都市と星 THE CITY AND THE STARS
アーサー・C・クラーク Arthur C. Clarke
真木進訳
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)物語《サガ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)|テレビ電話《ヴィジフォーン》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)サンゴ礁[#「サンゴ礁」に傍点]
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バルに
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はしがき
私の最初の長篇小説『銀河帝国の崩壊』Against the Fall of Night を読んで、その材料の一部が本書にも使われていることに気がつく読者のために、若干の説明をしておくのが適当であろう。
『銀河帝国の崩壊』は一九三七年に書きはじめられ、四、五回草案を練った後、一九四六年に完成したが、作者にはどうにもならない様々な事情によって、数年後まで出版されなかった。この作品は大へん好評だったが、処女作にはつきものである欠陥の多くを具えていて、私が初めに感じた不満は年ごとにますますつのっていった。のみならず、この物語を思いついて以来二十年間におこった科学の進歩のため、当初の考えの多くは幼稚なものとなり、この本が初めに計画された頃には思いもよらなかった展望と可能性が開けてきた。とくに情報理論における一定の発展によって、人類の生活様式には、すでに原子力がもたらしているよりもさらに深い革命のおこることが暗示されていた。私は、本書の執筆を企て、その中にこれらを織りこみたいと思っていたが、それはなかなか実現しなかった。
イングランドからオーストラリアへの船旅は、この未完成の仕事に取り組む機会となり、それは私が「大堡礁」へ出発する直前に完結した。自分が数カ月を海に潜って温和しそうもない鮫たちの中で暮すことを思うと、筆の進みにはますます拍車がかかった。自分が次の朝、縛り首にされるのを知ることほど人の心を落着かせるものはないと、ジョンソン博士がいうのがほんとうかどうかは知らないが、私の場合には、自分がサンゴ礁[#「サンゴ礁」に傍点]から帰らないかもしれないという思いが、この本がまさにこの時期に完成した主たる理由であったことは、誓ってもよい。かくして、ほとんど二十年間も私を悩ませてきた亡霊は、ついに成仏したのである。
この作品の約四分の一の部分が、『銀河帝国の崩壊』と重複している。しかしながら、前の作品を読んだ読者でも、本書が実質的には別の小説であることを感じられるだろうと信ずる。そうでなかったとしても、少くとも作者に自分の作品を書き直す権利は認めてくださることだろう。地球の長い夕暮の中に横たわる不滅の都市ダイアスパーについて私が語るのは、これが最後であることをお約束する。
[#地から2字上げ]アーサー・C・クラーク
[#地から2字上げ]一九五四年九月ロンドン――ヒマラヤ号――一九五五年三月シドニー
[#改丁]
都市と星
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その都市は、輝く宝石のように砂漠の懐に抱かれていた。かつては、そこにも変化や移り変りがあったが、今ではそこは時の流れと無関係だった。夜や昼が砂漠の上を通りすぎていったが、ダイアスパーの通りにはいつも午後の日射しがあり、夜の帳りが下りることはなかった。長い冬の夜、砂漠では、地球の稀薄な大気に僅かに残った湿気が凝結して、埃のように霜をおくこともあった。だが、この都市には暑さも寒さもなかった。そこは外界と何の接触もなく、それ自身が一つの宇宙だったのである。
人類はそれ以前にも数多の都市を建設したが、この都市のようなものは前例がなかった。都市の中のあるものは数世紀、あるものは数千年も続いたが、いずれは時のうつろいと共に、その名さえ忘れられていった。ここダイアスパーだけが永劫の時に抗して、都市やその中の一切のものを、歳月とともに徐々に摩耗し、朽ち果て、錆におかされることから守ってきたのである。
この都市が建設されて以来、地球の海は消滅し、全世界を砂漠が取りまくようになった。山々は一つ残らず風雨に磨り減らされて塵と化し、衰え果てた地球にはそれらを新たに生みだす力はなかった。この都市には、それも関係のないことだった。たとえ地球そのものが崩れさろうとも、ダイアスパーは、その建設者たちの子孫や財宝を、時の流れの中で無事に守りぬくことだろう。
彼らは多くのことを忘れ去っていたが、それには気がつかなかった。彼らは環境に、環境は彼らに、ぴったり適合していた――両者は同時に設計されたのだから、都市の壁の向うに何があるかは、彼らの知ったことではなかったし、彼らの心の中に入りこむ余地はなかった。ダイアスパーこそは、この世に存在し、彼らが必要とし、彼らに想像することのできるすべてだった。人間がかつて星々を我が手におさめていたことなどは、彼らにはどうでもいいことだったのである。
けれども、時として古代の神話がよみがえり、彼らの心につきまとうこともあった。まだダイアスパーが若く、その生命の泉を多くの太陽との通商からひき出していた頃の「帝国」の伝説を思いだすにつけて、彼らは不安に心をかきたてられるのだった。彼らには遠い昔の日々を呼びもどす気はなかった――この永遠に続く黄金時代に満足していたのだから、「帝国」の栄光は過去のもであり、過去に葬られるべきものだった。なぜなら、彼らは「帝国」がどんな最期をとげたかを忘れてはおらず、「侵略者」たちのことを思っただけで、宇宙空間そのもののような冷たさが背すじに忍びこむのだった。
このとき、彼らは、改めて都市の活気と暖かさに思いをいたすのだった。この長い黄金時代の生いたちはもう誰も知らず、その終りはそれよりも遠い未来の話だった。こういう黄金時代を夢みたものは多かったが、それを達成しえたのは彼らだけだったのである。
十億年を越える歳月が過ぎてゆく間、彼らは同じ都市に住み、奇蹟のように変わることのない同じ通りを歩いてきたのだった。
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彼らは何時間もの悪戦苦闘の末、やっと「白い虫の洞穴」から出てくることができた。今でさえ、あの青ざめた怪物たちのどれかが、自分たちを追ってきていないとは、いいきれないのだった。しかも、彼らの武器は、もうほとんどエネルギーを使い果していた。前方には、「水晶の山」の迷路を通り抜けるあいだ不可思議な道案内をつとめてきた光の矢が浮かんで、今も彼らをさし招いていた。それに従うほかはなかったが、これまでに何回もあったように、まだもっと怖ろしい危険に誘いこまれるのかもしれないのだった。
アルヴィンは、ちょっと振りかえって、仲間たちがみんな、まだついてきているかどうかを見た。アリストラはすぐ後に続き、その手には、この冒険が始まって以来、さまざまな怖ろしいものや美しいものを照らしだしてきた、永遠に燃え続ける冷光の球を持っていた。その青白い輝きは狭い通路にあふれ、ぎらぎら光る壁から眩く跳ね返されていた。この光がつづくかぎりは、行くてを照らし、どんな危険でも見つけることができるのだった。ところが、こういった洞穴の中での最大の危険というのは、眼に見えるようなものではないことを、アルヴィンはよく知っていた。
アリストラの後からは、重い放射機と格闘しながら、ナリリアンやフロラヌスが続いていた。アルヴィンはふと、こういう放射機がこんなに重いのはどうしてだろうと思った。これに重力中和装置を装着することなど簡単なはずだったからである。彼は、必死の冒険の真最中でさえも、いつもこんなことを考えていた。こんな考えが心をかすめる時、彼には、まるでこの実在の構造が一瞬ぐらっと揺れて、感覚の世界の向う側に、別のまるで違う宇宙の姿を垣間見るような気がするのだった……。
通路は、のっぺりした壁で行き止まりこなっていた。またしても、矢に欺されたのだろうか? そうではなかった。彼らが近づくと見る間に、その岩は粉々に砕け始めた。岩壁からは旋回する金属の尖端が突きだし、それは見る間に拡がって巨大なドリルになった。アルヴィンや友人たちが後に下がって待つうちに、その機械は洞穴の中に押し入ってきた。金属と岩が触れあう耳をつんざくばかりの叫び(その音は、きっと、山の隅々にまで響きわたって、そこに潜むあらゆる妖怪どもを呼び覚ましたに違いなかった!)とともに、地中潜航艇は岩壁をぶち破って彼らの傍に停まった。重い扉がひらき、カリストロンの姿が現われて、彼らに早くしろと怒鳴った(「カリストロンだって?」とアルヴィンは思った。「なんであいつ[#「あいつ」に傍点]がここにいるんだ?」)。次の瞬間には、彼らは安全な場所におさまって、機械はよろめきながら地底を進み始めた。
冒険は終ったのだ。やがて、いつもの通り、皆は家に戻って、驚異も恐怖も興奮も、すべておしまいになることだろう。彼らは、疲れて、満足しきっていた。
アルヴィンには、床の傾きぐあいから、地中潜航艇が地底深くへ向かっていることがわかった。たぶん、カリストロンは何もかも心得ているのであって、これが家への帰り道なのだろう。それにしても、心残りな気がするんだが……。
「カリストロン」彼は突然いいだした。「何で上へ行かないんだ。水晶の山[#「水晶の山」に傍点]がどんな形をしているのか、誰もほんとうのことは知らないんだ。どこかの斜面にとびだして、空やそこらじゅうの土地をながめたら、きっとすてきだぜ。地面の車は、もうたくさんだよ」
こういいながらも、彼は何だかまずかったなと気づいた。アリストラは、絞め殺されそうな叫びをあげ、地下潜航艇の内部は、水を通して見る映像のようにゆらめいた。まわりを囲む金属の壁の向う側に、またもや他の宇宙の姿がちらっとかすめるのが、アルヴィンには見えた。二つの世界が互いに争いあい、初めは一方が、次にはもう一方が、優勢になるように思えた。それから、突如として、一切は終った。何かがぷつんと切れて引き裂けるような感じがしたかと思うと、夢は終っていた。アルヴィンはダイアスパーの中にある自分の住み慣れた部屋に戻っており、堅いものにぶつかって怪我をしないように保護している重力場に支えられて、床から一、二フィート上に浮かんでいた。
彼は、我に返った。これこそ[#「これこそ」に傍点]が、ほんものの実在なのだった。そうして、次に何がおこるか、彼には手にとるようにわかっていた。
まず現われたのは、アリストラだった。彼女はアルヴィンに首ったけだったので、怒るどころか、むしろ気も顛倒していた。
「まあ、アルヴィンったら!」彼女は、壁のところからアルヴィンを見下ろして嘆いた。彼女はそこに、はっきりと物質化[#「物質化」に傍点]して姿を現わしていたのである。「あんなに、わくわくするような冒険だったのに! どうして、それを台なしにしなけりゃならないの?」
「ごめんよ。そんなつもりじゃなかったんだ。ただ、いい思いつきじゃないかと思っただけなんだよ……」
その言葉が終らないうちに、カリストロンとフロラヌスが同時に現われた。
「いいか、アルヴィン」とカリストロンが口を開いた。「お前が物語《サガ》の邪魔をしたのは、これで三度目[#「三度目」に傍点]だぞ。昨日は、虹の谷[#「虹の谷」に傍点]から外へ這いだしたいといって、筋書きをぶちこわした。その前の日には、俺たちが探検していた時間の軌道の中で、時間の起原[#「起原」に傍点]にまで遡ろうとして、何もかもめちゃめちゃにした。規則が守れないというんなら、一人で勝手にやるがいいさ」
彼は、かんかんに怒りながら、フロラヌスといっしょに姿を消した。ナリリアンは、姿も見せなかった。たぶん、彼は、一切合財にむしゃくしゃしているのだろう。その後にはアリストラの映像だけが残って、アルヴィンを悲しげに見下ろしていた。
アルヴィンは重力場を傾けて立ち上がると、物質化させておいたテーブルに歩み寄った。鉢に盛られた風変りな果物が、その上に現われた。それは、彼が思った食物ではなかった。彼はすっかり混乱していて、思考が集中できなかったのである。間違いを悟られまいとして、彼はなるべく危険でなさそうな果物を摘みあげるとおそるおそるしゃぶり始めた。
「ねえ」と、アリストラは、たまりかねていった。「これからどうするつもり?」
「どうしても、ああなっちゃうんだ」と、彼は少々ふくれっつらでいった。「あんな規則は馬鹿げてるよ。それに、物語《サガ》のなかにいる時に、どうやって規則を覚えていられるかっていうんだ。僕はただ、当然だと思うことをやってるだけなんだ。君は、山を見たいとは思わなかったのかい?」
アリストラは、恐怖に眼を丸くした。
「だって、それじゃ外に出ることになるわ!」彼女は息も止まりそうにいった。
アルヴィンは、これ以上議論しても無駄だと悟った。これこそ、この世界のすべての人たちと彼とを隔てる壁であり、それはまた彼が欲求不満の人生を送ることを運命づけているものかもしれなかった。現実であろうと夢の中であろうと、彼はいつも外の世界へ出たがっていた。ところが、ダイアスパーの人々には、「外」というのは、とてもまともには見ることのできないような恐怖の世界だったのである。人々は、できるだけ、そのことを話そうとしなかった。それは、何か汚れた邪悪なものだった。彼の教師であるジェセラクも、どうしてそうなのかは教えてくれなかった。
アリストラは、途方に暮れてはいたが優しい眼で、まだアルヴィンを見つめていた。「あなたは不幸せなのね、アルヴィン」と彼女はいった。「ダイアスパーに不幸せな人がいるなんて。ここに来て、お話してもいい?」
つっけんどんに、アルヴィンは首を振った。そうすれば[#「そうすれば」に傍点]どうなるかは、わかっていたし、今は一人でいたかったのだ。二重の意味でがっかりして、アリストラは消えていった。
千万も住む都市の中に、心から話ができるものは一人もいないんだな、とアルヴィンは思った。エリストンとエタニアは、彼らなりにアルヴィンを可愛がってはいたが、彼らの保護者としての期間はもう終りかけており、アルヴィンが勝手に楽しんだり、自分の人生を設計したりするままにさせられることを、喜んでいた。この数年間、自分が標準の類型とは違っていることが次第にはっきりするにつれて、アルヴィンは両親が苦々しく思っているのを、たびたび感じた。もっとも、アルヴィンに対してではなく(それなら、彼も、とにかく面と向かって闘うことができたろう)、二十年前にアルヴィンが「創造の殿堂」から出てきた時に、都市の何百万人もの中から彼らを選んだという全くの不運に対してだった。
二十年前[#「二十年前」に傍点]。彼は、その最初の瞬間を、また自分が聞いた最初の言葉を、今でも思いだすことができた。「よく来たね、アルヴィン。私が、お前の父親に指名されたエリストンだ。この人は、お前の母親のエタニアだよ」当時この言葉の意味はわからなかったが、彼の心はそれを一字一句正確に記憶した。彼は、自分の体を見おろした時のことを覚えていた。今では一、二インチ高くなってはいたが、この体は生まれた瞬間からほとんど変ってはいなかった。彼はほとんど成長しきってこの世に生まれ、今から千年後にこの世に別れを告げる時が来るまで、背丈以外はあまり変らないことだろう。
この最初の記憶の前は、全くの空白だった。いつの日か、この空白はきっとまた戻って来ることだろうが、そういう観念はあまりにも漠としていて、どんな形にもせよ彼の心を動かすことはなかった。
彼の心は、再び自分の出生の謎に戻っていった。日常生活の一切のものを物質化させるエネルギーと力が、この自分をも一瞬の間に創造したのかもしれないということは、アルヴィンには不思議とは思えなかった。とんでもない――そんなことは、謎でもなんでもなかった。彼にどうしても解けない謎、また誰も説明してくれない謎というのは、自分が「ユニーク」だということだった。
ユニーク[#「ユニーク」に傍点]。それは異様にも悲しい言葉であり、自分がユニーク[#「ユニーク」に傍点]であるということは異様にも悲しいことだった。それが自分のことだといわれた時には(彼に聞かれていないつもりで、そのことが話されるのを、彼はたびたび耳にしたのだが)、この言葉は自分の幸福を脅やかすだけではすまないような、不吉な感じを秘めているように思われたものだった。
両親、教師、彼の知る誰もが、まるで彼の長い少年時代の無邪気さを懸命に守ろうとするかのように、彼に真実を知らせまいとしてきた。こうした見せかけは、もう終るに違いない。数日後には、彼はダイアスパーの一人前の市民となり、何事にせよ彼が知ろうとするのを妨げることはできなくなるのだった。
たとえば、自分はなぜ物語《サガ》に溶け込めないのか? この都市の何千というレクリエーションすべての中で、これはいちばん人気があるのだった。物語《サガ》の中に入ると、原始時代の幼稚な娯楽(アルヴィンは、時にはこれも試みてみたが)と違って、我々は単に受身の傍観者ではなく、積極的な当事者であり、自由意志を持つ(あるいは、そんな気がする)のである。冒険の素材をなす事件や情景は、前もってどこかの芸術家によって用意されてあったとしても、そこには大幅な模様替えを認めるだけの柔軟性があるのだった。我々は友達といっしょにこの幻の世界に入ってゆき、ダイアスパーにはない刺激を追うことができる。おまけに、その夢が続いているかぎり、いかなる点でも現実と区別できないのだ。全くの話、ダイアスパーそのものが夢でないと、誰がいいきれるだろうか?
この都市が始まって以来ずっと考え記録されてきた数多の物語《サガ》を、すっかり試してみるなどというのは、誰にもできることではなかった。それらは、ありとあらゆる情緒に訴え、尽させぬ微妙な変化を示していた。その中には、冒険や発見をテーマにした単純素朴な脚本もあり、ごく幼いものたちに人気があった。また中には、純粋に心理的な精神状態を探究するものもあり、さらにまた中には、論理や数学の課題を解くものもあって、これはかなり複雑な知性の持主にも強い喜びを与えることができた。
ところが、仲間たちは物語《サガ》に満足しているようだったが、アルヴィンには不満な気持が残った。あらゆる色あいや刺激、さまざまな場面やテーマにもかかわらず、何か物足りないものがあったのである。
物語《サガ》などでは、とてもどうにもならないな、と彼は考えた。それらが展開する場面は、いつもひどく狭くて、彼の魂が恋いもとめる壮大な展望や、なだらかに起伏する山河などは、一つもなかったのである。何よりも、古代人たちの偉業が現実に行なわれた舞台たる無限の空間――星や惑星をちりばめた輝く空間――などは、薬にしたくもなかった。物語《サガ》を作った芸術家たちも、ダイアスパーの市民すべてを支配しているのと同じ不思議な恐怖症にとりつかれているのだった。このまがいもの[#「まがいもの」に傍点]の冒険でさえ、外の世界が全く見えない家の中や、地中の洞穴や、山に囲まれた小さな谷間で、気持よくおこることになっていた。
理由は一つしかなかった。遙かなる昔、おそらくはダイアスパーもまだ生まれない頃、何かがおこって、それは人類の好奇心や野心をくじいたばかりでなく、彼らを星から追い帰し、地球の最後の都市という小さな閉ざされた社会に、おびえ隠れさせたのである。彼らは宇宙を捨てて、ダイアスパーという人工の胎内に逃げこんだのだった。かつて彼らを駆りたてて銀河系やその彼方の霞む島々に向かわせた熱烈な打ち勝ち難い衝動は、あとかたもなく消えた。永劫の時が流れる間、太陽系には一隻の宇宙船も現われなかった。彼方の星の間には、人類の子孫たちが、今も帝国を建設し、数多の太陽を壊しているのかもしれなかったが――地球は何も知らず、どうでもいいと思っていた。
地球にはそれはどうでもよかった。だが、アルヴィンは、よくなかったのだ。
[#改段]
その部屋は真暗で、一方の壁だけが光っており、アルヴィンがしきりに空想を凝らすのにつれて、その上にはさまざまな色彩が潮のように現われては消えていった。その模様の一部は彼の気に入った。海から抜け出て聳え立つ山々の線に、彼は夢中になった。そのそそり立つ曲線には、力と気高さがあった。彼はそれを長いこと吟味していたが、やがてそれを思考投影機の記憶装置に入れた。これは、彼が絵の他の部分をいじくっている間、ここに保存されるわけだった。それでも、彼は、何だかわからないけれども、何かを掴まえ損なっているような気がしていた。彼は何度も何度も空白になっている場所を埋めようとし、機械は彼の心の中で変化する図形を読みとっては、それを壁の上に物質化させた。それでも、どうも、うまくいかなかった。線はぼやけて不確かになり、色は汚れて薄汚なくなった。芸術家自身に自分の求めているものがわからない以上、この世にも不思議な機械といえども、彼に代ってそれを見つけてくれるわけにはいかないのだった。
アルヴィンは、気に入らぬ走り書きを消すと、今まで美しさで飾ろうとしてきた、四分の三が真白な四角形を、むっつりと見つめた。突然思いついて、彼は今ある図柄を二倍の大きさにし、それを構図の真中に移した。駄目だ。これは安易な手口だったし、それに釣合いがまるでよくなかった。もっと悪いことには、大きさが変ったために、構成の欠陥が目立ち、一見確実な線に見えたものも、確かさを欠いていた。また初めからやり直すほかはないだろう。
「全部抹消」と、彼は機械に命じた。海の青が消えていった。山々は霞のように消え、あとには白い壁だけが残った。まるで、初めから何もなかったようだった。まるで、それらは、アルヴィンの生まれるよりずっと昔に地球の海や山が忘却の彼方へ消えていったように、見えなくなっていった。
部屋には再び光があふれ、アルヴィンが今まで夢想を投影していた明るい四角形は、その周囲と区別がつかなくなり、まわりの壁と一つになった。しかし、いったいこれは壁なのだろうか? こんな場所を今まで見たことのないものには、これは全く妙な部屋だった。そこは完全にのっぺりしていて、家具は一切なかったから、アルヴィンはまるで球の中心に立っているように見えた。壁と床や天井との間には、両者を分ける線は何も見えなかった。眼を据えることのできるようなものは何もなく、視覚から判断するかぎりでは、アルヴィンを囲む空間は、さしわたし十フィートかもしれないし、十マイルかもしれなかった。手をさしのべて進んでゆき、このとんでもない場所の物理的な境を突きとめようとする誘惑は禁じがたいことだろう。
けれども、歴史の大部分を通じて、こういう部屋が人類の多くにとっての「住み家」だったのである。アルヴィンが単に適当な思念を凝らしさえすれば、壁は都市の好きな場所に向かって開く窓になった。別の願望を凝らすと、彼が見たこともない何かの機械が働いて、彼に必要などんな家具でも、この部屋に投影してくるのだった。それが「実在」するのが、そうでないのかなどということを気にするものは、この十億年というもの、ほとんどいなかった。いわゆる確かな[#「確かな」に傍点]物体というのがやはり別の見せかけ[#「見せかけ」に傍点]にすぎないのにくらべれば、これらがわずかでも実在しないとはいえないのである。また、用がなくなれば、これらは都市の「記憶バンク」という幻の世界に返してしまえるのだ。ダイアスパーのあらゆるものがそうであるように、これらも絶対に摩耗せず、記憶されているそれのパターンを人為的に消してしまわないかぎりは、決して変わることもないだろう。
アルヴィンが自分の部屋を半ばもと通りに直したとき、彼の耳の中で鈴のようなチャイムの音が、切れ目なく響いた。アルヴィンが心の中で入室に同意する信号を発すると、彼が今し方まで絵を描いていた壁は再び消えた。そこには、思ったとおり、彼の両親と、そのちょっと後にジェセラクが立っていた。教師が同行しているからには、これは家族の間でのふつうの訪問ではなかった。もっとも、彼はそのことを、もう知っていた。
映像は完璧であり、エリストンが口をきいた時にも、その感じは変わらなかった。アルヴィンもそのことはよく承知していたのだが、現実にはエルストンもエタニアもジェセラクも、みんな数マイル離れたところにいるのだった。この都市の建設者たちは、時間を支配したと同じくらい完全に、空間をも征服したのである。アルヴィンは、両親たちが、このダイアスパーの無数の摩天楼と複雑な迷路の中のどこに住んでいるかさえ、定かには知らなかった。両親たちは、彼が最後に生身の体で会ってから、二人とも引越したのである。
エリストンは話し始めた。「アルヴィン、お母さんと私がお前に初めて会ってから、ちょうど二十年になる。それがどういうことかは、わかっているね。保護者としての我々の役目は終ったのだ。お前は、これから好きなようにしていいのだよ」
エリストンの声には、かすかな(ほんのかすかだったが)悲しみがこもっていた。それよりは、ほっとした様子の方がずっと強く、それはまるでエリストンが、しばらくのあいだ現実に存在していた既成事実が今や公けに認知されたことを喜んでいるかのようだった。アルヴィンは、長い年月、この自由を待ち望んでいたのだった。
「わかりました」と彼は答えた。「私を見守ってくださったことを感謝します。あなた方のことは、死ぬまで忘れないでしょう」これが正式の答辞だった。彼は何回となくそれを耳にしていたので、この言葉には何の意味も感じられなくなっており、それは何も特別な意味を持たない音の配列にすぎなかった。それでも、つらつら考えてみると、「死ぬまで」といういい方は妙な感じだった。彼はその意味を漠然とは知っていたが、今こそ、それを厳密に知る時が来たのである。ダイアスパーには彼の知らないことがたくさんあり、これからの何世紀かの間に、それを学ばねばならないのだった。
エタニアは、一瞬、何かいいたげな様子だった。彼女は片手をあげて、五彩の薄物でできたガウンを揺れさせたが、またそれを力なく下ろした。そうして、彼女は困ったようにジェセラクの方を見やったが、アルヴィンはこの時はじめて両親たちが当惑していることに気がついた。彼は、とっさに、過去数週間のできごとについて、記憶を辿ってみた。いや、違う。自分の最近の生活には、エリストンにもエタニアにも共通しているらしいこの微かなためらいや軽い不安の様子の原因になるようなことはなかった。
しかし、ジェセラクは、万事心得ている様子だった。彼はエリストンとエタニアに探るような眼を向け、彼らにもう何もいうことがないのを見てとると、何年ものあいだ待ち構えていた演説を始めた。
「アルヴィン」と、彼は話しはじめた。「二十年間というもの、お前はわしの生徒じゃった。わしは、お前にこの都市のしきたりを教え、お前が継ぐべき遺産を伝えようとして、最善を尽してきた。お前はたくさんの質問を発したが、そのすべてに答えるわけにはゆかなかった。中にはお前が知るのは早すぎることもあったし、またわし自身さえ知らぬこともあった。いまお前は幼年期を終るが、少年期はほんの始まったばかりじゃ。わしの助力が必要とあれば、お前を導くのは、なおわしの務めである。アルヴィン、二百年もすれば、お前も、この都市やここの歴史をいくらか知り始めるかもしれぬ。今回の一生を終ろうとしているこのわしでさえ、ダイアスパーの四分の一も見ておらんし、その財宝の千分の一も見てはおらんじゃろう」
ここまでは、アルヴィンの知らないことはなかったが、ジェセラクをせきたてるわけにはゆかなかった。老人は、何世紀もの深淵を隔てて彼をしっかと見据えており、その言葉は、長い寿命のあいだ人間と機械とに接してきたことから得られた、測り知れぬ英知の重みを持っていた。
「アルヴィン、一つ聞きたいのじゃが」と彼はいった。「お前は、自分が生まれる前――自分が創造の殿堂でエタニアとエリストンの前に立っているのに気がついた時より以前には、自分がどこに[#「どこに」に傍点]おったのだろうか、と考えたことがあるかな?」
「僕は、どこにもいなかったのだと思います――僕は、この都市の頭脳の中にあって、創造されるのを待っている一つのパターンにすぎなかったのです――こんなぐあいに」
アルヴィンの傍には、低い椅子がぼんやりと光り、それが濃くなって現実に姿を現わした。彼はそれに腰を下ろし、ジェセラクが話を続けるのを待った。
「まったく、その通りじゃ」という答だった。「が、それは答の一部にすぎぬ。しかも、ほんの一部にすぎんのじゃ。今日まで、お前は自分と同じ年頃の子供としかつき合ってこなんだが、彼らは真相を知ってはおらぬ。やがては、彼らも思いだすことじゃろう。しかし、お前はそうではない。それ故、わしらは、お前に真実に直面する心構えをさせねばならぬ。
アルヴィン。人類は十億年以上にわたってこの都市に住んできた。銀河帝国[#「銀河帝国」に傍点]が崩壊し、侵略者[#「侵略者」に傍点]たちが星の世界へ引き揚げてからというものは、ここがわしらの世界じゃった。ダイアスパーの壁の外には、伝説によれば、砂漠があるだけなのじゃ。
原始時代のわしらの祖先については、あまりわかってはおらぬが、ただ彼らはすこぶる短命で、不思議なことに、記憶装置や物質構成機の助けを借りずに自分を再生させることができたということじゃ。一人一人の人間の主要なパターンは、複雑かつ明らかに制御不可能な過程によって、生身の体の中で作られる微小な細胞構造の中に保存されたのじゃ。もし興味があるのなら、生物学者がもっとよく教えてくれるじゃろう。しかし、その方法がどうだったかは、大して重要なことではない。このやり方は、歴史の発端の頃に棄てられてしまったからじゃ。
人間も、他のあらゆる物体と同じく、その構造――パターン――によって明確に規定される。人間のパターン、またさらに人間の精神を特徴づけるパターンは、途方もなく複雑なものじゃ。しかしながら、自然はそのパターンを、眼に見えぬほど小さな細胞の中に押しこむことができた。
自然にできるものならば、人間にも、それなりの方法でやれるのじゃ。それができるまでに、どれほどの年月がかかったものやら、わしらにはわからぬ。おそらく、百万年もかかったろうか。が、それはどうでもよい。わしらの祖先たちは、最後には、それぞれの特定の人間を規定する情報を解析し、それを貯え、さらにその情報を使って、つい今しがたお前が寝椅子を創りだしたように、もとの人間を再生する方法を知ったのじゃ。
アルヴィン。お前がこういうことに興味を持っていることは、知っておる。が、わしには、この方法を厳密に話すことはできぬ。情報を貯える方法は、たいして重要なことではない。問題は、情報そのものじゃ。その形式は、紙に書かれた言葉であってもよいし、変動する磁場であってもよいし、電荷のパターンであってもよい。人類は、こういったすべての貯蔵方法、またその他多くの方法を使ってきた。ここでは、遠い昔に人類は自分自身を貯蔵することができるようになった――もっと厳密にいえば、肉体から分離したパターンを貯蔵し、それから再びもとの体を再現することができるようになった、といえば充分じゃ。
ここまでは、もうお前も知っておることじゃ。この方法によって、祖先たちは、わしらを事実上不死身とし、しかもなお死を追放したことから生ずる問題を免れた。どんな人間でも、一つの肉体の中に千年もおればたくさんなのじゃ。これだけ年を経ると、その人間の精神は記憶で詰まってしまい、彼はひたすら休息を、さもなくば新しい出発を求めるようになる。
アルヴィン。もうほどなく、わしは今回の人生を終る用意をすることになる。わしは自分の記憶をすっかり遡ってみて、それを整理し、憶えていたくないことは消してしまうことじゃろう。それから、わしは創造の殿堂へ入ってゆくのだが、それには、お前がまだ見たことのない扉から入ってゆくのじゃ。この老いた肉体は存在しなくなり、それとともに意識も失われる。ジェセラクであったものは、結晶の中心に固定された無数の電子の群のほかには、何も残らぬのじゃ。
アルヴィン。わしは眠るのじゃ。夢もない眠りをな。やがて、ある日、おそらく今から十万年後に、わしは再び新しい肉体の中に眼覚め、自分の保護者に選ばれたものたちに、まみえることになるのじゃ。彼らは、エリストンやエタニアがお前を導いたように、わしの面倒を見ることじゃろう。というのは、わしは、初めのうちは、ダイアスパーのことを何も知らず、前に自分が何者だったかを少しも覚えておらぬからじゃ。その記憶は幼年期の終りに徐々にもどってきて、わしはそれを頼りに新しい人生の周期を始めることになる。
アルヴィン。これが、わしらの生命のパターンなのじゃ。わしらはみな、以前に何回も何回もここに生を亨けたことがある。もっとも、ここにおらぬ期間の長さは、一見でたらめな法則に従って変化する故、この現在の住民の組み合わせは、決して二度と繰り返さぬ。新しいジェセラクは、新しい別の友人や新しい別の興味を持っておるのじゃが、それにもかかわらず、古いジェセラクも、わしが残したいと思った分だけは、やはり残っておるのじゃ。
そればかりではない。いかなる瞬間にも、ダイアスパーの市民のうち、生きてこの都市の通りを歩いておるものの数は、百分の一にすぎぬ。大多数は記憶バンクの中に眠り、彼らを呼びだして再びこの世の存在とする合図を待っておる。
このようにして、わしらは、連続性とともに変化を持ち、不死身ではあるが停滞を免れておるのじゃ。
アルヴィン。お前が考えておることは、こうじゃろう。お前は、仲間たちがもうやっておるように、自分が以前の人生の記憶を思いだすのは何時なのかを知りたいのじゃろう。
そういう記憶は、お前にはない。お前はユニーク[#「ユニーク」に傍点]だからじゃ。わしらは、少年期のお前に暗いかげが射さぬように、この事実をできるかぎりお前に知らせぬよう、努めてきた。もっとも、お前はもう真相の一端を察しておるに違いないと思うのじゃが。わしら自身にしても、五年前までは、それに気がつかなかった。しかし、もう疑う余地はない。
アルヴィン。お前は、この都市が建設されて以来、ただの数回しかおこらなかったような出来事なのじゃ。ことによると、お前は記憶バンクの中で、この長い長い年月を眠りつづけてきたのかもしれぬ。あるいはまた、ことによると、お前は、何らかの偶然によって、二十年前に初めて新たに創造されたのかもしれぬ。お前は、この都市の設計者たちによって初めから計画されておったのかもしれぬし、あるいはまた、わしらの時代におこった全く偶然の産物なのかもしれぬ。
わしらには、わからぬ。わかっておるのは、こういうことだけだ――アルヴィン、人類の中でお前だけは、以前に存在していたことがないのじゃ。文字どおりの意味で、お前は、少なくともこの一千万年の間に地球に生まれた最初の子供なのじゃ」
[#改段]
ジェセラクと両親たちが眼の前から消えると、アルヴィンは長いあいだ横になって、何も考えまいとした。彼は部屋を閉めきり、誰にもこの無我の境地を邪魔されぬようにした。
彼は眠っているのではなかった。眠りというのは、彼の経験にはなかったのである。眠りは昼と夜の世界に属するものであるが、ここには昼しかないのだ。今の状態は、彼にとっては、眠りという忘我の状態にいちばん近いものだった。これは何も彼にとって不可欠というわけではなかったのだが、心を鎮める役をすることを、彼は知っていた。
初めて知ったということは、あまりなかった。ジェセラクの語ったことは、ほとんど何もかも、すでに察していたことだった。だが、推測していたということと、その推測が疑問の余地なく確認されたということは、別問題だった。
このことが少しでも影響するとしたら、自分の人生はどう変るだろうか? 彼には確信がなかったし、半信半疑の状態というのは、彼には初めての気分だった。たぶん、事態は何も変らないのだろう。今回の人生でダイアスパーに完全に適応できなくても、次回の人生では、それともそのまた次の人生では、適応できるだろう。
こんな考えが頭に浮かぶや否や、アルヴィンの心はそれを打ち消した。他の人間たちには、ダイアスパーがあるだけでたくさんかもしれない。だが、自分には充分でないのだ。千回の人生を繰り返しても、ダイアスパーの驚異を知りつくし、そこで得られる経験の組み合わせを味わいつくせないことは間違いない。自分は、こういったことをして暮すこともできる。だが、それ以上のことができなければ、自分は決して満足しないだろう。
一つだけ、はっきりさせねばならない問題があった。それ以上、やるべきことがある[#「ある」に傍点]のだろうか?
この解き難い疑問で、彼の夢想は破れた。こんな落ち着かぬ気持のまま、ここにじっとしていることは不可能だった。そうして、この都市の中で、彼が心の安らぎを感じられる場所といえば、一つしかなかった。
廊下へ足を踏みだそうとすると、壁はその部分だけぱっと消え、そこを通り抜けるとき、壁の極性化した分子は、そよ風が顔に吹きつけるような手応えを示した。目的地に楽に行きつく方法はいくらでもあったが、彼は歩いてゆくことにした。彼の部屋は都市の主要レベルとほぼ同じ高さにあったので、少し歩くとすぐ通りに下りるラセン状の斜道に出た。彼は自動走路に見向きもせず、狭い歩道を歩き続けた。行程は数マイルもあったから、この行為は常規を逸していた。しかし、アルヴィンは、運動が心を鎮めるので好きだったのだ。おまけに、見るものはこんなにあるのだし、時間はこれから先無限にあるというのに、ダイアスパーの最近の驚異を急いで通り過ぎてしまうのは、もったいない気がしたのである。
この都市の芸術家は(そうして、ダイアスパーでは、誰でも、どの時期かには芸術家なのだった)、通行人が自分の作品を鑑賞できるように、近作を自動走路の道端に展示する習慣があった。こうして、問題になるほどの作品なら、ふつうは僅か数日の間に全住民がそれを吟味し、それについての意見を述べるのだった。この「傑作」の運命は、世論調査機が自動的に記録する表決によって決まるのだった。この機械は、買収することも騙すことも(これは何度も企てられたが)できないのだった。充分な賛成票が集まれば、その母型が都市の記憶に残され、後になってからでも、それが欲しいものは原物と寸分違わぬ複製を手に入れることができた。
それほど出来のよくない作品は、そういう作品がいつも辿る道を通る。つまり、もとの材料に分解されるか、あるいはその芸術家の友人の家に落ち着くことになるのである。
通りすがりにアルヴィンを惹きつけた芸術作品は、たった一つしかなかった。それは全く光だけから創られていて何となく花が開くのを思わせた。それは、光の小さな芯から徐々に大きくなり、それが拡がるとラセンと幕が複雑に組みあわさったものになって、急に崩れては、また始めから繰り返すのだった。だが、厳密にいえば、どの回も全く同じではなかった。アルヴィンは、その脈動を何回となく見つめていたが、基本的なパターンは同じであっても、どの回にも微妙な捉え難い変化があった。
彼は、自分がなぜこの手に取れない彫刻作品が好きなのかがわかっていた。それが拡がるリズムは、空間の拡がりという印象を与え、空間へ飛びだしてゆくという印象をさえ与えたのである。まさにそのために、この作品は、おそらくアルヴィン以外の住民の多くには気に入られないことだろう。彼はその芸術家の名前を控え、できるだけ早い機会に彼を訪問することに決めた。
自動走路も歩道も、あらゆる道路は、都市の中心の緑地帯である公園に達して終っていた。さしわたし三マイル以上の円形をなしたこの場所は、砂漠がダイアスパー以外のものをすべて呑み尽した以前の頃の地球の面影を留めていた。まず広い草地帯があり、次には低い樹木があって、その木蔭を進んでゆくにつれて、木立はますます深くなっていった。同時に地面はゆるやかに下ってゆき、ついに狭い森からとびだすと、都市は木立に遮られて跡形もなくなっているのだった。
アルヴィンの行く手に横たわる広い流れは、単に「川」と呼ばれていた。他の名前はついていなかったし、またその必要もなかった。ところどころには狭い橋がかかり、川は公園のまわりを完全に閉じた輪を描いて周流し、そこかしこに湖をつくっていた。流れの速いこの川が、六マイル足らずの流路を通ってから、もとの場所[#「もとの場所」に傍点]に戻っているということも、アルヴィンには一向に妙なこととは思えなかった。実をいえば、「川」が一周する間に、ある地点では高い方に向って[#「高い方に向って」に傍点]流れていることさえ、彼はほとんど気に留めようともしなかった。ダイアスパーでは、これより不思議なことが、いくらでもあったのである。
一ダースほどの子供たちが小さな湖の一つで泳いでおり、アルヴィンは足を止めて彼らを眺めた。彼は、その子供たちの大部分を、名は知らなくても、顔を知っており、彼らといっしょに遊びたいという誘惑にちょっと駆られた。しかし、自分が秘密を持っているということが彼の気を変えさせ、見物するだけで満足することにした。
この若い市民たちの中で、誰が今年創造の殿堂[#「創造の殿堂」に傍点]から出てきたものであり、誰がアルヴィンと同じくらい長い間ダイアスパーで暮らしてきたものであるかを見分ける方法はなかった。背丈や体重には非常な違いがあったが、それは年令とは何の関係もなかった。それは単なる生まれつきであり、概して丈の大きいほど年令も多いのではあったが、数世紀の尺度で問題にするのででもなければ、これはあまり当てになる基準ではなかった。
それよりは顔つきの方が頼りになった。新生児の中にはアルヴィンより大きなものもいたが、彼らはまだ子供っぽい顔つき、つまり自分たちが生まれてきたこの世界に対する茫然としたような驚きの表情を浮かべていて、すぐにそれとわかった。彼らの心の中には、無数の人生の記憶が眠ったまま蔵いこまれており、彼らはやがてそれを思いだすのだと考えると、不思議な気がした。アルヴィンは彼らを羨ましく思ったが、羨むべきかどうかはわからなかった。初めて生きるという経験は貴重なものであり、二度とは繰り返せないものなのだ。人生を文字どおり初めて、まるで明け方のすがすがしさをもって眺めるのは、すばらしいことだった。ただ、自分のような人たちが他にもいて、この考えや気持を分ちあえたなら!
それでも、肉体的には、彼も水中で遊んでいる子供らと全く同じ形につくられていた。人間の肉体は、ダイアスパーの建設から十億年の間に全く変っていなかった。というのは、体の基本的構造は、都市の記憶バンクの中で永久に固定されていたからである。しかし、これも、もとの原始形態からみれば、非常に変ってしまっていた。もっとも、その変化の大部分は内部的なものであって、外からは見えなかった。人類は、その長い歴史の中で、かつてその肉体につきものであったさまざまな病気を根絶しようとして、自分の体を何度も作り変えたのだった。
爪や歯のような不要な付属物は姿を消した。毛は頭だけに残され、それ以外の肉体には、痕跡も留めていなかった。体つきの中で、黎明期の人を最も驚かせるものは、きっと臍がなくなったことだろう。臍のないことの不可解さは、彼にさまざまなことを考えさせることだろう。また、一見したところでは、男性と女性をどうやって区別するかにも当惑することだろう。彼は、もう何も区別はないのだとさえ思いたくなるかもしれないが、それは大きな間違いなのである。然るべき状況のもとでは、ダイアスパーのどの男性も、彼が男であることに疑問の余地はない。これはただ、今では彼の付属物が、必要のないときには、ずっと手際よく蔵いこまれているというだけのことにすぎないのだ。これが体内におさまったことは、自然が企てた不様な、また何とも全く危険な本来の配置に、いちじるしい改善を加えた。
生殖の問題は、染色体をサイコロとした偶然の戯れに委ねるには、あまりにも重要なことであって、今では肉体には関係がなくなっていることは事実だった。しかし、受胎や出産はもう人々の記憶にさえ残っていなかったが、性欲はのこった。古代にあってさえ、生殖に関係があったのは、性行為の百分の一にも満たなかったのである。そのたった一パーセントさえ消滅したことは、人間社会の様式を変え、「父親」とか「母親」というような言葉の意味を変えた。それでも、欲望は残ったのだ。もっとも、今日では、他の感覚の歓びのどれかにくらべて、これがとくに深い満足を与えるというわけではないのだが。
アルヴィンは、楽しそうな子供らを後にして、公園の中央に歩を進めた。この辺では、低い茂みの中に微かな踏み跡が縦横に交わり、時には地衣類に覆われた大きな岩の間を狭い谷間へ下りていっていた。一度、彼は、人間の頭より大きくはない小さな多面体の機械が、木の枝の間に浮いているのに出会った。ダイアスパーにどのくらいたくさんな種類のロボットがあるかは、誰にもわからなかった。ロボットたちは、邪魔にならないように、自分の務めだけを手際よく運んでいたので、彼らの一つにでも会うというのは滅多にないことだった。
やがて、地面は再び上がり始めた。アルヴィンは、公園のちょうど真中、したがって都市そのもののちょうど真中にある小さな丘に近づいていた。この辺りまで来ると障害物や回り道は少なくなり、丘の頂きやその上に建っている簡素な建物が、はっきりと見えた。そこまで昇りついた頃には彼はやや息切れがしており、バラ色の柱の一つによりかかって休みながら今来た道をふりかえるのは楽しかった。
ある種の建築様式には、それが完璧の域に達しているために、それ以上変りえないということがあるものだ。「ヤーラン・ゼイの墓」は、人類に知られている最古の文明における寺院建築家の手に成ったといっても通用するかもしれないが、それに使われた材料が何であるかは、彼らには想像もつかないだろう。天井は空に向かって開けており、たった一つしかない部屋は大きな厚板で鋪装されていて、それはただ外見だけが天然の石に似ていた。地質学的な長い年代の間、この床は人間の足でさんざんに踏まれてきたのだが、この想像を絶した強靱な物質には、何の痕跡も残ってはいなかった。
この大公園の創設者(ダイアスパーそのものの建設者と同一人物だ、というものもいた)は、やや伏し眼がちに坐っており、まるで膝の上に拡げた設計図を調べているかのようだった。彼の顔には、例の奇妙に掴まえどころのない表情が浮かんでおり、それは何代ものあいだ世の人々を戸惑わせてきたのだった。これは作者の何気ない気まぐれにすぎない、といいきるものもあったが、他の人々には、ヤーラン・ゼイが何かの悪戯を企んで微笑んでいるように思われた。
この建物全体が、一つの謎だった。というのは、これについては都市の歴史的な記録に何一つのこっていないからだった。アルヴィンには、「墓」という言葉の意味さえ定かではなかった。たぶん、ジェセラクなら、教えてくれられるかもしれない。彼は、死語を蒐集して、それを会話の中にちりばめ、聞く人たちをまごつかせるのを楽しみにしていたからだった。
この中央の地の利を得た場所から、アルヴィンは、視界を遮る木立越しに公園を見渡し、外側にある都市そのものまでも見通すことができた。いちばん近い建物は、ほぼ二マイルも彼方にあり、低い帯状となって公園を完全に囲んでいた。その向こうには、列をなして次第に高くなってゆく塔や高台があり、都市の主要部分を構成していた。それらは何マイルも拡がり、次第に空に向かって高く立ち上り、ますます複雑になり威風堂々と聳えているのだった。ダイアスパーは一つのものとして設計され、それは一個の巨大な機械だった。しかも、その外見の複雑さはほとんど人を圧倒せんばかりであったが、それさえも、隠れた技術の驚異、つまりそれなくしてはこの巨大な建築物もすべて死の墓場と化してしまうものの片鱗を覗かせているにすぎなかった。
アルヴィンは、自分の住む世界の境界の方を見つめた。十マイル、いや二十マイル彼方には、距離のために細部はぼやけているが、この都市の外壁があり、その上には屋根のように空が乗っているかに思われた。その向こうには何もないのだった――つまり、その中に入れば人はたちまち気が変になるような、砂漠のやるせない空虚のほかには、何もないのだった。
では、その空虚がなぜ自分の心を惹きつけるのだろうか? 彼の知る他の誰の心も惹きつけないというのに? アルヴィンには、わからなかった。彼は、いま人類の全領土を取り囲んでいる彩られた塔や胸壁の方を、まるでこの疑問の解答をそこから引きだそうとでもするかのように見つめた。
答は、そこにはなかった。だが、全身全霊をもって到達しがたいものに憧れたこの瞬間に、彼の心は決まった。
今や、人生にどう立ち向かうかを、彼は知ったのである。
[#改段]
ジェセラクは、アルヴィンが半ば予期したほど非協力的ではなかったが、大して役にも立たなかった。助言者としての長い経歴の中で、彼は以前にもこういった質問をされたことがあったし、アルヴィンがいくらユニーク[#「ユニーク」に傍点]だといっても、そういろいろと思いがけないことをしでかしたり、彼にも解くことのできない問題を持ちだせるとは信じなかった。
アルヴィンの行動はたしかに多少常軌を逸し始めており、いずれは矯正を要するかもしれないということは事実だった。彼は、この都市の信じ難いほど洗練された社交生活や、仲間たちとの幻想の世界に、当然期待されるほどには、心からとけこんではいなかった。彼は、高度な思索の領域には、あまり関心を示さなかった。もっとも、彼の年頃では、これも意外ではなかった。もっと人目に立ったのは、その恋愛生活の奇矯さだった。少なくともあと一世紀の間は、彼に多少とも安定な配偶関係を期待するわけにはゆかなかったのだが、それにしても彼の情事の短かさは、早くも有名になっていた。彼の情事は、続いている間こそ熱烈なものだったが、その中の一つとして数週間以上続いたものはなかった。アルヴィンは、一時に一つのことしか徹底的な関心を持つことができないらしかった。時によっては、彼が仲間の恋愛遊戯に心の底から溶けこんだり、自分が選んだパートナーと手をとりあって何日も姿も消すようなこともあった。だが、いったん気分が変わると、彼の年頃では主たる関心であるべきこのことに、長いことすっかり興味を失ってしまうようだった。このことは、おそらく彼にとっても苦痛だったろうが、捨てられた彼の恋人にとっては苦痛どころの騒ぎではなく、彼女たちは失意のあまり市中をさまよい歩き、ただならぬほど長い時間の後に、やっと他に慰めを見出すのだった。アリストラも、今まさにこの気の毒な段階に達したことに、ジェセラクは気づいていた。
とはいっても、別にアルヴィンが不人情だとか、思いやりがないとかいうことではなかった。彼は、恋愛でも、他のすべてのことと同じく、ダイアスパーでは得られないものを探し求めているらしかった。
こういった性格について、ジェセラクは少しも心配してはいなかった。ユニーク[#「ユニーク」に傍点]はこうした挙動を示すものなのかもしれないし、いずれはアルヴィンも、この都市の全般的な様式に順応することだろう。いかに奇矯であろうと、あるいはいかに才気に溢れていようと、単なる個人が、十億年以上もこれという変化なしに続いてきた社会の巨大な惰性を左右することはできないのだ。ジェセラクは、単純に安定性を信じていたわけではなかったが、それ以外には考えようがなかったのである。
「お前を悩ませておるのは、大へん古い問題なのじゃ」と、彼はアルヴィンに語った。「しかし、いかに多くの者が、この世界をあるがままに受け入れ、このようなことを気にもせず、思いつきさえもせぬと知ったなら、お前はびっくりすることじゃろう。かつて人類が、この都市にくらべれば無限ともいうべき広い宇宙を占有しておったのは事実じゃ。砂漠が来たり海が消滅する前に、地球がどんな様子をしておったかは、お前もいくらか見たことがあるじゃろう。お前が好んで映してみておるそれらの記録は、わしらの持っている中で最古のものであって、侵略者たちが来る前の地球のさまを保存しておる唯一のものなのじゃ。あれを見たものは、あまりたんとはおるまい。あの無限の広い空間というものは、わしらには考えるだに耐えがたいものなのじゃ。
それに、地球といえども、銀河帝国の中の一粒の砂にすぎなかったのじゃ。星の間に横たわっておった深淵がどのようなものであったかは、正気の人間ならば想像してみようとも思わぬ悪夢のようなものじゃ。わしらの祖先たちは、原始の時代に宇宙へとびだして帝国を建設した時、そこを渡っていった。侵略者たちが彼らを地球へ追い戻した時、彼らはもう一度そこを最後に渡った。
伝説によれば(これは伝説にすぎないのじゃが)、わしらは侵略者たちと協定を結んだのだという。彼らがそれほどまでに欲しいのなら宇宙を取るがよかろう、わしらは自分たちの生まれた惑星で満足しよう、というわけだったのじゃ。
わしらは、この協定を守って、少年時代の無益な夢を忘れた。アルヴィン、お前も忘れることじゃろう。この都市を建設し、その社会を設計した人々は、物質と同時に精神の支配者でもあった。彼らは、この都市の壁の中に、人類が必要とする限りのものは、ことごとく包みこんだ。それから、わしらが決してここを離れることのないように、手を打った。
いや、物理的な障壁などは、いささかも重要なものではない。おそらく、都市から出てゆく道はあろう。が、それを見つけたとしても、お前がそれほど遠くへ行けるとは、わしは思わぬ。またもしお前がそれに成功したとしても、何のよいことがあるのか? お前の身は砂漠の中で長くは保つまい。都市がもはや守ってもくれず、養ってもくれぬ以上はな」
「もし都市から出る道があるとすれば」と、アルヴィンはゆっくりいった。「僕が出てゆくのを止めるものがあるでしょうか?」
「下らぬ質問じゃ」と、ジェセラクは答えた。「お前は、もうその答を知っておるではないか」
ジェセラクのいうとおりだった。しかし、彼が考えたようにではなかった。アルヴィンは知っていた、というよりは、むしろ推察していた。仲間たちは、自分といっしょに眼を覚まして生活しているときにも、夢の世界で冒険をやっているときにも、その答を見せてくれたのだった。彼らには、ダイアスパーを離れることは、決してできないだろう。ジェセラクも知らないのは、彼らの生活を支配するこの強迫観念が、アルヴィンには何の力も及ぼさないということだった。自分がユニーク[#「ユニーク」に傍点]であるのは偶然によるのか、それとも古代の計画によるものなのか、彼には知る由もなかったが、これはそのことの結果の一つだった。この先、この他にどれだけのことが出てくるのだろうか、とアルヴィンは思った。
ダイアスパーでは誰も急ぐものはなかったし、アルヴィンでさえも、この習慣はめったに破らなかった。彼はこの問題を数週間のあいだ慎重に考え、長い時間をかけて、都市の最古の歴史の記録を探した。反重力場のふわりとした腕に支えられて横になりながら、彼は何時間もぷっとおしで、催眠映写機を使って過去に心を開くのだった。その記録が終ると、機械はぼやけて消えてしまうのだったが、アルヴィンは、しばらく横になったまま、何もない空間を見つめ、それからやっと長い年代をとおって、この現実の世界に戻ってくるのだった。彼は、もう一度、陸地そのものよりも広大な、果てしもない青い大海が、黄金色の岸辺に波を打ちよせるのを見ていた。彼の耳には、この十億年のあいだ静まり返っている波浪の轟きが響いていた。彼は、森林や大平原、さてはかつてこの世界に人間と共存していた見慣れぬ獣たちを思い返すのだった。
こういった古代の記録は、ほとんど残っていなかった。侵略者たちが来てからダイアスパーが建設されるまでの間のいつかに原始時代の記録はことごとく失われた、と一般に考えられていたが、どうしてかは誰も知らなかった。この抹殺は実に徹底しているので、それが単なる偶然によるものとは、とても信じられなかった。人類は過去を失い、僅かな年代記が残っただけだったが、それもことごとく伝説的なものかもしれなかった。ダイアスパーの前は、ただの黎明期しかないめだった。この忘却の淵の中では、火を使った最初の人間と原子エネルギーを解放した最初の人間、また丸太のカヌーを建造した最初の人間と星に到達した最初の人間が、渾然と一体になっていた。この空白の時代の向う側では、すべてが隣りあっているのだった。
アルヴィンは、この旅行を、もう一度一人だけでやるつもりだったのだが、ダイアスパーで独りでいるということは、いつも注文どおりにゆくとは限らないのだった。自分の部屋を出たとたん、彼はアリストラとばったり顔をあわせた。彼女は、偶然に来あわせたふりをしてごまかそうなどとはしなかった。
アルヴィンは、アリストラが美人だとは思ってもみなかった。それは、彼が醜い人間というものを見たことがなかったからだった。美しいのが当りまえになった時代では、美しさは心を動かす力を失い、美しくない場合にだけ感情に何らかの影響を与えることができるのである。
アルヴィンは、この出会いで、もう熱のさめた愛情のことを思いださせられて、一瞬当惑した。彼は、多少とも長続きする関係の必要を感ずるにはまだ若く、自己中心的でありすぎたし、その時期が来たとしても、この関係を作るには困難を感ずるかもしれなかった。最も気を許した瞬間でさえ、彼と愛人たちとの間には、自分がユニーク[#「ユニーク」に傍点]であるという壁が立ち塞がっていた。体は一人前であっても、彼はまだ子供であり、この先数十年の間は子供のままでいるだろう。その間にも、仲間たちは、一人また一人と、過去の人生の記憶をとりもどして、彼を遠くおきざりにしていくのである。彼は、それがおこるのを前にも経験しており、そのため、どんな人に対しても、心の底から胸襟を開く気にはなれないでいるのだった。今のところは純真で無邪気に見えるアリストラでさえ、遠からず、彼には想像もつかないほどの記憶や才能の固まりになることだろう。
軽い当惑は、ほとんど即座に消えた。そうしたいというのなら、アリストラが自分といっしょに来ていけないという理由は何もなかった。彼は利己主義ではなく、この新しい体験を欲張って一人占めにする気はなかった。実をいえば、彼女の示す反応から多くのことが学べるかもしれないのだった。
彼女は、高速自動走路が二人を混雑する都市の中心から運び去ってゆく間も、いつもに似あわず何も質問しなかった。
彼らはいっしょに走路の中央の高速帯の方へ移動していったが、足もとの奇蹟には眼もくれようとしなかった。古代社会の技術者ならば、一見したところ固体の走路が、両側が固定しているのに、どうして中央にゆくに従って次第に速度が増すのかを理解しようとして、だんだん頭がおかしくなることだろう。しかし、アルヴィンやアリストラにとっては、一方向には固体であり、他方向には液体であるような性質を持った物質があるということは、全く当然のことのように思えたのである。
まわりでは、建物はますます高くなり、まるで都市が外界に対して胸壁を補強しているかのようだった。この聾えたつ壁がみんなガラスのように透明になり、その中の生活を眺めることができたとしたら、きっとひどく妙なものだろうな、とアルヴィンは思った。まわりの空間に散らばって住んでいるのは、自分の知っている友人たち、自分がいつか知ることになる友人たち、さらにまた自分が一度も会うことのない他人だった。もっとも、一生の間には、自分はダイアスパーのほとんど全部の人に会うことだろうから、そういう人たちは僅かなはずだった。ほとんどの人たちは別々の部屋に坐っていることだろうが、それでも独りぼっちでいるわけではなかった。彼らは、そうしたいと思いさえすれば、現実の肉体はそこにいても、他のどんな人たちとでも会うことができるのだった。彼らは退屈することはなかった。なぜなら、この都市が建設されて以来、想像および現実の世界におこったあらゆる事柄を手に入れることができたからである。その精神がこういうふうに作られている人々にとっては、これは全く満ち足りた生活だった。しかし、アルヴィンにもまだわかってはいなかったのだが、これは全く無為な生活でもあった。
アルヴィンとアリストラが都市の中心部から外に向かってゆくにつれて、通りに見かける人の数は徐々に減ってゆき、彼らが明るい色をした大理石の長いプラットフォームに静かに滑りこんで止った時には、あたりに人影は見えなかった。自動走路の物質が元の出発点に流れもどってゆく個所では、物質の安定した渦ができており、彼らはその上を渡って、いくつもの明るく照明されたトソネルが貫通している壁の前に出た。アルヴィンは、即座にその一つを選んで、アリストラをすぐ後に従え、その中に足を踏み入れた。彼らは、直ちに、蠕動場《ペリスタルティック・フィールド》に捉えられ、のんびりともたれかかって周りを眺めている間に、前に押しやられていった。
ここはもう、これが深い地下のトンネルの中だとは、とても思えなかった。ここには、ダイアスパー全体をカンバスに使った芸術が、しきりに繰り拡げられており、頭上には空が開けて、天上の風が吹いているかのようだった。四方には、陽光に輝いて、都市の尖塔が聾え立っていた。それはアルヴィンの知っている都市ではなくて、ずっと昔の時代のダイアスパーだった。大きな建物の多くは見慣れたものだったが、微妙な違いがその光景に興を添えていた。アルヴィンは、ここでゆっくりしていたかったのだが、どうやったらトンネルの中を進む速度が緩められるかは、どうしてもわからなかった。
彼らは、早くも、すっかり窓で囲まれた楕円形の部屋に、静かに降ろされていた。そこからは、美しい花の咲き誇る庭園が、手を伸ばせば届きそうに覗いていた。ダイアスパーにもまだ庭園はあったが、ここの庭園は、それを考えた芸術家の心の中にだけ存在したものだった。今日の世界には、こんな花は確かになかった。
アリストラはその美しさに魅せられ、明らかにアルヴィンがこれを見せに連れてきてくれたものとばかり思いこんでいた。アルヴィンは、彼女がはしゃいで次々と窓を走りまわり、それぞれに新しいものを発見して有頂天になっているのを、しばらく眺めていた。ダイアスパーの周囲の、ほとんど人気のない建物には、こんな場所が数百もあり、表からは見えない動力によって守られ、安全な状態に保たれていた。いつか、再び人々がこちらの方に戻ってくることがあるかもしれないが、それまでは、この古代の庭園は、二人だけが知っている秘密だった。
「もっと先に行かなきゃならないんだ」と、とうとうアルヴィンがいった。「これはまだ序の口だよ」彼は、窓の一つをまたいで越した。すると幻影は影も形もなくなった。ガラスの後側は庭園ではなく、ラセンを描いて急上昇する通路になっていた。彼には数フィート向こうにまだアリストラが見えたが、彼女の方では自分の姿が見えないことを知っていた。だが、彼女は躊躇することなく、すぐに彼の横の通路に立っていた。
足もとの床は、彼らを懸命に目的地に連れてゆこうとするかのように、徐々に前方へ動き始めた。彼らはその上を二、三歩だけ歩いたが、その頃には速度が非常に大きくなってきたので、それ以上歩いても意味がないようになった。
廊下は、なおも昇りになっていて、百フィートもゆくと、全く垂直に上に向かっていた。だが、それは論理の上でのことだけであって、感覚的には今も、どこからみても全く水平な廊下を走っているかのようだった。実際には彼らは数千フィートの深さの縦孔を垂直に昇っているのだったが、不安感は少しもなかった。方向偏向場が故障することなどは、ありえなかったからである。
やがて、廊下は再び「下の方へ」傾き始め、また直角に曲がった。床の動きは、気がつかないうちに遅くなってゆき、やがて鏡の並んだ長い広間の端で止まった。アルヴィンは、ここでアリストラをせきたてることは絶望であることを悟った。ある種の女性の性格はイヴ以来変っていなかっただけでなく、この場所の魅惑に抗しうるものは誰もいなかったのである。アルヴィンの知るかぎりでは、こんな場所は、ダイアスパーで、ほかにはなかった。これを作った芸術家のちょっとした気まぐれで、ここの鏡のうち、あるがままの光景を映しているものは、ほんのわずかしかなく、それさえも絶えず位置を変えているとアルヴィンは信じていた。それ以外の鏡も、たしかに何か[#「何か」に傍点]を映してはいたが、自分が絶えず変化する全くの想像の世界の中を歩いているのを見るのは、いささか度胆を抜かれる感じだった。
鏡の中の世界では、時々、人々が往き来し、アルヴィンは一度ならず見覚えのある顔にぶつかった。そこに見えているのは、今の世で自分が知っている友人たちなのではないということは、彼にはよくわかっていた。彼は、見知らぬ芸術家の眼を通して過去を見ているのであり、今日の世界を歩いている人々の前世の姿を眺めているのだった。このことは彼に自分がユニーク[#「ユニーク」に傍点]であることを思いださせ、この変化する情景の前でどんなに待っていたとしても、自分の昔の姿に会うことはないのだと考えると、悲しい気持になった。
「僕たちが、どこにいるか、わかるかい?」鏡をすっかり一巡すると、アルヴィンはアリストラにたずねた。アリストラは首を振った。
「どこか、都市の外れに近い所だと思うわ」と、彼女は何気なく答えた。「わたしたち、遠くに来たようだけど、どのくらいだか、とてもわかんないわ」
「僕たちは、ロランヌの塔にいるんだ」と、アルヴィンは答えた。「ここは、ダイアスパーでいちばん高い場所の一つなんだよ。おいで、見せてあげよう」彼はアリストラの手を取ると、広間から連れだした。出口はどこにも見えなかったが、各所で床の模様が枝廊下のあることを示していた。その場所の鏡にちかづくと、映像は消えて光のアーチのようになり、それをくぐり抜けると、別の廊下があった。さまざまに曲がってゆくうちに、アリストラには、どこをどう歩いたのか、さっぱりわからなくなったが、彼らは最後に長いまっすぐなトンネルに出た。そこは、冷たい風が絶えず吹きぬけていた。トンネルは、左右に水平に数百フィートずつ続いていて、その端には、小さな丸い光が見えた。
「ここは、いやだわ」アリストラは、不満そうだった。「寒いわ」彼女は、おそらく、生まれてから一度も、ほんとうの寒さを経験したことがなかったに違いない。アルヴィンは、何となく責任を感じた。外套、それもまともなやつを持ってくるように注意すべきだったな。それというのも、ダイアスパーでは、衣服といえば全くの装飾であって、体を保護するには全然役に立たなかったからである。
彼女が不愉快な思いをするのは、全く彼のせいだったから、アルヴィンは何もいわずに自分の外套を渡した。これには、女性に対する思いやりという意味は、少しもなかった。長い時代にわたって男女は完全に平等だったので、そんな習慣はもう残ってはいなかった。もし立場が逆だったなら、アリストラがアルヴィンに自分の外套を渡しただろうし、彼は当然のこととしてそれを受け取っただろう。
風を背に受けて歩くのは、不愉快ではなかったし、彼らはすぐにトンネルの口に達した。そこには目のあらい石の格子があって、それ以上は行けなかったが、それはどうでもいいことだった。というのは、彼らの一歩前には、何もなかったからである。この大通風口は、塔の壁面にじかに口を開けており、足もとは少なくとも千フィートの絶壁だった。彼らは都市の高い外壁の上にあり、下には、彼らの世界の人々があまり見たことのないようなダイアスパーの眺めが拡がっていた。
その眺めは、アルヴィンが公園の中心から見たのと逆だった。石や金属の同心円の波が、数マイルも続く滑らかな曲線を描いて、都市の中心部へ下っているのが見えた。遙か遠くには、途中の塔に半ば隠されながらも、野原や森や永久に周り流れる川が見えた。さらにその向こうには、ダイアスパーの向う側の郭壁が、再び空に向かって上昇していた。
彼の横では、アリストラが、この眺望を、少しも驚くことなく、喜んで眺めていた。彼女は、前にも、こことほとんど同じくらい地の利を得た、しかもずっと快適な場所から、数えきれないほど何回も、都市を眺めたことがあったのだった。
「これが、僕らの世界なんだ――これ全部が」と、アルヴィンはいった。「ところで、もう一つ見せたいものがあるんだ」彼は格子から向きなおると、トンネルの反対側の端にある、遠くの丸い光に向かって歩き始めた。薄着をした体には風は冷たかったが、彼はその不愉快さをほとんど気にもとめず、気流に向かって進んでいった。
ほんの少し歩いた時、彼はアリストラがちっともついてこようとしないのに気がついた。彼女は借りた外套を風にひらめかせ、片手を半ば顔にあげながら、じっと見つめて立っていた。アルヴィンは彼女の唇が動くのを見たが、言葉は聞こえなかった。彼は、初めはびっくりし、次に多少の憐れみの混ったいらだたしさを感じながら、彼女を見やった。ジェセラクのいったことは、ほんとうだった。彼女はついてこれないんだ。彼女は、その遠くの丸い光の意味、そこからダイアスパーの中へ永遠に風が吹きこんでいることの意味に気づいたのだった。アリストラの後には知られた世界――驚異に満ちてはいても新鮮な驚きはなく、時の流れの中に漂う、美しくはあるが固く閉じた泡のような世界があった。前方には、僅か数歩の距離を隔てて、何もない荒野――砂漠の世界――侵略者たちの世界、があった。
アルヴィンは、彼女のところに戻ってゆき、彼女が震えているのを知って、びっくりした。「どうして怖いんだい?」と彼はたずねた。「僕らは、まだ安全なダイアスパーの中にいるんだぜ。君は、向こうのあの窓から、外を見たじゃないか。こっちの窓から外を見ることが、どうしてできないんだよ!」
アリストラは、何か別世界の怪物ででもあるかのように、彼を見つめていた。彼女からすれば、彼はまさにそうだったのだ。
「できないわ」彼女は、やっとそういった。「考えただけでも、この風に吹かれるより寒くなってくるわ。これ以上ゆかないでよ、アルヴィン!」
「だって、そんなの理屈にあわんよ!」アルヴィンは、情容赦もなくいい張った。「この廊下の端までいって外を眺めたからって、いったいどういう危険があるんだ? たしかに外は異様な眺めだし、寂しいさ。でも、恐ろしくはないよ。実をいうと、眺めているうちに、だんだん美しく思えてくるんだ――」
アリストラは、彼がいい終るまで待ってはいなかった。彼女はくるりと向きを変えると、さっき上ってくる時に通ったこのトンネルの床を抜けている長い斜道を逃げもどっていった。アルヴィンは、彼女を止めようとはしなかった。それは、自分の意志を他人に強いるという無作法を犯すことになるのだった。説得しても全く無駄なことは、明らかだった。アリストラは、仲間たちの所に帰りつくまでは、わきめもふらないだろう、と彼は思った。彼女には、今来た道を戻ることは、何の造作もないはずだったから、都市の複雑な道路の中で迷うおそれは、何もなかった。極めて複雑な迷路の中でさえ方角を見つける本能的な能力は、人類が都市に住むようになって以来、身につけてきた多くの才能の一つだった。遠い昔に滅びてしまったネズミも、野原を捨てて人間といっしょに住むことにして以来、否応なしに同じような能力を獲得したのだった。
アルヴィンは、しばらくの間、アリストラが戻ってくることを半ば期待するかのように待っていた。彼は、彼女の示した反応を意外とは思わなかったが、その烈しさと盲目さは意外だった。彼女が行ってしまったことは心から残念だったが、同時に、外套を忘れずに置いていってくれればよかったのに、と思う気持も押さえ難かった。
都市の「肺」を通って吹いている風に逆らって進むのは、寒いばかりでなく重労働だった。アルヴィンは、気流ばかりでなくて、それを流れ続けさせている何かの力とも闘っていたのだった。彼は、石の格子に達して、腕をその格子に巻きつけてから、やっと一息入れることができた。格子の間には、首をやっと差し入れられるだけの隙間しかなかったが、通風口の入口は都市の外壁から少しひっこんでいたので、そうやっても視界はやや限定されていた。
それでも、視野は充分だった。数千フィート下では、砂漠にまさに陽が落ちようとしていた。ほとんど真横から来る光線は、格子にあたって通り抜け、金色と影との不気味な模様を、トンネルの奥深くまで投げかけていた。アルヴィンは、手をかざして眩い光を避けながら、数えきれない年月のあいだ誰も歩いたことのない土地を見下ろした。
それは、まるで永遠に凍りついた海を見ているようだった。何マイルも何マイルもの間、砂丘がゆるやかに起伏して西へ拡がり、その輪郭は傾いた日の光のために、いちじるしく誇張されていた。あちらこちらに、風の何かの気まぐれで、砂の中に奇妙な形の渦や溝が掘られてあって、時にはその彫刻が人の手による作品でないとは、とても信じられなかった。極めて遠くの彼方には――それは非常に遠いために、そこまでの距離がどのくらいあるか、とても判断はつかなかったけれども――ゆるやかに丸味を帯びた丘がつらなっていた。それは、アルヴィンには期待はずれなのだった。彼は、古代の記録や自分の夢の中に出てくる聾え立つ山々を現実に見られるのだったら、どんな代価でも支払ったことだろう。
太陽は丘の端にかかっていた。その光は、何百マイルもの大気を通る間に、弱まり赤味を帯びていた。その円盤の上には、二つの大きな黒点があった。アルヴィンは、そういうものが存在することを勉強して知っていたが、それがこんなに簡単に見えるのには驚いた。それはまるで、彼が絶え間なく耳もとを吹き過ぎる風にさらされながら、この寂しい覗き孔にうずくまっているのを、二つの眼で見返しているようだった。
たそがれはなかった。太陽が沈むと、砂丘の間に池のように拡がった影は、たちまち寄りあって大きな一つの暗黒の湖になった。空の色は薄れ、暖かい赤や金の色は青ざめて寒々とした青にかわり、それは次第に濃くなって、ついに夜が来た。アルヴィンは、あの息も止まらんばかりの瞬間を待っていた。それは、すべての人類の中で彼だけが知っている、一番星が瞬いて現われるその瞬間だった。
彼はこの場所に何週間も来ていなかったし、その間に夜空の模様も変っているに違いないことを知っていた。それにしても、これは思いがけないことだった。彼は初めて「七つの太陽」を見たのである。
それは他の名前ではありえなかった。この言葉は、ひとりでに彼の口をついて出たのである。それは、日没後の夕映えの中で、小さな、非常に密集した、驚くほど均整のとれた形をしていた。そのうちの六個は、ややつぶれた楕円形に並んでおり、実際には完全な円形をしているのだが、視線に対してやや傾いているのだということを、アルヴィンは信じて疑わなかった。星は、一つ一つ違った色をしていた。赤、青、金、緑は見分けられたが、その他の色合いは定かではなかった。この隊形のちょうど真中には、ただ一つ、白い巨星――見渡すかぎりの空の中で最も明るい星があった。この星団全体は、まさに一連の宝石のように見えた。自然がこれほどまでに完全な形を作りあげられるとは、確率の法則も何もすっかり無視していて、信じ難いように思われた。
眼が次第に暗さに慣れてくると、アルヴィンは、かつて天の川と呼ばれた大きな霞のようなヴェールを認めることができた。それは天頂から地平線へと伸び、七つの太陽[#「七つの太陽」に傍点]はその襞にひっかかっていた。すでに他の星々が、これと明るさを競うように現われていたが、それらが思い思いにばらばらな集団を作っていることは、この完全な対称性の不思議さを強調するばかりだった。それは、あたかも、何ものかがその力の徴しを星の上に示すことによって、本来の宇宙の無秩序に故意に挑戦しているかのようだった。
地球上を初めて人類が歩いて以来、銀河系は、その軸を中心として、十たび回転しただけだった。銀河系の尺度からすれば、それはほんの一瞬にすぎなかった。それでも、この短い期間に、銀河系はすっかり変った。物事の自然な成行きからみて当然である以上に変っていたのである。かつて青春の誇りをもってあれほど烈しく燃えていた巨大な太陽たちも、今は衰えて消滅への道を辿っていた。だが、アルヴィンは、古き栄光に輝いていた空を見たことはなかったから、どれほどのものが失われたかを、知りはしなかった。
寒気は骨にしみ渡り、彼の思いを都市に突き戻した。彼は格子から手足をひき離し、手足をこすって血液の循環をとりもどした。前方のトンネルの向こうには、ダイアスパーから射してくる光が眩く、しばらくの間、彼はそれをまともには見れなかった。都市の外には昼と夜というものがあったが、都市の中には、ただ永遠に日が輝くばかりだった。太陽が沈むにつれてダイアスパーの上空は光で満たされ、自然の照明がいつ消えたのかに気がつくものは、誰もいなかった。人類が眠ることを必要としなくなる前でさえ、彼らのどの都市からも、暗黒は追放されていたのだった。ダイアスパーを訪れる夜といえば、時たま不意に公園が暗くなって、神秘の場所に変るだけだった。
アルヴィンは、のろのろと鏡の間に戻ってきたが、その心はまだ夜と星でいっぱいだった。彼は感動を覚えながらも、憂欝だった。あの広々とした空虚の中へ逃げ出せるような方法はなく、またそうしてみたところで、何の意味もないように思われたのだ。ジェセラクは、外の砂漠の中では、人間はたちまち死んでしまうだろうといったが、アルヴィンには彼のいうことが充分に信じられた。ことによると、彼はいつかダイアスパーを出てゆく何かの方法を発見するかもしれない。しかし、そうだとしても、すぐに戻ってこなければならないのだということを、彼は知っていたのである。砂漠に出てゆくことは、おもしろい遊びだろうが、それだけのことだ。その遊びは、誰かといっしょにやるわけにはゆかなかったし、それから得るところは何もないのだ。だが、それが彼の胸の中の憧れをいやすことができるものなら、少なくともやってみる価値があるだろう。
住み慣れた世界に戻る気がしないかのように、アルヴィンは過去からの映像の中でぐずぐずしていた。彼は大きな鏡の一つの前に立ち、その奥に現われては消えてゆく情景を眺めた。これらの映像を作りだす仕掛けがどんなものであるにせよ、それは彼の存在によって、またある程度までは彼の考えることによって制御されているのだった。彼がこの部屋に入ってきたばかりの時には、いつも鏡には何も映っていないのだが、彼がその中を動き始めるや否や、すぐに活動が開始されるのだった。
彼が立っている所は、大きな広々とした中庭らしかった。そこは、現実に見たことのない場所だったが、ことによると今でもダイアスパーのどこかに実在しているのかもしれなかった。そこには、大へんな数の人々が集まっていて、何かの集会が行なわれているようだった。二人の男が、一段高い演壇で、礼儀正しく議論しており、まわりには、それぞれの支持者たちが立っていて、時々言葉を挟んでいた。音が全く聞こえないことは、想像が直ちに働いて聞こえない声を補なうために、かえって情景に趣きを添えていた。彼らは何を論じているのだろう、とアルヴィンは思った。おそらく、これは過去にほんとうにあった光景ではなくて、全くの想像による情景なのだろう。人物たちの注意深い配置、ややぎごちない動作、そういったことは、これが現実のことにしては、少しきちんとしすぎているという感じを与えた。
彼は群衆の中の顔を調べて、誰か知っているものはいないかと探した。そこには彼の知っているものは誰もいなかったが、まだ数世紀先にならないと会わないような友人たちの顔を見ているのかもしれなかった。ここには、いったい、どれだけの種類の人相があるものだろうか? その数は大へんなものだが、それでもやはり限りがあり、ことに美的でない種類のものが全部除かれているので、なおさらのことだった。
鏡の中の世界の人々は、とっくに忘れられてしまった議論を続け、彼らの間にアルヴィンの映像が身動きもせずに立っているのには、眼もくれなかった。時によると、自分までもこの情景の一部なのだという錯覚は非常に強く、そうでないとはとても信じられないほどだった。鏡の中の姿の一つがアルヴィンの背後にまわる時には、まるでそれが現実の物体ででもあるかのように見えなくなった。また、その姿が彼の前を通る時には、隠されるのは彼の方だった。
彼がもう立ち去ろうとした時、かたまっている人たちから少し離れて立っている、変った服装の男が眼にはいった。彼は、動作も、衣服も、何もかも、この集まりの中では少々場違いな感じだった。彼は、全体の調子をぶちこわしており、アルヴィンと同じく、時代感覚がずれた感じに思えた。
それどころではなかった。彼は現実の人間であって、微かに謎めいた微笑を浮かべながら、アルヴィンを眺めていたのである。
[#改段]
これまでの短い人生の間に、アルヴィンはダイアスパーの住民の千分の一にも会っていなかった。だから、彼は自分の眼の前の男を見たことがなくても、びっくりはしなかった。
驚いたことといえば、未知の世界と壁一つの間近かにある、この人里離れた塔の中で、そもそも誰かに会ったということについてだった。
彼は、鏡の世界から向き直って、この闖入者と顔を合わせた。彼が口を開く前に、相手は話しかけた。
「君はアルヴィン、だね。ここに誰かが来ていると知った時に、それが君だと察していて然るべきだったな」
この言葉は、別に感情を傷つけるつもりでないことは明らかだった。それは単に事実を述べたにすぎず、アルヴィンもまた、そういうものとして受けとった。男が自分を知っていることにも、驚きはしなかった。好むと好まざるとにかかわらず、自分がユニーク[#「ユニーク」に傍点]だという事実、その未知の潜在能力の故に、彼は都市の誰からも知られていたのである。
「僕はケドロンだ」その男は、まるでそれ以上の説明は不要だとでもいうように、言葉を続けた。「人は僕を道化師[#「道化師」に傍点]と呼ぶがね」
アルヴィンはぽかんとしていた。ケドロンは、がっかりしたように、おどけて肩をすくめてみせた。
「鳴呼、わが令名よ! しかも、汝は若く、生を享けてより道化を知らざりしなり。汝の無知は許さるべし」
ケドロンには、何かふつうと違った新鮮さがあった。アルヴィンは記憶を辿って、この聞き慣れぬ「道化師」という言葉の意味を思いだそうとした。この言葉には微かな記憶があったが、はっきりとは思いだせなかった。この都市の複雑な社会構造の中には、こういう称号が山ほどあり、一生かかっても、それをすっかり覚えるわけにはゆかなかった。
「あなたは、ここにしょっちゅう来るのですか?」アルヴィンは、少し妬みを感じながら、たずねた。彼は、ロランヌの塔を自分の私有物のように思いかけていたので、そこの素晴しさを他人も知っていたということに、少し厭な感じがしたのだった。だが、ケドロンは砂漠を眺めたり星が西に沈んでゆくのを見たりするようなことをしただろうか、と彼は思った。
「いいや」ケドロンは、まるでアルヴィンの口に出さなかった考えに答えるかのようにいった。「僕は、今までにここへ来たことはない。しかし、都市の中で変ったことがおこるのを知るのは、僕の楽しみでね。ロランヌの塔には、ずいぶん長い間、誰も来なかったんだよ」
アルヴィンは、ふと、自分が前にここへ来たことを、ケドロンがどうやって知ったのだろうかと思ったが、すぐにそんなことを考えるのをやめた。ダイアスパーには、いたるところに、眼や耳やその他のはかか知れぬ感覚器官が存在していて、都市の中でおこるあらゆることがわかっているのだった。非常に関心を持っているものなら、誰でも、この情報を手に入れる方法を見つけるに違いなかった。
「誰かがここに来るのが珍しいことだとしても、どうしてあなたが興味を持つんですか?」アルヴィンは、まだ言葉のうえの探りあいを続けていた。
「何故かといえば」と、ケドロンは答えた。「ダイアスパーでは、変ったものについては、僕に優先権があるからなんだ。僕はずっと前から、君に眼をつけていて、僕たちはいつか出会うことになると思っていた。僕自身も、それなりに一種のユニーク[#「ユニーク」に傍点]なんだ。いや、君と同じような意味でじゃない。僕には、これが初めての人生ではなくて、今までに千回も創造の殿堂から出てきている。しかし、いつか初めのころに、僕は道化師の役をすることに決められたんだ。しかも、ダイアスパーには、一時には一人の道化師しかいない。たいていの人は、一人でも多すぎると思っているんだよ」
ケドロンの話しぶりには、どこか皮肉っぽいところがあって、まだアルヴィンをまごつかせていた。個人的な質問をあけすけにすることは、非常にエチケットを心得ているとはいえなかったのだが、考えてみれば、この問題はケドロンが持ち出したわけだった。
「何も知らなくて、すみません」と、アルヴィンはいった。「でも、道化師っていうのは何ですか? それに、何をするものなんですか?」
「君は何か[#「何か」に傍点]と問う」とケドロンは答えた。「それ故、僕は何故か[#「何故か」に傍点]から話を始めよう。話せば長いことだが、君には興味があるだろう」
「僕には何でも興味があります」とアルヴィンはいったが、それは全く本心だった。
「よろしい。ダイアスパーを設計した人間たちは(もしも彼らが人間[#「人間」に傍点]だったとすればだがね。僕は、時々それを疑うんだが)、信じ難いほど複雑な問題を解決せねばならなかったんだ。知ってのとおり、ダイアスパーは単なる一個の機械であるだけじゃなくて、一個の生き物、しかも不死身の生き物なんだ。我々はこの社会にすっかり慣れっこになっているので、遠い祖先たちにはこれがどんなに不思議に見えたことだか、とても想像がつかないのだ。ここは小さな閉じた世界で、ほんの些細な点を除いては決して変化することなく、しかも長い時代を経ても全く安定している。ひょっとすると、この社会は、それ以前の人類の歴史全体よりも長続きしているのかもしれないんだが、その[#「その」に傍点]歴史の中では、無数の違った文明や文化が、しばらく続いては滅びたのだと信じられている。じゃ、どうしてダイアスパーは、これほど異常なまでに安定なんだろう?」
アルヴィンは、こんな幼稚な疑問を発するものがあることにびっくりして、何か新しいことが聞けそうだという希望は薄れかけた。
「もちろん、記憶バンクのおかげですよ」と、彼は答えた。「ダイアスパーは、いつも同じ人間たちから成り立っているんです。もっとも、現実にどういう人たちの組み合わせになるかは、皆の体が創造されたり分解されたりするのに従って変化しますけれども」
ケドロンはくびをふった。
「それは、答のほんの一部にすぎない。全く同じ人たちをもとにしても、いくらでも違った社会形態が組み立てられるんだ。それを証明することはできないし直接の証拠もないが、これは間違いないと僕は信じている。この都市の設計者たちは、ここの住民を決めただけじゃなくて、住民たちの行動を支配する法則も決めたんだ。我々は、そんな法則があることにほとんど気がつかないでいるけれども、それに従って行動している。ダイアスパーというのは固定した文化であって、決まった狭い枠の中でしか変化できないんだ。記憶バンクには、我々の体や個性を規定するパターンのほかに、たくさんのものが収まっている。そこには、この都市そのものの原型が収められ、その一つ一つの原子にいたるまでが、長い年月の間にも全く変化しないように、しっかりと固定されている。この鋪装を見てごらん。これは何百万年も前に敷かれて、無数の足に踏みつけられてきたんだが、少しでも磨り減った様子が見えるかね? どんなに堅牢無比な物質でも、保護されていないかぎり、とっくの昔に塵と化してしまっているはずだね。だが、記憶バンクを働かせる動力のつづくかぎり、またそこに収められている母型が都市のパターンを支配できるかぎり、ダイアスパーの物質的な構造は決して変化しないだろう」
「でも、いくらかは[#「いくらかは」に傍点]変化がありましたよ」と、アルヴィンは反駁した。「都市が建設されてから後で、いくつもの建物が壊され、新しいのが建てられたじゃないですか」
「そのとおり。だが、それは、記憶バンクに収められた情報を取り消し、新しいパターンを組み立てることによって、初めてできたんだ。いずれにせよ、僕はただ都市が物質的に自己を維持する方法の一例を挙げただけだ。僕のいいたいことは、ダイアスパーには、これと同じように、我々の社会構造を維持する機械があるということなんだ。それらは、どんな変化でも監視していて、それがあまり大きくならないうちに修正する。どういうふうにやるのかって? 僕にはわからんよ。もしかすると創造の殿堂から出てくるものたちの選び方を手加減するのかもしれん。もしかすると我々の個性のパターンに手を加えるのかもしれん。我々は、自分が自由意志を持っていると思っているわけだが、それは確かだろうか?
