秘密組織
アガサ・クリスティ/一ノ瀬直二訳
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目次
プロローグ
一 冒険青年株式会社
二 ミスター・ウィッティントンの依頼
三 つまずき
四 ジェーン・フィンとは誰か?
五 ミスター・ジュリアス・P・ハーシャイマー
六 作戦計画
七 ソホー区の家
八 トミーの冒険
九 タッペンス、女中に早替わり
一〇 ジェームズ・ピール・エジャトン卿登場
一一 ジュリアスの話
一二 困った時の友人
一三 徹宵《てっしょう》の見張り
一四 ドクター・ホールに面会
一五 タッペンスに求婚
一六 トミーの冒険のつづき
一七 アネット
一八 電報
一九 ジェーン・フィン
二〇 おそすぎた
二一 トミーの発見
二二 |首相官邸《ダウニング》街で
二三 一秒を争う
二四 ジュリアスの活躍
二五 ジェーンの告白
二六 ミスター・ブラウン
二七 サヴォイ・ホテルの夕食会
二八 そして、そのあと
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登場人物
トミー(トーマス・ベレスフォード)……本編の主人公
タッペンス(プリューデンス・カウリー)……本編の主人公
ジェーン・フィン……失踪した女
ジュリアス・P・ハーシャイマー……ジェーンの従兄
エドワード・ウィッティントン……エストニア・ガラス器商会の社長
ジェームズ・ピール・エジャトン……王室弁護士
ドクター・ホール……医師
アネット……ソホー区の家の少女
A・カーター……諜報部のお偉方
ボリス・イワノヴィッチ・ステパノフ……ロシアの伯爵
マーガレット・リタ・ヴァンデマイヤー……一味の女
アルバート……エレベーター・ボーイ
ミスター・ブラウン……?
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退屈《たいくつ》な毎日なので二番せんじでいいから冒険の喜びとスリルを味わいたいと願っている人たちに――
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プロローグ
一九一五年五月七日、午後二時だった。ルシタニア号は二発の魚雷をつづけざまにぶちこまれ、刻々と浸水していった。救命ボートが全速力でおろされている。婦人子供が列を作って自分らの順番を待っていた。女たちのある者は懸命に夫たちにすがりつき、ある者は自分の子供をしっかりと胸にかき抱いている。一人の娘が他の連中より少し離れた所にしょんぼり立っていた。若い娘である。まだ十八にもなっていないだろう。べつに恐れているようすはなかった。真剣な目つきで、まじろぎもせずに前方をまっすぐ見つめていた。
「失礼ですが……」
すぐそばで男の声が聞こえ、彼女はぎくりとしてふりかえった。一等船客の一人としてよく見かけた男である。何か秘密の影を持った男で、彼女は想像力をいや応なしにかき立てられていたのである。男は誰にも話しかけなかったし、話しかけられても、そっけない態度で人をよせつけなかった。そして自分の肩越しに敏捷《びんしょう》な疑い深い目つきでそわそわと背後を見まわすくせがあった。
彼が今、狼狽《ろうばい》していることは、彼女にもはっきりわかった。ひたいには玉の汗が列をなして浮かび出ている。何かただならぬ心配事でもあるらしい。とはいうものの、死に直面することを恐れるようなタイプの男には見えなかった。
「なんでしょうか?」彼女はまじめな、いぶかるような目つきで彼の目をながめた。
彼は死物狂いの、それでいてまだ決心のつきかねる表情を浮かべて、彼女を見ている。
「そうだ。これより他に方法はないんだ!」と彼は自分に向かって呟《つぶや》いた。それから声を出して、ぶっきらぼうにこうたずねた。
「あなたはアメリカ人でしょう?」
「ええ」
「愛国心のあるアメリカ人?」
娘は顔を赤らめた。
「そんなことをたずねる権利はあなたにはありませんわ。もちろん愛国心は持っていましてよ」
「気を悪くなさらないでください。それに、問題がいかに重大であるかをお知りになったら、気を悪くなさることもないと思います。とにかく、わたしはいま誰かを信用しなければならないし――その誰かは女でなければならないんです」
「どうして?」
「婦女子優先ですから」彼はあたりを見まわして、声を落とし、「わたしは、書類を、非常に重要な書類を携帯《けいたい》しているんです。戦時中連合国側に大きな変化をもたらすかもしれない書類です。何としてでも保管しておかねばならない書類です。ところが、現在の情勢下では、わたしが持ってるより、あなたが持ってたほうがこれを救い出すチャンスは大きいでしょう。お願いですから持っていってくれませんか」
娘は手をさし出した。
「ちょっと待ってください――一応警告しておかねばならないことがあります。危険があるかもしれないということです。――もしわたしを尾行《びこう》している人間がいたら、ですがね。尾行されてはいないと思いますけど、万一ってこともありますからね。もし尾行されていたら、きっと危険が生じます。あなたにはそれを切り抜けるだけの勇気があるでしょうか?」
娘は微笑した。
「そのくらいの勇気はありますわ。それにあたしは自分がえらばれたということに大いに誇りを感じています。その書類はあとでどう処理したらいいんですか?」
「新聞を見てください。タイムズ紙の個人三行広告に注意してください。『船友に告ぐ』という見出しで広告します。わたしに何も起こらなければ三日後に広告します。わたしが船といっしょに沈んでしまえば、この包みはアメリカ大使館に行って大使に直接手渡してください。わかりましたか?」
「よくわかりました」
「じゃ、その要領で……。お願いします。さようなら」彼は彼女の手を握った。「幸運を祈ります」彼は前より大きな声で言った。
彼女は防水布につつまれた包みをにぎりしめた。その包みは握手をした時、彼のてのひらからうつされたのであった。
ルシタニア号は、さらに右舷に大きくかしいだ。あわただしい命令に従って、娘は前に進み、ボートに乗り込んだ。
一 冒険青年株式会社
「まあ、トミーじゃない!」
「やあ、タッペンスか!」
若い男女がなつかしげにおたがいの名を呼び交した。そのため、ドーヴァー街の地下鉄の出口は一時交通遮断の状態になった。何十年ぶりの再会とでもいった口ぶりだが、二人の年齢はあわせて四十五歳にもならないだろう。
「まったく久しぶりだな。何世紀ぐらい会わなかったかな?」若い男は言う。「どこに雲がくれしてたんだ? どこかでお茶でも飲もう。こんな所に立ってると他の連中にどやされるぜ、交通妨害だ。どっかへ行こう」
若い女はうなずいた。二人はドーヴァー街をピカディリーのほうに歩いていった。
「ところでどこへ行こうか?」とトミー。
彼の声の調子には、ほんのわずか不安か心配の気持がにじみ出ていて、ミス・プリューデンス・カウリーの敏感な耳がそれを聞き洩らすはずはなかった。ミス・カウリー――親しい友だちは彼女のことをタッペンスTuppenceと呼んでいた。あだ名の由来はわからない〔タッペンスは二ペンスtwopenceの意〕。彼女はすかさず問いただした。
「トミー、あなたは文無しなのね?」
「そんなことないさ」と打ち消すトミーの言葉はやはり自信に欠けていた。「金なんか、現金がうなるほどある」
「あなたって昔から下手なうそつきだったわ」とタッペンスはきびしい。「でも病院にいた時、あなた修道尼のグリーンバンクさんを完全にだましたことあったわね。お医者に強壮剤としてビールを飲めと命令されたけど、医者は体温表にそれを書きつけておくの忘れたんだ、と言ってね。おぼえてる?」
トミーはくすっと笑った。
「もちろんおぼえてるさ。あとでばれた時あの古猫尼さんかんかんに怒ったぜ。あの尼さん、べつに悪い人間じゃなかったけどね。あの病院も、ほかのと同じように動員解除されたんだろうな」
タッペンスは溜息をついた。
「あなたも除隊?」
トミーはうなずいた。
「二か月前だ」
「除隊一時金は?」
「使っちまった」
「まあ、あきれた!」
「いや、タッペンス。べつに派手に使えたわけじゃないんだ。そううまいぐあいにはいかなかったよ。ただの生活費さ、――つまり、ごくふつうの生活をしても、いまの世の中じゃ……きみは知らないだろうけど……」
「生活費のことであたしの知らないことは何もなくってよ! あそこにライオンズ〔大衆向き食堂喫茶〕があるわ。割勘《わりかん》でいきましょうよ。おたがいさまだわ!」タッペンスは先にたって二階へあがっていった。
客でいっぱいだった。二人は席を捜して歩きまわった。歩いているうちに人々の話が断片的に耳にはいった。
「……それでさ、彼女に、アパートはだめだったって言ったところが、彼女、坐りこんで泣き出しちゃってさ」……「ほんとに掘り出し物でしたわよ。メーベル・ルイズがパリーで買って来たのと、そっくりの……」……
「断片的でも時には妙なこと小耳にはさむもんだね」とトミーは呟いた。「きょうもね、道で、男が二人、ジェーン・フィンとかいう女の話をしてたのをちらと聞いたんだけど。ジェーン・フィンだなんて妙ちきりんな名前聞いたことあるかい?」
しかしちょうどその時、そばの中年女が二人立ち上がって荷物を手にしはじめたので、タッペンスはすばやく、そのテーブルの空席に腰をおろした。
トミーはお茶と菓子パンを注文した。タッペンスはお茶とバター・トーストを注文した。
「それからお茶は別々のティー・ポットに入れてちょうだいね」彼女はきびしい声でつけ加えた。
トミーは彼女の反対側に坐った。帽子を脱ぐと、きちんとなでつけた赤い髪があらわれた。この青年、顔はおそまつだが、見て気持のいい顔である。――これといって特徴はないが、育ちのよさと、公正なさっぱりした性質をはっきり現わしていた。茶色のスーツは、仕立てこそりゅうとしているが、|万事休す《ヽヽヽヽ》の一歩手前まできている。
こうして坐っているところを見ると、一応は近代的な感覚をそなえたカップルである。タッペンスにしても、とても美人とは言えないものの、小ぢんまりした顔の輪郭には個性と魅力があった。意志の強そうなはっきりしたあごの線、まっすぐな黒い眉の下で、どことなく神秘的に見える灰色の目。目と目の間は大きく離れている。黒い短い髪には、小さな明るい緑色のふちなし帽をかぶり、非常に短い、いささかみすぼらしいスカートをはき、その下からはほっそりと可愛いくるぶしがのぞいている。とにかく彼女の容姿すべてが、スマートさを目ざして勇敢につき進んでいるという感じであった。
やっとお茶が運ばれてきた。タッペンスは、いつの間にか物思いにふけっていたのをはらいのけるようにして、お茶をカップについだ。
トミーは菓子パンを大きく一口食いちぎって、「さて、おたがいの消息を語り合おうじゃないか。ぼくたち、一九一六年に病院で会ったあの時以来、顔を合わせていないんだぜ」
「そうね、いいわよ、あたしからはじめるわ」タッペンスも、バター・トーストに勇敢にかぶりつきながら、「それでは、ただいまからサフォーク州リトル・ミッセンデルの牧師カウリー氏の第五女、ミス・プリューデンス・カウリーの略歴を申しあげることにいたします。ミス・カウリーは、世界大戦の初期において、幸福な(単調な)家庭生活を離れて、ロンドンに赴き、将校用の病院で働きはじめました。最初のひと月は、毎日六百四十八枚の皿を洗い、ふた月目には前述の皿六百四十八枚を拭くほうの係に昇進。三か月目はじゃが芋皮むき係、四か月目はパン切りバター塗り係に昇進、五か月目は、一階上に昇進して病室メイドとして床拭き、六か月目は食事接待係、七か月目は容姿端麗《ようしたんれい》、態度いんぎんのゆえをもって、修道尼たちの食事接待係に昇進、八か月目は、昇進ムードがいささかの退歩をみせ、ボンド尼がウェストハーヴェン尼の玉子を食べ、一大騒動! 責任はメイドだ。このような重大事における不注意は厳重に処罰さるべしとの理由で、バケツとモップを持って床拭き係に逆戻り、猿も木から落ちるね! 九か月目に病室床掃き係に昇進、このときわたしは、わが少女時代の友トーマス・ベレスフォード少尉に邂逅《かいこう》したのである(トミー、お辞儀して!)。五年ぶりの、情緒てんめんたる邂逅であった。十か月目に患者の一人、即ち上記トーマス・ベレスフォード少尉と映画見物したるかどにて、看護婦長より叱責《しっせき》処分、十一か月目及び十二か月目は、再び食事接待係。大成功。一年の勤務の後ミス・カウリーは栄光につつまれて病院を去る。その後、才能豊かなるミス・カウリーは商品配達用トラックを運転し、貨物自動車を運転し、将軍を運搬した。この三つめの仕事が一番楽だったわ。それに、将軍といってもかなり若かったのよ!」
「どんなやつだい?」とトミーがたずねた。「高級将校ってやつらが、陸軍省からサヴォイ〔ロンドンにある高級レストラン〕、サヴォイから陸軍省と車で往復しているのを見てると、まったく胸がむかむかしたもんだ」
「もう、その将軍の名前忘れちゃったわ。とにかく、あれが、あたしの履歴《りれき》の最高頂だったんじゃないかしら。そのあと、あるお役所につとめたけど、楽しいティー・パーティが何回かあったってことぐらいしかおぼえてないわ。それでもあたしの多彩な職歴をもっと多彩にするため、あたし、百姓もやってみたかったし、郵便配達婦も、バスの車掌もやってみたかったの。でも、終戦で何もかもおじゃん! そのあとも、何か月かそのお役所で人並みのお役人みたいにすがりついてたんだけど、とうとうおっぽり出されちゃったの。それからずっと職さがし、今度はあなたの番よ」
「ぼくのほうはきみみたいに昇進また昇進とはいかなかったな」とトミーは残念そうに言う。
「それに多彩なんてものでもなかった。あれからフランスに出かけたのはきみも知ってるだろ? そのあとメソポタミアに派遣されて、二度目の負傷をして現地の病院にはいった。そして終戦までエジプトにへばりついていて、終戦になっても、長い間、抑留《よくりゅう》されていたけど、やっとのことで十か月前に復員ってわけさ。そしてこの十か月職捜しで、へとへとってところだ。仕事なんかてんでありゃしない。あってもぼくのところにはまわって来やしない。ぼくに何ができる? 商売のことなんか何も知らないからね!」
タッペンスは憂鬱《ゆううつ》そうにうなずいた。
「植民地はどうなの?」
トミーは首を振った。
「植民地はどうにも好きになれないんだ――それに植民地だってぼくを好きになってはくれないだろうという確信がある」
「金持の親類か何かいないの?」
再びトミーは首を振った。
「だってトミー、大伯母さんぐらいはいるでしょう?」
「わりかし金持ってる伯父がいるけど、役にたたないね」
「どうして?」
「一度ぼくを養子に欲しいって言ったんだけど、ぼくのほうでことわったからな」
「そんな話聞いたことあるわ」とタッペンスはゆっくりした口調で言う。「お母さんのためにことわったんでしょ?」
トミーは顔を赤らめた。
「そうなんだ。養子なんかになったらおふくろがつらいだろうと思ったんだ。きみも知ってるとおり、おふくろにはぼくだけしかいないんだ。伯父はおふくろが嫌いだった。だから嫌《いや》がらせにぼくをおふくろからひき離したかったんだ」
「お母さん、もう亡くなられたんでしょ?」とタッペンスはやさしく言う。
トミーはうなずいた。
タッペンスの大きな灰色の目はくもっていた。
「あなたって良い人ね。トミー。前からわかってたわ」
「冗談じゃない!」トミーはあわててうち消す。「とにかく、いま言ったのが現状だ。まさに絶体絶命ってとこだな」
「あたしだってそうよ。歩きまわったわ。捜しまわったわ。求人広告にはみんな返事出して、何でもしてやろうとつとめたわ。けちんぼのかたまりみたいに倹約して。でもだめ! もううちに帰るよりほか仕方ないみたい!」
「帰りたくないのかい?」
「もちろん帰りたくなんかなくってよ。感傷なんかにひたっていても何にもならないわ。そりゃお父さんは良い人よ――あたし、お父さんは大好きよ――でも、あたしがどんなにお父さんの頭痛の種になってるか、あなたには想像もつかないくらいよ! だってお父さんはねえ、短いスカートだの煙草をのむことだのを、たいへんな不道徳なことだと思ってるあのヴィクトリア的思想の持ち主なの。あたしってお父さんの肌につきささってるとげみたいな存在。戦争であたしが出ていった時、きっと安堵《あんど》の溜息を洩らしたにちがいなくってよ。だってうちにはあたしたち姉妹七人もいるんでしょ。そりゃたいへんよ。家事だの母親会だのって! あたしって、妖精が美しい子の代わりにおいていったみにくい子みたいな存在だったの。ええ、絶対に帰りたくないわ。でも――トミー、ほかに何の方法があって?」
トミーは悲しげに首を振った。しばらく沈黙がつづき、やがて、タッペンスが爆発するような口調で言った。
「金、金、金。あたし、朝、昼、晩と金のことばかり考えてるわ。まるでお金の亡者《もうじゃ》みたいだけど、事実だから仕方ない」
「こっちだって同じさ」とトミーが感情こめて相槌《あいづち》を打つ。
「何とかして金を手に入れようと、あらゆる方法を考えたわ」タッペンスは話をつづける。「方法は三つしかないの。遺産としてもらうこと、お金と結婚すること、お金をもうけること。この三つよ。第一のは望みなし。あたしには金持で年とってる親類は誰もいないし、あたしの親類で年とっている人はみんな、落ちぶれたやさしい老女を収容している老人ホームにいるのよ。それからあたしいつも年とった女の人が道を横切ったら助けてあげるし、年とった男の人の荷物を持ってやったりするのよ。ひょっとしたら、この人たち気まぐれな百万長者で、あたしに何か残してくれないかしらと思ったからよ。でも、誰一人としてあたしの名前を聞いた人いないの。第一『ありがとう』とも言わない人がずいぶんいるのよ」
ちょっと間をおいて、
「となると、あたしにとって一番可能性のあるのは結婚。もうずっと若い時から、あたし、金のために結婚するつもりだったの。物を考える女だったらみんなそうだと思うわ。あたし、感傷におぼれるような女じゃないから」彼女はちょっと言葉を切った。「そうでしょ? あたしを感傷的だなんてあなただって考えやしないでしょ?」彼女は鋭い口調でつけ加えた。
「もちろん考えやしないさ」彼はあわててうなずいた。「誰もきみと感傷をむすびつけて考える人はいないよ」
「あら、ちょっと失礼ないい方ね」とタッペンス。「でも、悪気で言ってるんじゃないってことはわかっててよ。とにかくそういうわけで、あたし、金持との結婚をのぞんで機会を狙ってるのに――金持の男には一人もぶっつかったことないのよ! あたしの知ってる男の子は、みんな、あたしとどっこいどっこいぐらいの貧乏人ばかり」
「例の将軍はどうだったんだい?」とトミー。
「平和の時は自転車屋か何かしてるらしいわ」と軽く逃げて、「とにかく、事態はいま言ったとおり。でもあなたなら金持の娘と結婚できるわ」
「ぼくだってきみと同じだ。そんな娘、一人も知らないね」
「知らなくってもいいのよ。知ろうと思えばいつでも知り合いになれるんですもの。ところがあたしの場合、例えばリッツ・ホテルから毛皮を着た男でも出てくるでしょ。そんな時あたし、彼のそばにかけよって、『ねえ、あなた金持ね、あなたと知り合いになりたいわ』なんてこと言えて?」
「ぼくならそれができると言うのかい? 毛皮を着た女に向かって?」
「ばかおっしゃい。彼女の足をふんづけるか、ハンカチを拾ってやるか、とにかくそういうことをやればいいのよ。あなたが彼女と知り合いになりがたっているってことが彼女にわかったら、彼女喜んじゃって、何とかそういう機会をつくるようにすると思うのよ」
「きみはぼくの男性的魅力を買いかぶってるね」とトミーは呟《つぶや》く。
タッペンスはかまわずに話をつづけた。
「それにくらべてあたしの百万長者はどうすると思う? 命がけで逃げ出すわよ。だからだめ。結婚もあたしにとってはそんなになまやさしいものじゃないわ。残るものは――金をもうけることね!」
「それは、ぼくたちすでに試みて失敗したんじゃないかい?」
「正統的なものは一応やったわ。でも、非正統的なものをやったとしたらどうお? ねえトミー、あたしたち冒険家になってみないこと?」
「いいね」とトミーは快活に答える。「どういうふうにはじめるんだい?」
「問題はそれなのよ。なんとかしてあたしたちの名を人に知られるようにしたら、誰かが自分たちのために犯罪をおかしてくれと頼みに来るかも知れなくってよ」
「すばらしいな。牧師の娘の口からそんな言葉が聞けるんだから、なおさらすばらしい」
「道徳的な良心の苛責《かしゃく》は依頼者のもので、あたしとは関係なくてよ。自分のためにダイヤのネックレスを盗むのと、人に雇われて盗むのとではたいへんな|ちがい《ヽヽヽ》だわ。あなただってそれは認めるでしょう?」
「つかまったら、そんな|ちがい《ヽヽヽ》なんて全然ありゃしないさ」
「そりゃそうかも知れないけど、でもあたしはつかまらなくってよ。頭がいいんですもの」
「けんそんってものは、きみにとっては昔から大きな罪悪だったね」とトミー。
「からかわないでちょうだい。とにかくね、トミー、本気でやってみない? 二人の共同でやったらいいわ」
「ダイヤのネックレスを盗むための会社を設立するのかい?」
「ダイヤは、たとえ話に言っただけよ。ね、やりましょうよ、ほら、簿記《ぼき》でなんとか言うでしょう? あれを……」
「簿記なんか全然知らないし、やったこともない」
「あたしやったわ――でも、いつもこんがらがっちゃって。借り方に貸し方の金額書きこんだり、貸し方に借り方を記入したり――だからくびになったのよ。あ、わかったわ。共同企業《ジョイント・ヴェンチャー》って言うのよ。かびくさい数字の中にこの言葉が出てきた時、あたしいつもなんてロマンチックな言葉だろうと思ったわ。なんだかエリザベス時代の匂いがして――地中海の帆船《はんせん》だの、スペインの金貨だのを連想させるわ。ジョイント・ヴェンチャー!」
「冒険青年株式会社の名義で、事業を起こすんだね? それがきみのアイデアなんだね、タッペンス?」
「笑いたいなら笑ってもいいわよ。でもあたし何かがあるんじゃないかって気がするの」
「それで、顧客《こかく》をどうしてつかまえようと言うんだい?」
「新聞広告よ」とタッペンスはためらいもなく答えた。「鉛筆と紙っ片《きれ》ない? 男の人ならたいてい持ってるわね。女がヘアピンと白粉《おしろい》パフ持ってるのと同じね」
トミーは、いささかくたびれた緑色のノートを渡した。タッペンスは、さっそく原稿を書きはじめた。
「どんな書きはじめがいいかしら? 戦傷二回の青年将校……」
「冗談じゃないぜ」
「じゃ、いいわよ、坊や。でもね、こういうふうに書くと、老年の独身女の心にジーンと来て、あなたを養子にするかもしれないわ。そしたら、もう冒険青年なんかにならなくてもすむじゃない?」
「ぼくは養子になんかなりたくないね」
「あら、あなたが養子に偏見を持っていたの忘れてたわ。あたし、ちょっとからかってみただけ。でもね、新聞の三行広告なんてそんなものでいっぱいよ。ねえ、これどうお? 『二人の若い冒険家、仕事を求む、仕事の性質、場所を問わず、報酬は相当額(こういうことはじめっからはっきりことわっといたほうがいいのよ。そのあとこうつけ加えておくわ)。適正の依頼であればけっして拒否しません』――アパートか家具みたいね」
「そういう広告に応じてくる依頼はだいたい、適正でないものばかりじゃないかな?」
「トミー。あなた天才ね! そこを掴《つか》んだほうがずっとカッコいいわ。|不適正《ヽヽヽ》なる依頼でも拒否しません。ただし報酬の額による。これでどう?」
「報酬のことを二度も書くのどうかな? なんだかがめつ過ぎるみたいで……」
「あなたのほんとうの気持はこの文面よりずっとがめついのよ。でも、あなたの言うとおりね、あたし、もう一度、全部読んでみるわ。『二人の若い冒険家、仕事を求む。仕事の性質場所を問わず、報酬は相当額。不適正の依頼でも拒否しません』あなたがこれ読んだとしたら、どう感じる?」
「誰かがいたずらにしたことか、さもなくば、気違いが書いたんだと思うな」
「でも、あたしがけさ読んだ広告なんか、もっともっと気違いじみてたわ。あて名がペテュニアになってて、差出人がベスト・ボーイだったけど」彼女はノートの紙片をひきさいてトミーに渡した。「じゃ、これ頼むわよ。タイムズ紙にね。返事はボックス何番へ、としておいてちょうだい。たぶん五シリングぐらいかかると思うわ。これ、あたしの分、二シル半」
トミーは紙片を持ったまま考え込んだ。顔がまっ赤になって燃えるようだった。
「ほんとにやってみるか?」しばらくして彼は言う。「やってみるか、タッペンス? そうさ、冗談半分だっていいものな?」
「トミー、あなた、やっぱり話せるわ! きっといっしょにやってくれるだろうと思ったのよ。成功を祈って乾杯しましょうよ」彼女は出がらしのお茶を二つのカップに注いだ。
「いや、あたしたちの共同企業《ジョイント・ヴェンチャー》に乾杯。商売|繁盛《はんじょう》しますように」
「冒険青年株式会社!」とトミーは応じた。
二人はカップを下において、ちょっとあいまいな笑い声をあげた。タッペンスが立ち上がった。
「あたし、ホステルの貴賓室《きひんしつ》に帰らなきゃあ」
「ぼくもぶらぶらリッツ・ホテルに帰る時間だ」トミーはにやっと笑った。「じゃ、どこでいつ会おう?」
「明日の十二時、ピカディリーの地下鉄駅。あなたのつごうはよくって?」
「ぼくの時間は、ぼくのものだからね」とミスター・ベレスフォードは威儀を正して答えた。
「じゃ、さよなら」
「さよなら」
二人はそれぞれ反対の方向に歩いていった。タッペンスのホステルは寛大にも南ベルグラヴィアと呼ばれている町にあった。経済的な理由のため、彼女はバスに乗らなかった。
セント・ジェイムズ公園の半分ぐらいまで来た時、誰かが背後から呼びとめた。彼女はぎくりとした。
「失礼ですが、ちょっとお話してもいいでしょうか?」
二 ミスター・ウィッティントンの依頼
タッペンスは、くるりとうしろに向きなおった。口に出そうと用意した言葉が舌のさきで漂《ただよ》った。そこにいた男の容姿、態度は、彼女がはじめ考えていた(そしてごく自然な推察である)ものとはまるっきり違っていたからである。彼女はためらった。その心を読みとったのか、男はすばやくこう言った。
「失礼な意図で呼びとめしたんじゃないんです」
タッペンスはその言葉を信じた。本能的には相手を嫌悪《けんお》し、不信感を抱いたが、はじめ考えていたような特殊な動機が相手にないことは認めることにした。彼女は見上げ見下ろした。大柄な男で、ひげはきちんと剃り、あごからほおにかけて厚ぼったい肉がついている。目は小さくて、ずるそうで、彼女のまともな視線に堪えられないかのように、その目をそらした。
「で、なんのご用?」彼女はたずねた。
男は微笑した。
「さきほど、ライオンズで、あなたと、あなたのお若い友だちの間に交された会話をちょっと小耳にはさんだんですが」
「それがどうしたというんですか?」
「別に……ただひょっとしたら、お役に立てるんじゃないかと思いまして」
別の推論がタッペンスの心の中に浮かんできた。
「ここまであたしをつけてらしたの?」
「身勝手ですが、そうさせてもらいました」
「それで、どういうふうにあたしの役に立つとおっしゃるんですか?」
男はポケットから名刺を取り出して、彼女に手渡し、お辞儀を一つした。
タッペンスはその名刺を念入りに読んだ。名刺には「ミスター・エドワード・ウィッティントン」という名と、その下に「エストニア・ガラス器商会」という名が印刷してあった。シティ区のビルの中にある商会である。ミスター・ウィッティントンはさらに話をつづけた。
「あすの朝十一時に事務所においで願えれば、わたしの依頼について、くわしくお話しいたします」
「十一時にですね」とタッペンスは疑わしげにいう。
「十一時にです」
タッペンスは心を決めた。
「いいわ。おうかがいしてよ」
「どうも。それじゃ失礼」
彼はちょっと大げさな身振りで帽子を取りその場を立ち去った。タッペンスは数分間そこに立って彼のうしろ姿を見つめた。それから妙なふうに肩を動かした。ちょうどテリア種の犬が身ぶるいする格好に似ていた。
「冒険がはじまったわ」彼女は自分自身に向かって呟いた。「いったいあたしに何をしろと言うんでしょう? ウィッティントンさん、あなたにはなんとなくあたしの気に入らない点があるわ。でも、あたし、ちっともあなたをこわいとは思ってなくてよ。前にも言ったと思うし、これからも必ず言うと思うけど、タッペンスは自分の世話ぐらいちゃんとやっていける人間よ。どうもご苦労さま!」
そして、頭を前後に動かしてうなずくと、きびきびと歩き出した。しかし、しばらく考えたあげく、横道に曲がって、郵便局にはいった。電報用紙を手に持って、いろいろと思案した。不必要に五シリング消費するより、九ペンス浪費したほうがいいと思ったからである。
政府支給のガリガリペンと、どろどろインクに軽蔑《けいべつ》の視線を投げ、彼女はあの時からあのままもっていたトムの鉛筆をとり出してすらすらと電文をしたためた。「コウコクダスナ、ワケハアスハナス」宛名はトミーの属しているクラブにした。トミーは、親切な運命の神が会費を払ってくれない限り、このクラブからあと一か月で退会しなければならないのである。
「うまく彼の手にはいればいいけど」と彼女は呟いた。「とにかく、一応ためしてみるだけの値打はあるわ」
カウンターでこの電報を打つと、彼女は、さっさと家に戻っていった。途中パン屋によって焼きたての菓子パンを三ペンス分買った。
ホステルに帰ると、最上階にある小さな部屋で、彼女は菓子パンをかじりながら、あすのことを考えた。エストニア・ガラス器商会とはいったい何だろう? その会社が何を自分にして欲しいんだろう? 何か快《こころよ》い興奮とスリルにタッペンスはむずむずしてきた。いずれにしても田舎の牧師館は再び背景に退却し、明日が可能性に溢《あふ》れてきた。
タッペンスは長い間寝つかれなかった。やっと眠ったと思うと、妙な夢を見た。ミスター・ウィッティントンが彼女にうず高くつまれたエストニア・ガラス器を洗わせた。そのガラス器は、病院の皿にそっくりだった。
エストニア・ガラス器商会のあるビルについたのは十一時五分前であった。時間前に行くといかにももの欲しそうに見えるので、通りの端まで行って戻ってくることにした。行って戻ってくると十一時の鐘が鳴った。彼女はビルに突進した。エストニア・ガラス器商会は最上階にあった。エレベーターはあったが、歩いていくことにした。
わずかに息を切らせながら、彼女は「エストニア・ガラス器商会」と書かれたすりガラスのドアの前に立ち止まった。
タッペンスはノックした。中からはいれという声がしたので、把手《とって》をまわし、小さな汚れた事務所にはいっていった。
中年の事務員が窓ぎわのデスクの前の脚高《あしだか》なストゥールからおりてきて、なんの用ですかと言いたげな顔つきで彼女のそばによってきた。
「ミスター・ウィッティントンに面会の約束があるんですけど」とタッペンスは言った。
「こちらへどうぞ」彼は個人事務室《プライベート》と書かれた仕切りドアのほうに向かい、ノックしてそのドアを開くと、一歩退いて彼女を中に入れた。
ミスター・ウィッティントンは書類をいっぱいひろげた大きなデスクのうしろに坐っていた。タッペンスは、彼女が前に感じたことをも一度確認したように思った。彼にはどこか不可解なところがある。商売繁盛のビジネスマンという感じと、落ち着かない目つきとが、どうもピッタリしなくて不愉快だった。
彼は顔を上げて、うなずいてみせた。
「いやあ、来ましたね。よかった。どうぞすわってください」
タッペンスは彼のまん前にある椅子に腰をおろした。けさは格別ちんまりとまじめくさったようすをしていた。ミスター・ウィッティントンが書類をひっぱり出したり整頓したりしている間、目を伏せておとなしく坐っていた。やがて彼は書類をかたわらに押しやり、デスクの上にもたれかかった。
「さて、さっそくビジネスにとりかかるとしますかね」彼の広い顔が微笑でさらに広くなった。
「仕事が欲しいんでしたね? その仕事を提供しましょう。報酬百ポンド、費用いっさいこちら持ち、ってのはどうです?」ミスター・ウィッティントンは椅子によりかかって両手のおや指をチョッキの腕通しにつっ込んだ。
タッペンスは彼を用心深く眺《なが》めた。
「それで仕事の性質は?」と彼女はたずねる。
「仕事とは名ばかりの仕事です。気持のいい小旅行、それだけですよ」
「どこへ?」
ミスター・ウィッティントンは再び笑顔をつくった。
「パリです」
「あ、そう」とタッペンスは返事しながら考えた。「もちろん、お父さんがこんな話聞いたらきっと発作《ほっさ》起こしてよ。でも、このミスター・ウィッティントンはどう考えても陽気な浮気者ってタイプじゃないけど」
「そうですよ」とウィッティントンはつづける。「こんな楽な仕事はありませんよ。時計を二、三年まき戻して――ほんのわずか戻せばいいと思いますが――パリご自慢の寄宿女学校に再入学するんです……」
タッペンスは口をはさんだ。
「寄宿女学校ですって?」
「そうです。ヌイイ街のマダム・コロムビエ学園です」
タッペンスはこの学校の名をよく知っていた。彼女のアメリカ人の友だちが数人この学校に行っていたことがある。彼女は狐につままれたような気がした。
「マダム・コロムビエ学園に行けというんですか? どのぐらいの期間」
「それは事と成行きしだいですがね。まあ三か月ぐらい」
「それで、それだけ? ほかに条件はないんですか?」
「全然ありません。もちろん、わたしの被保護者という名目になりますがね。友だちとは絶対に連絡しないこと。一時的に絶対秘密を守ること。そりゃそうとあなたはイギリス人でしょうね?」
「ええ」
「少しアメリカのアクセントがあるようですが」
「病院で働いていた時の親友がアメリカ人だったもんですから。きっとその人からうつったんだと思いますわ。でも、すぐなおりますわ」
「いやいや、なおさないほうがいいです。アメリカ人としてとおしたほうが簡単でしょう。イギリスでのあなたの過去の生活のこまかい点をおさえつけるとなると、なかなか困難ですからね。そう、アメリカ人としてとおすほうが確かにいいです。それじゃ……」
「ちょっと待ってください、ミスター・ウィッティントン。あなたはもうあたしが承知したものと思ってらっしゃるようですが……」
「まさか拒絶するつもりじゃ……? マダム・コロムビエ学園と言えば一流のしかも伝統ある学校だし、わたしの提供した報酬だってかなりの高額だし……」
「そこなんです」とタッペンス。「問題はそれなんです。報酬は高額すぎるくらいと言ってもいいでしょう。だから、あたしにそれだけの金を払う値打がどこにあるか、理解できないんです」
「できないですか?」ウィッティントンはおだやかな声で言う。「じゃ、お話ししましょう。報酬はずっと少なくてもいくらでも希望者はいます。しかしわたしがこれだけの金を払おうというのは、その娘さんに充分な知性があって、自分の役割をうまくこなせる素質があること、それと、好奇心を出していろんなことをたずねないという口の固さ、これなんです」
タッペンスは微笑した。ウィッティントンの勝ちだと認めた。
「それからも一つ。いままでのところ、ミスター・ベレスフォードのことは全然話に出ませんでしたけど、彼はどうすればいいんですか?」
「ミスター・ベレスフォード?」
「あたしのパートナーです」とタッペンスは昂然《こうぜん》とした態度で言う。「きのうあたしがいっしょにいた人」
「ああ、そうでしたね。いや、残念ながら彼に提供する仕事はありませんね」
「じゃ、話は打ち切らせていただきます」タッペンスは立ち上がった。「二人いっしょでなければ仕事をしないことになってるんです。ごめんなさい――でも、そういうわけですから。じゃ失礼いたします」
「ちょっと待ってください。なんとか考えてみましょう。だからも一度坐ってください。ミス……」彼は相手の名がわからなかったのでちょっと口ごもった。
タッペンスは自分が牧師の娘であることをふと思い出して、良心がちくりとした。それで一番最初に頭に浮かんだ名前をろくに考えもしないで口に出した。
「ジェーン・フィンです」彼女は口早に言った。そしてこのたった二つの言葉がまきおこした効果に唖然《あぜん》として目を見はった。
ウィッティントンの顔からあらゆるいんぎんさが姿を消して、憤怒《ふんぬ》に紫色に変じた。ひたいに青筋が立った。そして、それらすべての背後から、言わば不信の狼狽《ろうばい》とも言うべき表情が姿をのぞかせた。彼は身を乗り出して、荒々しく毒づいた。
「そう、それがきみの魂胆《こんたん》だったのか?」
タッペンスはまったくどぎもをぬかれてしまったが、それでも、うろたえはしなかった。彼の言う意味はこれっぽちもわからなかったが、生まれつき頭の回転の早い娘だったので、彼女の言葉を借りて言えば「なんとか尻尾《しっぽ》を出さないようにしなければ」と思った。
ウィッティントンは話をつづけた。
「きみは、このおれをからかっていたんだな。猫がねずみをあしらうみたいに。おれがきみを何に利用しようとしていたのか、充分承知していながら、茶番劇をつづけていたんだな? そうだろ?」彼は少し冷静になってきた。顔の赤らみが徐々にうすらぎ、視線をじっと彼女にそそいだ。「誰が秘密を洩らしたんだ? リタか?」
タッペンスは首を振った。彼の思いちがいをどのくらいつづけさせることができるか疑問だったが、未知のリタはひっぱり込まないほうがはるかに得策であることをさとった。
「違うわ」彼女はうそいつわりのないところを言った。「リタはあたしのこと何も知らなくってよ」
彼の視線はなおも錐《きり》のように彼女の目に食い込んだ。
「きみはどのくらい知ってるんだ?」彼ははげしく質問の矢を放つ。
「ほんの少しよ」とタッペンス。そして、ウィッティントンの不安さがかえって大いに強まったのをみとめて、内心喜んだ。大いに知っているとはったりをきかしたら、かえって彼の心に疑惑の念をうえつけたに違いない。
「とにかくきみは、ここに来てその名前を口に出すだけのことは知っていたんだ」とウィッティントンはどなった。
「だってほんとにあたし自身の名前かもしれないじゃないの?」とタッペンスは言う。
「そんな名前を持ってる娘が二人もいるなんて、考えられるか?」
「あるいは偶然にそんな名前が口に出たってことだってあるでしょ?」タッペンスはつづけた。真実を語ってそれが成功したのにうっとりしてしまっていた。
ミスター・ウィッティントンは握りこぶしでデスクをどおんと叩きつけた。
「からかうのはいいかげんによせ。きみはどれだけ知ってるんだ? いくら欲しいんだ?」
|いくら欲しいんだ《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》? この言葉はタッペンスの気持を大いにそそった。特に菓子パンの晩飯とささやかな朝食のあとではなおさらである。彼女が現在演じている役割は、冒険的な階級の人間というよりはむしろ冒険女性という役割だった。しかし彼女はその可能性を否定しはしなかった。彼女は事態を完全に手中におさめた人間にふさわしい態度で姿勢を正し、微笑した。
「ミスター・ウィッティントン。それじゃ持ち札を全部テーブルの上に出してみましょうよ。お願いですから、そんなにかっかしないでください。あたしが自分の頭の回転だけで生きていくつもりだってことはあなたもお聞きになったでしょう? それだけの頭をあたしが持っていることをいま証明したみたいじゃありません? あたしがある名前を知っていることは認めます。しかし、あたしの知識はそこで終わってるかもしれませんことよ」
「そうでないかもしれないじゃないか?」とウィッティントンはどなった。
「あなたはどこまでもあたしに関する判断をまちがえていらっしゃるのよ」タッペンスはこう言ってやさしく溜息をついた。
「も一度言うけど、いいかげんに人をからかうのはよせ」とウィッティントンは腹立たしげに言う。「要点をはっきりさせたらどうだ? 何も知らないふりしたってこのおれはだませないぞ。きみは、口の先でとやかく言ってる以上のことを知ってるんだ」
タッペンスはしばらく口をつぐんで、自分の巧みなかけひきに感心した。それから小声で静かにこう言った。
「あなたに反対するつもりはありませんわ、ミスター・ウィッティントン」
「そうすると、次の問題は、当然の成行きとして、いくら欲しい? ということになる」
タッペンスはここでジレンマにおちいった。いままでのところは、うまくウィッティントンをだましおおせた。しかし、ここであきらかにむちゃと思われるような金額を持ち出せば、彼はきっと疑念を持ちはじめるだろう。
ふとある考えが、彼女の頭にひらめいた。
「少しばかり手付金を払っていただいて、くわしいことは、あとで話し合うことにしたら?」
ウィッティントンはいやな目つきをして、
「脅迫かね?」
タッペンスはやさしく微笑《わら》った。
「とんでもない。言わば仕事に対する報酬の前払いってふうにお考えになったらいかが?」
ウィッティントンはうなり声を上げた。
「だってねえ」とタッペンス。「あたし、お金ってあまり好きじゃないんですのよ」
「きみってどこまで図々しくできてるんだろう!」ウィッティントンはいや応なしに相手の機知に舌をまいたらしく、大声でどなった。
「きみはおれをうまうまとひっかけた。おれの目的にちょうどいいくらいの頭脳をもったおとなしい小娘だとばかり思ってた」
「この人生は期待はずれのことばかりですわ」とタッペンス。
「いずれにしても誰かが余計なおしゃべりをしたことはたしかだ。リタじゃないって言ってたが、そうすると……。ああ、はいってもいいよ」
例の事務員が遠慮がちなノックをしたあと部屋にはいって来て、ウィッティントンのひじのそばに紙片を一枚おいた。
「電話の伝言です。いまかかって来ました」
ウィッティントンはその紙片をさっと取り上げて、読んだ。ひたいにしわがよった。
「いいよ、ブラウン。きみは向こうに行ってろ」
事務員は、うしろ手にドアをしめながら、出て行った。ウィッティントンは再びタッペンスのほうに向きなおった。
「あすの同じ時刻に来てくれ。仕事が忙しくなったんだ。五十ポンド持って行くといい」
彼は急いで何枚かの紙幣をぬき出し、テーブルの上をタッペンスのほうに押しやると、早く帰れと言わんばかりに立ち上がった。
彼女は、事務的に紙幣を数えて、ハンドバッグにしっかりとしまいこんだ。
「じゃ、さよなら、ミスター・ウィッティントン」彼女はていねいに言った。「またお目にかかります、と言ったほうがいいかしら」
「そのとおり。またお目にかかりましょう」ウィッティントンは再び前のいんぎんさを取りかえしたように思われた。この態度の変化はタッペンスにかすかな不安を与えた。「またお会いしましょう、頭のよい魅力的なお嬢さん!」
タッペンスは足さばきも軽やかに階段をかけおりて行った。天を突かんばかりの意気軒昂《いきけんこう》さだった。近くの時計の針は十二時五分前を指していた。
「トミーをびっくりさせてやるわ!」タッペンスはこうつぶやいてタクシーを呼んだ。
彼女のタクシーは地下鉄駅の外にとまった。トミーは駅の入口をちょっとはいった所に待っていた。彼は車に走りよってタッペンスに手をかしながら目を皿のように大きくしていた。彼女は愛情こめて彼に微笑みかけ、いささか気どった口調で、「ねえ、車代あなたが払っておいてちょうだい。あたし五ポンド札より小さいの全然ないのよ!」
三 つまずき
その瞬間《ヽヽ》は、予期したほど華々しいものではなかった。まず、トミーの財政状態がかなり逼迫《ひっぱく》していたことがその第一原因。やっと料金をかき集めて運転手に渡した。彼女はふと自分の庶民的なあだ名を思い出した。運転手は様々な銅貨やニッケル貨をてのひらにのせてつっ立っている。そして、旦那いったいいくらくれたんですか、と乱暴な口調で文句を言った。
「トミー、この人、余分にもらい過ぎたと思ってらっしゃるのよ」タッペンスが無邪気な顔をして言う。「きっといくらか返してくださるんじゃないかしら?」
たぶんこの言葉のせいだろう。運転手は不服げにその場を立ち去った。
「呆《あき》れたな!」ミスター・ベレスフォードはやっと自分の感情を爆発させることができた。「いったい、なんのためにタクシーなどに乗って来たんだ?」
「おそくなったもんで、あなたを待たせちゃ悪いと思ったからよ」タッペンスはやさしく答える。
「おそくなってぼくに悪い? あ、あきれて、ものが言えない!」
「それにねえ」タッペンスは目を大きくみひらいて話をつづけた。「あたし、ほんとに五ポンド札より小さいのなかったんですもの」
「その芝居はみごとに演じてのけたが、あの運転手、全然信じちゃいなかったぜ」
「そうね」とタッペンスは考えこんだ。「そうね、あの人信じなかったわねえ。真実を語ると妙なことになるものね。あたし、けさ、それに気がついたのよ。そりゃそうと食事に行きましょうよ。サヴォイ・ホテルどう?」
トミーはにたりと笑って、
「リッツはどうだ?」
「よく考えると、ピカディリーのほうがいいわ。近いし、も一度タクシーに乗らなくてすむわ。さあ、行きましょうよ」
「それ、新案のユーモアかい? それともきみの頭がほんとうにいかれてるのかい?」
「あとの推理のほうが正しくってよ。あたし、お金が手にはいったの。それでひどいショックを受けたわけ! こういう精神異常をなおす方法は、著名な精神医の説によると、無制限のオードゥブル、アメリカ風|海老《えび》、ニューベルグ・チッキン、ピーチ・メルバが一番いいんですって。早く行って食べましょうよ」
「タッペンス、ほんとうにどうなってんだい?」
「まだ信じないのね!」タッペンスはバッグをあけた。「ほら、見てごらんなさい。これと、それから、これも」
「おい、よせよ、ポンド札をそんなに乱暴にふりまわすのは」
「ポンド札じゃなくてよ。その五倍もあるのよ。これなんか十倍もあるわ」
トミーはうなり声を上げた。
「おれ、自分で知らないうちに酒飲んで酔払ったんじゃないかな? それとも夢かな? それとも、五ポンド札を何枚もふりまわしているのを、ほんとうにこの目で見てるのかい?」
「いいから、さ、いらっしゃい。昼ごはんを食べにいきましょうよ」
「ああ、行くよ。どこへでも行くよ。しかし、それにしても、どうしたんだ? 銀行強盗でもやったのか」
「いずれゆっくり話すわ。でも、ピカディリー・サーカスってひどい所ね。大きなバスがのしかかってくるわ。五ポンド札がバスに轢《ひ》かれて死んでしまったらどうしましょう?」
「グリル・ルームにはいる?」安全に反対側の歩道まで渡った時、トミーがたずねた。
「もっと値段の高いほうはどう?」とタッペンスはからかった。
「そういうのは、気まぐれで悪質な浪費にすぎない。地下室のグリルに行こう」
「さっきあたしが食べたいと言ったでしょ? あれ全部ここで食べられる?」
「きみの言った献立《こんだて》は、どう考えても、およそ健康に悪い献立だ。もちろん食べられるさ――まあ、少なくともきみが喜ぶようなものは食べられるだろう」
やがて二人はタッペンスの夢のオードゥブルにとり囲まれた。トミーは好奇心をもうこれ以上おさえることができなくなって、「さあ、もういいかげんに話してくれてもいいだろう」とうながした。
ミス・カウリーはいっさいを話した。
「それでね、この話で一番おかしなのは、ジェーン・フィンって名前、この名前がほんとにあたしの思いつきの名前だったってことなの。お父さんのこと考えたもんだから、自分の本名を言いたくなかったのよ。――ひょっとしてうしろ暗い事件にまきこまれたらたいへんでしょう!」
「そりゃそうだけど」とトミーがゆっくりした口調で言う。「しかし、その名はきみが思いついたもんじゃないよ」
「なんですって?」
「ああ、ぼくがきみに教えた名だよ。おぼえてないかい? きのう、二人の男がジェーン・フィンて名の女の話をしていたのを小耳にはさんだ、と話して聞かせたろ? だからその名前がきみの頭に浮かんだんだ」
「そうね、たしかにあなたからその話聞いたわ。思い出したわ。でも不思議なことね……」タッペンスは話の途中でだまりこんだ。そのうち突然身を起こして、「トミー!」
「なんだい?」
「その人たちどんな人たちだった? あなたがすれちがったという二人の男?」
トミーはひたいにしわをよせて、思い出そうとつとめた。
「一人は大きなでっぷりした男。きれいにひげをそってるようだったが……色黒で」
「たしかに|あれ人《ヽヽヽ》よ」タッペンスは文法的におかしな言葉を使った。「その人がウィッティントンよ。も一人はどんな人?」
「思い出せないな。べつに注意してなかったからね。ぼくが気をとられたのは、あの妙ちきりんな名前だったんだから」
「偶然の一致なんてありっこないって話してた人がいたけど、これが偶然の一致でなくてなに?」タッペンスはしあわせそうにピーチ・メルバをむさぼった。
しかし、トミーはさきほどから大分真剣になっていた。
「ねえ、タッペンス。これは今後どういうことになるんだろうね?」
「もっとお金がはいってくるってことよ」とタッペンスは答える。
「それはわかってる。きみは一つっことしきゃ頭にないんだからな。ぼくの言うのは、次にどういう手段をとるべきかってことさ。このゲームをどういうふうにつづけるかってこと」
「あら!」タッペンスはスプーンを下において、「そうねえ、トミー。あなたの言うとおりよ。ちょっと難問題ね」
「いくらなんだって永久にはったりを利《き》かせるわけにゃいかないだろう? おそかれ早かれ、きみだってしっぽを出すにちがいない。それにこれが犯罪でないとは言い切れないからね――つまり、脅迫罪を構成するんじゃないかい?」
「冗談じゃないわ。脅迫ってのは、金をくれなきゃ何かを話すっておどすことでしょ? あたし何も話すことなんかなくってよ。だって何も知らないんですもの」
「ふうむ」トミーはまだ疑わしげである。「まあ、とにかく、ぼくたちどうしたらいいんだ? ウィッティントンだって、けさはあわててきみを追い出しただろうが、今度あった時には金を払う前にいろんなことを知りたがるだろうと思うよ。きみがどのくらい知ってるか、どこでその情報を手に入れたか、それからほかにいろんなことをたずねるに違いない。きみはきっとさばききれなくなるよ。いったいどうするつもりだい?」
タッペンスはしかつめらしく眉根《まゆね》にしわをよせた。
「考えなきゃだめね。トルコ風コーヒーを注文してちょうだい。脳の刺戟になるわ。あたし、ずいぶん食べちゃったのね」
「そうさ。豚なみだね。そう言えば、ぼくだって同じだが、ただ料理の選び方は、ぼくのほうがきみより分別をわきまえてたと思うな。コーヒー二つ(これはウェイターに向かって)トルコ風一つとフランス風一つ」
タッペンスはコーヒーをすすりながら、深く考えこんだ。トミーが話しかけると、ぴしりときめつけた。
「黙っててちょうだい。いま考えてるのよ」
「ペルマン式記憶法に没頭中か!」とトミーはこう言って、黙りこんだ。
やがて、タッペンスが口をひらいた。
「いい計画を思いついたわ! あたしたちの第一の仕事はね、事情をもっと調べてみることよ。これ以外にはないわ」
トミーが拍手喝采した。
「茶化さないでちょうだい。事情を調べる方法はウィッティントンを通じてやるほかないでしょう? だから、ウィッティントンがどこに住んでいるか、何をしているか捜し出すのよ――言わば、ウィッティントンの身辺調査ね。これ、あたしにはできなくってよ。彼はあたしを知ってるから。でもあなたは、ライオンズで一分か二分見たぐらいでしょ? 彼、あなたの顔なんておぼえていないわ。どうせ、若い男なんて似たりよったりでしょ?」
「その言葉には大いに異議があるね。ぼくなんか、顔立ちだって感じがいいし、容姿も抜群《ばつぐん》だから、大勢の人の中にいてもパッと目立っちゃうはずだ」
「あたしの計画ってのはこうなの」とタッペンスはかまわずに話をつづけた。「あすあたし、一人で行ってみるわ。きょうと同じように、あの人をいいかげんにあしらっておいて……あす、すぐに金が手にはいらなくってもかまわないもの。五十ポンドあるんだから、二、三日ぐらいはもつわ」
「それ以上もつかもしれないね」
「あなたは外でぶらぶらしているのよ。あたし、あの人が見張ってるかもしれないから、あなたに会っても話しかけないわ。そしてやはり近くで待ちぶせして、あの人がビルを出て来たら、ハンカチか何か落として合図するからあなたはそれを見てすぐ出かけるわけ」
「どこへ出かけるんだ?」
「あの人を尾行するのよ。頭が悪いのね。どうお? この考え?」
「探偵小説なんかによく出てくる手だね。しかし、実際においては、道ばたで何もしないで何時間もぽかんと立ってるのはあほらしいな。通行人だって、何を企んでるんだろうと思うぜ」
「シティじゃ誰もそんなこと考えないわ。みんな忙しいんですもの。あなたに気がつくような人間は一人もいないかもしれないわ」
「ぼくのことをそんなふうに片づけたのはこれで二度目だね。まあいいさ、勘弁してやる。とにかく、面白そうだからやってみよう。きょうの午後は何をするつもり?」
「そうねえ」とタッペンスは考えた。「あたし、帽子買おうかと思ってたの。さもなくば、絹の靴下か……それとも……」
「ストップ」とトミーが危険信号を出した。「五十ポンドにだって限りはあるんだぜ。ただし、晩飯いっしょに食べて、ショーでも見に行くんだったら悪かないね」
「いいわねえ」
楽しい午後だった。夜はもっと楽しかった。五ポンド札二枚が完全にあの世へ行ってしまった。
翌朝、約束どおりに落ち合ってシティのほうに向かった。タッペンスはビルの中にはいり、トミーはビルの前、反対側の歩道に残った。
トミーはゆっくりと通りの一端まで歩き、再びもとの位置に戻って来た。ビルの前まで来た時、タッペンスがまっしぐらに通りを横切ってとんで来た。
「トミー!」
「どうしたんだ?」
「事務所が閉まってんのよ。叩いてもどなっても誰も出て来ないの」
「おかしいね」
「でしょう? いっしょに来てちょうだいよ」
トミーは彼女のあとに従った。三階までのぼった時、一人の若い男が事務所の一つから出て来た。ちょっとためらった後、タッペンスに話しかけた。
「エストニア・ガラス器に用事があるんですか?」
「ええ、そうなんですけど」
「閉めちゃったらしいですよ。きのうの午後から。会社は解散したとかいう噂《うわさ》で。直接聞いたわけじゃないから、よくわからないけど。しかし、この事務所は、もう貸室になってますよ」
「どうも、あ、ありがとうございます」とタッペンスは口ごもった。「ミスター・ウィッティントンの住所はご存じないでしょうね?」
「いや、知りません。急に行っちまったもんですからね」
「どうも、いろいろありがとう」とトミー。「さあ、タッペンス、行こうよ」
二人は再び階段をおりて、通りに出、おたがいの顔をぽかんと眺めた。
「これでおしまいだね」
「こんなふうになるとは思いもよらなかったわ」とタッペンスが口惜しがった。
「元気出せよ。どうしようもないよ」
「ほんとにどうしようもないかしら?」タッペンスは可愛らしいあごを昂然《こうぜん》とつき出した。「これでおしまいだと思う? そう思うんだったらまちがいよ。これがはじまりなのよ」
「何のはじまり?」
「あたしたちの冒険のはじまり。トミー、わからない? あの人たち、逃げ出さなきゃならないほど何かを恐れてるんだったら、このジェーン・フィンの事件、よっぽど重大なものにちがいないわ。あたしたち、真相をとことんまでつきとめるのよ。あの人たちを窮地に追いこんで。どこまでもあの人たちのこと調べ上げるのよ」
「それにしても調べ上げる人間が一人もいなくなってしまったじゃないか?」
「そうよ。だからはじめっからやりなおしよ。鉛筆貸してちょうだい。ありがとう。ちょっと待って――邪魔しないでよ。ほら、できたわ!」タッペンスは鉛筆を返し、紙片に書きつけた自分の文章を満足げに眺めた。
「なんだい?」
「新聞広告よ」
「まさか例のやつ、も一度出すつもりじゃないんだろうね?」
「そうじゃないの。これは別の」彼女は紙きれを彼に渡した。
トミーはそれを声を出して読んだ。
「ジェーン・フィンに関する情報ご存じの方、ぜひ連絡頼む。Y・A」〔冒険青年株式会社 Young Adventurers Ltd.の頭文字〕
四 ジェーン・フィンとは誰か?
次の日一日は、のろのろと過ぎ去った。経費節減が必要となってきた。つつましくすれば、四十ポンドは相当長くもつはずである。幸いに天気がよかったし、「歩くほど安いものはない」とタッペンスは宣言した。夜のリクリエイションは三流映画館を利用した。
水曜日は失望の一日だった。木曜日に広告が新聞紙上に掲載された。返事があれば、金曜日にトミーの部屋に着くはずだった。
たとえ返事が来ても、絶対に一人であけてはいけないという約束だった。十時に国立美術館に持っていって、そこで待っているパートナーといっしょに開封することになっていた。
タッペンスのほうが先に来て待っていた。やがて、見おぼえのある人影が部屋にはいってきた。
「で、どうだった?」とタッペンス。
「で、どの絵がきみの一番お気に入りだい?」とミスター・ベレスフォードがつっかかるような声で問い返す。
「じらさないでよ。返事あったの?」
トミーが、いかにも憂鬱そうに首を振った。不自然なくらい憂鬱そうだった。
「いきなりほんとうのことをいってきみを失望させるのも酷《こく》だと思ったんだ。しかし残念だったな。貴重な金をむだ使いして」彼は溜息ついた。「とにかく、正直なところ、広告が新聞に出て、その結果――返事はたったの二通だ!」
「トミー、ひどい人!」タッペンスは歓声にも似た叫び声を上げた。「その手紙、あたしにちょうだい。あなたってどうしてそんな意地悪するの? まるで悪魔同然……」
「タッペンス。言葉をつつしめよ。国立美術館ってうるさいんだぞ。政府主催の展覧会場なんだからね。第一、この前も言ったように、きみは、牧師の娘なんだ。牧師の娘として……」
「あたしは舞台女優になるべきだったんだわ!」とタッペンスがぴしゃりと言葉をはさんだ。
「ぼくの言いたかったのはそうじゃない。とにかく、もしきみが充分に喜びを堪能《たんのう》したんだったら、つまり、ぼくが無料できみに提供した失望のあとの喜びというものを百パーセントに楽しんだなら、誰かのせりふじゃないけど、次は手紙開封の仕事にとりかかるとしよう」
タッペンスは彼の手から二通の貴重な封書を乱暴な手つきでひったくり、ためつすがめつ眺めた。
「こっちは紙質も厚いし、金持の匂いがしてよ。だからこれはあとまわしにして、も一つのほうから先に」
「わかった、さあ、一、二、の三、開け!」
タッペンスは小さなおや指で封筒をさき、中の手紙をひっぱり出した。
[#ここから1字下げ]
拝啓
今朝の新聞の広告を拝見しました。何かお役に立つことができるのではないかと思います。明朝十一時に上記の住所までお越し願えませんでしょうか?
[#地付き]敬具
[#地付き]A・カーター
[#ここで字下げ終わり]
「カーシャルトン・ガーデンズの二十七番地だわ。というと、グロスター・ロードの近くよ。地下鉄で行けば時間は充分よ」
「作戦計画は次のとおり」とトミーが言う。「今度はぼくが攻撃する番。ミスター・カーターのいる所に案内されて、ぼくとミスター・カーターは型の如く朝のあいさつを交す。それから彼が言う。『どうぞおかけになってください、ミスター……』と口ごもるところをぼくはすかさず意味深長に、『エドワード・ウィッティントンです』と答える。これを聞いてミスター・カーターは顔を紫色にして、『いくら欲しいんです』とあえぐように言う。ぼくはいつもの料金五十ポンドをポケットに入れ、表の通りできみに会い、次の住所に向かって同じ演技をくり返す」
「ばか言わないでよ、トミー。も一通の手紙開けるわ。あらこれホテル・リッツからだわ」
「五十ポンドでなくて百ポンドだな」
「あたし読むわよ。
[#ここから1字下げ]
拝啓
新聞広告についてお話ししたいことがありますので、昼食時ごろ来てくださいませんか?
[#地付き]草々
[#地付き]ジュリアス・P・ハーシャイマー」
[#ここで字下げ終わり]
「ほう!」とトミー、「ドイツ人の匂いがするね? それとも不幸にもドイツ人の先祖を持ったただのアメリカ人の百万長者かな? いずれにしても、ぜひ昼食ごろに行ってみよう。約束の時間としちゃいい時間だ。二人分の食事を無料で頂《いただ》ける可能性が大きいからね」
タッペンスはうなずいた。
「それじゃまず、カーターのほうを片づけちゃいましょう。急がなきゃだめよ」
カーシャルトン・ガーデンズという通りは、タッペンスの言葉を借りて言えば「貴婦人の姿を思わせる家々」が非の打ちどころもないほど整然と一列に並んだ街筋だった。二十七番地のベルを押すと、小ぎれいな女中が玄関に出て来た。女中のようすがあまりにまともだったので、タッペンスはがっかりした。トミーがカーターさんに会いたいのだと言うと女中は二人を一階の小さな書斎に案内した。女中が姿を消して一分とたたないうちにドアがあいて、背の高い、やせて鷹《たか》のような顔をした男がはいってきた。態度はなんとなくものうげだった。
「ミスター・Y・Aですか」と言って、笑顔を見せた。その笑顔は、どう見ても、魅力的だった。
「どうぞおかけになってください」
二人は言われたとおりに腰をおろした。彼自身もタッペンスの正面にあった椅子に坐って、よくいらっしゃいましたねと言わんばかりの微笑を投げかけた。その微笑には、女の子の用心深さを一ぺんにふき消してしまうような一種の力があった。
自分のほうから話をはじめようという気配が彼には全然見られないので、タッペンスはやむをえず、話の口火を切った。
「あたしたちの知りたいのは……つまり、およろしかったら、ジェーン・フィンのことについてご存じのこと、話していただけませんでしょうか?」
「ジェーン・フィン? ああ」ミスター・カーターは何か考えているようすだった。「そうですね、問題は、あなた方が彼女について何をご存じかということです」
タッペンスははっと息をのんで身がまえた。
「それとこれとどういう関係があるかわからないんですが」
「わかりませんか? 関係ありますよ。大いに関係ありますよ」彼は再びけだるそうに微笑した。彼はさらに考え深そうにつづける。「ですからも一度さっきの問題に戻りますが、あなたたちはジェーン・フィンについて何を知ってるんですか?」
タッペンスはそのまま黙っていた。彼は再び彼女を促した。「どうです? ああいう広告を出したからには何か知ってらっしゃるにちがいない」彼はやや身体をのり出して、その声にはどうにかして彼女を説得しようという気持がにじみ出ていた。「まあ、あなたのほうでお話になれば……」
ミスター・カーターの個性にはひじょうに人をひきつける何かがあった。タッペンスはなんとかその磁力を払いのけようとつとめながら、トミーに向かって、
「あたしたち、話せないわねえ、トミー、どうお?」
しかし、意外にもトミーは彼女の尻押しをしようとしなかった。彼は視線をじっとミスター・カーターの顔に注ぎ、口を開いた時には、その声に、いつもにない尊敬とも服従ともつかない調子がふくまれていた。
「ぼくたちの知ってることはほんのわずかで、あなたには全然お役に立たないだろうと思いますが、もしお知りになりたいんでしたら、喜んでお話しします」
「トミー!」タッペンスはおどろきの叫び声を上げた。
ミスター・カーターは椅子に坐ったまま身体をねじまげ、不審そうな目つきをした。
トミーはうなずいた。
「ええ、そうなんです。あなたを見た瞬間すぐに気がつきました。ぼくは、諜報部にいた時、一度フランスであなたにお会いしたことがあります。この部屋にはいって来られた時すぐに、ぼくは、あなたが……」
ミスター・カーターは手をあげて、
「名前は言わないでください。こちらでは、カーターという名で通用しています。この家もわたしの従姉の家です。わたしが、非公式な仕事をする時には喜んでこの家を貸してくれるんです。それじゃ」――彼は二人を順々にながめて――「お二人のどちらが話してくれるんですか?」
「話しちゃえよ、タッペンス」とトミーが促した。「もともときみの話なんだから」
「じゃ、お嬢さん。お願いします」
そこでタッペンスは、言われるままに冒険青年会社設立のことからずっと委細《いさい》を話してきかせた。
ミスター・カーターは例のものうい態度をとり戻して黙って聞いていた。ときおり、手を口のあたりに持っていった。思わず浮かんだ微笑をかくしているかのような仕草である。話が終わると彼は重々しくうなずいてみせた。
「情報としては些細《ささい》なものだが、なかなか示唆《しさ》的です。こんなこと言って失礼かもしれないがあなたがたはまったく変わった人たちですね。断言はできないが、あなたがたは、他の連中が失敗した分野で、あるいは、成功するかもしれませんね――わたしは運というものを信じているんです。いままでずっと……」
彼は、ほんのちょっと口をつぐみ、それからさらに話をつづけた。
「こういうのはどうでしょう? あなたがたは冒険を求めて事をはじめられた。それならいっそわたしのために働いたらどうです? もちろん公的な雇用関係じゃありませんがね。経費はこちらもちで、多少の給料も差し上げる」
タッペンスは彼を凝視《ぎょうし》した。口をわずかにあけ、目はだんだん大きく見ひらかれていった。
「それで何をしたらいいんですか?」彼女は溜息まじりで言った。
ミスター・カーターは微笑した。
「いまやってることをつづけていけばいいんです。ジェーン・フィンを見つけることです」
「ええ、でもジェーン・フィンって誰ですか?」
ミスター・カーターは重々しくうなずいた。
「そうですね。あなたがたにはそれを知る権利がありますね」
彼は椅子に背をもたせかけ、脚を組み、指さきを合わせ、低い単調な声で話をはじめた。
「秘密外交ってものは元来が、たいていの場合あまり賞めた政策じゃありませんが、これはあなたがたとは関係ないから、ここではくどくど話すのはよしましょう。ただ、一九一五年のはじめごろ、ある書類ができ上がったのです。これはある秘密協定――条約といってもいいでしょうが――の草案なのです。アメリカで起草されて、各国の代表者たちが署名するばかりになっていました。当時アメリカはまだ中立国でした。ある使者によってイギリスに送られましたが、この使者に選ばれたのはデンバーズという名の若い男でした。すべてが絶対秘密のうちに運ばれ、関係者以外には何一つ洩れていないと思われていたんですが、こういうことはえてして守られないもので、いつでも誰かが口外してしまうんですね。
デンバーズはルシタニア号でイギリスに向かいました。彼は書類を防水布に包んで肌身はなさず持っていましたが、たまたま彼が乗り組んだ航海で、ルシタニア号は魚雷にやられて沈没したんです。デンバーズは行方不明者の一人になりましたが、その後、彼の死体は海岸に流れつき、それが彼の死体であることは充分以上に確認されました。しかし、防水布の包みはどうしても見つからなかったのです。
問題は彼がそれを所持していてなくなったのか、彼自身がそれを他の人間に渡したのかということです。いろいろな情報を綜合して、後者の可能性が非常に強くなりました。船が魚雷を受けたあと、救命ボートがおろされるまでのわずかな時間に、デンバーズがアメリカ人の若い娘と話しているところを、見たという人が何人かいるのです。彼が実際に何かを彼女に手渡しているところは誰も見なかったそうですが、渡したという可能性はあるわけです。わたしの考えとしては、この娘は女だし、無事に陸まで持っていくチャンスも大きいんだから、それでデンバーズはきっとこの娘にその書類を委託《いたく》したにちがいないと思うんです。
しかし、もしそうだったとすると、この娘はどこに行ったのだろう? 書類はどうしたのだろう? アメリカからその後はいった情報によると、デンバーズはずっと誰かに尾行されていたらしいんですが、そうするとこの娘は、彼の敵とぐるになっていたのではなかろうか? それとも、今度は彼女自身が尾行されて、何かのトリックにかけられ、この重要書類を取られてしまったのではなかろうか?
