷えたお茶を飲んで一息ついたとき、電話が鳴った。五時半だった。ロウア・ファームのアボット氏が危篤なので至急きてもらえないかという頼みであった。
私はすぐオールド・ホールに電話した。ロウア・ファームまでは二マイルほどある。六時十五分までにはとてももどれないと思ったのだ。私はいまだに自転車に乗れないので往復とも歩くほかない。
しかしプロザロー大佐はすでに車で家を出たということで、私はメアリに、プロザローさんが見えたら、急用で出かけたが六時半か、少し過ぎには帰ると伝えてくれといい残して家を出た。
五
私が牧師館の門に近づいたときには六時半どころか、すでに七時前といったほうがいい時刻になっていた。と、門が開いて、ロレンス・レディングが出てきた。私を見るなり、はっとしたように立ち止ったが、その顔の表情に私は思わず息を呑《の》んだ。発狂寸前といった恐ろしい形相で、目はすわり、顔面は蒼白《そうはく》、全身がぴくぴくとひきつっている感じだった。
酒に酔っているのだろうかと一瞬私はあやしんだが、まさかとすぐ打ち消した。
「やあ、何かまだ私に話でも? あいにく外出していてすまなかった。さあ、もどってくれたまえ。教会の会計のことでプロザローさんと会う約束があるんだが、大した手間はかかるまい」
「プロザローに会うんですって?」とレディングはきき返して、いきなりげらげら笑いだした。「プロザローに? こいつはいい。ああ、会えますよ、もちろん。だが何てことだ――何て――」
私は驚いてロレンスの顔を見返して、本能的に片手を差し伸べたが、ロレンスは唐突にわきによけた。
「いや」とほとんど怒鳴るように彼はいった。「ぼくはもう帰らないと――考える――時間が必要なんです。考える時間が――」
こういうなり、道路をいっさんに村の方角に走り去った。私は呆気《あっけ》に取られてその後ろ姿を見送った。やっぱり一杯飲んでいるんじゃないか――と思いながら。
ややあって私は頭を振って、そのまま歩みを進めた。牧師館の玄関のドアにはいつも鍵が掛かっていないが、私はベルを鳴らした。メアリがエプロンで手を拭きながら出てきた。
「遅かったですね」
「プロザロー大佐は見えているかね?」
「ええ、書斎に。六時十五分からずっと待ってますよ」
「レディングさんもきたんだね?」
「ほんの二、三分前に。牧師さんはいるかとききましたから、じきもどるだろうっていいました。書斎にプロザロー大佐がいるというと、ぼくも待たせてもらうって書斎に行ったんです。たぶん、まだいると思いますよ」
「いいや、帰って行ったよ。いま外で会った」
「へえ、気がつきませんでしたけど。じゃあ、せいぜい二分ぐらいしか、いなかったんですね。奥さんはまだロンドンからもどってません」
私はぼんやりうなずいた。メアリが台所にひっこむと、私は廊下づたいに書斎に行ってドアを開けた。
廊下が薄暗いので夕日のさしこんでいる書斎はばかに明るく思えて私は目をしばたたき、それから一、二歩歩みを進め――ぱったり立ち止った。
その場の光景の意味するところがすぐには呑みこめず、私はしばらく呆然《ぼうぜん》と立ちすくんでいた。
プロザロー大佐は何とも不自然な姿勢で机の上に突っぷしていた。頭のわきにどす黒い液体がたまり、ポト、ポト、ポトと気味のわるい音を立てながら床に滴っていた。
私は何とか気を取り直して近よった。肌に触れるとひんやりと冷たく、持ち上げた手は力なく落ちた。プロザロー大佐は頭を撃ちぬかれて――死んでいた。
私は戸口に行き、メアリを呼んだ。そして、角のヘイドック先生を急いで呼んできてくれといった。事故があったからとだけ話した。
それから書斎にもどってドアを閉め、ヘイドックの到着を待った。
さいわいヘイドックは在宅していた。人柄のいい男でがっしりした大柄の体格、荒削りの顔はいかにも正直そうだった。
私が無言で部屋の向うを指さすと眉をぐっと吊《つ》り上げたが、職業柄、感情はあらわにしなかった。身を屈《かが》めて手早く調べたあげく、ヘイドックは上体を起こして私の顔を見返した。
「どうなんだ?」と私はきいた。
「死んでいるよ――三十分ばかり前だろうな――おそらく」
「自殺だろうか」
「それは問題外だよ。傷の位置を見たまえ。それに、自分で自分を撃ったのだとしたら、ピストルはどこにあるんだ?」
私もまわりを見まわしたが、そんなものはどこにも見当らなかった。
「まわりのものには手を触れんほうがいいな」とヘイドックはいった。「すぐ警察を呼ぼう」
ヘイドックは受話器を取り上げ、警察が出ると必要なことをてきぱき告げて受話器をもどし、私のそばにやってきた。
「厄介なことになったものだ。死体を発見した状況は?」
私は一通り説明して「するとつまり――殺人事件ということに――」としどろもどろにきいた。
「そのようだな。というより、ほかにどう考えようがある? それにしても何ということだ。いったい、誰の仕業《しわざ》かね。プロザローが人に好かれていなかったのは知っているが、それだけの理由で、人一人殺されることは稀《まれ》だ――残念ながらね」
「じつは一つ、奇妙なことがあるんだ」と私はいった。「午後、教会員が危篤だという電話があって出かけたんだが、先方は私を見るとひどく驚いて、病人は二、三日前から快方に向っているというんだ。妻君は、電話した覚えなどないというし」
ヘイドックは眉を寄せた。
「それはすこぶる暗示的だな。つまり、きみは偽電話で誰かに誘い出されたわけだ。ところでお宅の奥さんは?」
「ロンドンに出かけている」
「お手伝いは?」
「裏手の台所にいたらしい」
「だとすると、ここで何が起こってもまず聞こえないだろうね。とにかくいやな事件だな。プロザローがこの時間に牧師館にくることを知っている者は誰だれだ?」
「けさ村の通りで、プロザローさん自身が例によって大声で怒鳴っていたからね」
「つまり、村じゅうが知っていたってことだな。そうでなくても、この村の連中はどんなことでも細大|洩《も》らさず知っているがね。プロザローに恨みをいだいている者の心当りはあるかい?」
私はふと、ロレンス・レディングの青ざめた顔とすわった目を思い出した。しかしこのとき、廊下に足音がしたので、ヘイドックの問いには答えずにすんだ。
「警察がきたらしい」とへイドックは立ち上がった。
やってきたのは村のハースト巡査で、勿体《もつたい》ぶった、しかし少々気掛りそうな様子をしていた。
「こんばんは。おっつけ警部がきますが、それまでの間、警部の指示に従って事情を聞かせてもらいます。プロザロー大佐が射殺されたというんですね――この牧師館で」
ハーストはここで言葉を切って、うさんくさげな、冷やかなまなざしを私に向けた。私は後ろ暗いところはまったくないといった顔で、その視線をまともに受けとめようとした。
ハーストは机に近よった。
「警部が見えるまで、いっさい手を触れないで下さい」
さてハースト巡査は手帳を取り出して鉛筆を舐《な》め舐め、では話を聞こうというように私たち二人の顔を見上げた。
私が死体を発見した次第を繰り返すとハーストはそれを克明に手帳に書き取り、今度はヘイドックのほうに向き直った。
「先生のお考えでは死因はどういう――?」
「至近距離から頭を撃たれたんだろうね」
「凶器は?」
「弾丸を抜き出すまではっきりしたことはいえないが、おそらくモーゼル二五あたりの、小口径のピストルから発射された弾丸によるものだろう」
私は前夜の会話――とくにロレンス・レディングの言葉を思い出して、はっとした。ハースト巡査は、魚のように冷たい目でじろりと私を見た。
「何かおっしゃいましたか、牧師さん?」
私は首を横に振った。ロレンスに対してどんな疑惑をいだいているにせよ、いまのところは疑惑にすぎないのだし、自分の胸一つにおさめておくに越したことはない。
「惨劇はいつ起こったと思われますか?」
ヘイドックは、ハースト巡査に答える前にちょっとためらった。
「死後三十分そこそこというところだと思うね。それ以上はたっていないだろう」
ハーストは今度は私のほうに振り向いた。「お宅のお手伝いはどうです? 何も物音を聞いていないんですか?」
「私の知っているかぎりでは何も。だがじかに当ってみるほうがいいだろう」
ちょうどそのとき、スラック警部が到着した。二マイル離れたマッチ・ベナムからやってきたのだ。
スラック警部については、これほど断固として名が体を表わさぬように努力している人間も珍しいというに尽きる。|たるんでいる《スラック》という名と裏腹に瞬時もじっとしていず、黒い目をたえず油断なくひらめかせている。一口でいえば精力的なことこのうえない、浅黒い顔の男であった。態度はきわめて無礼で、横柄だった。
スラックはわれわれの挨拶に素っ気なくうなずくと、ハースト巡査の手帳をひったくって読み、低い声で二言三言《ふたことみこと》この部下と言葉をかわした。それから大股《おおまた》に死体のそばに歩みよった。
「どうせ、何もかも引っ掻《か》きまわされちまっているんだろうがね」
「私は何も触っていませんよ」とへイドックがむっとしたようにいった。
「こちらも同じです」と私もいった。
警部は机の上のものをしげしげと眺めたり、顔を近づけて血の溜《たま》り具合を調べたり、ひとしきりひどく忙しそうだった。
「ああ!」そのうちに彼は勝ち誇ったような声を上げた。「こいつは願ってもない手掛りだぞ! 前のめりに倒れたはずみに時計がひっくり返って止ったんだな。これで犯行時間がはっきりするわけだ。六時二十二分で止っている。死亡時間は何時といわれましたっけね、先生?」
「三十分ばかり前といいましたがね――しかし――」
警部は腕時計をちらっと見た。
「いま七時五分過ぎだ。私が知らせを受けたのはいまから十分前の七時五分前だった。死体の発見が七時十五分前。ヘイドック先生、あなたは時を移さず呼ばれ、七時十分前かそこらに死体を調べたわけですね? うん、ぴったしだ! まったくぴったしだ!」
「死亡時間についてはぜったいにたしかだとはいっていませんよ」とヘイドックがいった。「およその見当を述べたまでです」
「いや、それで結構、大いに結構」とスラックは満足げだった。
私はしばらく前から、何とか口をはさもうとやっきになっていた。
「じつはその時計のことですが――」
「すみませんがね、牧師さん、伺いたいことがあれば後でゆっくり伺いますよ。いまは時がないんです。はたから口を出さんで下さい」
「わかっています。しかし、これだけはいっておいたほうがいいと――」
「頼むから黙ってて下さいませんかね」と警部はこわい顔で私を睨《にら》みつけた。それで私としても沈黙するほかなかった。
スラック警部はなお机の上を見まわしていた。
「いったい、奴《やつこ》さん、何だってこんな所に座っていたんだろう?」と彼は唸《うな》るようにいった。「置き手紙でもするつもりだったのかな――おや――こいつは何だ?」
スラックは一枚の紙を意気揚々と差し上げていた。この新しい発見にほくほくしていたので、私たちが近よってのぞいても文句をいわなかった。
それは牧師館備えつけの用箋《ようせん》で、上端に六時二十分と時刻が記されていた。
「クレメント殿。残念だがこれ以上待つわけにいかない。私は……」
後はみみずがのたくったような線が走っていた。「これでわかった」とスラック警部は鬼の首でも取ったようにいった。「プロザロー大佐が置き手紙をしようと机の前に座ったところに、犯人が窓から忍びこんで一発ぶっぱなしたんだろう。これ以上、何の証拠も要らないくらいだ」
「一言《ひとこと》いわせてもらいたいんですが――」と私はいいかけたが、またしてもスラックに遮られた。
「すみませんがどいて下さい。足跡が残っていないか、確かめてみます」こういって四つん這《ば》いになって、開いている窓のほうに這いずった。
「しかしこのことはぜひともいっておかないと――」と私はひるまずにいった。
スラックは立ち上がった。声を荒らげはしなかったが、きっぱりした口調だった。
「後で伺いますよ。すみませんが、どなたもここから出て下さらんか。お願いします」
結局、ヘイドックと私はいたずらっ子のようにおめおめと書斎から追い出された。
すでに何時間もがたっているような気がしたが――実際にはまだやっと七時十五分だった。
「さてと」とヘイドックが呟《つぶや》いた。「引き揚げるとするか。あの自惚《うぬぼ》れやの警部がこのうえぼくにききたいことがあるようだったら、診察室のほうによこしてくれたまえ。失敬するよ」
「奥さんが帰ってきましたよ」とメアリが台所から出てきていった。降って湧《わ》いたような事件に取りのぼせているらしく、目をまるくしていた。「つい五分ばかり前に」
グリゼルダは客間にいた。怯《おび》えたような顔だったが、やはりだいぶ興奮しているらしかった。
私が事の次第を告げるとグリゼルダは熱心に耳を傾けた。
「便箋には六時二十分と書いてあってね。おまけに時計がひっくり返って、六時二十二分で止っていたんだよ」
「でもあの時計のこと、あなた、警部さんにいわなかったの? いつもわざと十五分進めてあるんだってことを」
「いや、いわなかった。いうきっかけも与えてくれないんだからね。こっちとしては話そうとせいぜい努力したんだが」
グリゼルダは怪訝《けげん》そうに眉を寄せていた。
「でも、レン、だとすると何もかもおかしいわ。だってあの時計が六時二十分ってことは、ほんとは六時を五分過ぎたばかりってことでしょ? 六時五分過ぎなら、プロザローさんはまだここに着いてもいなかったはずじゃありませんか」
六
時計のことはどうにもふしぎだ。グリゼルダと私はしばらくその点について話しあったが、どういうことなのか、見当もつかなかった。グリゼルダは、何とかもう一度スラック警部に話す努力をしてみたらといった。だが私は「依怙地《いこじ》」としか言いようのない気分になっていた。
スラック警部は理由もないのに失敬きわまる態度に終始した。だから私はおりを見て時計についての重要な事実を持ち出し、スラックの鼻を明かしてやろうと手ぐすね引いていた。時計の針はいつも進ませてあるのだと告げた後、軽い非難を語気に含ませてこういうつもりだった。
「もっとはやく私のいうことに耳を傾けて下さっていたら、警部――」
ところがである。いくらスラックでも帰る前に私に挨拶ぐらいするだろうと思っていたのに、メアリによれば驚いたことに彼は書斎のドアに鍵を掛けると誰も入らないようにと念を押し、そのまま立ち去ったという。
グリゼルダは、自分もひとっ走りオールド・ホールに行ってこようかと思うといった。
「アン・プロザローにはたいへんなショックでしょうからね――警察にいろいろきかれるやら何やら。それにもしかしたらあたしにも、何かしてあげられることがあるかもしれないし」
それはいい考えだと私はいって、必要があったら電話してくれ、アンとレティスの力にもなりたいからと付け加えた。
その夜は七時四十五分から日曜学校の教師たちのための勉強会が開かれることになっていたが、事情が事情だし、延期したほうがいいと思って電話連格することにした。そこへ帰ってきたのはテニス・パーティに出かけていたデニスだったが、牧師館で殺人事件が起こったというのがいかにもうれしそうだった。
「殺人事件のあった家に住んでるなんて。いっペん、そういう現場に居合せたいと思っていたんだよ。警察はなぜ書斎を閉め切りにしたんだろう? ほかの部屋の鍵で合うのはないかなあ」
私は書斎に入ろうなんて、ぜったいにそんな気を起こしてはならないと厳しくいって聞かせた。デニスは不承不承|諦《あきら》めたが、私から聞きだせるだけのことを聞きだすと、足跡は残っていないかと庭に出て探しはじめた。「それにしても殺されたのがプロザローじいさんでよかったね。あいつ、誰からも嫌われていたんだから」などといいながら。
デニスの屈託のない口調に、私は少々|辟易《へきえき》したものの、自分はこの子に少し厳しすぎるのかもしれないと反省した。デニスの年ごろでは探偵小説に読みふけるのは人生最高の喜びの一つだ。愛読書を地で行く事件が身近で起こった。いや、いってみればつい鼻の先に死体が転がっていたのだ。健康な少年なら有頂天になって当然だろう。十六歳といえば、死もまださしたる意味をもっていないのだから。
グリゼルダは一時間ほどで帰宅した。プロザロー大佐の死についてスラック警部がアンに告げた直後にオールド・ホールに着き、アンに会ってきたという。
アンは、夫の姿を最後に見たのは村で別れたときで六時十五分前ごろだったと思う、事件については何の心当りもないといったそうだ。スラックは明日またくるから、くわしいことはそのおりに伺うといって帰って行った。
「スラック警部も、それなりにかなり礼儀正しくしていたわ」とグリゼルダはしぶしぶながら認めた。
「ミセス・プロザローの様子はどんなふうだったね?」
「そうね――知らせを聞いてもべつに騒ぎたてたりしなかったわ。でもあの人、もともとそういうたちだから」
「そうだな。アン・プロザローがヒステリーを起こすなんて、想像もできないね」
「もちろん、大きなショックだったには違いないわ、それはたしかよ。でもあたしに、わざわざきていただいてすみませんっていったわ。とくに、していただきたいこともないと思うって」
「レティスは?」
「どこかにテニスをしに行ったらしいの。まだ帰っていなかったわ」ちょっと間《ま》を置いてグリゼルダは付け加えた。「ねえ、レン、アンはほんとのところ、変だったのよ――とっても」
「ショックのせいだろう」
「ええ――そりゃあね。でも――」とグリゼルダは怪訝そうに眉を寄せた。「ただショックを受けたっていうのとも違うみたいだったわ。気が転倒してるっていうより――何だか怯《おび》えていたみたい」
「怯えていた?」
「ええ――そんな素振りは見せなかったけど――というより、見せないようにしていたけれど。だけどおかしいのよ、こっちの様子をうかがってるような目つきで。誰がご主人を殺したのか、もしかしたら見当がついてるのかもね。とくに疑いのかかっている人物はいるのかと根掘り葉掘りきいてたし」
「へえ」と私は考えこんだ。
「もちろん、あの人らしくじっと抑えてたけど、ひどく動揺してるのはたしかよ。あたしの思ってた以上に。だって結局のところ、あの人、ご主人のことをとても愛してたってわけでもないんですものね。むしろ嫌ってたんじゃなくて?」
「死というものは、ときとして人の気持を変えるからね」
「ええ、まあね」
このときデニスが入ってきたが、花壇に足跡を一つ見つけたといって興奮していた。警察は見落しているに違いないが、これが謎を解く鍵になるだろうとたいへんな意気ごみだった。
その夜は寝苦しかった。デニスは朝食のずっと前に起きだして、事件のその後の展開をたどるためと称して出かけていた。
しかしその朝、センセーショナルなニュースをもたらしたのはデニスでなく、お手伝いのメアリだった。
私たちが朝食のテーブルについたときだった。メアリが取りのぼせた顔で目をきらきらさせて食堂にとびこんでくるなり、例によって前置きなしにいったのだ。
「あたし、もう驚いちゃって。パン屋のご用聞きがいったんですけどね、レディングさんが逮捕されたんですって」
「ロレンスが?」とグリゼルダはとても信じられないという口調だった。「まさか! ばかげた間違いよ。そうに決まってるわ」
「それが間違いじゃないんですよ、奥さん」とメアリは得々としていった。「レディングさん、自分で警察に出かけてって自首したんですってさ。ゆうべ遅くに。つかつかと入ってってピストルをテーブルの上に投げだし、『ぼくがやったんです』っていったそうですよ――いきなり」
メアリは私たちの顔を見くらべ、大きくうなずくと、自分の言葉の引き起こした波紋にしごく満足して出て行った。私たちは顔を見合せた。
「そんな!」とグリゼルダがいった。「そんなはず、ぜったいにないわ!」
私が何もいわずにいるのを不審に思ったのだろう、グリゼルダはきいた。「レン、|あなた《ヽヽヽ》だって、そんなこと、信じやしないでしょ?」
何とも答えようがなくて私は黙っていた。いろいろな思いが頭の中で空回《からまわ》りしていた。
「自首するなんて、あの人、どうかしてるわ」とグリゼルダは呟いた。「頭がおかしくなったのよ。それともひょっとして、プロザローさんといっしょにピストルを見てるうちに暴発したのかしら?」
「そんなことはありそうにないね」
「でも何かの事故には違いないわ。だって動機がまるでないんですもの。プロザロー大佐を殺すどんな理由が、ロレンスにあったっていうの?」
その問いに対する決定的な答を私は知っていたが、できることならアン・プロザローを曝《さら》しものにしたくないと思った。この期《ご》におよんでも、彼女の名が表面に出ないように取り計らうことができないとも限らない。
「プロザローさんとロレンスは言い争いをしたというじゃないか?」
「レティスが水着姿でモデルになってるってことからでしょ? ええ、だけどそんなの、おかしいわ。たとえ、レティスとロレンスがこっそり婚約したとしてもよ――だからってプロザローさんを殺す理由になんか、なりゃしないわよ」
「われわれとしてはこの事件の真相がどういうものなのか、本当のところは知らないんだからね、グリゼルダ」
「あなた、信じてるのね、レン、ロレンスが犯人だと! まあ、どうしてそんなこと、考えられるの? ロレンスはプロザローさんの髪の毛一本、手を触れてやしないわ」
「前にも話したと思うがね、私は門のすぐ外でロレンスに会ったんだが、正気の人間とはとても思えなかった」
「ええ、聞いたわ――でも――まさかあの人が」
「時計のこともある。ロレンスが殺したと考えれば説明がつくんだ。ロレンスはアリバイを作ろうと思って時計の針を六時二十分にもどしたに違いない。げんに、スラック警部もそう思いこんでいるじゃないか」
「いいえ、それは違うわ、レン。だってロレンスはうちの時計が進んでるってこと、ちゃんと知ってるんですもの。『牧師さんに時間を守らせるためですね』とよくいってたわ。だからロレンスが時計の針をもどすなんてばかなこと、するはずがないのよ。ロレンスが殺したんだったらむしろ――そうね、七時十五分前あたりに動かしたでしょうよ」
「プロザローが何時にここに着いたのか、ロレンスは知らなかったのかもしれないよ。それともうちの時計が進んでいることを忘れていたのか」
グリゼルダは首を振った。
「人一人殺そうと思ったら、そうしたことには十二分に気をくばるはずだわ」
「そんなことがおまえにわかるわけはないだろう」と私は異議を唱えようとした。「人を殺したことなんか、ないんだから」
グリゼルダが答える前に朝食の皿のまだ載っているテーブルに影がさし、遠慮がちな声がいった。
「お邪魔でしょうか? ごめん下さいましよ。でもこうした悲しい――痛ましいおりですから――」
隣に住むミス・マープルだった。グリゼルダと私が邪魔だなんてとんでもないというと、ミス・マープルはフランス窓から入ってきた。私は椅子を勧めた。ミス・マープルの頬はかすかに上気し、かなり興奮しているようだった。
「恐ろしゅうございますこと、プロザロー大佐が殺されなすったんですって? おつきあいして楽しい、人好きのするかたじゃありませんでしたけれど、でもやはり胸が痛みますわね。しかも、こちらの書斎で撃たれなすったとか?」
じつはそのとおりなのだと私はいった。
「牧師さまはそのときお留守でしたんでしょ?」とミス・マープルはグリゼルダにきいた。私はその問いを引き取って、そのときどこに出かけていたかを説明した。
「けさはデニスさんがお見えにならないようですね」とミス・マープルはちらりとあたりに視線を投げながらいった。
「デニスったら、素人探偵気取りなんですの」とグリゼルダが答えた。「花壇の一つに足跡が見つかったって大騒ぎしてますのよ。たぶん、警察にそのことを話しに行ったんじゃないでしょうか」
「それはそれは。デニスさんはきっと、犯人の目星はついていると思いこんでおいでなんでしょうね。そりゃまあ、わたしたちみんな、おなかの中ではそれぞれに犯人を知っているつもりでしょうけれど」
「誰が見てもはっきりしてるっておっしゃるんですの?」とグリゼルダがきいた。
「いいえ、もちろん、そんな意味じゃありませんわ。わたしのいいたいのはね、みんながそれぞれに誰かしらを疑っているってことですの。それだけに証拠《ヽヽ》の入手が重要なんですわ。たとえばこのわたしにしましても、犯人が誰だか、はっきりわかっているつもりでいますのよ。といっても証拠がこれっぽっちもないことは認めないわけにいきません。こうしたおりには、いうことによほど気をつけませんとね。誹謗《ひぼう》罪とか何とかいうのがあるそうじゃありませんか。スラック警部さんの前ではとくに注意しなければって、わたし、心に決めていますのよ。けさうちに見えるというお話でしたけど、いま電話があって、伺うまでもないからってことでしたの」
「容疑者が逮捕されたので、その必要がなくなったんでしょうね」と私はいった。
「逮捕ですって?」とミス・マープルは頬を興奮に染めて身を乗りだした。「逮捕された人がいるなんて初耳ですわ」
私たちがミス・マープルより耳がはやいなどということはしごく稀《まれ》なので、私は彼女がロレンスの自首についても当然知っているものと思いこんでいたのだった。
「どうも話が食い違っているようですね。そうなんです。逮捕されたんですよ――ロレンス・レディングが」
「ロレンス・レディング?」とミス・マープルはひどく驚いた顔をした。「まさか、そんな――」
このときグリゼルダが激しい口ぶりで遮った。
「いまでもあたし、信じられませんわ。そんなことって――たとえあの人が自白したにもせよ」
「自白?」とミス・マープルはまたきき返した。「自白したっておっしゃるんですの? まあま、わたしったら、恐ろしく見当違いのことを考えていましたのねえ――ほんとに」
「何かの事故だったとしか思えないわ」とグリゼルダがまたいった。「あなたもそう思わないこと、レン? つまりよ、そんなふうに警察に自首したことからして、事故だったってことを暗示してるんじゃなくて?」
ミス・マープルは熱心な様子で身を乗りだした。
「自首した――っておっしゃいましたね?」
「ええ」
「ああ!」とミス・マープルは溜息《ためいき》をついた。「それを伺ってほっとしましたわ。ほんとによかったこと」
私はちょっと驚いてミス・マープルの顔を見た。
「そりゃまあ、心から後悔しているというしるしでしょうからね」
「後悔ですって?」とミス・マープルはびっくりしたようにいった。「でも牧師さま、まさかロレンス・レディングさんがほんとに犯人だと思っていらっしゃるわけではありませんでしょう?」
今度は私がミス・マープルの顔を見つめる番だった。
「しかし自白したというからには――」
「ええ、ですけどそれこそ、無実の証拠じゃありませんか。レディングさんは事件には何の関係もないんですわ」
「いや、どうも」と私は呟いた。「私が鈍なたちだからでしょうが、自白が無実の証拠になるという因果関係がよくわからないんですがね。殺人の罪を犯しもしないのに、犯したといいはるのはいったい、どういうつもりなのか」
「もちろん、理由はございますとも――当然ですわ。何にでも理由はあるものですからね。それにお若い方はとかくかっとのぼせて、最悪のことを信じる傾向がございますから」
こういってグリゼルダのほうに向き直った。
「あなたも、そうお思いになるでしょ?」
「さあ、あたし――よくわかりませんわ」とグリゼルダはいった。「どう考えたらいいか、まるでわからなくて。自首するなんて、ロレンスがどうしてそんなばかな真似をしたのか」
「ゆうべのあの男の顔を見たら誰だって――」と私はいいかけた。
「そのときのことを伺わせて下さいまし」とミス・マープルに促されて、私はロレンスに会ったときのことを話した。
じっと耳を傾けていたあげく、ミス・マープルはいった。
「わたしって、頭が思うように働かないことがよくありましてね、物事がすっと呑みこめないんですの。いま伺ったことにしても、ほんといってどうにも腑《ふ》に落ちませんでね。仮にある青年が他人を殺そうという大それた決意を固めたとしますわね。熟慮したうえの冷静な行動でしょうから、事後、取り乱した様子を見せるということはまずないんじゃありませんでしょうか。多少落ちつかないということはあるでしょうし、ちょっとした失策は犯しますでしょうよ。ですけどいまおっしゃったような錯乱状態を示すとは考えられませんわ。自分がそうした立場に立ったらと考えるのはむずかしいことですけれど、わたし自身にしましても、そんな常軌を逸した状態になろうとは思えませんわ」
「私たちには実際の状況がさっぱりわかっていないんですからね」と私は指摘した。「口論のすえにかっとなってということも考えられます。ロレンスは事件後、自分のしでかしたことに怖気《おぞけ》をふるったんじゃないでしょうかね。まったくの話、私にはどうもこれが真相だと思われるんですよ」
「たしかに、クレメントさま、わたしたちめいめい、物事について自分なりの見かたをするものです。でも事実を事実として受けいれるということ、これはどんな場合にも必要じゃございませんでしょうか。この場合、事実はあなたさまの解釈と相容《あいい》れないようにわたしには思われてならないんですの。お宅のお手伝いのメアリは、レディングさんは二分くらいしかいなかったとはっきりいっているんでございましょう? でしたら、あなたさまのおっしゃるような口論をする時間はとてもございませんでしたろうよ。それに、プロザロー大佐は手紙を書いているときに後頭部を撃たれたんでしたわね――うちのお手伝いはそういっておりましたけど」
「そのとおりですの」とグリゼルダが答えた。「これ以上待てないという、手紙を書きかけていらしたようですわ。手紙には六時二十分と時刻が書きいれてありましたし、机の上の時計がひっくりかえって六時二十二分で止っていて。ただ、そのことがレンとあたしにはどうにもふしぎでならないんですの」
こういって、時計をいつも十五分進めておく私たちの習慣について説明した。
「ふしぎですわね」とミス・マープルは呟いた。「ほんとに。けれどわたしにはむしろ、その手紙のほうがふしぎに思えますわ。つまりね――」
ミス・マープルはここで言葉を切って振り返った。レティス・プロザローが窓の外に立っていた。レティスは窓から入ってくると私たちに軽くうなずき、口の中でぽっそり、「おはようございます」といった。
それから椅子に腰を落した。
「ロレンスが逮捕されたんですってね」ふだんほど、ぼんやりした口調ではなかった。
「ええ」とグリゼルダが答えた。「ショックだったわ」
「誰かがお父さんを殺すかもしれないなんて、あたし、本気で考えたこと、一度もなかったのよ」レティスはどうやら、悲しみにしろ、何にしろ、強い感情を示さずにいることに誇りを感じているらしかった。「殺したがっている人はいっぱいいたと思うけど。あたしだって、ときには殺してやりたいと思ったくらいですもの」
「何か召しあがる? それとも飲みものでも?」とグリゼルダがきいた。
「いいえ、いいのよ、ありがとう。ベレー帽を置いて行かなかったかと思って、寄ってみただけなの――おかしな、黄色い、小さな帽子よ。この間、ここの書斎に置き忘れたような気がして」
「置き忘れたんだったら、まだあるはずよ。メアリはかたづけたりしないから」
「行ってみるわ」とレティスは立ち上がった。「お邪魔してすみません。あたしったら、帽子をみんなどこかにやっちゃったみたいで、かぶれるのが一つもないのよ」
「よしんば書斎にあったとしても、いまは探すわけにいかないだろうね」と私はいった。「スラック警部が鍵を掛けて行ったから」
「あら、いやあね。窓から入れないかしら?」
「だめだろうな。窓は内側から掛け金が掛けてあるんだよ。それにレティス、黄色いベレー帽なんて、さしあたっては役に立たないだろうに」
「どうせ喪服を着るわけだろうからってこと? あたし、喪服なんて着る気はないの。古くさい考えかたよ、そんなの。ロレンスのことは厄介ね――ほんと、厄介だわ」こういって立ち上がると、ぼんやり眉を寄せた。
「あたしが水着でモデルになったことが原因だと思うけど。ばかげてるわ――何もかも……」
グリゼルダは何かいおうとするように口を開きかけたが、なぜか、その口をまた閉ざした。
レティスの唇には奇妙な笑みが漂っていた。
「あたし、帰るわ」とレティスは低い声でいった。「帰ってアンに、ロレンスが逮捕されたってこと、知らせてあげるわ」
レティスがふたたび窓から出て行くとすぐ、グリゼルダはミス・マープルのほうに振り向いた。
「いましがた、なぜ、あたしの足を踏んだんですの?」
ミス・マープルは微笑していった。
「あなたが何かおっしゃりそうだと思ったのでね。だいたい物事って、自然の成りゆきに任せておくのがいちばんいいものなんですよ。あのレティスって娘さんはね、見せかけほどのぼんやりじゃないと思いますよ。はっきりした考えが頭にあって、その上に立って行動しているんですわ」
このとき、メアリが食堂のドアを乱暴にたたいたと思うとずかずかと入ってきた。
「何なの、メアリ? それにね、ドアはノックしないでいいのよ。前にもいったと思うけど」
「取りこみ中かと思ったんです。メルチェット大佐がきてます。ご主人にお目にかかりたいって」
メルチェット大佐は州の警察部長だった。私はすぐ立ち上がった。
「玄関で待たせたらわるいかと思ったんで、客間に案内しときました。テーブルの上、もうかたしていいですか?」
「まだよ」とグリゼルダが答えた。「後でベルを鳴らすわ」
グリゼルダがミス・マープルのほうに向き直ったのをしおに、私は食堂を後にした。
七
メルチェット大佐は小柄だが押し出しのなかなかりっぱな男で、思いがけないときに鼻を鳴らすのでおりおりびっくりさせられた。髪は赤髪《あかげ》で、きらきら光る青い眼は見るから抜け目なさそうだった。
「おはよう、クレメント君。厄介なことが起こったものだね。プロザローも気の毒に。私自身、あの男が好きだったわけじゃない。ま、誰からも好かれない男だったな。それにしてもお宅にとっては迷惑千万な話だね。奥さんは大丈夫かね? 参っておられるんじゃないかな?」
グリゼルダはそのわりに元気にしていると私は答えた。
「それはよかった。自分の家でこんな事件が起こるなんて、もってのほかだからね。レディングが犯人だと聞いて、びっくりしているんだよ――それもあんな殺しかたをするとはね。他人の気持に対する思いやりというものがまるでないじゃないか」
殺人者に思いやりを期待するとはと思わず大声で笑いだしたくなったが、メルチェットはべつにおかしいとも思っていない様子なので、私は何もいわなかった。
「奴《やっこ》さんが警察に自首したと聞いたときはいささか度胆《どぎも》を抜かれたが」と椅子に腰を落しながらメルチェットは続けた。
「どんなふうだったんです?」と私はきいた。
「ゆうべ十時ごろにとびこんできて、ピストルを投げだしていったそうだ。『逮捕なり何なりして下さい。ぼくがやったんです』ってね」
「プロザローを殺した次第については、どういっているんですか?」
「くわしいことはほとんど何もいっていない。供述書を作るからとお定まりの警告を発したが、笑いとばしてね。牧師さんに会いに行ったんだが、プロザローがいたので口論になって撃ったの一点ばりさ。口論の理由については何もいわないんだ。ねえ、クレメント君――ここだけの話だが、何が言い争いの原因だったのか、知っていることはないかね? 噂《うわさ》は私もいくらか聞いている――オールド・ホールに二度と寄りつくなといわれたとやら何とやら。しかし、どういうことなんだ? レティスを誘惑でもしていたのかね? それとも? できればレティスは巻きこみたくないんだ。誰にとってもそのほうがいい。どうなんだね? あのレティスが口論の原因だったのかね?」
「いや、まるでべつなことですよ。これははっきりしています。いまのところ、それ以上はいえませんがね」
メルチェットはうなずいて立ち上がった。
「それを聞いてほっとしたよ。何せ、噂がいろいろとんでいるんでね。大体、この村には口うるさい女が多すぎるな。さあ、もう行かないと。ヘイドックに会わなきゃならんのだ。往診に出ているということだったが、もう帰っているだろう。じつは、私個人としてはレディングのことは残念なんだ。なかなかいい青年だと思っていたんでね。まあ、弁護士が然《しか》るべく申し立てるだろう。戦争の後遺症とか、塹壕《ざんごう》病とか。うなずけるだけの動機が明らかにならなかった場合はとくにね。さて失敬するかな。いっしょにくるかね?」
私は同行を希望してメルチェットとともに家を出た。
前にもいったように、ヘイドックの家は牧師館の隣だった。お手伝いの話では先生はいましがたもどられたということで、私たちは食堂に案内された。ヘイドックは湯気の立つベーコン・エッグの皿を前にして座っていたが、私たちを見ると愛想よく挨拶した。
「留守にしてすみませんでしたね。妊婦をかかえている家に呼ばれていたんですよ。ゆうべは例の一件で、ほとんど夜っぴて起きていましたっけ。弾丸はこのとおり、摘出しましたよ」
こういってテーブルの上の小さな箱を押しやった。メルチェットが調べていった。
「二五口径か」
ヘイドックはうなずいた。
「専門的なことは検死審問の際に述べるつもりですがね。ほとんど即死だったといっておきましょう。レディングもばかだな。何だってそんな気を起こしたんですかね。ついでですが、銃声を誰も聞いていないというのは、どうにもふしぎですね」
「ああ」とメルチェットもうなずいた。「私もふしぎに思っているんだ」
「牧師館の台所の窓は家の裏手に面しているんです」と私はいった。「書斎や食器室《パントリー》、台所などのドアがことごとく閉まっていたとすれば、物音がしても聞こえないと思いますよ。それに当時家にいたのは手伝いのメアリだけだったんですしね」
「ははん」とメルチェットは鼻を鳴らした。「それにしても妙だな。あの――何とかいったな、隣のばあさん――ミス・マープルか――あの人は聞いていないかな。書斎の窓は開いていたわけだし」
「聞いているかもしれませんよ」とヘイドック。
「さあ、それはどうですかね」と私はいった。「ミス・マープルはいま牧師館に見えていますがね、銃声については何もいっておられませんでしたよ。何にせよ、気がついたことがあれば話すにきまっています」
「耳に入ったとしてもとくに注意を払わなかったんじゃないかね――車のバックファイアだとでも思って」とメルチェット。
ヘイドックは、昨日にくらべてけさは格段に陽気で、上機嫌に見えた。いつになく浮き浮きしているのを、やっと抑えている――そんな感じがした。
「消音装置《サイレンサー》というのはどうでしょう?」と彼はいった。「ありうることじゃないですか。それだったら誰にも聞こえるわけはない」
メルチェットが首を振った。
「スラックが調べたが、ピストルにはそうした装置はついてなかったそうだ。レディングにきいてみたが、あの男、はじめは質問の意味さえわからなかったくらいでね。そんなものは使わなかったと断言したよ。嘘《うそ》をいうわけもないから信用していいだろう」
「そうでしょうね、気の毒に」
「気の毒というより、地獄落ちの阿呆《あほう》だよ、あいつは」とメルチェットがいった。「失敬、クレメント君。だがまったく、話にもならん阿呆としか言いようがないね。ああいう男が殺人者というのはどうもぴったりこないな」
「何か動機でも?」とへイドックはコーヒーを飲みほし、椅子を後ろに押しやって立ち上がった。
「プロザローと口論になり、ついかっとなって――といっているが」
「故殺罪でかたがつくことを狙っているんですかね」とヘイドックは頭を振った。「だが、そいつは通らないな。手紙を書いているところに後ろから忍びよって頭を撃ちぬいたんだから。『口論』をしたとしても、二、三やりとりがあった程度に違いない」
「どっちにしろ、口論をするだけの時間はとてもじゃないがなかったろうよ」と私はミス・マープルの言葉を思い出していった。「忍びよって射殺し、時計の針を六時二十分にもどし、こっそり現場を後にする――それだけで、時間はぎりぎりだったろう。門の外で会ったときのロレンスの形相や、『プロザローに会うんですって? 会えますとも、もちろんね』といった、あの奇妙な口調はとうてい忘れられないな。それだけでも、つい数分前に起こったことについて私に疑惑をいだかせるに十分だったろうに」
ヘイドックは私の顔を見つめた。
「どういうことだ? つい数分前に起こったことだって? きみはレディングがいつ、プロザローを射殺したと思っているんだね?」
「私が帰宅するほんの数分前さ」
ヘイドックは首を振った。
「そんなことはありえないよ。ぜったいにありえない。それよりずっと前に死んでいたはずだ」
「しかしへイドック君、きみ自身、死後三十分というのはおよそのところだといったそうじゃないか?」とメルチェット。
「死後三十分、三十五分、二十五分、二十分――そう、死後二十分までは考えられないことはない。だがそれ以内ということはぜったいにありえませんね。そうだとしたら、ぼくが手を触れたときには死体はまだ温かかったはずですからね」
メルチェットと私は顔を見合わせた。私はヘイドックの顔色が急に土気色に変ってめっきり老いこんで見えることに気づいた。どうしたことだろう?
「だが、ヘイドック君」と大佐がようやくいった。「レディング自身が七時十五分前に手を下したといっているとしたら――」
ヘイドックはとびあがった。
「何度もいってるでしょう? そんなことはありえませんよ。レディングが、七時十五分前にプロザローを殺したといっているなら、それは嘘です。いい加減にして下さい。ぼくは医者だ。それぐらいのことはわかりますよ。血だってすでに凝固しかけていたんですから」
「レディングが嘘をついているとしたら――」といいかけてメルチェットはふしぎそうに頭を振った。「ま、とにかく署に行って本人に会ってみるこったな」
八
警察署までの道中、私たちはあまり言葉をかわさなかった。ヘイドックは少し歩みを遅らせて、そっと私に耳打ちした。
「どうも気に入らんな、この事件は。大体、おかしいよ。何かこうひっかかるんだ」
動揺を隠しきれぬ、心配そうな様子だった。
スラック警部が署にいたので、私たちは間もなくロレンス・レディングに面会できた。
ロレンスは青ざめた、憔悴《しょうすい》した顔をしていたが、すこぶる冷静だった――状況が状況だけにこれは驚嘆に値した。メルチェットは口を切るに先だって例によって鼻を鳴らし、咳払いをし、ロレンス自身よりそわそわして見えるくらいだった。
「さて、レディング君、きみはここにいるスラック警部に事件について供述したそうだが、それによると、きみは七時十五分前ごろに牧師館に行き、たまたまプロザロー大佐と会って口論になり、彼を射殺して逃げたということになっている。供述書から引用しているわけではないが、大筋はそういうことになるね」
「そのとおりです」
「そこで二、三質問をさせてもらう。答えたくなければ答えなくてもいいということは聞いているね? もしも弁護士を同席――」
ロレンスはいきなり遮った。
「隠そうと思っていることなんか、何もありません。ぼくがプロザローを殺したんです」
「ふむ。だが!」とメルチェットはまた鼻を鳴らした。「どうしてまた、ピストルなんか持って行ったんだね?」
ロレンスはちょっとためらった。「ポケットに入っていたんです」
「ピストルを持って牧師館に出かけたというんだね?」
「そうです」
「なぜだ?」
「いつも持っているんですよ」
答える前にまたもやためらう様子を見せたので、この男、本当のことをいっていないなと私は確信した。
「時計の針をもどしたのはどうしてだね?」
「時計?」怪訝《けげん》そうな顔だった。
「そうだ。置き時計は六時二十二分で止っていたが」
たちまち不安そうな表情になって、ロレンスは口ごもった。「ああ、そのことですか――ええ――たしかにぼくが動かしました」
ヘイドックが横合いからいきなりきいた。
「撃ったのはどこだね?」
「牧師館の書斎ですよ」
「いや、私のきいているのは体のどの部分を撃ったのかということだよ」
「ああ! 頭だと思います。ええ、頭でした」
「たしかなことはいえんのだね?」
「ご存じだったら、ぼくにきくまでもないじゃないですか」
突っかかるような口調だったが、気弱な虚勢だということは明らかだった。しかしこのときドアの外であわただしい気配がして、ヘルメットをかぶった巡査が一通の手紙を持って入ってきた。
「牧師さんにということです。『至急』と書いてあります」私は封を切って読み下した。
お願いです――すぐいらしていただけませんでしょうか。どうしたらいいのか、思い迷っております。あまり恐ろしくて、誰かに話さなければいられない気持なのです。どうか、すぐおいで下さいませ。そのおり、どなたかお連れ下さいますよう。
アン・プロザロー
私がちらっとメルチェットを見ると、彼はすぐその意味を了解し、私たちは前後して部屋を出た。肩ごしに振り返ると、ロレンスは私の手に握られている手紙を食いいるように見つめていた。そのときの彼のまなざし――あれほど苦しげな、絶望的な表情を私は見たことがない。
アン・プロザローが私の書斎の椅子に座って呟《つぶや》いた言葉が思い出された。「やぶれかぶれなんですわ」――そう彼女はいった。私は暗然とした。ロレンス・レディングが自首した理由がいまにしてわかるような気がしていた。メルチェットがスラックにきいた。
「当日のレディングの、事件に先立つ行動について、何か聞いているかね? プロザローは、レディングが申し立てている時刻以前に撃たれたと考える理由があるのだがね。一つ調べてみてくれないか」
それからメルチェットは私のほうを向いた。私は無言でアン・プロザローの手紙を渡した。メルチェットは一読して驚いたように口をきゅっと結び、物問いたげに私を見た。
「クレメント君、きみがけさ、ほのめかしていたのはこういうことだったのかね?」
「そうなんです。あのときはいうべきかどうか迷っていたんですが、いまはもう、口をつぐんでいるべきではないと確信しています」こういって私は、水曜の午後、アトリエで目にした光景について話した。
メルチェットが警部になお二言三言《ふたことみこと》いい含めるのを待って、私たちはいっしょにオールド・ホールに向った。ヘイドックも同行した。
いかにも執事らしい物腰の執事がドアを開けた。主《あるじ》を失った家にふさわしい、慇懃《いんぎん》ながら沈んだ応対ぶりだった。
「おはよう」とメルチェットはいった。「奥さんづきの小間使に、私たちが奥さんにお目にかかりたいといっていると伝えてくれないか。それがすんだらもどって二、三質問に答えてもらいたい」
執事は心得て立ち去ったが、やがてもどってきて伝言はお伝えしたといった。
「さて昨日のことについてだが」とメルチェットはいった。「ご主人は昼食のときは在宅しておられたんだね?」
「はい、おいででございました」
「いつもと変りはなかったかね?」
「はあ、私がお見受けしたかぎりではお変りありませんでした」
「それから?」
「食後、奥さまは少し横になるとおっしゃってお部屋にお引き取りになり、旦那さまはお書斎にいらっしゃいました。レティスさまは二人乗りの小型車でテニス・パーティにお出かけになり、旦那さまと奥さまは四時半に食堂でお茶を召し上がりました。その後、旦那さまが村に行くからと五時半に車をお命じになりまして、お揃いでお出かけになりました。お出かけになった後で、クレメントさまから旦那さまにお電話があり」と執事は私に一礼して続けた。「お留守のむね、申し上げたのでございます」
「ははん」メルチェット大佐は鼻を鳴らした。「レディングさんが最後にここに見えたのはいつだね?」
「火曜の午後でございます」
「そのとき、大佐とレディングさんの間で言い争いがあったそうだが?」
「そのようでございます。旦那さまは後で私に、これからはレディングさまが見えても家に入れてはならんとおっしゃいました」
「どういうたぐいの口論か、何か耳に入らなかったかね?」とメルチェットがずばりときいた。
「旦那さまはとても大きなお声でお話しになります――ご立腹のときにはとくに。当然二言三言、耳にはさみましてございます」
「口論の原因が推測できる程度にかね?」
「レディングさまがお描《か》きになっていらっしやいました絵に関してだったと存じます――レティスさまの肖像画でございます」
メルチェットは口の中で唸《うな》るように何かいった。
「レディングさんが帰られたときには、きみが見送ったんだね?」
「はい」
「腹を立てているようだったかね?」
「いえ。こう申しちゃ何でございますが、おかしそうな顔をしていらっしゃいました」
「ほう! で、昨日はここにはこなかったんだね?」
「見えませんでした」
「ほかに来客はなかったかね?」
「はい、昨日はどなたもいらっしゃいませんでした」
「その前日は?」
「午後、デニス・クレメントさまがおいでになりました。ストーン博士も短時間。それから、夜になってから女のお客さまがありました」
「女の客?」メルチェットは驚いたようにきき返した。「誰だね?」
執事は名前は記憶していないといった。見たことのない女のかたで、お食事中だというと、待たせてもらいたいとおっしゃったので小さいほうの居間にお通ししておいた――そんなふうに執事は答えた。
「お客さまは奥さまでなく、旦那さまにお目にかかりたいとおっしゃいまして。旦那さまにそう申し上げますと、お食事の後、すぐそちらにおいでになりました。三十分ばかりおいででしたろうか、お帰りは旦那さまがご自分でお見送りになりました。ああ、お名前を思い出しました。たしか、ミセス・レストレンジとおっしゃいました」
私たちは驚いて顔を見合わせた。
「奇妙なこともあればあるものだ」とメルチェットは呟いた。「まったく奇妙だ」
しかしそのことについてはそれっきりになった。ちょうどそのとき小間使が入ってきて、奥さまがお待ちでございますと告げたのだ。
アンはベッドに横になっていた。顔は青ざめ、目はきらきらと輝いていた。その表情に、私は不可解なものを感じた――一種ぬきさしならぬ決意が表われていたといったらいいだろうか。アンはまず私にいった。
「さっそくにおいで下さってありがとうございました。どなたかお連れ下さいますようにと申し上げた意味をおわかりいただけたようでございますね」一度言葉を切ってすぐ続けた。「手っ取り早く何もかもお話しするのがよろしいかと存じますが」こういって謎のような悲しげな笑みを浮べた。「このことは、メルチェット大佐、そちらさまに申し上げるべきだと存じます。あたくしが夫を殺したんですの」
メルチェットは低い声で一言《ひとこと》いった。
「奥さん――」
「嘘ではございません。こんなふうにむきつけに申し上げましたけれど、あたくし、もともと何についてもヒステリーを起こすたちではないものですから。長いこと、夫を憎んでおりましたが、昨日、射殺したのです」
アンはふたたび枕に頭を乗せて、目を閉じた。
「申し上げたいのはそれだけでございます。当然あたくしを逮捕なさるんでございましょうね。すぐ起きて身支度をいたしますわ。気分が少しわるかったものでしばらく休んでおりましたの」
「ミセス・プロザロー、ロレンス・レディング氏がすでに犯行を自供していることはご承知でしょうね?」
アンは目を見開いて大きくうなずいた。
「存じております。ばかな人ですわ。ご存じかと思いますけれど、ロレンスはあたくしを愛しておりまして。たぶんヒロイックな気持で名乗り出たんでしょうけれど――そんなことをするなんてばかげていますわ」
「あなたがプロザロー大佐を殺したということを、レディング氏は知っているんでしょうか?」
「はい」
「どうして知ったんです?」
アンはいささかためらう様子だった。
「あなたが話されたのですか?」メルチェットが重ねてこうきくと、アンはふたたびちょっとためらった後、ようやく心を決めたようにいった。
「ええ――あたくしがそう申しました」
かすかにいらだっているようにアンは肩をぴくりとさせた。
「申しわけございませんが、あちらでお待ちいただけないでしょうか? 申し上げるだけのことは申し上げましたし、これ以上はお話ししたくございません」
「ピストルはどこで手にお入れになったのです、ミセス・プロザロー?」
「ピストルですって? ああ、あれは夫のものでございます。あの人の抽出《ひきだ》しから持ち出しました」
「なるほど。で、それを持って牧師館に行かれたんですね?」
「はい。夫があちらに伺っていますことは存じておりましたから――」
「それは何時でしたか?」
「六時――を過ぎていたと思います。十五分か、二十分か」
「ご主人を殺すつもりでピストルを持ち出されたんですか?」
「いいえ、あの――あたくし――自殺するつもりでした」
「ほう。しかしそれを持って牧師館にいらっしゃった――?」
「はい。フランス窓の下にまいりましたが話し声は聞こえませず、夫の姿が見えました。そして――魔がさしたというのか――引き金を引いたのです」
「それから?」
「それから? ああ、すぐその場を後にいたしました」
「そしてレディング氏にご自分のなさったことをお話しになったのですね?」
ふたたびためらいがちな声音でアンは答えた。
「はい」
「あなたが牧師館にこられるところ、もしくは去られるところを誰か見た者がおりますか?」
「いえ――ああ、そういえばミス・マープルが。あたくし、立ち止ってあの方と少しお話ししましたから。ちょうど庭に出ていらっしゃいまして」
アンは枕の上に乗せた頭を落ちつかぬ様子で動かした。
「もうよろしゅうございましょう? 何もかも申し上げましたし、このうえ、あたくしにおききになることもないと思います」
ヘイドックがベッドのわきに寄って脈を取り、メルチェットに手招きした。
「ぼくが残りましょう」と彼はささやいた。「その間に必要な手筈《てはず》をととのえて下さい。奥さんを一人にしておくわけにはいきません。自殺を計られでもしたらたいへんです」
メルチェットはうなずいた。
私たちは部屋を出て階段を下りた。と、痩《や》せた、死人のように青い顔の男が隣室から出てくるのが見えた。私はとっさに、もう一度階段を上がった。
「きみはプロザロー大佐の身のまわりの世話をしていたんだね?」
男は驚いたようにいった。「はい、さようでございます」
「亡くなったご主人が、どこかにピストルをしまっておられたかどうか、知っているかね?」
「さあ、存じませんが」
「たとえば抽出しの中とか?」
男ははっきり首を振った。
「抽出しの中にいれていらっしゃらなかったことはたしかでございます。それでしたら、私が気づかぬはずはございません」
私は急いで階段を下りた。
アン・プロザローはピストルに関して嘘をついている。なぜだろう?