ともかく、この問題は解決された。大きな船が人類に残されたものをすっかり積みこんで運ぶように、ダイアスパーは長い年代を安泰に生き延びてきた。これは社会工学の偉大な勝利だ。もっとも、そんなことまでする価値があったかどうかは、全く別問題だがね。
けれども、安定性だけでは充分じゃなかったんだ。それだけでは簡単に停滞がおこり、さらに退廃への道を辿ることになる。都市の設計者たちは、これを避けようとして、細心な手を打った。それにしても、ここいらのように人気のない建物があるということは、何から何まで巧くはいかなかった、ということになるがね。かくいう僕、道化師ケドロンは、そういう計画の一部なんだ。たぶん、ほんの一部にすぎないだろう。そうじゃないと思いたいところだが、あまり確信はないね」
「で、その役割というのは、いったいどんなことですか?」アルヴィンは訊いた。彼は、まだあまりよくわからなかったので、少々じりじりし始めていた。
「まあ、この都市に、予定された量だけの無秩序をもたらすとでもいったらいいかな。僕の仕事を説明すれば、その効果をぶち壊すことになりかねないのでね。我を知るには、我が言葉に非ずして我が行為を見よ、といったところかね。もっとも、言葉は多く、行為は僅かだがね」
アルヴィンは、今までにケドロンのような人間に会ったことはなかった。この道化師には、ほんものの個性があった。その性格は、ダイアスパーの特徴である画一的な全般のレベルから一頭地をぬきんでていた。彼の任務が何か、それはどういうふうに果たされるのかを、的確につきとめる望みはなさそうだったが、それは大したことではなかった。重要なことは、自分が話のできる(長広舌の切れ目をみてだが)、また長いこと自分を悩ませてきた疑問の多くに答えてくれるかもしれない人物がここにいるということだった。
彼らは連れだってロランヌの塔の廊下を通って下に降り、人気のない自動走路の傍に出た。二人が通りまで戻ってきた時、アルヴィンは、ケドロンが自分に、この未知の世界と隣り合わせの場所で何をしていたのかを聞こうとしなかったことに、初めて思いあたった。彼は、ケドロンがもうそれを知っていて、興味は感じても、驚いてはいないのだろう、と思った。何ということなく、ケドロンは容易なことでは驚くまいという気がするのだった。
二人は、好きな時にいつでも呼びだしあえるように、呼びだし番号を教えあった。アルヴィンは、道化師とあまり長い間いっしょにいるのは、さぞかし気が疲れることだろうとは思ったが、それでも彼にもっと会いたいと熱望していた。しかし、彼は、今度会うまでには、友人たち、とくにジェセラクから、ケドロンについて知っていることを聞きだしておきたいと思っていた。
「では、おさらばだ」といったかと思うと、ケドロンはすぐに消えてしまった。アルヴィンは何となく不愉快だった。ほんものの肉体ではなくて投影された仮の姿で人に会っている場合には、初めからそれを明らかにしておくのが礼儀だった。さもないと、時として、そのことを知らない相手方に、かなりな不利益を生じさせるおそれがあるのだった。おそらく、ケドロンは、初めから終りまでずっと自分の家におさまっていたのだろう――それがどこにあるかはわからないけれども。彼がアルヴィンにくれた番号というのは、どんな連絡でも彼の手許に確実に届くようにはなっていても、自分の居所は知れないようになっているのだろう。少なくとも、これは通常の習慣に背いてはいなかった。呼びだし番号はいくらおおっぴらにしてあっても、ほんとうの住所は親しい友人にしか明かさないものなのだ。
都市の中へ帰ってゆく道すがら、アルヴィンは、ダイアスパーとその社会組織についてケドロンがかたった一切のことを、じっくりと考えてみた。これまで、現在の生活様式に不満を持つようなものに誰も会ったことがないというのは、不思議なことだった。ダイアスパーおよびその住民は、一つの大きな計画の部分として設計され、完全な共生関係が成立しているのだった。その長い生涯を通じて、都市の人々は、決して退屈することがなかった。それ以前の時代の基準からすれば、彼らの世界は小っぽけなものかもしれないが、その複雑さは較べようもなく、その奇蹟や秘宝の数々は、見積ることもできないのだった。人類は、その天才のあらゆる果実、過去の破壊から免がれたすべてのものを、ここに集めた。かつて存在したすべての都市が、何かしらをダイアスパーに提供した、ということだった。侵略者たちがやってくる前には、ダイアスパーの名は、今では人類の手から失われたあらゆる惑星に知られていた。ダイアスパーの建物には、帝国のあらゆる技倆、あらゆる芸術が注ぎこまれた。栄光の日々が終りに近づいた時、天才たちはこの都市を作り直し、それを不死身にする機械を与えた。もの皆すべて忘れ去られようとも、ダイアスパーは生きつづけ、時の流れに抗して人類の子孫たちを守りつづけることだろう。
彼らのなし遂げたことといっては、生きのびることだけだったが、彼らはそれで満足していた。彼らがほぼ一人前の体で創造の殿堂から現われる時から、あまり年もとらない体のままで都市の記憶バンクに戻るまで、彼らの生涯の時間をつぶすためには、無数のものが存在していた。あらゆる男女が、昔ならば天才の徴しといわれたような知性を備えている世界では、退屈するおそれはありえなかった。会話や議論をたたかわせる楽しみ、社交上の複雑な儀礼――こういったものだけでも、生活のかなりな部分を占めるには充分だった。これに加えて、公式の大討論会があった。その時には、都市の最もすぐれた頭脳の持主たちが、未だに征服されておらず、しかも挑戦の意欲をそそる哲学上の未踏峰を極めようとして、互いにせめぎあい力闘するさまを、全市の人々がうっとりと聴き入るのだった。
知的な興味をそそぐべき対象を持たぬ男女は誰もいなかった。例えばエリストンは、中央計算機《セントラル・コンピューター》を相手にして、長々とした独り言に多くの時間をつぶしていた。この計算機は、文字どおり全市を動かしているのだったが、なおかつこれと知力を争おうと思いたった誰彼を相手に数十もの議論を同時にやってのける余裕を持っていた。エリストンは、三百年もの間、この機械が解くことのできないような論理的な逆理《パラドックス》を組み立てようと試みてきたのだが、何回かの人生を費すまでは、これという成果を期待してはいなかった。
エタニアの関心は、もう少し審美的な方面にあった。彼女は、物質構成機の助けを借りて、美しくも複雑な三次元の入り組んだ模様を考案し、組み立てていたが、それは実は位相幾何学の極めて高度な問題だった。彼女の作品はダイアスパーの到る所で見られ、その模様のいくつかは、舞踊の大ホールの床に埋めこまれ、新作バレエや踊りのモチーフを生みだす基礎に使われていた。
こういった仕事は、その繊細さを味わえるだけの知性を持たないものにとっては、無味乾燥に思われるかもしれない。しかし、ダイアスパーには、エリストンやエタニアがやろうとしていることを幾分かでも理解できないものは一人もいなかったし、彼らもそれぞれに自分が同じように身も心も打ちこめる興味の対象を持っていた。
運動競技や各種スポーツは、重力が制御されるようになって初めて可能になったものを含めて、青年時代の初めの数世紀を楽しませるものだった。冒険や想像の翼をはばたかせるには、物語《サガ》が、誰のどんな希望でもすべて叶えてくれた。物語《サガ》は、人類が動く映像を再現したり音を録音したりし、さらにこれらの技術を現実の生活や想像の世界からの情景を演じさせるのに使い始めた時に始まったリアリズムの追究の必然的な成果だった。物語《サガ》の中では、そこに関係するあらゆる感覚効果は直接に精神へ注ぎこまれ、同時にこれと矛盾する知覚はわきに逸らされるので、その幻覚は完璧だった。この幻覚に捉えられた観客は、その冒険の続くかぎり、現実の世界から切り離される。それは、まるで夢を見ていながら自分は眼が覚めているのだと信じているような状態だった。
十億年もの間およその輪郭を変えなかった秩序と安定の世界で、勝負事に皆が夢中になるのは、たぶん驚くにはあたらないであろう。人類は、いつの世でも、転がるダイス、めくられるトランプ、回転するルーレットの神秘に魅せられてきた。最低の場合には、この興味はもっぱら射倖心に基いていたが、誰でも無理のない必要物ならば何でも手に入る世界では、こんな感情が存在する余地はなかった。しかし、この種の動機が取り除かれた後でも、偶然性の持つ純粋に知的な魅力は残り、最も洗練された精神をも魅惑するのだった。全く気まぐれに振る舞う機械――どんなに多くの情報を得ても、その結果を絶対に予測できない事象――こういったものは、哲学者も賭博師も、等しく楽しませるのである。
さらに、すべての人に関わるものとして残るのは、愛と芸術の結合した世界だった。結合したととくに断わる理由は、芸術を欠いた愛は単なる欲望の充足にすぎず、芸術は愛を伴なって近づくのでなければ、それを楽しむことはできないからである。
人類は、さまざまな形で美を追究してきた。音の連鎖、紙の上の線、石の表面、人体の動き、空間に配された色。これらの媒体は、ダイアスパーにも依然として残っていたが、長い年月の間に、他のものも加わっていた。芸術のあらゆる可能性が発見されてしまったかどうか、また芸術は人間の精神を離れても意味があるのかどうか、まだ誰にも確言はできなかった。
また、それは愛についても同じだったのである。
[#改段]
ジェセラクは、数字の渦の中にじっと坐っていた。彼の前には、最初の千個の素数が、電子計算機の発明以来あらゆる演算に使われてきた二進法で表わされて、順番にならんでいた。ジェセラクの眼の前を、1と0との際限もない列が通りすぎてゆき、1とその数自身の他には一つも因数のないすべての数が、完全に並んでいった。素数には常に人類を魅惑してきた神秘があり、それは想像力をしっかり捉えて放さないのだった。
ジェセラクは数学者ではなかったが、時によっては自分がそうであるかのように思いこむのが好きだった。彼にできることといえば、素数の無限の行列から、もっと才能のある人間ならば一般法則にまとめあげられるような一定の関係や規則を探すことだった。彼には数がどう振る舞うかを発見することはできても、それがどうしてかを説明することはできないのだった。数字のジャングルを切り開いて進むことは、彼にとっての楽しみだったし、時たまもっと熟練した探検家が見落とした驚異を発見することもあった。
彼は、ありったけの整数のマトリックスを作り、計算機を使って、網の目に南京玉でも置いてゆくように、その上に素数を並べ始めた。ジェセラクは、これまでにも、こんなことを百回もやってみたのだが、何も得るところはなかった。それでも、彼は、整数の並んだうえに、自分の調べている数が、一見何の法則にも従うことなく散らばっている有様に魅せられていた。彼は、すでに発見された分布の諸法則を知ってはいたが、いつもまだ発見できはしないかと思っていた。
彼は、邪魔が入ったからといって、あまり不平もいえなかった。もし邪魔されないでいたいと思えば、通報器をそのようにセットしておくべきだったのである。耳の中で柔らかいチャイムが響くと、数の壁は崩れ、数字はぼやけて、ジェセラクはつまらない現実の世界に戻っていた。
彼は一目でケドロンだと知り、あまり有難くない気持だった。ジェセラクは秩序ある生活様式を乱されたくなかったのに対して、ケドロンは予測しがたいものの代表だったのである。しかし、彼は訪問者をしごく丁重に迎え、微かな困惑の影をすっかり押し隠した。
ダイアスパーでは、二人の人間が初めて会った時(もっとも百回目だって同じことだったが)、用件に入る前に(用件などというものがあればだが)一時間ぐらいは儀礼の交換に費すのが慣例だった。ケドロンは、こういった手続きをたった十五分でさっさと片づけ、さっそく話を切りだして、少々ジェセラクの機嫌を損じた。「僕はアルヴィンのことであなたとお話したいのですが。あなたは彼の教師ですね」
「そのとおりじゃ」とジェセラクは答えた。「わたしは、今でも週に何度か、あの子に会っておる。あの子が望むかぎりじゃがな」
「それで、彼は利発な生徒だったといえますか?」
ジェセラクは、じっと考えた。これは答えにくい質問だった。教師と生徒の関係は極めて重要なものであり、実にダイアスパーの生活の基礎の一つだったのである。年々、この都市には、平均一万の新しい精神が生まれる。彼らは、それ以前の記憶にまだ眼覚めておらず、彼らの人生の最初の二十年間というものは、まわりの何もかもが新しく珍らしいのである。彼らは、日常生活の背景をなしている無数の機械や装置の類の使い方を教えてもらわねばならず、また人類始まって以来もっとも複雑な社会のしきたりを学ばねばならないのである。
この教育の一部は、この新しい市民の両親[#「両親」に傍点]として選ばれる男女によって行なわれた。この選定は籤によるものであり、彼らの義務といっても、骨の折れるものではなかった。エリストンとエタニアは、アルヴィンの養育に自分たちの時間の三分の一しか費さなかったが、それでも彼らに期待されたことは全部果たしていたのである。
ジェセラクの責任は、アルヴィンの教育のうち、もっと公式的な面に限られていた。両親たちは、彼に、社会の中でいかに振る舞うかを教え、また彼を次第に広範囲の友達につきあわせることになっていた。彼らはアルヴィンの性格に対して、ジェセラクは彼の精神に対して責任を持つのであった。
「これは、少々答えにくい質問じゃな」とジェセラクはいった。「もちろん、アルヴィンの素質には何も問題はないのじゃが、あの子は、関心を持って然るべき多くのことに全く無頓着のように思えるのじゃ。その一方、わしらがふつう問題にせぬ事柄に対して、病的な好奇心を示しおる」
「たとえば、ダイアスパーの外にある世界、ですな?」
「さよう――しかし、どうしてそれをご存じかな?」
ケドロンは、どの程度までジェセラクに打ち明けてよいかわからず、ちょっとためらった。彼にはジェセラクが親切で善意の人であることがわかっていた。しかしまた、彼がダイアスパーのすべての人――アルヴィンを除くすべての人――を支配する同じタブーに縛られているに相違ないこともわかっていた。
「そう思っただけです」彼はやっといった。
ジェセラクは、今しがた物質化させたばかりの椅子に、深々と、なるべく居心地よく坐り直した。これはおもしろいことになってきた。彼は、できるだけ深くこれを吟味してみたいと思った。しかし、ケドロンが進んで協力してくれぬことには、大して得るところはないのである。
アルヴィンがいつか道化師に出会って、予測しがたい結果を生むだろうということは、予期していて然るべきだった。ケドロンは、都市の中で奇矯と呼べそうな、もう一人の唯一の人物であった。しかも、彼の奇矯さといえども、ダイアスパーの設計者たちによって計画されたものなのだ。遙かな昔に、ユートピアというものは、多少の犯罪あるいは無秩序がなくては、遠からず耐えがたいほど退屈になることが発見されていた。しかし、犯罪というものは、その本性からして、社会の方程式が要求する最適のレベルに留まるように保証することはできないものなのだ。もし認可され規制されるならば、それは犯罪ではなくなるだろう。
都市の設計者たちが採用した解決策は、道化師という職務だった。これは、一見幼稚に見えるのだが、実は極めて巧妙なものだった。ダイアスパーの歴史全体を通じて、この特異な役割に適合する精神的遺産を継いでいるものは、二百人足らずしかいなかった。彼らは一定の特権を持ち、その行為の結果から責任をまぬがれていた。もっとも、ある一線を越えて、ダイアスパーが課することのできる唯一の罰を加えられた道化師もあった。その罰とは、現在の生涯が終る前に、未来へ追放されることだった。
時たま、しかも思いがけぬ時に、道化師は何かの悪戯をしでかして、都市をひっくり返すのである。それは念の入った悪ふざけかもしれないし、またその時代に大切にされている何かの信条とか生活様式に対して計算ずくの攻撃をかけることかもしれなかった。いろいろ考えあわせてみると、「道化師」という名は、極めて適切なものだった。昔、宮廷や王様というものがあった頃、これに非常に似た職務を、同様な認可のもとに果たしていた人々があったのである。
ジェセラクはいった。「わしらは、お互いに率直になった方がいいようじゃな。わしらは二人とも、アルヴィンがユニーク[#「ユニーク」に傍点]であること、すなわちあの子にはダイアスパーでの以前の人生の経験はないということを知っておる。おそらくは、わしよりもあなたの方が、その意味するところがよくおわかりじゃろう。この都市で全く計画外のことがおこるとは、わしには思えぬ。したがって、あの子が生まれたことには、何かのわけがあるに相違ないのじゃ。あの子がその目的を達するかどうか――それが何であるにせよじゃな――わしにはわからぬ。また、それが良いことか悪いことかも、わしは知らぬ。わしには、それが何であるか、想像もつかんのじゃ」
「都市の外側にある何かに関係があるとしたら、どうしますか?」
ジェセラクは、腹立ちをこらえて微笑んだ。道化師は、ちょっとした悪ふざけを楽しんでいるのだ。もちろん、彼のやりそうなことではないか。
「わしは、あの子に、外部には何があるかを話した。あの子は、ダイアスパーの外には、砂漠のほか何もないことを知っておる。もしそれができるのなら、そこに連れていってやりなさい。あるいは、あなた[#「あなた」に傍点]は出口をご存じかもしれぬ。現実を見せたら、あの子の心にある異常を癒してやれるかもしれぬ」
「彼は、もう見たと思いますよ」ケロドンは、そっとつぶやいた。だが、それは自分にであって、ジェセラクにいったのではなかった。
「わしは、アルヴィンが幸せだとは思わぬ」ジェラセクは言葉を続けた。「あの子は、何事にも真の愛着を持ってはおらぬ。また、こうした強迫観念に悩んでおるかぎり、それができるとはとても思えぬ。が、何にせよ、あの子は極めて若いのじゃ。成長すれば、この状況から脱して、この都市のあり方に溶けこむかもしれぬ」
ジェセラクは、自分にいい聞かせるように話していた。ケドロンは、彼がほんとうに自分のいっていることを信じているのだろうかと思った。
「教えてください。ジェセラク」ケドロンは、突然いった。「アルヴィンは、自分が初めてのユニーク[#「ユニーク」に傍点]じゃない、と知っているんですか?」
ジェセラクは、ぎょっとした様子だったが、それから少し居直ったような態度に変った。
「あなた[#「あなた」に傍点]がそれを知ることは、考えておいてもよかったことじゃな」と、彼は悲しげにいった。「ダイアスパーの歴史全体を通じて、どのくらいユニーク[#「ユニーク」に傍点]がおったのじゃろう。十人というところかな?」
「十四人です」と、ケドロンは、きっぱりといった。「アルヴィンを勘定に入れないでね」
「あなたは、わしよりも情報に通じておいでのようじゃ」ジェセラクは不機嫌そうにいった。「おそらく、そういうユニーク[#「ユニーク」に傍点]たちがどうなったか、教えてもらえるじゃろうな?」
「行方不明になったのです」
「ありがとう。わしもそれは知っておる。だからこそ、アルヴィンには、先輩たちのことはできるだけ話さんようにしておったんじゃ。今のあの子の心境では、それが役に立つとはとても思えぬからな。あなたの協力を期待してもよろしいかな?」
「今のところはね。僕も、彼のことは研究したいと思っているんです。僕は不思議なものにはいつも心を惹かれるものですからね。おまけに、ダイアスパーには、不思議なことはとても少ないときているんです。そればかりじゃなくて、僕の努力なぞまるでお上品なものに見えるような悪ふざけを、運命が企んでいるような気がするんです。もしそうなら、僕はそのクライマックスには、ぜひ居あわせたいもんですね」
「あなたは、どうも謎めいたいい方がお好きなようじゃ」とジェセラクは不満そうにいった。「はっきりいって、あなたは何がおこるとお思いじゃな?」
「僕の当てずっぽうが、あなたのより当たっているかどうか、怪しいもんです。でも、これだけは確かですね。アルヴィンが自分のしたいことが何であるかを決めたら、あなたでも僕でも、ダイアスパーの中の誰でも、彼を止めることはできないでしょうね。我々は、これから先、大へんおもしろい何世紀かを過ごすことになりますな」
ケドロンの映像が眼の前から消えた後も、ジェセラクは、今までやっていた数学も忘れて、長いことじっと坐っていた。今までに経験したことのないような不吉な感じが、重くのしかかっていた。評議会に聴聞を請願すべきだろうかという考えが、彼の頭をちらっとかすめた。だがそれは、根もないことを馬鹿ばかしくさわぎたてることにはならないだろうか? ことによると、一切のことが、ケドロンの仕組んだ複雑なわけのわからない悪ふざけなのではないだろうか? もっとも、何で自分がその犠牲者に選ばれたのか、彼には想像もつかなかったが。
彼はこのことをあらゆる角度から検討し、慎重に考えてみた。一時間ほどしてから、ジェセラクは彼らしい決断をしたのである。
もう少し様子を見ることにしよう。
アルヴィンは、ケドロンのことをできるだけ知るのに、少しも時間を無駄にしなかった。例によって、主な情報源はジェセラクだった。年老いた教師は、自分が道化師に会ったことについて、注意深く事実だけを話し、それに道化師の生活のしかたについて僅かばかり知っていることをつけ加えた。ダイアスパーでそういったことが可能なかぎりにおいて、ケドロンは世捨て人だった。彼がどこに住んでいるか、どんな生活を送っているかといったことは、誰も知らなかった。彼がやってのけた最後の悪ふざけは、自動走路を全面的にストップさせるといった、どちらかというと子供じみた悪戯だった。それは五十年前のことだったが、その一世紀前には、彼はとりわけ不愉快な龍を街に放ち、それは市中をうろつきまわって、当時もっとも人気のあった彫刻家の作品の現存するものを片端から食ってしまった。その彫刻家自身も、この獣のただ一つの食い物が明らかになるや、当然にも恐慌を来して姿をくらまし、この怪物が初めて現われた時と同じくらい謎のように姿を消すまで出てこなかった。
この説明から明らかなことが一つあった。ケドロンは、この都市を支配する機械や動力に深い理解を持ち、誰にも真似のできないようなやり方で、それらを意に従わせることができるに違いないのだった。察するに、誰か調子に乗った道化師が現われて、ダイアスパーの複雑な構造に取り返しのつかぬ恒久的な損害を与えるのを防ぐために、行きすぎをチェックする何らかの仕掛けがあるに違いなかった。
アルヴィンは、こういった情報をすっかり胸に蔵いこんだが、ケドロンに連絡しようとする気配は見せなかった。彼には道化師に訊ねたい質問がたくさんあったが、彼を貫く強固な独立自尊の精神は(ことによると、これこそ、彼のあらゆる資質の中で、とりわけて真にユニーク[#「ユニーク」に傍点]である所以なのかもしれなかったのだが)、独力でできるかぎりのことを発見しようと決意させた。彼は何年間も忙殺されてしまうかもしれない計画に乗りだしたのだったが、目標に向かって近づいていると感ずるかぎり幸福だったのである。
人跡未踏の土地の地図を作った往時の旅人のように、彼はダイアスパーを計画的に探検し始めた。どこかに外の世界への出口が見つかるかもしれないという希望を抱いて、彼は都市のはずれにある人里離れた塔を、来る日も来る日もさまよい歩いた。この探索の間に、砂漠の上高く開いた大通気孔は一ダースも見つかったが、それらにはことごとく格子がはまっていた。また、たとえその格子がなかったとしても、一マイル近い絶壁だけで申し分ない障害だった。
一千もの廊下、一万もの空部屋を探検した結果も、他にはどんな出口もないことがわかっただけだった。建物はどれも、ダイアスパーの住民が万物の正常な状態の一部として当然と心得ている、例の完璧なしみ[#「しみ」に傍点]一つない状態に保たれていた。時として、アルヴィンは、明らかに巡回検査をしているロボットがうろついているのに出会い、必ずそれに質問を発した。しかし、彼の出会った機械は、人間の言葉や思考に応答するように調整されてはいなかったので、何も得るところはなかった。彼らが礼儀正しく脇に寄って彼の通りすぎるのを待っているところを見ると、彼の存在を意識してはいるのだったが、会話に応じようとはしなかった。
何日も誰にも会わないこともあった。空腹になると、どこかの居住区画へいって、食事を註文した。彼は、それらの不可思議な機械が存在していることを、ほとんど気にかけたこともなかったが、機械たちは長い間の眠りから眼覚め、その記憶の中に蔵いこまれていたパターンは現実との境に閃き、それが支配する物質を構成し指示するのだった。こうして、一億年も昔のコック長が調理した食事が再びこの世に呼び戻され、舌を楽しませたり単に食欲を充足させたりするのである。
この見捨てられた世界――都市の活気ある中心部を取り囲む空っぽの外殻部の孤独さも、アルヴィンの気を滅入らせることはなかった。自分が友人と呼んでいた人々の間にある時でさえも、孤独には慣れっこになっていたのだった。彼はこの熱心な探検にすべてのエネルギーと関心を注ぎこみ、そのためしばらくの間は、自分の素姓の謎や、自分が他の仲間たちと隔絶している異常さを忘れていた。
彼は、都市の周縁を百分の一も探検しないうちに、これが時間の浪費だと気づいた。こう決断したのは、焦ったためではなくて、全く健全な分別の働きによるものだった。彼は、もし必要とあれば、生涯の全部を捧げることになろうとも、戻ってきてこの仕事をやりとげるにやぶさかではなかった。しかし、これまで見たところだけでさえ、たとえダイアスパーからの出口があったとしても、こんなやり方で見つかるほど簡単ではないことを思い知らされたのである。もっと賢明な人々の助力を得なければ、彼は無駄な探索に何世紀も空費するかもしれなかった。
ジェセラクは、ダイアスパーから出る道のことは何も知らないし、そんなものがあるかどうかも疑わしいと断言していた。アルヴィンは情報機にも質問し、彼らはほとんど無限の記憶を探しまわったが、それは徒労だった。彼らは、記録に残る都市の歴史をその起源まで翻り、そこから先は永遠にかくされたままになっている黎明期になるという境目まで溯って、こと細かに告げることはできた。だが、彼らはアルヴィンの単純な質問には答えられなかった。それとも、もっと高度の力を持つ何かが、彼らに答えるのを禁じているのかもしれなかった。
彼は、もう一度、ケドロンに会わねばならないことになったのだった。
[#改段]
「ずいぶん遅かったじゃないか」とケドロンはいった。「でも、遅かれ早かれ、やってくると思っていたよ」
この自信を、アルヴィンは不快に感じた。自分の行動が、こう手に取るように見通されていたというのは、おもしろくなかった。道化師は自分の徒労に終った探索を逐一監視していて、自分が何をしていたかを掌を指すように知っていたのだろうか、と彼は考えた。
「僕は、都市から出る道を探そうとしているんです」と彼はぶっきらぼうにいった。「出道はあるはずです。あなたは、それを見つけるのに力を貸してくれることができると思うんです」
ケドロンは、しばらく答えなかった。眼の前に伸びている、自分にはとうてい予測できない未来に続いている道から引き返したいと思えば、そうする時間はまだあった。他の者だったら躊躇しないだろう。この都市の他の人間だったら、たとえその力を持っていたとしても、何百万世紀ものあいだ地下に眠っていた古代の亡霊をおこすようなことを、あえてしようとはしないだろう。ことによると、何も危険なことはないのかもしれない。ことによると、ダイアスパーの永遠不滅の姿を変えることは、どう逆立ちしてもできないことなのかもしれない。だが、もし何か変った新しいことがこの世界に導入される危険が少しでもあるとすれば、それを防ぐ機会は、これが最後かもしれないのだった。
ケドロンは、あるがままの万物の状態に満足していた。なるほど、彼はその状態を時々ひっくりかえすかもしれない。しかし、それは、ほんのちょっぴりだけだった。彼は批評家であって、革命家ではなかった。穏やかに流れる時の流れに、ほんの僅かな漣を立てたいと思っているのにすぎないのだった。その流れを変えるなどということには、彼は尻ごみした。観念の上でならば別だが、冒険を望む気持は、ダイアスパーの市民の誰彼と同じく、彼からも注意深く徹底的に除かれていたのだった。
それでも、ほとんど消滅しかかっていたとはいえ、かつて人類の最大の宝であった好奇心のかけらが、彼にはまだ残っていた。彼には、まだ、危険を冒す用意があったのである。
彼はアルヴィンを見て、自分自身が若かった頃――五百年も昔の自分の夢を思いだそうとした。過去のどの瞬間をとってみても、その記憶は未だにはっきりと生々しかった。糸に通した南京玉のように、今の人生、およびそれ以前のすべての人生は、長い年月にわたって過去へ続いており、その中のどれでも思いのままに取り上げて確かめることができた。それらの過去のケドロンたちは、今では自分と無関係な人間であり、基本的な原型はあるいは同じかもしれないが、経験の重みが彼を過去の自分たちから永遠に隔てていた。もしそうしたければ、次に創造の殿堂の中に戻って都市が再び呼びだすまで眠る時に、こうした以前の人生を自分の記憶からすっかり消してしまうこともできた。だが、それはいわば死のようなものであって、彼はまだそこまでの気持はなかった。オウムガイがゆっくりと自分の貝殻の螺旋を伸ばしてゆくように、彼はまだ人生から得られるものを集め続けてゆくつもりだった。
若い頃には、彼も仲間たちと何も違ってはいなかった。一人前になって、眠っていた以前の人生の記憶がよみがえってきた時、彼は初めて遠い昔に定められた役割を果たし始めたのだった。時として彼は、ダイアスパーをこれほどまでに測り知れぬ巧みさで作りあげた頭脳が、かくも長い年代を隔ててもなお自分を舞台の上の操り人形のように動かしていることに、怒りを感じた。ことによると、これこそ待ちに待った復讐を遂げるチャンスかもしれない。ここに登場した新しい役者は、もう長く続きすぎた芝居に、ついに幕を閉じさせるかもしれないのだ。
自分などよりもずっと深い孤独を感じているに違いないアルヴィンへの憐れみ、長い間の繰り返しからくる倦怠、さらに悪戯な弥次馬根性――こうした雑然とした要素がケドロンを行動に駆り立てた。
「君に力をかすことは、できるかもしれないし、できないかもしれない」と、彼はアルヴィンにいった。「君に誤った希望は抱かせたくないんだ。三十分してから、放射三号路と環状二号路との交叉点で会おう。君に何もしてやれないかもしれないが、少なくともおもしろい旅にはなるぜ」
待ち合わせの場所は都市の反対側だったにもかかわらず、アルヴィンは約束の時間より十分も早く着いた。のんびりと満ち足りて大した用事もない都市の人々が、自動走路に乗って休みなく過ぎ去ってゆく間、彼はじりじりして待っていた。とうとうケドロンの背の高い姿が遠くに現われたかと思うと、一瞬の後には、アルヴィンは初めて生身の道化師と向かいあっていた。これは投影された映像などではなく、彼らが古代の挨拶のやり方で手を握りあった時、ケドロンの体には確かな手ごたえがあった。
道化師は大理石の手すりの一つに腰を下ろし、アルヴィンを妙にまじまじと見つめた。
「いったい君は」と彼はいった。「自分が何を追っかけているのか、わかっているのかね。それから、そいつが手に入ったら、どうするんだね。もし出口が見つかったとしても、君は、ほんとうに[#「ほんとうに」に傍点]自分が都市から出てゆけると思っているのかね」
「もちろんですとも」アルヴィンは昂然と答えたが、ケドロンには彼の声にあやふやなところがあるのが感じられた。
「じゃ、君にはわかっていないらしいことを、一ついわせてもらおう。あの塔を見てごらん」ケドロンは、深さ一マイルもあるビルの谷間を隔てて向かいあっている、動力センターと議事堂との一対の尖塔を指さした。「あの二つの塔に完全に丈夫な板を渡したと考えてごらん。幅がたった六インチの板だよ。君はそこを渡れるかね?」
アルヴィンは、口ごもった。
「わかりません」と彼は答えた。「やってみたいとは思いませんね」
「君にそれができるとは、絶対に思わないな。十歩も歩かないうちに、眼が眩んで落っこちてしまうだろう。ところが、その同じ板が、ほとんど地面すれすれのところに渡してあるだけだったら、君はその上をやすやすと歩けるだろう」
「それで、何をいいたいんですか?」
「簡単なことさ。いま僕のいった二つの実験では、どちらの場合も板は全く同じものだ。君が時たま出会うことのある車つきロボットのどれかなら、板が塔の間にわたされていようと、地面のすぐ上に渡されていようと、全く同じように楽々と渡れるのだ。我々[#「我々」に傍点]にはできない。我々は高い所が怖いからだ。これは理屈にあわないかもしれないが、無視するわけにはゆかないほど、強力なものなんだ。この恐怖は我々の中に刻みこまれていて、生まれつきのものなんだよ。
同じように、我々には空間に対する恐怖がある。ダイアスパーの誰にでもいいから、都市から出てゆく道――いま我々の前にある道路と全く同じかもしれない道を見せて見たまえ。そいつは、それ以上進めなくなるんだ。君があの塔の間に渡した板を渡りかけて引き返すように、そいつも引き渡すほかはないんだ」
「でも、どうしてなんですか?」アルヴィンは訊ねた。「だって昔は……」
「わかってる、わかってる」とケドロンはいった。「人間はかつて世界中に拡がり、さらに星に出かけていった。何事かがおこって彼らは変り、今では生まれつきのものとなったこの恐怖が植えつけられたんだ。君だけが、自分はそんなものを持っていないと思いこんでいる。まあ、今にわかるさ。さあ、議事堂に行くんだ」
議事堂は、この都市最大の建物の一つであり、ほとんど大部分がダイアスパーの真の行政官である機械に占領されていた。その頂上から少し下には、ごく時たま何か討議する必要ができた時に、評議会の集まる部屋があった。
二人は広い入口に呑みこまれ、ケドロンは金色に光る暗がりの中に歩いていった。アルヴィンは、これまでに一度も議事堂に入ったことはなかった。それを禁じるという規則はなかったが(ダイアスパーには、何かを禁じる規則は、ほとんどないのだ)、ほかの人たちと同じように、彼もこの場所には、ある種の半ば宗教的な畏怖を抱いていた。神々が存在しないこの世界では、寺院に最も近いものといえば議事堂だったのである。
ケドロンは、少しもためらわずに、アルヴィンを連れて、廊下を通り斜道を下りていった。それらは明らかに人間のためのものではなくて、車つき機械のために作られたものだった。これら斜道の一部は、ひどく急な勾配でジグザグに深く下っていて、急傾斜を相殺するために重力の向きが変えられていなかったとしたら、足場を保つことさえ難しかった。
二人は、とうとう閉じた扉のところに来た。それは近づくと音もなく開き、彼らが通り抜けると、閉じて後を塞いだ。その向こうにはもう一つの扉があり、二人が傍まで行っても開かなかった。ケドロンは扉に触れようとはしないで、その前にじっと立っていた。しばらくすると、静かな声が聞こえてきた。「どうぞ名前をいってください」
「私は道化師ケドロン、この連れはアルヴィンだ」
「用件は?」
「ほんの好奇心ですな」
アルヴィンにはいささか驚きであったが、扉はすぐに開いたのである。彼の経験では、ふざけた返答をされた機械は、きまって混乱に陥り、もう一度初めからやり直さねばならないのだった。ケドロンに質問を発した機械は極めて高級なものであって、中央計算機《セントラル・コンピューター》の中でのランクも高いものに相違なかった。
その後は何も関門はなかったが、アルヴィンは、自分たちにはわからない方法で各種の検査をされたのではないかと思った。短い廊下を抜けると、二人は突如として巨大な円形の部屋に出た。そこは床が低くなっていて、その床には思いもかけないものが安置されていたので、アルヴィンはしばらくの間、驚きに声も出なかった。眼下にはダイアスパー全市が拡がっていたのである。そのいちばん高い建物でも、彼の肩にやっと届くぐらいだった。
彼は、長い間かかって、見覚えのある場所を一つ一つ見つけたり、思いがけぬ展望を眺めたりしていたが、しばらくしてやっと、部屋の他の部分に注意を向けた。壁は、白と黒の四角形でできた、虫めがねで見なければならないほど細かな模様で覆われていた。模様そのものは全く不規則であって、何も変化しなかったが、眼を急に動かすと、すばやくちらつくような感じがした。部屋の周囲には、僅かな距離をおいて、一種の手動式の機械が並んでおり、それぞれには映像スクリーンと操縦席が備えつけてあった。
ケドロンは、アルヴィンの気がすむまで見せておき、それからこの小ちゃな都市を指さしていった。「これは何だかわかるかね?」
アルヴィンはもう少しで「模型でしょう」というところだったが、これはあまり当たりまえな答なので、違うに決まっていると思った。そこで、彼はくびを振ってケドロンが自分で答をいうのを待った。
「覚えているだろう」と道化師はいった。「前に、この都市がどうやって維持されているか、また記憶バンクが都市のパターンをどうやって永久に固定しているかを話してあげたね。この我々のまわりにあるのが、その記憶バンクなんだ。ここには莫大な量の情報が貯えられていて、今日あるがままの都市を完全に決定している。我々にはもう忘れられた力によって、ダイアスパーの一つ一つの原子が、何らかの方法でこの壁に埋めこまれた母型に同調させてあるんだ」
彼は、自分たちの足もとに横たわる、完璧にして詳細を極めたダイアスパーの像の方に手を振って見せた。
「これは模型なんかじゃない。これは実在しているんじゃなくて、記憶バンクに蔵ってあるパターンが投影された映像にすぎないんだ。だから、これは都市そのものと完全に同じものなんだ。ここに並んでいる検望機《ビューイング・マシン》を使えば、どこでも好きな個所を拡大して、実物大あるいはもっと大きくして眺めることができる。この機械は、都市の模様替えが必要になった時に使うんだが、もうずいぶん長い間そんなことはなかった。ダイアスパーの中がどうなっているかを知りたいんなら、ここに来なくちゃ話にならんよ。ここでなら、一生かかって実地に探索するよりもずっと多くのことが、二、三日でわかってしまうんだ」
「すごいですね」とアルヴィンはいった。「これがあることを、どのくらいの人が知っているんですか?」
「ああ、大勢が知っているよ。でも、皆はここにはあまり関心がないんだ。評議会は、時々ここに来る。評議員の全員がここに揃わなければ、都市に変更を加えてはならないことになっている。その場合でも、中央計算機《セントラル・コンピューター》が提議された変更を承認しなければ駄目なんだ。年に二、三回以上この部屋に誰かがやってくるかどうか、怪しいもんだな」
アルヴィンは、ケドロンがどうしてここに近づくことを許されているのか知りたいと思ったが、すぐに、道化師が多少とも手のこんだ悪ふざけをやるためには、多くの場合、都市の奥深く隠された仕掛けについての知識が必要であり、それは非常に該博な調査をやってみて初めて得られるものに違いないことを思いだした。どこへでも行け、何でも知ることができるというのは、道化師の特権の一つに相違ない。ダイアスパーの秘密への案内人として、ケドロン以上の人間はありえなかった。
「君が探しているものは、あるいは存在しないかもしれん」とケドロンはいった。「しかし、もしも存在するなら、ここでこそ発見できるだろう。僕が検像機《モニター》の使い方をやってみせてやろう」
それから一時間、アルヴィンは映像スクリーンの一つの前に坐って、操縦のしかたを覚えた。彼は、都市のどの地点でも、思いのままに選びだし、それを好きなだけの大きさに拡大して調べられるようになった。座標を変えるにつれて、通りや塔や自動走路が、スクリーンの上をかすめ去っていった。それは、まるで自分が肉体を離れて万物を見通す精霊になり、どんな物理的障害にも遮られずに、ダイアスパー全土にわたって楽々と動けるかのようだった。
けれども、彼が調べているのは、現実のダイアスパーではなかった。彼は、「記憶セル」の中を動きまわって、都市の幻影――実物のダイアスパーを、十億年の長きにわたって、時の流れに抗して保存してきた力を持つ幻影――を見ているのだった。彼の眼に見えるのは、都市の中で恒久的な部分だけであって、そこの通りを歩く人たちは、この固定化された映像には含まれていなかった。彼の目的のためには、それはどうでもよかった。目下の彼の関心は、ただひたすらに自分を閉じこめている石や金属の構成だけに注がれており、自分といっしょに(いかに自ら進んでとはいいながら)そこに幽閉されている人たちのことは念頭になかったのである。
彼は探索を続けて、やがてロランヌの塔を見つけ、もうとっくに現実の世界で探検をすませた廊下や通路をすばやく通り抜けていった。例の石の格子の映像が眼の前に拡がるにつれて、おそらく人類の全歴史の半分にわたって休みなくそこを吹き抜け、今も吹き続けている冷たい風を身に感じるようにさえ思った。彼は格子の所まできて外を見たが、そこには何もなかった。一瞬、その大きなショックのため、彼は危うく自分の記憶を疑うところだった。自分が見た砂漠の眺めは、幻にすぎなかったのだろうか?
その時、彼は真相に思いあたった。砂漠はダイアスパーの一部ではなく、したがって自分がいま探索している幻の世界には、その映像は存在していないのである。現実にあの格子の向こうに何が横たわっていようとも、この検像機《モニター》のスクリーンにそれが映るはずはないのだった。
それでも、この装置は、生きた人間が今までに見たことのないものを映しだすことができた。アルヴィンは視点を格子の向こうに進め、都市の外側の空虚の中にまで前進させた。それから彼は視線の方向を変えるコントロールをまわし、今来た道を振り返った。彼の後には、外側から見た[#「外側から見た」に傍点]ダイアスパーが横たわっていたのである。
いまアルヴィンに見える映像を作りだしている計算機や記憶回路やその他数々の装置にとっては、これは単なる遠近法の問題にすぎなかった。それらは都市の形を「知って」いるのであるから、外側から見ればどうなるかを示すことができるのである。しかし、その仕組みをちゃんと知っていてさえ、アルヴィンはいいしれぬ衝撃を受けた。現実にではないとしても、精神的には彼は都市から脱出したのだった。彼は、ロランヌの塔の絶壁から数フィート離れた空間に浮いているように感じた。しばらく、彼は眼の前の滑らかな灰色の壁面を見つめた。やがて彼はコントロールに触れ、視線を地面の方に落とした。
このすばらしい装置の可能性を知ったいま、彼の行動計画は明らかだった。ダイアスパーの内側から、数カ月、数カ年を費して、部屋や廊下をしらみつぶしに探索する必要は、もうないのだった。この新たな利点を活用すれば、彼は都市の外側に沿って飛翔し、砂漠やその向こうの世界に出られるような出口があるかどうかを、一目で見ることができるのである。
ついに目的を達したという勝ち誇った気持は、彼を有頂天にさせ、この喜びを誰かと分かちあいたい気持に駆り立てた。彼はケドロンの方に向き直って、これを可能にした道化師に礼をいおうとした。だが、ケドロンはいなくなっていた。ちょっと考えてみれば、その理由は明らかだった。
ことによると、アルヴィンは、ダイアスパーの中で、今スクリーンの上を通りすぎている映像を怖れずに見ることのできる唯一の人間なのかもしれなかった。ケドロンは彼の探索に力をかすことはできた。だが、道化師といえども、人類を長い間この小天地に釘づけにしてきた宇宙への異常な恐怖は共通に持っていた。彼は、アルヴィンが独りで調べ続けるのにまかせて、出ていったのである。
しばらくの間アルヴィンの心から消えていた孤独な感じは、再び重苦しくのしかかってきた。だが、今は物思いに沈んでいる時ではなかった。することは山ほどあった。彼は検像機《モニター》のスクリーンに向き直って、都市の外壁の映像がその上をゆっくりと流れてゆくようにセットし、探索を始めた。
それから数週間というもの、ダイアスパーでは、アルヴィンの姿はめったに見かけられなくなったが、彼のいないのに気づいたものはごく僅かだった。ジェセラクは、自分のかつての生徒が、都市の外れをうろつく代りに議事堂に閉じこもっているのを知って、そこならばアルヴィンが面倒をおこす気づかいはあるまいと考えて、ややほっとした気持だった。エリストンとエタニアは、一、二度彼の部屋を訪ねて彼が留守なのを知り、そのまま忘れてしまった。アリストラは、そんなに簡単には諦めなかった。
もっと適当な選択がいくらでもできたというのに、アリストラがアルヴィンにこれほどのぼせあがってしまったというのは、彼女自身の心の平安からいえば、気の毒なことだった。彼女は相手を見つけるのに何の苦労もしたことはなかったが、彼女の知っている他の男は、アルヴィンに較べれば、どれもこれも特徴のない、同じ型にはめて作られた、つまらない男ばかりだった。彼女は、アルヴィンをおめおめと失うつもりはなかった。アルヴィンの冷淡さや無関心さは、彼女にとっては、心をそそられる挑戦だった。
もっとも、ことによると、彼女の動機は全く自己本位のものではなく、性的というよりはむしろ母性的なものだったかもしれない。出産ということは忘れられても、保護や憐れみという女性本能は未だに残っていた。アルヴィンは強情で独立自尊の心を持ち、我が道を往く決意をしているように見えたけれども、アリストラは彼の心の中の孤独さを感じとることができたのである。
アルヴィンが行方不明であることを知ると、彼女は即座にジェセラクに彼がどうしたのかを訊ねた。ジェセラクは、ちょっとためらっただけで、彼女に教えてやった。アルヴィンが相手を欲しくないのだとしても、解答は彼自身が出すべきなのだ。ジェセラクは、この二人の関係を、いいとも悪いとも思っていなかった。概していえば彼はアリストラに好意を持っていたし、アルヴィンがダイアスパーの生活に適応するのを彼女の影響力が助けることを期待していた。
アルヴィンが議事堂に籠っているということは、彼がもっぱら何かの調査計画を進めているということであって、このことは少なくともアリストラが気づかっていたような恋敵の心配を和らげるには役立った。だが、彼女は、嫉妬心をかきたてられることはなかったとしても、好奇心を呼びおこされた。彼女は、時々、ロラソヌの塔でアルヴィンを置きざりにしたことに自責の念を感じていた。もっとも、同じ状況のもとだったら、自分はまた全く同じことをするだろうとは、彼女にもわかっていたのだが。アルヴィンが何をしようとしているのかを知らなければ、彼の心を読みとるすべはないのだということを、彼女は自分にいい聞かせるのだった。
彼女は決然として中央のホールへ入ってゆき、入口をくぐるや否や辺りを圧する静寂に心を打たれたが、それに威圧されはしなかった。向こう側の壁際には、情報機が目白おしに並んでおり、彼女はその一つを手あたり次第に選んだ。
応答信号がともると、彼女はすかさずいった。「アルヴィンを探しているの。この建物のどこかにいるんだけど、どこにいるのかしら?」
一生を暮らした後でも、情報機が通例の質問に答える時には、時間の遅れが全くないということには、どうしても、すっかり慣れっこにはなれないものである。どうしてそうなるかを知っている(あるいは、知っていると主張する)人々もあって、物知り顔に「接近時間」とか「貯蔵空間」とかについて語るのだが、それにしても出てきた結果が、少しでも不思議でなくなるわけのものではないのである。この都市の中で入手できる極めてものすごい量の情報の範囲内ならば、純粋に事実関係の質問には、どんなものにも即答がなされた。返事をする前に複雑な計算をしなければならない時にだけ、多少の遅れがおこるのだった。
「彼は検像機《モニター》のところにいます」という返事が返ってきた。アリストラには、この名前が何のことやらわからなかったので、この答もあまり役には立たなかった。どんな機械でも、聞かれた以外の情報を自発的に提供することは決してなかったから、適切に質問を発することを覚えるのは一種の技術であって、それができるようになるには、しばしば長い時間が必要だった。
「どうしたら、彼のところに行けるの?」とアリストラは訊ねた。検像機《モニター》がどういうものかは、そこへ行けばわかることだろう。
「評議会の許可を取っていただかねば、教えるわけにはいきません」
これはまた、全く思いもよらない、当惑をさえ感じるような事態の進展だった。ダイアスパーでは、勝手に行くことのできない場所というのは、ごく僅かだった。アリストラは、アルヴィンが評議会の許可などもらっていない[#「いない」に傍点]ことに、確信があった。ということは、もっと上の権威筋がアルヴィンを助けているということに他ならなかった。
評議会はダイアスパーを統治していたが、評議会自身でさえ、それを超越する権力によって優先されるということがありえた。その権力とは、ほとんど無限の知性ともいうべき中央計算機《セントラル・コンピューター》だった。中央計算機《セントラル・コンピューター》は、実際にはダイアスパーの中のあらゆる機械の総和だったが、ある場所に局在していて、それを何か生命を持っているものと思わないわけにはゆかなかった。それが生物学的な意味で生きているのではないとしても、少なくとも人間と同程度の自覚と自意識を持っていることは確実だった。計算機はアルヴィンが何をしているかを知っているはずだったから、それを是認しているにちがいなかった。そうでなければ、アルヴィンを押し止めるか、あるいは情報機がアリストラにいったように、評議会の手に委せるはずだった。
ここにいても、何にもならなかった。たとえ彼女が、この広大な建物のどこに彼がいるかを正確に知っていたとしても、アルヴィンを見つけようとする企ては、失敗するに決まっていることを、アリストラは知っていた。扉は開かないだろうし、屋内走路《スライド・ウェイ》は、彼女が乗れば、前に進む代りに、逆行して後に戻ってしまうだろう。昇降力場《エレベーター・フィールド》は、不可思議にも働かなくなり、彼女を一つの階から他の階へと持ち上げようとはしないだろう。それでも彼女が強情を張れば、ロボットが慇懃だが断乎として通りに運び出すか、さもなければ議事堂の中を堂々めぐりして、終いには厭気がさして自分から立ち去ることになるだろう。
通りに出た彼女は、ご機嫌斜めだった。それに彼女は少なからず当惑しており、ここには自分の個人的な欲望や関心などまるで些細なものに見えるような何かの謎があるということに、初めて気がついていた。だからといって、こういったことが自分にとって少しでも重要さを減ずることにはならなかった。彼女には、これからどうしたらいいか、全くわからなかったが、一つだけ確かなことがあった。
ダイアスパーの中で強情で執念深い人間は、アルヴィンだけとは限らないのだ。
[#改段]
アルヴィンが操縦盤から手をあげて回路を切ると、検像機《モニター》のスクリーンに映った映像は消えていった。しばらくの間、彼は身動きもせずに坐ったまま、何も映っていない四角形を見つめていた。それは、この何週間もの間、彼の意識を釘づけにしてきたのだった。彼は自分の住む世界を一巡したのである。このスクリーンの上には、ダイアスパーの外壁が、一平方フィートも余さずに、通りすぎていった。彼は、たぶんケドロンを別にすれば、いま生きている誰よりもよくこの都市を知ったのである。しかもなお、彼には、今や、壁を通って出る道は一つもないことがわかっていた。
彼を捉えている気持は、単なる落胆といったようなものではなかった。彼は目指すものを最初の一発で見つけられるほど事が簡単だと、本気で期待していたわけではなかった。重要なことは、一つの可能性を除去したということだった。今度は、別の可能性に手をつけねばならないのだ。
彼は立ち上がって、ほとんど部屋一杯に拡がっている都市の映像の方へ歩いていった。これは、現実には、今まで自分が探索を続けてきた記憶セルの中のパターンが、光学的に投影されたものにすぎないとはわかっていたが、それが実体のある模型でないとは、とても見えなかった。検像機《モニター》のコントロールを動かして、ダイアスパーの内部で視点を動かしてゆくと、この複製の表面を光点が移動してゆき、いまどこを見ているのかが、正確にわかるようになっていた。初めのうち、この案内は役に立ったが、やがて彼は座標をセットするのが非常にうまくなったので、この助けはいらなくなった。
都市は、彼の足もとに拡がっていた。彼はそこを神のように見下ろした。しかし、彼はこれから取るべき段取りを一つ一つ考えこんでいて、ほとんどそれを見てはいなかった。
何もかも失敗したとしても、問題の解答が一つだけあった。ダイアスパーは、記憶セルの中のパターンに従って永久に固定化されており、「永久回路」によって永遠の現状稚持を保たれている。しかし、そのパターン自身を変更することはできるし、そうすれば都市もそれにつれて変ることだろう。外壁の一部に戸口ができるように模様替えをして、そのパターンを検像機《モニター》に加え、都市をこの新しい計画に従って作り直すことはできるだろう。
アルヴィンは、検像機《モニター》の操縦盤の中で、ケドロンが用途を説明しなかった広い部分が、こういう変更に関係があるものと推察した。それを動かしてみても、無駄なことだろう。都市の構造そのものを変更できるコントロールは、厳重に遮断してあり、評議会の権限と中央計算機《セントラル・コンピューター》の承認があった時だけ操作できるものだった。彼が数十年あるいは数千年かかって辛抱強く嘆願する覚悟をしたとしてさえ、評議会が彼の望みを叶えてくれるチャンスは、まずなかった。おまけに、こういった予想は、彼にはまるで魅力のないものだった。
彼は、考えを空に向けた。時々、思いだすのも気恥ずかしいような空想の中でだが、彼は人類が遠い昔に放棄した空の自由を取り戻すことを想像した。かつて、地球の空が不可思議な物体で満たされたことのあるのを、彼は知っていた。宇宙空間から、大宇宙船が、未知の宝を積んでやってきて、伝説的なダイアスパー宇宙港に停泊したのだった。だが、その宇宙港は、都市の境界の向う側にあって、遠い昔に流砂に埋められていた。彼は、ダイアスパーの迷路のどこかに、飛行機械が今もなお隠されているかもしれないとさえ夢みることもあったが、本心からそれを信じているわけではなかった。小さな個人用飛行機が一般に用いられていた時代でさえ、都市の内部で運転することが許されていたとは、とても思えないのだった。
しばらくの間、彼は古い懐しい夢に我を忘れていた。彼は、自分が空の主人公であり、世界は下に拡がり、どこへでも好きなところへ行くように自分を誘っている有様を想像した。彼が見ているのは、今の自分の時代の世界ではなくて、原始の頃の失われた世界、丘や湖や森のある、豊沃な生き生きした大景観だった。彼は、大地の上をそのように自由に飛び、やがてその美しさを滅びるにまかせた見も知らぬ祖先たちに、痛切な羨望を感じた。
こんな心をとろかすような夢想をしていても、何の役にも立たなかった。彼は、そこから自分をもぎ放すようにして、現在の当面の問題に戻った。もし空には手が届かず、陸上の道は塞がれているとすれば、何が残っているか?
