ゾティーク幻妖怪異譚
TALES OF ZOTHIQUE
クラーク・アシュトン・スミス Clark Ashton Smith
大瀧啓裕訳
-------------------------------------------------------
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)斜《はす》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)金|鍍金《めっき》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)|※[#「木+眉」、第3水準1-85-86]《まぐさ》
-------------------------------------------------------
[#挿絵(img/_Tales_of_Zothique_001.jpg)入る]
[#挿絵(img/_Tales_of_Zothique_002.jpg)入る]
[#ここから4字下げ]
目次
ゾティーク
降霊術師の帝国
拷問者の島
死体安置所の神
暗黒の魔像
エウウォラン王の航海
地下納骨所に巣を張るもの
墓の落とし子
ウルアの妖術
クセートゥラ
最後の象形文字
ナートの降霊術
プトゥームの黒人の大修道院長
イラロタの死
アドムファの庭園
蟹の支配者
モルテュッラ
言葉の魔力を駆使する吟遊詩人  大瀧啓裕
[#ここで字下げ終わり]
[#改丁]
ゾティーク幻妖怪異讃
[#改丁]
ゾティーク
[#改ページ]
[#ここから4字下げ]
ゾティークの影を踏み、
炭のごとく赤い太陽を斜《はす》に見た者は、
もとの土地にもどることはなく、
都市が崩れて黒い海の砂となり、
死せる神々が塩水を飲む、
後世の海岸にあらわれる。
巨鳥シームルグの嘴《くちばし》に破られて果実が汁を流す、
ゾティークの苑《その》を知る者は、
緑したたる世界の果実を賞味することがない。
憂いを帯びゆく歳月が日没を迎えるとき、
最果ての四阿《あずまや》にて、
不凋花《アマラントス》の酒を舐《な》めるように味わう。
ゾティークの奔放な娘を愛した者は、
もはや清らかな愛を求めることはなく、
恋人の口づけと吸血鬼の口寄せの区別もつけられない。
時間の最後の埋葬地から、
リリスの真紅の幽霊が、
悪意をもってなまめかしく身を起こすからである。
ゾティークのガレー船で航海し、
不思議な尖塔や山峰が聳《そび》えるのを目にした者は、
ふたたび妖術師の放つ台風にまみえ、
変貌した月や形のかわった星座のもと、
彼方で流れ落ちる大洋において、
舵取りの持場につかなければならない。
[#ここで字下げ終わり]
[#改丁]
降霊術師の帝国
[#改ページ]
ムマトゥムオルとソドスマの伝説は、往古の喜ばしい伝説が忘れ去られた、地球の末期に生じるであろう。これが語られるようになるまえに、数多《あまた》の時代が過ぎ去り、海の水がへって海底があらわれ、新たな大陸が生まれるであろう。おそらくそのころには、この伝説がわずかな者にとって、死に絶えんとする種族の冥《くら》い倦怠や忘却のほかには何もない、強い絶望をまぎらすことに役立つであろう。わたしは物語をゾティークで語られるように述べる。朦朧《もうろう》とした太陽と悲しい天のもとで、星たちが夕暮れのまえに恐ろしく輝いてあらわれる、最後の大陸ゾティークで語られるように。
T
ムマトゥムオルとソドスマは降霊術師であって、小さくなった海の彼方のティナラスで有害な術を実践するため、暗澹《あんたん》たるナートの島からやってきた。しかしティナラスではうまくいかなかった。その古さびた国では、死が聖なるものとみなされていたからである。墓のものは軽がるしく冒涜してはならず、降霊術によって死者を蘇らせることは忌むべきこととして禁じられていた。
かくしてムマトゥムオルとソドスマはつかのま留まった後、激怒した住民に追い立てられて、南の砂漠キンコルのほうに逃げ出さざるをえなかった。先の時代に疫病によって種族が絶滅し、いまや骨や木乃伊《ミイラ》しかない土地である。
二人が入りこんだ土地は、燠《おき》のような色をした巨大な太陽のもとで、病んで荒寥《こうりょう》と死に絶えていた。崩れゆく岩や幽寂《ゆうじゃく》とした砂のありさまは、なみの人間であれば、恐怖におののくようなものであった。二人の降霊術師は食糧も水もなしにその不毛の土地に追いやられたので、深刻な窮状にあったように思えるかもしれない。しかしソドスマとムマトゥムオルは内心はくそえみ、久しく望んでいた国に通じる道を進む征服者のごとき雰囲気をたたえつつ、キンコルへと着実に進んでいったのである。
かつてキンコルとティナラスを往来する旅人が利用した街道が、木々や草のない土地を抜け、干上がった川床を横切って、歩む者もいないまま伸びていた。ここで二人は生き物には出会わなかったが、まもなく馬と騎手の骸骨が完全な形で横たわっているのに行きあたった。生きているときに身につけていた豪華な馬具と衣装がなおも残っていた。するとムマトゥムオルとソドスマは、腐敗するものが一片たりとも残っていない哀れな骨のまえで立ち止り、凶まがしい笑みを浮かべあった。
「馬はそなたのものにしよう」ムマトゥムオルがいった。「わずかに年長なのだから、優先権がある。騎手は二人に仕えさせ、キンコルでわしらに忠誠を誓う最初の者になさしめよう」
そして二人は道端の灰のごとき砂に三重の円を描き、二人してその中央に立つと、忌わしい儀式を執りおこない、死んだものを安らかな無から蘇らせ、降霊術師の邪悪な意志にしたがうようになさしめた。そのあと、男と馬の鼻孔に魔法の粉を一つまみ振りかけた。白骨が悲しげに音を立て、横たわっていたところから身を起こし、主人に仕えるべく立ちあがった。
かくして二人のあいだで取り決めたように、ソドスマが骸骨の馬に乗って、宝石に飾りたてられた手綱を握り、凶まがしくも蒼白の馬に騎乗する死神を愚弄する一方、ムマトゥムオルは黒檀《こくたん》の杖に少し身をあずけながら、ソドスマのかたわらをとぼとぼと歩いた。男の骸骨は豪華な衣装をだらしなくはためかしながら、二人のあとに従僕のようにしたがった。
しばらくすると、灰色の荒野にまた馬と男の亡骸が見つかり、ジャッカルに襲われてはおらず、日にさらされて木乃伊のように萎《しな》びていた。二人はこれらも死から蘇らせて、ムマトゥムオルが萎びた馬にまたがった。二人の降霊術師は冒険を求めて遊歴する皇帝のように、屍《しかばね》と骸骨をしたがえて堂々と馬で進んだ。ほどなく他の人間や獣の骨や亡骸《なきがら》に出くわし、これらも同様のやりかたで蘇らせたので、キンコルを進むうちに行列が増えまさっていった。
街道を進んで、首都であったイェトゥリュレオムに近づいたとき、おびただしい墓や埋葬地が見つかった。久遠《くおん》の歳月を経てもなお乱されてはおらず、包帯で巻かれた木乃伊は死んでからほとんど萎びていなかった。降霊術師たちはこれらすべてを蘇らせて、命令にしたがわせるために地下埋葬所の闇から呼び出した。一部の者には砂漠での耕作と植えつけや、水位のさがった井戸からの汲みあげを命じ、他の者には木乃伊が生前おこなっていたような種々の仕事につかせた。久しくつづいた静寂が千々の活動の音や騒ぎによって破られ、職工の屍は織機の杼《ひ》を操り、農夫の死体は牛の死体のあとから鋤《すき》跡をたどった。
尋常ならざる旅と頻繁に繰り返す降霊に疲れきっていたが、ムマトゥムオルとソドスマはついに砂漠の丘から、不気味な日没の暗くなりゆく濁《にご》った赤い暮色のなかに、イェトゥリュレオムの聳《そび》える尖塔や壮麗な無傷の円蓋を目にした。
「立派な土地だな」ムマトゥムオルがいった。「そなたとわしとで分かちあい、死者をことごとく支配して、明日にはイェトゥリュレオムの皇帝として君臨しようぞ」
「ああ」ソドスマが応じた。「ここにはわしらに楯突く生者はおらんからな。墓より招喚した者たちは、行動するのも休息するのもわしらの指図によるのだから、謀叛《むほん》を起こすこともない」
かくして血のごとく赤い黄昏《たそがれ》が紫色を帯びて濃くなりまさるなか、彼らはイェトゥリュレオムに入り、聳える無明の大邸宅のあいだを馬に乗って進み、ニムボス朝の皇帝たちが二千年にわたってキンコルを統治した壮麗な無人の宮殿に、身の毛のよだつような従者たちとともに落ちついた。
降霊術師たちは埃まみれの黄金の廊下を進み、狡知な妖術によって縞瑪瑙《しまめのう》の空っぽのランプに火を点していき、同様のやりかたで過去より招来した王の料理を食した。従者の肉のない手によって、皇帝にふさわしい古《いにしえ》の葡萄酒が月長石の杯に注がれた。降霊術師二人は目もあやな絢爛《けんらん》たる豪華さにひたって、飲み、食い、浮かれ騒ぎ、イェトゥリュレオムの死者の復活は明日に延ばした。
二人は宮殿の豪奢《ごうしゃ》な寝台で眠りこみ、濃い朱色の曙光が射しそめるころに目を覚ました。朝早く起きたのは、なさねばならぬことが数多く残っていたからである。忘れ去られた都のいたるところにせっせと足を運び、疫病の最後の年に死んで、葬られもせずに打ち捨てられていた者たちに呪文をふるった。これをなしとげると、イェトゥリュレオムを離れ、ニムボス朝の皇帝やキンコルの有力者や貴族が葬られている、王家の墓所や壮麗な霊廟《れいびょう》のある埋葬地に赴《おもむ》いた。
ここでは骸骨の奴隷に命じて、封印された扉を槌《つち》で破らせ、罪深くも残酷な招魂をおこなって、王朝の最古の者にいたるまで、王家の木乃伊をことごとく蘇らせたので、そのすべてが炎のごとく明るい宝石を鏤《ちりば》めた豪華な包帯にくるまれて、目に光がないまま、ぎくしゃくと歩いた。そのあと降霊術師たちは幾世代にもわたる廷臣や高位高官の者たちを蘇らせた。
キンコルの死んだ皇帝や皇后たちが、高慢にして暗く虚ろな顔をして、荘厳な行列をつくり、ムマトゥムオルとソドスマに恭順の意を表し、俘虜《ふりょ》のごとく二人にしたがって、イェトゥリュレオムの通りを歩いた。その後、降霊術師たちは宮殿の弘大な謁見室にて、正当な支配者が配偶者とともに座していた高貴な玉座に就いた。豪奢な葬儀の出立ちで皇帝たちが集うなか、半ば神話と化した往古に支配したニムボス朝の創始者、ヘスタイヨンの木乃伊の萎びた手によって、君主の権威が降霊術師二人に与えられた。すると巨大な謁見室にひしめいていたヘスタイヨンの子孫すべてが、谺《こだま》のごとき声でもって、ムマトゥムオルとソドスマの支配権を認めた。
追放された降霊術師二人はこのようにして、ティナラスの民が死なせようとして追いやった荒寥とした無人の地で、帝国と臣民を見いだしたのである。二人は有害な魔術によって、キンコルの死者をことごとく支配し、恐るべき圧政を敷いた。遠く隔たった土地から、肉のない人夫によって貢物が届けられた。疫病に倒れた屍や弔《とむら》いの芳香性樹脂を匂わせる長身の木乃伊が、イェトゥリュレオムのいたるところで使い走りをしたり、無尽蔵の宝物庫から古代の蜘蛛の巣の張った黄金や埃まみれの宝石を取りだして、降霊術師の貪欲な目のまえに積みあげたりした。
死者の労務者が失われて久しい花を宮殿の庭に咲かせ、屍や骸骨が鉱山であくせくと働いたり、死に瀕した太陽に向かって堂々たる奇怪な塔を建てたりした。そのかみの侍従や皇子が降霊術師の酌人になり、墓の闇にあっても色あせていない、黄金の髪を具えた皇女のほっそりした手によって、弦楽器が奏でられて降霊術師を愉しませた。疫病にも蛆《うじ》にもさして損なわれていない麗人たちが、降霊術師の愛妾《あいしょう》となって、二人の死体性愛を満たした。
U
諸事万端において、キンコルの民はムマトゥムオルとソドスマの意志にしたがって生活を営んだ。生きていたときのように、話し、動き、食べ、飲んだのである。死ぬまえにおのれのものであった感覚に似たものでもって、見る、聞く、感じることができたが、彼らの脳は恐るべき降霊の術に囚《とら》われていた。かつての存在をぼんやりとしか思いだせず、招喚されてからのありさまといえば、虚ろで不穏な影のごときものであった。彼らの血は冷たく緩慢《かんまん》に流れ、黄泉《よみ》の国のレーテー河の水が混じっていた。レーテー河のほのかな蒸気によって、目も曇らされていた。
彼らは謀叛も反抗も起こさずに、過酷な皇帝二人の命に黙々と服したが、永遠の眠りを味わいながら、ふたたび苦にがしくも蘇らされた死者が知るにちがいない、漠然として切りのない倦怠に囚われていた。彼らは情熱も欲望も歓喜も知らず、レーテー河から目覚めた陰鬱なけだるさと、あの不断につづく微睡《まどろみ》にもどりたいという、つきせぬ陰鬱な切望を知るばかりだった。
ニムボス朝の皇帝たちの末裔《まつえい》で最も若い皇帝はイッレイロといい、疫病が猛威をふるいだした最初の月に身罷《みまか》り、降霊術師二人が訪れるまで、二百年にわたって壮大な霊廟に横たわっていた。
臣民や父祖たちとともに暴君にかしずくべく蘇らされ、疑問をおぼえることも驚きを感じることもなく、虚ろな存在をふたたびはじめるにいたった。おのれの蘇生や祖先の蘇生を、夢における冷遇や驚異を甘受する者のように受け入れていた。太陽の光が弱まり、世界が虚ろで朦朧としたものになって、物事の秩序においておのれの地位が従順な影の地位にすぎないところに蘇ったと知った。しかし最初は他の者たちのように、失った忘却を求めるほのかな切望と漠とした倦怠に悩まされるだけであった。
皇帝二人の魔術に縛されるとともに、長きにわたる死の虚無によって衰弱しているために、イッレイロは父祖たちが従属する無法行為を夢遊病者のごとき目で見た。しかしどういうわけか、数多くの日々を経た後、心の無気力な薄闇にかすかな光が目覚めたのである。
巨大な深淵の彼方に失って取りもどすことができないもののように、イッレイロはイェトゥリュレオムにおけるおのれの治世の壮麗さや、若わかしいおのれのものであった輝かしい自負と歓喜を思いだした。そして記憶が甦ると、漠然と謀叛の心が騒ぐのを感じ、この悲惨な生のまがいものをもたらした妖術師に、そこはかとない憤《いきどお》りをおぼえた。イッレイロはおのれの落ちぶれたありさまや、祖先や臣民の哀れな窮状をひそかに嘆きはじめた。
かつてはおのれが君臨していた広間で、連日イッレイロは酌人として、ムマトゥムオルとソドスマのおこないをつぶさに目にした。降霊術師二人の冷酷さや情欲に発する気まぐれや、二人の暴飲暴食の度が過ぎていくのを見まもった。二人が降霊の術による奢侈《しゃし》に溺れ、怠惰のあまり締まりなく肥満していくのを見た。二人は術の研鑽をおろそかにして、多くの呪文を忘れはてた。しかしなおも恐るべき強大な皇帝として君臨した。紫色と薔薇色の寝椅子にだらりと凭《よ》りかかり、死者の軍勢をティナラスに派遣する計画を練っていた。
降霊術師二人は征服と厖大な降霊の夢を見て、死体安置所で腐肉を喰らって肥え太る蛆のように、丸まると太って怠惰になった。そして二人の怠慢と虐政がつのるにつれて、レーテー河の蒸気と闘う炎のごとく、叛乱の炎がイッレイロの暗い心で着実に大きく燃えあがりだした。ゆるやかに憤怒が強くなりまさるとともに、生前におのれのものであった力と堅固な意志めいたものが徐々にもどってきた。圧政者の下劣な行為を目にし、不運な死者になされる非道を知るにつけ、報復を求める抑圧された声のどよめきが頭のなかに響いた。
イッレイロはイェトゥリュレオムの宮殿の広間で父祖たちとともに、支配者に命じられて黙々と働くこともあれば、支配者の命令を待って佇立《ちょりつ》していることもあった。若い太陽に照らされる丘から魔術によってもたらされた琥珀《こはく》色の極上の酒を、支配者の縞瑪瑙の杯に注いだ。支配者の傲慢無礼の数かずを甘受した。そして不法にわがものとした光輝のただなかで、支配者が酔って舟を漕ぎ、赤らんで呆けた顔をして眠りこむのを夜ごとながめた。
生ける死者のあいだで言葉がかわされることはほとんどなく、息子と父、娘と母、愛しあう男と女は、相手が誰なのかをわかっているふうもなく行き来して、不運な境涯について口にすることもなかった。しかしある日の深夜、専制君主二人が眠りこみ、妖術によって燃えるランプの炎が揺らめいていたとき、ついにイッレイロが遙かな祖先にあたるヘスタイヨンに相談をした。伝説の大魔道士として名高く、古代の秘められた伝承に通じていると噂される人物である。
ヘスタイヨンは影濃い広間の片隅で、他の者たちから離れたところにいた。朽ちゆく木乃伊の布をまとい、顔は茶色に変じて萎び、暗い黒曜石のような目はなおも虚無を見つめているようであった。イッレイロの問いかけを聞いているようには見えなかったが、やがて乾いたかすれ声で応えた。
「わしは老いており、霊廟の夜が久しかったゆえ、多くを忘れてしもうた。されど、死の空白の彼方に思いを向ければ、かつての知恵のいくばくかが取りもどせるやもしれぬ。ここだけの秘密にするとして、解放の手立てを考えてみよう」かく述べたヘスタイヨンは、紙魚《しみ》に食いあらされ、古の隠された文書が朽ちているところに入りこんだ者のように、記憶の切れ端に探りを入れた。
「かつてわしが強大な魔道士であったことをおぼえておるぞ。とりわけ降霊の呪文に通じておったが、その使用と死者の蘇生は忌むべき所業であるがゆえ、手を染めたことはない。他の知識も有しておったので、そのかみの伝承の残片のなかに、いまのわしらを導くのに役立つやもしれぬものがあるだろうて。イェトゥリュレオムとキンコルの帝国の礎《いしずえ》が築かれた、原初の時代になされた、分明ならざる予言を漠然とおぼえておるからな。その予言によれば、来たるべき世に、死よりも恐ろしい邪悪がキンコルの皇帝と臣民に降りくだり、ニムボス朝の最初の皇帝と最後の皇帝が話しあい、解放の手立てをもたらして、運命を払いのけるというぞ。予言には邪悪な者の名は述べられておらぬが、イェトゥリュレオムの宮殿地下の奥深くに部屋があって、そこを守護する古代の粘土像を破壊することにより、二人の皇帝が問題を解決するとのことだ」
かくのごとく祖先の血の気のない唇からこの予言が述べられるのを聞き、イッレイロはしばし考えこんでから告げた。
「いま思いだしましたが、わたしが幼かったころ、子供がよくするように、宮殿の使われていない部屋をあてもなく次つぎに訪れ、最後の部屋に行きついて、姿も面つきも尋常ならざる、埃まみれの醜悪な粘土像を見つけたことがあります。予言のことも知らぬまま、わたしは落胆して、来たときと同じように漫然と引き返し、くすんだ太陽の光のもとにもどろうとしたのでした」
やがてヘスタイヨンとイッレイロは無頓着な一族からこっそり離れ、広間にあった宝石を鎮めたランプを取って、宮殿の地下に通じる階段をくだった。人目を忍ぶ無情な影のように、迷路じみた暗い廊下を抜けて、ついに最下層の部屋に達した。
計り知れない過去の黒い埃や固まった蜘蛛の巣に覆われたこの部屋で、予言に述べられていたごとく、忘れ去られた大地の神の面貌を粗雑にあらわす粘土像が見つかった。イッレイロは石塊で粘土像を砕くと、ヘスタイヨンとともに、像の窪みから錆一つない大剣、変色のない青銅製の重い鍵、輝かしい真鍮板を取り出した。真鍮板には、キンコルを降霊術師の暗黒の支配から解放し、臣民が忘却の死を勝ち取るためになさねばならない、もろもろのことが刻みこまれていた。
かくしてイッレイロは真鍮板の教えにしたがい、変色のない青銅製の鍵を使って、深奥《しんおう》の部屋の壊れた像の背後にある低くて狭い扉を開けた。イッレイロとヘスタイヨンは、予言が告げるごとく、地底に沈んだ炎がなおも燃える未知の深淵に通じる、くすんだ石造りの螺旋階段を目にした。ヘスタイヨンが戸口をイッレイロに固めさせ、細い手に錆一つない鋼の剣を握ると、降霊術師二人が血の気のない死者を侍《はべ》らせて、薔薇色と紫色の寝椅子で手足を投げだして眠りこんでいる広間に取って返した。
古代の予言と輝く真鍮板の教えに支えられ、ヘスタイヨンは大剣を振りあげると、いずれも一撃でムマトゥムオルとソドスマの首を刎《は》ねた。そして指示にしたがい、大剣をふるって死骸を四つ斬りにした。降霊術師二人はこうして不浄の生涯を終え、仰向けのままぴくりとも動かず、寝椅子の薔薇色に濃い赤を加え、悲しげな紫色を明るませた。
やがて打ち黙《もだ》して物憂げに立ち、解放されたこともほとんど理解していない同族に対して、ヘスタイヨンの尊い木乃伊は、かすれたつぶやきではありながらも、子弟に命令をくだす王のごとく毅然と告げた。死せる皇帝や皇后が突風に騒ぐ秋の葉のようにざわつき、囁きが広がっていき、ついには宮殿からさまざま複雑な経路によってキンコルの死者全員に伝わった。
その夜はもちろん、血のごとく赤い翌日にも、揺らめく松明《たいまつ》や弱まった太陽の光に照らされて、疫病に蝕《むしば》まれた屍や襤褸《ぼろ》をまとう骸骨の果てしない大群が、イェトゥリュレオムの大路小路や、誅殺《ちゅうさつ》した降霊術師をヘスタイヨンが監視する宮殿の広間を、慄然たる流れとなって進んでいった。彼らは前方をぼんやりと見すえ、一瞬たりとも足を止めず、追われる影のように進みつづけて、宮殿の地下の部屋を探し、イッレイロが待ち受けている最後の部屋の戸口を抜けたあと、何千もの段のある階段をくだって、地底の弱まりゆく炎が噴き出すあの深淵の縁に行った。そこでその縁から第二の死に身を投じ、底無しの炎による滅却を迎えたのである。
しかし全員が解放された後、ヘスタイヨンはなおもムマトゥムオルとソドスマの四つ斬りにされた死体のそばで、薄れゆく夕日に照らされて、ただひとり留まっていた。真鍮板の教えにしたがい、かつて知悉《ちしつ》していた古の降霊術の呪文を試し、ムマトゥムオルとソドスマがキンコルの民に科したあの永遠につづく死の生を、分断された死体にもたらすべく呪った。青白い唇から呪いの言葉が述べられるや、降霊術師の首が目をぎらつかせて恐ろしくも転がり、四肢と胴体が血のこびりついた壮麗な寝椅子でのたうった。やがてヘスタイヨンの木乃伊は、最初から定められ予言されていたことをすべてなしとげたことを知り、振り返りもせずに、降霊術師二人を運命に委ねて立ち去ると、疲れた足取りで闇に包まれた迷路のような地下を進み、イッレイロのもとに行った。
かくして平穏な沈黙のなかで、もはや言葉をかわす必要もなく、イッレイロとヘスタイヨンは地下の戸口に入りこんだ。イッレイロが変色のない青銅の鍵を使って扉を施錠した。そして二人は螺旋階段をくだり、地底の炎の縁に達すると、最後の窮極の無において同族や臣民と一つになった。
しかしムマトゥムオルとソドスマについては、四つ斬りにされた死体がいまもイェトゥリュレオムを這いまわり、死してなお生きる運命に安らぎも休息も得られぬまま、迷宮じみた暗黒の地下を虚しくさまよって、イッレイロが鎖《とざ》した扉を探し求めているという。
[#改丁]
拷問者の島
[#改ページ]
太陽が沈んでまた昇るあいだに、銀死病がヨロスに降りくだった。しかしながらその到来は古代および最近の数多くの予言で告げられていた。占星術師によれば、これまで地上に知られていなかったこの謎めいた悪疫は、ゾティーク大陸の南の土地すべてを凶まがしくも支配する、巨大な星アケルナルから降りくだり、よろずの人間の肉体に明るい金属質の青白さを与えた後、エーテルのおぼめく流れに乗り、時間と空間を越えて他の世界に伝わるのだという。
まことに銀死病は凄まじく、感染や治療の謎を知る者もなかった。砂漠の風のごとく速やかに、タスーンの荒廃した地からヨロスに到来し、近隣に警告しようと夜闇をついて走った使者をも追い抜いた。銀死病に襲われた者は、最果ての深淵の息吹にさらされたかのごとく、氷のような冷たさを感じて、たちまち硬直した。顔や体が不思議と白くなり、青白い輝きを放ち、ものの数分とたたないうちに、亡くなって久しい死体さながらに硬直するのである。
シルポンやシロアルの通り、そしてヨロスの首都ファラードでは、金色のランプの光のもとで、不気味に輝く光が顔から顔に移るように、疫病が速やかに広まって、犠牲者はその場で倒れ、空恐ろしい輝きが死体に残った。
騒々しい庶民の饗宴が疫病の襲来によって静まり、浮かれ騒いでいた者たちがはしゃいだ姿のまま硬直した。堂々たる館では、顔を赤く染めて葡萄酒を愉しんでいた者たちが、贅をつくした宴のさなかに、豪華な椅子にもたれかかり、半分空になった杯を硬直した手に掴んだまま蒼白になった。商人は勘定部屋で数えはじめた硬貨の山をまえにして倒れ、その後入りこんだ盗賊は獲物をもって引きあげることができなかった。墓掘りは他人のために半ば掘った墓穴で死んだが、墓穴の権利を主張する者はあらわれなかった。
尋常ならざる不可避の災難から逃れる時間とてなかった。澄みきった星空のもとで、恐ろしくも速やかに疫病がヨロスを襲い、夜明けに眠りから目覚めた者はほとんどいなかった。ヨロスの若い王フルブラは、玉座に就いたばかりだったが、まさに臣民のいない王であった。
フルブラはファラードの宮殿の高い塔で、疫病の到来した夜を過ごした。これは天文の塔で、天体観測の器具が備わっていた。多大な重みが心にかかり、五官も鈍る絶望に思考が曇らされたが、眠気はなかった。銀死病を告げる多くの予言を知っていたし、老いた占星術師にして魔術師であるウェムデーズの助けを得て、差し迫った疫病の到来を星に読みとってもいた。このことをフルブラとウェムデーズは公表しようとはしなかった。ヨロスの破滅は無量の運命によって定められたものであって、別の死を迎えると記されていないかぎり、破滅をかわせる者はいないと知っていたからである。
ウェムデーズがフルブラの天宮図をつくり、その図におのれの学問では解き明かせない曖昧なものを見いだしたが、それでも王がヨロスで死なぬことは確かに読みとれた。どこでどのように死ぬのかは分明でなかった。しかしウェムデーズはフルブラの父王アルタスに仕え、新たな支配者にも同様に献身していたので、魔術を駆使して、フルブラをいかなる時空においても銀死病から守る魔法の指輪をつくりあげた。
その指輪は純金や銅よりも暗い不思議な赤い金属でつくられ、この世の宝石商には知られていない黒い楕円形の宝石が一つ嵌《は》めこまれて、芳《かぐわ》しい香をいつまでも放つのだった。魔術師はフルブラに、この指輪を中指にはめ――ヨロスから遠く離れた土地においても銀死病が終結してからも――決してはずしてはならないと告げた。疫病にひとたび襲われれば、フルブラは潜在性の病毒を常に肉体に帯びることになり、指輪をはずせば病毒がたちどころに毒性を発揮するからである。しかしウェムデーズは黒い宝石と赤い金属の出所はもちろん、保護の魔法をいくらで購《あがな》ったかも語りはしなかった。
フルブラは悲しみを胸に、指輪を受けとって身につけた。したがって銀死病にその夜襲われても、害されることはなかった。しかし高い塔で不安にさいなまれて待ちながら、無情な白い星たちではなく、ファラードの金色の灯をながめていると、夏の夜気のものではないほのかな冷たさを感じた。そしてそれを感じているあいだにも、都の陽気なざわめきが途絶え、悲しげなリュートの調べが妙に途切れがちになって消えた。静寂が祭に忍び入り、消えたランプはふたたび点されることがなかった。宮殿にも沈黙が広がり、もはや廷臣や侍従の笑い声は聞こえなかった。そして真夜中になっても、ウェムデーズがいつものように塔にいるフルブラのもとに来ることもなかった。かくしてフルブラは王国を失った王になりはてたことを知った。気高いアルタスに対して感じる悲痛も、死んだ臣民に対する大なる悲しみに呑みこまれた。
悲しみのあまり涙も出ないまま、フルブラは何時間も坐りつづけた。星の位置が変化し、嘲笑う魔物の明るい残酷な目のように、アケルナルが不断に睨《ね》めつけた。黒い宝石の嵌《はま》った指輪の濃厚な芳香が鼻孔に上り、フルブラは息詰まるように思った。指輪を投げ捨て、臣民のように死のうという思いが脳裡をかすめた。しかしフルブラの絶望は重きにすぎて、これをすらなしえなかった。こうしてついに夜明けがゆるゆると銀死病のように青白く訪れた。フルブラはなおも塔にいた。
フルブラ王は夜明けに立ちあがり、螺旋階段をくだって宮殿にもどろうとした。階段の途中で、老いた魔術師ウェムデーズの倒れ伏した死体を目にした。主人のもとに赴《おもむ》こうと、階段を上っているときに死んだのである。ウェムデーズの皺《しわ》の寄った顔は磨きたてられた金属のようで、顎鬚や髪よりも白く、鋼玉のごとく暗かった目も、疫病によって白くなっていた。そして王は里親のように愛していたウェムデーズの死を深く悲しみ、ゆっくりと階段をくだっていった。続き部屋や廊下で廷臣や従者や衛兵の死体を目にした。宮殿の遙か下で、地下室の真鍮製の大扉を守っていた三人の奴隷を除き、生きている者はいなかった。
フルブラはウェムデーズの勧告に思いをはせた。ヨロスを離れ、ヨロスの王たちに貢物を届けていた、南の島キュントロムに保護を求めよというのである。フルブラはそのようなことはもちろん、いかなる行動も取るつもりはなかったが、残っている三人の奴隷に命じて、食糧をはじめ、ある程度の長さの航海に必要なものを集めさせ、ウォウム河の屋根付き艀《はしけ》に係留されている、王家の黒檀《こくたん》の屋形船に運びこませた。
やがて奴隷たちとともに乗船すると、屋形船の舵を掴み、奴隷たちに大きな琥珀《こはく》色の帆を張るように命じた。銀色の死体が通りにひしめく堂々たるファラードの都をあとにすると、碧玉のごとく赤いウォウム河の広がりゆく河口を進み、インダスキア海の深紅色の湾に向かった。
銀死病が夜に襲ったときですら、タスーンとヨロスに北から吹いていた風を受け、船は帆をみなぎらせて進んだ。そしてウォウム河には、船長も乗員も疫病によって死んでしまい、数多くの船があてもなく海に向かって漂っていた。ファラードはなおも古代の埋葬地のようであり、河口の岸で動くものといえば、吹きつのる風にあおられて南に揺れる、羽毛に似た扇形の椰子《やし》だけだった。まもなくヨロスの青あおとした岸が遠ざかり、青くかすんで遙かな夢の世界のようになった。
不思議なつぶやきめいたものや、異国のことを伝える漠然とした物語にあふれた穏やかな海が、いまや高く昇る夏の太陽のもとで広がり、葡萄酒のように泡立った。しかし海の魅惑の声や、けだるさを誘うゆったりしたうねりも、フルブラの悲しみを和らげることはできなかった。フルブラの心のなかには、ウェムデーズの赤い指輪に嵌めこまれた宝石のように、黒ぐろとした絶望が留まっていた。
しかしながらフルブラは黒檀の屋形船の大きな舵をしっかり掴み、太陽を導きにして、まっすぐキュントロムのほうに船首を向けた。琥珀色の帆が追い風を受けて張りつめ、屋形船は終日速度をあげて進みつづけ、黒檀の女神像を備えた黒い船首で深紅色の海を切り裂いていった。夜が馴染み深い南天の星とともに訪れると、フルブラは進路の計算の誤りを正すことができた。
多くの日を費やして、彼らは南へと進みつづけた。空をめぐる太陽が背後で少し低くなり、夕暮れには新しい星たちが船首の黒い女神像の前方にあらわれて、夜空にひしめいた。フルブラは子供のころに父王アルタスとともに一度キュントロムの島に航海したことがあり、まもなく葡萄酒のように濃い色をした海から、龍脳樹《りゅうのうじゅ》や白檀《びゃくだん》の生える岸が上ってくるのが見えるはずだと思った。しかし心のなかに喜びはなく、父王アルタスとともにおこなった他の航海を思いだして、むせび泣くことが多かった。
やがて真昼に突如として、風がはたと止み、まわりの海が紫色の鏡面のようになった。空が打ち延ばされた銅の円蓋めいたものに変じ、狭くて低いものになりはてた。そして何やらん邪悪な幻術によるかのごとく、空が早まった夜のように黒ずんで、強大な魔物どもの息吹が集まったような大嵐が起こり、海に巨大な嶺や深淵めいた谷ができあがった。黒檀の帆柱が風に吹かれる葦《あし》のように折れ、帆がぼろぼろに破れて、屋形船はなすすべもなく暗い波の谷間に突っこんだかと思うと、凄まじい水しぶきに包まれて、目眩《めくるめ》く大波の頂きに押しあげられた。
フルブラは役に立たない舵にしがみつき、三人の奴隷はフルブラに命じられて前部船室に避難した。どれほどの時間が流れたのかもわからないまま、屋形船は狂った大暴風の意志によって運ばれていき、フルブラは垂れこめる闇のなかで何も見えず、もはや方角を知ることもできなかった。
その気味悪い闇のなかに目をこらしていると、嵐によって激しくうねる海に浮かぶ別の船が、屋形船からさほど遠からぬところにときたま見えた。南洋の島を行き来して、香料や羽毛や辰砂《しんしゃ》を交易する商人が使うようなガレー船らしかったが、櫂《かい》は大半が折れて、帆柱が倒れ、帆が船首にだらりと垂れていた。
しばらくのあいだ二隻の船が並走をつづけるうち、やがてフルブラは闇の切れ目に、未知の岸の鋭くそそりたつ黒ぐろとした岩を見た。その上には細い塔が青白く聳《そび》えていた。フルブラは舵を取ることができず、屋形船も並走するガレー船も、そそりたつ岩に運ばれて、二隻とも激突しそうだった。しかし何らかの魔法によるかのように、激しくうねっていた海が、突如として無風の穏やかなものになった。安らかな陽光が晴れ渡った空から降りそそいだ。そして屋形船はガレー船とともに、岩のあいだの三日月形をした広い黄土色の砂浜に乗りあげた。
フルブラは茫然と驚きに打たれて舵にもたれかかった。奴隷たちがおずおずと船室から出てきて、ガレー船の甲板にも人があらわれはじめた。ガレー船にはみすぼらしいなりをした船員や、裕福な商人の出立ちをした者がいて、王は挨拶の言葉をかけようとした。しかしそのとき高みから、甲高くていささか不快な尋常でない笑い声がして、視線をあげたフルブラは、浜辺を取り巻く崖に設けられた階段らしきものを、多数の者がくだってくるのを見た。
彼らが近づいて、屋形船とガレー船に詰め寄った。血のように赤い異様なターバンと、体に密着する禿鷲《はげわし》のように黒いローブをまとっていた。顔と手はサフランのような黄色で、瞼《まぶた》に睫毛はなく、小さな青鼠色の目はつりあがっていた。唇は薄く、新月刀の刃のように曲がって、常に笑みを浮かべていた。
彼らは鋸歯のついた剣や二股の槍といった、物騒な恐ろしい武器を携えていた。一部の者がフルブラのまえで深ぶかと頭をさげ、まじまじと見つめながら、おもねるように挨拶をしたが、うかがい知れない目はまたたきもしなかった。彼らの言葉は彼らの見かけと同じく異様で、鋭い歯擦音が多く、王も奴隷も理解できなかった。しかしフルブラは耳に快い穏やかなヨロスの言葉で丁重に話しかけ、大嵐によって屋形船が流されてきた島の名前をたずねた。
彼らの一部はフルブラの言葉が理解できるらしく、フルブラの質問につりあがった目をきらめかせる者がいて、そのひとりがヨロスの言葉で切れぎれに答え、ここはウッカストログの島だと告げた。そしてこの男は笑みにかすかな悪意をひそませ、遭難した船乗りや乗船客は島の王イルドラクに歓待されるとつけくわえた。
これを聞くや、フルブラは意気消沈した。過去にウッカストログの話を数多く耳にしたことがあり、それらの話は座礁して立ち往生する旅人を安堵させるようなものではなかったからである。キュントロムの遙かな東に位置するウッカストログは、一般には拷問者の島として知られ、何も知らずにその島に上陸した者や流れついた者は、島民によって幽閉された後、これら残酷な島民の主要な喜びである、奇妙な拷問にかけられつづけるのだという。噂によれば、ウッカストログから逃げ出した者はおらず、多くの者が何年も土牢や恐ろしい拷問部屋に留まって、イルドラク王とその民を喜ばせるために生かしめられる。拷問をおこなうのは偉大な魔術師であって、その魔法でもって大嵐を起こし、船を航路から遠く離れさせ、ウッカストログの岸にもたらすのだと信じられてもいた。
フルブラはこの島の黄色人種に屋形船を取り巻かれ、逃げ場もないことを見てとると、直ちにイルドラク王のもとに連れていくように求めた。イルドラクに対面して、おのれの名前とおのれが王であることを告げるつもりだった。フルブラは無邪気にも、王たる者はいかに残酷な心を有していても、別の王を拷問にかけたり幽閉したりはしないと思ったのである。
旅人の話によって、ウッカストログの島民はかなり中傷されているやもしれぬと思いさえした。
かくしてフルブラと奴隷たちは少数の島民に取り巻かれ、イルドラクの宮殿に導かれた。宮殿の高くて細い塔は浜辺の背後の岩山にあって、島民の住居がひしめくところに聳えていた。フルブラは崖に設けられた石段を登っているとき、下で大きな叫び声があがり、鉄と鉄が打ちあたる音を耳にした。見おろすと、座礁したガレー船の船員たちが剣を抜き、島民と戦っていた。しかし数で圧倒され、彼らの抵抗は押し寄せる拷問者たちに鎮圧されて、大半の者が生きたまま捕縛された。フルブラはこの光景を見て不安をつのらせ、黄色い肌の島民が信じられなくなった。
まもなく宮殿の弘大な部屋の堂々たる真鍮の椅子に座しているイルドラクに対面した。イルドラクはまわりにいる者たちよりも頭半分ほど背が高く、その面つきは金|鍍金《めっき》した金属から造られた邪悪な仮面のようで、紫色の海に鮮血が流れたような、不思議な色の衣装をまとっていた。イルドラクのまわりには、恐ろしげな大鎌めいた武器をもつ衛兵が多数ひかえていた。目のつりあがった陰気な若い女たちが、朱色の腰布と瑠璃《るり》色の乳当てをした姿で、巨大な玄武岩の柱のあいだを行き来していた。広間のまわりには、フルブラが見たこともないような木や石や金属の機械が数多くならび、重おもしい鎖、鉄の歯のついた寝台、魚の皮を使った紐や滑車があって、身の毛のよだちそうなものばかりだった。
ヨロスの若き王は恐れを知らぬ堂々たる態度で進みでると、イルドラクに話しかけた。イルドラクはじっと動かずに坐り、まばたきもせずにフルブラを真っ向から見すえた。フルブラはイルドラクにおのれの名と地位を告げ、ヨロスをあとにせざるをえなくなった災難について語り、キュントロムの島に行きたいという望みを述べた。
「キュントロムへ行くのは長い船旅になりますぞ」イルドラクが油断のならない笑みを浮かべていった。「ウッカストログの歓待を十分に味わっていただくこともなく、客人の出発を許すのは、われらの習慣にはありませぬ。したがってフルブラ王よ、はやるお気持ちを抑えてはくださらぬか。お見せしたいものがたっぷりありますし、数多くの娯楽を提供いたしますからな。あなたの地位にふさわしい部屋まで、侍従に案内させましょう。しかしそのまえに、お腰につけた剣をわたしにおあずけくださるように、お願いいたさなければなりません。剣は鋭いものですからな――お客人にもしものことがあってはなりませぬ」
こうしてフルブラの剣は宮殿の衛兵によって取りあげられ、小さな紅玉が柄に嵌った短剣も奪われた。数名の衛兵が大鎌めいた武器をもってフルブラを取り囲み、広間を出て数多くの廊下を進んだあと、階段をくだって宮殿の地下の堅固な岩のなかに入った。フルブラは三人の奴隷がどこに連れていかれたかはもちろん、捕縛されたガレー船の船員がどうなるのかもわからなかった。まもなく白昼の光をあとにして、金属製の器で燃える硫黄色の炎に照らされる洞窟めいた廊下に入った。まわりには隠された部屋がいくつもあるらしく、堅固な扉にあたって消えていくような、陰にこもった呻きや大きな狂乱した叫び声が聞こえた。
こうした廊下の一つで、フルブラと衛兵たちはひとりの若い女に出会った。ほかの女たちほどむっつりしておらず、掾sろう》たけた面差しをしていた。フルブラは通りすぎるときに、その女が哀れみ深い笑みを浮かべたように思った。そして女は声をひそめてヨロスの言葉で、「元気をおだしください、フルブラ王。あなたさまをお助けする者がひとりおりますれば」とつぶやいたようだった。衛兵たちはウッカストログの耳ざわりな歯擦音からなる言葉しか知らず、女の言葉がわからないまま気に留めもしなかった。
長い階段をくだった後、青銅のどっしりした扉のまえに着いた。衛兵のひとりが鍵を使って扉を開け、フルブラがいたしかたなく入ると、扉が悲しい音を立てて閉めきられた。
フルブラが押しこまれた部屋は三方がこの島の黒い石の壁で、残る一面はどっしりした割れない硝子《ガラス》だった。その硝子の向こうにはぼんやりと青緑に光る地底湖があって、吊られた灯りに照らされていた。そして水中には大きな蛸《たこ》がいて、触腕を壁に沿ってくねらせているとともに、巨大なピュートーンめいたものが伝説にあるような金色のとぐろを巻いて、闇のなかに退いていった。人間の死体がいくつも浮かび、瞼が切りとられて、むきだしの眼球で見すえていた。
土牢の片隅には硝子の壁に近いところに寝椅子があって、食べ物や飲み物が木の器に入れて用意されていた。王は疲れはて、希望とてなく、食事を味わいもせずに横たわった。そして人間の死体や海の魔物が灯りに照らされて覗きこむなか、フルブラは目をつぶって、悲痛と差し迫った悲しい運命を忘れようとした。恐怖と悲しみが鈍っていくにつれ、同情するように笑みを浮かべた娘、ウッカストログで出会った者たちのなかでただひとりやさしい言葉をかけてくれた、あの娘の揩スけた面差しが脳裡に浮かんでくるようだった。その面差しが穏やかな魔法のように何度も脳裡に浮かびつづけ、フルブラは長い月日を経てはじめて、埋もれていた若さと人生のぼんやりとした欲望がほのかに騒ぐのを感じた。しばらくすると、フルブラは眠りこんだ。娘の顔がなおも夢のなかにあらわれていた。
フルブラが目を覚ましたとき、灯心の火は弱まりもせずに燃えていた。硝子の壁の向こうの海には、以前と同じ怪物や人間の死体がひしめいていた。しかし漂う死体のなかに、フルブラの奴隷たちの皮を剥がれた死体があった。島民によって拷問にかけられ、フルブラが目覚めたときに目にするように、土牢に隣接する海中の洞窟に投げこまれたのである。
フルブラはこの光景を見て新たな恐怖に吐き気をもよおしたが、死体の顔を見つめていると、青銅の扉が耳ざわりな音を立てて開き、衛兵が入ってきた。衛兵はフルブラが食べ物も水も口にしていないのを見ると、湾曲した広い刃を突きつけて脅し、わずかなりとも口にさせた。それがすむとフルブラを土牢から出して、拷問の大広間にいるイルドラク王のもとに連れていった。
宮殿の窓から射し入る金色の日差しと、柱や拷問装置の長い影から、フルブラは夜が明けてまもないころだと判断した。広間には拷問者や女たちが群がっていた。男や女が凶まがしい準備に励んでいるのを、多くの者がながめているようだった。そしてフルブラは、真鍮の椅子に座しているイルドラクの右側に、冥界の無慈悲な神のごとき残忍な魔物じみた面つきをした、背の高い真鍮の像が聳えているのを見た。
フルブラが衛兵に押しやられると、イルドラクが簡単な挨拶の言葉を発したが、しゃべるまえに浮かべた悪辣な笑みがずっと唇に留まった。イルドラクがしゃべると、真鍮の像もしゃべり、耳ざわりな金属音でヨロスの言葉を使い、その日フルブラがさまざまな極悪非道の拷問を受けることを事細かく述べたてた。
彫像が語りおわると、フルブラは耳もとに小さな囁きを聞きつけ、昨日地下の廊下で出会った麗しい娘がかたわらにいるのを知った。娘は拷問者たちに無視されているようで、フルブラにこう告げた。「勇気を奮い起こし、苦しみを雄々しく堪え忍んでください。できることなら、今日のうちに解放してさしあげます」
フルブラは娘の力強い言葉に元気づき、娘が以前に見たときよりも美しくなったように思った。娘の目がやさしく自分を見ているように思い、愛と人生の願望が不思議と心に甦るまま、イルドラクの拷問に対して気を引きしめた。
イルドラク王とその民の法外な快楽のためにフルブラになされたことについては、詳しく語らぬほうがよいだろう。ウッカストログの島民は五官を苦しめて責めさいなむ、奇抜で玄妙な拷問をおびただしく考案していたからである。狂気よりも恐ろしい極限まで追いやって、脳そのものを苦しめることもできれば、かけがえのない記憶を取り去って、そのかわりにいいようもない不快なものを残すこともできるのだった。
しかしながらその日は彼らもフルブラを最大限まで拷問にかけることはしなかった。だが耳ざわりな音でもってフルブラを苦しめた。邪悪なフルートの音色がフルブラに恐怖で血の凍る思いをさせた。低い大太鼓の音が全身の組織を疼《うず》かせた。小太鼓の音が骨を苦しめた。次にドラゴンの乾燥させた胆汁と死んだ食人族の屍蝋が、悪臭|芬々《ふんぷん》たる木とともに火鉢で燃やされ、その煙を吸わされた。火が消えると、吸血蝙蝠の油が注がれてまた燃やされた。フルブラはもはや強烈な悪臭に堪えきれずに失神した。
その後、拷問者は王の着衣を取り去って、人間の肉体のみを腐蝕する酸に浸した絹の紐を体に巻きつけた。酸はゆるやかに皮膚を冒し、無数の激痛をともなって筋肉や脂肪の組織を腐蝕した。
やがてフルブラが死なぬように紐が取りはずされたあと、一エル(およそ一メートル)ほどの長さの蛇の形をしていながらも、百足《むかで》のように全身に鋭い毛の生えた生物がもたらされた。これらの生物が腕や足にびっしりと絡みつき、フルブラは嫌悪のあまり激しく争ったが、手で引きはなすこともできず、巻きつく生物の体に生える毛が無数の小さな針のように手足を刺すので、ついに苦悶の悲鳴をあげた。息もできなくなって悲鳴が途絶えると、島民のみが秘訣を知る、ゆるりとした笛の音色によって、毛の生えた蛇はフルブラの手足から離れたが、蛇が巻きついていたところには真っ赤な跡が残るとともに、全身が酸に冒されて爛《ただ》れていた。
イルドラク王とその民はこのありさまをしごく満悦してながめていた。このようなものにこそ喜びを感じ、冷酷無情な暗い欲望を満たそうとするからである。しかしフルブラがこれ以上堪えられないと見ると、末永くほしいままにいたぶるために、フルブラを土牢にもどらせた。
フルブラは記憶に残る恐怖で胸をむかつかせ、痛みのあまり発熱して横たわり、もはや死という情け深い処置は願わず、あの娘が約束したように解放してくれることを期待した。半|譫妄《せんもう》状態の単調さで長い時間が過ぎていき、真紅にかわった灯心の炎によって、目が流れる血に満たされているように思え、硝子の壁の向こうで死体や海の怪物が血の海にいるかに見えた。娘はあらわれず、フルブラは絶望しはじめた。すると、ついに扉がそっと開かれる音が聞こえた。衛兵の訪れを告げる耳ざわりな大きな音ではなかった。
フルブラは顔を向け、娘が指先を唇にあてて沈黙を求める仕草をしながら、速やかな足取りで寝椅子に近づいてくるのを見た。娘は小さな囁き声で、計画は失敗したが、翌日の夜には必ず衛兵を薬で眠らせ、外の門の鍵を手に入れることができると告げた。宮殿から秘密の入江に逃げれば、そこには水と糧食を載せた舟が用意されているという。娘がもう一日イルドラクの拷問に堪えてくれと頼むと、フルブラはやむをえず承諾した。そしてこの娘に好かれているのだと思った。娘がフルブラの熱のある額をやさしく撫で、拷問のために熱くなっている四肢に鎮静作用のある軟膏を塗ってくれたからである。フルブラは娘のやさしい眼差しに、哀れみ以上の同情があるように思った。かくしてフルブラは娘を信じ、助けを期待し、翌日の恐怖に対して気を引きしめた。娘はイルウァーといい、母親がヨロスの女で、イルドラクの短剣で皮を剥がれるよりはと、邪悪な島民に嫁いだとのことだった。
娘は見つかる危険があるといってすぐに引きあげ、扉をそっと閉めた。しばらくすると、王は眠りこんだ。すると譫妄の夢がもたらす醜行のなかにイルウァーがあらわれ、奇怪な地獄の恐怖にさらされるフルブラを力づけた。
夜が明けると、衛兵が鉤形の武器をもってあらわれ、フルブラをふたたびイルドラクのまえに連れていった。そしてまたしても真鍮の凶まがしい彫像が耳ざわりな声で、フルブラが受けることになる恐るべき苦難を宣した。今度はガレー船の船員や商人を含む他の捕囚もいて、弘大な広間で拷問者の悪意みなぎる処置を待っていた。
またしても大勢の見物人のなかから、イルウァーが衛兵に咎《とが》められもせずにフルブラに近づき、慰めの言葉をかけたので、フルブラは真鍮の託宣像が予告した極悪な拷問に対して奮い立った。いかにもその日の試練に堪えるには、豪胆にして希望に満ちた心が必要であった……
語るにしのびない拷問もあったが、拷問者はフルブラのまえに不思議な妖術の鏡を掲げた。フルブラの顔が死後のものであるかのごとく映る鏡だった。フルブラが見つめると、硬直した顔に腐敗の緑や青の染みができ、萎《しな》びた肉がぽとりと落ちて、鋭い骨がさらけだされ、蛆《うじ》が蠢《うごめ》いているのが見えた。広間のいたるところから、ガレー船の捕虜たちの苦痛に満ちた呻きや苦悶の叫びがあがるのを聞きながら、フルブラは死んだ顔や、膨れあがった顔や、瞼のない顔や、皮を剥がれた顔が背後から近づいてきて、鏡に映る自分の顔のまわりに群がるのを見た。海から打ちあげられた死体の髪のように、それらの顔は濡れて雫《しずく》を垂らし、海藻が髪にからみついていた。冷たくじめっとした感触がして顔を向けると、これらの顔が幻影ではなく、悪辣な妖術によって海中から引きあげられた死体であることがわかった。生きている者のようにイルドラクの広間に入ってきて、フルブラの肩ごしに覗きこんでいるのだった。
海の魔物に肉を喰われて骨があらわになった、フルブラの奴隷たちもいた。これら三人の奴隷が、死の虚無しか見えぬ目をぎらつかせ、フルブラに近づいてきた。そしてイルドラクの妖術に操られ、邪悪に動かされる死体がフルブラに襲いかかり、半分喰われた指で顔や衣服を引っかいた。フルブラは嫌悪のあまり失神しそうになりながらも、死んだ奴隷たちと戦ったが、彼らはもはや主人の声を知らず、イルドラクの使う拷問器具のように無頓着だった……
ほどなく濡れそぼった死体が引きあげた。フルブラは拷問者によって丸裸にされ、宮殿の床に仰向けにされ、膝と手首、肘と踝《くるぶし》に鉄の環を嵌められて、敷石に固定された。次に墓から掘り出された女の遺体がもたらされたが、ほとんど喰らいつくされていて、おびただしい蛆がむきだしになった骨や黒く腐敗した襤褸《ぼろ》に群がっていた。この遺体がフルブラの右手に置かれた。そして腐敗してまもない山羊の骸《むくろ》も運びこまれ、これはフルブラの左手に置かれた。するとフルブラの右手から左手へと、餓えた蛆の大群が波を打って移動しはじめた……
この拷問が終わったあと、イルドラク王やその民を喜ばせるために、いずれも創意に富んだ数多くの残虐な拷問がおこなわれた。そしてフルブラはイルウァーへの思いに支えられ、雄々しく拷問に堪えた。
しかしながらその日の夜、フルブラは土牢で娘の訪れを虚しく待ちつづけることになった。灯心は血のように赤く燃えていた。新たな死体が海の洞窟に投げこまれて浮かんでいた。胴が二つに分かれた深海の異様な蛇がおびただしく群がって、角の生えた頭が硝子の壁にあたるほど大きく膨れあがっていくようだった。しかし約束されたように、イルウァーが解放のために訪れることもないまま、夜が過ぎていった。しかしフルブラは心をかつての絶望に支配されながらも、イルウァーを疑うことはせず、何か予期せざる災難があって遅れているか来られなくなったのだと、そう自分にいい聞かせた。
三日目の夜明けに、フルブラはまたイルドラクのまえに連れていかれた。真鍮の像がその日の試練を宣し、堅固なアダマントの刑車に縛りつけられると告げた。刑車の上に横たえられ、王の記憶を永遠に奪う薬を飲まされて、むきだしになった魂が悍《おぞま》しくも忌わしい地獄を長ながとさまよった後、イルドラクの広間において、刑車で打ち砕かれた肉体にもどるのだという。
やがて拷問者の女たちが嫌らしく笑いながら進みでて、フルブラ王をドラゴンの腸線で堅牢な刑車に縛りつけた。これが終わると、イルウァーが恥知らずにも残忍な喜悦をさらけだしてあらわれ、フルブラのかたわらに立って、薬を混入した葡萄酒の入った金の杯を掲げた。イルウァーはフルブラが約束を信じた愚かさと軽信を嘲《あざけ》った。ほかの女たちも男たちも、真鍮の椅子に座しているイルドラクにいたるまで、フルブラを悪しざまに笑いたて、フルブラを裏切ったイルウァーを褒《ほ》めそやした。
かくしてフルブラの心はこれまで知らなかったほどの暗澹《あんたん》たる絶望に満たされた。悲しみと苦悶のなかでつかのま生まれた哀れを誘う恋も失われ、苦にがしい燃え殻が残るだけだった。しかし悲しみの目でイルウァーを見つめるだけで、非難の言葉を発しはしなかった。もはや生きたいとも思わず、速やかな死を願いながら、ウェムデーズの魔法の指輪と、それをはずしたときに何が起こるかについて、ウェムデーズが語ったことを思いだした。拷問者たちは価値のないがらくたと見ていたので、指輪はまだ指にはまっていた。しかし両手が刑車にきつく縛られているので、指輪をはずすこともできなかった。指輪をやろうといっても、島民が受け取りはしないことがわかっているので、辛辣な策を弄し、にわかに狂気を装ってわめきたてた。
「そうしたいのなら、呪われた葡萄酒でわたしの記憶を奪えばよい――わたしを千々の地獄に送りこんで、ふたたびウッカストログにもどせばよいのだ。しかし中指にはめている指輪を奪ってはならぬぞ。これはわたしにとって、多くの王国や愛のみなぎる白い胸よりも大切なものだからな」
これを聞くや、イルドラク王が真鍮の椅子から立ちあがり、まだ葡萄酒を飲ませるなとイルウァーに命じて、まえに進みでると、フルブラの指で宝石が暗く輝く、ウェムデーズの指輪を興味深く調べた。フルブラは指輪が奪われるのを恐れているかのように、逆上した言葉をイルドラクに叫びたてた。
このためイルドラクは捕囚をさらにいたぶり、苦悩を少し高められると見て、フルブラがたくらんだとおりのことをした。指輪を縮んだ指から易やすと抜き、捕縛された王を嘲るために、おのれの中指にはめた。
邪悪な笑みが深く刻みこまれた黄金の仮面ごしに、イルドラクが捕囚を見つめているあいだにも、ヨロスのフルブラ王の身に恐るべきことが起こりはじめていた。ウェムデーズの指輪の魔力によって久しく眠りこんでいた銀死病が、堅牢な刑車に縛りつけられているフルブラの体内で目覚めた。フルブラの四肢が苦悶とは異なる烈《はげ》しさで硬直し、顔が死の訪れとともに明るく輝いた。そしてフルブラは死んだ。
イルウァーや刑車のそばにいる多くの拷問者にも、銀死病の冷たい即時の感染が起こった。彼らはその場で倒れこんだ。悪疫は男の顔や手にきらめく光のように留まり、女の裸体から輝いた。そして銀死病は弘大な広間に蔓延した。イルドラク王の他の捕虜たちはさまざまな拷問から解放され、拷問者たちは捕虜の苦痛によってのみ満ち足りる悪辣な望みが終わったことを知った。そして宮殿はもちろん、ウッカストログの島じゅうに、死が速やかに流れ、襲われた者に死は見えたが、そのほかには見ることも触れることもできなかった。
しかしイルドラクはウェムデーズの指輪をはめているので銀死病を免れていた。そのわけを推測することもできぬまま、民を襲った運命を目のあたりにして驚愕し、捕囚が解放されるのを目にして茫然とした。やがて有害な魔術ではないかと恐れ、広間から逃げ出した。早朝の太陽のもとで、海を望む宮殿の露台に立ち、指輪が未知の悪意ある魔術の原因か媒介であろうと思い、ウェムデーズの指輪を指から抜きとるや、眼下の泡立つ海に投げこんだ。
かくして他の者すべてが倒れた後、イルドラクも銀死病に襲われた。血に染まった輝く紫のローブをまとって倒れこんだイルドラクに、銀死病の安らぎがくだり、雲一つない空に輝く太陽がその面貌を青白く照らした。忘却がウッカストログの島を支配し、拷問者は拷問にかけられた者たちと一つになったのである。
[#改丁]
死体安置所の神
[#改ページ]
T
「モルディッギアンはズル=バ=サイルの神なんですぞ」宿の主人がことさら厳《おごそ》かな口調でいった。「黒い神殿の地下洞窟よりも深い闇に包まれた、人間の記憶にもない太古から、神として存在しているのです。ズル=バ=サイルにほかの神はおりません。この街で死んだ者はモルディッギアンに捧げられます。王や賢者であろうと、生を終えて死ねば、仮面をつけたモルディッギアンの神官の手に委ねられるのです。法であり、慣習でありますからな。しばらくすれば、神官があなたさまの花嫁をいただきにくるでしょうて」
「しかしエライスは死んではいない」若いファリオムはこれで三度目か四度目になるが、哀れを誘うせっぱつまった口調でいった。「エライスの病は死体が横たわっているように見えるのだ。これまで二度にわたって、感覚を失い、頬が青ざめ、血が止まって、墓に横たわる者とほとんど区別もつかないありさまになったが、二度とも数日後には目覚めたのだからな」
宿の主人がまったく信じられないといった面つきで、調度のとぼしい屋根裏部屋の寝床に目を向け、刈りとられた百合のように微動もせずに白じらと横たわる若い女を見つめた。
「それなら、ズル=バ=サイルに連れてくるべきではありませんでしたな」空疎な皮肉のこもる口調できっぱりといった。「医者が死んだといいましたから、既に神官に報告されておりますよ。この娘さんはモルディッギアンの神殿に行かなければなりません」
「しかしわたしたちは他国の者で、一夜をすごしただけだ。遙か北のクシュラクからやってきて、今日の午前中にはタスーンを通って、南の海に近いヨロスの首都ファラードに行くつもりだった。たとえエライスが死んだとしても、あなたがたの神には何の権利もないはずだ」
「ズル=バ=サイルで死んだ者は、モルディッギアンのものになります」宿の主人が教えさとすようにいった。「他国の人とて例外ではありません。モルディッギアンの神殿の暗い入口は永遠に開かれていて、長の歳月にわたって逃れえた者はおりませんでな。生ける者はすべて、いずれは神の糧となるのです」
ファリオムは宿の主人がへらへらと口にする由々しい言葉に身震いした。
「クシュラクで旅人が語った伝説として、モルディッギアンにまつわる話を漠然と聞いたことがある」ファリオムはいった。「しかし街の名前は忘れてしまった。それでエライスとわたしは何も知らずにズル=バ=サイルに入りこんだのだ……おぼえていたとしても、あなたがいった恐ろしい慣習を信じはしなかっただろうな……ハイエナや禿鷲《はげわし》の真似をするとは、いったいいかなる神なのだ。神ではなく、食屍鬼ではないか」
「気をつけなされ。冒涜の言辞を吐いてはなりませんぞ」宿の主人がたしなめた。
「モルディッギアンは死のごとく古い全能の神にあらせられます。ゾティークが海から浮上するまえに、かつて諸大陸で崇拝されておりました。モルディッギアンのおかげで、わしらは腐敗や蛆《うじ》を免れるのです。他の土地の人びとが死者を焼きつくす炎に委ねるように、ズル=バ=サイルのわしらは死者を神に届けるのですよ。神殿は威厳があって、太陽の光も届かぬ模糊《もこ》とした影と恐怖の場で、死者は神官たちによって運びこまれ、石の卓に置かれて、神が住まいとする奥処《おくか》からやってくるのを待ちます。神官のほかには、生きて神を目にした者はおりません。そして神官の顔は銀の仮面で隠され、その手も埋葬布で包まれています。モルディッギアンを目にしている神官たちを見てはならぬのですよ」
「しかしズル=バ=サイルには王がおわすだろう。王に訴えて、この極悪な恐ろしい不正を止めていただく。きっと気に留めていただけるはずだ」
「王はフェンクオルと申されますが、たとえそうされたくとも、あなたを助けてはくださらんでしょうな。あなたの請願がお耳に入ることはないでしょう。モルディッギアンは王をしのぎ、モルディッギアンの法は侵してはならぬのですよ。ほら、もう神官たちがやってきましたぞ」
この未知なる悪夢の都市で、若わかしい妻に差し迫った運命の恐ろしさと冷酷さを悲観しているファリオムは、宿屋の屋根裏に通じる階段をかすかにきしませる、凶まがしい足音を耳にした。音が人間とは思えぬ速やかさで近づき、部屋に異様な風体の者が四人あらわれた。いずれも紫色の死に装束をまとい、髑髏《どくろ》をかたどった銀の仮面をつけていた。宿の主人がほのめかしていたように、彼らの手は指の分かれていない手袋に包まれ、紫の衣装が死体を包む蝋引き布のように、ゆったりと足まで覆い隠しているので、風貌を推測することもできなかった。彼らのありさまは恐怖をかきたてたが、そのなかで不気味な仮面は最たるものではなかった。不自然なうずくまるような姿勢を取ることや、動きにくい衣装に妨《さまた》げられることもなく、動物のような敏捷さで動くことのほうが恐ろしかった。
神官たちは奇妙な棺架を運んできた。革紐を織りあげたものからつくられ、骨組みと把っ手は悍《おぞま》しい骨だった。革は久しく使われているかのように汚れて黒ずんでいた。神官たちはファリオムや宿の主人にひとことの言葉もかけず、何らの儀礼もおこなわないまま、速やかにエライスの横たわる寝床に近づいた。
ファリオムは彼らの空恐ろしい外見に躊躇《ちゅうちょ》することもなく、悲痛と怒りのあまり逆上して、身に帯びている唯一の武器である短剣を腰から抜いた。宿の主人の警告の声を無視して、全身を衣装で隠しこんだ神官たちに荒あらしく襲いかかった。ファリオムは敏捷で筋骨隆々としており、さらに体にぴったりした軽装をしているので、かなりの強みがあるはずだった。
神官たちは背を向けていたが、ファリオムの動きを予期していたかのように、二人が骨の把っ手から手をはなし、虎のような速やかさで振り返った。蛇がとびかかるような目にも留まらぬ動きで、ひとりがファリオムの手から短剣をはじきとばした。そして二人がかりで攻撃し、衣装に包まれた腕を振りまわして恐るべき連打をおこなったあと、ファリオムを何もない片隅に投げとばした。ファリオムは落下の衝撃で悶絶し、つかのま意識を失った。
ファリオムが意識を取りもどし、茫然としながらかすむ目を開けると、太ってずんぐりした宿の主人がかがみこみ、獣脂でできた満月のような顔を見せた。ファリオムはエライスのことを思ったとたん、短剣の突きよりも鋭く、苦悩する意識が甦った。おそるおそる影の濃い部屋を見まわすと、死に装束をまとった神官たちは既におらず、寝床にエライスの姿はなかった。宿の主人の低く虚ろな仰々しい声が聞こえた。
「モルディッギアンの神官たちは慈悲深く、家族を亡くしたばかりの者の逆上と乱心を赦されましたぞ。神官たちが哀れみ深く、人の弱さに思いやりを示されて、ようございましたな」
ファリオムは負傷して痛む体が突然の炎に炙《あぶ》られたかのように、すっくと立ちあがった。部屋の中央に落ちている短剣を拾いあげると、直ちにドアに向かって進んだ。しかし宿の主人が脂ぎった手で肩を掴んで止めた。
「気をつけなされ。モルディッギアンの慈悲の範囲を越えてはなりません。神官のあとを追うのは悪しきことです――神殿の恐るべき神聖な闇に押し入るのは、さらに悪しきことですぞ」
ファリオムはその忠告をほとんど聞いていなかった。脂ぎった手を急いで振りほどくと、立ち去ろうとしたが、またしても掴まれた。
「少なくとも立ち去るまえに、食事と宿の代金を払ってもらいましょうか」宿の主人がいった。「医者に支払う金もいりますから、わしを信用してもらえるなら、あなたにかわって渡しますよ。いま払ってください――二度ともどってはこられないでしょうからな」
ファリオムは全財産が入っている財布を取りだし、貪欲そうに窪められた手に、数えもせずに貨幣を渡した。別れの言葉も告げず、振り返りもせず、悪夢に駆られているかのように、虫の喰った宿屋の黴《かび》臭いじめじめした階段をおりて、ズル=バ=サイルの曲がりくねった暗い通りに出た。
U
おそらく古くて暗いというほかには、他の街とほとんどかわるところはないのだろうが、苦悩のきわみにあるファリオムにとっては、歩を進めていく道が深遠な恐るべき死体安置所にのみ通じる地下通路のようだった。太陽が頭上で張りだす家屋の上に昇っているというのに、霊安室の奥に射すような失われた陰気な輝きのほかには、光がないように思えた。この街の人間も他の街の人間とかわらないのかもしれないが、有害な印象を受けるファリオムには、食屍鬼やデーモンが死の街の慄然たる用事で行き来しているかのように思えた。
ファリオムは気も狂わんばかりになりながら、昨夜のことを苦にがしく思い返した。夕暮れ時にエライスとともにズル=バ=サイルに入ったとき、エライスは北の砂漠を通過して生きのびた一瘤駱駝《ひとこぶらくだ》に乗り、ファリオムは疲れながらも満足してエライスのそばを歩いていた。夕映えの薔薇色が壁や頂塔を染め、灯りの点る金色の目のような窓を際立たせているので、夢のなかの名前とてない壮麗な街のように思え、一日か二日逗留して体を休めてから、ヨロスのファラードを目指す長く困難な旅を再開しようと思った。
この旅は必要に迫られてのものだった。いまは貧窮しているが、ファリオムは高貴な血を引く若者で、政治および信仰にかかわる家族の信条が皇帝カレッボスのそれらと異なるために追放されたのである。結婚したばかりの妻をともない、ヨロスを目指して出発した。いくつかの分家が既にその地で暮らし、歓迎してくれるはずだった。
二人は商人の大規模な隊商とともに旅をして、まっすぐ南のタスーンを目指した。クシュラクの領土を越えて、ケロティア砂漠の赤い砂のただなかにいたとき、隊商が盗賊に襲われて、多くの者が殺され、生きのびた者は四散した。ファリオムと新妻は一瘤駱駝に乗って逃げたが、砂漠をさまよって二人きりになってしまい、タスーンに向かう隊商路を見つけることもできず、しかたなくズル=バ=サイルに通じる別の隊商路を進んだ。砂漠の南西の外れに位置する、城壁に囲まれたこの大都市は、二人の旅程には含まれていなかった。
二人はズル=バ=サイルに入ると、路銀を節約するために、みすぼらしい地区の宿屋で疲れを癒すことにした。その宿で夜のあいだに、エライスがこれで三度目になる強梗症の発作を起こしたのである。これまでの発作はファリオムと結婚するまえに起こり、クシュラクの医者が正しく診断して、巧みな処置が取られていた。再発しないことを願っていたのだが、三度目の発作は旅の難儀と疲労が引金になったにちがいない。ファリオムはエライスが回復すると確信したが、宿の主人があわてて呼んだズル=バ=サイルの医者は、エライスが死んだと強く主張した。そしてこの街の異様な法にしたがい、エライスの死が直ちにモルディッギアンの神官たちに報告された。若い夫の逆上した抗議は完全に無視された。
病のために死んだように見えながらもまだ生きているエライスが、死体安置所の神の帰依者たちの手中に落ちるにいたった経緯《ゆくたて》には、凶まがしい悲運があるように思いなされた。この悲運について、ファリオムは気も狂わんばかりになって考えこみながら、憤然とした性急な足取りで、果てしなく曲がりくねる混雑した通りをあてもなく進んでいった。
そんなふうに歩いていると、クシュラクで耳にした伝説の記憶があれやこれやと甦り、宿の主人から得た陰鬱な情報に加わった。ズル=バ=サイルにまつわる噂はいかさま不吉な怪しいものばかりで、ファリオムはそのような街の名を忘れ果てたことに驚き、一時的にとはいえ取り返しのつかない失念をしたことで、自分自身を悪しざまにののしった。ズル=バ=サイルの慣習として、常に大きく開け放たれて、餌食を待ちかまえている門を通り抜けるくらいなら、エライスとともに砂漠で死ぬほうがよかった。
街は商業の中心地だが、他国の旅人はこの街を訪れても、長く留まろうとはしない。モルディッギアンを崇拝する不快な信仰があって、死者を喰らうこの不可視の神は、死に装束をまとう神官たちと食事を分けあうと信じられているからである。死体は何日も暗い神殿に置かれ、腐敗がはじまるまで喰われないのだという。そして腐肉を喰らうよりもひどいことや、食屍鬼どもが支配する死体安置所で冒涜の儀式が執りおこなわれることや、モルディッギアンが求めるまえに死体がいいようもない使われ方をすることが、声をひそめて語られていた。遠く離れた土地では、ズル=バ=サイルで死んだ者の運命たるや、恐ろしい語り種《ぐさ》であり、呪わしいものであった。しかし食屍鬼めいた神の信仰を奉じて育ったその街の住民にとっては、ごくあたりまえの死体の処分にすぎなかった。この高度に有益な神のおかげで、墓石、墓所、墓地、火葬用の積み薪といった、厄介なものが不要になっていた。
ファリオムは街の住民が普通の生活を送っているのを知って驚いた。運搬人足が所帯道具の入った梱《こり》をかついで歩いていた。商人が他の街の商人のように店に坐りこんでいた。市場では買い手と売り手が声高に、まけるまけないの押し問答をしていた。女たちが戸口で笑いながらしゃべっていた。赤、黒、菫《すみれ》のゆったりしたローブと、一風変わった耳ざわりな訛りによってしか、ファリオムはズル=バ=サイルの住民と自分のような他国者を区別できなかった。歩きつづけているうちに、悪夢の闇がファリオムの印象から薄れはじめ、日常生活の情景が激しい苦悩や絶望をいささか和らげるのに役立った。喪失の恐怖や、エライスを脅かす忌わしい運命は、何をもってしても消散することはない。しかしいまや、ひどい難局から生まれた冷徹な論理でもって、ファリオムはエライスを食屍鬼めいた神の神殿から救うという、見かけは絶望的な問題を思案することができるようになった。
ファリオムは表情を和らげ、性急な足取りをのんびりしたものに抑えて、内心の苦悩が誰にも気取《けど》られないようにした。男物の衣装をあつかう店の商品に興味があるふりをして、店主と話をかわしながら、遠方から来た旅人が聞きたがるような感じで、さりげなくズル=バ=サイルとその慣習についてたずねた。店主は話し好きで、ファリオムはほどなくモルディッギアンの神殿が街の中心にあることを聞きだした。神殿が四六時中開いていて、誰でも自由に出入りできることも知った。しかし神官たちが挙行する特定の秘密のものを除いて、崇拝の儀式はまったく執りおこなわれることがないという。神殿の闇に足を踏み入れた者は、すぐに神の食事として神殿にもどるという迷信があるので、好んで巨大な神殿に入る者もいない。
ズル=バ=サイルの住民はモルディッギアンを慈悲深い神と見ているようだった。奇妙なことに、明確な人間じみた属性は何一つとしてこの神に付与されてはいなかった。モルディッギアンはいうなれば五元に近い非人格的な力――火のように消滅させて浄化する力――であった。モルディッギアンの秘儀を執りおこなう神官たちも同様に謎に包まれていた。神殿で暮らし、葬儀の務めを果たすときにのみあらわれる。どのようにして補充されるのかを知る者もいないが、男女両性の神官がいるので、外部との接触なしに世代ごとの補充がおこなわれると思っている者が多い。神官たちが人間ではなく、地底の地の精であって、永遠に生きつづけ、神自身のように死体を糧にしているのだと考える者もいる。この考えから後にささやかな異説が生まれ、モルディッギアンは神官たちのつくりだした虚構にすぎず、神官たちが死体を喰らっているのだと主張する者もいた。店主はこの異説を口にするや、あわてて信心ぶった仕草をして否定した。
ファリオムはしばらくほかの話題をもちだして雑談をつづけたあと、また街の通りを進みはじめ、斜めに伸びる大通りが許すかぎり、まっすぐ神殿に近づいていった。これという計画を立てていたわけではないが、近辺を調べておきたかった。店主がしゃべったことのなかで、唯一安心させられるのは、神殿がいつも開いていて、その気があれば自由に入れるということだった。しかし訪れる者がめったにいないので、入りこめば不審がられるだろうし、注意を引くことだけは何としてでも避けたかった。一方、神殿から死体を取りもどそうとする試みは前例がないようだった――ズル=バ=サイルの住民が夢にも思わない大胆なことであるらしい。計画の大胆さによって不審の目をかわし、エライスを救い出せるかもしれなかった。
進んでいる道がくだりはじめ、これまでに通ったどの道よりも、細く、暗く、くねくねと曲がるようになった。迷ったような気がして、通りすがりの者にたずねようとしたとき、モルディッギアンの神官四人が、骨と革でつくられた奇妙な担架めいた棺架を運んで、目のまえの古びた路地からあらわれた。
棺架には若い女の遺体が横たわっていた。ファリオムはその女がエライスだと思い、にわかに驚きと興奮のあまり身を震わせた。ふたたび目を向けると、エライスではないとわかった。女のまとっている衣装は、簡素なものではあれ、珍しい異国の布地でつくられていた。顔はエライスのように青白いが、重たげな黒い罌粟《けし》の花弁にも似た巻き毛に縁取られていた。死んでさえも魅力のあるなまめかしい美しさは、熱帯の百合が水仙と異なるように、エライスのブロンドの至純さとはちがっていた。
美しい荷を運ぶ陰気な装いの神官たちを、ファリオムは慎重に距離を置いてひっそりと追った。棺架がやってくると、人びとは畏敬の念のこもる速やかさで道を空けた。神官たちを目にすると、呼び売り商人や、まけるまけないの押し問答をしている者たちの大きな声も静まった。ファリオムは街の住民二人が声をひそめて話しあっているのを耳にして、死んだ女がズル=バ=サイルの行政官である貴顕のクアオスの娘、アルクテラであることを知った。あっというまに不可解にも死んでしまい、美しさをいささかも損なわぬ死の原因は医者にもわからないという。病というより、検出できない毒によるものだと主張する者もいれば、有害な妖術の犠牲者だと思う者もいるらしい。
神官たちは歩みつづけ、ファリオムは目をはなさないようにして、錯綜する通りを進んでいった。道が急勾配になって、下の様子をはっきり見ることもできず、家屋は崖から落ちないように身を寄せあっているかのようだった。ようやく若者は不気味な導き手のあとにつづいて、街の中心にある円形の窪地めいたところにたどりついた。その窪地にはモルディッギアンの神殿が聳《そび》えているだけで、くすんだ縞瑪瑙《しまめのう》の舗石に取り巻かれていた。死体安置所であることを示す糸杉は緑が黒ずみ、遙かな歳月によって残された、消えることのない影によるかのようだった。
堂々とした建物は異様な石で造られ、肉が腐ったような黒ずんだ紫色をしていた。石は真昼のまばゆい輝きも、夜明けや日没の栄光の燦然《さんぜん》たる光も照り返さない。低くて窓がなく、巨大な霊廟《れいびょう》の形をしていた。出入口が糸杉の落とす影のなかにぽっかりと開いていた。
ファリオムは神官たちが幽霊を運ぶ幽霊のように、アルクテラという女を横たえた棺架を運んで出入口に消えていくのを見まもった。いましも周囲の家屋と神殿のあいだの幅広い舗道には誰もいないが、まばゆい日差しのもとで舗道を横切ることはしなかった。巨大な建物に出入口がいくつもあり、すべて門衛もおらずに開け放たれていることを、神殿をひとまわりして知った。神殿には何らの動きもなかったが、大量の蛆が大理石の墓に隠れているように、その壁のなかに隠されているものを思うと、抑えようもなく身が震えた。
