中国切手殺人事件
エラリー・クイーン/石川年訳
目 次
まえがき
一 ディヴァシー嬢の小唄
二 奇妙な幕間
三 あべこべ殺人
四 名なしの風来坊
五 みかんと仮説
六 八人の晩餐
七 タンジールみかん
八 あべこべの国
九 福州の誤刷切手
十 妙な泥坊
十一 未知数
十二 贈物の宝石
十三 寝室の場
十四 パリから来た男
十五 わな
読者への挑戦
十六 実験
十七 あべこべ談義
訳者あとがき
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登場人物
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ヒュー・カーク博士……七十すぎの老学者。口やかましい本の虫
ドナルド・カーク……博士の息子。宝石、切手の収集家で、マンダリン出版社長
マーセラ・カーク……ドナルドの妹
グレン・マクゴワン……ドナルドの親友
フェリックス・バーン……ドナルドの相棒
ジョー・テンプル……中国で育ったアメリカ女性で、作家志望
アイリン・リューズ……宝石専門の女詐欺師
ディヴァシー嬢……老博士の看護婦
ジェーン夫人……チャンセラー・ホテル二十二階の受付係
ジェームズ・オズボーン……ドナルドの秘書
ハッベル……カーク家の執事
ナイ……ホテル支配人
ブランマー……ホテルの探偵
エラリー・クイーン……特別探偵
リチャード・クイーン……殺人課警視
プラウティ……医務検査官補
ヴェリー……殺人課部長
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まえがき
私は、もちろん、私の友人エラリー・クイーン君びいきで、その肩を持つほうである。友情というものは批判力を鈍らすものだが、特に、その友情によって名声のおすそ分けを得ている場合はなおさらである。しかもなおかつ、私が最初エラリーに説いて、その覚え書を小説に仕立てるようにすすめた日から――あの最初の冒険談〔「ローマ劇場毒殺事件」〕のあと、次々と書かれた血わき肉おどる作品のすべてを通じて――この「中国切手殺人事件」の原稿を読んで受けたすばらしい感動にまさるものはないと思う。
この作品は当然≪あべこべ殺人事件≫としてもよい。しかし、前にも言う通り、私はエラリーびいきだから、おそらくこれはいささか、ほめすぎかもしれない。私が言いたい点は、この犯罪自体を異常なものとするなら、それを究明した心理は非凡な才能だということである。解答を知った今でもなお、私は時おり、本当とは信じられない気がする。しかもなお、解答はきわめて簡明であり、全く理の当然なのである。……厄介なのは、エラリーが好んで指摘するように、すべて謎というものは解答を知るまでは、いらだたしいほど神秘の雲にとざされていて、解けてみると、なぜそんなに長い間、ごまかされていたのだろうと不思議に思うようなものなのである。しかし私はエラリーのこの意見には、必ずしも同意しがたい。この犯罪のあべこべ沙汰を解明するには天才を要する。こんなことを言うと、友情がさめ、友を失うかもしれないし――その可能性は大いにあるが――しかもなお私は自分の説をまげないつもりである。
私はまた、時おり、この事件に全く関係しなかったことを、ひそかに喜ぶことがある。エラリーは、いろんな意味で考える機械のような人間だから、ひとたびその論理が非難の指先を突きつけたら最後、友情などはてんで尊重しない。そして、もし私になにかのかかりあいがあるとなれば――たとえばドナルド・カークの弁護士としてでもよいが――エラリーは、あの善良なヴェリー部長をして、私の貧弱な手首に手錠をかけさせるようなことになったかもしれないのである。と言うのは、意外にも私はこれで大学時代、二つの運動部門でまったくの虚名を博し、クラスの背泳選手だったし、ボート選手として整調を漕いでいたのである。
こんな罪のない事実が、私を、この本のページで扱っている殺人事件の可能な――いや、いや、きわめて有力な――容疑者としたかもしれないというのはいったいどうしたわけか。それは読者諸君が――きっと面白がって――自ら発見されるように、ここでは触れないでおきます。
ニューヨークにて、J・J・マック
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犯罪の探知――あるいは、むしろ解決――は、科学者と予言者とが結合して、探偵として、完璧な城に達していることを必要とする。出来事を見て、それを土台に予言する才能は、きわめて特殊な天賦のもので、恵まれた少数の者にのみ、その最高な形で賦与されて来た……
私はシュレーゲル〔ドイツの哲学詩人にて批評家。一七六七〜一八四七〕のAthenaeun〔論文集〕にある興味ある見解を敷衍《ふえん》したい。その文句は、「歴史家は後ろ向きに見る予言者である」というのである。
私はこの句を言いかえて「探偵は後ろ向きに見る予言者だ」と指摘したい。あるいはまた、カーライルのさらにうがった、歴史についての見解に同調して、犯罪探知〔歴史という言葉と置きかえて〕の過程は≪噂の蒸留≫である、と言ってもいい。
(西欧についての著名な日本の権威マツオユマ・タユキの著と一部で見なしているEsoterica Americana〔アメリカの密教〕所載の匿名の一論文より抄録)
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一 ディヴァシー嬢の小唄
ディヴァシー嬢は、こっぴどく、大声でがなりつけられて、カーク博士の書斎から逃げ出した。そして、老博士の部屋の外の廊下に、じっと立っていた。頬がもえ、やっかい払いをした両手でのりをつけた白衣の乱れた胸元をおさえていた。かんかんになった七十おやじが、ガラパゴス島の大亀のように、車椅子で部屋の中をよちよち動きまわりながら、白いキャップをつけている彼女の頭に、古代ヘブライ語、古代ラテン語、フランス語、英語をごちゃまぜにした呪いの言葉を、ねちっこくがみがみあびせているのが聞こえて来た。
「化石おやじ」と、ディヴァシー嬢はいまいましそうに考えた。「まるで――まるで百科事典のお化けと暮らしているようだ」
カーク博士は、ドアの向こうで、ゼウスの雷のようにわめきつづけていた。「もどって来るなよ。いいな!」博士は、その学のある頭にいっぱいつまっている奇妙な国語の俗語で、他にもいろいろなことをわめきちらした。もし、ディヴァシー嬢が、つまりその博学多才だったら、きっと、かんかんに怒り出すようなことだった。
「いやらしいこと!」と、彼女はドアをにらみながら、吐きすてた。だが手ごたえはなかった。すくなくとも、まともな手ごたえはなかった。
薄気味の悪いくすくす笑いと、だれかの墓から掘り出したようなきたない本をぱたりと閉じる音に対してなにも言うことはないではないかと、ディヴァシー嬢はあっけにとられながら考えていた。本当に手のつけられないおじいちゃんだわ――と、危うく口に出しかけた。事実、もう少しで、声になりそうだった。だが、つつしみ深く、やっとこらえて、青ざめた唇をとじたのである。自分で着がえたいならそうさせとこう。どっちみち、年寄りの着がえをさせるのが好きなほうではなかった。……ディヴァシー嬢はしばらくためらって立っていた。それから上気したままいかにも職業看護婦らしいしっかりと落ち着いた足どりで、廊下をさがって行った。
チャンセラー・ホテルの二十二階は、きびしい規則で、修道院のような静けさが守られていた。その静けさがディヴァシー嬢の、ささくれた心をしずめた。痛風とリューマチにとっつかれて――当然のむくいでいい気味だが――気むずかしい小言いいの、もうろくじいさんを看護するのも、ふたつのとくがあるからだと、彼女は考えた。そのひとつは、息子のドナルド・カーク青年が、父親の面倒をみるというむずかしい仕事に対して、たっぷり給料を払ってくれることだったし、いまひとつは、カーク家が、ニューヨーク市の中心の豪華なホテルに住っているということだった。お金と地の利が、他の多くの不利益をつぐなってくれると、彼女は病的な満足感で信じこんでいた。メーシーも、ギンベルも、その他のデパートも、すぐ目の前だし、映画館も劇場も遊び場もすぐおとなりなのだ。……そうだ、辛抱《しんぼう》辛抱。人生はつらいが、それだけのものはあると言うわけだ。
時にはやり切れないこともなくはなかった。今までにも、どれほどいやな連中の気まぐれに耐え忍んで来たか、神のみぞ知るである。そしてカーク老博士も手のつけられないおじいちゃんだ。機嫌のとりようがない。人間なんだから、ときには、機嫌がよくて、思いやりがあり、「すまないなあ」とか、「ありがとう」とか言いそうなものだと思うだろうが、どっこいこの、おいぼれベルゼブル〔マタイ伝に出てくる悪魔〕には、そんなものはさらになしなのだ。まさに暴君そのものだ。博士の目はひとをおびえ上らせ、その白髪は、頭からできるだけ遠ざかろうとしているかのように先の先までぴーんと突っ立っているのだ。食事をさせようとすれば食べないし、|さす《ヽヽ》ろうとすればその手を払いのけて、靴をなげつける。アンジニ医師が歩いてはいけないと言えば、部屋の中をよちよち歩きまわるし、運動をしなさいと言えば、てこでも動かない。たったひとつのとりえは、紫色のしわ鼻を本に埋めているときはおとなしいというだけである。
しかも娘のマーセラがいる。しようがないマーセラだ。こづらにくい小娘だ。五十年もすれば、父親そっくりの分からずやになるだろう。ああ、でも少しは取りえもあると、ディヴァシー嬢はいやいやながら反省する。悪人にだって良いところはあるもんだと。マーセラの良いところと悪いところを差し引きしたら、ほとんどとんとんだろう。もちろん、マーセラは、本当にそれほど値打ちがないはずもないと、正義感の強いディヴァシー嬢は譲歩する。なにしろ、あのスマートな血色のいいマクゴワンさんが、あの娘に、あんなにのぼせているのだから。たしかに、世はさまざま、人さまざまというものだ。さて、ディヴァシー嬢は、もしマクゴワンさんが、ドナルド・カークさんの親友だなんてことがなかったら、カークさんの妹のマーセラと婚約するようなことは絶対になかっただろうと信じていた。そうなったのも、つまりは、兄さんと金《かね》つぼのおかげだと、ディヴァシー嬢は、いまいましく思う。社交界のうずの中に出て行って――と、ディヴァシー嬢は社交欄のゴシップを皮肉な目で見ている――一番いい獲物をひっかけるだけなんだ。まあいい、結婚してみれば正体が分かるだろう。他にいろいろな長所を持っている上に、しっかりした批判精神が備《そなわ》っている人間なら、たいてい分かるはずだと、ディヴァシー嬢は思っている。社交界のそんな連中の話なら、筋までわかってるわ!……ドナルド・カークは、あれはあれなりでいいが、自分の行き方とはちがっている。気取り屋だ。つまり、ディヴァシー嬢のような人間を、かなりあいそよく扱ってくれるが、思いやりは全くないのだ。
ディヴァシー嬢は廊下をゆっくり歩きながら、人間として女らしい仕事に身をささげるのには職業的な看護婦になるのが一番たやすい道のように思われたものだと、回顧していた。そして、もう三十二歳になった――ちがう、自分をごまかしてはいけない、もう三十三歳になるのも目の前だ――しかも、先の見通しはどうか。つまり、ロマンチックな見込みがあるのか。さっぱりないのだ。てんでない。看護婦の仕事を通じて会った男たちは、大ざっぱに二種類に分けられると、彼女はにがにがしく考えた。全然、彼女に目もくれない男たちと、うるさすぎる男たちだ。前の部類は、医者や、金持ちの患者の男の親族たちだし、後の部類はインターンや金持ちの患者の使用人たちだ。前の部類の連中は全然女として見てくれない、機械だと思っているようだ。ドナルド・カークはその部類に属すのだ。後の部類の連中はとかく――自分を人目のないところへ連れて行って、きたならしい指でくすぐったらどうするかを見ようとしたがるのだ。あのおべっか使いのハッベルがそうだと、彼女は口をへの字にまげて考えた――カーク氏の執事で部屋働きで、得態のしれないあの男が。あの男は目上の前では実直で、へり下っているが、でも、あの青ぶくれの顔をひっぱたいてやらなければならなかったのも、つい今朝のことだった。もちろん、患者たちは計算にはいらない。便器なんかの世話をしてやっている人間を口説く気にはなれない。ところが、オズボーンさんは別ものだ。……
ディヴァシー嬢のきつい顔にやさしさが浮かんだ。いかにも女らしい微笑だった。オズボーンさんのことを思うと――いやおうなしに――楽しくなる。第一に紳士だし、ハッベルのような卑《いや》しい手くだがない。そのことを考え合わせてみると、あの人は第三の部類で、あの人ひとりで、ひとつの部類になる人だ。金持ではないが、それでいて召使ではない。カークさんが信用している助手で、金持と召使の中間の存在だ。家族扱いだが家族の一員ではない、と言っていい。彼女と同じように給料をもらっているのだ。そのことが――なんだか――ディヴァシー嬢にはとても気に入っている。……何週間も何週間も前に、はじめてオズボーンさんに会った時、本当につつしみを忘れやしなかったかと、それが気になってしかたがない。あのとき、どうして、あんなにも――彼女は少し赤らんで――結婚の話などしたのだろう。おお、むろん、個人的な話ではなかった。ただ、まともな――まとも以上な――生活をさせてくれる男とでなければ、結婚しようとは思わないと言っただけだ。おお、そうだ、彼女はお金のために駄目になった結婚をたくさん見て来た。つまりお金がないために。すると、オズボーンさんは、まるで気にさわったかのように、ひどく困った顔をした。あれには、なにか意味があったのだろうか。まさか、あのひとの考えでは……
ディヴァシー嬢は、とりとめのない思いを、ぐいっと引きしめた。いつの間にか、カーク家の部屋と廊下をへだてて向き合っているドアの前まで来ていた。そのドアは壁側のはずれにあって、カーク家のアパートに通じるエレベーターにつづくもうひとつの廊下に一番近かった。かざり気のないドアで、実際、ごく普通のものだったが、それを見ると、ディヴァシー嬢の頬が赤らんだ。カーク博士の気短な罵《ののし》り声に対して、かっとなって赤くなったのとはちがう色だった。そして、ハンドルをまわしてみた。ハンドルがうごいた。
のぞいてもかまうまいと思った。もし控え室に誰かが待っていれば、あの方《かた》はきっと――きっとオズボーンさんはお忙しいのだろう。お客が待っていなければ、きっと、はいってもかまわないだろう……さしあたり……化石じいさんは、あの調子では自分を呼びたてるどころではなさそうだし……自分だって人間だもの。
ディヴァシー嬢はドアをひらいた。控え室には――うまい具合に――誰もいなかった。まっすぐ前に、この部屋についているただひとつの別のドアがあって、閉まっていた。あのドアの向こうには……と、彼女は吐息をして、引き返しかけた。だが、ふと明るい顔になって足ばやに、はいった。二つの窓の間の壁に、寄せかけてある読書机の上に、果物の|はち《ヽヽ》がのっているのに目をひかれたのだ。見も知らぬひとにまで思いやりが深いカークさんの親切なのだ。それに、どれほど多くの人々が、あの方《かた》に会いに来て、高級なイギリスふうの樫材の家具や、本や、ランプや、絨毯《じゅうたん》や、花などが備えてあるこの控え室に腰かけるか分からないのだ。
ディヴァシーは|りす《ヽヽ》のように手まめにみかんの皮をむき、汁のたっぷりある甘い袋を、ひとつずつ丈夫な歯でかんで吸いにかかった。そして、たねを手のひらに、そっと吐き出した。
たべ終ってあたりを見まわしたが、部屋もテーブルも、あまりきちんと、こざっぱりに整頓してあるので、みかんの皮や種の捨て場所がなかったから、手の平いっぱいの食べかすを、元気よく窓から、四階下のセット・バック〔壁段〕でかこまれている内庭になげ捨てた。そしてテーブルのそばを通るとき、ちょっと気をひかれた。もうひとついただこうかしらと。|はち《ヽヽ》の中には、みずみずしくおいしそうなみかんが、まだ二つ残っていた。……しかし、きっぱりと頭を振って、廊下へ出て、ドアを後手《うしろで》に締めた。
少し気分が直って、ゆっくりと角をまがり、本廊下へ出た。どうしようかしら。がみがみじいさんは、今もどれば、きっと自分をけって追い出すだろうし、といって、自分の部屋に引き上げる気もしないし……彼女はもう一度、顔を輝かせた。いかめしい白髪まじりの肉づきのいい中年の女が、黒いドレスで、エレベーターのまん前の机にすわっている姿が、廊下のずっと先に見えた。二十二階の受付係の、シェーン夫人だった。
ディヴァシー嬢は右手のドアの前にさしかかって目をとじた。――そのドアをあけると――もういちど頬を染めた――ドナルド・カークさんの事務室で、その事務室が、さっきの控え室につづいているのである。そしてこの事務室に、やさしいオズボーンさんがいるはずなのだ。……ディヴァシー嬢はため息をしてその前を通って行った。
「今日《こんにち》は、シェーンさん」と、ディヴァシー嬢はがっしりしている婦人に、あいそうよく声をかけた。「今日は、背なかのぐあいは、いかが?」
シェーン夫人はにっこりした。そして、注意深く廊下の左右を見渡し、目の前のエレベーターを片目で見張りながら言った。「おや、ディヴァシーさん。もうお目にかかれないかと思ってたんですよ、ディヴァシーさん。あのがみがみおやじが、あなたを忙がしく追いまわしてたんですね」
「しょうがない人よ」と、ディヴァシー嬢は、恨む様子もなく言った。「まるで悪魔よ、シェーンさん。たった今、私は部屋から追い出されて来たのよ。考えても頂戴!」シェーン夫人は、おじ気をふるって舌打ちした。「カークさんの片腕が、ヨーロッパかどこかから、今日、帰って来たのよ――バーンさんというかたよ――それで、カークさんはそのかたのために晩餐会《ばんさんかい》をなさるおつもりなのよ。もちろん、あのひとも出なくっちゃならないの。それで、どうしたとお思いになる? 晩餐会には服を着なくちゃならないでしょ、だから――」
「服を着るって!」と、シェーン夫人は、あっけにとられて言った。「はだかなの?」
ディヴァシー嬢が笑った。「タキシードなんかを着《つ》けるということよ。ねえ! あの人は自分で着れないのよ。リューマチで節々が曲っているから、ほとんど立ってもいられないのよ。だって、七十五ですもの、むりもないわね。でも、どうでしょう。私に着がえもさせないのよ。追い出したのよ」
「ほんとうに」と、シェーン夫人が言った。「男の人には、おかしいところがあるものね。思い出すわ。いつか、うちのダニーが――神さまあのひとの魂にやすらぎを――腰をいためて、私、どうしても――」シェーン夫人が、ふと言いやめて、からだを固くしたとき、エレベーターから客が出て来た。しかし、その女客は、ホテル使用人の怠《なま》けぶりなどには、全く無関心だった。机のきわをよろよろと通って、かすかなアルコールのにおいを発散させながら、廊下を、ディヴァシー嬢が来たのとは反対側のほうへ歩いて行った。「あのあばずれ女をごらんなさいよ」と、シェーン夫人が前かがみになってささやいた。ディヴァシー嬢は、うなずいた。「あんたに、いろいろ話して上げることがあるのよ。ねえ、この階を掃除してる娘《こ》たちの話だけど、あの女の部屋で、とんでもないものを見つけたんですって。つい先週、あの女の部屋の床でひろったものが、なんと――」
「私もう行かなくっちゃあ」と、ディヴァシー嬢が、あわてぎみに言った。「そう――カークさんの事務室――つまりその、カークさんのとこへ――」
シェーン夫人は、ディヴァシー嬢を見つめていた鋭いさぐるような目の色をやわらげて「オズボーンさんがおひとりかとおっしゃるんでしょう?」
ディヴァシー嬢は赤くなった。「そんなことをおききしやあしないわ――」
「分かってますよ、あなた。おひとりよ。この一時間ほどは、誰もあの縁起《えんぎ》のいいお部屋にはいりませんでしたよ」
「ほんとう?」と、ディヴァシー嬢は胸をはずませて、手入れのとどいた指先を、キャップからはみ出ている赤味をおびた髪にさしこんでかき上げ始めた。
「もちろん、本当よ。私は、午後はずっとここを離れなかったんですからね。私の目にふれずには誰もあの事務室には、はいれやしませんよ」
「そう」と、ディヴァシー嬢は、さりげなく言った。「ここまで来たんだから、ちょっと寄ってみようと思うの。どうせ用もないんだし、たいくつしているのよ、シェーンさん。それに、話しかける相手もなくて、一日中あの事務室にとじこもっているんですもの、オズボーンさんだって、とてもお気の毒よ」
「おお、そうともいえなくってよ」と、シェーン夫人は、ちょっと意地悪く「つい今朝がた、すばらしくきれいな若い女のひとが来てたのよ。カークさんの出版の仕事に関係のある――たぶん、作家らしいわ。オズボーンさんと二人きりで、とても長い間、あそこにいたのよ――」
「そう、いたってかまわないじゃないの」と、ディヴァシー嬢はつぶやいた。「ちっとも気にしてやしないわよ、シェーンさん。とにかくそれがあの方のお仕事ですものね。それに、オズボーンさんは、そんな方じゃないし……じゃ、失礼します」
「じゃ、またね」と、シェーン夫人があいそよく言った。