またもや、彼は、自分だけの努力ではこれ以上一歩も進むことができず、他人の援助を必要とする段階に到達した。彼はその事実を認めるのは厭だったが、それを否定するほど不正直でもなかった。必然的に、彼の思いはケドロンに向けられた。
アルヴィンには、自分が道化師を好きなのかどうか、どうしてもわからなかった。二人が出会ったことはとてもよかったと思っていたし、自分の探究にケドロンが援助をあたえ、それとなく同情を示してくれたことに、深く感謝していた。ダイアスパーには、自分とこれほどまでに共通なものを持った人物は他にはいなかった。にもかかわらず、彼の性格には何か神経に障るものがあった。たぶん、それはケドロンの皮肉な超然とした感じだったのかもしれない。アルヴィンは、そのことから、ケドロンが全力をあげて援助してくれているように見える時でさえ、自分が精いっぱい努力しているのをひそかに嘲笑しているような気がするのだった。彼の持ち前の強情さと独立不羈の精神もさることながら、このことのためにアルヴィンは、最後の手段としてでなければ道化師に近づくのをためらったのである。
二人は、議事堂から程遠からぬ小さな円形の中庭で会う約束をした。都市の中には、そういった人眼に立たない場所がたくさんあって、おそらくそれらは、どこかの賑やかな道路からたった数ヤードしか離れていないのだったが、そことは完全に遮断されていた。ふつう、そこには、徒歩でだいぶ廻り道をした後にやっと行けるのだった。事実、それらは時として巧みに作られた迷路の中央に置かれていて、そのことも隔絶した感じを強めていた。待ちあわせにそういう場所を選ぶというのは、いかにもケドロンらしかった。
その中庭は、さしわたし五十歩にすぎず、実はある大きな建物の奥深くにあるのだった。それでも、そこは、微かに内部の光で輝いている透明な青緑色の物質で仕切られているために、はっきりした境界は何もないように見えた。しかし、眼に見える境界こそなかったが、その中庭は非常こ巧くこしらえてあって、無限の空間の中に踏み迷ったような感じを持たせる危険はなかった。腰の高さほどもない低い壁は、ところどころが開いていて、そこから出入りできるようになっており、安全に閉じこめられているという感じをうまく与えていた。それなくしては、ダイアスパーの人間は誰も心から寛ぐことは決してできないのである。
アルヴィンが着いた時、ケドロンはこうした壁の一つを調べていた。そこは色の着いたタイルの複雑なモザイクで覆われており、それは途方もなくこみいっていたので、アルヴィンはそれの絵解きをしてみようとさえ思わなかった。
「このモザイクを見てみろよ、アルヴィン」と道化師はいった。「何か妙なことに気がつかないか?」
「いいえ」アルヴィンは、しばらく調べてみた後で、そういった。「これは好きじゃないですけれど、妙なところは何もないですよ」
ケドロンは、色の着いたタイルの上に指を滑らせた。「君の観察は、あまり鋭くないな」と彼はいった。「ここの、この縁を見てごらん。こんなに丸く鈍くなっているだろう。こんなことは、ダイアスパーでは滅多に見られないことなんだぜ、アルヴィン。これは、磨り減っているんだ。時の流れに抗しきれずに、物質が崩れおちているんだよ。僕は、この模様がまだ新しかった時のことを覚えている。たった八万年前で、僕の一つ前の人生の時のことだった。今から十回ぐらい人生を過ごしてから、ここへ戻ってきたとしたら、ここにあるタイルは完全に磨滅してしまっていることだろうな」
「それがどうして、そんなに意外なことなんですか」アルヴィンは答えた。「都市の中には、記憶回路に保存するほど良くはないけれども、むざむざ壊してしまうほど悪くもないという芸術作品は、他にもありますよ。きっと、そのうちに誰か他の芸術家が現われて、もっといい仕事をするでしょうよ。そうすれば、彼の作品は磨滅するままにされることはないでしょう」
「僕は、この壁を設計した男を知っていた」ケドロンは、なおも指でモザイクの割目を探りながらいった。「そのことを覚えていながら、その男のことを思いださないのは妙だな。きっとその男が嫌いで、彼のことを記憶から消してしまったに違いない」彼は軽く笑った。「ことによると、僕が芸術家だった時代のどれかの時に、自分で設計したのかもしれない。そうして、都市がそれを永久に保存するのを拒否したので、腹を立てて一切を忘れることにしたのかもしれない。ほら、この破片が緩んでいることを、僕は知っていたんだ!」
彼は、金色のタイルの一片をうまく引っぱりだし、この些細な破壊活動がひどく嬉しそうだった。「さあ、営繕ロボットが、これを何とかしなければなるまいな」
これは、自分に何かを教えているつもりなんだな、とアルヴィンは気がついた。単なる論理では近づけない近道を通るらしい直観という名の本能が、彼にそれを教えた。彼は足もとに落ちている金色の破片を見ながら、それを何とかしていま自分の心を占めている問題と結びつけようとした。
そうだと知ったからには、その答を見つけるのは何でもなかった。
「あなたがいおうとしていることがわかりました」と、彼はケドロンにいった。「ダイアスパーには、記憶回路に保存されない物体があって、それは議事堂の検像機《モニター》では決して見つからないのですね。あそこに行って、この中庭にピントを合わせても、我々の坐っているこの壁は影も形もないんでしょう」
「壁はあるかもしれないと思うよ。だが、モザイクは、かぶさっていないと思うね」
「ええ、わかります」もうそんな細かい詮議立てなどどうでもよくなったアルヴィンは、いらいらしてこういった。「だから、同じように、都市の一部で、永久回路に保存されなかったけれども、まだ磨滅してしまってはいないところがあるかもしれないというんですね。でも、それが何の役に立つのか、まだよくわかりません。外壁がある[#「ある」に傍点]ことは間違いありません。そこには開いた口はないんです」
「もしかすると、出口はないかもしれない」と、ケドロンは答えた。「僕は何も請けあうわけにはゆかない。だが、検像機《モニター》でわかることは、まだたくさんあると思うよ。中央計算機《セントラル・コンピューター》が許せばだがね。しかし、計算機は、どうやら君が気に入っているようだぜ」
議事堂へ行く道すがら、アルヴィンはこの言葉を噛みしめていた。たった今まで、彼は、自分が検像機《モニター》に近づくことができたのは、挙げてケドロンのお蔭だとばかり思いこんでいた。それが何か自分自身に備わる素質によるものかもしれないなどということは、彼の念頭にはついぞ浮かばなかったのである。ユニーク[#「ユニーク」に傍点]であることには、工合の悪いことがたくさんあるのだから、当然、何かの埋めあわせがあって然るべきだった。
変ることのない都市の映像は、アルヴィンが長時間を暮らした例の部屋を相変らず占領していた。彼は今それを新たな眼で見直していた。そこに見えるものはすべて実在しているのだったが、そこにはダイアスパーのすべてが反映されてはいないかもしれないのだ。それでも、どんな食いちがいがあるにせよ、それはきっと些細なものに違いなかったし、見たかぎりでは彼にはわからなかった。
「僕は、こいつを、ずいぶん前にやろうとしたことがある」ケドロンは検像機《モニター》の台の前に腰を下ろしながらいった。「だが、僕に対してはコントロールが遮断してあった。たぶん、今度はいうことを聞くだろう」
初めはゆっくり、やがて久しく忘れていた腕前を取りもどすにつれて、だんだん自信を強めてゆくケドロンの指は、眼の前のパネルに埋めこまれたグリッド回路の要所要所で僅かに止まりながら、操縦盤の上を動きまわった。
「これでいいと思うが」やがて、彼はいった。「いずれにせよ、すぐわかることだ」
スクリーンが明るくなったが、そこにはアルヴィンが予期したような映像の代りに、いささか意表をついた言葉が現われたのである。
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「速度調整をセットすれば、直ちに逆行は開始される」
[#ここで字下げ終わり]
「僕としたことが」と、ケドロンは呟いた。「一通りちゃんとやっておきながら、何よりも大事なことを忘れていたなんて」彼の指は、今は自信をもって盤の上を動きまわった。スクリーンから言葉が消えると、彼は都市の複製が見えるように、座席の上で向きを変えた。
「よく見ておいで、アルヴィン」と彼はいった。「僕たちは、ダイアスパーについて、何か新たに知ることになると思うよ」
アルヴィンは、辛抱強く待っていたが、何もおこらなかった。都市の映像は、眼の前で見慣れた驚異と美を惜しみなく示しながら浮かんでいたが、今はそのどちらも彼の念頭にはなかった。何を見張っていればいいのかをケドロンに訊ねようかと思った時、突然何かの動きが眼に入った。彼は急いで向き直って、それを見ようとした。それは何かが閃くか跳ねるかしたのが、ちらっと見えたのにすぎなかった。それが何だったかを見るには、もう手遅れだった。何も変化してはいなかった。ダイアスパーは、彼がいつも知っていたものと、ちっとも違ってはいなかった。その時、彼は、ケドロンが皮肉な微笑を浮かべながら自分を見ているのに気がつき、もう一度、都市を見た。今度は、それが彼の眼の前でおこった。
公園の外れにある建物の一つが突然消え、その場所には即座に別の形をした建物が現われた。この変化はあまりにも急激だったので、もしアルヴィンが瞬きでもしていたら、見逃していたかもしれなかった。彼はびっくりして僅かに変った都市を見つめたが、その驚きのショックがまださめないうちに、彼の心は早くもその理由を求めていた。彼は検像機《モニター》のスクリーンに現われた言葉――「逆行は開始される」――を思いだし、何がおこっているのかを直ちに覚った。
「これは、何千年も前の都市の姿ですね」と、彼はケドロンにいった。「僕たちは昔に戻っているんだ」
「感覚的だが、とても正確ないい方とはいえんな」と道化師は答えた。「いま実際におこっていることは、検像機《モニター》が、都市の昔の姿を、記憶から再生しているんだ。都市が模様替えされる時には、記憶回路が空白にされるだけなのではなくて、その中にあった情報は補助記憶装置に入れられ、いつでも必要な時には取りだせるようになっているんだ。僕は、その装置を一秒間に千年の割合で逆行させるように、検像機《モニター》をセットした。いま我々が見ているのは、もう五十万年前のダイアスパーなんだ。目ぼしい変化がおこるのを見るには、もっとずっと前に戻らなけりゃならんだろうな。もっと速度を上げてみるか」
彼は操縦盤に向き直ったが、その間にも、一つの建物どころか一ブロック全体がぱっと消えて、代りに大きな楕円形のスタジアムが現われた。
「ああ、競技場[#「競技場」に傍点]だ!」と、ケドロンはいった。「あれを壊すと決まった時の騒ぎを覚えているよ。あまり使うことはなかったんだが、とてもたくさんの人が、それに愛着を感じていたんだ」
今や、検像機《モニター》は、遙かに高速度で記憶を呼びおこしつつあった。ダイアスパーの映像は、一分間に数百万年の割合で過去に戻っており、変化はすごく速くなって、眼にも止まらないほどだった。アルヴィンは、都市の模様替えが周期的に行なわれたらしいことに気づいた。長いこと現状維持が続いたかと思うと、全面的な建て直しがいっせいにおこり、それからまた小康状態が続いていた。それはまるで、ダイアスパーが生き物ででもあるかのようであり、一つの爆発的な生長がおこると、次には力を蓄えねばならないかのようだった。
こうした変化にもかかわらず、都市の基本的な構造は変らなかった。建物は現われては消えていったが、通りの様子には何の変化も見られず、また公園はダイアスパーの緑色の心臓部として残っていた。アルヴィンは、検像機《モニター》がどこまで昔に戻れるのだろうかと思った。都市の建設された当時に戻り、記録に残る歴史と黎明期の神話や伝説とを隔てているヴェールを通り抜けることができるのだろうか?
もう、五億年も昔に潮っていた。検像機《モニター》のあずかり知らないダイアスパーの郭壁の外側では、地球も今とは違っていることだろう。おそらく、そこには海や森があり、人類がこの最後の住家にまで長い後退を続けながらもまだ見捨てるにいたってはいない他の都市さえも残っているかもしれない。
時間は刻々と経過してゆき、その一分間は、この検像機《モニター》の中の小宇宙では永劫の時に相当した。間もなく、ここに貯えられている記憶の最も古い個所に到達し、逆行は終ることだろう、とアルヴィンは考えた。しかし、この体験はすばらしいものではあったが、この現在の都市から自分が脱けだすのに、どういう役に立つのか、彼にはわからなかった。
突然、ダイアスパーは、音も立てずに勢いよくしぼみ、その前の大きさの何分の一かに縮まった。公園は消え、巨大な塔が連なった外壁は、瞬く間に跡形もなくなった。この都市は世界に向かって開け放たれていることが、検像機《モニター》の映像の切れ目まで遮ぎるものもなく伸びている放射状の道路によって示されていた。これは、人類にあの大きな変化がおこる前のダイアスパーの姿だった。
「これで行きどまりだ」ケドロンは検像機《モニター》のスクリーンを指しながらいった。その上には「逆行完了」という文字が現われていた。「これは記憶セルに残る最古の都市の姿に違いない。それ以前は、永久回路があったかどうか疑問だし、建物は自然に磨耗するにまかされていたのだよ」
アルヴィンは、この古い都市の姿を、長いこと見つめていた。人類が世界の隅々へ――さらに他の惑星へ自由に往き来していた頃この道路を動いていた交通に、彼は思いを馳せていた。その人たちは、自分の祖先なのだった。彼は自分と同時代の人々よりも、彼らの方にいっそうの親近感を感じた。彼は十億年昔のダイアスパーの通りをうごきまわる人々に会い、彼らと同じことを考えたいと思った。けれども、彼らの思いは、幸福なものであるはずはなかった。なぜなら、その頃彼らは侵略者たちの影のもとに生きていたに違いないからだ。それから数世紀のうちに、彼らは自分たちの闘いとった栄光に背を向け、宇宙への道を鎖す壁を築くのである。
ケドロンは、検像機《モニター》を何度か前後に動かして、変化を織りなしている歴史の短い期間の中で移動させた。小さな開けっぴろげの都市から遙かに大きな閉ざされた都市への変化は、たった千年の間におこっていた。この間に、ダイアスパーにかくも忠実に仕えてきた機械が設計・建造され、それらが任務を遂行するために必要な知識が記憶回路にあたえられたのに違いない。その記憶回路にはまた、今日生きているすべての人間の基本的なパターンが入れられ、その結果、適当な衝撃が与えられたとき、そのパターンは物質で装われ、創造の殿堂から出て来ることになったに違いない。ある意味では、自分もこの古代の世界に生きていたのに違いない、とアルヴィンは気がついた。もちろん、自分が全くの合成人間であるということもありえた――つまり、想像を絶するほど複雑な手段を持った芸術家兼技術者が、自分の全個性を、ある明確な目標にそって創造したということもありうることだった。それでも、彼は、やはり自分が、かつて地球に住みその上を歩いていた人間たちから組み立てられているという可能性の方が、大きそうだと思った。
新しい都市が作られた時、古いダイアスパーはごく僅かしか残らなかった。その場所のほとんど全部を公園が占領してしまったのである。この大転換がおこる前でさえ、ダイアスパーの中心部には、放射状の道路の合流点を囲んで、緑に覆われた小さな広場があった。その後、そこは十倍にもひろがり、道路も建物もいっしょくたに呑みこんでしまった。ヤーラン・ゼイの墓は、この時代に建てられ、それまで、全通路の合流点に立っていた大きな円形の構造物の跡を占領していた。アルヴィンは墓が古代のものだという伝説を本気で信じたことはなかったが、こうしてみると、それはほんとうだったらしかった。
アルヴィンは、急に思いついていった。「今のダイアスパーの映像と同じようにして、この映像も探索できるんでしょうね?」
ケドロンが、検像機《モニター》の操縦盤の上に指をすばやく滑らせると、スクリーンのうえにはアルヴィンの質問への答が現われた。この大昔に失われた都市は、奇妙に細い通りを視点が動いてゆくにつれて、眼の前に拡がり始めた。このかつて存在したダイアスパーの面影は、彼が現に生活している都市の映像と同じくらいに、今も鮮明だった。十億年もの間、記憶回路はこの映像を幻のような仮の存在のままに保ち、誰かがもう一度それを呼びだす時を待っていたのだった。そのうえ、いま見ているのは、単なる記憶ではないのだ、とアルヴィンは思った。それはもう少しややこしいものだった。つまり、過去の記憶の思い出だったのである。
アルヴィンには、これから何かを知ることができるかどうか、またそれが自分の探索に役立つかどうか、何もわからなかった。それはどうでもよかった。過去を覗きこみ、人間がまだ星の間を歩きまわっていた時代に存在していた世界を眺めるのは、魅惑的だった。彼は、都市の心臓部に立っている低い円い建物を指さした。
「あそこから始めましょう」と彼はケドロンにいった。「あそこが、手始めとしてはいちばんいい場所のようですよ」
ことによると、それは全くの好運だったのかもしれない。ことによると、何か古代から伝わってきた記憶がそうさせたのかもしれない。あるいは、ことによると、それは初歩的な論理にすぎなかったのかもしれない。いずれにせよ同じことだった。何故なら、遅かれ早かれ彼はこの場所に――都市の放射状の道路がことごとく集まってきているこの場所に、たどりついただろうからである。
十分後、彼は、道路がここに集まっているのは、対称のためばかりではないことを発見した――それは、長い間の探索が酬われたことを知るまでの十分間だったのである。
[#改段]
アリストラにとっては、アルヴィンやケドロンに気づかれずに尾行するのは、易々たるものだった。彼らはひどく急いでいるらしく――そのこと自体、極めて異常なことだったが――全く後を振りかえらなかった。自動走路に乗って彼らを追跡し、人ごみに隠れながら絶えず相手を見失わないようにするのは、おもしろい遊びだった。終り近くなると、彼らの向かう先は疑う余地はなくなってきた。入り組んだ通りを離れて公園に入ると、行く先はヤーラン・ゼイの墓以外にはありえなかった。公園には他に建物はなかったし、アルヴィンやケドロンのように懸命に急いでいるものが、ただ景色を楽しむことに興味があるだけだとは思えなかったからである。
墓までの最後の数百ヤードでは、身を隠すすべはなかったから、アリストラは、アルヴィンとケドロンが大理石に囲まれた暗がりに姿を消すまで待っていた。それから、彼らの姿が見えなくなるが早いか、彼女は草つきの斜面を急いで上った。アルヴィンとケドロンが、何をしているのかを発見するまで、大きな柱の蔭に隠れていられることは、間違いなかった。その後なら、見つかってもかまわないのだった。
墓は、同心円状に並んだ二列の柱からできており、その中に円い中庭を囲んでいた。並んだ柱のため、一カ所を除いて、内側は完全に見えなくなっていた。アリストラは、その入口から入るのを避けて、横から墓に入った。彼女は外側の柱のところで、慎重に中の様子を見たが、誰も見あたらなかったので、そっと内側の柱に近づいていった。柱の隙間からは、ヤーラン・ゼイが入口を通して外を眺めているのが――彼が建設した公園を見渡し、長い時代にわたって見まもってきた彼方の都市を見つめているのが見えた。
ところが、この大理石の一つ家には、ほかに誰もいなかったのである。墓は空っぽだった。
この時、アルヴィンとケドロンは、地下百フィートのところで、小さな箱のような部屋にいた。その部屋の壁は、絶えず上へ向かって流れているように見えた。自分たちが動いている徴しといっては、それだけだった。微かな振動さえ感じられなかったが、彼らは急速度で地底に沈んでおり、二人とも今でもよくわからない目的地に向かって降下しているのだった。
それは、馬鹿みたいに簡単だった。というのは、道は彼らのために準備されていたのだ(誰が準備したのだろう、とアルヴィンは思った。中央計算機《セントラル・コンピューター》だろうか? それとも、都市を建設し直した時に、ヤーラン・ゼイその人がやったのだろうか?)。検像機《モニター》のスクリーンに映ったのは、地中深く潜っている長い垂直の竪孔だった。だが、二人がそれを辿って少し入った所で、映像はふっつり消えてしまった。それは、アルヴィンの知るかぎりでは、自分の求める情報を検像機《モニター》が持ちあわせていないこと、またたぶん持ったこともなかったのだろうということを、意味していた。
彼がそう思ったか思わないかのうちに、スクリーンはもう一度明るくなり、そこには短い言葉が現われていた。それは、機械が知的に人間と対等になって以来、人間に意志を伝える際に採用してきた単純な文体で書かれていた。
[#ここから1字下げ]
「像の見つめる所に立って、思いだせ――ダイアスパーは、常にかくはあらざりし――と」
[#ここで字下げ終わり]
後半の言葉は、大きな文字で書かれており、この文章全体が何の意味か、アルヴィンにはすぐわかった。扉を開けたり、機械を動かしたりするのに、心の中に合言葉を思い浮かべる方法は、長い時代にわたって使われてきた。「像の見つめる所に立って」という言葉の意味は、わかりすぎるくらいだった。
「どれだけの人々がこの言葉を読んだのでしょうか?」アルヴィンは、考えこみながらいった。
「僕の知るかぎりでは、十四人だな」とケドロンは答えた。「それに、もっといたかもしれないね」彼は、このやや謎めかした言葉を説明しようとはしなかったし、アルヴィンは早く公園に行こうとして非常に急いでいたので、それ以上は質問しなかった。
二人は、仕掛けが今日でも合言葉に感応するかどうかには、まるで確信が持てなかった。彼らは墓に着くと、床に敷いてある多くの板石の中から、ヤーラン・ゼイの視線が向いているただ一枚の板石を、すぐさま見つけだした。像は、一見したところ都市を見渡しているように見えたが、直前に立つと、その眼は伏し眼がちになっていて、微かな微笑は墓の入口のすぐ内側にあたる一カ所にまっすぐ向いていることがわかった。いったん謎が解けてみると、それには疑う余地がなかった。アルヴィンは隣りの板石に移ってみたが、そうするとヤーラン・ゼイはもう彼を見てはいなかったのである。
アルヴィンはケドロンといっしょになり、心の中で、道化師が声を出して唱えている言葉に声を合わせた。「ダイアスパーは、常にかくはあらざりし」その機械が最後に働いてから数百万年が経っていることなど全く意に介さないかのように、待ちかまえていた機械は、即座に感応した。二人が立っていた大きな敷石は、滑らかに地底へ動き始めたのである。
頭の上では、青い小さな空が、突然ちらついて消えた。竪孔は、もう開きっぱなしになってはいないのだった。誰かが、間違ってそこに落ちこむ心配は、もうなかった。アルヴィンは、ふと、いま自分とケドロンを載せている板石の代りのやつが、何らかの形でそこに物質化したのかな、と考えたが、すぐそうではあるまいと判断した。初めの板石は、おそらく今も墓の床にあるのだろう。二人がいま立っている板石は、たぶんほんの一瞬だけ存在しているのであって、それは地底深くへ向かって次々に連続的に創造されてゆくために、一定速度で下降しているような錯覚を与えるのだろう。
壁が音もなく流れ去っている間、アルヴィンもケドロンも口をきかなかった。ケドロンは、今度は自分もやりすぎたかなと考えながら、またもや良心と闘っていた。この道が仮にどこかへ通じているとしても、どこへ通じているものやら、彼には見当もつかなかった。生まれてから初めて、彼はほんとうの恐怖を味わっていた。
アルヴィンは、怖がっていなかった。というより、興奮していた。この気持は、自分がロランヌの塔で人跡未踏の砂漠を見渡し、夜空に君臨する星たちを見た時に感じたものと同じだった。その時には、彼はただ未知なるものを見つめただけだった。しかし、今はそこへ向かっているのだった。
壁が流れ去ってゆくのが止まった。二人のいる不可思議な動く部屋の一方の壁に、四角い光が現われ、それが次第に明るくなったかと思うと、突然扉が現われた。二人はそれを通り抜け、その向こうの短い廊下を何歩か歩いた――すると、彼らは大きな円い洞穴の中に立っており、そこの壁は滑らかな曲線を描いて頭上三百フィートのところでいっしょになっていた。
二人がその中を降りてきた柱は、その上にある数百万トンの岩を支えるにしては、あまりにも細すぎるように思えた。事実、それはその部屋本来の必要不可欠な部分のようには見えず、後から付け加えられたもののような印象を与えるのだった。ケドロンも、アルヴィンの視線を辿って、同じ結論に達した。
「この柱は、我々が降りてきた竪孔を囲むだけのために建造されたんだ」彼は、まるで急いで何かいうことを見つけなきゃならないとでもいうように、やや神経質な調子でいった。「ダイアスパーがまだ世界に向かって開かれていた頃、ここへ通じる交通を司っていたのは、我々の来た竪孔ではありえないな。その[#「その」に傍点]通路は、あそこのトンネルを通って来たんだ。
君は、あれが何だかわかるだろうね?」
アルヴィンは、百ヤード以上も向こうにある、この部屋の壁を見た。そこには、規則正しい間隔で、大きなトンネルー――十二本のトンネル――が開いており、ちょうど今日の自動走路がそうなっているのと全く同じように、あらゆる方向に放射状に伸びていた。見れば、トンネルは、ゆるやかに傾斜して上の方に向かっており、そう思って見ると、自動走路で見慣れた灰色の表面が認められた。それは、巨大な道路の切株にすぎないのであり、それに生命を与えていた不思議な物質は、今は固まって動いてはいなかった。公園が建設された時、自動走路網の中心部は埋められたのだった。だが、破壊されてはいなかったのである。
アルヴィンは、いちばん手近かのトンネルに向かって歩きだしたが、ほんの数歩進んだ時、足もとの地面で何事かがおこっているのに気がついた。そこが透明になり始めているのだった[#「そこが透明になり始めているのだった」に傍点]。さらに何ヤードか行くうちに、彼はまるで空中に立っているように見え、足の下には何もないみたいだった。彼は立ち止まって、足の下の空間を見つめた。
「ケドロン!」と彼は呼んだ。「来てごらん!」
ケドロンがやってきて、二人はいっしょに、足の下にある驚くべきものに見入った。はっきりとはわからぬ深さにぼんやりと見えているのは、巨大な地図――中央にある竪孔の下の一点に向かって集中している多数の線の大きな網目模様だった。二人はしばらく黙然としてそれを見つめていたが、やがてケドロンが静かにいった。「これは、何だかわかるかね?」
「わかるような気がします」とアルヴィンは答えた。「これは交通路全体を示す地図で、あの小さな丸は、地球にあるほかの都市に違いありません。傍に名前が書いてあるのが、どうにか見えますけれども、あまり暗くて読み取れません」
「昔は、何らかの内部照明があったに違いない」と、ケドロンは、気もそぞろだった。彼は、足の下の線を辿り、それを部屋の壁の方まで眼で追っていた。
「そうだと思った!」彼は突然叫んだ。「ほら、ここの放射状の線は、みんな小さなトンネルの方に続いているんだよ」
アルヴィンは、自動走路の大きなアーチの傍に、無数の小さなトンネルがあって、部屋の外に続いているのに気づいていた。それらのトンネルは、上にではなくて、下に[#「下に」に傍点]向かって傾斜していた。
ケドロンは、返事も待たずに続けた。
「これより簡単な方式は、とても考えられないくらいだな。人々は自動走路で下りてきて、行きたい場所を選び、それから地図の上の適当な線を辿ればいいんだ」
「それから、どうなるんですか?」とアルヴィンは訊ねた。ケドロンは黙って、下に降りているそれらのトンネルの謎を眼で探っていた。トンネルは三十から四十あって、どれも全く同じに見えた。それは地図の上の名前だけで区別されていたものらしかったが、その名前は、今では読みとれなくなっているのだった。
アルヴィンは、ほかの方へぶらぶら歩いてゆき、中央の柱をまわった。やがて、彼の声が、部屋の壁からの反響で少々くぐもり重なりあって、ケドロンのところに聞こえてきた。
「どうしたんだ?」とケドロンは問い返した。彼は、ぼんやり見える文字の集まりの一つが、もうちょっとで読みとれそうなところだったので、そこを動きたくなかった。しかし、アルヴィンがいつまでも呼びたてたので、そちらの方へ行った。
ずっと下の方に巨大な地図のもう半分があった。そのぼんやりした網の目は、放射状に周囲の壁まで伸びていた。しかし、ここでは、その全部が暗くてよく見えないわけではなかった。というのは、線の中の一本――たった一本だけは、明るく照明されていたのである。それは、網の目の他の部分とはまるで全く切り離されているように見え、下に向かって傾斜したトンネルの一つを、輝く光の矢のように指していた。その端近くには、金色に光る丸が一つ突き刺さっており、その丸の傍には、ただ「リス」とだけ書いてあった。それだけだった。
アルヴィンとケドロンは、つっ立ったまま、その物いわぬ記号を長いこと見下ろしていた。ケドロンにとっては、これはとうてい歯が立たない挑戦であることは明らかだった。事実、彼は、いっそのこと、それがなければよかったのにと思っていた。だが、アルヴィンにとっては、これは彼の一切の夢が実現されることを暗示していた。リスという言葉は、彼には何の意味もなさなかったが、彼は、それを口の中に転がし、何か異国の珍味ででもあるかのように、その音色を味わった。彼の血管には血が湧きたち、頬は熱病のように紅潮していた。彼はその大広間を見まわし、古代の日々、空の交通は止まってしまったけれども地球の都市がまだお互いに接触を保っていた頃、ここはどんな様子だったかを想像してみようとした。交通がどんどん衰微し、この大きな地図の上の灯が一つまた一つと消えてゆき、ついにこの一本の線だけが残るまでの、長い長い歳月のことを彼は思った。そして、ついにヤーラン・ゼイが自動走路を封じて、ダイアスパーを外界から閉鎖するまで、その灯は暗くなった仲間の灯たちの間で光りながら、やってくる人の行く先を案内しようとして、どのくらい長い間を空しく待っていたのだろうか?
それは十億年前のことなのだった。当時でさえ、リスはダイアスパーとの接触を失っていたのに違いない。この灯が、これだけの歳月を生きのびたというのは、とてもありえないような気がした。たぶん、結局はこの地図ももう何の意味もないのだろう。
ケドロンは、やっとアルヴィンを物思いから覚めさせた。ケドロンは、そわそわして落ち着かない様子だった。頭上の都市の中にいた時、いつも自信に満ちて、落ち着いていた彼の面影は、もうどこにもなかった。
「今は、これ以上先に行くべきじゃないと思う」と彼はいった。「危険かもしれんからね――そのう、もう少し準備ができるまではな」
それが賢明ではあった。だが、アルヴィンは、ケドロンの言葉に恐怖の響きが隠されているのを感じた。そのことさえなかったら、彼はもっと分別を働かせたかもしれない。しかし、自分に勇気があることを少し強く意識しすぎていたうえに、ケドロンの臆病さを軽蔑する気持がこれに重なって、彼を前進に駆りたてた。ここまで来て目的地は眼の前にあるかもしれないというのに、いま引き返すのは馬鹿げているように思えた。
「僕は、あのトンネルを下ります」彼は、止められるものなら止めてみろとでもいうように、頑なにケドロンにいった。「あれが、どこへ通じているのか、見たいんです」彼は断乎として歩きだした。道化師は、ちょっとためらってから、足の下に燃える光の矢について、彼の後を追った。
トンネルに足を踏み入れると、おなじみの例の蠕動場《ペリスタルティック・フィールド》が引っぱるのが感じられ、二人はあっという間に地の底に向かって軽々と運んでゆかれた。その間ものの一分とはかからなかった。蠕動場が二人をはなした時、彼らはカマボコ形をした細長い部屋の一端に立っていた。遙か向こうの端には、ぼんやりと灯のともったトンネルが二つ、果てしもない彼方へ伸びていた。
黎明期以来のほとんどあらゆる文明の人々にとっては、この場の様子はまるで見慣れたものだったろう。ところが、アルヴィンやケドロンには、これは別世界を垣間見たようなものだった。向こうのトンネルを狙って弾丸のように横たわっている長い流線型の機械が何の目的を持っているかは明らかだったが、だからといって、物珍らしいことに変りはなかった。その上半部は透明で、アルヴィンはその壁を通して、何列にもならんで坐り心地がよさそうに作られた座席を見ることができた。入口らしいものは何もなかった。また機械全体は、向こうに伸びてトンネルの一つの中に消えている一本の金属棒の上に、一フィートほど離れて浮いていた。数ヤード向こうには、もう一本の棒が二つめのトンネルに通じていたが、その上には機械はなかった。アルヴィンには、まだ見ぬ遠いリスの地下のどこかに、ここと同じような部屋の中で、その二番目の機械が待機しているのだということが、まるで誰かが話してくれたかのようにはっきりとわかっていた。
ケドロンは、少しせかせかと喋り始めた。
「何とまあ奇妙な交通機関だろう! これじゃ、いちどきにたった百人しか運べないじゃないか。そうだとすると、あまり交通量は多くなかったに違いないな。それに、空がまだ自由に開けていたとすると、いったい何だってこれだけのものを地下に埋める手間をかけたんだろう? ことによると、侵略者たちは、空を飛ぶことさえ許そうとしなかったのかもしれないな。とても信じられないことだがね。それとも。これは、人間がまだ旅行はしていたけれども、宇宙を思いだしたくはなかったような、過渡期に作られたものだろうか? 彼らは、空や星を見ずに都市の間を往き来できたんだ」彼は、おどおどしたような笑い声を立てた。「一つだけ確かだと思うな、アルヴィン。リスがあった頃でも、それはまあダイアスパーと似たようなもんだったんだ。どんな都市でも、基本的には同じだったに違いないよ。最後にはそれが全部放棄されて、ダイアスパーに合流したというのも、もっともなことだな。同じものなら、一つあればたくさんだものね」
アルヴィンは、ろくに聞いてはいなかった。彼は、しきりにこの長い弾丸を調べて、入口を見つけようとしていた。この機械が思考または言葉による何かの合言葉でコントロールされるのだとすれば、彼にはこれを命令に従わせることはできないかもしれず、そうすれば、このことは死ぬまで気が狂いそうな謎のままに残ることだろう。
彼は、扉が静かに開いたのに、全く気がつかなかった。音もなく、前ぶれもなく、壁の一部がすうっと見えなくなり、眼の前には美しく配置された内部がすっかり開けはなたれていた。
これは決断の時だった。この瞬間まで、彼はそうしたいと思えば何時でも引き返すことができた。だが、この待ちかまえている扉の中に足を入れれば何がおこるかを彼は知っていたが、それからどこへ行くことになるかはわからなかった。彼はもう自分の運命を左右することはできず、未知の力に自分を委ねることになるだろう。
彼は、大して躊躇しなかった。彼は、ためらうことを怖れていた――あまりぐずぐずしていると、機会は二度とこないかもしれないのを怖れていた。あるいは、そうでなかったとしても、知識を求める欲望に、彼の勇気がついてゆけなくなるのを怖れていた。ケドロンは心配して止めようと口を開いた。だが、彼が言葉を発する前に、アルヴィンは中に入っていた。彼がケドロンの方を振りかえると、ケドロンは微かに見えている四角い入口の向こうに立っており、一瞬張りつめた沈黙の中で、二人はお互いに相手が口を開くのを待っていた。
その決断は否応なしに下された。透明だった個所が僅かにちらついて、機械の壁はまた閉じてしまったのである。アルヴィンが手をあげて別れを告げているうちに、長い円筒は早くも緩やかに走り始めていた。それは、トンネルに入るまでには、もう人が走るよりも速くなっていた。
かつて、何百万もの人々が、基本的にはこれと同じような機械に乗って、自宅と単調な仕事との間を往復するために、毎日のようにこういう旅行をしていた時代があった。そういう遠い遙かな時代からこのかた、人類は宇宙を探検し、再び地球に戻った。人類は帝国を闘いとり、またそれをもぎとられた。いま、再びそのような旅行が、往時の名も知れぬ平凡な無数の人々ならば全く見慣れたものと感ずるような機械に乗って、始まろうとしていたのである。
しかもなお、それは、人類にとって、この十億年の間に最も重要な旅行になろうとしていたのである。
アリストラは、墓の中を何回も何回も探しまわったが、実は一回で充分だった。どこにも隠れる場所などなかったのである。最初の驚きのショックがおさまると、彼女は、自分が公園の中を追っかけていたのは、もともと生身のアルヴィンやケドロンではなくて、彼らの投影された映像にすぎなかったのだろうか、と考えた。だが、それは理屈にあわなかった。映像ならば、自分でそこに出かけてゆくような面倒なことをしないでも、どこでも行きたいところに投影できるのだった。正気な人間なら誰でも、そこへ即座に行けるという場合に、自分の投影された映像を何マイルも歩かせ、半時間もかかって目的地に着くようなことはしないだろう。そうだ、自分が墓まで追ってきたのは、やっぱり本物のアルヴィンとケドロンだったのだ。
とすれば、どこかに秘密の通路があるに違いなかった。彼らが戻ってくるのを待っている間、それを探してみるというのも、悪くない考えだった。
運命といおうか、彼女はケドロンが舞いもどったのを見損なった。彼が現われた時、彼女はそれとは反対側の所で、像の後の柱を調べていたのである。彼女はケドロンの足音を聞いて彼の方を振り返り、すぐ彼が一人だけなのに気づいた。
「アルヴィンはどうしたの?」と彼女は叫んだ。
道化師は、しばらくたってから答えた。彼は、取り乱していて、どうしたらいいかわからない様子だった。アリストラは、彼が自分にやっと気がつくまで、何度も質問を繰り返さねばならなかった。彼は、アリストラがそこにいるのを見ても、いっこうに驚いた気配はなかった。
「彼がどこにいるかは知らんよ」彼はやっと答えた。「僕にいえるのは、彼がリスに向かっているということだけだ。これで、君は僕と同じくらい知っていることになる」
ケドロンのいうことを鵜呑みにするのは、賢明とはいえなかった。だが、アリストラには、それ以上聞かなくても、道化師が今日は自分の役割を演じてはいないことがわかった。彼はほんとうのことをいっているのだった――それがどういう意味かは、わからなかったが。
[#改段]
10
扉が閉まった時、アルヴィンは手近かな座席にぐったり倒れこんだ。彼の脚からは、急に力がすっかり抜けてしまったようだった。彼にはやっと、仲間のものたちがみんな悩まされている未知への恐怖が、これまでになかったほどわかったのだった。彼は体じゅうが震えるのを感じ、眼はぼうっとして頼りなかった。もしこの疾走する機械から逃げだすことができたとしたら、たとえすべての夢を放棄することになったとしても、彼は喜んでそうしたことだろう。
彼の上にのしかかっていたのは恐怖だけではなく、名状しがたい孤独感だった。彼が知り、愛するものは、すべてダイアスパーの中にしかなかった。たとえこれから危険にとびこもうとしているのではないとしても、自分の故国を二度と見ないことになるかもしれないのだった。彼は、長い年代のあいだ誰も知らなかったような深刻さで、故郷を永遠に離れるということの意味を悟ったのである。この寂莫とした一瞬、いまたどっている道の行く方が危険か安全かなどということは、自分にはどうでもいいことのように思われた。いま彼の心を占めているのは、故郷から遠ざかってゆくということだった。
この気分は徐々に消え、彼の心からは暗い蔭が去っていった。彼はあたりを見まわして、自分が乗っている信じられないほど古い乗物から何か知れることはないかと探し始めた。この地下の交通機関が、かくも長い年月を経て、今もなお完全に動いていることについては、彼は別に不思議とも驚くべきこととも思わなかった。これは、ダイアスパーの中の検像機《モニター》の永久回路で保存されているのではなかったが、これが変化や破損をしないように護っている同様な回路が、どこかにあるに違いなかった。
このとき初めて、彼は、前方の壁の一部が表示盤になっているのに気づいた。そこには、簡単だが心強い言葉が出ていた。
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「リス 三十五分」
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彼が見つめている間にもその数字は「三十四」に変った。これはともかく有益な情報ではあったが、彼にはこの機械の速度が全く見当つかなかったので、これを見ても、この旅行の距離については何もわからなかった。トンネルの壁は一面にぼやけて灰色になり、動いている感じといっては、その気にならなければわからないような、ごく微かな振動だけだった。
もうダイアスパーは、何マイルもの彼方になってしまったに違いない。頭上は、絶えず移動する砂丘の並ぶ砂漠になっていることだろう。もしかすると、ロランヌの塔からあれほどたびたび見つめた突兀たる丘の下を、いまこの瞬間にも走っているのかもしれない。
彼は、自分の体よりも先にそこへ着こうと焦るかのように、彼方のリスへ思いを馳せた。そこは、どんな都市だろうか? どれほど思いをめぐらせても、彼にはダイアスパーを小型にしたような別の都市しか想像できなかった。彼は、そこがまだ存在しているだろうかと思ったが、それからまた、そうでなければこの機械がいま自分を乗せて地底を高速で走りているはずがないではないか、と思い直した。
突然、足もとの振動に、はっきり変化がおこった。乗物はスピードを落としていた――それには疑う余地もなかった。思ったより速く時間が経ったのに違いない。ちょっとびっくりして、アルヴィンは表示盤にちらっと眼をやった。
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「リス 二十三分」
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彼は面くらい、少々心配にもなって、顔を機械の横腹に押しつけた。トソネルの壁は、スピードのために、まだぼやけて一面の灰色になっていたが、それでも今では、現われたかと思うとすばやく消えてゆく標識が、ときどき眼をかすめるようになっていた。また、それが消える時にも、一回ごとに前よりは少し長く視野に残っているような感じだった。
そのとき、何の前ぶれもなしに、両側のトンネルの壁が、消えてなくなった。機械は、まだ非常なスピードであったが、例の自動走路の終っていた部屋よりもまだ大きな、とほうもなく広い、がらんとした空間を通り抜けていた。
透明な壁から驚嘆の眼で外を覗いていたアルヴィンは、下の方に複雑な網の目を作った誘導棒をちらりと見ることができた。それらの棒は縦横に錯綜していて、両側の迷路のようなトンネルの中に消えていた。円いドームになった天井からは青味を帯びた光が煌々と照らしており、大きな機械の輪郭が、その眩い光を背に、シルエットになってやっと見分けられた。光は非常に眩しくて眼が痛いほどであり、アルヴィンはこの場所が人間のために作られたものではないことに気がついた。一瞬後、彼の乗った機械は、列をなして誘導棒の上にじっと横たわっている円筒群を、矢のように通りすぎた。それらは彼の乗っている機械よりもずっと大きく、きっと貨物輸送に使われたのに違いないと、アルヴィンは推測した。それらのまわりには、たくさんの継ぎ目のある、わけのわからない装置が、どれもひっそりと静かに群がっていた。
その広々とした寂しい部屋は、ほとんど現われた時と同じくらいにすばやく、後方に消えていった。この出来事は、アルヴィンの心に恐怖の気持を残した。ダイアスパーの地下にあった巨大な暗い地図の意味が、彼には初めてほんとうにわかったのである。世界は、彼の空想など及びもつかないほどの驚異に満ちているのだった。
アルヴィンは、もう一度、表示盤を眺めた。変化はなかった。あの大きな洞穴をかすめすぎるのに、一分もかからなかったのだ。機械はまたスピードを増していた。動いている感じはあまりなかったが、トンネルの壁は、見当もつかないほどのスピードで両側を流れ去っていた。
一時代もすぎたかと思う頃、例の何ともいいようのない振動の変化が、またおこった。いま、表示盤には、
[#ここから2字下げ]
「リス 一分」
[#ここで字下げ終わり]
と出ていた。この一分間は、アルヴィンがそれまでに経験したことのないような長い一分だった。機械の動きは次第にゆっくりしてゆき、もうスピードを緩めているともいえないほど遅くなっていた。そして、機械はついに静止した。
この長い円筒は、滑らかに音もなくトンネルを出て、ダイアスパーの地下にあったのと瓜二つといってもいいような洞穴に滑りこんだ。アルヴィンは、しばらくの間、興奮のあまり何もよく見えなかった。扉が開いてかなりの時間がたってから、彼はやっと、乗物を降りることができるのに気がついた。急いで機械を出ながら、彼はもう一度ちらっと表示盤に眼をやった。表示はもう変っており、そこにある言葉は、このうえもなく心強いものだった。
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「ダイアスパー 三十五分」
[#ここで字下げ終わり]
その部屋からの出口を探しながら、アルヴィンは、自分のいまいる文明が、彼自身のものとは違ったものかもしれないことを示す最初の徴しを発見した。地表への道は、明らかに洞穴の一端にある低い広々としたトンネルの中を通っているのだったが――そのトンネルを抜けて、上に向かっているのは、一すじ[#「すじ」に傍点]の階段だった。こういうものは、ダイアスパーでは極めて稀だった。都市の建築家たちは、高さに違いがあるときには、いつも傾斜路、つまり斜めに傾いた通路を作った。これは、ロボットの大部分が車で動きまわっていて階段が通れなかった時代の頃の名残りだった。
その階段はごく短くて、つきあたりには扉があったが、それはアルヴィンが近づくと自動的に開いた。彼はヤーラン・ゼイの墓の下の竪孔を降りた時に入っていたような小さな部屋に足を踏み入れたが、その数分後にまた扉が開き、丸天井のある廊下が眼の前に現われて、それが緩やかに上っていった先のアーチに空が半円形に覗いているのを見ても、意外とは思わなかった。動いている感じこそなかったけれども、アルヴィンは自分が数百フィートは上昇したに違いないことを知っていたのである。彼は眼の前に何が拡がっているかを早く見ようとして、怖ろしさをすっかり忘れ、陽の当っている入口の方へ、急いで傾斜を昇っていった。
彼は低い丘のふちに立っていた。一瞬、彼は自分がまたダイアスパーの中央公園に舞いもどったのかと思った。けれども、ここがほんとうに公園だとすると、その広大さは彼の理解を絶していた。彼が予期していた都市は、どこにも見えなかった。そこには、見渡すかぎり森と草に覆われた平地しかなかったのである。
やがて、アルヴィンは眼を地平線にあげた。そこには、木立の上高く、右から左へ大きな弧を滑らかに描いて、ここの世界を取り囲む岩の境界線があった。それはダイアスパーで最高を誇る巨塔をも小人のように見せるようなものだった。それは遙か彼方にあり、細部はあまりの遠さに霞んで見えなかったが、その稜線には、何かアルヴィンをけげんな気持にさせるものがあった。やがて、彼の眼はやっとその巨大な景観の大きさに慣れてきた。その遙かなる壁は、人間の手で作られたものではなかったのだ。
時は、すべてを征服したのではなかったのだ。地球は、今も、誇るに足る山々を持っていたのだ。
アルヴィンは、長い間トンネルの出口に立って、自分が飛びこんできたこの別世界に徐々に同化していった。彼はこの壮大なスケールと広さの衝撃に、半ば茫然としていた。あの霞む山々の輪は、ダイアスパーほどの大きさの都市を一ダースも抱えこんでいてよいはずだった。しかし、いくら探してみても、アルヴィンには人間生活の痕跡も見当たらなかった。それでも、丘を下っている路はよく手入れされているように思われたし、それについてゆくよりほかはなかった。
路は、丘の麓で、ほとんど太陽を隠さんばかりの巨大な木立の間に消えていた。アルヴィンがその蔭に入ると、不思議な香りと音とが入りまじって、彼を迎えた。木の葉をわたる風のさざめきならば、彼も前に聞いたことがあった。だが、その底にある無数の微かな音は、彼には何とも得体の知れないものだった。経験したことのない匂いが彼を襲った。その香りは、彼の種族には、記憶にも残っていないものだった。暖かさ、満ち満ちた香りと色、眼には見えない無数の生きものの気配――それらはまるで物理的な烈しさで彼にぶつかってきた。
彼は、何の前ぶれもなしに、湖に行きあたった。左手の木立が突然切れると、眼の前には小さな島をちりばめて広々と拡がった水があった。アルヴィンは、生まれてから、こんなにたくさんの水を見たことがなかった。これにくらべれば、ダイアスパー最大の池もまるで水溜りのようなものだった。彼はゆっくりと湖畔に下りていって、その暖かい水を手に受け、それを指の間から滴らせた。
突然、水中の葦をかきわけて出てきた大きな銀色の魚は、アルヴィンが今までに初めて見た、人間でない生きものだった。それは、彼には全く見慣れないもののはずだったが、その形には彼の心にそこはかとない記憶を呼びおこさせるような親しみがあった。その魚が、鰭を微かに動かしながら、うす緑の水中にじっと浮いた姿は、まさに力とスピードの権化という感じだった。そこに生きた肉の形をとって見えているものは、かつて地球の空を支配した大宇宙船の優雅な線なのだった。進化と科学とは同じ結論に到達し、しかも自然の作品の方が生き永らえたのである。
アルヴィンはやっと湖の魅惑をふりきって、曲がりくねった路を歩き続けた。森はまたもや彼のまわりを閉ざしたが、それはしばらくの間だけだった。やがて路は尽き、そこは幅半マイル、長さはその倍もある広い林間地になっていた。そうして、アルヴィンは、どうしてそれまで人間の気配が見られなかったかを悟ったのである。
その林間地には、低い二階建ての建物がぎっしりと並んでおり、その柔らかい色あいは、かっと照りつける太陽のもとでさえ、眼を休ませてくれるようだった。そのほとんどは、すっきりした簡素なデザインだったが、いくつかのものは、溝を彫った柱や優雅な模様を施した石を使った、複雑な建築様式で建てられていた。非常な年代を経たものと思われるこれらの建物には、おそろしく古い時代の様式である尖ったアーチが使われていた。
この村落の方へゆっくりと歩いてゆきながら、アルヴィンは、この新しい状況を理解しようと苦労していた。見慣れたものは何一つなかった。空気さえも、脈動する未知の生活の匂いで一変していた。そうして、建物の間を往き来する背の高い金髪の人々は、自然な優雅さを具えていて、ダイアスパーの人々とは明らかに違う種族に属していた。
彼らはアルヴィンを気にもとめなかったが、彼の着ているものは彼らと全く違っていたのであるから、これは不思議なことだった。ダイアスパーでは気温は変ることがなかったから、そこでは衣服は純粋に装飾的なものであって、時にはいちじるしく手のこんだものになっていた。ここでは衣服は主として機能的なものらしく、人に見せるためというよりは、むしろ実用のためにデザインされていて、一枚の布を体にまとっただけのものも少なくなかった。
アルヴィンが村の中に入りこむと、リスの人たちは初めて彼がいることに反応を示したが、その反応は、いささか意外な形をとって現われた。五人の人たちが、いっしょに一つの家から現われ、意味ありげに彼に向かって歩き始めた。それは、まるで彼らが、アルヴィンの来るのを予期していたかのようだった。アルヴィンは、急に興奮で頭がかっとし、心臓がどきどきしてくるのを感じた。彼は、遙かな惑星で人類と他の生物の種属たちとの間におこったに違いない、運命の出会いの数々を思った。いま彼が会おうとしている人々は、自分と同じ生物種に属していた。しかし、ダイアスパーと隔てられていた永劫の時間の間に、彼らはどれほど違ってしまっていることだろうか?
代表団は、アルヴィンから数フィート向こうで立ち止まった。彼らのリーダーは微笑して、古くからの友情の示し方にのっとって手をさしだした。
「ここでお迎えした方がいいと思いましてね」と、彼はいった。「我々のところは、ダイアスパーとはずいぶん違いますのでね。お客さんがターミナルからここまで歩いてくる間に――そのう、つまり順応する余裕が持てるわけですな」
アルヴィンは、さしだされた手を握ったが、しばらくはびっくりして答えられなかった。彼は、ほかの村人たちが、なぜ自分を全く無視していたのかが、初めてわかったのだ。
「あなた方は、僕の来るのがわかっていたんですか」彼は、やっといった。
「もちろんですとも。我々は輸送機《キャリアー》が動き始めれば、いつでもわかるのです。ところで、どうやって来る道を見つけました? この前にお客さんが来てからずいぶんになるので、秘密の通路が忘れられてしまったのかと怖れていたんですよ」
彼は、仲間の一人から遮られた。
「好奇心は控えておいた方がいいと思うよ、ガーラン。セラニスが待っているからね」
この「セラニス」という名前の前には耳慣れない言葉がつけ加えられていたが、アルヴィンはそれが何かの称号だろうと思った。相手のいう言葉は何の造作もなく理解できたが、彼はそのことが意外だとは思ってもみなかった。ダイアスパーとリスとは同じ言語系統に属していて、古代に発明された録音機が、とうの昔に言語を変ることのない形に固定してしまっていたのである。
ガーランは、残念そうに、ふざけて肩をすくめてみせた。
「やむをえん」彼は微笑していった。「セラニスには大した特権はないんだからな。こいつを横奪りすべきじゃないね」
村の奥の方へ歩いてゆきながら、アルヴィンはまわりの人たちを観察した。彼らは親切で知性があるように見えたが、こういう美徳ならば彼は生まれて以来あたりまえのことと受け取っていたから、彼らがダイアスパーの似たようなグループとどこが違っているかを探した。違いはあったが、どう違っているかをはっきりいうのは難しかった。彼らはみんなアルヴィンよりやや背が高く、そのうちの二人は、まぎれもない肉体的な老年のきざしを見せていた。皮膚は非常に日焼けしており、また彼らの動作はすべて精気と喜びとに溢れていて、すがすがしいものが感ぜられたが、同時に少し当惑させられるような気持でもあった。彼は、ケドロンが、リスに辿りつけたとしても、そこはダイアスパーと全く同じことだろうと予言したことを思いだして微笑した。
村人たちは、今は明らさまな好奇心を見せて、アルヴィンが案内者たちについてゆくのを眺めていた。もうアルヴィンのいるのが当然だというような見せかけはなくなっていた。突然、右手の木立から、鋭いかん高い叫びがあがって、小さな興奮した生きものの群が森の中からとびだし、アルヴィンを取り囲んだ。彼は、びっくり仰天して立ち止まり、自分の限を疑った。そこにいるのは、彼の世界では遠い昔に失われて、今では神話の中にだけあるものだった。かつては、これが生命の始まる様式だったのだ。この騒々しい魅力にあふれた生きものは、人間の子供たちなのだった。
アルヴィンは、信じられないような驚きで彼らを眺めた。それとともに、彼の心を強く動かす別の感情があったが、それが何であるかは、まだ彼にはわからなかった。この眺めほど生ま生ましく故郷からの遠さを感じさせるものは、とても考えられなかった。ダイアスパーは、不死を手に入れるための代価を、それも財布の底をはたいて支払ったのだった。
一行は、それまで見たうちでいちばん大きな建物の前で止まった。それは村の中央に立っており、小さな円塔の上にある旗竿からは、緑色の小旗が、そよ風にはためいていた。
建物に入る時、ガーラン以外のものは、みんな後にのこった。中はひっそりとしていて涼しかった。半透明の壁を通して入ってくる日光は、あらゆるものを柔らかい落ち着いた光で照らしだしていた。床は滑らかで弾力があり、細かなモザイクでちりばめてあった。壁にはすぐれた才能と力を持った芸術家が、森の風景の連作を描いていた。これらの絵に混って他の壁画もあり、それはアルヴィンには何だかまるでわからなかったが、それでも、眺めていると惹きつけるものがあり、楽しかった。一方の壁には四角なスクリーンがあって、それには一面に色とりどりの模様が動いていた。それは、かなり小さなものではあるが、おそらく|テレビ電話《ヴィジフォーン》の受話機と思われた。
二人は連れだって短い螺旋階段を上ってゆき、建物の平らな屋上に出た。ここからは村全体が見え、村には約百戸の家があることがわかった。遠くには木立が開けて広い牧場を囲んでおり、いろいろな種類の動物が草を食べていた。アルヴィンには、それらが何であるのか、想像もつかなかった。多くは四つ脚だったが、中には六本ないし八本もの足を持っているらしいものもあった。
セラニスは、塔のかげで待っていた。アルヴィンは彼女がいくつぐらいだろうかと思った。長い金髪には白いものが混っており、アルヴィンは、それを老令の徴しに違いないと推察した。子供というものを見たことは、それから来るあらゆる帰結を含めて、彼をすこぶる混乱させていた。誕生があるのならば、きっと死もあるに違いない。そうだとすると、リスの人々の寿命というものは、ダイアスパーとは非常に違ったものかもしれないのだった。アルヴィンには、セラニスが五十歳なのか、五百歳なのか、それとも五千歳なのか、さっぱりわからなかった。しかし、彼女の眼を見つめていると、ジェセラクといっしょにいるときにしばしば感じたような、知恵と経験の深さとが感じられた。
彼女は小さな椅子を指さした。しかし、眼には歓迎の笑みをたたえてはいたが、アルヴィンが体を楽にするまでは――というよりも、この好意的ではあるが真剣なまなざしを浴びる中で、できるだけ体を楽にするまでは、何も口をきかなかった。それから、彼女はそっとため息をついて、低い優しい声で、アルヴィンに話しかけた。
「こんな出来事は、そうたびたびはないものですから、私のお行儀があまりよくなくても、許していただけますわね。でも、たとえ私たちの方でお招きしたのではなくても、お客様にはそれだけの権利があります。お話を始める前に、ご注意をしておかなきゃならないことがあるのです。私は、あなたの心を読むことができるんですよ」
彼女は、アルヴィンが肝をつぶした様子をありありと見せたのに微笑み、急いでつけ加えた。「だからといって、心配する必要はないのですよ。どんな権利にもまして、心のプライバシーの権利は堅く守られています。私は、あなたがそうしてもよいといった時だけしか、あなたの心の中に入りこむことはいたしません。それでも、このことを隠しておくのは公正とはいえませんし、それにまた、これで私たちが話をするのが少しのろくて下手なことも、わかっていただけるでしょう。ここでは、あまり言葉は使わないものですからね」
アルヴィンは、このことを聞いても、ちょっと不安ではあったが、意外だとは思わなかった。かつては、人も機械もともにこの能力を持っていたものだったし、かわることのない機械は、今でも主人の命令を読みとることができた。だが、ダイアスパーでは、人間の方は、かつて自分の下僕と共通に具えていたこの授かりものを、失ってしまっていたのだった。
「あなたが、何のために、ご自分の世界から私たちの所へいらっしゃったかは知りませんが」と、セラニスは言葉を続けた。「でも、生命を探しておいでだったのなら、探検はここでお終いですよ。ダイアスパーを別にすれば、私たちの山の向こうには、砂漠があるだけです」
これまで、一般に受け入れられていた信条をあれほどたびたび疑ってきたアルヴィンが、セラニスの言葉に疑問を持たなかったというのは、奇妙なことであった。これを聞いて彼が感じたことといえば、いろいろ教えられていたことが、真実に非常に近かったのだという悲しみだけだった。
「リスのことを話してください」と、彼は頼んだ。「あなた方は僕たちのことをずいぶん知っているらしいのに、どうしてこんなに長い間ダイアスパーから切り離されていたのですか?」
セラニスは、彼の熱心さに微笑した。
「すぐにね」と、彼女はいった。「でも、まず少しあなたのことを知りたいですね。ここへ来る道をどうやって見つけたのか、それからなぜここへ来たのか、教えてくださいな」
アルヴィンは、初めはたどたどしく、そのうち次第に勇気を取りもどしながら、一部始終を話し始めた。彼は今まで、こんなに思いきり話したことはなかった。彼の夢を笑おうとしない人が、やっと見つかったのだ。彼らはその夢がほんとうだということを知っているのだから。セラニスは、アルヴィンの話がダイアスパーの自分には不案内な面に触れたときだけ、一、二度鋭い質問を発した。都市に住んだことがなく、その複雑な文化や社会組織のことを何も知らない人にとっては、自分の日常生活の一部になっている事柄の意味がわからないようなことがありうるとは、アルヴィンにはとても理解できなかった。セラニスは非常な理解力を示しながら耳を傾けていたので、アルヴィンは彼女が知っているのは当然と思いこんでいたのだった。彼は、しばらくたってからやっと、彼女以外の人たちの心も、いっしょに彼の言葉に聞き入っているのだということに気づいた。
彼の話が終ると、しばらく沈黙が続いた。やがて、セラニスは彼を見つめて、静かに訊ねた。
「あなたは、どうしてリスに来たの?」
アルヴィンは、びっくりして彼女を見た。
「もういったつもりですけど」と彼はいった。「僕は世界を探検したかったんです。皆は、都市の外には砂漠があるだけだといいました。でも、僕は自分で確かめたかったんです」
「でも、それだけだったの?」
アルヴィンは、ためらった。やっと彼が答えた時、そこに口をきいているのは、もはや不屈の探検家ではなくて、見知らぬ世界に生まれてきた独りぼっちの子供だったのである。
「いいえ」と、彼は囁くようにいった。「それだけじゃなかったんです。今までは自分でもわからなかったんですけれども、僕は寂しかったんです」
「寂しかった? ダイアスパーにいたのにですか?」セラニスは唇に微笑みをたたえていたが、その眼には憐れみがこもっており、アルヴィンは彼女がそれ以上の答を待っているのではないことを知った。
彼は自分のことを話してしまったので、彼女が約束どおり話してくれるのを待った。やがて彼女は立ちあがり、屋上を行きつ戻りつし始めた。
「あなたが質問したいことは、わかっています」と彼女はいった。「その中には私にこたえられることもありますけれども、それを言葉でいうのはたいへんな仕事になるでしょう。もし私に心を開いてくださるなら、あなたが知りたがっていることを、お話しましょう。心配しなくてもいいのですよ。断わりなしに、あなたの心から何も盗みはしませんから」
「どうすればいいんですか?」アルヴィンは、用心深くいった。
「私の助けを受けいれるようにしてください――私の眼を見て――それから、何もかも忘れなさい」と、セラニスは命じた。
それからおこったことは、アルヴィンにはよくわからなかった。彼は、あらゆる感覚をすっかり失っていた。何かを受けとった覚えは全くなかったのだが、自分の心の中を覗きこんでみると、知識はもうそこに入っていたのだった。
彼は過去をふりかえっていた。それは、はっきりとではなくて、どこかの高い山にのぼって霞んだ平野を見渡したような感じだった。人類は初めから都市に住んでいたのではないこと、また機械によって労働から解放されて以来、二つの型の文明が絶えず対抗しあっていたことを、彼は知ったのだった。黎明期には何千という都市があったが、人類の大部分は比較的小さな共同体に住むことを選んだ。交通網は全世界を覆い、通信は即時にできたから、彼らは世界のどことでも必要な接触を保つことができ、何百万という仲間たちといっしょに混みあって暮らす必要を何も感じなかった。
リスは、初めの頃から、他の何百とあった共同体とは少し違っていたのであるが、長い年代の間に、次第に独自の文化を発展させ、それは人類に知られた最高の文化の一つになった。それは、精神の力を直接利用することに主たる基礎をおいた文化であり、このために、ますます機械に依存するようになった他の人類社会と区別されていた。
長い長い年代の間、彼らが違った道を進んでいるうちに、リスと都市との間の溝は拡がっていった。その溝に橋が架けられるのは、大きな危機の時だけだった。月が落下し始めた時、それを破壊する仕事はリスの科学者の手で行なわれた。また、地球を守って侵略者たちと闘い、最後のシャルミレインの戦闘で反撃を加えたのも彼らだった。
この大きな試練のために人類の力は尽き、都市は一つまた一つと滅んでゆき、その上には、砂漠が覆いかぶさっていった。人口が減るにつれて人類は移動を始め、かくてダイアスパーは、あらゆる都市の中で最大にして最後のものとなったのである。
こうした変化も、リスにはほとんど影響を与えなかった。だが、リスにも、それなりの闘い――砂漠との闘いがあった。天然の障壁たる山々だけでは足りず、この大きなオアシスをゆるぎないものにするまでには、長い年月がかかった。ここの説明は、たぶん故意にであろうが、ぼやけていた。ダイアスパーが達成した正真正銘の永遠不滅がリスにも実現するために、何が行なわれたのかを、アルヴィンは知ることはできなかった。
セラニスの声は、遙か遠くから聞こえてくるような気がした。しかし、それは彼女だけの声ではなくて、他の大勢の人が彼女と声を和しているかのように、混然とした言葉の大合唱なのだった。
「ごく簡単にいって、これが私たちの歴史なのです。黎明期でさえ、私たちは都市とはあまり交渉がなかったことが、あなたにはわかるでしょう。もっとも、都会の人たちは、よく私たちの土地にやってきましたがね。私たちは、それを妨げませんでした。私たちの最も偉大な人々は、多くは外部からやってきたんですから。でも、都市が滅びかけた時、私たちはその没落のまきぞえになりたくはありませんでした。空の交通が途絶して以来、リスに来る道はたった一つ、ダイアスパーからの輸送機《キャリアー》施設でした。それはあなた方の口で閉鎖されました。公園が建設された時のことでした――それから、あなた方は、私たちのことを忘れたのです。私たちは、あなた方を忘れたことはありませんでしたけれども。
ダイアスパーは私たちをびっくりさせました。私たちは、そこが他のすべての都市と同じ運命を辿るものとばかり思っていました。ところが、そうはならずに、ダイアスパーは、地球の続くかぎり存続するかもしれない安定な文化を作りあげたのでした。私たちは、その文化に敬服しているわけではありません。けれども、ダイアスパーから逃れようとした人たちが、それに成功したことを、私たちは嬉しく思っているのです。あなたが想像するよりもずっと多くの人が、この旅をしてきました。そうして、その人たちは、たいてい、いつも優れた人たちでしたし、リスに来る時に、何か価値のあるものを持ってきてくれました」
声は消えていった。アルヴィンの五官を麻痺させていた力は去ってゆき、彼は再びもとの自分に戻った。彼は、太陽が木立の遙か彼方に沈み、東の空には早くも夜のきざしが見えているのを見て、びっくりした。どこかで大きな鐘の音が、あたりを震わせて響きわたり、静けさの中にゆっくりとしみこんでゆき、その後に神秘と予感に張りつめた空気を残していった。アルヴィンは、自分が微かに震えているのに気づいた。それは、忍びよる夕方の冷気に触れたせいではなくて、いま知ったばかりの数々のことに対する、心からの畏怖と驚嘆からだった。時刻はもうずいぶん遅く、おまけに彼は故郷から遠く離れているのだった。彼は、急にもう一度友人たちに会いたくなり、またダイアスパーの見なれた風景の中に身をおきたいという欲望を感じた。
「戻らなければなりません」と、彼はいった。「ケドロンや――両親たち――皆が僕を待っているでしょう」
それは、全くほんとうのことではなかった。ケドロンはきっと自分がどうなったかを心配していることだろう。だが、彼の知るかぎりでは、他には誰も自分がダイアスパーから出ていったことを知らないのだった。彼は、自分がなぜこんな軽い嘘をつくのか、説明できなかった。彼は、この言葉を口にした途端に、少し恥ずかしく思った。
セラニスは、彼を見つめながら、考えこんでいた。
「お気の毒ですけど、そう簡単にはゆかないのですよ」と彼女はいった。
「何ですって?」アルヴィンは聞きかえした。「僕の乗ってきた輸送機《キャリアー》で帰るわけにはゆかないんですか?」彼は、この期におよんでも、自分が強制的にリスにひきとめられるかもしれないということを、まともに考えるのを避けていた。その考えは、彼の心をちらっとかすめたのであったが。
セラニスは初めて、やや落ち着きをなくしたようだった。
「私たちは、あなたのことを話しあっていたんですが」と彼女はいったが、「私たち」とは誰々なのか、また彼らが実際にはどうやって協議したのかはいわなかった。「もしあなたがダイアスパーに帰れば、町じゅうの人が私たちのことを知るでしょう。あなたが何もいわないと約束したとしても、秘密を守ることは不可能なことがわかるでしょう」
「どうして秘密にしておかなければならないんですか?」とアルヴィンは訊ねた。「僕たちがまたいっしょになれるのなら、きっと双方にとっていいことじゃありませんか」
セラニスは、不賛成な様子だった。
「私たちは、そう思いません」と彼女はいった。「もし門戸が開かれれば、私たちの土地には、閑な物好きたちや弥次馬連中が押しかけてくることでしょう。今のままならば、あなた方の中で最高の人たちだけが、やってこれるのです」
この返答は無意識の優越感にあふれ、しかもひどく誤った仮定に基いていたので、アルヴィンは腹立ちのあまり、今までの狼狽をすっかり忘れてしまった。
「それは違います」彼はきっぱりといった。「ダイアスパーで、そこから出てくることのできるものを、他に一人でも見つけられたら、お眼にかかりましょう。たとえ、その人が出てきたいと思ったって、たとえその人が行く先があると知っていたって、同じことです。僕を帰したって、リスには何の変りもありゃしませんよ」
「それを決めるのは、私ではありません」と、セラニスはいった。「それに、あなた方を都市の中に閉じこめている障壁が絶対に破れないと考えているのなら、あなたは精神の力を見くびりすぎています。けれども、私たちは、あなたの意志に反してまで、ひきとめようとは思っていません。でも、あなたがダイアスパーに戻るのなら、私たちは、あなたの心からリスの記憶をすっかり消してしまわなければなりません」彼女は、ちょっとためらった。「こんなことは、今までありませんでした。あなたの前に来た人たちは、ここに永住しようとして来たのです」
アルヴィンは、この二つの道のうち、どちらも選ぶつもりはなかった。彼はリスを探検してその秘密をすっかり知り、ここが自分の故郷と違っている点を、発見したいと思っていた。だが彼は、それと同じくらい、ダイアスパーに戻って、友人たちに自分が下らない夢を見ていたのではないことを、証明しようと決心していた。彼には秘密を守りたいという願望をもたらしている理由が納得できなかったし、またもしそれができたとしたところで、彼の行動には何の変りもなかったろう。
彼は、ここで時を稼ぐか、さもなければ、セラニスの要求が不可能を強いるものであることを彼女に説得するほかはないことを悟った。
「ケドロンは、僕がどこにいるか知っています」と彼はいった。「あなた方は、彼の[#「彼の」に傍点]記憶を消すわけにはゆきませんよ」
セラニスは微笑んだ。それは愛想のよい微笑であったし、ほかの場合だったら文句なく親しげなものといえただろう。だが、アルヴィンは、その時初めて、その背後に抗し難く捕捉し難い力が隠されているのを垣間見たのだった。
「あなたは、私たちの力を見くびりすぎていますよ、アルヴィン」と彼女は答えた。「それこそ簡単なことです。私は、リスを横断するよりも速く、ダイアスパーに行けるのです。ここには前にも他の人たちが来ましたし、その中には、友達に自分がどこへ行くか話した人もいました。けれども、その友達たちは、その人のことを忘れてしまい、その人はダイアスパーの歴史から消えてしまったことになったのです」
セラニスに指摘されてみれば、それはわかりきったことだったが、アルヴィンは愚かにも、この可能性を見落としていた。この二つの文化が隔てられて以来、何百万年という歳月の間に、リスの人たちは、いったい何回ぐらい、自分たちの細心に守られた秘密を保つために、ダイアスパーに行ったのだろうかと、彼は考えた。また彼は、この不思議な人たちが持ち、使うことをためらわなかった精神力とは、どれほどのものだろうか、とも考えた。
そもそも、何かを企むこと自体、大丈夫なのだろうか? セラニスは、自分の同意がなければ、心を読むことはしないと約束したけれども、事情によってはその約束が守られないことだってあるのではないか、と彼は思った。
「あなたは、僕が即座に決心できるとは、もちろん思っていないでしょうね」と彼はいった。「どちらかに決める前に、少しあなた方の土地を見てはいけませんか?」
「いいですとも」とセラニスは答えた。「あなたは、ここに好きなだけいてもいいんですよ。それからでも、気が変ったら、いつでもダイアスパーに帰れるんです。でも、今から数日ぐらいで決心がつくなら、その方がずっと簡単なのです。
お友達にあなたのことを心配させたくないでしょう。それに、あなたのいない間が長いほど、私たちが必要な調整をするのが難しくなるんですよ」
彼にはそれがよくわかったが、その「調整」というのは、いったい何をするのか知りたいと思った。おそらく、リスから誰かが出かけてケドロンと接触し(道化師には気づかれずに)、彼の精神に細工をするのだろう。アルヴィンが行方不明になったという事実は隠すわけにはゆくまいが、彼とケドロンが発見した情報は消滅させられるのだ。時代がたてば、アルヴィンの名は、かつて、不思議にも手がかりも残さずに消え、やがて忘れられた、他のユニーク[#「ユニーク」に傍点]たちの列に加わることだろう。
ここには数々の謎があり、しかもその中の一つでも解決に近づいたとは思えなかった。リスとダイアスパーとの、この奇妙な一方的な関係の背後には、何かの目的があるのだろうか? それとも、これはただの歴史上の偶然にすぎないのだろうか? ユニーク[#「ユニーク」に傍点]とは何者で、またどんな役割を負っているのか? また、リスの人たちがダイアスパーに入れるのなら、彼らはどうして自分たちが存在することの手がかりを保存している記憶回路を破棄しないのか? もしかすると、この疑問にだけは、アルヴィンももっともらしい解答が与えられるかもしれない。つまり、中央計算機《セントラル・コンピューター》は、相手にとっては恐ろしく頑強な敵手であって、極めて高度な精神的技術をもってしてさえ、ほとんど影響を与えることができないのかもしれないのだ。
彼はこうした疑問を後まわしにすることにした。いつか、もっと多くのことを知った時、これらに解答を与える何らかの機会が来るかもしれない。空論をもてあそび、無知の基礎の上に推測の山を築くのは、無意味なことだった。
「いいでしょう」と彼はいったが、あまり気が進まない様子だった。彼は、自分の行く手に、この思いがけない障害がおかれたことに、まだ腹を立てていたのである。「もし、あなた方の土地がどんなだかを見せてくれたら、できるだけ早くお答えしますよ」
「結構ですわ」とセラニスはいった。今度は、彼女の微笑には、脅やかすようなかげは何もなかった。「私たちはリスを誇りにしています。都市の助けを借りなくても、どうやって人間が生きてゆけるかを、喜んでお見せしましょう。その間は、心配しなくてもいいんですよ。お友達の方々は、あなたがいないので心配なさるようなことはないでしょう。私たちは、そのために手を打っておきます。それは、私たちの自衛のためにすぎないかもしれませんけれども」
セラニスが、守りおおせない約束をしたのは、これが初めてだった。
[#改段]
11
アリストラがいかにやっきになっても、もうそれ以上ケドロンから情報をひきだすことはできなかった。道化師は、最初のショックや恐慌からたちまち立ち直った。彼は、墓の下の地下深くにたった一人とりのこされたことに気がつくと、泡を食って地上に舞いもどったのだった。同時に彼は、自分の臆病な行動を恥じたが、自動走路の部屋やそこから放射する世界を繋ぐトンネル網のところに戻る勇気が自分にあるだろうかと考えた。彼は、アルヴィンが全くの向こう見ずではないとしても気短かすぎると思っていたが、何か危険な目にあうだろうと本気に信じてはいなかった。彼は適当な時期に帰ってくるだろう。ケドロンはそれを確信していた。いや、ほとんど確信していた、といった方がよい。気をつけねばと感じるほどの疑念が残っていたのである。さしあたりは、できるだけ喋らずにすませておいて、一切は新手の悪ふざけだったのだといってすませるのが賢明だろう、と彼は決めた。
この計画にとって都合が悪いのは、地上に帰りついてアリストラに出くわしたとき、自分の感情を隠せなかったことだった。彼女は、ケドロンの眼にまごうかたなく刻みこまれている恐怖を見て、即座に、それがアルヴィンの危険にさらされていることを意味するのだと解釈した。ケドロンがいくら大丈夫だといっても無駄だった。二人がいっしょに公園の中を帰ってくる間に、彼女はますますケドロンに対して怒りを燃やしていった。初めは、アリストラは、墓のところに残って、アルヴィンが、姿を消した時と同じような謎めいた方法で戻ってくるのを待ちたいと思った。ケドロンは、それは時間の無駄だということを何とか彼女に納得させ、彼女が自分にくっついて都市の方に戻ってきたため、ほっとしているところだった。アルヴィンがすぐにも戻ってくるかもしれないという可能性もあったから、他人にヤーラン・ゼイの秘密を発見されまいと思ったのである。
二人が都市に帰りつくまでに、自分の言い逃れ戦術は完全に失敗であり、状況はどうにもならないほど重大であることが、ケドロンにははっきりした。彼が途方に暮れ、どんな問題が持ちあがろうと処理できるという自信を失ったのは、生まれて初めてのことだった。初めに感じた理屈ぬきの恐怖は、次第にもっと深い、もっと確実な根拠のある不安に変わっていった。ケドロンは、これまで、自分の行為の結果については、あまり考えたことはなかった。これまで自分のしてきた数々のことの動機としては、自分自身の興味と、アルヴィンへの穏やかながら心からの同情だけで充分だった。彼はアルヴィンに激励と援助を与えたが、こんなことが実際におこるとは、決して信じてはいなかったのである。
二人の間にある年令と経験の深いギャップにもかかわらず、アルヴィンの意志はいつも彼自身より強烈だった。今さら何をしようとしても手遅れだった。ケドロンは、自分が事件に押し流され、全く自分の手の届かないクライマックスに向かって運ばれてゆくのを感じた。
こう考えてみると、アリストラが明らかに彼のことをアルヴィンを誘惑する悪霊と見なし、一切の出来事を彼の責任にしたがっているのは、ちょっと不公平だった。アリストラはとりわけ復讐心が強いというわけではなかったが、彼女は腹を立てており、その腹立ちの一部はケドロンに向けられていた。彼女の行動がケドロンの身に面倒をひきおこしたとしても、他人はともかく彼女だけは、彼が気の毒とも思わないだろう。
二人は、公園を囲む大きな環状路に達すると、石のような沈黙の中で別れた。ケドロンは、アリストラが遠くへ消えてゆくのを見つめ、うんざりしながら、彼女の心の中にどんな企てが醸されているのだろうかと考えた。
いま、彼に確信のあることが、一つだけあった。今後、当分の間は、退屈することを本気で心配する必要はなくなるだろう。
アリストラは、すばやく賢明に立ちまわった。彼女は、エリストンやエタニアには、連絡をとろうともしなかった。アルヴィンの両親たちは気持のいい平凡人で、彼女は彼らにいくばくかの愛情は感じていたが、尊敬はしていなかった。彼らは徒らに無駄な議論に時間を費やし、その後で、まさにいま彼女がしようとしていることをするだけだろう。
ジェセラクは、感情を顔に出すことなく、彼女の話に耳を傾けた。彼は不安や驚きを感じたとしても、それを全然おもてに表わさなかった。それはアリストラが少々がっかりしたくらいだった。彼女にしてみれば、これほど異常で重大なことは開闢以来初めてだというのに、ジェセラクの事務的な態度は、彼女を気抜けさせた。彼女が話し終えると、彼はしばらく質問した。それから、はっきりそういったわけではないが、彼女は勘違いしているのかもしれないとほのめかした。アルヴィンが、ほんとうにこの都市を出ていったと想像する理由があるだろうか? もしかすると、これは彼女を狙った悪戯かもしれないし、ケドロンが一役買っているという事実は、その可能性がかなり高いようにも思われるのではないか。アルヴィンは、いまこの瞬間にも、ダイアスパーのどこかに隠れて彼女を笑っているのかもしれない。
彼女がジェセラクからとりつけた唯一の積極的な反応は、調査して一日以内にまた彼女に連絡するという約束だけだった。それまでの間は彼女は何も心配することはないんであり、それからまた、このことは誰にも一切いわぬ方がよかろう。たぶん数時間のうちに何でもないことがわかるような出来事について騒ぎを拡げる必要はないのだ。
アリストラは、いささか不満な気分で、ジェセラクと別れた。自分がいなくなった途端の彼の行動を見ることができたとしたら、彼女ももっと満足したことだろう。
ジェセラクは、評議会に友人を持っていた。彼自身も、長い人生の間に、そのメンバーになったこともあり、運が悪ければまたなることだろう。彼は、最も有力な同僚たちのうち三人を呼びだして、彼らの関心を用心深くかき立てた。アルヴィンの教師として、彼は自分の立場が微妙なものであることをよく心得ており、自分の身を守ることに汲々としていた。さしあたっては、事件を知るものが少ないほど、都合がよいのだった。