我々は彼女の行方を捜すのに全力をつくしました。案外にむずかしいのにおどろいてしまいました。彼女の名前は、ジェーン・フィン、生存者リストの中にもちゃんと出ています。しかし、彼女自身はすっかり姿を消してしまってるんです。身許を調べてみましたが、これもたいして役に立ちませんでした。彼女は孤児で、西部の小さな学校で、言わば、教育実習生みたいなことをしていました。彼女の旅券は、目的地パリとなっていまして、そこで彼女はある病院で働くことになっていたのです。彼女のほうから志願して、何度か手紙を交換したあと、病院では彼女を採用することになったのです。ルシタニア号の生存者氏名の中に彼女の名を見つけた病院の職員も彼女が姿を現わさないこと、なんの連絡もないことにおどろいていたようです。
とにかく、彼女の足跡を調べることに全力をつくしたのですが、結局すべてがむだでした。アイルランドに着いたことはわかりましたが、イングランドに渡ったあとは全然行方不明です。例の条約の草稿はその後だれも利用していませんから――これはわけなく利用できたのですが――結局われわれはデンバーズが焼き捨ててしまったのだろうという結論を下しました。戦争はその後べつな局面をたどり、外交政策もそれに従って変わりましたし、条約も、再度起草ということにはなりませんでした。条約の存在は極力否定されました。ジェーン・フィンの蒸発も忘れられ、事件のすべてが自然消滅の形になってしまったのです」
ミスター・カーターは言葉を切った。タッペンスがじれったそうに口をはさんだ。
「でも、それがどうして再燃したんですか? 戦争は終わったんでしょう?」
ミスター・カーターの態度にどことなく、ゆだんのない構えが見えた。
「なぜって言いますとね、書類はやっぱり存在しているようすなんです。焼き捨てられてはいなかったようです。それで、この書類は今日、新しい致命的な意味を持って、利用されるおそれが出てきたのです」
タッペンスは目を見はった。ミスター・カーターはうなずいた。
「そうです。五年前はこの条約草案はわれわれにとって一つの武器でした。ところが今日では、われわれを破滅させる武器に変わっているのです。われわれはたいへんなへまをやっていたんです。この条約の条項が公表されたら、それこそ致命的な破局に……。ひょっとしたら別な戦争になるかもしれないのです。それに今度はドイツが相手ではないんです! これは可能性としてはちょっと極端で、わたし自身はあまり信じちゃいないんですが、しかし、少なくとも、この書類の出現によって、現在われわれとしては失いたくない多数の国家首脳者を失脚《しっきゃく》させるおそれがあるわけです。労働党の政策としてはこれは正に棚ぼた式幸運でしょうが、現在の状勢では――これはわたしの意見ですが――労働党が政権をとると、イギリスの対外貿易は不具同然になってしまうでしょう。しかし、それもこれも、『ほんとうの』危険性に比べれば些細なことです」
彼は口を休め、それから、静かに話を進めた。
「あなたがたも読んだり聞いたりしてご承知のことと思いますが、現在の労働者階級の不穏《ふおん》状態の背後には共産主義者の勢力がひそんでいるのです」
タッペンスはうなずいた。
「これは、うそいつわりのない事実です。ある種の革命をまき起こすために共産主義者の金が、この国に多額に注ぎこまれています。それから、ある一人の男がいて、その男の本名はわれわれにもわからないんですが、自分自身の目的のために、黒幕の中で活躍しているんです。共産主義者たちは労働界の不穏分子の背後で動いていますが――しかし、この男は共産主義者たちの背後で動いているのです。この男が何者であるか? われわれには不明です。いつも、およそ変わりばえのしない『ミスター・ブラウン』という名で呼ばれています。ただ一つ確かなことは、この男が現代における天才的犯罪者だということです。ひじょうに優れた組織の支配権を握っていて、戦争中の反戦宣伝の大部分はこの男の創案であり、かつ、この男が資金を出しているのです。彼のスパイはいたる所で活躍しています」
「他国の国籍を持ったドイツ人ですか?」とトミーがたずねる。
「そうじゃなくて、いろんな理由からして、彼がイギリス人であることは否定できないようです。親ドイツ派です。昔ならボーア人の味方になっていたでしょう。誰が何を得ようとしているかはわれわれにもわかりませんが――たぶん、自分自身のための最高権力、歴史上ユニークな権力といったものでしょう。彼の正体については何の手がかりも得られません。みんなの情報によると、彼の手下ですら、彼の正体を知らないのです。たまたま彼の足跡をかぎつけても、彼はたいてい二次的な役割をつとめていて、誰かほかの人間が主役を演じているのです。しかしあとでいつもわかったんですが、現場には必ず、とるに足らない一人の人間が、例えば、下僕だとか事務員だとかいった人間がいて、巧みにわれわれの目からのがれ、われわれの手からのがれてしまうといったぐあいです」
「あら!」とタッペンスが飛び上がった。「ひょっとしたら……」
「なんですか?」
「ちょっと思い出したんですが、ミスター・ウィッティントンの事務所に事務員が一人いて――ミスター・ウィッティントンは彼のことをブラウンと呼んでましたけど、まさかあの人が……」
カーターは、考え深げにうなずいた。
「ありそうなことですね。妙なことに、この名前はふだん、しょっちゅう使われているんです。天才の特性でしょうね。彼の人相その他説明できますか?」
「本気で見ていなかったもんですから。ごくふつうの――どこにでもいるような感じの人でした」
ミスター・カーターは例のけだるい調子で溜息をついた。
「それが、ミスター・ブラウンを形容する上で一番ぴったりとした言葉です。ウィッティントンという男の所に電話の伝言を持って来たんでしたね? 外の事務室に電話ありましたか」
タッペンスは考えた。
「べつに気がつきませんでしたわ」
「そうでしょう。自分の命令を手下に伝える時には、いつも伝言という形式を使うんです。もちろん、彼はあなたたちの話を全部立ち聞きしたにちがいありません。ウィッティントンがあなたに金を渡して翌日来いと言ったのはその伝言のあとでしょう?」
タッペンスはうなずいた。
「そうです。たしかにミスター・ブラウンの手です!」ミスター・カーターは口をつぐんだ。やがて、「というわけです。あなたがたの直面している敵がどんなものか、これでわかったでしょう。当代随一の犯罪頭脳の持ち主だと言ってもいいくらいです。わたしはどうも気が進まないんですがね。つまり、あなたがたは二人ともひじょうに若いし、そのあなたがたに万一のことが起こったら……」
「そんなことはありませんわ」とタッペンスが断言する。
「それにぼくが彼女を守ってますから」とトミー。
「あたしがあなたを守ってよ」とタッペンスはトミーの男上位の言葉にむきになって抗言した。
「じゃおたがいに守りあったらいいでしょう」とミスター・カーターは笑顔をつくり、「さて、も一度仕事の話に戻りますが、この条約草案にはまだわれわれにははかり知れない何か不可解なものがあるんです。われわれはこの条約をたてにして――明白な言葉で脅迫されています。革命分子たちはこれがまだ手にはいってないことを認めているような口振りでありながら、必要な時にはいつでも持ち出せると言ってるんです。一方、彼らはこの条約の条項について明らかに不案内で、政府はこれを彼らのはったりだと見なして、正しいか間違っているかはわからないが、相変わらず否定政策に固執《こしゅう》しているわけです。わたしは、それでいいかどうか確信がありません。あまり公然とではないが、暗示、ほのめかしみたいなものがあって、この脅迫がほんものであることを示しているように思われるんです。とにかく、事態は、われわれを不利におとしいれるこの書類を彼らは一応手には入れたが、暗号か何かで書かれていて解読できないでいるといった感じなんです。ただし、暗号でないことはわれわれにはよくわかってるんですから、この説は成り立ちませんが、しかし、何かがあるんです。もちろん、ジェーン・フィンはとっくに死んでしまっているかもしれません――わたしはそうは思いませんけど。不思議なことに彼らは、その娘のことについてわれわれから何か情報を聞き出そうとしているんです」
「なんですって?」
「そうなんです。そういうふうに解釈できる事件が一つ二つ起こってるんです。それで、あなたのお話を聞いた時、わたしは自分の考えが間違いでないな、という確信を得ました。連中はわれわれがジェーン・フィンを捜しているということを知っています。だから、おそらく彼らは自分らで作り上げたジェーン・フィンをどこかパリの女子寄宿舎あたりに入れて……」タッペンスははっと息をのんだ。ミスター・カーターはにっこり微笑《わら》った。「彼女がどんな顔形をしているか誰も知りません。だから、そういう策略もとおるんです。彼女には作り話をちゃんと吹きこんでおくわけで、彼女のほんとうの仕事は、われわれからできるだけ多く情報を取り上げることなんです。彼の考え、わかりますか?」
「じゃ、あなたの考えてらっしゃるのは」――彼女はこの推定を充分につかもうとちょっと言葉を切り――「あの人たちは、わたしをジェーン・フィンに仕立ててパリに送るつもりだったということ?」
ミスター・カーターは前よりずっとけだるそうな微笑を浮かべて、
「わたしは、偶然の一致を信じてるんですよ」と言った。
五 ミスター・ジュリアス・P・ハーシャイマー
「そうですわねえ」とタッペンスは落ち着きをとり戻して、「そう言われると、ほんとにそうだったみたいですわ」
カーターはうなずいた。
「あなたの考えてらっしゃることはよくわかります。わたし自身かなり迷信的でしてね。運だとか、そういうことをね。運命の神自身があなたをえらんでこの事件にまきこんだような気がしますよ」
トミーがくすくす笑いはじめた。
「まったくですね! タッペンスがジェーン・フィンの名を口にした時、ウィッティントンがどんなにあわてたか、むりもありませんね。ぼくだって同じ立場だったら、びっくり仰天《ぎょうてん》しますよ。それはそうと、お忙しいところ、だいぶあなたの時間を浪費させたようですから、そろそろ失礼しますが、その前に何か忠告か指示か、与えてくれませんか?」
「そういうものは与えないほうがいいと思います。わたしのほうで働いている専門家たちは、きちんと法則どおりにやりながら失敗したんです。あなたたちは、自己流の想像力と偏見なしの白紙状態で仕事にとりかかってください。それでうまくゆかなくても元気を落とす必要はありませんよ。ただ一つ、事態が急に切迫してくるかもしれないということを心に留めておいてもらいたいんです」
タッペンスは、意味がよくわからないで眉にしわをよせた。
「あなたがウィッティントンと面会なさったころ、連中には充分時間があったんです。来年早々大規模なクーデターを行なうという情報がはいっていました。ところが、政府はこの脅威を効果的に処理できるある行動の立法化を考慮しているんです。連中もすでにこれを知っているでしょうし、知らなくても、すぐに知ってしまうでしょう。ですから連中はことを早めにやるかもしれないんです。わたし自身としては実はそうしてもらいたいのです。彼らが計画をねる時間が短ければ短いほど、こちらは対処しやすいですからね。だから、あまり時間がないということを一応警告しておきます。それから失敗しても気を落とすことはないってことも。いずれにしても生やさしい仕事じゃありませんからね。言うことはそれだけです」
タッペンスは立ち上がった。
「もう少し事務的に事を決めておいたほうがいいと思います。カーターさん、正確に言って、どの程度まであなたにお頼りできるんですか?」
ミスター・カーターのくちびるがわずかにぴくりと動いた。しかし、言葉短かにはっきりと答えた。
「資金はむりのない程度。どんな点に関しても細かい情報を提供。公《おおやけ》の場所ではおたがいに知らないふりをすること。たとえば、あなたがたが、警察とごたごたを起こしても、わたしとしては大っぴらに助力できないということ。あなたがた自身の責任でやってもらいたいんです」
タッペンスは、理解のあるところを見せて、うなずいた。
「よくわかりました。考える時間ができたら、知りたいことをリストにしてお送りしますわ。それから――お金のこと――ですが」
「ああ、ミス・タッペンス、ご希望の金額は?」
「というわけじゃないんです。いまのところ充分にあるんですけど、もっとほしいと思う時には……」
「いつでもご用立てします」
「でも、政府のこと悪くいうわけじゃありませんが、それにあなたが政府と関係してらっしゃるかどうかも知りませんけど、とにかく、政府から何かを頂く時はたいへんな時間がかかるってことご存じでしょう? 青色申込書に記入して、それを提出したら、三か月ぐらいたって緑色申込書を送って来て記入しろと言う……そんなふうじゃなんの役にも立たないでしょ?」
ミスター・カーターは声を出して笑った。
「ご心配無用です、ミス・タッペンス。ここにわたくしあてに個人的に請求してください。お金は現金ですぐに郵送します。それからサラリーのほうですが、これは、一年三百ポンドの割で。もちろんミスター・ベレスフォードにも同額のサラリーを提供します」
タッペンスは彼に向かってうれしそうな笑顔をつくって見せた。
「すてきだわ! あなたってとても親切なかた。あたし、お金が大好きなんです。経費はきちんとつけておきますわ。貸し方借り方ちゃんと別記入にして、残高《ざんだか》を右側に、赤い線を横にひいて、合計は一番下に……。よく考えてやればきちんとできますのよ」
「もちろんできるでしょう。じゃ失礼、しっかりやってください」
彼は二人と握手し、一分間後には二人は、カーシャルトン・ガーデンズ二十七番地の家の前の石段をおりていた。頭の中にはさまざまな事柄が回転していた。
「トミー! すぐ教えて。ミスター・カーターって誰?」
トミーはある名前を彼女の耳にささやいた。
「ほんと!」タッペンスは感激した。
「それだけじゃないんだ。あの人は実際、すばらしいやり手なんだぜ!」
「ほんと?」タッペンスはも一度こう言ってそれから、考え考えこうつけ加えた。「あたし、あの人好きよ。あなたは? とっても退屈で疲れてるみたいに見えるけど、その下にかくれている彼って鋼鉄みたいな感じね。鋭くって、ピカリと光ってて。ほんとにすてき」彼女はぴょんととびはねた。「トミー、あたしをつねってよ。現実みたいに思われないのよ、ねえ、つねって」
ミスター・ベレスフォードは言われたとおりにした。
「いたい! もう結構! 夢じゃないわ。あたしたち仕事にありついたのよ」
「おまけにすごい仕事だ。共同企業はほんとにはじまったんだな」
「考えてたよりはるかにりっぱな仕事だわ」とタッペンスが考えこむ。
「幸いにしてぼくはきみみたいに犯罪|嗜好者《しこうしゃ》じゃないからね。何時だい? 昼食にでもしようか――あっ!」
二人の心には同じことが浮かんだ。トミーがさきに口を出した。
「ジュリアス・P・ハーシャイマー!」
「あの手紙のこと、ミスター・カーターに話さなかったわねえ」
「話すほどのこともなかったじゃないか――彼に会って話すまではね。さあ、タクシーに乗ったほうがいいぜ」
「ぜいたくなこと言ってるの、だあれ?」
「官費だぜ、おぼえてる? さあ乗って?」
「いずれにしても車で行ったほうがずっと効果的よねえ」タッペンスは心地よげに座席に背をもたせかけて、「脅迫犯人ってぜったいにバスでなんか行かないわよ、きっと」
「ぼくたちはもう、脅迫犯人じゃなくなったんだぜ」
「さあ、どうかしら?」とタッペンスが秘密めいた口のきき方をした。
ミスター・ハーシャイマーの名を口にすると、すぐに彼の続き部屋に案内された。ボーイのノックに答えて、「おはいり」という待ちかねたような声が聞こえてきた。
ミスター・ジュリアス・P・ハーシャイマーはトミーとタッペンスが予期していたよりはるかに若かった。タッペンスは、三十五歳くらいだろうと言う。背丈は中ぐらい、あごも体つきも四角ながっしりした感じ。けんか好きの顔だが、見て気持のいい目鼻立ちである。あまり強いなまりはなかったが、誰が見てもアメリカ人というタイプである。
「おれの手紙着いた? そこに坐ってすぐおれの従妹の話してくれよ」
「あなたの従妹?」
「そうさ。ジェーン・フィンだ」
「彼女、あなたの従妹?」
「おれの親父と彼女のおふくろとが兄と妹という関係だ」ハーシャイマーはばかに細かく説明した。
「あら!」とタッペンス、「じゃ、彼女がどこにいるか知ってるんでしょ?」
「知らない!」ミスター・ハーシャイマーは握り拳でテーブルをばたんと叩き、「知ってりゃ文句ないんだ! あんた知ってる?」
「あたしたちが広告したのは、情報を受けるためで、与えるためではなくってよ」とタッペンスがきびしく言う。
「そのくらいわかってる。字が読めるからね。だが、あんたたちの知りたいのは、彼女の昔のことで、彼女が現在どこにいるかは承知してるものとばかり思ってた」
「昔の話でも結構だわ」とタッペンスが用心深い態度で言う。
しかし、ミスター・ハーシャイマーは急に疑惑の念を持ちはじめたらしく、
「ちょっと待ってくれ。ここはシチリア島じゃない。身代金要求だの、ことわったら彼女の耳をちょん切るぞなんてのはだめだぜ。ここはイギリスだ。だから変なまねはよせ。でなきゃ、あそこ、ピカディリーにいるあのりっぱなイギリスの警官に来てもらうから」
トミーがあわてて説明しはじめた。
「ぼくたちはあなたの従妹を誘拐《ゆうかい》したんじゃない。それどころか、彼女を見つけ出そうと努力してるんだ。そのために雇われている人間だ」
ミスター・ハーシャイマーは椅子に背をもたせかけた。
「も少し説明して」と簡単に言う。
トミーは彼のこの要求を聞き入れて、ジェーン・フィンの蒸発事件について適当に伏せるべきところを伏せた話を聞かせ、彼女は自分では気づかずに「ある政治的活動」にまきこまれているかもしれないと言った。そしてタッペンスと自分は彼女を見つける仕事を委嘱《いしょく》された私立調査員だというふうにほのめかした。従ってミスター・ハーシャイマーがどんなことでもいいから知っていることを話してくれればひじょうにうれしいんだがとつけ加えた。
これを聞いてアメリカ人は、なるほどとうなずいてみせた。
「おれ、自分のことばかり考えてたから、早合点して悪かった。だが、ロンドンってところはどうも苦手でね。おれはニューヨークだけしか知らない男でね。聞きたいことあったらどんどん聞いてくれ。喜んで答えるから」
一瞬、この言葉は二人の「若い冒険者」を金しばりにした。しかし、タッペンスは、すぐに自分をとり戻して、探偵小説に出てくる警官や探偵のやり方を思い出し、さっそく質問にとりかかった。
「あなたが一番最後に故人、じゃない、あなたの従妹、に会ったのはいつですか?」
「一度も会ったことない」とハーシャイマーは答える。
「え?」とトミーがおどろいて問い返す。
ハーシャイマーは彼のほうを向いた。
「ほんとだよ。さっきも言ったようにおれの親父と彼女のおふくろは、あんたたち二人もそうだろうと思うけど、兄と妹なんだ」――トミーは彼のこの推定をべつに否定しようとはしなかった――「ところが、あんまり仲のよい兄妹じゃなかったんだ。それで、おれの叔母が西部の貧乏教師でアモス・フィンという男と結婚すると言った時、親父はかんかんに怒ったんだね。親父は、おれが金持になっても一セントだってやらないぞといった。ちょうど順調に金持になる途中だったらしいんだがね。結局叔母は西部に行ってそれっきり音信不通になっちゃった。
親父は、事実、大金持になった。石油事業をやって、鋼鉄事業やって、鉄道にもちょっと手を出して、ウォール街をてんてこまいさせたんだ」彼はここでちょっと言葉を切った。「そして親父は死んだ――去年の秋だ――金はこのおれがもらった。あんたたち信じないかも知れないが、そのあと、おれは毎日良心に責められた。遠い西部に行ったおまえのジェーン叔母さんをどうするんだ? ってね。おれは、それが気になって。どうせ、アモスのことだ、たいした出世はしちゃいないだろう。そういうタイプじゃないんだから。というわけで、おれは人を雇って彼女を捜させた。結果は、叔母は死んでたし、アモス・フィンも死んでた。娘が一人残ってたが――ジェーンという名だ――彼女もパリに行く途中ルシタニア号で魚雷をくっちゃった。助かったのは助かったが、いくら調べても、それっきり消息がわからない。調べ方が足りないんじゃないかなと思ったんで、おれが自分で出てきて、スピード・アップすることにしたんだ。おれは、こっちに来てすぐロンドン警視庁(スコットランド・ヤード)と海軍省に電話した。海軍省はあんまりいい返事くれなかったが、スコットランド・ヤードはなかなか親切で、さっそく調べてみましょうという。けさなんかわざわざ人をよこして、彼女の写真をとりに来たくらいだ。おれはあすパリに行って向こうのお役所の仕事ぶりを見てくるつもりだ。こうして行ったり来たりしてれば、当局だってなんとかやってくれるんじゃないかと思ってる」
ミスター・ハーシャイマーのエネルギーは驚嘆に値するものだった。二人はそのエネルギーに帽子を脱いだ。
「しかしだな、あんたたち、どういうわけで、彼女のあとを追っかけてるんだね? 法廷侮辱罪だとか、なんだとかイギリス的な罪でもおかしたのかい? 誇り高いアメリカ娘のことだ。時には戦時の法律や規則にいや気がさして、違反行為ぐらいしたかもしれない。もしそうだったら、おれ、買収でもなんでもして彼女を自由の身にするぜ」
タッペンスは絶対にそうじゃないと断言した。
「それで安心した。じゃいっしょに仕事できるな。昼食でもどうだい? ここに持って来させようか、おりてレストランにでも行こうか?」
タッペンスは後者をえらんだ。ハーシャイマーはかしこまりましたと頭を下げた。
かき料理が終わって、ひらめ料理にうつったころ、一枚の名刺がハーシャイマーの所に届けられた。
「またスコットランド・ヤードだ。犯罪捜査部(C・I・D)のジャップ警部だ。けさの人間とは別だ。けさ何もかも話したのに、いまさら何が聞きたいんだろう? あの写真をなくしたんじゃないだろうな。西部の写真屋が火事で焼けて、ネガは一枚もないんだから、あの写真が、現存の写真としちゃ唯一のものなんだ。向こうのカレッジの校長にもらって来たんだけどね」
何か漠然とした疑念がタッペンスにおそいかかった。
「それであなたは――けさ来た警官の名前を知らないんですか?」
「いや、知ってる。やっぱり知らないね。ちょっと待てよ。名刺に書いてあった。あ、わかった。ブラウン警部だ。おとなしい、あんまりぱっとしない男だったがね」
六 作戦計画
そのあと三十分間に起こった出来事は、そっとベールでもかぶせてかくしておいたほうが賢明かもしれない。とにかく、スコットランド・ヤードには「ブラウン警部」なんて人間はいないとのことである。ジェーン・フィンの写真、警察が彼女を捜査するにもっとも重要な手がかりである彼女の写真は、永久に失われてしまった。「ミスター・ブラウン」はまたもや勝利の凱歌《がいか》を上げたのである。
この挫折《ざせつ》によって生じた最初の結果は、ジュリアス・ハーシャイマーと若い冒険者たちとの間の親交樹立であった。両者間のあらゆる障壁が一ぺんにふきとばされ、トミーもタッペンスも、このアメリカ人を子供の時から知っているように感じた。二人は「私立調査員」という慎重なカムフラージュをその場でかなぐり捨てて、共同企業のいきさつを全部彼に話してきかせた。若いアメリカ人は、これを聞いて、「おかしくて死にそうだ」と笑いころげた。
話が終わったとき彼はタッペンスに言った。
「おれ、イギリス人の娘ってのは、少しこけの生えた人間だとばかり思ってた。旧式でやさしくって、召使かオールド・ミスの伯母さんか何かがいっしょでないと外に出るのもおっかないってタイプだと思ってた。どうやら、おれも時代におくれているようだな」
こうして彼らが打ち解け合った結果、トミーとタッペンスは、住居をリッツ・ホテルに移すことにした。タッペンスの言葉を借りて言えば、「ジェーン・フィンのただ一人の血縁者と連絡を保つため」である。「こういうふうに言っておけば誰も経費におどろく人はいないわ」彼女はそっとトミーにこう言った。
誰もおどろく人はいなかった。すごくいい気分だった。
リッツに移り住んだその翌朝、タッペンスはこう言った。「さて、仕事をはじめなきゃあ」
トミー・ベレスフォードは読んでいたデイリー・メール紙を下におき、少しオーバーなくらいぱちぱちと拍手した。彼女はていねいに「ばかなまねしないでください」とたしなめた。
「だってトミー、あたしたち、お金もらってるでしょ? 何かしなければ悪いわよ!」
トミーは溜息をついた。
「さよう、いくら情け深いイギリス老政府でも、何もしないでホテル・リッツでぶらぶらしている我々をいつまでも養ってはくれないだろう」
「だからさっき言ったように、|何か《ヽヽ》しなきゃいけないのよ」
「そうだね」トミーは下においたデイリー・メール紙をも一度手にとって、「じゃ、どうぞやってください。ぼくはべつにとめだてしないから」
「あのねえ、あたし考えてたんだけど……」彼女はかまわずに話をつづける。
また新たに拍手喝采が起こって話の腰を折られた。
「トミー、あなたはそこにそうやって坐って、ひとをからかって、けっこう面白いでしょうけど、少しぐらい頭を働かせてくれても別に身体にさわるってわけでもないでしょ?」
「ぼくの組合がね、タッペンス。組合が文句をいうんだ! この組合は、ぼくが午前十一時前に働くとおこるんだ」
「トミー、何か投げつけるわよ、よくって? いますぐに何かの作戦計画をねること、これ、どうしても必要なのよ」
「サンセイ、サンセイ!」
「じゃ、やりましょうよ」
トミーはやっと新聞をかたわらに押しやった。「きみという人間には真に偉大な心に備わった単純さともいうべき何かがあるね。さあ、言ってごらん。聞き耳をたててるから」
「まず第一に」とタッペンス、「あたしたち、何を手がかりにして行動すべきだと思う?」
「手がかりなんか全然ないね」とトミーが陽気に答える。
「残念でした!」とタッペンスは指をはげしくふって見せる。「はっきりした手がかりが二つあるわ」
「なんだい?」
「第一の手がかりは、一味の一人を知っているってこと」
「ウィッティントンかい?」
「ええ、どこで会っても、あたしにはすぐ識別できてよ」
「ふうむ」とトミーは疑わしげな目つきをする。「たいした手がかりじゃないと思うね。彼をいったいどこで捜したらいいんだい? 偶然にあの男にぶっつかるなんてことは千に一つのチャンスもないね」
「その点どうだか?」とタッペンスは考えこむ。「一度偶然の一致が起こりはじめると、常識では考えられないくらいつづいて起こるものよ。よくそんな経験したわ。これはまだ発見されてない自然の法則なんだと思うの。もちろん、あなたの言うとおり、そんなものをあてにはできないけど。でも、ロンドンには、誰でもがおそかれ早かれ現われる場所がいくつかあるわ。たとえばピカディリー・サーカスみたいな所。あたしのアイデアの一つとしてね、そういう場所で、共同募金の小旗かなんかお盆にのせて、毎日立っていること」
「食事はどうするんだい?」トミーが現実的なところを見せる。
「男ってすぐそれだから! 食事なんて問題にするほどのことじゃないわ」
「よくそんなこと言えるね。あ、そうだ、きみはいまものすごい朝飯食べたばかりだ。だがね、タッペンス、きみほど食欲旺盛な人間は、この世に二人といないんだぜ。お茶の時間になったら、きみはその旗もピンもみんな食っちまうんじゃないかな? とにかく、はっきり言って、そのアイデア、たいしたことないと思うな。ひょっとしたら、ウィッティントン、ロンドンにいないかもしれないじゃないか?」
「そうねえ。でも、第二の手がかりはもっと有望よ」
「聞かせてもらおう」
「手がかり自体は薄弱《はくじゃく》なものだけど。姓でなくて、名前だけ。リタ、ウィッティントンがこの前うっかり口にした名前よ」
「きみはまた新聞広告出すつもりかい? 尋ね人、リタという名の悪女、ってなぐあいに?」
「そんなことしないわよ。もっと論理的に推理しようって言うのよ。例のデンバーズという人、イギリスへ来る途中ずっと尾行されてたというじゃない? すると、その尾行者、男よりは女という可能性のほうがずっと大きいわ」
「とは思われないね」
「あたしには、女だという確信が充分にあるのよ。それも、相当な美人」タッペンスは落ち着き払ってこう答えた。
「そういう専門的な点では、ぼくも、きみにかぶとを脱ぐよ」
「それでこの女は、それが誰であろうと、とにかく、助け出されていることは確かよ」
「どうして確かだい?」
「もし助け出されなかったら連中は、どうして、ジェーン・フィンが書類をもらったってことを知ってる?」
「なるほど。じゃ先をつづけてくれたまえ、シャーロック・ホームズくん」
「ところで、ひょっとしたら、これ万が一のチャンスだけど、この女がリタだったかもしれないわ」
「で、そうだとしたら?」
「そうだとしたら、ルシタニア号の生存者を追求して彼女を見つけるのよ」
「じゃ、まず、生存者のリストを手に入れることだね」
「もうここにあるわよ。あたし、知りたいことをたくさん箇条書にして、カーターさんの所に送っておいたの。けさその返事を受け取ったわ。その中にこれもはいってたのよ、ルシタニア号生存者の公式発表。どうお? タッペンスって女の子、ちょっとそこいらの人と頭が違うでしょ?」
「勤勉さには満点を上げるけど、謙遜《けんそん》という点ではゼロだな。しかしだね、要は、そのリタという名がリストの中にあるかということだ」
「それがわかんないのよ」とタッペンスが困った顔をした。
「わからない?」
「そうなのよ。これ見てごらんなさい」二人はいっしょにリストの上に身をかがめた。「ね、名前の出てるのはほとんどないでしょ? みんな姓の上にミセスとかミスとか書いてあるだけで」
トミーはうなずいた。
「とすると問題はややこしくなるな」彼は半ば考え、半ばつぶやいた。
タッペンスは、例のテリヤみたいな身ぶるいをした。
「しかたないわ。とにかく、当たってくだけろだわ。ロンドン地区から始めない? ロンドンかその近辺に住んでいる女の住所を書きぬいておいてちょうだい。あたし帽子かぶってくるから」
五分後、二人はピカディリー通りに出、二、三秒後にはタクシーで、北・七・グレンドワー路のザ・ローレルズに向かっていた。これは、トミーの手帖に記されている七つの住所の一番目にあるミセス・エドガー・キースの住所である。
ローレル荘は、道路から少し奥まった所に建っている落ちぶれ果てた家だった。家の前の名ばかりの庭にしょぼしょぼと二、三の灌木《かんぼく》が生えている。トミーはタクシー代を払い、タッペンスといっしょに玄関に向かった。タッペンスがベルを押そうとすると、彼は彼女の手をおさえた。
「きみ、どう言うつもり?」
「どう言うつもりって? だって、奥さんの名前を……あら、どう言ったらいいかしら。変に思われるわねえ、困ったわ」
「だろうと思った」とトミーがしたり顔で言う。「女っていつでもこうだ。全然さきの見通しが利かないんだから! いいからきみはそこに立ってて、こういう場合に男だったらいかに簡単にことを運ぶか、見学しているといい」彼はベルを押した。タッペンスは適当な場所に身をひいた。
ひじょうに汚ない顔をして、左右不均等の目をした、だらしない感じの召使が出てきた。
トミーはノートと鉛筆を取り出した。
「おはようございます」彼はきびきびした口調で気軽に話しかけた。「ハムステッド区役所のものです。有権者の新規登録をやってんですが、ミセス・エドガー・キースはこの家に住んでらっしゃるんですね?」
「そうです」
「名前は?」
「奥さんのほう? エリノア・ジェーンよ」
「ELEANORですか?」とトミーはスペリングを言い、「二十一歳以上の息子さんか娘さんいますか?」
「いないです」
「ありがとうございました」トミーは手帖をパタンと閉じて、「さようなら」
召使ははじめて自分のほうから口を開いた。
「ガスのことで来たのかと思ったわ」ひとりごとみたいにこう言ってドアを閉めた。
トミーはタッペンスのもとに戻ってきた。
「見たろ、タッペンス、男の頭だったらまさに朝飯前だ」
「今度だけはあなたの得点をみとめてあげるわ。あたしだったら、とてもあんなの考えつかなかったわ」
「いいせりふだったろ? それにまた時に応じて使えるせりふだ」
昼食時には、三流どこのレストランで、ステーキとチップスに、すごい食欲でかぶりついた。それまでに、グラディス、メリーとマージョリーを見つけ出し、一つは住所変更でどうにもしょうがなく、セイディという名の猛烈なアメリカ婦人からは婦人選挙権問題について長い講義を聞かせられた。
「ああ」トミーは、ビールを一息にぐっと飲み乾して、「ああ、これでさっぱりした。さて、次はどこだい」
ノートブックは二人の間のテーブルの上にあった。タッペンスが取り上げた。
「ミセス・ヴァンデマイヤー。サウス・オードレイ・マンション、二十号。と、ミス・ウィーラー。バタシー、クラピントン・ロード四十三。このウィーラーはあたしの記憶では、ある貴婦人の女中だから、たぶんいないと思うわ。それにあたしたちの捜している人間じゃないわ、おそらく」
「とするとメイフェアの淑女が次の寄港地ということになるな」
「トミー、あたし、なんだか自信がなくなってきたみたい」
「元気出せよ。はじめっからあまり望みはないってことわかってたんだ。きみだってそれは承知のはずだ。第一、まだはじまったばかりじゃないか。ロンドンでだめだったら、イングランド、アイルランド、スコットランドめぐりってのがひかえてるんだ」
「そうね」とタッペンス。元気が少し盛り返してきた。「しかも費用は官費だしねえ! でもねえ、トミー。あたし、いろんなことが、ぱっぱっと動いていくほうが好きなの。いままでは、事件また事件とつづいてたでしょ? それがけさなんか、まるで退屈を絵で描いたみたいなんですもの」
「きみはいつも下品なセンセイションを求める。そんな欲望はおさえつけなきゃいかん。考えてもごらん。もしミスター・ブラウンが噂どおりの人物だったら、いまだし、我々に死の魔手を伸ばさざるこそ不思議なれ。名文だね、文学的な香りがする」
「あなたってあたしよりずっとうぬぼれが強いのね。あたしほど実力ないくせに。えへん! でも、ミスター・ブラウンがいまだに我らが頭上に復讐の荊冠《けいかん》をかぶせざるはまさに奇なりと言うべし(ほら、あたしだってできてよ)、我らなんら痛手を受くることなく、我らが道を進む!」
「たぶん、ぼくたちのこと、気にするだけの値打もないと思ってんだろ?」トミーは軽く答えた。
タッペンスはこの言葉を悪意に解釈した。
「ずいぶんひどい言い方ね。まるであたしたちなんかどうでもいいような言い方!」
「ごめん、ごめん、タッペンス。ぼくの言いたかったのは、われわれが地下のもぐらみたいな活動をしているので、さすがの彼も、われわれの邪悪な企《たくら》みに全然気づいていないんだってことさ、はっはっはっ!」
「ほんとに、はっはっはっだわ!」タッペンスはわが意を得たりと彼の口まねをして、立ち上がった。
サウス・オードレイ・マンションは、パークレーンをわずかにはずれた所にある豪奢《ごうしゃ》な外観のマンションだった。二十号は三階だった。
トミーも、練習をつんだせいか、しゃべり方が達者になっていた。ドアをあけた女は、召使というよりはハウスキーパーといったほうがいいような顔をした中年の女で、トミーはこの女に例のせりふをべらべらとまくしたてた。
「名前は?」
「マーガレット」
「MARGARETですか?」
女は途中で訂正した。
「いいえ、GUEですよ」
「ああ、MARGUERITE、フランス式ですね」彼は口を休め、それから思い切ってこうたずねた。「わたしどもの帳簿にはリタ・ヴァンデマイヤーと記入されてますが、間違ってんでしょうか?」
「ふつう、そう呼ばれていますがほんとうの名はマーガレットです」
「ありがとうございました。用事はそれだけです。じゃ、失礼します」
心のたかまりをおさえ切れずにトミーは走るように階段をおりていった。タッペンスは階段の曲がり角で待っていた。
「聞いたかい?」
「ええ、よかったわ、トミー!」
トミーは、彼女の腕をぎゅっとにぎって、
「ああ、同感だ」
「いろいろなことを考えて、そ、それが実現するっての、ほんとにすばらしいわ!」タッペンスは上ずった声を出した。
彼女の手はまだ彼の手の中にあった。二人はそのまま入口まで出てきた。頭上の階段から、足音が、話し声が聞こえてきた。
突然、タッペンスは彼をエレベーターの横の暗い所にひっぱりこんだ。トミーは不意をつかれてびっくりした。
「いったいどう……?」
「しいっ」
二人の男が階段をおりて来、入口から外に出た。タッペンスはトミーの腕をぎゅうっとにぎりしめた。
「急いであとをつけてよ。あたしじゃだめ。顔をおぼえられてるでしょうから。一人の男は誰だか知らないけど、大きいほうは、ウィッティントンよ」
七 ソホー区の家
ウィッティントンと彼の連れはかなり急ぎ足だった。トミーはすぐに尾行しはじめたが、外に出た時にはちょうど街角を曲がるところだった。大またで、がむしゃらに追いかけた。曲がり角まで来ると彼らとの距離は相当短縮されていた。メイフェアのせまい道々は割に人通りが少なく、相手の姿が見える程度に距離を保っておいたほうが賢明だろうと思った。
尾行というスポーツは彼にははじめてだった。探偵小説など読んで、技術的な点は一応心得ていたつもりだったが、いままで一度も人を尾行した経験はないし、実際にやってみると、それがいかに困難なものであるかすぐわかった。例えば、かりに彼らが、いきなり手をあげてタクシーを呼んだらどうする? これが小説だったら、簡単にあとから来たタクシーに乗り、一ポンド金貨かそれ相当の現在の金額を払うから前の車を追ってくれと言えば、それで万事片づく。しかし現実においては、トミーにも、このあたりで二台目の車がすぐあとから来るなんてことがまず不可能であるとよくわかった。そうなると走らざるをえない。ロンドンの街筋を若い者がわき目もふらずにどこまでも走って行ったらどうなるだろう? 大通りだったら、バスに乗りおくれそうだから走っているんだと思わせることもできる。しかし、この人通りの少ない上流階級の町で狭い道を走って行ったら、おせっかいな警官に呼びとめられて、どうしたんだと訊かれることは必然である。
おりもおり、空車の掲示をかかげたタクシーが行く手の街角を曲がった。トミーは息をとめた。連中は手を上げるだろうか?
車をそのままやりすごした二人を見て、彼はほっと安堵《あんど》の溜息をもらした。二人はできるだけ早くオックスフォード街に出たいのか、さかんにジグザグなコースを辿《たど》っていく。やっとオックスフォード街に出て東の方向に向かった時、トミーは少し歩を速めた。徐々に彼らのそばに近づいて行った。人通りの多いこの歩道では、彼らに見つかる心配はまずないだろう。できれば二人の会話を一言でも二言でも聞きとれればいいがと願ったが、この点、完全に失敗した。二人の話し声は低かったし、車や人のざわめきが二人の声を効果的に消してしまっていたからである。
ボンド街の地下鉄駅のちょっと手前で、二人は道路を横断した。トミーは気づかれないように、彼らのすぐあとにつづいて、ライオンズの大食堂にはいった。二人は二階に上がって、窓ぎわの小さなテーブルについた。もう時間もおそかったので客の数もだいぶ少なくなっていた。トミーは彼らの席のすぐ隣に坐ったが、ウィッティントンに顔をおぼえられていたら困るから、彼のうしろに坐った。その代わりに、も一人の男の顔ははっきりと正面から見ることができた。彼は注意深くその男を観察した。色白で、弱々しい感じの顔だった。トミーは彼を、ロシア人かポーランド人に違いないと思った。年のころ五十くらいで、話す時に、両肩をちぢめ、小さなずるそうな目を、絶えずきょろきょろと動かした。
すでに腹いっぱい昼食をとったあとだったので、トミーは、チーズトーストとコーヒー一杯を注文した。ウィッティントンは自分と連れのために、かなりの量の昼食を注文した。それから、ウェイトレスがひき下がると、彼は自分の椅子を少しテーブルのそばにひきよせ、低い声で熱心に話しはじめた。も一人の男もすぐのってきた。一心に耳をすましたが、時たま一言二言聞きとれるだけだった。しかし、察するところ、大きいほうの男が何か指令か命令を伝えているようすで、これに対し、小さいほうの男は、ときおり、不満の意を表した。ウィッティントンは、相手の男をボリスと呼んでいた。
トミーは「アイルランド」という言葉を何度か耳にした。それから、「プロパガンダ〔宣伝工作〕」という言葉も聞こえてきた。しかし、ジェーン・フィンの名は一度も出てこなかった。突然、騒々しい部屋の中が急に静かになったせいか、会話全部がはっきり聞こえた。ウィッティントンの言葉である。「いや、きみはフロッシーを知らないんだ。まったく驚嘆に値する女だよ。大司教だって彼女を自分の母親だと誓言《せいごん》するにちがいないくらいだ。彼女はとにかくお声がかりの存在なんだ。威張ってるのもそのせいなんだ!」
ボリスの返事は聞こえなかった。しかし、それに答えて、ウィッティントンは、はっきりとは聞きとれなかったが、こういうふうなことを言った。「もちろんさ――ただ緊急の場合は……」
そこでまた、言葉の糸は途切れた。しかし、やがて、再び、二人の会話は明瞭《めいりょう》に聞こえてくるようになった。二人が話に熱中して、無意識に声を上げるようになったせいか、それともトミーの耳が慣れてきたせいか、彼にはよくわからなかった。しかし、その中でも二つの言葉はトミーの耳に何にもまして強い刺激を与えた。それは、ボリスの発した言葉で、「ミスター・ブラウン」という言葉だった。
ウィッティントンはボリスに抗議したが、ボリスはただ笑いとばした。
「どうしていけないんだね? りっぱな名前だし、――しかももっとも平凡な名前だ。彼がこの名をえらんだのも理由はそこにあったんじゃないかな? ああ、なんとかして会いたいもんだね、そのミスター・ブラウンという人間に」
ウィッティントンが返事した時には、その声に何か鋼鉄のような冷たいものがふくまれていた。
「そりゃいつ会えるかわかりゃしない。あるいはもう会っているかも知れないな」
「そんなのはでたらめさ!」とボリスが抗言した。「子供だましの話だ――警察官のためのお伽話《とぎばなし》だ。時にはこのぼくも、自分自身に、こう説き聞かせることがあるんだ。つまりだね。ミスター・ブラウンってのは組織の中枢部が、われわれをおどすために作り上げた架空の人物だってふうにね。事実そうなのかもしれない」
「あるいはそうでないかもしれない」
「さあ、どうかな……あるいは、彼がわれわれの中にいて、一部の人を除いては誰にも知られていないってのが事実かもしれない。そうだとするとうまく秘密が守られているわけだ。それに、アイデアとしてもなかなかすぐれている。誰も知らない。おたがいを見て――その一人がミスター・ブラウン――どれが? 彼は命令する――と同時に他の人間に仕える。われわれの中にいて――われわれのまっただ中にいて、それでいて、みんなはどれがミスター・ブラウンかしら……」
ボリスは自分の飛躍的な想像力をむりやりにふるい落として、時計を眺めた。
「そうだね、そろそろ出かけたほうがよさそうだね」とウィッティントンが言う。
彼はウェイトレスを呼んで、勘定を頼んだ。トミーも同じように勘定を頼んだ。金を払うとすぐさま二人を追って階下におりた。
外に出るとウィッティントンはタクシーを呼んで、ウォータールーの駅に行くように命じた。
タクシーはこのあたりでは掃き捨てるようにあった。ウィッティントンの車が走り出さないうちに、もう別の車がトミーの性急な招きに応じて近づいてきた。
「前の車を追ってくれ」とトミーは指図した。「見失わないように頼むよ」
老年の運転手はべつに興味も関心もなさそうなようすで、ただ、「うう」と返事してメーターをおろした。追跡の途中はなにごとも起こらなかった。トミーの車はウィッティントンの車のすぐあとに乗車口でとまった。出札口では、彼のうしろに並んだ。ボーンマスまで一等切符を一枚買った。トミーも彼にならって切符を買った。列から離れるとボリスが時計を見上げて、ウィッティントンにこう言った。「早すぎたな。まだ三十分近くある」
ボリスの言葉を聞いてトミーは新たに考えをめぐらしはじめた。ウィッティントンはどうやら一人で旅に出るらしい。も一人の男はロンドンに残る。となると、どちらを追ったらいいだろう。二人とも追うわけにはいかない。ただしこちらが二人なら……。ボリスのまねをしたわけではないが彼も時計を見上げた。それから列車の時刻表を見た。ボーンマス行は三時半発だった。今三時十分すぎである。ウィッティントンとボリスは書籍の売店のかたわらを行ったり来たりしていた。彼は二人を眺め、それから近くの電話ボックスにとびこんだ。タッペンスをつかまえようといってもそれは時間の浪費である。彼女はまだオードレイ・マンションの近くにいるにちがいないからである。しかし、トミーの仲間は一人だけではない。も一人いる。彼はリッツ・ホテルに電話をして、ジュリアス・ハーシャイマーを呼んでくれと頼んだ。カチッという音とブザーの音が聞こえた。部屋にいてくれればいいがと念じた。も一度カチッという音が聞こえ、「ヘロー」とまぎれもないアメリカン・アクセントの声が電話をつたわってきた。
「ハーシャイマーかい? こちらベレスフォード、いまウォータールー駅にいる。ウィッティントンと、も一人別な男のあとをつけて、ここまで来たんだ。いま説明している時間がないんだ。ウィッティントンが三時半の汽車に乗るんだが、きみ、それまでにここに来れないかい?」
頼もしい返事が聞こえてきた。
「ああいいとも。ハッスルしていく」
電話は切れた。トミーは安堵の溜息を洩らして受話器を置いた。ジュリアスのハッスルを彼は高く評価していた。直感的に大丈夫、彼なら必ず時間に間に合うだろう、と思った。
ウィッティントンとボリスは、さっきと同じ場所にいた。ボリスが、相手の出発を見送るつもりならこれに越したことはない。ふと思いついてトミーは、ポケットの中をさぐった。経費無制限を保証されていたものの、彼はまだ多額の金を持って歩く習慣は身につけていなかった。ボーンマス行き一等の切符を買ったあとではもう二、三シルしか残っていない。ジュリアスが充分に金を持って来てくれることを望むだけだった。
時間は刻々に過ぎ去っていった。三時十五分、三時二十分、三時二十五分、三時二十七分。三時二十九分……。列車のドアがバタンバタンと閉まりはじめた。冷たい絶望の波が彼におそいかかった。その時、誰かが彼の肩に手をおいた。
「来たぜ。ロンドンののろのろ運転にゃ、まったく参っちゃった。その悪漢たちのこと、大急ぎで話してくれ」
「あれがウィッティントン――ほら、いま乗りこんでいる大きな色の浅黒い男だ。もう一人は彼と話をしている外国人」
「わかった。どっちがおれの相手だい?」
トミーはすでにこのことは考えておいた。
「金持ってる?」
ジュリアスは首を振った。トミーががっかりした顔をする。
「いまあんまり持ち合わせないんだ。せいぜい三百ドルか四百ドルぐらい」とアメリカ人は弁解する。
「ばかみたい! きみたち百万長者ってのは! ぼくたちとはけたが違う! すぐその汽車に乗って。ほらこれが切符。ウィッティントンのあとをつけてくれ」
「おれがウィッティントンか!」ジュリアスはがっかりした声を出した。汽車はもう動き出していた。彼は飛び乗った。「じゃまたね、トミー」汽車は駅を出ていった。
トミーは深々と息を吸った。ボリスがプラットホームを彼のほうに向かって歩いてくる。トミーは自分のそばを通っていく彼をそのまま見すごし、それから再び追跡をはじめた。
ボリスはウォータールーから地下鉄でピカディリー・サーカスまで行き、そこで上に出るとシャフツベリー・アベニューを歩いて、ソホー地区の迷路のようなせまくるしい小路にはいっていった。トミーは適当な距離をおいてそのあとを追った。
やがて彼らは、狭い荒れ果てた広場《スクウェア》に出た。薄気味の悪い家々が、ごみと瓦礫《がれき》の中に建っていた。ボリスはあたりを見まわした。トミーはあわててポーチの中に身をかくした。人影は全然なかった。袋小路になっていたので、通り抜ける通行人も車もなかった。あたりをはばかったこそこそしたボリスの態度が、トミーの想像力を刺激した。隠れ場所からじっとうかがっていると、彼は家々の中でも特に陰鬱《いんうつ》な邪悪な感じの家に向かい、石段をのぼると、ドアを一種独特なリズムで鋭く叩いた。ドアはすぐに開かれた。彼は、門番に一言二言言って、中にはいっていった。ドアは再び閉まった。
トミーが常道を踏みはずしたのはちょうどこの時であった。ふつうの人間だったら、そのままそこにかくれていて、男が再び出てくるのを辛抱強く待つのが当然であろう。ところがトミーは自分の常識(トミーは誰よりも健全な常識の持ち主だった)ではとても考えられないことをやってのけたのである。彼の表現をかりて言えば、彼の脳髄《のうずい》の中で何かがパチッと音を立てたような気がした。そして、彼自身もまた、一瞬のためらいも見せず、その家の入口の石段をのぼっていった。ドアの所で、さきほど聞いたノックの仕方をできるだけ正確に再現してみた。
ドアはさきほどと同じくさっと開かれた。髪の短い人相の悪い男が入口の所に立っていた。
「なんだね?」と彼はうなった。
この時トミーは自分がいかにばかげた行動をとったかをはっきり認識した。しかし、ためらいは禁物《きんもつ》である。彼は頭に浮かんだ最初の言葉を口にした。
「ミスター・ブラウン?」
おどろいたことには、男は身をひいて彼を招じ入れた。
「二階だ」と自分の肩越しにおや指で上をゆびさし、「左側の一番目の部屋」
八 トミーの冒険
門番の言葉に呆然とはしたものの、トミーはいささかもためらわなかった。大胆不敵さでうまくここまで来たからには、さらに一歩先まで進めるだろうと望むのは当然である。彼は静かにその家にはいり、がたがたの階段をのぼっていった。家の中のあらゆるものが、言語に絶するほどよごれていた。汚ならしい壁紙は、いまではもう模様もわからないようになって、ぼろぼろにたれさがり、隅々のいたるところにねずみ色のくもの巣がぎっしりはりついていた。
トミーはゆっくりと進んだ。階段の曲がり角まで来た時、門番が階下の奥の部屋にはいって行く足音を聞いた。まだ男は彼を怪しんではいないようである。この家に来て「ミスター・ブラウン」とたずねることは当然かつ自然のふるまいらしい。
階段の一番上まで来た時、彼は立ちどまって、次にどういう行動をとったらいいか考えた。行く手にはせまい廊下があって両側にいくつかのドアがあった。左側の一番手前の部屋から低い呟《つぶや》くような声が聞こえてくる。門番が教えてくれた部屋はこれである。しかし彼があがって来てすぐにひきつけられたのは右側のすぐ手近なところに、裂けたカーテンで半ばかくされているせまい凹所だった。この凹所は左側のドアのまん前にあって、角度の関係から、階段の上のほうもよく見えた。人間一人、最悪の場合は二人ぐらい身を隠すことのできる理想的な場所だった。奥行は二フィートぐらい、間口は三フィートぐらいあった。トミーはこの小部屋に大いに魅きつけられた。彼はいつもの如くじっくりと堅実に考えた。「ミスター・ブラウン」というのはブラウンという人間に会いたいというのではなく、たぶん一味の者に使われていた合言葉にちがいない。彼は運よくもこれを使って家の中にはいることができた。今までのところ、誰にも疑われなかった。しかし、できるだけ早く次の行動を考えなきゃあ……。
仮に左側の部屋に、大胆にはいっていったらどうなるだろう? 家の中にはいれたということだけで、充分な資格ができているのだろうか? それともさらに別な合言葉が必要なのだろうか? 少なくとも何か身分を証明するものでも……? 門番は一味のものの顔を全部知ってはいない。これは明らかである。しかし二階では問題はそう簡単にはいかないかもしれない。いままでのところ、がいして幸運が相当に彼の味方になってくれた。しかし、頼りすぎるととんでもないことになる。あの部屋にはいるのはどう考えても危険である。そういつまでも化けおおせるものではない。おそかれ早かれその化けの皮ははがされるにきまっている。そうなると、せっかくのすばらしいチャンスも、自分の愚かさのためにめちゃめちゃにしてしまうことになる。
合図のノックが階下のドアの所から何度か聞こえてきた。トミーは、どういう行動をとるかはっきり心にきめて、凹所にもぐりこみ、完全に身をかくすため、用心深くカーテンをひいた。古いおんぼろカーテンゆえ、あちこちに裂け目があって外を見るにはもってこいだった。とにかく何が起こるか見ていよう。それで機会を見て、どうしても会合に出たくなったら、新しく来た連中の動作をまねて中にはいってやろう。
新来者は、こそこそと忍び足で階段を上がって来た。トミーの全然知らない男だった。一目見て社会のくずだとわかるような人間だった。低く突き出たもじゃもじゃの眉、犯罪者特有のあご、顔つき全部から受ける動物的ないやらしさ。トミーにとっては珍しい人間だったが、ロンドン警視庁の連中なら一目でわかるタイプだった。
男は、息づかいも荒々しく凹所のカーテンの前を通り過ぎ反対側のドアの前で立ちどまった。それから例の合図のノックをくりかえした。中の人間が何か大きな声で言った。男はドアをあけ、中にはいった。瞬間的にトミーは部屋の内部を見ることができた。長いテーブルが部屋のスペースの大部分を占領し、そのまわりに四、五人の男が坐っているようだった。トミーの関心を一番強くとらえたのは、テーブルの正面に、書類を前において坐っている男だった。背が高く、髪は短く刈って、あごひげも短く、先が尖っている。海軍の将校がよく生やしているあごひげである。新来者がはいって行くと彼は顔を上げ、正確な、しかし奇妙なくらいはっきりとした発音でこうたずねた。
「番号は? |同志《コムラード》」
「十四号でげす」と新来者はだみ声で答える。
「間違いなし」
ドアが再びしまった。
「あれがドイツ野郎じゃなかったら、おれはオランダ人だ!」とトミーは自分に言い聞かせた。「おまけにショーの進め方もおよそ組織的だ。中にはいらなくておれも運がよかった。番号きかれたら、とんでもない番号を言っただろうし、この場合どんな目にあわされるか知れたもんじゃない。ぼくにはここが一番いいや。おや、またノックが聞こえたぞ」
今度の訪問者は、前の訪問者とはまったく違ったタイプだった。トミーは一目でこの男をアイルランドのシンフェイン党〔一九〇五年に創始されたアイルランドの完全独立を志す党派〕員と見てとった。ミスター・ブラウンの組織はたしかにバラエティに富んでる。下等な犯罪者、教養のありそうなアイルランド紳士、顔色の悪いロシア人、能率的なドイツ人の司会者! まさに異様な無気味な集まりである。未知のくさりのかくも奇妙に多彩を極めた環の一つ一つを手中におさめている例の男はいったい何者だろう?
新しい訪問者の行動も同じだった。合図のノック、番号を求める声、返事、間違いなし。
階下のドアから、さらに二つのノックが前後して聞こえてきた。最初の男はトミーには全然未知の顔だった。シティの事務員だろうと察した。落ち着いた知性的な顔つき、服はどちらかと言えば見すぼらしかった。二番目の男は労働者階級の人間、しかし顔は、トミーもかすかながら見おぼえがあるように思われた。
三分のちにまた別の人間がやって来た。堂々とした風采《ふうさい》の男で、服装は完璧そのもの、育ちのよさも一目でわかる。彼の顔も、トミーには充分見覚えがあったが、名前はどうしても思い出せなかった。
彼が来てから、そのあと長く待たされた。事実トミーはこれでメンバー全部が揃ったのではないかと思って、そっと隠れ場所からしのび出たほどだったが、その時再びノックの音がしたのであわててもとの場所に舞い戻った。
この新来者は足音一つ立てず階段を上がって来たので、トミーがはっと気づいた時にはすでに彼のすぐそばまで来ていた。
小柄な男でひじょうに青白く、どこか柔弱な女性的な雰囲気を持っていた。頬骨の角度から見て、先祖はスラブ人ではないかと思われただけで、他には彼の国籍を示す特徴は何一つなかった。凹所のそばを通りこす時、彼はゆっくりと顔をうしろに向けた。異様な明るい目はカーテンを焼き通すようだった。トミーは、彼が自分の存在を見破っているのではないかと思って、思わず身ぶるいした。トミーはふつうのイギリス青年に比べて、彼ら以上に夢想的だと言える人間ではなかったが、それでも、この男から何か異常な潜在的な力が放射されているという印象をふり落とすことができなかった。トミーは彼を見て、なんとなく毒蛇を思い出した。
彼の受けた印象の間違いでなかったことは、すぐそのあとで証明された。その男もまた、他の連中と同じようにドアをノックした。しかし、受け入れ態度は全然違っていた。あごひげの男が立ち上がった。他の連中も同じように立ち上がった。あごひげのドイツ人は前に進み出て握手した。靴のかかとを合わせてかちんと音を立てた。
「光栄です。ひじょうに光栄です」と彼は言う。「とても来ていただけないのではないかと思っておりました」
新来者は低い声で答えた。蛇のシューッという音がその声にまじっているような感じだった。
「いろいろとめんどうがあった。今後はとても出られないだろうと思う。しかし、一度だけはどうしても会合を開く必要があるのでな――わしの政策をはっきりさせとくためにね。わしは、そのう――ミスター・ブラウンがいないと何もできないのじゃ。彼はここに来とるだろうな?」
ドイツ人はややためらいがちに返事した。声の変化がはっきり聞きとれた。
「伝言が届きました。ミスター・ブラウンが個人的に出席されることは不可能だということです」彼は、未完の文章のまま口をとざしたような妙な印象を与えたまま言葉を結んだ。
微笑がゆっくりと新来者の顔にひろがっていった。彼は、不安そうな人々の顔を一人一人見まわした。
「ああ、わかってる。彼のやり方は何かで読んだことがある。彼は背後で仕事をして誰も信用しないそうじゃないか。しかし、いずれにしても、彼は、あるいは現在でも、われわれの中にいるという可能性が……」彼は再びみんなを見まわした。再びみんなの顔に不安の表情が浮かんだ。一人一人がとなりの人間を疑わしげにじっとうかがっているようだった。
ロシア人は自分の頬を叩いた。
「それはそれとして、とにかく会議をはじめることにしよう」
ドイツ人はどうやら元気をとり戻したらしく、いままで自分が占領していた上座を彼にゆずろうとした。彼はそれを断わったが、ドイツ人は承知しなかった。
「一号の方にふさわしい席はここだけです。十四号くん、ドアをしめてくれないかね!」
ここで再びトミーはむき出しの木製ドアで目の前をふさがれ、ドアの背後の声は、意味のない呟き声に変わってしまった。トミーはすでに自分の心を制御できなくなっていた。かれらの会話が彼の好奇心をいやが上にもたかめたからである。こうなるとどんな手段を講じても、話のさきを聞きたいものだと思った。
階下からはもうなんの物音も聞こえてこなかった。門番が上にあがって来ることはまずなさそうである。一分か二分、じっと耳をすませてなんの物音も聞こえないのをたしかめると、彼はカーテンの横から頭を出した。廊下には誰もいなかった。身を屈めて、靴をぬぎ、それをカーテンのうしろにかくすと、靴下だけの足でおずおずと歩き、閉まっているドアのそばにひざまずいて、ドアのすき間にそっと耳をあてた。前よりはほんの少しだけましだった。たまに声が高くなった時一語か二語聞きとれる程度である。トミーは大いに困惑した。好奇心はますますつのってくる一方だった。
彼はドアの把手《とって》を横目でにらんだ。どうだろう? この把手を中の人間に気づかれないように、静かに、ゆっくり、少しずつまわしたらどうだろう? 慎重にやれば、できないことはないはずだ。彼は手をのばして、一フィートの何十分の一ぐらいずつゆっくりまわした。神経を極度にとがらせ、じっと息を殺して……もう少し――もう少しだけ――いったいどこまでまわってるつもりなんだろう?
やっとのことでこれ以上はまわらないというところまできた。
彼はそのまま一分か二分待ち、それから息を深く吸って、そっと、ドアを内側に押した。ドアはびくともしなかった。トミーは当惑した。あんまり力を入れるとドアは必ずや、ギギギという音を立てるにちがいない。彼は中の人声が大きくなるまで待って、も一度押してみた。動かなかった。押す力を強くした。このドア、何かにひっかかってるんだろうか? 彼はもうやけっぱちになって力一杯おした。しかしドアは相変わらずびくともしなかった。そのうちにやっと真相がわかった。そうだ、内側にかんぬきか鍵がかかってるんだ!