九
メルチェット大佐は警察署に寄ってスラックへの伝言を頼むと私に、これからミス・マープルを訪問するつもりだといった。
「いっしょにきてもらえるとありがたいんだがね。きみの教会員を無用に興奮させるのは私の本意ではない。きみが同席してくれれば、警察の訊問《じんもん》といった印象がかなりの程度、和らげられるだろうからね」
私は思わず微笑した。ミス・マープルは一見ひ弱そうに見えはするが、相手が警部だろうが、警察部長だろうが、いささかも動じないだろう。
「どんな人柄の女性だね?」ベルを鳴らしながらメルチェットがきいた。「いうことに信用が置けるかな」
私はちょっと考えてから控え目に答えた。
「かなり信用していいと思いますよ。あの人が自分の目で見たことに関してはね。それ以上のこととなると――つまりそれについてミス・マープル自身がどう考えているかということになると――こりゃまたべつでしょうがね。想像力がじつに豊かで、誰についてもつねに最悪のことを考えるたちですから」
「つまり、典型的なオールドミスというわけか」とメルチェットは笑った。「だが私だってむだに年を取ってきたわけじゃない。そのたぐいの老婦人のことは当然よく知っているよ。まったく、このあたりの婦人たちの催すお茶の会ときたら!」
小柄なお手伝いがドアを開けて私たちをせまい客間に案内した。
「いささかごたごたしているが」とメルチェットがまわりを見回していった。「いい品がたくさんあるな。いかにも女性の部屋らしい。そう思わんかね、クレメント君?」
まったくだと私が同意したとき、ドアが開いてミス・マープルが現われた。
「申しわけありません、ミス・マープル」
私が二人をひきあわせると、メルチェットは軍人らしくらいらくな態度で挨拶した。老婦人たちにはこうした態度が受けると思っているらしかった。「職務上、ご迷惑承知でまかり出ました」
「わかっておりますとも」とミス・マープルはいった。「さ、どうかお掛け下さいまし。チェリー・ブランデーを少々お勧めしてもよろしゅうございましょうかしら。自家製ですの。祖母の秘伝でございましてね」
「これは痛みいります。しかしご遠慮しておきましょう。昼食までは何も口に入れない主義でして。今日はこの悲しむべき――きわめて嘆かわしい事件についてお話が伺いたくて参上したのですが、ご同様に私どもも大きなショックを受けております。ついてはこちらのお住まいと庭の位置からして、昨日の夕方のいきさつについてひょっとしたら耳よりの情報が伺えるのではとお訪ねしたしだいです」
「じつはわたし、ちょうど昨日の夕方は五時ごろからずっと庭に出ておりましてね」とミス・マープルはいった。「庭におりますと、お隣で起こっていることがどうしても目に入るんでございます」
「ミセス・プロザローが夕方、こちらの庭の前を通られたそうですが?」
「ええ、お通りになりました。声をおかけしましたら、うちのバラを誉《ほ》めて下さいまして」
「何時ごろだったか、ご記憶でしょうか?」
「さようでございますね。六時十五分を一、二分過ぎておりましたかしら。ええ、そうですわ、教会の時計が六時十五分を打ったばかりでしたから」
「なるほど。それから?」
「それからミセス・プロザローは、主人が牧師館にお邪魔しているはずだからいっしょに帰ろうと思うとおっしゃいました。裏道づたいに私どもの家の前から牧師館に行こうとしていらっしゃいまして、そのまま牧師館の裏門を入り、庭を横切って行かれました」
「裏道づたいにこられたんですね?」
「ええ、よろしかったらちょっとこちらにいらして下さいまし」とミス・マープルはものものしくわたしたちを促して庭に案内し、庭のはずれに見える、通称、裏道を指さした。
「踏み越し段のついているあちらの小径はオールド・ホールに通じる私道でございましてね。ミセス・プロザローはご主人と牧師館で落ち合われた後、裏道からあの小径に出て帰るおつもりだったんでしょう。往きには村の方角からいらっしゃったんですけれどね」
「いや、じつにはっきりしておられますなあ」とメルチェットはうなずいた。「で、ミセス・プロザローは裏門から入って芝生を横切って行かれたといわれるんですね?」
「はい。建物の角をお曲がりになるのが見えました。でも大佐はそのときはまだ、牧師館に着いていらっしゃらなかったのではないでしょうか。なぜって、ミセス・プロザローはほとんどすぐもどっていらっしゃいましてね、もう一度芝生を横切ってアトリエのほうへと歩いて行かれました。あの建物です。牧師さまがレディングさんにアトリエ代りにお貸しになっていました」
「なるほど。ところで銃声は聞いておられなかったんでしたな、ミス・マープル?」
「問題になっています時刻には聞いておりません」
「というと、べつなおりにお聞きになった?」
「はい、どこか林の中から銃声が聞こえたような気がいたしました。でも、それはたしか五分か、十分後のことだと思うんでございますよ。それにいま申しましたとおり、林の方角から聞こえてまいりました。すくなくともわたしの耳にはそんなふうに響きました。まさかあれが――いえ、そんなはずは――」
ミス・マープルは言葉を切った。興奮のあまり、顔が少し青ざめていた。
「はあ、はあ。いや、そのことについてはまた後で伺いましょう」とメルチェットはいった。「お話をお進め下さい。で、ミセス・プロザローはアトリエに行かれたんですな?」
「はい、中に入って待っておいでのようでした。そこヘレディングさんが村の方角から、やはり裏道づたいにいらっしゃいまして、牧師館の裏門からお入りになり、あたりを見まわされ――」
「当然、あなたに気づいたでしょうな、ミス・マープル?」
「いえ、じつをいいますとお気づきにならなかったんですの」とミス・マープルは少し頬を染めていった。「と申しますのはちょうどそのとき、わたし、低く身を屈《かが》めておりましてね――倒れているタンポポを起こそうとしていたんでございます。これがなかなか思うようにまいりませんでね。そのとき、レディングさんが門から入ってこられてアトリエのほうにいらしたんですの」
「母屋には近よらなかったんですね?」
「ええ、ぜんぜん。まっすぐにアトリエにいらっしゃいました。するとミセス・プロザローが戸口に出ておいでになって、お二人ともすぐ中に入ってしまわれました」ミス・マープルは意味ありげに口をつぐんだ。
「ロレンスはミセス・プロザローをモデルに絵を描いていたのかもしれませんね」と私はそれとなく弁護した。
「かもしれませんねえ」とミス・マープルはつつましくいった。
「二人が出てきたのは――どのぐらいたってからですか?」とメルチェットがきいた。
「十分ほど後でした」
「およその見当ですね?」
「教会の時計が六時半を打ったばかりでしたから、そんなものだと思います。お二人は裏門を出て、裏道づたいにぶらぶら歩いていらっしゃいました。そうそう、ちょうどそこヘストーン博士がオールド・ホールに通ずる小径から踏み越し段を越えてお二人と合流なさり、連れだって村の方角に行かれました。裏道が尽きる所でミス・クラムもいっしょになられたようでした。はっきり見えたわけではないんですが、たぶんミス・クラムだったと思います。とても短いスカートをはいておられましたから」
「あなたはよほど目がよろしいんですな、ミス・マープル? そんな遠くの様子まで見て取っておられるとは」
「たまたま小鳥を観察していましたのでね。キクイタダキだと思いますわ。ごく小さなかわいらしい烏ですの。ちょうど双眼鏡をもっておりまして、それでミス・クラム(やっぱりミス・クラムだと思いますねえ)が合流なさるのが見えたんですわ」
「なるほどね。ところであなたのすぐれた観察力をもってして、ミス・マープル、ミセス・プロザローとレディング氏が裏道を歩いているときにどんな様子だったか、お気づきになったことでもないでしょうか?」
「笑顔を浮べて、話しこんでいらっしゃいましたわ。何と申しましょうか、いっしょにいるということがただもう楽しくてならない――というふうでした」
「取り乱しているとか、悩んでいるといったふしはまるで見えなかったんですね?」
「ええ、それどころか、とてもうれしそうでした」
「それはおかしいな。どうももう一つ、腑《ふ》に落ちん」とメルチェットは呟いた。
とミス・マープルが、私たちがはっと息を呑《の》むような質問をしたのである。しごくおだやかな声音であった。
「今度はミセス・プロザローが、主人を殺したのは自分だとでもいいだしなすったんですの?」
「これは驚きましたな、ミス・マープル、どうしてまた、それを?」
「いずれ、そんなことになるんじゃないかという気がしておりましたの。レティスも、ミセス・プロザローが犯人だと思いこんでいるようですわね。レティスはあれでなかなか頭の働く娘さんですわ。ときによると、後先の考えもなく思いきったことをやりそうな。ところでミセス・プロザローははっきり、自分が殺したとおっしゃったんですね? まあまあ。でも、それは嘘《うそ》ですわ。ええ、嘘だとわたし、ほとんど確信しております。ああいうたちの人ですからねえ。もっとも人間、誰についてもたしかなことがいえるわけではありませんから。すくなくともわたしはそう思いさだめるようになりましてね。で、ミセス・プロザローはいつ、ご主人を射殺したといってなさるんですの?」
「六時二十分過ぎごろ――あなたと言葉をかわした直後ですよ」
ミス・マープルは嘆かわしげに頭を振った――ゆっくりと。大の男が二人、よくもまあそんなでたらめの告白を鵜呑《うの》みにしてと哀れんでいるようで、われわれはいささか鼻白んだ。
「凶器は何だといってなさいますの?」
「ピストルです」
「それをどこで見つけたと?」
「家から持ってきたんだそうです」
「まあ、それは違いますわ」とミス・マープルが意外なくらい、きっぱりいった。「これは誓って申し上げられます。あのかた、そんなもの、まったく持っていなさいませんでしたよ」
「見落したということもあるんじゃないですか?」
「いいえ、持っていらっしゃったとすれば、わたしが気づかないはずはありません」
「ハンドバッグにでも入れていたとすれば?」
「ハンドバッグなんて、そもそもお持ちでなかったんですから」
「とするとじかに――その――身につけて隠していた――そうは考えられませんかね?」
ミス・マープルはふたたび哀れむような、蔑《さげす》むようなまなざしをメルチェットに注《そそ》いだ。
「近ごろの若い女性がどんなふうか、あなたさまだってよくご存じでいらっしゃいましょう? 神さまのおつくりになったままの体の線がそっくり透けて見えても恥ずかしいとも思わないんですからねえ。いいえ、ミセス・プロザローはストッキングの上のほうになんぞ、何も隠していらっしゃいませんでしたよ。ピストルはおろか、ハンカチーフ一枚だって」
メルチェットもすぐにはひきさがらなかった。
「しかしミセス・プロザローが犯人だとすると、何もかもうなずけるということは、あなただってお認めになるでしょう? 時刻にしても。時計が六時二十二分で止っていたそうですし――」
ミス・マープルは私のほうを見てきいた。
「あの時計のことを、まだお話しになっていないんですの?」
「あの時計のこととは何だね、クレメント君?」
私が説明すると、メルチェットはむかっ腹を立てているような声音でいった。
「いったい全体、何だってきみはゆうべ、そのことをスラックにいわなかったんだね?」
「いうチャンスを与えてくれなかったんですよ」
「ばかばかしい。何としても話しておくべきだったのに」
「まあ、そうでしょうね。ですが、スラック警部はあなたに対するのと私とではまったく態度が違うんですからね。口をはさむ余地などありませんでしたよ」
「それにしても呆《あき》れかえった話じゃないか。このうえまた誰かが自分が犯人だと名乗り出たら、こつちのほうがおかしくなっちまう」
「あの、よけいなことかもしれませんけれど一言――」とミス・マープルが遠慮がちにいった。
「何でしょう?」
「レディングさんにミセス・プロザローが何ておっしゃっているかを話し、ただし警察としてはあのかたがやったとは思っていないといってごらんなさいませ。それから今度はミセス・プロザローの所に行って、レディングさんの嫌疑は晴れたといっておあげになったらいかがでしょう? ひょっとしたらお二人とも、本当のことをお話しになるんじゃないでしょうか。本当のことというのは、いつだって問題の解決に役立つものですわ。もっとも真相はあのかたたちにも、じつはよくわかっていないんでしょうけれどね、お気の毒に」
「それもわるくないでしょうが、しかしプロザローを殺す動機をもっているのは彼ら二人だけなんですからね」
「まあ、わたしでしたらそうは断言いたしませんわ、メルチェットさま」
「ほう、するとほかにも誰か――?」
「疑わしい人なら、ほかにもいますとも」と指を折った。「一人、二人、三人、四人、五人、六人――そう、かれこれ七人はいるかもしれませんね、プロザロー大佐を消したがっていた人は」
メルチェットは気が遠くなりそうな顔でミス・マープルを見つめた。
「七人も? このセント・メアリ・ミード村にですか?」
ミス・マープルは大きくうなずいた。
「わたし、名前は申しませんよ。名指しをするのは感心いたしませんもの。でもこの世の中には悪がたいへんにはびこっておりますからね。あなたさまのような廉直《れんちょく》な軍人さんにはとてもおわかりになりますまいが」
メルチェットが卒中を起こすのではないかと、私は本気で心配したくらいだった。
十
ミス・マープルの家を後にすると、メルチェットはひとしきりぶつぶついった。
「あのしなびたばあさんときたら、この世に自分の知らないことはないと思っているらしいな。ほとんど一生、この村から遠出したことがないのにだよ。呆れた話じゃないか。そんなばあさんが人生について、いったい何を知っているっていうんだい?」
私は控え目ながら反論して、たしかに人生一般についてはミス・マープルはほとんど何も知らないだろうが、セント・メアリ・ミード村の中で起こっていることに関しては知らないことがないといっていいくらいなのだといった。
メルチェットも、その点についてはしぶしぶながら認めた。あれは貴重な証人だよ――と彼は述懐した――とくにアン・プロザローの観点からすれば掛け替えのない、ありがたい証人といっていい。
「しかしあの人のいっていることはたしかなんだろうね?」
「ミス・マープルが、アン・プロザローはピストルを持っていなかったというなら、間違いなくそのとおりでしょう」と私は答えた。「そうしたものを持っている可能性が少しでもあったら、当然|嗅《か》ぎつけているでしょうからね――鼻のよく利く猟犬のように」
「そうだろうな。まあ、とにかくお宅のそのアトリエというのを見せてもらおうか」
アトリエと私たちが呼んでいるのは、天窓から明りが入るようになっている粗雑な作りの物置のような小屋で、天窓以外には窓もなく、出入口といえばドアだけだった。メルチェットはこの点を確かめると母屋にはいずれ警部といっしょに立ち寄るといった。
「一度、署にもどるよ」
メルチェットと別れて牧師館の玄関から入ると話し声がした。客間のドアを開けると、ソファの上にグリゼルダと並んで座ってペらペらしゃべっているのはミス・グラディス・クラムだった。やけに光るピンクのストッキングに包んだ足を組んでいたが、スカートが短いので、ピンクの縞《しま》の入った網のブルマーがちらちら見えた。
「あら、お帰りなさい、レン」とグリゼルダがいった。
「こんにちは、クレメントさま」とミス・クラムも挨拶した。「プロザロー大佐が殺されなさったって、恐ろしいことでございますねえ。お気の毒に」
「ミス・クラムはね、ご親切にガールスカウトの集まりの手伝いをしようって申し出て下さったの。ほら、この前の日曜にボランティアを募ったでしょ?」
私はうなずきながら、牧師館で起こったこの刺激的な事件がなかったなら、ガールスカウトの手伝いなど、この人には思いも寄らなかったに違いないと考えていた。グリゼルダの口ぶりから、彼女もひそかにそう考えていることが察せられた。
「いまも奥さまに申し上げていたんですの」とミス・クラムはいった。「今度の事件のことを聞いたとき、あたし、ほんとにびっくりしちまいましてね。殺人事件だなんて! それもよりによってこんな閑静な村で! ええ、ここが閑静なことはたしかですわ。トーキーを見る機会はもちろん、映画館ひとつないんですもの。それにまあ、あのプロザロー大佐が被害者だなんて――ほんとに信じられませんでしたわ。だって――殺されそうな人には――とても見えませんでしたからねえ」
「ですからね」とグリゼルダがわきからいった。「ミス・クラムは事件についてもっとくわしいことを知りたいとお思いになって、こうしてわざわざ出かけていらっしゃったってわけなの」
こうあからさまにいわれたら気をわるくするだろうと思ったのに、ミス・クラムは頭をのけぞらせてけらけら笑った。見事な歯が一本一本よく見えた。
「あらあら、奥さまにあっちゃかなわないわ。でもねえ、こうした事件の裏表について聞きたいと思うのは人情じゃありませんこと? それに、ガールスカウトをお手伝いしたいっていうのは嘘じゃありませんのよ。あたし、ほんとに何でもお手伝いしたいと思っていますの。けっこう面白いんじゃありませんかしら。このところ、目先の変ったことが何もなくて、くさくさしていましたの。ほんとですのよ。仕事がどうこういうんじゃありませんわ。給料はいいし、ストーン博士はあらゆる意味で紳士でいらっしゃいますからねえ。ですけどあたしだって若いんですもの、仕事に縛られていないときくらい、面白い目も見たいと思いますわ。それにこの村ときたら、おばあさんばかり多くて。こちらの奥さまをべつにしたら、ろくな話し相手もいないんですもの」
「レティス・プロザローがいるじゃありませんか」と私はいった。
グラディス・クラムはつんと顎《あご》を上げた。
「あのお嬢さん、お高くとまってて、あたしなんかには鼻もひっかけやしませんわ。生活のために働かなければならないような娘に目を留めたりしたら値打ちが下がるとでも考えてるんでしょうか。それでいてあの人、自分じゃ、自活したいとか何とかいってるみたいですわね。だけど誰があんな人、雇うもんですか。一週間もしないうちにお払い箱ですわよ。マネキンにでもなろうっていうならとにかく。そうね。着飾ってしゃなりしゃなりと歩くマネキンなら、あの人にだってできないことはないわね」
「ええ、レティスならすてきなマネキンになりそうね」とグリゼルダがいった。「とてもスタイルがいいんですもの」グリゼルダには意地のわるいところがまるでない。「レティスが自活したいっていったのは、いつのことですの?」
ミス・クラムは一瞬|狼狽《ろうばい》したようだったが、とっさに得意の思わせぶりな口調でいい紛らした。
「そんなこと申し上げられないわ。だって人さまの秘密をあばくことになりますもの。でもあの人がそういったのはたしかですわ。きっと家が面白くないんでしょうね。継母《けいぼ》と一つ屋根の下で暮らすなんて。あたしなら一分だって我慢できませんわ」
「あら、でもあなたって何ていうか、気概がおありだし、独立心も旺盛《おうせい》でいらっしゃるし」とグリゼルダが真面目くさっていったが、私はその真意を測りかねて思わずちらっと顔を見た。
ミス・クラムはだいぶ気をよくしたようだった。
「ええ、あたしって、ほんとにそういうたちですの。ものは言いよう、人は扱いよう、他人に命令されるなんてまっぴらですわ。手相見がずっと前にあたしにそういいましたのよ。そぅですとも。顎の先でこき使われてへいこらしてなんかいませんとも。ストーン博士にも、お休みはきちんきちんといただきたいってはっきり申し上げてありますのよ。ああいう科学者って、女の子を一種の機械みたいに思ってますものね。ほとんど眼中にないというか、そばにいることさえ忘れていらっしゃるみたいで。もちろんあたしが発掘の仕事に不案内ってこともありますけど」
「ストーン博士って、お手伝いなさっていて楽しいかた? 考古学に関心があれば面白いお仕事でしょうねえ」
「何百年も前に死んだ人の骨を掘り上げるって――そうですわね――あたしにはやっぱり余計な詮索《せんさく》って気がしますわ。そうお思いになりません? でもストーン博士は発掘作業にすっかり打ちこんでいらして、あたしが申しあげなかったら、どうかすると食事さえ三度に一度はお忘れになるくらいですのよ」
「博士はけさは発掘現場にいらっしゃってますの?」とグリゼルダがきいた。
ミス・クラムは首を横に振った。
「けさは何だかお加減がよくないようですの。お出かけになるのは無理らしくて。それでありがたいことに、このグラディスちゃんも臨時のお休みがもらえましたのよ」
「博士はご病気ですか。そりゃいけないな」
「いえ、大したことはないんですの。ですからもちろん、お葬式がもう一つ出る気遣いはありませんわ、オホホホ。そうそう、クレメントさまはけさは警察の人とずっとごいっしょでしたってね。聞かせて下さいましな、警察じゃあ、今度の事件をどう思ってるんですの?」
「さあ」と私はゆっくりいった。「まだ少々――はっきりしないところがあるようですよ」
「まあ! つまり警察は、ロレンス・レディングさんが犯人だとは考えていないんですのね。とてもハンサムですわね、あのかた。まるで映画スターみたい。おはようと声を掛けて下さるときの笑顔が何ともいえませんわ。逮捕されたと聞いたときにはあたし、自分の耳が信じられませんでね。でもねえ、警察が――とくに田舎の警察が間抜けで、よく間違いをするって話、ずいぶんちょいちょい聞きますものね」
「この場合は、警察をどうこういう筋合いではないと思いますよ、レディング氏は自分から出頭して身柄を警察の手に委《ゆだ》ねたんですから」
「何ですって?」とミス・クラムはいかにもびっくりした様子だった。「まあ、驚いたこと! 仮にあたしが人を殺したとしたら、自首なんてぜったいにしませんわ。ロレンス・レディングって、もう少し利口だと思っていましたのに、そんなふうにあっさり諦《あきら》めちゃうなんて。そもそも何だってプロザローさんを殺したのかしらねえ。わけはいいまして? 単なる口げんかのあげくですか?」
「ロレンスが殺したということだって、ぜったいにたしかとはいえないんですから」
「でも――自分でそういってるなら――そうにきまっていますでしょ? 自分のしたことぐらい、わかっているはずですもの」
「むろん、そうでしょう。しかし、警察はロレンスの自供に満足していないようです」
「だって殺していないとしたら、どうして殺したなんていうんですの?」
その点に関してミス・クラムに事情を説明する気は私にはまったくなかった。そこで私は少々|曖昧《あいまい》にいった。
「世間を騒がせるような殺人事件が起こると、自分がやったという手紙が警察にわんさと舞いこむそうですよ」
「そんな手紙を出す人って、頭がおかしいに違いありませんわ」とミス・クラムは呆《あき》れかえってものもいえないというようにいい放ち、「あたし、そろそろ、失礼しないと」と立ち上がった。「レディングさんが自首したってこと、ストーン博士にとってはちょっとしたニュースですわ、きっと」
「ストーン博士はこの事件に関心をもっていらっしゃいますの?」とグリゼルダがきいた。
ミス・クラムは、さあどうかしらというように眉を寄せた。
「あのかた、変っていらっしゃいますからね。さっぱりわからないところがあって。過去のことにばかり夢中ですしね。クリッペン〔ロンドンの医師。妻を毒殺してバラバラにした死体を地下室に埋めていた〕が奥さんを切りきざんだナイフを見るチャンスがあったとしても、どこかの出土品の、汚らしい古ぼけた青銅のナイフのほうがよっぽど魅力があるってふうですわ」
「じつのところ、私もその口ですな」と私はいった。
ミス・クラムの目に、そんな人間の気が知れないといった、いささか軽蔑《けいべつ》的な色が浮ぶのを私は見た。あらためて別れの挨拶をして、ミス・クラムは立ち去った。
「あの人、悪気はないのよね」玄関のドアが閉まったとき、グリゼルダがいった。「そりゃ、とても俗っぽいけど、でもああいう大柄の、元気のいい陽性の女の子って、何かこう憎めないところがあるわ。それにしてもどうしてわざわざ訪ねてきたのかしら」
「好奇心さ」
「ええ、たぶんね。さあ、レン、何もかも話してちょうだい。あたし、はやく聞きたくてうずうずしてたのよ」
私は座って、その朝起こったことを一部始終物語った。グリゼルダはときどき驚いたように声を上げたりしながら、興味しんしん耳を傾けていた。
「じゃあ、ロレンスが夢中になっていたのはレティスでなく、アンだったのね、はじめっから! あたしたちみんな、どこに目がついてたのかしら。昨日、ミス・マープルが遠回しにいったのもそのことだったに違いないわ。いまとなればあなたもそう思うでしょ?」
「ああ」と私はそっと目をそらせた。
そのとき、メアリが入ってきた。
「男の人が二人、きてますよ――新聞記者ですってさ。会います?」
「いいや」と私はいった。「会うものか。話なら、警察署に行ってスラック警部から聞けといってやりなさい」
ぅなずいてくるりと背を向けたメアリに私はいった。
「連中を何とか追い返したら、もどってきてくれないか。私から聞きたいことがあるんだよ」
メアリはまたうなずいた。
数分後、もどってくるとメアリはひとしきりこぼした。
「なかなか帰らないんだもの、いやんなっちゃったわ。しつこいったらありゃしない。呆れちまいましたよ。いくらだめだっていっても聞こえないふりしちゃって」
「これからもたびたび、ああした連中に悩まされることだろう。ところでメアリ、昨日の夕方のことだがね、銃声は耳にしていないといっていたが、たしかなんだろうね?」
「プロザローさんを殺したピストルの音ですか? 聞いてやしませんったら。もしも聞こえてたら、何の音かと思って見に行ったでしょうよ」
「まあ、そうだろうね。だが――」私はミス・マープルが林の中から銃声が聞こえたような気がするといったのを思い出して、質問の形を変えてみた。「べつな銃声はどうだね? 聞いていないかね――たとえば林の中かどこかから?」
「べつな銃声って――」とメアリはちょっと間《ま》を置いてから答えた。「そういえば聞いたような気もするわ。何発もじゃなくて、たった一発だけ。ちょっと変な音だったけど」
「ああ、それだよ。で、何時だった?」
「何時?」
「そう、その音が聞こえた時刻だ」
「何時って――そんなこと、わかりゃしませんよ。お茶の後だったのはたしかだけど」
「もう少しはっきりしたことがいえないかな?」
「いえませんね。あたしだって仕事があるんだし、そうしょっちゅう時計ばかり見ていらんないですよ。もっともここんちの時計ときたら、見たって大して役に立ちゃしないけど。だって、目覚しは一日にたっぶり四十五分は遅れるんですよ。それを進めたり、何やかやで用事はきりなくあるんですもの。正確な時間なんて、わかるはず、ないですよ」
なるほど、それでこの家の食事時間はでたらめなんだなと私は妙なところで感心した。ばかに遅れるかと思うと、戸惑いするほどはやかったりするのはそういうわけか。
「とにかく、レディングさんが見えるよりだいぶ前だったかね?」
「それほど前じゃありませんよ。十分――そう、十五分ぐらい前だったかしら」
思ったとおりだと私はうなずいた。
「それだけですか、ききたいことって?」とメアリがいった。「あたし、オーヴンに肉を入れたところだし、プディングも、煮えこぼれているころだと思うんです」
「わかった。もういいよ」
メアリが出て行くと、私はグリゼルダにいった。
「メアリの言葉づかいだが、もう少しどうにかならないものかね? せめてもう少し丁寧な言葉を使うように躾《しつ》けられないかなあ」
「あたしもときどき注意するんだけど、あの子、頭に入っていないのよ。もともとがさつなたちなのね」
「それはわかっているがね、がさつだからって、そのままでいいってものじゃないだろう? 少しばかり磨きを掛けてみても、わるくないんじゃないかね」
「ほんといって、あたし、その点、あなたに賛成できないの。うちにはちゃんとしたお手伝いを雇う余裕なんか、ないんですからね。メアリを品のいい、役に立つお手伝いに仕立て上げたりしてごらんなさい。あの子、すぐにもこの家を出て行っちゃうわ。そうですとも。そしてもっと給料のいい家に住みこむのよ。いまのあの子はお料理ができないうえに、あのとおり、がさつでしょ。まあ、安心していられるわけよ。このままだったら誰もあの子を雇わないでしょうからね」
私はそのとき、妻の家政のやりかたというのが私の考えていたほど、行き当りばったりでもないのだということを悟ったのだった。一見でたらめのように見えるが、それなりに理屈は通っている。しかし料理はできず、皿をテーブルの上に投げ出すように乱暴に置き、こつちがひるむほどぶっきらぼうな受け答えをするお手伝いでもいないよりましだと思うべきかどうか、これは大いに議論のあるところだ。
「それにね、メアリがいつもよりいっそうつんけんしてるのだって理由があるのよ。少しは大目に見てやらなけりゃ。プロザロー大佐は、あの子のいい人を牢屋《ろうや》にぶちこんだのよ。死んだからって、同情を期待するのは無理ってものだわ」
「メアリの恋人を、大佐が牢屋に入れたというのかね?」
「ええ、密猟のかどで。あなたも知ってるでしょ? あのアーチャーよ。メアリは二年ごし、アーチャーとつきあってたわ」
「それは知らなかったな」
「レン、あなたって、ほんとに何も知らないのねえ」
「だが妙だね。みんなが口を揃《そろ》えて林の中から銃声が聞こえたといっているのは」
「あたしはべつに妙だとも思わないわ。林の中って、しょっちゅう銃声が聞こえるものじゃなくて? だから銃声を聞いたとたんに、林の中からだと思いこんだとしてもふしぎはないわ。ふつうより大きく響いたのかもね。もちろん、銃声がつい隣の部屋で響けば家の中からだと思うでしょうけど、メアリは台所にいたんだし、台所の窓は家の裏側に面してますからね。家の中だなんて、思いもよらなかったのよ」
このときまたドアが開いてメアリが顔を出した。
「メルチェット大佐がもどってきましたよ。あの何とかいう警部といっしょに。旦那さんと奥さんにきてもらえればありがたいっていってます。二人とも書斎に通しときました」
十一
書斎に入って行った私はメルチェットとスラック警部の顔を一目見るなり、二人が事件についてどうやら見解を異にしているらしいという印象を受けた。メルチェットは怒ったような赤い顔をしているし、スラックはスラックでむっつりしていた。
「弱っているんだよ。スラック警部はレディング青年の無実をなかなか納得してくれなくてね」とメルチェットがいった。
「やってもいないのに、なぜわざわざ警察に出頭して自分がやったなんていうんです?」とスラックは、そんな話はとても信じられないといわんばかりだった。
「ミセス・プロザローもレディング同様、自分がやったといいはっているんだよ。それを忘れんでくれたまえ」
「それは場合が違いますよ。アン・プロザローは女です。女はよくそうしたばかげた行勤に出るものですからね。だからといって私は、あの奥さんがプロザロー大佐を殺したなんてかたときも信じちゃいません。おそらくあの人はレディングが告発されていると聞いて、根も葉もない話をでっちあげたんでしょう。私ゃ、慣れているんですよ、そうした猿芝居にはね。いやはや、女どものやることときたら。しかしレディングは違います。しっかりしたもんですよ。自分がやったとレディングが認めているなら、そのとおりだと私はいいますね。凶器からしてやつのピストルだったんですし――こいつは隠れもない事実でさ。ミセス・プロザローが自分がやったといいだしたおかげで、動機もわかりましたしね。これまでは動機がもう一つはっきりしなかったんだが。こうなったら、ひっかかることはまるでなくなっちまったじゃないですか」
「じゃあきみは、レディングがもっとはやい時間、たとえば六時半あたりにプロザローを射殺した可能性もあると思っているのかね?」
「そんなことはありえませんよ」
「レディングの行動については、すっかり調べあげたんだろうね?」
スラックはうなずいた。
「レディングは六時十分には青猪《ブルー・ボア》館の近くにいました。そこから裏道を歩いて――こっちに向いました。それはここの隣に住む老婦人が見ています(たいていのことは見逃さないばあさんですよ)。そしてここの庭のアトリエでミセス・プロザローと逢引《あいび》きしたわけです。六時三十分をほんの少し回ったころ、二人はいっしょにアトリエを出て、裏道を村に向って歩いて行きました。途中でストーン博士といっしょになっています。これについてはストーン博士も認めています――じかに会ってきいたんですがね。それから郵便局のわきで三人で数分立ち話をし、ミセス・プロザローは園芸雑誌を借りにミス・ハートネルの所に行きました。その点も、ミス・ハートネルに会って確認しました。ミセス・プロザローはミス・ハートネルとしばらく雑談し、ちょうど七時になったときに、つい遅くなってしまった、すぐ帰らなければと帰って行ったそうです」
「で、そのときの様子は?」
「寛《くつろ》いで快活だったらしいですよ。態度も明るかったし、気にかかることがあったとはとても思えないとミス・ハートネルはいってましたっけ」
「続けてくれたまえ」
「レディングのほうですが、ストーン博士といっしょに青猪《ブルー・ボア》館に行って一杯飲み、七時二十分前に青猪《ブルー・ボア》館を出て急ぎ足で村の本通りから道路に出て、牧師館に向いました。これはかなりの人が見ています」
「今度は裏道は通らなかったんだね?」とメルチェットがきいた。
「ええ。牧師館の玄関で牧師さんに会いたいといいましたがプロザロー大佐がきていると聞いて、入って行き――射殺した――自供ではこうなっています。これが真相ですよ。ですからこのうえ、ほかに犯人を探すことはありません」
メルチェットは首を振った。
「医者の証言を無視するわけにはいくまい。プロザローが六時三十分以後に撃たれたわけはないとヘイドックはいっているんだよ」
「医者の証言ですか!」とスラック警部は唇をゆがめた。「医者のいうことをいちいち真に受けていたら、たいへんなことになりますよ。当節の医者は患者の歯をすっかり抜いちまって、そのうえで『すまない、盲腸炎だった』なんてぬかすんですからな。医者の証言があてになるもんですか!」
「これはね、きみ、病名がどうのこうのという問題とはわけが違うんだよ。ヘイドック医師はいまいった点に関してはすこぶるはっきり断言している。医学的な証言に異を唱えることはできないよ」
「私の証言も、いちおう考慮にいれていただきたいですね」と私は口をはさんだ。忘れていたことを急に思い出したのだ。「あのとき死体に触ってみたら、冷たかったんです。これは誓ってもいい」
「どうだね、スラック?」とメルチェットがいった。
「まあ、むろん、そういうことならね。しかし、万事びったしだったんですがね。レディング氏はいってみりゃ、みずから進んで絞首台に上がろうとしているようなものだったし」
「そのこと自体、少々不自然だという気もするね」とメルチェットがいった。
「ま、人さまざまですからね」とスラックが答えた。「戦争からこっち、いかれた人間はわんさといますよ。さて、こうなると振り出しにもどって捜査し直すことになりますね」と私のほうに振り向き、「ところでお宅のあの時計についてですがね、なぜ、あなたは私が誤った考えをもつように仕向けたんです? まったく理解に苦しみますよ。法の行使の妨害としか言いようがないですな」
「私は三度にわたって、そのことをあなたに言おうとやっきになっていたんですよ。そのつど、あなたはよけいなことを言うなとばかり、耳に入れようともしなかったじゃないですか」
「それは言い掛りってものですね。その気になれば、いくらでもいう方法はあったでしょうに。私は時計の時刻とあの手紙から、こりゃ、うまいこと符合すると思いこんだんですからね。ところがあなたのおっしゃるところでは、あの時計の時刻はもともと当てにならんらしい。こんなばかげたことって聞いたこともないですよ。時計の針を毎日十五分も進めておくなんて、いったい、どういう気です?」
「時間に遅れないようにという狙いなんですがね」
「そのことはもういいじゃないか、警部」とメルチェット大佐が見兼ねて取りなした。「当面必要なのは、ミセス・プロザローとレディングから嘘《うそ》偽りのない話を聞きだすことだ。さっきヘイドックに電話して、ミセス・プロザローをここへ連れてきてくれるように頼んでおいた。十五分もすれば着くだろう。一足先にレディングを呼んでおくほうがいいんじゃないかね」
「署に電話しましょう」とスラックは受話器を取り上げた。
「さて」受話器を置くと彼は「あらためてこの部屋を調べてみんことには」といって意味ありげに私を見た。
「私ははずしたほうがよさそうですね」と私がいうと、警部はすかさずドアを開けて送り出そうとした。
「レディングが着いたらもどってくれたまえよ」とメルチェットが後ろから呼びかけた。「レディングはきみと親しい。本当のことを話すように、きみなら説得できるだろうから」
客間に行くと、グリゼルダとミス・マープルが頭を突き合わせて何やら話しあっていた。
「あたしたち、いろいろな可能性を検討してたのよ」とグリゼルダがいった。「ミス・マープル、あなたがこの事件の解決に当って下さればいいんですのに。ほら、いつか、ミス・ウェザビーが買いなすったむき海老《えび》が行方不明になったときみたいに。あなたがあの謎をお解きになったのはたしか、石炭袋だったか何かについての、一見、何の関係もなさそうな出来ごとを連想したからでしたわね?」
「そんなことおっしゃって、グリゼルダさん、あなた、わたしをこっそり笑っていらっしゃるのね」とミス・マープルはおだやかな口調でいった。「でもほんとのところ、そうした連想は真相に到達する、しごく堅実な方法なんですよ。いってみればこれは直感の問題ですわ――近ごろでは直感がばかにもてはやされていますけれどね。直感とは、ある単語の綴《つづ》りを一字一字拾わないでもその単語を読み取ることができるといったたぐいのことじゃないでしょうか。小さな子どもは経験がないからそれができませんが、大人にはできる。その単語を何度か目にしているからです。わたしのいう意味は牧師さまにはおわかりになりますでしょう?」
「そう」と私はゆっくりいった。「わかると思いますよ。つまりあることから何かほかのことを連想した場合、それはおそらく同じ性質のことなのではないか――」
「ええ、そのとおりですわ」
「で、プロザロー大佐の死は正確にいって、どういうことをあなたに連想させるとおっしゃるんですか?」
ミス・マープルはほっと嘆息した。
「そこがむずかしいところですわ。似たような、いろいろな場合が頭に浮ぶものですから。たとえばハーグリーヴズ少佐のことがありますわ。教区委員で、あらゆる点で尊敬されていなさいましたけど、以前雇っていたお手伝いに内緒で家をもたせていたんですの。おまけにまあ子どもが――ぞろぞろと五人もいましてね――奥さんと娘さんにとっては、そりゃもう、たいへんなショックでしたわ」
私は、ひそかに女を囲っているプロザロー大佐のイメージを思い描こうとしたがだめだった。
「それから洗濯屋のこともありますわ。あるとき、ミス・ハートネルがフリルのついたブラウスにうっかりオパールのブローチをつけたまま、洗濯屋に出してしまいなさったんですの。それを盗《と》った女の人はブローチがほしかったわけじゃなかったし、常習的な泥棒でもなかったんですよ。ただ盗んだブローチを知り合いの女の人の家に隠して、その人が盗るところを見たって警察に密告したんですの。腹いせにね。ええ、まったくの腹いせに。驚きいった動機ですわねえ。男がからんでいたんですの、もちろん。まあ、たいていの場合、そういうことのようですね」
二つ目の例に関しても私は、プロザロー大佐殺害事件との間に何ら類似点が見出せなかった。
「それに、エルウェルさんの娘のこともありますわ。妖精《ようせい》のような感じの、そりゃあかわいらしい子でしたけど、赤ん坊の弟を窒息死させようとしましてね。それから聖歌隊の遠足のために集めたお金のことも(前の牧師さまのときでしたわ)。当時のオルガニストが盗んだんですの。奥さんが借金をたくさんこしらえていましてね。ええ、今度の事件については、そんなふうにいろいろの例がつぎつぎに頭に浮ぶものですからねえ。ええ、連想があまり多すぎて真相に到達するのは一仕事でしょうよ」
「一つ伺いたいんですが、今度の事件について疑わしい人間が七人いるとおっしゃったことがありましたね。あれは誰のことなんですか?」
「七人?」
「ええ、この前、そうはっきりおっしゃいましたよ――プロザローさんが死んで喜ぶ人が七人まで考えられるって」
「わたしが? ええ、そうでしたわねえ」
「それは本当ですか?」
「まあ、もちろん、本当ですとも。でも、名前を上げることはいたしませんわ。ちょっと考えてごらんになれば、あなたさまだってすぐ思い当られますとも」
「私の場合はいっこうに。強いていえばレティス・プロザローですかな。お父さんが死んで遺産がもらえるわけでしょうから。あの子についてそんなふうに考えることからしておかしいですがね。ま、レティスを除けば、これといって誰も思いあたりませんな」
「あなたはいかが?」とミス・マープルはグリゼルダのほうに向き直った。
驚いたことにグリゼルダはぽっと頬を染めた。涙がこみあげてでもいるように目がうるみ、小さな拳《こぶし》を握って憤然と叫んだ。
「ああ、いやになるわ! 人間って――何て――何て――いやらしいんでしょう! 無責任な噂話をして。ほんとにひどいったらないわ……」
私はふしぎに思ってグリゼルダの顔を見つめた。そんなふうに取り乱すなんて、まるでグリゼルダらしくないからだった。わたしの怪訝《けげん》そうなまなざしに気づいて、グリゼルダは無理にほほえもうとした。
「世にも珍奇な標本でも見るような、そんな目であたしを見ないでちょうだいな、レン。でも興奮して、本題からそれるのはよくないわね。あたし、プロザローさんを殺したのはロレンスでも、アンでもないと思うの。レティスはもちろんのこと。だけど解決の糸口になるようなことが何かしらあるはずよ」
「書きかけの手紙のこともありますわ」とミス・マープルがいった。「けさわたしがあれについて、ふしぎでならないといったのを覚えていらっしゃいますでしょ?」
「あの手紙は、死亡時間をいかにもはっきり示唆しているように見えますがね」と私は指摘した。「しかし手紙に記されている六時二十分にプロザローさんを殺すことははたして可能だったでしょうかね。たとえばアン・プロザローが犯人だったとしても、六時二十分には書斎を後にしたばかりで、アトリエにたどりついてはいなかったでしょうからね。何とか説明をつけるとすればこういうことでしょう――プロザロー大佐は自分の時計を見て六時二十分と書いた。しかしたまたまその時計は遅れていた。それならまあ、考えられないことはありませんがね」
「あたしの推理はこうよ」とグリゼルダがいった。「もしもよ、レン、うちの時計が正確な時間にもどしてあったとしたらどう?――あら、それだって同じことになるわね――あたしって、何てばかなのかしら」
「私が書斎を出たときにはたしかにもどしてなかったよ。懐中時計と比べてみたのを覚えている。だがおまえのいうとおり、どっちにしろ、当面の問題とはまず関係がなさそうだね」
「ミス・マープル、あなたはどうお思いになって?」とグリゼルダがきいた。
「わたしはね、正直いって、いまあなたがたがおっしゃってたような観点からこのことを考えているわけではないんですの。わたしがふしぎだと思うのは、いえ、はじめからふしぎでならなかったのは手紙の内容ですわ」
「どうもよくわかりませんな。プロザロー大佐の手紙には『これ以上待つわけにはいかない』と書いてあっただけで――」
「『もう待てない』――六時二十分にそう書いたとおっしゃるんですの? お宅のメアリはプロザローさんが訪ねていらしたときにすぐ、牧師さまはいくらはやくても六時半まではおもどりにならないといったはずですわ。プロザローさんにしたって、それまでは待つつもりでいらしたようじゃありませんか。それなのに六時二十分に『待てない』とお書きになったなんて」
わたしは呆然《ぼうぜん》とミス・マープルの顔を見つめた。何という聡明な人だろうという感嘆の思いをますます深くしていた。この老婦人は、私たちの誰もが見落していた事実を慧眼《けいがん》にもちゃんと見て取っていたのだ。そう指摘されてみれば、奇妙だ――たしかに奇妙だ。
「もしも手紙に時刻が書いてなかったとしたら――」
ミス・マープルは大きくうなずいた。
「そうですとも。時刻が書いてなかったとしたら――」
私は不鮮明な走り書きのその手紙を思い出そうとつとめた。便箋《びんせん》の右肩に六時二十分ときちんとした活字体で記されていたっけ。いま思うと、あの書体は手紙の他の部分のそれとはたしかに違う感じがした。私ははっとした。
「時刻が書きいれてなかったとすれば――つまり六時半をちょっと過ぎてからプロザロー大佐がいらいらしだし、これ以上待てないと書きかけたのだとしたらどうだろう。そこに誰かが窓から忍びこんで――」
「戸口からかも知れないわ」とグリゼルダ。
「ドアが開けば、プロザロー大佐が聞きつけて顔を上げるだろう」
「大佐は少し耳が遠かったんですよ」とミス・マープルが口をはさんだ。
「そうでしたね。とすると、たとえ誰かが近づいても聞こえなかったでしょう。ドアからにしろ、窓からにしろ、その誰かは大佐に後ろからそっと近づいてピストルを発射した。それから手紙と時計に気づき、とっさに手紙の右肩に六時二十分と書き、時計を六時二十二分までもどした。じつに頭がいい。これでアリバイが完全に成立する――すくなくとも殺人者はそう考えたでしょうな」
「とすると、あたしたちが探す必要があるのは」とグリゼルダがいった。「六時二十分に鉄壁のアリバイがあり、いっぽう本当の犯行時間にアリバイがない人ね。でもそんな人を探すのはなまやさしいことじゃないわね。第一、犯行時聞からしてもう一つはっきりしないんだから」
「しかし範囲はずっとせばめられるよ。ヘイドックはプロザローさんがなくなったのは遅くとも六時三十分、おそらくそれ以前だといっている。プロザローさんが六時三十分までは、いらいらせずに待っていただろうという推定からすると、六時三十五分までは範囲内に入れていいんじゃないだろうか。それにしても、やっぱりはっきりした時刻はわからないな」
「そうするとわたしの聞いた銃声――あれが」とミス・マープルがいった。「ええ、たしかにありうることですわ。それなのにわたし、まるで気に留めずにいて。われながら腹が立ちますわね。でもいま思うと、あの銃声はふつう耳にするものとは違っていたような気がしますわ。ええ、たしかに違っていましたわ」
「もっと大きな音だったってことですか?」
「いいえ、ふつうより音が大きかったとは思いません。じつのところ、どういう点で違っていたか、自分でもはっきりしませんの。違っていたことはたしかですけど」
もしかしたらミス・マープルは事実を思い出しているというより、そんなふうに思いこもうとしているだけなのかもしれない――そう考えながらも私は、この間題にきわめて貴重な、新しい観点を加えたことについて、彼女に対して深甚な敬意をいだいたのであった。
ミス・マープルはやがて、そろそろ失礼しなければと立ち上がった――一っ走りお宅に伺ってグリゼルダさんと事件についてあれこれ意見を交換したかったもので、ついお邪魔してしまったのだと詫びながら。
ミス・マープルを裏門まで送ってもどると、グリゼルダは物思いに沈んでいた。
「まだ手紙のことで頭を悩ましているのかい?」
「いいえ」グリゼルダはぶるっと身を震わせて、もどかしげに両肩を揺すった。「レン、あたし、考えてたのよ――誰か、アン・プロザローをひどく憎んでいる人がいるんだわ」
「アンを憎んでいる人?」
「ええ、わからない? ロレンスにとっては、不利な証拠はほんといって一つもないわ――あるとしたら、まあ、偶然にそうなったのよ。あの日だって、ロレンスはたまたま牧師館にくる気を起こしただけのことでしょ。もしこなかったとしたら、誰もあの人を事件と結びつけて考えようとはしなかったと思うの。でもアンは違うわ。アンが六時二十分にここにくることをもしも誰かが知っていたとすると――そうよ、時計も、手紙の時刻も――ええ、すべてがアンを指しているじゃないの。アリバイづくりのためだけに時計の針がその時刻に動かされたとはあたしには思えないの。それ以上の魂胆があったのよ。つまり、あれはアンに罪をきせることを狙っていたんだわ。アンがピストルをもっていたはずはないとミス・マープルが証言しなかったら――また問題の時刻のほんの少し前に牧師館の母屋を出てアトリエに行ったということを、やっぱりミス・マープルが見ていなかったとしたら……」とグリゼルダはまたもや身を震わせた。「レン、あたし、ほんとに誰かがアンをひどく憎んでいるって気がしてならないの。そう思ったら――何だか――こわくって」
十二
ロレンス・レディングが到着したので、私は書斎に呼びもどされた。ロレンスは憔悴《しょうすい》しきった顔をしており、なぜこんなところにと猜疑心《さいぎしん》をいだいているらしかった。メルチェットは慇懃《いんぎん》とおもえる態度で彼を迎えた。
「二、三、きみに質問をしたいと思ってね――この現場で」
ロレンスはいささか嘲笑的な口調で答えた。
「フランス式拷問ってわけですか、犯行現場の復元による?」
「きみ、われわれに虚勢を張るのはやめたまえ。きみはプロザローさんを殺したといっているが、もう一人、そういいだしている人がいるんだよ。知っているかね?」
この言葉がたちまちロレンスにおよぼした影響は痛ましいものだった。
「もう一人――ですって?」と彼は口ごもった。「誰――です?」
「ミセス・プロザローだよ」ロレンスの表情を見守りながらメルチェットはいった。
「そんなばかな。あの人はやっていませんよ。やったはずがありません。ばからしい!」
メルチェットはロレンスの激しい語気を遮った。
「奇妙なことだがね、われわれとしても、あの人の申し立てを信じちゃいないんだよ。ついでにいっとくが、きみの自白だって信じてはいないのさ。ヘイドック先生はきみの申し立てている時間に殺人が行われた可能性はありえないと言明しておられる」
「ヘイドック先生が?」
「ああ、だから、きみ自身の望むと望まないとにかかわらず、きみの嫌疑は晴れたんだ。それで今度はわれわれに協力して、あの日何が起こったのか、ちゃんと話してほしいんだよ」
ロレンスはまだためらっていた。
「ぼくを騙《だま》しているんじゃないでしょうね――その――ミセス・プロザローのことについて? 警察は、本当に――アンを疑ってはいないんですね?」
「私の名誉にかけて誓うよ」とメルチェットはいいきった。
ロレンスは大きく吐息をついた。
「ぼくはばかだった。大ばか者だった。仮にもアンがやったなんてとんでもないことを、どうして考えたのか――」
「さあ、何もかも話してみたらどうだ?」
「話すことって、大してないんです。ぼくは――あの午後、アンに会って――」とロレンスはいいよどんだ。
「そのことについては何もかも承知している。きみのミセス・プロザローに対する気持、また彼女のきみに対する気持もね。きみらは誰にも知られていないと思っていたんだろうが、じつのところ、その秘密は知られていただけでなく、噂《うわさ》にもなっていたんだよ。どっちみち、すべては明るみに出るにきまっているさ」
「だったら――仕方ありません。たぶんあなたのおっしゃるとおりでしょう。ぼくはクレメント牧師さんに約束したんです――すぐこの土地を――離れると。あの日の夕方六時十五分にアンとアトリエで会って、決意を告げました。アンも、そうするほかないだろうと同意してくれました。ぼくらは――そこで互いに別れを告げたのです。
アトリエを出て村のほうに歩きだしたとき、ストーン博士といっしょになりました。アンは感心するくらい、自然にふるまっていました。ぼく自身はてんでだめでしたがね。それからぼくはストーン博士といっしょに青猪《ブルー・ボア》館に行って、一杯飲んでから家に帰るつもりでしたが、道路の角まできたときに、ふっと牧師館に行って牧師さんに会おうという気を起こしたんです。どうでも誰かに話を聞いてもらいたかったんでしょう。
玄関に出たお手伝いが、牧師さんは留守だがほどなく帰ると思う――書斎にプロザローさんが待っているといいました。せっかくきたのだし、プロザローに会うことを避けているように見えてもと、ぼくも待たせてもらうといって書斎に行ったのです」
ロレンスはここで言葉を切った。
「それで?」とメルチェットが促した。
「プロザローは机に向っていました――あなたがたが死体を発見されたときのように。近づいてみると――死んでいたんです。そのとき、そばの床に落ちているピストルに気づきました。拾い上げて一目見るなり――ぼくのものだとわかりました。
ぼくは気が転倒しました。ぼくのピストルで! とたんにぼくはとんでもない結論に達したのです。アンが――ぼくの知らないうちにピストルを持ち出したのだ――いまの状況に堪えられなくなったら自殺するつもりで。今日もずっと身につけていたのかもしれない。村で別れてからここへもどって――そして――ああ、もちろん、そんな途方もないことを考えるなんて、ぼくはどうかしていたんでしょう。ですが、そのときはそう思いこんじまったんです。ぼくはピストルをポケットに滑りこませて、そっと部屋を出ました。すると門を出たところで、牧師さんとばったり出会ったんです。牧師さんはぼくに、プロザローに会わなければならないが手間はかからないから入って待ちたまえといった意味のことを、ふだんと少しも変らない、親切な口調でいわれました。それでぼくはつい大声で笑いだしたくなっちまったんです。牧師さんのさりげない態度が場違いに思えたんですね。ぼく自身は正気の限界ぎりぎりまで神経が立っていたんですから。ぼくは大声で何かとっぴなことをいいちらしました。牧師さんの顔色が変ったのに気づきましたが、こつちはもうほとんど気がおかしくなっていましたからね。ぼくは歩きだしました――ただ夢中で歩きつづけました。そのうちに、これ以上我慢できないって気持になったんです。もしもアンが本当にああした恐ろしいことをしでかしたとすれば、ぼくにだって道義上の責任がある――そう思って――自首したんですよ」
しばらく沈黙が続いた。やがてメルチェットが事務的な口調できいた。
「もう一つ二つ、ききたいんだが――きみは死体に触るとか、動かすといったことはしていないんだね?」
「ええ、まったく。触ってみないでも、死んでいることはわかっていましたから」
「突っぷしているプロザローさんの上体の半ば下敷になっていた手紙についてはどうだ? 吸い取り紙の上に置いてあったんだが、気がついたかね?」
「いいえ」
「時計に触るとか、針を動かすといったことは?」
「ぜんぜん。時計が机の上にひっくり返っていたような気がしますが、手は触れていません」
「さて、きみのピストルだが、最後に見たのはいつだ?」
ロレンス・レディングはちょっと思案した。「さあ、いつだったか」
「いつもはどこにしまっているんだね?」
「居間のがらくたにまじって、本棚のどこかに置いてあったと思います」
「つまり、無造作にほったらかしておいたということか」
「ええ。置き場所など、とくに考えてみたこともありませんでした。たまたま本棚の上に置いただけのことですよ」
「とすると、きみの所に出入りする者なら誰によらず、目に留めていた可能性があるわけだね」
「ええ、まあ」
「きみ自身、最後に見たのはいつか、覚えていないのかね?」
ロレンスは何とか思い出そうとするように眉を寄せた。
「おとといだったと思いますね。古いパイプを出そうと思ってピストルを片寄せた覚えがある。たしかおととい――いや、その前の日だったかな」
「最近、きみの家をたずねた者があるかね?」
「ええ、ずいぶんいろいろな連中がきましたよ。ぼくの所には誰かがふらっと立ち寄ることが多いんですよ。それにおとといはお茶の会みたいなものをやりましてね。レティス・プロザローとデニス、その他、あの二人のつきあっているような若い連中がきましたよ。村のおばあさん連が寄ることだってありますしね」
「出かけるときは鍵は掛けるのかね?」
「いいえ、なぜ、鍵なんぞ掛ける必要があるんです? 盗まれるようなものはもっていませんし。この辺じゃ、鍵を掛ける家なんてありゃしませんよ」
「家事は誰がやっているのかね?」
「ミセス・アーチャーというばあさんが毎朝きてくれます。身のまわりを『かたしに』とこの辺じゃいうようですが」
「そのミセス・アーチャーはどうだろう――ピストルを最後にいつ見たか、覚えているかな?」
「さあ。覚えているかもしれませんが、あのばあさんにしてからが良心的に隅々まで念入りに掃除するたちじゃありませんからね」
「つまり――ほとんど誰でもあのピストルを持ち出すことができたってことだな」
「まあ――そうなりますね」ドアが開いて、ヘイドック医師がアン・プロザローを伴って入ってきた。
アンはロレンスを見てはっとしたらしかった。ロレンスはためらいがちに一歩踏みだした。
「ゆるしてくれたまえ、アン。ぼくは何て途方もない臆測をしていたんだろう」
「あたくし――あの――」とアンは口ごもって訴えるようにメルチェット大佐の顔を見た。「ヘイドック先生がおっしゃったことは本当ですの?」
「レディング氏の容疑が晴れたということですか? そのとおりです。とすると、あなたの申し立てはどうなりましょうかね、ミセス・プロザロー?」
アンは少し恥ずかしそうに微笑した。
「ひどい女だとお思いになりますでしょう?」
「まあ――はなはだ愚かしいことをなさったとは思いますね。ですが、それももうすんだことです。私がいま伺いたいのはですね、ミセス・プロザロー、本当のこと――掛け値なしの事実です」
アンは神妙な顔でうなずいた。
「申し上げますわ。もうご存じなんでしょうけれど――何もかも」
「ええ」
「あたくし、ロレンスと――レディングさんと会う約束をしていましたの。あの日の夕方、アトリエで六時十五分に。その前に主人といっしょに車で村にまいりました。買物が少しあったものですから。別れるとき、主人は思い出したように、これから牧師館に行って牧師さまにお会いすると申しました。ロレンスにそのことを伝えるわけにもいきませず、あたくし、気が気でありませんでした。だってあの――主人が牧師館にいるのに庭のアトリエでロレンスと会うなんて」
アンは頬を染めてようやくいった。こんな告白をする破目になるとはと、さぞかし面映《おもは》ゆかっただろう。
「でも主人はそう長くは牧師館にいないかもしれない――まずそれを確かめてみてもいい――そう思いましてあたくし、裏道から牧師館へと急ぎました。誰にも見られないだろうと考えていたのですが、もちろん、ミス・マープルが例によって庭に出ていらっしゃいまして、呼びとめられて、二言三言《ふたことみこと》立ち話をいたしました。夫を迎えに行こうと思って――とあたくし、説明いたしました。何かいわないとおかしいと思いましたから。ミス・マープルが信じて下さったかどうか、それはわかりません。ちょっと――妙な顔をしていらっしゃいましたっけ。
ミス・マープルとお別れしてからすぐ、牧師館の庭に入り、建物の角を曲がって書斎の窓の所に行きました。話し声がするだろうと思って足音を忍ばせて近よったんですけれど、驚いたことに話し声はまったく聞こえませんでした。窓からのぞいて見ましたが誰もいなかったので、急いで芝生を横切ってアトリエに行きました。それから間もなくロレンスがきたのです」
「あなたがごらんになったとき、書斎はからっぽだったとおっしゃるんですね?」
「ええ、主人はおりませんでした」
「それはおかしいですね」
「つまり、ご主人の姿は見えなかったってことですか?」とスラック警部が口をはさんだ。
「ええ、見えませんでした」
スラック警部が何かささやくとメルチェットはうなずいた。
「すみませんが、ミセス・プロザロー」とスラックがまたいった。「お差し支えなかったらそのときどんな行動を取られたか、やってみせて下さいませんでしょうか?」
「よろしゅうございます」
アンが立ち上がるとスラックは窓を押し開けた。アンは窓からテラスに下り立ち、左の方にぐるっと回った。
スラックは横柄な態度で私に手招きし、座れという意味を身振りで伝えた。
何とも気が進まず、尻ごみしたかったが、私としてはむろんそうするほかなかった。
ほどなく窓の外にひそやかな足音が聞こえ、一瞬とだえたと思うと遠ざかって行った。スラックはふたたび身振りで私に、部屋の向うにもどつてよいという意を伝えた。しばらくしてアンが窓から入ってきた。
「あの日のとおりにして下さったわけですね?」とメルチェットがきいた。
「ええ、そっくりそのままだと思います」
「では伺いますが、ミセス・プロザロー、いまあなたが窓からのぞかれたとき、牧師さんは部屋のどの位置におられましたか?」とスラックがきいた。
「牧師さまですか? さあ――いいえ、わかりませんわ。牧師さまのお姿は見えませんでしたから」
スラックはうなずいた。
「それであの日、あなたにはご主人の姿が見えなかったんですな。ご主人はあっちの隅の机に向っておられたんです」
「では――」といいかけてアンは見る見る恐ろしげに目をみはった。「まさか、あそこで――あの――」
「そのとおりです。ご主人があそこに座っておられたときに凶行が行われたのです」
「まあ!」とアンは身を震わせた。
スラックは続けた。
「あなたはレディング氏がピストルを所持しておられることをご存じでしたか」
「ええ、いつか聞いたことがあります」
「あなたご自身はそのピストルを手になさったことがありますか?」
アンは首を振った。「いいえ」
「レディング氏がいつもどこにピストルを置いておられたかはご存じでしょうか?」
