日本庭園殺人事件
エラリー・クイーン/石川年訳
目 次
第一部
第二部
第三部
第四部
第五部
訳者あとがき
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登場人物
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カーレン・リース……東京帝国大学教授の娘で女流作家
エスター・リース……その姉
ジョン・マクルア博士……癌研究の大家でカーレンの婚約者
エヴァ・マクルア……その養女
キヌメ……カーレン・リースの女中
テリー・リング……私立探偵
リチャード・バー・スコット……エヴァ・マクルアの婚約者
クイーン警視
エラリー・クイーン
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第一部
カーレン・リースがアメリカの有名な文学賞を受けたとき、喜んだその出版元は、この花形女流作家を公開の席に引き出すことに成功して、自分でも驚き、世間をもあっと言わせた。
更に驚いたことには、リース女史は、ワシントン・スクェアにある、すばらしい自宅の日本庭園で、その道化芝居《ヽヽヽヽ》のような催しをする許可を与えた。
有名人が多く集まった。むろん、お菓子の中の干しぶどうのように、つまらん奴もまじってはいたが、みんな楽しそうだった。中でも、リース女史の出版元は、最も手|強《ごわ》い気むずかし屋の女史が人前に出る――しかも、自宅の庭園でその会を催すことに同意してくれるなどとは夢にも思っていなかっただけに、その喜びは並大抵のものではなかった。
しかし、この文学賞の受賞は、一九二七年に日本からこっそりやって来て、ワシントン・スクェアの邸の、もの静かな壁の後ろにとじこもり、その聖域から、実に花やかで美しい小説を世に送り出していた、この内気で小柄で、しとやかで美しい女性にもかなり影響を与えたらしく、女史がこんなにも、興奮して愛想がよかったのは、かつて見たことがないと、以前から女史を知っている一握りの連中が断言したほどだった。
しかし、大部分のお客は、それまで、カーレン・リース女史に全然会ったことがなかったから、このパーティは、祝賀会というより、むしろ女史の社交界へのデビューといった空気になった。小鳥のように内気だといわれていた女性としては、女史はかなりうまく、デビューに堪えた。事実、女史は人目《ひとめ》に挑《いど》むつもりらしく、すんなりした体を、豪奢な日本キモノでくるみ、濡羽色《ぬればいろ》の黒髪を、ゆったりとふくらませて、日本風に、後ろになでつけていた。ともかく、集まって来た口うるさい紳士連さえ、文句のつけようがなかった。風変りな服装だが、カーレンのもの腰は優美だったので、みんなにも、女史はフィフス・アベニューの流行衣装をつけているよりも日本服の方がのびのびとするというだけのことで、そんな服装をしているので、人目に挑《いど》むためなどでは、さらさらないのだということが分かった。象牙と|ひすい《ヽヽヽ》のピンが王冠の宝石のように髪をかざり、その夜のカーレンは全く堂々としていた。そして、戴冠式に臨む女王のように、おごそかに、もの静かにお客をあしらっていた。
この『八雲立つ』の名作を書いた女流作家は、小柄で軽やかで、詩人めいた紳士がたたえるように、微風にそよぎ、嵐に吹き飛ばされそうだった。頬は、妙に丹念に化粧をほどこされて、青白く、くぼんでいた。実際、病的で、その身ぶりにも、神経衰弱の疲れを思わせるように、たよりなげな様子があった。
目だけは生々としていて、灰色でコーカサス系らしく、きらきらとし、しかも、その紫色の隈《くま》どりのかげに、謎めいた過去のどこかで、打撃から身を守る術を身につけていることを、かくしているかのようだった。婦人連は、いつになく寛大に、女史が、どこかこの世ならぬ美しさを持ち、それも地上のものでなく、全く年を知らぬ美しさで、ほとんど東洋の陶器か、異様な磁器のようにつややかな、その小説のひとつと同じ美しさであることを認めた。
カーレン・リースは、たしかに見たままの人柄だと、みんな認めたが、さて、どんな女性かは誰も知らなかった。というのも、女史は決して外出せず、尼僧のように邸と庭にとじこもっていたからである。しかも、邸には人を寄せつけず、庭の塀は高く、その経歴の詳細は、ほとんど世間に知れていないのだ。女史は、故国をすてて東京帝国大学で死ぬまで比較文学を教えていた一無名アメリカ人の娘で、それまで、ほとんど日本で育って来た。分かっているのは、それでほとんど全部だった。
カーレン・リースは異国風な庭の真中の小さな茶亭《ヽヽ》に陣取って、自分で茶の湯という日本の儀式にしたがって茶をたてていた。女史のさえずるようなしゃべり方には妙なくせがあって、まるで英語の方が日本語より慣れているという風だった。女史は少女のような手で、ひなびた肉の厚い古い朝鮮風の茶碗の中で、手速く、みどり色のひき茶を小さな茶筅《ちゃせん》でかきたてていた。和服姿のひどく年とった東洋の女が、守り神のように、静かに女史の後ろに立っていた。
「名は絹女《きぬめ》と申しますのよ」と、その老女中のことを訊かれると、カーレンが説明して「本当に、やさしくて、おとなしい女《ひと》ですわ。私とずっと一緒にいますの――おお、何百年も」と言い、ちょっと、美しいその、ものうげな顔を曇らせるのだった。
「日本人のように見えるが、ありゃ違うでしょう」と、茶亭の中のひとりの客が「日本人より小柄じゃないか」
カーレンが、日本語らしい言葉で、何かひそひそと言うと、老女中はおじぎをして、そそくさと立ち去った。
「英語は、本当によく分かりますのよ」と、カーレンが言いわけするように「でも、ぺらぺら話せるようには覚えませんの。……あのひとは、純粋の日本生まれではありません。琉球生まれですのよ。あの列島は、ご存知のように、東支那海のはしにあって、台湾――フォモサと申しますわ――と、日本本土との間にあります。琉球の人たちは、日本人よりも小柄ですけれど、体の釣り合いがよくとれていますのよ」
「どうも、日本人らしくないと思いましたよ」
「あの民族については、人類学者のあいだで、かなり問題になっていますわ。琉球人にはアイヌの血が混じっていると言われていますのよ――それで、日本人よりも毛深くて、鼻の型がよくて、頬骨も低いのでしょうね。それに、世界中で一番、やさしい人たちです」
背の高い、鼻眼鏡をかけた青年が、口を出した。「やさしいと言っても色々ですが、どんな風にやさしいんですか、リースさん」
「そうですわね」と、カーレンが、めったに見せない微笑をうかべて「琉球では、もう三百年ものあいだ、殺人武器など使われていないようですわ」
「じや、僕は琉球大賛成ですよ」と、背の高い青年はとんきょうな声で「人殺しのない楽園とは、こりゃ信じられないことですよ」
「たしかに、日本人のタイプとは少し違うようですな」と、カーレンの出版元の主人が口をはさんだ。
カーレンはちらりとその男を見た。そして、茶碗を一同にまわした。ひとりの文芸記者が何か訊いた。
「まあ、味わってごらんになるといいわ……いいえ、ラフカディオ・ハーンは直接存じていません。あの方がなくなったとき、私はやっと七歳でした。でも父は、あの方をよく存じ上げていましたよ……一緒に帝国大学で教えていましたものですからね……おいしいでございましょう」
お茶はさておき、それは、まさに、おいしい皮肉だった。と言うのは、茶碗を最初に受けたのは、鼻眼鏡をかけた背の高い青年で、名はクイーン、推理作家として、何んとなく招かれた客のひとりだったからだ。
しかし、その時は、クイーン氏にもその皮肉が分かるはずはなかった。それが分かったのは、ずっと後のことで、少々、不愉快な状況のもとでだった。その時はクイーンは、内心では仕様がないものだと思いながらも、お茶は結構ですと言い、茶碗を隣りの、中年配の学者風な牡ゴリラにまわした。その男は、飲むのをことわって、茶碗を次へまわした。
「あなたとなら、何を分け合ってもいいが」と、その大男はカーレンに向かって熱っぽく「どうも、ばい菌だけはね」
みんなが笑った。と言うのは、その大男、ジョン・マクルア博士は、世界中の誰よりもカーレン・リースをよく知っているし、実際、最近、もっとよく知ろうとしている仲なのが公然の秘密になっていたからである。博士のずんぐりした面構《つらがま》えにおさまっている鋭く薄青い目は、めったに、カーレンの顔から離れなかった。
「それはね、先生」と、ニューイングランドを舞台に、こちこちの禁欲小説を書いている、ひとりの女流作家が大声で「先生が詩のかけらもお持ち合わせがないってことよ」
マクルア博士が、やり返した。「ばい菌のかけらもね」それで、さすがのカーレンさえ、かすかに微笑した。
ラフカディオ・ハーンの死んだ年をやっと思い出した「ワールド」紙のマニング記者が、「噛みつかんで下さいよ、リースさん。失礼ですが、あなたは四十歳ぐらいになられる勘定ですね」
カーレンは、静かに、次のお茶碗の茶をたてていた。
「すばらしいな」と、クイーン氏が小声で「人生は四十からということですからね」
カーレンは内気な用心深い目をマクルア博士の胸に向けて「それは時と場合によりけりでしてよ。人生は五十からも、十五からも始まりますわ」と、そっとひと息ついて「人生は幸福が始まるときに始まりますもの」
婦人たちは、カーレンの言葉の意味をくんで、互いに顔を見合わせた。と言うのも、今やカーレンは名声と愛する男を得ていたからだ。女たちのひとりが、少し意地悪く、いかが? と博士に訊いた。
「わしはもう、産科の方をやっておらんのでね」と、博士が、そっけなく答えた。
「ジョン」と、カーレンが、たしなめた。
「分かったよ」と、博士は太い腕を振って「わしは、人生の始まりには興味がないね。その終りに興味がある」
マクルア博士は医者として死神の大敵だったから、その言葉の意味は誰にとっても明解だった。
しばらく、みんな黙り込んだ。常に死と闘っている人間のひとりとして、マクルア博士は、時々、強烈な磁気を発散して、人々を沈黙させることがあった。博士の身辺には清潔だが、砂ぼこりみたいなものがただよっていた。人間的なよごれもそんな博士に触れると消毒されるみたいだった。そして、人々は、石炭酸と白衣の点でいささか博士を敬遠し、密教の高僧のようにみていた。そこから博士についての伝説が色々とび出していた。
博士は、金と名声には目もくれない。と言うのも、そのどちらも腐るほど持っているからだと、同業のやっかみ屋どもが苦々しく言っている。大方の人間どもは、博士の目から見れば、顕微鏡的な価値しかないものを追ってはいまわる虫けらみたいなもので、実験室で解剖にする値打ちしかない生物にすぎず、邪魔になれば、毛深い防腐剤をほどこした手で、情け容赦なく、はたき落すだけの存在だった。
博士は、なりふりかまわぬ、のんき者だった。人々が記憶する限り、いつも、古ぼけて、しわくちゃで、毛がぬけて縁のすり切れている茶色の服を、だらしなく肩にひっかけていた。がっしりしているが、疲れているような男で、実際の年ほどにも見えないのに、自分では百歳に見えるようにふるまっていた。
人々を、おびえた子供のように感じさせるこの人物が、ご当人ときたら仕事以外の点ではまるっきり子供みたいなのだ、これは実に妙な矛盾だった。怒りっぽく、たよりなく、社交的に内気で、自分が人に与える印象など、てんで意識していなかった。
今、博士は、急場に落ちた子供が母親を見るような目付で、訴えるようにカーレンを見ながら、なぜ皆が黙り込んだのかをいぶかっていた。
「エヴァは、どこですの? ジョン」と、カーレンがすばやく訊いた。博士がとまどっているのを、第六感で感じとったのだ。
「ここにいてよ」と、背の高い娘が、茶亭の階段のところで言ったが、はいっては来なかった。
「あそこにいるよ」と、マクルア博士が救われたように「愉しいかね、お前。お前は――」
「どこに行ってらしたの」と、カーレンが「みなさんをご存知? こちらは、クイーンさま――でしたわね――こちらは、マクルア嬢。それから、こちらは――」
「みなさまにお挨拶したと思いますわ」と、エヴァ・マクルアが、にっこりとお世辞笑いした。
「いえ、僕たちは、まだですよ」と、クイーン氏が急に立ち上って、まじめに言った。
「お父さま、またタイが曲っていてよ」と、マクルア嬢が、クイーン氏の言葉を無視して、他の男たちの方を冷やかに眺めた。
「おお」と、カーレンが「ちゃんとさせておくのは、むりと言うものよ」
「わしはこれでいいさ」と、マクルア博士がつぶやきながら、隅に引っ込んだ。
「あなたもお書きになるんですか、ミス・マクルア」と、例の詩人が勢いこんで訊いた。
「私は|なにも《ヽヽヽ》できませんのよ」と、マクルア嬢が甘い声で「あら、ごめん遊ばせ、カーレン。お目にかかりたい方がいらしたようですから……」
マクルア嬢は、出鼻をくじかれた詩人を残して去り、その夜のパーティのために特に集められた日本人の給仕たちに異国風なつまみものをすすめられて、がやがや騒いでいる人の中に姿をかくした。しかし、誰と話すわけでもなく、人ごみをかき分けて、庭のはずれの小さな橋のところまで行って、ひどく顔をしかめていた。
「お嬢さまは本当におかわいいわ、先生」と、ロシアの女流作家が、チュール〔薄絹〕でくるんだ胸を、情熱的に波立たせながら、あえぐように「なんて、健康そうなお嬢さんでしょう」
「当然ですよ」と、マクルア博士が、ネクタイをいじりながら「完全無欠です。育てる注意が行きとどいていますからな」
「すばらしい目です」と、詩人らしくもない言い方で「少し眉があきすぎるような気がしますがね」
「おお、エヴァは舞台に立つつもりでいますのよ」と、カーレンが微笑して「どなたか、お茶は?」
「ご家族のお世話をなさる暇がおありだなんて、すてきですわね、先生」と、ロシアの女流作家が、息をはずませて言った。
マクルア博士は、詩人からロシア婦人に、じろりと目を移した。二人とも話下手だったし、博士の方も人前で、つべこべ話しかけられるのが、あまり好きでなかった。
「自分以外のことでしたら、ジョンは、どなたのためにでも暇をみつけますのよ」と、カーレンが急いで「もう年ですもの、休養が必要ですわ。もっと、お茶を、いかが」
「偉大な証拠ですな」と、カーレンの出版元の主人がみんなに微笑を見せながら「先生は、いったいどうして、去年の十二月にストックホルムに行かれなかったんですか? 国際医学賞を蹴る人なんて、およそ、いませんよ」
「暇がなかったんだ」と、マクルア博士がどなった。
「博士は、蹴ったりしたんじゃありませんわ」と、カーレンが「ジョンは誰にだって、そんなまねは出来ない人ですのよ。まるで赤ちゃんですもの」
「ああ、それで、ご結婚なさるのね、あなた」と、ロシアの女流作家が、いっそう息を弾ませて訊いた。
カーレンは微笑して「お茶は、いかが? クイーンさま」
「そりゃ、とても、ロマンチックね」と、ニューイングランドの女流作家が、甲高い声で「おふたりの受賞者、おふたりの天才と申してよい方《かた》が、結ばれて、いい遺伝を残されようとなさるの――」
「もっと、お茶は、いかが」と、カーレンが静かに言った。
マクルア博士は、婦人連を睨みながら、足音高く離れて行った。
実は、この立派な医者の人生は五十三歳から始まったのである。これまで博士は自分の年を考えたことはなかったし、自分の若さも考えたことはない。ところが、今、青春が後から追いかけて来るのをみると、面白くもあり、こそばゆくもあった。
医学賞も心の平衡を失わずに受け取れるのだったが、しかしいつも博士につきまとっているありがた迷惑がふえる以外には何の意味もなかった――新聞記者会見、医学関係団体の招待、名誉学位の授与などなど。それで、博士はそんなことなど面倒くさいとばかり、放って置いたのだ。前年の秋に受賞がきまっていたのに、ストックホルムヘ行こうともしなかった。新しい研究に没頭していて五月になってもまだニューヨークで、癌研究所の自分の王国をうろつきまわっていた。
しかし、カーレン・リースと恋に落ちたことに、自分ながらすっかり驚き、あわてて、何カ月も後悔に似た沈黙を守り、もっぱら、自分自身と言い争っていた。そして今も、その恋愛沙汰が少しいまいましいのだった。何とも非科学的なことだ――二十年以上も知っている女性と恋に落ちるなんて。博士がカーレンを知った頃、カーレンはまだ十七歳の気むずかしい小娘で、アイスクリームのような富士山が西南にそびえて見える東京のリースの家で、辛抱強い、その父親に、シエクスピアについて、答えようもないような質問をあびせて困らせていた。
マクルア博士も当時はまだ若く雲をつかむような野心を抱いて、初期の癌研究に打ち込み、東京に滞在していたが、その頃でさえ、カーレンをただ気にくわない小娘として見ていたのだ。カーレンの姉のエスターは、むろん、妹とちがっていた――博士は、当時、金髪で片足をひきずって歩くエスターを、地上の女神のよう思っていたのを時々思い出すのだった。しかし、カーレンには――なんといっても、一九一八年から一九二七年まで、全然、会っていないのだ。それがこんなことになるなんて、子供っぽい話だ。むろん、なじみがあるという理由で、カーレンが東洋から引き上げてニューヨークに落ちついたときに、博士はその主治医になったのだ――つまり、昔なじみという奴だった。それが事のはじまりだった。感情的な間柄になってはいけなかったのだ。カーレンの主治医なのだから、本来ならふたりは、かえって、引き離されるべきなのだ……医者と患者なのだから……
それが、そういかなかった。マクルア博士は、日本庭園にたてこむ人々の間を、ぶらついているうちに、やや気持がしずまって、思わずくすくす笑い出した。博士は自分でも、すでにさいころは投げられたのだし、再び訪れた青春の思いを楽しんでいることを、認めざるを得なかった。そして、月を見上げて、妙に匂いの強い日本の花々がかおるこの異国風な庭で、カーレンと二人きりで気違いじみた非科学的なひとときを過したいと思った。
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小さな太鼓橋は変な風にまんなかが盛り上り、その盛り上っているところに、エヴァ・マクルアが立って|らんかん《ヽヽヽヽ》によりかかり、むっつりとして下をながめていた。
月影のほかは黒々としている、わずかな水面、その月影のまん中に、おなかを空かしたなにかが浮かび上って、ばくばくやると、波紋が三秒で池の岸にとどくほど、水は少なかった。エヴァは、心の隅で数えていたから、三秒かかることが分かった。
ここでは何もかも小ぶりだった。小さなねじれた梅の木――プラム――が橋の向うの暗がりに、可憐な花をつけているし、池も小さいし、ほの暗い中から聞こえるカーレンのお客たちのしゃベり声もかすかだし、頭上に見えない針金で吊るされているおもちゃのアコーディオンのような波形にしわのよっている日本|提灯《ちょうちん》も小型だった。つつじ、しょうぶ、藤、ぼたん――アゼリア、アイリス、ウィスタリア、ピオニイ――など、すべてカーレンの好きな日本の花々のカメオ〔浮彫〕模様の中にいると、エヴァは、自分がおもちゃの国にいる大きくなりすぎた女学生のような気がした。
「それにしても、いったい、あたしはどうしたのだろう」と、波紋のひろがりを見守りながら、やり切れない気持ちで考えていた。
それは、近頃、エヴァが自分に問いただしている疑問だった。ごく最近まで、エヴァは内部から成熟していく、若々しく健康な植物のような娘だった。本当の意味の喜びや苦しみを味わわずに、ただ成長するだけだった。
「すねかじりばかりしていて」
マクルア博士が与えてくれたのはよい土地だった。エヴァは岸を洗う潮風が強い野の花の匂いをいっそうかぐわしくするナンダスケット〔ミズーリ州沖の島〕の楽園で育った。博士はエヴァを最上の学校にやった――前もって、綿密に調べ上げた学校だ。ふんだんに金をかけ、楽しい時をたっぷり与え、充分におしゃれもさせて、しかも選り抜きの婦人を雇って世話をみさせた。母親のいない家庭を、エヴァのための家庭とし、エヴァの肉体の衛生監理に当るのと同じような明確な知識でもって、エヴァの性格が、よごされないように、予防接種をした。
当時のエヴァはまだ成長期だったので、切実な感情などというものはまるで経験したことがなかった。だが自分がぐんぐん成長していくことは感じていた――草木でも漠然とした成長感は自覚するはずだ。すべての成長するものと同じように、エヴァは、生命が自分のからだの中で前進をつづけて、驚くべきことを自分になしとげ、自分を形作り、育て上げ、言い表わすにはあまりにも未熟な、もの思いや、見定めるにはあまりにもはるかな前途への希望で、心をみたすのを感じていた。面白く胸のたかまる時代だった。そして、エヴァは伸びる草木のような幸福感にあふれて暮していた。
しかし、やがて急に、エヴァの身辺が何か陰気になった。それは丁度、奇怪な光体が太陽を呑み込んで世界をいやな不自然な色で塗りつぶしてしまったかのようだった。
明るい可愛い植物のようだったエヴァは、一夜にして、暗い、多感な動物に変ってしまった。食物は味けなくなり、いつも胸おどらせた流行も今では退屈なものになった――流行については、いつも仕立屋と烈しくやり合ったものだのに。いつも、うまく交際《つきあ》っていた友だちも、がまんのならないものになった。――あんまりぶしつけに本当のことを言ったので、そのうちの二人との友情は、永遠に失われてしまった。
すべてが、どこまでも謎だった。好きだった芝居や本も、カロウェーやトスカニーニの魅力もカクテル・パーティも、ボストンやニューヨークでの楽しい買いものも、うわさ話も、ダンス・パーティも、いつも先に立って騒ぎたてた主義主張も――そんな、エヴァの楽しい生活を満たしていた興味や行動が、みんな急にエヴァを裏切り、わけもなく色あせてつまらないものになってしまった。エヴァは、セントラルパークの厩舎に置いてある、お気に入りの馬ブロウニーにまで、ひどく当りちらしたので、馬はへそをまげて、遠慮なくエヴァを乗馬道の真中で振り落とした。そのとき打った場所が、いまも痛んでいた。
この奇妙な徴候は、例年になく不順なその年のニューヨークの春には益々烈しくなっていた――マクルア博士はずっと前にナンタスケットの家を引きあげて、時々、週末の休養に使うことにしていた。――もし、博士がいつものように注意していれば、エヴァのそんな徴候も、まことにあっさりと診断がつくはずだった。しかし、当時、この気の毒な男は、自分の恋路《こいじ》の旅にかまけていて、鼻先より他は何も目にはいらなかった。
「ああ、死んでしまいたいわ」と、エヴァは池で小さくぱくばくやっているものに向かって、大声で言い、しばらく、本当に死にたそうだった。
そのとき橋がきしり、足下に伝わる震動から、エヴァは、背後に男が近づくのに気付いた。すると、その宵の暖かさにもまして急に身体がほてるような気がした。ほんとうにばからしいことだが、まるでこの男が――
「どうしたんですか」と、若々しい声が訊いた。男の声だったばかりでなく、青年の声で、もっと困ることには、全く心を惹きつけるような声だった。
「あちらに行って」と、エヴァが言った。
「そして、僕に一生、悔《くや》ませようというのですか」
「いやがらせをなさらないで、さあ、行って下さいな」
「あのね」と、声の主は「目の下に水があるし、すっかり絶望しておられるようだし、自殺しようと考えているんじゃありませんか」
「ばからしい」と、エヴァは、かっとしてふり向いた。「この池の深さは二フィートもないのよ」
その男は、マクルア博士と同じぐらい大柄な青年で、それに気がつくと、エヴァはぎゃふんとした。しかも、仲々の美男子だった。そればかりか、きちんと夜会服を着ているので、エヴァは、すっかりばつが悪くなった。マクルア博士に見るのと同じような、鋭く突きささるような細めた目で、エヴァを見つめていた。それで、エヴァは自分がすっかり子供っぽくなるのを感じた。
エヴァは、その男をはねつけることにきめて、手すりの方へ向き直った。
「さあさあ」と大柄な青年が「放っとくわけにはいきませんよ。僕にもいくらか、かかり合いがあるというものですからね。身投げでないとすると、ひょっとして――月あかりで青酸という寸法かな」
いやらしい男は、そっと近よって来て、より添った。エヴァは水面を見つづけていた。
「あなたは作家じゃありませんね」と、青年が考え深そうに「ここは、なにしろ作家がうじゃうじゃしているけれど、あなたは、お年も若すぎるし、ひどく沈んでいらっしゃる。今夜、ここにいる連中は、みんな、きらきらしてますからね」
「そうよ」と、エヴァが冷たく「作家じゃないわ。エヴァ・マクルアよ。さあ、出来るだけ早く、あちらへ行っていただきたいわ」
「エヴァ・マクルアさん。ジョン先生のお嬢さんか。こりゃどうも」と、青年は、うれしそうに「向うの連中のお仲間でなくて、うれしいな――実にうれしい」
「あら、うれしいの」と、エヴァは、できるだけ、いやみに聞こえるように念じながら「本当?」ますます険悪な空気になっていた。
「作家なんか嫌いだな。みんな、いいかげんな、いんちき芸術家だもの。しかも、あの中に美人はひとりもいないときてる」
「カーレン・リースは、とても、きれいよ」
「女は三十すぎたらもう駄自ですよ。美しいってのは若さですからね。それ以後は化粧だけ。『魅力』というものは……あなたは、未来の義理のお母さんに、もっと、ずけずけ言ってもいいですよ」
エヴァは呆れて「あなたって、とても――失礼な方ね――」
「僕はあの女たちの、飾りけのない姿を見ているんですよ」と、青年は、無造作に「そうすれば、みんな、われわれと同じ人間だし――われわれよりもっと人間くさい連中ですよ」
「あなたって――なんて?」と、エヴァは口ごもった。そして、こんな厭な男に会ったことはないと思った。
「ふーん」と、青年はエヴァの横顔を眺めながら「月光と、池の面と、水鏡している美少女……どうも陰気くさい筋立てだが、望みなきにあらずらしいな」
「なぜあなたなんかとお話しているのか分かりませんわ」と、エヴァは、むっとした声で「私は金魚を見ながら、金魚はいつ眠るのかしらと考えていたのよ」
「なんですって?」と、厭味な青年は大声で「じゃ、僕が思ってたよりずっと重症だな」
「本当にもう――」
「月光のもとで池を眺めて、金魚がいつ眠るのかが気になるようじゃ、自殺を考えるより悪い症状ですな」
エヴァはくるりと振り向いて、実に冷い目で青年を睨み「いったい、あなたは、どなたなの」
「結構結構」と、青年は満足そうに「われわれは普通、積極的な感情、つまり怒りのような感情がおこれば、症状としては、いい徴候とみるんですよ。僕はスコットといいます」
「あちらへ行って下さいませんか」と、エヴァが無遠慮に「それとも、私が行きましょうか、スコットさん」
「あなたは、何も、そんなにつんけんなさる必要はありませんよ。僕は、まぎれもないスコット・リチャード・バーですよ。医者です。あなたなら、ディックと呼んでくれて結構です」
「おお」と、エヴァが小声で「あの、スコットさん?」
エヴァは、リチャード・バー・スコット医師の名は聞いたことがあった。スコットがパタゴニアにでも行ってしまわない限り、その噂は、厭でも聞こえてくるという奴だった。と言うのも、近頃、エヴァの友だちどもが、しきりにリチャード・スコット先生の噂をして、|公園通り《パークアヴェニュー》の豪奢なスコット先生の診察室へ行くのが、気の利いた婦人たちの、いきな流行《はやり》になっているというからだった。ぴんぴんしている母親たちさえ、いきなり得態の知れぬ病気にとっつかれて、スコット先生の診察を受けに行くのに、でこでこに着飾って、まるで、リッツのカクテル・パーティへでも行くのかと思えるほどだということだった。エヴァの感じ易い耳に入る噂は、とても、扇情的なものだった。
「分かりましたね」と、スコット医師はエヴァをのぞき込むようにして「僕が気にした理由が。ただ職業的な反応なんですよ。犬が骨を見つけたってところです。まあ、池のふちにお掛けなさい」
「失礼させていただきますわ」
「まあ、お掛けなさいよ」
「掛けるって」と、エヴァは髪の形を気にしながら、つぶやくように「なんのために、ですの」
スコット医師は片目であたりの様子をうかがった。無数にとび交う蛍と、はるかな夜会のざわめきのほかは、日本庭園のこのあたりにいるのは自分たちだけだった。スコット医師は硬く冷い手をエヴァの裸の手に重ねたので、エヴァは当惑して、鳥肌立った。めったに鳥肌立ったことなどなかった。そこで、スコットを冷く睨んで、さっと手を引っこめた。
「子供みたいなまねをするもんじゃない」と、スコットは、なだめるように言い「腰掛けて、靴と靴下を脱ぐんです」
「いやなこってす」と、おどろいたエヴァは思わずも、つつしみを忘れて、口ごもった。
「脱ぐんです」と、大柄な青年が、急に、横柄《おうへい》に命じた。
しばらくして気がついてみると、エヴァは小さな橋のそばの池のふちの石に腰かけて、言われた通りにしていた。夢をみているような気がした。
「さあ」と、スコット医師が、そばにうずくまりながら、明るい声で「見せてごらんなさい。ああ、すばらしい脚だ。かわいい足だ。きれいな曲線美だ――まだ、たるんでいませんね。いずれはそうなるが……足を池にひたしてごらんなさい」
心の中では、みじめに困惑していたが、エヴァは、こんな状態を楽しみ始めていた。何か、うっとりする本の中の出来事のように、気違いじみてロマンチックだった。かなり変り者のお医者さんなんだな、噂は必ずしも誇張ではなかったのだなと、エヴァは段々に認めていた。
「かわいらしい」とスコット医師は、思いをこめて、もう一度言った。
エヴァは、ふと嫉妬が湧くのを感じて、自分ながらびっくりした。このひとは、今までにも、きっとこんなばかげたことをいくどもしているにちがいない。きっとそうだ。これも職業的な技術のひとつなのだろう。社交医者! と、エヴァは、いくぶんか興味も薄れて、ふんと鼻を鳴らした。こんな連中のことは、マクルア博士から、たくさん聞いていた。個性とベッドわきの態度で成功する抜け目のない青年医師たち、そんなのを、マクルア博士は、寄生虫と呼んでいた。むろん、美貌で、頭の弱い婦人連の弱点を食いものにしている手合いだ。社会の敵だと、エヴァは異議なく思った。
今に思い知らせてやる。また一匹釣り上げたと思っているだろうがそうはいかない。マクルア博士の令嬢とくれば、むろん、いい広告だ。診察室に、令嬢を――生皮のようにぶら下げれば……エヴァがさっと靴下をはこうとしたとき、スコットがそのくるぶしをしっかりつかんで、ぽちゃんと池にひたしたので、はっとした。
「かわいらしい」と、スコット医師は、うっとりとして、また言った。
水の冷たさが素足を包み、脚をはい上って、熱っぽい肌にひろがった。
「冷いかね」と、スコット医師は、まだうっとりとしたまま訊いた。
エヴァはかんかんに腹を立てていたが、口では弱々しく言うだけだった。「そうね――そう」スコット医師は身を起こして、何か考えていたことを振り払うように「そりゃ結構。ところで、お嬢さん、二、三立ち入った質問に答えていただきますよ」
その瞬間、エヴァは緊張したが、あまりにも水の気持ちがいいので、腹を立てながらも、じきに心をゆるめていた。
予想通りだといわんばかりに、スコットはうなずいて「足がむれると腹立ちっぽくなる。その反対もあります。暑いときには、絶対に効く療法ですよ」
「いつも、診察の前には、こんな準備をなさるの、スコット先生」と、エヴァが皮肉をふくめて訊いた。
「なんですって?」
「お訊きしたいのは――あなたの診療室には池がありますの? でも、月はどうなさるの?」
「おお」とスコット医師は、ちょっとあっけにとられた。
「きっと」と、エヴァは、楽しそうに足の指をうごかしながら、ため息をして「スキヤキかなんかを、食べたせいで、こんなになったのよ」
スコット医師は、不思議そうにエヴァを見つめた。そして、また身を起こして「いいですか、若い娘さんが自殺の衝動にとりつかれたときには、われわれは色々な原因を考えなければならないんですよ」と、エヴァと並んでコンクリートに腰を下ろしながら「おいくつですか」
「顔に書いてありません?」とエヴァが訊いた。
「なんですって?」
「二十歳《はたち》よ」と、エヴァが、おとなしく言った。
「消化は?」
「異状ありません」
「食欲は?」
「最近までは」と、エヴァは元気なく「雌豚のように、いただきましたわ」
スコット医師は、ちらつく月の光で、エヴァのまっすぐな背や、なめらかな腕や、くっきりと形のいい姿を、見つめてから「ふーん」と、言った。「はつらつとしてるな。実にぴちぴちしている」
エヴァはほの白い月光の中でほほえんだ。大部分の友だちは、いつも、食欲という共通の敵と戦って、心配そうに体重計を睨みっぱなしだった。
「体重はどのくらい」と、スコット医師が、エヴァを見つめたまま続けた。
「百十八よ」とエヴァはいってから、いたずらっぽく「正味ね」
「ほ、ほう。運動は充分していますか」
「乗馬だけは、たくさんいたします」
「朝、起きたときだるくありませんか――骨がずきずきするようなことが」
「おかげ様で、そんなことはありませんわ」
「もの忘れしたり――気が散るなんてことはありませんか」
「いいえ、少しも」と、エヴァはまじめに答えて、すぐ、そんな自分に腹がたった。まじめになるなんて、いったいどうしたことだろうと、唇をかみしめた。
「みたところ代謝作用に異状はないようですね。よく眠れますか」
エヴァは、きゃっと小さく叫んで、さっと、池から足を引き上げた。何のことはない、もじもじ動かしている爪先を餌とまちがえて、金魚がつついたのだ。エヴァは身をひきしめて、また足先を水に入れた。
そして、「死んだように、ぐっすり眠りますわ」と、きっぱり答えた。
「夢をたくさん見ますか」と、スコット医師は、さりげなく訊いた。
「どっさりみますわ」と、エヴァが「でも、どんな夢か、聞かないで頂戴。お話できませんから」
「もう話されたも同然ですよ」と、スコット医師がむぞうさに「さて、どうしますかな。あなたに自己診断していただこう。精神病では、かなり役に立つ処置ですよ――さし当り肉体的な異状は見当りませんからね。いったい、どうしたんだとご自分で思われますか」
エヴァは思い切って池から足をひき出し、折りまげて抱えこみ、冷やかに青年医師を見詰めた。
「そう、むずかしくおとりにならないで下さい。誤解していらっしゃるのよ。私、せりふの練習をしていたんですの――来週、保育園の子供たちに見せるお芝居のね」
「死んでしまいたいわ」と、スコット医師は、考え込むように、さっきのエヴァの言葉をくり返して「このせりふは子供たちには、少し深刻すぎるようですね」
ふたりはじっと目を見合った。しばらくして、エヴァは池の中で小さくぱくぱくしているものに目を向けた。目のまわるような速さで、かっとなったり、寒気がしたりした。
「金魚が、いつ眠るかなんて、ばかげた話は」と、大柄な青年が、ゆっくりと「僕に向かって言う言葉じゃないな。お話相手のお友達がいますか」
「おおぜい」と、エヴァが堅くなって言った。
「どんな人たちですか。そのうちのいくたりかは僕も知っていると思いますよ」
「そうね。カーレンもそうよ」と、エヴァは一生懸命に変り者を考え付こうとしていた。
「冗談でしょう。あのひとは女じゃない。まともな人じゃないですよ。しかも、あなたの倍も年をとってる」
「私はもう、女は好きじゃないのよ」
「じやあ、男は?」
「大嫌い」
スコット医師は、突然、すべてが分かったといわんばかりに、ぴゅっと唇を鳴らした。そして、池のふちのコンクリートをふちどる芝生に仰向けにころがり、手のひらに頭をのせた。「いらいらするでしょう、ねえ」と、まだらな空を見上げ言った。
「ときどきね」
「誰かを蹴とばしたくなって、時々、足がむずむずするでしょう」
「なんですって――?」
「保育園の子供たちが、急に勘にさわることがあるでしょう」
「何もそんなこと言いませんでしたわ――」
「恥かしい夢を見るでしょう。そう、僕には分かりますよ――」
「そんなこと、少しも言いませんでしたわ」
「映画スターにあこがれる――ハワードか、ゲーブルのとりこになる」
「スコット先生。よして!」
「そして、むろん」と、スコット医師は月に頷きながら「近頃は、いつもより、ずっとたびたび、鏡で、ご自分の姿を調べてみる」
エヴァはひどくおどろいて、叫びかけた。「どうして、それが――?」と、いいかけたが、唇を噛んで、とても辱かしくなり、まる裸にされたように感じた。どうして、お医者なんかと結婚するひとがあるんだろうと、真剣に自問していた。なんていやな生活だろう――人をあやつってチクタクやっているものを見抜く人間聴診器と一緒に暮らすなんて。まさにぴたりだった。スコット医師の言葉はすべて当っていた。あまりぴたりと当っているので、エヴァは困ってしまって、相手が憎らしくなった。これほど憎らしいと思うことが出来るなんて、思いも及ばなかった。年とった医者が、ひとの神聖な秘密をあばくのさえ随分憎ったらしいのに、相手はまだ若い医者なのだ……まだ三十そこそこと聞いていた。とても、人々に尊敬される年齢でもなさそうなのに……
「どうして、それが僕に分かるかと、言いたいんでしょう」と、スコット医師が芝生から、うっとりするような声で言った。エヴァは、スコット医師の眸が、むき出している自分の肩のあたりに焼けつくように感じ――少なくとも、肩甲骨の間の一点がむずむずした。
「そのわけは、簡単なことですよ。ただの生物学にすぎません。そのおかげで、赤ちゃんが生まれるんですからね」
「まあ――なんて――いやな」と、エヴァが叫んだ。
「おどろきましたねえ。春で――二十歳《はたち》で――男嫌いとおっしゃる――いやはや、どうも」
エヴァは、むっとして水に映る自分の姿を見つめた。身体の中で何かが起こりかけていた――隔膜のあたりに小さな沸《わ》き立つ個所があって、ふつふつと熱くなっていた。
「むろん、一度も恋をされたことがないでしょうな」と、スコット医師がつぶやいた。
エヴァは素足で、すっくと立ち上り「あちらへ行かせていただきます」
「ああ、お気にさわりましたか。まあ、お坐りなさい」
エヴァは腰をおろした。沸きたぎる個所が、実に奇妙な感じだった。自分がひどくみじめに思えた。むろん、スコット医師をこの上もなくいやらしい男だと思ったが、沸きたぎる個所が胸にまでひろがり、息苦しくなりかけていた。
「いいですか、あなたに必要なのはね、あなたが望んでいるのはね、スコット先生が若い女性方に差し上げる処方箋なんですよ。つまり、恋愛です。あなた方、ご婦人が、どう呼ばれようとご勝手だがね。よく効きますよ」
「失礼いたしますわ」と、エヴァは泣き出しそうに言った。けれど、すぐ立ち去ろうとはしなかった。
「あなたの病気の原因は」と、スコット医師が言った。エヴァは、なんとなく、医師が自分の後頭部をじっと見つめているような気がした。「あなたが環境にしぱりつけられて来たからですよ。知識、天才、名声――ぐるりのものすぺてが、あなたをおさえつけているからですよ。二千ドルばかりはずんで、新しい衣装をこしらえて、旦那さまをお持ちなさい。そうすれば、痛みも痒《かゆ》みも、さらりとなくなっちまいますよ」
とげとげしい沈黙が降りた。先生と患者の間に降りる沈黙とは、全然別種なものだった。それもそのはず、日本庭園の池のほとりの月明りで、医者が若い女性を診察するなどということは、めったにないことなのだから。
さらに不思議なことには、エヴァは、ふと、もう病人とは感じなくなっていた。まるで、スコット医師の自信が乗り移って、自分が生々として来るのを感じた。そのかわり、スコット医師が、少々、もぬけのからになったようだった。……それは、雷光《いなずま》がひらめくように、すばやい変り方だった。一瞬、日本蝉が、さっとかすめ去ったかと思うと、次の瞬間、がらりとこの世がでんぐり返っていたというようなものだった。身体のなかに、いく月も溜っていた絶望感がからりと晴れて、沸き立っている個所にとけ込み、今や、エヴァの全身をじりじりとこがしていた。
さらに奇妙なことには、黙りこんでいる青年医師の声を、エヴァは、もっと聞きたいと思った。
しかも、相手が話しかけずにはいられないような、不思議な力が自分にあることをエヴァは自覚していたのだ。そして、その話は、自分のせいで、今までとはすっかり違う調子のものになるだろうと感じていた。
エヴァは、これまで、危険を感じるような瞬間に出あったことは一度もなかった。だが、今がその瞬間だと本能的に感じたが、その危険は、かつて味わったこともないほど甘美なものに思えた。
背後の芝生で、青年医師の、およそ冷静な医者らしくない荒い息づかいが聞こえた。エヴァはうれしかった。自分が意識した不思議な力は、特定の時に特定の男に感じる女の力で、エヴァがそれまで誰に対しても感じたことのない力なのに気付くと、ぞくぞくするほどの幸福感にみたされるのだった。
今や、エヴァはスコット医師の心を完全におさえていることを、はっきり感じた。エヴァのそばに横たわり、真直ぐにのばしたエヴァの背の真うしろにいるスコット医師の顔は見えなかったが、それが分かった。振り向いて、やさしいそぶりをするだけで、なにか思いがけないことが起こるのを知っていた。
だが、自分の優位をさとった今、エヴァは、それを、そのまま、しっかり掴《つか》んでいたいと、強い衝動にかられていた。そして、スコット医師に背を向けたまま、ゆっくりとさりげなく、脱ぎすてた靴下を脚にひきあげ始めた。スコット医師は身動きもしなかった。やがて、エヴァはわき目もふらずに靴をはいた。蛍が目の前をすいすいとんで、明滅した。パーティの人々の声が、別世界のもののように聞こえていた。池の中でぱくぱくする音が、あらゆるもの――沈黙、緊張、甘い敵意――に、合いの手を入れていた。
お医者なんて!
やがて、エヴァは大儀そうに立ち上り、薄絹の鞘《さや》におさまって、きりっと腰を締めあげている自分のすんなりとした姿が、どんなに美しく見えるかを意識しながら、振り向いて、スコット医師を見下ろした。いまや、エヴァは内心びくびくしながらも、上から相手を冷やかに面白がって見おろす立場だったし、スコット医師の方は、すらりとした彼女の立ち姿を下から見上げなければならなかった。エヴァは勝ち誇って竜の死体を見下ろしている女騎士のような気がした。そして、くすくす笑い出したいのと、男の胸をふみつけたい衝動を抑えていた。
だが、とんでもないことをしているような気もした。自分がこんなにも強く、無責任な人間だと感じたことは、かつてなかった。
「やっぱり、あなたはお医者様なのね」と、スコット医師を見下ろして言った。
スコット医師は、妙に怒ったような、男性むき出しの目を見張って、エヴァを見つめていた。その瞬間、時の流れが停止した。男の腕が、ふるえながら、しっかりと自分を抱きしめるような気がした。まわりの日本庭園がぐるぐるまわり出し、いっさいの物音や生命やもののかげがエヴァの意識のふちからこぼれ去りそうだった。エヴァはスコット医師の怒りを、たのしんで味っているようでさえあった。スコット医師の心の壁をおびやかしてやったのだと思って、ほくほくしていた。……スコット医師が身を引きしめて、芝生からとびかかろうとしているのを見てとった。
「エヴァ!」とマクルア博士の大声がした。
エヴァは全身が冷たくなった。スコット医師は、よろよろと立ち上って、やけに力を入れて、服のちりを払い始めた。
「おお、ここにいたのか」と、マクルア博士が、太い声でいいながら、足音高く橋を渡って来た。そして、ちらりと青年の姿を見ると、ぴたりと立ちどまった。エヴァは、ハンカチを握りしめて、ふたりの間に立っていた。
寒気《さむけ》が消えて、沸き立つような幸福感がもどって来た。エヴァは睨み合っているふたりの間に立って、大声で笑い出したかった。中年の男の方は、きわめてけわしい薄青い目で若い方をじろじろ眺めていたし、若い方は、かなり残忍な目で睨み返していた。
「お父さま。こちらリチャード・バー・スコット先生よ」と、エヴァが落ちついて紹介した。
「そう」と、マクルア博士が。
スコット医師が「よろしく」と、くぐもり声で言い、ポケットに両手を突っこんだ。スコット医師が真剣に腹をたてているのが分かって、それがエヴァには、とてもうれしかった。
「お名前は聞いとる」と、マクルア博士が、むっとした声で言った。
「そりゃ、どうも」と、スコット医師がうなった。
そして、すでに、ふたりは互いに、手強い相手だと見てとっているらしく、それがエヴァには、気が遠くなるほど、うれしかった。
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こんなわけで、カーレン・リースには四十歳で、マクルア博士には五十三歳で人生が始ったとすれば、エヴァ・マクルアの人生は二十歳の五月に、カーレン・リースの華《はな》やかな園遊会を舞台にして始まったのである。
エヴァは成長し、発芽し、一夜のうちに成熟して、完全に自信たっぷりな女になった。あらゆるなやみは朽葉のように散ってしまったのだ。
狩猟の喜びがエヴァをつかんで放さなくなっていた。エヴァは、その古風な狩猟に、まるで長い年月しなれていたかのように没頭した――それは、女猟人がじっと立っているだけで、獲物の方から否応《いやおう》なしに死地にとびこんでくるというような狩猟である。ニューヨークで面くらった医者はマクルア博士ひとりだけではなかっだ。若いスコット医師など、見るもむざんにやつれてしまった。
スコット医師とエヴァは六月に婚約した。
「お父さま、ちょっと気になることがあるんですけど」婚約が済んで間もなく、エヴァがマクルア博士に言った。むし暑い夜で、カーレンの日本庭園でのことだった。「リチャードとあたしのことでね」
「なんだね」と、マクルア博士が訊いた。
エヴァは両手に目を落として「あのひとに話していいものかどうか迷ってるんですの――つまり、お父さまとあたしのこと……」
マクルア博士はしげしげとエヴァを見つめた。近頃急にくたびれて来て、ひどくふけ込んだ様子だった。やがて博士が「それで? エヴァ」
エヴァはためらっていた。「あなたが本当のお父さまではないことを、あのひとに言わないでおくのは、なんだか悪いような気がして――」
マクルア博士がじっと坐っていると、そばにいたカーレンが低い声で「つまらないことをするもんじやないわよ、エヴァ。なんのたしにもならないじゃない?」
髪をぴっちりと後ろにすきつけて、華やかな身なりのカーレンは、なんとなく年かさに見えて、その忠告も、もっともらしかった。
「わたしにもよく分からないのよ、カーレン。でも、悪いような気がして――」
「エヴァ」と、マクルア博士が、このふたりにしか、かつて誰にも聞かせなかったような、やさしい声で、エヴァの両手を、そっと自分の手で包みながら「ねえ、いいかい、わたしは自分の娘でもこれ以上は可愛がれないほど、お前を可愛いがっているんだよ」
「ああ、お父さま、そういう意味じゃないのよ――」
「放っときなさいよ」と、カーレンが少し声をとがらせて「言っちゃいけないわ、エヴァ」
エヴァはため息をついた。事件はまだ子供の頃におこったことで、エヴァにとっては、まるで白紙の歴史以前のことだった。後に、マクルア博士がことをわけて、養女にしたいきさつを説明したのだが、そのときに湧いた漠然としたなやみは、ずっとエヴァの胸から、ぬぐり去られずにいたのである。
「あなたがそう言うのなら、黙ってるわ」と、エヴァは歯切れ悪く言った。黙っているのは何だか悪いような気がしていた。だが、黙っているように忠告されたのが、うれしくなくもなかった――というのは、いま、新しく見いだした幸福を脅かしそうなものは、たとえ、どんな些細なことでも、エヴァにはこわかったからである。
マクルア博士はベンチによりかかって目を閉じ「その方がいいな」と、言った。
「日取りはおきめになって?」と、すぐ、カーレンが、ちらっと博士を、うかがいながら訊いた。
「はっきりとはきめてないのよ」と、エヴァが、暗い気分から抜け出しながら「まるで、ばかみたいにしてたらしいのよ――にやにやしてるだけで――でも、あたしたち、どうしても結婚したいのよ。ときどき、とても変な気がするのよ――まるで……」
「本当に妙な子ね」と、カーレンが小声で「まるで、結婚なんか出来そうもないようなことを言ってるようじゃないの」
「そうなのよ」と、エヴァは、かすかに身ぶるいしながら「あたしね――とても耐えられそうにないわ、そんことになったら……ディックとの結婚が、この世でただひとつの望みなんですもの」
「いま、あれは、どこにいるね」と、マクルア博士が無雑作に訊いた。
「おお、どこかの病院よ。重態の患者があって――」
「扁桃腺の手術だろうよ」と、博士がからかうように。
「お父さま」
「おお、いいかい、エヴァ」と、博士が、ぱっと目をひらいて「気にするな。だが、医者の妻になる心がまえを教えておきたい。わしの希望は――」
「どうでもいいわ」と、エヴァが|むき《ヽヽ》になって「あたしに関心があるのはディックで、ディックの仕事ではないのよ。その方のことは、その場になったら、うまくやってみせますわ」
「お前なら大丈夫だろう」と、マクルア博士がくすくす笑い出したが、すぐ笑いやめて、また目を閉じた。
「ときどき、あたしたち」と、エヴァがやるせなげに「結婚出来ないような気がするのよ。虫のしらせがあるようなのよ。本当に、ぞっとするわ」
「まあ、なんてことを、エヴァ」と、カーレンが大声で「おばかさんみたいなことを言うもんじゃなくってよ。あの方と、とても結婚したいんでしょ。そんなら結婚して、そんな考えは、さっさと片付けてしまうのね」
エヴァは黙りこんでいた。しばらくして「すみません、カーレン。どうせ、あたしの言うこと、おばかさんみたいに思えるんでしょ」と言って、腰を上げた。
「まあ、おかけ、エヴァ」と、マクルア博士がもの静かに「カーレンの言うことに、何も底意があるわけじゃないよ」
「ごめんなさい」と、カーレンがつぶやくように「わたし――そんなこと神経のせいなのよ、エヴァ」
エヴァは腰を下ろした。「どうも――この二、三日、あたし上《うわ》の空《そら》なのよ。リチャードは、しばらく待つ方がいいと思っているらしいの。その通りかもしれないわね。何も急ぐことはないんですものね。人間って、ひと晩で、がらりと生活を変えることは出来ませんものね」
「そうだ」と、マクルア博士が「すぐ、そこに気がつくなんて、なかなか頭がいいぞ」
「ディックって、とても――そうね、気分のいいひとなの。あたしを、すっかり、いい気分にしてくれるのよ」エヴァが幸福そうに笑った。「あたしたち、パリの面白いところを片っぱしから歩きまわって、みんなが新婚旅行のときにするような気違いじみた真似を、すっかりしてみるつもりなのよ」
「気はたしかなの、エヴァ」と、カーレンが、マクルア博士の肩に黒髪をもたせかけて訊いた。
エヴァは有頂天になって身をもみながら「たしかよ。もし、これがたしかでないとしたら――本当に素敵なんだがな! いま、あのひとのことを夢みているのよ。あのひとったら、あんなに大きくって強いのに、そりゃ、とても赤ん坊なのよ……」
カーレンは薄暗い中で微笑し、小さな頭をふり向けて、マクルア博士を見上げた。博士は坐り直して、ため息をつき、両手に顔を埋めた。カーレンの微笑が消えて、その目がいつもより曇った。目に不安が宿っていた。美しく、年齢を知らぬ顔にも、エヴァが近頃よく見かける不安以外の何か意味ありげな色が浮かんていた。
「あたしって」と、エヴァが浮き浮きとして「自分のことばっかりおしゃべりしているのに、あなた方は……おふたりとも、ちょっと変よ。あなた、気分がよくないの、カーレン」
「おお、わたしはいつもと同じですわ。でも、ジョンは、是非休暇をとる必要があると思うのよ。休暇をとるようにすすめて下さらない」
「お父様は、随分、やつれてらっしゃるわよ」と、エヴァが、おどかすような口ぶりで「お城を閉めて、外国旅行をなさればいいのに。あたしは医者じゃないけれど、船の旅は、きっと、からだにいいにきまってるわよ」
「いいだろうな」と、突然、博士は言って、立ち上ると、芝生を歩き始めた。
「それに、あなたもお父さまと一緒に出かけるべきよカーレン」と、エヴァが、きっぱり言った。
カーレンは、かすかに笑《えみ》をふくんで、首を振りながら「わたしは決してここを離れませんからね、エヴァ。しっかり根を下ろしているのよ。でも、ジョンは出かけるべきだわ」
「お出かけになる? お父さま」
マクルア博士が、ぴたりと足をとめて「おいおい、エヴァ、先ず、お前こそ、旦那と出かけて、仕あわせになるがいいよ。わしらのことなど心配せんで。お前はしあわせなんだろう、どうだね」
「しあわせよ」と、エヴァが言った。
マクルア博士はカーレンの目の前で、エヴァに口づけした。カーレンは絶えず微笑を浮かべていたが、何か、他のことを考えているような顔付きだった。
六月の末に、ジョン・マクルア博士は、頑固なまわりからのすすめにしたがって、仕事を休み、ヨーロッパへ休暇旅行することにした。体重が減り、服がどうしようもないほど、だぶだぶになってしまったのだ。
「少しはお考えなさいよ、博士」と、エヴァの婚約者《フィアンセ》が、かなり率直に「こんなことが続けられっこありませんよ。いまにへたばっちまいます。あなただって、鉄の体じゃありませんからね」
「そりゃ気がついとるさ」と、マクルア博士が弱々しく笑って「分かったよ、ディック。君の言う通りだ。出かけることにするよ」
リチャードとエヴァは、博士の出発を見送った。カーレンは、疲れて家を出られないといって、見送りには来なかった。それで、マクルア博士は、ワシントン・スクェアの日本庭園で、二人きりでカーレンと別れを惜んだのだ。
「エヴァをよろしくたのむよ」と、博士がリチャードに言ったときに、出帆の合図の銅鑼《どら》が鳴りひびいた。
「ぼくたちのことは心配なさらないで下さい。それより、充分、お気をつけになって下さいよ、博士」
「お父さま。本当にお体をお大切にね」
「分かってる。分かってる」とマクルア博士は、不平そうに「なんだ、わしを八十のじいさん扱いにしおって。じゃあ、エヴァ、行ってくるよ」
エヴァは博士に抱きつき、博士はおいぽれ猿みたいな力でエヴァを抱きしめた。それから、リチャードと握手をかわし、若いふたりは急いで船から隆りた。
博士は甲板の手すりによりかかって、船がハドソン川の中で向きを変えるまで、ふたりに手を振っていた。エヴァは、ふと、おかしくなった。父親と二、三マイルでも離れるのは、これが初めてだった。そして、それが、なんだか暗示的に思われた。エヴァはタクシーの中で、リチャードの肩にもたれながら、少し泣いた。
八月になり、八月が過ぎた。エヴァは毎日父に手紙を出したが、マクルア博士からは、時たま、たよりがあるだけだった。博士は筆まめな男ではなく、時たまに来る手紙も、いかにも博士らしく――どこまでも明瞭詳細ではあるが、個人的なことは全然書いてなかった。手紙は、ローマ、ウィーン、ベルリン、パリから来た。
「お父さまは、世界中の癌学者を片っぱしから訪ねているようね」と、エヴァが、あきれたように、リチャードに「誰かがついて行けばよかったわ」
「おそらく、一生で一番愉しいときを過してるでしょうよ」と、スコット医師がにやにやしながら「要するに、あのひとにとっては転地が必要なんですからね。からだはどこも悪くないんですよ――ぼくはことこまかに診察してみましたからね。ひとりにしとく方がいいんだ」
エヴァにとっては忙しい日々だった。暑苦しい夏のさなかを、春の女神のように涼しい顔で駆けまわり、嫁入りじたくをととのえるという、うきうきする仕事にとりかかっていたのだ。そのうえ友だちが催してくれるティーパーティ、過末のリチャードとの海への遊び。エヴァがこんなにも急に完全にリチャードを征服したことに、まだ半信半疑の目を向けている女たちに優雅な女王ぶりをひけらかすのもひと仕事だった。それで、カーレンに会うのも不沙汰になりがちで、いささか気がとがめていた。
スコット医師はいささか憂鬱《ゆううつ》になっていた。
「今月は治療成績ががた落ちだ。どうしてそうなったかは分かってるがね」
「だって、夏はいつでもそうでしょ」
「うん、まあ、しかしね――」
エヴァの心を、恐ろしい疑念が、かすめた。
「あなたはまさか、それが、あなたとあたしがこうなったせいだと、おっしゃるんじゃないでしょうね」
「実は、そう思うんだ」
「それじゃ――あなたは、女たらしじゃない!」と、エヴァが叫んだ。「あんな――あんなひとたちをみんな、たぶらかしてたのね。だから、あたしと婚約したら、みんなが来なくなったんだわ。あたしはあのひとたちをよく知ってるわよ――みんな牝猫よ。それじゃ、あなただって、あのひとたちにおとらず悪いじゃないの。ごめんなさい、だって……」
エヴァは泣き出した。これが、ふたりの最初の喧嘩だった。そして、エヴァにはかなりこたえた。スコット医師の方も、何かぐにゃぐにゃしたものを踏みつけたかのような顔つきをしていた。
「エヴァ、ごめんね。そんなつもりで言ったんじゃないんだよ。ぼくは君に夢中なんだぜ。君はぼくを目茶目茶にしちまったよ。だが、ぼくの愛に変りはないよ。あんないやなヒステリー患者どもが来なくったって、かまやせんよ。みんな犬にでも食われろさ」
「おお、ディック」と、エヴァはリチャードの腕の中ですすり泣きしながら「あたしはよろこんで奴隷《どれい》になるわよ。あなたのためなら、なんでもしてよ」
ひともめしたあと、エヴァは、またしあわせをとりもどした。リチャードが特別な場所に接吻してくれて、大好きなチョコレート・クリーム・ソーダを食べに、角の薬屋《ドラッグストア》につれて行ってくれたからだ。
九月の初めに、マクルア博士は、帰国するという便りを、ストックホルムからよこした。エヴァは、その手紙を持って、婚約者《フィアンセ》のもとへ駆けつけた。
「ふーん」とリチャードは、几帳面《きちょうめん》な書体を横目でみながら、批評がましく「ミイラみたいな字だ。あのひとの人柄そっくりだな」
「旅行は、お父さまにもよかったかしら?」とエヴァは心配そうに訊いた。まるで、四千マイルも離れている人の診察が、スコット医師に出来ると思っているかのようだった。
「効き目はあっただろうよ、エヴァ。まず心配する事はないね。もし、悪いようなら、上陸したらすぐぼくらが手当てするさ。あのひとは、今ごろは海の上だろうよ」
「カーレンは知ってるかしら」と、エヴァは興奮して「きっと知ってるでしょうね。お父さまはあのひとにも手紙を書いてるはずですものね」
「そりゃそうさ。なんてったって、未来の奥さんだからね」
「それで思い出したわ、ねえ、リチャード」と、エヴァは、机の上の花をむしりながら「そうよ、未来の奥さんといえば……」
「うん」と、リチャードは気もなさそうに言った。
「おお、ディックったら、とぼけないで!」とエヴァは赤らみながら「分からないの……あたし」
「ああ、そのこと」と、リチャードが受けた。
エヴァは、きりっと顔を見つめて「ディック、あたしたち、いつ式をあげるつもりなの」
「まあ、まあ、かわいい天使さま――」とスコット医師が言いかけて、笑いながら、身をすり寄せて来た。
「駄目よ、ディック」とエヴァは落ちついて「本気で訊いてるのよ」
ふたりは、かなり長い間、机ごしに顔を見合っていた。やがて、スコット医師は、ため息をすると、ぎこちなさそうに、回転椅子に腰をもどして「分かったよ」と声をいらだてながら「参ったよ。なんてったって――ぼくは、朝めしの最中も君のことが胸から離れないし、顕微鏡をのぞいてても君の姿がちらつくって始末なんだからなあ」
「本当?」
「ぼくが女に『君なしでは生きて行けない』なんて言うようになるとは、全く思いがけなかったよ。だが、今じゃこのざまだ。仕方がないな。ひどいよ、エヴァ。おやじさんが帰国したらすぐ結婚するよ」
「おお、ディック」と、エヴァは、ささやいた。のどがつまって、声が出なかったのだ。エヴァは机をまわって、大喧嘩のあとのように、ぐったりとリチャードの膝に身をなげかけた……
やがて、エヴァはリチャードの型のいい鼻の先にキスして、相手の手を軽くたたきながら、膝の上からすべり降りて「いけないわ。あたし、これからすぐ、ワシントン・スクェアへ行って、カーレンに会ってみるわ」
「少しはぼくの言いなりになってくれてもいいじゃないか」と、スコット医師は不機嫌に「カーレンになら、いつでも会えるじゃないか――」
「駄目よ。随分、ご無沙汰してるんですもの。それに――」
「ぼくもだよ」と、リチャードはぶつぶついいながら机の上のボタンを押し、看護婦がはいってくると「ハリガンさん、もう、今日は患者はおことわりだ」と言いつけ、看護婦が出て行くと「さあ、こっちへおいで」
「駄目よ」
「まさか、部屋中、君を追いまわすなんて、バカな真似をさせるつもりじゃないだろ」
「おお、ディック、ねえ、あなた、おねがい」と、エヴァは忙しく鼻のあたまをパフでたたきながら「どうしてもカーレンに会わなくちゃならないのよ」
「なぜ、そんなにカーレンが好きなんだね」
「行かせてよ。カーレンと話したいのよ。いけないひとね。あたし、うれしくて誰かに話さなくちゃいられないのよ」
「じゃあ、ぼくはひるねでもすることにしよう」と、リチャードは残念そうに「君ときたら、言い出したらきかないんだからね。昨夜は一晩中、マーテンス夫人の手を握って、お産をするのは歯を抜くのと同じですよと、自信をつけさせていたんだぜ」
「まあ、お気の毒ね」と、エヴァが、キスをしながらのどをならした。「あの奥さん、とてもお綺麗じゃないの。ゆっくりとおやすみなさいよ、ディック」
「今夜、また会えるかな。なにしろ、祝杯をあげなくちゃ――」
「ディック、よして。駄目よ。――今夜ね」と、エヴァはいって逃げ出した。
エヴァは、明るいパーク・アヴェニューの陽光のなかに姿をあらわした。その顔には、たった今、倖せなキスを受けて、結婚の日取りが決まったばかりと書いてあった。とても倖せそうなので、ドアマンもほほえみかけ、タクシーの運ちゃんも、爪楊子《つまようじ》をほうり投げて、車のドアを開けてやらずにはいられないほどだった。
エヴァは、カーレンの所番地を言って、タクシーの座席の背によりかかって、目を閉じた。とうとうこぎつけたのだ。結婚は――すぐそこの町の角まで来ている。なにしろ月なみな結婚じゃない。あたしが人気者のリチャードと結婚するのだ。むろん、たんとゴシップの種になることだろう――エヴァが、どんな風に体当りしたか、そして実際には、どんな風にスコット医師をとっつかまえたか、なんて。でも、噂したいひとにはさせとけばいいんだわ。みんな、やっかんでいるんだから。みんなが、やけばやくほど、エヴァはいっそう幸福なのだと、ほくほくしながら考えていた。こんなことは考えるだけでも恐しいんだが、世界中の女がみんな自分に嫉妬《しっと》するといいと思った。上着が少しきゅうくつのように感じたリチャード・バー・スコット夫人……うつりのいい名だわ。本当に響きがいい名だわ。
タクシーがカーレンの邸の前でとまると、エヴァは降りて料金を払い、玄関の階段の上に立ち止まって、スクェアを見渡した。公園は午後四時の陽光の中でかがやき、幾何学模様の芝生も噴水も乳母車を押している乳母たちも、みんな明るく美しかった。乳母車を眺めていると、エヴァは思わず頭に血がのぼった。近頃のエヴァの赤ん坊についての考え方はどちらかといえば、あまり上品ではなかった。次には、住居のことを考えた。結婚後、ウェストチェスターかロングアイランドに住めない場合は、カーレンのような邸に住めたら、こんな楽しいことはないだろうと思った。なにしろ、ニューヨーク中で一番住み心地のよさそうな邸なんだから。本当に居心地のいい寝室がいくつもあるし――みごとな壁かけがあるし――
エヴァは呼鈴《ベル》を鳴らした。
エヴァと博士の住居は東六十番台の通りにあるただのアパートだった。エヴァが一生懸命、飾り立ててはいたが、所詮アパートはアパートで、どうなりようもなかった。マクルア博士は、癌研究所のサイレンが聞こえる地域から外へは移りたがらなかった。事実、エヴァは、ほとんど家にいないし、博士はむろん、毎日を実験室暮らしだったから、まるまる一軒の家を持つのは、無駄なぜいたくというものだったのである。その博士も……いずれはカーレンと結婚するであろうと思うと、エヴァはそのことを、以前よりひそかに歓迎する気持になって来ていた。というのも、殺風景なアパートに父をひとりきりにして、自分だけが、さっさと出て行くのを、済まないと思うようになっていたからだ。おそらく、カーレンと父親はなんとか――
見慣れぬ女中がドアを開けた。
エヴァはちょっとおどろいた。しかし、玄関を通って訊いた。
「リースさまはいらっしゃる?」――訊かないでもいいようなことだが、なぜか、大抵はそんなことを訊くものだ。
「はい、お嬢さま。どちらさまでございましょう」女中は気のきかない娘で、まだ明らかに躾《しつけ》がたりなかった。
「エヴァ・マクルアよ。おお、取り次がなくてもいいわ――お客じゃないんですから」と、エヴァは「エルジーはどうしたの」
「おお、あのひとはやめさせられたらしいんです」と女中は少し気色ばんで答えた。
「じゃア、あなたが、あとがまなのね」
「はい」と、うつろな、ぽかんとした目で「三週間になります」
「まあ、そう」と、エヴァは自分で呆れたように「もうそんなに長くなるの? リースさまはどこ? お庭?」
「いいえ、お二階でございます」
「じゃ、すぐ上ってみるわ」と、エヴァは足取りも軽く広い階段を上っていった。女中はあきれ顔で、見送っていた。
カーレン・リース邸の一階と、地下の使用人部屋は、室内装飾が出来るだけ西洋風にしつらえてあったが、二階の部屋部屋はカーレンの好みと、東洋風がふんだんに使われていた。寝室はどれも日本風で、カーレンが東京の父の家から持って来た家具やがらくたが、いっぱいに並んでいた。エヴァは階段を上がりながら、カーレンの寝室を見た者が、ほんのわずかなのを、残念に思った。まるで博物館か参考室のように、ばかげていて、風変りだったからだ。
二階の廊下を曲りかけたとき、着物姿がちらりと、カーテンの居間の入口を通ったように見えたので、エヴァは急いでそのあとを追った。
たしかに、カーレンの昔からの女中のキヌメで、小柄な異国人らしいその姿が、はっきり見えた。丁度、カーレンの居間を通って寝室にはいり、後のドアをしめるところだった。みると老女中は漉《す》きぱなしの白い日本紙を一枚と、象牙色の地に、かすかにバラ色の菊の花をちらした模様の、すばらしい封筒を持って入るところだった。
エヴァがカーレンの居間のドアをノックしようとしていると、ドアが細目にあいて、キヌメが何かぶつぶつ言いながら、あとずさりして出て来た。手には紙も封筒も持っていなかった。
「おだまり!」と、カーレンが部屋の中で気短かにしかる声がエヴァに聞こえた。
「ごめんなさい、奥さま」と、キヌメがあわてて、おずおずとあやまり、寝室のドアをしめて、ふり向いた。
日本の老女は、エヴァがそれと察する、例のおどろき方で、おどろいてみせた――目のふちをかすかに見ひらくだけなのだ。
「まあ、エヴァさま。ずい分お久しぶりで、奥様をお訪ね下さいましたのね」
「今日《こんにち》は、キヌメさん」と、エヴァが「そうよ、御無沙汰しちゃって、恥かしいわ。ご機嫌いかが、あなたもカーレンさまも」
「私は、おかげさまで」と、キヌメは言い、戸口に立ちはだかって「奥様は、おかげんがよろしくないんですの」
「カーレンさまが――」と、エヴァは、いいかけて、眉をしかめた。
キヌメはしわのよった唇をかたくとじて「今はお会いになれません」と、ヒソヒソ声で、丁寧に言った。「書きもの中ですの。じきお済みになりますわ」
エヴァが笑って「じゃ、決しておじゃましませんよ。大作家ですもの。お待ちするわ」
「おいでになっていることを、お伝えします」と、キヌメがドアの方へ向き直った。
「じゃましないでいいわ。大して用もないんですからね。本か何か読みながらお待ちするわよ」
キヌメは、おじぎすると、小さな両手を袖にかくして、居間のドアを後手《うしろで》にしめながら、エヴァを残してパタパタと出て行った。ひとりになると、エヴァは帽子と上着をぬぎ、妙な形の鏡に向かっておめかしを始めた。髪をすきながら、明日はパーマをかけに行く暇があるだろうかと孝えていた。髪もよく洗わなければならない頃合いだった。それから、ハンドバッグをあけてコンパクトをとり出し、口紅棒《リップスティック》をあけながら、マクルア博士も、スージー・ホッチキスがお土産にもらったような口紅棒を買って来てくれるだろうかと考えてみた。ホッチキス氏はパリから、本当にすばらしい化粧道具をスージーに買って来たのだ。それから、小指で三度唇をなでつけて、少し濃目に口紅を塗った。ディックがキスしたので、少し形がくずれていたし、診察室を出る前に、ちゃんと直すひまをくれなかったのだ。それで崩れないはずの口紅が崩れていたのだ。エヴァは、今度は家の中で使うのに、朱がかった桃色の口紅を買おうと心づもりした。
しばらくしてから、エヴァは窓のところへ行って、くっきりと夕近い陽に浮かぶ日本庭園を眺めていた。
窓には鉄格子がはまっていた。気の毒なカーレン。ワシントン・スクェアに家を買って、居間にも窓にもすっかり鉄格子をはめずにいられないなんて! 一人前の女になっているのに、なんてばからしいことだろう。ニューヨークは、カーレンにとって、いつも、そんなに怖しい土地なのかしら。そんなら、絶対に日本を離れなければよかったのに! どうして離れて来たのだろう。
エヴァは妙な形の小さなカーレンの長椅子に身を投げるように腰をおろした。この部屋は実に落ちつける気分で、ものを考えるには、うってつけだった。庭では小鳥が、さえずっていた――カーレンの居間と寝室は庭を見下ろす、家の裏手を全部占めていたので――広場で遊ぶ子供たちの叫び声も、はるか遠くに響くだけだった。……エヴァの思いはリチャードのこと、結婚のこととかけめぐるうちに……ふと、今すぐ、リチャードが、愛するディックが――そばに、この腕の中にいてくれたらいいとねがった。かわいそうなディック! あの時の顔ったら、まるで、キャンデーを食べてはいけないといわれた子供のようだったわ……
隣りの寝室からは、全く何のもの音も聞こえて来なかった。エヴァはチーク材の小さなテーブルの上の本を一冊とりあげて、ぼんやりとぺージをめくっていた。
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船の標準時計が、ニューヨーク時間の五時半をさしていた頃、パンシア号は、おだやかな海の波を蹴立てていた。東の水平線の向うが暮れかけていた。マクルア博士はデッキチェアに横になって、空と水とが夢のようにとけ合う、後方の、かすかに煙ぶる水尾《みお》を見守っていた。
夕食時に近く、青空の下の上甲板には人気《ひとけ》がなかった。しかし、背の高い青年がひとり、リネン帽の下に鼻眼鏡をかけて、甲板をぶらぶらと歩きまわり、時々立ちどまっては、欄干《らんかん》に肘をついて、静かな海を、きびしい目つきで眺めていた。そして、マクルア博士のわきを通りかかると、その青白い顔を明るくした。
「おお、マクルア博士」
博士はぐるりと頭をまわし、しばらくはきょとんとして、青年の顔をまじまじと見詰めた。
「おそらく、覚えてはいらっしゃらないでしょうが」と、青年が「クイーンです。五月に、ワシントン・スクェアの、あなたのご婚約の方《かた》の園遊会で、お目にかかりました」
「ああ、そう」と、マクルア博士は、ちょっとほほえんで「ごきげんかね。旅は楽しかったかね」
「まあまあです……」
「わしは実に散々でね。サザンプトンで乗ったときから船酔いさ。とても、海とは仲よしになれないんだな」
クイーン君が青白い顔でにやにやして「それがね、僕もご同様ですよ。地獄の苦しみです。そら、この顔色ときたら、あなたにひけをとらないでしょう、先生……」
「どうも散々でね」と、マクルア博士が、いまいましそうに「船酔《マルドメール》のせいばかりじゃない。うちのやつらが、むりやり、わしをヨーロッパ旅行に出しおってね。これで、愉快なはずがないよ」
クイーン君が、くすくす笑って「僕の場合はおやじです。まるで僕に麻酔をかけて船に放りこんだようなものなんですよ。旅では、少しはいい思いもしましたがね、この帰りの船路で、すっかり帳消しですよ。おやじは、ニューヨーク警察部の、クイーン警視です」
「そうか、君は推理作家だったね。思い出したよ。さあ、掛け給え、クイーン君。君の作品は読んではおらんがね――あんな七面倒なものはやりきれんのでね――だが、わしの友人どもはみんな……」
「多分、みんな僕に抗議文を書いたんでしょう」と、エラリー・クイーンは、博士のとなりに腰を下ろしながら、ため息をついた。
「実はね」とマクルア博士がせき込んで「どうも、わしは推理小説が好きになれんのだ。特に君の作品をとやかく言うんじゃないが、大抵、科学的な知識があやふやなんでね。悪気があって言うんじゃないんだがね」
「僕もその点を言いたかったんですよ」と、クイーン君が、元気なく言った。
そして、博士の外貌の変化の激しさに、いささか驚いた。いかつくて、元気そうだった顔はげっそりやせて、服も、いたいたしいほど、だぶついていた。
「君が一緒だとは、さっぱり気がつかなかった」と、博士が「わしは、いつも、この椅子にヘばりついとったんだがね」
「僕はひどい船酔いで、キャビンでうなってばかりいたんですよ。食堂に出るどころか、こちこちのチキン・サンドウィッチで命をつないでいた始末です。ご旅行は長かったんですか」
「二カ月ほどでね。方々の首府を覗いてみたり、名所見物でね。賞金関係の連中を訪ねてストックホルムにも、寄ったよ。受賞式に出るのを忘れたわびをしなければならなかったりしてね。賞金のたかから考えてみると、連中は、なかなか親切なもんだ」
「何かで読みましたよ」と、エラリーが微笑して「それを、あなたの研究所に寄付されたんですってね」
マクルア博士がうなずいた。ふたりは、しばらく海を見ながら、黙って坐っていた。やがて、エラリーが「リースさんはご一緒ですか」と、訊いた。二度、訊かねばならなかった。
「え? 失敬失敬」と、博士が「いや、カーレンはニューヨークです」
「船の旅は、あの方の健康にもいいでしょうにね」と、エラリーが「五月にお会いしたときには、かなり疲れておられたから」
「あれも弱りこんどる」と、大男が「いかにもね」
「小説を書き上げたあとのお疲れでしょう」と、エラリーがため息をして「あの骨折りは、科学畑の方には分かりませんよ。あの『八雲立つ』は、すばらしい作品です。完全な|ひすい《ヽヽヽ》の玉のような作品ですからね」
「わしには分かるはずがないな」と、博士が弱々しく笑ってつぶやいた。「わしは、病理学者にすぎんからね」
「カーレン女史の東洋人の心理のつかみ方は、実に大したものです。それに、あの美しい文章ときたら!」と、エラリーは首をふりながら「さぞ、お疲れになったことでしょうよ。きっと、おやせになったでしょうね」
「あれは少し貧血症だから」
「それに過敏症でしょうね。それも微妙な緊張の結果でしょうよ」
「まあ、神経のせいだろ」と博士が言った。
「じゃ、なぜ、ご一緒に来られなかったのです?」
「え?」とマクルア博士が顔を赤らめて「おお、こりゃ、失敬、実は――」
「どうやら」と、エラリーが微笑して「おひとりでおられたかったのでしょう、博士」
「いや、そうでもないんだが、まあ、すわらんかね。あれは、ちょっと、疲れただけさ……隠しだてするほどのこともないがね。カーレンは非常に内気で、それも、病的なんだな。泥棒をこわがったり――そういった点でね」
「そういえば、どの窓にも鉄格子がはまっていましたね」と、エラリーが、うなずきながら「おかしなもので、人間、よくそんな考えにとりつかれるもんですよ。日本での生活の結果でしょうね。アメリカ生活ですっかり調子がはずれるんでしょうよ」
「失調症だよ」
「女史は一晩も家をあけられたことがないとかいう噂ですね――いつも、部屋や、あの庭にとじこもったきりで」
「そうなんだ」
「エミリー・ディキンソン〔十九世紀のアメリカ女流詩人。隠遁生活を通す〕を思い出しますね。実際、リースさんは過去に、何か悲劇があったのじゃないかと考えたいぐらいですね」
マクルア博士はくるりと、デッキチェアの中でからだを振り向けて、エラリーを、まじまじと見つめながら「どうして、そんな気がするのかね」と、訊いた。
「すると、何かあったんですね」
博士は、からだを元にもどして、葉巻を吸いつけながら「それがね……あるにはあったのさ。昔のことだが」
「ご家族のことで?」と、何でも聞きたがり屋のエラリーが、かまをかけた。
「姉のエスターのことでね」と、博士が、しばらく口をつぐんでいてから「わしがあの姉妹を日本で知ったのは一九一三年でね。前大戦の直前だった」
「悲劇的なことなんでしょうね」と、エラリーが元気づけるように言った。
マクルア博士は、いきなり、葉巻を口にあてて「失敬だが、クイーン君……わしはこの話はしたくない」
「こりゃ、どうも失礼しました」と、エラリーは言ったが、しばらくすると「ときに、今度の受賞は、どういう研究だったんですか。僕は、学問上のことは、からっきし駄目なんですがね」
博士はみるみる顔を明るくし「わしの言う通りだろう。君らはみんなそうだよ」
「では、どういうお仕事ですか?」
「おお、ばかげた話さ。例によって早合点でね。たまたま、生きた細胞の酸化作用を調べるので、酵素をいじりまわしておってね――つまり、呼吸に伴う発酵作用なんだが……ベルリンのワルブルク〔十九世紀のドイツの生理化学者。細胞学者〕の研究をつづけていたんだ。そのとき、当の目的の方はうまくいかなかったんだが、ある副産物にぶつかってね……それが」と、肩をすくめて「本当のところは、まだよく分からんのだが、かなり有望らしいんだ」
「癌の研究に役立つようなものですね。僕は、癌は一種の細菌病だということに医家の意見が一致しているとばかり思っていましたよ」
「とんでもないことだな」と、マクルア博士が椅子の中ではね上りながら、大声で「どこで、そんなばかげたことを聞いたんだね、細菌病だなんて!」
エラリーは、ぎゃふんと参りながら「すると――そうじゃないんですか」
「おお、いいかね、クイーン君」と、博士はいらだたしそうに「癌の細菌学説は二十年も前に、お払い箱になっとるんだよ。わしが、まだ遠大な希望にもえていた若造の頃にね。今日、たくさんの学者たちが、ホルモンの方面から研究をすすめとる――たしかに、根本的には炭化水素の結合物に関連があると言えるんだ。みんなの研究の結果が同じ結論に到達するだろうと思うよ――」
ボーイがふたりの前でとまり「マクルア先生、ニューヨークからお電話です」
マクルア博士は、デッキチェアからあわてて立ち上った。その顔色が、また暗くなった。
「失敬」と、博士はつぶやくように言って「娘からだろう」
「ご一緒してもかまいませんか」と、エラリーも腰をあげて「事務長に会う用事があるので」
ふたりは妙にだまりこみ、ボーイについてAデッキの休憩室にはいった。博士は小急ぎに無線電話室へはいった。エラリーは、しきりにいきり立っている派手な婦人をなだめている事務長を待ちながら腰を下ろして、やや心配そうに、電話室の中の博士を、ガラスの仕切りごしに見守っていた。大柄なその姿が、何かを悩んでいるように見えた――その悩みの種がマクルア博士の衰弱の原因を、過労だなどという月なみな口実よりも、もっとよく説明してくれるだろうと、エラリーは思った。
次の瞬間、エラリーは椅子からとび上って、じっと立ちつくした。
電話がつながって、マクルア博士が受話器に向かって話しかけたとき、思いがけぬことが起った。見ると、ガラスの仕切りごしに、大柄な博士のからだがこちこちになり、電話器をつかむ手がふるえ、けわしい顔からさっと血が引いた。両肩ががっくりと下がり、全身がへたり込むように見えた。
エラリーは最初、博士が心臓麻痺にやられたのかと思った。だが、すぐに、マクルア博士の表情が肉体的苦痛を示していないのに気付いた。ショックを受けて青白い唇がねじれていた。とても大きな、おそろしいショックだったのだろう。
やがてマクルア博士は電話室の戸口に出て、息苦しいかのように、カラーをゆるめていた。
「クイーン君」と、博士は聞きとれぬような声で「クイーン君。船はいつドックに着くかな」
「水曜日の正午前です」と、エラリーは手をのばして博士を支えてやった。博士の硬い腕がふるえていた。
「弱ったな」とマクルア博士がしわがれ声で「まだ一日半かかるか」
「先生。どうかしたんですか。お嬢さんが――」
マクルア博士は、自らをはげまして、エラリーがあけた革椅子のところまで、努力しながら歩みよると、腰を下ろして、ガラス仕切りの電話室を、まじまじと見つめた。その目玉は黄ばみ、血ばしっていた。エラリーはすばやくボーイに合図して、酒を一杯持ってくるように小声でいいつけた。ボーイは駆け出して行った。事務長があわてて、休憩室を突っ切ってかけつけ、その後から例の派手な婦人がついて来た。
博士は突然、全身の底から、がたがた震えた。その顔は、なんともいえない奇妙な苦痛にゆがみ、頭脳にこびりついて離れようとしない怖しい考えにちぢみ上っているかのようだった。
「実におそろしいことだ」と、もぐもぐ言った。「とんでもないことだ。てんで見当がつかん。実におそろしい」
エラリーが博士をゆすぶって「博士、一体どうしたんですか。誰からの電話だったんですか」
「え」血走った目が、盲《めしい》のようにエラリーを見上げた。
「誰だったんですか」
「おお」と、マクルア博士が「おお、おお、そうだ。ニューヨーク警察からだよ」
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エヴァは、四時半に長いすの上で起き直り、両腕をのばして、あくびをした。象眼細工のテーブルから取り上げた本を放り出して、鼻に小じわをよせた。本がつまらなかったのだ。いや、それじゃひどすぎる――本当は、文章のつなぎも、よく、頭にはいらなかったのだ。エヴァはたくさんのことを考えなければならなかったのだ――結婚のこと、新婚旅行のこと、家と住居、家具のことなど……
カーレンの仕事が、じきに片付かないようなら、横になってひと寝入りしようかと思った。六時には船上のマクルア博士に電話をかけるつもりだったが、それまでにはまだたっぷり時間がある。エヴァは待ちきれない気持だった。カーレンが部屋を出てくるか、どうかしてくれるといいのに、ふたりで一緒にパンシア号に電話がかけられるといいのにと思った。それとも、水曜日の朝、パンシア号が埠頭につくまで、結婚のニュースを伏せておいて、マクルア博士をびっくりさせようかしら……
カーレンの寝室で電話のベルが鳴った。
エヴァは聞くともなく、微笑しながら、また、絹の枕に、横になった。電話のベルがまた鳴った。そして、切れて、また鳴った。
エヴァは閉まっているドアを見つめて、おかしいなと思った。電話は、庭を見下ろす張り出し窓の前の、いつもカーレンが仕事をするテーブルの上にあるのだ。手をのばせばとどく場所だ……また、電話のベルが鳴った!