ディヴァシー嬢は、来た道をぶらぶらと戻って行った。そして、ドアの閉まっているドナルド・カークの事務室の前の仙郷にさしかかると、しだいに足どりが小きざみになった。そのあげく、まるで奇跡にめぐり合ったとでもいうように、ドアのま正面で、ぴたりと立ちどまった。頬をほてらせて、シェーン夫人のほうを、ちらりと振り返った。年増《としま》の結びの神の役どころに満足して、どっしりしたシェーン夫人は、にこにこしていた。そこで、ディヴァシー嬢は少し|はすっぱ《ヽヽヽヽ》に微笑し、見栄《みえ》も外聞もすててドアをノックした。
ジェームズ・オズボーンは上の空で「おはいり」といったが、ディヴァシー嬢が胸をときめかせて部屋にはいって来ても、その青白い顔を上げようともしなかった。机の前の回転椅子に腰かけて、黙りこんで、小さな四角い色ずりの紙が貼り込んである厚手のカードのような、ルーズリーフのアルバムみたいなものを、熱心にしらべていた。オズボーンは四十五歳で、見栄《みば》えのしない男だった。うすぎたない赤っちゃけた髪が、こめかみのあたりにもじゃもじゃと生え、鼻はぺしゃんこだし、目は疲れきった小じわの中に埋まっていた。小さなピンセットで、慣れきった手つきで、色ずりの紙片を一心不乱にしらべていた。
ディヴァシー嬢が、せきばらいした。
オズボーンは、くるりと振り向いて、びっくりしながら「おや、ディヴァシーさん」と叫び、ピンセットをてばなして、よろよろと立ち上った。「いらっしゃい。どうぞ。たいへん失礼しました――うっかりしていまして……」のっぺりした頬に赤味がさした。
「すぐお仕事をおつづけなさいよ」と、ディヴァシー嬢が言った。「ちょっとお寄りしたんですけど、お忙しそうですから――」
「いえ、いいえ。ディヴァシーさん。ちっとも忙しかありませんよ。おかけ下さい。二日もお見かけしませんでしたね。カーク博士のご用が忙しかったんでしょう」
ディヴァシー嬢は、のりのきいたスカートをきちんと、ととのえながら腰かけた。「おお、それにはなれっこですわ、オズボーンさん。口うるさい方《かた》ですけど、本当に立派なお年寄りですわ」
「おっしゃる通りですね、まったく」と、オズボーンが言った。「大学者ですよ、ディヴァシーさん。お盛んなころは、言語学界に大した貢献をなさったんですからね、大した学者です」
ディヴァシー嬢が、何かぶつぶつ言った。オズボーンは腰をかがめて、じっと立っていた。その部屋は静かで居心地がよかった。事務室というより、神経のこまかい人間がしつらえた居間のようだった。やわらかい、うすもののカーテンと、びろうどの茶色の窓かけが、目の下のセット・バックに囲まれている中庭を見えないようにふさいでいた。すみには、本とアルバムが、うず高くつまれているドナルド・カークの机があった。二人とも、ふと、二人きりなのが気になり出した。
「この古切手をおしらべになるんでしょう」と、ディヴァシー嬢が、ぎこちなく言った。
「ええ、ええ、そうですよ」
「あなた方、男の方って、切手なんか集めてどういうおつもりなんでしょうね。時々は、ばからしいとお思いになるでしょう、オズボーンさん。大の大人が、だって、私は、そんなことをするのは子供だとばかりおもっていたんですもの」
「おお、大ちがいです」と、オズボーンが反対した。「普通の人は切手収集について、たいていそう思っていますがね。しかし世界中で何百万の人がこれに夢中になっているんですよ。世界的な趣味のひとつです。実際に一枚五万ドルもする切手があるのをご存知ですか、ディヴァシーさん」
ディヴァシー嬢は目を丸くした。「本当?」
「本当ですよ。あんたが、てんで目もくれないような、よごれた紙片がですよ。写真で見たことがありますがね」オズボーンの、つやのない目が輝いた。「英領ギアナのものです。もちろん、世界でただ一枚の切手です。ロチェスターの故アーサー・ヒンドの収集品です。ジョージ陛下が英国植民地の切手を全部収集するのに、それが欲しいと言われて――」
「本当?」と、ディヴァシー嬢が、息をのんだ。「ジョージ陛下も、切手収集家なんですの?」
「ええ、そうです。偉い人が多ぜいいますよ。ルーズヴェルト氏、アガ・カーン王――」
「まあ、あきれた」
「それに、カークさんもそうなんですよ。ドナルド・カークさんも。今では、世界でも指折りの中国切手の収集をなさっているんです。それぞれ専門があるんですよ。マクゴワンさんは地方切手を集めているんです――地方切手というのは、全国的な郵便制度ができる以前に、州とか自治体が発行した切手なんです」
ディヴァシー嬢はため息をした。「きっと、たいへん面白いでしょうね。カークさんは、その他にも収集をしていらっしゃるんでしょう」
「ええ、そうですよ。宝石です。私はそのほうはあまりお手伝いしていませんがね。宝石の収集は銀行の金庫に保管しておられますよ。私は集めた切手を、きちんと整理することと、マンダリン出版社関係のカークさんの秘書をつとめることで、手一杯なんですよ」
「面白そうじゃありませんか」
「そりゃあもう」
「とても面白そうね」と、ディヴァシー嬢がもう一度言った。なんだってこんなことをつべこべ話しているんだろうと、彼女はいらいらしながら考えた。「私、マンダリン社の本を一冊読んだことがありますわ」
「本当ですか」
「≪反逆者の死≫という本で、著者は外国人らしい名前でしたわ」
「ああ、メレジンスキイです。フェリックス・バーンさんが見つけて来た作者の一人で――ロシア人です。あの人はいつも、ヨーロッパをかけまわって、外国人の作家を探し歩いているんですよ――バーンさんのことですがね。ところで」と、オズボーンは黙りこんだ。
「で?」と、ディヴァシー嬢も、黙りこんだ。
オズボーンは頬をなぜ、ディヴァシー嬢は髪をなぜた。
「で」と、ディヴァシー嬢が少し、落ち着きをなくして「とても立派な本をお出しになるんでしょうね」
「そりゃそうですとも」と、オズボーンが大声で「バーンさんが、また新しい原稿を鞄いっぱいにつめこんで戻られたでしょうよ。いつもそうですから」
「あら、そう」と、ディヴァシー嬢はため息をした。ますますいけなくなる、どうも、うまくない。オズボーンは彼女のきりっとした清々しい姿を、うっとりとした目で――賞賛と敬意をこめてながめていた。やがて、ディヴァシー嬢が顔を輝かせて言った。「バーンさんは、テンプル女史のことをご存知ないんでしょう」
「え?」と、オズボーンは目をむいて「おお、テンプルさんのことですか。そう、カークさんがテンプルさんの新しい本のことを手紙で報らせたと思いますよ。テンプルさんは、とてもいい方です」
「そうでしょうね。私もそう思いますわ」ディヴァシー嬢の広い肩がふるえた。「じゃあ」
「まだいいじゃありませんか」と、オズボーンがあわてて言った。
「本当に、もう」とディヴァシー嬢はつぶやいて、立ち上りながら「失礼しなくちゃ。カーク博士が、今ごろはきっと、かんしゃくをおこしていますわ。かんかんよ。じゃあ……お話しできて楽しかったわ、オズボーンさん」彼女はドアのほうへ向かった。
オズボーンがつばをのんで「あの――ディヴァシーさん」と、おずおずと歩みよったので、彼女はおどろいて身を引き、急に胸がどきどきした。
「なんですの、オズボーンさん。な――なんですの?」
「あなたはそのう――どうでしょう――つまり、あなたは――」
「なんですの、オズボーンさん」と、ディヴァシー嬢はとぼけて、低く言った。
「今夜はお仕事がおありでしょうか」
「おお」と、ディヴァシー嬢が言った。「そうね、別にないと思いますわ、オズボーンさん」
「じゃ、よろしかったら――今夜、私と映画に行って下さいませんか」
「おお」と、ディヴァシー嬢は、もう一度言って「よろこんでおともしますわ」
「ラジオ・シティで、バリモアの新しい映画をやっていますよ」と、オズボーンは熱心に「とてもいいそうです。四つ星だそうですよ」
「ジョン・バリモア? ライオネル・バリモア?」と、ディヴァシー嬢が頭をかしげて訊いた。
オズボーンは意外なような顔で「ジョン・バリモアです」
「そう。それなら私もぜひ見たいわ」と、ディヴァシー嬢が声をはずませて「ジョン・バリはいつもひいきなのよ。ライオネルもすきだけれど、でもジョンのほうが――」と、彼女はうっとりと天井を見上げた。
「私にはよく分かりませんが」と、オズボーンがつぶやいた。「最近の二、三本の写真だと、少し|ふけ《ヽヽ》たように思えますがね。年はあらそえませんねえ。ディヴァシーさん」
「まあ、オズボーンさん」と、ディヴァシー嬢が言った。「あなた、やいていらっしゃるのね」
「やくって? 私が? ぷふう――」
「そうよ。ジョンは、ただもうすばらしいわ」と、ディヴァシー嬢はあどけなく言った。「ジョンを見に連れて行って下さるなんて、とてもすてきよ。オズボーンさん。きっと、すばらしく楽しいだろうと思うわ」
「そりゃどうも」と、オズボーンはむっつりして「あなたにおねがいするつもりで――そりゃ、よかった。よかった。ディヴァシーさん。いま、六時十五分前ですから――」
「五時四十三分ですわ」と、ディヴァシー嬢は、商売柄のすばやさで、無意識に腕時計を見ながら言った。「じゃあ、私たち」と、声を低くして、うちとけた調子になった。「八時十五分前にね」
「結構です」と、オズボーンはほっとした。二人はじっと見合ったが、すぐに目をそらした。ディヴァシー嬢は、のりのきいたエプロンの下で、急にあたたかいものがこみあげるのを感じた。ぶこつな指先で、無意識に髪をいじりはじめた。
エラリー・クイーン氏が、後日その当時を回顧してうち明け話をするときには、よく指摘したものだが、事件の発端のこの時には、とるにも足らぬ平凡な人々の、刺激の少ない平凡な生活に、影も形もない死者が割り込んでくるような、このおそるべき事件の様相はまるでなかったそうだ。すべてがごくありふれたことだった。ディヴァシー嬢は自分のことにかまけていたし、オズボーン氏はカークの隠し事務室の中のことに気をとられていた。ドナルド・カークは留守だった。ジョー・テンプルはカーク家の客間のひとつで新調の黒いガウンに着かえていた。カーク博士は十四世紀のユダヤの坊さんの写本に、とがった鼻を埋めていた。ハッベルはカークの部屋で主人の夜会服を、支度していた。グレン・マクゴワンは、さっそうとしてブロードウェイを歩いていた。フェリックス・バーンは、東六十丁目の独身アパートで、外人ふうの女に接吻していた。アイリン・リューズは、チャンセラー・ホテルの寝室の鏡の中の、じつにすばらしい自分の裸姿を眺めていた。
そして、数分前にキューピッド役をつとめたシェーン夫人は、突然、新しい役を演《や》るように命じられたのである。――中国オレンジの悲劇の序幕。
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二 奇妙な幕間
シェーン夫人の時計でぴたり五時四十四分に、受付の向かい側のエレベーターのひとつがあいて、顔つきのおだやかな中年のがっちりした小男が出て来た。その男には興味とか楽しさとかで、人目をひくようなものは何もなかった。ただの中年太りの男で、ぱっとしない服を着、濃いみどりのソフトをかぶり、まっ黒な外套で、秋の寒さを防ぐために、太い首にウールのマフラーをまきつけていた。肉づきのいい毛のない手に、普通の灰色のケースプキンの手袋を持っていた。安帽子のてっぺんから、ブルドック型の黒靴のかかとまで――なんのへんてつもない男だった。毎日、なんの奇もない世界を構成している何百万何千万の大衆のひとり、つまり≪透明人間≫だった。
「ご用は?」と、シェーン夫人は、とまどっている様子に気付いて、その人柄を見てとりながら、いささか鋭く声をかけた。見るからに一日十ドルもするチャンセラー・ホテルのお客ではなかった。
「ドナルド・カークさんの事務室はどこでしょうか」と、その男はおずおず訊いた。その声はものやわらかくて甘く、不愉快なひびきではなかった。
「おお」とシェーン夫人が言った。それで万事がのみこめた。二十二階のドナルド・カークの事務室は、見なれぬ客たちが訪ねてくる港だった。カークは、チャンセラー・ホテルのこの事務室を、宝石や切手収集の取り引き相手との静かな面会場所や、どちらかというとあけっぱなしのマンダリン出版社の事務所で人目については困る秘密な出版の仕事を扱う場所にしていた。だから、シェーン夫人は妙な人間に話しかけられることに慣れていないでもなかった。それで、すぐに「二二一〇号室です、廊下の先の右手です」と教え、半開きにした机のひき出しに、うまくかくしてある裸体雑誌を、また熱心に読みつづけた。
ずんぐりした小男は「どうも」とやわらかい声で言い、廊下を斜めに横切って、さきほどディヴァシー嬢がノックしたドアのほうへ歩みよった。そして、丸まっちい拳《こぶし》で、ドアの鏡板をノックした。
部屋のなかは、しばらく|しん《ヽヽ》としていた。やがて、妙にひきつったオズボーンの声が「どうぞ」と答えた。
ずんぐりした小男は、にっこりしてドアをあけた。オズボーンは青ざめて目をぱちぱちさせながら机のそばに立ち、ディヴァシー嬢は、頬を赤らめてドアの近くに立っていた。彼女の右手は、ちょっと前に男の肌にふれたので、ほてっていた。
「カークさんでしょうか」と、客が、おだやかに訊いた。
「カークさまはお留守です」と、オズボーンがぎこちなく言い「ご用をうけたまわりましょうか――」
「じゃあ、失礼いたしますわ」と、ディヴァシー嬢はかすれた声で言った。
「おお、どうぞ」と、客が「私は待たせていただきます。どうぞ、おかまいなく――」客はディヴァシー嬢の看護婦姿を、まぶしそうに見つめた。
「失礼するところでしたの」と、ディヴァシー嬢は小声で言い、両手で頬を押さえながら、ひらりと身をひるがえして出た。ドアが、ばたんと閉じた。
オズボーンはため息をして、頭を下げた。「では……ご用はなんでしょうか」
「実は」と、客は帽子を脱いで、まわりが白髪まじりの、赤みがかった禿頭を見せながら「私はカークさんにお会いしたいのです。ドナルド・カークさんにぜひお目にかかりたいんです」
「私はカークさんの助手の、ジェームズ・オズボーンと申します。カークさんにお会いになりたいご用件はなんでしょうか」
客は口ごもっていた。
「出版関係のご用件でしょうか」
客は、少し片意地そうに唇をゆがめた。「内密の用件でしてね、オズボーンさん」
オズボーンの目がきつくなった。「はっきり申し上げますが、私はカークさんの内密のお仕事も、すべて任されております。決してご信頼を裏切るようなことは――」
ずんぐりした小男の無表情な目が、自然に、オズボーンの机の上の切手アルバムに注《そそ》がれていた。そしていきなり言った。「あれはなんですか。切手ですか」
「そうです。よろしかったら――」
ずんぐりした小男は首を振った。「いや、待つことにしましょう。カークさんはすぐ戻られるでしょうか」
「たしかなことは申しかねますが、まもなくお帰りのはずになっています」
「そうですか、どうも。なんでしたら、私は――」と、客は肘掛け椅子のほうへ歩きかけた。
「お待ちになるんでしたら、どうぞ、こちらへ」と、オズボーンが言った。そして事務室に通じる二つあるドアの二番目のほうに歩みより、さっとあけると、たそがれて、ほの暗い部屋があらわれた。すぐ内側の右手の本棚の上のスイッチをひねって、あかりをつけた。すると、ディヴァシー嬢が、さっきタンジールみかんを、つまみ食いした部屋が照し出された。
「どうぞ、お楽に」と、オズボーンが、ずんぐりした小男に言った。「葉巻とシガレットは、テーブルの上のたばこ入れにございます。キャンディと、雑誌と、果物も、どうぞ。カークさんが来られましたらお報せいたします」
「どうも」と、客が小声で「ご親切に、どうも、行きとどいたことで」と言い、えりまきをしたままで、テーブルのそばの椅子に腰を下ろした。「クラブのようですな」と、気持よさそうに、うなずきながら「すばらしい。本も大したものですな」部屋の三方の壁は、扉のない本棚に覆われていて、棚の切れている所は、向かい合っている壁についている二つのドアのところと、三番目の壁の立派な暖炉のところだけだった。暖炉の上には、インピ族〔東アフリカの土人〕の戦争|盾《たて》の後に、二本のアフリカ土人の大槍が十文字にかけてあった。四番目の壁には窓が二つとってあり、そのきわに読書机が置かれていた。深々とした椅子が、本棚の前に、まるで番人のように据えてあった。
「はあ、さようでしょうか」と、オズボーンはそっけなく言って、ずんぐりした小男が満足そうにほっとして雑誌に手をのばしたときに、事務室にもどり、後手にドアをしめた。
オズボーンは自分の机の電話をとって、カーク家を呼び出した。「もしもし、ハッベル君」と、いら立ちながら「カークさまはいらっしゃるかね」
ハッベルは甲高い英語で「お留守ですよ」
「いつごろ戻られるかね。こちらにお客さまが待っておられるんだ」
「さようですなあ。カークさまからただ今お電話で、晩餐会にはおくれるが、服の支度はしておくようにと」ハッベルはいっそう甲高く「カークさまはいつもこうですからね。いつもだしぬけなんですよ、そう言っちゃなんですが。さっきも七時十五分前には帰る。≪珍客≫が一緒だから席を用意しておけとおっしゃいました。キングさんとか、クイーンさんとかいう方だそうで――」
「そうかい。とにかく席を用意しておくんだね」と、オズボーンは答えて、電話を切り、遠くを眺めるような目をして、ゆっくり坐った。
六時二十五分過ぎに事務室のドアがあき、グレン・マクゴワンが足早にはいって来た。夜会服を着て、帽子と外套を持っていた。細い紙巻きたばこをせかせかと吸って、水晶のような目に落ち着きがなかった。
「まだ切手をやっとるのかね」と、太い声で言いながらひょろ長いからだを椅子に投げかけた。「実直なオッジー君〔オズボーンの呼び名〕。ドン〔ドナルドの呼び名〕は、どこかね」
切手のアルバムに気をとられていたオズボーンは、びっくりして目を上げた。「おお、マクゴワンさま。こりゃ、うっかりしておりまして。ドナルドさまは、こちらにはお見えになりませんでした」
「しょうがないな」と、大男は、みがき上げた指の爪をかんだ。「来年のダービーの勝馬のように当てにならん男だな。前にも一度、約束の時間に間に合うかどうかで、千ドルの賭けをしたことがあるが、思った通り、ぼくの勝ちさ。マーセラさんは来たかね」
「いいえ。ここにはほとんどいらっしゃいませんし、ですから――」
「おい、オッジー」マクゴワンはせかせかとたばこをふかした。椅子からはみ出すほど大きな図体だった。広い両肩の上に、白皙《はくせき》な細面《ほそおもて》がのっかっていた。「すぐ、ドンに会わなければならないんだ。君はたしかに――」
オズボーンはびくりとした。「でも、晩餐会でお会いになるんでしょう」
「うん、そうさ。だがその前に会わなければならないんだ。どこにいるか、本当に知らないのか」と、マクゴワンはじれったそうに言った。
「申し訳ありません。ずっと前にお出かけになって、行き先きをおっしゃいませんでしたので」
マクゴワンは顔をしかめた。「紙と鉛筆をくれ」オズボーンが急いで渡した紙に、走り書きをし、折りたたむと、封筒に入れて自分で封じて、その封筒をカークの机に、ほうりなげた。「オッジー、その手紙を今夜の晩餐会の前に渡すようにしてくれよ。大事なことなんだ――それに内密なんだ」
「かしこまりました」オズボーンはその封筒を片方のポケットにねじ込んだ。「ところで、おひまがございましたら、ぜひ見ていただきたいものがあるのですが」
マクゴワンはドアの前で立ちどまった。「とても急いでいるんだよ、オッジー」
「きっとこれをごらんになりたいだろうと思いましてね、マクゴワンさま」オズボーンは壁金庫に行き、大きな革表紙の帳簿のようなものをとり出し、机に持って来て開いた。びっしりと郵便切手が貼り込んであった。
「なんだね、珍しいものが手にはいったのか」と、マクゴワンは急に目を輝かせて訊いた。
「さようです。これが、新しく手にはいったものです」オズボーンは一枚の切手を指さして、机の上の切手収集用具箱から小さな拡大鏡をとり出して、マクゴワンに渡した。
「南京《なんきん》で出た竜切手だね」と、マクゴワンは、拡大鏡を、みどりとばら色の切手に向けながら、つぶやいた。「価格訂正の文字が、ちょっと変なようだな。おや、下の字がかけてるぞ」
「そうなんですよ」と、オズボーンが大きくうなずいて「その縦の文字は中華民国《チユン・フア・ミン・クオ》となっているはずなんです――発音が合っていますかどうか――≪中央の花咲き匂う民の王国≫です。しかしこの切手はどうしたことか最後の字が、かけていて≪王国≫の部分がないのです。中国ものの珍品で厄介なのは、特に価格訂正ものの場合、表意文字について誤りを指摘できるだけの充分な知識を持っていなければならないことですよ。この切手は比較的やさしいほうです。私は中国語とギリシア語の区別もつかないのですが、カーク老博士に読んでいただきました。面白いものでしょう?」
「とても面白い。ドンはどこでこれを掘り出したんだね」
「競売でです。三週間ほど前です。どうしたわけか、引き渡しが昨日までおくれていたのです。鑑定をしていたのでしょうね」