トミーは、腹立たしさに、も少しで自制心を失いそうになった。
「畜生! ひどいことしやがる!」
腹立たしさがおさまると、彼は、再び事態に直面するだけの覚悟ができた。まず何よりもさきにまわした把手をもとの所に戻すことである。いきなり手をはなせば、きっと中の人間に気づかれる。そこで彼は再びさきほどと同じように、静かに静かに把手を反対のほうにまわしはじめた。万事うまくいった。彼は安堵の溜息をついて立ち上がった。トミーの性質にはどこかブルドッグ的なねばりがあって、なかなか自分の敗北を認めようとはしなかった。王手《おうて》ときめつけられても戦いを放棄しなかった。いまでもまだ、鍵のかかったこの部屋の中の話を聞くつもりでいた。一つの計画に失敗したら、別の計画を捜し出さなければ気がすまなかったのである。
彼は周囲を見まわした。廊下を少し行ったところ左側に二番目のドアがある。彼は静かにそのドアの所までいった。一秒か二秒耳を澄《す》ましたのち把手をまわしてみた。すぐにあいた。彼は中にすべりこんだ。
部屋は、空き部屋で、寝室用の家具がおいてあった。この家の他の品物同様、これらの家具は、がらくた同然にこわれ、ごみやほこりは、ほかのところよりずっとひどかった。
しかし、トミーの興味をひいたのは、左側の窓のそばにあるドアだった。も一つの部屋とこの部屋をつなぐドアで、トミーはこれをあてにしてはいって来たのである。廊下に通じるドアを用心深く閉めると、も一つのドアの所に行って念入りに調べた。閂《かんぬき》がかかっていた。相当さびがついていて一目で長い間使われてないことがわかった。前後に動かしながら、それほど音もたてないでその閂をはずすことができた。それから、さきほどと同じく、把手をまわす仕事にとりかかった。――今度は完全に成功だった。ドアは開いた。すき間はほんのわずかだったが、中の話し声は充分に聞こえてきた。ドアの向こう側にビロードの幕が垂らしてあったので、中を見ることはできなかったが、誰の話し声であるかは、ほとんど間違いなく聞き分けることができた。
話しているのはシンフェイン党員だった。声量の豊かなアイルランドなまりだからすぐにわかった。
「そりゃそれでいいがね。しかし資金が必要だ。金がなけりゃ――成果も上がらない!」
別な声がこれに応じた。トミーはこの声をボリスの声だと判断した。
「それで成果が上がるということは保証しますか?」
「いまから一か月後――そちらの希望によってはそれより早くもおそくもできるが――アイルランドは恐怖のどん底につき落とされて、さすがの大英帝国も根底からぐらぐらにゆすぶられるね、これはわしが保証する」
話が途切れ、そのあと例の第一号の低い、シューシューいう声が聞こえてきた。
「よろしい! 金を出そう。ボリス、手配を頼む」
ボリスが訊ねた。
「いつものとおりアイルランド系アメリカ人とミスター・ポッターを通じてですか?」
「それでいいとは思うがね」と別な声が言う。大西洋の向こう側のアクセントである。「ただ、ここではっきり指摘しておきたいのは、事態が相当困難になっているということだ。今までのような同情がなくなって来てる。アメリカからの介入なしにアイルランドはアイルランド人の手で解決すべきだという意見がだんだん大きくなっている」
ボリスが肩をすくめて(トミーはそう感じた)返事をした。
「そんなこと関係ないと思いますがね。どうせお金は、表面的にアメリカからはいって来ているだけで、実質はそうじゃないんですからね」
「一番困難なのは武器の荷揚げだ」とシンフェイン党員、「資金は割に簡単に手にはいるのだが――ここにおられる同志のおかげで」
別な声が聞こえた。トミーは、例の背の高い、堂々たる紳士、見覚えはあるがどうしても思い出せない顔の持ち主、の声だろうと察した。
「きみの話を聞いたらベルファストの連中はどんな気持を抱くだろうな?」
「それじゃこのことは解決したとして」と蛇のような声、「次に、イギリスのある新聞に対する借款《しゃっかん》だが、ボリス、きみはその細かい点を満足のいくように打ち合わせしておいただろうね?」
「と思いますけど」
「よかろう。必要とあらば、モスクワからの正式否定が出ることになっている」
話が切れた。やがて、ドイツ人の澄んだ声が沈黙を破った。
「わたしは、……ミスター・ブラウンの指示に従って、みなさんに各組合の報告の要約をお見せいたします。鉱山労務者組合の報告が一番満足のいくもののようです。鉄道はおさえつける必要があります。A・S・E〔技術者総連〕との関係がめんどうになるおそれがありますから」
そのあと長い間沈黙がつづいた。ときおり、書類をめくるバサバサいう音とドイツ人の説明の言葉が聞こえてくるだけだった。しばらくして、テーブルをこつこつ叩く音が聞こえてきた。
「それで――決行の日は? 何日なんだね?」と第一号がたずねた。
「二十九日です」
第一号のロシア人は何か考えているようすだった。
「それじゃ、もうすぐじゃないか?」
「そうなんです。しかし、これは労働党の首脳者がきめたことで、われわれとしてはあまり干渉できない状態なんです。自分たちの意志でやっているというふうに信じさせておかなければなりませんから」
ロシア人は愉快そうにくすくすと笑った。
「なるほど、なるほど。そのとおりだ。われわれ独自の目的のために彼らを利用していることは絶対に感づかれてはならない。彼らは実直な人間だからね――だからこそ、われわれにとって値打があるのだ。奇妙なことだが、実直な人間がいなくては、革命を起こすことはできない。大衆の本能ほど確実なものはないからだ」彼は言葉を切った。それから自分の言った言葉が気に入ったのか、も一度同じ意味のことをくり返した。「どこの革命にも、実直な人間がつきものだ。もちろん彼らはそのあとですぐに粛清《しゅくせい》されるけどな」
彼の声の中には無気味な調子がふくまれていた。
ドイツ人が再び口を開いた。
「クライムズは消えてもらうよりほか仕方がないですね。あまり先ばかり見ているようですから。第十四号くん、うまく処置してくれたまえ」
つぶやくようなしわがれ声が聞こえた。
「ようがす。やってみやしょう」それからしばらくして、「それであっしが万一つかまったら?」
「最高の弁護士に弁護してもらう」とドイツ人が落ち着きはらって答えた。「しかしいずれにしても、有名な強盗の指紋をつけた手袋を使ってもらうから心配はいらない」
「いや、あっしはべつに心配しちゃいねえで。みんなりっぱな目的のためと思や、こわがってなんかおられねえだ。街々は血の海に洗い流されるというじゃねえですか?」彼は陰惨な味わいをにじませて、「あっしはときどきそういう夢を見ますだ。道ばたの溝に真珠やダイヤがころがって、みんなが好きなだけ拾ってる夢を!」
トミーは椅子の動く音を聞いた。やがて第一号が口を開いた。
「それじゃ、すべて手筈《てはず》が整ったというわけだ。成功は確実だろうね?」
「……と思いますが」しかし、ドイツ人のこの言葉にはさきほどまでの自信はふくまれていなかった。
第一号の声は急に危険な色あいを帯びた。
「何かまずいことでもあったのか?」
「いいえ、べつに、ただ……」
「ただ、なんだ?」
「労働党の指導者たちです。あなたもおっしゃったとおり、彼らなしにはわれわれも何もできません。もし連中が二十九日のゼネストを宣言しなかったら……」
「宣言しない理由があるのか?」
「あなたもおっしゃったように、彼らは実直な人間です。それで、われわれが彼らの目前で現政府の信用を失墜させるためのあらゆる手を打ったにもかかわらず、彼らは心の奥底で、まだ政府に忠誠心と信頼を持っているようで……」
「しかし――」
「わかっています。彼らは絶えず政府を非難しています。しかし、大きく見て、世論はやはり政府のほうに傾いているのです。政府にたてつくような行動はとらないでしょう」
再びロシア人は指でテーブルを叩いた。
「はっきり要点を言ってくれたまえ。わしが聞いたところによると、成功を保証するようなある種の書類があるということだが」
「それは確かです。もしその書類が指導者たちの前に提出されたら、成果はすぐさまあがるはずです。彼らはそれを英国全土に放送して公表し、一瞬のためらいもなしに革命を宣言するにちがいありません。政府は完全に瓦解するにきまっています」
「それじゃ、文句いうところないじゃないか?」
「問題は書類そのものなんです」とドイツ人はぶっきらぼうに言う。
「ははあ、書類はきみの手にないと言うんだね? しかし、どこにあるかは知っているんだろ?」
「いいえ」
「誰かそれを知っている者がいるのか?」
「一人だけ――たぶん。それも、あまり確信が持てないのです」
「いったい誰だ?」
「女の子です」
トミーは息をとめた。
「女の子?」ロシア人はさも軽べつしたように声を高くした。「それで、まだその女の子に白状させることができないというのか? ロシアでは女の子に白状させる方法は山ほどあるが……」
「この場合はちょっと違うんです」とドイツ人がむっとしたように言う。
「どんなふうに……違う?」彼はちょっと口をつぐんで、それからさらにつづけた。「その娘はいまどこにいるのだ?」
「娘?」
「そうだ」
「いまいる所は……」
しかし、トミーはそれ以上を聞くことはできなかった。頭をがあんと何かでなぐられ、あらゆるものが暗闇の中に消えてしまったからである。
九 タッペンス、女中に早替わり
トミーが二人の男のあとをつけていった時、タッペンスは自分もいっしょについて行きたいのをこらえるため、ありったけの自制心を動員しなければならなかった。しかし、自分の推理の正しかったことを考えて、どうにか自らを慰め、やっとの思いでふみとどまった。二人の男が三階のアパートから出て来たことは疑いもない。これで、リタという名前一つにかかっている細い一本の糸は、二人の若い冒険者を再び、ジェーン・フィンの誘拐者探索の道に向かわせたのである。
問題は、これから何をしたらいいかということである。タッペンスは、ただ手をこまねいていたずらに足もとの草をおいしげらせるのがとても我慢できない性質だった。トミーにはいま充分以上の仕事がある。そのトミーといっしょに尾行できないタッペンスは、急に手もちぶさたになって途方にくれた。彼女は再び、マンションの入口にきびすをかえした。ホールには、エレベーター係の小柄な少年が、真鍮《しんちゅう》の金具を磨いていた。磨きながらも一所懸命力みかえって最新の流行歌を口笛で吹いていたが、それほど音痴でもなさそうである。
タッペンスがはいっていくと、彼はちらりと彼女のほうを眺めやった。タッペンスにはどことなく浮浪児めいた雰囲気があって、とにかく、十五、六の少年とはひじょうにうまが合うのであった。たちまち、二人の間には仲間意識的な好意、きずなみたいなものが結ばれた。彼女は考えた。敵の陣営に味方を一人作っておくのもまんざら捨てたものではない、と。
「ウィリアムくん、なかなかやるじゃないの。ぴかぴかだわ」彼女は早朝の病院で模範看護婦が見せるような快活な口調で話しかけた。
少年はにやりと笑ってこれに応じた。
「アルバートですよ」彼は名前を訂正した。
「アルバートならアルバートでもいいわ」タッペンスは何か秘密めいた態度でホールを見まわした。アルバートが気づかなかったら困るので、ゆっくりと多少大げさにやって見せた。それから少年のほうに身を屈めて、声をぐっと落とし、「きみにお話ししたいことがあるの、アルバート」
アルバートは仕事の手を休めて、口をわずかに開いた。
「見てごらん! これなんだか知ってる?」彼女は映画にでも出てきそうな身振りで、コートの左側を、ぱっと裏返しにしてエナメルを塗った小さなバッジを見せた。アルバートがこのバッジの何たるかを知っていることはまずないだろうが、万一知っていたら、タッペンスの計画も水の泡になってしまうのであった。実を言うと、このバッジは、彼女の父親が戦争の初期に田舎の村で組織した自衛団の記章だった。これがタッペンスのコートについていたのは、たまたま一両日前に、花をとめるピン代わりに使ったからである。しかし、タッペンスはひじょうに目がはやく、アルバートのポケットから探偵小説の三ペンス本がのぞいているのを見てとって、瞬間的に一案を思いついたのであって、その作戦がみごとに効を奏したことはアルバートの目がぱっと大きく見ひらかれたことによってすぐにわかった。魚はうまく餌にくいついたわけである。
「アメリカ探偵局よ!」彼女は小声で鋭く言った。
「かっこいい!」彼はうっとりしたようすで呟く。
タッペンスは、これであたしたちは完全に理解し合ったわけね、と言わんばかりの態度で彼にうなずいて見せた。
「あたしが誰を狙ってるかわかって?」彼女はあいそよくたずねる。
アルバートは、まだまんまるい目をしたまま、息を切らしながら聞き返した。
「アパートにいる人?」
タッペンスはうなずいて、おやゆびで階段の上のほうをゆびさした。
「二〇号室。ヴァンデマイヤーと自称してるけどねえ。ヴァンデマイヤーだなんて、呆れたもんだわ!」
アルバートはポケットに手をつっ込んだ。
「悪い女?」
「悪い女どこのさたじゃないわ。アメリカじゃ、『構え腰のリタ』って呼ばれているしたたか女よ」
「構え腰のリタ?」アルバートは陶然として言う。「すごいな! まるで映画みたいだ!」
まさにそうである。タッペンスは大の映画ファンだった。
「アニーがいつも言ってたよ。あの女、すごく悪い女だって」
「アニーって誰?」タッペンスはさりげなくたずねる。
「あのアパートの部屋つき女中さ。きょうきりでやめるんだって。アニーね、こう言ってた、『アルバート、近いうちにきっと警察が来るわよ。うそ言わないわ』ってね。ほんとだよ。だけど、すごくきれいな女だね?」
「そうね、ちょっと美人ね」タッペンスはさりげなく同意する。「美しいのをうまく仕事に利用しているわけよ。そりゃそうと、エメラルドの指輪かなんかつけてて?」
「エメラルドって? 緑色の宝石?」
タッペンスはうなずいた。
「あたしたちが彼女を狙ってるのは、それなの。あんた、ライズデイルって爺さん知ってる?」
アルバートは首を振った。
「ピーター・B・ライズデイルよ。石油王よ」
「聞いたことあるような気がするけど」
「その宝石は彼の所有物なのよ。世界でも一番りっぱなエメラルド・コレクションでね。百万ドルの値打があるのよ」
「すごいな!」アルバートはうっとりする。「聞けば聞くほど映画みたいだな」
タッペンスは自分の創作が意外に成功して、なんとなく微笑を禁じえなかった。
「まだはっきりした証拠があがってないの。でも、あたしたちはきっとあの女に違いないって狙いをつけてるんだけど」――彼女は大きくウインクしてみせた――「今度こそはとっちめてやるつもりよ」
アルバートは再び喜びの奇声を発した。
「でもね、坊や、このことは絶対に誰にも話しちゃだめよ」とタッペンスが急に真顔《まがお》になった。
「ほんとはあんたにこんな事話しちゃいけないんだけど、アメリカじゃ、一目見りゃこの子は頭のよい子かどうかすぐ見分けつくようにあたしたち訓練されてるのよ」
「おれ、絶対に誰にも話さない」アルバートがむきになって抗議した。「何かおれに手伝えることある? 尾行したり、そういうこと?」
タッペンスはちょっと考えるふりして、それから首をふった。
「今のところ、べつにないわ。でもあんたのこと頭の中に入れておくわ。そりゃそうと、きょうやめるとかなんとか言ってたその娘さん、どうなってるの?」
「アニー? だいぶけんかしたらしいんだ。アニーの言うことにゃ、召使だって、このごろはちゃんとした職業だから、職業婦人として待遇してくれなきゃ、って言うんだ。アニーがなんだかんだって言いふらしてるから、代わりの人間もおいそれとは見つからないと思うよ」
「そうお?」タッペンスは考えこんだ。「ひょっとしたら……」
ある考えが彼女の頭の中で形をつくりはじめた。一分か二分考えたのち、彼女はアルバートの肩を叩いた。
「ねえ、アルバート、あたし脳細胞をフルに回転させてみたんだけど。あなたね、あたしをあなたの従姉《いとこ》とか友だちにしたてて、女中の仕事を捜しているってふうに話してくれないかしら? あたしの言う意味わかる?」
「いいよ、いいよ!」アルバートはすぐに乗ってきた。「おれに委《まか》せな。そんなの朝飯前だ」
「さすがあんたね!」タッペンスはいかにも感心したようにうなずいて見せ、「いつからでも働けますって言ったほうがよくってよ。うまくいったかどうかあたしに知らせてね? あすの十一時ごろまた来るから」
「どこに連絡したらいい?」
「リッツ・ホテルよ」とタッペンスは無造作に言う。「名前はカウリー」
アルバートはうらやましそうに彼女を眺めた。
「いい仕事なんだね、探偵の仕事って!」
「悪かないわ」とタッペンスはアメリカなまりで言った。「ライズデイル爺さんみたいなのがうしろに控えてりゃなおさらだわ。でもね、これがうまくいったら、あたしあんたのことだってちゃんと考えてあげるから、心配することなくってよ」
こう約束すると彼女は、この新しい味方と別れ、足早にサウス・オードレイ・マンションから出ていった。けさの自分の活躍ぶりに大いに満足した。
しかし、ぼんやりしている暇はなかった。彼女はまっすぐリッツに戻ると、ミスター・カーターに簡単な手紙を書いた。メッセンジャー・ボーイに頼んで手紙を届け、それからトミーがまだ戻って来てないのを確かめると、――べつにこれは意外でもなかったし、心配もしなかった――買物に出かけた。買物の途中でお茶をのみ、クリームのたっぷりついたケーキを食べたが、とにかく、買物は六時過ぎまでかかった。へとへとになってホテルに戻って来たが、買った物には結構満足していた。まず安物ばかり売っている衣料品店に行き、それから、古着商を一、二軒まわった。最後はある有名な美容院にいった。そして、いま、こうして自分の部屋で一人っきりになるとさっそく、美容院で買って来た品物の包みをひらいた。五分後、彼女は鏡にうつった自分の姿を見てにっこり笑った。眉ずみで眉の線をわずかに変え、ふさふさとした明るい髪のかつらをかぶると、容貌はまるっきり変わってしまった。これならたとえウィッティントンに正面きって顔を合わせたとしても、感づかれないだろうと、自信満々だった。靴の中には背を高く見せるものを入れるつもりだった。キャップとエプロンをつければ、変装はもっと効果的になるだろう。病院にいた時の経験で、制服を脱いだ看護婦が患者に全然誰だかわからなかったという事実をタッペンスはよく知っていた。
「これでいいわ」とタッペンスは鏡の中の小生意気な娘に向かってうなずいて見せ、声を出して言った。「あんた合格よ」それから、いつもの姿にかえって、食堂に行った。
食事はひとりぼっちで淋しかった。トミーがまだ帰って来ていないのはちょっと意外な気がした。ジュリアスもいなかった。――しかし、これは彼女にとってべつに気にするほどのことではなかった。彼のいわゆる「ハッスル」的行動はロンドン地域だけに限られてなかったし、彼がいたりいなかったりということは、若い冒険者たちも、彼の毎日の仕事の一部として認めていたからである。ジュリアス・P・ハーシャイマーは、従妹の行方不明に関してなんらかの手がかりが得られるとみたら、すぐさまなんのためらいもなしにコンスタンチノープルにでも出かけるような男だった。いままでも、この精力的なアメリカ青年は、スコットランド・ヤードの一部刑事たちに厭世感《えんせいかん》を抱かせるほどうるさくつきまとったし、海軍省の電話交換嬢たちは彼の「ハロー」という声をよく覚えていて、聞くたびにうんざりしていたのである。ある時はパリで三時間も、土地の警察官たちをハッスルさせ、たぶんくたくたになったフランス人の警官に吹きこまれたのであろうが、事件の鍵はアイルランドにあるという考えにとりつかれて、あわててロンドンに帰って来たこともあった。
「きっとアイルランドにでも行っちゃったんだわ」とタッペンスは考えた。「それはそれでいいんだけど、でも、このあたしはどうなるの? およそつまんない! 話したいニュースが山ほどありながら、誰も話す相手がいないんだもの。トミーもせめて電報か何か打って連絡してくれればいいのに。いったいどこに行ったのかしら? 尾行して途中で|まかれた《ヽヽヽヽ》ってことはないと思うけど、尾行で思い出したわ……」タッペンスはここで思いを打ち切ってホテルのボーイを呼んだ。
十分後、彼女は心地よさそうにベッドに横たわって、煙草を喫いながら、ガーナビー・ウィリアムズ著の「少年探偵」という本を読みふけっていた。この本は、何冊かの同じようなけばけばしい三ペンス探偵本といっしょに先ほど食堂のボーイに買ってきてもらったものである。今後アルバートとさらに緊密な関係をつづける上で、こういうローカルカラーは一応自分の身につけておいたほうがいいだろうと考えたからである。
あくる朝ミスター・カーターから手紙が届いた。
[#ここから1字下げ]
親愛なるミス・タッペンス
みごとなスタートぶり、感服のいたりです。ただし、ここで、あなたたちがひじょうな危険を冒しつつあるということを、も一度指摘しておきたいと思います。特にあなたが、手紙で知らせてくださったようなコースをとるつもりでしたら、その危険性はなおさらです。彼らはまったく命知らずの連中で、情けも容赦もない人間なのです。あなたは危険を過小視しておられるのではないでしょうか? ですから、わたしとしてはあなたの身辺保護をお約束できないということを、も一度警告しておきたいと思います。あなたはわれわれに貴重な情報を提供してくれました。今ここで身をおひきになってもけっして差しつかえないのです。いずれにしてもよくよくお考えになって今後の身のふり方をおきめになってください。
もし、わたしの警告をお入れになって、それでも突き進んでおやりになるつもりでしたら、こちらではすべて手はずをととのえているということをお知らせします。あなたはラネリーの牧師館ミス・ダフェソンの所で二年間女中として働いていたということにしておきました。ですからミセス・ヴァンデマイヤーがあなたの身許を調べたかったら、そこに問い合わせるようにと言ってくださればいいのです。失礼ですが、一言二言忠告させてもらいます。できるだけ事実に固執してください――そうすれば正体がばれる危険性がずっと少なくなります。つまり、あなた自身をそのままに出すことです。戦時中は志願看護婦だったが戦後家庭のお手伝いを職業として選んだというふうに。現在そういう娘さんは多勢いますから。そうすれば、あなたの声やマナーの不調和も説明がつくわけです。さもなくば疑惑の目を向けられることもあるでしょう。
とにかく、どのような道をおとりになるにしても、しっかり頑張ってください。
[#地付き]敬具
[#地付き]カーター
[#ここで字下げ終わり]
タッペンスは勇気百倍、ミスター・カーターの警告など一顧《いっこ》も与えなかった。そういう警告にこだわるには、彼女はあまりにも自信がありすぎたからである。
彼女は自分自身のためにある役割、興味|津々《しんしん》たる役割をえがいていたが、それは、多少残念だったが、放棄することにした。もちろん一つの役割をどこまでも演じつづける実力はあると思いこんではいたものの、やはり常識も充分わきまえていたので、ミスター・カーターの理路の整然さを認めざるをえなかったのである。
トミーからは依然としてなんの連絡もなかった。ただ朝の郵便で、「大丈夫」と走り書きした、どことなくうす汚れた葉書が一枚届けられた。
十時半、タッペンスはわずかばかり凸凹のあるブリキ製のトランクを誇らしげにながめた。縄のかけ方もまことに芸術的である。中にはきのう買った身のまわり品がつまっていた。ベルを鳴らして、ボーイにそれをタクシーに積みこんでもらった時には、いささか赤面した。次に彼女はその車でパディントン駅に行き、トランクを荷物一時預り所にあずけた。それから、ハンドバッグを持って婦人待合室の要塞にたてこもった。十分後、変身したタッペンスはいかにも気どったようすで駅を出てバスに乗った。
タッペンスがサウス・オードレイ・マンションのホールにはいったのは十一時二、三分過ぎだった。アルバートは、いいかげんに仕事をしながら、タッペンスの来るのを待ちわびていた。タッペンスがはいっていっても、すぐには彼女だと気づかなかった。気づいた時の彼の表情は驚嘆そのものだった。
「まるっきり見違えちゃった! すごい変装だな!」
「あなたのお気に召してうれしいわ、アルバート」タッペンスはけんそんする。「そりゃそうと、あたし、あなたの従姉、それとも……?」
「わあっ! 声まで変わってらあ」と少年は喜び叫ぶ。「イギリス人そっくりだ! おれの友だちが若い女の子を知ってるんだと言っといた。アニーはあんまり喜んでないみたい。だからきょうもう一日働くことにしたんだって――そうすりゃあんたに、仕事がどんなにいやなものか話してあげられるからって」
「いい子なのね」とタッペンス。
アルバートは全然皮肉が通じなかった。
「彼女、悪い子じゃないし、銀器をみがく腕前なんかたいしたもんだけど――だけど、すごく気性がはげしくってさ。上に行きますか? お乗りになってください。二十号室ですね?」こう言ってウインクして見せた。
彼女はきびしい目つきをして彼をだまらせ、中にはいった。
二十号室のベルを鳴らしている時も、おりて行くリフトの中からアルバートがじっと彼女を見つめている視線を感じた。
スマートな若い女がドアをあけてくれた。
「ここの仕事のことで来たんですけど」とタッペンス。
「ひどい仕事よ!」若い女はなんのためらいもなしにまくしたてた。「意地悪を絵にかいたような人よ! 人の干渉ばかりして。あたしが、あの人の手紙を読んだって怒るのよ。このあたしがよ! その手紙、はじめっから封が半分はがれてたのに。第一紙屑かごの中にまともなものがはいってることなんかありゃしない。みんな焼いてしまうんだもの。とにかくあの女はかたぎの女じゃないわ。すごくいい服着てるけど、全然品がないし。料理女ねえ、きっと何か知ってるわ。――何もしゃべらないわ。――死ぬほどあの女をこわがってるの。それにあの女、とっても疑い深くて! あたしが男の人とちょっと話しても、すぐにかみついてくるんだから。こんなこともあったわ……」
しかし、どんなことがあったのか、タッペンスは永久に知ることはできなかった。というのは、ちょうどその時、奥から、どこか鋼《はがね》のような冷たさを持った澄んだ声が聞こえてきたからである。
「アニー!」
若い女中はまるでピストルで射たれたように飛び上がった。
「はあい」
「誰と話してるの?」
「仕事のことで来た若い女《ひと》です」
「じゃこちらに連れてらっしゃい。すぐに」
「はい、奥さま」
タッペンスは長い廊下の右側にある部屋に通された。暖炉のそばに一人の女が立っていた。彼女が美しい女であることは否定できない事実だったが、若い娘という時期はすでに過ぎ去って、その美貌も、どこか無情な粗雑な感じに変わっていた。娘時代は目の眩《くら》むほどの美人だったにちがいない。多少人工的にタッチしたらしい淡い黄金色の髪は、うなじのあたりで下めに束ねられ、目は突き刺さるようなブルー、彼女の目の前にいる人間の心の奥深くまではいっていく力を持っているようだった。彼女のみごとな身体は、藍色《あいいろ》のしゅすで作ったすばらしいガウンに包まれてなお一層魅力を増していた。しかし、しかしである。うっとりするような優美さ、霊界のものと言ってもいいくらいの美貌の背後に、なにか、冷酷で脅かすようなものの存在を感じさせた。それは一種の金属的な力を帯びていて、彼女の声の調子、錐《きり》のような目に、はっきり表われていた。
タッペンスは恐怖心をおぼえた。こんなことははじめてである。ウィッティントンに対してすら恐れを抱かなかった彼女も、この女は別だと思った。タッペンスは、相手の美しさに魅了されたような顔つきをして、赤いカーブした唇に現われている長い残酷な線をじっと見つめた。そしてもう一度、恐怖の悪寒《おかん》が身体中に走っていくのを感じた。いつもの自信が消え失せ、この女をだますのは、ウィッティントンをだますのとは大違いであろうということを漠然と感じた。
ミスター・カーターの警告が心に浮かんで来た。実際、ここには、情けも容赦もないにちがいないと思った。
尻尾《しっぽ》を巻いて今すぐにでも逃げ出したいという気持を一所懸命おさえつけながら、タッペンスは、女の視線をしっかりと受けとめて、おとなしく、相手を尊敬するような視線を返した。
最初の一瞥《いちべつ》で一応満足したらしく、ミセス・ヴァンデマイヤーは椅子に坐るように手で合図した。
「お坐んなさい。あたしの所で女中を欲しがっていること誰から聞いたの?」
「お友だちがこの家のエレベーター・ボーイを知ってたもんですから。あたしに適応した仕事じゃないだろうか、と言うんです」
再び、毒蛇のような目つきが彼女を突き刺した。
「あなたのものの言い方、高等教育を受けた人間みたいね」
タッペンスはミスター・カーターに教えられた自分の仮の履歴を、割にすらすらと述べたてた。話しているうちにミセス・ヴァンデマイヤーの態度に現われていた緊張感が少し弛《ゆる》んだ。
「なるほど」彼女はしばらくしてこうたずねた。「身許を保証してくれる人いる?」
「一番最近の勤め先は、ミス・ダフェソンという人の所なんです。ラネリーの牧師館です。二年ほどいました。そこに照会してください」
「それで、ロンドンにくればもっとお金になると思ったんだね? まあ、そんなことはどうだっていいけど。あたしんとこじゃ、お給料五十ポンド――六十ポンド、あなたの欲しいだけあげるわ。すぐに働ける?」
「ええ、よろしかったらきょうからでも。荷物はパディントン駅にあずけてあるんです」
「じゃ、タクシーで取ってらっしゃい。仕事は楽なものよ。あたし、ほとんど外出ばかりしているんだから。そりゃそうと、名前はなんて言うの?」
「プリューデンス・クーパーです」
「いいわ、プリューデンス。すぐに荷物をとってらっしゃい。きょうのおひるはあたし外ですることになってるから。いろんなことは料理係のおばさんに聞いてちょうだい」
「ありがとうございました」
タッペンスは部屋からひき下がった。アニーの姿はそのへんには見当たらなかった。下のホールまで行くと、堂々としたホール・ポーターがいて、アルバートは隅のほうにおしやられてしまっていた。タッペンスはおずおずと外に出ていった。彼のほうには一瞥すら投げなかった。
冒険はいよいよはじまった。しかし、けさ感じていたあの昂然《こうぜん》たる気持は半減してしまっていた。彼女はふと考えた。もし、あのジェーン・フィンがミセス・ヴァンデマイヤーの手に落ちたんだったら、どんなにつらい思いをさせられたことだろう、と。
一〇 ジェームズ・ピール・エジャトン卿登場
就職したタッペンスは仕事の上では少しも困らなかった。牧師の娘として家事の訓練は充分に受けていたからである。牧師の娘たちは、「新米女中」の訓練にもたけていた。ただ、その結果、訓練を受けた「新米女中」は、必ずその家を出て他の家に移ってしまうのであった。これは新しく得た知識のおかげで牧師の乏しい財布から出る給料よりはるかにましな給料がほかの所でもらえたからである。
したがってタッペンスは、仕事ができないということで不服を買う心配は全然なかった。タッペンスに不可解なのは料理女のことだった。彼女が自分の女主人をひじょうに恐れていることは一目瞭然だった。たぶん女主人は何か料理女の弱みをにぎっているにちがいない。とにかく、その一事を除けば、料理女はまさに一流の料理屋のコック長そこのけの腕前を持っていた。タッペンスがその腕前を知る機会はその日の晩にやって来た。ミセス・ヴァンデマイヤーの所に夕食の客が一人来ることになっていたのである。タッペンスはぴかぴかに磨き上げられた食器その他をテーブルの上に二人前並べた。いったい誰が来るのだろうと、ちょっと心配だった。ウィッティントンである可能性はひじょうに大きかった。自分の正体を見破られることはまずないだろうと自信は持っていたものの、これがもし他の知らない客だったら、どんなにいいだろうと考えざるをえなかった。しかし、いまとなっては、好運を祈るよりほかどうしようもなかった。
八時少し過ぎ、入口のベルが鳴り、タッペンスは、内心恐れを抱きながら、ドアをあけに行った。客は、トミーが尾行した二人の男のうちのウィッティントンでないほうの男だったので、ほっと胸をなでおろした。客はステパノフ伯爵だと名乗った。タッペンスは女主人に彼の名を告げた。ミセス・ヴァンデマイヤーは低い寝椅子に坐っていたが、うれしそうに呟き声を出して立ち上がった。
「よくいらしたわ、ボリス・イワノヴィッチ」と彼女は言う。
「どうも、どうも」彼は彼女の手をとって身を屈めた。
タッペンスは台所に戻った。
「ステパノフ伯爵だとかなんとか。あの人いったいだあれ?」彼女はわざと好奇心をむき出しにしてたずねた。
「ロシアの方だろ?」
「よくここにいらっしゃるの?」
「ときたまね。どうしてそんなこと聞く?」
「おくさんの恋人か何かじゃないかと思っただけよ」タッペンスはこう弁解して、それからちょっとむくれたような顔をして、「あなた、どうしてそんなふうにつっかかるのよ!」
「スフレのできぐあいが気にかかっていたからさ」と料理女は弁解した。
「あなた何か知ってるのね」タッペンスは心の中でこう思ったが、口に出したのは、「お皿の盛りつけする? いいわ」という言葉だけだった。
テーブルで給仕しながら、彼女は二人の間の会話に熱心に耳を澄ました。この前この人に会った時にはトミーがこの人とウィッティントンを尾行していた時だった。そりゃそうとトミーはどこにいるのかしら? どうしてなんの連絡もないのかしら? 彼女は口に出しては認めないだろうが、心の中ではトミーのことが少し心配になってきていたのである。リッツを出る前に彼女は手紙や伝言は、特別のメッセンジャー・ボーイの手で、近くの小さな文房具屋に届けるように話をつけておいてきた。この文房具屋にはアルバートができるだけ頻繁《ひんぱん》に出入りすることになっていた。トミーと別れたのはほんのきのうの朝だから、心配するだけやぼだ、と彼女は自分に言い聞かせたものの、全然なんの連絡もないということはどう考えても不可解だった。
一心に二人の話に耳を傾けたが、何かの手がかりになるような話は全然出てこなかった。ボリスとミセス・ヴァンデマイヤーはどうでもいいような話ばかりしかしていなかった――最近見た芝居の話、新しいダンスの話、最近の社交界のゴシップ。食事が終わると二人は小さな居間にうつった。ミセス・ヴァンデマイヤーは寝椅子の上に寝そべるように坐り、妖艶《ようえん》とも言いたいような美しさだった。タッペンスはコーヒーとリキュールを持ってきたが、不本意ながらひきさがらざるをえなかった。
ひきさがってすぐ、ボリスがこう言った。
「新しい子だね?」
「きょうから働いているのよ。前の子はほんとにズベ公で。今度の子はよさそうよ。給仕ぶりもしっかりしてるし」
タッペンスはわざとドアを少しあけておいたので、話し声はよく聞こえた。彼女はしばらくドアの外にたたずんだ。
ボリスがさらに言う。
「大丈夫だろうね?」
「ボリス、あなたったらほんとに疑い深いのね。あの娘《こ》はね、ホール・ポーターの従姉だとかなんとかで。でも、あたしがあたしたちの共通の友だち、ミスター・ブラウンと関係があることなんか誰も知ってやしないわ」
「リタ! 何を言うんだ! 気をつけて。あのドア、閉まっちゃいないんだよ」
「じゃ、閉めてらっしゃいよ」
タッペンスは大急ぎでその場を離れた。
召使のいるべき所をあまり留守にするのは危ないと思ったが、それでも、病院の経験を生かしたすごい勢いで食器を洗い、再び居間のドアにそっと戻っていった。料理女はタッペンスよりははるかにのんびりした動作で、まだ台所の仕事をしていた。だから、タッペンスのいないのに気がついたにしても、ベッドのしたくでもしているのだろうと思うにちがいなかった。
残念! 部屋の中の話し声は、ひじょうに低くて、部屋の外からはとうてい聞きとれなかった。といってドアをあけるだけの勇気はなかった。たとえどんなに静かにあけたとしても、ミセス・ヴァンデマイヤーがドアのほとんど真正面にこちらを向いて坐っているからには、手のほどこしようがない。タッペンスは彼女の山猫のような鋭い目の力を高く評価していた。
それにしても中の話し声をなんとかして聞きたいものだとタッペンスはやきもきした。トミーの身に何か予期せざることが起こったのだったら、ボリスの口から彼の消息が聞かれないとも限らない。どうしたら話が聞けるだろうと、必死になって考えた。それからぱっと顔を明るくして、廊下づたいに大急ぎでミセス・ヴァンデマイヤーの寝室にはいっていった。寝室には長いフランス窓がついていて、その窓はバルコニーに通じていた。バルコニーは居間の外までのびている。タッペンスはすばやく窓からバルコニーに忍び出て、できるだけ足音を立てないで居間の外まで行った。予期していたとおり居間のフランス窓はわずかに開いていた。中の声ははっきり聞こえてきた。
タッペンスは全身を耳にして聞いた。しかしトミーのことと思われるような話は全然なかった。ミセス・ヴァンデマイヤーとボリスは何かの問題で意見の相違をきたしているらしい。やがてボリスが苦々しそうに声をはり上げた。
「あんたは年がら年じゅう無鉄砲なことばかりしてる。そのおかげで、われわれみんなが破滅してしまうかもしれないんだ」
「ばかなこと言わないで!」彼女は笑った。「ある程度の悪名は、疑惑を消す最上の方法なのよ。そのうちあなたにもわかるわよ――案外近いうちにね」
「それまでは、ピール・エジャトンとそこらじゅうを遊びまわってると言うんだね。そりゃ、エジャトンは、イギリスでも一番有名な王室弁護士かもしれないけど、彼が犯罪学に特別な関心を持ってることはあんたも知ってるはずだ。まったく気違いざただ!」
「彼の雄弁のおかげで数限りない罪人が、絞首刑をのがれたのも知ってますよ」とミセス・ヴァンデマイヤーは落ち着きはらって答えた。「それがどうだって言うの? あたし自身いつかあの人の力を必要とするようになるかもしれないわ。そうなったら、宮廷《コート》に友人を持っていることがどんなに幸運か――いいえ、もっとはっきり言って法廷《コート》に友人を持っていることがどんなに幸運かわかってよ」
ボリスは立ち上がって部屋の中を大またで行ったり来たりした。ひどく興奮していた。
「リタ、あんたは頭のよい女だ。しかし、同時にばかでもある! ぼくの忠告を聞いてピール・エジャトンとは縁を切ってくれ」
ミセス・ヴァンデマイヤーは静かに首を振った。
「あたしいやよ」
「拒絶するのか?」ロシア人の声にはどこか残忍なひびきがあった。
「ええ、ことわるわ」
「じゃ、われわれにも考えがある……」とロシア人がうなり声をあげた。
しかし、ミセス・ヴァンデマイヤーもすっくと立ち上がって、目をぎらぎらと光らせた。
「ボリス、あなた、忘れてんのね。あたしは誰にも従属してないのよ。あたしに命令できるのは、ただミスター・ブラウンだけよ!」
ボリスは絶望的に両手を上げた。
「あんたってまったく話にならん」彼は呟いた。「まったく話にならん! もう今でも手おくれかもしれないんだ。人の話では、ピール・エジャトンは犯罪者をその場で嗅ぎつけることができるそうだ。彼が急にあんたに興味を持つようになったその裏にどんな底意があるか、実際わかったもんじゃない。今のいま彼はすでにあんたを疑ってるかもしれない。彼は推理を働かせて……」
ミセス・ヴァンデマイヤーは彼をさげすむようにながめて、
「心配ご無用よ、ボリス。あの人何も疑っちゃいないわ。あなたがいつもほど紳士的でないところから察すると、どうやら、あたしが世間一般の人に美人として知られていることをお忘れになってるようね。ピール・エジャトンがあたしに持ってる関心はそれだけよ」
ボリスは疑わしげな顔つきで首を振った。
「彼は、この国のどんな人間よりも犯罪を研究し、犯罪にくわしい人間だ。あんたはその彼をだますことができると思ってるのか?」
ミセス・ヴァンデマイヤーは目を細くした。
「彼があなたの言うような人間だったら、――あたし、面白いからためしてみるわ!」
「むちゃだ、そんなこと」
「それにねえ……」彼女はつけ加える。「……あの人、とってもお金持なのよ。あたしだって、お金は嫌いなほうじゃないし。軍資金調達よ、ボリス、軍資金……」
「金! 金! あんたの弱点は、その金だ。金のためなら魂だって売るんだ、あんたは」彼はゆっくりした口調で話す。その口調には無気味な色合いさえ帯びていた。「ひょっとしたら、金のために仲間を売ることだってするんじゃないかな。ぼくはときどきそういう予感をおぼえる」
ミセス・ヴァンデマイヤーは微笑を洩らして肩をすくめた。
「そうすると莫大な報酬をもらわなきゃ引き合わないわ」彼女は軽く答える。「それこそ、百万長者でなきゃ払えない額よ」
「ああ、やっぱりそうだったのか。ぼくの思ってたとおりだ」とボリスはうなる。
「ボリス、あなたって人、冗談がわからないの?」
「冗談だったのか?」
「もちろんだわ」
「とすると、あんたのユーモアは、ずいぶん変わったユーモアだというほかないね」
ミセス・ヴァンデマイヤーは微笑した。
「喧嘩はやめましょうよ、ボリス。ベル押してちょうだい。お酒でも持ってきてもらうわ」
タッペンスは大急ぎで退却した。途中ミセス・ヴァンデマイヤーの鏡の前に立ちどまって、自分の外見がきちんとしているかどうかたしかめた。それから、まじめくさった顔でベルにこたえて出ていった。
彼女の立ち聞きした会話からおして、リタとボリスがいずれも何かの共謀者であることははっきりしたが、現在彼女の追求している問題に関してはなんの手がかりも得られなかった。ジェーン・フィンの名前は彼らの口の端にすらのぼらなかったのである。
あくる朝、彼女はアルバートと一言二言言葉を交し、文房具屋になんの手紙も伝言も来ていないことを知った。トミーから全然連絡がないということは、どう考えても信じられなかった。ひょっとしたら彼の身に何かが……。冷たい手が、彼女の心臓をぐっとつかんだような気がした。……万一……彼女は自分の危惧《きぐ》の念をむりやりおしつぶした。心配してもなんの役にも立たない。
しかし、ミセス・ヴァンデマイヤーが持ち出した話にはすぐさま飛びついた。
「プリューデンス。あなたはふつう何曜日にお休みをとってるの?」
「ふつう金曜日なんです」
ミセス・ヴァンデマイヤーは眉を吊り上げた。
「金曜日っていえばきょうじゃないの? きのう仕事をはじめたばかりで、まさかきょう休みたいと言うんじゃないでしょうね?」
「お休みにしていただくようにお願いしようかと思っていたんですけど」
ミセス・ヴァンデマイヤーは一分間ばかり余分に彼女を見つめ、それから微笑した。
「その言葉、ステパノフ伯爵に聞かせたかったわ。あの人、昨晩あなたのことをちょっと口にしてたのよ」彼女は猫のように唇の微笑をさらに大きくした。「あんたの要求って、ほんとに――あなたらしいわ。あたし満足よ。もちろんこんなこと言ってもあんたにはわからないでしょうけど。とにかく、あなた、出かけてってもいいわよ。あたし、どうせ家で食事しないんだから、どっちだってかまわないわよ」
「すみません、奥さま」
ミセス・ヴァンデマイヤーがそこを去ると、タッペンスはほっと安堵の胸をなでおろした。彼女は自分がこの美しい女、残忍な目を持った美しい女をひじょうに恐れていることを再度認識せざるをえなかった。
銀器磨きの仕上げをだらだらとやっている最中に、表ドアのベルが鳴った。彼女はドアをあけに行った。今度の訪問者は、ウィッティントンでもボリスでもなかった。目を見はるような容姿をそなえた男だった。背丈《せたけ》はふつうの男よりほんのわずか高いだけだったが、見る人に、堂々たる大男の印象を与えた。顔は、ひげをきれいにそり、ひじょうに微妙な表情の動きを見せ、並々ならぬ実力を如実に示していた。一種の磁力が、彼から放射されているように思われた。
タッペンスは、瞬時、彼を俳優だろうか、それとも法律家だろうかと思い迷った。しかし、彼のほうで自分の名前を言ったので、彼女の疑惑はたちまちにして晴れた――サー・ジェームズ・ピール・エジャトンだった。
彼女は、興味を新たにして、彼を眺めた。そうだったのか、この人がイギリスの津々浦々に知れ渡っている有名な王室弁護士なのか。いつかは首相になるかもしれないという噂まで聞いている。彼は自分の職業の利害関係を考慮して、大臣職についてくれという懇望《こんもう》を拒絶したと言われていた。そしてスコットランドのある選挙区を代表する一介の下院議員の地位に甘んじているということである。
タッペンスは、考えこんだまま、食糧貯蔵室《パントリー》に退いた。ひじょうな感銘を受けたのである。ボリスの憂慮が充分に理解できた。ピール・エジャトンをだますことは容易な業《わざ》ではない。
十五分ばかりしてベルが鳴り、タッペンスは客を外に送り出した。前にも彼は彼女につき刺すような視線を投げかけた。今度も、帽子とステッキを渡しながら彼女は、彼女の内側をかきまわすような彼の視線をひしひしと感じた。ドアをあけて、一歩退くと、彼は入口の所でふと足をとめた。
「この仕事をはじめて、まだ長くないようだね?」
タッペンスはおどろいて目を上げた。彼の目の中に、やさしさと、それから何かはかり知れないものを読みとった。
彼女が返事しないうちに、彼は、すでに返事を聞いてしまったかのようにうなずいて見せた。
「志願看護婦のあとつらい生活をしたね?」
「ミセス・ヴァンデマイヤーからお聞きになったんですか?」とタッペンスが疑わしげな目つきをした。
「いや、きみの顔つきでわかる。ここは働きやすいかね?」
「とってもいいところです」
「ああ、しかし、このごろは、いい所も、たくさんあるからね。たまに場所を変えても、悪かないと思うな」
「あなたのおっしゃる意味は……?」タッペンスがこう言い出した時、サー・ジェームズはすでに階段のそばまで行っていた。彼はふりかえってやさしい鋭い一瞥を与えた。
「ただのヒント。それだけだよ」
タッペンスは前よりいっそう考えこんで食糧貯蔵室《パントリー》に戻っていった。
一一 ジュリアスの話
いかにもお手伝いさんらしい外出着に着がえると、タッペンスはさっそうと「午後の休み」を楽しみに出かけた。アルバートの姿はその辺に見当たらなかったので、彼女は自分で文房具店に行き、手紙や伝言のないことをさっそく確かめた。リッツ・ホテルに戻るとさっそくトミーの消息をたずねた。まだ帰って来ていなかった。予期していたことではあったが、やはり、希望の柩《ひつぎ》にもう一本釘をうちこまれたような気がした。彼女はミスター・カーターになんとかしてもらうことにした。トミーがいつどこで尾行をはじめたかを話し、そのあとどうなったか調べてもらおうと思ったのである。ミスター・カーターの助力ということを考えただけでなんとなく元気が出てきた。次に彼女はジュリアス・ハーシャイマーのことをたずねた。彼は半時間前に戻ってきたがすぐにまた出ていったとのことである。
タッペンスの元気はさらに倍増した。ジュリアスに会えば彼のことだ、なにかトミー探索の方法でも案じてくれるだろう。彼女はジュリアスの居間でミスター・カーターに手紙を書いた。書き終わって宛名を書いている時、ドアがいきなり開いて、
「いったいなんだって……」ジュリアスがどなり出した、がすぐに口をつぐみ、それから、「どうも失礼、ミス・タッペンス。下のフロントのばか者ども、ベレスフォードはもうここにいないんだとぬかすもんだから――水曜日からずっと帰って来てないそうだ。ほんとかい?」
タッペンスはうなずいた。
「あの人の居所《いどころ》、あなた知らない?」
「おれが? おれにどうしてわかる? きのうの朝電報を打っといたんだが、彼からはなんの連絡もない」
「その電報、封をしたままフロントにあるわよ。きっと」
「しかし、彼はいったいどこにいるんだ?」
「知らないのよ。あなた知ってるんじゃないかと思ってたんだけど」
「おれ、水曜日に駅で別れて以来、彼からはなんの連絡もないんだ」
「どこの駅」
「ウォータールーだ。ロンドンから南西に行く鉄道の駅」
「ウォータールー」とタッペンスは眉根にしわをよせる。
「そうだよ。彼から話聞かなかったのかい?」
「あたしも彼には全然会ってないのよ」タッペンスはじれったそうに言う。「いいからウォータールーの話をしてちょうだい。そこであなたたち、何してたの?」
「彼から電話がかかって来たんだ。電話で大急ぎで来てくれと言うんだ。悪者を二人尾行してると言うんだ」
「あ、そう!」タッペンスは目を大きく見ひらいて、「わかったわ。それで……」
「おれは、すぐに出かけた。ベレスフォードは向こうで待ってた。あれが悪人たちだって教えてくれた。大きいほうの男をおれが受け持つことになった。ほら、あんたがはったり利かせてやったあの男さ。トミーはおれの手に切符をにぎらせて汽車に乗れと言った。トミーはも一人の男のあとをつけると言ってた」ジュリアスはちょっと言葉を切って、「こんなこと、あんたはみんな知ってるんだとばかり思ってたのに」
「ジュリアス」タッペンスが強くたしなめる。「そんなに歩きまわらないでちょうだい。あたし、目がまわっちゃうわ。その椅子に坐って話を全部聞かせてちょうだい。できるだけ横道にそれないようにして」
ミスター・ハーシャイマーはすなおに彼女の言うとおりにした。
「いいよ、話、どこからはじめる?」
「さっきやめたところからよ。ウォータールーで汽車に乗ったところから」
「ああ、わかった」ジュリアスは話しはじめた。「おれは、一等の車室に乗りこんだ。イギリスの汽車ってまったく旧式だな。旧式だけどなかなかいかすよ。汽車はもう動き出してた。車掌が来て、すごくていねいな口をきいて、おれの乗ってるのは喫煙車じゃないと言うんだ。おれは五十セントにぎらせてやった。それで話は解決さ。それから廊下づたいに次の車輛にうつって行った。ウィッティントンの野郎いてね。そこにさ。あのスカンク野郎の大きなのっぺりした顔を見た時、やつの手でつかまれた可哀そうなジェーンのことを考えて、おれはピストル持って来なかったのがしゃくでしゃくで。持ってたらやつを思い切りくすぐってやろうと思ったね。
ボーンマスに着いた。ウィッティントンはタクシーをつかまえて、ホテルの名を言った。おれも、同じようにした。三分違いぐらいでホテルに着いた。やつは部屋をとってた。おれも一部屋とった。そこまでは、すごく順調さ。やつは自分が尾行されてることに全然気づいてないみたいだった。やつはホテルのラウンジに坐って、晩飯の時間まで新聞読んだりなんかして、晩飯だってのんびり食べた。
おれは、これじゃ何も起こりそうにないな、と思った。やつ、きっと保養か何かで来たんだろう、とね。ところがわりかし一級のホテルだってのに、やつは食事のため着がえもしてないんだ。というのは、あとでどこかに出かけるつもりなんだな、とおれは思った。ここに来たほんとの用事を果たすためにどこかに出かけるんだな、と思った。
そのとおり、九時ごろ彼は出かけた。タクシーで町を通り抜けて――そりゃそうと、なかなかきれいな所だな。ジェーンが見つかったら彼女を一度あそこに連れてってやろうと思ってる――海岸のがけっぷちの所でおりた。それから、がけの上の松林に沿って歩きはじめた。三十分ぐらい歩いたかな。別荘がいくつもあったけどそれもだんだん数が少なくなって、最後の家の所まできた。大きな家で、松の木の多い広い庭がその家をとりまいてた。
ひどく暗い夜でね、門から家に通じる道は真暗だった。おれは前を歩いてるやつの足音は聞こえたけど、やつの姿は見えなかった。おれは用心深く歩いた。やつが、尾《つ》けられてるってことに気づくとたいへんだからね。おれが曲がり角を曲がった時、やつは、ちょうどベルを押して誰かがドアをあけてるとこだった。おれは自分のいる所に立って待った。雨が降り出してね、そのうちおれはびしょびしょになっちまった。おまけにすごく寒いんだ。
ウィッティントンはなかなか出て来ないし、おれはじりじりするし、とうとうがまんできなくて、その辺をぶらぶら歩きはじめた。一階の窓は全部よろい戸がおろされてたが、二階に(この家は二階建だったけどね)あかりのついてる窓が一つだけあった。カーテンもひいてなかった。
この窓の前のほうに木が一本はえていてね、家から三十フィートばかり離れていたかな。おれは、この木にのぼれば部屋の中が見えるんじゃないかと思いついたんだ。もちろん、その部屋にウィッティントンがいなきゃならないって理由はないし、ほかの人間がいる可能性のほうが大きいんだけどね――まあ金でも賭けるとしたら、ウィッティントンは階下《した》の応接室にいるってほうがあたる率も多いんだが、おれも、雨の中でぽかんと長い間立ってて、すっかり憂鬱になってたもんで、何もしないでじっと立ってるよりは、むだ骨でも何かやってたほうがましだと思ったんだね。そこでおれはさっそく冒険にとりかかった。
なかなか生やさしい仕事じゃなかった! 雨で枝がつるつるしてて、落ちないようにしがみついてるのがやっとさ。それでも、少しずつのぼっていって、やっとのことで窓と同じ高さの所までいった。
ところが、がっかりさ。おれの位置が左によりすぎてるんだ。部屋の中を斜にのぞきこむようなぐあいなんだね。カーテンちょっぴりと、壁紙が一ヤードぐらい見えるだけだ。これじゃ、なんの役にも立ちやしない。だからおれは、くやしいけど、あきらめておりていくことにした。ちょうどその時、部屋の中にいる人間が動いて、壁にその人間の影がうつった――それがなんと、ウィッティントンの影だったんだ!
これを見て、おれの血圧はかっと上がっちまった。どうでもこうでも部屋の中をのぞかなきゃあ、って気持になったんだ。ところでどうしたら中がのぞけるか? おれは考えたね。木の幹から一本の長い枝が右の方にのびてるのに気がついた。それを半分ぐらい行けば、問題は解決するんだけど、ただおれの体重を支えることができるかどうかってのが疑問でね。まあいちかばちかやって見ることにして、枝の上を移動していった。用心に用心を重ねて、おれは一寸刻みに這っていった。枝が、みしみしって音を立てて、いやな感じにゆれるし、下を見ると、落ちても大丈夫だって高さじゃないのさ、しかしとにかく目的の場所まで無事に行きつくことができた。
部屋は、中ぐらいの大きさで、ちょっと殺風景な衛生的な家具がおいてあった。部屋のまん中にスタンドをのせたテーブルがあって、これに向かって坐ってるのは、まちがいもない、ウィッティントン自身だった。彼は、病院の看護婦の服を着た女と話していた。彼女はおれに背を向けて坐ってたから、顔は見えなかった。ブラインドは上げてあったが、窓は閉めてあるので、何を話してるかは全然聞こえなかった。ウィッティントンが一人で話していて、看護婦はただ聞いているだけ、みたいだった。ときどき、彼女はうなずいて見せたが、ときには、首を振った。質問に答えているって感じだった。彼は、相当興奮しているようす――一度か二度、握りこぶしでテーブルを叩いた。雨はもうやんでたし、空は急に晴れはじめた。
そのうち、やつは話のけじめがついたのか、立ち上がった。彼女も立ち上がった。やつは窓のほうを見て何かたずねた。――雨がまだ降ってるかどうかたずねたんだろうと思うけど。とにかく彼女は窓のほうへよって来て外をのぞいた。ちょうどその時、雲の間から月が出てきてね。おれは、その月の光をまともに受けてたから、その女に姿を見られるんじゃないかとぎくりとしちゃった。それで、ちょっとあとずさりしようとした。ところが急に動いたもんだから、くされかかった枝にはむりだったんだね。バリバリとすごい音を立てて、折れっちまったんだ。このジュリアス・P・ハーシャイマーといっしょにね!」
「まあ、ジュリアス」タッペンスは息をつまらせた。「すごいスリルだわ! 先をつづけて」
「さいわいおれの落ちた場所は、やわらかい土の上でね――しかし、それでも、おれの活力を一時停止させるには充分だった。気がついた時には、ベッドに寝かされてた。片方に看護婦(ィッティントンの話してた看護婦じゃない)がいて、片っぽうに、金ぶち眼鏡かけて黒いひげ生やした小柄な男がいた。どこから見てもお医者でございますってタイプさ。おれが彼を見つめてると、彼は両手をもんで、眉を上げた。『ああ、どうやら気がつかれたようだね。けっこう、けっこう』
おれは、こういう時、誰でもが口にする例のせりふを言った。『ぼくはどうしてここに? ここはいったいどこですか?』あとのほうの質問の答えはおれにもよくわかってた。おれの脳髄にはかびもこけも生えてないからね。『看護婦さん、もう大丈夫だから行ってもいいよ』医者がこう言うと、看護婦は、ちゃんと訓練された看護婦らしく、さっさと部屋を出て行った。しかし、出がけに彼女はおれのほうを好奇心いっぱいの目でちらりと眺めた。
この目つきを見て、おれはある考えを思いついた。『それで、先生』おれはこう言いながらベッドの上で身を起こそうとしたが、右足がひどく痛んで、うっとうなった。『ちょっと捻挫《ねんざ》してるだけだ』と医者は言う。『たいしたことはない。二日もしたら歩けるようになる』」
「ちんばをひいてるのさっき気がついてたわ」とタッペンスが言葉をはさんだ。
ジュリアスはうなずいて、さらに話をつづけた。
「『どうしてこんなことになったんですか?』とおれは、も一度たずねた。彼は、ぶあいそうに答えた。『きみは落ちたんだよ。わしの大事な木の大きな枝をへし折って、花を植えこんだばかりのわしの大切な花壇の中にね』
おれはこのお医者が気に入った。ユーモアを解する男のようだし、少なくとも、まともな人間であることはたしかだと思った。『そうでしたね、先生』とおれは言った。『木の枝を折ったのはすみませんでした。花の球根《きゅうこん》は弁償させてもらいます。それでも、先生はぼくがお宅の庭で何をしてたかお知りになりたいんじゃないですか?』『事実には説明が必要だからね』と医者は返事した。『とにかく、何はさておいても、盗みにはいったんじゃないことだけは断言します』
彼は微笑《わら》った。『はじめはそうだと思ったが、すぐにそうじゃないとわかった。そりゃそうとあんたはアメリカ人だね!』おれは名前を言った。『それで先生の名は?』『ドクター・ホールというもんだ、この家は、もちろんあんたも知ってるだろうが、わしの個人経営の療養院だ』
おれは知らなかった。知らなかったけど知らないと言ってあえて相手に|ちえづける《ヽヽヽヽヽ》こともないと思ってね。しかし彼の知らせてくれた情報には感謝した。おれは、この男が気に入ったし、彼がやつらの仲間でないことも確信していたが、話を全部彼に打ち明けるつもりはなかった。第一、話したところで、おそらく信じなかっただろうと思う。
おれは、一瞬のうちに何を言ったらいいか、心にきめた。『ドクター、こんなこと言うと笑われそうでいやなんですけど、一応話しておかないと気がすみませんから、言います。ぼくがビル・サイクス〔ディケンズの『オリバー・ツイスト』に出る強盗〕のような仕事でここに来たんじゃないってことは信じてください』こう言って、おれは女の子がどうのこうのって話をぼそぼそ話してやった。彼女に対して保護者としての責任があるとか、神経衰弱にかかったとか、だからここに偵察に来たんだ、とか話してきかせた。
彼が予期していたのもこれと似たりよったりの話だろうと思う。おれが話し終わると、彼はあいそよく、『たいしたロマンスだね』と言った。おれは医者にこうたずねた。『ドクター、正直に話してくれませんか? ここに、いや今でなくても以前でもいいですよ、若い娘でジェーン・フィンという名の患者はいませんでしたか?』彼は名前をくり返し言って考えた。『ジェーン・フィン? いや、いなかったね』
おれはがっかりした。その気持は顔にもはっきり出たと思う。『たしかにいなかったですか?』『たしかだね、ミスター・ハーシャイマー。珍しい名前だから、いたらきっとおぼえていたはずだ』
これで何もかもおじゃんだ。おれは一瞬ぽかんとしてしまった。とうとう目的地についたと思ってたんだからね。『まあ仕方ないな』とおれは呟いて、それから、『そりゃそうと先生、も一つ聞きたいことがあるんですけどね。あの木の枝にぶら下がってた時、ぼくの昔の友人があなたのところの看護婦の一人とお話しているのを見たんですが……』おれはわざと名前は言わなかった。ウィッティントンもここでは別の名前をつかってるかも知れないと思ったからね。だが医者はすぐに答えた。『ミスター・ウィッティントンのことだろう? きっと』『そうなんです』と答えておれはさらに、『あの男ここで何をしてるんです? まさかあの男の神経も故障起こしてるわけじゃないんでしょう?』
ドクターは声を出して笑った。『いや、あの人は、うちの看護婦の一人に会いに来たんだ。イーディスという看護婦でね、彼の姪《めい》だそうだ』『へえ、ほんとですか! それでまだここにいますか?』『いや、すぐ町に帰っていったよ』『それは惜しいことした!』とおれは残念がって、それから『じゃ、その姪の看護婦さん――イーディスとかいう看護婦さんにお話できませんか?』
ところが、ドクターはまた首を振って、『それもだめだね。イーディスも、今晩患者といっしょに出て行ったんだ』『まったくついてないなあ。ミスター・ウィッティントンの住所ご存じじゃないですか? ロンドンに帰ったらぜひたずねてみたいんです』『あの人の住所は知らないけど、なんだったらイーディスに手紙で問い合わせてあげようか?』『そうしていただけるとありがたいですね。ただぼくの名前は伏せておいてください。いきなり行っておどろかせてやりたいもんですから』
この時点でおれのできることと言えば、せいぜいこのくらいだった。もちろん、彼女がほんとうにウィッティントンの姪だったら、そんなわなに落ちやしないだろうけど、とにかくやってみても損はないと思ったんだ。次におれはベレスフォードに電報打って、おれのいる所を知らせ、足の捻挫で寝ているから忙しくなかったら会いに来てくれと言っておいた。電報や手紙の内容には気をつけなきゃと思ったんだ。ところが彼からはなんの連絡もないし、おれの足もすぐによくなった。ほんとうの捻挫でなくて、筋を違《ちが》えただけだったらしい。それで、きょう、ドクターにさよなら言って、看護婦のイーディスさんから連絡あったら知らせてくれと頼んでおいた。それからまっすぐここに帰って来たんだ。おや、ミス・タッペンス、あんたの顔色、すごく悪いよ」
「トミーのことよ」とタッペンス。「何かあったんじゃないかしら?」
「元気出せよ。大丈夫だよ。何も心配することないと思う。考えてみると、彼が尾行してた男は外国人みたいだったから、二人とも、外国にでも行ったんじゃないかな――ポーランドかどっかに?」
タッペンスは首を振った。
「旅券も何もなしに行けるはずないわ。第一、あの男はあたし、そのあとで顔を合わせてるんですもの。ボリス何とかって名前よ。きのうの晩、ミセス・ヴァンデマイヤーと食事をいっしょにしてたのよ」
「ミセス・誰?」
「あら、忘れてたわ。あなたまだ何も知らないのね」
「耳すまして待ってるよ」とジュリアス。そして例のお気に入りの言葉をつかった。「おれに|ちえづけて《ヽヽヽヽヽ》くれ」
そこでタッペンスは過去二日間の出来事を逐一《ちくいち》話して聞かせた。ジュリアスはおどろくやら、感心するやら……。
「すごいな! あんたが召使の仕事をするなんて? まったく実に愉快だ!」それから急にまじめな顔をして、「しかしだな、おれ、あんまりいい気持しないね、ミス・タッペンス。ほんとだよ。あんたは実に大胆だが、できれば、あんまり深入りしてほしくないな。おれたちが相手にしている悪人どもは、男だろうと女だろうと容赦なく殺《ば》らしてしまうやつらだからね」
「あたしがこわがってるとでも思ってるの?」とタッペンスは腹立たしげに言う。言いながらも、ミセス・ヴァンデマイヤーの目のおくにひそんでいるあの鋼鉄のような光を思い出し、その記憶を勇敢に払いのけた。
「前にもおれは、あんたがすごく大胆だと言ったけど、それだからって、現実は現実だよ」
「あたしのことなんかほっといてちょうだい!」タッペンスはじれったそうに言う。「それよりトミーの身に何が起こったのか真剣に考えましょうよ。あたし、そのことでミスター・カーターに手紙書いたのよ」と、その手紙の内容をかいつまんで話した。
ジュリアスは重々しくうなずいてみせた。
「それはそれでいいと思うけど、ほんとはおれたちの手で、積極的になんとかしなけりゃならないんじゃないかな」
「あたしたちに何ができて?」タッペンスは急に元気づいてきた。
「ボリスの動静をさぐるのが一番だと思う。あの男、あんたの所に来たって言ってたね? また、来ると思う?」
「かもしれないわ。でもわかんない」
「なるほど、それじゃこうしたらどうだろう。おれは車を買う。うんと高級車をね。それから、おれはお抱え運転手の制服を着て、マンションの外で張りこむ。ボリスが来たらあんたが合図か何かして、おれが彼のあとをつける、ってのどうだい?」
「すばらしいわ。でも、あの人、何週間も来ないかもしれないじゃないの」
「運を天に委《まか》せるよりほかないね。この計画に賛成してくれてありがとう」彼は立ち上がった。
「どこへ行くの?」
「もちろん、車を買いにさ」ジュリアスは不思議そうに答える。「どんな車がいい? どうせあんたも乗ってまわることになるだろうから」
「そうね」タッペンスは半信半疑の声音で、「あたしはロールス・ロイスが好きだわ、でも――」
「いいね。あんたの言うとおりにする。一台買ってこよう」
「でも、すぐには手にはいらなくってよ。みんな何年も待ってるんですもの」とタッペンスは声を上げた。
「ジュリアス坊やは待たないよ」とハーシャイマーは自信ありげに言う。「心配しっこなし。三十分もしたら車で帰ってくるから」
タッペンスも立ち上がった。
「ジュリアス、あなたってとっても親切な人。でも、今の計画ちょっと望みがうすいみたいな感じ。ほんとうは、あたし、ミスター・カーターに望みをかけてるのよ」
「おれだったら、望みかけないね」
「どうして?」
「ちょっとそう感じただけさ」
「でも、きっと何かしてくれるわよ。ほかに誰もいないんですもの。そりゃそうと、けさ起こった妙な事、あなたに話すのを忘れてたわ」
こう言って彼女は、サー・ジェームズ・ピール・エジャトンとの出会いについて、彼に話して聞かせて、ジュリアスは関心を示した。
「その男、何を言わんとしてるんだろう? あんたはどう思う?」
「よくわからないわ」とタッペンスは考えこむ。「でもね、偏見的な法律家らしいやり方ではなしに、あいまいな、法律的なやり方で、あたしに警告してるんじゃないかと思うの」
「どうしてそんなことするんだろう?」
「わかんない」とタッペンスは正直に認めた。「でも、あの人、とても親切で、すごく頭のよさそうな人に見えたわ。あたし、あの人の所に行って何もかも話してもいいんじゃないかと思うのよ」
ちょっと彼女には意外に思われたが、ジュリアスはこの考えを強く否定した。
「いや、弁護士なんかに介入してもらいたくないね。どうせ、こっちの役に立ちっこないよ」
「あたしは、できると思うのよ」とタッペンスが頑固にやり返す。
「そういうふうに考えないほうがいいね。じゃ、行ってくる、三十分で帰ってくるからね」
三十五分たって、ジュリアスは戻って来た。彼はタッペンスの腕をとって窓ぎわに連れていった。
「ほら、あそこにある」
「まあ!」タッペンスは、大型のぜいたくな車を見おろして、崇敬《すうけい》の念をこめた嘆声を発した。
「自慢じゃないけど、たいした走り方だよ」とジュリアスは満足そうに言う。
「どうして手に入れたの?」とタッペンスはのどをつまらせて言う。
「ちょうどあるお偉方の所に配達されるところだったんだ」
「それで?」
「おれはそのお偉方の家に行った。あんな車ならまず二万ドルの値だろうと思ったんだ。だからおれはそのお偉方に、あんたが手をひけばあの車はおれには五万ドルの値打がある、と言ってやった」
「そうしたら?」タッペンスがうっとりした声で言う。
「そしたら、彼氏、手をひいた。それだけさ」
一二 困った時の友人
金曜日と土曜日は、何事もなく過ぎ去った。その間、タッペンスは、ミスター・カーターから簡単な返事を受けとった。その手紙で、ミスター・カーターは、若い冒険者たちが、今度の仕事を、危険承知で引き受けたこと、その危険はまえもって充分に警告してあることを指摘し、もしトミーの身に何かが起こったとしても、残念ながら自分としてはどうすることもできないと書いてあった。
これは、タッペンスにとって、つれない言葉だった。トミーがいないと、冒険もなんとなく味気なくなって、彼女にははじめてであるが、成功すらなんだかおぼつかないものに感じた。二人いっしょにいる時は、自分らの成功にいささかの疑念も抱いていなかったのである。いままでいつも彼女のほうで指導権をにぎり、自分の頭の回転の速さに誇りを抱いていたが、実際は、当時自分では意識しないで、トミーを頼りにしていた。トミーには何かまともな冷静なものがあり、彼の常識、洞察力の堅実さは常に厳として不変、彼なしでは、タッペンスも舵《かじ》のない船のような気持をおぼえていたのである。トミーよりはるかに頭のいい(これは疑いのない事実である)ジュリアスが同じような心の支えを彼女に与えないのは不思議なくらいだった。彼女はよくトミーを悲観論者だと非難し、事実彼も、彼女自身が楽天的に無視しがちだった物事の不利な面、困難な面を常に見つめてはいたが、それでいて彼女は、実際において彼の判断をひじょうに重視していたのである。彼は頭の回転こそのろいかもしれないが、ひじょうに確実だった。
彼女は、軽い気持で引き受けたこの仕事が、いかに無気味な性質のものであるかを、はじめて認識した。はじめはロマンスのページをめくるような気持だったが、いまは、華やかな外装をはぎとられて、陰鬱な現実に変貌しつつあるようだった。トミー――いま大切なのはトミーのことだけである。一日のうち何度か、タッペンスはにじみ出てくる涙をぐっとこらえて「あんたもばかね、そりゃあなたがあの人に愛情をもってるのは当然よ、子供の時からずっと知ってる仲ですもの。でも、そんなに感傷的になる必要がどこにあって?」と自分に言い聞かせるのであった。
一方、ボリスはその後、全然姿を現わさなかった。アパートには一度も来ないし、外で車に乗って待っているジュリアスの努力も、どうやらむだ骨に終わりそうだった。タッペンスは新たにあれこれと思案をめぐらしはじめた。ジュリアスの反対に一分の理があることを認めながらも、彼女はジェームズ・ピール・エジャトン卿の援助を求める考えを全然放棄してしまったわけではなかった。実をいうと、紳士録で彼の住所を調べさえもしたのである。あの日、あの人はあたしに警告の意味であんなことを言ったのだろうか? もし、そうだとしたら、なぜだろう? 自分にだってあの言葉の説明を求める資格はあるはずだ。あの人はあたしをあんなにやさしく眺めてくれた。ひょっとしたらミセス・ヴァンデマイヤーに関して何か話してくれるかもしれない。そして、それは、トミーの行方を捜す何かの手がかりになるかもしれない。
タッペンスは、例の如く肩をぶるぶるとふるわせて、とにかく、やってみよう、やってべつに損のいくことでもない、と心に決めた。日曜日の午後は、彼女の外出日だった。ジュリアスに会って、自分の考えを話し、彼を説得し、二人で捨て身になって彼にぶつかってみよう、と決心した。
その日が来た。ジュリアスを説得することは容易なわざではなかった。しかし、タッペンスはあくまで頑張った。「やってみたってべつに損はないでしょう?」というのが、彼女の持論だった。とうとうジュリアスも、かぶとを脱いで、カールトン・ハウス・テラスに車を走らせた。
ドアをあけたのは、非の打ちどころもない執事だった。タッペンスはいささかどぎまぎした。なんだかだと言っても結局自分の行動は、図々しいの一言に尽きるのではなかろうか? 彼女は「ジェームズ卿はご在宅ですか?」とたずねないで、もっと個人的な態度をとることにした。
「すみませんが、ジェームズ卿に二、三分会っていただけるかどうかたずねてくださいませんでしょうか? 大切な伝言があるんです」
執事は家の中にはいっていったが、すぐまた姿を現わした。
「お会いになるそうです。どうぞこちらへ」
彼は二人を家の奥にある図書室ふうの部屋に案内した。書物のコレクションは実にりっぱなもので、壁の一つは完全に犯罪と犯罪学に関する書物で埋められていた。ふんわりした革張りの椅子が数脚。旧式の暖炉が大きく口を開いている。窓際にはまき上げ式のおおいのついた机があって、その上に書類が一面に散らばっていた。ジェームズ・P・エジャトン卿はこの机に向かって坐っていた。
二人がはいって行くと同時に、彼は立ち上がった。
「何か伝言を持ってきてくれたそうだが……」――彼はタッペンスの顔を見てすぐに思い出したらしく、微笑を浮かべて――「ああ、あんただったのか? ミセス・ヴァンデマイヤーからの言伝《ことづ》てかね?」
「というわけじゃないんです。正直に言いまして、実は、中に入れてもらうためにああいう口実を作っただけなんです。あのう、こちら、ミスター・ハーシャイマーです」
「はじめまして」ジュリアスは元気よく手をさしだした。
「お二人とも、おかけになってください」サー・ジェームズは椅子を二つ前のほうにひっぱり出した。
「ジェームズ卿」とタッペンスは大胆に話の要点につき進んだ。「こんなふうにいきなりおうかがいしてきっと図々しい女だとお思いになるでしょうが。……というのは、もちろん、あなたとは全然無関係の問題ですし、それにあなたは有名な方、あたくしやトミーはとるに足らない人間で……」彼女は言葉を切って息をついた。
「トミーって?」とジェームズ卿は、アメリカ人のほうをながめやってたずねた。
「いいえ、この人はジュリアスです」とタッペンスは説明した。「あたし、なんだかすっかりあがっちゃって、話のつじつまが合わないと思うんですが、あたしがぜひあなたにお会いしてお聞きしたいと思ったのは、この前あなたのおっしゃったこと、あれ、どういう意味であんなことおっしゃったのか、それが知りたかったのです。あれ、ミセス・ヴァンデマイヤーに気をつけろという警告だったんじゃありませんか? そうでしょう?」
「いやいや、わたしのおぼえている限りじゃ、あれは、ただほかの家でも、同じぐらいの待遇の仕事はあるだろうと言っただけだが」
「それはわかります。でも、あれは何かの暗示だったのではありません?」
「かもしれないな」とサー・ジェームズはまじめな顔つきをする。
「でしたら、もっとくわしく知りたいんです。どうしてあたくしにそういう暗示を与えてくださったのかぜひ知りたいんです」
サー・ジェームズは彼女の熱心さに微笑を返した。
「うっかり彼女のことを悪く言って、彼女に名誉毀損《めいよきそん》で訴えられたら……」
「法律家がとても用心深いってことはあたくしも存じ上げています。でも、まず『権利を侵害せずに』と宣言しておいて、それから、言いたいことを言ったらいいんじゃないですか?」
「そうだね」彼は、なおも微笑を浮かべたまま、「じゃ、|権利を侵害せずに《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》、もしわたしに妹がいて、生活のために働かなきゃならないとすると、その妹をミセス・ヴァンデマイヤーの所で働かせるのは、ちょっと考えものだと思うね。だから、あんたにああいう暗示を与えるのが、わたしの義務だと思ったのだ。無経験の若い女性が働くような場所じゃない。わしの言えることはこれだけだ」
「そうですか」とタッペンスは考えながら言う。「どうもありがとうございます。でもあたし、全然無経験な女じゃないんです。あの家にはいった当初から、あのひとがよこしまな女だってことは知ってました――実を言うと、彼女がそうだからこそあたしはあの家に……」彼女は、弁護士の顔に表われた不審の表情を見て、ふと口をつぐみ、それからさらに話をつづけた。「ジェームズ卿、あなたには何もかもお話し申し上げたほうがいいと思います。どうせかくしだてしてもあなたにはすぐにわかるにきまってますから、いっそのこと話のはじまりから全部知っていただいたほうが楽です。あなたはどう思う、ジュリアス?」
その時まで黙って坐っていたジュリアスはこれに答えて、「あんたはもうすでにそういう気持になってるんだから、事実を言うよりほかないね」
「そうですね。すっかり話したほうがいいだろう。また、そのトミーというのが誰だか知りたいね」
こう促されて元気づいたタッペンスは、事のいっさいをはじまりからぶちまけた。ジェームズ卿は熱心に耳を傾けた。
「ひじょうに興味深い話だ」話し終わった時、彼は言った。「あなたの話のうち大部分はすでにわたし自身知っていることだ。そのジェーン・フィンのことも、わたしなりの説を持っている。あんたたちも今までのところ、なかなかうまくやってきたようだが、ただ、その――なんていう名前だったかな?――ミスター・カーターだったな。そのミスター・カーターがあんたたち二人をそういう事件にまきこんだってのはあまり感心しないね。そりゃそうと、ミスター・ハーシャイマーはこの事件とどういう関係があるのかね? その点まだはっきり聞いてないが……」
ジュリアス自身がこれに答えた。
「ぼくは、ジェーンの従兄にあたるんです」こう言ってジェームズ卿の鋭い視線を見返した。
「ああ!」
「ジェームズ卿。トミーはいったい、どうなったんでしょう? あなたはどうお考えになりまして?」
「ふうむ」ジェームズ卿は立ち上がって部屋の中をゆっくり行ったり来たりしはじめた。
「あなたたちがここに来られた時、わたしは、ちょうど荷作りをしてたんだがね。夜行でスコットランドに行く予定だったのだ。二、三日、釣りでもして来ようと思ってね。しかし、ほかの釣りだってあるからね。わたしは出かけないでおこう、そして、その若い人の居所《いどころ》を、つきとめられるかどうか調べてみよう」
「よかったわ!」タッペンスはいかにもうれしそうに両手をにぎりしめた。
「いずれにしても、さっき言ったとおり――ミスター・カーターがあんたたち若いしろうとをこんな仕事につけるってことはまったく無謀なことだな。といって、怒らないでくださいよ、ミス……」
「カウリー。プリューデンス・カウリーです。でも友だちはみんなタッペンスと呼んでますわ」
「じゃ、ミス・タッペンスと呼びましょう。わたしも友だちの一人になると思うからね。とにかく、わたしがあなたを若いと言ったからって、怒らないでくださいよ。若さというのは、時には始末におえないほど大きくなるのが欠点でね。ところで、あなたのお友だちのトミーのことだが……」
「はい」タッペンスは両手を握り合わせた。
「率直に言って、事態は彼にとってひじょうに不利だな。歓迎されざる場所に押し入ったわけだから。これは疑問の余地ない事実だ。しかし、あきらめてはいけないよ」
「それじゃほんとうに力を貸してくださるんですか? ジュリアス、ほらみてごらんなさい。この人、お宅にうかがうのいやだって言ってたんですよ」彼女は説明するような口調でつけ加えた。
「ほう」と弁護士はも一度ジュリアスのほうに視線を投げて、「それはどういうわけで」
「こういう些細な私事であなたに心配かけちゃ悪いと思ったもんですから」
「なるほど」彼はちょっと沈黙し、「あなたのおっしゃるその些細な私事は、ひじょうに大きな問題、あなたやミス・タッペンスの想像をはるかに超《こ》える問題につながっているのです。その若い人が生きていれば、ひじょうに貴重な情報をわれわれに与えてくれるかもしれません。ですから、どうしても彼を見つけるべきです」
「ええ、でも、どういうふうにして?」とタッペンスが声を上げた。「あたし、いろいろと考えてみたんですけど」
ジェームズ卿は微笑した。
「それでも、彼の行方を知っているに違いない人間が、すぐ手近な所にいるじゃないですか? その人間は少なくとも、どういう所にいるかぐらい知っているはずだ」
「それ、誰ですの?」とタッペンスがけげんな顔つきをする。
「ミセス・ヴァンデマイヤーだよ」
「それはそうですけど、でも、あの人がそんなことを話すはずはありませんわ」
「そのとおり。そこにわたしの役割があるんだよ。|わたしなら《ヽヽヽヽヽ》、彼女から、知りたいことを聞き出せるだろうと思う」
「どういうふうにして」タッペンスは目を大きく見開いてたずねた。
「どうしてって、ただ聞くだけでいいんだ」サー・ジェームズは軽く答えた。「わたしたちのやり方はいつでもそうなんだ」
彼は指先でテーブルを叩いた。タッペンスは、再び、彼の身体から強烈な力が放射されるのを感じた。
「それで彼女が話さなかったら?」ジュリアスがいきなりたずねる。
「いや、たぶん話すだろう。わたしは、彼女の口を開かせる強力な|てこ《ヽヽ》を一つ二つ持ってるからね。それがきかない場合にはいつでも買収という手がある」
「そうですね。そうなったらこのぼくがひかえてます」ジュリアスは声を大きくして、テーブルを握りこぶしでがあんと叩いた。「必要とあらば、百万ドルぐらいなんとかしますよ。ええ、百万ドルぐらいなら大丈夫です」
ジェームズ卿は坐ったまま、しばらくじっとジュリアスを吟味していた。やがて、
「ミスター・ハーシャイマー。百万ドルといえばたいへんな金額ですよ」
「仕方ないですよ。あの連中は六ペンスで我慢するような人物じゃありませんからね」
「現在の為替相場でいけば、優に二十五万ポンドを越す金額ですよ」
「そうです。たぶんあなたは、ぼくがほらをふいていると思ってらっしゃるんでしょうが、そのぐらいの金なら、すぐに用意できます。もちろんあなたの謝礼も充分するつもりですが」
ジェームズ卿はちょっと顔を赤らめた。
「謝礼の心配は要《い》りませんよ、ミスター・ハーシャイマー。わたしは私立探偵じゃありませんからね」
「失礼しました。ぼくはどうも口が軽くてね。ただ、お金のことじゃ、最近ちょっと憂鬱になってたんですよ。というのは、四、五日前、ジェーンの消息を知らせてくれた人には多額の謝礼を出すつもりだと言ったところ、警視庁じゃ、そういうことしないほうがいいというんです。望ましからざることだというんですね」
「まあ、それが当然でしょうね」とサー・ジェームズは無愛想に言う。
「でも、ジュリアスさんは大丈夫なんですよ」とタッペンスが口を入れた。「冗談を言ってるんじゃないんです。実際にたいへんなお金持なんです」
「親父が儲けてくれた金ですがね」とジュリアス。「とにかく、問題を片づけましょう。あなたはどういう計画を考えてらっしゃるんですか?」
サー・ジェームズは、ちょっとの間考えこんだ。
「むだな時間を費やしている場合じゃない。早ければ早いほどいい」彼はタッペンスのほうを向いて、「ミセス・ヴァンデマイヤーは今晩、外で食事かね?」
「ええ、そうだと思います。でも、帰りはそんなにおそくないはずです。おそくなるんだったら鍵を持って行くはずですから」
「よろしい。それじゃ、わたしは、十時ごろ訪ねて行きましょう。あなたは何時に帰ることになってる?」
「九時半か十時ごろ。でも早く帰ってもいいですわ」
「いや絶対にそういうことしちゃいけない。いつもの時間どおり外出していないと、変に疑われる可能性がある。九時半に帰るようにするんだな。わたしは十時に行く。ミスター・ハーシャイマーは下で待っているといい。タクシーか何かで」
「買ったばかりのロールス・ロイスがあるんです」とタッペンスが彼にかわって得意げに言った。
「それは好都合だ。うまく彼女から住所を聞き出せたら、すぐにそこへ出かけることになるだろうし、必要とあらば、ミセス・ヴァンデマイヤーも連れていかなきゃならないかもしれない。わかったかね?」
「ええ」タッペンスはうれしそうにぴょんと立ち上がった。「あたし、気持がとても晴れ晴れしてきたわ」
「あんまりあてにしちゃいけませんよ、ミス・タッペンス。気張らないで徐々に」
ジュリアスはジェームズ卿に向かって、「じゃ、ぼくは九時半ごろ迎えに来ればいいですね」
「それがいいでしょう。車を二台表に待たせてもむだですからね。それじゃ、ミス・タッペンス、今晩は晩飯にごちそうでも食べて、それも、うんとおいしいものを食べるんですよ。そして、余計なとり越し苦労はしないように。いいですか?」
彼は二人と握手を交した。そのあとすぐに二人は外に出た。
「あの人、すてきじゃない!」タッペンスは玄関の石段をうれしそうにとびおりながら言う。「ねえ、ジュリアス、すてきな人だと思わない?」
「そうだね、たいした人物だってことはおれも認めるな。彼の所に行くのはむだだと言ったおれは間違ってたようだ。すぐにリッツへ帰る?」
「あたし少し歩きたいわ。とっても興奮してて。ハイドパークでおろして。あなたもいっしょに来る?」
ジュリアスは首を振った。
「ガソリンを買わなきゃなんないし、それに電報も一、二通打たなきゃなんないから」
「じゃいいわ。リッツで七時に会いましょう。食事は部屋でいただくわ。こんなはでな外出着で食堂に出られたもんじゃない」
「いいよ、フェリックスに献立《こんだて》を頼もう。彼氏は、なかなか話せる給仕長だ。じゃ、あとでね」
タッペンスは時計を眺めて、それから軽やかな足どりで、サーペンタイン池のほうに歩いていった。もう六時近くだった。きょうは午後のお茶も飲んでない。しかし、興奮のあまり、空腹が全然気にならなかった。ケンシントン・ガーデンズまで歩いていくと、再びもと来た道へ戻っていった。新鮮な空気と適宜な運動でずっとよい気持になっていた。サー・ジェームズの忠告に従って何もとり越し苦労しないということは、不可能だった。今晩どんなことが起こるだろう? 頭の中であれこれと考えた。ハイド・パーク・コーナーに近づくと、ちょっと、サウス・オードレイ・マンションによってみたいという誘惑が、ひじょうに強くなった。
とにかく、行くだけ行って、建物を見てくるぐらいならべつに悪いことはないだろう。そうすれば十時まで辛抱強く待つ元気も出るかもしれない。
サウス・オードレイ・マンションは、見たところいつもと全然変わりはなかった。何を期待していたのか、タッペンス自身もわからなかった。しかし、がっしりした赤煉瓦の建物を一目見たとたん、彼女の心の中で徐々に大きくなっていた全然理由のない不安が、少しばかりやわらげられたような気がした。向きを変えてその場を立ち去ろうとした時、ピーッと鋭い口笛の音が聞こえた。そして、例の忠実な部下、アルバートが、建物から一目散に走り出して彼女の所にやって来た。
タッペンスは眉をしかめた。これは予定にないことだった。この近所に彼女が来ていたことを人に知られてはまずい。しかし、アルバートは興奮をおさえかねて顔を紫色にしていた。
「あのさ。彼女、出て行くよ」
「誰が出て行くって?」タッペンスはきびしい口調で聞き返した。
「あの女ギャングさ。構え腰のリタさ。いま荷作りしてる。いまさき、おれんとこへ、タクシーを呼んでくれと言ってきたばかりだ」
「ほんと?」タッペンスは彼の腕をつかんだ。
「ほんとだとも。ひょっとしたらあんた知らねえんじゃないかと思ったんだ」
「アルバート」彼女は声を上げた。「あんたすごい! あんたがいなかったら、あたしたち、彼女を逃がしてしまうところだった!」
アルフレッドは自分が手柄を立てたと知って、顔を赤らめた。
「一刻の猶予もできないわ!」タッペンスは道路を横切りながら言う。「なんとかして、彼女をひきとめなきゃ。どんなことしても……」彼女は中途で話をやめ、「アルバート、ここに電話あるでしょ?」
彼は首を振った。
「アパートは各室にそれぞれ電話があるからね。だけど、あの曲がり角に公衆電話のボックスがある」
「じゃ、すぐに、そこに行ってリッツ・ホテルに電話してちょうだい。ミスター・ハーシャイマーを呼び出して、ミセス・ヴァンデマイヤーがずらかりそうだから、ジェームズ卿といっしょにすぐこちらに来るようにと伝えて。もしハーシャイマーと連絡できなかったら、ジェームズ・ピール・エジャトン卿に電話かけておくれ。電話番号は電話帳を見ればわかるわ。それで、ジェームズ卿にこちらの事情を話してちょうだい。二人の名前ちゃんと覚えてね。大丈夫?」
アルバートは、口達者にその名前を復誦《ふくしょう》した。「委《まか》せときな。大丈夫だ。だけどあんたのほうは? 彼女といっしょにいてこわくない?」
「そんなこと、大丈夫だわよ! さあ、早く電話かけて。急いで!」
大きく息を吸って、タッペンスはマンションにはいり、二十号室まで駆け上がった。あの二人が来るまで、どうして彼女をひきとめよう? タッペンスにはわからなかったが、なんとかするよりほか仕方がない。しかもその仕事を、一人でやらなければならないのである。いったいなんの理由で、彼女はこう早急《さっきゅう》に出て行く決心をしたのだろう? 自分に疑いをかけたのだろうか?