カーレンはひるねでもしているのだろうか。それにしても、ベルがああがなり立てたら目をさますはずなのに。カーレンは、あの妙に謎めいた古めかしい屋根裏部屋にでも上がりこんでいるのだろうか。ところが……またベルが鳴った。
きっと、わざと放ってあるのだろう。カーレンは妙な人間で――神経質で、気分屋だ――電話がうるさいので腹立ちまぎれに返事をしないのかもしれない。仕事部屋に引きこもっているときには、どんな理由があろうと邪魔してはならないのが、この家《うち》の鉄則なのだ。だから、あの電話も――またしても電話が鳴ったとき、エヴァはゆったりと枕に頭をのせた。
だが、間もなく、エヴァははっとして起き直った。何か異変があったのかもしれない。さっき、キヌメが、カーレンは書きものをしていると言っていたじゃないか――しかし、何を書いているのかしら。キヌメが用箋と封筒を持って行ったじゃないか。すると、新作にとりかかっているはずはない、手紙を書いているはずだ。手紙を書いているなら、なぜ電話に出ないのだろう。
電話は、最後にもう一度鳴って、切れた。
エヴァはころがるように長椅子から下りて、スカートをひらめかしながら部屋を横切り、寝室のドアに駆けよった。カーレンに異変があるにちがいない。病気だと――さっき、キヌメが言っていた――この前会ったとき、カーレンがひどく参っていたようだったのを、エヴァは思い出した――きっと、カーレンは失神したか、何か発作をおこしているのだろう。それにちがいない。
エヴァがいきなりカーレンの寝室にとびこんだので、ドアがばたんと壁にぶつかって、はね返って来た。エヴァは胸をとどろかして、夢中であたりを見まわした。
最初、部屋がからっぽだと思った。低い日本式の妙な寝台にカーレンの姿はなく、庭を見下ろす張り出し窓の前の書きもの机にもその姿は見えなかった。事実、エヴァの目の前の机の向う側の椅子は、きちんとひざ穴に押し込まれていた。カーレンは仕事をするときに、三つの窓から肩ごしに光線をとるように机と椅子を据えていたのである。
エヴァは部屋を奥まで行って、あたりを見まわし、はてなと思った。すべてがきちんとしていた――寝台の向うには美しい日本屏風が壁によせかけてあった。いく枚かの水彩画がかけてあり、寝台のわきには大きな空の鳥籠が吊ってあった。カーレンお自慢の、日本の大画家小栗宗舟の懸け物も、みごとな骨董品《こっとうひん》も、みんな、ちゃんとしていた。ただ、カーレンの姿だけが見えないのだ。どこにいるのだろう。三十分前には、たしかにこの寝室にいたのだ。エヴァはちゃんとその声を聞いたのだ。あの屋根裏部屋にでも上っているのでないかぎり、誰もカーレンを見かけないなんてことはないはずだ……
そのとき、エヴァは、小っぽけな二つの日本風のはきものが爪先を下にして、机の向うの、壇のところからたれさがっているのを見つけた。張り出し窓の床は寝室の床より一段高くなっているのだ。そして、カーレンの足が、はきものをつけていた。日本の白足袋をはいていた。着物のはしが見えた……
エヴァはどきんと心臓がひきつれた。まあ、カーレン! やっぱり気を失っていたんだわ。エヴァは机をまわって駆けよった。カーレンは、壇のへりに添って、うつ向けに伸びていた。小さなからだを、ぴっちりと着物でくるんでいた……エヴァはキヌメを呼ぼうと口を開いた。
だが、はっと口をとじて、目をぱちくりした。目がくらんで。ただ、むなしく目をぱちくりするだけだった。目のほかは、からだじゅうが、すっかり、麻痺してしまったのだ。
壇の上に血が流れていた。
壇の上の血痕《けっこん》に、エヴァは目をぱちくりするだけで、頭がしびれて他のことは何も考えられなかった。血が流れてる!
カーレンの顔はエヴァからは横向きにねじれて、みがき上げられた壇の上にのっていた。そして白い喉のあたりの床が血に染まっていた。おびただしい血は、カーレンのやわらかい喉の正面にあいている赤い唇のような傷口の割れ目から、ほとばしり出たものらしい……エヴァは動物のような小さなうめき声をあげて両手で目をふさいだ。
やがて手をおろしたときには、麻痺していた頭の一部がかすかに働きはじめていた。カーレンはいかにも静かで、そのやつれた頬はいかにも白々とし、青味をおびているし、まぶたも、灰白色で青い筋が浮いていた――死んでいるのだ。喉を刺されて死んだのだ。カーレンは……殺されたのだ。
そんな思いが、エヴァの頭の中で、さっき鳴りつづけた電話のベルのように鳴りひびいていた。電話のベルはとまったが、エヴァの思いはとまらなかった。エヴァは両手で机をさぐった。何かにつかまらずにはいられなかったのだ。
手先に何か冷やりとさわったものがある。エヴァは本能的に手を引込めて、眺めた。金物《かなもの》だった。先がとがり、もとが輪になっている細長い金物だった。エヴァはほとんど意識せずに、それを、取り上げてみた。それは――変なものだなと、エヴァは、ぼんやり考えていた――それは、はさみの片刃だった。刃の根もとの、刃と指を入れる輪との中間に、小さな穴があいているのに気がついた。はさみの二枚の刃をつないでいたねじが抜けたあとの穴なのだ。それにしても、実に妙な形のはさみだった……
エヴァは危うく悲鳴をあげそうになった。刃は、どきどきするほど鋭くとがっている――これが、カーレンを殺した兇器なのだ。だれかが、この片刃でカーレンを刺し殺して、刃の血のりをぬぐって――残していったのだ。エヴァがぞっとして手を引いたので、刃はぽろり落ちて、机のはしに当り、椅子の右側に置いてある半分ほど屑紙のつまった小さな屑籠《くずかご》にすべり込んだ。エヴァは無意識にスカートに指をこすりつけたが、片刃のぞっとする冷たさが、手にこびりついていた。
それから、よろよろと机をまわって、壇の上のカーレンの死体の横たわっているそばにひざをついた。カーレン、カーレンと、エヴァは必死に考えていた。あんなにも奇妙に美しかったのに、あんなにも長い年月隠棲していたあとでぱっと倖せになれたのに、今、こんなにも怖しい死に方をするなんて! エヴァは気が遠くなりそうになり、両手を壇の床について、やっとからだを支えていた。すると今度は、生温《なまぬ》るいジェリーのようなものが指先にふれたので、あっとばかりに――わけもなく、おし殺した叫び声をあげた。静まりかえった部屋の中で、低くつぶやくような叫び声だった。
カーレンの凝結した血が、エヴァの手にべったりついていた。
エヴァはとび上り、夢中になってあとずさりした。胸がむかつき、こわさで気が狂いそうだった。ハンカチで、拭かなければ……とスカートのウェスト・バンドを手さぐりした。スカートやウェストに、べっとりとした血のりをつけないようにと、妙に気をくばっていた。エヴァはハンカチをとり出して、いくどもいくども手を拭いたが、どうしても汚れがとれないような気がした。手をふくとハンカチはジェリーのような真赤な血のりでまみれた。エヴァはカーレンの真青な顔をむさぼるように見つめていた。
そのとき、どきっと心臓がとまった。誰かが、すぐ後ろで、冷たく、感情のない声で、くすくす笑ったのだ。
エヴァはすばやくくるりと振り向いて、危うく倒れそうになった。机に背をもたせかけて、血まみれのハンカチを胸のあたりで、握りしめていた。
寝室の戸口によりかかっている男が、冷たく、非情な声で笑いつづけていた。
だが、その目は全然笑っていなかった。冷たく灰色で、エヴァの顔より手の方へ視線を注いでいた。
やがて、その男が、低い、ゆっくりとした口調で「じっとしててくれ。べっぴんさん」
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入り口のかまちに立ちはだかっていた男が、爪先立ちで、真直《まっすぐ》に部屋へはいってきた。ひどく用心深く歩くので、エヴァは危うく噴笑《ふきだ》しそうになった。だが、笑い出さなかった。爪先立ちで歩きなれているらしく、その歩き方が妙に典雅だなと、エヴァは心の底で思ったからだ。
男はエヴァの顔を見ないようにしていた。エヴァの持っているハンカチに、冷たい注意力を集中しているらしい……この血まみれのハンカチを気にしているんだわと、エヴァは、ぼんやりした恐怖におそわれながら考えた……そして、そのいまわしいハンカチを床に落とすと、机のそばを離れかけた。
「じっとしててくれと言っただろう」
エヴァは身をかたくして立ちどまった。男は歩みをとめ、鋭く目をくばってエヴァを睨みながら、ドアのところまであとずさりして、手さぐりで把手《とって》をみつけると、ドアを閉めた。
「あたし――このひとが――」と、エヴァは肩をふるわせるようにしながら言いかけたが、口が、からからで、声が出なかった。
「黙ってるんだ」
男は若くて、秋の枯葉のように、ひからびた青茶色の顔をしていた。その声は、ほとんど閉じている唇の間から、氷水のように冷くぽつりぽつりと出て来るのだった。
「そのまま動くんじゃないぞ。机に向いて立ってろ。手を見えるところへ置いておくんだ」
部屋がぐるぐるまわり出した。エヴァは、目を閉じた。目まいがした。手を見えるところに置くんだ……両足が凍りついていたが、エヴァの頭は機械のように働いていた。意味もないことをいって。手を見えるところに置いておけなんて……
エヴァが、もう一度相手を見直すと、相手は灰色のダイヤモンドみたいな目に、いぶかしそうな色をうかべて、真正面に立っていた。もう、机の上にひろげられたエヴァの手には目もくれず、じっと、こちらの顔を見つめていた。エヴァの顔色を読んでいたのだ。じっくりと、顔の道具立てをひとつひとつ――眉、目、鼻、口、顎と――まるで調理士が在庫品をしらべるように、見まわしていた。エヴァは混乱の中に筋道をつけようと努力したが、何ひとつまとまらなかった。夢を見ているような気がした。夢ならいいと思った。これはたしかに夢なんだと信じかけて、夢なら夢にしてしまおうと、ふたたび目をとじた。
男の動くけはいが聞こえないから、たしかに夢なのだと思った。というのも、次に目をあけてみると、相手は目の前から消えていたからだ。
だが、振り向いてみると、相手は机の後ろの張り出し窓の中で、カーレンの死体のわきに片ひざついていた。カーレンにも、床の血痕にも、それどころか床にさえ、触《さわ》らないように片ひざをついていた。
エヴァには、死体にかがみ込んでいる相手の、けわしい、褐色の若い顔を、はっきり見ることが出来た。かつて見たことのある、どの顔ともちがっていた。エヴァの知っている男のだれも――マクルア博士もリチャード・スコットも――こんな顔付きはしていない。ほとんど毛がなく、褐色でのっぺら坊に近く、厚い材料で一枚作りにした仮面のようだった。そのきびしさと、無表情さがなければ、少年の顔と言えるほどだった。敵地を生き抜いて来た大人がかまえている、褐色の盾のような顔だった。肩幅《かたはば》がひろく、大きくてきれいな褐色の手をしていた。かがみこんでも、腹部にたるみが見えず、そこもぺこんとして、しまっていた。リチャードのお腹は――少したるんでいる。リチャードのお腹は……そう、リチャード!……そして、この大男は、少し粋《いき》すぎるグレーの薄い夏服を着、濃紺のシャツ、白い絹ネクタイをつけ、少し気取りすぎた帽子――白い麦わら帽子を、片方の灰色の目のふちまで、引き下げて、かぶっていた。
褐色の男は、いきなり立ち上ると、忍び足で歩きはじめた。部屋の中の、ひとつの品物から、ひとつの品物へと、歩きまわった。狩人《かりうど》のような忍び足だわと、エヴァは思った。何ものにも手を触れずに、隅々まで見てまわり、見てまわりながら何かを探していた。そうしながらも、絶えずエヴァを充分に見張れるように、細かい神経を使って、振り返り、歩き、立ちどまる。まるで競走|馬《うま》だわと、エヴァは思った。
何者かしらと、エヴァは考えた。何者かしらと、ひとたびそう考え出すと、とめどなく、その考えで頭が一杯になった。何者かしら。今までに一度もみかけたことがなかった。カーレンや、エヴァの知っているだれかの友達とは、とうてい考えられない――エヴァはこんな男など、まるで見当がつかなかった。競走場の賭博師《とばくし》や、タイムズ・スクェアをうろついている変な連中と、どこか似ているが、やはり違う。
何者かしら。どうやってこの邸にはいり込んだのだろう。ずっとこの寝室にひそんでいたのだろうか。しかし、エヴァがとび込んだときには、たしかにカーレンしかいなかった。すると、なぜこの男はここにいるのだろう。商売はなんなんだろう。この男は――ギャングかしら。ギャングのねらうようなものがあったのかしら……それを手に入れて――
エヴァははっと息をのんだ。動くひまもなく、男はエヴァの前に立っていた。エヴァの両手をとり、それを自分の片手で、あっさりとつかんだ。手が痛んだ。もう片方の手でエヴァの顎をつまみ、少しばかり彼女の頭をゆすぶった。それだけで、エヴァは歯ががくがく鳴り、目に涙が浮かんだ。
「てきぱき答えるんだぜ、姐《ねえ》ちゃん」と機関銃のようにまくし立てた。「名前は?」
エヴァは、子供みたいに、うわの空で「エヴァ、エヴァ・マクルアよ」と答える自分の声を聞いて、びっくりした。
かすかに男の手がひきしまったので、自分の名前に聞きおぼえがあるんだなと思った。だが、相手の目の色は動かなかった。
「ここへはいったのは、何時だね」
「四時、四時頃よ」
「誰が取り次いだ?」
「女中よ」
エヴァは、なぜこんな変な男の質問に答えているんだろうと、ぼんやりいぶかったが、意志の力がすっかり抜けてしまって、棒でつつかれる|くらげ《ヽヽヽ》のように、刺激に対して反応を示しているにすぎなかったのだ。
「日本人かい」
「キヌメがカーレンに用箋をとどけに来ていたのよ。居間からカーレンの声が聞こえたけれど、姿は見えなかったわ。あのひとは、あたしがここにいることは知らなかったのよ。キヌメが部屋から出て来て、カーレンは書きものをしていると言いましたわ。あたしは、キヌメをさがらせて、待っていたのよ」
「何を?」
「カーレンと少し――何か――おしゃべりをしたかったのよ」
「どのくらい待ってたんだい」
「ここの電話のベルが鳴ったのは四時半だったわ」と、エヴァは機械的に「しばらく鳴りつづけて、とまったわ」なぜか、相手が電話のかかったことをすっかり知っているような気がした。しかし、どうして知っているのか、どうして相手が知っているのを自分が知っているのか、それはエヴァには説明つかなかった。
「あたしは、心配になって、はいって来たのよ。そうしたら、この通り――カーレンが」
エヴァの声は、なぜか、自然にしぼんだ。相手はいぶかしそうな顔でエヴァの言葉を測《はか》っていた。その灰色の目が、人をとらえて放さない力は実におどろくべきものだった……
「血まみれのハンカチで何をしていたんだい」ハンカチはふたりの足許に落ちていた。男はそれを蹴とばした。
「あたし――あたし、カーレンのそばに行ってみたの。そのとき、床の血が手についたので、それを拭いたのよ」
男はエヴァの手と顎を、ゆっくり放した。男の指がしめつけた凹みに血がもどって来るのが分かった。
「もういい、姐ちゃん」と、男がゆっくりと「とても嘘のつける玉じゃないな、あんたは」
足から力がぬけて、エヴァはへたへたと床にくずれ、机によりかかって、おいおいと、ばかのように泣いていた。褐色の男は、大股で立ちはだかり、エヴァを見下ろして、まだいぶかしそうな様子だった。やがて、男が歩を移した。その足音は聞こえなかったが、また、そわそわと室内を歩きまわっているのが分かった。
リチャード……リチャードがここにいてくれさえしたら、腕に抱かれて安全なのに――褐色の怖い目の男から守ってもらえるだろうに。おお、自分があのひとのものでさえあれば――結婚さえしていれば、いつもいつも安全で、永久に守ってもらえるだろうに。エヴァは懸命に泣きやめようとしたが、そうすればするほど止《や》められなかった。リチャード……それにお父さん。しかし、マクルア博士のことを思い出したとたんに、エヴァは、その考えを心の奥底の戸棚に押し込んで、ぴしりと錠をかけてしまった。この場合、遠い大洋の上にいる、疲れた大男のことなど、念頭に置きたくなかったのだ。
いきなり後ろでがちゃんとガラスが割れ、何かがエヴァの頭をかすめて、目の前の床にぱしっと落ちた。
エヴァの後ろで、まさに壇を上りかけていた得態《えたい》のしれぬ男は、危うく、そのつぶてを顔に受けそうになった。男は、とっさに腕をあげて、張り出し窓の中央の硝子《ガラス》のふきとぶ破片から目をかばった。それからすぐ、エヴァとその男は、互いに反対の窓から、つぶてが飛んできた庭を見下ろした。床から、どうやって立ち上ったか、自分でも分からなかった。おぼえているのは、ガラスの砕ける音と、褐色の男と張り出し窓のそばに来ていたことだった。血痕と、小さな静止している死体……気がつくと、エヴァは褐色の男の硬いからだに、ぴったり寄りかかっていた。
しかし、下の庭には人影がなく誰か分からないが窓をぶちこわした人間は消え失せていた。
突然、エヴァはげらげら笑い出して、とめようがなくなった。おかしくっておかしくって、少しけいれんするように笑いながら、褐色の男に、からだをぶつけた。硬いからだだなと思ったが、相手の存在はまったく気にならなかった。やがて、エヴァは壇を下りて、ふらふらと机によりかかりながら、げらげらと涙をこぼして笑いつづけた。
「石をぶつけるなんて」と、エヴァはあえぎながら「カーレンに――カーレンに、石をぶつけるなんて……」
男が激しく平手うちをくれたので、エヴァはその痛さに悲鳴をあげて飛びしさり、卒倒しそうになった。
「声を出すなと言ったじゃないか」と、男は眉をしかめたが、妙に、いいわけじみた口調だった。
そして、すぐに、恥ずかしそうに顔をそむけた。殴ったからじゃなく、わびるような口をきいたのを恥ずかしがっているんだわと、エヴァは思った。エヴァは、男を見つめながら、自分がまるっきりおろかで、うつろなのを感じた。いっそ意識を失った方がよかったなと思うほどだった。
見知らぬ男は、ちらりと、こわれた窓を見た。ガラスがふっとんだのは中央の窓で――下から押し上げてあける窓だから、重なっているガラスは二枚ともやられていた。男は分厚い垂直の鉄格子を、しげしげと見ていた。鉄棒はきちんと六インチおきにはめられて、張り出し窓の三方を、外側から囲っていた。それから、男は投げこまれた石を見に行った。その途中で、ちょっと、腕時計を見た。
石は寝室の床の真中にころがっていた。およそありふれた石だった。下側が上向きになっていて、黒い土が少しつき、その土が床に少しちらばり、庭でひろい上げられたばかりらしく、しめり気をおびていた。卵型で長い方の直径が五インチぐらいの大きさだった。男が爪先でひっくり返してみると、反対側は土がついていなかった。ただそれきりのものだった。
「なんだつまらない」と、しばらくして言った。エヴァには相手が結論に達したのが分かった。
「子供のいたずらだ」と、男はちょっと肩をすくめて、この事件にけりをつけた。
「ときに、マクルアの娘さん」
「なあに」と、エヴァが。
男は石をまたいで近づき、エヴァを見すえて「日本人の女中が、用箋を持って来たとき、カーレン・リースの声が聞こえたと言うのは、たしかかね」
「たしかよ」
「その用箋はあれかね――机の上のあの紙片かね」
見ると、象牙色の地に、淡いばら色の菊の模様をちらした封筒と漉《す》きっぱなしの耳つきの紙が一枚置いてあった。しかし、用箋の方は、まるめてあり、そばの封筒には何も書いてなかった。
「同じもののようですわ」と、エヴァがか細い声で言った。
男はエヴァの方に歩みより、ハンカチを取り出して、それで手をくるんでから、まるめた紙をつまみ上げて、しわをのばした。何か書いてあった――エヴァは文字を読んだが、気が転倒しているので、まるで意味がとれなかった。「モレル」という字が心にとまった。――カーレンの弁護士だ。しまいまで書かれなかった手紙の書き出しは、モレルに宛てるものだったらしい。文章が中途でとぎれていた。
「あの人の字かい」
「ええ」
男は用心深く用箋を丸めて、正確に机の上の元あった場所に返した。それから、机をぐるりとまわり、引き出しを全部しらべた。
「他に用箋はないな」と、つぶやき、上唇を引っぱりながらちょっと立って考えてから「おい、姐ちゃん。日本女がこの部屋から出て来た。その女はリースに用箋を渡して出て来た。あんたが見たとき、日本女が持っていた紙には何も書いてなかったかい」
「ええ」
「すると、その女が殺《や》ったんじゃないな。カーレンは、その女が出てってから用箋に書いたんだからな。日本女が出て行ったあとも生きていた証拠だ。これではっきりした」と、男はまた腕時計をのぞいた。
「キヌメが」と、エヴァは「キヌメがこんなことをするもんですか――こんなひどいことを」
「だから、したんじゃないと言ってるんだ」と、男は、むっとしながら「あんたは、ずっと、居間にいたんだろうな。全然、離れなかったんだろうな」
「いたわよ」
「待っていた間に、この部屋に出入りした者がいるかい」
「だれもいないわ」
「いない?」と、男は驚いたらしい。さぐるようにエヴァを見つめるひとみに、また例のいぶかしげな色が浮かんで来た。エヴァには、その理由が分からなかった。まさか、あたしがやったわけでもないのに。本当に、カーレンのことなんか、もう、どうでもいいんだ――カーレンの死なんか。エヴァが望むのは、ディックだけだった。……
褐色の男はドアに走りより、耳をすましていたが、音もなく引きあけ、戸口に立って居間を眺めまわした。居間にはドアが二つあり――ひとつは廊下へ通じ、あとのひとつは男が立っているドアだった。男は振り向かずに、おし殺した声で「おい、間違いないな。居眠りはしなかっただろうな」
「誰も出入りしなかったわ」
男は両手を軽く握りしめながら、引返して来て「もう一度、日本女だ。そいつは、どのくらい、この寝室にはいっていたね」
「十秒もいなかったわ」
「畜生!」と、男は怒って顔をまっ赤にして「あんたが、その居間に坐ってる間に、カーレンは刺し殺されたんだぜ。それなのに、誰も部屋を通り抜けなったと言うのか。すると、一体、人殺しはどこから、はいったんだい。日本女中が用箋を持ってくる前から、奴が隠れていたとしても、いったいどうやって抜け出したというんだね。さあ、何とか言ってみろよ。おい、何か言えよ」
「分からないわ」と、エヴァが言った。頭痛がして何も考えられなかったのだ。それに、そんなことはどうでもいいような気がした。
男はいっそう怒り出した。なぜ、そんなに腹を立てるんだろう。
「よしきた。人殺しが居間を通ってずらかれなかったとすると」と、まるで自問自答するように「とにかく、奴はこの場からずらかったにちがいない――いまここに居ないんだからな。どうやってずらかったのか、窓から抜けたのか。いや、みんな鉄格子がはまってる。気が狂いそうだな。奴が全然はいってこなかったものとしてみると――つまり、部屋の外にいて、屋根から綱でぶら下がるとかなんとか、ばかげたまねをして、格子越しに、ナイフを投げつけたものとすると。じゃ、なぜナイフがカーレンの喉に刺ったままではないのだろう。話にならんぞ……それに、この部屋には廊下に通じるドアはないんだ――居間に通じるドアがただひとつきりなんだ。畜生、分からんな」
「そうじゃないわ」と、エヴァが、ものうげに「ドアはもうひとつあってよ」
「どこに」と、男はくるりと振り向いて、つきさすような目で部屋を見まわした。
「でも、そのドアには手を触れちゃいけないのよ。おねがい、さわらないでね」
「どこにあるんだ」
「カーレンは――カーレンは誰にもさわらせなかったのよ。誰にも――誰にもドアに近よらせなかったわ。女中にも誰にも」
男はのしかかるようにエヴァをのぞき込んで、いきり立っていたので、その熱っぽい息が額に吹きかかるほどだった。「どこなんだ」と、男は、むっつりした声で訊いた。
エヴァは、おびえて「日本屏風の後ろよ。屏風のかげになっているのよ」
男は一足とびにそこにとんで行き、屏風をはねのけると「どこへ通じてるんだ。早く」
「あのう――屋根裏部屋よ。いつも、カーレンが仕事をしていた部屋よ。今まで、誰も上っていったものはいないの――あたしのお父さまさえね。おお、おねがいよ、よして……」
L字形の部屋の一角にとりつけられた、ごく普通のドアだった。男の熱はひいて、前よりもずっと冷静になった。身動きもせず、ドアにさわろうともしなかった。ただ見つめていた。やがて、エヴァのそばに戻ってくると「閂《かんぬき》が下りてるな。しっかり穴にささってるぜ。ドアのこっち側にね」
今はもう全然怒ってはいなかった。ただ、警戒していた――最初この部屋にはいって来たときと同じように警戒していた。肩が少し盛り上っていた。
「この閂にさわったかい」
「近づきもしなかったわ。なぜ――なんで――」
男はまた、前と同じように、ひからびた非情な声で、くすくす笑った。
「あたしには――さっぱり分からないわ」と、エヴァが、つぶやいた。
「あんたにとっちゃ運のつきだな、べっぴんさんよ」と、男が「たしかに、幕が下りたってもんだぜ」
そのとき、壇の方から不気味な音がきこえた。ふたりとも、ぞっとした。エヴァの髪が――ぞおっと、一本のこらず逆立ち――頭の地がちくちくするような感じだった。それは、喉にからまる、かすかな重苦しい音だった。おそろしい、だが、たしかに人間のしわがれ声だった。……しかも、生きている声なのだ。
「まあ、どうしましょう」と、エヴァはささやくように「あのひとは――あのひとは――」
エヴァが身動きもできずにいる前を、男はかすめて行き、やっと足を動かせるようになったときには、男はもうカーレンのそばにひざまずいていた。
カーレンは、かっと目を見ひらいて、じっと覗き込むようにエヴァを見つめていた。その、あまりにも激しい視線をさけるために、エヴァは目を閉じずにはいられなかった。だが、エヴァは、また目をひらいた。血の気のない唇をほとんど動かさずに、斬りさかれた喉から、ぶつぶついうカーレンの声が、まだ聞こえていたからだ。
男がかすれた声で「リースさん。誰が刺した――」と訊きおわらないうちに、カーレンの目がにごり、動きがとまり、そのゆがんだ口から、何か赤いものが、ほとばしり出た――エヴァは息が苦しくなって、夢中で顔をそむけたが、その前に、すっかり見てしまった。
男は立ち上って「とうとう死んじまった。畜生。だが、よくねばったな、まるで……」
それから、シガレットをとり出し、ゆっくりと火をつけると、マッチの燃えさしをポケットにおさめて、もう、カーレンには見向きもしなかった。
しばらくして。その若々しい口から、たばこの煙とともに、ぎこちなくとぎれとぎれの言葉が「あんたは、どういって、言い抜けるつもりかね」
エヴァはただ相手を見るだけが精一杯で、声など、ろくろく耳にはいらなかった。
「アリバイをつくることさえ考えつかないらしいな」と、相手は苦り切って「一体なんだって、今日ここに来ちまったんだろうな。いまいましい」
「するとあなたは――」と、エヴァが、かすれた声で「あなたは、私が――」
「姐《ねえ》さん、あんたはむずかしい立場だぜ。あんたみたいな大ばかか、お利口さんには、出会ったことがないよ」と、男は、相変わらずいぶかしそうに、エヴァを秤《はか》りながら、冷たい目でじろじろ見ていた。
「どうして?」とエヴァはくぐもり声で「あたしは何も――」
「いいかね。あんたがここに来たときには、まだ、カーレンは生きていたんだ。日本女が出て行ってから、電話のベルが鳴るまでの間には、居間を通って、この寝室に出入りした者は誰もいない。たしかに、あんた自身がそういってる。ところが、この鉄格子を抜けて逃げ出せる奴はいないし、もうひとつのドアからもずらかれないんだ――ドアは屋根裏部屋に通じているし――しかも、こっち側から閂がかけてあるんだからね。すると、どうなる? どこにも逃げ道がなかったわけだ。自分で考えてみるといい」
エヴァは急に震えて目をこすった。「本当にごめんなさいね」と、落ちつきをとりもどした声で「あたし少し、少し――カーレンのことで気が転倒していて――でも、あなたは、まさか、あたしが――」
男はあいている方の手でエヴァを引きよせ、困惑している灰色の自分の目を見つめさせるようにねじ向けて「おれはね」と、荒っぽく「誰もずらかった奴がいないと言ってるんだ。誰も逃げられっこなかったからさ。つまり、カーレンをやっつけることが出来たのは、なんてったって、あんたしかいないってことなのさ」
目の前で男の顔がふらふらゆれ、褐色の卵形の顔の色が濃くなったり薄れたりして消えていった。リチャード、リチャード、リチャード、おねがい。どうぞ、来て頂戴、ディック、ディック……
「そればかりじゃない」と、男は荒っぽく苦々しくつづけた。「仔羊が尻尾をこちょこちょと振る間《ま》に、ニューヨーク警察が、あんたの生活に割り込んで来ようってもんさ。カーレン・リースは午後五時に、ここで、警察のデカと会う約束があったんだぜ。あと二分で五時だよ」
やがてエヴァは、遠く聞きととれぬほど、かすかに叫んでいる自分の声を聞いた。「いいえ、私がしたんじゃありません。おお、おねがいです。私の言うことを信じて下さい。私がしたんじゃありません。私じゃありません」
しかし、その間じゅうも、別の声が、エヴァの頭の中で、あらゆるものが、崩れ落ちたんだ、もうなにもかも駄目なんだ――ディックも、結婚も、幸福も……生命もないんだと、しゃべりつづけていた。
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第二部
はるか遠くでたたかれているような頬《ほお》の痛みを、エヴァはおぼろげに感じた。それと同時に、褐色の男の声が遠くで、何か言っているように聞こえ始めた。
「しっかりするんだ。なんてこった、失神するなんて! しっかりするんだ」
やがて、相手の声が、太くはっきりしてくると、エヴァは目をあけて、自分がまた床に倒れ、褐色の男がそばにひざまずいて、気ぜわしくぱちぱちと頬をたたいているのに気がついた。頬がひりひりした。
「たたかないで」と、エヴァは弱々しく男の手を払いのけて、起き上りながら「子供じゃないわ」
相手は手をかしてエヴァをたすけおこすと、しっかり抱くようにして肘をつかんで、ゆすぶりながら「カーレン・リースを刺したのは、あんたかい、あんたじゃないのかい。さあ、話すんだよ!……ちぇっ、また、失神か」
男は倒れたエヴァをいまいましそうににらみつけた。エヴァにはカーレンの寝室がまた暗くなってきた。ずっと以前に、これと同じようなことがあったっけ。ずっと昔に。ナンタスケットに、この男と同じような、褐色のすばしっこい顔つきの少年がいたっけ。この男と同じようなけわしい灰色の目の少年だったっけ。あのとき、エヴァは木から落ちて気を失った。すると、その少年は、エヴァが痛さで正気にもどるまで頬をうちつづけた。エヴァは、悲鳴をあげて少年をたたき返し、まっ赤になって罵《ののし》った。失神して、しかもそれを少年に見られたのが恥かしかったからである。エヴァは暗い中で、手をむずむずさせて、褐色の男をたたき返そうとする自分を押えなければならなかった。その努力で暗やみが消えていった。
「いいえ」と、エヴァが「あたしじゃありません」
男の目は、いかにも疑い深く、いぶかしげで、あのときの少年とそっくりな、けわしい落ちつきのなさを示していたので、エヴァはわけもなく相手が気の毒になった。
「あんたがやったんなら、そう言うんだ。言うまいと思えば、おれは口をつぐんでるからな。はっきり言ってくれ」
エヴァ・マクルア――結婚の約束も出来、多くの友達から羨まれる身であり、自分をとりまく狭い世界の中心になっているこの自分が、いま、罠に落ちてしまったと、エヴァは思った。おそろしい罠にかかって、罠の歯がじりじりと食いこんでくる。その鋭い顎のひとかみであらゆるものを引き裂き、くいちぎる。その痛い歯が、なつかしい人々の面影さえくいちぎった。カーレンは――硬直した死体にしかすぎず、マクルア博士は、遠くはなれた存在だし、ディック・スコットも鼻先にぶらさがっているくせに、もう味わうことの出来っこないご馳走にしかすぎなくなっていたのだ。自分だけがこのいやらしい世界に取り残され、とじこめられている――この恐ろしい部屋に、苦《にが》りきった褐色の男と、死体と、血痕とともに……しかも苦い顔をした男は自分の肘をしっかりつかまえて引きとめているんだ。そうじゃないかもしれない――男をしっかりつかまえているのは自分の方かもしれない。この男は、すがりつくのに都合のいい相手だった。つかんだ男の手は強く暖かく生々しかった。
「カーレンを殺しやしないわ。ちがうわ」と、エヴァはぐったりと相手によりかかった。
「あんたひとりしかいなかったんだ。ごまかそうとするんじゃないぜ――そりゃ古狸《ふるだぬき》にはごまかされたこともあるがね。その外の奴には、ごまかされたこたあないんだぜ」
「それほど自信があるのなら、なぜ、あたしに訊くのよ」
男は、またエヴァをゆすぶり、つきのけて、その目をのぞき込んだ。
エヴァは目を閉じ、すぐに、また見ひらいた。「信じて頂戴」と、ため息をもらして「ありのままに言ってるだけなのよ。信じてもらうよりほかはないわ」
男が歯がみして、エヴァをつきのけたので、エヴァは後ろ向きに机に倒れかかった。男は真一文字に口をひきしめていた。
「大ばか野郎め」と、男がつぶやいた。自分自身を罵っているのだとエヴァは思った。
男は例の、動物的なすばやさで、あたりに目をくばった。その動作にはエヴァを、うっとりさせる力があった。
「これから、どうなさるつもりなの」と、エヴァがあえぐように言った。
男は屋根裏部屋へ通じるドアにとんで行き、麻のハンカチをとり出して、右手に巻くと、動物が餌にとびかかるように、ドアの閂《かんぬき》にいどみかかった。ハンカチでくるんだ指で、差し鉄《がね》の小さな|つまみ《ヽヽヽ》をつかんで押した。差し鉄はびくともしない。向きをかえてまた押したが、びくともしなかった。
「きついな」と、引っぱりながら「そのハンカチ。さっさとするんだ。そこの血がついてる奴さ」
「なあに?」とエヴァは、ぼんやり訊いた。
「床にある奴だよ。もやすんだ、さっさと」
「もやすって!」と、エヴァは相手の言葉をくりかえして「なぜ? どこで?」
「居間の暖炉でさ。先ず、あそこのドアを閉めとくんだ。さあ、さっさとやるんだ」
「でも、マッチ、持ってないわ――」
「おれの上着のポケットにある。ぐずぐずしないで、さっさとやれよ」
エヴァは、とび上った。事態は全くエヴァの考え及ばない方に進展していた。エヴァの頭はからっぽになっていたし、それが、かえって、ありがたかった。
頑丈な閂にいどんでいる男のポケットを探していると、引っぱったり、ひねったりするたびに腰がもりもり動くのが、エヴァの指先に感じられた。唇は全く見えなかった。見えるのは、盛りあがって、堅くなっている首筋だけだった。やっとマッチが指先につめたくふれて、みつかった。
エヴァは戻って、血まみれのハンカチの、頭文字を縫いとってあるすみをつまみ上げ、のろのろと居間にはいって行った。廊下に通じる居間のドアを締めたとき、寝室で閂にとり組んでいる褐色の男の荒い息づかいが聞こえた。
それから、エヴァは、暖炉の前にひざを下ろした。
火床《ひどこ》には、最近に火をもやしたあとがあって、灰と燃えかすが、少しばかり残っていた。エヴァは、前の晩が冷えたことや、カーレンがいつも寒がりだったことなどを、なんとなく思い出していた。カーレンは貧血症だった。しかし、いま、エヴァのハンカチについているのは、そのカーレンの血なのだ。貧血症のカーレンの血だ。
火床に血まみれの麻のハンカチを投げ入れたが、エヴァの指先がひどくふるえて、うまく火をつけるのに三本もマッチをすらなければならなかった。ハンカチの下に丸めこんだ半こげの反古《ほご》紙に火がつき、焔が麻布のはじに燃え移った。
カーレンの血が燃えると、エヴァは思った。カーレンの血を暖めているんだ……ハンカチはかすかに音をたてて燃え上った。
エヴァは立ち上って、よろよろと寝室に戻った。血まみれのハンカチが燃えるのを見ていたくなかったのだ。本当に、耐えられなかったのだ。ハンカチのことも、床にころがっていて、もはやカーレンとは言えないその死体のことも、自分の喉をしめつけている息苦しさも、みんな忘れてしまいたかった。
「もう、ここにいたくないわ」と、エヴァは男に駆けよりながら、金切り声で「逃げ出して――かくれたいのよ。ここから連れ出して頂戴――ディックのところか、おうちか、どこへでもいいわ……」
「よさないか」と、男は振り向きもしなかった。肩を張っているらしく軽い服地の肩がひきつれた。
「ここから出られればいいのよ――」
「あんたは、おしまいだよ」
「警察――」
「おそいようだ。運がいいな。ハンカチは燃したね」褐色の顔が汗で光っていた。
「でも、あたしがここにいるのが見つかったら――」
「日本女が見てただろう。畜生――この――閂ときたら」と、ハンカチでくるんだ手で、荒っぽく閂をがちゃがちゃたたいた。
「ああ」と、エヴァは、うめき声で「どうしたらいいのかしら。どうしたら――」
「ぴいぴいわめくのをよさないと、一発いくぜ……あっ」
不意に閂がきしんではずれた。男はくるんだ手でドアを引きあけた。そして、暗いドアの向うに姿を消した。
エヴァは身を引きずるようにして、ドアのところへ行き、かまちによりかかった。窮屈な、上にのぼる狭い木の階段があり……屋根裏部屋につづいていた。その部屋には、一体何があるのだろう。
アパートのエヴァの部屋には、ベッドと、黄色い水玉模様の白いクレープのベッドかけと、箪笥の上から三つ目の引き出しには、ストッキングが丸めて入れてあるし、戸棚には夏帽子がしまってある。ラベルの破れた古い旅行鞄。スージー・ホッチキスが妾か女優しか着ないと言ったので、むちゃくちゃに腹がたった真新しい黒のアンダーウェア。ベッドの上にかかっているのはブウゲロー〔フランスの画家〕作のひどい絵で――エヴァはうんざりだし、女中のヴェネチアもあきれているが、マクルア博士には気に入っている|しろもの《ヽヽヽヽ》なのだ……
頭の上で、褐色の男が、どすどす歩きまわる足音がし、窓のかけがねがかちりと鳴って、窓がきしんで開くのがきこえた……エヴァはマニキュア道具をしまい忘れて来たのを思い出した。また、女中のヴェネチアが、黒人らしい親切心から、かんかんになって叱りつけるだろう。それに、マニキュア液を敷物に一滴落して、しみをつけてしまったのだから……
そのとき、男が狭い階段をかけ下りて来て、エヴァをつきのけ、ドアを開け放しにした。そして、また、寝室を眺めまわした。胸がかすかに波打っていた。
「まるで分からないわ」と、エヴァが「あなたは何をしているの」
「あんたを逃がしてやろうとしてるんだ」と、男はエヴァの顔も見ずに「そのために、おれは、あとでひどい目にあうかもしれないんだぜ――えっ、べっぴんさん」
エヴァは、また框《かまち》にぐったりとよりかかった。そうだったのか、それで――
「いいかい」と、男は苦々しげに「大した冗談さ。おれの、柄《がら》の悪い商売を忘れさせないようにしてくれよな」
男は日本屏風に駆けより、用心して、それを壁の前に立てて、ドアの口をふさいだ。
「なにをしようとしているの」と、エヴァが、また、訊いた。
「少しは、巡査《おまわり》にも考えさせてやろうと思ってね。ここのドアにはこっち側から閂がさしてあったから、開けといたぜ。こうしとけば、連中は、犯人がここから出入りしたと思うだろうよ。犯人が庭から、あそこのL字型の屋根の裏手によじのぼって、屋根裏部屋に侵入したとみるだろうぜ」と、くすくす笑って「あそこには窓が二つあるが、両方とも錠が下りてる――むろん、内側からだ。誰も侵入出来っこないぜ。だが、あの窓のひとつを開けといてやった。ぬかりなくやっとかなきゃな」
「さっぱり分からないわ」と、エヴァはささやくように「とんでもないことだわ。いけないことだわ」
「連中は、犯人が屋根裏部屋の窓から忍び込み、ここへ降りてきて、仕事を片付け、同じ道を通ってずらかったと思うだろうよ。あんたは、鼻の頭におしろいでもたたいてくるんだね」
「でも――」
「さあ、さっさと顔をなおすんだ。そこまで、おれに手伝ってやらせるつもりなのかい」
エヴァはハンドバッグをとりに、居間へ駆けもどった。バッグは、さっき本を読んでいた妙な長椅子にのっていた……あれから、どのくらい経ったのだろう。かすかに煙のにおいがしていた。煙と、そして――
男は、もう一度、寝室を見まわして、念には念を入れて、たしかめた。
廊下で――ふたりとも、それを聞いた――ドアのベルが鳴るのを。
エヴァがやっとバッグの口をあけたとたん、それはさっと手から取り上げられ、パチリと口をしめて長椅子に放り出された。気がつくと、自分も床から抱き上げられ、どしんとばかり、バッグのわきに下ろされていた。
「暇がない」と、褐色の男が低い声で「そのままの方が、まだ、ましだろう――泣いていたように見えるからな。向こうの部屋で手をふれたものは」
「なんのこと?」
「なんに、さわったんだよ。さあ、急ぐんだ」
「机よ」と、エヴァがつぶやくように「張り出し窓の下の床と、そう」
「しっかりしろよ」
「忘れてたわ。それから何だったかしら。キラキラと宝石のついている鳥」
男の目が怒りにみちて、熱っぽくなっているので、エヴァは、また平手打ちをくうかもしれないと思った。
「鳥だって! 宝石だって! なんてこった。よく聞くんだ。口をしっかり閉めとくんだぜ。おれの指図通りするんだ。泣きたければ泣くさ。失神してもいいさ。どんな醜態をさらしてもかまわんが、ただ、しゃべりすぎちゃいけないぜ」
男はエヴァの言う、鳥、鳥みたいなものとは、何のことかさっぱり要領を得なかった。「それはそれとして――」
「いいかい、しゃべらなければならなくなったら、さっきおれに言ったことを、先ず、しゃべるんだぜ」と、男は、また寝室に駆け戻りながら「ただし、屋根裏部屋へ通じるドアに閂がさしてあったことだけは、絶対しゃべっちゃ駄目だぜ。いいな。あれは、初めから、今、見える通りになってたことにするんだ」
男は姿を消した。
男が去ると、胸のどきどきするのだけが、エヴァの意識にのぼった。警察だ。声がきこえる――新しい女中の声、キヌメの声、男の重々しくひびく声……廊下の先の階段のあたりだ。ふたりの女中が抗議し、男がそれを軽くあしらっているらしい。
エヴァは長椅子に身をこわばらせて坐り、座席のはしを、開いた手でしっかりつかみながら、あのひとには分からなかったのだと、思った。小さな|はさみ《ヽヽヽ》の片刃が机の上にあったのに。まがいの宝石が、きらきらしている鳥の形で、刃がくちばし、柄が胴体、輪が足だったのに。……あのひとは、あたしのことを気違いだと思ったらしいが、あたしはたしかにこの手にとってみたのだ。
エヴァは長椅子からとび立って、男を呼ぼうと、口をひらいた。
そのとき、廊下から、居間のドアを、どんどんとたたく拳の音がした。
エヴァは長椅子にどさっと腰を下ろして「おはいり」と言いかけたが、おどろいたことには、声は何も出ず、ほっと息が出ただけだった。
寝室から、褐色の男の、せき込んだ声がきこえた。「さあ、さあ、たのむよ、姐さん。警察本部につないでくれよ。なにしてるんだ。急ぐんだ、おい」
男は、やや声高になって「警察本部」と何度も繰り返した。ドアを叩く音がやみ、ノブが勢いよくまわると、さっと扉があいた。
見ると、真新しいフェルト帽をかぶり、古ぼけた紺サージの服を着た、小柄でやせぎすな白髪まじりの男が、緊張した顔付で戸口に立ち、右手をポケットに突込んでいた。
「警察本部に何用かね」と、新顔の男は、身動きもせずに、あたりを見まわして訊いた。白人の女中とキヌメが、その男の肩ごしに、こわごわと覗いていた。
「あなたは――」と、エヴァが言いかけて、褐色の男の言いつけを思い出して口をとじた。
戸口の男はいぶかしげに「あなたがリースさん?」と、丁寧に訊き、立ったままで見まわしていた。
「警察本部だよ」と、寝室から、褐色の男のわめき声がした。「一体、この電話は、どうしたってんだ。おい、交換手」受話器をがちゃがちゃ鳴らしていた。
すると、小柄な半白の男が、すばやく行動をおこしたが、褐色の男の方が一歩すばしっこく動いて、ふたりは寝室の外で、ばったり顔を合わせ、褐色の男が肩で戸口をふさいでいた。
エヴァは長椅子に坐ったまま、面白いメロドラマを見ているような気がした。ただ、坐って見ているだけで、胸がどきどきして息苦しかった。これは、まちがいなく現実のもの、本物のメロドラマなのだ……実際の。
「大したサービスだな」と、褐色の男が、うんざりしたように「犯罪があったと報らせる前に、デカを送ってくるなんざあ。よう、ギルフォイル。細君はごきげんかね」
半白の男が、声をとがらせて「へえー、また君かね。この鬼ごっこは、一体、どうしたってことかね」と、エヴァの方を向いて「リースさん、あなたがカーレン・リースさんでしょう。わたしは、ここに来るように命令されて――」
戸口から、キヌメが日本語でぺちゃくちゃまくし立てた、褐色の男が、その方をじろりと睨んだので、キヌメは口をつぐんだ。
女中たちが、ふたりとも、この男を知っていることに、エヴァは、ふと気付いた。やがて、男はギルフォイルの腕をつかむと、くるりと向きを変えさせた。
「こちらはカーレン・リースさんじゃないぜ、間抜けだな。エヴァ・マクルア嬢だよ。レディの前では帽子を脱げよ」
「おい、テリー」と、ギルフォイルが情けなさそうに「そうがみがみ言うなよ。それにしても、一体何事かね。僕は命令で来たんだが――」
「帽子を脱げったら脱げよ」と、褐色の男は笑いながら、ギルフォイルの頭から、真新しいフェルト帽子をもぎとった。そして、肩越しに親指で差しながら「リースさんは、あっちだよ」
ギルフォイルは、むっとして、しゃがんで帽子をひろうと「僕に手を出すなよ。こりゃ何事だい。ボスの命令で来てみると、いきなりテリー・リングにぶつかるなんて」と青白い顔に疑惑を深めながら「おい。犯罪だって。犯罪といったな」
すると、相手の名はテリー・リングなのだなと、エヴァは思った。きっとテレンスとでもいう本名だろう。アイルランド人らしい。そして、こちらのギルフォイル刑事とは、まるで人柄がちがう。愛敬がある。たしかに、愛敬があって、灰色の目尻にはクレープのような小じわがあり、ひきしまった唇に微笑をたたえている。目だけが、最初、部屋にはいってきたときのように、けわしいままだ。警戒している。さっきはあたしを警戒していたのに、今は、ギルフォイルを警戒している。
テリー・リングは、おどけてぺこりと頭を下げると、片側によった。すると、刑事はすり抜けるようにして、寝室へ駆けこんだ。
「帽子を脱げと言ったろう」と、テリー・リングが「おい、帽子を脱げよ」
テリーは微笑しながらギルフォイルを見送っていたが、左手では、ひそかにエヴァを慰めるような手ぶりをした。非常にやさしい手ぶりだったので、エヴァは長椅子に身を折りまげて、すなおに、両手で顔を覆って、さめざめと泣き出した。
テリー・リングは後ろをも見ずに寝室にはいり、ぴしゃりとドアを閉めた。すすり泣きながら、エヴァは、ギルフォイルの叫び声と、カーレンの机から電話器を手荒くとり上げてがちゃがちゃいわせる音とを聞いた。
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それから色々なことが起こった。エヴァはふたりを見たり、もの音を聞いたりしていたが、本当のところは何も分かってはいなかった。かなり時が経ったようだが、エヴァは無意識に、ぼんやりと長椅子に坐ったままだった。
やがて、居間が不意に人でいっぱいになり、エヴァはそのことに気付いた。丁度、毛虫の巣のように、ひととき、なめらかで白く静まりかえっていて、次の瞬間には、わっとばかりに毛虫がはいまわるのに似ていた。
大勢《おおぜい》いた。男ばかりが大勢いた。最初に、ラジオ・カーから二人の制服警官が来た。エヴァはふたりの記章に気がついた。次に、どこかの分署からの私服が二人。それから、テリー・リングよりずっと大男が、そんな広い肩幅の男をエヴァは今まで見たこともなかった。その男の名はヴェリー部長で、テリー・リングと知り合いらしいが、ふたりは口も利かなかった。また、小柄の半白の男もいて、ギルフォイルよりずっと小柄で白髪も多く、とても鋭い目をしているが、声がやさしく、なんとなく偉そうだった。みんなうやうやしく会釈していて、名は、ブリーンとかクイーンとかいう警視らしいが――エヴァには、よく、聞きとれなかった。その他にも、カメラを持った男たちや、女のように小さな刷毛《はけ》とびんを持って歩きまわっている男たちがいた。寝室も居間も、たばこの煙がたちこめて、まるで土曜日の夜の男ばかりの政治クラブのようだった。
最後に、安葉巻をくわえ、往診カバンを下げたプラウティという男が来て、寝室にはいると、ドアを閉めた。プラウティが出てくると、ふたりの制服巡査が籠を持って寝室にはいってドアをしめた。やがて、そのふたりが籠を持って出て来た。籠は前よりも重そうで、ふたりが力を入れて運んでいるのが分かった。
エヴァはふたりが籠で運んでいるのは、牛のそぎ身かしらと思った。
尋問もいろいろあったが、その間じゅう、テリー・リングは、あたりの気ぜわしい連中に冗談をとばしながら、エヴァに声をかけたり、目くばせしたり、身ぶりを示したりして、側から離れないようにしていた。
クイーン警視も自《みずか》ら尋問に当り、非常にやさしく、キヌメと新しい女中に話しかけた。それで、新しい女中の名が、ジェニーヴァ・オマラだということが、エヴァに分かった。警視は、エヴァにも慈父のようにあたたかい調子で言葉をかけ、二、三尋問してから、にこにこして、低い声でフリント、ピゴット、ヘイグストローム、リッターなんて連中に指令を与えていた。
その間も、他の連中は、まるで無計画のように右往左往し、ある者は屋根裏部屋の階段を登ったり降りたりして、大声で手伝いをたのみ、互いに気合をかけ合ったり、エヴァが、ぼんやり、悪趣味だと思うような冗談口をたたいていた。
ふと、エヴァは肩に手をかけられて、ふり向くと、キヌメがしょんぼりと、長椅子のわきに立っていた。しわのよった老女中の顔は、苦痛でゆがみ、斜めにつり上がった目は涙で赤くなっていた。エヴァはキヌメの手をとって、しっかり握りしめながら、この日本の老女中に対して、ひどく母親じみた愛情を感じた。それは、ふたりの制服巡査が籠を運び出してまもなくだった。
エヴァはキヌメをそばに坐らせた。老女中はキモノの袖に顔を隠して、悲しみに身をもんでいた。エヴァはそれを見て驚いた。日本人が感情をむき出しにすることなど、あり得ないと思っていたからである。エヴァは突然、日本人の目の形が自分たちとちがっていても、涙腺がないわけではないのだと気付いた。それに気付くと、エヴァは急に暖い感情がこみ上げて来て、老女中のやせ細った肩を両手で抱いた。
褐色の男の身の上話も分かって来た――ちらり、ほらりの程度だったが――その過去、現在、未来が冗談まじりに話され、血統についての悪口も出た。エヴァは自分が無視されているのに気付き、ほとんどうきうきした気持で、騒々しいもの音に耳を傾けていた。とにかく、すべてが、現実のことと思えなかった。たしかに起こったことなのだが、すべてが、起こり得ることではなかったような気がした。すべての人間行為の規則がさしとめられていて、盗み聞きも、嘲笑も、死も殺人も勝手放題という気分だった。みんなの頭が、たばこの煙と、尋問と、陽気な談笑の渦の中に、寄り集まっているとしか思えなかったのだ。
どうやら、テリー・リングは「私立探偵」という、奇妙な人種に属しているらしい。どの正規の警官たちとも、互いに、知り合いらしいが、反目しているようだった。かなりむき出しで刺《とげ》のある冗談をとばし合っていた。
テリー・リングは「独立独歩」の男らしい。イースト・サイドの貧民街から身を起こして、かなり成功した今も、そこに住んでいるらしい。二十八才で――「一介の快男子」だ。その過去は、サーカスの呼び込み、砂掘り人夫、競馬場の|のみ《ヽヽ》師、肉缶詰工場の検査係、ルンペン、職業野球選手、玉突き場の用心棒、といったところで、しばらくはハリウッドのエキストラもやったらしい。こんな若い男が、そんなに色々なことをしたなんて不思議だと、エヴァは思った。子供のころから始めたにちがいないと思うと、ちょっと気の毒になった。そして、エヴァは本能的にテリーが孤児であり、自分が毎日世話している託児所の子供と同じように道端に生み捨てられた子なのだと思った。そのテリーが、どうやって現在の仕事をするように浮かび上って来たのかは、はっきりしなかった。ある者は「まぐれさ」と言い、ハリウッドでの有名な宝石泥棒の件や、親切な映画スターの話などを引き合いに出したが、テリー・リングは、鼻先でかるくあしらい、たえずエヴァの行動に目を離さなかった。
だが、クイーン警視は、例によって、しつこく、細かな尋問に話をもどしていた――テリー・リングがここへ来たのはいつか――家にはいるのを、どうして、キヌメもジェニーヴァ・オマラも気がつかなかったのか――「犯人」がL字型の屋根から飛び下りて逃げた「はず」なのに、なぜ、下のやわらかい地面に足跡がついていないのか――要するにテリーはここで何をしていたのか、などと。
「さあ、いい子にしてもらおう、テリー」と、クイーン警視が機嫌よく「わしは、いつも君と仲よしだったぞ。今日、君はここで何をしとったのだ」
「カーレンさんと会う約束だったんです」
「先週もここへ来たと、オマラが言っとるぞ」
「あのときも、会うことになっていたので」と、テリーが警視に片目をつぶって見せ、ふたりとも笑い出した。それが福音書の真理ででもあるかのように、警視は気軽くうなずいていたが、一方、えぐるような鋭い視線をエヴァへ向け、テリーに向け、キヌメに向け、最後にエヴァにもどした。
「ところで、あなただが、マクルアさん――二十分もそこに坐っているあいだ、本当に何のもの音もきかなかったのかね――あえぎ声も、呼び声も、言葉も全然聞こえなかったのかね」
エヴァは首を振って、警視の後ろに木のように立って自分を見守っているテリー・リングを見やりながら「あたしは本を読んでいましたし――それに、もの思いにふけっていましたので」
「すると、本に読みふけっていたのじゃないな」と老人が明るい顔をした。
「あたし――なにしろ、結婚の約束が出来たばかりですもの」と、エヴァがため息をして「それで――」
「ああ、なるほど。無理もない。もの思いにふけるのも当然ですな。丸太《まるた》同然、何も耳にはいらんわけだ。そりゃ残念でした。きっと何かもの音がしただろうがね」
警視はエヴァから離れた。見ていると、テリー・リングが警視について行きながら、突然、くるりと|きびす《ヽヽヽ》を返して寝室へはいって行った。……寝室、あの惨劇のあった寝室へ。
エヴァはぎょっとした。あの紙屑籠……自分の手から離れてあの籠に、はさみの片刃が落ちこんだのだ。籠の中に、紙屑がはいっていたかしら。たしかに――はいっていたようだ。きっと、片刃は見つからないだろう……だが、警察は必ず見つける。エヴァは、必ず見つけるだろうと思った。警察はいつも何でも見付けてしまう。見付ければ、すぐに兇器だと分かるだろう。ずっと、あれを捜しているのだ。当然だ。カーレンは刺殺されたのだから。犯人が兇器を残して行く可能性はいつでもある。警察は、それを捜し当てるまで捜すだろう。もし、自分に、警察の連中について行く勇気さえあればなあ……
テリー・リングが寝室へ入っていくのを、誰もとめなかった。みんなが大目に見ているせいだった。認可されている人間なのだ。新聞記者さえ誰一人立入りを許可されず――連中が、がやがやと怒りながら階下に群がっている声が聞こえた。だが、テリー・リングは、まるで――そう、警察部の特認を得た下っぱの神様みたいに、勝手にうろつきまわっていた。警察は、テリーをよく知っているにちがいない。その誠実さを信じているにちがいない。さもなければ、こうはしないだろう……それとも、するだろうか。いや、実は疑っているのかもしれないわ。それで、手綱をゆるめて、見張っているのかもしれないわ……エヴァは身ぶるいした。
テリー・リングの陳述は、五時にカーレンに会うことになっていて――この点が、おかしな小柄な警視には重要な意味があるらしい――邸にはいった。そのとき、階下のドアがあいていて(ジェニーヴァ・オマラは否認している)ギルフォイル巡査が来る直前だった。そのギルフォイルは今、深刻な顔で同僚の活動を眺めながら、立っていた。テリーは、死体と、そばに失神しかけているマクルア嬢を見つけたので、警察本部に電話しようとしていたのだというのが、全部なのだ……エヴァも、テリーと口を合わせた。カーレンを訪ねて来ると、キヌメがお仕事中だと言うので、居間で待っていると、やがて電話のベルが鳴り出し、誰も電話を受けないので、カーレンに何事かあったのではないかと思って寝室へはいった。はいって一分も経たないうちに、テリー・リングがやって来てあたしを見つけた。
警察はキヌメも尋問した。老女中は危うげな英語で、エヴァが来たことと、その直前にカーレンの言いつけでへりのギザギザな用箋を取りに行ったことを話した。連中はエヴァに向かって、反古《ほご》紙の筆跡がカーレンのものかどうか確かめた。どうやら、その用箋は寝室にはなかったらしい。それからキヌメを連れ出して、二、三尋問した。
小柄な警視は奇妙な電話がかかったことを気にしているらしかった。テリー・リングはただ立って微笑していた。たえまなしに、にこにこしていた。