「運がいい男だな、畜生」と、マクゴワンが拡大鏡を置きながら、うなった。「ぼくは、もう何週間も、地方切手の珍品には、まったくお目にかからないんだからな」と、肩をすくめて、ふと、妙に静かな声で訊いた。「ドンはこの南京の切手に、えらく張り込んだんだろうな、オッジー」
なぜかオズボーンは口をつぐみ、目の色が冷くなった。「それは、どうしても申し上げられません」
マクゴワンはじっと見つめて、ふいにオズボーンのやせた肩をぽんとたたいた。「そうか、そうか、相変わらずの白鼠だなあ。手紙のことを忘れるなよ。用があって早めに立ち寄ったとドンにことづけてくれよ。晩餐会までには帰ってくるよ。階下に降りて二、三訪問して来たいからね」
「かしこまりました、マクゴワンさま」と、オズボーンは微笑して、自分の机にもどった。
その夜の事件の運びは、目を見張らせるようなものだった。どのひとつも、まるで女の新しい手袋のように、ぴっちりと符合しているようだった。すべての運びが、円滑で抜き差しならぬものだった。そして、虫けらのように味気ない仕事に精を出していたあわれなオズボーンの頭上で、つむじ風のように吹き荒れたのである。
しかも、その間じゅう控え室のドアはぴったり閉じたままだったし、しんとしずまりかえっていたのである。
たとえば、きっちり六時三十五分に、また、事務室のドアがあき、オズボーンは、はっとして頭を上げた。背の高い堂々とした女が、赤い唇に微笑をうかべながら、戸口に気取って立っていた。オズボーンは、むしゃくしゃしながら、しぶしぶ立った。
「おお」と、その女は言って微笑を消した。まるで部屋にはいる儀式のために、とってつけたような微笑だった。「カークさんはいらっしゃいませんの?」
「はい、リューズさま」
「しょうがないわね」と、女はもの思わしげにドアによりかかって、みどり色の目で室内を見まわした。なにか、きらきらするものを、ぴっちりと着こんでいた。そのむき出しの腕が短い貂《てん》のラップの下からつき出ていた。乳房の間の深いくぼみが、ゆっくり息をするたびにゆるんだり張ったりしていた。「あの方にお話があるんですけど」
「おあいにくでした、リューズさま」と、オズボーンが言った。オズボーンにとっては、ディヴァシー嬢のほうが、美しくはないかもしれないが、ずっと堅実味があるように思えた。この女は、スクリーンで見るガルボ〔グレタ〕のように、実体がないようだった。見えるが、さわれないのだ。
「じゃあ……どうも」その声もまた、つかみがたいもので、ややしゃがれた低温で、生《なま》あたたかいひびきがあった。オズボーンは、うっとりして、目をぱちくりしながら、みどり色の目を見つめていた。女は、にっこりして歩み去った。
二人の女が事務室のドアの外で、ばったり出会ったのを、いっさいを見、聞き、知っているせんさく好きなシェーン夫人の目が見つめていた。アイリン・リューズの貂《てん》の毛皮が、ちょうどカークの住居から出て来た黒いイブニングの小がらな婦人の腕にふれた。二人の女は、互いにいかにもいやでたまらないというふうに、一瞬じっと立ちどまった。シェーン夫人は目を光らせて見ていた。
二人はたっぷり十五秒ほど、身動きもせずにらみ合った。背の高い女は少し伏目がちになり、小柄な女は、臆する色もなく見上げていた。二人とも黙っていた。やがて、リューズ嬢が、みどり色の目に、いかにも小馬鹿にしたような勝利の色をうかべて、横廊下のほうへ歩いて行った。リューズ嬢は性的な快感を誘うかのように――ゆるやかに、かすかに腰を振って歩いていた。
その後姿をにらんで、ジョー・テンプルは拳《こぶし》をにぎった。リューズ嬢の腰のうねりには、きわめて大胆な挑戦が示されていた。
「そのほうじゃとてもかなやしないわよ。|すべた奴《ヽヽヽめ》」と、テンプル嬢は息を殺して言った。「あんたの、セックス・アピールなんか……なにさ」
それから、テンプル嬢は肩をすくめ、微笑しながら、急いで事務室にはいった。
オズボーンは、まったくむっとして、また目を上げ、立って情けなそうに言った。「カークさんは、まだお帰りになりませんよ、テンプルさま」
「あら、オズボーンさん」と、ジョーがつぶやくように言った。「あなた、本当に千里眼ね。ドナルドさんに用があるのが、よく分かったわね」
オズボーンはしかたなしに微笑した。「そりゃ、たてつづけに、四人もいらっしゃるんですもの、テンプルさま。カークさまは、今日はとてもお忙しいようです――それで雲がくれしていらっしゃるんでしょうよ」
「すると、カークさんは私からも雲がくれしていらっしゃるのかしら?」と、えくぼをつくりながらつぶやいた。
「そんなことはございますまい、テンプルさま」
「ねえ、ただおあいそうにそんなこと言うんでしょう、ねえ、あなた。私はどうしても、あの方にお話ししておきたかったのよ、前もって――……お邪魔しましたわ。じゃ、どうも、オズボーンさん。どうにもしょうがないらしいわね」
「お気の毒でした。お役にたつことがございましたら――」
「本当は、なんでもないことなのよ」テンプル嬢は、にっこりして出て行った。
オズボーンが、ほっとして腰をおろすと、すぐ電話のベルが鳴った。
オズボーンはかっとして受話器をひったくると、大声でどなった。「はいはい」
「ドナルド君かね。フェリックスだ、残念だが――」
「おお」と、オズボーンが答えた。「私はオズボーンです、バーンさま。ご機嫌いかがですか。お帰んなさい。航海は、お楽でしたか」
バーンが、そっけなく受けた。「まあまあさ」その声に少し外国なまりがついていた。「カーク君はいるかね」
「もう帰られるはずなんですが、バーンさま」
「じゃあ、ぼくが晩餐会に少しおくれると言っといてくれないか、オズボーン。やむを得ない用事にひっかかったんで」
「承知いたしました」と、オズボーンが、へりくだって言った。が、腹の虫が急に爆発するように叫んだ。「そんなら、アパートのほうへ電話すればいいじゃないですか」しかし、受話器はかけてしまったあとだった。
それから、ちょうど六時四十五分に、ドナルド・カークが、鼻眼鏡をかけ、夜会服をつけた背の高い青年をつれて、のっそりとエレベーターから出て来た。
カークには、これがマンダリン出版社の社長で、ニューヨークの社交界でちやほやされている独身の遊び好きな青年百万長者だと思わせるふしはどこにもなかった。だらしのないツイードの服を着、外套も折り目がついていず、片方の小鼻にインキのしみがつき、なぜ肩で、外套のポケットに押し込んである帽子も、型のくずれてソフトなのだ。世間並みの青年百万長者とはとても見えないほど、しょげた姿で、シェーン夫人が閉口するような匂いのするパイプをくわえていた。
「今晩は、シェーンさん。こっちへ来たまえ、クイーン君。君に階下でぶつかってよかったよ。ちょっと事務室へ寄ってくるからね。すぐ来るよ」
「いいとも」と、エラリー・クイーン氏が、のんびりと言った。「ぼくは機械の歯車にすぎないんだからね。動かすのは君なんだぜ。しかし、カーク君、いったい、どうしたと言うんだね」
しかし、カークは事務室にかけこもうとしていた。エラリーは、ぶらぶらついて行って、入口の柱によりかかった。
オズボーンのしかめっ面が、とたんに微笑みに変わった。「カークさま。帰っていただいて助かりましたよ。どうしようかと思っていました。午後はとても忙しかったので――」
「手が抜けなくてね、オッジー」と、カークは自分の机にとんで行き、封をひらいた手紙の山をかきまわしながら「大事な用件でもあったのか。おお、失敬。クイーン君、ぼくの片腕のジミー・オズボーンだよ。エラリー・クイーンさんだよ、オッジー」
「どうぞよろしく、クイーンさま……そうですね、別にこれといって。そうそう、ちょっと前に、リューズさまがおよりになりましたよ、カークさま……」
「アイリンが?」カークの手から書類がすべり落ちた。「それで、用件は? オッジー」と、ゆっくり訊いた。
オズボーンは肩をしゃくって「なにもおっしゃいませんでした。大したことじゃないでしょう。それから、テンプルさまも来られました」
「へえー。来たかい?」
「はい。晩餐会の前にお話したいことがあるとおっしゃっただけです」
カークが眉をしかめた。「分かった、オッジー。その他には? すぐすむよ、クイーン君」
「ゆっくりし給え」
オズボーンが赤髪の頭を掻いた。「おお、そうそう、マクゴワンさまが二十分ほど前に見えました」
「グレンが?」と、カークは、びっくりした顔付きで「きっと、晩餐会に早く来すぎたんだろう」
「いいえ。なにか急用でお会いになりたいと言っておられました。実は、置き手紙を、おあずかりしています」オズボーンはポケットから封筒をとり出した。
「失敬、クイーン君。なんだろう――」と、カークは封を破って、手紙をひき出した。すぐひらいて、じっと文言を睨んでいた。読んでいるうちに、ただならぬ顔色になった。だが、じきにその顔色も消え去った。それから、顔をしかめて、手紙をくしゃくしゃに丸めると、上衣の左手のポケットにねじ込んだ。
「どうかしたのかね、カーク君」と、エラリーがものうげに訊いた。
「ええ。おお、いやいや、つまらんことさ……」と、みなまで言わずに「ごくろう、オッジー。ここを閉めて、帰りたまえ」
「はい。うっかりしておりました。ちょっと前にバーンさまからのお電話で、少しおくれるとのことでした。抜けられないご用事とかで」
「パーティの主賓がおくれるのか」と、カークは苦笑した。「フェリックスらしいな。もういい、オッジー。さあ行こう、クイーン君。待たせてすまなかったね」
二人は廊下に出たとき、オズボーンの大声に、呼びとめられた。カークが首をふりむけた。「なんだね、いったい」
オズボーンはひどく弱った様子で「まことに申し訳ありませんが、ど忘れしておりまして。お客さまが、控え室で、ずっと前からお待ちになっておられます。カークさま。たっぷり、一時間前に来られました。お名前も、ご用件もおっしゃいませんので、あちらで待っていただくようにいたしました」
「誰かね」と、カークがいらいらして訊いた。エラリーはカークと一緒に、部屋にひき返した。
オズボーンは両手を上げて「存じません。はじめての方です。今までに用件でここに見えたことのない方です。なんとも口のかたい方で。ごく内密の用件だそうです」
「名前は? 弱ったな、ぐずぐずしゃべってるひまはないんだがな。誰なんだ?」
「おっしゃいませんので」
カークは日にやけた上唇を、しばらく噛んでいた。やがて、ため息をして「じゃあ、すぐ片付けるからね。すまないが、クイーン君。アパートのほうへ先へ行っててくれないか」
エラリーはにこにこして「急がないよ。それに、ぼくは、はにかみ屋なんでね。待ってるよ」
「いつもどうも客が多くてね」と、カークがこぼしながら、控え室につづくドアに近づいた。ドアの下のすきまから、あかりの筋が見えていた。「出版のことでなければ切手のことだし、切手のことでなければ宝石のことなんだ……どうしたんだい、オッジー? ドアに錠をかけたのか」カークは、じりじりしながらあたりを見まわした。ドアはびくともしなかった。
「しまっていますか」と、オズボーンが、あっけにとられて「そんなはずはありませんよ、カークさま」
「ところが、しまってる。向こう側から錠をかけたんだな。ばかな奴だな」
オズボーンがとび出して、ドアをあけようとした。「おかしいな」と、つぶやいた。「ご存知のように、カークさま、私はドアの鍵をかけたことは一度もありません。ここには、鍵なんかないんですからね。控え室の側に、かんぬきがあるだけなんです……いったいなんだって、かんぬきをかけたんでしょうね。分かりませんな」
「なにか金目のものが置いてあるかね、カーク君」と、エラリーが進み出ながら、ゆっくり訊いた。
カークが顔色をかえて「金目なものって? 君はまさか――」
「どうやら、単なる盗難事件くさいね」
「泥棒?」と、オズボーンが大声で「でも、控え室には、金目のものは、なにも――」
「のぞいて見よう」と、エラリーは外套と帽子とステッキを、そばの椅子に放り出して、ドアの前の紙っぺらのようなインド絨毯にひざをついた。そして片目をとじて見通しの鍵穴からのぞいた。それから、すぐに立ち上がった。「この部屋にはいるドアはここだけかね」
「いいえ。あちらの廊下側からはいるドアがもうひとつあります。角を曲がると、カークさまのお住居と向かい合っています。なにか変なことでもございますか」
「まだ分からないね」と、エラリーは眉をしかめて言った。「たしかに、ひどく変なことがおこっているようだ……来たまえ、カーク君。調べてみる必要があるよ」
三人の男は事務室をとび出して、シェーン夫人がたまげているのもかまわず、どたどたと廊下を走って行った。角をまがり、左手へ駈けて、カーク家のアパートから広間《ホール》を距《へだ》てた向かい側の最初のドアの前でとまった。一時間以上も前にディヴァシー嬢が使ったドアである。
エラリーがノブをつかんでまわした。動いたので押してみた。ドアには錠は下りていなかった。ドアはゆっくりと、内側にひらいた。
エラリーは、はっとして青ざめて、立ちすくんだ。その肩ごしに、ドナルド・カークとジェームス・オズボーンの顔がゆがんでいた。
やがて、カークがつぶれたふるえ声で言った。「たいへんだ、クイーン君」
部屋のなかは、まるで巨人が建物から、その部屋だけをむしりとって、さいころ壺のように振りまわして、元の場所に投げ返したかのようだった。その混乱ぶりは一目で分かった。あらゆる家具は動かされ、壁にかけてある画もゆがんでいたし、絨毯もいじったらしいし、椅子もテーブルも、なにもかも……。
人間の目はいくらむき出しても、ある程度以上の破壊の状態を、ひと目で測ることはできない。最初は、手荒いぶちこわしと、気違いじみたひっぺがしをやったものだという印象をうけた。しかしそんな印象など、手ぬるいもので、ただひとつの恐るべき現実の前には、ひとたまりもなくけしとんだ。
三人の目は、部家の奥の事務室に通じる、かんぬきをおろしたドアの前の床に、のびているものにひきつけられた。ずんぐりした中年男の硬直した死体で、そのはげ頭はもう血の気もうせて、血しおがとびちり、脳てんの黒ずんだくぼみから、かたまってぶよぶよしたものが流れ出していた。うつむきに倒れて、短く太い両腕がからだの下にねじれこんでいた。妙な角のような鉄製のものが二本、上着の首のうしろに下からつき出ていた。
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三 あべこべ殺人
「死んでるか?」と、カークがささやいた。
エラリーは、はっとして「まあね。どう思う?」とかすれ声で言って、前へふみ出した。そして立ちどまり、まるで見ていることが信じられないような目で、めちゃめちゃにされた室内を、すばやく見まわした。
「こりゃあ、人殺しです」と、オズボーンが、妙にいぶかしげな声で言った。エラリーは、すぐ後でとりとめもなく息をはずませているオズボーンに気がついた。
「火かき棒で自分の脳天をぶんなぐる奴はいないからね、オズボーン君」と、エラリーは平静に言った。三人は、きょとんとして兇器を見つめた。ずっしりした真鍮《しんちゅう》の火かき棒が、死体のすぐそばの絨毯の上にころがっていた。
明らかに、それは飾り暖炉の前の道具かけからとったものだった。そして、ずんぐりした小男の脳天にこびりついているぶよぶよした血のりと同じく血まみれになっていた。
やがてエラリーは、室内の空気の分子さえかきみだすまいとするように、そっと前にふみ出した。そしてうつぶせの死体のそばに膝をついた。見るべきものがいくらでもあり、それ以上に頭で消化すべきものがいくらでもあった……じっと動かない小男の乱れた着衣には目もくれず、服の下に手をさし入れて胸に手を当ててみた。心臓の鼓動《こどう》は、全然、指先に感じられなかった。ひやっとする手を引き出して、のっぺりした青白い顔の皮膚にさわってみた。顔も、この世のものでない死冷《しれい》をおびていた。
顔には紫斑が出かかっていた。……エラリーは死人のあごに手をかけて、頭を持ち上げてみた。思った通り、左の頬と、鼻と口の左側に血のにじんだ紫色の斑が出ていた。死人は石のように倒れて、顔の左側を、床にぴったりくっつけていたのだ。
エラリーは黙って立って、戸口のすぐ内側の元いた場所にもどった。「観察の仕方だが」と、死体から目をはなさずに、ひとりごとを言った。「近付きすぎるとよく見えない。どうやら――」あらたなおどろきが頭にこみ上げた。長年のあいだエラリーはおきまりの暴力沙汰で多くの死人を見てきたが、このような死人と、その最期の憩いの場に加えられたこのようなおどろくべき状況にぶつかったのは初めてだった。
すべてが無気味で、しかもおそろしい様相を呈していた。正常な心理では、とてもうなずけないものであり、神をおそれず、神をけがすしわざだった。
どのくらい立っていたか三人が三人とも、気付かなかった。外の廊下はしんとしていた。ときどきエレベーターのドアの音と、シェーン夫人の愛想のいい声が聞こえるだけだった。二十二階下の往来から、かすかな車の音が、風になぶられている窓のカーテンごしに聞こえて来た。どうかすると、その小男は死んでいるのではなく、ふざけて、妙な恰好《かっこう》で床にねころんでいて、とんでもない気まぐれであたりをこんなにもめちゃめちゃにとりちらかしているのではないかとさえ、三人には思えるのだった。そう思うのも三人のほうを向いている死人の厚い唇に、人の好い微笑が浮かんでいるのが見えたからだった。しかしすぐにそんな思いも消えて、エラリーは、はげしくせき払いをし、たとえ物音みたいなものでもいいからなにか手がかりをつかもうとして訊いた。
「カーク君、この男には前に会ったことがあるかね」
背の高い青年社長は、エラリーの後で、小鼻を鳴らすような息づかいをして「クイーン君、ちかうよ。一度も会ったことはない。信じてくれ」と、ふるえる手でエラリーの腕をつかんだ。「クイーン君。こりゃ、とんでもない間違いごとだ。新顔の人間がしょっちゅう訪ねてはくるがね。この男には一度も……」
「おい」と、エラリーが低い声で「しっかりしてくれよ、カーク君」と、振り返らずに、カークの手をそっとたたいた。「オズボーン君は」
オズボーンは、とぎれとぎれに「保証しますよ、クイーンさま。その男は今まで一度もここへ来たことはありません。全く見も知らぬ男です。カークさまもご存知ありません――」
「そうか、分かったよ、オズボーン君。この犯罪のとんでもない状況からみて、きっと君らの言う通りだろうな……」エラリーは、うつぶせの死体から目を放して、くるりと振り向き、急に事務的な調子で「オズボーン君。事務室にもどって、医者と、支配人と、ホテルの探偵に電話したまえ。それから警察を呼ぶんだ。センター・ストリートにかけて、リチャード・クイーン警視を呼び出し、ぼくが現場にいるからすぐ急いで来るようにたのみ給え」
「はい」と、オズボーンがふるえ声で答えて、そそくさと出て行った。
「さあ、そのドアをしめたまえ、カーク君。だれにも見られたくないからね――」
「ドン」と、廊下で娘らしい声がした。二人の男はすぐに振り向いて娘の視線をさえぎった。娘はまじまじと二人を見つめた――その娘は大きな茶色のひとみで、なよやかな姿はカークと同じぐらいの背丈だった。「ドン。なにかあったの? オッジーが走って行ったわ……なにがあるの? どうしたの?」
カークが、しわがれた声で早口に「なんでもない。本当になんでもないんだよ、セラ」と言い、広間《ホール》にとび出して、妹の半ばむき出しの肩に手をかけた。「ちょっとした事さ。アパートに帰っていなさい――」
そのときマーセラは控え室の床にのびている死体を見つけた。さっと顔色が変わり、瀕死《ひんし》の牝鹿のように目が、きょときょとした。つんざくように一声叫ぶと、ぬいぐるみの人形のように、床にくずおれた。
その悲鳴がきっかけで、気違い病院のようなさわぎが始った。廊下の向かい側のドアがいっせいに開いて、人々が目をきょろきょろさせ、口々にしゃべりながら、とび出して来た。白いキャップを斜めにかぶったディヴァシー嬢が、広間を駈け抜けてきた。その後から、背の高い、骨ばったビュー・カーク博士のやせた姿が、せっかちに車椅子をまわして来た。カラーも上着もつけていず、硬い胸板のついたワイシャツがはだけて、半白の胸毛がのぞいていた。黒い夜会服の小柄なテンプル嬢が、どこかからとんで来て、気絶した少女のそばにひざをついた。シェーン夫人が、息せききって廊下の角をまがり、金切声で人々に訊きまわった。給仕が、きょろきょろしながら、彼女を追い越して走った。背の低い、やせたイギリス人のような執事の服を着た男が、カーク家のドアのひとつから青白い顔をのぞかせて、おし合いへし合い、気絶した娘のまわりにつめかけている人々を眺めていた。
その騒ぎの中で、戸口から一歩も動かなかったエラリーは、ため息をつき、身を引いて、後手に控え室のドアをしめた。外の騒ぎはびんびんひびいて来た。エラリーは戸口を守るようにドアに背を当てて、死体と家具と、死人の背中とを、ふたたび眺めはじめた。なにひとつ手を出して、触れようとはしなかった。
かっぷくのいい冷い目つきの、ホテルの医者は、硬い表情の顔に、驚きの色をみなぎらせて立ち上った。エラリーのそばには、モーニングえりのボタン穴にしなびたガーデニアの花をさした小粋な姿の、支配人のナイが、しょげて唇をかみしめていた。たくましいホテルの探偵ブランマーは、明いている窓のところで、ややとりのぼせ気味に青いあごを掻いていた。