まずなすべきことは、ケドロンに連絡して、彼に釈明を求めることだという点で、意見は直ちに一致した。このすばらしい名案に、ただ一つだけ欠陥があった。ケドロンは、このことあるを予期して、どこにも姿が見えなかったのである。
アルヴィンの立場に何かあいまいなところがあったとしても、村人たちは彼にそれを意識させないように、ひどく気をつかっていた。エアリーの中で、彼はどこへでも好きな所へ自由にいっていいのだった。エアリーというのは、セラニスが統治している小さな村だった。もっとも、これは、彼女の地位をいい表わすには、強すぎる言葉だった。アルヴィンには、時には彼女が慈愛に富んだ独裁者に思え、また時には彼女がまるで権力など持っていないようにも見えたのである。今のところ彼にはリスの社会構造がよく理解できなかった。簡単すぎるためか、それとも複雑すぎるためか知らないが、その体系は彼には掴みどころがなかった。彼に確実にわかったことは、リスが無数の村に分れており、エアリーはその典型だということだった。ところが、ある意味では、典型などというものは存在しないのである。というのは、アルヴィンは、どの村もできるだけ近所の村とは違おうとしているのだと、いい聞かされたのである。何もかも、まるでこんがらかっていた。
エアリーは、ごく小さくて千人の人口もなかったが、ここはびっくりするようなことばかりだった。生活のどの側面をとっても、ダイアスパーと違わない所はほとんどなかった。この違いは、言葉のような基本的なものにまで及んでいた。ふつうの会話に声を使うのは子供たちだけで、大人たちはほとんど口をきかなかった。そうして、しばらくすると、アルヴィンは、彼らが口をきくのは、ただ自分に対する礼儀からだけであると判断した。音もなく感ずることもできない言葉の大きな網の中に、自分がすっぽり包まれていると感ずるのは、奇妙ないらいらする気持だったが、しばらくたつと、アルヴィンはそれに慣れっこになってしまった。もう何も使い道がないのだとすると、そもそも声による言葉が残っていること自体が驚くべきことに思われた。しかし、アルヴィンは後になって、リスの人々が歌を、かつまた実はあらゆるタイプの音楽を、非常に愛好していることを発見した。こういう要因がなかったとしたら、彼らは、まず間違いなく、とっくの昔に完全な唖になっていたことだろう。
彼らはいつも忙しそうだったが、彼らがやっている仕事や課題というのは、アルヴィンには、たいがい理解できないものだった。彼らが何をしているかがわかる場合には、その仕事の多くは全く不必要なように思われた。例えば、食糧の相当部分は現実に生育させられるのであって、遠い昔に考えだされた方式に従って合成されるのではなかった。アルヴィンがこのことについて意見をいうと、リスの人々は物が生育するのを眺めたり、複雑な遺伝実験をやったり、いやが上にも微妙な味わいや風味のものを作りだすのが好きなのだということを、噛んで含めるように説明された。エアリーは果物で名が高かったが、その特選品を試食してみても、彼がダイアスパーで何の苦もなく呼びだせるものより特に美味だとは思えなかった。
初めのうち、彼は自分が当然のことと理解しダイアスパーの全生活の基礎をなしている動力や機械を、リスの人々が忘れてしまったのか、それとも初めから持ったことがなかったのかしらと考えた。ほどなく、そうではないということがわかった。道具や知識はあるのだが、必要不可欠の時しか使われないのだった。その最もいちじるしい例は、輸送機関だった――これを、そんなたいそうな呼び方をしてもいいのならだが。皆は、近くへ行く時は歩き、しかもそれを楽しんでいるようだった。急ぎの時や、ちょっとした荷物を運ばねばならない時には、明らかにこの目的のために改良された動物がつかわれた。この貨物運搬用動物は背の低い六本足の獣であり、非常に従順で力が強かったが、知能は大したことはなかった。競争用動物はまるで違った系統のものであって、平生は四つ足で歩いているが、本気で走りだす時には、筋肉の発達した後肢だけを使うのだった。彼らはリス全体を数時間で横断でき、乗り手はその生物の背中に縛りつけた回転座席に乗るのだった。これは青年たちの間では非常に人気のあるスポーツだったが、アルヴィンは、どんなことがあろうとも、こんな危険な乗物に気をそそられることはなかった。この獣たちの中でも毛並のいいものは動物界のエリートだったし、彼ら自身もそれを意識していた。彼らはすこぶる語彙が豊富で、アルヴィンはしばしば、彼らが自慢そうに過去や将来の勝負のことを話しあっているのを立ちぎきした。アルヴィンが彼らと仲良くなって話に加わろうとすると、彼らはアルヴィンのいうことがわからないふりをし、なおもしつっこくすると、威厳を傷つけられたように跳ねていってしまうのだった。
この二種類の動物でふつうの需要には充分であり、彼らは機械的な仕掛けでは得られないような大きな喜びを持主に与えた。だが、極度のスピードが必要だったり、大量の荷物を動かさねばならない場合には、機械が現われ、躊躇なく使われた。
リスの動物は、アルヴィンにとって、まるで新しい興味と驚きの世界であったが、何よりも彼を魅惑したのは、人間の住人の中にある両極端の人たちだった。ごく若いものとごく年取ったもの――この両者は、彼にとって同じように別世界のものであり、同じように眼をみはるようなものだった。エアリーで最年長の住民といえば、生まれてからやっと二世紀目に入ったところであり、もう数年の寿命しか残していなかった。自分だったら[#「自分だったら」に傍点]、この年令に達しても、体にはほとんど変化も見えないだろうが、それにひきかえ、この老人は、その代償として未来の人生が繰り返されるわけでもないのに、肉体の力をほとんど使い果たしてしまっているのだ、とアルヴィンは考えた。老人の髪はまるで白く、その顔には信じ難いほどくしゃくしゃに皺がよっていた。その人は、たいていの時間を日向に坐っていたり、村をのろのろと歩きまわって、道で会う誰彼と声のない挨拶を交わしたりして、過ごしているようだった。アルヴィンの見る限りでは、彼は満足しきっており、人生にそれ以上を求めず、死期が迫っていることに悩んでもいなかった。
これは、ダイアスパーとは非常に違った哲学であり、まるでアルヴィンの理解を絶していた。死ぬ必要がちっともないのに、すなわち、千年生きてから後、その先数千年を跳びこして、それを作りあげるのに自分が力を貸した世界で新たな出発をするという人生を選ぶこともできるのに、どうして死を甘んじるようなものがいるだろうか? これを率直に論じる機会があり次第、どうしてもこの謎を解いてやろうと、彼は決心した。もう一つの生き方があることを知っているのだとしたら、リスが自発的にこの道を選んでいるのだとは、彼にはとうてい信じられなかったのである。
彼は、その解答の一部が子供たちにあることを知った。彼らは、アルヴィンにとっては、リスのどんな動物たちとも同じぐらい別世界に属する、小さな生きものだった。彼は多くの時間を子供たちの中で過ごし、彼らが遊ぶのを眺め、ついには彼らから仲間として受けいれられた。彼は、とても信じられない思いで大人たちを眺め、生活の大部分を自分たちの特別の世界で過ごしているように見えるこの途方もない生きものから大人が出て来るなどということが、いったいどうしてありうるのだろうかと自問するのだった。
それにしても、子供たちは、彼を途方に暮れさせる反面、彼の心に今まで経験したことのないような気持を呼びおこした。子供たちが心の底からの不満や悲しみでわっと泣きだす時――それは、そうたびたびはなかったが、時にはおこるのだった――アルヴィンには、彼らの小さな落胆が、まるで人類の銀河帝国喪失以来の長い退却よりももっと悲劇的に思えるのだった。後者は理解を絶するほど壮大で縁遠いものに思えたのに対して、子供たちの泣き声は自分の胸をかきむしられるようだったのである。
恋愛ならば、アルヴィンはダイアスパーにいる時に知っていた。だが、ここで彼が知り始めているものは、それと同じくらい大事なものであり、それなくしては恋そのものさえ究極の絶頂に達することはできず、永遠に不完全のままに終ってしまうようなものだった。彼は愛情の意味を知り始めていたのである。
アルヴィンがリスを観察していた一方では、リスも彼を観察していたが、彼について知りえたことはリスの期待に背かなかった。彼がエアリーに来て三日後、セラニスが、もっと外へ出ていって、自分たちの国をもう少し見てきてはどうかと提案した。アルヴィンは、この申し出を即座に受け入れたが、ただし村のご自慢の競走用動物に乗ってゆかなくてもよいという条件をつけた。
「それは請けあいますわ」と、セラニスは珍しくユーモアのセンスを見せていった。「自分たちの大事な動物を危険にさらしてもよいなどと思う人は、ここには誰もいないでしょうからね。今回は特別扱いとして、あなたがなるべく気安く感じられるような乗物を用意しましょう。ヒルヴァーが案内役をしますけれど、もちろん、あなたはどこでも好きな所にいっていいのですよ」
アルヴィンは、それが文字通り本気なのだろうかなと思った。その頂上から自分が初めてリスに出てきた小さな丘に戻ろうとすれば、何らかの異議が出るのではないだろうか、と彼は想像したのである。もっとも、彼はダイアスパーに帰るのを少しも急いではいなかったし、実はセラニスと初めて会って以来この問題はあまり考えてはみなかったので、さしあたりは、このことを気に病んでいなかった。ここの生活は未だに大へん興味深くもあり物珍らしくもあったので、彼は今でも目前のことだけを考えて暮らすことで充分満足していたのである。
彼は、セラニスが自分の息子を案内役につけてくれた心遣いを感謝した。ただし、ヒルヴァーには明らかに、アルヴィンが妙なことをしないように気をつけることで、細かな指示が与えられていたのだった。ヒルヴァーと親しくなるには、少し時間がかかった。その理由というのは、それをヒルヴァーによく説明しようとすれば、彼の気持を傷つけないわけにはゆかないようなことだった。ダイアスパーでは肉体的な完全さというものはごく当たりまえなことだったから、個人の美しさの価値は減っていて、人々は自分の呼吸する空気ぐらいにしか、そのことに注意をはらわなかった。リスでは、この事情は違っており、ヒルヴァーにあてはまる形容詞としては、最もお世辞たっぷりにいったとしても、「質朴」というところだった。アルヴィンの基準からすれば、ヒルヴァーは掛値なしに醜かったので、彼はしばらくの間はわざとヒルヴァーを避けていた。ヒルヴァーがこれに気がついていたとしても、彼はそういう気ぶりは見せなかったし、ほどなく彼の人の好い親切心が、二人の間の壁を破ってしまった。ついには、アルヴィンは、ヒルヴァーのあけっぱなしの不細工な笑い顔や、彼の体力や、彼の優しさに慣れっこになってしまって、自分が前に彼を魅力がないなどと思ったことはとても信じられず、またどんな点でも、彼に僅かでも変わってもらいたいなどとは思わないようになった。
彼らは、夜が明けるとすぐ、小さな乗物に乗ってエアリーを出発した。ヒルヴァーはそれを「地上車」と呼んでいたが、見たところ、アルヴィンをダイアスパーから乗せてきた機械と同じ原理で動くものだった。それは芝地から数インチ高い空中に浮かび、誘導レールの姿はどこにもなかったが、ヒルヴァーによれば、この車は、あらかじめ決まったルートだけを動けるのだった。あらゆる人口の中心はこれで連絡されていたのだったが、アルヴィンは、リスに滞在中、他には一度も地上車が使われているのを見たことがなかった。
ヒルヴァーは、この遠征の準備に大へんな手間をかけており、明らかにアルヴィンと同じくらい期待に燃えていた。彼は自分の興味を念頭におきながらコースの計画を立てた。というのは、彼の心血を注ぐ興味の対象は博物学であって、二人がこれから行こうとする、リスの中でも比較的人口の少ない地域では、新種の昆虫を発見できるかもしれないと思っていたからなのだった。彼は、機械でできるだけ南へ行くつもりだが、そこから先は歩かねばなるまいといった。その意味が充分わからないままに、アルヴィンは何も異議は申し立てなかった。
二人にはまだ道連れがいた。それは、ヒルヴァーの数あるペットの中でもいちばんきれいなクリフだった。クリフが止まって休んでいる時には、その紗のような六枚の翅は胴に沿って畳まれ、胴は翅をとおして宝石をちりばめた笏のように輝いていた。何かに驚かされると、クリフは虹のようにきらめきながら、眼にもとまらないほど速くうごく翅から微かな唸りを発して、空中に舞い上がるのだった。この大きな昆虫は、呼ばれるとやってきたし、時には簡単な命令に従ったが、ほとんど全く愚鈍だった。それでも、彼は彼なりのはっきりした個性を持っており、なぜかアルヴィンには懐かなかった。アルヴィンは、時々思いだしたように彼の信任を得ようと試みたが、いつも失敗に終わった。
アルヴィンにとっては、このリス横断旅行は、夢のように現実ばなれしていた。機械は幽霊のように音もなく、起伏のある平原を滑走してゆき、森を縫っていったが、眼には見えない軌道からは決して逸れなかった。そのスピードは、おそらく人間が楽に歩く十倍ぐらいの速さだった。実は、リスの住民には、それより急ぐような者は滅多にいなかったのである。
彼らはたくさんの村を通過し、中にはエアリーより大きなものもあったが、大概は非常によく似た様式につくられていた。一つの村から次の村へ移るにつれて、服装や肉体的外観にさえ顕著な違いが生ずるのを見るのは興味深かった。リスの文明は何百もの異なった文化で構成され、全体に対してそれぞれが何か特別な能力で貢献しているのだった。地上車には、エアリーの最も有名な産物である小さな黄色い桃が、たっぷり積みこまれてあり、ヒルヴァーがそれをいくつか進呈すると、いつでも嬉しそうに受けとられた。彼はたびたび車を止めて友人と話し、アルヴィンを紹介した。アルヴィンは、誰もが彼のことを知るとすぐさま声による会話に切りかえて、素朴な礼儀を示すことに、ますます感銘するばかりだった。彼らにとっては、それはしばしばひどく面倒なことだったに違いないのだが、彼にわかる限りでは、彼らはいつもテレパシーに滑りこもうとする誘惑をおさえており、アルヴィンは彼らの会話から締めだされたという感じを受けたことは一度もなかった。
二人は、背の高い黄金色の草原にほとんど隠された、とある小さな村でいちばん長い休憩をした。草は彼らの頭よりも高く生い茂り、まるで生命あるもののように、そよ風に波打っていた。その中を通ってゆくと、無数の葉が頭の上でいっせいに首を垂れ、その波のうねりは彼らをどこまでも追ってきた。初めのうち、アルヴィンは、草が自分を見ようとして首を曲げるような馬鹿げた錯覚に捉われ、ちょっと気味が悪かったが、しばらくすると、その絶え間ない動きに心からの安らぎを感ずるようになった。
やがて、アルヴィンは、なぜここで一休みすることになったかを知った。車が滑るように村に入っていった時、早くもそこに集まっていた小人数の人だかりの中に、一人の内気な色の黒い娘がいて、ヒルヴァーは彼女をニアラだといって紹介した。この二人は、ここで再会したことを明らさまにひどく喜んでおり、アルヴィンは、この束の間の再会に彼らが感じている公然たる幸福を羨ましく思った。ヒルヴァーは明らかに、案内人としての義務と、ニアラと二人きりになりたいという欲望との板挟みになっていたが、アルヴィンは直ちに彼をこのジレンマから救ってやろうとして、一人でそのあたりを見にでかけた。この小さな村では見るものは大してなかったが、彼はたっぷり時間をかけた。
再び出発した時、彼はヒルヴァーに質問の雨を浴びせた。テレパシー社会での恋がどんなものか、彼には想像もつかなかったので、彼は然るべき時間をおいてから、この話を切りだした。ヒルヴァーは喜んで説明したが、それでもアルヴィンは、相手がテレパシーで愛情のこもった長いお別れをしているのを邪魔したのではないかと気にしたものだった。
リスでは、恋はいつもテレパシーによる接触から始まり、二人が実際に顔を合わせるのは、何カ月いや何年も後のことになるものらしかった。ヒルヴァーの説明によれば、こうして、どちらの側も、間違った印象を受けることも、だまされることもありえないのである。お互いに心の中が開けっぱなしな二人には、秘密を持つことなどできないのであって、どちらかがそうしようと思っても、相手はすぐ何か隠されているのに気がつくことだろう。
これほどの誠実さは、ごく円熟し分別のある心だけに可能なことである。絶対に利己心のない愛だけが、それに耐えられるのだ。アルヴィンは、こういう愛が、自分たちの知っているどんな愛よりも深く豊かだろうということが、よく理解できた。それは実に最高の愛であろうから、そもそもそんなものがあろうとは、彼にはとても信じられなかった。
ところが、ヒルヴァーはそれがあるのだと確言し、アルヴィンがもっとはっきりいえとせがむと、彼はうっとりとした眼つきで放心したようになるのだった。世の中には、どうしてもわからせられないことというのがあって、それを知っているか、いないかのどちらかなのだ。アルヴィンは、この幸福な人たちが生活の基礎そのものにしているような相互理解は、自分にはとても手の届かない所にあるのだと、悲しげに結論したのだった。
まるで、これから先は草が生えてはならないという境界線が引かれてでもいるかのように、草原は突然、おしまいになり、地上車がそこから脱けだすと、前方には樹木の密生した低い丘が連なっていた。ヒルヴァーの説明では、これはリスを守る城壁の本体から派生した前哨の丘陵なのだった。山脈の本体はさらにその向こうにあったのだが、アルヴィンにはこの小さな丘でさえ、感銘に値する壮大な眺めだった。
車は狭い谷あいに来て止まったが、そこにはまだ西に傾いた太陽の暖かさと光が溢れていた。ヒルヴァーは、悪企みなどこれっぱかりもないと断言できるような、開けっぱなしの率直さで、アルヴィンを眺めた。
「ここから歩き始めるんだ」と、彼は嬉しそうにいい、乗物から装備を投げだし始めた。「ここから先は、車じゃ行けないんだ」
アルヴィンはまわりの丘を眺め、それから今まで乗ってきた坐り心地のいい座席を眺めた。
「まわって行く道はないのかい?」彼は、あまり期待はしていない様子で訊ねた。
「もちろんあるさ」とヒルヴァーは答えた。「でも、その道は行かないんだ。僕たちは頂上へ登るのさ。その方がずっとおもしろいんだぜ。車は自動操縦にしておくから、向う側へ降りた時には、そこで待っているのさ」
アルヴィンは、簡単には諦めまいとして、最後のあがきをやった。
「まもなく暗くなるぜ」と、彼は抗弁した。「日の暮れる前には、とても全行程は歩けないよ」
「その通りさ」ヒルヴァーは、驚くばかりの速さで荷物や装備を仕分けながらいった。「頂上で泊まって、朝になってから残りの行程を歩くんだ」
生まれて初めて、アルヴィンは敗北を認めたのである。
二人が担いでいる道具は全く物凄いものに見えたが、それは嵩張ってこそいたけれども、重さは実際にはないに等しかった。荷物はすっかり重力偏向コンテナーに詰めてあって、重さは打ち消されており、消えずに残っている慣性とだけ取り組めばいいのだった。アルヴィンが一直線に歩いているかぎり、背中の荷物は何の苦にもならなかった。この種のコンテナーを使うのには、ちょっとした熟練が必要だった。というのは、急に方向を変えようとすると、荷物は俄かにいうことを聞かなくなったようになって、彼がその運動量を押さえこむまでは、何とか元の方向を続けようとするのだった。
ヒルヴァーが背負い紐を全部調節し、万事異常のないことを確かめると、二人はゆっくり谷から登り始めた。地上車が軌道を引き返してゆき、見えなくなるのを、アルヴィンは諦めきれないように振り返った。あと何時間したら、またあの中でのんびりできるのだろうか。
それでも、和やかな陽ざしを背に受けながら登り、あたりに次第に新しい展望が開けてくるのを見るのは、ひどく楽しいものだった。路は所々が消えていて、時々見えなくなったが、ヒルヴァーはアルヴィンには微かな痕跡も見えない路を辿れるらしかった。彼がヒルヴァーにこの路がどうしてできたのか聞くと、ここらの丘には小さな動物がたくさんいるのだという話だった。彼らは、或るものは単独で、また或るものは人類社会に似た特徴をいろいろ持った原始的な共同体を作って暮らしていた。中には、道具や火を使うことまで発見していたり、教わって知っていたりするものもあった。そういう生きものが、自分たちに友好的でないことがあるかもしれないなどとは、アルヴィンは思ってもみなかった。彼もヒルヴァーも、それが当然と思いこんでいた。というのは、地球上では、人類の覇権に挑戦するようなものは、とっくの昔に後を絶っていたからである。
半時間も登った頃、アルヴィンは、あたりに微かに反響する物音が聞こえるのに、初めて気がついた。それほどこぞといって決まった方角から来るようには思えなかったので、彼にはその音のもと[#「もと」に傍点]をつきとめることはできなかった。その音は、絶えることなく、まわりの景色が開けてゆくにつれて、だんだん大きくなっていった。彼はヒルヴァーにそれが何かを聞こうかと思ったが、足を運ぶのに精いっぱいで、口をきく余裕まではなかったのである。
アルヴィンは申し分なく健康であり、事実、生まれてから一時間の病気もしたことがなかった。だが、肉体的に好調であることがどんなに重要で本質的であるにせよ、彼がいま当面している仕事には、それだけでは充分でなかった。彼には体力はあったが慣れがなかったのである。ヒルヴァーのゆったりした歩きっぷり、どんな斜面でも登ってゆく楽々とした力の出し方を見ると、アルヴィンは羨望で胸がいっぱいになり、足が前に出る間は決して参ったというまいと決心した。彼はヒルヴァーが自分を試していることをよく承知していたが、そのことを恨んではいなかった。それは悪気のない勝負であり、彼は疲労が次第に脚に拡がってゆくのを感じながらも、それを受けて立つ気になっていた。
三分の二だけ登った時、ヒルヴァーはアルヴィンを気の毒がって、しばらくの間、二人は西に向いた土手にもたれて休み、気持のいい日光を体にたっぷりと吸いこんだ。ここまで来ると、鼓動するような轟音は非常に大きくなっていた。アルヴィンはヒルヴァーにたずねてみたが、彼は説明しようとはしなかった。登りついた時に何があるかを知っていたのでは、せっかくの楽しみがなくなる、と彼はいった。
今や太陽と競争だった。だが幸いにも、最後の登りはなだらかで緩やかだった。丘の下部を覆っていた木立は、彼らも重力と闘うのがいやになったかのように、ここでは疎らになり、最後の数百ヤードの地面は、短い強靱な草が絨毯を敷いたようになっていて、その上を歩くのは非常に気持がよかった。頂上が見えてくると、ヒルヴァーは突然渾身の力をふり絞って斜面を駆け上った。アルヴィンはこの挑戦を無視することに決めたが、実はそうするほかはなかったのである。彼は満足しきってこつこつと歩いてゆき、ヒルヴァーに追いつくと、疲労困憊してはいたが満ち足りて彼の隣りに坐りこんだ。
呼吸が回復した時、彼はやっと眼下に拡がる眺めを鑑賞し、今は絶え間なくあたりを圧している轟音の出所を見ることができた。前方の地面は、丘の頂きから急に落ちこんでおり、実のところ、その傾斜はひどく急で、すぐにほとんど垂直な崖になっているのだった。そうして、その崖の正面からほ、巨大な水の帯が跳びだし、空中で弧を描いて、数千フィート下の岩に激突していた。滝は、そこで、きらめく飛沫の霧の中に消えていたが、その深い底から湧きおこってくる例の耳を聾するばかりの絶え間ない轟きは、両側の丘から籠った谺となって反響していたのである。
滝の大部分は、今は影の中にあったが、山を越えて射してくる日の光は、まだ下界の土地を照らしており、この光景に魔法の最後の一刷毛を添えていた。というのは、滝壺の上に、束の間の美しさに震えながら、地球に残された最後の虹がかかっていたのである。
ヒルヴァーは、見渡すかぎりの地平線を抱きかかえるように、腕を大きく振りまわした。
「ここからだと」と、ヒルヴァーは、滝の轟音にかき消されないように、声を張りあげていった。「リスがすっかり見渡せるんだ」
アルヴィンは、彼のいうことを、一も二もなく信じた。北に向かっては何マイルもの森が続き、それが所々で切れて、村落や畑、あるいは曲がりくねった何百という川筋になっていた。この広大な展望のどこかに、エアリーの村が隠れているのだったが、とても見つけられるものではなかった。アルヴィンは、リスの入口に到る路の途中にあった例の湖が見えるような気がしたが、眼の錯覚だろうと思った。さらに北の方では、森も林間地も一様に斑らな緑の絨毯となり、所々で丘の連なりが襞を作っていた。さらにその向こうには、眼に見えるぎりぎりの果てに、砂漠からリスを閉じこめている山山が、遠い雲の峰々のように横たわっていた。
東も西も、眺めにあまり違いはなかったが、南は山々がほんの数マイルしか離れていないように思われた。それは非常にはっきり見え、いま立っている小さなピークよりも遙かに高いことがわかった。山々との間には、いま通ってきたばかりの土地よりもずっと広い国土が拡がっていた。そこは、何となく、人間が長い長い年月のあいだ住んだことがなかったかのように、さびれて空ろな感じだった。
ヒルヴァーは、このアルヴィンの無言の疑問に答えた。
「前には、リスのあの土地にも人が住んでいたんだ」と、彼はいった。「どうしてそこを見捨てることになったのか僕は知らないし、おそらく何時かはまたそこに移り住むこともあるだろう。今は、あそこには、動物だけしか住んでいないんだ」
確かに、どこにも、人間の生活の何の痕跡も――人間がいることを物語る林間地も、よく治水された川もなかった。人間がかつて住んでいたことを示すようなものが、ただ一カ所だけあった。それは、何マイルもの遠くの森の上に、折れた牙のように、壊れた建物がただ一つ突き出ているのだった。そのほかは、どこも元の密林の姿に戻っていた。
太陽は、リスの西側の壁に沈みつつあった。息を呑むようなその瞬間、遠い山々は黄金の焔のように燃え上がって見えた。やがて、それが守っている土地は速やかに影の中に没し、夜がやってきた。
「もっと早く、これをやっとかなけりゃいけなかったんだ」いつもながら現実的なヒルヴァーは、装備をほどきながらこういった。「五分もすれば真暗闇になるし、寒くもなるぞ」
奇妙な形をした装置が、草の上に拡げられ始めた。細い三脚から垂直に一本の棒が伸び、そのてっぺん[#「てっぺん」に傍点]には梨の形をした膨らみがついていた。ヒルヴァーはこの棒を持ちあげて、梨[#「梨」に傍点]が二人の頭をちょうど越すぐらいにし、黙ったままアルヴィンにはわからない何かの合図を念じた。たちまち小さなキャンプは光に満たされ、暗闇は後退していった。梨[#「梨」に傍点]は、光ばかりでなく熱も発し、アルヴィンは、骨の髄までしみこむような穏やかな気持のよいほてりを感じた。
片手で三脚を、もう一方の手で自分の荷物を提げたヒルヴァーは、斜面を下ってゆき、アルヴィンはできるだけ光の輪から遅れないようにして、急いでついていった。ヒルヴァーは結局、丘の頂上から数百ヤード下った小さな窪みにキャンプを張り、ほかの装備を操作し始めた。
最初に出てきたのは、堅くてしかもほとんど眼に見えない何かの物質でできた大きな半球だったが、それは二人にすっぽりかぶさって、折から丘の斜面を吹きあげ始めた冷たい風を防いだ。そのドームは、小さな四角い箱から発生されるらしく、ヒルヴァーはその箱を地面におくと、後はそれが他の装備の下敷きになってしまっても、いっこうに気にかけないでいた。おそらくやはりこの箱から投影されたとおぼしい、坐り心地のいい半透明の寝椅子に、アルヴィンは喜んで横になった。これは、彼が、リスで家具が物質化[#「物質化」に傍点]されるのを見た最初だった。彼から見ると、リスでは、家の中は耐久的な加工品でおそろしく散らかっていて、記憶バンクの中に邪魔にならないように安全に蔵っておく方がずっといいのにと思われたことだった。
ヒルヴァーがもう一つの容器から作りだした食事は、これまた、アルヴィンがリスに着いて以来初めて食べた純粋の合成品だった。物質変換機が原料を呑みこんで、その日常茶飯事となっている奇蹟を行なっている間、頭上のドームのどこかに開いた穴からは、空気が絶え間ない風として吸いこまれてきた。アルヴィンは、大体において純粋の合成食品の方がずっと有難かった。その他の種類の食品が作られる仕方は、彼にはぞっとするほど非衛生に思われたし、少なくとも物質変換機によるのならば、自分が果たして何を食っているかが、わかるというものだった。
二人が腰を落ち着けて夕食にとりかかった頃、あたりはとっぷりと暮れて、星が出てきた。食事が終った頃には、キャンプの光の輪の向こうは全くの闇になり、その輪の端のところには、森の生きものが隠れ家から這いだしてくるのにつれて、ぼんやりした影が動いているのが見えた。アルヴィンは時々、青白い眼が彼を覗きこんで、それに反射した光がきらりと光るのを見た。しかし、どんな獣が外から見つめていたのかは、彼らがそれ以上近寄ろうとはしなかったので、彼にはそれ以上わからなかった。
ひどく平和だった。アルヴィンは心の底から満足しきっていた。しばらくの間、二人は寝椅子に横になって、彼らの見たもの、二人がともに関係している謎、彼らの二つの文化が違っている数々の点について話しあった。ヒルヴァーは、ダイアスパーを時間の流れから超然とさせている永久回路の奇蹟に魅せられていたが、彼の質問の中には、アルヴィンにはとても難しくて答えられないものもあった。
「僕にわからないのは」とヒルヴァーはいった。「ダイアスパーの設計者たちが、どうやって記憶回路が絶対にどんな故障もおこさないようにしたのか、ということなんだ。君の話だと、都市やその中に住んでいる人たちすべてを規定する情報は、結晶の中の電荷のパターンとして貯えられているんだったね。なるほど、結晶は永久に続くだろうさ。でも、それに繋がっている各種回路はどうなんだ? どんな[#「どんな」に傍点]故障も絶対におこらないといえるのかい?」
「僕もケドロンに、それと同じ質問をしたんだよ。そうしたら、記憶バンクは、実際には、同じものが三つあるんだってさ。三つのバンクの中のどれか一つだけで、都市は維持できるのだし、その中の一つが何か故障をおこせば、ほかの二つが自動的にそれを補正するんだ。同じ故障が同時に二つのバンクにおこった時だけ、何らかの恒久的な損害がおこることになるんだけれども、それがおこる確率は無限小なんだ」
「それで、記憶装置に貯えられたパターンと、都市の実際の構造との間は、どんな関係になっているんだい? つまり、いわば設計図とそれが示している実物との関係だがね」
ここまで来ると、全くアルヴィンの力の及ぶところではなかった。彼は、その答が、空間そのものを操作することに基く技術に関係していることを知っていたが、或る原子を、別の場所に貯えられたデータが規定する場所に、どうやってぴったり嵌めこむことができるかについては、彼にはどこから説明していいかさえわからなかったのである。
突如として霊感を得た彼は、いま二人を夜から守っている見えないドームを指さした。
「僕らの頭の上にあるこの屋根が、君の仕掛けたあの箱からどうやって作られるのか教えてくれ」と彼は答えた。「そうしたら、僕も、永久回路がどうやって働くか説明することにしよう」
ヒルヴァーは笑った。
「それは、もっともな比較のようだな。それが知りたいのなら、撲らの所の場の理論の専門家の誰かに聞かなければなるまいよ。無論、僕には教えられないさ」
この答に、アルヴィンはじっと考えこんだ。それでは、リスには、今でも自分たちの機械がどうして働くかがわかる人たちがいるのだろうか。それは、ダイアスパーについては、問題外のことだった。
こうして、彼らは語りあい議論しあっていたが、やがてヒルヴァーがいった。「僕は疲れた。君はどうだい――眠るかね?」
アルヴィンは、まだだるい手足をさすった。
「そうしたいな」と彼は本音を吐いた。「でも眠れるかな。僕には、それがまだ妙な習慣のような気がするよ」
「習慣どころじゃないぜ」ヒルヴァーは微笑した。「僕の聞いたところじゃ、昔はどんな人でも、眠ることが絶対に必要だったんだ。僕たちは今でも、仮にたった数時間でも、少なくとも一日一回は眠るのが好きだな。眠っている間に体は爽快になるし、頭だってそうだよ。ダイアスパーじゃ、誰も絶対に[#「絶対に」に傍点]眠らないのかい?」
「ごくたまにだけだね」とアルヴィンはいった。「僕の先生のジェセラクは、何か異常に大へんな精神的な仕事をやった後で、一度か二度眠ったことがある。うまく作られた肉体なら、こういう休み時間は必要ないはずなのさ。僕らは、何百万年も前に、眠らなくてすむようになったんだからな」
彼がこうした少々自慢げな言葉を口にしている間も、彼の体はその言葉を裏切っていた。彼は、いままでに経験したことのないような疲れを覚えた。それは、ふくらはぎや腿から拡がり、体じゅうに流れるような気がした。その感じは少しも不愉快なものではなく、むしろその反対だった。ヒルヴァーは、おもしろそうな微笑を浮かべて、彼を見つめていた。アルヴィンには、相手が何かの精神力を自分に働かせているのだろうかと考えるだけの力が残っていた。そうだとしても、彼には少しも異存はなかった。
頭の上の金属の梨[#「梨」に傍点]から溢れだす光は、弱まって微かな輝きになったが、そこから発散される温かさは、弱まることなく続いていた。最後の光がゆらめく中で、アルヴィンの眠気を催した心は奇妙な事実に気がつき、朝になったらそのことを調べねばなるまいと考えていた。
その時、ヒルヴァーは着衣を脱いでいた。そうして、アルヴィンは初めて、この二つの人類の流れが、どんなに違ってしまっているかを見たのである。その違いの一部は、単に目立ち具合や比率の問題にすぎなかったが、しかしもっと他の、例えば外部生殖器や、歯、爪、および特定の体毛の存在することなどは、もっと本質的な問題だった。しかし、何よりも彼を不思議がらせたものは、ヒルヴァーのみぞおち[#「みぞおち」に傍点]にある小さな奇妙な孔だった。
何日か後になって、彼が突然このことを思いだした時、これには大へんな説明が必要だった。ヒルヴァーが臍の機能をすっかり明白に説明し終えるまでに、彼は数千語を費やし、半ダースもの図を書かねばならなかったのである。
そうして、彼もアルヴィンも、お互いの文化の基礎を理解するうえにおいて、偉大な一歩を踏みだしたのだった。
[#改段]
12
アルヴィンが眼を覚ました時は、夜も丑満時になっていた。何かが彼の眠りを妨げたのだった。絶え間ない滝の轟音にもかかわらず、何かの囁くような物音が、彼の心の中に忍びこんできたのである。彼は暗闇に身をおこし、下界の真暗な土地に眼をこらした。その間にも、彼は息を殺して、耳を聾するばかりの水の咆哮や、夜の生きものの立てる柔らかい微かな音に耳をすませていた。
何も見えなかった。星の光は暗すぎて、数百フィート下に横たわる何マイルもの土地は見えなかった。さらに暗い闇となって星を隠している鋸歯のような線だけが、そこの南の地平線に山々があることを物語っていた。アルヴィンは、隣りの暗がりの中で、自分の道連れが寝返りをうち、体をおこすのを聞いた。
「どうしたんだい?」と、囁くような声が聞こえた。
「物音が聞こえたような気がしたんだ」
「どんな音だ?」
「わからない。そう思っただけかもしれない」
沈黙の中で、二組の眼が夜の神秘を覗きこんでいた。その時、突然、ヒルヴァーがアルヴィンの腕をつかんだ。
「見ろ!」彼は囁いた。
遙か南の方に、たった一つ、光の点が輝いていた。それは、星にしては、あまりにも低く空にかかっていた。それは紫を帯びた明るい白色で、二人が見つめている間にも明るさを増し始め、ついにはとても見ていられないほどになった。そして爆発がおこった――それはまるで、世界の果ての向う側を稲妻が射たかのようだった。一瞬、山々が、またそれが取りかこんでいる土地が、夜の暗闇を背景に、火で浮彫りにされた。長い時代が経ったような気がした頃、微かな遠い爆発の音が聞こえてきて、下界の森では木立の間を突風がざわめいた。それはたちまち鎮まり、見えなくされた星も、一つまた一つと、音もなく空に戻っていった。
アルヴィンは、一生に二度目の恐怖を感じた。それは、彼が自動走路の部屋の中でリスへ行く決意をした時ほどには、自分の身に危険が迫ったという感じではなかった。もしかすると、それは恐怖というよりは、むしろ畏怖といった方がよかったかもしれない。彼は未知なるものの顔を見つめていたのであり、それはあたかも、自分が山の彼方遠くに、或るものに会いにゆかねばならぬことを、彼が予感したかのようだった。
「何だろう?」彼はしばらくして囁いた。
返事はなかなか返ってこなかったので、彼は同じ質問を繰り返した。
「いま、それを知ろうとしているところだ」とヒルヴァーはいい、また沈黙が続いた。
アルヴィンは彼が何をしているかを察し、友人の無言の探索を邪魔しなかった。
やがて、ヒルヴァーは、失望して軽い溜息をついた。「みんな眠っている。教えてくれるものは、一人もいないや。誰か友達を一人おこすんでなけりゃ、朝まで待たなきゃならなしい。間違いなく重大なことでないかぎり、おこしたくはないんだ」
アルヴィンは、ヒルヴァーがどんなことなら間違いなく重大だと思うのだろうか、と考えた。彼は、少々皮肉に、これが誰かの眠りを中断させるだけの価値があるかもしれないといおうとした。彼がその提案をする暇もなく、ヒルヴァーはまた口を開いた。
「思いだした」彼は、やや弁解するようにいった。「前にここに来てからずいぶんになるんで、方角はあまり確かじゃないけれど、あれはシャルミレインに違いないよ」
「シャルミレインだって! 今でもまだあるのか?」
「そうなんだ。もう少しで忘れるところだった。母さんが、前に、砦はあの辺の山の中にあるといったっけ。もちろん、もう長いこと廃墟になっているんだけれども、ひょっとすると、まだ誰かが住んでいるのかもしれない」
シャルミレイン! この子供たちの属する二つの種族は、文化も歴史もひどく違っていたが、この二人のどちらにとっても、これは実に魔法のような言葉だった。地球の長い歴史全体の中で、全宇宙を征服した侵略者を相手にしたシャルミレインの防衛戦にまさる偉大な叙事詩はなかったのである。真の史実は、黎明期を厚く覆った霧の中に、すっかり失われていたが、この伝説は決して忘れられることなく、人類の続くかぎり語り伝えられることだろう。
やがて、ヒルヴァーの声が、暗闇からまた聞こえてきた。
「南部の人たちから、もっといろいろ教えてもらえるよ。あそこには僕の友達も何人かいるから、朝になったら聞いてみることにしよう」
アルヴィンは彼のいうことを、ろくに聞いていなかった。彼は、シャルミレインについて今まで聞かされたことをすっかり思いだそうとして、じっと考えこんでいた。それは、まるで少ししかなかった。これだけ長い時代を隔てた今となっては、どれが史実でどれが伝説かは、誰にもわからないのだった。確かなことは、シャルミレインの闘いが人類の征服の時代に終止符を打ち、その長い衰退の始まりになったということだけだった。
あの山々の間に、かくも長いあいだ自分を悩ましてきた問題のすべての解答があるかもしれないのだ、とアルヴィン思った。
「その砦に行くには」と、彼はヒルヴァーにいった。「どのくらいかかるんだい?」
「行ったことはないけれども、僕が今度行こうと思っていた所よりはずっと遠いな。一日で行けるかどうか、わからないよ」
「地上車は使えないのかい?」
「駄目だ。山の中を通らなきゃならないから、車じゃ行けないな」
アルヴィンは、じっくりと考えた。彼は疲れており、足はずきずきし、腿の筋肉は慣れない運動のためにまだ痛んでいた。ほかの機会に譲りたいという誘惑は非常に強かったが、ほかの機会などというものは、来ないかもしれなかった。
衰えかけた星々――シャルミレインが建設されて以来、少なからぬ星が滅びていた――その暗い光の下でアルヴィンは必死に考えていたが、やがて決断を下した。何も変わったわけではなかった。山々は、それまでどおり、眠っている土地を見守っていた。だが、この間に歴史の転換点が来り去り、人類は未知の新しい未来へ向かって進んでいたのである。
その夜、アルヴィンとヒルヴァーはもう眠らず、暁の光が射すとすぐに、キャンプを撤収した。丘は露でびっしょり濡れており、葉という葉に重く載っているきらめく宝石に、アルヴィンは驚嘆した。その間を進む時に濡れた草が立てる音に、彼はうっとりとするのだった。丘の上を振り返ってみると、輝いた地面の上に、通ってきた跡が黒い帯のように後方に延びているのが見えた。
二人が森の外れに達した時、太陽はリスの東の壁に顔を出したばかりだった。ここでは、自然は本来の姿に戻っていた。太陽を遮り密林の底に一面の影を投げかけている巨木の下では、ヒルヴァーでさえ少し途方に暮れているように見えた。幸いにも、滝から流れ出る川は、全く自然のままであるにしてはまっすぐすぎるほど一直線に南へ流れており、その川岸についてゆけば、深い藪を避けることができた。クリフが時々密林の中に消えてしまったり、水面をめちゃめちゃに飛んでいったりしようとするのをおさえるのに、ヒルヴァーは大へんな時間をつぶした。まだ何を見ても珍らしいアルヴィンにさえ、この密林が、もっと北の方のリスの手入れされた小さな森にはない魅力を具えているのが感じられた。同じような木はほとんどなく、ほとんどの木が、さまざまな段階の退化を示していて、一部のものは長い年代の間に、ほとんど本来の自然の形に逆戻りしていた。明らかにもともと地球のものではなく、おそらくは太陽系のものでさえないものがたくさんあった。小さな木々を見張る歩哨のように高さ三、四百フィートもある巨大なセコイアが立っていた。かつて彼らは地球上で最古の生物と呼ばれていたが、今でも人類よりも少し年を取っているのだった。
もう川は広くなっていた。それは時々、小さな湖に注ぎこみ、その上には小さな島々が点在していた。ここには昆虫がおり、その美しく彩られた生きものは、水面を行きつ戻りつしていた。ある時クリフは、ヒルヴァーの命令を聞かずに、その遠縁のいとこ[#「いとこ」に傍点]たちの仲間に加わろうとして、飛びだしていった。彼はたちまちきらめく翅の雲の中に消え、怒った唸りが二人の方に聞こえてきた。一瞬の後、その雲はぱっと散り、クリフはほとんど眼にも止まらぬ速さで水の上を戻ってきた。それからというものは、彼はヒルヴァーにぴったりとくっついて、二度と道草を食わなかった。
夕方近くなると、時々前方の山々が見えるようになった。これまで忠実な道案内だった川も、旅路の終りに近づいたかのように、今ではのろのろと流れていた。だが、日暮れまでに山に着けないことは明らかだった。森は日没のずっと前にすっかり暗くなり、それ以上進むことは不可能だった。大きな木は一面の影の中に沈み、冷たい風が木の葉の間を吹きぬけていた。アルヴィンとヒルヴァーは、巨大なセコイアの傍で一夜を過ごすべく、腰を落ち着けたが、その梢の枝々はまだ夕陽に燃えていた。
森に隠されていた太陽がついに沈んでも、躍動する水面には、まだ明るさが漂っていた。二人の探検家(彼らは、今では自分たちをそう思っていたし、また実際にもそうだった)は、迫ってくる宵闇の中で横になり、川を見つめながら、自分たちが見てきたいろいろなもののことを考えていた。やがて、アルヴィンは前の晩に生まれて初めて知った、例の気持のよい眠気の感じが、またもや忍びよってくるのを感じた。ダイアスパーの苦労のない生活では、これは必要のないものかもしれないが、ここでは大歓迎だった。眠りに落ちこむ寸前、彼は、この道を最後に来たものは誰だったろうか、それはどのくらい昔だったろうか、と自分が考えているのに気がついた。
太陽が昇った頃、二人は森を出て、ついにリスの壁をなしている山の前に立っていた。彼らの前では、地面は何も生えていない岩の波となって、空に嶮しく聳え立っていた。ここで、川は、その初まりと同じくらい華々しい終りを告げていた。流れの前に地面が口を開け、川は轟々と眼の前で呑みこまれていたのである。アルヴィンは、それがどうなるのだろうか、またそれが再び日の光の中に出て来るまでに、どんな地下の洞穴を流れるのだろうかと考えた。もしかすると、地球から消えた海は今でも深い常闇の中に存在していて、この古い川は今も海への郷愁を感じているのかもしれない。
しばらくの間、ヒルヴァーは立ったまま、その渦巻やその向こうの突兀とした土地を眺めていた。それから、彼は、丘の間の切れ目を指さした。
「シャルミレインは、あの方角だ」と彼は自信ありげにいった。アルヴィンは、彼がどうして知ったかを訊ねはしなかった。彼は、ヒルヴァーの心が何マイルも彼方の友達の心と短時間の接触を行ない、必要な情報が声もなく送ってよこされたのだと察した。
その切れ目までは、大してかからなかった。そうして、それを通り抜けると、彼らの前には、緩やかな山腹を持った台地があった。アルヴィンは、もう疲れも恐怖も感じていなかった。ただ張りつめた期待と、近づきつつある冒険の気分があるだけだった。何を発見するのかは、さっぱりわからなかったけれども、何かを発見するだろうということを、彼は少しも疑わなかった。
頂上に近づくと、地面の様子が急に変わった。下部の斜面は多孔質の火山岩からできていて、ここかしこに大きな岩滓の山を築いていたのだが、ここでは地表は、突如として、あたかもかつて岩が熔岩の川となって山腹を下ったかのように硬いガラス状の滑らかで滑りやすい岩床に変わっていた。
台地の縁は、ほとんど足もとにあった。ヒルヴァーがまずそこに達したが、数秒遅れて追いつきその傍に立ったアルヴィンは、声も出なかった。というのは、二人は、予期したような台地の縁にではなくて、深さ半マイル、直径三マイルもある巨大なすり鉢[#「すり鉢」に傍点]の縁に立っていたのだった。眼の前には、地面が急傾斜で陥ちこみ、谷底でゆっくりと平らになって、再び昇りになり、次第に嶮しくなって向う側の縁に達していた。すり鉢の最下部は円い湖に占められ、その表面は、まるで絶え間ない波に揺すぶられているかのように、絶えず震えていた。
そこは太陽にまともに照りつけられているというのに、この巨大な窪み全体は黒檀のように真黒だった。この火口がどんな物質でできているのか、アルヴィンやヒルヴァーには想像もつかなかったが、そこは陽の目を一度も見たことのない世界のように真黒なのだった。それだけではなく、彼らの足もとには、幅約百メートルの切れ目のない金属の帯が火口全体を取り巻いていて、それは測り知れぬ歳月のため曇ってはいたが、今も一点の錆も生じてはいなかった。
この世のものとも思われぬこの光景に眼が慣れてくると、アルヴィンとヒルヴァーは、すり鉢が思ったほどには真黒でないことに気がついた。陽炎のように眼の端からちらりと見えるだけだったが、小さな爆発のような光の閃きが真黒な壁のあちらこちらにちらちらしていた。それは波のある海に映る星影のように、あちこちで無秩序におこり、現われたかと思うとすぐに消えていった。
「すごいや!」アルヴィンは息も止まりそうな声を出した。「でも、あれは何だろう?」
「一種の反射鏡らしいな」
「だって、こんなに真黒なんだぜ!」
「僕らの眼にはね。忘れちゃいかんよ。当時どんな輻射線を使っていたのか、わかったもんじゃないんだぜ」
「でも、まさか、これだけじゃないんだろう! 砦はどこにあるんだい?」
ヒルヴァーは湖を指さした。
「よく見ろ」と彼はいった。
アルヴィンは湖の揺れる水面をすかしてじっと見つめ、その底に隠されている秘密を見通そうとした。初めは何も見えなかったが、やがて岸に近い浅瀬に網の目のような微かな明暗のかげが見えてきた。その模様を湖の中心まで辿ってゆくと、そこでそれは深い水に隠されて、それ以上詳しいことはわからなくなった。
黒い湖は、砦を呑みこんでいたのである。その底には、かつての強大な建造物が、時の流れに破壊された廃墟となっているのだった。それでも、なにもかも水に浸ってしまったわけではなかった。というのは、火口の向う側には、散乱した石や、かつては、大きな壁の一部だったに違いない巨大な石塊が山をなしていることに、アルヴィンは気がついたのである。水はその裾を洗っていたが、まだ完全な勝利をかちとるまでには水嵩が増していなかった。
「湖の向う側へ行ってみよう」ヒルヴァーは、この荘厳な廃墟に心の底からの畏敬を覚えているかのように、そっといった。「もしかすると、あっちの廃墟の中には、何か発見できるかもしれない」
火口の手前の数百ヤードの間は非常に嶮しく滑らかで、まっすぐ立っていることも難しかったが、しばらくすると傾斜は緩やかになり、楽に歩けるようになった。湖の岸近くでは、滑らかな黒い表面は、薄い土の層に覆われていた。それは、長い歳月の間に、リスの風によってここへ運ばれてきたものに違いなかった。
四分の一マイルほど向こうには、巨大な岩塊が、巨人の赤ん坊が玩具を投げ捨てたかのように、重なりあっていた。ここに大きな壁の一部が今でも認められるかと思えば、かしこには彫刻を施された二本の尖塔があって、そこがかつては堂々たる入口だったことを示していた。苔や蔓草や、さては小さなひねこびた木が、いたる所に生えていた。風さえも、静まりかえっていた。
とうとう、アルヴィンとヒルヴァーは、シャルミレインの廃墟に来たのだった。この壁の前に、またここに貯えられていたエネルギーの前に、世界を粉砕しうるほどの力が、燃えあがり荒れ狂ったあげく、完膚なきまでに敗れさったのだった。かつて、この平和な空には、太陽の胸からもぎとられた火が燃え、リスの山々は支配者の激怒の前に、生きもののようにひれ伏していたに違いない。
シャルミレインは誰にも征服されなかった。だが今はその砦も――この金城鉄壁の砦も、たゆみない蔦の蔓や、何世代もの間ひたすらに穴を掘りつづける地虫たちや→次第に水嵩を増す湖の水のために征服され破壊されて、ついに陥落してしまったのだった。
アルヴィンとヒルヴァーは、この荘厳さに威圧されて、巨大な残骸の方に黙って歩いていった。彼らは壊れた壁の蔭に入り、石の山が裂け割れた谷間に入っていった。その向こうには湖があり、彼らはやがて、黒い水に足を洗われながらそこに立った。高さ数インチしかない小さな波が、その狭い岸に絶えず砕けていた。
口を開いたのはヒルヴァーの方が先だった。彼の声には微かに頼りなげな響きがあり、アルヴィンは俄かに驚きを感じて彼の顔を見た。
「どうも、わけがわからんことがある」彼は、のろのろといった。「風はない。とすれば、どうして漣が立つんだろう? 水面は全く静かなはずなのに」
アルヴィンが何か答を思いつく前に、ヒルヴァーは地面にしゃがみこんで首をかしげ、右の耳を水の中に浸した。アルヴィンは、こんなおかしな恰好をして何を見つけるつもりだろうと思ったが、すぐに彼が何かに耳をすましているのに気がついた。少しいやいやながら――というのは、その真黒な水は、ことのほか厭な感じだったのだが――彼はヒルヴァーの真似をした。
最初に感じた電撃のような冷たさは、僅か一秒ほどのことだった。それが消えると、彼は、微かだがはっきりした、一様で規則正しい鼓動を聞くことができた。それはまるで、湖の底深くから巨大な心臓の鼓動が聞こえてくるかのようだった。
二人は髪の水を切り、考えこみながら、じっと顔を見合わせた。どちらも、自分の思っていることを口にしたくなかったのである――つまり、湖が生きている、ということを。
「こっちの廃墟の中を調べることにしよう」やがて、ヒルヴァーはいった。「湖には近よらない方がいいだろう」
「何か中にいるんだと思うかい?」アルヴィンは、今も自分の足もとに砕けている謎のような漣を指さしながら訊ねた。「そいつは、危険かしら?」
「知力を持っているものに、危険なものはないさ」と、ヒルヴァーは答えた。(ほんとうかな、とアルヴィンは思った。侵略者たち[#「侵略者たち」に傍点]はどうなんだ?)「この場所では、僕にはどんな種類[#「種類」に傍点]の思考も感じとれないんだが、しかもここにいるのが僕らだけだとは思えないんだ。どうも妙だな」
二人は、各々あの一様な低い脈動の音を胸に抱きながら、のろのろと砦の廃墟の方へ戻っていった。アルヴィンには、謎は謎を生み、あらゆる努力にもかかわらず、自分が求める解答からますます遠ざかっているように思えた。
廃墟から何か得るところがあるとは思えなかったが、二人は、積み重なった岩屑や石の大きな山の中をていねいに探した。ここは、おそらく埋まった機械――遠い昔にその任務を果たした機械の墓なのだろう。もし侵略者たちが[#「侵略者たち」に傍点]が戻ってきたとしても、その機械はもはや役に立たないだろうと、アルヴィンは考えた。彼らは、どうして戻ってこなかったのか? だが、それはさらに一つの謎だった。彼は、すでに今までに出てきた謎だけでも充分だった。それ以上に謎を探しだす必要は、少しもないのだった。
湖から数ヤード離れた岩屑の中に、小さな平坦な場所があった。そこは雑草に覆われていたが、今は凄まじい熱のために黒く焦げていて、アルヴィンとヒルヴァーが近づくと粉々に砕け、その灰が二人の足を黒く汚した。そこの中央には金属の三脚が地面にしっかりと取り付けられて立っていた。それは円い環を支えており、その環は三脚の軸に対して傾いていて、空の半ばほどの場所を指していた。一見したところ、環の中には何もないようだったが、やがてよく見ると、可視光線のスペクトルのぎりぎりの端のところで、眼が痛いほど微かな靄のような光があった。それはエネルギーの輝きであり、二人をシャルミレインに招きよせた例の爆発がこの機械から発したことは間違いなかった。
彼らはそれ以上近よろうとはせず、安全な距離からその機械を見つめて立っていた。自分たちは正しい手がかりを追っていたんだ、とアルヴィンは考えた。もう余すところは、誰が、または何者が、この装置をここに据えつけたのか、またその目的は何か、ということを見つけだすだけだった。その傾いた環――それは明らかに宇宙空間に向けられていた。彼らが見たのは何かの合図だったのだろうか? その考えには息を呑むような事柄が暗示されていた。
「アルヴィン」ヒルヴァーが突然いった。彼の声は穏やかだったが、ただならぬ気配だった。「お客様だぜ」
くるりと向き直ったアルヴィンは、瞼のない三つ目小僧に向かいあっていた。少なくとも、彼はとっさにそう感じた。やがて、自分を見つめている眼の後に、小さいが複雑な機械の輪郭が見えてきた。それは、地上数フィートの空中に浮かんでおり、今までに見たことのあるどんなロボットにも似ていなかった。
最初の驚きが鎮まると、彼はもうこっちのものだという気がしてきた。彼は生まれて以来ずっと機械に命令して暮らしてきたのであり、この機械が見慣れないものであっても、それは問題でなかった。
「お前は話せるのか?」と、彼は訊ねた。
返事はなかった。
「誰かがお前を操縦しているのか?」
やはり沈黙だった。
「行け。来い。起て。倒れろ」
ありきたりの制御思考は、何の効果もなかった。機械は傲然として動かないままだった。それは二つの可能性を示していた。この機械には彼のいうことがわからないほど知力がないのか、それとも実は非常な知力を持っていて自分で選択力や自由意志の力を持っているのか、どちらかだった。後者だとすると、この機械を自分と対等に扱わねばならなかった。そうしてさえ、彼を軽く見すぎることになるかもしれないのだが、彼の方では別段アルヴィンに何も不服は唱えないだろう。ロボットは、自尊心などという悪徳に悩まされることはあまりないからである。
ヒルヴァーは、アルヴィンが明らかに泡を食っていることに、笑いを禁じえなかった。自分が代って機械と話をしようかと、彼がいいかけた時、その言葉は唇に凍りついてしまった。シャルミレインの静寂が、無気味な、しかも絶対に間違えようのない物音によって破られたのである。それは、非常に大きなものが水から出て来る時の、ごぼごぼと水の跳ねかえる音だった。
ダイアスパーを出て以来、アルヴィンが家に残っていればよかったと思ったのは、これで二度目だった。それから、冒険にぶつかるというのにこんな意気地のないことではいかんと思い直した彼は、のろのろと、しかし落ち着いて湖の方へ歩き始めた。
いま黒い湖から現われてきた生物は、なおも二人を無言で眺めているロボットを生きた物質で途方もない大きさに戯画化したような姿をしていた。同じように等間隔に並んだ眼の配置は、偶然の一致などではありえなかった。触手や小さな継ぎあわせた腕の形までも、大まかに再現されていた。しかし、そこから先は、似たところはなかった。外縁に並んで水を規則正しいリズムで打っている繊細な羽毛のような触鬚、この獣が、いま岸に身を乗りだすのに使っている多数のずんぐりした肢、大気中で発作的にぜいぜい呼吸している換気孔(もし換気孔ならばだが)などをロボットは持っていなかったし、明らかに持つ必要もないのだった。
その生物の体の大半は水中に潜ったままであり、前部の十フィートだけが、彼にとっては明らかに異質である外の環境の中に突っ立っていた。獣の全長は約五十フィートもあったが、生物学の知識が少しもないものでも、どこかがひどくおかしいと気づくことだろう。その体は、途方もなく間にあわせでいいかげんにできているという感じがした。それはまるで、各部分があまり計画なしに作られ、必要に応じて大まかに寄せ集められたかのようだった。
この巨大さや最初の危惧にもかかわらず、この湖の住人をよく見てからは、アルヴィンもヒルヴァーも少しもびくびくしなかった。この生物には愛敬のある不細工さがあって、仮に危険かもしれないという証拠があったとしても、彼を本気で脅威だと思うことは不可能だった。人類は、少年時代に感じたような単に見かけが異様なだけのものに対する恐怖を、とっくの昔に克服していた。友好的な地球外の種属と接触した後では、そういった恐怖はもはや存在しえなかったのである。
「これは、僕にやらせてくれ」と、ヒルヴァーは静かにいった。「僕は動物を扱うのに慣れているから」
「でも、彼は動物[#「動物」に傍点]じゃないぜ」アルヴィンは、囁くような声で答えた。「彼が知力を持っていて、あのロボットの主人であることは間違いないと思うな」
「ロボットが彼[#「彼」に傍点]の主人なのかもしれないぜ。いずれにしても、彼の精神構造はひどくかわったものに違いないよ。僕はまだ、思考らしいものを何も感じないんだ。もしもし――あれ、どうしたんだろう?」
怪物は、水際で身を半ばもたげた姿勢を変えていなかったが、その姿勢を続けるには、相当な苦労をしているらしかった。ただ、三角形になった三つの眼の中央に、半透明の膜ができ始めていたが、その膜は摶動し振動していて、やがて耳に聞こえる音を発し始めた。それは低音の太い唸り声で、聞きとれるような言葉にはなっていなかったが、この生物が二人に話しかけようとしていることは明らかだった。
何とか意志を通じようとする、この必死の努力を見守るのは苦痛だった。生物は何分かの間、懸命に努力をしたが、何の甲斐もなかった。やがて、彼は突如として間違いに気がついたらしかった。鼓動する膜は大きさが縮まり、そこから発する音は振動数が何オクターヴかあがって、ついに正常な会話の範囲に入った。まだ所々にちんぷんかんぷんなところはあったが、聞きとれるような言葉が発せられ始めた。それはまるで、この生物が、遠い昔に知っていて、長いあいだ使う機会のなかった言葉を思いだしているかのようだった。
ヒルヴァーは、何とか助け舟を出そうとした。
「僕らには、もうあなたのいうことがわかりますよ」彼は、ゆっくり、はっきり話した。「何か僕らでお役に立つことがあるでしょうか。僕らは、あなたが発した光を見ました。それで、リスからここまで来たのです」
「リス」という言葉を聞くと、その生物は何かひどくがっかりしたように、うなだれて見えた。
「リスか」と彼は繰り返した。彼は「ス」がうまく発音できないで、「リド」といっているように聞こえた。「いつもリスからだ。ほかには誰も来んのか。わしらは|偉大なもの《グレート・ワン》たちを呼び求めるのに、願いは聞きとどけられぬのか」
「グレート・ワンたちとは、誰のことですか」アルヴィンはぐっと身を乗りだして訊ねた。繊細な絶えず動く触鬚は、ちょっと空に向かって波打った。
「グレート・ワンたちは」と彼はいった。「永遠に昼である惑星たちから来る。来るはずなのだ。マスター[#「マスター」に傍点]はそう約束された」
これを聞いても、あまり事情がはっきりしたようには思えなかった。アルヴィンが反対訊問を続けようとする前に、またもやヒルヴァーが口を挟んだ。彼の質問の仕方は非常に辛抱強く、非常に思いやりがあって、しかも非常に鋭かったので、アルヴィンは自分が質問したくてうずうずしていたが、邪魔しない方がいいと思った。彼はヒルヴァーの知性の方が自分より優れていると認めたくはなかったが、ヒルヴァーの動物を扱う才能がこの異様な生物にまで及んでいることは、疑う余地がなかった。のみならず、この生物は彼に感応するらしかったのである。会話が進むにつれて、生物の言葉はますます明瞭になり、初めは不作法なほどそっけなかったのが、やがて答はていねいになり、自分から進んで情報を提供するようになった。
その信じ難い物語をヒルヴァーが繋ぎあわせてゆく間に、アルヴィンは時の経つのをすっかり忘れてしまった。二人は真相をすっかり明らかにできたわけではなく、臆説や論争の余地はいくらでもあった。生物は、ヒルヴァーの質問にだんだん自発的に答えるようになるにつれて、その外見を変え始めた。彼は湖の中にぐったりと横になり、その体を支えていたずんぐりした肢は、体の中に溶けこんだように見えた。やがて、もっと異常な変化が始まった。三つの巨大な眼はゆっくり閉じ、縮まって針穴のようになり、全く消え失せてしまった。それはまるで、この生物が、とりあえず見たいものをすっかり見てしまったので、もうこれ以上眼には用がないとでもいうかのようだった。
ほかにも、もっと微妙な変化が絶えずおこり、ついには水面の上に残っているものは、この生物が話をするのに使っている振動する隔壁だけがほとんど全部になってしまった。きっと、これも用ずみになれば、もともとの不定形の原形質の塊に環元されることだろう。
知性がこんな不安定な形態で存在しうるとは、アルヴィンにはとても信じられなかった。ところが、もっと大きな驚きが残っていたのである。この生物が地球起源のものでないことは明らかだと思われたが、生物学の知識が豊富なヒルヴァーでさえ、しばらくたってからやっと、自分たちが相手にしていたこの生物の本性に気がついたのだった。彼は単一の生命体ではなかったのである。会話の全体を通じて、彼はいつも自分のことを「わしら」と呼んでいた。彼は、実は独立した多数の生物の集合体にほかならず、それが窺い知れぬ力によって組織され制御されているのだった。
これに僅かに似た形態の動物――たとえばクラゲ――は、かつて地球の古代の海にも繁栄した。その中には巨大なものもあって、その半透明な体や針のある触手の林を、水中に五十フィートから百フィートもたなびかせていた。だが、それらの中で、単純な刺激に反応する能力以上に、ほんの微かな知性の閃きをさえ持ちえたものはなかったのである。
ここにあるのは、確かに知性だった。もっとも、それは衰えかけ、退化しつつある知性ではあったが。アルヴィンは、この世のものとも思えぬこの会見――ヒルヴァーはゆっくりとマスターの物語をつなぎあわせてゆき、変幻自在なこの群体生物《ポリプ》は慣れない言葉を手探りで操り、暗い湖はシャルミレインの廃墟に打ちよせ、三つ眼のロボットは微動だにせぬ眼で二人を見つめているというこの会見を、決して忘れることはなかった。
[#改段]
13
マスターは、過渡期時代[#「過渡期時代」に傍点]の混乱の最中、すなわち銀河帝国は崩壊しつつあったが星々の間の連絡はまだ完全には途絶していなかった頃に、地球にやってきた。彼は人類の出であったが、その故郷は七つの太陽[#「七つの太陽」に傍点]の一つをまわる惑星だった。彼はまだ若いうちに生まれ故郷の惑星を去ることを余儀なくされたが、その思い出は彼が死ぬまで念頭を去らなかったのである。彼は自分が追放されたことを執念深い敵のせいにしていたが、実は彼は、宇宙の中のあらゆる知的種族の中でホモ・サピエンスだけが罹るらしい不治の病に犯されていたのだった。それは、宗教的偏執という病だった。
初期の歴史全体を通じて、人類の間には数限りない教祖、予言者、救世主、伝道者が相次いで現われ、自分自身もその信者たちも、自分たちにだけ宇宙の秘密が明かされているのだと信じこんでいた。その中には、長い世代にわたって生き残り、数十億の人々に影響を与えるような宗教を打ち樹てるのに成功したものもあったが、本人が死ぬ前にさえ早くも忘れ去られてしまったものもあった。
科学の勃興とともに、予言者の宇宙論は単調な几帳面さで論破され、彼らには及びもつかない奇蹟が生みだされて、これらの信仰はいずれも結局は滅びてしまった。しかもなお、あらゆる知的な生物が自分のいるこの広大な宇宙を思う時に感ずる畏敬や尊崇や謙虚さは、滅びはしなかった。このことによって弱められついには抹殺されたものというのは無数の宗教だけであって、それらは、思い思いに、信じ難いほどの傲慢さをもって、自分の宗教こそが唯一無二の真実の宝庫であり、無数の競争相手や先輩たちはすべて間違っているのだと主張したのだった。
しかし、人類が文明のごく初歩的な段階に達してからは決して強大な力を揮うことができなかったとはいえ、以後のあらゆる時代にも、宗派の数々は途絶えながらも現われ続け、その教義がどれほど奇矯なものであろうとも、常にいくばくかの弟子たちを惹きつけるのに成功した。彼らは混乱と無秩序の時代には特に力を得てはびこったし、過渡期時代[#「過渡期時代」に傍点]にこの不合理性が大盛況を見せたとしても、あえて異とするには当たらないのである。現実が重苦しい時、人々は神話によって自らを慰めようとしたのだった。
マスターは、墳墓の地を追われはしたものの、着のみ着のままでそこを離れたわけではなかった。七つの太陽[#「七つの太陽」に傍点]は、銀河系の権力と科学の中心であり、あまつさえ彼は有力な友人を持っていたに相違なかった。彼の退去は、古今未曾有のスピードを持つものの一つと謳われた、小さいながら高速の宇宙船に乗って行なわれた。この亡命に際して、彼はもう一つの銀河系科学の最高の所産、すなわち今も眼の前でアルヴィンやヒルヴァーを見ているロボットを伴なっていた。
未だかつて、誰もこの機械の能力や機能をすっかり知り尽したものはいないのだった。事実、ある点では、このロボットはマスターの分身であった。これなくしては、「グレート・ワンたち」の宗教は、おそらくマスターの死とともに崩壊したことだろう。彼らはいっしょに星群の間を、曲がりくねった道を通ってあちこちと漂泊し、ついには、明らかに偶然などではなくて、彼の祖先が出現したこの惑星に辿りついたのだった。
この事蹟をめぐって万巻の書が書かれ、その各著作はまた無数の註釈書に霊感を与え、ついには一種の連鎖反応によって、原典は山のような釈義や注解の中に埋もれてしまうにいたるのである。マスターは多くの惑星に足を留め、多くの種族の間に弟子を作った。人類にも非人類にも等しく啓示を与えた彼の個性というものは、際限もなく強烈なものであったに違いないし、またこれほど広く心を惹きつけた宗教には、多くの優れた立派なものが含まれていたことも疑いないところである。ことによると、このマスターとは、あらゆる人類の救世主の中で最も栄えた――かつまた最後の――人だったかもしれない。彼は先人の何ぴとも及ばぬ多数の帰依者をかちとり、その教えはかくも広大な時間空間を超えて伝えられたのである。
その教えがどんなものだったかを多少とも正確に聞きだすことは、アルヴィンにもヒルヴァーにもできなかった。この巨大な群体生物《ポリプ》はそれを伝えようとして必死の努力をした。だが、彼の使う言葉の多くは意味不明であり、また彼は一種の速い機械的な話し方で文章や話全体を繰り返す癖があり、それを聞きわけるのは一苦労だった。やがてヒルヴァーは、やっとのことでこういった意味不明な神学の泥沼から抜けだし、話を確かな事実にだけ限らせることに成功した。
多くの都市がまだ消え去っておらず、ダイアスパー宇宙港がまだ星に門戸を開いている頃に、マスターとその最も忠実な信者たちの一団は地球に到着した。彼らは、さまざまな種類の宇宙船で来たに違いない。たとえば、この群体生物《ポリプ》の場合には、彼らの生来の住み家である海水に満たされた宇宙船だった。この宗教運動が地球でうまく受け入れられたかどうかは明らかでない。だが、少なくとも烈しい反対には会わずに、なおもさまよい続けた末、最後の隠栖の場所としてリスの森と山々が選ばれたのだった。
長い生涯を閉じるに当たって、マスターの思いは再び自分が追放された故郷に戻ってゆき、彼は友人たちに、星が見えるように自分を家の外に運んでもらいたいと頼んだ。彼は気力が衰えてゆく中で七つの太陽[#「七つの太陽」に傍点]が昇るのを待ち、死に臨んで多くのことを口走った。それは後の時代に、さらに何冊もの解釈の書物を生みだしたのである。彼は繰り返しグレート・ワンたちのことを語り、彼らはいまこの物質と空間の宇宙を離れるが、いつの日か必ず帰ってくるだろうといい、彼らが帰ってきた時にそれを迎える用意をしておくように信者たちに命じた。これが、彼の筋のとおった言葉の最後だった。彼は二度と周囲に対して意識をとりもどすことはなかったが、息をひきとる直前に、ある言葉を口にし、それは後々までそれを聞いた者たちすべての心につきまとって離れなかったのである。「永遠に明るい惑星たちの上で彩られた影を見るのは、すばらしいことだ」そして、彼は死んだ。
マスターが死ぬと彼の信者の多くは散り散りになったが、残ったものはその教えを忠実に守り、長い年月の間に次第にそれを洗練させていった。彼らは初め、グレート・ワンたちというのが何ものであるにせよ、すぐに戻ってくるものと信じていた。だが、その望みは、何世紀も経つうちに薄れていった。物語はこの辺りからひどく混乱してきて、事実と伝説とが手のつけられないほど錯綜しているように思えた。アルヴィンにはただ、何代もの狂信者たちが、自分たちにもわけのわからない大事件がいつかそのうちにおこるのを待っている様子が、ぼんやりと想像できただけだったのである。
グレート・ワンたちは、いつまでたっても帰ってこなかった。死や失望によって弟子たちが去ってゆくにつれて、この宗教運動の力は徐々に衰えていった。まず短命な人類の信徒たちが、いなくなった。そうして、人間の予言者を最後の最後まで信じていたものが人類とは似ても似つかぬ生物だったということには、何か途方もなく皮肉なものがあった。
この巨大な群体生物《ポリプ》がマスターの最後の弟子になったというのは、極めて簡単な理由からだった。彼は不死身だったのである。その体を構成する何十億もの細胞の一つ一つは死ぬことがあっても、その前に増殖が行なわれるのだった。長い間隔をおいて、この怪物は無数のばらばらな細胞に分解し、それらは思い思いに動きまわって、環境条件がよければ分裂し繁殖する。この段階では、自意識を持ち知性のある存在としての群体生物《ポリプ》は存在しないのである――ここにいたって、アルヴィンは、都市の記憶バンクの中で休眠したまま数千年を過ごすダイアスパーの住民のあり方を、否応なしに思いださせられた。
時が来ると、何かの不思議な生物学的な力が、散らばった各部分を再び呼び集め、群体生物《ポリプ》は新しい人生の周期を始める。彼は意識をとりもどし、前の人生の記憶を思いだす。もっとも、時には事故があって、記憶の微妙なパターンを担った細胞が傷害を受けるため、その記憶はしばしば不完全である。
たぶん、場合によっては十億年も前に忘れ去られていたような信条を、これほど久しきにわたって持ち続けてきたというのは、この生命形態にして初めて可能だったのであろう。ある意味では、この大きな群体生物《ポリプ》は、自分でもどうにもならない生物学的本性の犠牲者なのかもしれない。彼は、不死身であるが故に変ることができず、同じ不変のパターンを永遠に繰り返すべく強いられているのであった。
「グレート・ワンたち」の信仰は、後代になると七つの太陽[#「七つの太陽」に傍点]崇拝と同格のものになった。グレート・ワンたちがどうしても姿を現わさなかったことから、彼らの遠い故郷へ合図を送ることが企てられた。この合図は、とうの昔に意味のない儀式にすぎなくなり、今では学ぶことを忘れた動物と忘れることを知らぬロボットとの手で続けられているのである。
測り知れぬ年を経た声が静かな大気の中に消えてゆく時、アルヴィンは憐れみで胸がいっぱいになるのを感じた。誤れる献身、多くの太陽や惑星が滅びてゆく間も甲斐なき道を歩みつづけてきた忠誠心――彼は眼の前にその証拠を見ているのでなかったら、そんな話を決して信じなかっただろう。彼は、これまでにもまして、自分がこれほど無知であることを悲しんだ。ほんのしばらくの間、過去のごく一部が明るみに出たのだったが、今はそれも再び暗黒の中に沈んでしまったのである。
宇宙の歴史とは、こういった切れぎれの断片の寄せ集めに違いない。その中で、どれが重要でどれが瑣末なものかは、誰にもわからないのだ。このマスターとグレート・ワンたちとの夢のような物語は、黎明期の文明からどうやら生き残ってきた無数の伝説の一つにすぎないようにも思われたが、巨大な群体生物《ポリプ》や無言で見守っているロボットが眼の前にあるということからしても、この物語全体が狂気に基いて幻想の上に築きあげられた作り話だとはいいきれないものを、アルヴィンは感じた。
あらゆる点でこれほど違っていながら、長い年代にわたって異常な協力関係を続けてきた、この二つのものの間柄はどんなものだったのだろうか、とアルヴィンは思った。彼は何故か、両者のうちでロボットの方がずっと重要な役割りをしていたことを信じた。彼はずっとマスターの腹心だったし、彼の秘密のすべてを今でも知っているに違いないのだった。
アルヴィンは、今も自分をじっと見つめている、この謎めいた機械を見た。彼はなゼロをきかないのだろうか? 彼の複雑な、しかもおそらく異質な心の中では、どんな考えがかすめていることだろうか? それでも、それがマスターに仕えるように設計されたものである以上、その心もきっと全く異質ということはあるまいし、人間の命令に応ずるはずなのだ。
この頑なにおし黙っている機械が抱いているに違いない数数の秘密のことを考えるうちに、アルヴィンは貪欲と紙一重なほどに強烈な好奇心を感じた。そういう知識が、みすみすこの世から隠されているなどということは、正当とは思えなかった。ここには、ダイアスパーの中央計算機《セントラル・コンピューター》も及ばぬほどの驚異が隠されているに違いないのだった。
「あなたのロボットは、どうして僕たちに口をきかないんですか?」彼は、ヒルヴァーの質問がちょっと途絶えた時に、群体生物《ポリプ》に訊ねた。その答は、彼が半ば予想していたものだった。
「彼が、マスター以外の声と言葉を交わすことは、マスターの意志に背くことであった。そうして、今はマスターの声はないのだ」
「でも、あなたの命令には従うのでしょう?」
「そうだ。マスターは、彼をわしらに託されたのだ。わしらは、このロボットがどこへ行こうとも、その眼を通して見ることができる。このロボットは、この湖を管理し、水を清く保つ機械の番をしておる。だが、彼はわしらの召使いというより仲間といった方がほんとうであろう」
アルヴィンは、このことをじっと考えた。まだ漠然として形をなしてはいなかったが、一つの思いつきが彼の心の中にできあがり始めていた。おそらく、それは知識と力への純然たる欲望に発したものだったろう。後でこの瞬間を振り返ってみても、彼には自分の動機がほんとうに何だったのか、どうしてもわからなかった。それは主として利己的なものだったかもしれないが、いくらか憐れみの要素をも含んでいたのである。もし自分にできることならば、彼はこの無益な繰り返しを断ち切って、この生物を奇妙な運命から解放してやりたかった。彼にはこの群体生物《ポリプ》をどうにかしてやれる自信はなかったが、ロボットの異常を治し、同時に彼が持つ貴重な死蔵された記憶を解放することは可能かもしれなかった。
「あなたは」と、彼は群体生物《ポリプ》に向かって、しかしその言葉はロボットに聞かせるようにして、ゆっくりといった。「ここに留まっていることが真にマスターの意志を成就する道だと、ほんとうに思いますか? 彼は世界が自分の教えを知ることを望んでいたわけですが、その教えは、あなたがこのシャルミレインに隠れている間に滅びてしまいました。僕らがあなたを見つけたのは、全くの偶然でした。ところが、グレート・ワンたちの教義を聞きたいと思う人は、ほかにもたくさんいるかもしれないのですよ」
ヒルヴァーは、明らかにアルヴィンの意図をはかりかねて、彼をじろりと見た。群体生物《ポリプ》は興奮した様子で、規則正しく摶動していた呼吸器をしばらく乱れさせた。それから、彼は、まだすっかり、自制をとりもどしてはいない声で答えた。「わしらは、この問題を長年のあいだ論じあってきた。だが、わしらはシャルミレインを離れるわけにはゆかぬ。それ故、世界の方からわしらの所へ来ねばならぬのだ。それがどれほど時間を要することになろうともだ」
「僕に、もっといい考えがあります」アルヴィンは意気ごんでいった。「あなた[#「あなた」に傍点]は、たしかに、この湖に残っていなければならないかもしれません。でも、あなたのお仲間が僕らといっしょに来れないわけはありません。帰りたくなったり、あなたに彼が必要になったりしたら、いつでも帰って来れるのです。マスターが死んでから、世の中はずいぶん変りました――そういったことは、あなたが知っておくべきなのに、ここに坐っているかぎり、決してわからないのです」
ロボットは微動だにしなかったが、群体生物《ポリプ》は決断に苦しんで湖の水面から全く没し、何分かのあいだ浮かんでこなかった。たぶん、彼はロボットとの間に無言の論争をやっているのだろう。彼は何度かまた姿を見せそうになったが、思い直して、また水中に潜っていった。ヒルヴァーは、このすき[#「すき」に傍点]を捉えて、アルヴィンとしばらく言葉を交わした。
「いったい、何を企んでいるんだい」彼は、冗談とも本気ともつかない声で、そっと囁いた。「それとも、自分でもわからないのか?」
「きっと君だって」とアルヴィンは答えた。「この気の毒な生きものが可哀想だと思うだろう? 彼らを救いだしてやるのが親切だとは思わないか?」
「思うとも。でも、僕には君のことがだいぶよくわかったから、愛他主義が君の第一の気持でないことは間違いないね。何か他にわけがあるに違いないよ」
アルヴィンは、口惜しそうに微笑した。ヒルヴァーが自分の心を読んではいないとしても――彼がそうしていると疑う理由は何もなかったが――彼はまさしく自分の性格を読みとることができるのである。
「君の方の人たちは、すごい精神力を持っているだろう?」彼は、話題をこの危険な問題から逸らそうとしながら答えた。「僕は、あの人たちが、このロボットに何かしてやれるかもしれないと思うんだ――こっちの動物の方は駄目だとしてもね」彼は、盗み聞きをされないように、声をうんと低くしていった。こんな用心をしても無駄かもしれなかったが、ロボットは、彼の言葉が聞こえたのかどうか、知らん顔をしていた。
幸い、ヒルヴァーがそれ以上詮索できないでいるうちに、群体生物《ポリプ》はまた湖から姿を現わした。この数分の間に彼の体はぐっと小さくなり、その動作も前よりちぐはぐになっていた。アルヴィンが見ている前で、その複雑で半透明な体の断片が胴体から離れ、無数の小さな破片に壊れて、すばやく散っていった。この生物は、二人の眼の前で崩れ始めていたのである。
その生物がもう一度口をきいた時、その声はひどく調子が狂っていて、聞きとりにくかった。
「次の周期が始まった」彼は何やら震えた囁き声を発した。「これほど早いはずではなかった――あと数分しかない――刺激が強烈すぎた――これ以上は持ちこたえられぬ」
アルヴィンとヒルヴァーは、この生物を、怖ろしさに魅せられたように見つめていた。二人がいま見守っているのは自然の正常な現象ではあったが、知性ある生物がどう見ても瀕死の苦悶に喘いでいるのを見るのは、気持のよいものではなかった。二人はまた、漠然と自責の念を感じていた。群体生物《ポリプ》がいつ次の周期を始めるかは何も重大なことではなかったから、そんな気持になるのは理屈にあわなかったが、それでも二人は、自分たちが現われたことによってひきおこされた異常な努力や興奮が原因で、変態が予定より早くおこったのだと悟ったのである。
アルヴィンは、ここですばやく立ちまわらねば、チャンスは失われてしまうことに気づいた――次のチャンスは数年さきかもしれないし、数世紀さきかもしれなかった。
「どちらに決めました?」と、彼は意気ごんでいった。「ロボットは僕たちといっしょに来るのですか?」
群体生物《ポリプ》が自分の分解しつつある体を意に従わせようとしている間、気が狂いそうな沈黙が続いた。声帯用の振動膜は震えたが、聞きとれるような音は出てこなかった。やがて彼は、絶望的な別れのしぐさのように、繊細な触鬚を弱々しく振ってから、それを水中に力なく垂れ、触髪はたちまち切れて流れだし、湖の中へ漂っていった。変態は数分で終った。生物の体で一インチより大きなものは、何も残っていなかった。水は小さな緑がかった切れ端で埋まり、それらは独自の生命と活動力を持っているらしく、たちまちのうちに広い湖の中に消えていった。
今は水面の漣もすっかりおさまり、水底に聞こえた規則正しい脈動も、もう静まりかえっていることだろう、とアルヴィンは思った。湖は再び死んだ――少なくともそう見えた。だが、それは錯覚だった。いつの日か、これまでにもその務めに背くことのなかった測り知れぬ力が再び働き、群体生物《ポリプ》は復活することだろう。それは不思議にも驚嘆すべき現象ではある。けれども、これは、それ自体が個別の生きた細胞の集団である人体の仕組みよりも、それほど不思議といえるのだろうか?