だが、あの小さなはさみの片刃はどうしたのかしらと、エヴァは考えていた。見付かったのかしら。心配そうなそぶりを見せないようにしながら、警官たちの顔色をうかがった。もし見付かったら、褐色の男は、なんと申しひらきするかしら。きっとあのひとは――エヴァの頬がまたひりひりした。あんなにひどく平手うちをくわせるなんて。するうちに、エヴァは、考えるのがばからしくなって、いっそう注意深く見守りながら、あのひとは、はさみの片刃のことを言わなかったのを責めるだろうと思った。すべてのことが、ひどくこんぐらがって来た。エヴァは長椅子にぐったりともたれこんで、もう、考えるのが面倒になってしまった。
クイーン警視が「マクルアさん」と呼んだ。
エヴァは目を上げた。警視が、前に立って、微笑し、そばに、スタンプ台と、号数のついている小さな紙束を持っている警官がいた。
とうとうやって来た。最後だわ。何を言うつもりなのかしら。エヴァは必死になって、精神を集中しようとした。
「さあ、こわがらなくていいんですぞ、マクルアさん。これは、われわれにとって非常に役に立つことなんですよ」と、警視が言ったとき、エヴァは、テリー・リングが寝室から出て来るのを、目のすみでちらりと見た。警視は先に出て来ていたのだ。エヴァは褐色の男をゆっくりと一目見ると、あわてて視線をそらせた。あのひとは知っているのだ。警視にも分かっているのだ。いや、警視には分かるはずがない。まだ、あたしの指紋はとっていないのだから。でも、テリー・リングは、あたしが鳥の形をしたものと宝石のことを話したのを覚えているはずだから、あのひとには分かっているはずだ。
「あなたは、うろたえて」と、警視はエヴァの肩を軽くたたきながら「寝室の中で、何かに手を触れたにちがいないし、たしかに色々なものをこの部屋でいじったはずですぞ。あなたがここにいる間に、誰も通ったものがないと言われるから、この部屋の方は問題がないが、重要なのは寝室の方です」
「ええ」と、エヴァは強わばった調子で言った。
「ところで、われわれは寝室で、いくつか指紋をとった――違う組み合わせのものを数種類――そこで、それらが、誰の指紋か突きとめなければならんのです。どれがリースさんので、どれが日本婦人ので、どれがあなたのかなんてね。そして、残ったものが、おそらく――お分かりだろう」
「僕のは、どうですか」と、褐色の男が目をしばたたきながら訊いた。
「おお、むろん、君のもとる」と、警視が笑いながら「むろん、君がひとつも残しておらんだろうとは知っとるがね。わしは、君が犯人なんぞに、なってもらいたくはない」と、ふたりは、楽しそうに、声を合わせて笑った。
エヴァが、震えないようにつとめながら両手を差し出すと、指紋係は、すばやく仕事を片付けた。信じかねるほど、すぐに済んだので、エヴァは二枚の記号入りの紙についている十個のインキのあとを見守っていた。
「これが、あたしの指紋なのだわ」とエヴァは考えた。やっと済んだわ。これでけりがついたんだわ。エヴァは疲れ切っていて涙も出なかった。ただそこに坐って、小柄な警視が部下と早口にしゃべるの眺めたり、テリー・リングの、ぞっとする微笑が上から突き刺さるのを感じていた。
エヴァは自分がはさみをいじったことを誰にも、決して洩らすまいと決心したばかりだった――ディックにも、マクルア博士にも、テリー・リングにも一言も言うまいと。おそらく、テリーは、そのことを覚えてはいまいと思った。多分、片刃のはさみには、全然、指紋をつけなかっただろうし、多分、誰も見付けはしないだろう。
そのとき、待ちに待った、うれしい声がきこえた。その声は悩む心をあたためる香油のようにエヴァにふりそそぎ、心をなごめてくれるので、その反応で足がふるえ出した。
さあ、もう万事安心だ。万事安心になるにちがいない。声の主はディックだった。エヴァは、もはや、テリー・リングやクイーン警視や、その他の誰にも気がねはいらないのだ。
エヴァはディックに両手を差し出し、ディックは長椅子のエヴァのわきに腰を下ろした。そのハンサムな顔は心配と愛情で動揺していた。エヴァはみんなが見ているのを承知していた――テリー・リングも見ているのが分かったが――そんなことは気にならなかった。エヴァは、スコット医師の腕に、子供のようにもぐり込み、その胸に鼻先をこすりつけた。
「もう大丈夫だよ、きみ」と、スコット医師はいくども繰り返して「安心なさい。もう大丈夫だよ」
「おお、ディック」と、エヴァは鼻をならして、いっそう身をすりよせた。心の中では、テリー・リングが見ているのが、うれしかった。今は、あたしの世話をしてくれる、あたしの男がいるのだ。もう、テリー・リングが全能だなどと考える必要はない。ディックはあたしの身内だし、あたしのものなんだ。テリー・リングは赤の他人じゃないか。エヴァは顔をあお向けてスコット医師にキスした。テリー・リングは微笑していた。
スコット医師が坐って、なぐさめの言葉をさえずりつづけると、エヴァは心がやすらぐのだった。もう、何もまずいことは起こらない。
「いったい、どうしたんだね、エヴァ」と、やがてスコット医師がつぶやくように「とても信じられない。本当とは思えない」
もう大丈夫どころではなかった。事態は少しもよくなってはいなかった。エヴァは一時《いっとき》忘れていただけで、もう大丈夫だと思いかけたことさえ、考えてみれば大馬鹿だったのだ。「どうしたのか?」何が起こったのか、起こったのは、あたしがディックを永久に失ったということなんだわ。
エヴァはゆっくり身を起こして「なんでもないのよ、ディック。ただね――誰かがカーレンを殺したのよ。本当になんでもないのよ」
「かわいそうに」と、スコット医師が、じろじろと、エヴァを眺めまわして「なぜ、思いっきり泣かないの?」スコットには、エヴァの冷静さが不自然に見えるらしかった。このひとにも分かりゃしないんだわ、とエヴァは思った。
「もう、たっぷり泣いたのよ。あたしのことは心配しないで、ディック。決してばかな真似はしませんからね」
「ばかな真似をしてほしいんだよ。そうすれば気が晴れるからね。忘れちゃいけないよ、エヴァ――お父さんのこともあるしね」
そうだわ、エヴァは考えた。父のマクルア博士を忘れていた。マクルア博士のことを。
「あのひとに対する心がまえをしておかなくてはいけないぜ。この事件は、あのひとにとっては、大変なショックだろうからね。あのひとが帰って来たら、なぐさめるのは、君をおいて他にはいないんだからね」
「そうね、ディック。きっと大丈夫よ」
「もう、あのひとに報らせがいってるぜ。さっき、その件を、警視と話してたんだ。警察ではパンシア号を電話で呼び出した。あのひとは水曜日の朝でなければ、ここへ帰って来れないよ……エヴァ」
「そう、ディック」
「聞いてるのかい」
「おお、聞いてるわよ、ディック。聞いててよ」
「なぜか分からないがね――君を送り出してから何か気がかりでね、何かいらいらして眠れなかったんだよ。それで、ここへ来て、君を誘い出そうと思ったんだよ……エヴァ」
「そう、ディック」
エヴァは自分を抱くディックの腕に力がこもるのを感じた。「君にしてもらいたいことがあるんだ。それは君のためにもなるんだよ」
エヴァは少し身を退いて、ディックの目をのぞきこんだ。
「すぐ結婚してほしいんだ。今夜にもね」
結婚するって。エヴァは、今日の午後は、どんなにかそれをのぞんでいた――今の、この瞬間も、長椅子から起き上がらずに、このまま結婚してもいいと、のぞんでいるのだ。
「いけないわ。許可証もとってないじゃない」どうしてこんな冷静な口がきけるのだろう。
「じゃあ、明日《あした》。あした、市役所へ一緒に行こう」
「でも――」
「何もかも一度にすむよ。お父さんの帰ってく前に、結婚してしまうんだよ。こっそりとね……エヴァ」
エヴァは必死に考えた。今日の午後から、すっかり事情が変ったことを。どう説明したらいいだろう。このひとは、きっと、理由を知りたがるだろう。それなのに、あたしは口がさけても話したくないのだ、あたしの首のまわりには、綱がまきついているのだ。誰かが――クイーン警視か、恐しい大男のヴェリー部長かが――やって来て、ぐいっと締めあげればいいだけなんだ。だから、今、もしディックと結婚すれば、綱は愛するひとの首まで締めあげるにちがいない。このひとまでを、あたしの難儀に巻きこむことは出来ない。スキャンダル、新聞、よってたかって血を吸う蛭《ひる》どもの餌じきには、とても……
しかし、心の底では、もうひとつの声がそそのかす。「話してしまいなさい。何から何まで。このひとは分かってくれますよ。このひとはあなたを信じて、味方になってくれますよ」
はたしてそうだろうか。要するに、自分は、後ろ暗く見えるにちがいないのだ――もし、すべての事情が分かってしまえば。しかし、テリー・リングは、すべての事情を知っていて、しかも……しかし、あたしが、あの男に弱味を握られているのは、たしかなのだ。テリー・リングは胸にいちもつあるらしい。あたしは、あの男の人質なのだ――あの男は、あたしの潔白を本当に信じてはいないのだ。誰にだって信じられないかもしれない。ディックも事情を知れば信じられなくなるかもしれない。他にカーレンを殺せた者は、誰もいないはずなんだから。テリー・リングが、そう言っていた。決定的に不利な事実を前にしては――愛人からさえ、完全な信頼を期待するのは虫がよすぎる。あたしが人殺しだと知ったら、それでもディックが味方に立ってくれるとは、とうてい考えられないわ。
すべてがエヴァにとって不利だった。以前に、カーレンと言い争ったことがあったわ……なんだったかしら、あれは。エヴァは思い出せなかった。しかし、ひどい口喧嘩だった。そして、エルジーが――カーレンの元の白人の女中が――それを聞いていたわ。むろん、警察はエルジーを捜し出すだろうし、カーレンに関係のある者は、ひとり残らず捜査するだろう。……それから、こんなときもあったわ――一、二カ月前だけれど――マクルア博士がカーレンと意気投合したときあたしは、それに反対したわ。エヴァは、いつも、カーレンを妙な女だと思っていたし、一度でも好きになったことはない。それは、みんなが知っている。分析してみると、カーレンには、あまりにも、かくしごとや謎や内緒ごとが多すぎる感じだった。そして、かくしごとというものは、とかく恥ずべきことが多い。カーレンの方でも、あたしが、そういう感情を持っているのを知っていたのだ。マクルア博士とカーレン・リースの婚約が成立してからは、あたしたちは、おたがいに丁重にふるまっていたが、それは女の丁重さで、心の底に、とげと酸味をかくしての上のことだった。もし、警察が、それをかぎつけたら――
「駄目よ、ディック」と、エヴァは叫んだ「出来ないわ」
スコット医師は。エヴァの激情にびっくりして「でも、エヴァ。僕の考えでは――」
「今は事情が変ったのよ、ディック。カーレンが、こんなにして、いまわしい謎につつまれて死んだ今では、お父さまは……あたしは、今は結婚できないわ。しばらくは駄目よ。ねえ、分かって頂戴、ディック、おねがい」
「むろん分かるよ」と、スコット医師が、エヴァの肩を軽くたたいた。しかし少しも分かってくれていないのが、エヴァには分かった。スコット医師の目の底にはひどく奇妙なものがわだかまっていた。「悪かったよ。こんなことを言い出すべきじゃなかったな。ただ、少しは助けになるかと思ってね――」
「分かってるわよ、ディック。あなたは、あたしの一番大事なひとなのよ、ディック」
それから、エヴァはスコット医師にもたれて、また泣き入った。スコット医師は、涙にくれるエヴァを見て、どうやら、漠然とした慰めを感じているらしかった。こうして、ふたりは、騒がしい部屋の真中で、あたりに気もとられずに坐っていた。
やがて、テリー・リングが「もし、もし、まだ泣いてるんですかい」
エヴァは、はっとして居ずまいを直した。テリー・リングは、冷静に落ちつき払い、取り乱した様子もなく、にこにこしながらふたりを見下ろしていた。まるで、人殺しと、泣いている女と、危険な秘密などは日常茶飯事といった様子だった。
スコット医師が、すっくと立ち、ふたりの大男が睨み合った。
「一体、君は誰だね」と、スコット医師はぶっきら棒に「なぜ、君らは、このひとを、そっとしておいてやらないんだ。大変なショックを受けているのが分からんのかね」
「ディック」と、エヴァが、スコット医師の腕に手をかけて「あなたには分かっていないのよ。この方はね――あたしがカーレンをみつけたときに、はいっていらっしゃったのよ……リングさんとおっしゃるのよ」
「おお、失敬」と、スコット医師が赤くなって「いやな事件ですな」
「え、まあ」と、リングが言って、エヴァを見つめた。リングの灰色の目が、何かを問いかけ、何かを警告していた。エヴァはもう少しで息が詰まりそうになった。なんて純粋な、生一本な神経だろう。その目は、あたしの婚約者にも、何もしゃべるなと警告しているんだわ。
しかし、結局は、なぜか婚約者に何もしゃべっていなかったことに、エヴァは気がついた。すると、とてもみじめで孤独な気持になり、またしても、泣き出しそうになったが、もう涙がかれていたので、かろうじて泣かずにすんだ。エヴァはただ唖《おし》のように坐っていられるだけだった。そして、この一、二カ月間に二度目だが、今度はもっと真剣に、死んでしまったら、どんなに楽だろうかと思った。
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火曜日が、さわぎにとりまぎれて過ぎた。エヴァは警察本部に出頭しなければならなかった。そこでテリー・リングに出会ったが、テリーは話しかけようともしなかった。スコット医師は、鉄のようにきびしい雰囲気におされて、少し緊張していたが、エヴァに付き添って、あらゆるものから防衛しようと努めていた。陳述書の署名や、追加の尋問と返答などがあり、エヴァは一日中ろくろく食事のひまもなかった。夕方、スコット医師は東六十番台のマクルア博士のアパートにエヴァを送って行った。そこには、マクルア博士からの電報が待っていた。簡単な文句で。
「シンパイスルナ。スイヨウビ、アサ、ツク。ゲンキヲダセ。アイスルチチ」
エヴァは電文のすばらしさに打たれて、むせび泣き、玄関のテーブルに積み上げられている電話の伝言などには、全く目もくれなかった――その、友だちからの慰問の伝言は、一日中ひっきりなしにかかって来て、かわいそうに、黒人女中のヴェネチアを、すっかり気違いのようにさせた。エヴァは楓材《かえでざい》のベッドに、からだを投げ出して、スコット医師に冷い湿布を額に当ててもらった。やがて、電話がかかり、ヴェネチアが、テレンス・リング様からだと取りついだ。スコット医師が、マクルア嬢は留守だと、どなったが、エヴァは抗弁する気力もなかった。
スコット医師がエヴァに何か苦《にが》い薬をのませたのでエヴァはぐっすり眠入ってしまった。十時に目をさましてみると、スコット医師は、まだ、そばに腰かけたまま、苦い顔を窓に向けていた。それから、台所へ行って戻って来、やがて、ヴェネチアが熱いスープを運んで来た。エヴァはひどい眠けで、スープ皿にかぶさるようにして、また、眠りに落ち、あくる朝まで、スコット医師が居間の寝椅子に着のみ着のままで伸び、一晩中寝ていたことなど全然、気がつかなかった。健固なバプチスト魂を持っているヴェネチアは、常にだらしのない現代生活をこころよく思っていないので、スコット医師のやり方に、全く恐れをなしていた。
水曜日の朝、ミッド・タウンの埠頭《ふとう》にでかける途中、ふたりはまるで脱走犯のように、新聞記者どもから身を隠さなければならなかった。しかし、ようやくの思いで大桟橋の構内に辿りついてみると、飴色のギャバジンの服を着、茶色のシャツに黄色いネクタイをしめたテリー・リングが、税関の机のそばにたむろして、たいくつそうな顔をしていた。テリーはふたりを見ようともしなかった。スコット医師は、眉間《みけん》にしわをよせて、褐色の男の背の高い姿を、さぐるような目つきで睨んだ。
医師はエヴァを待合室に残して、急いで船の消息をききに行った。医師が出て行ってすぐ、エヴァが目を上げてみると、褐色の男が目の前に立っていた。
「よう、姐さん」と、テリーが「今朝は元気そうだね。その帽子はどこで売ってるね、とても、すてきだぜ」
「リングさん」と、エヴァはあたりを見まわしながら早口に言った。
「テリーと呼ぶんだよ」
「テリーさん。いろいろお世話になりましたのに、お礼をいうひまも、ろくになくって――」
「忘れちまうんだね、そんなことは。おれはばかだからね。ときに、エヴァ」実にさりげなくエヴァと呼んだので、エヴァは、ほとんど、それに、気がつかなかった。「あんたのボーイ・フレンドに、本当の話をしたのかい」
エヴァは目を伏せて、ステッチのしてある豚皮の手袋を、じっと見つめて「いいえ」
「そりゃ、気が利いてる」エヴァは相手と顔を合わせないようにしている自分に腹が立った。
「その調子で、ずっと口をつぐんでいるんだぜ」
「駄目よ」と、エヴァが言った。
「はいと言うんだ」
「いいえ、お願いよ。お父さまには言わずにはいられないわ。そりゃ、いけないことよ、リングさん」
「テリーだよ」エヴァには相手が声をとがらして、腹を立てているのが分かった。「あんたが、苦境に立っていることが分からないのかい。気が利いてるかと思えば、まるでばかなんだから」
「テリーさん」と、エヴァは、そういう呼び方をしなければならないと思いながら「あの、あなたが、あたくしを救って下さろうとする目的はなんですの」
相手は返事をしなかった。目を上げてみると、テリーの目は、むっとしながらも、当惑げに、しばたたいていた。
「お金なら」と、エヴァが、すぐに「あたくし――」
エヴァは、すぐにテリーが、待合室にいる皆の見ている前で、平手打ちをくわせるのではないかと思った。
「聞くんだ。いいか、よく聞くんだ」テリーは褐色の顔を、激情でマホガニー色に染めながら、うつむき込み、やがて、急に、紫色に変えると、いやに静かに「どのくらい出来るね」
「おお」と、エヴァが「本当にごめんなさい」
「おれが、君をゆするとでも思ってるのかい。やれやれ。いいか、二度と、そんな口をきくんじゃないぜ」
エヴァは深く恥入った。そして、手袋をした手を、テリーの腕にかけたが、テリーは、その手を払って、また胸を張って立った。黄色いクーリー・フェルト〔帽子〕の前びさしごしに見ると、テリーは拳を握ったり開いたりしていた。
「本当に許して下さいね、テリーさん。でも、どう考えたらいいか、分からないのよ」
「おれが、やくざだからだろうよ」
「なぜ、あたしのために、つくして下さるのか、分からないんですもの――」
「おれは、しがない私立探偵さ。うろつきまわって、困ってる娘さんを助けるのさ」
「でも、まるっきり得態の知れない赤の他人を信用するぐらいなら、自分のお父さんに打ち明けたっていいわけじゃない?」
「勝手にするさ」
「それに、あなたを、この上、厄介な目にあわせたくないわ――」
「そうかね」と、テリーは、あざ笑うように「じゃあ、誰が、あんたを助けてくれる?」
エヴァはむっと腹立たしくなって「ディックがいるわ。あんたって、本当に――」
「じゃ、なぜ、あの男に真相を話さなかったんだね」
エヴァは目を伏せて「それには――わけがあるのよ」
「袖にされるのが、こわかったのかい」
「ちがいます」
「そんなことをするのは、ダニだけさ。あんたはこわいんだろう。あんたのハンサムなボーイ・フレンドがダニだってことが分かるのがね。聞かなくっても分かってるぜ」
「あなたは、本当に、いやらしいひとね――」
「あんたは自分の立場がどんなものか知ってるだろう。あの老人鮫《ろうじんさめ》のクイーンときたら、うかうかぺてんにかかるような男じゃないぜ。前に、奴の仕事ぶりを見たことがあるが、奴は実に疑ぐり深い男だよ。そのつもりでいなくちゃだめだぜ」
「こわいわ」と、エヴァが、ささやいた。
「そりゃそうさ」と、テリー・リングは大股で離れて行った。その気取った歩きぶりには、子供っぽい残酷さがあった。テリーは、いかにもいまいましそうに、なめし皮のフェドラ帽を押し上げて、額をむき出した。
エヴァはぼんやりとテリーを見守っていた。テリーは桟橋から出て行かずに税関の机に戻って、集まった記者どもに、取りまかれていた。
「パンシア号は検疫中だよ」と、スコット医師が、ベンチに腰を下ろしながら報告して「あの人たちは、警察艇で連れて来られるそうだ――港湾当局と特別の取り決めが出来てね。今頃は、もう船を出て、こっちへ来るところだろう」
「あのひとたちって?」と、エヴァが聞きとがめた。
「君のお父さんと、クイーンという名のひとさ。船で友達になったらしい」
「クイーンですって」
スコット医師が、陰気にうなずいて「あの警視の息子だそうだ。警察とは関係がない。推理小説かなにか書いているらしい。カーレンのデビューのパーティに出ていたらしいよ」
「クイーン」と、エヴァは、暗い声で、もう一度言ってみた。
「あの男が、事件と、どんな関係があるのか、さっぱり見当がつかないな」と、スコット医師が、つぶやいた。
「クイーンね」と、エヴァは弱々しく三度くりかえした。全然、気にくわない名だった。三度も口にしているうちに、その名の意味が段々はっきりして来て、不気味だった。エヴァは、カーレンのパーティで会った鼻眼鏡の背の高い青年の姿を、かすかに思い出した――とても、まともな人柄の青年らしかったし、非常に暖かみのある目であたしを見つめていたわ。それなのに、あたしの方は、かなりすげなくあしらって、面白がったのだけれど、あれは、あの時のことで、今度は……
エヴァは、考えまいとして、スコット医師の肩に、もたれかかった。すると、スコット医師が、また妙な目をして、エヴァを見下ろした――テリー・リングがエヴァを見つめた疑いの目と、そっくりだった――スコットがやさしく、エヴァがそのやさしさに感謝しているとはいうものの、もう、ふたりの間には、それまでにはなかった何物かが芽生えてしまっていた。
チョコレート・ソーダを楽しんだ日は、想像も及ばぬほど、遠く去った感じだった。
そのとき、スコット医師は、記者連が、ふたりを見つけて押しよせてくるのを見ると、エヴァを引き立てて逃げ出した。
エヴァは、マクルア博士との再会が、どんなだったか、あまりよく覚えてはいなかった。というのも、エヴァに何か罪の意識があって、できるだけ忘れてしまおうとしていたかららしい。エヴァは、一日とふた晩にわたる緊張と決意のためにすっかりへたばっていたが、マクルア博士の方が、かえってしっかりしていた。エヴァは博士の胸にすがりついて、子供のように泣いた。こわれた人形が生命のあるものであり、ナンタスケットの邸の庭が全世界であった幼い日のように泣いた。博士が、あまりしっかりしているので、エヴァはかえって泣かずにいられなかった。
博士が、すっかりやせ細り、土気色に老《ふ》けこんでしまったので、何かいっそう悲劇的だった。博士の目は真赤に充血していた。カーレンの死の報らせを受けてから、ずっと眠らず、船の上で、ひとりひそかに泣きつづけていたらしい。
背の高い鼻眼鏡の青年は、低い声で何かおくやみをのべて、しばらく、桟橋から姿を消したが、間もなく、緊張した顔で、公衆電話室の方から戻って来た。おそらく、父親に電話をかけたんだわと、エヴァはふるえながら、思った。それから、青年は待合室に待機していた巡査たちに、そそくさと何か話しかけると、あとは万事すみやかに事がはこんだ――税関も、手続きも、手荷物までも。それに、どうしようもなくうるさかった記者どもも、攻撃の手をゆるめた。博士の荷物が、マクルア父娘のアパートに向けて送り出されると、クイーン青年は、まるで自分から女中頭を買って出るかのように、三人をタクシーの方へ追い立てた。
エヴァは、わざとぐずぐずして、婚約者《フィアンセ》と、一足おくれるようにし「ディック――悪く思わないでね。あたし、お父さまとふたりきりで話したいことがあるのよ」
「いいとも。むろん気を悪くするものか」と、スコット医師はキスしながら「なんとか口実をこしらえて、うまくやるよ。分かってるよエヴァ」
おお、ディック、あなたは何も分かっちゃいないんだわと、エヴァは思った。だが、エヴァはにっこりと笑いかけて、マクルア博士とクイーン青年の待っているところまで、連れて行ってもらった。
「残念ですが、博士」と、ディックはマクルア博士に「僕は急いで病院へ戻らなければならないんです。それに、もうあなたも、お帰りになったし――」
マクルア博士はだるそうに頭をこすって「行き給え、ディック。エヴァは、わしが引き受けるよ」
「今夜また会おうね、エヴァ」と、スコット医師は、もう一度キスして、やや敵意をこめてちらりとエラリーを見ると、タクシーに乗って走り去った。
「さあ、乗りましょう」と、エラリーが「急いで下さい、お嬢さん」
エヴァは急いで乗ろうとせず、豚皮のハンド・バッグを胸に抱きしめて、怖わそうな顔をした。
「どこへ行くんですの」
「クイーン君と一緒だ」と、マクルア博士が「心配することはないよ、エヴァ」
「でも、お父さま。お話があるのよ」
「クイーン君と一緒でもかまわんだろう、エヴァ」と、博士が不審げに「雇ったようなものなんだ、クイーン君を」
「本雇いじゃないんですよ、お嬢さん」と、エラリーが微笑しながら「つまり、友情の問題とでも言う奴です。お乗りなさい」
「おお」と、エヴァは、しめつけられるような声を出して、車に乗り込んだ。
車が上町へ行く途中、クイーン青年は、ヨーロッパの政治や、ブルターニュ人の奇習について、しゃべりつづけた。その間も、エヴァは、もしクイーン青年が真相を知ったら、それでも、こんなに親切だろうかと、重い胸のうちで思い悩んでいた。
クイーン家の、目の黒い使い走りの少年、ジューナは、崇拝する若旦那が外国から帰って来た喜びでいつまでも有頂天になっているので、しまいには押さえつけられるはめになった。結局、エラリーが、なだめすかして、台所へ、コーヒーを入れに追い立てた。それから、しばらくのあいだ、エラリーは、マクルア父娘《おやこ》をくつろがせるために、タバコを出したり、クッションをならべたり、ジューナのいれたコーヒーをすすめたり、雑談をしたり、こまめにおとり持ちをしていた。
やがて、ベルが鳴り、ジューナがドアを開けた。すると背の高い褐色の男が、両手をポケットに突込んだまま、ものも言わずに、のっそりと玄関を通って来た。エヴァは、はっと息をのんだ。
「よう、クイーン君」と、テリー・リングが、帽子をマンテルの上にほうり出して「リング夫人のせがれのテレンスだよ」
こんなところにまで!
エラリーは、侵入者に不快だったかもしれないが、さりげない顔で、丁寧に握手をし、テリーをマクルア博士に引きあわせた。
「今度のいたましい事件での君の役割については、おやじから聞いているよ、テリー君」と、エラリーが「つまり――おやじに分かっていること全部をね。それも、大して分かってはいないらしいが」
テリーはにこにこして、睨みつけるマクルア博士を見ながら腰を下ろした。
エヴァがコーヒーをすすりながら「すると、あなたはリングさんとお知り合いなのね」
「知り合いどころか。テリーも僕も一皮むけば兄弟みたいなものですよ。ふたりとも長い間、警察本部を悩ましてますからね。連中は僕らを見るのもいやがる始末ですよ」
「ただ、違うのは」と、テリーが愛想よく「僕の方は専業だし、君はそうじゃないという点だ」「いつも言う通り」と、テリーはエヴァの頭ごしにつづけて「生活をかけて働いている奴は信用できるが、かけてない奴――何というかな――ディレッタントは、必ずしも信用できんよ」
すると、エラリー・クイーンに何も話すなということなんだわ。あたしが何か話すとでも思っているのかしら。エヴァはふるえそうになるのを押えた。
エヴァはしばらく身動きもせずに坐っていた。エラリー・クイーンは、じっとエヴァを見つめてから、同じような視線をテリー・リングに向けた。それから、シガレットをとって腰を下ろすと、ふたりを一緒に眺めていた。
「ところで、テリー君」と、やがてエラリーが「不意のご入来《にゅうらい》の目的はなんだね」
「旧交をあたために来ただけさ」と、テリーがにやにやした。
「君は監視されているのを知ってるだろうね」
「うふっ。おお、たしかにね」と、テリーは手を振った。
「聞いたところでは、リースさんが亡くなった午後から、君は女たらしのように、マクルア嬢をつけまわしてるそうだね」
褐色の男が目を細めて「他人の知ったこっちゃないぜ」
「わしには関係がある」と、マクルア博士が、おだやかに言った。
「まさか君は」と、エラリーが「お嬢さんが誰かに、何か――そう、君に不利になるようなことを、しゃべりゃしないかと心配しているのじゃあるまいね」
テリーは新しいタバコの箱の封を切った。エラリーが立って、丁重に、マッチを差出した。
「一体なんだって君は、そんなことを考えついたんだね」と、テリーが言った。
「マクルア博士と僕は、君が僕のおやじにしゃべった以上のことを知っていると睨んでるんだよ」
「それで、お二人さんとも頭のいいところを見せようってわけだね。博士のお金をじゃんじゃんつかって、大西洋の真中から電話をかけたってわけか」
エラリーは煙の輪を吐いて「どうやら、別の方面から話を切り出した方がいいらしいね。では、どうぞ、博士」
エヴァがせきこんで「お父さま、どうかしら――あのう、クイーンさんとのお話は、またのことにしたら。お家へ帰りましょうよ。クイーンさんもリングさんも大目に見て下さると思うわ」
「エヴァ」と、マクルア博士が重々しく言って、毛深い手を娘の肩にかけ「少し訊きたいことがある」
エヴァはびっくりして、手袋の人差指を噛んだ。マクルア博士は、かつて見たこともないほど、きびしい真青な顔になった。三人の男たちは、ただ、エヴァを見つめていた。罠にかかったと、エヴァは思った。
「エヴァ」と、博士は手で娘の顔を仰向かせて「カーレンを殺したのは、お前かい」
思いがけない言葉に、エヴァは、どきっとして、返事も出来なかった。エヴァは、ただ、マクルア博士の苦悩にみちた青い目を、ぼんやりと見返すだけだった。
「答えてもらわねばならんよ、エヴァ。わしは、知らねばならんのだ」
「僕もです」と、エラリーが「是非知りたいですね。実は、お嬢さん、そんな恐ろしい目でお父さんを睨むのは、とんでもない見当ちがいですよ。その質問は、本当は僕からのものです」
エヴァは、あえて身動きしようとも、テリー・リングの方を見ようともしなかった。
「了解を得ておきたいことが、ひとつあります」と、エラリーが明るく言い、マクルア博士が、何か身ぶりをしかけて、やめて、寝椅子に腰を下ろした。「この部屋にいるのは、われわれ四人きりですし、壁にも耳はありません。それに、おやじは留守です」
「あなたのお父さまは」と、エヴァの声が、のどでつまった。
「お嬢さん、うちでは、こと仕事に関しては、感情を差しはさまないことにしているんです。父は父の生活を、僕は僕の生活をしています。互いに、方法、手段が、違っています。父は証拠を求め、僕は真相を求めるんです。それは、常に、必ずしも、同じ方向で、虚偽を見破るものではありません。その点を分かっていただきたい」
「君は何を知ってるんだい」と、テリー・リングが、いきなり口を出して「前口上は、はしょろうじゃないか」
「いいとも、テリー。手のうちを見せよう。こっちに分かっているだけのことを、ぶちまけるよ」と、エラリーはシガレットをもみ消して「僕はパンシア号から、間断なく、おやじと連絡をとっていたんだ。おやじは、はっきりとは言わなかったが、君たちをふたりとも疑っているらしい」エヴァが目を伏せた。「おやじはことに当って慎重なんだ。僕に言わせると、君たちはどちらも晴天白日ではないらしい」
「エヴァ、お前は」と、マクルア博士が、うめくような声で「いったい、どうして――」
「博士、どうぞ、しばらく。先ず、僕の立場を説明しておきたいんです。僕は、たまたまマクルア博士と知り合い、すっかり好きになってしまったのです。リースさんにも、あなたにもお目にかかったことがあるんですよ、お嬢さん。それに、あなたのお父上は、あなた方の関係の背後の事情を、色々と快よく話して下さったのです。正直に言って、それは僕の好奇心をかき立てるものでした。それで、喜んでお手伝いすることにしたのです。おやじもそのことを知っていますよ、僕が話しましたからね。今後は、おやじはおやじのやり方で進み、僕は僕流にやるのです。僕がつかんだことは僕ひとりの胸におさめておきますし、おやじのつかんだものは、おやじの胸におさめておくわけです」
「つづけろよ」と、テリー・リングがたいくつそうに「ひまつぶしはよせよ」
「そんなに時間が大切かね。ところで、僕の聞いたところでは、未知の犯人が、屋根裏の窓から、リース邸に忍び込み、屋根裏の梯子段を下りて来てリースさんを刺し殺し、同じ道順を通って逃げたということです。これはたしかに、ひとつの仮定です。だが、単なる仮定に過ぎません。なぜなら、裏付けになる証拠も、手がかりも、なにひとつ発見されていないんですからね……つまり、L字型の屋根の下の庭には足跡ひとつ着いていないし、今までのところ、犯人のらしい指紋も見付かってはいないのです。だから、これは、結局、仮定的な犯人の出入経路とみるより仕方がありません。しかし、リースさん殺しの犯人が兇行現場に近づき得た経路を論理的に説明し得る唯一の仮定であることは否定できませんよ」と、エラリーは肩をしゃくって「あなたがたが、自らの手でカーレン女史を刺したのでなければね」
「おお」と、エヴァはかすかにうめき、テリーは目をむいた。
「こんな露骨ないい方をして、すみませんがね、お嬢さん、僕はお父上にもお話したんですが、こうした事柄を、数学上の問題と同じように取扱わないと気がすまないんです。外部の者が、あの開いていた窓やドアを使って侵入したという説には裏付けになる証拠が何もないのです。しかも、あなたは、たしかに、隣室にいたのです」
「エヴァ」と、マクルア博士が、苦痛にみちた声で、何か言いかけた。
「あなたの潔白を、納得《なっとく》行くようにして下さらなければ」と、エラリーが、穏やかに「僕は、手をひきます。あなたが有罪なら、この事件は僕が手がけるべきものじゃないんです――たとえ、マクルア博士のためとはいっても、ぼくはとり上げようとは思いませんね」
「あなたを納得させる!」と、エヴァは、とび上って、大声で「とても出来ませんわ。誰にも出来っこないことよ」
「じゃあ、お前が殺《や》ったのか」と、博士が、つぶやいた。「お前かね、エヴァ」
エヴァは両手で、こめかみを押え、クーリー帽をはねのけるようにして「もう帰りますわ……だれにも、あたしを信じられないのね。あたしに言えることは、何もないんです。あたし――あたしは、――たしかに、罠にかかっただけなのよ」
「よしなさい」と、テリーが低い声で言った。
「あたしじゃありません。あたしが、カーレンを殺したんじゃありません。あたしがカーレンを殺す理由はないじゃありませんか。あたしは幸福で――ディックとの結婚の約束が出来たばかりで――それを言いにカーレンのところへ駆けつけたんです。もし理由があったとしても、あの月曜日の午後のような気分でいるときに、カーレンを殺すなんてことがあるでしょうか」と、エヴァは椅子に身を沈めて、ふるえながら「あたしには小虫だって――殺せやしないわ」
エヴァを見つめる博士の目の色が変った。
「でも、もし、本当のことを言っても」と、エヴァが、情けなさそうに「あたしは――」
「ばかなまねをするんじゃない」と、テリーが声を怒らせて「おれの言ったことを忘れたのかい」
「それで」と、エラリーが促した。
「あなたは、あたしがやったのだと言うでしょうよ。だれでも、そういうにちがいないんだわ、誰も、かれもが」と、エヴァは椅子の腕に泣き沈んだ。
「おそらく、あなたが、そう思い込んでいるだけかもしれませんよ」と、エラリーが、つぶやくような声で「僕は、そういわないでしょうね」
テリー・リングはエヴァを睨み、肩をしゃくると、窓のそばに行って、せかせかとタバコをふかしはじめた。マクルア博士は、身をかがめて、エヴァの帽子を脱がせ、髪を撫ぜてやった。
エラリーは、椅子に近づき、エヴァの顔を上げさせた。
やがて、エヴァは、すすり上げながら「すっかりお話しますわ」
テリーがちえっと言って、タバコをもみ消し、吸いがらを窓の外になげすてた。
エヴァは一切を語り終ると、ぐったりと椅子にもたれて、水気のない、うつろな目を閉じた。
マクルア博士は、気違いじみた荒っぽさで、指の関節をぽきぽき鳴らしながら、自分の靴を見守っていた。
テリーが窓のそばから「どうだい。シャーロック〔素人探偵〕。判決はどうだ?」
エラリーは寝室にはいってドアをしめた。電話をかける音がした。やがて、出て来て「あの邸を、すっかり調べてみるまでは、本当に何も出来ません。リースさんの弁護士のモレルに電話して、向うで落ち合うように頼んでおきました。二、三訊いてみたいことがあるのでね、お嬢さん」
「そう」と、エヴァは目も開かずに言った。
「あなたには、冷静でいてもらいたいですよ。この事件では、あなたがしっかりしていることが大きなたすけになりますからね」
「あたしは大丈夫ですわ」
「しっかりしとるよ」と、テリーが言った。
「君もな、テリー。君は専門家《くろうと》だ。君はお嬢さんの苦境にすぐ気がついただろう。君の考えを聞かせてもらおう」
「君が、閉じていたドアのかんぬきの件をしゃべらん限り、お嬢さんはまず心配ないな」
「相変らず横紙破りだね」と、エラリーが小声で言って、部屋をひとまわりした。「正直に言って、なかなかの難問だね。お嬢さんが無実だとすると、ことは不可能だ。出来る道理がない。しかも、現に犯行はあったんだ……テリー、君はなんで、月曜日にカーレン・リース邸にいたんだね」
「君にゃ関係のないことだよ」
「協力的ではないようだな。ところで、あの日曜日の朝、カーレン・リース女史が自分で警察本部に電話をかけて、月曜日の午後五時に刑事がくることになっていたのを、君は、どうして知ったのかね」
「小鳥が教えてくれたのさ」
「なにより肝心な点は、なぜ君は、事実殺人犯とみなされるような少女の共犯者になったかということだ」
「そいつは説明するよ」と、テリーが、くるりと振り向いて、はき出すように「あんまり出来すぎてるからな。しかも、犯人と思えるのはこの娘さんしかないときてる。ものごとは、ああ、うまくはこぶもんじゃないだろう。おれは、この娘さんが、罠にはまったなと思ったからさ」
「ああ、すると、陰謀だと言うんだね」
「陰謀?」と、マクルア博士は、だるそうに首を振って「そんなことはあり得んよ、リング君。そんなことをやる人間は、ひとりも――」
「だが、最大の理由は」と、テリーがエヴァのそばへ来て、微笑しながら見下ろし「この娘さんが、真実を話していると思ったからさ。おれは、甘ちゃんかもしれないが、そりゃ、どうでもいい。だが、がんばるんだぜ、お嬢さん。おれは、とことんまで、あんたの味方をするからな」
エヴァは顔を赤らめた。下唇がふるえた。テリーは顔をしかめて、部屋の中を歩き始めた。
「わしは言いおくれたが、テリー君」と、博士がおずおずと「実にありがたいと思うとる」
「お礼はクイーン君に言うんだな」と、テリーは玄関に姿を消しながら「こういう仕事となると、大した腕だからね」
やがて、玄関のドアが、ばたんと閉まる音がした。
「どうやら」と、エラリーがエヴァに向かって、無造作に「あの男を征服したらしいですね。僕の知る限りでは、テリーが女性に参ったのは、初めてですよ」
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下町へ行くタクシーの中で、エラリーが訊いた。
「月曜日の午後、あなたがカーレン・リースの家へ行くことを、前もって知っていた者がいますか」
「ディックの他には誰もいませんわ」エヴァは父親の肩によりかかり、それで、ふたりとも至極、気持よさそうだった。「それに、ディックにしても、四時ちょっと前に知っただけですわ」
「じゃあ、思いつきで出かけたわけですね」
「本当に、そうよ」
「すると、テリー・リングの考えは間違ってるな。だれもあなたを、罠にかけることは出来なかったはずです」
ワシントン・スクェアのリース邸に着いてみると、驚いたことに、ぶらぶら者のテリー・リングがいて、クイーン警視をからかっていた。警視は全然何もしないで、テリーのひやかしを楽しんでいるらしい。クイーン親子は互いに目であいさつをすますと、エラリーが、病み疲れているマクルア博士を父に紹介した。
「なぜ、ご帰宅にならなかったのですかな、博士」と、警視が「あなたにとっては、愉しいはずがありませんぞ。お話はいずれうかがうつもりです」
マクルア博士は首を振って、エヴァに腕をまわした。
警視が肩をすくめて「ところで、エラリー、これが現場だ。死体以外は、発見当初のままにしてある」
エラリーの小鼻が少しふるえた。居間には、ちらりと目をくれただけで、すたすたと寝室へはいって行った。みんなが、黙って後につづいた。
エラリーは戸口に立って、見まわしていた。身じろぎもしないで、じっくり眺めていたが「兇器はみつかったのですか」
「うん――みつかった」と、警視が「うん、見つかったと思う」
エラリーは、警視の歯切れの悪い言葉に、目をあげてちらりと見ると、部屋の中を、ぶらぶらまわり始めた。
「ところで」と、書きもの机を調べながら「リースさんは、いったい、なぜ刑事を呼んだんですか」
「日曜日の朝九時頃、本部に電話をかけて来て、月曜日の午後五時に、刑事をひとりよこしてくれと、頼んだんだ。それで、ギルフォイルが来てみると、カーレン女史は死んでいて、マクルア嬢とテリーが、その場に居合わせたというわけだ。カーレン女史は、刑事を呼ぶ理由を何も言わなかったから、おそらく、永久になぜか分からんだろうな」
エヴァが顔をそむけた。小柄な老人のひと言ひと言が、ナイフのように胸につきささった。
「電話をかけた人物が、カーレン・リースなのは」と、エラリーが「たしかなんですね」
「ここから電話をかけたときに、日本人の女中キヌメが、そばにいたんだ。おい、テリー」と、警視は、くすくす笑いながら「なぜすっかり吐いちまわないんだ。少しは手伝ってくれてもよかろう」
「僕は聞いてますよ」と、テリーがそっけなく言った。
「お前は先週の末に、カーレン・リースに数回電話しとる――事実、日曜日の午後もかけとる。オマラという女中が、そう言った。リース女史と、どんな取り引きがあったんだね」
「誰が取り引きだなんて言ったんですか。警察の連中ときたら、全くやり切れないな」
クイーン警視は悟りすましたように肩をしゃくった。辛抱強いのだ。いつも、辛抱づよく待つことで、勝ちを収めて来たのだ……エラリーは、そり身になって、低い日本式寝台のそばに、つる下がっている空《から》の鳥かごを、じっと見つめていた。
「あれは、ただの飾りでしょうか。それとも本当に小鳥がはいっていたんでしょうか」
「分からんな」と、警視が、「最初に見たときのままなんだ。月曜日、ここにはいったときにも、からだったかね、お嬢さん」
「まるで、覚えてはいませんわ」
「からだったよ」と、テリーが、ぼそっと言った。
「ご神託だな」と、エラリーが「何かはいってただろうが、どんな小鳥か、ご存知ですか、博士」
「よく分からんね。見かけたおぼえがあるだけだね。カーレンが九年前に、東京から持って来た、なんとかいう日本の鳥だ。大変大切にして――まるで子供のように世話しておった。キヌメなら、もっとくわしく知っとるだろう、一緒に来たのだから」
警視が出て行き、エラリーはのんびりと部屋内の捜査に戻り、屋根裏に通じる開いたドアの向うの通路には目もくれず、ただ、ドアの閂《かんぬき》だけをしげしげと見ていた。マクルア博士は妙な型の小さい日本式足台に腰かけて、顔を両手でおおっていた。エヴァは、テリーに、にじり寄った。部屋の中は、なんとなく、ものもいいにくい空気だった。
警視がキヌメをつれてもどって来た。キヌメは、ベッドの上に吊り下げてあるのとは形のちがう――別の鳥かごを運んで来た。小鳥がはいっていた。キヌメの後に、白人女中オマラがついて来て、部屋の入口に立ちどまり、あきれ顔で、むさぼるような好奇心にかられながら、こわごわと覗いていた。
「こりゃきれいだ」と、エラリーが、日本女中の手からかごを受けとって「キヌメさんだね、よく覚えているよ。奥さんが亡くなられて、さぞ悲しいだろうね、キヌメさん」
老女中は、泣きはらした赤い目を伏せて「とんでもないことでございますよ、あなた」と、つぶやいた。
エラリーは目を老女から小鳥に移した。老女と小鳥は、どこか似ているようだった。かごの小鳥は、紫の頭と翼と尾で、胴は茶がかった紫、のどもとに白い細い縞があって、どことなくエキゾチックだった。たくましそうなくちばしをしていて、くちばしから尾の先まで一フィートはあった。エラリーが気に入らぬらしく、キラキラする目を向け、くちばしをあけて、しわがれたいやな声で鳴いた。
「自然はうまく出来てる」と、エラリーが批判した。「こんなにきれいな鳥だから、どこかに醜い所も少しはなければね。キヌメさん、これは、なんと言う小鳥ですか」
「カシドリです」と、キヌメが、かすれ声で「お国では―― |jay《ゼイ》 を呼んでいるようですわね。琉球カシドリです。わたしの国から来たのです。もう、年寄りですわ」
「琉球カケスか」と、エラリーは考えこむように「なるほど、カケスだな。キヌメさん、なぜこの部屋のこの鳥かごに入れてなかったんですか」
「時々はここに、時々は階下に置くのです。他のかごに入れます。日光室に置くのです。夜さわぐので、奥さまがおやすみになれませんので」と、キヌメは顔を袖に埋めて泣いた。「奥様が、とてもかわいがって、何ものよりも愛していらっしゃいました。いつも、ご自分でお世話なさって」
「わたしに言わせれば」と、女中のオマラが、思いもかけず、戸口から言った。そして、自分の声におどろいて、すばやく、あたりを見まわすと、あとずさりしはじめた。
「ちょっと待ち給え。なんだね?」と、エラリーが訊いた。
オマラは足をとめて、もじもじしながら、髪をいじり始めた。そして「何も申しませんわ」と、ぶっきら棒に答えた。
「たしかに、何か言ったよ」
「じゃあ申しますけど、奥様は、その鳥のこととなると、気違いのようでしたわ」と、白人女中は、警視の方を見ながら、居間のドアの方へじりじりとさがって行った。
「こっちへ来なさい」と、エラリーが「誰も君をいじめやしないよ」
「つまらん小鳥一羽ぐらいのことで、なんたる騒ぎだ」と、警視がにがり切った。
「全然、騒いでませんよ。僕は情報を求めているだけです。あんたの名前は? この邸に来てから、どのくらいになるの?」
「ジェニーヴァ・オマラです。三週間になります」と、すっかり、びくびくして、生れつき、いこじなたちらしく、むっつりとしていた。
「あんたは、この鳥の世話をしたかね」
「このひとですわ。でも、あたしがここへ来て一週間もしないうちに――このひとが病気をしたので」と、白人女中は、北欧人らしい軽蔑の色をうかべて、キヌメを指さしながら、くどくどと「肉や卵や色々な|えさ《ヽヽ》をこしらえてやらなければならなかったのです。それなのにあの厭な小鳥ときたら、籠から逃げ出して裏庭に飛んでっちまって、あたしたちは、つかまえるのに散々苦労したんです。屋根から下りようとしないんですもの。奥さまは、かんかんになって、気が違うばかりでした。すぐ、あたしを|くび《ヽヽ》にするといきまいてました。奥様は、しょっちゅう、女中をくびにするって、エルジーが、あたしに言ってましたからね――あたしの前にいた女中さんよ。でもこのひとだけは別なんですよ」
「厭な娘《こ》だね」と、キヌメが叫び、切れ上がった目を光らせて「お黙り」
「まあ、よさないか」と、マクルア博士がたしなめた。白人女中はまたちぢみ上って逃げ去った。琉球カケスが、ぎゃあぎゃあ啼いた。「その厭な鳥を、ここから持ち出してくれ」と、博士が、うんざりしたように言った。
「くだらない女どもだ」と、テリー・リングが、うんざりという顔をした。
「退《さが》っていいよ」と、エラリーがキヌメに言うと、日本女は、丁寧におじぎをして、鳥籠を持って去った。
エラリーが机の上に丸めてあった日本紙の用箋のしわをのばしていると、太った小男がはげ頭をふきながら、そそくさとはいって来た。書類鞄を持ち、しわしわの麻服を着ていた。
「私はモレルです」と、きんきん声で名乗り「リース夫人の弁護士です。今日は、警視さん。やあ、お嬢さん。お愁傷さまです。こりゃ、気違いのしわざにちがいありませんな。おやあなたは――お写真で拝見したことがありますよ――エラリー・クイーンさんですな」と、油っこい手で握手を求めた。
「そうですよ」と、エラリーが「あなたは、ここにいる人を、みんなご存知でしょうね。リング君の他は」
「リングさん」と、モレルは目ばたきながら、「よろしく」と言った。テリー・リングは油じみた手を見下ろしていた。「そう――ところで、クイーンさん。御用というのは――」
「君はこの手紙を読みましたか」
「昨日みました。最後まで書いてないのが妙ですな。それとも、書き終えられなかったのでしょうかな。おそらく、リースさんは――つまり、書き終える前に――」と、弁護士が口をにごした。
「すると、だれが用箋を丸めたのかな」と、テリー・リングが横柄《おうへい》にいった。
エラリーはちらりとリングを見てから、その手紙を読んだ。科学的ともいえる正確な小さな文字で書かれ、月曜日の午後の日付になっていた。
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モレル様
私の帳簿では、ヨーロッパに、著作権料の受け取り分が、いくらか残っています。大口はドイツで、ご存知の通り、ナチの法律が施行されてから、ドイツの出版社は海外に送金できなくなったからです。早速、完全で見おとしのない、全部のリストを作っていただきたいと存じます。スペイン、イタリア、フランス、ハンガリーには、単行本の版権料の受け取り分が、いくらかありますし、デンマーク、スウェーデンなどには、新聞掲載料と読み物連載料があります――それらの即時支払い方を促進していただきたいのです。それから、ハーデステイとフェルティッヒの間で、相互契約のようなものが出来ないか、研究していただきたいのです。一部の若者たちは、英国の代理店と、ドイツの出版社との間で、信用状の交換を実施してもらっているとか、聞いておりますから。
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「こりゃ、どういうことですか」と、エラリーが、目を上げて「リース女史は、あなたに、外国にある著作権料の調査を依頼されてるんですね、モレルさん。女史は著作権代理人をおいていなかったんですか」
「あのひとは、代理人を信用しませんでね。わたしだけを、絶対に信頼していたのです。わたしは、あのひとの弁護士で、代理人で、何でもたのまれていましたよ」
エラリーは文面の先に目を移した。
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モレル様、あなたにしていただきたいことがあるんです。非常に重要で絶対に秘密なことです。あなたなら秘密を守っていただけると信じて――
[#ここで字下げ終わり]
「ふーん」と、エラリーが「最後まで説明しないで切れているな。テリー君の言う通りらしい。こりゃ、ふと、気が変ったんだな」
「何を言おうとしたのかが、重要ですな」と、モレルが、きいきい声で「是非とも知りたいものですよ」
「みんな知りたいさ」と、テリーが、うなるように言った。マクルア博士とエヴァは机に近より、一緒に手紙を読んだ。
大柄な博士が首を振りながら「この重要で秘密なことと言うのは遺言状としか考えられんな」
「いや、いや、ちがいますよ。リースさんが、遺言状は現在のままで充分満足だと言われたのは、つい先週のことですからな」
「すると、遺言状を残して逝《い》かれたわけですね」と、エラリーが訊いた。
「ええ、遺産は整理して、いくつかの学術団体に、基金として、分けて寄付するように遺言されています」
「大学だろう」と、テリーが、口をはさんだ。モレルが好きでないらしい。
「寄付の一部は」と、弁護士がしゃっちこばって「東京帝都大学へ行くことになっています。ご存知のように、お父さんの亡くなったあと、あの大学で教えていましたからな」
「それは、マクルア博士から聞きましたよ。個人的な遺贈は、どうなっていますか」
「誰にもしないことになっています」
「でも、近くマクルア博士と結婚されることになっていたので、遺言状を書き換えるつもりではなかったですか」
「そんなことはありませんでしたよ」
「必要なかっただろうな」と、博士が味けない声で「わしの収入は、あれのよりずっと多いし、そのことはあれも知っとったからな」
「何からかにまで、さっぱり分からんな」と、テリーが匙《さじ》を投げた。
「では、誰も――つまり、どんな個人も――あのひとが死んだために利益を受ける者はいないんですか」
「誰ひとりいませんね」と、モレルがすぐ、きいきい声で「リース女史は、ずっと以前に亡くなった父方の親戚《しんせき》の――大伯母だったと思いますが――莫大な遺産から相当の年収を受けていました。大伯母の遺言の条件によると、リース女史は四十歳に達するまで遺産からの年収を受け、それ以後は、遺産そのものが女史のものになることになっていました」
「すると、亡くなるときは、裕福だったわけだね」
「そりゃ、考え方ですな」と、弁護士が「富なんてものは――比較の上の問題ですからね。わたしなら、まあ、安楽だったといいたいところですな」
「だが、女史は一財産、相続したと言ったじゃないですか」
「おお、それがまだなんですよ。実際は、女史は財産を相続する年齢に達する前に亡くなったんですからね。つまり、四十前です――この十月で満四十になるところですよ。たった一月のことで相続権を失ったわけです。実に残念なことですよ」
「そりゃなかなか面白いな」
「面白いどころか、まことに不運ですよ。いいですか、大伯母の遺言状には、不慮の場合に対する規定もしてありました。リース女史が四十歳に達する以前に死亡せる場合は、伯母の全遺産は、リース女史に一番近い血縁の者に贈られることになっているのです」
「そりゃ誰ですか」
「ひとりもいません。血縁者はだれもいないんです。女史は天涯孤独《てんがいこどく》だったのです。そう言っていましたよ。それで、今となっては、大伯母の遺産は全部、遺言状で特に指定してある慈善団体に行くことになるわけです」
クイーン警視が、顎をかいて「マクルア博士、今までに、リース女史に失恋した人物はおらんかね」
「いないでしょうな。わしが最初で――最後の男性でしたからな」
「モレルさん」と、エラリーが「リース女史の私生活で、この殺人事件の手がかりになりそうなことを、何かご存知ありませんか」
モレルは、また、はげ頭を拭《ふ》いて「答えにならんかもしれませんがね。ごく最近、女史は世界中に敵はひとりもいないと言っていましたよ」
テリー・リングが「自分でそう思ってただけだろう」
モレルが小さな光る目でテリーを睨み、何か呪いの言葉をつぶやき、ぺこんと頭を下げると、持って来て口も開けなかった書類鞄と自分自身を持ち上げるようにして出て行った。なんだって、あの鞄を持って来たのだろうと、エヴァはヒステリックに考えていた。
やがて、エラリーが「いや、実に不思議だ。何不自由なく生きていけるのに、その人にとって、最も悲惨で不幸な死にぶつかるなんて。しかも、有名で――アメリカの作家として最高の栄誉を受けたばかりなんだ。それに近い将来――ほとんどすぐに――金も出来るはずだったんだ。ひと月もすれば莫大な財産を相続するはずだったんだからな。幸福であり、益々幸福になれる条件がそろっていた――間もなく、自分で選んだ男性と結婚することになっていたんだ……それが急に、何不足ない幸福のさなかに、人殺しにやられるなんて」
「わしには、さっぱり分からんよ」と、マクルア博士がつぶやいた。
「人間はどうしてこんな人殺しなどするのかな。金のためかな。だが、リース女史の死によって、一文だって利益を受ける者はいないんだ。二、三の公益団体は利益を受けるが、まさか、それらが殺人犯とは思えない。では、嫉妬《しっと》かな。だが、女史の生涯には、三角関係のもつれは、明らかになかった――とすると、これは情痴犯罪ではない。それとも、怨恨かな。だが、モレルの言葉を聞かれた通り――女史には敵はいなかった。なんとも、不思議だ」
「なんとかして、動機を知りたいものだ」と、博士が言った。なんとなく、ぎこちない様子なので、エヴァはあわてて顔をそらせた。
「あの三百代言の言い分も、そうはずれちゃいないぜ」と、テリー・リングが突然「狂人のしわざだぜ」
最後にエラリーが「お嬢さん、坐って下さい。みなさんにとって、実に辛《つら》いことなのは承知していますが、あなたに、是非いていただかなければならないんです。坐っていて下さい」
「ありがとう」と、エヴァはかすかな声で「あたしは――なんとか耐えて行けそうよ」と、低い日本式ベッドのふちに腰を下ろした。
エラリーは机をまわって屑籠の反古《ほご》をつまみ出し始めた。
「これが、窓をこわした石だ」と、警視が言い、靴の先で、最後にエヴァが見たままの姿で床にころがっている石を指し示した。
「ああ、その石ね」と、エラリーはちらりと見て「あのね、テリー君の説明だと、その石は、子供が投げたんだろうというんですよ、お父さん、いたずらにね」と、屑籠あさりをつづけながら言った。
「そうか、そうか。そうかも知れんな」
「あっ」と、エラリーが叫んで、屑籠の底から何かをつまみ出した。まるで爆弾でも扱うようだった。
「指紋の心配はいらんよ」と、警視がそっけなく「もう調べてある」
マクルア博士が充血した目をむいて、乗り出して来て「何か新しい証拠でも」と、老いの力をはげまして鋭く言った。「そんなものは、一度も見たことがないよ、クイーン君」