いろいろ考えをめぐらしたが、まとまらなかった。タッペンスはベルを強く鳴らした。料理女から何か聞き出せるかもしれない。
誰もベルに答えなかった。数分間待った後、今度は長めにベルを押した。やっと家の中から足音が聞こえて来た。すぐそのあと、ミセス・ヴァンデマイヤー自身がドアをあけた。彼女はタッペンスを見ると眉を吊り上げた。
「あんたなの?」
「急に歯が痛くなったんです」タッペンスはぺらぺらとしゃべった。「ですから、うちへ帰って、一晩静かにしていたほうがいいだろうと思って……」
ミセス・ヴァンデマイヤーは、何も言わないで一歩退き、タッペンスを中に入れた。
「そりゃいけなかったわね」彼女は冷ややかな口調で言う。「すぐ寝たほうがいいわよ」
「台所にいればいいと思います。料理のおばさんが……」
「おばさんは留守よ」ミセス・ヴァンデマイヤーはやや不快な声を出して、「お使いに出したのよ。だから寝たほうがいいよ」
タッペンスは突然恐怖感をおぼえた。ミセス・ヴァンデマイヤーの声には、どうもいやなひびきがふくまれている。おまけに彼女はじりじりとタッペンスを廊下のほうに押しやっている。タッペンスは進退きわまって抵抗的になった。
「あたし、べつに寝たくなんか……」
その時、あっという間に、冷たい鋼鉄の感触をこめかみに感じた。ミセス・ヴァンデマイヤーの声は、冷ややかな脅かすような調子に変わった。
「あんたもよっぽど間が抜けてんのね。あたしが知らないとでも思ってんの? いいさ、返事なんかしなくってもいいよ。あばれたり、叫び声を上げたりしたら、犬みたいに射ち殺してしまうよ」
鋼鉄の小さな輪が、彼女のこめかみに、さらに強く押しつけられた。
「さあ、さっさと歩いて」ミセス・ヴァンデマイヤーは話をつづける。「こっち、あたしの部屋に。それから、あたしの言うとおりにして、そのあと、ベッドに寝るのよ。それから、眠るのさ。ええ、そうよ、可愛いスパイさん。ゆっくり眠らせてあげるよ!」
最後の一言はうす気味悪いほどやさしかった。タッペンスはぞっと身ぶるいした。だがこうなってはどうすることもできない。仕方なく言われるままにミセス・ヴァンデマイヤーの寝室にはいっていった。ピストルはこめかみにぴたりとつけられたままだった。部屋の中は足のふみ場もないほど乱雑に散らかっていた。衣類が一面に散乱し、半分しか詰まってない、スーツケースや帽子箱が床のまん中に開かれたままおいてあった。
タッペンスは勇気をふるい起こして気持を引きしめ、声は少しふるえてはいたが、それでも敢然とした態度でこう言った。
「冗談もいいかげんにしてちょうだい、あたしを射とうたって、そんなことできるはずないわ。マンションじゅうの人に銃声が聞こえてよ」
「そのくらいの危険が冒せなくってどうなるの?」ミセス・ヴァンデマイヤーは笑いとばした。
「でもね、あんたが大声出して助けを求めたりなんかしなけりゃ、べつに射つ必要もないのさ。あんただってばかじゃないから、そんなことしないでしょ。このあたしをうまくだましたくらいなんだからね。あたしはあんたのことを怪しみもしなかった。だから、いまあたしが上にいてあんたが下にいることぐらいあんただって充分、わかってるはずだわ。さて、と、あんた、そこに、そのベッドに坐ってちょうだい。手を頭にのせて。命が惜しかったら、その手を絶対に動かすんじゃないわよ」
タッペンスはおとなしく言うとおりにした。事態をそのまま受け容れるほか仕方がないという自分の良識に従ったのである。大声上げて助けを求めてもおそらく外の人間には聞こえないだろうし、反対にミセス・ヴァンデマイヤーが彼女を射ち殺す機会はいくらでもあったからである。だから、できるだけ時間をかせぐことだ、かせいだ一分一分がどんなに貴重であるか!
ミセス・ヴァンデマイヤーは洗面台の一端にピストルを置いた。いつでもすぐ手にとれる場所である。それから、彼女が少しでも動いたら、と山猫のように見張りながら、大理石棚の上から栓《せん》をした小さな瓶《びん》を取り、中身をグラスに少し入れて、それをさらに水でみたした。
「それ、何よ?」タッペンスが鋭くたずねた。
「あんたをぐっすり眠らせるものさ」
タッペンスは少し青ざめた。
「あたしを毒殺するの?」彼女はささやくように言った。
「ひょっとしたらね」ミセス・ヴァンデマイヤーは気持よさそうに微笑《わら》った。
「じゃあたし飲まないわ」タッペンスはきっぱりと言う。「毒を飲むくらいなら射ち殺されたほうがよっぽどいいわ。ピストルを射てば誰かが聞きつけるかもしれないし。あたし、羊みたいにおとなしく殺されるの、いやよ」
ミセス・ヴァンデマイヤーは足をふみならした。
「ばかみたいなこと言うね! このあたしが殺人罪を背負って追っかけまわされたいとでも思ってんの? あんたに多少の頭でもあったら、あたしが人を毒殺してなんの益になるかぐらいすぐわかるはずだよ。これはねえ、眠り薬、ただの睡眠薬さ。あすの朝目がさめたらいつもと同じ、さっぱりしてるよ。あたしね、あんたに猿ぐつわかませたり、手足をしばったりするのがめんどうだから、薬を飲ませるわけ。だから飲まなきゃ、しばりつけるほかないのさ――そうなったらあんたもきっと後悔するよ。あたしわね、その気になれば、どんなことするかわかんない女だからね。わかって? わかったらおとなしくこれお飲みなさい。いい気持になるだけなんだから」
タッペンスは心の奥底で彼女の言葉を信じた。彼女の理屈は整然としている。充分に真実性がある。一時的にタッペンスを片づけるにはこれほど簡単でこれほど効果的な方法はないだろう。しかし、タッペンスとしては、身の自由をとりかえすために、なんの抵抗もせず、ただおとなしく薬をのみ眠ってしまうなどということは、およそ我慢できなかった。ミセス・ヴァンデマイヤーをここでとり逃がしてしまったら、トミーの行方をつきとめる最後のチャンスも永久に逃げ去ってしまうだろう、と考えたのである。
タッペンスの頭の回転は敏速だった。今のべたような事柄も、頭の中を一瞬の間にひらめいたのである。そして、彼女は、どこにチャンス――いたって疑わしいチャンスだが――があるかを悟り、それをつかむために最大の努力をつくそうと心に決めた。
彼女はいきなりベッドからすべりおり、ミセス・ヴァンデマイヤーの前にひざまずいて狂わしげに彼女のスカートにすがりついた。
「あたし、そんなこと信じないわ」彼女は呻《うめ》くように言う。「それ毒薬だわ――毒薬にちがいないわ。お願い、あたしにそんなもの飲ませないで」彼女の声は叫び声に変わっていった。「あたしに飲ませないで!」
ミセス・ヴァンデマイヤーは、グラスを手に、唇をゆがめ、突然崩折れてしまったタッペンスを冷ややかに見おろした。
「起きなさい! いまさら泣きごと言うのよしてちょうだい。そんなことで、よくもスパイの役がつとまったわねえ。あきれた!」彼女は、足をふみ鳴らした。「起きなさいって言ってんのよ!」
しかし、タッペンスは相変わらずしがみついて泣きじゃくった。泣き声の間に、あまりよく聞きとれない哀願の言葉すらまじえた。一分でもかせげば、それだけ有利なんだ、と。そればかりではなかった。彼女はひれ伏しながらも、相手に気どられないようにじりじりと目的物に近づいていった。
ミセス・ヴァンデマイヤーは、いらだたしげに鋭い叫び声を上げて、ひれ伏している彼女の身体をぐいとひき起こした。彼女はひざをついた姿勢のままである。
「すぐに飲みなさい!」彼女は威圧的にグラスをタッペンスの唇におしつけた。
タッペンスは、も一度だけ絶望的な呻き声を上げた。
「この薬、ほんとに毒じゃない? あなた誓ってくれる」彼女はぐずった。
「もちろん、毒じゃないわ。ばかを言うんじゃないよ!」
「ほんとうに誓ってくださる?」
「うるさいわねえ!」彼女はいらだたしげに言う。「誓えって言えば誓うわよ」
タッペンスはふるえる左手を上げてグラスを持った。
「じゃ、飲むわ」彼女は弱々しく口をあけた。
ミセス・ヴァンデマイヤーはほっと安堵の溜息を洩らした。瞬間的に油断した。そのすきを狙って、タッペンスは、持っていたグラスをさっとはげしくつき上げた。中の水が、ミセス・ヴァンデマイヤーの顔一面にかかり、彼女がはっと息をのんでひるんだすきに、タッペンスは右手をのばして、洗面台のはしにのっていたピストルをつかんだ。次の瞬間、彼女はすばやく一歩飛び退り、ピストルの銃口をミセス・ヴァンデマイヤーの心臓にぴたりとつきつけた。ピストルを持ったその手は、いささかのゆるぎもなかった。
勝利の瞬間である。タッペンスは思わず、スポーツマンシップに反した凱歌を上げた。
「これで、どっちが上で、どっちが下になったかしら」彼女のときの声である。
ミセス・ヴァンデマイヤーの顔は憤怒にひきつった。一瞬タッペンスは彼女が自分にとびかかってくるのではないかと思った。もし相手がそういう態度に出たら、タッペンスとしては、どうにもならないジレンマに陥ったに違いない。なぜかというと、タッペンス自身は、実際にピストルの引き金をひく意志は全然なかったからである。しかしながら、ミセス・ヴァンデマイヤーははげしい意志力で、自分を制御し、やがて、顔に微笑すら浮かべたのである。邪悪な微笑だった。
「やっぱりばかじゃなかったみたいね。なかなかいいとこ見せたけど、でもね、いつかは仕返ししてやるよ、ええ――必ず仕返しするわ。あたしの記憶力ってバツグンなんだから」
「あなたが、あんなに簡単にだまされるとは思いもよらなかったわ」タッペンスがあざけるように言う。「あたしがあなたの憐みを乞うて、めそめそ泣きながら床の上を転げまわるような女だとほんとうに思ったの?」
「いずれはそういうことになるよ――いつかはね!」彼女は意味ありげに言う。
彼女の態度に見える冷たい悪意は、タッペンスの背すじにぞっとするような不快な悪寒《おかん》を走らせた。しかし、絶対に負けるもんか!
「さて、あたしたち、椅子にでもこしかけないこと?」タッペンスは気軽な調子で言った。「こんなかっこうで立ってるとまるで三文芝居だわ。だめ、ベッドにこしかけちゃだめよ。椅子をテーブルのほうによせてちょうだい。そう。あたしはあなたのま向かいに、こうやってピストルをかまえて――何かあった場合の用心よ。けっこうだわ。お話ししましょう」
「なんの話だい?」ミセス・ヴァンデマイヤーは仏頂面してたずねた。
タッペンスは彼女をしばらく眺めながら考えた。いろんなことを思い出した。ボリスの言葉、『金のためには、ぼくたちだって売るんじゃないかな?』彼女の答え、『莫大な報酬をもらわなきゃひき合わないわ』たしかに冗談半分の口ぶりだったが、その根底にいささかの真実がふくまれてはいないだろうか? ずっと前にウィッティントンもこう言った。「誰がしゃべったのだ? リタか?」リタ・ヴァンデマイヤーという女は、ミスター・ブラウンのよろいにできたほころびみたいなものではなかろうか?
視線をしっかりと相手の顔に固定させて、タッペンスは静かに答えた。
「お金の話……」
ミセス・ヴァンデマイヤーはぎくりとした。この答えは、明らかに彼女の予期せざるものだった。
「それ、どういう意味?」
「説明してあげるわ。あなたね、さっき、バツグンの記憶力があると言ったでしょ? バツグンの記憶力なんて、バツグンのお金に比べれば、半分も役に立たなくってよ。あなたは、あたしにどんな報復手段をとろうかと、いろんなことを考えてるでしょうけど、そりゃ考えるだけでも気持がすっとするのは、あたしだってわかってよ。でもね、そんなことあんまり実際的じゃないわ。復讐ってものは、けっして人を満足させるものじゃないって世間でも言ってるでしょう? でもお金はね……」――タッペンスはここでお得意の信条を披瀝《ひれき》した――「とにかく、お金には、不平不満を言う人誰もいないわ」
「あたしが仲間を売るような女に見えて?」とミセス・ヴァンデマイヤーはあざけるように言う。
「ええ、報酬さえ充分だったら……」とタッペンスは即座に答えた。
「どうせ、たかが百ポンドかそこらだろう?」
「いいえ」とタッペンス、「まあ、かりに、十万ポンドってことにしとくわ」
経済的な頭を持ったタッペンスは、ジュリアスの言った百万ドルを全額口にするだけの度量はなかった。
ミセス・ヴァンデマイヤーの顔に赤味がさしてきた。
「いまいくらだと言った?」彼女は胸のブローチをそわそわいじりまわしながら聞き返した。瞬間、タッペンスは魚が餌に食いついたことを悟った。と同時に彼女は自分自身もまた金を愛していることを思い出して、その恐ろしさに身ぶるいした。こんなことははじめてだった。自分も、自分の前にいるこの女も、けっきょくは一つ穴のむじなではなかろうかというそら恐ろしい気持におそわれたのである。
「十万ポンド」タッペンスはくり返した。
ミセス・ヴァンデマイヤーの目から輝きが消えた。彼女は椅子の背によりかかった。
「たわ言《ごと》言うのはよしてよ。そんな金、持ってもいないくせに」
「あたしは持ってないわ。でも持ってる人をあたし知ってるわ」
「誰?」
「あたしの友だち」
「よっぽどの百万長者でなけりゃ……」ミセス・ヴァンデマイヤーはとても信じられないと言った顔つきをした。
「実のところ、そうなの。アメリカ人よ。それだけの金額を黙って支払うわ。信じようと信じまいと、あたしの言ってることは絶対にうそいつわりなし。正真正銘の取引よ」
ミセス・ヴァンデマイヤーは再び身を起こして坐り直し、
「信じられそうな気がしてきたわ」とゆっくりした口調で言う。
しばらく沈黙がつづいた。やがてミセス・ヴァンデマイヤーが目を上げた。
「そのお友だちっての、何を知りたがってんの?」
タッペンスはここでちょっと思い迷った。しかし、金がジュリアスから出る以上、ジュリアスの関心事が何よりも先である。
「その人は、ジェーン・フィンの行方を知りたがってるのよ」彼女は大胆にこう言ってのけた。
ミセス・ヴァンデマイヤーはべつにおどろいたようすも見せなかった。
「現在どこにいるか、あたしはよく知らないよ」
「でも、調べたらわかるでしょ?」
「そりゃそうね」ミセス・ヴァンデマイヤーは無造作に答えた。「たぶんわけないと思うわ」
「それから」――タッペンスの声がちょっとふるえた――「若い男の人で、あたしの友だちなんだけど、あなたの仲間のボリスを尾《つ》けてるうちに、何かが起こったらしいの」
「なんて名前?」
「トミー・ベレスフォード」
「聞いたこともないね。でもボリスにたずねて見るわ。知ってることならなんでも話してくれるから」
「ありがとう」タッペンスは急に元気づいて、ますます大胆になってきた。「それから、も一つあるの」
「何よ?」
タッペンスは身を乗り出して低い声で言った。
「ミスター・ブラウンの正体?」
彼女は、ミセス・ヴァンデマイヤーの美しい顔がさっと青白くなったのを見のがさなかった。ミセス・ヴァンデマイヤーは、無理矢理自分の気を引き立てて、以前の態度をとり戻そうとつとめた。しかし、それが単なる芝居であることは一目瞭然だった。
彼女は肩をすくめた。
「あんた、まだあたしたちのことをそれほど知っちゃいないんだね。ミスター・ブラウンの正体は誰も知らないのさ。あんたにそのぐらいのことがわかってないようじゃ……」
「|あなた《ヽヽヽ》は知ってるはずよ」タッペンスは落ち着きはらって言った。
再び彼女の顔から血の気が失せた。
「どうしてそう思う?」
「わかんないわ」タッペンスは正直に言った。「でも、きっとそうだと思う」
ミセス・ヴァンデマイヤーは、長い間、自分の前方を見つめていた。
「そうよ」やっとのことで口を開いた。しわがれ声だった。「|あたし《ヽヽヽ》は知ってる。あたしはきれいだった、ほんとよ、――ひじょうにきれいだった――」
「いまでもきれいだわ」タッペンスはうらやましそうに言った。
ミセス・ヴァンデマイヤーは首を振った。青い目の中に奇妙な輝きが見えた。
「このぐらいのきれいさでは充分じゃないのさ」彼女は毒をふくんだやわらかい声で言う。「これじゃ――充分じゃ――ないのさ。それで、近ごろ、あたし恐ろしくなった――知りすぎているってことは危険だってこと!」彼女はテーブルによりかかるように身を乗り出した。「あたしの名前を絶対に出さないと誓って……誰にも言わないって……」
「誓うわ。それにミスター・ブラウンが捕まりさえすれば、あなたも危険からのがれられるのよ」
恐怖の表情がミセス・ヴァンデマイヤーの顔を横切った。
「そうかしら? ほんとにそうかしら?」彼女はタッペンスの腕をつかんだ。「お金のこと、たしかなの?」
「ええ、たしかよ」
「いつ手にはいる? おそくなるんだったらなんにもならないんだよ」
「そのお友だち、じきにここに来るわ。金を取りよせるため電報打ったりなんかしなきゃならないかもしれないけど、絶対におそくはならないわ――彼氏、すごくハッスルする男なんだから」
強い決意がミセス・ヴァンデマイヤーの顔に浮かんで定着した。
「じゃ、やるわ。かなりな金額だし。でも」彼女は奇妙な微笑を浮かべて、「あたしのような女を見捨てると――うんと後悔するよ!」
ちょっとの間、彼女はなおも微笑しながらテーブルを軽く指で叩いていた。そのうち、突然、ぎくりと身を硬ばらせ、顔色が蒼白になった。
「なんの音?」
「何も聞こえなかったわ」
ミセス・ヴァンデマイヤーは不安そうにあたりを見まわした。
「誰かが盗み聞きしてたんじゃないかしら――」
「そんなばかな。誰もいるはずないじゃないの?」
「壁にだって耳があるかもしれないわ」彼女はささやいた。「あたし、ほんとにこわいのよ。あんたはあの人を知らないから!」
「十万ポンドのことを考えなさいよ」タッペンスはなだめるような口調で言う。
ミセス・ヴァンデマイヤーは、乾いた唇を舌でなめた。
「あんたはあの人を知らないから」彼女はしわがれ声で言う。「あの人は……あっ!」
恐怖の悲鳴をあげて、彼女はぱっと飛び上がった。彼女は手をのばしてタッペンスの頭ごしにドアの方を指さした。それから、ふらふらと身体がゆれ、床の上にばったり倒れて、気を失った。
タッペンスは何が彼女をこれほどまでにおどろかせたのだろうと、うしろを振りかえってみた。
入口の所には、ジェームズ・ピール・エジャトン卿と、ジュリアス・ハーシャイマーが立っていた。
一三 徹宵《てっしょう》の見張り
ジェームズ卿はジュリアスのそばをさっと通り抜けて、倒れた女の上に身をかがめた。
「心臓だな」彼の鋭い声で言う。「わたしたちが急に現われたのでショックを受けたんだろう。ブランディ――急いで、でないと命がなくなる」
ジュリアスが洗面台のほうに向かった。
「ここにはないわ」とタッペンスが自分の肩越しに叫ぶ。「食堂の酒瓶棚。廊下に出て二番目の部屋よ」
ジェームズ卿とタッペンスはミセス・ヴァンデマイヤーの身体を持ち上げて、ベッドに運んだ。顔に水をふりかけたがなんの効果もなかった。ジェームズ卿は彼女の脈をはかった。
「ギリギリの線だ! 早くブランディを持って来てくれればいいが」
その時、ジュリアスがはいって来た。グラスに半分入れたブランディをジェームズ卿に手渡した。タッペンスが頭を持ち上げ、ジェームズ卿は、閉じた口を無理矢理に開かせて、ブランディを流しこんだ。やっとのことで、ミセス・ヴァンデマイヤーは弱々しく目を見ひらいた。タッペンスはグラスを彼女の唇にあてて、「これをお飲みなさい」と言った。
ミセス・ヴァンデマイヤーは言われるとおりにした。ブランディは彼女の蒼白な頬に赤味をもたらし、見る見るうちに彼女の身体に活力をよみがえらせた。彼女は上半身を起こそうとさえした――が、うめき声を上げ、手を左胸にあてて、倒れた。
「心臓がだめ」彼女はささやくように言う。「話しちゃいけないわ」
彼女は目を閉じて、横たわった。
ジェームズ卿はさらに一分間、彼女の手首に自分の指をあて、それからうなずいて、その指をひっこめた。
「もう大丈夫だ」
三人は彼女のそばを離れ、立ったまま小声で話しはじめた。三人ともなんとなく気落ちした感じだった。いまのところ、この女に何かたずねるのは不可能である。計画は一応挫折、しばらくは何もできない状態だった。
タッペンスは事のいきさつを話して聞かせ、ミセス・ヴァンデマイヤーがも少しでミスター・ブラウンの正体を話して聞かせるところだったこと、ジェーン・フィンの行方も調べてわかったら知らせてくれると言ったことなどを話して聞かせた。ジュリアスは、大いに喜んだ。
「うまくやったね、ミス・タッペンス。すごい! あすの朝になれば、彼女も十万ポンドの金を見て、いい気分になれるだろう。もう何も心配することはない。どっちみち金の顔を見なきゃ、彼女だって、口を割りゃしないんだから!」
彼の言う事はたしかに納得のいく常識的なものだった。タッペンスは多少いい気持ちになってきた。
「まさにあなたの言うとおりだ」とジェームズ卿。「それにしても、やっぱり、わたしたちの現われかたは一分間早過ぎたような気がしてしようがない。まあ仕方ないな。あすの朝まで待てばいいんだから」
彼はベッドの上にぐったりと横たわっているミセス・ヴァンデマイヤーの姿を見やった。彼女は目を閉じて、身動き一つしない。彼は首を振った。
「とにかく、朝まで待つことね」タッペンスはみんなの元気をふるい立たせようと快活に言う。「ほかにどうしようもないでしょ。でも、このアパートから出ていっちゃいけないと思うわ」
「あんたの手下のあのスマート・ボーイに見張りさせといたらどうだろう?」
「アルバートに? それで彼女が元気になってずらかったらどうなる? アルバートじゃ、ひきとめることできなくてよ」
「ドルから離れてしまうようなことはしないんじゃないかな」
「とも限らなくてよ。例のミスター・ブラウンをひどくこわがってたみたいだから」
「え? 真剣にこわがってるのかい?」
「そうよ。まわりを見まわして、壁にも耳があるなんて言ったわ」
「たぶん、ディクタフォーンのこと言ってたんだろ?」とジュリアスが関心を示した。
「ミス・タッペンスの言うとおりだ」とジェームズ卿が静かに言う。「絶対にここを離れちゃいけないな。ミセス・ヴァンデマイヤーの安全のためにも」
ジュリアスが彼を凝視《ぎょうし》した。
「ミスター・ブラウンが彼女を狙うと思ってるんですか? 今からあすの朝までの間に。第一、どうして彼に事情がわかるんです?」
「あなた自身、ディクタフォーンのこと言ってたじゃありませんか?」ジェームズ卿は無愛想に言う。「われわれの敵は恐るべき連中です。もしわれわれが充分な用心をすれば、いずれはわれわれの手に落ちるチャンスも到来すると思う。しかし、予防策を講じるのを忘れちゃいけない。ここに大切な証人がいるけど、彼女の安全は守ってやらねばならない。わたしの考えは、ミス・タッペンスには寝てもらって、あなたとわたしが不寝番するということにしたらいいと思う」
タッペンスはこれに対し、抗議しようとした。しかし、ちょうどその時、たまたま視線がミセス・ヴァンデマイヤーのほうにゆき、半ば目をつぶった彼女の顔に強い恐怖と悪意の交じった表情を見て、思わず言葉が唇の上に凍りついてしまった。
一瞬彼女は、ミセス・ヴァンデマイヤーの気絶だの心臓の発作《ほっさ》だのが、巧みな芝居ではなかったかとおもったが、あの時の死人のような蒼白さを思い出して、自分の推定がいかにばかばかしいかを悟った。見ているうちに彼女の表情は魔法のように消え失せ、再び以前のとおりぐったりと身動き一つせず眠ってしまった。一瞬、夢を見たのではないかと思った。しかし、いずれにしても油断なく見張っていようと心にきめた。
「それじゃ、とにかく、この部屋を出ようよ」とジュリアスが言う。
他の二人は、この言葉に従った。ジェームズ卿は、も一度ミセス・ヴァンデマイヤーの脈を見た。
「完全に常態に復したようだ」と彼は、タッペンスに小声で言う。「一晩安静にしておけば、必ずもとどおりになると思う」
タッペンスは部屋を出る前に、ちょっとの間ベッドのそばにたたずんだ。先ほどの彼女の表情のせっぱつまった感じがタッペンスに強い印象を与えたからである。ミセス・ヴァンデマイヤーがまぶたをあけた。何か言おうと一生懸命になっているようだった。タッペンスは身を屈めた。
「行か……ないで……」その先、言葉をつづけることができないらしい。「ねむい」とかなんとかはっきりしない言葉を呟いた。それからまた、何か言おうとつとめた。
タッペンスはさらに身を屈めた。吐息《といき》のような声だった。
「ミスター……ブラウン……」声はそこで切れた。
しかし、半開きの目はなおも何かを伝えようと必死になっているようだった。
衝動的にタッペンスはこう言った。
「あたしこのアパートを離れなくってよ。一晩中起きてるわ」
安堵の光がちらとひらめいて、まぶたはふたたび閉ざされた。どうやら眠ってしまったらしい。しかし、彼女の言葉はタッペンスに新しい不安の念を植えつけた。低くつぶやくように、「ミスター……ブラウン……」と言ったのは、どういう意味だろう? 彼女は無意識に背後をふり返った。神経が針のようにとがった。目の前に大きな洋服ダンスが無気味にたちはだかっている。男一人かくれるだけのスペースは充分にあった……半ばおのれの行為を恥じながら、彼女は、とびらをさっと開いて中をのぞき込んだ。誰もいない……あたりまえのことだ! 彼女は次に身をかがめてベッドの下を見た。ほかに、人間一人かくれていそうな場所は全然ない。
タッペンスは、例の如く両肩をぶるぶるとふるわせた。いやに神経過敏だな――ばかみたい! 彼女はゆっくりと部屋を出ていった。ジュリアスとジェームズ卿は何か低い声でしゃべっていた。ジェームズ卿が彼女のほうをふりかえった。
「外側からドアに鍵をかけて、その鍵をひきぬいておきなさい。誰もその部屋にはいれないようにしておいたほうがいい」
彼の態度の真剣さは二人の心に強く刻みこまれた。タッペンスは自分の神経過敏さをそれほど恥ずかしく感じなくなった。
「そうだ。タッペンスの手下のスマート・ボーイのことを忘れてた」とジュリアスが言う。「下におりてって彼を安心させてやらなきゃ。なかなかいい子だな、タッペンス」
「そりゃそうと、あなたたちどうやってはいって来たの? 聞こうと思って忘れてたわ」とタッペンス。
「アルバートから電話があって、おれは、こちらのジェームズ卿の所にまわった。それからまっすぐここに来たんだ。やつはおれたちを待っててくれた。あんたの身に何かあったんじゃないかとすごく心配してたよ。やつの話じゃ、このアパートのドアの所で耳をすませてたけど何も音がしないって言うんだ。とにかく、入口からベルを鳴らしてはいるより、石炭用のリフトであがったほうがいいだろうってんで、それに乗って台所にはいりこみ、それから、あんたのところに来たってわけだ。アルバートはまだ下で待ってる。今ごろは、いらいらしているかもしれないな」こう言って彼はさっさとおりていった。
「ところで、ミス・タッペンス」とジェームズ卿、「あんたはこの家をわたしよりよく知ってるはずだ。どこに陣どったらいいと思うかね?」
タッペンスはちょっと考えた。
「ミセス・ヴァンデマイヤーの居間が一番居心地いいんじゃないでしょうか?」彼女はこう言って、彼を案内した。
ジェームズ卿はあたりを見まわして、うなずいた。
「これはいい。じゃここに落ち着こう。ところでミス・タッペンス。さっきも言ったようにあんたは、ベッドにはいってやすむがいい」
タッペンスは断固としたようすで首をふった。
「せっかくですけど、あたしとても眠れませんわ。一晩じゅうミスター・ブラウンの夢を見るに違いありません」
「しかし、疲れるよ」
「大丈夫です。あたし、起きていたいんです。本当に」
ジェームズ卿はあきらめた。
ジュリアスがしばらくして姿を現わした。アルバートを安心させ、彼の労に対して相当以上の報酬を与えてきたらしい。彼もまたタッペンスに寝るようにすすめたが、むだ骨に終わった。
じゃそういうことにしようときめたのち、彼は言う。「いずれにしても、あんたは何か食べなきゃあ。食料はどこにおいてあるんだい?」
タッペンスが教えると、ジュリアスはしばらくして冷たいパイと皿を三枚持って戻って来た。
腹がいっぱいになると、彼女は三十分前に抱いていた恐怖や想像も吹きとばしてしまうような気持になってきた。物質の力は偉大なものだ! 賄賂《わいろ》は必ず成功するに違いない。
「ところでミス・タッペンス」とジェームズ卿、「あんたのさきほどの冒険談をぜひ聞かせてもらいたいな」
「そうだ、そうだ」とジュリアス。
タッペンスは、多少の自己満足にひたりながら、自分の冒険について話して聞かせた。ジュリアスがときおり、「すごいな!」といって感心する。ジェームズ卿は彼女が話し終わるまで何も言わなかった。話し終わると、「よくやったな、ミス・タッペンス」と言い、この言葉を聞いて、彼女はうれしさに頬を赤らめた。
「ぼくにはどうしてもわからないことが一つあるんだけど」とジュリアス。「彼女は、なんの理由で急にずらかろうとしたんだろう?」
「あたしもわかんないわ」とタッペンス。
ジェームズ卿は思案顔にあごをなでた。
「部屋の中はひじょうに散らかっている。ということは計画的な逃亡ではなかったということになる。誰かから急な指命を受けたに違いない」
「ミスター・ブラウンだろう、たぶん」とジュリアスがふざけ半分に言う。
ジェームズ卿は、一、二分彼をまじまじと眺めて、
「そうでないという理由もないな。おぼえてますか? あなた自身、彼には一度してやられたじゃありませんか?」
ジュリアスは顔を赤らめて苦笑した。
「ジェーンの写真をおめおめと渡したあの時のおれ、考えただけでも腹が立つ。いつかあの写真をも一度手に入れることがあったら、もう絶対に死んでも離さないぞ!」
「そういう偶然性はまずないといってもいいでしょうな」
「まあ、そうですね」とジュリアスは正直にみとめた。「いずれにしても、ぼくの求めているのは写真の主だ。いったい彼女はどこにいると思いますか、ジェームズ卿?」
ジェームズ卿は首をふった。
「なんとも言えんな。しかし、|どこにいたか《ヽヽヽヽヽヽ》ということなら多少の確信はある」
「ほんとですか? どこです?」
ジェームズ卿は微笑した。
「あなたが夜の冒険をした所ですよ。ボーンマスの療養院」
「あそこ? そんなことありませんよ。現にぼくがたずねたんだから」
「いや、あなたはジェーン・フィンという名前の娘がいたかどうかたずねたんでしょう? もしも、その娘があの病院に入れられていたとすると、十中八、九、偽名《ぎめい》で入れたにちがいないからね」
「ほんとうだ!」とジュリアスは叫んだ。「ぼくは全然その点に気がつかなかった」
「まあ、わりにはっきりした事実ですね」とジェームズ卿。
「医者も一枚加わってるのかもしれないわねえ」とタッペンス。
「とは思わないね。ぼくは見た瞬間に、あの医者が好きになった。いや、ドクター・ホールが一味だとはとても考えられない」
「ドクター・ホールって言いましたね?」とジェームズ卿。「それは妙だ――実に妙だ」
「なぜですの?」とタッペンス。
「けさ偶然彼に会ったばかりなのだ。ここ数年来何度か会ってるけど、単なる顔見知り程度だ。それで、けさ道で会ってね。メトロポール・ホテルに泊まってるそうだ」彼はジュリアスのほうを見て、「彼、町に来るようなこと言ってなかったかね」
ジュリアスは首を振った。
「実に妙だな」とジェームズ卿は考え込んだ。「あなたはきょうの午後、彼の名前を言わなかった。名前を聞いてたら、彼の所にもっとくわしい話を聞きに行ってもらっただろうに。紹介状がわりにわたしの名刺でも持って行って」
「実際ぼくは間抜けですよ」とジュリアスはいつものへりくだった態度で言う。「偽名のこと考えついても当然なのになあ」
「木から落っこちたりしたあとで、どうしてものを考えたりなどできて?」とタッペンス。「ふつうの人だったらとっくに死んじまってるわよ」
「いずれにしても、今じゃもうそんなこと問題じゃなくなったね。ミセス・ヴァンデマイヤーを手に入れたし、それでもう充分だ」
「そうねえ」とタッペンスは答えたものの、その声はあまり自信なさそうだった。
静寂が三人の上に蔽いかぶさった。夜の魔力が徐々に彼らをかなしばりにしはじめた。ときたま家具が思いがけなくギギギときしったり、カーテンがすれ合ってほとんど聞きとれないくらいの音を出したりした。突然タッペンスが叫び声を上げて飛び上がった。
「なぜだかわかんないけど、このアパートのどこかにミスター・ブラウンがいるわ。そんな感じがするのよ」
「だって、タッペンス。いるわけないじゃないか? このドアは入口のホールに向かって開いてるだろ、誰かが入口からはいってくれば、必ずわれわれの目か耳にはいるに違いないぜ」
「でも、どうしてもそんな気がするんですもの。彼がいるのを感じちゃうのよ」
彼女は訴えるような目つきでジェームズ卿を眺めた。彼は重々しい口調で答えた。
「あなたの感じには充分敬意を払いますがね、ミス・タッペンス、もちろんわたしの感じにも同じくらいの敬意は払ってますよ。しかし、われわれに気づかれないでこのアパートに誰かがはいって来るということは、それが人間である以上絶対に不可能ですな」
タッペンスはこの言葉で少しばかり安心感をおぼえた。
「夜起きていると、あたしいつでも少しびくびくするの」と彼女は白状した。
「そうですよ」とジェームズ卿。「われわれは、心霊術の会合にいる人間と同じような心理状態にあるんです。これで霊媒《れいばい》でもいれば、すばらしい結果でも得られるでしょうがね」
「心霊術をお信じになる?」タッペンスが目を大きく見ひらいてたずねた。
ジェームズ卿は肩をすぼめる。
「もちろん、多少の真実性はありますよ。しかし、その証言は、たいていの場合、法廷の証言として不合格ですね」
時間は刻々と過ぎ去った。あかつきの最初のかすかな光がさしはじめた時、ジェームズ卿はカーテンを開いた。そこに三人が見たものは、ロンドン人がめったに見ないもの、まだ眠っている町の上にゆっくりのぼっていく朝日だった。陽の光がはいってくると同時に、前夜の恐れや想像が、なんとなくばかげたものに見えてきた。タッペンスの意気は正常の状態に復活した。
「万歳!」と彼女は叫ぶ。「すばらしい一日になりそうだわ! きっとトミーも見つかるでしょうし、それからジェーン・フィンも見つかるでしょうし、すべてがうまくいくと思うわ。あたし、ミスター・カーターにダームの称号を手に入れていただこうかしら?」
七時にタッペンスはお茶をいれてくると言い出した。やがて、お盆にティー・ポットとカップを四つのせて戻ってきた。
「一つ余分じゃないか? 誰のカップ?」とジュリアスがたずねる。
「もちろん、捕虜のためよ。彼女のこと捕虜って呼んでもいいわねえ」
「彼女の所にお茶を持っていくっての、昨晩のことを考えるとなんとなく、気の抜けた感じがするね」とジュリアスが感慨深げに言う。
「たしかにそうね」とタッペンス。「でも、まあ、いいじゃないの。あなたたちもいっしょに来ないこと? 彼女があたしに飛びかかってきたりなんかすると困るから。だって寝起きの彼女、どんな気分だかわかんないんですもの」
ジェームズ卿とジュリアスは彼女といっしょにドアの所まで行った。
「鍵はどこ? あら、あたしが持ってたわ」
彼女は鍵を鍵穴にさしこんでまわした。それからちょっとためらって、
「やっぱり彼女逃げてしまったとしたらどうする?」と小声で呟く。
「そんなことありっこない」とジュリアスが自信ありげに言う。
タッペンスは深呼吸を一つして中にはいった。ミセス・ヴァンデマイヤーがベッドに寝ているのを見て、ほっと胸をなぜおろした。
「おはよう」と元気に言った。「お茶持って来てあげたわ」
ミセス・ヴァンデマイヤーは答えなかった。タッペンスは、ベッドぎわのテーブルにカップを置き、窓のブラインドを上げに行った。戻って来ても、まだミセス・ヴァンデマイヤーは身動き一つせずに横たわっている。恐れ、懸念に、突然、心臓をつかまれたような感じをおぼえて、タッペンスはベッドのそばに走りよった。彼女の手をとると氷のように冷たい……ミセス・ヴァンデマイヤーはもう二度と口をきかないだろう……。
彼女の叫び声に他の二人が走りよってきた。ほんの二、三分でこと足りた。ミセス・ヴァンデマイヤーは死んでいた。――死んでからもう数時間は経過している。眠っている間に死んだらしい。
「なんてひどい運の悪さだ!」とジュリアスが絶望的な声を上げる。
ジェームズ卿のほうはずっと冷静だった。ただ彼の目には奇妙な輝きが見えた。
「ただの運だろうか?」と彼は言う。
「まさか、あなたは――だってそんなこと絶対に不可能ですよ――ここにはいって来れる人間は誰一人いないはず」
「そのとおり」とジェームズ卿は同意する。「どうしたら、はいって来れるか、わたしにもまったくわからない。それでいて、彼女はミスター・ブラウンを裏切ろうとしていた――そして死んだ。ただの運だろうか……?」
「しかし、どうやって……!」
「そうだ、どういう方法で! それをわれわれは見つけなければならない」彼は静かにあごをなでながら、黙って立っていた。そしてタッペンスは、もし自分がミスター・ブラウンだったら、このジェームズ卿の口にした簡単な言葉の調子にきっと身ぶるいしただろうと思った。
ジュリアスの視線が窓のほうに向けられた。
「窓があいてる。まさかあそこから……」
タッペンスは首を振った。
「バルコニーは居間までしかつづいていないのよ。その居間にはあたしたちがいたじゃないの?」
「こっそりと出ていったかも……」とジュリアス。
しかし、ジェームズ卿がその言葉を途中でさえぎった。
「ミスター・ブラウンのやり方はそんなお粗末なものじゃない。とにかく、医者を呼ばなきゃいけないが、その前に、部屋の中を捜して、何かわれわれに参考になるものがあるかどうか見てみよう」
さっそく三人はそこら中を調べてまわった。暖炉の中の灰を見ると、ミセス・ヴァンデマイヤーが出て行く前に書類を焼いた跡が歴然と残っていた。他の部屋も全部捜してみたが、何かの役に立ちそうなものは何一つなかった。
「あそこにあんなものがあるわ」タッペンスが、壁にはめこんだ旧式の小さな金庫を指さした。「宝石用だと思うけど、何かほかのものもはいってるかもしれないわ」
鍵穴に鍵がささっていたので、ジュリアスがこれをあけ、中を調べた。かなり時間をかけていた。
「どう?」とタッペンスがじれったそうにたずねた。
ちょっと間をおいてジュリアスが返事した。頭を中から出し、ドアを閉めて、「なんにもないね」と言う。
五分間もすると、若いきびきびした医者がやって来た。ジェームズ卿の顔をおぼえていて、彼に相当の敬意を払った。
「心臓麻痺ですね。あるいは睡眠薬の過量かもしれません」彼は鼻をぴくぴくさせた。「クローラルの匂いが空気中に漂ってますね」
タッペンスは、グラスの中身をそこら中にぶちまけたことを思い出した。ふと別なことを考えて、洗面台のそばに行ってみた。ミセス・ヴァンデマイヤーが一、二滴たらした例の小瓶を見つけた。
四分の三ぐらいはいっていたのに、いまはそれが空っぽだった。
一四 ドクター・ホールに面会
ジェームズ卿の手馴れた采配《さいはい》によって万事が穏やかに簡単に始末された。タッペンスはその簡単さ、あっけなさに、驚嘆するとともに、多少|怪訝《けげん》な気持さえ抱いた。医師は、ミセス・ヴァンデマイヤーがあやまって過量のクローラルをのんだという説をむしろ進んで受け容れ、査問会《インクエスト》の必要があるかどうかも疑問だと言った。万一必要となった場合にはジェームズ卿にお知らせしましょうと言う。彼らが医者に話したのは、ミセス・ヴァンデマイヤーが外国に出発する間際《まぎわ》だったということ、召使はすでに暇をもらっていたこと、ジェームズ卿と彼の友人である若い連中はたまたま彼女を訪ねて来たものの、彼女が急にぐあいが悪くなったので一人きりにしておくに忍びず、とうとう三人ともこのアパートで一晩すごしたこと、だけであった。彼女に親類があるかどうか知っているかと聞かれて、三人とも知らないと答えた。ただしジェームズ卿は自分は彼女の法律顧問になっていると説明した。
少しのちに、看護婦が来て、あとを引き受けてくれた。三人は、この不吉な建物から出ていった。
「さて、このあとどうなるんですか?」とジュリアスが絶望的な身振りをする。「これで何もかもおしまいってわけですね」
ジェームズ卿はあごをなでて考えこんだ。
「いや」彼は静かに言う。「まだ望みはある。ドクター・ホールが何か知ってるかもしれないからね」
「そうだ。彼のことすっかり忘れてた」
「たいして大きな望みはかけられないけどね、無視してしまっちゃいけないと思う。彼がメトロポールに滞在しているってことはあなたたちに話したね。できるだけ早く彼を訪ねていったほうがいいだろう。そうだな、風呂にはいって朝食をすましたらすぐに出かけようか」
というわけで、タッペンスとジュリアスはリッツに帰り、あとでジェームズ卿を車で迎えにいくことになった。事は予定どおり運ばれ、十一時少し過ぎには、車はメトロポール・ホテルの前についた。ドクター・ホールに会いたいというと、給仕《ページ・ボーイ》が彼を捜しに行った。二、三分たつと、小柄なドクター・ホールが急ぎ足で彼らのところにやって来た。
「数分間時間を割《さ》いていただけませんか? ドクター・ホール」とジェームズ卿が、愛想よく言う。「こちら、ミス・カウリー。ミスター・ハーシャイマーのほうはすでにご存じのことと思います」
ドクターはジュリアスと握手しながら、ちょっと怪訝な顔つきをした。
「あ、そうそう。木のぼりのうまい若い人、そうでしたね。くるぶしはもう大丈夫?」
「先生のすばらしい治療のおかげで、どうやら全快らしいです」
「それであなたの胸を痛めた人のほうは? ははは!」
「まだ捜索中です」とジュリアスは簡単に答える。
「さっそく用件にうつりますが、どこか静かな所でお話しできませんか?」とジェームズ卿が言う。
「いいですとも。邪魔のはいらない部屋が一つあります」
彼は三人を案内した。椅子に腰をおろすとドクターは、さあお話しになってくださいと言わんばかりにジェームズ卿の顔を見た。
「ドクター・ホール、わたしはある若い女性から陳述書をとりたいと思って、その女性を捜しているんです。その女性は、ボーンマスにあるあなたの療養院にいたらしいのですが、この問題についてあなたに質問することが職業上のエチケットに反することにならなければいいがと考えています。いかがでしょう?」
「法廷の証言になるんでしょうね?」
ジェームズ卿はちょっとためらった。それから、答えた。
「そうです」
「わたしの力で及ぶものなら喜んでお役に立ちましょう。その女性の名前は? ミスター・ハーシャイマーのたずねていた女性はたしか……」彼は半ばジュリアスのほうに身体をねじまげた。
「名前は……」とジェームズ卿はぶっきらぼうに言う。「名前は、正直な話が、無関係なんです。十中八、九偽名で、入院させられていたと思いますから。しかし、ミセス・ヴァンデマイヤーという女《ひと》をご存じじゃないですか?」
「サウス・オードレイ・マンション二十号室のミセス・ヴァンデマイヤーですか? ほんのちょっと知ってる程度です」
「彼女の身にどんなことが起こったかはご存じじゃないでしょうね?」
「それどういう意味ですか?」
「ミセス・ヴァンデマイヤーが死んだことをご存じですか?」
「ほう! 全然知りませんね! いつのことです?」
「昨晩、クローラルを致死量《ちしりょう》のんだんです」
「自殺ですか?」
「過失だと言われています。わたしとしてはどちらとも断言できないですが、とにかく、けさ発見された時はすでに死亡していました」
「それは気の毒な! 文句なしの美人でしたのにな。いろいろと細かいことをご存じのようすですが、あなたとは友人関係か何か?」
「細かい事を知っているのは、実は、彼女の死体を発見したのが、わたし自身だったからです」
「ほんとですか!」とドクターはおどろいた。
「そうなんです」とジェームズ卿は感慨深げにあごをなでる。
「どうも気の毒なことをしたものですね。ところで、こんなことを言ってなんですけど、そのお話と、あなたのお調べになっていることとどんな関係があるんでしょう?」
「関係というのはこうなんです。このミセス・ヴァンデマイヤーが、あなたの所に親類の若い女性を入院させたっての、事実でしょうね?」
ジュリアスがひざをのり出した。
「事実です」とドクターは静かな口調で答えた。
「名前は?」
「ジャネット・ヴァンデマイヤー。ミセス・ヴァンデマイヤーの姪にあたるとか聞いておりましたが……」
「入院の日時は?」
「わたしの記憶する限りでは一九一五年の六月七日ごろ」
「精神異常で?」
「完全に正常です、俗にいう気違いではありません、ミセス・ヴァンデマイヤーのお話によると、例のルシタニア号が沈没した時ちょうどその船に乗り合わせていて、たいへんなショックを受けたそうで……」
「どうやら、間違いのない道にはいってきたようだね」とジェームズ卿はあたりを見まわした。
「前にも言ったとおり、ぼくは完全な間抜けでした」とジュリアスが答える。
ドクターは不思議そうに三人を見まわして、「あなたは、先ほど、彼女から陳述書をとりたいとかおっしゃってましたが、彼女には陳述書を提出する能力がないと申し上げたらどうなさいます?」
「なんですって? いまあなたは、彼女の精神状態を正常だとおっしゃったじゃないですか?」
「もちろん正常ですよ。しかしですね、一九一五年五月七日以前に起こった事柄について陳述をお求めになるんだったら、彼女にはそれはできない状態にあるんです」
三人は、呆然として、ドクターを見守った。彼は、さも愉快そうにうなずいて見せた。
「残念ですね」と彼はつづける。「実に残念です。お話をうかがっていると相当重大な問題らしいだけに、まったくお気の毒です。しかし、状態が状態ですから……」
「だけど、いったいどういうわけで? ぼくには全然わけがわからないけど」とジュリアス。
ドクターは、興奮した若いアメリカ人に、同情の視線を投げかけて、
「なぜかというと、ジャネット・ヴァンデマイヤーは、完全な記憶喪失症にかかっているからです」
「なんですって?」
「ほんとなんです。なかなか興味深いケースでしてね。ひじょうに興味深いケースです。現実には、それほど珍しくもありません。同じような例がいくつもあるんです。しかし、わたしが個人的に観察したのはこれがはじめてでしてね。正直な話が、実に興味津々たるケースです」いかにも満足げに話している医者のその言葉には、なんとなく食屍鬼的趣味がうかがわれた。
「それで彼女は何も記憶していないというわけですね」とジェームズ卿はゆっくりした口調で言う。
「一九一五年五月七日以前のことは何も。ただしそれ以後のことは、あなたがたやわたし同様ちゃんと記憶しています」
「じゃその記憶の一番はじめの部分は?」
「他の生存者たちといっしょに上陸したところから。その前はまったくの空白です。自分の名前も知らなければ、生まれた国も知らない、どこにいたかもおぼえていないんです。自分の母国語すらしゃべれませんでした」
「しかし、実際にそんなことってあるんですか?」とジュリアス。
「よくあることなんです。状況が状況ですから、けっして異常じゃないんです。神経組織に対するはげしいショック。記憶喪失がこれと同じ線にそって進行するんです。もちろんわたしは専門医にみてもらうようにすすめました。パリにひじょうに有能な人がいて――こういうケースを研究している人なんですがね。しかし、ミセス・ヴァンデマイヤーは、そういう人にみてもらうと世間に知れるからと言って反対されたんです」
「彼女ならいやがるにちがいありません」とジェームズ卿は気むずかしげに言う。
「わたしも彼女の考えに同意しました。こういうケースには悪い評判がつきものですからね。その娘さんはまだひじょうに若いし――十九歳だったと思います。彼女の病気がなにかと取沙汰《とりざた》されると気の毒ですよ。将来に差し障《さわ》りが出てきますからね。それに、こういうケースには特別な治療法はないんです。ただ待つだけ」
「待つんですか?」
「そうです。おそかれ早かれ記憶は戻ってくるでしょう――なくなった時と同じように、ある日突然に。しかし、その間に起こったことは完全に忘れて、つまり、ルシタニア号沈没のところから新しい人生がはじまるってことになるかもしれません」
「で、それはいつ起こるんですか?」
ドクターは肩をすくめた。
「ああ、それは、わたしにはなんとも言えませんね。二、三か月後ってこともありうるし三十年という長いあとで起こったことも文献に残っています。ときには別のショックを受けて元に戻るってこともあるんです。一つのショックが奪いとったものを別なショックが取り返すわけです」
「別なショックですって?」ジュリアスが考えこむ。
「そうです。コロラド州でこういう例がありましたがね……」医者は、少し熱をこめて、じょうずな語り方で、話をつづけた。
ジュリアスは、もう、全然聞いてはいないようだった。自分の考えに耽《ふけ》って眉にしわをよせていた。やがて、突然、瞑想《めいそう》から醒《さ》めて、握りこぶしでがあんと力いっぱいにテーブルを叩いた。みんな、特にドクターが、おどろいて飛び上がった。
「わかった! いい考えだ! 先生、いまからぼくが話す計画について、医学的な意見を聞かせてください。つまり、ジェーンに、も一度大西洋を越させて、も一度あの事件に遭遇させるんです。潜水艦だの、船の沈没だの、みんなが救命艇にうつる光景だの……。そうすれば別なショックを受けてうまくいくんじゃないですか? 彼女の潜在意識だとか何とかいうものに、どかあんとショックを与えて、それが昔どおりに動きはじめるってことにならないですか?」
「なかなか面白い推測ですね、ミスター・ハーシャイマー。わたしの意見を申し上げますと、つまり、必ず成功を見るだろうと思いますよ。ただ、あなたのおっしゃるような状態が再度起こるというのぞみはまずありませんね。実に残念です」
「もちろん、自動的に起こるってことはないでしょうよ、先生。しかし、ぼくの話しているのは、人工的な情況の再現です」
「人工的?」
「そうです。べつにむずかしいことないでしょ? 大西洋横断の旅客船を一艘《いっそう》借りて……」
「旅客船を?」ドクター・ホールはかすかな声で呟いた。
「それから、乗客を雇って、潜水艦を借りて……これがまあ一番むずかしいかな? 政府ってのは、軍用品のことじゃ相当やかましいし、先着順になんでも売りましょう、てなぐあいにはいかないでしょう。しかしですね、先生は『袖《そで》の下』って言葉、聞いたことありますか? 袖の下にうまく手をつっ込んでやれば、たいていのことはどうにかなるもんですよ! 魚雷は実際に発射しなくってもいいかな? みんなが騒ぎ立てて、船が沈むって大声で悲鳴あげれば、ジェーンのような無邪気な娘には充分だと思うな。彼女に救命具をつけて、ボートにほうりこんで、充分に稽古《けいこ》をさせた俳優たちに、ボートの中で、ヒステリーみたいな演技をさせれば、――彼女、きっと一九一五年五月の昔にそのまま戻っちまうんじゃないかな。どうです? 先生、大ざっぱに言ってこんなとこですがね」
ドクター・ホールはジュリアスを眺めた。あいた口がふさがらないといった表情がその顔にありありと浮かんでいた。
これに答えてジュリアスが言う。「いや、ぼくは気が狂ったんじゃないですよ。いま言ったことは、全部可能のことばかりです。アメリカじゃ、毎日、映画でやってることなんです。スクリーンで汽車の衝突なんか見たことあるでしょ? 汽車を一台買うのと汽船を一艘買うのとどう違うんですか? 小道具さえあつめれば、その場でやれることなんです!」
ドクターはやっと声が出せるようになった。
「しかしだね、費用はどうなんです?」声が高くなった。「費用は? たいへんな費用がかかりますよ」
「金の心配はしないことにしてるんです」ジュリアスは簡単に弁解した。
ドクター・ホールはサー・ジェームズのほうを向いて訴えるような顔つきをした。ジェームズ卿はかすかな笑みを浮べて、
「ミスター・ハーシャイマーはひじょうに裕福な方です――。ひじょうに、ひじょうに」
ドクターの視線は再びジュリアスのほうに戻った。その目には新たな、微妙な表情がうかがわれた。この若い男は、木から落っこちる妙なくせを持った単なる青年じゃない。ドクターはほんとうの金持に対して与えるべき敬意をその目に浮かべて彼を眺めた。
「実におどろくべき計画です、いや、まったく」彼はつぶやいた。「たしかにそうですね。映画《ムービー》でやってますね。アメリカじゃ活動写真《シネマ》のことを映画《ムービー》と言うんでしたな。なかなか面白い計画ですな。残念ながら、そういう手段となると、わが国ではずっとおくれているようです。それで、あなたは実際にそのすばらしい計画を実行にうつすおつもりですか?」
「もちろんですよ、有り金全部お賭けになっても大丈夫です」
ドクターは彼の言葉を信じた――彼がアメリカ人だからである。もしイギリス人がこんな話を持ち出したら、必ずや、その男の精神状態を疑ったにちがいない。
「ただしその方法で必ずしも、もとに戻るとは保証できませんよ。一応その点はっきりさせておいたほうがいいと思います」
「それはいいですよ」とジュリアス、「あなたはただジェーンを追い出してくださりゃいいんです。あとはぼくにまかせて……」
「ジェーン?」
「それじゃ、ミス・ジャネット・ヴァンデマイヤーとしときましょう。いますぐあなたの所に長距離電話かけられませんか? 彼女をこちらに連れて来てもらうように。それともぼくが車で迎えに行ってもいいですよ」
ドクターはじっと彼を見つめた。
「いまなんとおっしゃったんですか、ミスター・ハーシャイマー? ご承知のこととばかり思ってましたのに」
「何をご承知?」
「ミス・ヴァンデマイヤーはもう、わたしの病院にはいらっしゃらないってことを」
一五 タッペンスに求婚
ジュリアスはぱっと飛び上がった。
「なんだって?」
「いや、知ってらっしゃるものとばかり……」
「いつ出たんですか?」
「そうですね、きょうは月曜日ですね? そうするとこの前の水曜日――そうだ、あれは、たしか――あなたが、ほら、木から落ちたあの晩です」
「あの晩? 前ですか? あとですか?」
「そうですねえ――そうそう、あとです。ミセス・ヴァンデマイヤーから急な伝言があって。その娘さんと娘さんの係をしていた看護婦がいっしょに夜行で出発したんです」
ジュリアスは再び椅子に身を沈めた。
「看護婦のミス・イーディスが――患者といっしょに出かけた――ああ、思い出した」彼はつぶやく、「畜生! あんなにそばまで行ってたのに!」
ドクター・ホールは困ったような顔をした。
「さっぱりわからない。あの娘さんは伯母さんの所にいないんですか?」
タッペンスが首を振って、何か話し出そうとしたが、その時、ジェームズ卿が目配《めくば》せしたので、口を閉じた。ジェームズ卿は立ち上がった。
「どうもいろいろとめんどうかけました、ドクター・ホール。お話はたいへん役に立ちました。ありがとうございます。どうやらまたミス・ヴァンデマイヤーの行方捜査からやり直さなきゃならないようです。彼女といっしょに行った看護婦はどうなんですか? 彼女の住所でもご存じだったら……」
「それが、彼女からまだなんの便りも受けていないんです。しばらくはミス・ヴァンデマイヤーといっしょにいることになっていますが。それにしても何か起こったんでしょうね? まさか誘拐されたんじゃ……」
「それはまだわかりませんね」とジェームズ卿が真剣な顔をする。
ドクターはためらった。
「警察に届けるべきでしょうか?」
「いや、いや、たぶんほかの親類といっしょにいるんでしょう」
ドクターはそれで納得したわけではなかった、しかし、ジェームズ卿はそれ以上何も話したくないようすだったし、この有名な王室弁護士からさらになにかを聞き出すことは単なる骨折り損のくたびれもうけだということをよく心得ていたのである。彼は、三人に別れを告げた。三人はホテルを出た。二、三分間車のそばで立ち話した。
「ジュリアスは、実際に彼女と同じ屋根の下に少なくとも一、二時間はいっしょにいたわけね」とタッペンス、「そう考えただけでもくやしいわねえ!」
「おれはまったくばかだった」とジュリアスが憂鬱そうに呟く。
「あなたにはわかりようがなかったんですもの」とタッペンスがなぐさめた。「そうでしょう? ね?」とジェームズ卿に相槌を求める。
「心配するだけむだですよ」とジェームズ卿はやさしく言う。「覆水盆《ふくすいぼん》に返らずというじゃありませんか」
「とにかく、大事なことは、次に何をするかということだわ」と実行派のタッペンスがつけ加えた。
ジェームズ卿は肩をすくめた。「娘さんに同伴した例の看護婦を新聞広告で捜し出すのも一つの方法でしょう。わたしがいま提案できるのはそのくらいのものだし、それも正直な話、たいして効果はないだろうと思います。しかし、ほかにはもう何もすることはないですね」
「何もない?」とタッペンスが呆然として言う。「それで……トミーのことは?」
「運を天に委せて、よかれと祈ることですね。とにかく、あくまで希望をすてちゃいけませんよ」
しかし、うつむいた彼女の頭ごしに彼とジュリアスの視線がぶっつかった。彼はほとんど目につかないくらい首を振った。ジュリアスは諒解した。ジェームズ卿はトミーのことを望みなしと見ているのだ。若いアメリカ人は深刻な顔つきをした。ジェームズ卿はタッペンスの手をとった。
「何か新しいことが起こったらぜひわたしに知らせてください。手紙は必ず転送するように指示しておきますから」
タッペンスはあっけにとられて彼を見つめた。
「どこかにいらっしゃるんですか?」
「前に言ったでしょう。おぼえてないですか? スコットランドに行くって」
「あら、でも、あたし……」彼女は口ごもった。
ジェームズ卿は肩をすくめた。
「残念だが、わたしにはもうこれ以上何もできない。手がかりはみんな途中で切れてしまったし。正直に言って、実際、もう何もすることはないね。もし何かが起こったら、わたしでできることなら喜んでするから」
彼の言葉を聞いてタッペンスはなんとも言えない心細い気持になった。
「たぶんあなたのおっしゃるとおりでしょう。いずれにしても、いろいろ力になってくださってありがとうございました。さよなら」
ジュリアスは車にもたれかかっていた。ジェームズ卿は彼女のうなだれた顔を眺めていたが、一瞬間、その鋭い目に憐憫《れんびん》の情を浮かべて、
「あんまりがっかりしないでください、ミス・タッペンス」彼はひくい声で言う。「休暇と言っても必ずしも遊んでばかりいるとは限りませんよ。よくおぼえておいてください。時には休暇中に仕事をすることすらあるんです」
彼の口調の中の何かにはっとして、タッペンスはっと目を上げた。彼は微笑を浮かべて首を振った。
「いや、これ以上もう何も言うまい。しゃべりすぎるということはたいへんな間違いだ。これもよくおぼえてください。自分の知っていることを全部話しちゃだめですよ――ひじょうに親しい人間にでも話しちゃだめです。わかりますか? じゃさよなら」
彼は大またに歩き去った。タッペンスは彼のうしろ姿を見つめた。ジェームズ卿のやり方がだんだんわかってきたような気がした。前にも一度、こんなふうななげやりな形でヒントを与えてくれた。これもヒントだろうか? 最後の数語の中に、果たして何がかくされているのだろうか? まだ事件を放棄してしまったのではないと言っているのだろうか? 人にかくれて、こっそりと仕事をしているということを……。
彼女の瞑想はジュリアスの言葉に破られた。車に乗らないのかと促す。
車が始動すると、ジュリアスは彼女にこう言った。「だいぶ考えこんでるみたいだね。あのおやじさん、何か話したのかい?」
タッペンスは衝動的に口を開いた。それからその口を再び閉じた。ジェームズ卿の言葉が耳の中でひびき渡ったからである。「自分の知っていることを全部人に話すな。たとえひじょうに親しくしている人間にでも」それからも一つ、稲妻のように彼女の心に別なことが浮かんだ。あのアパートの金庫の前にいるジュリアスの姿である。彼女が何かあったかとたずねた時、彼はちょっとためらって「何もない」と答えた。ほんとうに何もなかったのだろうか? それとも自分ひとりの秘密にしておきたい何かを見つけたのではなかろうか? 彼が秘密を一人じめしていたいんだったらあたしだって、秘密を持っていたっていいわけだ。
「べつになんにも」と彼女は答えた。
そしてジュリアスがちらと彼女のほうを横目で眺めたのを、見るというよりはむしろ感じた。
「ねえ、公園の中をドライブしてみないか?」
「いいわよ」
しばらくの間黙って並木の下を走った。すばらしい天気だった。風を切って走っていくうちにタッペンスは新鮮な、うきうきした気分になってきた。
「ねえ、ミス・タッペンス。ジェーンを見つける望みあると思う?」
ジュリアスの声はまるっきり元気がなかった。彼がこんなものの言い方をするのはめったにないことだったので、タッペンスはおどろいてふりかえり彼を見つめた。彼はうなずいて見せた。
「そうなんだ。おれ、この仕事に見切りをつけようと思ってるんだ。ジェームズ卿もきょうは全然あきらめた感じだった。おれにはよくわかったんだ。おれは、あの人を好きじゃない――なんとなくしっくりしないんだね――しかし、すごく頭の切れる人間だ。だから、少しでも望みがあれば、手を引くようなことはしないと思うんだ。そうだろ?」
タッペンスは少し居心地の悪い思いをした。しかし、ジュリアスも自分に対して隠しごとをしているんだという信念にかじりついて、頑《かたくな》な態度を持《じ》した。
「看護婦の居所をつきとめるため新聞広告を出したら、と言ってたじゃない?」と彼女は言う。
「ああ、ただし、たいした望みはかけられないという条件つきでね! とにかく、おれはもう、いやになってきた。いっそのこといますぐにでもアメリカへ帰っちゃおうかと思ってるんだ」
「だめよ!」とタッペンスは声をあげた。「あたしたち、トミーを捜し出さなきゃならないわ!」
「ああ、ベレスフォードのことすっかり忘れてた」と、ジュリアスは申しわけなさそうに言う。「たしかにそうだ。どうしても彼を見つけ出さなきゃあ。しかし、そのあと――おれは今度の旅行に出て来て以来ずっと白昼夢を見つづけてきたんだ――それでその白昼夢がいかにくだらないものだったかが、いまやっとわかったんだ。おれはもうこんな夢見るのやめた。ねえ、ミス・タッペンス。あんたに聞きたいことが一つあるんだけどなあ」
「なあに?」
「あんたとベレスフォード。どうなんだい?」
「あなたのいう意味わからないわ」とタッペンスはきびしい調子で答え、それから、次のように理屈に合わない言葉をつけ加えた。「いずれにしても、あなたの考えてること間違いよ」
「おたがいに特別な感情を持っているというんじゃない?」
「とんでもないわ」タッペンスは熱のこもった調子で言う。「トミーとあたしは友だちよ――それ以上の何ものでもないわ」
「恋人たちはたいてい、ある時期にはそういうふうに言うけどなあ」とジュリアス。
「ナンセンスだわ!」とタッペンスはぴしりときめつける。「あたし、会う男、会う男に恋をするような女に見えて?」
「そうは見えないね。会う男、会う男にきみを恋させてしまう、そういう女に見えるね」
「あら!」とタッペンスはやや不意をつかれた感じで、「それ、賞め言葉だわねえ?」
「もちろんさ。それじゃ、話をもとに戻すけど、仮にだね、仮に、ベレスフォードを見つけることができなくて、それで……それで」
「いいわよ――言ってちょうだい。あたし、事実にはちゃんと直面できるんだから。仮に彼が死んだとしたら――どうなるの!」
「それで事件が全部片づいてしまったら、あんたはそのあとどうするつもり?」
「わかんないわ」タッペンスは淋しげに言う。
「すごく淋しくなるだろうね。同情するよ」
「あたしのことなら大丈夫よ」彼女はいつものことながら他人の同情に強い反駁をおぼえてこう切り返した。
「結婚はどうなんだい?」ジュリアスがたずねる。「結婚の問題について何か考えたことある?」
「もちろんあたし結婚はするつもりよ」とタッペンスは答えた。「つまり、もし……」ここまで言って、言葉を切り、その先の言葉をひっこめようと望んでいるのを知りながら、勇敢に銃をつき出した。「もし、結婚してもいいくらいのお金持が見つかったらという意味だけど。あたし正直でしょ? いやな女だと思う?」
「おれはビジネス的本能をいやだと思ったことはない。それで、どのくらいの数字だったらいいと思ってるんだい?」
「身体つき?」とタッペンスは怪訝《けげん》な顔をして、「背が高いとか低いとかという意味?」
「ちがう。金額だよ――収入だよ」
「ああ――まだそこまで考えてないわ」
「おれ、どうだい?」
「|あなた《ヽヽヽ》?」
「そうさ」
「だめよ」
「どうしてだめ?」
「だってだめなんですもの」
「どうしてだい?」
「不公平であなたに悪いわ」
「何も不公平なことないと思うね。あんたからの手で勝負をやってるんだ。おれはコールをかける。それで解決だ。おれ、あんたのことすごくりっぱだと思ってんだ、ミス・タッペンス。今まで会ったどんな女の子よりもすばらしいと思ってる。すごく勇気はあるし。おれ、あんたに思いっ切り楽しい思いをさせたい。ひと言OKと言ってくれればすぐどこか高級宝石店に行って、指輪のほう片づけっちまいたいんだ」
「あたし、やっぱりだめよ」とタッペンスは息を切らした。
「ベレスフォードがいるからかい?」
「違うわ、違うわよ」
「それじゃどうして?」
タッペンスはただ、はげしく首をふりつづけた。
「おれの持ってるドル以上のドルはあんまり期待できないと思うけどなあ」
「あら、そうじゃないのよ」タッペンスはヒステリーがかった笑い声にのどをつまらせながら、「でも、ご厚意はありがたいけど、やっぱりノーと言ったほうがいいと思うわ」
「あすまで考えておくということにしてくれればありがたいんだが……」
「でも、だめよ」
「それでも、一応そういうことにしておかないかい?」
「いいわ」タッペンスは弱々しく答えた。
リッツに着くまで、二人はそれっきり何も言わなかった。
タッペンスは階上の自分の部屋に行った。ジュリアスの激しい個性と戦ったためか、彼女は精神的にくたくたに参っていた。鏡の前に坐って、しばらくじっと自分の映像を眺めた。
「ばかね、あんたは」ややあってタッペンスは自分自身にしかめっ面をして見せてひとり言を言った。「ほんとにばかよ。あんたの欲しがっていたもの、あんたの望んでいたことが全部目の前にぶらさがってたのに、あんたは、頭の弱い羊みたいにノーなんて言うんですもの。あんたにはめったにないチャンスよ。どうして取らないの? どうしてつかまないの? どうしてしがみつかないの? これ以上何が欲しいの?」
自分自身のこの質問に答えるかのように、彼女の視線は、化粧台の上においてあるトミーの写真、粗末な額に入れてある小さなスナップ写真に注がれた。一瞬、彼女は自制心をふりしぼって、じっとこらえた。しかしすぐに、|みえ《ヽヽ》も|てらい《ヽヽヽ》もかなぐりすてて、その写真を唇にあて、発作的にすすり泣きはじめた。
「おお、トミー、トミー」彼女は叫んだ。
「あたし、やっぱりあなたを愛してるわ――。だのに、もう二度と会えないかもしれないなんて……」
五分後、彼女は身体を起こし、鼻をかみ、髪を撫《な》であげた。
「これでおしまい」彼女はきびしい声で言う。「事実に直面しましょうよ。あたしがあの人を恋しているのは間違いないだろうけど、あの人はあたしのことこれっぽちも気にしちゃいないかもしれない。およそばかみたいな話ね!」彼女は言葉を切った。それから、目に見えない相手に向かってさらに議論をつづけた。「とにかく、あの人があたしを好きかどうか、少なくともあたしは知らないのよ。あるいは、あの人のことだから、そうだってはっきり言う勇気ないのかもしれないわね。あたしはいつも感傷を軽蔑していた――ところが、今のあたしはどう? 世の中の誰よりも感傷的になってるじゃない? 女の子ってばかだわ! あたし、いつもそう思ってた。この写真枕の下に入れて一晩中彼の夢でも見ることにするわ。あんたが主義に反した女だってこと考えるだけでもぞっとするわ」
タッペンスは悲しげに首を振り、画面を少しもとに戻した。
「あたし、ジュリアスに、なんて言っていいかわからないわ。きっと自分がすごくばかな女に見えてくるにきまってるわ。でも|何か《ヽヽ》言わなきゃならないし――あの人ったら徹頭徹尾アメリカ的なんですもの、きっと理由を言えって頑張るわ。そりゃそうとあの人、金庫の中で、ほんとに、何かを見つけたのかしら……」
タッペンスの思考はまた別の画面に移っていった。そして昨晩の出来事を逐一、くり返しくり返し思い起こしてみた。どういうわけか、これらの出来事がすべて、ジェームズ卿のなぞめいた言葉に結びついてくるように思われた……。
突然、彼女はあっと驚きの声を上げた――。顔から血の気がさっと引いた。目が、何かにつかれたように前方を見つめている。ひとみが大きくひろがった。
「まさか!」彼女は呟《つぶや》いた。「そんなことってあるかしら? そんなこと考えるあたし、気が狂ってるんじゃないかしら?」
とんでもない話である――それでも、これですべてが解明できる……。
ちょっと考えてから彼女は机に坐り、手紙を一通書いた。一語一語、よく考えて書いた。やがて満足げにうなずくと、封筒に入れて、宛名をジュリアスとした。彼女は廊下に出て、彼の居間に行き、ノックした。予期していたとおり、部屋は空っぽだった。彼女は手紙をテーブルの上においた。
自分の部屋に戻ると、ドアの外に小柄な給仕《ページ・ボーイ》が待っていた。
「電報です」と少年が言う。
タッペンスは、盆の上から電報をとると、なにげなしに引き裂いて開いた。あっと叫んだ。電報はトミーからだった。
一六 トミーの冒険のつづき
暗闇の中から、火の光がちくりちくりと刺すような感じがした。トミーは自分の感覚を無理矢理によみがえらせた。やっとの思いで目を開くと、こめかみのあたりにたまらない痛みをおぼえた。そしてまわりの見なれない光景を、ぼんやりと意識した。どこにいるんだろう? 何が起こったんだろう? ここがリッツの自分の部屋でないことはたしかだ。第一、なんでこんなに頭が痛いんだろう?