アルヴィンは、こんな無益な空論には、ほとんど頭を使おうとしなかった。彼は自分の目指す目標を明確に定めていたわけではなかったが、それでも失意に打ちのめされていた。彼は眼のくらむようなチャンスを逃したのであり、それはもう二度と来ないかもしれなかった。彼は悲しげに湖の方を見つめていたが、しばらくしてやっと、ヒルヴァーが耳もとで静かに話しかけている言葉の意味に気がついたのだった。
「アルヴィン」と彼の友は静かにいっていた。「どうやら、君はポイントを稼いだようだぜ」
彼はくるりと向き直った。これまで遠くに超然と浮かんでいて、二人の二十フィート以内に近づこうとはしなかったロボットは、音もなく動いてきて、今は彼の頭上一ヤードの所に浮いていた。その広い視野を持った動かぬ眼は、どこに注がれているのか明らかでなかった。もしかすると、彼は、眼の前の全視野を、同じ明瞭さで見ているのかもしれなかったが、アルヴィンは、今や彼の注意が自分の上に集中されていることを、ほとんど疑わなかった。
彼はアルヴィンの次の行動を待っているのだった。少なくともある限度までは、ロボットは今や自分の掌握下にあるのだった。彼はリスまで、ひょっとするとダイアスパーまでさえも、自分に従ってくるかもしれないのだ――もしロボットの気が変らなければだが。それまでは、自分は彼の仮の主人なのだ。
[#改段]
14
エアリーへの帰り道には、ほとんど三日を要した。それは一つには、ある理由からアルヴィンが帰りを少しも急がなかったからでもあった。リスの自然を探検することなどは、今やもっと重大な胸の躍るような計画にくらべて二義的になってしまった。彼は、今では自分の道連れになった、この固定観念に取り憑かれた異様な知性と、徐々に接触を深めていった。
彼は、ロボットの方でも何かの目的に自分を利用しようとしているのではないかと疑ったが、そうだとしたら因果応報というものだったろう。ロボットは今でも頑なに口をきこうとしなかったから、彼の真意が奈辺にあるかは、アルヴィンにはどうしてもわからなかった。何かのわけがあって――たぶん、ロボットが自分の秘密を暴露しすぎるかもしれないことを恐れて――マスターがロボツトの言語回路を強力に遮断したに違いなかった。アルヴィンはそれを解除しようとしたが、完全に失敗した。「もしお前が何もいわなければ、それはイエス[#「イエス」に傍点]という意味だとしよう」といったタイプの間接的な質問も失敗だった。そんな簡単な手にひっかかるには、このロボットは頭がよすぎたのである。
しかしその他の面では、ロボットはもっと協力的だった。口をきいたり情報を提供したりしないですむかぎり、彼はどんな命令にも従った。やがて、アルヴィンは、ダイアスパーのロボットたちを指図するのと同じように、思考だけで彼を操縦できることを発見した。これは大きな前進であったし、しばらくするとこの生きものは(このロボットが単なる機械だとは、とても思えなかった)さらに警戒を緩め、自分の眼を通して物を見ることをアルヴィンに許したのだった。彼はこういった受身の形で関係を持つことには異存がない様子だったが、さらに親密にしようとする企ては、ことごとくはねつけた。
彼は、ヒルヴァーの存在を完全に無視した。彼は、ヒルヴァーの命令には従おうとしなかったし、ヒルヴァーが彼の心を読もうとするのにも閉め出しを食わせた。初め、アルヴィンは、これにちょっとがっかりした。彼は、ヒルヴァーの強い精神力によって、この蔵いこまれた記憶の玉手箱をこじ開けられることを期待していたのだった。この世で自分以外の誰のいうこともきかない召使いを持つという強みを彼が悟ったのは、ずっと後になってからだった。
探検隊員の中でロボットに強力な異議を唱えたのはクリフだった。たぶん彼は、ここに強敵が現われたと思ったのだろう。それとも、ことによると、彼は一般論として翅がないのに飛ぶようなものに不賛成なのかもしれなかった。誰も見ていない時、彼は何度かロボットに直接攻撃をかけたが、それを全く知らん顔をされたので、ますます怒り狂った。しまいにはヒルヴァーは彼をなだめることができ、地上車で帰路についている間、クリフはこの状況をやむをえないものと認めたらしかった。ロボットと昆虫とは、乗物が音もなく森や野原を滑り抜けてゆくのにつき従っていたが、各々が自分の主人の側を離れず、競争相手がそこにいないかのように振る舞っていた。
車がエアリーに滑りこむと、セラニスはもう彼らを待っていた。この人たちの意表をつくということは不可能だな、とアルヴィンは思った。彼らは、心を繋ぎあって、自分たちの土地でおこるあらゆる事柄に接触を保っているのだった。彼は、この人たちが自分のシャルミレインでの冒険にどういう反応を示しただろうかと考えた。察するに、そのことはもうリスの誰もが知っているらしかった。
セラニスは悩んでいる様子で、常になく自信がないように見えた。アルヴィンは、今や目前に控えた選択のことを思いだした。彼はこの数日間の興奮の中で、ほとんどそのことを忘れていた。彼は、まだ将来の問題を心配して精力を費やしたくなかったのである。だが、その将来[#「将来」に傍点]はもう眼の前にあった。彼は、この二つの世界のどちらに住みたいかを、決めねばならないのだった。
セラニスは話し始めたが、その声は曇っており、アルヴィンはすぐに、リスが彼のために考えていた計画に何か手違いがあったのだと直感した。自分のいない間に、何がおこったのだろうか? ケドロンの心に細工をするための密使は、ダイアスパーに出かけたのだろうか? それで、彼らは使命を果たせなかったのだろうか?
「アルヴィン」と、セラニスは口をきった。「この前あなたにお話しなかったことがたくさんあるのですけれども、私たちの行為を理解していただくためには、今それを話さなければなりません。
あなたは、私たち二つの種族が分れ分れになっている一つの理由を知っているでしょう。すべての人間の心の底に暗いかげを落している侵略者の恐怖のために、あなた方は世界に背を向けて、自分の夢の中に閉じこもってしまいました。このリスでは、最後の攻撃を自分たちの身にひきうけましたけれども、この恐怖はそれほど大きくありませんでした。私たちは、もっと分別をもって行動しましたし、何もかも承知のうえでやったのです。
アルヴィン。人間は遠い昔に不死の生命を求めて、ついにそれを手に入れました。彼らは、死を追放した社会は、同時に生までも追放してしまうに違いないことを忘れていたのです。生命を無限に延ばすことのできる力は、個人を満足はさせるかもしれませんが、自分の種族には沈滞をもたらすのです。私たちはずっと昔に不死を放棄しましたが、ダイアスパーは今も間違った幻影を追っているのです。これこそ、私たちが別の道を進むことになった理由ですし、私たちが二度といっしょになることはないに違いない理由なのです」
この言葉は、半ば以上予想していたところだったが、予期していたからといって、少しでも打撃が軽くなったようには思えなかった。しかし、アルヴィンは自分の計画が――それはまだ、すっかりできあがってはいなかったのだが――何もかも失敗に帰したことを認めようとはせず、いま頭のごく一部でしかセラニスのいうことを聞いていなかった。彼はセラニスの言葉をすべて聞きわけ心に留めてはいたが、頭の中の意識された部分ではダイアスパーへの帰り道をたどり、自分の行く手を遮ぎる可能性のある一切の障害を思い描こうとしていた。
セラニスは、明らかに惨めな様子だった。彼女の声はまるで懇願でもしているようであり、彼女がアルヴィンに向かってだけでなく、自分の息子にも話しかけているのだということが、アルヴィンにはわかった。彼女は、二人がいっしょに過ごした数日の間に、彼らの間に理解と愛情が芽生えたことを気がついていたに違いなかった。ヒルヴァーは、自分の母親が話している間、じっと彼女を見つめていたが、彼のまなざしには単なる気遣いだけではなくて少なからぬ非難がこめられているように、アルヴィンには思えた。
「私たちは、あなたの意志に反することをさせたくはありません。でも、私たち二つの種族が再びいっしょになったらどういうことになるか、あなたには、もちろんわかりますわね。私たちの文化とあなた方の文化との間には、かつて地球とその古代の植民地とを隔てていたものに劣らないほどの深い深淵があるのです。アルヴィン、この一事だけでも考えてごらんなさい。あなたとヒルヴァーは、いまほとんど同じ年頃です。でも、ヒルヴァーや私が二人とも死んで何世紀もしてからでも、あなたはまだ若いままでしょう。しかも、この人生というのは、あなたにとっては無限に続く人生の最初の人生にすぎないのです」
部屋は深閑としていた。アルヴィンには、村の向こうの野原にいる見知らぬ獣の異様な訴えるような叫びが聞こえるほどだった。やがて、彼はまるで囁くようにいった。「僕にどうしろとおっしゃるのですか?」
「私たちは、ここに残るかダイアスパーに帰るかを、あなたに決めてもらえたらと思っていました。でも、それはもう駄目になったのです。あまりいろいろなことがおこってしまったので、あなたの選択に任せるわけにはゆかなくなったのです。あなたがここにいた短時日の間でさえ、あなたのおかげで、ひどく平和が乱されました。いいえ、あなたを責めているんではないの。あなたに悪気がなかったことはわかっています。でも、あなたがシャルミレインで会った生物は、そのままにしておいた方がよかったのではないかしら。
それから、ダイアスパーの方では……」セラニスは困りきった様子をしてみせた。「あまりにも多くの人があなたの行く先を知ってしまい、私たちの処置は手遅れでした。最も容易ならぬことは、あなたがリスを発見するのを助けた人物が行方不明なのです。あなた方の評議会も私たちの機関も、彼を発見できないでいます。ですから、彼は、私たちの安全にとって、依然として潜在的な危険になっています。きっとあなたは、私がこんなことをすっかりお話しするので、びっくりしておいででしょうけれども、そうしたからといって少しも心配はないのです。残念ですけれども、私たちに選択の余地はないように思います。私たちは、あなたに偽の記憶を植えつけてダイアスパーに送還しなければならないのです。その記憶は入念に組みたてられていて、あなたが家にもどった時には、私たちのことは何も覚えていないでしょう。あなたは、自分が地下の洞穴の中で、どちらかというと単調で危険な冒険をやってきたのだと信じることになります。そこでは通った後の天井が絶えず崩れ落ち、あなたはまずい草を食べたり、所々の泉から水を飲んだりして、やっと露命をつないだのです。あなたは死ぬまでこれが真実だと思いこむことでしょうし、ダイアスパーの皆がこの話を信じるでしょう。そうすれば、将来誰かがここを探検してみようという気をおこすような謎もないわけです。皆はリスについて知るべきことは何でも知っていると思うことでしょう」
セラニスは一息ついて心配そうな眼でアルヴィンを見た。
「私たちは、こんなことをしなければならないのを残念に思いますし、あなたがまだ私たちのことを覚えているうちに、許しを乞いたいと思います。あなたは私たちの裁断を認めないかもしれません。でも、私たちは、あなたの知らないことを、たくさん知っています。少なくとも、あなたは、発見すべきものをすべて発見したと信じることになるのですから、少しも失望は感じないでしょう」
アルヴィンは、ほんとうにそうだろうか、と思った。彼は都市の壁の向こうには何も価値のあるものはないのだと思いこんだとしても、自分がダイアスパーの型にはまった生活に落ち着いてしまうことがあろうとは、とても信じられなかった。おまけに、彼には、それを試してみる気はまるでなかったのである。
「僕がこの――治療[#「治療」に傍点]を受けるのは、いつのことですか?」とアルヴィンは訊ねた。
「今すぐです。もう用意はできています。前の時のように、私に心を開きなさい。そうすれば、あなたは、ダイアスパーで気がつくまで、何も意識しないでしょう」
アルヴィンは、しばらく黙っていた。それから、彼は静かにいった。「僕は、ヒルヴァーに、さようならをいいたい」
セラニスは、うなずいた。
「もっともです。私はしばらく席をはずしましょう。あなたの準備が整ったらもどってきます」彼女は二人を屋上に残して、屋内に下りる階段の方へ歩いていった。
アルヴィンはしばらく友達に口をきこうとはしなかった。彼は深い悲しみと同時に、自分の一切の希望をめちゃめちゃにはさせないという断乎とした決意を抱いていた。彼は、自分がその中で幸福への道を発見した村落を、もう一度見下ろした。もしセラニスの背後に控えている人たちの思いのままが通れば、彼はそこを二度と見ることがないかもしれないのだった。あの地上車は、広く枝を張った木々の一つの下にまだ停まっており、その上にはロボットが辛抱強く空中にじっと浮かんでいた。何人かの子供が、この見慣れぬ新来者を調べようと集まっていたが、大人は誰も全く関心を持たないようだった。
「ヒルヴァー」と、アルヴィンはだしぬけにいった。「僕はとても残念だ」
「僕もだ」とヒルヴァーは答えたが、その声は感情にふるえていた。「僕は、君がここに残ることになってほしいと思っていたんだ」
「君は、お母さんがやろうと思っていることが、正しいと思うか?」
「母さんを責めないでくれ。要求されたとおりのことを、やっているだけなんだ」とヒルヴァーは答えた。彼は質問に答えてはいなかったが、アルヴィンにはそれを繰り返してきく勇気は、とてもなかった。誠実な友達にそういう負担を負わせるのは、不当なことだった。
「じゃ、教えてくれないか」と、アルヴィンはいった。「記憶を変えられないうちに僕が逃げだそうとしたら、君の方の人たちはどうやって僕を止められるんだい?」
「それは、わけのないことさ。君が逃げようとすれば、僕らは君の精神を支配して、強制的にここへ戻ってくるようにするんだよ」
アルヴィンは、そんなことだろうと思っていたので、がっかりはしなかった。彼は、急な別れを前にして、明らかに気も顛倒しているヒルヴァーに、自分の真意が打ち明けられたらと思ったが、自分の計画がそのために失敗するかもしれないような危険をおかすわけにはゆかなかった。彼は、極めて慎重に一つ一つの細部を検討し、自分の望む条件のもとにダイアスパーに戻ることのできる唯一の道を、心の中で確かめた。
彼が対決しなければならない危険が一つだけあったが、それに対しては、彼は身を守るすべは何もないのだった。もしセラニスが約束を破って、自分の心の中を探っているとしたら、自分の周到な計画もすべて水の泡になるのだった。
彼は手を差しだし、ヒルヴァーはそれをしっかりと握ったが、何もいえない様子だった。
「下にいって、お母さんに会おう」とアルヴィンはいった。「行く前に、村の人たちにいくらか会えるといいんだがな」
ヒルヴァーは、黙って彼の後について、静かな涼しい家の中に入り、玄関のホールを抜けて、建物を取り囲んでいる色のついたガラスの輪の上に出た。セラニスはそこで待っており、落ち着いて決意を固めているようだった。彼女はアルヴィンが何か隠しごとをしているのに気がついており、万一に備えて考えておいた手段のことをもう一度思い返した。人が何か大きな力仕事をする前に筋肉を動かしてみるように、彼女は自分が使わねばならないかもしれない強制パターンを、ざっと点検し直した。
「用意はいいですか、アルヴィン?」と、彼女は訊ねた。
「準備完了」とアルヴィンは答えたが、彼の声には、セラニスが思わず彼をきっと見やったような響きが籠っていた。
「では、前の時のように心を空白にした方がいいでしょう。それから先は、ダイアスパーで気がつくまで、何も感じないし、何もわからないでしょう」
アルヴィンは、ヒルヴァーの方を向き、セラニスに聞こえないように急いで囁いた。「さようなら、ヒルヴァー。心配するなよ――僕は戻ってくるとも[#「僕は戻ってくるとも」に傍点]」それから、彼はまたセラニスに向かいあった。
「僕は、あなたがやろうとしていることを、怨んではいません」と彼はいった。「もちろん、あなた方はそれがいちばんいいと信じてやっていることです。でも、僕は、あなた方が間違っていると思いますよ。リスとダイアスパーは、いつまでも分れ分れになっているべきではありません。いつか、どちらもお互いがどうしても必要な時が来るでしょう。ですから、僕は、知ったことをそっくり家へ持って帰ります――それでも[#「それでも」に傍点]、あなた方に僕が止められるとは思いませんね[#「あなた方に僕が止められるとは思いませんね」に傍点]」
彼はもうぐずぐずしてはいなかったが、それでも同じことだった。セラニスは微動だにしなかったが、彼はたちまち自分の体がいうことをきかなくなってゆくのを感じた。自分の意志の力を払いのける力は、予想以上に強力だった。彼は、見えない大勢の精神が、セラニスを助けているに違いない、と気がついた。彼は、なすところなく家の中へ戻ってゆき、その恐るべき一瞬、彼は我がこと破れたりと思った。
その時、突如として鋼鉄と水晶の光が閃き、金属の腕がすばやく彼を抱きかかえた。予想していたとおり、彼の体はそれに抵抗したが、いくらもがいても無駄だった。地面は足もとから遠ざかり、ヒルヴァーが驚きに立ちすくみ、馬鹿みたいに笑っているのが、ちらりと見えた。
ロボットは、地上十数フィートの高さを、人間が走るよりもずっと速く、アルヴィンを運んでいた。セラニスは直ちにアルヴィンの策略を悟り、彼女が精神を支配する力を緩めると、アルヴィンのもがくのも止んでいった。だが、彼女はまだ負けていなかった。やがて、アルヴィンが怖れ、それに対抗すべく最善を尽しておいたことがおこった。
いまや彼の心の中では、二人の別々の人間が闘っていた。その一方は、自分を下ろしてくれと、ロボットに懇願していた。本物のアルヴィンは、息を凝らして、とても闘える望みはないと知っている力に僅かばかり抵抗しながら、成行きを見守っていた。彼は、大博奕を打ったのだった。彼の当てにならない味方が、自分の与えておいたようなややこしい命令に従うかどうかを、前もって知る手段はなかったのである。彼はロボットに、どんなことがあろうとも、自分が無事にダイアスパーの中に入るまでは、以後自分のどんな命令にも従ってはならぬ、といいつけたのだった。これが命令だった。ロボットがこれに従うかどうか、彼は自分の運命を人間の手の届かない所に委ねたのだった。
いささかの躊躇もなく、機械はアルヴィンが丁寧に教えておいたとおりの道を、まっしぐらに進んでいた。彼の一部は今も躍起になって自分を放すように懇願していたが、彼はもう自分が安全だと知っていた。そうして、やがてセラニスもそれを悟り、彼の頭脳の中の力はお互いに闘いあうのを止めたのである。彼は、古い時代の頃の放浪者が、船のマストに縛りつけられて、サイレンの歌がブドウ酒のように黒い海の彼方へ消え去ってゆくのを聞いた時のような安らぎを、あらためて感じた。
[#改段]
15
アルヴィンは、再び例の自動走路の部屋に戻るまでは、気を緩めなかった。リスの人たちが、彼の乗っている乗物を止めたり、あるいはさらに逆戻りさえさせて、彼をなすところなく出発点に引き戻すことができるかもしれないという危険が、依然としてあったのである。だが、帰りも往きの旅と同じように何事もおこらず、リスを出てから四十分後には、彼はヤーラン・ゼイの墓の中にいた。
彼を待っていたのは、数世紀このかた身につけたことのない黒の法服を着た、評議会の役人たちだった。アルヴィンは、この歓迎委員会に迎えられても、少しもびっくりしなかったし、大して不安も感じなかった。彼は多くの障害を突破してきたのだから、もう一つそれが重なったからといって大した違いはなかったのである。彼はダイアスパーを出てから多くのことを学び、その知識とともに傲慢と紙一重なほどの自信を得ていた。そればかりか、彼は今では、移り気かもしれないが強力な味方を持っていた。リスで最も優秀な頭脳といえども、彼の計画を阻止することはできなかったのだ。彼は、何故とはなく、ダイアスパーにそれ以上のことができるとは思わなかった。
この信念には合理的な根拠もあったが、一部は或る条理を越えたものに基いていた。それは、アルヴィンの心中に次第に育ってきた、自分の運命に対する信念だった。自分の出生の謎、先人未踏のことをやり遂げたこと、新しい展望が次々と彼の前に開けてきた仕方、障害も彼を止めることができなかった事情――これらすべてが彼の自信を強めた。自分の運命に対する信念というものは、神が人間に授けろる最も貴重な贈り物の一つであるが、いかに多くのものがそのために破滅に導かれたかを、アルヴィンは知らなかったのである。
「アルヴィン」と、この都市の執行人たちの統率者がいった。「我々は、評議会があなたの事件を聴問して裁判を下すまで、あなたの行く先に絶えず同行するように命ぜられている」
「僕は、どんな罪で告発されているんですか?」とアルヴィンは訊ねた。彼は、今もなおリスからの脱出の興奮で意気旺んであり、浮き浮きとしていて、この新しい事態の発展をまだあまり真面目には考えていなかった。たぶん、ケドロンが喋ったのだろう。彼は、道化師が自分の秘密を洩らしたことに、ちょっと不快を感じた。
「告発は行なわれていません」という答だった。「もし必要なら、あなたの聴問が終ってから、行なわれるでしょう」
「それは、いつのことですか?」
「もうすぐだと思う」執行人は、明らかに落着きを失っており、この迷惑千万な任務をどう捌いたらいいか、自信がない様子だった。彼は、アルヴィンを仲間の市民として扱ったかと思うと、次には自分の監視人としての義務を思いだして、必要以上によそよそしさを装ったりしていた。
「このロボットは」と、彼は不意にアルヴィンの道連れを指さしていった。「どこから来たのかね。これは都市のロボットの一つかな?」
「いいえ」とアルヴィンは答えた。「これは、僕がリス――つまり僕のいっていた土地で見つけたのです。僕は、これを中央計算機《セントラル・コンピューター》に会わせるために連れてきたのです」
この平然とした陳述は、大へんな騒ぎをひきおこした。ダイアスパーの外に何かがあるという事実でさえ承認しがたいのに、アルヴィンがそこの住人の一人を連れてきて都市の頭脳にひきあわせることを提案するなどというのは、もってのほかのことだった。執行人たちは、どうしていいかわからないといった狼狽ぶりで顔を見合わせたので、アルヴィンはそれに笑いを禁じえなかった。
互いに興奮して囁きあいながら目立たぬように後について来る護衛たちを従えて、アルヴィンは公園の中を抜けて都市に戻ってくる間に次の行動を考えた。まずなすべきことは、留守中に何がおこったのかを正確に知ることだった。セラニスは、ケドロンが行方不明になったと語っていた。ダイアスパーには一人の人間が隠れられる場所は無数にあり、道化師の都市についての知識は無類のものであるから、彼が自分から姿を現わさないかぎり、発見されるようなことは、まずありそうもなかった。たぶん、ケドロンが必ず見るような場所に書きおきをのこしておいて、彼と会合の約束ができるだろう、とアルヴィンは思った。しかし監視人がついていれば、それも難しいかもしれない。
彼は、この監視がなかなか気を遣っていることを、認めないわけにはゆかなかった。自分の部屋につく頃には、彼は執行人たちがいることをほとんど忘れかけていた。自分がダイアスパーを離れようとしないかぎり、彼らは自分の行動に干渉しないだろう、と彼は想像した。それに、とりあえずは、彼はダイアスパーを離れるつもりはなかったのである。事実、前の道を通ってリスに戻るのが不可能なことは、絶対に確実だった。今頃はきっと、セラニスと同僚たちの手で、地下の輸送機《キャリアー》施設は動かなくされていることだろう。
執行人たちは、彼の部屋まではついてこなかった。彼らは出口が一つしかないことを知っており、その外側に陣取っていた。ロボットについては何も指示がなかったから、彼らはそれがアルヴィンについてゆくに任せた。この機械は明らかに別世界で作られたものであったから、彼らはそれに係わりあいになる気は全くなかった。その振舞いを見ただけでは、ロボットがアルヴィンに従う召使いなのか、それとも自分の自由意志で動いているのかは、彼らにはわからなかった。この点がはっきりしないことから見て、彼らはロボットを文字通り勝手にさせておくことで満足した。
後で壁が閉じると、アルヴィンはお気に入りの寝椅子を物質化させて、その上に体を投げだした。住み慣れた環境を楽しみながら、彼は記憶装置から自分の絵や彫刻の近作を呼びだし、それを批判的な眼で吟味した。彼は前にもそれらに満足できなかったのだが、今となっては二重の意味で不満であり、そこにはもういささかも誇るに足るようなものはなかった。これらを創造した人間は、もう存在してはいないのだった。アルヴィンは、ダイアスパーを離れていた数日間に、一生涯もの経験が詰めこまれたような気がしていた。
彼は、これらの青春期の作品を、単に記憶バンクに戻すかわりに、すっかり消去して、永遠に抹殺してしまった。部屋は、自分が寄りかかっている寝椅子のほかは、また空っぽになり、ロボットは、依然として底の知れない眼で見つめていた。このロボットはダイアスパーのことをどう思っているのだろうか、とアルヴィンは考えた。それから、ロボットはこの都市がまだ星々と接触を保っていた最後の日々を知っていたのだから、ここに初めて来たわけではないことを思いだした。
アルヴィンは友達を呼びだし始め、やっとすっかり寛いだ気分を取りもどした。彼はエリストンとエタニアから始めたが、それは彼らに会ってもう一度話したいと少しでも本気で思っていたわけではなくて、むしろお義理の気持からだった。彼らの通報機が留守を伝えた時も、彼は少しも残念とは思わなかったが、両方の住所に自分が戻ったことを知らせる短い伝言を残しておいた。今頃までには全市が自分の戻ったことを知っているだろうから、これは全く不必要なことだった。しかし、彼は、二人に自分が気を遣っていることを認めてもらえるだろうと思ったのである。彼は思いやりというものを学びつつあった。もっとも、多くの美徳と同じく、これも自然で無意識なものでなければ大して価値がないというところまでは、まだわかっていなかったのだが。
それから、突然思いついて、彼はケドロンがずっと以前にロランヌの塔で教えてくれた番号を呼んでみた。もちろん、彼は応答があることを期待してはいなかったのだが、それでもケドロンが伝言を残してある可能性もあった。
彼の推測は当たっていた。だが、伝言そのものは、とんでもなく予想外なものだった。
壁が消えて、ケドロンが眼の前に立っていた。道化師は疲れていらいらした様子であり、アルヴィンをリスへの道に送りだした自信満々で少し皮肉な彼の面影はもうなかった。彼の眼には何かにとり憑かれたような様子があり、彼はもう時間が残り少ないとでもいうように喋った。
「アルヴィン」と、彼は話し始めた。「これは録音したものだ。君だけがこれを受けとれるようにしてあるが、君はこれを好きなように利用するがいい。僕には、どうだっていいことだ。
ヤーラン・ゼイの墓に戻った時、僕はアリストラが我々の後をつけていたのを見つけた。彼女は、君がダイアスパーを出ていったこと、また僕が君を助けたことを、評議会に知らせたに違いない。直ちに執行人たちが僕を探し始め、僕は身を隠すことに決めた。僕はそれには慣れている。前にも、僕の悪戯のどれかが皆から評価され損なった時に、そうしたものだった(この辺には、以前のケドロンの面影があるな、とアルヴィンは思った)。彼らは千年かかっても僕を見つけられないはずだった。だが、ほかの誰かが、すんでに僕を見つけるところだった。アルヴィン、他所者がダイアスパーの中にいるんだ。彼らはリスから来たとしか考えられないし、僕を探しているんだ。僕にはこれがどういう意味だかわからないが、それがどうも気に食わないんだ。勝手がわからないはずの都市の中でさえ、僕を危うく捕まえそうになったということは、彼らがテレパシーの能力を持っていることを示している。僕は評議会と闘うことはできる。しかし、これは僕の知らない危険だし、僕はそれと対決したいとは思わない。
そこで僕は、評議会が僕に強制するだろう(前にも、そういって脅かされたんだから)と思われる処置に先手を打つことにする。僕は、誰からも追いかけられず、また今ダイアスパーにおころうとしている変化から逃げられるような場所に行こうと思う。たぶん、僕のすることは馬鹿げているかもしれない。だが、時間がそれを証明するだろう。いつか、僕は答を知ることだろう。
君はもう、僕が創造の殿堂の中に――安らかな記憶バンクの中に戻ってしまっていることを推察しているだろう。何がおころうとも、僕は、中央計算機《セントラル・コンピューター》と彼がダイアスパーの利益のために支配している力を信頼している。何かが中央計算機《セントラル・コンピューター》をいじくるようなことがあれば、我々はみんなお終いだ。そうでないなら、僕は何も怖れることはないわけだ。
今から五万年か十万年たって、もう一度ダイアスパーの中に出て来るまで、僕にはほんの一瞬しかたっていないように思えることだろう。どんな都市を、僕は見ることになるのだろうか? もし君がそこにいるとしたら、奇妙なもんだろうな。思うに、いつか我々はまた会うことだろう。僕がその出会いを待ちこがれているのか、それとも怖がっているのか、自分でもわからないんだ。
アルヴィン、僕はとうとう君を理解することができなかったよ。時々、わかったと思うほど自惚れていた時もあったんだが。中央計算機《セントラル・コンピューター》だけが真相を知っている。ちょうど、長い年代の間に時々現われてきては姿を消してしまった、他のユニーク[#「ユニーク」に傍点]たちについても真相を知っているようにね。彼らがどうなったか、君にはわかっただろうか。
思うに、僕が未来に逃げだす一つの理由は、待ちきれないからだ。僕は、君が始めたことの結果を知りたいんだが、その中途の段階はどうしてもすっとばしたいんだ。それは不愉快かもしれないからね。僕にとっては見かけ上いまからたった数分後にやってくるその世界で、君が建設者として記憶されているか、それとも破壊者として記憶されているか――それとも、そもそも記憶に残されているかどうかを知るのは、興味深いことだ。
さようなら、アルヴィン。僕は君にある忠告をしようかと思っていたのだが、君はそれを聞くまいと思う。いつもそうしていたように、君は我が道を行くだろう。そうして、友達というものは、君にとっては、その時の都合で利用したり捨てて顧みなかったりする道具にすぎないんだ。
これでお終いだ。これ以上いうことはないと思うよ」
しばらくの間ケドロンは――もはや都市の記憶セルの中で電荷のパターンとしてしか存在していないケドロンは、諦めに悲しみを交えた(と思えたのだが)様子でアルヴィンを見つめていた。それから、スクリーンは再び空白に返った。
アルヴィンはケドロンの映像が消えた後も、長いあいだ身じろぎもしなかった。彼は、これまでの一生に滅多にやったことがないほど、自分の心の底を確かめていた。何故なら、ケドロンの述べたことの多くに真実がこもっていることは、否定できなかったからだった。数々の計画や冒険の途中で、自分のしていることが友達の誰かにどんな影響を及ぼしているかを、胸に手を当てて考えてみたことがあるだろうか? 彼は皆に心配ごとをもたらし、やがてもっと悪いものを持ってくるかもしれないのだが、それというのも、すべては彼の飽くなき好奇心と、知るべからざることを知りたいという欲望からなのだ。
彼は、ケドロンが好きだったことはなかった。道化師の辛辣な個性は、たとえアルヴィンがそうしたいと思っても、多少とも近しい関係を持つことを妨げた。しかもなお、いまケドロンの別れの言葉を考えながら、彼は後悔に揺り動かされていた。自分の行為のせいで、道化師は今の時代から未知の未来へ逃げ出したのだった。
だが、もちろん、そのことで自分を責める必要は何もないんだ、とアルヴィンは考えた。これは自分が前から知っていたこと、つまりケドロンが臆病者だということを、証明しているだけのことだ。たぶん、彼はダイアスパーの他の誰かれと同じ程度に臆病者ではないのだろう。彼は、強力な想像力を持っているという余計な不運を負っているのだ。自分は、彼の運命に若干の責任を感じてもいいが、断じて全責任を負うものではない。
自分は、ダイアスパーの他の誰を、傷つけたり苦しませたりしただろうか? 彼は自分の教師――もっとも難儀な生徒だったに違いない自分を根気よく教えてくれたジェセラクのことを考えた。彼は、長い年月にわたって自分の両親が示してくれた小さな親切の数々を思いだした。今ふり返ってみると、それは彼が思っていたよりも多かった。
それから、彼はアリストラのことを考えた。彼女は自分を愛した。そうして自分は、意のおもむくままにその愛を受け入れ、また無視した。しかし、自分はほかにどうすればよかったのか? 頭からはねつけていた方が、彼女はまだ幸福だったとでもいうのか?
彼は、アリストラにせよ、自分の知ったダイアスパーのどの女にせよ、自分がなぜ愛したことがなかったのかを、いま初めて悟ったのだった。それは、リスが教えてくれたもう一つの教訓だった。ダイアスパーは多くのことを忘れ去っていたが、その中の一つに入っているのが、愛のほんとうの意味ということだった。エアリーで彼は、自分の子供を膝の上であやす母親たちを眺めた。また彼自身も、この小さな頼りなげな生きものたち全部を守ってやりたいという優しさ――愛の私心なき双生児である感情を感じたのであった。しかし、いまダイアスパーでは、どんな女も、かつては愛の最後の目標だったものを知りもせず、知ろうともしないのだった。
不死の都市の中には、ほんとうの感情、深い情熱はないのだった。ことによると、こういう感情は、ただほんの束の間のものだからこそ――永遠に続くことができず、ダイアスパーが追放した影のもとに絶えずあるからこそ――栄えるものなのかもしれない。
この瞬間にこそ――もしそんな瞬間があったとすれば――アルヴィンは自分に定められた運命を自覚したのだった。今日まで、彼は自分の衝動のままに、無意識に動いていた。もしそれほど古風な類例を知っていたとすれば、彼は自分を奔馬に乗った騎手に譬えたかもしれない。奔馬は彼をさまざまな変わった場所へ連れていったし、またこれからもそうするかもしれない。しかし、めちゃめちゃに走りまわっている間にも、奔馬は自分の能力を彼に示し、彼がほんとうに行きたい場所を教えてくれたのだった。
アルヴィンの物思いは、壁のスクリーソのチャイムで荒々しく破られた。その音色から、それが呼出しの合図ではなくて、誰かが会いにやってきたのだということが、彼にはすぐにわかった。波は入室を認める合図を発し、一瞬後にはジェセラクと顔を合わせていた。
彼の教師は気むずかしい顔をしていたが、無愛想ではなかった。
「アルヴィン、わしは、お前を評議会に出頭させるように求められておる」と彼はいった。「評議会は、お前を聴問するために待っておるのじゃ」その時、ジェセラクはロボットを見て、興味深そうに調べた。「なるほど、これが、旅からお前が連れ返ったという道連れじゃな。これも、いっしょに来た方がいいじゃろう」
それは、アルヴィンにも非常に都合がよかった。このロボットは、すでに一度、彼を危険な状況から救いだしてくれたし、彼はまたそれに助けてもらわねばならないかもしれなかったのだ。アルヴィンは、この機械が、自分のために巻きこまれた冒険や事態の変転のことを、どう思っているのだろうかと考え、これでもう千回目にもなるのだが、このぴったり閉ざされた心の中で何がおこっているのかを知ることができたらと思った。アルヴィンの感じでは、ロボットは、機が熟したと判断できるまで自分からは何も進んですることなく、さしあたりは観察、分析して、彼なりの結論をひきだすことに決めたように思えた。やがて、たぶん全く突如として、彼は行動することに決めるかもしれない。しかも、彼の決めることは、アルヴィンの計画には、都合がよくないかもしれない。自分の唯一の味方は、自己本位という極めて弱い絆で自分と結ばれているのであり、今にも自分を見捨てるかもしれないのだった。
アリストラは、通りに出る斜道の上で二人を待っていた。仮にアルヴィンが、自分の秘密がばれたことに果たした役割について彼女を責めたいと思っていたとしても、彼にはそうする勇気はなかった。彼女は見るからに苦しんでおり、彼のところへ走り寄った時、その眼は涙でいっぱいだった。
「まあ、アルヴィン!」と、彼女は泣き声でいった。「皆はあなたをどうするつもりなんでしょう?」
アルヴィンは、二人ともがびっくりしたほどのやさしさで彼女の手をとった。
「心配しなくていいんだよ、アリストラ」と彼はいった。「何もかも、うまくゆくさ。どうせ最悪の場合でも、評議会にできることといったら、僕を記憶バンクに送り返すだけのことなんだから。それに、僕は何となく、そんなことがおこるとは思えないんだ」
彼女の美しくも打ちひしがれた様子はひどく魅力があったので、今となってさえ、アルヴィンは自分の体が旧式な仕方で彼女に反応するのを感じた。だが、それは肉体的な誘惑にすぎないのだった。彼はそれを軽蔑しはしなかったが、今はそれに満足しなかった。彼はそっと自分の手をはなして振り返ると、ジェセラクの後を追って議事堂の方へ向かっていった。
アルヴィンの行くのを見送るアリストラの心は寂しかったが、もう苦しみは残っていなかった。いま彼女は自分がアルヴィンを失ったのではないことを知ったのだった――彼はもともと自分のものではなかったのだから。この真実を認めることによって、彼女は空しい悲哀を超越するに至ったのである。
アルヴィンと彼の従者が見慣れた通りを進んでゆく間も、仲間の市民が寄せる物珍らしげな、あるいは怖そうなまなざしに、彼はほとんど気をとめなかった。彼は自分が展開しなければならぬかもしれない議論を組み立て、また話を自分にいちばん都合がいいように拵えあげているところだった。彼は時々、自分は少しも不安を感じてはいないし、今でも事態を切り抜ける力を持っているんだ、と自分にいい聞かすのだった。
彼らは控室でほんの数分しか待たされなかったが、それでさえアルヴィンにとっては長すぎた。彼は、自分が怖がっていないのなら、どうしてこんなに奇妙に足に力が入らないんだろうと思った。彼は、この感じを前に経験しており、それはあのリスの遠い丘の最後の昇りをやっとの思いで登った時だった。ヒルヴァーはそこで彼に滝を見せてくれ、その頂きから二人は光の爆発を見て、シャルミレインに惹き寄せられたのだった。彼は、ヒルヴァーがいまどうしているだろうか。また二人はもう一度会うことがあるだろうかと考えた。
突然、彼には二人がもう一度会うことが、とても重要なことに思えてきた。
大きな扉が開くと、彼はジェセラクについて会議室に入った。二十人のメンバーは、すでに馬蹄形のテーブルについており、アルヴィンは空席が一つもないのを見て、満足な気持だった。全評議員が、一人の欠席もなしに集まったというのは、数世紀このかた、これが最初だったに違いない。たまに開かれる評議会の会議は、ふつうは全くの形式的なものであって、ふつうの用件はすべて何回かのテレビ電話と、もし必要ならば議長と中央計算機《セントラル・コンピューター》との会見によって処置されるのだった。
アルヴィンは、評議員のメンバーのほとんどの顔を知っており、これだけ多数の見慣れた顔があることにほっとした。ジェセラクと同じように、彼らは無愛想ではなく、ただ心配して途方に暮れているだけのように見えた。彼らは、結局のところ話のわかる人たちなのだ。彼らは、誰かが自分たちの間違っていたことを証明したので、困っているのかもしれない。だが、アルヴィンは、彼らが自分に何か敵意を抱いているとは信じなかった。昔だったら、これは大へん早まった見方だったろうが、人間の性質は或る面で進歩したのだった。
彼らは、公正な聴問を行なうだろう。だが、彼らが何を考えるかは何も重要なことではないのだ。彼を裁くのはもはや評議会ではなく、中央計算機《セントラル・コンピューター》だったのである。
[#改段]
16
儀礼は抜きだった。議長は開会を宜してから、アルヴィンに向き直った。
「アルヴィン」と、彼はかなり優しくいった。「十日前にお前が行方不明になってから、どんなことがおこったか、話してもらいたいのじゃが」
「行方不明」という言葉が使われているのは、ずいぶん意味深長だな、とアルヴィンは思った。この期に及んでも、評議会は、彼がほんとうにダイアスパーの外へ出ていったのだということを、認めたくないのだった。この人たちは、都市の中に他所者が入りこんでいることを知っているのだろうか、と彼は考えたが、それはどちらかというと疑わしいと思った。もしそれを知っていたら、彼らはもっとずっと不安を示していることだろう。
彼は、自分の話を、はっきりと粉飾抜きで話した。それだけでも、彼らの耳には充分なくらい異様で信じ難いものであり、それに何も尾ひれをつける必要はなかった。たった一カ所だけ、彼の話は厳密にいうと正確でなかった。というのは、自分がリスから逃げだしたやり方については、何もいわなかったのである。もう一度、同じ方法を使いたくなることは、大いにありそうだったのだ。
彼の話が進むにつれて評議会のメンバーたちの態度が変わってくる有様は全く見ものだった。初めのうち、彼らは自分たちの信じていたもの一切が否定され、自分たちの心の底にある偏見が冒涜されることを認めようとせずに、懐疑的な態度だった。アルヴィンが都市の外の世界を探検したいという自分の激しい欲望や、そういう世界が現に存在しているに違いないという理由のない確信を述べた時、彼らはアルヴィンが何か別世界の不可解な動物ででもあるかのように、眼を丸くしたものである。彼らの頭からすれば、アルヴィンはまさにそうだったのだ。しかし、彼らは、最後には、アルヴィンが正しかったこと、自分たちが間違っていたことを認めざるをえなかった。アルヴィンの話が展開してゆくにつれて、彼らがどんな不信を抱いていたとしても、それは徐々に氷解していった。彼らにはアルヴィンの話したことが気に入らなかったかもしれないが、それが真実であることを否定するわけには、もういかなかった。もしそんな気がおこったとすれば、彼らはアルヴィンの物いわぬ道連れを一目見るだけで充分だったのである。
彼の話の中で、一カ所だけ、一同の憤激を呼んだところがあった――それは彼に向けられたものではなかったが。リスが、ダイアスパーに汚されることを、ただひたすらに避けようとしていること、またそういう悲劇がおこらないようにセラニスがどんな手段を取ったかということをアルヴィンが説明すると、満場はそれに対する怒りで騒然となった。都市は自らの文化を誇りとしており、それには正当な根拠があった。自分たちを劣等者と見なすようなものがいるなどということは、評議会のメンバーにはとても耐えられることではなかったのである。
アルヴィンは、何にせよ自分の述べることが反感を持たれないように、非常に気をつけていた。彼は、できうるかぎり評議会を味方につけたいと思っていたのである。彼は全体を通じて、自分が何も悪いことをしたとは思っておらず、自分が発見したことを非難されるどころか賞めてもらえると思っているという印象を与えようとした。これは彼に取りうる最上の策だった。というのは、これで、彼に投げかけられそうな批判の大部分を、事前に封じてしまったのである。これはまた、彼が意図したわけではなかったが、非難は挙げて行方不明のケドロンに向けられるという効果を生んだ。聞いているものたちには、アルヴィン自身は若気のいたりで、自分のしていることが何も危険だとはわからなかったのだということは明らかだった。しかし、道化師は当然もっと分別を持つべきだったのにもかかわらず、徹頭徹尾無責任なやり方で行動したのだった。彼らはまだ、ケドロン自身もこの意見に全く賛成であろうとは、知らなかったのである。
アルヴィンの教師たるジェセラクも、若干の譴責に値した。何人かの評議員は、時々、意味ありげな眼で彼をじろりと見た。ジェセラクは彼らが何を考えているかはよく承知していたが、気にかける様子はなかった。黎明期このかた最も独創的な精神を教えたというのは、いささか誇るに足ることであり、何ものもジェセラクからこの名誉を奪うことはできなかったのである。
冒険についての事実に基く説明を終えてから、アルヴィンは初めて少々の説得を試みた。彼は、自分がリスで学んだことを、何とかしてこの人たちに納得させねばならないと思った。だが、それにしても、彼らが見たこともなく、ほとんど想像もできないものを、どうしたら本当にわからせることができるだろうか?
「人類の中で生き残った二つの流れが、これほど大へんな長い間、分れ分れになっていたのは、大きな悲劇だと思います」と、彼はいった。「たぶん、いつか私たちは、どうしてそんなことになったのかを知ることでしょう。でも、今もっと大切なことは、この裂け目を塞いで、それが二度とおこらないようにすることです。リスにいた時、彼らが私たちより優れているという見解に、私は反対しました。彼らには、私たちに教えることがたくさんあるかもしれません。しかし、私たちにも、彼らに教えることがたくさんあるのです。私たちが、お互いに相手から学ぶことは何もないと思いこんでいるとすれば、私たちはどちらも[#「どちらも」に傍点]間違っているということは明らかではないでしょうか」
彼は、何かを期待するように、並んだ顔を見まわし、先を続ける勇気を得た。
「私たちの祖先は」と、彼は話を続けた。「星の世界に達する帝国を建設しました。人間は、そうしたすべての惑星の間を、思うがままに往来しました――ところが、今では、その子孫たちは、自分たちの都市の壁から向こうへは、身動きするのも怖れているのです。何故だか[#「何故だか」に傍点]、いいましょうか[#「いいましょうか」に傍点]?」彼は息を継いだ。広い、がらんとした部屋の中では、動くものは全くなかった。
「何故なら、私たちは怖れているからです。歴史の初めにおこった何かを怖れているからです。私はリスで真実を聞かされました。もっとも、とっくの昔にそれを推察してはいたのですけれども。私たちは、いつまでも、ほかのものが何も存在していないふりをして、臆病者のようにダイアスパーに隠れているべきでしょうか――十億年も前に侵略者たち[#「侵略者たち」に傍点]が人間を地球に追い返したという理由だけで」
彼は、皆の秘かな恐怖を的確に曝いたのだった――自分では全く感じたことがなく、したがって彼にはその力をほんとうに理解はできない恐怖を。さあ、彼らは好きにするがいいのだ。自分は思ったとおりの真実を述べたまでのことなのだから。
議長は、難しい顔をして彼を見た。
「まだ何かいうことがあるかな?」と彼は訊ねた。「わしらは、これから処置を考えるのじゃが」
「もう一つだけ。私は、このロボットを、中央計算機《セントラル・コンピューター》のところにつれてゆきたいのです」
「それはまた、なぜかね? 計算機は、この部屋でおこったことを、何もかもすでに知っているのだよ」
「それでも、行きたいのです」アルヴィンは、丁寧に、しかし頑強に主張した。「私は、評議会にも計算機にも、許可がいただきたいのです」
議長が答える暇もなく、澄んだ静かな声が部屋に響き渡った。アルヴィンは、今までにその声を聞いたことはなかったが、誰が口をきいているかがわかった。この偉大な頭脳にとっては出先きのほんの一部にすぎない情報機も、人間に話すことはできた。だが、それらには、このような疑うべくもない英知と権威の響きはないのだった。
「その子を、私のところに、よこしなさい」と、中央計算機《セントラル・コンピューター》はいったのである。
アルヴィンは、議長を見た。彼の名誉のためにいっておくが、彼はこの勝ちに乗じようとはせず、ただこう訊ねただけだった。「行ってもいいでしょうか?」
議長は会議室を見まわしたが、どこからも異議が出ないのを見ると、やや頼りなげにいった。「まあ、いいじゃろう。執行人たちが同行して、わしらの討議が終わった時、お前をここに連れ戻すことにしよう」
アルヴィンは感謝して軽く頭を下げた。大きな扉が彼の前に開き、彼は部屋から出ていった。ジェセラクは彼についていった。扉が後で閉まると、アルヴィンは自分の教師の方に向き直った。
「これから評議会はどうすると思いますか?」彼は心配そうに訊ねた。ジェセラクは微笑した。
「いつもながら、お前は、せっかちじゃのう」と彼はいった。「わしの推測に何の意味があるやら知らぬが、彼らはヤーラン・ゼイの墓を封鎖することに決めて、誰も二度とお前のような旅行ができぬようにするじゃろうな。そうなれば、ダイアスパーは外の世界から邪魔されずに、これまでどおり続いてゆくわけじゃ」
「それこそ、僕がおそれていたことなのです」と、アルヴィンは苦々しげにいった。
「それで、お前はまだそれを妨げられると思っておるのじゃな?」
アルヴィンは、すぐには答えなかった。彼は、ジェセラクが自分の意図を読みとっていたことを知ったが、少なくとも彼の教師には、自分の計画を予測することはできないはずだった。彼には計画がなかったのだから。ここまでくれば、あとは出たとこ勝負でいって、新しい状況がおこってくるのに従ってそれに対処するまでのことだった。
「先生は、僕が間違ったことをしていると思いますか?」やがて、彼はこういった。ジェセラクは、彼の声に今までにない響きがあるのに驚いた。それは微かな謙虚さをほのめかしており、アルヴィンが初めて他人の同意を求めようとする気持をわずかに表わしていた。ジェセラクは、それに心を動かされたが、賢明にもそれをあまり深刻には受けとらなかった。アルヴィンはひどく緊張した状態にあり、彼の性格に何らかの進境があったとしても、それが恒久的なものと考えない方が無難と思われた。
「それは、非常に答えにくい質問じゃな」ジェセラクは、ゆっくりといった。「わしは、あらゆる知識は貴重だといいたいところであるし、お前がわしらの知識に多くを加えたということも否定できぬ。が、お前は、わしらの危険をも増大させたのであるし、長い眼で見てどちらが重要じゃろうかな? お前は、このことを一歩退いて考えてみたことが、どのくらいあるのかな?」
しばらくの間、師弟は、互いに相手を考え深そうに見つめあった。この時、おそらくどちらもが、今までになかったほど相手の見方をはっきりと知ったことだろう。やがて、ふと我に返ったように、二人は同時に向きを変え、会議室からの長い廊下を歩いていった。護衛たちは、なおも辛抱強く後に従っていた。
この世界は人間のために作られたものじゃない、とアルヴィンは思った。強烈な青い光がぎらぎらと輝く下に――それは非常に眩くて、眼が痛いほどだった――長く広い廊下が無限に延びているように見えた。ダイアスパーのロボットたちは、その終わりなき一生を通じて、これらの大きな通路を往来するのに違いない。しかもなお、何世紀もの間に一度たりとも、ここに人間の足音が反響したことはなかったのだ。
ここにあるのは地下の都市――それなくしてはダイアスパーは存在しえない機械の都市だった。数百ヤード行くと、その廊下は、さしわたし一マイル以上もある円形の部屋に出るのだった。その屋根は巨大な円柱に支えられ、その柱は同時に動力センターの想像を絶する重みをも支えているに相違なかった。地図によれば、中央計算機《セントラル・コンピューター》は、ここでダイアスパーの運命を永遠に瞑想しているのだった。
部屋はそこにあった。また、それはアルヴィンが想像をたくましくしていたよりも遙かに広大でさえあった。だが、計算機はどこにいるのか? そんな考えは幼稚だとは知りつつも、彼は理由もなしに単独の巨大な機械に出会うことを予想していた。眼下の途方もなく巨大な、しかし意味をなさない眺望を見た彼は、驚嘆と不安に思わず足を止めた。
彼らが通ってきた廊下は、その部屋の壁の上のところで終わっていた。それは確かに、これまでに人間の手になった最大の空洞だった。両側には長い斜道が、遠くの床へ滑らかに下りていた。そこのあかあかと照らされた広場を一面に覆っているのは、何百という大きな白い建造物だった。それはあまりにも予想外だったので、アルヴィンは一瞬、自分が地下の都市を見下ろしているのに違いないと思ったほどだった。その印象はびっくりするほど生ま生ましく、彼にはとうていわすれえないものだった。彼が予想していた眺め――すなわち、時間の初め以来、人間が自分の召使いに結びつけて考えることに慣れてきた金属の見なれた光は、どこにもまるで見えなかった。
ここにあるものは、人間とほとんど同じくらい長い進化を経てきた終点なのだった。その始まりは、人類が初めて動力を使うことを学び、騒々しいエンジンの音を世界中に響かせていた黎明期の霧の中に包まれていた。蒸気、水、風――これらすべてが僅かのあいだ動力として利用され、やがて捨てられていった。数世紀の間、物質のエネルギーが世界を動かしていたが、ついにこれも取って代られた。変化のたびに古い機械は忘れられ、新しい機械がこれに代った。極めて徐々にに、何千年という間に、完全な機械という理想は近づいてきた――かつては夢であり、やがて遠い予想となり、ついに現実のものとなった理想だった。
「機械は、いかなる可動部分も持ってはならない」
これが、その理想の究極の表現形態だった。その実現のために、人類はおそらく一億年を要したであろう。しかも、その勝利の瞬間に、人間は機械に永遠に背を向けてしまったのだった。機械は究極に達し、それから以後というものは、人間に仕える傍ら、自己を永遠に維持できるようになったのである。
アルヴィンは、これらの無言の白い存在のうちのどれが中央計算機《セントラル・コンピューター》だろうなどとは、もう考えなかった。それは、これら全部を合わせたものであること――さらに、この部屋の範囲を遙かに越えて拡がり、ダイアスパーの他の無数の機械を、可動と不動とを問わずすべて包含したものであることを、彼は悟ったのであった。彼自身の脳が、さしわたし数インチの空間に配置された何十億という個々の細胞の総和であるように、中央計算機《セントラル・コンピューター》の物質的な構成要素は、ダイアスパーの範囲全体にわたって散らばっているのである。この部屋におさめられているのは、これらの散在する構成単位をすべて相互に結びつける中枢系にすぎないのかもしれない。
アルヴィンは、これからどこへ行ったらいいかを決めかねて、なだらかな大斜道を見下ろし、静寂に包まれた広場を見つめていた。ダイアスパーでの一切の出来事を知る中央計算機《セントラル・コンピューター》は、彼がここにいることを知っているに違いなかった。彼はただ指示の来るのを待っていればいいのだった。
すでに聞き覚えのある、しかし今もなお畏敬を誘う例の声は、非常に静かに身近かで聞こえたので、護衛のものたちにそれが聞こえたとは思われなかった。「左側の斜道を降りなさい」と、その声はいったのである。「そこから先は、私が案内する」
彼はゆっくりとその斜面を下り、ロボットは彼の上を追ってきた。ジェセラクも執行人たちも、ついては来なかった。皆はそこに残るように命ぜられたのだろうか、それとも、彼らはこの長い道を下るような面倒をしないでも、見通しのよい今の場所から同じくらい充分に監視はできると判断したのだろうか、と彼は思った。それとも、ことによると、彼らはダイアスパーの中心である聖地にこれ以上近づくことを憚っているのかもしれない。
斜道の裾で、あの静かな声は再びアルヴィンに指示を下し、彼は眠っている巨人の間の通りを歩いていった。あの声は、それから三度彼に話しかけ、やがて彼は目的地に着いたことを悟った。
彼が向かいあって立っている機械は、他の同類の大部分にくらべて小さい方だったが、それでもその下に立った彼は、自分が小人になったような気がした。水平にまっすぐな線を描き、五段に重なった姿は、何かの獣がうずくまっているような感じだった。その機械から自分のロボットに眼を移したアルヴィンは、この両者が同一の進化の産物であり、両者とも同じ名で呼ばれるということが、とても信じられない気がした。
床から約三フィートのところに、広い透明な板が、機械の全長にわたって続いていた。アルヴィンは、この滑らかで奇妙に暖かい物質に額を押しつけて、機械の中を覗いた。初めは何も見えなかったが、やがて眼に手をかざすと、無数の微かな光点が空間に浮かんでいるのが見わけられた。それらは三次元格子を作ってぎっしりとならんでおり、まるで古代人が星を見た時のように、彼には訳がわからず無意味に思えた。彼は、時の経つのも忘れて何分もの間それを見つめていたが、その色の着いた光は、もとの場所を動きもせず、明るさも変えなかった。
もし自分の脳を覗きこむことができたとしても、これと同じくらい訳がわからないだろうな、とアルヴィンは思った。この機械は、それが考えていることが見えないので、不活発で動かないように見えるだけなのだった。
彼には、都市を維持している動力や力が、初めて何となく微かにわかり始めた。一生の間、彼は、ダイアスパーの必要とする一切のものを長い年代にわたって果てしない流れのように供給する合成機の奇蹟を、何の疑問もなく受けいれてきた。彼はその創造の仕事を何千回となく目撃してきたが、自分の眼の前でこの世に生まれてくるものの原型がどこかに存在しているに違いないということには、めったに思い及ばなかったのである。
人間の頭脳が短時間だけただ一つの考えを抱くことができるのに対して、この底知れず偉大な頭脳は、中央計算機《セントラル・コンピューター》の一部分にすぎないのに、複雑極まりない概念を把握し、それを永遠に保持できるのだ。創造された一切のもののパターンは、これらの永遠の頭脳の中に固定され、それを現実のものとして呼びだすには、ただ一個の人間の意志が触れさえすればいいのだ。
最初の穴居人が、辛抱強く長い時間をかけて、硬い石から矢じりやナイフを削り出していた時から思えば、世界は実に遠い道を来たものではある。
アルヴィンは、さらに何らかの合図があるまでは口をきこうとはせずに、待っていた。中央計算機《セントラル・コンピューター》は、どうやって自分のいることを知り、自分を見、自分の声を聞くのだろうか、と彼は思った。何らかの感覚器官――ふつうロボットたちが周囲の世界の知識を得るのに使う格子やスクリーンや感情を欠いた水晶の眼などのある気配は、どこにもなかったのである。
「用件をいいなさい」彼の耳の中で、あの静かな声が聞こえた。この圧倒的な広さを占めている機械が、その集約された思考を、これほど穏やかに表現できるというのは、不思議な気がした。その時、アルヴィンは、自分が自惚れていることに気づいた。おそらく、中央計算機《セントラル・コンピューター》の頭脳のうち彼を相手にしている部分は、その百万分の一でさえもないのだろう。自分の問題などは、中央計算機《セントラル・コンピューター》がダイアスパーを管理するために同時に注意を注いでいる無数の出来事の一つにすぎないのだ。
自分のまわりの空間全部を占めているものと話をするのは、やりにくかった。アルヴィンの言葉は、口から出るや否や、空しく空中に吸いこまれてしまうような気がするのだった。
「私は何者でしょう?」と彼は訊ねた。
彼がもしこの質問を都市の中の情報機のどれかに向かって発したのだとしたら、その答はどうなるかは、彼も知っていた。実は、彼はたびたびそれをやってみたのだった。その答はいつも同じだった。「あなたは人間です」だが、いま自分が相手にしているのは、まるで桁の違う頭脳であり、苦心惨憺して言葉の意味を的確にする必要は少しもなかった。中央計算機《セントラル・コンピューター》には彼のいっている意味がわかることだろう。だが、だからといって、それに答えてくれるということにはならなかった。
事実、その返答は、まさにアルヴィンが、そうではないかと怖れていたとおりだった。
「その質問には答えられない。答えれば、私の建設者たちの意図を明らかにすることになり、したがってそれを失敗に終わらせることになるだろう」
「では、私の役割は、都市が建設される時に決められたのですか?」
「それは、あらゆる人について、いえることである」
この返答で、アルヴィンは言葉につまった。これは全くそうだった。ダイアスパーの住民は、人間も機械も同じように慎重に設計されていた。アルヴィンがユニーク[#「ユニーク」に傍点]であるという事実は、彼に珍奇さを加えることではあっても、そのこと自体は何ら美点ではないのだった。
彼は、ここでは自分の出生の謎について、これ以上は知ることができないと悟った。この広大な頭脳に一杯くわせようとしたり、隠すように命ぜられている情報を洩らすことを期待するのは、無駄なことだった。アルヴィンは、そうひどく失望したわけではなかった。彼は、自分がすでに真相を垣間見はじめていることを感じていたし、いずれにせよ、これはこの訪問の主目的ではなかったのだ。
彼は、自分がリスから連れてきたロボットを見て、次の一歩をどう踏みだそうかと思った。ロボットは、彼が企てていることを知ったら乱暴な反応を示すかもしれなかったから、自分がこれから中央計算機《セントラル・コンピューター》にいおうとしていることを彼に盗み聞きさせないようにすることが不可欠だった。
「あなたは遮音帯《ゾーン・オブ・サイレンス》を作りだすことができますか?」と彼は訊ねた。
その途端、彼は、こうした遮音帯に入った時に襲ってくる感覚――一切の音がすっかり遮断された、例のまごう方ない「無感覚な」感じを覚えた。計算機の声は、今は奇妙に平板で不吉な感じになり、彼に話しかけてきた。
「もう誰にも、我々の話は聞こえない。望みをいいなさい」
アルヴィンは、ちらりとロボットを見た。彼はもとの場所を動いてはいなかった。たぶん何も怪しんではいないのだろう。彼が自分自身の目論見を持っているなどと想像したのが、そもそも間違っていたのかもしれない。誠実で信じきった召使いのように、自分に従ってダイアスパーに来たのかもしれない。そうだとすれば、自分がいま企んでいることは、この上もなく卑劣なやり方のように思えるのだった。
「私がどうしてこのロボットに出会ったかは、お聞きになったとおりです」と、アルヴィンは始めた。「彼は、私たちが知っている都市ができた以前の時代を含む貴重な過去の知識を持っているに違いないのです。彼はマスターに従って旅をしたのですから、地球以外の惑星について話してくれることさえできるかもしれません。残念なことに、彼の言語回路は遮断されています。遮断がどのくらい強力なものかは知りませんが、それを解除していただきたいのです」
彼の声は、反響をおこす暇もなく遮音帯に一言残らず吸収されて、生気がなく空ろに聞こえた。彼は、この眼に見えぬ無反響の空間の中で、自分の願いが聞きとどけられるか、それとも拒否されるかを待っていた。
「あなたの注文には、二つの問題がある」と、計算機は答えた。「一つは道義的な問題であり、一つは技術的な問題である。このロボットは、特定の人物の命令に従うように作られている。たとえ私にそれができるとしても、その命令を踏みにじる如何なる権利が私にあるだろうか?」
この論点はアルヴィンが予想していたものであり、彼はそれに対する答をいくつか用意していた。
「マスターの禁制が、正確にはどんな形で与えられているかは、私たちにはわかりません」と彼は答えた。「もしあなたがロボットと話すことができるのなら、今では遮断が課せられた時と状況が違っていることを」彼に納得させられるかもしれません」
もちろん、これは誰でも思いつくやり方だった。アルヴィンは自分でもそれをやってみて、失敗したのである。だが、彼は、無尽蔵な精神的手段を持つ中央計算機《セントラル・コンピューター》ならば、自分の失敗したことでもやり遂げるかもしれないと期待していた。
「それは、挙げて遮断の性格にかかっている」という答が返ってきた。「いじくりまわそうとしただけで記憶セルの内容が消されてしまうように、遮断を仕掛けることも可能である。しかし、マスターにそれができるほどの技倆があったとは思えない。これには、少々専門的な技術が必要なのだ。記憶装置に消去回路が仕掛けてあるかどうか、あなたの機械に聞いてみよう」
「でも」アルヴィンは、急に不安になっていった。「もし、ただ消去回路があるかどうか聞くだけで、記憶が消去されてしまうようになっていたとしたら?」
「そういう場合のためには、基準の手続きがあり、私はそれに従うつもりだ。私は、副次的な指示として、そういう仕掛けになっているなら私の質問を無視するように命じることにする。そうすれば、彼は至極簡単に論理的な二律背反に陥ってしまい、私に答えても答えなくても、与えられていた指示に違反せざるをえなくなってしまうのだ。そういう場合には、どんなロボットでも、自己保全のために同じような行動をする。つまり、彼らは入力回路を切って、何も質問を聞かなかったふりをするのだ」
アルヴィンは、こんなことをいいだしたのを少し後悔し、しばらく思い悩んだあげくに、自分も同じ戦術を採用して、何も質問を発しなかったふりをすることにした。彼は少なくとも一点では安心させられたわけだった――中央計算機《セントラル・コンピューター》には、ロボットの記憶装置にどんな陥し穴が仕掛けられてあっても、それを処理できるだけの充分な用意があるのである。アルヴィンはこの機械が壊れて屑の山になってしまうのを見たくはなかったし、むしろそれくらいなら、その秘密はそのままにしても、ロボットを喜んでシャルミレインに返したことだろう。
二つの知能の間に、眼に見えぬ無言の決闘が続いている間、彼はあらんかぎりの忍耐をもって待っていた。ここに出会った二つの頭脳は、いずれも人類の天才によって、人類の最大の成果たる遠い昔の黄金時代に創造されたものである。ところが、今日では、そのどちらも、現代のいかなる人間にも充分には理解できないものとなっているのだった。
何分も過ぎてから、中央計算機《セントラル・コンピューター》の空ろな反響のない声が、また聞こえてきた。
「部分的に連絡がついた」と彼はいった。「少なくとも遮断の性格はわかったし、なぜ遮断が課せられたかもわかったつもりだ。それを解除できる方法は、ただ一つしかない。グレート・ワンたちが地球にやってくるまで、このロボットが口をきくことはないだろう」
「でも、そんなのは馬鹿げています!」と、アルヴィンは主張した。「マスターのもう一人の弟子も、グレート・ワンを信じていて、彼らが私たちにどう見えるかを、説明しようとしました。彼は、初めから終りまで、ほとんどたわごと[#「たわごと」に傍点]ばかり喋っていました。グレート・ワンなんて断じて存在しませんし、これからだって存在しないのです」
これは全くの行き詰まりに思われた。アルヴィンは、如何ともしがたい苦い失望を感じた。十億年前に死んだ頭のおかしい男の遺志のために、自分は真理に近づくのを妨げられているのだった。
「グレート・ワンたちが決して存在しなかったという点では」と、中央計算機《セントラル・コンピューター》はいった。「あなたのいうとおりかもしれない。だが、だからといって、これからも存在しない、ということにはならないのだ」
また長い沈黙が続く間、アルヴィンはこの言葉の意味をじっと考え、二つのロボットの頭脳の間には再び微妙な接触が行なわれていた。そうして、全く突如として、彼はシャルミレインに立っていたのだった。
[#改段]
17
そこは、彼が最後に見た時のままであり、大きな真黒いすり鉢は日光を吸いこみ、眼には何の反射も見えなかった。彼は砦の廃墟に立ち、湖を見渡していたが、その水は動きもせず、あの大きな群体生物《ポリプ》がもう意識を持った有機体ではなくて、今は微小生物の群となって散らばっていることを物語っていた。
ロボットは相変わらず彼の傍にいたが、ヒルヴァーのいる気配は全くなかった。彼にはそのことの意味を考えたり、友人がいないのを心配したりする暇はなかった。というのは、それとほとんど同時に、ほかのことをすっかり忘れてしまうほど不思議なことがおこったのである。
空が二つに割れ始めた。真黒な細い楔形が地平線から天頂まで達し、宇宙の上に夜と混沌が侵入¢てくるかのように、ゆっくりと拡がっていった。楔は情容赦もなく膨れてゆき、ついには空の四分の一を覆うに至った。天文学的な事実について自分の持っているあらゆる知識にもかかわらず、アルヴィンは、自分とまわりの世界とが大きな青いドームの下にあって、いま何者かが[#「何者かが」に傍点]外側からドームの中に押しいろうとしているという、強烈な印象を払いのけることはできなかった。
夜の楔は、大きくなるのが止まった。それを作った力は、自分たちが発見した玩具のような宇宙を覗きこんでおり、それが自分たちの関心に値するものかどうかを相談しているらしかった。こうして宇宙から観察されている間も、アルヴィンは少しも不安や恐怖を感じなかった。彼には、自分が力と英知の面前に立っていることがわかっていた。その前では、人は畏敬を感じても恐怖は決して感じないのである。
いまや、彼らは決断を下した――彼らは無窮の時間のうちのほんの僅かを、地球とそこの住民のために費やすことになるだろう。彼らは、自分たちが空に開けた孔から脱け出てきた。
天上の炉からの火花か何かのように、彼らは地球に舞い降りてきた。それは次第次第に数を増し、ついには火の滝となって天から降り注ぎ、地上に達すると、漂う光の池となって跳ね返った。アルヴィンには、自分の耳の中で祝福のように鳴り響く言葉を聞く必要もなかった。
「グレート[#「グレート」に傍点]・ワンたちは降臨する[#「ワンたちは降臨する」に傍点]」
火は彼に触れたが、熱くはなかった。火は到る所に注ぎ、シャルミレインの大きなすり鉢を黄金の輝きで満たした。驚嘆のうちに眺めていたアルヴィンは、それが無形の光の流れではなく、形や構造を持っているのを見た。それは明確な形に変りはじめ、集まって別々の火の渦になった。その渦は軸を中心にますます回転が速くなると、中心が盛りあがって柱となり、その中にアルヴィンは微かに不思議な形を垣間見ることができた。この輝くトーテム・ポールからは、限りなく微かに、心につきまとう甘美な旋律が、ひっそりと流れてきた。
「グレート[#「グレート」に傍点]・ワンたちは降臨する[#「ワンたちは降臨する」に傍点]」
今度は答があった。「マスターのしもべ[#「しもべ」に傍点]たちが、お迎えいたします。私たちは、あなたがたの来るのをお待ちしていました」という言葉を聞いた時、アルヴィンは障壁が破れたことを知ったのである。その瞬間、シャルミレインと不思議な訪問者は消え失せ、彼は再びダイアスパーの地下にある中央計算機《セントラル・コンピューター》の前に立っていた。あれはみんな幻影だったのである――少年時代に多くの時を過ごした物語《サガ》の幻想の世界と同じように、現実のものではなかったのだ。だが、それはどうやって作りだされたのか? 彼の見た不思議な映像は、どこから来たのだろうか?