「新しいものじゃありませんな」と、警視が訂正して「少くとも、あの老女中が言うところによると、リース女史が日本から持って来たものだそうですぞ」
それは、エヴァが月曜日の午後、この机の上で見つけた、はさみの片刃だった。エラリーは一目で、なくなっている半分を元通りに組み合わせれば、このはさみは、きらきら光る翼と二インチ半のくちばしのある鳥の姿になるものと見てとった。まごうかたない東洋細工だ。金属の台に精巧な瀬戸《せと》ものをはめこんだ細工で、完全なはさみとすれば、くちばしが刃、胴が柄、脚が握りにちがいない――実に型はずれのはさみだが、刃が鋭いから、実用の役に立っただろう。宝石まがいの色とりどりの石が、羽毛じたてに、胴にちりばめられて、張り出し窓からの光りで万華の炎のようにきらきらしていた。片刃のはさみは、五インチもあるのに、手にとってみると、エラリーには、その重さがほとんど感じられず――まるで、はさみの形が示している鳥の羽のように軽いのだった。
「すばらしい考案だな。一体、なんの鳥を表わそうとしたものかな」
「キヌメが鶴と言っとった――ツルとかなんとか日本語で言っとったぞ」と、クイーン警視が説明して「神聖な鳥なんだそうだ。リース女史は、あらゆる鳥が好きだったらしいな」
「そうそう。日本の鶴は――長寿のシンボルでしたよ。しかし、どうも、大して予言的でもなかったようですね」
「なんとでも勝手に解釈するがいい」と、老警視が「わしにとっては、リース女史を刺した兇器にしかすぎんよ」
もし、小柄な警視が、あと一秒でも、妙に疑り深い様子をつづけていたら、エヴァは叫び出さずにはいられなかったろうと思った。おお、あの時にうまく気がつけば、あたしの指紋を拭きとっておいたのになあ。
「これが、たしかに兇器だと思いますか」と、エラリーが小声で訊いた。
「サム・プラウティの報告では、傷口の幅と深さが、その刃とぴたり一致しとる。偶然の一致とは言えまい」
「なるほど、でも、何か他の兇器ということもあり得ますね」
「だが、鞘《さや》は、そうはいかん」
「どの鞘《さや》ですか」
「日本女中が、いつもはさみをしまうのに使っていたと言うケースを、屋根裏部屋で見つけたんだ。しかも、そいつは、本物だった」
「屋根裏部屋で?」と、エラリーは、机から目をはなさずに、机の上にある金色の封蝋《ふうろう》の棒と、日本文字の金属製の印鑑《いんかん》を見つめていた。しかし、本気に見ているとは思えなかった。
屋根裏部屋のことを、エヴァは、まるっきり忘れていた。エヴァは、一度もそこにはいったことはないし、誰ひとり見ることを許されない部屋なのだ。あそこには、何があるのだろう。でも、そんなことは、エヴァには、本当に、どうでもよかった。どっちみち同じことだもの……
「だから、このはさみは、上の部屋から持って来たものだ」と、警視が「キヌメの他には、誰にも見覚えがないはずなのだ。ずっと昔にこわれていたと、キヌメが言っとったが、話は合うようだ。犯人は屋根裏部屋の窓から忍び込み、このはさみの片刃を持って下り、リース女史を刺し、刃の血痕をぬぐって屑籠に投げ込み、来た道を逃げたのだ。どうだ、筋が通りそうだろう」
警視の声に、からかうような調子が少しでも、ふくまれてやしないかしら、と、エヴァは夢中になって考えてみた。警視のいったことは不可能なのだ――犯人は屋根裏部屋から来られっこない。寝室の内側からドアに閂がかけてあったんだから。警視は本気で、あんなことを言ってるのかしら。
「それじゃあ」と、エラリーが何か考えながら「いちおう、屋根裏部屋を見せてもらうことにしましょう」
[#改ページ]
十一
屋根裏部屋へ登る階段は、狭くて、急で、がたぴしだった。エラリーの後から、エヴァと博士とが、死んでも離れまいとするように、一緒に登って行った。テリー・リングとクイーン警視は、ちょっとの間、行列につづく順について、妙にせり合っていたが、警視のいら立ちをよそにして、最後に勝ったのは、褐色の男の方だった。老警視は、ひとに後ろにまわられるのが好きではなかった。特にがたぴしの階段を足音もたてずに登るような人間は、まっぴらだった。
一同は、ひんやりとした、天井がかしいでいる部屋に出た。エヴァが妄想を描いたような、神秘的な部屋でもなんでもなかった。暗がりを登りきると、明るい日光がさし、清らかで小ざっぱりしていて、ほとんど無垢《むく》といっていいようなその部屋には、およそ陰惨なかげなどなかった。二つの窓口に張られている薄絹のカーテンが風にそよぎ、楓材の四本柱のベッドには、花模様のカーテンのへりと同じ明るい色の更紗《さらさ》木綿のカヴァーがかけてあった。だが、壁には古い日本の水墨画がかかり、ぴかぴかの床に畳が敷かれていた。それらは、太平洋を越えて来たものとしか思えない。
「まあ、すてきなお部屋ね」と、エヴァが思わずも「カーレンはここならお仕事が出来たはずね」
「わしにはどうも」と、マクルア博士が、のどをつまらせて「息苦しいな」と言い、あいている窓のところへ行き、一同に背を向けた。
「実に奇妙に、西と東が、とけ合っていますね」と、エラリーが言いながら、小さなチーク材の机の上の旧式なタイプライターを眺めて「下の部屋に見られない変な点がある」
部屋の一隅に電気冷蔵庫があり、その上が台所戸棚、そのわきがガス台になっていた。きわめてモダーンな設備の小さな浴室が、寝室の突き当りにあり、小窓と天窓がついているだけで、他にドアはなかった。この小部屋は、いかにも洗練された繊細な暮し方の女性が住んでいたものらしく――用心のいい楽園で、屋根裏部屋のてっぺんにあるドアが、世間に通ずる唯ひとつの出口だった。
「こりゃ、まったくの孤独生活だ」と、エラリーが「あのひとは何をしていたんだろう――この屋根裏部屋と、階下の部屋とに、生活の区切りをつけて」
「『八雲立つ』をここで書いたのね」と、エヴァは涙ぐみながら「思いもよらなかったわ――こんなに狭い部屋だなんて」
「わしが調べ上げたところでは」と、クイーン警視が「何か特別な書きものをするときには、いっぺんに、一、二週間も、ここにこもっていたらしい」
エラリーは、壁一面の竹の書棚を眺めてみた――六か国語で書かれた参考書類、日本書籍、ラフカディオ・ハーン〔小泉八雲〕、チェンバレン、アストン、大隈の著書、英・仏・独訳の日本歌集――それらが、西欧の古典文学書類の真中に、きちんと並べられ、よく読み古してあった。机、引き出しと、エラリーが冷静に調べていくと、たくさんの本や、原稿の断片や、きれいにタイプされた謎めいた覚え書が、どっさりちらばっていた――それらは、この作家の備品で、命の終った時のままに残され、創作の途中で中断させられたことを示していた。エヴァは、無造作にそれらを調べているエラリーに、羨ましいような口惜しいような気持になり、死者に対して冒涜《ぼうとく》ではないかと思った。
やがて、エラリーが細身の、はさみの鞘をつまみあげた。海象《あざらし》の牙に浮き彫りをほどこし、はしに日本字の句を刻んだお守《まも》り貨幣を絹ひもでぶら下げてあった。
「例のはさみの鞘だ」と、警視が大きく頷いた。
「もう一方の片刃は見つかりましたか」
「まだだ。ずっと以前に紛失したのだろう」
エラリーは、鞘を置くと、あたりを見まわして、扉のあいている戸棚に歩みよった。戸棚には、女の持ちものが、かかっていた――あまりぱっとしない衣類がいろいろ、床には靴が二足。帽子と外套はなかった。エラリーは、覗いて、見まわし、首を振って小さな楓材の化粧台の方へ行った。台には、櫛、ブラシ、化粧品セット、中に色とりどりのアクセサリー、ピン、マニキュア道具の入れてある、うるし塗の小箱が載っていた。エラリーが目を細めた。
「どうした?」と、クイーン警視が覗いた。
エラリーは、鼻眼鏡をはずして、玉をふき、眼鏡を鼻柱にかけもどした。そして、戸棚にもどり、服かけからプリントの服をはずして、じっと見つめた。それも元にもどして、次に、淡褐色のレースのふちどりがある黒い絹服をとり上げた。それを戻して、下唇をつき出しながら、しゃがみこむと、床の二足の靴を調べはじめた。ふと、何かが目をひいたらしく、エラリーは、ぶらさがっている服に半ばかくれている戸棚の暗がりから、それをひきずり出した。古びたヴァイオリン・ケースだった。
エヴァは心の奥で、妙にいぶかり始めた。あのひとは気がついたかしらと思った。他の人たちは気がつかないらしいけど――
エラリーがケースを開いてみると、中には、チョコレート色の古ヴァイオリンがあり、四本の絃は、いつかの夏の暑さではじけたとみえて、ベッグ・ボックス〔木栓〕から、はずれて、だらりとしていた。エラリーはかなり長く、そのこわれた楽器を見つめていた。
やがて、エラリーは、それを持ってベッドにもどり、更紗《さらさ》木綿のベッド・カバーの上に置いた。いまや、みんなが、エラリーに注目していた――窓の外を眺めていたマクルア博士すら、急に静まったあたりの空気に気付いて、振り向かずにいられなかった。
「なるほど」と、エラリーはため息をして「こりゃどうも」
「何が、なるほどだ。いったいどうしたんだ」と、警視が、せきこんだ。
テリー・リングが、もったいぶった声で「名声かくれもないクイーン君のご登場とござあーい。何かつかんだかい、クイーン君」
エラリーはたばこに火をつけて、考え深そうに火先をみつめていた。
「うん、つかんだよ。意外な事実だがね――カーレン・リースは、この部屋に住んではいなかったのだ」
「カーレンが――まさか――」と、マクルア博士が言いかけて、目を丸くした。エヴァは危うく叫びそうになった。やはり、クイーンさんは気がついたんだわと、エヴァは煮えくりかえるような頭の中で、ただ――あのことだけは――多分――
「たしかですよ、博士」と、エラリーが「何年もね。しかし、ごく最近まで、この部屋に、全く別の婦人が、起居していたことはたしかです」
クイーン警視は、ぽかんと口をあけ、その白髪まじりの口ひげが、おどろきあきれて、さか立ちしていた。
「おい、説明しろ」と、警視が「カーレン・リースがここに住んでいなかったというのは、いったい、どういうんだ。部下のものが、ここは、すっかり――」
「つまりね」と、エラリーが肩をすくめて「あの連中が、額面通りに通用しなかったってことですよ。僕の言ったことには、本当に疑問の余地なしです」
「でも、そんなことは、あり得ん」と、マクルア博士が反撥した。
「先生。リース女史は右利きだったと思いますが、たしかでしょう」
「たしかに、右利きだ」
「そうでしょう。あの園遊会の晩、たしかに女史は右手で日本の茶をたてていたように思います。それで筋が合うんです。それに、あなたのフィアンセは、背が五フィート一、二インチ、体重は百五ポンドより下、たしか、そうでしょう」
「その通りよ、クイーンさま」と、エヴァが息もたえだえに「カーレンは五フィート一インチ半、百三ポンドでしたわ」
「そして、みごとなブルネットでしたね、むろん――あんな黒々とした髪は見たことがありませんよ。それに、あの浅黒い黄ばんだ肌」
「分かったぞ、もう」と、警視がいら立った。
「いいですか、あのひとは右利きなのに――このヴァイオリンは左利きの人が使ったものなのが、ひと目で分かりますよ。全く変ですね」と、ヴァイオリンをとり上げて、たれ下がっている絃《いと》をいじりまわして「この絃《いと》をごらんなさい。普通は、楽器に向かって左から右に、G・D・A・Eとならぶのが絃の順序ですが、これは、絃の太さからみて、E・A・D・Gになっているのが分かるでしょう。逆なんです。左利き用なのです」
エラリーは、ヴァイオリンをケースに戻して、戸棚へ行き、また、プリントの服をとり出した。
「どうですか、お嬢さん、この服は、リースさんのような小柄の細っそりした婦人に、うまく着れるでしょうか」
「おお、とても駄目ね」と、エヴァが「さっき、あなたが、それを戸棚からとり出したときに、すぐ気がついてよ。カーレンのサイズは十二で――とても小さいのよ。その服は、少なくとも三十八ね。それに、さっき見てらした黒い絹服も、それと同じサイズですわ」
エラリーはプリントの服を懸けもどして、化粧台に近づき「これは、どうですか」と、ヘヤブラシをとり上げて「この抜け毛は、カーレン・リース女史の髪の毛だと思いますか」
一同はエラリーをとりかこんでいた。見ると、ブラシの毛に、数本の灰色がかったブロンドの抜け毛が、からまっていた。
「それに」と、エラリーは化粧セットの中からお白粉《しろい》箱を、とり上げて「こんな色の薄いお白粉を、カーレン・リースのような肌の浅黒い婦人が、いつも使っていたでしょうかね」
マクルア博士は、ぐったりとベッドに腰を落した。エヴァが、父親の大きなぼさぼさ頭を胸に引きよせた。誰かがいたのだわ。あの、こわい小柄な警視さんが、いろいろと、せんさくしなければならないようなひとが。そのひとは、この部屋に住んでいた、全く見知らぬ女の人なんだわ……クイーン警視は、その女がカーレンを殺したと思うにちがいないし、当然、そう考えるわ。エヴァは、とても、うれしかった。しかしその女に、カーレンを殺せるはずがなかった。――ドアに閂が下りていたからだという事実などは、強いて考えまいとした。閂が下りていたから殺せるはずがないわ。ドアに閂が。閂をさしたドアが……
「今に見ろ、化けの皮をはいでやるぞ」と、警視が、かんかんになって言った。
エラリーは、お白粉とブラシを、化粧台の元の場所にもどした。そして、やや、ぶっきら棒に「その人物の姿は、かなりはっきりしていますよ。この部屋に住んでいた女性は、およそ想像がつきます。刑事連中は、ここで、何か指紋を見つけましたか」
「全然だめだ」と、老警視がいましいましそうに「この部屋は、最近、すっかり拭きとったらしい。あの日本女中、がんとして口を割らんのだ」
「服から察すると」と、エラリーが考えながら「その女性の背丈は、五フィート七・八インチと言えそうですね。体重は、百三十から百四十、生れつきの薄いブロンドの髪で、肌は白い方でしょうよ。戸棚にある衣類の型からみると――若い女性じゃないな。どうですか、こんなところで、お嬢さん」
「そうですわ。あれは、四十代の婦人の着るもので、おまけに、全く流行おくれでしてよ」
「それに、その女性はヴァイオリンをひく。あるいはひいていた。そして秘密が――何か重大な秘密がまとわりついている。さもなければ、リース女史が隠しておくわけがない。なぜ、その女の存在を、隠しておいたのかな。なぜ、これほどまでに、隠すための苦労をしたのだろう――たとえば、誰にもここに上らせない鉄則をこしらえたり、白人の女中を度々取りかえたり、防音壁をめくらせたりして――この壁をためしてみればすぐ分かりますよ……たしかに秘密があったんですね」と、くるりと博士の方を向いて「先生、僕の想定が、あなたの知人の誰かに、ぴたりじゃありませんか」
マクルア博士がゆっくり顔をなでて「思い当らんね――」
「よく考えてみて下さい。その女性はリース女史のアメリカ生活からは思い浮かばないでしょうよ。どうも古っくさい話のようですよ。そうだ、日本だ」と、エラリーは、のり出すようにして、熱っぽく「さあ、博士、考えて下さい。あなたは、リース女史の東京時代を知っている――あのひとの家族のことも……」と、ゆっくり身を起こしながら「あのひとの家族。そうだ、その辺がくさい――待てよ」
エラリーは戸棚に駆けより、二つの靴をとって来て「そうだ、まだあった。忘れるところだった。二つの靴。二つとも右側の靴だけだ。左がない。分かるかな?」
「大したもんだ、シャーロック君」と、テリー・リングが、つぶやいた。
「二つとも新品だ。一度もはいてない」と、エラリーは、じれったがって、靴をたたきつけて「これから、二つのことが推定されますよ――その女性は右足がなくなっているか、それともひどく悪いので特別あつらえの靴をはいている――どちらかの理由で普通の右足の靴が役にたたない可能性がある。どうですか、心当りがありませんか、博士」
マクルア博士は、態度をきめかねるような顔で、妙に緊張した声で「まさか、そんなことは、あり得んな」
「お父さま」と、エヴァが叫んで、父親をゆすぶりながら「何よ? 言って頂戴」
テリー・リングが、のんびりと「むろん、そんな女を見つけるのは、わけないんですぜ。時間の問題でさ、先生」
「そんなことはあり得ん」と、大男が、どなった。そして、しょんぼりと肩をすぼめると、また、窓辺へ行った。やがて、強張《こわば》った抑揚のない声で、坦《たん》々と語り出した。しかしながら、博士の手は、カーテンの更紗木綿のへりを握りしめていた。
「カーレンの生活には、君の想定と合致する女性がひとりおる。わしが会ったときには、ブロンドで色が白く、君がこの部屋の住人ときめつけてみせた女性と、ほぼ同じ背丈、体重をしておった。左利きで、ヴァイオリンを奏《ひ》いていた。だが、それは二十年以上も昔のことだし、当時、そのひとは二十二歳だった……生れつき右足が短いので、右には特別あつらえの靴をはき、少し、右足をひきずっておった」
「そりゃ、誰ですか、博士」と、エラリーが、おだやかに訊いた。
「カーレンの姉妹で、姉のエスターだ」
立っていたエヴァは、思わず、後ろのベッドを夢中になって手で探った。まったく、あまりといえば、あまりだった。エスター・リースのことならエヴァも知っていた。なぜ、マクルア博士が、エスター・リースがこの屋根裏部屋に住んでいたなんてそんなことはあり得ないと言うのか、その理由も知っていた……
「こりゃ偶然の一致じゃないな」と、警視が、ゆっくり「ここに住んどったのは、その女にちがいない」
「君もそう思うかね」と、マクルア博士は言って、振り向いた。一同は博士の顔を見つめた。エヴァが、泣くような叫び声をあげた。
「君も、そう思うかね。では、エスター・リースは日本を離れたことはないと言ったら、どうするね。エスター・リースは今も、日本におるのだ」
「おお、そんなこと」と、老警視が、ぴしりと「断言はできんでしょう」
「わしは、はっきり断言できるのだ」と、マクルア博士が沈痛な声で「エスター・リースは、一九二四年に東京で死去した――十二年以上も前にね」
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第三部
十二
「あなたは、エスター・リースの死ぬのを見られたのかな」と、クイーン警視が静かに訊いた。
「こんなばかげた話など、気にするんじゃないよ、エヴァ」と、大柄の博士が、うなるような声で「とんでもない悪夢のような偶然の一致にしかすぎんのだ」
「でも、お父さま」と、エヴァが大声で「リースの本当のお姉さまじゃない。そんなこと――とても恐ろしいことだわ」
「信じるんじゃない。わしの言うことが聞えんのか」
「まあ、おこっちゃいけませんな」と、警視が「おこったって、結論は出やしませんよ」
「話にもならんな」と、博士がいきまいて「エスターは自殺したのだ――休日に遊びに出て、太平洋に身を投げたのだ」
「ああ、そのことですね」と、エラリーが「月曜日の午後、パンシア号の上で、話し渋られた悲劇というのは、博士」
「そうだよ」と、博士が顔をしかめて「話ししぶるのも無理はあるまい。当時、わしはニューイングランドにおって、カーレンが一部始終を手紙で知らせて来た。事実、ボストンの新聞にまで、その記事が出た。父のリース博士がボストン出身だったからな」
「おかしいな」と、警視が考えこんだ。
「本当ですわ、警視さま」と、エヴァが、おぼつかなげな口調で「そのことは、カーレンから聞いたことがありますわ。あまり、話したがらなかったけど、話してくれましたわ」
「ちょっと失礼」と、警視が言った。そして、急いでエラリーのわきを通り、屋根裏部屋の階段を駆け下りる足音がした。テリー・リングが、そのチャンスを待っていたかのように、体重を一方の足から他の足へ移した。
「いいか、トマス」と、階下の寝室で警視の叫ぶのが聞えた。「よく見張っとるんだぞ」やがて、ふたたび、階段のてっぺんに姿をあらわしたとき、手に、赤い薄い絹リボンでくくった小さな手紙の束を持っていた。
「そりゃなんですか」と、エラリーが訊いた。「そんなもの、はじめて見ますね」
「むろん、そうさ」と、警視が、ごきげんな口調で、やりこめるように「事件の、のっけに隠しておいたのだ。あのときは、大して意味はなかったんだが――今は、ちがう」
マクルア博士は手紙の束を見つめていたが、そのけわしい顔から血の気が失せた。
「われわれには分かっとるんですぞ」と、警視が、やさしく「リース女史がしまっておいた手紙の束です――地下室の古いチーク材の箪笥の底から見つかったのです。大部分のものは、一九一三年の日付けだが、二通は一九一八年のもので、一九一八年の一通は、あなたが、エスター・リース・マクルアに当てて書いたものですな、博士」
マクルア博士が、がっくりと、机のそばの椅子に腰を落した。「他のものは、エスターとフロイドのやりとりした手紙だろう」と、うなって「わしも実にばかだった。隠しおおせるつもりで――」
「お父さま」と、エヴァが眉をしかめて「一体、どうしたってことなの?」
「もっと前に、お前に話しとくべきだったよ」と、大柄な博士が、弱々しく「エスター・リースは、わしの義妹だったのだ。一九一四年にエスターは、東京で、わしの弟のフロイドと結婚したのだ」
博士は生気のない声で話した。一九一三年、博士はそれまで分かっていなかった癌研究の手がかりをつかむために太平洋を西へ渡り、そのとき、同じく医師だった弟のフロイドも同行した。弟については、こんなことを言った――たよりにならない青年で、ただ陽気で、罪がなくて、しかも、簡単に人のいいなりになる男だったし、兄を崇拝していて医学を学んだが、自分から医者になりたいからではなく、崇拝する兄をまねるという風だったのだと。
「わしらは東京で、リースの娘たちと会ったのだ」と、マクルア博士は床に目を落して「わしが日本まで会いに行った松戸老教授の紹介でな。教授は帝国大学で病理学を教えておったから、むろん、文学部の米人教授、ヒュー・リースとは知り合いだった。リースはわしらに好意をよせてくれて――当時はアメリカ人と会うことも少なかったせいで――それで、わしらは、しばしばリースの家で時をすごす結果になった。そんなわけで、エスターとフロイドは恋におち、一九一四年の夏に結婚した――日本がドイツに宣戦を布告する一、二週間、前のことだった」
エヴァは父親に近よって、肩に手をかけた。
「だが、あなたも、エスターを愛した」と、警視は手紙の束をポンポンやりながら「そのくらいのことはすぐ分かりますぞ、博士」
博士は赤くなって「いまいましい手紙だ。そうだ、否定はせんよ。当時わしは生真面目な青年だったが、フロイドが先きまわりしたことは分かった。あれが、わしの感情をかぎつけていたとは、夢にも思わんがね」
「お気の毒ね」と、エヴァが、ささやいた。
「ふたりが結婚するころ、すでに戦争の噂が立っていた、そして……何もかも手違いになって――わしの研究は失敗に終り――それで、わしは、フロイドを日本に残して、合衆国に戻って来た。弟はすぐに新しい生活に慣れて――日本を愛し、妻とともに滞在することを望んでおった。それ以来、わしは弟とは一度も会っていないのだ」
博士はしばらく黙っていた。警視が、元気づけるように「それから、博士。弟さんは殺されたんでしょう――事故で。一九一八年のカーレン・リース宛の手紙に、そのことが書いてありますな」
「そうです。カーレンが詳しく書いて来たのだ。フロイドには道楽がひとつあった――射撃です。大へんなこり方で、エスターと結婚後も東京の家の庭に、射撃場をつくった。結婚の前でさえ、エスターに射撃を教えようとしたぐらいだ」
「あのひとが、弟さんを撃ったのですか」と、エラリーが鋭くたずねた。
博士の声はほとんど聞きとれぬほどになり「おお、実にいまわしい事故だった――よくある話でな。エスターが的をねらっているとき、フロイドが危険なほど、的の近くに立っとった。それで、エスターは神経質になり、弾がフロイドの脳髄を貫通した。むろん即死だ。フロイドには何が当ったかさえ分からなかったろうな」
博士は、また、口をつぐんだ。しかし、警視が「それで全部じゃないでしょう、博士。弟さんには他に女があったことが書いてありますぞ」
「じゃ、それも分かっとるのか。まさか、この手紙が今日まで……」と、マクルア博士は立ち上って、歩きまわりながら「そう、他に女がいた。証拠もないし、今となっては、たしかめようもないが、たとえ、そうだとしても、フロイドにとっては、大して意味のあるものでなかったのを、わしは知っとる。弟はハンサムで、気が弱くて、女たちにもてる方だったからね。わしは、誓って言うが、弟は、エスターを愛していたし、愛人はエスターだけだった。しかし――まあ、とかくの噂も立った。それがついに、エスターの耳にはいった」
「おお」と、エラリーがあわれむように言った。
「君らに、エスターのことを知ってもらわねばならんよ。あれは、実にすばらしい女で、本当に美しく、感受性がゆたかで、聡明《そうめい》で、しかも作家だった……だが、肉体的な欠陥が心をむしばみ、フロイドの不倫の噂を耳にして、さぞ心を痛めたことだろうと思う。そこで、フロイドを撃ったとき、自分で思い込んでしまったらしいのだ」――と、顔を曇らせて――「潜在意識的に夫を殺そうとしていたのだ、全く事故などではない、殺人なのだと。そして、しばらく後になると、意識的に故意に殺したものと信じ込んで、それを口走るようにさえなってしまったのだ」
「それで自殺をはかったわけですか」と、エラリーが訊いた。
「うん。完全に無罪にはなったが、取調べのあとで、エスターは神経が駄目になって、一時は発狂状態にまでなった」と、博士は汗のにじんだ顔で「その事故は一九一八年におこった。報らせを受けて、わしは日本へ駆けつけたが、わしの手ではどうしようもないのを知り、合衆国へもどって来た。あれは、一九一九年の初めのことだった」と、わけもなくしばらく息つぎをしてから「リース博士は一九一六年、第一次世界大戦の最中に死んで、あとにはカーレンとエスターのふたりだけが残されたわけだ。その後、一九二四年にエスターが水死したことを知り、一九二七年にカーレンが日本を引き揚げて、ニューヨークに来たのだ。わしは、カーレンが帰って来ようとしていることさえ知らずにいて――そのことを初めて知ったのは、ボストンの新聞の文芸欄に、カーレンの名が出ていたからだ。むろん、わしはカーレンに会いに行き、そして――現在に至ったのだ」と、ゆっくり顔の汗を拭って「だから、わしは、この部屋に住んでおった婦人が、エスターだというのは、とんでもない見当ちがいだと言うのですぞ。お分かりでしょうな」
エヴァが居ずまいを正して「そうよ、実に簡単な話なのよ。カーレンは、思い出のために、姉さんの服とか持ちものとかを集めて、この部屋を作り上げただけなのよ。むろん――そうよ。お父さまのおっしゃる通り――エスターが生きているなんてことはないわ」
「そうはっきりは断定できんな」と、テリー・リングが、指先の爪をこまかく調べながら「カーレンにどうして、そんなことが出来たろう――姉さんの髪の毛がついてるままのブラシを保存しとくなんて」
「ちょっと待って」と、エヴァは自分ののどを押えて「エスターが生きているかもしれなくってよ、でも……少し気がふれて。お父さま、あなたは、さっき、事故のあとで、エスターが発狂したとおっしゃったわね。それで説明がつくかもしれないわよ――カーレンは世間体はエスターが自殺したことにしておいて……実はここに住わせていた。エスターが、べつにひとに迷惑をかけないような容態なら――カーレンだって、施設になど入れたくなかったでしょうし――」
警部が考えこんでいる顔で「なるほど、それも一理ありますな、お嬢さん」
エラリーは書きもの机の方へ行き、のっている紙類をいじりまわしていた。何か腑におちない顔で「じゃあ、お父さんは、仕事にかかった方がよさそうですね。ここにいた女性が誰であれ、人相風体は、かなりくわしく上っているんだし、そう遠走りは出来ないはずです」
「もう、トマスに手を打たせてある。トマスが日本に打電して、死亡証明などを調べるはずだ。エスターの死に不審な点が出れば、筆跡見本もあるし、こうして古手紙もあるから――照合して調べられる」
「そんなことは、ありようがない」と、博士が自信なさそうに言った。
クイーン警視は、階段の口へ行って大声で「キヌメだ。おーい、ちょっと、上って来させろ。キヌメを――屋根裏部屋だ!」と、どなると、引き返して来て、苦々しげに「即時に、調べられることがある。カーレン・リースは、人手を借りずに、何年もの間、ひとりの女を隠しておくことは出来なかったはずだ。誰か手を貸したものがいるにちがいない。隠していた女がエスター・リースだったとすれば、あの日本の老婆が、かかり合っとるのは確実だ。キヌメは、日本から、リース女史について来たんだからな」
マクルア博士がかすれ声で「まさか、キヌメが――」
「誰かがここを掃除しなくてはならない。事実、さっきも言ったように、ここは、つい一、二日前に掃除されたばかりだ。それに、誰かが見張っていただろう。気のふれている女なら、誰かが下《しも》の世話をみてやらなければならなかったはずだ。ここへ、上がって来なさい、キヌメ」
老婆は、一段ごとに息つぎをして、のろのろと上って来た。やっと、階段口に姿をあらわしたキヌメの切れ上った目は恐怖にみち、しなびた体が、いたましくふるえていた。キヌメは、思わず、キョロキョロして、屋根裏部屋の中に、自分を知っている人がいるかどうかをたしかめてから、目を伏せ、両手を袖口に隠して、控えていた。
「キヌメ」と、警視が「エスターはどこにいる」
キヌメが落ちついた声で「こんにちは、エヴァさま。いらっしゃいませ、マクローさま」
「わしの言うことがきこえたろう、キヌメ。エスター・リースはどこだ」
キヌメはおじぎして「エスターさまは、亡くなられました。ずっと以前のことです。海へはいって亡くなられたのです」
「この部屋に住んどったのは、誰だ」
「カーレンさまです。しばらく、ここに住んでおられましたです」
「他の者ではないというのか、え?」
「カーレンさまが、ここでお暮しでした」
「二、三日前に、お前は、ここの掃除をしたろう」
「奥さまは、誰もお入れになりませんでした。ここは奥さまの、隠れがでした」
「もういい」と、警視が、ため息をして「退《さが》っていい。日本人は、一度言うまいと思ったら、けっして口を割るもんじゃない。処置なしだ」
キヌメは、もう一度、おじぎをすると、警視が、うっかり口をすべらせたぐちなどには目もくれず、落ちつき払って階段を下りて行った。
「お二人とも、帰宅して、少し休まれては」と、警視が「今日のところは、もう、何もしていただくことはありません。エスターの件で、何か掴んだら、お電話します」
「じゃあ、さようなら」と、エヴァが、誰へともなく低い声で言った。そして、ほっとした顔の博士と一緒に階段を下りかけると、後につづくつもりで、テリー・リングがやおら立ち上った。
「いかん」と、警視がおだやかに「お前は、駄目だよ、テリー」
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十三
「おお」と、言って、テリーが立ちどまった。警視は階段口へ行って、ぴしゃりと、ドアをしめた。
エラリーは吐息をして、窓に歩みより、庭を見下ろした。おだやかな日暮れの庭には人かげもなかった。エラリーは、もしや、あのカーレン・リース女史のガーデン・パーティの晩、この屋根裏部屋にとじこもっている婦人がいて、いま自分の立っている場所に立って、灯を消して、今の自分と、そっくりの姿勢で庭を見下ろしていたのではあるまいかと思った。いったい、どんな気持だったろうかとも考えた。
シャッターが窓の外側に設けられているのに気付いた――頑丈な木製のシャッターで、空気抜きの飾り穴もごく少ない。それに、窓の上にまき上げられているシェードも濃紺色だ。そうだ、これはまるで監房のようではないかと、エラリーは思った。
「そんなばかなことはあり得ない」と、エラリーは振り向きもせずに自問自答した。「まるっきり誰にも不審をもたれずに、何年間もここに暮していた人間がいるなんて。そんな奇妙な話は、かつて耳にしたこともない」
「今のところ、何も気にせんでいいぞ」と、警視が「テリー」
「今度はなんですかい、おやじさん」と、褐色の男が、ため息をして「腕輪でもかけようってんですかい。さあさあ、年寄りの冷水《ひやみず》はいけませんぜ」
エラリーが振り向いてみると、ふたりは、礼儀正しい決闘家のように、きちんと向い合って立ち、どちらも、すこし微笑していた。
「お前のことは、長い年月、よく知っとる」と、クイーン警視が、穏かに「いつも、善良な子だった。時には本部の連中を手玉にとったこともあるが、一度でも、お前がきたない手を使ったと、聞いたことがない、その点については、お前は卑劣な男じゃない。だから、わしは、いつもお前が好きだったぞ、テリー」
「そりゃどうも、どうも、おやじさん」と、テリーが、真面目《まじめ》に言った。
「この事件に、お前がどんな役割を演じているのか、なぜ話してくれんのだ。わしらの役にたつのだぞ、テリー。この事件には、たくさん裏がある。どの程度、知っとるんだ」
「そうだな。ヤンキースがまた負けたら、来年はセントルイス・ブラウンびいきに鞍がえしますよ。よろしくたのみまっせ」
「どうも分からん」と、警視が眉毛も動かさずに「われわれにさからって、なんの得があるんだ。お前に料金を払うのは誰なんだ。カーレン・リースが死んだのに」
的を射たらしいが、相手の顔色が変ったのは、ほんの一瞬で、褐色の男はにやにやし「葬式はいつですか」
「そうか、残念だな」と、老警視が「まったく残念だよ、テリー。いいか、わしがお前のレコードを知っていなかったら、重要証人として引っぱるところだぞ。ひとり狼の私立探偵なんぞ、興味もないな。奴らはたいてい、かなり後ろ暗い連中なんだ。ゆすり、用心棒、労働組合のスパイ、のんだくれ――ろくな奴はおらん。だがお前はちがうんだがな、テリー」
「こりゃ、ありがたい、おやじさん。そういう推薦だったら大いに利用できますぜ」と、テリーが、うれしそうに「警視のおほめの言葉を、ふれ歩いてもいいですか」
「ふれ歩いてもかまわんよ」と、警視が「どうしても口を割らんと、今週中にも、市の刑務所にたたき込むからな」
テリー・リングはキョロキョロと部屋の中を見まわし始めた。
「何を探しとるんだ」と、警視が。
「電話ですよ。弁護士を呼ばなくちゃならない。法律が歯をむき出したら、悪党どもが、みんな打つ手でしょう」
警視が声を荒らげて「覚えておけよ。とっつかまえるときには、逃がれっこなしの罪名をつけてやるからな」
「おやおや」と、テリーが「それじゃ、俺は、まるっきり、お手上げらしいな」
老警視の顔が、怒りで真赤になった。一足とびに階段口にかけつけて、わめいた。「トマス、どこにいるんだ、トマス。上って来い!」
テリーが、悦に入って待っていると、下の方からドスドスと大きな足音が部屋をゆすぶり、やがてヴェリー部長の小山のような巨体が、ぬっと現われて来た。
「どうされました?」と、部長はがらがら声で「こいつが、何か、ふざけたまねでも?」
「本部へ引っ張って、口を割らせろ」と、警視が吠えた。
ヴェリー部長が、その大きな手なるものを、もみ合わせながら「こっちへ来い、テリー」
「くそくらえだ」と、テリーは面白そうに言った。テリーは、じりじりとベッドの方へ退《さ》がり、四本柱の一本によりかかり、体の力を抜いて少し前かがみになって、相変らずにやにやと微笑を消さずにいた。
「そりゃ、おあいにくだな」と、ヴェリー部長も、にやりとして「いたい目を見せたくないんだ。このへらず口野郎め。お前がセンター・ストリートで新聞を売ってたころから、よく、尻をこずいてやったもんだものなあ。さあ、来るんだ。さもないと、つまみ上げて運ぶことになるぞ」
「君や」と、テリーが「君みたいなのを、何百人も知ってるんだこっちは」
部長のにやにやが、あざ笑いに変った。そして、なめし皮のような唇を舐めると、とびかかるために、身をかがめた。
「ちょっと待った」と、エラリーが、ため息をつきながら「その原始人の手綱を解く前に、よく考えた方がいいですよ、お父さん」部長が、腰をのばして、ちょっとはずかしそうな顔をした。
「少し気が短がすぎやしませんかね、お父さん。テリーの言葉も、ひとつだけ当ってますよ――本部に引っぱるのもいいけれど、二時間もすれば、テリーは大手を振って出てくるでしょうね。それも、もしあまりいじめると、敵愾心《てきがいしん》を起こしても無理はないと、いうことになりかねませんね。なにしろ、テリーは記者仲間では人気者ですからね」
面白がっている褐色の男を睨みつける警視の口ひげが逆立った。やがて、警視は愛用の嗅ぎたばこ入れを取り出して、茶色の粉をひとつまみ、鼻の穴に入れて深々と吸いこみ、キクロプス〔ひとつ目の巨人〕のような、とほうもない大きなくしゃみをしてから、うなるように「トマス、行こう。わしは忘れんぞ、テリー」
テリアにくっついていく狼犬のように、ちまちました体の後ろにヴェリー部長をしたがえて、警視は階段をおりて見えなくなった。やがて、寝室のドアがバタンと閉まる音がした。
「ぴゅう」と、テリーは、唇をならして、たばこをとり出しながら「大したチビちゃんだな、おやじさんは」と、くすくす笑い「あのひとが、かっかとしてるのを見るのが好きだよ。一本どうだい」
エラリーがたばこを一本とり、テリーがマッチの火を差し出した。
「どうするつもりだったんだい」と、エラリーが低い声で「あの人喰いが、本気になって君にとびかかったら。僕は前に、ヴェリーが七人のならず者を、ひとりで片づけるのを見たことがあるぜ。しかも奴らは、鼻たれ小僧じゃなかったからね」
「そんなこと知るもんか」と、テリーが、頭を掻いて、照れてにやにやしながら「ある意味じゃ、とめてくれたのが残念だったよ。いつも、あのゴリラをやっつけてみたいと思ってるんだが、うまい口実がなかったんだぜ」
「さあ、行こう」と、エラリーが「君たち、神経の図太い連中を見てると、僕は情けなくなるよ」
ふたりは階下に降りて行く途中でキヌメとすれちがった。老婆は、どこの老婆とも同じように、よちよちと階段を登りながら、ふたりを通すために、壁にはりついて、老いの目を絨毯におとしていた。エラリーが振り返ってみると、キヌメはまた、よちよちと階段をのぼって行った。
「上の部屋でいたずらでもしようものなら」とテリーが無造作に「婆さん、ろくな目にゃ会わないぜ。あの間抜けなリッターと来たら、自分の祖母《ばあ》さんでも、ひっくくりしかねないんだから」
エラリーが眉をしかめて「キヌメも……ひとつの問題だけは解決してくれられるのになあ。手がつかないよ東洋人ってやつは」
「君は、なんであの婆さんを恨んでるんだい」
「おお、ただただ感歎するばかりさ。僕の癇にさわるのは、あの民族の気性だよ。君も知ってるだろう。日本人というやつは、おそらく、地球上で一番劣等感を持っている民族だろうね。だから、いつも、アジアでごたごたを起こしているんだよ。あれは、白人の優越した心理に対する呪いなんだ」
「そんなこたあ、どうしようもない問題じゃないか。何か手があるかい」
「冗談じゃない。僕の言うのは、キヌメが白い皮膚に対する尊敬の念を、決して捨てきれないということなんだ。あの女は、カーレン・リースが作り上げたものさ。屋根裏部屋で、行なわれていたことを、すっかり知っているのは、疑う余地がない。だが、カーレンが沈黙を誓わせたので、あの女は、表皮の色素欠乏に対する典型的な尊崇観念によって、老いの口をぴしゃりと閉じているんだ――そう、つまり、君の口みたいにね」
「おお」と、テリーが言ったきり、黙り込んでしまった。
庭に出るには、裏手の小さなサン・ルームを抜けなければならなかった。ブドー酒色の琉球カケスが籠に入れてつるしてあった。ふたりが裏口に近づいていくのを、カケスは、意地の悪いキラキラする非情の目で追っていた。
「あいつをみると、ぞっとするな」と、エラリーが、不快げに「こらっ!」
カケスは、たくましいくちばしをあけて、不気味なしゃがれた啼き声を、エラリーに浴びせた。
それを聞くと、エラリーのえりのちり毛が立った。エラリーは、急いで、テリーのあとについて、庭を見下ろす、裏手の小さなヴェランダに出た。
「あいつのすばらしい首を」と、エラリーが苦々しげに「カーレン・リースは、絞め殺しておけばよかったろうにな」
「そうかも知れんな」と、テリーが賛成したが、明らかに、他のことを考えていた。「あいつは、ひとりの女主人にしか慣れない鳥かもしれんな」
ふたりはぶらぶらと花壇におりて行った。庭には背の低い木々が植え込まれ、遅咲きの花の香りがただよい、姿の見えない小鳥のさえずりが聞こえるほか、人影はなかった。とても、涼しくて快いので、エラリーはプラウティ医師の死体置場の台にほっそりと横たわる硬直した死体のことを考えると、何か悪いことでもしているように、ちょっと、後ろめたかった。
「腰かけようよ」と、エラリーが「ろくに考えるひまもなかったぜ」
ふたりは、邸の裏手に面しているベンチに陣取り、しばらくのあいだは、どちらも口をきかないでいた。テリーはたばこをくゆらせながら待っていたし、エラリーは背骨の尻っぽに、身をあずけて、目を閉じていた。テリーは、一度、年老いた日本人の顔が、下の窓にはりついて、自分たちの方をじっと見守っているのに気がついた。それから、もう一度、別の窓から、白人女中ジェニヴァー・オマラの、間抜けたふくれ面が覗いているのを見た。しかし、テリーが知らんふりしていたので、しばらくすると、二つの顔は消えた。
やがて、エラリーが目を開けて「今度の方程式には未知数が多すぎて、解答の見当もつかない。まず未知数のうちのいくつかを明白にしなくてはならないが、そのうちのひとつの鍵は君が握っているんだ――非常に重要だと思えるひとつのね」
「おれが?」
「とぼけるなよ。この僕が誰のために働いていると思ってるんだい」
「知るもんか。しかしもし、エヴァ・マクルアを無実だと思うなら、君が他人《ひと》の言葉を初めて真に受けたことになる」
エラリーが笑い出して「君も同じ穴のむじなって寸法じゃないかな」
褐色の男が小路の砂利をふみつけた。
「それじゃ」と、エラリーがため息をして「どんなことになるか、ちょっとばかり独り判断をしてみせよう。まず、月曜日の午後かかって来て、カーレン・リースが答えなかった電話の件だが、電話が鳴ったときには、カーレンは死んでいたと見てよかろう。あの電話に、おやじはてこずっていたが、僕に言わせると、てこずるほどのこともない。最初から、君がかけた電話だと思ってるんだ」
「また、あてずっぽうだ」
「おお、まじめな話だよ、テリー」と、エラリーが、また笑い出しながら抗議した。「子供だましを言うものじゃない。君と、カーレン・リースが仕事関係で結ばれていたと見抜くぐらい、別に頭を使うこともないさ――つまり、私立探偵という職業を通じて、君は、あの女を知ったのだ。なにも悪気があっていうわけじゃないが、まさかあの女が君の心情に興味を持つ道理もないしね」
「俺の心情が悪いとでもいうのかい」と、テリーが、かっとなって「おれが、金持のせがれどものように、大学へ行かなかったからとでも!」
「おお、君の心情は立派なものさ。だがね、リース女史をうっとりさせたとは思えないというだけさ。君の肉体の方が、もっと魅力があったろうよ……そりゃそれとして、あの女は君の職業的な能力を買ったのだ。秘密な事件だろう――秘密にしておきたくない限り、大抵は、私立探偵にはたのまないもんだ。秘密な事件があり――一方、あの屋根裏部屋には何年も女が隠れていた形跡がある。二つの事実には何か、関係があるかな? そう思うんだ。うん、たしかだ」
「なるほど、それで、どうだってんだ」と、テリーが、ふくれ面で。
「その関係を、はっきりさせてもらおう」
「あてずっぽうに見当をつけようってんだな」
「ふーん。ところが、突然、リース女史は第二段の関係をつける手続きをとった――今度は、正規の警察とね。察するに、君がしくじったので、ありきたりの調査機関にたよらざるを得なくなったのか、君がうまくやって、ともかく、その事件の隠しておきたい部分が片づいたのか、そのどっちかだろう」
「ちぇっ、なんて奴だ――」と、褐色の男が立ちかけた。
エラリーがその腕にさわって「こりゃ、大した腕っぷしだ。まあ、すわれよ、ターザン」
テリーが目をむいて、しぶしぶ腰を下ろした。
「そのいずれにしろ、もう君の手は要らなくなった。少しばかり脚色させてくれるなら、それで君は自尊心を傷つけられた。探り出すのが君の仕事だからね。君はあの女が警察本部に声をかけたことを、かぎつけたか、それとも、そのことをあの女の口から聞かされたのかもしれない」テリーは口をきかなかった。「月曜日の午後五時にギルフォイルと会うことになっているのを嗅ぎつけて、君は大急ぎで、ワシントン・スクェアあたりまで駆けつけ、途中ユニヴァーシテイ広場かいわいから電話をかけた。返事がない。時間的にはぴたりだ――一分そこそこで、君があの邸にはいってみると、カーレンが死んでいた」
「やぶにらみだぜ」と、テリーが「しかし、誰も証人はいないが、ひとつだけ言っとこう。たしかに俺の電話だよ。それが、どうだってんだ。悪いとでも言うのかい」
「ああ」と、エラリーが、ちょっと満足そうにしたが、相手がしょげたので、すぐ気の毒そうに「ところで、僕の想像では……テリー、どうも、問題のブロンドの女は、先週末には、全然、あの邸にはいなかったと思われるんだがな。君はどう思うね」
褐色の男が、とび上って「さては密告者《スパイ》を使ってるな」と、大声で「いったい、どうしようってんだ――それだけ知ってるのに、おれに、かまをかけて」
「すると、当ってるんだね僕の推理が」
テリーの興奮が消えた。テリーは上からエラリーを見下ろし、ちょっとおどけて――自分のあごをこぶしで軽く一発見まい――肩をすくめて「ちぇっ、また、なめられたよ。君は、おれが考えてるより、ずっと、こすっからいぞ」
「おほめにあずかるね」と、エラリーは、にやりとして「すっかりよめたぜ。例のブロンドの女が屋根裏部屋から逃げ出したんだろう。それが、カーレン・リースを、おびえ上がらせた――その理由は、正直のところ、分からない。そいつを、突きとめなくちゃならないな」
「君にゃ、うってつけだ。考えるんだな」と、テリーが、むっつりと言った。
「カーレンは、私立探偵の君を雇って、ブロンドの女を追わせた。君は引き受けた。カーレンはその結果を待ちかねた。明らかに、女の行方をつきとめることが絶対に必要だと思っていたんだ。だから、君の捜査がうまくいかないと電話したとき、カーレンは君をくびにして、捜査を正規の警察に任すことにし、その手続を細かく君に話した。それで、君は|へそ《ヽヽ》をまげて、どなり込むことにした」
「うまいな」と、テリーは、かぶとをぬいで、砂利をけとばした。
「カーレンは、ブロンドの女の名や、屋根裏部屋に住んでいたことなど、話したかい」
「いや、おれが自分でかぎつけたのさ。カーレンは、ただ関係のある女《ひと》だと言って、人相を知らせただけだ」
「名も言わないのかい」
「うん。偽名だろうと言ってた」
「屋根裏部屋の件は、どうやってかぎつけたんだね」
「いいかげんにしろよ――商売のネタを吐き出せってのかい」
「結局、女は見つからなかったんだね」
テリー・リングは立って、ぶらりと小路へはいって行った。エラリーは、じっと見守っていた。テリーは、しゃがんで、路ばたの石ころをひろい、手で重さをはかっていた。それから、くるりと身をまわして戻って来た。
「正直に言って、クイーン、おれは君を信用してないんだ」
「なぜ、君はエヴァ・マクルアを助けたんだい。あのドアに閂がかかったままで、警察がエヴァを唯一の殺人容疑者として引っぱったところで、君にゃなんてこともないだろうにね。どうなんだ?」テリー・リングは、だまって、手に持っている石ころを見つめていた。「それとも、君はだれか他の人間との取り引きの約束でもあったんじゃないか。つまり、ブロンドの女のことで、カーレン・リースの裏をかくつもりで」
瞬間、ちらりと、エラリーは身の危険が、耳元でそよぐのを感じた。褐色の男の手が石ころを握りしめた。見たところなんの変てつもない大自然の排泄物《はいせつぶつ》、ひとつの小石も、ひょんなことで、人間の脳天をぶちわる兇器になりかねないなと、エラリーは思って不安になった。そのとき、テリー・リングは、ひらりと身をまわして石ころを遠くへ投げた。石ころは野球の球のように、庭の向うの塀を越え、隣の庭の木のたれ下がっている枝にあたって、かすかにばさばさと音を立てながら消えていった。
「いいかげん勝手なことをほざくがいいさ」と、テリーは息まいて「おれは、愚問にはいっさい答えんからな」
しかし、エラリーは、折れて、みじめにぶら下がっている枝を、目をむいてあきれたように見ながら「すごいな。ぶつけようと思ったのか」
「ぶつけようと? 何に?」
「あの枝をねらったのかい」
「なんだ、あれか」と、テリーは肩をしゃくって「そりゃ、そうさ」
「すごいな、おどろいたよ。たっぷり四十フィート先だぜ」
「もっと、うまく出来るさ」と、テリーが無造作に「すてっぺんの葉をねらったんだが、三番目にしか当らなかったんだ」
「しかも卵形の石ころでね」と、エラリーがつぶやくように「テリー、僕が何を思いついたか、分かるかい」
「おれは、前にレッズ〔シンシナチ〕のピッチャーだったんだぜ……何を思いついたって?」と、テリーは、ふと、顔を上げた。
エラリーは目を上げて、邸の二階の鉄格子のはまっている窓をしげしげと眺めていた。あの月曜日の午後、引きあげられて二枚重なっていた、あの窓ガラスが、石ころでこなごなにこわされたのだ。
テリーがいまいましそうに「月曜日に、あの窓に石ころがぶちこまれた時にゃ、おれは、エヴァと一緒に、二階にいたんだぜ。知ってるじゃねえか。だのに、いったい――」
「何も、君のことを勘ぐっちゃいないよ」と、エラリーはそわそわして「テリー、あの窓にぶちこまれたのと、形や大きさが同じぐらいの石ころを探すんだ。少しぐらい小さくたっていいぜ」
テリーは首を振りながら、庭を捜し歩いた。「おいおい、そんなのは、くさるほどあるぜ」
エラリーが駆けよってみると、なるほど、あるある――今も、カーレン・リースの寝室の床にころがっているのと、ほぼ完全に同じような、卵形ですべすべしている石ころが、いくらでもあった。庭の小路のへりに並べた石なのだ。等間隔に並べてある石の一か所に、あきが出来ていて、軟かい土が卵形に凹んでいた。
「ここだ。ここの石だ」
「そうらしいね」
エラリーは、石ころを二つひろい上げて「ひとつ、ふたつ、持って来てくれないか」と言い、テリーが、かがみ込んでいるうちに、ベンチに戻って、ガラスのこわされた格子窓を、ふたたび、見上げていた。「ようし」と、一息入れて「やるぞ」と言うと、腕を振り上げ、モーションをつけて、石ころを投げた。
石は、二フィート左の壁にぶつかり、はね返って庭に落ちた。
「やさしいもんじゃないな」と、エラリーがつぶやくのを、テリーは眉をしかめて見ていた。
「はずれたよ。握り方がむずかしいんだな、ふーん」
二つ目の石ころを投げた。今度は、格子窓のすぐ下に当った。居間の窓の格子の間から、びっくりした顔が覗いた。
「おーい」と、リッター刑事が「なにをやってるんだ、そんなところで!」と、どなりつけて、エラリーに気がつくと「やあ、あなただとは思わないもんだから、エラリーさん。一体、なにごとですか」
「純科学的な興味からの実験なんだが、どうも、うまくいかなくてね」と、エラリーが、ばつが悪そうに「うるさいのは気にしないでくれ。頭に気をつけてくれよ。とんだ奇跡が、おこらないとも限らないからな」
刑事の頭が、すぐ、目の前から引っこんだ。階下の窓から、キヌメとオマラが、また、こわごわと、魅入られるように覗いていた。
「君もやってみ給え」と、エラリーが、すすめて「君はプロ野球の投手だったんだろう。四十フィートから投げて、ねらった葉に当てられるんだろう。上のあの窓にぶつけてみてくれないか――こわれてる窓のとなりにね」
「あの格子をうまくくぐらせて、石を当てさせようと思うのか」と、テリーが、張り出し窓を見上げながら、訊いた。
「そこが肝心なのさ。そりゃ、君の領分だよ。君はプロじゃないか。さあ、やったりやったり」
テリーは上衣を脱ぎ、レモン色のネクタイをゆるめ、帽子をベンチにほうり出し、卵形の石ころをとり上げた。そして、右手の張り出し窓をにらみ上げていたが、砂利の上に足許をかためて、身構えると一、二回腕をふりまわして、はっしとばかりに投げた。石ころは二本の鉄棒に当り、からからと音をたてて、庭にはね返った。
「もう一度」と、エラリーが命じた。
テリーは、もう一度投げた。今度は、握り方をかえてみたが、窓には当らず、またも、鉄格子が鳴っただけだった。
「なかなかいいぜ、君」と、エラリーが「さあ、もう一度だ、たのむよ」
三度目も石ころがはね返って来ただけで、窓ガラスは壊れなかった。四度目も、五度目も……「畜生」と、テリーがくやしそうに「てんで駄目だ」
「だがね」と、エラリーが思い沈んだ声で「あのときは当ったんだ」
テリーが上衣を着けながら「誰かが、格子の間をねらって、投げて、石をくぐらせたなんて、とても考えられんな。君に言われなきゃあ、おれはやってみようともしなかったろうぜ。石ころが、うまく格子をくぐり抜けるとしても、両側に半インチそこそこの余裕しか残らんものな」
「そうだよ」と、エラリーが「その通りさ」
「大投手、トレーンにだって、出来っこない」
「うん」と、エラリーが「ジョンソンにも出来るとは思えないね」
「デイズにだって駄目だ」
「ディーンにもね。なァ、テリー」と、エラリーが、眉をよせて「この実験で何かが証明されるだろう」
「そうだな」と、テリーが帽子をかぶりながら、あざけるように「あの石っころは、殺しには無関係なのさ。そのことは月曜日の午後に分かってたぜ」
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十四
ヴェネチアは食卓をととのえ、風呂をたててマクルア父娘を待っていた。博士は世話やきな黒人女中の手をのがれて湯気の立つ風呂にとび込んだ。玄関の電話台には、手まめなヴェネチアがいく頁も書き込んだ伝言帳や、電報や手紙の束や、贈花の箱や束が、山になっていた。
「まあ、まあ」と、エヴァがため息をついて「みなさんにお返事を出さなければならないでしょうね。カーレンに、こんなにたくさんお友達がいるなんて、しらなかったわ」
「あのひとのではありませんよ」と、ヴェネチアが鼻をならして「ジョン先生のですよ。ほとんど先生さまのですよ」
「スコット先生からお電話がなかった?」
「いいえ、お嬢さま、ございません。さあさあ、お召換えをなさって、お風呂をお使いなさい。いいですね」
「ええ、ヴェネチア」と、エヴァはすなおに答えて、自分の部屋に行った。ヴェネチアは、電話をじろりとみて、ぶつぶつ言いながら台所へもどった。
エヴァがお湯を使っているあいだに、電話が四度かかって来たが、気にもかけなかった。もう、何にも気にかけたくなかった。黒いタイル張りの浴室で、大きなパフでからだを洗い、全身を大鏡に写してみながら、死ぬのはどんな気分かしらと思った。カーレンのような死に方だと、痛くて、苦しくて、そして……どんなかしら。張り出し窓の前の壇にころがって、身動きもできず、目も開けず、死にかかって、段々に死にかけていくのを意識したとき、カーレンは、どんなことを考えていたかしら――おそらく、テリー・リングとあたしの話したことを、すっかり聞いていたかもしれないわ。おお、もし、あたしにもう少し勇気があったら、カーレンの心臓に耳を当ててみたろうに、と、エヴァは思う。カーレンは、何か話したかもしれない。最後の息を引きとるまえに、全部の解決がつくようなことを、何か言ったかもしれない。……ひき裂かれたのどを、ぼこぼこ鳴らして。そしてカーレンがまだ生きているのが分かった、あのときの、カーレンの凝視。褐色の男は――たしかに――あの目でカーレンがあたしを非難しているのだと思ったに違いないわ。それに、あたしも気が付いていたわ。でもカーレンにそんなことの出来っこないのが、あたしにも分かっていたわ。あの凝視は、死の前の最後の凝視にすぎないわ。あのとき、カーレンはあたりが暗くなり、心臓の鼓動が止まろうとしているのを感じていたのだわ……
エヴァは腹立たしそうに、パフで目の上をたたいた。それから、化粧台の前にすわって、コールド・クリームを顔に塗った。
山のような、電話のあいさつや、手紙や、贈花。みんな腑に落ちかねて、気がかりなのにちがいない。きっと、どうしていいか、よく分からないのだろう。これが、普通の死に方なら、おくやみの電話をかけたり、手紙を出したり、お花を贈ったり、すべてが、きわめて悲しく、優雅で美しく、どんなに暗く陰気な片すみで死人をとぶらう人でも、みんな、生きているのを喜ばしいと感じるのだ。ところが、殺されたとなると、そのおくやみのしかたは、作法の本には何も書いてない。ことに、被害者が謎めいた状況のもとで殺されたとなると、誰がやったのかは、誰にも分からないから、うっかりすると、犯人に花を贈ることになりかねない。
あんまりばかげていて、しかも悲劇的だったので、エヴァは化粧台に頭をのせて、コールド・クリームの顔をぬらして泣いた。もしみんなに知れたらどうしよう。もし、みんなに、カーレン・リースを殺せたのは、自分だけだったということが、知れたら――このあたし、エヴァ・マクルア自身、この娘、この女だということが。もしディックに知れてしまったら……
「エヴァ」と、スコット医師の声が、浴室のドアの外から呼んだ。
来たわ、あのひとが!