「畜生!」トミーはこう言って身を起こそうとした。そして思い出した。ソホー地区のあの無気味な家にいるのだ。彼はうめき声を上げて、再び倒れた。ほんのわずかに開いたまぶたの間から、彼は用心深くあたりを偵察した。
「意識を回復してきたらしい」トミーの耳のすぐ近くで誰かが言った。彼はその声の主が例のひげを生やした能率的なドイツ人であることを、すぐに察知して、わざと力なく横たわっていた。あまり早く意識を回復すると損をすると思ったからである。頭の痛みが少し和《やわ》らぐまでは、その頭を敏捷《びんしょう》に働かせる自信がない。痛いのをがまんしながら彼は何が起こったか少しずつ謎解きにかかった。彼が盗み聞きしている時、誰かがうしろから忍びよって頭をなぐりつけたことはたしかだ。連中はすでにこのおれがスパイであることを知っているだろうし、そうなると、おれの死刑執行もそんなに遠い将来のことではない。窮地にいることは疑念の余地ない。ところがおれの居所を知っているものは誰一人いないし、したがって外からの援助は望めないだろう。おのれ一人の頭に頼るほかないんだ。
「さて、それじゃやるぞ」トミーは口の中でつぶやき、それからさきほどの言葉をも一度口に出した。
「畜生!」今度はうまく身体を起こすことができた。
すぐさまドイツ人が前に出て来て、コップを彼の唇にあてた。そして、簡単に「飲め」と命じる。トミーはおとなしく服従した。その液体の強烈さに、ちょっとむせんだが、と同時に頭はおどろくほどすっきりした。
彼は寝椅子に横たわっていた。会議の行なわれていた部屋である。彼のそばには一方にドイツ人、他方に彼を家の中に入れた悪党|面《づら》の門番がいた。他の連中は少し離れた所にかたまっている。トミーは一人だけいなくなっているのに気がついた。ナンバー・ワンである。
「気分よくなったか?」と、からのグラスを取りながら、ドイツ人が言う。
「ああ、どうも、ありがとう」トミーは快活に答えた。
「きみの頭の骨が硬かったのは運がいいってもんだ。コンラッドの力はたいしたもんだからな」彼は悪党面した門番をあごでさし示した。
門番はにやりとした。
トミーはやっとの思いで首をまわした。
「ああ、きみがコンラッドか? ぼくの頭蓋骨の厚かったのは、きみにとっても幸運だったんだぜ。おかげできみは死刑執行人に会わなくってすんだんだからな。ちょっと残念だが……」
コンラッドはうなり声を上げた。ひげの男は落ち着きはらってこう言う。
「どっちみち死刑執行人に会う必要はないようになってるんだ」
「それは結構」とトミー。「警察を追いつめるのがこのごろの流行だってことはぼくも知ってる。ぼく自身はまだ警察を信じてるけどね」
彼の態度は、まさに泰然自若《たいぜんじじゃく》そのものだった。トミー・ベレスフォードは、特にすぐれた知能の持ち主ではないが、いわゆる「万事休す」という危地で、自己の最高の姿を見せる、そういうタイプのイギリス青年の一人だった。彼らの生まれつきの自信なさ、用心深さは、そういう時、手袋のようにするりと彼らの身からぬけ落ちてしまうのである。トミーは、現在、危機を脱出する唯一のチャンスが自分の頭の使い方一つにかかっているということを充分すぎるほど充分に承知していたし、したがって、さりげない無関心の態度の背後で、やっきになって知恵をしぼっていた。
ドイツ人が冷たいアクセントで話の先をつづけた。
「スパイとして処刑される前に何か話したいことはないか?」
「いろんなこと話したいね」とトミーが同じようなさりげない口調で話す。
「きみはあのドアの外で立ち聞きしていたことを否定できるかね?」
「否定しないね。失礼は心からお詫びする――しかし、諸君の会話があまり興味津々だったから、つい遠慮を忘れてしまったんだ」
「どうやってはいって来た?」
「こちらにいらっしゃるコンラッド様が入れてくださったんだ」とトミーは皮肉な微笑を浮かべた。「こんな忠実な召使に年金をやってやめさせてしまえなんてことは言えないけどね――しかし、も少しましな番犬をおいたほうがいいと思うな」
コンラッドは力なげにうなり声を上げた。あごひげの男がさっとコンラッドのほうを向く。彼はこう弁解した。
「この男は合言葉を口にしたんですよ。あっしのつとめはそれだけじゃねえんですか?」
「そうだ、そうだ」とトミーが口を合わせる。「彼のつとめはそれだけだ。可哀そうだからあまりこの男を責めないでくれ、彼の性急な行動のおかげで、ぼくは、ここにおられる皆さま全部にお目にかかる喜びを得たんだからね」
この言葉は、同室の人たちをいささかうろたえさせたようだったが、ゆだんないドイツ人は片手を振って彼らをおし静めた。
「死人に口なしと言うからね」彼は抑揚《よくよう》のない口調で言う。
「ああ」とトミー。「しかし、ぼくはまだ死んでないよ!」
「じきに死ぬことになってる」とドイツ人。
他の連中が口々に相槌のつぶやき声を発した。
トミーの心臓がはげしく打ちはじめたが、愛想のよいさりげなさは少しも変わらなかった。
「それは困るな」としっかりした口調で言う。「死ぬことに対しては、大いに異議がある」
おもわくどおり、連中は妙な顔をしはじめた。いかにも解《げ》せないといった表情である。
「われわれがきみを殺してはならないという理由でもあるのか?」
「いくつかあるね」とトミーは答える。「きみはさっきからさかんにぼくに向かって質問しているが、ここいらで趣《おもむき》を変えて、ぼくのほうにも、一つ質問をさせてもらいたいな。例えばだね、きみたちは、ぼくが意識を回復する前にどうして、ひと思いに殺してしまわなかったのだ?」
ドイツ人はためらった。トミーは自分が有利な立場になってきたのを意識して、
「きみたちは、ぼくが何をどのくらい知ってるかわからなかったからだ――それから、その知識をどこで手に入れたか。いまぼくを殺してしまえば、永久にわかりゃしない」
しかし、ここで、ボリスの感情が、ついに爆発した。彼は両腕をふりまわしながら一歩進み出た。
「このスパイ野郎!」彼は金切り声を上げた。「死刑執行だ。一刻の猶予も与える必要ない。殺してしまえ、殺してしまえ!」
他の連中もいっせいに賛同の意を表した。
「聞いたか?」ドイツ人が視線をトミーに釘づけにしたままで、「まだ何か言うことあるか?」
「言うことだって?」トミーは肩をすくめた。「どうやらばかの集まりらしいな。そこにいる連中に聞いてみろ。このぼくがどうしてこの家に来たか? さっきコンラッドの言ったことおぼえてるだろ? ぼくはきみたちの合言葉を使ってはいって来たんだよ。その合言葉をぼくはどうして手に入れた? まさか、きみたちは、ぼくが行きあたりばったりにこの家に来て、偶然頭に浮かんだ言葉を口に出したんだとは思ってないだろうな?」
トミーはわれながら、最後の「偶然頭に……」云々《うんぬん》の言葉が大いに気に入った。ただ残念なのは、タッペンスがここにいて、この言葉の皮肉さを賞味してくれないことだった。
「そのとおりだ」と労働者タイプの男が突然口を開いた。「同志たち、われわれは裏切られたんだ!」
険悪な呟き声があちこちから聞こえて来た。トミーはそれをそそのかすように微笑《わら》いかけた。
「そうこなくっちゃうそだ。頭を使わないで仕事を成功させようってのは、ちょっと虫がよすぎるんじゃないかな?」
「誰が裏切ったのかここで白状するんだ!」とドイツ人が言う。「しかし、それできみの命が助かると思ったら間違いだぜ。とんでもない話だ! 知ってることをみんな白状させてみせる。ここにいるボリスは人に白状させる方法をいくつも知ってるからな」
「冗談じゃない!」とトミーは軽蔑しきったような口調で言う。しかし、彼自身の心のうちでは急に胃袋に感じた不快感をおさえつけるのに一所懸命だった。「きみたちがぼくを拷問にかけたり、殺したりするはずがない」
「なぜだ?」とボリス。
「なぜかって、それは、金の卵を生む鵞鳥《がちょう》を殺すことになるからだ」とトミーが落ち着きはらって答える。
瞬間、沈黙があたりを支配した。トミーのしつこいほどの泰然自若さはついに効を奏しはじめたようだった。彼らはもはや、前ほど自信満々ではなくなっていた。みすぼらしい服を着た男が、トミーを探るような目つきで見つめている。
「こけおどしだよ、ボリス」と彼は静かな声で言う。
トミーはこの男が憎かった。おれの心の中を見すかしたんだろうか?
ドイツ人は、無理矢理に荒々しい態度をとってトミーのほうに向き直った。
「それはどういう意味だ?」
「どういう意味だと思う?」トミーは、心の中を必死にかきまわしながら、相手の言葉を受け流した。
いきなりボリスが進み出て、トミーの顔の真前《まんまえ》に握り拳をつきつけた。
「話すんだ! このイギリスの豚め! 話すんだ!」
「そう興奮するなよ」とトミーは落ち着きはらって言う。「きみたち外国人のいけないところだな。じっとしておれないんだから。それじゃ聞くがね、このぼくがだね、現に、きみたちに殺されはしないかと心配しているような人間に見えるかい?」
彼は、自信ありげにあたりを見まわした。心臓は絶え間なくはげしく打ちつづけていたが、その音が彼らに聞こえないのをひそかに喜んだ。聞こえたら、自分の言葉の権威はいっぺんにふっとんでしまうにちがいない。
「見えない。残念ながら、そうは見えない」とボリスが仏頂面《ぶっちょうづら》して答える。
おれの心が読めないのは、実にありがたいことだとトミーは神に感謝した。しかし、彼の言葉はあくまで自己の有利な立場を追求していく。
「それじゃ、なぜぼくがこんなに自信たっぷりでいられるかわかる? なぜかって、ぼくはあることを知ってて、その知ってることで、きみたちと取引ができるからなんだ」
「取引?」ひげの男が鋭い声で応じた。
「ああ、取引だよ。ぼくの命と自由の代償として……」彼は言葉を切った。
「代償としてだ?」
みんないっせいにつめよって来た。しいんと静まりかえって、ピンが落ちてもその音が聞こえそうなくらいだった。
トミーはゆっくりした口調で言う。
「書類だ。デンヴァーズがルシタニア号でアメリカから持って来た書類だ」
彼のこの言葉の効果はまさに電撃的だった。みんなぱっと立ち上がった。ドイツ人は手をふって彼らを静まらせ、彼自身は、顔を興奮で紫色にして、トミーの上に身を乗り出した。
「ほんとか? それじゃ書類はおまえの手にあるのか?」
トミーは、平然として、首を振った。
「それじゃどこにあるか知ってるのか?」とドイツ人が食いさがる。
再びトミーは首を振った。「全然知らない」
「それじゃ……いったい……」怒りと困惑で、言葉が言葉にならなかった。
トミーはあたりを見まわした。みんなの顔に憤怒と当惑の表情が見えた。しかし彼の自信たっぷりな冷静さはみごとに効を奏したのである――今では、誰一人として彼の言葉の背後に何かがあることを疑っているものはいない。
「書類がどこにあるかは知らない――しかし、ぼくなら発見できると信じている。ぼくの持ってる説は……」
「ばからしい!」
トミーは手をあげて、軽蔑のざわめきをしずめた。
「ぼくは説と言ってはいるが――しかし、ぼくの知っている事実――ぼく以外に誰も知っていない事実――に確信があるんだ。もしぼくが書類を見つけ出したら、代わりにきみたちはぼくの命と自由を保証する。りっぱな取引じゃないか?」
「それで、もしわれわれが拒絶したら?」とドイツ人が静かに言う。
トミーは、寝椅子に仰向けに倒れた。
「二十九日というとね」彼は考え考え言う。「あと二週間もないからね……」
一瞬、ドイツ人はためらった。それから、コンラッドに合図して、
「向こうの部屋に連れて行け」
次の五分間、トミーは汚ならしい隣の部屋のベッドに腰をおろして待った。心臓ははげしく動悸《どうき》を打っていた。彼はいま、すべてを賭けて、サイコロを振った。連中はどう決定するだろう? 彼はこう心の中でくり返しくり返し自問自答し苦痛にさいなまれた。しかし、その間も、表面的には、気むずかしい門番のコンラッドに向かって、軽口や冗談をとばし、彼を殺人狂すれすれの線まで怒らせていたのである。
やっとドアが開き、ドイツ人が命令的な口調でコンラッドを呼び入れた。
「裁判長が黒い帽子をかぶってなければいいがな」とトミーがふざける。「そうだ、コンラッド。ぼくを連行するんだ。罪人は裁きの庭に引き出されました、皆々さま」
ドイツ人は再びテーブルの背後に坐り、トミーに、手ぶりで、彼の反対側に坐るように命じた。
「われわれはその取引を承知することにした」とドイツ人が厳《きび》しい声で言う。「ただし、条件つきだ。つまり、おまえを自由にする前に書類をわれわれに手渡すのだ」
「そんなばかな!」とトミーが愛想のいい口調で言う。「ここで手足をしばられたままで、どうして書類を捜し出せる?」
「それじゃどうしろと言うんだ?」
「ぼく自身のやり方で自由に仕事できるようにさせてもらわなきゃ困る」
ドイツ人は笑った。
「約束だけを残して、おまえはのこのこここを出ていくと言うのか。おまえはわれわれをそんな子供だと思ってるのか?」
「いや」トミーは考え考え言う。「ぼくはこれほど簡単な計画はないと思っているが、しかし、きみたちがこれに賛成するとはもちろん思っていなかった。しかたない、妥協策といこう。ここにいるこのコンラッドをぼくにくっつけておくってのはどうだ? 彼は実に忠実な男だし、腕力もなかなかたいしたものだから」
「いや、われわれはおまえをここにおいておくほうをえらぶな」とドイツ人が冷ややかに言う。「われわれのうちの誰かが、おまえの指令どおりに動き、もし仕事が複雑すぎれば、ここに戻って来てそれを報告し、おまえはまた別の指令を出す」
「きみはぼくの手をしばりあげようというのか?」とトミーは不服を唱えた。「仕事はひじょうにデリケートなんだ。きみのやり方でいけば、その男は必ずへまをやるにちがいないし、そうなるとぼくの立場はどうなる? きみたちの仲間には、気のききそうな人間は一人もいないからね」
ドイツ人はテーブルを叩いた。
「われわれの条件がいやなら、死んでもらうだけだ!」
トミーはけだるそうにうしろによりかかった。
「きみのやり方は気に入った。ぶあいそうだがなかなか魅力的だ。じゃ、そういうことにしよう。しかし、どうしても必要なことが一つある。例の女の子に会うことだ」
「どの女の子だ?」
「もちろん、ジェーン・フィンさ」
ドイツ人は奇妙な顔つきをしてしばらくじっとトミーを見つめ、それから、言葉を注意深く選びながらゆっくりとこう問い返した。
「彼女が何も話せないということをおまえは知らないのか?」
心臓の鼓動が少し速くなってきた。捜し求めていた女の子とついに顔を合わせることができるのだろうか?
「べつに彼女に話してもらうことはないんだ」と彼は静かに言う。「つまり、いろんなことをたずねる必要はないんだ」
「それじゃなぜ彼女に会う?」
トミーは口ごもった。
「質問を一つして彼女の顔を見ていればそれでいい」彼はやっとのことでこう答えた。
再びドイツ人の目に、トミーに理解できないある表情が浮かんだ。
「彼女はおまえの質問に答えることはできないんだ」
「そんなことはどうでもいい。質問したとき顔を見てればいいんだ」
「それで何かがわかるというのか?」彼は短い気味の悪い笑い声を上げた。トミーは、何か自分に理解できない事実があることをますます強く感じた。ドイツ人は探るような目つきで彼を見つめた。「おまえはわれわれが思ったほどには事情を知っていないようだな」
トミーは、自分の優位について先ほどのように自信がもてなくなってきた。彼のおさえが少しゆるんできたようである。それにしても、どうも解《げ》せない。いったい自分の言ったことのどこがいけなかったのだろう? 彼は衝動的に口を開いた。
「そりゃぼくの知らないことできみたちの知っていることはいくらでもあるはずだ。きみたちの謀略のすべてに通暁《つうぎょう》してるなんてハッタリをきかすつもりは毛頭ない。しかしだね、ぼくだって同じように、きみたちの知らないことを、ちゃんと袖の中にかくしてあるんだ。それで、得点をかせぐことができるんだ。デンヴァーズという男はなかなか頭のいい男でね……」彼は、少ししゃべりすぎたと言わんばかりに言葉を切った。
しかし、ドイツ人は多少顔を明るくして、
「デンヴァーズ」と呟いた。「なるほど……」彼はちょっとだまりこみ、それからコンラッドに合図して、「この男を連れて行け。上の部屋だ、わかってるだろ?」
「ちょっと待て」とトミー。「女の子のこと、どうなんだ?」
「なんとか手配できるかもしれない」
「どうしても手配してもらわなきゃ」
「それはこっちで考える。そういうことを決められるのはあの人だけだ」
「誰だ?」とトミー。しかし、答はすでにわかっていた。
「ミスター・ブラウン……」
「彼にも会えるか?」
「たぶん」
「さあ来い」とコンラッドが荒々しく言う。
トミーはおとなしく立ち上がった。部屋の外に出ると、獄吏はトミーに階段をのぼれと、手で指図し、彼自身はトミーのすぐうしろにくっついて来た。上の階に行きつくと、コンラッドがドアを開き、トミーは小さな部屋の中にはいっていった。コンラッドはガス燈に火をつけて、出て行った。鍵穴の中で鍵をまわす音が聞こえてきた。
トミーは、閉ざされた部屋の中を調べはじめた。階下の部屋より小さかった。妙に空気が足りないような感じだった。よく見ると、部屋には窓がなかった。彼は歩きまわった。壁は思いきりよごれていた。この家の他の場所と同じである。その壁に、四枚の絵が、かかっていた。みんな曲がっていた。四枚とも、「ファウスト」の場景を描いたものである。宝石箱を持ったマルグリート、教会の場面、ジーベルと彼の花、ファウストとメフィストフェレス。メフィストフェレスを見て、彼は再びミスター・ブラウンのことを思い出した。密閉された部屋、すき間一つない厚いドア、彼は世の中から完全に隔離され、極悪な犯罪者の力をひしひしと身に感じた。どんなにわめいてもどなっても、誰一人聞きつけてくれる人はいないだろう? まさにこの世の墓場である……。
トミーは無理矢理に自分の気を引き立てた。ベッドに身を横たえて、考えこんだ。頭がひどく痛む。腹もへっていた。静けさがたまらなく彼を憂鬱にした。
「いずれにしても……」トミーは自分を元気づけるためにひとり言を言った。「おれは、親分に会えるんだ――謎の人物、ミスター・ブラウンに。それから、うまくこけおどしの手を使えば、あの謎の少女、ジェーン・フィンにも会えるだろう。そのあとで……」
そのあとどうなるか? 見込みは全然ない、暗澹《あんたん》としている、トミーもこれはいやでも、認めざるをえなかった。
一七 アネット
しかし、将来の問題は、現実の問題を前にしてたちまち消えてしまった。その現実の問題のうちでも一番切実なのは、空腹だった。トミーは元来がひじょうに健康な食欲の持ち主である。昼食にとったステーキとポテト・チップスは十年前のことのように思われてきた。くやしいけどこれじゃ、とてもハンガー・ストライキをやっても成功しないだろうと思った。
彼はあてもなく部屋の中にうろつきまわった。一度か二度、自尊心も威厳もかなぐり捨てて、ドアを開けてくれと、叩いた。しかし誰も応じてはくれなかった。
「心配することないさ」トミーは腹立たしげにひとり言を言う。「まさかおれを餓死させるつもりはないだろう」ふと新しい考えがわいてきた。ひょっとしたらこれは、ボリスお得意の、例の、人に白状させる拷問の一つではないだろうかという考えである。しかし、も一度考え直して、そんなはずはないと、打ち消した。
「いや、これは、あのふくれっ面したコンラッドの野郎の仕業だ。いつか、あいつをこてんこてんにやっつけてやらなきゃ、腹の虫がおさまらない。これは、やつがわざと意地悪してるんだ。それに違いない!」
さらに考えているうちに、あのコンラッドの玉子型の頭に何かを思い切り叩きつけてやったらどんなにいい気持になるだろうと思うようになった。トミーは自分の頭をそっとなでて、想像の楽しさに身をまかせた。そのうちにすばらしいアイデアが頭にひらめいた。そうだ、この想像を現実に移したらどうだろう! コンラッドがこの家に住んでいることは、明らかである。ほかの連中は、この家を会合の場所として利用しているにすぎない。ただ、ひょっとしたら、ひげのドイツ人だけは例外かもしれないが……。だから、ドアのうしろにかくれてコンラッドに待ち伏せをかければいいんだ。コンラッドがはいって来た時、椅子か、こわれかかった額縁の絵を、うまく彼の頭に叩きつける。もちろん、あまり力を入れないように注意しなきゃあ。それから――それから、ただ歩いて出て行きゃいいんだ。もし、下におりる途中で誰かにあったら、そのときは――トミーは握り拳のなぐり合いという場面を想像していい気持になった。そのほうが、きょうの午後のような言葉のやり合いよりずっと、自分の好みにあってる! 彼は、この計画に陶然となって、壁からそっと悪魔とファウストの額をはずすと、位置についた。希望に胸がおどった。計画は単純だが、実に効果的だ、と思った。
時間は過ぎ去っていった。しかし、コンラッドは現われなかった。この密閉された部屋の中にいると夜も昼もなかったが、トミーの腕時計――正確さにはわりと自信があった――によると、晩の九時だった。トミーは考えた。晩飯がいま届けられなければ、朝飯を待つだけだ。憂鬱だった。十時になった時、彼は望みを捨てて、ベッドに身を投げ出した。眠って飢えを忘れるほかない。五分後にはあらゆる苦痛が忘れ去られてしまった。
鍵をまわす音で、彼は眠りからさめた。英雄は起きるとすぐに全機能を働かせることができると言われているが、トミーは英雄ではない。ただ天井を眺めて目をぱちぱちさせ、ぼんやりと、どこにいるのかなと考えた。それから思い出して時計を見た。八時である。
「早朝のお茶か、朝飯か、だ」彼は考えた。「神様、なるべくなら朝飯でありますように」
ドアがさっと開かれた。もうおそい、トミーは、あの魅力的なコンラッドを抹殺する計画を思い出した。一瞬後、彼は、おそすぎてよかったと思った。はいって来たのはコンラッドではなく、女の子だったからである。彼女は手にお盆を持っていた。そのお盆を彼女はテーブルの上においた。
ガス燈の弱い光で、トミーは娘をながめた。すぐに彼女が、いままで会った女のうちでももっとも美しい女の一人であることがわかった。髪は豊かな褐色、ときどき、ぴかぴかと黄金色の輝きがきらめいている。ちょうど、髪の中に閉じこめられた陽光がなんとかして逃れ出ようとしている感じだった。顔は野バラを思い出させた。目は広く離れていてハシバミ色、これまた太陽の光線を思い出させる黄金色のハシバミだった。
気違いじみた考えがトミーの心の中をさっと走った。
「きみはジェーン・フィン?」彼は息をはずませてたずねた。
娘は不思議そうな顔をして首を振った。
「あたしの名前はアネットです。ムッシュー」やわらかい、片言の英語だった。
「え?」トミーは不意を打たれた感じだった。「フランス人?」思い切ってたずねてみた。
「ウイ・ムッシュー、ムッシュー・パルル・フランセーズ〔そうです。あなたはフランス語話しますか〕!」
「長々と話すのはだめだな。それ何? 朝ごはん?」
娘はうなずいた。トミーはベッドからおりて、盆の上にのっているものを調べた。一塊のパンと、マーガリン、水さし一杯のコーヒーだった。
「リッツの生活とは比べものにならないが、やっと頂けるこの食べ物については、ぼくも、神に心から感謝の言葉を述べたいな、アーメン」
彼はテーブルに椅子をよせ、娘は、ドアのほうに行こうとした。
「ちょっと待って」とトミーが呼びとめる。「きみに聞きたいことがたくさんあるんだけど、アネット。きみこの家で何をしてるんだい? まさかコンラッドの姪か娘か何かって言うんじゃないだろうね。そうだと言っても絶対に信じないから」
「あたしはお給仕するものです。ムッシュー。あたし、誰の親類でもありません」
「そう。それでいまさきぼくのたずねたことおぼえてるだろ? あの名前をいままで聞いたことある?」
「ジェーン・フィンの話は聞いたことあると思います」
「彼女がどこにいるか知らない?」
アネットは首を振った。
「たとえば、この家にいるんじゃない?」
「いいえ、いません、ムッシュー。あたし行かなきゃ。ほかの人たちが待っていますから」
彼女は急いで外に出ていった。ドアには再び鍵がかけられた。
「ほかの人たちって誰だろう?」トミーはパンにかじりつきながら、考えた。「うまくいくと、あの娘、おれの脱出を助けてくれるかもしれないな。あの子はどう見ても、一味の一人とは考えられないから」
一時にアネットは再び盆を持って現われた。しかし、今度はコンラッドがいっしょだった。
「おはよう」とトミーは愛想よく言う。「ペア印の石鹸使ってないとみえるね、心配そうなところを見ると」〔当時「ペア印石鹸を使えば心配ない」という宣伝文句があった〕
コンラッドはなぐりかからんばかりの顔をして、うなった。
「当意即妙の答は出ないようだね、おっさん。まあ、いいや、美貌と教養の両方兼ねそなえることはできないと言われているからね。昼飯はなに? シチュウだろ? どうしてわかるかって初歩的推理だよ、ワトソン――玉ねぎの匂いで、すぐわかる」
「勝手にしゃべってな」とコンラッドはうなった。「しゃべっていられる時間もたいして長いことないんだからな」
この言葉を考えているとあまりいい気持はしなかったが、トミーはこれを無視した。彼はテーブルについた。
「さがりおろうぞ、下僕め」彼は手をふった。「長上に向かって、おこがましい口をきくは予が許さぬ」
その晩トミーはベッドに腰かけ、じっくりと思案した。コンラッドはまた娘といっしょに来るだろうか? もし来なかったら彼女を味方にするため努力をしてみよう。とにかく、あらゆる手をつくすべきだ。事態はもう絶体絶命である。
八時、例の耳なれた鍵の音がした。彼はぱっと立ち上がった。彼女はひとりきりだった。
「ドアを閉めてくれ、きみに話がある」彼女は言われるとおりにした。
「実はね、アネット、きみに、ここを逃げ出す手伝いをしてもらいたいんだ」
彼女は首を振った。
「不可能ですわ。下には三人もいるんですもの」
「おお!」トミーはこの情報を心の中でひそかに喜んだ。「しかし、できたら助けてくれるだろうね?」
「いいえ、ムッシュー」
「どうしていやなんだ?」
娘はためらった。
「あの人たちは、あたしの友だちです。あなたはあの人たちをスパイしました。あの人たちがあなたをここに閉じこめておくのは当然です」
「あの連中は悪人たちだよ、アネット。きみが助けてくれたら、ぼくはきみを彼らから引き離してあげる。それにお金だって充分にあげられると思う」
しかし、娘はただ首を振るだけだった。
「そんなことする勇気はありません、ムッシュー。あたしは、あの人たちを恐れています」
彼女は向きを変えて立ち去ろうとした。
「きみはほかの女の子を助けることだってできないかね?」トミーは声を上げた。「その娘はきみと同い年ぐらいだ。彼らの手から彼女を救ってくれないかね?」
「ジェーン・フィンのことですか?」
「そうだ」
「あなたは、そのひとを捜しにここに来たんですか? そうですか?」
「そうなんだ」
娘は彼を見つめた。それから、手をひたいにあてて、
「ジェーン・フィン。いつもその名前を聞きます。よく知っている感じ」
トミーは身を乗り出した。
「きみは彼女のこと何か知っているはずだ」
しかし、娘はさっさと向きを変えてドアのほうに向かっていった。突然、彼女は叫び声を上げた。トミーは目を見はった。彼女は、彼が前の晩にはずして壁に立てかけておいた絵を見つけたのである。一瞬、彼は、彼女の目に強い不安の表情を見たと思った。しかし、どういうわけか、それはすぐに安堵の表情に変わった。それから、ぷいと部屋の外に出て行った。トミーは全然わけがわからなかった。このおれがあれで彼女をなぐりつけるとでも思ったのだろうか? いや、そんなこと思うはずはない。彼は、思案顔で、絵をもとの位置につるした。
それからさらに三日という時間が、何事もなしに、過ぎ去った。たまらない三日間だった。神経がだんだん参ってくるのが感じられた。コンラッドとアネット以外には誰にも会わなかったし、アネットは唖《おし》のようにだまりこんでしまった。ときおり、ええ、とか、いいえ、とか返事するだけだった。暗い疑惑のかげりに似たものが彼女の目にくすぶっていた。トミーは、もしこの孤独の幽閉がこれ以上つづいたら、気が狂ってしまうだろうと思った。コンラッドの話で、彼らがミスター・ブラウンの指令を待っていることがどうやらわかった。たぶん、彼は外国かどこかに行って留守なのだろう、それで、やむなく彼の帰りを待っているのだろう、と察した。
しかし、三日目の晩、事態が荒々しく変わった。
まだ七時になったかならないころ、廊下から乱暴な足音が聞こえてきた。次の瞬間、ドアがぱっと開かれ、コンラッドがはいって来た。例の陰険な顔つきをした第十四号がいっしょだった。二人を見て、トミーの心はがっくりと沈んでしまった。
「こんばんは、旦那」と男は意地悪な目つきをして言う。「相棒、さっきの縄はどこだい?」とコンラッドに向かってたずねた。
むっつりしたコンラッドは、長い細い縄を取り出した。次の瞬間、第十四号は、恐ろしく器用な手つきで、トミーの手足にその縄をまきつけはじめた。その間、コンラッドは彼をおさえていた。
「いったい、なんで……?」トミーが口を開いた。
しかし、むっつりしたコンラッドの顔にゆっくりあらわれた声のない冷笑を見て、トミーの言わんとする言葉は、唇に凍りついてしまった。
第十四号は手早く仕事をすませ、一分後には、トミーも一握りのぼろっ切れみたいな力ない存在にすぎなくなってしまった。それから、やっとコンラッドが口を開いた。
「おまえ、おれたちをうまくだましおおせたと思ってたんだろ? 知ってること知らないこと並べたてて。おれたちと取引するなんてぬかしやがる! なんでえ! みんなハッタリのうそ八百じゃねえか! おまえなどなんにも知っちゃいなかったんだ! だがもう、芝居はすんだんだ! この豚野郎!」
トミーは黙って横たわっていた。何も言うことはなかった。とうとう失敗に終わったんだ。全知全能のミスター・ブラウンは、どういう方法でか、彼の正体を見破ってしまったのだ。突然、ある考えが頭に浮かんだ。
「なかなかりっぱなスピーチだ、コンラッド」彼はいかにも感心したようなようすを見せて、
「しかしだね、それじゃなんのため、手や足をしばり上げるんだ? この親切なお方に頼んで、すぐこの場でぼくののどをかっ切ってもらえばいいのに」
「てやがんでえ」と第十四号が思いがけなく口を開いた。「おれたちを、こんな所でおまえを殺《ば》らしてサツに嗅ぎまわされるようなトウシロとでも思ってんのか? おまえさまのお車をあすの朝こちらにまわすようにちゃんと手配がついてんだ! これはな、それまでの用心さ。わかったか?」
「ああ、きみの言葉ほどはっきりわかるものはこの世にないからね。きみのみっともない顔を除いてはね」
「生意気な口きくな!」と第十四号。
「喜んで黙るよ」とトミー。「ただね、きみたちはたいへんな間違いをしてるんだよ――結局損をするのはきみたちだがね」
「二度とその手に乗るもんか」と第十四号。
「まだリッツにでもいるような口ききやがる」
トミーは返事しなかった。彼はミスター・ブラウンがどうして自分の正体を発見したのだろうと一所懸命考えていたからである。結局、タッペンスが心配のあまり警察に届け、彼の失踪が公《おおやけ》になり、それを見て、連中が事情を推察したのだろう、ということにした。
一時間ばかりして、トミーはそっと鍵穴に鍵をまわす音を聞きつけた。ドアがあいた。アネットだった。トミーの心臓が少し早くなった。彼女のことはすっかり忘れていた。ひょっとしたら彼を助けに来たのではなかろうか?
突然コンラッドの声が聞こえた。
「アネット、その部屋から出てこい。今晩は晩飯いらないんだ」
「ウイ・ウイ・ジュ・セ・ビアン。〔はい、はい、よくわかってます〕でも、お盆を下げたいのです。お盆の上にあるものが欲しいのです」
「じゃ、早くしろ」コンラッドがどなった。
トミーのほうには目もくれず、彼女はテーブルのそばに行き、お盆を取り上げた。それから片手を上げてガス燈を消した。
「ばか!」――コンラッドはもうドアの所に来ていた――「なんでそんなことするんだ?」
「あたし、いつもそうしてますわ。そう言ってくださればよかったのに。じゃつけましょうか、ムッシュー・コンラッド?」
「いい。早く出て来い」
「あらあら」とアネットは暗闇の中、ベッドのそばに立ちどまって、「すっかりしばりあげちゃったのね。まるで料理前のにわとりみたいだわ!」彼女のあからさまなからかいの言葉にトミーは神経をさか撫でされたような不快感をおぼえたが、その瞬間、おどろいたことに、彼女の手が軽く縄の結び目にさわっているのを感じた。そして、彼のてのひらに何か小さい冷たいものが握らされた。
「出て来い、アネット」
「ええ、出て来ましたわ」
ドアがしまり、またコンラッドの声が聞こえた。
「ドアに鍵をかけて、その鍵をおれによこせ」
足音が遠ざかっていった。トミーはあっけにとられて化石のようにじっと横たわっていた。アネットが彼の手におしこんで行った物体は、小さなペン・ナイフで、刃がちゃんと外に出してあった。彼女がわざと彼のほうを見ないようにしたあの態度、ガス燈を消したあの行為からして、トミーはこの部屋が何かの方法でのぞかれているにちがいないと察した。たぶん壁のどこかに、のぞき穴があるのだろう。彼はいままで彼女がいかに警戒的な態度をとっていたかを思い出した。彼自身もずっと観察されていたのだ。そうするとこのおれ自身が自分の正体を暴露するようなことを口に出したのだろうか? いや、そんなことは言わなかったはずだ。もちろん逃亡の意志とジェーン・フィンを見つけたがっていることは口にした。しかし、自分が何者であるかを知らせるような手がかりは何一つ与えてない。もちろんアネットに対する質問で彼がジェーン・フィンと個人的な知り合いでないことは明らかにされた。しかし、彼自身、彼女と知り合いだといううそはついてないのだから、その点問題はない。今問題になるのは、アネットがジェーン・フィンのことをほんとうはもっと知っているのではないだろうか、ということ。彼女が知らないと言ったのは、立ち聞きしている人間に聞かせるためではなかったろうか? この点について彼はなんとも結論の下しようがなかった。
しかし、今、何にもまして重大な問題、それは、こうして縛られていて、はたして、縄を切ることができるだろうかということである。彼はこころみに、ナイフの刃を、両腕の手首を結びつけている縄にあてて、上へ下へとまさつしてみた。ひじょうにやりにくい仕事だった。手がすべって、ナイフの刃が、手首の皮を切った。「ううう」と彼は悲鳴をおし殺した。しかし、ゆっくりと辛抱強く、のこぎりをひくような仕事をつづけた。手首の肉も相当深く切った。が、ようやくのことで、縄が少しゆるんだように思われた。手が自由になると、あとは容易だった。五分後には手足がしびれていたので少し困難だったが、それでもまっすぐ立ち上がることができた。まず何よりも、手首の血をとめるために、傷口の手当てをした。それからベッドの端に腰かけて考えた。ドアの鍵はコンラッドが持っていった。だからアネットの助力はこれ以上望めないとみていいだろう。部屋から外に出る道はドアだけである。したがって二人の男が彼を連れに来るまで待つほか方法はない。しかし、二人が戻って来たら……トミーは微笑した! まっ暗な部屋の中を細心の注意をはらって動きまわり、壁の絵を見つけてこれをはずした。最初の計画が結局むだにはならなかったのだという妙に経済観念的な喜びを感じた。あとは、もう待つよりほかなかった。彼は待った。
夜はのろのろと過ぎて行った。無限の時間と言ってもいいくらいだった。やっとのことで足音が聞こえてきた。彼は立ち上がってまっすぐに背をのばし、深呼吸を一つして、額入りの絵をしっかりとつかんだ。
ドアが開いた。かすかな光が外からはいってきた。コンラッドはまっすぐガス燈のほうに向かった。火をつけに行ったのである。彼が先にはいって来たのはどう考えても残念だった。コンラッドと五分五分になれたらどんなにいい気持だろう! 第十四号が彼のあとからはいって来た。敷居をまたいで中にはいって来た時、トミーは、彼の頭の上に、ありったけの力で絵を叩きつけた。第十四号は、めちゃめちゃに砕けたガラスの破片の中にうずくまってしまった。次の瞬間、トミーは外にすべり出て、ドアを閉めた。鍵は鍵穴の中にさしこまれていた。彼はその鍵を回して、ひきぬいた。と同時に、コンラッドが、あらゆる罵詈雑言《ばりぞうごん》をまきちらしながら、自分の身体を中からドアにぶっつけた。
一瞬トミーはためらった。階下で誰かが動きまわっている音がした。やがてドイツ人の声が階段づたいに聞こえてきた。
「どうしたんだ? コンラッド。何かあったのか?」
トミーは小さな手が彼の手の中につっ込まれるのを感じた。そばにアネットが立っていた。彼女はどこか屋根裏にでも通じているらしい梯子《はしご》を指さした。
「早く――こっちへ上がって」彼女は彼を梯子の上にひっぱり上げた。次の瞬間二人は、材木の散らばったほこりだらけの屋根裏部屋に立っていた。トミーはあたりを見まわした。
「これはだめだ。わなにかかったも同然だ。出口がない」
「静かに! 待って」彼女は指を唇にあてた。それから梯子の一番上で耳をすました。
ドアを叩いたりなぐったりする音は、すさまじい限りだった。ドイツ人と、も一人の男がドアを破って中にはいろうとしていた。アネットが小声で説明した。
「あの人たち、あなたがまだ中にいると思ってんのよ。コンラッドの言ってることわからないから。ドアが厚くて」
「部屋の中の言葉はすっかり聞こえるんじゃなかったのかい?」
「次の部屋に通じるのぞき穴があるわ。よくわかったわねえ。でも、あの人たちはきっと思いつかないだろうと思うわ――中にはいることに一所懸命になっていて」
「そりゃそうだろうけど――しかし――」
「あたしにまかせておいて」彼女は身を屈めた。おどろいたことには、彼女は長いひもの一端を大きなひびのはいった水差しの柄《え》にむすびつけていた。彼女は注意深くそれをひきのばし、それから彼のほうに向いた。
「ドアの鍵持ってる?」
「ああ」
「あたしにちょうだい」
彼は鍵を渡した。
「あたし、下におりるわ。あなたは半分ほどおりたら、とびおりて梯子のうしろに隠れて。みんなに見つかるといけないから」
トミーはうなずいた。
「そこの暗がりに大きな戸棚があるの。あなたそのうしろに立って、このひものはしを握っててね。あたしがあの人たちを外に出したら――それを|ひく《ヽヽ》のよ」
彼は何か聞こうとしたが、アネットはそのひまも与えず、梯子を身軽におり、みんなのいるまん中にはいって、大声で叫び出した。
「モン・デュ!  モン・デュ!  ケ・ス・キ・リ・ア〔まあ! いったい、どうしたの〕?」
ドイツ人が彼女のほうをふり向いてどなった。
「こんな所に来るんじゃない! 自分の部屋にはいってるんだ!」
トミーは用心深く梯子の途中からとびおりて、背後にかくれた。彼らがうしろをふり向きさえしなければ大丈夫である。彼は戸棚のうしろにうずくまった。彼らはまだ彼と下に降りる階段との間にいる。
「あ!」アネットは何かをふんづけたようだった。彼女はそれをすくい上げた。「モン・デュ・ ヴォワラ・ラ・クレ〔あら、こんなとこに鍵があるわ〕」
ドイツ人はその鍵を彼女からさっとつかみ取り、ドアをあけた。コンラッドが罵り声を上げて、転げ出て来た。
「どこにいる? 捕まえた?」
「誰も見ない!」とドイツ人が鋭い声で答えた。顔が蒼白に変わった。「誰のことを言ってるんだ?」
コンラッドは再び罵り声を上げた。
「逃げたんだ」
「そんなはずない。逃げたんならわれわれのそばを通って行くはずだ」
その瞬間、トミーは陶然とした微笑を浮かべてひもを引いた。水差しのがちゃんと割れる音が、上の天井裏から聞こえて来た。はっとした男たちは、先を争ってがたがたの梯子段をのぼり、暗闇の中に消えた。
トミーは稲妻のようにかくれ場所から飛び出し、娘の手を引いて階段をかけおりた。入口のホールには誰もいなかった。彼はドアのかんぬきや鎖をがたがたいわせて動かし、やっとのことでドアを開いた。うしろをふり向くと、アネットは姿を消していた。
トミーは呆然としてつっ立っていた。彼女はまた二階へ戻っていったのだろうか? なぜ、そんなばかげたことをするのだろう? 彼は、腹を立て、いらいらし、それでも頑張って彼女の来るのを待っていた。どうしても彼女を連れて行かねば……。
突然、頭の上のほうが騒がしくなった。ドイツ人の叫び声、それからアネットの叫び声、それは甲高く、はっきり聞きとれた。
「たいへん! あの人逃げたわよ! 早く、早く! どうして逃げたんでしょう!」
トミーはまだ根が生えたようにつっ立っていた。彼女のあの叫び声は早く逃げろという命令だろうか? たぶんそうだろう。
それから、さらに大きな声が、階下の彼の所に流れおちて来た。
「この家、ひどい家。あたし、マルグリートの所に帰りたい。マルグリート。マルグリートの所へ」
トミーは階段の所に戻っていった。彼女は自分を捨てて逃げてくれと望んでいるらしい。しかしなぜだろう? どんなことしてでも彼女を連れて行くべきだ。しかし、もうだめだ。コンラッドが彼を見つけて、荒々しい叫び声を上げて階段をとびおりて来た。彼のあとからほかの男たちもおりて来た。
トミーは突進してくるコンラッドに、ストレートのアッパー・カットを食らわせた。拳はまともに彼のあごにあたり、彼は丸太ん棒のように倒れた。二番目の男はコンラッドの身体につまずいてひっくりかえった。階段の上から、ぴかりと何かひかって、弾丸がトミーの耳を掠《かす》めた。トミーは、早急にこの家を出て行ったほうがいいと悟った。アネットのことは、いまの彼にはどうしようもない。コンラッドとはどうにか五分五分になった。少なくとも一つだけはわが意を得たりである。あの一発は実によくきいた!
彼はドアのほうに跳んで、外に出るとバタンと力一杯に閉めた。外の広場には誰もいなかった。家の前にパン屋のトラックがおいてあった。この車で彼の死体は、ソホー区の家から何マイルも離れたロンドンの郊外に運ばれ、そこで発見されるという手はずになっていたのであろう。運転手が舗道にとびおり、トミーの行く手をふさごうとした。再びトミーの拳がうなり、運転手は道の上にのびた。
トミーはまっしぐらに走りはじめた――ちょっとおそかった。家のドアが開いてつづけざまに弾丸が飛んで来た。さいわいに一発もあたらなかった。彼は広場の角を曲がった。
「少なくとも、こっちに一つだけ利点がある」とトミーは考えた。「やつらは、いつまでもピストルを射ってるわけにはいかないということだ。警官に追いかけられる破目になるからだ。いくらなんでもそこまで危険をおかすことはまずあるまい」
うしろから追手の足音が聞こえてきた。彼は速力をさらに二倍にした。裏通りから外に出さえすればもう大丈夫だ。どこかに警官もいるだろう――べつにこちらから警察の援助を求めるつもりはなかった。できれば警察とは無関係でありたかった。警察が介入してくれば、いちいち釈明しなければならないし、いろいろとわずらわしいことが起こる。ところが運命の神は彼に味方した。走っているうちに道ばたに寝ていた酔払いか、浮浪者をふんづけたのである。男はおどろいて起き上がると、あわてふためいて逃げ出した。トミーは、とある家の入口に身をかくした。次の瞬間、うれしいことには、追手二人は一所懸命見当違いの人間を追いかけていったのである。追手二人の中には例のドイツ人もいた。
トミーは入口の石段に静かに腰をおろし、息切れが回復するまで休んだ。それから、ぶらぶらと反対の方向に歩いていった。時計を見た。五時半少し過ぎだった。あたりはどんどん明るくなった。次の曲がり角で、一人の警官とすれ違った。警官は彼を妙な目つきで眺めた。トミーはちょっとしゃくにさわった。が、すぐに手を顔にあてたとたんに笑い出してしまった。三日間ひげもそってなければ、顔も洗ってなかったからである。たいへんな顔に違いない!