「どうですか、先生」と、エラリーが、だし抜けに訊いた。
医者はびくりとして「おお、さよう。きっと、死後の時間をお知りになりたいでしょうな。まず六時ごろに死んだものでしょう――一時間ほど前です」
「頭をなぐられたせいですか」
「間違いありません。火かき棒が頭蓋骨をくだいたので、即死したのでしょう」
「おお」と、エラリーが言った。「それが最も致命的な個所ですね、先生――」
「まあそうですな」と、医者はにやにやした。
「ははあ。すると即死だったことについては疑問を持たれないのですね」
「そうですとも」
「こりゃ失礼しました。しかし一応たしかめなくてはならないんでしてね。すると、顔のきずは?」
「倒れたときについたんでしょう、クイーンさん。床に倒れた時にはすでに死んでいたのですよ」エラリーは目を光らせた。医者は戸口に向かいながら「もちろん、喜んで検死官の前で、私の見解をくりかえしてのべますよ――」
「その必要はほとんどないでしょう。ところで、他に死因があるようなことはないでしょうね」
「そんなことはありません」と、かっぷくのいい医者がきっぱりと言った。「医学的な検査と解剖をしてみないと、他に暴行のあとがあるかどうかは言えませんが、しかし、死因は頭部の強打によることはたしかですよ。外部の所見がすべて――」と、その冷たい目を光らせて「ねえ君、まさか君は、頭部の打撃を、他の死因で死んだ後から加わえられたものだと言うんじゃあるまいね」
「そんなばかなことも」と、エラリーは小声で「一応は考えてみるんですよ」
「じゃあ、そんな考えは捨てるんですね」医者は職業がら習慣になっている口のかたさと戦いながら、言っていいかどうかとためらっていた。やがて肩をすぼめて「私は探偵じゃないんですよ、クイーンさん。それにこれは私にはまるっきり筋ちがいの話ですがね、しかし、君がもし異常な点を見つけたいのなら、この男の着衣の状況に注目することをすすめたいですね」
「着衣? ほほう、ぜひ教えて下さい。今の段階では、どんな素人《しろうと》の見解でも、ないがしろにはできませんからね」
医者はじっとエラリーをにらんで「もちろん」と、妙にとげとげしくいった。「あなたの経験からみれば――有名なクイーンさんだからね――この男の着衣の状態と、その|わけ《ヽヽ》が苦もなくお分かりだろうが、私のような幼稚な頭にとっては実におどろくべきことなんですよ――着つけが全部うしろ前なんだから」
「うしろ前だって?」と、ナイがうなった。「やあ、本当だ!」
「気が付かなかったのかね、ナイ君」と、ブランマーが顔をしかめながら、大声を出した。「こんな妙なのは見たこともない」
「まあまあ、みなさん」と、エラリーがつぶやいた。「もっとくわしくたのみますよ、先生」
「上着はまるで着まちがえたようですね。まるで誰かが前でひろげている上着の袖に腕を通して、自分で背中にボタンをかけたみたいですよ」
「すばらしい。必ずしも独創的な診断ではありませんがね。それで?」
ブランマーはがまんしかねるというように「上着をうしろ前に着る人間がいるだろうか。とっぴだね」
「たしかにそうだが、ちと不適当な言い方ですね、ブランマー君。≪着るはずがない≫と言うほうが当たっているでしょう。あなたは、上着をうしろ前に着たことがありますか」
「というと――」と、探偵が、つっかかるように言いかけた。
「きっと着たことがないんだろうね。というのは、着ることは着られるが、ボタンがかけられるはずがないからね」
「というのは?」
「上着をうしろ前に着て、自分でボタンがかけられると思うかね。ボタンは背骨にそって、並ぶことになるんだからね。それに、うしろ前に着ると、袖の位置がちがうから、腕を上げるじゃまになるしね」
「なるほど。でも私にはできますよ」
「そりゃそうかもしれないがね」と、エラリーはため息をついて「それから? 先生。お話のじゃまをしてすみませんでした」
「もうかんべんして下さい」と、医者は急に言い出した。「あなたの注意を喚起《かんき》したいだけだったんだから――」
「まあ、そうおっしゃらずに、先生――」
「もし警察で用があれば」と、目の冷い男は、警察という言葉に少し力を入れて「私は診察室にいます。では失礼」と、エラリーのそばをそそくさと通って部屋を出た。
「たしかに欲求不満型だな」と、エラリーが言った。「ばかばかしい」
不気味な静けさの中で、医者の出て行くドアの音がした。一同はいろいろな表情で死体をみつめていた――ナイはぼんやりと、ブランマーはむっつりと、エラリーは怒ったような顔付きだった。まるで、うそみたいな感じが抜けきれなかった。死体の上着があべこべであるばかりでなく、ズボンもあべこべで、後でボタンがかけてあった。白い木綿のシャツもチョッキも後ろ前だった。細いカラーも同じように逆で、えり首のところに、ぴかぴかの金のカラー・ボタンがかけてあった。下着類も同じく、人を小ばかにしたように仕かけしてあるらしい。着ているものがすべて逆で、靴だけが普通の状態だった。
外套、帽子、手袋、毛のマフラーが、そばのテーブルの上に、つみ上げてあった。エラリーはテーブルに歩みより、マフラーをつまみ上げてみた。マフラーの中ごろの片はじに数か所、血痕がついていた。外套の後ろ襟にも、小さな血のかたまりがついていた。エラリーは眉をしかめて、衣類をもどし、かがみ込んで床を検べた。なにもなかった。なにひとつ。――いや、ちがう、絨毯のはずれの堅い木の床の表面に、はねた血らしいものがついていた。椅子の近くだ。……エラリーは急いで部屋のすみに行って、死体の上にかがみこんだ。死体のまわりの床はきれいだった。エラリーが身を起こして立つのを、二人の男は、ぼんやり眺めていた。死体はドアの敷居と平行にころがっていて、出入口の両側をふさぐ本棚のほぼ中ほどにあった。ドアに向かって立ってみると、左手の本棚は、壁についていた元の場所から引き出されているので、左のはじがドアの蝶番《ちょうつがい》に触れ、右のはじが部屋にずり出して、ドアと鋭角をなしていた。死体はその後ろに半ばかくれていた。右手の本棚は、ずっと右よりに動かしてあった。
「どう思うかね、ブランマー君」と、エラリーが、ふり向いて、急に訊いた。その声には、皮肉なひびきはなかった。
「いやはやなんとも」と、ブランマーがあきれ顔で「生まれてから、こんなのは見たことがありませんね。私は、あなたのお父さんが分署の署長だった頃に、巡査をやっていましたがね、クイーンさん。こんなことをした奴は精神病院送りですよ」
「そうかな」と、エラリーは考えこみながら「しかし、無視できない事実がある。それがなければ、君の説に賛成したいよ、ブランマー君……それに、この紳士の生やしている角《つの》だがね。これも犯人の狂気のせいだと言うのかね」
「角というと?」
エラリーは死体の背中の上着の下からつき出ている二本の槍の穂先を、身ぶりで示した。それは、平たくてはばが広く、先のとがったアフリカ土人の槍の穂だった。うつ伏せに倒れているので、槍の柄のかたちが服の下でふくらんでみえた。明らかに、その槍は両足に一本ずつ、足首の後側から差し込んで、ズボンをくぐらせ、腰のところで外に出て、それから男の背中の、後ろ前につけた上着の下に押しこまれて、カラーでV字形になっている襟口から突き出ていた。槍の石づきは、死体の靴のゴムのかかととすれすれだった。槍は二本とも、少なくとも六フィートの長さで、穂先が、血まみれのはげ頭のかなり上で光っていた。ちゃんとボタンをかけた上着とズボンの下に差しこまれている槍のせいで、死体は実に奇妙な恰好だった。どう見ても、殺された獣が、二本の棒にしばりつけられ、つるされているようだった。
ブランマーが窓からつばをした。「畜生! ぞっとするな。槍なんだから……ねえ、クイーンさん。気違い沙汰でしょう」
「おい、ブランマー君」と、エラリーはいささか閉口の体で「同じことをくり返したってはじまらないよ。実は、槍が難問なんだ。しかしぼくは、考える頭があり、運よく考えつくことができれば、この世には説明のつかないものはひとつもないと思っているんだ。ナイ君、このインピ族の槍は、ホテルのものかね? 近頃の高級ホテルは、こんな原始的なものを飾るのが流行なんですかねえ。おどろいたな」
「とんでもない、ちがいます。クイーンさん」と、すぐ、支配人が答えた。「カークさんのものです」
「こりゃどうも。そりゃそうでしょうね」エラリーは暖炉の上の壁を見上げた。アフリカ土人の盾が裏がえしになっていた。壁には、塗料よりも色の薄い四本の線が、裏がえしの盾の後ろからX字型の腕のようにのびていた。槍はうたがいもなくそこにかかっていたのを、犯人が壁からはずしたものだろう。
「この犯人が気違いであることに、疑問を持ったとしても」と、ブランマーが、がんこに言い張った。「この家具のありさまを、ひとめ見ただけでそんな疑問はとんでしまいますよ、クイーンさん。分からないかなあ。気違いでなけりゃ、こんな豪勢なものを、こんなふうに、めちゃくちゃにしやしませんよ。ところで、いったい、これは何のためにやったんですかね。あらゆるものが、ひんまげてある。俗に言う、平仄《ひょうそく》が合っていないんだから」
「ブランマーさんの言う通りですよ」と、ナイが、ふたたびうめいた。「気違いの仕わざですよ」
エラリーはしんから感心したようにホテルの探偵を眺めた。「君はまさに問題の核心《かくしん》をついたね、ブランマー君。平仄《ひょうそく》とは。うまい言い方だ」と行って歩きまわりはじめた。「まさにぴたりだ。この気違いじみた光景に踏みこんだとたんから、そいつが胸につかえていた言葉なんだ。平仄とはねえ――」と、鼻眼鏡をはずして、ゆっくりいじりながら、ナイやブランマーも眼中になく、ただその言葉をかみしめようと努力しているようだった。「平仄だ。あらゆる分析をこばみ、想像を絶する平仄が、ここにはある。平仄がなければ、大いにたすかるんだ。だが平仄が――たっぷりある。しかもそいつが完全な奴で、たつぷりある。論理学史の中にも、これ以上すばらしい例があったかどうか分からないくらいだ」
ナイがきょとんとして「平仄」と、口まねしてみて「そりゃ、どういう意味ですか」
「家具のことなんですか、クイーンさん」と、太い眉をひどくよせながらブランマーが訊いた。「見たところすっかり――そう、すっかりめちゃめちゃですね。この部屋をここまでぶちこわすには、誰にしたって並たいていの骨折りじゃないですよ。いったいどうして――」
「おお、なんと」と、エラリーが叫んだ。「君たちは、二人ともめくらかね。ブランマー君、≪めちゃめちゃ≫というのは、なにをさして言うのかね」
「分からないんですかねえ。全部ひっくり返して、ひっかきまわしてあるじゃありませんか」
「それだけかい。なんと。なにかこわれているものが見つかるかい。ぶちこわしたり、たたきこわしたものが」
ブランマーはせき払いして「さあ、なにも」
「もちろん見えないさ。こりゃ、こわし屋の仕わざじゃないものね。冷静な目的を持った男のやったことだよ。ただのばかげたぶちこわしとは、全然ちがう。はっきりした目的を持つ男のしわざさ。まだそれが分からないかなあ、ブランマー君」
探偵はしょげて「分かりません」
エラリーは、ため息をして、細い鼻に、眼鏡をかけた。「ある意味では」と、半ば自分に言いきかせるように「これはたいへん勉強になる。神のおめぐみだな。……おい君、ブランマー君。君がその――そう――≪めちゃくちゃ≫なので、おどろいている本棚についてだが、どう思っているのかね、話してくれ給え」
「本棚ですか」ホテルの探偵は、いぶかしげにながめていた、本棚は素木《しらき》のかし材で、仕切りがついている。妙なことには、どれも、ほとんどきちんとしていて、板でふさいだ背を部屋のほうへ向け、三方の壁に正面を向けて立っていた。「むろん、裏がえしで壁に向いていますよ、クイーンさん」
「その通りだ。ブランマー君」と、エラリーは腑におちない様子で眉をしかめ「あっちの事務室に通じるドアの両側に並んでいる二つもそうなっているが、ぼくがひどく面白いと思うのは、ドアの左手の本棚がドアの前に曳き出されて、ドアと鋭角をなし、少し部屋にはみ出している点なのだ。それで、右手のが右のほうに押しやってある。ところで、絨毯はどうかな」
「裏がえしですよ、クイーンさん」
「その通り。裏が見えている。それから、壁の絵は?」
ブランマーの顔色が、赤黒くなり、むっとして答えた。「なんだって、くどく訊くんです」
「どうかね、ナイ君」と、エラリーはつづけた。
支配人はとがった肩をいからして「どうも、こんな事は不得手でしてね。クイーンさん」と、だみ声で言った。「さし当たって私の気になるのは、おそろしいスキャンダルですよ、悪評です、それに――その――」
「ふーん。ではブランマー君、こいつが教材になったんだから、ぼくがひとつ、平仄の原理を解くとしよう」と、エラリーは紙巻きたばこを、とり出して考えこみながら火をつけた。
「本棚がひっくり返されて壁に向けてある。絵も裏返して壁を向いている。床の敷物もめくり返して表を下に向けている。テーブルは引き出しがひとつついている――背中に二つのひっこみがついているから分かる――それも、逆にして壁に向けてある。あそこの台時計も壁のほうに向きが変えてある。この気の利いた椅子もみんな、背を前にし座席を壁に向くように置きかえてある。あのブリッジ用の、フロア・スタンドも、さかさにされて、かさを下にしてあぶなっかしそうに立ち、ぶざまな台尻を宙にうかしている。みんなさかさま、あべこべだ」と、エラリーは探偵に、たばこの煙をぷっとひと吹き吹きつけた。「ところで、ブランマー君。全体として、どうなるかね。みんなひっくるめると、なにが出てくるね」
ブランマーは、まごついて目をむいた。
「平仄だよ、ブランマー君、平仄だ。対句《ついく》みたいな平仄だよ。この平仄は単調なくりかえしだが、ぼくはただただ驚き入っているのだ。死体の着衣をはがして、うしろ前に着せかえてあるばかりでなく、この部屋の家具のみか動かせるものはみんなあべこべにしてあるじゃないか」
二人の男はぽかんと口をあけてエラリーを見つめた。
「こりゃ、クイーンさん」と、ブランマーが大声で「一発くらいましたよ」
「やれやれブランマー君」と、エラリーが気むずかしげに言った。「この事件が解決されたら――解決がむずかしそうだが。捜査史に残るような平仄がつかめそうだ。なにもかもあべこべだなんて。なにもかもが。いいかい、動かせるものは二つや三つどころか、ただのひとつだって動かしてないものはない。みんなあべこべにしてある。これが君の言った平仄だよ。しかしなぜだ?」と、つぶやきながら、ふたたび歩きまわり始めた。「どういうわけなんだ。なぜ、なにもかも、あべこべにしなければならなかったのだろう。どういうつもりだったのだろう、つもりがあったとすればなんだろう。なぜだろうね、ブランマー君」
「分かりませんね」と、探偵がかすれた声で言った。「とても分かりませんよ、クイーンさん」
エラリーは足をとめて、探偵をじっと見た。ナイは、すっかりまごついて、ぐったりとドアによりかかっていた。「ぼくにも分からないよ、ブランマー君」と、エラリーが歯をかみしめて言った。「いまのところはね」
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四 名なしの風来坊
クイーン警視は小鳥のような感じのする人間だった――白髪まじりの羽毛が生えているかなり年をとった小鳥で、ぱっちりとした薄気味悪い目をし、角《つの》をけずってこしらえたような口ばしの下に、こわい白髪まじりの口ひげをたくわえていた。静止することが必要なときには、からだを石のように凍りつかせる小鳥の能力を持っていたし、活動が必要とあれば小鳥のようにすばやく、ぱっととび立つことができた。そして、その本性をはなれて、がなりたてていないときには、ひよこのようであった。しかし、この上もなくやさしい、そのさえずりにも、血気旺んな大の男がちぢみ上っていた。というのは、事実、この老紳士の小鳥みたいな性質に、凛《りん》として冒すべからざるきびしいものがあったからである。それで、その翼下の刑事どもは、警視を愛し怖れていた。
ところで今は、刑事どもは、愛すどころかちぢみ上っていた。警視のさえずりは、いら立って、荒々しいひびきがあった。刑事たちが一群の捜査犬のように室内を走りまわって、殺人事件の捜査手順が型通り行われている点は申し分なかったが、あべこべ事件というこの犯罪のいまわしい謎が、ま正面からいまいましくも、警視を見すえていたのだ。警視はいつにない無力さを感じていた。
警視は長年の慣れで、無造作に捜査を指揮していた。その間に、指紋班は、部屋中に検出粉をまきちらし、写真班は死体と家具とドアとを写しまわった。医務検査官補プラウティは死体のそばにひざをつき、ヴェリー部長指揮下の殺人課員たちは、証人や証言を集めまわっていた。だが警視は、このおどろくべき殺人事件の不可解な様相を説明し得る充分な理由が単なる一警官である自分の手で発見できる期待などもてそうもないと、あやぶんでいた。それに警視は、残されている手がかりがすべてあべこべにしてあるという手口を、気違いの気まぐれとして、深く考えてもみずに見すてるほど不注意ではなかった。だが、他にどう考えようがあろうか。
「どう思う、おまえは?」と、部下たちが室内をがさがさやっている最中に、エラリーにきいた。
「今のところ見当もつきません」と、エラリーはじれったそうに答えた。あけた窓わくによりかかって、暗い顔でシガレットを見つめていた。「いや、そうでもないんです。いろんなことを考えちゃいるんですが、どれもこれもひどいこじつけなので、とてもまともに考えてみる気にはなれないんですよ」
「これじゃあ、こじつけるよりしようがあるまい」と、警視がぶつぶつ言った。「わしは、この気違いじみたあべこべ沙汰を、みんな忘れることにするぞ。わしの単純な頭には荷がかちすぎる。いつもの手で行くぞ――身元調査、人物関係、動機、アリバイ、見込み捜査、有力証人という奴でな」
「幸運を祈りますよ」と、エラリーがささやいた。「それが賢明です。しかし、もしこの驚くべき犯行をやった奴をひっとらえたら、ぼくはすぐに、なぜこんなくだらんあべこべ沙汰をやったのか訊いてみたいもんですね」
「わしも長官もきいてみたいな」と、警視がいまいましそうに「ああ、トマス、あの連中からなにか分かったか」
ヴェリー部長が立ちはだかるようにして「これは」と、どら声で、いかにも自信なさそうに「大《おお》ごとですよ」
「それで?」
「支配人のナイという奴は、この仏を一度も見かけたことがないと言っとります。事務員や給仕たちも、だれひとり知っとりません。この男がこのチャンセラー・ホテルにとまっていなかったことは、たしからしいです。エレベーター係のひとりが、六時十五分前ごろに、乗せたおぼえがあるそうですし、この階の係の太った年増のシェーン夫人が、カークの事務室を教えたんだそうです。この男はカークの名前を言って、訊いたそうです――はっきりとドナルド・カークと言って」
「カークの事務室には始終見知らぬ客が来てたそうです」と、エラリーが、ぼんやりと言った。「この二部屋は補助事務所に使っているんです。ドナルドは切手と宝石の収集家なんですよ、お父さん」
「カーク家のひとりは」と、警視は鼻をならして「出版屋じゃなかったかい」
「マンダリン出版社はドナルドの父が始めたのです――慢性のリューマチで口やかましい老人ですよ――だが、数年前に引退して、今は、ドナルドと、カーク博士の晩年に共同経営者になったフェリックス・バーンとで社をやっているのです。ドナルドが出版関係の実際面の個人的な仕事を全部ここでやっているのです」
「うまい組み合わせだな。本と切手と宝石というのは。ところで、トマス、なにをぐずぐずしとる?」
「それでです」と、大男の部長があわてて「シェーン夫人の話だと、この小ぶとりの鴨《かも》は行き先を訊いて行ったそうです。そのとき、カーク博士の看護婦のディヴァシーが、博士の助手のオズボーンと一緒に事務室にいたそうです。ディヴァシーはこのちびがカークに会いたいというのをきいて、部屋を出たそうです。こいつが、オズボーンに用件もなにも言わないので、オズボーンは、こいつをあの仕切りドアからこの部屋に案内し、ひとりにしてドアを閉め切ったのだそうです。それがこの小ぶとり野郎の最後だったんですな」
「あとは、お父さんの知ってる通りですよ」と、エラリーがものうくうなずきながら「事務室のほうから開けようとしたらこのドアには、かんぬきがさしてあったんです。この部屋の内側からさしたものなんですよ。あそこに見えるでしょう」
警視は廊下に通じる、もうひとつの、ただひとつのドアを見てから、エラリーの肩ごしに目をやりながら「窓には異常がないな」と、つぶやいた。「あのセット・バックからここによじのぼれるのは蠅男《はえおとこ》だけだし、冬のさなかに蠅男が人を殺しまわりもすまいな。この窓には張り出しもない。すると廊下のドアからはいったのだな。トマス、かんぬきはよく調べたか」