納骨所で嘔吐するように、耳にした忌わしい話が白昼のなかで甦り、ファリオムはまたしても気が狂いそうになった。エライスが神殿のなかで死体のあいだに横たわり、不快なものに取り巻かれているにちがいないのに、結果がどうなるかわからない漠然とした救出の計画を実行するには、やきもきしながら闇がくだるのを待たなければならないのだった。そんなあいだにもエライスが目覚めて、まわりのものの恐ろしさに愕然として、本当に死んでしまうかもしれないし……声をひそめて囁かれる話が本当なら、それよりもひどいことが起こるかもしれない……
V
妖術師にして降霊術師であるアブノン=タは、モルディッギアンの神官と取引したことを喜んでいた。当然のことだろうが、おのれほど賢明でない者なら、この取引を可能にするさまざまな手順を考えだして実行することはできなかっただろうと思った。この取引によって、尊大なクアオスの娘アルクテラがアブノン=タの奴隷になる。このようなやりかたで望む女が得られるほど、創意に富む者はいないだろう。アブノン=タはそうひとりごちた。アルクテラは街の若い貴族アロスと婚約していたので、普通なら妖術師の熱望のかなう相手ではなかった。しかしアブノン=タはありふれた凡庸な妖術師ではなく、黒魔術の悍しくも深遠な極意に通暁《つうぎょう》して久しい達人だった。遠くから短剣や毒よりも素早く確実に殺す呪文はもちろん、どれほどの歳月にわたって腐敗したあとであろうと、死体を蘇らせる凶まがしい呪文も知っていた。痕跡を残さない玄妙な稀有《けう》の呪術でもって、見破られることのないやりかたでアルクテラを殺した。いまやアルクテラの死体がモルディッギアンの神殿で他の死体とともに横たわっている。今宵、死に装束をまとう恐ろしい神官たちの黙認のもとで、アルクテラを蘇らせるつもりだった。
アブノン=タはズル=バ=サイルの生まれではなく、巨大な大陸ゾティークの東のいずこかに位置する、半ば伝説と化した悪名高いソタルの島から、かなり昔にやってきた。狡知に長《た》けた貪欲な禿鷲のごとく、死の神殿の闇のなかで地歩を固め、弟子や助手を得て栄えた。
神官たちとの取引は久しくつづく広範囲なもので、今回の取引もこの種のはじめてのものではなかった。妖術の実験のいかなる過程においても、死体を神殿からもちだしてはならぬことをのみ条件として、神官たちはモルディッギアンが殺した死体を一時的に使用することを許した。その特権は神官たちの見解ではいささか型破りなものなので、アブノン=タは買収する必要があると思った――が、黄金によってではなく、黄金よりも不気味で腐敗しやすいものを、たっぷり調達すると約束することによってである。この手配は関係者全員を満足させた。妖術師があらわれてからというもの、死体がいままでよりも数多く神殿に運びこまれた。神は喰らうものに不足することがなかった。そしてアブノン=タは有害な呪文をふるう対象に不足することはなかった。
概してアブノン=タは満悦していた。さらに思案をめぐらし、魔術を究めて狡知に長けていることはさておき、ほとんど前例のないほど勇気を奮い起こさなくてはならないことに思いをはせた。凄まじい涜神行為になる強奪、蘇らせたアルクテラを神殿から連れ出すことをたくらんでいたのである。そのような強奪(死体であれ蘇生されたものであれ)、そしてそれにともなう処罰は、伝説の問題にすぎない。最近起こったことがないからである。一般に信じられているところによれば、強奪を試みて失敗した者の運命は三重に恐ろしいという。降霊術師はおのれの企ての危険に目をつぶっていたのではなかった。また一方で、危険にひるんで躊躇することもなかった。
ナルガイとウェムバ=ツィスという、二人の助手がこの企てを知らされて、ズル=バ=サイルから逃亡する準備をひそかに調えていた。妖術師がアルクテラに抱く強い情熱は、おそらくこの街を離れる唯一の動機ではなかっただろう。アブノン=タは降霊の実験をある意味では容易におこなっていながら、表立って実践することを制限する奇妙な法律にいささかうんざりして、ほかの街に行きたく思っていたのである。南に旅をして、木乃伊《ミイラ》の古ぶるしさと夥《おびただ》しさで名高い帝国、タスーンのどこかの街で身を立てるつもりだった。
いまや日没の刻限になった。神殿の敷地である円形の土地に向かって傾いているように見える、アブノン=タの住む崩れかかった高い館の中庭で、競争用に飼育された五頭の一瘤駱駝が待機していた。一頭は妖術師の最も貴重な典籍、写本、魔術の道具を収めた梱を担《にな》っていた。ほかの四頭はアブノン=タと二人の助手とアルクテラが乗るためのものである。
ナルガイとウェムバ=ツィスが主人のまえにあらわれ、用意万端整ったと告げた。二人ともアブノン=タよりかなり若いが、アブノン=タのようにズル=バ=サイルの生まれではなかった。二人はソタルに引けを取らない悪名高い島、ナートの細い目をした浅黒い民だった。
「よし」二人の助手がまえに立ち、へりくだって報告を終えると、降霊術師がいった。「あとは都合のよい刻限になるのを待つだけだ。日没から月の出にかけて、神官たちが地下の内陣で夕食を取っているときに、神殿に入ってアルクテラの蘇生に必要なことをなす。神官たちは今宵たっぷり喰らうことだろう。多くの死体が一階の巨大な卓で食べごろになっておるし、モルディッギアンも喰らうかもしれぬからな。われらの企てを見にくる者などおらん」
「けれど、ご主人さま」ナルガイが鮮やかな赤橙色のローブに包まれた体を少し震わせていった。「こうすることは賢明なのでしょうか……あの娘を神殿から連れ出さなければならないのですか。これまではいつも神官が許した死体をしばし借りて、求められた状態のまま返すだけで満足されていたではありませんか。神の法に背いて本当によろしいのですか。モルディッギアンの怒りはめったに放たれることはありませんが、他の神々の怒りよりも恐ろしいといわれております。このために、近年はこの神をたぶらかしたり、神殿から死体を奪ったりする者もおりません。遠い昔に、街の貴顕が愛する女の死体を奪い、砂漠に逃げたことがありますが、神官たちがジャッカルよりも速く走って追いつめ……貴顕は伝説さえも漠然としか語らない運命にあったといいます」
「わしはモルディッギアンもその神官も恐れはしない」アブノン=タが声に慢心をこめていった。「わしの駱駝は神官よりも速く走る――一部の者がいっておるように、神官が人間ではなく、食屍鬼であるとしてもな。それに神官がわしらを追うことはまずないだろう。今宵の宴が終われば、飽食した禿鷲のように眠りこむはずだ。翌日神官が目覚めたころには、わしらはタスーンに向かう街道をかなり進んでおる」
「ご主人さまのおっしゃるとおりだ」ウェムバ=ツィスが口をはさんだ。「恐れるものはない」
「けれどモルディッギアンは眠らないといわれております」ナルガイがいった。「神殿の地下の暗い窖《あなぐら》から不断にすべてを見ていると」
「わしも聞いておる」アブノン=タがしたり顔でそっけなくいった。「しかしそのように思われておるのは迷信にすぎぬだろう。死体を喰らう実体の本性を裏づけるものは何もない。これまでのところ、わしは眠っておるモルディッギアンも目覚めておるモルディッギアンも目にしたことはないが、おおかたありふれた食屍鬼にすぎないのだろうて。わしはこうした魔物やその習性に通じておる。やつらがハイエナと異なっておるのは、化け物じみた姿と大きさと不死であることだけだ」
「それでもモルディッギアンを欺くことは、悪しきことだと思うほかありません」ナルガイが声を潜めてつぶやいた。
その言葉をアブノン=タの鋭い耳が捉えた。「いや、欺くということではないのだぞ。わしはモルディッギアンとその神官たちに仕え、彼らの食卓を豊かなものにしてやった。そしてある意味では、アルクテラに関する取引をわしは守ることになる。降霊をおこなう特権の見返りに、新たな死体を提供するのだからな。明日、アルクテラと婚約しておった若いアロスが、アルクテラにかわって死者のあいだに横たわることになる。さあ、立ち去れ。わしはこれから、果物の芯で目覚める蛆がなすように、アロスの心臓を腐らせる呪術を案出しなければならん」
W
興奮して取り乱しているファリオムにとって、雲一つないその日は、死体で塞がれた川のようにのろのろと過ぎていくように思えた。興奮を鎮めることもできないまま、雑踏する市場を漫然と歩きまわっていると、やがて西の塔がサフラン色の空を背景にして暗くなり、家屋のあいだに黄昏《たそがれ》が灰色の凝固した海のように垂れこめた。ファリオムはエライスが病に倒れた宿屋にもどり、家畜小屋に残してあった一瘤駱駝を引きとった。駱駝にまたがって、半ば閉ざされた窓からもれる、ランプや小さな蝋燭のほのかな光にだけ照らされる暗い通りを進み、ふたたび街の中心に向かう道を見つけた。
モルディッギアンの神殿を取り囲む広場に着いたときには、暗い闇が垂れこめていた。広場に面する家屋の窓は閉ざされて、死体の目のように暗く、巨大な闇の塊めいた神殿そのものは、増えまさる星のもとで霊廟のように無明だった。誰も戸外には出ていないようで、静寂はありがたいものだったが、ファリオムは絶えざる脅威と荒寥《こうりょう》の冷たさを感じてぞくっとした。舗石を踏む蹄《ひづめ》の音が驚くほど異常なまでに響き、静寂のなかに身を隠して耳をすましている食屍鬼どもに聞こえたにちがいないと思った。
しかしながら神殿の闇のなかには何らの動きもなかった。密集した糸杉の古木の背後にまわると、ファリオムは駱駝からおりて、低い枝に繋いだ。影のなかの影のように、木々に身を隠しながら細心の注意を払って神殿に近づくと、ゆっくり神殿をまわって、大地の四方に正対する四つの出入口がどれも大きく開け放たれ、警備する者もなく、闇に包まれていることを知った。駱駝を繋いだ東側にもどると、勇気を奮い起こして黒ぐろとした出入口に足を進めた。
敷居を越えるや、ひんやりした湿っぽい闇に呑みこまれ、かすかな腐臭と骨や肉が焼かれたような臭いがした。ファリオムは巨大な廊下にいるのだと思い、右手を壁にあててそろそろと進み、すぐにいきなり曲がり角に達して、遙か前方で廊下の突きあたる中央の聖所とおぼしきところに、青みがかった輝きを目にした。輝きを受けて太い柱が輪郭を描いていた。そこに近づいていくうちに、全身を包みこんだ黒い人影がいくつも聖所を横切り、巨大な頭蓋骨の横顔を見せた。そのうちの二人は人間をかかえて運んでいた。暗い廊下に身を潜めるファリオムには、人影が通りすぎるつど、あたりに漂うかすかな腐臭がつかのま強まるように思えた。
死体を運んだ者のあとには誰もあらわれず、神殿はまた霊廟の静けさを取りもどした。しかし若者は不安と恐怖に身を震わせ、勇気を奮い起こして足を進めるにはかなりの時間がかかった。謎をはらむ死体安置所の圧迫感が空気を濃密にして、有害な瘴気のようにファリオムを息苦しくさせた。ファリオムは耳が堪えがたいほど鋭敏になって、神殿の地下聖堂から上ってくるらしい、ぼんやりした口ずさみや、渾然と入り乱れる低い濁声《だみごえ》を聞きつけた。
ファリオムは廊下の端まで忍び足で進むと、聖所とおぼしきところを覗きこんだ。柱が数多くある天井の低い部屋で、数多くの骨壺めいた容器がほっそりした石柱に置かれ、青みがかった炎が揺らめいていながらも、広い部屋を半ばまでしか照らしていなかった。
ファリオムはその悍しい敷居で躊躇した。腐敗した肉や焼かれた肉の臭いが強く漂い、その源に近づいているような気がしたからである。そしてくぐもった口ずさむような声は、左手の壁のそばの床にある階段から上ってくるようだった。しかし見たところ、部屋には生命の気配もなく、光と影が揺らめくほかには動くものもなかった。ファリオムは部屋の中央に大きな卓の輪郭を目にした。建物と同じ黒い石から切りだされたものだった。その卓に、揺らめく火明かりに半ば照らされ、太い柱の影に半ば隠され、数多くの人間が横たわっていた。その卓がモルディッギアンの喰らう死体を載せた、黒ぐろとした祭壇であるとわかった。
息も詰まりそうなあられもない恐怖が胸中の奔放な希望とせめぎあった。死者の存在によってかもしだされた、冷えびえとした薄気味悪さに襲われて、ファリオムはおののきながら卓に近づいた。卓は長さが三十フィート近くあって、十二本の太い脚に支えられ、高さは腰ほどだった。ファリオムは近くの端から死体の列に沿って歩き、上を向いた顔を一つずつ恐ろしげに見つめた。年齢も地位もさまざまな男女両性の死体があった。貴族や富裕な商人の死体が、襤褸《ぼろ》をまとう乞食の死体にはさまれていた。死んでまもない死体もあれば、死後三日くらいになって、腐敗がはじまっている死体もあった。死体の列には大きな空所がいくつもあって、死体の一部が最近取りのぞかれたことをほのめかしていた。ファリオムはほのかな火明かりのなかで足を進め、愛するエライスの顔を探した。そして奥の端に近づいて、もはやこのなかにいないのではないかと不安に思いはじめたとき、ついにエライスを見いだした。
尋常ならざる病によって謎めいた青白さを帯び、体が硬直したまま、エライスは何の変化もなく冷たい石に横たわっていた。ファリオムの心に感謝の念が生まれた。エライスが死んではいないこと――意識を回復して神殿の恐怖にさらされたわけではないこと――を確信したからである。誰にも見つからずにズル=バ=サイルの憎むべき近郊から連れ去れば、いずれエライスは死を装う病から本復するだろう。
ファリオムは別の女がエライスのそばに横たわっているのに気づき、神殿の出入口までつけてきた神官たちに運ばれていた、美しいアルクテラであることを知った。アルクテラを見返すこともせずに、エライスを抱きあげようとしてかがみこんだ。
そのときこの聖所に入った戸口のほうから低い声が聞こえた。ファリオムは神官の誰かがもどってきたのだと思い、すぐに四つ這いになって、唯一の隠れ場所である巨大な卓の下に潜りこんだ。大きな骨壺の火明かりが届かないところまで退いて、柱のように太い脚のあいだからながめた。
声が次第に大きくなってきて、奇妙にもサンダルをはいた足と短いローブが見えた。三人いて、死者の卓に近づいてくると、ついさっきまでファリオムがいたところで立ち止った。誰なのかは想像もできなかったが、黒ずんだ赤の薄い衣装はモルディッギアンの神官たちの死に装束ではなかった。見られたのかどうかもわからないまま、ファリオムは卓の下の低い空間にうずくまって、短剣を鞘《さや》から引き抜いた。
いまや三人の声を聞き分けることができた。ひとりの声は重おもしくて威厳があり、もうひとりの声は喉にかかった唸るようなもので、三人目の声は甲高くて鼻にかかっていた。訛りは異質なもので、ズル=バ=サイルの住民のものとは異なり、ファリオムの知らない言葉が口にされることもあった。そして言葉のほとんどが聞きとりにくかった。
「……ここだ……端にある……」重おもしい声がいった。「急ぐのだ。ぐずぐずしておる時間はないぞ」
「はい、ご主人さま」喉にかかった声がいった。「しかしこちらの女は誰なのでしょう……実に美しい女ですが」
用心深く声をひそめて話しあわれているようだった。耳をすましているファリオムは、ときおり一語か二語聞きとれるだけだったが、ひとりの男の名前がウェムバ=ツィスで、鼻にかかった甲高い声でしゃべる男がナルガイと呼ばれていることを知った。最後に、ご主人さまとのみ呼ばれる男の重おもしい声がはっきり聞こえた。
「是認できんな……出立が遅れてしまうし……一頭の一瘤駱駝に二人乗せなければならなくなる。しかし助力なしに呪法がおこなえるのであれば、ウェムバ=ツィスよ、その女を連れていくがよい。わしは二つの術をかけるような時間はない。おまえがどれほど熟達しておるかのよき試しとなるだろうて」
ウェムバ=ツィスが感謝しているようなつぶやきがあった。そのあとご主人さまと呼ばれる男が告げた。「いまは静かにして、ことを急ぐぞ」その言葉の意味するところを不安に考えているファリオムには、三人のうちの二人が卓に身を寄せ、死体にかがみこんだように思えた。石の卓に布が擦れる音がしたあと、三人が聖所に入ってきたのとは反対方向になる、柱と石碑のあいだに移動するのが見えた。二人はそれぞれ闇のなかでぼんやりと青白く輝くものを運んでいた。
暗澹《あんたん》たる恐怖がファリオムの心臓を掴んだ。運ばれているものが何であるか――そしてその一方が誰であるか――がはっきりわかったからである。ファリオムは隠れ場所からすぐに這いだし、アルクテラという娘とともに、エライスが黒い卓からいなくなっているのを知った。黒ぐろとした人影が西の壁にさえぎられる闇のなかに消えていくのも目にした。さらっていった者たちが食屍鬼か、さらにひどい存在なのかもわからなかったが、エライスの身を案じるあまり、用心することも忘れてあとを追った。
壁に達すると、廊下に通じる戸口があったので、ためらいもせずにとびこんだ。前方の闇の奥に赤い輝きが見えた。やがて金属のこすれる陰鬱な音がした。そして光の輝きが隙間のように細くなり、光を放っていた部屋の扉が閉められたかのようだった。
ファリオムは闇のなかを進み、赤い光を放つ隙間に達した。黒く変色した青銅の扉が少し開いていて、漆黒の台座に置かれた高い骨壺からゆらゆらと炎が燃えあがり、血のように赤い炎に照らされて、異様かつ邪悪な光景が目に入った。
部屋は感覚を喜ばせる贅沢な品にあふれ、死の神殿のくすんだ陰湿な石と不思議にも調和していた。素晴しい模様に飾られる、朱色、金色、空色、銀色の寝椅子や絨毯《じゅうたん》があった。宝石の鏤《ちりば》められた未知の金属の香炉が奥の隅にあった。片側にある低い卓には、奇妙な瓶をはじめ、医学や妖術で使用されるのかもしれない器具が散らばっていた。
エライスは寝椅子の一つに横たえられ、近くにあるもう一つの寝椅子には、アルクテラという娘が横たわっていた。この二人を拉致した者たちの顔を、ファリオムはついにはじめて目にした。彼らが忙《せわ》しげに何らかの準備をしているありさまを見て、ファリオムはひどく困惑した。一種の驚きに心を奪われて立ちつくしてしまい、部屋に入りこみたいという衝動も抑えられた。
三人のなかのひとり、ご主人さまと呼ばれた者らしい長身の中年の男が、小さな火鉢や香炉を含め、特異な容器を集めて、それらをアルクテラのそばの床に置いた。二人目の細い目をした好色そうな若い男が、同じような品をエライスのまえの床に置いた。三人目の若くて邪悪そうな面つきの男は、じっと立って不安そうにながめているだけだった。
長く実践しつづけたことから生じる手際のよさで、二人が火鉢と香炉に火を付け、聞いたこともない言語の言葉を一様の調子で唱えはじめ、規則正しい間隔を置いて黒い油を火鉢に垂らし、火鉢の炭がじゅっと鳴って、真珠色の煙が朦々《もうもう》と上がったので、ファリオムは彼らが妖術師だと察した。香炉から黒い糸のような蒸気が蛇のようにくねくねと上り、気体からつくられる幽霊めいた巨人のような、朦朧《もうろう》とした奇形のものの血管のように絡みあった。堪えがたいほど刺戟的なバルサム樹脂の煙が部屋を満たし、ファリオムの感覚を襲って苦しめ、ついには目にする情景が揺らめいて、夢のような弘大さ、麻薬によるような歪みをもつにいたった。
降霊術師の声が何やらん邪悪な讃歌をうたっているかのように、高くなったり低くなったりした。二人は尊大かつ性急に、禁断の冒涜行為の完了を求めているようだった。死んだ娘と死んでいるように見える女が横たわる寝椅子のまわりに、蒸気が朦々と立ち上るありさまといえば、悪辣な生命を帯びて身をよじる幽霊が群れているようだった。
やがて有害な渦を巻く蒸気が引き裂かれたとき、ファリオムはエライスの青白い姿が眠りから目覚めたかのように動き、目が開いて、豪華な寝椅子から片手が上がるのを見た。若いほうの降霊術師が急に口をつぐんで、呪文を唱えるのをやめたが、もうひとりの降霊術師の厳かな呪文はなおもつづき、ファリオムは手足と感覚を呪縛されて身動きもできなかった。
蒸気が消えゆく幽霊のようにゆっくりと薄らいでいった。ファリオムはアルクテラという死んだ娘が夢遊病者のように立ちあがるのを目にした。そのまえに立つアブノン=タの詠唱が大きく響き渡って終わった。そのあとにつづいた悍しい沈黙のなかに、エライスの弱よわしい悲鳴が聞こえ、エライスにかがみこむウェムバ=ツィスの勝ち誇った唸り声がつづいた。
「ご覧あれ、ああ、アブノン=タさま、わたしの呪法のほうが早く効きましたぞ。わたしの選んだ女はアルクテラよりも早く目覚めましたから」
ファリオムは邪悪な妖術が解けたかのように、麻痺状態から解放された。蝶番《ちょうつがい》をきしませ、大きくて重い黒ずんだ青銅の扉を押し開けた。短剣を引き抜いて部屋にとびこんだ。
困惑の目をしていたエライスがファリオムに顔を向け、寝椅子から身を起こそうと、はかない努力をした。アブノン=タのまえで無言でおとなしくしているアルクテラは、降霊術師の意志にのみ注意を向けているようだった。魂のない美しい自動人形のようだった。ファリオムが部屋にとびこむや、妖術師たちはたちまち機敏に動き、ファリオムが襲いかかるよりも素早く、身に帯びていた恐ろしく湾曲した短い刀を抜いた。ナルガイが猛烈な一撃をくわえ、薄い刃を柄から折って、ファリオムの手から短剣を叩きとばした。アブノン=タが介入して止めなかったら、武器を振りあげていたウェムバ=ツィスがファリオムを速やかに殺していただろう。
ファリオムは振りあげられた刀のまえで、激高しながらも煮えきらずに立ちつくし、夜盲症の猛禽の目を思わせるアブノン=タの不気味に探るような目を意識した。
「この闖入《ちんにゅう》が意味するところがわかるぞ」降霊術師がいった。「モルディッギアンの神殿に入りこむとは、まさしくおまえは大胆な男だ」
「わたしはそこに横たわっている女を見つけにきた」ファリオムはきっぱりといった。「あれはわたしの妻のエライスで、神に不当に奪われたのだ。しかし教えてくれ。どうしてエライスをモルディッギアンの卓からこの部屋に運んだのか。そこの女のような死者を蘇らせるおまえたちは何者だ」
「わしは降霊術師のアブノン=タで、この二人は弟子のナルガイとウェムバ=ツィスだ。師をしのぐ伎倆《ぎりょう》で死の領域からおまえの妻をもどらせたのだから、ウェムバ=ツィスに感謝することだな。招喚が終わるまえに目覚めたのだから」
ファリオムは和らぐことのない不審の目でアブノン=タを睨みつけた。「エライスは死んではおらず、全身が麻痺していただけだ」きっぱりといった。「エライスはおまえの弟子の妖術で目覚めたのではないぞ。それに、エライスが死んでいるか生きているかは、わたしだけが気にすることだ。わたしたちを行かせてくれ。わたしたちは旅人にすぎず、わたしはエライスを連れて、ズル=バ=サイルをあとにしたいのだ」
ファリオムはそう告げると、降霊術師たちに背を向け、エライスが横たわっているところに行った。エライスはぼんやりした目で見つめたが、ファリオムに抱かれると、弱よわしくファリオムの名前を呼んだ。
「これは驚くべき偶然だな」アブノン=タが満足げにいった。「わしと弟子たちもズル=バ=サイルから立ち去るつもりで、今宵出発するのだ。おそらく同行するのがよいのではないか」
「申し出は感謝する」ファリオムはそっけなくいった。「しかし同じ道を進むとは限らないだろう。エライスとわたしはタスーンに行くのだ」
「モルディッギアンの黒い祭壇にかけて、またしても不思議な偶然だといわざるをえないな。わしらの目的地もタスーンなのだから。わしらは蘇ったアルクテラを連れていく。あまりにも美しくて、死体の神や食屍鬼どもにはやれんからな」
ファリオムは降霊術師のなめらかな嘲《あざけ》りの言辞の背後に暗澹たる邪悪が潜んでいるのを見抜いた。アブノン=タが弟子にこっそり合図したのも目にした。武器がないので、冷笑のこもる申し出に同意するほかなかった。生きて神殿を離れられないこともわかっていた。まじまじと見つめるナルガイとウェムバ=ツィスの細い目が、血に飢えた殺意で輝いていたからである。
「さあ」アブノン=タが尊大な命令口調でいった。「行くぞ」じっと立っているアルクテラに顔を向け、未知の言葉を発した。アルクテラが虚ろな目をして、夢遊病者のような足取りで、戸口に向かって進みだすアブノン=タのあとにつづいた。ファリオムはエライスを立ちあがらせ、エライスの目に浮かぶ恐怖と混乱を鎮めようとして、安心させる言葉を囁いた。エライスは歩くことができたとはいえ、ゆっくりした頼りない足取りだった。ウェムバ=ツィスとナルガイがうしろにさがり、ファリオムとエライスに先に行くように合図したが、ファリオムは二人に背を向けしだい殺されると思い、したがうのをしぶりながらあたりに目を向け、武器になるものはないかと探した。
燻《くすぶ》る炭に満ちた金属製の火鉢が足もとに一つあった。ファリオムは素早くかがみこむと、火鉢を両手で掴みあげ、降霊術師たちに振り返った。予想していたように、ウェムバ=ツィスが刀を振りあげてこっそり近づき、攻撃しようとしていた。ファリオムが火鉢を投げつけると、輝く炭が顔にあたって、ウェムバ=ツィスが喉にかかった恐ろしい悲鳴をあげて倒れこんだ。ナルガイが獰猛《どうもう》な唸り声をあげてとびだし、身を守る手立てのない若者に襲いかかった。新月刀が振りあげられて、骨壺のまばゆい光を受けて不気味にぎらついた。しかし武器が振りおろされることはなかった。死を目前にして身をこわばらせていたファリオムは、ナルガイが自分の背後を見すえ、ゴルゴーの幽霊にでも石化させられたかのようになっているのを知った。
自分のものとは異なる意志に動かされているかのように、ファリオムは振り返り、ナルガイの攻撃を止めたものを目にした。戸口で立ちつくしているアルクテラとアブノン=タは、部屋のなかのものによってつくられたのではない、巨大な影を背景に輪郭を描いていた。その影は戸口を塞ぎ、|※[#「木+眉」、第3水準1-85-86]《まぐさ》を越えて聳えていた――そして速やかに影以上のものになった。黒くて不透明な闇の塊でありながら、どういうわけか不思議なまばゆさで目をくらませた。赤い骨壺から炎を吸いとって、部屋に死と無の冷気を放っているようだった。その姿はドラゴンのごとく巨大な蛆めいた円柱形で、廊下の闇から伸びているのだが、暗黒の茫漠たる歳月の渦動エネルギーによるかのように、渦を巻いて旋回しながら、刻一刻と変化しつづけた。つかのま目のない頭部と手足のない胴体を具えた魔物じみた巨人になったあと、朦々たる煙を出す炎のように広がって、部屋に入りこんできた。
アブノン=タが呪いの言葉か悪魔祓いの言葉をつぶやきながら、後方に倒れこんだが、蒼白でほっそりして微動もせずにいるアルクテラは、その場に留まったまま、そのものに包みこまれて呑みこまれ、まったく見えなくなった。
気を失いかけているかのように、ぐったり凭《よ》りかかるエライスを支えているファリオムは、動く力もなかった。殺意を抱いているナルガイのことも忘れ、死と融解の具現をまえにして、自分とエライスが儚《はかな》い影のようだと思った。黒ぐろとしたものが赤い炎を燃えあがらせて大きくなりながら、アルクテラを包みこんでいた。そしてファリオムはそれが暗黒の太陽の残像のように、くすんだ虹色の渦を巻きながら輝くのを目にした。一瞬、炎がはぜるような小さなつぶやきが聞こえた。そして恐ろしくも速やかに、それは部屋から退いていった。アルクテラの姿はなかった。空中に浮かんでいた幽霊が消えたかのようだった。妙に熱気と冷気が入り乱れた突風に運ばれて、火葬の薪が燃えつきたところから立ち上るような、鼻を刺す臭いが押し寄せた。
「モルディッギアンだ」ナルガイが恐怖に打たれて、甲高い声で逆上したように叫んだ。「あれがモルディッギアンだ。神がアルクテラを連れ去った」
その叫びが何十もの嘲笑する谺《こだま》のように応えられ、ハイエナの咆哮のように非人間的なものだったが、言葉ははっきり発音されて、モルディッギアンの名前が繰り返された。そして暗い廊下から一群のものが部屋に入りこみ、ファリオムの目には、菫色のローブによって食屍鬼の神の神官だとわかった。彼らは頭蓋骨めいた仮面をはずして、頭と顔をさらけだし、人間のようにも犬のようにも見えながら、全体としては凶まがしいものだった。彼らは指のない手袋もはずしていた……少なくとも十人はいた。赤い火明かりのもとで、湾曲する鉤爪が黒ずんだ金属の鉤のように輝いた。棺の釘よりも長い尖った歯が、大きく開けられた口から突き出ていた。彼らはアブノン=タとナルガイをジャッカルのように丸く取り囲み、奥の片隅に追いこんだ。遅れてやってきた数人が、意識を回復して火鉢の炭が散らばる床で呻きながら身悶えしているウェムバ=ツィスに、獣の獰猛さで襲いかかった。
恐ろしい麻痺に囚われているかのようにながめているファリオムとエライスを、彼らは無視しているようだった。しかし最後にあらわれた神官が、ウェムバ=ツィスに襲いかかるまえに、若い夫婦に顔を向け、墓に反響する遠吠えのように虚ろでかすれた声でいった。
「行け。モルディッギアンは公正な神であり、死者のみを求め、生ける者にはかまわない。われらモルディッギアンの神官は、神殿から死体を奪おうとして神の法を破った者を、われらのやりかたで処分する」
ファリオムはエライスに肩を貸して暗い廊下に出た。人間の悲鳴がジャッカルのような唸り声やハイエナのような笑い声と混じり合う、恐ろしい騒ぎが聞こえていた。二人が青く照らされる聖所に入り、外に通じる廊下を進んでいると、騒ぎが止んだ。二人があとにしたモルディッギアンの神殿の静寂は、黒ぐろとした祭壇の死体の沈黙のように深いものだった。
[#改丁]
暗黒の魔像
[#改ページ]
[#ここから4字下げ]
果てしない炎と闇のなかで、
窖《あなぐら》から窖へと巨体をくねらせ、
一匹の蛇が住みつく、
七つの地獄の支配者たるタサイドンよ、
地下の空の太陽たるタサイドンよ、
古来の邪悪は絶えることがない。
いかにも陰鬱な光輝が
地底に没した名もなき世界で燃え盛り、
偽りの妖術師どもが冒涜行為をなそうとも、
人の心が汝をなおも至高の存在として崇めるからである。
[#ここから22字下げ]
クセートゥラの歌
[#ここで字下げ終わり]
[#改ページ]
地球最後の大陸であるゾティークでは、太陽はもはや最盛期の白光を放たず、血の蒸気に包まれているかのようにぼんやりと曇っていた。数えきれない新たな星が天にあらわれ、無限の影が降りくだっていた。そしてその影のなかから、かつての神々が人間のもとにもどった。ヒュペルボレオス、ムーやポセイドニス以来の忘れ去られた神々が、別の名前と同じ属性を具えてもどったのである。そしてそのかみの魔神たちももどり、邪悪な生贄の蒸気を喰らって、ふたたび原初の妖術を育《はぐく》んだ。
ゾティークには降霊術師や妖術師が数多く、彼らの所業の悪名と驚異は後世いたるところで伝説となった。しかしそうした者たちのなかでも、ナミッラほど偉大な者はなく、クシュラクの街という街を凶まがしくも支配したあげく、驕《おご》り高ぶる興奮状態におちいって、おのれが邪悪の支配者タサイドンに紛れもなく匹敵すると思うにいたった。
ナミッラはタスーンの砂漠地帯から、砂漠の嵐の砂煙のように、暗澹《あんたん》たる魔術の評判を携えて、クシュラクの首都ウッマオスにあらわれ、その地に館を建てた。誰もがナミッラはタスーンの生まれだと思っているので、ウッマオスに来ることが生地にもどることにほかならない事実を知る者はなかった。実をいえば、大妖術師がいかがわしい両親の孤児で、ウッマオスの通りや市場で日々に物乞いをしていた少年ナルトスであったとは、誰も夢にも思わなかったのである。ナルトスは蔑まれて、ひとりきりで惨めに暮らしつづけ、残酷な富める街に対する憎悪が心中ひそかに育まれて、残り火のようにすべてを焼きつくす大火災になる時節を待っていた。
幼いころから青年期のはじめにかけて、ナルトスは常に人に対して苦にがしい恨みや怒りを抱いていた。ある日、同年齢の王子ゾトゥッラが御しがたい普通乗用馬に乗って、堂々たる宮殿のまえの広場にあらわれ、ナルトスを目にした。ナルトスは施しを求めた。しかしゾトゥッラはナルトスの訴えを無視して、拍車をかけて馬を尊大に進めさせた。ナルトスは蹴り倒されて、蹄《ひづめ》で踏みつけられた。その後、馬に踏みつけられて瀕死のありさまで、何時間も意識を失って倒れこんでいるあいだ、人びとはまったく見向きもせずに通りすぎていった。ようやく意識を取りもどしたナルトスは、ほうほうの体《てい》で荒家《あばらや》に帰ったが、その後は片足を引きずるようになり、蹄の跡が一つ、焼印のように体に残って、薄らぐことはなかった。やがてナルトスがウッマオスを離れると、たちまちのうちに忘れ去られた。ナルトスはタスーンに向かって南に進み、弘大な砂漠で迷って死にそうになった。しかしようやく小さなオアシスに行きあたった。そこには人間とつきあうよりも、正直なハイエナやジャッカルを好む隠者、魔道士のオウファロクが住んでいた。オウファロクは痩せこけた若者に大なる狡猾さと邪悪さがあるのを見抜き、ナルトスを助けて保護した。ナルトスは何年もオウファロクのもとで暮らし、魔道士の弟子になって、オウファロクが苦労して魔物どもから得た知識を継承した。人里離れた隠者の庵《いおり》で尋常ならざることを学び、潤った大地から育つものではない果実や穀物を食べ、地上の葡萄のものではない葡萄酒を飲んだ。そしてオウファロクのように、魔物の支配者となり、大魔王タサイドンと契りを結んだ。オウファロクが死ぬと、名前をナミッラと改め、タスーンの放浪の民や深く埋められた木乃伊《ミイラ》のあいだで、強大な妖術師として名を高めた。しかしウッマオスでの幼いころの惨めな思いや、ゾトゥッラのひどい仕打ちを忘れることはできず、何年ものあいだ暗澹たる復讐の陰謀をめぐらしつづけた。評判が不気味に広まるにつれ、タスーンから遠く離れた土地でも恐れられるようになった。ヨロスのさまざまな街や、食屍鬼めいた神モルディッギアンの住まうズル=バ=サイルにおいても、ナミッラの行状が声をひそめて語られた。そしてナミッラがあらわれる遙かまえから、砂漠の熱風や疫病よりも恐ろしい伝説の災難めいたものとして、ウッマオスの民もナミッラを知っていた。
さて、若いナルトスがウッマオスを立ち去ってから幾星霜《いくせいそう》が流れるうち、ある秋の夜に温もりを求めて寝台に忍びこんだ小さな鎖蛇に噛まれ、ゾトゥッラ王子の父ピタイムが亡くなった。その鎖蛇を調達したのはゾトゥッラだという者もいたが、誰にも立証できぬことだった。ピタイムの死後、ひとり息子のゾトゥッラがクシュラクの皇帝となり、ウッマオスの玉座から圧政をおこなった。ゾトゥッラは怠惰にして専横で、尋常ならざる驕りと残虐性に満ちていたが、民も邪悪な者ばかりで、下劣にもゾトゥッラを歓呼して迎えた。かくしてゾトゥッラは栄え、地獄や天国の諸侯もゾトゥッラを懲《こ》らしめようとはしなかった。そして赤い太陽と灰色の月がいくたびもクシュラクを越えて西に向かい、めったに船が航海することのない海に沈んでいった。船乗りの話が真実であるとすれば、この海は勢いを増す奔流のように、悪名高いナートの島を越えて不断に流れ、遙か遠くのこの世の果てから、世界規模の大|瀑布《ばくふ》となって地底に流れ落ちるのだという。
ゾトゥッラはますます栄え、その罪は底知れぬ深淵の上で熟して膨れあがった果実のようであった。しかし時の風は穏やかに吹き、果実が深淵に落ちることはなかった。そしてゾトゥッラは道化や宦官《かんがん》や寵姫《ちょうき》に囲まれて笑った。ゾトゥッラの驕り高ぶるありさまは遠くまで伝わり、遙かな遠隔地の者たちは、ナミッラの名高い降霊術とともに、二つの驚異として語りついだ。
時がめぐり、ハイエナの年の天狼星の月に、ゾトゥッラがウッマオスの民草のために大祝宴を催した。肉は東の島ソタルの風変わりな香辛料で料理され、いたるところに配膳された。地底の炎が満たされているような、ヨロスとクシュラクの強い葡萄酒が、巨大な壺から無尽蔵にふるまわれた。葡萄酒は莫迦騒ぎと王家の狂気を目覚めさせた。さるほどに黄泉《よみ》のレーテー河にも匹敵する深い眠りをもたらした。そして飲みつづけるうちに、浮かれ騒ぐ者たちはひとりまた一人と、疫病に襲われたかのように、通りや住居や庭園で眠りこんだ。ゾトゥッラは黄金と黒檀《こくたん》を使った宴会の広間で女奴隷や侍従に取り巻かれて眠りこんだ。かくして天狼星が西に沈みはじめたとき、ウッマオスで目覚めている者はひとりもいなかった。
このようなわけで、ナミッラの到来を見たり聞いたりした者はいなかった。しかし翌日の正午前に、皇帝ゾトゥッラは大儀そうに目覚め、自分より先に起きた宦官や女どもが不安そうにかわしあう、うろたえた言葉を耳にした。いかがしたのかと問いただし、夜のあいだに不思議なことが起こったことを告げられたが、いまだ葡萄酒と睡眠によって頭が働かず、いかなる性質のものかも理解できなかった。やがて気に入りの側室オベクサーに宮殿の東の前廊に連れていかれ、驚くべきものをおのれの目で見ることになった。
いまやウッマオスの中心に聳《そび》えているのは宮殿だけではなかった。北と西と南には、かなりの距離を置いて、素晴しい弧を描く椰子《やし》や高だかと水を噴きあげる噴水にあふれた、宮殿の庭園がいくつも広がっているのだが、東は何もない空き地にされて、宮殿と高官たちの館のあいだの共有地にされていた。昨夜には何もなかったその場所に、一晩で育った化け物じみた石の茸のような円蓋を戴く、巨大な堂々たる建物が、昇りつめた太陽のもとで聳えていたのである。そしてゾトゥッラの宮殿の塔と同じ高さで聳える円蓋は、純白の大理石で造られていて、多くの柱のならぶ前廊や奥行きのある露台を擁する巨大な前面は、麒麟血《きりんけつ》で色づけられたかと思えるほどの斑岩と、夜の闇のように黒い縞瑪瑙《しまめのう》が交互に使用されていた。ゾトゥッラは卑しく毒づき、冒涜の言辞を連ねてクシュラクの神々や魔物の名を唱えた。この驚異を魔術のしわざと見て、唖然としたのである。女たちがゾトゥッラのまわりに集まって、畏怖や恐怖のこもる甲高い声をあげた。廷臣たちの多くが目覚め、あれやこれやと騒ぎたてた。去勢された肥満体の男性歌手たちは、金色の衣服でよろよろ歩き、黄金の鉢に入れられた巨大な黒いゼリーのようだった。しかしクシュラク全土の皇帝としての支配権を意識するゾトゥッラは、狼狽を隠そうとしてこう述べた。
「ジャッカルのように闇に紛れてウッマオスに入りこみ、わが宮殿の面前に不遜な館を建てたのは何者だ。極悪人の名前を調べてこい。しかし出かけるまえに、両手もちの剣を研いでおくよう、首切り役人長に伝えよ」
ぐずぐずしていれば皇帝の怒りがくだりかねないので、一部の侍従がしぶしぶ宮殿を離れ、不思議な建物の玄関に近づいた。そばに寄るまで玄関は無人のように思えたが、やがてこの世のいかなる人間よりも背が高い、巨大な骸骨が戸口にあらわれ、一エルの歩幅で出迎えにきた。骸骨は真紅の絹の腰布を漆黒の締め金具で留め、金剛石を鏤《ちりば》めた黒いターバンを頭に巻き、その頂きは高い|※[#「木+眉」、第3水準1-85-86]《まぐさ》にふれそうだった。沼に揺らめく鬼火のような目が深い眼窩《がんか》で燃えていた。亡くなって久しい者のような黒ずんだ舌が歯のあいだから突き出ていた。しかしそれ以外はまったく肉がなく、太陽のもとに進みでると、骨が白く輝いた。
侍従たちは骸骨をまえにして黙りこくり、わなわなと身を震わせることで、黄金の飾帯がきしんだり、絹の衣装がさらさら鳴ったりする音が聞こえるだけだった。そして骸骨が足の骨で漆黒の縞瑪瑙の敷石を踏みつけ、鋭い音を立てて立ち止った。腐敗する舌を歯のあいだで震わせ、いやに気取った不快な声でこう告げた。
「お帰りになって、ゾトゥッラ皇帝にお伝えあれ。賢者にして魔術師であるナミッラが、おそばに住まいするためにやってきたと」
骸骨が生きている人間のようにしゃべるのを聞き、どこかの陥落した都市で破滅の警鐘を耳にするように、恐るべきナミッラの名前を耳にしたことで、侍従たちはもはやその場にいられず、あわてふためいて逃げ帰り、ゾトゥッラに伝えた。
ウッマオスで誰が間近に住むようになったかを知ると、皇帝の怒りは弱よわしく揺れる炎に闇の風が吹きつけたように消え、葡萄酒によって紫色に染まる頬に奇妙な青白い斑紋が生じた。ゾトゥッラは何もいわなかったが、その唇は祈っているか呪っているかのように漫然と動いた。ナミッラがやってきたという知らせは、凶まがしい夜鳥の飛行のように宮殿や街じゅうに広まり、最後のときにいたるまでウッマオスに垂れこめることになる有害な恐怖を残した。奇跡めいた妖術をふるい、恐ろしい実体を使役しているという暗澹たる噂によって、ナミッラは世俗の君主が反抗しえない権力者になっていたからである。地獄や果てしない宇宙の巨大で朦朧《もうろう》とした支配者を恐れるかのごとく、ありとあらゆる土地でナミッラは恐れられた。そしてウッマオスでは、ナミッラが従僕どもとともに、疫病のごとく砂漠の風に乗ってタスーンから到来し、魔物どもに助けられて、ゾトゥッラの宮殿のそばに一時間で館を建てたといわれるようになった。ウッマオスの民が告げるには、館の土台は地獄を覆う不動の岩盤に据えられ、館の床には穴がいくつもあって、その底には地獄の炎が燃えあがっているか、深更に空をよぎる星が映じるのだという。さらにナミッラの従僕たちといえば、未知の王国の死者、空と大地と深淵の魔物、妖術師自身が禁断の結合からつくりだした混合生物であるとのことだった。
人びとはナミッラの堂々たる館の近辺にさえ足を向けようとはしなかった。ゾトゥッラの宮殿では、その館を望む窓や露台に近づく者もなかった。皇帝自身は闖入《ちんにゅう》者を無視するふりをして、ナミッラのことは口にしなかった。後宮の女たちはナミッラとその囲い女たちにかかわる悪意のこもった噂話を取り沙汰した。しかし妖術師本人が街の住民に見かけられることはなかったが、姿を消して自在に歩きまわれるのだと思う者もいた。ナミッラの従僕たちも見かけられることはなかったが、亡者を思わせる泣き叫ぶような声が館の出入口から聞こえることもあれば、不動の像が高らかに笑っているかのような、唖然とするような咲笑や、凍りついた地獄で氷が砕けるような、くっくっと笑う声が聞こえることもあった。陽光も火影《ほかげ》もないときに、ぼんやりした影が前廊で動いた。夕暮れには魔物がまばたきしているように、不気味な赤い光が窓で明滅した。そして燠《おき》のような色をした太陽がゆっくりとクシュラクの上空をめぐって遙かな海に沈み、灰色の月が夜ごと黒ずみながら隠れた深淵に沈む日々がつづいた。やがて妖術師が公然と邪悪をおこなうこともなく、妖術師の存在によって歴然たる害をこうむる者もいないことがわかると、ウッマオスの民は気を取り直した。ゾトゥッラは以前のように葡萄酒を鯨飲し、浮世を忘れる愉悦に耽った。あらゆる堕落の支配者である暗黒のタサイドンが、そう認められたことはないとはいえ、クシュラクの真の君主だったのである。そしていつしかウッマオスの民は、ゾトゥッラの王としての悪行を誇っていたように、ナミッラとその恐るべき妖術をいささか自慢するようになった。
しかしナミッラはいまだ人のまえに姿を見せぬまま、魔物どもに建てさせた館の奥の広間に座して、暗澹たる復讐に思いをはせていた。そしてウッマオスのいずこにも、物乞いたちでさえ、同じように物乞いをしていた少年ナルトスをおぼえている者はいなかった。かつてゾトゥッラがナルトスになした非道は、皇帝が忘れ果てた残酷な行為のなかでも微々たるものでしかなかった。
さて、ゾトゥッラの恐怖がいささか鎮まり、後宮の女たちも間近に住む妖術師を話題にすることが少なくなったころ、新たな驚異と恐怖が起こった。ある夜、廷臣たちとともに食卓についていた皇帝は、おびただしい蹄の蹄鉄が宮殿の庭園を踏み鳴らしているような音を耳にした。廷臣たちも聞きつけ、酔いをつのらせながらも驚いた。皇帝は激怒して、騒ぎの原因をつきとめるべく、何人かの衛兵を調べにいかせた。しかし蹄の音がけたたましくなおもあちこちで鳴り響いているというのに、月に明るく照らされる芝生や花壇に目をこらしても、衛兵の目には何も見えなかった。それなのに、野生馬が一団となって、疾走したり跳びはねたりしながら、宮殿のまえを行きつもどりつしているかのようだった。目をこらし耳をすます衛兵たちは恐怖に襲われ、庭園に入りこむこともせず、ゾトゥッラのもとにもどった。皇帝はこの知らせを聞くと、たちどころに酔いも醒め、空威張りをしてこのあやかしを調べにいった。そしてその夜が明けるまで、不可視の馬の蹄が縞瑪瑙の舗石に高らかに鳴り響き、芝生や花を踏みつけて駆けめぐりつづけたのである。風もないのに椰子の葉が揺れ、疾走する馬が掻き分けているかのようだった。茎の長い百合や花弁の大きな異国の花が、まざまざと踏みつぶされていった。ゾトゥッラは庭園を見おろす露台に立ち、幽霊めいたものの騒ぎを耳にし、稀世の庭園が蹂躙《じゅうりん》されるのを目にして、怒りと恐怖がこもごもに胸にこみあげてきた。女や廷臣や宦官がゾトゥッラの背後で身を縮め、宮殿にいる者はもはや眠ることもできなかったが、夜が明けそめるころ、蹄の轟きが庭園を離れ、ナミッラの館のほうに去っていった。
夜明けの光がウッマオスを明るく照らすと、皇帝は衛兵をしたがえて庭園に入り、蹄に押しつぶされた芝や折られた茎が、炎に焼かれたかのように黒ずんでいるのを知った。芝生や花壇のいたるところに、大群の馬が通ったような跡がおびただしく残っていたが、庭園の縁で途絶えていた。誰もがナミッラのしわざだと思ったが、妖術師の館の前庭にはこれを裏づける証拠はなかった。芝生はまったく乱れていなかったのである。
「これがナミッラのしわざなら、まこといまいましい奴だ」ゾトゥッラが叫んだ。「わしがナミッラに何をしたというのだ。わしの血のように赤いソタルの百合や、わしの血管の色をしたナートの菖蒲や、愛咬の跡のように紫色をしたウッカストログの蘭に、あの地獄の馬どもがなしたように、必ずやあの野良犬の首を踏みつけ、拷問の刑車にかけてやる。ああ、あやつがタサイドンのこの世の副王を任じ、一万の魔物をしたがえていようとも、刑車にかけて骨を折り、炎によって白熱した刑車で、花が焼けたように黒ずむまで、身悶えさせてやらずにおくものか」ゾトゥッラはそう誇らしげにいったが、刑の執行を命じはしなかった。宮殿からナミッラの館に向かう者もなかった。そして妖術師の館からは誰もあらわれなかった。あらわれたとしても、姿は見えず、音もしなかった。
このようにしてその日も終わって夜になり、いつもより縁がやや黒ずんだ月が昇った。夜は深閑としていた。ゾトゥッラは長いあいだ食卓について、怒りにまかせて葡萄酒の杯を重ねながら、ナミッラをどんな目にあわせるかについてあれこれつぶやいた。夜も更けゆき、ふたたび怪異が起こることもなさそうに思えた。しかし真夜中に、オベクサーとともに寝所に横たわり、葡萄酒のせいでぐっすり眠りこんでいると、宮殿の前廊や長い露台を駆けまわる途方もない蹄の音がして、ゾトゥッラは目を覚ました。夜通し蹄の音が轟いて、穹窿《きゅうりゅう》天井の石造りの宮殿に恐ろしく響き渡るなか、ゾトゥッラとオベクサーは寝具に包まれ、身を寄せあって耳をすました。宮殿にいる者たちはすべて、その音に目覚めて震えあがり、自分の部屋から一歩たりとも出ようとはしなかった。夜が明けようとするころに、蹄の音がはたと止んだ。そして太陽が昇ると、蹄の跡が前廊や露台の大理石の敷石に見いだされた。その数はおびただしく、深く刻まれて、炎によるものであるかのように黒ずんでいた。
皇帝は蹄の跡の残る床を目にしたとき、その頬が斑《ふ》入りの大理石のようになった。怪異がいつまでつづくとも知れないので、恐怖がつきまとって離れず、酩酊しても消えなかった。寵姫たちは声をひそめて話しあい、ウッマオスから逃げ出したがる者もいた。その日の昼と夜の宴会は不吉な翼めいたものに翳《かげ》らされ、黄金に輝く葡萄酒を飲んでも不快を残し、金色《こんじき》まばゆいランプを曇らせた。そして真夜中頃に、ゾトゥッラはまたしても蹄の音に眠りを破られた。馬たちは宮殿の屋上や廊下や広間を駆けまわっているようだった。その後、夜が明けるまで、蹄鉄の音が宮殿内に轟き、一番高い円蓋にまで虚ろに響きわたるありさまといえば、神々の駿馬《しゅんめ》が途方もない行進をなして、天から天へと移動しているかのようだった。
寝所の外の廊下を恐ろしい蹄の音が行き来しているあいだ、ゾトゥッラとオベクサーはともに横たわっていたが、淫行に思いをいたすこともなければ、間近にいる相手に慰めを見いだすこともなかった。夜明け前の灰色に包まれた刻限に、寝所の鎖《とざ》された真鍮の扉に耳が劈《つんざ》けそうな音がした。たくましい種馬が後脚で立って、前脚を叩きつけたかのようだった。そのあとすぐに蹄の音は消えて、凶運という名の嵐が中断したような沈黙が垂れこめた。その後、蹄の跡が廊下のいたるところに見いだされ、明るいモザイク模様の敷石が損なわれていた。金糸を使った絨毯《じゅうたん》や銀や朱の絨毯に焼け焦げた黒い穴があった。高く聳える白い円蓋も痘痕《あばた》のように穴だらけだった。ゾトゥッラの寝所の真鍮の扉のかなり高い箇所にも、馬の前脚の蹄の跡が深く残っていた。
いまやウッマオスのみならず、クシュラク全土にこの幽霊譚が知れ渡り、不吉な変事だとみなされたが、その解釈はさまざまに異なっていた。王や皇帝よりも優越していることを示すものとして、ナミッラが送りこんだと主張する者もいれば、遙か東のティナラスで身を起こし、ナミッラに取って代わろうとする新しい魔道士の放ったものだと考える者もいた。そしてクシュラクの神々の神官たちは、神殿にさらなる生贄が必要なことを示すため、神々が送り給うたものだと主張した。
やがてゾトゥッラは、紅玉髄と碧玉の床が不可視の蹄に無残なまでに穴だらけにされた謁見の間に、数多くの神官や魔術師や予言者を招集して、変事の原因を明らかにして悪魔祓いの方法を案出せよと命じた。しかし意見がまとまらないのを見てとると、いくつかの宗派の神官たちにさまざまな神々への生贄を与えて追い払った。そして魔術師と予言者には、ことわれば首を刎ねると脅して、妖術の館にナミッラを訪ね、変事がナミッラの放ったもので他の妖術師のしわざでないなら、ナミッラの真意は那辺にあるかをつきとめろと命じた。
魔術師や予言者たちはナミッラを恐れているので気が進まず、ナミッラの館の得体の知れぬ恐るべき秘密に首を突っこむつもりもなかった。しかし皇帝の兵士たちが進みでて、ぐずぐずしている者たちに大きな新月刀を振りあげたので、ひとりまた一人と謁見の間を離れ、ナミッラの館のほうに進んでいき、魔物どもの建てた館に姿を消した。
地獄を目にして、おのれの運命を見た者のように、彼らは日没前に、顔色も青ざめ、取り乱して、何事かをつぶやきながら、皇帝のもとにもどってきた。そしてナミッラが彼らを丁重にもてなして、伝言をもたらすように告げたといった。
「あの幽霊騒ぎはゾトゥッラ皇帝が忘れはてて久しいことを示すものだとお知らせなさい。幽霊のあらわれた理由は、運命が用意して定めた時に明かされるでしょう。その時は迫っております。ナミッラが皇帝と廷臣のすべてを明日の午後の大宴会に招待しますので」
魔術師と予言者たちはこの伝言を告げると、暇《いとま》乞いをして、ゾトゥッラを仰天がらせた。そして皇帝が仔細に問いただしても、彼らはナミッラを訪れたときのありさまを語りたがらず、妖術師の館の様子についても漠然としか述べなかったが、目にしたというものがそれぞれ異なっていた。それでしばらくすると、ゾトゥッラは彼らに退出を命じ、長いあいだ玉座に座したまま、応じたくはないものの、かといって辞退するのも恐ろしい、ナミッラの招待について考えこんだ。その夜は葡萄酒をいつもより多く飲んで、レーテー河の忘却のような眠りに落ち、蹄が宮殿で鳴り響く騒ぎもなかった。そして夜のあいだに、予言者と魔術師たちは人目を忍ぶ影のようにひっそりとウッマオスを離れ、彼らが逃げ出すのを目にした者はいなかった。朝になると、彼らはクシュラクから他の土地に入りこんでいて、二度とふたたびもどることがなかった。
さて、同じ日の夕方、不断にかしずく木乃伊、怪物、骸骨、使い魔をことごとく退けて、ナミッラがおのれの館の大広間に座していた。ナミッラのまえの黒大理石の祭壇には、魔物の血を引く彫刻家が太古にファルノクというタスーンの邪悪な王のために造りあげた、タサイドンの黒ぐろとした巨大な像があった。大魔王は全身を甲冑に包む戦士としてあらわされ、壮烈な戦いをしているかのように、棘《とげ》のある戦棍を掲げていた。遊牧民が所在について論争する、砂漠に埋もれたファルノクの宮殿に久しく横たわっていたものである。ナミッラは占術によってこれを見つけ、その後は常にこの凶まがしい像を住まいに安置した。するとタサイドンが像の口を介して、頻繁に神託をナミッラに述べ、ナミッラの質問に答えるのだった。
黒い甲冑に身を固めた像のまえに、馬の髑髏《どくろ》をかたどった七つの銀のランプが吊られ、その眼窩から青や紫や真紅に変化する炎が発していた。その光は荒あらしくも不気味で、前立てのついた兜から覗く魔王の面貌は、永遠に千変万化する有害で曖昧な影に満ちていた。そして蛇の彫刻がほどこされた椅子に座すナミッラは、眉間に深い皺《しわ》を寄せ、険しい目で像を見つめた。あることをタサイドンに求めたというのに、像を介して返答する魔王が拒んだからである。ナミッラには反抗心があって、それが驕りとともにつのるまま、おのれが妖術師すべての王であり、当然ながら悪魔の王国の諸侯たちの支配者なのだと思っていた。かくしてしばし考えをめぐらした後、命にかかわる忠誠を誓った恐るべき宗主というよりも、おのれと対等の者に告げるように、大胆かつ尊大な口調で要求を繰り返した。
「余はこれまでずっとあらゆることでおまえを助けてきた」像が無情な朗々とした声で告げ、七つの銀のランプにこもって金属質に響いた。「いかにも炎と闇の不滅の大蛇がおまえの命令で軍隊のごとくあらわれいで、おまえが呼んだときには、地底の鬼神の翼が空に上って太陽をさえぎった。しかしおまえのたくらむこの復讐に、余は加担せぬ。ゾトゥッラ皇帝は余に悪なることをなさず、それと知らぬまま余によく仕えておるからだ。それにクシュラクの民は、その堕落ぶりによって、余の崇拝者のなかでも群を抜いておる。しかるがゆえに、ナミッラよ、おまえはゾトゥッラと和して暮らし、物乞いの少年ナルトスになされた昔の悪行を忘れるがよい。運命の経緯《ゆくたて》とは不思議なものであり、運命の法の働きは隠されることもある。ゾトゥッラの乗用馬の蹄がおまえを蹴って踏みつけることがなかったなら、おまえの人生はちがったものになって、ナミッラの名や誉れにしても、見ることのなかった夢のごとく、いまだ眠りこんでおるのだぞ。おまえはウッマオスでなおも物乞いをし、施しに満足して、賢明かつ博学なオウファロクの弟子になるために旅をすることもなかったであろう。余、タサイドンは、余の奉仕と絆を受け入れるすべての降霊術師のなかで、最高の逸材を失っておったであろう。ナミッラよ、よく考えて、沈思せよ。余とおまえにとって、乗用馬におまえを踏みつけさせたことで、われらはゾトゥッラに恩を受けておるのだ」
「いかにも借りがある」ナミッラは怒りを鎮められずに吠えたてた。「だから計画しているように、明日借りを返す……あなたを蔑んでわたしを助け、わたしの招集に応じるものどもがいるからな」
「余を侮蔑して怒らせるのは得策ではないぞ」しばらくして像が告げた。「おまえが目論《もくろ》むものどもを招喚するのもよくないことだ。しかしおまえがそうするつもりでおることはよくわかっておる。おまえは誇り高く、頑固で、恨み骨髄に徹しておるからな。思うようにするがよい。されど、結果がどうなろうと、余を非難するでないぞ」
かくしてこのあと、ナミッラが像をまえにして座する広間に沈黙がつづいた。炎が髑髏の形をしたランプで色をかえながら陰鬱に燃えた。影が揺らめいて、像の面貌とナミッラの顔を翳らせたり離れたりした。そして真夜中に近いころ、降霊術師は立ちあがって、星座の望める小さな丸窓が一つある、館の高い円蓋に通じる長い螺旋階段を上った。その窓は円蓋の一番高いところに設けられているが、ナミッラは魔術によって、階段の最後の螺旋に達すると、突如として上るというよりくだるように思え、最後の段に立つと窓が見おろせて、星たちが眼下の目眩《めくるめ》く深淵をよぎるのが見えるようにしていた。そして円蓋の湾曲した内部に膝をつき、顔を深淵に向けて長い顎鬚を垂らし、人類誕生以前の呪文をつぶやいて、地獄にも現世にも属さず、地、水、風、火の魔物や地獄の鬼神よりも招喚するのが恐ろしい、ある種の実体と言葉をかわした。タサイドンの意志に逆らって、彼らと契約を結ぶと、彼らが地球のほうに身をかたむけたことにより、まわりの空気が彼らの言葉で凝結し、彼らの息がもたらす冷気によって、ナミッラの黒い顎鬚に白い霜がおりた。
葡萄酒に酔いつぶれ、寝穢《いぎたな》く眠りこんでいたゾトゥッラが、しぶしぶのように目を覚まし、応じるのも謝絶するのも恐ろしいあの招待を思って、目を開けるよりもまえに、陽光さえもが有害なものになったような気がした。しかしオベクサーにはこう述べた。
「高慢な君主に通りから呼びつけられる乞食のように、わしをこの呼び出しに応じさせようとする、あの魔術をふるう野良犬は何者なのだ」
拷問者の島ウッカストログの生まれである、黄金の肌をもち、目のつりあがったオベクサーが、謎めいた眼差しを向けていった。
「ああ、ゾトゥッラ、応じるも拒むも、あなたのお心のままですわ。ウッマオスとクシュラク全土の支配者にとって、行くも留まるも瑣事《さじ》にすぎません。あなたの支配権に異議を唱える者などいませんもの。ですから、行ってもよろしいのでは」オベクサーがそういったのは、妖術師を恐れていながらも、ほとんど何も知られていない魔物どもの建てた館に興味があったからである。そして女の性《さが》として、物腰も風貌もいまだ遙か遠くからウッマオスにもたらされた伝説で語られるにすぎない、名にしおうナミッラを目にしたくもあった。
「おまえのいうことにも一理があるな」ゾトゥッラが認めた。「しかし皇帝たるもの、その振舞は常に公共の善を考えてなさなければならない。それに、女が予想も理解もできぬ、国体がかかわっておるのだぞ」
かくしてゾトゥッラは滋養のある朝食をたっぷり食べたあと、昼前になってから、侍従や廷臣を呼び集めて相談した。ナミッラの招待を無視するように進言する者もいれば、幽霊の蹄をしのぐ由々しい邪悪が宮殿や街に放たれないように、招待を受け入れるべきだと主張する者もいた。
そのあとゾトゥッラは数多くの神官を招集するとともに、夜のあいだにこっそり逃げ出した、魔術師や予言者をふたたび呼び集めようとした。後者については、ウッマオスじゅうでふれまわっても、応える者はひとりもおらず、これはかなり不思議がられた。しかし神官たちは以前よりも数多くやってきて、謁見の間にひしめいたので、最前列の者は太鼓腹が皇帝の玉座の台座に押しつぶされ、最後尾の者は臀《しり》がうしろの壁や柱に押しつけられるありさまだった。ゾトゥッラは受諾か拒絶かの問題を彼らと思議した。そして神官たちは以前と同様に、ナミッラがいまや幽霊の馬とかかわりのないことは明らかであると主張し、招待に応じても皇帝には害も災いもおよばないと告げた。伝言の内容から推して、妖術師からゾトゥッラに託宣がくだされるのは明らかであり、ナミッラがまこと大魔術師であるなら、この託宣は聖なる知恵を確かなものにし、幽霊の馬が神々につかわされたものであることを再度明らかにして、クシュラクの神々がふたたび称揚されるというのだった。
皇帝はこのように神官たちの意見を耳にすると、宝物保管係に命じて新たな供物を与えさせた。神官たちは神々になりかわり、ゾトゥッラと皇室に実に愛想よく祝福を述べて引きあげた。そして時間がゆっくり過ぎてゆき、太陽が昇りつめて、海までつづく砂漠を床とする午後の空間をよぎり、ウッマオスの彼方へとゆるやかにくだっていった。ゾトゥッラはなおも決心をつけかねていた。葡萄酒係を呼んで、美酒のなかで最も強い極上のものを注がせたが、その葡萄酒に確信も決心も見いだせなかった。
謁見の間の玉座になおも座していると、午後の半ばに宮殿の出入口で大きな騒ぎが起こったのが聞こえた。男の低い泣き叫ぶ声、宦官や女の甲高い声があがり、あたかも口から口へと恐怖が伝わって、廊下や部屋に入りこんでいくかのようだった。そして騒ぎが宮殿じゅうに広まるや、ゾトゥッラは葡萄酒の眠りからすっかり目覚め、従者を調べにいかせようとした。
そのとき謁見の間に長身の木乃伊がずらりとならんであらわれ、紫と朱の王族の死に装束をまとい、萎《しな》びた頭骨に黄金の冠を戴いていた。そして彼らの背後には従者のように巨大な骸骨がつづき、鮮やかな赤橙色の腰布を身につけ、その頭蓋骨には額から冠にかけて、黄と黒の縞模様の生きている蛇が頭飾りのように蠢《うごめ》いていた。木乃伊がゾトゥッラに一揖《いちゆう》して、かすれたかぼそい声で言上した。
「かつて弘大なタスーン王国の王であったわれらは、ゾトゥッラ皇帝がナミッラの準備した宴に参上なさるとき、あいふさわしく随行する儀杖兵として派遣されました」
そのあと骸骨が歯を鳴らす乾いた音を立て、雷文模様のある象牙の衝立《ついたて》を風が吹き抜けるような声で、このように述べた。
「われら忘れ去られた種族の巨人兵も、皇帝に随行して宴に向かう王室の人びとを、あらゆる危険から守り、あいふさわしい華麗さで進めるように、ナミッラにつかわされました」
これら奇怪なものどもを目にして、葡萄酒係をはじめとする従者が皇帝の玉座の台座のまわりで身を縮めたり、柱の陰に身を潜めたりする一方、ゾトゥッラは充血した目を虚ろにさまよわせ、腫れあがった顔を蒼白にして、玉座に凍りついたようになり、ナミッラの従者たちに返答することもできなかった。
やがて木乃伊が進みでて、無味乾燥な口調でいった。「宴は用意万端整い、ゾトゥッラ皇帝のおいでをお待ちしております」木乃伊の死に装束が動いて胸もとが開き、瀝青《れきせい》のように褐色の小さな齧歯類の怪物が、穴からあらわれる鼠のように、木乃伊の心臓を喰らったところからあらわれ、呪われた鋼玉のような目で見つめながら、甲高い人間の声で同じ言上を繰り返した。次に骸骨が厳《おごそ》かに繰り返し、黒と黄の縞模様の蛇が骸骨の頭から同じように述べたあと、白い枝編み細工の籠にいるかのように、骸骨の肋骨のなかに坐りこんでいる、ゾトゥッラがいままで見たこともない胡乱《うろん》な姿の毛むくじゃらの生物どもが、邪悪な唸り声で同じ言葉を繰り返した。
夢のなかで運命にしたがう者のように、皇帝が玉座から立ちあがって進みだすと、木乃伊どもが儀仗隊のように取り囲んだ。骸骨のそれぞれが赤みがかった黄色の腰布の襞《ひだ》のなかから、精妙に穴の開けられた古めかしい銀の横笛を取りだし、耳に快い邪悪な死の調べを奏でるなか、皇帝が宮殿の廊下を進んでいった。横笛の調べには抗しがたい魔力があった。廷臣、寵姫、衛兵、宦官はもとより、料理人や皿洗いにいたるまで、ゾトゥッラの宮殿にいる者すべてが、虚しく身を隠していた部屋や奥まったところから、夢遊病者の行列のように引きだされ、骸骨によって整列させられて、ゾトゥッラのあとにつづいたのである。陽光が斜めに射すなかを、死んだ王たちや褐色の息で銀の横笛を不気味に奏でる骸骨に取り巻かれ、おびただしい者がナミッラの館に向かっていくのは、見るも不思議な光景だった。そしてゾトゥッラは、オベクサーがほかの女たちをしたがえて、かたわらにいるのを見たが、おのれと同じく恐怖に縛されているのを知って、心が慰められることはなかった。
皇帝はナミッラの館の開け放たれた表玄関に達したとき、真紅の喉袋を具えた大きな生物に玄関が固められているのを見た。ドラゴンと人間の要素をあわせもつその生物が一揖し、黒っぽい縞瑪瑙の敷石の上で、血まみれの縁飾りのように喉袋を揺らした。皇帝は頭を垂れた怪物のあいだをオベクサーとともに進んで、多彩な色に飾られる大きな広間に入り、木乃伊、骸骨、臣民が異様な行列をなしてあとにつづいた。太陽の光がおずおずとついてきたが、千ものランプの有害なぎらつきに呑みこまれた。
ゾトゥッラは恐怖をひしひしと感じながらも、部屋の大きさに驚嘆した。館の外観はまさしく宮殿さながらに堂々たるものだったが、その外観とは折合いがつかないほどに大きかった。頂きが見えないほどに高い柱のならぶ部屋を見渡すと、珍味が堆《うずたか》く積まれ、葡萄酒の入った壺のひしめく卓が、まばゆく照らしだされたところから、星のない夜のような遠くの闇にまで広がっているかに思えた。
卓と卓のあいだの広い空間では、ナミッラの使い魔や従者が絶え間なく行き来して、悪夢のめまぐるしい幻影が現前したかのようであった。朽ちた金襴のローブをまとい、眼窩で蛆《うじ》が轟く王の死体が、一角獣の乳白色の角を使った杯に血のような葡萄酒を注いだ。三股の尾をもつラミアと四つの乳房を具えたキマイラが、真鍮のように硬い鉤爪で湯気の立つ大皿を高く掲げてやってきた。犬の頭をした魔物が燃えあがる舌を垂らし、先導役を務めるために駆けてきた。そしてゾトゥッラとオベクサーのまえに、足と臀は肉付きのよい黒人女のものながら、それより上は巨大な類人猿の骨しかない、奇妙な生物があらわれた。そしてこの怪物は指の骨をいいようもないやりかたで動かし、皇帝と側室についてくるように促した。
怪物に導かれるまま、卓や柱のならぶ巨大な部屋を進みつづけ、その端に達したとき、ゾトゥッラは長い道のりを歩いて、凶まがしく照らされる地獄の洞窟に入りこんだように思った。ここ部屋の端には、一つの卓がほかとは隔《へだ》てられて置かれ、そこにナミッラがひとりきりで坐り、その背後では馬の頭蓋骨をかたどった七つのランプが落ちつきなく炎を舞いあがらせ、甲冑に身を固めたタサイドンの黒ぐろとした像が右手の黒大理石の祭壇に聳えていた。そして祭壇から少し離れたところには、黒い鉄のバシリスコスが鉤爪で金剛石の鏡を支えていた。
ナミッラが立ちあがって挨拶し、弔《とむら》いのごとき丁重さで厳かに述べた。その目は異様な恐ろしい不寝番をつづけているような、遙かな星のごとく冷えびえとしていた。唇は運命を書きとめた羊皮紙の淡紅色の封蝋のようだった。顎鬚は黒い油をつけて固められ、身を直《なお》く伸ばした蛇が集まっているように、朱色のローブの胸に垂れていた。ゾトゥッラはナミッラをまえにして、心臓をめぐる血が凍りついたかのごとく、とどまって凝固するかのような心地がした。オベクサーは瞼《まぶた》を伏せて見つめ、王に気高さがあるのと同様に、この降霊術師に歴然たる恐怖がまつわりついているのを知って、狼狽するとともに震えあがった。しかし恐怖に襲われながらも、この男がどのように女とまぐわいするのかと思う余裕はあった。
「ああ、ゾトゥッラよ、ようこそいらっしゃった」ナミッラが虚ろな声の奥深くに隠された鉄の弔鐘を鳴らすような感じでいった。「どうぞ卓におつきくだされ」
ゾトゥッラは黒檀の椅子がナミッラに向かい合って用意されているのを知った。それほど豪華でも堂々としてもいない椅子が、オベクサーのために左側に用意されていた。二人は椅子に腰をおろした。ゾトゥッラは廷臣たちも巨大な広間の他の卓について、亡者に魔物が付き添うように、ナミッラの恐ろしい従者にかしずかれているのを見た。
そのときゾトゥッラは、死体のもののような黒い手が水晶の杯に葡萄酒を注ぐのに気づき、黄金の蝙蝠の口に大粒の火蛋白石が嵌《はま》った、クシュラクの皇帝の小印付き指輪がその手にあるのを見た。ゾトゥッラがいつも人差し指にはめているのと同じ指輪だった。そして顔を向けると、鎖蛇の毒が全身に広がったあと、紫色に腫れあがって死んだ、父のピタイムにそっくりな男が右手にいた。ピタイムの寝台に鎖蛇を入れさせたゾトゥッラは、椅子に坐ったまま身を縮め、罪深い恐怖にわなないた。ピタイムに似たものは、死体か幽霊かナミッラの魔法によってつくりだされた幻影のいずれにせよ、ゾトゥッラのそばを行きつもどりつして、動くことのない不気味な腫れあがった黒い指を見せて給仕をした。何も見ていない脹れあがった目、いかめしくつぐまれた紫色にくすんだ唇、かがみこんで葡萄酒を注いだり肉を取り分けたりするときに袖の襞から覗きこむ斑《まだら》の鎖蛇を、恐ろしくもゾトゥッラは意識した。そして恐怖の冷たい靄《もや》ごしに、甲冑に身をかためた影のようなものを朧《おぼろ》に目にしたが、それはナミッラが自分の給仕をさせるため、冒涜行為としてつくりだした、タサイドンの微動もしない陰鬱な像の動く複製のようだった。そしてゾトゥッラはわけがわからないまま、オベクサーのそばをうろつく恐ろしい世話人をぼんやりと見た。オベクサーのはじめての愛人、難破して拷問者の島の岸に打ちあげられたキュントロムの若者の姿をした、皮を剥がれて目のない死体だった。オベクサーはこの若者が潮の引いたところに横たわっているのを見つけ、意識を回復させると、おのれの快楽のためにしばらく秘密の洞窟にかくまい、飲食物をもっていってやった。しかしそれにも厭《あ》きると、拷問者に告げ、あの悪意に満ちた残酷な人びとによって殺されるまで、若者がさまざまな拷問にかけられることに新たな歓喜をおぼえたのである。
「お飲みなさい」ナミッラがそういって、失われた時代の破滅の夕日に染まっているかのような、黒っぽい赤の見慣れぬ葡萄酒を一息に飲みほした。ゾトゥッラとオベクサーはその葡萄酒を飲み、血管に何の温もりも受けず、毒人参のような冷たさがゆっくり心臓に迫っていくのを感じた。
「いかにも極上の葡萄酒ですな」ナミッラがいった。「交友を深めるための乾杯をするにふさわしい。骨壺の形をした碧玉の壺に入れられて、王の死体とともに埋められて久しかったものでしてな。わたしの食屍鬼がタスーンで墓を掘っていたときに見つけたのですよ」
いまやゾトゥッラは、冬の霜で覆われた地面で曼荼羅華《まんだらげ》が凍りつくように、舌が口のなかで凍りつき、ナミッラの丁重な言葉に返答することもできなかった。
「どうぞこの料理を試してください」ナミッラがいった。「選《え》りすぐりの料理ですからな。ウッカストログの拷問者が刑車や台に残った肉片を喰わせた牡豚の肉なのですよ。わたしの料理人が墓の強い香油で香づけをし、鎖蛇の心臓と黒コブラの舌を詰めております」
皇帝は何もいえなかった。オベクサーもまた、キュントロムの若者によく似ている、皮を剥がれた哀れなものがいることにひどく動揺して、ものもいえずにいた。この忘れ去って久しい罪を知っていることや、幽霊を呼び出せることが、何よりも有害な魔術のように思え、降霊術師に対する恐怖がきわめて強くなった。
「残念ながら」ナミッラがいった。「料理に風味がなく、葡萄酒に炎がないと思われているようですな。それでは宴を活気づけるために、歌い手と楽士を呼びましょう」
ナミッラがゾトゥッラもオベクサーも知らない言語で何事かを告げると、千もの声によって次つぎに伝えられていくかのように、広い部屋に響き渡った。ほどなく歌い手があらわれたが、体を剃って脛が毛むくじゃらの女の食屍鬼で、ハイエナのごとくおもねるように口を開け、腐肉のこびりついた湾曲する黄色の長い犬歯を見せた。その背後にあらわれた楽士は、漆黒の種馬の臀の上を歩きながら、ナートの食人族の骨と腱でつくった竪琴を白い類人猿の指で爪弾く牡の魔物と、山羊のように頬を膨らませて、若い魔女の大腿骨からつくられたオーボエや、黒人の女王の胸の皮膚と犀《さい》の角でつくられたバグパイプを吹く、体が斑になったサテュロスだった。
彼らはグロテスクなやりかたでナミッラに一揖した。そして直ちに女食屍鬼どもは、腐肉を嗅ぎつけたジャッカルのような、このうえもなく悲しげで忌わしい咆哮をあげはじめ、サテュロスと魔物どもは、砂漠に生まれた風が見捨てられた宮殿の後宮を吹き抜ける呻きのような哀歌を奏でた。ゾトゥッラは身震いした。女食屍鬼の歌声といえば、骨の髄を氷で満たし、サテュロスと魔物どもの音楽といえば、滅亡して時間の蹄の蹄鉄に踏みつけられた帝国のようなわびしさを心に残したからである。その邪悪な音楽がつづいているあいだ、枯れ果てた庭園に砂が流れる音や、昔日《せきじつ》の奢侈《しゃし》をしのばせる寝椅子の腐った絹が風に吹かれて擦れる音や、砕けた柱の基部にとぐろを巻く蛇の発する音が聞こえるようだった。そしてウッマオスのものであった栄光が、砂漠の熱風に吹きやられる砂の柱のごとく、はかなく消えていくように思われた。
「見事な調べでしたな」音楽が終わり、女食屍鬼どもが咆哮をやめると、ナミッラがいった。「しかし残念ながら、わたしの歓待もいささか退屈だったようです。したがって踊り手に舞わせましょう」ナミッラは巨大な広間に顔を向け、右手の指で謎めいた印を宙に描いた。この印に応え、無色の靄が高い天井からくだり、ほんのつかのま、緞帳《どんちょう》がおりたように部屋を隠した。その緞帳めいた靄の向こうで、混沌としてくぐもった騒がしい音がして、遠くからのような叫び声も聞こえた。
やがて恐ろしくも靄が晴れると、ゾトゥッラは珍味や葡萄酒のあった卓がことごとく消えてしまったのを知った。柱のあいだの広びろとした空間には、ゾトゥッラに随行してきた者たち、廷臣、宦官、寵姫、女奴隷たちが、華麗な羽をした多数の家禽のように、革紐で縛られて横たわっていた。彼らの上では、降霊術師の楽士たちの奏でるリラと横笛の調べに合わせ、一団の骸骨が爪先の骨をかちかち鳴らしてビルエットをした。さらに一団の木乃伊がこわばった動作で舞い、ナミッラの他の生物どもも悍《おぞま》しくはねまわった。そしてゆるやかで邪悪な三拍子で、皇帝の臣下たちの体を踏みつけた。踏みつけるつど、体が大きくなっていき、ついにはとびはねる木乃伊が巨人族の木乃伊のごとくになり、骸骨も巨大化した。音楽はさらに高まりゆき、ゾトゥッラの臣下たちのかすかな悲鳴をかき消した。踊っているものどもはさらに大きくなりゆき、巨大な柱に支えられる穹窿天井の闇のなかにまで聳え、足音を雷鳴のように轟かせた。踏みつけられている者たちは、秋に葡萄酒をつくるために踏みつぶされる葡萄のようで、床には血紅色の果汁液めいたものがねっとりと流れた。
皇帝は有害な闇の沼に呑みこまれる者のように、ナミッラの声を耳にした。
「わたしの踊り手たちにも満足していただけぬようですな。それでは最も華ばなしいものをお見せしましょう。立ちあがって、ついてきてください。これは帝国全土を舞台にいたしますのでな」
ゾトゥッラとオベクサーは夢遊病者のように立ちあがった。かしずいていた幽霊どもや、なおも踊り手どもがとびはねている広間には目を向けもせず、ナミッラのあとにつづいて、タサイドンの祭壇の奥にある壁龕《へきがん》に行った。そこには上方に通じる螺旋階段があって、それを上っていくと、ゾトゥッラの宮殿に面する広くて高い露台に達し、街の屋根ごしに日の没するほうが見えた。