彼はためらいもなしに終夜営業のトルコぶろに向かった。すっかり夜が明けて人通りも多くなった街頭に出て来た時には、彼自身も、ようやく人心地がついて、計画をたてる余裕が出てきていた。
まず何よりも、ちゃんとした食事をしなけりゃ。きのうの正午以来何も食べていない。彼はABCショップにはいって玉子とベーコンとコーヒーを注文した。食べながら、朝刊をテーブルの上に立てて読んだ。急に彼は身を硬ばらせた。クラメニンのロンドン来訪について長い記事が掲載されていたのである。ロシア共産主義の背後で、糸をあやつっている男と説明されていた――ある一部の人は彼の訪英を非公式の使節とみていた。記事の中には彼の履歴《りれき》が簡単に述べられ、ロシアの革命を起こしたほんとうの人物は、革命の首脳者たちではなく、彼自身だったとはっきり書かれていた。
ページのまん中に彼の写真が掲載されていた。
「そうか、この男が第一号だったのか」トミーは口いっぱいに玉子とベーコンをほおばってこうひとり言《ごと》を言った。「疑いの余地なしだ。早く出かけなきゃ」
朝食の代金を払うと、ホワイトホールに向かった。目的の省庁に着くと名前をのべて、急用だと告げた。二、三分後彼は、ミスター・カーターと対面していた。ここでは、ミスター・カーターの名では通用しないのである。彼は眉間《みけん》に深いしわをよせて不機嫌だった。
「きみ困るな、こんな所にわたしを訪ねて来てもらっちゃ。この前、おたがいにはっきり了解済みのはずだったのに」
「それは存じています。しかし、一分を争う問題だと思ったものですから」
こう言って彼はできるだけ簡単明瞭に、過去数日の出来事を話した。
話の途中、ミスター・カーターは、彼の話をとめて、電話で、二、三の秘密指令を発した。彼の顔からは、さきほどの不機嫌さもすっかり影を消してしまっていた。トミーが話し終わると、彼は力強くうなずいてみせた。
「まったくきみの言うとおりだ。一刻の猶予もできない。いずれにしても、その家に手配するのはもうおそいと思う。連中もぼんやりとはしていないだろう。すぐにどこかに逃げたにちがいない。それでも、何か手がかりになるものが残っているかもしれない。きみは第一号がクラメニンだと言ったね? ひじょうに重大なことだ。内閣があの男に少し気を許しすぎてるから、それを防ぐため、何か彼の弱点を握りたいものだと思ってたところだ。ほかの連中はどんな人間だ? 二人は見たような顔だと言ってたね? 一人は労働党員? この写真をちょっと見てくれ。その男がいるかどうか?」
一分後トミーは一枚の写真をえらび出した。ミスター・カーターはちょっと意外だ、という顔つきをした。
「ほう、ウェストウェイか? 想像できなかったな。穏健派《おんけんは》として知られていたのに。も一人のほうは、わたしにも多少想像はつく」彼は別の写真を見せた。トミーは相手の言葉を聞いて微笑した。「やっぱりそうだったのか。誰だって? アイルランド人だよ。有力な労働組合主義者で国会議員だ。もちろん、みんな表看板だけだがね。われわれも怪しいとはにらんでいたが――証拠がなくってね。とにかく、きみは実にりっぱな仕事をやってくれた。実行の日は二十九日だと言ってたね。ということは、ほとんど時間がないということ。実際もうほんのわずかの時日しかない」
「しかし……」トミーはそのあと言うのをためらった。
ミスター・カーターは彼の心を読んで、
「ゼネストのほうは、なんとか処置できると思う。もちろん五分五分のチャンスだが、とにかくチャンスはある。しかし万が一、例の条約草案が公表されたら――われわれはおしまいだ。英国は無政府状態に投げこまれるだろう。あ、なんだね? 車? よし。――さあ、ベレスフォード、きみのいた例の家を見に行こう」
ソホー地区では家の前に二人の警官が見張っていた。警官がミスター・カーターに低い声で報告した。ミスター・カーターはトミーのほうに向いて、
「思ったとおり、連中は逃げてしまったそうだ。ついでだから一応調べてみよう」
人気《ひとけ》のない家を調べていると、トミーは自分が夢の中の人物になったような気がした。すべてが、あの時のままだった。額縁《がくぶち》の絵がゆがんだままかかっている密室、屋根裏部屋のこわれた水差し、長いテーブルのある会議室。しかし、どこを捜しても書類らしきものは何もなかった。そういうものはすべて焼き捨てられたか、持っていかれたかしたらしい。それから、アネットの姿も見えなかった。
「きみから聞いた例の娘の話は、どうも、わけがわからないね」とミスター・カーター。「彼女は自分の意志で戻っていったときみは信じているんだね?」
「そうとしか思われないんです。ぼくがドアをあけている間に二階にあがっていったんですから」
「ふうむ。それじゃ彼女も一味の一人にちがいない。ただ、女だから、若いハンサムな男が殺されるのを見るに忍びなかったんじゃないかな。しかし、一味の人間であることは間違いなさそうだ。でなきゃ自分で戻っていくはずがないからね」
「彼女が彼らの仲間だとはどうしても考えられないんです。……全然……ほかの人間とは違ったタイプで……」
「美《い》い顔してたんだろうな?」ミスター・カーターは微笑《わら》った。その微笑を見てベレスフォードは髪の根もとまで赤くした。
彼はアネットが美人であることを恥ずかしげに認めた。
「それはそうと、きみはまだミス・タッペンスに会ってないんだろ? 彼女、きみのことで、わたしの所に手紙を山ほど書いてよこしてくれたよ」
「タッペンスが? 彼女、だいぶ、途方にくれたんでしょうね。警察にでも届けたんじゃないですか?」
ミスター・カーターは首を振った。
「じゃ、どうして一味はぼくの正体を見破ったんでしょう?」
ミスター・カーターはけげんそうに彼を見た。トミーは説明した。ミスター・カーターはうなずいた。
「そうだね。たしかにおかしい。ただし、偶然リッツという名を口にしたということもありえるからね」
「そうかもしれません。しかし、やっぱり何かの方法でぼくのこと見つけ出したんじゃないかと思いますね」
「まあ、いずれにしてもいまのところここにいても何もすることないから……」ミスター・カーターはあたりを見まわし、「どうだね、いっしょに昼食でも食べないかね?」
「ありがとうございます。しかし、一応ホテルに帰ってタッペンスに会っておいたほうがいいと思いますので」
「それもそうだね、じゃ彼女によろしく言っておいてくれ、それから、きみがそう簡単に殺される男じゃないってことも伝えておいたほうがいいね」
トミーはにやりとした。
「死ぬのは馴れてますから……」
「そうみたいだな」ミスター・カーターはそっけなく言う。「じゃ、失礼。それからきみは現在では狙われ者になっているから、一応用心しておいたほうがいいと思うね」
「ありがとうございます」
トミーは、タクシーを呼びとめるとさっさと乗りこみ、リッツに向かった。車の中ではタッペンスがどんなにおどろくだろうか、といろいろ想像しながらひとり悦に入っていた。
「彼女、おれの留守の間、何してたかな? たぶん『リタ』の身辺でも探ってたんだろう。そりゃそうと、アネットがマルグリートと言ったのは『リタ』のことに違いない。あの時は誰のこと言ってたのかよくわからなかったけど」こう考えてきた時、彼はちょっと淋しい気持におそわれた。というのは、これでミセス・ヴァンデマイヤーとあの娘が親しい間柄であることがわかったからである。
タクシーはリッツに着いた。トミーは胸をわくわくさせてリッツの神聖なドアの中に飛びこんでいった。しかし、彼のはやる心も、たちまちのうちに気勢を殺《そ》がれてしまった。ミス・カウリーは十五分前にお出かけになりました、と聞かされたからである。
一八 電報
がっかりしたトミーは食堂にはいって、思い切りぜいたくな食事を注文した。四日間の監禁生活で、よい食事の価値判断が倍加されていたからである。
ジネット風シタビラメの上等の一片を口に運んでいくその途中で、彼は食堂にはいってくるジュリアスの姿をみとめた。トミーは派手にメニューをふりたててジュリアスの注意を惹いた。トミーを見た時のジュリアスのおどろいた目、いまにも飛び出さんばかりだった。彼はそばにやって来て、トミーの手をポンプでもつくような勢いで上下にふった。トミーにはその動作が必要以上に大げさに思われた。
「おっどろいたなあ! ほんとにきみかい?」
とジュリアスは奇声を上げた。
「もちろんぼくさ。ぼくであっていけない理由でもあるのかい?」
「きみでなくちゃいけないって理由? 冗談じゃない! きみはもう死んだことになってたんだぜ。二、三日うちにきみの魂を鎮めるために彌撒《ミサ》でもやろうかと思ってたところだ!」
「誰がぼくが死んだと思ってたんだ?」とトミーが訊ねる。
「タッペンスさ」
「きっと|良い人間は若死する《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》って格言をおぼえていたんだろう。生きながらえたところみると、ぼくにも何か原罪があったのかな? そりゃそうとタッペンスはどこだ?」
「彼女、ここにいないのかい?」
「いないよ。フロントの話だと、いまさっき出て行ったと言うんだ」
「買物でも行ったんだろう。一時間前に車でここに連れて来たんだからね。それよりも、いいかげんにそのイギリス的な|くそ落ち着き《ヽヽヽヽヽヽ》をやめて、話をしてくれよ。いままで一体全体何してたんだ?」
「あんたがここで餌《えさ》を食うつもりなら、早く注文しろよ。話はすごく長いんだから」
ジュリアスは椅子をひきよせてトミーの反対側に坐り、近くでうろうろしていたウェイターを呼んで、食事を注文した。それから再びトミーのほうに向き直って、
「さあ、話してくれ。いろいろと冒険をやったんだろうからね」
「ああ、ひとつ、ふたつはね」とトミーはひかえ目に言う。それから、さっそく話に移った。
ジュリアスは、魔法にでもかけられたように身動き一つせずに聞き入った。テーブルの上に置かれた料理は、半分ぐらい手つかずに下げられていった。話が終わると彼は大きな溜息を一つついた。
「すごいな! まるで三文小説そっくりだ!」
「それでホームグラウンドのほうはどうだった?」とトミーは桃に手をのばしながらうながした。
「そうだね……え」とジュリアス。「実はわれわれにも多少の冒険はあったんだよ」
今度は、彼が話し手の側にまわった。まずボーンマスの失敗談から始め、ロンドンに帰って来て、車を買ったこと、タッペンスの心配がだんだん大きくなり、二人でジェームズ卿を訪ねていったこと、そして前夜起こったセンセイショナルな出来事、などを話して聞かせた。
「しかし誰が彼女を殺したんだ?」とトミーはたずねた。「どうもよくわからないな」
「医者は彼女が自分で薬をのんだってことにしていたが、実際はそう思ってないらしい」と彼は気のない返事をした。
「それで、ジェームズ卿は? 彼はどう考えている?」
「法律の大家だからね、牡蠣《かき》みたいに口つぐんでる。つまり判断を留保してるってわけだな」ジュリアスは、こう言って、さらにその日の朝のことを細かく話した。
「記憶喪失か?」とトミーは興味深げに言う。「それでわかった。ぼくが彼女に質問したいと言ったとき、連中がなぜおかしな顔してぼくを眺めてたか、よくわかった。まさにぼくの失敗だ。しかし、ふつうじゃそんなこと想像もできないからな」
「ジェーンのいる所について、連中何かヒントをくれなかった?」
トミーは残念そうに首を振った。
「ヒントらしいものは一言も言わん。あんたも知ってるとおり、ぼくは少し頭が悪いんでね。もっと連中からいろいろ聞き出すべきだったんだ」
「生きてここにいるだけでもたいへんな幸運だよ。きみのあの|はったり《ヽヽヽヽ》なんか実際たいしたもんだ。あの場で、あんな見事なでたらめを考えつくなんて、とてもおれの及ぶところじゃないね!」
「まさに絶体絶命の窮地だったんだからね、何か考えざるをえなかったんだよ」トミーは簡単にこう答えた。
ちょっと話が途絶えた。それから、トミーが話をミセス・ヴァンデマイヤーの事に戻した。
「死因がクローラルだってことは疑いの余地ないんだね?」
「疑いの余地ないと思う。少なくとも、医者はクローラルの過量服用による心臓麻痺とかなんとか診断していた。しかし、大丈夫だ。査問会の必要はないそうだ。ただ、タッペンスも、おれも、それから高度の知識人ジェームズ卿すら、ある一つの同じ考えを持ったんだ」
「ミスター・ブラウン?」トミーが思い切ってたずねてみた。
「そうなんだよ」
トミーはうなずいた。
「それにしてもだね」彼は考えながら言う。「ミスター・ブラウンには羽があるわけじゃなし、どうしてはいって、出ていったか、ぼくには全然わからない」
「高度の思考転移という手段ってのはどうだ? 何か催眠的感化力がミセス・ヴァンデマイヤーを無抵抗状態に陥れ、自殺行為を強制したってのはどうだい?」
トミーは尊敬の目で彼を眺めた。
「すごいな、ジュリアス。実に卓越した説だ。特に言葉の選び方がいい。しかし、ぼくはその説にあまり気乗りしないな。ぼくは血と肉をそなえたミスター・ブラウンであって欲しいのだ。われわれ才能ある探偵はここで大いに活躍すべきだ。あらゆる入口出口を調査して、謎の解明がつくまで脳髄をフルに働かせるべきだと思う。さあ、犯罪の現場に行ってみよう。タッペンスとなんとか連絡がつくといいんだがなあ。盛大に再会を祝う光景を見たらリッツの連中もきっと喜ぶだろうに」
フロントにもう一度問い合わせてみたが、タッペンスはまだ帰って来ていなかった。
「むだかもしれないが、おれは二階の部屋にいってみる」とジュリアス。「ひょっとしたらおれの居間にいるかもしれないし」彼は姿を消した。
突然、ひじょうに小柄なボーイがトミーの肘のあたりで声をかけた。
「あのお嬢さんは――汽車でお出かけになったと思いますけど……」彼は恥ずかしそうに呟く。
「なんだって?」トミーはくるりと彼のほうに向き直った。
少年は前よりもいっそう顔をピンク色にして、
「タクシーでお出かけになったんです。運転手にチャリング・クロス駅に大急ぎで行ってくれとおっしゃってました」
トミーは彼を見つめた。おどろきに目を大きくしていた。それを見て少し大胆になったボーイはさらに話をつづけた。「ですからきっとそうなんです。その前にABCとブラドショウの鉄道案内を持って来てくれとおっしゃってたし……」
トミーが口をはさんだ。
「いつABCとブラドショウを持って来てくれと言った?」
「ぼくが電報を持っていった時です」
「電報?」
「はい」
「何時ごろ?」
「十二時半ごろです」
「その時のようすを正確に話してくれ」
小柄なボーイは大きく深呼吸して、
「ぼく、電報を八九一号室に持って行ったんです――お嬢さんは部屋にいらっしゃいました。それで電報を開くと、はっと息を呑んで、それからなんとなくうれしそうな声で、『ヘンリー、ブラドショウとABCを大急ぎで持って来てちょうだい』とおっしゃるんです。ぼくの名前、ヘンリーじゃないんだけど……」
「きみの名前はどうでもいい。それからどうした」とトミーがいらいらしながら先を促した。
「ぼくがそれを持っていくと、ちょっと待って、と言って、その本で何か調べ、それから時計を見て、『大急ぎでタクシーを呼んでちょうだい』と言うと、もう鏡の前で帽子をかぶってらっしゃいました。ぼくが下におりるのとあの方が下におりて来るのとほとんど変わらないくらい。玄関の石段をおりてタクシーに乗りこむのをぼくが見てますと、あの方はさっきお話ししたようなことを運転手におっしゃったんです」
ボーイはここで話をやめ、肺の中に空気を補充した。トミーはまだ彼を見つめていた。ちょうどその時ジュリアスが彼のそばにやって来た。手には開いたままの手紙を一通持っていた。
「ハーシャイマー」――トミーは彼のほうを向いて――「タッペンスはひとりでどこかに探偵に行ったらしいよ」
「ほんとか?」
「ああ、電報を受け取って大急ぎでチャリング・クロス駅に行ったらしい」たまたま視線がジュリアスの手にある手紙をとらえた。「あ、あんたに手紙置いてったのか。じゃ大丈夫だね。どこに行ったんだ?」
ほとんど無意識に手を手紙のほうにのばした。しかし、ジュリアスはそれをたたんで、ポケットの中にしまいこんだ。少し当惑げなようすだった。
「これはべつに関係ないと思う。ほかのことなんだ――おれが彼女に知らせてくれと頼んだほかのことなんだ」
「ほう!」トミーは怪訝《けげん》な顔つきをして、さらに説明を求めているようすを見せた。
「実はね」とジュリアスはいきなり切り出した。「一応きみにも話しておいたほうがいいと思うけど、実は、おれ、けさミス・タッペンスに結婚を申し込んだんだ」
「ほう!」トミーは機械的に言う。呆然とした気持だった。あまりに意外なジュリアスの言葉である。その言葉はしばし脳髄の働きを麻痺させてしまった。
「実はね、ミス・タッペンスにそれを言い出す前に、おれは、彼女ときみの間に割り込むようなことはしたくないとはっきり言っておいたんだ」
トミーはやっとわれにかえって、
「そりゃ大丈夫だ」とあわてて答え、それから、「タッペンスとぼくは長年の親しい友だちで、それ以上の特別な関係はないんだ」彼は煙草に火をつけた。ほんのわずかだが、手がふるえた。「いや、大丈夫だ。タッペンスはいつも言ってたんだが、彼女の求めているのは……」
彼は急に口をふさいで顔をまっかにした。しかし、ジュリアスはてんで意に介していなかった。
「つまり、要は金《ドル》だってんだろ。ミス・タッペンスは一番はじめに、そのことをおれに話してくれたよ。彼女っていいかげんなところの全然ない女性だ。おれたち、きっとうまくいくに違いないと思う」
トミーはしばらくじっと彼を見つめた。何か話し出そうとしているようすだったが、考え直して、黙りこんでしまった。タッペンスとジュリアス! ちょうどいいじゃないか! 彼女自身金持の知り合いが一人もいないといってなげいていたではないか? 機会さえあれば金のために結婚したいとはっきり表明していたではないか? この若いアメリカ人と知り合いになって、彼女にも、その機会ができたのだ。彼女がこの好機を逸するようなへまをやる女でないことは自他ともに許している。彼女は金を求めている。いつもそう言ってた。自分のその主義に忠実だからと言って彼女を責めるのはおよそ不合理だ。
とはいうものの、トミーは彼女を責めた。はげしいそしてまったく非論理的な憤懣《ふんまん》の情で胸がむかむかした。そりゃ、口に出して言うぐらいは許せる――しかし、まともな女の子なら絶対に金のために結婚するものじゃない! タッペンスは徹底的な冷血動物だ。利己的だ! あんな女と二度と顔を合わせるものか! 第一、この世の中自体がくさってる。
ジュリアスの声が彼の思考の世界に割り込んで来た。
「そうだよ。おれたちきっとうまくいくと思うよ。彼女が拒絶したのも、世間でよく言う、ほら、女の子は一度は拒絶するってやつだよ――いわばしきたりみたいなもんだな」
トミーは彼の腕をつかんだ。
「拒絶? 拒絶したって言うのかい?」
「そうさ。きみに話さなかったかな? なんの理由も言わないでただノー、ノーと言うんだ。どこまでも女性的なんだな。だからおれは彼女にもっと食い下がって……」
しかしトミーはいつもの礼儀正しささえ無視して相手の言葉をさえぎった。
「その手紙にはなんて書いてあったんだい?」彼は猛然と要求した。
気前のいいジュリアスはすぐにその手紙をトミーに渡した。
「彼女がどこに行ったか、何も書いてないよ。しかし、信じないなら自分で読んでみたらいいだろう」
手紙には小学生的筆跡として有名なタッペンス特有の字体でこう書いてあった。
[#ここから1字下げ]
ジュリアス様
白黒はいつでもはっきりさせておいたほうがいいと思います。トミーの消息がわかるまでは結婚のことなんか考える気持になれません。それまで、このままにしておいて下さい。
[#地付き]タッペンス
[#ここで字下げ終わり]
トミーは手紙を返した。目がきらきらと輝いた。彼の感情は一八〇度の転換を見せていた。今の彼には、タッペンスが高貴と清廉《せいれん》のかたまりのように見えてきた。彼女はなんのためらいもなしにジュリアスを拒絶したではないか? もちろん手紙には弱さがにじみ出ている、しかしそれは許されることだ。読みようによっては、早くトミーを見つけろとジュリアスをけしかけているんだ。いわば買収の匂いさえある。しかし、トミーはそれが彼女の真意であるとは思わなかった。可愛いタッペンス、この世に彼女の右に出る女は一人もいない! 彼女に会ったら……。思考が急にがくんともとに戻された。
「あんたの言うとおり、彼女が何を企んでいるか、この手紙には暗示すらないね」彼は、いつもの彼にかえった。「おい――ヘンリー!」
小柄なボーイがおとなしく近づいて来た。トミーは五シリング取り出して、
「も一つ聞かせてくれ。彼女が例の電報をどこにやったかおぼえているかい?」
ヘンリーは息をのんで、それから答えた。「くしゃくしゃに丸めて、暖炉の鉄格子の中に投げこまれたです。投げこむ時『ウープ』って言って」
「なかなか写実的だ。この五シリング、とっておけ」とトミー。「行こう、ジュリアス。電報を見つけなきゃあ」
二人は階上に急いだ。タッペンスは鍵を鍵穴にさしこんだままにしていた。部屋は彼女が出て行った時のままだった。暖炉の中に、オレンジ色と白の紙のかたまりがあった。トミーはその紙のしわをのばした。次のような電文が記されていた。
スグコイ、ヨークシャー、エバリー、モートハウス、ジタイハオオキクテンカイセリ、トミー
二人はあっけにとられて顔を見合わせた。ジュリアスが先に口を聞いた。
「きみの打った電報じゃないね?」
「もちろんぼくは打たない。しかし、それじゃこの電報は……?」
「事態最悪ってことだ」とジュリアスが静かに言う。「連中が彼女をつかまえたのだ」
「なんだって?」
「当然の帰結だ! 連中はきみの名をかたった。彼女はやすやすとそのわなにひっかかった」
「たいへんなことだ! どうしよう?」
「急いで彼女を追いかけるんだ! いますぐに! 一刻の猶予もできない! 彼女がこの電報を持っていかなかったのはせめての幸い。持っていってれば、全然手がかりなしだからね。とにかくハッスルしなきゃ。ブラドショウ鉄道案内はどこにあるんだ?」
ジュリアスのエネルギーには伝染性があった。トミー一人だったらたぶん坐りこんでじっと考えこみ、今後の行動の計画を練るだけで三十分は費やしてしまったであろう。しかし、ジュリアス・ハーシャイマーがあたりにいると、いやでもハッスルせざるをえなくなる。
口の中で呪いの言葉を一つ二つ呟くと、ジュリアスはブラドショウをトミーに渡した。こんななぞなぞみたいな本はきみのほうが馴れているだろうというのである。トミーは、ABC鉄道案内のほうがいいと言ってブラドショウは放り出してしまった。
「あった! ヨークシャーのエバリー。キングズ・クロス駅からだ。セント・パンクラス駅からでも行ける。(ボーイは聞き違えたんだな。チャリング・クロスでなくてキングズ・クロスだったんだ)二・五〇。彼女、これで行ったんだ。次が二・一〇。これはもう間に合わない。三・二〇がある――おまけにすごい鈍行ときてらあ!」
「車じゃどうだ?」
トミーは首を振った。
「なんだったら車だけ向こうに送っておいてもいいだろうが、われわれは汽車でいったほうがいいと思う。大事なことは落ち着くことだ」
ジュリアスはうなった。
「そりゃそうかもしれないけど、あのか弱い娘が危険にさらされてると考えると、考えただけでもいらいらしてくる」
トミーは上の空でうなずいた。考えていたのである。やがて、彼はこうたずねた。
「ねえ、ジュリアス。連中はいったいなんのために彼女をつかまえたと思う?」
「え? きみのいう意味よくわからないが……」
「つまりぼくの言いたいのは、かれらはべつに彼女に危害を加える意向は持ってないんだということ」トミーは自分の思考道程の緊張度をひたいのしわで表わしながら説明をつづけた。「彼女は人質なんだ。彼女の身にはそれほどさし迫った危険はないと思う。というのは、もしわれわれが何かつかんだ場合、彼女を自分らの手もとにおいておけばひじょうに有利だからね。彼女を手中におさめている限り、連中はわれわれの優位に立っているんだ。わかる?」
「たしかにそうだ」ジュリアスはしみじみという。「まさにそのとおりだ」
「それにね……」とトミーはふと思いついてこうつけ加えた。「ぼくはタッペンスに絶対の信頼をおいているんだ」
うんざりするような旅行だった。汽車は一駅一駅停車するし、しかもひじょうに混んでいた。二度も乗り換えた。一度はドンカスターで、一度は小さな乗換え駅で。エバリーはポーターが一人いるっきりの淋しい駅だった。トミーはそのポーターにたずねた。
「モートハウスにはどっちへ行ったらいいですか?」
「モートハウス? ここからなら相当ありますぜ。海っぷちの大きな家でしょ?」
トミーは図々しくもそうだと答えた。ポーターはこと細かに教えてくれたが、けっきょくよくわからなかった。二人は歩きはじめた。雨が降りだした。上衣のえりを立て、ぬかるみの中をとぼとぼと歩いた。突然、トミーが歩をとめた。
「ちょっと待って」彼は駅まで駆け戻り、も一度ポーターに当たってみた。
「きょうのロンドン発十二時五〇分の汽車で若い女性がここに着いたのをおぼえてませんか? 彼女もあんたにモートハウスの道をたずねたんじゃないかと思うんだけど……」
彼はタッペンスの人相容姿をくわしく説明した。しかし、ポーターは首を振って、そういう女性は記憶に残ってないと答え、しかし、モートハウスへの道をたずねた人はひとりもいなかった。これはたしかだ、と言った。
トミーはジュリアスの所に戻ってこの話を告げた。憂鬱が、鉛のおもりのように彼をおしつけはじめた。この捜査は必ずや失敗に終わるだろうという考えがだんだん強くなってきた。敵はわれわれより三時間前に行動を起こしている。ミスター・ブラウンにとって三時間は充分すぎるほど充分な時間である。ミスター・ブラウンが電報の発見という可能性を無視するはずがない。
モートハウスへの道は終わりがないようだった。一度曲がり方を間違えて、目的の方向から半マイルはずれたこともあった。七時を過ぎたころ、ある少年が「モートハウスは次の曲がり角をちょっと過ぎた所だ」と教えてくれた。
蝶番《ちょうつがい》が陰気な感じでひっかかっているさびた鉄の門。邸内の車道の両側にあるのび放題の木々には葉がいっぱい生い茂っている。そこには何かしら心を寒々とさせるものがあった。二人はうら淋しい車道を家のほうに向かった。落葉のために足音一つしない。暮色はもうほとんどなくなっていた。亡霊の世界を歩いているような感じである。頭上で枝々が羽ばたき、何かを泣き悲しむような音を立てた。ときおり、木の葉がさっと舞い落ちて、頬をひんやりと撫で、二人をぎくりとさせた。
車道が曲がって家が見えた。家もまたがらんとして人気《ひとけ》がなかった。よろい戸は閉められ、入口の石段は一面にこけでおおわれている。タッペンスはほんとうにこんな家におびきよせられたのだろうか? この道を人間の足がふまなくなって、もう何か月もたっているように見えるのだが……。
ジュリアスはさびだらけのベルの把手《とって》をひっぱった。家の空虚さにこだまして濁ったベルの音が聞こえてくる。誰も出て来なかった。ベルを何度も何度も鳴らした――しかし、生きた人間のいる気配は全然ない。二人は家のまわりをぐるりとまわった。どこもかもひっそりとしていて、窓は全部よろい戸が閉められていた。目で見た限りでは、この家は空家である。
「どうにもしようがないな」とジュリアス。二人はのろのろした足どりで門のほうに戻っていた。
「近くに村があるに違いない」ジュリアスは話をつづけた。「その村に行って話を聞くんだな。きっとこの家のこと知ってるだろう。最近誰かいたかどうかもわかると思うな」
「そりゃいい考えだ」
道を歩いているうちに、やがて小さな部落に来た。部落のはずれで道具袋を肩にかけた労働者に会った。トミーが彼を呼びとめて質問した。
「モートハウスですかい? 空家ですよ。もう何年も空いてましてね。見たかったらミセス・スウィニーが鍵持ってますぜ。郵便局の隣でさあ」
トミーは礼を言った。郵便局はすぐに見つかった。菓子屋と雑貨屋を兼業した郵便局だった。隣の小さな家のドアをノックした。清潔な、健康的な感じの女がドアをあけた。すぐにモートハウスの鍵を出してくれた。
「でもね、お気に入るかどうか保証できませんわ。修理しなきゃならない所が山ほどありますから。屋根がもっていたり、その他、修理費にたいへんなお金がかかりましてよ」
「どうもありがとう」トミーが快活に答えた。
「そりゃ、相当こわれてるでしょうが、このごろは住宅難ですからね……」
「ほんとにそうですわねえ」と彼女は気軽に相槌《あいづち》を打った。「あたしの娘夫婦など、もう何年家を捜してますことか。みんな戦争のおかげですわねえ。何もかも妙なぐあいになってしまって! でもこんなこと申し上げてなんですけど、この暗さじゃ家をごらんになっても、ろくに見えないんじゃないでしょうか? あすまでお待ちになったら?」
「いやかまわないです。今晩一応簡単に見てみて。もっと早く来るはずだったんですが、道に迷ったもんですから。そりゃそうと、この辺で一晩泊まりたいんですが、いい宿ありませんか?」
「ヨークシャー・アームズって宿屋がありますけど、あなた方のようなりっぱな方にはどうですかねえ」
「いや、どんな所でも結構です。それから、ちょっとお聞きしたいんですが、きょう若い娘さんで、この家の鍵をお願いに来た人いませんでしたか?」
彼女は首を振った。
「あの家を見に来た人は、もう長いこと誰もいません」
「どうもいろいろありがとうございました」
二人は再びモートハウスにとって返した。玄関のドアがひどい音を立てて開くと、ジュリアスがマッチをすって床の上をていねいに調べた。それから首を振った。
「誰もここを通った人間はいないね。ほこりを見てごらん。厚いほこりだ。足あとなんか全然ない」
二人はがらんとした家の中をあるきまわった。どこに行っても同じ。ほこりの層は全然乱されていない。
「わけがわからないね」とジュリアス。「タッペンスがこの家に足をふみこんだとは、とうてい信じられないね」
「しかし、来たのは来たと思うんだが」
ジュリアスは返事するかわりに首を振った。
「あす来て、も一度調べてみよう」とトミー。「明るくなって見たら何かわかるかもしれない」
翌日二人は、も一度家の中を調べてみた。そして、この家が相当期間誰もふみこんでない家だということをいや応なしに認めざるをえなかった。ここでトミーがある物を運よく見つけなかったら二人はそのままこの村を出ていっただろうが、玄関から門のほうへ歩いていた時、突然トミーが叫び声を上げたのである。そして落葉の中から何か拾い上げた。彼はそれをジュリアスに見せた。小さな金のブローチだった。
「これ、タッペンスのブローチだ」
「ほんとか?」
「誓ってもいい。ぼくは、彼女がつけているのを何度も見たんだ」
ジュリアスは大きく深呼吸を一つした。
「これでことはきまった。とにかく彼女がここまで来たことはたしかだ。あの宿屋を本部にして、彼女が見つかるまでこの辺を徹底的に調べ上げよう。誰かが彼女を見ているはずだ」
こうして戦いははじまった。トミーとジュリアスは別々にあるいはいっしょに仕事をした。しかし、誰もタッペンスらしき女性をこの辺で見かけた人間はいない。二人は困りはてた。が、気を落としたりすることはなかった。二人は戦術を変えた。タッペンスは、モートハウスまでは来たが、この近くに長くはいなかったのだ。つまり、そこから無理矢理に車で連れ去られたのだ。二人は再び調査をはじめた。問題の日に誰かモートハウスの近くで車を見かけたものはいないかと聞いてまわった。これもけっきょくは失敗に終わった。
ジュリアスは電報を打って、自分の車を取りよせた。そして根気よくこの地方を調べまわった。灰色のリムジンがいたという情報をつかんで、喜び勇んだのもつかの間、ハロゲートまで追及して、それがちゃんとした独身女性のものだとわかってがっかりした。
毎日毎日新しい捜索に出かけた。ジュリアスはまるで猟犬のように、わずかな匂いを嗅いではその足跡を追跡した。問題の日に村を通過した車は片っ端から行き先を調べた。強引に田舎の家にはいりこんでその車を調べ上げた。そのやり方が徹底的なら、お詫びの仕方もまた徹底的だった。犠牲者の立腹がおさまるまで謝罪したので、この点めったに失敗することはなかった。しかし、いたずらに毎日が過ぎ去って、しかもタッペンスの行方は杳《よう》として知れなかった。実に巧妙な誘拐で、彼女は文字どおり空中に蒸発してしまった感すらするのであった。
そして、別な心配がトミーの心に重くのしかかりはじめた。
ある朝、朝食のテーブルで向かい合っている時トミーはジュリアスにこう話しかけた。
「ここに来て何日になるか知ってる? 一週間だよ! それでいてタッペンスの行方捜査は一歩も進んでいない。しかも、今度の日曜は二十九日だ!」
「あ、そうだ」とジュリアス。「二十九日のこと、すっかり忘れてた。タッペンスのことだけしか考えてなかったんだ」
「ぼくだってそうだ。少なくとも二十九日のことは忘れてなかったけど、しかし、それもタッペンスを見つけることに比べれば、どうでもいいような気がしてたんだ。しかし、きょうは二十三日、だんだん時間が迫ってる。彼女を取り返すんだったら、二十九日前にやらなきゃだめだ――そのあとじゃ、彼女の命なんか彼らにとって全然無価値なんだ。人質の意味がなくなるからだ。ぼくはわれわれが出発点で何か間違いをしてるんじゃないかと感じ出した。時間ばかりむだにつかってちっとも先に進んでない」
「おれもおんなじ考えだ。おれたちは二人ともまぬけだった。ろくに噛めもしないのに大きな肉片をがめこんだ小犬みたいなもんさ。いいかげんなことをするのはもうやめた!」
「どうしようって言うんだ」
「一週間前にやるべきだったことをやろうと言うんだ。いまからすぐにロンドンに帰って、事件をイギリス警察の手に渡すつもりだ。おれたちは自分らをひとかどの探偵みたいに思いこんでいたのだ。探偵気どりでさ! 実際、ばかもばか、大ばかだ! おれはもうやめた。もう結構! スコットランド・ヤードに頼むよりほかない!」
「きみの言うとおりだ」とトミーはゆっくりした口調で、「はじめから警察に頼んでおけばよかった」
「やらないより、おそくなってもやったほうがいいと言うからね。おれたちは『どうどうめぐり』の遊戯をやってる子供みたいだった。おれはいまからスコットランド・ヤードに行って、どうしたらいいか手をとって教えてもらうんだ。けっきょくはアマチュアよりプロ選手のほうが勝つんだ。きみもいっしょに来る?」
トミーは首を振った。
「一人で充分だと思う。ぼくはここに残って、も少し探ってみる。何か見つかるかもしれないからね。万一ってこともあるよ」
「そりゃそうだ。じゃ、さよなら。刑事をつれてすぐに戻ってくる。一番腕利きの刑事に来てもらうつもりだ」
しかし、事態の推移はジュリアスの計画どおりにはいかなかった。その日、後刻、トミーはジュリアスから電報を受け取った。
[#ここから1字下げ]
マンチェスター、ミドランド・ホテルにすぐ来い。重大なニュースあり――ジュリアス
[#ここで字下げ終わり]
その夜七時半、トミーはローカル線の鈍行でマンチェスターに着いた。汽車をおりるとプラットフォームにジュリアスが待っていた。
「おれの電報が着いた時きみが宿屋にいれば、この汽車で来るだろうと思ったんだ」
トミーは彼の腕をつかんだ。
「ニュースって何だ? タッペンス見つかった?」
ジュリアスは首を振った。
「いや、ロンドンにこの電報がおれを待っていたんだ。着いたばかりの電報だったけどね」
彼は電報用紙をトミーに渡した。トミーは読みながら目を大きく見ひらいた。
[#ここから1字下げ]
ジェーン・フィンが発見された。すぐにマンチェスター・ミドランド・ホテルに来い。ピール・エジャトン
[#ここで字下げ終わり]
ジュリアスは電報を取ってたたんだ。
「妙だな」と彼は考えこむ。「あの弁護士、手を引いたんだとばかり思っていたのに」
一九 ジェーン・フィン
「おれの汽車は三十分前に着いたんだ」ジュリアスはトミーを駅から外に連れ出しながら説明した。「ロンドンを出る前に、きみがこの汽車で来るだろうと思ったもんだから、ジェームズ卿に電報を打っておいた。彼はおれたちの部屋をとっておいてくれた。八時に夕食に出てくるそうだ」
「彼が事件から手を引いたとあんたが考えたのはなぜ?」とトミーは好奇心を見せた。
「彼の言葉からさ」とジュリアスはさりげなく答える。「あの爺さん、カキみたいに黙りこんでた。弁護士ってのはみんなそうだが、自分がたしかにやれると自信持てるまでは、絶対に言質《げんち》を取られるようなことはしないんだ」
「そうかなあ?」とトミーが思案する。
「何がそうかなあ、だ?」とジュリアスが彼のほうに向き直る。
「それがほんとの理由かなって意味だ」
「もちろん、そうさ。首かけてもいい」
トミーは納得いかないようすで、首を振った。
ジェームズ卿はかっきり八時にあらわれた。ジュリアスがトミーを紹介した。ジェームズ卿は心をこめて握手した。
「お会いできて実に喜ばしい、ミスター・ベレスフォード。あなたのことはミス・タッペンスからいろいろ聞いてたもんで」――彼は、思わず微笑を洩らした――「もう前からの知り合いみたいな気持がする」
「おそれいります」トミーは明るい笑顔をつくって答えた。彼は、この高名の弁護士を熱心に値ぶみした。タッペンス同様、彼もまた、この弁護士の持つ個性、強い磁力を感じた。そしてなんとなくミスター・カーターを思い出した。外見は全然似ていないが、この二人はいずれも、ほかの人に同じような感じを抱かせる。ミスター・カーターのけだるい態度、ジェームズ卿の職業的な慎《つつし》み深さ、その下には、剣のように鋭い頭脳の明晰さをかくしていた。
彼が相手を観察している間、相手もまた彼を抜け目なく観察しているのがひしひしと感じられた。弁護士はやがて目を落とした。トミーは相手が開かれた本を読むのと同じようにやすやすと彼の心の中を読みとったことを知った。いったい最後的にどんな判断をくだしたのだろうと考えたが、しかし、それは知りようもなかった。ジェームズ卿はすべてを吸収するが、相手には自分のえらんだものだけしか与えない。その証拠はすぐに次のやりとりで分かった。
あいさつが終わるとさっそくジュリアスが矢つぎばやに質問を浴びせかけた。どういうふうにしてジェーン・フィンの行方を捜しあてたのか? まだこの事件に興味を抱いているということをどうして自分たちに知らせてくれなかったのか?……というような質問である。
ジェームズ卿はあごをなでながら、微笑した。やっと口を開いた。
「たしかにそうだ。たしかにそうだ。だが、とにかく彼女が見つかった。これはたいへんなニュースだよ。そうだろう? え? たいへんなニュースだね?」
「そりゃそうですよ。だが、どうして見つけたんです。ミス・タッペンスもぼくも、あなたが永久に手を引かれたものとばかり思ってたんですよ」
「ああ!」ジェームズ卿はちらっと電光のような視線を彼に投げ、再びあごの摩擦工作をはじめた。「きみはそう思ったのかね? ふうん、ほんとうにそう思ったかね? なるほど」
「しかし、ぼくたちの考えが間違っていたと考えてもいいですね?」とジュリアスは追求する。
「そうだね、そこまで言っていいかどうか、それは、どうだかわからんが、しかし、問題の娘さんを見つけ出すことができたというのは、たしかに関係者全部にとって運のいいことだと思うな」
「しかし、彼女はどこにいるんですか?」とジュリアスは、考えをすぐに飛躍させて、「あなたがここに連れて来てらっしゃることとばかり考えてました」
「それはちょっと不可能だな」とジェームズ卿は意味ありげに言う。
「なぜです?」
「なぜかって、この娘さんは交通事故で、はねとばされたからだよ。頭にわずかばかりの傷を負ってね。すぐに付属病院に連れて行かれたのだが、意識をとり戻した際に、自分の名前はジェーン・フィンだと言うのだ。これを……そのう、聞いた時、わたしは、彼女をある医者、わたしの友人だが、その医者の家にうつすように手配した。そしてすぐにきみに電報を打ったのだ。彼女は、そのあとまた意識を失って、全然口をきかないそうだ」
「重傷じゃないんでしょうね?」
「打撲傷と、擦過傷《さっかしょう》一つ二つぐらいのもんだ。医学上から言うと、意識を失うほどの傷じゃないんだが、記憶回復に伴う精神的打撃で、現在のような状態になったのだろうということだ」
「じゃ、もとに戻ったんですね?」ジュリアスが興奮した口調で叫んだ。
ジェームズ卿は、少しいらだたしそうにテーブルを叩いた。
「疑いの余地があるかね? ミスター・ハーシャイマー。自分の名前を名乗ることができたんだから。そのくらいはきみにも理解できると思ったのに」
「それで、あなたは偶然その場に居合わしたんですか」とトミー。「なんだかお伽話みたいですけど」
しかし、ジェームズ卿は、用心深かった。そう簡単には相手の手に乗らない。
「偶然というものは妙なものでね」彼は、さりげなく言った。
しかし、トミーは、ここでいままでただの疑念として抱いていたものがはっきり証明されたように感じた。ジェームズ卿がマンチェスターにいたのはけっして偶然ではない。ジュリアスは彼が事件から手を引いたと思ってただろうが、それどころか、彼は何か自分自身のやり方で、行方不明の娘のありかをつきとめたのにちがいない。ただトミーにとってどうしても解《げ》せないのは、彼がなぜすべてを秘密にしているのか、その理由である。たぶん、弁護士という職業の持つうぬぼれ的弱点であろうと結論した。
ジュリアスが話していた。
「食事をすましたら、ぼく、すぐにジェーンに会って来ます」
「それはむりだな」とジェームズ卿。「夜の今ごろ面会を許すってのはまずありえないものと思う。あすの朝十時ごろがいいだろう」
ジュリアスは顔を赤くした。ジェームズ卿の言動にはどうも彼のしゃくにさわる何かがある。ワンマン的性格の人間が二人よれば当然起こりうる摩擦だった。
「どっちにしても、今晩行ってみて、連中のばかげた規則に例外をつくらせることができるかどうか見てみます」
「むだだろうね、ミスター・ハーシャイマー」
その言葉はピストルの銃声のように飛び出した。トミーはぎくりとして目を上げた。ジュリアスは神経を尖《とが》らし、ひどく興奮している。グラスを唇に持っていくその手はわずかながらふるえた。しかし、目はジェームズ卿の目をがっしりととらえていた。一瞬二人の間の敵意が爆発して焔のように燃え上がるのではないかと思われた。しかし、けっきょく、ジュリアスが、その目を落とした。敗北である。
「いまのところ、ボスはあなたのようだ」
「ありがとう」とジェームズ卿、「じゃ、明朝十時ということにしよう」それから、全然何もなかったような気楽な態度に戻って、トミーのほうに向き直った。「実を言うと、ミスター・ベレスフォード、今晩ここであなたに会えるとはまったく意外だった。この前あなたの噂を聞いたのは、あなたの友だちがひどくあなたのことを心配していた時だが、それ以来ずっとあなたのことは何も聞かされてない。ミス・タッペンスはあなたがひどい目にあわされてるのではないかと心配してたようだが」
「ええ、そうなんです」とトミーは、その時のことを思い出しながら、「生まれてあんな危ない目にあったことは一度もありません」
ジェームズ卿の質問に答えながら、彼は、簡単に自分の冒険談を話して聞かせた。話が終わると、ジェームズ卿はトミーを新たな関心のまなざしで眺めた。
「危ないところをうまく切り抜けたようだな。おめでとう。なかなか才智のあるところを見せたようだな。しかも、自分の役柄を徹底的に貫いたところなど、実にみごとだ」
トミーはこの賛辞を聞いて顔を赤らめた。まるでエビのような赤さだった。
「あの娘がいなかったら、とても逃げ出せなかっただろうと思います」
「そうだね」とジェームズ卿はかすかに笑った。「彼女がそのう――きみに――好意を持ってくれたってことは実に運がよかった」トミーは抗議しようとしたが、ジェームズ卿はさらに話をつづけて、「彼女が一味の人間であることは疑問の余地ないんだろうね?」
「残念ながらそうらしいです。はじめは、彼女を強制的にあそこにおいているんじゃないかと思いましたが、彼女の行動がこれを否定しているんですよ。逃げようと思えば逃げられる機会が来たのに彼女は、彼らのもとに戻っていってしまったんですからね」
ジェームズ卿はうなずいた。「彼女の言った言葉? マルグリートのところへ行きたいとか何とか?」
「ええ、たぶんミセス・ヴァンデマイヤーのことじゃないでしょうか」
「ミセス・ヴァンデマイヤーはいつもリタ・ヴァンデマイヤーと署名していたがね。友だちもみんなリタと呼んでいたし、しかし、その娘は彼女を、正式にマルグリートと呼ぶ習慣があったのかもしれないね。しかし彼女がマルグリートと呼んでいた同じころ、ミセス・ヴァンデマイヤーのほうはすでに死んでいたか死につつあったかという状態だった! 実に妙だ! とにかくはっきりしない点が二つ三つある――例えば、きみに対する態度が急に変わったことだの。ところで、その家はもう警察が手入れしたんだろうね?」
「ええ、しかし、みんな逃げてしまっていました」
「それは当然のことだ」とジェームズ卿はさりげなく言う。
「しかも、なんの手がかりも残っていませんでした」
「それはどうかな……」ジェームズ卿はテーブルを叩きながら考えた。
彼の声の中のある調子を聞きとってトミーは目を上げた。この男の目は、われわれに見えなかったものを見ているのではなかろうか? 彼は無意識にこう言った。
「家を調べた時あなたも来ていらっしゃったらどんなにか……」
「わたしも行ってみたかったな」ジェームズ卿は静かな口調で言う。それからちょっと沈黙がつづいて、再び目を上げた。「それで、それ以来? 何をしてた?」
一瞬トミーは彼を凝視した。それから、そうだこの人は何も知らないんだと気がついた。
「タッペンスのことをご存知ないってこと忘れていました」彼はゆっくりと言う。ついにジェーン・フィンが発見されたというニュースにおされて、すっかり忘れていたあの胸の痛むような不安、懸念がいちどきに彼におそいかかった。
ジェームズ卿はさっとナイフとフォークを下におろした。
「何かミス・タッペンスの身に?」
きっとした鋭い声だった。
「行方がわからなくなったんです」とジュリアス。
「いつから?」
「一週間前から」
「どんな状態で?」
ジェームズ卿の質問はピストルの弾丸を射つような調子だった。トミーとジュリアスは交互に先週の出来事、それから一週間の捜査がむだ骨に終わったことを話して聞かせた。
ジェームズ卿はすぐさま事件の根底をついた。
「きみの名前を使った電報なんだね? きみとミス・タッペンスのことを相当知ってたわけだ。ただ、あの家できみがどの程度探り出したか、彼らははっきりわかってない。だから、ミス・タッペンスの誘拐は、きみの逃亡に対する反撃と見ていいわけだ。必要とあらば、彼女に危害を加えると脅してきみの口を封じることができる」
トミーはうなずいた。
「ぼくもそう考えました」
ジェームズ卿は彼をじっと見つめて、
「きみもそう考えていたかね?――いや、みごとみごと。ただわしが不思議に思ってるのは、はじめきみを捕えた時、連中はきみのことをなんにも知らなかった。きみ自身では、自分が何者であるかをほのめかすようなことは一口も言わなかったんだね?」
トミーは言わないと首を振った。
「そうなんです」とジュリアスがうなずいて、「だから誰かが連中に知らせたんですよ――日曜日の午後、それ以前じゃないです」
「そうだね。しかし誰が?」
「もちろん例の全知全能のミスター・ブラウンですよ!」
彼の声の中にはわずかながら軽蔑のひびきがふくまれていた。ジェームズ卿は、きっと顔を上げて、
「あんたは、ミスター・ブラウンの存在を信じないんだね。ミスター・ハーシャイマー?」
「ええ、信じませんね」とジュリアスは、強い語調で言葉を返した。「少なくとも、全面的には信じてません。いわば船首の飾りみたいなもので――子供をこわがらせる架空の化け物の名前と同じです。一味のほんとうの頭《かしら》はあのロシア人のクラメニンだと思いますよ。あの男は、その気になれば、いちどきに三か国で革命を起こさせることだってできるでしょう。ウィッティントンという男が、イギリス支部の支部長みたいなもんじゃないでしょうか?」
「わたしの考えは違うね。ミスター・ブラウンはたしかに存在している」サー・ジェームズはこう簡単に言うと、トミーのほうに向いて、「例の電報の発信地は見なかったかね?」
「いいえ、見ませんでした」
「ふうむ、その電報そこにある?」
「二階にあります。ぼくの荷物の中に」
「見せてもらいたいな。いや、べつに急ぐ必要はない。もう一週間もむだにしちゃったんだから――」トミーは頭をたれた――「あと一日や二日おくれてもべつに変わらんよ。まず、ミス・ジェーン・フィンの問題に取り組んで、そのあとで、ミス・タッペンスの救出という仕事にかかるとしよう。彼女の身に危険が切迫しているとは思わないからね。つまりわれわれの手にミス・ジェーン・フィンがいること、彼女の記憶が戻ったことを敵が知っていない限り、ミス・タッペンスは安全だというわけだ。だからどんな犠牲をはらっても、ジェーン・フィンのことは絶対に秘密にしておかねばならない。わかるね?」
二人はうなずいた。それからあすの段取りをきめて、ジェームズ卿は自室にひきさがった。
十時に二人は約束の場所におもむいた。ジェームズ卿は入口の石段のところで二人といっしょになった。興奮していないのは彼だけだった。彼は二人を医者に紹介した。「ミスター・ハーシャイマー――ミスター・ベレスフォード――こちらドクター・ロイランス。患者はどんなぐあいかね?」
「順調ですよ。見たところ全然時間経過の観念がないようです。けさなんか、ルシタニア号の生存者は何人でしたか、新聞に出ていましたか? なんてたずねるんです。もちろん、そういうふうになるのは当然ですがね、ただ、何か心配なことがあるようですけど」
「その心配は、われわれの手でとり除いてあげることができると思う。上にあがってもいいかね?」
「もちろんです」
ドクターのあとから二階へ上がって行く時、トミーの心臓の鼓動は相当はげしくなった。ついにジェーン・フィンと会えるのだ。長年捜し求められてきた謎のジェーン・フィン。どこにかくされていたのか、つかみどころもなかったジェーン・フィン! そのジェーン・フィンがあっけないほど簡単に見つかったのだ! そして、この家にいる。しかも奇跡的に記憶を回復して、イギリスの将来をその繊手《せんしゅ》に握っているのだ。半ばうなり声にも似た声が彼の唇から洩れた。ただタッペンスがそばにいて、二人の共同企業の凱旋《がいせん》的始末を楽しんでくれたらどんなにすばらしいだろう! が、トミーはタッペンスのことを断固として頭の中から払いのけた。ジェームズ卿に対する彼の信頼がだんだん高まっていった。タッペンスの行方を間違いなく捜し出してくれる人間がここにいるのだ。それまではジェーン・フィンに集中しよう。突然、強い恐怖心が彼の心をぎゅっとつかんだ。あまり甘く見ているようだ……もし彼女が死体となって発見されたら……もしミスター・ブラウンの手でうちのめされていたら……
次の瞬間、彼は、自分のメロドラマ的妄想を笑いとばした。ドクターはドアをあけ、三人は彼の前を通り過ぎて中にはいった。まっ白いベッドの上に、頭に繃帯をした娘が横たわっている。なぜかすべてが非現実的に見えた。予期していたものと寸分違わなかっただけに、実にみごとな演出という効果を見る人に与えるのであった。
娘は、目を大きく見ひらいて怪訝《けげん》な表情で一人ずつ眺めていった。ジェームズ卿が一番最初に口をひらいた。
「ミス・フィン、こちらがあなたの従兄、ミスター・ジュリアス・ハーシャイマーですよ」
かすかな赤味が彼女の顔に表われた。ジュリアスが一歩ふみ出して彼女の手をとった。
「どうだね、ジェーン?」ジュリアスは気軽に話しかける。
しかし、トミーは彼の声がふるえているのに気がついた。
「あなたはほんとにハイラム伯父さんの息子さん?」彼女は半信半疑でたずねる。
西部アクセントの温みを少しふくんだ彼女の声には、何かスリルを感じさせるものがあった。トミーはなんとなく聞いたことのある声だなと思ったが、そんなはずはないとこの思いをすぐにわきへおしやってしまった。
「たしかにそうだよ」
「ハイラム伯父さんのことは、あたしたちよく新聞で読んだけど」娘は低いやわらかい声でつづける。「でも、あなたにお会いできるなんて夢にも思わなかったわ。お母さんは、ハイラム伯父さんの怒りは絶対にとけないだろうと言ってたんですもの」
「親父はそうだった」とジュリアス、「しかし、次の世代の人間は別だと思うよ。家族の間の反目なんてどうでもいいんだ。だから戦争がすんで一番まっ先に考えたことは、こっちに来てきみを捜すことだった」
彼女の顔を何か影のようなものがよぎった。
「あたしここでいろんなこと、とても恐ろしいこと聞いたの。あたし、記憶喪失にかかってたんですって……あたしにはもう絶対にわからない何年間かがあって――あたしの一生から何年間かが消えてなくなってるんですって」
「きみ自身それには気づかなかったのかい」
彼女は目を大きく見ひらいた。
「もちろん分からなかったわ。救命ボートにつめこまれてから今まで全然時間というものはなかったみたい。あの時のこといまでもはっきりおぼえているわ!」彼女は目を閉じて身ぶるいを一つした。
ジュリアスはジェームズ卿のほうを見やった。ジェームズ卿がうなずいた。
「心配しないほうがいいよ。心配するだけ損だから。ところでね、ジェーン、ぼくたちがどうしても知りたいことが一つあるんだ。あの船にひじょうに重要な書類を持った男が乗っててね、この国のお偉方連中は、その男が書類をきみに渡したと考えてるんだ。ほんとにそうかい?」
娘は、ほかの二人をちらと見て、ためらった。ジュリアスはすぐにその意味をさとった。
「こちらのミスター・ベレスフォードは、その書類を手に入れる役目を、英国政府から委任されているんだ。ジェームズ・ピール・エジャトン卿はイギリスの国会議員でその気になれば大臣にだってなれる人だ。きみを捜し出してくれたのもこの人だ。だから心配せずにすっかり話をしてくれていいんだ。デンバーズはきみに書類を渡したのかい?」
「ええ。婦女子を先に避難させることになったから、あたしに渡しておいたほうが安全だろうって」
「われわれが思ったとおりだ」とジェームズ卿。
「ひじょうに大切な書類だって。とにかく、同盟国側の死命を握るような書類だって言ったわ。でも、ずっと昔のことでしょう? 戦争も終わったし、いまじゃもう関係のない書類じゃなくって?」
「歴史はくりかえすって言うからね。はじめはその書類のことで大騒ぎしたけど、そのうちに静かになって、ところがまた最近ぶり返したってわけだ――ただし、理由は前と大分違って来てるけどね。それじゃすぐにわれわれに渡してくれるね」
「でもできないわ」
「なんだって?」
「あたし持ってないんですもの」
「持って……ないん……だって?」ジュリアスは一語一語区切って言う。
「ええ、あたし隠しちゃったの」
「隠した?」
「ええ、あたし心配になってきたの。みんながあたしを見張ってるみたいで、とっても、こわくなっちゃったの」彼女は手を頭にあてた。「あれがあたしのおぼえている最後のことだわ。そのあとの記憶は病院で目をさましたこと」
「話をつづけて」とサー・ジェームズは突き刺さるような口調で、「おぼえていることを話して……」
彼女はおとなしく彼のほうを向いた。
「ホーリーヘッドについたときです。あたし、どうしてあそこに来たか――おぼえてませんけど……」
「そんなことはどうでもいい。話をつづけて」
「波止場の混雑にまぎれて、あたし、みんなのいる所から逃げ出したんです。見ている人は誰もいませんでした。あたし、タクシーをとめて、町の外に出てくれと頼みました。道の両側に家がなくなった時、うしろを向くとあとをつけている車は一台もありませんでした。道路の片側に小径が一つ見えました。運転手に車をとめさせて、そこで待っていてくれと頼みました」
彼女はひと休みして、さらに話をつづけた。「この小径は、崖につづいていて、大きな黄色いハリエニシダの灌木の間を通って海岸に下っていました。ハリエニシダはまるで黄金色の炎みたいに花が咲いていました。見まわすと誰一人いないんです。ちょうどあたしの頭の高さぐらいの所に、岩に穴があいていました。小さな穴で――やっとあたしの手がはいるくらい。でも、とっても深い穴でした。あたし首にかけていた防水布の包みを取り出して、手の届く限り奥にそれをつっ込みました。それからハリエニシダの枝を折って――とげがささってとっても痛かったのおぼえてますわ――穴にせんをしました。そこに穴があるのがわからないようにつめこんでおいたのです。それから、今度とりに行った時忘れないように場所をよくおぼえて――すぐそばに小径の上に妙な格好の丸石があって、まるで犬がちんちんしているような格好でした。それからもとの大通りに戻りました。タクシーはちゃんと待っていました。町に帰ると、汽車は発車間際で、わたしはすぐに乗りこみました。勝手に想像してこわがっていた自分をちょっと恥ずかしく思いましたが、それからしばらくたって、あたしの前に坐っていた男が、あたしの横にすわった女の人にウインクするのを見て、あたしはまた急にこわくなりはじめました。でも書類が安全な場所にあることを考えて、安心は安心でした。息苦しくなってきたので新鮮な空気でも吸おうと廊下に出ました。できれば別の車室に移ろうかと思っていたのです。でもさっきの女が何か落としましたよって呼びとめたものですから、あたし、身体を屈めて捜してましたら、何かで頭をがんとなぐられたような気がして……ちょうどこの所を」彼女は手を後頭部にあてた。「それっきり何もおぼえてないんです。目がさめたのは病院です」
しばらくしいんと静まりかえった。
口を開いたのはジェームズ卿だった。
「どうもありがとう、ミス・フィン、われわれがおしかけて来たんで疲れたんじゃないですか?」
「大丈夫ですわ。頭がちょっと痛いだけ。そのほかは、とってもいい気分です」
ジュリアスが進み出て再び彼女の手をとった。
「じゃ、さよなら、ジェーン。急いで書類を手に入れなきゃならないから。しかし、犬が二度尻尾を振る間に戻って来て、きみをロンドンに連れて行くからね。アメリカに帰る前にロンドンでうんと面白い思いさせてあげるよ! ほんとだよ――だから早くよくなってくれ」
二〇 おそすぎた
通りに出ると三人は非公式の作戦会議を開いた。ジェームズ卿がポケットから時計をとり出した。
「ホーリーヘッド行きのボート・トレインはチェスター停車が十二時十四分だ。いますぐに行けば間に合うと思う」
トミーは、ちょっと怪訝そうに目を上げた。
「そんなに急ぐ必要あるんですか? きょうはまだ二十四日だし」
「朝寝坊より早起きのほうが身体にいいよ」ジェームズ卿が返事しないうちにジュリアスが口をはさんだ。「いますぐ駅に行こう」
ジェームズ卿がひたいにちょっとしわをよせて、「きみたちといっしょに行けるといいんだが、二時にある集会で話をすることになってるもんだから。まったく残念だ」
彼が残念がっているのは、その口調にはっきりと出ていた。いっぽうジュリアスのほうでは、ジェームズ卿が同伴できないと聞いてそれほど残念がってはいない、これもはっきり言葉にあらわれていた。
「この仕事、別にややこしいことは何もないと思います。」とジュリアス。「どうせ、かくれんぼみたいなもんですよ」
「であればいいけどな」とジェームズ卿。
「もちろんですよ。ほかに何が起こると思います?」
「きみはまだ若い、ミスター・ハーシャイマー。わたしの年になったら『敵を絶対にみくびるな』という教訓が身にしみてくるだろう」
彼の言葉の意味深長さはトミーに深い感銘を与えたが、ジュリアスにはなんらの効き目もなかった。
「ミスター・ブラウンがやって来て邪魔をするとでも思ってらっしゃるんですか! もし彼がそんなことしたら、ぼくのほうでもちゃんと用意があります」彼はポケットを叩いた。「ピストルを持ってるんです。このリトル・ウイリーはぼくの行く所どこへでもついてくるんですよ」彼は凶悪な感じのするオートマティックをとり出し、愛撫するように軽く叩いて、もとのポケットに戻した。「しかし、今度は必要ないと思いますよ。誰もミスター・ブラウンに密告する人間はいないんですから」
ジェームズ卿は肩をすくめた。
「ミセス・ヴァンデマイヤーが彼を裏切ろうとしていたことを密告した人間は誰もいなかったが、それでもミセス・ヴァンデマイヤーは口を開く前に死んでしまった」
ジュリアスは、この時だけは黙りこんだ。ジェームズ卿は、やや軽い調子でさらにつづけた。
「油断をしないように一言言っておきたかっただけだ。それじゃ、さよなら。うまくやってください。書類が手にはいったら不必要なむりはしないように。誰かにあとをつけられていると信じる理由があった時には、すぐに書類を焼き捨ててしまうこと。じゃ幸運を祈る。勝敗はいまきみたちの手に委《ゆだ》ねられているからね」彼は二人と握手した。
十分後二人は、チェスター行列車の一等車に腰をおろしていた。
長い間一言もしゃべらなかった。そして、やっとジュリアスが口を開いた時、その言葉はまったく予期せざる内容の言葉だった。
「ねえ、トミー、きみは女の子の顔にひとめ惚れしたことないかい?」
トミーはちょっと虚をつかれた感じだったが、一応考えてみた。
「ないようだね」しばらくして、こう答えた。「少なくともいまのところ思い出せない。なぜだい?」
「なぜかってね、この二か月の間、おれはあのジェーンのことでばかみたいにオセンチになってたんだ。はじめて彼女の写真を見た瞬間、おれの心臓はでんぐり返っちまった、そして決心した――いまさらこんなこと言って恥ずかしいしだいだが、おれは、この国に来て、彼女を見つけて、万事片づいたら自分の妻として国に連れて帰るつもりだったんだ」
「ほう!」トミーはおどろいた。
ジュリアスは組んだ脚をひょいとひろげて話をつづけた。
「男一匹とんだばか野郎になっちまうもんだ。おれがそのよい証拠。女の子の実物一目見て、熱はいっぺんにさめっちまうんだからなあ」
何を言っていいか舌がもつれたような気持をおぼえながらトミーはも一度、「ほう!」と嘆声を発した。
「言っとくけど、別にジェーンをけなしているわけじゃないよ」ジュリアスはなおもつづける。
「彼女は彼女なりによい娘だし、その場で彼女に参っちまう男だって必ずいると思う」
「あの子、とてもきれいな娘だと思ったけどな」トミーはやっと口がきけた。
「もちろんきれいな娘だ。しかし、写真のジェーンとはちっとも似てない。少なくともある点じゃ似てるのかもしれないね――たしかに似てるところあるはずだ――なぜって、彼女を見た瞬間おれにはすぐに彼女だとわかったんだからね。大勢の人間の中で彼女を見ても、ああ、あれは、おれの知ってる女だって、その場でためらいなしに言えると思う。だがあの写真には何かがあった」――ジュリアスは首を振って、溜息をついた――「ロマンスってのは実に妙ちきりんなものだな!」
「そりゃ妙なものに違いないさ」とトミーが冷ややかに言う。「ある娘に恋をしてこの国にやって来て、二週間もたたないうちに別な娘にプロポーズするんだから」
ジュリアスは殊勝《しゅしょう》にもあわてふためいた。
「いやあ、あの時は、もうジェーンは絶対に見つからないとがっかりした気分になっていたんだ――もちろんすべてがばかげたことだったんだがね。そしたら――そうだね、例えばフランス人なんかものの見方がずっと合理的でさ。連中は、ロマンスと結婚を切り離して……」
トミーは顔を紅潮させた。
「そんなむちゃな! もしきみが……」
ジュリアスはあわてて口をはさんだ。
「待てよ。そう早合点するなよ。おれは、きみの思ってるような意味で言ってるんじゃない。アメリカ人ってのは、この国の人間と比較してさえ、まだ道徳ってものを高く考えてると思うんだ。おれの言いたかったのは、フランス人は結婚をビジネスライクにとりきめる――おたがいに適応した二人を見つけて、経済面をちゃんと計算に入れ、すべてを実際的に、ビジネス精神で見る」
「今の世の中って何もかもビジネスライクだ! ぼくたちはいつも『こんなことして損するんじゃないかな?』と言ってる。男もいけないが、女ときたらもっといけないんだ!」
「おい、おい、落ち着けよ。そうむきになるなよ」
「むきになりたいんだ!」とトミー。
ジュリアスは彼を見て、もうこれ以上何も言わないほうが賢明だと思った。
しかし、トミーはホーリーヘッドに着くまで、充分熱をさます時間があったし、駅で汽車を降りる時にはちゃんといつもの陽気な笑顔に戻っていた。
地図と照らし合わせ、いろいろ話し合った結果、どちらの方向に行ったらよいかほぼ意見の一致をみた。だから、簡単にタクシーを雇えたし、車はトレダー湾に向かう道をまっすぐに走っていった。途中スピードを落とすように命じて、問題の小径を見落とさないように一心に目を見はった。町を離れてそれほど遠くない所で、その小径が見つかった。トミーは車をとめて、この道が海におりていくかどうかさりげなくたずねた。そうだという返事を聞くと、彼は運転手に気前よくチップをはずんだ。
タクシーはゆっくりとホーリーヘッドのほうに戻って行った。トミーとジュリアスは車が姿を消すまで見送り、小径にはいっていった。
「これ間違いないだろうな?」とトミーが半信半疑でたずねる。「小径なんかこの辺に山ほどあるにちがいないからね」
「間違いないさ。あのハリエニシダを見ればわかる。ジェーンの言ったことおぼえてるだろ?」
トミーは道の両側を生垣《いけがき》のようにふちどっている黄金色の花を見て、納得した。
二人はジュリアスを先頭にして、一列に並んで歩いた。二度ほど、トミーは不安そうにうしろをふりかえった。ジュリアスがふり向いて、「どうしたんだ?」とたずねた。
「なんだかわかんないけど、なんとなくぞくぞくするんだ。誰かがあとをつけてるような気がして」
「つけてるはずないじゃないか」とジュリアスが言い切る。「つけてたら見えるはずだから」
それはそうだと、トミーも認めた。にもかかわらず、不安の念はますます高まった。自分の意志とはうらはらに、彼は敵の全知全能を信じていたのである。
「おれはやつが出て来てくれればいいと思ってる」ジュリアスはポケットを叩いた。「このリトル・ウイリーが腕をふるいたくてうずうずしてるんだ!」
「いつも持ってあるいてるのかい?」トミーは好奇心にそそられてたずねた。
「たいてい持ってあるいている。いつどんなことが起こるかわからないからね」
トミーは黙りこんだ。リトル・ウイリーに強い感銘と尊敬を抱いたからである。ミスター・ブラウンの脅威をはるか彼方に追いやってくれたような気がした。
小径は、いつの間にか、崖のそばを海と平行して走っていた。突然ジュリアスが立ちどまったので、トミーはうしろから彼の身体にぶつかった。
「どうしたんだ?」
「あそこ見ろよ。おどろくじゃないか!」
トミーは言われた方向を見た。小径を半ばふさいだ格好で大きな丸石がつっ立っていた。それはたしかに、|ちんちん《ヽヽヽヽ》しているテリアに似ていた。
「べつにおどろくことないじゃないか」トミーはジュリアスといっしょに感激したくなかったので、「はじめっから予期していたんだろ?」
「イギリス人のくそ落ち着きってやつだな? もちろんはじめっから予期していたさ。――だが、予期していた場所に予期していたものがちゃんとあると、やっぱり、どきりとするもんだ!」
トミーは、落ち着いているとはいっても、それはどっちかというと不自然な見せかけの落ち着きだった。彼はいらだたしげに足を動かして、
「先に進めよ。穴はどうなんだ?」
二人はがけの側面を念入りに調べた。
トミーが言った。「もう何年もたったんだからハリエニシダの枝はなくなってるだろう」言いながら、自分はくだらないこと言ってるなと思った。
そして、ジュリアスもまた真面目くさって返事した。
「おれもそう思うな」
トミーが急にふるえる手で一点を指さし、
「あの穴じゃないかな?」
ジュリアスがうわずった声で答える。
「そうだ、たしかにそうだ」
二人は顔を見合わせた。
「ぼくがフランスにいた時にさ……」トミーが昔を思い出しながら言う。「従卒がぼくの所に来る時間におくれると、必ず、頭がおかしくなったもんですから、って言いわけするんだ。ぼくは一度もその言葉を信じなかった。しかし、彼が感じたかどうかは別としても、そういう感覚はたしかに存在するね。現にぼくはそれをいま感じている。すごくおかしな気持だ!」
彼は、いわば苦悶の激情を抱いて、じっと岩の穴を見つめた。「冗談じゃないよ!」彼は叫んだ。「不可能だ! 五年間もたった今! 考えてもみろよ。鳥の巣を捜しまわってる少年たち、ピクニックの団体、何千という人間がここを通ってるんだ! 書類などあるはずがない! 百に一のチャンスもありゃしない! 常識で考えても絶対にありっこない!」
事実、彼はそれを不可能だと考えていた。――あれだけ多勢の人間が試みて失敗したのにこの自分が成功するなんて、とても信じられない。だから余計に不可能だという気持は強まった。事はあまりにも容易だった。だから、そんなことはありえない。穴はきっと空っぽだろう!
ジュリアスは笑顔いっぱいで彼を眺め、
「きみも今度こそは大分興奮してるようだね」いかにも愉快そうに言葉尻をひきのばして、「さて、おれはやるぞ!」彼は手を穴の中につっこみ、ちょっとしかめっつらをした。「こりゃきつい。きちきちだ! ジェーンの手は、おれのよりずっと小さいんだな。なんにもないよ――おや――待てよ――これはなんだ? あっ!」彼は色のあせた小さな包みをひっぱり出し、大仰《おおぎょう》な手つきでそれをふってみせた。「たしかに目的の品だ。防水布が縫いつけてある。ペンナイフを出すからちょっと持ってて」
信じられないことが起こったのだ。トミーはその貴重な包みを両手でそっと持った。ついに成功したのだ!
「おかしいね」彼はなにげなくつぶやいた。「縫糸なんかとっくにくさってしまってるはずなのに新品と同じに見える」
二人は注意深く糸を切って防水布を取り去った。中には小さく折った紙片が一枚はいっていた。二人はふるえる指でそれを拡げた。紙は白紙だった! 二人はあっけにとられておたがいの顔を見た。
「替え玉だ!」ジュリアスが言う。「デンバーズという男はただの|おとり《ヽヽヽ》だったのかな?」
トミーは首をふった。ジュリアスの説には納得できなかったのである。突然、目を輝かせて、
「わかった! あぶり出しインキだ!」
「そう思うかい?」
「ためしてみたって損はない。熱をあたえればいいんだ。木の枝か何か集めて火を焚《た》こう」
二、三分後、枝や葉っぱで、小さな焚火が気持よく燃えはじめた。トミーはその紙を火の近くに持っていった。紙が熱で少しそりかえった。それだけだった。
突然、ジュリアスが彼の腕をつかんで、紙の上を指さした。そこにはかすかな茶色の字が徐々にあらわれはじめていた。
「すごい! きみの言うとおりだ。きみも頭がいいな! おれなんか、そんなこと考えつきもしないぜ」
トミーは、紙の位置をかえて、これで充分だと思うまでしばらくあぶり、それから手もとにひきよせた。次の瞬間彼はあっと叫び声をあげた。
紙の上にはきちんとした茶色の活字体でこう書いてあった。
『謹んで贈呈。ブラウンより』
二一 トミーの発見
一瞬か二瞬、二人はショックに呆然となって、ばかみたいにつっ立ったままおたがいの顔を見つめていた。いつどうしてやったのかわからないが、とにかく、ミスター・ブラウンはかれらの先回りをしてしまったのである。トミーはおとなしくおのれの敗北を認めた。しかし、ジュリアスはそうはいかない。
「いったいどうしてやつはおれたちより先に来たんだろう? どう考えてもわからない!」
トミーは首を振って、力なげに言った。
「どうりで糸が新しかったわけだ。あの時すでに想像がついていたはず……」
「糸のことなんてどうだっていいじゃないか。問題はどうして先を越されたかってことだ。おれたち、大急ぎでここに来たじゃないか。おれたちより先にここに来るなんて不可能だ。それに、第一、やつはどうして知ったんだ? ジェーンの部屋に盗聴器でもあったのかな? そうとしか考えられないけど」
しかし、トミーの常識はこれをじきに否定した。
「彼女があの家にいたことを前もって知ってる人間は誰もいなかった。ましてや、あの部屋にいることを誰が知ってる?」
「そりゃそうだが」とジュリアスも認める。「そうすると、看護婦の誰かが一味の者で、ドアで立ち聞きしてたのかもしれない。そう思わないかい?」
「いずれにしても、そんなこと問題じゃない」とトミーがめんどうくさそうに言う。「もう何か月も前に見つけて書類を持っていったのかもしれないし……。いや、それも理屈に合わないな。それだったらとっくに公表してるはずだから」
「たしかにそうだ! いや、誰かがわれわれより一時間か二時間、先に来たんだ。しかし、どうやって先に来たかとなるとてんでわかんない」
「あのピール・エジャトンって人がわれわれといっしょに来てたらよかったと思うけど」
「なぜだい?」ジュリアスが目を見はった。「おれたちが来る前にもう中身はすりかえられていたんだぜ」
「そうだねえ……」とトミーは口ごもった。自分の気持を言葉で表現できなかったのである――ジェームズ卿がいれば、この破局がなんとか救われていたかもしれないという非論理的な気持を。そこで彼は再び前の見解を固執した。「どういうふうにして行なわれたかなんて、いまさら議論してもはじまらない。ゲームは終わったんだ。われわれは負けた。いまぼくのすることは一つしかない」
「なんだ?」
「できるだけ早くロンドンに帰って、ミスター・カーターに知らせることだ。敵が秘密書類を発表するのはもう時間の問題だ。しかし、いずれにしても、彼にこのことを知らせて最悪の場の覚悟をきめておいてもらわなければ……」
この義務はつらい義務だった。しかし、トミーはつらいからといって放棄するような人間ではない。どうあっても自分の失敗を報告すべきだと思った。それがすめば自分の仕事もすむのだ。彼は、ロンドン行きの夜行に乗った。ジュリアスはホーリーヘッドで一晩過ごすことにした。
ロンドン到着後三十分、トミーはやつれきった青い顔をして、ミスター・カーターの前に立っていた。
「報告に参りました。ぼくは失敗したんです。大失敗をしました」
ミスター・カーターはきっと彼を見た。
「きみの言いたいのは秘密書類が……」
「はあ、現在ミスター・ブラウンの手中にあるんです」
「ああ!」ミスター・カーターは静かに答えた。顔の表情は全然変わらなかったが、トミーはその目の中にちらと絶望の光を見たように思った。この報告がいかに将来を暗澹たるものにしたか、彼にははっきりわかった。
「まあいいさ」一、二分たってミスター・カーターは言う。「これでがっくりしちゃおしまいだ。白か黒かはっきりわかってよかったと思う。こうなればわれわれにできることをやるほかないね」
トミーの心の中を、「絶望だ、そして彼は絶望であることを知ってるんだ」という考えがひらめき走った。
ミスター・カーターが目を上げてトミーを見た。
「あんまり思いつめないほうがいいよ」と彼はやさしく言う。「きみは最善をつくした。しかし敵は今世紀まれに見るすぐれた頭脳の持ち主だ。しかも、きみはその人間を相手にして、も少しで成功するところまでこぎつけたんだ。それをおぼえておくといい」
「ありがとうございます。そんなふうに言われるとまったく恐縮です」
「ぼくはいま自分を責めている。も一つのニュースを聞いてからずっと自分を責めつけているのだ」
彼の口調の中にふくまれた何かが、トミーの注意を惹《ひ》いた。新たなおそれが彼の心をぐっとつかんだ。
「何か……何かあったんですか?」
「残念だが、実のところ、そうなんだ」ミスター・カーターは重々しい口調で言う。そしてテーブルの上の一枚の紙に手をのばした。
「タッペンスのこと……?」トミーは口ごもった。
「自分で読んでくれ」
タイプで打たれた言葉が彼の目の前にちらついた。緑色のふちなし帽、オーバー、オーバーのポケットの中に、P・L・Cの頭文字を記したハンカチ。彼は苦しそうにミスター・カーターを見た。目で質問した。ミスター・カーターはそれに答えて、
「ヨークシャーの海岸に打ち上げられたんだ――エブリーの近くの。残念だが――どうやら不幸なことが起こったらしい」
「畜生!」トミーは息をつまらせた。「タッペンス! 悪魔ども! このかたきはぜひとってやるぞ。でなきゃ気がすまない! あくまでやつらを追いつめてやるんだ! ぼくは、ぼくはきっと……」
ミスター・カーターの顔にあらわれた同情の色を見て、トミーは口を閉じた。
「きみがどういう気持か、よくわかる。しかしどうにもならないね。きみの力をむだに費やすだけだ。こんなこと言ってひどいと思うかもしれないが、ぼくの忠告は、痛手は痛手としてあきらめること。ありがたいことには時間が解決してくれる。いずれは忘れることもできる」
「タッペンスを忘れるんですって? 絶対にそんなことありません!」
ミスター・カーターは首を振った。
「いまはそう考えてるだろうが、そういつまでも、あの子のことばかり考えているわけにはいくまい。しかし、勇敢ないい娘《こ》だった! 今度のことは、ぼくも、まったく悪いことをしたと思ってる――責めても責めきれない気持だ」
トミーは突然はっとわれに返った。
「あなたの貴重な時間をむだにさせて、どうもすみません」彼は、つとめて平静をよそおった。「ご自分をお責めになることは絶対にやめてください。こういう仕事をはじめたぼくたちがばかだったんですから。あなたは充分に警告してくださったし。しかし、それにしても、ぼくが彼女の代わりになっていたらどんなによかったろうと……。じゃ失礼します」
リッツに戻ると彼は、自分のわずかばかりの身回り品を機械的に荷作りしはじめた。心は、全然、遠い別のことを考えていた。自分の屈託《くったく》ない平凡な存在に割り込んで来たこの悲劇に、まだとまどいしている感じだった。あのころは楽しかった! おれと、タッペンス。それだのに今は……とても信じられない――とてもほんとうだとは思えない! タッペンスが……死んだなんて……あんなにピチピチと生きていたタッペンスが! 夢だ、悪夢だ! いまにさめるにちがいない!