「これは、容易ならぬ難問だった」と、中央計算機《セントラル・コンピューター》の静かな声がいった。「私は、ロボットがグレート・ワンたちの姿について一応の観念を心の中に持っているに違いないと思っていた。彼の受ける感覚の印象がこの観念と一致すると納得させられれば、あとは簡単なことだろう」
「それにしても、どうやったのですか?」
「基本的には、ロボットにグレート・ワンたちがどんなものかを訊ね、彼が心の中に描く像を捉えたのだ。その像は非常に不完全なものだったから、私は相当部分を即席でやらねばならなかった。私の作りだした姿は、一、二度、ロボットの持っている観念とはひどくかけ離れ始めたが、そうなった時、私はロボットが戸惑いしかけるのを感じ、彼が怪しむ前に映像の手直しをすることができたのだ。彼が一個の回路を使うところを、私には何百という回路が動員でき、変化に気づかれないように一つの映像から他の映像へとすばやく切り替えられることは、あなたにもわかるだろう。これは一種の手品であって、私はロボットの感覚回路を飽和させると同時に、彼の批判能力を圧倒することができたのだ。あなたが見たものは、修正された最後の映像にすぎず、それがマスターの黙示に最もよく合致したものだったのだ。それは大ざっぱなものだったが、それで充分だった。ロボットは、遮断が解除されるのに必要な時間だけ、それが本物だと信じ、その瞬間に私は彼の心と完全な接触を遂げることができたのだ。彼はもう気が変ではない。彼は、あなたの望みどおり、どんな質問にも答えるだろう」
アルヴィンは、まだ茫然としていた。彼の心の中では、まだ作りものの黙示の余燼がくすぶっており、そのうえ彼は、中央計算機《セントラル・コンピューター》の説明が完全にわかったというつもりはなかった。が、それはどうでもよかった。奇蹟のような治療が成功し、知識の扉は自分の前に大きく開かれたのだ。
その時、彼は中央計算機《セントラル・コンピューター》が彼に与えた警告を思いだし、心配そうに訊ねた。「あなたがマスターの命令を踏みつけにしなければならなかったことに対する道義的な批判については、どうなったんですか?」
「私は遮断がなぜ課せられたかを発見した。あなたはもう彼の伝記を詳しく調べられるのだが、そうすれば、彼が多くの奇蹟を行なったと称したことがわかるだろう。彼の弟子たちは彼を信じ、この確信は彼の権威をたかめたのだ。だが、もちろんこれらの奇蹟は、よしんば実際におこった場合でも、簡単に説明がつくのだった。それ以外では賢明な人たちが、こんな形でだまされるなどというのは、驚くほかはない」
「じゃ、マスターはペテン師だったのですか?」
「いや、事情はそれほど単純ではない。もし彼が単なる詐欺師だったとしたら、あれほどの成功をおさめることも、その宗教運動がこれほど長く続くことも、ありえなかったろう。彼は立派な人物であって、彼の教えの多くは正しく賢明なものだったのだ。終わりには、彼は自分に奇蹟が行なえることを信じていたが、それを反論できる証人が一人だけいることも知っていた。ロボットは彼の秘密をすっかり知っていたのだ。ロボットは彼の代弁者であり同僚でもあったが、それでもあまり厳重に問いただされれば、彼の権威の基礎を破壊するおそれがあった。そこで彼は、ロボットに、グレート・ワンたちの降臨する宇宙の最後の日まで、その記憶を絶対に洩らさないように命じた。これほどの虚偽と誠実とが一人の人間の中に共存しうるとは信じ難いことだが、それが真実だったのだ」
アルヴィンは、ロボットが、長い間の束縛からこうして解き放されたことを、どう感じているだろうかと思った。明らかに、彼は恨みというような感情を充分に解するほど複雑な機械だった。彼は、自分に枷をはめたマスターに腹を立てていると同時に――自分をだまして正気に返らせたアルヴィンや中央計算機《セントラル・コンピューター》にも腹を立てているのかもしれなかった。
遮音帯は解除された。もう秘密にする必要は何もなかった。アルヴィンが待ちかねていた瞬間が、ついにやってきたのだ。彼はロボットに向かって、自分がマスターの事蹟の物語を聞いて以来、心を離れたことのない質問を発した。
そして、ロボットは答えたのである。
アルヴィンが皆のところに戻った時、ジェセラクと執行人たちは、まだ辛抱強く待っていた。斜道を上りつめて廊下に入る前に、アルヴィンは後を振り向いて洞穴を見渡したが、あの幻覚は前よりも強く迫ってきた。眼下に横たわっているのは、異様な白い建物の並ぶ死の都市――人間の眼のためにあるのではない烈しい光に曝された都市だった。それは死の都市であったかもしれないが――なぜなら、生命を持ったことが一度もなかったのだから――有機物質に生命を与えたどんなエネルギーよりも強力なエネルギーで脈動していた。世界の続くかぎり、これらの無言の機械は依然としてここにあり、天才たちが遠い昔に彼らに与えた思考から心をそらすことは決してあるまい。
ジェセラクは、会議室に帰る途中でアルヴィンを問いつめたが、彼が中央計算機《セントラル・コンピューター》と話したことを何も聞きだせなかった。それは、アルヴィンの方で分別を働かせたというだけのことではなかった。アルヴィンは、自分の見た驚嘆すべきものにまだ心を奪われており、勝利に酔いしれていて、筋のとおった会話などはできなかったのである。ジェセラクは、逸やる心を押さえて、そのうちアルヴィンが放心から覚めることを期待することにした。
ダイアスパーの通りに溢れる光は、機械の都市の眩い光を見た後では、青ざめて弱々しく思えた。だが、それはほとんどアルヴィンの眼には入らなかった。過ぎ去ってゆくいくつもの巨塔の見慣れた美しさにも、仲間の市民たちの好奇のまなざしにも、彼は何の関心もなかったのである。自分の身の上におこった一切のことが、すべてこの瞬間に自分を導いてきたというのは実に不思議なことだな、と彼は思った。自分がケドロンに会って以来、物事はあらかじめ決められた目標に向かって自動的に動いていったような気がする。検像機《モニター》――リス――シャルミレイン――どの段階においても、自分は盲目的に傍道へそれていたかもしれなかったのに、何かが自分を導いてきたのだ。自分は自らの運命を作っているのだろうか、それとも運命がとくに微笑んでいたのだろうか。おそらく、それはただ可能性の問題であり、確率の法則が働いたにすぎないのであろう。自分の足が辿った道は誰もが発見したかもしれないし、過去の時代にも、数えきれぬほどたびたび、他のものたちが自分とほとんど同じくらいのところまでいったに違いない。たとえば先輩のユニーク[#「ユニーク」に傍点]たちだ。彼らはどうなったんだろう? たぶん、自分は初めて幸運に恵まれただけのことなのだろう。
通りを抜けて帰ってくる間じゅう、彼は、自分が長い年代にわたる束縛から解放してやった機械と、だんだん密接な精神感応を作りあげていった。ロボットの方はこれまででも彼の思考を受信することができたのだったが、彼の方は、今までは、自分の与えるどんな命令にもロボットが従うかどうかは、わからなかったのである。今は、その不安も去った。彼は、ほかの人間と話をするようにこのロボットと話をすることもできたが、他人がいっしょだったので、自分にわかる程度の単純な思考映像を発するようにロボットに命じた。彼は時々、ロボットがお互いに自由に話ができることを、妬ましく思っていた。それは人間には――リスを別にすれば――できないことだった。これも、ダイアスパーが失ったか、それとも故意に捨て去ったかした力の一つだったのである。
彼らが会議室の控の間で待たされている間も、彼はこの声のないやや一方通行の会話を続けていた。彼は、自分の今の立場を、リスでセラニスと同僚たちが自分を彼らの意に従えようとした時の状況と、くらべてみないではおれなかった。もう一度争いをしなくてもすむことを彼は願っていたが、その必要が生じるなら、今度は遙かに準備ができていた。
評議会のメンバーたちの顔を一目見ただけで、アルヴィンには彼らの決定がどんなものだかわかった。彼は驚きも失望もせず、議長が述べる裁断の要旨を聞いている間も、評議員たちが予想していたような感情を全く示さなかった。
「アルヴィン」と、議長は話し始めた。「我々は、お前の発見によって惹きおこされた事態を極めて慎重に検討し、全員一致で次のような結論に達した。我々の生活のあり方に変化を望む者は誰もおらぬ。また、ダイアスパーを出る手段が仮にあったとしても、ここを出る能力のあるような者が出るのは何百万年に一度しかないのじゃ。だからして、リスに至るトンネル施設は不必要であり、危険でさえあるかもしれぬ。それ故に、自動走路の部屋への入口は閉鎖された。
のみならず、この都市を出る道がほかにもあるという可能性があるからして、検像機《モニター》の記憶装置につき捜索が行なれることになろう。その捜索はすでに開始されておる。
我々はまた、お前に関して、何らかの措置が必要かどうかを検討した。お前が年少であること、またお前の出生に関する特異な状況を考慮すれば、お前のやったことは咎められぬように思われる。それどころか、我々の生活のあり方について、潜在的な危険を明らかにしたことにより、お前は都市に貢献をしたのであり、我々はこの事実を顕彰して記録に留めることにする」
賛成のざわめきがおこり、評議員たちの顔には満足した表情が拡がっていった。困難な事態は迅速に処理され、アルヴィンを譴責する必要も回避され、彼らダイアスパーの代表市民たちは、自分たちの義務を果たしたという満足感をもって、今や再び従来どおりのやり方を続けられるのである。多少運がよければ、こんな必要が再びおこるのは、何世紀も先のことだろう。
議長は、何かを期待するように、アルヴィンを見た。たぶん彼は、アルヴィンが応答を述べ、評議会が自分をこんなにあっさりと放免してくれたことに感謝すると思ったのかもしれない。彼の期待は外れた。
「一つ、質問してもよろしいでしょうか?」と、アルヴィンは礼儀正しくいった。
「よいとも」
「中央計算機《セントラル・コンピューター》は、あなた方の処置を認めたわけですね?」
ふつうならば、こんな質問をするのは、出すぎたことだった。評議会は、その決定の弁明や経緯の説明は、しなくてもいいことになっていた。だが、何か訳のわからぬ不思議な理由によって、アルヴィン自身が中央計算機《セントラル・コンピューター》と密談してきたのであるからには、彼は特権的立場にあるわけだった。
議長は、明らかにこの質問にやや当惑を示し、どちらかというと気が進まない様子で答えた。
「いうまでもなく、我々は中央計算機《セントラル・コンピューター》の意見をただした。彼は、我々が自分で判断するようにといったのじゃ」
アルヴィンは、そんなことだと思っていた。中央計算機《セントラル・コンピューター》は、自分と話をしているのと同時に――ということは、つまり、ダイアスパーの他の無数の仕事の面倒を見るのと同時に、ということだが――評議会と協議していたのであろう。
彼は、アルヴィンと同じように、ここで評議会がいかなる決定をしたところで、それには何の意味もないことを知っているのだった。知らぬが仏の評議会が危機は無事に処理されたと決めこんだまさにその瞬間に、未来は彼らのまるで手の及ばぬものになっていたのである。
自分たちがダイアスパーの支配者だと思いこんでいる、この愚かな老人たちを見ながら、アルヴィンは優越感も、目前にある勝利の快い予感も、まるで感じなかった。彼はこの都市の真の支配者に会い、輝く地下の世界の厳粛な静けさの中で、彼と話してきたのである。この会見は、彼の心の底にある傲慢さをあらかた焼き尽してしまったのだ。だが、今までのどれをも凌ぐ最後の冒険のためには、残された僅かばかりのもので充分だった。
評議会を後にしたアルヴィンは、リスへの道が閉ざされたことを自分が静かに黙認し、何も憤激を示さなかったのは、彼らにとって意外だったのだろうかと思った。執行人たちはついてこなかった。彼はもう、少なくとも公式には、監視下におかれてはいなかったのである。彼について会議室から彩り豊かな人混みの通りへ出てきたのは、ジェセラクだけだった。
「さて、アルヴィン」と彼はいった。「お前は実に神妙にしておったが、わしをだますことはできぬぞ。何を企んでおるのじゃ?」
アルヴィンは、にっこり笑った。
「先生は何か感づいていると思いましたよ。僕といっしょに来れば、リスへの地下鉄道はもうどうでもいいんだということを、お眼にかけましょう。それに、もう一つ実験してみたいことがあるんです。それは先生に何も危害を及ぼしはしないんですが、先生の気には入らないかもしれません」
「よかろう。わしはまだお前の教師ということになっておるが、今ではどうやら立場が逆になったようじゃ。わしをどこに連れてゆこうというのじゃな?_」
「僕たちは、ロランヌの塔へ行くんです。僕は先生に、ダイアスパーの外の世界を、ごらんに入れようと思っているんですよ」
ジェセラクは青ざめたが、尻ごみはしなかった。それから、口をきくのをおそれるかのように、ぎごちなく軽くうなずくと、アルヴィンの後から、滑らかに流れている自動走路に乗った。
ダイアスパーに永遠に冷たい風を吹きこんでいる例のトンネルを歩いている時も、ジェセラクは怖れる色を見せなかった。今はトンネルにも変化があった。外界への道を塞いでいた石の格子はなくなっていた。それは、構造上には何の機能も果たしておらず、アルヴィンの願いを容れた中央計算機《セントラル・コンピューター》は、黙ってそれを取り除いたのだった。後になってから、計算機は検像機《モニター》に再びそれを思いだすように命じ、それが元の場所に現われるようにするかもしれない。だが、今のところは、トンネルは都市の切り立った外壁に、何の防備もなくぱっくりと口を開けているのだった。
ジェセラクは、ほとんど通気孔の端まで来てから初めて、外界が眼の前にあることに気づいた。彼は丸い空が大きくなってゆくのを見つめ、その足どりはだんだんと不確かになってゆき、ついにのろのろと止まった。アルヴィンは、アリストラがこの同じ場所から背を向けて逃げだした様子を思いだし、果たしてジェセラクをこれ以上進むように説き伏せられるだろうかと思った。
「僕は、ただ見る[#「見る」に傍点]ようにお願いしているだけなんです」と、彼は懇願した。「都市を出てくださいというわけじゃないんです。先生なら、きっと何とかやれますよ!」
エアリーでの短い滞在の間に、アルヴィンは母親が子供に歩くことをおしえているのを見た。ジェセラクをなだめすかし、教師が廊下をいやいや一足一足進むのに声をかけて励ましているうちに、彼は否応なしにそれを思いだしていた。ケドロンと違って、ジェセラクは臆病者ではなかった。彼は自分の強迫観念と闘う覚悟をしていたが、それは必死の苦闘だった。何一つさえぎるものもない広い砂漠の拡がりが見える場所までジェセラクを辿りつかせるのに成功する頃には、アルヴィンも老人とほとんど同じくらい疲れきっていた。
いったんそこに達してみると、ジェセラクは、今の人生やそれ以前の人生で知っていた一切のものとひどく異質な光景への興味やその異様な美しさのために、恐怖も忘れる思いだった。彼は、起伏する砂丘や遙か遠くの古い丘が作りだす広大な眺望に、まさに魅惑されてしまった。もう夕方だった。間もなく、この土地全体に、ダイアスパーには決して来ない夜が訪れることだろう。
「先生に、ここへ来るようにお願いしたのは」と、アルヴィンは、これ以上はとても辛抱できないとでもいうように、早口でいった。「先生には、僕の旅行の行く先を見るだけの権利が、他の誰よりもあると思ったからなのです。僕は、先生に砂漠を見てほしかった。それから、評議会が僕のしたことを知るように、先生に証人になってほしかったんです。
評議会で話したように、僕はこのロボットをリスから連れ帰りました。それは、マスターとして知られる人物が彼の記憶に課した遮断を、中央計算機《セントラル・コンピューター》が解除できるだろうと思ったからなのです。計算機は、僕には今でもよくわからない策略を使って、それをやってのけました。今では、僕は、この機械のすべての記憶と同時に、この機械に仕組まれた数々の特別な能力を手に入れたのです。僕はいま、その能力の一つを使おうと思っているところです。見ていてください」
無言のうちにどんな命令が出されたのか、ジェセラクには推量するほかはなかったが、ロボットはトンネルの口からふわりと出てゆき、速度を速めて、数秒後には日光の中にきらきらと輝く遠い点にすぎなくなった。彼は、凍りついた波のように縦横に拡がる砂丘を越えて、砂漠の上を低く飛んでいた。ジェセラクは、明らかにロボットが何か探しているという印象を受けたが、何を探しているのかは想像もつかなかった。
その時、突如として、そのきらめく点は砂漠から舞い上がり、地上千フィートのところで止まった。同時に、アルヴィンは、満足と安堵の深い溜息をついた。彼は「ほら、ごらんなさい!」とでもいうように、ちらりとジェセラクを見た。
初めジェセラクは何を予期すべきかわからなかったので、何の変化も見つけられなかった。それから、ほとんど我が眼を疑いながらも、彼は砂漠から砂塵の雲がゆっくり立ち昇るのを見た。
動くはずの絶対にない場所が動くほど怖ろしいことはなかったが、砂丘の群が静かに二つに裂け始めた時、ジェセラクは驚きや恐怖を通り越していた。砂漠の下では、巨人が眠りから覚めたように、何者かがうごめいていた。やがてジェセラクの耳には、崩れおちる大地の響きや、抗しがたい力で引き裂かれる岩の悲鳴が聞こえてきた。その時、突然、巨大な噴泉のように砂が空中に数百フィートも吹きあげ、地面は見えなくなった。
砂塵は、砂漠の表面を引き裂いたぎざぎざな傷口の上に、ゆっくりと落ち始めた。だが、ジェセラクとアルヴィンは、少し前まではロボットだけが浮かんで待っていた大空に、なおもじっと眼を凝らしていた。ジェセラクには、今やっと、アルヴィンがなぜ評議会の決定にあれほど無頓着な様子だったのか、リスへの地下鉄道が閉鎖されたことを告げられた時にもなぜ何の感情も見せなかったのかがわかったのである。
土や岩に覆われてぼやけてはいても、引き裂かれた砂漠からなおも昇りつづけている宇宙船の誇らかな線は、隠すべくもなかった。ジェセラクが見つめている間にも宇宙船は徐々に二人の方に向きを変え、奥行きは縮まって円になった。それから、その円は極めて悠然と拡がり始めたのである。
アルヴィンは、もう時間がないとでもいうように、やや早口でいい始めた。
「このロボットは、マスターの道連れ兼召使いとして、それから何よりもまず彼の宇宙船の操縦士として設計されたんです。リスに行く前に、マスターはダイアスパーの宇宙港に降りたんですが、そこは今ではあそこの砂の下に埋まっているんです。彼の時代でさえ、そこはだいぶ寂れていたに違いありません。マスターの宇宙船は、地球にやって来た最後の宇宙船の一つだったと思います。彼は、シャルミレインに行く前に、しばらくダイアスパーに住んでいました。その頃には道はまだ開かれていたに違いありません。でも彼はこの宇宙船を二度と必要としませんでしたから、この長い歳月の間、これはあそこの砂の中で待機していたんです。ダイアスパーそのもののように、またこのロボットのように――過去の建設者たちが極めて重要だと思った一切のもののように――、これは自分自身の永久回路を持っていて、それで維持されていたんです。エネルギー源の続くかぎり、これは損耗することも破壊されることも、ありえなかったんです。宇宙船の記憶セルに蔵いこまれた映像は決して消えることはないでしょうし、その映像は宇宙船の物質的構造を制御したんです」
宇宙船はもう非常に近くなり、操縦しているロボットは、それを塔の方に誘導していた。ジェセラクは、それが長さ約百フィートで、両端が尖っていることを見ることができた。窓その他の開口部は何もないようだったが、土が厚く覆っていたので、確かめることは不可能だった。
突然、船体の一部が外側に開き、二人は土を浴びせかけられた。ジェセラクには、向う側にもう一つの扉のある小さな空っぽの部屋が、ちらりと見えた。宇宙船は、通風口の口からほんの一フィート先に浮かんでいた。それは神経質な生きもののように用心深く、そこまで近づいてきたのだった。
「さようなら、先生」とアルヴィンはいった。「僕はダイアスパーに戻って友達にお別れをすることができません。どうぞ僕の代りにお願いします。父と母には、すぐ帰れると思うと伝えてください。もし帰れない時は、僕は、あの人たちがしてくれた数々のことに感謝しています。それから、先生にも感謝しています。でも、先生は、僕が教わったことを応用したやり方に賛成でないかもしれませんが。
それから、評議会には――いったん開かれた道は、決議を採択したぐらいでは、もう一度閉じるわけにはゆかないのだ、と伝えてください」
宇宙船は、もう空の中の黒いしみ[#「しみ」に傍点]にすぎなくなり、それもふっと見えなくなった。ジェセラクには、それがいつ出発したのかもわからなかったが、やがて天からは、人間がこれまでに立てた音の中で最も壮大な音が響きわたってきた。それは、空の中に突如として穿たれた真空のトンネルに、何マイルも何マイルもの空気が吸いこまれる、長く尾を引いた轟きだったのである。
その最後のこだまが砂漠の中に消えていった時も、ジェセラクは身じろぎもしなかった。彼は行ってしまった少年のことを考えているのだった。なぜなら、ジェセラクにとってはアルヴィンはいつまでも子供であり、遠い昔に生と死の周期が断ち切られて以来ダイアスパーに現われた唯一の子供だったのだ。アルヴィンは決して大人にならないだろう。彼にとっては、全宇宙は一つの遊び道具であり、自分の楽しみのために解かれるべき謎なのだ。彼はいま、その遊びの中で、人類の文明に僅かに残されたものを滅茶滅茶にするかもしれない最後の恐ろしい玩具を見つけたのだ。だが、そこからどんな結果が出てこようとも、彼にとっては、それは依然として一つの遊びにすぎないだろう。
太陽はもう低く地平線にあり、砂漠からは身を切るように冷たい風が吹いていた。だがジェセラクは、怖ろしさに耐えながら、じっと待っていた。そうして、やがて、彼は生まれて初めて星を見たのである。
[#改段]
18
気閘《エア・ロック》の内側の扉が滑るように開いたとき現われた豪華さといったら、アルヴィンがダイアスパーでも滅多に見たことがないほどのものだった。マスターがどんな人であったにせよ、少なくとも禁欲主義者ではなかったのである。アルヴィンはしばらくしてやっと、こうした安楽さが何も空しい贅沢などではないことに思いあたった。この小世界は、星をめぐる多くの長い旅路の間、マスターの唯一の住み家だったに違いないのである。
どこにも、どんな種類の操縦装置も見あたらなかったが、奥の壁いっぱいに拡がった大きな楕円形のスクリーンは、これがふつうの部屋ではないことを示していた。その前には、三つの寝椅子が半円形に並んでいた。船室の他の部分は、二つの小さなテーブルと、たくさんの柔らかい椅子――その一部は、明らかに人間の坐るために作られたものではなかった――で占められていた。
スクリーンの前にゆったりと坐ると、アルヴィンはあたりを見まわしてロボットを探した。意外にもロボットの姿は見えなくなっていた。やがて彼は、ロボットが、彎曲した天井の下の窪みに、すっぽりと嵌まりこんでいるのを見つけた。彼は、マスターを宇宙を横切って地球に運び、それから彼の召使いとしてリスまでついていったのだ。いま彼は、まるでこの間の長い年月が存在しなかったもののように、またもや昔の任務を果たそうと待ちかまえていた。
アルヴィンが試しに彼に命令を送ってみると、大きなスクリーンは、ちらちらとして明るくなった。眼の前に現われたのは、奇妙に奥行きが短くなり横倒しの位置になったロランヌの塔だった。さらにいろいろ試してみると、空や都市や広く拡がった砂漠の眺めが現われた。画面は実際には少しも拡大されていないように思われたが、ほとんど不自然なくらい、すばらしく鮮明だった。アルヴィンは、どんな眺めでも思いのままに得られるまで、しばらく実験を続けた。それで、出発準備は完了だった。
「リスにやってくれ」命令は簡単だったが、彼が自分でも方向の見当がつかないというのに、どうして宇宙船が命令に従えるのだろうか? アルヴィンはこのことを考えてはおかなかったが、それに思いあたった時には、船はすでに砂漠の上を途方もないスピードで動いていた。彼は肩をすくめ、今では彼には自分よりも賢い召使いがいるのだという事実を、ありがたく認めることにした。
スクリーンの上を流れる画面のスケールを判断するのは難しかったが、一分ごとに何マイルもが過ぎ去っているに違いないのだった。都市からほど遠からぬ所で、地面の色は急に鈍い灰色に変わり、アルヴィンは自分が消滅した海の一つの海底の上空を通っているのだと気がついた。かつてダイアスパーは海に非常に近かったのに相違ない。もっとも、最古の記録にも、それを暗示するものは何もないのだった。都市も古かったとはいえ、海は都市が建設されるずっと前に消滅していたに違いない。
何百マイルか過ぎると、地面は急に盛り上がって、また砂漠になった。途中で一度、アルヴィンは、上を覆う砂を通して微かに見える、線の交錯した奇妙な模様の上で宇宙船を停めた。しばらくの間、彼には、それが何だかわからなかったが、やがて、或る忘れられた都市の廃墟を見下ろしているのだと気がついた。彼はそこに長く留まってはいなかった。何十億という人間が、この砂の中の皺以外には何も彼らのいた痕跡を残していないのだと考えると、胸が痛む思いだったのである。
なだらかな曲線を描いていた地平線もついに乱れて波打つ山々となり、それはちらりと見えたかと思う間もなく、もうほとんど真下にあった。宇宙船はもうスピードを緩めており長さ百マイルもの巨大な弧を描いて大地へゆっくりと降下していった。やがて、真下にリスが現われた。その森や行く方の知れぬ川は、譬えようもないほど美しい光景を見せており、しばし彼は、先へ進むことができなかった。東の方では土地は影に包まれ、その上には大きな湖が一段と暗い夜の溜りのように浮かんで見えていた。だが日没の方角では、水は光を浴びて踊りきらめき、彼が想像したこともないような色を投げかけてよこしていた。
エアリーを見つけるのは、何でもなかった――それは運のいいことであった。というのは、ロボットはその先の道案内ができなかったからである。アルヴィンはそれを予想していたし、ロボットの能力にも或る限界があることを知って少し嬉しくなった。彼がエアリーのことを聞き知っていたとは思えなかったから、この村の位置は彼の記憶セルに貯えられたことはなかったのだろう。
ちょっとテストをしてみてから、アルヴィンは、自分が初めてリスの片鱗を眺めた山腹に宇宙船を着陸させた。この機械を操縦するのは、全く楽なものだった。彼がただ大体の希望をいいさえすれば、細かい点はロボットが引きうけてくれた。ロボットは危険な命令や不可能な命令は無視するのだろうな、と彼は思った。もっとも、避けられるかぎり、彼はそんな命令を出すつもりは少しもなかった。自分がやってきたのに気づいた者が誰もいないことは、絶対に確実だった。彼はそれがかなり重要な点だと考えていた。というのは、彼はセラニスともう一度精神的格闘を演ずる気は少しもなかったからだった。彼の計画はまだ少々漠としたものだったが、友好的な関係が樹立されるまでは、危険をおかさないことだった。彼は、自分が宇宙船の中に安全に残ったままで、ロボットを代理人として派遣すればいいのだった。
彼は、エアリーへの道で誰にも会わなかった。宇宙船の中に坐ったままで、自分の視野が見慣れた道を楽々と動いてゆき、森のさざめきが聞こえてくるというのは、奇妙なものだった。彼は未だにロボットと全く一心同体になりきれていなかったので、ロボットをコントロールする苦労は今でも相当なものだった。
彼がエアリーに着いた時はほとんど暗くなっていて、小さな家々は、たゆたう光の中に浮かんでいた。アルヴィンは物かげから出ないようにしながら、もうちょっとでセラニスの家に達しようとした所で見つかってしまった。突然猛り狂ったかん高い翅音がして、ばたばたする翅に視界が遮られた。彼は、この猛襲に会って、思わず後に下がった。その時、彼は何事がおこったかを悟った。またもやクリフが、翅がなくて飛んでいるやつに怒りを表明しているのだった。
この美しくも愚かな生物を傷つけないように、アルヴィンはロボットを停止させて、まるで自分自身に降りそそいでくるように思われる攻撃を、できるだけ我慢することにした。彼自身は一マイルも離れて悠々と坐っているのであったが、どうしても身をすくめないわけにはゆかなかったので、ヒルヴァーが調べに出てきた時はやっとほっとした。
主人がやってくると、クリフはなおも敵意に満ちた翅音を立てながら離れていった。その後の静寂の中で、ヒルヴァーはしばらくの間ロボットを見つめて立っていたが、やがて微笑した。
「やあ、アルヴィン」と、彼はいった。「よく帰ってきてくれたね。それとも、君はまだダイアスパーにいるのかい?」
今に始まったことではないが、アルヴィンは、ヒルヴァーの頭の回転が速くて正確なことに、妬ましい感嘆を感じた。
「いや」と彼はいいながらも、ロボットが自分の声をどの程度はっきりと再現できるものだろうかと思った。「エアリーのなかの、あまり遠くない所にいるんだ。でも、今のところは、ここを離れないよ」
ヒルヴァーは笑った。
「それもいいだろう。母は君を許しているが、理事会の方は、これは別問題だからね。たった今、ここで会議が開かれている最中なんだが、これはエアリー始まって以来のことなんだ」
「委員諸公が、実際にここに来ているというのかい?」と、アルヴィンは訊ねた。「君たちはテレパシーの能力を持っているから、会合が必要だなんて、思いもよらなかったよ」
「ごくたまにだけれど、連中がその方がいいと考える時もあるんだ。どういう性質の危機なのか、僕にははっきりわからないけれども、三人の理事がもう来ているし、あとの人たちも間もなくやってくるはずだ」
アルヴィンは、ダイアスパーでおこったとおりのことが、ここでもそのまま繰り返されていることに、微笑を禁じえなかった。今や、彼がゆく所はどこでも、後に狼狽と不安が残されるように思えた。
「もしできれば、この君たちの理事会というのに話をするというのは、いい考えだと思うんだが」と彼はいった。「それが安全にできればだがね」
「君が自分でここに来るんだったら」と、ヒルヴァーはいった。「理事会がもう二度と君の精神を支配しようとしないと約束してからにした方が安全だぜ。さもなければ、僕だったら、君が今いる所を動かないな。僕が君のロボットを理事たちのところに連れていってやるよ。連中は、これを見たら、ちょっとびっくり仰天するぜ」
アルヴィンはヒルヴァーについて家の中に入ってゆきながら、強烈で危なっかしい例の楽しいような浮き浮きした気分を味わった。彼は、これからリスの支配者たちに、前よりは対等の条件で会おうとしているのだった。彼はその連中に何も遺恨があるわけではなかったが、今や自分が主導権を握っており、今でさえまだ充分に活用してはいないほどの力を握っているのだと思うと、とても愉快だった。
会議室への扉は固く閉じており、ヒルヴァーはしばらくしでやっと注意を惹くことができた。理事たちの頭はすっかり忙殺されていて、その討議の合間に割りこむことは難しかったようだった。やがて、壁は気が進まないように開き、アルヴィンは急いでロボットを部屋の中に前進させた。
彼が皆の方に空中から近づいてゆくと、三人の理事たちはぎょっとして席にすくんだが、セラニスの顔には、ほんの僅か驚きがかすめただけだった。ことによると、ヒルヴァーがすでに彼女に警告を発していたのかもしれなかった。それとも、ことによると、彼女は、アルヴィンが遅かれ早かれ戻ってくることを予想していたのだろうか。
「今晩は」彼は、この仮の姿でやってきたことが、世にも当然だといわんばかりに、丁重にいった。「私は帰ってくることに決めました」
彼らの驚きは、アルヴィンの予想を遙かに越えていた。まず我に返ったのは、理事の一人である白髪まじりの若い男だった。
「どうやって、ここに来たんだね?」と、彼は喘ぐようにいった。
彼らが驚いたわけは明らかだった。ダイアスパーがやったのと全く同じように、リスも地下鉄道を動けなくしたに違いなかった。
「だって、この前の時とすっかり同じようにしてですよ」アルヴィンは、彼らをからかってやろうという気持を押さえかねて、こういった。
理事のうちの二人は、もう一人をじっと見つめたが、その男は両手をひろげて当惑した様子を見せた。それから、前に彼に話しかけた若い男がまた口を開いた。
「それで、何も――その、障害はなかったかね?」と、彼はいった。
「ちっとも」アルヴィンは、彼らの混乱に輪をかけてやろうと決心して、そういった。彼は、それがうまくいったのを見てとった。
「私は自由意志で戻ってきました」と彼は続けた。「それはまた、あなた方にとって或る重大な話があるからです。けれども、この前には私たちの間に意見の相違があったことを考慮して、とりあえず姿を見せないことにしたのです。私が自分でここに来ても、もう二度と私の行動を拘束しようとしないことを、約束してくださいますか?」
しばらくは誰も口をきかなかった。アルヴィンは、この沈黙の中でどんな考えが交わされているのだろうかと思った。やがて、セラニスが、皆を代表して口を開いた。
「私たちは、二度とあなたを拘束しようとは思いません。もっとも、この前の時も、あまり成功したとは思いませんけれど」
「いいでしょう」と、アルヴィンは答えた。「できるだけ早く、エアリーに来ることにします」
彼は、ロボットが帰ってくるまで待っていた。それから、大へん注意深く彼に指示を与え、それを復唱させた。彼はセラニスが約束を破らないことを確信していたが、それでも退却の道をちゃんとしておいた方がいいと思ったのだった。
彼が宇宙船を出ると、後では気閘《エア・ロック》が音もなく閉まった。しばらくすると、びっくりして息を吸いこむ時のような微かな「シュウ……」という音がした。上昇する宇宙船に空気が押し分けられる音だった。一瞬、黒い影が星を隠し、宇宙船は見えなくなった。
それが姿を消した時、アルヴィンは、自分が些細なことだが厄介な誤算をしたことに、やっと気がついた。それは、最善を尽した計画をも、失敗に終わらせうるような種類のものだった。彼は、ロボットの感覚が自分よりもずっと鋭いことを忘れていた。そして、夜は思ったよりもずっと暗かったのである。彼は、一度ならず、道をすっかり踏み迷い、何回か危うく立木に衝突するところだった。森の中はほとんど真暗闇であり、一度など、何か非常に大きなものが下草を抜けて彼の方へやってきた。小枝の折れる微かな音がして、彼の腰の高さから、二つのエメラルド色の眼が彼をじっと見つめていた。彼がそっと声をかけると、とても信じられないほど長い舌が、彼の手を舐めまわした。しばらくすると、がっしりした体が懐しげに彼に擦りつけられ、それから音もなく去っていった。それがいったい何だったのか、彼には見当もつかなかった。
やがて、前方の木の間から、村の灯が輝きだした。だが、彼はもうそれを目あてにする必要はなくなっていた。足もとの道は、今では微かな青い火で川のようになっていたのである。彼が踏んでゆく苔は光を発しており、足跡は黒い斑点となり、それは後の方でゆっくりと消えていった。魂を奪うような美しい眺めだった。アルヴィンが、かがんでこの不思議な苔を少しむしりとると、それは彼の手の窪みの中で輝き、何分もしてからやっとその光は消えていった。
ヒルヴァーは家の外でもう一度彼に会い、もう一度彼をセラニスや理事たちにひきあわせた。彼らは、何やら用心深い渋々ながらの敬意を表して、彼を迎えた。彼らはロボットの行く方が気にかかっていたかもしれないが、口に出しては何もいわなかった。
「あなた方の国をひどくみっともない恰好で離れねばならなかったのを、残念に思います」とアルヴィンは話し始めた。「ダイアスパーを脱けだすのもほぼ同じくらい難しかったと申しあげれば、あるいは興味がおありかと思います」彼は、この言葉が皆の胸におちるのを待ち、それから急いでつけ加えた。「私は、私の方の人たちにリスのことをすっかり話し、好い印象を与えるように最善を尽しましたが、ダイアスパーはあなた方と何の関係も持たないことになりました。私があれほど弁じたにもかかわらず、ダイアスパーは、劣悪な文化に毒されるのを避けたいというのです」
理事たちの反応は、極めて満足すべきものだった。洗練されたセラニスでさえ、彼の言葉にやや気色ばんだ。リスとダイアスパーを、お互いに充分に敵意を燃やさせられれば、自分の目的はなかば以上達せられるのだ、とアルヴィンは思った。それぞれの側は、自分たちの生活のあり方の方が上だということを懸命に証明しようとし、両者の間の垣根はすぐにも崩れ去るだろう。
「あなたは、どうしてリスに戻ってきたのですか?」と、セラニスが訊ねた。
「あなた方が、ダイアスパーと同じように間違っていることを、納得させたいと思ったからです」彼は、もう一つの理由をつけ加えなかった――リスには、自分が信頼できる唯一の友がおり、いまその助けを必要としているのだ、ということを。
理事たちは、依然として黙ったまま、彼が先を続けるのを待っていた。アルヴィンは、ここにはいない他の多くの頭脳も、彼らの眼を借りて見、彼らの耳を借りて聴き入っていることを知っていた。自分はダイアスパーの代表なのであり、リス全体が自分の語ることによって判断を下そうとしているのだった。それは重大な責任であり、彼はそういうものの前に自分が謙虚な気持になるのを感じた。彼は考えをまとめ、それから話し始めた。
主題はダイアスパーだった。彼は都市を自分が最後に見たままに――砂漠の胸に抱かれて夢み、その塔は捉えられた虹のように空に輝いている姿を描きだした。彼は記憶の宝庫から古代の詩人たちがダイアスパーを讃えた歌を思いだし、この都市の美を増すために生涯を捧げた無数の人たちのことを語った。誰でも、いかに長く生きようとも、この都市の宝を知り尽すことはとてもできないのだ。そこには常に何か新しいものが出てくるのだ。しばらくの間、彼はダイアスパーの人たちが生みだした驚異のいくつかについて話した。彼は、過去の芸術家たちが人類に永遠に讃美されるために作りだした美の少なくとも片鱗なりとも伝えようと努めた。そうして彼は、地球が星へ向けて発した最後の声はダイアスパーの音楽だったというのは、果たして本当だったのだろうかと、やや思いに沈みながら考えたのである。
彼らは、アルヴィンのいうことを、最後まで邪魔も質問もせずに聞いていた。彼が話し終わった時、夜はすっかりふけていた。アルヴィンは、これまでに憶えがないほど、疲れを感じていた。長い一日の緊張と興奮がついにこたえてきたのだった。そうして、突如として、彼は眠りこんでしまった。
眼を覚ますと、彼は見覚えのない部屋におり、しばらくたってからやっと、自分がもうダイアスパーにはいないのだということを思いだした。頭がはっきりするにつれて、あたりも明るくなり、やがて彼は、もう透明になっている壁からさしこんでくる朝の太陽の、柔らかく涼しげな輝きを浴びていた。彼はうつらうつらとしながら前日の出来事を思いだし、いま自分が活動を開始させたのはどんな力なのだろうかと考えていた。
静かな音楽とともに一方の壁に襞ができ始めたが、それは非常に複雑な動きだったので、見た目にはよくわからなかった。そこにできた入口からヒルヴァーが入ってきて、半ばはおもしろそうな、半ばは心から心配そうな表情で、アルヴィンを見つめた。
「アルヴィン」と彼はいった。「眼を覚ましたところで、よかったら、少なくとも君が次にどうするつもりなのか、それからどうやってここに戻ってきたのか、教えてくれないか。理事たちは、つい今しがた、地下鉄道を調べに出かけたところだよ。連中には、君がどうやってあれを通って来たのか、わけがわからないんだよ。君は、あれで来たのかい?」
アルヴィンはベッドからとびおきて勢いよく伸びをした。
「たぶん、皆に追いついた方がいいだろう」と彼はいった。「連中の時間を無駄にさせたくはないからね。君の今の質問のことなら――もう少ししたら、その答を見せてあげるよ」
二人は、もうちょっとで湖に出るという所で、三人の理事たちに追いつき、両方の一行はやや気恥ずかしそうに挨拶を交わした。「調査委員会」の方では、アルヴィンが自分たちの行き先を知っていることを見てとっで、この思いがけぬ出会いに明らかに少しまごついていた。
「昨夜は、どうやらあなた方を誤解させたようです」と、アルヴィンは朗らかにいった。「僕は前の道を通ってリスに来たのではありませんから、それを塞ごうとしたのは、全く無駄なことだったのです。実はダイアスパーの評議会も向う側を塞いだのですが、やっぱり目的を達しなかったのです」
いくつもの臆測が次から次へと頭に浮かんで混乱に陥った理事たちの顔は、まさに見ものだった。
「すると、君はどうやってここに来たんだ」と、彼らの指揮者がいった。突然、彼の眼にはわかりかけたような色が浮かび、アルヴィンには、彼が真相に気がつき始めたのがわかった。アルヴィンは、今しがた自分の心が山の彼方へ送りだした指示を、彼が盗み読んだのだろうかと思った。だが、彼は何もいわずに黙って北の空を指さした。
針のような銀色の光が、眼ではとても追えないほどの速さで、山を越えて大きな弧を描き、その後には一マイルも続く白熱した尾を曳いていた。リスの上空二万フィートで、それは停まった。そのおそろしいスピードは、減速されることもなく、徐々にブレーキをかけられることもなかった。それはいきなり停まったので、それを追っていた眼が引き続いて空を四分の一も行きすぎてから、やっと頭の方が気がついてストップをかける始末だった。空からは耳をつんざくような轟きが、叩きつけるように降ってきた――宇宙船の通過によって、めちゃめちゃに叩きつぶされた空気の音だった。その少し後で、御本尊の宇宙船が、日の光に絢爛と輝きながら、百ヤード先の丘の中腹に停止した。
誰がいちばんびっくりしたかは簡単にいえなかったが、まず我に返ったのはアルヴィンだった。皆で宇宙船の方へ歩いてゆきながら――走るといった方が近かったが――彼は、この宇宙船がいつもこんな流星のような飛び方をするんだろうかと思った。彼が乗ってきた時には、動いている感じは何もなかったのだが、そう思うと彼は不安を感じた。しかし、それよりももっと不思議に思えたのは、このぴかぴかの代物が一日前までは、厚い鉄のように堅い岩の下に隠されていて、それが砂漠から自分の身をひきちぎった時には、まだその岩に覆われていたのだということだった。アルヴィンは宇宙船の傍までいって、不用意にもその船体に指を触れて火傷をするまで、何がおこったのかに気がつかなかった。船尾の近くには、まだ土が残っていたが、それは熔けて熔岩になっていた。残りの船体はすっかりきれいになって、時間もどんな自然の力も一指だに触れられなかった頑丈な船腹を露出させていたのである。
アルヴィンはヒルヴァーを傍に従えて開いた扉のところに立ち、無言の理事たちを眺めた。彼らは何を考えているのだろうか――いや、実際にはリス全体が何を考えているのだろうか、と彼は思った。その表情から察すれば、彼らはほとんど考える力を失っているようだった。
「僕は、これからシャルミレインに行きます」とアルヴィンはいった。「そして、約一時間以内にエアリーに戻ります。でも、これはほんの序の口ですし、僕のいない間に考えておいていただきたいことがあるのです。
これは、人間が乗って地球の上を飛んでいたようなふつうの飛行機械じゃありません。これは宇宙船なのであり、それもかつて建造されたもっとも高速なものの一つなのです。僕がこれをどこで見つけたか知りたければ、その答はダイアスパーに行けぽわかります。でも、ダイアスパーの方では決してあなた方のところへは来ますまいから、あなたがたの方で向こうへ行かなければならないでしょう」
彼はヒルヴァーの方を向いて、扉の中へ入るように身振りをした。ヒルヴァーは、ほんのちょっと躊躇して、一度だけまわりの見慣れた景色を振り返った。それから、彼は気閘《エア・ロック》の中に足を踏み入れた。
理事たちは、宇宙船が今度は非常にゆっくりと動いて――というのは、僅かな距離を行くだけだったから――南に消え去るまで見つめていた。それから、一同を率いていた白髪の若い男は、悟ったように肩をすくめ、仲間の一人の方を向いた。
「君は、我々が変化を望むのにいつも反対していた」と彼はいった。「それに、今までのところは、君の勝ちだった。だが、今となっては、未来は我々のどちらの側の味方でもないと思うね。リスもダイアスパーも、一つの時代が終わったのだ。我々は、これをできるだけうまく切り抜けなければなるまいよ」
「君のいうとおりらしいな」と憂欝そうな答が返ってきた。「これは全く危機だ。アルヴィンは我々にダイアスパーへ行けといったが、彼は自分のいっていることの意味をよく承知しているのだ。彼らはもう、我々のことを知っているのだから、これ以上隠しておく理由は何もないわけだ。我々は兄弟たち[#「兄弟たち」に傍点]と連絡をとった方がいいと思うよ。彼らも、今となっては、前よりも熱心に協力しようとしているかもしれんな」
「しかし、地下鉄道は、両方の口で塞がれてしまっているんだぜ!」
「我々は、こちら側を開けることができるさ。遠からず、ダイアスパーの方でも同じことをするだろうよ」
理事たちの頭脳は――また、エアリーの中の頭脳、さらにリス全体に散らばっている頭脳は――この提案をじっくりと考え、心の底からそれが気に入らなかった。しかし、それに代るべきものは見当たらなかった。
彼が当然のこととして予想していたよりも早く、アルヴィンの播いた種子は、花開き始めていたのである。
二人がシャルミレインに着いた時、山々はまだ影の中に漂っていた。彼らのいる高度から見ると、砦の巨大なすり鉢はひどく小さく見えた。かつて、あのちっぽけな黒い丸に、地球の運命がかかっていたとは、とても信じられないように思えた。
宇宙船を湖畔の廃墟の中に着陸させた時、そこの荒れ果てた感じはアルヴィンの胸に迫ってきて、魂も凍るばかりだった。彼が気閘《エア・ロック》を開くと、その場の静寂さが船中にも忍びこんできた。飛んでいる間じゅうほとんど口をきかなかったヒルヴァーは、静かに訊ねた。「どうして、またここに来たんだい?」
アルヴィンは、彼らがほとんど湖の岸に達するまで答えなかった。それから、彼はいった。「僕は、この宇宙船がどんなものだかを君に見せたかった。それに僕は、群体生物《ポリプ》がまた元の姿に戻っているかもしれないとも思った。僕は彼に借りがあるような気がしているものだから、発見したことを彼に話したいんだ」
「そうだとすると」と、ヒルヴァーは答えた。「待たねばなるまいよ。ここに帰って来るのが、だいぶ早すぎたな」
アルヴィンも、それは予想していた。そういう可能性はまずないと思っていたから、彼は失敗してもがっかりはしなかった。湖の水は全くしずまり返っていて、初めて来たとき彼らをあれほど不思議がらせたような規則正しいリズムで鼓動してはいなかった。彼は水際に膝をついて、冷たく暗い底を覗きこんだ。
鐘の形をした小さな半透明のものが、ほとんど眼に見えない触手をなびかせて、水面の下をあちらこちらへ漂い流れていた。アルヴィンは手をつっこんで、それをすくいあげた。途端に、彼は軽い叫びをあげてそれを落とした。それが刺したのだった。
いつか――それは数年先かもしれないし、数世紀先かもしれなかったが――この意識のないくらげ[#「くらげ」に傍点]が集まって、あの大きな群体生物《ポリプ》が生き返り、その記憶がつながりあい、再び意識が蘇ることだろう。アルヴィンは、彼が自分の発見したことを聞いて、それをどう受けとるだろうかと思った。彼はマスターについての真相を知ることを喜ばないかもしれない。確かに、自分が長い年代にわたって辛抱強く待っていたのが無駄だったことを、彼は認めようとしないかもしれないのだった。
だが、無駄だったのだろうか? この生物たちは思い違いをしていたかもしれないが、彼らが長いあいだ張り番をしていたことは、ついに酬われたのである。彼らは、過去の知識の中から、彼らがいなければ永遠に失われたかもしれないものを、まるで奇蹟のように救ったのである。いま、彼らはついに安息を得、彼らの教義は、かつて自分たちを不滅と考えていた無数の信仰の列に加わることだろう。
[#改段]
19
ヒルヴァーとアルヴィンは、黙って物思いに沈みながら、待っている宇宙船にひきかえした。やがて、砦はもう一度、丘の間に囲まれた暗い蔭になった。それほどんどん小さくなり、ついには永遠に宇宙を見つめる、黒い瞼のない眼のようになり、間もなくリスの壮大な眺めの中に見えなくなった。
アルヴィンは、宇宙船を停めようとはしなかった。彼らはなおも上昇を続け、ついにリス全体が、黄色い海に浮かぶ緑の島のように、真下に拡がって見えた。アルヴィンは、今までに、こんなに高く昇ったことはなかった。彼らがついに停止した時、下には大きな弧を描いた地球が見えた。リスはもうまるで小さく、錆色の砂漠の中にあるエメラルド色のしみ[#「しみ」に傍点]にすぎなかった。だが、弧を描いた遠い地平線の彼方に、五彩の宝石のように輝くものがあった。こうしてヒルヴァーは、初めてダイアスパーの都市を見たのである。
二人は長いこと坐って、足の下で地球がまわってゆくのを眺めていた。人間が古代から持ってきたさまざまな力の中でも、これはアルヴィンには到底手離すことのできない力だった。彼は、自分がいま見ているままの世界を、リスとダイアスパーの支配者たちに見せることができたら、と思った。
「ヒルヴァー」やがて、彼はいった。「僕がやっていることは正しいと思うかい?」
ヒルヴァーには、この質問は意外だった。彼は、自分の友達が時として突然襲ってくる疑惑に苦しめられていようとは思ってもみなかったし、アルヴィンが、中央計算機《セントラル・コンピューター》に会見し、そのことが彼の心に衝撃を与えたことなどは、まだ何も知らなかったのである。この質問に冷静に答えるのは難しかった。ヒルヴァーもケドロンと同じように――ケドロンほどの理由があるわけではなかったが――自分の役割が影のうすいものになりかけていることを感じた。彼は、アルヴィンが人生を突進しながら残してゆく渦巻に、どうすることもできずに吸いこまれかけていた。
「君が正しいと、信じるよ」ヒルヴァーは、のろのろと答えた。「僕たち二つの種族が分れ分れになっているのは、もうたくさんだ」これはほんとうのことだ、とヒルヴァーは思ったが、自分の感情が答を偏らせたに違いないことも意識していた。だが、アルヴィンはまだ悩んでいた。
「気にかかる問題が一つあるんだ」と、彼は声を曇らせていった。「それというのは、僕たちの寿命が違うことなんだ」彼はそれ以上いわなかったが、二人とも相手が何を考えているか、よくわかっていた。
「僕もそのことは心配していた」と、ヒルヴァーは認めた。「でも僕たちがお互いにもう一度知りあうようになったら、この問題はいずれ自然に解決するだろうと僕は思うよ。我々が両方とも[#「両方とも」に傍点]正しいということは、ありえないんだ――僕たちの命は短かすぎるのかもしれないが、君たちの命は明らかに長すぎるんだ。いずれは歩みよりが行なわれるだろう」
アルヴィンは、そうだろうか、と思った。確かに、その方向にしか望みはなかった。しかし過渡期の時代は、実に耐えがたいものだろう。彼はもう一度、セラニスのいった「ヒルヴァーや私が二人とも死んで何世紀もしてからでも、あなたはまだ若いままでしょう」という悲痛な言葉を思いだした。よろしい、自分はこの条件を受け入れよう。ダイアスパーの中でさえ、あらゆる友情というものは、みんなこれと同じ影のもとに存在しているのだ。それが百年先か百万年先かということは、究極においては大して違いはないのである。
アルヴィンは、あらゆる論理を超越した確信をもって、種族の繁栄のためには、この二つの文化が混りあうことが要求されていることを悟っていた。そのような大目的の前には、個人の幸福などは些細なことだった。この瞬間、アルヴィンには、人類というものが自分の人生の背景というだけのものではないと思われた。そうして、彼は、自分の選ぶ道がいつかもたらすに違いない不幸を、ひるむことなく受け入れたのだった。
彼らの下では、世界が果てしのない回転を続けていた。友達の気分を察したヒルヴァーは、何もいわないでいたが、やがてアルヴィンが沈黙を破った。
「僕が初めてダイアスパーを離れた時」と彼はいった。「僕は、自分でも何を見つけたいのか、わかっていなかった。以前の僕だったらリスで満足したことだろう――満足する以上のものだっただろう。でも、今では、地球上の何もかもが、実に小さくてつまらないように思えるんだ。新しい発見をするたびに、そこからもっと大きな疑問が出てきて、もっと大きな視野が開けるんだ。いったい、これはどこまで続くんだろうか……」
ヒルヴァーは、これまでに、アルヴィンがこれほど考えこんだ様子でいるところを見たことがなかったので、その独り言を邪魔したくなかった。彼は、この友人について、ついこの数分間のあいだに、多くのことを知ったのである。
「ロボットのいうことによれば」と、アルヴィンは続けた。「この宇宙船は、一日もかからずに七つの太陽[#「七つの太陽」に傍点]まで行けるんだそうだ。僕は行くべきだと思うかい?」
「君が僕に止められると思うかい?」ヒルヴァーは穏やかに答えた。
アルヴィンは、にっこり笑った。
「それは答になっていないな」と、彼はいった。「宇宙の向こうに何があるかは、誰も知らないのだ、侵略者たちは、この宇宙を出ていったかもしれない。でも、知能のあるもので人間に友好的でないものが、他にもいるかもしれないんだ」
「どうしてだね?」とヒルヴァーは訊ねた。「それは、僕らの方の哲学者が長い時代にわたって議論してきた問題の一つだ。ほんとうに知能のある種属だったら、友好的じゃないはずはないんだ」
「でも、侵略者は――?」
「それが謎だということは認めるよ。彼らがほんとうに兇暴なのだとしたら、今までに自滅してしまっているに違いないんだ。また、仮にそうでなかったとしても――」と、ヒルヴァーは、下の果てしない砂漠を指さした。「かつて、我々は帝国を持っていた。いま、彼らが欲しがるような何を持っているというんだ?」
アルヴィンは、自分に非常に近い見方をしているものが他にもいるということに、ちょっとびっくりした。
「君の方の人たちは、みんな、そんなふうに考えているのか?」と、彼は訊ねた。
「少数だけだ。ふつうの人は、そんなことは気にしていない。でも、もし聞かれれば、きっと、侵略者たちがほんとうに地球を滅ぼそうと思ったのだったら、とっくの昔にそうしていたろう、と答えるだろうな。実際に侵略者を怖がっているものがいるとは思わないね」
「ダイアスパーでは、まるで話が違うんだ」と、アルヴィンはいった。「僕の方の人たちは、大へんな臆病者なんだ。彼らには、自分たちの都市を離れるなぞ、身の毛もよだつようなことなんだ。僕が宇宙船を見つけたと聞こうものなら、どんなことになるかわからないな。今ごろはジェセラクが評議会に話していることだろうが、連中がどうしているか知りたいもんだよ」
「それなら、教えてあげられるよ。彼らは、リスから初めての代表団を迎える準備をしている。母さんが、たった今、教えてくれたんだ」
アルヴィンは、もう一度スクリーンを眺めた。リスとダイアスパーとの間は、一目で見渡せた。彼の目標の一つは達成されたわけだったが、今となっては、それは小さな問題のように思えた。それでも、彼は非常に嬉しかった。今や、長い時代にわたる無益な隔離はお終いになるに違いない。
かつての自分の最大の使命をやり遂げたと知って、アルヴィンの心からは疑惑の影が拭い去られた。この地球上での目標は、自分でもとても考えられなかったほど速く、完璧に達成されたのだ。これが最後であるかもしれぬ冒険――かつまた、間違いなく自分にとって最大の冒険への道は、眼の前に大きく開けていた。
「僕といっしょに来るかい、ヒルヴァー?」彼は、自分の口にしていることを、ひどく意識しながら訊ねた。
ヒルヴァーは、彼をじっと見つめた。
「そんなことは聞かなくてもよかったんだよ、アルヴィン」と彼はいった。「僕は、もう母さんや友達に、君といっしょに出かけるといってあるんだ――一時間も前にね」
アルヴィンがロボットに最後の指示を与えた時には、彼らは非常に高く昇っていた。宇宙船はほとんど停止し、地球はたぶん千マイル下にあって、ほとんど空いっぱいに覆いかぶさっていた。それは、ひどく魅力のない眺めだった。昔、どれほど多くの宇宙船が、ここでしばらく一息いれてから旅を続けたことだろう、とアルヴィンは思った。
地質学的な時間のあいだ使われなかった操縦装置や回路をロボットが点検しているらしく、かなりな時間の中休みが続いた。それから、ごく微かな音が聞こえてきた。それは、アルヴィンには初めての、機械のたてる物音だった。その小さな唸りは、急速に高い音になってゆき、ついに耳に聞こえる範囲をとびだして消えた。動きが変わったという感じはまるでなかったが、彼は突然スクリーンの上を星が動いていることに気づいた。また地球が現われ、通りすぎてゆき――それからまた、ほんの少し違った場所に現われた。宇宙船は、磁石の針が北をさがしているように、宇宙空間の中で揺れながら、「探しまわって」いるのだった。何分かの間、空は二人のまわりで回転し、反転していたが、ついに、宇宙船は巨大な弾丸のように、星に狙いを定めて停まった。
スクリーンの中央には、虹のように美しい色を見せて横たわる七つの太揚[#「七つの太陽」に傍点]の大きな輪があった。地球のほんの一部が、夕映えで縁を金と紅に彩られた黒い弦となって、まだ見えていた。アルヴィンは、何か今までのあらゆる経験を超えたことが、今おころうとしているのだと悟った。刻々と時がたち、七つの太陽[#「七つの太陽」に傍点]がスクリーンの上できらめいている間、彼は椅子を握りしめて待っていた。
何の音もなく、ただ急に引っぽられて、映像がぼやけたような気がしただけだった――だが、地球は、巨人の手がひったくったかのように消えた。二人は空間の中に取り残され、そこにあるものは、ただ星と異様に小さくなった太陽だけだった。地球は、まるで今までも存在していなかったかのように、見えなくなっていた。
再び例の引っぱられるような感じがしたと思うと、今度は、ジェネレーターが初めてその動力の相当部分を注ぎこんでいるように、ごく微かなざわめきの音が聞こえてきた。それでも、しばらくの間は何もおこらなかったように思えた。やがて、アルヴィンは、太陽そのものも見えなくなり、星がゆっくりと這うように宇宙船を通りすぎているのに気がついた。彼は、一瞬、後の方をふりかえってみたが――何も見えなかった。後では、空全体がすっかり消えてしまい、その半球は闇に変わっていた。彼が眺めている間にも、星がそこへ突っこんでは、水に落ちた火花のように消えてゆくのが見えた。宇宙船は光よりも速く進んでおり、自分を包んでいるのは、もはや、地球や太陽のある住み慣れた空間ではないことに、アルヴィンは気がついた。
三度目にめまいがするほどぐいと引かれた時、彼はほとんど心臓も止まらんばかりだった。映像は、もはや疑いもなく異様にぼやけていたのである。一瞬、あたりは見わけもつかぬほど歪んで見えた。彼は、説明のつかない霊感の閃きによって、この歪みの意味を悟った。これは現実のものであり[#「これは現実のものであり」に傍点]、眼の錯覚などではないのだ[#「眼の錯覚などではないのだ」に傍点]。どうしてだかわからないが、彼は「現在」の薄い膜を突き抜けて、まわりの空間におこっている変化を垣間見ているのである。
そのとたん、ジェネレーターの低い唸りは、轟音に変わって、船を揺るがせた。機械が抗議の叫びをあげるのをアルヴィンが聞いたのは、これが初めてだったから、それはよけい印象的だった。やがて、その音もすっかり止まり、突如として訪れた静けさは、耳がじーんとするほどだった。大ジェネレーターは役目を果たしたのである。もうこの旅が終わるまでそれを必要とすることはないのだった。前方の星たちは、青白色に明るく閃いてから、紫外部に入って見えなくなっていった。しかも、あるいは自然のいかなる魔術によってか、七つの太陽[#「七つの太陽」に傍点]だけは、今では位置や色が微妙に変ってはいたけれども、依然として見えているのだった。宇宙船は、暗黒のトンネルを通って、時間空間の制約を超越し、とても想像できないような物凄いスピードで、それに向かって突進していた。
ブレーキをかけなければ間もなくこの銀河系の心臓部を突き抜けてその向こうのさらに広大な虚空の中に飛びこんでしまうようなスピードで、いま自分たちが太陽系から飛びだしているのだとは、とても信じられなかった。アルヴィンにもヒルヴァーにも、この旅行のほんとうの壮大さはわからなかった。数々の偉大な探検の物語は、人類の宇宙観を根本から変えてしまったのであり、それから数百万世紀を経た今になっても、その古い伝統は完全に死に絶えたわけではなかったのである。伝説の語るところでは、かつて或る宇宙船は、太陽が昇って沈むまでに大宇宙を一周したという。星たちを隔てる何十億マイルも、これほどのスピードの前には、物の数ではなかった。アルヴィンにとっては、この旅も、自分が初めてリスへいった旅にくらべて大して遠いというわけでもなかったし、また恐らくはそれよりも危険の少ないものだったのである。
七つの太陽[#「七つの太陽」に傍点]が前方でゆっくりと明るさを増してきた時、二人ともが思っていたことを口にしたのはヒルヴァーだった。
「アルヴィン」と彼はいった。「あの体形は天然のものではありえないぜ」
相手は、うなずいた。
「僕も長いことそう思っていたんだが、それでもやっぱり突拍子もない考えみたいな気がするんだ」
「あの星団を作ったのは人類ではないかもしれない」とヒルヴァーも同意した。「でも知能のあるものが作ったのに違いないよ。星があんなに完全な円形に並んで。しかも全部が同じ明るさになるなんてことは、自然にはとてもできないことだよ。それに、あの中央の太陽[#「中央の太陽」に傍点]のようなものは、見渡すかぎりの宇宙には、どこにもないぜ」
「じゃ、いったいどうしてこんなものを作ったのだろう?」
「うん、理由はいくらでも考えられるさ。もしかするとこれは合図のための信号であって、どこかよその宇宙船が、我々の宇宙に入ってきた時に、どこで生命が見つけられるかを教えるものかもしれない。それとも、もしかすると――僕は何となくこれが真相のような気がするんだが――これはただ、あらゆる芸術作品の中で、最大のものなのかもしれない。でも、いまそんなことを推測したって馬鹿らしいよ。もう何時間かすれば、ほんとうのことがわかるだろうさ」
「ほんとうのことがわかる[#「ほんとうのことがわかる」に傍点]」たぶんそうだろう、とアルヴィンは思った――だが、ほんとうのことの中のどれだけを、知ることになるのだろう? 考えも及ばぬスピードでダイアスパーを、また地球そのものさえも離れている時に、思いが再び自分の出生の謎に戻ってゆくというのは、奇妙なことのように思われた。けれども、たぶんこれはそれほど意外なことではないのだろう。初めてリスに着いて以来、彼は多くのことを学んだが、今の今まで静かに考えてみる暇は一刻もなかったのであった。
今は坐って待っているより能はなかった。目前の未来は、いま自分をこの宇宙の心臓部へ運んでいるすばらしい機械に――その機械はまさに古今を通じて最高の技術の成果なのだったが――握られているのだった。今は、好むと好まざるとにかかわらず、沈思黙考すべき時だった。だが、まず、たった二日前にあわただしく別れてから自分の身におこったことを、ヒルヴァーにすっかり話すことにしよう。
ヒルヴァーは、この話を一言も口をはさまず、また何の説明も求めずに、呑みこんだ。彼はアルヴィンの話を一つ残らず直ちに理解したらしかった。彼は、中央計算機《セントラル・コンピューター》と会見したことや、計算機がロボットの頭脳に施した手術のことを聞いても、何も驚いた様子を見せなかった。それは何も彼が驚嘆する力を持たないということではなくて、過去の歴史がアルヴィンの話の一つ一つに匹敵するほどの驚異に満ち満ちているということなのだった。
「中央計算機《セントラル・コンピューター》が建設された時、君に関して特別な指示が与えられたことは明白だな」アルヴィンが話し終わった時、彼はこういった。「君は、今では、それがどうしてだかを察しているんだろう?」
「そんな気がするんだ。ケドロンはこの答の一部を教えてくれて、ダイアスパーを設計した人たちが、都市が退廃に陥らないためにどんな手を打ったか、僕に説明したんだよ」
「君や、君の先輩のユニーク[#「ユニーク」に傍点]たちは、全くの沈滞がおこるのを防ぐ社会的なメカニズムの一部だというんだね。そうすると、道化師が短期的な補正因子なのに対して、君や君の仲間は長期的なものなんだというわけか」
ヒルヴァーは、その考えを、アルヴィンよりもうまく表現した。しかし、これは、正確にいうとアルヴィンが考えていたこととは違っていた。
「僕は、真相は、それよりももっとややこしいんだと思う。都市が建設された時、これを外界から完全に閉鎖してしまおうとする者たちと、いくらか接触を残しておこうとする者たちとの間に、どうやら意見の衝突があったんじゃないかと思えるんだ。前の党派の方が勝ったんだが、もう一つの党派の方では敗北を認めなかった。ヤーラン・ゼイは、その指導者の一人だったに違いないと思うんだが、彼には公然と行動できるほどの力はなかったんだ。彼は自分にできる最善を尽して、地下鉄道をそのままに残し、仲間の住民たちが全部持っている恐怖を知らないような者が長い間をおいて創造の殿堂から出てくるように仕組んだんだよ。実は、僕は思うんだが……」アルヴィンは言葉を途切らせ、その眼は思いに閉ざされて、しばらくのあいだ彼は自分のまわりのことを忘れてしまったかに見えた。
「何を考えているんだね?」と、ヒルヴァーは訊ねた。
「たった今、思いついたんだが――もしかすると、僕[#「僕」に傍点]はヤーラン・ゼイなのかもしれない。それは全くありうることだ。彼は自分の個性を記憶バンクに送りこんで、ダイアスパーという鋳型があまり堅固にできあがってしまわないうちに、それをぶちこわすことを期待したのかもしれない。いつか、僕は先輩のユニーク[#「ユニーク」に傍点]たちがどうなったのか調べなけりゃならないな。そうすれば、はっきりしない点を埋める役に立つかもしれないんだ」
「そうして、ヤーラン・ゼイは――いや、誰でもいいが――中央計算機《セントラル・コンピューター》に、ユニーク[#「ユニーク」に傍点]が現われた時には必ず特別な援助をするようにということも指示したんだね」ヒルヴァーは、アルヴィンの論理の筋に従って考えていた。
「そのとおり。皮肉なことに、僕は気の毒なケドロンの助けを何も借りないでも、直接|中央計算機《セントラル・コンピューター》から必要な情報は何でももらえたわけなんだよ。計算機は、僕には彼に話したことよりもたくさんのことを話してくれたことだろう。でも、ケドロンは、ずいぶん時間を節約させてくれたし、僕が独りでは決して知ることのできなかったことを、たくさん教えてくれたことは間違いないんだ」
「君の説は、わかっている事実を全部説明できると思う」ヒルヴァーは、慎重にいった。「それでも、残念ながら、何よりも重大な問題が――つまりダイアスパーがそもそもどんな目的を持っていたのかということが、まだ全く未解決のままだな。君の方の人たちは、どうして外の世界が存在しないというふりをしようとしたんだろう? この[#「この」に傍点]問題こそ、解決してもらいたいんだがな」
「それこそ僕が解決しようと思っていることなんだ」とアルヴィンは答えた。「でも、それはいつのことやら――また、どうやって解決できるのやら――僕にはわからない」
こうして二人が議論し夢みている間に、七つの太陽[#「七つの太陽」に傍点]は、刻一刻とお互いに離れてゆき、ついには宇宙船がいま通り抜けている不思議なトンネルいっぱいに拡がった。やがて、外側の六つの星は、一つまた一つと暗闇の縁に消えてゆき、ついに中央の太陽[#「中央の太陽」に傍点]だけが取り残された。もう二人がいる空間と全く同じ空間にあるはずはないのに、それは依然として輝いており、他のあらゆる星に類のない真珠色の光を発していた。その輝きは刻一刻と強くなり、やがてそれはもう点ではなくて小さな円盤になった。そうして今、その円盤は、彼らの前に大きくなり始めていた。
ごく短い前触れがあった。しばらくの間、低いベルのような音が部屋に響きわたった。アルヴィンは椅子の肘掛けを握りしめたが、そんなことをしても何にもならないのだった。
大ジェネレーターは、またもや轟然と動き始め、突如として、まるで眼も眩まんぼかりに、再び星が現われた。宇宙船は空間の中に――太陽や惑星のあるこの宇宙に――何ものも光より速くは動けない、あたりまえの世界に、戻っていた。
彼らはすでに七つの太陽[#「七つの太陽」に傍点]の星団の中に入っており、色とりどりの球からなる大きな輪が、今や空いっぱいに拡がっていた。そうして、それはまた、何という空だったことだろう! 彼らの知っているあらゆる星、見慣れたあらゆる星座は姿を消していた。天の川は、もう天の一角に局限された微かな霧のような帯などではなかった。彼らは今や創造の中心にいるのであり、大きな銀河の輪が、宇宙を真二つに分けていた。
宇宙船は、なおも非常な速さで中央の太陽[#「中央の太陽」に傍点]に向かって進んでおり、この星団の残りの六つの星は、空に丸く並んで、色の着いた灯台のように輝いていた。その中でいちばん近いもののすぐ傍には、それを公転する惑星たちが小さく光って見えた。それらは、これほどの距離から見えるとすれば、物凄い大きさであるに違いなかった。
中央の太陽[#「中央の太陽」に傍点]を真珠色に光らせている原因は、ここまで来ると、はっきり見えた。その大きな星は、ガスの中にすっぽり包まれていて、そのガスが星の光をやわらげ、それに独得の色を与えているのだった。取り巻いているその雲は間接にしか見えず、奇妙な形に捩じくれていて、眼にはよく見えなかった。にもかかわらず雲はそこにあり、長く見つめていればいるほど、それはますます遠くまで拡がっているように見えた。
「ところで、アルヴィン」と、ヒルヴァーはいった。「僕らは、これだけある惑星の中から、どれか選ばなきゃならないぜ。それとも、君は、これをみんな探検しようと思っている のかい?」
「そんなことをしなくてもよければ、ありがたいんだがな」と、アルヴィンはいった。「どこかで連絡がとれれば、必要な情報は手に入るだろう。中央の太陽[#「中央の太陽」に傍点]のいちばん大きな惑星に行くのが合理的だろうな」
「それがあまり大きくなければね。僕の聞いたところじゃ、惑星によっては、大きすぎて人間には住めないのもあるそうだぜ。人間は自分の重みで潰れてしまうだろうというんだ」
「ここで、そのことが通用するかどうか疑問だな。だって、この星団が全く人工的なものだというのは確かだからね。いずれにせよ、僕らは宇宙空間から、そこに都市や建物があるかどうか見れるだろうよ」
ヒルヴァーは、ロボットを指さした。
「僕らが心配しなくても、問題は解決したよ。忘れちゃいかん――我が案内人は、前にここにいたことがあるんだぜ。彼は僕らを故郷に連れてゆくところなんだ――いったい、彼はそれをどう思っていることだろうな」
それは、アルヴィンも考えていたことだった。それにしても、これだけ長い年代を経てマスターの大昔の故郷へ帰って来たからといって、このロボットが何か人間の感情に似たものを感ずるだろうと思うのは正しいのだろうか――そもそも意味のあることなのだろうか?