あの地獄めいた宴と歓待がつづいていたあいだに、何時間も過ぎたようで、いまや日没も近く、宮殿の背後にくだっている太陽が血の色をした光で茫乎たる天を染めていた。
「ご覧あれ」ナミッラがそういって異様な言葉を発すると、館の石が銅鑼《どら》のように鳴り響いた。露台が少し揺れ、手摺ごしにながめていたゾトゥッラは、ウッマオスの街の屋根が沈んでいくのを見た。露台が空を飛んで途方もない高さにまで上がり、おのれの宮殿の円蓋をはじめ、家屋や耕作地や彼方の砂漠、その砂漠の縁にふれようとする巨大な太陽を見おろしているような気がした。そしてゾトゥッラはめまいがするようになった。空の高みの冷たい空気に襲われた。しかしナミッラが別の言葉を発すると、露台は上昇するのをやめた。
「よく見るがよい、ゾトゥッラよ」降霊術師がいった。「おまえのものであった帝国は、もはやおまえのものではなくなるのだからな」ナミッラはそういうと、両腕を夕日とその彼方の深淵に向かって広げ、口にするのも罰当たりな十二の名前を声高に発し、恐るべき招喚の呪文を口にした。
[#ここから1字下げ]
グナ・パダムビス・デウォムプラ・トゥンギス・フリドル・アウォラゴモン
[#ここで字下げ終わり]
たちまち黒ぐろとした雷雲が太陽に覆いかぶさった。地平線にならぶ雲は化け物じみた姿を取り、その頭部と四肢はどことなく種馬の姿に似ていた。恐ろしくも後脚で立ちあがると、消えた燠のような太陽を踏みにじり、ティーターン族の曲馬場にいるかのように走りまわって、その姿を大きくしながらウッマオスのほうにやってきた。災難の前兆のような蹄の轟きが先に聞こえ、大地がはっきりと揺れるなか、ゾトゥッラはこれらが実体のない雲ではなく、大宇宙の弘大さのなかにある世界を踏みつけるためにやってきた、現実の生物にほかならないことを知った。種馬の群が長さ何リーグにもおよぶ影を描きながら、魔物に駆られているようにクシュラクに押し寄せ、その蹄が山から落下する岩のように、周辺の原野の遙かなオアシスや邑《むら》に降りくだった。
種馬の群は数多くの小塔を備えた嵐のように到来して、その重みで世界が傾き、深淵のほうへと沈んでいくかに思われた。なおもゾトゥッラは魔法で大理石にかえられた者のように立ちつくし、おのれの帝国になされる破壊を目にした。巨大な種馬が近づいてきて、信じられないほどの速度で走り、その蹄の音が轟くなか、いまやウッマオスの西に何マイルも広がる緑したたる耕地や果実を結んだ果樹園が消えはじめた。そして種馬の影が蝕の不吉な闇のように上り、ウッマオスを覆いつくした。皇帝は視線をあげて、聳える積雲からぎらつく太陽のように、種馬の目が大地と天頂の半ばあたりにあることを知った。
深まりゆく闇のなか、雷鳴のごとき蹄の轟きをしのいで、ナミッラが狂った勝利の声をあげるのが聞こえた。
「ゾトゥッラよ、わたしが深淵の王タモゴルゴスの狩りたてる馬を招喚したことを知るがよい。かつておまえの乗用馬がナルトスという物乞いの少年を踏みつぶしたように、狩りたてる馬はおまえの帝国を踏みつぶすであろう。わたし、ナミッラが、その少年であったことを知るがよい」ナミッラの目は狂気と悲嘆をはらむ慢心をたたえ、悪意ある破滅の星が天に昇りつめたときのように燃えあがった。
恐怖と動揺で茫然としているゾトゥッラには、降霊術師の言葉は運命の大騒乱に加わった甲高い金切り声でしかなかった。まったく理解していなかった。蹄がウッマオスに降りくだり、堅固に造られた屋根が恐ろしくも砕け、たちまち巨大な石組みが割れて崩れ落ちた。美しい神殿の円蓋が耳貝の貝殻のように粉微塵になり、これ見よがしの館が破壊されて、外皮の堅い果実のように地面に押しこまれた。そして街の家屋が一軒また一軒と、キュクロープスの鉄床《かなとこ》を鎚で打ち叩き、世界を混沌にかえるような音を立てて、平たく押しつぶされていった。遙か眼下の暗い通りでは、人や駱駝《らくだ》が素早く動く蟻のように逃げまどっていたが、逃れようがなかった。そして冷酷無情に蹄が何度も踏みおろされ、やがて街の半分が廃墟と化して、夜の闇に包まれた。ゾトゥッラの宮殿も踏みつぶされ、いまや狩りたてる馬たちの前脚がナミッラの露台と同じ高さに聳え、その遙か上に頭部があった。狩りたてる馬たちが後脚で立ちあがり、降霊術師の館を踏みつぶすかに見えたが、いよいよのときになって左右に分かれたので、低い夕日の悲しげな輝きが射した。狩りたてる馬たちが進みつづけ、ウッマオスの東側を踏みつぶしていった。ゾトゥッラとオベクサーとナミッラは、陶器の破片が散らばるごみの山のようになった街の廃墟を見おろし、蹄の途方もない轟きがクシュラクの東のほうに去っていくのを耳にした。
「たいした見ものであったな」ナミッラがいった。そして皇帝に顔を向け、悪意もあらわにつけくわえた。「これですんだと思うでないぞ。破滅はまだ終わっておらぬ」
露台が以前の高さにくだったようだが、それでも無残な廃墟を一望する高みにあった。ナミッラが皇帝の腕を掴み、露台から部屋のなかに引きこむと、オベクサーが無言でそのあとにつづいた。皇帝はこのような惨事に心臓が押しつぶされたような思いがして、呪われた夜の土地で行き暮れ、邪悪な夢魔に肩にまたがられた者のように、絶望が重くのしかかった。影のように見えるナミッラの生物どもによって、オベクサーが戸口で引きはなされ、階段の下へと連れていかれ、朽ちた蝋引き布によって叫びが塞がれたことを知る由もなかった。
入った部屋はナミッラが邪悪きわまる儀式や錬金の術のために使うものだった。部屋を照らすランプの火明かりは、魔物が流す体液のような黄色みがかった赤で、浮世の人間には目的とて定かでない昇華受器、坩堝《るつぼ》、黒い温浸炉、蒸留器を照らしていた。妖術師が星のように冷たい光に満ちた黒い液体の入っている蒸留器の一つを温め、ゾトゥッラは漫然とながめた。液体が煮立って、渦を巻く蒸気が上がると、ナミッラは縁が金色の鉄の杯に滴《したた》らせ、蒸留液の入った杯の一つをゾトゥッラに手渡し、自分も一つ手にした。そしてゾトゥッラにいかめしい命令口調でこう告げた。「この液体を一息に飲みほせ」
ゾトゥッラは液体が毒ではないかと恐れてためらった。すると降霊術師が恐ろしい目つきで睨み、声高にいった。「わたしのようにするのが恐ろしいのか」そう告げると、杯を唇にあてた。
皇帝は死の天使の命令によるかのように無理強いされて、黒い液体を飲みほし、感覚という感覚に闇が垂れこめた。しかし闇が完全なものになるまえに、ナミッラがおのれの杯を飲みほすのを見た。やがていいようもない苦悶にさいなまれ、皇帝はおのれが死んだのだと思った。魂が自由に漂い、ふたたび部屋を見たが、肉体のない目によってであった。そして肉体のないゾトゥッラは黄色みがかった赤い光のなかに立った。かたわらの床には、死んだかのようにおのれの体が横たわっていて、その近くにはナミッラの俯《うつぶ》せになった体と二つの杯があった。
ゾトゥッラはこのように立ちながら不思議なものを見た。ほどなくおのれの体が身じろぎして起きあがる一方、降霊術師の体は死んだように微動だもしなかった。そしてゾトゥッラはおのれ自身の面貌、黒真珠と尖晶石が縫いこまれた青い厚地の絹の短いマントをまとうおのれ自身の姿を見た。おのれの肉体は生きていたが、その目はいつもより暗い炎と深い邪悪をたたえていた。やがて肉体の耳がないのに、おのれの姿をしたものがしゃべるのが聞こえた。その声は力強く、ナミッラの尊大な声だった。
「ついてこい、寄方《よるべ》ない幽霊よ。わたしが愉しませてやる」
見えない影のように、ゾトゥッラは妖術師のあとにつづき、二人は階段をくだって広びろとした宴会の広間に入った。甲冑に身を固めたタサイドンの像がある祭壇のまえに行くと、馬の頭蓋骨をかたどった七つのランプが以前のように像のまえで燃えていた。女たちのなかでただひとり、ゾトゥッラの飽満した心をも興奮させる力をもつ、ゾトゥッラの愛するオベクサーが、革紐で縛られてタサイドンの像の足もとの祭壇に横たわっていた。しかしその向こうの広間は無人で、あの凶まがしい無礼講の名残といえば、踏みつぶされて流れでたものが柱のあいだに溜っているだけだった。
ナミッラが皇帝の体をおのれのもののように使い、暗黒の像のまえで立ち止ると、ゾトゥッラの霊に告げた。「おのれを解放する力も身動きする力もないまま、この像のなかに封じこめられよ」
降霊術師の意志に逆らうこともできぬまま、ゾトゥッラの魂は像のなかに封じこめられ、冷たい巨大な甲冑を狭苦しい石棺のように感じ、身じろぎすることもできず、彫刻された兜に覆われる虚ろな目から覗きこんだ。
そのように目をこらしながら、ナミッラの妖術の憑依によって、おのれの体が変化するのを見た。短い青のマントの下で、足が突如として黒い種馬の脚に変じ、地獄の炎に熱せられているかのように、蹄が赤く輝くようになった。そしてゾトゥッラがこの驚異をながめているあいだでさえ、蹄がまばゆいほど白く輝いて、その下の床から蒸気が上りだした。
やがて黒い祭壇の上で、その混成の忌むべきものが煙の出る蹄の跡を残しながら、尊大な足取りでオベクサーに近づいていった。目にまざまざと恐怖をたたえ、なすすべもなく仰向けになっているオベクサーのかたわらで立ち止り、輝く蹄をあげるや、紅玉を鎮めた金線細工の小さな乳当てのあいだのむきだしの胸におろした。オベクサーは残虐に踏みつけられ、地獄に落ちたばかりの亡者のように悲鳴をあげた。魔物の武器が強化される炉から取りだされたばかりのものであるかのように、蹄が堪えがたいまばゆさで輝いた。
その瞬間、堅牢な像のなかに封じこめられて、怯え、打ちひしがれ、気力も失っていた皇帝ゾトゥッラの魂のなかで、帝国が破壊され、随行してきた者たちが踏みつぶされるのを目にしても眠りこんでいた、目覚めることのなかった男の資質が甦った。たちまち魂のなかに大なる厭わしさと怒りがこみあげ、忽然としておのれの右腕を動かし、右手に剣を握りたくなった。
そのときゾトゥッラはおのれの内部で声が語りかけたように思った。冷たく虚ろな悍しい声で、彫像そのものが発したかのようだった。声はこう告げた。「余は大地の下の七つの地獄と、地上で人間の心のなかに七の七倍存する地獄の王、タサイドンである。ああ、ゾトゥッラよ、たがいの復讐のために、しばしのあいだ、余の力がおまえのものとなる。魂が肉体と一つになるごとく、余に似せた像と完全に一つになれ。見よ、おまえの右手には堅牢無比の戦棍がある。戦棍を振りあげ、打ちすえよ」
ゾトゥッラはおのれの内部に大いなる力があって、おのれを包みこむたくましい筋肉がその力に興奮し、おのれの意志に素早く反応することを知った。甲冑に包まれた右手に、巨大な頭部が棘で覆われた戦棍の柄があるのを感じ、生身の人間ではもちあげられない戦棍ではあれ、いまやゾトゥッラにとっては手頃な重さでしかないようだった。そしてゾトゥッラは戦場の戦士のように戦棍を振りあげると、おのれの肉体をまとって、狩りたてる魔物の脚と蹄を具えるにいたった不遜なものに、凄まじい一撃をみまった。不遜なものがたちまち倒れこみ、砕かれた頭蓋骨から脳髄を輝く黒大理石にぶちまけて横たわった。脚が少しびくついたあと、微動もしなくなった。灼熱した鉄のように、目もくらむほど白熱して輝いていた蹄が、ゆっくりと冷えていった。
しばしのあいだ、目にした変事の恐怖と苦痛に狂乱して、オベクサーが甲高い声で叫ぶほかには、何の音もしなかった。やがてオベクサーの悲鳴に辟易《へきえき》するゾトゥッラの魂のなかに、タサイドンの冷たく悍しい声がして、このように述べた。
「もはやおまえがなすこともなければ、自由に行くがよい」
かくしてゾトゥッラの霊はタサイドンの像から抜け出し、広い大気のなかに無と忘却の自由を見いだした。
しかしナミッラには最期はまだ訪れず、その狂った尊大な魂は、あの打撃によってゾトゥッラの肉体から解き放たれ、妖術師が思っていたようにはいかず、呪われた儀式と禁断の転移をおこなった部屋に横たわるおのれの肉体にもどった。ほどなくナミッラは目覚めたが、頭のなかが混乱して、一部の記憶を失っていた。涜神行為のゆえに、タサイドンの呪いがくだったからである。
復讐をしたいという悪意のみなぎる法外な望みのほかには、頭のなかにはっきりしたものは何もなかったが、その理由も目的も朦朧《もうろう》とした影のようになっていた。それでも漠然とした悪意に動かされ、ナミッラは立ちあがった。柄に魔力のある鋼玉と蛋白石の嵌った魔法の剣を腰に吊し、階段をくだってふたたびタサイドンの祭壇のまえに行くと、甲冑に身を固めた像が以前と同様に冷えびえと立っていて、動くことのない右手に戦棍を握り、その下の祭壇には二つの生贄があった。
不気味な闇の帳《とばり》に感覚を曇らされ、ナミッラは蹄がゆっくり黒ずんでいく、種馬の脚をもつ恐ろしい死体を見ることがなかった。そのそばでなおも生きているオベクサーの呻きを聞くこともなかった。しかしナミッラの目は、祭壇の奥で黒い鉄のバシリスコスの鉤爪が掴む、金剛石の鏡に引き寄せられた。鏡に近づくと、もはやおのれのものとはわからぬ顔が見えた。目が曇り、脳が転変する幻影に満ちているために、その顔を皇帝ゾトゥッラのものだと思った。地獄の炎のように厭くことを知らぬ、古くからの憎悪がこみあげた。そして魔法の剣を引き抜くと、鏡に映ったものを切りつけはじめた。呪いがかかっていたことと、先に不遜な魂の転移をしたことにより、ナミッラはおのれが降霊術師と戦うゾトゥッラだと思うことがあり、狂気が揺れ動くまま、皇帝を打ち倒すナミッラになることもあれば、名前とてないものと戦うこともあった。恐るべき魔法がかけられていながらも、まもなく刃が柄の近くで折れ、ナミッラは鏡に映るものがなおも無傷であることを知った。ぼんやりおぼえている凄まじい呪いの言葉を吠えたてたが、言葉の半ばを忘れ果てているために、何の効果もあげられず、重い剣の柄でなおも鏡を打ち叩いていると、柄に嵌った魔力のある鋼玉と蛋白石が砕けて足もとに散乱した。
祭壇で死にかけているオベクサーは、ナミッラがおのれの鏡像と戦っているのを目にして、壊れた水晶の鈴のような狂った笑い声をあげた。そしてその笑い声や、ナミッラの呪いの言葉をしのいで、速やかに生まれる嵐の唸りのように、タモゴルゴスの宇宙規模の種馬が雷鳴のごとき蹄の音を轟かせ、深淵に向かっていたのを引き返し、クシュラクを駆け抜けてウッマオスにもどると、それまで控えていた唯一の館を踏みつぶした。
[#改丁]
エウウォラン王の航海
[#改ページ]
ウスタイムの王の冠はめったに得られぬきわめて稀少なものをのみ使って造られた。魔法によって彫刻のほどこされた黄金は、南のキュントロムの島に落下し、悲惨な地震でもって島じゅうを揺らした巨大な隕石から得られたものである。その黄金は地球の純金よりも硬くて明るく、炎のような赤から新月後の月の黄色にまで色が変化した。冠には十三の宝石が嵌《は》められ、いずれも伝説においてさえ匹敵するもののない唯一無類の宝石だった。これらの宝石は注視すべき驚異であって、コカトリスの目のように恐ろしい、異様なまでに不穏な輝きや電光のごとき光を放ち、星を鏤《ちりば》めたように冠を飾っていた。しかし何にも増して素晴しいのは、冠の上部に鎮座するガゾルバ鳥の剥製であって、かぶる者の額の上で鋼のごとき鉤爪でもって冠を掴み、緑と菫《すみれ》と朱からなる華麗な羽に身を包み、いかにも堂々とそそりたっていた。嘴《くちばし》は磨きたてられた真鍮の色、目は銀の受け座にある小さな暗い石榴《ざくろ》石を思わせるものだった。七本のレースめいた紅色の羽が斑《まだら》になった漆黒の頭に立ちあがり、白い尾が逆さに広げた扇さながらに、冠の背後に白い太陽めいたものの光のごとく垂れていた。ゾティークの遙かな東、ソタルの彼方のほぼ伝説と化している島で殺した船乗りによると、このガゾルバ鳥はその種の最後の一羽だったという。ガゾルバ鳥はウスタイムの冠に九代にわたって鎮座して、王たちはおのが富貴の聖なる象徴、あるいは王権と分かつことのできぬ護符とみなし、これを失えば由々しい禍事《まがこと》が起こると考えた。
カルポームの子にあたるエウウォランはこの冠を戴く九人目の王であった。詰物をした鰻《うなぎ》と煮こごりにした火|蜥蜴《とかげ》の卵を食いすぎて、父王カルポームが亡くなってから、エウウォランは冠を二年と九ヵ月のあいだ堂々と華麗に戴いた。あらゆる国家行事、朝見式、日々の臣民との接見や裁きの行使において、冠は若き王の頭を飾り、見る者の目に恐るべき威厳を与えた。そして進みゆく嘆かわしい若禿を隠すのにも役立った。
治世三年目の晩秋に、エウウォラン王は十二品の料理と十二杯の葡萄酒からなるふんだんな朝食を終え、いつもの習いで法廷に向かった。法廷はアラモアムの都にある宮殿の翼《よく》一つを占め、さまざまな色の大理石を用いた窓からは、椰子《やし》の茂った丘の連なりや東方の波打つ紺碧《こんぺき》の大洋が望めた。
エウウォランは朝食でたっぷり体力をつけ、遵法《じゅんぼう》と犯罪の複雑なもつれを解きほぐす心構えをして、あらゆる悪人に速やかな罰を与える所存であった。エウウォランのかたわらでは、海獣クラーケンをかたどった象牙の玉座の右側に、鉛の頭部を鉄の硬さになるまで焼きもどした、巨大な戦棍に凭《よ》りかかるようにして、死刑執行人が待機していた。この戦棍によって、極悪人の骨がたちどころに砕かれたり、王のまえで床に撒かれた黒砂に脳髄がこぼれだしたりすることがよくあった。そして玉座のさらに右側では、専門の拷問人が悪人どもの運命を警告するように、恐るべき拷問器具の螺子《ねじ》や滑車の調整に余念がなかった。そしてこれらの螺子が回され、滑車が引っぱられるのが控えられるわけではなく、器具の金属製の台が無人であることもなかった。
さて、その日の朝に、都の警吏がエウウォラン王のまえに引ったててきたのは、数名のこそ泥と胡散《うさん》臭い浮浪者にすぎず、戦棍や拷問器具の使用を正当化するような重罪はなかった。満足の得られる裁きを楽しみにしていた王は、いささか期待をくじかれて落胆し、まえにならぶつまらぬ罪人どもを厳しく尋問して、訴えられたものより由々しい罪を強引に認めさせようとした。しかしこそ泥はけちな盗みを働いたほかに咎《とが》はなく、浮浪者は浮浪罪よりひどい罪は犯していないようだった。エウウォランは今朝は気晴しもままならぬと思いはじめた。かくのごとき軽罪犯人に合法的に課しうる刑罰は、棒叩きがせいぜいだったからである。
「こやつらを取りのけろ」王が警吏に叫ぶと、冠が憤りに震え、背の高いガゾルバ鳥が冠でうなずいているように見えた。「早く連れていけ。吾の身が汚れるわ。それぞれの素足を硬いブライアーの枝で百回叩き、踵《かかと》も忘れるでないぞ。アラモアムの都の外に出して、ごみ捨て場に追いやり、ぐずぐず這っているようなら、赤く焼いた三股の鉾《ほこ》で突いてやれ」
そして警吏が命にしたがおうとしたとき、二人の警吏が遅ればせに法廷にあらわれ、アラモアムで罪人や不審者を拘引するために使われる、多くの先尖りの棘《とげ》がある長柄の鉤で、ことのほか不快きわまる男を引ったててきた。鉤が衣服がわりの穢《きたな》らしい襤褸《ぼろ》や肉に食いこんでいるようなのに、捕われた男は山羊のごとく高だかと跳びはね、警吏二人はこの威厳に欠ける厄介な跳躍に合わせざるをえないため、三人はさながら曲芸師のようだった。最後に一跳びして、警吏二人を凧《たこ》のように空中から引き寄せると、この信じられぬ男はエウウォランのまえで動きを止めた。平衡も取れずにいた警吏を倒れこませ、王のまえで大の字に横たわらせながら、男があまりにもしなやかに床にふれなんまでに腰をかがめると、王は驚いて男を見つめ、しきりに目をしばたたき、好印象を抱くことはなかった。
「今度は何だ」王が険悪な声でいった。
「陛下、新たな浮浪者にございます」息を切らした警吏が敬意を示す姿勢を取って告げた。「アラモアムの大通りをご覧のようなありさまで、一休みすることもなく、通り抜けるところでございました。われらが捕えませなんだら、跳ねる高さがさがることもなかったでありましょう」
「かような振舞はきわめて疑わしいな」エウウォランが期待をこめて不平を鳴らした。「囚人よ、おまえの名、生国《しょうこく》、生業《なりわい》、まちがいなくおまえがなしたはずの忌わしい犯罪を述べよ」
寄り目の囚人は、エウウォラン、戦棍をふるう死刑執行人、拷問者とその器具を、ただの一瞥で見てとったようだった。どうにもならぬほど醜悪な風体で、鼻や耳といった顔の造作が不自然な動きかたをするうえに、しきりに顔をしかめて、汚らしい顎鬚を荒れ狂う渦巻きに囚《とら》われた海藻のように揺らしたり巻いたりするのだった。
「おれには多くの名があるぞ」男が横柄な口調でいったが、その声はエウウォランの耳にはことのほか不快で、金属を硝子《ガラス》にこすりつけたときのように歯が浮きそうだった。「おれの生国と生業については、王よ、そんなことを知ってもどうにもなるまい」
「おのれ、思いあがった奴め。答えぬなら、真っ赤に焼けた鉄の舌で問いつめるぞ」エウウォランは怒鳴りつけた。
「ならば、教えてやろう。おれは降霊術師で、夜明けと日没がともに訪れ、月が太陽と同じ明るさを放つ、あの国で生まれた」
「何、降霊術師だと」王が鼻を鳴らした。「降霊術がウスタイムでは死刑に値する犯罪であることを知らぬのか。かような恥ずべき行為を諫止《かんし》する手立てを見つけねばならぬな」
エウウォランの合図を受けて、警吏が捕囚を拷問器具のほうに引っぱっていった。甚《はなは》だ驚いたことに、あれほど騒ぎたてていたというのに、横たえられた者の四肢を著《いちじる》しく引き伸ばす鉄の台に、囚人は仰向けになって、鎖で繋がれるにまかせた。この偉業を果たす公認された拷問者が挺子《てこ》を動かしはじめると、台が険悪なきしみをたてて徐々に伸びていき、やがては囚人の関節が引きちぎれそうなまでになった。囚人の身長が一インチずつ引き伸ばされていき、しばらくすると、本来の背丈より半腕尺以上も伸びたが、何らの不快も感じていないようだった。いまや拷問台が限界まで伸びきっていたので、囚人の腕や足や胴のしなやかさが台の限界を越えていることが明らかになり、居合わせた者はひとり残らず茫然とした。
誰もが言葉もなく、この不可思議な男に目をこらしていた。エウウォランが玉座を離れ、尋常ならざるものを立証したおのれの目を疑っているかのように、拷問台へと近づいていった。すると囚人がこういった。
「おれを解放したほうがよいぞ、エウウォラン王」
「莫迦をいうな」王は怒りに駆られて叫んだ。「ウスタイムでは重罪犯人にそのような扱いはせぬわ」そしてひそかに合図をすると、死刑執行人が速やかに進みでて、巨大な鉛の戦棍を振りあげた。
「越度《おちど》はおまえにある」降霊術師がそういって、硝子の鎖であったかのように、たちまち縛めを破って身を起こした。そして拷問台によって引き伸ばされた体をそびやかし、木乃伊《ミイラ》のもののごとき黒く萎《しな》びた長い人差し指を王の冠に突きつけた。それと同時に、夜に未知なる浜辺を目指して飛ぶ渡り鳥の鳴き声のような、不気味な甲高い声で、異様な言葉を発した。すると、何たることか、その言葉に応えるかのように、エウウォランの頭の上で、にわかに翼のはためく音がして、王はよく慣れた冠からかなりの重さが減じたと感じた。影がエウウォランに落ちた。そして王や居合わせた者たちは、二百年以上もまえに遙かな島で船乗りに殺されたガゾルバ鳥の剥製が頭上の空中に浮かんでいるのを見た。鳥の翼は生命のある輝きを放ち、飛びたとうとするかのように広げられ、なおも鉄のような鉤爪で冠の稀少な飾り輪を掴んでいた。鳥が玉座の少し上で平衡を保って浮かんでいる一方、王は言葉もなく、畏怖と驚愕に打たれていた。すると、金属的な唸りがして、白い尾が天翔《あまがけ》る太陽の光のように広がって、鳥は開け放たれた戸口を速やかに抜け、アラモアムから朝の光に包まれた海のほうに飛んでいった。
降霊術師が山羊のように跳びはねて、そのあとにつづいた。降霊術師を止めようとする者はいなかった。しかし都を離れる降霊術師を見た者は、降霊術師が海岸沿いに北に進み、鳥はまっすぐ東に飛んで、半ば伝説と化している故郷の島にもどっていくかのようだったと証言した。その後は、一跳びで異界に入りこんだかのように、降霊術師がウスタイムで目にされることはなかった。しかしソタルから到来した商用のガレー船の船員たちが後にアラモアムに上陸して、ガレー船が大洋のただなかにあったときに、ガゾルバ鳥が船の上を横切り、いくつかの色がまばゆいばかりの美しい鳥は夜が明ける方角に飛んでいったと告げた。そして彼らがいうには、無類の十三の宝石を鏤めた、色の変化する黄金の冠は、なおも鳥が掴んでいたとのことだった。彼らは不思議な多島海で交易に携わって久しく、驚くべきことを数多く目にしていたが、これを前例のない稀世の素晴しいことだと思いなした。
エウウォラン王は鳥の冠をかくも面妖なやりかたで奪われ、法廷にて忽然と禿頭をこそ泥や浮浪者の目にさらしたために、神々の雷霆《らいてい》が突如として降りくだった者のごとく、茫然自失のありさまであった。太陽が空で黒く変じたり、宮殿の壁が崩れ落ちたりしても、これほど唖然とすることはなかったであろう。エウウォランにとって、父祖たちの象徴であり護符であった冠とともに、おのれの王権が飛び去ったように思えたからである。さらにこれはまったく自然に反することであり、神々と人間の法がくつがえされていた。およそ歴史にまれ伝説にまれ、死んだ鳥がウスタイムの王国から飛び去った例《ためし》はなかったからである。
いかにも喪失は悲惨な災難であり、エウウォランは紫のサマイト織りのかさばったターバンをかぶり、このようにして起こった国家の難事に関して、最も思慮分別のある大臣たちと会議を開いた。大臣たちも王と同様に当惑して困りはてていた。鳥と冠はかけがえのないものだからである。そうしているあいだにも、この不幸の噂がウスタイムじゅうに広まって、国じゅうに嘆かわしい不信と狼狽が満ちあふれ、ガゾルバ鳥の冠がなければこの国の正当な支配者たりえないといって、ひそかに王をそしる者もあらわれるようになった。
するうちに、国家の緊急時における王の慣行として、エウウォランはアラモアムの主神である大地の神ゲオルが住まう神殿に足を運んだ。神官の作法にしたがい、ひとりきりで、かぶりものをつけず、素足になって、仄暗《ほのぐら》い内陣に入っていくと、乳濁粕のかかった陶器で造られた太鼓腹のゲオルの像が、仰向けに寝そべって、壁の隙間から射し入る細い陽光に舞う塵を見つめていた。長い月日を経て像のまわりに塵埃《じんあい》が積もるなか、王は平伏して神に敬意を表し、非常時にある吾を教え導く託宣を与え給えと懇願した。しばしの間を置いて、神の臍《へそ》から声が起こり、地下の轟きが言葉になったかのようだった。声はエウウォラン王にこう告げた。
「東方の太陽のもとにある群島に赴《おもむ》いてガゾルバを探せ。王よ、夜明けの遙かな海岸にて、そなたの王朝の象徴にして果報である生ける鳥を、そなたはふたたび目にするであろう。そなた自身の手によって、鳥を屠《ほふ》るであろう」
エウウォランはこの託宣にかなり元気づけられた。神の言葉は無謬《むびゅう》であるとみなされているからである。託宣はいとも平明に、蘇った鳥を戴いていたウスタイムの失われた冠を、エウウォランが取り返さなければならないと告げているように思われた。かくしてエウウォランは王宮にもどると、自慢の艦隊の艦長たちを招集させ、東方の暁の多島海へと向かう長旅の準備を直ちにおこなえと命じた。
用意万端整うと、エウウォラン王は艦隊の旗艦に乗りこんだ。木麻黄《もくまおう》の櫂《かい》の漕手座が四列重なる堂々たるガレー船で、黄色みがかった朱に染められた上質の緻密な綿布の帆を備え、帆柱の頂きに掲げられた長い旒旗《りゅうき》には、天のごとき濃青色の地にガゾルバ鳥が自然な色で描かれていた。ガレー船の漕手と船員は北方の屈強な黒人で、乗りこんだ兵士たちは西方のクシュラクの獰猛《どうもう》な傭兵であった。王は航海のあいだ何も不自由することがないように、いくたりかの側女《そばめ》と道化と近習《きんじゅ》をともなうとともに、蒸留酒や食糧をたっぷり積みこませた。そしてゲオルの予言に心を配り、大弓と鸚鵡《おうむ》の羽根を用いた矢にあふれた矢筒で武装した。獅子革の投石器と毒のついた小さな矢を放つ黒竹の吹矢筒も携えた。
神々も航海を嘉《よみ》されているように、出立の朝には風が西から強く吹き、十五隻からなる艦隊は昇る朝日に向かって順風満帆に進んだ。波止場で見送るエウウォランの民の別れの声やどよめきは、すぐに距離を隔《へだ》てて聞こえなくなり、椰子の茂る四つの丘に広がるアラモアムの大理石造りの家屋も、ウスタイムの海岸線をなす瑠璃《るり》色の土手が速やかに下降していって消え去った。その後は多くの日々を費やして、ガレー船の鉄のごとく硬い船嘴《せんし》が、雲一つない濃青色の空にいたるまで途切れなく広がる、ゆったりうねる紺碧の海を割って進みつづけた。
父祖たちを落胆させたことのない大地の神ゲオルの託宣を信じこみ、王はいつもとかわらず浮かれ騒いでいた。ガレー船の船尾楼に設けられた濃い黄色の日除けの下に横たわり、王宮の貯蔵所に蓄えて忘却の黒い霜がおりた、往古の灼熱の太陽の温もりを蔵する葡萄酒や蒸留酒を、緑柱石の大杯でもって鯨飲した。そして道化の語る淫らな話や、そのかみ海に沈んだ大陸の王たちの笑いを得た、消えることのない古代からの猥談に笑い声をあげた。そして側女たちはローマやアトランティスよりも古い性愛の技巧で王を愉しませた。王は神の託宣にしたがい、ふたたびガゾルバ鳥を捕えて殺すための武器を、常に寝床のかたわらに置いていた。
風は期待を裏切らない有望なもので、真っ黒な大男の漕手たちは陽気に歌いながら櫂を操り、華麗な帆布が翩翻《へんぽん》とはためいて、長い旒旗が真横に吹かれる炎のようになびき、艦隊は速やかに進んでいた。二週間を経て、桂皮とサゴ椰子の立ちならぶ低い海岸が南北百リーグにわたって海をさえぎるソタルに到着した。ガゾルバ鳥についてたずねるために、主港のロイテに寄港した。鳥がソタルの空を飛んでいったという噂があって、その島のイッフィボスという狡猾な妖術師が妖術を弄して引き寄せ、白檀《びゃくだん》の籠に閉じこめているという者もいた。そこで王は探索も終わりに近いのだろうと考え、ロイテに上陸するや、イッフィボスを訪ねるために、艦長や兵士を引き連れて、島の中心部の山岳地帯の奥まった谷に向かった。
旅は退屈なもので、エウウォランは始末におえない血を吸う大型の昆虫にひどく悩まされた。王に敬意を払うこともせず、絶えずターバンのなかに潜りこむのである。深い密林に入って容易に進めず、何度も迷ったあと、高く険しい岩の上にあるイッフィボスの住まいに着いてみれば、鳥はそのあたりに特有の鮮やかな羽をもつ禿鷲《はげわし》にすぎず、イッフィボスが気晴しに飼い慣らしたことが判明した。妖術師は訓練した禿鷲の尋常ならざる狩りの伎倆《ぎりょう》を見せたがったが、王はいささか不作法に謝絶して、すぐにロイテに引き返した。そしてソタルが他の東方の土地をしのぐ極上のアラック酒の入った壺を五十積みこむや、ロイテにぐずぐず留まることはしなかった。
次に海が深さ一マイルの洞窟に流れこんで轟く、南の断崖や岬に沿って進み、エウウォランの艦隊はソタルをあとにすると、多くの日々を重ねて、人間よりも類人猿や狐猿に似たものが住む、めったに訪れる者もないトスクの島に到着した。エウウォランは島の住民にガゾルバ鳥のことをたずねたが、類人猿のような鳴きたてる声が返ってきただけだった。そこで王は兵士たちに、無礼千万の廉《かど》でこれら未開の島民を多数捕え、ココ椰子に磔《はりつけ》にせよと命じた。兵士たちは島におびただしくある木々や巨岩を縫うようにして、一日じゅうトスクの素早い島民を追ったが、ただのひとりも掴まえられなかった。王は命令を果たせなかったとして、兵士のいくたりかを礫にするにとどめ、住民の大半が食人族であるという、ユマトトの七つの環礁《かんしょう》に向かった。そしてウスタイムから東に向かう航海では通常ここまでとされるユママトをも越えて、艦隊はイロズィア海に入りこみ、噂にのみ聞く伝説上の岸や島の一部を訪れるようになった。
エウウォランと艦長たちが曙の生まれるところに向かったあの航海について、細大漏らさず語ったのでは、冗漫な話になるだけだろう。彼らがユマトトの彼方の群島で見いだした尋常ならざる驚異は、数えきれないほどあって、二つと同じものがなかったが、ガゾルバ鳥のものである羽は一枚も見つからず、群島の風変わりな住民はその鳥を見たこともなかった。
しかしながら王は、炎のごとき翼をもつ未知の鳥の群が数多く、地図にない島と島のあいだを行き来して、海のただなかに浮かぶガレー船の上を飛んでいくのを目にした。そしてよく島に上陸して、緋鸚哥《ひいんこ》や琴鳥《ことどり》や鰹鳥《かつおどり》を相手に弓の練習をしたり、吹矢で射止めようとして金色の鸚鵡に忍び寄ったりした。無人島の浜辺でドードー鳥やモア鳥を追った。荒寥《こうりょう》とした岩が高く突き出す海で、強大なグリュプスどもがそそりたつ岩にある巣から舞いおりて、真昼の太陽のもとで翼を真鍮の羽のように輝かせ、戦場で盾が打ち叩かれるような耳ざわりな鳴き声をあげて艦隊を襲ったこともあった。グリュプスどもは獰猛にして粘り強く、ガレー船の投石機から大石を投じることにより、かなりの難儀をして追い払った。
艦隊が東に押し進むにつれ、いたるところにおびただしい鳥があらわれた。しかしアラモアムを発って四度目の月がめぐったある日の夕暮れ時に、むきだしの黒い玄武岩の断崖が連なって、海面から一マイルも聳《そび》える名もない島に近づくと、島の基部では海がやりきれぬ怒りの轟きをあげており、絶壁のまわりには鳥の鳴き声も翼のはためきもなかった。頂きには吹きさらしの墓地にでも生えるような捻《ね》じれた糸杉が立ちならび、島は陰気に夕映えを浴びて、黒ずむ血に染まっているかに見えた。崖の遙か高みには、忘れ去られた穴居《けっきょ》人の住まいめいた、柱のならぶ妙な洞窟がいくつもあったが、人間には近づけそうもなかった。洞窟は島の表面に何リーグにもわたって点在するが、その見かけからして、いかなる生物も住みついていないようだった。そしてエウウォランは朝に上陸場所を探すつもりで、艦長たちに投錨せよと命じた。ガゾルバ鳥を取りもどしたくてたまらず、夜明けの海にある島は、いかに見こみのないものであろうと、それなりの聞きこみや調査をせずに、一つたりとも通りすぎる気にはなれなかったからである。
速やかに闇が垂れこめ、月はなかったので、舷を寄せて停泊する艦隊は角灯の光によって見えるだけだった。エウウォランは船室に座して夕食を取り、マンゴーのゼリーと赤鳥の肉をたらふく食べながら、ソタルの金色のアラック酒をちびちび飲んだ。それぞれの船は見張りをごくわずかに配備しただけで、船員も兵士も夕食にあずかり、漕手は漕手座で無花果《いちじく》と平豆を食べた。するうちに、見張りが激しい警告の声を発し、ざわめきはたちどころに静まって、途方もない重みがかかったかのように、艦隊のガレー船は大きく前後左右に揺れた。何が起こったのかを知る者もなかったが、いたるところに騒ぎと混乱があって、海賊に襲われたといいだす者もいた。舷窓や櫂受けの穴から覗いた者は、近くのガレー船の角灯が消えているのを知り、低くわだかまる雲のような轟きや騒ぎを闇のなかに感じとって、人間ほどの大きさで吸血蝙蝠のような翼を具えた不快な黒い生物が、おびただしく櫂に止まっているのを見た。開け放たれた艙口《そうこう》に思いきって近づいた者たちは、甲板や索具や帆柱に同じ生物がひしめいているのを知った。これら夜行性の生物は島の洞窟から蝙蝠のごとく飛んできたようだった。
やがて悪夢の物の怪のように、怪物どもが艙口に押し入ったり、舷窓を襲ったりしはじめ、刃向かう者らを恐るべき鉤爪で引き裂いた。翼が邪魔になって、槍や矢で押し返されたが、数えきれないほどの群をなして何度も来襲し、蝙蝠めいた小さな鳴き声を発した。吸血生物であるのは明らかで、人間が引き倒されると、艙口に入りこめるだけの生物がどっと群がり、皮と骨だけになってしまうまで血を吸うのだった。上部の漕手座は屋根が半分しかないので、たちまち占拠され、船員たちは恐るべき大群に圧倒された。吸血生物どもが増えまさってその重みを受け、船が沈みだすと、最下甲板の漕手たちが櫂の受け口から浸水しはじめたと叫んだ。
エウウォランの部下たちは夜通し舷窓や艙口で吸血生物と戦い、疲れると交代して体を休めた。夜も深まるにつれ、多くの者が掴まって、仲間の眼前で血を吸われた。吸血生物どもは吸った血を傷口から流しながらも、人間の武器では殺せそうもなかった。そして艦隊の船にさらに数を増して押し寄せてくるので、二段櫂の船は沈没しはじめ、三段権や四段櫂の船の一部も下層甲板が水没して漕手が溺死した。
エウウォラン王は夕食をだいなしにしたこの時宜《じぎ》をわきまえぬ騒ぎに激怒した。船が激しく揺れて、金色のアラック酒がこぼれ、貴重な肉の料理が床に落ちるや、言語道断の極悪人どもを成敗しようと、完全武装して船室からとびだそうとした。しかし船室の扉を大きく開け放とうとしたとき、背後の舷窓から翼のはためく不気味な音がかすかに聞こえた。王とともにいた女たちが金切り声をあげはじめ、道化が恐怖の悲鳴を発した。そして王はランプの火影《ほかげ》のもとで、蝙蝠の歯と鼻孔を具えた身の毛もよだつような顔が、舷窓の一つから覗きこんでいるのを目にした。王はその顔を追い払おうとした。そして夜が明けるまで、ガゾルバ鳥を殺すためにもってきた武器で吸血生物と戦いつづけた。夕食のときに同席していた旗艦の艦長が、諸刃の剣で二番目の舷窓を、宦官の二人が新月刀で残る舷窓を守った。この戦いでは舷窓の小さいことが幸いして、翼のある吸血生物はどうあっても舷窓に入りこめなかった。そして長ながと恐ろしい戦いがつづいた無明の刻限も終わり、褐色の光が射しそめて闇が薄らぐと、吸血生物どもが黒雲のごとく船から飛びたち、地図にない島の高さ一マイルの断崖の洞窟にもどった。
自慢の艦隊がこうむった被害を調べ、エウウォランは悲しみに沈んだ。あの吸血生物の群が不快にもひしめいたことで、押し沈められて水浸しにされ、十五隻のガレー船のうち、七隻が夜のあいだに沈没した。残った船の甲板はべっとり血にまみれ、船員と漕手と兵士の半数が大きな蝙蝠めいたものに貪欲に血を吸われ、空になった革の酒袋のごとく、締まりのないありさまで倒れこんでいた。帆や旗はずたずたに切り裂かれ、エウウォランのガレー船は船嘴から舵にいたるまで、いたるところがステユムパロスの怪鳥のものめいた汚物に汚され、悪臭を放っていた。あの呪われた島から翼で飛んでこられるところでまた夜を過ごすことのないよう、王は残っている艦長たちに錨を揚げて出帆せよと命じた。最下甲板がなおも冠水している船や、溺死した漕手が水中の漕手座に留まっている船も、ゆっくりと重おもしく東に進みはじめ、やがて岩壁に洞窟が点在する島が水平線の下に没しはじめた。夕方にはどこにも陸地の姿はなかった。二日後、吸血蝙蝠には一度も襲われることのないまま、波間に見える低い珊瑚島に到着した。穏やかな環礁には海鳥がいるだけだった。エウウォランはこの珊瑚島ではじめて船を停め、ずたずたになった帆を繕《つくろ》い、船艙の水を汲みだし、甲板の血や汚物を洗い流すように命じた。
しかしながら、あのような惨事があったにもかかわらず、王は決意の強さをいささかも減じることがなかった。夜明けの発するところに向かって進んでいけば、いずれゲオル神が予言したごとく、飛び去ったガゾルバ鳥をふたたび捕えて、おのれの手で殺せるのである。かくして月がまた一巡りするあいだ、艦隊はさらに不思議な他の群島のあいだを進みつづけ、神話と物語で語られる領域に深く入りこんでいった。
金色《こんじき》まばゆい鸚哥の飛びかう伝説の不凋花《アマラントス》の野を朝にながめ、薔薇色のフラミンゴが神聖不可侵の小川へと駆けていく瑠璃色の地を昼に望み、艦隊は雄々しくも突き進んだ。星が頭上で変化して、見慣れぬ星座があらわれるなか、見いだしえぬ領域の冬を逃れ、人跡未踏の世界の夏を求めようとして、南のほうに飛んでいく白鳥たちの荒あらしくも物悲しい鳴き声が聞こえた。そしてロック鳥の羽根を編んだ幅一エルのマントを長ながと背後に引きずった驚くべき者たちや、隆鳥エピオルニスの大羽で装った人びとと言葉をかわした。孵《かえ》ったばかりの雛のもののような綿毛で体を覆った滑稽な者や、羽弁がまだ伸び広がっていない刺毛《しもう》があるかのごとく、肉体に小さな隆起が散在する人とも話をした。しかしガゾルバ鳥の行方は杳《よう》として知れなかった。
航海に出て六月目になってまもないある日の午前の半ばに、新たな未知の海岸が水平線にあらわれて、北東から南西にわたって長ながと広がり、奥まった港、断崖、青あおとした広い谷を擁してそそりたつ岩山があった。ガレー船が進むにつれて、エウウォランと艦長たちは高い岩山の一部に塔が聳えているのを目にしたが、その下には停泊している船もなければ、動いている小舟もなく、港のある岸は緑したたる木々と草が生い茂っているばかりだった。そしてさらに近づいて、港に入ってみると、岩山に聳える塔のほかには、人のいる明白な痕跡は見いだせなかった。
しかしながら雀のような小鳥から、翼を広げれば鷲やコンドルよりも大きな鳥にいたるまで、驚くほど多種多様の鳥がおびただしくいた。鳥たちは大小さまざまな群をなして船の上を旋回し、好奇心を抱きながらも用心しているようだった。エウウォランは森の上や崖と塔のまわりに翼のある群衆が行き来しているかのようなありさまを目にした。ここにガゾルバ鳥を追い詰められる最適の環境がありそうだと考え、狩りの支度をすると、数名の部下をともなって小舟で岸に向かった。
鳥たちは最も大きなものにいたるまで、明らかに臆病で、まったく害をなさなかった。王が浜辺に上陸するや、数えきれない鳥が舞いあがって内陸部に飛びたったり、矢の届かぬところに聳える岩山や高峰に向かったりしたので、木々そのものが逃げ出したかと思えるほどだった。ついさっきまで無数にいた鳥が一羽も残っていなかった。エウウォランはこのような狡猾さに舌を巻いた。そしてたとえガゾルバ鳥を見つけられなくとも、狩りの伎倆を証拠立てるものをもたずに引きあげたくはなかったので、いささか肚《はら》に据えかねるものがあった。島が孤立しているだけに、鳥たちの振舞が奇妙に思えた。森の動物がつくりそうなもののほかには小道もなく、森や草原は人間の手が加わったことのないまったくの未開地だった。塔は荒寥として、海鳥や陸の鳥がぽっかり開いた窓を出入りしていた。
王と部下たちは海岸沿いの無人の森をくまなく調べ、灌木《かんぼく》や小さな杉の茂った急な斜面に達した。斜面の上部の片側は最も高い塔に通じていた。その斜面の一番下にいるいま、他の鳥たちが逃げ出した騒ぎにも気づかずに、一羽の小さな梟《ふくろう》が杉の枝で眠りこんでいるのが見えた。エウウォランは普段ならこのような取るに足りぬ獲物を相手にしないが、梟に狙いをつけて射落とした。落下した泉を掴みとろうとしたとき、同行していた部下のひとりが驚きの声をあげた。杉の葉叢《はむら》の下で動きを止めて振り返るや、その島でこれまで見たこともなかった巨大な鳥が二羽、雷霆のごとく塔から襲来した。エウウォランが矢をつがえる暇《いとま》もないまま、二羽の巨大な鳥は力強い翼をはばたかせ、大きな唸りをあげながらエウウォランに襲いかかり、たちまち地面に押し倒したので、エウウォランは恐ろしくも押し寄せる羽と残忍な嘴や鉤爪の連打に急襲されたことしかわからなかった。そして部下たちが助けようとして駆け寄るまえに、鳥の一羽が巨大な鉤爪で王のマントの肩のあたりを掴み、その下の肉に恐ろしい爪を食いこませることは控え、白隼が小さな仔兎を運ぶように易やすと、岩山の塔のほうに運び去った。王はまったくなすすべもなく、大弓は鳥に襲われたときに落とし、吹矢筒は差してあった腰帯から抜け落ち、吹矢も矢もこぼれ落ちてしまった。残っている武器は鋭い止《とど》めの短剣のみだが、これを空中で使うわけにはいかなかった。
速やかに塔に近づいていくと、こぶりな鳥の群が旋回して、愚弄しているかのように甲高い声をあげるので、王は耳がつぶれるかと思った。運びあげられていく高さと上昇の猛烈さのせいで、吐き気がこみあげてきた。幅広い戸口のような窓のある塔の壁が落ちこんでいくのを見て、目がくらみそうになった。そしてついに吐きはじめたとき、窓の一つに運びこまれ、天井の高い広びろとした部屋の床に荒あらしく落とされた。
王は俯《うつぶ》せになって手足を投げだし、しばらくはまわりのことも気にせずに吐きつづけた。やがていささか回復すると、体をねじって上体を起こし、目のまえの台座らしきものの上に、上方に弧を描く三日月形に造られた、赤っぽい金と黄みがかった象牙の巨大な止まり木があるのを知った。止まり木は血が飛び散ったかのような斑《ふ》の入った黒い碧玉の柱で支えられ、その上に尋常ならざる巨大きわまりない鳥が止まり、恐ろしくも容赦のない厳粛な態度でエウウォランを見つめ、そのありさまたるや、警吏が鼻持ちならない咎で引ったててきた貧民街のごろつきを、皇帝が見るようなものだった。鳥の羽はテユロスの古代紫で、嘴は先端に向かって緑が濃くなりまさる淡い色の青銅の大きな鶴嘴《つるはし》に似ており、戦士の籠手《こて》の指よりも長い鋼鉄のような鉤爪で止まり木を掴んでいた。頭は碧玉石の青と琥珀の黄色の羽柄《うへい》に飾られ、数多くの尖りのある王冠のようだった。羽に覆われていない、ドラゴンの鱗のようにざらざらした長い喉に、人間の頭をはじめ、鼬《いたち》、大山猫、白鼬、狐といった野生動物の頭を連ねた首飾りをつけていて、どの頭も芋ほどの同じ大きさに縮められていた。
エウウォランはこの鳥の見かけに震えあがった。おのれよりも小さな鳥がほかにも数多く、さして豪華ではない低い止まり木に止まり、王国の高官や貴人が王のまえに座しているように部屋じゅうにいるのを見て、新たな驚きに打たれた。そしてエウウォランの背後には、塔に運んできた二羽の鳥が、衛兵のごとく、仲間とともに止まっていた。
さて、古代紫の羽柄を立てた鳥が人間の言葉で呼びかけたので、エウウォランは困惑してしまった。鳥は耳ざわりながらも仰々しい威厳のある声で語った。
「ああ、人間の屑め、おまえは何と大胆に、鳥たちの聖地たる島、オルナウァの安らかな世界に押し入り、余の臣下を勝手気ままに殺したことか。この水陸からなる地球にて、飛び、歩き、水中を歩き、泳ぐ鳥たちすべての君主こそ、余であることを知るがよい。オルナウァは余の玉座にして首都なるぞ。まことにおまえは罪を犯したことで裁きを受けねばならん。しかあれど、申し開きがあるのなら、聞いてつかわそう。人間の屑のなかで最も卑しむべき者、邪悪きわまりない者からも、不公正だの専横だのと非難されたくないのでな」
エウウォランは内心では甚だ戦々恐々としていながらも、いささか空威張りをして、鳥に応えてこう告げた。
「ウスタイムで吾の王冠を飾っていたガゾルバ鳥が、王冠ともども放埒な降霊術師の呪文によって極悪にも奪い取られ、そのガゾルバ鳥を探してここに来たのだ。吾はウスタイムの王エウウォランなるぞ。たとえ君主であろうと、鳥に頭をさげはせぬ」
すると鳥の支配者はさらに驚き憤然としたかのようで、エウウォランを尋問して、厳しく問いつめた。この鳥が船員によって殺されたあと剥製にされたことや、エウウォランの航海の目的が、鳥をふたたび殺し、必要であればまたしても剥製にするためであることを知るや、鳥の支配者は怒りに満ちた大声で告げた。
「これではどうにもならず、おまえは二重の罪と三重の悪名の責めを負うべきと知れたな。何となれば、おまえは最も忌むべきもの、自然の法をくつがえすものを所有していたからだ。余のこの塔には、まことにあいふさわしくも、剥製術師に造らせた人間の体を保管してある。しかあれど、人間がかようなことを鳥になすのは、許すまじき、堪えられぬことだ。したがって当然の報いとして、即刻おまえを剥製術師に引き渡す。いかにも王の剥製は(社会の害虫でさえ王を戴くのだから)余の収集品を高めるだろうて」
鳥の支配者はそのあと衛兵を呼びつけて命じた。「この不快きわまる人間を連れていけ。人間の檻に閉じこめ、厳しく目を光らせよ」
エウウォランは衛兵に嘴でつつかれて追いたてられ、幅広いティーク製の踏み子のある傾斜した梯子めいたものを上り、いまいる部屋から塔の頂きにある部屋に向かった。その部屋の中央には人間が六人は優に入れそうな竹籠があった。王は籠に押しこまれ、鳥が指のように器用に動く鉤爪で閂《かんぬき》を掛けた。そのあと鳥の一羽が籠のそばに留まって、籠の格子ごしに目を光らせる一方、別の一羽は大窓から飛びたってもどってこなかった。
籠のなかには快適さをもたらすものもなく、王は寝藁《ねわら》に腰をおろした。絶望が重くのしかかり、この窮状は恐ろしいものであるとともに不面目なものでもあるように思った。鳥が人間の言葉でしゃべり、人間を侮辱罵倒したことに甚だ驚いた。鳥が王のように暮らし、従者を意のままに使い、王の力と威厳を具えているのも、不可思議千万なことだった。こうした法外な驚異を熟慮しつつ、エウウォランは人籠でおのれの運命を待った。しばらくすると、水と生の穀類が土器に入れてもってこられたが、火を通していない穀類など口にできなかった。さらに後、午後も近くなったころ、塔の下から人間の叫び声と鳥たちの鳴きたてる声が聞こえた。ほどなくこれらの声をしのいで、武器をふるう音や岩山の岩がぐらつく音が聞こえた。エウウォランはこれらの声や音から、自分が鳥に捕えられて塔に運びこまれるのを見た船員や兵士が、救い出そうとして塔に攻めかかっているのだと知った。戦いの騒乱が高まり、このうえもなく激烈かつ凶暴なものにまでなって、深傷を負った者の悲鳴や、戦うハルピュイアの恨み骨髄の金切り声めいたものがあがった。まもなく騒ぎは鎮まって、叫びたてる声もかすかになり、エウウォランは部下たちが塔を落とせなかったと知った。胸にこみあげていた希望が萎《しぼ》み、絶望の暗い闇のなかに消えていった。
こうして午後は過ぎゆき、太陽が海のほうに傾いて、エウウォランを西の窓から水平に照らし、籠の格子を金まがいの色で染めた。まもなく光が部屋から引いていき、しばらくすると黄昏《たそがれ》が垂れこめて、薄暗い空気中に揺らめく朦朧《もうろう》とした蜘蛛の巣めいたものを張った。日没から闇が降りくだるまでのあいだに、夜の衛兵がやってきて、囚われの王を監視していた昼行性の鳥と交代した。新しくやってきたのは目が黄色に輝く昼盲の鳥で、エウウォランよりも上背があり、体つきも羽の生え方も梟のようにどっしりした感じで、塚造りの頑丈な脚を具えていた。暮色が濃くなりまさるなか、明るい篝火《かがりび》のように燃えあがっていく鳥の目を、エウウォランは不快なまでに意識した。その警戒を怠らない凝視は堪えがたいものだった。しかしほどなく満月を少し過ぎた月が昇り、朧《おぼろ》な銀色の光を部屋に注いで、鳥の目を曇らせた。エウウォランは乾坤一擲《けんこんいってき》の計画を思いついた。
エウウォランを捕えた鳥たちは、王が武器をすべて失ったと思い、先端が針のように鋭い諸刃の長い止めの短剣を、腰の飾帯から取りはずしていなかった。エウウォランはマントのなかで短剣の柄をこっそり掴むと、急に病におちいったふりをして、呻きながらもがいてのたうち、籠の格子に体を打ちつけた。目論《もくろ》んでいたように、何を苦しんでいるのかと思って、大きな昼盲の鳥が近づいてきて、かがみこんで、梟のような頭をエウウォランの頭上の格子のあいだに入れた。すると王はさらに激しい痙攣《けいれん》を装い、止めの短剣を鞘《さや》から引き抜いて、鳥が伸ばした首に向かって素早く突きあげた。
短剣は過《あやま》たずに刺さり、一番奥の血管を貫いて、鳥の叫びもおのれの血によって塞がれた。鳥が倒れこんでばたばたと羽を鳴らすので、エウウォランは塔にいる鳥のすべてが目を覚ますのではないかと不安になった。しかしこれは杞憂に終わり、一羽も部屋にはあらわれず、翼のはためきも止まって、昼盲の鳥は乱れた羽に包まれてぴくりとも動かなかった。王は計画を進め、竹を格子造りにした幅広い扉の閂をややてこずってはずした。そして下の階に通じるティーク材の梯子のあるところに行って見おろし、鳥の支配者が月光に包まれて、鶴嘴めいた恐ろしい嘴を翼のなかに入れ、金と象牙で造られた止まり木で眠っているのを知った。エウウォランは支配者を起こさないようにして、そこにおりていくのが恐ろしかった。それに、塔の下のほうが、先ほど殺したような夜行性の鳥に警備されていそうな気もした。
エウウォランはまたしても絶望に打ちひしがれたが、機略縦横で悪知恵に長《た》けていることから、新たな計画を思いついた。止めの短剣を使い、かなりの苦労をして、昼盲の強大な鳥の皮を剥ぎとると、その羽からできるかぎり血を取りのぞいた。そしてその皮をまとい、鳥の頭をおのれの頭の上に聳えさせ、がっしりした喉に穴を開けて、羽のあいだから外が見えるようにした。エウウォランは鳩胸で太鼓腹なので、鳥の皮は体にかなりぴったりして、歩くときには細長い足が鳥の太い脚の背後に隠れた。
やがて王はこの鳥の歩き方や身ごなしを真似て、慎重に梯子を下っていった。落下したり音を立てたりすれば、鳥の支配者が目を覚まし、策略が見破られてしまう。支配者が独りでぐっすり眠りこんでいるなか、エウウォランは床に達すると、下の階に通じる梯子に向かった。
下の部屋では数多くの鳥が止まり木で眠っており、王はそのなかを進むあいだ、恐怖のあまり悶絶するのではないかと思った。エウウォランがいることに気づいたかのように、何羽かの鳥が身じろぎして、眠りながらさえずったが、誰何《すいか》する鳥はいなかった。エウウォランは三番目の部屋におりるや、数多くの人間の直立した姿を目にして驚いた。船員のなりをした者、商人の出立ちをした者、蛮人のように明るい鉱石の粉末で裸体を赤く染めた者がいた。そして彼らは魔法にかけられたかのように硬直していた。王は鳥たちと同様にこれらの人間を恐れた。しかし鳥の支配者が告げたことを思いだし、これらの人間が自分と同じように捕えられて、鳥たちによって殺され、鳥の剥製術師によって保存されたのだと察した。そして身を震わせながら次の部屋におりたが、そこは猫や虎や蛇といった、鳥類の敵の剥製にあふれかえっていた。そしてその下の部屋は塔の一階で、王が皮をまとっているのと同種の夜行性の巨大な鳥が数羽、窓や戸口を警備していた。いかにもここは最大の危険がみなぎる場であり、王のこのうえもない勇気が試されるところだった。警備の鳥たちがぎらつく金色の目で油断なく見つめ、梟のようなほーほーという声で挨拶をしたからである。エウウォランは鳥の脚のうしろで膝ががくがく揺れたが、鳥の鳴き声を真似て応え、咎められることなく警備の鳥たちのあいだを抜けていった。塔の開け放たれた戸口に達すると、月に照らされた岩山の岩がせいぜいニクビトゥスほど下にあるのが見え、鳥のやりかたで敷居からとびおりると、岩山の岩棚から岩棚へと危なっかしく進みつづけ、麓《ふもと》で小さな梟を殺したあの急勾配の斜面の上部にたどりついた。ここからはくだるのがたやすくなって、まもなく港を囲む森に行きついた。
しかし森のなかに入るまえに、矢の飛来する甲高い音がして、王は矢の一本によって軽い傷を負い、怒って唸り、まとっていた鳥の皮を脱ぎ捨てた。こうすることによって、エウウォランは部下たちに殺されずにすんだのである。部下たちは塔に夜襲をかけようとして、森を抜けてやってきたところだった。王はこのことを知ると、あやうく射殺されそうになったことを赦した。しかし塔を攻撃するのはやめて、できるだけ迅速に島を離れるのが最善だと思った。そこで旗艦にもどると、艦長の全員に直ちに出帆せよと命じた。島の王の恐るべき力を知っているので、何よりも追跡されるのを危惧した。夜が明けるまでに、船と島を広く隔てるのがよいと思った。かくしてガレー船は穏やかな港を離れ、北東の岬をまわって、月とは逆の東に向かって進んだ。そしてエウウォランは船室に坐り、人籠での絶食を癒すため、さまざまな料理をたっぷり食べて満足した。椰子酒を鯨飲したうえ、ソタルの淡い金色の強いアラック酒も一瓶空けた。
真夜中から朝にかけてのあいだに、オルナウァの島が遙か後方に遠ざかったころ、船の舵取りが背後を振り返り、真っ黒な雲が沈みゆく月を覆い隠して速やかに昇るのを見た。黒雲は空に高く昇り、大きく広がって雷を落とし、ついには嵐がエウウォランの艦隊に追いついて、星一つない逆巻く混沌から解き放たれた地獄の大暴風のように襲いかかった。艦隊のガレー船は闇のなかでばらばらに分かたれ、それぞれ遠くへ運ばれていった。夜明けには、王の四段櫂の旗艦は波と雲が入り乱れて襲いかかる騒乱のなかで一隻だけになっていた。帆柱は砕かれ、木麻黄の櫂も大半が折れて、船は大嵐の魔物のなすがままだった。
三日三晩にわたり、荒れ狂う嵐の闇に太陽の光も星の光も射さぬまま、船は世界の果ての底無しの深淵に流れ落ちる大|瀑布《ばくふ》に捕われたかのように、まっしぐらに突き進んでいた。そして四日目の早朝に、雲がいささか破れたが、風はなおも破滅の息吹のごとく吹いていた。やがて飛沫や水煙のなかに見え隠れして、黒ぐろとした陸地の姿が船首の前方にぬっとあらわれ、舵取りも漕手も凶運にみまわれた船の進路をかえることはできなかった。その直後、彫刻のほどこされた船嘴が砕け、木材が粉砕される大きな恐ろしい音がして、船は飛び散る泡に隠された低い暗礁に激突し、下層の甲板がすぐに水浸しになった。そして船が浸水し、船尾楼が大きく傾いて沈みはじめ、風下側の舷墻《げんしょう》で激しく海が泡立った。
海の泡立つ猛威の帳《とばり》ごしにかろうじて見える暗礁の向こうの海岸は、荒寥として険しい岩の連なりだった。陸地にたどりつける望みはほとんどなさそうだった。しかし難破した船が沈没するまえに、エウウォランは丈夫なコイアの綱でおのれの体を空の葡萄酒樽に縛りつけ、傾斜する甲板から身を投じた。船艙でまだ溺れていない者や、暴風によって船外に吹き飛ばされていない者が、王にならって高くうねる海にとびこみ、水練の力にのみ頼ったり、大樽や壊れた円材や船板にしがみついたりした。多くの者があるいは波立つ渦に引きこまれ、あるいは岩にたたきつけられて死んだ。船に乗っていた者のなかで王だけが生きのびて、その無情の海で生命を断ち切られずに岸に打ちあげられたのである。
エウウォランは溺れかかって意識を失い、波に運ばれてなだらかな傾斜の浜辺に横たわった。まもなく強風がその猛威を失い、大波は波頭の高さを減じていき、雲は真珠色の千切れ雲と化して消え、太陽が岩の上に昇って、雲一つない青空の深みからエウウォランを照らした。王は海の凄まじい暴虐になおも茫然としていたが、夢を見ているかのように、未知の鳥の甲高い鳴き声をぼんやりと耳にした。やがて目を開けて、おのれと太陽のあいだに、ガゾルバ鳥として知る、あの羽や羽毛の色が輝かしい鳥が、翼を広げて舞っているのを見た。鳥が孔雀のような耳ざわりな甲高い声でまた鳴いて、つかのまエウウォランの上で留まったあと、そそりたつ岩の亀裂を抜けて内陸部に飛んでいった。
王はこれまでの辛酸も自慢の艦隊を失ったことも忘れ、空の樽に体を縛りつけていた綱をあわててほどくと、有頂天になって立ちあがり、鳥を追いはじめた。いまや武器もなかったが、ゲオル神の託宣の成就が目前であるように思った。そしてガゾルバ鳥を追いながら、浜辺の重い石を集め、棍棒がわりに流木を手にした。
ごつごつした高い岩山の亀裂の向こうは、まわりを取り巻かれた谷になっていて、滾々《こんこん》と湧《わ》きたつ泉、見慣れない葉をつけた森、東方の芳《かぐわ》しい花を咲かせる灌木があった。そしてこの谷に入ると、ガゾルバ鳥の華麗な羽をつけた鳥が数えきれぬほど、枝という枝から飛びたったので、エウウォランは目を丸くした。失った王冠の飾りものだと思い、あとを追ってきた鳥がどれなのか、まったく見分けもつかなかった。この鳥の数の多さは王の理解を超えていた。エウウォランも臣民も鳥の剥製が、ウスタイムの王冠の他の装飾品と同様に、この世で唯一無類のものだと思いこんでいたからである。そしてエウウォランは、遠方の島で鳥を殺した船員が、この種の鳥の最後の一羽だと断言して、父祖たちを欺いたのだと思いあたった。
しかしながら憤怒をおぼえて混乱しながらも、エウウォランはこの群のなかの一羽を捕えれば、ウスタイムの王権の象徴および護符になり、夜明けの島じまでの探索が正当化されると考えた。そこで棒や石を勇ましく投げつけ、ガゾルバ鳥を仕留めようとした。そして王が追いかけると、鳥たちは恐ろしい金切り声をあげて、常に木から木へと飛び移り、空中に荘厳な羽の輝きを描くのだった。狙いがよかったのか、偶然の回《めぐ》りあわせか、エウウォランはついにガゾルバ鳥を一羽殺した。
落下した鳥を取りにいったとき、ぼろぼろになった異様な仕立ての衣服をまとい、粗末な弓を手にした男が、二羽のガゾルバ鳥の脚を丈夫な草で縛って肩にかけているのを見た。男は帽子のかわりに、同じ鳥の羽のついた皮をかぶっていた。もじゃもじゃの髪に覆われた口で何か叫びながら、エウウォランに近づいてきた。王は驚きと怒りのこもる目で男を見すえ、声高にいった。
「下賤《げせん》の農奴よ、ウスタイムの王にとって神聖な鳥をよくも殺したな。その鳥を頭に戴けるのは王だけであると知るがよい。吾、エウウォランは、汝のおこないの申し開きを求める」
男はこれを聞くと、妙な目つきでエウウォランを見つめ、王を気のふれた者だと思ったかのように、長ながと嘲《あざけ》るように笑いつづけた。王の姿を面白がっているようでもあった。エウウォランは衣服を引きずり、海水が乾いてごわごわして汚れ、ターバンが悪辣な波に奪われて、禿頭を隠しようもなかった。やがて男が笑うのをやめて、こういった。
「いやいや、おどけた言葉を耳にするのはこの九年間ではじめてなので、大笑いしたのをお赦しくだされ。おれは遙か南西のウッロトロイの船長で、九年前にこの島で難破して、乗組員のなかでただひとり、生きのびて無事にここの浜辺にたどりついたのですわ。この島は航路から遠く離れ、鳥のほかには誰もおりませんので、この年月にわたって、話をする相手もおりませなんだ。お手前のおたずねになったことについては、たやすく答えられます。島には植物の根と実のほかに滋養となるものはほとんどなく、餓えに苦しまぬようにするため、鳥を殺しておるのです。頭を鳥の皮と羽で覆っているのは、ここの浜辺に荒っぽく打ちあげられたときに、円筒形のタルブーシュ帽が波にさらわれたからですよ。それにおれはお手前のおっしゃる不思議な法は存じません。それにお手前が王であらせられることも、おれにはかかわりのないことですよ。この島に王はおりませんし、お手前とおれがいるだけで、二人のなかではおれのほうが強いし、武器をもってもおりますからな。ですから、よくご忠告申しあげましょう。ああ、エウウォラン王よ、お手前は鳥を殺したのですから、それを取って、おれと一緒においでなさい。この鳥のはらわたを抜いて炙《あぶ》ることについては、おれが役に立つでしょうよ。お手前は調理より、できあがった料理に馴染んでらっしゃるようですからな」
さて、エウウォランはこれを聞くと、怒りが油の切れた炎のように鎮まった。航海が最後にもたらしたありさまがはっきりとわかり、ゲオル神の真の託宣に隠されていた皮肉を悟って苦にがしく思った。そして艦隊の残骸が失われた島のあいだに分散したり、航海不能の海に吹き流されたりしたのだと知った。もはやアラモアムの大理石造りの家屋を目にすることも、快く贅沢に暮らすことも、法廷で拷問人と死刑執行人のいずれに委ねるかの裁きを下すことも、臣民に喝采されてガゾルバ鳥の王冠を戴くこともないのだとわかった。そして王は理性をすっかり失ったわけではないので、おのれの運命にしたがうことにして、船長にはこう告げた。
「おぬしのいいぶんはもっともだ。では、導いていただこう」
こうしてエウウォランとその名をナズ・オッバマルという船長は、狩りの獲物を携え、たがいに打ち解けて、ナズ・オッバマルが住処に選んだ、島の内部の岩の斜面にある洞窟へと行った。船長は乾燥した杉の枝を燃やしてから、鳥の羽をむしりとって、緑色の龍脳樹《りゅうのうじゅ》の窪みの上で鳥をゆっくりまわしながら焼くという、適切なやりかたを王に見せた。ガゾルバ鳥はやや痩せこけていて、臭いがきつかったとはいえ、エウウォランは餓えていたので、鳥の肉がまずいとは思わなかった。食事を終えると、ナズ・オッバマルが洞窟に入って、島の粘土で造った粗雑な壺を取ってきた。ある種の果実から造った酒が入っていた。そして二人は壺の酒を酌《く》みかわし、たがいの冒険を語りあって、ひどいありさまの凄まじさと心細さをしばし忘れ去った。
その後、二人はガゾルバ鳥の島を分かちあい、餓えを癒すために鳥を殺しては食した。ときには素晴しいごちそうとして、島ではめったに見かけない他の鳥を殺して喰らうこともあったが、おそらくウスタイムやウッロトロイではありふれた鳥だったのだろう。そしてエウウォラン王はナズ・オッバマルがしているように、ガゾルバ鳥の皮と羽でかぶりものを造った。そしてこれが死ぬまで二人の装いになったのである。
[#改丁]
地下納骨所に巣を張るもの
[#改ページ]
タスーンの五十九代目の王ファモルグの指示は、きわめて詳細かつ明白に述べられたばかりか、これにしたがわないと、単なる死が快いものになってしまうほどの罰を受けるというものでもあった。王の最も信頼する三人の豪胆な部下、ヤヌル、グロタラ、ティルライン・ルドクは、朝にミラーブの宮殿を馬で発ち、自分たちの場合、服従と不服従のいずれが悪しきことなのかと、冗談めかしていいあらそった。
三人がファモルグから受けた命は、尋常ならざる不快なものだった。ミラーブから北に九十マイル以上も離れた荒涼たる丘陵のただなかに位置する、タスーンの王たちの見捨てられて久しい宮殿を訪れ、荒廃した宮殿の地下にある納骨所にくだり、ファモルグが属する王朝の創始者にあたるトゥネプレーズ王の木乃伊《ミイラ》のうち、残っているものを見つけだして、それをミラーブにもちかえらなければならない。何世紀にもわたってカオン・ガッカに入りこんだ者はなく、地下納骨所に遺体が保存されているかどうかは不明だが、トゥネプレーズの頭蓋骨、あるいは小指の骨、もしくは木乃伊が崩れはてた塵しか残っていなくとも、三人の兵士はこれを注意深く取りあげて、聖遺物のように守らなければならないのだった。
「戦士というより、ハイエナの仕事だな」ヤヌルが鋤《すき》のような形をした黒い顎鬚を揺らして、不平をこぼした。「墓の守護神たるユルルンにかけて、遺体の安らぎを乱すのは悪しきことだぞ。死神が支配地となして、食屍鬼どもを集めてしたがえているのだから、カオン・ガッカに人間が入るのは定めてよくないことだ」
「王は木乃伊づくりをつかわすべきだったのだ」グロタラが意見を口にした。三人のなかで一番若くて体も大きく、ヤヌルやティルライン・ルドクより頭一つ分高い。二人と同様に、凄まじい戦いや絶望的な危険を切り抜けてきた強者だった。
「いや、おれはハイエナの仕事だといったぞ」ヤヌルがまたいった。「しかしミラーブにはおれたちを措いて、カオン・ガッカの呪われた地下納骨所に入りこむ勇気のある者がおらぬことを、王はよくご存じだった。いまを去る二世紀前、マンディス王が寵愛する女のために、アウァイナ女王の黄金の鏡を得ようとして、向こう見ずな壮士二人に命じ、アウァイナの木乃伊が萎《しな》びた手に鏡をもって、おのれの墓石に坐りこんでいるという、地下納骨所にくだらせたことがある……二人はカオン・ガッカに行ったが……もどってくることはなかった。マンディス王は予言者にさとされて、二度と鏡を手に入れようとはせず、女には別の贈物をするにとどめたのだ」
「ヤヌルよ、おまえの話は死刑執行人の大鎌を待っている者たちを喜ばせるだろうな」そういったティルライン・ルドクは、三人のなかで一番年長で、茶色の顎鬚が砂漠の太陽にさらされて、麻のような色に薄らいでいた。「しかし文句はいわずにおこう。よく知られたことだが、地下納骨所には地衣類や幽霊よりひどいものが跋扈《ばっこ》している。遠い昔にドロスの不浄な狂った砂漠から、異様な魔物どもがやってきたというぞ。王たちがカオン・ガッカを棄てたのは、真っ昼間に宮殿の広間に影があらわれるようになり、影を投じる実体もないというのに、その後も影が留まりつづけ、光が変化してもその影は変化せず、神官や妖術師が悪魔祓いをしてもまったく消えなかったからだそうな。影にふれた者や、影を踏んで歩いた者は、一瞬の内にその体が黒ずんで、死後一ト月が経過した死体のように腐敗したという噂もある。そのようなありさまだったので、影の一つが近づいてきて玉座に坐るや、アグメニ王の右手が手首まで腐り、腐肉のごとく落ちてしまったそうだ……その後、カオン・ガッカに住む者はおらん」
「おれはほかの話を聞いたことがあるぞ」ヤヌルがいった。「都が放棄されたのは、深い亀裂を残した地震のあと、井戸や貯水池の水が消えてしまったためなのだ。王の宮殿は亀裂によって地下納骨所とは切り離され、アグメニ王は亀裂から発した冥界の蒸気を吸って、激しい狂気に冒された。カオン・ガッカを離れ、ミラーブに都を興してからも、死ぬまで正気にもどることはなかった」
「それは信じるに足る話だな」グロタラがいった。「確かにファモルグは祖先のアグメニの狂気を受け継いでいるにちがいない。タスーンの王家は腐ってぐらつき、倒れかかっているからな。娼婦や妖術師がファモルグの宮殿に蛆《うじ》のように群がっているではないか。いまやフアモルグは、后《きさき》にしたクシュラクの王女ルナリアに、娼婦と魔女を見いだしている。不浄の目的でトゥネプレーズの木乃伊を望むルナリアに促され、ファルモルグはおれたちをこの任務につかせたのだ。聞いたところでは、トゥネプレーズは全盛期には大魔道士だったから、ルナリアはトゥネプレーズの骨や塵の強力な効能を利用して、媚薬をつくるつもりでいるらしい。何たることだ。おれはそのような調達の役目が気に入らん。女王の愛人を狂わせる媚薬をつくるためなら、ミラーブにも木乃伊がたっぷりあるではないか。ファモルグはのぼせあがって、たぶらかされているのだ」
「せいぜい用心しろよ」ティルライン・ルドクが注意した。「ルナリアは若くたくましい男に情欲をたぎらせる吸血鬼だからな……わしらがこの企てに幸運にも成功して生還すれば、次はおまえの番かもしれぬぞ、グロタラ。ルナリアがしげしげとおまえを見つめておったわ」
「凶暴なラミアとまぐわいするほうがましだ」グロタラが高潔さをあらわにして、憤然といいはなった。
「そのように嫌ってもどうにもならん……」ティルライン・ルドクがいった。「わしは媚薬を飲んだ者たちを見たことがあるからな……だが、ミラーブで最後の酒場も近いし、わしはこの旅を思って、早くも喉がいがらっぽくなってきたわ。喉を洗うには、ヨロスの葡萄酒をたっぷり飲まなくてはなるまいて」
「確かにな」ヤヌルが諾《うべな》った。「おれはもうトゥネプレーズの木乃伊のように乾いておるぞ。おまえはどうだ、グロタラ」
「ルナリア女王の媚薬でなければ、どんなものでも牛飲してやる」
王の信頼する三人の部下は、疲れを知らずに速やかに進む一瘤駱駝《ひとこぶらくだ》にまたがり、トゥネプレーズ王を収める軽い木製の棺を載せた四頭目の駱駝をしたがえて、まもなくミラーブの明るい賑やかな通りや、都のまわりに何マイルもつづく、胡麻畑、杏《あんず》や石榴《ざくろ》の農園をあとにした。正午になるまえに、一行は隊商路をはずれて、獅子やジャッカルのほかにはほとんど使われることもない道を進んだ。しかしながらカオン・ガッカにいたる道は平坦につづき、もはやいかなる季節にも雨が降ることはないので、往古の二輪戦車の轍《わだち》がなおも砂漠の土に深く残っていた。
最初の夜には、三人は冷ややかな満天の星のもとで眠り、獅子がいきなり襲ったり、鎖蛇が温もりを求めて這い寄ったりしないように、交代で見張りについた。二日目の日中は険しい丘や深い渓谷のあいだを進んだので、前進がはかどらなかった。ここでは蛇や蜥蜴《とかげ》が進む音もなく、沈黙の呪いのごとく垂れこめる静寂を破るのは、彼らの声と駱駝の足音だけだった。ときおり黒ずんだ空を背景にして、乾燥しきった岩山の頂きに、枯れて久しいサボテンの枝や、太古に焼けて枯れた樹の幹が見えることもあった。
二日目の夕暮れには、広い谷の四リーグほど先に、荒廃した城壁を聳《そび》えさせるカオン・ガッカが見えた。その後、笑いを司るグロテスクな小神、ユクラの聖堂が沿道にあらわれた。ユクラの力はもっぱら慈悲深いものだと信じられているので、三人はその日はそれ以上進まず、こういう呪われた廃墟の近辺に住んでいるやもしれない食屍鬼や魔物に襲われぬよう、崩れかけた聖堂で休むことにした。ミラーブからヨロスの強い薔薇色の葡萄酒を満たした革の酒袋を携えてきて、いまや四分の一を余すだけだったが、黄昏《たそがれ》のなかで崩れた祭壇に献酒として注ぐと、夜の魔物などからの保護を求めてユクラに祈った。
三人は祭壇のそばの摩りへった冷たい敷石に横たわって眠り、以前のように交代で見張りをした。三番目に見張りをしたグロタラが満天の星の光が薄らぐのを見て、炭のように黒い闇が灰に覆われたような夜明けに仲間を起こした。
無花果《いちじく》と山羊の干肉で乏しい食事を終え、旅を再開して駱駝を谷に進め、巨石の多い斜面を縫うようにして進んでいると、地面や岩に深い亀裂があらわれるようになった。こうした箇所を迂回しなければならないために、廃墟に近づくのは、遅々としてはかどらない困難なものだった。道の両側には、遠い昔に枯れた果樹が立ちならび、もはやハイエナも塒《ねぐら》にしない小屋や農家もあった。
何度も遠回りをしたために、音が虚ろに響く旧都の通りに入りこんだときには、正午近くになっていた。ぼろぼろになった紫色のマントのように、荒廃した家屋の影が、壁や戸口に貼りついていた。いたるところに地震の破壊が認められ、亀裂の入った通りや崩れた邸宅は、都が放棄された理由について、ヤヌルが聞いた話が真実であることを証明した。
しかしながら王の宮殿はなおも他の建物をしのいで際立っていた。崩れはてていながらも、北の要塞化された低い丘で、黒い斑岩の山のように都を威圧していた。この要塞化された丘を造るために、遠い昔に赤い閃長岩の丘の表装の土が取りのぞかれ、岩を刻んで険しい円形の城壁が造られ、螺旋を描いてゆるやかに頂きへと通じる道が設けられた。ファモルグに信頼される三人の部下がこの道をたどり、宮殿の中庭の入口に近づいたとき、城壁から絶壁にまでいたる深い亀裂に行きあたった。亀裂は幅が一ヤードほどだが、駱駝はしりごみした。三人は駱駝からおりて、駱駝をその場に残し、軽がると亀裂をとびこえた。グロタラとティルライン・ルドクが棺を運び、ヤヌルが革の酒袋をもって、崩れた櫓《やぐら》門を通り抜けた。