エヴァは、コールド・クリームをふきとり、冷たい水で顔を洗い、かわかしてお白粉をつけ、最近に選んだ色の口紅――爪の色と髪のつやに合うピーチ・コーラル――を、三度くちびるにさし、トルコふうタオル地のローブをひっかけ、さっとドアをあけて、スコット医師の腕に倒れかかった。
寝室の戸口をうろうろしていたヴェネチアが、びっくりした。
「エヴァ、あなたは――はしたない」
「あっちへ行ってろ」と、スコット医師が言った。
「ねえ、お嬢さま、いけません。すぐ、行ってお父さまに申し上げますよ」
「ヴェネチア」と、エヴァがかすかに「あちらへ行って」
「でも、おぐしが――めちゃくちゃで、それに、素足じゃありませんか」
「かまわないわ」と、エヴァは、スコット医師に三度目のキスをした。房々したタオル地の下で、からだがふるえているのを感じた。
「お嬢さま、素足で床に立っていらっしゃると、お風邪を召しますよ」
スコット医師は、エヴァの腕をふりほどいて、寝室の入口へ行き、ヴェネチアのしかめ面《つら》の鼻先へ、ぴたりとドアをしめた。そして、戻ってくると、エヴァを抱き上げて、そのまま、ケープコッド風のゆり椅子に腰を下ろした。
「おお、ディック」と、エヴァは、うめくように。
「なにも言わないで、エヴァ」
スコット医師は、しっかりとエヴァを抱きしめた。エヴァはスコット医師の腕のあたたかみと、自分の嘆きの底で、ぼんやりと、いぶかり始めていた。このひとは何かを苦にしているわ。たしかだわ。あたしを慰めてくれているけれど、本当は自分を慰めようとしているのだわ。口を利きたがらないのは、何も考えたくない証拠、そう、このひとは何も考えたくないんだわ。あたしを腕に抱いて坐り、しっかりと、あたしを身近かに感じていたいだけなんだわ。
エヴァはスコット医師を押しのけ、目にかぶさる髪を掻き上げて「どうかしたの、ディック」
「どうかしたって? なぜ、そんなことを訊くんだい。どうもしやしないよ」と、また、エヴァを抱きよせようとしながら「黙って、ただ、こうして坐っていようよ」
「でも、なんだか変よ、ディック。あたしには分かってよ」
スコット医師はほほえもうとつとめながら「急に、勘がよくなるんだな。今日はいい日じゃなかったのさ、それだけさ」
「病院で? かわいそうに」
「お産をひとつしくじったのさ。帝王切開をね。患者が、もう少し気をつけていてくれれば、問題なかったのさ」
「おお」と、エヴァは、また、よりそって坐った。
だが、今度は、今までとは逆に、スコット医師の方が話したがった。まるで自己弁護が一大事とでもいうように「僕に嘘をついてたのさ。食事を厳《きび》しく規定しといたのにね。僕だって、患者を犬みたいに見張ってはいられないからな。あとで分かったんだが、あの患者は、アイスクリームやホイップド・クリームや脂身《あぶらみ》の肉や、何やかにや、たらふくつめこんでいたんだそうだ」と、苦々しそうに「患者がかかりつけの医者に、本当のことを言わないと、ご亭主はとんでもない目に会っちまうさ」
そうなのか。エヴァはディックの腕の中で、じっとしていた。分かったわ。こんな風に糸口がほぐれてから、何かを訊こうとしているんだわ。相手の心臓の鼓動が少し乱れているのが分かった。あの月曜日の晩から、あたしに向けていたもの問いたげな様子が今、ほぐれてくるんだわ。
「それに僕は、一日じゅう、うるさい記者どもに追いまわされていたんだ」
そら、はじまったと、エヴァは思った。
「いったい、あの連中は、僕をどうしようっていうんだろう。僕は何もしてやしないのに。今日の午後のある赤新聞なんか、僕の写真までのせているんだぜ。若い流行医師否認す。何を否認するんだい。かなわんよ。僕は何も知らないんだからね」
「ディック」と、エヴァは静かに座り直した。
「なぐりつけてやりたい奴が、たくさんいたよ。真相はどうなんですか、先生。だれが、カーレン・リースをやったんですか。あなたのご見解は? あなたは、どういうご関係なんですか。あのひとが心臓病だったというのは事実ですか。あなたはフィアンセに口どめしたそうですな。なぜ、どこで、いつ、どうして」と、いきなり口をつぐみ、苦い顔をして「連中は、僕の診療所に押しかけ、患者をなやませ、病院にまで追いかけて来て、看護婦たちに根掘り葉掘り質問し――おまけに、僕らがいつ結婚するのかまで、聞き出そうとするんだ」
「ディック、どうぞ、聞いて頂戴」と、エヴァは紅潮した相手の顔を抱きよせて「お話ししたいことがあるのよ」
エヴァが何度もキスしたことのある、スコットの鼻の先が、かすかに青ざめた。そして「それで」と、かすれた声で言った。このひと、こわがっているんだわ。こわいんだわ。と、エヴァはスコット医師の全身から、それを読みとった。もう少しで、何がこわいのと、訊いてみようとしたが、訊かなくとも分かった。
「警察では、カーレンの死んだことについて、全部を知ってはいないのよ。たいせつなことで、知っていないことが、ひとつあるの」
スコット医師は、エヴァを見ずに、じっと座ったまま「それで?」と、もう一度言い、今度は、自分がおじけずいていることを、隠そうとさえしなかった。
「おお、ディック」と、エヴァは、せき込んで「あのドアは開いていなかったのよ。寝室の内側から閂がおりていたのよ」
とうとう、言ってしまった。エヴァは少し気が楽になった。こわければこわがるがいいわと、エヴァは少し白けた気持で、こわがってるなら、これで、びっくり仰天するだろうと、思った。
スコット医師は、はたして、びっくり仰天して、いきなり、ケープコッド風の椅子から、腰を浮かしたので、危うく、エヴァを床にほうり出すところだった。あわてて、腰をおろすと「エヴァ、どこのドア?」
「カーレンの寝室の屋根裏部屋に通じるドアよ。あたしがはいったときには、閂がおりていたわ。寝室の内側からね」
エヴァは、相手をはかるように、じっと見守りなから、自分が少しも興奮してこないのを不思議に思った。ただ相手への同情だけを感じた。スコット医師はひどくおろおろして、二度ほど、口をもぐもぐさせた。
「でも、エヴァ」と、まとまりのない口調で「すると、どうやって――だれひとり屋根裏部屋を抜けて逃げ出せなかったわけじゃないか」
「そうよ」
「それに、寝室の窓は、みんな――」
「鉄格子がはまっていてよ」と、エヴァは、まるで新しく買った帽子の飾りのことでも話すような口調だった。
「すると、他の逃げ道は、君が待っていた居間を抜けるよりないわけだ」と、目を光らせて「エヴァ、居間を通って、誰かが逃げた。そうだろう。誰かが通り抜けて。君はそれを――そうだ、それを警察に言わなかったんだね」
「いいえ、ディック」とエヴァが「ちがうわ。ねずみ一匹通らなかったのよ」
「でも、まさか」
「うそはつかないわ。そんなことはないと、おっしゃりたいんでしようけど」
スコット医師は、また、口をもぐもぐやり、エヴァを床に坐わらせると、汽車に急ぐ人のように、せかせかと歩きまわって「でも、エヴァ、自分で何を言っているのか分からないんだろう。つまり、だれもいなかったということになるんだよ――だれもね。まさか、君があんなことを――」
「そうよ」と、エヴァが落ちついて「あたしの他には、だれにも、カーレンを殺せなかったということになるのよ。そう言ってほしいの。言うのをはばかる必要はないのよ、ディック。あなたに、そう言ってほしいのよ。どんなふうにおっしゃるか、聞いてみたいのよ」
すると、スコット医師は立ちすくんで、まじまじとエヴァを見つめた。エヴァも相手をじっと見返していた。マクルア博士が、隣りの部屋でヴェネチアをどなりつけている声の他、なんの物音もなかった。
スコット医師の視線がたじろいだ。荒っぽくポケットに両手を突っこみ、エヴァの坐っている絨毯を、まくれ上がるほど蹴とばした。
「全く無茶だ」と爆発するように「そんなばかなこと!」
「なにが、ばかなことなの」
「すべての状況がさ」
「どんな状況なの――殺人のこと……それとも、あたしたちのこと?」
スコット医師は、エヴァが目をそむけたくなるほど、髪をかきむしって「いいかい、エヴァ。僕は考えなければならないよ。考える暇をくれたまえ。こんな藪から棒な話って――」
エヴァは白いローブを、しっかりと掻き合わせて「あたしを見て! ディック。あたしが、カーレンを殺したと思って?」
「とんでもない、そんなことあるものか」と、スコットが叫ぶように「僕に分かりっこないじゃないか。部屋には――出口がひとつきりで――誰も通り抜けなかった……ひとはどう思うかね。ものの道理をわきまえなくっちゃね、エヴァ。考えさせておくれ!」
スコット医師の言葉は、全くしどろもどろで、筋が通らず、苦痛と疑惑にみちて、しかも実に決定的だったから、エヴァの胸にぐさりとつきささり、エヴァは胸の中で、ふと、何かがくずれ落ちたような気がした。しばらくのあいだ、エヴァは病気になってしまいそうな感じと、たたかわなければならなかった。しかし、エヴァは参らなかった。まだ、言うことがひとつあるし、きくことがひとつある。そうすれば、本当のことが分かるだろうと思った。エヴァは身をひきしめた。
「月曜日の午後に、あなたは結婚しようとおっしゃったわね。あたしは、待ってほしいと言ったでしょ。ディック、あれは、あの閂をさしたドアのことがあったからなのよ。あたしも時間がほしかったのよ。なぜって、あたし――とても、あなたに言えなかったからよ。でも、このことを黙って、結婚する気にはなれなかったの。お分かりになるでしょ。さあ、これで、すっかり打ちあけたわ」
エヴァは言葉を切った。実際、これ以上、そのことについてはくどく言う必要はどこにもなかったからだ。ふたりとも子供ではなかった。べつにたくさんの言葉を費やさなくとも、大人には、充分に意味が通じるものなのだ。
スコット医師は唇をなめて「結婚しようと――言うのかい、今になって」
「あした」と、エヴァは冷静に「あなたが結婚許可証を手にいれたら、いつでもいいわ。市役所でも、コネチカットでも、どこでも」
自分の声のようではなかった。多分、エヴァの心臓のまわりを氷の壁がくるんで、通っていく血の一滴一滴を、冷やしていたからであろう。エヴァには、あらかじめその答えが分かっていた。ディックが言うまでもない。月曜日には結婚してほしいと言い、水曜日の今日は、もう考えるひまをくれという相手なのだ。
全く思いがけないことがおこった。スコット医師がエヴァの手をとって「エヴァ」と、こと新しいひびきの声で「今、思いついたんだが、月曜日に、警察が来る前にドアの閂をはずしたのは誰なんだい?――君なのか? あのリングという男なのか?」
「そんなこと、どうでもいいことよ」と、エヴァはそっけなく「リングさんよ。あのひとの思いつきで、あたしを助けてくれたのよ」
「他に、だれが、それを知ってるね」
「お父さま。クイーンさま――むすこさんの方」
「僕のほかは、みんな知ってるのか」と、苦《にが》りきって「それでいて、君は、よくも僕に――」と、顔をしかめてみせて「警視に知れたら、どんなことになると思う?」
「おお、ディック」と、エヴァがかすかに「分からないわ」
「リングのねらいは何かな。なぜ、見たこともない女の子のために、そんなことをしたのかな」と、スコット医師は目を燃え上らせて「それとも、君は、前からあの男を知っていたのかい。どうなの?」
ばからしい。てんでばからしいことだ。
「いいえ、ディック。あの人は、あのひとなりに親切をしただけのことよ」
「あのひとなりにねえ!」と、スコット医師は、あざ笑って「あいつのやり口は分かってるさ。イースト・サイドのろくでなしめ。調べてみたんだ。いろんなことが分かったよ。町のギャングどもとのつき合いも古い。あの男のねらいも察しがつく。ああいう連中のすることなら、たいがい分かるさ」
「ディック、なんて、ひどいことをおっしゃるの」
「あの男の肩を持つのかい。僕はただ、将来の妻が、どんなひどいことにまき込まれたのか、知りたいだけなんだぜ。それだけさ」
「そんないい方なさらないで頂戴」
「けがらわしい殺人事件になどまき込まれて――」
エヴァはベッドにからだを投げかけて、キャンドルウィックのベッドカヴァーに顔を埋めた。
「おお、出てって」と、エヴァはすすり泣きながら「もう二度とお目にかかりたくないわ。あたしが殺したと思ってるのね。あなたは――あのテリーという人のことで――根も葉もない、おそろしい疑いをかけているんだわ。出てって頂戴」
エヴァは横になったまま、マットレスにからだを圧しつけ、ベッドカヴァーに顔を埋めて泣いていた。ローブが乱れて、むき出しの脚が、床の上にぶらさがった。だが、エヴァは少しも気にしなかった。みんなお終いになってしまったわ。あのひとは――ディックは行ってしまったのだわ。あのことも、また駄目になってしまったのだわ。ドアの閉まる音は聞こえなかったが、スコット医師がいなくなってみると、ただ自分を信じてもらおうと期待したことが、いかに不条理だったかが分かって来た。相手に何も質問させずに、盲目的に信じさせる。そんなことは人間には求められない。どんな女でも、男にそれを望むわけにはいかない。要するに、ディックは、あたしのことを、どれだけ分かっていたのかしら。何も、何も分かってはいなかったのだわ。男と女が恋をして、キスしたり、甘いおしゃべりをしたって、本当は、お互いに相手のことが大して分かるものじゃないわ。分かるのは、お互いの顔の輪廓だとか、息づかいだとか、キスのしかた、ため息のつきかたぐらいのもので――その他のことは何ひとつ、真実のものは何ひとつ、一番知りたい心の中のものは何ひとつ、分かりやしないのだわ。だから、どうして、あのひとを責めることが出来よう。それに、あのひとには地位があり、それが、あのひとにとって、すべてを意味するのだもの。今、突然、なんの警告もなく、自分の婚約者が殺人事件に首根っ子まではまり込んでいるのが分かってみれば、あの人が自分の将来のことや――たとえ、万事がうまく解決したとしても――人々がどんなかげ口をきくだろうなどということを考えずにいられないのもむりじゃないわ。神経がこまかいひとだし、良家の出で、おそらくあのひとの後ろには家族がひかえていて――さぞ、あのひとにやいのやいのとせっついたり、つべこべ言ったりしたことだろう。プロヴィデンス生まれの、こちこちの首をしたあの母親、やせぎすな顔の銀行家然としたあの父親なんかが……
エヴァは、いっそうはげしくすすり泣いた。すべてが分かってみると、自分が、いかにわがままで、分からずやの、ちっちゃなけだものだったかが、くやまれた。あのひとには家族がどうにもならないし、また、あたしが落ち込んでいる境遇をどうすることも出来ないのだわ。あのひとは、ひとりの男――なつかしい、したわしい人にしかすぎない……その人を、あたしは永久に追い出してしまったのだわ。そして、幸福への機会までも逃げ去ってしまったのだわ。あとには、あのきびしい、こわい小さな警視があたしの前に立ちはだかっているほか、何もないのだわ。
スコット医師は、にぎりこぶしをゆるめて、ベッドにどさりと腰を下ろし、エヴァによりそい、悔いと熱情に顔をゆがめて、身をすりよせた。
「愛しているよ、エヴァ、愛しているんだ。許しておくれ。そんなつもりじゃなかったんだよ。さあ、キスしておくれ、エヴァ、愛しているよ」
「おお、ディック」と、エヴァは、身をくねらせて、両腕でしっかりディックの首を抱きしめながら「あたしが分からずやだったのよ。悪かったわ。あんなことを期待するなんて……」
「もう、何も言わないで。一緒に、よく考えてみようね。さあ、僕を抱いておくれ――こんな風にね。キスしておくれ、エヴァ」
「ディック――」
「明日、結婚したいのなら――」
「駄目よ。すっかりなにもかも――きれいに片付くまでは……」
「いいとも、エヴァ。なんでも言う通りにする。もう、心配などしないでいい」
そして、しばらくすると、エヴァは静かにベッドに横たわり、スコット医師は、そのわきに、静かに腰かけて、冷静な医者らしい指だけを動かし、エヴァのこめかみを軽くさすり、脈うつ血管をしずめて、気分をやわらげ、眠気を誘うようにしていた。だが、乱れたエヴァの髪の毛を見守るスコット医師の顔は、ひきしまって、悩ましそうだった。
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十五
「この事件の厄介な点は」と、木曜日の朝、エラリーが、テリーにこぼした。「実に局面の変ることだよ。花から花へとびまわる蜜蜂のようにね。とても、ついていけない」
「今度は、なんだい」と、テリーは、紅紫色のネクタイにこぼれたたばこの灰を、ワイン・カラーのシャツの胸に、払いおとしながら「しまった、タイをこがしちゃった」
「それはそうと、なんだって、そんな凄じいシャツを着なくちゃならないんだね」ふたりは、カーレン・リース邸の庭の小さな橋にたたずんでいた。「近頃、君は、まるで雄鳥のようなけばけばしい色を、|いき《ヽヽ》だと思ってるらしいね。九月だぜ、テリー、春じゃないぜ」
「勝手にしろ」と、テリーが、顔を赤らめた。
「くだらない映画スターにあこがれてるのかい」
「うるさいな。今日は、何をもくろんでるんだ?」
エラリーは小石を小池になげ込んで「頭のいたくなるような発見をしちまったのさ」
「へえー」
「君はしばらくでも、カーレン・リースを知っていたろ。それに、君は、人間の性質について、独自の研究をつんだ、信頼できる人物だと思うんだ。そこでだ、あの女はいったい、どんな種類の女だったね」
「新聞で読んだことしか知らんぜ。有名な作家で、四十年輩で、しなびたのがよければまあまあ美人の部類で、いやに頭がよくて、ひどくまっとうで。なんだって、そんなことを訊くんだ」
「おい、テリー、僕が聞きたいのは、君の個人的印象なんだ」
テリーは、池の金魚をにらんで「ありゃ、くわせものだった」
「なんだって」
「訊くから言ったまでさ。ありゃくわせものだよ。おれは、おふくろの家のがらくたより信用しちゃいなかったぜ。性質《たち》が卑しくて、下層階級のあばずれみたいにタフで、やけに野心ばかり強くて、悪徳弁護士ダッチ・ブレンナーの口先ほども良心がなくてな」
エラリーが目をむいて「僕の好敵手だな。うまい性格描写だ。たしかにそうだ」と、微笑を消して「それが、どれほど的を射てるか、君も気がつかないだろうな」
「マクルア博士は、あの女を厄介払いして仕合わせだったぜ。もし一緒になったら、三月とたたないうちに、あの女の鼻っ面に一発かませずにいられなかったろうぜ」
「マクルア博士は、レスリー・ハワードみたいなやさ形で、どっちかと言うと、ビクター・マクラグレン流の野性タイプじゃないからね。それでも、おそらく、そんなことになったろうね〔ハワード、マクラグレン、ともに映画スター〕」
テリーが図にのって「あの先生、女がやられたときに、数千マイルも遠くの海を航海してなかったら、おれは、博士がやったと睨むぜ」
「そんなことを考えてるんなら、言っとくが、船の付近には水上機もなかったんだよ」と、エラリーがくすくす笑って「駄目だよ、そんなの。僕には博士の悩みが分かるような気がするよ。やられた婚約者よりエヴァのほうが気がかりなんだ」と、じっと池を見つけて「その悩みの正体が知りたいのさ」
「おれもさ」と、テリーが、ネクタイをいじりながら「さあ、言っちまえよ。なんだ。何をみつけたんだ?」
エラリーは、もの思いから、われにかえって、たばこに火をつけ「テリー、君は、カーレン・リースの正体を知ってるかい。いいかい、ありゃ、寄生虫だよ。特種のいやらしい化けものさ。スカート族として、かつて考案されたもっとも奇怪な悪の神の器《うつわ》のひとつだよ」
「話すつもりか、話さないつもりか」と、テリーが、じれこんだ。
「僕が驚くのは、あの女が、ひとつの邪悪な目的に対して、何年にもわたって、絶え間のない不安と苦痛だったにちがいないものを切り抜けて、どうやってあれほどの精力を集中し得たかと言うことだ。実にあきれる。女にしか出来ないことだ――しんねりむっつりで気性のはげしい女、そんな女だったろうよ、あの女は。裏になにがあるか分からないが、察するに、ずっと昔、あの女はフロイド・マクルアを愛したにちがいない」
「当てずっぽうも、いいところだな」
「生木《なまき》をさかれた色ごとだね……たしかだ。そこから、雪だるまがころがり始めたにちがいないよ」
「ちぇっ、ばからしい」と、テリーが言った。
だが、エラリーは、また、考え沈みながら池を見つめて「やがて、犯罪が、わいて来た。リースという化けものの正体が分かっても、犯罪の謎はそのまま残るな」
テリーは業《ごう》をにやして芝生に、ごろりとなると、真珠グレーのフェルト帽を、目の上にかぶせて「君は、代議士にでもなりゃよかったんだ」
「僕は、あの二階の二部屋を、いわば、聴診器とセレン光電管で、すっかり調べてみたよ。張り出し窓の格子も調べたが、がっちりとコンクリートにはめこまれている鉄棒に、何も異状はなかった。梃《てこ》でも動くもんじゃない。コンクリートで固めた穴に、ごまかしはないし、最近、ずらした形跡もない。たしかに、あの窓から出入りしたものはだれもないよ、テリー」
「おれの言った通りさ」
「ドアと閂にも当ってみた。ドアはあの女の寝室の内側から閂がさしてあったと君が言ったが、何かの機械仕かけで、ドアの向う側から閂が動かせないものでもないと考えてみたんだ」
「うへえー」と、テリーが帽子のかげで「自分の三文探偵小説でも読んでたんじゃないか」
「おお、ひやかすなよ。そんなこともよくある話だが、あのドアには仕かけがなかった。僕の科学捜査の方法を全部試してみたが、てんで、成果なしさ。そこで、仕かけの件は、ご破算さ」
「たしかに、一歩前進だな」
「窓とドアを除外して、次に考えついたのは――笑っちゃいけないぜ――」
「もう、笑ってるぜ」
「秘密の羽目板さ。なあ、なきにしもあらずだ」と、エラリーは、言いわけがましく「歳月もその色香を移ろわせず、習慣も限りなき移ろいをにぶらすことなしだ〔シェイクスピアの『アントニーとクレオパトラ』の科白〕いくら長生きだからって、ひいばあちゃんにつばをひっかけないだろう、君だって。ところで、あの部屋には怪しい羽目板なんか、なかった。四方の壁は、ピラミッドのようにしっかりしてた」
「戸棚は?」
「ただの戸棚さ。何もつかめなかった」と、エラリーは苦い顔で「それで、がっくりさ」
「言うね」と、テリーがつまらなそうに。
「僕はくまなく考えてみたよ――つまり、あの犯行は格子ごしに行われたもので、犯人は窓の外にいたのかもしれないという点もね。しかし、それじゃ理屈にあわない、それに――兇器もあることだしね。
カーレンの首から抜いて、指紋が消してあった。たとえ、カーレンが窓のそばに立っていて、格子ごしに刺されて倒れた、それから犯人が刃をぬぐって、格子ごしに、テーブルの上に投げ込んだものと、こじつけてみても――やっぱり理屈に合わない。死体の位置からみて論外だ。それにその場合、窓敷居の上か、そのすぐ下の床に、血痕が残るはずだ。ところが、血痕は上床のふちに沿ってついていた。あの場所にいて窓ごしに刺されるなんてことは、あり得ない。犯人がゴリラじゃあるまいし」
「ゴリラでも、手があんなに長くないさ」
「ポーの小説みたいだろう。無茶だよ、不可能だよ」
「エヴァ・マクルアが」と、テリーは上目使いに「うそつきでなければな」
「そうだよ。あの娘がうそつきでない限りね」
テリーが、ひょいと、とび立って「そうとも、あの娘《こ》は、うそつきじゃないぜ。おれだって、そういつも、だまされてやしないぜ。たしかに、あの娘《こ》はまともだ。真実をしゃべってるんだ。間違いない。おれの女を見る目は、めったなことじゃ狂やしないぜ」
「人間、生命を守るためにゃ、むりするもんだぜ」
「じゃ、あの娘《こ》が、あのくわせものを殺ったと思うのか?」
エラリーは、しばらく返事しなかった。金魚が一匹、ひらりと深みにもぐり、水面に水の輪がのこった。
「他にもうひとつ可能性があるんだ」と、エラリーが、いきなり「自分でも信じられないほど空想的なものだがね」
「なんだい、それは、え、なんだ?」と、テリーが褐色の顔をつき出して「いったい、どんなことだい。なんだよ」
「エヴァに関連してくるよ。その場合、考え得るのは、エヴァは本当のことを言っていて、しかも、なおかつ……」と、エラリーは首を振った。
「話してみろよ。じれったい奴だな」
だが、丁度そのとき、二階の居間の窓の鉄格子に、リッター刑事が赤ら顔を押しつけて、大声で叫んだ。
「おーい、クイーンさん。マクルア博士たちがやって来て、あなたに、会いたいそうです。クイーンさん」
「わめくなよ」と、エラリーは、テリーに、ちょいと、うなずいてみせて「一緒に行こう。二人に来るように言っといたのさ」と、辛そうに「あっちから片づける方がよさそうだ」
ところが、邸へはいってみると、来ているのは三人――マクルア博士と娘のエヴァと、スコット医師だった。エヴァは、今日はかなり落ちついていた。夢もみないで、やすらかに一晩眠ったらしい。そして、マクルア博士は憔悴《しょうすい》していた。目の充血はとれて、その代りに、何か、宿命的なあきらめとでもいうものが光っていた。だが、スコット医師は、どうやら、よく眠れなかった様子だった。カーレン・リースの例の奇怪なブロンドの下宿人の話が、その不眠症に関係があるなと、訊きもしないのに、なぜか、エラリーには分かった。だが、なぜ、そんなことが、若いスコット医師を悩ませるのだろうと、エラリーは思った。生れつき家庭内の秘密というものが嫌いなのだろうか。
「いらっしゃい」と、エラリーは出来るだけ快活にしながら「今日は、みなさん、ごきげんがよさそうですね」
「何かあったのかね」と、マクルア博士が「君の口ぶりでは――」
「どうも」と、エラリーが、ため息をして「重要なことでしてね、博士」と、言葉を切り、キヌメがそそくさと立ち去るのを待って、指先をみつめながら「僕がお話しようとしていることは――そう、かなり重要で悲劇的な意味合いのものですが……スコット先生の前で話してもよろしいでしょうか」
「なぜ、いけないのかね」と、青年医師は腹をたてて「こんな男の前でしゃべってもかまわないことなら」と、人差し指をテリーにつきつけて――「僕の前でもかまわないだろう。僕には、この男より聞く権利があるんだぜ。僕は――」
「何も、そんなにがみがみ言うこたあないさ」と、テリーが言って、くるりと向きをかえ、「席をはずすよ」
「待ちたまえ」と、エラリーが「ここにいてもらいたいね、テリー。互いに、感情的ないざこざはおこさないようにしましょうよ、ねえ。これは非常に重大なことで、口げんかなど、してるところじゃないんですよ――」
エヴァが静かに「あたしは、昨夜、ディックに――すっかり話しましたわ」
「おお、そりゃ、あなた方の問題ですよ、お嬢さん。どうしたらいいか、あなたが一番よく知ってることです。さあ、どうぞ二階へ」
エラリーは階段のてっぺんにいたリッター刑事に何か言って、先に立ってあがって行った。一同が居間にはいると、リッターが、その後ろからドアを閉じた。例によって、テリーがしんがりをつとめ、スコット医師は、二、三歩ごとにふり向いて、睨みつけていた。
「屋根裏部屋に上りましょう」と、エラリーが、「カーレン・リースの出版社の主人も来ることになっています。上で待ちましょう」
「プュッシャーか」と、マクルア博士が苦々しく「あれに、どんな関係があるのかね」
「僕の結論をたしかめてもらう必要があるのです」それから、エラリーは黙って、一同を屋根裏部屋の階段へみちびいて行った。
一同が、傾斜した天井の部屋に通るか通らないかに、リッターが下からどなった。「もし、もし、クイーンさん。プュッシャーさんが来ました」
「上って下さい、プュッシャーさん」と、エラリーが呼び「さあ、みんな楽にしようじゃありませんか……やあ、プュッシャーさん。マクルア博士はご存知でしょう、もちろん。こちらは、マクルア嬢とご婚約の、スコット先生、それから私立探偵のリング君」
カーレン・リースの出版主は、汗ばんだ手を、二人の青年に差し出して握手したが、マクルア博士に向かって「本当にご愁傷さまでした、先生。おくやみの手紙は差し上げましたが……本当に、びっくりいたしました。なんとも、どうも。実に怪しからんことで、何か、わたくしに出来ることがございましたら――」
「結構です、プュッシャーさん、結構ですよ」と、マクルア博士は、泰然として言い、窓ぎわに行って、だだっ広い背中で、両手を組み合わせた。
プュッシャーは利口そうな顔をした仔牛のような男で――どこか、ひょうきんな元気者だった。だが、この男を知っているものは、みんな、その頭のよさを高く買っていた。七人の重要作家と、二十人ほどの売れっ子の雑魚《ざこ》作家をかかえて、見込みと企画の他、何も持たないで、立派な出版社を築き上げたのだった。プュッシャーは籐椅子のはじに、つつましく腰を下ろして、骨ばったひざに両手をおくと、大きく、無邪気な目で、次から次へと、一同の顔を見まわし、最後に、エラリーの顔へ来てとまった。
「さて、ご用はなんでしょう、クイーンさん」
「プュッシャーさん、ご名声はよく存じています」と、エラリーが「あなたは聡明な方だが、秘密を守るという点では、いかがですか」
出版主は微笑して「わたしのような立場にいる人間は、自分の口を閉じておくすべを心得ていますよ。むろん、何か非合法のこととなれば、別ですが――」
「クイーン警視はもう知っています。今朝、話しておきましたからね」
「それだったら……もちろん」
「何を知っとるのかね、クイーン君」と、マクルア博士が「何かね?」
「僕が、この点に、特に念を押したのは」と、エラリーが「この情報が出版社にとっては、かなり食指の動くものではないかと思うからです。つまり、すばらしい宣伝になるわけで」
プュッシャーは、ひざの上にのせたままの両手をひらいてみせて「カーレン・リースのことなら」と、無造作に「この数日間に、もう、いやというほど宣伝してもらったと思いますな」
「だが、このニュースは、カーレン・リースが死んだことより、ずっと重大なものですよ」
「重大なニュース――」と、博士が言いかけて止めた。
エラリーがため息して「マクルア博士、実は、僕は個人的に納得するために証明してみたのですが、この部屋の住人は、エスター・リース・マクルアさんだったんです」
博士の背中がぴくりとし、プュッシャーが目を丸くした。
「お嬢さん、あなたは昨日は間違っていましたよ。エスター・リース・マクルアさんは、僕ら同様、気違いじゃありませんでした。と言うことは」と、エラリーが、歯を鳴らして「つまり、カーレン・リースが大変な悪女ということになるのです」
「クイーンさま。どうして、そんなことがお分かりになって?」と、エヴァが叫んだ。
エラリーはチークの机に行き、一番上の引き出しから、赤いリボンで束ねた古手紙をとり出した。それは、クイーン警視が昨日、みんなに見せたものだった。エラリーは、それを机に置くと、次に、きちんと綴った、タイプの原稿用紙をめくった。
「プュッシャーさん、リース女史の作品を、どの程度、ご存知ですか」
プュッシャーが、自信なさそうに「むろん、よく知っとりますよ」
「あの人は、いつも作品を、どんな形で、渡しましたか」
「タイプした原稿でした」
「すると、あなたは、原稿のままご自分で読まれるわけですね」
「もちろんです」
「むろん、あの最後の受賞作『八雲立つ』についても、同じだったんでしょうね」
「特にあれについては、原稿でよく読みましたよ。あれがいい作品だったということを、すぐ認めましたよ。わが社では、みんなが夢中になったほどです」
「あの原稿を読まれたとき、手書きで訂正した箇所があったでしょう――つまりタイプした言葉を消して、鉛筆で訂正が入れてあった」
「多分、二、三か所ありましたな」
「これが、『八雲立つ』の初稿ですね」と、エラリーは、原稿の薄い束を手渡した。プュッシャーは金ぶち眼鏡を鼻にかけて、丁寧に、原稿用紙をしらべた。
「たしかです」と、最後に言って、もどしながら「クイーンさん、うかがいますが、なぜこんなことをされるんです?――そのう――特別審問というやつですか?」
エラリーは原稿を机に置いて、それまで、いじっていた、きちんと綴った方の用紙を、とりあげて「ここに、カーレン・リースの筆跡見本が、数種あります――弁護士モレルの証言によって、たしかに、カーレン・リースのものです。マクルア博士、ひとつ、これを調べて、弁護士の証言を確認して下さいませんか」
大男は窓からはなれて、近より、用紙の束には手もふれずに、両手を後ろに組んだまま、立って一番上の一枚をちらりと見ただけだった。
「たしかに、カーレンの筆跡だ」と、言うと、また窓ぎわに戻った。
「では、プュッシャーさん」
出版主は、かなり丁寧に、束をすっかり調べて「おお、たしかに、そうです」と、汗ばんだ顔を上げた。
「じゃあ、これから」と、エラリーは、その綴った用紙を下に置いて、先の原稿の方をとりあげ「『八雲立つ』の中から、二、三、拾い読みをしてみましょう」と、鼻眼鏡を直して、はっきりした声で読み始めた。
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『三郎老人は、あぐらをかいて、自らあざけるようににやにやした。だが、時折り、そのうつろなひとみに、もの思いが、ちらついて見えた』
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そこでひと息入れて「じゃあ、鉛筆で書き込みをした方を読んでみましょう」と、ゆっくり。
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『三郎老人はあぐらをかいて、自らあざけるように、にやにやした。だが、時折り、そのうつろな、頭の窓の奥に、もの思いが、ちらついた』
[#ここで字下げ終わり]
「そうです」と、出版主がつぶやいた「よく、そこは覚えています」エラリーが二、三頁めくった。
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『自分の姿を見られずに、オノ・ジョーンズには、彼女が下の庭に立っているのが、テラスから見えた』
[#ここで字下げ終わり]
エラリーは目を上げて「ごらんなさい、ここが、次のように書き変えられています」と、目を下に向けた。
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『自分の姿を見られずに、オノ・ジョーンズには、彼女の黒い影が、日をよぎって立っているのが、テラスから見えた』
[#ここで字下げ終わり]
「さっぱり合点がいきませんな――」と、プュッシャーが、言いかけた。
エラリーはさらに頁をめくって「ここに日本の夏空を『七宝色の』と描写しているところがあります。この言葉を消して『エナメル色の』と直してあります。その同じ節の、作中の人物の頭ごしに眺めた戸外の景色を『さかさまにした美しい鉢のような』と書いているのに、作者は思い直して、その文章を『さかさまにした色あでやかな茶碗の下に立っていた』と変えてあります」
エラリーは下書きを閉じて「プュッシャーさん、こういった訂正を、なんと言うんですか」
出版主は、あきらかに戸惑《とまど》って「そりゃ、むろん、推敲《すいこう》とでも言いますかな。ある言葉の配置に対する語感上の問題や――ひとつの文形に対して他の文形をえらぶというようなことは、どの作家も、なさることです」
「そりゃ、非常に個人的な訂正と言っていいですね。だれだって、他人の作品に対して、あえて、そんな加筆をする自由はないはずです」
「さよう。ご自分が作家だから、よくお分かりでしょう、クイーンさん」と、プュッシャーが言った。
「つまり、この訂正は、カーレン・リースが鉛筆で書きこんだものと見ていいんです――どうです? こういう訂正が、どの作品にもあったでしょう」
「ありました!」
エラリーは下書きと原稿を持ってプュッシャーのそばへ行き「原稿の訂正部分の筆跡を較べてみて下さい」と、静かに「こっちが、証明ずみの、カーレン・リースの筆跡です」
プュッシャーは一瞬ぎょっとして、その二束を、ひっつかむように手にすると、熱につかれたように、目をさらして「なんと、なんと」と、口ごもりながら「こりゃ、筆跡がちがう」
「言いにくいことですが、博士」と、エラリーが「これといい、また別の証拠から判断して、直相はきわめてはっきりしています。カーレン・リースは『八雲立つ』の作者ではなかったのです。前作の『太陽』も『海の子』も、カーレン・リース作と思われていた他の秀作類も、実はカーレン・リースが書いたものではないのです。あの人の国際的な名声を築いた諸作に対して、あのひとは、プュッシャー出版社の最低の校正係の程度にしか関係がなかったのです」
「でも、そりゃ、きっと間違いよ」と、エヴァが大声で「他のだれに、ああいう作品が書けるかしら。自分の作品を、他人が横領するのを許しておく男《ひと》があるかしら」
「男じゃありませんよ、お嬢さん――女です。それに、僕は許したという言葉は使いませんでしたよ。その言葉は、この場合、非常に誤解されやすい言葉ですからね。よこしまな、下劣な計画を実行する方法は、いくらでもあります」と、エラリーは、口をすぼめて「これらの作品は、すべて、カーレン・リースの姉、エスターが書いたものです」
マクルア博士が、突然、窓のふちに腰を下ろした。
「全く、いささかも疑問の余地はありません」と、エラリーが「僕は可能な、あらゆる角度から、これを調べてみましたが、答えはいつも同じでした。訂正の筆跡は間違いなく、エスター・リースのものです――一九一三年の日付けにさかのぼるのだが――この古手紙の束には、エスターの筆跡見本が、どっさりあります。多少は年齢からくる筆跡のちがいがありますが、今朝、専門家に鑑定を求めたところ、衆口一致でした。それに、エスターが、ただ、妹の秘書をつとめていたはずもありません。なぜなら、プュッシャーさんが言う通り、この訂正は創作的なものだからです」
スコット医師が、せき払いして「そりゃ、君の思いすごしじゃないかな。訂正はリースさんのものとも考えられる。姉さんは単に速記をつとめていたのかもしれないもの」
「じゃ、これをどう説明しますか」と、エラリーは部厚いノートブックをとり上げて「このノートには、エスター・リースの筆跡で、『八雲立つ』のプランが全部書いてあります――この膨大なノートは、実に、独創的で、個性的で、はっきりとエスターのアイディアを示す傍注もついています」
「でも、あのひとは死んだのよ」と、エヴァが「お父さまがそうおっしゃったわ。カーレンも――カーレンもそう言ってたわ」
「お父さんも、あなたも、リース女史に、だまされていたのです。エスターは生きています。一九二四年に自殺したことになっていますが、その作品は、すべて、それ以後に書かれているんですよ」
「でも、それは、古い作品や、古いノートで、ずっと昔のものが、今になって出て来たのかも知れないわ――」
「いいえ、お嬢さん。その大部分には内容的な証拠があるんです――一九二四年より、ずっと後の――現在の出来事が書いてあります。たしかに、あのひとは生きています。そして、カーレン・リース作となっている作品を、まさに、この部屋で書いていたのです」
「弱ったな」と、プュッシャーが、立ち上って、そわそわと歩きまわりながら「こりゃ、スキャンダルだ。文学界がひっくり返る騒ぎになる」
「われわれが伏せておけば、そんなことはない」と、マクルア博士が、しゃがれ声で、また目を充血させながら「エスターは死んどるのだ。それが、よみがえるなんて――」
「それに、賞の問題もある」と、出版主が、うめき声で「いんちきがあったとすると、つまり剽窃《ひょうせつ》ということになると――」
「プュッシャーさん」と、エラリーが藪から棒に「『八雲立つ』は、狂女が書いたものと言えますか」
「とんでもない、そんなこと」と、プュッシャーがわめいて、髪をかきむしりながら「そんなことは想像もつきませんな。おそらく、そのエスター・リースというひとは、自分の意志で、そうしたんでしょうな――なにか個人的な理由から。おそらく――」
「想像したくないが」と、エラリーが渋々「カーレン・リースが拳銃を持って姉の前に立ちはだかり、むりやり、生ける屍《しかばね》にしたものでしょう」
「だが、あの人の物静かさは、五月のパーティのときの――」
「別の顔があったんですよ」と、エラリーが、けりをつけた。そして、チークの机の後ろに坐って、考え込んでいた。
「誰も信じますまい」と、プュッシャーが、うめき声で「わたしは、いい笑い者になって――」
「すると、かわいそうなエスターはどこ?」と、エヴァが叫んで「なんてっても、このままじゃ、エスターが、かわいそうよ」と、博士に駆けより「こんなことがあばかれて、どんな気持か、よく分かるわ、お父さま。でも、もしカーレンが、あのひとを、こんなひどい目にあわせたのなら、あたしたちが、エスターを見つけて、ちゃんと償いをして上げなくちゃ、いけないわ」
「そうだな」と、博士が低い声で「なんとしてでも見つけ出さにゃならん」
「見つかるまで待つんだな」と、テリー・リングが冷やかに「このことは世間に伏せといて、時が来たら、エスターと相談して万事きめればいい」
「テリーの言う通りですよ」と、エラリーが「そうですとも、見つけるのはわれわれの方の仕事です。僕はもう、おやじと相談しました。おやじは、行方をつきとめるために、さらに努力を重ねています」
「おお、きっとやって下さるわ」と、エヴァが叫ぶように「お父さま、あのひとが生きてて、うれしいでしょう、それに――」と、言いかけて、ぷつりと切った。大男の顔に、かなり、おそろしい表情が浮かんでいたのだ。エヴァは、以前博士が若いころ、弟の結婚した女を恋していたと、はにかみがちな、沈痛な告白をしたのを思い出した。
だが、博士は、ため息をついて「そうだな。いまに分かる。いまに分かる」
そのとき、リッターが階下でわめいた。
「クイーンさん。警視殿から電話です!」
[#改ページ]
十六
カーレン・リースの寝室からもどって来たエラリーの顔は沈んでいた。
「エスターが見つかりましたの?」と、エヴァが訊いた。
「いいえ」と、エラリーはプュッシャーの方を向いて「ご足労でした、プュッシャーさん。もういいと思います。秘密を守る約束を忘れないで下さるでしょうね」
「忘れられそうもありませんな」と、プュッシャーは顔をぬぐって「先生、なんとも、どうも、お気の毒で――」
「ごきげんよう、プュッシャー君」と、マクルア博士が、泰然として言った。
出版主は首を振りながら、きりっと口を結んで出て行った。リッターが出版主を送り出して、階下の居間のドアをしめる音がし、屋根裏部屋へ階段を上ってくると、エラリーが言った。
「父が、みなさんに、すぐセンター・ストリートへ来ていただきたいそうです」
「また、警察本部ですか」と、エヴァが情けなさそうに言った。
「すぐ行く方がよさそうですよ。どうぞ。スコット先生、あなたは行きたくなければ結構です。父は、あなたのことは何も言っていませんでしたから」
「いや、行きたいですよ」と、スコット医師は、あっさり言うと、赤らみながらエヴァの腕を支えて、階段をみちびいて行った。
「なんだろう」と、マクルア博士が低い声で、早口に「警視は――何かつかんだのかな――?」
「分かりませんよ。何も言わなかったから」と、エラリーが、顔をしかめて「しかし、おやじをよく知っていますが、なんだか得意らしい口ぶりでした。最悪の場合の心構えをしておいた方が、よさそうですね」
博士は声もなくうなずき、若い二人連れのあとから、急な階段を下りた。
「けりがついたかな」と、テリー・リングが、唇の片すみで「おれも、おやじさんのことは、よく知ってるぜ。おやじさん、いったい、いつのまに、ここら辺の指紋をとったのかな」
「指紋なんてもんじゃないらしいよ、テリー」
「おれにも、来いってか?」
「いや」
テリーは、パール・グレーの舟型帽を、ひっつかむと、しっかりと頭にのせて「じゃあ、行こう」
受付の警官が、警察本部のクイーン警視の部屋へ一同を案内したとき、老警視は、肥えて小柄な弁護士のモレルと、熱心に話し込んでいた。
「おお、どうぞ、どうぞ」と、警視は立ち上って、小鳥のような目を輝かせながら「みなさんは、モレル氏をご存知でしょうな――まあ、そりゃ、どうでもいい。単なる公僕――君、そうだろ、モレル」
「はっはっ」と、モレルは笑った。びっしょり汗をかいていた。そして、マクルア父娘と目の合うのが、具合悪そうだった。モレルは、席からとび上ると、なにか精神的な支え以上のものを求めるかのように、椅子の後ろに逃げ込んだ。
「お前も来たのか」と、老警視が、うなるように言って、テリーの様子を見ながら「にせ金みたいなもんだ。用はない、さっさと出て行け」
「用があると思うんですがね」と、テリーが。
「おお」と、警視がいかめしく「まあいい。みなさん、坐って下さい」
「いやね」と、エヴァがヒステリックに笑って「なんだか、とても、かたくるしい感じで」
「あなたも、スコットさん。ここにいる限りは、坐って下さい。あなたにとっては、あまり楽しくないかもしれんが」
スコットが、どもり声で「と言うと――」と、青ざめて横目でちらりとエヴァを見てから目をそらした。
警視が席について「さて、お前はなぜ、わしがお前に用があると思うのかね、テリー」
「昨日は、こっちの知ってることを、しきりに聞きたがったからさ」
「それなら話がちがう」と、老警視がすぐに「そりゃまた変った趣向だな、テリー。話すつもりになったのか」と、呼び鈴を押して「もの分かりのいい子になったというものだぞ。昔のテリーに、また、なったわけだ。では、先ず――」
「先ず言っときますがね」と、テリーが無造作に「あんたが、何を企んでるか分かるまでは、しゃべりませんからね。なにしろ、こすっからいおやじさんだから」
「ふーん、取り引きか」
「いて、いいでしょ」
「いてよかろう……マッシー」制服の男がはいって来た。「速記をとれ」男は机のわきに座を占めて、速記帳をひらいた。老警視は手をこすり合わせながら、ゆったりと椅子の背に身をもたせて「マクルア嬢、なぜ、カーレン・リースを殺したのかね」
とうとう来たわと、エヴァは、はっきりさとった。とうとう来たわ。どたんばになったわ。エヴァはけらけらと笑い出しそうになった。やっぱり、あの指紋を見つけたんだわ。誰にも手の下しようがなかった――花崗岩の塊りのように坐っているマクルア博士にも、ゆっくりと両手をポケットに突っ込むテリーにも、学課を暗記するように、唇をかんで、エヴァの手をとるスコット医師にも、身動きもせずに窓のそばに立って、何も聞えなかったようにふり向かないエラリー・クイーンにも……。
刑務所の中は、さぞ不愉快だろうなと、エヴァは思った。ざらざらの下着と、ぶざまな獄衣をくれて、床をみがかせる……少なくとも、映画で見せるのは、そんな場面だし、映画の専門家たちは、刑務所をよく知っているはずだ。転落のひびきが耳にとどろき、刑務所の鉄扉が、自分のおろかな、まだ先のある、若い身空を楽しいこの世からガチャリと閉め出すかもしれないというのに、なぜ、こうも落ちつき払って、坐って考えていられるのだろうと、いぶからずにはいられなかった。事態は、もっと悪くなるかもしれないのだし、ひょっとすれば人殺し……
だが、それだけは、エヴァには、どうしても考える気になれなかった。エヴァは、言葉をごまかすために目を閉じた。だが、その言葉は追えど払えど、こっそりと戻って来て、頭からはなれなかった。しばらくするうちに、エヴァは気分が悪くなり、休みなしに一マイルも駆けたあとのように、両脚が薄い絹の服の下で、ふるえ出した。
「ちょっと、待って下さい」と、エラリーが。
「いかん」と、クイーン警視が、にべもなく言った。
「いけません。あなたが何をつかんでいるか知りませんが――急いじゃいけません。時間をおかけなさい。マクルア嬢は逃げかくれしませんよ。ゆっくりおやりなさい」
「いつもゆっくりやっとるつもりだが」と、警視が「仕事がつまってるんでなあ」
「万一、間違ってたら、マクルア嬢にとっては、どんなことになるか、考えてみないんですか」
「ゴシップ、汚名、新聞」と、スコット医師が息をのんだ。
「そのくらいのことは、カーレン・リースを刺す前に分かっとったはずだ。わしは、単なる警官で、判事じゃない。みんな、手を引いてくれ……待てよ、お前、エヴァ・マクルア嬢が、あの女を刺さなかったという証拠でも、何か握っとるのか?」
「まだ、何も。だが、光明をつかんでないわけでもないんですよ――」
老警視が向きをかえて「どうかね、マクルア嬢?」
「申しわけありませんが」と、エヴァが、どもりながら「なんとおっしゃったのか、よく聞えませんでしたの」
「聞こえない?」
「おねがいだ」と、マクルア博士が叫んで「この娘が失心しかけておるのが、分からんのか」と、エヴァを身でかばいながら、いかりにもえて、老いの身をぶるぶる震わせ「しっかりするんだ。気をたしかに持つんだよ、エヴァ。わしのいうことが聞こえるか」
「ええ、大丈夫よ」と、エヴァがかすかに言った。エヴァは目をあこうとしたが、不思議なことに――どうしてもあかなかった。まるで、まぶたがくっついてしまったようだった。
「なんて、いやなじじいなんだ」と、テリー・リングが、どなり、とび上ると、警視の机に迫って、睨みつけ「いったい自分を何様だと思ってるんだ。かわいそうな娘《こ》を、こんな風にこずきまわして。人殺しだと! はえ一匹殺せやしないぜ。手前の課のでくの坊どもが、真犯人をあげられないからって、この娘を、しめ上げるとは、おそまつだぜ――」
「おい」と、老警視がびしりと「身のほどを知れ、大ばか者が。何事だ、おどしのつもりか。君らはみんな、大事なことを忘れとる。わしは、相手えらばずに、人殺し呼ばわりをしとるわけじゃないぞ。証拠あってのことだ」と、燃えるような目で「テリー、言っとくが、マクルア嬢の世話をみるのは、いいかげんにやめた方がいいぞ。そろそろ自分のことを考えとけ。従犯でしめ上げることも出来るんだぞ」
テリーは、おとなしくなって、顔から赤みが消えた。そして、エヴァの椅子の後ろに行って立った。モレルはおびえたイルカのように目ばかりぱちくりして、静かに立っていることも出来ず、戸口ばかり見ていた。
「いいですよ、お父さん。思い通りにやってごらんなさい」と、エラリーは言って、窓のそばから離れようともしなかった。
警視は、机の上の引出しから、丁寧に木綿にくるんである品をとり出して「これは、カーレン・リースをやった兇器だ」と、声をはげまして「刃と、握りと、柄のところに、エヴァ・マクルアの指紋がついとる」
「なんたることだ」と、スコット医師が、しゃがれ声で言うのが、エヴァの耳には、はるか遠くに聞こえた。
「刃の血痕は、きれいにぬぐい去られとる。だが、それからあとがいかん、手ぬかりだったな、マクルア嬢」老警視の姿だけが、エヴァの目の前に浮かび、その手で握りまわしている、はさみの片刃にはめこまれた飾りの宝石が、光をうけて、きらきら光った。
「そりゃ説明できるさ」と、テリーが「このひとは――」
「マクルア嬢に訊いとるんだ。黙っててもいいですよ、お嬢さん。警察の速記係りが、あなたの言葉を、すべて書くことになってる。あなたにも黙否権はあります。こちらの義務として言っとくが、あなたの言い分を州側は、あなたに不利に使うかもしれんからね」
エヴァは目をあいた。楽々と目がひらいた。警視の言葉が、閉じていた目のドアをひらく鍵のようだった。
「エヴァ――お前、何も言うな」と、マクルア博士が、うめくように言った。
「でも、そんなこと、本当にばからしいわ」と、エヴァがささやかな声で「あたしが、はいってみると、カーレンが倒れていたので、机によりかかったときに、それに手が触れたんです――その刃ものに。なにも考えるひまもなく、あたしは、それをとりあげていました。それから、|それで《ヽヽヽ》カーレンが殺されたにちがいないと気がついて、手から放したのです。それは、屑かごに落ちました」
「なるほど」と、クイーン警視は、鋭い目をエヴァから放さずに「それが言い分かね。あんたが、とりあげたときに、きれいにぬぐってあったかね」エヴァは目を見張った。「それとも、刃に、血がついとったかね」
「血はついていませんでした、警視さま」
「月曜日にわしが尋問したとき、なぜこのことを言わなかったのだね」
「こわかったんです」と、エヴァがささやいた。
「何が?」
「分かりませんわ。ただ、おそろしくって」
「あんたの不利になるかと思って、こわかったのかね」
「ええ――そんな気がして」
「だが、カーレン・リースを殺していないなら、何もこわがることはないじゃないか。あんたは、自分が無実だということを、知っとったんだろう」
「もちろんですわ。あたしは、カーレンを殺しやしません。あたしじゃありません」
警視は黙ってエヴァを観察していた。やがてエヴァは目を伏せた。涙がいっぱいたまっていた。相手の目を真直ぐに見られるのは、誠実で、正直なしるしとされている。だが、相手の目が、ひどく無慈悲で、敵意と疑惑にみちているので、エヴァには、とうてい、まともに見ることは出来なかった。感受性の強い者なら、だれでも、不愉快なものや、残酷なものから目をそらすのが当然だ……
「わかってるのが、それで全部なら」と、テリー・リングが、せせら笑うように「さっさと家へ帰って、ハモニカでも吹いてる方がいいぜ、おやじさん」
クイーン警視は、返事もせずに机にもどると、また、上の引き出しをあけて、はさみの片刃を入れると、マニラ封筒をとり出してから、元の場所にもどって来た。
「犯行現場のとなりの居間の暖炉の火床で」と、警視が「これが見つかった」と、マニラ封筒から、何かをとり出した。エヴァは、気分の悪さを押えて、目を見張った。あろうことか、あるまいことか、まさか運命がこんな、いやらしいいたずらをするなんて、そんなはずはないのに、それがあったのだ。いたずらをしてしまったのだ。みれば、自分の白麻のハンカチの隅のはしくれが、直角三角形になりその斜辺が波型にこげて、そのすみの白い絹糸で縫いとったエヴァの頭文字が、かすかに、カーレンの黒ずんだ血でよごれているではないか。
テリー・リングが、エヴァの後ろで舌打ちした。予想もしなかった危険なのだ。テリーがエヴァにいいつけてやらせた、ただひとつの仕事で、うまくやったとばかり思っていたのだ。いま、テリーは、エヴァがへまをやったのに気付いた。エヴァは後ろにいるテリーの苦しい思いや、かみつくような軽蔑を感じるような気がした。
「あんたのハンカチだね、お嬢さん」
「エヴァ、返事するんじゃないよ、エヴァ。口をきくんじゃない。警視には、そんな権利はない」
あのとき、エヴァはハンカチが完全に燃えつきるのを、たしかめる前に逃げ出したのだ。それで、無論、火が立ち消えになったのだ。そうだ、そうだ。
「E・Mと頭文字がついとる」と、警視が冷やかに「このハンカチがお嬢さんのものなのを証明するのが、むずかしかろうなどと、見当ちがいされん方がいい、マクルア博士。実際問題としては――」と、言いかけてやめた。しゃべりすぎるのはまずい、と感じたらしい。
「それにだ。この隅の汚れは、人間の血ですぞ。科学班が立証しとる。カーレン・リースの血液型と同じだということも確認された――やや異常な血液型で、こちらには都合がいいが、お嬢さんあんたには、ひどく不都合なことになる」
「エヴァ。黙ってろ」と、テリーが妙な声で「しっかり口をとじてるんだぜ」
「いいえ」と、エヴァは、椅子からもがき出て「こんなことって、本当にばからしいわ。そうよ、あたしのハンカチよ。カーレンの血でよごれたので、焼きすてようとしたのよ」
「ああ」と、警視が「筆記したか、マッシー」
「なんたることだ」と、スコット医師が、前と全く同じ口調でまた言った。それより他には、どう言いようもないらしかった。テリー・リングはちらりとエラリーを見、肩をすくめて、たばこに火をつけた。
「でも、それは、ただ、あたしが張り出し窓のところで、かがみ込んで、カーレンを見たときに――床にこぼれていた血が手についたので、ハンカチでふいたのです。ジェリーのようでした」と、エヴァは身ぶるいして「ねえ、そうでしょう。だれでもそうしますわ。だれだって、手に血がつくの――好きじゃないですもの。あなただって、そうなさるでしょう」と、泣き出しながら「それから、ハンカチを焼いたんです。あたしが、燃やしたのよ。こわくって、こわくって」と、博士の腕に倒れかかった。
「なるほど、そういうことか」と、クイーン警視が。
「聞いて下さいよ、おやじさん」と、テリー・リングが老警視の腕をつかんで「白状するがね。おれの考えなのさ。燃やせと言ったのは、おれさ」
「おお、本当か、お前」
「あすこへとびこんだときに、娘さんが、しでかしたことを話したから、そんな厄介なものは燃やせと言ったんだ。だから、この件で、娘さんを責めようったって、そうはいかないぜ。おれが証言するからな」
「では、なぜ」と、警視が、いきまいて「ハンカチを燃やせなんて知恵をお嬢さんにつけたんだね、リング君。君もこわかったのか?」
「そりゃ、脳味噌のこちこちなおまわりが、そいつを見つけたらどうするか、手の内は分かってるからね。だからさ」
モレルが、せき払いして「警視さん、本当に、わたしにご用があるんですか。わたしは――実は、そのう――依頼人を待たせてあるので……」
「君は、そのまま、そこにいてもらおう」と、老警視が声をとがらせた。モレルは、しょんぼりと浮かせた腰を下ろして、さらに強く、椅子にしがみついた。
「マッシー、この、知ったかぶりの言ったことを書き取ったか? O・K、さて、お嬢さん、実際におこったことを、わしが話して上げよう。
あんたは、カーレン・リースを、このはさみの片刃で刺し殺し、ハンカチで、刃についた血をぬぐい、それから、証拠を消すために、ハンカチを燃そうとした。この見解を証明するために――どんな弁護士も否定できない証拠物件を――二つ握っている。もし、親愛なるリング君が、ハンカチを焼き捨てろといったのが自分だという言い分に固執するなら、こっちとしては、リング君の首に従犯の罪を、ぶらさげてやるまでだ。
あんたが、あの居間にひとりきりで残されたとき、カーレン・リースが生きていたことを、証明する日本女中の証言も、つかんでいる。また、あの現場でとった、あんた自身の調書にも、あんたが、あの居間に坐っていたという三十分のあいだ、だれも通り抜けなかったということになっておる。カーレン・リースが机に坐って、モレル宛てに、ごく普通の事務上の手紙を書いていたとき、自分が殺されるとか死ぬとか、などということは全然、念頭になかった。そのカーレン・リースの自筆の手紙もある――その手紙は、丁度、あんたが、あそこへ行ったときに、キヌメが用箋を持って行って、そのあとで、カーレンが書き始めたものだ。その手紙が途中で終っているのは、とりも直さず殺人が行なわれたためであることを、われわれは証明出来る。また、月曜日のテリー・リング自身の調書もある。テリーが来たとき、あんたは、寝室の中でカーレン・リースの、まだ息のあった、からだを覗き込んでいて、他にはだれもいなかったと、言っとる」
老警視はくるりと向いて「どうだ、モレル、あんたは弁護士だ。まだ争う余地があるかね」
「え――わたしは刑事弁護士じゃありません」と、モレルがどもった。
「まあいい」と、クイーン警視が、あっさりと「ヘンリー・サンプスンが――ありゃ、この市、始って以来の名検事だが、そのサンプスンも、こりゃ、ものになると思っとるよ」
一同の深い沈黙のうちで、マクルア博士の胸に顔を埋めて泣く、エヴァのやるせないすすり泣きが、忍びがちにつづいた。
「でしゃばって済まないがね」と、テリー・リングが、沈黙を破った。「屋根裏部屋にいたブロンドの女ってのは、どうなるのかね」
警視は目をぱちくりして、机にもどって腰をかけると「おお、それだ。あのブロンドの女、カーレン・リースの姉の」
「そうさ、その姉さ。どうなるのかね」
「どうなるかと言うと?」
「このかわいそうな娘を、しぼる前に、その問題を片付けとくべきだとは思わないかね。カーレン・リースはその女を、九年間も、あの部屋に囚人みたいに監禁してたんだぜ。あの女が逃げたのは分かってるんだろ。むろん、あの女が、妹を死ぬほど嫌ってたわけも分かってるんだ――作品は盗む、利益は独占するだものね。あの女が、二階から下りて、逃げ出す方法を心得ていたことも、あんたは知ってる。しかも、兇器のはさみは、あの女の住んでた二階にあったものなんだぜ」
「カーレン・リースの姉か」と、警視がつぶやくように「そうだ、まったくだ。博士、われわれは、自殺者の線を洗ってみましたよ」
「こっちの言い分も聞いてほしいな」と、テリーが、どなった。
「死体は海からも上がらなかったのですよ。あの女は蒸発しちまったのです。われわれは、カーレン・リースが日本から来たとき、同伴者が二人いたことも調べ出しました――キヌメという女と、ブロンドの女が、航海中は船室にこもりきりで、しかも、明らかに偽名で乗船登録をしていました。それで、リースは、こちらへ来ることを、前もってあなたに報らせなかったのですよ――カーレン・リースは昔のことを知っている者にみつからない先に、住居をきめて、姉を隠してしまいたかったんです」
「すると、やっぱり本当だったのか」と、スコット医師が、思わずつぶやいて「あの女が――マクルア博士の弟を殺したのか」
「とんでもない誤解だ!」と、博士が、雷のようにどなった。その明るく青い目が、けわしい色に燃えあがったので、スコット医師は、さらに青ざめた。
「どうやら」と、エラリーが窓のそばから、冷やかに「話が横道にそれたようですね。お父さんは、事件がものになるとかならないとか言ったようでしたが」父と子は互いに見かわした。「動機の説明は、何も聞こえませんでしたね」
「州側は動機を証明する必要はない」と、警視が、ぴしりと言った。
「でも、お父さん、評判も申し分なく、前科もない、無邪気な娘が、殺人の意図をもって、父親の婚約者を刺し殺したのだと、陪審を納得させるには、どうしても、動機の問題が、持ちあがって来ますよ」
「おかしなことだが」と、警視は椅子の中でからだをゆすぶりながら「最初は、わしも、動機が腑に落ちなかった。家柄も育ちもいいマクルア家の娘さんが、こともあろうに人殺しになるなどとは、とうてい想像もつかなかった。それが、わしの二の足を踏んでいた理由のひとつだ。だが、突然、動機をつかんだのだ――どの陪審も納得し、同情さえ示しそうな動機をな」と、警視は、肩をすぼめて「だが、そりゃ、わしの仕事じゃない」
「動機ですって」と、エヴァが、椅子の手にもたれさせていた顔をあげて「あたしに、カーレンを殺す動機があるんですって?」と、けたたましく笑った。
「モレル」と、警視が、くるりと向き直って「君は今日、わしにどんな話をしたかね」
一同の冷い目が注がれるのを感じると、モレルはもじもじして、出来ることなら、喜び勇んで逃げ出したいような顔をした。そして、すでに、汗でぐっしょりになっているハンカチで額をぬぐい「わたしは――どうぞ了解して下さい、マクルア先生。全くの偶然でして、こんなことに、かかり合うつもりは、さらさらなかったのですが、でも、見つかった以上――むろん、法律に対する義務として――」
「たわごとは、はしょれ」とテリー・リングがどなった。
弁護士はハンカチを、どうしていいか迷うようすで「数年前に、リースさんがある品物を――さよう、大きな封筒を、わたしに預けて――そのう、あのひとが亡くなったら開いて指示通りにするようにと言われました。わたしは、実はそのう――今朝まで、そのことを、ころりと忘れておったのです。開けてみると、中の書類は、全部、エスター・リース・マクルアさんに関係のあるもので――マクルア博士とリースさんとの間で取りかわされた古手紙で、日付けは一九一九年になっていました。それから、リースさんの自筆の書き付けもついていて、姉さんの身のふり方についての手配がきめてあり――ご自分が亡くなられた場合は――姉さんをこっそり日本に送り返すようにと指示してありました――」
「それは、みんな、ここにある」と、老警視が机をとんとんたたきながら、今は、同情のこもった目をあげてマクルア博士を見つめ「うまく隠しておかれましたな、博士。なぜ、そうされたのかは、よく分かるが、お気の毒だが――わしは、それを公表せねばなりませんぞ」
「娘には言わんどいて――そのことだけは――どうか――」と、マクルア博士が、ささやくように言い、両手をふりながら、警視の方へ、よろめき寄った。
「お気の毒だが、博士、いくらうまく芝居を打とうとしても、お嬢さんは真相を知っとった。よもや知るまいと思っても、お嬢さんは、ちゃんと知っとったと言わざるを得ませんな」
警視は机の上の筥《はこ》から長い文書をとり出して、エヴァの目を見すえ、せき払いして「お嬢さん、ここにあなたの逮捕状があります。カーレン・リースの殺人犯としてです」
「あたしの考えでは」と、エヴァがよろよろと立ち上がって「あたしの考えでは――」
「駄目だ。待ってくれ、警視さん」と、テリー・リングが机の前に迫って、早口に「さっき話してた取り引きを、きめるよ。この娘《こ》にチャンスを与えてくれよ。この娘を普通の犯人扱いにしちゃいけないよ。逮捕はのばすんだね。エスターを野ばなしにしといて、早まったことをしちゃいけない」警視は黙っていた。「エスターにだってやれたんだぜ。動機が二つあるんだ。ひとつは、妹から受けたひどい仕打ち、いまひとつは金さ――大伯母の遺産とかいう、リースって奴の金さ」
「それで?」と、クイーン警視が。
「モレルが説明するさ。カーレン・リースが四十前に死ねば、伯母の遺産はカーレンに一番近い血縁者に行くことになってたんだ。だから、エスターが生きてれば、エスターがその血縁者ってわけだ。大金がはいるんだぜ。なあ、モレル」