「はい。油がよくさしてあって、まわしても全然音がしません。それでオズボーンもかんぬきをさす音に気がつかなかったんでしょうよ。それに奴は勤勉な男らしいし、言うところによると、そのときはカークの切手の整理に熱中していたそうだから、なにも耳にはいらなかったでしょうよ」
「それにしても」と、警視がぴしりといった。「こんなに家具を全部ひっくり返してあるんだから、その物音ぐらい聞こえただろう」
「とんでもない、お父さん」と、エラリーが大儀そうに言った。「オズボーンのようなタイプの人間は、ぼくにもあなたにも、よく分かってるじゃありませんか。あの男が殺しのあった時間に、なにかに熱中していたとすれば、おそらくおしでつんぼで盲目だったでしょうよ。あの男は恋をしている女のようにカークに忠実だから、カークの利害に対しては熱狂的な献身さなんです」
「分かった、分かった。するとこのホールのドアだが」と、警視が「トマス、非常階段でなにか見つからなかったか」
「階段はここの外のホールのはずれです、警視。廊下を下がって、カークのアパートの奥のはしの向かい側になっています。つまり、階段のドアはカーク老人の寝室のま向かいです。その階段は誰でも上がりおりができるんです。階段を使ってホールにとびこみ、こっそりとカークのアパートの前を抜けてこのドアにたどりつき、仕事を終えて、同じ道を通って逃げることもできるんです」
「すると、その場合、エレベーターのそばのシェーン夫人にはなにも見えないわけだな。横の廊下は縦の廊下と交差するところしか、あの女には見えないのだから」
「その通りです。あの女は、とにかく殺された奴がやってきてから後は、この階のこの辺では誰も見かけなかったと言っとります。見かけたのは、あの看護婦とテンプルって女と」と、部長は手帳を見て「アイリン・リューズって女と――二人はホテルの客です――それから、カークの友達のグレン・マクゴワンだけだそうです。その連中はみんな事務室にはいって、オズボーンとしゃべって、また出て来たそうで、マクゴワンはエレベーターで降り、リューズって女はカークのアパートのほうへ歩いて行ったが、はいらなかったそうだから、きっと非常階段を下りたのでしょう――あの女の部屋は一階下なのです。テンプル嬢はカークのアパートへもどっとります――カーク家のお客なのです。看護婦もカーク家に住んでいるのです。看護婦のディヴァシーは事務室にはいる前に、この控え室に寄ったそうです。そのとき、室内は針のようにきちんとしていたと言ってます。分かってるのはざっと、こんなところです、警視。その他には誰も出入りしていません。だから、この仕事をやった奴はだれにしろ、あの非常階段を使って、この角のあたりには姿を見せなかったのでしょうよ。だからシェーンって女にはそいつが見えなかったんでしょうな」
「すると」と、警視がいまいましそうに「この仕事をした奴はカークのアパートにいる者ではないかもしれんな」
「私もそう考えてるんです」と、部長がどなるように言って、渋い顔をした。「それに、犯人は事務室のドアのかんぬきをさして、ここの家具をひっくり返している間、オズボーンや誰かがはいって来て、じゃまにならないようにしたんだと思いますよ」
「それに廊下のドアも、同じ理由から錠を下ろしていただろう」と、警視がうなずいてみせた。「とは言え、結局正確なところは分からんだろうな。犯人は仕事を片づけてから、あのドアを通って出た、見るとおり錠をかけずに、ドアを閉めておいた。事務室に通じるドアはかけがねをはずそうとしなかった。たぶん逃走の時間をかせぐつもりだったのだろう。ところで」と、警視はため息をして「まだ、他になにか?」
エラリーは六本目のたばこを吸っていた。まったく放心したように、じっと聞き耳を立てながらその目を、医務検査官補プラウティが、しゃがんで死体を調べている姿に釘づけにしていた。
「はい、警視。オズボーンとシェーン夫人が、この部屋に出入りした他の連中のことを話しました。オズボーンは、このちびがやって来たときから、カークさんとクイーンさんが来るまであの男は――みんなはオッジーと呼んでいます――一度も事務室を出なかったと言っていますがその点、シェーン夫人が証言しています。そこで――」
「そうか、そうか」と、エラリーがつぶやいた。「犯人が廊下のドアを通って、控え室に出入りしなければならなかったのは明白だな」少しいらいらした調子で「さて、被害者の素姓は? ヴェリー君。きっとなにかを持っていたにちがいないな。ぼくは着衣には、ほとんど手を触れなかったよ」
「はあ」と、ヴェリー部長は火山のうなりのような声で「それがまた、この犯罪の奇怪な点なのですがね、クイーンさん」
「えっ?」と、エラリーが目をむいた。
「なんだね、トマス」
「素姓が分からんのです」
「なんだって?」
「どのポケットにも、なにもないんです、クイーンさん。紙っきれひとつね。綿ぼこりだけですよ、ほら、ポケットの底によくたまる奴みたいな。分析させるつもりですが大して役にはたたんでしょうね。たばこの粉もありませんでした――きっと喫わんのですね。全くなにもなしです」
「犯人がさらったんだな、こいつは」と、エラリーがつぶやいた。「おかしい。もしかすると――」
「わしが着衣をちょっと調べてみよう」と、警視が、うなって、前へのり出した。「仕立屋の商標ぐらいは――」
ヴェリー部長の太い梁《はり》みたいな腕が引きとめた。「むだです、警視。なにもありません」と、こわい顔をする警視に同情するように言った。「それがなんと、みんな切り取ってあるんですよ」
「そうか。弱ったなあ」
エラリーが考えこむように「ますますおかしい。撲殺《ぼくさつ》犯人君に敬意を表したくなるな。実に手ぬかりがないじゃないか。ヴェリー君、なにもないのかい、本当になにも。下着のほうはどうなんだね」
「普通の上下ものです。このほうもさっぱりですね。商標もなくなってます」
「靴は?」
「番号はみんなけずりとって、そこの机のインクで塗りつぶしてありますよ。そのインクがまた消えないインク――インディアン・インクときてるんです」
「おどろいたな。カラーは?」
「同じことです。洗濯屋のしるしも読めません。肌シャツも同じことです」ヴェリーは大きな肩をねじるようにして「難事件ですよ。私が言った通りでしょう。クイーンさん。こんなてごわいのは初めてですよ」
「身元の割り出しができないように、あらゆる手をつくしたらしいな」と、エラリーが、つぶやいた。「とすると、そこに問題があるな。なぜなんだろう? 分からないのもいいところだな。商標をはぎとり、洗濯屋のマークと靴のしるしをインクで消し、被害者のポケットの中味をみんな掠《と》っちまうなんて――」
「しかし少しはなにか」と、老警視が口をとがらした。
「つくろってでもあればそれが手がかりになるかもしれないな……ほう、こりゃどうだ」
一同は、はっとして、エラリーを見た。エラリーは眼鏡をはずして、信じられないような目で死体を見ていた。「ネクタイが――なくなっているぞ」
「おお、そうだ」と、ヴェリーが肩をしゃくって「そうだ。とっくに気がついていました。あなたは気がつかなかったんですか」
「うん。今まで気がつかなかった。こりゃあ重要な点だな。とても重要な」
「たしかにそうらしいな」と、警視が肩をしかめて「ネクタイがなくなっているとすると、この仕事をやった、ばかか、天才か、気違いかが、持ち去ったんだろう。ところで、いったいなぜそんなことをしたのかな」
「正直のところ」と、部長が、あきれ顔で「すべての点が、さっぱり分からんですよ。すかっとした、単純な殺しにぶつかりたいもんですな」
「いや、いや」と、エラリーがじれったそうに「見当ちがいだよ、ヴェリー君。気違いどころか、実に頭がいい。ちゃんと意味があるはずだ。なぜネクタイを持ち去ったかが、問題なんだ」と、エラリーは、はげしい口調でひとりごとを言った。「明白だ。ネクタイの商標をはぎとったところで――一番手がかりになり易いものをはがしても――なお出所が分かるものがあったにちがいない。手がかりになるものが」
「それがなんになる」と、警視があざけるように「全く無意味だ。数の多い安ネクタイの出所が、どうやってつきとめられるんだ」
「おそらく、特殊な品なんですよ」と、部長がのり気になって口を出した。「とすれば、突きとめ易いわけですよ」
「特殊なものだって。とすると高価なものということになる」警視は首を振った。「あのでぶのちび助が、易いつるしを着ていてそんな高価なタイをしめていたとは思えんな。いや、そんなことはあり得ない」と、両手を差し上げてのびをした。「こりゃあ、とんと見当がつかんな。お手上げだ……なんだ? ヘッス」
ひとりの刑事がなにか小声で言うと、老警視は、つかつかと出て行った。そして、興奮しながらもどって来た。
「おい。奴はドアのそばで殴られたんじゃないぞ」と大声で「あの椅子の近くの床に血痕があった」警視は壁ぎわのテーブルのそばの椅子を指さした。「あの椅子のそばでなぐり倒されたにちがいない」
「ああ、お父さんも気がついたんですね」と、エラリーがつまらなそうに「たしかに面白い点ですね。すると、いったいあの男は、事務室のドアのそばの、あのずらした本棚の後ろで、なにをしてたんでしょうね」
「畜生」と、老警視がいまいましそうに「いよいよもって変なことになる。プラウティ先生の報告を訊こう」
プラウティ医師は立ち上って、ひざのちりを払っていた。はげ頭にソフト帽を、ななめにちょこんとのせ、額にはちょっと汗が光っていた。警視は、そばにとんで行って、しきりに話し込んでいた。ヴェリー部長は廊下のドアを見張っている刑事に歩みよって話しかけた。
エラリーは窓わくからからだを起こしたが、そのひたいには、地獄の老鬼のような|しわ《ヽヽ》がきざみこまれていた。長い間、じっと立っていた。やがて、げんこつで右のこめかみをたたきながら、父と医者のいるほうへ歩みよった。その途中でふと立ちどまった。ちかっと光るものが目についた。テーブルの上にちかちか光るものがちらばっていた……そばによってみた。くだものばちが、素木《しらぎ》のテーブルの上の他のものと同じように、裏返しにしてあった。はちのそばには、タンジールみかんの皮くずと、乾いた種がいくつかころがっていた。ぼんやりと、さっきこれは見たなと思った。……裏返してあるはちをどけて、はちの下から出て来たくだものをじっと眺めた。梨、りんご、ぶとう……
見つめたままふり向きもしないで呼んだ。「部長!」ヴェリーがゆっくり近付いた。「君は、あの看護婦のディヴァシー嬢が、あの――あの厄介者の、被害者の――来るちょっと前にこの部屋にはいったと証言したとか言っていたね」
「ええ、たしかに言いました」
「じゃあディヴァシーさんをていねいにお連れしてくれよ。なにも言うなよ。ちょっと訊きたいことがあるんだ」
「はい、クイーンさん」
エラリーは静かに待っていた。まもなく、ヴェリー部長は背の高い看護婦と二人連れでもどって来た。看護婦はまっさおな顔をしていた。死体を見ないように目をそらしていた。
「連れて来ました、クイーンさん」
「ああ、ディヴァシーさん」と、エラリーがふり向いて「夕方の五時半ごろ、あなたはこの部屋におられたそうですね」
「はい」と、彼女はびくびくして言った。
「ひょっとして、このくだもの|ばち《ヽヽ》に気がつきませんでしたか」
さっとおどろきの色が、その目にうかんだ。「くだもの? ええ――もちろん。実は、私――ひとついただきましたの」
「それはすてきだ」と、エラリーが微笑して「思ったより運がよかった。で、タンジールみかんに特別気がつきませんでしたか」
「タンジールみかん」と、看護婦はちぢみ上って「私――それをひとついただきました」
「そう」と、はっきり、エラリーは失望の色をうかべた。「すると、この皮くずは、あなたがたべたタンジールみかんのですね」と、そのたべかすを指さした。
ディヴァシー嬢は二人をまじまじと見つめて「おお、ちがいますわ。私の皮かすは、種ごと、そのあいている窓からなげすてましたわ」
「ああ」と、失望の色が消えて、ひどく熱心に「あなたがひとつたべたあとに、タンジールみかんがいくつ残っていたか覚えていませんか」
「はい。二つでした」
「結構でした、ディヴァシーさん」と、エラリーが低い声で「大助かりですよ。もういいよ、部長」
ヴェリーは、あいまいに微笑して、看護婦を連れ去った。
エラリーはふり向いて、テーブルの上にころがっているくだものの山を、ひどく興味深げに眺めた。タンジールみかんは、たったひとつしかなかった。
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五 みかんと仮説
プラウティ医師は、黒い安葉巻を口にくわえたまま、ぽんぽんしゃべりつづけていた。「じゃあ、これで言うことはおしまい。警視。ホテルの医者が言ったことに付け加えるものはなにもないですな」そのとき、エラリーが二人に近づき、医務検査官補の肩ごしに言った。「お父さん、皆を少し静かにさせてもらえませんかね」
老警視はエラリーを見つめて「今度は、その|どたま《ヽヽヽ》でなにを考えとるんだ」と、声をはり上げて「少し静かにしろ、みんな」
一同はしんとした。
「諸君」と、エラリーが低い声で「君たちに妙な質問をしたい。妙な質問だが、答えてほしい。君たちのだれかが、テーブルの上のくだもののはちから、なにかとらなかったかね」
刑事たちはぽかんとした。誰も答えなかった。警視はつかつかとテーブルに歩みより、みかんの食べかすと、乾いた種を見つめた。「タンジールみかんを、くすねた奴はおらんか」
刑事たちはいっせいに首を振った。
「それだけだ」と、エラリーはつぶやいて、父とプラウティ医師に近づき「被害者がこの部屋に案内されるちょっと前に、鉢の中にはタンジールみかんが二つあったことを確認することができました。今はひとつしかありません。変でしょう」
プラウティ医師が火の消えた葉巻を口から離した。「妙だって? なにがいったい妙なんだね、クイーン君」やがて目を光らせて「そうか、君は葉巻のことを言っとるのか」
「とんでもない。そんなとっぴなことじゃない。あなたのお言葉通り、この無名氏は、脳天をしたたかぶん殴られて死んだものと受けとりますよ。しかし、妙ですよ――他の二、三の付随的な事実に照らしてみると」
「たとえば?」
エラリーは肩をすくめて「まだ理論づけの段階じゃないが、とにかく、このタンジールみかんの食べかすは、心にとめておいてもらいたいですね」
「だが、いったい、なぜだね」と、警視がどなった。「お前は、犯人がこのちび助の頭をたたき割ってから、ひと休みして、オレンジを食べたとでも思っとるのか」
「その可能性もあります」と、エラリーが、つぶやいた。「犯人が頭をたたき割るちょっと前に、このちび助が、ひと休みして、オレンジを食べたとみるほうが、ずっとあり得ることですがね」
「そんなことは調べればすぐ分かる」と、プラウティ医師が鞄をひきよせながら言った。「すぐ解剖してお目にかける。もしオレンジを食べていれば胃袋から見つかるだろうよ――それにしても、なんと、みごとに丸々とした胃袋じゃないかね、諸君。何年にもお目にかかったことがないほど、立派な胃袋だ。……はい、書類、警視。君の部下たちの|ガサ《ヽヽ》がすんだらすぐ、死体置場のバスを来させよう」プラウティは老警視に書類を渡すと、部屋からとび出した。廊下に出るとふとなにかを思いついたらしく、大声をかけてよこした。「とにかく、毒物《どくぶつ》は探してみるよ、クイーン」それから、くすくす笑いながら、早足で去った。
エラリーは死体に歩みよって、考えながら見下ろしていた。ずんぐり男の着衣は、プラウティ医師が、遠慮なく検査したので、乱れていた。仰向けにされたので、今はやすらかに天井をにらんでいた。指紋係のひとりが、死体をまたいで、事務室に通じるドアに、灰色の粉をふりかけていた。「お前の口がきけさえしたらなあ」と、エラリーがささやいた。「不運な奴だなあ。口がきければこの気違いじみた犯罪情況に、なにか解決の|めど《ヽヽ》をつけることができるだろうにな……指紋が出たのかね」と、指紋係に訊いた。
「それらしいものは出ませんよ、クイーンさん。だが、この仕事をやった奴が、このドアの右手の|かんぬき《ヽヽヽヽ》をさしたとすれば、指紋が出なければならんはずですがね。かんぬきは、きれいに油がひいてあるし、油は指紋をのこすにはもってこいですからね。……駄目だ。拭きとってある。畜生、ひとつもとれませんよ」
「他も駄目かな」
「ケリーのほうは分かりませんが、私はひとつもとれませんでした」
そばでやっていたケリーが、アイルランド人型の頭を上げて、なさけなさそうに振った。「私も駄目ですクイーンさん。こんなむだをするなら映画でも見に行ったほうが、よっぽど気が利いてますよ」
エラリーはだるそうにうなずいた。戸口でドナルド・カークの声がするので、はっと、もの思いからさめた。
「ぼくはその男を知らんと言ったじゃありませんか」と、カークが警視にどなった。巨人ネメシス〔復讐の神〕みたいな、ヴェリー部長がその後に立ちはだかった。「クイーン君にそう言いましたよ。ちがいます。全然見ず知らずの男です――」
「そうかね」と、警視がおだやかに言った。「もう一度見たって、別にかまわんだろう、カーク君。落ち着き給え。だれも君をいたぶるつもりはないよ。まあ、ゆっくり、よく見てくれ給え」と、警視は尻ごみする青年社長を、やさしく前へ押しやった。
「クイーン君」と、カークはエラリーのほうへ、よろめき寄った。「おねがいだ、クイーン君。こんな拷問《ごうもん》には、もうたえられんよ。ぼくがこの男を見たこともないのは、君も知ってるだろう。君にそう言ったじゃないか。ぼくは――」
「まあ、まあ」と、エラリーが低い声で、「君はとりみだしてるね、カーク君。なにも騒ぐことはないし、もちろんだれも君を拷問してやしないよ。しっかりし給え」
カークは両手をにぎりしめて、生つばをのんだ。「分かった」と、ふくみ声で言った。そして、こわごわ前に出て、努力して見おろした。警視はその顔を、鋭く光る目で見つめていた。死人は柔和《にゅうわ》な微笑をうかべて、上を見ていた。カークはもう一度生つばを呑んで、やや、はっきりした声で言った。「知らない男だ」
「結構、結構」と、すぐに警視が言った。「もうひとつお訊きしたいことがあるがね、カーク君。この男は君の名を言って会いに来たのだ。よほどよく君を知っているようだったそうだ。その点をどう説明するかね」
「その点は、この部長にみんな話しました」と、カークが、かぼそい声で、「うんざりするぐらいにね。この事務室には、いつも、客が大勢会いに来るんです。私は宝石を集めていますし、切手収集の専門家なんです。それにマンダリン出版関係の内密な用件の人にも多勢会います。この男が私を名ざしで訊ねて来たのもそんなお客のひとりだとしか説明できません」
「すると君は、切手か宝石の商人か、その代理人だと思うんだね」
カークは、はばの広い肩をしゃくって「そうかもしれません。出版関係の客じゃないらしいですよ。出版関係で訪ねてくるのはたいてい、著者かその代理人なんですがね。この男は、どうも、そのどちらでもない気がします」
「切手と宝石か」と、警視は口ひげをかんで「そうか、とにかく、それだけでも分かれば役に立つ。トマス!」部長が進み出た。「その線を洗ってみろ。大急ぎで、写真係に、この男の顔写真をつくらせて、切手と宝石店を全部洗うんだ。どうも、割り出しに骨が折れそうだぞ」ヴェリーが急いで出て行った。「なあカーク君」と、警視はのっぽの青年をじっと見ながら続けた。「この男のポケットのものは全部さらわれとるし、身元が分かるような印も商標も全部衣服から、消すか、はぎとられとる」
カークは当惑顔で「でも、なぜ――」
「被害者の身元を知られたくない奴がいるんだ。わたしにとっては、これは殺人の新しい手口だよ。普通、犯人は自分の身元を隠すためにあらゆる努力をするものだが、こいつをやったやつは、なかなか手ぎわのいい奴だ……ところで、みんな、もうここにいてもすることはないぞ。カークさん、あなたのお住いへいって、お家族の方たちと、ちょっとお話しがしたいんですがね」
「どうぞ、どうぞ」と、カークはげんなりして言った。「でも警視さん。お断りしておきますが、家の連中はこの事件には関係がないはずですよ――そんなことはあり得ません」
「あり得ませんかな、カークさん。手きびしいですな。そうそう、それで思い出した。この訪問を二、三分のばすことにしましょう」と、警視は声を上げて「ピゴット」刑事のひとりがとんで来た。「女中から、シートかなにか借りて、死体を覆っておけ。顔だけ出しとくんだ」
刑事は出て行った。
カークは青くなって「あなたは、まさか――」
「当然のことですよ」と、警視はなだめるような微笑をうかべて「殺人事件は骨ですよ、カークさん。その捜査はいっそう骨ですよ。あなたが人生の真実をつかめる仕事ですよ。死の真実をね。切手や宝石の収集というような生やさしいものじゃありませんよ……おお、ピッギー。ご苦労。うまくやれよ、顔だけ残して。よし。トマス、カークさんのアパートにいる連中を、みんなここに連れて来てくれ」
一同はのろのろやって来た。ものもいわずにびくびくしていた。その中でも一番けろりとしているのはカーク博士だった。気性のはげしい老博士は、すっかり礼服姿で、シャツの白い胸元が目に痛いほど光り、おつきのディヴァシー嬢が押す車椅子に乗っていた。おどろくほどやせこけていて、まるで憤怒《ふんぬ》をこめた骸骨《がいこつ》のようだった。