広い中庭にはかつて堂々たる塔や露台であったものの残骸が散乱しており、三人の戦士は隠れた敵の防柵を踏み越えているかのように、剣を鞘《さや》から抜いて、影に目をこらしながら慎重に進んでいった。中庭の奥の前廊で、石塊や砂利の上に巨大な女が白い裸身を横たえているのを目にして、三人は仰天した。しかし近づいてみると、思っていたような女の魔物ではなく、かつて巨大な柱のなかで女像柱のように立っていた、大理石の石像にすぎないことがわかった。
三人はファモルグから与えられた指示にしたがって大広間に入った。ここでは天井が割れたり崩れたりしているので、囁きや小さな音を立てるだけで、不安定な廃墟が崩れ落ちるかもしれず、細心の注意を払って進んだ。緑青をふいた銅の鼎《かなえ》、砕けた黒檀《こくたん》の卓や三脚台、華やかな色づけのされた陶器の破片が、崩れはてた柱の残骸と入り乱れていた。緑に赤い斑《ふ》の入った血石の砕けた壇では、光沢を失った王の銀の玉座が傾き、その両側には碧玉で彫刻されて常に王を守護していた、損なわれたスピンクス像があった。
広間の一番奥に壁龕《へきがん》があって、落下した残骸に塞がれることもなく、階段が地下納骨所に通じていた。三人はしばし立ちつくしたあと、階段をくだりはじめた。ヤヌルが携えていた酒袋の酒を遠慮なく飲んでかなり軽くすると、これまで控えめに飲んでいたティルライン・ルドクに渡した。ティルライン・ルドクとグロタラは残っている極上の酒を分けあい、グロタラは葡萄酒の澱《おり》しか残っていないことにぼやきはしなかった。このように葡萄酒を飲みおえると、棺に入れてもってきた樹脂の多い松明《たいまつ》三本に火を付けた。ヤヌルが先頭に立って、剣を引き抜き、煙を出して燃える松明を左手で掴んで、暗い奥に入りこんだ。ほかの二人が棺をもってそのあとにつづいた。蝶番《ちょうつがい》のある蓋を少し開けて、その隙間に松明を差しこんでいた。ヨロスの強い葡萄酒が効いてきて、ぼんやりした恐怖や不安を追い払ったが、三人とも酒には強いので、油断なく慎重に足を進め、不安定な暗い足場でもよろめくことはなかった。
壺が割れたり砕けたりしている一連の葡萄酒貯蔵庫を通り抜け、数多くの階段をジグザグにくだったあと、三人はついに都大路の地下にあたる、閃長岩を掘り抜いた広い廊下に達した。その廊下は果てしない闇のなかに伸びており、壁は崩れておらず、天井には光の射し入る亀裂もなかった。死者の鉄壁の要塞めいたものに入りこんだように思えた。右手には古《いにしえ》の王たちの霊廟《れいびょう》があり、左手には女王の棺がならび、横に伸びる通路は他の王族のための地下納骨所に通じていた。広い廊下の一番奥に、トゥネプレーズの霊廟があるはずだった。
右の壁をたどっていたヤヌルがすぐに最初の霊廟に達した。慣習にしたがい、戸口は開いていて、人間の背丈よりも低いので、入る者は死者に対して慎ましやかに頭を垂れなければならない。ヤヌルが松明を|※[#「木+眉」、第3水準1-85-86]《まぐさ》に近づけ、石の銘刻をつかえながら読み、この霊廟がアグメニの父にあたるアカルニル王のものだと知った。
「まことに」ヤヌルがいった。「ここには無害な死者のほかには何も見つからんぞ」飲んだ葡萄酒のせいで空威張りをして、入口にかがみこみ、揺らめく松明をアカルニルの霊廟に差し入れた。
ヤヌルが驚きの声をあげ、大声で軍人ならではの悪態を口にしたので、ほかの二人が棺を落として駆け寄った。王にふさわしく広びろとした四角い部屋を覗きこみ、ここの主がいないことを知った。奥の壁ぎわの低い台座にある、神秘的な彫刻のほどこされた黄金と黒檀の高い椅子に、木乃伊は生前のように王冠とローブを身につけて坐っているはずだった。しかしそこには、黒と紅のローブと、司教冠めいた黒い鋼玉の嵌《はま》った銀の王冠が置かれ、死んだ王がそこに残して出ていったかのようだった。
戦士たちは驚きのあまり葡萄酒の酔いもたちまち醒めて、未知の謎の忍び寄る冷気を感じた。しかしながらヤヌルは気を引きしめて霊廟に入りこんだ。暗い隅を調べ、アカルニルの身につけていたものをもちあげて振ったが、木乃伊の消失という謎の手がかりは見つからなかった。霊廟には埃もなく、木乃伊が腐敗した痕跡も臭いもなかった。
ヤヌルが仲間のもとにもどり、三人は恐怖のこもる驚きの目で見つめあった。ふたたび廊下の調査をはじめ、ヤヌルは霊廟の戸口に達するつど立ち止り、揺らめく闇に松明を差し入れたが、玉座には何もなく、王の身につけていたものが残されているだけだった。
木乃伊が消えたことについて、もっともらしい解釈はなさそうだった。王たちの遺体を保存するにあたって、東方の強力な香料が硝石とともに使用されており、まったく腐敗することがないのである。霊廟のありさまからして、貴重な装身具や布や金属を残していくことはないので、人間の盗賊のしわざとは思えなかった。動物に喰われたということも、さらにありそうもないことだった。その場合、骨が残り、衣服はぼろぼろになって乱れているからである。カオン・ガッカの伝説上の恐怖が差し迫った危険を帯びはじめ、三人は耳をすまし目をこらして、おそるおそる地下納骨所の静まり返った廊下を進んだ。
十以上の霊廟で木乃伊がなくなっているのが判明したあと、前方の廊下の床に鉄めいたものの輝きが見えた。調べてみると、二人分の剣と兜と胴鎧で、かつてタスーンの戦士が使っていたような、いささか古めかしいものだった。アウァイナの鏡を得るためにマンディス王が送りこみ、二度ともどることのなかった二人の勇者のものなのだろう。
ヤヌル、グロタラ、ティルライン・ルドクの三人は、これら不吉な遺物を見つめ、早く役目を果たして日の光のもとに出たいという、ほとんど逆上したような思いに捕われた。三人はもはや立ち止って霊廟を覗きこむこともしなければ、ファモルグとルナリアの求める木乃伊も他の木乃伊と同様に消えていれば生じる興味深い問題について、考えをめぐらすこともしなかった。王はトゥネプレーズの木乃伊で残っているものをもちかえれと命じたのである。三人の戦士はこの任務に失敗した場合、いっさい申し開きのできないことを知っていた。このようなありさまでは、ミラーブに引きあげることも賢明ではなく、唯一の安全策として、ズル=バ=サイルかクシュラクにいたる隊商路に沿って、北の砂漠の彼方に逃げるしかない。
古びた地下納骨所でかなりの距離を進んだように思えたころのことだった。そのあたりでは石が柔らかく砕けやすくなっていて、地震がかなりの損傷を与えていた。床には岩屑が散乱し、壁や天井のいたるところに亀裂があった。いくつかの部屋は天井の一部が崩れ落ち、ちらっと覗いただけで、木乃伊がなくなっていることがわかった。
廊下の奥に近づくと、大きな亀裂があって、床も天井も隔《へだ》てられ、最後の霊廟の敷居と楯が断ち割られていた。亀裂は幅が四フィートほどあって、ヤヌルが松明で照らしても、底は見えなかった。楯にトゥネプレーズの名前があって、王の業績と称号を告げる古びた銘刻は地震によって分断されていた。ヤヌルが狭い出っ張りを歩いて霊廟に入った。グロタラとティルライン・ルドクは棺を廊下に残して、ヤヌルのあとにつづいた。
トゥネプレーズの玉座は壊れて倒れこみ、部屋を二分する亀裂の向こう側にあった。木乃伊はなく、玉座が逆さになっているありさまからも、倒れこんだときに亀裂に落ちたと思われた。
三人が落胆と困惑を口にするまもなく、遠雷のような鈍い轟きが静寂を破った。足もとの石畳が震え、壁がぐらつき、大地を揺るがす低い轟きが長ながとつづいて、大きく不吉なものになっていった。堅固な床がぞっとするような動きをしてうねっているようだった。三人が逃げ出そうとしたとき、夜と廃墟が唸りをあげて三人に押し寄せたように思われた。
グロタラは闇のなかで目を覚まし、砕かれた足の下部に記念碑でものしかかっているかのように、苦悶に満ちた重みを感じた。戦棍で殴られたかのように、頭がずきずきと痛んだ。腕と胴体が動かせるのはわかったが、足と手の痛みが堪えがたいものになり、のしかかるものから体を引き出そうとしたことで、また気を失ってしまった。
意識を回復して、いかなるありさまになっているかがわかったとき、食屍鬼に掴まれたような恐怖に襲われた。カオン・ガッカを放棄することになったもののような地震が起こり、仲間とともに地下納骨所に葬られたのである。ヤヌルとティルライン・ルドクを何度も大声で呼んだが、二人がまだ生きていることを示す呻きも身じろぎの音も聞こえなかった。
右手を伸ばすと、おびただしい砂礫《されき》があった。そちらのほうに体をひねると、丸盾ほどの大きさの石塊がいくつかあって、そのなかに丸みを帯びたなめらかなものが見つかり、中央に鋭い隆起があることから、仲間のどちらかの前立てのついた兜だとわかった。傷ましい奮闘をしても、それ以上は手を伸ばせず、ヤヌルとティルライン・ルドクのどちらのものなのかもわからなかった。金属がひどく凹んでいて、かなり重いものがあたったかのように、兜の頂部の隆起が曲がっていた。
グロタラは窮地にありながらも、その獰猛な性《さが》によって、絶望に屈することはなかった。上体を起こすと、まえかがみになって、足の下部を覆う大きな石塊に手を伸ばそうとした。罠にかかった獅子のように激怒して、ヘーラクレースはだしの奮闘をして押しやろうとしたが、石塊はびくともしなかった。悍《おぞま》しい悪霊どもを相手に何時間も奮闘したように思えた。疲労困憊してようやく逆上が鎮まった。そして仰向けに横たわった。闇が生きているもののようにのしかかり、苦痛と恐怖の牙で噛みつくように思えた。
譫妄《せんもう》状態におちいりかけたとき、大地の石のはらわたの遙か下から、恐ろしい唸りがかすかに聞こえるように思った。音は大きくなっていき、裂けた地獄から上ってくるかのようだった。頭上で青白い不自然な光が揺らめいて、亀裂の入った天井をちらちら見せているのがわかるようになった。光が強まると、グロタラは少し身を起こして、光が床の亀裂から射しているのを知った。
これまで見たこともない光だった。青白い輝きで、ランプや松明や燃え木の反射光ではなかった。どういうわけか、聴覚と視覚が混乱しているかのように、グロタラはその光が恐ろしい唸りであると思った。
光源のない夜明けのように、地震によって生じた廃墟に輝きが忍びこんだ。グロタラは霊廟の大半と入口全体に天井が陥没したのだと知った。頭に破片があたって気を失ってしまい、そのあと天井が広い範囲にわたって落ちてきたのだ。
ティルライン・ルドクとヤヌルの体が広がった亀裂の近くに横たわっていた。二人とも死んでしまったにちがいない。ティルライン・ルドクのごま塩の顎鬚が、砕けた頭骨から流れでた血によって黒くこわばっていた。そしてヤヌルは石塊や岩屑に半ば埋もれて、胴体と左腕が見えるだけだった。ヤヌルの松明は硬く握り締められたまま燃えつきて、黒ずんだ受け口に差しこまれているかのようだった。
グロタラはこういったもののすべてに、夢でも見ているようなぼんやりした状態で気づいた。やがて不思議な輝きの真の発光源を知った。埃茸のように丸く、人間の頭ほどの大きさをした、冷ややかに輝く無色の球体が亀裂から昇ってきて、月のように亀裂の上に留まっているのだった。かすかだが絶え間なく振動して揺れていた。この振動によるものであるかのように、球体から重おもしい唸りが発し、光を揺れる波として放った。
グロタラはぼんやりと畏れをおぼえたが、恐ろしさは感じなかった。光と音がレーテー河の忘却の呪文のように、グロタラの感覚を捉えていた。グロタラが坐りこんで身をこわばらせ、苦痛も絶望も忘れていると、球体がつかのま亀裂の上で留まったあと、ゆっくりと水平に移動して、仰向けになったヤヌルの顔の真上に浮かんだ。
同じ慎重なゆるやかさと絶え間ない振動をともなって、球体が死んだヤヌルの顔と首におりていった。球体がさがるにつれて、ヤヌルの顔と首が脂のように溶けていくかに見えた。唸りが低くなり、球体は不気味な輝きを放ち、死体のような青白さに不純な淡い藍色の斑が入った。球体が不快にも膨れあがって大きくなる一方で、戦士の頭全体が兜のなかで縮んでいき、胴体も縮んでいるかのように胴鎧が沈んだ。
グロタラはこの恐ろしい光景をまざまざと見ていたが、脳は慈悲深い毒人参に冒されたかのように麻痺していた。思いだすことも、考えることも困難だったが……どういうわけか、空っぽの霊廟と持主のいなくなった王冠やローブのことを思いだした。仲間とともに困惑していた木乃伊の消失の謎が、いまや明らかになった。しかしヤヌルを喰らっているものは、人間の知識や憶測を超越する存在だった。地震の魔物どもによって解き放たれた、地獄の食屍鬼めいた生物だった。
いまやグロタラは強梗症におちいり、ヤヌルの足や腰を覆っている岩屑がゆるりと動いているのを目にした。兜と胴鎧は空っぽの殻のようで、投げ出された腕が萎びて縮み、骨そのものも小さくなりゆき、溶けて液状化しているようだった。球体は巨大になっていた。不浄な深紅色に染まり、血を啜《すす》る月のようだった。真珠光沢のある糸めいたものを出して、それらが揺れて不思議な色を放ち、蜘蛛が巣を張るように、破壊された床や壁や天井に固定されていくようだった。糸めいたものが幾重にも重なって、ますます厚くなっていき、グロタラと亀裂のあいだに帳《とばり》めいたものをつくりあげ、ティルライン・ルドクとグロタラにくだってきたので、球体の有害な血紅色の輝きも、いまや不吉な蛋白石の蔓草模様を通して見ているようになった。
いまや蜘蛛の巣めいたものが霊廟全体を満たしていた。色を千々に変化させながら伸びて輝き、分解作用によって引きだした光を放った。朦朧《もうろう》とした花が咲いて、降霊術によるかのように群葉が育ったり薄れたりした。グロタラは目が見えなくなった。異様な蜘蛛の糸めいたものに絡まれていくばかりだった。その蜘蛛の糸めいたものは、死神の指のように、この世のものとも思えないほど冷たく、グロタラの顔や手にくっついて震えた。
これがどれほどつづくのか、いつまで囚《とら》われたままになっているのかは、知る由もなかった。やがてぼんやりと輝く糸が薄くなり、糸が震えながら引っこんでいくのがわかった。邪悪な美しさをたたえた球体は、何か謎めいたやりかたで生命と意識を具えており、いまやヤヌルの虚ろな鎧の上に浮かんでいた。以前の大きさにもどり、血の色や虹色を消して、亀裂の少し上に留まっていた。グロタラは球体が自分を……ティルライン・ルドクを……見ていると感じた。するうちに、地下洞窟の衛星のように、球体がゆっくりと亀裂にくだり、霊廟から光が消えて、グロタラは深まりゆく闇に包まれた。
そのあと、熱と渇きと狂気、苦しみと微睡《まどろみ》、自分を押さえこむ大きな石塊を相手の奮闘が長ながと続いた。グロタラは狂ったように片言を口にし、狼のように吠えた。あるいは無言で仰向けに横たわり、自分を喰らうつもりでいる食屍鬼どものつぶやきを耳にした。押しつぶされた足の下部が速やかに壊死《えし》して、ティーターン族の足さながらに腫れあがって疼《うず》いているように思った。譫妄状態の力でもって剣を抜き、向う脛から切り落とそうとしたが、出血のあまり気を失った。
衰弱したありさまで目を覚まし、頭をもたげることもできないまま、光がもどっているのを知って、ふたたび絶え間ない振動が霊廟を満たしているのを耳にした。頭ははっきりしていて、かすかな恐怖をおぼえた。蜘蛛の巣めいたものを張るものが亀裂から上がってきたこと……そしてあらわれた理由がわかったからである。
グロタラは苦労して首をまわし、輝く球体が宙に浮かんで振動しながら、ゆっくりとティルライン・ルドクの顔にさがっていくのを見た。またしても球体は血に染まった月のように、不快なまでに膨れあがりながら、老いた戦士の死体を喰らった。またしてもグロタラはかすむ目で、不純な虹色の蜘蛛の糸めいたものが死の光輝を描き、その異様な幻影でもって荒廃した霊廟を隠しこむのを見た。またしても死にゆく甲虫のように、この世のものならぬ冷たい糸に包みこまれた。降霊術によるかのような花が頭上で咲いては枯れた。しかし蜘蛛の糸めいたものが引っこむまえに、グロタラは譫妄状態におちいって、魔物のひしめく闇に入りこんだ。蜘蛛の巣めいたものを張るものは、グロタラに見られることなく仕事を終えて、そのまま亀裂にもどった。
グロタラはひどい熱病にうかされて身をよじったり、忘却の暗いどん底に横たわったりした。しかし死はなおも訪れなかった。若さと並外れた体力によってのみ生き長らえていた。最後のほうで、ふたたび感覚が鋭敏になって、不浄な光をまた目にし、唾棄《だき》すべき唸りをまた耳にした。蜘蛛の巣めいたものを張る球体が、グロタラの上に留まり、青白く輝いて振動していた……グロタラは自分が死ぬのを待っているのだと知った。
グロタラは弱よわしい手で剣をあげ、球体を追い払おうとした。しかし球体は素早く動いて剣をかわした。グロタラは球体が禿鷲《はげわし》のようにながめていると思った。剣が手から落ちた。輝きを放つ恐るべきものは去らなかった。目のない粘り強い顔のように、グロタラに近づいた。そして死にゆくグロタラを追って、窮極の闇に入りこんでいくようだった。
球体の光輝を目にする者もなく、闇のみが広がるトゥネプレーズの霊廟で、球体は最後の巣を張った。
[#改丁]
墓の落とし子
[#改ページ]
夕闇が砂漠から到来するとともに、はぐれそうになった隊商の最後尾の者もようやくファラードにたどりついた。北の門に近い酒場では、遠くの土地から旅をしてきた多くの商人が、喉を渇かせ疲れきって、有名なヨロスの極上の葡萄酒で英気を養っていた。疲れはてた旅人たちを楽しませようと、酒杯のふれあうなかで、語部《かたりべ》が話をはじめた。
「オッサルは偉大な王であり魔道士でありました。ゾティークの大陸の半分を支配していたのでございますよ。その軍隊は熱風に吹かれて押し寄せる砂のごとくでありました。オッサルは嵐の鬼神と闇の鬼神を意のままに操り、太陽の霊を呼び寄せたのであります。緑したたる杉が雷鳴を知るごとく、人はオッサルの魔術をよく知っておりました。
「オッサルは半ば不死の者として長く生き、最期まで知恵と力を高めつづけました。邪悪の暗黒神タサイドンがオッサルのあらゆる呪文と企てを成功させたのでございます。そしてオッサルは晩年になると、異界から炎をたなびかせる彗星に乗って地球にやってきた、魔物のニオス・コルガイにつきそわれるようになりました。
「オッサルは占星術の伎倆《ぎりょう》でもって、ニオス・コルガイの到来を予知していたのでございます。ひとりきりで砂漠に乗り出し、魔物の到来を待ちかまえました。夜に荒野に落ちる太陽のごとく、彗星が落下するのが多くの土地で目撃されましたが、ニオス・コルガイの到来を目にしたのはオッサル王のみでありました。誰もが眠りこむ、月が没した夜明け前の暗黒の刻限に、オッサルは不思議な魔物をともなって宮殿にもどると、謁見の間の地下にあたる、ニオス・コルガイの住まいとして用意してあった部屋に住まわせたのです。
「それからというもの、誰にも知られず、誰にも見られることなく、魔物は常にその地下室に留まりました。オッサルに助言をなしたり、他の星ぼしの伝承を教えたりしたといいます。特定の星が勢力を高める時期には、女や若い戦士がニオス・コルガイへの生贄として送りこまれました。これらの者たちがふたたびあらわれ、何を目にしたかを語ることはありませんでした。魔物の風貌は推測もままならぬことでしたが、宮殿に入った者は皆、地下の部屋で太鼓をゆっくり叩くようなくぐもった音や、地下の泉が水を噴きあげるような音を耳にしたものです。ときには狂ったコカトリスが立てるような鳴き声が聞こえることもありました。
「長い歳月にわたって、オッサル王にニオス・コルガイが仕え、王は見返りにさまざまな便宜を図りました。やがてニオス・コルガイが不思議な病に冒され、もはや地下の部屋から甲高い鳴き声は聞こえなくなり、太鼓を叩くような音や泉が水を噴きあげるような音も弱まって、ついには途絶えてしまいました。魔道士でもある王の呪文もニオス・コルガイの死を回避する力はなく、魔物が死にますと、オッサルはその死体のまわりに魔法の円を二重に描き、部屋を鎖《とざ》したのでございます。その後、オッサルが崩御いたしますと、地下の部屋が上から開けられて、王の木乃伊《ミイラ》が奴隷たちによっておろされ、ニオス・コルガイの亡骸とともに永遠に安らぐことになったのであります。
「爾来《じらい》、久遠の歳月が流れ去りました。オッサルは語部の口に上る名前にすぎません。オッサルが暮らしていた宮殿やその都は失われてしまいましたが、ヨロスにあったという者もおれば、後にニムボス王朝がイェトゥリュレオムを築いたキンコルの帝国にあったという者もおります。一つだけ確かなのは、どこかの封印された地下の墓所に、なおも異界の魔物が死して留まり、オッサル王とともにあるということです。そして魔物と王のまわりには、なおもオッサルの魔法円があって、都市や王国がことごとく腐朽する長の歳月にわたり、遺体が腐敗せぬようにいたしておるのでございます。さらにもう一つの魔法円は、いかなる者の侵入をも防いでおります。墓所の扉を開けて入る者は、たちまち絶命し、死ぬやいなや腐敗して、床に倒れこむよりもまえに塵と化してしまうからであります。
「オッサルとニオス・コルガイの伝説とはかようなものでございます。墓所を見つけだした者はおりませんが、魔道士のナミッラは遙かな昔に暗澹《あんたん》たる予言をなして、いつの日か砂漠を進む旅人が知らぬままに行きあたると申しました。ナミッラの告げるところでは、これらの旅人は扉以外のものから墓所にくだり、不思議なものを目にするとのことですが、その不思議なものの性質については、ナミッラも語っておらず、遙か遠くの世界から到来した生物であるニオス・コルガイは、死んでからも生きているときと同様に、異界の法則にしたがうというにとどめております。それによってナミッラが何を意味したのかは、何人もその秘密をいまだ解き明かしてはおりませぬ」
ウスタイムの宝石商人であるミラブとマラバクの兄弟は、語部の話にうっとり耳をかたむけていた。
「いやはや、これはまことに不思議な話だな」ミラブがいった。「しかしながら、誰もが知るように、太古には偉大な魔道士がいて、玄妙な魔法や驚異をおこなっていたのだ。真の予言者もいた。そしてゾティークの砂は失われた墓所や都市にあふれている」
「いい話だが」マラバクがいった。「結末を欠いているぞ。なあ、語部よ、それ以上に話せることはないのか。魔物および王とともに、貴金属や宝石の宝は葬られなかったのか。わたしは死体が金塊で囲まれた墓所や、吸血鬼の血がかたまったような鋼玉にあふれた石棺を見たことがあるぞ」
「わしは親父さまから聞いたとおりに話しております」語部がきっぱりといった。「墓所を見いだす定めの者が残りを語るにちがいありません――見いだしたあと、もどることができるならば」
ミラブとマラバクは原石のままの宝石、彫刻された護符、小さな碧玉や紅玉髄の像を売って、ファラードでかなりの利益をあげていた。いまや南方の湾で採れた薔薇色や濃い紫色の真珠、ヨロスで産する黒い鋼玉や葡萄酒色の石榴《ざくろ》石を積んで、東方の海に面するウスタイムに向かって長い遠回りの旅をする他の商人たちとともに、北方のタスーンへの帰途につこうとするところだった。
これまでは乾燥した土地を走破してきた。いましも隊商がヨロスの国境に近づくにつれ、砂漠はますます荒寥《こうりょう》としたものになってきた。丘は黒くて細く、横たわった巨人の木乃伊のようだった。干上がった水路が底に塩の溜った湖に通じていた。かつて穏やかな水面が漣《さざなみ》を立てていた崩れゆく崖には、高いところまで波打つ灰色の砂が上っていた。はかない幽霊のように、砂塵の柱が生まれては消えていった。そして太陽は焼け焦げた空の恐ろしげな燠《おき》のようだった。
見かけは住む者もなく生命の気配もないこの荒野に、隊商は用心深く入りこんでいった。商人たちは駱駝《らくだ》を促して、高い岩壁にはさまれた狭い渓谷を速やかに走らせながら、槍や諸刃の剣をかまえて、不安そうな目を荒寥とした尾根に向けていた。このあたりの隠れた洞窟には、ゴリーとして知られる荒あらしい半獣人が潜んでいるからである。ゴリーは食屍鬼やジャッカルに似て、腐肉を喰らう。人喰いでもあって、旅人の肉を喰らい、水や葡萄酒のかわりに血を飲むことで生きている。ヨロスとタスーンを往来する者のすべてに恐れられていた。
太陽が昇りつめ、容赦のない光線で深い隘路《あいろ》の一番奥の影まで照らした。きめが細かく灰のように軽い砂は、もはや風に騒がされることもなかった。蜥蜴《とかげ》が岩の上にあらわれて走ることもなかった。
隘路はくだりになって、かつてそそりたつ土手のあいだを流れていた川の流れをたどっていた。ここではかつての水溜りのかわりに、小石や丸石で塞がれた砂溜りがあって、駱駝が脚を膝まで沈めてもがいた。川床が急に曲がるところで、いきなりゴリーがどっとあらわれ、岩の斜面から狼のように駆けおりるものもいれば、高い岩棚から豹のようにとびおりるものもいて、その悍《おぞま》しい土色の体がひしめいた。
これら食屍鬼めいた半獣はいいようもないほど獰猛《どうもう》で敏捷だった。かすれた咳や唾を吐くほかには、声を出すこともなく、二列にならぶ先の尖った歯と鎌のような鉤爪だけを武器にして、うねる波のように隊商に襲いかかった。駱駝にまたがった人間ひとりに二十匹が襲いかかったようだ。ゴリーに脚や臀《しり》や背を噛まれたり、犬のように喉に噛みつかれたりして、何頭かの一瘤《ひとこぶ》駱駝がたちまち倒れこんだ。駱駝も商人も餓えきった魔物に埋めつくされ、たちまちむさぼり喰われた。宝石を収めた箱や高価な布の梱《こり》が混乱のうちに引き裂かれ、碧玉や縞瑪瑙《しまめのう》の像が無残に砂に散らばり、真珠や鋼玉が血溜りに落ちて、顧《かえり》みられることもなかった。これらのものはゴリーには何の価値もないからである。
ミラブとマラバクはたまたま隊商の最後尾にいた。ミラブのまたがっている駱駝が石で脚を傷め、意に反してかなりの遅れを取っていたのである。そして幸運にも食屍鬼めいたゴリーの襲撃を免れた。二人は唖然として駱駝を止め、恐るべき速やかさで圧倒されていく仲間の運命を見た。しかしながらゴリーどもはミラブとマラバクに気づかず、引きずり倒した駱駝や商人のみならず、商人の槍や剣によって負傷した仲間をもむさぼり喰うのに忙しかった。
兄弟二人は槍をかまえ、虚しいことではあれ、雄々しくも隊商の仲間とともに討ち死にしようとした。しかし駱駝が恐ろしい騒ぎとゴリーのハイエナじみた体臭や血の臭いにおびえ、しりごみしたあげく、ヨロスへの隊商路を駆けもどりだした。
このように逃げ出したあと、まもなく別のゴリーの一団がかなり遠くの南の斜面にあらわれ、二人の逃亡を阻止しようとして走ってくるのが見えた。この新たな危険をかわすため、ミラブとマラバクは駱駝を渓谷の支脈に入らせた。ミラブの駱駝が脚を傷めているので、ゆっくりとしか進めず、足の早いゴリーどもがいまにも追いつくだろうと思いながら、何マイルも東に進んでいくうちに、太陽が背後にかたむきだして、午後の半ばにあの太古からの領域の雨も降らない低い分水界に達した。
地面が侵食されて漣を打っているように見える低い平原をながめると、名前も知れない都市の白い城壁や円蓋が輝いた。ミラブとマラバクには都市まで数リーグしかないように思えた。遠くの砂漠に隠れた都市を目にしたと思い、追っ手から逃れられることを願って、平原に向かって長い下り坂を進みはじめた。
二人は二日にわたって、木乃伊の瀝青《れきせい》質の塵のように砕けやすい土地を、すぐ近くにありそうに思えながらも、常に後退しつづける円蓋に向かって旅をした。苦境は絶望的なものになっていた。わずかばかりの乾燥|杏《あんず》と残り四分の一になった水袋があるだけだった。糧食は宝石や彫刻の荷とともに、隊商の荷を運ぶ駱駝とともに失った。ゴリーどもの追跡はないようだが、二人のまわりには渇きという名の赤い魔物と餓えという名の黒い魔物が集まっていた。二日目の朝には、ののしっても槍で突いても、ミラブの駱駝が立ちあがろうとはしなかった。その後、二人は残る一頭を共有し、ときにはともに、ときには交代で乗った。
輝く都市は蜃気楼のごとくあらわれたり消えたりして、見失うことがよくあった。しかし二日目の日没まであと一時間というころ、二人は壊れた方尖塔や崩れた望楼が投げかける長い影をたどって、ついに古びた通りに入りこんだ。
かつては大都市だったのだろうが、いまや堂々とした館も瓦礫《がれき》の山と化して散在していた。誇らしげな凱旋門から砂が入りこみ、大きな砂丘をつくりあげて、舗道や中庭を埋めていた。ミラブとマラバクは疲労のあまりふらつき、希望がついえたことでうんざりしながら、もしかして長い砂漠の歳月を経ても残っている井戸や溜池はないかと探しまわった。
都市の中心では、堂々たる神殿や高い建物の壁が障壁となって、押し寄せる砂をなおも防いでいて、古い送水路の残骸が見つかったが、炉のように乾いた溜池に通じていた。市場には噴水がいくつかあったが、どれも砂塵に埋もれて、どこにも水の存在を告げるものはなかった。
希望を失ってさまよっているうちに、忘れ去られた君主の宮殿であったとおぼしき、巨大な建物の廃墟に行きあたった。歳月の蚕食《さんしょく》をものともせずに、重厚な壁がなおも存在した。入口は神話の英雄の緑色をした真鍮の像が両側を固め、迫持《せりもち》が壊れもせずになおもあたりを威圧していた。二人の宝石商人は大理石の階段を上り、巨大な柱が砂漠の空を支えるかのように聳《そび》える、天井のない広間に入った。
大ぶりな敷石は迫持や台輪や付柱の残骸に覆われていた。広間の一番奥には、黒い筋の入った大理石の台座があって、かつては玉座が置かれていたのだろう。ミラブとマラバクは台座に近づいたとき、どこかに隠れた川か泉の水が流れているような、低い音をぼんやりと耳にして、宮殿の敷石の下の地底深くから聞こえるように思った。
音の源を見つけようとして、二人は台座に上った。どうやら最近のことらしいが、巨大な石塊が上の壁から落下して、その重みで大理石が砕け、台座の一部が地下に抜け落ち、縁がぎざぎざの黒ぐろとした穴が開いていた。水が流れるような音はこの開口部から聞こえ、鼓動のように規則正しく、途切れることがなかった。
宝石商人二人は穴にかがみこみ、何とも知れないものから微光が発する、蜘蛛の巣の張った闇を覗きこんだ。何も見えなかった。封印されて久しい貯水槽の空気のような、じめっとした黴《かび》臭い臭気が鼻孔を突いた。着実に泉が滾々《こんこん》と涌《わ》きたつような音が、開口部の片側のほんの数フィート下の闇から聞こえるように思えた。
二人とも穴がどれほど深いのかもわからなかった。つかのま話しあってから、宮殿の入口で駱駝が漫然と待っているところにもどると、駱駝の装具をはずし、長い手綱と革紐を結んで、ロープがわりの一本の紐に仕立てた。台座に引き返して、この紐の一端を倒れこんだ石塊にしっかり結《ゆ》わえ、もう一方の端を暗い穴におろした。
ミラブが紐を掴んでゆっくりおりていき、十ないし十二フィートほどくだったところで、爪先が堅固なものにふれた。用心深くまだ紐を握り締め、平坦な石の床に達したことを確かめた。宮殿の壁の外では、日の光が急速に薄れつつあったが、ミラブの頭上の穴からはまだ微光が射していた。そして穴のなかでは、奥にある階段か未知の窖《あなぐら》から射すほのかな光によって、半ば開いて倒れかかった扉の輪郭が照らされてもいた。
マラバクが素早くかたわらにおりてくるなか、ミラブは水音のようなものが発するところはどこかと覗きこんだ。模糊《もこ》とした前方の闇のなかに、ぼんやりした当惑させられる輪郭をもつものがあって、グロテスクな彫刻に取り巻かれた巨大な水時計か噴水のように思えた。
光がつかのま消えたようだった。ミラブはその物体の性質を見定められず、松明《たいまつ》も蝋燭もないので、麻の頭巾付きマントのヘリを破り取り、ゆっくり燃える布に火を付けると、高く掲げて前方に差しだした。そのようにして得られた燻《くすぶ》る鈍い輝きによって、宝石商人の二人は、岩屑の散らばる床から暗い天井まで聳える、並外れた大きさの化け物じみたものを目にした。
狂った魔物の冒涜的な夢のごときものだった。主要な部分というか、その胴体らしきものは、壺のような形をしていて、部屋の中央にある妙に傾いた石塊に鎮座していた。色は青白く、小さな孔がおびただしくあった。その胸と平たくなった基部から、腕のような脚のようなものが数多く突き出て、膨れあがった悪夢のような環節を具えて床に達していた。他の二つの器官がぴんと張りつめて伸び、石塊のそばにある、異様な古めかしい謎の文字が刻まれた、金色の金属製の空っぽらしい棺に、根のように入りこんでいた。
壺の形をした胴体には二つの頭があった。その一つは、甲|烏賊《いか》のように尖った口があって、目のあるべきところに長い斜めの裂け目がならんでいた。狭い肩の上にあるもう一つは、風格のある陰鬱な恐ろしい老人の頭で、そのぎらつく目は小尖石のように光り、灰色の顎鬚が長く伸び、密林の苔《こけ》が忌わしい多孔性の胴体に密生しているようだった。この人間の下にある胴体の脇腹には、肋骨の輪郭めいたものがかすかに認められ、器官のいくつかは末端が人間の手や足になっていたり、人間に似た関節を具えたりしていた。
頭や手足や胴体から、ミラブとマラバクを害に入りこませることになった、あの謎めいた水の音が聞こえた。その音が聞こえるつど、ぬらぬらした露が化け物の異様な孔から滲《にじ》み出て、果てしなく滴《したた》り落ちるのだった。
宝石商人二人は薄気味悪い恐怖を感じて、ものもいえずに立ちつくした。目をそらすこともできず、この世のものならぬ卓越した地位から睨《ね》めつける、人間の頭の悪意ある目を見つめた。やがてミラブが掴む麻の布がゆっくり燃えつきて、赤い燻りとなって落ちた。ふたたび闇が窖に集うと、もう一つの頭の裂け目が徐々に開きはじめ、堪えがたいまでにぎらつく強烈な黄色の光があふれて、大きな丸い目になるのが見えた。それと同時に、太鼓を叩くような特異な音が聞こえ、巨大な怪物の鼓動が聞こえるようになったかのようだった。
二人にわかるのは、この世のものではない恐怖、あるいは一部がこの世のものである尋常ならざる恐怖が、目のまえに存在するということだけだった。それを目にして、思考も記憶も失われた。とりわけファラードの語部や、語部がオッサルとニオス・コルガイの墓所について語ったこと、そしてそれと知らぬまま墓所を見いだす者がいるという予言については、まったく思いだせなかった。
怪物が速やかに恐ろしくも身を起こして伸びを打ち、老人の褐色の萎《しな》びた手のある主要な器官をあげて、宝石商人二人のほうに伸ばした。甲烏賊のような口から、くわっくわっという甲高い魔物じみた声が発するとともに、風格のある灰色の顎鬚に覆われた口からは、朗々とした声が荘厳な調子で言葉を述べはじめたが、ミラブとマラバクの知らない言語による魔法の呪文のようだった。
二人は忌わしく探る手からあとしざりした。まばゆく輝く眼球の放つ光のもとで、恐怖と恐慌に囚《とら》われながら、二人はまざまざと目にした。奇態なものが身を起こし、石の座から進みでて、よく調和しない器官でよろよろとおぼつかなげに歩いてきた。象が歩くような重たげな音がして、冒涜の巨体を支えるにはふさわしくない人間の足が歩く音も聞こえた。二本のぴんと伸びていた器官が金色の棺から引っこんだが、その先端は王族の木乃伊を巻くのに使われるような、宝石を鏤《ちりば》めた高価な紫色の布で覆われていた。二つの頭をもつ恐るべきものが、くわっくわっと絶え間なく鳴き、老齢によって震えがちな声で害意のみなぎる呪いの言葉を発し、ミラブとマラバクに迫ってきた。
二人は踵《きびす》を返し、広い部屋を横切って逃げ出した。怪物の眼球から放たれる光に照らされて、前方にくすんだ金属製の扉が半ば開いているのが見えたが、閂《かんぬき》や蝶番《ちょうつがい》はひどく錆びついて、内側に傾いていた。扉は巨人族のもののような高さと幅があり、人間よりも大きいもののために造られたかのようだった。その向こうには薄暗い廊下が伸びていた。
戸口から五歩進むと、塵埃《じんあい》に覆われた床に、部屋の形状に合わせた赤い線があった。ミラブより少し先にいたマラバクがその線を越えた。そうするやいなや、不可視の壁によってさえぎられたかのように、よろめいて立ち止った。頭巾付きマントのなかで、手足や胴体が溶けていくようだった――マントそのものも、計り知れない歳月を閲《けみ》したようにぼろぼろになった。塵がうっすらと空気中に舞い、伸ばした手があったところに、つかのま白い骨が輝いた。そしてその骨も消えた――空っぽになった布が床に落ちて朽ちた。
かすかな腐臭めいたものがミラブの鼻孔に上った。ミラブはわけがわからないまま、一瞬足を止めた。すると、ぬらぬらした萎びた手に肩を掴まれたと感じた。背後で二つの頭の発する声は、魔物どもの合唱のようだった。太鼓を叩くような音、泉から水が涌きたつような音が耳に大きく響いた。ミラブは末期の悲鳴をあげて、マラバクのように線を越えた。
人間であるとともに異星に生まれた怪物でもある極悪なもの、この世のものならぬ復活を果たした名状しがたい混合生物は、立ち止りもせずに歩みつづけた。おのれの魔法を忘れはてたあのオッサルの手を、ぼろぼろになった二枚の布に伸ばした。そうすることで、オッサル自身が墓所を永遠に守るために設けた死と溶解の領域に入った。一瞬、空中に形とてない塵が浮かび、軽い灰のように落ちた。そのあと、闇がもどり、闇とともに静寂が垂れこめた。
名前とてないその土地、忘れ去られたその都市に、夜がくだるとともに、ミラブとマラバクを追って砂漠を渡ってきたゴリーどもが到来した。ゴリーどもは宮殿のまえでおとなしく待っていた駱駝を速やかに殺して喰らった。その後、柱のならぶ広間で、宝石商人二人が入りこんだ台座の穴を見いだした。ゴリーどもはひもじい思いで穴に群がり、その下の墓所の臭いを嗅いだ。そして困惑して引きあげた。彼らの鋭敏な嗅覚をもってしても、何の臭いも嗅ぎとれず、墓所には生きる者も死んだ者もいないとわかったからである。
[#改丁]
ウルアの妖術
[#改ページ]
T
世捨て人のサブモンは、その敬虔さのみならず、予言の知恵や暗澹《あんたん》たる妖術の知識によっても名を馳せていた。タスーンの北の砂漠の外れにある奇妙な家で、六十年ものあいだ独居しつづけていた。その家の床と壁は一瘤駱駝《ひとこぶらくだ》の大きな骨で造られ、屋根は野犬や人間やハイエナの小さな骨を組み合わせたものだった。白さと均整美から選ばれたこれらの骨は、驚くほどぴったり組み合わさっているので、茶色の砂が入りこむ隙間もなかった。サブモンはこの家が自慢の種で、毎日|木乃伊《ミイラ》の髪の箒《ほうき》で掃いて、家の内外を磨きたてた象牙のように輝かせた。
辺鄙《へんぴ》な土地に閉じこもり、その住居に行くにはさまざまな困難があるにもかかわらず、サブモンはタスーンの住民に助言を求められることが多く、ゾティークの他の遠方の地から訪《おとな》われることもあった。しかしながら不作法でも無愛想でもないというのに、単に将来を占ってくれと望む者や、世事の有利な差配について助言を求めたりする者たちには、概して要求を無視することがよくあった。歳月を重ねるにつれて、ますます寡黙《かもく》になっていき、晩年にはほとんど人と話すこともなかった。あながちまちがったことではないだろうが、井戸のまわりに生える椰子《やし》や、住居の上をめぐる砂漠の星と話すのを好んだという。
サブモンが九十三歳になった夏のある日、禁欲主義者の独居をするまえに大層かわいがっていた姪の息子にあたる、若いアマルザインがやってきた。アマルザインは生まれてから二十一歳のいまにいたるまで、高地地方にある両親の家で暮らし、酌人としてファモルグ王に仕えるために、タスーンの首都であるミラーブへ向かう途中だった。父の有力な友人たちの計らいで得たこの職は、この国の若者たちが切望するもので、王の寵愛を得られるほど幸運であれば、高い地位にも昇れるというものだった。アマルザインは母親の願いを入れて、処世のさまざまな問題に関して、賢者の助言を求めにきたのである。
サブモンは高齢で、天文学にいそしみ、古代文字の文書をよく熱読していながらも、目はいささかも衰えておらず、アマルザインが来たことを喜び、若者に母親の美しさのいくばくかを見いだした。そしてこのために、秘蔵していた知恵を快く与え、数多くの深遠な箴言《しんげん》や適切な金言を口にしたあと、アマルザインにこう告げた。
「おまえがわしのところに来て本当によかった。おまえは世間の堕落を知らぬまま、異様な罪や奇怪な妖術に満ちた都へ行こうとしているのだからな。ミラーブには多くの邪悪が存在するのだぞ。ミラーブの女たちは魔女や娼婦で、その美しさは若い者や強い者や勇気ある者をたぶらかして虜《とりこ》にする、まことに邪《よこしま》なものなのだ」
そのあとアマルザインが出発するまえに、サブモンは細密な少女の骸骨が奇妙にも彫りこまれた、銀の小さな護符を与えた。
「これからはこの護符を常に身につけていなさい。往古に人間の誘惑のすべてを拒み、肉の反抗を鎮めることで、人間と魔物のなかで最高の地位を勝ち得た賢者にして大魔術師であった、ヨス・エブニの火葬用の積み薪から取った灰が、一つまみこのなかに収めてある。この灰には効力があって、ヨス・エブニが克服したような悪からおまえを守ってくれる。しかしおそらくミラーブには、この護符をもってしてもおまえを守れない悪や妖術があるだろうな。そのような場合、わしのもとにもどってきなさい。わしがおまえに注意深く目を光らせれば、ミラーブでおまえの身に起こることがわかる。わしは稀れな視覚と聴覚を具えるようになって久しく、この能力は単なる距離に妨げられたり限られたりすることがないのでな」
アマルザインはサブモンがほのめかしたことがわからず、この長ながしい話にいささか困惑した。しかし護符をありがたく受けとった。そしてサブモンに恭《うやうや》しく別れを告げると、ミラーブへの旅を再開して、数多くの伝説の集うあの罪深い都でどのような運命が待ちかまえているのだろうかと思った。
U
年老いて放蕩のあまり耄碌《もうろく》しているファモルグが、半ば砂漠と化している古びた土地の支配者であり、その宮廷は遠方の地にまで求められた贅沢品にあふれ、下卑た上品さと腐敗の横行する場であった。若いアマルザインは質朴な行儀作法と、田舎に住む民の自然な美徳や悪徳に通じているだけだったので、最初はまわりの放蕩三昧の生活に茫然とした。しかし性格の内に潜む力が、両親の道徳の教えや大伯父サブモンの処世訓によって強められ、由々しい失錯を演じることはなかった。
こうして飲めや歌えの浮かれ騒ぎで酌人の務めを果たしても、アマルザインは常に節度を保ち、毎夜ファモルグ王の鋼玉で覆われた杯に、阿片を加えて知覚を麻痺させるアラック酒や、大麻を混ぜた狂気の葡萄酒を注いだ。王の物憂さを和らげようとして、破廉恥なまでに張りあう廷臣たちの悪名高い仮面劇を、身も心もいまだ汚されぬままながめた。北方のドーザ・トムからやってきた黒人の踊り子たちや、南方の島の黄色い肌をした娘たちが、その肢体を器用になまめかしく動かしても、驚きと嫌悪を感じるだけだった。両親は君主たる者の超人的な善意を無条件に信じこんでいたので、アマルザインは王の悪徳もあらわなこのような惨状に心構えもできていなかったが、両親から崇敬の念を徹底的に教えこまれていたので、これらすべてをタスーンの王たちの特異ではあれ謎めいた特権であると考えるようになった。
ミラーブで最初の一ト月を過ごすあいだに、アマルザインはファモルグ王とルナリア女王のひとり娘、ウルア王女の噂を数多く耳にしたが、王族の女は宴に列席したり公衆の面前にあらわれたりすることがめったにないので、目にすることはなかった。しかしながら巨大で空虚な宮殿は王女の濡れ事にかかわる噂に満ちていた。ウルアは母親ルナリアの妖術を受け継いでいるが、そのルナリアといえば、魅せられた詩人たちによく歌われた妖しくも華麗な美貌も、いまや老醜の一途をたどっていた。ウルアの愛人たるや数えきれないほどで、ウルアはおのれの魅力以外のものでもって、男の恋慕を得たり、貞節を確かなものにしたりすることがよくあるという。子供とほとんどかわらぬ背丈だが、えもいわれぬ肢体を誇り、若者の眠りにあらわれるような女夢魔の麗《うるわ》しさを具えていた。多くの者に恐れられ、その悪意は危険なものだとみなされていた。ファモルグ王はルナリアの罪や妖術を知らなかったのと同様に、ウルアの罪や妖術を知らず、ウルアを猫かわいがりして、何一つ拒むことがなかった。
アマルザインはその務めのおかげで、ひまな時間がたっぷりあった。ファモルグはいつも夜の浮かれ騒ぎのあと、高齢と酩酊のあまり、普通の倍は眠りこけるからである。アマルザインはこうした時間の大半を代数学の学問と古い詩や物語の読書に費やした。ある朝、代数の計算にいそしんでいると、ウルアの侍女だと教えられたことのある、大柄の黒人女がやってきた。黒人女は有無をいわせず、あとにつづいてウルアの居室に来るようにと命じた。アマルザインは学問がこのように中断されたことで、困惑するとともに驚き、つかのま返事をすることもできなかった。大柄の黒人女はアマルザインがためらっているのを見ると、むきだしの腕でアマルザインをかかえあげ、易やすと部屋から運びだして廊下を進んでいった。破廉恥な意匠の壁掛けが掛かった部屋に丁寧におろされると、アマルザインは腹を立てるとともに狼狽した。媚薬の香《こう》が燻《くすぶ》るなかで、王女が炎のように明るい緋色の寝椅子から、なまめかしい真剣な眼差しで見つめた。王女は妖精族のように小柄で、とぐろを巻いたラミアのように淫らだった。薫香《くんこう》が王女のまわりにしなやかな帳《とばり》のように漂っていた。
「酔い痴れた君主に葡萄酒を注いだり、虫の喰った古書を読みふけったりするよりも、ほかになすべきことはあろう」ウルアが熱い蜜が流れるような声でいった。「酌人よ、おまえの若さをもっとよいことに使うべきだぞ」
「わたしは務めと学問のほかには何も望みません」アマルザインは野暮なことをいった。「されど、王女さま、いかなるおつもりであらせられるのかをお教えください。何故に王女さまの侍女があのようなみっともないやりかたでわたしを運んだのですか」
「学問があって賢明な若者には、かような問いかけは無用であろう」ウルアがそういって、冷笑を浮かべた。「わらわが美しく、欲望をそそることがわからぬのか。見よ。わらわの腕は言葉ではあらわせぬ歓喜と至福の戸口なるぞ。わらわが与える快楽《けらく》は、炎のもたらす死の激痛よりも強烈なるぞ。タスーンの死せる王たちも、カオン・ガッカの花崗岩で造られた太古の墓所にて、わらわらの愛の営みを、死せる女王と妬ましそうに囁きあうことだろう。地獄の真黒き闇の王タサイドンは、わらわらの歓喜を妬み、人間の体に受肉することを欲するであろう」
寝椅子のまえの黄金の香炉から濃厚に立ち上る薫香が、カーテンを引いたように二つに分かれ、アマルザインはウルアが珊瑚と真珠母の乳当てと黒玉の腕輪と足飾りのほかには、何も身につけていないことを知った……
「王女さまのおおせになられたことは、わたしにはかかわりのないことでございます」若者は誘惑に屈せずにいった。
ウルアが軽やかに笑うと、薫香が笑いに合わせるかのように揺れ、ぼんやりと淫らな形を取った。
「おまえはすぐに異なった返答をすることになろう」ウルアが若者にいった。「わらわを長く拒む者はほとんどおらぬ――そのわずかな者たちは、結局のところ、拒んだことを悔いておるぞ。いまは下がれ――すぐにもどってくるがよい――おまえの意志でな」
その後長きにわたり、アマルザインはいつものように務めを果たしながら、不思議なあらわれを意識していた。いたるところでウルアを目にするようだった。新たな気まぐれによるかのように、ウルアが浮かれ騒ぎの宴にあらわれて、若い酌人たちの目に邪悪な美貌をひけらかした。そしてアマルザインは昼間にも宮殿の庭園や廊下でウルアによく出会った。あらゆる者がウルアの話をするので、ウルアのことをアマルザインに考えさせようと、暗黙の謀議がはかられているかのようだった。どっしりしたアラス織りの壁掛けさえも、長ながと伸びる暗い廊下をさまよう風に騒がされるとき、ウルアの名前を囁くように思えた。
しかしながらこれだけではなかった。望んでもいないウルアの姿がアマルザインの夜ごとの夢を悩ますようになった。目を覚ますと、闇のなかでウルアの温かで甘美なけだるい声が聞こえ、ウルアの微妙な指づかいによる軽やかな愛撫が感じられるのだった。窓の外の黒い杉の上に懸《か》かる上弦の青白い月に目をやれば、死に絶えて蝕《むしば》まれた月の面《おもて》に、ウルアの生ける顔が見えた。豪奢《ごうしゃ》な壁掛けに密通の相手とともにあらわされた伝説の女王や女神たちのなかで、若い魔女のしなやかで小さな肢体が、なまめかしく動いているのが見えた。魔法によって見ているかのように、鏡に映るアマルザインの顔のそばにウルアの顔があらわれた。そしてアマルザインが本を読もうとすると、ウルアが亡霊のようにあらわれたり消えたりして、官能の言葉をつぶやき、しどけない素振りをするのだった。しかしアマルザインはこうしたあらわれに狼狽して、現実と幻影の区別もつけられないありさまだったにもかかわらず、なおもウルアに関心をもつことがなかった。聖人であり賢者であり大魔術師であったヨス・エブニの灰を収めた護符の力に、確かに守られていたのである。料理や飲み物に奇妙な香を嗅ぎとったことが一度ならずあって、ウルアが悪名を轟かせている媚薬が混入されたのだろうと思ったが、軽い吐き気がつかのまつづいたほかには何らの悪影響もなかった。ひそかに魔法がかけられて、三重に致命的な妖術がおのれの心と感覚を傷つけようとしているとは、まったく知る由もなかった。
いまや(アマルザインは知らなかったが)アマルザインの無頓着さが宮廷でかなりの噂になっていた。男たちはこのようにアマルザインがウルアの妖術を免れていることに甚《はなは》だ驚いた。王女がこれまでに選んだ者は、船長、酌人、高官、兵卒、馬丁のいずれであろうと、ことごとく王女の妖術に易やすと屈したからである。かくしてウルアが怒り逆巻いていると噂されるようになった。アマルザインがウルアの美しさを蔑み、ウルアの妖術もアマルザインを虜《とりこ》にできなかったことが、誰もの知るところとなったからである。その後まもなくウルアがファモルグの宴にあらわれなくなった。アマルザインはもはや庭園や廊下でウルアを目にすることがなく、夢を見ているときも目覚めているときも、呪文が生み出すウルアに似たものに取りつかれることがなかった。そこでアマルザインは何も知らぬまま、大なる危険に出会って無害に切り抜けた者のような喜びをおぼえたのである。
やがてある夜のこと、アマルザインが月も没した夜明け前の刻限に安らかに眠っていると、頭から踵まで埋葬用の蝋引き布に覆われた者が、夢のなかにあらわれた。女像柱のように背が高く、悍《おぞま》しくも威嚇するように、いかなる呪いよりも悪意をみなぎらせ、無言でかがみこむや、蝋引き布が胸で開き、蛆《うじ》や甲虫や蠍《さそり》が腐った肉片とともにアマルザインに降りそそいだ。アマルザインは喉を詰まらせ、吐き気を催して悪夢から目覚め、腐臭の立ちこめるなかで、こわばった重い体がのしかかっているような気がした。恐怖に打たれて身を起こし、ランプに火を点したが、寝台には誰もいなかった。しかし腐臭はなおも嗅ぎとれた。二週間前に死んで蛆のたかった女の死体が、闇のなかでかたわらに横たわっていたと断言できるほどだった。
その後も長きにわたって、アマルザインの眠りはこのような不浄なものに破られた。目には見えぬのに触知できるものが、部屋に出入りするという恐怖のあまり、ほとんど眠ることもできなかった。常に悪夢から目覚めると、死んで久しい夢魔のこわばった腕に抱かれていたり、肉を失った骸骨がかたわらで悩ましく悶えるのを感じたりした。木乃伊の胸に詰められた硝石や瀝青《れきせい》によって喉が詰まった。巨大な死体の動かしようもない重みに押しつぶされそうになった。腐って糜爛《びらん》した唇に吐き気を催す口づけをされた。
それだけではなかった。日中に他の忌わしいものが目に見え、あらゆる感覚に感じられて、死者よりもなお悍しかった。真昼にファモルグの宮殿の廊下で、肉体が腐りはてているようなものが、這うようにして目のまえにあらわれた。影のなかから身を起こし、にじり寄ってきて、もはや顔のない白い髑髏が流し目を送り、半ば蝕まれた指で抱きつこうとした。アマルザインが歩いていると、蝙蝠のような毛の生えた胸をもつ、好色な怪女エムプサエが躁《くるぶし》にすがりついた。そして蛇身のラミアが、王のまえで舞う踊り子のように、アマルザインの目のまえで気取った仕草をしたり、とぐろを巻いて旋回したりした。
アマルザインはもはや安らかに本を読むことも、代数の問題を解くこともできなかった。目をこらして読んでいると、文字が刻一刻と変化して、邪悪な意味をもつ不可解なものになるのだった。自分の書いた記号や数字が大きな蟻ほどの魔物になって、野原にいるかのように紙の上で淫らに身をよじり、地獄の女王であり邪悪すべての女神であるアリラのみが気に入るような、冒涜の儀式を執りおこなうのだった。
このようにさんざん苦しめられて悩まされ、若いアマルザインは気が狂いそうになったが、不平を鳴らしもしなければ、目にしているものを人に語ることもしなかった。これらの恐怖が非物質的なものであれ、実質を具えたものであれ、自分にしか感知できないものだとわかっていたからである。夜は月がめぐるあいだ、自室で死んだものとともに横たわり、昼はどこに行こうが、忌わしい亡霊につきまとわれた。そしてこういったことのすべてが、愛を拒まれて激昂したウルアのしわざであることを、もはや毫末も疑わなかった。銀の護符に保存されたヨス・エブニの灰をもってしても守れぬかもしれない妖術があると、サブモンが陰鬱にほのめかしていたことを思いだした。そのような妖術がいまふるわれていることを知り、アマルザインは老いた大魔術師の最後の指示を記憶に甦らせた。
かくしてアマルザインはサブモンの魔術のほかに助けはないと思い、ファモルグ王のまえに参上して、しばしの暇《いとま》を願い出た。ファモルグはこの酌人を大層気に入り、このところ痩せて顔色も青ざめていることに気づいていたので、願いを快くかなえた。
秋のうだるような朝に、アマルザインは速さと持久力で選んだ乗用馬にまたがり、ミラーブから北に進んだ。不思議な重苦しさが大気を静まり返らせ、大きな赤褐色の雲が多数の円蓋を擁して聳《そび》える鬼神の宮殿のように、砂漠の丘陵の上に積み重なっていた。太陽は溶けた真鍮のなかで揺らいでいるように見えた。深閑とした空には禿鷲《はげわし》一羽いなかった。ジャッカルも巣にこもり、何か未知の運命を恐れているかのようだった。アマルザインはサブモンの住居に向かって速やかに馬を駆っていたが、なおも体の爛《ただ》れた幽霊が前方にあらわれて、灰褐色の砂の上で淫らにも身をくねらせ、馬の蹄《ひづめ》の音をしのいで淫猥な呻きをあげた。
枯れかけた椰子に囲まれた井戸に達したとき、あたりが急に夜の闇に包まれて、風もなければ星も見えなかった。ウルアの呪いがなおもつづき、アマルザインは横になっても眠れなかった。砂漠の墳墓の乾燥した埃まみれの死体が、かたわらに硬直した身を横たえ、おのれが出てきた底知れぬ穴のほうに、骨ばった手で誘《いざな》うように思えたからである。
魔物に苦しめられ、疲れきったありさまで、アマルザインは翌日の正午にサブモンの住居に着いた。賢者は驚いた顔もせず、愛情たっぷりに迎え、同じ話をまた聞かされる者のような態度で、アマルザインの話に耳をかたむけた。
「そうしたことは端《はな》からわかっておった」サブモンがアマルザインにいった。「ウルアが放つものから守ってやることもできたのだが、極悪非道がいまや絶頂をきわめる、耄碌したファモルグの宮廷や呪われた都市ミラーブを見捨て、この刻限にここに来てもらいたかったのだ。ミラーブの占星術師たちは読みとってはおらぬが、ミラーブの差し迫った破滅は天にはっきり示されており、おまえにはその運命を分かちあわせたくなかった。
「ウルアの呪文は今日という日に破らなければならず、ウルアが放ったものはウルアのもとにもどす必要がある。そうせぬことには、おまえに永遠に取りついて、魔女が第七地獄の暗黒の支配者タサイドンのもとに行こうと、目に見え、ふれることのできる災いとして留まるのでな」
老いた魔術師はそう告げて、アマルザインを驚かせたあと、象牙の戸棚から磨きたてられた暗い金属の楕円形の鏡を取りだして、アマルザインのまえに置いた。鏡は顔を覆った像の布にくるまれた手で掲げられていた。アマルザインは鏡を覗きこみ、おのれの顔もサブモンの顔も、部屋そのものも映っていないことを知った。そしてサブモンはアマルザインに鏡を仔細に調べるように指示すると、妙に彩色された長い駱駝の革で仕切られる小さな祈祷室に入った。
アマルザインは鏡をながめ、ウルアの放ったものがいくたりか、なおもおのれのかたわらで蠢《うごめ》いて、娼婦めいた淫らな仕草で注意を引こうとしているのを見た。しかしアマルザインは反射しない金属に目をしっかと向けていた。ほどなくサブモンの声が悪魔祓いの古代の呪文の強力な言葉を休みなく唱えているのが聞こえた。祈祷室を仕切る帳から、魔物を追い払うために使用される香辛料が燃える、堪えがたい刺戟的な臭いが漂ってきた。
やがてアマルザインは鏡から目をあげることもなく、ウルアの放ったものが砂漠の風に吹きやられる蒸気のように消えてしまったのを感じとった。しかし鏡のなかには黒ぐろとした情景があらわれて、不気味な雲が垂れこめるミラーブの大理石の塔を見ているようだった。やがて情景が揺れて、宮殿の広間になりかわり、ファモルグが大臣や追従者に囲まれて、耄碌して酔いつぶれ、葡萄酒の染みのついた紫の衣服をまとって舟を漕いでいるのが見えた。またしても鏡の情景が変化して、破廉恥な意匠の綴織りが掛かる部屋があらわれ、炎のように明るい緋色の寝椅子に、ウルア王女が新しい愛人たちとともに坐り、金色の香炉から立ち上る薫香に包まれているのが見えた。
アマルザインは驚嘆しながら鏡を覗きこみ、不思議なものを目撃した。香炉から上る燻煙が濃密になって膨れあがり、長いあいだ自分を苦しめた亡霊どもの姿を取りだしたからである。亡霊どもは数を増していき、ついには部屋が地獄の落とし子と引き裂かれた死体から噴出したものにあふれた。ウルアとその右側にいる愛人の衛兵の隊長のあいだに、悍しいラミアがとぐろを巻いてあらわれ、蛇身を二人に巻きつけ、人間の胸で押しつぶした。ウルアの左側のすぐそばには、半ば虫に喰われた死体があらわれて、唇のないむきだしの歯を見せて横目で見つめ、蝋引き布にたかっていた蛆がウルアと愛人の侍従に移りだした。そして他の忌わしいものどもが、魔女の大桶の蒸気のように湧きだして、ウルアの寝椅子に押し寄せ、淫らに口づけをしたり手でまさぐったりした。
隊長と侍従の顔に、地獄の焼印のように、恐怖がまざまざとあらわれた。そしてウルアの目にも、日の射さぬ窖《あなぐら》に点された青白い火のように恐怖が浮かび、乳当てに包まれた乳房が震えた。またたくまに、鏡に映る部屋が激しく揺れはじめ、床石が傾いて香炉が倒れ、破廉恥な綴織りが嵐にみまわれた船の帆のように膨れあがったり揺れたりした。床に大きな亀裂が生じた。ウルアの寝椅子のそばで亀裂が速やかに深くなっていき、壁から壁へと広がった。部屋全体が真っ二つに割れて、王女と愛人二人は、ウルアが放った忌わしいものどもとともに、騒然と亀裂に投げこまれた。
そのあと、鏡が暗くなって、アマルザインはほんの一瞬、伝説の石アダマントのように黒い空を背景にして、ミラーブの塔が揺れて崩れるのを見た。鏡そのものが震え、鏡を支える金属製の像がぐらつきはじめ、倒れこむかに見えた。サブモンの住居も地震によって揺れたが、堅固に建てられているので、ミラーブの邸宅や宮殿が倒壊して廃墟と化しているあいだもちこたえた。
大地の長い揺れがおさまると、サブモンが祈祷室からあらわれた。
「いま起こったことから教訓を引き出す必要はないぞ」サブモンがいった。「おまえは肉欲の真の性質を学び、俗世の腐敗の歴史を見たのだ。いまや賢明になって、腐敗することのない、世界を超越したものに顔を向けるがよい」
その後、サブモンが亡くなるまで、アマルザインはサブモンとともに暮らし、星の科学と隠された魔術や妖術の唯一の弟子となった。
[#改丁]
クセートゥラ
[#改ページ]
[#ここから17字下げ]
数多くの生を通じて、誕生から死、死から誕生まで、
選ばれた者を追う魔物の網は霊妙にして多様なり。
[#ここで字下げ終わり]
[#地から2字上げ]カルナマゴスの遺言
東の果てに位置する荒涼としたキンコルの地において、ミュクラシア山脈のまえにうずくまる灰褐色の丘陵では、荒廃をもたらす夏が長くつづき、真っ赤な種馬のような太陽に草を奪われていた。驟雨《しゅうう》が頂きを潤しても、それらは細流に分かれるか、遠くで落ちこんだ池に流れこんでさえぎられた。花崗岩の巨石が熱によって剥離した。むきだしの地面はひび割れ、大きな亀裂ができることもあった。わずかばかりの低い草は根まで乾ききった。
このようなわけで、ポルノス伯父の黒や斑《まだら》の山羊の世話をする若者クセートゥラは、日ごとにますます遠くの狭い谷や丘の頂きに山羊を連れていかざるをえなかった。晩夏のある午後、これまで訪れたことのない、巌《いわお》の散在する深い谷に達した。ここでは蔭になった小さな冷たい池がどこかに隠れた泉から水を受けていた。池のまわりの岩棚の多い斜面は青草や灌木《かんぼく》に覆われて、さわやかな緑の色を失ってはいなかった。
若い山羊飼いは驚くとともに魅せられ、跳ねまわる群を導いて、この蔭になった楽園に入った。ポルノスの山羊たちがこのような素晴しい牧草地からさまよいでることはなさそうなので、クセートゥラはもはや山羊たちに目を光らせようともしなかった。まわりのありさまにうっとりして、金色の葡萄酒のようにきらめく澄みきった水で渇きを癒すと、谷を調べはじめた。
クセートゥラにとって、ここは紛れもなく草木の遊園だった。いたるところに目を愉しませて足を進めさせる新たな魅力があった。残忍な太陽の光を免れている花は、夕べの星のように小さくて青白かった。雷文のある翡翠《ひすい》のような芳《かぐわ》しい羊歯《しだ》が、巨岩の湿っぽい陰に生えていた。食用のオレンジ・ベリイさえ、この最適な隔離された場所には、収穫期を過ぎてもまだわずかに残っていた。
ここまでやってきた道のりの長さや、乳搾りに遅れて帰ればポルノスに叱られることも忘れ、クセートゥラは谷を守る険阻な岩場をさらに奥へと入りこんでいった。どこに目を向けても、岩が険しく荒あらしくなっていくばかりだった。クセートゥラはまもなく行きどまりになった箇所に達した。角《かど》ばった岩の壁が聳《そび》えて、それ以上は進めなかった。しかしながらここには花や羊歯や果実よりも心をそそるものがあった。
目のまえの切り立った岩壁の基部に、謎めいた洞窟の口がぽっかり開いているのが見えた。クセートゥラが来るまえに岩が少しだけ開いたにちがいないと思えるほどだった。割れ目の線がはっきりしていて、そのまわりの亀裂の表面には、ほかではふんだんに生えている苔《こけ》もなかったからである。洞窟の入口から矮小な木が一本生えて、折れたばかりの根が宙に垂れていた。そして頑強な主根はクセートゥラの足もとの岩にあって、以前そこに生えていたのは明白だった。
若者は不思議に思うとともに好奇心を抱き、妙に心をそそる洞窟の闇を覗きこんだ。洞窟からは不可解にも芳しい微風が吹きはじめ、香のついた溜息のように若者の顔にふれた。不思議な匂いがいくつもあって、神殿の香《こう》の鼻を刺すような匂いや、罌粟《けし》の花のけだるい愉悦の匂いを思わせた。そうした匂いがクセートゥラの感覚を乱した。そして同時に、いまだ見ていない驚くべきものの気配をたたえて、クセートゥラを引き寄せた。洞窟が未知の世界の戸口のように思われた――その戸口がはっきりと開いて、入りこむのを許しているのだった。クセートゥラは冒険心に富み、空想に耽ることが多いので、他人が同じ立場にあれば感じるような恐怖で二の足を踏むようなことはなかった。大いなる好奇心に駆りたてられるまま、崖の木から落ちた樹脂の多い乾燥した枝を松明《たいまつ》がわりに携え、すぐに洞窟に入りこんだ。
洞窟に入ると、おおよそ丸天井になっている、恐ろしいドラゴンの喉のように下方に傾斜する通路に呑みこまれた。未知の深淵から吹きつのる温かな芳しい風を受けて、松明の炎が吹きもどされ、大きく揺らめいて煙を出した。洞窟は危険なほど急傾斜になったが、クセートゥラは探検をつづけ、階段状の楔《くさび》形の石や突起をくだっていった。
夢のなかで夢を見ている者のように、たまたま出くわした謎にすっかり夢中になって、仕事を放棄したことをすっかり忘れはてていた。くだることに費やした時間をはかることもしなかった。やがていたずら好きの魔物が息を吹きかけたように、熱い風が吹いてきて、急に松明が消えた。
暗澹《あんたん》たる恐怖に襲われるのを感じながら、クセートゥラは闇のなかでよろめき、危険な急斜面で足場を固めようとした。しかし消えた松明にふたたび火を付けるまえに、まわりの闇がまったくの暗黒ではなく、下方からほのかな金色の光が射して和らいでいるのを知った。新たな驚きを感じて、警戒することも忘れ、謎の光に向かってくだっていった。
長い下り坂の下底に達すると、洞窟の低い口を通り抜け、太陽の明るい輝きのもとに出た。つかのま目がくらんでまごつき、地下をさまよってミュクラシア山脈のどことも知れない場所に出たのだと思った。しかし目のまえに広がる景色は、夏に苦しめられるキンコルのものではなかった。老いて横暴になった太陽がゾティークの諸王国を睨みつけ、冷酷無情な旱魃《かんばつ》をもたらす濃青色の空もなければ、丘も山もなかった。
クセートゥラのまえには、計り知れない金色の大空のもとで、果てしなく遠くまでつづく肥沃な平原があった。霧に包まれた輝きを通して、遙か遠くに、しかとは見定めがたい朧《おぼろ》なものが聳えているのが見え、尖塔や円蓋や城壁なのかもしれなかった。足もとから広がる平坦な草原は、密生する芝に覆われ、緑青《ろくしょう》の緑色を帯びていた。芝のところどころに見慣れない花が咲き、生きている目のように向きをかえたり動いたりするように思えた。草原の少し向こうには果樹園のような木立があって、高い木々がたっぷり枝を張り、青あおとした葉叢《はむら》に数えきれないほどの暗赤色の果実が輝いているのが見えた。平原には人間がひとりもいないようだった。真っ赤に輝く空を飛ぶ鳥もいなければ、果実を実らせた枝に止まっている鳥もいなかった。芳しい風に吹かれる葉のざわめきのほかには、何の音も聞こえなかった。葉のざわめきは、多くの小さな蛇が発している音のようにも聞こえた。
乾ききった丘陵地帯から来た若者にとって、洞窟を抜けて訪れたこの土地は、いまだ味わったことのない歓喜に満ちたエデンのようで、果実の付いた枝や青あおとした地面でもってクセートゥラを魅了した。しかしながらあらゆるものの不思議さに打たれ、景色全体に充満する異様かつ尋常ならざるものを感じて、クセートゥラはしばしのあいだ立ちつくした。火の粉《こ》が降って、波打つ大気中で溶けているようだった。芝が不快なよじれかたをして丸まった。花のような目がまじまじとクセートゥラを見つめ返した。木々は樹液のかわりに血のごとく赤い液体が流れているかのように脈打っていた。そして葉叢のなかで鎖蛇が立てるような音がますます大きくなっていった。
しかしながらクセートゥラを躊躇《ちゅうちょ》させたのは、ただ一つの考えでしかなかった。これほど美しくて肥沃な土地を所有するのは、侵入に憤慨する妬み深い者にちがいない。クセートゥラは無人の平原を注意深くながめた。やがて誰にも見られていないと思うと、ふんだんにある赤い果実を目にして身内にこみあげた渇望にしたがった。
一番近くの木々に走っていくあいだ、踏みしめる芝が生き物のように伸び縮みした。木々のなかに入ると、輝く丸い果実をたわわに実らせた枝が、まわりじゅうに垂れさがっていた。クセートゥラは大ぶりの果実をいくつかもいで、糸が見えるくらい擦り切れたトゥニカのふところに慎ましく収めた。そしてもはや強い欲望を抑えきれず、果実の一つをむさぼるように食べはじめた。皮は歯でたやすく破れ、甘くてこくのある極上の葡萄酒が、あふれんばかりの杯から口に流れこむようだった。たちまち喉と胸に温もりが広がって、息が止まりそうになった。そして不思議な興奮が耳を疼《うず》かせ、感覚を迷わせた。それはすぐにおさまったが、空の高みから聞こえるような声を耳にして、陶然としていたクセートゥラは愕然とした。
声が人間のものでないことはすぐにわかった。不吉な太鼓の轟きのように、不気味な響きをともなって、声がクセートゥラの耳を満たしたが、異質な言語のものであるにもかかわらず、はっきりした言葉でしゃべっているように思えた。クセートゥラは太い枝のあいだから見あげ、恐怖をかきたてるものを目にした。山の民の物見|櫓《やぐら》のように高い巨大な存在が二つあって、木々の梢《こずえ》もそれらの腰の高さまでしかなかった。まるで妖術によって緑したたる土地か金色の天から呼び出されたかのようだった。彼らの巨体に較べれば、木々も灌木のようなものでしかなく、クセートゥラの目には二人の姿があまさず見えた。
二人は底無しの地獄の支配者たるタサイドンに仕える魔物がまとうような、光沢のない陰気な黒い甲冑を身につけていた。クセートゥラは二人に見られたにちがいないと思った。理解できない会話は自分がいることにかかわるものかもしれない。鬼神の園に入りこんだのだと思うと、わなわなと身が震えた。隠れているところからこわごわ覗き、自分のほうに向けられた暗い兜の額飾り紐の下に、顔を見定めることもできなかったが、目のような黄色みがかった赤い炎が、沼の鬼火のように落ちつきなく、顔があるべきところの虚ろな暗い影のなかで動いているのが見えた。
軽率に入りこんだ土地の守護者であるこの二人の監視の目をかわすには、よく茂った葉叢も十分ではないように思われた。クセートゥラは罪の意識に圧倒された。蛇のような音を立てる葉、巨人の太鼓のように轟く声、目の形をした花――これらのすべてが侵入と盗みを非難しているように思えた。それと同時に、自分が誰なのかがよくわからないという、普通ではない奇妙な感じがしてとまどった。どういうわけか、自分が山羊飼いのクセートゥラではなく……明るい園を見いだして血のように赤い果実を食べたのは……別人であるような気がしたのである。この異質な自分は、名前はおろか、はっきり思いだせる記憶もなかったが、かき乱れる心の闇のなかで、混乱した光が明滅し、聞きとれない言葉がつぶやかれた。果実をむさぼったあとに起こった不思議な温もりと、速やかにつのりゆく興奮をふたたび感じた。
枝ごしに下方に射し入った生なましい閃光によって、若者はこうしたことのすべてから我に返った。晴れた空から電光が降りくだったのか、それとも甲冑に身を固めた者が大剣を振りおろしたのかは、あとになって思い返してもよくわからなかった。光に目がくらみ、抑えきれない恐怖に身を縮めたが、ふと気づいてみると、半ば目が見えないまま、開けた芝地を走っていた。色のついた旋回する閃光を通して、前方の切り立った崖に、自分が出てきた洞窟の口が見えた。背後に夏の雷のような長い轟きが聞こえた……あるいは巨人の笑い声だったのかもしれない。
洞窟のまえにはまだ燃えている松明があったが、それを掴むために立ち止ることもせず、クセートゥラはたまらず暗い洞窟にとびこんだ。漆黒の闇に包まれながら、手探りして危険な斜面を登っていった。曲がり角に達するつど、よろめき、つまずき、傷を負いながら、ついにキンコルの丘陵の背後に隠された谷に出た。
驚いたことに、洞窟の向こうにいたあいだに、こちらでは夕闇が垂れこめていた。谷を取り囲む険しい岩の上には星がひしめき、太陽の没した紫色の空には、象牙色の三日月の鋭い先端が突き刺さっているように見えた。クセートゥラはなおも巨人の衛兵の追跡が恐ろしく、ポルノス伯父に叱られるのが不安でもあり、急いで小さな池にもどると、山羊を集めて、長く陰気な道を引き返した。
家路についているあいだ、何度となくあの興奮が甦り、不思議な奇想をもたらした。クセートゥラはポルノス伯父に対する恐怖を忘れはてた。実際には、自分が卑しく軽んじられる山羊飼いのクセートゥラであることを忘れた。粘土と小枝で造られたポルノスのむさくるしい小屋ではなく、別の住まいにもどっているのだった。円蓋が高く聳える都では、磨きたてられた金属の門が自分のために開かれ、炎の色をした旗が芳しい大気になびき、金髪の女奴隷や黒人の侍従たちの澄んで美しい声や銀のトランペットの音色が、千柱の広間で王としての自分を迎えるはずだった。空気や光のように慣れ親しんだ、古くからの王族の華麗さに囲まれ、玉座に就いたばかりのアメロ王として、東方の海を望むカリュズの王国全土を支配するのだ。アメロ王の都には、獰猛《どうもう》な南部の部族民が毛深い駱駝《らくだ》に積んで、棗椰子《なつめやし》の酒や砂漠の鋼玉を税としてもたらす。暁の彼方の島々からは、香辛料や不思議な染色のされた布といった、半年に一度の貢物を載せて、ガレー船が波止場にやってくる。
譫妄《せんもう》状態で見るもののように揺らめいているが、日々の記憶のように鮮明に、狂った光景が生じたり消えたりした。そしてクセートゥラはふたたび、山羊たちを連れて帰りの遅くなった、ポルノスの甥にもどった。
振りおろされる刃のように、赤い三日月が陰気な丘陵に沈んだころ、クセートゥラはポルノスが山羊を入れる粗雑な木製の畜舎にもどった。予想していたように、老人が片手に陶器の角灯、もう一方の手にブライアーの杖をもって、木戸のまえで待ちかまえていた。半ば耄碌《もうろく》した激しさでののしり、手にした杖を振りまわしながら、遅く帰ったことで懲《こ》らしめるといって脅した。