このロボットを唖にしていた遮断が中央計算機《セントラル・コンピューター》によって解除されて以来アルヴィンがいろいろと交渉を持ったところでは、ロボットは感情や情緒を持っている様子を何も見せなかった。彼はアルヴィンの質問に答え、命令に従ったが、彼のほんとうの個性には全く近づけぬことが明らかだったのである。彼が個性を持っていることを、アルヴィンは確信していた。そうでなければ、自分が彼に――また今は休眠している彼の仲間に――いっぱい食わせたことを思いだす時にアルヴィンを苦しめる漠然とした良心の呵責を、彼が感ずることもなかっただろう。
ロボットは、今でもマスターが自分に教えたことを信じこんでいた。彼はマスターが奇蹟をでっちあげ、信者をだましたのを見たにもかかわらず、この不都合な事実に忠誠心を左右されることはなかったのである。彼の前にも多くの人間がやったように、彼は二組の矛盾するデータを両立させることができたのである。
いま、ロボットは、そもそもの初めにまで溯る自分の太古の記憶に従って行動していた。中央の太陽[#「中央の太陽」に傍点]の眩い光にほとんど隠されそうになりながら、一つの弱い光がぽつんと光っており、そのまわりには、さらに小さな惑星たちの、さらに弱い光が見えていた。二人の途方もない旅も終わりに近づいていた。もう少し経てば、彼らはそれが無駄だったかどうかを知ることだろう。
[#改段]
20
彼らが近づいている惑星は、もうほんの数百万マイルのところにあり、五彩に光る美しい球となっていた。その表面では、どこにも暗闇などありえなかった。なぜなら、その惑星が中央の太陽[#「中央の太陽」に傍点]のもとで自転するにつれて、他の太陽たちが一つずつその空を横切ってゆくことになるからだった。アルヴィンは、マスターの臨終の言葉の意味が、今こそはっきりとわかったのである。「永遠に明るい惑星たちの上で彩られた影を見るのは、すばらしいことだ」
もう彼らは非常に近づいていたので、大陸や海や、また微かな靄のような大気を見ることができた。しかしその様子には何か変なところがあり、やがて二人は、陸と水との境い目が奇妙に規則正しいことに気がついた。この惑星の大陸は、自然が創るにまかせたままの姿ではなかったのである――だが、その太陽を建造した者たちにとって、一つの惑星の形を作ることなどは、何の造作もない仕事だったに違いないのである!
「あれは、海なんぞではないぜ!」と、ヒルヴァーが急に叫んだ。「見ろ――その中に[#「中に」に傍点]模様が見えるぞ!」
その惑星がもっと近くなるまで、アルヴィンには友人のいっていることがよくわからなかった。やがて彼は、海岸線と思っていた所からかなり内側に、大陸の縁に沿って微かな帯や線があるのに気がついた。これを見た彼は、突然、疑惑に心を満たされた。なぜなら、彼はその線の意味を、知りすぎるほど知っていたからだった。彼はこれを前にも、ダイアスパーの外側の砂漠の中に見たのである。それは、この旅が徒労だったことを告げているのだった。
「この惑星は、地球と同じように干上がっている」彼は、ぼんやりといった。「水がすっかりなくなっているんだ――あの模様は、海が蒸発したあとに残った塩の層なんだよ」
「誰かがいるのなら、そんなことはおこらなかっただろう」と、ヒルヴァーは答えた。「やっぱり、僕らは来るのが遅すぎたようだな」
失望はあまりにも激しかったので、アルヴィンはそれ以上は口もきけず、ただ黙って前方の大きな惑星を見つめるばかりだった。その惑星は宇宙船の下で荘厳にゆっくりと回転してゆき、その表面は威風堂々と彼らに近づいてきた。今では彼らは建物を見ることができた――それは、海底そのものを除いて、いたるところを被っている細かな白い皮殻だった。
かつて、この惑星は宇宙の中心だったのだ。今ではそこは静まりかえり、空中には何もなく、地上にも生命の存在を示すような動きまわる点は何もないのである。それでも宇宙船は、何かを目指しているように、動かぬ石の海の上をなおも滑るように進み、その石の海は、空に向かって挑戦する大浪のようにところどころで盛りあがっていた。
やがて宇宙船は停止した。それは、まるでロボットが記憶を追ってついにその源にまで辿りついたかのようだった。彼らの下には、雪のように白い円柱が、大理石でできた広いスタジアムの中央から突き出ていた。アルヴィンはしばらく待っていたが、機械はそのまま動かなかったので、その柱の根もとに着陸するように命じた。
この時になってもまだ、アルヴィンは、この惑星に生命を見つけることに、まだ半ば望みをかけていた。その望みは、気閘《エア・ロック》が開いた途端に消えた。彼は今までに、荒涼としたシャルミレインにいた時でさえ、全くの静寂というものを経験したことはなかった。地球では、声のざわめきや、生きものの動きや、風のささやきが絶えずあった。ここでは、そんなものは一つもなかったし、二度と再びあるようにもならないことだろう。
「お前は、どうしてこの場所に連れてきたんだ?」とアルヴィンは訊ねた。彼はその答に大して興味はなかったのだが、これまで続けてきた探究の惰性によって、それ以上探究する気持をすっかり失った今も動かされていたのである。
「マスターは、ここから出発したのです」と、ロボットは答えた。
「そうだと思った」と、ヒルヴァーはいった。
「何もかも運命のいたずらだと思わないか? 彼はこの惑星から辱められて逃げだしたんだ――ところが、皆が彼のために建てたこの記念碑を見ろ!」
その石の大円柱は、おそらく人間の背丈の百倍もあり、そこの平面から少し高くなった金属の円の中にはめこまれていた。それには何の模様もついてなく、何の碑文も刻まれていなかった。何千年、あるいは何百万年の間、マスターの弟子たちはここに集まって彼を賞め讃えたことだろうか、とアルヴィンは思った。また、彼らは、マスターが遠い地球で客死したことを知っていたのだろうか?
今となっては、それはどうでもいいことだった。マスターも彼の弟子たちも、等しく忘却の淵に埋められてしまったのである。
「出てこいよ」と、ヒルヴァーがせき立てた。彼は、アルヴィンを沈んだ気分からひき出そうとしていた。「僕たちは、この場所を見るために、宇宙の半分も旅してきたんだぜ。少なくとも君にだって、外に出る努力ぐらいできるさ」
アルヴィンは、思わずにっこりして、ヒルヴァーの後から気閘《エア・ロック》をくぐった。いったん外に出ると、彼はまた少し元気になり始めた。ここが死の世界だとしても、ここには多くの興味あるものが、過去の謎を解く手がかりになるようなものが、あるに違いないのだ。
空気は澱んだ感じだったが、呼吸することはできた。空にはたくさんの太陽があるというのに、気温は低かった。とにかく実際に熱を与えているのは中央の太陽[#「中央の太陽」に傍点]の白い円盤だけだったが、それさえもその星を囲む雲のような靄を通ってくる間に、力を失っているような感じだった。他の太陽は、それぞれの色彩を与えてはいたが、熱は少しも供給しなかった。
その方尖塔《オベリスク》からは何も得るところがないことを確かめるには、ものの数分とかからなかった。それを作っている強靱な物質にも、明らかに年を経た跡が刻まれていた。その角は丸くなり、それが立っている金属は、幾世代もの弟子や訪問者たちの足で磨り減っていた。自分たちは、これまでにこの場所に立った何十億という人類の最後かもしれないと思うと、妙な気持だった。
宇宙船に戻って、まわりにある手近かな建物に飛んでいったらどうかと、ヒルヴァーが提案しようとした時、アルヴィンはスタジアムの大理石の床に長く狭い割れ目があるのに気づいた。二人はそれに沿って、かなりな距離を歩いていった。割れ目は次第に拡がってゆき、やがて人間の足では跨げないほど広くなった。
しばらくすると、二人は割れ目を作った原因の傍に立っていた。スタジアムの表面は打ちひしがれ砕けて、長さ一マイルもある巨大な浅い窪みができていた。その原因を思い描くには頭脳も想像力も必要ではなかった。遠い昔――しかし、もちろんこの惑星に人が住まなくなってからずっと後に――巨大な円柱状のものがここに着陸し、それから再び宇宙空間へ上っていって、この惑星にその記念を残したのである。
彼らは誰だったのか? 彼らはどこから来たのか? アルヴィンは、ただじっとそれを見つめて、思い惑うばかりだった。自分はこの先客たちと千年の違いで会い損なったのか、それとも百万年の違いだったのか、彼は決して知ることはないだろう。
彼らは黙って自分たちの宇宙船(かつてここに着陸したあの怪物と並んだら、これはどんなに小っぽけに見えたことだろう)に歩いてゆき、スタジアムを横切ってゆっくり飛び、それを囲む建物の中で最も壮大なもののところへ来た。彼らがその飾りのついた入口の前に着陸した時にヒルヴァーがいいだしたことは、アルヴィンも同時に気がついていたことだった。
「この辺の建物は、安全なようには見えないぜ。あそこであんなに石が崩れているのを見ろよ。まだ立っているのが不思議なくらいだ。この惑星に嵐というものがあったとしたら、とっくの昔に崩れおちていることだろうな。この建物のどれかに入ってゆくのは、賢明だとは思わないね」
「僕は、入ろうと思っていないよ。ロボットに行かせるんだ――彼なら僕より速く動きまわれるし、天井が崩れて頭の上におっこちてくるような振動を少しもおこさないだろう」
ヒルヴァーは、この用心に賛成したが、同時にもう一つアルヴィンの見逃していたことを主張した。アルヴィンはロボットに、実地踏査に出かける前に、彼とほとんど同じくらいの知能を持つ宇宙船の人工頭脳に一とおりの指示を与えさせ、操縦士の身に何がおこっても、少なくとも自分たちは無事に地球に帰れるように手配した。
しばらくすると、二人はこの世界から何も得るものはないことを確信した。二人はいっしょに、ロボットがこのがらんとした迷路を探検してゆくにつれてスクリーンの上に移り変わってゆく、埃の積もった空っぽの廊下や通路を見つめていた。これを設計した知的生物の体がどんな形をしていようとも、彼らの作った建物はすべて一定の基本的法則に従っているに違いなかった。それに、しばらくすると、ひどく異様な形をした建築様式やデザインにも驚かなくなり、心は単なる繰り返しに麻痺してしまい、それ以上の印象を吸収することはできなくなっていた。これらの建物はただの住居であって、その中に住んでいた生物は、およそ人間の大きさだったように思われた。彼らは、まさしく人間だったのかもしれない。驚くほど多数の部屋や構内が、空飛ぶ生物にしか入れなかったことは事実だった。だが、だからといって、この都市を建設したものたちに翼が生えていたということにはならなかった。彼らは携帯用反重力装置を使っていたのかもしれないのだ。それは、かつては一般に使われていたのだが、今日のダイアスパーには跡かたもなくなっているのだった。
「アルヴィン」ヒルヴァーはついにいいだした。「これだけの建物を探検していたんじゃ、百万年もかかってしまうぜ。これらの建物が、ただ捨てられたんじゃないことは、明白だよ。彼らが持っていたもので価値のあるものは、何もかも丁寧に剥ぎとられている。時間の無駄だな」
「じゃ、どうする?」とアルヴィンは訊ねた。
「この惑星でほかの場所を二つ三つ見て、そこも僕が予想するとおり同じだかどうか見ることだね。それから、ほかの惑星も同じようにざっと調べてみて、どこか根本的に違っていたり、何か変ったことが眼についた時だけ着陸することにしたらいいだろう。僕らが死ぬまでここにいるつもりじゃないとすれば、そのくらいできたら、せいぜいじゃないかな」
もちろん、そのとおりだった。彼らは知性にめぐり会おうとしているのであって、考古学の調査をやっているわけではなかったのだ。前者の仕事ならば、そもそも達成できるものならば、何日かのうちに達成できるだろう。後者の方は、大勢の人間やロボットが働いても何世紀もかかるだろう。
二人は、二時間後にその惑星を後にし、しかも、そのことにほっとしていた。ここが生命で混雑していた時でも、この果てしなく建物の並んだ世界というのは、ひどく重苦しいものだったろう、とアルヴィンは結論を下した。公園などは影もなく、植物の生えているような開けた場所もなかった。ここは全くの不毛の世界であり、ここに住んでいた生物の心理を推測することは、とてもできなかった。次の惑星もこれと同じようなものだったら、自分はきっとその場で調査を打ち切りにするだろうな、とアルヴィンは考えた。
次の惑星は、そうではなかった。実をいえば、これ以上いちじるしい対照を想像するのは困難だったろう。
この惑星は太陽に近く、宇宙空間からでも暑そうに見えた。そこは一部が雲に覆われ、水が豊富にあることを示していたが、海のある形跡はどこにも見えなかった。また、知性の存在する形跡もなかった。彼らはその惑星を二度まわってみたが、いかなる種類の人工物も、たった一つも見あたらなかった。惑星全体は、極地から赤道にいたるまで、毒々しい緑ですっぽり覆われていた。
「ここでは、よほど気をつけなきゃならないと思うな」と、ヒルヴァーはいった。「この惑星は生きている。それに、僕はあの植物の色が気にくわないね。宇宙船の外には出ないようにして、気閘《エア・ロック》も全然開かない方がいいだろう」
「ロボットを外に行かせることもかい?」
「うん、それも止めた方がいい。君たちは病気というものを忘れてしまっている。僕の方の人たちは、病気の扱い方を知っているけれども、僕たちは家から遠くに来ているんだし、ここには僕たちにはわからない危険があるかもしれないからね。僕は、この惑星は狂って狂暴になっていると思うんだ。以前は、ここ全体が一つの大きな庭か公園だったのかもしれないが、ここが見捨てられてからは、また野性にもどったんだ。この星団に人が住んでいた時には、ここはこんなじゃなかったはずだよ」
アルヴィンは、ヒルヴァーの正しいことを疑わなかった。下界の生物の無秩序状態には、リスやダイアスパーの基礎になっているような秩序や規則正しさに対して、何か邪悪なもの、何か敵意を含んだものが感じられた。ここでは絶え間ない闘争が、十億年もの間、荒れ狂っているのだった。それに生き残ったようなものには、注意を払うに越したことはなかった。
彼らは、平坦な大平原に、用心深く降りてきた。そこは非常に一様だったので、その単調さがさしあたっての問題を提起した。その平原の果てには高地があり、そこを一面に覆っている樹木の高さがどれくらいあるものかは、ただ想像するほかはないのだった――それらの樹木はぎっしりと密生し、下生えと絡みあっていたので、幹は文字どおり埋まってしまっていた。翼のある生物がたくさん、その上の方の枝の間を飛びまわっていたが、非常にすばやく動くので、それが鳥か昆虫か――それとも、どちらでもないかは、とてもわかるものではなかった。
あちらこちらには、闘争しあっているまわりの木々よりも数十フィート聳え立つのに成功した巨木があったが、まわりの木々は一時の同盟を結んでそれをひきずり下ろし、それがかせいだ優位をぶちこわそうとしていた。これは音のない闘いであり、眼に見えぬほどゆっくり闘われているという事実にもかかわらず、無慈悲で容赦のない闘争が進行しているという印象は、心を圧倒する者があった。
これにくらべれば、平原の方は静かで何事もないかに見えた。そこは数インチ以内の起伏を除いては地平線の果てまで平坦で、細い強靱な草で覆われているらしかった。彼らはそこへ五十フィート以内というところまで降りていったが、動物のいる様子は何もなく、ヒルヴァーを少々驚かせた。たぶん、自分たちが近づいたので、怖がって地下へ逃げたのだろうと、ヒルヴァーは判断した。
彼らが平原のすぐ上に浮いている間に、アルヴィンは気閘《エア・ロック》を開いても大丈夫だということをヒルヴァーに説得しようとし、ヒルヴァーはバクテリア、菌類、ウイルス、微生物といった概念を根気よく説明した――そういった概念はアルヴィンには想像もつかないものであり、自分自身にあてはめるのは、いっそう難しかった。議論が何分か続いた時、二人はやっと妙なことに気づいた。しばらく前まで眼の前の森を映しだしていた展望スクリーンには、今は何も映っていなかったのである。
「君がスイッチを切ったのか?」いつもながら、アルヴィンより一足だけ先に頭がまわるヒルヴァーがいった。
「いいや」と答えたアルヴィンは、他の唯一の解釈に思いあたって、背筋が寒くなるのを感じた。「お前が[#「お前が」に傍点]スイッチを切ったのか?」と、彼はロボットに聞いた。
「いいえ」答は、彼自身の答と同じだった。
安堵の吐息を洩らしながら、アルヴィンは、ロボットが自分の意志で行動し始めたのかもしれない――自分は機械の反逆にぶつかっているのかもしれない――という考えを、心から退けた。
「じゃ、どうしてスクリーンに何も映らないんだ?」と彼は訊ねた。
「受像器が覆われているのです」
「ちっとも、わからん」とアルヴィンはいった。彼は、ロボットが明確な命令や質問にしか応答しないということを、うっかり度忘れしていたのだった。彼はすぐ落着きを取り戻して訊ねた。「何が受像器を覆っているのか?」
「わかりません」
ロボットの頭脳の融通のきかなさは、時として、人間の散漫さと同じくらいじれったいものだった。アルヴィンが質問を続けようとした時、ヒルヴァーが遮った。
「宇宙船を持ち上げるようにいってくれ――ゆっくりとだよ」と彼はいった。その声には、危険を感じたらしい様子があった。
アルヴィンは、この命令を伝えた。動いている感じはなかった――それはいつでもないのだったが。それから、ゆっくりと、展望スクリーンには映像が戻ってきたが、しばらくの間は歪んでぼやけていた。だが、上陸についての議論に終止符を打つには、そこに映ったもので充分だった。
その平坦な平原は、もう平坦ではなかった。彼らのすぐ下には大きな膨らみができていた――その膨らみのてっぺん、つまり宇宙船が引きちぎって逃げだした所には、ぱっくりと口が開いていた。その裂け目では、たった今、その手中から逃げだした餌食をもう一度捕えようとするかのように、巨大な偽足がのろのろと揺れていた。怖ろしさにすくんで見つめているアルヴィンには、脈動する真赤な口が、ちらりと見えた。その縁には鞭のような触手が並び、それがいっせいに動いては、手の届くところに来たものを何でも、そのぱっくり開いた口に押しこんでいた。
狙った獲物に逃げられた怪物はゆっくりと地面に下がっていった。その時初めて、アルヴィンは、下の平原が澱んだ海の上に浮かんだ薄皮にすぎないことに気がついたのである。
「何だい、あの――代物[#「代物」に傍点]は?」と、彼は喘ぐようにいった。
「それに答えるには、まず降りていって調べなきゃならないな」ヒルヴァーは、無味乾燥な調子で答えた。「何か原始的な形態の動物かもしれない――ことによると、シャルミレインの僕たちの友人の親戚筋でさえあるかもしれないよ。明らかに知能はないな。さもなければ、宇宙船を食おうなどとは思わないだろうからね」
アルヴィンは、自分たちには何も危険はありえないと知りながらも、ショックを感じていた。この何食わぬ顔をした草地には他にどんなものが潜んでいるのだろうか、と彼は考えた。そこはどうみても、外へ出て弾力のある表面を走りまわるように誘いかけているとしか思えなかったのである。
「ここじゃ、いくら時間があっても足りないな」とヒルヴァーがいった。彼は、明らかに、いま見たものに魅せられていた。「こういう条件のもとでは、進化によって、ひどくおもしろい結果がおこっているに違いないぜ。進化ばかりじゃなくて、この惑星が見捨てられてからは、高度な生命形態が退歩して退化もおこっているだろう。現在までには、平衡状態が成立しているに違いないし――おい、まだ出発しないんだろう?」彼は景色が下に小さくなってゆくのを見て、まるで嘆願するような声を出した。
「出発だ」と、アルヴィンはいった。「僕は生命のない惑星も見たし、ありすぎる惑星も見た。どっちがよけいに嫌らしいと思っているんだか、自分でもわからないよ」
平原の五千フィート上空で、この惑星は、もう一つおまけに彼らを驚かせた。二人は、風に流されて漂う巨大なたるんだ気球の群に出会ったのである。それぞれの半透明な袋からは、束になった触手が垂れ下がっていて、まるで逆立ちした森のようだった。ある種の植物が、地上での激しい闘争から逃れようと努力するうちに、空飛ぶことを覚えたもののようだった。奇蹟のような適応によって、彼らは水素を作ることに成功し、それを気胞の中に貯えて、比較的平和な低い大気中に上ることができるのだった。
それでも、ここでさえ、安全かどうかは保証の限りではなかった。それらの下にぶらさがった茎や葉には、さまざまな種類の蜘蛛のような動物が寄生していた。彼らは惑星表面の遙か上空に浮かんだまま一生を過ごし、この寂しい空中の島の上で、同じような生存のための闘いを続けているに違いなかった。おそらく、彼らは時々地面と何らかの接触をするに違いなかった。アルヴィンは、大きな気球の一つが突然潰れて、その破れた袋が俄か作りのパラシュートになって空から落ちてゆくのを見た。彼は、これが偶発事件なのか、それともこの異様な生物の生活環の一部なのか、と考えた。
ヒルヴァーは、次の惑星が近づくのを待っている間に眠った。ここの太陽系の中にある現在の宇宙船は、ロボットにも説明できない何かの理由で、ゆっくりと――少なくとも、宇宙を横切る速さにくらべれば――飛んでいた。アルヴィンが三つ目に訪問することにした惑星まで行くには、ほとんど二時間もかかった。彼は、ただの惑星間飛行ぐらいにこんなに時間がかかることに、少し驚いた。
大気圏に降下してゆく時、彼はヒルヴァーを起こした。
「君は、あれ[#「あれ」に傍点]を何と見る?」彼は、展望スクリーンを指さしながら聞いた。
下界には黒と灰色の荒涼たる景色があり、植物のかげも、それ以外のどんな生命が存在するという直接の証拠も見えなかった。だが、間接の証拠があった。低い丘や浅い谷には、完全な形の半球が点在していて、その一部は複雑かつ対称な配列をとって並んでいた。
二人は、前の惑星で慎重さを学んでいた。彼らは、あらゆる可能性を考えた末、ロボットを下ろして調査させている間、空高く浮かんだままでいることにした。二人はロボットの眼を通してその半球が近づいてくるのを見たが、ついにロボットは、その全く滑らかでのっぺらぼう[#「のっぺらぼう」に傍点]な表面から数フィートしか離れていない所に浮かんだ。
入口らしいものも、この構造物の目的らしいものを示すものも、何もなかった。それは非常に大きくて高さ百フィート以上もあり、他の半球の中にはもっと大きなものもあった。これが建物だとしても、入口も出口もないようだった。
少し躊躇してから、アルヴィンはロボットに、前進してドームに触わるように命じた。全く驚いたことに、ロボットは命令を拒否した。これはまさに反逆だった――少なくとも、一見そう思えた。
「なぜ、いわれたとおりにしないんだ?」驚きからさめると、アルヴィンは訊ねた。
「それは禁じられています」という答だった。
「誰が禁じたんだ?」
「わかりません」
「じゃ、どうして――いや、取り消し。その命令は、お前の中に組み込まれているのか?」
「いいえ」
これで、一つの可能性は除外されたように思えた。これらのドームを建設した者たちが、まさにこのロボットを作った種属であって、ロボットに与えられた最初の指令の中に、このタブーを含めたのかもしれなかったのである。
「お前は、その命令をいつ受けたのか?」と、アルヴィンは訊ねた。
「着陸した時です」
アルヴィンは、新たな希望に眼を輝かせながら、ヒルヴァーの方を向いた。
「ここには知能のあるものがいるんだ! 何か感じられるかい?」
「いや」と、ヒルヴァーは答えた。「ここは、僕らが訪ねた最初の惑星と同じように、死んでいるみたいだ」
「僕は、外へ出て、ロボットの所へゆく。ロボットに話しかけた者が、僕にも話しかけるかもしれない」
ヒルヴァーは、あまり乗り気なようではなかったが、いい争おうとはしなかった。二人は、宇宙船をドームから百フィート離れた、ロボットの待っている所から遠くない地面に着陸させ、気閘《エア・ロック》を開いた。
アルヴィンは、宇宙船の頭脳がすでに大気の呼吸可能なことを納得していなければ、気閘《エア・ロック》が開かないことを知っていた。彼はとっさに、宇宙船の頭脳が誤りをおかしたな、と思った。空気は稀薄で、ごく僅かしか肺を助ける役をしなかったのである。それから、深く息を吸ってみた彼は、生きるには充分な酸素が得られることを知ったが、ここに自分が耐えられるのは数分がせいぜいだろうと感じた。
彼らは懸命に喘ぎながら、ロボットの所へ歩いてゆき、この謎めいたドームの彎曲した壁の方へ歩み寄った。二人はもう一歩踏みだし――そして、急に同時に一撃を食ったかのように、いっせいに立ち止まった。彼らの頭の中では、力強いゴングが鳴るように、一つの警報が響き渡ったのである。
「危険。これ以上は近寄るな」
それだけだった。その警報は、言葉ではなくて、純粋の思考だった。アルヴィンは、どんな知能レベルを持ったどんな生物でも、この同じ警報を、同じように全く誤解の余地のない形で、心の底深くに受け取ることだろうと信じた。
それは警報であって威嚇ではなかった。なぜともなく、二人には、それが自分たちに敵対して出されているのではなくて、自分たちを危険から守るためのものであることがわかった。それは、こういっているかのようだった――ここには或る本質的に危険なものがあって、我々その建設者たちは、誰かが知らずにうっかり入りこんで危害を蒙ることのないように心配しているのだ、と。
アルヴィンとヒルヴァーは、数歩後に下がって顔を見合わせ、相手が考えていることを口に出すのをお互いに待っていた。この場の状況を先に要約したのはヒルヴァーだった。
「僕のいうとおりだったな、アルヴィン」と、彼はいった。「ここには知能のあるものはいない。あの警報は自動的なもので、あまり近寄りすぎると、僕らがそこにいること自身が警報を開始させるのだよ」
アルヴィンは、同意してうなずいた。
「彼らは何を守ろうとしているんだろう?」と彼はいった。「このドームの下になら、建物だって何だって入るぜ」
「どのドームも近寄らないように警告を発しているのなら、それを知る方法はないね。僕らが訪ねた三つの惑星の違いは実におもしろいな。彼らは、一番目からは、何もかも持ち去った――二番目は、一切かまわずに放棄した――しかし、ここでは大へんな手間をかけている。たぶん、彼らはいつか帰ってくるつもりで、戻ってきた時に万事整っていることを望んだんだろう」
「でも、彼らは帰ってこなかった――それに、ずいぶん昔のことだ」
「彼らは気を変えたのかもしれないね」
自分もヒルヴァーも、無意識に「彼ら」という言葉を使い始めたのは不思議だな、とアルヴィンは思った。「彼ら」が誰であろうと何者であろうと、彼らが存在したという感じは第一の惑星に強烈だったし、ここでは一段と強烈でさえあった。この惑星は丁寧に包みこまれ、また必要になる時まで蔵ってあるのである。
「宇宙船に戻ろう」と、アルヴィンはあえぎながらいった。「ここじゃ、ろくに息もできやしない」
二人の後で気閘《エア・ロック》が閉まり、再び寛いだ気分になると、彼らはすぐ次の行動を検討した。徹底的に調べるには、警報を出さないものを見つけて中に入れることを期待して、多数のドームを試してみるべきだろう。それでも駄目だったら――しかし、アルヴィンは、万策尽きるまではそういう可能性を認めようとはしなかった。
一時間もしないうちに、彼はそれを認めることになり、しかもそれは彼が思いもよらなかった劇的な形でおこったのである。二人はロボットを半ダースものドームに派遣したが、結果はいつも同じだった。その時、彼らは、このきちんと小ぎれいに荷造りされた惑星ではひどく場違いな光景にぶつかったのだ。
彼らの眼下には広い谷間があり、そこには例の中に入れないじれったいドームが疎らに点在していた。その真中には、まごうかたのない大爆発の傷痕があった――その爆発は、数マイル四方に破片を散乱させ、地面に浅い爆裂口を作っていた。
そうして、爆裂口の傍にあったのは、宇宙船の残骸だったのである。
[#改段]
21
彼らは、この大昔の悲劇の現場近くに着陸し、頭上高く聳える巨大な壊れた船体の方に、息が切れないようにゆっくりと歩いていった。宇宙船は、船首か船尾かのごく一部だけが残っていた。察するに他の部分は爆発で破壊されてしまったのだろう。二人が残骸に近づくにつれ、アルヴィンの心には徐々に一つの考えが浮かんできて、それは次第に強くなり、ついには確信にまで高まっていった。
「ヒルヴァー」と彼はいったが、同時に口をきいたり歩いたりするのは困難なことに気がついた。「これは、僕らが訪ねた最初の惑星に着陸した宇宙船に違いないぜ」
ヒルヴァーは、息が苦しいので、うなずいただけだった。彼もとっくに同じことを考えていて、これは不注意な訪問者に対するいい実物教育だな、と思っていたのだった。彼は、アルヴィンがこれを無駄にしないようにと願った。
二人は船体に達して、剥きだしになった宇宙船の内部を見上げた。それはまるでぞんざいに真二つにされた巨大な建物をのぞきこんだような按配だった。爆発で吹きとばされた個所の床や壁や天井は、この宇宙船の歪んだ断面図を示していた。この彼らの乗物の残骸の中には、どんな異様な生物が、今も死んだままの所に倒れているのだろうか、とアルヴィンは思った。
「僕には、どうもわけがわからないな」突然、ヒルヴァーがいった。「宇宙船のこの部分は、ひどくやられてはいるけれども、まだかなり無傷だぜ。残りの部分はどうなったんだろう。空中で真二つになって、この部分だけここに墜落したんだろうか?」
彼らはロボットを再び探索にやり、自分たちも残骸の近辺を調べてみて、やっとその答を知った。そこには、いささかの疑いもなかった。彼らがどんな疑念をいだいていたとしても、アルヴィンが宇宙船の傍の小さな丘に、それぞれ長さ十フィートの低い土まんじゅうが一列に並んでいるのを発見した時、それは雲散霧消したのである。
「それじゃ、彼らはやっぱりここに着陸したんだな」と、ヒルヴァーは考え深そうにいった。「そうして、あの警報を無視したんだ。彼らはまるで君みたいに好奇心が強かった。そうして、あのドームを開けようとしたんだよ」
彼は爆裂口の向う側を指さした。そこには、今も何の傷痕もない滑らかな外殻があって、そのなかには、出ていったこの世界の支配者たちが、彼らの財宝を閉じこめてあるのだった。しかし、それはもうドームではなくて、今はほぼ完全な球であった。というのは、それが埋めこまれていた地面が吹きとばされてしまったからだった。
「宇宙船は壊れ、彼らの多数が死んだ。しかし、それにもめげずに、彼らは何とか修理をやってのけ、この部分を切り離し、価値のあるものを一切剥ぎとって、また出発したんだ。大へんな仕事だったろうな!」
アルヴィンは、ほとんど聞いていなかった。彼は、初めに自分の注意をこの場所に惹きつけた奇妙な目印――てっぺんから三分の一のところに水平の環がはまった細い棒を見つめていた。それは異様で見慣れないものではあったけれども、それが長い年月のあいだ伝え続けてきた無言の言葉を、アルヴィンは感得することができた。
これらの石の下には、もし自分がそこを曝こうと思いさえすれば、少なくとも一つの疑問に対する答は埋まっていた。だが、それは解答のないままにそっとしておくべきだろう。この生物たちが何者であろうと、彼らには安らかに眠る権利があるのだ。
宇宙船に向かって二人が戻ってゆく時にアルヴィンが囁くようにいった言葉は、ヒルヴァーにはほとんど聞こえなかった。
「彼らは故郷に帰れたろうな」と彼はいったのである。
「ところで、これからどこへ行く?」彼らが再び宇宙空間の人となった時、ヒルヴァーが訊ねた。
アルヴィンは答える前に、考えこみながらスクリーンを見つめた。
「帰った方がいいと思うか?」と彼はいった。
「それが分別のあるやり方というものだろう。僕らの運もあまり長くは続かないかもしれないし、この辺りの惑星に、これ以上どんな思いがけないものが待ちうけているか、誰にもわからないんだから」
これは理性と用心深さを示す言葉だった。アルヴィンは今では、数日前には思いもよらなかったほど、それに耳を傾ける用意があった。しかし、彼ははるばる遠くやって来たのだし、この瞬間を生まれて以来待ち続けていたのである。まだ見るものがこんなにたくさん残っている間は、彼は決して引き返さないだろう。
「これからは、宇宙船から出ないことにしよう」と彼はいった。「それに、地面にはどこにも降りないことにしよう。それなら、きっと大丈夫さ」
ヒルヴァーは、肩をすくめて、今度は何がおこっても責任は負わないぞといわんばかりだった。今ではアルヴィンも多少の用心深さを見せているのだから、自分まで同じぐらい探検を続けたがっていることを認めるのは賢明ではないとヒルヴァーは考えたのだった。もっとも、彼はとっくの昔に、これら惑星のどこかで知能を持つ生物に出会う望みは、すっかり捨てていた。
前方には、小さな衛星を傍に従えた大きな惑星の二重天体系があった。親惑星は、二人が二番目に訪れた惑星と瓜二つともいえるようなものだった。それは、同じような濃い緑ですっぽりと覆われていた。ここに着陸するのは何の意味もないだろう。これは、彼らがすでに知っている物語だった。
アルヴィンは、宇宙船を衛星の表面に低く近づけた。彼は複雑な装置から警告を受けるまでもなかった。その装置は、彼を守るために、ここには大気がないと知らせるのだった。
影はすべて鋭くはっきりした境界線を見せており、夜と昼との境は、少しもぼやけていなかった。夜といえるようなものを見たのは、この天体が初めてだった。彼らがまず接触した地域では、遠くの方にある太陽の一つだけが地平線の上に現われていたのである。あたりは、まるで血の中に浸されてでもいるように、暗赤色の光を浴びていた。
この天体が生まれた遠い昔の時のままに今も鋸のように鋭い山々の上を、彼らは何マイルも飛び続けた。この天体は、変化や侵略を決して知らず、雨風に曝されたことは決してないのだった。ここでは物体を昔のままの新しさに保つために永久回路などを必要とはしないのだった。
だが、空気がないとすれば、生命も存在しえなかった――それとも、存在しうるのだろうか?
「もちろんさ」アルヴィンがこの質問を呈した時、ヒルヴァーはいった。「生物学的には、この考えに何も不合理なところはないよ。空気のない空間に生命が発生することはできない――でも、生命がそういう所で生きられる形態に進化することはできるんだよ。生命の存在していた惑星が大気を失った時には、このことは何百万回となくおこったに違いないんだ」
「でも、君は、知能のある[#「知能のある」に傍点]生命形態が、真空中に存在すると思うのかい? 彼らは、空気がなくなるのに対抗して自分の身を守ることを考えるのじゃないかね?」
「たぶん、それをくいとめるに充分なだけの知能が備わった後で[#「後で」に傍点]それがおこったのなら、そうだろう。でも、彼らがまだ原始的な段階にあるうちに大気が失われたとしたら、彼らは適応するか滅びるかだったろう。適応した後で、彼らには非常に高度の知能が発達したかもしれない。事実、きっとそうなっただろう――そうなるための要因は非常に大きかっただろうからね」
この議論は、この惑星に関するかぎり、純粋に理論上のものだな、とアルヴィンは結論した。この天体が、知能があろうとなかろうと、生命を一度でも宿したという気配はどこにもなかったのである。だが、そうだとすると、この天体の目的は何だったのだろう? 多数の天体からなる七つの太陽[#「七つの太陽」に傍点]の全体系が人為的な産物であることを、彼は今では確信しており、この天体はその大計画の一部に違いなかったのである。
察するに、これは全くの飾りのつもりだったとも考えられる――つまり、その巨大な道連れの空に月を配するためにである。しかし、その場合にも、これが何らかの[#「何らかの」に傍点]役に立てられていたことは、ありそうに思えた。
「見ろ」と、ヒルヴァーは、スクリーンを指さしながらいった。「ほら、あそこだ。右の方」
アルヴィンが宇宙船の針路を変えたので、景色は傾いて見えた。赤く照らされた岩は、彼らの動きの速さにぼやけて見えたが、やがて映像は安定し、下を見渡すと、そこには見間違えようもない生命の証拠があった。
見違えようもない――しかし見当もつかないものだった。それは、広い間隔をとって並んだ細い柱の形をしており、それぞれ隣りとは百フィートはなれ、その二倍の高さをしていた。その柱の列は遠くまで伸び、遠くになるにつれて、見るものを催眠状態に誘うように縮まってゆき、ついには遠くの地平線に呑みこまれてしまっていた。
アルヴィンは宇宙船を右に向け、柱の列に沿って飛ばし始めたが、そうしながらも、いったいこれが何の役をしていたのだろうかと思った。それらは完全に一様で、切れ目のない線となって、丘を越え谷に入っていた。それらが何かを支えていた様子はまるでなかった。柱は滑らかでのっぺり[#「のっぺり」に傍点]しており、先端に向かってほんの少し細くなっていた。
全く突如として、列は向きを変え、鋭く直角に曲がっていた。アルヴィンがそれに気がついて宇宙船の向きを新しい方向に変える前に、彼らは数マイルも行きすぎてしまった。
柱は野山を越えてかわりなく切れ目もなしに続き、その間隔は完全に一様だった。やがて、最後に向きを変えてから五十マイル過ぎると、急にもう一度直角に曲がった。この調子でゆくと、我々は間もなく出発点に戻るだろうな、とアルヴィンは思った。
二人は果てしなく続く柱の列に催眠術にかかったようになっていたので、それが途切れてその切れ目を何マイルも通り過ぎてから、やっとヒルヴァーが叫び声をあげ、何も気がついていなかったアルヴィンに宇宙船の向きを変えさせた。彼らはゆっくりと下降し、ヒルヴァーが見つけたものの上を旋回していたが、そのうち彼らの心には奇怪な疑惑が浮かんできた――もっとも、初めのうちは、どちらもそれを相手にいいだす勇気はなかったのだが。
二本の柱が根もと近くからへし折られて、岩の上に長々と倒れていた。それだけではなく、そこに空いた間隙に隣りあった二本の柱も、何かの物凄い力で外側へ曲げられていた。
怖るべき結論は避けるべくもなかった。今はアルヴィンにも、自分たちがその上を飛んでいるものが何であるかがわかった。これは、リスでしょっちゅう見たものだったのに、この時までは途方もないスケールの違いのために、それと気づかなかったのだった。
「ヒルヴァー」彼は、まだとても自分の考えを口に出すだけの勇気がないままにいった。「君には、これが何だかわかるかい?」
「とても信じられない気がするんだが、僕たちは牧場の境界に沿って飛んでいたんだな。この代物は柵なんだよ――充分に強くなかった柵なんだ」
「愛玩動物を飼う人たちは」アルヴィンは、人が時に畏怖を隠そうとしてやる神経質な笑い方をしながらいった。「それを管理する仕方をちゃんと知らなきゃいけないな」
ヒルヴァーは、このわざとらしい陽気さには乗ってこなかった。彼は、眉を寄せて考えこみながら、壊された障害物を見つめていた。
「どうもわけがわからないな」と、やがて彼はいった。「そいつは、こんな惑星のどこで食い物を手に入れたのだろう? それに、そいつはどうしてこの囲いを破ってとびだしたんだろう? そいつがどんな動物だったかを知るためなら、どんなことでもするんだがな」
「きっと、そいつは腹がへったので、囲みを破ってここから出ていったんだよ」と、アルヴィンは自分の推測をいった。「それとも、何かを嫌ったのかもしれないな」
「もっと下にさがろう」とヒルヴァーがいった。「僕は地面を見たい」
彼らは、何も生えていない岩にほとんど触れんばかりに下降した。下の平野に、幅一、二インチほどの小さな無数の孔があいていることに彼らが気づいたのは、その時だった。しかし、囲いの外側の地面には、この謎のあばた[#「あばた」に傍点]はついていなかった。それは、柵の線で急に消えていた。
「君のいうとおりだ」と、ヒルヴァーはいった。「そいつは腹がへっていたんだ。でも、そいつは動物じゃなかったんだよ。植物という方が正確だろうな。そいつは囲いの中の土を食いつくして、どこか他に新しい食い物を見つけなきゃならなかったんだ。たぶん、そいつは、ひどくゆっくり動いたのかもしれない。ことによると、この柱をへし折るには、何年もかかったかもしれないな」
アルヴィンはたちまち空想をめぐらせて、確かに知ることはできない細部を補なった。ヒルヴァーの分析が基本的には正しいことも、或る植物の怪物が、たぶん眼で見てはわからないほどゆっくりと動いて、自分自身を閉じこめている障害物に対して、のろのろとしてはいるが仮借のない闘いをやったことも、彼は疑わなかった。
そいつは、こんなに長い年代を経ても、今もなおこの惑星の表面を思うままにうろついて生きているのかもしれなかった。しかし、それを探すことは、この惑星全体の表面を風つぶしにすることであって、見込みのない仕事になるだろう。二人は、その切れ目のまわり数マイル四方を漫然と探し、さしわたし五百フィート近い大きな丸いあばた[#「あばた」に傍点]を発見した。その生物は、明らかにここで止まって食った[#「食った」に傍点]のだった――固い岩からどうやってか栄養を取り出す有機体に対して、こんないい方ができるとすればだったが。
彼らが再び宇宙空間に昇っていった時、アルヴィンは異様な疲れが覆いかぶさってくるのを感じた。自分は多くを見たが、それでも学んだことは少なかった。これらの惑星には多くの驚異があったが、彼が探していたものは、とっくの昔にそこから立ち去っていた。七つの太陽[#「七つの太陽」に傍点]の他の惑星を訪ねてみても無駄だろうということも、彼にはわかっていた。この宇宙にまだ知能のあるものがいたとしても、彼はこれからどこでそれを探せばいいのだろうか? 彼は展望スクリーンいっぱいに塵のように散らばった星たちを見つめ、自分にはそれを全部探検するだけの時間はとてもないことを悟った。
彼は、これまでに体験したことのないような寂しく重苦しい気持が、自分にのしかかってくるのを感じた。宇宙の広大な空間に対するダイアスパーの恐怖、仲間の人たちを都市という小っぽけな小宇宙にひしめきあわせている恐怖を、彼は今こそ理解できたのだった。結局は彼らが正しかったのだと信じるのは、苦しいことだった。
彼は、助けを求めるようにヒルヴァーの方に向いた。だが、ヒルヴァーは手をしっかりと握りしめ、眼に茫然とした表情を浮かべて突っ立っていた。彼は首を一方にかしげ、全身の神経をあたりの空間に集中して、じっと聴き入っている様子だった。
「どうしたんだ?」アルヴィンは、ぎょっとして訊ねた。ヒルヴァーにそれが聞こえた様子が見えるまで、質問を何回も繰り返さねばならなかった。ヒルヴァーは、やっと返事をしたが、その時もまだ虚空を見つめたままだった。
「何かが、こっちにやって来る」彼は、のろのろといった。「何か、僕にはわけがわからないものだ」
アルヴィンは、船室が急に寒くなり、全種族の悪夢である侵略者の姿が眼の前に立ちはだかったような気がした。彼は渾身の気力をふりしぼって、やっとの思いで恐慌に陥るのを免がれた。
「そいつは僕たちに好意的かい?」と彼は訊ねた。「地球に逃げ出した方がいいだろうか?」
ヒルヴァーは前の質問には答えずに、後のにだけ答えた。彼の声はひどくぼんやりしていたが、不安や恐怖の気配は見えなかった。その声にはむしろ大へんな驚きと好奇心が籠っており、まるで彼の出会ったものが驚くべきものであってアルヴィンの気づかわしげな質問などにかまってはいられないといった調子だった。
「それには遅すぎるな」と彼はいった。「もうここに来ているんだ」
ヴァナモンドに初めて意識が与えられて以来、この銀河系は軸を中心に何回も回転した。彼は、その最初の長い年月のことや、当時自分を世話してくれた生物たちのことは、ほとんど思いだせなかった。だが、彼らがいってしまって、自分ひとり星の間に取り残された時のやるせなさは今でも覚えていた。それ以来の長い歳月、彼は太陽から太陽へとさまよいながら、自分の力をゆっくりと発展させ、増していった。かつては彼も、自分の誕生に立ち会ったものたちをもう一度みつけだそうと夢みたことがあった。その夢も今では色褪せていたが、すっかり消えてしまうことは決してなかったのだ。
彼は無数の惑星の上に、生命が残していった廃墟を見つけたが、知能のあるものを見つけたのは一度きりだった――そして、その黒い太陽[#「黒い太陽」に傍点]から、恐怖に打たれて逃げだしたのだった。それでも、宇宙はすこぶる大きく、捜索はほんの始まったばかりだった。
その場所は遙か離れた空間と時間にあったが、銀河系の心臓部でおこった巨大なエネルギー爆発が、何光年もの距離を隔ててヴァナモンドをさし招いた。それは星の輻射とはまるで違っており、彼の意識の場の中では、晴れた夜空をかすめる流星のように束の間の出来事のように思えた。彼はそれに向かって時間と空間の中を動き、過去の死んで変わることのないパターンを、自分の知っているやり方でかなぐり捨てながら進んでいった。
はなはだしく複雑な構造をしたその長い形の金属を、彼は理解できなかった。それは、物質世界のほとんどあらゆるものと同じくらい、彼にとっては異様なものだった。そのまわりには、彼を宇宙の果てからここまで惹きつけたエネルギーの余燼が、まだまつわりついていたが、彼にはもうそんなものは少しも興味がなかった。彼は、そこに発見した二つの精神に、用心深く、今にも逃げようと身構えた野獣のように、恐る恐る探りを入れてみた。
その時、彼は、自分の長い捜索が終わりを告げたことを知ったのである。
アルヴィンは、ヒルヴァーの肩を掴んで烈しくゆすぶり、彼の意識をもっとこの現実にひき戻そうとした。
「どうなってるんだか、教えてくれ!」と、彼は頼むようにいった。「僕は何をしたらいいんだ?」
ヒルヴァーの眼からは、遙かな放心したような表情が消えていった。
「僕にはまだわけがわからないんだが」と彼はいった。「でも怖がる必要はないんだよ――それだけは確かだ。こいつが何者だとしても、僕たちに危害を加えるようなことはないよ。こいつは、ただ――興味を感じているだけらしいんだ」
アルヴィンが返事をしようとした時、彼は急に今まで体験したことのないような感じに襲われた。暖かい疼くような温もりが、体じゅうに拡がるような気がした。それはほんの数秒しか続かなかったが、それが消えた時、彼はもうただのアルヴィンではなかった。何かが自分の脳髄に共存しており、一つの円が他の円と重なるように重なりあっていた。彼は、二人の上にかぶさってきた何者かの中に同じように取りこまれて、ヒルヴァーの心もすぐ傍にあるのを感じていた。その感じは、不愉快というよりは異様なものであり、アルヴィンは初めてほんとうのテレパシーというものを垣間見たのだった。この能力は、彼の仲間の人たちにはひどく退化してしまっていて、今では機械を制御することにしか使えなくなっているのだった。
セラニスが自分の心を支配しようとした時には、アルヴィンは即座に反発したのだったが、この侵入には彼は抵抗しようとはしなかった。それは無駄であろうし、またこの生きものが何者であろうとも、敵意を抱いていることはないとわかっていた。彼は気持を楽にして、自分よりも無限に偉大な知能が自分の心を探っているという事実を、抵抗なく受け入れた。だが、彼がそう信じたことは、すっかり正しいわけではなかった。
ヴァナモンドは、この二つの精神のうち、一方の方がもう一つより感応し近づきやすいことを直ちに発見した。二つの精神とも、自分の存在を知って驚嘆しきっており、そのことはヴァナモンドには大きな驚きだった。彼らが忘れることができるとは、とても信じられなかった。忘却というものは、死と同じく、ヴァナモンドの理解を超えていたのである。
意志疎通はひどく困難だった。彼らの心の中にある思考像の多くは、ひどく見慣れないものだったので、彼にはほとんど判別できなかった。彼は、繰り返して現われる侵略者たちへの恐怖の思考パターンに面くらい、また少し怖くなった。それは彼に、黒い太陽[#「黒い太陽」に傍点]が初めて自分の知識の場に入ってきた時の気持を思いださせた。
だが、彼らは黒い太陽[#「黒い太陽」に傍点]のことは何も知らなかったし、この時には彼らの方の質問がヴァナモンドの心の中で形をとり始めていた。
「お前は何者だ[#「お前は何者だ」に傍点]?」
彼は、自分にできる唯一の答をした。
「僕はヴァナモンドです」
ここで一休みがあった(彼らの思考パターンが形成されるのは、何て時間がかかるんだろう!)。それから同じ質問が繰り返された。彼らは、わからなかったのだ。これは面妖なことだった。なぜなら、まさに彼らの同類が自分にこの名をつけ、それが自分の誕生のときの記憶の中に含まれるようにしたのだったから。そういった記憶の量は、ごく少なかったし、そのうえ奇妙なことに時間の中のたった一点で始まっていたのだが、それでも極めて明瞭だった。
またもや、彼らの小さな思考が、彼の意識の中に押し入ってきた。
「七つの太陽[#「七つの太陽」に傍点]を建設した人たちは、どこにいったんだ? 彼らはどうなったんだ?」
彼は知らなかった。彼らにはとてもそれが信じられなかったし、彼らの感じた失望は、彼らと彼の心を隔てる深淵を超えて、鋭くはっきりと伝わってきた。だが、彼らは辛抱強かったし、ヴァナモンドの方では彼らの役に立つのが嬉しかった。なぜなら、彼らが探しているのは自分と同じものであったし、おまけに彼らは自分にとって初めて知る友達だったからである。
アルヴィンは、いかに生きながらえようとも、この無言の会話のような異常な体験を二度と味わうことがあろうとは信じられなかった。自分が一個の傍観者にすぎないのだと信ずるのは辛いことだった。というのは、ヒルヴァーの精神の方が自分よりも或る意味で有能なことを、彼は自分に対してさえも認めたくはなかったからである。彼は、自分の理解の届かぬところで交わされている思考の奔流に半ば茫然としながらも、ひたすらに待ち、驚嘆するばかりだった。
やがてヒルヴァーは、血の気が失せ緊張した面持ちでこの精神の接触を断ち、友人の方に向いた。
「アルヴィン」と、彼は疲れ切った声でいった。「これは、どうも異常なことだな。僕にはまるでわからない」
この報せは、アルヴィンに少し自尊心を取り戻させた。それで、彼の顔にはこの気持がでていたに違いない。というのは、ヒルヴァーが急に同情的な笑顔を見せたのである。
「僕には、この――ヴァナモンドというのが何者だか、探りだせない」と、彼は言葉を続けた。「こいつは、途方もない知識を持った代物だよ。だが、あまり大した知能は持っていないようだ。もちろん」と彼はつけ加えた。「こいつの精神がひどく違った組立て方になっていて、僕らには理解できないのかもしれない――でも、僕には何となくそれが正しい解釈とは思えないんだ」
「それで、何がわかったんだい?」アルヴィンは、ややじれったそうに訊ねた。「そいつは、七つの太陽[#「七つの太陽」に傍点]について何か知ってるのか?」
ヒルヴァーの心は、まだずっと遠くの方をさまよっている様子だった。
「七つの太陽[#「七つの太陽」に傍点]は、僕たち人類も含めて、たくさんの種族の手で作られたんだ」と、彼は放心したようにいった。「こいつは、そういった事実を教えてくれることはできるんだが、それがどういう意味を持っていたのだかは、わかっていないらしいな。彼は、過去のことを意識に感じてはいるんだが、それを解釈することはできないんだと思う。これまでにおこったことが、何もかも、こいつの精神の中でごった返しているらしいぜ」
彼は言葉を切って、しばらく考えこんだ。やがて、彼は明るい表情になった。
「なすべきことは一つしかない。僕たちは何とかしてヴァナモンドを地球に連れていって、僕たちの方の哲学者が彼を研究できるようにしなければならないんだ」
「そんなことをして、大丈夫だろうか?」と、アルヴィンは訊ねた。
「大丈夫」ヒルヴァーは、友人の発言が彼にも似あわないことだと考えながら答えた。「ヴァナモンドは好意的だ。実はそれ以上なんだ。彼はまるで親愛の情を感じているらしいんだよ」
この時、全く突如として、それまでアルヴィンの意識の片隅にちらついていた考えが、はっきり全貌を明らかにした。彼は、クリフやその他の小動物たち――絶えず脱走してはヒルヴァーの友人たちに面倒や騒ぎをひきおこしていたものたちを思いだした。また彼は、シャルミレインへの遠征(それは、何と遠い昔のことのように思えることだろう!)の背景をなしていた動物学的な目的を思いだした。
ヒルヴァーは、新しいペットを見つけたのである。
[#改段]
22
ほんの数日前までだったら、こんな会議は全く思いもよらなかったことだろう、とジェセラクは思った。リスからの六人の来訪者たちは、U字形の会議机の開いた端に置かれた机に並んで、評議会に相対していた。つい最近、アルヴィンがその同じ場所に立って、ダイアスパーを再び世界に向かって閉鎖するという評議会の裁定を聞いたことを思いだすと、皮肉な感じがした。今や世界は、盛大にダイアスパーに侵入しつつあった。いや、世界だけではなく、宇宙までもだった。
評議会そのものにも、すでに変化があった。そのメンバーの少なくとも五人以上が、姿を見せていなかった。彼らは、今や自分たちの前に立ちはだかっている責任と課題に対決することができずに、すでにケドロンが取った道を追ったのだった。市民たちのかくも多数が、何百万年このかた初めての本物の試練に対決することができないとすれば、これはダイアスパーが失敗だったという証拠だな、とジェセラクは思った。すでに何千という市民が、記憶バンクの中での短期間の忘却へと逃れ、自分たちが再び眼を覚ました時には危機は去っていて、ダイアスパーがもう一度住み慣れた本来の姿に戻っていることを期待したのだった。彼らは失望することだろう。
ジェセラクは、評議会の欠員を埋めるべく選出された。彼はアルヴィンの教師という立場だったため、いくらか疑いの眼で見られていたが、彼が出席することは明らかに不可欠だったので、誰も彼を除外するように提案するものはいなかった。彼はU字形のテーブルの一端に坐っていた。この位置は彼にとっていろいろ具合がよかった。彼は、訪問者たちの横顔を観察できるばかりでなく、仲間の評議員たちの顔も見ることができた。そして、彼らの表情は充分に教訓的だったのである。
アルヴィンが正しかったことは疑問の余地がなく、評議会も徐々に不愉快な真相を悟り始めていた。リスの代表者たちは、ダイアスパーの最高の頭脳よりも遙かに敏速に考えることができたのである。しかも、それだけが彼らの優秀な点ではなく、彼らはまた驚くほどの意志統一を示していて、ジェセラクはそれがテレパシーの能力に基くものに違いないと推測していた。ジェセラクは、彼らが評議員たちの考えを読み取っているのではなかろうかと思ったが、自分たちの厳かな誓いを破ることはあるまいと結論した。その誓いがなかったら、この会合はありえなかったのである。
ジェセラクは事態が大して進展したとは思わなかった。あえていえば、どうしたら進展させることができるか、彼には見当もつかなかった。やっとリスの存在を認めた評議会も、何事がおこったのかについては、まだ理解できないようだった。だが評議会は明らかにおびえており、それは来訪者たちの方も同様だろうとジェセラクは推測した。もっとも来訪者たちは、その事実をうまく表てには現わさないでいた。
ジェセラク自身は、自分で予想していたほど怖れてはいなかった。彼は依然として恐怖を感じてはいたが、今ではそれに敢然と立ち向かっていた。アルヴィンの無鉄砲さ(それとも、それは勇気なのだろうか?)は彼の見方を変えさせ始めており、彼に新しい視野を与えた。彼は自分がダイアスパーの壁の向う側に足を踏みだすことができようとは信じていなかったが、今ではアルヴィンを駆り立てて外に飛びださせた衝動を理解していた。
議長が質問した時、彼は不意をつかれたが、すぐに立ち直った。
「わしの考えでは」と、彼はいった。「前にこんな事態が発生せなんだのは、全くの僥倖だったのですじゃ。わしらは、以前にも十四人のユニーク[#「ユニーク」に傍点]が現われたことを知っておるが、彼らが創造された背景には、何か一定の意図が隠されておったに相違ないのじゃ。わしの信ずるところでは、その意図とは、リスとダイアスパーとが永遠に分れ分れのままにならんように保証することじゃった。アルヴィンはそれを実行したのじゃが、あの子は、わしにはもともとの計画にあったとは思えぬことまでもやってのけたのじゃ。中央計算機《セントラル・コンピューター》に、このことを確認してもらえるじゃろうかな?」
人間離れのした声が、直ちに応答した。
「評議員は、私が設計者から与えられた指示について発言できないことをご存じである」
ジェセラクは、この穏やかな叱責を甘受した。
「動機が何であったにせよ、事実は否定できぬ。アルヴィンは宇宙へ出ていってしもうた。あなた方は、あの子が戻ってきたら、二度と出てゆかぬように手を打つかもしれぬが、それがうまくゆくかどうかは怪しいものじゃ。あの子は、それまでに、多くのことを学ぶじゃろうからな。それに、あなた方が怖れていることがもしおこったとしても、わしらには何もできぬ。地球は全くの無力なのじゃ――数百万世紀もの間そうであったようにな」
ジェセラクは一息入れて、テーブルを見まわした。彼のいったことは誰の気にも入らなかったが、ジェセラクの方でもそれを期待してはいなかった。
「しかしながら、わしらは、なぜこうして大騒させねばならんのかな。地球は、現在でも、これまでより特に危険に瀕しておるわけではない。たった一隻の小さな宇宙船に乗った二人のものが、何で侵略者たちの怒りを再びわしらにもたらすわけがあろうか。わしらが現実を直視するならば、侵略者たちは、その気になれば、この惑星をとうの昔に全滅させることもできたということを、認めねばならぬのじゃ」
非難をこめた沈黙が続いた。これは異端の説だった――それに、以前ならば、ジェセラク自身もこれを異端として退けていただろう。
議長は重々しく眉をひそめて、彼を遮った。
「侵略者たちは、人類が二度と宇宙へ出てゆかぬという条件を呑んだからこそ、地球を滅ぼさなかったのだ、という伝説があるのではないかな? して、我々はいま、その条件を破ったのではないのか?」
「さよう、伝説ですじゃ」と、ジェセラクはいった。「わしらは、多くのことを無批判に受け入れてきたが、これもその一つなのじゃよ。ところが、これには何の証拠もない。これほどまでに重要なものが中央計算機《セントラル・コンピューター》の記憶に留められておらぬとは、わしにとっても信じられぬのじゃが、計算機はこの協定について何も知らぬのじゃ。情報機を通じてではあったが、わしは計算機に聞いてみたことがある。評議会が自身で質問してみたらいかがじゃな」
ジェセラクは、禁断の領域をおかしてまた叱責を蒙るまでのことはないと考え、議長の答を待った。
返事はなかった。なぜなら、ちょうどその時、リスからの来訪者たちが俄かに席に立ちあがって、いっせいにその顔を驚きと不安の表情にこわばらせたからだった。彼らは、ある遠くの声が通報を彼らの耳に注ぎこむのに、じっと聴き入っている様子だった。
評議会は、この無言の会話が進行している間、刻々と不安をつのらせながら待っていた。やがて、代表団の団長は、放心状態から自分をひき戻し、非礼を詫びるように議長の方を向いた。
「我々は、今し方、リスから或る極めて異常な、また不安な知らせを受けとりました」と彼はいった。
「アルヴィンが地球に戻ったのですか?」と議長は訊ねた。「いや――アルヴィンではありません。何か、ほかのものです」
自分の忠実な宇宙船をエアリーの森の空地に着陸させたアルヴィンは、人類の歴史のうえで、これまでに、こんな荷物を地球に持ち帰った宇宙船があっただろうかと思った――もっとも、実は、ヴァナモンドがこの船の物理的空間のどこかに位置を占めているとしての話だったが。旅の間じゅう、彼のいる気配はなかったし、ヒルヴァーは(彼の知識は、いっそう直接的だったのだが)ヴァナモンドの注意を向ける範囲だけが、空間のどこかに位置を占めているといえるのだと信じていた。ヴァナモンド自身は、いかなる空間にも――たぶん、いかなる時間[#「時間」に傍点]にも――局限されないのだった。
宇宙船から出ると、セラニスと五人の理事たちが二人を待っていた。アルヴィンは、理事の一人には、二度目にここへ来た時にすでに会っていた。その時に会ったあとの二人は、いまダイアスパーにいるのだろうと、彼は推測した。彼は、代表たちはどうしているだろうか、また何百万年このかた初めて外界から入りこんできた闖入者たちに対して都市がどんな反応を示しているだろうかと思った。
「アルヴィン、あなたは」と、セラニスは自分の息子にお帰りなさいをしてから、さっぱりした態度でいった。「異常な生物を見つける天才のようですね。それにしても、当分の間は、あなたも、今度やってのけたほどのことはできないでしょうよ」
今度ばかりは、アルヴィンのびっくりする番だった。
「じゃ、ヴァナモンドは、ここにいるのですか?」
「ええ、何時間も前にね。どうやってだか知りませんが、彼は、あなた方が往きに通った船の航跡を辿って来たのです。これだけでも、びっくりするような能力ですし、おもしろい哲学上の問題を提起しています。ヴァナモンドは、あなた方が彼を発見した瞬間にリスに着いていたという証拠もいくらかありますから、彼は無限のスピードを出せることになります。そればかりじゃなくて、この数時間のあいだに、彼は私たちが思ってもいなかったほど多くの歴史的事実を教えてくれました」
アルヴィンは、びっくりして彼女を眺めた。それからすぐに彼は理解した。鋭い感受性とみごとに連繋した頭脳を持っているこの人々にヴァナモンドが与えた衝撃は、想像に難くなかった。彼らは驚くべき速さで行動したのである。アルヴィンはとっさに、リスの知識人たちに熱心に取り囲まれて、たぶん少々怯えているヴァナモンドの、とまどった姿を思い浮かべた。
「彼が何者だか、わかりましたか?」と、アルヴィンは訊ねた。
「ええ、それは簡単でした。もっとも、彼がどうして生まれたのかは、まだわかりませんけれど。彼は純粋の精神なのです。それに、彼の知識には限りがないように思われます。でも、彼は子供なのです。文字どおりの意味でですよ」
「そうとも!」とヒルヴァーは叫んだ。「僕にだって、わかったはずだったのに!」
アルヴィンは、面くらった様子だった。セラニスは気の毒がって説明した。
「つまり、ヴァナモンドは、巨大な、おそらく無限の頭脳を持っているのですが、まだ未成熟で未完成なのです。彼の知能は、今のところ人間よりも劣っています」――彼女はちょっと苦笑した――「でも、彼の思考の速度はずっと速いですし、非常な勢いで学んでいます。彼は、私たちにはまだ理解できないような何かの力も持っています。彼の心の中では、何とも表現しにくい形で、過去のすべてが見通しになっているらしいのです。あなた方の通った道を辿って地球にやって来るのには、その能力を使ったのかもしれません」
アルヴィンは、このことにやや圧倒され、じっと黙って立っていた。彼は、ヒルヴァーがヴァナモンドをリスに連れてきたのが、いかに正しかったかを悟った。それから、彼は、自分がセラニスをだし抜けたというのが、どんなに運がよかったことだったかを知った。彼は、あんなことを二度とする気にはなれないだろう。
「そうすると」と、彼は訊ねた。「ヴァナモンドは、まだ生まれたばかりだというんですか?」
「そうです、彼の基準からいえばね。実際には、彼の年令は大へんなものです。もっとも、人類よりは明らかに若いのですけれども。驚いたことに、彼は私たちが自分を創ったのだと主張しているのです。そうして、彼の誕生が過去の一切の大きな謎に結びついていることは、全く疑問の余地がありません」
「ヴァナモンドは、いまどうしているの?」ヒルヴァーは、やや所有欲をこめた声で訊ねた。
「グレヴァーンの歴史家たちが質問をしているところです。あの人たちは、過去のおよその輪郭を明らかにしようとしているのですが、その仕事は何年もかかることでしょうよ。ヴァナモンドは過去のことを細大もらさず話すことができるのですが、自分の見ているものを理解していないので、彼を相手に仕事するのはとても大へんなのです」
アルヴィンは、セラニスがどうしてこういったことを知っているのだろうかと思ったが、すぐに、きっとリスの眼を覚ましている頭脳は、挙げてこの偉大な研究の進行を見守っているのだろう、と気がついた。彼は、自分がダイアスパーとともにリスにも大きな足跡を残したことを知って誇らしい気持を感じたが、その気持にはいらだたしさが混っていた。自分には、今おこっていることに参加することも、それを理解することも、決して完全にはできないのだ。人間同土の間で精神が直接に接触することでさえ、彼にとっては、聾にとって音楽が、盲にとって色がそうであるように、大きな謎なのである。しかも、リスの人々は、いま、この想像を絶する異様な生物と思考を交換しているのだ。それは彼が地球へ連れてきたものではあるが、しかもなお自分の持ついかなる感覚をもってしても、決して探知することのできないものなのである。
ここには、自分のいるべき場所はないのだ。調査が終われば、自分も結果を教えてもらえるだろう。彼は永遠への扉を開いたが、今は自分のした一切のことに畏怖を、恐怖をさえも感じていた。自分自身の心の安らぎのために、彼は小さな住み慣れたダイアスパーに帰り、自分の夢や大望にしっかりとしがみつく間、その懐に抱かれにゆくのである。それは皮肉だった。都市を捨てて星の中へとびだしていった彼は、脅えた子供が母親のところへ駆け戻るように、故郷へ戻ってゆくのである。
[#改段]
23
ダイアスパーは、アルヴィンに再会するのを、あまり喜んではいなかった。都市は、棒で滅茶滅茶に掻きまわされた巨大な蜂の巣のように、まだ大騒ぎの最中だった。彼らはまだ現実と対決したくないのだったが、リスや外界が存在することを認めようとしない者たちには、もう隠れる場所はなかったのである。記憶バンクは彼らを受け入れるのを中止してしまい、自分の幻影にしがみつこうとする者、未来に逃げ道を求めようとする者も、今は創造の殿堂に足を踏み入れても無駄なのだった。彼らを分解すべき熱のない焔は人々を迎え入れるのを拒んだ――彼らはもう、時の流れを十万年も下り、記憶を洗い清められて眼を覚ますというわけにはいかないのである。中央計算機《セントラル・コンピューター》に懇願しても何の役にも立たなかったし、計算幾はどうしてこの措置を取ったかも説明しようとはしなかった。逃亡を企てた者たちは、すごすごと都市にもどり、現下の問題と対決せざるをえなかったのである。
アルヴィンとヒルヴァーは、議事堂からほど遠からぬ公園の外れに着陸した。アルヴィンは、都市の空を外界から遮っている何かの幕を通り抜けて宇宙船を都市の中に降ろすことができるかどうか、最後の瞬間まで確信はなかった。ダイアスパーの大空は、他の一切のものと同じく人工的――あるいは少なくとも部分的に人口的なものだった。人類の失ったものすべての思い出である星をちりばめた夜は、都市の上に入りこむことを絶対に許されなかった。時として砂漠を荒れ狂い、動く砂の壁で空を覆う嵐からも、都市は守られていたのである。
姿なき番人はアルヴィンを通過させ、ダイアスパーが眼下に拡がった時、彼は故郷に帰って来たことを感じた。宇宙やその謎がどれほど彼を誘おうとも、この都市こそ自分が生まれ、固い絆に結ばれている場所だった。そこは彼を満足させることはないだろうが、しかもなお彼は常にそこに戻ってくることだろう。彼は、銀河系の半ばを旅して、初めてこの簡単な真実を知ったのでだった。
まだ宇宙船が着陸もしないうちから、そこには人だかりができており、アルヴィンは、自分が戻ってきた今、仲間の市民たちが自分をどんなふうに迎えるだろうかと思った。気閘《エア・ロック》を開ける前でも、展望スクリーンをとおして彼らを見ながら、その表情を読みとるのは、造作もないことだった。支配的な気分は好奇心のようだったが、これ自体がダイアスパーには新奇なものだった。それに混って不安があり、またあちこちには紛うかたない恐怖の様子があった。自分が戻ってきたのを喜んでいるものは誰もいないらしいな、とアルヴィンはやや不満な気持で思った。
一方、評議会は明らさまに彼を歓迎していた――もっとも純粋に好意からではなかったのだが。この危機を作ったのは彼ではあったけれども、将来の政策の拠りどころとなるべき事実を提供できるのは、彼しかないのだった。彼が七つの太陽[#「七つの太陽」に傍点]への飛行やヴァナモンドとの出会いを物語ると、皆は熱心に謹聴した。それから彼は丁寧に無数の質問に答えたが、その辛抱強さは恐らく質問者たちを驚かせたことだろう。アルヴィンにすぐわかったことは、彼らの頭の中には何よりもまず侵略者たちへの恐怖があるということだったが、彼らはその名を決して口に出さず、アルヴィンがその問題を公然と持ち出した時には、明らかに嬉しくない気持だったのである。
「もし侵略者たちがまだこの宇宙にいるとしたら」と、アルヴィンは評議会に語った。「私は宇宙の中心で必ず彼に会ったはずです。ところが、七つの太陽[#「七つの太陽」に傍点]の辺りには、知能のある生命は何もいません。私たちは、ヴァナモンドがそれを裏書きするまでもなく、とうにそれを推察していました。侵略者者たちは、遠い昔に出ていったものと信じます。少なくともダイアスパーと同じくらい年をとっているらしいヴァナモンドは、確かに彼らについて何も知らないのです」