「さあ――あの――ええ、本棚の上に置いてあったと思いますわ。そうだったわね、ロレンス?」
「最後にレディング氏の家に行かれたのはいつのことです?」
「三週間ぐらい前でした。主人といっしょにお茶をいただきました」
「それ以後は一度も?」
「ええ。一度もまいりませんでした。一人で行ったりしたら、たいへんな噂の種になりますもの」
「たしかにね」とメルチェットは無表情にいった。「立ち入ったことを伺うようですが、レディング氏とはたいていどこで会っておられたんです?」
「ロレンスがホールにきたときに。レティスをモデルにして絵を描いていましたから、その後――林の中で何度か」
メルチェットはうなずいた。
「もうよろしゅうございましょう?」急に涙声になってアンはいった。「こんなことをお話ししなければならないなんて……。それにあたくしたち、何もわるいことをしていたわけではありませんでしたもの。何も――ええ、ほんとですわ。ロレンスとあたくしは友人同士でした。お互いに――愛しあうようになってしまったのは、いたしかたのないことでしたが」
アンは訴えるようにヘイドックの顔を見上げた。心やさしい医師は進み出ていった。
「もう十分じゃないですか、メルチェット大佐。これ以上は無理というものでしょう。奥さんはいろいろな意味で大きなショックを受けておられるんですからね」
メルチェットはうなずいた。
「そう、これ以上伺いたいことはありません。率直に答えて下さってありがとうございました」
「では――あの、失礼してもよろしいんですのね?」
「奥さんはおいでかね?」とヘイドックが私にきいた。「ミセス・プロザローは奥さんに会って行きたいと思っておられるようだ」
「ああ、グリゼルダならたぶん客間にいると思うが」と私は答えた。
アンがヘイドックと出て行くと、ロレンス・レディングがすぐ後を追った。
メルチェットは気むずかしげに口を結んでペーパーナイフをいじくり、スラックのほうは例の手紙を見ていた。私はふと思い出して、手紙についてのミス・マープルの新説を紹介した。スラックは手紙をしげしげと眺めた。
「なるほどね。いや、まったくばあさんのいうとおりかもしれないな。見て下さい。ね、時刻を記したインクの色だけがほかの部分と違うようじゃありませんか。ここは万年筆で書いたんですな。誓ってもいい!」
わたしたちは三人とも、いささか興奮して顔を見合わせた。
「指紋は調べたんだろうね、もちろん?」とメルチェットがきいた。
「それが妙なんですよ。手紙には指紋はぜんぜん残っていないんです。ピストルの指紋は、もっぱらロレンス・レディング氏のものでした。べつな指紋もあったかもしれないんですが何しろあの男、ポケットにいれてあちこちしていましたからね。彼のもの以外には、はっきり識別できるほどの指紋は見当らないんですよ」
「はじめはミセス・プロザローがクロと思われた」とメルチェットが思い返すようにいった。「レディングより嫌疑濃厚といっていいくらいだった。ミス・マープルが、ミセス・プロザローはたしかにピストルを持っていなかったといってはいたが、ああしたばあさんはよく思い違いをするからね」
私は黙っていたが、メルチェットの意見に賛成しかねていた。アンがピストルを持っていなかったとミス・マープルがいったとすれば、そのとおりに違いない。ミス・マープルは思い違いをしがちなタイプの老婦人とは違う。彼女のいうことは、いつも薄気味わるいくらい的を射ているのだ。
「わからんのは、誰も銃声を聞いた者がいないということだ。もしもその時刻にピストルが発射されたとしたら誰かが聞いたに違いない――どこから響いたと思ったにもせよ。ねえ、スラック、一度、ここのお手伝いに当ってみたほうがいいんじゃないかね?」
スラック警部は待ってましたとばかり、戸口に急ぎかけた。
「私だったら、家の中で銃声を聞かなかったかとはききませんね。そうきいたら、メアリは否定するに決まっています。林の中から銃声が聞こえなかったかときいてごらんなさい。メアリが認めるとしたら、そうきかれた場合だけでしょう」
「ああした連中から何か聞きだす方法ぐらい、心得ていますよ」とスラック警部はいって姿を消した。
「ミス・マープルは、その銃声が聞こえたのはもっと後だと思うといっていたっけ」とメルチェットが思案げにいった。「何時何分ということまで正確にいえるかどうか、念を押してみる必要があるね。むろん、事件と何の関係もない、散発的な銃声だったという可能性もあるが」
「もちろん、その可能性はありますね」と私はうなずいた。
メルチェットは部屋の中を何回か行ったりきたり歩き回りだした。
「ねえ、クレメント君、この事件は最初考えたよりずっと入り組んだ、むずかしい事件だという気がしてくるね。いまいましいことだが、この事件のかげにはすこぶる複雑な事情が潜んでいるらしい」と大きく鼻を鳴らした。「われわれの思いもおよばん事情がね。こいつはほんの序の口だ。われわれはまだ出発点に立っているようなもので、ほとんど何の進展もしておらんのだよ。時計、手紙、ピストル――どれ一つを取ってみても、このままでは意味をなさん」
私も頭を振った。まったくわからないことだらけだ。
「だが、私はかならず真相を突きとめてみせるよ。警視庁《ヤード》に助けを求めたりはせん。スラックは目はしの利く、抜け目のない男だ。動物でいえばシロイタチといったところだな。いずれ真相を嗅《か》ぎつけるだろうよ。すでにいくつかの事件を見事に解決してもいる。今度の事件の解決は、やつのとびきりの傑作ということになるだろう。こんな場合、警視庁《ヤード》を呼ぼうとする者もいるだろうが、私はそんなことはせん。州警察の力で、りっぱに解決してみせるとも」
「むろん、そう願いたいですね」と私はいった。衷心《ちゅうしん》からそう思っているように熱をこめていうつもりだったのだが、スラック警部にすっかりうんざりさせられていたので、この事件が解決した暁には彼の名声が高くなるのかと思うと、いい気持はしなかった。得意のスラックは、失意の彼よりいっそう鼻もちならないだろう。
「あっち例の家には誰が住んでいたんだっけ?」とメルチェットがとつぜん私にきいた。
「道路のどんづまりの家ですか? ミセス・プライス・リドリーですよ」
「スラックがお宅のお手伝いから必要なことをききだしたら、寄ってみようか。何か聞いているかも知れんから。そのばあさん、耳は遠くないんだろうね?」
「それどころか、たいへんな地獄耳でね。『たまたまわたしが聞きこんだ話ですけど』という決まり文句で始まる噂話の総元締ですよ」
「そういう女性なんだな、いまのわれわれに必要なのは。ああ、スラックがもどってきた」
スラック警部はてごわい相手との格闘からやっと逃げだしてきたという様子だった。
「やれやれ、お宅のお手伝いはものすごいですね、さんざん毒づかれましたよ――」と溜息《ためいき》をついた。
「メアリは気が強いほうですから」と私は答えた。
「警察がよっぽど嫌いなんでしょうな。ふてくされた態度をとるとためにならんぞと威《おど》して、法に対する畏敬《いけい》の念をたたきこもうとしたんですが、歯が立ちませんでした。まるでけんか腰でね」
「元気のいい娘ですからな」と私はメアリに対して、いつになくやさしい気持になっていた。
「それでも必要なことはちゃんとききだしましたよ。銃声は一発聞いているそうです――たった一発だけね。しかし、それはプロザロー大佐がきてだいぶたってからだったといっています。正確な時間は聞けませんでしたが、押し問答をしているうちに魚屋のことからおよその見当がつきました。魚が届くのがだいぶ遅れたので届けにきた店員をこっぴどく怒鳴りつけると、まだ六時半になるかならないかじゃないかと口答えしたんだそうですよ。そのすぐ後で銃声が聞こえたとか。ぴったしの時間はわからないにしても、これでおよその見当はつきます」
「ははん」とメルチェットは鼻を鳴らした。
「ミセス・プロザローもやはり事件には関係なさそうですな」とスラックは少々残念そうにいった。「一つにはそれだけの時間がなかったでしょうし、大体、女はピストルなどいじくるのをいやがりますからね。砒素《ひそ》でも一服盛るほうが女には似つかわしいでしょう。そう、どうやらミセス・プロザローではなさそうだ――残念千万だが」と溜息をついた。
メルチェットがミセス・プライス・リドリーの所に行ってみるつもりだというと、スラックはそれはいい考えだとうなずいた。
「ごいっしょしてもいいですか?」と私はきいた。「乗りかけた舟ですから」
構わないといわれて、私もメルチェットに同行した。牧師館の門を出たとき「やあ!」と声がかかり、甥《おい》のデニスが村のほうから走ってきて私たちに追いついた。
「警部さん」とデニスはスラックにきいた。「ぼくが話した足跡のこと、役に立ちましたか?」
「庭師のものだったよ」とスラックは素っ気なく答えた。
「誰かが庭師の靴をはいて足跡をつけたんじゃないでしょうか?」
「いいや」とスラックの口調は取りつく島もなかった。
しかし、デニスはそのぐらいのことですごすごひきさがりはしなかった。
二、三本のマッチの燃えさしを差し出して彼はいった。
「これ、牧師館の門のそばに落ちていたんです」
「ありがとう」とスラックはマッチをポケットに納めた。
これではデニスもお手上げだろうと私は思ったのだが、デニスは冗談めかしてきいた。
「警察じゃ、まさかレン伯父さんを逮捕するつもりじゃないでしょうね?」
「どうしてだね?」
「伯父さんには不利な証拠がいろいろとあるんですよ。メアリにきいてごらんなさい。プロザローさんが殺された前の日にも伯父さんは、プロザローさんが死んだらせいせいするっていったんですよ。そうだよねえ、レン伯父さん?」
「いや、それは――その――」と私はいいかけた。
スラック警部は私の顔をうさんくさげにじろじろと眺めた。私は体じゅう、かっと熱くなった。デニスときたらどうしようもないやつだ。警察官には概してユーモアの感覚が欠けていることぐらい、わかりそうなものだのに。
「何をばかなことをいってるんだ、デニス」と私はいらいらした口調で叱った。
デニスは無邪気そうに目をまるくした。
「もちろん、冗談ですよ。レン伯父さんは『プロザロー大佐を殺す者は社会に大いに貢献する』っていっただけなんですから」
「お手伝いのいったことがどうもひっかかっていたんですが、これではっきりしましたな」とスラックが呟いた。
お手伝いも大体においてユーモアの感覚を欠いている。それにしてもこの際、そんな話を持ち出すなんてと、私は心の中でデニスをさんざんに罵《ののし》った。いまのことと時計のこととで、スラックは私を一生|猜疑《さいぎ》の目で見ることだろう。
「行こう、クレメント」とメルチェットがいった。
「どこへ行くの? ぼくも行っていいかな?」とデニスがきいた。
「いや、いかん」と私は噛《か》みつくように答えた。
デニスは恨めしそうにそこに立ったまま、私たちを見送っていた。
ミセス・プライス・リドリーの小ぎれいな玄関のドアの前に立つと、スラックがドアをノックし、ベルを鳴らした。警察だぞといわんばかりの権高な鳴らしかただった。器量のいいお手伝いがドアを開けた。
「ミセス・プライス・リドリーはご在宅かね?」とメルチェットがきいた。
「いいえ」といって、お手伝いはちょっと間《ま》を置き、それから付け加えた。「たったいま、警察にお出かけになりました」
まったく予期しない事の展開であった。帰り道で、メルチェットは私の腕を掴《つか》んでささやいた。
「そのばあさんまで自首したときいたら、今度こそ私は完全におかしくなっちまうよ」
十三
何であれ、ミセス・プライス・リドリーの身に警察に訴え出るほど深刻な事態が起こったとも思えなかったが、これはいったいどういうことだろう――と私は思いめぐらした。重要な、いや、すくなくとも彼女が重要と思う証拠でも入手したのだろうか? まあ、いずれわかることだと私たちはその足で警察署に向った。
警察署では、ミセス・プライス・リドリーがいささか困惑気味の巡査を相手にペらペらとまくしたてている最中だった。ひどく怒っていることは、帽子についている大きな蝶結びのリボンがぶるぶる震えていることでそれと知れた。それは「奥さま向き」というふれこみで売り出されている帽子で、隣町のマッチ・ベナムの帽子屋にはこの種の帽子が氾濫《はんらん》していた。これ見よがしの大きな蝶結びのついているこの帽子が高く結い上げた髷《まげ》の上にちょこんと乗っかっている光景はあちこちで目につき、グリゼルダは「ああいうのを、そのうちあたしもかぶるつもりよ」といつも私を威していた。
ミセス・プライス・リドリーは私たちが入って行くと、いっとき口をつぐんだ。
「ミセス・プライス・リドリーでいらっしゃいますね?」とメルチェットが帽子をちょっと持ち上げていった。
「ミセス・プライス・リドリー、こちらはメルチェット大佐です」と私は紹介した。「この州の警察部長です」
ミセス・プライス・リドリーは私に対してはあいかわらず冷やかだったが、メルチェットにはかなり愛想のよい笑顔を向けた。
「ちょうどお宅に伺ってきたところでしてね、ミセス・プライス・リドリー」とメルチェットはいった。「こちらにお出かけになったということで」
ミセス・プライス・リドリーの態度はたちまち軟化した。
「まあ、ありがたいことですわ。今度のことについて、いささかでも警察が配慮して下さっていますとはね。破廉恥なわるさでございますよ、ほんとに」
殺人はたしかに破廉恥きわまる行為には違いない。しかし私ならわるさといった言い回しはしないだろう。メルチェットもびっくりしたような顔をした。
「今度の事件に関して、何か参考になることでもご承知なんでしょうか?」
「それはそちらさまの――警察の――領域に属することでございましょう? 納税者は税金を何のために払っているんでしょうかね、まったく」
警察が年間に何度となく聞かされるせりふであった。
「私どもとしても、それなりに最善をつくしてはおるんですがね、ミセス・プライス・リドリー」
「でもどうでしょう、このおまわりさんときたら、わたしがいいだすまでそれについては何も聞いていないっていうじゃございませんか!」
私たちは|おまわりさん《ヽヽヽヽヽヽ》の顔を見た。
「電話がかかったそうなんです」と彼は間のわるそうな顔でいった。「それで腹を立てておられるんですよ。たいへん怪《け》しからん言葉で罵倒《ばとう》されたとかで――」
「なるほど」とメルチェットはやっとわかったというようにうなずいた。「話がどうも食い違っておったようで。何かお腹立ちのことがあったらしいですな」
メルチェットは賢明な男だった。かなりの年輩の怒れる女性が文句をいいにきたときに取るべき手段はただ一つ、苦情に忍耐づよく耳を傾けるほかないのだ。いいたいことを洗いざらいいったうえでなら、こつちの話に耳を傾けてもらえないとも限らない。
ミセス・プライス・リドリーはたちまち立板に水のようにまくしたてはじめた。
「あんな破廉恥なことが二度と起こってはなりません。厳しく取り締まるべきです。人の家に電話してきて侮辱するなんて――ええ、文字どおり、たいへんな侮辱でございますわ。こんな扱いを受けることにはわたし、慣れておりません。大体、戦争からこっち、道義が弛緩《しかん》しているんでございますよ。勝手放題、思いついたことをいいちらし、着てるものときたら、あなた――」
「まったくです」とメルチェットは急いでいった。「で、何があったんですか?」
ミセス・プライス・リドリーは深呼吸を一つすると、やおら口を開いた。
「電話がかかってきたんですの」
「いつのことです?」
「昨日の午後――というより夕方――そう六時半ごろでしたわ。わたし、何気なしに受話器を取りましたの。そしたらいきなり、威《おど》し文句を並べて罵りだし――」
「どういう言葉で罵ったんですか?」
ミセス・プライス・リドリーは、かすかに頬を赤らめた。
「それは申し上げられません」
「ワイセツな言葉を使ったんじゃないでしょうかね」と巡査が思い入れよろしく低い声で注釈を入れた。
「つまり下品な言葉を使ったってわけですな?」
「どういうものを下品な言葉と呼ぶか、それにもよりけりでございましょうが」
「先方のいっている意味はおわかりになったんですね?」と私はきいた。
「もちろん、わかりましたとも」
「でしたら、下品な言葉というわけでもなかったのではありますまいか」
ミセス・プライス・リドリーは、おまえさん何か魂胆があるんだろうとばかりにじろりと私を睥睨《へいげい》した。
「もともと上品なご婦人は、下品な言葉などご存じないはずですから」
「そういうたぐいの――ことじゃございません。ええ、はじめはわたしもうかうかと聞いておりました。ごくふつうの電話だと思ったんですの。そのうちに――相手が口ぎたない言葉を使いだして!」
「口ぎたない言葉?」
「ええ、とてもひどいことをいいだしたんです。わたし、ただもう恐ろしくて――」
「つまり威し文句を並べたというわけですか?」
「そうなんです。わたし、威されるなんてことに慣れておりませんから」
「何といって威したんです? 危害を加えるとでも?」
「そうはっきりいったわけではありませんけれど」
「申しかねますが、奥さん、もう少し具体的におっしゃっていただけませんか。いったいどんなふうに威されたんです?」
奇妙なことにミセス・プライス・リドリーはいざとなると気が進まないらしく、はかばかしい返事をしなかった。
「正確な言葉は覚えておりません。とにかくわたし、気が転倒してしまいましてね。ただもうどぎまぎしていますと――相手は――お終《しま》いに――げらげら笑ったんです」
「男の声でしたか、女の声でしたか?」
「自堕落な声でございました」とミセス・プライス・リドリーは威厳のある口調で答えた。「道を踏みはずした人間の声としか、申しようがございません。しゃがれ声になったり、金切り声を立てたり。とにかくとても奇妙な声でございました」
「たぶん、まあ、いたずらでしょうな」と大佐はなだめるようにいった。
「いたずらとしましても、たちがわるすぎますわ。わたし、あぶなく心臓|麻痺《まひ》を起こすところでしたのよ」
「然《しか》るべく善処いたしましょう。いいね、警部? その電話がどこからかかったか、調べてみてくれたまえ。しかし奥さん、実際にどういったか、もっと具体的に話して下さるわけにはいきませんでしょうか?」
ミセス・プライス・リドリーの黒いドレスに包まれた巨大な胸のうちで、二つの感情が相せめいでいるらしかった。一つは口ぎたない言葉を繰り返すよりは黙っていようという慎みの思い、もう一つは誹謗《ひぼう》した相手に復讐したいという願望。結局後者が勝った。
「もちろん、これはここだけの話にしていただきます」
「当然ですとも」
「相手はまずこう申しました――けがらわしくて、繰り返す気もいたしませんが――」
「そうでしょう、そうでしょう」とメルチェットは相槌《あいづち》を打ってそれとなく促した。
「『あんたはスキャンダルを売り歩く、性悪《しょうわる》のばあさんだ』――この私にそういったんでございますよ、メルチェット大佐! スキャンダルを売り歩くだなんて! それから『今度ばかりはあんたもやりすぎたね。警視庁《ヤード》が名誉|毀損《きそん》の嫌疑であんたの身辺を捜査しているぜ』って」
「そりゃあ、驚かれたでしょうな」とメルチェットは思わず浮んだ微笑を隠そうと、口髭《くちひげ》を噛みしめた。
「こうもいいましたわ。『これからはせいぜい口を慎むんだな。さもないと後悔しても追いつかんことになる。こっちには手はいくらでもあるんでね』――そういった声の恐ろしかったこと、とてもお伝えできないほどですわ。とっさには口もきけず、わたし、喘《あえ》ぎながらようやくききましたの。『おまえはいったい、誰なの?』って。そうしたらどうでしょう、『復讐者さ』って。わたし、思わずキャッと声を上げましたわ。あまり恐ろしくて――そうしたら――そうしたら――そいつは笑ったんですの。カラカラと。それで終りでした。受話器を置く音が聞こえました。もちろん、わたし、交換手に、いまの電話は何番からだってききましたわ。でもわからないの一点ばりで。交換手なんて、いい加減な連中の寄りあいですからね。無作法で、まるっきり同情がなくて」
「まったくです」と私は呟《つぶや》いた。
「わたし、もう気が遠くなりそうでしたわ。その後、すっかり神経が立ってしまって、林の中で銃声が聞こえたときには、ぎょっとしてほとんどとびあがったくらいでした。それだけでもおわかりになりますわね、どんなにわたしの神経がぴりぴりしていたか」
「銃声が林の中から聞こえたっておっしゃいましたね?」とスラック警部がはっとしたようにきいた。
「何しろ興奮しておりましたからね。まるで大砲の音のように響きました。『ああ!』って叫んで、わたし、へたへたとソファの上に座りこんでしまいましたわ。クレアラにスモモ酒を一杯持ってこさせて、ようやく人心地がついたんですの」
「そりゃあ、ショックでしたろう、さぞかし。お察しします。ところでその銃声というのはたいへん大きな音だったんですね? ごく近くで発射されたように?」
「それはわたしの神経が立っていたせいでございましょうけど」
「ごもっとも、ごもっとも。で、こうしたことが起こったのは何時ごろのことでした? いたずら電話について調べる必要上、伺いたいんですが」
「六時半ごろでした」
「もう少し正確なところを伺えるとありがたいんですが」
「そうですね、炉棚の上の小さな時計が六時半を打ったばかりでして、『この時計、進んでいるわ』といって(とかく進みがちなんですの)、腕時計と比べてみたのを覚えております。腕時計はまだ六時十分を指しておりましたけれど、耳に近づけてみましたら止っていましたの。置き時計が進んでいるとすれば教会の塔の時計がじき時を打つはずだ――こう思いまして、耳を澄ましておりますうちに電話が鳴って、それっきり、時刻のことは忘れてしまいました」はあはあ息を切らせてミセス・プライス・リドリーは口をつぐんだ。
「それでだいぶはっきりしましたな」とメルチェットがいった。「十分調査するようにいたしましょう」
「まあ、愚かしいいたずらだと思って、あまり気になさらんことです」と私も付け加えた。
ミセス・プライス・リドリーはまたしても冷やかな目で私を見た。あの一ポンド札のことがまだしこっているらしい。
「この村では、おかしなことが最近頻発しておりますのよ」と彼女はメルチェットに向っていった。「とてもおかしなことばかりね。プロザロー大佐がそれについて調べるといって下さった矢先に、お気の毒にああしたことが持ち上がりましてねえ。次の犠牲者はわたしということになるかもしれませんわ」
こういってふさぎこんだ様子で頭を振り振り、ミセス・プライス・リドリーは帰って行った。メルチェットは小声で「『今度の犠牲者はわたし』だって? そんなけっこうなことには、まずなるまいよ」と呟いたが、急に真面目くさった顔になって物問いたげにスラック警部を見つめた。
スラックはゆっくりうなずいた。
「これでまあ、決まりですな。林の中で銃声が響くのを聞いたと申し立てている人間が三人いるわけで、誰が発射したのか、調べてみる必要があります。レディング氏が名乗り出たばっかりに適切な手を打つのが遅れてしまいましたが、さいわい手掛りはいくつかあります。レディング氏がホシだと思ったので気に留めなかったのですが、情勢がすっかり変っちまいましたからね。しかしまず電話について調べてみんことには」
「ミセス・プライス・リドリーの所にかかってきた電話のことかね?」
スラックはにやりと笑った。
「いや――といってもあれはあれで調べておかないと、ばあさん、また押しかけてくるでしょうからね。しかし私のいうのは、牧師さんを誘い出した偽電話ですよ」
「そうだな」とメルチェットがいった。「あれはぜひとも調べてみる必要がある」
「次に確認しておかなきゃならんのは、昨夜の六時から七時までの間、関係者がそれぞれ何をしていたかということです。オールド・ホールの住人全部について、その他、村の連中のおおかたについて」
私は嘆息した。
「あなたのエネルギーにはほとほと感心しますよ、スラックさん」
「努力あるのみ――こう私は信じておるんです。手始めにあなたご自身の行動について伺いましょうか、クレメントさん」
「いいですとも。電話は五時半ごろにかかってきました」
「男の声でしたか、女の声でしたか?」
「女の声でした。すくなくとも女の声のように聞こえました。しかし私ははじめからミセス・アボットだと思いこんでいましたのでね」
「ミセス・アボットの声だと確信されたわけではないんですね?」
「それは何ともいえません。とくに注意を払ったわけではありませんでしたし、べつに何とも思いませんでした」
「それで、すぐ出かけられた――歩いて行かれましたか? それとも自転車をおもちで?」
「いいえ」
「なるほど。で、歩いてどのぐらい――かかりました?」
「アボットさんの所まではほぼ二マイルの道のりです。どの道を取っても同じようなものでしょう」
「オールド・ホールの林を抜けるほうが近道でしょうがね?」
「ええ。ただあまり歩きいい道ではありませんので、往き帰りとも野道を行きました」
「牧師館の門の前に出る野道ですね?」
「ええ」
「お宅の奥さんは六時から七時までの間、どこにおられました?」
「妻はロンドンに行き、六時五十分の列車でもどりました」
「なるほど。お手伝いにはさっき会いましたし、これで牧師館は終りましたから、オールド・ホールに行ってみます。それからミセス・レストレンジという女性にも会うつもりです。プロザロー大佐を、殺される前の晩に訪ねたというのがひっかかりますのでね。この事件についてはいろいろ妙なことがありますが、これもまた、七ふしぎの一つですな」
私はうなずいた。
時計を見るとほとんど昼食どきだった。メルチェットに、あり合わせだがうちでいっしょにどうだと誘ったのだが、青猪《ブルー・ボア》館にちょっと用事もあるからということだった。青猪《ブルー・ボア》館では骨付き肉の大切れに野菜を二種取り合わせたとびきりうまいランチを出す。うちの食事を断ったのは賢明というべきだろう。スラックに突っこんだことをきかれた後でもあり、メアリはおそらくふだん以上にむしゃくしゃした気分で昼食の支度をしているに違いない。
十四
牧師館に帰る途中、ミス・ハートネルと出会った。ミス・ハートネルは私を十分以上も引きとめて、持ち前の低い野太い声で、貧しい人たちがいかに行き当りばったりの暮らしかたをしているか、感謝の念をいだくことがいかに稀《まれ》か、口をきわめて罵《ののし》った。ミス・ハートネルのいわゆる「あの連中」は彼女に、彼らの家を訪問するのはやめてくれといっているらしかった。私はというと、立場上、こうした感情をあからさまに示さないだけで、じつのところ、「あの連中」とまったく同じ気持だった。
ともかくも私はミス・ハートネルを極力なだめたうえで、何とか逃げだした。
牧師館の前を走る道路への曲がり角まできたとき、後ろからきた車の中からへイドックが声をかけた。
「ミセス・プロザローを送って行ったんだよ」彼は自分の家の門の前で車をおりて私を待っていた。「ちょっと寄って行かないか?」
帽子を椅子の上に投げると、ヘイドックは診察室のドアを開けて私を入れた。
「まったく奇妙な事件だな、こいつは」
古ぼけた皮張りの椅子に身を沈めて部屋の向うにぼんやり目を放っているその顔には、困惑した、悩ましげな表情が浮んでいた。
銃の発射された時刻がはっきりしたことを私が告げると、ヘイドックは大して気がなさそうな顔で聞いていた。
「アン・プロザローの疑いもこれで晴れたわけだな。よかったよ。レディングでも、アンでもなかったのはうれしいね。ぼくはあの二人が好きなんだ」
私はヘイドックの言葉を信じたが、それならうれしそうな顔をしてもよさそうなものなのに、なぜ、前よりかえって憂鬱《ゆううつ》そうに見えるんだろうとふとふしぎに思わずにはいられなかった。けさは重荷でもおろしたような晴ればれした顔をしていたのに、いまは打って変ってふさぎこみ、屈託ありげだった。
ヘイドックはしばらくしてやっと気を取り直したらしく、口を開いた。
「きみにホーズのことを話すつもりだったんだ。今度の事件に取り紛れてつい忘れていたんだが」
「ホーズは本当に病気なのかね?」
「ひどくわるいというわけではないがね。ホーズが嗜眠《しみん》性脳炎、俗に『眠り病』といわれている病気をやったことがあるのは、もちろん、知っているだろうね」
「いや」と私はびっくりして顔を上げた。「そんなことはまったく聞いていないよ――ホーズ自身からも。いつのことだ?」
「一年ばかり前だ。回復はしている――それなりにね。嗜眠性脳炎というのは奇妙な病気で、道義心におかしな影響をおよぼすんだ。人格が一変することさえある」
ヘイドックはちょっと間を置いて、また続けた。
「近ごろでは、魔女を火あぶりにした時代のことがさも恐ろしそうに語りぐさにされるがね。ぼくは、犯罪者を絞首刑にした時代のことが戦慄《せんりつ》とともに回顧される日がいずれくるんじゃないかと考えているんだよ」
「死刑はよくないというのかね?」
「そういうことでもないんだが」とちょっと言葉を切ってから、ゆっくりした口調でいった。「考えてみると、きみの仕事よりはぼくのほうがまだましだという気がするね」
「なぜだね?」
「きみは主として善悪に関する問題を扱うわけだが、ぼくは近ごろ、善悪というものがそもそも存在するかどうか、首をかしげているんだよ。たとえば、すべては腺《せん》分泌の問題に尽きるとしよう。分泌が不均衡になると、つまりある腺からの分泌が多すぎ、他の腺からのそれが少なすぎると、その結果、殺人者とか、泥棒、常習的な犯罪者が生れるというわけさ。ぼくはね、人間が、何世紀にもわたっていかにすべてをもっぱら道徳的な目で眺めてあげつらってきたか、たまたま病患のゆえにどうしようもなく罪を犯したにすぎない気の毒な人々を、いかに厳しく罰してきたかを思って怖気《おぞけ》をふるう日が、将来、かならずくると考えているんだよ。肺結核だからという理由で縛り首になった人間はいない」
「結核の患者は社会にとって脅威というわけではないからね」
「ある意味では脅威だよ。結核は伝染するからね。自分は中国の皇帝だという妄想をいだいている人間にしても、悪人だという非難は当らないだろう。社会についてのきみの論点を取り上げてみよう。社会は保護されねばならない。社会に害悪をおよぼしそうな人間をその心配のない場所に隔離する――ときには安楽死させる――そうした必要が生じる場合もないとはいえぬ。それはぼくも認めるよ。だが、それを罰と呼ぶべきではない。またそれによって彼らを、また何の罪もない彼らの家族を、辱《はずかし》めるべきではない」
私はヘイドックの顔をしげしげと見つめた。
「きみがこんなふうに話すのを聞くのははじめてだな」
「ふだんはなるべく、意見をひけらかさないようにしているからね。だが今日は思うところを述べさせてもらう。きみは聡明な人だ、クレメント。その点では、ある牧師たちより数段上だ。きみらが『罪』と呼ぶものは実際には存在しないんだとぼくがいっても、たぶんきみは認めようとしないだろう。だがきみはけっして偏狭な人間ではないから、そうした可能性を考えてみようとする度量はもっているんじゃないかね」
「それは、既存の観念を根底から突く考えかただな」
「ああ。われわれは偏狭な、独善的な者の寄り合いだよ。何一つ知らない事柄についてさえ、判断を下すに急でね。ぼくは心から信じているんだよ――犯罪とは医者の領域の問題であって、警察官や、牧師の扱うべき事柄ではないとね。将来においてはおそらく、犯罪なんてものは存在しなくなるだろう」
「医者が治療してしまうというのかね」
「そうだ。なかなかすばらしい考えじゃないか? きみは犯罪統計学というやつを研究したことがあるかね? ないだろう? そんな研究はごく少数の人間しか、やらない。だがぼくは調べてみたんだよ。青年による犯罪がいかに多いか、きみも知ったらびっくりするだろう。ここでも内分泌の問題がクローズアップされるわけだ。オクスフォードシャーの殺人鬼といわれたニール青年は、容疑がかかる前に五人の幼い女の子を殺していた。感じのいい若者で、これまで問題を起こしたことがまったくなかった。コーンウォールの少女リリー・ローズは、甘いものを制限したというだけで伯父を殺した。眠っているところを、石炭用のハンマーで殴り殺したんだ。その後、家に帰されたが、二週間後にちょっとしたことで腹を立てて姉を殺した。ニールも、リリーも、もちろん絞首刑にはならなかったよ。施設に送られてね。数年後にはすっかりよくなったかもしれない――しかしよくならなかったかもしれないのだ。ニールはとにかく、リリーのほうはたぶん治らなかっただろうな。リリーの好んだたった一つのことというのは、豚の屠殺《とさつ》を見物することだったそうだ。自殺がどの年齢に多いか、知っているかね? 十五、六歳だそうだよ。自殺から殺人にいたる過程は、そう大きな飛躍ではない。だが問題は道徳心の欠如ではないのだ――生理的な欠陥なんだよ」
「きみのいうことを聞いていると空恐ろしくなってくるよ!」
「いいや。これは何も恐ろしいことではない。きみにとって耳新しいだけだ。われわれは新しい真理に直面し、自分のうちにしみこんでいる観念を調整しなければならないのだ。しかしときには――そのために人生が生きにくくなる」
ヘイドックは眉を寄せながら腰をおろした。その顔には奇妙に疲れた表情が浮んでいた。
「ヘイドック」と私はいった。「きみがもしも誰かを凝っていたとする――いや、その人間が殺人者だということを知っていたとする。その場合、きみはその人間を法の手に引き渡すかね? それとも法の裁きからかばってやりたいという気持に誘われるだろうかね?」
私としては何気ない質問のつもりだったのだが、意外なことにへイドックはひどく激してくるっと振り向いた。猜疑心《さいぎしん》をむきだしにしていた。
「何だって、そんなことをきくんだ、クレメント? 何を考えている? はっきりいいたまえ」
「べつにどうということもないよ」と私は少々|呆気《あっけ》に取られて答えた。「たまたま殺人のことで頭がいっぱいになっているんできいてみただけだ。万が一きみが真相を発見したとしたら――いったいどう感じるだろうか――そう好奇心を動かしたのさ」
ヘイドックの怒りはすでに静まっていた。彼の心を悩ましている謎、彼の頭の中にだけ存在する疑問に対する答を懸命に求めているかのように、ふたたび目の前の空間に目を放っていた。
「万一ぼくが疑いをもったら――いや、はっきり確信をいだいたら当然、自分の義務を果たさなければならない。すくなくともそうしたいと思っているよ」
「問題は――きみ自身が自分の義務がどこに存すると考えているかじゃないかな」
ヘイドックは何とも不可解なまなざしで私を見た。
「人間、生きている間に、一度はそうした問題に直面するものなんだろうね。人はいつかその点について自分なりに決断を下さなければならないのだ」
「きみにも答はわからないんだね?」
「ああ、ぼくにもわからない……」
私はこの辺で話題を変えたほうがよさそうだと感じていった。
「うちの甥《おい》などは、今度の事件を大いに楽しんでいるよ。暇さえあれば足跡や煙草の吸殻を探しまわってね」
ヘイドックは微笑した。「デニス君はいくつだっけ?」
「十六歳になったばかりだ。その年齢では、悲劇を悲劇としてまともに取ることをしないからね。すべてがシヤーロック・ホームズ、アルセーヌ・ルパンなんだよ」
「なかなかの美少年だね、あの子は。しかし、さきざきどうするつもりだね?」
「大学教育を受けさせるだけの資力は私たちにはない。デニス自身は船員になりたいといっている。海軍の試験を受けたがだめだったんでね」
「そうか。苦労は多いだろうが、もっと辛《つら》い道だってあるしね」
「さて失礼するかな」時計をちらっと見て、私はあわてていった。「昼食に三十分ばかり遅刻だな」
私が到着したとき、グリゼルダとデニスはすでに食卓についていた。朝のうちにどんな進展があったかと、二人はしきりにききたがった。私はくわしく話しながら、どうもけさのニュースは、二人にとってどれも期待外れではないかと感じていた。
しかしデニスはミセス・プライス・リドリーにかかってきた電話のことをひどく愉快がり、彼女がショックのあまりほとんど気絶しそうになって気つけ薬としてスモモ酒を飲まなければならなかったと聞くと、ゲラゲラ笑いだした。
「意地わる婆さんにはいい薬だね。あの人の毒舌はこの村でもずばぬけてひどいんだから。一足先にぼくがいたずら電話を思いついて震えあがらせてやればよかったな。ねえ、レン伯父さん、今度はぼくがかけてみちゃいけない?」
どうか、そんなことはしないでくれと私はあわてていった。若い世代の役に立ちたいという意気ごみや、同情を示そうという善意は買うが、あぶなっかしくて見ていられない。
デニスの陽気な気分はたちまちのうちに霧散した。眉を寄せ、世慣れた男らしい、しかつめらしい顔をして彼はいった。
「けさはぼく、ほとんどずっとレティスといっしょだったんだよ。レティスは何か心配ごとがあるらしくてね、グリゼルダ。隠しているつもりらしいけどわかるんだ。きっと何か気にかかっていることがあるんだよ」
「へえ、あの人でも今度のことは気にかかってるの?」とグリゼルダが頭を一つ大きく振った。グリゼルダはもともとレティスをあまり好いていない。
「そんな言いかたするなんて、ひどいじゃないか。もともとレティスに偏見をもってるんだね?」
「そう見える?」
「親が死んでも喪服を着ない人はたくさんいるよ」
グリゼルダと私が黙っていると、デニスはまた続けた。
「レティスはね、たいていの人とはあまり話をしないけど、ぼくにはかなりいろいろなことをいうんだ。レティスだって今度の事件のことが気掛りで、何とか真相を突きとめなけりゃって考えているんだよ」
「レティスにもそのうちわかるだろう――スラック警部もまったく同じ意見だということがね」と私はいった。「スラックは午後からオールド・ホールに行くつもりでいる。それこそ真相を突きとめようと勢いこんで、あそこの住人一人一人にしつこく食いさがって不愉快な思いをさせることだろうよ」
「この事件の真相って、あなたはどういうことだと思ってるの、レン?」とグリゼルダがだしぬけにきいた。
「さあね。いまのところは私にも何ともいえない。見当さえついていないんだから」
「スラック警部は電話を――アボットさんの所にあなたをおびきだした電話のことだけど――かけてきたのが誰か、探りだすつもりらしいって、あなた、いったわね?」
「ああ」
「でもそんなことができるかしら? とても面倒じゃなくて?」
「大して面倒でもあるまいよ。交換局には通話の記録がちゃんと控えてあるだろうからね」
「そう」妻は考えこんだ様子で呟いた。
「レン伯父さん」とデニスが思い出したようにいった。「けさはなぜ、あんなに不機嫌だったの? 伯父さんがプロザロー大佐なんか、いっそ殺されればいいのにっていったってこと、ぼくはほんの冗談のつもりだったんだのに」
「なぜって、デニス、冗談も相手と場合によりけりだからだよ。スラック警部はユーモアの感覚をまったく欠いている人だ。おまえのいうことも、そっくり額面どおりに受け取っていた。そのうちメアリをしつこく問いつめたあげく、私の逮捕状を申請するかもしれないよ」
「ふざけていったことと、本気でいったことの区別が、あの人にはわからないのかな」
「ああ、わからないんだよ。警部の地位についたのだって、努力と、義務に対する献身の賜物《たまもの》なんだからね。人生のささやかな楽しみに割く時間なんか、ついぞありゃしなかったろうよ」
「伯父さんはスラック警部、好きかい?」
「いいや。むしろ嫌いだね。はじめて会ったときからひどく虫が好かなかった。だが警察官としては有能に違いない」
「プロザローさんを殺したのが誰か、あの人に突きとめられるかなあ」
「突きとめられなかったとしても、努力が不足しているせいじゃないだろうね」
そんな話をしているところヘメアリが顔を出していった。
「ホーズさんが会いたいんですって。客間に通しときました。それから使いが手紙を持ってきてます。返事が要るけど、ことづてでいいそうです」
私は渡された封筒を開封した。
クレメントさま
午後なるべくはやい時間においでいただけませんでしょうか。困ったことが起こりまして、ぜひご助言をいただきたいのです。
エステル・レストレンジ
「三十分ほどしたら伺うといってくれ」と私はメアリにいって、ホーズに会おうと客間に入って行った。
十五
ホーズのただならぬ様子に、一目見るなり、私は心を痛めた。手はぶるぶる震え、顔はひどくひきつっていた。こんな所にやってくるよりさっさと床《とこ》に入るべきだ――と私はすぐに忠告した。しかしホーズは、どこも何ともないといいはって聞かなかった。
「こんな気分のいいことはないくらいです。本当ですよ」
いかにも見えすいた嘘《うそ》だったから、私としては返す言葉もなかった。病気に負けない人間にはある意味で頭が下がるが、ホーズの場合は極端すぎる。
「お見舞に伺ったんです。さぞご不快だろうと――その――ああしたことが牧師館で起こるなんて」
「ああ、たしかに気持のいい出来ごとではないね」
「恐ろしい――何とも恐ろしい事件ですね。結局のところ、警察はレディング氏を逮捕しなかったとか?」
「そうなんだ。あれは間違いだったのさ。それだってレディングが愚かしい申し立てをしたせいだったんだが」
「すると警察は、いまではレディング氏が無実だと確信しているんですね?」
「そのとおりだ」
「なぜでしょう? だったらその――誰かほかの人間を疑っているんですか?」
ホーズが殺人事件の詳細にこのように強い関心をもっているとは思いがけぬことで、私はすくなからずびっくりしていた。事件がたまたま牧師館で起こったからかもしれない。だが、この熱心さは新聞記者顔負けではないか。
「スラック警部が何から何まで私に話しているとは思わないが、私の知っているかぎり、とくに疑惑をいだいている人間はいないようだ。いまのところ、あちこちききまわっている段階らしい」
「ええ、まあ、そうでしょうね。しかしあんな恐ろしいことをいったい、誰がやったんでしょうかね」
私は頭を振った。
「プロザロー大佐は人からあまり好かれてはいませんでした。私もそれは知っています。でも殺すなんて。人一人殺すにはよほど強い動機がなくては」
「だろうね」
「どういう人間がそうした動機をもっていたか――警察には見当がついているんでしょうかね?」
「それは何ともいえないね」
「プロザロー大佐が敵をもっていたって可能性もありますね。この事件について考えれば考えるほど、ああいう人には敵がいて当然だという気がしてくるんです。治安判事としても、人並はずれて厳しかったという話じゃありませんか」
「まあね」
「そうですとも。覚えていらっしゃらないんですか? つい昨日の朝だってプロザローさんはあなたに、あのアーチャーって男に威《おど》されたと話していたじゃないですか」
「そういわれてみれば、そんなことをいっていたね。むろん、覚えているよ。きみはあのときすぐ近くにいたんだったね」
「ええ、それで聞こえたんですよ。あの大声じゃ、聞こえないほうがふしぎですがね。ぼくはあのとき、あなたのおっしゃったことに感銘を受けたのを覚えています。『そんなふうだと、あなた自身、神の前に立ったときに慈悲でなく正義をもって裁かれることになるかもしれませんよ』――そんな意味のことをあの人にいわれましたよね」
「そんなことをいったかな?」と私は眉をしかめた。言い回しが少々違っていたような気がしたからだった。
「とても印象的でしたよ。ぼくは大きな感銘を受けたんです。正義とは恐ろしいものです。しかもプロザローさんは、その後間もなく射殺されたんですからね。まるであなたが一種の予感をおもちだったように」
「そんなもの、まったく感じなかったね」と私は素っ気なくいった。ホーズの神秘主義的傾向を、私はもともと快く思っていなかった。彼にはどこか幻視者《ヴィジョナリー》といったところがある。
「アーチャーという男のことは、警察にもう話されましたか?」
「アーチャーのことなど、何も知らんよ」
「ぼくのききたいのは、プロザロー大佐がいったこと――つまりあの人がアーチャーに威されていた事実を警察にお伝えになったかどうかってことなんですが」
「いいや」と私はゆっくりいった。「話していないよ」
「でも、そうなさるおつもりなんでしょう?」
私は答えなかった。法と秩序を代表する警察にすでに睨《にら》まれている男を、そのうえ追いつめる気がしなかったのだ。アーチャーの人柄についてはまるで信用していなかった。常習的な密猟者で、この種の陽気なろくでなしは一人や二人、どの教区にもいる。判決を受けたときにかっとなって何といったかはとにかく、刑務所を出たいまも同じ気持をいだいているかどうか、それは私の知るかぎりではない。
「きみ自身も私たちのやりとりを聞いていたんだろう」と私はしばらくしてからいった。「警察に行くのが義務だと思うならそうすべきだよ」
「あなたからおっしゃるほうがいいのではありませんかね」
「そうかもしれない――しかしじつのところ――私にはそうする意志はないのだ。無実の人間の首に縄を巻きつける手伝いをすることになるかもしれないからね」
「しかし、もしもアーチャーがプロザロー大佐を殺したとすれば――」
「もしも――もしも! 彼がやったという証拠は何一つないんだよ」
「プロザローさんを威したじゃありませんか」
「厳密にいって、アーチャーが威したわけじゃない。むしろプロザロー大佐自身が、今度アーチャーを捕まえたら不穏なことをいった分まで罰してやると広言したんだよ」
「あなたの取っておられる態度がぼくには不可解です」
「わからないかね」と私は少々うんざりしていた。「きみはまだ若い。何が何でも正義を行使せねばと意気ごんでいるらしい。だがきみだって私ぐらいの年になれば、『疑わしきは罰せず』という見解をもつようになるだろうよ」
「そういう――ことじゃないんです――ぼくのいいたいのは」
ホーズがこう口ごもったとき、私ははっとしてその顔を見返した。
「犯人がどういう人間かということについて――あなたご自身、何らかの考えをおもちではないんでしょうか?」
「とんでもない!」
ホーズは執拗《しつよう》だった。「それとも――動機について?」
「いいや。きみはどうなんだ?」
「ぼくですか? いいえ、まったく。ただあなたが何かご存じなのではと思ったんです。もしもプロザロー大佐が何かの形で打ち明け話をしていたとしたら――あなたの耳に何か入れていたとすれば……」
「あれが打ち明け話といえるかどうか。昨日の朝、村の通りであの人がいったことはほとんど村じゅうが聞いていたからね」と私はぶっきらぼうにいった。
「ええ、そうですね、もちろん。で、あなたとしてはアーチャーについては――問題にしていらっしゃらないんですね?」
「アーチャーのことは、早晩警察の耳に入るにきまっている。アーチャーがプロザロー大佐を威すのをこの耳で聞いているならとにかく、私としては警察にそんなことをいう気はないね。彼が本当に威し文句を並べたとしたら、村の住民の半数は聞いているだろうし、いずれ警察の耳にも入るさ。むろん、このことについて、きみは自分で判断して行動すべきだが」
ホーズはふしぎなことに、自分の口から警察にそのことを伝える気はないらしかった。
こうした話をしている間じゅう、ホーズは奇妙にびくびくと落ちつかなかった。ヘイドックが彼の病気についていったことが頭に浮び、それがすべてを説明すると私は思った。
もっといいたいことがあるのだが意を尽くせないといった顔つきで、ホーズはやがて暇《いとま》を告げた。
ホーズが帰る前に私は、『母親たちの会』の礼拝について依頼した。ひきつづいて他教区の信徒との協議会があるのだが、私自身、午後にはいくつかの用事があったのだ。
さてホーズと、彼の悩みごとを念頭から遠ざけて、私はミセス・レストレンジの家に出かけることにした。
出がけに見ると、ホールのテーブルの上に「ガーディアン」と「教会時報」が封を切らぬまま載せてあった。
歩きながら私は、プロザローの死の前夜にミセス・レストレンジが彼を訪ねたことを思い出していた。ひょっとしたらその際、何か起こったのかもしれない。それが事件に何らかの光明を投げかけるのでは?
私はすぐに小ぢんまりした客間に案内された。ミセス・レストレンジは立ち上がって私を迎えたが、この女性の醸《かも》しだしている幽艶《ゆうえん》な雰囲気に私はあらためて感じいった。漆黒のドレスが、抜けるように白い肌をきわだたせていた。黒い服のせいばかりではない。その顔には死そのもののようなふしぎな静けさがみなぎり、いっぽう、目は炎のように生き生きと燃えていた。今日は何となくこちらの出かたをじっとうかがっているように見えはしたが、その輝く双眸《そうぼう》以外には、およそ生気の感じられぬ顔であった。
「恐れいります、クレメントさま、わざわざお運び下さいまして」とミセス・レストレンジは私の手を握った。「この前申し上げたいと思いながら、結局やめてしまったことがあったものですから。やはりお話しすべきだったと思っております」
「先日も申し上げましたが、私にお手伝いできることがあれば、何でも喜んでさせていただくつもりです」
「ええ、この前、そうおっしゃって下さいましたっけね。ご親切なお気持が感じられてありがたく思いました。これまでわたくしを助けようと心からいって下さったかたは一人もいらっしゃらなかったといっていいくらいですわ」
「そんなことはありますまい」
「いいえ、本当ですの。たいていの人は――とくに男の方は、もっぱらご自分の利益のために行動なさいますから」苦々しい声音であった。
私が答えずにいると、ミセス・レストレンジは「どうかお座り下さいませんか」といった。そして私が腰を下ろすと向い合せに座を占めてちょっとためらう様子だったが、やがて考え考えゆっくりした口調で話しだした。一語一語を噛《か》みしめて口にしているような話しぶりだった。
「わたくし、とても奇妙な立場に立たされておりますの、クレメントさま。それであなたさまのご助言をいただきたいのです。今後どう行動したらよいかということについてですわ。過去は過去です。もうやり直しはききません。おわかりいただけますでしょうか?」
私が口を開く前に、さっき私を案内したお手伝いがドアを開けて、おびえた顔をのぞかせた。
「奥さま、あの――警部さんが見えています。何か奥さまにお話ししたいことがあるとかで」
ちょっと間《ま》を置いてからミセス・レストレンジは立ち上がった。表情は変らなかったが、いったん目をゆっくり閉じ、それをまた見開いて、一、二度|唾《つば》を呑《の》みこんだようだった。それから前と同じ、よくとおる、しかし静かな声でいった。「ここにお通ししてちょうだいな、ヒルダ」
立ち上がろうとした私を彼女は手を上げて制した。威厳のある物腰だった。
「お差し支えなかったら、このまま、おとどまり下さいませんでしょうか」
私がふたたび椅子に腰をおろしたとき、スラックがつかつかと入ってきた。
「失礼します、奥さん」
「こんにちは、警部さん」
スラックはこのとき私に気づいていやな顔をした。彼はどうやら私に好意をいだいていないようだ。
「牧師さまに同席していただきますが、よろしゅうございましょうね?」とミセス・レストレンジがいった。
こう真正面からきかれては、スラックとしてもさしさわりがあるともいえなかったろう。
「え――ええ」と不承不承彼はいった。「ただ私としては――その――」
ミセス・レストレンジはスラックのほのめかしを完全に無視していった。
「で、何かわたくしにご用でも?」
「はあ、じつはプロザロー大佐の殺害事件に関して伺ったのです。私が捜査を担当しておりまして、いろいろときき合わせております」
ミセス・レストレンジはうなずいた。
「どなたにもおききしていることなのですが、奥さんは昨日の午後六時から七時までの間、どこにいらっしゃいましたか? これはほんの形式的な質問ですが」
「午後六時から七時までの間、私がどこにいたか――そうおききになっていらっしゃいますのね?」
「よろしかったら伺わせて下さいませんか」
「さあ」とミセス・レストレンジはちょっと首をかしげた。「そうでしたわ。ここにおりました――この家に」
「ほう!」警部の目がきらりと光った。「その事実をお手伝いに――たしかお宅のお手伝いは一人だけでしたね――確認してもらえますか?」
「いいえ、ヒルダは出かけておりました。毎週きまった日に半日の暇をやっております」
「なるほど」
「ですから残念ですけれど、わたくしの言葉を信じて下さるほかありませんわね」とミセス・レストレンジは快活な口調でいった。
「午後じゅう、ずっと在宅しておられたと確言なさるんですね?」
「午後六時から七時までとおっしゃいましたね、警部さん。午後はやくにちょっと散歩に出ましたが、五時少し前に帰宅しておりました」
「するとあるご婦人――たとえばミス・ハートネルが六時ごろこちらに伺ってベルを鳴らしたがどなたも出ていらっしゃらず、仕方なく帰ったといっておられるとすると、それはそのご婦人の思い違いということでしょうか?」
「いいえ、とんでもない」とミセス・レストレンジは大きく首を振った。
「しかし――」
「お手伝いがいれば、留守だといってもらえばすみますが、誰かに出てもらおうにもあいにく一人きりということもございます。たまたまお客に会いたくない場合には――ベルが鳴ってもほうっておくほかございませんわね」
スラック警部は少々ひるんだようだった。
「年輩のご婦人のお相手ってとても退屈ですから――とくにミス・ハートネルは。あのかた、あのかた諦《あきら》めてお帰りになる前に六回ぐらいベルをお鳴らしになったに違いありませんわ」こういってミセス・レストレンジは婉然《えんぜん》とスラック警部にほほえみかけた。
警部は矛先《ほこさき》を転じた。
「とすると、その時間に奥さんが外を歩いていらっしゃるのを見たという者がいるとすれば――」
「でもそれは仮定にすぎませんのでしょう?」
ミセス・レストレンジはとっさに警部の虚を突いて切り返した。
「そんなところ、どなたもごらんになったはずはありませんわ。だってわたくし、ずっと家にいたんですから」
「なるほどね」
警部は椅子を少し進めた。
「さて私の聞いたところでは、ミセス・レストレンジ、プロザローさんがなくなる前の晩、あなたはオールド・ホールを訪問なさったそうですね?」
ミセス・レストレンジは落ちついた声音で答えた。「そのとおりですわ」
「どういう性質の訪問だったのか――お話し下さるわけにはいかないでしょうか?」
「プライヴェートな事柄に関してでございましたからね、警部さん」
「プライヴェートな事柄とはどういうたぐいのことか、当方としてもぜひともお話し願いたいのですが」
「まあ、もちろん、お話しするつもりはありませんわ。あの晩、プロザローさんにお目にかかってお話ししたことは、今度の事件とは何一つ関係がないとだけ、申し上げておきましょう」
「関係があるかないか、それを判断するのはあなたではないと思いますがね」
「いずれにせよ、わたくしの言葉を信じていただくほかございませんわ、警部さん」
「どうもあらゆることに関して、私はあなたのおっしゃることをそのまま信じるほかないようですな」
「そのようですわね」とあいかわらず物静かな笑みをたたえてミセス・レストレンジはいった。
スラック警部は顔を真赤にした。
「これは重大な問題ですぞ、ミセス・レストレンジ。私は真実を知りたいのです」こういって拳《こぶし》でテーブルをたたいた。「かならず、この手で真実を手に入れるつもりでいます」
ミセス・レストレンジは何もいわなかった。「あなたは、誰が見てもどうかと思うような立場に好きこのんで身を置いておいでになるんですよ。おわかりですか?」
ミセス・レストレンジはあいかわらず何も答えなかった。
「どのみち、検死審問の際には証言を要請されるでしょうし」
「はい」
それだけだった。平板な、無関心な声であった。警部は戦術を変えた。
「プロザロー大佐をご存じだったんですね?」
「ええ、存じあげていました」
「親しいお知り合いですか?」
返事が返ってくる前にちょっと間があった。
「何年もお目にかかっておりませんでした」
「ミセス・プロザローともお知り合いですか?」
「いいえ」
「失礼ですが、よその家を訪問するにはちょっと変った時刻においでになったものですね」
「とくに変った時刻とも思いませんけれど」
「とおっしゃると?」
「わたくし、プロザロー大佐お一人にお目にかかろうと思っておりましたから。奥さまにも、お嬢さまにも、お会いするつもりはございませんでした。わたくしの用向きには、ああした時間がいちばんいいと思いましたんですの」
「奥さんや娘さんに会いたくないというのはどういうわけです?」
「それは警部さん、わたくしの個人的な問題でございますわ」
「では、これ以上は何もいう気はないと?」
「はい、ぜんぜん」
スラック警部は立ち上がった。
「わるいことはいいません、奥さん、気をつけないとのっぴきならぬ立場に立たされますよ。後悔、先に立たずということもありますからね」
ミセス・レストレンジは朗かに笑った。私はスラックに、こういうたちの女性には威しは利かないといってやりたかった。
「さて」とスラックは勿体《もったい》ぶった様子で立ち上がった。「こんなことになるのなら警告してくれればよかったのになどと後からおっしゃっても知りませんぞ。では失礼します。警察は全力をあげて真相を突きとめる所存でおります」
スラックが帰って行くと、ミセス・レストレンジは立ち上がって私に手を差し伸べた。
「あなたさまにもやはりお帰りいただきましょう――ええ、そのほうがよさそうですわ。もう忠告を伺う段階ではなかったんですのね。わたくし、自分の役割をすでに選択してしまいました」
こういって少し淋しげに繰り返した。
「すでに選択してしまったのですわ」
十六
戸口の前の段のところで私はへイドックと行き会った。ヘイドックは、門を出ようとしているスラックの後ろ姿を睨みつけるようにしていった。「あいつ、あの人に何かききにきたのかね?」
「ああ」
「態度は礼儀正しかったろうね?」
スラックは礼儀などという社交術を身につけている男ではないと私は思ったが、それでも彼としてはせいぜい慇懃《いんぎん》にふるまっているつもりだったのだろうし、ただでさえ、危惧《きぐ》に顔をかげらせ、心を乱しているへイドックをこれ以上刺激する気もしなかった。
私の答にへイドックは軽くうなずいて、家の中に入って行った。私はそのまま村の通りを歩いて、ほどなくスラック警部に追いついた。私がくることを予期してわざと歩みを遅らせていたのかもしれない。めぼしい情報を入手するためなら虫の好かない人間にでも接触する――スラックはそういう男だ。
「あのレストレンジとかいう奥さんのことですがね、何か知っていますか?」と彼は単刀直入にいった。そして私が何も知らないと答えると、重ねてきいた。「なぜこの土地にきたかということについて、打ち明け話をしたことはないんですね?」
「ありませんよ」
「それなのに訪問なさった」とスラックは食いさがった。
「教区の住民を訪ねるのも牧師の義務ですから」ミセス・レストレンジの乞いを受けて訪問したのだということは伏せて、私は答えた。
「ふむ。まあ、そうでしょうな」スラックは彼自身のさっきの敗退についてやはり話さずにはいられなくなったようで、しばらくしてまた言葉をついだ。「どう考えてもおかしいですよ、ああいう女がここで暮らすようになったってのは」
「そうですかね」
「私にいわせりゃ、目的はおそらく『恐喝』だな。プロザロー大佐は嘘も隠しもないあれだけの人間だということで通っていたんだから、考えてみりゃ理屈に合わんようですがね。しかし人間、影の部分についてはわかりませんからね。教区委員の中にだって、二重の生活を送ってきた連中は掃いて捨てるほどいまさあ」
ミス・マープルが同じ意味のことをいっていたのを思い出して、私はきき返した。
「本気でそう思っているんですか?」
「ま、そう考えてみると事実といちおう、符合しますからね。身なりのいい、スマートな女性が何だってこんな辺鄙《へんぴ》な小さな村に引っ越してきたのか? なぜ、あんな妙な時間にプロザロー大佐に会いに行ったのか? 奥さんや娘さんに会うことをわざわざ避けたのはどうしてか? ね、恐喝が目的とすると、何もかもつじつまが合うじゃないですか。そりゃ自分からそいつを認めるのはまずいですよ。恐喝は刑事的な犯罪なんですから。しかしいずれかならず口を割らせてみせますとも。事件に重大なつながりがあるかもしれませんしね。プロザロー大佐の過去に暗い秘密が――何らか破廉恥な内緒ごとがあったとします――そうすりゃ、こいつはいい金蔓《かねずる》じゃないですか」
それもそうだ――と私は思った。スラックはまたいった。
「オールド・ホールの執事を問いつめてみたんですよ――プロザロー大佐とあのレストレンジって女との話を聞きかじっていないともかぎらないと思って。執事ってやつは、ときとして思いもよらぬことを小耳にはさんでいますからな。ところが奴《やっこ》さん、どういう話が二人の間でかわされたのか、見当もつかないって言いきりましてね。ついでですがあの執事は、彼女を通したことで大佐の機嫌を損じてやめることになったようですよ。大佐は余計なことをしたといって、執事をこっぴどく叱りつけたらしいですな。執事も負けていず、そんな理不尽なことをいうならこっちからやめさせてもらうといい返したそうで。もともと気に染まぬ勤め口だったし、かなり前からやめようと考えていたといってますよ」
「ほう」
「大佐に恨みをいだいていた人間が、もう一人ふえたってことですかな」
「まさか、あの執事を本気で疑っているわけじゃないでしょうね? 名は何ていいましたっけね?」
「リーヴズというんです。当方としてはべつに凝ってはいません。しかしひょっとしてひょっとするってこともありますしね。ばかに人当りのいい、そつのないあの態度はどうも気に入りませんな」
リーヴズのほうではスラック警部の態度をどう思っているだろう?