ピール・エジャトンから手紙が届けられた。親切な、同情のこもった言葉でつづられていた。新聞でニュースを読んだという(新聞にはかなり大きな見出《みだ》しで――元|篤志《とくし》看護婦、溺死か? と書かれてあった)。手紙の末尾に、アルゼンチンのある牧場で働かないかと書かれていた。ジェームズ卿の関係している牧場である。
「親切な爺さんだ」彼はこう呟いて、手紙をかたわらにほうり出した。
ドアが開いて、ジュリアスが例のごとく、突風のようにはいって来た。彼は手に、開いたままの新聞を持っていた。
「これはいったいなんだ? 新聞社の連中、タッペンスのことを何か勘違いしてるんじゃないのか?」
「ほんとのことだ」とトミーは静かに言う。
「連中に殺されたというのかい?」
トミーはうなずいた。
「たぶん、秘密書類を手に入れたあと、彼女は――もう人質の役に立たなくなったし、そのまま帰すわけにはいかないから……」
「ひどいやつらだ!」とジュリアス。「あのタッペンスを! あんなに元気のいい可愛い娘はいなかった!」
が、その時、突然、何かが、トミーの頭の中で破裂した。彼はぱっと立ち上がった。
「出て行ってくれ! きみなんか、彼女のことちっとも思っちゃいないんだ! きみは、彼女に計算ずくで求婚した。つばをはきかけてやりたいようなやり方だ。しかし、ぼくは彼女を愛してたんだ! 彼女がつらい目にあわなくてすむんだったら、おれはこの身体から魂をひっぱり出して悪魔にやってもいいと思ってたくらいだ。きみが彼女と結婚する時には、ぼくはだまって何も言わないでひっこむつもりだったんだ。きみなら彼女にふさわしい生活をさせてやれるし、ぼくは一文なしのろくでなしだから。しかし、ぼくが彼女のこと全然思ってないからきみに結婚させるってわけじゃないんだぜ!」
「ちょっと待ってくれ」ジュリアスが、自分の気持をおさえつけておだやかな口調で何か言いはじめたが、トミーはそれをさえぎって、
「もういい! きみなんか悪魔の所へでも行ったらいいんだ! ぼくは、きみがここに来て|可愛いタッペンス《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》とかなんとか言うのが、もうがまんできないんだ。タッペンスはぼくの彼女だ! ぼくはずっと彼女を愛してた。子供の時いっしょに遊んでたころから愛してたんだ。大きくなっても同じ気持だった。ぼくが病院にはいった時、彼女があのおかしな看護婦の帽子とエプロンをかけて現われた時のこと、いまでもはっきりおぼえてる。まるで奇跡みたいだった。自分の愛していた娘が、看護婦の制服を着て……」
ジュリアスが彼の言葉をさえぎった。
「看護婦の制服? どうなってんだ! おれの頭おかしくなってるのかな? ジェーンも看護婦の制服を着てた。おれはそれをたしかにこの目で見た。しかし、そんなはずはない。いや、そうだ。わかった。ボーンマスのあの療養院でウィッティントンと話していたのが彼女だ。彼女はあそこの患者じゃなかったんだ! 看護婦のほうが彼女だ!」
「たぶん彼女……は」トミーが腹立たしげに言う。「……はじめっから連中の仲間だったんだろう。書類も彼女がデンバーズから盗んだのかもしれない!」
「彼女はそんなことする人間じゃない!」ジュリアスがどなり返した。「彼女はおれの従妹だ。誰よりも愛国心の強い女だ!」
「誰の従妹だろうがおれの関したことじゃない! とにかく、きみはここから出て行ってくれ」トミーも大声でどなり返した。
二人の青年はなぐり合いもしかねない見幕だった。しかし、急に、まるで魔法にでもかけられたみたいに、ジュリアスの怒りが静まった。
「わかった、わかった」ジュリアスが静かに言う。「出て行くよ。きみが何を言おうと、おれはきみを責める気持にはなれない。むしろはっきり言ってくれてよかったと思う。おれは実際想像もつかないほどの大ばか者だったんだから。とにかく落ち着いてくれ」――トミーはいらだたしげな身振りをした――「おれはいますぐに出かける。どこに行くか知りたかったら言うけど、ロンドン北西部鉄道の駅に行くつもりだ」
「どこに行こうとぼくの知ったこっちゃない!」とトミーがうなった。
ジュリアスが出ていってドアが閉まると彼は再びスーツケースの荷作りにとりかかった。
「これで全部だ」彼はつぶやいてベルを鳴らした。
「荷物を下におろしてくれ」
「はい。おでかけですか?」
「地獄に行くんだ」トミーは従業員の感情など無視して、言う。
しかし、従業員は、ただ礼儀正しく返事した。
「承知しました。タクシーを呼びましょうか?」
トミーはうなずいた。
自分はどこに行くつもりなんだろう? まるっきり当てがなかった。ミスター・ブラウンにかたきを討ちたいという強い決意以外には何の計画もなかった。彼はジェームズ卿の手紙をも一度読み返して、首を振った。タッペンスのかたきを討たなきゃ。それにしても、この爺さん、親切な爺さんだ。
「返事を出しといたほうがいいな」彼は、机のほうに向かった。寝室の文房具はいつもそうだが、封筒ばかり山ほどあって、便箋は一枚もなかった。ベルを鳴らした。誰も来ない。トミーは、ボーイの来方のおそいのにいらいらした。ふとジュリアスの居間に封筒も便箋も充分に備わっているのを思い出した。すぐに出かけると言っていたから彼にでくわすこともないだろう。それに、でくわしても、もう気にはならなかった。自分の言ったことを少し恥ずかしいと思うようになっていた。ジュリアスはよくがまんしてくれた。まだあそこにいたらついでにあやまってこよう。
しかし、部屋には誰もいなかった。トミーは机のほうに歩いていって、まん中の引き出しをあけた。表を上にして無造作につっ込まれた一枚の写真が彼の目をひいた。一瞬彼は、その場に根が生えたように立ちすくんだ。それから写真を手にとると、引き出しを閉め、ゆっくりとソファーのほうに歩いていった。手に持った写真をじっと見つめたまま、坐った。
フランス娘アネットの写真が、いったいなぜジュリアス・ハーシャイマーの机のひき出しの中にはいっているのだろう?
二二 首相官邸《ダウニング》街で
首相は自分の前にある机を、神経質な指でこつこつと叩いた。やつれた顔、困りはてた表情。彼は、ミスター・カーターとの話を、とぎれた所から、再び先に進めていった。
「よくわからないが、事態は結局のところそれほど絶望的ではないというのかね?」
「この若者はそういうふうに考えているようです」
「彼の手紙を、も一度読んで見よう」
ミスター・カーターは、いかにも若者らしく書きなぐった手紙を首相に手渡した。
[#ここから1字下げ]
カーター様
ぼくをぎくりとさせるようなある事が起こりました。もちろんぼくの単なるばかげた推理かもしれませんが、ぼくにはぼくなりの信念があります。ぼくの推理が正しいとすると、マンチェスターのあの娘は偽者だったのです。防水布の包みだの、その他すべてが前もって用意された敵の策略です。目的は、われわれに、勝負は終わったと信じこませるためのもので――したがってわれわれの探索は相当ぎりぎりの線まで行ってたものと思われます。
ほんとうのジェーン・フィンが誰であるか、ぼくにはわかっていると思います。書類がどこにあるかも目当てがついています。もちろん、これはぼくの想像ではありますが、大丈夫間違いないという気がします。この手紙に封印したものを同封しますが、これはいよいよ最後という時まで開かないようにお願いします。最後というのは二十八日の真夜中です。その理由はこのあと説明します。ぼくはタッペンスの帽子やコートも、敵の仕組んだ芝居だと思うんです。彼女は絶対に溺死などしていません。ぼくの考えは、こうなのです。最後の手段として連中はジェーン・フィンを逃亡させるだろうと思うんです。つまりジェーン・フィンは、ひょっとしたら、やはり、記憶喪失の芝居をしているのではないか、そうであれば、自由の身となった場合必ず書類の隠し場所に行くのではないだろうか、ということを一縷《いちる》の望みとして、彼女を逃亡させるだろうと思うのです。もちろん、これは彼らにとってひじょうに危険な橋です。なぜかというと、ジェーン・フィンは彼らのことを充分以上に知っているからです。それでも彼らはいま死にもの狂いで例の書類を手に入れたがっています。しかし、もし、書類がわれわれの手にはいったということを彼らが知ったら、娘二人の命は一文の価値なしということになってしまうでしょう。ぼくはジェーンが逃げる前にタッペンスと連絡をつける必要があります。
リッツのタッペンスに宛てた例の電報のコピーが欲しいのですが、ジェームズ卿、すなわちピール・エジャトンの話によれば、あなたにお願いすれば手にはいるだろうとのことです。あの人は実に頭の働く人ですね。
最後にも一つ、ソホーの例の家は、夜昼、厳重に見張りをつけておいてください。
[#地付き]トーマス・ベレスフォードより
[#ここで字下げ終わり]
首相は目を上げた。
「それで同封の手紙は?」
ミスター・カーターは事務的な微笑を浮かべた。
「銀行の金庫に入れてあります。万一のことを考えて……」
「きみは……」首相はちょっとためらった。「その手紙を今開くべきだとは思わないかね? われわれとしてはすぐにでも書類を手に入れなければならない状態だ。もちろん、その若者の想像が正しいと仮定しての話だがね。書類が手にはいっても、それは絶対秘密にしておけばいいだろう?」
「絶対秘密にできますか? わたしには確信持てませんね。そこらじゅうにスパイがいますからね。一度書類が手にはいってわたしが離さんと知ったら」――彼は指をぱちんと鳴らした――「二人の娘の生命はどうなるかわかりません。いや、あの男はわたしを信用しています。わたしはそれを裏切りたくありません」
「それじゃ、まあ、その問題はきみの言うとおりにしておいて。どういう男だね、その若者は」
「外見はごくふつうで背の高い、鈍感なイギリス青年です。頭の回転はのろいですが、そのために、浅薄《せんぱく》な空想力によって別の方向に引きずられることはまずありません。元来、その想像力が彼にはないんです。だから彼をだますことはひじょうにむずかしい。彼はゆっくり物事を考え、心配し、一度何かをつかむと、もう絶対にそれを離しません。娘のほうはまるっきり反対です。直感は彼より働くが、常識は彼より少ない。いっしょに仕事をしていると実にいいコンビなんです。ペースとスタミナのコンビですね」
「なかなか自信のある男らしいな」と首相は感慨をこめて言う。
「そうなんです。そこのところがわたしに希望を与えてくれるんです。あの男は、自分に充分に自信がつくまでは絶対に自分の意見は述べないという臆病な若者ですからね」
首相の唇に微苦笑が浮かんだ。
「そういう――男が、現代随一の大犯罪者を打ち負かそうというのかね?」
「おっしゃるとおり、|そういう《ヽヽヽヽ》――|男《ヽ》が、です。しかし、ときにはその背後にある影が見えるような気がするんですが」
「と言うのは?」
「ピール・エジャトンです」
「ピール・エジャトン?」首相はおどろいたような声音で言う。
「そうです。この問題には彼も一枚加わっているようです」――彼は開いた手紙をバタンと叩いて、「彼がちゃんとここにいます、暗闇で、黙って、人目につかないように。わたしは前から考えていたんですが、ミスター・ブラウンをとっちめる人間がいるとしたら、ピール・エジャトン以外にはいないんです。彼はいまこの事件に関係しています。しかし、それを人に知られたくないんです。そりゃそうと、先日、ピール・エジャトンから妙な依頼を受けました」
「どんな?」
「アメリカのある新聞の切抜きを送って来たんです。その切抜きには、約三週間前にニューヨークの波止場の近くで男の死体が発見されたという記事が掲載してありました。彼は、わたしに、この事件に関する情報を集めてくれと言うのです」
「それで?」
カーターは肩をすくめた。
「たいした情報は集まりませんでした。年齢は三十五くらい、服装は貧弱。顔は見分けつかないくらい傷つけられて。いまだに身許がわからないそうです」
「それでこの二つの事件がどこかでつながっていると思ってるのかね?」
「よくわからないですが、つながっていると思います。もちろんわたしの見込み違いかもしれませんが」
ちょっと言葉を切り、それからさらにつづけた。
「わたしは、彼にここへ来てくれるように頼んでおきました。彼が話したくないことを彼に言わせようというわけじゃありません。彼の法律家的本能ってのはひじょうに強いですからね。しかし、ベレスフォードの手紙の中にある二、三の不明な点について、説明してくれるだろうと思ったわけです。ちょうど彼がやってきました」
二人は新来者を迎えて立ち上がった。なかば気まぐれなある思いつきが首相の心をよぎった。『ひょっとしたらこの男はわしの後継者になる人間かもしれん』
「ベレスフォードから手紙を受け取ったんですがね」とミスター・カーターがじきに用件を切り出した。「彼にお会いになったようですね?」
「……というご推察は当たっておりませんね」とジェームズ卿が答える。
「え?」とミスター・カーターは少しとまどったような顔をした。
「いや、手紙でなくて電話がかかって来たんですよ」とジェームズ卿は説明した。
「よろしかったら、お二人の間にどういう話が交されたか正確なところを話していただけませんでしょうかね?」
「ああ、いいですよ。まず彼は、わたしが彼に出したある手紙のことで礼を言って――実をいうと、彼に就職口を世話してやったんです。それから彼は、ミス・カウリーをおびき出したあの偽電報のことに関してわたしがマンチェスターで彼に話してやったちょっとした忠言に触れました。わたしが、何か厄介なことでも起こったのかとたずねますと、彼はそうだと言うんです。――つまり、ミスター・ハーシャイマーの部屋の机のひき出しの中に写真が一枚はいっていたのを見つけたと言うんです」ジェームズ卿はちょっと言葉を切って、それからさらにつづけた。「わたしは写真の裏面にカリフォルニアの写真師の住所氏名がついてなかったか、とたずねました。彼は『おっしゃるとおりです。ついてました』と答えました。それから彼はわたしの知らなかったあることを教えてくれました。写真の主は、彼の命を救ってくれた例のフランス娘アネットだということです」
「ほんとですか?」
「そうなんです。わたしはふと好奇心に駆られて、その写真どうしたかとたずねました。彼はもとの所において来たと答えました」ジェームズ卿は再び口を休めた。「なかなかよい処置です。まったく賢明な処置です。あの男は、若いですが、たしかに頭の使い方を心得ていますね。わたしは彼におめでとうと言ってやりました。写真の発見はまさに天佑《てんゆう》とも言うべきものです。マンチェスターの娘が偽者であることがわかった以上、すべての事情が変わったわけです。こんなことわたしの口から言わなくても、ベレスフォードはすでにちゃんと察知していました。しかしミス・カウリーのことに関してはまだ自分の判断に確信が持てないらしく、わたしに、彼女は生きていると思いますか、とたずねました。わたしはいろいろと情況を照らし合わせたあげく、生存説のほうがはるかに有望だと答えてやりました。そこで再び電報の問題に戻ったというわけです」
「それで?」
「わたしは電報の原文を手に入れることをあなたに頼んだらと忠告しておきました。わたしが考えたのは、ミス・カウリーが電報を投げ捨てたあと、誰かが、捜索者を至急に別な方面に追いやるため電文の一部を消して他の言葉に変えたのではないか、ということなんです」
カーターはうなずいた。そしてポケットから一枚の紙を取り出し、声を出して読み上げた。
「スグコイ。ケント、ゲートハウス、アストレイ・プライヤーズ。ジタイハオオキクテンカイセリ。トミー」
「ひじょうに簡単かつ巧妙ですね」とジェームズ卿。「ほんの数語書き変えればそれでいいんですからね。おまけにあの二人はひじょうに重要な手がかりを見落としていた」
「なんですか?」
「ミス・カウリーがチャリング・クロスに向かったというボーイの陳述です。二人は自分たちの考えに夢中になって、ボーイの聞き違いだと断定してしまったのです」
「それじゃ、ベレスフォードはいまどこにいるんですか?」
「まあ、わたしの考えが間違ってなければ、たぶん、ケントのゲートハウスでしょうね」
ミスター・カーターは彼を不思議そうにながめた。
「いっしょにそこへ行かれなかったのがちょっと不思議に思われたもんですから」
「いや、わたしはある事件の訴訟《そしょう》で忙しいもんで」
「休暇中じゃなかったんですか?」
「いや、弁護の依頼があったわけじゃないんです。正確に言って、ある事件の下調査をしていると言うべきでしょうね。そりゃそうと、例のアメリカ人の死体のこと、もっとくわしい事実がわかりましたか?」
「残念ですがまだわかりません。死体の身元を調べ出すことが重要なんですか?」
「いや、死体の身元は、わたしにはわかっているんです」と、ジェームズ卿はあっさり答える。「ただ証明できないのです。しかし、わかってはいます」
相手の二人はそれ以上追及しなかった。しても言葉の浪費だということを本能的に知ったからである。
「しかし、わたしにわからないのは……」首相が急にこう言いだした。「……その写真がどうしてミスター・ハーシャイマーの引出しにあったんだろう?」
「たぶん、全然彼の手から離れなかったのかもしれませんね」とジェームズ卿はおだやかな声で言う。
「しかし、例の偽警部は? ブラウン警部と名乗ってた……?」
「ああ!」とジェームズ卿は感慨深げにため息を洩らして立ち上がった。「あなたは忙しいお身体ですから、失礼します。国事に戻ってください。わたしは訴訟事件に戻りましょう」
それから二日後、ジュリアス・ハーシャイマーはマンチェスターに戻って来た。トミーの置き手紙がテーブルの上にあった。
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ハーシャイマー君
かんしゃく起こしてごめん。会えないかもしれないから、この手紙でさよならを言わせてもらう。アルゼンチンに仕事口が見つかったから、どうせ就職しなきゃならないし、行ってみることにした。
[#地付き]トミー・ベレスフォード
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ジュリアスの顔に、奇妙な微笑がただよった。手紙を屑かごに投げ入れて、
「ばかな奴だ」と呟いた。
二三 一秒を争う
ジェームズ卿に電話をかけたあと、トミーはサウス・オードレイ・マンションを訪ねて行った。アルバートは、仕事中のためかひじょうに他人行儀な口調で応待した。そこでトミーは、余計な言葉は省いていきなり、タッペンスの友だちだと自己紹介した。アルバートはすぐに打ち解けてきた。
「こちらはいまのところ静かすぎるくらい静かです」ともの欲しそうな声で言う。「彼女元気でしょうね?」
「問題はそれなんだよ、アルバート。彼女行方不明になったんだ」
「まさかギャングたちにつかまったんじゃないでしょうね?」
「実はそうなんだ」
「|地下の世界《アンダー・ワールド》に?」
「冗談じゃない、もちろん地上さ」
「地下《ヽヽ》って、ギャングの言葉ですよ」とアルバートは説明した。「映画なんかじゃ、ギャングたち、いつも地下にレストランを持ってるでしょ? だけど、やつら、彼女を殺《ば》らしたりしちゃいないでしょうね」
「そうでなければいいと思ってる。そりゃそうと、アルバート、きみには、従姉か、おばあさんか、親類の女の人で、いまにもころっと死にそうな人間、いないかね?」
待ってましたと言わんばかりのうれしそうな表情がゆっくりとアルバートの顔にひろがった。
「ありますよ。田舎に伯母さんがいてね、長いこと病気なんだ。それで、死の床で、ぼくに来てくれと言うんだ。どうお? これ?」
トミーは、結構だとうなずいた。
「じゃ、その話を事務所の人か誰かに言って、一時間後にチャリング・クロスに来てくれないかね?」
「ああ、行きますよ。必ず行きますからね」
トミーが予期していたとおり、忠実なアルバートはこの上もない貴重な助手になった。二人はゲートハウスのある宿屋に陣どった。アルバートの仕事は情報を集めることだった。
これは別にむずかしいことではなかった。
アストレイ・プライヤーズはドクター・アダムズという医者の持ち家だった。現在ドクター・アダムズは開業医ではなく、引退の身だったが、ときおり、個人的に患者を自分の家に置いているという。ここまで話してくれた宿屋の主人は、ここで自分の額を叩いてみせて、
「わかるでしょ? 患者といっても、ここんとこの|いかれた《ヽヽヽヽ》連中ですよ。ドクターは村でも評判がよくて、何かスポーツの催しでもあったら快く寄付してくれるし――あいそのいいりっぱな紳士ですよ」
ここに来て長いの?
「そうだねえ、十年ぐらいかな――もっと長いかもしれない。研究家でね、町から教授たちだのいろんな人がよく訪ねて来ますよ。とにかく賑やかな家でね、いつもお客がいるんです」
宿屋の主人のおしゃべりを額面どおりにとっているうちに、トミーはなんとなくいくつかの疑問を抱くようになった。そんな温良な有名な紳士が、実は危険な犯罪者だったということが、ありえるだろうか? 彼の生活は、開放的でかつまともだ。怪しい気配はこれっぽちもない。自分は何か大きな見当違いをしているのではないだろうか? トミーはこう考えて、冷たいものがぞくぞくと背すじを走るのを感じた。
それから、個人的な患者――|いかれた《ヽヽヽヽ》連中というのを思い出して、患者の中に若い女はいないかとたずねて、タッペンスの人相風采を用心深く説明した。しかし患者のことはほとんど外部の者には知られていない模様だった――屋敷の外にはめったに出ないからわからないというのである。アネットのこともいろいろカムフラージュしてたずねてみたが、やはりわからなかった。
アストレイ・プライヤーズは、一見感じのいい赤煉瓦造りの建物で、まわりの庭には、樹木が鬱蒼《うっそう》としげって、道路から全然家が見えないようになっていた。
最初の晩、トミーはアルバートを連れて、屋敷の庭を調べた。アルバートがどうしてもそうしろと言い張るので、二人は庭の中を腹ばいになって調べまわった。そのほうがちゃんと立って歩くよりよっぽど物音を立てた。いずれにしてもそんな用心をする必要は全然なかったのである。ほかの住宅と同じように、この家の庭も、夜になると人影一つ見えなかった。トミーは、ひょっとしたら獰猛《どうもう》な番犬でもいやしないかと思ったが、アルバートの想像力は、ピューマか、あるいは飼い馴らされたコブラがいるにちがいないというところまで飛躍した。しかし、家のすぐ近くのしげみまで、全然邪魔されずに、行き着くことができた。
食堂のブラインドが上げられたままになっていた。テーブルのまわりには大勢の人が集まっていた。ぶどう酒が手から手へ渡された。きわめてありふれた気持のよいパーティのように見えた。開かれた窓から話の断片が、ちぎれちぎれに夜の空気の中に流れてきた。この地区のクリケット試合に関する熱心な議論だった!
再度トミーは、不安の寒気《さむけ》を感じた。この連中が外見とは違った人間であるとはとても想像できなかったのである。またもやだまされたのであろうか? テーブルの主人席に坐っている紳士、眼鏡をかけてブロンドのひげを生やした紳士は、どう見ても、実直な、正常な人間にしか見えない。
その晩、トミーは、寝つきの悪い一夜を過ごした。翌朝、不屈のアルバートは八百屋の配達少年をうまく手のうちに丸めこんで、彼の代わりに屋敷の料理女にとり入った。やがて彼は、この女がギャングの一味であることは疑いのない事実だという情報を持って帰って来た。しかし、トミーはアルバートの鮮明な想像力を信用しなかった。いろいろ問いただしてみると、けっきょく、アルバートは、彼女がふつうの人間でないという証拠を一つとして具体的にあげることはできなかった。単なる彼の意見にすぎなかったのである。つまり一目見ればすぐわかる、というのが彼の意見だった。
アルバートはその翌日も身代わり配達(これは本物の配達少年が金銭的な利益をあげた成果のほうが大きかった)をつづけた。帰って来たアルバートははじめて希望の持てるニュースを伝えてくれた。この家にフランス人の若い娘がいるというニュースである。トミーは自分の疑問をわきにおしやった。自説がどうやら確認されたわけである。しかし時間は切迫していた。きょうは二十七日。二十九日が問題の「労働デー」、これについてはさまざまなデマが流布《るふ》されていた。報道関係はかなり動揺していた。労働者のクーデターが行なわれるだろうというセンセイショナルな暗示が公然と報道された。政府はひたすら沈黙を守っていた。すべてを承知して待機していたのである。労働党指導者の間に意見の分裂が生じたという噂があった。必ずしも一心同体ではないというのである。彼らのうち多少とも先見の明のある人間は、自分たちのやろうとしていることが、イギリスにとって致命的な打撃になるだろうということを認識していた。口では過激なことを言っても心の中ではやはりイギリスを愛していたのである。彼らは、ゼネストのもたらす飢餓や貧困にたじろぎ、ある程度までは政府と妥協してもいいという気持であった。しかし、その背後には依然として巧妙な執拗《しつよう》な組織が暗躍していて、過去の悪政の記憶を呼びさまし、歩みより政策の弱点を非難し、相互間の誤解を助長していたのである。
トミーは、ミスター・カーターのおかげで事態をかなり正確に把握していると信じていた。例の致命的な書類がミスター・ブラウンの手にはいれば、世論は大きく労働党の過激派及び革命主義者のほうに傾くに違いない。たとえ書類が彼らの手にはいらなくとも、戦いは政府にとって五分のチャンスである。軍と警察力を持った政府はあるいは勝利を得るかもしれないが――しかしその犠牲は莫大なものとなるであろう。しかし、トミーの心は別の途方もない夢を抱いていた。つまり、もしミスター・ブラウンの仮面をはぎ取り、彼を逮捕すれば、組織全部が即座に屈辱のうちに瓦解《がかい》してしまうだろうと信じていたのである。この信念が正しいかどうかは別として、とにかく、目に見えないボスの異様な浸透的な力がこの組織を維持していることは確かである。彼がいなくなれば、じきに組織は恐慌をきたすであろう。そして、残った実直な人間だけを相手にすれば、土壇場の妥協も可能となるであろう、というのがトミーの信念であった。
「これはワン・マン・ショーだ」とトミーはひとり言を言った。「何はともあれ、なすべきことは、彼を捕えることだ」
彼がミスター・カーターに封印の手紙を渡して、ぎりぎりの時まであけないように頼んだのは、一つにはこの野心的計画を進めるためであったのである。秘密書類はトミーの持っている餌である。ときには、トミーも、自分の推定に唖然とすることもあった。いままで自分よりはるかに頭のいい、はるかに経験を積んだ人間が何十人もかかって、それでも見落としていたあることを自分のようなものが発見した、そんな大それたことがあっていいのだろうかと思ったからである。とはいうものの、彼はあくまで自分の考えに固執した。
その晩、彼とアルバートは、も一度アストレイ・プライヤーズの邸内に侵入した。トミーの考えは、なんとかして家の中まではいってみようというのであった。家の近くまで来た時、トミーははっと息をのんだ。三階の部屋の一つに、窓とあかりの間に誰かが立って、その影がブラインドにうつっていた。それは、トミーならどこにいても必ず見分けることのできる影だった! タッペンスの影である!
彼はアルバートの肩をつかんだ。
「ここにじっとしてろ。おれが歌い出したら、あの窓をよく見ているんだぞ」
彼は急ぎ足で門から家に通じる自動車路に戻り、わざと千鳥足になると、どら声を上げて、次のような歌を歌いはじめた。
おれは兵隊
陽気なイギリス兵
おれの足見りゃ
すぐわかる
おれは陽気な
イギリス兵
それはタッペンスが病院にいたころ、レコードに吹き込まれて、はやっていた歌だった。彼女がこれを聞いて、ちゃんと聞き分け、彼女なりの結論を出すだろうということは、トミーにとってなんらの疑念もなかった。トミーの声は音楽的ではなかったが、両肺は人一倍強かった。したがってその騒々しさはたいへんなものだった。
やがて、非の打ちどころのない執事が、やはり非の打ちどころのない下男を連れて、玄関から出て来た。執事が彼をたしなめた。トミーは平気な顔で歌いつづけ、執事を『可愛いひげのおじさん』と呼んで愛想をふりまいた。下男が彼の片腕をとり執事がも一つの腕をとって、自動車路を門のほうに走って、ぽいと門の外にほうり出した。そして執事は、今度屋敷の中にはいって来たら警察を呼ぶぞとどなった。実にみごとな処置だった――常識的でしかも、完璧といってもいいくらいの礼儀正しさだった。誰が見ても執事はほんものの執事、下男はほんものの下男だと誓っただろう――ただ、トミーの見た執事は、まぎれもないウィッティントンだったのである!
トミーは宿屋に戻り、アルバートの帰りを待った。待ちあぐねているうちにやっと帰って来た。
「どうだった?」トミーがじれったそうにたずねた。
「うまくいきました。あなたを追い出している間に、窓があいて、こんなものが飛び出して来ました」彼は一枚の紙をトミーに渡した。「文鎮に巻いてあったんです」
紙には、こう簡単に走り書きしてあった。「あす――同じ時刻に」
「うまくやった!」トミーは叫んだ。「順風に帆だ!」
「ぼくね、紙にメッセージ書いて、石を包んで窓の中に投げこんでおきました」とアルバートが息を切らしながら言う。
トミーはうなった。
「きみの意欲はわれわれの破滅になっちゃうぞ。なんて書いたんだ」
「宿屋に泊まってるから、逃げ出せたら、宿屋に来て、蛙の鳴き声をしろって」
「彼女なら、きみだってことすぐに気がつくな」トミーはほっと安堵の溜息をついて、「しかしだな、きみに、蛙の鳴き声を、聞き分けることできるかい?」
アルバートは、しょんぼりした顔をする。
「いいよ、元気出せよ」とトミー。「べつにどうってことないんだ。あの執事は、ぼくの顔なじみだ――顔にも口にも出さなかったけど、やつはぼくが何者だかちゃんと知ってるんだ。しかし、自分が怪しんでいることを見せちゃいけないのが彼らの芝居。だからこそ、ぼくたちは割に楽々とここまで進んできた。彼らはおれの勇気をくじかせたくはないのだ。と同時に、あんまりこっちに機会を与えるようなこともしたくない。ぼくは、彼らのゲームの中では歩《ふ》のようなものだ。アルバート。そうなんだ。わかるかい。くもが蝿《はえ》を簡単に逃がしてやったら、蝿は、何か魂胆《こんたん》があるんじゃないかと怪しむだろう。ここに有望な青年ミスター・T・ベレスフォードの利用価値があるのだ。彼は、彼らにとってちょうどつごうのいい時にのこのこ出しゃばって来たんだからね。しかし、そのあと、どうなるのかミスター・T・ベレスフォード、用心したほうがいいぜ!」
トミーはその晩かなり昂然たる気持になって、寝についた。彼は翌日の晩のために、慎重な計画を練っておいた。アストレイ・プライヤーズの住人たちは、ある段階まではそれほど邪魔だてしないであろう。そのあと相手をあっと言わせるのは、向こうのほうでなく、トミー自身ということになるのである。
しかし、十二時ごろ、彼の冷静さは荒々しくも打ち破られた。彼に会いたいと言う男がバーで待っている、というのである。男というのは、身体中泥だらけのむさくるしい馬車引きだった。
「きみかね、ぼくに会いたいというのは。なんの用だ?」とトミー。
「これ、あんた宛のものだろう?」馬車引きは、汚ない紙片を差し出した。たたんだ紙の外側には、『これをアストレイ・プライヤーズの近くにある宿屋に滞在中の紳士に届けてください。十シリングくださるはずです』と書いてあった。
筆蹟はタッペンスの筆蹟だった。トミーは、偽名で宿屋に泊まっていることをいち早く察知したタッペンスの頭の回転のよさに感心した。彼はそれをひったくるようにした。
「ありがとう、ぼく宛の手紙だ」
男は手紙をひっこめた。
「おれの十シルは、どうなんだい?」
トミーは急いで十シル札を取り出し、男は自分の見つけた手紙をトミーに渡した。トミーは手紙を開いた。
[#ここから1字下げ]
トミー
昨晩の騒ぎがあなただってことすぐわかりました。今晩は行かないでください。あなたを待ち伏せしています。わたしたちは、けさどこかに連れて行かれることになっています。ウェールズの……ホーリーヘッドとか言っているのを聞きました。機会があったらこの手紙を道で落とします。アネットの話であなたが無事逃げられたことを知りました。
[#地付き]|Twopence《タッペンス》
[#ここで字下げ終わり]
トミーはこのいかにも彼女らしい手紙を充分読み終わらないうちに大声出してアルバートを呼んだ。
「荷造りだ! 出発するぞ!」
「はあい」階段を走るアルバートの長靴の音が聞こえた。
ホーリーヘッド? ということは、やっぱり……。トミーは不審に思った。彼はゆっくりと読みかえした。
階上の床の上を歩くアルバートの足音が忙しげに聞こえてくる。突然二度目のどなり声が階下から二階に向けて発せられた。
「アルバート! おれはばかだ! 荷物を解くんだ!」
「はあい」
トミーは手紙のしわをのばしながら考えた。
「そうだ。まったく大ばか者だ」彼は小声で言う。「しかし、大ばか者が、も一人いるぞ! おれにもやっとそれが誰だかわかった」
二四 ジュリアスの活躍
クラメニンは、ホテル・クラリッジの自室で、寝椅子《カウチ》によりかかり、歯擦音《しさつおん》の多いロシア音で、秘書に何か書き取らせていた。
秘書の肘の近くにあった電話が鳴り、秘書は受話器をはずして、一、二分話すと、クラメニンのほうを向いて、
「誰か面会人が下に来ているそうです」
「誰だ?」
「ジュリアス・P・ハーシャイマーと言っているそうです」
「ハーシャイマー」クラメニンはその名前をくり返してちょっと考えた。「聞いたことあるような名前だな」
「彼の父親は、アメリカの鋼鉄王の一人と言われていました」あらゆることを知っているのが秘書のつとめである。「この青年も、百万長者を何倍かにしたくらいの金持に違いありません」
クラメニンは悪くないなと言わんばかりに目を細めた。
「イワン、きみ、下に行って会って来てくれ。なんの用事か聞いてくるんだな」
秘書は命令に従った。音一つ立てずにドアを閉めて出ていった。数分たって戻って来た。
「用事をどうしても言わないんです。――ひじょうに私的な個人的な問題だから直接会ってお話すると……」
「百万長者の何倍か」クラメニンは呟いた。「ここに連れて来たまえ、イワンくん」
秘書は再び外に出て、ジュリアスを連れて来た。
「ムッシュウ・クラメニン?」ジュリアスがぶっきらぼうにたずねる。
クラメニンは血筋の浮いた青い目でジュリアスを念入りに観察し、頭を下げた。
「はじめまして」とジュリアス。「ひじょうに重大な仕事の話があるんですが、ただし二人っきりで」彼はこう言って、秘書をさがらせてくれと言わんばかりに彼のほうを眺めた。
「こちらはわたしの秘書、ムッシュー・グリーバーです。彼に聞かれたくないような秘密は、わたしには一つもない」
「それはそうかもしれませんが――しかしぼくにはあります」とジュリアスはそっけなく言う。「ですから、席をはずすように言ってくれませんか?」
「イワン」とクラメニンはおだやかな声で言う。「悪いけど隣の部屋に行ってくれないかね……」
「隣の部屋じゃだめです」とジュリアス。
「こういう貴賓室がどういうふうになっているかよく知ってます――だから、ぼくとあなたの二人っきりにしてください。近くの店に使いに出して、ピーナッツを一ペニーばかり買って来させたらいいでしょう」
このアメリカ人の勝手気ままな態度やしゃべり方は多少気にさわったが、クラメニンは好奇心でうずうずしていた。
「話というのは長くかかりますか?」
「あなたの気に入れば一晩じゅうだってかかるかもしれません」
「よかろう。それじゃ、イワン、今晩はもう用事はない。休みってことにして――劇場にでも行って来たらいいだろう」
「ありがとうございます。閣下」
秘書は頭を下げて出て行った。
ジュリアスはドアのそばに立って彼の出て行くのを眺めていたが、やがて、満足げな溜息を洩らし、そのドアを閉め、部屋の中央に戻って来た。
「さて、ミスター・ハーシャイマー、さっそく用件にうつってもらいましょう」
「用件は一分とかからないですよ」とジュリアスは言葉尻を長くし、それから、がらりと態度を変えて、「手を上げろ! 上げなきゃ射つぞ!」
一瞬クラメニンは自分の前につき出された大きなオートマティックをぽかんと眺めていた。それから、こっけいなほどあわてて、手を頭より高くさし上げた。この瞬間、ジュリアスは相手の力を見抜いてしまったのである。彼が相手に選んだこの男は、肉体的には卑劣なくらい臆病者だと……こうなるとあとは簡単だ。
「まったくむちゃだ!」とクラメニンはヒステリーじみた甲高い声で叫んだ。「まったくむちゃだ! このわしを殺そうというのか?」
「声を低くしてりゃ殺すこともないね。それからじりじり横のほうに動いてベルを押そうとしてもだめだぜ。そうだ、それでいい」
「何が欲しいのだ? 軽はずみなことをするな。わしの命は、わしの国にとってひじょうに貴重なものだということを忘れないで欲しい。そりゃ、わしのことを悪く言うものはいるかも……」
「おまえの身体に風穴あける人間がいれば、その男は人類に対する大きな貢献者だ。しかしそれほど心配することはないさ。おれは、今回、おまえを殺すつもりはない……ただし、おまえが言うこと聞かなけりゃ別だが……」
クラメニンはジュリアスの目の中に見えるきびしい威嚇《いかく》の色にたじたじとなった。彼は、乾いた唇を舌でなめた。
「何が欲しいんだ? 金か?」
「いや、ジェーン・フィンが欲しい」
「ジェーン・フィン? 聞いたこともない名だ」
「うそ言え! 誰のこと言ってるか百も承知しているくせに」
「断言してもいい。わしはそんな女のことは知らない」
「おれも断言するぜ」とジュリアスがやり返す。「この可愛いウイリー、どかんと一発やりたくてうずうずしてんだ!」
クラメニンは目に見えてしょげた。
「実際に射つだけの勇気はないだろう……」
「大いにあるね!」
クラメニンは、ジュリアスの声の中に、人を納得させるような何かがあるのを認めたのだろう。彼は仏頂面《ぶっちょうづら》で答えた。
「それで、なんだね。仮にきみのいう人間を知っていたとしたら――どうなんだ?」
「彼女がどこにいるか、いま、この場で、おれに話すんだ」
クラメニンは首を振った。
「話さないね」
「なぜだ?」
「話せないね。きみはわしに不可能なことをしろと言ってるんだ」
「こわいんだな? 誰を恐れてる? ミスター・ブラウンを? ははあ、ぴりっときたな! そうすると、そういう人間が実際にいるってわけだ。おれは疑問に思ってた。ところが、おれがただ名前を言っただけで、おまえは、身体を硬《こわ》ばらせてしまう!」
「わしは彼に会ったことがある」とクラメニンはゆっくりした口調でいう。「面と向かって話をした。あとになってわかったけど、その時は彼だとは知らなかった。彼は大勢の中の一人にすぎなかったからだ。も一度会ったとしてもおそらくわからないだろう。事実彼がどういう人間か、わしは知らない。知ってるのは――彼が恐るべき人間だ、ということだけだ」
「彼には絶対にわからないようにする」とジュリアス。
「彼はなんでも知ってしまう――彼の復讐はあっという間に行なわれる。このわしだって――クラメニンだって! 例外にはされないんだ!」
「じゃ、おれの言うことを聞かないと言うんだね?」
「きみは、おれに不可能なことをしろと言っているんだ」
「いいよ、それじゃ、おまえには気の毒だが」とジュリアスは快活に言う。「しかし、世の中全体は、喜ぶに違いないからね」彼はピストルを持ち上げた。
「やめてくれ!」クラメニンは叫んだ。「まさか本気でわしを射つつもりはないんだろう?」
「もちろん、本気さ。おまえたち革命主義者は命を軽く見てると聞いてたが、自分の命となると別らしいな。おれは、おまえの汚ない首を救うチャンスをやったのに。おまえはそのチャンスを取ろうとしないんだから仕方ない」
「わしは彼らに殺される!」
「じゃいいさ」とジュリアスは楽しそうに言う。「おまえの気持しだいだ。しかし、これだけははっきり言っとくけど、このウイリーは、絶対に射ちそこないってことがないんだ。だから、ミスター・ブラウンと一かばちかの勝負をしたほうがうんと安全だぜ」
「きみがわしを射てば、きみも絞首刑だ」とクラメニンはぐずぐずした声で呟く。
「いや、そこがおまえの見込み違いってとこさ。おまえはドルの力ってのを忘れてる。弁護士たちが山ほど集まってきて、一流の医者をかり集めてきて、そのあげく医者たちはおれの精神が一時的に異状をきたしたんだと証言する。おれは二、三か月静かな療養院で治療を受け、やがて、病気もなおり、医者は精神状態が正常に戻ったと診断する。ジュリアスにとってはすべてがめでたしめでたしだ。この世界からおまえを葬り去るためには、二、三か月引退生活したってどうってことはないさ。おれが絞首刑になるなどと考えるだけでも野暮《やぼ》だぜ」
クラメニンは彼の言葉を信じた。彼自身腐敗しきった男ゆえ、金の力というものを、充分に信じていたのである。アメリカの殺人犯公判が、ジュリアスの説明した線とほぼ同じ線で行なわれていることを前に何かで読んだことがある。彼自身も、正義を金で売ったり買ったりした。意味深長なけだるい声をもったこのたくましいアメリカ青年は、明らかに彼の死生を握っているようだ。
「おれは五つ数える」とジュリアス。「四つを過ぎるまで黙っていれば、おまえも、もうミスター・ブラウンのことを心配しなくてもすむようになる。たぶん、彼だって葬式の花束ぐらいおくってくれるだろう。だが、おまえにはその花の匂いも嗅げなくなるんだぜ。いいかい? はじめるぞ。一――二――三――四」
クラメニンは悲鳴をあげてさえぎった。
「射たないでくれ。きみの望みどおりなんでもする」
ジュリアスはピストルをおろした。
「そのぐらいの分別《ふんべつ》はあるだろうと思った。娘はどこにいるんだ?」
「ケント州のゲートハウスだ。アストレイ・プライヤーズという名の家だ」
「監禁されているのか?」
「家を離れることは許されていない。――逃げ出す心配はべつにない。あのばか娘め、記憶喪失症にかかってるんだから。まったく癪にさわる話だ!」
「そりゃおまえやおまえの友だちにとっては癪の種だったろうな。も一人の娘はどこだ? 一週間ばかり前に誘拐した娘だ」
「彼女もそこにいる」とクラメニンは仏頂面して答えた。
「そりゃちょうどいい。何もかもうまく片づきそうだ。第一、ドライブには持ってこいの夜ときてるし」
「ドライブって?」クラメニンは、相手を凝視《ぎょうし》した。
「もちろん、ゲートハウス行きのドライブさ。おまえ、ドライブ好きだろう?」
「どういう意味だ? わしは行かないぞ」
「そう怒るなよ。おれだって、おまえをここに残しておくような子供じゃないぜ。残していったらすぐにその電話で、向こうの連中に知らせるだろうからな。ほうら、図星だろ?」彼はクラメニンのがっかりした顔を眺めた。「そうだろ? ちゃんとそういう計画たててたんだろ? とんでもない話だ。おまえもいっしょに来るんだ。この隣はおまえの寝室だね? 中にはいれよ、おれとウイリーがあとについてるからな。さ、オーバーを着て。毛皮の裏がついてるな。それで社会主義者か! 用意ができたら下におりて、ホールを通っておれの車の待ってる所まで行くんだ。おれがピストルでうしろから狙ってることを忘れるなよ。オーバーのポケットからだってちゃんと射てるんだ。ホテルの召使に一言でもしゃべったり、目配せ一つでもしたら、地獄の住人が一人増えることになるんだぜ!」
二人はいっしょに階段を降りて、待っている車の所に行った。クラメニンは憤怒の情でぶるぶるふるえていた。ホテルの召使たちが彼らを囲んだ。叫び声が唇の所まで出かかった。しかし、いざとなると勇気が出なかった。このアメリカ人はうそを言う人間ではない!
車の所まで来ると、ジュリアスはほっと安堵の溜息を洩らした。危険地帯は無事に通過したのだ。恐怖が、かたわらの男をうまく催眠術にかけてしまったのだ。
「乗れ!」彼は命令した。その時、彼はクラメニンが横目で誰かを見ているのに気がついた。「だめだめ。運転手は助けてくれはしないぜ。海軍の人間だ。革命が起こった時、潜水艦にのってロシアにいた男だ。彼の弟は、おまえの仲間に殺されたんだ。ジョージ!」
「なんですか?」と運転手がふり向く。
「この紳士は、ロシアの共産主義者だ。射ち殺したくはないけど、そうしなきゃならなくなるかもしれない。わかった?」
「よくわかりました」
「ケント州のゲートハウスに行きたい。道を知ってるか?」
「知っています。一時間半ぐらい走ればいいです」
「一時間で行ってくれ。急いでるんだ」
「なんとかやってみましょう」車は、他の車の間を疾風のように走り出した。
ジュリアスは、捕虜のそばに気持よさそうに落ち着いた。右手はポケットにつっ込んだままだったが、その態度はあくまで都会風に洗練されていた。
「アリゾナで一度ある男を射ったがね……」彼は快活に話しはじめた。
一時間のドライブのあと、運命の犠牲者クラメニンは生きているというよりはむしろ死んだような状態になっていた。アリゾナ男の話につづいて、サンフランシスコのタフ・ガイの話が出て、そのあとロッキーの山の中のエピソードが語られた。ジュリアスの話し方は厳密な正確性には欠けていたかもしれないが、生き生きとして目に見えるようだった。
スピードをゆるめながら、運転手は、肩越しに、ゲートハウスにはいるところだと告げた。ジュリアスはクラメニンに道案内しろと命じた。ジュリアスの計画は、まっすぐ家に向かって、そこでクラメニンが娘二人の身柄を要求すること。失敗したらウイリーがけっして承知しないだろうと言いふくめた。そのころまでには、クラメニンはもう、まるで手のひらに丸められた粘土みたいになっていた。おまけに、車の物すごいスピードにすっかり胆《きも》をつぶしてしまっていた。曲がり角を曲がるたびに、いま死ぬかいま死ぬかと思っていたからである。
車は門の中にはいって、ポーチの前でとまった。運転手がふりかえって命令を待った。
「先ず車の向きを変えて、それからベルを押し、運転台に戻る。エンジンはかけたままにしておく。おれが走れと言ったらフルスピードで走らせるんだぞ」
「わかりました」
玄関のドアは執事の手であけられた。クラメニンはピストルの銃口が肋骨におしつけられているのを感じた。
「さあ。慎重にやれ」とジュリアスが小声で言う。
クラメニンは執事に手招きした。唇はまっさお、声はうわずっていた。
「わしだ。クラメニンだ! すぐ娘をつれて来てくれ。時間がないんだ!」
ウィッティントンは石段の下までおりて来ていた。相手の顔を見ておどろきの声を上げた。
「あなたでしたか! 何が起こったんです? われわれの計画はご存じのはず……」
クラメニンは相手の言葉をさえぎった。そして不必要なくらい人をあわてさせる言葉を使った。「裏切られたのだ! 計画は放棄だ。自分たちの身の安全を考えなきゃ! 女の子を! すぐに! われわれの唯一のチャンスだ!」
ウィッティントンはためらった。しかしそれもほんの一瞬のためらいだった。
「命令を受けたんですか?――あの人から?」
「もちろんさ! でなければわしがここに来るはずないじゃないか? 急いでくれ。時間がないんだ。も一人のばか娘も連れてくるんだ」
ウィッティントンはすぐさま家の中に駆け戻っていた。苦悶の数分間だった。そして――オーバーにくるまった二人の姿が玄関に現われ車の中に押しこまれた。二人のうち小さいほうがちょっと抵抗したが、ウィッティントンが乱暴に押し込んだ。ジュリアスが身体を少し乗り出したため、入口のあかりが彼の顔を照らし出した。ウィッティントンの背後の石段の上にいた男がおどろきの叫び声を上げた。
「車を出せ。ジョージ」ジュリアスが叫んだ。
運転手はクラッチを入れた。がくんと飛び上がって車は走り出した。石段の上にいた男が罵《ののし》りの声を上げた。手をポケットにつっ込んだ。閃光《せんこう》と銃声。弾丸は背の高いほうの女の子のそば一インチの所を飛んだ。
「伏せるんだ、ジェーン」とジュリアスが叫んだ。「車の床の上に伏せろ」彼は彼女をいきなり押し倒すと、立ち上がって、充分狙いを定め、引金をひいた。
「命中した?」とタッペンスが身を乗り出して叫ぶ。
「もちろんさ!」とジュリアス。「しかし命に別条はないだろう。ああいうスカンク野郎はおいそれと死ぬもんじゃない。あんた、大丈夫かい、タッペンス?」
「あたりまえよ。トミーはどこ? この人、誰?」彼女はぶるぶるふるえているクラメニンをゆびさした。
「トミーはアルゼンチンに行っちゃった。あんたがあの世に行っちゃったと思ったんだろう。ジョージ、門だよ、用心して、そうだ、それでいい。やつらがおれたちを追っかけてくるまでに少なくとも五分はかかるだろう。たぶん電話かけるだろうから、前方のわなに注意して――。少しまわり道するといい。この男誰だと聞いたね、タッペンスご紹介しましょう、ムッシュウ・クラメニン。彼の健康を思って今度の旅行にさそったんだ」
クラメニンは黙りこんでいた。まだ恐怖に鉛色の顔をしていた。
「でも、あの連中どうしてあたしたちを手放したのかしら」とタッペンスが訝《いぶ》かる。
「ムッシュウ・クラメニンが礼をつくして頼んだから、ことわり切れなかったんだろ、きっと」
「いくらなんでもこれはひどすぎる!」クラメニンははげしい口調で爆発した。「畜生! いいかげんにしろ! いまごろはみんなわしの裏切りに気がついてるだろう。この国にいたらわしの命は一時間と保《も》ちゃしない」
「そのとおり」とジュリアスが同調した。「すぐにロシアに逃げていったほうが賢明だな」
「それじゃ行かせてくれ」とロシア人は叫ぶ。「わしはきみに言われたとおりにした。これ以上どうしてわしを捕えておくんだ?」
「べつにおまえといっしょにいるのが楽しいからじゃないよ。まあ行きたいと言うんなら放してやってもいいな。ロンドンまでいっしょに帰りたいと思ってるんじゃないかと考えただけだ」
「きみたちがロンドンまで安全に行けると思ったら大間違いだ。いまここでおろしてくれ」
「ああ、いいとも。ジョージ、車をとめろ。このお方は往復旅行じゃないそうだ。ムッシュウ・クラメニン、おれがロシアに行くようなことあったら、大歓迎してくれるかい……」
しかし、ジュリアスがその言葉を終わらないうちに、そして車が完全にとまらないうちに、クラメニンはさっと飛びおりて夜の中に姿を消してしまった。
「よっぽどいらいらしてたんだな」車が再び走り出した時ジュリアスが言った。「ご婦人たちにさよならも言わないで行っちゃうんだからね。ジェーン、もう起きてもいいよ」
娘ははじめて口を開いた。
「どういうふうにしてあの人を説き伏せたんですか?」
ジュリアスは自分のピストルを軽く叩いて、「この可愛いウイリーの手柄だよ」
「まあすてき!」と娘は叫ぶ。顔にさっと赤味が走り、彼女はジュリアスを賛嘆の目つきで眺めた。
「アネットもあたしも何が起こったのかと心配したのよ」とタッペンス、「あのウィッティントンがあたしたちをひどく急がせて、あたしたち、屠殺場にひかれる小羊だと思ったわ」
「アネット」とジュリアス。「あんたはそういうふうに呼んでたのかい?」
彼の心は、新しい考えになんとか慣れようとつとめているらしい。
「だって、それがこの人の名前ですもの」とタッペンスが目を大きく見ひらいて答える。
「知っちゃねえな!」とジュリアス。「記憶喪失だから、彼女それが自分の名前だと思ってるかもしれないけど、ここにいるのは、正真正銘のジェーン・フィンなんだ!」
「ほんと……?」とタッペンスが叫んだ。
しかし、そのあと何か言おうとした彼女の言葉は、すさまじい音を立てて飛んで来たピストルの弾丸で中断されてしまった。弾丸は彼女の背後の坐席のクッションに埋まった。
「下にもぐって!」とジュリアスが叫ぶ。
「待伏せだ。わりかし早いとこやるじゃないか。ジョージ、スピードを出せ」
車は飛ぶようにして走った。銃声はさらに三発聞こえたが、弾丸は的はずれの所を飛んでいってしまった。ジュリアスは、まっすぐな姿勢で、車の後部に乗り出した。
「影も形も見えねえや、これじゃ射てない」とがっかりする。「そのうち、またピクニックが始まるだろう。あ!」
彼は手を頬にあてた。
「けがなさったの?」とアネットがすぐに気づいて言う。
「ほんのかすり傷さ」
彼女はぱっと立ち上がった。
「あたしを車からおろして! お願い。車をとめて! あの人たちが狙っているのはあたしよ。あたしのためにあなたたちの命までを失っちゃいけないわ。あたしをここから出して」彼女はドアのハンドルに手をかけた。
ジュリアスは彼女を両腕で引きよせて、じっと眺めた。彼女の声に外国なまりがすっかりなくなっていたからである。
「坐んな」彼はやさしく言った。「きみは記憶なんか全然喪失しちゃいない。そうだろ? ずっと連中をだましていたんだね」
彼女は彼を見つめ、うなずき、それからわっと泣き出した。ジュリアスは彼女の肩を軽くたたいた。
「いいよ、いいよ、ちゃんと坐ってな。おれたち、きみを離しゃしない」
すすり泣きながら、彼女は不明瞭な言葉でこうたずねた。
「あなた、くにの方でしょ? 話し方でわかるわ。聞いてるとホームシックにかかるみたい」
「もちろん、おれは、きみのくにの人間だ。きみの従兄だ――ジュリアス・ハーシャイマー。きみを見つけるためにヨーロッパに来たんだ。きみのおかげでさんざん踊りまわったぜ」
車のスピードが落ちて、ジョージが肩越しにたずねた。
「十字路に来たんですが道がよくわからないんです」
車はだんだん速度を落として、ほとんど動かなくなった。
その時、突然、車の背後をよじのぼるようにして一人の男が、頭から車内に転がりこんだ。
「ごめん、ごめん」とトミーが、姿勢を正しながら言う。
みんなはいっせいにおどろきの叫び声をあげた。彼は、一人一人に返事した。
「屋敷の車道の横のしげみの中にいたんだ。車のうしろにぶら下がってた。すごいスピードだもの、みんなに知らせることなんかできやしない! ぶら下がってるのがやっとだから。ところで、きみたち女の子はおりてくれ!」
「おりる?」
「そうだ。その道をちょっと行った所に駅がある。汽車は三分後に出る。急げば間に合う」
「いったいなんのつもりだ?」とジュリアス。「車をおりて敵をまくことができるとでも思ってるのか?」
「きみとぼくは車をおりない。女の子たちだけだ」
「気でも狂ったのか? ベレスフォード。完全にいかれてる! 女の子たちだけで行かせるなんて! そんなことしたら何もかもおしまいだ!」
トミーはタッペンスのほうを向いて、
「すぐにおりてくれ、タッペンス。彼女をつれて、ぼくの言うとおりにしてくれ。誰もきみたちに危害を加えるものはいないはずだ。絶対に安全だから。ロンドン行きの汽車に乗って、まっすぐジェームズ・ピール・エジャトン卿の所に行くんだ。ミスター・カーターはロンドンの郊外に住んでいる。しかし、ジェームズ卿の所にいれば安全だ」
「冗談じゃない!」とジュリアスが叫んだ。「気違い沙汰だ! ジェーン、きみはそこにいるんだ」
トミーがさっと身を動かして、ジュリアスの手にあったピストルをうばい取り、それをジュリアスにつきつけた。
「これでぼくが本気だってことわかるだろう? さあ、二人とも、ぼくの言ったとおりにするんだ。――でなきゃ射つぞ!」
タッペンスがとびおりて、いやがるジェーンの手をひっぱった。「さあ、いらっしゃい。大丈夫よ。トミーが大丈夫だと言うんだったら大丈夫よ。急いで。汽車に乗りおくれるわよ」
二人は走り出した。
ジュリアスの鬱憤がいちどきに爆発した。
「畜生! なんだって……」
トミーがその言葉をさえぎった。
「よしな! きみに一言二言、言いたいことがあるんだ、ミスター・ジュリアス・ハーシャイマー」
二五 ジェーンの告白
タッペンスは、ジェーンの腕に自分の腕をまきつけ、ひきずるようにして駅に着いた。耳の早い彼女は、はいって来る汽車の音を聞きつけた。
「急いで、さもないと乗りおくれるわ」
汽車がぴたりととまった時、二人はプラットフォームに着いた。タッペンスは一等車の空っぽのコンパートメントのドアをあけ、二人は、はあはあ息を切って、やわらかいクッションに身を沈めた。
二人の男がのぞきこんで、次の車に移っていった。ジェーンが神経質にぴくりと身体を動かした。彼女の目は恐怖のため瞳孔《どうこう》が大きく開いていた。そして、タッペンスを見つめながらこうたずねた。
「いまの人、一味の一人じゃないかしら?」そして大きく息を吸った。
タッペンスは首を振った。
「違うわよ。大丈夫だったら!」彼女はジェーンの手をとった。「トミーは確信がなければ、あたしたちにこんなことしろとは言わないわ」
「でも、あの人より、あたしのほうが、あの連中のことよく知っててよ!」娘は身ぶるいした。「あなたにはわからないわ。五年間! 五年もの長い間よ! ときには気が違うんじゃないかと思ったわ」
「もう気にしないで。何もかも終わったんだから」
「そうかしら?」
汽車は動き出していた。夜の闇の中をだんだん速力を増して走っていった。突然ジェーン・フィンがぎくりとして起き直った。
「あれ何? 顔が見えたわ――窓からのぞいていたわ」
「何でもないわ、ほら」タッペンスは窓のそばに行って、ガラス窓をあけて見せた。
「ほんとに何もない?」
「ほんとよ」
ジェーンは、何か弁解しなきゃと感じたらしい。
「まるで臆病者のうさぎみたいにびくびくしてると思うでしょう? でも仕方ないのよ。もし今度つかまったら、あの人たちはきっと……」彼女は目をかっと見開いて、じっと一点を見つめている。
「考えちゃだめ!」タッペンスが言う。「横になって何も考えないようになさい。実際に安全でなければ、トミーは絶対に安全だとは言わない人よ、安心していいわ」
「あたしの従兄はそう思ってなかったわ。あたしたちにこんなふうにしろとは言わなかったわ」
「そうね」タッペンスはやや当惑した。
「何考えてるの?」ジェーンが鋭い口調でたずねる。
「どうして?」
「だってあなたの声が……おかしかったわ」
「あたし、あることを考えてたの」タッペンスは白状した。「でも、あなたには話したくないわ――少なくとも今はだめ。あたしが間違ってるかもしれないしね。でも、そうじゃないみたい。ずっと前にふと思いついたことなのよ。トミーも気づいてるらしいわ――九十九パーセントそうだと思うわ。でも、あなたは心配しなくてもいいの――あとで心配する時間は充分あってよ。だって全然そうでないかもしれないんですもの――とにかくあたしの言うこと聞いて、横になって、何も考えないこと」
「やってみるわ」ハシバミ色の目に長いまつ毛がかぶさった。
一方、タッペンスのほうは背をのばしてまっすぐ腰をかけ、まるでテリア種の犬が羊の番をしているような格好だった。口では強いこと言いながら、彼女も不安でならなかった。目は絶えず、こちらの窓あちらの窓と動きまわり、非常用のひものありかもちゃんと確かめておいた。何を恐れているのかと聞かれると、はっきり口では言えなかったが、心の中は、自信たっぷりの口ぶりとはおよそうらはらの気持だった。トミーを信用しないわけではなかったが、彼のような単純な正直な人間が天才的犯罪者の悪辣《あくらつ》巧妙なやり方に太刀打ちできるとはちょっと考えられなかったからである。
とにかく、無事にジェームズ・ピール・エジャトン卿の所までいけば、すべてうまくおさまるんだが、しかしはたして行き着くことができるだろうか? ミスター・ブラウンの一味徒党が、ひそかに彼女らの行く手に集結しているのではなかろうか? ピストルを片手に持ったトミーのあの最後の姿すら彼女の心を安めることはできなかった。今ごろは彼も、敵の手で、数の力で、おしつぶされてしまっているかもしれない……タッペンスは慎重に作戦計画をねりはじめた。
汽車がやっとのことでチャリング・クロスの駅にはいりかけた時、ジェーン・フィンがぱっと起き上がった。
「着いたの? 絶対に着かないんじゃないかと思ってたわ」
「あたしは、ロンドンに着くまでは大丈夫だと思ってたわ。何か面白いことが始まるとすれば、今からだわ。さあ、急いで。すぐにタクシーに乗りこまなきゃ」
一分後には改札口の所にいた。料金を払うと、すぐさまタクシーに乗り込んだ。
「キングズ・クロス」タッペンスは行き先をつげた。そしてぎくりとした。車が動き出した時、一人の男が窓をのぞき込んだからである。たしかにあの男だ、汽車の中で彼女らの部屋《コンパートメント》をのぞきこんで、次の車輛に移ったあの男である。彼女はだんだんと隅に追いこまれるような恐ろしい錯覚をおぼえた。
「あのねえ」と彼女はジェーンに説明した。「もし敵が、あたしたちの行き先をジェームズ卿の所だと思っているんだったら、これであの人たちをまくことができると思うのよ。今度はあの人たち、あたしたちがミスター・カーターの所に行くんだと思ってよ。だってミスター・カーターのカントリー・ハウスはロンドンの北のほうにあるんですもの」
ホーボンを横断する時、車の流れが動かなくなって、タクシーは停車してしまった。これがタッペンスの待っていたチャンスである。
「早く」彼女はささやいた。「右側のドアをあけてちょうだい」
二人は車をおりて自動車の列の中にはいった。二分後には別のタクシーに乗って反対側の方向に、まっすぐカールトン・ハウス・テラスへ向かった。
「うまくいったわ」とタッペンスは満悦の態《てい》、「これで敵さんきっとまごつくわ。自分で言うのもなんだけど、あたし結構頭が働くでしょ? さっきのタクシーの運転手さん、かんかんに怒ってるわよ。でも番号控えておいたから、あす郵便為替ででも送ってやるわ。そうすりゃ、あの人が敵のまわし者でない限り、べつに損もしないでしょうから。あらどうしたの?……あ」
ガリガリという音がしてがくんと車がとまった。別なタクシーと衝突したのである。
次の瞬間タッペンスは外に飛び出した。警官が近づいて来た。彼が現場につかないうちに、彼女は運転手に五シリング払い、二人は群集の中にまぎれこんだ。
「じきそこよ」とタッペンスが息を切らして言う。事故はトラファルガー広場で起こったのである。
「いまの衝突、偶然の事故だと思う、それともわざとしたこと?」とジェーン。
「わかんないわ。どっちとも言えるわねえ」
手に手をとって二人は急いだ。
「気のせいかもしれないけど」とタッペンスが突然こう言い出した。「誰かがあたしたちのあとを尾《つ》けてるような気がするの」
「急ぎましょう、ねえ、急ぎましょうよ」ジェーンがつぶやいた。
二人はカールトン・ハウス・テラスの角まで来た。急に元気が出てきた。その時いきなり大きな酔払いらしい男が現われて、行く手をふさいだ。
「こんばんはお嬢さん」彼はしゃっくりを一つした。「そんなに急いでどこにおでかけ?」
「通してください!」タッペンスがいたけだかに言う。
「いや、おつれのきれいなお嬢さんとちょっとお話ししたいんですよ」彼はよたよたした手でジェーンの手をつかんだ。タッペンスはうしろに別な足音を聞いた。彼女はそれが敵か味方かたしかめようともしなかった。いきなり頭を低くすると、子供の時よくやったように、その頭で相手の大きな腹に力一杯ぶっつかっていった。このおよそカッコ悪い戦術はみごとに効を奏し、男はぺたんと道路の上に尻もちをついてしまった。タッペンスとジェーンは一目散《いちもくさん》にかけ出した。目的の家までまだ距離があった。背後の足音があたりにこだまして、やっとジェームズ卿の家の前に着いた時、二人は息がつまりそうになっていた。タッペンスはベルを、ジェーンはノッカーをつかんだ。
二人をとめた例の男が石段の下まで来ていた。彼はちょっとためらった。ちょうどその時、ドアが開き、二人は転がりこむようにホールの中にはいった。ジェームズ卿が図書室から姿を現わした。
「やあ! どうしたんです?」
彼はそばによって来た。ジェーンがふらふらしていたので片腕を彼女の身体にまわした。それから抱えるようにして図書室に連れて行き、革張りの寝椅子《カウチ》の上に寝かせた。テーブルの上の酒瓶からブランディを数滴グラスに注ぎ、無理矢理に彼女に飲ませた。溜息とともに彼女は身を起こした。その目は今なお狂気じみていて、かつ恐れおののいていた。
「もう大丈夫ですよ。こわがることはありませんよ。ここは安全ですからね」
彼女の息づかいは大分正常に戻ってきた。頬にも赤みがさしてきた。ジェームズ卿はタッペンスを不思議そうに眺めた。
「死んじゃいなかったんですね、ミス・タッペンス、あなたのお友だちのトミーと同じだ」
「青年冒険家はそう簡単には死にませんわ」
「そうらしいな」とジェームズ卿は軽く相槌を打ち、「お二人の共同企業は、成功裡に終わったとみてもいいんですね、つまり、こちらが」――彼は寝椅子《カウチ》の上の娘を見て――「ミス・ジェーン・フィンというわけですね?」
ジェーンが身体を起こした。
「そうです」彼女はもの静かな口調で言う。「わたしがジェーン・フィンです。あなたにいろいろお話ししたいことがあります」
「も少し元気がついてからにしたら……」
「いいえ――いますぐのほうがいいです!」彼女の声がやや甲高くなった。「何もかも話したほうが安心した気持になれますから」
「それじゃお望みどおりに……」とジェームズ卿。
彼はカウチに向かい合った大きな腕かけ椅子の一つに坐った。ジェーンは低い声で話をはじめた。
「わたしは、パリで就職するために、ルシタニア号でこちらに来ました。戦争のことがとても心配で、なんとかして力になりたいと思っていたのです。フランス語も勉強していましたし、わたしの先生がパリの病院では人手が不足して困ってるとおっしゃったものですから、手紙を書いて、仕事をしたいと申し込んだのです。採用するという返事が来ました。わたしは家族もありませんでしたから、手続きや何かも簡単でした。
ルシタニア号が魚雷にやられた時、一人の男の人がわたしに話しかけてきました。この人は前にも何度か見かけていましたし、――わたしなりに、この人、誰かをあるいは何かを恐れているな、と思っていたんです。その人はわたしに愛国心を持ったアメリカ人かとたずねました。それから、自分は、同盟国の死活問題になるような重要な書類を持ってるが、それを保管してくれないかと頼むのです。タイムズ紙の広告を見て指令を待ってくれ。もし、広告が出なかったら、アメリカ大使館に持っていってくれとのことでした。
そのあと起こったことはいま考えても悪夢を見てるような気がします。いまでもときどき夢に見ます。……ここのところは省略します。ミスター・デンバーズはわたしに気をつけたほうがいいと言ってました。自分はそう思わないけどニューヨークから誰かに尾けられているかもしれないと言うのです。はじめ怪しいことは何もありませんでした。でも、ホーリーヘッドに向かう船の上で、わたしは不安を感じはじめました。わたしのめんどうをみたり、親しくいろんな話をしたりする女の人が一人おりました。――ミセス・ヴァンデマイヤー――という人です。はじめはとても親切な人だと感謝しておりましたが、それでも、どことなくわたしの気持にぴったりしないところがあるんです。それからアイルランドの船の上で、彼女は一人の変な男と何か話していましたが、どうやらわたしの事を話しているらしい素振りなんです。わたしはルシタニア号でミスター・デンバーズが包みを渡してくれた時、彼女がすぐ近くにいたことを思い出しました。それから、一度か二度彼女がミスター・デンバーズに話しかけようとしていたのも思い出しました。わたしは少しこわくなってきましたが、でも、どうしていいかわかりませんでした。