「そう――そうです」
「金額はどのくらいだ?」
「百二十五万ぐらいです」
「そら、分かったろう、警視さん。ひと財産じゃないか。エスターは金に目がくらんだんじゃないかな」と、テリーは灰色の目を光らせて「ところで、この娘に、どんな動機があるというのかね。百二十五万って金に太刀打ち出来る動機があるのかね」
警視が言った。「どんな取り引きだ、テリー」
テリーは胸を張って「あんたが、是非にというなら」と、冷やかに「あんたのために、エスターを探して上げることだって出来るさ」
老警視がにっこりして「取り引きにならんよ、テリー。お前もうかつだな。モレル、もしカーレン・リースが、あとひと月生きてたら、その金はどういうことになる?」
「相続したでしょうな」と、モレルが神経質に「あのひとの財産になったでしょうよ」
「そして、その金を全部、慈善事業や施設に贈ることになっとったな」
「さようです」
「つまり、こうなるんだ、テリー、もし、エヴァ・マクルアが、あのとき、カーレン・リースを殺さなければ、エヴァ・マクルアは、その金には指一本触れられないことになったんだ――エヴァ・マクルアも、エスター・リースも、どっちも」テリーが悩ましそうに顔をしかめた。
「しかも、兇器の指紋はエヴァのものだし、ハンカチもエヴァのものだ。それに、犯行当時、エスターがあの家にいたという証拠は何ひとつない。どうにもならんよ、テリー」と、警視は、ひと息入れて「だが――エスターの行方を知っとると言ったな。それだけは耳に入れとくぞ」
「この娘《こ》が、あの金に、全然、指を触れられないって?」と、テリーが、せせら笑って「どうかしてんじゃないか、おやじさん――気がちがったんじゃないかい。エヴァが、その金に指を触れられっこないじゃないか。血縁者にだけ行くってもんにさ――」
スコット医師が沈黙を破って、あやふやな調子で「クイーン警視、それが、あなたの言う動機なのですか――つまり、ぼくの婚約者が、金ほしさに人殺しをしたというのが」
「そうさ」と、クイーン警視が、逮捕状を振りまわしながら「それと、復讐のためさ」
「お父さま」と、エヴァが「おききになって? 復讐ですって!」
「芝居は止めるんだ」と、警視が、びしりと言った。「マクルア博士は、絶対に、あんたの父親じゃない」
「エヴァの――父親では――ない――」と、スコット医者が、ぼんやり言った。
「あたしの復讐ですって」と、エヴァは、さらにふらふらしながら、繰りかえした。
「カーレン・リースがエスターに対して行なったこと――九年間監禁し、その作品、生活、家族、幸福をうばったことに対するエヴァの仕返しさ」
「あたし」と、エヴァが、かすかに「あたし、気が狂いそうだわ。だれかが――説明してくれなければ――こんなことって……」
「いったい、この娘に、どんな関係があるってんだ?」と、テリーが、はげしい口調で「カーレン・リースが、姉のエスターに何をしようと。このちびのど間抜けめ!」
警視が平然として「どんな関係だって? おお、わしは知らん。カーレン・リースみたいな女が、あの女のやった仕打ちを、お前のお袋にしたとしたら、お前だって少しは、向かっぱらをたてようってもんじゃないかね」
「エヴァの――母親――」と、スコット医師が、あえぐように言った。
「そうだよ、スコット君。エスター・リース・マクルアは君の婚約者の母親なんだ」
エヴァが息をのみ、聞きとれないような声で叫んだ。「あたしの、お母さま」
エヴァがよろめくのを見て、テリー・リングとエラリー・クイーンが同時にとび出したが、褐色の男の方が一足早かった。
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第四部
十七
「大丈夫よ」と、エヴァは言って、テリーの手を押しのけ「しばらく、ひとりにしておいて」と、椅子の背を手探りで求めた。
「娘は、そのことを知らんと言うたじゃないか」と、マクルア博士が、クイーン警視に向かって「娘には隠しておいたと言うのに……」
しかし、警視が信じない顔を見て、博士は絶望的な身ぶりをした。
「エヴァ、エヴァ、かわいそうに」
「あたしのお母さまとおっしゃったわね」と、エヴァが異様な目付きで、警視を見つめた。すっかり落ちついているようだった。
しかし、マクルア博士は、エヴァの目の色を見て、ぼんやりと、そばに寄り添っているスコット医師を押しのけ、エヴァの肘をとって、子供をあやすように、警視用の革張りの長椅子に連れて行った。
「水を少しくれんか」
テリーが大急ぎで出て行き、前室の冷却器から、紙コップに、なみなみと水を汲んで戻って来た。大柄な博士は、エヴァの手足をこすって暖め、唇に水をあてがった。すると、エヴァの目に、意識と苦痛の色がみちた。
「すみません」と、エヴァは博士の上着に顔を埋めて、細い声で言った。
「しっかりおし、エヴァ。もう大丈夫だ。隠していたのは、わしが悪かった。さあ、泣けるだけお泣き、エヴァ――」
「あのひとが言ったわね……すると、カーレンは、あたしのおばさま、あなたはおじさま。エスターが――あたしのお母さまだったの!」
「まさか、お前に知れるようなことがあろうとは、思わなかったのだ。そして、あれが死んだのを知ったとき、お前には何も知らさん方がいいと思ったのだ――あれが生きていたなんて、全然、思いがけないことだったんだよ、エヴァ」
「おお、お父さま。あたしのお母さまじゃないの!」
マクルア博士は、月曜日の午後、エラリーがパンシヤ号の甲板で会って以来、今が、一番落ちついているようだった。そして、いかにも重荷が下りたというように、前より肩を真直ぐに張っていた。
「すこし水をお飲み、エヴァ」
警視が言った。「立派なもんだ。気の毒だが、そろそろ訊問を始めにゃならんな――」
博士が警視をうらめしそうに睨んだので、警視は口ひげのはじを噛んで、椅子に腰を下ろした。
「なにもかも知りたいだろうな、エヴァ」と、博士はエヴァの髪をなぜながら「そうだよ。あれが、お前の母さんだった――美しい、すばらしいひとだった。あんな、やさしい婦人にわしは、かつて、会ったことはない」
「お母様がほしいわ。お母さまに会いたいわ」と、エヴァが、すすり泣いた。
「お前のためにも、必ず探し出してやるよ。横におなり、エヴァ」と、博士は、エヴァを長椅子に仰向けて寝かせると、立って、行ったり来たり歩きはじめた。
「お前が生まれたときの――あの電報は、決して忘れられん――お前の生まれた時のね。フロイドが、大自慢で打ってよこしたのだ。一九一六年――お前の祖父の――ヒュー・リースが死んだ年だ。それから二年後に、フロイドの事故が起こって、お前の母さんは、すっかり参ってしまったのだ。カーレンが」と、顔を暗くして「そのことを報らせて来たので、わしは、なにもかも放り出して、真直ぐに日本へ行った。丁度、一九一八年の末で、休戦のすぐあとだった」
エヴァは長椅子に寝たまま、天井に、母の姿を思い描いてみた。こんなときに、こんな風に思い描くなんて、変だと思った……背が高く、堂々として、灰色がかったブロンドの美しい髪をしている女《ひと》。むろん、美しくて、生まれつき、ただ片足しか大地に触れられない足を引きずっている、あわれな女《ひと》。その姿が、あざやかに目にうかぶ……
「エスターは精神病院にいた。あんな事故でフロイドが死んだので、神経をすっかりやられてしまったのだ。一時は気がふれていた。だが、やがて正常には戻った。そうなるまでに、エスターには、何か変化がおこったのだ。何か、致命的なものが失われたらしいが――それが何か、わしには分からない」
「あのひとは、事故のことを覚えていますか」と、エラリーが訊いた。
「そのこと以外は何も考えられなかったのだろう。思うに、自分が夫フロイドを殺したという恐怖心が、一生、エスターにつきまとっていたのだろう。エスターは感受性の強い女で、神経がきわめてデリケートで――当時は、非常に有望な詩人とされていた」
「しかし、なぜそういつまでも、ひとつことにこだわっていたのでしょうね、博士。あのひとは、本当に罪の意識を持っていたんじゃありませんか」
「わしは、自分の手で調べてみたんだ! 全くの事故だった。しかし、わしの手の及ばん何ものかが、エスターの心中にあったのだな。それが何か、わしには分からんが、それが、エスターの心をつかまえて、放さなかったのだ」
「と、おっしゃるのは?」
「わしには、どうしてやることもできなかった。まるで――そう、まるで、別の敵意をもった力が、外から働きかけて、あの女を傷つけ、回復をおくらせ、休息させないようにしていたと言ってもいいようだ」
かわいそうな、お母さま、と、エヴァは思った。本当にかわいそうな、お母さま。エヴァはいつも、母親のいる友達を、ひそかに羨んでいた。たとえ、安っぽい、むなしい、ろくでもない母親だとしても。母親というものは、みんな、娘たちに何か貴重に思えるものを与え、それが、当人たちの安っぽさや、むなしさや、ろくでもなさを帳消してしまうものだ……エヴァの目に、また涙があふれた。いま、やっとお母さまを取りもどそうとしているのに――なんということだろう。醜聞、逮捕、おそらくは――
「わしは、出来るだけ長く日本に滞在した。カーレンが――力になってくれた。父親の死んだ今では、自活の道も考えなければならないし、その上、エスターの面倒も見なければならないと、カーレンが言った。エスターには人生の目的がなかった。だれかが世話をしてやらなければならないし、ほとんど、自分の子も育てられない状態だった。その当時すでに」と、博士は、こぶしを握りまわしながら、大声で「カーレンは、悪魔のような陰謀を、胸にたくらんでいたにちがいないんだ!」と、声を沈めて「だが、そんなことが、わしに分かるはずがないじゃないか」
警視は落ちつかぬげに、もじもじしていた。気がつくと、モレルは、どさくさまぎれに、逃げ出してしまっていた。何ひとつ、うまく行っとらん、と、警視は思って、唇をかみしめた。
マクルア博士が、エヴァに、やさしく言った。
「わしがお前を連れて帰って、養女にするようにと、すすめたのは、カーレンなのだよ、エヴァ。お前はまだ三歳《みっつ》にもなっていないで、長い巻き毛をした、やせっぽちな小さな子だった。むろん、お前は何も覚えていないだろう。ともかく、わしはそうすることにした。法律的にきちんとするには、エスターの署名をもらわなければならなかった。驚いたことに、エスターは署名をくれて、お前をあきらめるとさえ、言ってくれたのだ。それで、わしは、お前を連れて帰国した」と、ひと息入れて「それが、こんなことになって」
それがこんなことになって、と、エヴァは、天井を見つめた。はじめて、事件のはずかしさが、エヴァの心身に燃えひろがった。人殺しエヴァ・マクルア! その母親も……世間は遺伝だというだろう。殺人と復讐の血が流れているのだ、エスターの血が、エヴァに受けつがれてと。どうして世間に顔向け出来よう。どうして、ディックに顔向け出来よう。
エヴァは、ゆっくりと頭をまわしてみた。ディックは警視の部屋のドアのわきに立って、足ぶみをするようにもじもじと身を動かしながら、まるで、口の中のにがいものを呑みこもうと努めているような顔付きをしていた。エヴァは突然、自分の婚約者が何もしてくれなかった、何ひとつしてくれなかったことに気付いた。そのディックは、終始、黙りこんで、しょんぼりしていた。ただ、自分の逃げることだけを考えていた。
「ディック、なぜ家に帰らないの。お仕事があるんでしょう――病院のことが」
エヴァは、以前、麻酔をかけたモルモットがもがき苦しむのを観察しているマクルア博士を見たことがあるが、今、そのときと同じような気持で、ディックを見詰めていた。
だが、ディックはぎこちない口調で「エヴァ、ばかをいうもんじゃない。けしからん罪をかぶせられようとしてるんじゃないか――」と、エヴァのきわに戻って来て、身をかがめてキスした。エヴァの頬にふれたディックの唇は冷やりとした。
それが、こんなことになって、と、エヴァは思った。いまあたしは、解剖台の上の動物のように、手足をのばして、のびて、男たちの目にさらされているんだわ。……エヴァは、いきなり身を起こして、足をぶらぶらさせて床をこつこつやりながら「あたしをおどかそうとしても駄目よ」と、黙り込んでいる警視に、食ってかかるように「おじけずいた子供みたいにしていましたけど、あたしをおどかすことは出来ませんよ。あたしは、カーレン・リースを殺しやしないわ。母さまが生きていらっしゃったことさえ、知らなかったんですもの。だれが、母さまなのかさえ知らなかったのよ。あたしは、あなたに、指紋やハンカチについて、充分納得のいくように説明したじゃありませんか。それなのに、なぜ、あなたは公平に判断なさらないの?」
「でかしたぜ、ねんねちゃん」と、テリー・リングが、にやにやしながら「ひひおやじに、間違ってる所を、教えてやんな」
「それに、あなたは」と、テリーに向かってエヴァが、さげずむように「母さまの居所を知っているなら、なぜ教えて下さらないの? 母さまのところへ、すぐ連れてって下さい」
テリーが目をぱちくりして「まあ、ききなよ、ねんねちゃん。がみがみ言いなさんな。おれは、はっきり知ってるたあ言わなかったぜ。ただね――」
「なぜ、このひとにそれを言わせないの?」と、エヴァが警視に「あなたは、女子供をおびえ上がらせるのは、お上手ですけど、男の前に出ると――」
テリーが、エヴァの腕をつかんで「よしなよ、ねんねちゃん――」
エヴァは、その手を振り払って、老警視を睨みながら「母さまを、早く探して頂戴。どんな目にあうかわかりませんわ――九年間も屋根裏部屋にとじこめられて暮していたひとが、生まれてはじめて、ぽつんと、ニューヨークに放り出されたんですもの!」
警視が速記係りに合図して「もうよろしい、マッシー」と、ため息をして「トマス・ヴェリーに来るように言ってくれ。この女を拘置したい」
エヴァはほっとして、段々に落ちついて来た。そして、きわめてゆっくりと、あたりを見まわした――マクルア博士は、行ったり来たりしつづけている。窓のそばで、指先をなめながら、空ばかり見上げているスコット医師――あれは誰かしら?――エヴァは一度も見たことのないひとのような気がした。次から次へと、シガレットをすいながら、ひどく沈痛な顔をしているテリー・リング。エラリー・クイーンは身動きもせずにぼんやりと、警視の机の上の、めのうの彫像を見つめていた。
速記係りが、「はい」と言って立ち上った。
だが、その男がドアまでいかないうちに、ドアが外から勢いよく開いて、背の高い、ひょろ長い、あごの黒ずんだ男が、のっそりとはいって来た。古風な山高帽をかぶり、安葉巻を、くゆらしていた。
「おお、客だね」と、ニューヨーク郡医務検査官補サムエル・プラウティは、困った顔で「やあ、クイーン。ああ、マクルア博士、どうも、とんだことで――なあ、警視、君に悪いニュースを持って来たぜ」
「わるいニュースだと?」と、警視が。
「例のあの、はさみの片刃さ――君の机に納まってる、そいつさ」
「うん、うん」
「そりゃ、カーレンをやった兇器じゃない」
テリー・リングが、|しん《ヽヽ》とした中でつぶやくように「ほう、どんなことが分かったんだね」
「君は、このおやじを、からかっとるんじゃあるまいな。ええ、どうんなんだ、サム」と、警視が微笑《ほほえ》もうとつとめながら訊いた。
「たしかな話さ」と、プラウティが、じりじりしながら「おいおい俺は、死体置き場へ二十分ばかりで駆けもどらなければならんのだ。ここで冗談いっとるひまはないんだ。だが、火曜日に出した最初の検死報告書のことがあるから、あんたに説明する義務があると思ってね」
テリー・リングがプラウティ医師に近より、ぐんにゃりした手を握りしめながら「海兵隊上陸だ!」と言ってから、エヴァの方へ行き、くすくす笑いながら、長椅子につれて行って「坐んな、ねんねちゃん。さあ、あんたの見せ場だぜ」
困惑しながら、エヴァは腰を下ろした。生まれてからこんなに緊張したことがないので、副腎がどうかしてしまったと、ぼんやり感じた。しかも、何が何やら、さっぱりだった。はさみの片刃……指紋……
「悪かった」と、プラウティが「忙しかったもんで、検死をひとに任せた――そりゃ、まあいい。そいつが、若造であまり経験がなかったもんでね。それに、分かり切った仕事で、大したこともあるまいと思ってたんだ。死因に疑問があるようにも見えなかったのでね」
エラリーが駆けよって、プラウティの服の襟をひっつかみ「つべこべ言ってると、しめ殺すぞ、プラウティ。あの、はさみが凶器でなかったら、なんで殺《や》ったんだ?」
「別のものさ……そうせき立てないでくれ――」
エラリーが警視の机をどんとたたいて「まさか、最初の小さい傷口を消すために――わざとナイフで、傷口を大きくしたとでも言うんじゃあるまいね」
不精ひげを剃る必要がある黒ずんだプラウティのあごが、呆れてだらりとたれた。
「なんたることだ。全く思いがけなかったよ……何か言うことはないのか、プラウティ。毒でも認められたのか」
「毒?」と、プラウティ医師が、ぼんやりとくりかえした。
「昨日のことだ。事件のことをいろいろ考えていて――妙な角度にぶつかった。それで、キヌメに思い当ったんだ」と、エラリーは興奮して「あの日本女は琉球から来たと、春に、カーレン・リースが話していたのを思い出した。僕は、すぐに『ブリタニカ』で調べてみると――まったく、虫のしらせだね――琉球列島の大部分、ことに奄美《あまみ》大島という所は、ハブというおそろしい毒蛇がはびこっているそうだ」
「ハ――なんだって?」と、プラウティが、目をむいて、訊いた。
「トリメレスラス――たしか、そう言ったと思う。尾はガラガラ鳴らす、頭部が鱗状《うろこじょう》で、長さは六、七フィートに達し、咬まれると即死する」と、エラリーは深く息を吸いこみ「あの傷口の底に、毒蛇の牙のあとでもあったのか、プラウティ」
プラウティは唇にぶらさげていた葉巻をとって「いったい、どうしたんだね、クイーン――エラリーは気がふれたのかい」
エラリーの微笑が消えて「すると、蛇じゃなかったのか」
「そうさ」
「だが、どうも――」と、エラリーが力なくいいかけた。
「いったいだれが、わざわざ、ナイフで切って、その下の小さい傷口をかくすなんてことを、言い出したんだね」
「でも、僕が君に訊ねたときに――」
プラウティは両手をふり上げて「おい、クイーン君、マティーワン〔精神病囚人の病院所在地〕にひとりたのむと、電話をかけてから、例のはさみの片われを出し給え」
警視が、引き出しから、綿にくるんだ、はさみの片刃をとり出すと、プラウティが、包みをほどいて「ふーん。やっぱり思った通りだ」と、それを机の上に放り出して、ポケットから小さな名刺箱を出した。中にはラシャを敷き、その上に、宝石のように、鋭い三角形の、小さな鋼鉄の細片が光っていた。
「今日の午後、カーレンの、のどから、僕の手で掘じくり出したんだ。助手が、火曜日に見落してたんでね」と、箱を警視に手渡すと、一同が、よりたかった。
「こりゃ、はさみの、刃の先だな」と、老警視が、ゆっくり言った。「衝撃でポキリといったんだな、こっちの、かたわれの先は」と、机の上の、はさみの片刃をちらりと見て――「ちゃんとしとる」
「たしかに、同じ型のものの先端だな」と、テリーが、つぶやくように言った。
「どうかね、エル」
「疑問の余地なしですね。こいつは、紛失したもう一方の片刃の先っぽですよ」
「すると、君の言う通りだな、サム」と、老警視が、ゆううつそうに「こっちの片刃は、カーレンをやった兇器じゃない。そっちの奴だ」
「しめた! ねんねちゃん」と、テリーがエヴァに駆けよって「今夜は、自分の寝床にもぐり込めるんだぜ」
「別の片刃は、見つかったかね」と、プラウティが、戸口に行きながら訊いた。
「まだだ」
「そうですか、ともかく、僕の首は噛み切らんで下さいよ」と、プラウティが、あごを掻きながら「そうそう――マクルア先生。僕の事務所では、いつも、こんなへまをやっとると思わんで下さいね。新米にやらせたもんで、どうもね――」
マクルア博士が放心の体で手を振った。
「ところで」と、エラリーが「何か他の発見があったかい、プラウティ。僕は、まだ、報告書を見てないんだ」
「おお、大したことはないね。冠状《かんじょう》動脈|血栓《けっせん》、先生は、ご存知でしょう。あの女の主治医だと思いますが」
「そうだろうとは、思っていた」と、博士がつぶやいた。
「冠状動脈血栓だって」と、エラリーが引きとって「男性だけの、心臓病の一種だと思ってた」「普通は男に多いが」と、プラウティが「女にも多いんだ。カーレン・リースには、立派な血栓が出来ててね。それで、あんなに早く死んだのさ」
「早くって。あのひとは、少なくとも、十五分は持ちこたえてたぜ」
「普通、のどの障害では数時間生きてるもんだ。出血死は時間がかかる。だが、血栓がある場合は、ときには数分間で死ぬ」
「ほかに、何か」
「大して面白いものはないな。貧血症――胃弱。だが、それは、それだけのものさ。うちの若いものが失策をやらかしたあと、僕が自分で、すっかり検死のやり直しをしたんだ……さあ、そろそろ行かなくっちゃ。失礼します、博士」と、プラウティは姿を消した。
「カーレンには血栓のことは一度も言わなかった」と、マクルア博士が、ため息をついて「心配させるだけだし、重病でもなかったしね。あれのような生活をしておれば――過激な運動もせず、興奮するようなこともなく、充分用心していた――まだあと長年、なんの危険もなく生きられたはずだ」
「あのひとは」と、エラリーが「どうも、憂鬱病のように見えましたがね」
「ほかの医者にかかったことがない――理想的な患者だった」と、博士が重い口で「わしの指示や忠告を文字通り守っておった。あれも、まだまだ長く生きられると思っとっただろうに」と、打ち沈んで言った。
「話はちがいますが、あのひとは、どんな結婚生活をするつもりだったのでしょうね。結婚後、姉のエスターさんのことを、どうやって、ごまかし切るつもりだったのか、僕にはてんで見当もつきませんから、その点に、ひどく興味がありますよ」
「あれは『現代的』な結婚を望んでおった。別居生活、別々の仕事を持って、名前もそのままにしておくなど――すべて、そんな風にするつもりだった。それを聞かされた当時は、ルーシー・ストーナー風の気まぐれだと思っておったが、今になってみれば――」と、マクルア博士は顔をしかめて「その理由が分かった。そういう形にしておけば、ごまかしが続けられるからな」と、突然、声を高くして「女が男をだます手ぎわには、まったく呆れる」
いいえ、男が女をだますのも、そうよ、とエヴァは思った。エヴァが落ちついて「さあ、ディック、診療所へお帰りになった方がよくはない。今日はもう、なにも心配ごとはございませんでしょう――ねえ、警視さま」
警視はゆっくりと逮捕状をとり上げて、半分に裂き「すまんことをした」と、言った。しかし、それほど、すまなそうな口ぶりではなかった。むっとした口ぶりだった。
「じゃあ、僕は」と、スコット医師が気まずそうに「僕は、引き上げさせてもらうよ、エヴァ……今夜、訪ねて行くよ」
「ええ」と、エヴァは答えたが、スコット医師がまたキスしようと、うつむきかけたとき、顔をそむけた。スコット医師は、少し、ばつが悪そうに微笑しながら、からだを真直ぐにしたが、その唇のあたりが白けていた。そして、あいさつもせずに出て行った。
「あなた方も、お引き取りになって結構だが」と、警視が「おお、いや、ちょっと待って下さいよ。お嬢さん、あんたは、ひょっとして、月曜日の午後に、このはさみの、もう一方のかたわれを、あの辺で見かけなかったですかな」
「いいえ、警視さま」と、エヴァは、警視の言葉などほとんど耳に入れていなかった。左手の薬指にはめた二カラットの角型のダイヤが、指に灼きつくように感じられた。
「君はどうかね、リング」
「おれ」と、テリーが「見なかったね」
「今、思えば、月曜日に、お前を放してやったときに、お前の片方のポケットに、はいっとったのかもしれんな」と、老警視が、苦々しげに「いい教訓だった、二度とこんなことは――」と、いいかけたが、最後まで言うひまはなかった。
「行こう、行こう、エヴァさん」と、テリーが、にやにやしながら、エヴァの腕をとって「早く出てうせないと、このおいぼれ野豚が、面《つら》の皮をはいだって、あんたをひっくくるかもしれないぜ」
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十八
「腹がへったな」と、みんなが、センター・ストリートの警察本部の前の歩道に出たときに、テリー・リングが言った。テリーは張り切っていた。
「さあ、みんなをファンの店に案内するぜ。卵焼きのめっぽう上手なチャンコロがいるんだ」
「あたし、どこへでも行くわ」と、エヴァが言った。エヴァは、たとえニューヨークででも、自由な空気が、いかにおいしいものであるかを、かつて知らなかったかのように、めったにないほどの楽しさで、深く深く、息を吸った。
「どうするね、先生」
「そんなものは食えんな」と、マクルア博士は気もなさそうに言った。
「じゃあ、どっか、他へ行こうか――」
「いや」と、博士はエヴァにキスして「羽根をのばしておいで、エヴァ。一切忘れてしまうんだ。いいね、分かったね」
「ええ」と、エヴァは答えたが、自分には決して忘れられないし、父にもそれが、分かっているなと、思った。
「ねえ、いっしょに、いらっしゃいよ、お父さま。行きましょうよ――」
「わしには散歩が、からだにいい」と、ちょっと、ひと息入れてから急に「わしに気がねせんでいいよ、エヴァ」と、言うと、すたすたと町を歩き出した。残った連中は、黙って、博士の背の高い肥えた姿が、次の区画《ブロック》にある警察学校の方へ遠ざかっていくのを見送っていた。
「気のきいた旦那だ」と、テリーが言って「クイーン、君はどうだい。どこか、行くところがあるんだろう。ひどく疲れてる面だぞ」
「僕も何か食べたいよ」と、エラリーが答えた。
テリーは、ちょっと、がっかりという顔をしたが、すぐに「おーい、タクシー」と呼んだ。エヴァは、なんとなく微笑がこみ上げるのを感じた。
テリーは、チャイナ・タウンまでの、短いがたがた旅のあいだ、ひっきりなしにしゃべりつづけ、運転手に札《さつ》で払って「釣銭はとっときな、兄貴」と、気前をみせ、みんなを案内して、狭いペル街の歩道を渡り、あなぐらの入口みたいなところへ連れて行った。
「店の見てくれなんぞ気にしなさんな。本物のマッコイ〔一流料理屋〕だぜ。チャンコロたちは、みんなここへ来るんだ。よう、ファン」頬のだだっぴろい中国人が微笑んで、ぺこりと頭を下げた。地下料理店は空《す》いていて、黒い帽子をかぶった三人の年とった東洋人が、ビールびんから、米の酒をついで、飲んでいるだけだった。
「いいよ、ファン。自分でテーブルをきめらあ。油虫が近よらない奴をな」
テリーは、みんなを隅のテーブルに案内し、やさしく、エヴァに椅子のサービスをしてやり「油虫ってのは冗談だぜ」と、言った。エヴァは、また、ほほえんだ。
「壁は毒々しく緑《あお》くて汚れてるが、調理場ときたら、ぴかぴかだぜ。見てみるかい」
「いいえ、結構よ」
「それ、それ! 口のそばの笑くぼ、そいつを、もっと人に見せなくっちゃいけねえや。おい、クイーン。元気出せよ。まだ、蛇が目にちらついてるのかい」と、テリーがくすくす笑った。
「うるさいな」と、エラリーがいらだって「いったい、こんな所で、何を食べさせるつもりなんだね」
「そいつあ、まかしといてもらおう。おい、ウェイ」腰にエプロンをまきつけ、ネクタイなしの中国ボーイが、ちょこちょこと駆けて来た。
「うまい、ワンタンと卵焼き、三人前。えびのチャプスイ。シューマイ、広東《かんとん》式のやつ。めしつけて。酒と茶だ。大急ぎでな」
「とても、沢山あるようね」と、エヴァが「あたし、シューマイとお茶を、ちょっといただけばいいのよ」
「おれのすすめるものを、食べなさい」と、テリーが笑いながら、無造作に、肩ごしに帽子をほうって、奇蹟みたいに、壁の釘にかけた。
「暑ければ、上着を脱げよ、クイーン。この店は、かまわないんだぜ」
「お嬢さんが、いらっしゃるじゃないか」
「おお、かまいませんわ」
「よう、別ぴんさん。もう大丈夫かい。気分は直ったかい」
「あなたって、ろくろく、ものを感じてるひまもくれないのね」と、エヴァが「あたしのお母さまは、どこにいますの、テリー」
テリーが目をそらした。調理場の、はね扉から、ボーイのウェイが出て来た。アトラス〔地球を背負う巨人〕のように、とほうもない大皿を支えていた。
「分からないね」
「でも、あなた、言ったでしょう――」
「言ったことは言ったが」と、テリーはからだを振り向けて、エヴァの手をとり、何気《なにげ》ないように指をつまみながら「かなり気がきいてただろう、あいつは。あそこで、何か言わなきゃならなかったのさ、ねんねちゃん。ああいえば、おじいちゃんがひっかかるだろうと思ったのさ。口から出まかせさ、それだけのことよ」
「じゃあ、本当に知らないの!」と、エヴァが叫ぶように「だれも何も知ってないのね」
「落ち着いてくれよ、エヴァ。くよくよしなさんな。あんたのおやじさんが、そう言ってたじゃないか。あのひとの言う通りさ。忘れるんだよ。いまに、洗いざらい、みんな分かってくれるからさ」
ウェイが来て、ガチャガチャいわせながら三人の前に、大きな丼をならべて「ワンタン」と、言うと、よちよちと去って行った。
それは澄んだ中国風のスープで、生パンのようなかたまりがいくつも浮かび、厚い豚肉の切れが、川を流れる木《こ》っ端《ぱ》のようにはいっていた。おいしそうに湯気をたてていた。「おお」と、テリーは、もみ手をしながら「さあ、ねんねちゃん、皿をお出し、こいつあ、中国風ニッシュっていう奴さ。知ってるかい。おれは新聞売り子をしてたころ、チェリー街で、片腕のフィンケルステーンおやじから、ニッシュをよく買ったもんさ。あいつ、小っぽけな手押車を押して来てね――」
エラリーは、テリーが休みなくまくし立てて、エヴァに考えるひまを与えまいとし、笑わせよう、しゃべらせようとしているのを聞いていると、何もかも、ひどくばからしく見えてくるのだった。エラリーはスープに手をつけながら、一見快活そうで無教養を粧《よそお》ってはいるが、このテレンス・リング氏、なかなか神経のこまかい青年だなと、ふと思った。本当は何を考えているか、分かったものじゃないと気をひきしめた。
「おいしいなこのスープ、と、エラリーが「ところで、自叙伝の邪魔をしてすまないが、どうも君は、暗闇でひとりでほくそ笑んでるようなところが、あるようだね」
「なんだ、まだいたのか」と、テリーがいまいましそうに言った。
「これからどうすればいいの」と、エヴァが心配そうに「クイーンさんのおっしゃる通りよ。ごまかしたって駄目よ」
「この卵焼きを食べるのさ」と、テリーが。
「ご親切ね、テリーさん。でも、駄目よ。あたしは、この泥沼に、耳まで、はまり込んでるのよ。しかも、あなたが、それを一番よく知ってるでしょう」
テリーがエラリーを見つめて「なあ、君はおやじさんのやり口を千万ご承知だろう。これから、君のおやじさんは、どんな手を打つと思う?」
「紛失した、はさみの片われを捜すだろうね。エヴァさん、あなたは本当に、あれを、どこでも見かけなかったのですか」
「え! 本当よ」
「あすこにはなかったぜ」と、テリーがきっぱり「殺《や》った奴が持ってったんだろ。おやじさんも、そのことは知ってるさ。なにしろ、手下《てか》の連中が、あの建物を、電気掃除機で、すっかり調べたんだからな。地下室も庭も、家の内外も――」
エラリーが首を振って「僕にも何か案があればいいんだがね。お手上げさ――てんで見当もつかないんだ。見かけは、いかにも手がかりがありそうでいて、実際は、てんでつかみどころがない、こんな事件は、はじめてだよ」
「ひとつ、うれしいことがありますわ」と、エヴァが、卵焼きをつつきながら「お母さまには、とうてい――あれをやれるはずがなかったことよ。あのドアがカーレンの寝室の内側から閂が差してあったんですものね」
「そうですね、ともかく、少し息抜きができるってもんですよ。おやじが、あの寝室のドアの一件を見つけない限り、僕らは大丈夫ですよ」と、エラリーが言った。
「まさか、見つけることはあるまい。おれたちのうちの誰かが、しゃべらなけりゃね」と、テリーが、むずかしい顔で「しゃべりそうな奴が、ひとりいるがね」
「だれでしょう」と、いいかけて、エヴァは、テリーの当てこすりが分かると、顔を赤らめた。
「あんたに、そのダイヤモンドをくれた奴さ。スコットさ。あんな男にほれるなんてね。まあ、このチャプスイをやってごらん」
「ディックのことを、そんな風に言ってほしくないわ。あのひと、うろたえていたんだわ――無理もないでしょ。婚約者が殺人罪で逮捕されるせとぎわですもの、あのひとだって辛い立場よ」
「だって、あんたも楽な立場じゃないだろ。えっ。いいかい、ねんねちゃん。あいつは、ちゃちな野郎さ。くびにしちまいなよ」
「おねがいよ、もうやめて!」
「とんだ濡れ場に割り込んですまないが」とエラリーが、えびの片われをつまもうと散々空しい苦労をした箸を置いて、フォークに手をのばしながら「ちょいと思いついたことがあるんだ」
ふたりが口をそろえて「何?」
エラリーは紙ナプキンを口に当てて「エヴァさん、テリー君が、あの寝室のドアに近よって、閂のさしてあるのを発見したとき、あなたは、どこに立っていましたか――つまり、あの屋根裏部屋へ通じるドアのことですよ」
テリーが目をむいて「そんなこと、大したこっちゃなかろう」
「大したことかもしれないぜ。どうですか、エヴァさん」
エヴァは、エラリーを見守っていた目をテリーに移し、またもどして「あたし、カーレンの机にもたれていたと思いますわ。テリーさんを見守りながら。でも、なぜですの?」
「その通りだぜ」と、テリーが「それがどうした?」
「テリーが屋根裏部屋へ通じるドアへ行く前に、閂を見ましたか」
「いいえ。日本屏風のかげになっていましたから。あたしが、ドアのありかを教え、テリーさんが屏風をわきへ移しました」
「すると、ドアは、テリーのからだにふさがれていたわけですね。テリーがどくまで、あなたには、閂が見えなかったでしょう?」
「あのとき、あたしは閂を全然見ませんでしたわ。テリーさんが、そう言っただけよ――」
「おい、ちょっと待った」と、テリーが「いったい、どういうこんたんなんだ、クイーン」
エラリーが椅子の背に、ゆったりと身をもたせて「いいかい、僕はそう安々と、不可能ということを、のみこめないたちでね。慢性不信心ものなんだ、テリー」
「まわりくどい言い方はよせよ」
「ここに、事実から判断すれば、ただひとつの解答しかあり得ない状況があるわけだ。カーレン・リースの寝室には、仮定的に、出口が三つあった。ひとつは窓だ――しかし窓には鉄格子がはまっていた。ひとつは屋根裏部屋へ通じるドアだ――けれども、そいつは寝室の内側から閂がさしてあった。三つ目は居間だ――しかし、エヴァさんは、誰も居間を通り抜けたものはいないと言っているし、ただの一秒もそこを離れなかった。すると解答は、エヴァさんが叔母を殺したということになる。エヴァさんが殺人を犯し得たただひとりの人間ということになる。つまり、基本的事実なるものが、本当に真実ならね」
「ところが、この女《ひと》が殺《や》ったんじゃない」と、テリーが、くってかかるように「で、どうなる?」
「せくなよ。むろん、僕はエヴァさんが無実だという推定の上で論じてるんだ」
「ありがたいわね」と、エヴァが皮肉に言った。
「そこで、僕らの握ってる事実はどうか。窓は――自分でたしかめた事実だが――あれは絶対に、出口として使われたはずはない。居間は――エヴァさんを無実だと推定すれば――事実、われわれはそう信じているが――エヴァさんの、だれも通り抜けた者はいないと言う言葉も、また真実を言っているものと、推定せざるを得ないわけだ。したがって、残るのは、屋根裏部屋に通じる閂のさしてあったドアだけということになる」と、エラリーが起き直って「しかも妙なことには、テリー、ドアに閂がさしてあったという証拠は、確認できていないんだ」
「お前の言うことは、さっぱり分からんぜ」と、テリーがゆっくり言った。
「たしかに分かってるはずだよ。エヴァさんが寝室にはいって、叔母さんが死にかけているのを見付けたとき、あのドアに閂がさしてあることが、どうして君に分かったんだ? エヴァさんが見たとでもいうのかい。駄目だよ、屏風のかげになってたもの。そこへ君があらわれ、やがて屏風をはねのけて、ドアに閂が差してあると言った。その時、エヴァさんが閂を見たかね。見なかったさ。そのすぐあと、エヴァさんは失心したのだ。むろん、正気にもどってから、エヴァさんはたしかに閂を見た――君は、閂が、きつくて動かないようなふりをしながら、こじあけようと閂と組み打ちをはじめた――だが、それは、エヴァさんが、しばらく失心していたあとでのことだ」
「おい、だれをからかってるつもりなんだ」と、テリーが、また顔をマホガニー色にしながら「この娘《こ》は、ほんの一、二秒、気を失ってただけだぞ。それに、あの閂は、本当にきつかったんだ」
「君がそう言うから」と、エラリーが低い声で「そう受けとっているだけさ」
エヴァは、凍りつくような不審の念にかられて、褐色の男を、今さらのように見つめた。テリーは、ひどく怒って、いまにもエラリーに、とびかかりそうに見えた。しかし、テリーは自制して、のどにつまるような声で「いいとも、いちおう、議論のために、おれがこの娘《こ》に罪をかぶせたとしとこう。おれが見たとき、あのドアには閂は差してなかったが、差してあるように思いこませようとしたのだとしとこう。だが、なぜなんだ。どんな大それた考えがあって、おれが、そんなことをしたというんだ」
エラリーはシューマイにフォークをさして口に放り込み「もし、あのドアに全然閂がさしてなかったのなら、事態は不可能ではない。僕の仮説に、有利な点を加えることになるよ。つまり、誰かが屋根裏部屋を通って忍び込み、カーレンを殺して、同じ道を使って逃げたということもあり得るからね」
「だが、なぜおれが閂のことで、うそをつかなきゃならんのだい」
「かりにだよ」と、エラリーはシューマイをもぐもぐやりながら「かりに、君がカーレン・リースを刺したとしたらさ」
「ばかな――気でも狂ったか」と、テリーが叫んだ。
亭主のファンが、両手をもみながら、駆けよって「ティさん。どならないで下さい。さわがないで下さいよ。やめて下さいよ」
「この野郎!」と、テリーが「おれがやっただと。まさか、手前《てめ》え――」と、わめいた。
「まあ、まあ、テリー、君は静かにものを考えてみるという精神をもっていないのか。僕はただ『仮定』しての話をしているんじゃないか。落付いて仮定を進めることが出来ないのかい。もしも、屋根裏部屋に通じるあのドアが、実際は、ずっと開《あ》いていたものとすると、君こそ、屋根裏部屋の通路を使って忍び込み、エヴァさんが居間で待っている間に、カーレン・リースを刺し殺し、また屋根裏部屋を通って脱出して、今度は寝室の内側からドアに閂をかけるために、堂々と邸の玄関を通ってもどって来ることの出来た人物じゃないか」
「だが、なぜ、ドアに閂をかけに引っ返すんだ?」
「おお、そりゃ簡単至極さ。エヴァさんに罪をひっかぶらせるためさ。エヴァさんを唯一可能な犯人に仕立てるためさ」
「ばかいうな」と、テリーが、あざ笑って「頭がどうかしたんじゃないのか。おれが、もし、閂が穴にささってるとみせかけるつもりなら、なんでまた、わざわざ戻って来て、この娘《こ》を救うために、閂を穴から抜いたりなんかしたんだ?」
「そうよ」と、エヴァが息をつまらせながら「筋が通りませんわ、クイーンさま」
「そこのところが実は僕にもよく分からないんです」と、エラリーが「うん、これはまったくのたわごとですがね――そうだな、テリー、君が一度罠にかけた犠牲者を、後で罠からはずしてやったのは、世界中で最も簡単な理由によるのじゃないか。三文小説によくある理由さ。あつあつのロマンスさ。甘ったるくてオセンチでさ。しかも偉大なる即興的な熱情という奴さ。君が、エヴァさんに惚れちまったのさ。ひと目惚れという奴でね。ウェイ、このひどい酒を、もう少し酌してくれないか」
エヴァは桜ん坊色になって、フォークをいじっていた。恋する。そんなばかげた話ってあるものかしら……あんなに、うぬぼれが強くて、大きくて、力が強くて、人を人とも思わない、自信まんまんなテリーが、恋するなんて。テリー・リングは決してひと目惚れをするような男ではないわ。絶対にちがうわ。このひとは、いつも落ちつき払っていて、用心深くて、警戒心が強くて、どんなときにも理性を失わない人だわ……エヴァは、ちらっと横目で見て、驚いた。テリーは、目を皿に釘づけにして、獅子奮迅《ししふんじん》の勢いで箸をあやつり、気違いのように料理をむさぼり食いながら、小さな、愛らしい褐色の耳を選挙の晩の赤い花火のようにまっ赤にもえ上らせていた。
「どうだね」と、エラリーが、ため息をして、さかずきを下に置き「どんなことにも、理由があるもんだよ」
「もう言うな」と、テリーが、かみつくように「おれはあの女を殺《や》りゃしないし、閂は穴にささってた。それに、おれは、どんな女にも惚れやしない。分かったか」
「まあ、そんなにいきり立つなよ」と、エラリーが立ち上りながら「それじゃ、若い淑女に対して失礼だよ。ちょっと失礼する。ウェイ、電話はどこだね、あるかい」
ウェイが身ぶりで、どうぞと示すと、エラリーは、ゆっくりアーチ型の廊下を歩いて、ファンの店の別室へ消えた。テリーとエヴァは黙って食べていた。テリーは中国人のように、がつがつとやり、エヴァは上品に、いかにもおいしそうに食べた。黒い帽子をかぶった三人の中国の老人は、ふたりの方をちらちら見ていたが、突然、お国言葉でぺらぺらしゃべり始めた。広東語が少し分かるテリーは、それを聞くと、ますます耳がかっかと燃えるように感じた。連中の話しているのは、あの褐色の白人は、お相手のかわいい花が気に入らないで、あんなに腹をたてているらしいが、鼻についた女をがまんするよりは「八つ裂きの刑」をがまんする方がいいじゃないか、と、いうことらしかった。
「あのねえ」と、いきなりエヴァが「あたしたち、ふたりっきりになるの、これが初めてね。あたしの言うのは――月曜日からのことよ」
「そのめしをくれよ」と、テリーは、シューマイをほおばりつづけた。
「あたしまだ、本当にお礼もいっていなかったわ。あんなに親切にしていただいたのにね、テリーさん。クイーンさんの言ったことなど、気にしなくていいのよ。ただ、自分ひとりで面白がってるんだと思うわ。あんな、ばかげたお話って――」
「なにが、ばかげてるんだね」と、テリーは、箸を投げ出した。
エヴァは、また、赤くなって「つまり、恋だの愛だのなんて、いいかげんなお話ばかり。あなたがなぜ、あたしを助けてくださったのか、あたしにはよく分かってるわ。あなたは、あたしを、かわいそうだとお思いになって――」
テリーが、ごくりと息をのんで「聞いてくれよ、ねんねちゃん。あいつの言う通りなんだ」と、エヴァの手をとって「女に参るなんて、情けない話さ。おれにゃ、女は毒なんだ。だが、あんたにゃあ夢中になっちまった。夜もろくろくねむれないし、ものごとが手につかない始末さ。いつも、あんたが目にちらついてね」
「テリー」と、エヴァは手をいきなりひっこめて、あたりを見まわした。三人の中国老紳士たちが、けげんそうに首を振っていた。白人のやることは、連中にとってはいつだって謎だった。
「とにかく、おれは、あんたみたいな娘《こ》に惚れるなんて、夢にも思わなかったぜ。太った娘《こ》が好きなんでね。つまり――そのう――押し出しのいい奴がね。あんたは、ひどく、やせっぽちだからな――」
「ちがうわよ」と、エヴァが叫ぶように「あたしだって――」
「まあ、言ってみりゃあ、やせっぽちってのは当らないな」と、テリーがしかつめらしくエヴァを眺めながら「それにしても、もっと太らなきゃ駄目だぜ。それから、鼻がいいぜ。そっくり返ってるってやつだ。マーナ・ロイ〔映画女優〕そっくりだ。それに、その笑《え》くぼだ」と、眉をよせて「なんて素敵な笑くぼなんだ」
エヴァは笑い出したくなったり、泣き出したくなった。この頃は、本当に、思いがけないことばっかりだわ。まさが、テリー・リングが、この大きくて無骨な男が……と、思って、とたんに、はずかしくなった。あら、こんなことを思っちゃ悪いわ。このひとは、誠実で、胸がわくわくするような人だわ。次には何をしでかすか、何を言い出すか、まるで見当もつかないようなひとなんだわ。こんなひとと一緒に暮したら、さぞ……だが、エヴァは、ぴたりと自分を押えた。あまりにもこっけいだ。このひとのことをろくに知りもしないのに。おまけに、あたしは他のひとと婚約しているのに。
「あんたから見りゃ、おれなんか、片輪か、脂肪のかたまりみたいなもんだろうさ」と、テリーが低い声で「ききかじりの耳学問だけで、往来そだちだから作法もなにも心得ちゃいない。そのおれが、何マイルも上にいる上流の女の子に惚れちまうなんて、とんだ、厄介なめぐり合わせにぶつかったもんさ」
「そんなこと、おっしゃっても、あなたがよけい好きになりゃしませんわよ。作法だとか、教育だとか、育ちだとか――そんなものは大して意味がありゃしませんよ」と、エヴァが、にがにがしげに「カーレン・リースが、それを証明しましたわ」と、言い足した。
「そんなことを苦にしてるんじゃないんだぜ」と、テリーがうなるように「おりゃ平気さ。おれは大丈夫やってけるさ。それに、もし、ベルーガ〔高級料理屋〕で、さじの使い方を覚えたけりゃ、そんなこたあ、何でもないさ――いいかい、おれは、もっとむずかしいことを色々、おぼえて来たんだからな」
「たしかに、そうだと思うわ」と、エヴァが、ささやいた。
「あんたがひっかかってる野郎みたいな、あんなもったいぶった恰好なんざ、おれの柄じゃないんだ。たとえ愛想をつかされてもしようがないさ。あいつには、根性なんかまるでありゃしないんだ。奴にあるなァ――だだっぴろい、腑抜け根性だけだぜ」
「やめて、テリーさん」と、エヴァがやるせなげに「スコットさんのことを、そんな風に言うのは、聞きづらいわ」
「それに、奴は毛なみがいいさ。おれときたら――パン屋からロール・パンをかっさらって、夜は、波止場で寝てたんだ。なるほど、奴はどこかの気のきいた大学へ行って、M・D〔医学博士〕になって、金を持って、思うことならざるなしで、パーク・アヴェニューの阿呆どもが、みんな、あいつの尻を追っかけまわしてるって寸法さ――」
「もう、たくさんよ、テリーさん」と、エヴァが冷やかに言った。
「まあ、いいさ、なあ、ねんねちゃん、みんな忘れてくれ」と、テリーは目をこすりながら「くだらんことをしゃべっちまったらしいな。忘れてくれよ」
エヴァは、ふと、ほほえんで「あなたと仲たがいしたくないのよ、テリーさん。あなたは、とってもよくして下さったわ――だれよりもね」と、テリーの腕に手をかけて「そのこと、あたし決して忘れやしませんよ」
「ごめんなさい」と、ファンがテリーの耳のそばで「ティさん、ちょっと、こちらへ」
「ふーん、あとにしてくれ、ファン。今、忙がしいんだ」
だが、ファンは強情に「来て下さい。ティさん。こちらへ」
テリーは、うるさそうに顔をそむけたが、また、亭主の方を見てから、ネクタイをいじりながら立ち上って「ちょっと失敬するよ、エヴァさん。誰かが電話をかけて来たらしい」
テリーは中国人の後から大股でついて行き、エヴァの見送る中を、ふたりは、アーチ型の廊下をくぐって別室へ姿を消した。
エヴァはハンドバッグを開けて、コンパクトを取り出しながら、ふと、なぜエラリー・クイーンがテリー・リングと話をするのに、こんな手を使おうと考えるのだろうと、いぶかしく思った。すると、身のまわりで世界が凝結し、またひとりぼっちになったような気がした。
エヴァは、ゆっくりと口紅棒のねじをまわし、コンパクトの内ぶたを持ち上げた。すると、鏡の中に、アーチ型の廊下の向うで、ふたりの男が立って、熱心に話し合っているのが、ちらりと映った。見ると、テリーが心配そうな顔をしていた。それに、テリーは、何か小さなものを、エラリーから手渡されて、それを胸のポケットに収めていた。
謎。また謎。エヴァは口紅棒を唇に当てた――上唇にふたところ、下唇の真中にひとところ、そして、小指で紅をのばし、唇の輪郭をくまどりながら、いつになったら、こんなことがみんな終るのだろうといぶかり、胸のせまる思いがした。それから、口紅棒をしまい込むと、お白粉をつけ、鏡の中に、テリー・リングがあんなにも、ほめたたえた鼻を眺めた。そして、こっそりと――すばやく、むろん、少し後めたく感じながら――口の左側に、笑くぼをこしらえてみようとさえした。
やがて戻って来たふたりの男たちは、見えすいた緊張ぶりを隠すために、にこにこしていた。意外にも、テリーが一ドル札となにがしかの銀貨で勘定を払い、チップの五十セント銀貨をほうり出して、それを、ウェイが上手に受けとると、エヴァの腕をとり、自信たっぷりだが、おそるおそる肘をしめつけるようにしながら、ペル街へ連れ出した。
そして、エラリー・クイーン氏は、ため息をつきながら後につづいた。
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十九
金曜日の朝、テリーが夢でエヴァの腰に腕をまわして、あわや、笑くぼにキスするところを、毎朝、第二アヴェニューのアパートの掃除と、食事の世話にくる年増のラビノヴィッツ夫人にたたき起こされた。
「う? なんだい」と、テリーは、ぶつぶついいながら、起き直った。
「電話ですよ」と、ラビノヴィッツ夫人が、褐色の肩をしっかりつかんでゆすぶりながら「起きなさいよ、怠け者ったら、ありゃしない。はずかしくないの、裸で寝たりなんかして」
「分かった。分かったよ。あっちへ行け、グエンドリン」と、テリーが、どなって、毛布をはねのけ始めた。
ラビノヴィッツ夫人はきゃっと叫び、くすくす笑いながら、急いで退散した。テリーはローブをひっかけて、朝っぱらの七時から、ひとのうちに電話をかけるような奴の首は、ちょん切ってやれ、などとののしった。だが、受話器をとるとすぐ、しかめ面が消え、それこそ、ひどくおとなしくなった。
「おお、君か。ちょっと待ってくれ」と、テリーは駆けて行って居間のドアを閉《し》め「よしきた。悪いニュースって何んだい?」
「テリー、もう、じたばたしないでいいらしいよ」と、エラリーが「あの女が見つかったよ」
「うっ、ふ」と、テリーは、やや、しばらくして「と、言うと?」
「おい、いいかい」と、エラリーが「僕は、君のごまかし文句をきくために、朝の六時半から起き出したんじゃないぜ。しようがない男だな。君だって、僕同様に、ちゃんと分かってるだろう。エスター・リース・マクルアが見付かったんだ。そして、もし僕が見当つけてるように、君にも興味があるなら、さっさとズボンをはくんだな」
「フィラデルフィアかい」
「やっぱり知ってるんじゃないか。そうさ。昨夜おそく、至急報がとびこんだんだ」
テリーが電話を睨みつけて「ほかに、何か?」
「知ってるのはそれだけさ。おやじは十時の汽車で、ヴェリー部長をやるらしい。僕たちは大急ぎで――それより少し早く、向うに駆けつけた方がいいらしい」
「なんのために」
「そんなこと分かるもんか、一緒にくるのか、来ないのか」
「エヴァに知らせたかい」
「まだだ。マクルア博士にも。僕は、博士をこっそりと連れ出して、同行した方がいいと思うんだ」
「どこで落ち合おう」
「マクルア博士のアパートで、三十分後」
「二十分にしよう」
テリーは、シャワーにとび込み、髭などあたらず、八分後には、身なりをととのえて、戸口に出ていた。だが、立ちどまって、何かを考えるように眉をよせると、寝室にもどって、化粧だんすの引き出しから三八口径の自動拳銃をとり出して上着のポケットに滑り込ませ、ラビノヴィッツ夫人の三重あごをはじくと、小走りに出て行った。
マクルア博士が、まさにトマト・ジュースを飲もうとしているとき、内線電話のベルが鳴った。博士は手をつけないままグラスを下に置いた。
女中のヴェネチアが「先生、あなたですよ。クイーンとかおっしゃるかたです。下に来ておいでです」
博士が電話にとびついた。そして聞いているうちに、顔が段々灰色になっていった。「うん」と、いくども、うなずいて「いや、あれは、まだ眠っとる。わしは、すぐ下に降りる」
博士はエヴァの寝室のドアのところへ行き、きき耳を立てた。しかし、エヴァは眠ってはいなかった。すすり泣いていた。博士のノックで、すすりなきが、はたと、とまった。
「どうぞ」と、エヴァが、口ごもって言った。
博士がはいってみると、エヴァはドアの方に背を向けて、ベッドにねていた。
「ちょっと出かけて来なくちゃならん、エヴァ。……どうしたんだね?」
「なんでもないの」と、エヴァが「ただ、よく眠れなかっただけよ」
その肩が波打っていた。キスしてやろうとして、かがみ込んだとき、博士は、若いスコット医師のこと、その完全な沈黙のこと、前の晩、姿を見せなかったことなどを、沈痛な思いで考えていた。マクルア博士には、若いスコット医師が訪ねてこなかったわけが分かるような気がした。そして、スコット医師が、もう二度と現われないこともあり得ないことではないと考えた。若いスコット医師にとっては、少しきつすぎる道にぶつかったのだ。スコット医師が望んだのは婚約者《フィアンセ》であって、状況証拠の犠牲者ではない。妻であって、新聞にでかでかと書き立てられることではなかった。
博士はエヴァの乱れ髪をなでつけてやった。そして、エヴァの机の上にのっている封筒のそばに、ダイヤの婚約指輪が転がっているのを見た。
博士は、クイーン警視から電話があるかもしれないと思って、ヴェネチアにいいかげんな伝言を残し、エレヴェーターに乗って下のロビーに降りた。三人の男たちは握手もせず、ものも言わなかった。一同がテリーの待たせておいたタクシーに乗り込むと、運転手が言った。「ペン駅でしたね」
八時の列車に十分乗り遅れたので、次の列車まで五十分待たなければならなかった。その間に、駅のレストランで朝食をとりながら、時間をつぶした。語り合うこともなく、博士は皿から目も上げずに、むっつりとして食べていた。
汽車の中で、マクルア博士は窓の外ばかり眺めていた。エラリーは博士のわきに坐り、仰向いて目を閉じていた。そして、ふたりの向いに坐っていたテリー・リングは、三つの朝刊紙を読んだり、後部の喫煙車に行ったりして時間をつぶしていた。
十時四十五分に、列車が北フィラデルフィア駅をすべり出したとき、テリー・リングが帽子に手をのばして言った。「さあ行こうぜ」博士が立ち上り、エラリーが目を開いた。そして、三人は一列になって乗降口に向かった。西フィラデルフィア駅に到着すると、一同は列車を降りて、待っていたブロード街行きの市電に乗った。しかし、電車に乗りかけたときに、エラリーが立ちどまった。
「あの女《ひと》は、どこに泊まっていたんだい、テリー」
テリーが、しぶしぶ「西フィリー〔フィラデルフィア〕さ」
マクルア博士が目を細めて「知ってたのか」
「もちろんさ、先生。ずっと知ってたさ」と、テリーが低い声で「だが、なんてことだ。どうしようもなかったのさ」
そのあと、マクルア博士は褐色の男を睨みつづけていた――一同が市電で町を行く間も、タクシーに乗り込むときも、テリーが運転手に行き先きを命じるときも。
「なぜ、まっ先に、あそこへ行くんだね」と、テリーがタクシーの座席から振り向きながら訊いた。
「時間が、たっぷりあるからさ」と、エラリーがつぶやくように言った。
タクシーが、狭く曲りくねった、わびしい通りにある暗赤色の煉瓦建ての家の前で止まった。外に出ている看板には「貸間」と書いてあった。一同はタクシーから出た。マクルア博士が、安カーテンのかかっている窓々を、貪るように見上げているとき、エラリーが運転手に「待っていてくれ」と言った。それから、三人は高い、みすぼらしい玄関の階段をのぼった。
まばらな白髪まじりの気むずかしい顔の婆さんがドアをあけて「旦那方にも、そうそう文句いう権利がないはずじゃありませんか。さあ、はいって来て、あんなものはすっかり片づけてもらいましょう」
婆さんは、息を切らせながら、一同を二階に並んでいる、そっくり同じような薄茶色のニス塗りの四つのドアのひとつに案内した。そして、長い鉄鍵でドアをあけると、一歩さがって、たれ下がった尻に両手を当てて「みんなそっくりそのままにしておけと言うんですよ」と、いまいましげに「――なんのためなんでしょう、さっぱり分かりゃしない。ここですよ。昨日も、せっかく、借り手が来たのに、貸しそこなっちまいましたよ」
うす暗い汚い部屋で、ベッドのスプリングは真中が落ちくぼんでいたし、化粧箪笥の脚は一本折れて、だらしなく前の方に傾いていた。ベッドは、ととのえてなく、毛布がとりちらかされていた。パンプスの黒い女靴が一足、床に置いてあったが、その片方は、かかとと靴底が奇妙な作りになっていた。貧弱なゆり椅子に、灰色のラシャの服が一着、絹靴下が一足、スリップが一枚、かかっていた。
マクルア博士は、化粧だんすのところへ行き、上にのっているペンとインキつぼに触り、それからベッドの方を振り向いて、衣装戸棚、靴、ベッドの上の壁にとりつけてある真鍮《しんちゅう》のガス灯の栓《せん》、裂け目のはいっている窓のブラインドなどを眺めていた。
「刑事さんがいまがた出てったばかりですよ」と、婆さんは、一同の沈黙にけおされて、かなりとげとげしさがとれた口調で「お待ちになるなら――」
「いや、待つ必要はない」と、エラリーがいきなり言った。「さあ出ましょう、博士。ここではなんにも分かりそうもありません」
エラリーは博士の腕をとって、盲人をみちびくように連れ出さなければならなかった。
三人はタクシーで警察本部へのりつけ、三十分の上も、面倒くさい、無駄な問答をくり返したあとで、やっと、エラリーが会いたいといった係官を見つけた。
「エスター・マクルアを見たいんですが」と、エラリーがたのんだ。
「君は何者かね」と、ばかでかいあぐら鼻で、|やに《ヽヽ》だらけの歯をした係官が、うろん気に、じろじろ見た。
エラリーが名刺を渡した。
「ニューヨーク警察のヴェリー部長の部下かね」
「いや、そうじゃありませんが、全く差しつかえない者ですよ。クイーンのせがれです――」
「君がクイーンご当人でも、こっちは、なんてこともないね。ヴェリー部長以外には、いっさい、情報を与えてはならんという命令を受けとるんでね。ヴェリー部長は失踪人課の者をひとり連れて、来られることになっとる」
「そりゃ知っています。しかし、われわれが、わざわざニューヨークから来たのは、もしかして――」
「何も言えんね」と、あぐら鼻の男が、そっけなく「命令でね」
「君々」と、テリーが「ジミー・オデルがここにいるだろう。あの男を見つけようぜ、クイーン。そうすれば、なんとか――」
「おや、君には見覚えがある」と、係員は目を丸くして「あんたは、たしか、ニューヨークの私立探偵でしたね。だが、そんなことをしたって駄目だよ。オデルも同じ命令を受けとるんだからな」
マクルア博士がぎこちない口ぶりで「たのむ。ここを出よう。いつまで、こんな押し問答をしとっても――」
「でも、あのひとを見る権利があるんですよ」と、エラリーが「こりゃ死体の確認なんですからね。こちらは、ニューヨークのマクルア博士だよ。正確な死体確認が出来る、ただひとりの人だぜ」
係員は頭を掻いて「じゃあ、まあ、見せてもよかろう。そのことについては、何も言われていないから」
係官はペンをとりあげて、フィラデルフィア市の死体公示所への出入許可証を書いた。
一同は死体置き場の石の台を囲んで、黙って立っていた。番人は無関心にぶらぶら歩きまわっていた。死体には慣れているマクルア博士は、死体を見ても別に驚いた風もなかった。死人の、ふくれて、青ざめた顔、つっぱっている首の筋肉、ひろがった鼻孔などは、博士の目に映っていないなと、エラリーは思った。博士が見ているのは、きちんと整った顔の輪郭で、長いブロンドのまつ毛、まだ美しい髪、頬の曲線、小さなかわいい耳などだ。博士はやつれた顔に、うっとりとした表情をうかべて、まるで奇跡がおこり、そのよみがえりを目のあたりに見るかのように、しげしげと死に顔を眺めていた。
「博士」と、エラリーがやさしく「エスター・マクルアさんですか」
「そうだ。まちがいない。なつかしいあのひとだ」
テリーが顔をそむけ、エラリーがせき払いした。博士は言葉尻をにごして、ひとが聞きとれないつもりで言ったらしいなと、エラリーは思った。つつしみ深いエラリーから言えば、少しどうかと思う。はしたないとはいえないまでも――少しむき出しでありすぎる。今まで、博士の真の姿を見ていなかったなと、ふと、エラリーは、そのことに気付いた。
エラリーは、テリーのとまどっている目をとらえて、遠くのドアの方を、あごでしゃくってみせた。
三人が死体公示場の鉄門を出て、ペンシルヴェニア駅の階下の待合室にはいると、驚いたことに、エヴァがベンチに腰かけて時計を見上げていた。時計は二時をさしていた。改札口で待っていなかったところをみると、時計を見ていたわけでは全然ないなと、エラリーは思った。三人はそばまで行って、エヴァの肩をゆすってやらなければならなかった。
「ああ、お父さま」と、エヴァは言って、両手をひざに重ねて坐っていた。
マクルア博士は、キスして、そばに坐り、黒手袋をはめているエヴァの片手をとった。若い連中は互いに、ひとことも言わず、テリーが、しかめ面で、たばこに火をつけた。エヴァは、黒ずくめだった――喪服、黒い帽子、黒手袋。
エヴァは知っていたのだ。
「クイーン警視さまが知らせて下さったの」と、あっさり言った。化粧はしているが、目のあたりがはれぼったかった。
「あのひとは亡くなったよ」と、博士が「死んでしまったよ」
「ええ、知ってますわ、お父さま。本当に、本当に、お気の毒ね、お父さま」
エラリーはぶらりとそばの新聞売り場へ行って、しゃれた小柄な半白の老人に声をかけた。
「おどろきましたねえ、こりゃあ」
「まさか、お前らは」と、クイーン警視が落ち着き払って「こともなく抜け出せると思っとったんじゃあるまいな。マクルア嬢とテリーには、月曜日以来、尾行がつけてある。お前がフィリー〔フィラデルフィア〕に来ることは、今朝、汽車に乗る前から知っとったよ」
エラリーは赤い顔をして「お父さんの権威にさしさわりのあるようなものは、何も見つかりませんでしたよ」
「それも知っとる。こっちへ来い」
エラリーは、やるせない腹だたしさで、父親について行った。エラリーは、常日頃《つねひごろ》、謎がきらいだった。謎というものは、エラリーの知的バランスを乱すから、嫌いなのだった。エラリーがいつも犯罪の解明に熱中して来たのも、謎をなくすためなのだ……ところが今度の事件には、多くの謎がからまっている。単純のように見えて、かえって、あらゆるものがこんがらがっているのだ。はっきりしているものはほとんどない。マクルア博士はエスター・リース・マクルアを、生きているうちに見つけ出したいと希望していたのに、死のしらせで、最後のひそかな望みが絶たれた。そしてテリー・リングは、みんなが発見したこと――つまり、エスター・リースが自殺したこと――以外には、何も発見することを期待していなかった。テリーは、エスターが自殺することを、ずっと知っていたのだ。そして、エラリーは、テリーがそれを知っていて、長く黙っていた理由まで想像することが出来た。しかし、分かっているのが、これだけでは、どうにもならない。充分じゃない……
「これで気分を一新して、まともな話ができそうですな」と、警視が、ベンチの前に立ちどまって「真相が分かった今では」
「おそろしい真相だね」と、マクルア博士が、おそろしい微笑をうかべた。
「なんとも、お気の毒でした、博士。さぞひどい打撃でしたろう」と、老警視も腰を下ろして、かぎたばこを、ひとつまみ吸い「今朝、確認されたでしょうな」
「エスターです。十七年も会わなかったのだが――エスターに間違いありません。どんな姿になっても――わしにははっきり分かります」
「その点については、大して疑問がないと思います。やあ、テリー! フィラデルフィアの警察では、最初、死体の身元が割り出せなかったのですよ。月曜日の夜、青酸カリ中毒で死んでいるのが見つかったとき――」
「月曜日の夜」と、エラリーが、かすかにその言葉をくり返した。
「――そのとき、身元を割り出す直接の手がかりは何もなかったのです。下宿のおかみには偽名をつかい、住所も出たらめでした。警察では、その住所氏名をたよりに、だれか、あのひとを知っている者を探し出そうとしたのですが、じきに、その住所氏名が出鱈目《でたらめ》なのが分かりました。あのひとは郡部の町の名を――フィラデルフィアの――言っていたんですが、そんな名の町はありませんでした」
「月曜日の夜の何時ごろでしたか」と、エラリーが、苦い顔で「フィラデルフィアの、こちこち官僚め、まるっきり、なんの情報もくれないんですよ」
「真夜中過ぎだ。下宿のおかみが――疑わしいと思ったらしい――そこのところは、わしもくわしくは知らん。ともかく、ニューヨークからの人相書きがまわって来た――色が白くて、髪はブロンド、年齢は四十七前後、背は五フィート七、八インチ。体重は一三〇から一四〇、右足が不具――そこで、変死人の記録をしらべてみて、下宿屋の自殺事件と、こちらからの照会が結びついたわけだ。昨夜、おそく通知して来た」と、警視はため息して「部下のヴェリーに、自殺したときの書き置きの現物をとりにやってある」
「書き置き」と、マクルア博士が思わず叫んだ。