「人殺しぐらいのことで、なんというばか騒ぎじゃ」と、筋張った細い手を振りながら、わめいた。「実にけしからんぞ、ドナルド。なぜわしらをこんなところへ引っぱって来させるんじゃ」
「そうがみがみやらないで下さいよ、パパ」と、カークが弱って「警察の方たちですよ」
カーク博士は白い口ひげを上げて皮肉そうに「警察かね。二つの目と耳があれば、言われなくとも分かっとる。特に耳があればな。簡単な過去分詞もろくに言えないようなのは、警官にきまっとる」博士は凍りつくような目を向けて、警視のほうを見た。「君が責任者かね」
「そうです」と、警視がぴしりと言った。そして声をひそめて「過去分詞を始終間違える組ですよ」次には苦笑しながら高い声でつづけた。「ところで、すみませんが、どなり散らすのはやめていただきましょう」
「どなり散らす? どなり散らすか。いやな言葉だな。いったい、誰が、どなり散らしとる?」と、カーク博士が、うなった。「用件はなんじゃね。急いでくれんか」
「パパ」と、マーセラ・カークが眉をひそめて行った。前に死体を見ているので、おびえて、卵形の顔がまっさおになっていた。
「だまりなさい、マーセラ。さあ、用件は?」
エラリーとカークとピゴット刑事が、きちんと並んだ三人組みの兵士のように、事務室に通じるドアの前に、よりそって立って死体を隠していた。指紋係と、写真係は、もういなかった。ヴェリー部長とピゴット刑事ともうひとりの係員の他は、本庁からこの部屋にかけつけて来た刑事どもは、すでに去り、その大部分のものは、部長の命令で、いろいろな捜査任務に散っていた。二人の制服が見張っている外の廊下には、一団の連中が立っていた――ナイ、ブランマー、シェーン夫人その他二、三名――そのまわりで、記者達がひしめいていた。
ヴェリー部長がその鼻づらにぴしゃりとドアを閉じた。
警視は関係者たちを注視していた。マーセラ・カークは、父親の肩にやさしい手を置いて車椅子のそばに立っていた。ディヴァシー嬢はひき下っていた。黒い服の小柄な女、テンプル嬢は、妙な目でドナルド・カークをじっと見つめていた。ドナルドはそのさぐるような目に気付かずに、まっすぐ前を見つめていた。にが虫をかみつぶしたような、グレン・マクゴワンはマーセラにより添っていた。そして、ぴちっとからだに合ったきらきらする衣装をつけたアイリン・リューズがひとりはなれて立ち、本当にすっきりした目で、ドナルド・カークの顔をうかがっていた。その連中の後ろには、執事のハッベルと、オズボーンがひかえてい、オズボーンはディヴァシー嬢のほうを一生懸命に見まいとしていた。
警視は古ぼけた|かぎたばこ容れ《ヽヽヽヽヽヽヽ》を取り出して、両方の小鼻に、ひとつまみずつ喫《す》わせた。おいしそうに、三度喫いこんで、たばこ容れをもどした。「さて、みなさん」と、丁寧《ていねい》に言った。「この部屋で人殺しがありました。死体はカークさんとクイーン君とピゴット刑事の後ろです」連中はいっせいに目を移し、あわててそらした。「カーク博士、あなたは今しがた、から騒ぎはきらいだと言われましたが、われわれもきらいです。私は、この哀れな被害者を殺した人に、男でも女でもよろしい、一歩前へ出てもらいたいのです」
だれかが、ごくりと生つばを呑んだ。エラリーは便宜《べんぎ》な場所から、一同の顔を、すばやく探った。しかし、みんな凍りついたような顔色をしていた。髪をさかだてたカーク博士が椅子から立ちかけて、がなりたてた。「まさか君は――ここにいる誰かが――け・け・けしからん!」
「おっしゃる通りです」と警視が微笑して「これが殺人事件捜査のつらいところですよ、カーク博士。さあ、誰か?」
一同はしゅんとして目を伏せた。
警視はため息をして「じゃあ、よろしい。君たちわきへよけろ!」エラリーとカークとピゴットは黙ってよけた。
一瞬、一同はこわいものみたさで、一同を微笑しながら見上げている厳粛《げんしゅく》な死顔を見つめた。すぐに一同はざわめき始めた。マーセラ・カークは、ひきつるようにのどを鳴らし、気分が悪くなったようによろめいた。マクゴワンが大きな褐色の手で彼女のむき出しの腕をつかんだので、やっと持ちこたえた。テンプル嬢はがたがたふるえて頭をそらした。そして、もうドナルド・カークに目を向けようとしなかった。アイリン・リューズはただ青ざめただけでひるまないようすだった。まるで倒れた蝋人形でも見ているようだった。
「もういい、ピゴット、覆っとけ」と、警視が口早に命じた。刑事はしゃがみ、ものうい微笑をうかべている死顔をかくした。「ところで、みなさん。なにか私に言うことがありませんか」誰も答えなかった。「カーク博士」と、老警視がきびしい口調で言ったので七十翁の頭がぐいっと上がった。「この男は何者ですか」
カーク博士はこわばった顔で「わしには見当もつかんよ」
「カーク嬢は?」
マーセラは息をのんで「わ、私も。こわいわ」
「リューズさんは?」
彼女はゆたかな肩をすぼめて「私もよ」
「マクゴワンさんは?」
「お気の毒ですが警視、あんな顔は一度も見たおぼえがありません」
「ところで、マクゴワンさん、あなたはご自分でも切手を収集しておられると聞きましたが、そうですか」
マクゴワンは興味をひかれた顔で「その通りですよ。それがなにか?」
「この男を、切手屋などで見かけませんでしたか。よく考えて下さい、思い出すかもしれませんよ」
「まるっきり駄目ですね。でも、それがなにか――」
警視は細い指を振って「おい君」と、鋭く「その執事君だ。君の名は?」
ハッベルはぎょっとした。のっぺりした顔が青黒く変った。「ハッ――ハッベルでございます」
「カークさんの所で、どのくらい勤めている?」
「た、たいして長くはございません」
ドナルド・カークがため息をした。「雇ってから一年ちょっとになります」
「どうだ、ハッベル。この仏に会ったことはないかね」
「ございません。ございません」
「たしかだな」
「おお、たしかでございます」
「ふーん。他の人たちの陳述はすんでるんだ」警視はなにか考えながらあごをなぜた。「あなた方にはみんな私の立場が分かって下さるでしょうな。ここに、私が扱う被害者がひとりいて、その男をあなた方はみんな、まるっきり知らないのです。しかも、その男はカークさんを訪ねて来たのに、カークさんはまるっきりこの男を知らないとおっしゃる。ところで、この男がこの部屋にいることを知って殺した者がいる。廊下に通じるそのドアは鍵がかけてなかったから、誰にでもここにはいって、この男を見つけて片づけることができたはずです。犯行をした男は、この男がここに来ることを知っていて、前もって全部の計画をたてたのかもしれません。それに、このような殺しが全然知らぬ人間にたいして行われることは、まずないのです。この男と犯人とはなんらかの関係があるはずです――・私がなにを求めているかお分かりでしょうな」
「そこでねえ、警視」と、グレン・マクゴワンが太い声で突然言った。「あなたは、この事件に対するわれわれの役割を重く見すぎているんじゃないですか」
「と言うと、マクゴワンさん」と、エラリーがつぶやいた。
「だって、非常階段を通って、人のいない廊下を使えば、だれでもこの部屋にはいれますよ。すると、この犯人は、ニューヨーク、七百万市民のひとりかもしれないわけです。それなのになぜ私たちのひとりだとするんですか」
「ふーん」と、エラリーが言った。「もちろん、おっしゃる通りの可能性もなきにしもあらずです。反面、カーク君の言葉通り、その男を一度も見たことがないとすると、ひょっとして、犯人は――この中のひとりとすれば――カーク君を巻き添えにするつもりで、わざと、この男をカーク君に会わせに行かせたのかもしれませんね」
のっぽの青年出版社長は目をむいてエラリーを見つめた。「しかし、クイーン――まさか、そんなことはあり得ないよ」
「敵はないかい、君」と、エラリーが訊いた。カークは目を伏せた。「敵かい。心当たりがないな」
「ばからしい」と、カーク博士が、いきなり「愚にもつかんぞ、ドナルド。お前に敵があるものか――敵ができるほどの頭じゃないぞ――だからいったい誰がお前を人殺しの巻き添えになんかするものか」
「いないよ」と、カークがうんざりして言った。
「さて」と、警視が微笑して「疑いさえなければ、すぐに放免ですよ、カークさん。あなたは今夜の六時に、どこにおられましたか」
カークは、ひどくゆっくり言った。「外です」
「おお」と、警視が「そう。どちらへ外出で?」
カークは黙りこんだ。
「ドナルド」と、カーク博士がどなった。「どこにいたんじゃね。ばかみたいに突っ立っとるんじゃない!」
一瞬、おそろしくしんとなった。マクゴワンが、すぐ進み出て、せっぱつまった声で、しんとした空気を破った。「おい、ドナルド君。どこへ行っていたんだね。黙ってちゃすまんよ――」
「ドナルド」と、マーセラが叫んだ。「おねがいよ、ドン。なぜあなた――」
「午後はずっと散歩してたんです」と、カークが、言いにくそうに言った。
「だれかと一緒でしたか」と、警視が低い声で訊いた。
「いいえ」
「どこへ行かれましたか」
「おお――ブロードウェイです。フィフス・アベニューと、パークと」
「実はね」と、エラリーが、一同がしんとした中で、静かに言った。「ぼくは廊下のロビーで、ひょっこりカーク君と出会ったのです。たしかに、外から帰って来たところでした。そうだろうカーク」
「うん、そうだよ」
「そうですか」と、警視は言って、またかぎたばこ容れを、手でさぐった。テンプル嬢がぷいっと顔をそむけた。「結構でした。みなさん」と、老警視が思いがけないやさしい声でつづけた。「今夜はこれで結構です。どなたも、私の許可があるまでは町を離れないでいただきます」
警視がヴェリー部長に合図すると、部長が静かにドアを開けた。一同は囚人のように列をつくって出ると、すぐ記者連にのみ込まれた。
エラリーは最後に出た。父親のそばを通るとき、目が合った。老人は信じられないという目付きだった。エラリーは首を振って出た。廊下には、二人の白い制服の男が、たいくつそうにたばこをすいながら立っていた。二人は床に置いてある大きな編《あ》みかごの中に灰をおとしながら、口々にわめいている記者連を面白そうに眺めていた。
「私たちすぐに」と、マーセラ・カークが、くどい記者たちからのがれて、カーク家のアパートの客間に集まって一同がほっとしたとき、小声で言った。「すぐに、晩餐会をはじめなければならないでしょうね」
老カーク博士が身をおこして「うん。なんとしてもな」と、重々しく言った。「いい考えだよ、お前。腹がすいとる。なんとしても――」と、言いかけて、全くひとりでに、言い止めた。その悪魔のような顔には、苦悩のしわがきざみこまれていた。
「ぼくもだ」と、グレン・マクゴワンが急いで作り笑いしながら言った。そして、マーセラの手を握った。「今夜はすっかりこわい思いをしちゃったじゃないですか。ね、そうでしょう」
彼女はほほえみかけて、いいわけを言い、急いで出て行った。
エラリーはひどく恐縮して、隅に、ひとりで立っていた。一同が自分を招かざる客として、スパイのように思っているらしいのが分かった。特に、カーク博士が毒をふくんだ目で、エラリーのほうをねめまわしていた。エラリーはなんとも居心地《いごごち》が悪かった。それでも、ここに居なくてはいけないような気がした。なにしろ、例のどうにも解釈のつかない問題が心にひっかかっていたからだ……
ドナルド・カークは深くうなだれて、椅子にうずくまっていた。時々、なんともやり切れない様子で、髪をかき上げていた。カーク博士は車椅子をしきりにまわして、部屋をまわり、お客たちと話しながら、時々目を上げて、息子をちらっと見ていた。氷のようなその老いた目になにか不安と苦痛の色が浮かんでいた。テンプル嬢は、静かに坐って、少しほほえんでさえいた。アイリン・リューズ嬢だけが、とりつくろう努力をしていなかった。彼女も招かれざる客と、感じているらしかった。しかも、エラリーと同じように、彼女も居ずらいところに居残っているにはそれなりになにかの理由を持っているらしかった。
エラリーは、いじめつけられた指の爪をかみながらチャンスが来るのを待っていた。やがて、そのチャンスが来たと思ったときに、部屋を横切って、ドナルド・カークに近付きそばのアン女王朝式の椅子にならんで坐った。
青年社長はおどろいて目を上げた。「ああクイーン君か。ろくにお相手もできなくて失敬。ぼくはどうしても――」
「いいんだよ、カーク」と、エラリーはたばこに火をつけた。「君とは古い友達なんだ。遠慮なくものを言うよ。なにか曰《いわ》くがあるね――どうも君の様子には曰くがある。その結論に達するのには、あえてアインシュタインを待たないよ。君はひどく、なにかに悩んでるね。君は今日の午後、散歩に出たんじゃあるまい。ぼくがロビーで会ったのは事実だけれど、君はわざわざ人に姿を見せるために、ロビーに現れたように思うんだがな」カークは、はっと息をのんだ。「嘘をついたんだろう、カーク君、自分でも、嘘をついたことを認めているんだろう。なぜ正直に言って、さっぱりしてしまわないんだね。ぼくの口が固いことぐらいよく知ってると思うんだがな」
カークは唇をかんで、むずかしい顔で手を見つめていた。
エラリーはしばらく様子を見てから、椅子に深く坐り込み、たばこをふかした。「まあ、いいさ」と低い声で「内密なことらしいな……ところで、カーク君、もっとくだけた話をしよう。君は今日の夕方、ぼくに対して変におどおどしてたじゃないか。電話をかけて来て、夜会服を着て、ここに来て、目を大きくして見張っててくれなんて――特に、目を大きくして見張っててくれなんてさ」
青年社長は椅子に坐り直した。「おお、そうさ」と、抑揚《よくよう》のない声で答えた。「そんなことを言ったらしいね」
エラリーはカークから目を放さずに、たばこの灰を灰皿におとした。「よかったら訳を説明してくれないかな。ぼくたちは時々会っちゃいるが――いきなり、未知の客のいる晩餐会に招待されるほど、親しい仲でもないしね――」
「だって」と、カークは乾いた唇をなめて「だって、特別な理由があったわけじゃないさ、クイーン君。ほんの――ちょっとした冗談さ」
「冗談会。そりゃ納得《なっとく》いかないな。大きな目で見張っててくれというのが冗談とはね?」
「ありゃ、君がきっと来るようにする手《ヽ》だったんだ。実は」カークが、うつろな笑い声をたてて、低い早口でつづけた。「ぼくには君に来てもらいたい内密なずるい理由があったのさ。共同経営者のフェリックス・バーンに会ってもらいたかったんだ。正直にたのめば君が断るだろうと思ったのさ――」
エラリーが笑った。「なんだ、商売上の交渉なのか」
カークはくすくす笑って「そうさ、そうさ、それだけさ。うちの社では、原則として、君の作品みたいなのは出さないんでね――」
「君は出版の趣向をかえようというんだね」と、エラリーがおかしそうに笑った。「カーク君、おどろいたよ。ひどい男だなあ。出版社というものは、もっと道義心があるものと思っていたのに。まさか、本当に推理小説を出そうと思ってるんじゃあるまいね」
「まあそんなものでもというところさ。このところ、商売があまりうまく行ってないのでね。探偵小説は堅実に売れるからね――」
「人の言うことを鵜《う》のみにするものじゃないよ」と、エラリーが情けなさそうに「そうか、そうか。すっかりめんくらったな。偉大なるマンダリン出版がね。ハリー・ハンセンやリュイス・ガネットがなんと言うかな。それにあのアレック先生がさ。もっとも先生はギリシア語や片ことのアングロサクソン語をたっぷり使ったべたべたに甘い殺人ものが好きらしいがね。だがね……ぼくの今の出版元は、そんな考えにとり合わないと想うよ」
「思ってみただけさ」と、カークがつぶやいた。
「ああ、そうだろうな」とエラリーも受けた。
グレン・マクゴワンが、変に不安そうに、カークを見やっていた。カークもマクゴワンの注視に気付いて目を閉じた。「変だ」と、しばらくして、言った。「フェリックスはどこだろう」
「バーンね。あっそうだ。あの男のことを、うっかりしていた」と言ってから、エラリーは前かがみになって、いきなり、カークのひざをこずいた。びくりとふるえて、青年社長はぱっちりと目をひらいた。その目は充血して、恐怖にみちていた。「|カーク君《ヽヽヽヽ》」とエラリーがやさしく言った。「マクゴワンがオズボーンにあずけて行った君宛の手紙を見せてくれないか」
「駄目だよ」とカークが言った。
「カーク君、手紙を渡し給え」
「駄目だ。そんな権利はないよ。あれは――あれは私信だよ。マクゴワンはやがてぼくの妹の亭主になるはずだよ。当然、うちの家族の一員なんだ。その秘密をあばけないよ――」
「君はわざとつじつまの合わないことをいってるんじゃないか?」と、エラリーは相変わらず、穏やかに言った。「それとも、あの手紙は君に関するものではなく、誰か君たち二人に関係のある人に関するものだとでも言うのかい。特に――妹のマーセラさんに関する」
カークがうめいた。「おねがいだ、やめてくれよ。そんな意味じゃない。うそを言うつもりは毛頭ないよ。嘘は言わん。だが、話せないよ、クイーン。できないんだ。ぼくはいま――」
食堂のドアがあき、すらっとしたマーセラが姿をあらわし、その後から、青白い顔のハッベルが移動酒台を押して来た。酒台には、盆の上に霜をつけたグラスがいくつも並んでいた……カークは言いわけをして、よろよろと立ち上がった。「一、二杯ひっかけたいよ」と、のどにひっかる声で言った。ハッベルは婦人たちにお給仕していた。
「お前は今夜、はじめて気の利いたことを言いおったぞ」と、カーク博士が、せわしく車椅子をまわして、酒台に近づきながら大声で言った。「ハッベル、わしにもそのまずいカクテルを一杯よこせ」
「パパ」とマーセラがにじり出て「アンジニ先生がおっしゃったでしょう――」
「アンジニ先生なんか、つるしちまえ」
カクテルが入ると一座は少し陽気になって来た。老博士のやせた頬が赤らみ、皮肉そうなよろこびを示した。そして、あけすけにリューズ嬢にまつわりつき、リューズ嬢はのどにかかる低音で、しきりに笑っていた。エラリーは、カクテルから目を上げて、マーセラが妙に不愉快そうにしているのに気がついた。マクゴワンまで苦りきっているようだった。カークだけがはしゃいで、あたりの様子などおかまいなしに、たてつづけに四杯目のカクテルをのみほした。そしてまだ普段着のままなのを全く忘れているようだった。――折り目も崩れているツイード服のだらしない恰好が、白と黒のきちんとした身なりの他の三人に対して恥さらしだった。
ハッベルの姿が見えなくなった。
やがてドアがあき、クイーン警視が、外国仕立ての夜会服を着た浅黒いがっちりした男をしたがえて、その細っそりした姿をあらわした。新しく加わった警視は、茶目気のある黒い目で、ねずみ色の口ひげの下に、薄い唇をきりっと結んでいた。
「失礼しますが」と、警視は飲んでいる一同を妙な目で見まわして「この方は、フェリックス・バーンさんじゃありませんか」と言った。
浅黒い男は腹立たしそうに「そう言ってるじゃありませんか。カーク! この間抜けにぼくを教えてやってくれよ」
警視の好く動く目が、カークからエラリーに移り、不満そうなエラリーの目を読むと、まばたきして、次の瞬間、苦々しく口をあけたまま立っているバーンを残して、ふと現れたときのように、ふっと姿を消した。
「お帰り、フェリックス」と、カークが、ものうげに言った。「テンプルさん、ご紹介しましょう――」
「お食事です」と、味気ないイギリスふうの声がするので、ふり向くと、ハッベルが食堂の戸口に、かしこまって立っていた。
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六 八人の晩餐
エラリーが長い|だえん《ヽヽヽ》形のテーブルについて、気がつくと、右がカーク、左がテンプル嬢にはさまれていた。斜《なな》め前には、バーンが、その知的な顔をしかめてすわっていた。マーセラとマクゴワンは並び、カーク博士とリューズ嬢がテーブルの上座についていた。八人の中で、カーク博士とリューズ嬢だけが浮き浮きしていた。ディヴァシー嬢にたすけられて椅子に着いた老博士は、彼女がひき下がると、その角ばった上半身に、古代の騎士さながらの古風な勇気をみなぎらせて、同席の一同に向かって、ひざまずいているようだった。うるんだ目も、もはやうるんでいず、若々しい熱情にかがやき、妙な光をおびていた。
あの女は|なぞ《ヽヽ》だなとエラリーは思った。リューズ嬢は媚笑《びしょう》し、白い歯をちらつかせ、手のかげで博士にひそひそと話し、博士の冗談を、年期のはいったしとやかなさりげない態度で受け流しながら……しかも、その顔からは心の底の無慈悲《むじひ》さが消えず、その目からはぬかりのない光りを失わなかった。この女がなぜここに来ているのだろう。彼女がチャンセラー・ホテルに長く泊っている客なのをエラリーは知っていた。二ヶ月前に、どこかから来て泊っているのだ。それに、カークとの話から、カークは彼女がこのホテルに来るまで一度も会ったことがないことも分かっていた。バーンも彼女に会ったのはたしかに初めてらしい。ニューヨークっ子でないことはたしかだ。どこか大陸《たいりく》ふうで、カンヌや、ヴェネチアや、アンチーブ岬や、ブルー・グロットや、フィエゾーレのことをしきりに話していた。