「これから運転手に当ってみるつもりでいるんです」
「でしたら、あなたの車に便乗させて下さいませんか。ミセス・プロザローとちょっと会いたいので」
「何の用があるんです?」
「葬儀の打ち合わせですよ」
「ああ!」拍子抜けしたような声だった。「検死審問は明日の土曜日ですよ」
「そうでしたね。葬儀はたぶん火曜日ということになるでしょう」
スラック警部は無遠慮な態度を取りすぎたと少々反省しているらしく、埋め合わせのつもりか、お望みなら運転手のマニングに会うときに同席しても構わないといった。
マニングは二十五、六歳の、感じのいい青年で、スラックをいささかこわがっているようだった。
「きみに二、三ききたいことがあるんだが」
「はあ――ど、どうか――な、なんでも」とマニングはへどもどといった。
彼自身が殺人犯だったとしてもこれほどではあるまいと思われるほど怯《おび》えていた。
「きみは昨日、ご主人を乗せて村に行ったね?」
「はい」
「何時だった?」
「五時半です」
「奥さんもいっしょに?」
「はい」
「村には直行したのかね?」
「はい」
「途中でどこかに寄ったりはしなかったんだね?」
「いえ、どこにも」
「村に着いてからどうした?」
「旦那さまは車をおおりになると、帰りは歩くからとおっしゃいました。奥さまは少し買物をなさって、車に買物包みをお入れになり、後はもういいといわれました。それで私はホールにもどったのです」
「奥さんを村に残してかね?」
「はい」
「何時に奥さんと別れた?」
「六時十五分です。十五分ちょうどでした」
「どこで?」
「教会の前でした」
「大佐のことだが、どこに行くつもりか、話していたかね?」
「獣医さんに会うと、いっておられました。馬のうちの一頭のことで相談があるとかで」
「なるほど。それできみはまっすぐここに帰ってきたんだね?」
「はい」
「オールド・ホールには出入口が二つあったっけね? 南の門番小屋のわきと北の門番小屋の所と。村に行くには南門から出るんだね?」
「はい、いつもそうしています」
「帰り道も同じだったんだね?」
「はい」
「ふむ。さしあたってききたいのは、そんなところだな。ああ、お嬢さんがこられた!」
レティスは、例によって空中をふわふわと漂っているような足取りで近づいてきた。
「マニング、あたし、フィアットを使いたいの。エンジンをかけておいてくれる?」
「かしこまりました、お嬢さま」
マニングはフィアットのボンネットを持ち上げた。
「ちょっと待って下さいませんか、お嬢さん」とスラックが声をかけた。「昨日の午後の行動について、みなさんの記録を取る必要がありましてね。お話しいただけませんか? べつにどうってことはないんですが」
レティスはまじまじと警部の顔を見た。
「あたしって、時間の観念がまるでないのよ」
「昨日は、昼食後すぐ出かけられたそうですが?」
レティスはうなずいた。
「どちらへ行かれました?」
「テニスをしに」
「誰とです?」
「ハートリー・ネピア兄妹《きょうだい》とよ」
「マッチ・ベナムの?」
「ええ」
「お帰りは何時でしたか?」
「知らないわ。時間はいつも気にしないっていったでしょ?」
「レティス、あなたが帰ってきたのは」と私が口をはさんだ。「七時半ごろだったと思うよ」
「そうね、帰ってきたらあの騒ぎだったんですもの。アンが取り乱してグリゼルダにいたわられていたわ」
「ありがとうございます、お嬢さん」とスラックはいった。「結構です」
「変なの」とレティスは呟《つぶや》いた。「つまらないこと、きくのね」
レティスはフィアットのほうに歩きだした。
警部はそれとなく自分の額《ひたい》に手をやって私にささやいた。
「あの娘、ここが足りないんですかね?」
「とんでもない」と私は答えた。「そんなふうに見られたがっているだけですよ」
「さてと、今度はお手伝いたちに会ってきますかな」
スラックという男は義理にも好きになれないが、そのエネルギーには感心するほかない。
スラックが立ち去ると私はリーヴズに、奥さまにお目にかかりたいのだがといった。
「お部屋で横になっておいでだと思いますが」
「だったらまたにしようか」
「少々お待ち下さいますか? 申し上げてまいります。奥さまはお昼食のときにも、牧師さまにお会いしなければいけないとおっしゃっておいででしたから」
リーヴズは私を客間に案内した。窓のブラインドがすっかりおりていたので室内は暗く、リーヴズは電燈をつけた。
「今度の事件は痛ましいかぎりだね」と私はいった。
「はあ」とリーヴズはうやうやしく、しかし冷やかにいった。
私は思わずその顔を見た。謹直なその物腰のかげに、いったいどんな感情がひそんでいるのだろうか? この男は何か知っているのか? その気になれば重要な事実を告げることができるのか? 訓練の行き届いた使用人の装っているさりげない表情ほど、人間らしい温かさと縁遠いものはない。
「ほかに私に何か?」
型どおりの言葉の背後には、一刻もはやくこの場を立ち去りたいという願望が隠されているのかもしれない。
「いや、もういいよ」
いくらもたたないうちにアン・プロザローが入ってきた。私たちは葬儀について相談し、二、三のことを取り決めた。
「ヘイドック先生って、本当にご親切なかたですわね」用談が終ったとき、アンがしみじみいった。
「ええ、あんなにいい男はめったにいませんよ」
「びっくりするほど思いやりぶかく心をつかって下さいましてね。でも、何だかとても悲しそうなお顔をしていらっしゃるようで」
私自身はヘイドックのことを悲しそうだと思ったことは一度もなかったので、意外に思いつつ答えた。
「そうですかね。まるで気がつきませんでしたが」
「あたくしも今日はじめてそう思ったんですの」
「心に悩みをかかえていると、いままで見えなかったものが見えてくるんでしょうね」
「おっしゃるとおりですわ」アンはしばらく沈黙していた後にいった。「クレメントさま、一つどうしてもわからないことがありますの。もしもあたくしがあの場を離れた直後に主人が射殺されたのだとしたら、どうして銃声を聞かなかったんでしょう?」
「警察は、犯行時間はもっと後だったのではないかと考えているようですよ。そう考える理由もありましてね」
「でも手紙には六時二十分と書いてありましたわ」
「あれはべつな人間が――たぶん犯人が――後で書き加えたのかもしれません」
アンの顔はさっと青ざめた。
「時刻の部分はご主人の筆蹟《ひつせき》ではないという気がなさいませんでしたか?」
「まあ、何て恐ろしい!」
「あの手紙全体がどうもプロザローさんの筆蹟でないようにも思えますしねえ」
口から出まかせにそういったわけではなかった。少々読みにくい走り書きで、常日ごろのきちんとしたプロザロー大佐の書体とはだいぶ違っているような気がしていたのだった。
「警察では本当にもうロレンスを疑っていませんの?」
「嫌疑は完全に晴れたようですよ」
「でも、クレメントさま、いったい誰がルシアスを殺したんでしょう? 主人が人から好かれていなかったことはあたくしも知っておりますけれど、でも、本当の意味で敵と呼べるような人はいなかったと思いますわ。あの――そういった種類の敵は」
私は頭を振った。「まったくの謎《なぞ》ですね」
ミス・マープルがいった七人の疑わしい人物のことが頭に浮んだ。いったい、誰のことだろう?
さてアンと別れて後、私は自分なりの計画を実行に移すことにした。
オールド・ホールからの帰りには例の小径を取ったが、踏み越し段の所で引き返して最近誰かが踏み荒らした跡があるように思われる場所で小径から折れ、茂みを分けて進んだ。林の木々は密生しており、下生えがからみあっていて歩きにくかった。のろのろ進むうちに、あまり離れていない所を誰かが茂みを分けて歩いている気配を感じた。どうしたものかと心を決めかねて足を止めたとき、ロレンス・レディングが姿を現わした。大きな石をかかえていた。
私がよほどびっくりした顔をしたのだろう、ロレンスはどっと笑いだした。
「いや、こいつは新しい手掛りなんかじゃありませんよ。一種の手みやげです」
「手みやげ?」
「というか、接触のきっかけというか。お宅の隣のミス・マープルを訪問する口実がほしかったんですよ。聞くところによると、ミス・マープルは、丹精している日本式庭園に似合いそうな岩とか石に目がないそうですからね」
「それは本当だが、いったい、きみはあの人にどんな用事があるんだね?」
「大したことじゃありません。ただ、昨日の夕方のことで何か注目に値することがあったとすれば、ミス・マープルがきっと気づいているはずだという気がするものですからね。かならずしも事件に関係がなくても――というより事件に関係があると彼女が夢にも考えなかったことでも――構いません。何か奇妙《ウトレ》な、風変りな出来ごと、われわれに真相への手掛りを与えてくれそうな、ごくちょっとしたことがなかったか。ミス・マープル自身は警察に話すまでもないと思っているような些細《ささい》なことがね」
「そりゃまあ、ないともいえないだろうが」
「だったら、確かめてみるだけのことはあるんじゃないですかね。ぼくはこの事件の真相をとことん突きとめるつもりなんですよ、クレメントさん。誰のためでもない、アンのために。あのスラック警部にはあまり信用が置けませんからね――仕事熱心だってことは認めますが、熱心だからって頭がからっぽじゃどうしようもないですからね」
「なるほど。つまりきみは小説によく出てくる素人探偵の役を演じようというんだな。だが現実には素人がプロに太刀打ちできるかどうか、あやしいものじゃないかね」
ロレンスはきっとなって私の顔を見返したが、とつぜん笑いだした。
「じゃあ、伺いますがね、あなたご自身はいましがた、林の中で何をやっていたんですか?」
私は思わず赤面した。
「さしずめ、ぼくと同じことでしょうが? つまりぼくらは同じことを考えているんですよ。|犯人はどうやって書斎に近づいたか《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》? その一、裏道づたいにやってきて牧師館の裏門から入った。その二、玄関から入った。その三――さて、それ以外に方法があったかどうか? ぼくはね、牧師館の庭を囲む塀の近くのどこかに、下生えを踏み荒らした跡がないか、調べてみようと思ったんです」
「私もじつは同じことを考えたんだよ」
「もっとも本当のところ、下生えを調べるまでには至らなかったんですよ。まずミス・マープルに会って、昨日の夕方、ぽくらがアトリエにいる間に裏道づたいにやってきた者がいなかったか、確かめてみようと思ったものですからね」
私は首を横に振った。「ミス・マープルは、誰も通らなかったとはっきり断言していたよ」
「そう、ミス・マープルが考えているような意味では誰もね。途方もない言いぐさのように響くかもしれませんが、あなたにもぼくのいう意味はわかると思いますよ。たとえば郵便配達とか、牛乳配達とか、注文の品を届けにきた肉屋の店員とかが通りかかった場合はどうでしょう? 取りたてて問題にしないんじゃないでしょうか?」
「きみは最近G・K・チェスタートン〔ブラウン神父もののミステリで知られる作家〕の作品を読んでいたんだろう?」と私がいうとロレンスは敢えて否定しなかった。
「とにかくひょっとしたら――とは考えられませんか?」
「そりゃ、まあね」
それ以上の議論はやめにして、私たちは連れだってミス・マープルの家を訪れることにした。ミス・マープルはちょうど庭仕事をしていたらしく、私たちが踏み越し段を越えたとき、声をかけてきた。
「ね」とロレンスはささやいた。「あの人は誰一人見落しゃしないんですよ」
ミス・マープルは愛想よく私たちを迎えたがロレンスが大真面目な顔で差し出した大きな石を見て、ことのほか喜んだ。
「まあ、ご親切に、レディングさん、お心にかけて下さってありがとうございます」
これに勇気を得て、ロレンスはさっそく質問を開始した。ミス・マープルはじっと耳を傾けていた。
「ええ、あなたのおっしゃる意味はわかりますし、わたしも同感ですわ。そういう種類のことって、誰もことさら口にすることをしませんし、いう必要もないと思うのがふつうですものね。でも、この場合はそうしたことはありませんでしたわ。まったく」
「たしかですか、ミス・マープル?」
「ええ、それはもう」
「あの午後、誰かが小径から折れて林に入って行きませんでしたか?」と私もきいてみた。「それとも林の中から出てきた人影でもごらんにならなかったでしょうか?」
「ええ、ええ、かなりたくさんの人が出たり入ったりしていましたよ。まずストーン博士とミス・クラムがお通りになりましたわ。あれは発掘地に行く近道ですから。二時少し過ぎでしたね。ストーン博士は後で同じ道をもどっていらっしゃいました。それはレディングさん、あなたもご存じでしょう? 博士は、あなたとミセス・プロザローに行き会われていっしょに歩いていらっしゃいましたもの」
「ところで」と私はいった。「例の銃声ですが――あなたが聞かれたという。あれはたぶん、こちらのレディング氏とミセス・プロザローの耳にも入ったはずですよね」こういってロレンスの顔を見るとロレンスは眉を寄せながら答えた。
「ええ、聞いたような気がします。一発だったか、二発だったか」
「わたしは一発しか、聞きませんでしたけど」とミス・マープルがいった。
「ぼくの場合は、そんな音を聞いたような気がするって程度ですがね。チェッ、いまいましいな、思い出せるといいんだが。知っていたらなあ。何しろ、ぼくはその――すっかり――」
いいさしてロレンスはどぎまぎした様子で口をつぐんだ。
私はさりげなく咳払《せきばら》いをし、ミス・マープルはミス・マープルで少し取り澄ました顔で話題を変えた。
「スラック警部さんは、その銃声が聞こえたのはレディングさんとミセス・プロザローがアトリエから出ていらっしゃる前だったか、それとも後だったか、わたしにいわせようとしてなさいましてね。でも正直いって、わたしにもはっきりしたことは申し上げられませんでしたの。後だったような気がするんですけれどね。考えれば考えるほど、そんな印象が強まるようで」
「とすると、どっちみち、かのストーン博士はシロってわけだな」とロレンスはほっと溜息《ためいき》をついた。「もっともあの人がプロザローを射殺する理由なんて、何一つありゃしませんがね」
「でもねえ」とミス・マープルがいった。「慎重を期するには、誰についても少しばかり疑ってかかるのがよろしいんじゃございませんこと? ほんといって、どんなことだってぜったいにたしかとはいえないんですから」
いかにもミス・マープルらしい言葉だった。私はロレンスに、銃声についてはミス・マープルと同じ意見かときいてみた。
「さあね、はっきりしたことはいえませんね。ごくありきたりの音でしたから。ぽくらがアトリエの中にいた間のことだったような気はしますが。それだったら当然音が消されるわけだし――気に留めない可能性は大ありですからね」
気づかなかったのにはべつな理由がある。単に銃声が消されて聞きとりにくかったからではなく――と私は心中、苦笑した。
「アンにもきいてみましょう」とロレンスはいった。「アンなら覚えているかもしれませんから。ところでもう一つ、説明を要すると思われる奇妙な事実があるんですがね。わがセント・メアリ・ミード村のあの謎の女性、ミセス・レストレンジが水曜の夕食後、プロザローを訪ねているんですよ。どんな用向きの訪問か、誰一人知らないようです。しかもプロザローはそれについてはアンにも、レティスにも、何一つ話していないんですよ」
「理由は牧師さまがご存じではないでしょうか」とミス・マープルがいった。
私がミセス・レストレンジを訪問したことを、いったい、どうして知っているんだろう? まったく薄気味わるいくらい、何でも心得ている人だ。
私は首を横に振って、あいにくその理由については見当さえつかないと答えた。
「スラック警部はどういっておいでですの?」とミス・マープルがきいた。
「例によって高飛車な態度で執事を問いつめていましたが、あの執事はわざわざ立ち聞きするほど好奇心の強い人間ではなかったようです。そんなわけで――誰一人知らないんですよ」
「でも、何か聞きこんでいる者が誰かしらかならずいると思いますわ。そうじゃないでしょうか。世の中、えてしてそうしたものですからね。そうそう、こういうことを調べるのはレディングさんに限りますわ。ねえ?」
「しかし、ミセス・プロザローは何も知らないんですし」と私はいった。
「ミセス・プロザローじゃございませんわ。オールド・ホールのお手伝いたちですよ。ああいう人たちって、何であれ警察に話すのをとてもいやがりますけれど、でも若いハンサムな紳士なら話はべつですわ――無躾《ぶしつけ》なことをいってごめんなさいましね、レディングさん。でも不当な嫌疑を受けた人に対しては自然と同情が集まりますしね。あなたがちょっと水を向けてごらんになれば、きっと話してくれますとも」
「夕方にでも出かけてきいてみましょう」とロレンスは勢いこんでいった。「ありがとうございます、ミス・マープル、いいヒントを与えて下さって。そうだな、牧師さんと計画している用事がすんだらさっそく行ってみます」
そうだった。どうせなら、例の仕事をはやいとこすませてしまうほうがいいと、私はミス・マープルに別れを告げてロレンスとともにもう一度林の中に入って行った。
小径を歩いて行くと、誰かがつい近ごろ右手のほうへと折れた形跡の見える場所にさしかかった。ロレンスは、自分もそう思ったのだがどうやら行き止りのようだった、しかし思い違いかもしれないから、念のためにもう一度このまま進んでみようといった。
たしかに彼のいうとおり、十一、二ヤードばかり行くと下生えが踏みしだかれている形跡はまったく消えてしまった。ロレンスは最前、ここまできて小径へともどり、私と出会ったのだった。
ふたたび小径に出ると、私たちはもう少し先へ進んだ。しばらくするとまた、誰かが茂みを分けて歩いたらしく思われる場所に出た。ほとんど気づかないくらいにかすかな形跡だったが、たしかに誰かがここを通ったに違いない。さっきより有望そうだ。そんなふうにして迂回《うかい》しながら、私たちはしだいに牧師館のほうへと近づいていた。茂みは、牧師館との境の塀のすぐきわまで密生しており、塀はかなり高く、てっペんにガラス瓶のかけらを並べてある。誰かが梯子《はしご》を掛けたとすれば跡が残っているはずだった。
塀づたいにゆっくり進んでいたときだった。小枝の折れる、ピシリという音がした。委細構わず、もつれあっている灌木《かんぼく》をしゃにむに分けて進むうちにスラック警部とばったり顔を合せた。
「あなたでしたか」と彼はいった。「おや、レディングさんも。いったい、どういう気です? こんなところで何をやっているんですね?」
少ししょげかえりながら、私たちはこもごもに説明した。
「なるほどね」とスラックはいった。「警察だって、みなさんが考えているほどの阿呆《あほう》の寄り合いじゃない。私もあなたがたと同じことを考えたんですよ。ここにきて一時間ばかりになりますかな。ところでちょっとした発見をしたんですが教えてあげましょうか?」
「どうぞ」と私はおとなしく答えた。
「プロザロー大佐を殺した人間が誰であろうと、この道は通っていませんよ。塀のこっち側にも、あっち側にも、何の痕跡《こんせき》もないんですから。犯人は玄関から侵入したんです。ほかには考えられない」
「まさか、そんな!」と私は叫んだ。
「どうしてまさかなんです? お宅の玄関は四、六時中開けっぱなしだ。その気になれば誰だって入って行ける。台所にいる人間に見られる気遣いもない。あなたはうまいこと誘い出されていたわけだし、奥さんはロンドン、デニス君はテニス・パーティ、犯人は何もかもちゃんと承知していたんでさ。簡単しごくじゃないですか? それだったら村を抜ける必要もない。牧師館の門の向い側は野道です。あの野道からなら、容易に林の中に逃げこめるし、適当な場所に出ることもできる。ミセス・プライス・リドリーがたまたま門口に出ていればべつですが、そうでなければ誰にも姿を見られずにすみます。その点、塀を乗り越えるよりずっと安全です。なぜって、ミセス・プライス・リドリーの家の二階の横の窓からのぞけば、この塀はほとんどまる見えでしょうからね。どう考えても、犯人は玄関から侵入したに違いないですな」
たぶん、スラックのいうとおりだろう。
十七
翌朝スラック警部がやってきた。前とは違って、だいぶ態度を和らげているようだった。そのうちには、あの時計の一件も忘れてしまうのではないだろうか。
「やあ、こんにちは。お宅にかかってきた例の電話ですがね、どこからかけたのか、やっと突きとめましたよ」
「本当ですか?」と私は身を乗り出した。
「それがどうも妙なんですよ。オールド・ホールの北門の門番の家からなんです。あそこにはいまのところ誰も住んでいません。門番は最近、年金をもらうことになってやめたそうで、代りの門番はまだきていませんでね。つまりまったくの無人だから、電話をかけるのに好都合だったんでしょう。裏手の窓が開いていましたっけ。電話機からは指紋は検出されませんでした――きれいに拭いてありましてね。こいつは意味深長ですな」
「どういうことです?」
「つまりあの電話は、あなたを牧師館から誘いだす魂胆でかけたものなんですよ。したがってプロザローさん殺害は、前もって周到に計画されていたことになります。毒にも薬にもならん単なるいたずらだったら、指紋をああまで入念に拭き取る手間はかけないでしょうから」
「まあ、そうでしょうね」
「犯人はオールド・ホールとその周辺を熟知している人間だということも、これではっきりしたわけです。電話をかけたのは、むろん、ミセス・プロザローではありません。あの午後の彼女の行動を逐一当ってみましたが、五時半まではたしかに在宅していたと六人の使用人が口を揃《そろ》えていっています。五時半に車を命じて夫妻で村に行き、大佐は馬のことで獣医のクウィントンに会い、奥さんは食料品屋と魚屋に寄って注文をすませ、それから裏道づたいに牧師館に向った。ミス・マープルと会ったのはそのときです。どの店の者も一様に、ミセス・プロザローはハンドバッグはもっていなかったと証言しています。やっぱり、ミス・マープルのいうとおりだったんですな」
「そういうことなんです、たいていの場合」と私は控え目な口調でいった。
「プロザロー大佐の娘さんは五時半にはマッチ・ベナムにいたようです」
「それはたしかです。私の甥《おい》がいっしょでしたから」
「とすると、娘さんには問題はないと。小間使にもあやしいふしはないらしい。ヒステリー気味で取り乱してはいましたが、まあ、無理もありますまい。もちろん、執事からは目を放さずにいるつもりです――やめるといいだしていたおりでもありますしね。ですが、あの男も何も知らんのじゃないですかね」
「せっかく苦労されたのに収穫はあまりなかったようですね、警部さん」
「それがそうともいいきれんのですよ。一つ、すこぶる奇妙な事実が判明しましてね――まったく予想外の事実といっていいでしょう」
「どういうことでしょう?」
「お宅の近くのミセス・プライス・リドリーが、きのうの朝、一騒ぎしたのを覚えておいででしょう? いたずら電話のことで?」
「ええ」
「あの電話についても、いちおう調べてみたんですがね――ミセス・プライス・リドリーをなだめるために。あれはいったい、どこからかかったと思います?」
「公衆電話からですか?」
「いいえ。驚いたことにロレンス・レディング氏の家からだったんです」
「何ですって?」
「そうなんですよ。ちょっと妙ですよね。レディング氏はこの電話とは関係ありません。六時半にはストーン博士と青猪《ブルー・ボア》館に向っていたわけで、これは村の人の多くが見ています。ところが、誰もいないはずのレディング氏の家から電話がかかった。暗示的じゃないですか? 誰かがあの家にこっそり忍びこんで電話を使ったんですよ。いったい誰が? 一日のうちにあやしい電話が二件。二つの間には関連がある――そう思わないわけにはいきませんな。二つとも、同じ人間がかけたにきまっていますよ」
「しかし、どういう目的で?」
「そいつをはっきりさせる必要がありますな。二つ目の電話は一見、これという目的もなさそうですが、何らかの意図が隠されているに違いありません。それにレディング氏の家から電話がかかったということ――これはあなた、なかなか意味深長ですよ。殺害に用いられたのもレディング氏のピストルだった。何もかも、レディング氏に疑いを投げかけるために仕組まれているんです」
「だったら最初の電話にしても、ロレンスの家からかけたらよさそうなものじゃありませんか?」
「その点についても考えてみましたよ。レディング氏の最近の午後の日課は何でしたか? 奴《やっこ》さん、オールド・ホールに日参して、娘さんをモデルに絵を描《か》いていたっていうじゃないですか。しかもオールド・ホールヘはいつも、モーターバイクで北門から入っていた。ね、電話が北門の門番の家からかかったのは、そういう狙いだったんですよ。殺人者はプロザロー氏とレディング氏との間に口論があったことを知らない者、したがってレディング氏がもう、オールド・ホールには立ち寄らないということを知らない人間です」
私はちょっと沈黙して、警部の言葉の意味を噛《か》みしめてみた。いかにも筋が通っている。ほかに考えようはなさそうだ。
「レディング氏の家の受話器からは指紋が検出されたんですか?」
「いや」とスラックはいまいましそうにいった。「通いのばあさんが昨日の朝、部屋をかたしたときに電話機をきれいに拭いちまいましてね」無念やるかたないという顔でちょっと言葉を切った。「まったく間の抜けたばばあでさ。ピストルを最後にいつ見たかということからして覚えていないんですからな。事件の朝、家にあったかどうかさえ、はっきりしないんです。『さあねえ、どうだったか』の一点ばりで。ああいう手合いはみんな似たりよったりなんですなあ!
ストーン博士にも、いちおう会ってみましたよ。こっちの質問にけっこう愛想よく答えてくれましたっけ。きのうは午後二時半ごろ、ミス・クラムといっしょに例の塚というか、穴というか、発掘現場に行って夕方までいたそうです。ストーン博士が先に帰り、ミス・クラムは少し遅れて帰ったといってましたな。博士は銃声はまったく聞かなかったとか。もっとも、自分はもともとうっかりやでと断っていましたっけ。ま、博士の話はおおむね、警察の見解を裏づけていますよ」
「ただし警察は犯人をまだ捕まえていませんね」と私はいった。
「エヘン」とスラックは咳払いをした。「あなたのところにかかってきた電話の声は女のものだったとおっしゃいましたっけね? ミセス・プライス・リドリーヘの電話も女の声だったようです。例の銃声がその電話の直後に響いたのでなければ――私にも心当りはないわけじゃないんだが」
「というと?」
「ああ、それはまあ、いわぬに越したことはないでしょうな」
私は臆面もなくポートワインを一杯どうだと勧めた。極上の年代もののワインが手もとにあったからで、午前十一時というのはふつうはワインをたしなむ時間として適切ではないが、スラック警部はそんなことは問題にしないだろうと思った。|こく《ヽヽ》のあるワインをけしからぬ下心から勧めるのはもってのほかだが、場合が場合ゆえ、そんなことは気にしていられない。
二杯目を傾けたころにはスラックはすっかり打ち解けて、舌の回転も格段になめらかになっていた。こうしたワインの効果はまったく絶大だ。
「あなたになら、お話ししてもべつに差し支えはありますまい。ここだけのことにして下さいますね? 教区じゅうにひろまっては困るんでして」
ぜったいに人にはいわないと私は保証した。
「事件がそもそもお宅で起こったことでもあり、あなたには知る権利がおありだといってもいいでしょう」
「私もそう考えているんですよ」
「それでは申しましょう。事件の前夜、プロザロー大佐を訪問した女性についてどう思われます?」
「ミセス・レストレンジのことですか?」あまりびっくりしたので、私はつい大きな声を出してしまった。
スラックは非難がましく私の顔を見た。
「そんなにばかでかい声を出さんで下さい。ええ、私はミセス・レストレンジに目をつけています。前にもいいましたっけね――プロザローさんをゆすっていたんじゃないかって」
「だからって、殺す理由にはならんでしょう。金《きん》の卵を生む鵞鳥《がちょう》を殺すようなものじゃないですか――たとえあなたの仮定が正しいとしてもですよ――もっとも私は瞬時も承服しませんが」
スラックはいささか品のわるいウィンクを私に送った。
「そりゃそうでしょう。あの人は紳士がたが庇《かば》いたくなるような女性ですからね。ですがこうは考えられませんか? ミセス・レストレンジは過去においてプロザローさんをゆすって金を引き出していた。何年もたってからたまたま彼の消息を耳にし、この村にやってきてまたもや昔の手を使おうとした。ところが、長い年月の間に情勢が変ってしまった。法律はゆすりに対して、かつてとはまったく違う断固たる態度を取るようになっている。いまでは恐喝者を告発する人間に対して、あらゆる保護の手が差し伸べられており、ゆすられている人間について新聞が実名入りで報道することさえ許されない。仮にプロザロー大佐が居直って法に訴えるといったとします。ミセス・レストレンジとしては苦境に立たされるわけです。恐喝者に対する刑罰はたいへん厳しい。今度は自分のお蔵に火がつきそうだ。切り抜けるには、相手をたちどころに消すほかない」
私は黙っていた。スラックの推論にはたしかに一理ある。ただ一つの点だけが私にとって、その仮定をとうてい認めがたいものにしていた――ミセス・レストレンジの人となりである。
「お説には同意しかねますね。ミセス・レストレンジは恐喝者というタイプではないような気がします。あの人は――古めかしい言葉ですが――『レディ』ですからね」
スラックは哀れむように私を見やり、「ははあ! いや、いいでしょう」と寛大な口調でいった。「あなたは牧師さんですからね。当然、世の中のことにはうとくていらっしゃる。『レディ』ですか! 私の知っていることの半分でも、もしもあなたが知ったらきっと目をまわされますよ」
「ミセス・レストレンジがレディだと私がいうのは、単に社会的地位のことではないんです。もっともあの人はかつてはずいぶんいい身分だったんじゃないかと思いますがね。私のいう意味は――あのように洗練された人が恐喝者になり下がるわけはないということですよ」
「あなたは私とまるで違う目であの女性を見ておられるんですな。私も男だという点ではあなたと変りないわけですが、私は同時に警察官です。人柄が洗練されているからといって、目をくらまされはしません。あの女なら、眉毛一本動かさずに人の背中にぐさりとナイフを突きさすことができるでしょうよ」
奇妙なことだが、私はミセス・レストレンジに恐喝ができるわけはないと確信していながら、殺人罪となると、あるいはという気がしないでもなかったのだ。
「しかしもちろん、ミセス・プライス・リドリーに電話をかけといて、同じ時刻にプロザロー大佐を射殺することは不可能でしょうがね」
こういい終るか終らないうちに、スラックははたと膝《ひざ》をたたいた。
「わかったぞ! それで電話をかけたんだな。一種のアリバイ作りですよ、われわれがあの電話を最初の電話と結びつけて考えるだろうと計算したんでしょう。一つ、調べてみますかな。村の若い男にいくらか掴《つか》ませて、代りに電話させたのかもしれません。そいつは自分のかけた電話が、あの殺人事件と関係があるなどとは夢にも思わなかったんでしょうがね」
スラックはそそくさと帰って行った。
「あなたに会いたいって手紙が届いてるわ――ミス・マープルから」とグリゼルダが顔をのぞかせていった。「何だかさっぱりわけのわからない文面よ――ひょろひょろした書体で、強調するつもりか、あちこちにやたら線が引いてあるの。よく読めないんだけど、用事があって家を離れるわけにいかないからきていただけないかってことらしいわ。一っ走り行って、どういうことなんだか、聞いてきて下さいな。あたしは、いつものおばあさんたちが二分ぐらいしたらくるはずだから行けないのよ。そうでなかったら自分で行ってみるんだけど。あたし、おばあさんって大嫌いよ――リューマチで足が痛むとさんざん泣きごとをいったり、ときによると腫《は》れた足を見せるといって聞かなかったりするんですもの。検死審問が午後からでよかったわね、あなた、おかげで少年クラブのクリケット試合を見に行かなくてすむわけじゃないの」
ミス・マープルが私にいったい何の用があるのだろうと訝《いぶか》りつつ、私は急いで家を出た。
ミス・マープルはあたふたと私を迎えた。まったく|あたふた《ヽヽヽヽ》――としか形容しようのない慌てようで、顔はピンク色に上気し、いうことも少々とりとめがなかった。
「甥がきますんですの」とミス・マープルは説明した。「作家のレイモンド・ウェストですわ。今日、着くといってよこしましたのよ。まあ、一騒ぎですわ。何もかもわたしが気をくばりませんことには。お手伝い任せじゃ、ベッドをちゃんと空気に当ててくれるかどうかさえ、たしかじゃありませんもの。もちろん、夕食にはお肉科理を考えなくてはね。男の人って、お肉をびっくりするほどたくさんいただきますからねえ。それから飲みもの。手持ちがあったはずだけれど――ああ、そうそうサイホンも」
「何か私にできることがあれば――」と私はいいかけたが、すぐ遮られた。
「まあ、ご親切にどうもありがとうございます、牧師さま。でも手伝っていただこうと思っていらしていただいたわけではありませんのよ。ほんといって、時間はたっぷりあるんですの。ありがたいことにレイモンドはパイプも、煙草も、自分で持ってくるはずですから、どういう煙草を買ったらいいか、気をもむ必要もありませんしね。でもレイモンドがくると困ることもありますんですよ。煙草の煙がカーテンにこもると、臭いがなかなか抜けませんからね。もちろん毎朝はやく窓を開けて、カーテンをよくふるいますけれど。レイモンドはとても寝坊ですの――作家って大体、朝は苦手みたいですわね。あの人、たいへん気の利いた本を書くようですが、世間ってほんとのところ、あの人の小説に出てくる人物みたいに不愉快な人間ばかりでもないと思いますよ。頭のいい若い人たちって人生について、じつはほとんど何も知らないんじゃないでしょうかね」
「甥御さんとごいっしょに牧師館で食事でもいかがです?」と私はきいた。いったい何のために呼び出されたのか、あいかわらずまるで察しがつかなかった。
「あら、いいえ、そんなご心配いただかないでもけっこうでございますよ。でもまあ、ご親切にありがとうございます」
「しかし何か私に用事がおありになったのでは?」と私はひっこみがつかない気持でいった。
「あら、そうでしたわね。あまり慌てていたもので、肝心のことを忘れてしまって」ここで唐突に言葉を切って、お手伝いに声を掛けた。「エミリー、エミリー! そのシーツじゃないのよ。頭文字のぬいとりの入っている、フリルのあるのを出してちょうだい。炉にあまり近づけないようにね」
ドアを閉めると、ミス・マープルは足音を忍ばせるようにしてもどってきた。
「じつはゆうべ、少々おかしなことが起こったもので、お耳に入れておいたほうがよろしいのではないかと思いましてね。わたしにはいまのところ、さっぱりわけがわからないんですの。まあ、お聞き下さいまし。ゆうべはなかなか眠れませんでね――今度の痛ましい事件についてあれこれ考えているうちに目が冴《さ》えてしまいまして。それで起きて、何気なく窓の外を見ましたの。で、何が見えたとお思いになります?」
私は物問いたげにミス・マープルの顔を見た。
「グラディス・クラムでしたのよ」とミス・マープルは力をこめていった。「ほんとですの。スーツケースを持って林の中に入って行くところでしたわ」
「スーツケースを?」
「奇妙でございましょう? 午前二時にスーツケースを持って林の中に入って行くなんて、いったい、どういうことでしょうかしら? 事件とは何の関係もないとは思いますけれど、どう考えてもふつうじゃございませんでしょう? わたしたちみんな『ふつうじゃないこと』には当分目を光らせていなくてはと考えはじめた矢先のことですしね」
「まったくびっくりしますね」と私はいった。「ひょっとして、古墳の中で一夜を過ごそうとでも思い立ったんでしょうかね?」
「思い立ったかどうかはとにかく、そうしなかったのはたしかですわ。だってすぐ引き返してきましたもの。しかも、スーツケースはもう持っていませんでしたのよ」
十八
検死審問はその日(土曜日)の午後二時に青猪《ブルー・ボア》館で行われた。いうまでもないことだが、セント・メアリ・ミード村とその周辺の住人は興奮にわきかえっていた。ここではすくなくとも十五年来、殺人事件など起こったためしがない。プロザロー大佐のような金持の紳士が、所もあろうに牧師館の書斎で殺されたというのだから村人にとっては千載一遇のセンセーショナルな出来ごとであった。
私の耳に入ることを予期してではないだろうが、人々の取りかわすさまざまな言葉がおりにふれて聞こえてきた。
「あそこに牧師さんがいるじゃない。青い顔してるみたいね。牧師さんも人殺しに手を貸したのかしら。だって、事件は牧師館で起こったのよ」
「いい加減になさいよ、メアリ・アダムズ、そんなひどいこと、いっていいの? プロザローさんが殺されたときには、牧師さまはヘンリー・アボットを訪問してらしたっていうじゃないの」
「でも牧師さんとプロザロー大佐は口論してたそうよ。あら、あれ、メアリ・ヒルだわ。見てよ、気取っちゃって。殺人現場の家に住みこんでるからって何さ。しっ、検死官がきたわ」
検死官は隣町マッチ・ベナムのロバーツ博士だった。席につくと咳払《せきばら》いをし、眼鏡を直して反《そ》り身になった。
証言のすべてをここで繰り返しても退屈なだけだろうから、大ざっぱなことだけを記すことにする。まずロレンス・レディングが、死体を発見した状況について証言し、凶器のピストルを自分のものと認めた。自分の記憶では最後にそのピストルを見たのは事件の二日前の火曜日だったと思う――そう彼はいった。棚の上に載せておいたが、家のドアにはいつも鍵を掛けない習慣だとも。
ミセス・プロザローは、夫を最後に見たのは六時十五分前ごろ、村の通りで別れたときだと証言した。牧師館に寄っていっしょに帰ることにしていたので、六時十五分すぎごろ、裏道から庭を通って牧師館の母屋に行った。書斎からは話し声は聞こえてこず、誰もいないものと思った。しかし夫が机に向って座っていたとしたら当然姿は見えなかっただろう――そんなふうにアン・プロザローは述べた。「主人はあの日もいつもと変らず、健康で元気でした。いいえ、主人に恨みをいだいているような人の心当りはありません」
次が私の番で、プロザローとの約束、偽電話でアボット家に呼びだされた次第などを証言した。ついで死体を発見して、ヘイドック医師を呼んだことを述べた。
「クレメントさん、プロザロー大佐があの夜お宅を訪ねる予定だったということを、どのぐらいの人が知っていましたか?」
「かなりの数の人に知られていたと思います。私の妻や甥はもちろんのこと。私が朝、村で会ったときにプロザロー大佐自身がそのことに触れておられ、それを何人かが聞いていたと思うんです。プロザローさんは少し耳が遠いので、だいぶ大きな声で話しておられましたから」
「つまり大勢が知っていた。誰が知っていたとしてもふしぎはないということですね?」
そのとおりだと私は答えた。
次の証人はヘイドックだった。彼はなかんずく重要な証人で、医者としての立場からことこまかに死体の外見、傷の正確な状態について証言した。犯行時刻はおよそ六時二十分から六時三十分の間だと思う――ぎりぎり六時三十五分までで、それ以後ということはぜったいにない。自殺ということもありえない。あの傷の状態からして、自分で手を下したとはまったく考えられない。
スラック警部の証言はみじかくて慎重だった。彼はまず、犯行現場に呼ばれて死体をはじめて見たときの状況について説明した。プロザロー大佐が書きかけていた手紙が証拠として提出され、六時二十分という時刻に注意が喚起された。スラックは机の上でひっくり返っていた時計にも言及した。死亡時刻は暗黙のうちに六時二十二分あたりだということになった。警察は手のうちをすっかり明らかにしない方針らしかった(アン・プロザローは後に、彼女が牧師館に着いた時刻が六時二十分より少し前だったと聞こえるように配慮して証言してほしいと警察からいい含められたと私にいった)。
我が家のお手伝いのメアリが次の証人だったが、はじめからけんか腰だった。あたしは何も聞かなかったし、聞くつもりもなかった――彼女はそう述べた。「牧師さんに会いにくるお客さんがきまって殺されるってわけじゃないんだし、それにあたしだって忙しい身なんですから。プロザロー大佐は六時十五分過ぎちょうどに着きました。時計は見なかったけど、書斎に案内した後で教会の時計が鳴るのを聞いたんです。いいえ、銃声なんか、聞いちゃいません。ええ、もちろん、音はしたでしょうね。げんにプロザローさんが殺されたんですから。でも嘘《うそ》じゃありません。あたしは何も聞いちゃいないんです」
検死官はその点に関してメアリを無理に問いつめようとはしなかった。どうやらメルチェット大佐と協議のうえで審問に当っているらしかった。
ミセス・レストレンジも証人として召喚されていたが、病気のため出廷しかねるというヘイドック医師の署名のある診断書が提出された。残る証人はよぼよぼといっていいくらいの老婆で、ロレンス・レディングの家を片づけに通っているとスラックがいうミセス・アーチャーだった。
ミセス・アーチャーはピストルを示されると、レディングさんの居間の本棚の上に「いつもほうり出してあったやつ」だと証言した。最後に見たのは事件当日の木曜日だといったが、さらに問いただされると、その日の昼どき、一時十五分前に自分が帰ったときには、いつもの場所にたしかにあったと述べた。
私はスラックから聞いたことを思い出して、少々意外に思った。スラックが訊問したときにはミセス・アーチャーはすこぶる曖昧《あいまい》な答えしかしなかったようなのに、いまは打って変ってはっきり証言している。これはどういうことだろう?