「一つ思いついたことがある」と、評議員の一人が、急にいいだした。「ヴァナモンドは、現在の我々の理解を超えるような形での侵略者の子孫かもしれぬ。やつは、自分の生まれを忘れてしまっておるけれども、だからといって、いつかまた危険にならぬものでもないかもしれぬ」
単なる傍聴者として出席していたヒルヴァーは、発言が許されるのを待ってはいなかった。アルヴィンは、彼が怒ったのを初めて見たのだった。
「ヴァナモンドは、私の心の中を見通しました」と、彼はいった。「私も彼の心の一部を垣間見ました。私の方の人たちは、もう彼についてたくさんなことを知っています。もっとも、彼が何者であるかは、まだ発見していませんが。でも、これだけは確かです――彼は好意を持っており、私たちを見つけたことを喜んでいます。怖れることは何もないんです」
この興奮した発言の後、しばらく沈黙が続き、ヒルヴァーは少々ばつが悪そうな顔つきで緊張を緩めた。その後は、まるで出席者たちの心から暗雲が払われたかのように、会議室の緊張は目立って和らいだ。本来ならば議長は、議事妨害の廉でヒルヴァーを咎めるところだったが、もちろん彼にはその気はなかった。
討議を聞いているうちに、アルヴィンには、評議会に三派の考え方が代表されていることがわかった。少数派である保守派は、時計の針を逆行させて、何とか古い秩序を回復することにまだ望みをかけていた。あらゆる道理に反して、彼らは、ダイアスパーとリスがお互いにもう一度忘れあうように説き伏せられるだろうという希望にしがみついていた。
進歩派は、同じくらいに小さな少数派だった。アルヴィンは、そもそも彼らが評議会に少しでもいたということに、喜びかつ驚いた。正しくは、彼らもこの外界からの侵入を歓迎しているわけではなかったが、それにできるだけ善処しようと決心していたのである。彼らの一部は、ダイアスパーを物理的な障壁よりも効果的に長らく閉じこめてきた心理的な障壁を突破する方法があるのではないか、と提案するに至っていた。
評議会の大多数は、都市の気分を正確に反映して、事態の推移を待ちながらも、警戒を怠らないという態度を取っていた。彼らは、嵐が通りすぎるまでは、全面的な計画を立てることも明確な政策を遂行することもできないと悟ったのだった。
会議が終わってから、ジェセラクは、アルヴィンやヒルヴァーとおちあった。ジェセラクは、眼下に砂漠の拡がるロランヌの塔で最後に会ってから――そして最後に別れてから――人が変ったように見えた。その変化はアルヴィンには思いがけないものだったが、彼はその後ますます頻繁にこうした変化に会うことになるのだった。
ジェセラクは、まるで生命が新しい燃料を得て血管の中でいっそう明るく燃えているかのように、若返って見えた。その老令にもかかわらず、彼は、アルヴィンがダイアスパーに投げかけた挑戦に応じることのできる一人だったのである。
「アルヴィン、知らせがあるのじゃよ」と彼はいった。「お前は、理事のガーランを知っておると思うが」
アルヴィンは、しばらくけげんな顔をしていたが、やがて思いだした。
「知ってますとも――僕がリスで初めて会った人たちの一人です。あの人は、リスの代表団のメンバーじゃないんですか?」
「そうじゃ。わしらは大へん親しくなってのう。あれは、すばらしい人物じゃ。わしにはとても可能とは思えなかったほど、人間の精神を理解しておる。もっとも、あの男は、自分などはリスの基準ではほんの駆けだしだといっておるのじゃがな。ここにおる間に、あの男は、お前の気持にはずいぶんと適うておるような計画を始めおった。わしらを都市の中に釘づけにしておる強迫観念を分析しようというんじゃ。それが精神にどういうふうに課せられているかが発見できさえすれば、それを解除することもできると、あの男は信じておる。わしらの中で二十人ほどの者が、すでにあの男に協力しておるんじゃ」
「それで、先生はその一人なんですか?」
「そうなんじゃよ」ジェセラクは、アルヴィンが今までに見たことのない、またこれからも見ることはないと思われるような、はにかみ[#「はにかみ」に傍点]に近い表情を浮かべながらいった。「それは楽ではないし、気持のいいものでもない――しかし、生き甲斐を感ずるんじゃよ」
「ガーランは、どういうやり方をするんですか?」
「あの男は、物語《サガ》を別用して精神分析をしておるんじゃ。彼はあらゆる種類の物語《サガ》を作らせおってな、わしらがそれを経験しておる間の反応を調べる。この年になってまた子供の遊びをやることになろうとは、思いもよらなんだことじゃが」
「物語《サガ》とは何ですか?」とヒルヴァーが訊ねた。
「空想的な夢の世界なんだ」とアルヴィンが説明した。「少なくとも、大部分は空想なんだ。一部には、おそらく歴史的事実に基いたものもあるらしいがね。都市の記憶セルには、そんなのが何百万も記録してあって、どんな種類の冒険や経験でも好きなように選べるし、その刺激が自分の精神に加えられている間は、それが全くほんとうのことのように思えるんだ」彼は、ジェセラクの方に向き直った。
「ガーランは、先生たちをどんな物語《サガ》の世界に入れるんですか?」
「お前にも想像がつくように、大部分はダイアスパーを出てゆくことに関係がある。また、ある場合には、わしらは、自分の多くの人生の中で、できるだけ都市の建設の時期に近い初期の頃の人生に戻らされる。ガーランは、この強迫観念の起原に近づくほど、それを掘り崩すのが容易になると信じておるのじゃよ」
アルヴィンは、この知らせに、勇気が湧いてくるのを感じた。ダイアスパーの扉を開いただけでは、自分の仕事は半分しか達成されていないのだ――誰もそこを通ってゆこうとはしないことが、わかるだけかもしれないのである。
「あなたは、ほんとうに[#「ほんとうに」に傍点]、ダイアスパーから出てゆけるようになりたいと思いますか?」ヒルヴァーは、鋭い質問を発した。
「思わぬ」ジェセラクは言下に答えた。「そう思っただけでも、わしは身の毛がよだつ思いがする。しかし、わしは、皆が世界はダイアスパーだけじゃと思うておったのが全くの誤りであったことを知った。それならば、この誤りを正すために、何事かがなされねばならんのじゃ。感情の上では、わしはまだ都市を離れることなどはとてもできぬ。あるいは永遠にできぬかもしれぬ。ガーランは、わしらのうちの何人かは、リスに行かせることができると思うておるし、わしはあの男の実験を援助するにやぶさかではない――もっとも、その間も半ばは実験が失敗してくれることを望んでおるのじゃがな」
アルヴィンは、昔の教師を、新たな尊敬の念をもって眺めた。彼はもう暗示の力を馬鹿にしていなかったし、人を論理に反して行動させる力を過小評価してもいなかった。彼は、ジェセラクの静かなる勇気を、ケドロンが慌てふためいて未来へ逃亡したこととくらべてみないではいられなかった――もっとも、人間の本性を改めて理解した彼には、道化師のしたことを咎める気には、もうとてもなれなかったのであるけれども。
着手した仕事をガーランがやり遂げることは間違いなかった。ジェセラクは、いかに新たな出発をしたいと思ったとしても、一生のパターンを破るには年をとりすぎているかもしれない。それは、どうでもいいのだ。なぜなら、リスの心理学者たちの優れた指導のもとに、他の者たちが成功するだろうから。こうして、ひとたび何人かが十億年間もはめられてきた型から脱けだしたとなれば、残りの者が後に続くのは時間の問題だろう。
彼は、障壁が全く崩れおちた時には、ダイアスパーは――またリスも――どうなることだろうかと思った。何らかの形で両者の最良の要素が残され、新しい健康な文化として融合するに違いない。それは、ぞっとするような仕事であり、あらゆる英知と各人が耐えうるかぎりの忍耐とを必要とするに違いない。
将来の調整の困難は、すでにその一部が表面化していた。リスからの来訪者たちは、礼儀正しくではあったが、彼らに提供された都市の中の家に住むことを拒絶した。彼らは、公園の中のリスを思わせるような環境の中に、自分たちの仮の宿泊設備を建てた。ヒルヴァーだけは、唯一の例外だった。彼は、壁も一定せず家具も一時的にしか存在しない家に住むのは嫌だったが、彼らがここに長くは滞在しないという約束に安心して、雄々しくもアルヴィンの歓待を受けることにしたのだった。
ヒルヴァーは、生まれてから寂しいと思ったことはなかったのだが、その彼もダイアスパーでは孤独を感じた。都市は彼にとって、リスがアルヴィンにとってそうだったよりも、もっとよそよそしいものだった。都市の果てしもない複雑さと、まわりの空間を一分の隙もなく埋めているかに見える無数の見知らぬ人たちによって、彼は圧し潰され圧倒されていた。リスでは、相手に会ったことがあるといなとにかかわらず、よしんば漠然とした程度であるにもせよ、あらゆる人を知っているのだった。たとえ千回生まれ変わっても、彼にはダイアスパーの全員を知ることはできないのだ。そうして、理屈に合わない感情だとわかってはいても、このことは彼を何となく憂欝にした。彼は、自分の世界とは何の共通点もないこの世界に、ただアルヴィンへの義理立てだけで留まっているのだった。
彼はたびたび自分のアルヴィンに対する気持を分析してみようとした。この友情は、苦闘する小さな生物すべてに同情の心をおこさせるものと同じところから発していることはわかっていた。アルヴィンのことを、我儘で、強情で、自分本位で、誰からも愛される必要はなく、たとえ愛情が示されてもそれに報いることはとてもできはしないのだと思っている人たちは、これを聞いたらびっくりすることだろう。
ヒルヴァーは、そんな馬鹿ではなかった。彼は、そもそもの初めから、もう本能的にそれを感じていた。アルヴィンは探検家であり、探検家というものは、みんな、自分が失った何かを追い求めているのである。彼らがそれを見つけることは滅多にないが、何かを達成することが探究そのものより大きな喜びをもたらすことは、それ以上に滅多にないことなのだ。
アルヴィンが何を追い求めているのか、ヒルヴァーにはわからなかった。アルヴィンは、ダイアスパーをこれほどの歪んだ巧みさで設計した天才たち――あるいはそれとも、彼らに反対した、もっと偉大な天才たちによって、遠い時代に活動を開始させられた力に駆りたてられているのだった。あらゆる人間がそうであるように、アルヴィンも或る程度まで機械なのであって、彼の行動は遺伝によってあらかじめ定められていた。しかし、そうだとしても、それは理解し共感してもらいたいという彼の欲望を減ずるものではなかったし、彼に孤独や欲求不満を感じなくさせるわけでもなかった。彼の仲間の人々にとっては、アルヴィンは何ともわけのわからない生きものであったから、彼らは時々アルヴィンもやはり自分たちと感情を共通にしているのだということを忘れた。彼もまた人の子であることを理解するには、全く別世界からの異邦人を必要としたのである。
ダイアスパーに来て何日もたたないうちに、ヒルヴァーはこれまでの生涯に会ったよりも多くの人々に出会った。会ったことは会った――が、知りあいになった者は、事実上、皆無だった。これほどまでに群がりあっていればこそ、都市の住民たちは、他人が侵すことを許さない自分だけの領分を持ち続けていた。彼らの知っている唯一のプライヴァシーは精神上のものであって、ダイアスパーの尽きることのない社交活動の中でさえ、彼らは依然としてこれに固執していた。ヒルヴァーは彼らを気の毒に思ったが、彼らの方では何も自分から同情される必要を感じていないことも知っていた。彼らは、自分たちにないもの――リスのテレパシー社会ですべての人を一つに結んでいる、共同体という心温まる思い、そこに属しているのだという気持――がわからないのである。
アルヴィンの保護者であるエリストンとエタニアについては、ヒルヴァーは、人は好いが不可解な平凡人として、即座に片づけてしまった。彼はアルヴィンが彼らを父や母と呼ぶのが、ひどくまぎらわしいと思った――この言葉は、リスではまだ古い生物学的な意味を失っていないのである。ダイアスパーの創造者たちによって、生と死の法則が廃止されたのだということを忘れないでいるには、絶えざる想像力が必要であり、また、まわりでさまざまな活動が行なわれているにもかかわらず、時としてヒルヴァーには、子供が一人もいないためにこの都市が半ば空っぽであるように思えた。
永い隔離の終わった今、ダイアスパーはどうなるのだろうか、と彼は考えた。彼の結論では、都市にとっていちばん好いことは、こんなにも長いあいだ都市を忘我の状態においてきた記憶バンクを破壊することだった。それは奇跡のような機械ではあったけれども――おそらく、それを作りだしたことは、科学の究極の勝利だったかもしれないけれども――それは病める文化、多くのものに脅える文化の所産だった。その恐怖の一部は現実に根拠を持つものであったが、それ以外はただ想像に基いていただけであるように、今となっては思われるのである。ヒルヴァーは、ヴァナモンドの精神を探り求めることによって現われてきた歴史の筋道について、少しは知っていた。数日もすれば、ダイアスパーもそれを知ることだろう――そうして、自分たちの過去がどれほどまでに神話に包まれていたかに気がつくことだろう。
しかし、記憶バンクが破壊されれば、千年もたたないうちに、この都市は死ぬだろう。ここの住民は、増殖能力を失っているのだから。これこそ取り組まねばならない矛盾だったが、ヒルヴァーは、もうすでに、一つの解決の可能性をおぼろげに感じていた。技術的な問題であるかぎり、解答は常に存在するのだ。しかも、彼の仲間の人たちは、生物科学を得意としているのである。ダイアスパーが望みさえすれば、加えられた変化はもとに戻せるのである。
しかし、まず、都市は自分が失ったものが何であるかを知らねばなるまい。この教育には何年も――ことによると何世紀も――かかるだろう。だが、それはもうはじまっているのだ。遠からず、初めて知った事柄の衝撃は、リスそのものと接触したことと同じくらい深く、ダイアスパーを揺り動かすことだろう。
それは、リスをも揺り動かすだろう。この二つの文化にこれほどの違いはあっても、両者は一つの根から発したものであり、同じ幻想に捉えられていたのだ。両者が穏やかなしっかりした眼差しで、彼らの失われた過去をもう一度振り返るなら、両者はともにいっそう健康な文化になることだろう。
[#改段]
24
このスタジアムは、ダイアスパーの眼覚めている全人口を収容すべく設計されていたが、その一千万の座席にはほとんど空席はなかった。斜面の上の方の見通しのきく場所から、なだらかに描かれた大きな曲線を見下ろしたアルヴィンは、否応なしにシャルミレインを思いださせられていた。この二つの窪みは同じ形で、ほとんど同じ大きさだった。仮にシャルミレインの窪みを人で埋めたとしたら、まさにこんな具合に見えることだろう。
しかし、この両者の間には、根本的な違いが一つあった。シャルミレインの巨大なすり鉢は実在する。だが、このスタジアムはそうではないのだ。これは、実在したことさえないのだ。これは単なる幻影であり――中央計算機《セントラル・コンピューター》の記憶の中に眠り、必要に応じて呼びだされる電荷のパターンにすぎないのだ。アルヴィンは、自分が現実には今も自分の部屋におり、自分を取りまいているように見える無数の人たちも、みんな同じように自分の家にいるのだと知っていた。その場を動こうとしないかぎり、その幻影は申し分なかった。ダイアスパーが取り壊され、その市民は一人残らずこの巨大な窪みに集まっているのだと、信じることができた。
都市の生活が中断され、全住民が「大集会」に集まるということは、千年に一度もないことだった。リスでも、これに相当する集会が行なわれていることを、アルヴィンは知っていた。向こうでは、集会はテレパシーによるのだろうが、ことによると、それと同時に、ここと同じように想像上の、しかも一見現実のもののように見える、見かけ上の肉体の集合も行なわれているかもしれない。
彼は、肉眼に見える限度まで、自分のまわりにある顔の大部分を知っていた。一マイル余も前方の千フィート下には、小さな円い演壇があって、いま全世界の注目がそこに向けられているのだった。こんな遠くから何かが見えるとは、どても信じ難いことだったが、演説が始まれば、ダイアスパーの誰もが同じようにはっきりと、あらゆる出来事を見聞きできるのだということを、アルヴィンは知っていた。
演壇に霧が立ちこめ、その霧はカリトラックスの姿になった。彼は、ヴァナモンドが地球にもたらした情報から過去を再現する仕事をしてきたグループの責任者だった。
それは、途方もない、ほとんど不可能ともいうべき事業だったが、その理由は、そこに関係している時間の範囲が広大なためばかりではなかったのである。アルヴィンは、一度だけヒルヴァーの助けを借りて、自分たちが見つけた――あるいはむしろ、自分たちを見つけた――この異様な生きものの精神をちょっと覗かせてもらったことがあった。ヴァナモンドの思考は、アルヴィンにとっては、どこかの広い反響する洞穴の中で、無数の声がいっせいに叫び立てているかのように、意味のわからないものだった。しかしリスの人たちは、それを解きほぐして、後でゆっくり分析するために記録に取ることができたのである。噂によれば――ヒルヴァーは、これを否定も肯定もしなかったが――彼らが知った事実はひどく異様なものであって、全人類が十億年ものあいだ受け入れていた歴史とは、ほとんど似ても似つかぬものだということだった。
カリトラックスは話し始めた。アルヴィンにとっては――またダイアスパーの他の誰にとっても――そのはっきりと澄みきった声は、ほんの数インチ先のところから聞こえてくるように思われた。それから、ちょうど夢の中での位置関係が論理に反していても、夢を見ている者はいっこうに驚かないように、何とも表現しようのない仕方で、アルヴィンはスタジアムの斜面の上高くに席を占めたまま同時にカリトラックスの傍に立っていた。彼はこの矛盾に戸惑うことなく、科学が自分に提供してくれるような他の時間空間に対する制御と同様に、ただ無条件にそれを受け入れただけだった。
カリトラックスは、ごく簡単に、これまで受け入れられてきた我が種族の歴史を、大まかに述べた。彼は、一握りの偉大な名前と漠然とした帝国の伝説のほかには何も残さなかった黎明期文明の未知の人々について述べた。その歴史によれば、人類はそもそもの初めから星に憧れ、ついにはそこに到達したのである。何百万年にもわたって、彼らは銀河系に拡がってゆき、他の星団を次々とその支配下におさめた。その時、宇宙の果ての暗黒の中から侵略者たちが襲ってきて、人類が勝ちとったすべてのものを※[#「てへん+宛」、第三水準1-84-80]ぎ取ったのだった。
太陽系への退却は悲痛なものであり、かつ長い時代を要したに違いない。地球そのものは、シャルミレインをめぐって荒れ狂った伝説的な戦闘によって、辛くもすくわれたのである。一切が終わった時、人類に残されたものは、思い出と生まれ故郷の惑星だけだったのである。
それからというものは、一切は長い下り坂の連続だった。何にもまして皮肉なことは、宇宙を支配することを夢みた種族が、自分自身の惑星までも大部分を放棄して、リスとダイアスパーという二つの隔離された文化(それは、この二つを星たちの間に横たわる深淵と同じくらいに深く隔てている砂漠の中での生命のオアシスだった)に分裂してしまったことである。
カリトラックスは、一息入れた。アルヴィンには――またこの大集会の中の一人一人には――この歴史家が自分をまともに見ているような気がした。その眼は、今になっても自分たちにはまだすっかりは信じられない事柄を目撃した眼なのだった。
「記録が残っているかぎりで我々が信じてきた話としては、こんなところであります」とカリトラックスはいった。
「私はここで、それらが嘘だった――何もかも嘘だった、と申しあげねばなりません。それは、あまりひどい嘘だったので、我々は今となってもまだ、完全にそれを真実をもっておきかえることができないでいるのであります」
彼は、自分のいったことの意味が、すっかり人々の胸におちるのを待った。それから、彼は、ゆっくりした注意深い口調で、ヴァナモンドの精神から得た知識を、リスとダイアスパーに告げたのである。
人類が星に到達したということすら、真実ではなかった。人類の小さな帝国全体は、冥王星およびペルセポネーの軌道内に閉じこめられていた。恒星間空間は、人類の能力ではとても越せない障壁であることがわかったのである。人類の全文明は太陽のまわりにひしめきあい、しかもまだ極めて若かった。その時――星の方が人類のところにやってきたのである。
その衝撃は、ひどいものだったに違いない。その失敗にもめげず、人類は自分がいつか宇宙の果てを征服することを、信じて疑わなかったのだ。人類はまた、宇宙に自分と同格のものはいるとしても、自分より優れたものはいないと信じていた。いまや、この信念は二つながら間違っており、遠い星の間には、自分よりも遙かに偉大な頭脳が存在することがわかったのである。何世紀もの間、人類は、初めは他の種属の宇宙船に乗って、後には教わった知識に基いて建造した機械に乗って、銀河系をまわって歩いた。彼らは、いたるところで、理解はできても到底肩を並べえない文化を知り、またあちこちで、明日にも人類の理解を絶するものになりかけている頭脳に出会った。
そのショックは怖るべきものだったが、それはまた我が種族の発展の因にもなった。深い悲しみを抱きつつも遙かに賢くなった人類は、太陽系に戻って、自分の得た知識についてじっと考えこんだ。彼らはこの挑戦を受けとめ、未来に希望をもたらす計画を徐々に作りあげていった。
かつて人類の最大の関心は物理的科学にあった。今や彼らは、いっそうの熱意に燃えて遺伝学と精神の研究に努力を傾けた。いかなる犠牲を払おうとも、彼らは自分たちを進化のぎりぎりにまで到達させる覚悟だった。
この大実験は、数百万年にわたって、我が種族のすべてのエネルギーを使い果たした。このようなさまざまな努力、さまざまな犠牲と辛苦の数々は、カリトラックスの物語の中では、ほんの僅かな言葉にまとめられていた。それは人類に最大の勝利をもたらした。彼らは病気を一掃し、望むがままに永遠に生きることができるようになり、またテレパシーの能力を身につけることによって、あらゆるものの中で最も霊妙な力を意のままに従えることになったのである。
人類が己れの能力を頼みとして銀河系の広大な空間に再び出てゆく準備は成った。彼らは、かつて自分たちがそこから逃げ出してきた大宇宙の種族たちと、対等の立場で相対するだろう。また彼らは、宇宙の歴史の中で、充分な役割を果たすことだろう。
彼らは、そうしたことをやり遂げた。あらゆる歴史の中でおそらくは最も壮大なこの時代が、帝国の伝説を生みだしたのである。それは多くの種族からなる帝国だった。しかし、このことは、帝国の最後を飾る、悲劇というにはあまりにもすさまじい事件の中で、忘れられてしまったのである。
帝国は、少なくとも百万年は続いた。多くの危機、おそらく戦争さえもおこったにちがいないが、こうしたことはすべて、偉大な種族たちが手を携えて成熟期に向かう大きな歩みの中で忘れ去られていった。
「我々は、この物語の中で我が祖先たちの果たした役割を誇りとすることができます」カリトラックスは、話を続けた。「文化の絶頂に達した時でさえ、彼らは初心を少しも忘れてはいなかったのであります。ここに述べることは根拠のある事実というよりは、むしろ推測に属することでありますが、帝国の没落をもたらすと同時にその輝かしい栄光ともなった実験を、人類が計画しかつ指導したということは、間違いないように思われます。
それらの実験の基礎をなす哲学は、次のようなものだったと考えられます。人類は、他の種族たちと接触したことによって、一つの種族の世界像が、その肉体とそれに備わる感覚器官とに、いかに深く影響されているかを知りました。そこで、もし宇宙の真の姿というものに到達できるものならば、それはこのような肉体的制約から解放された精神――つまり純粋の知性によって初めてできるものだ、と論じられたのであります。これは地球の太古の信仰の多くに共通した考えでありまして、合理的な根拠を何ら持っていなかった一つの考えが、究極的には科学の最大の目標の一つになったということは、不思議な気がいたします。
天然の宇宙の中では、肉体を持たない知性が見つかったことは一度もありませんでした。帝国は、それを創造する仕事に着手したのであります。我々は、これを可能にした技術や知識を、他の多くのものといっしょに忘れてしまいました。帝国の科学者たちは、自然のあらゆる力、時間空間のあらゆる秘密に通暁していました。我々の精神が、神経系の網の目で連結され極めて複雑に配列された脳細胞の副産物であるのに対して、彼らは、物質的な構成要素を持たず空間そのものに刻みこまれたパターンとしての頭脳を創造しようとしたのであります。このような頭脳は――もしこれが頭脳と呼べるならですが――活動のために電気的な力あるいはもっと高次の力を使うことでしょうし、物質の支配から完全に自由になるでしょう。いかなる有機体の知性よりも遙かに速やかに機能しうみでしょう。宇宙に一かけらでも自由エネルギーが残っているかぎり存続することができ、その力にはいかなる限界も考えられないでありましょう。ひとたび創造されれば、創造者にも予測のつかないような可能性を発展させることでしょう。
人類は、主として自分の肉体を再構成する際に得られた経験の結果として、そういうものの創造を企ててみることを提案したのであります。これは、全宇宙の知能に投げかけられた最大の挑戦でしたが、何世紀もの討議の末、受け入れられたのです。その実行には、銀河系の全種族が協力しました。
この夢が実現するまでには、百万年以上の歳月が必要でした。その間に文明は興亡をくりかえし、全宇宙の長い年月におよぶ努力は何度も何度も水泡に帰しましたが、この目標が忘れられたことはなかったのです。いつの日にか我々は、この全歴史を通じて最も偉大な長年月の努力の物語の全貌を知ることがあるかもしれません。いま我々にわかっている限りでは、この努力の結果として、もう少しで銀河系をめちゃめちゃにするほどの大惨事がおこったのです。
ヴァナモンドの心は、この時期に入ってゆくことを拒否しています。或る狭い時間の範囲に彼は入れないのでありますが、それはただ彼自身が恐怖を感じていることによるものと信ぜられます。その期間の初めには、栄光の絶頂にあって来るべき成功への期待に弾む帝国の姿があります。その期間の終わりに当たるたった千年後の時点では、帝国は大きな打撃を受けて、星さえもエネルギーを使い果たしたかのように暗くなっています。銀河系の上には恐怖の帳が垂れこめ、その恐怖には狂った精神[#「狂った精神」に傍点]という名が結びついているのです。
この短い期間に何がおこったかは想像に難くありません。純粋の知性は創られたものの、それは気が狂っていたか、あるいは――別の資料からみてこちらの方が真相らしいのですが――物質に対して不倶戴天の敵意を持っていたのです。それは何世紀ものあいだ宇宙を荒れ狂った末、ついに我々には見当もつかぬ何かの力によって取りおさえられたのでした。帝国がこの難局にあたって使った何かの武器は、星々の資源を汲み尽してしまいました。この闘争の追憶の中から、侵略者伝説の全部ではないにしても、その一部が発生したのであります。しかし、このことについては、後でまた述べることにいたします。
狂った精神[#「狂った精神」に傍点]は殺すわけにはゆきませんでした。それは不死身だったからです。それは銀河系の果てに追われ、我々にはわからない方法でそこに閉じこめられたのです。その牢獄は黒い太陽[#「黒い太陽」に傍点]として知られる不思議な人工の星で、狂った精神[#「狂った精神」に傍点]は今日もなおそこに留まっているのです。黒い太陽[#「黒い太陽」に傍点]が死んだとき、それは再び自由の身になるでありましょう。その日がどのくらい先のことなのか、知るすべはないのであります」
カリトラックスは、世界中の眼が自分に注がれていることもすっかり忘れて深い物思いに沈んでしまったかのように、黙ってしまった。その長い沈黙の中で、アルヴィンは、まわりにぎっしり詰まった群衆をすばやく見まわし、この意外な新事実――今や侵略者神話に代るものとなるに違いないこの未知の脅威――に直面した人々の心のなかを読みとろうとした。仲間の市民たちの顔の大部分は、信じられぬように強ばっていた。彼らは、間違った過去を捨てようとして今も※[#「足+宛」、第三水準1-92-36]いているところであり、それに代るべきもっと異様な現実を受けとめるところまでは、まだいっていないのだった。
カリトラックスは、静かな、いっそう沈んだ声で再び語り始め、帝国の最後の日々のことを述べた。その姿が眼の前に繰り拡げられるにつれて、アルヴィンは、自分もその時代に住んでいたらどんなによかっただろうと考えた。その当時には冒険があり、すばらしい不屈の勇気があった――その勇気は、大惨事を出しぬいてその口もとから勝利を取り戻すことができたのである。
「銀河系は狂った精神[#「狂った精神」に傍点]のために荒廃に帰しましたが、帝国の資源はまだまだ莫大なものであり、その意気は挫けていませんでした。驚嘆するほかはない勇気をもってこの実験は再開され、破局をもたらした欠陥が追究されました。もちろんこの時には多くのものが事業に反対し、再び惨事がおこるだろうと主張しましたが、彼らの意見は却下されたのです。計画は進展し、これだけの苦い失敗から学んだ知識をもとにして、今度は成功したのでした。
こうして生まれた新しい種族は、評価することもできないほどの潜在的な知性を秘めていました。しかし、彼は全くの子供でした。彼を創造した者たちがこれを予想していたかどうかはわかりませんが、それが避けがたいことを知っていたふしがあります。彼が大人になるまでには、数百万年を要することでしょうし、その過程を早めることは何としてもできないのです。ヴァナモンドは、こうして創られた精神たちの最初のものでした。この銀河系の中には、まだ他にもどこかにいるに違いないのですが、私どもは創られたのはごく少数だったと信じています。ヴァナモンドは、これまでに自分の仲間に一度も会っていないからです。
純粋の知性を創造したことは、銀河系文明の最大の偉業でした。人類はその中で主要な役割を――おそらくは決定的な役割を果たしたのであります。私は、これまで地球そのものには何も触れませんでした。なぜなら、地球の歴史は、広大なつづれ織[#「つづれ織」に傍点]の中でのほんの小さな一本の糸屑にすぎないからです。我が惑星は、最も冒険精神に富む人々を絶えず外に送りだしていたので、当然にも地球は極めて保守的となり、ついにはヴァナモンドを創造した科学者たちに反対するにいたりました。地球は、明らかに、この終幕に何らの役割も演じなかったのであります。
今や帝国の事業は終わりました。その時代の人々は、絶望的な危機に際して荒廃させた星々を眺めて、決断を下しました。彼らは、この宇宙をヴァナモンドに引き渡すことにしたのです。
ここに一つの謎が登場してきます。この謎を、我々は解くことができないかもしれません。これについては、ヴァナモンドも我々を助けてくれることはできないからです。我々が知っていることといえば、大宇宙の遠い片隅の、空間そのものの遙かなる果てにいる何者か――極めて異様な、極めて偉大なものと帝国との間に接触が行なわれたということだけです。それが何者であったのかは、我々にはただ想像できるだけでありますが、その呼びかけは極めて緊急なものであり、またすばらしく可能性をはらんだものだったに違いありません。極めて短期間の間に、我が祖先たちやその仲間の種族たちは、我々には行く先のわからない旅に出たのであります。ヴァナモンドの思考は、この銀河系内の範囲に限られているようでありますが、彼の精神を通して、我々はこの謎の大冒険の出発を眺めました。ここにごらんにいれるのは、我々が再構成した映像です。いま、あなた方は、十億年以上もの過去を覗きこもうとしているのです――」
ゆっくりと回転する銀河系の輪は、かつての栄光の色青ざめた亡霊のように、何もない空間に浮かんでいた。狂った精神[#「狂った精神」に傍点]が引き裂いた巨大な裂け目が、その拡がり全体に渡って、ぱっくり口を開けていた――その傷あとは、来るべき長い歳月の間に、漂う星々によって埋められることだろう。だが消えさった栄光の輝きは、昔に帰すよしもないのである。
遠い昔に自分の惑星から旅立ったように、人類はいま自分の宇宙から旅立とうとしていた。しかも、人類だけではなく、彼らとともに帝国の建設に働いた他の無数の種族たちもいっしょだった。彼らはこの銀河系の外れに集結しており、眼の前には、長い時代を経なければ到達しない目的地との間に、遠い距離が横たわっていた。
彼らは、想像をすら許さぬほどの一大船隊を集結した。その旗艦は太陽たち、最小の船は惑星たちだった。無数の太陽系と群がる惑星を集めた、この巨大な球状星団は、無限の彼方へ出発しようとしていた。
長い炎の条が星から星へと跳んで、宇宙の心臓部をぶち抜いた。一瞬のうちに無数の太陽が滅び、銀河系の軸に沿って飛びだし今は深淵の中に遠ざかりつつある巨大な姿に、そのエネルギーを与えるのだった……。
「かくして、帝国は、どこかの地で自らの運命を切り開くために、我が宇宙を去ったのであります。その後継者――純粋の知性――が完全に成人した時、彼らは再び帰ってくるのかもしれません。しかし、その日は、なお遙か未来のことに違いありません。
以上が、極めて簡単な、またごく大まかな銀河系文明の物語の概略です。我々にとっては極めて重要に思える我々自身の歴史は、この後の些細なエピローグにすぎないのです。もっとも、それも非常に入り組んでいて、詳細にわたってはまだ解明されていません。年を経た冒険心に乏しい種族の多くは、自分たちの故郷を離れることを拒否したようです。我々の直接の祖先たちも、その仲間でした。これら種族たちの一部は今も生き残っているかもしれませんが、その大多数は退廃のとりこ[#「とりこ」に傍点]となって今では滅びてしまいました。我々の惑星は、辛くも同じ運命を免れました。過渡期時代――それは現実には数百万年続いたのですが――その間に過去の知識は、忘れ去られるか、または故意に湮滅されてしまいました。とうてい信じがたいことでありますが、後者の可能性の方が大きいように思われるのです。長い歳月の間に、人類は、迷信的ではあるが依然として科学的な野蛮の状態に後退し、その間に自分の無能さと落伍したという意識を包み隠すために、歴史をねじ曲げたのです。侵略者伝説は真赤な嘘でした。もっとも、狂った精神[#「狂った精神」に傍点]との必死の闘争が、この伝説に若干の素材を提供したことは間違いありません。我々の祖先たちを地球に追い帰したものは、他の誰でもなく、彼らの心の中に巣くう病気に外ならなかったのであります。
こうしたことを発見した時、リスの我々の頭をとくに悩ませた問題が一つありました。シャルミレインの戦闘は決しておこらなかった――ところがシャルミレインは実在したのですし、今日まで実在しているのです。のみならず、それは古今未曾有の大破壊兵器の一つでもあるのです。
この難問を解くには少し時間がかかりましたが、解けてみれば答は簡単でした。遠い昔、我が地球は一個の巨大な衛星――月――を持っていました。潮汐力と重力とが曳きあう闘いの中で、月がついに落下し始めた時、これを破壊することが必要になりました。シャルミレインはその目的のために建設されたのであり、それが使われたことをめぐって、皆さんがご承知の伝説が作りあげられたのです」
カリトラックスは、無数の聴衆に向かって、少し悲しそうに微笑した。
「我々の過去については、嘘と真の混りあったこのような伝説や、その他の矛盾した事柄がたくさんありますが、それらはまだ解決しておりません。もっとも、この問題は、歴史家よりも心理学者の問題です。中央計算機《セントラル・コンピューター》に貯えられた記録でさえ、全面的には信頼できません。極めて遠い昔に改竄されたという歴然たる証拠があるのです。
地球上では、この退廃の時期を生きのびたのは、ダイアスパーとリスだけでした――ダイアスパーはその完全無欠な機械のお蔭であり、リスは半ば孤立していたことと、その住民の抜群の知力のお蔭でした。けれども、どちらの文化も、懸命に過去の文化の水準に戻ろうとはしながらも、彼らの受け継いだ恐怖と神話によって歪められたのであります。
我々は、もはやかくの如き恐怖に心を悩まされる必要はないのであります。歴史家たる私の任務は、未来を予言することではなくて、過去を観察し解釈することにあります。しかしながら、過去が教えるところは、あまりにも明らかであります。我々は、あまりにも長い間、現実から遊離して暮らしてきました。今こそ我々の生活を再建すべき時が来たのであります」
[#改段]
25
ジェセラクは、これまでに見たこともないようなダイアスパーの通りを、感嘆に声もなく歩いていた。全くのところ、そこは彼がこれまで数多の人生を過ごしてきた都市とはあまりにも違っていたので、それがダイアスパーだとは、とてもわからぬほどだった。それでも、彼は、そこがダイアスパーだと知っていた。どうして[#「どうして」に傍点]知っているのか、彼は考えてみようとはしなかったのであるが。通りは狭く、建物は低く――しかも公園がなくなっていた。というより、むしろまだ存在していないのだった。これは、変化がおこる前のダイアスパーであり、世界や宇宙に向かって開放されていた頃のダイアスパーなのだった。都市の上に淡い青空があり、絡みあった雲の切れ端が点々と浮かんでいた。それは、この若い地球の表面を吹き渡る風に、ゆっくりと捩じれ回転していた。
雲の中やその向こうを通りすぎているのは、もっとがっしりした空の旅行者だった。都市の上空数マイルを音もなく航跡を描いて往き来しているのは、それぞれの任務を持ってダイアスパーと外界とを繋ぐ宇宙船だった。ジェセラクは長いこと広々とした大空の神秘と驚異を見つめていたが、一瞬、彼の心を恐怖がかすめた。彼は、この頭上の平和な青いドームが、極めて薄い殻にすぎないこと――その向こうには神秘と脅威そのものの宇宙が横わっていることを自覚し、自分が裸かで剥きだしであるかのように感じた。
その恐怖も、彼の意志を挫くほど強くはなかった。ジェセラクは、頭の片隅では、一切が夢なのであり、夢で危害を蒙むるはずはないことを知っていた。自分はその中を押し流されてゆき、それから得られるものをすっかり味わった後、結局はまたお馴染みの都市の中で眼を覚ますのである。
彼は、ダイアスパーの中心にあって、自分の住む時代にはヤーラン・ゼイの墓の立っている場所に向かって、歩いていた。この古代の都市では、そこに墓はなく――たくさんのアーチ形の戸口がついた低い円形の建物があるだけだった。その戸口の一つの傍で、一人の人物が彼を待っていた。
ジェセラクは驚きに打たれても当然なところだった。だが、もう彼は何がおこっても驚かなかった。自分がいまダイアスパーを建設した人物と顔をつきあわせているということも、彼には何か至極当然なことのように思えたのである。
「私をご存じでしょうな」と、ヤーラン・ゼイはいった。
「もちろんですじゃ。わしは、あなたの彫像を、数え切れぬぐらい見てきましたわい。あなたはヤーラン・ゼイ、ここは十億年前のダイアスパーの姿じゃ。わしは夢を見ているのであって、わしらは二人とも現実にここにおるのではないのですじゃ」
「ならば、あなたは、何がおころうとも、驚く必要はないことになりますな。では、私についておいでなさい。何事があってもあなたは危害を受けぬことを忘れぬように。あなたは、お望みとあらば、何時なりともダイアスパーの中で――ご自分の時代に、眼を覚ますことができるのですからな」
ジェセラクは、疑うことなくすべてを受け入れる白紙のような気持で、素直にヤーラン・ゼイについて建物の中へ入っていった。何かの記憶が――というよりも記憶の思い出のようなものが、これからおこることに気をつけろといっていた。彼は、以前ならば、自分は怖ろしさにすくんでしまっただろうと思った。けれども、いま彼は何の恐怖も感じなかった。いま体験していることは現実のものではないと知っているがために安心しているだけではなく、眼の前にヤーラン・ゼイがいることが、これからぶつかるかもしれぬ危険に対する護符のようにも思えたのである。
建物の地底に向かう滑走道路を流れ下っている人たちはほとんどいなかったし、やがて二人が無言のまま長い流線型の円筒の傍に立った時には、あたりに人影はなかった。ジェセラクは、この円筒が自分を都市から連れだし、以前ならば自分の勇気を微塵に砕いたような旅に向かわせることのできるものだと知っていた。彼の案内人がそこの開いた扉を指さした時、彼はほんのちょっとだけ立ち止まったが、すぐにそこを通り抜けた。
「ほら、見なさい」と、ヤーラソ・ゼイは、笑みをたたえていった。「さあ、気分を楽になさるがいい。何も危険はない――何もあなたには指を触れられぬことを、忘れなさらんように」
ジェセラクは、彼の言葉を信じた。トンネルの入口が音もなく近づき、自分を乗せた機械がスピードを加えて地の底を突進してゆく時にも、彼はほんの微かな懸念を感じただけだった。彼がどんな怖れを抱いていたとしても、それは、この半ば伝説的な過去の人物と語りたいという熱意の前に消えてしまっていた。
「奇妙なことだとはお思いなさらんかな」と、ヤーラン・ゼイは話し始めた。「空は手を拡げて待っているというのに、我々が地球の中に埋もれてしまおうとしたというのは? これが、あなた方がご自分の時代にその結末を見ておられる病気の、そもそもの始まりだったのだ。人類は隠れようとしている。彼らは宇宙空間の彼方にある何かを怖れており、やがて宇宙へ通ずるすべての扉を閉ざすことでしょう」
「しかし、わしは、ダイアスパーの空に宇宙船を見ましたぞ」とジェセラクはいった。
「それが見られるのも、そう長いことではありますまい。もう星々との連絡は切れておるし、いずれ惑星にさえ人影はなくなりましょう。我々が外へ出てゆくのには数百万年を要した――しかし、再び故郷に戻ってくるには、数世紀しかかからなんだ。さらに、しばしの後には、地球をさえ、その大半を放棄するにいたるのです」
「なぜ、そんなことをなさったのじゃな?」とジェセラクは訊ねた。彼はその答を知っていた。それでも、何となくこの質問を発しないではおれない気持だったのである。
「我々には、二つの恐怖――死の恐怖と宇宙空間の恐怖――から自分たちを守る隠れ家が必要だった。我々は病める心を持った者たちだったのだ。我々はこれ以上、宇宙と係りあいたくなかった――そこで、宇宙がそこにないふりをしたのだ。我々は星々の間を混乱が荒れ狂うのを見、安らぎと安定に憧れた。それ故に、新しいものが何も入ってこぬように、ダイアスパーは閉鎖されねばならなかった。
我々は、あなた方もご存じの都市を設計し、己れらの臆病をごまかすために、過去を偽造した。さよう、それをやったのは何も我々が初めてではない――だが、かくも徹底的にやってのけたのは、我々が初めてだったのだ。また我々は人間の気象を作り変え、野心やら烈しい情熱やらを除き去って、あるがままの世界に満足するようにした。
都市やそのなかの一切の機械を建造するには、千年を要した。我々は、めいめいの仕事を終えると、自分の心から記憶を拭い去り、入念に偽造された一連の記憶を植えつけ、時が来て再び呼び覚まされるまで自分の個性を都市の回路に蔵いこんだ。
かくして、ついに、ダイアスパーに生きた人間がただの一人もいない時が来た。そこにあるのは、我々が与えた命令に従って我々の眠っている記憶バンクを制御する中央計算機《セントラル・コンピューター》だけだった。過去との繋りのあるものは誰もおらず、したがって、この時点から歴史が始まったことになる。
やがて、一人また一人と、あらかじめ決められた順序で、我々は記憶回路から呼び覚まされ、再び肉体を与えられた。ダイアスパーは、たったいま建造され、いま初めて運転を開始させられる機械のように、設計されたとおりの任務を果たし始めたのだ。
しかし、我々の一部には、そもそもの初めから、これに疑問を抱いていたものがあった。永劫の時といえば、ずいぶん長い時間である。我々は、排け口を残すことなしに自分たちを宇宙から完全に閉じこめてしまうことの危険を認識した。我々も自分らの文化が望むことを無視するわけにはゆかなかったから、隠密に行動し、必要と思う修正を加えたのだ。
ユニーク[#「ユニーク」に傍点]たちは、我々が発明したものだった。彼らは長い間隔をおいて出現し、事情が許せば、接触する努力をするに値するものが何かダイアスパーの外に存在するかどうかを、発見することになっていた。我々は、彼らの一人がそれをやり遂げるのに、かくも長い時間を要するとは夢にも思わなかったが、彼がかくも偉大な成功を収めるとも想像せなんだった」
夢そのものの本質として、批判力は抑制されていたにもかかわらず、ジェセラクは、ヤーラン・ゼイが自分の時代から十億年後におこったことをどうしてこんなに詳しく語ることができるのだろうかと、ふと考えた。何だか、ひどくこんがらかっているように思えた……彼には、自分がいつ、どこにいるのかわからなくなっていた。
旅は終わりに近づいていた。トンネルの壁は、もうそれほど危険極まりないスピードで飛び去ってはいなかった。ヤーラン・ゼイは、これまで見せなかったような力と権威をこめて語り始めた。
「過去は終わった。我々は、いいにせよ悪いにせよ、自分たちの務めを果たしたのだが、それはもう済んだことだ。ジェセラク、あなたが創られた時、あなたにもダイアスパーの全住民に共通な外界への恐怖、都市の中に留まっていようとする強迫観念が与えられた。今あなたは、その恐怖が根拠のないものであり、人為的に自分に植えつけられたものであることを知っている。あなたにそれを与えた私、ヤーラン・ゼイは、いまその絆からあなたを解放する。おわかりかな?」
この最後の言葉とともに、ヤーラン・ゼイの声は次第次第に大きくなり、ついには辺りの空間に谺するように思われた。彼を乗せて疾走している地底輸送機は、夢がお終いになったかのように、ジェセラクのまわりでちらちらと霞んだ。しかし、その幻影が消えてゆく問も、彼にはなお自分の頭の中で、その威厳のある声が轟きわたっているのが聞こえていた。「あなたはもう怖れていないのだ、ジェセラク。あなたはもう怖れていないのだ[#「あなたはもう怖れていないのだ」に傍点]」
彼は、海に潜った者が深海底から海面へ浮かびあがるように、眼覚めを取り戻そうとしてもがいた。ヤーラン・ゼイの姿は消えたが、しばらくの奇妙な空白時間があってから、聞き覚えはあるけれども誰だか思いだせない声が、励ますように話しかけ、彼は自分が誰かの手で温かく支えられるのを感じた。その時、突然夜が明けたように、現実の世界が蘇ってきた。
彼は眼を開き、アルヴィンやヒルヴァーやガーランが、気遣わしげに自分の傍に立っているのを見た。だが、ジェセラクは、彼らのことは気にもかけなかった。彼は、いま眼の前に拡がっている奇蹟に、すっかり心を奪われていたのだった――それは、遮るものもない森や川の景観、そうして広々とした蒼穹だった。
彼はリスの中にいたのだった。しかも、怖れてはいなかったのである。
この永遠の瞬間が彼の胸にしっかりと刻みこまれている間、皆は彼をそっとしておいた。ついにこれがまぎれもない現実であることを充分に納得すると、彼は皆の方に向いた。
「あなたのお蔭じゃ、ガーラン」と彼はいった。「わしは、あなたが成功するとは、決して信じなかったのじゃが」
心理学者は、すっかり満足した様子で、傍の空中に浮かんだ小さな機械を注意深く調整した。
「しばらくは、どうなることかと思いましたよ」と、彼は正直にいった。「一、二度、辻褄の合うようには答えられない質問をあなたが発し始めたので、私はよっぽど途中で中止しなければならないかと思いましたよ」
「もしもヤーラン・ゼイがわしに確信を持たせられなんだら――あなたは、どうなさるおつもりじゃったかな?」
「その時は、あなたを意識不明のままでダイアスパーに連れ戻し、そこで、ご自身がリスにおられたことを全く知らずに、自然に眼を覚まされることになったでしょうな」
「して、あなたが私の頭にそそぎこんでヤーラン・ゼイのイメージじゃが――彼がいったことは、どれくらい真実なのじゃな?」
「大部分がそうだ、と信じています。私は、このささやかな物語《サガ》が歴史的に正確であるよりは、むしろ納得のゆくものになるように心を砕いておったのですが、それでもカリトラックスが調べたところでは、間違いは見つかりませんでした。これが我々の知るかぎりでのヤーラン・ゼイやダイアスパーの起源に関する事実と全く矛盾しておらぬことは確かです」
「それじゃ、僕たちは、いよいよほんとうに都市を開け放つことができるんですね」とアルヴィンがいった。「それには長い時間がかかるかもしれないとしても、いつかはこの恐怖を打ち消して、誰でも希望するものはダイアスパーを離れられるようにできるんですね?」
「それには長い時間がかかる[#「かかる」に傍点]よ」ガーランは、歯に衣を着せずにいった。「それに、君の方の人たちが全部ここに来ることに決めたなら、リスはとても数億人も余分の人間を収容できるほど広くはないことを忘れんでもらいたいな。そんなことがおこるとは思わんが、そういう可能性はあるのだ」
「その問題は、自然に解決するでしょう」とアルヴィンは答えた。「リスは小さいとしても、世界は広いのです。砂漠だけに占領させておく手はないでしょう?」
「ほほう、お前はまだ夢を見ておるのじゃな、アルヴィン」ジェセラクは、微笑みながらいった。「わしは、まだお前のすることが残っておるだろうか、と思っておったところなんじゃ」
アルヴィンは返事をしなかった。それは、この数週間のあいだ、彼自身の心の中にも次第に強くなってきていた疑問なのだった。丘を下ってエアリーの方へ歩いてゆく時にも、彼は皆から遅れてじっと考えこんでいた。これから先の数世紀は、自分にとっては気の抜けた長い下降の一途を辿るのだろうか?
その答は、彼自身の手の中にあった。自分は運命の定めを果たした。たぶんこれからは、ほんとうの人生が始まるのだろう。
[#改段]
26
偉業が成し遂げられ、長らく求めていた目標が達成されて、これからは人生が新たな目的に向かって設計されねばならないのだと知ることには、独得な哀しさがあった。アルヴィンは、リスの森や野原をただ一人さまよい歩きながら、この哀しみを噛みしめていた。ヒルヴァーさえも、彼についてきてはいなかった。人間には、最も親しい友とさえもいっしょにいるべきでない時というものがあるのだ。
彼は、あてもなくさまよっているわけではなかったが、次にどの村を訪ねるかは自分にもわからなかった。彼はこれといって定まった場所を求めているのではなくて、ある気分、ある影響力――正しくはある生き方を追いもとめているのだった。ダイアスパーは、もはや自分を必要としてはいなかった。自分が都市に持ちこんだ火種は急速に燃え拡がっており、自分が何をしようとも、そこにおこっている変化を速めることも遅らせることもあるまい。
この平和な土地もやはり変わることだろう。自分が己れの好奇心を満たしたいという止み難い衝動に駆られるうちに、この二つの文化の間に昔どおりの通路を再開させたことは、間違ったことだったろうかと、彼は何度も考えた。しかし、リスが真実を知ったことは――ここもダイアスパーと同じように、半ば恐怖と嘘の上に築かれていたのだということを知ったことは――確かにいいことだった。
彼は時として、新しい社会がどんな形をとるだろうかと考えた。彼は、ダイアスパーが記憶バンクの呪縛から開放されて、再び生と死の周期を取り戻すことを信じていた。ヒルヴァーがそれは可能だと確信していることはわかっていた――もっとも、彼が提案していることはひどく専門的で、アルヴィンにはとてもついてゆけなかったのだが。ダイアスパーにおける愛も、もう全く稔りのないものではなくなるような時が、きっと再びやってくるだろう。
自分がダイアスパーでいつも物足りなく思っていたものは――自分がほんとうに求めていたものは、これ[#「これ」に傍点]だったのだろうか、とアルヴィンは思った。力や野心や好奇心が満たされた時も、愛情への疼きは依然として残されていることを、彼は今こそ思い知ったのである。彼がリスに来るまでは夢にもそんなものが存在すると思っていなかった、例の愛と欲望との合一を達成するまでは、誰もほんとうに生きたとはいえないのである。
彼は、七つの太陽[#「七つの太陽」に傍点]の惑星の上を歩いた――彼は、十億年この方、それをやった最初の人間だった。今はそれも彼には大したこととは思えなかった。彼は時として、生まれたての子供の泣き声が聞こえ、それが自分の子だと知る幸福を味わえるのなら、今まで成し遂げた一切のことをひき替えにしてもよいとさえ思うのだった。
いつの日か、彼はリスで自分の欲するものを見つけるかもしれない。ここの人々の中には暖かさと相互理解とがあり、それはダイアスパーには欠けているものだということを、彼はいま悟ったのである。だが、休養し安らぎを見出す前に、彼にはもう一つ決断を下さねばならないことがあったのである。
彼の手には大きな力が転がりこんできたのだったが、その力は今の彼の手中にあった。かつて彼は、この責任を熱烈に追い求め、それを我が身に引き受けたのだった。だが今は、それが自分の手の中にあるかぎり、心の平和は得られないことを彼は悟っていた。しかしながら、それを投げ棄てるとすれば、それは信頼を裏切ることになるだろう。
広い湖のほとりの小さな運河の村に入った時、彼は決断を下した。穏やかな波の上に錨を投じて浮かんでいるかのように見える色とりどりの家々は、ほとんどこの世のものとも思えぬ美しい光景だった。ここには、生命が、暖かさが、慰めがあった――どれも、七つの太陽[#「七つの太陽」に傍点]の荒涼たる偉観の中にはないものだった。
人類は、いつか再び宇宙へ出てゆく用意ができることだろう。人間が星の間でどんな新しい一章を書くことになるのか、アルヴィンにはわからなかった。それは自分の知ったことではない。自分の未来は、この地球の上にあるのだ。
だが、星に背を向ける前に、自分はもう一度だけ、はばたくのだ。
アルヴィンが、ぐんぐん高くなってゆく宇宙船の急上昇を止めた時、都市は遙かに遠くなり、それが人間の手になるものとは見えなくなっていた。すでに、地球の曲線が見えてきていた。やがて、数マイルの彼方に、砂漠の表面を薄明の線が果てしない前進を続けているのが見えた。頭上に、またまわりには星があり、それらはかつての栄光をすっかり失ってはいるものの、まだ明るかった。
ヒルヴァーとジェセラクは無言のままだった。彼らは、なぜアルヴィンがこの飛行を行なっているのか、またなぜ自分たちにも来るように求めたのかを考えていたが、はっきりとはわからなかった。眼下に荒涼とした展望が開けてゆくのを見ながら、どちらも話をしたいような気分ではなかった。彼らは二人とも、その空虚さに重苦しい気持を感じ、ジェセラクは、怠慢のために地球の美しさを消えるにまかせた過去の人々に対して、俄かに蔑みのこもった怒りを感じた。
彼は、これらすべてを変えようというアルヴィンの夢が実現することを願った。動力と知識とは、今も失われてはいなかった――昔を今に帰して再び大海を波打たせるためには、ただ意志の力が必要なだけだった。水は、今も地球の奥深くに隠れて存在していた。またもし必要ならば、それを作るための物質変換設備を建造することもできた。
来るべき歳月、なすべきことは山ほどあるのだった。ジェセラクは、自分が二つの時代の境い目に立っていることを悟った。彼は、自分のまわりで人類の生の息吹きが再び強まり始めているのを感じとることができた。そこには、立ち向かわねばならぬ数々の大問題があった――しかし、ダイアスパーはそれに立ち向かうだろう。過去を書き換えるには何世紀もかかることだろうが、それが終わった時、人類は失ったもののほとんどすべてを取り戻すであろう。
だがしかし、すべてを取り戻せるだろうか、とジェセラクは思った。銀河系を再び征服できるとは、とても信じられなかったし、またよしんばできたとしても、それに何の意味があるだろうか?
彼の瞑想はアルヴィンの声に中断され、ジェセラクはスクリーンから振り向いた。
「僕は二人にこれを見せたかったのです」アルヴィンは、静かにいった。「もう二度とその機会はないかもしれませんからね」
「お前は、地球から出てゆこうとしておるのではあるまいな?」
「違います。僕はもう宇宙に欲しいものはありません。たとえ、この銀河系に他の文明がまだ生き残っていたとしても、それを見つけるだけの価値があるかどうかは疑問です。やることは、ここにも山ほどあります。僕は今になってやっと、ここが自分の故郷だとわかりました。もう二度と出てゆこうとは思いません」
アルヴィンは広大な砂漠を見下ろした。しかし彼の眼が見ていたものは砂漠ではなくて、今から千年後にその上を覆うことになる広い海だった。人類は自分の世界を再発見したのであり、彼は自分がそこにいるかぎり、それを美しく変えてやろうと思っていた。そして、その後のことは――。
「僕たちにはまだ星へ出かけてゆく用意ができていませんし、その挑戦に再び応じられるようになるのは、ずっと先のことでしょう。僕は、この宇宙船をどう始末したらいいか、考え続けてきました。これが地球に残っているかぎり、僕はこれを使いたいという誘惑に駆られて、少しも心の休まる時がないでしょう。しかし、捨ててしまうわけにもゆきません。この宇宙船は僕に預けられているもののような気がしますし、これは世界の利益のために使うべきでしょう。
そこで、僕はこうすることに決めました。この宇宙船をロボットに操縦させてこの銀河系の外へ送りだし、僕たちの祖先がどうなったか――また、もしできれば、彼らがこの宇宙を後にして見つけにいったものは何だったのか[#「何だったのか」に傍点]――をつきとめさせるつもりです。これだけのものを捨てて探しにいったとすれば、それは彼らにとって何か素晴しいものだったに違いないのです。
旅がどれだけ長くかかったとしても、ロボットは決して疲れないでしょう。いつの日か、兄弟たちは僕の伝言を受けとり、僕たちがこの地球で待っていることを知ることになります。彼らは帰ってくるでしょう。その時までに、彼らがいかに偉大なものになっていたとしても、僕たちも彼らを迎えるに相応しいものになっていたいものだと思います」
アルヴィンは黙りこんで、自分が姿を与えはしたけれども自分では見ることがないかもしれぬ未来を見つめた。人類が自分たちの世界を再建している間も、この宇宙船は数多の銀河系の間にある暗黒を横切り、今から数千年もかかって戻ってくるだろう。ことによると彼はまだここにいて、それを迎えるかもしれない。しかし、そうではなかったとしても、彼はそれで満足だった。
「それが賢明じゃろう」とジェセラクはいった。しかしその時、もう一度だけ、長い間の恐怖の影が蘇り、彼の心を曇らせたのである。「しかし、仮にじゃな」と、彼はつけ加えた。「この宇宙船が、わしらの出会いたくない何者かとぶつかったとしたら……」自分の心配のもとが何であるかに気がつくと、彼の言葉は中途で消えていった。彼は自責に耐えぬような苦笑いを見せ、その笑いは侵略者たちの亡霊のかけらさえも吹き払ってしまったのである。
「先生は忘れていますよ」と、アルヴィンは、ジェセラクが予期したよりもずっと真面目にそれをとっていった。「もうすぐヴァナモンドが僕らを助けてくれるようになります。彼がどんな能力を持っているかはわかりませんが、リスの人はみんな、彼の潜在能力は無限だと思っているようです。そうだろう、ヒルヴァー?」
ヒルヴァーは、すぐには答えなかった。ヴァナモンドがもう一つ大きな謎を加えたこと――彼が地球上に留まるかぎり、彼は人類の未来に絶えず横たわる疑問符であることは事実だった。自意識の形成をめざすヴァナモンドの進化が、リスの哲学者と接触したことによってすでに加速されつつあることは、確かだと思われていた。彼らは、この先この子供っぽい超精神と協力することに大きな希望をかけており、彼が自然に進化した場合に要すると思われる長い歳月を短縮することができると信じていた。
「よくわからないな」とヒルヴァーは打ち明けた。「僕は、何となく、ヴァナモンドにあまり多くを期待すべきだとは思わないんだ。僕たちはいま彼を助けることができるが、彼の長い全生涯にとって僕たちの存在はほんの短い出来事にすぎないことだろう。彼の究極の運命に、僕たちが何か関係があるとは思えないんだ」
アルヴィンは、びっくりして、彼を見た。
「どうして、そう思うんだい?」と彼は訊ねた。
「口ではいえないな」とヒルヴァーはいった。「ただ、そんな気がするんだ」彼はもっとつけ加えることもできたが、口をつぐんでいた。こういったことは、人に伝えることのできないものなのだ。それに、アルヴィンは彼の夢想を嘲笑しはしないだろうが、彼はそのことを友人とさえ論じあいたいとは思わなかった。
彼はそれが夢想以上のものであることを確信しており、その考えはいつまでも彼につきまとうことだろう。この考えは、ヴァナモンドとの間に交わされた、例の説明もできず人と分ちあうこともできない接触を行なっている間に、何となく彼の心にしのびこんできたものだった。ヴァナモンド自身は、自分の孤独な運命がどんなものであるかに気づいているのだろうか?
いつの日か、黒い太陽[#「黒い太陽」に傍点]のエネルギーは尽き、その中の囚人は自由の身となるであろう。その時、宇宙の果てでは、時間そのものさえよろめき止まろうとする間に、ヴァナモンドと狂った精神[#「狂った精神」に傍点]とは星の残骸の真只中で対決するに違いない。
その闘争は、「創造」そのものの幕を閉じることになるかもしれない。しかもなお、その闘争は人間には何の係りあいもなく、その結果についても人間は何ら知るところがないのだ……。
「ごらんなさい!」アルヴィンが突然いった。「これを見せたかったんです。あの意味がわかりますか?」
宇宙船はいま極地の上にあり、下の地球は完全な半球を見せていた。薄明帯を見下ろしたジェセラクとヒルヴァーは、地球の両側に日の出と日没とを同時に見ることができた。その象徴的効果は実に理想的で印象的であったので、彼らはこの瞬間を命あるかぎり忘れられないことになるのである。
この宇宙には日が暮れかけていた。影は東の方に拡がってゆき、そこは再び暁を迎えることはあるまい。しかし、他の場所では、星はまだ若く、朝の光がたゆとうているのだ。そうして、かつて彼が辿った道を、人類はいつか再び行くことだろう。
[#改ページ]
二〇世紀旗手クラーク
[#地から3字上げ]福島正実
A・C・クラークが、イギリスばかりではなく世界のSF界をリードする傑出したSF作家であることは、いまさらあらためて書くこともないが、最近のクラークは、むしろSF作家の枠をはみだして――というよりも、SF作家というものの概念の枠をひろげて――二十世紀知識人としての指導的役割りを果たそうとしている、といってもいいだろう。
もっとも、これは、必ずしもクラークだけの個人的傾向ではなく、世界のSF界が、全体として持ちはじめた傾向だともいえる。つまり、SFは、従来のエンターテインメントとしての性格を持ちながら、そのスペキュレーティヴな性格を拡大充実して、現代世界の認識につながる、一種の思想小説としての発達をしようと胎動しつつある、といえるのだ。
そしてこれは、おそらく、一時的な流行現象などではない。一瞬も熄むことなく未来へ前進する世界は、嫌応なく、また善悪を問わず、科学・技術と人間とのギャップをひろげ、ときによっては対立にまで持っていこうとしている。人間のなしうることは、まさにその科学・技術を計画的綜合的に用いることによって、そのギャップをうめ、対立を緩和することだけである。そしてその「計画」あるいは「綜合」には、〈人間〉というファクターを忘れることはできない。科学と人間とをむすびつけることによって成立するSFが、この関係に重大な関心をいだき、新らしい科学的世界認識をふかめ、新らしい技術知識を貪欲に吸収しながら、そうしたものと人間との哲学的な相関関係をさぐっていこうとするのは、もちろん当然といえるのだ。
そして、その意味で、もともと、哲学的洞察と、科学・技術的世界像とをもっぱらさぐってきたクラークが、こうした最近のSFの傾向のトップに立ったこともまた、当然のなりゆきといえるだろう。
(ここで面白いのは、最近のアメリカSF界の傾向である。アメリカSF界は、この数年、新らしいSFをもとめるよりは、むしろ一九二〇年代のいわゆるスペース・オペラ時代の作品のリバイバルに懸命になり、懐古趣味に、耽溺する傾向をみせている。しかもこの傾向がおこったのは、アメリカにおけるSFブームが頭うちになり、退潮が云々されていた一九五〇年代末からであることを考え併せればいっそう面白い。この状況の分析は正確にはもちろん難かしいのだが、ぼくにいわせれば、一九二〇―三〇年代から爆発的に商業ベースにのったアメリカSFの消化不良の末期症状である。その消化不良が、SFの頭うちをよび、そして、その後の欲求不満状態が、〈理窟ぬきの面白いエンターテインメント〉としての過去のスペース・オペラの復活となったのだ。そしてこの傾向は、はるかに小規模で単純なかたちながら、日本においてもおこりつつある。つまり、一方に、思索的SFに対する呼び声が高いと同時に、一方に、そうした無責任な〈夢〉への希求が存在するということである)
この作品は、はじめ、一九五三年に、“Against the Fall of Night”という題名で書かれたが、さらにその三年後、一九五六年、あらたな構想のもとに大々的に改稿され加筆されて現在のかたち“The City and the Stars”となって出版された。クラークの、このテーマについての執着のほどがわかるが、それだけにこの作品の完成度もたかく、前作とはまったくおもむきとスケールとを異にしたものとなっている。
著書リスト
フィクション
1. The Sands of Mars (1951)『火星の砂』(ハヤカワ・SF・シリーズNO・三〇二五)
2. Islands in the Sky (1952)『宇宙島にいく少年』
3. Against The Fall of Night (1953)『銀河帝国の崩壊』
4. Childhood's End (1953)『幼年期の終り』(ハヤカワ・SF・シリーズNO・三〇六七)
5. Expedition to Earth (1953)(短編集)(ハヤカワ・SF・シリーズ近刊)
6. Prelude to Space (1954)
7. Earthlight (1955)『月世界植民地』
8. The City and the Stars (1956)『都市と星』 本書
9. Reach for Tomorrow (1956)(短編集)
10. Tales from the White Harte (1957)(短編集)
11. Deep Range (1957)『海底牧場』(ハヤカワ・SF・シリーズNO・三〇二三)
12. The Other side of the Sky (1959) 短編集
13. A Fall of Moondust (1961)『渇きの海』(ハヤカワ・SF・シリーズNO・三〇八七)
14. Tales of Ten Worlds (1962)(短編集)
15. From the Ocean, From the Sea (1962)(短編集)
16. Journey Beyond the Stars (1965)(スタンリイ・クブリックと共著。映画『大宇宙の旅』原作)
主要ノン・フィクション
Interplanetary Flight (1950)『惑星へ飛ぶ』
The Exploration of Space (1951)『宇宙の探検』
Going into Space (1954)
Exploration of the Moon (1954)(R・F・スミスと共著)
The Coarst of Coral (1956)
The Making of the Moon (1957)
The Reefs of Taprodane (1957)
Voice Across the Sea (1958)
The Challenge of the Spaceship (1959)『宇宙文明論』(ハヤカワ・ライブラリ)
Profile of the Future (1963)(ハヤカワ・ライブラリ近刊)
Man and Space『人間と宇宙』
また、これ以外にクラークは、かつてレーダーによる地上誘導技術を開発したころの経験を生かした一種の航空小説“Glide Path”(1964) を書いている。(一九六六・三)
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底本:「都市と星」ハヤカワ・SF・シリーズ、早川書房
1966(昭和41)年4月10日印刷
1966(昭和41)年4月15日発行
入力:---
校正:---
2008年5月3日作成