わたしはホーリーヘッドに残って、その日ロンドンに行くのをよそうかと思いましたが、すぐに、そんなことするのがいかにばかげているかということに気がつきました。そうなるとなすべきことはただ一つ、何も気づかないようなふりをして、運を天にまかすということだけなんです。こちらで警戒していれば、向こうはどうにも手は出せないはずだなんて考えていたんです。でも用心のためあることだけはしておきました――というのは、防水布の包みをひらいて中身を出し、代わりに白い紙を入れて、も一度縫っておいたのです。だから誰かがわたしからそれを盗んでも、問題はないわけです。
でも本物の書類のほうはどうしたらいいか、心配で心配でたまりませんでした。結局書類を開いて平たくし、――どうせ二枚しかなかったのです――ある雑誌の広告二ページの間にはさんで、ふちの所を封筒ののりでくっつけておきました。わたしはその雑誌をアルスター外套のポケットに無造作につっこんで持ってあるきました。
ホーリーヘッドで汽車に乗る時、わたしはなんとかして、まともな人たちといっしょに坐ろうとつとめました。ところが、妙なぐあいにいつもあたしのまわりには人がいっぱいいて、行きたくないほうへ押されて行ってしまうんです。そのやり方が巧妙でうす気味悪くて、結局、わたしはミセス・ヴァンデマイヤーと同じ車室になってしまいました。通路に出て見ましたがどの車輛も満員なので、また舞い戻って席に腰かけたのです。その車室にはほかの人もいましたので、それがせめてもの慰めだと思いました――前の席に感じのいい顔をした男の人と、その人の奥さんが坐ってました。ですから、わたしも、なんとなく安心した気持になっていました。ロンドンのすぐ近くまで来たころです。わたしはうしろによりかかって目を閉じていましたが、ほかの人はわたしが眠っていると思ってたでしょうけど、実を言うとうす目をあけていたんです。そしたら、その感じのいい男の人が、自分のかばんから何か取り出して、ミセス・ヴァンデマイヤーに渡し、渡しながら彼女にウインクしたのです……。
そのウインクがあたしをどんなにぞっとさせたか、とても口には表わせないくらいでした。わたしは、なんとかして通路に出たい、ただそれだけを一心に考えました。それで、できるだけ自然な態度をとって立ち上がりました。でも、彼らには何かが見えたんでしょう――わたしにはわかりませんけど――突然、ミセス・ヴァンデマイヤーが『さあ!』と言って何かをわたしの鼻と口の上に投げかけました。わたしは悲鳴をあげようとしましたが、と同時に後頭部を何かでがあんとなぐられて……」
彼女は身ぶるいした。ジェームズ卿が何か同情の言葉をつぶやいた。一分後、彼女は再び話をはじめた。
「意識をとり戻すまでどのくらい時間がかかったのか全然わかりません。すごく気分が悪くて胸がむかむかしていました。汚ないベッドの上に寝ていました。まわりに衝立《ついたて》みたいなものがおいてありましたが、部屋の中で二人の人が話しているのが聞こえました。一人はミセス・ヴァンデマイヤーの声でした。わたしは耳を傾けました。はじめは何を言ってるのか意味がよくわかりませんでしたが、そのうち、どうにか事情がはっきりしてきて――わたしは恐ろしさに悲鳴をあげたくなってしまいました。その時、その場でどうして悲鳴をあげなかったのか不思議に思われるくらいです。
書類は見つからなかったようすでした。防水布の包みは見つけたらしいですが、中身が白紙だったので、彼らはかんかんに怒っていました! 彼らには、わたしが中身をすりかえたのか、それともデンバーズが、わざと偽物を運んでいて本物は誰か他の人間が運んだのか、見当がつかないらしいんです。二人は――彼女は目を閉じた――わたしを拷問にかけて白状させようと相談していました。
あんな恐ろしい気持――ほんとに吐き気がするような気持でしたが――あんな恐ろしい気持を抱いたのは生まれてはじめてでした。一度彼らはわたしを見に来ました。わたしは目を閉じてまだ意識を回復してないふりをしました。でも、心臓のはげしい鼓動が聞こえるんじゃないかととても心配でした。でも幸いに、二人は衝立の外に出て行きました。わたしは一所懸命考えはじめました。どうしたらいいんだろう? って。拷問にはとても堪えられないだろうということはよくわかってました。
ふとわたしは記憶喪失ということを考えつきました。この問題は前から興味を持っていましたので、いろんな本を読んで、よく知っていました。うまく芝居をやってのければ、救われるかもしれないと思いました。わたしはお祈りをして、大きく深呼吸し、それから目を開いて、フランス語でしゃべりはじめました。
ミセス・ヴァンデマイヤーがすぐに衝立のかげから姿を見せました。彼女の顔はとても意地悪そうで、わたし、命のちぢまる思いでした。でもわたしは不思議そうな顔をして彼女に笑いかけ、フランス語で、ここはどこですかとたずねました。
彼女はげせない顔つきをしていました。それでさきほどいっしょに話していた男の人を呼びました。その人は衝立のそばで、顔を影の中に入れて立っていました。彼はフランス語で話しかけました。その声はごくあたりまえの静かな声でしたが、なぜだかわかりませんが、なんとなく恐ろしく、その恐ろしさはミセス・ヴァンデマイヤー以上でした。なんだか心のうちまで見すかされるような感じでしたが、それでも、わたしは芝居をしつづけました。ここはどこかと、も一度たずね、それから、何かどうしても思い出せないことがある、どうしても思い出さなきゃ――いまはなんにもおぼえてないとうわ言のように言いました。そして、すごく困りきった表情をしてみせました。彼はわたしの名前をたずねました。わたしは、知らない、何もおぼえてない、と答えました。
その人はいきなりわたしの手首をつかんで、ねじ上げました。とても痛かったので、悲鳴をあげました。彼はどんどんねじあげました。わたしは何度も何度も悲鳴をあげましたが、でも、その悲鳴もどうにかフランス語でやってのけました。その状態が、どのくらいつづけられたか疑問ですが、でも幸いにわたしは気絶してしまいました。最後に聞こえた彼の言葉は、『これは芝居じゃない! いずれにしても、この年の子供じゃ芝居をつづけられるだけの知識はないだろう』と言うのでした。アメリカの女の子は、イギリスの女の子にくらべて、年の割にはませていて、科学的な問題にもっと関心を持っているってことを忘れていたようです。
その次に意識を回復した時には、ミセス・ヴァンデマイヤーはとってもやさしくしてくれました。たぶん、誰かの指令を受けとったんじゃないかと思います。彼女はフランス語で話し――ショックを受けて病気になったのだと言って聞かせました。じきになおるから安心なさいと言うのです。わたしは『まだ意識不明瞭』というふりをし――お医者さんがあたしの手首を痛くしたとかなんとか呟きました。わたしがこう言った時、彼女はほっとしたような顔をしました。
そのうち、彼女は部屋から外に出ていってしまいました。それでもわたしは信用できなくてしばらくじっと寝ていましたが、やがて起き上がって、部屋の中をあちこち歩いて部屋のようすを調べました。たとえ誰かがどこからかのぞいていたとしても、いまの状態なら歩きまわってもべつに不自然ではないだろうと思ったからです。とにかく汚ない、むさくるしい部屋でした。窓のないのは、どうも変に思われました。どうせドアには鍵がかかってるだろうと思いましたので、あけてみるのはやめました。壁には額縁にはいった古い絵がいくつかかかっていました。その絵は、ファウストの舞台場面をえがいたものでした」
話を聞いていた二人は同時に「ああ!」と言った。ジェーンはうなずいた。
「そうです――ミスター・ベレスフォードが監禁されていたソホーの家です。もちろん、その時は、ロンドンにいることすら知りませんでした。一つだけ、とても気がかりなことがありました。でも、椅子の背に無造作にひっかけられたわたしのアルスター・コートを見た時には、ほんとにほっとしました。だって、ポケットの中にはくるくるまいた雑誌がそのままはいっていたんですもの。
部屋の中をのぞかれていないってことが確かめられたらどんなにいいだろうと思いました。わたしは四方の壁を念入りに眺めました。のぞき穴みたいなものは全然ないようでした。それでもわたしは何かあるに違いないと思いました。わたしはいきなりテーブルのふちに腰をおろして、手を顔にあて、『|Mon Dieu《モン・デュ》! |Mon Dieu《モン・デュ》!』と泣きはじめました。わたしの耳はわりと敏感なんです。衣ずれの音と、何かがきしる音を、かすかに、しかし、はっきりと聞きとりました。それで充分です。たしかに見張られているんです。
わたしはまたベッドに横になりました。しばらくしてミセス・ヴァンデマイヤーが夕飯を持ってはいってきました。前と同じようにとてもやさしくしてくれました。きっとわたしに信頼感を抱かせるようにと命令されたんだと思います。彼女は例の防水布の包みを持って来て、見おぼえがあるか、とたずねました。その間も彼女はじっと山猫のようにわたしを見守っているのです。
わたしはそれを受け取って、裏向けたり表向けたりして、怪訝《けげん》そうな顔をし、それから首をふりました。わたしは、この品物についても何かおぼえているはずだが、思い出せそうになるとまたすぐわからなくなると答えました。彼女はわたしに、わたしが彼女の姪であること、彼女のことをリタ叔母さんと呼ばなければいけないと言いました。わたしは言われたとおりにしました。彼女は、心配しなくてもいいよ――記憶はすぐに戻ってくるから、と言いました。
その晩はたいへんな夜でした。彼女を待っている間いろいろと計画を立てていたのです。書類は今のところ無事だが、これ以上そこらに放置しておくことは危険です。雑誌はいつ捨てられてしまうかわかりません。わたしは、夜半の二時と思われるころまで起きて待っていました。それからできるだけ音をたてないように静かに起き上がり、暗闇の中を左側の壁まで手さぐりで歩いて行きました。次に、額縁画の一枚――宝石箱を持ったマルグリートの絵――をそっと釘からはずしました。今度はわたしのコートのある所まではっていって、雑誌とやはりポケットにつっ込んであった封筒一、二枚を取り出しました。それから洗面台の所に行って、額の裏にはってある茶色の紙を一面にしめらせました。しばらくすると、その茶色の紙をはがすことができるようになりました。雑誌のほうは、くっついている頁二枚を破りとっておきました。これは額縁の絵と、それをおおっていた茶色の紙の間にはさみ、封筒からはぎとったのりで、茶色の紙はもとどおりにくっつけることができました。額縁の絵はこれでもとのまま。手を加えたことは誰にもわからないように仕上がりました。絵は壁にかけ、雑誌はポケットにつっ込んで、わたしはベッドにもぐりこみました。この隠し場所にはわたしも満足でした。あの人たちが自分の家の絵をばらばらにして調べるなんて絶対に考えつかないだろうと思いました。それで、結局デンバーズが、ごまかしの書類を運んでたんだと考えるようになったらどんなにいいだろう。そしたら、きっとわたしを放免してくれるだろう、とこう望んだのです。
事実、あの人たちは、はじめそう考えたらしいんです。これは、ある意味ではわたしにとってとても危険なことでした。というのは、あとで知ったことですが、あの人たちはも少しで、わたしを殺してしまうところだったのです。放免なんてとんでもない話だったんです。でも、ボスの男が、万一わたしが隠したんだとしたら記憶が回復した場合その隠し場所を白状するんじゃないかと考えて、わたしを生かしておくことにしたんだそうです。あの人たちは何週間もの間、わたしを絶えず見はっていました。ときには何時間も何時間もわたしを調べました。――あの人たちありとあらゆる拷問の仕方を知ってるんじゃないかと思います! でもわたし、なんとか持ちこたえました。毎日毎日の緊張は恐ろしいくらい……
ある時はアイルランドに連れて行かれました。そして途中でどこかに隠したんじゃないかと、前とまったく同じ旅行をくりかえさせられました。ミセス・ヴァンデマイヤーと、も一人の女の人が一瞬もわたしのそばから離れませんでした。あの人たちはわたしのことを、ミセス・ヴァンデマイヤーの親類で、ルシタニア号のショックで精神に異状をきたしたんだと言っておりました。もし誰かに助けを求めるとしたら、必ず自分の素姓を打ち明けなければならないし、その危険をおかして失敗でもしようなら――ミセス・ヴァンデマイヤーはとてもお金持みたいだし、とてもいい服着てるし、誰でもあたしの言葉よりミセス・ヴァンデマイヤーの言葉を信じるだろうと思ったんです。そして、あたしが精神異状をきたして強迫観念におそわれているんだと考えるに違いないんです。それで万一あの人たちが、あたしの芝居を見抜いたら、それこそどんな目にあうか知れないと、とてもこわかったんです」
ジェームズ卿はその気持よくわかるとうなずいて見せた。
「ミセス・ヴァンデマイヤーはひじょうに強い個性の持ち主だ。それに加えて彼女の社会的地位を利用すれば、きみの見解を否定して、自分の見解を正しいものと見せることなんか、まったく朝飯前だよ。きみが彼女の非を訴えても、それが意表外であるだけに誰もきみを信用するものはいまい」
「わたしもそう考えたんです。結局わたしはボーンマスの療養院に送られました。わたしははじめこれが何かの策略か、純粋な目的のものか、どうしてもわかりませんでした。ある看護婦さんがわたしのかかりになりました。わたしは特別患者になっていたんです。その看護婦さんはとてもいい人で、ごくふつうの人みたいに思われましたので、あたし、この人にすっかり打ち明けてしまおうと決心しました。でも、慈悲深い神様のおかげで、もうちょっとで、あの人たちのわなにかかるところを救われたのです。部屋のドアが少し開いてたもんで、廊下で彼女が誰かと話しているのが聞こえました。彼女も敵の一人だったのです! あの人たちはまだわたしが芝居をしているのだと考えていて、それで彼女をわたしの係にして確かめさせていたのです。それからあとは、わたし、神経がめちゃめちゃになって、もう誰も信用しなくなりました。
わたし、自分で自分を催眠術にかけたような状態になりました。しばらくたったら、自分がほんとうはジェーン・フィンだということもほとんど忘れてしまったのです。アネット・ヴァンデマイヤーの役割を演じることに一所懸命になっているうちに、神経が変になり、ほんとうに病気になって――何か月もの間、無感覚状態になりました。もうじき死ぬんだ。そしたら、すべてがどうでもよくなるんだというふうに感じました。精神病院に閉じこめられた正常な人間は、長い間には自分も精神病者になってしまうという話を聞いています。芝居をすることがわたしの第二の天性になってしまいました。しまいには、不幸であることさえ忘れてしまいました。こうして何年間が過ぎ去ったのです。
そのうち、突然事情が変わってきたように思われました。ミセス・ヴァンデマイヤーがロンドンからやって来ました。彼女とお医者さんがわたしにいろんな質問をし、いろんな治療法を試みました。パリの専門医の所にわたしを送るという話もありました。結局、そういう危ない橋は渡らないということになりました。他の人が――つまりわたしの味方が――わたしを捜しているという話をちらと耳にしました。あとで聞いた話ですが、わたしの世話をしていた看護婦がパリに行って、わたしの代わりになって専門医の治療を受けたそうです。このお医者さんは、何かのテストをして、この看護婦の記憶喪失が偽物だってことを見破ってしまいました。しかし、彼女は彼の方法をメモして、それをわたしに応用しました。わたしはそんな専門医を一分間だってだますことはできないだろうと思いました――だって、そういう医者は一生かかってこういうことを研究した人ですし、きっとユニークな方法だろうと思ったからです。――でも、そのテストでも、とうとうわたしはぼろを出しませんでした。長い間自分がジェーン・フィンだということを忘れようとつとめてきた事実が、それを容易にしてくれたのです。
ある晩、わたしは前ぶれもなしに急にロンドンに連れて行かれました。ソホーの前の家に連れて行かれたのです。療養院を出ると、わたしの気持は変わってきました。――長い間眠っていたわたしの中の何かが再び目をさましたような気持でした。
あの人たちは、わたしにミスター・ベレスフォードの世話をさせました――もちろんその時は名前なんか知りませんでしたが――わたしはどうも怪しいなと思いました。また何かわなをかけられるんじゃないかと思いました。でも、あの人はとても実直な人に見えました。信じられないくらい実直に見えたんです。でも、わたしは自分の言葉に用心しました。話をちゃんと聞かれているのを知ってたからです。壁の上の方、高い所に小さな穴があったんです。
でも日曜日の午後は、その家にメッセージが届いて。みんなとてもあわてていました。わたしはあの人たちに気づかれないようにその話を聞いていたんです。彼を殺してしまうという話でした。そのあとはお二人ともご存じでしょうから、お話ししなくともいいと思います。わたし、二階に急いで行って隠れ場所から書類を取ってくる暇があると思いました。でも、途中で見つかってしまいました。ですからわたしは彼が逃げたと叫んで、それから、マルグリートの所に帰りたいと、その名前をはっきり大きな声で三度言いました。他の人たちはミセス・ヴァンデマイヤーのことだと思うに違いないでしょうし、ただミスター・ベレスフォードが、絵のことだと気づいてくれればいいがと思ってこう叫んだのです。彼は最初の日に絵の一つをはずしていたことがあって――そのことでわたしは彼を信用するのをちょっとためらったのです」
彼女はそこで言葉を切った。
「それじゃ書類はまだその部屋の絵のうしろにあるんだね?」とジェームズ卿がゆっくりした口調で言う。
「はい」彼女は長い話のあと緊張がゆるんでぐったりし、ソファに深々と沈みこんだ。
ジェームズ卿が立ち上がって時計を見た。
「さあ、すぐに行かなきゃあ」と言う。
「今晩?」タッペンスがおどろいてたずねる。
「あすじゃ手おくれになるかもしれない」とジェームズ卿は真剣な口調で、「それに、今晩行けば、あの偉大な超《スーパー》犯罪者――ミスター・ブラウンをつかまえるチャンスができるかもしれない」
沈黙があたりを支配した。ジェームズ卿は話をつづける。
「あなたたちのあとを誰かが尾けて来た、これは疑いのないところだ。われわれがこの家を出るとまた尾行されるにきまってる。しかし、彼らが邪魔をしたり害を加えたりすることはないはずだ。なぜかって、ミスター・ブラウンはわれわれが彼の案内役になることを望んでいるからだ。しかし、ソホーの家は、夜昼警察の監視のもとに置かれている。見張りをしている男が何人かいる。われわれが中にはいれば、ミスター・ブラウンももうあとに退《ひ》くことはないだろう。――彼は自分の仕掛けた地雷を爆発させる火種を手に入れるため、あらゆる危険をおかすにちがいない。ところが彼としては、それほどたいした危険があるとは思ってないのだ――なぜかというと、彼はわれわれの友人という仮面をかぶってはいって来るだろうから!」
タッペンスが顔を赤くした。そして衝動的に口を開いた。
「でも、あなたのご存じないこと――まだ、あなたに話してないことがありますわ」彼女の目は、ためらいがちにジェーンの上に注がれた。困惑しているようだった。
「なんだね?」とジェームズ卿は鋭く言う。「遠慮なく言いなさい、ミス・タッペンス。出かけるからにはすべてをはっきりさせておかなきゃいけないからね」
しかしタッペンスは、どうしても口に出せないようすでもがいた。
「困るんですの――だってもしあたしが間違ってたら――たいへんなんですもの」彼女はなんにも知らないジェーンのほうを眉をよせて眺めた。「あたし絶対に許してもらえないわ」彼女は謎めいたことを言う。
「きみはわたしに口ぞえしてもらいたいんだね?」
「ええ、お願いします。あなたはミスター・ブラウンが誰であるかご存じなんでしょ?」
「ああ、やっとわかったのだ」とジェームズ卿は重々しく言う。
「やっと?」タッペンスが怪訝そうに問い返した。「あたし、あなたがとっくに……」
「そのとおりです。ミス・タッペンス。もうずっと前から思考的には確信していたのだ――ミセス・ヴァンデマイヤーが謎の死をとげたあの晩以来」
「ああ!」とタッペンスが息をのみこむ。
「なぜかって、あの時の事実を考えるとどうしても理屈に合わないからだ。解答は二つしかない。彼女が自分の手でクローラルを飲んだか――この説にはわたしは絶対反対だ――それとも……」
「それとも?」
「きみが彼女に与えたブランディの中にクローラルがはいっていたか、ということだ。このブランディに手をつけた人間は三人しかいない。きみ、ミス・タッペンス、とこのわたしと、それから――ミスター・ジュリアス・ハーシャイマーだ!」
ジェーン・フィンが身体を動かし、坐り直した。おどろいたような目で話し手を見つめる。
「はじめは、まったく不可能なことだと思われた。著名な百万長者の息子として、ミスター・ハーシャイマーはアメリカじゅうに知れわたっている人物だ。その彼とミスター・ブラウンが同一人だとはとうてい考えられないことだ。しかし、事実を基にした論理からのがれることはできない。事実がそうである限り――これは認めざるをえないわけだ。ミセス・ヴァンデマイヤーが、あの時、突然動揺したのをおぼえているかね? それに、もう一つ証拠がある、もし証拠が必要だとすればだね……。
きみには割に早くヒントを与えることができたけど、マンチェスターにいる時、ミスター・ハーシャイマーから聞いた言葉から察して、わたしはきみがわたしの言葉《ヒント》を理解して、そのとおりに行動してくれたことを知った。それからわたしはこの不可能を可能にする証拠がためにとりかかった。ミスター・ベレスフォードがわたしに電話して、わたしが前からそうじゃないかと思っていたことを話してくれたのだ。つまり、ミス・ジェーン・フィンの写真は実際は一度もミスター・ハーシャイマーの手から離れたことはないんだという事実……」
しかし、ジェーンがその言葉をさえぎった。彼女はぱっと立ち上がって腹立たしげに叫んだ。
「それ、どういう意味です? あなたの言おうとしてらっしゃることは? ミスター・ブラウンがジュリアスだってこと? ジュリアス――わたしの従兄が!」
「いや、ミス・フィン」とジェームズ卿が意外なことを言い出した。「あなたの従兄じゃない。ジュリアス・ハーシャイマーと名乗っている男はあなたとは縁もゆかりもない人間だ」
二六 ミスター・ブラウン
ジェームズ卿の言葉は爆弾的な効果をもたらした。娘たちは二人とも同じように怪訝な顔つきをした。ジェームズ卿は机の所に行って小さな新聞の切り抜きを持って戻って来た。彼はそれをジェーンに渡した。タッペンスもそれを彼女の肩越しに読んだ。ミスター・カーターならこの記事におぼえがあるはずだった。ニューヨークで発見された身許不明の男の死に関するものである。
「いまミス・タッペンスに話していたように……」とジェームズ卿は話をつづけた。「わたしは不可能を可能にする証拠がための仕事にとりかかった。まず、わたしをがっかりさせたのは、ジュリアス・ハーシャイマーというのが仮名でもなんでもないという否定できない事実だ。ところが、この新聞記事を見た時に、問題はすぐ解決された。ジュリアス・ハーシャイマーは自分の従妹がどうなっているか調べるために西部に行き、そこで彼女のニュースを聞いて写真を手に入れた。ヨーロッパに向かってニューヨークを出発する直前に、彼は殺されたのだ。身体にはボロ服を着せられ、顔は識別つかないくらい破損されていた。ミスター・ブラウンが彼の身代わりになった。彼はすぐにイギリスに向かった。本物のミスター・ハーシャイマーの友だちだの親しい人たちは彼が出帆する前に誰一人彼に会っていない――会っていたとしても、扮装も演技も完璧だったからたいして問題にはならなかっただろうと思う。それからは、彼を追いまわしている人たちと親しく手をにぎっているため、相手方の秘密は全部彼につつぬけだったわけだ。一度だけ彼も、も少しで破滅のうき目を見るところだった。ミセス・ヴァンデマイヤーが、彼の秘密を知ってたからだ。彼女に巨額の買収金が提供されるってことは、彼の計画にはなかったことなんだ。幸いに、ミス・タッペンスが予定変更したからよかったものの、そうでなかったらわれわれがあのアパートに行ったころには、彼女はとっくに手の届かない所に逃げてしまったはずだ。しかし彼女はわれわれの手につかまった、ミスター・ブラウンの正体がばれそうになった。そこで彼は、自分の仮の姿のおかげで嫌疑をのがれることだけはできるだろうという信念の上に立って、最後の手段をとったのだ。九十九パーセント成功した――が、完全とまではいかなかった」
「あたし、信じられませんわ」とジェーンがつぶやいた。「あの人とてもいい人に見えますもの」
「ほんとうのジュリアス・ハーシャイマーはよい人だったのだ! ただミスター・ブラウンは比類のない役者だからね。ミス・タッペンスに聞いてごらん、彼女だって怪しいと思ったに違いないから」
ジェーンはだまってタッペンスを見た。タッペンスはうなずいた。
「あたし言いたくなかったのよ。ジェーン。あなたの心を傷つけるだろうと思ったから。それに、第一、あたし確信がもてなかったの。いまでも、もしほんとにあの人がミスター・ブラウンだったら、どうしてあたしたちを救い出してくれたか、理解できないわ」
「あんたたちを救い出してくれたのはジュリアス・ハーシャイマーだったのかね?」
タッペンスはジェームズ卿にその晩のスリルいっぱいの出来事を話して聞かせ、最後に、「でも、なぜだかあたしにはわからないわ!」とむすんだ。
「わからない? わたしにはわかる。ミスター・ベレスフォードもわかったらしいな、そういう行動をとったのなら、最後の手段として彼らはミス・ジェーン・フィンを逃がすことにしたのだ――それも、それが策略だということをミス・フィンに気づかれないような方法で彼女を逃がさなければならない。ミスター・ベレスフォードがあの近くにいることは、彼らもちゃんと承知していた。それで、きっとあんたたちと連絡するだろうと思っていた。いずれ時が来たら、彼が邪魔をしないように、なんとか処分するつもりだった。そしてジュリアス・ハーシャイマーが、さっそうとあらわれて、メロドラマ的にあんたたちを救い出す。弾丸が飛び交う――しかし、誰にも当たらない。そのあとどうなったと思う? まっすぐソホーの家に向かって、書類を見つけ出す。ミス・フィンはたぶんそれを従兄の手に委託する。あるいはもし、彼が一人で捜したとしたら、隠し場所がもうほかの人の手で荒らされていたというふりをするかもしれない。とにかく事態をうまく処理する方法はいくらでもある。結果は全部同じだ。わたしの考えじゃ、あんたがた二人には何か事故でも起こるようにはからわれるんじゃないかな? 二人ともつごうの悪いことを少し知りすぎてるからね。というのがあら筋だな。正直な話、わたしはどうやら油断していたようだ。しかし、誰かさんはちゃんと心得ていたようだ」
「トミー」とタッペンスが小声で言う。
「そうだ。彼を処分する時が来た時、彼のほうで抜け目なく立ちまわったのはあんたの話ではっきりわかった。とは言うものの彼のこと、まだまだ安心できないな」
「どうして?」
「なぜって、ジュリアス・ハーシャイマーはミスター・ブラウンだ」ジェームズ卿は無感情な調子で言う。「そのミスター・ブラウンをおさえておくには一人の男がピストルを持ってるだけじゃ充分じゃないからね」
タッペンスが少し青ざめた。
「あたしたち、どうしたらいいかしら?」
「われわれがソホーの家に行くまでは何もできないな。もしベレスフォードがいまでも優勢を保っているとすれば、心配することは何もない。しかし、そうでないとすれば、敵はわれわれを捜しに来るだろうし、そうなると、われわれとしても用意はちゃんとできている」彼はこう言って机の引き出しから軍隊用の拳銃を取り出し、オーバーのポケットに入れた。
「さて、支度《したく》ができたら、ミス・タッペンス、あんたにはここに残っていろと言ってもむだだろうな……」
「ええ、むだもいいとこですわ!」
「しかし、ミス・フィンにはここに残っていてもらったほうがいいと思うね。ここなら安全だし、緊張の連続でひどく疲れているようだから」
しかし、意外にもジェーンは首をふった。タッペンスはおどろいた。
「いいえ、あたしも出かけます。あの書類はあたしに委《まか》せられたものですわ。最後まで見届けなければなりません。それに気分もずっとよくなりましたから」
ジェームズ卿の車が玄関先にまわされた。短いドライブの間、タッペンスの心臓ははげしく鼓動した。一時、トミーのことを心配してしょんぼりしたが、いまではまさに意気軒昂《いきけんこう》。われわれはついに勝利を獲得するのだ!
車は広場の隅にとまった。三人は車をおりた。ジェームズ卿は、他の数人といっしょに任務についていた一人の私服刑事のところにいって、話しかけた。それから、娘たちのところに戻って来た。
「現在のところ誰も家にはいったものはいないそうだ。家の裏のほうも見張られているから、その点間違いないと言ってた。われわれがはいったあとで、はいろうとするものがいたら、誰でもその場で逮捕することになっている。それじゃ中にはいろう」
警官の一人が鍵を持って来た。警官たちは、みんなジェームズ卿をよく知っていた。彼らはまたタッペンスにも敬意を表するように指令を受けていた。ただ知られていないのは三人目のジェーン・フィンだけだった。三人は家のなかにはいり、ドアを引っ張って閉め、ゆっくりとがたがたの階段を上っていった。上りつめるとぼろぼろのカーテンがかかっていた。トミーがかくれていた例の凹所を蔽っているカーテンである。タッペンスは前にアネットとしてのジェーンから話を聞いていた。それでこのぼろぼろのビロード・カーテンを興味深く眺めた。眺めているうちにも、そのカーテンがかすかに動くのをたしかに見たような気がした。その背後に、誰かがかくれているような感じである。その幻覚はあまりにも強く、人間の身体の輪郭さえ見えたと思うほどだった……ひょっとしたら、ミスター・ブラウンが……ジュリアスが……待ちかまえているのでは……
もちろんそんなことは不可能だ! と思いながらも、彼女はあとへ戻って、カーテンを横に引き、それをたしかめたい衝動に駆られた……。
三人は監禁室にはいって行く。ここは誰もかくれる場所ではないだろう、とタッペンスは安堵の溜息をついた。そして自分を腹立たしげにたしなめた。ばかげた想像におびえたりなんかしちゃだめじゃないの……だがミスター・ブラウンがこの家にいるという妙な気持は執拗に彼女をおそってくる……おや! 今の音は何? 階段を忍び足でのぼる足音? この家には誰かがいる! ばかな! 彼女は今にもヒステリーが起こるんじゃないかと思った。
ジェーンはまっすぐマルグリートの絵のかかっている所に行った。しっかりした手つきで額をおろした。ほこりが分厚く積もり、額と壁の間にはクモの巣がいっぱい垂れ下がっていた。ジェームズ卿は、彼女にポケット・ナイフを渡した。彼女はそれで額の裏側の茶色の紙をひきはがした……雑誌の広告ページが落ちた。ジェーンはそれをひろって、ページをひろげ中から二枚のうすい紙を取り出した。一面に字が書いてあった。
今度は偽物ではない! ほんものだ!
「とうとう手に入れたんだわ!」とタッペンスが言う。
感情のたかまりで息もつけない瞬間だった。一分前のかすかな軋《きし》み音、想像の音はすっかり忘れてしまっていた。三人の目はただジェーンの持っている紙片のみに釘づけにされていた。
ジェームズ卿が書類を取って注意深く目を通した。
「そうか」彼は静かに言う。「これが運命の条約草案の書類か!」
「あたしたち成功したんだわ」とタッペンスが言う。彼女の声には感激の気持と、まだとても信じられないといった疑念とが入りまじっていた。
ジェームズ卿は彼女の言葉をくりかえして、書類をていねいにたたみ、財布の中に入れた。それからきたならしい部屋を見まわした。
「なるほど、ここにわれわれの若い友人が長い間幽閉されてたというわけか。まったく無気味な部屋だ。窓がないのに気づいたかね? それから、ドアが分厚くできていて、隙間が全然ないってことも。ここで起こったことは外の世界に少しも洩れないね」
タッペンスは身ぶるいした。彼の言葉は、彼女の心の中に漠然とした警戒心を起こさせた。家の中に誰かがかくれているとしたらどうなるだろう? あのドアに外から横木でもあてて、ネズミ捕り器にかかったネズミみたいにあたしたちを殺してしまうこともできるのだ。そのあとすぐに自分の考えのばかばかしさに気がついた。家は警官に囲まれているではないか? もし、あたしたちが現われなかったら、なんのためらいもなく家に押し入り徹底的に捜査するに違いない。彼女は自分のばかさかげんを笑ってふと目を上げると、サー・ジェームズがじっと彼女を眺めているのにぎくりとした。
「そうだね。ミス・タッペンス。あんたは危険を感じている。わしも感じている。ミス・フィンも感じているね」
「ええ」とジェーンが認める。「ばかげているようですけど……でも、どうしてもそんな気がするんです」
ジェームズ卿は再びうなずいた。
「あんたは――わたしたちみんなそうだが――ミスター・ブラウンの存在を感じているね。そうだ」――タッペンスがちょっと身を動かした――「疑念の余地はない――ミスター・ブラウンはたしかにここにいる……」
「この家に?」
「いや、この部屋に……わからないかね? このわたしがミスター・ブラウンだ……」
唖然とした二人は、とても信じられないといった目つきで彼を凝視した。彼の顔のしわそのものが変わっていた。二人の前に立っている人間は、全然別な人間だった。残忍な微笑がゆっくりと彼の顔にあらわれた。
「きみたちは二人とも、生きてこの部屋を出て行くことはできないよ! きみはいまさき、われわれは成功したと言った。しかし、成功したのはこの|わし《ヽヽ》だ。書類はわしの物だ」タッペンスを眺めながら彼の微笑はだんだん大きくなった。「どういう結末に終わるか話してあげようか? おそかれ早かれ警官たちが、この家をこわしてはいって来るだろう。そしてかれらはミスター・ブラウンの犠牲者を三人見つける。三人だよ、二人じゃないよ、わかるかね? しかし、幸いにも三人目は死なない、傷を負うだけだ。そしてどういうふうに襲われたか細かく話すことができる! 書類かね? 書類はミスター・ブラウンにうばわれたことになるさ。だから、誰もジェームズ・ピール・エジャトン卿のポケットをさぐるような人間はいないわけだ!」
彼はジェーンのほうを向いた。
「きみはわしをうまくだましおおせた。それはこのわしも認める。しかし、もう二度とだますことはできないのだ」
彼のうしろでかすかな音がした。しかし、自分の成功に酔っている彼はべつにふり向きもしなかった。
「冒険青年に王手といくぞ」彼はゆっくりと拳銃を上げた。
しかし、拳銃を上げた彼の手は背後から、がっしりと鉄のような握力でつかまれた。拳銃が手からもぎ取られ、ジュリアス・ハーシャイマーの声がものうげに聞こえてきた。
「現行犯だな! 証拠物件もあんたの身体にある」
血がさっとジェームズ卿の顔にのぼった。しかし、彼の自制力はすばらしいものだった。彼は彼を捕えた二人の顔を順々に眺めた。トミーのほうを眺める時間のほうが長かった。
「おまえか」彼は息を殺して言う。「まさかおまえとは! このわしがおまえを見損うなんて!」
彼がべつに抵抗するようすも見せないので、彼をおさえている二人の手が、ちょっとゆるんだ。そのすきに電光のような速さで、彼は左手にはめていた印鑑つき指環《シグネット・リング》をさっと唇にもっていった。
「|Ave Caesar《アヴェ・カエザル》! |te morituri salutant《テ・モリテュリ・サルュータント》」〔皇帝万歳! われら死せんとする者君に礼す〕彼はなおもトミーを見ながらこう言った。
それから彼の顔の表情が変わった。長くふるえる発作とともに、彼は前方にくず折れた。青酸カリの匂いがあたりに漂った。
二七 サヴォイ・ホテルの夕食会
三十日の晩、数人の友人たちのために開かれたミスター・ジュリアス・ハーシャイマーの夕食会は、関係業者の間で長く噂の種になるに違いない豪奢なものだった。開かれたのは個室で、ミスター・ハーシャイマーの命令は簡単、かつ、一方的だった。彼は白紙委任を与えた――そして百万長者が白紙委任を与えれば、たいていそれ相当なものが得られるのである!
季節はずれの珍味がすべて整えられた。ウェイターたちは古い最良の酒を、大切そうに持ち運んだ。花の装飾は四季をいつわり、果物は五月のものと十一月のものが奇跡的にも隣あわせに並べられた。客の数は少なかったが、えり抜きの人たちばかり。アメリカ大使、ミスター・カーター、彼は自分の一存ですまないけど古い友人を招待させてもらいたいと、ウィリアム・ベレスフォード卿を連れて来た。それから、カウリー牧師、ドクター・ホール、二人の若い冒険家ミス・プリューデンス・カウリーとミスター・トーマス・ベレスフォード、最後にこのパーティの花形であり主賓であるミス・ジェーン・フィン。
ジェーンの晴れ姿を最高のものにするためジュリアスは金に糸目をつけなかった。タッペンスとジェーンは同じアパートに住んでいたが、その日聞き馴《な》れないノックの音を聞きつけてタッペンスがドアをあけるとジュリアスが立っていた。手に小切手を持っている。
「あのね、タッペンス。お願いがあるんだけどね。これでね、ジェーンの身なりをととのえてくれないかな。今晩のパーティ用のね。きみたちもみんなサヴォイでいっしょに夕食してもらいたいんだ。いい? けちけちしないでね。わかる?」
「ああ、いいとも」とタッペンスは彼の口ぶりを真似《まね》て、「きっと楽しい夕食会になるわねえ。ジェーンを飾りたてるのも楽しみだわ。あんなきれいな人見たことない」
「まったくだ!」とミスター・ハーシャイマーは熱っぽい声で言う。
その熱っぽさを感じて、タッペンスはちょっと目をぱちぱちとさせた。
「そりゃそうとジュリアス」彼女は急にまじめくさった調子で言う。「あたしまだあなたに返事さしあげなかったわねえ」
「返事?」とジュリアス。彼の顔が青ざめた。
「ほら、あなた、あたしに求婚なさったでしょ?」タッペンスは目を伏せ、まるでヴィクトリア時代初期のヒロインでもやりそうな仕草をして、たどたどしく話し出した。「そして、絶対にノーとは言わせないとかなんとか――おっしゃったでしょ? あたし、よく考えたんですけど……」
「それで?」ジュリアスの額に汗がふき出してきた。
タッペンスは突然親しげな態度に変わって、
「あんたもばかね! いったいなんであんなこと言い出したの? あの時あたしにはちゃんとわかったのよ、あなたがあたしのことを|二ペンス《タッペンス》ほどにも思っちゃいないってこと!」
「そんなことないさ。あの時には、――いや、今でも――おれは――きみに対して、最高の評価と尊敬と――崇拝の気持を……」
「ふうむ」とタッペンス、「そういうのはねえ、も一つ別の気持が出てきたらすぐにふっ飛んでしまう気持なのよ! そうでしょ、ね?」
「きみのいうことよくわかんないけど」ジュリアスは固くなって言う。しかし、その顔には燃えるような血の気がさしてきた。
「なに言ってんのよ!」タッペンスは大声で笑って、ドアを閉め、それからまた少し開いて、今度はしかつめらしく、「精神的には、あたし、だまされたと見なすわよ、永久に」とつけ加えた。
「なんだったの?」タッペンスがジェーンの所に戻るとジェーンがこうたずねた。
「ジュリアスよ」
「なんの用事で?」
「ほんとはあなたに会いに来たんだと思うけど、あたし会わせるつもりなかったわ。あなたが今晩、栄光の絶頂にあるソロモン王みたいにみんなの前に君臨するまでは会わせないのよ。さあ、いらっしゃい! 買物よ!」
あれほど取沙汰されていた「労働デー」の二十九日も、大部分の人にとっては、たいして他の日と変わりはなかった。ハイド・パークやトラファルガー広場で演説があった。「あかはた」を歌ってだらだらと通りを進んで行くデモ行進も、何かあてどのない感じだった。ゼネ・ストを暗示し、テロ行為の組織化を報道した新聞はすごすごと頭をひっこめた。これらの新聞のうち、かなり大胆で抜け目のない新聞は、われわれの助言に従って治安が維持されたのだというふうに論じた。日曜新聞の紙上に、著名な王室弁護士ジェームズ・ピール・エジャトン卿の急死が報じられた。月曜の紙上には、彼の経歴功績を述べた追悼《ついとう》記事が掲載された。しかし、彼の死に関する真理は全然公表されなかった。
トミーの抱いていた事態の予測は正しかった。やはりワンマン・ショーだったのである。頭首を失った組織はめちゃめちゃに崩壊してしまった。クラメニンは日曜の朝早くイギリスを去って急遽《きゅうきょ》ロシアに帰国した。アストレイ・プライヤーズにいた一味は、あわてふためいて逃亡し、処分するひまもなくあとに残された書類は、彼らの身を決定的に危くするようなものばかりだった。この陰謀の証拠書類と、死んだ弁護士のポケットから発見された日記、この日記には全計画の概要が相当くわしく記されていたが、これらのものを手に入れた政府は、じきに緊急会議を召集した。労働党の指導者たちは自分たちがこれら過激派の道具に使われていたことをいやでも認めざるをえなくなり、ここである種の妥協が政府側から提出され、労働党はこれを進んで受諾した。戦争ではなく、平和が樹立されたのである。
しかし、内閣は、いかにわずかの差で完全な破滅からのがれたかを、大いに痛感した。ミスター・カーターの頭に強く焼きつけられたのは、その前夜ソホーで起こったあの異様な場面だった。
彼は、あのよごれきった部屋にはいって、生涯の支えと思っていたあの偉大な人間の死を見た――自分自身に裏切られたような気持だった。彼は死者の財布からあのいまわしい書類を取り出し、その場で、他の三人の面前で、それを焼いて一つまみの灰にしてしまった。イギリスは救われた!
そして今三十日の晩、サヴォイ・ホテルの個室で、ミスター・ジュリアス・P・ハーシャイマーは来客を迎えている。
一番最初にミスター・カーターが現われた。彼といっしょに怒りっぽい顔をした老紳士がはいって来た。彼の顔を見て、トミーは髪の毛の根本までまっかにした。彼は進み出た。
「ほう!」老紳士は、卒中患者のような目つきで彼を観察しながら言った。「おまえがわしの甥《おい》か? 見ばえのする男じゃないな。しかし、りっぱな仕事をやったとか聞いたが。なんのかのいっても、おまえの母親の教育も悪くなかったと見える。昔のことは昔のことと水に流そうじゃないか、え? おまえはわしの相続者だ。将来はちゃんと手当も払うつもりだ。それから、チャーマーズ・パークもこれからはおまえの家だと思ってくれ」
「すみません。感謝します」
「それから、さんざん噂を聞かされた例の若い女性というのはどこにいるかね?」
トミーは、タッペンスを紹介した。
「ほう!」ウィリアム卿は彼女をじろりと見て、「当世の女の子は、わしたちの若いころの女の子とはまるっきりちがうな」
「そんなことありませんわ」とタッペンス。「着るものは違ってるかもしれませんけど中身は同じですわ」
「なるほど、そうかもしれん。あのころにもおてんばはいたし――今でもおてんばはいる」
「そうですわ」とタッペンス。「あたしなんかたいへんなおてんばですわ」
「あんたの言うとおりだ」老紳士はくすくすと笑って、大いに気をよくし、彼女の耳をつねった。たいていの若い女は彼のことを「熊爺」と呼んでこわがっていたが、タッペンスの無遠慮さは、この年とった女ぎらいを大いに喜ばせたのである。
そのあとおどおどした牧師がやって来た。他の来客たちを見てますますおどおどし、自分の娘がりっぱなことをしたと聞かされて喜び、しかし、ときおり心配そうに彼女のほうを見やるのであった。だが、タッペンスは誰が見ても感心するような振舞いをした。脚を組むことをできるだけ差し控え、口をつつしみ、根気強く煙草をことわった。
次にドクター・ホールが現われ、そのあと、アメリカ大使がはいって来た。
「じゃそろそろ席につきましょうか?」客をそれぞれに全部紹介したあと、ジュリアスが言った。
「タッペンス、きみ、ここに……」
彼は手で主賓の席をさした。
「あら、――それはジェーンの席よ。五年もの長い間どんなに苦労し、がまんしてきたかを考えると、彼女が今晩の女王にえらばれるのは当然よ」
ジュリアスはタッペンスに感謝の視線を投げた。ジェーンが恥ずかしそうに指定された席に進んだ。いつも美しいジェーンではあったが、今晩の彼女は一分の隙《すき》もなく飾られて水際だった美しさを見せていた。タッペンスはその役目をみごとに遂行していたのである。一流のドレス・メーカーによって作られたモデル・ガウンは「タイガー・リリー」と名づけられていて、黄金と赤と褐色、その中から浮き出したぬけるように白いほっそりとした首、彼女の美しい顔は、豊かな青銅《ブロンズ》色の髪に飾られていた。彼女は、同室者一同の賛美の視線を浴びながら席についた。
やがて賑やかな夕食がはじまり、しばらくして、みんなはいっせいに、トミーに向かって、事のいきさつをくわしく話してくれと懇望《こんもう》した。
「きみは万事自分一人の胸にたたんでちっとも話してくれなかったじゃないか」とジュリアスが詰《なじ》った。「おれにはアルゼンチンに行くだなんてうそをついて――もちろん、それにはそれなりの理由があっただろうけど。きみもタッペンスもおれをミスター・ブラウンじゃないかとうたぐったこと、あれ、実に愉快だったな?」
「あれはべつに二人が考えついたことじゃないんだよ」とミスター・カーターが真顔で言う。「今はもうこの世を去ったあの偉大な犯罪芸術家が思いついて、入念に調剤《ヽヽ》した毒薬だったのだ。ニューヨークのある新聞記事を見てこの計画を思いついた彼は、これを利用して、巧妙なクモの巣を張り、も少しであんたの命取りになるところだったんだ」
「ぼくはどうもあの男が好きになれなかったんですよ」とジュリアス。「はじめっからあの男はどうもおかしいと感じてましたし、うまいところでミセス・ヴァンデマイヤーの口をふさいでしまったのはきっと彼だろうと思ってました。しかし、トミーを殺せという命令が日曜日の午後の彼との面会のすぐあとに出されたということがわかってはじめて、ぼくは、彼こそ一味の大物に違いないって予感を抱きはじめたんです」
「あたしは全然あの人を怪しみませんでしたわ」とタッペンスが残念そうに言う。「あたし、いつも、トミーよりははるかに頭がいいと思っていましたのに――今度は、ほんとにすごい差で、トミーに勝利をうばわれてしまいましたわ」
ジュリアスはうなずいた。
「今度の事件じゃ、まったく、トミーにしてやられた感じだ。きみはそこで魚みたいに黙りこんで、赤い顔してるばかりが能じゃないぞ、さあみんなにくわしく話してくれ。そうでしょ? みなさん?」
「そうだ! そうだ!」
「べつにこれと言って話すことはないんです」とトミーはひどくきまり悪そうに言う。「ぼくは実際ばかでした――少なくとも、アネットのあの写真を見て、彼女がジェーン・フィンであることを知るまでは、実にばかだったと思います。あの写真を見てから、彼女が何度も何度もマルグリートと言ってたのを思い出し――それから、あの絵のことを思い出して――やっとわかりかけたんです。もちろん、そこで、ぼくは、自分がどこで間違ってたかを見つけるため、事件の全部を考え直してみました」
「それで?」ミスター・カーターはトミーがまたもやだまりこんでしまいそうなのを見て、話を促した。
「ジュリアスがミセス・ヴァンデマイヤーのことを話してくれた時、ぼくはいろいろ考えました。あの話をそのまま受け入れると、彼女を殺したのはジュリアスか、ジェームズ卿か、ということになります。しかし、どちらだと言われるとぼくにもわかりませんでした。しかし、ジュリアスの引き出しの中で写真を見つけてからは、ブラウン警部が写真を持っていったという話を聞いていただけに、ぼくはジュリアスを疑わざるをえなかったわけです。と同時に偽物のジェーン・フィンを見つけたのがジェームズ卿であったことを思い出しました。結局、ぼくはどっちにしたらいいかわからなくなって――とにかく、どちらだときめないほうがいいだろうってことにしたんです。万一、ジュリアスがミスター・ブラウンである時の用心にと、ぼくはジュリアスに手紙を書いて、アルゼンチンに行くと伝え、それがうそでない証拠にと、この仕事を提供してくれたジェームズ卿の手紙を、机のそばに落としておきました。それから、ぼくはミスター・カーターに手紙を書き、ジェームズ卿に電話しました。いずれにしてもジェームズ卿にすべてを打ち明けて彼の信用を得たほうが得策だろうと思ったからです。ただ書類がどこにあるかってことだけはだまっておきました。しかし、タッペンスとアネットの居場所をつきとめるのに力を貸してくれた彼のやり方を見て彼に対するぼくの警戒心はほとんどなくなってしまいました。が、完全になくなったわけじゃないんです。まだ二人のうちの一人という考えをそのまま抱いていました。そのあとタッペンスからもらった偽の手紙――あれですべてがはっきりわかったのです!」
「どうしてわかった?」
トミーはポケットから問題の手紙を取り出し、テーブルの人たちにまわした。
「彼女の筆跡には間違いないけど、彼女の出した手紙じゃないことはすぐわかったんです。署名でわかります。彼女は自分の名を絶対にTwopenceとはつづりません〔彼女はTuppenceと発音どおりにつづる〕。彼女の手紙を見たことのない人だとたいていこう書くでしょう。ジュリアスは彼女の手紙を見たことあります。一度ぼくに見せてくれましたから――しかし、ジェームズ卿は見てないはずです。こう考えるとあとは簡単でした。ぼくはアルバートを早飛脚《はやびきゃく》に仕立ててミスター・カーターの所に行かせました。ぼく自身は、あそこを離れるふりをしてすぐにあと戻りしました。ジュリアスが車で乗りこんで来た時、これはミスター・ブラウンの計画じゃないなと感じました。――そうするとめんどうなことが起こるかもしれない。それにジェームズ卿をいわば現行犯で捕えない限り、ミスター・カーターも、ぼくの言葉だけじゃとても信じてはくれないだろうと……」
「そのとおり」とミスター・カーターは悲しげな顔をして口をはさんだ。
「だからぼくは女の子たちをジェームズ卿の所に送ったんです。いずれはソホーの家に行くに違いないと思ったからです。ジュリアスをピストルでおどしたのは、そうすればタッペンスが一部始終をジェームズ卿に話すだろうし、彼はわれわれのことを心配しなくなるだろう、というわけなんです。女の子たちの姿が見えなくなると、すぐに、ぼくは、ジュリアスに全速力でロンドンに向かうように頼みました。途中、話を全部彼に打ち明けました。ソホーの家に着いた時には、時間は充分余っていました。ミスター・カーターには家の外で会いました。ぼくはミスター・カーターと打ち合わせをしておいて、みんなで家の中にはいり、カーテンのうしろの小部屋にかくれていました。警官たちは、もし誰か来たかとたずねられたら、誰も家の中にははいってないと答えるように、という命令を受けていたのです。話はそれだけです」
トミーはここでぷつんと口をつぐんだ。
しばらく沈黙がつづいた。
「それはそうと」とジュリアスが突然言い出した。「ジェーンの写真のこと、きみは誤解してるよ。おれの手から離れたことは事実なんだ。しかし、そのあとまた見つけ出したんだ」
「どこで?」とタッペンスが叫ぶ。
「ミセス・ヴァンデマイヤーの寝室の壁にあった小さな金庫の中で」
「あなたが何か見つけたのはあたしも知ってたわ」とタッペンスがとがめるように言う。「ほんとのこと言うと、あのことで、あたし、あなたを疑いだしたのよ。どうして言ってくれなかったの?」
「疑われるのもむりないな。ただ、おれは一度とられたんだから、今度は写真屋に一ダースぐらい複製をつくらせるまでは、誰にも持ってることを言うまいと思ったんだ」
「あたしたちはみんな何かをかくしてたのね」とタッペンスがしみじみと言う。「諜報の仕事してるとそういうふうになるんじゃないかしら!」
しばらく一座は静まりかえった。そのあと、ミスター・カーターはポケットから小さな見すぼらしい茶色の手帳を取り出して、
「ベレスフォードはさっき、現行犯でおさえなきゃこのわたしもジェームズ・ピール・エジャトン卿の罪を信じないだろうと言ってたけど、実際そうであって、ここにあるこの手帳の内容を読むまではまだ、今度のおどろくべき事実を百パーセントには信じられない気持だったのです。この手帳はスコットランド・ヤードに保管されるはずで、一般には公開されないことになっています。ジェームズ卿と法廷との長年の関係があるから、公表は望ましくないというわけです。しかし、真実をご承知のみなさんのために、わたしは内容の一部、つまり、この偉大な人間の異常な精神状態を説明できそうな部分だけ読んでみたいと思います」
彼は手帳を開き、うすいページをめくった。
「……この手帳を持って歩くということはまさに気違い沙汰。わたしもよく承知している。わたしの罪を立証する書類となるからだ。しかし、わたしは危険にたじろぐような男ではない。それに、自己表現の欲求がひじょうに強くなった……。この手帳がわたしの手からうばわれるのは、わたしの死んだ時だけだ……
……若い時から、わたしは自分に非凡な才能があることを認識していた。おのれの可能性を低く評価するのはばかだけだ。わたしの頭脳の力は、平均的人間をはるかに凌《しの》ぐものである。生まれたその日から成功を約束された人間であることを承知していた。わたしの容姿だけが期待はずれだった。地味で、無意味で……なんの特徴もない……
……少年のころ、有名な殺人事件公判を傍聴した。被告側弁護士の力と雄弁に深い印象を受けた。その時はじめて、この分野でわたしの才能を生かそうという考えを抱いた。……その時わたしは被告席にいる犯罪者を観察した……愚鈍な男だった――とても信じられないくらいばかな男だった……あの弁護士の雄弁をもってしてもとうてい救えそうもないくらいばかだった……わたしはこの男にはかり知れない軽蔑《けいべつ》感を抱いた。……その時ふと心に浮かんだのは犯罪者の水準がひじょうに低いということである。浮浪者、落伍者、文明社会の屑、それが流れ流れて犯罪者になったのである……頭のいい人間が、このおどろくべき機会をいままで認識しなかったのが不思議なくらい。……わたしはこの思いつきをもてあそんだ……なんというすばらしい分野であろう……なんという無限の可能性であろう! わたしは脳髄《のうずい》のはげしい回転を感じた……
……わたしは犯罪と犯罪者に関する有名書を全部読んでみた。これらの書物はすべてわたしの意見を確証してくれた。堕落、病気――遠見《とおみ》のきく人間によるこの分野での意識的活動は一つもない。そこで考えた。仮にわたしの野心が最高の実現を見たとする――たとえば法廷の弁護士となる、そしてその一流にのし上がる、政界にはいる、そしてイギリスの首相になるとしても、それがいったい何になる? それでほんとうの権力が握れるか? 曲がり角を曲がるたびに同僚に邪魔され、民主体制に足かせをはめられる。そしてわたしはその民主体制の傀儡《かいらい》的頭首にすぎないのだ! いや――わたしの夢見る権力は絶対権力! 専制君主! 独裁者! ただし、そのような権力は法律の外で活動することによってのみ得られる。人間性の弱みにつけこみ、国家の弱みにつけこみ――人をあつめて巨大な組織をつくりこれを統御する、そしてついには現存の秩序及び規則を破壊する! この考えはわたしを陶然とさせた……
……二重生活をしなければならないことに気づいた。わたしのような人間はいやでも人目を惹《ひ》く。……わたしのほんとうの活動をカムフラージュするために何かの職業で一流の人間にならねばならない……それからまた、個性を作らねばならぬ。わたしは、有名な王室弁護士たちを手本として、わたし自身を作り上げた。彼らのさまざまな癖や魅力を再現した。もしわたしが俳優を職業にえらんでいたら、現代のいかなる俳優にも劣らない偉大な俳優になれただろうと思う。変装はしない――べたべたの化粧もしない――つけひげも要らない。個性を真似ればいいのだ! わたしはその個性を手袋のようにぴたりと身につけた。一度それを脱ぐと、わたしは自分自身に戻った、地味で、静かで、人目につかない、そこらによく見かけるタイプである。わたしは自分自身をミスター・ブラウンと呼んだ――ブラウンという名の人間は何千何万といる――わたしのような風采の男も何千何万といる……
……わたしは見せかけの職業で成功した。成功するのは当然である。他の職業でも成功するにきまってる。わたしのような人間は絶対に失敗などしない……
……わたしはナポレオンの伝記を読んだ。彼とわたしの間には多くの共通点がある。
……わたしは犯罪者の弁護人として法廷に立っている。人間は自分の同族を保護してやらねばならぬ……
……一度か二度、わたしは恐れを感じたことがある。一度目はイタリアでのことである。ディナー・パーティがあった。偉大な精神病医D教授がいた。精神異常が話題にのぼった。D教授は言う、『ひじょうに多数の人間が精神病にかかっている。誰もそれを知らない。彼ら自身もそれを知らない』その時、そう言いながら、教授はわたしを見たが、なぜ見たのかわたしにはわからない……いやな気持だった……
戦争はわたしを当惑させた……はじめ、わたしの計画を促進してくれると思った……ドイツ人はひじょうに能率的だ。彼らのスパイ組織もまた優れている。英国の町にはカーキ色の兵隊がいっぱい。からっぽの頭を持った若いばか者たち……が、どうしたことだ……彼らは戦争に勝った……わたしは少し当惑する……
……わたしの計画は順調に進む……娘が一人飛びこんできた……彼女がほんとうに何か知っているとは思わない……しかし、エストニア商会は放棄するほか仕方がない……いまは危険をおかす時ではない……
……万事順調。記憶喪失はこちらの神経をいらいらさせる。芝居であるはずがない。若い娘がこのわたしをだますことなど絶対にできないからだ!……
……二十九日……あとわずかだ……」
ミスター・カーターはここでちょっと休んだ。
「計画されたクーデーターの詳細は読まないことにします。しかし、ここにきみたち三人のことについて短い記入が二つほどあるから読んで見よう。実際に起こったことと照らし合わせてみるとなかなか興味ある観察だ。
……わたしは、あの娘に自分のほうから来るように仕向けておいたから、彼女の警戒心を取り除くことができた。しかし、彼女には直感的なひらめきがある。うっかりすると危険だ……彼女をなんとか処分しなければ……あのアメリカ人には手を焼く……彼はわたしを疑っているし、わたしを嫌っている。しかし、彼が知っているはずはない。わたしの城は難攻不落だ……ときどきわたしは、も一人の男を過小評価しているような危惧を抱く。頭のいい男ではないが事実に対しては彼の目をくらませることは容易ではない……」
ミスター・カーターは手帳を閉じた。
「偉大な男だった」と彼は言う。「天才か、気違いか、誰にも断言できないことだ」
一座はしいんとしずまりかえった。
それからミスター・カーターが立ち上がった。
「乾杯しましょう。その名にふさわしくみごとな成果を上げた共同企業者《ヽヽヽヽヽ》に乾杯!」
みんなの唱和とともにグラスが乾された。
「まだわれわれの聞きたいことが残っています」とミスター・カーターは話をつづける。彼はアメリカ大使のほうを向いて、「わたしは、いまあなたの代言もしているんですよ。いまのところミス・タッペンスだけしか聞いていない話、つまり、ミス・ジェーン・フィンのお話をぜひぜひ聞かせてもらいたいと思います。――しかし、お話を聞く前に、みなさん、彼女の健康を祈って乾杯しましょう。二つの偉大なる国が心から感謝しなければならない女性、アメリカ女性の中でももっとも勇敢な女性の一人であるミス・ジェーン・フィンの健康を祈って……乾杯!」
二八 そして、そのあと
「なかなかいい乾杯の辞だったな、ジェーン」ミスター・ハーシャイマーが言う。彼と従妹のジェーンは、ロールス・ロイスでリッツに帰る途中だった。
「共同企業者のための乾杯?」
「いや――きみのための乾杯さ。あれだけのことをやりとおせる女の子はこの世界に二人といないね」
ジェーンは首を振った。
「あたし、べつにすばらしいとは思わないわ。心の中では、ただ疲れて、淋しいだけ――早く自分の国に帰りたくて」
「その話が出たから言うけど、大使がきみに大使夫人の気持を伝えてたね。すぐに大使館のあの人たちの所に来ていっしょに暮らして欲しいって。それもいいと思うけど、おれ、別のプランがあるんだ。ジェーン――おれと結婚して欲しいんだ。おっかながってこの場でノーだなんて言わないでくれよ。もちろん、きみとしちゃ、いますぐにおれを愛するなんてことできやしないよ。そんなこと不可能だからね。しかしおれは、きみの写真を見た瞬間から、きみを愛しちゃったし――こうしてきみに会ってからは、もうめちゃめちゃに愛してるんだ! きみがおれと結婚してくれさえすれば、おれはなんにも文句言わない――気持が定まるまでゆっくり時間とってくれていいんだ。ひょっとしたらどうしてもおれを愛せないかもしれないけど、そうなれば、おれはいつでもきみを自由の身にしてあげる。ただおれは、きみを守りきみを世話する権利が欲しいんだ」
「あたしもそれが望みなの」と、ジェーンはうっとりした声で言う。「あたしによくしてくれる人の世話をしてあげたいの。あたしがどんなに淋しい気持でいるか、あなたはとてもわからないわ!」
「もちろんわかるさ。じゃきまった! あすの朝大司教に会って特別の許可をもらってくる」
「まあ、ジュリアス!」
「べつにきみをせかせるわけじゃないけどね、ジェーン、でも、ぽかんと待ってても意味ないだろ? こわがるなよ――そう急におれを愛してくれとは言わないから」
しかし、小さな手が彼の手の中にすべりこんできた。
「あたしもうとっくにあなたを愛してるわ、ジュリアス。あの車の中で弾丸があなたの頬をかすめたあの時、あたしあなたを愛したのよ」
五分後、ジェーン・フィンが小声でささやいた。
「あたし、ロンドンの町あまりよく知らないけど、サヴォイからリッツまでこんなに遠いの?」
「どの道を通って行くかによりけりだ」とジュリアスがぬけぬけと言う。「おれたち、リージェント・パーク経由で行ってるから」
「まあ、ジュリアス――運転手さんが変に思うじゃないの?」
「あれだけ給料払ってりゃ、自分勝手なこと考えちゃいけないくらいの分別は出てくるはずだよ。だってさ、ジェーン、サヴォイで夕食会開いたのは、きみを送って行けるからなんだよ。ほかに理由はなかったんだ。きみとどうしたら二人っきりになれるか、いままでさんざん悩んだんだぜ。きみとタッペンス、まるでシャムの双生児みたいにくっついてるんだものな。もう一日あんな状態がつづいたら、おれもベレスフォードも気違いになったと思うね!」
「じゃ、あの人――?」
「もちろんそうさ。首ったけだ」
「そうだと思ったわ」ジェーンが何か考えながら言う。
「どうしてわかった?」
「タッペンスが口に出さなかったいろんなことから察して……」
「わからんね、きみの言うこと」
しかし、ジェーンはただ笑うだけだった。
一方、若い冒険者たちは、タクシーの中で、しかつめらしく、背をのばして、居心地悪そうに坐っていた。タクシーは、これまた、独創性のないことだが、リージェント・パーク経由でリッツに向かっていた。
ひどい気まずさが二人の間に居すわったような感じだった。何が起こったのかさっぱりわからないが、すべてが変わってしまった。二人は言葉を失い――麻痺状態にあった。昔の仲間意識はどこかへすっとんでしまっていた。
タッペンスは何を言っていいか、何一つ考え出せなかった。
トミーも同じように苦しんでいた。
まっすぐ前方を見つめ、おたがいの顔を見ないように一所懸命こらえた。
やっとのことでタッペンスが死物狂いの努力をした。
「わりに楽しかったわね?」
「まあね」
再び沈黙。
「ジュリアスっていい人だわ」タッペンスがも一度試みた。
トミーが突然電気をかけられたように活気づいた。
「きみはあいつと結婚するんじゃないぞ。聞こえたかい?」まるで専制君主のような言い方である。「ぼくが絶対に禁じる」
「あら!」とタッペンスがおとなしく言う。
「絶対にだめだ。わかったかい?」
「あの人、ほんとうにあたしと結婚する気持はないのよ――ただ親切心から求婚しただけなのよ」
「そんなことあるもんか!」とトミーがせせら笑った。
「ほんとよ。あの人、ジェーンに首ったけよ。いまごろは彼女に求婚してると思うわ」
「彼女なら彼にお似合いだ」とトミーは少しやわらいだ。
「あの娘《こ》ほんとにきれいな人、あんなきれいな人見たことないわ、そう思わなくって?」
「まあね」
「でもあなたはやっぱりお金のある女《ひと》のほうがいいのね」とタッペンスはとりすました顔で言う。
「ぼくは――冗談じゃない! タッペンス、きみだって知ってるじゃないか!」
「あたし、あなたの伯父さん大好きよ、トミー」タッペンスはあわてて話題をそらした。「そりゃそうと、あなたどうするつもり? ミスター・カーターのすすめをいれて政府の職につく? それともジュリアスの招待に応じて、アメリカの彼の牧場で、高給取りになる?」
「ぼくはこの老いぼれ船にしがみついているつもりだ、ハーシャイマーの好意はすごくありがたいけどね。しかし、ロンドンにいたほうが、きみもくつろげるんじゃないかな?」
「あら、あたしとなんの関係があるの?」
「あるさ」とトミーは語調を強める。
タッペンスは彼を横目でちらと眺め、
「お金のこともあるわね」と感慨深そうに言う。
「なんの金?」
「二人とも小切手一枚ずつもらえるのよ。ミスター・カーターがそう言ったわ」
「金額いくらか聞いたんだろ?」トミーが皮肉たっぷりにたずねる。
「もちろんよ」とタッペンスは勝ち誇ったように、「でも、あなたに話してあげないわ」
「タッペンス、きみはまったく呆れた女だ!」
「おもしろかったわねえ、トミー? もっともっと冒険があるといいんだけど」
「きみって貪欲《どんよく》そのものだ。ぼくは今のところ、冒険はもうたくさん」
「そうねえ、でも買物だって同じくらい楽しいわ」とタッペンスが夢見心地に言う。「古い家具だの、明るい色の絨緞《じゅうたん》だの、前衛的な絹のカーテンだの、磨き上げた食卓だの、クッションをいっぱいのせた寝椅子だの……」
「ちょっと待てよ。それ、どこに入れるんだ?」
「できれば家一軒借りて――でも高級アパートでもいいわ」
「誰の高級アパート?」
「あたしそれを言いたがらないと思ってんでしょ? でも、あたし、平気で言えてよ! もちろん、|あたしたち《ヽヽヽヽヽ》の高級アパート。どうお?」
「よくぞ言った!」トミーはこう叫んで、両腕をしっかりと彼女の身体にまわした。「きみにどうしてもそれを言わせたかったんだ。ぼくがなんとか感傷的になろうとつとめると、きみは必ず、残酷なくらい、それをおしつぶしてしまった。ぼくはどうしてもその仇をとりたかったんだ」
タッペンスは顔を彼の顔のほうに近づけた。タクシーはリージェント・パークの北側をまわっていった。
「あなた、まだ、ほんとうの求婚らしい求婚はしてなくってよ」とタッペンス。「少なくともあたしたちのおばあさんたちが求婚と称している求婚はしてないわ。でも、ジュリアスの求婚みたいなおそまつなの聞いたあとだから、あなたにもやめてもらったほうがいいみたい」
「どうせきみは、ぼくとの結婚から逃げようとしたって逃げられないんだから、そんなこと考えるだけでも野暮だよ」
「きっと楽しいわね!」と、タッペンスは答えた。「結婚っていろんなふうに言われてるじゃない? 安息所だとか、避難所だとか、戴冠式的栄光だとか、拘束状態だとか、ほかにもいろいろと。でも、あたしがどう考えてるか、知ってる?」
「どう考えてるんだい?」
「一つのスポーツよ!」
「それも、すごくすてきなスポーツだとね!」とトミーが言った。
[#改ページ]
◆秘密組織◆
アガサ・クリスティ/一ノ瀬直二訳
二〇〇六年五月十五日 Ver1