最後に検死官が事件を控え目に、しかしかなりきっぱりした口調で要約した。陪審員はほとんど間《ま》を置かずに評決を出した。
「一人、もしくは数人の未知の人間による犯行」
部屋を出たとき、私は俊敏そうな、熱心な顔の、どことなく似た感じの青年の一団に気づいた。そのうちの何人かはここ数日牧師館の近くをうろついていた連中で、捕まってはたいヘんと私はあわてて青猪《ブルー・ボア》館の中に引き返した。おりよく考古学者のストーン博士とばったり出会ったので、いきなりその手を掴んだ。
「外に新聞記者連中がいるんです」と私は言葉みじかに、しかし訴えるようにいった。「あの連中に捕まると厄介なんですよ。助けて下さいませんか?」
「いいですとも、クレメントさん。二階にお出《い》で下さい」
こういってストーン博士はせまい階段を上がって、自室に私を連れて行ってくれた。ミス・クラムがタイプライターに向って熟練した手つきでキーをカタカタ叩いていたが「ようこそ」というようににっこりして、これをいいしおと仕事の手を止めた。
「ひどいじゃありませんか。誰がやったか、まだわかっていないなんてねえ。検死審問自体にも拍子抜けしましたわ――とても退屈で。はじめからお終《しま》いまで、まるで精彩を欠いていたじゃありません?」
「ではあなたもいらしてたんですか、ミス・クラム?」
「ええ、ええ、いましたとも。このあたしに気がおつきにならなかったんですの? ほんの少しも? あら、それはちょっとがっかりですわねえ。あたし、気をわるくしましてよ。男のかたなら、たとえ牧師さんだって、女性にはもっと注目なさるものですわ」
「あなたも傍聴していらしたんですか、ストーン博士?」と私はきいた。ミス・クラムの冗談めかした軽口に閉口して、矛先《ほこさき》をかわそうという一心だった。ミス・クラムのような若い女性には、いつもどぎまぎさせられる。
「いや、どうも私はああしたことにはあまり興味を感じませんのでね。もっぱら自分の道楽に没頭していまして」
「当然ですよ。興味の尽きないお仕事なんでしょうからね」
「あなたも多少はご存じで?」
私としては、その方面にはまるでうといのだと白状せざるをえなかった。
しかしストーン博士は、相手が無知を告白してもひるむたちではなかった。まるで私が、発掘こそ自分にとって唯一の楽しみだとでもいったかのように、えたりかしこし、ペらペらまくしたてはじめた。方形墳、円形墳、石器時代、青銅器時代、さらに旧石器時代や新石器時代の石棺、環状列石といった専門用語がその口からポンポンとび出した。私はおりおりうなずいて、あまりばかだと思われない程度にわかったような顔をするにとどめていたのだが、案に相違してどうやらこれが相手の意欲をいっそう掻《か》きたてたらしく、ストーンは演説口調できりなくしゃべりつづけた。小柄な男でまるい禿頭、これまたまるい赤ら顔、度のつよい眼鏡ごしににこにこ笑いかける。こっちが水を向けもしないのに、あんなに熱弁をふるう人間も珍しい。彼自身の気に入りの理論に対する賛否両論を一つ一つ取りあげて滔々《とうとう》と弁じたてるのだが、あいにくとこっちは何一つわからなかった。
プロザロー大佐との行き違いについても、彼は長々としゃべった。
「頑固で、無教養な男でしたよ」と彼はいきまいた。「死んだ人間のことをわるくいうべきでないことはわかっています。しかし死んだからって、事実は変りませんからね。まったく頑固な、ばかな男だった。二、三冊本を読んだというだけで、えらそうな口をきいてましたっけ――こっちは一生をその道にささげてきたというのにですよ。まったくの話、クレメントさん、私は一生をこの仕事にささげてきたんです。文字どおり一生を――」
興奮して唾《つば》を飛ばさんばかりだったが、グラディス・クラムが一言《ひとこと》口をはさんで現実に引きもどした。
「時間はまだ大丈夫ですの? 汽車に乗り遅れませんこと?」
「ああ、そうだった」とストーンはポケットから懐中時計をひっぱりだした。「おやおや! もう十五分前か。驚いたな!」
「先生ったら、お話に夢中におなりになると時間なんかまるで念頭におありにならないんですもの。あたしがいなかったら、ほんとにどうなさっていますかしら」
「まったくだ、グラディス、あなたのいうとおりだよ」とストーンは秘書の肩をやさしくたたいた。「この人はじつにすばらしい娘さんですよ、クレメントさん。何一つそつがないんですから。この人を見つけたことは私にとってじつに幸運でした」
「まあ、先生ったら! そんなにあたしを甘やかさないで下さいましな」
二人のやりとりを聞いているうちに私は、ストーン博士とグラディス・クラムがいずれは結婚するだろうという村の噂話《うわさばなし》を肯定せざるをえないような気分になっていた。ミス・クラムはそれなりに、なかなか賢く立ちまわっているらしい。
「さあ、もうお出かけにならないと」とミス・クラムが促した。
「そうだね。出かけよう」
博士は次の部屋に行き、スーツケースを下げてもどってきた。
「ご旅行ですか?」と私はちょっとびっくりしてきいた。
「二日ばかりロンドンに行ってきます。明日は年取った母を見舞う予定です。所用で月曜日に弁護士に会わなくてはならないんですが、火曜日にはここへもどりますよ。ところで、プロザロー大佐がなくなったことで、かねてからの取りきめに支障をきたすことはないと思うんですがね。つまり、あの古墳に関してです。われわれが仕事を続けることに、ミセス・プロザローが反対されることはないでしょうかな?」
「そんなことはありますまい」そう答えながら私は、今後オールド・ホールの実権は誰の手に握られるのだろうと思いめぐらした。プロザローの遺言書が万事をレティスの手に委《ゆだ》ねていることだってありうる。遺言書の内容がどんなものか、これは少なからず興味のある問題だ。
「家族の間にしこりができることもありますわね――誰かが死ぬと」とミス・クラムはひそかにことを好む人のしめっぽい口調でいった。「人間ってときとして、信じられないくらい根性がきたないものですから」
「さて、本当にもう出かけないといかんな」とストーンがスーツケースとひどくかさばる膝掛け、それに不細工なこうもり傘をもてあましてもたもたしているのを見かねて、私は手を貸そうとした。
「いや、どうか構わんで下さい――どうか。なに、一人で持てますよ。階下《した》に行けば誰かが運んでくれるでしょう」
しかし階下にはボーイも、下働きの男の姿も見えなかった。おおかた新聞記者連中のおごりで一杯飲んでいるんだろう。時間が切迫していたので、私は膝掛けと傘を引き受けてストーンを駅まで送って行くことにした。
ストーンは喘《あえ》ぎ喘ぎ道を急ぎながら立て続けにしゃべった。
「あいすみません――ご迷惑を掛ける気はなかったんですが――うまいこと、汽車に間に合うでしょうかね?――グラディスはいい娘《こ》です――じつにすばらしい娘です――あんなにやさしい人柄の娘が家庭的に――ひどく不幸だというのは痛ましいことです――子どものように――無邪気でしてね――年齢の違いはありますが――私とはけっこう|うま《ヽヽ》が合うんですよ……」
駅への曲がり角までくるとロレンス・レディングの住まいが見えた。一軒ぽつんと離れて立っている小さな家である。スマートな身なりの青年が二人、石段の上に立ち、もう二人ばかりが窓から家の中をのぞいていた。新聞記者連中にとってはすこぶる多忙な日であった。
「レディングはいい青年ですよ」と私はいってみた。ストーンが何と答えるか、興味があったのだ。
ストーンは息を切らせていてすぐには答えられなかったが、喘ぎ喘ぎ何か一言いった。よく聞きとれなかったので私はきき返した。
「危険な――男ですよ」
「危険?」
「そうですとも。世間を知らない――無邪気な娘は――とかくああした若い男に――なんせ、ああいう男はしょっちゅう――女のまわりをうろついて――いますからな――けしからん話です……」
察するにどうやらわれらのうるわしのグラディスは、ロレンスに浅からぬ関心を示しているらしい。
「やあ、汽車がきたぞ!」とストーンが慌てた声で叫んだ。
このころには駅のつい近くにきていたから、私たちは申し合わせたように走りだした。駅には下り列車が停車しており、ストーンがいったようにいましも上り列車が入ってくるところだった。
出札所への戸口で私たちはあかぬけた感じの若い男と衝突した。作家だというミス・マープルの甥《おい》だろう。この種の、様子のいい青年はいきなりぶつかられたりするととかくむっとした顔をするものだ。平静で物事に超然としていると自負している人間でも、他人がだしぬけに乱暴に接触してきたりしたら落ちつきを失うのは当然だろう。レイモンド・ウェスト氏がよろよろとよろけたので、私はあわてて詫《わ》びをいってプラットホームにとびこんだ。ストーンが汽車に乗りこみ、私が荷物を渡したとたん、汽車はガタンと不本意そうに車体を一つ揺すって動きだした。
私はストーンに手を振って駅を後にした。レイモンド・ウェストの姿はすでに見えなかったが、いみじくも小天使《チエラビム》という名の村の薬剤師といっしょになった。
「あぶないところで間に合いましたね。検死審問はどんなあんばいでしたか、クレメントさん?」
私は陪審員の評決を告げた。
「やっぱりね。私もそんなことだろうと思ってましたがね。ストーン博士はどこへ出かけたんですか?」
私はストーンから聞いたとおりを伝えた。
「乗り遅れないでよかったですな。もっともこの線はあまり当てになりませんがね。イギリスの鉄道ともあろうものが、恥ずかしいとしか言いようがありませんよ。いま私が乗ってきた下り列車なんぞ、十分の延着ですからね。土曜のことではあり、大して混んでもいなかったのにですよ。この間の水曜日――いや木曜日でしたかな――そう、木曜でした、たしか。ほら、殺人事件の当日ですよ。あの日もひどかった。鉄道会社に手紙を書いて強硬にねじこんでやろうと思っていた矢先にあの事件で、ころっと忘れちまいましたが。その日には私は薬剤師協会の会合に出かけたんですがね。六時五十分着がどのぐらい遅れたと思います? 三十分もですよ。三十分かっきり! 十分くらいなら、まあ、我慢しますがね。汽車が七時二十分過ぎまでに駅に着かなければ、七時半に家に着けない勘定じゃありませんか。なのに、何だって六時五十分着なんていうんです?」
「まったく」と私は呟《つぶや》いて、チェラビム氏のひとりごとともつかぬ繰りごとから逃れようと、たまたま道路の向う側をやってきたロレンズ・レディングに話があるといってそこそこに別れたのであった。
十九
「やあ、お目にかかれてよかった。ちょっと寄っていらっしゃいませんか?」とロレンスはいった。
小さな木戸から小径《こみち》を上がってドアの前に立つと、ロレンスはポケットから鍵を出して鍵穴に差し入れた。
「鍵を掛けているんだね、いまでは」
「ええ」とロレンスは苦笑しながらうなずいた。「馬が盗まれてから厩《うまや》に頑丈な扉を取りつけるたぐいですがね」ロレンスは玄関のドアを押えて私を通した。「じつはこの事件についてはどうも気に入らんふしがあるんですよ。全体に何というか――内部の者の犯行という気がしてならないんです。すくなくともぼくのあのピストルについて知っていた者の仕業《しわざ》だと思いますね。つまり犯人は――誰かは知りませんが――この家にきたことのある者に違いありません――ぼくと一杯飲んだ人間かもしれないんですよ」
「そうとも限らないと思うがね。セント・メアリ・ミード村の者なら誰でも、きみが家のどこに歯ブラシを置くか、どんな歯磨き粉を使っているか、ちゃんと知っているだろうから」
「しかしなぜ、そんなことに関心があるんですかね?」
「さあね。とにかくそれは事実だ。きみが髭剃《ひげそ》りクリームを変えれば、それだけで話題になるのさ」
「よっぽどニュースに飢えているんですね」
「そうなんだ。ここでは目覚ましいことなんて何一つ起こらないからね」
「ところが今度は起こった――それもたいへんな事件がね」
私はうなずいた。
「ですが、村じゅうにそうした噂をひろめるのは、いったい誰なんです? ぼくが髭剃りクリームを変えたとか、そういったことを?」
「ミセス・アーチャーじゃないかな」
「あのばあさんがですか? ぼくの見るところ、あのばあさんはよくいってうすのろですよ」
「それは単に貧しい人たちのカムフラージュさ」と私は説明した。「愚鈍という仮面のかげに逃避しているんだよ。ミセス・アーチャーがあれでなかなか目はしが利くってことに、きみもそのうち、気がつくだろう。ところで木曜の昼にはピストルはちゃんといつもの場所にあったと、ミセス・アーチヤーはばかに自信ありげに証言していたっけね。どうしてああ急に、はっきり断言したんだろう?」
「さあ」
「きみはどうだ? そのとおりだと思うかね?」
「それもわからないんですよ。もちものがどこにあるか、毎日家の中を歩きまわって目録を作っているわけじゃありませんから」
私は小ぢんまりした居間を見まわした。どの棚にも、テーブルにも、いろいろな品物がごたごたと載っていた。ロレンスは芸術家らしく、しごく無頓着《むとんちゃく》に身のまわりを取りちらかして暮らしているらしいが、私だったらこんな所に一時間もいたら気がおかしくなってしまうだろう。
「いったん何かなくなると、探すのは一仕事ですがね」私の視線を追ってロレンスはいった。「しかし何もかもすぐ手に取れるんです――やたらしまいこんでないですからね」
「しまいこんでないのはたしかだね。あのピストルなどは、いっそしまいこんであればよかったのかもしれないな」
「検死官にもそうしたことをいわれるんじゃないかと思っていたんですがね。ああいう連中はとんでもなく見当違いだから。譴責《けんせき》っていうか――とにかく文句をいわれることは覚悟していましたよ」
「ところで、ピストルは装填《そうてん》してあったのかね?」
ロレンスは首を振った。
「ぼくだってそれほどのうっかりやじゃありませんよ。装填はしてありませんでした。もっとも弾薬箱がいっしょに置いてありましたが」
「輪胴には六発入っていて、うち一発が発射されたらしいが」
ロレンスはうなずいた。
「いったい誰の手が引き金を引いたんでしょうかね? 臆測もけっこうですが真犯人が発見されないかぎり、ぼくの容疑は死ぬまで晴れないでしょうよ」
「まあまあ」
「文句もいいたくなりますよ」
ロレンスは眉を寄せて黙りこんだが、ややあって少し気を取り直したようにいった。
「それはそうと、ゆうべのことをお話ししましょう。ミス・マープルが大した知恵者だってことはご存じですよね」
「ああ、そのためにあまり人気がないらしいがね」
ロレンスの話はこうだった。
彼は前夜ミス・マープルの助言にしたがってオールド・ホールに行き、アンにひきあわせてもらって小間使に会った。アンは「レディングさんが何かおききになりたいことがあるんですって、ローズ」こうさりげなくいって部屋を出て行った。
ローズと向いあったとき、ロレンスは少々落ちつかないものを感じた。ローズは二十五歳の器量のいい娘だったが、澄んだ目で見つめられてロレンスは内心たじろいでいた。
「じつは――その――プロザロー大佐がなくなられたことについてなんだが――」
「はい」
「ぼくは――何とかこの事件の真相を突きとめたいんだよ」
「はい」
「ひょっとして誰かが――いや、何かちょっとしたことでもあったとして――」
ロレンスはこの問答が意に反してはかばかしく進展していないことを感じて、おせっかいなミス・マープルを心の中で詛《のろ》った。
「ローズ、ぼくはね、きみに助けてもらいたいんだよ」
「はい?」
ローズの態度はいまだに申し分のない小間使のそれだった。自分にできることがあればお手伝いしようというように礼儀正しく見上げているのだが、こっちの言葉にはまるで関心がないらしかった。
「チェッ、どうもうまくいえないな。今度のこの事件については、使用人部屋でずいぶんと話題になっているんだろう?」
こんなふうに攻撃の方法を変えたためか、ローズはいささか動揺の色を示した。
「使用人部屋と申しますと?」
「いや、家政婦の部屋とか、使用人の溜《たま》り場とか、どこでもいいんだよ。とにかくどこか、きみたちが集まってしゃべる場所でさ」
ほんのかすかだが、ローズはくすくす笑いだしそうな気配を見せた。ロレンスはそれに勇気を得ていった。
「ねえ、ローズ、きみはとても人柄のいい娘さんらしい。ぼくがどんな気持で毎日を過ごしているか、わかっているよね。ぼくは死刑になりたくないんだよ。むろん、ここのご主人を殺したのはぼくじゃない。だがたくさんの人がそう思っている。何とかぼくを助けてくれないかね?」
こういったロレンスの表情には、ローズの心をひどく揺り動かすものがあったに相違ない。形のよい頭を少し反《そ》らせてアイルランド系らしい深い青い目でじっと見つめている青年。ローズはその魅力に抗しきれなかった。
「まあ、もちろん――何かわたしどもにできることがあれば何でもいたしますとも。あなたさまが犯人だなんて、誰一人思っちゃおりませんもの。本当ですわ」
「わかっているよ。だがきみらがどう思おうと警察の目から見て、ぼくの疑いがそれだけ薄らぐわけじゃないしね」
「警察でございますか!」ローズはつくづく軽蔑しているように頭を振った。「じつのところ、わたしたちみんな、あの警部さん――スラックとかいいましたっけ――のことはあまり信用しておりません。あんな人が警部だなんて」
「そりゃまあそうだが、警察ってのはなかなか力があるからねえ。きみは、ローズ、できることがあれば何でもしようっていってくれたね。この事件については、まだはっきりしていないことがいろいろとあるような気がしてならないんだよ。たとえば事件の前の晩にプロザローさんをたずねてきた女性についてもだ」
「ミセス・レストレンジのことでございますか?」
「ああ、そうだ。あの訪問はどう考えても奇妙だという気がしてね」
「はあ。わたしどもみな、そう申しております」
「ほう、きみたちも?」
「あんなふうに夜分おいでになって、旦那さまに会いたいとおっしゃるなんて。あの奥さまについては前々からいろいろと噂もございましたし――この土地ではあのかたのことは何一つ知られておりませんし。げんにミセス・シモンズも――こちらの家政婦でございますけど――たちのわるい女にきまっているといっておりましたんですよ。でもグラディーから聞いたこともあって、わたし、どう考えてよいのやら、わからなくて」
「グラディーが何といったんだね?」
「あら――あの、べつに、何ということも――わたしたち――ただ――話しあっていますうちに――」
ロレンスはローズの顔を見つめた。どうやら何かありそうだ。
「ミセス・レストレンジがプロザローさんとどういう用向きで会っていたのか、それがぼくにはどうにもふしぎでねえ」
「ごもっともでございます」
「きみは何か知っているんじゃないかね、ローズ?」
「わたしがでございますか? とんでもございません。何も存じませんとも。どうしてわたしなどが?」
「いいかい、ローズ。きみはぼくを助けたいといってくれた。何か聞いているのだったら――何でもいい、何か小耳にはさんだことがあったら、ぜひとも話してほしいんだよ――ベつに大したこととは思えないかもしれない――しかしどんなことでも――聞かせてもらえれば恩に着るよ。だって誰かが――そう――ひょっとしてほんのはずみで何か聞きこんでいないとも限らないんだから」
「わたしは何も聞いておりません。ほんとでございます」
「だったら、ほかの誰かが聞いてるに違いない」ロレンスは強い口調でいった。
「それはあのう――」
「お願いだよ、ローズ」
「でも、グラディーが何と申しますか」
「グラデイトだってたぶん、事情がわかればきみがぼくに話すことを望むと思うね。ところでグラディーって誰なんだい?」
「こちらの台所のお手伝いでございます。でもそのとき、あの人、友だちに会いにちょっと外に出ていてたまたま窓の下を――書斎の窓の下を――通りかかったそうなんですの――そうしたら――旦那さまがお客さまと話していらっしゃいまして。旦那さまはあのとおり、ふだんからお声の大きなかたでしたから――それでグラディーも――当然、あの――」
「当然だとも」とロレンスはいった。「そういう場合、誰だって聞き耳を立てるだろうよ」
「でももちろん、あの人、そのことは誰にも話しておりません――わたしにだけ打ち明けたんですの。わたしたち二人とも、ずいぶんおかしいと思ったんですが、グラディーはおおっぴらにはその話ができませんでした。だってあの人が外に――友だちに会いに外に出ていたってことが知れたら、ミセス・プラットが――ミセス・プラットって、こちらのコックなんですけれど――がみがみいうにきまっていますもの。ですけどグラディーだって、あなたさまにならきっとすっかりお話しすると思いますわ」
「そうか。じゃあ、一つ台所に行って、そのグラディーに会ってこようかな」
ローズはとんでもないという顔をした。
「だめですわ、それは。グラディーはもともととても臆病な子ですし」
グラディーと会うことについての問題点をあれこれローズと話しあったあげく、とどのつまり、ロレンスは雑木林の中でひそかにグラディーと会うことになった。
さてしばらくして雑木林の中でロレンスが会うことができたグラディーは、怯《おび》えている兎のような感じの小娘だった。まず落ちつかせるのにまるまる十分かかり、さんざんにてこずらされた。グラディーは、自分には何もいえない――いうべきでもないと思う――ローズが人に話すなんて考えてもいなかった――もともと自分には悪気はなかったのだ――まったくなかったのだ――でもミセス・プラットに知られたらこっぴどく叱られるに違いない――などとくどくどと掻きくどきつづけたのだから。
ロレンスは、何も心配することはない、ぜったいに大丈夫だ、どうか、話してくれと、やさしくなだめすかして何とかグラディーを説きつけてようやく、「ここだけの話にして下さるんでしたら」といわせることに成功した。
「もちろんだよ。けっして誰にもいわないからね」
「ひょっとして法廷に持ち出されて、あたしが咎《とが》めだてされることには――ならないでしょうか?」
「もちろんだとも」
「あのう、奥さまにもおっしゃらないで下さいますか?」
「いうものかね」
「こんなことがもしかミセス・プラットの耳に入ったら、あたし――」
「そんな心配はないって。さあ、グラディー、話してくれたまえ」
「あの――ほんとに大丈夫――なんでしょうね?」
「大丈夫だとも。いつかきっときみは、ぼくを死刑台から救ったのは自分だ、いいことをしたと思うに違いないよ」
グラディーは小さな叫び声を上げた。
「まあ――あなたさまが死刑になるなんて、そんな! でもあたしが聞いたのはほんの一部だけで――それにいってみればはずみで耳に入ったんですし――あの――」
「よくわかっているよ」
「旦那さまはひどく怒っていらっしゃるみたいでした。『こんなに何年もたってから、何をいまさら』――そうおっしゃってました。『よくもまあ、こられたものだ』とか、『ぬけぬけとここへ――」とかって。お客が何をおっしゃったかは聞こえませんでしたけど、ちょっと間を置いて、旦那さまはまたおっしゃいました。『ぜったいに断る――ぜったいに』って。すっかり覚えてるわけじゃありません――ただ、あたし、何かのことで言い争っていらっしゃるんだなと思ったんです。お客が何か旦那さまにしてほしいといって、それを旦那さまがぴしゃりとお断りになったんじゃないでしょうか。『おまえがここにやってきたことからして破廉恥きわまる』ともおっしゃってました。『あれには会わせん――わしが禁じる――』あたし、思わず耳をそばだてたんです。お客は奥さまに会って何かいうつもりでいる。旦那さまはそれを心配していらっしゃるんだ――そう思ったものですから。『あの旦那さまがねえ。とても口うるさいかただけど、あれで後ろ暗いところもあるのかしら』あたし、それで後で友だちにいったんです。『男なんて、みんな似たりよったりなのねえ』って。友だちは、何だかだ文句をいってましたけど、でもやっぱりびっくりしてましたわ。旦那さまみたいにれっきとした教区委員で、日曜日には献金皿を回す役をしたり、聖書朗読を受け持ったりしている人がって。『でもさ』ってあたし、いったんです。『そういう人がいちばんのわるなのよ』って。うちの母がよくいってましたからねえ」
グラディーはここで息を切らしてちょっと言葉を切った。ロレンスはたくみに、はじめの主題へと話をもどした。
「そのプロザローさんとお客の話だが、ほかには何か聞かなかったかね?」
「はっきりしたことは覚えていないんです。大体、同じような具合でした。旦那さまは一、二度、『わしは信じんよ』っておっしゃいました。『ヘイドックが何といおうが、わしは信じん』って」
「へえ! 『ヘイドックが何といおうが』――そういったんだね?」
「はい。『みんな、おまえの企《たくら》みにきまっておる』とも」
「お客の声はぜんぜん聞こえなかったのかい?」
「お終《しま》いのほうでほんのちょっとだけ――たぶん帰ろうと立ち上がって、窓の近くにこられたときだと思います――声が聞こえました。あたし、ぞっとしたんです。あれは忘れられないわ。『あすのいま時分にはあなたはこの世の人ではないかもしれませんよ……』気味のわるい言いかたでしたわ。事件のことを聞いたとき、あたし、すぐローズにいったんです。『ほら! いわないこっちゃないわ』って」
ロレンスはグラディーから聞いたことを思いめぐらした。どこまで信用していいかが問題だ。大体は本当の話だろうが、事件いらい、あれこれ粉飾を施され、尾ひれがついたにきまっている。とくに最後の「あすのいまごろ」うんぬんはあやしいものだ。事件が起こったために付け加えられたに違いない。
ロレンスはグラディーに礼をいって相応の心づけを与えて、「友だち」に会いに外に出たことがミセス・プラットの耳に入ることは万に一つもないからと保証すると、考えこみつつオールド・ホールを後にしたのだった。
一つのことだけはたしかであった。ミセス・レストレンジはプロザロー大佐と、どうやら険悪な空気のうちに会見したらしい。しかも大佐はそのことをけっしてミセス・プロザローに知らせまいとしていたようだ。
私はミス・マープルが例にあげた、ひそかに女を囲っていたという教区委員の話を思い出した。プロザロー大佐の場合もひょっとして?
ヘイドックのつとめている役割についても、私はいよいよ不審でならなかった。ヘイドックはミセス・レストレンジが検死審問で証言せずにすむように配慮した。しかも何とか警察の手から守ろうと努力しているらしい。彼はそうした保護の手を、どこまで差し伸べるつもりだろうか?
ひょっとしてヘイドック自身、ミセス・レストレンジに疑いをかけているとしたら――それでも彼女を庇《かば》いとおす気だろうか?
ミセス・レストレンジはふしぎな人だ。えもいわれぬ魅力を備えている。私自身、どんな意味でも今度の事件に彼女を結びつけたくはなかった。
私の中にささやく声があったのだ。「あの人がやったはずはない――」と。なぜ、だろう?
ミス・マープルならいうだろう。「わたしたちみなそれぞれ、大いに人間らしいところをもっているものですからね」と。
二十
牧師館にもどると、一悶着《ひともんちゃく》持ち上がっていた。
玄関に出て私を迎えたグリゼルダは目に涙をいっぱいためており、いきなり私を客間に引っぱって行った。
「あの子、やめるっていうのよ」
「誰のことだね?」
「メアリよ。やめさせてくれっていいだしたの」
私自身はじつのところ、この知らせを聞いてもいっこう悲しい気持になれなかった。
「だったらほかを当って、新しいお手伝いを雇うことだね」
私としては、しごくもっともなことをいったつもりだった。いままでいたお手伝いがいなくなれば、新しいお手伝いを雇う――きまりきった話ではないか。グリゼルダの非難がましい顔つきが、私にはどうにも解《げ》しかねた。
「レン、あなたってまるで心なしなのねえ。メアリがいなくなるってこと、ぜんぜん気にならないの?」
気になるどころか、これからはもう焼け焦げたプディングや生煮えの野菜を食べなくてもいいのだと、じつはほとんど浮き浮きした気分にさえなっていたのだが。
「あたし、これから新しいお手伝いを探さなきゃならないのよ。見つけて、ちゃんと仕込まなきゃならないのよ」とグリゼルダは自己|憐愍《れんびん》たっぷりの声音でいった。
「するとおまえはこれまでメアリを仕込んできたっていうのかね?」
「もちろんよ」
「メアリが丁寧な言葉づかいをする礼儀正しい娘だと誤って聞きこんだ誰かが、われわれの所からあの子を横取りしようと考えたんだろうがね。雇ってみたら、さぞがっかりすることだろうよ」
「そうじゃないのよ。誰もメアリをほしがったりなんかしないわ。そんな人、いるわけないでしょ? そうじゃなくて、あの子自身が気持を傷つけられたんですって。レティス・プロザローが、メアリの掃除のやりかたはなっていないっていったそうなの」
グリゼルダはときどきびっくりするようなことをいう。だが今回のこのせりふはあまりにも意外で、私としても聞き流すことができなかった。レティス・プロザローがわれわれの家の家事に口を出して、メアリが仕事を怠けていると小言をいうなんて、とても考えられないことだ。第一、レティスらしくない。
「いったいここの家の掃除が行き届いてないということとレティス・プロザローと、どういう関係があるんだね?」
「関係なんかないわ。だから理屈にもならないっていってるのよ。ねえ、お願いだからメアリにあなたからよくいって聞かせてちょうだい。台所にいるわ」
私はそのことについてメアリにいって聞かせたいなどとは毛頭考えなかったが、逆らう間もなく、精力的で、気のはやいわが妻に、ほとんど無理やり台所に押しこまれてしまった。
メアリは流しの前に立って、じゃがいもの皮をむいていた。
「やあ、メアリ」と私は気後れを感じながらいった。
メアリは顔を上げて鼻を鳴らしただけで、返事らしい返事もしなかった。
「奥さんから聞いたんだが、やめさせてほしいといいだしたそうだね?」
私がこういうと、メアリはともかくも答えた。
「我慢にも限度ってものがありますからね」とぼっそり。
「何をそんなに腹を立てているのか、ありのままにいってくれないか」
「一言でいえますよ」といって、メアリは一言どころか、ペらペらとしゃべりだした。「あたしが知らない間によその人間がこっそりここに入りこんで、あら探しをするんですからね。その辺をこそこそ嗅《か》ぎまわったり。書斎を週何回掃除しているか、空拭《からぶ》きはちゃんとやってるか――そんなこと、よけいなお世話ですよ。ここの旦那さんと奥さんが文句をいわないのに、よそのもんが口出しをすることはないと思いますがね。旦那さんと奥さんが満足なら、それでいいはずじゃないですか」
私はじつはメアリの仕事ぶりに満足などしたためしがない。正直いって、毎朝きちんと掃除のすんでいる書斎で書見ができたらとむなしい憧《あこが》れの思いをいだいている。メアリのは、どう見ても掃除などといえる代物《しろもの》ではない。低いテーブルの上の目に立つごみを払い落すのがせいぜいなのだから。しかしさしあたっては、そうした枝葉末節の問題をとやかくいってみても始まらないだろう。
「あたし、今日は検死審問なんてもんに行かなきゃならなかったんですよ。あたしみたいなちゃんとした娘が十二人の男の前に立たされたんですからね。どんな失礼なことをきかれるか、わかったもんじゃなかったんだし。断っときますけどね、あたし、人殺しのあった家に住みこんだことなんて、これまで一度だってなかったんです。二度とごめんですよ」
「その点はもう心配ないと思うよ。平均の法則からいっても、同じ家で二度殺人事件が起こることはめったにないんだから」
「法則だの、法律だのって、あたし、それからして我慢ならないんですよ。プロザローさんは治安判事でした。兎をほんの一匹取ったからってかたっぱしから牢屋にぶちこんだり。けちけちしないだって、あの人の地所内には雉子《きじ》だの何だの、いくらでもいるじゃないですか。そこへもってきてですよ、プロザローさんのお弔いもまだすんでいないのに、あの家の娘がのこのこやってきて、あたしの仕事に文句をつけるんですからね」
「レティス・プロザローがここへきたというのかね?」
「青猪《ブルー・ボア》館から帰ってきたら、いたんですよ。書斎に。『ベレー帽を探しにきたの――小さな黄色い帽子よ。この間、置き忘れたんじゃないかと思って』ですってさ。『そんなもん、見ませんでしたね、木曜の朝、ここをかたしたときにはたしかにありませんでしたよ』ってあたしがいったら、『あら、でも、あんたが見つけるわけ、ないんじゃない? あんたは掃除にそう時間をかけていそうにないもの』そういって、指で炉棚の上をなぞってわざとらしく指先を見たんです。けさみたいな忙しい日に、ここの飾りものをすっかりどけて空拭きをして、それからまたどけたものをもとの所にもどすなんて、そんな暇、あるわけありませんよ。それにあの部屋は、前の晩まで警察が鍵を掛けていたんですからね。あたし、『ここんちの旦那さんと奥さんが満足なら、それでいいじゃないですか』っていってやったんです。そしたらどうでしょう、あの人、声を立てて笑って窓から出て行きぎわにいったんですよ。『あら、でもここの旦那さんと奥さん、ほんとにあんたに満足してるのかしら』って」
「なるほど」
「ひどいじゃありませんか! 誰にだって感情ってものはあります。あたし、旦那さんと奥さんのためなら、それこそ骨身を削って働くつもりです。奥さんが、食べたこともない妙ちきりんな料理を作ってみてくれといえば、試してみる気だってあるんです」
「そうだろうとも」と私はなだめすかすようにいった。
「でも、あのレティスってお嬢さんだって、誰も何もいわないのにあんなこと、いうわけありませんよ。きっと何か聞きこんだんです。旦那さんと奥さんがあたしに満足していないなら、いっそお暇をもらいます。あのお嬢さんのいったことを気にしてるわけじゃありません。オールド・ホールでだって、あのお嬢さんをよくいうもんはいないんですから。何をしてあげたって『ありがとう』でもなし、何か頼むときだって威張りくさってるし、いろんなもんをあっちに散らかし、こっちにほうりだし――みんな、そういってますよ。デニスさんはあの人に夢中みたいだけど、あんな人のどこがいいんですかね。でもああいうお嬢さんは、若い男っていうといいように手玉に取るんですから」
こんなふうにまくしたてながらメアリは、じゃけんな手つきでナイフを使ってじゃがいもの芽をほじくりだしては右に左にぱっぱっと飛ばしたので、台所じゅうに芽が霰《あられ》のように飛びちった。その一つが私の片目に当り、痛さに私は一瞬ひるんだ。
「たぶんレティスだって悪気はないんだろうから、そうぷんぷん怒ることはないと思うがね」と私はハンカチーフで目を押えながらようやっといった。「それにミセス・クレメントは、おまえがいなくなったらとても悲しがると思うよ」
「奥さんのことを怒ってるんじゃありません。旦那さんのことだって――」
「だったら、つまらないことに腹を立てるのはばかげているとは思わないかね?」
メアリは鼻をすすった。
「あたし、少し気が立っていたんです――検死審問だの、何だので。ひどいこといわれれば、誰だって傷つきますよ。だけど、そのために奥さんに迷惑を掛けるのはわるいし」
「じゃあ、思い直してくれるんだね?」
台所を出ると、グリゼルダとデニスが玄関で待っていた。
「どうだった?」とクリゼルダがいきなりきいた。
「暇を取るのはやめたとさ」といって、私はほっと溜息をついた。
「まあ、レン、あなた、うまく立ち回ってメアリをなだめてくれたのね」とグリゼルダはつくづく感心したようにいった。
とんでもないと私はいいたかった。うまく立ち回っていたら、メアリと体《てい》よくおさらばするいい機会とばかり、なだめたりなどしなかったに違いない。メアリ以上にひどいお手伝いが世の中にいるとはとても思えない。どんな娘が彼女の後任者となるにしろ、わが家の状態はいまよりはよくなるにきまっている。
だが、私はグリゼルダを喜ばせたかったから、その点については何もいわず、メアリが何を根にもっていたのか、くわしく説明した。
「レティスらしいな」とデニスがいった。「ベレー帽を水曜日にここに置き忘れたなんてわけないのにさ。だって木曜日にテニスに行ったとき、ちゃんとかぶっていたもの」
「おおかた、そんなことだろうと思ったよ」と私はいった。
「レティスって、どこに何を置いたか、いつだってぜんぜん覚えていないんだから」とデニスは親愛の情をこめて感心したように、また誇らしげにいった(何をそう感心することがあると私はぶすっとしていた)。「毎日、十ぐらい、なくしものをするんだよ」
「はなはだ魅力的な性癖だな」と私はいってやった。
しかしデニスには皮肉はまったく通じなかった。
「そうなんだ。レティスって、まったく魅力的だよ」とほっと溜息をついた。「毎日のように誰かしらからプロポーズされてるんだって――自分でそういってたよ」
「この村には独身の男は一人もいないから、プロポーズした者がいるとすればまともな求婚じゃないね」
「あら、ストーン博士がいるじゃないの」とグリゼルダがいたずらっぼく目を光らせていった。
「ストーン博士といえばこの間、発掘を見にこないかとレティスを誘ったらしいね」と私。
「当然だわ。レティスにはたしかに魅力があるもの。禿頭の考古学者だって、若い娘の魅力ぐらい感じると思うわ」
「レティスって第一、いろっぽいものね」とデニスが利いたふうな口をきいた。
だがロレンス・レディングはレティスのいろっぽさにはまったく心を動かさなかったじゃないかと私はいいたかったが、グリゼルダは自分が正しいと確信している者の断固たる声音で続けた。
「いろっぽいっていえば、ロレンスには男のいろっぽさがあるわね。ああいうたちの男って、むしろクエーカー教徒みたいなタイプの女にひかれるものなのよ。欲望をじっと胸の底に秘めている、一見内気な女性、たいていの人が冷たいと思うような人に。ロレンスの心を永久につなぎとめておけるのはアンぐらいのものだと思うわ。あの二人はお互いに、いつまでたっても飽きがこないんじゃないかしら。でもね、ある意味じゃ、ロレンスはちょっとうかつだったと思うの。だってレティスを利用したようなものでしょ。レティスが自分を好きだなんて夢にも考えていなかったんじゃないかな。ロレンスって、あまり自惚《うぬぼれ》のつよいほうじゃないから。でもレティスのほうでは、けっこうロレンスを好いていたと思うわ」
「あんな男、とても我慢できないっていってるよ――レティスは」とデニスがきっぱりいった。
グリゼルダがデニスのこの言葉を聞いて哀れむような顔で口をつぐむのを見て、私はその気持を測りかねていた。
私は書斎に行った。気のせいか、この部屋にはまだ何がなし無気味な雰囲気がみなぎっているようだった。わけもないこうした気持は、一日もはやく克服する必要がある。ひとたびそうした感情に負けたら、二度とこの書斎が使えなくなってしまう。そんなことを考えながら、私は机の所に歩みよった。プロザローが――あの赤ら顔の威勢のよい、ひとりよがりのプロザローが、この机に向って座っていたのだ。そしてここに、いま私が立っている所に、殺人者が立ち、ピストルの引き金を引いたのだ……
次の瞬間、プロザローは――この世の人でなくなった……
このペンが彼の指に握られて……
絨毯《じゅうたん》にかすかに黒いしみが残っている。洗濯屋に出したのだが、深くしみこんだ血痕《けっこん》はなかなか落ちないものだ。
私はぶるっと身震いをした。
「この部屋は使えない」と私は声に出していった。「使う気になれない」
そう呟《つぶや》いたとき、私の目は床と机の間に落ちている青く輝く小さなものを認めた。私は身を屈《かが》めてそれをつまんだ。
そこヘグリゼルダが入ってきた。
「いうのを忘れていたけど、レン、ミス・マープルが夕食後おいで下さいませんかって。きっとあの人の甥《おい》のお相手をさせたいのよ。ミス・マープルは甥がこの土地にきて退屈するといけないと心配しているの。行くっていっといたけど」
「いいよ」
「あなた、何を見てたの?」
「べつに」
私は拳《こぶし》をぎゅっと握りしめて妻の顔を見返した。
「おまえなら、レイモンド・ウェスト氏を楽しますことができるだろうよ。おまえが相手をしても退屈するようなら、よっぽどの気むずかしやだろうね」
グリゼルダは「ばかなことをいわないで」といってほんのり頬を染めた。
妻が出て行くと私は拳を開いた。掌の上に載っていたのは小さな真珠に囲まれた青い青金石《ラピス・ラズリ》のイアリングだった。
それはあまり類のない、風変りなアクセサリーで、最後にいつそれを見たのか、私ははっきり記憶していた。
二十一
私はもともと、小説家としてのレイモンド・ウェスト氏をあまり買っていない。たしかに彼は才気のある作家だといわれているし、詩人としてもかなり名をなしている。彼の詩は行を改めた場合でも大文字を使わないが、典型的な現代詩はすべからくこうでなくてはならないらしい。小説のほうはどうかというと、不愉快な人間ばかり登場する。それらの人物の生活というのがまた、つまらぬことこのうえなしなのだ。
レイモンド・ウェスト氏は、彼のいわゆる「ジェーン伯母さん」に対して一種保護者的なやさしい気持をいだいている。「前世紀の遺物」とおおっぴらに呼んだりするが、それだって愛情の表現といってよい。
ミス・マープルはというと、甥の話をけっこう面白そうに傾聴している。おりおりその目が皮肉っぽく光ることがあっても、ウェスト氏自身は伯母がひそかに興がっていることに気づいていないらしい。
予想どおり、彼は紹介もろくにすまないうちからグリゼルダに関心を集中し、彼女を相手にまず現代劇、ついで現代の装飾様式といった具合に滔々《とうとう》と弁じたてはじめた。グリゼルダはからかい半分受け答えしているように装っていたが、私の見るところ、相手の話術にだいぶひきつけられているらしかった。
ミス・マープルと四方山話《よもやまばなし》(さっぱり弾まなかった)を取りかわしながら、レイモンド・ウェストが「あなたのようなかたがこんな所に埋《うず》もれているなんて」と繰り返すのを何度か小耳にはさんでいるうちに私はとうとうたまりかねて横合いからいった。
「あなたはこの村の人間を世情によほどうといとお考えのようですね」
レイモンド・ウェストは指先に煙草をはさんだまま、手を大きく振って勿体《もつたい》らしくいった。
「ぼくはセント・メアリ・ミード村を、いわばよどんだ池と見なしているんですよ」
われわれが何かいい返すことを予期していたらしいが、誰も憤然とした顔をしないので内心拍子抜けしたらしかった。
「それはあまりうがった比喩《ひゆ》ではありませんね、レイモンド」とミス・マープルがきびきびといった。「よどんだ池の水を一滴取って、顕微鏡で観察してごらんなさい。びっくりするほど生命に満ちあふれていることがわかるでしょうよ」
「まあ、ある種の生命は認められるでしょうがね」
「生命であるかぎり、どれも似たようなものじゃないかしら」
「すると伯母さんはご自分を、よどんだ池の住人に擬しておられるんですか?」
「そうそう、レイモンド、あなた、この前送ってくれた小説の中にもそんな意味のことを書いていましたっけね」
才子型の青年は自分の作品を例に引いて逆襲されることを好まないものだ。レイモンド・ウェストもそうらしかった。
「あれはまるで違いますよ」と彼は少しつっけんどんにいった。
「人生にしてもね、結局のところ、どこでも似たりよったりじゃないでしょうかね」とミス・マープルは持ち前のおだやかな声で続けた。「生まれる――成長する――ほかの人たちと交渉をもち――押したり押されたり、小突いたり小突かれたり――それから結婚して子どもが生まれ――」
「そして死ぬ」とレイモンド・ウェストが締めくくった。「ちゃんと死亡証明書の出る死とばかりは限らない。生きながらの死というやつもありますからね」
「死といえば」とグリゼルダがいった。「この村で殺人事件が起こったのをご存じ?」
レイモンド・ウェストはさっきと同じように煙草をはさんだ指先を振った。
「殺人はデリカシーを欠いた野蛮な行為です。ぼくはまるで関心がありませんね」
私はそんな言いぐさにかたときも欺かれなかった。殺人事件に関心をもつのは人情だ。グリゼルダや私のような単純な人間は、その事実を認めて憚《はばか》らない。しかし世の多くのレイモンド・ウェストは、そんなことには飽きあきしているというふりをする――すくなくとも最初の五分間は。
しかしミス・マープルがたちまちすっぱぬいた。
「レイモンドとわたしは夕食の間じゅう、あの事件のことばかり話しておりましたのよ」
「行ったさきざきの土地のニュースに、ぼくは多大の関心をいだいているんですよ」とレイモンド・ウェストは慌てていって、伯母に向って鷹揚《おうよう》にほほえみかけた。
「この事件についてお説があったら伺わせて下さいな、ウェストさん」とグリゼルダがいった。
「論理的には」とレイモンドはまた煙草を振った。「ただ一人の人間だけがプロザローを殺しえたと思います」
「それで?」とグリゼルダが促した。
私たちはいかにも興味ありげにレイモンドの次の言葉を待った。
「こちらにおいでの牧師さんですよ」とレイモンドはいって、糾弾《きゅうだん》するように私を指さした。
私は思わずはっと喘《あえ》いだ。
「もちろん、あなたが犯人でないことはわかっていますとも」とレイモンドはご安心なさいというようにうなずいた。「人生というやつは、そうお訊《あつら》え向きには運ばないものですから。しかし一場のドラマとして考えてみて下さい。何とうってつけの設定でしょう。教区委員が牧師によって牧師館の書斎で殺された――じつにいい!」
「で、動機は?」と私はきいた。
「ああ、そこが面白いところでしてね」とレイモンドは座りなおして、煙草の火が消えるに任せて続けた。「劣等感じゃないですかね。おそらくさまざまな抑圧《インヒビション》が昂《こう》じたんでしょう。ぼくはこの事件をネタに小説を書いてみたいですね。驚くほど複雑な事件に仕立てて。くる週もくる週も、年がら年中、牧師は教区委員と顔を突き合わせてきた――会合で、聖歌隊の少年たちの遠足で――献金袋を回している彼――祭壇にそれを持ってくる彼。牧師は彼が大嫌いだった。しかしその嫌悪の情を必死に抑えつけてきた。クリスチャンらしくない、感心しない感情だと考えていた。そのあげく、劣等感はひそかなしこりとなった。そしてある日ついに――」
こういってレイモンドは無言で真に迫るしぐさをして見せた。
「あなた、そんなふうに感じたことあって、レン?」とグリゼルダ。
「いいや、一度も」と私は嘘《うそ》いつわりのない気持でいった。
「でも牧師さまは少し前に、プロザローさんがいっそ死んでくれればいいのにとおっしゃったとか」とミス・マープルがいった。
(デニスのやつ! しかしむろん私がわるいのだ。あんなことを軽率に口にするなんて)
「ええ、ばかなことをいったものです。しかしあの朝は、プロザロー大佐とうんざりするようなひとときを過ごしたものですから」
「それは残念千万だな」とレイモンドはいった。「なぜってもちろん、あなたが潜在意識の中でプロザローを殺そうとひそかに考えておられたとしたら、そんなことはぷつりとも口にしなかったでしょうからね」
こういって溜息をついた。
「というわけで、ぼくの推論はたちまち崩壊してしまいました。この事件はおそらくごくありふれた殺人事件ですよ。復讐の念に燃えた密猟者の所業といったたぐいのものじゃないですかね」
「ところで今日の午後、ミス・クラムがこられましてね」とミス・マープルがいった。「村でお会いしたので、うちの庭を見て下さいとお誘いしたんですの」
「あの人が庭に興味をもっているなんて知りませんでしたわ」とグリゼルダがいった。
「とくに興味はおありにならないと思いますけどね」とミス・マープルはきらりと目を光らせた。「でもおしゃべりのいい口実にはなりますわ。そうじゃありません?」
「ミス・クラムってどういう人だとお思いになって? そうわるい人とも思えませんけど」
「ご自分からたくさんの情報を提供して下さいましたよ――ほんとにずいぶんいろいろと。あのかた自身についても、ご家族についてもね。ご家族はほとんどおなくなりになっていらっしゃって、インドに遠縁のかたがおいでになるぐらいのものらしいですよ――お気の毒に。ところでこの週末はあのかた、オールド・ホールでお過ごしになるとか」
「何ですって?」
「ええ、ミセス・プロザローのお誘いでね――それともご自分から持ちかけたのか、そこははっきりしませんけど。何でもミセス・プロザローのために事務的なお仕事をかたづけておあげになるんですって――手紙をタイプしたり。ちょうど都合のいいことに、ストーン博士がお留守で手があいていらっしゃるとか。それにしてもこの村に古墳があるなんて、わくわくしますわねえ」
「ストーンですって?」とレイモンドがきき返した。「考古学者のストーン博士のことですか?」
「ええ、ここで古墳の発掘に当っていらっしゃいましてね。プロザローさんの所有地内にあるんです」
「ストーンはりっぱな学者ですよ。仕事熱心でね。少し前に夕食会で会ってしばらく話をしましたが、なかなか面白かったですよ。この土地にいるなら、ぜひ会わなくては」
「残念ながらこの週末はロンドンですよ」と私が引き取った。「そうそう、ウェストさんは到着されたとき、駅であの人とほとんどぶつかりそうになられたじゃありませんか」
「ぼくはあなたにぶつかったんですよ。たしか眼鏡を掛けた小柄な男がいっしょでしたね?」
「ええ、ストーン博士がいっしょでした」
「えっ? 何をいってるんです! あれはストーンなんかじゃない」
「ストーンじゃない?」
「すくなくとも考古学者のストーンじゃありませんよ。ストーンならよく知っています。あの男はストーンどころか――似ても似つかない他人ですよ」
私たちは顔を見合わせた。私はミス・マープルの顔を見つめていった。「驚きましたな」
「スーツケースを持ち歩いていましたからね」とミス・マープルがいった。
「どういうことですの?」とグリゼルダがきいた。
「以前にガスの検査員と称してスーツケースを下げて村の家々を回り歩いた男がいましてね。けっこういい儲《もう》けになったようですよ、その男の場合も」
「すると身分を詐称《さしょう》してたってわけか」とレイモンド・ウェストがいった。「こいつは面白い」
「このことが殺人事件と関係があるかどうかってことね」とグリゼルダがいった。
「かならずしも関係があるとは限らないだろうがね。しかし――」と私はまたミス・マープルの顔を見た。
「『ふつうじゃないこと』がまた一つ、起こったってわけですわね」
「そう」と私は立ち上がった。「とにかくすぐ、スラック警部に知らせたほうがいいと思いますね」
二十二
電話に出たスラックは、この件については「噂《うわさ》がひろまらぬよう」くれぐれも注意してほしいと強調した。とくにミス・クラムに悟られないように。古墳もしくはその周辺に問題のスーツケースが隠されていないかどうか、さっそく手配して組織杓な捜索を行うことにする――そう彼はてきぱきいった。
グリゼルダと私はこの新しい展開にすくなからず興奮して帰宅した。しかしスラックと固い約束をかわしたことでもあり、デニスのいるところでは意見を交換することもできなかった。
といってもデニスも彼なりに悩みごとで頭がいっぱいらしく、私の書斎にやってくるとその辺のものをいじったり、足をひきずって歩いたり、何とも落ちつかぬ様子だった。
「どうしたんだね、デニス?」と私はたまりかねてきいた。
「レン伯父さん、ぼく、船乗りにはなりたくないんだよ」
私はびっくりして甥の顔を見つめた。デニスは自分の将来についてすでにはっきり心をきめていたはずだ。これはどういうことだろう?