エラリーは彼女の厚化粧の顔と、カークの顔を面白そうに眺めていた。青年社長はひどく不安そうで、父親の顔から目がはなせないようだった。
かなりのあいだ、誰も殺人事件の話しにはふれなかった。しかし晩餐は、ほとんどうちとけた気分にはならなかった。
晩餐の前に、フェリックス・バーンが挨拶したが――かざり気なしのお詫びだった。≪抜けられない用事≫で≪失礼した≫と言った。どうやら、その日の朝早く上陸してから≪個人的な用件≫で≪一日中≫しばられていたらしい。テンプル嬢に対しては、冷やかでもなく、暖かくもなかった。テンプル嬢はドナルド・カークが見つけて来た女だった。一度も会ったこともなければ、原稿を読んだこともないし、それに、評価の責任は共同経営者に背負わせるつもりで白々しくしているらしかった。
しかし、スープがすんだとき、バーンは突然、辛辣《しんらつ》にしゃべり始めた。「なぜみなさんが、廊下の向こうでおこったいやらしい事件について口をつぐんでいるのか、ぼくは了解に苦しみます。ドナルド君、なぜこそこそしとるんだね。ぼくはこの階のエレベーターを出るとすぐ、警官に引きとめられて、実に失敬きわまる訊問《じんもん》をうけたんだ」
会話の声がぴたりととまった。カーク博士の目から暖い光りが消え、リューズ嬢はぎこちなく身を引きしめ、ジョー・テンプルは眉をつり上げ、マクゴワンは顔をしかめ、マーセラは唇をかみ、ドナルド・カークはまっさおになり、エラリーは身の引きしまる思いがした。
「なぜそんなことを話し出すんだ」と、カークがつぶやいた。「今夜は、アレでめちゃめちゃにされたんだよ、フェリックス君。すまないが――」
バーンは黒い目で、ちらりとテーブルの一同を見まわした。「これにはなにか目に見えないわけがあるようだね。あのいら立った小男の警視がむりやりにぼくを君の控え室に引っぱって行き、|かご《ヽヽ》の覆いをとって、死体のまぬけ顔を見せたのは、なぜだろう」
「そんなことを――しましたの?」と、マーセラが声をふるわせた。
エラリーが軽く受けて「いら立った小男の警視は、残念ながらぼくのおやじなんですよ、バーンさん。ご承知の通り任務を遂行《すいこう》しているんですから非難しないで下さい。死体の身元を割り出そうとしているのです」
黒い目が興味ありげに光った。「ああ、失敬しました。クイーンさん。お父さんの名前を聞かなかったものですからね。死体の身元を調べているんですか。するとまだ、あの男は誰か分からないんですか」
「誰もあの男を知らんのだ」と、カーク博士が椅子をぎしぎしさせながら、苦々しい顔で言った。「それに、そんなことはどうだっていいじゃないか。少なくともわしはかまわん。さあさあ、フェリックス。こりゃ、オードブルのあとの話には向かんよ」
「私はあなたのご意見には賛成できませんわ、博士」と、リューズ嬢がつぶやいた。「とてもスリルがあるじゃございませんか」
「あなたには」エラリーは左手の小柄な女性の小声が聞こえた。「そうでしょうとも」しかし、ほかの連中には、それが聞こえなかった。
「どうやら、リューズさんとぼくは」と、バーンがにやにや笑いながら「こういうことに対して、大陸的な考え方をしているようですね――つまり、神経質にならないんですね。そうでしょう、リューズさん。さしあたり、あまりお役に立てなくてなんともすみません、クイーンさん。あの男をぼくは全然知りませんよ」
「じゃあ」と、エラリーも微笑して「お仲間があるというものですよ」
しばらく沈黙が続いた。ホテルの給仕が、スープ皿をさげた。
やげてバーンが静かな口調で「きっと、あなたは、つまりその――この事件に対して職業的な興味をお持ちでしょうね。クイーンさん」
「多少ともね。ぼくはたいてい、事件のまわりを、うろついているほうですがね。バーンさん。殺人事件というものは刺激的なものですよ」
「変わった趣味だな」と、カーク博士が吐きすてるように言った。
「私もそうでしてよ、クイーンさん」と、テンプル嬢が、小さい声で「とにかくあなたの、刺激に対するご趣味には不賛成ですわ」彼女はちょっと身をふるわせて「私には、まだ西欧流の死を嫌悪《けんお》する気持が残っていますけれど、私の友達の中国人たちは、きっとあなたの態度を理解しますでしょうよ」
エラリーは、すくなからず興味をひかれて、彼女を見つめた。「中国人の友達がおありですって。あ、そうそう。うっかりしていました。ど忘れしていて。あなたは、ずっと長い間、中国でお暮しになってたんでしたね」
「ええ、父がアメリカの外交官だったものですから」
「中国人は、まったく、あなたのお説のようだそうですね。東洋精神には、宿命論的な傾向があって、それがまず人間の死に対して諦《あきら》めの念を生み、次いで当然の結果として、人命の軽視となっているようですね」
「ばかな」と、カーク博士が|かんしゃく《ヽヽヽヽヽ》をおこして「ばかげきっとる! クイーン君、君が言語学者なら分かるだろうが、表意文字の起源は――」
「もし、もし」と、フェリックス・バーンが小声で「お説教はごめんですよ、博士。話がわき道へそれましたね。ところで、あの男は君を訪ねて来たんだそうじゃないか、ドナルド君」カークがはっとして「妙なんだ」
「そうだろう」と、カークは神経質に「しかし、フェリックス君、ぼくは断言するがね――」
「おいおい」と、グレン・マクゴワンが、テーブルの向こうのはじから、しゃがれ声で、「針小棒大もいいところだよ。クイーン君、君は犯罪事件を論理的に解決するとか言う話だがね」
「論理的に解決するとか」と、エラリーはほほえんで「とは至言《しげん》ですね」
「すると論理的にはっきりしてるじゃありませんか」とマクゴワンが言い切った。「あの男をわれわれは誰も知らないのだから、あの男を殺した事件には、われわれはだれひとり関係がないことになるでしょう。あの男が、あそこで殺されたのは全くの偶然で、事故かもしれませんよ」
ハッベルが、ナプキンで巻いたソーテルヌ〔白のぶどう酒〕の|びん《ヽヽ》を持ってマーセラのグラスに注《つ》ぎかけていたが、二、三滴、テーブル・クロスにこぼした。
「おや、まあ」と、マーセラが、ため息をして「かわいそうに、ハッベルもおどおどして」
ハッベルはまっ赤になって、ひきさがった。
「すると、マクゴワンさん、もちろん、あなたは」と、テンプル嬢が穏やかに言った。「さっきもおっしゃった通り、だれかがつけて来て、全く縁《えん》もゆかりもないよその部屋に、ひとりっきりでいるのに乗じて――あのひとを殺したと、おっしゃるのね」
「そのどこがいけないんですか」と、マクゴワンが大声で「はっきり説明のつくものを、なぜこんぐらかす必要があるんですか」
「しかしね、マクゴワンさん」と、エラリーが低く沈んだ声で「われわれは単純な犯罪とは見ていないのです」
マクゴワンがつぶやいた。「しかしぼくにはさっぱり分からない――」
「ぼくが言いたいのは、犯人がとても手のこんだやり方で殺しているということです」今や、一同はしんとなった。「犯人は被害者の着衣をぬがせて、普通の着方とはあべこべになるように着せかえているのです。さかさなんですよ。あの部屋の家具もひとつ残らずひっくり返して、普通は部屋の内側を向いているものを、壁のほうへ向けています。これも、さかさなんですよ。動かせるものは全部、同じような訳のわからない目にあわされているのです――スタンドも、くだもの鉢も、――」と、エラリーはひと休みして――「くだもの鉢も」と、つづけた。「絨毯も、絵も、壁のリンピ族の盾も、たばこ容れも……どうです、これが単なる人殺しでしょうか。特殊な状況のもとで、特殊な環境において、人を殺したという問題なのです。だから、ぼくはあなたの説に反対するんですよ、マクゴワンさん」
魚料理の皿が下げられている間、もう一度、沈黙がつづいた。
それから、それまでエラリーを注視していたバーンが口を切った。「さかさだって?」と、おどろいたという声で「ぼくもいろんなものがひっくり返っているのには気がついたが、あの男の服が――」
「ばからしい」と、カーク博士がうなった。「おい君。君は、ただ神秘的に見せかけようとしている犯人の、見えすいたたくらみにひっかかっとるんだ。犯人があらゆるものをあべこべにしたのは、ただこんがらかすために、こんがらかしたということ以外、筋の通る動機があるものとは受けとれんね。警察を手こずらせようとしたのだ。巧妙な犯罪に見せかけようとして、その自然さをごまかしたんだ。さもなければ、犯人は気違いだったんだろう」
「私には、それほどの確信が持てませんわ、博士さま」と、テンプル嬢が穏かな声で「なにかわけがありましてよ――クイーンさまは、どうお考えになりますの? あなたはきっとこの特種な犯罪をお解きになる理論をお持ちだろうと思いますけど」
「まあ、あることはありますが」と、エラリーはテーブル・クロスに目を落として、微笑を消して考えこんだ。「これと言って特別なものは、ありません。ところで博士、あなたはこの事件の核心をついてはいますが、ひとつ見落としている事実があります。残念ながら、その事実のために、あなたの説は成り立たなくなるのです」
「それはなんでしょうか、クイーンさま」と、マーセラが息をこらして訊いた。
エラリーは手を振って「おお、おどろかれるようなものじゃありませんよ、お嬢さん。この事件には――あなたのお父さんが主張されるような――こんがらかしどころか、|れっき《ヽヽヽ》として筋の通る手口があるということだけです」
「手口?」と、マクゴワンが眉をしかめた。
「はっきりしています。ひとつか二つ、あるいは三つか四つのものが、ひっくり返してあるのなら、ぼくもある程度、こんがらかし説に賛成します。しかし、動かせるものがみんなひっくり返してあり、あらゆるものが、こんがらかされているとすると――つまり――こんがらかしてあること、そのものに意味があると考えたいのです。すると、こんがらかしの手口になるわけで、もはや単なる思いつきのこんがらかしではなくなります。つまり、あらゆるものが同じような方法で、こんがらかしてあるということになります。そして動かせるもの全部が、ひっくり返されていたのです。それがなにを意味するか、お分かりになりませんか」
バーンがゆっくり言った。「くだらんよ。クイーン君、くだらん。そんなこと信じられんよ」
「どうやら」と、エラリーは微笑して「テンプルさんにも、ぼくの言う意味はお分かりのようですよ、バーンさん――そして、たぶん、賛成して下さるようです。そうでしょう、テンプルさん」
「また私に、中国人役をさせようとなさるのね」と、小柄な女性は、かわいい肩をすくめながら「つまり、この犯罪には、あべこべということに意味のある、なにものかがあるか、誰かが関係しているとおっしゃりたいのでしょう、クイーンさま。誰かがなにもかもを、あべこべにして、誰かについてなにかあべこべのことを指示しようとしたのでしょう、どうもうまく言えませんけれど」
「ジョー――テンプルさん」と、ドナルド・カークが大声で「まさか、そんなこと信じちゃいないんでしょう。そんな――だって、そんなこじつけは、聞いたこともありませんよ」
彼女がちらりとにらんだので、ドナルドは身をひいて、だまりこんだ。「それは密教的なものですが」と、テンプル嬢は低い声で「でも中国では、いろいろ不思議なことがあるのを、あなたもお認めになりますわよ。本当に妙ですわ」
「中国で」と、エラリーがほほえみながら「あなたは生来の知性をいっそうみがかれたようですね。ぼくが言いたかったのは、まさにその点ですよ、テンプルさん」
バーンがくすくす笑って「ル・アーブルから荒海をこえて帰って来ただけのことがあったと言うべきだな。テンプルさん、もしあなたの中国に関する本が、その半分も密教的であるなら、どうやら、新刊批評家どもと、結構やり合わなくちゃならんでしょうよ」
「フェリックス君」と、カークがたしなめた。「そんなことを言うもんじゃない」
「テンプルさんは」と、リューズ嬢がとりなすように「ご自分のおっしゃっていることを、ちゃんとご承知なのよ。本当にすばらしいわ。いったいどうしてそんなことがお分かりになるのかしら。テンプルさん」
小柄な女性は青ざめた。グラスの柄にかけた小さな片手がふるえていた。
すると、バーンがまた冷笑するような調子で言った。「ドナルド君、どうやら君は新しいパール・バックを発見したつもりで、思いもかけぬシャーロック・ホームズ嬢をつかんだようだね」
「やめたまえ」と、カークが、よろよろ立ちかけて、どなった。「君がそんなひどいことを言うのを初めてきいたぞ、フェリックス君。とり消したまえ――」
「男|伊達《だて》かね、ドナルド」と、バーンが眉をつり上げていった。
「ドナルド!」と、カーク博士がどなった。背の高い、だらしない姿の青年社長は、椅子にどしんと腰をおろして、身をふるわせた。「フェリックスも、もう、たくさんだ。テンプルさんにおわびをするんだろうな」博士のがみつく声は、綱鉄のようなひびきだった。
バーンは、びくともせずに、つぶやいた。「悪意があったわけじゃないんですよ、テンプルさん」しかしその黒い目は異様に輝いていた。
エラリーがせき払いして「うっ――ぼくが悪かったんです。まったくぼくのせいです」エラリーはワイン・グラスを持ち上げて、透明なルビー色の酒を見つめた。
「でも本当に」と、マーセラが甲高《かんだか》い声で「このままではとてもやりきれませんわ。わけを知りたいんです。ジョー、あなたのおっしゃった――クイーンさま、あんなことをしたのは誰なんでしょうか。なにからかにまであべこべにしておくなんて。犯人でしょうか。あの気の毒な殺された人なのでしょうか」
「まあ、まあ、マーセラさん」と、マクゴワンが言いかけた。
「被害者がしたのではないわ」と、リューズ嬢がのどにかかる声で「即死したとかいうことですものね」
「犯人がしたのでもないだろう」と、カークがしゃがれ声で「わざわざ自分を知らせるような、ばかな手がかりを残す奴があるものか。誰か他の奴をさす――犯人がそいつに罪をかぶせてやろうと思う奴をさす手がかりを残そうとしないかぎりはね。そうだ、そうかもしれないぞ。それにちがいない」
カーク博士が、かみつきそうな顔をした。
「それとも」と、テンプル嬢が低く早口で「犯行があってから後ではいって来た誰かが、犯人を見たか、犯人の察しがついてから、あんな手のこんだ方法で、犯人の手がかりを警察のために、のこしておいたのかもしれないわ」
「またしても、おみごとですよ、テンプルさん」と、エラリーがすぐ言った。「すばらしい心理分析力ですね」
「それとも」と、フェリックス・バーンが、ばかにしたように「犯人は、マッド・ハッター〔狂人〕で、ウォーラス〔せいうち〕とカーペンター〔大工〕を罪におとし入れるために、あんなことをやったのかもしれないな。あるいは、チェシャー猫だったかもしれない」〔この名は、みんな、ルイス・キャロルのおとぎ話『鏡の国のアリス』と『不思議の国のアリス』に出てくる〕
「諸君」と、カーク博士は目をいからせてしかりつけた。「すぐ、愚にもつかん空論を止めてくれんか。いいな、すぐだぞ。クイーン君、君に責任がある。大責任だ。訊問をするのが目的なら――君はわしらを残らず疑っておるらしいが――君がそれを公《おおや》けの場でするのなら結構だと思うが、わしのテーブルの客になっとるときには止めてくれんか。さもなければ、やむを得ず出て行ってもらわねばならんよ」
「お父さま」と、マーセラがおろおろ声でささやいた。「お父さま、おねがいですから――」
エラリーが穏かに言った。「私は決してそんなつもりではなかったのです、カーク博士。しかしながら、どうも私がここに居るのがうまくないようですから、ごめんをこうむりたいと思います。失礼したね、カーク君」
「クイーン君」と、カークはしょんぼりつぶやいた。「ぼくは――」
エラリーは椅子を後に押して立った。立ちかけに、ワイン・グラスをひっくりかえしたので、赤い酒がドナルド・カークのツイードの服にはねかかった。
「どうも失礼」と、エラリーは、左手でナプキンをつかみ、酒の|しみ《ヽヽ》をふきながら、つぶやいた。「こんな上等の|ぶどう酒《ヽヽヽヽ》を――」
「なんでもない、いいんだよ。そんな――」
「では、皆さん失礼します」と、エラリーは元気に言って、重苦しい沈黙をあとに残したまま、その部屋から歩み去った。
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七 タンジールみかん
エラリー・クイン氏は、アッシュのステッキを父親の机の上において、その朝の三本目のシガレットに、マッチをすった。老警視は、うず高い通信物や書類の山に、鼻まで埋まっていた。
「困っちゃうな」と、エラリーは、その部屋でただひとつの、かけ心地のいい椅子にどっかと腰をおろしながら「お父さんと来たら、とてつもない早起きなんだからな。ぼくが朝食に出たときに、お父さんはコーヒー一杯も飲まずにとび出したと、ジューナが言ってましたよ」
警視は目も上げずに、鼻をならした。エラリーは細い腕をのばして、のびをし、煙の輪を吐きながら、あくびした。「実は、ぼくはいつも通り、ぐっすり寝込んでいたんですよ。あなたが、ベットをはい出したのも気がつかずにね」
「もういい」と、警視が、うなった。「こんな朝っぱらから、ぺちゃくちゃやっとるところをみると、なにか気がかりなことがあるんだろう。一、二分だべるのをやめて、ゆっくりこの書類に目を通させてくれ」
エラリーはくすくす笑って、椅子によりかかった。それから笑いやめて、窓の鉄格子ごしに外を眺めた。今朝は、センター街の空には、格別気をそそられるものもなく、エラリーはちょっと寒気がした。そして目を閉じた。
警視付きの書記が忙しく出入りし、老警視はじれったそうに伝声管に向かって質問をあびせていた。一度電話がかかり、警視の声がていねいになった。情報を訊く長官からだった。二分後にまた電話が鳴り、今度は警察本部次長からだった。クイーン警視の唇から、甘い調子が流れた。はい、やや進捗《しんちょく》しております。カークの筋にはなにかありそうです。いいえ、プラウティ医師は、まだ検死報告を出しておりません。はい――いいえ――はい……」
警視は荒っぽく受話器をもどして、どなった。「それで、なんだ?」
「なんだとは――なにがですか」と、エラリーはうっとりとたばこをすいながら訊いた。
「解答はなにかあるかい。お前は昨夜は、一時《いっとき》はひどくご満悦《まんえつ》の体《てい》だったが、なにかアイデアがあるかい。いつも持っとるじゃないか」
「今度は」と、エラリーが小声で「ありすぎるんですよ。しかし、みんな信憑性《しんぴょうせい》がないので、胸にしまっておこうと思ってるんです」
「生ま焼けのやき蛤《はまぐり》かい」と、老警視は、苦々しく目の前の書類の山をたたいた。「なにも出て来ない。さっぱりだ。なんとも信じられんよ」
「なにを信じるんですか」
「あのろくでなしのちび助は、まるで、空からニューヨークのホテルに舞い下りたとしか思えんのだ」
「手がかりなしですか」
「煙もたたずさ。部下たちは海狸《ビーバー》のように徹夜で働いとる。もちろん、まだ早朝だが、どうも、この形勢だと――気にくわんな」警視は、いまいましそうに、かぎたばこを小鼻につめて、すすり上げた。
「指紋は?」
「今朝、奴の指紋を原簿とつき合わせているがね。地方人かもしれんが、どうもそうは思えんな。地方人ってタイプじゃない」
「≪血まみれ≫ライダーみたいなのもいますからね」と、エラリーが思い出にふけりながら「奴をよく覚えていますが、ボンド・ストリート仕立ての高級服をつけて、オックスフォードなまりで話し、まるで殿さま然としていました。そのくせ、ライスター広場もろくに見たことがなかったんですよ。モット・ストリートでしたかね」
「その上」と、警視は、エラリーの話にかまわず、続けた。「今度の事件は、殺し屋の仕事の特徴をそなえとる。決して、でたらめの仕事じゃない。それに、あのあべこべ沙汰だ!」と、警視は鼻を鳴らした。「わしはこれをやったホシを、とっつかまえたら、こっぴどく、ひっくりかえしにしてから、もう一度、元にもどしてやるぞ……ところで、昨夜は、どうだった? クイーン君」
「え?」
「晩餐会でさ。おつき合いかい? お前もしたたか飲んどったじゃないか」と、老警視は苦々しそうに「お前のおやじの年配になれば、立派なのんだくれになるぞ。ところでどうだった?」
エラリーはため息をして「追い出されたんですよ」
「なんだと!」
「カーク博士がぼくを追っ払ったんです。博士の厚意に甘えすぎたんで、偶然にも、食卓での話が、人殺しや探偵談に及んじゃったのです。上品な社交界では、そんなこと話しちゃいけないらしいですね。生まれてから、あんな情けない思いをしたことはなかったんですよ」
「なんだと、あのよぼよぼじじいがか。首をねじあげてやる」
「そんなことをしちゃあいけませんよ」と、エラリーが鋭い口調で「あの晩餐会はとても役にたちました――カクテルもふんだんにあったけれど――それに、ぼくは二、三の新事実を知りましたよ」
「おお」と、警視の怒りは、ふと消えて「なんだね」