クセートゥラは杖にたじろがなかった。またしても奇想が甦って、カリュズの若い王アメロになっていた。揺れる角灯の光のもとで、記憶にない不快な臭いのする不潔な老人を目にして、困惑するとともに驚いた。ポルノスの言葉が理解できなかった。老人の怒りにとまどったが、恐れたりはしなかった。そして鼻孔が繊細な香に慣れているかのように、山羊の臭いに辟易《へきえき》した。これがはじめてのことであるかのように、疲れた山羊の群の鳴き声を耳にし、枝編み細工の山羊の畜舎とその向こうの小屋を、狂乱した驚きの目で見た。
「ああ、何てことだ」ポルノスが叫んだ。「大枚はたいて、妹の孤児を育てたあげくが、この始末か。呪われた愚か者め。恩知らずの小僧め。乳を出す山羊や仔山羊を一匹でもなくしてたら、太股から肩まで杖で叩きのめすぞ」
ポルノスは若者の沈黙を強情によるものだと思い、杖で打ちはじめた。最初の一打で、クセートゥラの心から晴れやかな奇想が消えた。クセートゥラは素早く杖をかわしながら、丘のなかで見つけた新しい牧草地のことをポルノスに話そうとした。老人がこれを聞いて、杖を振る手を止めたので、クセートゥラは不思議な洞窟を抜けて思いがけない庭園の土地に行ったことを話した。話を裏づけるために、トゥニカのなかに手を入れ、盗みとった真っ赤な林檎を取りだそうとしたが、見つからないのでうろたえてしまった。闇のなかで失ったのか、果実に内在する幻術によって消えたのかもわからなかった。
ポルノスは最初は不信の念をあらわにして、何度も叱りつけて話をさえぎった。しかし若者が話をつづけていると、何もいわなくなった。話が終わると、声を震わせて叫んだ。
「今日は禍霊《まがつい》の日だった。おまえは魔法にかけられてさまよったのだ。丘のなかにはおまえがいうような池はない。この季節にそのような牧草地が見つかるわけがない。それらはおまえを迷わせるための幻だ。そして洞窟もまっとうなものではなく、地獄の入口にちがいない。親父さまたちから聞いたことがあるが、七つの地獄の王であるタサイドンの苑《その》がこのあたりの地表近くにあるそうな。そして洞窟が戸口のように開いて、人間の子らが何も知らずに庭園に入りこみ、果実に気をそそられて食べてしまう。しかしそのために、狂気と大いなる悲しみと長きにわたる呪いがもたらされる。魔物は林檎が一つ盗まれたことも忘れず、結局はその代償を求めるからだそうな。ああ、そんなあやかしの牧草を食べたばかりに、月が一巡するあいだ、山羊の乳が酸っぱくなるぞ。おまえを食わせて養ってやったというのに、わしは山羊の世話をする若僧を見つけなければならん」
クセートゥラはそれを聞いているうちに、またしても燃えあがる奇想が甦った。
「老人よ、余はそなたを知らぬ」困惑していった。そして宮廷の穏やかな言葉で話したが、ポルノスには半分しか理解できなかった。「余は迷ってしまったようだな。願わくは、カリュズの王国がいずこにあるかを教えてたもれ。余はカリュズの王であり、父祖たちが千年にわたって支配してきた高貴な都、シャタイルで戴冠したばかりなのでな」
「ああ、まったく」ポルノスが嘆いた。「気がふれてしまいおった。デーモンの林檎を喰らったから、そんなおよずれごとが頭に浮かぶのだ。たわごとを口にするのをやめて、乳搾りを手伝え。おまえはわしの甥だ。亭主のオウトスが赤痢で死んでから、わしの妹アスクリが十九年前に生んだ子供だぞ。アスクリは長く生きず、わしポルノスがおまえを我が子のように育て、おまえは山羊の乳を飲んで大きくなったのだ」
「余は王国を見つけなければならぬ」クセートゥラはいいはった。「余は闇に包まれた不浄なもののなかで迷い、どうやってここに来たかもおぼえておらぬのだ。老人よ、食事と一夜の宿を所望する。夜が明ければ、東方への街道をたどって、シャタイルに向かう旅をするでな」
ポルノスは身を震わせてぶつぶつつぶやき、陶器の角灯を若者の顔に近づけた。目のまえに見知らぬ者がいて、その不思議そうな大きな目には、どういうわけか金色のランプの光が映っていた。クセートゥラの振舞に荒あらしさはなく、ある種の穏やかな自尊心とよそよそしさがあるだけで、擦り切れたトゥニカを妙に優雅にまとっていた。しかしながらおかしくなっているのは確かだった。態度もしゃべりかたも理解を絶していたからである。ポルノスは声をひそめてつぶやいたが、もはや手伝えといいもせず、乳搾りにいった……
クセートゥラは白じらとした夜明けに目を覚まし、生まれてからずっと暮らしている荒家《あばらや》で、泥を塗られた壁を見て驚いた。何もかもが異質で途方に暮れるものだった。身につけている粗い衣服と日焼けした黄褐色の肌にとりわけとまどった。そのようなものは、自分がそうだと思っている、若いアメロ王にふさわしいものではなかったからである。まわりにあるのは不可解なものばかりなので、直ちに宮殿にもどる旅をしなければならないと思った。
寝台がわりの干草を敷き詰めた寝床から、静かに身を起こした。奥の隅に横たわっているポルノスは、高齢のためにまだぐっすり眠りこんでいて、クセートゥラは起こさないように用心した。昨夜、粗悪な黍《きび》のパンと山羊の濃厚な乳とチーズの食事をあてがわれ、悪臭のこもる小屋で眠らせてもらったが、このつまらない老人には、困惑するとともに嫌悪をおぼえていた。ポルノスの独り言や小言は気にしなかったが、老人が王であるという主張を疑い、身元について特異な妄想に取りつかれていると思っているのは明白だった。
クセートゥラは荒家をあとにすると、石の多い丘陵を踏みならして造られた、くねくね曲がって東に向かう道をたどっていった。その道がどこに通じるのかは知らなかったが、ゾティーク大陸の東端にあるカリュズは昇りゆく太陽の下のどこかにあるはずだと考えた。頭のなかでは、前方に王国の青あおとした谷が美しい蜃気楼のように浮かび、シャタイルの膨れあがる円蓋が朝の積雲のように東方に積み重なっていた。クセートゥラはこれらが昨日の記憶だと思った。どのようにして宮殿を離れたのかはおぼえていないが、自分が支配していた土地はさほど遠くはないはずだった。
道を進んでいると、尾根がなだらかになって、住民がクセートゥラをよく知る小さなキスの村に着いた。いまやクセートゥラにとっては異質な村で、太陽のもとで悪臭を発して腐敗する、汚らしい低い荒家が集まったものでしかなかった。集まってきた村人たちに呼びかけられ、クセートゥラがカリュズへの道をたずねると、莫迦のように笑われ、じろじろ見られた。誰もこの王国やその都シャタイルのことを聞いたことがないようだった。村人たちは若者の振舞がおかしいことに気づき、その質問を狂人のたわごとだと思って、クセートゥラを嘲《あざけ》りだした。子供たちが乾いた土くれや小石を投げつけた。クセートゥラはこのようにしてキスから追い払われると、東に向かう道を進み、キンコルに隣接するゼルの低地に入っていった。
失った王国の幻影だけに支えられ、若者は長い月日にわたってゾティークをさまよった。自分が王であることを告げ、カリュズについてたずねると、嘲笑されたり冷やかされたりしたが、狂気を聖なるものだと思う者も多くいて、泊めてくれたり食べ物をめぐんでくれたりした。遠くまで広がる実り豊かなゼルの葡萄園、数えきれないほどの街があるイスタナム、秋のはじめにもまだ雪が残っているイモルスの高地の峠、塩のように白いディルの砂漠、錦蛇の多いオンガスの密林を、クセートゥラはいまや唯一の記憶となった、あの明るい荘厳な夢を追ってたどりつづけた。いつも東に進み、狂人を同行すれば幸運に恵まれると期待する隊商とともに旅をすることもあったが、ひとりで徒歩で進むことが多かった。
ときおりつかのまのこととはいえ、夢が失われて、ただの山羊飼いにすぎなくなり、知らない土地で迷って、キンコルの不毛の丘陵を懐かしく思うことがあった。しかしすぐにふたたび、王であることや、シャタイルの繁茂する庭園、誇るに足る宮殿、父であるエルダマク王が亡くなってから自分に仕える者たちの名前と顔、そして玉座に就いたことを思いだすのだった。他の記憶よりも頻繁に甦るのは、ひとりで宮殿の東の露台を歩き、刺戟の強い海の匂いの混じった物憂い花の香を嗅ぎながら、低い水平線と天頂のあいだに昇った強壮な星カノープスをながめたことだった。そこに立って、不思議な喜びとぼんやりした苦しみを感じていると、夜が深みのある紫色を帯びて、小さな星たちがカノープスのまわりにあらわれたことをおぼえていた。
真冬に遙か遠くのシャ=カラグの街で、クセートゥラはウスタイムから来た護符売りに出会った。カリュズへの道を知らないかとたずねると、彼らは妙な笑みを浮かべた。クセートゥラが王であることを語ると、彼らは目配せをして、カリュズはシャ=カラグから数百リーグ離れた東方の太陽のもとにあると告げた。
「国王、万歳」彼らは嘲るようにいった。「シャタイルで久しく楽しく治世なさいますように」
失った王国の名をはじめて耳にし、夢や狂気の産物ではないことを知って、クセートゥラは甚《はなは》だ嬉しく思った。もはやシャ=カラグには留まらず、できるだけ急いで旅をした。薄い襤褸《ぼろ》をまとっただけで、大胆にも冬の驟雨のなかを進み、内海の塩気のある沼沢地の縁をあぶなっかしく通り、その向こうに横たわる、無人の地であるのに見えない軍隊のような金属音や騒ぎを旅人が耳にするという、石の多い荒地を横切った。ここを無事に抜けると、半ば蛮人めいた部族民の土地に達し、言葉は通じなかったが、親切に接してもらえた。その後、四つの都市があるアトアドに行くと、住民たちがいささか愚弄するように、カリュズまではまだ東に丸一ト月旅をしなければならないと告げた。
こうしてまた旅をつづけたクセートゥラは、自国からの旅人に出会わないのを不思議に思うようになった。商人たちがカリュズと近郊の土地のあいだを常時往来していると聞いていたからである。そして遙かな遠隔の地として、アトアドの都市に関する話を聞いたことがあるのを、ぼんやりと思いだした。どこに行っても、王国のことをたずねると、妙な目つきで見られ、あからさまに笑う者もいれば、皮肉をこめて旅を祝する者もいた。
春の最初の月がいまにも壊れそうな細い三日月として夜にあらわれたとき、クセートゥラは目的地に近づいたことを知った。シャタイルの宮殿の露台からかつて見たときのように、カノープスが多くの星に囲まれて華麗に昇り、東の空高くで明るく輝いたからである。
帰郷の喜びに胸が躍ったが、進みゆく地が荒涼として不毛であることにひどく驚いた。カリュズを行き来する旅人はいないようだった。数人の遊牧の民と出会っただけだが、クセートゥラが近づくと、荒野の動物のように逃げていった。街道には草やサボテンが生い茂り、冬の雨の跡が残っているだけだった。ほどなく街道沿いに、左後ろ片脚立ちの獅子の姿に彫刻された石の境界柱があらわれ、カリュズの西の境界を示していた。獅子の顔は崩れはて、前脚と胴は地衣類に覆われ、見捨てられて久しいようだった。クセートゥラの胸に冷えびえとした落胆が生まれた。記憶が正しければ、つい昨年、父のエルダマクとともにハイエナ狩りをしたときに、この獅子のそばを通りすぎ、その新しさを心に留めたからである。
いましも国境の高い尾根からカリュズを見おろすと、海のそばに青あおとした長巻物のごとく伸びていた。秋が訪れたかのように広い野が枯れはてているのを知って、クセートゥラは驚くとともに不思議に思った。川は細くなって砂のなかに消えていた。丘は蝋引き布にくるまれていない木乃伊《ミイラ》の肋骨のように、不気味なほど荒涼として、春の砂漠に生えるわずかばかりの草のほかには、緑の草木はいっさいなかった。遙か遠くの紫色の街道のそばに、シャタイルの大理石の円蓋が輝いているのが見えるように思い、クセートゥラは悪意ある妖術が王国にかけられたのではないかと恐れつつ、足を早めて都に向かった。
その春の日、悲嘆に暮れながらさまよっているうちに、いたるところが砂漠と化していることがわかった。野原には何もなく、村は無人だった。小屋は崩れてごみの山のようになり、雨が降らないまま千もの季節が実り豊かな果樹を枯れさせて、腐敗する黒い根株をわずかに残しただけのようだった。
クセートゥラは午後遅くに、東方の海の女王と呼ばれたシャタイルに入った。通りや波止場は同じように無人で、壊れた屋根や崩壊する壁に沈黙が垂れこめていた。大きな青銅の方尖塔が古びて緑色に変じていた。カリュズの神々を祀《まつ》る巨大な大理石造りの神殿は、いずれも傾いて倒れかかっていた。
予想したことを確かめるのを恐れる者のように、クセートゥラはのろのろと王の宮殿に向かった。記憶しているような、花の咲く巴旦杏《はたんきょう》、さまざまな香木、滾々《こんこん》と涌《わ》きたつ噴水に半ば隠された、聳えたつ大理石の栄光はなく、クセートゥラを待ちかまえていたのは、枯れた庭園に取り巻かれる、荒廃しきった宮殿だった。つかのま照りつけた夕日の幻影じみた薔薇色が円蓋から消えると、宮殿は霊廟《れいびょう》のように見えた。
このような荒廃したありさまになってどれほどの歳月が経過しているのかもわからなかった。クセートゥラは困惑しきって、このうえもない喪失感と絶望に打ちひしがれた。廃墟のなかには出迎えてくれる者もなさそうだったが、西の翼《よく》の入口に近づくと、まるで影が揺らめくように、前廊の下の闇からあらわれでたものがあった。襤褸をまとった怪しい人影がいくつも、すべるように這うように、割れた舗石に立つクセートゥラのまえにやってきた。彼らが動くと、衣服のあちこちがぼろぼろと千切れて落ちた。彼らにはいいようもない腐敗の恐怖、汚穢《おわい》と病の恐ろしさがあった。彼らが近くに来たとき、クセートゥラは大半の者が顔や体の一部を欠いて、業病に蝕《むしば》まれていることを知った。
クセートゥラは胸を悪くして、しゃべることもできなかった。しかし業病の者たちはかすれた叫び声や虚ろなしわがれ声で歓迎し、クセートゥラを廃墟のなかの住処にやってきた、自分たちと同様の追放者だと思っているかのようだった。
「余のシャタイルの宮殿に住むおまえたちは何者か」クセートゥラはようやくそうたずねた。「見よ。余はエルダマクの息子、アメロ王なるぞ。遠い国からふたたびカリュズの玉座に就くためにもどってきたのだ」
業病の者たちはこれを聞くと、さまざまに笑い声をあげた。「われらこそカリュズの王だ」ひとりが若者に告げた。「この国は何世紀もまえに砂漠になって、シャタイルの都には、他の土地から追放されたわれらのような者のほかには誰も住まぬ。若い人よ、われらとともに住むなら歓迎するぞ。王がひとり増えようがたいしたことではないからな」
業病の者たちは不快な咲笑をあげ、クセートゥラを嘲ったり冷やかしたりした。クセートゥラは夢の暗い断片のなかに立ちつくし、応じる言葉とてなかった。しかしながらほとんど手足も顔もない老人だけは、仲間たちの浮かれ騒ぎには加わらず、深く考えこんで思いをこらしているようだった。そして最後に、ぽっかり開いた口の黒い穴から絞り出すような声で、クセートゥラにこう告げた。
「わしはカリュズの歴史についていささか聞いたことがあり、アメロとエルダマクの名前を知っておる。遙かな昔、そう呼ばれた支配者がおったそうだが、どちらが父でどちらが子なのかは知らぬ。おそらく二人とも王朝の他の者たちとともに、宮殿の地下深くにある納骨所に葬られたのだろう」
いまや濃くなりまさる暮色のなかで、他の業病の者たちが暗い廃墟からあらわれて、クセートゥラのまわりに集まった。クセートゥラが砂漠の国の王だと主張しているのを聞くと、一部の者が立ち去って、不快な水や黴《かび》の生えた食べ物を入れた器をもってまもなくあらわれ、君主に仕える侍従のように、見せかけだけの仕草で深ぶかと頭をさげて差しだした。
クセートゥラは餓えて渇いていたが、厭《いと》わしげに顔をそむけた。干上がった噴水や埃まみれの花壇の区画のある灰色の庭園を抜けて逃げた。業病の者たちの恐ろしい笑い声が背後に聞こえたが、その笑い声も小さくなっていき、追われてはいないようだった。巨大な宮殿をまわりこむようにして逃げているあいだ、業病の者には出会わなかった。南の翼と東の翼の入口は闇が垂れこめて誰もいなかったが、荒寥《こうりょう》としたありさまやそれよりもひどいものがあるはずだとわかっているので、入ろうとはしなかった。
ひどく取り乱して絶望に駆られながら、東に面する翼に達すると、薄闇のなかで立ち止った。旅のあいだよく思いだした、海を望むあの露台に立っていることが、夢のような乖離《かいり》感をおぼえながらも、ぼんやりとわかるようになった。古代の花壇はむきだしになって、木々は沈んだ鉢で朽ち果てていた。大きな敷石はひび割れたり砕けたりしていた。しかし黄昏《たそがれ》の帳《とばり》が廃墟にしっとりと垂れていた。海は紫色の暮色のもとで昔日《せきじつ》のように溜息をついた。そして小さな星たちになおもほのかに取り巻かれて、強壮なカノープスが東に昇った。
クセートゥラは自分が埒《らち》もない夢に惑わされた夢想家だと思い、胸が苦にがしさに満たされた。明るすぎて堪えられない炎から退くかのように、カノープスの気高い輝きからあとしざりしたが、踵《きびす》を返そうとするまえに、夜よりも暗く、雲よりも濃密な影の柱が、露台からクセートゥラのまえにあらわれて、まばゆい星を隠した。堅固な敷石から影が上り、高く巨大に聳えた。そして影は甲冑に身を固めた戦士の輪郭を取った。戦士は遙かな高みから、さげられた兜の蔭になった暗い顔で火球のように輝く目を動かして、クセートゥラを見おろしているようだった。
クセートゥラは古い夢をおぼえている者のように混乱しながらも、夏にいたぶられる丘で山羊の世話をしていた若者を思いだした。その若者はある日、戸口のように不思議な驚異の土地に通じる洞窟を見いだした。若者はその土地をさまよい、血のように赤い果実を食べたあと、庭園を守る黒い甲冑姿の巨人を目にして、恐怖に駆られて逃げ出した。クセートゥラはふたたびその若者になった。しかしそれでもなお、多くの土地をめぐって失われた王国を探し求め、ついに王国を見つけながらも、忌わしい荒寥としたものでしかないことを知ったアメロ王でもあった。
いまや心のなかで、山羊飼いの狼狽、不法侵入と盗みの罪悪感が、王の誇りとせめぎあったが、そのとき春の夜の高い雲のなかで、雷鳴のように空に轟く声がした。
「我はタサイドンの使者である。冥界の戸口を抜けて庭園の果実を喰らった者のすべてに、タサイドンはしかるべきときに我をつかわす。果実を喰らった者は同じままではいられぬが、果実は忘却をもたらすこともあれば、記憶をもたらすこともある。おまえは遙か昔の別の世で、まさしくアメロ王であったと知るがよい。おまえの内で強くなっている記憶が、この現代の思い出をかき消して、おまえに古代の王国を探すように駆りたてたのだ」
「それが真実であるなら、余は二重に奪われたことになる」クセートゥラは悲しげに影のまえで頭を垂れた。「アメロである余は玉座も王国もなく、クセートゥラである余はかつて王であったことを忘れられず、素朴な山羊飼いとして知っているものを取りもどすこともできないのだからな」
「よく聞け。いま一つの方法があるぞ」影がいったが、遙かな大洋のつぶやきのように小さな声だった。「タサイドンはあらゆる妖術の支配者であり、タサイドンを君主として仕える者に魔術の才能を与える。忠節を誓い、魂をタサイドンに捧げると約束せよ。さすれば、きっと報いがあるぞ。おまえが望むなら、タサイドンは葬られた過去を降霊の術によって蘇らせることもできる。おまえはふたたびアメロ王としてカリュズを支配することになる。すべては過ぎ去りし日々のようになり、死んだ者やいまや砂漠となりはてている地がふたたび栄えるであろう」
「その契約を受け入れる」クセートゥラはいった。「ふたたび王国を与えてくれるなら、余はタサイドンに忠節を誓い、魂を差しだすと約束する」
「いっておかなければならぬことがまだある」影が話をつづけた。「おまえは過去の人生をすべておぼえているわけではなく、いまの年齢に応じた記憶をもっているにすぎぬ。アメロとしてふたたび生きれば、いずれ王であることを悔やむようになるだろう。そのような後悔に打ちひしがれて、王としての務めを忘れるようなことになれば、降霊の術は終わり、すべては蒸気のように消えるのだぞ」
「そうあらしめよ」クセートゥラはいった。「そのことも取引の一部として受け入れる」
クセートゥラがそう告げるや、カノープスを隠していた巨大な影は消え去った。雲に隠されたことなどなかったかのように、カノープスが清らかな輝きを放っていた。その星をながめる者は、何の変化も推移も感じないまま、いまやアメロ王にほかならなかった。そして山羊飼いのクセートゥラも、使者も、タサイドンに誓った忠節も、存在しなかったもののごとくになった。シャタイルに訪れた荒廃は狂った予言者の夢でしかなかった。アメロの鼻孔には、海の潮気とともに、けだるさを誘う花の香が届き、耳には大洋のゆったりしたうねりとともに、竪琴のなまめかしい調べや奴隷女の甲高い笑い声が背後の宮殿から聞こえたからである。臣民が祝宴にあずかって歓喜に酔い痴れている、夜の都の千々の音が聞こえた。アメロは不可解な悲嘆とほのかな喜びを胸に抱き、星に背を向けると、父の宮殿の燦然《さんぜん》と輝く出入口や窓を、そしてシャタイルを通りすぎていく中空の星たちをかすませる、空高くまであがるおびただしい松明の光を見た。
古い年代記に記録されているところによると、アメロ王は長きにわたって繁栄の時代を築いたという。平和と潤沢がカリュズの全土にあった。砂漠から旱魃が押し寄せることもなければ、海から強風が吹き寄せることもなかった。定められた季節には、統治下にある島や遠く離れた土地から貢物がアメロに届けられた。そしてアメロはいたく満足して、豪華なアラス織りの壁掛けのある広間で贅沢に暮らし、王にふさわしい祝宴を開いて葡萄酒を飲み、リュート弾きや侍従や寵姫《ちょうき》の賛辞を耳にした。
人生の最盛期を少し過ぎたころ、運命の寵児を待ちかまえるあの飽満のいくばくかが、ときおりアメロを悩ませるようになった。そのようなときには、宮廷のうんざりする快楽に背を向けて、花卉《かき》や往古の詩人の詩に喜びを見いだした。このようにして飽満は食い止められた。そして双肩にかかる国務は些細なものなので、アメロはなおも王位にあることに魅力を見いだしていた。
やがて晩秋になると、星たちがカリュズを不吉に見つめているように思われた。見えないドラゴンの翼に乗ってきたかのように、家畜の伝染病や植物の疫病や人間の悪疫がやってきた。王国の沿岸地帯は海賊のガレー船に襲撃され、手ひどく略奪された。西では、カリュズを行き来する隊商が恐るべき盗賊団に襲われた。一部の獰猛な砂漠の民が南の国境近くにある村々に戦争をしかけた。国土は騒乱と死、悲嘆と苦悩にみなぎった。
アメロは日々にもたらされる痛ましい泣き言を聞いて、深く胸を痛めた。王ではあれ、その才覚にとぼしく、国土の苦難にはまったく未経験であるため、廷臣たちに助言を求めたが、あさはかな勧告がなされただけだった。王国の難儀が数を増してアメロにのしかかった。支配力によって抑えきれないまま、砂漠の野蛮な民はますます大胆になり、海賊は海の禿鷲《はげわし》のごとく群がった。飢饉と旱魃が疫病とともに王国を分けあった。悲嘆に暮れて当惑するアメロには、そのような問題はいかなる処理もできないように思え、王であることがあまりにも煩《わずら》わしい重荷になった。
おのれの無能や王国の悲惨な窮状を忘れようとして、アメロは夜に長ながと放蕩に耽るようになった。しかし葡萄酒も忘却をもたらしてはくれず、性愛の営みもその恍惚を失っていた。他の気晴しを求め、風変わりな仮面舞踏者や無言劇役者や道化を呼んだり、異国の歌手や異様な楽器の奏者を集めたりした。不安をまぎらせてくれる者には莫大な褒美を与えると、毎日のように布告した。
不滅の吟遊詩人がそのかみの野放図な歌や魔術にかかわる物語詩をアメロに歌い、手足を琥珀《こはく》で飾った北方の黒人女が奇怪で淫らな踊りをアメロのまえで舞い、キマイラの角を吹く者が狂わんばかりの神秘の調べを奏で、蛮人が食人族の皮で造った太鼓を叩いて不穏な音楽を奏でる一方、半ば伝説と化している怪物どもの鱗や毛皮をまとう男たちが、宮殿の廊下をおどけて暴れまわったりグロテスクに這いまわったりした。しかしこれらのすべても、悲痛な思いでいるアメロを愉しませることはできなかった。
ある日の午後、アメロが謁見の間で大儀そうに腰をおろしていると、ぼろぼろになった地味な衣服をまとった笛吹きがやってきた。笛吹きの目はかきまわされた燠《おき》のように明るく、顔は遠隔地の灼熱の太陽にさらされたかのように真っ黒に日焼けしていた。やや卑屈な態度でアメロに挨拶をして、日の没する土地の彼方に孤立する、谷と山が連なる地方からシャタイルにやってきた山羊飼いだと名乗った。
「ああ、王よ、わたしは忘却の調べを知っております」男はそういった。「その調べを奏でさせていただきますが、お申し出の褒美を頂戴するつもりはありません。うまく王を愉しませることができましたなら、いずれわたしの望むものを頂戴いたします」
「ならば、やってみよ」アメロは笛吹きの大胆な言上にささやかな興味をおぼえていった。
真っ黒に日焼けした山羊飼いはすぐさま葦《あし》笛を口にあて、静かな谷間を流れるせせらぎや、わびしい丘の頂きを吹き抜ける風のような調べを奏ではじめた。葦笛の音色は、遠隔地の紫がかった七重の地平線の彼方にある、自由と安らぎと忘却を絶妙に語った。鉄の蹄《ひづめ》に踏みにじられることもなく、歳月が花弁を靴にした微風の柔らかな歩みとともに訪れる場所について、耳に快く歌いあげた。その世界に浸りこむと、浮世の騒動や悩みが計り知れない沈黙のなかに失われ、国務がことごとく薊《あざみ》の冠毛のように吹き飛ばされた。そこではわびしい高地で群の世話をしている山羊飼いが、君主の権力よりも快い安らかさを具えていた。
葦笛の音色を聞いているうちに、アメロの心に魔法が忍び寄った。王としての心労や困惑が、黄泉《よみ》の国のレーテー河にでも浮かぶ夢のあぶくのように消えた。アメロの目のまえに、音楽に喚起されて、太陽に明るく照らされる新緑と静けさに包まれた魅惑の谷間があらわれた。そしてアメロ自身が山羊飼いになって、草むす小道を歩いたり、静まり返った川の畔《ほとり》で、禿鷲のことも忘れて何時間も横たわったりした。
アメロは葦笛の低い調べが途絶えたこともほとんど知らなかった。しかし目のまえの情景が暗くなったことで、山羊飼いの安らぎを夢に見ていた者は、ふたたび心をかき乱す王になった。
「つづけよ」アメロは真っ黒に日焼けした笛吹きに叫んだ。「褒美に何がほしいかを申してみよ――笛を吹いてくれ」
山羊飼いの目が夕べの闇のなかの燠さながらに燃えあがった。「歳月が流れ去り、王国が瓦解するまで、褒美を求めはしません」山羊飼いが謎めかしていった。「しかしながら、もう一度笛を吹きましょう」
こうしてアメロ王はその午後を通して、安らぎと忘却の遙かな土地について語る、あの魔法の笛の調べに魅せられて過ごした。葦笛が吹かれるつど、魔法が強くかかっていくようだった。そして王であることが、ますます厭わしく思えるようになった。宮殿の壮麗さに重圧感をおぼえ、息が詰まりそうだった。もはやびっしりと宝石の鏤《ちりば》められた官服に堪えられず、山羊飼いの気ままな装いを気も狂わんばかりに妬ましく思った。
夕闇が迫るころ、アメロは身のまわりの世話をする者たちを退け、笛吹きと二人きりで話をした。
「おまえの国に案内《あない》してくれぬか」アメロはいった。「余も単なる牧夫として暮らせるやもしれぬ」
王は誰にも知られぬように平服をまとい、笛吹きをともなって、衛兵のいない裏門から宮殿を離れた。三日月を低くさげた角にする、形とて定かでない怪物のような夜が、都の外にうずくまっていたが、通りでは千々の篝火《かがりび》によって闇が追い払われていた。アメロと道案内は誰何《すいか》されることもなく外の闇に向かっていった。そして王は玉座を捨てたことを悔いはしなかったが、都には疫病の犠牲者を載せた棺架がひっきりなしに通り、飢饉で痩せこけた顔がアメロを裏切り者だと咎《とが》めるかのように闇のなかからあらわれた。アメロは気にしなかった。破壊や騒乱によって澱《よど》んだ時の流れの彼方にある、緑したたる静かな谷間の夢のほかには、まったく何も見えなかったからである。
こうして真っ黒に日焼けした笛吹きのあとにつづいて歩いていると、急に闇が垂れこめ、アメロは異様な不安と困惑をおぼえてよろめいた。通りの火影《ほかげ》が揺らめいて、速やかに闇のなかに消えてしまった。都のざわめきが途絶えて静まり返った。そして混乱した夢が転変するように、高い家屋が音もなく崩れて影のように消え、壊れた壁の上に星が輝いた。アメロは思考も感覚も混乱した。そして心のなかに荒廃の暗い冷気が入りこんだ。そしてアメロは、長く虚ろな歳月が経過して、貴《あて》やかな華麗さが失われることを知っていたような気がした。いまや歳月と腐朽の極みにいるように思った。夜が古びた廃墟から引き寄せるような、乾燥した黴臭さが鼻孔に嗅ぎとれ、かつて知っていながらぼんやりとしかおぼえていないもののように、誇るべき首都シャタイルもいまや砂漠と化しているような気がした。
「余をいずこに連れてきたのだ」アメロは笛吹きに叫んだ。
返事のかわりに、愚弄する雷鳴のような笑い声が聞こえた。山羊飼いの衣服に包まれた姿が薄闇のなかで大きく聳え、変化しながら膨れあがっていき、ついにはその輪郭が漆黒の甲冑に身を固めた巨大な戦士のものになった。アメロの心に不思議な記憶が殺到し、別の人生のことをぼんやり思いだしているような気がした……どのようにしてか、どこかでしばらくのあいだ、夢の山羊飼いとして満足して無頓着に暮らしていたことがあった……どのようにしてか、どこかで、不思議な明るい庭園に入り、血のように赤い果実を食べたことがあった……
そのとき地獄の稲妻のような閃光が照りつけ、何もかもを思いだして、地獄にそそりたつ境界の神のごとく、目のまえに聳える陰鬱な影のことを知った。足もとには、海に面する露台のひび割れた敷石があった。使者の頭上の星たちはカノープスに先駆ける星たちだが、カノープスそのものは魔物の肩に隠されていた。埃っぽい闇のどこかで、業病に冒された者たちが喉にかかる笑い声をあげたり、咳きこんだりしながら、かつてカリュズの王たちが住んでいた廃虚と化した宮殿を徘徊していた。消滅した王国を地獄の力で蘇らせる契約をするまえと、何もかもが同じだった。
燃えつきた棺架の灰や崩れた廃墟の破片をともなっているかのように、苦悩がクセートゥラの胸を締めつけた。知らぬ間に多様なやりかたで、魔物がクセートゥラを誘惑して敗北させたのである。あれらのことが夢だったのか、幻術だったのか、真実だったのか、クセートゥラにはしかとはわからなかった。一度起こったことなのか、何度も繰り返されたことなのかもわからなかった。結局は塵埃《じんあい》と死があるだけだった。そしてクセートゥラは二重に呪われ、失ったもののすべてを永遠に記憶に留めて悔やまなければならないのだった。
クセートゥラは使者に叫んだ。「余はタサイドンと結んだ契約に敗れた。余の魂を取って、永遠に燃えあがる玉座に高だかと座すタサイドンのもとにもっていけ。余は契約を守る」
「おまえの魂を取っていく必要はない」荒涼とした夜に去っていく嵐のように、不気味に轟く声で、使者が告げた。「ここに業病の者たちとともに留まるも、ポルノスと山羊たちのもとにもどるも、好きなようにするがよい。取るに足りぬことだ。いかなる場所においても、おまえの魂はいつもタサイドンの暗黒の帝国の一部であるからな」
[#改丁]
最後の象形文字
[#改ページ]
[#地付き]世界そのものは、とどのつまり、生き写しの文字になりはてる。
[#地から2字上げ]ゾティークの古い予言
占星術師のヌシャインは数多くの遠く隔《へだ》たった土地で、天をめぐる星を調べ、おのれがふるえる伎倆《ぎりょう》でもって、大勢の男や女や子供の天宮図をつくっていた。街から街へ、国から国へと渡り歩き、どんなところにもわずかしか留まらなかった。地元の行政官がありふれた詐欺師として追放することがよくあったし、そのほかの場所では、いずれ時が来れば、相談した者が予言の誤りを見いだして、ヌシャインを見限るからである。腹をすかせて、みすぼらしいなりをすることもあり、どこへ行ってもさして敬意を払われることはなかった。成りゆきまかせの運命に同行するのは、砂漠の街ズル=バ=サイルでつきまとうようになった貧弱な雑種の犬と、ヨロスできわめて安く買った口のきけない隻眼《せきがん》の黒人だけだった。ヌシャインは犬を犬の星にちなんでアンサラスと名づけ、黒人は闇を意味するモウズダと呼んだ。
長ながと遊歴をつづけているうちに、占星術師はクシュラクにいたり、その首都ウッマオスに滞在した。妖術師の怒りによって破壊されて久しい、同じ名の旧都の瓦礫の上に、この都は築かれたのである。ここでヌシャインはアンサラスおよびモウズダとともに、腐朽する住居の崩れかかった屋根裏部屋に寄宿して、街の煙霧に曇らされない夕方の星座の位置や動きを、下宿の屋根から観察するのを常とした。ときに主婦や売春婦、運搬人足や行商人やけちな商店主が、朽ちた階段を上ってヌシャインの部屋に来て、わずかばかりの金子《きんす》を払うこともあって、ヌシャインはぼろぼろになった占星術の本を助けに、甚《はなは》だ注意深く誕生時の天宮図をつくってやった。
よくあることだが、本を熱読したあと、天体の合や衝が意味することについて途方に暮れると、ヌシャインはアンサラスに問いかけ、疥癬《かいせん》にかかった犬の尻尾のさまざまな動きや、蚤《のみ》を探そうとする動作から、吉凶の判断を見いだすのだった。こうした占いの一部がうまく果たされて、ヌシャインはウッマオスで名声を得るようになった。かなり名の知れた占い師だと聞きつけた人びとが以前よりも数多く頻繁にやってきた。さらに魔術や占いのすべてを許すクシュラクの寛大な法のおかげで、ヌシャインは迫害を免れていた。
はじめてヌシャインの運命の暗黒星が幸運の星に屈したように思われた。この幸運と、それによって金子が財布を膨らませていくことに対して、ヌシャインはウェルガマに感謝した。ウェルガマはゾティーク大陸全土で最強の謎めいた鬼神とみなされ、天と地のすべてを支配すると考えられている。
夏のある夜、星たちが黒い空で燃える砂のように密集して輝いているとき、ヌシャインは下宿の屋根に上った。よくそうしているように、黒人のモウズダをともなっていた。モウズダは隻眼に驚くべき視力があって、占星術師の近視を補うのによく役立つのだった。うまくつくりあげられた身振りや手振りによって、口のきけない黒人は観察の結果をヌシャインに知らせることができた。
この夜、ヌシャインの誕生を支配する大犬座が東の地平線上にあった。占星術師はしげしげと見つめ、大犬座の形状に見慣れないものがあるような気がして、ぼんやりした目をしばたたいた。変化がどのようなものかを正確に知ったのは、モウズダがかなり興奮して、大犬座の後半身のすぐ近くにあらわれている、三つの新しい二等星にヌシャインの注意を向けさせたときのことだった。これらの驚くべき新星は、ヌシャインには三つの赤い滲《にじ》みにしか見えなかったが、小さな正三角形をつくっていた。ヌシャインとモウズダは前夜には見えなかったことに確信があった。
「ウェルガマにかけて、これは尋常ならざることだぞ」そういいきった占星術師は、驚きのあまり二の句が継げなかった。新星が天体の未来の解釈におよぼす未定の影響を計算しはじめ、もっぱら大犬座に支配されていた自分自身の運命が、星の影響力の法則にしたがって、これら三つの新星によって修正されることを直ちに知った。
しかしながら本や天宮図に目を向けもせず、これに併発する影響の特有の傾向や意味を判断することはできなかったが、吉凶のいずれになるにせよ、きわめて由々しいものだとわかった。他の兆しに目をこらすようにいってモウズダを残し、ヌシャインはすぐに屋根裏部屋におりた。新星の力について何人かの古代の占星術師の見解を照らしあわせたあと、おのれの天宮図を新たにつくりはじめた。かなり興奮して、胸を痛めながら夜を徹して作業をつづけ、ようやく計算が終わったのは、死体のような夜明けの灰色が蝋燭の黄色い光と混じりあうころだった。
変化した天体の解釈は一つだけのように思われた。大犬座と合をなして新星の三角形があらわれたことは、三つの要素の移行にかかわる、予想外の旅がまもなくはじまることをはっきりと告げていた。モウズダとアンサラスが同行することになる。そして三人の道案内がしかるべきときに次つぎにあらわれて、定められた目的地へとヌシャインを導く。ヌシャインの計算はそこまでのことを告げたが、それ以上は読みとれなかった。旅が幸運と破滅のいずれをもたらすのかはもちろん、行き先も目的も方角もわからなかった。
占星術師はこのどうにも奇妙で曖昧な占いにかなり悩まされた。旅が切迫しているという見こみを嬉しく思わなかった。軽がるしく信じやすい人びとのあいだで首尾よく地歩を固めはじめたばかりなので、ウッマオスを離れたくなかったからである。さらには、旅が妙に多様な性質を具え、結果が隠されていることで、強い不安が生じた。これらすべては何らかの隠微な作用、おそらくは不吉な災厄をほのめかしているように思えた。三つの要素を経て、三人の導きを要するというのは、確かにありふれた旅ではなかった。
それからは夜になると、ヌシャインとモウズダは、明るく輝く大犬座の背後の西のほうに移動した謎の新星を観察した。そしてヌシャインは自分の解釈に誤りが見つかることを願い、天宮図や本を睨んで長ながと首をひねりつづけた。しかし結局いつも同じ解釈にいたるのだった。
日を重ねるにつれて、ヌシャインは気に入らない謎めいた旅をなさねばならぬことで、ますます悩むようになった。ウッマオスではうまくいっており、この街を離れる理由など考えられなかった。いつもたらされるかを知らずに、暗澹《あんたん》たる秘密の招喚を待ちかまえる者のようだった。星に予言された三人の導きの最初の者が客にまぎれていきなりあらわれるのではないかと思い、常に訪問者の顔を不安げにしげしげと見つめた。
モウズダと犬のアンサラスは、もののいえない生き物の直観でもって、主人の尋常ならざる不安を感じとっていた。黒人と犬も主人と同様に不安をあらわにし、黒人は魔物めいた荒あらしい顰《しか》め面をする一方、犬は占星術師の卓の下でうずくまったり、半分毛のない尾を脚のあいだに入れて、落ちつきなく歩きまわったりした。このような振舞をヌシャインは凶兆とみなし、不安が強まるばかりだった。
ある夜、これで五十回目になるだろうが、ヌシャインはパビルスにさまざまな色のインクで書いた、おのれの天宮図をじっくり検討した。パビルスの何も記していない下の隅に、自分が書いたものではない奇妙な文字があるのを見たとき、かなりの驚きを感じた。それは瀝青《れきせい》の暗褐色で記された象形文字で、蝋引き布が足もとでゆるんでいる木乃伊《ミイラ》をあらわしているらしく、さらけだされた足は大股で歩いているように開いていた。そしてこの象形文字は、ゾティークでは黄道帯に含まれる、大犬座を示す記号のある区画に顔を向けていた。
象形文字を調べるうちに、ヌシャインの驚きはある種の恐怖になりかわった。前夜はパビルスの端に何もなかったことを知っていたからである。そしてその日は屋根裏部屋を離れたことが一度もなかった。モウズダが天宮図にふれるはずがない。それに黒人はろくに字が書けなかった。ヌシャインが使うインクのなかに、その象形文字の暗褐色に似たものはなく、象形文字は白いパビルスからやや盛りあがっているように見えた。
ヌシャインは説明のつかない不気味な幽霊に直面した者のような驚愕を感じた。不思議な外惑星の記号のように、ヌシャインの天宮図の黄道帯に侵入しようとしている、木乃伊の姿をしたこの文字を、人間の手が書いたはずがない。ここには三つの新星のあらわれのような、隠微な作用がほのめかされていた。何時間ものあいだ、ヌシャインは虚しく謎を解き明かそうとしたが、どの本にも光を投げかけてくれるものはなかった。これは占星術にまったく前例のないものであるようだった。
翌日は朝から夜まで、ウッマオスの特定の人びとのために、天が定めた運命の作図に忙しかった。いつもの骨の折れる気配りをして計算を終えるや、指が震えるにもかかわらず、おのれの天宮図をまた広げた。暗褐色の象形文字がもはや隅にはなく、いまや下方の区画の一つを歩む者のように位置して、なおも進みつづけようとしているかのごとく、大犬座のほうに顔を向けているのを知って、ヌシャインはうろたえるほどの恐怖に襲われた。
占星術師はそれからというもの、運命を決する不可解な前兆を見る者のように、畏怖の念と好奇心を燃えあがらせた。象形文字を睨みつけて考えこんでいるあいだ、侵入した文字に変化が起こることはなかったが、毎夜天宮図を取りだすつど、木乃伊が上方へと移動して、常に大犬座に近づいているのだった。
ある夜、木乃伊がついに大犬座の区画の境に立った。木乃伊の象形文字はなおも占星術師の占いの力を超える謎と脅威をたたえ、夜が終わって夜明けの灰色の光が射しそめるのを待っているようだった。やがてヌシャインは長ながと研究と徹夜をつづけたことで疲れはて、椅子に坐ったまま眠りこんだ。夢に悩まされることもなく眠りつづけた。モウズダはヌシャインを起こさないように用心したし、その日は屋根裏部屋に訪問者が来ることもなかった。そうして朝と昼と午後が過ぎゆき、ヌシャインはそれだけの時間がたっていることも知らなかった。
夕方にアンサラスが大きな声で悲しそうに吠えたことで、ヌシャインは目を覚まし、部屋の一番奥で吠えているように思った。混乱したまま目を開けようとするまえに、鼻を刺す香料と硝石の匂いを意識するようになった。そしてまだ眠気が抜けきらぬまま、モウズダが点した黄色い蝋燭の光に照らされ、上背のある木乃伊のような者がひっそりとかたわらにたたずんでいるのを見た。その者は頭も腕も体も瀝青色の蝋引き布に包まれていたが、腰から下はゆるんでいて、片方の萎《しな》びた褐色の足をまえに出し、歩いている者のような姿勢を取っていた。
ヌシャインは恐怖に襲われて鼓動が早まり、蝋引き布に包まれた者が死体と幽霊のいずれにせよ、おのれの天宮図に侵入して、区画を進みつづけた奇怪な象形文字に似ているような気がした。やがて蝋引き布で包みこまれた幽霊じみたものの顔から、不明瞭な声がした。「準備をせよ、ヌシャイン。我はおまえが星によって告げられた旅の最初の導きである」
占星術師の寝床の下で縮こまっているアンサラスが、なおも訪問者を恐れて吠えていた。モウズダが犬と一緒に身を隠そうとしていた。ヌシャインは死が差しせまっているような冷気を感じながらも、人生の浮沈を通して維持してきた、占星術師にふさわしい威厳をたたえ、椅子から立ちあがった。モウズダとアンサラスを隠れ場所から呼び出し、黒ぐろとした木乃伊のまえでたじろぐ黒人と犬に指図をした。
ヌシャインは宿命の仲間を背後にしたがえて訪問者に顔を向けた。「準備は調った」声をさして震わせることもなくいった。「しかし荷物をいくつかもっていきたい」
木乃伊が蝋引き布に包まれた頭を振った。「天宮図のほかには何ももっていかぬほうがよい。おまえが最後まで失わずにいるのは天宮図だけだからな」
ヌシャインはおのれの天宮図を置いてある卓にかがみこんだ。パビルスを巻こうとしたとき、木乃伊の象形文字が消えているのを知った。書きこまれた象形文字が黄道帯を斜めに移動したあと、いま目のまえにいる者として物質化したかのようだった。しかし天宮図の下の隅、大犬座の反対側には、鯉のような尾鰭《おひれ》と半人半猿の頭部を具えた、奇妙な男の人魚の象形文字が、海のように青いインクで書かれていた。そして人魚の背後には、小さな艀《はしけ》船の形をした黒い象形文字があった。
一瞬、ヌシャインの恐怖が驚きの念によって鎮まった。しかし天宮図を注意深く巻くと、それを右手にもった。
「ついてこい」導きが告げた。「おまえの時間は短く、ウェルガマの住まいを時ならぬ侵入から守る三つの要素を、通過しなければならないのだからな」
この言葉はある程度まで占星術師の占いを確かなものにした。しかしおそらくは旅の終わりに、ウェルガマと呼ばれた者の家に入らなければならないことがほのめかされたにせよ、この先おのれの運命がどうなるかという謎は、いささかも減じることがなかった。ウェルガマはあらゆる神々のなかで最も秘められた神だといわれることもあれば、最も謎めいた魔物だといわれることもある。ゾティークの全土にウェルガマに関する噂話や伝説があるが、この実体にほとんど全能の力がそえられている点を除けば、それらの内容は種々雑多で矛盾していた。ウェルガマの住居がどのようなものかを知る者もなく、幾千年ものあいだに入った者は数えきれないほどいるが、もどってきた者はひとりもいないと信じられている。
ヌシャインはしばしばウェルガマの名前を口にして、多くの者が謎に包まれた支配者の名をもちだしてするように、誓いを述べたり悪態をついたりしていた。それがいま、蝋引き布に包まれた唇からその名が告げられるや、凶まがしくも暗澹たる不安に心が満たされた。こうした不安を鎮めて、星たちの明白な意志に身をまかせようとした。そしてモウズダとアンサラスをしたがえて、木乃伊のあとにつづいた。木乃伊は蝋引き布を引きずりながらも、歩行が妨《さまた》げられることはないようだった。
本や紙が散らかった卓を名残惜しそうに振り返ると、ヌシャインは屋根裏部屋から出て階段をくだった。やや青白い光が木乃伊を包む蝋引き布のまわりにあるようだが、そのほかに光はなく、下宿屋は妙に暗くて静まり返り、下宿人が死んだかいなくなったかのようだった。夜の都からは何も聞こえなかった。火影《ほかげ》に照らされる通りに面する窓の外には、押し寄せる闇が見えるだけだった。階段も変化したようで、下宿屋の中庭に通じてはおらず、曲がりくねりながら長ながとつづき、狭苦しい地下室や悪臭の漂う硝石のこびりついた陰気な廊下からなる、思いもよらぬ領域へと入りこんでいった。
ここでは空気が死臭をはらみ、ヌシャインの心は沈んだ。闇が垂れこめる死体安置所といい、奥行きのある納骨棚といい、いたるところに無数の死体が感じられた。蝋引き布がこすれるわびしい音、長く硬直した死体の吐く息、唇のない歯の鳴る乾いた音、そういったものがかたわらから聞こえるように思いながら歩きつづけた。しかし闇に視野がさえぎられ、故郷にもどったかのようにすたすた歩く導きの輝く姿のほかには、まったく何も見えなかった。
あらゆる時代の死体や腐敗したものを収める、果てしない地下納骨所を歩いているように思えた。背後からモウズダの足を引きずる音や、ときおりはアンサラスの脅えた低い鳴き声が聞こえるので、どちらも忠実にしたがっているのがわかった。しかし命取りになりかねない瘴気の冷たさとともに、まわりのものの恐ろしさがつのりゆき、ヌシャインはまえを進む蝋引き布に包まれたものや、深さの知れない闇のなかで朽ちている他のものに、生身の者ならではの嫌悪を抱いて怖気づいていた。
おのれを声で鼓舞しようという考えもあって、導きに質問をはじめたが、舌が麻痺したかのようによく動かなかった。「わたしをこの旅に呼んだのは、本当にウェルガマなのか。何のためにわたしを呼んだのだ。ウェルガマはどこに住んでいる」
「おまえの運命がおまえを呼んだのだ」木乃伊がいった。「最後に、定められたときに、目的がわかる。三番目の質問については、ウェルガマの住居が隠されている土地の名を告げても、どうにもならぬだろう。その土地は地上の地図にも天体の地図にも記載されてはおらぬからな」
これらの返答が曖昧で不安をかきたてるだけのもののように思え、地下納骨所に深く入りこんでいくヌシャインは、恐ろしい胸騒ぎがした。最初の段階でも、いままでのところ、死と腐敗の世界に導かれているのだから、旅の目的地は暗黒にちがいないと思った。自分を呼び出し、最初の導きとして死の装束をまとう萎びた木乃伊を送りこんだのは、定めて怪しい者にちがいない。
こうしたことを気も狂わんばかりに考えこんでいると、前方の地下納骨所の壁が不気味な光によって輪郭を浮かびあがらせ、ヌシャインが木乃伊のあとにつづいて部屋に入ると、巨大な石棺が一つあって、そのまわりにくすんだ銀の蝋燭受けがならび、長い瀝青の蝋燭が燃えていた。石棺に近づいていくと、黒い蓋と側面には銘刻も彫刻も象形文字もほどこされていないことがわかり、その大きさからして、巨人が横たわっているにちがいないと思われた。
木乃伊が立ち止ることなく、部屋を斜めに進んだ。しかしヌシャインはその向こうの部屋が闇に包まれているのを見て、どうしても進む気にはなれずにあとしざりした。星たちに旅を命じられていたが、生身の体ではそれ以上進めないように思った。突然の衝動に促され、石棺のまわりで静かに燃えている長さ一ヤードの重い瀝青の蝋燭を掴みとり、それを左手で掲げると、右手にはなおも天宮図をしっかり掴んだまま、モウズダとアンサラスとともに逃げ出し、蝋燭の光によって暗い通路を正しく引き返して、ウッマオスにもどれることを願った。
木乃伊が追ってくる足音は聞こえなかった。しかし逃げているあいだ、瀝青の蝋燭が激しく燃えあがり、闇が隠していた恐るべきものをあらわにした。人間の骨が恐ろしい怪物の骨とともに不快なまでに混沌と積みあげられていた。割れた石棺からいいようもないものの半ば腐敗した器官が突き出ていた。頭も手足もないものがあった。そしてまもなく地下納骨所の通路が次つぎに分岐しはじめ、ウッマオスにいたるのか未踏の深淵に通じるのかもわからないまま、成りゆきまかせで選ぶしかなかった。
やがて前方に醜悪な生物の眼窩《がんか》上隆起のない巨大な頭蓋骨があらわれ、地面から上目使いに見つめた。頭蓋骨の向こうには、怪物の黴《かび》の生えた骸骨があって、通路を塞いでいた。怪物の肋骨は狭くなっている壁にはさまれ、ここまで這ってきたものの、進むも退くもままならないまま、闇のなかで死んだかのようだった。魔物じみた顔をした、猿ほどの大きさの白い蜘蛛が、湾曲した骨の内側に巣を張っていた。ヌシャインが近づくと、白い蜘蛛がいつ果てるともなくぞろぞろと群がりだした。白い蜘蛛が忌わしくも蠢《うごめ》いたり、占星術師のまえの地面に落ちたりすることで、骸骨が身じろいだり震えたりするように見えた。背後には他の蜘蛛がおびただしく群がって、骸骨のいたるところでひしめいた。ヌシャインは仲間とともに逃げ出し、通路の分岐まで走ってもどると、別の通路を進みだした。
魔物じみた蜘蛛は追ってこなかった。しかし蜘蛛や木乃伊に追いつかれることのないよう、足を早めて進んでいると、まもなく前方に壁から壁まで広がる穴があらわれ、人間にはとびこしようもなく、立ち止るしかなかった。犬のアンサラスが穴から立ち上る特異な臭いを嗅いで、狂ったように吠えたてながらあとしざりした。ヌシャインは穴の上に蝋燭を掲げ、かなり下にねっとりした黒い液体があって、円い波紋が光って広がっていくのを目にした。血のように赤い染みが二つ、中央をジグザグに泳いでいるようだった。そして魔道士の炎に熱せられる大釜が立てるような、しゅうしゅういう音が聞こえ、黒い液体が沸騰して、凶まがしくも速やかに穴を上ってくるように思えた。赤い染みは近づいてくるにつれ、二つの輝く目になって、悪意もあらわにヌシャインの目を見つめた……
それでヌシャインはあわてて踵《きびす》を返したが、通路の分岐にもどると、木乃伊が待っていた。
「ヌシャインよ、おまえはおのれの天宮図を疑っておるようだな」導きがかなりの皮肉をこめていった。「しかしながら愚かな占星術師もときには天を正しく読みとることがあるものだ。ならば、したがうがよい。星たちがおまえの旅を定めておるのだから」
ヌシャインは木乃伊のあとにおとなしくしたがった。巨大な石棺のある部屋にもどると、盗みとった蝋燭をもとにもどすように命じられた。木乃伊の蝋引き布の燐光のほかには光がないまま、その部屋の奥に広がる納骨堂の悪臭漂う闇のなかを進んでいった。鈍い夜明けの光が闇に射し入る洞窟を抜けると、ついに薄日の射す空の下に出て、霧と雲と波しぶきのなかで激しく騒ぐ海に面するところにいるのがわかった。強い大気と光に辟易《へきえき》するかのように、木乃伊が地下の洞窟にもどって告げた。
「我の支配地はここで終わる。おまえはここに残って、次の導きを待て」
ヌシャインが鼻を刺す潮気のある大気を嗅いで、髪や衣服を強風になぶられながら立っていると、大きな金属音が聞こえ、洞窟の入口の錆びついた青銅の扉が閉まるのが見えた。浜辺は左右に険しく伸びる登攀《とうはん》不可能な断崖にさえぎられていた。占星術師は待つほかなかった。ほどなく砕けた波のなかから、半人半猿の頭部を具えた、海のように青い男の人魚があらわれた。人魚の背後には、櫂《かい》や舵を操る者のいない小さな黒い艀船が浮かんでいた。ヌシャインはこれを見て、おのれの天宮図の隅にあらわれた海の生物と船の象形文字を思いだし、パビルスを広げ、文字が二つとも消えてしまったことを知って驚いた。木乃伊の象形文字のように、二つの文字が十二宮のすべてをめぐり、自分の運命を司る天宮に達したことを疑わなかった。おそらくそのようにして物質化するのだろう。しかし消えた象形文字にかわって、いまや炎の色をしたサラマンドラが大犬座の反対側にあらわれていた。
人魚が口を開けて笑い、鮫のような鋸歯《きょし》状の白い歯を見せて手招きした。ヌシャインは進みでると、人魚の仕草にしたがって艀船に乗りこんだ。モウズダとアンサラスも主人にしたがって乗りこんだ。人魚が荒れる波のなかを泳ぎだすと、艀船が魔法によって櫂や舵が操られているかのようにすぐに動きはじめ、波や風に逆らってなめらかに進み、ぼんやりした名もない海をまっすぐ引かれていった。
押し寄せる波や霧に見え隠れして、人魚が着実に泳ぎつづけているのが見えた。時間と空間がその航海のあいだ超克されたにちがいない。ヌシャインは人間としての存在を超越したかのように、餓えも渇きも感じなかった。しかし不思議な迷いと恐ろしい疎外の海を、魂がさまよっているように思えた。そして闇の地下納骨所を恐れたように、まわりの霧に包まれた混沌が恐ろしかった。目的地について何度も人魚にたずねようとしたが、返事はなかった。そしてどことも知れない岸から吹く風と、未知の深淵に流れていく潮は、畏怖と恐怖の囁きにみなぎっているようだった。
ヌシャインは旅の謎について考えこみ、気も狂わんばかりになった。死の世界を通過したあと、いまやまだ創造されていないものの灰色の中間地帯を横断しているのではないかと思った。そのように考えると、旅の第三段階について思いをめぐらす気にはなれなかった。目的地の性質について考える勇気もなかった。
やがて突如として霧が割れて、高く昇った太陽が金色の光を降りそそいだ。進みゆく艀船の風下側の近くに、高く聳《そび》える島があらわれ、青あおとした木々や、貝殻の形をした華奢《きゃしゃ》な円蓋や、花の咲く庭園が、遙か高くで真昼のまばゆい光に包まれていた。海が眠たげな波紋をつくって、嵐の怒りのようなものを知らない、草の茂る低い浜辺に寄せていた。果実を結ぶ蔓や満開の花が海の上に垂れていた。忘却と微睡《まどろみ》の魅力が島から発散して、そこに上陸した者は誰であれ、太陽に明るく照らされる夢のなかに永遠に留まれそうだった。ヌシャインは緑の木陰のある避難所に憧れた。霧に包まれた海の恐ろしい虚無にこれ以上入りこみたくなかった。そして憧憬と恐怖の板挟みになり、星たちによって定められた運命の条件を忘れはてた。
艀船は停まることも揺れることもないまま、なおもその島に近づいていた。ヌシャインは介在する海が澄んで浅くなっていくのを見て、背の高い者なら浜辺までたやすく水中を歩いていけそうだと思った。天宮図を高く掲げて海にとびこみ、島に向かって歩きはじめた。モウズダとアンサラスもあとにつづき、ヌシャインのそばで泳いだ。
濡れた長いローブがいささか妨げになったが、ヌシャインはその魅惑的な島に行きつけると思った。人魚が阻もうとする動きはなかった。海の深さは腋《わき》の下から腰のあいだくらいだったが、やがて腰帯あたりにさがり、ついには踝《くるぶし》が濡れるだけになった。島の蔓や花が芳《かぐわ》しくまわりに垂れていた。
魅惑の浜辺まであと一歩のところに来たとき、しゅうしゅういう音が聞こえ、蔓や枝や花や草にまで、おびただしい蛇が巻きついたり絡みあったりして、恐ろしく興奮して身をくねらせているのが見えた。高い島のいたるところから蛇の立てる音が聞こえ、不快にも斑《まだら》のある蛇があらゆるところでとぐろを巻いたり、這ったり、ずるずるすべったりしていた。島の表面には蛇に汚されていない箇所はなく、足の踏み場もないほどだった。
うんざりして海のほうを見れば、人魚と艀船が近くで待っていた。落胆して仲間とともに艀船にもどると、魔法によって動かされる船が進みだした。そして人魚がはじめて話しかけ、かなりはっきりした耳ざわりな声で肩ごしに告げたが、皮肉がこもっていないわけではなかった。「ああ、ヌシャインよ、おまえはおのれの占いを信じてはいないようだな。しかしながら占星術師のなかで最も哀れな者でさえ、ときには天宮図を正しくつくることもあるものだ。ならば、星たちが記したことにさからうのをやめよ」
艀船は進みつづけ、霧が濃く垂れこめて、真昼の明るさに包まれていた島が見えなくなった。茫漠とした時間が過ぎた後、霧に包まれた太陽が生まれたばかりの海と雲の背後に沈み、原初の夜のような闇がいたるところに広がった。まもなく雲の切れ目に不思議な空が見え、星座も惑星もヌシャインの知らないものだった。そしてヌシャインは窮極の遺棄の暗澹たる恐怖に襲われた。やがて霧と雲がもどって、未知の空を隠した。ヌシャインに見えるのは人魚だけで、泳ぐ人魚のまわりには常に青白い燐光があった。
なおも艀船は進みつづけた。やがて霧の背後に、赤い夜明けがあらわれたようで、赤みが強くなったり弱くなったりした。艀船は広がりゆく光のなかに入り、ふたたび太陽を目にすることになると思っていたヌシャインは、不思議な岸を見て目がくらんだ。炎が途切れることのない高い壁のように燃えあがり、むきだしの砂や岩を絶えず喰らっているようだった。炎は打ち砕ける波のように唸りをあげて高くあがり、多数の溶鉱炉が発するような熱が、かなり離れた海にいても感じられた。艀船は速やかに岸に近づいていき、人魚が下品な仕草で別れを告げ、海に潜って姿を消した。
ヌシャインは炎を見ることも熱に堪えることもできそうになかった。しかし艀船が陸地の狭い突端に達すると、赤い炎の壁から燃えあがるサラマンドラがあらわれ、その姿と色は天宮図に最後にあらわれた象形文字と同じだった。そしてヌシャインは、これが三段階ある旅の三番目の導きであることを知って、ものもいえないほど仰天した。
「ついてこい」松明《たいまつ》用の薪束がはじけるような声で、サラマンドラが告げた。ヌシャインは艀船から竈《かまど》のように熱い浜におりた。背後では、見るからにしぶしぶといった感じで、モウズダとアンサラスが主人にしたがっていた。しかしヌシャインはサラマンドラの背後の炎に近づいて、その熱気に半ば気を失いかけ、生身の体の弱さに圧倒された。またしても運命から逃れようとして、炎と海のあいだの狭い浜辺を走った。しかし数歩進んだだけで、炎を激しく燃えあがらせるサラマンドラに追いこされ、進路を阻まれた。サラマンドラがドラゴンのような尾を恐ろしげに振りまわし、火花をまきちらして、ヌシャインを炎のほうに進ませた。ヌシャインはサラマンドラに立ち向かうことなどできなかった。炎に入るとき、紙のように燃えつきるのだと思った。しかし炎の壁に戸口めいたものがあらわれ、炎が拱廊《きょうろう》のようになって、ヌシャインは仲間とともにサラマンドラにつきそわれ、あらゆるものが低く垂れこめる煙と蒸気に隠された灰色の土地に入った。サラマンドラが皮肉をこめて告げた。「ああ、ヌシャインよ、おまえは天宮図の星たちを誤って解釈したのではないぞ。いまやおまえの旅が目的地に近づき、おまえはもはや導きを必要とはしておらぬ」サラマンドラはそう告げると立ち去って、煙の多い空気中で消える炎のように姿を消した。
ヌシャインは肚《はら》がすわらないまま立ちつくし、さまざまに方向をかえる蒸気のなかを上っていく、前方の白い階段を見つめた。背後では、炎が途切れることなく燃えあがり、左右のどちらにも高い城壁のように広がって、煙が刻一刻と魔物の姿や顔をつくりだして威嚇した。ヌシャインが階段を上りはじめると、魔道士の使い魔のように恐ろしい魔物じみた煙が、ヌシャインの下やまわりに群がって、ヌシャインの歩調に合わせてついてくるので、立ち止るも引き返すもままならなかった。煙の多い朦朧《もうろう》としたところを上りつづけていると、高さも大きさも推測すらできないほどに巨大に聳える、灰色の石造りの館の開け放たれた戸口が、いきなり目のまえにあらわれた。
煙のものどもに追い立てられ、ヌシャインはしぶしぶながら仲間とともに戸口に入りこんだ。館のなかには法螺《ほら》貝のように曲がりくねった長い無人の廊下があった。窓もランプもなかったが、銀色の明るい太陽がいくつも大気中に溶けて、光を散乱しているようだった。占星術師はあとを追ってくる恐ろしい亡霊どもから逃げて、曲がりくねった廊下を進みつづけていくうちに、宇宙そのものが閉じこめられている奥の部屋に入りこんだ。部屋の中央には、全身をすっぽり覆った巨大な人影が、身じろぎもせずに無言で大理石の椅子に坐っていた。そのまえの卓のようなものの上に、大きな書物が開かれていた。
ヌシャインは高位の魔物や神に近づく者のような畏怖に打たれた。亡霊どもが消えたことを知って、戸口でしばしたたずんだ。世界と世界のあいだに横たわる虚無の隔たりのような、あまりの弘大さに目がくらみそうになったからである。引きあげたかったが、頭巾をかぶった者が声を発し、ヌシャインの内心の声のように穏やかに告げた。
「余はウェルガマであり、またの名を運命という。おまえも人が隠れた支配者の名を呼ぶように、何も知らぬままウェルガマの名を何気なく呼んでいたな。余、ウェルガマがおまえにさせた旅は、あらゆる者がいつかは何らかの形でなさねばならぬものなのだ。ヌシャインよ、近くに寄って、余の本を少し読んでみよ」
見えない手に引き寄せられたように、占星術師は卓に進んだ。そしてかがみこみ、書物がまんなかあたりで開かれて、人間、神、魚、鳥、怪物、動物、星座といった、数多くのものの印がさまざまな色のインクでびっしり書きこまれているのを見た。他の書きこみをするための空白が残されていて、右のページの最後の欄の末尾には、最近大犬座の近くにあらわれたような、正三角形をつくる三つの星の象形文字があった。そのあとには、木乃伊、人魚、サラマンドラの象形文字がつづき、天宮図にあらわれては消えたものや、ヌシャインをウェルガマの館に案内した導きに酷似していた。
「余の本には」頭巾をかぶる者がいった。「万物の文字が記されて保存される。そもそも目に見えるものはすべて、余が記した象徴にすぎず、最後には余の本に記されたものとしてのみ存在するようになる。しばしのあいだ生まれでて、物質として知られるものをまとうのだ……ヌシャインよ、おまえの旅を予示した星を天に配し、三人の導きを送ったのは、余なのだぞ。そしてこれらのものは目的にかない、いまや以前と同じように本を飾る文字にすぎぬ」
ウェルガマが口をつぐむと、このうえもない寂寞《せきばく》が部屋にもどり、ヌシャインは計り知れない驚異に圧倒された。やがて頭巾をかぶる者が話をつづけた。
「人間たちのなかに、しばしのあいだ、ヌシャインという占星術師が、その運命にしたがう犬のアンサラスと黒人のモウズダとともにいた……しかしいまや余はまもなくページをめくらなければならぬが、そのまえに書きこみを仕上げる必要がある」
ヌシャインは部屋に風が起こって、不気味な溜息や吐息をつきながら軽やかに吹いたように思ったが、その風を肌に感じることはなかった。しかしそばで縮こまっているアンサラスの毛が風にそよぐのを見た。やがて死を招く魔術によって焼かれているかのように、アンサラスが縮んで萎びていくのを見て、驚きのあまり目を丸くした。アンサラスは熊鼠ほどの大きさになったあと、二十日鼠のように小さく、昆虫のように軽くなったが、まだもとの姿を保っていた。そのあと、小さなものは溜息をつく風に捕えられ、蚋《ぶよ》が飛ぶようにヌシャインのそばを飛んだ。それにつづいて、右のページの一番下のサラマンドラの象形文字の隣に、犬の象形文字が急にあらわれた。しかしこれを別にすれば、アンサラスはどこにも痕跡一つなかった。
ふたたび部屋に風が吹いて、占星術師にはふれることもなく、保護を求めるかのように主人のそばでうずくまっていた、モウズダのぼろぼろになった衣服をそよがせた。口のきけない黒人が縮んで萎び、甲虫の破れた黒い羽のかけらのように軽くて薄いものになり、風に運ばれていった。そしてヌシャインは隻眼の黒人の象形文字が犬の象形文字のあとに記されたのを目にしたが、それを除けば、モウズダのいた痕跡はどこにもなかった。
いまや自分に予定された運命をはっきりと察したヌシャインは、ウェルガマのまえから逃げ出そうとした。開かれた本に背を向け、占星術師の擦り切れたけばけばしいローブを細い脛に打ちあてながら、部屋の戸口に向かって走った。しかし走っているヌシャインの耳に、ウェルガマの声が小さく響いた。
「人は最後におのれを文字にかえる運命に、虚しく抵抗したり逃げ出したりする。ヌシャインよ、余の本にはひどい占星術師を入れる余地さえあるのだぞ」
またしても風が溜息をつき、走っているヌシャインに冷気が寄せた。ヌシャインは壁にぶつかったかのように、広い部屋で急に立ち止った。痩せ衰えたヌシャインに風がさっと吹きつけ、灰色になった髪や顎鬚をそよがせ、まだ手にしていたパビルスをそっと取りさった。ヌシャインはぼんやりした目で、部屋がぐるぐるまわって果てしなく大きくなっていくのを見ているように思った。もちあげられ、目がくらみそうな速やかな旋回でぐるぐるまわされ、宇宙の弘大さのなかで椅子に坐るものが高く聳えていくのを見た。やがて神が光のなかに消えた。ヌシャインは体重のない追放者、失われた葉の萎びた組織のようなものとして、輝く旋風にふわふわと運ばれていった。
ウェルガマの本において、右のページの最後の欄の末尾に、巻いた天宮図をもつ痩せこけた占星術師の象形文字があらわれた。
ウェルガマは椅子から上体を乗りだして、ページをめくった。
[#改丁]
ナートの降霊術
[#改ページ]
[#ここから5字下げ]
苦痛から永遠に分かたれる死の願い。
影を潜めた愛は何と朧《おぼろ》で快いことか。
陰鬱な海の彼方のナートにて、
死んだ恋人たちが幸福を証す。
[#ここから13字下げ]
ガレー船の奴隷の歌
[#ここで字下げ終わり]
ジュラとして知られる半砂漠地帯の遊牧民の王子ヤダルは、空中を浮遊する破れた蜘蛛の糸よりも捕えどころのない手がかりを求めて、多くの国を旅してまわった。ヤダルと部下たちがジュラの黒いガゼルを追っているすきをついて、砂漠の隼《はやぶさ》のように機敏で狡猾なシャ=カラグの奴隷商人が、部族の野営地から他の九人の娘とともに、許婚のダリリを略奪したために、月が十三回めぐるあいだ探しつづけているのだった。夜に荒らされた天幕にもどったとき、ヤダルの悲痛は激しく、怒りはさらに激しかった。そしてダリリが奴隷市場や売春宿や後宮にいようが、生死の別を問わず、明日になろうが髪に白いものが混じるほどの歳月を重ねようが、必ず見つけだすと誓いを立てたのである。
絨毯《じゅうたん》商人に身をやつし、四人の部下にも同じなりをさせ、市場の噂話だけを導きにして、ゾティーク大陸の首都から首都へとめぐった。部下がひとりまた一人と、不思議な熱病や旅の困苦によって死んでいった。空疎な噂話を追って久しく放浪をつづけた後、クシュラクの西の港町オロスにやってきたときには、ひとりきりになっていた。
その港町でダリリにかかわるものかもしれない噂話を耳にした。ダリリによく似た辺境の美しい娘がクシュラクの皇帝に買われ、遙か南の王国ヨロスの支配者に協定を結ぶ贈物として送られたことを、オロスの住民はなおも噂にしていたからである。
ヤダルは愛するダリリが見つかるという希望を抱き、ヨロスに向けて出帆する船に乗りこんだ。船は商人の小型のガレー船で、穀物や葡萄酒を積みこみ、陸地から遠く離れることはせず、ゾティークの曲がりくねった西の海岸に沿って行き来するのを常としていた。空が青く澄みきった夏の日に、安全で穏やかな航海の前兆を得て、船はオロスを離れた。しかし出港して三日目の朝に、間近の低い陸地から急に強風が吹いてきた。それとともに、空と海が暗くなり、濃密な雲によって夜のような闇が訪れた。船は遠くへ押し流され、激しい嵐によってやみくもに進みつづけた。
二日後に凄まじい風がおさまり、まもなくかすかに騒ぐだけになった。空が晴れ渡り、水平線から水平線まで明るい青空が広がった。しかし陸地の姿はどこにもなく、風もないのにまだ激しくうねる海があるばかりで、ガレー船が逆らって進めないほど、西に向かう潮の流れが速やかで強すぎた。そしてガレー船は嵐に押しやられるように、その不思議な流れになすすべもなく運ばれていった。
唯一の乗客であるヤダルはこれに甚《はなは》だ驚き、船長や船員の顔が恐怖に青ざめているのに気づいた。そしてふたたび海を見たとき、海がことのほか黒ずんで、刻一刻と黒さを増していく古い血のような色になっているのを知った。しかし頭上では太陽が翳《かげ》り一つなく輝いていた。そこでヤダルは、四十年にわたって航海している、ヨロス出身のアゴルという、顎鬚が灰色になった船長にたずね、船長はこう答えた。
「嵐のせいで西に運ばれたとき、こうなることを恐れていた。わしらは船員たちが黒い河と呼ぶ、あの恐ろしい海流に囚《とら》われたのだ。流れは太陽が沈むところへと激しくうねって突き進み、ついには世界の果てから流れ落ちてしまう。その最後の果てにいたるまで、降霊術師の島とも呼ばれる邪悪なナートの国のほかには島もない。その悪名高い島で座礁するのと、世界の果てから流れ落ちる水とともに虚空に投げだされるのとでは、どちらがひどいことなのかもわからん。どちらの場合も、わしらのような生きている者が帰還したことはないからな。それにナートの島は、そこに住む邪悪な降霊術師と、降霊術師の妖術によって蘇らされて支配される死者のほかには、島を離れる者もおらん。妖術師どもは黒い河を押し切って進む魔法の船で、自在に他の海岸に行くのだ。そして死者たちは降霊術の支配を受け、降霊術師の邪悪な仕事を果たすため、どこにつかわされようと、長いあいだ休みなく泳いでいく」
ヤダルは妖術師や降霊術のことをほとんど何も知らず、いささか信じられない思いがした。しかし黒ずんだ水が常に激しくうねって水平線のほうに流れていくのを見て、ガレー船が南に進路をかえられる希望とてないのだとわかった。ダリリが見つかることを夢に見ていた、ヨロスの王国にたどりつけないという思いに胸を痛めた。
その日は一日じゅう、風のない晴れ渡った空の下で、不気味に流れゆく黒い海に運ばれた。オレンジ色の日没が大きな星のひしめく夜にかわり、そしてついに琥珀《こはく》色の朝になった。しかしなおも流れが弱まることはなかった。茫乎たる海と空には島も雲もなかった。
ヤダルは海が黒くなった理由についてたずね、誰にもわからないことだといわれてからは、船長や船員とほとんど話をしなくなった。絶望に打ちひしがれたが、舷塙《げんしょう》に立って、遊牧民の生活から生まれた鋭い目で空と波をながめた。午後に近いころ、遙か彼方に弔《とむら》いの紫色の帆を張った船が、強い流れに逆らって着実に東に進んでいくのを見た。アゴルの注意をその船に向けさせると、アゴルは船乗りの悪態をついて、ナートの降霊術師たちの船だと告げた。
まもなく紫の帆が見えなくなったが、その少しあとで、ヤダルは人間の頭に似たものがガレー船の風下側の高波のなかを進んでいくのを見た。人間がこのように泳げるわけもないと思い、ナートから死者が泳いでいくとアゴルがいったことを思いだして、勇敢な者でさえ自然を超越したものをまえにして感じるような戦慄をおぼえた。そしてこのことは誰にも知らせなかった。船長も船員も人間の頭に似たものに気づいていないようだった。
なおもガレー船は進みつづけ、漕手は櫂《かい》を手にしたままぼんやりと坐り、船長は無人の舵のそばに物憂げに立っていた。
太陽が真っ黒な荒れる海に沈みだし、夜が近づいたころ、巨大な雷雲が西からあらわれ、最初は長ながと低く連なっていたが、すぐに急速に山のように空に上っていった。雷雲はますます高く聳《そび》え、積み重なった崖や暗澹《あんたん》たる恐ろしい波頭のような脅威を見せつけたが、その形は雲のようには変化しなかった。そしてヤダルは、長く輝く夕日に照らされているのが、遙か遠くに聳える島であると知った。その島から影が何リーグにもわたって投げかけられ、黒い水をさらに黒ずませ、夜が早ぼやと訪れたかのようだった。その影のなかで、隠れた暗礁《あんしょう》にあたる泡立つ波頭は、死体のむきだしの歯のように白かった。ヤダルは船員たちの甲高いおびえた叫びを聞くまでもなく、これが恐るべきナートの島だと知った。
牙のような岩のある岸にぶちあたり、流れが速くなって凄まじく荒れた。神々に祈る船員の声は波の轟きにかき消された。ヤダルは船首に立って、部族のよくは知らない運命の神に無言で祈っただけだった。ヤダルの目は海を飛ぶ鷹の目のように、聳える島をくまなく探り、むきだしの恐ろしげなごつごつした岩や、岩のあいだで海に向かって広がる森や、暗い流れで高くあがる白波を見た。
島は災いをはらんだ屍衣をまとっているようで、ヤダルの心は日の射さぬ海に投じられた測深の垂球のように沈んだ。ガレー船が流れに運ばれて島に近づいたとき、低い浜辺で大波が引いたところに黒ぐろと動いている人影が見えたが、すぐに泡と波しぶきに隠された。ふたたび人影を目にするまえに、ガレー船が水中に隠れていた暗礁に乗りあげて、船体が砕けて割れる凄まじい音がした。船首の先端と船底が破れ、つづくうねりで暗礁からもちあげられたあと、たちまち浸水して沈みだした。オロスから航海してきた者たちのうち、沈没するまえにとびだしたのはヤダルだけだったが、ろくに泳げないのですぐに沈み、あの恐ろしい海の大渦に呑みこまれそうだった。
ヤダルは感覚を失い、過ぎし年からもどった失われた太陽のように、脳裡にダリリの顔を見た。そしてダリリとともに、ダリリが奪い去られるまえの幸福な日々が明るい幻想のなかに訪れた。幻想が消え、口に海水の苦さを、耳に波の轟きを感じ、押し寄せる闇に包まれて、もがきながら目を覚ました。感覚が甦ると、すぐそばを泳いでいる者に気づき、水のなかで体が支えられているのを知った。
ヤダルは頭をあげて、自分を救ってくれた者の青白い首と、半ばそむけられた顔、そして波から波へとなびく長い黒髪を見た。そばにある体にふれて、女であることを知った。波に打ちのめされながらも、馴染み深い感じが身内に起こり、かつてどこかでこのような髪と同じような頬の曲線を具えた女を知っていたと思い、茫然として途方に暮れた。思いだそうとして、また女にさわり、素肌の不思議な冷たさを指に感じた。