「船乗りになりたいとあんなにいっていたのにどうしたんだね?」
「うん。でも気が変ったんだ」
「で、今度はどういう仕事につきたいんだね?」
「実業界に入ろうと思うんだ」
私はますますびっくりした。
「実業界に入る?」
「うん。シティで働くつもりだよ」
「しかしデニス、おまえはシティの暮らしなんて好きになれないにきまっているよ。たとえ私がおまえのために銀行に口を探してやったとしても――」
デニスは首を振って、自分には銀行になんか入る気はまるでないといった。だったらいったいどういうつもりなんだと私は押してきいてみた。ところが私の推察どおり、本人にもはっきりした考えはないらしかった。
「実業界に入りたい」というのは、手っ取り早く金持になりたいという意味らしい。若者は楽天的だ。デニスも「シティ」に行きさえすれば金持になれると思いこんでいるらしい。私はできるだけやさしく、そうした誤解を解いてやった。
「だが、そもそもどうしてそんなことを思いついたんだね? 以前には船乗りになれればいうことはないといっていたのに」
「うん、ぼく、このところ、ずっと考えていたんだ。いずれは結婚するつもりだしね。女の子と結婚するにはまず金持にならなくちゃあ」
「そんなことはないさ。金持でなくたって仕合せな結婚生活を送っている人間はたくさんいるよ」
「そりゃそうだけど――でも実際問題として――ぜいたくな暮らしになれてる女の子はね」
曖昧《あいまい》な言いかたではあったが、私にはデニスのいう意味がわかるような気がした。
「だがね、デニス、女の子がみんながみんな、レティス・プロザローのようだとは限らないんだからね」
なるべくおだやかにいったつもりだったが、デニスはとたんにかっとなった。
「伯父さんはレティスに対してすごく不公平だよ。レティスを嫌ってるからだろうけど。グリゼルダもレティスを嫌ってて、レティスにはうんざりさせられるなんていうんだよ」
同性の立場からすればもっともな意見だと私は思った。レティスはたしかに人をうんざりさせる娘だ。だが好意をもっている女の子にそうした形容詞がかぶせられれば、男の子は当然憤慨するだろう。
「みんな、レティスのことをもっと大目に見るべきだよ。こんなときなのにハートリー・ネピア兄妹まで、何のかのといいだしてるんだからね。あいつらの面白くもないテニス・パーティから少し早目に帰ったからって、どうってことないのに。退屈してるのに無理に残る必要なんかないじゃないか。レティスが参加してくれただけだってありがたいと思うべきなのに」
「そりゃ、たいへんな好意だものね」と私はわざといってやったが、デニスには皮肉など通用しなかった。レティスのために義憤を感じて、彼はなおいいつのった。
「ああ、レティスって、ほんとにとても思いやりがあるんだよ。テニス・パーティから引き揚げるときだって、ぼくだけでも残ったほうがいいっていったくらいなんだから。ぼくもいっしょに帰りたかったんだけど、レティスが聞かなかったんだ。それじゃネピア兄妹にわるいって。だからレティスの気がすむように、もう十五分だけいてやることにしたのさ」
思いやりについて、若い者はきわめて風変りな見解をもっている。
「それだのにスーザン・ハートリー・ネピアったら、レティスは礼儀知らずだっていいふらしてるんだからね」
「私だったら気にしないがね」
「伯父さんはいいさ、だって――」といいかけてデニスは言葉を切った。「ぼく、レティスのためなら――何だってするつもりだよ」
「ほかの人のために何だってできるような人間はあまりいないものだよ。やりたくたって、人間はもともと無力だからね」
「ああ、ぼく、死んじまいたいよ」
かわいそうに――と私は同情に堪えなかった。少年の恋はいってみれば急性の病気のようなものだ。何かいおうかと思ったが、私はぐっとこらえた。きまりきったこと、おそらくは相手を怒らせることは、この際、いわぬに越したことはない。わたしはただ「おやすみ」と一言《ひとこと》いって寝室に上がって行った。
翌日曜の朝、八時の礼拝を終って牧師館に帰ると、グリゼルダが朝食のテーブルについて手紙を読んでいた。手紙はアン・プロザローからのものだった。
グリゼルダ様。お差し支えなかったら、今日、お二人で昼食においで下さいませんか。とても奇妙なことが起こったものですから、クレメント様のご助言をいただければと存じまして。
どうか、このことについてはどなたにもおっしゃらないで下さいませ。あたくしもいっさい他言いたしておりません。
アン・プロザロー
「もちろん、行くべきよね」とグリゼルダがいった。「奇妙なことって何かしら?」
私も首をひねった。
「この事件はまだ当分終りそうにないね」
「真犯人が逮捕されるまではってこと?」
「そういうことじゃないんだ。われわれのまったくあずかり知らない事柄や底流がたくさんありそうだという意味さ。真相を突きとめるまでに究明しなければならないことがまだまだあるんじゃないかね」
「それ自体は大して重要じゃないけれど、実際問題として真相を突きとめる障害になっているようなこと?」
「まあね」
「ぼくたち、大騒ぎしすぎてるんじゃないかなあ」とデニスがママレードを取りながらいった。「プロザローじいさんが死んだのはすごくいいことだったんだよ。あの人を好いていた者なんていやしないんだから。そりゃ、警察にはこの事件は頭痛の種さ。でもそれが警察の仕事なんだもの、仕方ないよ。ぼくはいっそ真犯人が見つからないほうがいいと思ってるんだ。あのスラックが昇進して大きな顔をして歩きまわるところなんか、見たくもないからね」
私も人間だから、スラックの昇進については内心デニスと同意見だった。他人の気持をたえず逆撫《さかな》でしているスラックのような男は、当然ながら好かれない。
「ヘイドック先生もぼくと同じ考えらしいよ」とデニスは続けた。「自分なら何があったって、犯人を警察に引き渡すなんてことはしないっていってたもの」
ヘイドックの意見のはらむ危険は、デニスのような少年に与える影響力にあると思う。それ自体は健全な考えで、私などの批判することではないかもしれない。だがそうした考えは無軌道な若者に、ヘイドック自身がおそらく思いもしなかった影響をおよぼすのだ。
グリゼルダがふと窓の外を見て、庭に新聞記者が入りこんでいるといった。「また書斎の窓の写真をとってるのよ、きっと」と嘆息した。
私たちはこのところ、こんなふうに悩まされどおしだった。まず無責任な好奇心から村人が誰彼なしにやってきて、ぽかんと口を開いて書斎の窓を眺めた。次にやってきたのはカメラ持参の新聞記者連中だった。そしてその新聞記者たちを見ようと村の人たちがまたまた押しかけた。そんなわけでついには私たちはマッチ・ベナムに申請して巡査を一人よこしてもらい、窓の外の立ち番を頼んだほどだった。
「葬儀は明日の朝だ。それが終れば、興奮もおさまるだろうがね」
オールド・ホールの近くにも、数人の新聞記者がたむろしていた。私にいろいろと問いかけてきたが、「何もいえません」(それが最上の撃退策だった)で押しとおした。
執事が私たちを客間に案内した。しかしそこにいたのはミス・クラムで、見るからに上機嫌だった。
「びっくりなさいましたでしょう」と握手しながらミス・クラムはいった。「こちらにこさせていただけるなんて考えもしませんでしたわ。ミセス・プロザローって、ほんとにご親切なかたですわねえ。もちろん、青猪《プルー・ボア》館のような所に若い娘が一人で泊るのは感心したことじゃございませんものね。とくに新聞記者がああしょっちゅううろついていましてはね。それにわたしだって、こちらでまんざらお役に立っていないわけでもありませんのよ。ほんとのとこ、こんなおりには誰か秘書役をつとめる者がいませんとね。こちらのお嬢さんは、お母さまのお手伝いをなさるようなかたじゃありませんもの」
面白いことに、ミス・クラムはレティスに対してあいかわらず敵意をいだいているらしい。そのいっぽう、アンにはすっかり同情しているようだった。とはいえ私は、ここに身を寄せていることについてのミス・クラムの説明は厳密にいって本当なのだろうかと首をかしげた。ミス・クラムはアンに頼まれたといっているが、はたしてそうなのか? 青猪《ブルー・ボア》館に一人で滞在するのは心細いとでもいって、暗に招待してくれと謎をかけたのかもしれない。この点については判断は保留しておこうと思いながらも私は、ミス・クラムのいっていることにしても残らず本当とはいえないのではという感触をもった。
そのとき、アン・プロザローが入ってきた。
黒い喪服につつましく身を包んでいる彼女は手にした日曜新聞を情けなさそうに私に示した。
「こういったことには、あたくし、まるで経験がないものですから。新聞記事ってずいぶんいい加減ですわね。検死審問のときにあたくし、新聞記者に話しかけられましてね、気がすっかり転倒している、何もいうことはないと申しましたらその人、ご主人を殺した犯人が見つかるといいと思うかってききましたのよ。それで『ええ』とだけ、答えたんですの。するとまた重ねて、犯人は村の事情に通じている者だとは思わないかとききましたから、それはたしかじゃないだろうかと申しました。本当にそれだけですのよ。ですのに、まあ、どうでしょう。これを見て下さいな!」
その日曜新聞の真中に載っているアンの写真は、どう見ても十年以上前のものだった。いったい、どこから探し出したのだろう? でかでかと大きな字の見出しであった。
未亡人は語る
「犯人を突きとめるまでは心が安まりません」
被害者の夫人ミセス・プロザローは「加害者は土地の人間に違いありません」と記者に語り、「わたしなりに疑惑はもっていますが、確信はありません。悲しみに胸がつぶれる思いです」といって、何としても真犯人を突きとめたいと何度も繰り返した。
「ね、まるであたくしらしくありませんでしょう?」
「これならまだいいほうですよ」と私は新聞を返していった。
「新聞記者って図々しいんですのねえ」とミス・クラムがいった。「いっペん、このあたしにつきまとってみるといいんだわ。思い知らせてやりますのに」
グリゼルダが目をきらりと光らせた。このミス・クラムの言葉は彼女自身が意図している以上に真実を語っている――そういいたげだった。
昼食の用意ができたという知らせに、私たちは食堂に行った。レティスは食事がはじまってだいぶたってから、例によってふらっと入ってきてグリゼルダにちょっと微笑を向け、私に軽くうなずいて席についた。私はその様子にそれとなく目を注《そそ》いだ。私なりの理由があったからだ。あいかわらず捕えどころのない感じがした。公平にいってきわめて美しい娘だ。喪服は着ていないが、淡い緑色の服が色白の顔を引き立てていた。
コーヒーの後でアンが静かな口調でいった。
「牧師さまに伺いたいことがありますの。あたくしの居間のほうにいらしていただけますかしら」
わざわざ呼ばれた理由をいよいよ知らされるわけだと思いながら、私はアンの後について階段をのぼった。居間の入口でアンは立ち止って、私が口を開こうとすると片手を差し伸べて制した。それからちょっとの間、聞き耳を立てる様子でホールを見おろした。
「大丈夫、みんな庭に出て行ったようですわ。いえ、ここでなく、まっすぐ階上《うえ》にまいりましょう」
驚いたことに、アンは廊下づたいにその一翼のどんづまりまで行き、そこから立ち上がっている梯子《はしご》様のせまい階段をのぼった。私もすぐ後に続いた。のぼりつめた所は埃っぽい板張りの通路で、アンは取っつきのドアを開けて私を広い、薄暗い屋根裏部屋に導いた。物置として使われているらしく、トランクや古ぼけた、こわれた家具、積み重ねられた何枚かの絵など、そうした物置に集まりがちな、雑多ながらくたがごたごたと置かれていた。
私がよほどびっくりした顔をしたのだろう、アンはちょっと微笑した。
「ご説明する必要がありますわね。近ごろあたくし、眠りが浅いんですの。ゆうべも夜中に――夜中というより明けがたの三時ごろでしたか――目を覚ましますと誰かが家の中を歩きまわっているような気配が感じられ、しばらく耳を澄ましておりました。そのうちに確かめてみようという気になりまして、起き上がって踊り場まで出てみたのです。どうやら音は階下《した》でなく、階上《うえ》から聞こえるように思われました。この階段の下まできたときでした。またもやかすかな物音がするようで、あたくし、『誰かいるの?』と声をかけてみましたの。答えはなく、物音もそれっきり聞こえなくなりました。それでたぶん、神経が立っていたための空耳だったんだろうと思って寝室にもどったのです」アンはちょっと言葉を切ったが、すぐまた続けた。
「でもけさはやくここにきてみますと――いえ、ほんの好奇心からですけど――こんなものが見つかりまして」
アンは身を屈《かが》めて壁際に裏返しにして立てかけられている絵の一つをひっくり返した。
一目見るなり、私ははっと息を呑《の》んだ。油絵の肖像画らしいが、顔の部分が見わけのつかないほどめちゃめちゃに切り裂かれている。しかも切り口はどう見てもごく新しいものだった。
「奇妙ですなあ!」
「でございましょう? いったい、どういうことなのか、見当がおつきになりまして?」
私は首を振った。
「ただ、この切り裂きかたはいかにもひどいですね。そこがどうも気に入りませんな。狂気じみた怒りに駆られてやったような感じですからね」
「ええ、あたくしもそう思いましたの」
「どういう肖像画なんです?」
「見当もつきませんわ。前に見た覚えもありませんし。あたくしがルシアスと結婚してこの邸《やしき》に住むようになる以前から、この屋根裏はこのとおりだったようです。べつに調べてみたこともありませんし、気にもいたしませんでした」
「奇妙ですな」と私はもう一度|呟《つぶや》いた。ほかの絵もいちおう調べてみたが、こうした物置にしまいこまれている絵の場合によくあるように大部分は平凡な風景画で、その他何枚かの石版画と、安っぽい額におさめられた複製画がいくつかあるだけだった。
そんなふうで、手掛りになりそうなものは何一つなかった。旧式なトランクが一つ。これはかつて櫃《アーク》と呼ばれていた大型のもので、E・Pという頭文字が入っていた。蓋《ふた》を上げてみたが、中はからっぽだった。このトランク以外には気になるようなものは皆無であった。
「驚きましたね」と私はいった。「およそ何の――意味もない行為じゃないですか」
「ええ」とアンは答えた。「何だかあたくし、気味がわるくて」
結局私はアンの後ろに従って階段を下り、居間に行った。中に入るとアンはドアをぴたりと閉ざした。
「このことについて何か手を打つべきだとお考えになります? たとえば警察に話すとか?」とアンがいった。
私はためらった。
「それは何とも申しかねますね。はたしてこの出来ごとが――」
「この出来ごとが事件と関係があるかどうかわからないからとおっしゃるんでございましょう? そのとおりですわ。ですからあたくしもどうしたものか、迷ってしまいまして。表面的には何の関係もなさそうですし」
「ええ。『ふつうでないこと』がまたもう一つ持ち上がったとはいえますがね」
私たちはしばらく眉をひそめて黙りこくっていた。
「ところで、今後のことについてはどういう計画をおもちですか? 立ち入ったことを伺うようですが」とややあって私はきいた。
アンは顔を上げた。
「すくなくとも六カ月はここにいるつもりでおります」挑むような口調だった。「ほんとは気が進みませんの。このままここに住むのはたまらない気がいたします。でもほかにどうしようもないと思いますから。さもないと世間ではあたくしが逃げたと――気が咎《とが》めて逃げだしたと噂するでしょう」
「そんなことはありますまい」
「いいえ、そうにきまっていますわ――とくに……」と言葉を切り、それから「六カ月たったら、あたくし、ロレンスと結婚するつもりです」といって私の目をひたと見つめた。「あたくしたち二人とも、それ以上待つ気はありません」
「いずれはそういうことになるだろうと思っていました」と私はいった。
とつぜん、アンは両手に顔を埋《うず》めて泣きくずれた。
「あたくし、言葉に表わせないくらい牧師さまに感謝申し上げておりますのよ! ほんとですわ。ロレンスとあたくしはあの日、互いに別れを告げました。あの人、一人でこの村を去ろうとしていたんです。ルシアスがなくなったことは、あたくしにとってたいへんなショックでした。もしもロレンスといっしょにこの村を出る決心をした段階でルシアスが死んだとしたら――いまごろ、あたくしたち、どうなっていましたことか。でもあなたさまがあたくしたちに、それはいけないことだと悟らせて下さいました。そのことがあたくし、むしょうにありがたくて」
「私自身もつくづくよかったと思っておりますよ」と私は重々しい口調でいった。
「けれども」とアンは座り直した。「真犯人が逮捕されるまでは、ロレンスがやったのかもしれないという疑惑は消えないと思いますの。とくにあの人があたくしと結婚しようものなら」
「ヘイドックの証言で、その点は舞いの余地なくはっきりしたじゃありませんか」
「証言が何の役に立ちますの? 世間なんて、何も知りませんもの。とくに医学的な証言は、外部の人には何の意味ももっていません。クレメントさま、ですからあたくし、すくなくとも六カ月間はこのままここにいようと決心したんですの。ここにとどまって真相を明らかにしたいのです」
アンはこういってきらりと目をひらめかせて付け加えた。
「それで、あの娘さんにここにきてもらったんですの」
「ミス・クラムのことですか?」
「ええ」
「あなたがお誘いになったんですか? つまり、もっぱらあなたのお考えで?」
「そのとおりですわ。もっともあの人自身も、青猪《ブルー・ボア》館に一人でいる気がしないと泣きごとをいいましたけれどね。検死審問のときにちょうどいっしょになったふりをしたものですから。とにかくあたくし、意図的にあの人を誘いましたのよ」
「しかしまさか頭のからっぽなあの娘さんが事件と関係があるなんて思っていらっしゃるわけではないんでしょうな?」
「愚かしいというふりを装うのは、とてもたやすいことですわ。こんな容易なことはないといってもよろしいでしょう」
「とするとあなたは――」
「いいえ、そんなこと、考えていませんわ。正直いってまったく。あたくし、ただ、あの人が何かを知っている――というか、知っているかもしれないと思っているんですの。ですからできるだけ近くで観察したいんです」
「ミス・クラムがきた夜に、あの肖像画は切り裂かれたんですね?」と私は考え考えいった。
「ほんとにあの人の仕業《しわざ》だとお思いになります? でもどうしてあんなことを? およそ突拍子もない、無意味なことのように思えますけれど」
「ご主人が私の書斎で射殺されたということからして、突拍子もないことだったんですからね」と私はにがにがしげにいった。「しかしげんにご主人は殺されたのです」
「そうでしたわね」とアンは私の腕に手を置いた。「あなたさまにとっても、この事件は恐ろしいことでしたのね。お察ししますわ。あたくし、これまであまり口に出して申しませんでしたけど、でもお察ししていますわ」
私はポケットから例の青金石《ラピス・ラズリ》のイアリングを取り出した。
「これはあなたのものじゃないですか?」
「あら」とアンはうれしそうににっこりして片手を差し出した。「どこにございまして?」
しかし私は差し伸べられた手にイアリングを渡そうとせずにいった。
「もうしばらく私がもっていようかと思うんですが、よろしいでしょうか?」
「もちろんですわ」といってアンは怪訝《けげん》そうな、物問いたげな顔をしたが、私は敢《あ》えて何も説明せずに話題を転じ、プロザローの死によって彼女が財政的にどんな状態にあるか、きいてみることにした。
「無躾《ぶしつけ》に響くでしょうが、よけいな詮索《せんさく》とお思いにならないで下さい」
「無躾だなんてとんでもない。あなたさまとグリゼルダさんはこの村であたくしの知っているいちばんいいお友だちですもの。あたくし、あのおかしなミス・マープルも大好きですのよ。じつのところ、ルシアスはたいへん裕福でした。財産はあたくしとレティスにほぼ等分に残されました。このオールド・ホールはあたくしのものになるでしょうけれど、レティスは小さな家の調度として十分なだけ、気に入った家具を選べることになっています。そうした家を買うように相応の金額が遺贈されてもおりますし、大体においてすべて公平に二分されると思いますわ」
「レティスは今後どうするつもりでしょうかね?」
アンはユーモラスなしかめ顔をした。
「あの子、あたくしには何も話してくれませんから。たぶん、できるだけはやくこの村から出て行くんじゃないでしょうか。レティスはあたくしを好いていません。はじめからそうでしたわ。たぶん、あたくしがわるいんでしょうね――あたくしもそれなりにつとめてはきたんですけれど、若い娘にとってあまり年の違わない継母《けいぼ》なんてもともと癪《しゃく》にさわる存在なんでしょうから」
「あなたご自身はいかがです? レティスをお好きですか?」と私はずばりとたずねた。
アンはすぐには答えなかった。それで私は、アン・プロザローはなかなか正直な女性だという印象をもったのだった。
「はじめは好きでしたわ。とてもかわいらしい子でしたし。でもいまでは好きともいえませんでしょう――どうしてか、わかりませんけど。たぶん、あの子があたくしを好いていないからでしょうね。あたくしって、人から好かれたいたちですの」
「誰だってそうですよ」と私がいうとアンは微笑した。
私にはもう一つ、これだけはしておかなければと考えていたことがあった。何とかしてレティス・プロザローと二人きりで話す機会をもちたい――私はそう思っていた。それはわけのないことだった。レティスが客間にたまたま一人でいるところに行き合わせたのだ。グリゼルダとミス・クラムは庭に出ていた。
私は客間に入って行ってドアを閉めた。「レティス、ちょっと話があるんだが」
レティスは無関心そうに見上げた。
「話って?」
前もっていうべきことを考えておいたので、私はすぐ青金石《ラビス・ラズリ》のイアリングを示しておだやかな口調できいた。
「どうしてこれを私の書斎に落しておいたんだね?」
レティスの顔が一瞬こわばるのを私は見た。しかしほんの一瞬のことで、私自身、いまのは気のせいかと思ったほどだった。レティスは無関心な声でいった。
「あら、そんなことしてないわ。それにそのイアリング、あたしんじゃないわ。アンのよ」
「それはわかっている」
「だったらなぜ、あたしにきくの? アンが落したのかもしれないじゃないの?」
「きみの義理のお母さんは、事件いらい、私の書斎に一度しか入っていない。それにそのときは喪服を着ておられたからね。青い色のイアリングをつけているわけがないんだよ」
「だったら、もっと前に落したんじゃないの?」こういって付け加えた。「理屈からいっても、そうとしか考えられないじゃないの」
「理屈からいってか」と私は呟いた。「あの人がこのイアリングをつけているのを最後に見たのはいつだったか、覚えているかね?」
「さあ」とレティスはなぜ、そんなことをというように、無邪気そうな目で私を見返した。「それ、とっても重大なこと?」
「かもしれないね」
「だったら、あたし、思い出してみるわ」と眉を寄せて考えこむ様子だった。その瞬間ほど、レティスがチャーミングに見えたことはないくらいだった。「そうだわ!」と彼女はとつぜん叫んだ。「木曜日にはつけてたわ。たしかよ」
「木曜日というと」と私はゆっくりいった。「事件の当日だね。ミセス・プロザローはあの日、庭から私の書斎にやってきた。だがいいかね――彼女の証言によると、窓の所まできただけで中には入らなかったんだよ」
「このイアリング、どこにあったの?」
「机の下に転がっていたよ」
「だったらあの人、本当のことを話していないってことになりゃしない?」とレティスは平然といった。
「実際には、部屋の中に入り、机のわきに立ったんじゃないかっていうんだね?」
「まあ、そういうことね」レティスは目《ま》じろぎもせずに私を見つめた。「あのねえ、あたし、はじめから、あの人がほんとのことをいってるとは夢にも思ってなかったわ」
「きみも本当のことをいっていないね――私にはわかっているんだよ、レティス」
「どういうこと?」
レティスははっとしたように私の顔を見つめた。
「このイアリングを私が最後に見たのは金曜日の朝、メルチェット大佐とこの家にきたときのことだった。これはもう片方といっしょに、きみの義理のお母さんの化粧台の上に乗っていたんだ。私はそのとき、二つを手に取ってみたんだよ」
「ああ」レティスははっとたじろぐ様子を見せたが、次の瞬間、椅子の肘掛《ひじか》けの上にどっと身を伏せるようにして泣きだした。長くもない金髪が床にくっつくくらい、頭をぐっと落していた。それはふしぎな、身も世もない嘆きよう、哀れを誘う、美しい姿であった。
私はしばらく黙って彼女を泣かせておいた。それからできるだけやさしくいった。
「レティス、なぜあんなことをしたんだね?」
「あんなことって?」
レティスは椅子からとびあがり、頭を一振りして髪を激しく後ろにはね上げた。激情のあふれる、いや、怯《おび》えているとも見える表情だった。
「どういうことよ?」
「なぜ、あんなことをした? 嫉妬《しっと》からか? アンが嫌いだからかね?」
「ええ――そのとおりよ!」顔に垂れかかる髪を片手で押し上げたレティスは、すでに完全に落ちつきを取りもどしていた。「そうよ、いいたければ嫉妬といったって構わないわ。あたし、はじめからアンが大嫌いだったわ。あの人がこの家に女王のように乗りこんできたときからね。そうよ、あのイアリングを机の下に転がしといたのはあたしよ。あの人を困った立場に追いこんでやろうと思ったのよ。あなたがちょっかいを出して化粧台の上のものをいじくったりしなかったら、何もかもうまくいったのに。あちこちに首を突っこんで警察の手伝いをするなんて、牧師さんの領分でもないのに、まったくよけいなお世話だわ」
恨みがましい、子どもっぽい罵言《ばげん》で、私は気にもしなかった。その瞬間のレティスは、痛ましいまでに子どもっぽく見えた。
アンを困らせてやりたいというこの子どもっぽい試みをまともにとることはない――そう私は思った。レティス自身に向って私はそういった。そしてイアリングは私からアンに返しておこう、どういう状況でそれを見つけたかはいわないことにすると付け加えた。レティスは私の言葉に心を動かされたらしく、「どうもありがとう」と一言《ひとこと》いった。
それからしばらく黙りこくっていたが、顔をそむけたまま、明らかに一語一語言葉を選んでいった。
「ねえ、クレメントさん、あたしだったら――デニスをなるべくすぐべつな土地に行かせるわ。――そのほうが――いいと思うの」
「デニスを?」と私は眉を吊《つ》り上げてきき返した。驚きながらも、ははん、なるほど――と少しおかしくもあった。
「そのほうがいいと思うのよ」とレティスは繰り返してきまりわるそうに付け加えた。「デニスのことはわるかったと思うわ。あたし、考えてもみなかったのよ、あの子が――とにかくあたし、わるかったと思ってるの」
話はそこで打ち切りとなった。
二十三
牧師館に帰る途中、私はグリゼルダに、回り道をして古墳のそばを通って行こうじゃないかと提案した。警察が捜索に着手しているかどうか、着手しているとしたらすでに何か発見されたか、ぜひとも知りたかったからである。グリゼルダはしかし家に用事があるということで、私は結局一人でそっちに向った。
ハースト巡査が捜索隊の監督に当っていた。
「これまでのところ、これという形跡も見つかっていません」と彼は私の問いに答えていった。「しかし『キャッチ』ならここと考えるのが理屈ってもんでしょう」
ハーストが|隠し場所《カシュ》を分捕品《キヤツチ》と発音したので、一瞬私はぽかんとしていたが次の彼の言葉で了解した。
「つまりですね、あの若い女が小径《こみち》から林の中に入って行ったとしたら、行く先はここ以外には考えられませんよ。小径からはオールド・ホールヘも、ここへも出られるんですから。まあ、間違いのないところでしょう」
「ミス・クラムにじかに問いただしてみるのが早道だろうが、スラック警部はそうした単純な手段は軽蔑しておられるんだろうね」
「警部からはあの女にはぜったいに悟られんようにといい含められています。あの女がストーンに書く手紙、ストーンから届く手紙が手掛りになるかもしれませんしね――われわれが疑っていると感づいたら、それこそ|なにして《ヽヽヽヽ》、ぷつりとも口をきかなくなっちまうでしょうから」
『なにして』とはどういうことなのか、はっきりしなかったが、口を閉ざしているミス・グラディス・クラムなど、私には想像もできなかった。立板に水のようにしゃべりまくる女性というのが一貫した印象だったのだから。
「ある人間がべつな人間になりすましているときには、なぜそんなことをするのか、その理由を知りたいと考えるのは当然ってもんでしょう」とハースト巡査は出来のわるい生徒にいって聞かせるように説明した。
「まあ、そうだろうがね」
「その答はこの古墳の中に見出されるにきまっています。そうでなかったらストーンがああしょっちゅうここをいじくるわけがない」
「うろつきまわっても怪しまれないようにというのが|そもそもの理由《レゾン・デートル》じゃないかね」と私はいってみたが、カシュはとにかくとしてレゾン・デートルなどというフランス語はハーストには歯が立たないらしかった。だが、ちんぷんかんぷんだということを認めるのが癪《しゃく》だったのだろう、彼は冷やかにいった。
「それは素人考えですな」
「いずれにしろ、問題のスーツケースはまだ見つかっていないんだね?」
「おっつけ見つかりますよ。請け合います」
「さあ、それはどうかな。ミス・マープルの話では、ミス・クラムはスーツケースを持って林の中に入って行ったと思うと、じきに手ぶらで出てきたそうだ。隠したうえで、もどる時間はなかったんじゃないだろうか」
「ああいったばあさん連中のいってることは当てになんかなりませんよ。あの手合いが何かおかしなことに気づいてやきもきしながら待っているときには、時間なんざ、あっという間に過ぎちまうでしょうからね。それにどのみち女には、時間の観念なんてありゃしないんだから」
私はしばしば考える――人間はどうしてこう物事を十把一からげにして論じたがるんだろうと。そうした考えかたが的を射ていることはめったにないし、たいていは真実からほど遠い。男の私は時間の観念に乏しいが(それだから時計を進めておくのだ)、女性であるミス・マープルはこの点、大違いだ。ミス・マープルの家の時計には一分の狂いもないし、彼女自身、どんなときでも厳正に時間を守っている。
とはいえ、この点についてハースト巡査といい争う気はなかったから、私は捜索の成功を祈って彼と別れた。
さて牧師館の近くまできたとき、私はふとあることを思いついた。きっかけになるようなことが何かあったわけではない。ある可能性が天啓《てんけい》のように脳裡《のうり》にひらめいたのだ。読者もご記憶と思うが、事件の翌日はじめてこの小径を捜索したとき、私は一箇所で茂みが乱されているのに気づいた。結局、それはロレンスが通った跡だったのだが。いや、もっと正確にいうと、私自身はそのときそれを、自分と同じ目的で森に入りこんだロレンスの通つた跡だと思いこんだのだが。
けれどもあのときロレンスといっしょに探しまわっているうちにもう一箇所、茂みが心もち乱されている場所に出た。こっちはスラック警部の通った跡であった。ただしいま考えてみると、最初の、すなわちロレンスの通った跡は、どう見てもスラックの通った跡よりずっと目立っていた――そこを通ったのはロレンス一人ではなかったことを示すように。目立っていたからこそ、ロレンスも見たとたんに、これはと思ったのだろう。ひょっとして本来はストーン博士なり、ミス・クラムの通った跡だったとしたらどうだろう?
あの最初の場所では、折れ枝の上に枯れ葉が何枚か散らばっていたようだ。たしかな記憶ではないが、どうもそんな気がする。だとすると、あの午後よりもっと前にあそこを誰かが通ったということも考えられる。
こんなことを思いめぐらしているうちに、問題の最初の場所にさしかかっていた。すぐここだと見きわめて、私はふたたび茂みを分けて歩きだした。踏みしだかれている折れ枝のうちにごく最近折れたと思われるものがまじっているところから、ロレンスと私が通った後でも誰かがそこを歩いたことが察せられた。
いくらも行かぬうちに、あのときロレンスと出会った場所に着いた。しかし人の通った跡がさらに先へと続いているので、その跡をたどりながら進んだ。そうこうするうちに行く手が開けてせまい空き地になった。ごく最近踏み荒らした形跡がある。空き地とは少々オーバーな表現だ。下生えはだいぶまばらになっているが、頭上には枝が重なりあい、さしわたし二、三フィートほどの空間が出来ているに過ぎなかった。
向う側では下生えはふたたび密生しだしており、最近そっちを通った者がいないということはまずたしかであった。ただ一箇所で茂みが少し乱されているように見えた。
私はそこに近づいて跪《ひざまず》き、両手で茂みを分けた。と、きらりと光る褐色の表面が見えた。この茂みの中に何か隠されているらしい。私は興奮に胸を高鳴らせて片腕を突っこみ、大骨折ってそれを引き出した。小ぶりのスーツケースであった。
ばんざい! ハースト巡査に冷淡にあしらわれはしたが、私の推理の正しさが証明されたわけだ。これこそ、ミス・クラムが下げていたという問題のスーツケースに違いない。掛け金を上げようとしたが、鍵が掛かっているらしかった。
立ち上がろうとしたとき、小さな茶色っぽい結晶状のものが地面の上に落ちているのに気づいた。ほとんど反射的に私はそれを拾って、ポケットに滑りこませた。
それからスーツケースの取っ手を握りしめて、小径へと歩みを返した。
踏み越し段を越えて裏道におりようとしたとき、つい近くであたふたと呼びかける声がした。
「まあ、クレメントさま、とうとう見つかったんですのね! お見事ですわ!」
こっちは気がつかないのに、先方はいつもこっちのすることをちゃんと見て取っている――まったくミス・マープルとは大した人だとあらためて感心しながら、私は二人の間の柵の上にスーツケースを載せた。
「ええ、それですわ。どこで見てもわかります」
少しおおげさだなと私は思った。これとそっくりの、てらてら光る安物のスーツケースは何千個もあるに違いない。この前ミス・マープルが見たときはおぼろな月明りの中で、そのうえ、距離もかなりあったのだ。特定のスーツケースの見分けがつくわけはない。しかしこのスーツケースの一件は完全にミス・マープルの大手柄だ。少しばかりの誇張は大目に見るべきだろう。
「もちろん、鍵が掛かっておりますんでしょうね?」
「ええ、この足で警察署に届けようと思いますが」
「電話なさったほうがよくはありませんかしら」
もちろん、そのほうがいいにきまっている。村の通りをスーツケースを片手に歩いたりしたら好ましからぬ噂《うわさ》の種になるだろう。
そう考えたので、私はミス・マープルの庭木戸の掛け金を上げてフランス窓から彼女の家の中に入った。そしていわば至聖所である客間のドアを閉ざして警察に電話をした。
知らせを聞くとスラック警部は、すぐそっちに行くといった。
間もなくやってきたスラック警部はだいぶご機嫌ななめだった。
「スーツケースが見つかったそうですね、牧師さん。ひどいじゃないですか、内緒でことを運ぶなんて。問題の代物《しろもの》がどこに隠されているか、およその見当がついているんだったら、当然その筋に通報すべきだったと思いますがね」
「まったくの偶然だったんですよ。ひょっとしたらと思いついたまでで」
「本当ですかね。全長四分の三マイルもある林の中をやたらほっつき歩くこともなく、いきなり然《しか》るべき場所に行って問題の代物を引き出すとはね」
私としてはその特定の場所へと私を導いた推理の過程をくわしく説明するつもりだったのだが、スラックのいつもながらの態度につむじを曲げて口をつぐんでしまった。
「それで?」とスラックは不愉快そうに、スーツケースを見やった。強いて気のないふりをしていた。「せっかくだから、中を調べてみますか」
スラックはさまざまな鍵と針金まで持参していたが、スーツケースの錠前はごく安直なやつだったので二秒ばかりで難なく開いた。
私たちがこのスーツケースの中に何が入っていることを期待していたのか、それはわからない。みんながみんな、たぶんあっと息を呑《の》むような代物が出てくることを予期していたのではないだろうか。しかしまず出てきたのは脂じみた格子|縞《じま》の衿巻《えりまき》だった。スラックがこれを引っぱり出すと次に現われたのは色あせた紺色のコートで、だいぶ着古されているらしかった。それから格子縞の帽子。
「お粗末なものばかりだな」とスラックがうそぶいた。
次がはき古した靴一足とこれまた古びたステッキ一本。その下に新聞紙にくるんだ包みがあった。
「今度は、さしずめ、柄《がら》もののシャツって寸法ですかね」とスラックが包みを引き剥《は》がしながら苦りきった口調でいった。
次の瞬間、スラックははっと喘《あえ》いだ。
包みの中から現われたのは由緒ありげな小ぶりの銀器いくつかと、同じく銀製の大鉢であった。
ミス・マープルは一目見るなりびっくりしたように甲高い声を上げた。
「まあ、食塩入れじゃありませんか、プロザローさんの! それにチャールズ二世時代のあの大鉢まで。驚きましたわ!」
スラック警部の顔は真赤に上気していた。
「こういうことだったのか。泥棒め! しかしどうもわからないな。盗難届けも出ていないし」
「オールド・ホールでは、まだ盗まれたことに気づいていないんじゃありませんか」と私はいった。「この種の貴重な銀器類はふだんは使われませんからね。おそらく後生大事に金庫にでもしまいこんでいたんでしょう」
「とにかくこれは調べてみる必要がありますね。すぐオールド・ホールに行ってみますよ。わがストーン博士が姿を消したわけもこれでうなずけます。村で殺人事件が持ち上がったり何だりで、われわれがやつの行動に感づくんじゃないかと気を回したんじゃないですか。ぐずぐずしていたら自分の所持品も調べられかねないというわけで。それでクラムって女にこいつを隠させた――手ごろな着替えの衣類をいっしょに入れて。自分に疑いがかからないように女を後に残し、いずれ人知れずもどり、こいつを持ってずらかるつもりだったんでしょうな。だがいいこともないわけじゃない。これでやつの殺しの嫌疑は晴れたわけだ。ストーンはそっちとは無関係です。やつは泥棒だが、人殺しじゃあない」
スラックはスーツケースの中に銀器や衣類を元どおりにしまうと、ミス・マープルがシェリー酒を一杯どうだというのを断って立ち去った。
「さて、これで謎の一つは解明されましたね」と私はほっと溜息をついた。「スラックのいうとおり、殺人のかどでストーンを疑う根拠はまるでなくなった。何もかもちゃんと説明がついたことですし」
「いちおう、そのように見えますわね。さあ、でもほんとに残らず説明がつきますかどうですか」
「だってストーンの場合は、殺人の動機は皆無じゃないですか」と私は指摘した。「奴《やっこ》さん、目当てのものが手に入ったから行方をくらまそうとしたんですよ」
「そうですねえ」
ミス・マープルははかばかしい返事をしなかった。これはどういうことだろうか? 私はしげしげとその顔を見つめた。ミス・マープルは私の物問いたげな視線を受けとめてあわてて弁解するように、しかし真剣な様子でいった。
「わたしの考えはきっと間違っているんでしょうけどね。こうした事柄についてはわたし、とても鈍なたちですから。ですけどひょっとして――あの――こうした銀器はたいへんな値打ちものでございましょう?」
「この種の大鉢はつい先だっても千ポンド以上で売れたそうですからね」
「それは――たぶん――金属としてのお値段ではございませんのでしょう?」
「ええ、鑑定家が目ききしてつけた値段です」
「わたしのいっているのもその意味ですの。こうした品の売り買いは段取りをつけるまでに鑑定の何のと、ちょっと時がかかりますわね。段取りがついたとしても、取引は内密裡に運ばなければなりません。盗難が報道されて世間の評判になれば、おおっぴらな取引の対象にはなりませんもの」
「おっしゃる意味がどうもよくわからないのですが」
「すみません、言いかたが下手なもので」とミス・マープルはいっそうあたふたした様子で謝った。「でもわたし、思うんですの――泥棒のほうとしても、こうした銀器類の場合はただ頂戴しただけではすまないんじゃないかって。万全を期するには模造品と取り替えておくほかありません。そうすればしばらくは誰も盗難に気づかないでしょうからね」
「なるほど、それは思いつきですね」
「それ以外に方法はありませんわ。でもそうだとしますとね、偽物とのすり替えが無事にすめばプロザロー大佐を殺す理由など、これっぽっちもないはずですわ――殺人など、むしろとんでもないことでしょうからね」
「そうですとも。私がいったのもそのことなんですよ」
「ええ。ですけどわたし、ふとどうかなと思いましたの――もちろん、たしかなことは申せませんよ――でもプロザローさんは何かをなさるに先だって、こうする、ああするとたいそうおおっぴらにおっしゃるたちでしたからね。もちろん、おっしゃるだけで何もなさらないこともありましたけれど、でもわたし自身、あのかたの口から聞きましたの――」
「何をです?」
「ご自分のコレクションをロンドンの専門家に評価してもらうつもりだ――あのかた、そうおっしゃってましたわ。検認――いえ、それは人がなくなった場合でしたわね――保険のために。そうしておくべきだと誰かにいわれたそうで。ずいぶんいろいろとおっしゃってましたわ――これはとても重大なことなのだといった意味のことをね。もちろん、実際に専門家にお頼みになったかどうかは存じませんけれど、もしかして……」
「なるほど」と私はゆっくりいった。
「むろん、専門家が見れば偽物なら一目でわかりますわね。とどのつまりプロザローさんが、銀器類をストーン博士に見せたことがあるのを思い出す。ストーン博士がたった一度の機会に手練の早業《はやわざ》ですり替えをやってのけたかどうかはわかりませんけれど。とにかく専門家が呼ばれたりしたら、泥棒にとっては一大事ですわ」
「おっしゃる意味はわかります」と私はいった。「とにかく確かめてみんことには」
私はもう一度電話のところに行き、オールド・ホールを呼び出してアン・プロザローに電話に出てもらった。
「いえ、とくに重要なことでもないんですが。スラック警部はもうそちらに着きましたか? まだですか? ではおっつけ、着くころでしょう。ところでミセス・プロザロー、オールド・ホールのコレクションの鑑定を専門家にお頼みになったことがありますか? はあ? 何ですって?」
アンの返事はいたって明快だった。私は礼をいって受話器を置き、ミス・マープルを振り返った。
「これではっきりしました。プロザロー大佐はロンドンの専門家に月曜日――つまり明日ですね――にきてくれと約束していたそうです。コレクションについて全面的に鑑定を依頼するつもりだったのでしょう。しかし大佐がなくなったので、鑑定は延期されたということでした」
「すると、ストーン博士にも殺しの動機はあったわけですのね」とミス・マープルは低い声でいった。
「動機はね。ですが、ただそれだけのことですよ。お忘れですか? ピストルが発射された時刻にはストーン博士はちょうど裏道でロレンスたちと出会っていたか、もしくは小径から裏道への踏み越し段を越えようとしていたんですから」
「ええ」とミス・マープルは考えこんだようにいった。「だとすると、ストーン博士は容疑からはずされるわけですわね」
二十四
牧師館にもどると、ホーズが書斎で私を待っていた。部屋の中を落ちつきなく歩きまわっていたが、私が入って行くとぎょっとしたように立ち止った。
「どうもすみません」と彼は額《ひたい》の汗を拭き拭き口ごもった。「このところ、神経が立っているんです」
「きみ、はっきりいって、この際、休みを取って転地したほうがいい。このままじゃ、きみは完全にまいってしまう。そうなったら取り返しがつかないからねえ」
「自分の持ち場を捨てることはできません。それだけはけっして」
「何も持ち場を捨てるわけじゃない。きみは病気なんだ。ヘイドックも私と同意見だと思うよ」
「ヘイドックですか――ヘイドックね。あの人はどういう医者なんです? たかが田舎の開業医じゃありませんか」
「きみはヘイドックを正当に評価していないね。彼はいつもたいへん有能な医師と考えられてきたんだよ」
「そうかもしれません。いや、そうでしょう、たぶん。しかし、ぼくは好かんです。ま、とにかく、ぼくはそんなことをいいに伺ったのではありません。お差し支えなかったら今晩の説教を代っていただけないかと思ってお願いに上がったんです。ぼくは――ぼくには――どうも無理なようで」
「いいとも。では今夜の礼拝の責任は私がもとう」
「いえ、いえ、司会はぼくがします。体具合がどうこういうわけじゃないんですから。ただ講壇に立って大勢の人の目に見つめられると思うと……」
こういって目を閉じ、何度かゴクンと唾《つば》を呑みこんだ。
実際、どこかひどくわるいようだ、ホーズは。ただごとではない。私がこう思ったのを察したらしく、ホーズはかっと目を見開いて早口にいった。
「べつにどうってことはないんですよ。ただ、頭痛がして――頭が割れるように痛むんです。すみませんが水を一杯、いただけないでしょうか」
「いいとも」
私は自分で蛇口から水をコップに汲《く》んでもどった。ベルを鳴らすというのは、わが家では無用の手続きなのだ。
私がコップを渡すと、ホーズは礼をいってポケットから紙箱を取り出し、中から小さなカプセルを取り出すと、水といっしょに一気に服《の》み下した。
「頭痛薬なんです」
私はそのときふと、ホーズはひょっとしたら麻薬を常用しているのかもしれないと思った。そう考えると最近の彼の奇妙な行動の多くの説明がつく。
「あまりたくさん服用しないほうがいいと思うがね」
「そんなことは――しませんとも。ヘイドック先生にも注意されています。ですが、驚くほどよく効くんですよ。効果てきめんです」
まったくの話、ホーズは打って変って平静さを取りもどし、ずっと落ちついてきたように見えた。
ホーズは立ち上がった。
「じゃあ、今晩の説教はお願いできますね? どうもありがとうございます」
「礼などいうにはおよばない。司会もさせてもらうよ。きみは帰ってゆっくり休むことだ。いや、これで決まりだ。もう何もいいたもうな」
ホーズはもう一度礼をいった。それから私から目をそらせて窓のほうを見ながらいった。
「今日――あの――オールド・ホールに行かれたそうですね?」
「ああ」
「立ち入ったことを伺うようですが、先方から呼ばれたんですか?」
私はびっくりして彼の顔を見返した。ホーズはさっと顔を赤らめた。
「すみません。ただ――その――何か新しい展開でもあって――それでミセス・プロザローに招かれたのかと思ったものですから」
ホーズの好奇心を満足させる気は私にはまったくなかった。
「ミセス・プロザローはね、葬儀に関してとそのほかにも一つ二つ、私と打ち合わせをしたいと思われたんだよ」
「ああ、それだけですか。なるほど」
私が黙っているとホーズはなおもじもじしていたが、ようやくいった。
「レディングさんがゆうべ、ぼくを訪ねてきたんですよ。なぜだか――まるで想像もつかなくて」
「用件はいわなかったのかね?」
「ちょっと寄ってみたくなってといっていました。夜はひとりだと淋しくていけないとか何とか。これまでは一度だって、やってきたことがなかったのにですよ」
「ロレンスは話の面白い男で通っているから、迷惑でもなかったろう」と私は微笑をふくんでいった。
「しかしいったいぜんたい、何だってわざわざぼくなんかに会いにきたんでしょう? 何となく不愉快なんですよ」ホーズは神経的に声音を昂《たかぶ》らせていた。「また寄らせてもらうといって帰りましたが、どういうことなんでしょう? 何を考えているんでしょうかね?」
「ロレンスの訪問に何か隠れた動機があるとどうして勘ぐるんだね?」と私は反問した。
「ただ不愉快なんです」とホーズはかたくなに繰り返した。「ぼくのほうでは、|あの人《ヽヽヽ》に不利になるようなことはどんな意味でもいっていません。あの人が犯人じゃないかなんて、ほのめかしもしなかったし。自首したときでさえ、ロレンス・レディングが殺したなんてまったく納得できないといいきったくらいです。ぼくが誰かに疑いをかけたとすれば、せいぜいアーチャーでレディングさんじゃありません。アーチャーとなると話はまったくべつです。神を信じない罰当り、酔っぱらいのやくざな男ですからね」
「それはアーチャーに対していささか厳しすぎるとは思わないかね。結局のところ、あの男についてはわれわれみんな、あまりよく知らないんだから」
「あの男は密猟者です。何度も刑務所に出入りしているんです。その気になれば何だってやりますよ」
「アーチヤーがプロザロー大佐を射殺したと、きみは本気で考えているのかね?」と私は好奇心を動かしてきいた。
ホーズは常日ごろから、イエス、ノーをはっきりいわない男だった。私は最近何度か、そうした場合にぶつかっていた。
「あなたご自身はいかがです? それが唯一可能な答だとは思われませんか?」
「われわれの知っているかぎりでは、アーチヤーをクロとする証拠はおよそ何一つないんだからね」
「あの男は威《おどし》し文句を並べていました」とホーズは力をこめていった。「それを忘れちゃ困ります」
アーチヤーの威し文句うんぬんについては、私はつくづくうんざりしていた。それに、アーチャーがじっさいにそんなことをいったという直接的な証拠は皆無なのだ。
「アーチャーはプロザロー大佐に復讐しようと心を決めていましたからね。まず一杯ひっかけて、その勢いでピストルをぶっぱなしたんでしょう」
「それは純然たる仮定だよ」
「しかし、大いにありうることだとは思われませんか?」
「思わないね」
「可能性はないわけじゃないですよ」
「そりゃ、まあね」
ホーズは横目で私を見た。
「ありうることだとはなぜ、お考えにならないんですか?」
「それはね」と私はいった。「アーチャーのような男の場合、ピストルで人を射殺しようなどと考えるわけがないからさ。凶器がぴったりしないんだよ」
ホーズは私の答を聞いて面食らったらしかった。こうした反論は予期していなかったのだろう。
「そんな論法が実際問題として有効だと本気でお考えですか?」と彼は疑わしげにいった。
「アーチャー犯人説の大きな障壁だとは思うね」
私がこう断言すると、ホーズはそれ以上何もいわずにもう一度礼をいって立ち去った。
玄関までホーズを送ると、ホールのテーブルに手紙が四通載っていた。四通に共通する特徴がいくつかあった。いずれも紛れもなく女文字で、どれにも「至急親展」と記されていた。唯一の違いは、一通の封筒が目立って汚れているということぐらいだった。
四通の外見があまりよく似ているので、私は目の前が四重写しになったような、奇妙な気持になった。
私が見つめていると、メアリが台所から出てきて思い出したようにいった。
「昼食の後で届いたんです。一通は郵便受けに入っていました」
わたしはうなずいて四通とも書斎に持って行った。
最初の手紙の文面はこうだった。
クレメントさま
お知らせしたほうがよいのではないかと思うことが耳に入りました。プロザロー大佐の死に関してです。警察に知らせるべきかどうか、あなたさまのご助言がいただければたいへんありがたいのでございます。主人がなくなりましてからというもの、人目に立つことはなるべく避けたいという気持が強うございまして。午後もしお時間があれば、お寄りいただけませんでしょうか。
マーサ・プライス・リドリー拝
私は二番目の手紙の封を切った。
クレメントさま
気掛りなことが起こりまして――どうしたものかとやきもきしております。じつは少々耳にしたことがあるのですが、重要なことかもしれないという気もいたします。警察とは、どんな意味ででもぜったいに関《かか》わりをもちたくございませんので、厚かましいのですが少々お時間を割いておいでいただけませんでしょうか。いつものようにすばらしいお答をお出し下さってわたしの疑念や困惑をお晴らし下されば、これほどありがたいことはございません。
まことに申しわけございませんが。
キヤロライン・ウェザビー拝
三通目に何が書いてあるかは、読まないうちからわかるような気がした。
クレメントさま
すこぶる重要なことが耳に入りました。まずあなたさまにお知らせいたすべきだと存じます。今日の午後、ご都合のいい時間にいらして下さいますよう。お待ちしています。
切り口上の、この手紙は「アマンダ・ハートネル」と署名されていた。
わたしは四通目を開けた。これまでのところ、私はさいわい、匿名の手紙というものにめったに悩まされたことがなかった。匿名の手紙ほど、卑劣で残酷な武器はないと思う。この手紙も例外ではなかった。一見無教育な人間が書いたような文言と文字だったが、いくつかのことから、そうでもなさそうだという気がした。
牧師さんへ
このことは、おたくとしても知るケンリがあるとおもうので書きます。ミセス・クレメントがレディングさんのうちからこっそりでてくるのを見たものがいるんです。どういうことか、さっしはつくでしょう。二人はよろしくやっているんです。ひとこと、おしらせします。
友だちより
胸がむかつく思いで私は小さく舌打ちしてその手紙をくしゃくしゃに丸め、火のついていない暖炉の中に投げこんだ。ちょうどそのとき、グリゼルダが入ってきた。
「そんな軽蔑したような顔をして、いったい、何を捨てたの?」
「きたならしいものだよ」
こういって私はポケットからマッチを取り出してすり、屈《かが》んで手紙に火をつけようとしたが、グリゼルダのほうが一瞬すばやかった。さっと身を屈めると、披女はくしゃくしゃに丸められた手紙をひったくり、私が止める間もなく皺《しわ》を伸ばして読んだ。
読み終るとグリゼルダは不快げに声を上げ、私に投げ返して顔をそむけた。私はそれに火をつけて、燃え上がるさまをじっと見つめていた。
グリゼルダは窓ぎわに行き、庭を眺めて立っていたがそのままの姿勢でいった。
「レン」
「何だね?」
「あなたにお話ししておきたいことがあるの。いえ、止めないでちょうだい。話したいんですから。ロレンス・レディングがこの村にきたとき、あたし、昔あの人をちょっと知ってたというようなことをいったわね? あれは嘘《うそ》だったの。あたし――あの人をかなりよく知っていたのよ。ほんとのとこ、あなたに会う前に一時期、あの人に夢中になってたことがあるの。たいていの女はロレンスに夢中になるんじゃないかしら。あたし、ひところ、あの人にばかみたいにのぼせあがってたのよ。といっても小説によくあるように、後で問題になるような手紙を書いたとか、無分別なことをしたとか、そんなふうなことはなかったわ。でも、一時夢中だったのはたしかよ」
「なぜ、そういわなかったんだね?」
「ああ、そのわけ? さあ、よくわからないわ。ただ――あなたって、ある意味じゃまるでおばかさんなんですもの。あたしよりずっと年上ってだけであなたったら、あたしが――ほかの人を好きになるんじゃないかって心配してるみたいなんですもの。だからあたしとロレンスが昔友だちだったってことで、ひょっとしたらよけいな気を回すんじゃないかと――」
「隠しごとがとてもうまいんだね」と私は一週間足らず前にこの部屋でグリゼルダがロレンスについていったことを思い出していた。いかにも無邪気そうな、ごく自然な言いかただった。
「ええ、あたしって、何かを隠すのが子どものときからとても上手なの。ある意味じゃ、隠しごとって大好き」
その声には子どもっぽい、楽しげな響きがあった。
「でも、ロレンスとアンのことは本当に知らなかったのよ。ロレンスがどうしてあんなに変ったのか――なぜあたしが目に入らないような顔をしてるのか、ふしぎだったの。あたし、そういうことに慣れていないんですもの」
二人ともしばらく黙っていた。
「ねえ、わかるでしょ、レン?」とグリゼルダが気掛りそうにきいた。
「ああ」と私は答えた。「わかるよ」
しかし、ほんとうにわかっていたのかどうか。
二十五
匿名の手紙の残した印象は、容易にはふっ切れなかった――まるで顔に|どぶ泥《ヽヽヽ》でもはねかかったように。
しかしともかくも私は他の三通の手紙を取りまとめ、時計をちらっと見てから家を出た。
ほぼ時を同じうして三人の婦人たちの耳に入った情報というのは、いったいどういう性質のものだろう? 同じような内容かもしれない――そう私は考えた。後でわかったことだが、これは私の思い過ごしだった。