エラリーが緊張して「どんな書き置きです?」
「ベッドのふとんのなかで、しわくちゃにして握っていたのが見つかったのだ」
「書き置きをしたって」と、テリーが信じられないように、つぶやいたが、その言葉はエラリーの他には、誰の耳にもはいらなかった。
クイーン警視が、困惑したように、髭をなでながら「ねえ、お嬢さん。なんとも、おくやみの言葉もありません。これが、あなたにとって、どういうものか、わしにはよく分かります」エヴァがゆっくり警視の方を向いた。「しかし、どんな悪いことにも、何か、とりえはあるものですよ。そのとりえといえば――これで、あなたにとって――リース殺しが解決したことです」
マクルア博士がベンチからとび上って「リース殺しが――」
「お気の毒ですが先生、この書き置きの中で、エスター・リースは妹を殺したことを、自殺する前に告白しています」
「そんなこと、信じられません」と、エヴァが叫んだ。
警視は折りたたまれた一枚の紙をポケットから取り出して、しわをのばした。「昨夜、電話で、書き置きを、一字のこらず知らせて来ました。お読みになりますか」
エヴァは、つかみとるような手ぶりで手をのばした。だが、その手の指がしびれて、紙をとり落しそうになったので、マクルア博士が、それを、取り上げた。ふたりは、青ざめて、黙って、一緒に書き付けを読んだ。それから、博士が、力なく、それをエラリーに渡した。
テリー・リングは、エラリーの肩ごしに、熱心にそれに目を通した。
警察本部の用箋に、クイーン警視の秘書が、きちんとした書体で書いたものだが、書き置きを書いた人の深い心の疲れと苦悩が、にじみ出ていた。
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私を発見されたかたへ
私は、ひとこと書き残さずにはこの世を去れません。私はいつも自分を裁いて来ました。そしていま、自分の刑の執行人になります。私はひとつの命を奪ったので、自ら、自分の命を奪います。かわいい娘よ、許しておくれ。あなたは、私に、ひそかな幸福を与えてくれました。かわいい娘よ、どうぞ、そのことを信じておくれ。あなたは、私が与えた以上のものを与えてくれたのです。あなたの母は人非人です。でも、はずかしい秘密をあなたにだけは知らすまいとする人間的な感情があったことを、神様に感謝して下さい。あなたが倖せでありますように、この上もなく可愛い娘よ。
愛するジョンさま。私はあなたの一生を毒してしまいました。ずっと以前に、あなたが、私を愛して下さることを知っていたのです。そして、今、あなたは私の妹を愛しています。私たちに意外な運命がまた襲いかかったのです。こうなることを知っていながら、どうする力もなかったのです。それで、悪いこととは知りながら、やむなく、大変なことをしてしまったのです。やむにやまれなかったのです――もし、あなたが外国へお出かけにならなかったら。もし、あなたが妹を連れて行って下さっていたら。……と申しますのも、妹の命を救うことが出来たかもしれない方は、この世ではあなただけだったからです。しかし、あなたがおひとりでお出かけになったので、私たちの非情な運命から妹を守る最後のささえも、妹の最後の希望も消え去ってしまったのです。
神様、私たち二人の魂に――妹と私の魂に――どうぞご加護を与えて下さいませ。さようならジョン。私のかわいい娘のご面倒を、おねがいいたします。
私を発見された方は、どうぞ、私の身体と一緒に、これを葬って下さい。
[#ここで字下げ終わり]
エラリーはテリーが腕をつかむのを感じた。「ちょっと!」
ふたりは席をはずした。「おい」と、テリーが烈しい口調で「まるっきり変だぞ。こんなばかな!」
「と、言うと?」
「おお、エスターがこれを書いたのは、それでいいさ。だが、妹なんか殺しちゃいない!」
「どうして、それが分かるんだね」と、エラリーが、手紙を読み直した。
「はっきり知ってるんだ。とにかく、エスターに殺せたはずがないんだ。もし殺《や》ったとしたら、どうやってカーレンの寝室から逃げ出せたんだ。フィラデルフィアから殺しに戻って来て、また西フィリー〔フィラデルフィア〕の安宿まで毒を飲みに帰ったとでも言うのかい。そんなばかな」
「さあね」と、エラリーが小声で「だれかが、カーレン・リースを殺した。だから、だれかがあの部屋から逃げた。そのだれかが、なぜ、エスターであってはいけないんだ?」
テリーが目をむいて「どうするつもりだい。君のおやじは、事件が解決したとみてるぞ。例のドアの閂の件を、おやじに言うつもりか」
エラリーは返事もせずに、書き置きにじっくりと、三度目の目を通した。テリーは相手の心を読むような冷い目で、エラリーを見つめていた。
やがて、警視がふたりの後から「半気違いども、何をぼそぼそやっとるんだ?」
「おお。この書き置きを検討しているんですよ」と、エラリーがすぐ答えて、紙片をポケットに入れた。
「いささか妙だな」と、警視が何か考えながら「リースという女に、丸九年間も囚人同様、監禁されるがままにされておいて、突然、暴れだすなんて。なぜそんなに長い間、がまんしておったのだろうな。エスターは完全に狂ったとしか思えんな」
「それだよ」と、テリーが「いきなり、|たが《ヽヽ》がはじけちゃったんだね。そうだよ、おやじさん」
「ところで」と、警視が眉をしかめて「わしは、この事件をじっくり考えておるんだが。お前も妙だと思わんかな。あのキヌメという日本の女は、なぜカーレン・リースに、わざわざ階下から用箋をとどけに行かなければならなかったのかな。リースは屋根裏部屋へ上って行けばよかったんだ――上には、用箋はいくらでもあったんだからな。この点をどう思う?」
褐色の男の顔が、固まる漆喰《しっくい》のように強《こわ》ばった。だが、笑いながら、調子よく「そりゃ、このさい、おやじさんにまかせるよ。たっぷり妙なことを考えてもらいましょう。でも、そんなことは、どうでもいいじゃないか。とにかく、あんたは、立派に犯人を、とっつかまえたんだからね」
「さあね。分からんな」と、警視が迷うように「そいつが気にかかっていたのを、いま、思い出したんだ……まあいい、すぐ分かるこった。あの娘《こ》に訊いてみよう」
「お父さん」と、エラリーが何か言いかけたが、警視はさっさとベンチの方へ戻っていった。テリーが、すばやく「おれ、行くよ」
「どこへ?」
「リースの家へさ。あの日本女《ジャップ》に、先ず会ってみる。行かせてくれよ」
「そんなことをしちゃあ駄目だ」と、エラリーが「テリー、ばかな真似はするなよ。うっかりすると、そっとしとけばこのままですむのに、とんでもないものをあばき出すことになるかもしれないぞ」
「行かせてくれよ」
「駄目だ」ふたりは、じっと睨み合っていた。
「どうしたんだ、お前たちは?」と、警視が言ったので、振り向いてみると、エヴァとマクルア博士も、そこに立っていた。
「あんたの生っちょろい小せがれの鼻っぱしを、はじいてやるところさ」と、テリーが冷たく言って、すきをみて、エラリーににやりとして「こいつ、おれに――」
「よすんだ」と、老警視がいら立って「お前らには手をやくよ。さあ、行こう、エラリー。マクルアさんたちも一緒に行かれる」
「ねえ、エヴァ、行くんじゃないぜ」と、テリーが、すばやく前に立ちはだかって「もう、すっかり片がついたんだ。ゆっくりして、家へ帰った方がいいぜ――」
「いやよ」と、エヴァが、憂鬱そうに「あたし、お母さまのものを――少し、いただいておきたいのよ」
「明日でもいいじゃないか」
「リング君」と、マクルア博士がたしなめた。
「だって――」
「道をあけて頂戴」と、エヴァが冷やかに言った。
テリーは、両手を下ろして、肩をすぼめた。
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二十
白人の女中オマラが、ワシントン・スクエアの邸に、一同を招じ入れた。相変らず無愛想な顔で、いかにも魯鈍《ろどん》な目をけわしく光らせていた。
「ねえ、あたしを、いつまで、ここにひきとめておくつもりなのさ」と、警視を見すえながら「あんたには、引きとめておく権利なんかないよ。あたしのボーイ・フレンドが、そう言ってた――弁護士んとこで働いてんだからね。それに、だれがお給金をくれるのさ――ねえ? 返事がききたいね」
「口をつつしめ」と、警視が、おだやかに「おとなしくしとれば、もうじきだ」
「わしが給金を払う」と、マクルア博士が言った。
「ああ、それならいいよ」と、女中がすぐ答えて、博士に微笑を向けた。
「キヌメはいるかね」と、老警視が訊いた。
「どこか、そこらにいますよ」
一同が黙って二階へのぼってみると、リッター刑事が居間の長椅子で、居ねむりしていた。
「日本女《ジャップ》はどこだ、リッター」
「えっ、見かけませんでしたよ、警視」
「そうか、見つけて来い」
リッターが、のびをしながら出て行き、エヴァが、おそるおそる寝室に近づいた。警視が、やさしい声で「いいですよ、お嬢さん。上へ行って、ほしいものを、とって来て」
「おれが一緒にいかあ」と、テリーが言った。
「ひとりの方がよくってよ、テリーさん」と、エヴァが屋根裏に通じる階段のドアをくぐって、姿を消した。みんなは、エヴァがゆっくりと、だが、決意した足音をたてて、身をひきずるように屋根裏部屋へのぼるもの音を聞いていた。
「かわいそうに」と、警視が「さぞ、辛かろう。先生、われわれに出来ることがあれば、何でも、どうぞ――」
マクルア博士は窓辺に行って庭を見下ろして「警視、エスターの死体の処理は、どうなるかね」
「法律上、あの人を必要とすることは、もう、何もありませんよ、先生」
「葬式の手配をしてやりたいのでね」と、博士は、ひと息入れて「むろん、カーレンの方のもね」
「ごもっとも……ああ、お入《はい》り、キヌメ」
日本の女は、ためらいがちに戸口に立っていた。まなじりの上った目が不安そうに光っていた。リッターが、逃げられないように、肩をいからして後ろについていた。
「ちょっと待ちたまえ、警視」と、博士が言って、振り向き、キヌメのそばへ行って、しなびた黄色い手をとってやった。
「キヌメ」
「まあ、マックルー博士さま」と、キヌメが口ごもって、あいさつした。
「わしらには、カーレンのことも」と、やさしく「エスターのことも、みんな分かっとるんだよ、キヌメ」
キヌメは博士を見上げて、おびえたように「エスターさまは、なくなられました。エスターさまは、ずっと昔、海でなくなられました」
「いや、ちがうよ、キヌメ。お前は、それが本当のことでないのを知ってるだろう。エスターが、二階の小さな部屋に住んでいたことも。いいかい、嘘をついても、なんにもならないんだよ、キヌメ」
「エスターさまは、なくなられました」と、キヌメが、頑固にくり返した。
「うん、キヌメ。たしかに、エスターは死んだが、つい二、三日前のことだ。警察の人たちが、あまり遠くでない他《よそ》の町で、エスターのなきがらを見つけたよ。お前、分かるだろう?」
瞬間、凍りついたように、おびえ上った老女中は博士の目を、びっくりして覗き込み、やがて、わっとばかりに泣き出した。
「もう、誰のためにも、嘘を言う必要はないんだよ」と、老女中の耳もとで博士がささやいた。「キヌメ」老女中は泣きつづけていた。「あとには、エヴァだけが残されたんだよ、キヌメ。エヴァだけだ。分かるかね、キヌメ。エヴァだけなんだよ」
しかし、老女中は、ひどい悲しみにうちひしがれていて、西洋風の遠まわしな言い方の意味がくみとれなかった。ただ、うめきつづけるだけで「お嬢さまが亡くなり、今度はエスターさまが亡くなり、このキヌメは、どうしたらいいのでしょう」
テリーが小声でエラリーに「役に立たんよ。分かっちゃいないんだ」
警視は、よく分かるという顔つきで、マクルア博士がキヌメを長椅子に連れて行って腰を下ろさせるのを黙って見ていた。長椅子に腰かけたキヌメは悲しみに身をもんでいた。
「先き行きのことは、何も案じないでいい」と、くどくど博士が言いきかせ「お前、エヴァの面倒をみてくれるだろう」
エヴァはすぐ涙ながらに、頷いた。
「キヌメは、エヴァのお母さまのお世話をしました。今度は、エヴァ様のお世話をいたします」
「守ってやっておくれ」と、博士が、ささやいた。「いいかい、あの娘に、何もわざわいがかからないようにね、いいね、キヌメ」
「お嬢様をお守《も》りいたしますわ、マックルー博士」
博士はすっくと立って窓辺にもどった。いま出来るのはそれだけだった。
「キヌメ」と、エラリーが「この邸内に、エスターが暮していることを、誰にも言ってはいけないと命じたのは、カーレンさんかね」
「お嬢さまが言うなと、おっしゃったので、わたくしは誰にも言いませんでした。今は、そのお嬢さまも亡くなり、エスターさままで――」
「だれがお嬢さんを殺したか、知っとるかね、キヌメ」と、警視が低い声で訊いた。
キヌメは涙にぬれた不審げな顔をあげて「殺した? 誰が、お嬢さまを殺したのですか」
「エスターかね」
キヌメは、ぽかんと口をあけ、ひとりずつ、みんなの顔を見まわした。明らかに、キヌメにはとても考えられない話らしかった。キヌメは、また、泣き出した。
戸口から、エヴァが、かすかな声で「駄目よ――上のものには、とても手がさわれないわ。お部屋が、あんまり――静かなんですもの。あたし、どうしたってことかしら」
「ここへおいで、おねえちゃん」と、テリーが「そんなに――」
しかし、エヴァは、しっかりした足取りでキヌメのわきへ行って坐り、なげいている日本婦人を両腕で抱いて「心配しないでいいのよ、キヌメ。あたしたちが、あなたのお世話をして上げてよ」
「そこでだ」と、警視は老女中の坐っている反対側のはしに腰を下ろして「あの月曜日のことを覚えとるかね、キヌメ。カーレンさんが、用箋をとって来させに、あんたを階下へやったのは何時だったね。覚えとるかね」
白髪まじりの頭が頷き、キヌメは、エヴァの胸に顔を埋めた。
「カーレンさんが、なぜ、用箋をとりに行かせたか、分かるかね。屋根裏部屋へ行けば、書く紙がたくさんあることは、よく心得てただろうにね。覚えとるかね、そのとき、なんと言ったか」
キヌメは坐り直して、声を上げた。ぽかんとした顔付は、黄色く老いやつれていた。三人の男たちは、はっと息をのんだ。あまりにも多くのことがキヌメの言葉にかかっていた。あまりにも多くのことが……
「お嬢さまは、エスターさまのお部屋には行けませんでした」と、キヌメが言った。
その一言で、今までのことがみんな、ご破算だった。あらゆることが無に帰した。長椅子の上で、エヴァは死刑の宣告を待つ囚人のように、両手を重ねて、石のように坐っていた。
「行けなかった――」と、警視が不審そうに、言いかけて、止めて、みんなを見まわした。みんな、しんと静まりかえっていた。テリー・リングなど――本当に息がとまってしまったようだった。マクルア博士は――死人みたいだった。エラリーは、こそりとも身動きせずに緊張していた。エヴァ・マクルアは……すっかり諦めきった姿だった。
警視は老女中の腕をとって、はげしくゆすぶりながら「カーレンさんが、エスターの部屋に行けなかったというのは、どういうことかね。聞かせてくれ、キヌメ。なぜ、行けなかったのか。あのドアは、開いていたんじゃないのかい」
かわいそうに、キヌメには警視の言葉の裏は、分からなかった。空中にはばたいている――開いていたと言うんだ、開いていたと――と言う、みなのねがいも、キヌメの胸にはとどかなかった。キヌメは、少し、からだをゆすって言った。
「あのドアは、しっかり閉っていました。わたしたちにはあけられませんでした」
「どっちのドアだね。案内しておくれ」
キヌメは、一生懸命に協力していることをあらわすように、やや元気をとりもどして立ち上ると、よろよろと寝室にはいり、あいている屋根裏部屋に通じる戸口に行った。そして、しわしわの手で鏡板を押してみせた。根が生えたように長椅子に坐っているエヴァには、それが、電鈴のボタンを押す指のように見えた。今度こそ、とても逃れる途はないと、ぼんやり考えていた。いよいよ最期だと観念した。
クイーン警視が、静かに、胸一杯に空気を吸って「閉《と》じていたと言うと、この小さな閂が――ひっかかって、動かなくなっていたのかね」
「ひっかかっていました」と、キヌメが頷いて「お嬢さまが開けようとなさっても――駄目でした。わたしもやってみましたが――駄目でした。わたしたちは、何度もやってみましたが、力が足りませんでした。お嬢さまは、気違いのようになられて、キヌメ、階下へ行って用箋を持って来なさいと、おっしゃいました――お嬢さまはお手紙が書きたかったのです。それで、わたしは階下へとりに行きました」
「それは、エヴァさんが来る、ちょっと前のことだね」
「そのとき、エヴァさまがいらっしゃいました。わたしが用箋を持って上ると、すぐでした」
「そうか」と、警視が、ため息をもらした。
そうだわと、エヴァは思った。とうとう、あのひとは真相をつかんだのだわ。こうなっては、お母さまが、どんなことを書いといて下さっても、結局は、あたしの身にふりかかってくるんだわ。あのひとが見てるわ――あのひとは千も目があって、その目がみんな、また、鋭く、無慈悲になるんだわ。そのとき、警視は、寝室の戸口から、じっとエヴァを睨んでいた。
「すると、あんたは、このわしを、うまうまと回転木馬に乗せたことになるな、お嬢さん」と、警視が「だが、そんなものに乗るのは、これが最後だ。あんたにとってもな」
「待ってくれ、警視」と、テリーが必死になって「そのひとは、とんだ不運で、まき込まれたんだ――」
「おお、運が悪いということもあろうさ、それはそれでいい――全く運が悪かったな。あなたのお母さんには、カーレン・リースは殺せなかったんだよ、お嬢さん。犯罪が行なわれたすぐ前には、屋根裏部屋のドアは開かなくなっていた。だから、この寝室から、あのドアを通って出たりはいったりすることは、誰にも出来なかった――カーレン・リースさえ、あのドアを通って、誰も、この部屋に入れられなかったわけだ。窓は全部格子がはまっていて――誰も出入りに使うことは出来ない。それに、誰もこの居間を通らなかったと、それは、あなたが自分で言っているとなると、あなたのお母さんに、どうしてあれがやれただろう。出来たはずがない。出来たのは、あなただけだ。あなたが、自分の叔母さんを殺したのだ」
「何度も何度も申し上げたので、今さら、申しても無駄なことですけれど」と、エヴァが、かろうじて聞きとれるような声で「でも、最後にもう一度申し上げますわ――ちがいます。カーレンを殺したのは、あたしじゃありません」
「駄目だ」と、クイーン警視が言って、今度は、テリーを睨んで「今、思い当ったぞ『お利口ぶった』リング君。この事件の中の、お前の役割が分かったぞ。お前が犯行のあったあとで、ドアの閂をはずしたんだな。ギルフォイルの来るちょっと前にだ。ほかの二人の女にはずせなかったものが、万が一にもこのお嬢さんに、はずせるはずがない――してみると、はずしたのはお前だ。そして承知の上で、いもしない犯人の逃げ道をつけたのだな。お前はずっと、この娘以外にはカーレン・リースを殺せた者がいないのを知っておったのだ」
エヴァが「おねがい、おお、おねがいです。あなたは、いけませんわ――」
「しゃべるな、エヴァさん」と、テリーが、すばやく「口をあけなさんな。奴に、ほえたいだけほえさせとけばいいんだ」
「エスターという女について、とんでもない考えちがいをしておったのが、今、分かった。じたばたするんじゃない、リング。リッターそいつを見張っておれ。娘をかばうつもりが――娘の罪を告白したことになったのだ。エスターに真相を語れるはずがない。あの女が犯行をすることは、物理的に出来なかったのだからな」
凍りついたような雰囲気の中で、隣室のカーレン・リースの机の上の電話が鳴った。とまって、また鳴った。やがて、警視が「リッター、見張っておれ」と言って、出て行った。
「もしもし、おお、トマスか、どこにいる?……そうか、それでわしを探してたのか。何の用だ?」老警視は電話に聞き入っていた。さらにしばらく聞き入っていた。やがて、他にはひと言《こと》もいわずに、受話器を返して、居間に戻って来た。
「部下のヴェリー部長からだ」と、警視がのんびりと「いま、フィラデルフィアから戻って来たところだ。あれの報告で最後の疑問が解決する。報告によると、エスターが犯しもしない罪を告白した動機についての、わしの考えは間違っていたようだ。もうひとつだけ、確かめてみなければならない点ができた。エスターは娘の罪を庇うことが出来なかったわけだ。というのは、庇うためには、カーレン・リースが死んだことを知っていなければならない。ところが、カーレン・リースの死んだことを知り得なかったはずだからだ。『妹の命を救うために』という文句は、何か他の意味にちがいない」
「ヴェリーは、何を、発見したんですか」と、エラリーが、せき込んで訊いた。
「エスター・リース・マクルアは、死体が発見される四十八時間前に死んだことが分かったんだ! 前の週の土曜日の夜、自殺したことになる。そして、カーレン・リースは月曜日の午後までは、殺されていなかった。つまり、あなたのお母さんは、二重に無実ということになる――そして、あなたの有罪は決定的だ、お嬢さん」
エヴァが大きく目をみはり、けもののような叫び声をあげて長椅子からとび上ると、リッターを突き倒して廊下へとび出した。ころがるように階段をかけ下りる足音がきこえ、すすり泣きの声に混じって玄関のドアがばたんとしまる音がきこえた。それまで一同は筋一本動かせなかった。
「エヴァ」と、マクルア博士は、うめいて、ぐったりと長椅子に腰を落した。
警視がどなり、リッターが、口をあんぐりあけて、あわててとび出そうとし、やっと戸口を抜けようとする前に、テリー・リングが行く手をはばんでいた。そして、ふたりはぶつかり、リッターが、どしんとばかりぶっ倒れ、びっくりしてわめき声をあげた。
「おれが、つかまえてやるよ、おやじさん」と、テリー・リングが凄んだ一本調子の声でいった。クイーン警視は、テリーの手にある三八口径の自動拳銃を睨んだまま、その場にじっとしていたし、床にはいつくばっているリッターも、身動きしないことにきめた。
「おれが探すよ。いつも、おまわりの真似がしてみたかったのさ」と、テリーが、冷たく言った。そして、一同がそれと気付いたときには、すでにエヴァを追って駆け出し、ドアは居間の側に鍵を差したまま、ぱたりと鼻先でしまっていた。
それから、驚天動地《きょうてんどうち》のことがおこった。一同は、小柄なキヌメのことをすっかり忘れていた。そのキヌメがこっそりとドアのところに行っていた――あまり、こっそりと行っていたので、気がついた一同は、ただ、あっとあきれるばかりだった――キヌメは、錠前の鍵をまわすと、ぱたぱたと部屋を横切り、クイーン警視の鼻っ先《さき》で、居間の窓の鉄格子の間から、鍵を庭にほうり投げてしまったのだ。
「畜生!」と、やっと口がきけるようになってから、クイーン警視が金切り声をあげた。そして、じだんだ踏んで、亀の子のようにのばしているリッターの首の上で、拳をふりまわしながら
「いまに思い知らせてやるぞ。とっちめてやる。ぺてんにかけおって。ここな……阿呆め! ばか野郎のど間抜けめ!」と、リッターの、えりがみを、ひき上げて「ドアを、ぶち破れ!」
リッターは、よろよろと起き上り、頑丈な鏡板にぶつかり始めたが、ドアはびくともしなかった。
「やつらは、逃げるつもりなのか。ずらかれると思っとるのか。自分で自分の首をしめるようなもんだ」と、老警視はちょこちょこと寝室のドアの方へ走りよった。
「どうするつもりかな」と、マクルア博士が、目を丸くして訊いた。
「逮捕状をつくらせるのだ」と、警視がどなった。「殺人ならびに殺人従犯罪でな――どうもこうもない」
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二十一
エラリー・クイーン氏は自分のアパートのドアのベルを鳴らした。しばらくすると、ジューナがおびえ顔でドアを開けた。
「大丈夫だよ」と、エラリーは言って、足取りも軽く居間にはいったが、そこにはだれもいなかった。
「ジューナ、玄関に鍵をかけておくんだ」と、エラリーはぷんぷんして「おい、大丈夫だといったら大丈夫だよ。君たちは全く気違いだな」と、大きく声をかけた。
テリー・リングがエラリーの寝室から首を突き出して「そうかい。そんなにわめかなくっても分かってらぁ。さあ、出といで、おねんねちゃん」
エヴァが寝室から、はい出して、ふかふかの椅子に腰かけ、片すみに身を丸めて、寒気がするかのように、両腕を胸に組んだ。テリーは手にした拳銃に気付いて、赤くなりながら、しまい込んだ。
「さあ」と、エラリーが帽子の片側を押し上げながら「いったい、どういう考えで、あんな突拍子もないことをやったんですか、エヴァさん。気でも狂ったんですか」エヴァはいかにもみじめそうだった。「逃げ出すなんて、君も君だよ、テリー。もう少しは分別があるかと思っていたのに」と、エラリーは、苦りきって、たばこに火をつけた。
「おれもそう思ってたね」と、テリーが情けなさそうに「少なくとも今まではね。たばこ一本くれよ。おれは、この娘《こ》のことで、へまばかりやっちまった」
エラリーがたばこの箱を差し出して「おやじに鉄砲をつきつけるなんて!」
「そんなことするもんか。ひとりでにポケットから、とび出したんだ。それに、リッターのばか野郎が、邪魔だてしやがったしね。そうだろう、あの際、他に仕様がないものな。それに、おれはこんなあわれな娘《こ》は見たことがないんだ。この娘《こ》は本当に何も知らないんだぜ。とても、ひとりで放っとけやしない。放っといてみろ、最初の町角で、おまわりにぱくられちゃうぜ」
「あたし、何もかもぶちこわしてしまいましたのね」と、エヴァが、しょんぼりして「お父さまは、どうしてらっしゃるかしら。あたし、何も考えずに、逃げ出してしまって」
「お宅へお送りしましたよ。どんな様子だったと思います?」と、エラリーが顔をしかめてみせて「むろん、すっかり参ってましたよ。キヌメを連れて行かれました。あの老婦人が、われわれのだれよりも張り切っていましたよ」
エヴァがエラリーを見つめて「あたし、どうしたらいいでしょうか」
「僕が君たちより分別があるとすれば、まず、自首することをすすめたいですね」と、エラリーがびしりと言った。「ところが、実は、僕も君たちと同じような、気違いじみた考えにとりつかれてしまってるんです。だが、むろん、こんなことが長くつづくわけがありませんからね。おそかれ早かれ、見つかっちまいますよ」
「なんてったって、ニューヨーク中で、一番安全な場所にいるってわけだ」と、テリーが、のんびりと言い、どしんと長椅子に身を投げ出して、天井を向いて、たばこをくゆらせながら「エヴァさんが、どこにいたか、見付けたときの、おやじさんの面が見たいな」
「なんて、ひれくれたユーモア感覚しか持ってないんだろうな、君は。僕が共謀者だったのを知ったときの、おやじの顔を想像して見たまえ」
「テリーさんから聞きましたわ」と、エヴァが、弱々しい声で「ファンの店で、あなたが、ここの鍵を、お渡しになったんですってね。おふたりが、どうして、こんなに親切にして下さるのか、見当がつきませんわ」
「そうさ」と、テリーが「何をたくらんでるんだい。ここを隠れがにしろってのは、もともと君の案なんだぜ」
「いかにも、そりゃそうだが、実にばかげたことをしちまったよ」と、エラリーがたばこの火を見つめながら「だれが考えても、このお嬢さんが、殺人事件の、第一容疑者になるのは分かりきってるのにね。僕は間違ってたよ。こんなことをしちゃいけなかったんだ。つくづく自分がいやになるよ」
「言ったろう」と、テリーが「この娘《こ》は、まともな男を狂わせちゃうような、妙な魅力を持ってるんだ。おれだって、そこんとこが、さっぱり分からないのさ」
「ときどき、あたし思うんですの」と、エヴァが顔をかくして「ときどき、本当にカーレンを殺したような気がして来るのよ――悪い夢の中で、何にも知らずにね――何も――」
エラリーは、そわそわと歩きまわっていた。
「こんなことを話していても、何の役にも立たないな。これ以上、現実を回避するわけにはいかないですよ。とうとう、どたん場に来ちまったんです。あなたにとって、自由な時間は、ぎりぎり、あと一、二時間ぐらいで――そのあとは、鉄格子の中ですよ」
「自首する決心が出来ていますわ」と、エヴァがささやくような声で「あのとき、警視さまが――あんなことをおっしゃったので、思わず逃げ出してしまったのよ。こわければ、だれでも逃げるじゃありませんか。警視さまを呼んで下さいな、クイーンさま」
「何を言うんだ!」と、テリーが長椅子から、どなった。「もう引っ返せやしないぜ――こうなったら、あくまで頑張るんだ。どんなことになるか分かりゃせんよ」
「奇跡でもおこるのでしょうか」と、エヴァが、おかしくもないのに、ほほえんで「あたし、何もかも、めちゃめちゃにしてしまいましたわ。あたしが触れた人たちはみんな……お母さまと同じよ、同じなんだわ」と、ひと息いれてから、急に「まるで呪いのようね。ばかげてるかしら。でも、あなた方を、みんな厄介な立場に引きこんでしまいましたものね。テリーさん。そして、あたしのお父さまには頭痛のたねになっただけ。クイーンさまには、あなたのお父さまに嘘をつかせてしまったし、それに――」
「いいかげんにしろ」と、テリーが、わめいた。そして、長椅子から立つと、エラリーについて、部屋を歩き始めた。ジューナが、台所の戸口の隙間から、どぎまぎして、みんなを見守っていた。ふたりの男は、各々勝手に、むやみにぐるぐる歩きまわっていた。霧にまかれてでもいるように。
「もう黙っててもしようがない」と、テリーがぶつぶつ言った。「エヴァさんは、あんたの手中にあるんだぜ、クイーン――おれもだ。目下のところは、な。すっかりお手あげのかたちだよ。どうやら、おれも金《きん》ピカじゃいられないわけだ。実は――」
エヴァは目をとじて、椅子の背によりかかった。
「聞いてくれ」と、テリーが「カーレン・リースが、おれに連絡をとって来たのは、一週間前の木曜日だ。あの女は、エヴァの母親のことを話した――ただ、母親とは言わなかった。頭の少しおかしい友達が一緒に住んでたんだが、『発作』中に、突然家から逃げ出してしまったなんていってた。それで、病人にけがでもあるといけないから、どうぞ見つけて、世間に知れないように、連れもどしてくれというたのみなんだ。どうもインチキくさいんだな。様子をきいてみると――そのブロンド女は、夜の間に、こっそりと行方をくらましたらしい。おれは一応しらべてみた。おれは怪しいと睨んだ。おれは変な事件にゃ手を出さないことにしてる。それで、リースって女に気付かれないように、あの屋根裏部屋に忍び込んでみさえした。うさんくさいと思われるものが、どっさりあったぜ。だが、おれは仕事を引き受けた――あの女は、警察の手をわずらわしたくないと、くどくど言うんだ――それで、おれは仕事にかかったんだ」
エラリーが足をとめて、腰を下ろし、たばこを吸った。エヴァは、大きな椅子に横になって、褐色の男の動きから目を離さなかった。
「なに、大してむずかしいこっちゃなかったぜ」と、テリーは、火のない暖炉にすいがらを投げ入れて「おれは、ブロンド女の足跡をつきとめ――ペン鉄道を使ったことを知って――フィラデルフィアに直行した。警察本部のオデルに当ってみると、連中は何も知ってないんだ。だが、ともかく、あとはお定りの――タクシーの運ちゃんさ――知れきった手さ。おれは、たえずカーレンに電話で報告してたが、おれがこの事件にひどく興味を持ってることは知らさなかった。事の真相を発見してやりたかったんだ。事件の全貌《ぜんぼう》をつかんでやろうと、肚をきめていたんだ――リースという女は何者か、マクルア博士との関係、エヴァとの関係――ところが、てんで、つかみどころがないんだ。
月曜日の朝、おれは、ついにあの女を見つけた。あの下宿屋でな。おれは、いたちばばあのおかみに見つからないようにして、下宿にはいりこみ、あの女の部屋へ忍び込んだ。そして、服毒自殺しているのを見つけたんだ」と、テリーは、ちらりとエヴァを見、目をそらして「本当に気の毒だよ、ねんねちゃん」
エヴァは、もう二度と感動などは味わえないような気がしていた。すっかり干いた、日にほしたひょうたんみたいに、心がからからで、がらんどうになってしまったようだった。
「おれには、女が劇薬自殺したもので、死後二日経過していることが、ひと目で分かった。何にも手を触れなかったから、書き置きは見なかった。そこでおれは思案した。このことをリースに知らせるべきかどうか、警察に通告すべきかと。結局、おれはニューヨークに舞いもどって、カーレンにぶつかり――その出方を見ることにしたんだ。全体の事件が、なんとも、変なんでね。それで、エスターの死を誰にも知らさずに、帰って来たのさ。下宿屋のおかみは、月曜日の夜おそく、偶然発見したにちがいないんだ。たばこを、もう一本くれよ」
エラリーは黙って、一本渡した。
「ニューヨークに帰って来たのは、月曜日の夕方さ。そのとき、おれは、カーレンが五時に、本部の刑事と会う約束をしてることを知ってたんだ。と言うのは、月曜日にカーレンがおれを首にしたとき、電話でそういってたからだ。そこで、最初はあんなに警察の手をさけていたカーレンが、すすんで警察にたのむからには、よほど、あのブロンド女のことが気になるんだなと睨んだ。そして、ニュヴァーシティ広場の薬屋から、カーレンに電話をかけたが、返事がない。おれは、他の者が誰も知らないことをつかんでるんだから、この事件に、何か|うまみ《ヽヽヽ》があるなら、一口のせてもらおうと思ったのさ」と、テリーは言い訳じみた口調で「おれの商売がどんなものか分かっとるだろう」
「すると、誰もその電話に出なかったんだな」と、エラリーが考えこみながら「つまり、カーレン・リースは、姉の死を知らずに死んだことになるわけだ」
「そうじゃないかな。ともかく、おれは、あの家に乗り込んだ。そして、エヴァを見つけたんだ」と、テリーは、また、むずかしい顔になって「この娘をたすけたあと、窮地におちたのはおれだ。おれは、エスターにはリースが殺《や》れなかったことを知ってる。エスターはリースが生きているうちに死んだんだからな。同時にまた、この娘には、出来るだけ長生きさせてやりたいと思ったのさ。フィラデルフィアのエスターの死体が、おれの手のうちにある切り札さ。この娘が泥沼にはまり込むと見たら、あの死体を持ち出して、本当の素姓を洗ってやるつもりだったんだ……いずれにせよ、しばらくの間はおれの思惑は当ってた。だがここに来て、おれたちは、どんずまりになっちゃったんだ。君のおやじが、屋根裏部屋のドアの一件を見つけちゃったもんで、何もかもおじゃんさ」
「それで全部かい、テリー、たしかに全部なんだね」
テリーが、相手の目の中を見て「これで、きれいさっぱりさ、クイーン。知ってることは全部吐いたんだ、なんとかしてくれ」
「おお、テリー」と、エヴァが言うと、テリーはそばへ行き、ふたりは見上げ見下ろした。そして、テリーが、かがみ込んで、おずおずと、きまり悪そうにエヴァを抱くと、エヴァが、しがみついた。
エラリーは坐ったまま、やけに、たばこをふかした。
十五分ほどして、エラリーが目を上げて「エヴァさん」と声をかけると、エヴァが、うっとりと、テリーの腕の中から、首を振り向けた。
エラリーは勢いよく立ち上って「エヴァさん。あなたがあの居間の長椅子で横になっているあいだ――つまり、叔母さんの死体を見つける前だが――寝室から何か音が聞えませんでしたか」
「あなたのお父さまも、それを、月曜日にお訊きになりましたけど。何もきこえませんでしたわ」
「たしかですか」と、エラリーは無造作に「よく考えてくださいよ、エヴァさん。動くけはいとか、とっ組み合いの音とか、叫び声とか、話し声の断片とか、なんでもいいが」
エヴァは眉をよせて、動く気配、とっ組み合い……
「手がかりがあるかもしれない」と、エラリーがつぶやくように「ひとつ穴があいてる。そいつをつかみさえすればな……よく考えてごらんなさい、エヴァさん」
エヴァの頭の中で妙なことが起こりかけていた――記憶のはてに、なんともいいようのない、しわがれた、妙な音がふるえながらかすかにひびいて来た。何だったかしら。何かしら。あたしが本を読んでいたときだわ……
「そうよ」と、エヴァが叫んだ。「あの鳥だわ」
テリーが、どもりながら「鳥だって?」
「あの鳥だわ。ガアガア啼いていたのは」
「おお、それだ」と、エラリーが言い、口にたばこを持って行く指が、かすかにふるえた。「琉球カケスだ!」
「今、思い出したんです。あのとき、なんていやな声――むざんな、腹だたしいような声――だろうとさえ思いましたわ」
「琉球カケス」と、エラリーは、いぶかしげにくり返していたが「あっ、そうか!」
「何だ?」と、テリーが、すかさず訊いた。「何が、あっ、そうかなんだ」エヴァもテリーもきっとなって、エラリーを見つめていた。
「今度の事件全体をとく鍵さ」と、エラリーが、気違いのようにたばこを吸いながら、歩きまわって「もしかしたらそうかもしれないぞ。たしか君たちのどっちかが言ったと思うんだが――いま、それを思い出せないが――犯行の直後、あの寝室にはいったとき、鳥籠が空《から》だったそうだね」
「たしかに空だったぜ」と、テリーが言いかけてから狐につままれたような顔で「そうか、あのいまいましい糞っ鳥が籠の中にいなかったのなら、いったい、どうしてエヴァに、その啼き声がきこえたんだ?」と、エヴァの肩をつかみ「それとも、鳥はいたのか? あんたが寝室にはいったときに鳥は籠の中にいたかい。おれがはいったときにはいなかったぜ」
エヴァが額にしわをよせて「たしかにいなかったわ。とびまわっているか、とび出したりしたら覚えてるはずだわ。それに、今、はっきり考えてみると、たしかに、あの鳥は籠の中にいなかったわ。そう、いませんでしたわ」
「畜生、抜かったな!」
「むろん」と、エラリーは少し声をたかめて「鳥が、実際にあの部屋にいなかったこともあり得る。外にいたのかもしれない。そして、エヴァさんに聞こえた声は……ちょっと待った」
エラリーは寝室に走って行き「エヴァさん、お宅の電話番号は?」エヴァが番号を教えると、受話機をとり上げ、ダイヤルをまわす音が聞こえた。
「もしもし――おお、そうか、マクルア博士を呼んで下さい」
エヴァとテリーは戸口に立って、いぶかしそうに、エラリーを眺めながら、不安を扼殺《やくさつ》し希望をしぼり出しそうな緊張した雰囲気を感じていた。
「マクルア博士、こちら、エラリー・クイーンです」
「娘が見つかったかね、クイーン君」と、博士がしわがれた声で訊いた。
「いま、おひとりですか」
「黒人女中のヴェネチアと、キヌメがいる。なんだね」
「そうです。お嬢さんは、僕のアパートにいます。さし当り、安全です」
「ありがたい」
エラリーが、せき込んで「僕の話をきいて下さい――」
だが、マクルア博士はいらだった声で「ちょっと待ってくれ。ドアのベルが鳴っとる。わしが、すぐ戻って来なかったら、この通話を切ってくれ。君の父君か、部下の刑事かもしれんからね。クイーン君、エヴァをたのむよ」
エラリーは電話台をこつこつやりながら待っていた。戸口では、エヴァとテリーが、そっと寄り添っていた。
「大丈夫だ」と、マクルア博士がほっとしたように「女中のオマラだったよ。警視が放免したので、約束の給金をとりに来たんだ」
エラリーの声が明るくなった。「そりゃ幸先《さいさき》がいい。引きとめておいて下さい、先生。それから、ちょっと、キヌメを出してほしいんですが」
エラリーは、キヌメを待ちながら、すばやく横を向いて二人に言った。「祈っててくれよ、二人とも。どうも虫のしらせで――」
キヌメが、笛のような声で、かすかに「もし、もし、お嬢さまがみつかったんですって」
「うん。いいかい、キヌメ。お嬢さんをお助けしたいんだろう、あんたは?」
「はい、お助けしたいです」と、キヌメが、あっさり答えた。
「よろしい。じゃあ、訊くことに答えるんだよ」
「お答えいたします」
「よく聞いて、じっくり考えるんだよ」と、エラリーは、分かり易い口調で、ひと言ずつ区切りながら、ゆっくり、しゃべった。
「月曜日の午後に、カーレンさんのところへ用箋を持っていったろう。あのとき、丁度、エヴァさんが、あんたの後から来るのを見たね。あんたが、カーレンさんの寝室へはいったとき、琉球の鳥は、籠の中にいたかね。そら、あの――琉球カシワドリさ。籠の中にいたかい?」
「カシワドリは籠にいました。たしかです」
その声は、まるでキヌメが、ごほうびにエラリーの天国行きを約束してくれるようにひびいた。エラリーは大喜びで顔をほてらせながら「もうひとつ訊くが、キヌメ。カーレンさんの死体が見つかったとき、どんな身なりをしていたかね。どうだい」
「キモノでした。時々、着物をお召しになりました」
「そうか。ところで、ここが肝心な点だが、あんたが用箋をとどけに寝室にはいったときの、カーレンさんの身なりは?」
「同じです。お着物でした」
エラリーはがっかりした様子で「屋根裏部屋のドアが開かなくて、カーレンさんが、あんたに用箋をとりに行かせる前は、どんな身なりだったかね」
「ああそれなら、あのときは、アメリカ式のお洋服でしたわ」
「ああ、やはりそうか」と、エラリーはつぶやくように「それは死ぬすぐ前のことだ。ほんの二、三分前には……」
エラリーは急いで電話に「でかしたぞ、キヌメ。さぞ、エヴァさんも感謝するだろうよ。じゃあマクルア博士に替わってくれないか……先生ですか」
「うん、そうだよ。どうだね、クイーン君。何か分かったかね」
「大収穫でした。キヌメのお陰です。ところで、よく聞いて下さいよ。これは電話では話せないことなんです。キヌメとジェニーヴァ・オマラをつれて、僕のアパートへ来ていただきたいんです。いいですか」
「何でも指示通りにするよ。それで?」
「大事な時です。用心して下さい、先生。必ず誰の目にもかからないようにして下さい。人目にかからずに、お宅を抜け出せるでしょうかね」
「裏手に通用口がある」と、博士が低い声で「それに、非常階段もある。どうにか出来ると思うよ。刑事たちは、わしを監視しとるだろうか?」
「ありそうなことですね。警察では、当然、エヴァさんがあなたに連絡をとるだろうと思っていますからね。よく、用心して下さいよ」
「うまくやる」と、博士が緊張して言い、受話器をかけた。
エラリーは待っていた二人の方を向いて「どうやらわれわれは」と、明るい調子で「玄人《くろうと》のいう大団円《デヌーマン》という奴、つまり、事件の重大段階にはいりかけているようだよ。そら元気を出すんだ、エヴァさん」と、娘の頬をそっとたたいて「さあ、君たちにはここでのんびりしていてもらおう、その間に、僕は居間で、少しばかり考えてみたいんだ」
エラリーは寝室を出て、後ろにドアを閉めた。
二十分ほどして、エヴァが寝室のドアをあけると、エラリーが閉じていた目をひらき、ほとんど同時に、ジューナが玄関のドアをあけた。エヴァは、少しはじらいの色をうかべ、その目は、ここ数日になく、健康的で、晴ればれとしていた。あとにつづくテリーは、おどおどした思春期の少年のような、ばか面をしていた。
「お父さま」と、エヴァが博士に駆けよった。エラリーが、外で待っていた二人の女中を居間に引き入れた。
「ジューナ、ドアをしめてくれ」と、エラリーがすばやくいいつけて「さあ、こわがらなくても大丈夫だよ、キヌメ。それから、あんたも、オマラさん。二人にちょっと訊きたいことがあるんだよ」
「なんだか知らないけど、何のご用なの?」と、アイルランド女が、不機嫌に口をとがらせて「先生がここへ引っぱって来たんだよ、まるであたしが――」
「心配することはないよ。先生、あとを尾行《つけ》られませんでしたか」
「危いもんだな。クイーン君、一体、なんだね。この三十分ほど、ひどく気をもたせて――」
「こいつがしゃべり出さない前にね、先生」と、テリー・リングが、しゃしゃり出て「実は、聞いてもらいたいことがあるんで――」
「誰にしろ、しゃべることがなんだろうと」と、戸口からクイーン警視が、きっぱりと「しっかり、うけたまわっとくぞ」
氷水を浴びせられたように、みんな、しゅんとなった。みんなは、現場をおさえられた犯罪の陰謀者どものように、縮みあがった。
やがて、エラリーが、いまいましそうに、たばこを投げすてて「悪いときに顔を出したもんですね」と、ぷりぷりして言った。
「お前とは、あとで話そう」と、クイーン警視は、思わず身をよせ合っているテリーとエヴァから目を放さずに「トマス、今度こそ、間違いなく、この二人に散歩させるなよ」
「させるもんですか」と、ヴェリー部長が、玄関の間から答え、アパートのドアをしめて、それに背をもたせかけた。
マクルア博士は、妙に恐縮した顔で、肘かけ椅子にへたばり込んでいた。「やはり、尾行されとったんだな」
「大丈夫よ、お父さま。かえって、この方がいいのよ」と、エヴァが、しっかりした口調で言った。
「わしらはずっと、裏口を見張っていたんですよ、博士。トマス!」
「はい」
「逮捕状は?」
「ちゃんと、ここにあります」と、部長が巨体を乗り出して来て、警視の手に書状を渡すと、後ろに引き退《さが》った。
「エヴァ・マクルア」と、老警視が書状をひらくと冷やかな声で、「わしは、あんたを逮捕する――」
「お父さん」
「わしは、あんたを逮捕する――」
「お父さん。その執行をする前に、僕はマクルア博士とひとこと話したいんです」
警視の顔は真青だった。「して、お前は」と、にがり切って「自分のおやじを困らせる、こんなことを仕でかしおって。考えてみろ。場所もあろうに、わしの家に、犯人をかくまったりして、わしは断じて許さんぞ、エラリー」
「マクルア博士とひと言《こと》話してもいいですか」と、エラリーが、おだやかに「いけませんか」
警視はせがれを睨みつけていた。それから、口ひげのはしをむやみに噛みながら、半分、からだを、横へねじ向けた。
「博士」と、エラリーが大柄な博士の耳へ「残されているチャンスはただひとつです――最後のチャンスですよ。言っておきますが、もし僕が間違っていたら、万事休《ばんじきゅう》すです」
「君が間違っとると言うのは?」
「間違っているか、いないかは、神様のお思召し次第ですよ。エヴァさんの大事な瀬戸ぎわです。一《いち》か八《ばち》か、僕に賭けてごらんになりませんか」
マクルア博士は、自分の手にかさなっているエヴァの小さな、静かな手を握りしめた。テリー・リングは、クイーン警視と、その後にいる人間山塊のようなトマスを、コブラのような凄い目を細めて睨んでいた。だが、テリーが、いくら気負ってみても、所詮、歯がたたないのが分かっていた。どちらを向いても、エラリーの方向だけは別だが、博士の眼に映るのは、降伏と、くじけた反抗の姿ばかりだった。
「もし、エヴァを救うことが出来るなら、君に賭けよう。とことんまで、尻押しする」
エラリーは大きく頷いて、父のそばへ行き「あなたは、この娘を、カーレン・リース殺しのかどで、あくまでも逮捕する決心なのですか」
「お前がかかって来ようと地獄の鬼どもが束になってかかって来ようと」と、警視がきっぱり「わしをとめられやせんぞ」
「どうやら」と、エラリーが、低い声で「えんま大王のお力をかりなくても、とめられそうですよ。とにかく、その逮捕状を破れば、あなた自身もマクルア嬢も、余計な悲しみをせずに済みそうですがね」
「その娘は、法廷で抗弁するがいい」
「あなた方は、前にも一度、失策をやらかすところを救われたじゃありませんか。お父さん、過ちは二度とくりかえすもんじゃありませんよ」
クイーン警視は、ひどくじりじりしながら、あごをしごいて「この娘が、カーレン・リースを殺したのではないと言うのか。すっかり証拠があがっとるのに」
「この女《ひと》は、カーレン・リースを殺してはいません」
「すると、お前は」と、警視があざ笑うように「誰が殺《や》ったか、知っとると見えるな」
すると、エラリーが、断言した。「そうです」
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第五部
二十二
「まだ時期尚早のきらいがありますがね」と、エラリーが「しかし、お父さんが、今すぐ行動をとると主張されるので、やむを得ず、僕も手をこまねいているわけにはいかないんです。論理的には、この事件にはただひとつの正しい解答しかあり得ません。あなたが、むやみに急がれるので、法的証拠はしばらくおいて、先ず論理的な証拠の方をとり上げることにしましょう」
「君にこの、はめ絵の正解が分かったら」と、テリー・リングが真剣な顔で「おれは、鑑札を返して、また野球にもどるぜ。エヴァさん、こっちへ来て一緒に坐ってくれないか。鳥の一件で、おれは、へたばったよ」
警視がヴェリー部長に目くばせして、ちょっと、意味もない合図を送った。それから、自分も腰を下ろした。ヴェリー部長も部屋にはいり、玄関の間の戸口にもたれて、耳を傾けた。
「僕が、とっぴな理論を、どっさり抱いていることを、あえて否定はしません」と、エラリーが、さらに別のたばこに火をつけながら「これは実に難解な事件でした。明かに両立しない、興味ある、不可解な、実に些細な事実が、どっさりあります。中枢的な状況を設定することは、事実上、率直に言って不可能です」
一同は身動きもせず坐っていた。
「この事件では、出入口の二つついている部屋が問題になっています――ひとつは屋根裏部屋に通じ、いまひとつは居間に通じるドアです。窓には鉄格子がはめられていて出入口として使うことは出来ませんし、部屋には構造上他に秘密の通路はないのです。しかも、屋根裏部屋に通じるドアは犯罪の行なわれたあとで、あの部屋の内側から閂がかかっていたことが分かっていますから、あの通路を通って、誰も逃げ出すことは出来なかったはずです。残るのは居間に通じるドアですが、これもまた犯行のあった期間、ずっとマクルア嬢が居間に坐っていたのです。そして、マクルア嬢は、居間を通り抜けた者は、だれもいないと、頑強に主張しておられる。たしかに、むずかしい状況です。しかも、マクルア嬢が居間に坐っていたときは、カーレン・リースは、まだ生きており、マクルア嬢が部屋にとび込んだときには、暴力によって死んでいたのです」
エラリーは表情を変えて「それについては見当違いの仮説が、いくつも立てられます。そのひとつは、屋根裏に通じるドアには閂がさしてなかったのに、テリー・リングが、さしてあったと言っているだけではないかという仮説です。僕は昨日、その点についてテリー・リングをしめ上げてみました。しかしそれは全く無意味でした。それに、キヌメの証言によれば、あのドアがひずみ、閂が動かなくなっていたそうです。いまひとつの仮説は、エヴァさんが、いかに主張されようと、事実あなたが居られた間に、あの居間を誰かが通り抜けたかもしれないという点です」
「でも、そんなことはあり得ませんわ」と、エヴァが大声で「はっきり申し上げますけど、誰も通り抜けませんでした。それに、あたしは、たしかに、ぐっすり寝込んではいませんでした」
「だが、仮に」と、エラリーがつぶやくように「あなたが催眠術をかけられたとしたらどうなりますか」
エラリーは、一同があっけにとられているのを楽しむかのように、ひと息入れてから、笑いながら「僕が催眠術など持ち出したのを責めないでいただきたい。エヴァさん、もしあなたが無実なら、それには何か合理的な説明がつかなければならないのです。催眠術をかけられたのなら、あの場合の現象の説明がつきます。だがこの仮説の唯一の難点は、あまりにも突飛であり、絶対にその証明が不可能だということであり――それに、全く、事実と違うことです」
マクルア博士が、ほっとして、ため息をし、また椅子に身を沈めながら「それが、君の説明でなくて、うれしい」
エラリーはたばこを横目でにらみながら「そこで頭に浮かんだのは、エヴァさんが叔母を殺したのではないという推定のもとに、考えをすすめて行くと、そこには、健全で、合理的で、まことに人の意表をつく仮説がひとつあるということでした。その仮説によれば、あらゆる点を説明し得るし、なにも空想にたよる必要はなく、実に簡単至極、今まで誰もそこに考えつかなかったのが不思議なくらいです。
まず、事実を見ましょう。エヴァ・マクルアは、カーレン・リースを殺し得た、ただひとりの人間で――物理的に唯一の可能性を持っています。色々な事実が、それを示しているように見えます。しかし、もし仮に――仮にですよ――エヴァ・マクルアが、カーレン・リースを殺さなかったものとしてみましょう。エヴァさんは唯一の物理的に犯行可能な人物ですが――もし、エヴァさんが無実であるなら、この犯罪はたしかに起こらなかったという見方が、事実なのでしょうか。ちがいます。他にも、カーレン・リースを刺して殺せた人物がいます」
一同は、おどろいてエラリーを見つめた。そのとき、テリー・リングが、失望の色もかくさずに、ぶつぶつ言った。「気違いざただ!」
「どうかね」と、エラリーが「カーレン・リースはわれとわが身を刺すことは出来なかったかね」
一台の自動車の警笛が、西八十七番街で、じれったそうにがなり立てた。しかし、クイーン家の居間では、時間が停止していた。みんなが、ことの意外さに茫然自失していたのだ。
やがて、警視が立ち上ると、顔を真赤にして、抗議した。「なんだと、殺人でなく――自殺だと!」
「まさに、その通りです」と、エラリーが応じた。
「だが、兇器は」と、老警視が叫ぶように「先のかけた、はさみの片われが紛失しとる点は、どうなんだ。自殺の兇器が部屋から失われとるのだぞ、断じて自殺なんかじゃない!」
「なぜ、われわれはつねに、自分で考えつかなかった事実を敵視するんでしょうね。お父さんは、紛失した兇器は、もともと部屋にあったものではないと見ている。だから、この犯罪は自殺でなく他殺だということになるのです。僕は、事実の示すところ、疑いもなく自殺だと主張するのです――それらの事実を、全部、お父さんは見落しているのです。そこで、紛失した兇器の件ですが、いずれ時がくるまで、しばらく、この議論はおあずけということにしようじゃありませんか」
警視が椅子にもどって腰を下ろし、しばらく、口ひげをつまんでいてから、やや、落ちついた声で「わしが見落としとる事実というのは?」
「そうこなくっちゃあ」と、エラリーは微笑して「その事実はですね。では、話を進めましょう。結論として、自殺を示すどんな事実があるかといえば、僕にいわせれば、五つあるのです――些細なものが三つ、主なものが二つ。主なものには、ごく些細な事実が、木の実のようにぶら下がっているのです」
テリー・リングは呆れてエラリーを見つめた。エヴァに腕をまわして、まるで自分の耳を疑うように、首を振っていた。マクルア博士は、少し前にずり出して、じっと耳を傾けていた。
「些細な方の諸事実は、比較的に薄弱です――ただ比較的に言ってですが、主要な事実と考え合わせると、なかなか有力なものになります。まず、薄弱な方から、とりかかりましょう。
第一に、われわれの知る限り、カーレン・リースが死という現実を前にして、自主的に何を行ったか、という点です。モレルに手紙を書きかけています。モレルはどういう男か。カーレンの弁護士であり、著作権代行者です。手紙の内容は? モレルに対して、海外からはいるべき印税の調査を指示しています。――「即刻、徹底的に調べ……即時支払い方を促進する」というのです。文面には、断固《だんこ》とした調子があり、決定的な要求が含まれ、まるで、「モレル、わたしの仕事をすべて清算するときが来た」とでも宣告しているようです。外国の著作権料というものは、ひどく、おくれがちなもので、はいっては来ますが、先方の御意《ぎょい》のままといった状態です。この突然の即時支払請求の理由はなんでしょうか。手ずまりだったのでしょうか。いいえ、カーレンは、あり余るほど金を持っていたのを、われわれは知っています。では、なぜこんなに急に取り立てようとしたのでしょうか」と、エラリーは設問《せつもん》して「あのひとが自分の仕事を清算しようと考えていたとしか受けとれません――月曜日の午後、自室で、死を目前にして、そんな要求を出すなんてね! 多くの自殺者が、自分の命をうばう前によく、そんなことをするものです。だが、むろん、こんなことは、断定的なものではないし、論理的にも単純で、とりたてて意味あるものとは言えません。しかし――これはひとつの芽です。この芽が、他の事実と結びつくと、有力にものを言うようになるんですよ」
エラリーは、ため息をして「モレル宛の手紙の次の文句――書きかけで終った文句――は、カーレンが死んだ今では、むろん推測の域を出るわけにはいきません。しかし、姉エスターに関することだったにちがいありません。おそらく、それまで秘密に隠しておいたエスターが、もし発見された場合の一切の処置を――カーレンはエスターが生きているものと信じて死んだことを忘れないで下さい――モレルの手に委ねるつもりだったでしょう。だが、そこで、手紙を丸めて書かずじまいでした――気をかえたか、あとはどうともなれと思ったかのようです……金のことも、姉のことも、秘密も、何もかも。どうです、ぴたりでしょう。自殺の仮定にぴたりと当てはまるでしょう」
エラリーはたばこをもみ消して「第三の点は、それだけでは決定的なものになり得ませんが、さきに言った主要な事実に結びつけてみると、なかなか意味の深いものになって来ますよ」と、エラリーの話に気をうばわれて、ぽかんと、片隅にうずくまっているキヌメのそばへよった。
「キヌメ、あの、はさみを覚えているかい――鳥の形の。そら、切る、はさみさ」
「はい、エスターさまが日本からお持ちになったの。あれは、こわれやすくて、いつも箱に入れてありましたです」
「いつも、屋根裏部屋に置いてあっただろう?」
キヌメが、頷《うなず》いて「最後に見かけましたのは、屋根裏部屋をお掃除したときでございます」
「すると、お前は、あの部屋を掃除したのか」と、警視が、ひとりつぶやくように言った。
「そりゃ、いつだったね」
「日曜日でございます」
「カーレンの死ぬ前の日だね」と、エラリーが満足そうに「そら、どうです。屋根裏部屋には、日本のはさみがあり、それはエスターのもので、階下《した》のカーレンの寝室には一度も持って来られたことはない。しかも、そのはさみは、犯罪のあったあとから、カーレンの寝室で見付かった。はさみを、屋根裏部屋から、寝室へ持って来られたのは誰か? エスターではない――現に、キヌメが日曜日に屋根裏部屋で、それを見ているのだし、エスターはフィラデルフィアで土曜日の夜死んでいるのです。してみると、カーレンが自分で、屋根裏部屋からはさみを持って来たという確率が強くなるわけです。たとえ、自分で持ち出さなかったとしても――キヌメに持ってくるようにいいつけたとしても(どっちにしてもたいして重要ではないが)――なぜ、そんなことをしたか。人殺しに手ごろな兇器を与えるためでなかったことはたしかです。また、はさみとして使うためでなかったのもたしかです――こわれていて役にたたなかったはさみですからね。僕の言いたいのは、カーレンが死ぬすぐ前、閂が開《あ》かなくなる前、わざわざ、あんな風変わりな道具を死の現場に持ちこんだのは、心理的に言って、自分で自分の命を絶つ目的に、それを使うつもりだったのだと、いうことです」
「だが、なぜ、あんな妙なもので」と、警視が訊いた。
「それにはそれなりの理由があるんですよ」と、エラリーが「僕にも今しがた分かったところです。しかし、さし当り第四の点に移りましょう。自殺を裏付ける、最初の有力な手がかりです。ちょっと前にキヌメが電話で僕に話したところでは、カーレンの死ぬ前に、キヌメが寝室を出たときには、あの琉球カケスは――僕を嫌ってガアガア啼いた鳥ですよ――籠に入れられて、カーレンのベッドのわきに吊ってあったそうです」
「そうか」と、老警視が、ゆっくり言った。
「そうだったんですよ。われわれは、特にこの件についてキヌメに質問することを思いつかなかったし、キヌメの方は、長年、口をとざしているようにしつけられているので、自分からすすんで情報提供者にはならないような人間ですからね。だが、犯罪のおこるちょっと前まで、鳥かごに入れて寝室に吊るされていた鳥が、エヴァさんが三十分後にはいって見たときには、鳥かごの中は|から《ヽヽ》で、鳥はいなかったのです。この点は、テリーも裏付けしています。みなさんにひとつお訊ねするが、だれが、あの三十分のあいだに、鳥を放したのでしょうか」
「鳥を放せたのは、カーレンだけだろうね」と、博士が、つぶやくように言った。
「そうです。カーレンだけです。カーレンが愛した小鳥を、束縛から解いてやったのです」
「だが、どうやって、部屋を抜け出したんだ」と、テリーが訊いた。
「簡単さ。鳥には自分で籠は開けられないのだから、カーレンが――あの部屋にはカーレンしかいなかった――開けてやったにちがいないさ。察するに、カーレンは鳥をとり出し、窓のところへ持って行き、二本の鉄格子の間をくぐらせて。出してやったものだろう。人間には、あの鉄格子はくぐれないが」と、エラリーが、ご機嫌で「鳥になら、くぐれる」
エラリーは、また、むずかしい顔になり「カーレンが、あのにくったらしいカケスを、ひどく愛していたことは――あらゆる証言が一致します。あの鳥は一度も籠から出されたことがないのです。みんなが覚えているかぎりでは、たった一度だけ逃げ出したことがあるが、そのときは、オマラさんが」――アイルランド女は、いっそう仏頂面になった――「二、三週間前のこと、キヌメさんの病気中に餌をやっていて、うっかりして、庭に逃げられてしまっただけです。オマラさん、水曜日に話してくれた通りに、そのときの模様を、もう一度話してくれませんか」
「なんのたしにもなりゃしませんよ」と、女中は、いまいましそうに「あのとき奥さんは、あたしの髪の毛を、すっかり、むしりとっちまいそうだったよ。ひどい奥さんでね。あたしを、くびにしようとしたんだよ。あたしは、もう行ってもいいでしょう。ここを出たいんだよ」
女中の言葉など耳にもいれずに、エラリーは「どうです、みなさん、お分かりでしょう。さて、これで、カーレン・リースが死の直前、いつも大事に籠に入れておいた鳥を、みずからとり出して、窓の鉄格子をくぐり出させたと考えていい、つじつまの合う理由がととのったわけです。鳥に自由を与えてやったのです。なぜ? なぜ人は熱愛する愛玩動物を自由にしてやるのでしょうか。その個人に対する愛玩動物の奴隷生活が終るからです。その個人の最期とともに、愛玩動物の奴隷生活も終るからです。つまり、カーレン・リースは、自殺しようと思っていたからです」
警視が指の爪をかんだ。
「さて、第五の、本当に、一番重要な点に移りましょう。それは、東洋化した西欧精神や、キモノや、床《とこ》や、宝石をちりばめたはさみや、のどの傷などが、交じり合っているものです。また、カーレン・リースのゆがめられた心が持っていたもののすべて、その疲れた肉体がなし得たもののすべてを、まぜ合わせたものです。そして、この点が承服できれば、それだけで、カーレン・リースの自殺が立証できると思うのです」
「証明してもらおう」と、警視がやきもきして言った。
「われながら立派な着眼点で――実にみごとに均整がとれていますよ。カーレン・リースとは何者か? さよう、肌は白かったが、下には黄色い血が流れていました。かなり長く日本に住み、深く日本の生活を愛したので、自身が半ば以上も日本人になっていました。ワシントン・スクェアでの暮しぶりをごらんなさい――日本の家具、美術品、装飾、すべて日本趣味のものにかこまれ、庭まで日本風でした。折りある毎に日本のキモノを着、日本の風習を愛していました――あの茶の湯の儀式をおぼえているでしょう。カーレンは、半ば日本風の家で育ち、日本人の友を持ち、日本人の女中を使い、父親の死後は、帝国大学で日本の学生を教えていたのです。ある意味では、あの女《ひと》は、日本精神への帰依《きえ》者でした――あの女が、精神的に、心理的に、西欧人と言うより日本人だったと考えて差しつかえありません。――事実、西欧人で日本に帰依した者の例はたくさんあります――たとえば、ご存知のラフカディオ・ハーンなどが、それです。
さて、もしみなさんがこの観点から、カーレン・リースを考えてみれば、その死の特殊な状況が何を示しているかくみとれるでしょう。カーレンは、日本のキモノを着、のどを掻き切って死んでいます。その兇器は、鋼鉄製で、宝石をちりばめた刃物ではありませんか。どうです? 死ぬ三十分ほど前に、普通の洋服を着かえて――キヌメが言った通り――キモノにしているではありませんか。かなり陰惨な死に方――のどを切るなどという方法を――カーレンが択んでいる点を、どう説明すべきでしょうか。なぜ、あんな特殊な兇器を使ったのでしょう――宝石をちりばめたはさみの片刃は、宝石をちりばめた短剣が手許にないとき、容易にその代用として思い浮べられるものではありませんか。では、その理由を説明してみましょう」と、エラリーは鼻眼鏡を振りまわして「これらの三つの要素――宝石をちりばめた短剣、のどを切ること、キモノ――は、昔から伝わる日本のハラキリの儀式に欠くべからざるものなのです。そして、ハラキリは、日本の伝統の自殺の方法なのです」
「ちがう」と、しばらくして警視が頑強に「ちがうぞ。そうじゃない。わしは、くわしくは知らんが、ハラキリというのは、のどを切ることではないように聞いておる。二、三年前に腹を切って自殺した日本人の事件があった。そのときに調べたのだが、日本人は大抵、腹を切るもんだ」
「そりゃ、日本の男だったのでしょう」と、エラリーが訊いた。
「そうだ」