女の力と技は驚異的なもので、恐ろしくうねる波を易やすと泳いでいた。ヤダルは女の片腕に抱かれて浮かび、大波の頂きから岸に近づいているのを見た。いかに有能な泳ぎ手であれ、荒あらしい波を生きて泳ぎ抜けるとは思えなかった。最後になって、最も高い岩に向かって投げだされるかのように、高く押し流されて目がくらんだが、何らかの魔法によって押しとどめられたかのように、波がゆっくりした物憂げな動きになった。そしてヤダルと女は引き潮から解放され、傷一つ負わずに棚状になった浜辺に横たわった。
女は何もいわず、ヤダルを見もせずに立ちあがった。そしてついてくるように合図すると、ナートに垂れこめた死のように青い薄暮のなかを進んでいった。ヤダルは身を起こして女のあとにつづき、海の轟きをしのいで詠唱する異様で不思議な声を聞き、夕闇のなかの少し先でさまざまな色の流木が不気味に燃えているのを見た。女は声と炎に向かってまっすぐ歩いた。そしてヤダルはぼんやりした黄昏《たそがれ》に目が慣れてくると、浜に聳える岩のあいだの亀裂の入口で炎が燃えているのを知った。炎の向こうには、不気味な姿勢を取る影のように、黒衣に身を包んで詠唱をあげる者たちがいた。
ガレー船の船長がナートの降霊術師とその行為について話したことが、いまや記憶に甦った。その詠唱の音そのものは、未知の言語でありながらも、心臓に向かう血の流れを止めて、骨の髄に墓所の冷気をもたらすかと思えるほどだった。そしてそのようなもののことはほとんど知らなかったが、唱えられる言葉が妖術の意味と力を具えているような気がした。
女がまえに進み、詠唱する者たちに奴隷のように頭を垂れた。三人いる男たちは休むことなく詠唱をつづけた。彼らは餓えた鷺《さぎ》のように痩せこけ、よく似た見かけで、背が高かった。落ちくぼんだ目は炎の赤い火花を照り返すことで見えるだけだった。詠唱を口にしながら、暗くなりゆく海と夕闇や距離によって隠されているものを睨みつけているようだった。ヤダルは彼らのまえにやってきて、死に捧げられた場所で強力な腐敗しきった邪悪なものに出くわしたかのように、吐き気がこみあげるほどの恐怖と嫌悪をおぼえた。
炎がめらめらと高くあがり、黄色の蛇の群のなかで青と緑の蛇がとぐろを巻いているように揺らめいた。そしてヤダルを黒い河から救った女の顔と胸に光が明るく揺らめき、ヤダルはまじまじと女を見つめて、女がほのかな記憶をかきたてた理由を知った。失った許婚のダリリにほかならなかったからである。
詠唱を唱える恐ろしげな男たちのことも忘れ、ヤダルは感きわまって喉を詰まらせながらダリリを呼び、愛する者を抱き締めようとしてとびだした。しかしダリリは応えず、ヤダルに抱き締められても、かすかに身を震わせただけだった。ヤダルは指に感じられ、ダリリの体から衣服を通して伝わる死の冷たさを知って、ひどくうろたえてとまどった。口づけをした唇は青白くて生気がなく、唇のあいだから息が出ることもなければ、自分にあたる青白い胸が上下することもないようだった。自分に向けられた大きな美しい目には、眠たげな虚ろさと、眠っている者が目覚めかけてすぐに眠りこんでしまうときのような認知があるだけだった。
「君は本当にダリリなのか」ヤダルはいった。するとダリリが抑揚のない不明瞭な声で眠そうにいった。「わたしはダリリよ」
神秘と孤独と胸の痛みに困惑しているヤダルにとって、これまでダリリを探して疲れはてながらめぐってきた、遙かな道のりよりもなお遠い国から告げられたかのようだった。ダリリに起こった変化を理解するのを恐れながら、ヤダルはやさしくいった。
「確かに君はわたしを知っているんだ。わたしは君の恋人のヤダル王子で、君を探してこの世の王国の半分をめぐり、君のために果てしない海に乗りだしたんだからね」するとダリリは強い麻薬に陶然としている者のように答え、理解することなくヤダルの言葉を繰り返しているかのようだった。「確かにわたしはあなたを知っているわ」ヤダルにとって、ダリリの返答に慰めはなかった。そしてヤダルの愛情深い言葉や質問をダリリが鸚鵡《おうむ》返しに口にすることによって、ヤダルの不安が和らぐわけもなかった。
ヤダルは三人の男が詠唱をやめていることも知らず、彼らがいることをさえ忘れはてていた。しかしダリリを抱き締めていると、三人が近づいてきて、そのひとりがヤダルの腕を掴んだ。そして男はヤダルの名を口にして挨拶し、いささかぎごちなくはあれ、ゾティークの多くの土地で使われる言語でいった。「わしらはそなたをナートの島に歓迎する」
ヤダルは恐ろしい疑惑を感じ、巌として問いただした。「あなたは何者ですか。どうしてダリリがここにいるんです。ダリリに何をしたんですか」
「わしはウァカルンという降霊術師だ」男がいった。「ほかの二人は息子のウォカルとウルドゥッラで、降霊術師でもある。わしらは岩の向こうの家に住み、溺死した者を妖術で海から呼び出して仕えさせている。この娘ダリリは、オロスからやってきた船の乗員とともに、わしらの召使になっている。そなたが乗ってきた船のように、遠くへ吹き流されて、黒い河に囚われ、最後にナートの暗礁で座礁したのだ。息子たちとわしは魔法円も五芒星形も必要としない強力な呪文を唱え、溺れた者たちを岸に呼び出した。こたびも他の船の乗員を呼び出したときのようにしたのだが、わしらの命令で死んだ泳ぎ手が生きたまま救い出したのは、そなたひとりだけだった」
ウァカルンが話を終えて、夕闇をまじまじと見つめた。ヤダルは背後に、浜辺の砂を踏みしだいてゆっくり歩いてくる足音を聞きつけた。振り返ると、くすんだ藍色の闇のなかから、ナートまでやってきたガレー船の老いた船長があらわれ、そのうしろに船員や漕手がいた。彼らは服や髪から雫《しずく》をぼたぼた落とし、口から涎《よだれ》を垂らしながら、夢中歩行者のような歩調で炎に近づいた。ひどい傷を負っている者もいれば、海で岩に打ちあてられて手足を負傷し、足を引きずったりよろめいたりしている者もいた。そして彼ら全員の顔に溺死者の表情があった。
彼らは自動人形のようにこわばった動きで、ウァカルンとその息子たちに深ぶかと頭を垂れ、深海から引きあげてくれた者たちに隷属することを認めた。どんよりした凝視する目には、ヤダルがいることをわかっている気配もなく、外界のものを何も意識していないようだった。そして降霊術師たちが口にする不可解な言葉を、ぼんやりと機械のように復唱するだけだった。
ヤダルにとっては、半ば意識のある暗澹たる虚ろな夢で、自分も生ける死者のようになっているかのようだった。降霊術師たちに導かれ、ほかの者たちをしたがえて、ヤダルはダリリとともに、ナートの高地へと曲がりくねってつづく暗い渓谷を進んだ。心のなかにはついにダリリを見つけたというささやかな喜びがあったが、その愛には悲しい絶望がともなっていた。
ウァカルンが焚火から抜いた流木の燃え木で道を照らした。まもなく激しくうねる海の上に、満月に近い月が昇り、漿液《しょうえき》混じりの血のように赤かった。そして月の光で死体のように青白く照らされて、一行が険しい岩間から岩の荒野に上がると、そこには三人の降霊術師の住居があった。
住居は黒っぽい花崗岩で造られ、密集する杉の葉叢《はむら》のなかにうずくまるようにして、低い翼《よく》が長く伸びていた。背後には崖が突き出し、月光に照らされる崖の上には斜面や尾根が幾重にも積み重なって、ナートの山の中心に向かって聳えていた。
住居は死に支配されているように思えた。出入口にも窓にも灯りはなく、青白い夜空の静けさを出迎えたのは沈黙だけだったからである。しかし降霊術師たちが戸口に近づき、ウァカルンが一語を発して、その声が遠くの廊下にまで響くと、それに応えるかのように、忽然といたるところでランプが輝き、住居が恐ろしげな黄色の目のような光にあふれ、たちまち人びとが頭を垂れる影のように戸口にあらわれた。しかし彼らの顔は墓所の死体のように青白く、緑色の腐敗の斑紋があったり、蛆《うじ》にひどく喰われた痕があったりした……
住居の大きな広間に入ると、ヤダルはウァカルンとウォカルとウルドゥッラだけが食事のあいだ坐る卓につくようにいわれた。卓は巨大な板石の上にあって、その下の広間ではおよそ四十人ほどの死者たちが他の卓についていた。そのなかにダリリもいて、ヤダルのほうに顔を向けることはなかった。ヤダルはダリリと離れたくなく、そばに行きたかったが、ひどい気だるさに囚われてしまい、無言の呪文によって手足の自由を奪われ、自分の意志では動けなくなったかのようだった。
ヤダルは薄気味悪い寡黙《かもく》な降霊術師たちとともにぼんやりと坐っていたが、彼らはいつも無言の死者たちとともに暮らしているので、死者たちの振舞には頓着しなかった。ヤダルは三人がよく似ていることを、以前にも増してまざまざと知った。というのも、三人は親と息子というよりも、同じ血を引く兄弟のように見えたからである。そして三人は年齢というものを超越した存在で、普通の人間のようには老いてもおらず若くもなかった。そしてヤダルは三人から発する、隠された死体の発散物のように強烈で忌わしい、不気味な邪悪さをますます強く意識するようになった。
隷属というものが重くのしかかることで、その不思議な夕食の給仕を見ても、ヤダルはほとんど驚きはしなかった。肉料理をもってきたのはさわることのできるものではなかったし、葡萄酒は空気そのものによるかのように注がれ、卓を行き来する者がいるのを告げるのは、足音らしきものが聞こえたり、ほのかな冷気がしたりすることだけだった。
死者たちはこわばった仕草や動きをして、無言で食事をはじめた。しかし降霊術師たちは料理を口にしようとはせず、何かを待っているような感じだった。やがてウァカルンが遊牧民の王子にいった。「今晩わしらとともに食事をする者がいるのだ」そしてヤダルはウァカルンの椅子のそばに無人の席が一つあるのに気づいた。
ほどなく奥の戸口からあわただしい足取りで、筋骨隆々として、ほとんど黒に近いほどの褐色の肌をした、裸形の男が入ってきた。蛮人めいた見かけで、目は怒りか恐怖によって膨れあがり、分厚い紫色の唇に泡を吹いていた。そして男の背後には、威嚇するように錆びついた大きな新月刀を掲げて、囚人を見張る看守のように二人の死んだ船員がいた。
「この男は人喰いだ」ウァカルンがいった。「わしらの召使がこういう蛮人の住む山の向こうの森で捕えた」そうつけくわえた。「生きたままこの館に呼ばれるのは、勇気のある強者だけなのだ……ああ、ヤダル王子よ、これといった目的もなく、そなたがそのような名誉のために選ばれたのではないぞ。このあとにつづくことをよく見ることだ」
蛮人が看守の武器よりも広間にいる者たちを恐れているかのように、戸口で立ちつくした。死体のひとりが錆びついた刃で蛮人の左肩を切り、深い切り傷から血が流れると、蛮人がそれに促されたように進みだした。脅えた動物のように急に身を震わせ、逃げ道を探そうとしてぎらつく目を左右に走らせた。少ししてまた促されると、台座に上って降霊術師たちの卓に近づいた。しかしウァカルンが虚ろに響く言葉を発すると、蛮人はなおも身を震わせながら、ウァカルンのそばにあって、ヤダルと向かい合う椅子に坐った。そして蛮人の背後には、恐ろしい看守が武器を高く掲げて待機したが、看守の顔つきは死んで二週間はたっているとわかるものだった。
「まだ客がいる」ウァカルンがいった。「あとから来るので、待つ必要はない」ウァカルンはそれだけいうと食事をはじめ、ヤダルはほとんど食欲もなかったが、おとなしく食事をした。皿に盛られている料理の味はほとんどわからず、葡萄酒が酸っぱいのか芳《かぐわ》しいのかもわからなかった。思いはダリリとまわりの異様な恐ろしさのあいだを揺れ動くばかりだった。料理を口にし、葡萄酒を飲んでいるうちに、不思議と感覚がとぎすまされていき、ランプのあいだを薄気味悪いものが動いているのがわかるようになり、冷ややかな歯擦音での囁きを耳にして血が止まりそうになった。そして死んだばかりのものから腐敗しきったものにいたるまで、死体の発するありとあらゆる息の臭いが嗅ぎとれた。
ウァカルンと息子たちはそのような環境で使役されて久しい者たちに頓着することなく、食事に専念していた。しかし人喰いの蛮人は、なおも恐怖もあらわな顔をして、食事に手をつけようともしなかった。負傷した両肩から、途切れることなく血が胸に流れ落ち、ぽたぽたと敷石に滴《したた》り落ちた。
やがて蛮人の言語で話したウァカルンに促され、蛮人が葡萄酒の杯を手に取った。この葡萄酒は他の者たちに出された罌粟《けし》のように赤いものとは異なり、茄子の花のように濃い菫《すみれ》色をしていた。蛮人はこの葡萄酒を口にするや、なすすべもなく体が麻痺した者のように、椅子に力なくもたれかかった。葡萄酒の残りをこぼす杯が、こわばった手になおも掴まれていた。何らの動きも手足の震えもなかった。目が大きく見開かれ、まだ意識があるかのように凝視していた。
ヤダルは恐ろしい疑惑をおぼえ、もはや降霊術師の料理や葡萄酒を口にすることができなかった。そして降霊術師たちが同じように食事をするのをやめて、体の向きをかえ、ウァカルンの背後に目を向け、卓と広間の奥の中間あたりの床をじっと見つめていることで、ヤダルは困惑してしまった。ヤダルは少し腰を浮かせ、卓の向こうをながめ、敷石の一つに小さな穴があるのを知った。その穴は小さな動物が塒《ねぐら》にしていそうなものだったが、堅固な石灰岩に穴を穿《うが》つような動物の性質については、推測もままならなかった。
ウァカルンが大きな澄んだ声で、呼び出したい者に呼びかけるかのように、ただ一語、「エスリト」と告げた。そのあとまもなく、二つの小さな火花が穴の闇にあらわれて、大きさと姿が鼬《いたち》に似ているものの、鼬よりも細長い体をしたものが穴から出てきた。生物の毛は黒っぽい錆色で、前脚は無毛の小さな手に似ており、明るい黄色の小さな目は魔物の悪意と邪悪な知恵をはらんでいるようだった。生物は毛に覆われた蛇を思わせるくねくねした動きで、蛮人の坐る椅子の下に速やかにやってくると、傷口から床に滴り落ちた血を貪欲に飲みはじめた。
やがて蛮人の膝にとびのり、深い切り傷のある左肩に登ったので、ヤダルは心臓が恐怖にわしづかみにされた。生物はまだ出血する傷に顔を寄せ、鼬のようなやりかたで吸った。血が蛮人の体に流れるのが止まった。蛮人は椅子に坐ったまま身じろぎもしなかったが、まだ見開かれた目にゆっくりと恐怖があらわれ、あげくには白目をむくようになった。口がぽっかりと開いて、鮫のような先の尖った大きなたくましい歯を見せた。
降霊術師たちが血に飢えた小さな動物に目を向けたまま、また食事をはじめた。ヤダルはこれがウァカルンのいっていた客なのだろうと思った。生物が本当の鼬なのか降霊術師の使い魔なのかもわからなかったが、人喰いの蛮人の窮状をまえにして、怒りが恐怖をしのいだ。そして旅のあいだ携えていた剣を抜き、いきなり立ちあがって怪物を殺そうとした。しかしウァカルンが人差し指で宙に特異な印をつくると、剣を振りおろそうとした手が途中で止まり、指の力が赤子の指のように弱くなり、剣が手から台座に落ちて大きな音を立てた。そのあとウァカルンの無言の意志によるかのように、またテーブルについて動けなくなった。
鼬じみた生物の渇きは満足することがないようだった。かなりの時間がたっても、蛮人の血を吸いつづけていたからである。刻一刻と蛮人のたくましい筋肉が不思議にも萎《しな》びていき、皺《しわ》の寄った皮膚の下に骨や腱がはっきり見えるようになった。顔は死人の顔のようで、手足は古い木乃伊《ミイラ》のように細くなった。しかし血を啜《すす》る生物は農家の家禽の血を吸っている白鼬のように大きくなっていた。
このことによって、ヤダルは生物がまさしく魔物であり、ウァカルンの使い魔にちがいないと知った。恐怖のあまり身動きもできないまま坐りこみ、生物を見つめていると、生物が人喰いの蛮人の干からびた皮と骨からとびおりて、身をくねらせながら敷石の穴にもどった。
降霊術師の館において、ヤダルの異様な生活がはじまった。最初の夕食のあいだに受けた束縛が常にのしかかり、感覚が麻痺する夢から覚めきらぬ者のように動いた。生ける死者の支配者たちに何らかのやりかたで意志を操られているようだった。しかしそれ以上に、ダリリに寄せる以前からの愛の魔力に支配されていた。しかしその愛もいまや絶望にかわっていた。
ウァカルンは陰気な皮肉をこめずにしゃべることがめったになく、息子たちは死人のように寡黙だったが、ヤダルは降霊術師とその生き方について少し学びとった。鼬じみた使い魔がエスリトという名前で、一定期間ウァカルンに仕え、満月になるたびに褒美として、このうえもない強さと雄々しさで選ばれた生きている人間の血を得るのである。奇跡はもちろん、降霊術をしのぐ魔術はないので、ヤダルは自分の寿命が月の巡行に限られていることがわかった。自分と降霊術師のほかには、館のなかには苦にがしい死の門を通り抜けていない者はいないからである……
館はどの住居からも遠く離れ、完全に孤立していた。他の降霊術師たちはナートの岸辺に住んでいたが、彼らとヤダルの主人たちに交流はなかった。そして島を分かつ荒寥《こうりょう》とした山の向こうには、食人族が住むだけで、彼らは松や杉の暗い森で戦いあっているのだった。
死者たちは館の背後の地下納骨所めいた深い洞窟に収容され、一晩じゅう石の棺に横たわって、毎日蘇っては主人に命じられた仕事をこなした。海の風のあたらない斜面にある岩の多い菜園を耕す者もいれば、石灰岩が角のように突き出す岬や荒涼とした環礁に激しく打ち寄せて、人間なら挑む勇気も出ない恐ろしく荒れた海に入って真珠を採る者もいた。ウァカルンは通常の寿命を超える歳月にわたって、そのような真珠を蓄えているのだった。そしてときには、黒い河に逆らって進む船で、ウァカルンか息子のひとりが一部の死者を船員にしてゾティークに向かい、ナートで魔術によって蘇生できないものと真珠を交換した。
ヤダルにとっては、航海の仲間が他の死体とともに歩き、ヤダルの挨拶に鸚鵡返しに返答するのを見るのは、いかさま不思議なことだった。ダリリを目にして話しかけ、忘却の底に沈みこんでもどってはこない、失われた熱烈な愛を虚しく甦らせようとするのは、苦にがしいことではあっても、悲しみに満ちた甘美さがないわけではなかった。そしていつも希望とてない熱望を胸に、降霊術師の島のまわりを永遠に激しく流れる潮流よりも恐ろしい深淵を越えて、ダリリに手を差し伸べているような気がした。
子供のころからジュラの湖で泳いでいたダリリは、真珠を採りに潜らされる者たちのひとりだった。ヤダルはよくダリリに同行して海岸に行き、ダリリが荒れる波からもどってくるのを待った。ときにはダリリのあとを追ってとびこみ、できることなら、死の安らぎを得たいという衝動に駆られることもあった。普段のヤダルならきっとそうしていただろうが、目下のありさまにひどく困惑して、妖術の暗澹たる網に囚われていることで、かつての力と決意がすっかりなくなっているようだった。
島に着いて一ト月になろうするある日の夕暮れ時に、ダリリが激しい潮流の遠くに潜っているあいだ、ヤダルが岩に囲まれた岸に立っていると、ウォカルとウルドゥッラが近づいてきた。二人は言葉を使わず、こそこそと手招きした。ヤダルは彼らの意図するところにぼんやりした好奇心をおぼえ、二人に導かれるまま浜辺を離れ、湾曲した海岸の上の岩と岩のあいだをゆるやかに曲がりくねってつづく危険な登り坂を進んだ。闇が垂れこめるまえに、三方が陸地に囲まれた小さな港に達した。ヤダルはいままでこんなものがあるとは思いもしなかった。島が黒い影を落とす群葉の下の穏やかな湾に、陰鬱な紫色の帆を張ったガレー船があって、黒い河の潮流に逆らって着実にゾティークのほうに向かうのを見たことがある船によく似ていた。
ヤダルは二人が自分を隠し港に連れてきた理由も、不思議な船を指差す仕草の意味も測りかね、途方に暮れてしまった。すると、この隔絶した場所で立ち聞きされるのを恐れているかのように、ウォカルが押し殺した小さな声で告げた。
「弟とおれがある計画を実行するのを助けてくれたら、おまえにあのガレー船を使わせて、ナートから出港させてやる。もしもダリリや、漕手として死んだ船員を連れていきたいなら、そうさせてやろう。おれたちがおまえのために魔法で起こす強い風を受ければ、黒い河に逆らってゾティークにもどれる……しかしおれたちを助けないなら、血が一滴たりとも残らなくなるまで、鼬のエスリトにおまえの血を吸わせるぞ。ダリリはウァカルンの奴隷のままで、昼間は暗い海のなかでウァカルンの貪欲のために働き、おそらく夜はウァカルンの情欲を満たすだろうな」
ウォカルの約束を耳にするや、ヤダルは希望と雄々しさが甦るのを感じ、ウァカルンの悪辣な妖術が心から消えるような気がした。そしてウォカルがほのめかしたことによって、ウァカルンに対する激しい怒りが目覚めた。ヤダルはすぐにいった。「あなたがたの計画がどのようなものであれ、わたしにできることなら手伝うぞ」
すると、こわごわといった感じでまわりや背後を何度も見渡したあと、ウルドゥッラが声をひそめていった。
「おれたちはウァカルンが定められた寿命を超えて生きつづけ、あまりにも長いあいだおれたちに権威をふるっていると思ったのだ。おれたち息子も老いていく。年老いて愉しめなくなるまえに、蓄えられた財宝と父の魔術の支配権を、おれたちが受け継いでも悪くはあるまい。だからおれたちが父を殺すのを手伝ってくれ」
ヤダルはしばし考えこみ、降霊術師を殺すことはあらゆる点において正しいことであり、男としての雄々しさをいささかも損なうものではないと思った。それで躊躇《ちゅうちょ》することなくいった。「この企てに手を貸そう」
ヤダルが同意したことに大いに力づけられて、今度はウォカルがいった。「明日の夜には黒い河からナートに満月が昇り、鼬の姿をした魔物のエスリトが穴から出てくるので、そのまえに果たさなければならない。明日の正午前が部屋にいるウァカルンの不意を突く唯一の機会だ。ウァカルンは夜明けから正午までのあいだ、外洋の光景や海を進む船やその彼方の土地を映す魔法の鏡を夢中になってながめているからな。おれたちは鏡のまえにいるウァカルンが気づくまえに、速やかに確実に殺さなければならない」
決行の時間になると、ウォカルとウルドゥッラが外の廊下で待っているヤダルのところにやってきた。兄弟はそれぞれ右手に冷ややかに輝く長い新月刀を握っていた。ウォカルは左手にも同じような武器をもち、それをヤダルに差しだして、これらの新月刀は死を招く呪文を唱えて強化したあと、口にはできない死の呪文を刻みつけてあると説明した。ヤダルは自分の剣を使いたく、魔法の武器を固辞した。三人はぐずぐずせずに、できるだけ足音をしのばせてウァカルンの部屋に急いだ。
死者は全員が作業に出ているので、館は無人だった。ウァカルンに仕えてさまざまな仕事をする、風の霊や単なる亡霊といった、不可視の存在の溜息も影もなかった。三人はひっそりと部屋の戸口に達した。入口を塞いでいるのは、黒いアラス織りの掛け布だけで、銀で夜の星座が織りこまれ、真紅の糸で大魔王タサイドンの五つの名前が縁に繰り返し刺繍されていた。兄弟はアラス織りの掛け布をあげるのを恐れているかのように立ちつくしたが、ヤダルはためらいもせず、掛け布を引きはらって部屋にとびこんだ。兄弟が臆病であったことを恥じるかのようにあとにつづいた。
高い穹窿《きゅうりゅう》天井のある広い部屋で、伸びるにまかせた杉ごしに海を望む一つの窓から、ぼんやりした光が射し入っているだけだった。そのほのかな光を補う多数のランプに火は点されていなかった。影が実体のない液体のように部屋にあふれ、その影のなかで魔術に使う器や大きな吊り香炉や蒸留器や火鉢が、生きているもののごとく揺れているように見えた。部屋の中央の少し先で、ウァカルンが戸口に背を向け、魔法の鏡のまえにある黒檀《こくたん》の三脚台に坐りこんでいた。魔法の鏡は巨大な三角形の琥珀金から造られたもので、曲がりくねった銅の腕で斜めに高く支えられていた。鏡は影のなかで明るく燃えあがり、未知の光源の輝きによるかのようだった。三人は進みでたとき、その輝きを見て目がくらんだ。
ウァカルンはいつもの恍惚状態にあるようで、座した木乃伊のごとく微動もせずに鏡を覗きこんでいた。兄弟がためらうなか、ヤダルは二人がすぐうしろにいると思い、剣を振りあげながら降霊術師に忍び寄った。間近に迫ったとき、ウァカルンが膝に大きな新月刀を置いているのを知った。ヤダルは降霊術師がまえもって警告を受けていたのだろうと思い、素早く背後に立つと、首を狙って剣をかまえた。しかしそうしたときでさえ、ウァカルンの肩ごしに太陽が鏡の奥からまばゆい光を発しているかのように、鏡の不思議な明るさに目がくらんだ。そして剣が振られ、鎖骨を斜めに切りつけたので、降霊術師は重傷を負ったとはいえ、首を刎《は》ねられるのは免れた。
どうやらウァカルンは暗殺をあらかじめ知って、襲撃者が来たときに戦うつもりでいたようだった。しかし空とぼけて無言で鏡のまえに坐っているうちに、意志に反して異様な輝きに圧倒され、予言を得る眠りに落ちこんだのである。
負傷した虎のごとく獰猛《どうもう》かつ速やかに、ウァカルンが三脚台からとびだして、新月刀を高く振りあげながらヤダルに対峙した。王子はなおも目がくらみ、ふたたび攻撃することも、ウァカルンの攻撃をかわすこともできなかった。新月刀で右肩を深く切り裂かれ、ヤダルは深傷を負って倒れこみ、鏡を支える蛇めいたものの腕の基部に頭をあずける恰好になった。
ヤダルは横たわってゆっくり生気が失われてゆくなか、ウォカルが差し迫った死を知って自暴自棄になった者のようにとびだし、ウァカルンの首に力強く切りつけるのを見た。頭がほとんど胴体から切り離され、肉と皮だけでぶらさがった。しかしウァカルンはふらつきながらも、普通の人間ならそうなるように、すぐに倒れたり死んだりはせず、魔道士の力でもってなおも生きつづけ、部屋を逃げまわりながらも、父親殺しの息子たちに激しく新月刀をふるった。逃げるウァカルンの首からは噴水のように血がほとばしり、頭が恐ろしい振子のように胸で揺れていた。もはや刀をふるう相手を見ることもできないので、ウァカルンはやみくもに刀を振りまわし、息子たちが機敏にかわして切りつけることが多かった。ウァカルンが倒れたヤダルにつまずくこともあれば、琥珀金の鏡に新月刀を叩きつけ、鐘のような大きな音を立てることもあった。死にかけたヤダルの視界からそれて、海を望む窓のほうに近づいていったあと、魔道士の打撃によって魔力のある家具が砕かれたかのような妙な音が聞こえた。ウァカルンの息子たちは激しい息づかいをしていて、なおも父を追って切りつける鈍い音が聞こえた。そしてほどなく戦いがまたヤダルのまえでおこなわれ、ヤダルはかすむ目でながめた。
いいようもなく凄惨な戦いだった。ウォカルとウルドゥッラは目的地に達するまえに消耗しきった使者のようにあえいでいた。しかししばらくすると、血を流しつづけることで、ウァカルンが力を失いつつあるようだった。逃げながらも左右によろめき、立ち止ることもあって、打撃も弱くなった。息子たちに切りつけられて、衣服が血にまみれた襤褸《ぼろ》になり、一部の器官は半ば切り裂かれ、全身が死刑執行人の台でめった切りにされたようになっていた。ついにウォカルが巧みに刀をふるい、頭をなおも繋いでいた薄い皮を断ち切った。頭が落ちて、何度も跳ねながら床を転がった。
ウァカルンの体はまだ直立したがっているかのように、激しくよろめいたあと、まえに倒れこんで、首を刎ねられた大きな家禽のようにばたつき、絶え間なく身を起こそうとしては倒れこむといった動作をつづけた。しかしいくら身を起こそうとしても、ついに立ちあがることはできなかったが、新月刀はまだしっかり右手に握り締められていて、やみくもに振りまわし、床から横ざまに振ったり、半ば身を起こして振りおろしたりした。頭はなおも止まることなく部屋を転がりつづけ、幼児のような甲高い声で呪いの言葉を発した。
ヤダルはこれを聞いたウォカルとウルドゥッラが肝をつぶしたかのようにあとしざりするのを見た。二人は戸口に顔を向け、部屋から逃げ出すつもりでいるようだった。しかし最初にとびだそうとしたウォカルがアラス織りの掛け布をあげるまえに、掛け布の下から、鼬じみた使い魔のエスリトが長くて黒い蛇のような体ですべりこんできた。そして使い魔は宙にとびあがり、ひととびでウォカルの喉に達した。ウォカルはよろめきながら部屋を歩きまわり、逆上して掴みとろうとしたが、どうにもならなかった。使い魔は歯を肉に食いこませてしがみつき、着実に血を啜った。
ウルドゥッラが何とか使い魔を殺そうと思ったらしく、じっと立っているようにウォカルに命じると、エスリトに切りつける機会をうかがっているかのように新月刀を振りあげた。しかしウォカルは聞こえなかったか、狂乱するあまり命令にしたがうこともできないようだった。そのとき、転がっていたウァカルンの頭が、ウルドゥッラの足にぶつかった。頭が激しく唸り、ローブの裾に噛みついたので、ウルドゥッラは恐怖に駆られてとびしさった。新月刀で荒あらしく切りつけたが、歯はローブの裾から離れなかった。それでウルドゥッラはローブを脱いで、父の頭がなおも喰らいついたローブを残し、裸体で部屋から逃げ出した。ウルドゥッラが逃げたとき、ヤダルの生命がつきはて、もはや見ることも聞くこともなかった……
忘却の深みから、ヤダルはぼんやりと遠くの光の輝きを目にし、遙かな声の詠唱を耳にした。暗い海の底から声と光に向かって上っていくように思い、薄い水の膜を通して見ているかのように、立っているウルドゥッラの顔と、ウァカルンの部屋の異様な器から上る煙を見た。ウルドゥッラがヤダルに向かって告げているようだった。「死より蘇り、主人であるおれにしたがえ」
こうして降霊術の邪悪な儀式と招喚に応え、ヤダルは復活した死体にとって可能な生命を得て蘇った。そして肩と胸の大きな傷に黒い凝血をつけたまま、ふたたび歩いて、生ける死者のやりかたでウルドゥッラに応えた。模糊《もこ》とした何の意味もないものとして、自分の死とそれに先立つありさまを思いだし、どんよりした目で、ひどく壊れはてた部屋を見まわし、ウァカルンの切断された頭と体やウォカルや鼬めいた魔物を探したが、何も見つからなかった。
やがてウルドゥッラが「ついてこい」と告げたように思った。そしてヤダルは降霊術師とともに進み、黒い河からナートに昇った、満月に近い赤い月の光のもとに出た。館のまえの荒野に大きな灰の山があり、月光のもとで石炭が生きている目のように輝いていた。ウルドゥッラが灰の山をまえにして黙想し、ヤダルはそのかたわらに立った。ウルドゥッラの命令で奴隷が薪を積みあげて火を付けた、ウァカルンとウォカルの燃えつきた灰であるとは知る由もなかった。
やがて甲高い不気味な唸りをあげて、急に海から風が起こり、灰と火花を大きな旋回する雲のように舞いあげ、ヤダルと降霊術師に吹きつけた。二人はその風に逆らって立っていることもできず、髪や顎鬚や衣服が灰で覆われ、目が見えなくなった。風が吹きつのり、朦々《もうもう》たる灰を館に吹きつけ、戸口や窓やあらゆる部屋に灰を送りこんだ。その後長いあいだ、廊下を歩くと足もとから灰が舞いあがった。ウルドゥッラの命令で死者が毎日|箒《ほうき》で掃いたが、館から灰を完全に取りのぞくことはできないようだった……
ウルドゥッラについては、これ以上語ることはない。ウルドゥッラが死者を支配したのはわずかな期間にすぎなかったからである。かしずく死者は別として、いつもひとりきりで暮らしつづけ、異様なふさぎこみにおちいるようになり、これが速やかに高じて発狂した。もはや人生の目的も考えられなかった。引き寄せたがる影のような腕や小さなつぶやきをみなぎらせ、こっそり忍び寄る黒い海のように、死のけだるさがウルドゥッラを包みこんだ。まもなくウルドゥッラは死者を妬み、彼らの運命を自分のものより望ましいと思うようになった。そこでウァカルンを殺すのに使った新月刀をもって、ヤダル王子を蘇らせてから入ったことのない父の部屋に行った。太陽のように明るく輝く占いの鏡のそばで腹を切り、部屋を覆いつくす埃や蜘蛛の巣のなかに倒れこんだ。生命を装うだけのものにしても、蘇生の術を使える降霊術師はほかにいないので、誰にも乱されることなく朽ち果てた。
しかしウァカルンの庭園では、ウルドゥッラが死んだことにも頓着せず、死んだ者たちがなおも作業にいそしんだ。彼らは山羊や牛を飼い、激しく荒れる暗い海に潜って真珠を採った。
そしてヤダルはダリリとともにいて、二人ともに共通するありさまになりはてながら、そこはかとない憧れを感じてダリリに惹かれた。ダリリが近くにいると、ほのかな慰めが感じられた。以前にヤダルを苦しめた絶望や、切望と別離の長い苦しみは、もはや消えて忘れ去られた。そしてヤダルはほのかな愛と満足をダリリと分かちあった。
[#改丁]
プトゥームの黒人の大修道院長
[#改ページ]
[#ここから5字下げ]
葡萄は紫の炎をもたらし、
薔薇色の愛は乙女を女にさせよかし。
名もなき土地の黒くなりゆく月のもとで、
われらは夢魔とその眷族《けんぞく》を皆殺しにした。
[#ここから14字下げ]
ホアラフ王の弓兵の歌
[#ここで字下げ終わり]
弓兵のゾバルと槍兵のクシャラは、血のように赤いヨロスの葡萄酒や王国の敵の血で、友情を固める杯を数多く重ねていた。ときに革の酒袋の分け前や田舎娘をめぐり、些細な喧嘩をして破れることはあっても、そのさわやかな交友は長くつづき、二人はホアラフ王の兵士として猛烈な十年間を過ごした。残酷な戦や法外な危険が彼らの運命だった。武勇の誉れがついにはホアラフ王の注目という名誉を引き寄せ、王は二人にファラードの宮殿を守る選《え》り抜きの戦士の役目を与えた。並の豪胆さや疑わしい忠誠心では勤まらない任務に、二人がともにつかわされることもあった。
いましもホアラフ王の素晴しい後宮の調達人である宦官《かんがん》のシムバンをともなって、ゾバルとクシャラはイズドレルとして知られる地域を進む退屈な旅をしていた。イズドレルは錆色の荒涼とした楔《くさび》形の土地でもって、ヨロスの西の一部を占める地域である。王が彼らを派遣したのは、天上の美しさを具えた若い女がイズドレルの彼方の遊牧民によって目撃されたという、旅人の話の真偽を確かめるためであった。シムバンは腰帯に金貨の袋を携え、女の美しさが噂どおりのものであるなら、その金貨で女を買いとる権限を与えられていた。王はゾバルとクシャラがいれば、いかなる不測の事態にも対処して護衛できるはずだと考えたのである。世評では、イズドレルには盗賊はおろか、住む者もいないといわれている。しかしながら、巨人のように背が高く、駱駝《らくだ》のように背中に瘤《こぶ》のある、有害な悪鬼がイズドレルを旅する者を襲うことがよくあるし、美しくも邪悪なラミアが旅人を誘惑して、恐ろしい死にいたらしめることもある。シムバンは鞍にまたがって肥満した体を震わせながら、いたしかたなく遠隔地への旅をつづけていたが、弓兵と槍兵は健全にも疑り深い気質で、びくつく宦官や捕えどころのない魔物について、淫らな冗談をたたきあっていた。
新しい葡萄酒の発酵で酒袋が破れたほかには災難もなく、一行は荒涼とした砂漠の彼方の青あおとした牧草地帯に達した。このあたりでは、ウォス河が中央に流れる低い谷で、遊牧民が家畜や一瘤駱駝を飼って、それらのなかから貢物を一年に二度ホアラフ王に献上している。シムバンと連れはウォス河の畔《ほとり》の村で、祖母と暮らしている娘を見つけた。宦官でさえ、旅が十分に報われたと認めるほどの器量だった。
クシャラとゾバルはルバルサという娘の魅力にたちまち心を奪われた。ルバルサはほっそりして、女王然とした上背があり、肌が白|罌粟《けし》の花弁のように白く、豊かに波打つ黒髪は日差しを浴びるとくすんだ銅の輝きを放った。シムバンが甲高い声で皺《しわ》の多い老婆と値切り交渉をしているあいだ、二人の戦士は宦官には聞こえないだろうと思いながらも慎重に気を配り、ルバルサに熱い眼差しを向けて慇懃《いんぎん》な言葉をかけた。
ついに取引が成立して、代価が支払われ、シムバンの金袋がかなり軽くなった。シムバンは目的のものを手に入れたことで、すぐにファラードに帰りたがり、剣呑な砂漠を恐れていることも忘れはてているようだった。ゾバルとクシャラはせっかちな宦官によって夜明け前に夢から目覚めさせられた。三人はまだ眠そうなルバルサをともなって、村人たちが起きだすまえに出発した。
黒ずんだ青い空で太陽が白熱した銅のように輝く正午には、彼らはイズドレルの錆色の砂漠と鉄の歯のような尾根のただなかに深く入りこんでいた。彼らがたどっている道は小道のようなものでしかなかった。彼らがそのときいた地点では、イズドレルは幅三十マイルくらいだが、悪鬼がはびこるところをあえて進む旅人など、まずいないからである。多くの旅人は遊牧民の利用する長い迂回路を好み、これはインダスキア海への流出口近くまでウォス河に沿って、いまいる荒涼とした不気味な土地の南部へと伸びている。
クシャラが青銅の鎧に身を固め、銅の小札《こざね》を革に縫いつけた鎧をまとう大きな白黒ぶちの牝馬に凜々しくまたがり、一行を導いていた。ルバルサは遊牧民の女の赤い手織りの服をまとい、ホアラフ王がこのために準備させた、絹と銀の馬具をつけた黒の去勢馬であとにつづいた。そのすぐうしろに油断おこたりなくしている宦官がつづき、斑《まだら》染めの薄い絹織物の衣服を華麗にまとい、膨れあがった鞍袋をいくつもつけた、年齢の定かでない灰色の驢馬《ろば》にまたがっていた。宦官は馬も駱駝もこわがって、いつも驢馬に乗るのだった。手にはもう一頭の驢馬の繋ぎ紐を握っており、この驢馬は酒の革袋や水袋や糧食を積まれて、地面に押しつぶされそうだった。ゾバルがしんがりについて警護し、弓を手にもち、細身だが筋金入りの体を軽い鎖|帷子《かたびら》に包んで、手綱に苛立つ神経質な種馬にまたがっていた。ゾバルの背の矢筒には、宮廷魔術師のアムドクがまさかの魔物の襲撃に備え、特別な呪文を用いて、怪しげな液体に浸した矢がびっしりと詰まっていた。ゾバルは丁重に矢を受けとったが、鉄の逆棘《かえり》をアムドクが損なっていないことを知って満足した。アムドクは同じように魔法をかけた槍をクシャラに与えようとしたが、クシャラはぞんざいにことわって、使い慣れた武器は何匹の魔物とも対等に渡りあえると告げた。
シムバンと二頭の駱駝のせいで、一行はのろのろとしか進めなかった。しかしながらイズドレルの荒寥《こうりょう》としたわびしい地域を夜になるまえに横切れそうだった。シムバンは陰気な荒野をあいかわらず心もとなげに見ていたが、想像上の小鬼やラミアよりも、たいせつな荷のほうを心配しているようだった。そしてクシャラとゾバルは、なまめかしいルバルサをめぐる好色な夢想に心を奪われ、まわりにはさして注意を払わなかった。
娘は午前中ずっと取りすました沈黙をつづけていた。それが突然、驚きのあまり甲高くなった声で叫んだ。他の三人は手綱を引いて馬や驢馬を止まらせ、シムバンがあわてふためいてたずねた。これに対して、ルバルサが南の地平線を指差し、残る三人は特異な真っ黒な闇が空と丘の大部分を覆いつくしているのを見た。闇は雲でも砂嵐でもないようで、左右が三日月状に伸びて、急速に一行に近づきつつあった。たちまち黒い霧のように彼らの前後の道を消し、北のほうに速やかに進んだ影の二つの弧が同時に流れ、一行を円形に取り囲んだ。そのあと闇が静止して、その壁はいずれの方向にも百フィートくらい離れていた。通過できない黒い壁が一行を取り囲み、頭上は晴れ渡って、太陽がなおもぎらついていたが、深い穴の底から見ているかのように、遠くて色のない小さなものだった。
「おい、おい、おい」シムバンが鞍袋に囲まれて身を縮めながらわめいた。「何かの魔物に急襲されるのはわかっておったのに」
そのとき同時に二頭の驢馬が騒々しく鳴きはじめ、馬が逆上したようにいなないて身を震わせた。ゾバルは残忍な拍車をかけてようやく、種馬をクシャラの牝馬のそばに進めることができた。
「厄介な霧にすぎないかもしれん」クシャラがいった。
「こんな霧は見たことがないぞ」ゾバルが疑わしそうにいった。「それにイズドレルには霧は出ぬ。ゾティークの地下にあるという七つの地獄の煙ではないのか」
「進んでみるか」クシャラがいった。「槍であの闇が突けるかどうかがわかるだろう」
二人はルバルサに元気づける言葉をかけると、馬に拍車をかけて、黒い壁に向かって進もうとした。しかし数歩進むと、牝馬も種馬も急に立ち止り、汗を流して鼻を鳴らし、それ以上進もうとはしなかった。クシャラとゾバルは馬からおりて、徒歩で進んだ。
対処しなければならない現象の源も性質もわからないまま、二人は用心深く近づいた。ゾバルは弓に矢をつがえ、クシャラは戦闘隊形についた敵に突入するかのように、大きな青銅の穂先のある槍を突き出した。二人とも暗い闇にますます困惑した。二人のまえで霧のようには退かず、間近に寄っても不透明なままだった。
クシャラが黒い壁に武器を突き刺そうとした。そのとき何の前触れもなく、目のまえの闇のなかで凄まじい騒ぎが起こった。太鼓、トランペット、シンバル、鳴り響く鎧、耳ざわりに響く声、敷石の上を鎖金に覆われた足で歩きまわるような音だった。クシャラとゾバルが驚いてあとしざりすると、騒音が大きくなって広がり、旅人を取り囲む謎めいた夜の輪全体に戦場の騒音がみなぎった。
「凄まじい包囲攻撃だな」馬のいるところへ引き返しながらクシャラが叫んだ。「北方のどこかの王が情け容赦のない家来をヨロスに送りこんだようではないか」
「そうだな」ゾバルがいった。「しかし闇が訪れるまえに目にしなかったのは不思議だ。この闇は尋常のものではないぞ」
クシャラが返答するまえに、軍隊の騒音と叫びがはたと止んだ。そしてまわりじゅうで、おびただしいガラガラを鳴らす音、無数の巨大な蛇がしゅうしゅういう音、何千羽も集まった不吉な鳥の耳ざわりな鳴き声が起こったようだった。これらのいいようもなく恐ろしい音に、二頭の馬がひっきりなしに悲鳴を加え、驢馬が耳ざわりな鳴き声をあげるので、ルバルサとシムバンの悲鳴はほとんど聞こえなかった。
クシャラとゾバルは馬やおびえきった娘をなだめようとしたが徒労に終わった。包囲しているのが人間の軍隊でないことだけは明らかだった。騒音はなおも刻一刻と変化して、忌わしさきわまる吠え声や、地獄に生まれた獣の唸り声が聞こえ、耳がつぶれそうだったからである。
しかしながら闇のなかには何も見えず、闇が大きさをかえないまま、速やかに移動しはじめた。戦士と連れは闇の中心にいようとすることで、道をはずれて、荒涼とした尾根や窪地のなかを北に逃げざるをえなかった。まわりじゅうで不吉な音がつづき、常に同じ距離があるようだった。
西にかたむいた太陽はもはや不気味に動く穴のなかを照らさず、深い闇が一行を包みこんだ。ゾバルとクシャラは馬に乗って、荒れた地面が許すかぎり、できるだけルバルサのそばにいて、自分たちを取り巻くように思える軍隊は見えないものかと目をこらした。二人とも最悪の不安をひしひしと感じていた。超自然の力によって道をはずれ、人跡未踏の砂漠に追いやられているのが明らかになったからである。
刻一刻と闇の壁が迫ってくるようだった。その背後で化け物じみたものが渦を巻いたり波立ったりしているのが見えた。恐ろしい騒音で威嚇する、動きをやめない闇との距離を保とうとして、馬は鉱石のように鋭い露出した岩や石につまずき、重荷を負った驢馬は前例のない速度で進まざるをえなかった。ルバルサは目下のありさまの恐ろしさを甘受したのか、疲れきってしまったのか、悲鳴をあげるのをやめていた。宦官の甲高い叫びもおびえた泣き声やあえぎにかわっていた。
ときおり闇のなかから大きなぎらつく目が睨みつけ、地面近くにさがったり、途方もない高さにあがったりするようだった。ゾバルがこれらの目に魔法のかかった矢を放ちはじめたが、射るたびに悪魔めいた笑い声や遠吠えがぞっとするほど沸きあがるだけだった。
一行はそのようなありさまで時間や方向の感覚を失って進んだ。動物たちは脚をすりむいたり痛めたりした。シムバンは恐怖と疲労のあまり息も絶えだえになっていた。ルバルサは鞍にまたがって力なくうなだれていた。戦士二人は武器が役に立ちそうもない苦境に困惑して、畏怖の念をおぼえ、鈍い疲労感に襲われていた。
「おれは二度とイズドレルの伝説を疑ったりしない」クシャラが陰鬱にいった。
「疑うも信じるも、生きながらえての話だ。おれたちは長くもちそうにないな」ゾバルがいった。
彼らの苦悩を高めるように、地形が荒れた険しいものになっていき、一行は上り勾配の斜面を進んだり、荒涼とした谷に長ながとくだりつづけたりした。やがて小石の多い開けた平地に達した。そのとたん、万魔殿めいた邪悪な音や声が止み、退きつつ小さくなっていって、かすかな怪しい囁きも大退去とともに消えた。それと同時に、一行を取り囲んでいた闇も薄れ、大空にいくつかの星が輝き、砂漠の鋭い稜線《りょうせん》を見せる丘が菫《すみれ》色の夕焼けを背景に鮮やかに聳《そび》えた。一行は立ち止り、普通の黄昏《たそがれ》でしかない薄闇のなかで、不思議そうに顔を見あわせた。
「今度は悪魔のどんな謀《はかりごと》があるのだ」地獄の軍団が消えたことを信じられず、クシャラがいった。
「わからんな」弓兵が薄闇のなかを見つめながらいった。「しかしあいつは悪魔のひとりかもしれんぞ」
いまやほかの三人も目にした。衣服に身を包んだ者が何らかの半透明の角でできた輝くランタンをもって近づきつつあった。その背後のかなり遠くに、急にいくつもの光があらわれ、以前には目にしなかった角ばった黒いものがあった。どうやら多くの窓がある大きな建物のようだった。
人影が近づいてくると、ランタンのほのかな黄色の光によって、胴回りの大きな長身の黒人であるとわかり、特定の修道士が身につけるようなサフラン色のゆったりしたローブをまとい、大修道院長の二本の角がある紫色の帽子をかぶっていた。まことに特異な思いがけない出現だった。イズドレルの荒涼とした土地に修道院が存在するとしても、それは隠されていて、世に知られていないからである。しかしながらゾバルは記憶を探り、何世紀もまえにヨロスで栄えた黒人修道会に関する伝承を、かつて耳にしたことがあるのを思いだした。修道会は消滅して久しく、修道院のあった場所も忘れ去られている。いまでは貴族や富裕な商人の後宮を守る、宦官のような役目をする者を除き、王国のどこにも黒人はほとんどいない。
黒人が近づくと、動物たちが不安そうな素振りを見せはじめた。
「貴殿は何者か」クシャラが武器の柄を握って誰何《すいか》した。
黒人がにこやかに笑い、野犬のような門歯のある大きな歯を見せた。笑ったことで、油ぎった大きな顎の下の驚くほど大きなたるみに皺が寄った。目は間隔が狭くてひどくつりあがり、黒いゼリーのように揺れるたるみのなかで絶えずまたたいているようだった。鼻孔は恐ろしく広がっていた。紫色の厚ぼったい唇は涎《よだれ》を垂らして震え、黒人は好色そうな厚くて赤い舌で唇をなめてからクシャラに答えた。
「わたしはウジュクと申す、プトゥームの修道院の大修道院長でございます」足もとの大地から発したかと思えるほどの大きな濁声《だみごえ》でいった。「旅人の使う道から遠くはずれて、夜になってしまったようですな。わたしどもの修道院でみなさんをおもてなしいたしますよ」
「ああ、おりよく夜になったな」クシャラがそっけなくいった。ルバルサを見つめる大修道院長の好色そうにきらめく目に、欲情があらわれていることで、クシャラもゾバルも警戒心をゆるめなかった。さらに、大修道院長の大きな手とむきだしの足に、黒い爪が不快なほど伸びているのにも気づいた。爪は湾曲して三インチほどの長さがあり、獣か猛禽の鉤爪のようだった。
しかしながらルバルサとシムバンはさほど不快な印象を受けていないか、こういったことに気づいていないようで、二人はそそくさと大修道院長の歓待の申し出に感謝して、見るからにしぶっている戦士たちに受け入れるように促した。ゾバルとクシャラは折れたが、二人とも心のなかでは、プトゥームの大修道院長の振舞や行動に目を光らせようと決意した。
ウジュクが角のランタンを高く掲げ、さほど遠く離れていないところで光を放つ、巨大な建物へと一行を導いた。近づいていくと、黒っぽい木製の大きな門が音もなく開き、一行は錆びついた鉄の受け座にある松明《たいまつ》にほのかに照らされる、摩りへってぎとぎとした石の敷かれた広い中庭に入った。中庭は無人だと思っていた一行のまえに、何人かの修道士が驚くほど急にあらわれた。修道士たちはいずれも並外れた巨漢で、その顔つきはウジュクに異常なほど酷似しており、実際のところ、ウジュクのかぶる角のついた大修道院長の紫色の帽子のかわりに、黄色の頭巾をかぶっていることを除けば、ほとんど見分けがつかないほどだった。尋常でない長さの湾曲した鉤爪めいた爪にいたるまで、彼らはウジュクによく似ていた。彼らの動きは幽霊のようにひっそりして、音を立てることがなかった。何もいわずに、馬と驢馬をあずかろうとした。クシャラとゾバルはあきらめて、しぶしぶながらこれら疑わしい馬丁に馬の世話をまかせたが、ルバルサと宦官はいそいそと引き渡した。
大修道院長はクシャラに重い槍を、ゾバルに鉄樹の弓と矢が半分になった矢筒を渡すように求めもした。しかし戦士二人はためらって、武器を渡すことはことわった。
ウジュクが四人を建物の戸口に導き、食堂のなかに入った。天井の低い大きな部屋で、食屍鬼が砂漠の墓から掘りだしたような、古風な造りの真鍮のランプに照らされていた。黒檀《こくたん》の巨大な細長い食卓には同じ黒檀の椅子や長椅子が備わっていて、大修道院長は人食い鬼のようににやりと笑い、おかけくださいと客にいった。
各自が坐ると、ウジュクが上座についた。すぐに四人の修道士がやってきて、芳《かぐわ》しい湯気の立つ料理を山と盛った大皿と、茶色がかった濃い琥珀《こはく》色の酒がなみなみと入れられた陶器の細口瓶を食卓に置いた。これらの修道士も、中庭で出会った者たちのように、大修道院長によく似た大柄の黒人で、顔つきも体つきも大修道院長にそっくりだった。酒はその香からことのほか強い麦酒と思われたが、ゾバルとクシャラはほとんど味わおうとしなかった。ウジュクとその修道士に対する疑念がつのるばかりだったからである。腹をすかせているにもかかわらず、何のものとも知れない焼いた肉を主体とする、まえに置かれた料理にも手を出さなかった。しかしながらシムバンとルバルサは、その日の長い絶食と異様な疲労によって食欲をつのらせ、すぐに口にしはじめた。
戦士二人はウジュクのまえに料理も酒も置かれていないことに気づき、既に食事を終えたのだろうと思った。肥満体のウジュクがくつろいで椅子にもたれかかり、にやにやしながらまたたく以外は、欲情のみなぎる目でルバルサを見つめていることで、二人は嫌悪と怒りをつのらせた。こんなふうに見つめられることで、ルバルサはすぐに顔を赤らめ、驚くとともにこわがりだした。そして食事をするのをやめた。シムバンはそのときまで食事に夢中になっていたが、ルバルサが食欲を失ったのを見てうろたえた。大修道院長の聖職者らしからぬ目つきにはじめて気づいたようで、ひどい顰《しか》め面をすることで不満を示した。大きな甲高い声で、娘はホアラフ王の後宮に連れていかれるとはっきり告げもした。しかしこれを聞いても、シムバンが実に愉快な冗談を口にしたかのように、ウジュクはくすくす笑っただけだった。
ゾバルとクシャラは怒りを抑えきれず、大修道院長の巨体に武器をみまいたくなった。しかしながらウジュクはシムバンのほのめかしを受け入れたようで、ルバルサから視線をはずした。そしてルバルサのかわりに、妙な厭《いと》わしい貪欲さで、戦士二人をしげしげと見つめはじめたので、ゾバルとクシャラはウジュクがルバルサをなめるように見ていたときのように堪えられなかった。たっぷり食事をした宦官も、ウジュクにしげしげと見つめられたが、そのウジュクの目つきたるや、有望な獲物を満足げにながめるハイエナの餓えが潜んでいるようだった。
シムバンは見るからに不安そうで、いささかびくついてもいたが、大修道院長と話をしようとして、プトゥームに来た際の冒険を語った。ウジュクはこれを聞いてもさして驚きはしなかった。ゾバルとクシャラは会話には加わらず、ウジュクが大修道院長ではないという確信を強めるようになった。
「ファラードへの道からどれほどそれたのでしょう」シムバンがたずねた。
「あなたがたが迷ったとは思いませんね」ウジュクが陰にこもった声でいった。「プトゥームにいらっしゃったのは、実に時宜《じぎ》を得たものなのですから。ここには客人もほとんどなく、わしらはおもてなしをした人たちと別れたくありません」
「われらが娘を連れて早くもどればよいのにと、ホアラフ王が気をもまれることでしょう」シムバンが震え声でいった。「明日は早く出発しなければなりません」
「明日は別の話になりますな」ウジュクが猫なで声で思わせぶりにいった。「おそらくそのころには、この嘆かわしい性急さを忘れていらっしゃることでしょう」
そのあと食事が終わるまで、ほとんど会話はなかった。実際には、誰も料理や酒をろくに口にしなかった。シムバンでさえ、普段の健啖な食欲を失ったようだった。ウジュクは自分だけが知っている滑稽な冗談を愉しんでいるかのように、にやにやするばかりで、客たちに食事を勧めることもしなかった。
命じられたわけでもないのに、何人かの修道士がやってきて、食事のあとかたづけをした。彼らが引きあげるとき、ゾバルとクシャラは不思議なことに気づいた。ランプに照らされる床に、食器の影が動くのは見えながら、修道士の影がなかったからである。しかしながらウジュクからは大きな不恰好な影が投じられ、椅子のそばに俯《うつむ》せになった夢魔のように広がっていた。
「魔物どもの巣窟に来たようだな」ゾバルがクシャラに囁いた。「おまえとおれは多くの人間と戦ってきたが、名うての影を相手に戦ったことはない」
「ああ」槍兵がいった。「しかしおれはこの大修道院長も修道士どもも気に入らんが、おおかた大修道院長ひとりが影を操っているのだろう」
ウジュクが立ちあがって告げた。「皆さんお疲れのようですから、そろそろお休みいただきましょうか」
ルバルサとシムバンはプトゥームの強い麦酒をかなり飲んだので、眠そうな顔をしてうなずいた。ゾバルとクシャラは二人が早ばやと眠そうにしているのに気づき、酒をことわってよかったと思った。
大修道院長が客を導いて進む廊下では、どことも知れぬところから強い風が音もなく吹きつけ、松明の炎も闇をほとんど照らしきれず、一行のそばで影が激しく揺れ動いた。廊下の両側には粗い麻めいた布を戸口に掛けただけの小部屋があった。修道士たちは姿を見せず、小部屋は闇に包まれているようで、秘められた地下納骨所に積みあげられた黴《かび》の生える骨のような臭いとともに、歳月を重ねて荒廃した雰囲気が修道院に立ちこめていた。
廊下の途中でウジュクが立ち止り、アラス織りの掛け布をあげて、ほかとかわらぬ戸口を見せた。部屋のなかでは、腐蝕した金属が妙な感じで繋がった古めかしい鎖に吊られ、ランプが燃えていた。むきだしの部屋だが広びろとしていて、古風で豪華な寝具のある黒檀の寝台が部屋の奥の窓の下にあった。大修道院長はこの部屋をルバルサに使っていただくといった。そのあと戦士二人と宦官にそれぞれの部屋をあてがった。
シムバンはたちまち眠気が吹っとんだようで、託された者とこのようなやりかたで離れさせられることに文句をいった。ウジュクがこれに備えてあらかじめ指図していたかのように、修道士が寝具をもってあらわれ、ルバルサの部屋の床の板石に敷いた。シムバンは間に合わせの寝床にすぐに横たわり、戦士二人はウジュクとともにさがった。
「こちらへ」大修道院長がそういって、狼のような歯を松明の光で輝かせた。「用意した寝台でぐっすり眠れるでしょう」
しかしながらゾバルとクシャラはルバルサの部屋の戸口の外で警護することに決めていた。娘の安全についてホアラフ王に対する務めを果たし、いついかなるときも娘に目を光らせなければならないのだと、そっけなくウジュクに告げた。
「それでは快適な警護をなさってください」ウジュクがそういって、地下納骨所でハイエナが笑うように呵々《かか》大笑した。
ウジュクが立ち去ると、冷えびえとした往古の黒ぐろとした眠りが建物に垂れこめたようだった。ルバルサとシムバンは寝返りも打たずにぐっすり眠りこんでいるらしく、麻のアラス織りの奥からは物音一つ聞こえなかった。二人の戦士は娘を起こさないように、囁き声でしゃべった。武器をいつでも使えるようにして、油断なく廊下に目を光らせた。邪悪な悪鬼どもの大群がどこかに身を潜め、襲撃の時を待っているはずだと思い、静けさを信用していなかったからである。
しかしながらそのような不安を確かなものにすることは起こらなかった。廊下を音もなく吹く風は、遙かな昔に忘れ去られた死と伝説の孤絶だけを告げているようだった。二人は壁や床にこれまで気づかなかった荒廃の徴《しるし》を見いだした。薄気味悪い法外な考えが油断のならない説得力を備えて脳裡に去来した。建物が千年にわたって無人のままの廃墟であるとか、黒人の大修道院長ウジュクと影のない修道士たちが想像の産物で、存在しないものであるとか、自分たちをプトゥームに進めさせた動く闇の輪や魔物どもの声が、いまや夢のやりかたで消えつつある白日夢にすぎなかったとかいう考えである。
二人の戦士は餓えと渇きに苦しんだ。早朝から何も食べておらず、日中は葡萄酒や水を急いで少し口にしただけだったからである。しかしながら二人とも、目下のありさまでは最も望ましくない、眠気のする無気力が忍び寄るのを感じはじめた。二人はうとうとしては、びくっとして目覚めた。しかし罌粟《けし》の夢におけるセイレーンの歌のように、危険は過ぎ去ったものであり、昨日の幻影だと、静寂が二人に告げているようだった。
数時間が経過して、遅い月が昇り、東の外れの窓から月光が射し入って、廊下を照らした。クシャラほど眠りが深くなかったゾバルが、外の中庭で急に動物が騒ぎだしたことで目を覚ました。大きないななきが狂ったように高まり、馬が何かにおびえているようだった。さらに驢馬も騒々しく鳴きだして、クシャラも目覚めた。
「もう眠りこむなよ」ゾバルが槍兵を叱った。「おれはこの騒ぎの原因を調べてくる」
「それがいいな」クシャラがいった。「ついでだから、糧食が奪われてないかどうか確かめてくれ。杏《あんず》と胡麻のパンと赤葡萄酒の酒袋をもってきてほしいな」
ゾバルが廊下を歩いていくあいだ、修道院そのものは静まり返り、鎖金で覆われた革の半長靴の立てる音がかすかに響いた。廊下の奥にある、外に通じる扉は開いていて、ゾバルが外に出たときには、動物は騒ぐのをやめていた。ぼんやりとしか見えなかった。中庭の松明は一つを除いて燃えつきたか消されていて、低い位置にある凸月はまだ塀の上に昇っていなかった。見たところ、どこもおかしなところはなかった。二頭の驢馬は運んできた山のような糧食や鞍袋のそばにおとなしく立ち、馬はほかの馬と一緒に気持ちよさそうにうとうとしていた。ゾバルは自分の種馬とクシャラの牝馬がつかのま争ったのだろうと思った。
ゾバルは中庭を歩いて、騒ぎの原因がほかにないかどうかを確かめた。そのあと酒袋に顔を向け、飲食物をクシャラにもちかえってやるまえに、英気を養うことにした。葡萄酒をごくごく飲んで、イズドレルの埃を喉から洗い流していると、不気味なかすれた囁き声がして、どこから聞こえるのかも距離がどれほどあるのかも、すぐには判断がつかなかった。耳もとで聞こえたかと思うと、深い地下納骨所に沈んだかのように遠ざかった。しかしこのように変化しながらも、囁きは止むことがなく、しだいにほとんど理解できそうな言葉になっていくのだった。遠い昔に罪を犯し、黒ぐろとした墓所で久しく罪を悔いた死者が口にする、絶望的な悲しみのこもる言葉だった。
その囁きの干からびた苦悩に耳をかたむけているうちに、弓兵は項《うなじ》の毛が逆立ち、激戦でも味わったことのない恐怖を感じた。しかしそれと同時に、死にゆく仲間の悲痛よりも深い哀れみが胸にこみあげてくるのを知った。声は同情と援助を懇願して、したがわずにはいられない異様な強制を課しているようだった。囁き声が求めていることを完全に理解することはできなかったが、その見捨てられた苦悩をどうにか和らげてやらなければならないと思った。
なおも囁き声が大きくなったり小さくなったりしつづけた。ゾバルはクシャラがひとりきりで恐ろしい危険に取り巻かれた監視を長くつづけていることも忘れた。囁き声そのものが自分を迷わせようとする魔物のたくらみにすぎないかもしれないことも忘れた。中庭を調べはじめ、鋭い耳で囁きを発しているものを探した。しばらく考えあぐねたあと、門の反対側の片隅の地面から発しているようだと判断した。塀の角の敷石のなかに大きな閃長岩の板石があって、中央に錆びついた金属の輪がついていた。判断が正しかったことがすぐにわかった。囁き声がさらに大きな聞きとりやすいものになって、「板石をあげよ」といっているようだった。
弓兵は錆びついた輪を両手で掴み、渾身の力をこめて引き、背骨が折れるのではないかと思うほど奮闘して、ようやく板石を引きあげることに成功した。黒ぐろとした開口部があらわれ、そこから圧倒的な腐臭が押し寄せたので、ゾバルは顔をそむけ、吐きそうになった。しかし眼下の闇から囁き声があがり、悲痛な懇願の口調で、「おりてくれ」と告げた。
ゾバルは中庭でまだ燃えている松明を受け座から掴みとった。赤く燃える炎によって、摩りへった階段が悪臭を放つ地下納骨所の闇のなかに通じているのが見えた。決然とした思いでくだっていくと、一番下には表面を荒削りした部屋があって、四面に奥行きのある棚が設けられていた。棚は闇のなかにまで伸びて、人間の骨や木乃伊《ミイラ》じみた遺体が積みあげられていた。修道院の納骨所であるようだった。
囁き声が途絶えているので、ゾバルは困惑してあたりを見まわしたが、恐怖を感じていないわけではなかった。
「わしはここにいる」かすれた小さな囁き声が、すぐ近くの棚に積みあげられた人間の亡骸《なきがら》のなかから聞こえた。ゾバルは驚き、また項の毛が逆立つのを感じながら、松明を棚におろして、声を発したものを探した。関節のはずれた骨の山のあいだの狭い窪みに、半ば朽ちた遺体があって、萎《しな》びた長い手足と虚ろな胴体には黄色の布の断片がこびりついていた。ゾバルはプトゥームの修道士たちがまとっていたようなローブの名残だろうと思った。そして窪みに松明を差し入れ、痩せた木乃伊のような頭部を目にした。頭部にはかつて角のついた大修道院長の帽子だったものが朽ちていた。遺体は黒檀のように黒く、明らかに黒人の大男のものだった。何世紀にもわたってそこに横たわっているかのような、信じられないほどの歳月の経過をしのばせるものがあったが、ゾバルが閃長岩の板石をあげたときに吐き気を催した、新たに腐敗しているような臭いが漂っていた。
ゾバルが見おろしていると、横たわった姿勢から身を起こしたがっているかのように、遺体が少し身じろぎした。そしてゾバルは深く窪んだ眼窩《がんか》に目の輝きのようなものを見た。苦痛に歪む唇がさらに引っこみ、むきだしの歯のあいだから、ゾバルを地下納骨所に引き寄せた悍《おぞま》しい囁きがもれた。
「よく聞いてくれ」囁き声が告げた。「あなたに話さなければならないことがたくさんあるのだ。話を終えたときに、あなたがなさねばならないこともたくさんある。
「わしはプトゥームの大修道院長のウルドルだ。千年以上もまえに、修道士たちを連れて、北の黒人帝国イルカルからヨロスにやってきた。イルカルの皇帝に追い払われてな。わしらの禁欲の宗団、処女の女神オジュハルの崇拝が、皇帝にとっては憎むべきものだったからだ。わしらはここイズドレルの砂漠のただなかに修道院を建て、俗事にわずらわされることなく暮らしつづけた。
「最初は大勢いたが、月日を重ねるにつれて、修道士たちはひとりまた一人と、わしらが安らぎの場として掘った納骨所に横たわるようになった。亡くなった者のかわりはおらん。結局、生きのこったのはわしだけになった。わしは長命を確かなものにする高潔さを得ていたし、魔術の達人にもなっていたからな。魔法円のなかに立つ者のように、時間はわしが食いとめる魔物だった。わしの力はなおも強く、いささかも損なわれていなかった。そしてわしは修道院で独住修士のように暮らしつづけた。
「最初は孤独に悩まされることもなく、自然の神秘の研究に没頭したものだ。しかししばらくすると、そのようなものでは満たされなくなった。孤独を強く意識したばかりに、それまではあまり悩まされることのなかった砂漠の魔物どもに襲われるようになった。美しいが有害な夢魔、まろやかな女の肢体を具えたラミアが、寝ずの行をするわしを誘惑しにきたのだよ。
「わしは抵抗した……しかしほかのものより狡猾な女の魔物がいて、わしが遠い昔にオジュハルの修道会に入るまえに愛した女に身をやつし、わしの部屋に入ってきたのだ。わしは屈服した。そしてその不浄な交わりから、半人半魔の悪鬼ウジュクが生まれ、それからというもの、プトゥームの大修道院長と称している。
「その罪を犯したあと、わしは死にたくなった……罪の結果を目にして、その思いは強まった。しかしオジュハルを甚《はなは》だしく怒らせ、恐ろしい贖罪《しょくざい》を命じられたのだ。わしは生きて……あのような生まれで好色に育っていく怪物ウジュクに、日々に悩まされ、苦しめられた。しかしウジュクが十分に成長したとき、わしは死を願わずにはいられないような老衰に達していた。わしが身動きもできぬほど無力になると、ウジュクはこれにつけこんで、わしを恐ろしい腕で抱きあげ、地下納骨所に運んで、遺体のなかに横たえた。爾来《じらい》、わしはここに留まって、永遠に朽ちている――が、永遠に死ぬことはない。ほぼ千年にわたり、わしは眠ることもできないまま、償われることのない悔恨の苦悶にさいなまれている。
「わしから離れることのない聖者と魔術師の幻視の力によって、わしはウジュクの邪悪な行為や暗澹《あんたん》たる悪行を目にする定めなのだ。ウジュクは大修道院長を装い、ある種の不死性とともに奇怪な地獄の力を授けられ、何世紀にもわたってプトゥームを支配している。ウジュクは妖術によって修道院を隠しこんでいる……食屍鬼のような餓えと夢魔のような欲情から引き寄せたいと思う者がいれば、その者にのみ見えるようにしているのだ。ウジュクは男を喰らい、女をおのれの情欲に奉仕させる……それなのに、わしはウジュクの下劣な行為を目にせざるをえないのだ。そうして見ることが、わしの悲しむべき罰なのでな」
囁き声が小さくなって消えた。ゾバルは死者の話を聞く者のように、凄まじい畏怖の念をおぼえながら耳をかたむけていたが、ウルドルがまだ生きていることについては疑わしく思った。やがて枯れた声がした。
「弓兵よ、あなたに頼みがある。そのお返しに、ウジュクと戦うときに助けになるものを授けよう。あなたの矢筒には魔法のかかった矢があって、それをほどこした者の魔術は善なるものだ。そのような矢をもってすれば、邪悪の不死の力も倒せる。ウジュクを殺すことができるのだ――わしのなかに留まって、死ぬのを禁じる邪悪をさえ滅ぼせる。弓兵よ、一本の矢でわしの心臓を刺してくれ。それで十分でなかったなら、右目と左目にも刺してくれ。三本の矢はそのままにしておけばよい。多くの矢は必要でないからな。ウジュクを倒すには一本の矢で足りる。あなたが目にした修道士たちについては、秘密を教えよう。修道士は十二人いるが……」
ゾバルはその日の出来事で懐疑心を失うようなことがなければ、ウルドルの語ったことをほとんど信じなかっただろう。大修道院長が話をつづけた。
「わしが死ねば、わしの首にある護符を取ればよい。護符は試金石で、手で押しつければ、物質の見かけを取るような邪悪な妖術は消える」
そのときはじめてゾバルは護符を目にした。楕円形の無地の灰色の石が黒い銀の鎖に繋がれ、ウルドルの萎びた胸の上にあった。
「ぐずぐずせずに急ぐのだ」囁き声が訴えた。
ゾバルはウルドルのかたわらの黴の生えた骨の山に松明を差した。嫌気がさしながらもやらずにはいられず、矢筒から一本の矢を抜くと、矢弦につがえ、ひるむことなくウルドルの心臓に狙いをつけた。矢はまっすぐ飛んで、的に深ぶかと刺さった。ゾバルは待った。しかしまもなく黒人の大修道院長の引きつれた唇から、かすかな呻きがもれた。「弓兵よ、次の矢だ」
またしても矢弦が引かれ、矢が過《あやま》たずにウルドルの右の眼窩に刺さった。そしてしばらくするとまたしても、ほとんど聞こえないほどの訴える声がした。「弓兵よ、さらに次の矢だ」
また鉄樹の弓の弦が静まり返った地下納骨所で唸り、矢がウルドルの左目に刺さって、あたった勢いで震えた。今度は腐りゆく唇から囁き声はしなかったが、妙なかさかさいう音や、砂が流れるような音が聞こえた。ゾバルの視線の先では、黒い手足と胴体が速やかに崩れていき、顔と頭が陥没した。矢の刺さったものが、いまや塵の山と分断された骨になったので、三本の矢が傾いた。
ゾバルはウルドルにいわれたように三本の矢をそのままにして、崩れた骨のなかに埋もれてしまった灰色の護符を手探りした。護符を見つけると、長い剣を吊した飾帯に注意深く結んだ。夜が明けるまえに使うことになるだろうと思った。
すぐに踵《きびす》を返すと、中庭に通じる階段を上った。サフラン色の凸月が塀の上に昇っているので、クシャラとの護衛の任務から離れて長くなることがわかった。しかしながらあたりは静まり返っているようだった。うとうとしている動物たちは身じろぎもせず、修道院は暗くて物音一つ聞こえなかった。クシャラがもってきてくれといっていた、酒がたっぷり入った酒袋と、糧食の袋を手にすると、ゾバルは急いで開け放たれた戸口に向かった。
建物のなかに入ったとき、ひっそりした静けさが凄まじい騒ぎに破られた。その騒音のなかに、ルバルサの悲鳴、シムバンの金切り声、クシャラの怒号が聞きとれた。そしてそれらをしのいで、ほかの音を圧倒するかのように、腐敗する脂肪で汚れてぎとぎとした黒い地下水がほとばしるように、嫌らしい笑い声が高まった。
ゾバルは酒袋と糧食の袋を落とし、肩にかけた弓を手にしながら走りだした。仲間たちの叫び声がつづいていたが、いまや忌わしい夢魔の咲笑が修道院全体を満たすかのように高まっているので、かすかにしか聞こえなかった。ルバルサの部屋のまえに近づくと、クシャラが掛け布のあった戸口が消えてしまった壁を槍の柄で叩いていた。壁の向こうでは、シムバンの金切り声が途絶え、肉屋に殺された牡牛のような、ごぼごぼいう呻きにかわったが、ルバルサの恐怖の悲鳴は凄まじい咲笑をしのいで高まっていた。
「この壁は魔物のしわざだ」槍兵が怒りさかまきながらそういって、なめらかな壁を虚しく打ち叩いた。「おれは警護していたのだぞ――それなのに、魔物どもが死人のようにひっそりと、おれのうしろで壁をつくりやがった。部屋のなかでは邪悪なことがおこなわれている」
「気を鎮めろ」ゾバルはそういうと、気も狂わんばかりになりながらも、心身の能力を取りもどそうとした。その瞬間、黒い銀の鎖で飾帯から垂れている、楕円形をした灰色の試金石を思いだした。閉じた壁はおそらく非現実の魔法であって、ウルドルがいったように、試金石で打ち破れるかもしれない。
急いで試金石を手にすると、戸口があった黒い壁にあてた。唖然として見つめるクシャラは、弓兵が錯乱したと思っているかのようだった。しかし試金石がふれるや、壁が消えてなくなり、ぼろぼろになったアラス織りの掛け布があらわれ、掛け布も魔術による幻影であったかのようだった。不思議な分解が広がっていき、仕切りのすべてが溶けて、摩耗した石塊がいくつか残るだけになり、プトゥームの修道院が音もなく屋根のない廃墟と化して、凸月が輝いた。
このすべてが一瞬のうちに起こったが、二人の戦士は驚いているひまもなかった。月が蛆《うじ》に喰われた屍体のような面《おもて》を見せ、その青白い光のもとで、二人はあまりにも悍しい光景を目にして、ほかのことはすべて忘れはてた。二人のまえでは、割れた敷石の隙間から砂漠の草が生える床に、宦官のシムバンが死んで横たわっていた。衣服はずたずたになり、無残に切り裂かれた喉から血がほとばしっていた。腰帯に結《ゆ》わえられていた革の金袋も引き裂かれ、金貨や薬瓶などが散らばっていた。
その向こう、半ば崩れた外壁のそばで、華麗に寝具で覆われた黒檀の寝台であった襤褸《ぼろ》布と木材の散乱したところに、ルバルサが横たわっていた。ルバルサは両手をあげて、恐ろしく膨れあがったものを押しやろうとしていた。そいつはサフラン色のローブの翼めいた襞《ひだ》によって浮かんでいるかのように、水平に身を乗りだしていた。二人の戦士は大修道院長のウジュクだと知った。
真っ黒な夢魔が凄まじい哄笑をやめ、凶まがしい情欲と激怒に歪んだ顔を侵入者に向けた。歯を噛み鳴らし、目を肉のたるみのなかから赤熱した金属の珠《たま》のようにぎらつかせ、娘にかがみこむ姿勢から身を起こすと、部屋の廃墟のなかで娘のまえに恐ろしく聳えたった。
ゾバルが矢をつがえるよりも早く、クシャラが槍をかまえてとびだした。しかし槍兵が敷居を越えるや、ウジュクの嫌らしく膨れあがった体が増えて、黄色いローブに身を包む十二人の修道士が、クシャラの攻撃を迎え撃とうと殺到した。何か恐ろしい手練の妖術によって、プトゥームの修道士たちが大修道院長を助けるために呼び出されたかのようだった。
ゾバルは警告の叫びを発したが、修道士たちがクシャラを取り囲み、クシャラの槍の攻撃をかわしては、三インチの長さがある恐ろしい鉤爪で獰猛《どうもう》に板金鎧を引っかいた。クシャラは雄々しく戦ったが、すぐに崩れこみ、餓えたハイエナの群に押しつぶされたかのように、姿が見えなくなった。
ゾバルはウルドルの語った信じがたい話を思いだし、修道士たちに矢を無駄に使いはしなかった。弓をかまえ、倒れこんだ槍兵に悪意をみなぎらせて襲いかかる修道士たちの奥にいる、ウジュクの姿がはっきり捉えられるのを待った。修道士たちが攻撃をつづけるなか、口にする言葉や意味ある仕草なしに、何らかのやりかたで指示を出しているかのように、恐ろしい戦いに思いをこらしているとおぼしき、聳えたつ夢魔に速やかに狙いをつけた。矢はまっすぐ過たずに、勝ち誇った唸りをあげて飛んだ。矢に魔法をかけたアムドクの魔術は素晴しいものだった。ウジュクがくるくるまわって倒れこみ、鷹の羽を使った矢羽根まで突き刺さった矢を、恐ろしい指で虚しく引き抜こうとした。