さて訪問先に向かう途中でたまたま警察署の前を通ったので立ち寄った――そういいたいところだが、それは本当ではない。足がひとりでにそっちに向ってしまったのだ。スラック警部がオールド・ホールからもどったかどうか、知りたかったからだ。
警察署に顔を出すと、スラックはすでにもどっていたばかりでなく、ミス・クラムを連行していた。グラディス・クラムはスラックの訊問に高飛車な態度で受け答えしており、林の中にスーツケースを持って入ったことなどけっしてないとはっきり否定した。
「噂好きのおばあさんが暇に任せて一晩じゅう窓から外を見ていたからって、私に罪を着せるんですの? あの人、前にも見まちがいをしたんですよ。そら、殺人事件の起こった日の午後、あたしが裏道の果てにいるのを見たっていったとき。昼間なのに間違えたじゃありませんか。月明りであたしの姿が見わけられると思います?」こうまくしたてて一息入れた。
「まったくひどいわねえ、この村のおばあさんたちときたら。話の種になると思えば、何だっていうんですもの。あたしは何も知らずに子どものようにすやすやとベッドで眠ってましたわ。あなたがた、恥ずかしいと思わないんですの? 何よ、寄ってたかって――」
「青猪《ブルー・ボア》館のおかみさんがあのスーツケースはたしかにあなたのものだといっているとしたらどうします、ミス・クラム?」
「そんなことをいったとすれば、それはおかみさんの思い違いですよ。名札がついてるわけじゃなし、あんなスーツケース、誰だってもっていますわ。ストーン博士もお気の毒に、泥棒呼ばわりされて。いくつも肩書きのある、とてもりっぱなかたですのに」
「では、いっさい釈明を拒否なさるんですね、ミス・クラム?」
「拒否も何も、あなたがたのとんだ見込み違いだった――それだけのことじゃありませんの。あなたと、あのおせっかいなミス・マープルの。あたし、これ以上はもう一言《ひとこと》だって話しませんよ――弁護士が同席しないかぎり。もう失礼させていただきますわ。それともあたしを逮捕なさるおつもり?」
答えるかわりに、スラックは立ち上がってドアを開けた。ミス・クラムは昂然《こうぜん》と頭を振り上げて出て行った。
「あのとおりですよ」スラックは椅子にもどっていった。「全面的に否定していましてね。それにもちろん、ミス・マープルの見まちがいということだってあるわけですし。あの距離から、それも月明りの中で、誰かをそれとはっきり認めたといっても陪審は信じちゃくれませんからね。いまもいったように、思い違いの可能性だってあるわけです」
「可能性はあります。しかし私はそうは思いませんね。ミス・マープルのいうことはたいていは当っているんです。それだから、あの人は煙たがられているんですよ」
スラックはにやりと笑った。
「ハーストもそういっていますよ。やれやれ、こうした小さな村ときた日には!」
「銀器についてはどうでした?」
「オールド・ホールのものは一つも欠けずに揃《そろ》っているようでした。とすると当然、どっちかが偽物ということになりますね。ちょうど具合のいいことに、マッチ・ベナムにこうした場合にもってこいの男がいましてね――年代ものの銀器の鑑定家なんですよ。電話して車を迎えにやりました。どっちが本物か、じきわかるでしょう。盗難が既成の事実か、それともまだ計画の段階だったか、いずれにしろ、大した違いはありません――こと警察に関するかぎりはね。盗みは、殺しとくらべれば些々《ささ》たる犯罪です。ストーンにしろ、クラムにしろ、殺人事件には関係がないことはたしかでしょう。それにあの娘を手操って行けば、うまいこと、ストーンにつながるかもしれません。それであっさり帰したってわけです」
「そういうことでしたか」
「レディング氏がシロと判明したのは残念でしたよ。わざわざ自分から名乗り出てくれる容疑者なんてめったにいませんからね」
「そうでしょうとも」と私は微笑した。
「女ってやつは、とかく悶着《もんちゃく》のもとでね」とスラックはわけ知り顔に呟《つぶや》いて、ほっと溜息をついたが、すぐ思いがけないことをいいだした。「もちろん、まだアーチャーがいますがね」
「すると、アーチャーに疑いをかけておられるんですか?」
「当然でしょう。真先に目をつけましたよ。匿名の手紙が舞いこまなくたって、やつのことは怪しいと思っていましたからね」
「匿名の手紙ですって?」と私は思わず激しい語調できき返した。「そんなものが届いたんですか?」
「べつに珍しいことでもありません。警察はその種の手紙を、日にすくなくとも十通は受け取っていますよ。ええ、アーチャーのことについても投書があったんです。警察に、からきし目がないとでも思っているんですかね。やつにははじめから疑いをかけていたんですよ。ただあいにくとアリバイがありましてね。大したものじゃあないが、突きくずすのは厄介でしょう」
「大したものじゃないとは、どういう意味です?」
「あの午後は奴《やっこ》さん、二人の仲間とずっといっしょだったといっておるんです。もっともいまもいったように、大して当てにはなりませんがね。アーチャーのような連中はどんな嘘でも平気でつきますからね。やつらのいうことなど、一言だって信じられませんよ。警察はその辺のところがよくわかっているんですが、一般の人にはわからない。しかも陪審は一般人から選ばれるんです――残念なことにね。陪審には何もわかっちゃいない。だから十中八九、証人のいうことを鵜呑《うの》みにしちまうんですよ――どういう人間が証人台に立とうが。それにむろん、アーチャー自身、やっきになって否定するでしょうし」
「レディング氏のように協力的とはいかないわけですね」と私は微笑をふくんでいった。
「そのとおりですよ」とスラックは私の皮肉に気づかずにうなずいた。
「誰だって生に執着があるでしょうからね」
「陪審が情にほだされたばっかりに無罪になった殺人者がどのぐらいいるか、数を聞いたらあなただってびっくりされるでしょう」とスラックは陰鬱《いんうつ》な口調でいった。
「ですが、アーチャーがやったと、あなたは本気で考えておられるんですか?」
この事件についてスラックに個人的見解といえるものがまったくないように見えることを、私は当初からふしぎに思っていた。誰かを有罪と認めさせるのが容易か、困難か、そればかりがもっぱらの関心事らしい。
「もう少し確かな証拠がほしいんですがね」と彼は認めた。「指紋とか、足跡とか、犯行時刻に近所にいるのを見られているとか、その種のことが何もないのに当てずっぽうで逮捕するのはどうもね。やつはレディング氏の家の近くにいるところを一、二度見られているんですが、あそこの掃除や洗濯に通っている母親に用事があったんだといいはっています。母親のほうはいちおう堅気のばあさんですし。いや、私はどっちかっていや、アーチャーよりあのレストレンジって婦人をあやしいと睨《にら》んでいるんですよ。プロザローを恐喝していたっていう、はっきりした証拠が掴《つか》めればいいんですが――あいにくこの事件についちゃ、動かぬ証拠なんてものはまるで手に入っていないんだから。はじめから終りまで推理、推理、また推理ではね。お宅の門の前の道路ぞいにも、ミス・マープルのような暇なオールドミスが住んでいるとよかったんですがね。もしも住んでいたら、重要な事実を何かしら見て取っていたでしょうから」
スラックの言葉から訪問の予定を思い出して、私はあわてて腰を上げた。これほど愛想のいいスラック警部に会ったのははじめてではないかと思いながら。
さて、私はまずミス・ハートネルの家を訪ねた。たぶん私がくるのを窓辺に立って見ていたのだろう、ベルを鳴らしもしないうちにドアが開いて、ミス・ハートネルが私の腕をむんずと掴み、ほとんど引きずりこまんばかりにして中に請《しょう》じいれた。
「よくきて下さいましたね。さあ、こちらヘどうぞ。ここなら安心ですから」
こういって、案内されたのは鶏小屋ぐらいの広さしかない部屋だった。ミス・ハートネルはドアを閉めると、秘密めかしい様子で手を振って私を椅子の一つ(全部で三つしかなかった)につかせた。どうやら自分の役割を大いに楽しんでいるらしかった。
「わたしはもともと、回りくどいことが嫌いなたちでしてね」と例によってがらがらした声でいったが、こうしたおりにふさわしく、いつもよりはいくぶんか音声を低めていた。「こういう村では、噂は人の口から口ヘたちまちのうちに伝わるものだということはご存じでしょう?」
「ええ、嘆かわしい次第ですがね」
「まったく嘆かわしい次第ですよ」とミス・ハートネルはうなずいた。「わたし自身は下らない噂話を誰にもまして忌み嫌っていますが、事実は事実ですからね。プロザローさんが殺された日の午後、わたしはミセス・レストレンジを訪ねましたが留守だったんです。このことはあの警部にも話しましたよ――当然の義務としてね。義務を遂行したからといって、むろん、お礼をいってもらおうなんて、考えちゃいません。義務だから話す――それだけのことです。もともとこの世では、人間は稀《まれ》にしか感謝されぬものですから。げんにきのうも、あの小生意気なベーカーのおかみさんが――」
「まったく、まったく」ミス・ハートネルが貧しい人たちの忘恩について得意の長広舌をふるいだしたら最後、とめどがない。私はあわてて口をはさんだ。「悲しむべきことです――じつに。しかしいまおっしゃろうとしていたのは――」
「ああいう人たちときたら、誰が自分たちの最良の友人か、まるで見きわめていないんですから困ったものですよ。わたしはあの人たちを訪問する際には、かならず時宜を得た助言をするように心がけています。それについて感謝されたことは一度もありませんがね」
「つまりあなたはスラック警部に、ミセス・レストレンジを訪問なさったおりのことをお話しになったんですね?」と私は話を進展させるべく水を向けた。
「そのとおりです――ついでですがあの警部にしてからが、ありがとう一ついいませんでしたよ。情報がほしいときには当方から出向く――そうはっきりいったわけではありませんが、――まあ、そんな口ぶりでしたっけ。近ごろの警察官は昔とは大違いですね」
「ごもっともです。しかしほかにも何かおっしゃりかけたようでしたが?」
「で、わたし、心をきめたんです。今度はもうあんな話のわからない警部に接近するのはやめておこうと。何といっても牧師さんは紳士でいらっしゃいますからね――すくなくともある牧師さんがたはね」
紳士であるその限られた数の牧師たちのうちに、どうやら私も加えてもらっているらしい。
「何か、私にできることがあれば――」
「これは義務の命ずるところだからこそ、申し上げるのです」とミス・ハートネルはいって、口をきゅっと結んだ。「できれば、こんなことは口にしたくありません。気が進まないのです。しかし、義務は義務ですから」
私は次の言葉を待った。
「伝え聞くところでは」とミス・ハートネルは少々上気した顔でいった。「ミセス・レストレンジは、あの午後、自分はずっと在宅していたといってなさるそうですね。ベルが鳴っても出なかったのは出たくなかったからだと。いったい、自分を|何さま《ヽヽヽ》だと思ってるんでしょうかねえ。こっちは義務として訪問したのに、そんな態度を取るなんて」
「体具合がわるかったそうですからね」と私は取りなすようにいった。
「体具合がわるかったですって? とんでもない。そんな言いぐさを信じるなんて、あなたってかたは、牧師さん、どこまで浮き世離れしていらっしゃるんですかねえ。あの人はどこもわるくなんかありませんとも。病気で検死審問にも出られないって申し立てたそうですね。ヘイドック先生の診断書を添えて。ヘイドック先生を丸めこむぐらい、あの女にとっちゃ何でもないことなんですよ――誰だって、そのくらい知ってますわ。ええと――どこまで話したんでしたっけ?」
私もそれはわからなかった。ミス・ハートネルの場合、どこで本論が終って、枝葉末節の悪口雑言が始まるのか、見きわめるのはむずかしかった。
「そうそう、わたしがあの日、ミセス・レストレンジの家を訪問したところまででしたね。ミセス・レストレンジが家にいたっていうのは、でたらめもいいとこですよ。いやしませんでしたとも。この私が知ってますわ」
「いったい全体、どうしてそんなことをご存じなんです?」
ミス・ハートネルの顔はいっそう赤らんでいた。彼女ほど猛烈な女性の場合でなかったら、きまりがわるくて赤面しているんだろうと推察するところだろうが。
「わたし、ノックもしたし、ベルも鳴らしたんですよ」とミス・ハートネルはいった。「すくなくとも二度。それでも誰も出てこないので、ひょっとしたらベルがこわれているのかもしれないと思いましてね」
こうはいったものの、さすがに私の顔をまともには見られず、目をそらしていた。このあたりの家はみな同じ建築業者の建てたもので、どの家でもベルを押すと、家の中で鳴っている音が玄関のマットの上に立っていてもはっきり聞こえる。ミス・ハートネルも、私も、このことを十二分に承知していたのだが、私としても礼儀上、そう指摘するわけにはいかなかった。
「それで?」と私は低い声で促した。
「郵便受けに名刺を押しこんで帰るという気もしませんでね。礼儀知らずと思われるのはいやでしたし。私にも欠点はあるかもしれませんが、人さまに対して失礼な態度は取らないように心がけています」
ミス・ハートネルはしゃあしゃあとこう宣言した。
「ですからわたし、裏にまわって窓ガラスをたたいて案内を乞おうかと思ったんです」と臆面もなく言葉を続けた。「家のまわりを一回りして、窓を一つ一つのぞいてみましたけど、人の姿は見えませんでね」
そうだったのか。無人なのをいいことに、ミス・ハートネルは好奇心にものをいわせて家のまわりを歩きまわり、庭に入りこんで調べたあげく、窓を一つ一つのぞいて内部をじろじろ観察したのだろう。私にこのことを話したのは、私なら警察と違って思いやりもあろうし、余計な詮索もせずに辛抱強く聞いてくれると思ったからに違いない。牧師は教区の人々のことをなるべく善意に解釈して、疑わしい場合も妙な憶測はしないと一般に考えられているのだ。
私はミス・ハートネルの行動については何もいわずに、ただこうきいた。
「それは何時ごろのことですか、ミス・ハートネル?」
「わたしの記憶では、おっつけ六時というころあいだったと思います。その後すぐ家に帰りましたが、家に着いたのは六時十分過ぎごろでしたね。六時半ごろ、ミセス・プロザローがちょっと寄って行かれました。ストーン博士とレディングさんが外に立っていましたっけ。わたしたち、球根のことを少し話したんです。その時間には大佐はもう殺されていなさったわけですね。何て悲しい世の中でしょう!」
「ときとして不愉快な世の中でもありますがね」
私は立ち上がった。
「私へのお話はそれだけでしょうか?」
「ええ、ひょっとすると重要かもしれないと思ったものですから」
「ひょっとするとね」と私は同意した。
そしてそれ以上もう話には乗らずに暇《いとま》を告げたので、ミス・ハートネルは大いに失望したらしかった。
ミス・ウェザビーはいささかあたふたと私を迎えた。
「牧師さま、まあ、申しわけありません――わざわざお出かけ下さいまして。お茶はおすみになりまして? ほんとに? クッションにお背中をもたせかけて下さいまし。さっそくお訪ね下さってありがとうございます。牧師さまはいつも、他人のためにけっして労をおいといになりませんのね」
こういった長々しい外交辞令がひとしきり続いた後、ミス・ウェザビーはようやく肝心の用向きを切り出した。あいかわらず、きわめて持ってまわったいいかたではあったが。
「この話は、たしかな筋からの情報とお考えになって下さいまし」
セント・メアリ・ミード村におけるたしかな情報源とは、多くの場合、他家のお手伝いである。
「誰がいったのか、はっきりおっしゃって下さるわけにはいきませんか?」
「いわないと約束したものですから。約束は神聖なものだと、わたし、つねづね考えておりますの」
すこぶるもっともらしい顔でミス・ウェザビーはいった。
「さる人が話してくれた――ということでよろしゅうございましょうか? そのほうがさしさわりもございませんからね」
「ばかげていますな」そう私はいいたかった。そういって、ミス・ウェザビーがどんな顔をするか見たいと思ったのだが我慢した。
「それでそのさる人がわたしに、ある女性の姿を見かけたっていうんですの。この女性の名も伏せておきますが」
「つまり、さる人第二号というわけですか」
驚いたことに、ミス・ウェザビーはけたたましい声で笑いだし、いたずらっぽく私の腕をたたいていった。
「あらまあ、牧師さまったら、いけないかた――」
ようやく笑いをおさめてミス・ウェザビーは続けた。
「はじめの|さる人《ヽヽヽ》が見かけた、このある人ですけれど、どこに行ったとお思いになります? 牧師館に通じる道路のほうへ曲がったんですって。曲がる前にとても妙な素振りでまわりを見まわしていたそうですわ。顔見知りの人に見られていないかどうか、気にしたんでしょうね」
「それで、|さる人《ヽヽヽ》のほうは――?」
「魚屋に行ったんだそうです。店の二階に」
なるほど、お手伝いたちが休みの日に出かけて行くのはそうした場所だったのか。彼女たちができることならぜったいに行かない場所、それはさわやかな空気のみなぎる野外なのだ。
「それで時刻でございますけど」とミス・ウェザビーはいわくありげに身を乗りだした。「六時ちょっと前だったそうですよ」
「どの日の六時ですか?」
ミス・ウェザビーは呆《あき》れたように小さく叫んだ。「殺人事件の起こった日ですわよ、もちろん。わたし、そう申しませんでした?」
「そうだろうとは思いましたが。で、そのあるご婦人の名は?」
「Lで始まるとだけ申し上げておきましょう」とミス・ウェザビーは意味ありげに頭を二、三度振った。
ミス・ウェザビーの情報というのはこれでお終《しま》いだろうと解釈して、私はやおら立ち上がった。
「わたしが警察から反対訊問とかをされないように、あなたさまがお庇《かば》い下さいますわね」とミス・ウェザビーはわたしの手を両手にはさんで握りしめて、あわれっぽい口調でいった。「わたし、人さまの前に立つと考えただけで尻ごみしてしまいますの。法廷に立つなんて、もってのほかでございますわ」
「とくべつの場合には、証人は座って陳述することを許されますよ」と私はいった。
そしてそこそこに暇を告げた。
訪問の予定は、もう一軒残っていた。ミセス・プライス・リドリーは、おまえに対して、こちらはまだ含むところがあるんだぞといわんばかりの固い表情で私を迎えた。
「わたし、警察沙汰に巻きこまれるのはご免こうむりたいのです」私の手を冷やかに握った後、彼女はこう宣言した。「それはわかっていただけると存じます。けれどもなんらかの説明を要することをたまたま聞きこみましたものですから、然るべき筋に知らせたほうがいいのではないかと」
「ミセス・レストレンジのことですか?」
「まあ、とんでもない!」とミセス・プライス・リドリーはつんとしていった。
まずいことをいったと私は沈黙した。
「ごく単純なことですの」と彼女は続けた。「宅のお手伝いが――クレアラと申しますけど――ちょうど門の所に立っておりましたときに――外の空気が吸いたくなってほんの一、二分出ただけだと本人は申しておりますがわかるものですか――おおかた、魚屋の店員がくるのを待っていたんでございましょうよ。ごく生意気な若者でして、十七歳になったからってどんな女の子とでもふざけていいと思っているらしいんですの。ま、とにかく、クレアラが門の所に立っていますと、くしゃみの音が聞こえたんだそうです」
「はあ」と私は口の中で呟いて次の言葉を待った。
「それだけです。たしかにくしゃみが聞こえたとクレアラは申しましたんですの。『人間、誰しもひところのように若くはないから』などと、今回はどうかおっしゃらないで下さいまし。くしゃみを聞いたのはクレアラでございまして、まだやっと十九なんですから」
「しかし、くしゃみが聞こえちゃ、なぜ、いけないんです?」と私はきいた。
ミセス・プライス・リドリーは、何という勘の鈍い人だといわんばかりにじろっと私の顔を見返した。
「あの子がくしゃみを聞いたのは殺人事件の起こった日のことで、そのとき、お宅はみなさん、出払っていらっしゃるはずだったんですのよ。犯人は茂みのかげにでも隠れて、機会をうかがっていたんじゃないでしょうか? ですから、探す必要があるのは鼻風邪をひいている男ですわ」
「それとも花粉症にかかっている人間でしょうね」と私はいってみた。「しかし実際のところ、ミセス・プライス・リドリー、その謎はあっさり解けると思いますよ。うちのメアリはこのところ、ひどい鼻風邪をひいておりましてね。あまりくしゃみをするので私たちも閉口していたんです。お宅のお手伝いの聞いたのは、おそらくメアリのくしゃみだったんでしょう」
「いいえ、たしかに男性のくしゃみだったそうですわ」とミセス・プライス・リドリーはいい切った。「うちの門の所に立っている者に、お宅の台所にいる誰かのくしゃみの音が聞こえるわけはありません」
「書斎で誰かがくしゃみをしたとしても、お宅の門の所からは聞こえないでしょうね。まず聞こえますまい」
「わたし、申し上げましたでしょ――その男はたぶん茂みの中にでも隠れていたんだろうって。クレアラが家の中に入るのを見届けたうえで、お宅の玄関から侵入したんだと思いますわ」
「もちろん、ありうることですがね」
お座なりに響いてはいけないと思ったのだが、ミセス・プライス・リドリーははったとばかり、私を睨みつけた。
「わたしのいうことを取り合っていただけないのは慣れていますけれど、ついでにもう一ついわせていただきますよ。テニスのラケットを枠に入れないで芝生の上にほうりだしておいたりしたら、使いものにならなくなってしまいますわ。近ごろじゃ、ラケットだってずいぶんお高いんですからねえ」
この側面攻撃は、当面の問題と何の関連性も理由もないように思われて、私はぽかんとしていた。
「たぶんこのことについても、あなたさまは同意なさいますまいけれど」とミセス・プライス・リドリーはいいつのった。
「いいえ、いえ、もちろん、全面的に賛成いたしますとも」
「それを伺ってほっといたしましたわ。わたしの申し上げたいのは、こんなところでございます。これでわたし、この事件からいっさい手をひきますからご承知おき下さいまし」
ミセス・プライス・リドリーは、無理解な浮き世にはつくづくうんざりしているとでもいうように椅子の背にもたれて目をつむった。私は丁寧に礼をいって退散した。
玄関を出たところで私は見送ってくれたクレアラに、ミセス・プライス・リドリーがさっきいったことについて問いただしてみた。「ええ、ほんとなんでございます。たしかにくしゃみの音を聞きましたんです。ふつうのくしゃみとは違っておりました――はい、たしかに月並なくしゃみではございませんでした」
もともと犯罪に関することで月並なことは一つもない。まずピストルの音がふつうでなかった。ついでくしゃみがふつうでなかった。たぶん、それは殺人者のとくべつなくしゃみだったんだろう。私はさらにクレアラに、そのくしゃみの音を聞いたのは何時ごろだったかと聞いてみたがはっきりしなかった。六時十五分と六時半の間あたりだったと思う。とにかく奥さまが妙な電話を受けてヒステリーを起こされる少し前だった――そうクレアラは答えた。
銃声らしいものは聞いたかと私が押してたずねると、何度か、身の縮むような恐ろしい音がしたとクレアラは答えた。それを聞いて私は、このお手伝いのいうことにはあまり信頼を置かないほうがよさそうだと判断したのだった。
牧師館にもどって門を入りかけたとき、ふとヘイドックの家に寄ってみようという気になった。
時計を見ると、夕拝までにはまだちょっと間《ま》がある。それでその足でヘイドックの家に向った。
戸口に出て私を迎えたヘイドックの顔が心労にやつれているのにあらためて気づいて、私ははっとした。この事件で、ヘイドックは見違えるほど老いこんでしまったように見える。
「よくきてくれたね。何か変ったことでも?」
私は彼に、ストーンについてこのほど明らかになったことを話した。
「学者泥棒というわけか」とへイドックは呟いた。「なるほど、これでずいぶんいろいろなことの説明がつくね。やつは専門という振れこみの考古学に関してかなりのにわか勉強をしたらしいが、ぼくと話している間でさえ、一つ、二つ、ボロを出したからね。プロザローもあるとき、これはあやしいと思ったに違いない。プロザローがストーンとやりあったのは、きみも覚えているだろう? ところであのクラムって娘はどうなんだ? 共犯かね?」
「それについては、まだはっきりしたことはわかっていないらしい。私としては、彼女は無関係だと思っている。大体、お話にもならないくらい、愚かしい娘だからねえ」
「そいつはどうかな。グラディス・クラム嬢はあれでなかなか抜け目のない娘さんだよ。がまあ、健康明朗な、ごく尋常な女性ってところかな。とにかくぼくの同業者の厄介になることは金輪際なさそうだね」
私はホーズのことに触れて、どうも体具合がよくなさそうだ、休みを取って転地をしたほうがいいと思うのだがといった。
これに対するヘイドックの態度は、もう一つ煮えきらなかった。ようやく口を開きはしたが、本心を語っていないという気がした。
「そうだね」と彼はゆっくりいった。「そのほうがいいだろう。気の毒な男だよ、まったく」
「きみはホーズを好いていないと思っていたが」
「好きではないよ――大してね。だが、好きでなくても、気の毒に思わずにはいられない人間はたくさんいる」一、二分、間を置いて、付け加えた。「プロザローにしても気の毒に思っているよ。かわいそうに――誰からもあまり好かれなかったんだからね。自分が一から十まで正しいと思いこんでおり、そのうえめっぽう自己主張がつよい男だった。あれでは好かれなくて当然だろう。昔からああだったがね――ごく若い時分から」
「きみがそんな昔から彼をよく知っていたとは知らなかったよ」
「ああ、ひところはかなりよく知っていたんだ。ウェストモーランドに住んでいたころのことだ。ぼくはプロザローの家からあまり離れていない所で開業していたんだよ。もうだいぶ昔の話だ。ほとんど二十年になるかな」
私はほっと溜息をついた。二十年前にはグリゼルダはまだたった五歳だったわけだ。時とは奇妙なものだ……
「話はそれだけかね、クレメント?」
私ははっとして顔を上げた。ヘイドックは鋭いまなざしを私に注《そそ》いでいた。
「まだほかに何かあるんじゃないのかい?」
私はうなずいた。着いたときにはいおうかどうしようかと思い迷っていたのだが、やっぱり話そうと肚《はら》を決めていた。私はへイドックが好きだ。あらゆる点ですばらしいやつだと思っている。これから私が話そうとしていることが、ひょっとして彼の役に立たないとも限らない。
私はミス・ハートネルとミス・ウェザビーから聞いたことを、そのままヘイドックに伝えた。
彼は長いこと黙っていたが、ようやく口を開いた。
「そのとおりだよ、クレメント。ぼくはミセス・レストレンジが厄介ごとに巻きこまれないように、極力|庇《かば》ってきた。じつをいうと、彼女は古い友人なのだ。だがそれが唯一の理由ではない。ぼくの診断書はきみらが考えているようなこしらえごとではなかったんだよ」
ちょっと言葉を切ってから、彼は重々しい口調で続けた。
「いいかね、これはここだけの話にしてくれたまえ、クレメント。本当のところ、ミセス・レストレンジは余命いくばくもないのだ」
「何だって?」
「死に瀕《ひん》しているんだよ。長くてまあ、一カ月だろうな。そんな状態にあるあの人が質問攻めにされたり、警察にうるさくつきまとわれたりするのを極力防ぎたいと思うのは人情じゃないかね?」ヘイドックはまた続けた。「あの晩、ミセス・レストレンジがこの家の前の道路へと曲がったのはね、ここへ――この家にくるためだったのだ」
「きみは前にはそういわなかったが」
「噂《うわさ》の種をまきたくなかったんだよ。六時から七時までは診療時間外だ。そんなことは村の者なら誰でも知っている。とにかくあの晩、彼女はここへきたんだ。誓ってもいい」
「だが私がきみを呼びにここへきたときには、彼女はいなかったじゃないか。つまり死体が発見されたときのことだが」
「ああ」とヘイドックは困惑した顔で答えた。「人に会う約束があるといって、少し前に出て行ったんだ」
「人に会う約束って、どっちの方角に行ったんだね? それとも自宅で会うつもりだったのかね?」
「さあ、わからない。名誉にかけて本当に知らないんだ」
私は彼の言葉を信じた。しかし――
「だがひょっとして無実の人間が絞首刑に処せられるということにでもなったら――」
「いいや」とヘイドックはいった。「プロザロー大佐殺しで死刑になる人間なんていないよ。それはぼくが請け合う」
そういわれたからといって、安心できるわけのものでもなかった。とはいえ、ヘイドックの声音は確信ありげだった。
「絞首刑になんか、むろん、誰もならんとも」とへイドックは繰り返した。
「だが例のアーチャーという男は――」
ヘイドックはいらだたしげな素振りをした。
「アーチャーだったとしたら、ピストルの指紋を拭《ぬぐ》いとっておくだけの才覚ももち合わせていないだろうよ」
「そりゃ、まあね」
こういったとき私はふと思い出して、林の中で見つけたあの小さな褐色の結晶体をポケットから取り出してヘイドックに示し、何だろうときいた。
「ほう」とヘイドックはちょっとためらってからいった。「ピクリン酸のようだね。どこで見つけた?」
「そいつは、このシヤーロック・ホームズ先生の秘密さ」
ヘイドックは微笑した。
「ピクリン酸ってどういう性質のものなんだね?」と私はまたきいた。
「一種の爆薬だよ」
「それはわかっている。しかし何かとくべつな用途があるんじゃなかったっけ?」
ヘイドックはうなずいた。
「薬品としても用いられる。溶液は火傷《やけど》の治療にすばらしくよく効くよ」
私が手を差し出すと、ヘイドックは不本意そうにそれを私に返した。
「大して重大なことでもないと思うが、たまたま妙な場所で見つけたんでね」
「どこで見つけたのか、いう気はないんだろうね?」
子どもっぽいと思われるだろうが、本当のところ、私にはいう気はなかった。
ヘイドックにも秘密はあるのだ。私にだって一つくらい、秘密があってもわるいことはなかろう。
ヘイドックが何もかも私に打ち明けているわけではないということで私は少々傷ついていたらしい。
二十六
その夜私は奇妙な気持で説教台に立った。会堂の中はいつになくいっぱいだった。ホーズの説教に期待して、ことさらに大勢が集まったわけでもあるまい。ホーズの説教はいつも退屈だし、独断的だ。私がホーズに代って説教するというニュースが口伝《くちづて》に伝わって、これだけの人数が押しかけたということもないだろう(私の説教も退屈だが、私の場合は学問的すぎるのだ)。さりとて村民の信仰があついせいでもなかったろう。
誰もがおそらく、ほかに誰が出席しているかを見て、礼拝後、教会のポーチあたりで噂話を交換しようと集まってきたに違いない。
ヘイドックがきていたのは意外だった。ロレンス・レディングもいた。驚いたことにロレンスの隣には、緊張しているせいか、青ざめて見えるホーズの顔も並んでいた。アン・プロザローもいた。もっともアンは日曜日の夕拝にはいつも出席する習慣だった。ただ今夜はよもやこないだろうと思っていたのだが。何よりも驚いたのは、レティスがいたことだった。レティスは日曜の朝拝には欠かさず出席している――父親のプロザロー大佐はこの点についてはいたって厳格だった。しかし夕拝にレティスが出たことは、それまで一度もなかった。
グラディス・クラムもいた。しなびたおばあさんたちに囲まれているので、嫌みなくらい若さと健康をひけらかしている感じだった。ずっと後方の席に遅れて滑りこんだ人影は、ミセス・レストレンジかと思われた。
ミセス・プライス・リドリー、ミス・ハートネル、ミス・ウェザビー、それにミス・マープルのお歴々が顔を揃《そろ》えていたことはいうまでもない。つまり村人がほとんど総出といってよかった。夕拝にこれだけ大勢の人が出席したのは前代未聞だと思う。
群集の存在とは奇妙なものだ。その夜の会堂内には磁力に似たものがみなぎっていた。その影響力を真先に感じたのは、この私であった。
いつもだと私は、前もって周到に、また良心的に説教の準備をする。しかし自分の説教の欠点は、自分がいちばんよく知っている。
今夜は私は必要上、準備なしに説教をしなければならなかった。説教台に立ってこっちを見上げている顔、顔、顔の海を見おろしたとき、とつぜん狂気が私を襲った。私は神の言葉の伝達者たることをまったくやめて、一人の俳優となった。目の前にいる会衆――その会衆を私は動かすことを欲していた。そして私は自分にそうした力があることを意識していた。
その夜自分がしたことを、私はけっして誇らしいとは思わない。私はもともと、感情的な信仰復興運動者《リヴァイヴァリスト》には共鳴してはいない。しかしその夜にかぎって私は、感情的な熱弁をふるって絶叫する大衆伝道者の役割を演じたのであった。
私はまず、説教の主題である聖書の箇所をゆっくり読んだ。
「わたしがきたのは義人を招くためではない。罪人を招いて悔い改めさせるためである」
私はこの聖句を二度繰り返して読んだ。会堂内に響きわたった朗々たる声は、レナード・クレメントの日ごろの声とはまるで違っていた。
最前列に座っていたグリゼルダがはっと顔を上げるのを私は見た。ついでデニスも愕然《がくぜん》と見上げた。
私は少し間を置いて、やおら口を開いた。
会衆は抑圧された感情の海に浸っていた。彼らは奏でる手を待ちわびている楽器であった。私は、その楽器を奏で、罪人に対して悔い改めを説いた。感情的な熱狂へとみずからを駆りたてつつ、何度も何度も糾弾《きゅうだん》するように手を差し伸べて繰り返した。
「私は|あなたがた《ヽヽヽヽヽ》にいう……」と。
そのつど、会堂内のあちこちから溜息とも、喘《あえ》ぎともつかぬ声が上がった。
集団的感情は、奇妙な、恐ろしいものだ。
私は説教を、あの美しい、痛烈な言葉――おそらくは聖書の中でもっとも肺腑《はいふ》をつく言葉――で結んだ。
「あなたの魂は今夜のうちにも取り去られるであろう……」
束《つか》の間《ま》、私に何かが乗りうつったかのような、ふしぎなひとときであった。牧師館に帰ったときのわたしは、ふたたびいつもの影の薄い、個性の乏しい人間レナード・クレメントにもどっていた。グリゼルダは青ざめた顔をしていた。片腕をそっと私の腕の中に滑りこませて彼女はいった。
「レン、今夜のあなたはちょっとこわかったわ。何だか――何だか、いやだった。あなたがあんなふうにお説教するのって、あたし、聞いたことがないわ」
「これが最初で最後だろうよ」と私はソファに身を沈めて答えた。ぐったり疲れを覚えていた。
「でもどうしてあんな話をしたの?」
「突発的に気がおかしくなったんだろうね」
「何か――とくべつなわけがあったんじゃないのね?」
「どういう意味だね、とくべつなわけって?」
「何かわけがあるんじゃないかと思ったの。あなたって、思いがけないところがあるのね、レン。ほんとはあたし、あなたって人をよく知らないんじゃないかしら」
私たちは座ってコールド・ミートの夕食をとった。メアリが外出していたからだった。
「ホールに手紙がきててよ」とグリゼルダがいった。「取ってきてくれる、デニス?」
デニスも妙に口数が少なかったが、おとなしく立ち上がった。
私は手紙を受け取って呻《うめ》き声を上げた。左側の隅にまたまた書かれていたのだ――「至急親展」と。
「ミス・マープルからに違いない。このうえ親展の手紙をよこしそうな人といえば、ミス・マープルぐらいのものだからね」
そのとおりだった。
クレメントさま
一つ二つ思いついたことがありまして、ぜひともお話し申し上げたく存じます。このたびの悲しい事件を解明するために、わたしたちのそれぞれが力を貸す必要があると考えているからでございます。お差し支えなければ、今夜九時半ごろお伺いしたいのです。お庭から入ってお書斎の窓をたたきます。グリゼルダさんにはその間、私の家にお越しいただき、甥《おい》の相手をして下さるとありがたいのですけれど。デニスさんもよろしかったらごいっしょにお出かけ下さいませ。お電話がなければ、お二人がおいで下さるものと考えてわたし自身、九時半にそちらに参上いたします。
ジェーン・マープル
私はこの手紙をグリゼルダに渡した。
「あら、もちろん行くわ!」とグリゼルダは快活にいった。「自家製のリキュールを一、二杯というのは日曜日の夜には打ってつけだわ。こう気分が冴《さ》えないのは、さっき食べたメアリのブラマンジェのせいだと思うの。死体置き場からでも取ってきた何かみたいな、いやあな感じだったんですもの」
デニスは隣家への招待に応じることにあまり気が進まないようだった。
「グリゼルダはいいよ。芸術とか、最近の本とか、高級なことがいくらでも話せるんだもの。ぽかんと座って他人の話をただ聞いてると、つくづく自分がばかみたいな気がしてくるんだ」
「あなたにはいい薬だわ」とグリゼルダが澄ましていった。「少しはしゅんとして、生意気いわなくなるんじゃない? でも安心なさい。レイモンド・ウェストさんだって、知ったかぶりをしてるだけでほんとは大して利口じゃないと思うわ」
「利口な人間なんて、そうやたらにはいないものだよ」と私はいった。
ミス・マープルはいったい、どういうことを話すつもりなのだろうと私は訝《いぶか》っていた。教会員のうちで、ミス・マープルほど、頭の切れる人物はいない。彼女はこの村で起こっていることをほとんどすべて見聞きしているだけではない。収集したそれらの事実から、驚くほど筋の通った、適切な結論を抽《ひ》き出すのだ。
もしも私が詐欺師として世渡りをして行こうと心を決めるとすれば、誰よりも警戒すべきはこのミス・マープルだろう。
さて、グリゼルダのいわゆる「甥御《おいご》さんのお相手部隊」は九時少し過ぎに出発した。ミス・マープルの到着を待つ間、私は面白半分、事件と関係のある事実を表にしてみた。もろもろの事実を、時間的にできるだけ順を追って書きつらねてみたのである。時間を厳守する人間とはとてもいえないが、私は生来ルーズなたちではなく、出来ごとをきちんきちんと記録しておくのが好きだった。
九時半きっかりにフランス窓をたたく音がした。私は立ち上がってミス・マープルを迎え入れた。
ミス・マープルは見事なシェトランド・ウールのショールで頭から肩までをすっぽり覆い、いかにも上品な、華奢《きゃしゃ》な老女という姿で入ってきた。
「まあ、牧師さま、夜分ほんとに申しわけありません。グリゼルダさんがご親切に甥の相手をして下さっていますわ。レイモンドはあのかたの大の崇拝者でしてね――グルーズ〔十八世紀のフランスの画家〕の描く女性そっくりだといつも申しておりますわ……こちらに座らせていただいてよろしゅうございますか? あなたさまのお気に入りのお椅子を占領しているんじゃございませんでしょうね? まあ、申しわけございません……いいえ、足台は要りませんわ」いつものあたふたとしたしゃべりかただった。
私はミス・マープルの手からショールを引き取って椅子の上に置き、真向いに座を占めた。ミス・マープルはふとすまなそうに微笑した。
「なぜ、わたしがこんなにこの事件に関心をもっているのか、ふしぎにお思いでしょうね。女だてらにと考えておいでかもしれません。そうお考えになるのも無理はありませんわ。この際、説明させていただこうと思いますの」
顔をピンク色に上気させてミス・マープルはちょっと言葉を切った。
「ご承知のようにこういう辺鄙《へんぴ》な村に一人暮らしをしておりますと、何かしら趣味をもつ必要がございましてねえ。もちろん、編みものもありますし、ガールスカウトや福祉関係のお手伝いもわるくはございません。スケッチなどもよろしいでしょうしね。でもわたしの趣味はいまも、またこれまでも、人間性の観察ですの。人間性って、とても変化に富んでおりますし、尽きない魅力をもっておりますでしょ? さいわい、こうした小さな村にはほかに気を散らすようなこともございませんから、この方面で卓越する機会が大ありでしてね。鳥とか、花を分類するように、人間を種類別にきちんと分けることがおいおい上手になります。××類、××目、××科などとね。ときにはもちろん、間違いもいたしますよ。でも時を経るにつれてめったに間違わなくなるもので。それに自分で自分の力を試してみることもできますからね。ごくちょっとした問題を取り上げてみるんですの――グリゼルダさんが面白がっていらっしゃる、あの『むき海老《えび》事件』などもその一例ですわ。あれは大して重要な事件ではございませんでしたけれど、それでも解決するまではまったくの謎でしてね。『咳《せき》どめドロップ取り替え事件』というのもございましたっけ。肉屋のおかみさんの『雨傘事件』というのも。この事件は、八百屋の亭主が薬屋のおかみさんと好ましくない関係をもっているという前提の上に立たないかぎり、まるで意味をなしませんでね。結局、この仮定が当っていたんですの。自分の推理を個々のケースにあてはめてみるうちに、それがぴったり当っていることがわかるというのは、とても楽しいものでございましてねえ」
「たいていの場合、あなたの推理はいつもぴったりのようですね」と私は微笑を浮べていった。
「それでわたし、少し自惚《うぬぼ》れてしまったんじゃないかと思いますの」とミス・マープルは正直に告白した。「でも、いつかこの村で何か本物の大事件が起こったとしたらどうだろう、それなりにちゃんと――つまり正しく問題を解決できるかどうかとあやぶんではおりました。論理的にはまったく同じ手続きのはずですわ。結局のところ、魚雷の模型だって、本物の魚雷と違わないわけですからね。少々小ぶりでも、性能さえ同じなら」
「あなたがおっしゃろうとしているのは、物事は煎《せん》じつめればすべて似たりよったりだということでしょうか」と私はゆっくりいった。「まあ、理屈の上ではね。ですが、実際問題としては、はたしてどんなものですかな」
「同じだと思いますわ。いわゆる因子《ファクター》――学校ではたしかそんな言葉を使いましたわね――は同じなんですから。かなりの財産というものがあり、二人の人間――男と女――の間に互いにひきつけあう力が働く。因子《ファクター》はそれだけとは限りません。もちろん、異常心理という因子《ファクター》もあります。人間って多くの場合、少しずつ異常なところがあるものじゃないでしょうかしら? ほんといって、よく知ってみればたいていの人は異常なところをもっていますわ。ごくふつうの人でも、ときとしてびっくりするような行動に出ることがありますし、そうかと思うと誰が見ても異常だとしか思えない人がごく正常な行動に出たりしましてね。ですからある人間についての真相を知るにはほかの人間――前から知っている人でも、たまたま出会った人でも――と比較して考える以外にございません。はっきりした類型は、合計しても驚くほど限られた数しかないと思いますよ」
「お話を伺っているうちに空恐ろしくなってきましたよ。私自身、顕微鏡の下に置かれて仔細《しさい》に調べられているような気がしますね」
「もちろん、こういうことをメルチェット大佐に申し上げる気は毛頭ございません――あのかた、何かこう、ワンマンってところがおありになりますでしょ? それにスラック警部さんは――ええ、あの警部さんは、わたしの知っている靴屋の若い女店員そっくりですわ。その女店員はね、たまたまお客の足にぴったりのサイズの手持ちがあるからって、お客のほうでは茶色の仔牛《こうし》皮の靴をほしがっているのにエナメル皮の靴を売りつけようとするんですの」
まさに絶妙のスラック評だった。
「でもクレメントさま、あなたさまだってこの事件については、スラック警部さんと同じくらい、よくご存じでいらっしゃいますものね」とミス・マープルはいった。「ですからわたしたち二人が力を合わせれば――」
「どうも人間というやつは、それぞれに自分をひそかにシャーロック・ホームズに擬しているんじゃないでしょうかな」
こういって私は、その午後、三人の婦人たちから呼び出された次第について物語り、さらにオールド・ホールの屋根裏に置いてあった肖像画の顔がめちゃめちゃに切り裂かれているのをアン・プロザローが見つけたことや、警察署でのミス・クラムの態度について告げた。そして最後に、私が拾った例の結晶体がピクリン酸だとヘイドックが教えてくれたことを話した。
「これはたまたま自分が発見したものなので、重要な証拠だといいと思っているんですがね。しかしおそらく事件とは無関係でしょう」
「わたし、近ごろ図書館からアメリカの探偵小説をつぎつぎに借り出していますのよ」とミス・マープルはいった。「何かの参考にならないかと思いましてね」
「その中に、ピクリン酸に関する記述もありましたか?」
「いいえ、残念ながら。ラノリンにピクリン酸をまぜて軟膏《なんこう》と偽って、ある男の皮膚にすりこんで中毒死させたって話を、以前読んだことがありますけれど」
「しかしこの村では中毒死した人間など一人もいないんですから、そのほうの関連性はなさそうですね」
こういいながら私は、さっき書き上げた表をミス・マープルに渡した。
「今度の事件に関する事実をできるだけきちんとまとめてみようと思って、こんな表を作ってみたんですがね」
一覧表
(二十一日 木曜日)
午後十二時三十分――プロザロー大佐、牧師館訪問の予定を六時から六時十五分に繰下げる。この変更については村人の半数が聞いていたと思われる。
十二時四十五分――ロレンス・レディングのピストルはこのときまで、いつもの置き場所にあった(ミセス・アーチャーの証言。しかし、ミセス・アーチャーははじめのうち、最後にいつ見たかは記憶にないといっていたのだから、あまり信憑性《しんぴょうせい》はない)。
五時三十分ごろ――プロザロー夫妻、車でオールド・ホールを出て村に向う。同時刻、オールド・ホールの北門の門番の家から牧師館に偽電話あり。
六時十五分(もしくは二、三分前)――プロザロー大佐、牧師館に到着し、メアリの案内で書斎に入る。
六時二十分――ミセス・プロザロー、裏道から牧師館の裏門を入り、庭を横切って書斎の窓の所に行く。大佐の姿、見えず。
六時二十九分――ロレンス・レディングの家からミセス・プライス・リドリーの家に電話あり(局の記録によって確認)。
六時三十分|乃至《ないし》三十五分――ミセス・プライス・リドリーに上記の電話がかかった時刻を六時二十九分とすれば、銃声はほぼこの時刻に聞こえたことになる。ただしロレンス・レディング、アン・プロザローおよびストーン博士の証言は、六時三十分より少し早い時刻を示唆している。
六時四十五分――ロレンス・レディング、牧師館に到着し、プロザロー大佐の死体を発見する。
六時四十八分――クレメント牧師、門の所でロレンス・レディングに出会う。
六時四十九分――クレメント牧師、死体を発見。
六時五十五分――ヘイドック医師、死体を調べる。
注――六時三十分から三十五分までの五分間についてアリバイをもっていないのは、ミス・クラムとミセス・レストレンジだけである。ミス・クラムは古墳に行っていたと申し立てているが裏づけはない。しかしプロザロー大佐殺害と彼女とを結びつける要因は皆無のようで、容疑からはずすのが妥当と思われる。ミセス・レストレンジは約束があると称して、ヘイドック医師の家を六時少しすぎに辞去している。どこで、誰と会う約束をしていたのかは不明。プロザロー大佐がその約束の相手であるという可能性はない。大佐はその時刻にはクレメント牧師と会う約束をしていた。ミセス・レストレンジが犯行時間に現場の近くにいたのは事実だが、大佐を殺すどんな動機があったかはさだかでない。ミセス・レストレンジは大佐の死によって何の恩恵もこうむらない。したがってスラック警部の恐喝説は受けいれがたい。それにミセス・レストレンジはそんなことをしそうな人とは思われない。さらに、ミセス・レストレンジがロレンス・レディングのピストルを何らかの手段で手に入れたということもありそうにない。
「とてもすっきりしていますわ」とミス・マープルは感心したように頭を振った。「ほんとに。男のかたって、覚え書きを作るのがお上手ですのね」
「このとおりだとお思いですか?」
「ええ、ええ――たいへん行き届いた一覧表ですわ」
これに勇気を得て私は、前々からききたいと思っていた質問をした。
「ミス・マープル、あなたご自身は誰を凝っておいでなんですか? 前に、疑わしい人物が七人いるとおっしゃったことがありましたが」
「ええ、そんなことをいいましたっけね」とミス・マープルは少し上《うえ》の空でいった。「わたしたちみんなそれぞれに、誰かを疑っているんじゃないでしょうかしら。どうもそのようですね」
私が誰を凝っているか、ミス・マープルはきかなかった。
「問題は、あらゆる推理について何かしら説明を用意しなければならないということですわ」とミス・マープルは続けた。「一つ一つに関して納得のいく説明が要りますものね。あらゆる事実にぴったり当てはまる推理があれば――それこそ、正しい推理に違いありません。でもそうした万全の推理をすることはきわめて困難です。あの手紙がなかったとしたら――」
「手紙ですって?」と私はびっくりしてきき返した。
「ええ、このことは前にも申し上げたと思いますけれどね、わたし、あの手紙のことがずっと気に掛かっていましたの。何となく場違いな感じがして」
「その説明なら、ちゃんとつきますよ」と私はいった。「あれは実際には六時三十五分に書かれたんです。べつな人間、つまり殺人者が六時二十分と書き入れたんですよ。私たちの判断を狂わせようとして。そのことはすでにはっきり立証されていると思いますが」
「そう考えるとしましてもね、やっぱりおかしいと思いますのよ」
「なぜです?」
「つまりね」とミス・マープルは夢中になって身を乗りだしていた。「前にも申しましたようにミセス・プロザローはわたしの庭の前を通り、お宅の書斎の窓のところまで行って中をのぞきなさったんですよ。でもご主人の姿は見えなかったんです」
「それは大佐がそのとき、机に向っていたからですよ」
「そこがおかしいところですわ。ミセス・プロザローが窓からのぞいたのは六時二十分のことでございましょう? プロザローさんが『もう待てない』とお書きになったとすれば六時半以後だというのがわたしたちの一致した意見だったじゃございませんか。だとしたら――なぜ、六時二十分に机に向っていらしたんですの?」
「なるほど、そのことには思いおよびませんでしたな」と私は考え考えいった。
「でしたらもう一度考え直してみようじゃございませんか、クレメントさま。ミセス・プロザローは窓から書斎をのぞいて誰もいないとお思いになった――そう思われたからこそ、アトリエに行ってレディングさんと会ったんですわ。プロザロー大佐が書斎にいなさったら、そんなことをなさるわけがありません。誰もいないと思ったとしたら、物音一つしなかったわけでしょうね。そうすると三つの可能性が残されます。そうじゃございませんか?」
「とおっしゃると――?」
「第一の可能性は、プロザロー大佐がそのときすでに殺されていたということです――でもわたしとしては、さあどうかしらという気がいたしますの。なぜって六時二十分といえば、大佐が牧師館に到着なさって五分そこそこでしょう? それにその時間に殺されたとすれば、わたしなり、ミセス・プロザローなりが銃声を聞いているはずですわ。その時刻に机に向っていたということもやはり引っかかりますしね。第二の可能性は、プロザローさんはたしかに机に向って何か書いていらした、しかし書きかけていたのはまったくべつな手紙だったというものです。どうしたってそういうことになりますわね。だって六時二十分に『待てない』とお書きになるはずはありませんもの。三つ目は――」
「そう、三つ目は?」
「三つ目の可能性はもちろん、ミセス・プロザローのおっしゃるとおり、お書斎の中には誰もいなかったというものです」
「つまり、書斎に案内された後、プロザロー大佐はいったん部屋を出て、しばらくしてからもどってきた――そういうことですか?」
「ええ」
「しかしどうしてそんなことをしたんでしょう?」
ミス・マープルは、見当もつかないというように両手をひろげて肩をすくめた。
「それが本当だとすると、事件をまったくべつな角度から見なければいけないということになりますね」と私はいった。
「新しい角度から物事を見るということはしばしば必要ですわ――あらゆることについて。そうはお思いになりません?」
私は答えなかった。ミス・マープルのあげた三つの可能性を心の中で注意ぶかく検討していたのである。
ほっと溜息をついてミス・マープルは立ち上がった。
「もう失礼しませんと。お話しできてうれしゅうございましたわ――あいにく推理のほうはあまり進展しなかったようですけれどね」
「本当のところ」と私はショールを取り上げながらいった。「この事件は、私にはまるでどうしようもない迷路のように思えますよ」
「さあ、わたしはそうは申しませんわ。大ざっぱにいって、ある推理がほとんどあらゆる点でぴったり符合するという気がしていますの。偶然の一致ってものを一つ認めるとすればね。一つなら、十分考えられますわ。二つ重なるということになるともちろん、ありえないことでしょうけれど」
「本当にそうお思いになっているんですか? ある推理がほとんどあらゆる点でぴったりだと――?」
「私の推理にも、一つの難点があることは認めますわ――ある事実が障害になっておりましてね。あの置き手紙がまるで違う性質のものですとねえ――」
もう一度溜息をついて情けなさそうに頭を振りながら、ミス・マープルは窓のほうへと歩きだしたが、ほとんど無意識に手を伸ばして、いかにも元気なく見える鉢植えの棕櫚《しゅろ》に触れた。
「失礼ですけれどクレメントさま、これにはもっとたびたび水をやらないといけませんわ。かわいそうに、水分がひどく不足しておりますのよ。お宅のメアリに毎日水をやるようにおっしゃらないと。メアリでございましょう、この鉢植えの世話をしていますのは?」
「あの子はどうも万事に手を抜いていますからね」
「いまのところはまだ少し気働きが不足していますのね」とミス・マープルは婉曲《えんきょく》にいった。
「ええ、いっそやめてもらいたいんですが、グリゼルダが頑として承知しないんですよ。どの点から見ても欠け目の目立つ娘でなければこの家に末長くいてくれるわけはないというわけで。それでもつい先だってメアリのほうからやめたいといいだしましてね」
「まあ、そんな。メアリはこちらのみなさんをとても好きみたいでしたのに」
「さあ、それはどうですかね。しかしじつのところ、メアリを怒らせたのはレティス・プロザローなんですよ。メアリが検死審問からむしゃくしゃした気分で帰ってくるとレティスがここにいて――言い争いをしたようです」
「あら!」フランス窓から外に出ようとしていたミス・マープルがぱったり立ち止った。その顔が驚きから戸惑い、そしてそうだったのかという興奮へとめまぐるしく表情を変えるのを私は見た。
「ああ、わたしったら、ばかだったわ」とミス・マープルは呟《つぶや》いた。「そうだったのね。その可能性ははじめから大ありだったのに」
「はあ?」
ミス・マープルは困惑したように私を見返った。
「いえ、何でもありませんの。ちょっと思いついたことがあったものですから。家に帰ってよくよく考えてみませんと。それにしても、われながらこれまでつくづくばかだったと呆《あき》れますわ――ほんとに自分でも信じられないくらいですわ」
「あなたがばかだなんてとんでもない」と私は礼儀上、言下に否定した。
ミス・マープルについて窓から出て芝生をいっしょに歩きながら私はきいた。
「いましがた急に思いつかれたというのはどういうことでしょう? お話し下さるわけにいきませんか?」
「そうですね、申し上げないほうがいいと思いますの――いまのところはまだ。わたしの考え違いかもしれませんし。たぶん間違いはないと思いますけれどね。あらあら、宅の前までお送りいただいて、どうもありがとうございます。いえ、ここでけっこうでございますよ」
「手紙のことがいまだに障害になっておるんでしょうか?」門の掛け金を掛けているミス・マープルに私はきいてみた。
老婦人は何のことかわからないというように、一瞬ぼんやり私の顔を見つめた。
「手紙ですって? ああ、もちろん、あれは本物ではありませんでしたのよ。それははじめからわかっておりましたけれど。おやすみなさいまし、クレメントさま」
小径《こみち》を足早に歩み去るその後ろ姿を私はぽかんと見送った。
これはいったい、どういうことなのか?