「お父さんはまだ研究が足りませんね。僕は研究しました。日本の男は腹を切り開きますが、女はのどを切るんです」
「そうか」と、警視が、へこんだ。
「しかし、それだけでは、まだ足らないのです。ハラキリは、むやみにやっていいものではなく、やるには限られた特別な動機がなくてはならないのです。ハラキリは、全部、はっきり、名誉と結びついているのです。日本では軽々しく、ハラキリで自分の命を断つことは出来ないのです。不名誉なことをしたときにだけ許されるのです。この自殺の儀式は不名誉を雪《すす》ぐものなのです――少なくとも、論理的にはそういう筋合のものです。ところで、カーレン・リースの場合はどうでしょうか。雪《すす》がなければならない不名誉があったのです――姉の才能を盗んでいたのです。しかも、ちょっと上った床《とこ》で死んでいる――張り出し窓の前の上《あ》げ床《ゆか》の上で死んだ――これは、カーレンが、そこに日本式に正坐していたことを容易に想像させるものです。しかも、この点も、ハラキリ儀式の、いまひとつの条件なのです。いや、たしかに、これまでの五つの手がかりは、ひとつだけあるいは、ふたつを組み合わせただけでは――最後のものは別として――大して意味がないかも知れません。しかし、この最後のものが、他の四つの事実と結びつくと、この自殺説を無視し得ないほど有力になります」
一同は沈黙していた。
やがて、警視が叫ぶように「だが、確証がないし、証拠もない。証明もない。すべて仮説にすぎん。わしは、裏付けのない仮設だけで、マクルア嬢を放免するわけにはいかん。ものの道理をわきまえろ!」
「僕は理性的な人間なんですがね」と、エラリーが、ため息をした。
「ところで、カーレンが、みずからの命を断ったという、はさみの片われは、どこにあるんだ。紛失したままだぞ」と、老警視が立って、首を振りたてながら「エラリー、お前の言い分は、ものにならんな。なるほど、立派な理論だが、大穴があいとる。わしは、ちゃんと証拠の裏付けのある理論を持っとるぞ」
「では」と、エラリーが「紛失したはさみの片われが見つかり、その折れた刃先で、それがカーレンの死体のそばにあったものと確認されたとしても、ほかの条件が現在のままなら、自殺説を受け入れないと言うんですか。エヴァ・マクルア嬢が、ただ隣室にいたというだけで、殺人犯人だと確信するんですか」
「だが、死体のそばで兇器はみつからなかったじゃないか。わしの言うのは、むろん、本当の兇器のことで――マクルア嬢の指紋のついていた、はさみの片刃じゃない」
「あなたは物的証拠がほしいんですね」
「陪審がほしがるからな」と、警視は言いわけするように「いや、その前に、まず、地方検事がほしがるだろうさ。お前は、先ずヘンリー・サンプスン検事を満足させにゃならんよ、わしをじゃない」
それが、結論のように聞こえた。エヴァは、ぐったりと、テリーによりかかった。
「つまり」と、エラリーが低い声で「僕が二つのことをすりゃいいんですね。兇器が、なぜ犯罪の現場でみつからなかったかを説明することと、兇器のありかを突きとめること。もし、その両方を仕とげたら、満足しますか」
「そいつをやるというのかエル」
「あなたは、どこを探したのですか。もう一度、聞かせて下さい」
「あの場所を全部だ」
「いや、いや、いちいち場所を挙げて下さい」
「邸内をくまなく。何ひとつ見落さなかったぞ。地下室の方も洗った。むろん屋根裏部屋も、同様だ。それから、邸のまわりの地面も全部だ。兇器を窓から投げすてたかもしれんからな。だが、発見できなかった」と、鋭い目でエヴァを睨みながら「お前がなんと言ったって、月曜日に、マクルア嬢と、このやくざ野郎のテリーを放してやったのは、このふたりにとって、こっそり兇器を持ち出す絶好のチャンスを与えたようなものだ」
「それとも、兇器を邸の外の共犯者に渡したかもしれないというわけですか」
「そうさ」
突然、エラリーは笑い出して「あなたは、あの石ころのことを、真剣に考えたことがありますか」と訊いた。
「どの石ころだ」と、クイーン警視がゆっくり、訊き返した。
「あの石ころですよ。あの邸の後ろの庭の小路のへりからはずした、ごくありふれた庭園用の石ころです。犯罪のじきあとで、カーレン・リースの部屋の窓へ投げ込まれた、あの石っころです」
「どこかの子供が投げたんだろう」
「前に、おれもそう言ったぜ」と、テリーが言った。そして、警視もテリーも、きょとんとしてエラリーを見つめた。
「ところで、それらしい子供の足跡がみつかりましたか」
「そんなことは問題じゃない」と、警視が、面倒くさそうに「それとも、また、何か隠しとるのか」と、気みじかそうに「吐いちまえよ」
「先日」と、エラリーが「テリーと二人で実験してみたんです。リッターに訊いてごらんなさい。リッターは僕らを見て、気が違ったと思ったにちがいないんです。僕らは庭に立って、あの窓をこわしたのと、形も大きさも、そっくりな石ころを投げてみたんです。こわれた、あの張り出し窓を目がけてね」
「どうして?」
「それはです。ご存知のように、テリーは元、プロの野球選手で、プロの投手です。投げるのはうまいもんです。テリーの投げるのを見たんですが、絶妙のコントロールで――実に完全に近い腕前です」
「よせやい」と、テリーが、うなるように「おれに一席ぶたせようってのかい。その先《さき》! その先!」
「テリーは」と、エラリーは平然として「僕の言いつけ通り、カーレン・リースの寝室の窓の鉄格子をくぐらせようと、六回も石ころを投げました。ことごとくしくじりました――石ころは鉄格子に当って、庭に落ちたんです。実際問題として、テリーはそれ以上投げる気がなくなり――少し頭のある人間なら、長さ五インチ、幅三インチの石を、わずか六インチの隙間しかない二本の鉄格子の間をくぐらせることなんか出来ないぐらいのことは分かる、と言ったものです――しかも、足許の悪い場所から、上向きに、地上から二階の窓へぶつけようというんですからね」
「うまく、当ってるじゃないか」と、警視が「テリーに出来るかどうか知らんが、ちゃんとやれたことは、証明されてる」
「しかし、あれは、やろうと思ってやったんじゃないですよ。テリーの言う通りです。あの鉄格子の隙間が、あんなにせまいのを見れば、だれだって、少し頭のある者なら、投げようとさえしませんよ。しかも、やったとすると、なぜやったのか? 誰かしらないが、なぜ、庭からあの部屋へ石ころを投げ込まなければならなかったのか? 人の注意を惹くためではなかった。人の注意を惹くからにはそれ相当の異変があるはずなのに、あの場合、何も異変はおこっていない。また、誰かに石をぶつけるためでもなかった。それには、石ころをあの鉄格子の間をくぐらせて投げなければならないので、まずまず見込みがないからです。また、通信を送るためでもなかった。石ころには何も通信物が結びつけてなかったからです。
いいですか、お父さん。これだけは、あなたも認めざるを得ませんよ。つまり、あの石ころは、カーレン・リースの窓をこわすつもりで、投げられたんじゃないんです。全く偶然に、鉄格子をくぐり抜けて、部屋にとび込んだのです。あの石ころは、断じて、カーレン・リースの窓をねらって投げられたものではないんです」
みんなが、全く分からないという顔をしているので、エラリーは、にやにやしながら「あの石ころが窓を目がけて投げられたものでないとすると、一体、何を狙ったのでしょうか? 窓のそばのもの、ごく近くのものをねらったものにちがいないでしょう? はたして、そんなものがあったでしょうか。あったんです。カーレン・リースは死ぬ間際に、琉球カケスを、窓から逃がしてやったじゃありませんか。すると、外に出た琉球カケスが、おそらく窓の付近にいたにちがいありません。長く家の中で飼われていたから、家をはなれられなかったのでしょう。かりに、あの鳥が張り出し窓のすぐ上の切妻《きりつま》に飛んで行って――つまり、屋根のへりに――とまっていたとしたら、どうでしょう? 考えてもごらんなさい。だれかが、庭から鳥をねらって石ころを投げたが、石はとどかず、偶然にも部屋にとびこんだ。そんなこともあり得ると考えられませんかね」
「だが、そんなことが、このさい何の役に立つというのかね……」と、マクルア博士が、全く呆れたといわんばかりに、言いかけた。
「まあ考えてみましょうよ」と、エラリーは、のんきそうに「二、三週間前に、オマラさんが、うっかりして、カケスを逃がしたことがありましたね。そのとき、リースさんが、オマラさんの不注意を、こっぴどく叱りつけたということです。ここで、推測を、もう一歩すすめてみましょう。オマラさんが、あの月曜日の午後、庭にいて、不意に、あのカケスが切妻か、張り出し窓のてっぺんの外側に、とまっているのを見たとしたらどうでしょう。オマラさんとしては、なんと言い分けしようとも、二度も鳥を逃がした責任をとらされるにちがいないと、すぐ思ったことでしょうよ。だから、こわいリースさんに見つからないうちに、なんとか、鳥をつかまえて、サンルームの鳥籠へ返しておこうとするのは、ごく自然のことではないでしょうか。ところが、あの厄介な鳥は高みにいて、とても手がとどかない。そこで、小路のへりの石ころをひろって、鳥をめがけて投げつけ、おどろかして飛び下りさせようとした、そう考えてみるのも、むずかしくはないでしょう」
一同が目を向けると、アイルランド女は、ひどくおびえた顔をしていたので、エラリーの想像が的を射ていることが分かった。
オマラは、憎々しく首をもたげて、くってかかるように「分かったわよ。どうしたってのさ。ちっとも悪いことはないじゃないのさ。なんだって、みんな、そんな目であたしを見るのさ」
「あのとき、窓ガラスがわれたので、こわくなり、家のかげに身をかくしたんだろう?」と、エラリーが、やさしく訊いた。
「そうだよ」
「それから、もう大丈夫だと見きわめて、また出て来て、カケスが無事に庭で餌をつついているのを見つけ、つかまえて、サンルームの鳥籠に返したんじゃないかい」
「そうだよ」と、オマラがつまらなそうに答えた。
「ごらんなさい」と、エラリーがため息をついて「これは、琉球カケスが、犯罪の直前に二階の寝室の籠から姿を消したこと、犯罪の直後に階下のサンルームに姿をあらわしていたこと、この二つの事情を説明するための、事実の再現にすぎないのです。そして、この結論は、例の妙な投石事件を煮つめてみた結果なのです」
警視が苦い顔で「だが、そんなことが、紛失したはさみの片刃に、どんな関係があるんだ」
「いいですか」と、エラリーが無造作に「鳥が家のてっぺんにいたことは立証されたでしょう?」
「何を言っとるんだかさっぱり分からんぞ」
「つまり、その鳥が、カーレン・リースのカケスだったという点が肝心なんですよ。カケスという鳥は、とても盗癖《とうへき》があるという事です。あの琉球カケスも、ご多分《たぶん》にもれず、色あざやかなものには、本能的にひきつけられただろうと思うんです。カーレンに思いがけない自由を与えられたカケスは、その新しい境遇になじめないで、元の女主人のもとに帰ろうとしたにちがいない。おそらくは、窓のふちにとまり、翼をたたんで、二本の鉄格子の隙間をくぐり抜け――窓は下から押し上げて開けてあったのを覚えているでしょう――そして、カーレン・リースが自分の血に染まって倒れていたあの床に飛び下りたでしょう。そこには、先の折れた、はさみの片刃が、血まみれになって、カーレンの手のそばにころがっていました。柄と握りに、宝石まがいの石がちりばめられてある、はさみの、キラキラ光るのにひきつけられて、カケスは、強いくちばしで、その『軽い』兇器をくわえると窓わくへとび上がり、格子を抜けて外へ出たんでしょう。注意しておきますが、はさみの片刃の長さは五インチですが、格子の隙間は六インチあるのです。外へ出た琉球カケスはどうしたでしょう? カケスやカササギ類の血の本能にしたがって、その魅力あるめっけものの隠し場所をさがしたことでしょう。ところで、このカケスは、前はどこにいたんでしたかね。邸の屋根かその近くに、とまっていたんでしたね」
エラリーは、くすくす笑って「あなたは、邸の中、邸のまわり、いわば、邸の下の方は捜査したけれど、邸のてっぺんは捜査しなかった。そら、これで、全部の筋が、ぴったり合います。もし紛失中のはさみの片刃が、屋根裏部屋の切妻の上か樋《とい》の中にころがっていたら、僕の言い分が正しく、あなたが間違っていたことになりますよ」
こりゃ大変な賭だと、マクルア博士は、沈痛な気持で考えた。賭けの結果が、どんなものか、博士には、今では、はっきりのみ込めたのだ。エラリーの推理の糸筋は、精妙で緻密《ちみつ》で、すべて本当のように思われる――だが、本当だろうか? その当否を語るのは屋根だけだ。そしてもし、屋根が当てはずれになれば……博士はエヴァの手を握りしめ、エヴァも震える手で握り返した。だれひとりとして、一言も言葉を発する者はなかった。みんな、エヴァの安否のかかっている糸が、いかに、か細いものであるかを、胸苦しいまでに悟っていた。
警視が顔をしかめて「お前の言う場所で、兇器が見つかれば、事件の見方が変わってくることは、わしも認める。だが、たとえそうだとしても、この娘が叔母を殺してから、自分で鳥籠から鳥を出し、はさみの片刃を持たせて、格子をくぐって飛び立たせたかも知れんじゃないか。その点を説明してみろ」
実に驚くべき着想だったので、博士、エヴァ、テリーの三人は、いっせいに、はっと緊張した。
しかし、エラリーは、首を振って「そんなことをするマクルア嬢の動機は?」
「兇器を処分するためさ」
「ああ、しかし、もしマクルア嬢がカーレン・リースを殺したのなら、自殺に見せかけようとするのが、一番いい考えじゃなかったでしょうかね。しかも兇器を処分することで、どんな結果になったでしょう。現にいま起こっているような始末になります――事件は殺人のように見え、自分自身を唯一可能な犯人に仕立ててしまうことになるんですよ。いや、お父さん、そいつは筋が通りませんね」
警部は負けて、うなった。
「僕は幸運にめぐまれることを願いますよ」と、エラリーが静かにつづけた。「さいさきのいいことには、事件以来雨が降っていませんからね。もし、カケスがあのはさみの片刃を、雨樋のようなものの陰に落しといてくれれば、まだ指紋を残しているかもしれません。一番おそれるのは露の影響です。しかし、もし兇器がさびていなければ、マクルア嬢の無実は、決定的に証明されるでしょう」
「カーレンって女《やつ》の指紋が出るぜ」と、テリーが叫んだ。
「そう、あのひとのだけがね。そして、もしそれが分かれば、お父さんだって、カーレン・リースの自殺説に対する、最後の疑問を解消することを認めざるを得ないでしょう」
警視は、憂鬱そうに警察本部に電話した。そして、むっつりしながら、二台のタクシーを呼び、一行を下町のワシントン・スクェアのリース邸へ連行した。
一行が着いたときには、本部から二人の男が来て待っていた――指紋係りだった。
ヴェリー部長が、近所から長い梯子《はしご》を見つけて来た。エラリーが庭から、傾斜した屋根によじ登って、すぐ目についたのは、キラキラ光る紛失中の先の折れたはさみの片刃だった。それは、カーレン・リースの部屋の張り出し窓の、ほとんど、すぐ上の半分かくれた雨樋の中にころがっていた。
エラリーが身を起こして、血痕のある兇器を握ってみせると、下から、テリーが途方もない大声で叫んだので、危うく、エラリーは庭へころがり落ちそうになった。ひとかたまりになって首をのばして庭にいた連中の中でエヴァがマクルア博士に抱きついて、ヒステリーじみた大歓喜の叫びをあげた。
指紋係りは、錆どめのしてある金属のいたるところから、はっきりと、まぎれもないカーレン・リースの指紋を検出した。他の者の指紋はひとつも出なかった。最後に念のために、ひとりが、カーレン・リースののどもとからとり出した、小さな三角形の銀色の鉄片を、折れたはさみの片刃の先に当てがってみると、ぴたりと合った。
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二十三
金曜日の夜、マクルア父娘《おやこ》は、テリーの案内で、東五十番台の通りにある、いきな料理店に連れて行かれ、テリーがばか正直にも「イースト・サイドの匂いがしない」と言う、夕食をとった。
三人とも、ぐったりしていて、受け答えだけでろくに会話もはずまずに食事をすました。博士は疲れた顔だし、エヴァは全く憔悴《しょうすい》していた。
「あんたのことだがね」と、やがて、テリーが「休養がいるぜ。気分をかえるのさ。休暇もいいな。なんとかして事件を忘れるようにするのさ。これでさっぱり。あのパーク・アヴェニューの奴と、結婚できるんだぜ」
「まだエヴァが言わなかったかな」と、マクルア博士が、間もおかずに「スコットの婚約指輪は返してしまったのだよ」
「まさか」と、テリーはフォークを置いて、びっくりして「へえー、何んだってそんなことを」と、いっそう目をむいて見つめた。
エヴァが赤くなって「あれは間違いだったのよ、結局」
「そうかねえ」と、テリーは口ごもりながら「そりゃ凄い――いや、気の毒だったな」と言い、いきなりフォークをとると、がむしゃらにヒレ肉を平らげはじめたので、マクルア博士は思わずナプキンで微笑を隠さずにはいられなかった。
「クイーンさまは、どうして、いらっしゃらなかったの」と、エヴァが急いで、話題を変えた。「頭痛がするとか、なんとかでね」と、テリーが言い、侍《はべ》っている給仕が、びっくりするほど威勢よくフォークを、ほおり出して「なあ、べっぴんさん。どうだいおれたち……」と、言うと、またフォークをとり上げて「止めたっと」
「どうかね」と、マクルア博士が立ちながら「君たち、ふたりで、とっくりやったらよかろう。わしは帰らしてもらうよ」
「駄目よ」と、エヴァが大きな声で「行かないで頂戴、お父さま」
「いや、本当に勘弁してくれんか」と、博士が「実は、今夜、クイーン君と会うことになっとるんだ。クイーン君の尽力に対して、わしは、まだろくにお礼もしとらんのでね」
「じゃ、あたしもご一緒しますわ」と、エヴァもテーブルから離れかけて「あたしが、だれよりもお世話になったんですもの」
「あんたはここにいるんだ」と、テリーが、エヴァを引きもどしながら、大声で「旦那は、行っていいぜ。こっちは、おれが引きうける」
「お父さま」と、エヴァが情けない声を出した。
だが、マクルア博士は首を振って、ほほえみながら出ていった。
「なあ」と、テリーが、テーブル越しにのり出して、熱っぽく「おれは大したもんじゃないのを――心得てるよ。だが、あんたが――」
「かわいそうだわ、お父さま」と、エヴァが「本当に参ってらっしゃるようよ。今度の心配と苦労で、十年は年をとったようね。今夜は、昨日よりずっとげっそりしたお顔で、お父さまは――」
「大した旦那だ」と、テリーが元気に「それに、気が利いてらあ! おれたちは、うまくやってけそうだぜ。エヴァ、あんたは――」
「お父さまが心配だわ」と、エヴァは眉をしかめて、料理をつつきながら「お父さまは、また、すぐに研究室のお仕事に、とびこむつもりなのよ、気違いのようにね。あたしには分かるわ。本当は、もう一度、お休みになるといいのにね」
「おれと、あんたと、おやじさんとでさ」と、テリーが大声で「みんなで一緒に行けるぜ」
「あら、それ、どういうこと?」と、エヴァが目を見ひらいた。
「つまり――みんな一緒ってことさ――なあ」と、テリーが、どなるように「まず手はじめに、パーク・アヴェニューまで、ひとっ走りしてさ。お前を振った、とんちき野郎に一発くれてやらあ」
「テリー!」
「ああ、分かったよ。そんなら止めとかァ」と、テリーが不服そうに言った。褐色の顔が、がっかりしたように歪《ゆが》み、深くひと息入れて、また、前へのり出し「エヴァ、どうだい、おれと、あんたとが――」
「|失礼いたします《パルドン》」と、強わばった声が、ささやいた。ふたりが目を上げると、給仕頭が立っていた。
「|失礼いたしますが《パルドン》、旦那様《ムシュー》、|もう少し《メーヴウ》|お静かに《フェートツロデュ》、|どうぞ《ブリュイ》」
「え?」と、テリーが、ぽかんとした。
「旦那様《ムシュー》、おねがいいたします」
「あっちへ行ってろ、ラファイエット〔フランス野郎という意味合い〕」と、テリーが言って、エヴァの手をとり「ねえ、あんた、おれの言うのは、つまり――」
「このひとは」と、エヴァが身をひきながら、細い声で「あなたが、騒々しすぎると言いに来たのよ」
「|旦那さま《ムシュー》が、もう少しお静かに、おねがい出来ませんと」と、給仕頭は、いっそう強《こ》わばった声で「あれにたのんで、お立ちを願うことになりますです」
テリーが、じろりと目を上げ、それから、平然として、エヴァに「そこに、じっとしてな」と、立ち上がって、身構えているフランス紳士と面《つら》つき合わせて「手前の言い分は」と、いやに、おとなしい声で「このごみためで、あんまり、音をたてんなというのかい」
給仕頭が一歩たじろいで「フィリッペ! アントワーヌ!」と呼ぶと、二人の大きくて、たくましい給仕《ギャルソン》が、やって来た。「お嬢さまと、お伴れさまを、お送りしなさい」
「引っこんでろ、アントワーヌ」と、テリーが言った。
あたりが、しんとなり、店中の人々がぎょっとして、目を見張った。エヴァは、熱くなったり、寒くなったりした。もう少しで、テーブルの下にもぐりこみそうになった。
「よして、テリー」と、ささやくように「場所がらをわきまえてよ――おねがい、よして――」
「やれ! アントワーヌ」と、給仕頭が、じりじりして言った。
アントワーヌが褐色の拳でテリーに打ちかかった。テリーがちょっと身をかがめ、エヴァは目を閉じた。どんなことになるか分かっていた。なぐり合い、高級料理店で。テリーはここをどこだと思ってるのだろう――きっと新聞種になるわ……不幸つづきのあげくのはてに!
「待ちなよ」と、変な声でテリーの言うのが聞こえたので、エヴァは急いで目をあけた。
テリーは哀願せんばかりに、アントワーヌの拳に、つるさがり、たらたらと汗をたらして「おねがいだ、アントワーヌ」と、言いにくそうに唇をなめながら「お前――女に惚れたことが、ねえんだろう」
アントワーヌが、どきもを抜かれた。そして、給仕頭を見やった。給仕頭は青くなって、ふるえ声で「|旦那さま《ムシュー》は、ご気分が悪いのだろう。早くお医者さまへ――」
「恋だよ、恋さ」と、テリーが感動した声で「恋がどんなもんか知ってるかい、おい。惚れることさ。このゴキブリ野郎奴。|LOVE《エルオーヴイイー》さ」
「気違いだ」と、アントワーヌが、おそるおそる後退しながら、つぶやいた。
「そうさ、気違いさ」と、テリーが長い両手をふりまわして叫んだ。
「かわいい娘《こ》にプロポーズしようと思って、夢中になって、くよくよ考えてるうちに、あいつときたら、おれが騒がしすぎるなんて言やがって」
エヴァは、火あぶりになったジャンヌ・ダルクがどんなに辛かったろうと思った。頬が真赤になって燃えるようだった。こんな恥かしい目にあったことは一度もない。店中の連中が、ワァーッとはやし立てた。みんなげらげら笑った。給仕頭さえ、やれやれと胸なで下ろして、にやにやした。
「あなたって、きらいよ」と、エヴァは息をとぎらせて、とび立つと「もう、ごめんだわ」
エヴァは四方八方から歓声を浴びせられながら、逃げ出した。悪夢を見ているようだった。いったい、どうしたんだろう、テリーは――本当に――本当に――
しかし、店の外の天蓋の下のゴムの敷物の所まで来るか来ないに、思いもかけず、テリーが目の前に立っていた。
「きいてくれよ、ねんねちゃん」と、テリーがひきつれる声で「おれと結婚して、このみじめさを救ってくれよ」
「おお、テリー」と、エヴァは涙ぐみながら、テリーの首を抱いて「あたし、とても幸福よ。あんたって、ばかねえ。あんたがとても好きよ」
後ろで、熱狂的な拍手がするので、ふり向くと、店の入口に鈴なりになった連中の先頭で、給仕頭が、ふたりに向かって、いんぎんに挨拶していた。
「|バンザイ《ヴィヴラフランス》!」と、テリーが、かすかに言って、エヴァにキスした。
マクルア博士が、ドアのベルを押すと、ジューナが出て来た。最初、驚いたような顔をし、それから、怒ったような顔をし、しまいに諦めたような顔をした。ジューナは、事件が解決するたびに、帽子を手にして、この戸口に現れる連中には、毎度のことで慣れていた。
「いらっしゃい」と、エラリーがゆっくり言って、暖炉の前の肘掛け椅子から立ちながら「どうぞ、マクルア博士」
「お手間はとらせたくない」と、マクルア博士が「わしは、まだ、ろくろくお礼も言わなかったのでな、むろん――」
「ああ、そんな」と、エラリーは、弱ったなという様子で「おかけ下さい、先生。おやじは本部で、事件の最終手続きを片付けてから、新聞記者どものご機嫌をとりむすんでいます。それで、僕は所在のないところでした」
「テリー君の話だと、気分がすぐれないとかいうことだったが」と、博士が訊いて、すすめられたたばこをとり「反動だろうな。実にすばらしい推理だったからね。顔色がすぐれないようだな。気分はどうだな」
「ぱっとしないんです。妙ですよ。でも、あなたも、すっかり、おやつれになったようですね。おどろくほどです」
「おお、わしかね」と、博士はたばこをくわえたまま、肩をしゃくって「そりゃ、わしだって生身だからね。人間、いくら面の皮が厚くなったところで、それを突き破るものはあるよ。そのひとつは、自分が愛している者にふりかかる危険だね。別のひとつは、ショックだよ――エスターがこの世にいたということ、生きているうちに捜し出そうとして、結局は、死んでからみつかったということ、それに」と、静かに言い足した。「カーレンのこともあったし」
エラリーは、うなずいて、火のない暖炉を見つめていた。博士は、ため息をして、立ちかけると「まあ、そんなことは、言うまでもないことだが――」
「先生、腰を下ろして下さい」
マクルア博士は不審そうにエラリーを見た。
「お話しなければならないことがあるのです」
大男の腕が、宙でとまったきりになり、その指先で、たばこがくゆっていた。
「何か問題でもあるのかね、クイーン君」
「ええ」
博士は、また、腰を下ろした。やつれた、ずんぐりした顔に、不安の色が戻り、眉が寄った。
エラリーは椅子を立って、炉台のそばへ行き「僕は、ひるから夕方まで、ずっと考えていて、ほとんど椅子も立たなかったんですよ……たしかに、問題があるんです」
「重要なことかね」
「きわめて重要です」
「まさか」と、博士がゆっくり「カーレンが、本当は自殺したのじゃないと、言うんじゃあるまいね」
「おお、あれは、たしかに自殺したんです」と、エラリーは、炉台の上の壁に斜め十字にかけてあるサーベルを横目でみながら「そこのところはたしかにそれでいいんです」
「すると、どういうことかね」と、大男が、椅子からとび上って「君はまさかエヴァについて――まだ、あれが何か」
エラリーはくるりと振り向き「先生、この事件には、まだ全然、手を触れていない面が、二、三あります。なんとしたって、まだ解決してはいないんです。おやじの――警察関係の仕事に関する限り、決着はついていますが――それだけでは充分とは言えません。僕は、おそろしく難解な問題を抱えこんでいるんですよ――今までの経験で、一番難解なやつです。正直言って、どうなるか、見当もつかないんです」
博士は当惑顔で、椅子にもどり「だが、エヴァには関係がないし――カーレンは自殺だ――ということになると――何のことかわしにもさっぱり見当がつかんよ――」
「本当によく来て下さいましたね。たしかに、人間の関係には全く物質では測り得ぬ|あや《ヽヽ》があるようですね」と、エラリーは鼻眼鏡をはずして、放心したように玉を拭きながら「来て下さったおかげで、困難のいく分かが解消します。少しぐらいおひまがおありでしょうか、先生」
「むろんあるとも。用があるかぎりはね」と、大男は、むさぼるようにエラリーを見守った。
エラリーは台所へ行って「ジューナ」と呼ぶと、ジューナがびっくり箱の人形のように、とび出して来た。
「映画を見に行きたいだろう」
「さあね」と、ジューナが不審そうに「この辺の映画はみんな見ちまったんです」
「行けば、きっと、何か見るものがあるさ」と、エラリーは、少年の手に札《さつ》を押しつけた。ジューナは目を上げ、ふたりの目と目が合った。
やがて、ジューナが「そりゃ、そうかも知れません」と言い、すばやく戸棚へ行って帽子をとり出すと、アパートから出て行った。
「それというのが」と、エラリーは、ドアが閉まるとすぐに「僕は異常なジレンマに落ちているんですよ。僕が知っていて、おやじの知らないある事を、おやじに話そうか、話すまいかと迷ってるんです。なにしろ、微妙な点を含んでいて、普通のやり方では処理できないものですから、ご無理をおねがいして、あなたに助けていただこうという寸法なんです」
「だが、わしがどうしたら助力出来るのかね、エラリー君。要するに、何かエヴァに関係のあることなのかね」
エラリーは腰を下ろして、ゆっくりとたばこを吸いつけ「僕は事のはじめからお話しますが、最終的な決定の段になると、ありきたりの結論では通用しないのです。僕が結論を出すわけにはむろんいきません。あなたに結論を出していただかなければならないのです。そして、僕はあなたの助言に従って事を運ぶつもりです。――事件を、今夜の時点で、正式に解決したものとするか、あるいは、明日また、むし返して、ニューヨーク中をあっといわせるか」
マクルア博士は青ざめた。だが、しっかりした大声で「わしは、人間の耐え得る、ほとんど、あらゆるショックに耐えて来たのだから、まだまだ別のショックにも耐えられると思うよ。話してくれ給え、クイーン君」
エラリーは部屋着のポケットから折りたたんだ紙片をとり出した。博士は静かに、エラリーがそれをひらくのを待っていた。
「これは」と、エラリーが「フィラデルフィアで、自殺された御義妹、エスターさんの書き置きを父のところで筆写したものです」
「それで?」と、博士がぼんやりと言った。
「むろん、現物はおやじが持っています。早速、言っておきますが――あの書き置きの筆者については何も問題がありません。筆跡は鑑定の結果、エスターさんのものであることが確認されて、それに、疑問の余地はありません」
「ところで、今となっては、もちろん」と、エラリーが、夢みるような声で「カーレン・リースが自殺したと言う観点に立って、この書き置きの読み方に、多少の修正を加えなければなりません。われわれは最初、エスターさんが自分を殺人犯としているくだりを、てっきり、カーレン・リースを殺したものと、とっていました――つまり、カーレン・リース殺しを告白したものだと。ところが、もし、カーレン・リースが自殺したとすると、明らかにエスターさんには、カーレンが殺せるはずがなかった。またカーレン・リースが自殺したのではないとしたところで、エスターさんが死んだ時には、まだカーレン・リースは生きていたのだから、やはり、エスターさんには、カーレン・リースを殺すことは出来なかったはずです。それに、エスターさんが書き置きを書いたときには、カーレンさんは生きていたのだから、カーレンさんの死について、エスターさんが自らすすんで責めを負うはずもないのです」
「むろん、エスターはわしの弟の死について言っているので、カーレンの死についてではないだろう」と、博士が頷きながら「明らかに、エスターは自分の命を断つまで、自分がフロイド殺しの犯人だと思い込んでいたらしい」
「そうです。疑いもなく、そうです。あのひとの古い恐怖症です。ところが、それが、今では、深い意味を持つことになるんです。と言うのは、この事件全体を通じて、最も不可解な点のひとつが、それによって、完全に回答を与えられるからです――正確に言って、いったい、カーレン・リースは、エスターさんの、どんな弱味を握っていたのでしょう。なにしろ、エスターさんは、妹によるあんなひどい搾取の生活に甘んじていたんですからね――……自分を死んだように見せかけておくことにまで同意するほどの」
博士は眉をしかめて「分からんね――」
「それはすべて、最も狡《ずる》い、病的な邪心の所産ではないでしょうか」と、エラリーが「あなたご自身で、十七年前のエスターさんの妄執の深さに驚いたと言っておられましたね――あらゆる、はっきりした反対の証拠があるにかかわらず、あのひとは、あくまでもあなたの弟さんを殺したものと思い込んでやまなかったそうですね。しかし、もし僕が、こんな風に説明して差し上げたら、エスターさんの妄執の原因がお分かりなるんじゃありませんか。ここにひとりの頭のいい破廉恥な女がいて、エスターさんを治療する手段は何ひとつ講じないで――かえって、故意に弟さんを殺したのだとささやきつづけ、気の毒な、苦悩にみちた、もだえる魂に働きかけて、遂には、夫を殺したのは自分だと、エスターさんに信じこませてしまった」
博士は呆れてエラリーを見守っていた。
「それで、何もかも説明がつきます」と、エラリーが、憂鬱そうに「それで、エスターさんが自分の子を手放すことになぜ乗り気だったかも説明がつきます――心根のやさしいエスターさんにとって、娘がいつかは、自分が人殺しの娘であることを知るだろうと思うと、とても耐えられなかったでしょうからね。エスターさんが、あなたに向かって、エヴァさんを養女にしてアメリカに連れて行って、両親のことは知らせずに育ててほしいと、どんなに切望されたかは、あなたご自身からうかがいました」
「そうだったか」と、博士が低い声で「カーレンも、それをすすめた」
「もちろんですよ。それはもともとカーレンさんの考えだったに違いありませんからね。実にひれくれたひとだったんです。疑いありません。あんなことをし、あんな悪事をたくらむなんて、道徳的な中心がずれ、良心がなく、よほど陰謀好きな女《ひと》だったんですね。カーレンさんは、エスターさんが自分にない才能を持っているのを知ったのです。しかも、カーレンさんは、おそろしい野心家でした。そこで、エスターさんが、あなたの弟さんのフロイドを殺したと信じこむように仕向けたのです。ところが、エスターさんは不均衡な精神状態だったから、うまうまとカーレンさんの野心の餌食になり、カーレンさんの言いなりになってしまったのです……なぜ、そんなことをしたのか。野心からばかりではなく、挫折した情熱も、からんでいたにちがいありません。カーレン・リースは、あなたの弟のフロイドさんを恋していたものと、僕はみています。自分の欲しかった男を奪ったエスターさんを苦しめてやろうとかかったのでしょう」
博士は、あいまいに、首を振った。
エラリーは紙片をちらりと見て「『あなたの母は非情人です』と、エスターさんはエヴァさんに宛てて書いています――エスターの書き置きの中の言葉です――『でも、その秘密をあなたに知らすまいと守り通したことを、神に感謝して下さい』
これは何を意味するでしょうか。エスターさんがあらゆることを耐え忍んだのは、ただエヴァさんのためだったのを示す以外のなにものでもありません。してみると、エヴァさんはカーレンの最も有力な武器だったのです――カーレンは、万一エヴァさんが自分の母親が父を殺したのだと知るようなことがあれば、エヴァさんの一生、その行く末がめちゃめちゃになるだろうと、エスターさんに信じ込ませたのです。それで、エスターさんもそれに賛成して、どんなことがあってもエヴァさんに知らせてはならないと思い込んだのです。カーレンがエスターさんの賛成と協力を得て、エスターさんが日本で『自殺』して『死』んだことにする計画をいかに冷静に、奇想天外的にはこんだかということは、想像にかたくないでしょう――それもただ、カーレンが、アメリカに移って、母国でエスターの才能のみのりを刈り入れて、自分の野心を満たすためだったのですよ。また、エヴァさんの近くに移り住めば、エスターさんが、自分の娘の身近かにいながら、母親と名乗って出られないことを知って、いっそう苦しむだろうと考えた。それもまた、カーレンのたのしみだったと想像するにかたくないでしょう。なぜなら、それらは、カーレンの復讐の一部だったからです……それに、カーレンは、エスターさんの口をふさぐ武器を常に持っていたことになるのです。エヴァさんに、母親はだれか、何をしたかを告げてやるといって、エスターさんをおどせるのですからね」
マクルア博士は毛深い手を握りしめて「悪魔め!」と、ひからびた声で、かすかに唸った。
「少なくとも」と、エラリーは頷いて「悪魔の手先ですよ。ところで、僕はまだこの事件の一番興味ある点に触れていないんですよ。よく聞いて下さい」と、また、エスターの書き置きの写しを読んだ。
「『と申しますのも、妹の命を救うことが出来たかもしれない方は、この世では、あなただけだったからです』」と読み、一段と声を張り上げて「『妹の命を救うことが出来たかも知れない方』、エスターさんに、どうして、カーレンさんが死に瀕していたのが分かったのでしょうか。エスターさん自身が、カーレンさんの死ぬ四十八時間前に死んでいるんです。それなのに、どうして、カーレンさんは死ぬだろうということが分かったのでしょう」
エラリーは椅子を立って、そわそわと部屋を歩きまわった。
「カーレンの自殺を前もって知っていた場合にかぎり、その死が分かったはずだ。しかし、どうして、カーレンの自殺の計画が、前もって、エスターさんに分かったのだろう。カーレンが打ちあけた場合だけだ。『こうなることを知っていながら、どうする力もなかったのです』と書いている。それで、エスターさんは最後の手段をとったのです。カーレンが死んで、自分があの邸で生きて発見されたくなかった――あの邸で死んでいるのさえ発見されたくなかった。どちらにしても、エヴァさんが、カーレンの死後、自分の『人非人』の母親が生きていたことを知るでしょうからね。それで、恐慌をきたしたエスターさんは、逃げ出し、よその町で、偽名して自殺したのでしょう。それで『悪いこととは知りながら、やむなく、大変なことをしてしまったのです。やむにやまれなかったのです』と書いてあるんですね」
「明瞭だな」と、博士がぐったりして言った。
「そうでしょうか、先生。では、なぜカーレンは自殺したのでしょう」と、エラリーが小さなテーブル越しに身をのり出して「なぜです? 何不足なかった――名声も富もあり、あなたとの結婚も迫っていた。それなのに、なぜ自殺したのでしょう」
博士はぎょっとして「君の言う通り、後悔と良心の呵責《かしゃく》からだろう」
「本当にそう思いますか。カーレン・リースのような女が、本当に後悔するでしょうか。じゃ、なぜ、自殺する前に、世間に向かって告白しなかったのでしょう。後悔は目ざめであり、良心の再誕です――償いをし、埋めあわせをし、払いもどす努力を伴うものです。カーレン・リースは死ぬ前に、自分が長い年月、詐欺漢であったことを世間に告白したでしょうか。また、遺書を書き変えて、当然エスターのものであったものを返すようにしたでしょうか。良心に覚めた女なら、あのような特殊な状況のもとで、当然するはずのことを、何かしたでしょうか。いいえ、カーレンは、あるがままに――秘密を抱いたままで死んだのです。ちがいますよ、博士、後悔なんかしてやしません。
そして、また、エスターさんの書き置きの調子はどうです?」と、エラリーは大声で「あれが、自分に対して行なわれた妹の犯罪の実体を、妹から聞かされたばかりの女《ひと》の手紙の調子でしょうか。『私たちの意外な運命』とか『私たちの非情な運命』というような言葉で、エスターさんは一体何を言おうとしたのでしょう。カーレンについては、その筆に、一片の同情すら示していないじゃありませんか。たとえ、エスターさんが天使のような人だったとしても、十七年前の殺人事件で自分をだまし、嘘と脅迫を武器として、故意に、犯罪的に自分を利用して来たことを聞かされたばかりでは、どうしてカーレンに同情的な書き方が出るでしょうか。いいえ、博士、カーレンは、エスターさんに対する仕打ちを後悔して自殺したのではありません。おそらく、カーレンは、エスターさんにどんな仕打ちをしたか、その真相さえ打ちあけずに自殺したにちがいありません。カーレンの自殺の原因は全く別のもので――エスターさんには何の関係もなく、エスターさんに打ちあけて、自分に対して同情的な筆使いをさせ、ふたりの魂に、神の恵みを祈らせるような原因によるものです」
「わしを混乱させるね」と、博士は、額に手をやりながら「わしには理解できん」
「じゃあ、ひとつ、分かるようにして差し上げましょう」と、エラリーは、また、書き置きの写しを取り上げて「『もし、あなたさえ、お出かけにならなかったら』」と、読みかけて「――あなたのことなんですよ、博士。『もし、あなたが妹を連れて行って下さっていたら。と、申しますのも、妹の命を救うことの出来たかもしれない方は、この世では、あなただけだったからです』どうですか、これではっきりしませんか」
「エスターの言うのは」と、博士が、ため息をして「もしわしが休暇旅行でヨーロッパへ出かけなかったら、それとも、カーレンを同伴して行っておりさえしたら、おそらく、カーレンは自殺しなかっただろうというのだろう」
「では、なぜ」と、エラリーが、おだやかな声で「エスターさんは、あなたが、カーレンを救えたかもしれないこの世でただひとりの人だと、書いたのでしょうか」
「それはね」と、博士は眉をしかめて「婚約のせいだろう――わしは、カーレンが本当に頼りにしていた、たったひとりの人間だった――」
「では、なぜエスターさんは、あなたの出発で、カーレンの最後のささえと最後の希望が消えたと、書いているのでしょう」
博士は、エラリーを見つめて、薄青いひとみを、苦しそうに細めた。
「聞いて下さい、博士」と、エラリーが、ゆっくり「この部屋は墓穴のようなものなので、僕も言えるのです。ここでは大声で言えます――僕のこの気まぐれを、つまらない話を、奇怪な悩ましい話を、今晩ずっと僕を悩ませつづけて来たこの確信を、声に出すことが出来るんです」
「どういうことかね」と、マクルア博士が椅子の手をつかみながら訊いた。
「僕の言いたいのは、博士、カーレン・リースを殺したのは、あなただということなんです」
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二十四
マクルア博士は、しばらくすると、椅子から立って、窓のそばへ行き、毛深い手を、いまではエラリーも見なれている、例のゆったりと力強い恰好で背中で握り合わせた。それから、くるりと振り向くと、おどろいたことに、いかにも面白くてたまらないという表情を、静かな顔にうかべていた。
「むろん、君は冗談を言っとるんだろう、クイーン君」と、博士は、くすくす笑った。
「いや、冗談なんか言ってませんよ」と、エラリーが少し、むっとした。
「しかし、君――まるで、無茶苦茶じゃないか。最初に君は、カーレンが自殺したと言い――証明までしてみせた――それを今、藪《やぶ》から棒に、わしがあれを殺したと責める。わしが、面食《めんくら》うのも当然だろう」
エラリーは、ちょっと、細いあごを掻いて「あなたが僕を手玉にとっているのか、寛大でそう言っているのか、きめかねますね。博士、僕はあなたを、人間の行う最悪の犯罪を犯したと、責め立てたばかりなんですよ。何か弁護なさりたくないんですか」
「何はさておき是非聞きたいものだな」と、博士が、すぐに「港から一日半もかかる沖の船上のデッキ・チェアに寝ていた男に、どうやってニューヨークの邸にいる相手が殺せるか、この点を、君はどう論理的に証明するかね」
エラリーは顔を真赤にして「僕の頭を侮辱なさるんですか。第一、僕はそれを厳密な論理によって証明できるなんて言ってやしません。それに、あなたが手を下してカーレン・リースを殺したとも言った覚えはありませんよ」
「そりゃ、いっそう面白い。わしがどうやってやったかな――霊体でも使ったのかな。さあ、さあ、クイーン君、わしをからかったまでだと白状し給え。こんな議論は止めようじゃないか。さあ、医師クラブへでも行って、一杯ご馳走しよう」
「あなたと、お酒をのむのはさらさらいといませんがね、先生。しかし、まず事をはっきりさせた方がいいと思うんです」
「すると、君は真面目に言うとるのか」と博士は何か考えながら、じっと、エラリーを見つめた。エラリーは、博士の突き刺すような目に見つめられて、少しそわそわした。
「よろしい、じゃあ、話したまえ」と、しばらくして博士が言った。「聞こう、クイーン君」
「たばこは?」
「いや、ありがとう」
エラリーは、また新しく、たばこを吸いつけ「くどいようですが、もう一度、エスターさんの書き置きの文句を引用しますよ――なぜあなたが、カーレンの命を救えたかもしれない、この世界で、ただひとりの人、だったのでしょう。なぜ、あなたが、カーレンの最後の希望だったのでしょう」
「くどいようだが、そりゃ簡単な事に思えると、くり返して言うだけだな――むろん、あわれなエスターが胸のうちで、どんなことを考えていたかが、はっきり分かるとは言わんがね。わしがそばにいれば、わしに対する愛着で、カーレンが自ら命を断つのを防げたかもしれんということじゃないか」
「しかも、エスターさんには、それについて、それほど確信はなかったようですね」と、エラリーはつぶやき「あのひとはあなたに、カーレンの命を救うことが出来たとは言っていません。救えたかもしれないと言っているだけですからね」
「君はまた、ちょっとした違いに、こだわるんだな」と、博士が「たしかに、救えたかもしれん。だが、そばにいたところで、やはり、カーレンは自殺したかもしれんよ」
「一方また」と、エラリーが、おだやかに「あなたに、カーレンの自殺を防止する力があまりないと、エスターさんは不安がったのではないかと、疑ってもみました。すると、カーレンの自殺の原因は、愛人としてのあなたに、全く関係のないことかもしれないとね」
「わしは今夜はまるで頭が働かん」と、博士が微笑して「君が何を言おうとしとるのか、てんで、つかめんのだよ」
「博士」と、エラリーが、不意に「あなたに、世界中の誰よりもよく出来ることはなんですか」
「わしは、かつて、そんな強い優越感《ゆうえつかん》を持ったことがない。そう言われるのは、むろん、光栄だがね」
「それは、ご謙遜が過ぎますよ。あなたは有名な方です――最近もその業績に対して国際的な賞を受けられたばかりです。――あなたは、その生涯と、著名な技術と、全財産をささげて――人間の癌の治療と研究に従事された方です」
「おお、そんなことは!」と、博士は言って、手を振った。
「あなたが癌の研究分野で、第一人者であることは、衆知のことです。エスターさんでも、それくらいのことは知っていたにちがいない――肉体的には閉じこめられていたが、あの人の作品を見ると、いかに密接に現代と接触を保っていたかが分かります。してみれば、あなたが癌の最高権威と知って、カーレンの命を救うことが出来たかもしれない唯一のひとと、書いたとみても、不思議はないじゃありませんか」
マクルア博士は椅子に戻って、からだをのばし、手を胸に組んで、目を半ば閉じていた。
「とっぴな考え方だな」と、博士が言った。
「それほどでもありませんよ」と、エラリーが、ゆっくり受けて「われわれはまだ、生きるのに何不自由ない女性が、なぜ、突然、自殺する気になったのか、その原因を突きとめなければならないんですからね。何としても、その動機が分からないのです。不治の病になやみ、死の手が迫っているのを感じた、とでもみる以外に動機が考えられないのです。死が、あと、ほんのわずかな時間の問題であると悟ったとでも見るほかはないのです。
なにしろ、カーレンは、まさに来たらんとする幸福、新しい至高の文学的栄誉、安楽な境遇、わずか一カ月先に迫っている莫大な遺産の相続を目前にして自殺したのですからね――こういう状態を目前にして、なおかつ自殺したことの動機は、たしかに、理解しがたいじゃありませんか。強いて動機を求めれば、前に述べたように、死期の接迫を悟ったもの、としか、とりようがないのです」
博士が妙な恰好に肩をすくめて「どうも、君は、カーレンが癌だったと、いいたいらしいな」
「あなたを、妹の命が救えたかもしれないこの世で、ただひとりの方、とエスターさんが書いたときに、あのひとの心の中にあったのは、それだったと、僕は信じるんです」
「君もわしと同様に、知っとるはずじゃないか。君のとこのプラウティ医師の検死報告書には、癌のことは出ていなかった――爪のあかほどもね。カーレンにもし悪化症状の癌があれば、検死の際に発見しているはずじゃないかね」
「まさに、その点ですよ」と、エラリーが小テーブルを、どんとたたいて「癌では全然ないのに癌だと思い込んで、カーレンは自殺したのです。そして、姉のエスターさんも、全く同じように考えていたのです」
博士の顔は、すっかり落ちつき、重々しくなっていた。そして、椅子の中で少し身を起こすと「そうか」と、静かな調子で「やっと分かった。そんなことを、君は考えておったのか」
「そうです。カーレンのからだには、癌の徴候はなかったのに、しかも、癌だと思って自殺したのです。ありもしない肉体的障害を、一も二もなく信じ込んでいたのです」と、エラリーは少し身をのり出して「マクルア博士、だれが、カーレンに、そんなことを信じさせ得たのでしょうか」
博士は何も言わなかった。
「あなたの言葉を引用しますよ。『カーレンは他の医者にかかったこともなく、文字通りに指示に従って、実に理想的な患者だった』そうです、博士。あなたはカーレンお医者でした。あなたは、カーレンの、単純な神経衰弱と貧血症を――体重や食欲の減退、おそらくは、栄養失調、消化不良、食後の不快感を――癌と診断したのです。ところが、カーレンは婚約者であるあなたの言葉を信じ、あなたが癌の世界的権威なのでほかの医者の診察を受けることなど夢にも考えなかった。しかも、あなたは、カーレンが、そんなことをしないのを知っていた!」
博士はもう、何も言わなかった。
「おお。僕はあなたが手抜りなく処置されたことは疑いません。おそらく、あのひとのものだと称してレントゲン写真も見せられたでしょう。きっと、あのひとの癌は絶望的なタイプで――たぶん胃癌で、肝臓や腹部にまで拡がり、まったく手術は不可能で、外科の手に負えなくなっているとも、言われたことでしょう。あなたの仕事は、実に手ぎわよく、自信に満ちていたので、直接にはそれといわず、直接にはそれとほのめかさずに、たちまちのうちにカーレンは、心理的にあなたの犠牲者となった。しかもあの神経衰弱の状態では、カーレンが闘病心を失い、自殺を企てるようになるのは、必然的なことだったのです」
「そうか」と、博士が「君は、わしからそれを訊き出そうとしとるんだな」
「おお、僕は知人の医者に電話して、それとなく聞いてみたんです――そして、神経衰弱と貧血症の女に、癌だと信じこませることなど、不徳な医者にとっては、赤ん坊の手をねじるようなものだということを知りました」
「それはともかく」と、博士は何か愉しそうに「いかに善意であろうとも、医者というものは、誤診をする可能性があるという点を、君は見落としとる。あらゆる試験の結果も、症状も癌でありながら――むろん、レントゲン写真もだ――実際は全く他のものだった症例を、わしは、いくつも知っとるよ」
「あなたの学識と経験からみて、誤診されるなんて、ほとんど考えられませんね、博士。しかし、かりに、他意のない誤診だったとしても、それなら、なぜ、癌だなぞと、カーレンに言ったのですか。あなたがたは結婚の直前じゃないですか。当然、病気のことはカーレンに知らさずにおくのが、親切というものでしょう」
「しかし、誤診としても、癌と信じたら、患者に知らさずには置けんよ。どんな重症でも、手当をせずにはおけんからね」
「しかし、あなたは手当をしなかった。そうでしょう、博士。あなたは『患者』であるカーレンを見すてた。ヨーロッパへ行ってしまった。駄目ですよ、博士、あなたには親切心がなかった――まるで逆です。あなたはわざとあのひとが不治の癌にかかっていると言い、どんな手当も有害無益だと言った。あのひとを苦しめるため、あのひとの最後の望みを奪い去るためにね――結果からみて、あのひとを自殺に追いやるためにね」
博士は、ため息をついた。
「これで、お分かりになったでしょう」と、エラリーが、もの静かに「遠くへだたっていても、どうやって、ひとりの男に、ひとりの女が殺せたか」
博士は手で顔を覆った。
「これでお分かりになったでしょう。カーレン・リースはたしかに自殺したのだけれど、本当はあなたに殺されたのだと僕の言った意味が。実に妙な人殺しですよ、博士。精神的な殺人。純粋な暗示による殺人。しかし、たしかに殺人は殺人です……あなたは、あの部屋にいて、あなたの手で、あのはさみの片刃で、カーレン・リースの首を、ずぶりとやったのと同じことです。たとえ、あなたが、大西洋のまっただなかで、デッキ・チェアに横になっていたとしてもね」
マクルア博士は思案顔で「奇想天外な推理はご立派だが、わしにどんな動機があるというのかね」と、たたみ込んで「わしの中に、マキァヴェリアン〔目的のために手段を択ばず〕的なものがあるとでも非難したいのかね」
「いいえ、博士はマキァヴェリアンではありませんよ」と、エラリーが低い声で「動機はもっと人間くさい、分かり易い無理もないとさえいえるものです。なぜなら、あなたは、偶然にも――あのカーレン・リースの祝賀会とあなたが外遊される間の期間に――あなたが昔、日本で愛したエスター・リース・マクルアが、生きて、長い年月のあいだあなたの婚約者《フィアンセ》の頭上の屋根裏部屋に住んでいたのを、発見したのでしょう……監禁され、うちひしがれ、詐《だま》され、絞りとられ、利用され――その才能の所産を盗まれ――その他あらゆるひどい目にあわされて。あなたご自身、エスターに会い、話をしたかもしれないが、エヴァには、そのことをかくしておいた。しかし、ともかく、あなたはエスターを見つけて、カーレンへの愛情が、憎悪と復讐の欲求に変ったのでしょう」
「その点に」と、マクルア博士が「異議はない」
「あんな芝居はしなくてもよかったんですよ」と、エラリーがむっつりして「船上で、婚約者《フィアンセ》が殺された報らせを受けられた時にね。あなたが去って行けば、カーレンが自殺するのは確信しておられたでしょうからね。ところが、明らかに殺されたと知って、あなたは、ひどくショックを受けた。あなたには意外だったんでしょう。そして当然のショックを示されたわけだ。あなたは、とても、エヴァさんの身を案じて――もしやエヴァさんも秘密を発見して、その手でカーレンを殺したのではないかとさえ思われた。あなたは、僕が自殺を立証するまで、カーレンは殺されたものと思い込んでいた――そして、ご自分の手に殺人のとがを感じ、やがて、カーレンを殺したことを悟ったのでしょう」
しばらくして、マクルア博士が「たばこを一本、くれんか」
エラリーが黙って渡し、かなり長く、ふたりは、何も話さなくとも心が通じ合う仲の良い友達のように、たばこを喫いながら向かい合って坐っていた。
やがて、マクルア博士が「君のお父さんが、今夜、ここにおったら、なんと言うだろうと考えてみたんだが」と、微笑して肩をすくめ「こんな話を信じるだろうかな。怪しいものだ。何の証拠もあるわけじゃなしね。全然、ないんだからな」
「証拠というものはですね」と、エラリーが「すでに真相の分かっているものに着せる外装にすぎないじゃありませんか。だれにでも、なんでも証明できますよ、信じさせる確信さえもてばね」
「しかしながら」と、博士が「不幸にして、裁判所や司法制度の倫理綱領は、もっと具体的な基盤に立って運用されとるようだよ」
「そりゃ、その通りです」エラリーも認めた。
「だからして、今夜のお伽話《とぎばなし》は、たのしかったということにしておこうじゃないか」と、博士が「このたのしみはこのくらいで打ち切りとして、そろそろクラブへ行こうじゃないか。わしが、おごる約束だ」と、立って、微笑した。
エラリーは、ため息をして「どうやら、手のうちを、すっかり、さらさなければならないようですね」
「と、言うと?」と、マクルア博士が、ゆっくり訊いた。
「ちょっと失礼します」と、エラリーは言って寝室にはいった。マクルア博士は、ちょっと顔をしかめて、たばこを灰皿にもみ消した。やがて、エラリーが戻り、マクルア博士が振り向いてみると、手に一通の封筒を持っていた。
「この手紙のことは」と、すぐに、エラリーが「警察では何も知りません」と言い、それを博士に手渡した。
大男は、強そうな、甲が毛むくじゃらな手で、その封筒の裏表《うらおもて》を、ひっくり返して見ていた。薄紙の上品な封筒で、象牙色の地に、かすかなばら色の菊じるしがあった。表には、カーレン・リースのきれいな字で、ジョン様へ、と書いてあった。裏の封じ目には、カーレンの金色の封蝋が使ってあって、それには、博士のよく知っている、小さな奇妙な日本字の印が押してあった。誰かが開封したらしい、封じ目のすきまから覗いてみると、ヘリのぎざぎざな用箋が折りたたんで入れてあった。封筒は、長く天日《てんぴ》にさらされていたように、汚れて、露のしみがついていた。
「今日の午後見つけたんです」と、エラリーは博士の様子を見ながら「カーレン・リースの屋根の雨樋《あまどい》にはいっていました。例のはさみの片刃のそばに置いてありましたよ。封がちゃんとしてありましたが、僕が開けてみました。これのことは、今まで――誰にも言ってありません」
「カケスのしわざだな」と、博士が、少し放心の体《てい》で言った。
「たしかにそうでしょう。あいつは、鉄格子を抜けて、二度往復したにちがいありませんね――一度は、はさみの片刃をもって、もう一度は、この封筒をもって。この金色の封蝋が、泥棒鳥の目についたのでしょうね」
博士は、うなずいて、もう一度、封筒を裏返してみた。
「不思議だな」と、つぶやくように「この封筒は、どこにあったのだろう。キヌメに用箋を取りに行かせたのは、手許になかったからだろうがな――」
「おお、用箋も封筒も一枚ずつは手許に残っていたのじゃないでしょうか」と、エラリーがさりげなく「だが、カーレンは手紙を二通書かねばならなかったんですよ、一通はあなたに、もう一通はモレルに……」
「そうか」と、マクルア博士は言って、封筒を小テーブルの上に置き、エラリーにくるりと背を向けた。
「あいにく」と、エラリーが「ものごとは、いつも、こちらの思うようにはいかないものですね。あの鳥がくちばしを入れなかったら、ことはすっかり模様が変っていたでしょうよ。その封筒には、カーレン・リースの書き置きがはいっています。よろしかったら出してごらん下さい。その中で、自ら生命を断つこと、その理由として――あなたに診断された癌が不治のものであり、自殺以外に免れる方法がないと、書いています」
マクルア博士は、つぶやくように「そうか、それで分かったのか。どうも、推理だけでは、とてもそこまでは及ぶまいと思っていたが」
しかし、エラリーが「それで、あなたの助言をお願いしなければならなかったのですよ、博士。僕が自分でも、もて余すほど、厭らしい詮索好きで、なんとも申しわけありません。本当に、申しわけありません。あなたのなさったことは、もっとうまく行って、当然見つからずに済むべき犯罪だったのです。僕も、実は、どうしていいかきめかねるので、助言していただかなければならないんです。その決定は、あなたにお任せすべきものと思いましてね」
「そうだね」と、博士は深く考え込んだ。
「あなたは、三つの方法のうちの、どれをお択びになってもいいわけです。ここから出て行って、そのまま、黙っている。その場合は、道徳的な問題は僕に一任されたことになります。ここから出て行って警察に自首する。その場合は、かわいそうなエヴァさんに、取り返しのつかない打撃を与えることになります。それともここから出て行って――」
「わしはな」と、博士はふり向いて落ちついた声で「自分のすることは心得とるよ」
「ああ」と、エラリーは言って、シガレット・ケースを手探りした。
博士は帽子をとると「じゃあ、これで失敬する」と言った。
「失礼しました」と、エラリーも言った。
マクルア博士は、たくましい右手を差し出した。エラリーは、ゆっくり握手しながら、親しい友と、永遠のわかれの握手をかわしているような気がした。
博士が去ると、エラリーは部屋着のまま暖炉の前に坐って、例の封筒をとり上げ、しばらく悲しそうに見つめていたが、マッチをすり、封筒のすみに火をつけると、それを、火のない火床に入れた。
そして、手を組んで、燃える封筒を眺めていた。あの最後に博士の言った言葉が、ふと、胸にうかんで来た。「そうか、それで分かったのか。どうも、推理だけでは、とてもそこまでは及ぶまいと思っていたが」
すると、エラリーの胸に、あの日の午後おそく、誰にも知らせずに、カーレンの邸で、いかに苦心して、あの用箋を探し出したか、また、ひっそりしたカーレンの死の部屋に座り込んで、いかに苦心して、カーレンの筆跡を真似て、あの二つの大事な文字「|ジョンへ《ツー・ジョン》」を書いたか、それにまた、その宛名を書き込んだ封筒に、ヘリのぎざぎざな白紙の用箋を入れ、封をしてから、はしを開《あ》けて、封じ目に金色の封蝋をし、カーレンの印を押したか、その上、いかに苦心して、封筒を汚ごし、露のしみを偽造したか、などなどの、さまざまな苦労が浮かんで来るのだった。
推理とは! そうだ、いかにも知能的だな、とエラリーは、しみじみ思った。
そして、金色の封蝋が熱で溶けて流れるのを見ながら、あてもなく、考え迷っていた。精神的殺人をいかに立証したらいいのか。手を使わずに、頭脳を使って殺人を犯した者を、いかに立証したらいいのか。正当な復讐の欲求のような、人間の本性に根ざす力を、いかに罰したらいいのか。風のように目に見えぬものを捉えたり、雲のように、捉え得ぬ者を罠におとしたり、または、それらを自発的に死刑にさせるような正義を行うには、いったいどうしたらいいのか。
エラリーは、むっつりとして火床を見つめていた。見ているうちに、用箋の最後のはかない切れはしがめらめらと燃え上り、あとには、燃えがらの灰がのこり、その底に金色の、溶けたしずくが、はかないかたまりとなって沈んでいった。
エラリーは、また、触知できないものに対してはぺてんでいくより仕方がないが、その場合は良心を唯一の案内役にしなければならないのだと思い、わずかに、ペンとインキと紙と封蝋だけを道具に、ぺてんを仕かけたり、その裏をかくのが、いかにたやすいわざであり、いかにおそろしいことであるかを考えていた。
エラリーは火のない暖炉の前で、ちょっと身ぶるいした。神のなすべきことをしすぎたような気がして、心から、からりと楽しめなかった。 (完)
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訳者あとがき
この作品は、一九三七年に刊行された The Door Between(仕切り戸)とでも訳すべき、エラリー・クイーン名義の、国名を冠したシリーズの第十作目に当る。最初、「コスモポリタン」という雑誌に発表されたときは、The Japanese Fan Mystery(日本扇の謎)という題名だったが、刊行に当って、作者が改題している。改題の理由はよく分からないが、一九三七年といえば、第二次世界大戦の口火ともいうべき、日華事変の起こったときで、日米間の感情は、日々に険悪になっていたときだから、ジャパンという字を使うことを遠慮したのかもしれない。
それに、本格派の謎ときもので、毎回読者に挑戦して来たエラリー・クイーンが、この作品では、挑戦の頁を加えていないし、「日本扇の謎」といっても、特に、扇が謎の鍵として出ても来ない。
これは、むしろ、長編推理小説として、状況証拠よりも、心理的な証拠を追及しようとする作者の目の変化のよく出ている作品である。
題名を「日本庭園殺人事件」と訳してみた。話は東京帝国大学の外人教師の娘カーレンが、父の死後帰国して、女流作家となり、文学賞を受賞して華々しくデビューして間もなく、密室で死体となって発見される。彼女の婚約者、マクルア博士も癌の研究のため日本に滞在したことがあるし、老女中キヌメも琉球人だし、カーレンの邸には日本庭園があり、時々はキモノも着るという風に万事日本好みの仕立てだ。茶の湯だの、和紙の封筒だの和風のはさみだの、カケスだのと、戦後のアメリカの日本趣味ブームの先端を行くような小道具もそろえてある。ことに、作中の女流作家の受賞作品の題名が「八雲立つ」というのなど、「八雲立つ出雲八重垣《いずもやえがき》、妻ごみに、八重垣つくる その八重垣を」という、古事記《こじき》の須佐《すさ》の男《お》の命《みこと》の歌をもじっているところなど、外人の日本趣味の一端を示して、微苦笑《びくしょう》ものである。ついでだが、日本の出雲《いずも》神話では、高天原《たかまがはら》を追われた須佐の男の命は、出雲に下《くだ》り、|ひの《ヽヽ》河のほとりで山岐大蛇《やまたのおろち》を退治して、|くしなだ姫《ヽヽヽヽヽ》を救い、姫と結婚して、須賀《みが》の宮を作った。そのときの、妻請《つまご》いの歌とも、結婚祝いの歌ともいわれるのが上述の歌である。
ともかく、外人の目から見れば、相当なエキゾチシズム〔異国趣味〕のある作品だろう。それにニューヨークの下町趣味の柄《がら》の悪い私立探偵が出てくるのも、エラリーの国名シリーズものでは初めてだし、その私立探偵テリー・リングが、ハイソサエティ〔上流階級〕のマクルア博士の娘、エヴァに恋するあたり、粗野で素朴で、須佐の男の命の恋を思わせて、なかなか楽しい。
駄筆を弄したが、作品としては、かなり高度な本格謎とき、密室ものである。皆さんのご愛読を請う。(訳者)