いまや不思議なことが起こっていた。夢魔が倒れて身をよじるなか、十二人の修道士がクシャラのまわりで倒れこみ、死体の揺らめく影であるかのように、床に横たわってのたうった。ゾバルには、彼らの姿が薄れて透きとおっていくように思え、彼らの背後の敷石の亀裂が見えた。そして彼らはウジュクとともに身悶えが減じていき、ウジュクがついにぴくりとも動かなくなると、修道士たちのかすかな輪郭が、この世から抹消されたかのように消えてしまった。大修道院長のウルドルとラミアから生まれたあの悪鬼の不快な巨体が残っているだけだった。そしてその巨体もまたたくまに縮んでいき、衣服が垂れさがって、地獄めいたものにおける人間のものが速やかに朽ち果てたかのように、腐臭が立ち上った。
クシャラがふらふらと立ちあがり、茫然としたありさまであたりを見まわした。分厚い鎧のおかげで鉤爪の攻撃から救われたが、鎧そのものは脛当てから兜にいたるまで傷だらけだった。
「修道士どもはどこへ行った」クシャラがたずねた。「ついさっきまで、倒れた野牛にひしめく野犬の群のように、おれを取り巻いていたのに」
「修道士どもはウジュクの発散物にすぎなかったのだ」ゾバルはいった。「奴らはウジュクが自在に発散したり取りこんだりする単なる亡霊、複数の幻影だった。ウジュクを離れて存在することはない。ウジュクが死んで、影以下のものになったのだ」
「いかさま奇っ怪なことだな」槍兵がいった。
二人の戦士が目を向けると、ルバルサは寝台の残骸のなかで上体を起こそうとしていた。二人が近づくと、掴んでいた朽ちた寝具の襤褸を慎ましやかに体にあてたが、まろやかな象牙色の裸身をほとんど隠せなかった。残忍きわまる悪夢から目覚めたばかりのように、恐怖と混乱の入り乱れた顔をしていた。
「夢魔に傷つけられたのか」ゾバルは心配そうにたずねた。ルバルサが困惑した顔をかすかに振ったことで安心した。哀れを誘うありさまで、娘らしい美しさがさらけだされているのを見て目を伏せ、いままでよりも深い恋慕、危険に取りつかれていた日々につかのま激しく燃えた愛では知ることのなかったような、やさしさのこもる恋情を感じた。こっそりクシャラを見ると、クシャラもまったく同じ思いを抱いていることがわかって驚いた。
二人の戦士はルバルサが衣服を身につけているあいだ、少し離れて背を向けていた。
「どうやら」ゾバルはルバルサに聞こえないように声をひそめていった。「今晩はおまえもおれも、ホアラフの任務では請けおわなかった危険に出くわして、見事に打ち勝ったようだな。娘について、おれたちの心は一つで、二人とも娘をこよなく愛しているから、飽満している王の気難しい欲情のために、娘を連れていくわけにもいくまい。だからファラードに帰ることはできん。おまえがよければ、どちらが娘を自分のものにするかを籤《くじ》で決めよう。イズドレルを離れ、ホアラフの支配地の国境を越えて彼方の土地に入るまで、負けた者は真の友として、勝った者に随行するのだ」
クシャラはこれに同意した。ルバルサが衣服を身につけおわると、二人の戦士は籤に使えそうなものを探しはじめた。クシャラはシムバンの金袋からこぼれた、ホアラフの肖像のある金貨を投げようといった。しかしゾバルは金貨よりもはるかに適切なものを見つけていたので、この提案に首を振った。それは夢魔の鉤爪であって、夢魔の死体はいまや小さくなって恐ろしく腐敗し、頭部全体が愕然とするほど萎び、手足も短くなっていた。この過程で、手足の爪が抜けて、敷石に落ちていた。ゾバルは兜を脱ぐと、かがみこんで、右手の恐ろしげな爪を五つ拾って兜に入れた。五つの爪のなかで、人差し指の爪が一番長かった。
ゾバルが兜を骰筒《さいづつ》のように勢いよく振ると、爪の打ちあたる鋭い音がした。やがて兜をクシャラに差しだしていった。「人差し指の爪を取った者が娘を取る」
クシャラが兜のなかに手を入れてすぐに引きだし、一番短い親指の重い爪を掲げた。ゾバルが中指の爪を引いた。クシャラが次に小指の爪を引いた。そしてゾバルが欲しくてたまらなかった人差し指の爪を引きあて、槍兵を大いに悔しがらせた。
好奇心たっぷりにこのやりとりをながめていたルバルサが、戦士二人にたずねた。「何をしているの」
ゾバルが説明しはじめたが、話を終えるまえに、ルバルサが憤然としていった。「そんなこと、勝手に決めないで」そしてかわいいふくれっ面をすると、うろたえた弓兵に背を向け、クシャラの首に両腕を巻きつけた。
[#改丁]
イラロタの死
[#改ページ]
[#ここから5字下げ]
災いと恐怖の暗黒王、あらゆる混乱の支配者よ、
汝の預言者が告げるには、汝により、
新たな力が死後の魔道士に授けられ、
腐敗する魔女が禁断の息をして、
ラミアのほかには使える者もないような、
荒あらしい魔法と幻影をつくりあげるという。
汝の恵みにより、納骨所の死体が恐怖を失い、
久しく闇に包まれた有害な納骨所にて、
極悪な愛が燃えあがる。
吸血鬼は汝に生贄を捧げる――
大きな壺がそのなかの真っ赤な液体を、
蚯蚓《みみず》脹れめいた波形装飾の棺石に流すかのように、
鮮血をほとばしらせる。
[#ここから15字下げ]
ルダルのタサイドンへの連祷
[#ここで字下げ終わり]
[#改ページ]
未亡人となったクサントリカ女王の侍女、イラロタの葬儀は、タスーンの古式に則《のっと》り、派手なお祭り騒ぎが長引く歓楽の機会になった。三日にわたり、ミラーブの王宮の大宴会場のただなかで、婚礼の寝台を収められそうな薔薇色の天蓋に覆われ、東方の多様な絹に包まれた棺台に、イラロタの遺体が華やかな衣装をまとって横たわった。そのまわりでは、朝の薄暗がりから日没まで、冷える夜から焼きつくようにぎらつく夜明けまで、葬儀の乱痴気騒ぎの興奮した波がいささかも弱まらず、高まって渦を巻くばかりだった。貴族、宮廷の役人、衛兵、皿洗い、占星術師、宦官《かんがん》、貴婦人、侍女、クサントリカの女奴隷が、故人の栄誉を最も称えると思われる、あの大盤振舞のどんちゃん騒ぎに加わったのである。おかしな歌や淫らな詩が口にされ、踊り子は疲れを知らぬリュートのなまめかしい調べに合わせ、目がまわりそうなほど狂ったように旋回した。葡萄酒や蒸留酒が巨大な卵形の壺から惜しげもなくふるまわれ、食卓は香料をきかせた肉が巨大な山をなして湯気をあげ、食べられるはしから補充された。酒を飲む者たちがイラロタに献酒をするので、棺台を覆う布が極上の酒によって黒く染まった。イラロタのまわりのいたるところで、しどけないなりをしたり、ぐったりと大の字になったりして横たわっているのは、愛の放埒に耽る者や、すっかり酔いつぶれている者たちだった。棺台の投げかける薔薇色の影に包まれ、目を半ば閉じて唇をかすかに開けているイラロタは、とても死んでいるようには見えず、生者と死者を公平に支配する、眠りこむ皇后のようだった。この見かけと、イラロタの自然な美しさが不思議と高められていることが、多くの者の目に留まり、蛆《うじ》ではなく恋人の口づけを待っているようだという者もいた。
三日目の夜に、多くの炎を揺らめかす真鍮のランプが点されて、葬儀も終わりに近づいたころ、クサントリカ女王のよく知られた愛人、トゥロス卿が宮廷にもどった。卿は先週西の国境沿いにある自分の領土を訪ね、イラロタの死を知らされていなかった。まだ何も知らぬまま、大広間に入ったときには、底抜けのお祭り騒ぎも衰えて、倒れこんだ者たちのほうが、まだ動きまわったり酒を飲んだり騒ぎ立てたりする者たちをうわまわっていた。
トゥロス卿は混沌とした大広間を見てもさして驚かなかった。そのような光景は頑是《がんぜ》ないころから見慣れたものだった。やがて棺台に近づき、誰が横たわっているかを知ると、かなり驚いた顔をした。卿の放埒な愛を得たミラーブの数多くの貴婦人のなかでも、イラロタは誰よりも長く卿を虜《とりこ》にして、卿の心がわりを誰よりも激しく悲しみ嘆いたという。トゥロス卿にあからさまな好意を示していたクサントリカが、一ト月前に取って代わったのである。おそらくトゥロスはイラロタを棄てて後悔せずにはいられなかっただろう。女王の愛人の役割は、利点があって、必ずしも不快なものではないにせよ、いささか危なっかしいものだった。広く信じられているところでは、古代の妖術師の術によって特異な霊妙さと毒性を具えた毒瓶が墓で見つけられ、クサントリカはこれを使ってアルカイン王を亡き者にしたという。このように抹殺したあと、多数の愛人をつくったが、クサントリカを満足させられなかった者たちはことごとく、アルカインの死にも劣らぬ残虐な死を迎えた。クサントリカは法外な要求が多く、トゥロスをいささか苛立たせる厳格な貞節を求めることまでした。トゥロスは遠くの領地に緊急の用ができたと申し立て、宮廷を一週間離れられることを喜んだのである。
いましもトゥロスは死んだ女のそばに立ち、女王のことも忘れて、ジャスミンの芳香とジャスミンのように白いイラロタの美しさによって甘いものになった、あの夏の夜に思いをはせた。ほかの者たちのように、イラロタが死んだとは信じられなかった。イラロタの死に顔が、愛をかわしあったときによく見せた顔つきと、まったくかわらなかったからである。イラロタはトゥロスの気まぐれを満たすために、眠りや死を装ってじっとおとなしく横たわっていることがあって、そのようなときには、激しく求めて愛撫を誘うイラロタの普段の牝豹じみた猛烈さにわずらわされることなく、トゥロスは情熱たっぷりにイラロタを愛した。
何か強力な降霊術が作用しているかのように、トゥロスの心に刻一刻と奇妙な幻覚が育っていき、トゥロスはふたたびあの失われた夜の恋人になって、イラロタが風に飛ばされた花弁の散った寝椅子に横たわり、顔も手も胸も動かさずに待っている、宮殿の庭の四阿《あずまや》に入っていくような気がした。トゥロスはもはや人のひしめく大広間を意識していなかった。大きく揺らめく火明かりや葡萄酒を飲んで赤らんだ顔のある大広間が、月に明るく照らされて眠たげに揺れる花のある庭園になり、廷臣の声が杉とジャスミンのあいだを吹き抜ける風のかすかな溜息になった。六月の夜の温かな催淫性の芳香がまわりに立ち上った。そしてかつてのように、ふたたびその芳香が花とともにイラロタから立ち上っているように思えた。トゥロスは強い欲望に駆られてかがみこみ、イラロタの腕に口づけをして、冷たい腕がかすかに動くのを感じた。
そのとき耳もとでいささか恨みがましい声が囁かれ、トゥロスはいきなり目覚めさせられた夢遊病者のようにうろたえた。「我を忘れてしまったのですか、トゥロス卿。まあ、無理もありませんけれど。わらわの男たちの多くは生きているときよりも美しいと思っているようですから」トゥロスは異様な呪縛が感覚から消えていくのを感じながら、イラロタから振り返り、クサントリカがそばにいるのを知った。クサントリカは衣装がしどけなく乱れ、髪は結ばれもせずに垂れさがり、少しふらついて、鋭く尖った爪のある指でトゥロクの肩を掴んだ。罌粟《けし》のように赤いふっくらした唇が、牝狐のような怒りによって歪み、長い瞼《まぶた》のある黄色の目が多情な猫の嫉妬もあらわにぎらついた。
トゥロスは不思議な混乱に圧倒され、自分が屈した魔法をわずかばかりに思いだした。イラロタに口づけをして、イラロタの体がかすかに震えたかどうかもよくわからなかった。そんなことはありえないので、つかのま白日夢に囚《とら》われたのだろうと思った。しかしクサントリカの言葉と怒り、そして大広間の人々から聞こえる酔いどれの笑い声や淫らな囁き声に悩まされた。
「気をつけなさい、わらわのトゥロス」そうつぶやいた女王は、不思議な怒りを鎮めたようだった。「魔女だったそうですからね……」
「どうして死んだのです」トゥロスはたずねた。
「愛の熱病にほかならないと噂されていますよ」
「それなら魔女ではなかったのです」トゥロスは思いや感情とはかけ離れた軽い口調でいった。「真の妖術を具えていれば、治療法を見いだしていたはずですから」
「あなたへの愛のせいですよ」クサントリカが険のある目つきをしていった。「女なら誰しも知っているように、あなたの心はアダマントよりも黒くて硬い。いかに強力なものであろうと、妖術もかないません」そうしゃべっているうちに、クサントリカの気分が和らいだようだった。「長く宮殿を離れていましたね。真夜中にいらっしゃい。わらわは南の四阿で待っています」そういって伏し目がちに悩ましく見つめ、猫の鉤爪のように衣服と皮膚に爪を食いこませるやりかたで腕をつねると、すぐにトゥロスに背を向け、後宮の宦官に声をかけた。
女王の注意が自分からそれると、トゥロスは思いきってふたたびイラロタを見つめ、クサントリカの不思議な言葉について考えた。宮殿の多くの貴婦人のように、イラロタが呪文や媚薬に手を出していたのは知っていたが、トゥロスは自然が女の肉体に授けたもの以外の魅力や魔法には興味がないので、イラロタの妖術を気にしたことはなかった。これまでの経験から、情熱が死を招くことはないので、イラロタが情熱のあまり死んだとは信じられなかった。
混乱した感情がこみあげるまま、イラロタをまじまじ見つめていると、またしても死んではいないという印象に悩まされた。半ば記憶に残る別の時間や場所の異様な幻覚はなかったが、イラロタが葡萄酒に染まった棺台で以前の姿勢をかえ、女が待ちこがれた恋人に顔を向けるように、トゥロスのほうに少し顔を向け、ついさっき夢か現《うつつ》で口づけをしたことのある腕が少し伸ばされているような気がした。
トゥロスは神秘に魅せられ、いいようもない不思議な力に引き寄せられて、顔を近づけた。またしても夢を見ていたか、錯覚だったにちがいない。しかし疑念がつのっているときでさえ、イラロタの胸がかすかに上下して、ほとんど聞きとれないほどのものとはいえ、胸のときめく囁きがこう告げるのを耳にしたように思った。「真夜中に来て。わたくしはあなたを……霊廟《れいびょう》で待っています」
と、そのとき、墓掘りの地味な擦り切れた服をまとった者たちが棺台のそばにあらわれた。ひっそりと大広間に入ってきたので、トゥロスもほかの者たちも気づかなかった。彼らは新しく溶接して磨きたてられた青銅の薄い棺を運んできた。彼らは役目として、死んだ女を棺に移し、宮殿の庭のやや北に位置する古くからの埋葬地に行き、イラロタの家族の墓所に運びこまなければならない。
トゥロスはそんなことをするのはやめろと叫びたかったが、舌が口蓋《こうがい》に貼りついて声が出せず、体も動かせなかった。眠っているのか起きているのかもわからないまま、墓掘りがイラロタを棺に横たえ、速やかに大広間から運びだすのを目にした。浮かれ騒いでうとうとしている者たちは、あとにつづきもしなければ、気にもしなかった。陰気な墓掘りたちが立ち去ってようやく、トゥロスは空っぽになった棺台のそばから動くことができた。頭がよく働かず、闇に包まれて考えあぐねるばかりだった。丸一日を要した旅のあとでは自然な疲労に圧倒され、自分の居室に引きあげると、たちまち死のように深い眠りに落ちこんだ。
魔女の長く伸ばした指から逃れるかのように、杉の枝から徐々に離れて、青白い不恰好な月が西の窓から水平に睨みつけたとき、トゥロスは目を覚ました。月の位置から真夜中に近いことを知り、クサントリカ女王との密会の約束を思いだした。約束を破れば、女王をひどく立腹させることになる。そして同じ時刻に別の場所でおこなう、もう一つの密会も、ことのほかはっきりと思いだした……これらの出来事とイラロタの葬儀の印象は、疑わしくて夢のように思えていたが、何か腐食性の夢の成分か……魔法の呪文が強められたことによって心に焼きつけられたかのように、いまや現実であるという深遠な確信とともに甦った。トゥロスはイラロタがまさしく棺台で身を動かして話しかけたのに、墓掘りがイラロタを生きたまま墓に運んだように思った。おそらくイラロタが死んだと思われたのは、一種の強梗症にすぎないのだろう。さもなくば、トゥロスの情熱を甦らせようとして、死を装っているのだ。こんなふうに考えていると、好奇心と欲望の激しい興奮が生まれ、魔法によるかのように、イラロタの青白い不動の華麗な美しさが目のまえに浮かんだ。
トゥロスはひどく取り乱したまま、灯りの点っていない階段と廊下を進み、月に照らされる迷路のような庭に出た。クサントリカの時ならぬ要求を呪わしく思った。しかしながら女王はタスーンの蒸留酒を飲みつづけ、約束を守ることも思いだすこともできない状態になっていると考えてよさそうだった。トゥロスはこの考えに元気づけられた。妙に困惑した心のなかで、この考えが確固としたものになった。そして南の四阿のほうには向かわずに、青白い陰気な木立のなかを上の空で進んだ。
ますます自分以外の者が外に出ているとは思えなくなってきた。宮殿の灯りも点っていない長い翼《よく》は、虚ろな麻痺状態にあるようにひっそりと伸びて、庭には動きのない影と、風も呑みこむ芳香があるだけだった。そしてあらゆるものに、巨大な青白い罌粟のごとく、月が死体のように白い微睡《まどろみ》を滴《したた》らしていた。
トゥロスはもはやクサントリカとの密会のことは意識せず、別の目的地のほうに駆りたてる切迫感におとなしくしたがっていた……霊廟を訪れて、イラロタにかかわる迷妄にたぶらかされたのかどうかを、どうあっても知らなければならなかった。行かなければ、イラロタは閉ざされた棺のなかで窒息し、死を装ったことが速やかに現実になるだろう。またしても前方の月光のなかで告げられたかのように、イラロタが棺台から囁いたか、そのように思えた言葉が聞こえた。「真夜中に来て。わたくしはあなたを……霊廟で待っています」
崇拝する女のいる、花弁に覆われた甘美で暖かな寝椅子に向かう者のように、トゥロスは歩調と鼓動を早めながら、衛兵のいない北の裏門から出て宮殿の敷地を離れると、宮殿の庭と古い墓地のあいだに広がる草の生えた公用地を横切った。いつも開いている死の世界の門には、食屍鬼の頭部を具えた黒い大理石の怪物像があって、窪んだ目で恐ろしくも睨みつけ、朽ちゆく塔門のまえで気味悪い姿勢を保っていたが、トゥロスは悪寒もおぼえず、怖気づくこともなく入っていった。
低い墓の静けさ、高い記念碑の厳《おごそ》かさと青白さ、植えられた杉の影の深さ、すべてに授けられた死の神聖さ、それらがあいまって特異な興奮を高め、トゥロスの血を燃えあがらせた。木乃伊《ミイラ》の粉末を加えられた媚薬を飲んだかのようだった。イラロタの千々の思い出と、どのようなものになるとも知れない期待によって、まわりじゅうで墓場の寂寞《せきばく》が燃えあがって震えた。
トゥロスはかつてイラロタとともに、イラロタの家族の納骨所を訪れたことがあり、そのときのことをはっきりおぼえているので、迷うこともなく、影を落とす低い拱門《きょうもん》に達した。伸び放題の刺草《いらくさ》や悪臭を放つ華鬘草《けまんそう》が、めったに使われることのない入口を覆いつくし、トゥロスのまえに入りこんだ者たちによって踏みつけられていた。錆びついた鉄の扉は蝶番《ちょうつがい》がゆるんで内側に傾いていた。引きあげた墓掘りが落としたとおぼしき、火の消えた松明《たいまつ》が足もとにあった。トゥロスはそれを見て、納骨所を調べるために蝋燭もランタンももってこなかったことを知り、時宜《じぎ》にかなう松明に吉兆を見いだした。
トゥロスは火を付けた松明を掴んで、霊廟を調べはじめた。地下の入口近くに積まれた埃まみれの棺は気に留めなかった。かつて訪れたときに、イラロタが一番奥の凹所を見せて、自分はいずれここに横たわって、衰退する家族に囲まれるのだといったからである。死体が積みあげられた墓所のただなかで、春の庭園の息吹のような、ジャスミンのけだるい甘美な芳香が、不思議と知らぬまに黴《かび》臭い霊廟に漂った。蓋がしっかり閉ざされた棺のなかで、唯一つ開いている棺へと、その芳香がトゥロスを引き寄せた。その棺のなかには、葬儀の華やかな衣装をまとうイラロタが横たわり、目を半ば閉じて、唇をかすかに開けていた。そしてイラロタにはあの不思議な輝かしい美しさがあった。トゥロスを降霊の術によって引き寄せた、なまめかしい青白さと静けさがあった。
「来てくれるとわかっていました、ああ、トゥロス」トゥロスが口づけに情熱をこめながら、喉から胸へと唇をおろしていくと、イラロタが無意識によるものであるかのように、かすかに身じろぎしていった……
トゥロスの手から、松明が厚く積もった塵埃《じんあい》に落ちて、火が消えた……
クサントリカは早めに自室に引きあげたが、よく眠れなかった。強い極上の葡萄酒を飲みすぎたか、飲みたらなかったのだろう。トゥロスがもどったことで血が熱くなり、葬儀のあいだにトゥロスがイラロタの腕に熱い口づけをしたことで、まだ嫉妬が燃えさかっているのかもしれない。クサントリカはじっとしていられず、トゥロスとの出会いの時間よりかなりまえに身を起こし、寝室の窓辺に立って、夜気がもたらしてくれる涼しさを求めた。
しかしながら夜気は隠れた炉の熱気に暖められているようだった。心臓が胸で膨れ、息が詰まりそうだった。月になだめられる庭を見ても、不安と興奮は鎮まるどころか、つのるばかりだった。密会の場所に急ごうとしたが、もどかしい思いになっていながらも、トゥロスを待たせたほうがよいと思った。窓辺に凭《よ》りかかってそう思ったとき、トゥロスが眼下の花園や木陰のなかを進んでいくのを見た。クサントリカはトゥロスのしっかりした足取りの速さに驚き、自分が指定した場所から遠のいていくので、いったいどこへ行くつもりなのかと思った。庭の北門に通じる杉の立ちならぶ小道で姿が見えなくなり、引き返してこないことがわかると、不思議に思っていたクサントリカは驚きと怒りをおぼえた。
トゥロスであれ誰であれ、良識のある者が密会を忘れるとは、クサントリカには信じられなかった。どういうことなのかと考えこみ、何か有害で強力な妖術がかかわっているのだろうと推測した。目にした出来事や噂されていることに照らせば、妖術をふるった女を知るのは困難なことではなかった。イラロタは気も狂わんばかりにトゥロスを愛し、トゥロスに去られてからというもの、慰めようもないほど嘆き悲しんでいた。噂によれば、イラロタはトゥロスを取り返すために、効果のない呪文をあれこれ試し、魔物を招喚しようとしたり生贄を捧げたりしても甲斐はなく、クサントリカによく似た像を使う呪術や死の呪文をふるうことまでしたという。結局は無念と絶望のあまり死んだか、検出できない毒を使って生命を断ったのだろう。しかしタスーンで広く信じられているように、欲望を和らげられず、呪文がくじかれたまま、未練を残して死んだ魔女は、ラミアや吸血鬼になりはて、そうすることで呪術を完璧なものにすることができるという……
女王はこういったことを思いだして、ぞくっと身を震わせた。そのような目的を遂げたときに、恐ろしくも凶まがしい変容が起こることも思いだした。このようなやりかたで地獄の力を行使した者は、地獄の存在の特性と容貌を身につけるにちがいない。クサントリカはトゥロスの行き先を察し、疑いがまちがっていないなら、トゥロスが危険なことになると思った。そして自分も同じ危険にさらされるかもしれないと思い、トゥロスのあとを追うことにした。
無駄にする時間はないので、ほとんど何の準備もしなかったが、絹のマットレスの下から、いつも手の届くところに置いている、刃がまっすぐの小さな短剣を取りだした。短剣は刃先から柄まで、生者にも死者にも効果を発揮すると思われている毒が塗られている。クサントリカは短剣を右手に掴み、あとで必要になるかもしれない細目のランタンを左手にもつと、速やかに宮殿から忍び出た。
夜に飲んだ葡萄酒の酔いもすっかり醒めて、ぼんやりした薄気味悪い恐怖が目覚め、祖先の亡霊のようにクサントリカに警告を発した。しかしクサントリカは決意も堅く、トゥロスが通った小道を進んでいった。イラロタを納骨所へと運んだ墓掘りたちが先に通った小道だった。月が蛆に喰われた顔のように、木々の上を移動しながらクサントリカに連れそった。白じらとした沈黙を破る厚底の編上靴の小さな音が、クサントリカを朦朧《もうろう》とした忌むべきものどもの世界からさえぎっている、薄い蜘蛛の巣のような膜を引き裂いているようだった。そしてクサントリカはイラロタのような存在にまつわる伝説をあれこれ思いだした。心臓が胸のなかで震えた。これから出会うのが人間の女ではなく、第七地獄によって蘇らされ、生気を与えられたものであることを知っていたからである。しかしこうした恐怖の悪寒をおぼえながらも、トゥロスがラミアに抱かれているかと思うと、赤い燃え木を押しつけられて胸が焼けるような気がした。
いまや共同墓地がクサントリカのまえにあらわれ、弔《とむら》いの木々の葉叢《はむら》で覆われる洞窟のような闇のなかに足を進めると、白い記念碑という牙を生やした化け物の黒い口に入っていくような気がした。大気がじめっとした不快なものになり、開いた納骨所の空気が満ちているかのようだった。女王はよろめいた。墓地の地面から未知の黒ぐろとした悪鬼どもが身を起こし、記念碑や木よりも高く聳《そび》え、これ以上進めば襲いかかりそうに思えたからだった。それにもかかわらず、クサントリカは探していた暗い入口にほどなく達した。震える手でランタンの灯心に火を付け、細い光で地下の闇を照らし、恐怖と嫌悪をよく抑えきれないまま、死者と……おそらくは不死者の住処に入りこんでいった。
しかしながら納骨所の最初の角を曲がって進んでいくと、納骨所の黴と長の歳月にわたって積もった塵埃のほかには、忌わしいものには出くわさなかった。深く穿《うが》たれた石の棚にならぶ棺のほかには、恐ろしいものはなかった。棺は置かれてから乱されることもなく、ひっそりと横たわっていた。ここでは確かに死者の眠りは乱されておらず、死体は侵害されていなかった。
クサントリカはトゥロスがここに来たことを疑いかけたが、光を地面に向けたとき、トゥロスの先尖りの靴の跡が、墓掘りの足跡のなかに見つかった。墓掘りの足跡が行ってもどったことを示しているのに対し、トゥロスの足跡は一つの方向に進んでいるだけだった。
やがて前方の闇のなかのどことも知れぬところから、多情な女のせつない呻きが、肉に群がるジャッカルのような唸り声に混じって聞こえた。クサントリカは血が心臓で凍りつくように思いながら、短剣を握り締めた手をうしろにまわし、ランタンを高く掲げて、ゆっくりと歩を進めた。音が大きくはっきりしたものになってきた。いまでは暖かな六月の夜の花園のような匂いがしたが、なおも足を進めていると、その芳香にこれまで知らなかったような、息苦しいほどの悪臭が混じり、ほとばしる熱い血の臭いも嗅ぎとれた。
さらに数歩進み、クサントリカは魔物の腕に掴まれたかのように立ちつくした。ランタンの光によって、錆で緑色に変じた棺と棺にはさまれた空所を占める、新しく造られて磨きたてられた棺の端から、トゥロスの上体と歪んだ顔が垂れているのを目にしたからである。トゥロスは片手で棺の端をしっかり掴み、弱よわしく動くもう一方の手は、トゥロスの上にかがみこむ模糊《もこ》としたものを愛撫しているようだった。ランタンの細い光でジャスミンのように白く照らされる腕があって、黒い指がトゥロスの胸に食いこんでいた。トゥロスの頭と体は虚ろな殻のようで、青銅の棺の縁から垂れる手は骸骨のように細く、その全体のありさまといえば、引き裂かれた喉や顔から流れ、衣服を血まみれにして、髪から滴っているものより、さらに多くの血を失っているかのようだった。
トゥロスにかがみこむものが、絶え間なく呻きとも唸りともつかない声を発していた。そしてクサントリカが恐怖と嫌悪のあまりすくみあがっていると、トゥロスの唇から、苦痛にさいなまれているというよりも恍惚とした、不明瞭なつぶやきがもれたようだった。つぶやきが止まり、頭が以前よりもだらりと垂れたので、女王はトゥロスが死んだと思った。そう思うや、怒り心頭の勇気が生まれ、棺に歩み寄りながら短剣を振りあげた。恐慌状態におちいってはいたが、魔道士の毒の塗られた短剣によって、トゥロスを殺したものを倒せるかもしれないと思った。
ランタンの揺らめく光が近づくにつれ、トゥロスが闇のなかで愛撫していた忌むべきものが少しずつ照らされていった……真っ赤に染まった肉垂れ、口のようでもあり嘴《くちばし》のようでもある、牙の生えた真っ赤な穴が照らされた……クサントリカはトゥロスの体が萎《しな》びた殻のようになったわけを知った……女王が目にしたものには、白くてなまめかしい腕と、魔物の彫刻家がこねくりまわす粘土のように、人間の胸から人間ではないものの胸へと変化していくぼんやりした輪郭のほかには、イラロタを思わせるものは何もなかった。腕も変化して黒くなりだし、変化するにつれて、死に瀕したトゥロスの手がふたたび動いて、恐ろしいものに向かって愛撫するような動きをした。忌むべきものはトゥロスを気にも留めず、トゥロスの胸から手をはなすや、血の滴る鉤爪で女王を引き裂くか愛撫しようとするかのように、腕を恐ろしく伸ばした。
そのとたん、クサントリカはランタンも短剣も落とし、甲高い悲鳴と狂気の笑いをあげながら、納骨所から逃げ出した。
[#改丁]
アドムファの庭園
[#改ページ]
[#ここから5字下げ]
灼熱の高温を発する赤い花壇と
地獄の揺れ動く炎にさらされる果樹園の王よ、
汝の苑《その》のただなかにて、一本の木が
無数の魔物の首を果実として花を咲かせる。
身をくねらせる蛇のごとく、
バーラスと呼ばれる根が伸びる。
二股に分かれた青白いマンドラゴラスが、
土壌から自ら抜けだし、
汝の名を呼びながらさまよい歩く。
かくて地獄に落ちたばかりの人間は思う。
魔物どもが怒りに逆上して叫び、異様な悲嘆の声をあげていると。
[#ここから22字下げ]
ルダルのタサイドンへの連祷
[#ここで字下げ終わり]
[#改ページ]
T
つとに知られているように、東方の弘大な島ソタルの王であるアドムファは、大きく広がる宮殿の敷地に、おのれと宮廷魔術師のドウェルラスのほかには立ち入りを禁じる庭園を所有していた。庭園の四方を囲む花崗岩の塀は、監獄の塀のように高くて物ものしく、堂々たる常磐《ときわ》や楠、多彩な色の花を咲かせる広い花壇をしのいで聳《そび》え、誰の目にもまざまざと見えた。しかしその内部について、確かなことは何も知られていなかった。アドムファの命により、必要な世話は魔術師のみがおこなっていたからである。そして二人は誰にも理解できぬ深遠な謎の言葉によって庭園のことを語った。分厚い青銅の扉が二人しか知らぬからくりによって開き、王とドウェルラスは二人そろってかそれぞれ別個に、ほかには誰もいない刻限にのみ庭園を訪れた。扉が開くのを目にしたと吹聴する者すらなかった。
人の噂では、庭園は鉛と銅の巨大な板で覆われて、太陽の光をさえぎり、隙間一つないので、極小の星さえ覗きこめないという。王と魔術師が訪れたときには、ドウェルラスが魔術によってあたり一帯に忘却の眠りをもたらし、これで秘め事が守られると断言する者もいた。
かくも顕著な謎が好奇心をかきたてないわけはなく、庭園の性質について、種々雑多な考えがもちだされた。夜行性の凶まがしい植物にあふれ、アドムファが使用するための速やかに組織を破壊する毒とともに、魔術師が魔術に使う潜行性の有害な精油をもたらすのだといいきる者もいた。そのような話はおそらく根も葉もないものではないようである。鎖《とざ》された庭園がつくられてからというもの、宮廷では毒による死、魔術師のしわざであることが明白な禍事《まがこと》、アドムファやドウェルラスの寵を失った者の失踪が数多くあったからである。
さらに法外な別の噂が何事も信じやすい者たちのあいだで囁かれていた。これによって、王が稚《いわけな》いころから取り沙汰されていた、その尋常ならざる悪しき伝説が、さらに恐ろしげなものになった。そして鬼婆めいた母親によって誕生前に大魔王に売られたと噂されるドウェルラスは、その身を大魔王に委ねた自己放棄の深さと激烈さによって、あらゆる魔術師をしのぐ暗澹《あんたん》たる名声を得たのである。
黒い罌粟《けし》の抽出液がもたらす眠りと夢から目覚め、アドムファ王は月が沈んでから夜明けまでの草木も眠る刻限に身を起こした。宮殿は納骨所のように寂寞《せきばく》として、宮殿にいる者たちは葡萄酒や麻薬やアラック酒による眠りに落ちこんでいた。宮殿のまわりでは、庭園も首都ロイテも、風のない南の空のゆっくり進む星たちの下で微睡《まどろ》んでいた。この刻限に、アドムファとドウェルラスはあとをつけられたり見られたりする恐れもなく、高い塀に囲まれた庭園を訪れるのを常としていた。
アドムファは歩みだし、つかのま立ち止って、黒い青銅の遮眼灯の光を隣接する暗い部屋に向けた。めったにないことではあれ、その部屋は八夜にわたって気に入りの女奴隷トゥロネアーが使っていたが、絹の寝具のある寝台が空っぽになっているのを見ても、アドムファは驚くことも心を乱すこともなかった。このことによって、ドウェルラスが先に庭園に行ったことを知った。さらにまた、ドウェルラスが手ぶらで暇つぶしにいったわけではないことも知った。
宮殿の敷地はいたるところが影に覆われ、王の好む秘密を保っているかに見えた。アドムファは聳える花崗岩の塀にある真鍮の扉のまえにやってきた。扉に近づきながら、コブラの発するような鋭い音を口にした。その音の高低に応えて、扉が音もなく内側に開き、アドムファが通り抜けるとひっそりと閉まった。
ひそかに植えつけや耕作がなされ、金属製の屋根で天の球体からさえぎられている庭園は、中心部の中空に浮かぶ赤あかと輝く不思議な球体によってのみ照らされていた。アドムファは畏怖の念をおぼえながらこの球体を見た。その性質もどうやって手に入れたかも知らなかった。ドウェルラスの主張するところによれば、ドウェルラス自身の命令によって、月のない夜に地獄から昇り、地獄の力で宙に浮かび、タサイドンの果実がこの世のものならぬ大きさと魅惑の風味を得るまで育つ、あの土地の不滅の炎によって育《はぐく》まれているのだという。球体は血のように赤い光を放ち、その光に浸る庭園はあたかも輝く血の霧に包まれているかのようだった。冬の冷えびえとした夜でさえ、球体は快適な暖かさをもたらし、目に見える支持物は何もないというのに、宙から落ちたことはなく、その下の庭園は地獄の花園のように、不気味なほど青あおと、あふれんばかりに生い茂っていた。
いかにもその庭園の成長ぶりたるや、地上を照らす太陽では育めないようなもので、ドウェルラスの言によれば、植物の種子も球体と同じ源に発するのだという。二股に分かれた青白い幹が、地面からおのが根を抜かんばかりの勢いで上方に伸び、ドラゴンの黒ぐろとした翼のごとくおびただしい葉を広げていた。絶えず震える腕のように太い茎に支えられ、盆のように大きな不凋花《アマラントス》の花が咲いていた……七つの地獄のように変化に富む異様な植物が多数あって、ドウェルラスが尋常ならざる技や降霊の術であちこちを接ぎ木したもののほかには、二つと同じものはなかった。
こうした接ぎ穂は人間のさまざまな器官であった。魔術師が植物と動物の要素を合わせもつ台木に、過《あやま》たず完璧に接ぎ木をすると、それらは膿漿《のうしょう》じみた樹液を吸って成育するのである。ドウェルラスやアドムファを不興がらせたり退屈させたりした者は数多く、そのなかから注意深く選ばれた者が、このようにして保存された。椰子《やし》の幹には、羽根のような房状の葉の下に、宦官《かんがん》たちの首が鈴なりになって、巨大な黒い石果《せきか》のようだった。葉のないむきだしの蔓植物には怠慢な衛兵の耳が咲いていた。不恰好なサボテンは、果実のかわりに女の乳房があって、棘《とげ》のかわりに女の髪が伸びていた。手足や胴体が完全なまま、化け物じみた木に結合されていることもあった。巨大な盆のような花のなかには、鼓動する心臓がついているものもあり、小さな花のなかには、その中心にまだ睫毛をそよがせる目がついているものがあった。そして語ることもできないほど猥褻な接ぎ木や、不快きわまる接ぎ木もあった。
アドムファが混成植物のなかを進むと、植物が動いたりざわついたりした。アドムファが進んでくるのを見ているかのように、目が見開かれたり細められたり、頭部が少し伸びたり、耳が震えたり、乳房が軽く揺れたりした。これら人間の名残が植物の緩慢な生命でもって生き、植物の半ば動物めいた活動を分からもっているにすぎないことを、アドムファはよく知っていた。アドムファはこれらを物見高い病んだ審美的な快楽をおぼえながらながめ、巨大なものや超自然のものの確かな魅力を見いだしていた。それがいまはじめてさしたる興味もなく歩いていた。新奇な魔術をもってしても、無情な倦怠からの逃げ場がもたらされることのない、最後の時が訪れたのだとわかりはじめた。
異様な快楽の場の中央に、ひしめく植物に囲まれながら、まだ何もない円形の場所があって、アドムファはそこに新しく掘りかえされた肥沃な土の山のまえに達した。そのそばには、死んでいるかのように全裸で仰向けになった、奴隷女のトゥロネアーの姿があった。トゥロネアーの近くに、ドウェルラスが接ぎ木に使用する液体樹脂や粘着性のゴムの入った硝子《ガラス》瓶が、さまざまなナイフや器具とともに、革袋から取りだされて、地面に置かれていた。デダイムとして知られる植物が、膨らんだ多肉質の白っぽい緑の幹の中心から、葉のない枝を何本か放射状に伸ばし、そのなめらかな樹皮につけられた切り口から、黄色みがかった赤い膿漿をトゥロネアーの胸に滴《したた》らしていた。
ドウェルラスが地面に掘った穴から、魔物のごとき突然さで、肥沃な土の山の背後にあらわれた。墓穴のように深く掘りおえた鋤《すき》を手にしていた。アドムファの堂々たる体格と衣服のそばに立つと、ドウェルラスは萎《しな》びた侏儒のように見えた。その容貌には、不毛の歳月が肉体を萎びさせ、血管の血を啜《すす》りとったかのような、計り知れない歳月のありとあらゆる痕跡があった。目は穴のような眼窩《がんか》の奥で輝き、顔は亡くなって久しい死体のように肉が薄くて黒ずみ、年古《としふ》りた砂漠の杉のように背中が曲がっていた。いつも背中をかがめているので、ひょろ長い節くれだった腕が地面にふれなんばかりだった。アドムファはいつものようにドウェルラスの魔物じみた腕の強さに驚いた。ドウェルラスが重い鋤を素早く動かすことや、器官を実験に供する犠牲者を、助けなしに背中にかついで庭園に運んでこられることに驚嘆した。王はそのような労務を手伝って品位を汚すつもりもなく、いなくなっても不快ではない者の名をおりふし口にしたあとは、奇異な造園作業を指図してながめるだけであった。
「死んでいるのか」アドムファは何の感情もおぼえないまま、トゥロネアーのなまめかしい手足や胴体を見つめてたずねた。
「いいえ」ドウェルラスが錆びついた棺の蝶番《ちょうつがい》のようにかすれた声で答えた。「デダイムの眠気を誘う抗しがたい樹液を飲ませただけでございます。心臓はほとんど拍動せず、血はあの膿漿が混じってほとんど流れませぬ。目覚めることはないでしょう……庭園の生命の一部として、庭園の模糊《もこ》とした感覚を分かちあうようになるまでは。ご指示をお待ちしております。どの部分を用いましょうか。一つなりとも、いくつなりとも」
「トゥロネアーの手はきわめて熟練したものであった」アドムファが考えを口にしているかのように答えた。「愛の微妙なやりかたを心得て、あらゆる性愛の技巧を知っていた。手を残してほしいものだ……ほかはいらぬ」
特異な魔術の処置がなされた。トゥロネアーのほっそりした先細りの白い手が、手首からすっぱりと切り取られ、デダイムの一番上の二本の枝の切りつめられた青白い先端に、ほとんど縫合跡も残さずに接ぎ木ぎれた。これをおこなう際に、魔術師はこのような場合によくするように、地獄の植物の樹脂を使い、特定の地底の鬼神の面妖な力を何度も求めた。いまや嘆願するかのように、半ば植物の腕が人間の手をつけてアドムファのほうに伸ばされた。王はドウェルラスの園芸術に対するかつての興味を甦らせ、接ぎ木ぎれた植物のグロテスクでもあり美しくもあるありさまをまえにして、奇妙な興奮をおぼえた。それと同時に、精力を消耗しつくした歓楽の夜の熱情がふたたび王の肉体に生まれた……手には思い出があふれていたからである。
手を切り落とされたトゥロネアーの体がすぐそばに横たわっていることも、アドムファはすっかり忘れはてていた。ドウェルラスが急に動いたことで、アドムファは我に返り、処置のあいだぴくりとも動かなかった娘に、魔術師がかがみこんでいるのを見た。手首の切り口からはなおも血が流れだし、黒い土に溜っていた。ドウェルラスはあらゆる動きに尋常ではない活力を示し、細い腕を奴隷女にまわすと、易やすと抱きあげた。まだ終わっていない作業を再開する労務者さながらだが、墓として掘った穴に投げこもうとしてためらっているようだった。その穴に入れれば、地獄から引き寄せられた球体によって、季節を通じて暖かく照らされ、地中で腐敗してゆく死体が、おのれの手を接ぎ穂として具えたあの異常な木の根を育むのである。ドウェルラスは悩ましい死体を手放すのをしぶっているかのようだった。アドムファは物珍しそうにドウェルラスをながめ、背中や手足がよじれたドウェルラスの体から、圧倒的な悪臭のように流れる純然たる邪悪と堕落をはじめて知った。
おのれもありとあらゆる悪行に深く染まっていながら、王は漠然とした反感をおぼえた。王はドウェルラスをまじまじと目にして、かつて食屍鬼めいた振舞を見て愕然とした、忌わしい昆虫のことを思いだした。その昆虫をどのように石で叩きつぶしたかを思いだした……その記憶が甦ったことで、いつも王を同じように忽然と行動に駆りたてる、大胆にして突然の思いつきがひらめいた。そのようなことを考えて庭園に来たのではなかったと、王は自分にいい聞かせた。しかしその機会はいまを措いてほかにない完璧なものなので、見すごすわけにはいかなかった。魔術師はいま背中を向けていた。肉体美を誇る重い体を両腕で抱きかかえている。アドムファは鉄の鋤を掴みあげると、雄々しい海賊の祖先たちから受け継いだ戦闘に適した力をたっぷりこめて、ドウェルラスの小さな萎びた頭に叩きつけた。侏儒がトゥロネアーの体を抱いたまま、深い穴に落ちていった。
必要ならもう一度鋤を叩きつける構えを取って、王は待ったが、墓には何らの音も動きもなかった。超人的な力をもっているはずだと半ば確信していたので、恐るべき魔術師をあっけなく倒したことにかなり驚いた。おのれの無鉄砲さにもかなり驚いた。やがて勝利を知って安心すると、王はおのれの実験をしてもよいだろうと思った。よく観察していたことで、ドウェルラスの特異な技と知識の多くをわがものにしていると思った。ドウェルラスの首は庭園の植物の一つにとって、比類のない適切な接ぎ穂になるだろう。しかしながら穴を見おろしたとき、その考えを放棄せざるをえなくなった。そのような接ぎ木には人間の器官や部分が完全な状態でなければならないというのに、ひどく叩きつけたため、実験には使えないほどひどいありさまになりはてていたからである。
エミューの卵のようにたやすく砕ける、魔術師の頭蓋骨の思いがけない脆《もろ》さについて、うんざりしながら考えこみつつ、アドムファは穴を埋めはじめた。ドウェルラスの俯《うつぶ》せになった体とトゥロネアーの丸く縮こまった体は、ともにぐったりしていて、死体を分解する柔らかな土に埋もれてすぐに見えなくなった。王は内心ドウェルラスを恐れていたが、墓をしっかり踏み固め、まわりの土でなめらかにならしたときには、はっきりした安堵をおぼえた。
うまくやったのだと思った。魔術師はこのところ王の秘密を数多く知るようになっていたからである。それにドウェルラスの力は、自然から得たものであれ、隠微な世界から得たものであれ、王の永遠なる帝国や安定した統治と相容れるものではなかった。
U
アドムファ王の宮廷や海を望むロイテの都じゅうで、ドウェルラスの失踪がかなり取り沙汰されたが、さして詮議されることはなかった。かくも有益な厄介払いは、はたしてアドムファと魔王タサイドンのどちらのおかげなのかについて、意見は真っ二つに分かれた。そしてその結果、ソタルの王と七つの地獄の支配者は、ともにこれまでなかったほど恐れられ、かつ尊敬された。一晩とて眠ることなく、一千年間生きつづけているといわれ、あらゆる時間を冥府の闇の妖術と邪悪に費やしていたドウェルラスを倒せるのは、人間にせよ魔物にせよ、最も強い者しかいないからである。
アドムファはドウェルラスを葬ってから、まったく説明のつかないぼんやりした不安や恐怖の感情をおぼえて、鎖された庭園をふたたび訪れることがなかった。宮殿でのあられもない噂に冷ややかに笑みを浮かべ、新たな快楽や激烈もしくは珍奇な興奮をもたらすものを探しつづけた。しかしながらうまくいかなかった。常軌を逸したものやひねくれたものでさえ、ことごとく倦怠の隠された断崖にのみ通じるようだった。尋常ならざる性愛や残虐な行為、このうえもなく華麗なものや狂おしい音楽、遠隔の地に求めた花にふくまれる媚薬の効果を放つ吊り香炉、異国の娘の風変わりな形の乳房、こういったもののすべてに背を向けると、最も快い刺戟を与えてくれた女たちの魅力がドウェルラスによって授けられた、あの半ば生きている植物を、アドムファは改めて懐かしく思いだした。
そこである夜、宮殿やロイテの都が深い眠りにひたっている、月が沈んでから日が昇るあいだの刻限に、王は側女《そばめ》のそばを離れ、いまやおのれ以外のすべての者に隠されている庭園に行った。
狡猾なからくりを作動させる唯一のやりかたである、コブラの発するような音を立てると、アドムファのまえで扉が開き、通り抜けると閉じた。扉が閉じたばかりのときでさえ、訪れなかったあいだに特異な変化が庭園に起こっていることがわかった。宙に浮かぶ謎めいた球体が、激怒した魔物どもにあおられているかのように、以前よりも赤みを増した光で輝き、焼けるような熱を発していた。そして植物は異常なまでに高く聳え、以前よりも重たげな葉叢《はむら》に包まれて、真紅の地獄の熱い息吹めいた大気のなかで微動だもしなかった。
こうした変化が意味するものがよくわからず、アドムファはためらった。一瞬、ドウェルラスのことを考え、魔術師が果たした不可解な驚異や降霊の偉業を思いだして、ぞくっと身を震わせた……しかしおのれの手でそのドウェルラスを殺して葬ったのだ。球体のつのりゆく熱と輝き、そして庭園の過剰な成育は、自然の作用が狂ったことによるものにちがいなかった。
王は強い好奇心に囚《とら》われて、鼻孔を襲う陶然とした芳香を吸った。光に目がくらみ、目のなかに前代未聞の奇異な色があふれた。熱が地獄の夏の盛りから発するかのように、アドムファを襲った。声が聞こえるように思い、最初はほとんど聞きとれなかったが、すぐにはっきり発音されるつぶやきになって、この世のものならぬ甘美さでアドムファの耳を魅了した。それと同時に、ぴくりとも動かない植物のなかに、ヒンドゥの踊り子の半ば帳《とばり》に隠された手足が、つかのま見えたように思った。ドウェルラスは数多くの者の器官を接ぎ木しているので、誰のものなのかはわからなかった。
不可解な謎の魅力に引き寄せられ、模糊とした陶酔感に囚われて、王は地獄で生まれた迷宮のなかに入りこんだ。近づくと、植物がそっと後退し、王が通れるように道を空けた。植物の仮面舞踏会であるかのように、植物という植物が新しく茂った葉叢に人間の器官や部分を隠していた。やがてアドムファのすぐうしろで、植物が見せかけの仮面をはずして、アドムファの記憶にあるよりも奔放で異常な融合をしたありさまを見せたようだった。譫妄《せんもう》にあらわれるもののように、アドムファのまわりで次つぎに変化するので、どこまでが木や花で、どこからが男や女なのかもわからなかった。身悶えする葉叢の揺れや、淫蕩な手足や胴体の動きを、アドムファは次つぎに目にした。やがて知らぬまに変化が起こったようで、植物はもはや大地に根をおろさず、朦朧《もうろう》とした異様な足でアドムファのまわりを動き、途方に暮れるほどの奇怪な饗宴の踊り子のように、速度をあげて旋回しつづけた。
アドムファは植物でもあり人間でもあるものどもと競うようにぐるぐるまわり、ついには目眩《めくるめ》く狂気のような彼らの動きが、アドムファの頭脳のなかの眩暈《めまい》と同じくらいの旋回になった。嵐になぶられる森のざわめきとともに、戦士や顧問や奴隷や廷臣や去勢された男性歌手や寵姫《ちょうき》のおびただしい騒然たる声が聞こえ、アドムファの名を呼んだり、呪詛したり哀願したり、嘲《あざけ》ったり諫《いさ》めたりした。これらすべての上で、赤い球体がさらに明るさと有害な輝きを増して燃えあがり、もはや堪えきれぬほどの高熱を発していた。庭園の生命のすべてが目覚めて恍惚として燃えあがり、地獄めいたものの完成に向かっているかのようだった。
アドムファ王はドウェルラスやその暗黒の魔術にまつわる記憶をことごとく失った。地獄から昇った球体の激情が意識のなかで燃えあがるまま、おのれを取り巻く朦朧とした姿のものどもの目眩く動きや恍惚を分かちあっているように思った。血のなかに狂った膿漿が上ってきて、これまで知ることも想像することもなかった快楽のさまざまな情景が目のまえにあらわれた。人間の情感の定められた限界を越える快楽だった。
するうちに、その旋回する千変万化の光景のただなかに、棺の蓋の錆びついた蝶番がきしるような、耳ざわりな声が聞こえた。言葉は理解できなかったが、静止の呪文が口にされたかのように、庭園全体がたちまち深閑として、葉叢に隠される姿にもどった。王は茫然として立ちつくした。声がドウェルラスのものだったからである。困惑し、うろたえてあたりを見まわしたが、さかんに葉を茂らせる静止した植物があるだけだった。目のまえには、どうにかデダイムとわかる木が聳えていたが、丸く膨らんだ幹と伸びた枝には、黒い毛のようなものが生えていた。
デダイムの一番上にある二本の枝が、きわめてゆっくりと音もなくさがってきて、アドムファの顔と同じ高さになった。葉叢からトゥロネアーのほっそりした先細りの手があらわれ、王がまだよくおぼえているあの愛の技巧でもって、王の頬を愛撫しはじめた。その瞬間、デダイムの幹の広くて平たい梢《こずえ》で、びっしり生えた毛のようなものが分かれるのが見えた。そしてそこから、曲がった肩から聳えるかのように、ドウェルラスの小さな萎びた首があらわれて、アドムファに対峙した。
砕かれて血のこびりついた頭骨、長の歳月を閲《けみ》しているかのように萎びて黒ずんだ顔、そして魔物どもに吹かれる燠《おき》のように暗い眼窩で輝く目を、アドムファは恐怖のあまり虚ろに見つめたが、まわりじゅうからおびただしい者たちが身を投げだしてくるという、いかさま混乱した印象を受けた。狂った接ぎ木と魔術による変容がおこなわれたその庭園には、もはや木は一本もなかった。アドムファのまわりの熱い大気のなかに、アドムファがよくおぼえている顔という顔が漂った。それらの顔はいまや悪意のこもる怒りや復讐を果たしたい欲望で歪んでいた。ドウェルラスのみが考えられる皮肉によって、トゥロネアーの柔らかな指がアドムファを愛撫しつづけるなか、アドムファは無数の手に衣服がずたずたに破られ、爪で体が引き裂かれるのを感じた。
[#改丁]
蟹の支配者
[#改ページ]
ミオル・ルミウィクスに起こされたとき、わたしは少し文句をいったとおぼえている。昨夜はお馴染みの不快な寝ずの番をおこなう退屈な夜で、ついうとうとすることがよくあった。太陽が沈んでから、その季節では真夜中をかなり過ぎたころに起こる、蠍《さそり》座が没する時まで、スカラベをゆるやかに濃く煎《せん》じるのが、わたしに課せられた務めだった。一番よく求められる媚薬をつくる際に、ミオル・ルミウィクスが大層好むやりかたである。液体を煮詰めるには、温浸炉の炎を一定にして、ゆっくりしすぎても早くしすぎてもならない。ミオル・ルミウィクスはそうするようにとわたしによく注意し、だいなしにしたといってわたしをののしったことが何度もあった。したがって小さな孔を開けた鮫皮によって、煎出物が無事に三倍の濃度になるまで、わたしは眠気には屈しなかった。
師匠は普段よりも寡黙《かもく》になって、早めに自室に引きあげていた。何かに頭を悩ませているのがわかったが、わたしは疲れすぎてろくに考えることもできず、たずねる勇気もなかった。
わたしは鼓動が数回するあいだしか眠らなかったようだ――そのとき師匠がランタンの黄色の光をわたしの顔に突きつけ、わたしを藁《わら》蒲団から引きずりだした。その夜ふたたび眠れないことがわかった。師匠は角が一本ついた帽子をかぶり、外套《がいとう》にしっかり紐を結び、歳月と数多くの魔術師の手によって黒ずんだ、なめされていない鮫皮の鞘《さや》に入れて、古びた魔法の剣を腰帯に吊していたからである。
「怠け者のせいで頓挫するのだ」師匠が叫んだ。「マンドラゴラを喰らった牝豚の子め。終末の日々まで寝穢《いぎたな》く眠りこけるつもりか。急がねばならんのだ。サルカンドがオムウォルの地図を手に入れ、ひとりで波止場に行ったそうだからな。神殿の財宝を探しにいくつもりだ。既に多くの時間を失っているのだから、わしらはすぐにあとを追わなければならん」
急を要することだとわかったので、わたしはそれ以上文句をいわずに起きて、手早く身繕《みづくろ》いをした。最近ミロウアネの街にやってきたサルカンドは、早くも師匠の競争相手のなかで最も手強い人物になっていた。西の陰気な海のただなかにあるナートの生まれで、その島の妖術師が中央部の山脈の彼方に住む食人族の黒人女に生ませた子だといわれている。母親の残忍な性格と父親の凶まがしい降霊の術をあわせもち、ミロウアネに落ちつくまえに東方の王国を旅してまわり、怪しい知識や名声を身につけるにいたった。
失われた時代にさかのぼる素晴しいオムウォルの地図は、何世代にもわたって魔術師が見つけることを夢に見ているものである。オムウォルはなおも名高い古代の海賊であって、不遜な無分別の偉業を見事になしとげた。盗みとった神殿の屋形船で、祭司に身をやつしたわずかばかりの部下ととともに、厳重に警護された河口域を夜にさかのぼり、ファラードの月の神の神殿を荒らして、宝石、黄金、祭壇の器、護符、聖遺物箱、恐ろしい古《いにしえ》の魔術書とともに、多数の生娘を運び去った。祭司たちもあえて筆写することをしていなかったので、魔術書が最大の損失だった。埋もれた太古の知識を含む、かけがえのない無類のものだった。
オムウォルの離れ業は数多くの伝説を生み出した。オムウォルとその手下と略奪された生娘は、二隻の二本マストの小型帆船で西の海に姿を消してしまったのである。容赦ない速さでナートの彼方の世界の果てに流れるという恐ろしい海流、黒い河に囚《とら》われたのだと信じられている。しかし最後の航海のまえに、オムウォルは奪った財宝を船からおろし、その隠し場所を示した地図をつくった。この地図は歳を取って航海ができなくなったかつての仲間に与えられた。
いまだ財宝を見つけだした者はいない。しかし地図は長い歳月を経ても現存し、月の神の神殿の略奪品と同様に、どこかに安全に隠されているという。最近になって、父から相続した船員らしき者が、地図をミロウアネにもたらした。ミオル・ルミウィクスはサルカンドや街の他の魔術師たちがこの男を探していることを知り、人間や人間以上の存在を使って見つけようとしたが、はかばかしい成果は得られなかった。
わたしはこれだけのことを知っていたが、命じられたように、数日間の旅に必要な糧食をあわただしく集めていると、師匠が多くを語ってくれた。
「わしは鶚《みさご》が巣を見張るようにサルカンドを監視していた」師匠がいった。「わしの使い魔どもによると、サルカンドは地図の持主を見つけ、盗賊を雇って盗ませようとしたらしいが、それ以上のことはわからなかったそうだ。わしの使い魔の猫が窓から覗きこんだが、サルカンドが魔術で自在におのれを包みこむ、甲|烏賊《いか》の墨のような闇に阻《はば》まれてしもうた。
「そうするよりほかに仕方がなかったので、今晩は危険なことをした。深い昏睡を引き起こす紫色のデダイムの樹液を飲み、わしの第二霊を精霊に守られるサルカンドの部屋に投影したのだ。精霊どもはわしがいるのを知って、炎や影の形でわしを取り囲み、いいようもないやりかたで威嚇した。わしを阻み、追いやろうとしたが、わしは十分に目にした」
師匠が話をやめて、これまで許さなかったというのに、師匠のものと似てはいてもそれほど古いものではない、聖別された魔法の剣を帯びよと命じた。このころには必要な飲食物を集めて、たやすく肩に掛けられる強い漁網に収めおわっていた。この漁網はもっぱらある種の海の爬虫類を捕えるために使用するもので、ミオル・ルミウィクスはそれら爬虫類から特異な効能をもつ毒を抽出するのである。
すべての戸締まりをして、海に向かう曲がりくねった暗い通りに入ったとき、師匠が話をふたたびはじめた。
「わしが入ったとき、ひとりの男がサルカンドの部屋から出ていった。黒いアラス織りの掛け布が開いて閉じるまえに、一瞬目にしただけだが、また会えばわかる。若くて肉付きがよく、ふっくらしていても力強い筋肉を具え、女のような顔につりあがった細い目があり、南の島の男のような黒ずんだ黄色い肌をしていた。船員の足首を包む編上靴と短い半ズボンを身につけているだけだった。
「サルカンドは半ば背中を向けて、船員の顔のように黄色いパビルスを広げ、あの邪悪な四つの角があるコブラ油のランプに掲げていたぞ。ランプは食屍鬼の目のようにぎらついていた。しかしわしは魔物どもに追い払われるまえに、サルカンドの肩ごしに……十分に見た。パビルスはまさしくオムウォルの地図であった。歳月を経てごわごわして、血や海水の染みがあった。しかし標題と趣旨と名称は、現代ではほとんど読める者もおらぬ古の書体で記されていたが、まだはっきりと読めた。
「ゾティーク大陸の西の海岸とその彼方の海が示されていた。ミロウアネの真西に位置する島がまさしく財宝の隠し場所だ。地図には蟹《かに》の島と記されていたが、明らかにいまではイリボスと呼ばれている島にほかならない。めったに訪れる者もないが、船で二日のところにある。あたり一帯には、荒涼とした岩や小さな環礁《かんしょう》がいくつかあるほかは、百リーグの範囲内の北にも南にも島はない」
ミオル・ルミウィクスはわたしを急がせながら話をつづけた。
「わしはデダイムによる昏倒からあまりにも遅く目覚めた。わしが達人でなかったなら、目覚めることはなかっただろうな。
「サルカンドがちょうど一時間前に家を離れたと、使い魔が警告してくれた。サルカンドは旅の支度をして、波止場に向かったのだ。しかしわしらは追いつく。サルカンドは財宝を秘密にしておきたがっているので、イリボスにはひとりで行くはずだ。強くて恐ろしい男だが、サルカンドの使う魔物は大地に縛られているため、海を渡ることはできぬ。サルカンドは魔術の半分とともに魔物どもを残していった。これからのことは恐れなくてよいぞ」
波止場はなおもほとんど無人で、わずかばかりの船員が旅籠《はたご》のきつい葡萄酒やアラック酒に酔いつぶれ、眠りこんでいるだけだった。遅く昇った細い新月刀のように鋭い弧を描く月のもとで、わたしたちは舟の艫綱《ともづな》を解き、師匠が舵柄を掴み、わたしが肩を丸めて幅の広い櫂《かい》を操って出発した。このようにしてあの古代からある港にひしめく三本マストの小型帆船やガレー船、平底荷船や大型平底船や三角帆のあるフェルッカ船が造りだす迷路を抜けていった。高い三角帆をそよがせもしないどんよりした大気は海の香に満ちて、荷を満載した漁船の悪臭や異国の荷物の芳香が混じっていた。
わたしたちの舟は小さくて屋根もないが、東方の木麻黄《もくまおう》材で頑丈に造られていた。舳先《へさき》は鋭く、龍骨は深く、舷墻《げんしょう》は高く、いまの季節では案ずることのない大嵐でも堪えられることが証明されていた。
わたしたちの舟が港をあとにすると、畑と果樹園と砂漠の王国であるミロウアネから、さわやかな風が吹いてきた。風は次第に強くなり、帆がドラゴンの翼のように膨れあがるまでになった。鋭い舳先の両側に泡立つ水脈《みお》が高く弧を描くなか、わたしたちは山羊座を目印に西に向かった。
遠く海に乗り出してぼんやりした月影に照らされていたとき、何かが亡霊のように踊ったり揺らいだりしているように思えた。おそらくサルカンドの舟……あるいは別の船だろう。師匠もこれを見たにちがいないが、こう告げただけだった。
「眠ってもよいぞ」
そこで、わたし、弟子のマンタルは、眠りについたが、ミオル・ルミウィクスは舵を取りつづけ、山羊座の角と蹄《ひづめ》が海に没した。
わたしが目覚めたとき、太陽は船尾側に高く昇っていた。風はまだ吹いていて、強い順風が衰えることのない速度でわたしたちを西に進ませていた。ゾティークの海岸線が見えないところに達していた。空には一片の雲もなく、帆の見あたらない大海原は、くすんだ青の巨大な巻物のように広がって、生まれては消える白波が見えるだけだった。
日が傾いて、まだ何もない水平線の彼方に沈んでいった。星座や星が縫いこまれた、天をも覆いつくす神々の紫色の帆のように、夜が訪れた。その夜も終わり、また朝になった。
こんなあいだも師匠は一睡もせずに舵を操り、盗賊鴎のようにぎらつく目を西に向けていた。わたしは師匠の耐久力に感嘆した。師匠は舵柄のそばに坐って、しばし眠った。しかしその目はなおも瞼《まぶた》の奥から見つめているようで、手は力を抜くことなくしっかり舵を掴んでいた。
数時間後に師匠が目を開けたが、眠っていたときの姿勢からほとんど動かなかった。
師匠はこの船旅のあいだろくに話をしなかった。必要なことはしかるべきときに話してもらえるとわかっているので、わたしから問いかけることはしなかった。しかし好奇心がみなぎり、未熟者でない者をさえ怖気づかせる降霊術をふるうサルカンドについては、恐怖や不安を感じないわけではなかった。師匠が何を考えているかについては、暗澹《あんたん》たる深遠なことにかかわっているというほかには、推測することもままならなかった。
出発してから三度目に眠ったあと、わたしは師匠が大声で叫ぶ声で目覚めた。三度目の夜明けの朦朧《もうろう》とした光のなかで、島が目のまえに聳《そび》え、ごつごつした崖や岩がのしかかり、南北数リーグにわたって海をさえぎっていた。どことなく北を向いた怪物のような形をしていた。頭は高い角のある岬で、グリュプスめいた嘴《くちばし》を海に浸していた。
「これがイリボスだ」師匠がいった。「このあたりでは不思議な潮や危険な流れがあって、海が荒れている。こちら側に上陸場所はなく、近づこうとしてはならんのだ。北の岬にまわらなければならん。西の崖のなかに小さな入江があって、海の洞窟を抜けていくしかない。財宝があるのはそこだ」
わたしたちは島から弓の射程距離の三、四倍あるところで、巧みに風に逆らって、ゆっくり上手回しに北に向かった。前進するには操船の伎倆《ぎりょう》をつくさなければならなかった。悪魔が吹いているのではないかと思えるほど、風が激しく吹き荒れていたからである。風の唸りをしのいで、白波からそそりたつむきだしの恐ろしい岩に打ちあたる、凄まじい波のどよめきが聞こえた。
「この島に住む者はおらん」ミオル・ルミウィクスがいった。「船員や海鳥さえもが忌避している。海の神が遠い昔に呪いをかけ、深海の生物を除くあらゆるものが近づくのを禁じたという。入江や洞窟には蟹や蛸《たこ》がはびこっている……おそらく奇怪なものも存在するのだろうな」
わたしたちはのろのろと蛇のようにくねくね進み、邪悪な魔物のように邪魔をする突風にあおられて、押しもどされたり、危険なほど岸に近づいたりすることもあった。太陽が東に昇り、荒寥《こうりょう》とした岩と崖の島イリボスをくきやかに照らした。
なおもわたしたちは上手回しや下手回しで舟を進めた。そしてわたしは師匠が妙に不安そうにしているのを感じるようになった。しかしこれについては、たとえそうだとしても、師匠はそんな素振りをあからさまに見せはしなかった。
北の岬の長い先端部をようやくまわりこんだときには、正午近くになっていた。そこで舳先を南に転じると、風が不気味にもはたと止み、海が魔術師の油のように信じられないほど穏やかになった。鏡面のような海で、帆はだらりと垂れて使いものにならず、海面に映る舟やわたしたちの姿が、怪物めいた島の不変の鏡像のなかで、そのまま動けずに永遠に留まりつづけるように思えた。わたしたちは櫂で漕ぎはじめたが、そのようにしても舟はごく緩慢に進むだけだった。
わたしは舟を進めながら島を観察して、舟を容易に近づけられる入江がいくつもありそうなことに気づいた。
「ここには多くの危険がある」ミオル・ルミウィクスはそういっただけで、詳しく語ってはくれなかった。
わたしたちが櫂を漕いでいると、またしても崖が壁のようにそそりたち、亀裂や割れ目があるだけだった。ところどころの頂きに弔《とむら》いの色をした植物がまばらに生えていたが、島の不気味な姿を和らげるにはいたらなかった。大きく裂けた岩の高みに、自然の潮や嵐がもたらしたとは思えないのに、古びた船の円材や材木が散らばっていた。
「島に近づけろ」師匠がいった。「隠れた入江に通じる洞窟が近いぞ」
静まり返った海で島のほうに舟を向けるや、忽然としてまわりの海面が騒ぎだし、何か怪物でも浮上してきたかのようだった。舟が垂球のような速さで崖に突き進みはじめ、クラーケンが洞窟の巣にわたしたちを引きずりこもうとするかのように、まわりの海は激しく泡立って流れていた。瀑布《ばくふ》に流される葉のように、わたしたちはなすすべのない流れに逆らって、虚しく櫂を漕ぎつづけた。
波が一瞬大きくうねり、岩棚も足場もない登攀《とうはん》不可能な崖が頭上の空を隠した。次の瞬間、その切り立った岩壁に、いままで見えなかったというのに、低い天井が湾曲した幅広い洞窟の入口があらわれ、舟は恐ろしい速さで引き寄せられていった。
「入口だ」師匠が叫んだ。「しかし不思議な潮があふれているぞ」
わたしたちは入口に近づくと、役に立たない櫂を舟に引きあげ、漕手座のうしろにうずくまった。高く造られた舳先が通るのもやっとというほど、天井が低かったからである。帆柱を檣座《しょうざ》から抜き取る時間もなく、速度がゆるむことなくやみくもに闇のなかに突進したとき、帆柱はたちまち葦《あし》のように折れた。
円材の重みが加わった帆が落ちてきて、気を失いそうになりながらもがきでたとき、冷たい水を体じゅうに感じて、舟が水浸しになって沈んでいるのがわかった。すぐに水は耳や目や鼻孔に入ってきたが、沈んで溺れかけながらも、速やかに舟から出ようとする意識はまだあった。そのとき息詰まる闇のなかで、わたしの体に腕がまわされたような気がした。わたしは急に日差しのなかに出て、喉を詰まらせ、あえぎ、吐いた。
肺に入った水を出して、意識がはっきりすると、ミオル・ルミウィクスとわたしは半月形の小さな入江に浮かんでいて、陰気な色のそそりたつ岩やごつごつした岩角に取り巻かれていた。すぐ近くの絶壁に、謎めいた流れがわたしたちを運んだ洞窟の出口があって、まわりに広がるかすかな波紋がしだいに消えていき、翡翠《ひすい》の大皿のように緑色のなめらかなものになった。入江の奥にはなだらかな傾斜の長い弧を描く浜辺が広がり、岩や流木が点在していた。わたしたちのものに似た舟が、帆柱をはずし、鮮血の色をした帆を帆柱に巻きつけた状態で、浜辺に繋がれていた。その近くの浅瀬に、別の舟の折れた帆柱が突き出し、沈んだ舟の輪郭はぼんやりとしか見えなかった。浜辺に沿った少し奥の浅瀬に、人間とわかる二つの体が半分水に浸かって横たわっていた。距離があるので、生きているのか死んでいるのかもわからなかった。黄色がかった茶色の奇妙な掛け布めいたものに体の輪郭が半ば隠され、それが岩のあいだに伸びて、絶え間なく動いたり揺れたりしていた。
「ここには謎がある」ミオル・ルミウィクスが低い声でいった。「油断なく気を配って進まなければならんな」
わたしたちは防波堤に出会う三日月の先端のように細くなった、浜辺の一番近い端まで泳いだ。師匠は剣を鞘から抜き、外套で拭いて乾かすと、海水で腐蝕することのないように、わたしの武器も同じようにしろと命じた。そしてわたしたちは魔術師の剣をそれぞれ衣服のなかに隠すと、幅が広くなっていく浜辺をたどって、係留された舟と横たわる二つの人影に向かって進んだ。
「まさしくここがオムウォルの地図の場所だ」師匠がいった。「血のように赤い帆を備えた舟はサルカンドのものだ。岩のあいだに隠れた洞窟を見つけたにちがいない。しかしこの二人は何者なのか。サルカンドとともに来たとは思えぬが」
近づくと、二人を半ば覆っている黄色がかった茶色の掛け布と見えたものが、実際には何であるかが明らかになった。おびただしい数の蟹が、半ば水に浸かった体の上を這いまわり、大きな岩の背後でぞろぞろ動いていた。
わたしたちはまえに進んでかがみこみ、蟹が忙《せわ》しげに体の肉を少しずつつまみとっているのを見た。一方の死体は俯《うつむ》せで、もう一方は半ば喰われた顔を太陽にさらしていた。皮膚というよりも皮膚の名残は、黒ずんだ黄色をしていた。二人とも短い紫色の半ズボンと船員の編上靴を身につけているだけで、それ以外は裸形だった。
「いったいこれはどういうことだ」師匠がいった。「この二人は死んだばかりだぞ――それなのに既に蟹に引き裂かれている。こういう生物は死体が腐敗して柔らかくなってから喰らうものだというのに。それに、見ろ――引き裂いて喰っているのではなく、引き裂いたものを運んでいるではないか」
まさしくそのとおりだった。蟹がそれぞれ肉片を掴んで死体から離れ、列をつくって岩の背後に姿を消していった。そのあいだにも、鋏《はさみ》に何も掴んでいない別の行列がやってきた。おそらくもどってきたのだろう。
「どうやら」ミオル・ルミウィクスがいった。「仰向けになっているのは、わしがサルカンドの部屋を立ち去るのを見た船員だろう。サルカンドに頼まれて、持主から地図を盗みとった盗賊だ」
わたしは恐怖と嫌悪のあまり、石を掴んで、死体から離れようとする蟹を叩きつぶそうとした。
「やめろ」師匠がわたしを制した。「あとをたどってみよう」
岩が山をなしているところをまわりこむと、二列になった蟹がそれまで見えなかった洞窟の入口を出入りしていた。
わたしたちは剣の柄を握り締め、油断なく気を配って洞窟に近づき、少し手前で立ち止った。しかしながらこの位置からは、蟹の列のほかには何も見えなかった。
「入るがよい」朗々と響く声が何度も反響して遠ざかっていき、食屍鬼の声が深い地下納骨所で響いているようだった。
妖術師サルカンドの声だった。師匠が細めた目に警告をこめてわたしを見つめ、わたしたちは洞窟に入った。
円蓋のような天井は高く、どれほどの広がりがあるのかはよくわからなかった。光は頭上の天井の亀裂から射し入っており、この時刻では太陽の光が斜めに射して、洞窟の前面を金色に照らし、その向こうの闇のなかにある大きな牙めいた鍾乳石《しょうにゅうせき》や石筍《せきじゅん》を浮かびあがらせていた。片側には池があって、闇のなかのどこかにある泉の水がせせらぎとなって流れこんでいた。
斜めに射す光を浴びて、サルカンドが上体を起こして寝そべっていた。背後には歳月によって黒ずんだ青銅の箱があって、蓋が開かれていた。サルカンドの黒檀《こくたん》のように黒い巨体は、いささか肥満の傾向があるとはいえ、たくましい筋肉がついていて、どれも千鳥の卵ほどの大きさがある鋼玉の首飾りを喉に垂らしている以外は、ほとんど裸形も同然だった。真紅の腰布が妙にぼろぼろになって、洞窟の小石のなかに伸ばされた足をほぼむきだしにしていた。右足は膝の下のどこかを骨折したらしく、流木を副木《そえぎ》にして、腰布から破りとった布で縛りつけていた。
サルカンドの瑠璃《るり》色の絹の外套がかたわらに広げられていた。そこには研磨された宝石や護符、金貨や装身具にあふれた祭壇の器が散乱して、数多くの羊皮紙やパビルスのなかで燦然《さんぜん》と輝いていた。脇に置かれたばかりであるかのように、黒い金属の表紙のついた本が開かれて、赤い古代のインクで描かれた図を見せていた。
本のそば、サルカンドの手が届くところに、血まみれの肉片が山をなしていた。外套の上にも、金貨や巻物や宝石の上にも、引き裂いた肉片を鋏で掴む蟹が列をなして進み、肉片の山に積みあげては、また列をつくって洞窟の外へと向かった。
サルカンドの祖先にまつわる話を信じることができた。事実、サルカンドは母親似であるらしい。顔つきも髪も、肌の色と同様に、旅行記の図版で見たことのある、ナートの食人族の黒人のものであるからだ。サルカンドは腕組みをして、うかがい知れない表情を浮かべてわたしたちに直面した。わたしは右手の人差し指で大粒の緑柱石が暗く輝いているのに気づいた。
「おまえがあとを追ってくるのはわかっていた」サルカンドがいった。「盗賊とその仲間が追ってくるのがわかっていたようにな。おまえたちはおれを殺して、宝を奪うつもりだろう。確かにおれは負傷した。宝箱を開けて調べていたとき、ゆるんだ岩が洞窟の天井から落ちてきて、足の骨が折れたのだ。骨がつくまで、ここに横たわっていなければならん。それまでのあいだ、おれはよく武装して……よくかしずかれ、守られている」
「わしらは財宝を奪いにきた」ミオル・ルミウィクスがあけすけにいった。「おまえを殺すつもりだったが、それは男対男、魔術師対魔術師の正当な戦いで、わが弟子マンタルとイリボスの岩を目撃者にしておこなうつもりだ」
「ほう、おまえの弟子も魔法の剣を帯びているではないか。まあ、たいしたことではないがな。ミオル・ルミウィクスよ、おれはおまえの肝を喰らって、おまえの妖術の力をわがものにして強くなってみせよう」
師匠はこれを無視したようだ。
「いかなる妖術をふるっているのだ」師匠はなおも肉片を運んでいる蟹の列を指して、鋭くたずねた。
サルカンドが手をあげ、人差し指の大粒の緑柱石を輝かせた。その緑柱石が嵌《はま》っている指輪は、クラーケンの触腕が珠《たま》のような宝石を掴んでいるとわかった。
「この指輪を財宝のなかに見つけた」サルカンドが自慢した。「未知の金属の円筒に、指輪の使い方と強力な魔術を認《したた》めた巻物とともに収められていたのだ。海の神バサタンの印形付き指輪だ。この緑柱石を長く深く見つめる者は、遠くの情景や出来事を自在に見ることができる。指輪を帯びる者は、指で宙に印を描くことで、海の流れや風、海の生物を意のままに操れる」
サルカンドがしゃべっているあいだにも、海の神秘と弘大さを望む小さな窓のように、緑の宝石が妙に明るくなったり暗くなったりしているように思えた。わたしは魅せられて陶然としてしまい、目下のありさまを失念してしまった。宝石がわたしの目のまえで大きくなっていき、輝く緑の広がりの奥で潮や黒い鰭《ひれ》や触腕のようなものが渦を巻き、サルカンドの黒い姿をかき消してしまったからである。
「気をつけろ、マンタル」師匠がわたしの耳もとでつぶやいた。「わしらは恐るべき魔術に直面しているのだから、もてる力をすべて保っておかなければならんぞ。緑柱石を見るな」