二十七
グリゼルダとデニスはまだもどっていなかった。そうと知っていれば当然ミス・マープルを送りがてら私も隣家に行って二人を連れて帰るのだったが。ミス・マープルも、私も、事件の解明につい夢中になって、われわれ以外の人間の存在など、いっときまったく忘れていたのだった。
いまからでも迎えに行こうかどうしようかとホールに立って思案していたとき、玄関のベルが鳴った。
ドアの所に行く途中でふと見ると、郵便受けに手紙が入っていた。ベルは郵便配達が鳴らしたのだろう――そう思って私は手紙を郵便受けから取り出した。
だが、そのときまたベルが鳴った。私はあわてて手紙をポケットに押しこんで、ドアを開けた。
メルチェット大佐だった。
「こんばんは、クレメント君。町から車で帰る途中なんだがね、一杯飲ませてもらえないかと思って寄ってみたんだよ」
「いいですとも」と私は答えた。「さあ、どうか、書斎へ」
メルチェットは着ていた革のコートをぬぎ、私の後について書斎に入った。私がウィスキーソーダとグラスを二つ取ってくると、メルチェットは短く刈った口髭《くちひげ》を撫《な》でながら炉の前に立ちはだかっていた。
「ちょっとしたニュースがあるんだよ。きみもきっとびっくりすることだろう。が、まあ、その話は後にしよう。こっちの様子は、その後どうだね? また新手のばあさんが探偵ごっこに乗りだしたかね?」
「ご連中、それぞれになかなかやっていますよ。すくなくともそのうち一人は、真相を突きとめたと思っているようですがね」
「かのミス・マープルかね?」
「そのとおり、ミス・マープルです」
「あの種のご婦人はいつも、自分が何もかも承知していると思いこんでいるからね」
こういってメルチェットはうまそうにウィスキーソーダを啜《すす》った。
「よけいな差し出口かもしれませんが、警察では、注文の品を届けにきた例の魚屋の店員にいちおう問い合わせてみたんでしょうね? 犯人がうちの玄関から逃走したとすると、ひょっとすると姿を見ているかもしれませんからね」
「スラックが抜かりなくきいてみたが、誰にも会わなかったという返事だったそうだ。まあ、会うわけもなかろう。犯人としては、できることなら姿を人に見られたくなかったろうし、きみの家の表門のあたりは、人一人隠れようと思えば隠れ場所はいくらでもある。人影がないかどうか、よく見きわめてから出て行っただろうしね。魚屋の若いのは牧師館とヘイドックの所、それにミセス・プライス・リドリーの家と三軒寄ることになっていた。その気になれば十分かわせるさ」
「まあ、そうでしょうね」
「いっぽう、もしもあのアーチャーが犯人だとして魚屋のフレッド・ジャクソンがこのあたりでその姿を見かけたとすれば、フレッドが警察にそのことをいうかどうかはあやしいものだろうな。アーチャーとフレッドは従兄弟《いとこ》同士なんだから」
「アーチャーを本気で疑っているんですか?」
「まあね。プロザローはアーチャーをかなり手厳しくやっつけていたからね。あの二人の間柄は険悪そのものだったよ。プロザローは手加減をする男じゃない」
「ええ、たしかに容赦するということをまったくしない人でしたね」
「私などは、世の中はすべて相身互《あいみたが》いだと思っとるよ。法律はもちろん守らにゃいかんが、疑わしきは罰せずというのはわるいことではない。だがプロザローにはそうした斟酌《しんしゃく》がまるでできなかったんだな」
「それがまた自慢でね」
ちょっと間《ま》を置いてから私はきいた。
「はじめにいわれたびっくりするようなニュースとはどういうことですか? 後で話すといわれましたね?」
「驚くべき新事実が判明したんだよ。プロザローが殺されたときに書きかけていた手紙だが――」
「ええ」
「専門家に調べてもらったんだよ。六時二十分という時刻がべつな人間の書き加えたものかどうか、はっきりさせたかったのでね。当然、プロザローの筆蹟《ひつせき》のサンプルを添えて送ったんだが、どういう答が出たと思うかね? あの手紙そのものがプロザローの手ではないという結論だったのだ」
「つまり偽筆だと?」
「そのとおり、偽筆さ。『六時二十分』という時刻は、さらにまたべつな人物の書き加えたものではないかという意見もあるが、その点は、たしかとはいえないそうだ。時刻はほかの部分と違うインクで書かれているらしいが、そもそも手紙そのものが偽筆じゃないか、つまり、プロザローの書いたものではないというんだ」
「たしかなんですかね?」
「まあ、その道の専門家として可能なかぎりね。大体専門家連中は断言はせんものだが、それなりに確信をもっているらしいよ」
「驚きましたね」私はこういったが、ふと思い出したことがあった。「そういえばあのときミセス・プロザローが、ご主人の筆蹟のようには思えないという意味のことをいっていましたっけ。気にも留めなかったんですが」
「本当かね?」
「女の人のよく口にする、意味もない言いぐさだと聞き流していたんですよ。プロザロー大佐があれを書いたことだけはぜったいにたしかだと思いこんでいたものですから」
私たちは顔を見合わせた。
「奇妙ですねえ」と私はゆっくりいった。「ミス・マープルがついさっき、あの手紙はどう考えてもおかしいといっていましたっけ」
「まったくいまいましいばあさんだな。犯人以上に、この事件について承知しているようじゃないか」
そのとき電話が鳴った。電話のベルの鳴りかたには、ときとして奇妙な心理的雰囲気がある。その瞬間のベルの響きは執拗《しつよう》で、一種不吉なものを感じさせた。
私は立って行って受話器を取り上げた。
「牧師館ですが、どなたです?」
奇妙に甲高い、ヒステリックな声が受話器を通して響いてきた。
「告白したいんです! ああ、何もかも告白したいんですよ!」
「もしもし――もしもし」と私は早口に繰り返した。「局ですか? 切れてしまったじゃないですか。いまの電話は何番からです?」
ものうげな声がわからないと答えた。「切れました。申しわけありません」
私は受話器を置いて、メルチェットを振り返った。
「あなたは前にいわれましたね――このうえ誰かが犯人だと名乗り出たら、こっちの頭がおかしくなっちまうと」
「それがどうしたっていうんだね?」
「いまの電話の主ですがね、告白したいっていったんですよ――そこまでいったとき、電話が切れて」
メルチェットはいきなり駈けよって受話器を取り上げた。
「局に問い合わせてみよう」
「お願いします。あなたなら、突きとめられるかもしれません。私はちょっと出かけてきます。聞き覚えのある声だったような気がしますのでね」
二十八
私は村の通りをせかせかと歩いた。十一時だった。午後の十一時、それも日曜の夜とあって、セント・メアリ・ミード村は死んだように静まりかえっていた。しかし、目指す家の二階の一角に明りがついているのが見えた。ホーズはまだ起きているらしい。私は玄関のベルを鳴らした。
ずいぶん長い時間がたってから(実際にはそれほどでもなかったのかもしれない)、ようやくホーズの下宿の女主人のミセス・サドラーが出てきて二つの差し錠とチェーンをやっこらさとはずし、鍵を回してドアを細目に開けるとうさんくさそうに顔をのぞかせた。
「まあ、牧師さまですか!」
「こんばんは。ホーズ君に会いたいんですが。窓に明りがついていたから、たぶんまだ起きていると思います」
「そうかもしれませんね。夕食を持って行ってからこっち、一度もお会いしていませんけど。ホーズさんは今夜はひっそり過ごしておいでです――誰も訪ねてこなかったし、お出かけにもなりませんでした」
私はミセス・サドラーの前を通りぬけて、急ぎ足に階段をのぼった。ホーズは二階に寝室と居間を借りていた。
ホーズは居間の長椅子にもたれたまま眠りこんでしまったようで、私が入って行っても目を覚まさなかった。かたわらに空《から》の薬箱と半ば水の入っているコップが置いてあった。
左足の近くの床に皺《しわ》くちゃに丸めた紙きれが落ちていた。何か書いてあるようで、私は拾い上げて皺を伸ばした。「クレメント殿――」
文面に目を走らせて私は思わず小さな叫び声を上げ、ポケットにそれを押しこんだ。それからホーズの上に屈《かが》みこんで、その様子をしげしげと見た。
ついで私はホーズの肘《ひじ》のわきの電話機に手を伸ばし、交換手に牧師館の番号を告げた。メルチェットがまださっきの電話について調べているのか、「話し中」ということだった。ともかくも通話が終ったらつないでくれるよう交換手に頼んで、私は受話器を置いた。
さっきの紙切れをもう一度読んでみようとポケットに手を突っこんで引き出したとき、牧師館の郵便受けに入っていた、例の手紙がいっしょに出てきた。まだ開封していなかった。
その外見には見覚えがあった。それは昼間受け取ったいやらしい匿名の手紙と同じ筆蹟で書かれていた。
急いで封を切って、私は一度、二度と繰り返しそれを読んだ。意味がさっぱり呑《の》みこめなかった。
文面にもう一度目を走らせようとしたとき、電話が鳴った。夢でも見ているようにぼんやりと、私は受話器を取った。
「もしもし」
「もしもし」
「メルチェット大佐ですか?」
「クレメント君か、いったい、どこにいるんだね? さっきの電話がどこからかかったか、わかったよ。番号は――」
「わかっています」
「そうか。じゃあ、いま、そこからかけているんだね?」
「ええ」
「告白とはどういうことだ?」
「何もかもわかりましたよ」
「犯人がわかったというのかね?」
いまだかつて経験したことのない強い誘惑を感じつつ、私はこんこんと眠っているホーズを見やり、皺くちゃの手紙に視線を移し、それからあの匿名の手紙を、さらに「チェラビム」と薬剤師の名が入っている空の薬箱を見た。かつてかわしたさりげない会話が胸によみがえっていた。
私はやっとの思いでいった。
「それははっきり――しないんですがね。とにかくこっちにきてくれませんか」
こういって所番地を告げた。
受話器を置くと、私はホーズと向い合わせに座って考えた。
一人だけの時間が二分だけある。
二分たったら、メルチェットがくるだろう。
私は匿名の手紙を取り上げて、もう一度だけ、お終《しま》いまで読んだ。それから目を閉じて考えた……
二十九
どのぐらいそうやってそこに座っていたのだろう? 実際にはほんの数分だったのかもしれない。だがドアの開く音を聞いたときには、まるで果てしない時が過ぎ去ったような気がしていた。メルチェットが入ってきた。
メルチェットは椅子によりかかって眠っているホーズを見つめ、それから私を振り返った。
「どうしたんだね、クレメント君? どういうことなんだ、これは?」
私は手の中の二通の手紙のうち、床に落ちていた一通をメルチェットに渡した。メルチェットは低い声で読み上げた。
クレメント殿
きわめて不愉快な事柄について折り入って相談したかったのだが、いっそ書面でと考えた次第です。くわしいことは後日話しあうことにしますが、最近教会内で起こったいくつかの横領事件に関連してとご承知下さい。はなはだ残念ながら私はこのほど、犯人が誰か、疑問の余地なく突きとめたのです。わが国教会によって叙任された聖職者を告発しなければならないのは心苦しいかぎりですが、義務の命ずるところはきわめて明白であります。見せしめという意味もあり、かつ――
メルチェットは物問いたげに私の顔を見た。手紙はここで、とても判読しかねるのたくった書体になり、唐突にとぎれていた。ここまで書いたときに、死の手が介入したのだろう。
メルチェットは深く息を吸いこんで、ホーズを見やった。
「そういうことだったのか。およそ何の疑いもかけなかった唯一の人物が犯人だったとはね。後悔の思いに堪えかねてついに告白したというわけか!」
「近ごろ、様子がおかしいとは思っていたんですが」
とつぜん、メルチェットは鋭い叫び声を上げて眠っている男に歩みより、肩をかかえて揺さぶった。はじめはそっと、しかししだいに激しく。
「こりゃ、眠っているんじゃない! 薬を服《の》んだんだ。どういうことだね、これは?」
メルチェットの視線が空の薬箱に落ちた。メルチェットはやにわにそれを取り上げた。
「ひょっとして――」
「たぶん、そうでしょう」と私はいった。「この間、この箱を私に見せて、大量に服用しないように警告されているといっていましたっけ。自分で自分の退場の道を選び取ったんですよ。かわいそうに。結局は、そのほうがよかったんでしょうがね。彼を裁くのは、もうわれわれではないんです」
しかしメルチェットは何よりもまず州の警察部長であって、私の論法は彼にはまったく通用しなかった。殺人犯を捕えた以上、どうでも絞首台に送ることを、彼は欲したのであった。
一秒の猶予もなく、メルチェットは電話にとびつき、交換手が出るまで受話器をもどかしげにガチャガチャ上げ下げした。そして交換手が出るとへイドックの家を呼び出してくれといい、先方が出るのを待つ間、受話器を手にしたまま、椅子の上にぐったりしているホーズにきっと鋭い目を向けていた。
「もしもし、もしもし、ヘイドック先生のお宅ですか? 先生にハイ・ストリートまで至急おいでいただきたいのですが。ホーズさんの所です。大至急、お願いします……何ですって?――だったら何番にかけたらいいんです?――ああ、そうですか――いや、どうも失礼しました」
受話器を置くと、メルチェットはひとしきりいきまいた。
「番号違いだとさ――しょっちゅう間違えてばかりいるんだから呆れるよ。人一人の生命がかかっているというのに。もしもし――いまの番号は間違っていましたよ……そうです――時間を浪費させないでくれたまえ――ああ、三九番だ――三五番でなく」
見るからじりじりしながら待つうちに、今度は前よりいくぶんか短い時間で応答があった。
「もしもし――ヘイドック君か? メルチェットだ。大至急、ハイ・ストリート十九番地にきてくれたまえ。ホーズが何かの薬を大量に服んだらしい。すぐきてくれるね? 生きるか死ぬかの境目なんだ」
電話を切ると、メルチェットはいらいらと部屋の中を歩きまわった。
「いったい、何だってすぐへイドックを呼ばなかったんだね、クレメント君? まったく理解に苦しむよ。うかつにもほどがある」
私にとってさいわいなことにメルチェットは、人間の行為の当否に関して自分と違う見解をもっている者がいようとは考えもしないたちの男であった。私が黙っているとさらに言葉をついできいた。
「この手紙をどこで見つけたんだね?」
「くしゃくしゃになって床の上に落ちていたんですよ。ホーズの手から落ちたんじゃないですかね」
「驚きいった話だな。あの置き手紙はどうもおかしいというミス・マープルの意見が正しかったことになるね。ばあさん、どうしてそれに気づいたものやら。だが、この男もよくよくばかだな。こんな手紙を捨てもせずに取っておいたなんて――自分にとって決定的に不利な証拠になるものを!」
「人間性は矛盾に富んでいますからね」
「この手紙がなかったら、はたして犯人を捕まえることができたかどうか。だがこうした連中はみんな、遅かれはやかれ、何かしら間のぬけたことをやらかすものでね。ところでばかに元気がないじゃないか、クレメント君? まあ、きみにとってはたいへんなショックだろうが」
「ええ。さっきもいったように、ホーズはこのところどうにもおかしかったんですが、まさかこんなこととは――」
「誰だって想像もしなかったろうよ。おや、車が着いたようだ」と窓辺に行き、ガラス戸を上げて下の通りをのぞいた。「ヘイドックがきたよ」
間もなくヘイドックが部屋に入ってきた。
メルチェットは言葉みじかに説明した。
へイドックはめったに感情を示さぬ男だった。ちょっと眉を吊《つ》り上げてうなずくと大股《おおまた》にホーズのわきに歩みより、脈を取り、瞼《まぶた》を上げて瞳孔《どうこう》をのぞいた。
それから振り返ってメルチェットにいった。
「絞首台に送るために、是が非でも助けたいんでしょうがね、かなりの重態です。まあ、きわどいところですね。うまく意識を回復するかどうか」
「できるだけのことをしてくれたまえ」
「わかっています」
持ってきたケースの中から皮下注射器を取り出して、ホーズの腕に注射をすると、ヘイドックは立ち上がった。
「万全を期するにははやいとこ、マッチ・ベナムの病院に送りこむのがいちばんでしょう。車に乗せますから手を貸して下さい」
メルチェットと私が手伝ってホーズをヘイドックの車に運びこむと、ヘイドックは運転席に座って肩ごしにいった。
「断っときますがね、この男を絞首刑にすることはできませんよ、メルチェット大佐」
「このまま逝《い》っちまうってことかね?」
「それはわかりません。ですがぼくのいっているのはそういう意味じゃないんです。よしんば回復したとしても――この男には自分のしたことについて責任がないんですよ。ぼくがそう証言します」
「どういう意味だ、ヘイドックがいまいったのは?」階段を上がりながらメルチェットが不審そうにきいた。
私は、ホーズに嗜眠《しみん》性脳炎の後遺症があることを説明した。
「嗜眠性脳炎だって? 近ごろじゃ凶悪犯罪にまで、何のかのとけっこうな理由がつくんだからな。むちゃくちゃだとは思わんかね?」
「科学はわれわれを、さまざまな形で啓蒙《けいもう》してくれていますからね」
「科学を手前勝手に利用する人間なんぞ、地獄へ落ちるがいいんだ――しっけい、クレメント君。だが近ごろはやりの、お涙頂戴の感傷的な態度が私には我慢ならんのだよ。私はごく平凡な人間だからね。さて、どうせだから、この部屋の中をひととおり、調べたほうがよさそうだな」
メルチェットがこういったとき、思わぬ邪魔が入った。ドアを開けて入ってきたのはミス・マープルであった。
ミス・マープルは頬をピンク色に染め、少しあたふたと落ちつかぬ様子だったが、私たちの戸惑いに気づいたのか、弁解がましくいった。
「すみません――ほんとに申しわけありませんわ、こんなふうにとつぜんお邪魔して。こんばんは、メルチェット大佐、差し出がましいとは思ったのですが、ホーズさんがご病気と伺ったものですから何かお手伝いできることがないものかと思って伺いましたんですの」
ミス・マープルは言葉を切った。メルチェット大佐がうんざりした顔で見つめているのを意識しているらしかった。
「それはご親切にどうも、ミス・マープル」と大佐は素っ気ない声音でいった。「ご心配にはおよびません。ところで、どうしてこのことをご承知になりました?」
私もぜひ、それをききたいと思っていたのだった。
「電話がかかったものですから。交換手もいい加減ですわね、間違った番号につなぐなんて。あなたさまはてっきり、ヘイドック先生のお宅だとお思いになって私を相手にいろいろおっしゃったんでしょうね。三五番はうちの電話の番号でして」
「なるほど、それで!」と私は思わず叫んだ。
たしかにミス・マープルの知らないことはないが、それにはいつも完全に納得のいく、筋の通った理由があるのである。
「そういうわけで」とミス・マープルは続けた。「お役に立てればと思って伺いましたの」
「それはご親切に」とメルチェットは繰り返した。前よりいっそう冷やかな口調であった。「ただし、お手伝いいただくこともべつにありませんな。ホーズはヘイドックが病院に連れて行きましたし」
「まあ、病院に? それを伺ってほっといたしましたわ。よろしゅうございましたこと。病院なら安全でございましょうからねえ。でも、『べつにない』とおっしゃったのは、手の打ちようがないということではないんでございましょうね? まさか回復の見込みがないということでは?」
「きわどい容態のようですけれどね」と私はいった。
ミス・マープルは薬箱に目を走らせてきいた。
「薬の大量服用ということなんでございましょうね?」
メルチェットとしては、何も話したくなかったらしい。私自身もほかの場合だったら、たぶん口をつぐんでいようと思っただろう。しかしミス・マープルと事件について話しあった記憶があまりにも鮮やかだったので、そのとつぜんの出現と、好奇心たっぷりの態度にいささか反感をいだきはしたものの、メルチェットに同調する気になれなかったのであった。
「たぶん、これをごらんになれば事情がおわかりになるでしょう」と私はいって、プロザローの書きかけの手紙を渡した。
ミス・マープルは手紙を受け取って読みくだしたが、とくに驚いたような顔もしなかった。「こうしたたぐいのことは、すでに察しておいでになったんでしょうね」
「ええ――まあ。あの――一つ伺ってもよろしゅうございますか、クレメントさま? 今夜、お二人がここにおいでになったのはどうしてですの? わたし、どうにもそれがふしぎで。あなたさまとメルチェット大佐がお揃《そろ》いでこちらをお訪ねになっていらっしゃるとは思ってもいませんでしたから」
私は牧師館に電話がかかってきたこと、その声がホーズのものではないかという気がしたので来てみたことを説明した。ミス・マープルは考えこみながらうなずいた。
「そうでしたの。面白うございますこと。いえ、面白いというより、天の助けといったらよろしいでしょうか――こんな言いかたをしてお許し下さいましよ。でもそのおかげで、かろうじて間に合ったわけですから」
「間に合うってどういうことです?」と私は苦々しい思いできき返した。
ミス・マープルはびっくりした顔をした。
「どういうことって、もちろん、ホーズさんの命を救うことができたじゃありませんの?」
「しかしホーズにとっては回復しないほうがかえってさいわいかもしれない――そうは思われませんか? 彼にとっても――ほかの誰にとっても。われわれはいまようやく事件の真相を知るにいたったわけです。そして――」
私は中途で絶句した。まさにそれなのだというように大きくうなずいているミス・マールの様子に呆気《あつけ》に取られて、何をいおうとしていたのか、忘れてしまっていた。
「それですのよ! あの人、それを狙っていたんですわ、もちろん! そんなふうに思わせたかったんですね。これが真相だ、成りゆきに任せるのが誰にとってもいちばんいいのだってね。ああ、何もかもぴったりですわ――手紙、ホーズさんの薬の服みすぎ、アンバランスな精神状態、そして告白。何もかもぴったり――でもまるで|違うんです《ヽヽヽヽヽ》」
メルチェットと私はびっくりしてミス・マープルの顔を見つめた。
「ですからわたし、ホーズさんが安全な場所に――病院に移されたのがうれしいんですの――病院なら、誰も危害を加えられませんもの。回復なさったら、ホーズさんご自身が真相をお話しになるでしょうよ」
「真相?」
「ええ、ホーズさんがプロザローさんの髪の毛一本そこなっていないということを」
「しかし電話や手紙――」と私はいった。「それに薬の大量服用。ホーズの犯行だということを、すべてがはっきり指し示しているじゃありませんか」
「それこそ、あの人の思うつぼでしたのよ。あなたさまがそんなふうに解釈なさるということこそ。あの人はたいへんな利口者ですわ! 手紙を取っておいて、こんなふうに使うなんて、頭がいいやりかたじゃありませんか」
「誰のことをおっしゃっているんです?」と私はきいた。「あの人って、誰のことですか?」
「犯人ですわ」とミス・マープルはいった。
そして静かな声音で付け加えた。
「ロレンス・レディングさんのことですの……」
三十
私も、メルチェットも、ミス・マープルの顔をまじまじと見つめるばかりだった。ほんの一瞬だが私は、ミス・マープルは気がおかしくなったのではないかと本気で心配した。ロレンスが犯人だなんて、じつに荒唐無稽《こうとうむけい》だ。
メルチェットがまず口を開いた。やさしく、いたわるように、彼はいった。
「それはどうもおかしいんじゃないですかな、ミス・マープル。レディング青年の容疑は完全に晴れておるんですよ」
「当然ですわ。あの人がそのように仕組んだんですから」
「それどころか」とメルチェット大佐は無表情にいった。「レディングは自分が告発されるように、あらゆる手だてを尽くしたんですぞ」
「ええ、あの人、そうすることによってわたしたちを一人残らず騙《だま》したんですわ。わたし自身、一杯食わされた口ですのよ。覚えていらっしゃいましょう、クレメントさま? レディングさんがプロザローさん殺害を告白したと聞いて、わたしがひどく驚いたのを。あれで、わたしの考えはすっかりひっくり返ってしまいましてね、レディングさんには罪はないのだと考えるようになりましたの――そのときまでは、あの人がやったにきまっていると確信しておりましたのにね」
「ではあなたが疑っていらしたのは、ロレンス・レディングだったんですか?」
「探偵小説の中では、犯人はいちばんそれらしくない人物ということになっておりますわね。でも、その法則は現実には当てはまりませんわ。現実の世界では、いちばんそれらしいことこそしばしば真相なんですから。ミセス・プロザローってかたは、個人的にはわたし、大好きでしたけれど、でもあのかたがレディングさんの言いなりだってこと、レディングさんのいうことなら何だってする気でいるという結論は避けられませんでした。それにもちろんレディングさんは、一文なしの女と駆け落ちするなんて夢にも考えない、なかなか勘定高い青年ですからね。レディングさんの見かたからすると、プロザロー大佐という邪魔ものを取り除くことはどうしても必要でした。ですからプロザローさんは消されたのです。道義の観念をこれっぽっちももち合わせていない、チャーミングな青年がよくいますけれど、レディングさんもその一人だったんですわ」
メルチェット大佐はしばらく前からしきりに鼻を鳴らしていたが、このとき、たまりかねたようにいった。
「ナンセンスですな、まさに! 何から何まで! 六時四十五分に牧師館に到着するまでのレディングの行動は、一分刻みで説明できるんですよ。それにヘイドック医師は、プロザローがレディングの到着後に殺された可能性はまったくないと言明しています。あなたは医者よりも事態がよくわかっていると思っておられるんですか? それともひょっとしてヘイドックが嘘《うそ》をついているとほのめかしておられるのか――ヘイドックがそんなことをする理由もありませんがね」
「ヘイドック先生の証言は、まったくそのとおりだと思いますわ。とても正直なおかたですもの。それにもちろん、じっさいにプロザロー大佐を殺したのはミセス・プロザローで、レディングさんではなかったんですから」
私たちはまたもやびっくりして、ミス・マープルの顔を見つめた。ミス・マープルはレースの三角形の|肩掛け《フイシュー》を直し、ふわふわしたウールのショールを後ろに押しやると、淡々とした口調でまことに驚くべき話を始めた。オールドミスの、諄々《じゅんじゅん》たる訓話という感じだった。
「これまでは、お話しするのはどうかと思ってご遠慮していましたの。たとえ何かについての信念がそれに関する知識と同じくらいたしかなように本人には思われても、確実性という点で証拠とは比べものになりません。すべての事実にぴったり当てはまる説明でないかぎり(ついさっきもクレメントさまにそう申し上げたんですけれど)、心からの確信をもって人さまにお話しすることはできませんもの。わたし自身の解釈にしましても、完結しているとは申せませんでした。いわば鎖の一環が欠けていたんですの。でも今夜、クレメントさまのお書斎から出ようとしていたときに、とつぜん、窓のそばの植木鉢に植わっている棕櫚《しゅろ》が目に入りましてね――それでわかったんですの、何もかも! まるで急に日光がさしこんだように!」
「狂っている――まったく狂っている!」とメルチェットは吐きだすように私の耳にささやいた。
しかしミス・マープルはあいかわらずにこやかに私たちにほほえみかけながら、品のよい、物静かな口調で続けた。
「レディングさんとミセス・プロザローが共犯だと確信してはいましたけれど、わたし、残念でした――とても残念でしたのよ。だってあのお二人にはずっと好意をもっておりましたし。でも人間性って、ご承知のとおりでございますからね。事件が起こってすぐ、まずレディングさんが、ついでミセス・プロザローが自分がやったとあんなふうに愚かしく告白なさったときには、何ともいえないくらい、ほっといたしましたわ。わたしの推理が間違っていたんだ、ああよかったと思いましてね。それで今度は、プロザロー大佐を消したいという動機をもっていそうなほかの人たちのことを考えてみたんですの」
「七人の疑わしい人物ですか!」と私は呟《つぶや》いた。
ミス・マープルは私に笑顔を向けた。
「ええ、そのとおりですわ。まずあのアーチャーがいますわね――密猟ならいざ知らず、人を殺すなんてことはしないと思いますけれど――でもお酒の勢いってこともあるでしょうし。次にもちろん、お宅のメアリですわ。アーチャーとかなり前からいい仲でしたし、それにあのとおり、妙な気質の娘ですから。あの子の場合、動機と機会が揃っていますわ。犯行当時、牧師館に一人でいたんですし。次にミセス・アーチャー。あの人だったら、レディングさんの家からたやすくピストルを盗みだして息子なり、メアリなりに渡すこともできますからね。それからもちろん、レティスがいます――思いのままの生活をするために自由とお金をほしがっていましたから。妖精のように美しい娘が良心などというものをほとんどひとかけらももち合わせていない例を、わたしはたくさん見てきましたのよ――もちろん、男のかたはそんなことは信じたくないとお思いでしょうけれど」
私はたじろいだ。
「それにラケットのこともありますわ」
「ラケット?」
「ええ、ミセス・プライス・リドリーのところのクレアラが、牧師館の門のわきの芝生の上にほうりだしてあるのを見たっていうラケットですわ。デニスさんはテニス・パーティから、ご自分でおっしゃっているより早目に引き揚げてきなすったみたいですわね。十六歳の男の子ってとても影響を受けやすいし、とかく情緒不安定ですからね。動機が何か――レティスのためか、それとも伯父さまでいらっしゃるあなたさまのためを思ってか、それはとにかく、デニスさんの仕業《しわざ》だと考えられなくはありませんでした。それからこちらのホーズさん、そしてあなたさまご自身もね。お二人ともということはむろん、ありえませんでしょうけれど、弁護士流にいうと『二者のいずれか』ということはねえ」
「この私もですか?」と私はただもうびっくりして叫んだ。
「ええ、まあね。ごめん下さいましよ。ほんといって、わたし、そんなことは夢にも考えておりませんでしたのよ――でもあんなふうに教会のお金が消えるということが度重なっておりましたし。あなたさまか、ホーズさんか、どちらかが流用なさったに違いないと思われましてね。そこへもってきてミセス・プライス・リドリーがあちこちで、あなたさまがあやしいといいふらしていらっしゃいましたし――それは主としてあなたさまが、どんな形にもせよ、このことに関して調査することに頑として反対していらしたからなんですけれどね。もちろん、わたし自身はずっとホーズさんに違いないと思っておりました――あのかたを見ていると、いつかわたしのお話ししたオルガニストを連想しましたしね。と申しましても、ぜったいに|たしか《ヽヽヽ》ということはいえなくて――」
「人間性というものを考えるとですか」と私は苦りきった面持《おももち》でミス・マープルに代って結んだ。
「そのとおりでございますとも。ああ、そうそう、もちろん、グリゼルダさんも容疑者の中に入りますわね」
「ミセス・クレメントはまったく無関係ですよ」とメルチェットが口をはさんだ。「あの日は六時五十分着の列車でロンドンから帰られたんだから」
「それは、グリゼルダさんご自身のおっしゃってることでございましょう?」とミス・マープルは反論した。「人のいうことを何でも頭から信じるのは大怪我のもとでございますからねえ。六時五十分着の列車は、あの日は三十分も遅れて到着したはずですのに、わたし、七時十五分にグリゼルダさんがオールド・ホールの方角へと歩いていらっしゃるのをこの目で見たんですの。ですから、もっとはやい列車でお着きになったに違いありません。ほかにも見ていた者がおりますしね。でもこのことは、牧師さまもすでにご存じでいらっしゃいましょう?」
こういってミス・マープルはわたしの顔を見た。
そのまなざしにこもる一種の磁力に促されて、私はここへくる前に受け取って、ついさっき開封した、あの匿名の手紙をミス・マープルに差し出した。それにはグリゼルダが事件の夕方の六時二十分に、ロレンス・レディングの家の裏手のフランス窓から出てくるところを見たという意味のことがこまごまと記されていたのであった。
それを読んだとき私を一瞬襲った恐ろしい疑惑については、そのときも、またもっと後にも、私は口を閉ざして語らなかった。まるで悪夢のような瞬間であった。過去においてロレンスとグリゼルダの間に色恋沙汰があり、それをプロザローが知るにいたって私の耳に入れようと思い立ち――グリゼルダがやぶれかぶれになってロレンスの家からピストルを盗みだしてプロザローの口をふさいだ――まさに一場の悪夢に過ぎなかったが、数分間というもの、それはいかにも迫真的な様相を呈して、私をおびやかしたのであった。
ミス・マープルが私のこうした心の動きをおぼろげにでも感じ取っていたかどうか、それはわからない。たぶんうすうす察していたことだろう。ミス・マープルには隠しごとはできない。
さて、ミス・マープルは軽くうなずきながら匿名の手紙を私に返した。
「このことは、もう村じゅうに伝わっていますわ。たしかに妙だという気はしますわね。とくにミセス・アーチャーが検死審問で、問題のピストルは自分がお昼に帰るまではレディングさんの家にあったと証言しているわけですし」
ミス・マープルはちょっと言葉を切って、すぐまた続けた。
「まあ、わたし、肝心のことをそっちのけにしてよけいなおしゃべりばかりして。わたしが申し上げたいのは――また申し上げるのが自分の義務だと思っていますのは――この事件をわたし自身がどう解釈しているかということです。これこそ事件の真相だとお二人に信じていただけないとしましても、自分なりに最善の努力をしたことになりましょうから。なぜって確信がもてるまではとお話しするのを遅らせていたために、ホーズさんはすんでのことで命を落すところだったんですもの」
ミス・マープルはもう一度言葉を切った。しかしやがて話しはじめたときその声音にはもう言いわけがましさは感じられず、むしろ決然としていた。
「これから申し上げるのは、事件に関するもろもろの事実についてのわたしなりの解釈です。木曜の午後までに、犯行は細部にいたるまで綿密に計画されていました。木曜の午後、ロレンス・レディングはまず牧師館に行きました。牧師さまがお留守だということはもちろん、承知していたのです。その際、彼は持って行ったピストルを、窓のそばの植木鉢の中に隠しました。牧師さまが入っていらしたとき、ロレンスは村を去ることを決心したといって、不意の訪問の理由を説明しました。彼はさらに五時半に、オールド・ホールの北門の門番の家から、女の声を装って牧師さまに電話しました(ご承知のように、ロレンス・レディングは素人離れした名優ですからね)。
ちょうどこのころ、プロザロー大佐夫妻は車で村に向いました。たいへん奇妙なことに(そのときは誰もおかしいとは思わなかったのですが)ミセス・プロザローはハンドバッグを持っていませんでした。女性がハンドバッグを持たずに外出するのはきわめて珍しいことですけれどね。六時二十分の少々前にミセス・プロザローはわたしの庭の前を通りかかり、足を止めてわたしと立ち話をしました。凶器になりそうなものは何一つもっておらず、態度にもこれといってふだんと変ったところがなかったということを見て取る機会を、わたしに与えるためでした。二人はたぶん、わたしがめったに物事を見落さないたちだということに気づいていたんでしょうね。さてミセス・プロザローは牧師館の母屋の角を曲がって、書斎の窓のほうへと姿を消しました。このとき、大佐は机に向って牧師さまあての手紙を書いていました。あのかたの耳は、誰もが知っているようにだいぶ遠かったのです。ミセス・プロザローはかねての打ち合わせどおり、植木鉢の中からピストルを取り出して大佐に後ろから近よって頭を撃ちぬき、ピストルを投げだしてばっと窓から走り出ると、まっすぐに庭のアトリエに行きました。それだけのことをする時間はとてもなかったろうと、ほとんど誰もがいうでしょうけれど」「しかし銃声は?」とメルチェットが抗議した。「ミス・マープル、あなたも銃声を聞いておられないじゃないですか」
「マキシム式|消音装置《サイレンサー》という仕掛けがあるそうでございますね、探偵小説で読んだんですけれど。ひょっとしたらミセス・プライス・リドリーのお宅のクレアラが聞いた奇妙なくしゃみというのは、じつは押し殺された銃声だったのかもしれませんね。まあ、それはとにかくとして、ミセス・プロザローはアトリエの入口でレディングさんを迎えて二人はいっしょに中に入りました。二人とも人間性というものをよく知っていて、自分たちが中から出てくるまでわたしが庭を離れないだろうと察していたんじゃないでしょうかね」
その瞬間ほど、私がミス・マープルを好ましく思ったことはない。彼女は自分自身の弱点を笑うことをちゃんと知っている。
「アトリエから出てきたときには、レディングさんも、ミセス・プロザローも、しごく陽気に、自然にふるまっていました。実際には、その点は見当はずれだったんですけれどね。なぜって、別れの言葉をかわしたばかりだとしたら(それだって嘘でしたけれど)陽気に見えるわけがありません。けれども、ほかにどうしようもなかったのです。どんな意味ででも、動揺しているような態度を取るわけにはいかなかったんですから。さて次の十分間というもの、二人はめいめいいわゆるアリバイづくりに浮き身をやつしたことでしょう。レディングさんはそれから牧師館に向いました。その時刻はできるかぎり遅らせたと思います。たぶん、アボットさんの農場の方から野道づたいに帰っていらっしゃるあなたさまのお姿が小さく見えたので、適当に時間を計って行動できたのでしょう。すなわちピストルと消音装置《サイレンサー》を回収し、六時二十分と時刻を書きこんだ用意の偽手紙をその場に残しました。時刻だけは違うインクで、書体もわざと変えて書いてありました。偽手紙が発見されれば、ミセス・プロザローに罪を着せるための片手落ちの試みと見えるだろう――そう踏んだのです。
けれども手紙を置いたとき、プロザロー大佐が実際に書きかけていた手紙が目にとまりました。これは思いがけない拾いものでした。ロレンス・レディングは頭の切れる男ですから、この手紙は他日自分たちにとって思わぬ役に立つかもしれないと思ってそれを持ち帰りました。時計の針を偽手紙の時刻に合わせておいたのは、いつも十五分進ませてあることを知っていたからです。これもまたミセス・プロザローに疑いを着せようという試みだ、そんなふうに見えることを計算していたのでした。ついで彼は書斎から出て、門の外であなたさまと出会い、ほとんど錯乱状態にある人間のように振舞いました。まったくよく頭の働く男です。人を殺したばかりの人間は、どういう行動をとるでしょう? もちろん、ごく平然と振舞うはずです。ですからレディングさんは、まったく反対の行動に出たのです。消音装置《サイレンサー》は始末しましたが、ピストルは取っておき、後にそれを持って警察署に出頭して滑稽《こっけい》きわまる自白劇を演じ、みんなをまんまと騙したのでした」
ミス・マープルによる事件のこの要約は私たちをひきつけて離さなかった。まさにこんなふうにしてプロザロー大佐は殺害されたに違いない――メルチェットも私もたちまちにしてそう信じたほど、その言葉は確信に満ちていたのであった。
「林の中で聞こえた銃声については、どう解釈なさいます?」と私はきいた。「前におっしゃった偶然の一致とは、そのことだったんでしょうか?」
「まあ、いいえ!」とミス・マープルは大きく頭を振った。「あれは偶然の一致どころじゃありませんわ。銃声はぜったいに聞こえる必要があったのです――さもないと、ミセス・プロザローの容疑はそうたやすくは晴れなかったでしょうからね。レディングさんがどういう手を使ったのか、わたしにもはっきりしたことがわかっているわけではありません。ですけどピクリン酸というのは、上から何か重たいものを落とすと爆発するそうですね。覚えていらっしゃいますかしら、牧師さま、レディングさんが大きな石を運んでいるところにあなたさまが行き会われたのを? そこはちょうど、後にあなたさまがピクリン酸の結晶体を拾われたあたりでございましたわね。男のかたって、そういう仕掛けをするのがとてもお上手ですから、レディングさんはたぶん、その大きな石をピクリン酸の結晶体の上に吊《つる》して時限信管か、それとも導火線か、とにかく燃えつきるまでに二十分ぐらい掛かるものを仕掛けておいたんでしょうね――吊した石が落ちて爆発が六時半ごろ、つまり、レディングさんとミセス・プロザローがアトリエから出てくるのがわたしの目にとまる時間に起こるように。とても安全な工作ですわ。なぜって、後で発見されるものがあるとしたって、大きな石一つだけですもの! レディングさんは念には念をいれて、その石をどけようとしたんでしょうけど、そこへちょうどあなたさまが通りかかられたんですわ」
「なるほど」と私は叫んだ。あの日私を見て、ロレンスはひどくぎょっとしたような顔をした。そのときはごく自然な反応だと思ったが、いま思うと……
ミス・マープルは私の心中を察したらしく、すかさず何度かうなずいた。
「ええ、あのときあなたさまとひょっくり出会って、ロレンス・レディングはさぞかし狼狽《ろうばい》したに違いありませんわ。でもあの人、なかなかうまくごまかしましたわね――ロック・ガーデン用の石をわたしに届けるつもりだなんていって。ただね――」とミス・マープルは力をこめていった。「あの石はわたしのロック・ガーデンにはまるでそぐわないたぐいの石でしたのよ。それでわたし、これはと思ったのでした」
メルチェットはミス・マープルが話している間、夢でも見ているようにぼんやりした顔で座っていたが、その顔にようやくわれに返りかけているような表情が走った。一、二度|唸《うな》り、戸惑った様子で鼻をかむと、彼は呟いた。
「いやはや! いや、まったく!」
それ以上のことは、敢《あ》えていう気になれないらしかった。おそらく私と同じょうに、ミス・マープルの出した結論の論理性に感銘を受けていたのだろう。もっともさしあたってはそれを進んで認める気になれないらしかったが。
メルチェットはふと手を伸ばして、皺《しわ》くちゃに丸められたあの紙きれを取り上げ、怒鳴るようにいった。
「いや、結構でしょう。しかしホーズについてはどう説明なさいます? 自分で電話をかけてきて告白したんですよ」
「ええ、それこそ、まさに天の配剤といってよろしいんじゃないでしょうか。牧師さまの今夜のお説教の影響に違いありませんわ。クレメントさまは今夜はたいへんなお説教をなさいましたからね。ホーズさんはあのお説教に、深く胸を刺されなさったんですわ。もうとうてい我慢できない、どうでも告白しなければとお思いになったんでしょう! つまり、教会の基金の不正流用について」
「何ですって?」
「ええ――でも神さまのお計らいで電話をかけて告白なさったために、結局はあのかた、命拾いをなさったんですわ(大丈夫、よくおなりになりますとも。ヘイドック先生はりっぱなお医者さまですから)。わたし、こう思いますの。レディングさんはこの手紙を取っておき(危険ですわね。でもおそらく、けっして見つからないような場所に隠しておいたんでしょう)、プロザローさんが誰を告発していたのか、ひそかに思いめぐらすうちにホーズさんだと確信した。レディングさんはゆうべ、ホーズさんについてきてだいぶ長くここにいたようですが、その間に用意のカプセルをあの薬箱の中の一つとすり替え、いっぽうこの手紙をホーズさんのガウンのポケットに忍ばせておいたんでしょう。ホーズさんは何も知らずに早晩問題のカプセルを服《の》んでしまう。ホーズさんがなくなって所持品を調べると手紙が見つかるという寸法で、プロザローさんを射殺したのはホーズさんで、後悔の念に駆られて自殺したのだというお誂《あつら》え向きの結論に誰もがとびつくでしょう。ところがホーズさんはたまたま今夜、この手紙を見つけたんじゃないでしょうか――致死量の薬の入ったカプセルを服んだ後で。ひどく取り乱しておられたことでもあり、何か超自然的な力が自分を告発しているように思いこまれて、もともと牧師さまの説教の影響もあったわけですし、何もかも白状しようという気になられたに違いありませんわ」
「そんなばかな! まさか、そんなことが!」とメルチェットは呟いた。「とても信じられん!」しかしいつになく自信なげに響く声だった。彼自身の耳にもそう聞こえたのだろう、すぐに続けた。
「しかし、もう一つの電話のほうはどう説明なさいます――レディングさんの家からミセス・プライス・リドリーにかかった電話ですが?」
「ああ、あれこそ、わたしのいう偶然の一致ですのよ。あれはグリゼルダさんがかけたんですわ――たぶんグリゼルダさんとデニスさんが共謀して。お二人はミセス・プライス・リドリーが牧師さまについて広めている中傷的な噂話《うわさばなし》を腹に据えかね、ああした方法でミセス・プライス・リドリーを黙らせようと(子どもっぽいやりかたといえましょうけど)思いついたんでしょうね。偶然の一致と申しますのはね、その電話がつながったのが、林の中から偽の銃声が聞こえたのとたまたま同じ時刻だったからですの。二つは関連があると考えるのが人情ですものねえ」
私はそのとき思い出したのであった――その銃声を誰もが、ふつうの銃声とは「違っていた」といっていたことを。たしかに違ってはいた。だが、どんなふうにときかれても、なるほど、説明するのはむずかしかったろう。
メルチェットが咳払《せきばら》いをした。
「あなたの解釈はたしかにもっともらしく聞こえますな、ミス・マープル。しかし一つ指摘させていただきたいのだが、証拠というものがまったくない」
「ええ、わかっていますわ」とミス・マープルは答えた。「でもあなたさまもいまでは、これが真相だとお思いになっていらっしゃるんでございましょう?」
ちょっと間《ま》を置いてメルチェットはほとんど不承不承いった。
「ええ。いまいましいことだが、事件はまさにそんなふうにして起こったとしか考えられなくなりましたな。ただ証拠がないというのがね――ほんのこれっぽっちもないのがどうも」
ミス・マープルは軽く咳をした。
「ですからわたし、考えましたの。つまり場合が場合ですから――」
「場合が場合だから――?」
「ちょっとした罠《わな》を仕掛けることも許されるのではないかと」
三十一
メルチェットと私はぽかんとミス・マープルの顔を見つめた。
「罠ですって? どんな罠です?」
ミス・マープルの顔に、ちょっと臆するような表情が走った。しかしその頭の中にすでに一つの計画が形をなしていることは明らかであった。
「レディングさんに電話して警告するというのはいかがなものでしょう?」
メルチェットは微笑した。
「『すべては露見した。逃げろ!』ですか? その手はもう古いですよ、ミス・マープル。成功することもないわけじゃありませんが、あの若いレディングは、そんな罠にはまるほどおめでたくありませんからね」
「ですからとくべつな種類の罠でございませんとね。それはわたしにもわかっております。これは単なる提案でございますけれど、この種の事柄について一風変った見解をもっていることで知られているかたから、レディングさんに電話してもらったらどうでしょう? ヘイドック先生のおっしゃることを少し伺っていれば、殺人ということをほかの人とはかなり違う角度からごらんになっているんじゃないかという気がしてきますわね。もしもへイドック先生がレディングさんに電話して、誰か――たとえばこちらの下宿のミセス・サドラーか、あるいはお子さんがたの一人がたまたまカプセルの取り替えを目撃していたと遠回しにほのめかせば――仮に、レディングさんに何の心当りもなかったとしたら、何をいわれているのか、さっぱりわからないでしょうが、逆に、もしも思い当ることがあれば――」
「とんでもなく愚かしい行動に出る可能性があるといわれるんですね?」
「その結果、やつはわれわれの手中に陥《おちい》ることになると。そう、その可能性はたしかにありますな。なるほど、こいつは思いつきだ。しかしヘイドックが話に乗ってくれるかどうか。あなたもいまおっしゃったように、彼の見解は――」といいかけたメルチェットを、ミス・マープルは快活な口調で遮った。
「でもそれだって、いってみれば理論にすぎませんでしょう? 理論と実際とでは大違いでございますからねえ。そうじゃございません? あ、ヘイドック先生がもどっていらっしゃいましたわ。ご意見を伺ってみようじゃございませんか」
ヘイドックはミス・マープルが同席しているのを見て少々驚いていた。疲れのありありと見える、憔悴《しょうすい》しきった顔だった。
「あぶないところでしたよ。もう少し手当てが遅れていたらどうなっていたことか。だがもう大丈夫です。患者を救うのは医者の義務だから、百方、手は尽くしましたがね、奴《やっこ》さんが助からなかったとしても、私としてはほっとしたかもしれません」
「これからわれわれが話すことを聞けば、考えが変るかもしれんよ」
こういってメルチェットは言葉みじかにミス・マープルの謎解きをヘイドックに説明し、ロレンスに彼から電話してもらったらというミス・マープルの提案をも伝えた。
その結果私たちは、理論と実際とは違うというミス・マープルの言葉が何を意味していたかを明確に知る機会を与えられたのだった。
殺人犯に対するへイドックの見解は、メルチェットの話を聞くことによって完全に一変してしまったらしかった。いっそロレンス・レディングの首が盆に乗っているところが見たい――へイドックはむしろそう思っているらしかった。プロザロー大佐の殺害に関してよりも、ホーズを殺そうとしたことについて激しい義憤を感じているのではないかと思われた。
「何というやつだ! 罰当りめが! あのホーズに対してよくもそんなひどいことを。ホーズには母親も、妹もいるんですよ。殺人者の母であり、妹であるという汚名が一生ついてまわるところだった。その場合の精神的苦痛はたいへんなものです。卑怯《ひきょう》千万な、汚い小細工をしおって!」
徹底した人道主義者ほど、いったんかっとなると原始的な激怒に駆られるものだということを、私はつくづく思い知った。
「いま聞いたことが本当なら、私も一枚|噛《か》みますよ。そんなひどいことをするやつは生きる資格などないですからね。ホーズのように無抵抗な男をよくもまあ――」
およそ手負いの犬のたぐいは、いつだってヘイドックを当てにできるのだ。
ヘイドックがメルチェットとこまかい打ち合わせを始めたとき、ミス・マープルは立ち上がった。私は送って行こうと主張した。
「ご親切にどうもありがとうございます、クレメントさま」人気《ひとけ》のない通りを歩きながらミス・マープルはいった。「もう十二時を回っておりますのね。レイモンドがわたしを待たずに床《とこ》に入っていてくれるといいんですけれど」
「レイモンド君にホーズのところまで送ってもらうべきでしたね」
「レイモンドには、出かけることを話しませんでしたから」
この事件についてのレイモンド・ウェスト氏の心理的分析を思い出して、私は思わずにやりとした。
「あなたのお説がこの事件の真相だとしたら――私自身はそう信じて疑いませんが――甥御《おいご》さんに一泡ふかすいい機会でしょうね」
ミス・マープルも微笑した――甘い伯母のやさしい微笑であった。
「ファニー大叔母の口癖を思い出しますわ。わたしはそのころまだ十六で、ずいぶん見当違いなことをいうと聞き流したものでしたけれど」
「大叔母さまは何といわれたんですか?」
「ファニー大叔母はしょっちゅう申しましたの。『若い者は年寄りはばかだと思っているけれど、年寄りはちゃんと|知っている《ヽヽヽヽヽ》のさ――若い者がばかだってことをね!』って」
三十二
後はもう大して書くこともない。ミス・マープルの計画は思惑どおり成功した。ロレンス・レディングは、カプセルの取り替えを目撃した者があったというヘイドックの電話にむろん思い当るところがあったから、ミス・マープルの予言どおり、「愚かしい行動」に出た。やましい良心から恐ろしい破綻《はたん》が生じることがあるという顕著な実例である。
さてロレンスの立場は微妙であった。電話を受けた直後、彼は一も二もなく高飛びを考えただろう。しかし共犯者であるアンのことがあった。アンに何もいわずに逐電《ちくでん》することもできかねたし、かといって朝まで待ったらどうなるか。そこでロレンスは深夜、オールド・ホールに出かけて行った――メルチェットの配下の有能な警官が二人、後をつけていることも知らずに。アン・プロザローの寝室の窓を目がけて小石を投げて彼女を起こすと彼は、すぐおりてきてくれ、至急会いたいのだと小声で呼びかけた。仮にレティスが目を覚ましていたとしても戸外なら聞かれずにすむと考えたのだろう。そんなわけで、警官たちは二人の話を残らず聞いてしまった。ロレンスとアンがプロザロー大佐殺害の犯人だということはもはや疑いの余地がなくなった。ミス・マープルの推理はあらゆる点で正しかったのである。
ロレンス・レディングとアン・プロザローの裁判についてはすでにくわしく知られているから、私としてはいまさら書くつもりはない。ただ、犯人の捕縛はスラック警部の熱意と推埋力の賜物《たまもの》だというわけで、彼の株が大いに上がったことだけ、書き加えておこう。当然ながら、ミス・マープルの果たした役割についてはまったく公にされなかった。もっともミス・マープル自身、そんなことは考えただけでもぞっとすると思っただろう。
レティスは裁判が始まる少し前に私に会いにきた。例によって例のごとくふらっと書斎の窓から入ってきて、自分は当初から継母《けいぼ》があやしいと思っていたのだといった。黄色いベレー帽をなくしたといったのは口実で、本当は書斎を調べてみたかったのだ。万が一、警察が見落した手掛りが何か残っているかもしれないと考えたからだと。
「警察の人たちはあたしみたいにアンを憎んでいなかったから。憎んでいるとやりやすいこともあるのよ」とレティスは夢でも見ているようなぼんやりした声でいった。
書斎を一通り調べたが何の収穫もなかったので、アンのイアリングをわざと机のそばに落しておいたのだ――そう彼女は付け加えた。
「あの人が犯人だってことは、あたしにはちゃんとわかっていたのよ。告発さえできれば、手段なんか、どうだって構わないわ。お父さんはあの人に殺されたんですもの」
私はほっと溜息をついた。レティスという娘はある意味では道徳的色盲といってよい。
「で、これからどうするつもりなんだね、レティス?」と私はきいた。
「何もかも――すっかり終ったら、あたし、外国に行くつもり」ちょっとためらってから付け加えた。「お母さんと」
私は驚いて顔を上げた。
レティスはうなずいた。
「気がつかなかった? ミセス・レストレンジはあたしの実の母親だったのよ。お母さんは――ご存じかもしれないけど――死期が近いの。あたしに会いたくて、偽名を使ってこの村にきたのよ。ヘイドック先生が力を貸してくれたんですって。先生はお母さんの古いお友だちで――昔は夢中だったとか。ある意味ではいまでもそうみたい。お母さんって、昔からずいぶんたくさん崇拝者がいたらしいわ。当然だわ、いまでもとてもチャーミングですもの。とにかく、ヘイドック先生はお母さんを助けるためにできるかぎりのことをしたのよ。この村でお母さんが本名を名乗らなかったのは、みんながいやらしい噂話をいいちらすからなの。あの晩、お母さんはお父さんに会って、もう長くはないとわかっているし、どんな形ででもいいからレティスに会わせてほしいといったそうなの。お父さんはひどい人よ。『おまえは家を出たとき、すべての権利を放棄したはずだ。レティスはおまえを死んだものと思っている』――そういったんですって。あたしがお父さんの話を鵜呑《うの》みにしているとでも思ってたのかしら! お父さんみたいな人って、自分の鼻先のことさえ、見えないのね!」レティスはちょっと言葉を切った。
「突っぱねたもんで、あたしにじかに手紙をよこしたの。それであたし、テニス・パーティを早目に切り上げて、六時十五分に野道の角でお母さんに会ったの。そのときは立ち話しかできなくて、次にいつ会うかを決めて別れたわ。六時半ちょっと前だったかしら。それで後からあたし、とても心配しちゃったの。お母さんがひょっとしたら疑われるんじゃないかと思って。だってお母さんはお父さんを恨んでいたわけでしょ? いろいろ考えてあたし、屋根裏にあったお母さんの古い肖像画の顔をめちゃめちゃにしたのよ。警察が嗅《か》ぎまわっているうちにあの絵を見つけて、ミセス・レストレンジの顔だって気がついたりしたらたいへんだと思ったから。ヘイドック先生も心配してたわ。お母さんがやったんじゃないかと本気で考えたこともあったみたいよ。お母さんってちょっと――何をするかわからないところがあるから。結果に構わずに突っ走るっていうか」
レティスはしばらく沈黙した。
「おかしいわね。お母さんとあたし、とてもしっくりいってるのよ。お父さんの場合とは大違い。でもお母さんは――いいえ、そんなこと、どうだっていいのよ。とにかくあたし、お母さんと外国に行くの。ずっといっしょにいるつもりよ――最後まで……」
立ち上がったレティスの手を、私はしっかり握りしめた。
「あなたたち二人を神さまが守って下さるように。そしていつか、あなたも大きな仕合せを掴《つか》むことを祈っているよ」
「そうあるべきよね」とレティスは無理に笑おうとした。「これまでのところはあたし、あまり仕合せとはいえなかったようだけど。そうじゃなくて? ああ、でもそんなこと、もうどうでもいいわ。さよなら、クレメントさん。あたしにいつもとてもよくして下さったわね。あなたも、グリゼルダさんも」
グリゼルダ!
私はグリゼルダに、あの匿名の手紙を受け取って、私がどんなに思い悩んだかを打ち明けなければならなかった。グリゼルダははじめ笑っていたが、やがて真面目くさって私に説教した。
「でもね」と彼女は付け加えた。「これからはあたし、とてもまともな、神を恐れる女になるつもりよ――メイフラワー号に乗り組んでアメリカに渡った|清教徒たち《ピルグリム・フアーザーズ》みたいに」
グリゼルダとピルグリム・ファーザーズとは珍妙な取り合わせだ。
「ねえ、レン、あたし、今後は主婦として、妻として、いままでよりずっと落ちついた、安定した女になりそうよ。そういういい影響力があたしの中に入ってきつつあるからなの。あなたの生活についても同じことがいえるわけだけど、あなたの場合は――そうね、むしろ若返りの効用っていったらいいかしら――すくなくともあたしは、そうなるといいと思っているのよ。あたしたちの間に子どもが生れたら、あなたももうあたしを『うちのやんちゃ娘』なんて呼べなくなるでしょうし。そしてね、レン、あたし、これからはとびきりの『良妻賢母』(本に出てくるような本物のね)になろうと決心したの。家事上手にもなるつもりよ。『家政学』についてと、『母性愛』についてと、二冊本を買ったわ。この二冊があれば、模範的主婦になれるはずだわ。どっちも、読んでるとすごくおかしくてふきだしちゃうの――書いている人は大真面目なんだけど。とくに子どもの育てかたについての章は笑っちゃうわ」
「『夫操縦法』という題の本はまさか買いこまなかったろうね」グリゼルダを抱きよせながら、急に心配になって私はきいた。
「いまさらそんな本を買う必要、ないんですもの」とグリゼルダはいった。「あたし、このままでもとってもいい奥さんですからね。あなたを心から愛しているし。それ以上、何を望むことがあって?」
「何も」
「ねえ、たった一度でいいからいってみて――おまえを気が狂うほど愛してるって」
「グリゼルダ、私は本当におまえに夢中だよ! 崇拝しているんだ! 気が狂いそうに、どうしようもなく、牧師らしくもなく、おまえにそれこそ夢中なんだよ!」
妻は満足げにほうっと溜息をついた。
それから急に身をひいていった。
「あら、いやだわ! ミス・マープルがくるわ。あたしたちの秘密をあの人に気づかせちゃだめよ。いいわね? 会う人ごとに、やれ、クッションを背中に当てろとか、やれ、足を高く上げてろ、なんていわれるのはまっぴら。あたしのこと、きいたら、ゴルフ・リンクに行ったとでもいっといて。何とかごまかせると思うわ。それに嘘《うそ》じゃないんですもの。黄色のプルオーバーを、この前リンクに忘れてきちゃって。行って取ってくるわ」
ミス・マープルは窓の所で足を止め、遠慮がちな口調でグリゼルダさんはいらっしゃるかときいた。
「グリゼルダはゴルフ・リンクに行きましたが」と私はいった。
とたんにミス・マープルの目に気遣わしげな表情が浮んだ。
「まあ、でも、それは軽率じゃありません?――とくにいまの時期にはもっと慎重になさらないと」
そういって昔かたぎの、品のよいオールドミスらしく、頬を染めた。
お互いにちょっとばつがわるく、私たちは話題を転じてプロザロー事件のこと、ストーン博士のことを話題にした。自称ストーン博士はじつは名うての泥棒で、五つ六つの変名をもっていた。ついでながらミス・クラムの共犯の容疑はすっかり晴れた。ミス・クラムは結局、スーツケースを林の中に持って行ったことを認めたが、それだってまったくの善意から出たことであった。ストーン博士が彼女に、どうやらほかの考古学者たちが嫉妬心から自分の理論をくつがえそうとしており、泥棒行為も辞さない気らしいといったのを真《ま》に受けて、唯々諾々、彼に代ってスーツケースを隠したのだった。村の噂によるとミス・クラムは目下求職中で、ストーンより信用のおけそうな、中年の独身男の秘書の地位を希望しているという。
ミス・マープルと話しながら私は、どうして彼女がわが家のほやほやの新しい秘密を知るにいたったのか、ふしぎでならなかった。しかしそれについてはやがてミス・マープルみずからがいかにもつつましい口調で手掛りを与えてくれた。
「グリゼルダさん、あまりやりすぎなさらないとよろしいんですけれどねえ」とミス・マープルはいいにくそうに呟《つぶや》き、然《しか》るべく間を置いた後にいった。「わたし、きのう、マッチ・ベナムの本屋に寄りましてね――」
やれやれ、グリゼルダ、おまえが『母性愛』に関する本など買うから……
私はふと思いついてきいてみた。
「ミス・マープル、あなたが人を殺すとしたら、発覚の恐れはまずないでしょうね」
「まあ、何てことをおっしゃいますの!」とミス・マープルはショックを受けたようにいった。「殺人なんて、そんな恐ろしいこと、わたしにはとてもできっこありませんわ」
「しかしご存じのように人間性というものは――」と私は呟いた。
ミス・マープルはお株を奪われて年寄りらしいかわいらしい笑い声を立てた。
「まあ、クレメントさま、おっしゃいますこと」そして立ち上がっていった。「でも、いいご機嫌なのも無理はありませんわね」
窓の所で立ちどまってミス・マープルはいった。
「グリゼルダさんによろしくお伝え下さいね――わたしなら大丈夫、大切な秘密はけっしても洩らしませんからって」
まったく愛すべき人だ、われらのミス・マープルは。(完)
解説
ジュリアン・シモンズはその著 Bloody Murder に、アガサ・クリスティについて次のように書いている。
「クリスティは一九三〇年代に、それぞれに独創的で、一貫して精彩に富んだ謎ときの物語を年々世に出していった。クリスティの巧妙さは、一分の隙《すき》もない筋の構成にあるのでも、密室殺人の新機軸にあるのでもない。読者の科学的知識、医学的知識を前提としている点で、注目されたわけでもなかった。彼女の犯人隠しはむしろ、奇術師の手練の早業を思わせる。はじめスペードのエースを見せておいてそれをぱっと裏返すのだが、読者は次の瞬間に目の前の札がどうしてダイヤの5に変っているのか、見当もつかないのである」
推理小説の歴史にとっても、クリスティ個人にとっても、まさに黄金時代であるこの一時期の開幕を飾ったのが本書『牧師館殺人事件』The Murder At The Vicarage(一九三〇)であった。
一九三〇年にはクリスティは、いわゆる叙情的《リリカル》ロマンス『愛の旋律』と短編集『謎のクィン氏』も出している。『牧師館殺人事件』は十冊目の長編だった。その後一九四〇年までに、長編は十八冊を加えて二十八冊となり、短編集は合計九冊を数え、そのほか自伝的な『未完の肖像』もメアリ・ウェストマコット名義で公刊されているのだから、三〇年代は彼女にとって、文字どおり実り多き年月といえるだろう。
一九三〇年は、クリスティの再婚の年でもあった。このとき彼女はすでに不惑を越えていたが、考古学者である相手のマックス・マローワンは二十七歳、二人の間には十三歳という年齢の開きがあった。それかあらぬか 『牧師館殺人事件』は、登場人物間の年の差をきわめて敏感に意識している作品という感じがする。
まず語り手のレナード・クレメント牧師。奥さんのグリゼルダより、ほとんど二十歳年長である(村のうるさがたの一人が、自称考古学者のストーン博士とその秘書の若いミス・クラムについて取り沙汰《さだ》して、「あの学者さん、ミス・クラムより、すくなくとも二十五は年上じゃないの」といったとたんに、同席していた婦人たちが申し合わせたように関連のないことを話しはじめる一《ひと》くだりは面白い)。
ついで被害者であるプロザロー大佐の妻アン。五、六歳年下の画家ロレンス・レディングを「命がけ」で愛している。べつにクレメント牧師の甥《おい》の十六歳になるデニスが年かさの美しい娘レティスに憧《あこが》れて、「ぼく、死んじまいたいよ」と呟《つぶや》く一幕もある。
『自伝』(一九七七)を読むと、クリスティはマックス・マローワンの求婚にひどく驚いたらしい。自分の離婚の前歴もだが、何よりもマックスの若さが、すんなり「イエス」と答えることを躊躇《ちゅうちょ》させた。「女にとって、ずっと年下の男と結婚するくらいばかげたことはない」とそれまで漠然《ばくぜん》と考えてもいた。結婚を決意してからでさえ、ほとんど翻意しかけたことがある。マックスが、彼女の姉の息子である甥と同世代に属することに気づいたときだった。本書のなかでクレメント牧師は、妻が年齢的に自分より甥のデニスに近いことに思いいたって愕然《がくぜん》としているが、かれこれ思い合わせるとこの本、マックスヘのちょっと辛味のウェディング・プレゼントだったのかもしれない。
この種の枝葉の話がいくつも添えられていることにクリスティは『自伝』で触れて、「『牧師館殺人事件』をいま読み返すと、当時ほどには意に満たない。登場人物が多すぎるし、副次的な筋がいくつも絡《から》みすぎていると思う」と述懐している。しかし謎の設定とその解決の過程がしっかり書けていること、謎ときの絶好の背景としてセント・メアリ・ミード村を持ってきたこと、とくにミス・マープルには満足の意を表して、この機会に数ページを彼女に割いている。
ミス・マープルの起源は、『アクロイド殺人事件』(一九二六)の語り手であるシェパード医師の姉のキャロラインにあるようだ。「ちくりと辛辣《しんらつ》なこともいうオールドミスで、好奇心いっぱい、村のことなら知らぬことがないという、たいへんな地獄耳、いうなれば完璧《かんぺき》な村の探偵」というキャロライン評は、そのままミス・マープルに当てはまる。
ミス・マープルとセント・メアリ・ミード村は、『牧師館殺人事件』に二年遅れて単行本の形で出版された『火曜クラブ』の十三の短編にたっぷり書きこまれている。同書の「まえがき」に「この十三の事件によってミス・マープルははじめて推理小説の世界に登場する」とあるとおり、これらの短編は『牧師館殺人事件』に先立って雑誌に発表されていたらしい。
セント・メアリ・ミード村はさらにそれより先、『青列車殺人事件』(一九二八)にちらりと出てくる。ただしこちらはポワロもので、この村が後に作品中に定着することを、クリスティ自身も当初はまったく予測していなかったらしく、処女作『スタイルズ荘の怪事件』(一九二〇)のスタイルズ・セント・メアリ村、『アクロイド殺人事件』のセント・アボット村と大同小異の、イギリスの田舎の典型的な小村として描かれているに過ぎない。
『牧師館殺人事件』によって、クリスティはこうした「村」のもつ可能性に心づいたのだろう、『火曜クラブ』から十年後の作品『書斎の死体』と、それからまた二十年後の『鏡は横にひび割れて』は、いずれもセント・メアリ・ミード村を背景としている。
『ポケットにライ麦を』(一九五三)『パディントン発4時50分』(一九五七)『復讐の女神』(一九七一)『スリーピング・マーダー』(一九七六)では物語の舞台はイギリス各地にわたっているが、セント・メアリ・ミード村は依然としてミス・マープルの根拠地であるし、『動く指』(一九四三)『予告殺人』(一九五〇)『魔術の殺人』(一九五二)『カリブ海の秘密』(一九六四)『バートラム・ホテルにて』(一九六五)でも、ミス・マープルの謎ときがことごとくセント・メアリ・ミード村方式によっていることはいうまでもない。
登場人物を眺《なが》めると、『牧師館殺人事件』のミセス・プライス・リドリー、ミス・ウェザビー、ミス・ハートネルの村の三人のゴシップ屋は『書斎の死体』でもあいかわらず噂話の大量生産をやっているし、メルチェット大佐は公正をむねとする官憲の代表者、スラックは(警視に昇進している)あいもかわらず精力的で、無神経である。ヘイドック医師は『スリーピング・マーダー』にいたるまで一貫して人道の擁護者、ミス・マープルのよき友人で、短編『管理人の老婆』では、インフルエンザの回復期にある彼女を元気づけようと謎ときの問題を提供している。
さて、以上十二の長編と短編(上記のもののほかにも四つほど)で活躍するミス・マープルは、究極的にはいったい何歳になっているのだろう? どうやらセント・メアリ・ミード村時間というのがあるらしい。
クリスティは「ミス・マープルは初登場のころ、すでに六十五歳と七十歳の問だったと思う」と『自伝』に書いている。「これはポワロの場合と同じく、不運なことであった。わたしが生きているかぎり、ずいぶんと長生きをする運命だったのだから。そうしたことをはじめに見通していたら、早熟な中学生にでも探偵の役を割りふっておくのだった。そうすればわたしとともに、順当に齢《とし》を重ねていけたろうに」
ミス・マープルが『牧師館殺人事件』の当時、仮に六十八歳だったとすれば、『書斎の死体』に登場したときにはちょうど七十歳ということになる。本書の末尾で誕生を遠回しに予告されていたグリゼルダの長男は、後者では這《は》い這《は》いを始めたばかりの赤ん坊として読者に紹介されるのだ。ところが『パディントン発4時50分』には、グリゼルダの次男が大学生か、社会人か、とにかく独立した成人として顔を出している。ということはミス・マープルはこのときには優に九十歳を越えている勘定で、その後の諸事件では何歳になっているのか、これは想像を絶するというほかない。
「わたしは近ごろ、時間や空間に束縛されていない」とクリスティは『自伝』のエピローグに書いている。「自分の好むところで立ちどまることができ、思いのままに前にも後ろにも飛躍できる」と。たぶん、セント・メアリ・ミード村時間も伸縮自在なのだろう。
クリスティが生家アシュフィールド荘を晩年に訪れたときのことを、最後に引用しておきたい。
「そこには、わたしの思い出を掻《か》きたてる何ものも残っていなかった。かつての敷地内には、見掛け倒しの、安っぽい、小さな家が何軒も立ち、あの見事な大木の群れのあとかたもなかった。トネリコの林は消え、ブナ、セコイア、松、菜園を囲むニレ、黒ヒイラギはみじめな残骸《ざんがい》を曝《さら》しているばかり。わたしたちの家がどこにあったのかということさえ、もはや定かでなかった。がっかりして見回したとき、わたしの目に留まったもの、それはかつての裏庭の雑然とした一隅《いちぐう》で、健気《けなげ》にも荒廃に対して戦いを挑《いど》んでいる一株のチリ松だった。それ以外には庭の面影はまるでなく、アスファルトがあたりを埋めつくし、緑らしいものは草の葉一枚見当らなかった」
しかしクリスティはつづけて追懐するのである――「アシュフィールドの生の日々は終った。けれども過去において真の意味で存在したものは、永遠に生きつづける」と。同じことがセント・メアリ・ミード村についてもいえないだろうか。
本文中、訳注を加えたいくつかの記述上の矛盾は、初版から五十年あまりが経過していることを考えるといささかふしぎな気がする。しかしいずれも謎ときに重大な影響をおよぼすたぐいの食い違いではないし、考えようによっては、これは本書がすでに古典となっている証《あかし》なのかもしれない。(訳者)
◆牧師館殺人事件◆
アガサ・クリスティ/中村妙子訳
二〇〇五年二月二十五日