わたしはぼんやり聞こえた囁きにしたがった。いままで目にしていたものが小さくなって速やかに消え、サルカンドの姿があらわれた。サルカンドが分厚い唇を歪めて冷笑を浮かべ、鮫のように先の尖ったたくましい白い歯を見せた。バサタンの印形付き指輪をはめている大きな手をおろし、背後の大箱に突っこむと、真珠、蛋白石、鋼玉、血玉髄、金剛石、変彩石といった多彩な宝石を掴みだした。これらを指のあいだから輝く流れのようにこぼしつつ、仰々しくしゃべりだした。
「おれはおまえよりも何時間も早くイリボスに到着した。洞窟の入口は引き潮のときに帆柱を抜くまでもなく安全に入れることを知っていた。
「いうまでもなく、おまえは察していただろうがな。ともかくその知識もおまえとともにすぐに失われる。
「おれは指輪の使い方を知ってから、宝石によってイリボスを取り巻く海を見ることができた。足を骨折してここに横たわりながらも、盗賊と仲間がやってくるのを見た。奴らの舟を水にあふれた洞窟に引きこむ流れを起こし、速やかに沈めた。奴らなら、泳いで浜辺にたどりついただろうが、おれに命じられて、浜辺の蟹が奴らを水中に引きずりこんで溺れさせ、潮に流されて浜辺に打ちあげられるようにした……呪わしい盗賊め。地図を盗むのにたんまり金を支払ってやったというのに、無知なあまり読むこともできぬくせに、宝の隠し場所だと察するとはな……
「そのあとかなりしてから、しばらく逆風や無風で遅れさせたあと、おまえを同じやりかたで捕えた。しかしながらおまえには溺死以外の運命を用意してある」
降霊術師の声が大きな反響を起こして消え、堪えがたい緊張のみなぎる沈黙が垂れこめた。わたしたちはサルカンドの目と指輪の魔力ある宝石にのみ照らされる、悍《おぞま》しい暗黒の場所で、未知の深淵のなかにいるようだった。
わたしを捕えた呪縛が師匠の冷笑によって破られた。
「サルカンドよ、おまえが口にしなかった別の妖術があるな」
サルカンドの笑い声は高まる波の唸りのようだった。「おれは母の民の慣習にしたがう。蟹は海の神の指輪によって命じられ、おれが必要とすることを果たすのだ」
サルカンドはそういうと、片手をあげて、指輪が旋回する珠のようにきらめく人差し指で、宙に特異な印を描いた。二列になって進んでいた蟹が、つかのま動きを止めた。そしてただ一つの衝動に駆られたかのように、わたしたちのほうに押し寄せはじめ、洞窟の入口や奥からも続々と蟹があらわれて、速やかに数を増していった。蟹は信じられないほどの速さで押し寄せ、魔物に取り憑かれているかのように、短剣のように鋭い鋏で踝《くるぶし》や向こう脛に攻撃した。わたしはかがみこんで、剣で叩いたり払ったりしたが、このやりかたで数匹始末しても、そのかわりに数十匹に襲われるのだった。外套のへりを掴んだ蟹が登りだして、背中が重くなった。そのようにおびただしくたかられて、すべりやすい地面で足場を失い、這いまわる蟹の群のなかに仰向けに倒れこんでしまった。
そうして横たわり、蟹が泡立つ波のように群がってきたとき、師匠が蟹のついた外套を脱ぎ捨てた。そして呪文で引き寄せられた蟹の軍勢が仲間の背中伝いに膝や太股に登って、なおも襲いつづけるなか、師匠は不思議な円形の動きで、魔法の剣をサルカンドのあげた手に向かって投げつけた。剣が明るい円盤のように旋回して、まっすぐ飛んだ。降霊術師の黒い手が手首からすっぱり断ち切られ、人差し指の指輪がきらめいて、流れ星のように落ちた。
手のなくなった手首から大量の血がほとばしり、サルカンドはつかのま魔術をふるう素振りをしたが、茫然自失のありさまになった。そして腕がだらりとさがり、血が広げられた外套に流れて、速やかに宝石や金貨や巻物に広がり、蟹が運んだ肉片の山も赤く染めた。腕の動きが別の合図であったかのように、蟹が師匠とわたしから離れ、おびただしい長い列をつくってサルカンドに向かった。蟹がサルカンドの足を覆いつくし、大きな胴体に登り、そびえる肩に攀《よ》じ登った。サルカンドは片手で蟹を払いのけながら、恐ろしい呪いの言葉を発し、それが数えきれないほど洞窟に谺《こだま》した。しかし蟹はなおも魔物の狂気に駆られているかのように襲いつづけた。蟹のつけた傷から大量の血が流れ、真っ赤な川になって鋏や甲羅を赤く染めた。
師匠とわたしはかなり長いあいだながめていたようだ。ようやくサルカンドだったものの倒れこんだ体が、びっしり覆いつくす生ける屍衣の下で身悶えするのをやめた。忌わしくも喰いつづける蟹がふれずにいるのは、副木をあてられた片足と、まだバサタンの指輪をはめている切り落とされた手だけだった。
「ふん」師匠がいった。「サルカンドはここに来たとき、魔物どもを残してきたが、別の魔物を見いだしたようだな……わしらは太陽のもとを歩くとしよう。不器用な弟子のマンタルよ、浜辺で流木を集めて火をおこせ。惜しまずに石炭をたっぷり使い、地獄の炉のように熱く赤く燃えあがらせて、蟹を焼くのだ。ただし注意して、海からあがってきた蟹だけを選ぶのだぞ」
[#改丁]
モルテュッラ
[#改ページ]
三角州の街ウムブリで、いまや年代記よりも伝説よりも遙かに老いて、石炭のように赤い衰退の星となっている、あの太陽が沈んでから、まばゆいばかりの明るい光が輝いた。最も明るくまばゆいのは、老境に入った詩人のファムルザの館を照らす灯りで、ファムルザはアナクレオーン風の酒と恋の詩によって豊かになり、友人や追従者のために飲めや歌えの大騒ぎで散財しているのだった。この館の前廊や廊下や部屋には、雲一つない大空の星のように、灯心を油に浸したクレシットがふんだんにあった。客たちの気まぐれな濡れ事のために設けられた、アラス織りの掛かる壁龕《へきがん》に垂れこめるものを除き、あらゆる影を追い払いたがっているようだった。
そのような濡れ事を燃えたたせるために、種々の葡萄酒、強壮剤、媚薬があった。衰えた精力を強める肉料理や果実があった。性の快楽を刺戟したり長引かせたりする不思議な異国の薬があった。半ば隠された壁龕には猥褻な彫像があり、壁には獣との性愛や人間あるいは超人との情交を描いた壁画があった。あらゆる性の歌手が雇われ、それぞれ異なった性愛の詩を歌った。そしてこういったもののすべてが首尾をあげられないとき、疲弊した感覚を回復するために目論《もくろ》まれた姿勢を取る踊り子がいた。
しかしこうした扇動のすべてに対して、ファムルザの弟子で、名高い詩人にして放蕩者であるウァルザインは、まったく心を動かされなかった。
ウァルザインはほとんど嫌悪に近い無関心さで、片手に半分空になった杯をもち、通りすぎていく華やかな者たちを片隅からながめ、恥じらいがないのか酔っているのか、人目につかない戯れの場を探そうともしない男女から目をそむけた。突然の飽満に襲われていた。さほどまえのことではないが、歓喜をみなぎらせてのめりこんでいたというのに、葡萄酒や肉体の酩酊に妙に気乗り薄になっているのを感じた。深まりゆく別離の海の彼方にある、異国の岸に立っているような気がした。
「何をもってすれば、君を癒せるのかな、ウァルザイン。吸血鬼に血を吸わせてみたか」髪が灰色になり、やや肥満して顔を赤らめたファムルザが、すぐそばに立っていた。愛情たっぷりにウァルザインの肩に手をあてると、淫らな彫刻のされた大きな杯を掲げて飲んだ。ウムブリで遊蕩に耽る者がよく好む麻薬入りの蒸留酒やきつい酒を避けて、葡萄酒だけを飲むことにしている。
「癇癪《かんしゃく》でも起こしているのか。それとも片思いか。どちらの場合でも、ここには癒すものがあるぞ。薬の名前をいいさえすればよい」
「わたしが患っているものを治せるものはありません」ウァルザインがいった。「愛についていえば、相手に思われようが思われまいが、気にしなくなりました。酒を飲んでも、澱《おり》を口にするばかりです。口づけをしているときでも、倦怠に襲われます」
「いかにも憂鬱症だな」ファムルザの声には気づかいがあった。「君の最近の詩をいくつか読んだよ。墓や櫟《くぬぎ》、蛆《うじ》や幽霊や肉体をもたない恋人のことばかり書いているな。疝痛《せんつう》が起こりそうだ。君の詩を一つ読むたびに、まともな葡萄酒が少なくとも半ガロンは必要だよ」
「最近になってはじめてわかったのですが」ウァルザインがいった。「わたしの心には、見えざるものへの好奇心や、物質界を超越したものへの憧れがあるのです」
ファムルザが同情するように首を振った。「わしは君の倍の歳だが、目にし、耳にし、手でふれるものに、まだ満足しておるぞ。肉汁たっぷりの肉、女、葡萄酒、響き渡る声の歌手、わしはそれで十分だ」
「眠りの夢のなかで」ウァルザインが考えこみながらいった。「わたしは人間以上の女夢魔を抱き締め、目覚めているときには維持することもできないような歓喜を知りました。そのような夢は、大地に生まれた脳の外に発生源があるのでしょうか。もしも存在するのなら、それを見つけたいのです。それまでわたしには絶望のほかに何もありません」
「これほど若いのに、これほど消耗しきっているとはな。よし、女に厭《あ》きて、女のかわりに幽霊を欲するというなら、わしも思いきって提案しよう。ウムブリとプシオムのあいだに古い埋葬地があるのを知っておるかな――ここからおよそ三マイルほどのところだ。山羊飼いの言によれば、そこにラミアが出没するというぞ――何世紀もまえに亡くなったモルテュッラ王女の霊だそうな。王女が葬られた霊廟《れいびょう》はまだあって、他の墓をしのいで聳《そび》えている。今晩その埋葬地を訪れてみたらどうだ。わしの館よりも君の気分にかなうだろう。モルテュッラがあらわれるかもしれん。しかし喉を食いちぎられてもどることになったり、もどることができなくなったりしても、わしを恨むなよ。ともかく長の歳月を経ても、ラミアはなおも人間の愛人を求め、君を好むかもしれんからな」
「もちろんその場所は知っています」ウァルザインがいった……「しかしご冗談でしょう」
ファムルザが肩をすくめ、浮かれ騒ぐ者たちのなかを進んでいった。手足が金色に輝くしなやかな肢体をした踊り子がウァルザインに近づき、花を編みこんだ輪縄を首にかけて、ウァルザインを捕えた。ウァルザインは上品に輪縄をはずし、気の抜けた口づけをして、踊り子を悔しがらせた。他の客たちが誘惑しようとするまえに、目立たないように足早にファムルザの館をあとにした。
ひとりきりになりたいという思いのほかには何のあてもなく、人が群集う旅籠《はたご》や売春宿の近辺を避けて、郊外へと足を向けた。音楽、嬌声、切れぎれの歌が、街の富裕な住民が夜ごと饗宴をもよおす明るい館から、ウァルザインを追ってきた。しかし通りで騒々しくふるまう者に出会うことはなかった。饗宴の客たちが通りに集うには遅すぎ、散開するには早すぎた。
いまや光が少なくなって、光と光の間隔が広がっていき、通りはウムブリを圧迫するあの古代からの闇で暗くなった。いずれゾティークの老いた太陽が暗くなりゆくまま、灯火の明るい窓からなる燦然《さんぜん》たる銀河も消えることだろう。そのようなことや、神秘にまつわる死について考えこみながら、ウァルザインは街の外の闇のなかに入り、まばゆい光に疲れた目にありがたいことを知った。
しばらくどこに向かっているとも知らないまま、野原に伸びる街道の静けさを嬉しく思った。やがて闇のなかでも見おぼえのある道標を目にして、この街道がウムブリから三角州の姉妹都市プシオムにいたるものだと思いあたった。街道のなかほどに、ファムルザが皮肉をこめて指示した、使われなくなって久しい埋葬地がある。
いかにも世俗にかまけるファムルザなら、あらゆる感覚の快楽でもって、幻滅の根底にある欲求を調べつくしているのだろう。人間の情欲の彼方、飽満や幻滅の彼方に去って久しい人びとの休み場所を訪れて、一時間くらい留まるのも悪くはなさそうだった。
三日月から半月に近づきつつある月が背後に昇るなか、ウァルザインは埋葬地のある低い丘の麓《ふもと》に達した。舗装された街道を離れ、成長の止まった針金雀枝《はりえにしだ》に半ば覆われた斜面を上りはじめた。丘の頂さで大理石が輝いているのが見えた。山羊や山羊飼いが踏みしだいたもののほかに道はなかった。ウァルザインのぼんやりした長くて薄い影が、幽霊の導き手のように前方に伸びていた。墓石や霊廟という青白い宝石を鏤《ちりば》めた、女巨人のなだらかな乳房を上っているような気がした。この詩的な奇想をめぐらしつづけ、女巨人が死んでいるのか眠っているにすぎないのかと思ったところでやめた。
頂上に広がる平坦な埋葬地に達すると、地衣類に覆われた墓石のあいだの地面を、枯れかかった櫟が葉のない茨と競っていて、ウァルザインはこの埋葬地にラミアが出没するというファムルザの話を思いだした。ファムルザがそういう伝説を信じてはおらず、ウァルザインの陰気な気分をからかうために口にしたことはよくわかっていた。しかし詩人ならそうだろうが、古びた大理石のただなかに住み、確固とした信仰もないまま、彼方の幻視を虚しく求めようとする者の招喚に応える、愛らしくも邪悪な不滅の存在について、ウァルザインは奇想をめぐらしはじめた。
月の光があたるわびしい墓石のつくりだす通路を通り、ウァルザインは埋葬地の中心に入って、なおもほとんど腐朽の跡もないまま聳える、堂々とした霊廟のまえに達した。その下には弘大な地下納骨所があって、かつてウムブリとプシオムの姉妹都市を支配していた王族の木乃伊《ミイラ》が収められているという。モルテュッラ王女はこの王族に属していた。
驚いたことに、女あるいはそのように見えるものが、霊廟のそばに倒れた柱に腰をおろしていた。はっきりとは見えなかった。墓石の影が肩から下を隠していた。月に向かってあげられた顔だけがぼんやりと輝いていた。その横顔は古代の貨幣で見たことのあるものだった。
「誰だ」ウァルザインは好奇心に駆られ、礼儀も忘れてたずねた。
「わたくしはラミアのモルテュッラです」女がそういうと、つかのまかき鳴らされた竪琴のような、かすかな震えがあとに残った。「注意しなさい――わたくしの口づけは生者のあいだでまだ寿命のある者には禁じられていますから」
ウァルザインは自分の奇想に呼応する返答に驚いた。しかしこれは墓場の霊ではなく、モルテュッラの伝説を知って、ウァルザインをからかって愉しんでいる人間の女にすぎない。理性はそう告げた。とはいえ、どんな女が夜にひとりきりで、かくも荒涼とした不気味な場所にやってくるというのか。
考えられるのは、墓のあいだで媾曳《あいびき》しようとしてやってきた女だということだった。欲望を刺戟するために、墓場の環境や道具立てを必要とする放蕩者もいる。
「おそらく誰かをお待ちなのでしょう」ウァルザインはいった。「それなら、邪魔をしたくはありません」
「わたくしが待っているのは、ここに来る定めになっている人だけです。わたくしは長く待ちつづけ、この二百年というもの、愛人はいません。よかったら、留まってくださいな。わたくしのほかには恐れるものもありませんから」
理にかなった推測をしながらも、ウァルザインの背筋に、信じてもいないのに尋常ならざる存在を感じる者の戦慄が走った……しかしこれは戯れにちがいない――倦怠をまぎらすためにつきあえる戯れだった。
「わたしはあなたに会えることを願ってやってきたのです」ウァルザインはきっぱりといった。「わたしは人間の女やあらゆる快楽に退屈しています――詩にさえも退屈しているのです」
「わたくしも退屈していますよ」モルテュッラが簡潔にいった。
月が高く昇り、女がまとっている古風な衣装を輝かせた。胸や腰や臀《しり》の曲線をはっきり見せる裁断で、腰から下はゆったりした襞《ひだ》になっていた。ウァルザインはそのような衣装を古い絵画で見ただけだった。モルテュッラ王女は三世紀前に亡くなっているので、そのような衣装を身につけていて当然だった。
いったい何者であるにせよ、女は不思議なほど美しく、月影のもとでは色がよくわからない髪を巻いているありさまには、どことなく古風な趣《おもむき》があった。口のまわりに優雅さがあって、疲れか悲しみの翳《かげ》りが目の下にあった。ウァルザインは唇の右端に小さなほくろがあるのに気づいた。
モルテュッラと名乗る女とウァルザインの出会いは、月が女巨人のまろやかな乳房のように膨れ、ふたたび虚ろに老化していくまで、夜ごと繰り返された。いつも女は同じ霊廟のそばで待っていた――女はその霊廟を住まいだといった。そしていつも東のほうが夜明けで仄白《ほのじら》むと、わたくしは夜のものだといって、ウァルザインとの別れを惜しんだ。
ウァルザインは最初は疑っていたものの、女を自分によく似た凶まがしい学識と奇想を具えた人物だと思い、女を相手に特異な魅力のある戯れをした。しかし女にはウァルザインが疑っている世俗のものは何も見いだせなかった。現代のことは何も知らないようだが、過去やラミアの伝説については異様なほどよく心得ていた。女がますます影と孤独にのみ親しんだ夜の存在のように思えてきた。
女の目、唇は、忘れ去られた禁断の秘密をたたえているようだった。質問に対する漠然とした曖昧な返答に、ウァルザインは希望や恐怖で胸のときめく意味を読みとった。
「わたくしは生の夢を見ているわ」女が謎めかしていった。「死の夢も見ているわ。たぶん別の夢もあるでしょうね――あなたが入りこんでいる夢が」
「わたしも夢を見ますよ」ウァルザインはいった。
夜を重ねるにつれ、幽霊のいる環境に育《はぐく》まれる魅惑を感じ、死者を取り巻く静寂に包まれ、肉欲に耽るけばけばしい街を離れることによって、ウァルザインの嫌悪や疲労が失われていった。信じたり疑ったりすることを繰り返しているうちに、ウァルザインは徐々に女を本当のラミアとして受け入れるようになった。女に感じられる渇望は、ラミアの渇望としか考えられなかった。女の美しさはもはや人間ではないものの美しさだった。ウァルザインは眠り以外の場所であられもないものを受け入れる夢想家のようだった。
ウァルザインのそんな思いとともに、女に対する愛がつのっていった。死んだと思っていた欲望がさらに奔放かつ執拗になって甦った。
女もそれに応えてウァルザインを愛しているようだった。しかし伝説のラミアの性質をあらわす素振りもなく、ウァルザインの抱擁をかわし、ウァルザインの求める口づけを拒んだ。
「たぶんいつか」女がしぶしぶのようにいった。「けれどあなたはまずわたくしが何者であるかを知って、幻影を抱くことなく、わたくしを愛さなくてはなりませんよ」
「あなたの唇でわたしを殺し、他の愛人たちにしたといったように、わたしを喰ってください」ウァルザインは訴えた。
「待てないのですか」女の笑みは甘く、欲望をかきたてるものだった。「わたくしはあなたの早すぎる死を望みません――あなたをあまりにも愛していますから。墓場での逢瀬をつづけるのはよくないのですか。わたくしはあなたの退屈をまぎらせたのではありませんか。すべてを終えなければならないのですか」
次の夜、ウァルザインはまた懇願し、否定された交合を熱意と雄弁のかぎりをつくして求めた。
女はウァルザインを嘲《あざけ》った。「わたくしは肉体のない幽霊、実体のない霊にすぎないのですよ。あなたはわたくしを夢に見ているだけなのかもしれません。夢から目覚める危険をおかしたいのですか」
ウァルザインは女に歩み寄り、情熱にあふれた仕草で両腕を広げた。女があとしざりしながらいった。
「あなたがふれて、わたくしが灰や月光に変じたら、どうなさるのです。性急なことをしたと悔やむのではありませんか」
「あなたは不滅のラミアだ」ウァルザインはきっぱりといった。「あなたが幽霊でもなければ、肉体のない霊でもないことは、わたしの感覚がはっきりと告げている。しかしわたしにとって、あなたはほかのものをすべて影にかえてしまっている」
「ええ、わたくしはわたくしなりのやりかたで現実の存在です」女がそういって軽やかに笑った。そして急に顔を寄せて、唇をウァルザインの喉にあてた。ウァルザインはつかのま湿った息を感じた――鋭い歯が、ほとんど皮膚を破らないまま、すぐに離れたのを感じた。ウァルザインが掴もうとするまえに、女はまた身をかわした。
「いまわたくしたちに許されているのは口づけだけです」女がそういって、埋葬地の光と影のなかを足音も立てずに速やかに走り去った。
翌日の午後、ウァルザインは緊急のよんどころない件で、隣街のプシオムに行かなければならなくなった。短い旅だが、めったに行くことはなかった。
古びた埋葬地のそばを通り、またモルテュッラとの逢瀬に駆けつけられる夜の時間を楽しみにした。血を数滴垂らした鋭い口づけによって、ウァルザインはひどく熱が出てうろたえた。墓場のように取りつかれたような顔つきをしていた。そしてその顔つきのままプシオムに行った。
高利貸しから金を借りると、用事はすんだ。いささか不快だが必要な人物とともに戸口に立っていると、通りを歩く女に目が留まった。
装いはちがうが、顔つきはモルテュッラのものだった。唇の片隅に同じほくろがあった。墓地の幽霊もウァルザインをこれ以上に驚かせたり困惑させたりすることはないだろう。
「あの女は誰です」ウァルザインは高利貸しにたずねた。「ご存じですか」
「名前はベルディスだ。プシオムでは有名な女で、財産をもって自立し、数多くの愛人がいる。わしは少し取引したことがあるが、いまや女の借財はない。会いたいのかね。紹介してやるよ」
「ええ、会いたいものです」ウァルザインはいった。「遠い昔に知っていた人に、不思議なほど似ているんですよ」
高利貸しが如才なくウァルザインを見つめた。「たやすくものにはできんかもしれんぞ。最近は街の歓楽から身を引いているそうだ。夜に古い埋葬地に行ったり、夜明け頃にもどったりするのを見た者がいる。娼婦とかわらぬ女にしては、妙な趣味があるものだ。しかしおおかた奇矯な愛人と媾曳しているのだろう」
「家はどこにあるんですか」ウァルザインはたずねた。「紹介していただく必要はありません」
「好きにするがいい」高利貸しは少し落胆したように肩をすくめた。「それほど遠くはないところだ」
ウァルザインはすぐに家を見つけた。ベルディスという女はひとりきりだった。ウァルザインを見て、ものほしそうな、困ったような笑みを浮かべたので、まちがいなかった。
「本当のことがわかったようね」ベルディスがいった。「もうすぐあなたにいうつもりだったのよ。いつまでもだましつづけられないから。赦してはくれないの」
「赦すとも」ウァルザインは悲しげにいった。「しかしどうしてわたしをだましたんだ」
「あなたが望んだからよ。女は愛する男を喜ばせようとするものなの。どんな愛にも多少の欺きがあるわ。
「ウァルザイン、わたくしもあなたのように、歓楽に厭きたのよ。それで肉欲の世界からかけ離れた、埋葬地の孤独を求めたわ。あなたも孤独と安らぎを求めてやってきた――あるいはこの世のものならぬ幽霊を求めて。すぐにあなただとわかったわ。あなたの詩を読んだことがあるのよ。モルテュッラの伝説を知っていたから、あなたと戯れようと思ったの。そうしているうちに、あなたを愛するようになったのよ……ウァルザイン、あなたはわたくしをラミアとして愛したわ。本当のわたくしを愛することはできないの」
「無理だ」詩人はきっぱりといった。「ほかの女たちに見いだした幻滅を繰り返すのがこわい。しかし少なくとも君が素晴しい時間を与えてくれたことは感謝している。最高のときだったよ――わたしは存在しない者、ありえざるものを愛していたがね。さようなら、モルテュッラ。さようなら、ベルディス」
ウァルザインが立ち去ると、ベルディスは寝椅子のクッションに顔を埋めた。しばらく泣いて、涙はすぐに乾いた。そのあと元気よく立ちあがると、家事に取りかかった。
しばらくすると、ベルディスはプシオムの色恋沙汰と浮かれ騒ぎにもどった。おそらくいずれ快楽に耽るには歳を取りすぎた者に与えられる安らぎを見いだすことだろう。
しかしウァルザインに安らぎはなく、この最後の最も苦にがしい幻滅を癒すものもなかった。以前の酒池肉林の生活にもどることもできなかった。それであげくのはてに、偽りのラミアが噛んで少し血を流した喉に、鋭い短剣を一番深い血管まで刺して絶命した。
ウァルザインは死んでから、死んだことも忘れはてた。最近のことは何もかも忘れてしまった。
ファムルザの話にしたがって、ファムルザの館を出ると、ウムブリの街を離れ、放棄された埋葬地を通る街道を進んでいった。埋葬地を訪れたいという衝動に駆られ、背後に昇る膨れつつある月に照らされて、大理石の輝くところまで斜面を上った。
頂上に広がる平坦な埋葬地に達すると、地衣類に覆われた墓石のあいだの地面を、枯れかかった櫟が葉のない茨と競っていて、ウァルザインはこの埋葬地にラミアが出没するというファムルザの話を思いだした。ファムルザがそういう伝説を信じてはおらず、ウァルザインの陰気な気分をからかうために口にしたことはよくわかっていた。しかし詩人ならそうだろうが、古びた大理石のただなかに住み、確固とした信仰もないまま、彼方の幻視を虚しく求めようとする者の招喚に応える、愛らしくも邪悪な不滅の存在について、ウァルザインは奇想をめぐらしはじめた。
月の光があたるわびしい墓石のつくりだす通路を通り、ウァルザインは埋葬地の中心に入って、なおもほとんど腐朽の跡もないまま聳える、堂々とした霊廟のまえに達した。その下には弘大な地下納骨所があって、かつてウムブリとプシオムの姉妹都市を支配していた王族の木乃伊が収められているという。モルテュッラ王女はこの王族に属していた。
驚いたことに、女あるいはそのように見えるものが、霊廟のそばに倒れた柱に腰をおろしていた。はっきりとは見えなかった。墓石の影が肩から下を隠していた。月に向かってあげられた顔だけがぼんやりと輝いていた。その横顔は古代の貨幣で見たことのあるものだった。
「誰だ」ウァルザインは好奇心に駆られ、礼儀も忘れてたずねた。
「わたくしはラミアのモルテュッラです」
[#改丁]
言葉の魔力を駆使する吟遊詩人
[#地から2字上げ]大瀧啓裕
クラーク・アシュトン・スミスは一八九三年一月一三日に母方の祖父母の家で生まれた。父は金鉱を探しあてようとしてイギリスからカリフォルニアにやってきたティミーアス・スミス、母は地元の農家の娘メアリイ・フランシス(通称ファニイ)・ゲイロードである。スミスの両親は一八九一年に結婚して以来、カリフォルニア州プレサー郡の主都オーバーンに近いロング・ヴァリイで、農業を営むゲイロード家に寄宿していた。息子の誕生が契機になったのだろうが、父ティミーアスがホテルの夜勤をして金を貯め、一九〇二年にややオーバーン寄りのボウルダー・リッジに四四エイカーの荒れた土地を購入し、五年をかけて四部屋からなる平屋の家を建て、スミス一家は一九〇七年にここに移り住んだ。
四歳のときに猩紅《しょうこう》熱にかかってから健康状態はかんばしくなく、床に就くことも多かったためか、スミスは幼いころから読書を好み、早くも一一歳で『アンデルセン童話集』を手本にして短い童話を書きはじめ、その後まもなく『千夜一夜物語』やラドヤード・キップリングの小説の影響を受け、東洋を舞台にした小説に取りくむようになった。やがて学校の図書室でポウの詩やエドワード・フィッツジェラルドの自由訳『ルバーイーヤート』にふれるや、詩の魅力に取りつかれて詩作に励み、一九〇七年に雑誌でジョージ・スターリングの詩「魔法の葡萄酒」を見つけたことが、スミスの生涯を決する大きな転機になる。
スターリングはカリフォルニア在住の詩人として名をはせ、アムブロウズ・ビアースやジャック・ロンドンやブレット・ハートと親交を結び、ベイ・エリアのボヘミアン・サークルでは「ボヘミアの無冠の王」と呼ばれるほどの存在だった。ちなみにスミスが目にした華麗な名作「魔法の葡萄酒」は、バースト系列の新聞や雑誌に執筆していたビアースが労を取り、『カズマパラトゥン』(英語をローマ字読みすればコスモポリタン)の一九〇七年九月号に掲載されて、カリフォルニアの無冠の王の名を全国に轟かせたのである。
スミスはスターリングの詩にポウやフィッツジェラルドよりも肌に合うものを見いだしたとおぼしい。ますます詩作に邁進するとともに、ウェブスターを通読するという驚くべき企てに取りかかるからである。詩であれ小説であれ、言葉を自在に駆使できなければ、思うところを的確にあらわしえない。スミスのこの大胆な企ては激烈な形で正鵠《せいこく》を得ており、見事に為しとげたことに決意と忍耐の強さを見るべきである。
これだけにはとどまらず、すらすら読んで楽しめる程度にラテン語を独学で修得するとともに、ブリタニカを二回にわたって精読することもした。ラテン語が読めることは古典に親しめることを意味する。語彙と知識を増やしつつ古典に耽溺することは、すぐれた文章家にいたる本道にほかならない。スミスは若くしてこの道を力強く進み、詩作をつづけることにより、おのずから頭をふりしぼる推敲の作業を重ね、文体という強力な表現手段を着実に身につけていたのである。
[#挿絵(img/Tales_of_Zothique_417.jpg)入る]
地元のプラサー・ユニオン・ハイ・スクールに入学申請をして受理されたが、自分で勉強したほうがよほど身につくといって進学を断念した。健康問題と経済事情を考慮しての苦渋の決断だったのだろう。ウェブスターやブリタニカの読破は、スミスが自らに課した「勉強」だったわけである。スミスは父の農作業や金鉱探しを助けたり、近在の農家の手伝いをしたりするようになり、こうして戸外で働くことで体力もついて、しだいに健康状態も改善されていった。母は雑誌の定期購読の勧誘員になって家計を助け、オーバーンでは「雑誌のおばさん」と呼ばれていたらしい。
一九一〇年にスミスの胸を躍らせる出来事が立て続けに起こった。地元紙の『オーバーン・ジャーナル』に詩が売れたことをきっかけに、さまざまな婦人クラブに招待されるようになったのである。さらにこの年から一九一二年にかけて、四篇の短編小説が『オウヴァーランド・マンスリイ』と『ブラック・キャット』に掲載された。いずれも東洋を舞台にした小説で、われわれのよく知るスミスらしさは毫《ごう》も認められない。それもそのはずで、これらはロウ・ティーンのころに書いたものだったのである。『ブラック・キャット』は投稿専門の短編小説専門誌で、本文がわずか四〇ページほどのパンフレットめいたものにすぎず、毎号多くの投稿作品のなかから数篇が掲載されるだけだったので、この狭き門を通過したことによって、スミスの若書きが水準を越えていたとはいえるだろう。
[#挿絵(img/Tales_of_Zothique_419a.jpg)入る]
さらに大きな出来事があった。婦人クラブで出会ったハイ・スクールの国語教師イーディス・J・ハマルトゥンが、幸運にもスターリングの友人で、スミスがこの詩人を敬愛していることを知ると、詩を送ってみてはどうかといって、紹介状を書いてくれたのである。スミスとスターリングの文通はこのようにしてはじまり、スターリングは若い詩人の力量に驚嘆して、ビアースにもスミスの詩を見せた。ビアースは「深淵に寄せる頌」に感服したという。
スターリングは何度もスミスを自宅に招こうとして、スミスが言葉を濁してことわることから事情を察し、一九一二年の六月に交通費を同封して改めて招待した。スミスは太平洋を望むカーメルにあるスターリング宅に一ヵ月滞在して、ボヘミアンの暮らしぶりをつぶさに目にしながら、詩作についてのさまざまな助言を得て過ごし、ボードレールを英訳ではじめて知ったのもこのときのことである。残念ながらビアースがスターリングを最後に訪れたのは八月になってからなので、スミスはついにビアースと会う機会がなかった。
スターリングから知らされたのだろうが、八月に元外交官で作家のバウトウェル・ダンラップが、サン・フランシスコにスミスを招き、新聞記者を集めてスミスを紹介したのである。たちまちカリフォルニアの新聞各紙が若い天才詩人としてスミスを取りあげ、キーツやスウィンバーンにたとえるほどの絶讃の言葉を連ねた。翌週、ビアースが週間新聞の『タウン・トーク』に寄稿して、スミスを発見したのはダンラップではなくスターリングであることを指摘したうえで、ジャーナリズムの称讃の餌食にならないようにとスミスを諭している。カリフォルニアの騒ぎは東海岸にも伝わり、一〇月には『カラント・リタラチャー』誌がスミスの紹介をおこなった。
これに手応えを得て、スターリングの詩集を出版していたA・M・ロバートスンがスミスの詩集の刊行を決め、スターリングが詩の選択や修正の助言をおこない、第一詩集『星を踏み歩くもの』は一一月に発売されて好評を博した。わたしの友人のゲリイ・ディ・ラ・リーによると、スミスと親交のあったヴァージル・フィンレイから聞いた話として、出版費用はスミスの母が用意したそうである。事実確認はできないのだが、スミス家の土地がこのころに切り売りされているし、詩集は千部以上が売れながらスミスの受け取った印税は五〇ドルにすぎず、これが出版費用の返却の上積みだと考えるなら、ゲリイの情報の信憑性は高いといえるだろう。
幸いにしてわたしの手元に『星を踏み歩くもの』があるので、巻頭の「ネロー」を掲げておく。詩を賞味するには、リズムと発音に注意して朗読すればよい。それなりの英語の読解力があれば、スミスの詩のすごみがわかるはずである。一九歳でこのような詩を書きあげたことには感嘆せざるをえない。つけくわえれば、書き手のリズムに合わせて朗読するくらいの調子で読むのが、文体を楽しむ第一歩でもある。文体とは畢竟するところ呼吸法に基づき、言葉を吟味して整えるものであるからだ。流し読みや速読は読み手の勝手なリズムで読み急ぐので、文体を楽しむことはできないし、文脈を線として捉えることもなく、せいぜい字面を断線として拾っているだけなので、読解力がまったく身につかない。文体を本当に楽しむにはその文体を書きこなせる力がなければならず、読書とは定めて高度な技術なのである。読み巧者が幸福な少数派と呼ばれる所以はここにある。
[#挿絵(img/Tales_of_Zothique_421a.jpg)入る]
さて、スミスは少なくともカリフォルニアでは時代の寵児としてもてはやされたが、芸術家たちのボヘミアン・サークルが肌に合わず、むしろ讃辞がプレッシャーになって自宅に引きこもりがちで、ジャック・ロンドンからビューティ牧場に招待されてもことわったほどである。こうして両親の農作業を手伝いながら詩作にふける生活にもどり、一九一八年あたりから絵を描きはじめ、詩人としての名声に助けられたようでもあるが、ベイ・エリアだけにとどまらず、ニューヨークでも個展が開かれた。ニューヨークでの個展については、ビアースと親交があって一九一三年からスミスと文通をはじめた、サミュエル・ラヴマンの尽力によるものだろう。ただしほとんど売れず、大半のものは友人知人に譲られている。
一九一八年にはカリフォルニア・ブック・クラブから第二詩集『頌と一四行詩』が刊行され、スミスも二五歳になっていたので、大きく取りあげられることはなかった。詩のレヴェルが落ちたのではなく、以前は若さゆえに過剰にもてはやされたのである。これ以後の詩集は完全な自費出版になり、第三詩集『黒檀と水晶』は一九二二年に五二五部、第四詩集『白檀』は一九二五年に二五〇部が製作された。第二詩集は四篇を第一詩集から採って、残り一一篇が第三詩集に再録されるという不思議な位置づけになっている。
[#挿絵(img/Tales_of_Zothique_423.jpg)入る]
一九二二年の夏に新たな転機が訪れた。ラヴクラフトから手紙が届いたのである。ラヴクラフトは七月末から八月はじめにかけてクリーヴランドを訪れたときに、友人のアルフレッド・ギャルピンとジョージ・ウィラード・カークからそれぞれスミスの第一詩集と第二詩集を譲られ、世紀末の雰囲気をたたえた瑰麗《かいれい》な詩に接して驚嘆するあまり、ただちにスミスにファン・レターを送り、こうしてラヴクラフトの死の直前までつづく文通がはじまった。ラヴクラフトがほぼ同年齢のスミスに一目置いていたのは、詩人として高く評価していたことによる。
スミスはラヴマンからラヴクラフトの小説を知らされていたこともあって、早ばやと打ち解けた仲になったらしく、ラヴクラフトの『潜み棲む恐怖』が『ホーム・ブルー』の一九二三年一月号から四月号まで連載される際には、ラヴクラフトの依頼を受けて毎回二点の挿絵を描いた。編集者が紹介にこまったのか、第一回掲載時にはスミスを「ポウの挿絵を描いたこともある著名な画家」と紹介している。そしてこの小説の連載中に『ウィアード・テイルズ』が創刊され、創刊号と第二号は凡庸なものだったが、大判のベッドシーツ・サイズになった第三号から見た目も内容も向上し、一九二三年七・八月合併号にスミスの詩「邪悪の苑」が掲載された。ラヴクラフトの『ダゴン』は次号に掲載されたので、『ウィアード・テイルズ』へのデビューはスミスが二ヵ月先んじたことになる。ラヴクラフトの小説は手書き原稿をタイプ打ちすることを条件に採用が決まったため、二人はほぼ同時期に投稿したと見てよいだろう。
おそらくラヴクラフトは知らなかっただろうが、このころスミスはふたたび小説に手をそめるようになって、さまざまなパルプ・マガジンに投稿していたのである。それほど数は多くないとはいえ、はなはだ興味深いことに、その大半はいわゆるロマンス小説だった。ロバート・W・チェイムバーズが得意とした「ア・ボーイ・ミーツ・ア・ガール」のパターンをひとひねりしたようなもので、採用されたことが確認されているのは、『テン・ストーリイ・ブック』一九二四年八月号の『新奇なもの』だけだが、従来未発表だとされていた『恋をもてあそぶもの』が『ライヴ・ストーリイズ』一九二三年三月号に掲載されたという未確認情報もある。
[#挿絵(img/Tales_of_Zothique_425a.jpg)入る]
この二作品を読むかぎりでは、文体がロウ・ティーンのころのものより格段に洗練されていることがよくわかる。『新奇なもの』はやや凡庸ながらも会話の妙を見せ、最後にマゾヒズムをもちだして締めくくる一方、『恋をもてあそぶもの』は流れるような快い文章でつづられて、この時代の小説には珍しく、エロティシズムを濃厚にほのめかしながら、はかない恋を絶妙の筆致で描きあげた。スミスは人妻もふくめて、さまざまな女性と浮き名を流しており、その実績があればこその作風といえなくもない。
[#挿絵(img/Tales_of_Zothique_426a.jpg)入る]
なお、一九八二年にアメリカのドナルド・M・グラント社がスミスの未発表作品として、長編小説『記載されているように』を出版したが、これがとんでもない勘違いであることを指摘しておく。伝説のパルプ・マガジン『スリル・ブック』は一九一九年にわずか一六号発行されただけで廃刊したが、買い取ったまま日の目を見ることのなかった原稿が保存されていて、そのなかにマレーシアのジャングルを舞台にした、ディ・リール・フェレイ・カースの長編小説が見つかったのである。先にも述べたように、スミスが初期に東洋小説を書いていたことに加え、ときおり詩で変名を使うこともあり、九月一五日号に「不協和音」という詩が掲載されていることで、願望思考による勘違いが生じたとおぼしい。
発見した者はスミスの文体に似ているといい、これだけの長さのものをスミスの文体を模倣して書く者がいるわけがないとまで主張しているが、実際にはスミスのロウ・ティーンの小説よりもお粗末な文章でしかない。まったく描写のできない者が、プロットにほんのわずかな肉づけをして書き急げば、この程度のものになるというのが正しい評価だろう。あっさり結論をいっておけば、カースはシカゴのコピイライターで、ストリート・アンド・スミス社の発行するパルプ・マガジンにマレー半島を舞台にした小説をいくつか発表した。
一九二五年にスミスはフランス語を独習している。名文家のラフカーディオウ・ハーンは若いころにゴーティエやフロベールの小説を翻訳して英語を磨きあげたが、スミスの場合は既に文体を自在に駆使する力が身についていたので、ボードレール等の詩を原文で読みたいという思いに動かされたのだろう。一九〇八年に見つけたウィリアム・ベックフォードの『教主ヴァテックの物語』英訳版をこよなく愛するあまり、『ヴァテック挿話集』の未完の第三挿話を英語に翻訳して結末をつけたことや、フランスのアヴェロワーニュを舞台にする連作を執筆したことが、フランス語修得の大きな成果である。なお、スミスはこのあとスペイン語も修得した。
ラヴクラフトに幻想小説や怪奇小説の執筆を勧められながら、スミスは久しくこれに応えることがなかった。一九二三年四月から一九二六年一月にかけて、『オーバーン・ジャーナル』に「クラーク・アシュトン・スミスのコラム」を連載して、それなりの収入を得ていたことによるのかもしれない。この連載の打ち切りが決まった一九二五年一二月に、スミスはついに短編小説『ヨンドの忌むべきものども』を執筆し、『オウヴァーランド・マンスリイ』に採用されて、スミス初の幻想小説は翌年の四月号に掲載された。
これではずみがつけばよかったのだが、一九二六年一一月一七日にスターリングが青酸カリを飲んで自殺したことにより、スミスは心に深い痛手を受けた。デイヴィッド・ウォーラン・ライダーによると、スターリングは自殺する数週間前に、「スミスは現役で最高の詩人なのに、そのスミスがほとんど無名のままなのは恥ずかしいことだ」と述べたという。スミスは「ジョージ・スターリングに寄せる」という愛情に満ちた素晴しい哀歌を『オウヴァーランド・マンスリイ』の一九二七年一一月号に発表した。
失意に沈むスミスを見かねたのだろうが、当時交際していたジェナヴィーヴ・K・サリイが小説の執筆やシエラ・ネヴァダ山脈の登山を勧めたことで、スミスは一九二七年七月にダナー峠からクレイター・リッジに足を伸ばし、はじめて訪れた山の峨々《がが》たる景色をよく記憶にとどめ、これが後にいくつかの小説で利用されることになる。この登山のあとで執筆されたのが『九番目の骸骨』であって、小説としてはさして見るべきものもないが、ジェナヴィーヴ(Genevieve)がグウェナヴイア(Guenevere)として登場したり、スミス家の所有地のあるボウルダー・リッジが舞台に使われたりして、スミスとジェナヴィーヴの関係があからさまに取りこまれている点が興味深い。ジェナヴィーヴとの交際からは、『ジャスミンの飾り帯』としてまとめられることになる、二四篇の愛の詩が生み出されてもいる。
この『九番目の骸骨』は『ウィアード・テイルズ』一九二八年九月号に掲載されるが、この年スミスは小説をまったく書かなかった。小説家スミスがついに動きだすのは翌年九月のことで、ポセイドニス・シリーズに属することになる『最後の招喚』をスミスならではの文体で書きあげたあと、矢継ぎ早に六篇の小説を年末までに完成させている。小説家スミスはこうして誕生した。このあとまもなく株価暴落に端を発する大恐慌が起こるので、スミスの小説家としての活動が経済問題の面から論じられることが多いが、これまでの二作『ヨンドの忌むべきものども』と『九番目の骸骨』とは截然と異なる文体から推して、スミスは『最後の招喚』によって小説を執筆する喜びを知ったと見てもよいだろう。
[#挿絵(img/Tales_of_Zothique_429a.jpg)入る]
誤解を恐れずにいえば、スミスは詩を書くように小説を書けることを知ったのである。それまでに執筆した小説は、散文詩めいた『恋をもてあそぶもの』を除き、さほど描写をおこなわずにさらりと書き流されていた。それが『最後の招喚』では、見事な修辞を駆使して物語の雰囲気を高めるという、並の小説家ではとうてい太刀打ちできない、見事なまでに言葉を吟味した絶妙の文体へと変貌している。小説もまた詩のように徹底して磨きあげるものだと知ったにひとしい。もちろんスミスは内容に応じて文体を巧みに使い分けることになるが、元来が詩人としてのスミスにとって、小説は文体ないしは表現の実験場であったともいえるだろう。
こうして小説家スミスの活躍がはじまり、一九三〇年から三五年にかけての六年間に八〇篇におよぶ小説が発表された。わずかながら採用されなかったものもあるので、少なくとも九〇篇は執筆されたことになる。単純に平均化すると、年に一五篇というペースになり、すべてがさほど長くない短編小説であることを考えれば、決して多作であったとはいえない。これはスミスの執筆方法によるものなので、参考までに紹介しておこう。
スミスは下書きをたいていは手書き、ときにはタイプ打ちで仕上げたあと、鉛筆で加筆訂正をおこない、これをタイプ打ちしたものにまた加筆訂正をするという作業を少なくとも二度繰り返した。ボウルダー・リッジの人気のないところを歩きながら、原稿を口に出して読んで修正するのが常だったという。文章を磨きあげるには、このような作業が必要なのである。スミスが連作小説を手がけながら、ついに長編小説を執筆しなかった理由は明白だろう。文体にこだわる作家にとって、長編小説は手間がかかりすぎる。これをよく果たしえた稀有《けう》の例が、マイクル・ムアコックの『グローリアーナ』とT・E・D・クラインの『復活の儀式』だが、先に述べた理由から、文体を楽しむ長編小説はおのずから読者を限定してしまう。自尊心は満たされるが腹はふくれないという辛い現実を、著者は受け入れなければならない。
ただしスミスは小説家としてかなり強《したた》かなやりかたを取ったといえなくもない。社会は大恐慌にあえいでいたが、一九世紀末に誕生したパルプ・マガジンは第一次大戦後の物価高騰をかろうじて切り抜けた後、それなりの代償を払いながら徐々に浸透拡散をつづけて、ちょうどこのころには、もっとも安価に娯楽を提供するメディアとして、黄金時代を迎えようとしていたのである。スミスは『ウィアード・テイルズ』を主要な発表舞台にしたが、早くからヒューゴウ・ガーンズバックの編集する『アメイズィング・ディテクティヴ・テイルズ』や『ワンダー・ストーリイズ』等のSFパルプから、ロウ・ティーン向きの『ストレンジ・テイルズ・オヴ・ミステリイ・アンド・テラー』にいたるまで、さまざまなパルプ・マガジンに小説を発表した。しかも内容に即して文体を使い分け、さほど修辞や描写を必要としない小説、すなわちさほど文体にこだわらない小説を、『ウィアード・テイルズ』以外の雑誌に振り分けたのである。
アクション主体の小説が多かったパルプ・マガジンにおいて、スミスが腕によりをかけた異国情緒豊かな小説はまことに異彩を放った。ラヴクラフトとハワードとスミスを『ウィアード・テイルズ』の黄金時代を築いた御三家と呼ぶのは、当時の同誌を読んだことのない人たちの勝手な決めつけではあれ、スミスが読者欄で熱い支持を受けるようになったことは事実である。こうした読者をはじめ、ラヴクラフトやラヴマンを介して文通するようになった人びとが、スミスの執筆をさまざまな形で励ましたが、各種のパルプ・マガジンに掲載される作品の数は一九三四年から減少しはじめた。
執筆時期と掲載時期には多少のずれはあるが、掲載された作品数を年度別に示しておくと、一九三〇年が八作、三一年が一六作、三二年が二一作、三三年が一九作、三四年が一二作、三五年が七作、三六年が三作、三七年以後は断続的に一年に一作ないしは二作である。スミスの母ファニイが一九三五年に享年八五歳で亡くなり、三七年にはラヴクラフトにつづいて父ティミーアスが享年八二歳で死去し、スミスにとっての大きな支えが失われたことが、痛烈な打撃になったであろうことは想像に難《かた》くない。これに高齢の両親の看護に時間が取られたことを加えれば、三四年から三七年にかけての作品数の減少は、心労と悲痛によって説明がつくかに見えるが、その後に旧態に復することがないまま、およそ一六年にわたって小説の執筆がつづけられた事実はどう捉えればよいのか。
さまざまな要因がからんではいるが、スミスの関心が小説から別のものにそれたと考えるのが妥当だろう。一九三四年の四月に作家のE・ホフマン・プライスがはじめて訪れ、東部の博物館の館長が鉱石の標本をほしがっているといったので、スミスは叔父エド・ゲイロードの所有する古い鉱山に案内して、自分もいくつか鉱石をもちかえり、およそ一年後にその鉱石に彫刻することを思いたった。最初につくりあげたのは、ハイエナと角のある蟾蜍《ひきがえる》の合いの子のようなものだったそうだが、一九四九年までに二百におよぶ彫刻作品をつくりあげている。
スミスはあくまでも詩人であるが、新しい表現手段を見つけると、玩具を与えられた子供のようにしばらく熱中するという性癖があった。絵画がそうであったし、われわれにとって不幸なことに、小説もそうだったのである。小説の場合は現金収入を得るという事情もあったにせよ、苦心して書きあげた小説が次つぎに採用され、友人や読者に励まされたことで拍車がかかったのだろう。しかし両親とラヴクラフトの死による失意から立ち直ってみれば、既に社会は経済不況を脱していた。ふたたび近在の農家の手伝いをして現金収入を得ることもでき、生計のために小説を数多く執筆する必要はない。そして彫刻という新たな表現手段を見いだしてもいた。
彫刻は削って磨く作業をつづけることで、詩や小説の推敲に似ているが、実は大きな余禄がある。仕上げに入るまでは作業の大半が機械的なものなので、ふとしたことから頭が空っぽになって、天与のひらめきのような着想が浮かぶこともあるし、漫然とさまざまな思いをめぐらすうちに、考えあぐねていた問題の答が得られることも多い。少しは作業に気を取られていることで、かまえて考えているのではないことがうまく作用して、半睡のように潜在意識に通じやすくなるのだろう。傍目《はため》には単調な作業をつづけているように見えて、頭のなかはかなり充実したときを過ごしているのである。
スミスの彫刻作品は絵画作品よりもレヴェルが高い。スミスの絵画は素朴な味わいがあるとはいえ、正規の教育を受けて基本を身につけたわけではないので、どうしてもラインが甘いという欠点があった。彫刻はさまざまな角度からながめてバランスを整えることにより、この欠点がおのずから修正されていく。これを自覚していたかどうかはともかく、「執筆よりも楽で面白い」というほど、スミスは早くから彫刻を気に入っていた。名文家の名文家たる所以は推敲する力をもっていることであり、推敲とは彫心|鏤骨《るこつ》と呼ばれるほどに神経をすりへらす作業にほかならず、スミスはしばらく彫刻を執筆の息抜きにしていたという。
息抜きであったものが詩作に次ぐものに昇格したのは、失意にあったときに気をまぎらせようとして、彫刻に励んだことによるのかもしれない。ともあれ彫刻作品が着実に数を増していくと、スミスは自宅を訪れた友人や知人に譲ったり売ったりするようになった。文通相手が興味をもつと、いくつかの彫刻作品を箱に入れて送り、気に入ったものを買って残りを送り返してもらうようにしたという。興味深くも同人誌『サイエンス・フィクション・クリティック』一九三七年三月号には、彫刻作品を原型にした石膏のレプリカの販売広告が掲載されていて、一番安い一角獣のレリーフが三〇セント、一番高いハルピュイア像が七五セントになっている。ちなみに当時のパルプ・マガジンの定価は、薄っぺらなものや発行部数の多いものが一〇セントないし一五セントで、大半のものは二五セントだった。少部数の同人誌に広告を出しても売れるわけがなく、スミスのこの企てはすぐに頓挫《とんざ》する。実物を見た人によると、色づけされたものもあったらしい。
スミスの彫刻作品にはヒュペルボレオスやゾティークの世界にかかわるものもあるので、一九三五年以後に執筆された小説のなかには、彫刻をしているときに着想を得たものもあったはずである。スミスは詩と彫刻に創造力をふりむけ、何らかのきっかけで小説がおのずから脳裡に生まれたときに、これを書きあげて推敲するようになった。四〇年代以後のスミスの生活はそのように見てよいだろう。小説に対する関心が薄れたことは残念だが、それでもなお執筆しつづけた、あるいは執筆せずにはいられなかったことを喜びたい。
一九四二年にはオーガスト・ダーレスがスミス初の短編集『時空の外に』を出版した。ダーレスはラヴクラフトの著作集を出版するためにアーカム・ハウス社を興し、三九年に大判の浩瀚《こうかん》な『アウトサイダー』を刊行したが、ラヴクラフトの残りの著作をまとめて出版するまで同社を存続させなければならないという事情もあって、三冊目の刊本として選ばれたのがスミスの短編集である。ダーレスは以前からスミスと文通していたので、収録作品の選定はスミスと念入りに打ち合わせをしたが、書名はスミスの希望を入れたものではなく、ダーレスのもちだしたポウの詩の一節を短縮化することで決定された。アーカム・ハウス社からはスミスの存命中に短編集が四冊、詩集が二冊刊行され、代表作がほぼすべて網羅されている。
スミスの人生は一九五四年に大きく変化した。スミスはこの年に友人宅でキャロル・ジョーンズ・ドーマンという未亡人と知り合い、一一月一〇日に結婚して、モンタレイ湾南端の保養地パシフィック・グロウヴに生活の拠点を移すことになる。揣摩《しま》憶測をめぐらしてはならないが、これが引金になったのかもしれない。スミスは両親を失ってから、まとまった金が必要なときには所有地を切り売りして、このころには家のあるささやかな土地を残すだけになっていた。開発業者にここも売るようにと求められながら、スミスは頑として応じなかったのだが、一九五五年に家が荒らされ、両親の骨壺が倒されて灰が撒き散らされるという事件が起こる。スミスは大事なものだけをパシフィック・グロウヴに移し、開発業者の度重なる申し入れを退けた。
そして一九五七年に火災が起こって、スミスが五〇年にわたって暮らしつづけた家が消失する。未発表の詩や小説の原稿の一部はこのとき失われたという。スミスの家には水道も電気も引かれておらず、このときスミスは帰省してはいなかったので、放火と考えざるをえない。真相は不明のままに終わったが、家がなくなったことで踏ん切りがついたのか、スミスはついに土地を売却して、オーバーン近くのボウルダー・リッジに再び足を向けることはなかった。
この事件はスミスの心に大きな傷跡を残しただろうが、晩年のスミスは遅ればせに訪れた春を楽しんでいたらしく、ときに庭師として働きながら彫刻や絵画を手がけ、もはや詩や小説を執筆することもほとんどなかった。既にパルプ・マガジンというメディアはなくなり、新たにダイジェスト・サイズの雑誌が生まれ、こうした雑誌にスミスの代表作が再録される機会もふえていき、いささか皮肉なことながら、筆を折ってから名文家としての名声がさらに高まりゆくなか、一九五一年にはじめて起こした心臓発作をその後も繰り返し、幻妖と怪異を朗々とうたいあげた吟遊詩人は一九六一年八月一四日に白玉楼中の人となった。
詩人クラーク・アシュトン・スミスが執筆した小説は、未発表ながらも完全な原稿が残っているものを含めて一二〇篇におよぶが、それらのなかでスミスが詩人としての力を注いだのは、特定の世界を舞台にした一連の小説であった。ギリシア神話に通底するヒュペルボレオス、アトランティスの末期とおぼしきポセイドニス、古代ローマ軍に占領されたアウェルニアに発する中世フランスのアヴェロワーニュ、そして遙かな未来の地球最後の大陸ゾティークという、いずれ劣らぬ独特の魅力にあふれた世界が、物語の背景として鮮やかに描きだされている。そしてこれらのなかでスミスがこよなく愛したのが、本書にまとめたゾティークの物語にほかならない。詳しくふれるまえに、本書に収録した作品の原題と初出を掲げておく。
Zothique The Dark Chateau and Other Poems, 1951
The Empire of the Necromancers Weird Tales, September 1932
The Isle of the Torturers Weird Tales, March 1933
The Charnel God Weird Tales, March 1934
The Dark Eidolon Weird Tales, January 1935
Tha Voyage of King Euvoran Double Shadow and Other Fantasies, 1933
The Weaver in the Vault Weird Tales, January 1934
The Tomb-Spawn Weird Tales, May 1934
The Witchcraft of Ulua Weird Tales, February 1934
Xeethra Weird Tales, December 1934
Tha Last Hieroglyph Weird Tales, April 1935
Necromancy in Naat Weird Tales, July 1936
The Black Abbot of Puthuum Weird Tales, March 1936
The Death of Ilalotha Weird Tales, September 1937
The Garden of Adompha Weird Tales, April 1938
The Master of Crabs Weird Tales, March 1948
Morthylla Weird Tales, May 1953
スミスは続々と小説を執筆しはじめた一九二九年一〇月あたりから、黒革の手帳に小説の構想や覚書を書きとめている。同人誌『アカライト』を発行していたR・A・ホフマンが一九四三年八月にスミスを訪れ、これを見せられて抜粋の掲載許可を得たとき、手帳に名称をつけようという話になって、ホフマンがもちだしたものをスミスがあっさり了承したことで、『黒の書 The Black Book』と呼ばれようになった。スミスの小説を語るうえで欠かせないこの最重要資料は、幸いにも一九七九年にアーカム・ハウス社によって翻刻され、手帳を模した刊本には興味深い記述が随所に見いだされる。書きあげられることのなかった小説の梗概もかなり記録されているので、小説の執筆量の減少がアイディアの枯渇によるものではないことを指摘しておこう。
何よりも驚かされるのは、スミスが力を注いだ個々の連作について、おそらく着想を得たか構想がまとまった段階で随時書きこみがおこなわれ、いつか本にまとめるときにどのような構成にするかが記録されていることである。一番早く記載されているのは第三項の『ヒュペルボレオスの書』で、一一篇の小説のタイトルが列挙され、八番目にあった『エウウォラン王の航海』が消され、『巨大白蛆の襲来』とおぼしき『エイボンの書第九章』に書きかえられている。ガゾルバ鳥の剥製を戴く王冠が若禿を隠すのに役立ったと記し、最初から滑稽譚であることを明らかにしているこの愉快な作品は、王が人跡未踏の暁の海へと向かうため、ほかにも人の住む土地が多くある古代よりも、地球上に大陸が一つしかないゾティークのほうがふさわしいと判断されたのかもしれない。
さて、『黒の書』におけるゾティークの構成は、第一二項の『ゾティークの物語』に二一篇が列挙されているが、これらのなかにはついに執筆されなかったものや、冒頭だけが記されたにとどまるもの、簡単な梗概だけが『黒の書』に書きとめられているものもあって、実際に完成された小説は一五篇である。不思議なことに、スミスは『蟹の支配者』を含めていない。ゾティークの物語のなかでこれだけが一人称で記されているので、スミスがあえて割愛したように思えなくもないが、第四二項に簡単な梗概が記されている。これを見るに、宝を探そうとして荒涼とした島に来た魔術師が、落石によって両足を動かせなくなり、催眠の力によって蟹の大群を支配し、島に漂着した船員を喰って生き長らえるが、催眠の力を失って蟹に喰われるというのが、そもそもの構想であった。
おそらく宝の何たるかに思いをはせることで構想が膨らんでいき、魔術師の戦いを描くゾティークの物語として書きあげられたのだろう。『アドムファの庭園』を執筆してから一〇年の歳月が流れており、以前のようにこまめに『黒の書』に書きとめることもなく、うっかり記載するのを忘れてしまい、さらに四年後に第九九項として『モルテュッラ』の梗概を書きとめたときには失念していたとも考えられる。もう一つの仮説として、リストの最後の二一番目に記載されている『極悪な仲間』というタイトルが、蟹をあらわしているとも受け取れるため、着想を得た時点での『蟹の支配者』の仮題ではないかといわれているが、この作品は書簡でもまったくふれられておらず、タイトルだけで判断するわけにはいかないし、ゾティークの物語を締めくくるものだとは考えにくい。
このような事情で、本書『ゾティーク幻妖怪異譚』をまとめるにあたっては、スミスの意志を尊重して『黒の書』の配列にしたがい、『蟹の支配者』を執筆時期に合わせて挿入したうえ、ゾティークの実相をうたった詩「ゾティーク」を巻頭に据えることにした。スミスがどこかで苦笑しているかもしれないが、これが現時点での妥当なやりかたではあるだろう。なお、ゾティークにかかわる戯曲が一篇あって、かなりしゃれたファルスなのだが、残念ながら長すぎるために収録することはしなかった。詩を楽しめる読者なら戯曲も堪能できるだろうから、いつかスミスの詩をまとめる機会があれば、そのとき加えることにしたい。
スミスが力を注いだ異郷にまつわる連作のなかでも、ゾティークは質量ともに抽《ぬき》んでており、しかも最後の作品『モルテュッラ』は最初の作品『降霊術師の帝国』の二〇年後に執筆され、ほかに戯曲まで書きあげられているので、スミスにとってよほど思い入れの強いものであったとわかる。幼いころからの東洋趣味を満足させるものであることが、スミスの心に適ったと見てさしつかえあるまい。先にも述べたように、スミスはロウ・ティーンのころに東洋を舞台にした小説を好んで書いていたし、未完のエピソードを翻訳して完成させるほど『ヴァテック』をこよなく愛していた。これに関して興味深いものが発見されたことをお知らせしておこう。
スミスの死後に文筆活動にかかわる文書はブラウン大学のジョン・ヘイ図書館に寄贈され、ラヴクラフト文庫に加えられたのだが、これらの文書を整理分類しているうちに、いままで知られていなかった長編小説の草稿が見つかった。この『黒い金剛石』は真贋二つの金剛石をめぐる拝火教徒の暗躍を克明に描いた冒険小説で、『ヴァテック』の影響が認められないことから、一九〇八年以前のロウ・ティーンのころに書きあげられたと考えられるが、子供向きに書き直された『千夜一夜物語』のような筆致ではあれ、翻訳すれば本書に匹敵するほどの長さにわたり、まったく中だるみすることもなく、目まぐるしいまでの展開を見せて書きつづられているのである。
いまだ修辞や描写を弄する力はなかったにせよ、これだけの長さの小説を澱《よど》みなく書きあげたのは、集中力と持続力の強さもさることながら、題材に対する愛着のしからしめるものだろう。幼いころから育《はぐく》まれつづけた東洋趣味が『黒い金剛石』を生みだし、ついに小説家として活動を開始するや、東洋趣味を遺憾なく発揮するものとしてゾティークが発現した。ゾティークの作品群の細部に目をこらせば、地理や歴史が綿密に組み立てられているのが判然とするように、スミスはゾティークについて周到な設定をしており、L・スプレイグ・ディ・キャムプに宛てられた一九五三年一一月三日付けの書簡であらましを述べているので、それを簡単に紹介しておこう。
スミスの設定によると、地球最後の大陸ゾティークは、現代の小アジア、アラビア、ペルシア、アフリカの北部と東部、インド、インドネシアの群島の多くから成り立ち、南のどこかに新しいオーストラリア島が存在するという。西にはナートといった島があって、黒人の食人族が生き残っている。北は未踏の砂漠で、東には未知の茫洋たる海が広がる。住民は主としてアーリア人やセム族の子孫だが、北西に黒人の王国イルカルがあって、黒人は他の国にも後宮の宦官として存在し、南の島じまにはインドネシア人やマライ人がわずかに生き残っている。現代文明の科学や機械は現代の宗教とともに失われて久しく、魔術や降霊術が幅をきかせ、多くの神が崇拝されている。船は帆と櫂《かい》のみで進み、火薬というものはなく、剣や弓を武器とする。主要な言語は印欧語に発する屈折語で、サンスクリット語やギリシア語やラテン語のように活用と曲用の語形変化が多い。
遙かな未来に古代の東洋が現前するという不思議な設定は、いくつかの小説でタイム・パラドクスをあつかったスミスならではのものだが、こうして新たな古代オリエーンスを創造することにより、想像力を思う存分はたらかせて、スミス版の『千夜一夜物語』ないしは『ヴァテック』の世界をのびのびと描きあげられるようになった。スミスはこの地球最後の大陸を当初はグニュドロンと呼ぶ一方、書きあげられることのなかった小説でゾティークを星の名前として使用したが、やがて両者のいずれにするかを悩むようになり、ゾティークが選ばれたといういきさつがある。スミス自身がゾティークはアンティークから連想してつくりだし、アンティークと同韻であると述べているので、古色を強調する狙いもこめて、ゾティークが選ばれたのだろう。
ゾティークを構成する物語の多くは、修辞や描写を整然と織りこめる文体で記され、随所で古色が浮かびあがるようにされている。スミスの意気ごみのほどがひしひしと感じられる語り口だが、よほどの自制心を発揮しているのか、スミスは決して饒舌《じょうぜつ》に語ることをしない。スミスの描写はまったく無駄がなく、克明にして正確であり、まざまざと目にうかぶように述べられて、絵画と彫刻にも表現を求めた詩人の本領があまさず発揮されている。ゾティークはスミスが最も力を注いだ代表作であり、新たな神話づくりの金字塔であるといってよいだろう。
未来における古代世界に終末の影が落ちているのだから、ゾティークの物語はおのずと皮肉のこもるものにならざるをえない。最も手のこんでいるのが『死体安置所の神』であって、ファリオムとエライスが皮肉な運命にみまわれながら、結局は降霊術師たちだけに悲運が降りかかるという因果応報の理をあらわして、二人は無事に逃れえたかに見えるが、実はもう一つの皮肉が隠されている。この物語が『拷問者の島』につづいているため、二人がこのあと目的地のヨロスにたどりついても、都の住民は銀死病によって死に絶えているので、たちまちハッピイ・エンドにいたることはない。『黒の書』におけるスミスの配列の妙が生み出す皮肉であって、連作という形式がうまく活かされている。
スミスの語り口を楽しみながら個々の物語を読み進むにつれ、さまざまな言及が直接あるいは間接に絡みあって、地球最後の大陸の地理や風俗や歴史がまとまりはじめ、物語はいきおい奥行きを深めて魅力を増していく。はなはだ厄介なことだが、すぐれた連作がそうであるように、一度通読しただけでは、本書『ゾティーク幻妖怪異譚』を堪能することはできないだろう。すべては読者各自が見いだすことにかかっているので、読者の発見の喜びをそこなわないように、個々の作品の内容に立ち入るという野暮なことはひかえ、ゾティークに附帯する情報を加えるにとどめておく。
スミスの『黒の書』にタイトルが記載されながら完成されなかった小説は六篇だが、記載されずにおわったものもあるので、スミスがいかにゾティークに思いを向けていたかを示すものとして、少しでも内容のうかがえるものを紹介しておこう。『黒の書』のリストの五番目に記載されている『時間魔術師の狂気』は、第九項にごく簡単な梗概が記されていて、他人には見えないものを目にする王がその幻の世界に随時入りこむとあるので、タイトルからも時間旅行をあつかうものだと考えられるが、南柯《なんか》の夢の本歌取りめいた『クセートゥラ』とテーマが重複するので控えられたのかもしれない。
一度書きこまれながら抹消されて、『地下納骨所に巣を張るもの』に置き換えられた『カルナマゴス』は、内容については不明ながらも、『ウィアード・テイルズ』一九三五年八月号に『塵埃を踏み歩くもの』という小説が掲載されており、これは冒頭に『カルナマゴスの遺言』の文章を引いて、女夢魔の生み落とした怪物の血で記された遺言の内容にふれているので、当初はゾティークにふくめるつもりでいたものの、独立した小説として書きあげられたと見てよいだろう。この小説ではカルナマゴスが古代ギリシアの悪評のつきまとう人物だとされており、スミスはカルナマゴスをかなり気に入っていたのか、『クセートゥラ』の冒頭にも『カルナマゴスの遺言』の一節を引いている。
一二番目に記載された『アダマントの形』は、冒頭二ページだけが書かれており、輪廻転生を繰り返して未来の記憶も具える予言者が、ゾティーク北端の王国ドーザ・トムの都、肥沃なアウァンダスで暮らしていたときのことを語るという趣向になっており、ゾティークの地理がかなり綿密に設定されていたことがうかがえて興味深い。一五番目に記載された『万物溶化液』は、簡単な梗概が第五〇項に書きとめられており、錬金術師にして魔術師でもあるビトゥレアムが万物溶化液を発見しそうになったとき、女神カトゥルアレの異端審問官に捕縛されるが、一時的に体を縮小する薬を使って未知の砂漠に逃げ出すとされている。
スミスの『黒の書』には記載されていないが、『シダイウァの足』の梗概と『マンドルの敵』の断片も残されていて、前者はウッマオスの宮廷踊り子シダイウァが、足の美しさと舞いの優雅さでゾティークじゅうに名を轟かせ、クシュラクのルナリア王女の嫉妬を買うとされ、後者はタスーンのファモルグ王の息子マンドルが父の死後に玉座につき、謎めいた敵の襲来を恐れるとされている。『地下納骨所に巣を張るもの』と『ウルアの妖術』で、ファモルグ王、その后となったルナリア、二人の娘ウルアがあつかわれているので、これら二篇が書きあげられていれば、ゾティークのなかにささやかなタスーン年代記ができあがっていただろう。二〇番目に記載された『真紅の女夢魔』は、スミスが書簡でエロティシズムをテーマにした中編小説にするつもりだと述べているだけに、これが書かれなかったことが惜しまれてならない。
[#挿絵(img/Tales_of_Zothique_447.jpg)入る]
なお、先に掲げた原題のリストで、『エウウォラン王の航海』の初出が『二重の影』になっているのは、『ウィアード・テイルズ』の編集長ファーンズワース・ライトが長すぎるとして受け入れず、スミスが一九三三年六月に自費出版して、『ウィアード・テイルズ』に広告を載せた、大判ながらも三〇ページの同書に収められたことによるものである。編集長がドーラシイ・マクルレイスにかわってから、一九四七年九月号に『ガゾルバの探索』としてかなり削除した形で掲載されたので、ゾティークの小説はすべて同誌に掲載されたことになる。
スミスの小説はあまり挿絵を付されることがないのだが、『死体安置所の神』、『暗黒の魔像』、『地下納骨所に巣を張るもの』、『クセートゥラ』の四篇については、ライトの依頼を受けてスミスが挿絵を描いた。ゾティークの小説のなかで、『ウィアード・テイルズ』の表紙を飾ったのは、『アドムファの庭園』と『ガゾルバの探索』の二篇で、それぞれヴァージル・フィンレイとボーリス・ダルゴブが手がけている。フィンレイのものについては、わたしの手元にある掲載誌のコンディションがよくないので、原画もあわせて掲げておく。
[#挿絵(img/Tales_of_Zothique_449.jpg)入る]
[#挿絵(img/Tales_of_Zothique_450.jpg)入る]
[#挿絵(img/Tales_of_Zothique_451.jpg)入る]
翻訳にあたっては、リン・カーターの編集したバランタイン版は校閲がまともにおこなわれていないことが判明したので、スミスの存命中に刊行されたアーカム・ハウス社の短編集を写真複製したイギリスのネヴィル・スピーアマン社の復刻版をテクストに使い、『ウィアード・テイルズ』および『二重の影』の初出と対照して異同を確かめたうえ、校正時にはネクロノミコン・プレス社の修訂版『ゾティーク』と照らし合わせて万全を期した。なお、バランタイン版にはカーターの作図したゾティークの地図が付されているが、東西を逆にするという、カーターならではの失策がおかされている。
ゾティークの固有名詞については、スミスの綴りをよく検討した結果、長音や促音も含めて発音をあらわす表記法が採られていることが明らかになった。これはブリタニカも外国語の発音を示すときに採用している表記法であって、スミスはブリタニカを通読したことで身につけたのかもしれない。長音を示す方法が別にあるので、子音のあとにつづくhの文字は、古典ラテン語と同様に気息をあらわすものとして、子音の音価をそのまま使い、長音を付さないようにした。一つの音価だけは例外としたが、先に掲げた原題のリストを見れば、その理由もおわかりいただけるだろう。yの文字はギリシア語のυ(ユー・プシロン)を音写したラテン語のyの文字の音価である母音のy音にした。ゾティークは古代オリエーンスを新たに創造するものであり、古代にはv音は存在しなかったため、vの文字の音価を古典ラテン語と同様に子音のw音にしたことをおことわりしておく。
ゾティークのものではない固有名詞については、いつものように原音主義を採用して、長音もふくめて正確に表記した。わたしが慣用表記というものを信用しないのは、英語形をローマ字読みしてでっちあげられることが多いからである。たまたまラテン語読みと一致するものがあるとしても、ギリシアのものをラテン語読みしている事実によって、無知と無頓着に発するものであることは否定しようがない。ハイボリアのキンメリア人やアリオッチというでたらめな表記の愚を繰り返さないようにしなければならないのだが、いまもなお続々とでっちあげられているというのが悲しい現実である。なお、長い年月にわたって書きつづけられたため、スミスはゾティークで同じものを異なった言語で表記することもある。たとえばゾティークの三つの作品において、中期英語の異形として成立した mandrake と、中世ラテン語をそのまま英語に取りこんだ mandoragora と、古典ラテン語の mandoragoras が使用されているが、これらを統一することはしなかった。
文体というものが顧《かえり》みられなくなって久しく、アイディアとプロットだけが偏重される現代であればこそ、ときには語り口の確かな小説の醍醐味をたたえた作品集を刊行する意味はあるだろう。小説の魔術師の『金剛石のレンズ』につづいて、言葉の魔力を駆使した吟遊詩人の精華を上梓する所以である。今回も表紙絵を東逸子さんに引き受けていただいたので、錦上花を添えられたことを喜びたい。
[#改ページ]
底本:「ゾティーク幻妖怪異譚」創元推理文庫、東京創元社
2009(平成21)年8月28日初版発行
入力:
校正:
2009年12月24日作成