「あの中国から船で東へ渡って来た、ジョー・テンプルという娘はとても頭の良い――むしろおどろくべき――娘ですよ。利口です。あのひとと話すのは楽しみですよ。どうも」と、エラリーは考えこみながら「かなり深い教養を身につけているようですね」
警視は目をむいて「なにをこっそり考えとるんだ」
「なあに、なんにも考えてやしません。ところで、あのカーク博士は――いやらしく聞こえるかもしれませんが――あの、あだっぽいアイリン・リューズ嬢に、怪《け》しからんお思召しがあるようです。それにあの女は女で、≪謎≫の人物といえましょうね」
「はっきり話してみろ」
「博士は昨夜、あの女をちやほやしていました」と、エラリーは天井に向けて煙の輪を吹き上げた。「ぼくはなにも、あのがんこおやじの色好みを責めるつもりはないんですが、見たところ、そう受けとれましたよ。たしかに、あの老博士の頭には、模様の全然ちがう蜂が一匹、ぶんぶんとびまわっているようですね。博士は見かけほど、がみがみ屋でもなく、分別のない人物じゃありませんよ……博士はあのリューズというあばずれ女の口を封じようとしていたんです。それはなぜでしょう。とても興味ある問題です。きっと、なにか疑問を持っているんでしょうね」
「くだらん」と、警視が苦虫をかみつぶしたように「そんな言い方をするのをきいとると、首をしめ上げてやりたくなるぞ。おい。カークのむすこのほうはどうなんだ。それに、あのにやけ男のバーンのほうは?」
「カークは」と、エラリーは慎重《しんちょう》に言った。「ちょっと、ひっかかるものがありますね。昨夜のパーティに来てくれとぼくに言って来たでしょう――昨日の午後、電話で言って来たのです。すこぶる不可解なのは、目を大きく開けて見張っていてくれとたのんだことです。そして人殺しが発見されたあとは、あれは冗談だったので、その他の意味はなにもないと言うのです。ぼくに出版元をかえさせる目的で、呼び出してバーンに会わせたかったのだなどと、とほうもない言いわけをしなければいいのに。冗談だなんて。どうも」と、エラリーは首をふりながら「信じられませんよ」
「ふうん。お前があつかってみるかい。それともわしがしめ上げてやろうか。昨日の午後の、奴の行動は、どうもおかしい」
「そんなのだめです。お父さんにはいつになったら分かるんだろうな。お人よしのポローニアス〔ハムレットの中のおしゃべりな大臣〕殿。本当に頭のいい奴からは、しめつけたって、なにもひき出せませんよ。あの悩んでいる青年出版社長はぼくに任せておいて下さい……ところで、バーンは手ごわいですよ。奴は猟犬頭《りょうけんがしら》のように抜け目がありません。ぼくの聞いたところから判断すると、奴の性格には三つの特徴があるらしい、気のきいたベスト・セラーを抜け目なくかぎ出す鼻を持っていること、コントラクト・ブリッジについては人間ばなれのした腕前であること、美人に対して弱いこと、です。この三つの特徴は危険な組み合わせですよ。どう扱ったらいいか全然見当がつきません。第一、昨夜の自分のためのパーティにおくれて来たのもあやしいです。ぼくなら、奴の昨日の行動を洗ってみるんですがね」
「全力をあげて洗っとるよ。特にカークをな。ちょっとばかりくさいところがあるからな。それで」と、警視はため息をついて「わしは、定石通りに、全力をあげて死体の身元割り出しにかかっとる。着衣を調べているさいちゅうだ。あらゆる角度からの写真をとって、完全な人相書きをつけて今日にも全国の捜査網に流すことになっとる。話した通り、部下たちは奴がチャンセラー・ホテルに姿をあらわす前の行動を洗っとるし――それには失踪人課も協力しとる。プラウティ先生の検死報告書も、じきに来るだろう。しかしこれまでのところ――なにも出てこない」
「少しじれてるんじゃありませんか。指紋もなかったのでしょう」
「ものになりそうなのは、ひとつもない。カークとオズボーンと看護婦のは、そこらにごまんとあったが、それはあるのが当たり前なんだ。必要な指紋は、あのドアと火かき棒のだが、肝心の場所のは、きれいに拭きとってある。犯人は手袋をはめていたのかもしれん。だいたい映画がけしからん、そういうことを教えるから」
エラリーは深々と椅子に腰かけて、ぼんやりと天井を見上げながら「この事件は考えれば考えるほど」と、低い声で「ますます興味をひかれるし、ますます分からなくなりますよ」
「いろいろ特徴を持っとるが」と、警視がむぞうさに「どれも気違いじみとるというよりない。捜査のきめ手は、ただ身元割り出しにあると思う。犯人が被害者の身元を隠すのに、あんなにも苦労しとるという事実は、あのちび助が何者かを突きとめさえすれば犯人逮捕の手がかりがつかめることを示しているのだ。だから、わしは少しもくよくよしとらんよ」
「ご立派」と、エラリーは感心したように微笑した。
「いずれあいつの身元はわしらの手で割り出すか、さもなければ、奴を心配している親類の者が身元を確認してくれることになるだろうな。昨夜、お前が出て行ったあとで、記者どもに現場写真を自由に撮らせてやったから、奴のにやにや面が今朝の新聞にのって町中に出るはずだ。誰かが、いまにも奴のことで電話して来ても、おどろくには当たらない。そうなれば、もうこっちのものだ」
「最後の捕りものに出陣と言うわけですね。事件は結着、自信は満々」と、エラリーは茶化すように言った。「ところが、そのどちらにもぼくは同調できませんね」エラリーは両手を頭のうしろで組んで天井を見上げた。「すべてをあべこべにしたあのばかげた仕事は……驚くべきことですよ、お父さん。実に驚くべきことです。あれがどんなに驚くべきことかが、お父さんには、よく分かっていないようですね」
「あれが、ばかげたことは分かっとる」と、警視がうなった。「ところで、お前は、びっくり箱をあけてみせるつもりなんだろう。あれをやった奴は誰なんだ? お前の思わせぶりのおしゃべりなんか聞いとるんじゃない」
「いや、ちがいますよ。そんなつもりで言ってるんじゃないんです。お父さん、誰がやったのか、なんのためにやったのか、てんで見当もつかないんです。常識的な当たりさえつかないんですよ。あらゆるものを、あんなにもあべこべにひっくりかえすことができた人物は、三種類あると思えますね。つまり、犯人か、共犯者か、犯罪現場に来合わせた臆病なばか者です。もちろん被害者は除外されます――即死ですからね。あんなばかげた仕事をやった奴は、その三種類の中のどれにでも当てはめられるんです。しかも、その中のひとりがやったに違いないんです」
「おい」と、警視が急に言って、すわり直した。「あのでぶのちび助が、自分ですべてのものをあべこべにひっくりかえしたのではないということが、いったい、どうして分かるんだ。奴が殺される前にやったかもしれんじゃないか」
「それにしても」と、エラリーは立って窓辺に近づきながら「奴のネクタイはどうなりましたか?」
「犯人が窓からでも捨てたのかもしれんぞ。それとも犯人が……いや、しかし、どうも、ちがうな」と、警視がつぶやいた。「窓の下のセットバック〔張り出し屋根〕を探したが、なにもみつからなかった。それに焼き捨てるわけにもいかなかったんだ。第一、あの暖炉は飾りものだったし、第二に灰がなかったんだからな」
「焼いたということは」と、エラリーは振り返らずに言った。「考えられますよ。灰は持ち去れますからね。しかし、別の点で、あなたの説は間違っています。被害者は後頭部をなぐられたんです。発見されたとき上着はうしろまえに着ていました。外套とマフラーは脱いで――椅子にのせてありました。ところが外套の|えり《ヽヽ》には血痕がついていました。そのことは、なぐられたときに外套を着ていたのを示します。被害者がチャンセラー・ホテルにはいつて来た時に、外套の下に上着をうしろまえに着ていたという、とんでもない説をたてないかぎり、なぐって、外套のえりに血痕をとばしたあとで、犯人が死体に着衣をうしろまえに着けたことを認めないわけにはいきませんよ。着衣をうしろ前にしたのが犯人だったとすれば、他のあらゆるものをあべこべにしたのも犯人だったことは確実です」
「だから、どうなるというのだ」
「いや、なんでもありません。ぼくは深い泥沼にはまり込んでるんです。ところで、被害者の着衣から突き出ていた鉄の槍を、どう考えるんですか?」
「おお、あれか」と、警視は、自信なさそうに「あれは、つまりこの事件全体が、すべて気違いじみとることの、一証拠にしかすぎん。あれに、筋の通った理由などあるはずがない」
エラリーは答えずに窓の外を眺めながら肩をすぼめた。
「まあいい。お前はそんなくだらんことでくよくよしとるがいい。わしらは、正攻法でいく。言っとくが、あのげてものには、意味も蜂の頭もないぞ」
「どんなものにも意味がありますよ」と、エラリーが、くるりとふり向いて声を高めた。「賭けますか。安酒一杯と、大ご馳走とでどうです。この事件が解決すれば、あべこべの一件が、その根本的なものだったのが分かるでしょうからね」警視にも自信はなさそうだった。「ひとつたしかなことがあります。あらゆるものをあべこべにしたのは、被害者に関係のある人間か、何事かに関して、なにかあべこべな事実があるのを示すためにやったにちがいないということです。そこで、ぼくはこの貧弱な脳みそをしぼって、一見、いかにつまらないこじつけみたいなものだろうと、このあべこべの意味を持っていそうなものはなんでも、かぎまわってみるつもりなのです」
「成功を祈るよ」と、警視が不服そうに「お前は少し気が変なんじゃないか、気になるぞ」
「それに、実は」と、エラリーはちょっと赤らみながら「あべこべの意味を持っていそうなものが、二、三みつかってるんですよ。それがなんだか分かりますか」
老警視は、かぎたばこのふたを開けかけていた手をとめた。「本当か」
「本当です。でも、お父さんは」と、エラリーはにやりと笑って「お父さんで、ぼくはぼくでいきましょう。さて、どちらが先に行きつくか、ですね」
ヴェリー部長が、その|しし《ヽヽ》頭に山高帽をあみだにかぶって、のっそりと警視の部屋にあらわれた。するどい目がひどく興奮していた。
「警視! お早う、クイーンさん……警視、山をつかみましたよ」
「そうか、そうか、トマス」と、警視がおだやかに「害者の身元が割れたんだろう」
ヴェリーは顔を伏せて「いいえ、そううまくはいきませんよ。カークのことです」
「カークの、どっちだ?」
「若いほうです。分かったことは。奴は昨日午後四時半には、チャンセラー・ホテルにいたのを人に見られています」
「見られてた? どこで?」
「エレベーターでです。その頃にカークを乗せてのぼったのを覚えている、エレベーター・ボーイをひとり見つけたんです」
「何階へのぼったんだね、ヴェリー君」と、エラリーが、ゆっくり訊いた。
「それを覚えていないんです。しかし、いつもの階でなかったことはたしかだと言っています――いつもの二十二階ではなかったそうです。それで覚えていたと言うんですよ」
「話が合わないな」と、エラリーがそっけなく言った。「たしかあの男は、昨日のその頃、ブロードウェイと、五番街を歩いていたと言ってたね。それで、それだけかね、部長」
「それだけで充分じゃないですか」
「よろしい、奴から目をはなすな、トマス」と、警視は、さりげなく言った。「その話はしゃっぽの下にしまっとこう。下手におじけずかしちゃまずい。だが、奴が離乳してからの前科を洗ってみてくれ。切手と宝石のほうの手配はすんだか」
「部下どもが、まだ走りまわっています」
「よし」
ヴェリー部長が、ばたんとしめて出て行ったドアがまだゆれている時、エラリーは眉をしかめて言った。「それで思いだしましたが、すっかり忘れていたんです……これをちょっとごらんなさい」と、しわくちゃになった封筒をポケットから取り出して、警視のほうへほうり出した。
警視はしげしげとエラリーを見つめてから、封筒をとり上げて、しわをのばした。そしてすんなりした指を差し入れて中の紙片をぬき出した。「どこで手に入れたのかね」
「盗んだんです」
「盗んだ?」
「それにはわけがあるんですよ」と、エラリーは肩をすくめて「どうやら、お父さん、ぼくは道徳に関するかぎり、どんどん|だらく《ヽヽヽ》していくようですよ。まったく悲しむべきことですがね……カークとぼくが六時四十五分にあの事務室に行ったとき、オズボーンが、そのすぐ前にマクゴワンが書き置いていった手紙を一通カークに渡しました。それを読んで、カークは妙な顔をしたようでした。そしてその手紙をポケットに突込みました。そのあとであの被害者を発見したんです」
「そうか、それから」
「そのあと、食事の前に、ぼくはカークにその手紙を見せろと言ったんですが、あの男は断りました。あの男とマクゴワンとの個人的な用件だと言いました。マクゴワンは彼の親友だし、義弟になろうとしているんです。さて、そこで、ぼくがカーク博士の怒りにふれて追い立てられるという破目《はめ》になり、その興奮の絶頂に、ぼくは極上のオポルト〔ポートワイン〕を、カーク青年の服に、うまくひっかけて、そのすきにポケットからその封筒を、うまうまと抜き取ってやったのです。どう思いますか、お父さん」
置き手紙の文面は、
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ぼくは知っているよ。君が取り引きしているのは危険な人物だ。ぼくがゆっくり説明できる時がくるまでことを急ぐな。ドン、足下に用心しろ。
マック
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急いだ鉛筆の走り書きだった。
警視は残忍な笑いをうかべて「映画で言う、場面佳境《ばめんかきょう》に入るだな。畜生! もうちょっとはっきりしてるとよかったがな。とにかく、二人をお白洲《しらす》にひき出さなくちゃならん」
「そりゃむちゃです」と、エラリーがすぐに「そんなことしたら全部ぶちこわしです。これです」と、メモ用紙と鉛筆をとって、ひとつの名を書いた。「こいつをお白洲にひき出してごらんなさい」
「しかし、こいつは誰かね――」
「この氏名の人物が見つかるかどうか記録を調べて見るんですね――名のほうは間違っているかもしれませんよ。全国の警察に手配してもいいでしょうよ。しかし、どうもぼくの勘じゃあ、スコットランド・ヤードかシューレテ〔パリ警視庁〕あたりが、照会する|めど《ヽヽ》でしょうね。すぐ電報を打つんですね」
「だが、いったい、何者なんだね」と、警視はブザーに手をのばしながら訊いた。「事件に関係のある奴かね。わしには、まったく耳あたらしい名だが――」
「もう顔見知りのはずですよ」と、エラリーはま顔で、警視がそれぞれの係に手配するのを見ながら、掛け心地の良い椅子にゆったりと腰をおろした。
プラウティ医師が、黒い旗印のように、安葉巻を口にくわえて、戸口からせかせかとはいって来た。そして、クイーン父子を、じろりと見すえた。
「お早う、坊やたち。どうしたんだね。わしの目のあやまりかな、それともわしはまた死体置場にもどったのかな。なんて不景気な面《つら》をしとるのかね」
「おお、先生」と、警視がひとひざのり出した。エラリーは、うわの空で手をふった。「判決はどうだったね」
医務検査官補は、ため息をついて、さっさと椅子にかけ、ぶざまな足をのばした。「未知のひとりまたは数人の手による強殺だな」
「よせ」と、警視が、かみついた。「ふざけるんじゃない。まじめな話だ。なにか見つかったかね」
「まったくなにもないね。てんでこれっぽちもないよ」
「そうか。それで?」
「あの男には」と、プラウティ医師が歯切れの悪い口調で「毛の生えた小さな突起、つまり俗に|いぼ《ヽヽ》というやつが、|へそ《ヽヽ》の右下二インチばかりのところにひとつあった。身元確認の手がかりのひとつだが、君があの男の愛する……そのう――女房でも見つけないかぎり、なんの役にもたたんだろうな。あれの肉体的残存物は、人類で、性は男性であることを示している。年齢は、ほぼ五十五歳か――六十歳かもしれん。栄養はなかなかよろしい――生存中の体重は一五三ポンド。身長五フィート四、五インチ。まるでふくれた蛙みたいな腹をしとるから、食欲過度といえるな。目は青灰色、白くなりかけているが、髪は濃いブロンド――ざっと、そんなところだが――」
「食欲は」と、エラリーがつぶやいた。
「え? まだ話し中だよ。外傷または外科手術のあとなし。皮膚は、きわめてつやがあり、卵のようになめらかだ。足指に|たこ《ヽヽ》があったが」と、プラウティ医師は火の消えた葉巻をかじりながらなにかを考えていた。「直接の死因は、頭蓋骨の強打にあることは疑う余地もない。どんなものでなぐられたかは、本人には分からなかったろう。それから、クイーン坊やに報告するのを光栄に思うが、わしの名だたる研究室の|らんびき《ヽヽヽヽ》にかけて、できるだけ、むごい実験を重ねたにもかかわらず、組織内に毒物の痕跡はなかったよ」
「なんだと、|らんびき《ヽヽヽヽ》だと!」と、警視がどなった。「いったい、なんにとっつかれたんだね、先生。今日はみんなどうかしとるな。もっと人間らしくしゃべれんのかね。それだけかい」
「さてここで」と、プラウティ医師はけろっとしてつづけた。「クイーン坊やが、さっき言いかけた食欲の問題にもどろう。たいへん気にしとるらしいからな。大食いの兆候がはっきりしとるのに、わが友死体君は昨日はほとんどなにも食っとらんのだ。しかもすみやかに排泄《はいせつ》しとる。胃と食道からはなにも見付からなかったがただ――ここで君が訊いた問題に到達したよ、クイーン君――オレンジの半《なか》ば消化されかけたかすがあった」
「ああ」と、エラリーが妙なため息をついて「それを待っていたんです。タンジールみかんでしたか」
「そんなことが分かるものか。とてもそんなはっきりした判別はできんよ。ひとたび胃液が登場して、蠕動《ぜんどう》が開始されたからには、あとになって強力な消化組織の中の内容物をいじりまわしたってなにも分からんね。……おや、おや。話がそれたぞ。君があの部屋でタンジールみかんの|かす《ヽヽ》をみつけたのなら、わしのホームズ的推理で、君の説に賛成すべきだろうな。ここらで、敬意を表し、ご両君へ朝のご機嫌うかがいをすまして退散するよ。指示があるまで物件は保存しておくんだろうね。合点だ――」
「ちょっと、先生」と、エラリーがつぶやいた。警視は、|かんしゃく玉《ヽヽヽヽヽヽ》をおさえて、ぶるぶるしていた。「タンジールみかんは、あの部屋で食べたものだと思っていいんですか」
「かなり時間が経っていると言うのかね。だが、たしかにそうだろうな君《モナミ》。まずそうさ」と、プラウティ医師は、くすくす笑いながら、軽い足どりで、さっさと出て行った。
「ばかめ」と、警視は舌打ちしてとび立つと、医務検査官補の後からドアを手荒くしめた。「わしの事務室を下等な寄席《よせ》あつかいにしおって。行く末が思いやられる。あいつも以前は――」
「まあ、まあ。お父さん、あなただって、今朝はまったくいつもらしくなかったじゃありませんか。プラウティ先生は、お父さんに教えて上げますが、実に興味津々《きょうみしんしん》たるひとつの発展を、この事件にもたらしたんですよ」
「ばからしい」
「ばからしいのはあなたですよ。ぼくはタンジールみかんのことを言ってるんです。あのちび助が、あの部屋で食べたことを確かめておかなければならなかったんです。あの部屋でね……あの部屋に関係のあるものはなんでも重要です。そしてあのタンジールみかんは――もちろん肝心な点は言わなくても分かるでしょう」
「分かる? 分かるって? そうなにからなにまで分かるもんか」
「なんでしょうかね」と、エラリーが、うわの空で訊いた。「タンジールみかんと言うのは?」
老警視は険悪な目をむいて「今度は、なぞなぞか! オレンジの一種だ、ばか奴《め》!」
「よろしい。ではどんな種類のオレンジですか」
「なんだと――そんなこと知るものか、どっちみち、そんなことはどうでもいい」
「でも知ってるでしょう」と、エラリーがねちっこく「知ってるはずですよ。ぼくも知ってるし、だれでも知ってます。そしてぼくはあの犯人も知っていただろうということに気がついて来たんです……タンジールみかんは、普通チャイナ・オレンジで通っています」
警視はわざわざ机をまわって、まるで空を指さすように手を上げた。「おい」と、きびしい声で「根っきり葉っきりこれっきりだぞ。あのチビ奴《め》は知らない部屋にはいって誰かを待っていた。その間にテーブルの上の果物の鉢が目にはいった。腹が空《す》いていた――現に先生がそう言っとる。そこで汁の多いうまそうなタンジールみかんをひとつ、つまんで食べた。それから何者かがはいって来て一撃を加わえた。正気で常識のある者が考えてみて、それのどこが間違っているんだ?」
エラリーは唇をかんだ。「それが分かったらなあ。チャイナ・オレンジ……ああ、畜生、てんで分からない。分からないのはオレンジの件だけじゃないが――」と、立って外套のほうへ手をのばした。
「よし」と、警視が、しかたなさそうに手を下ろして「あきらめたぞ。とことんまでやってみろ。チャイナ・オレンジなり、メキシコのとうもろこし料理とアヴォカドなり、スペイン玉ねぎなり、イギリス・ビスケットなり、なんなりと、勝手に脳味噌をなやますがいいさ。わしは知らんぞ。わしが言いたいのは――ひとは、お前のような気違いに、いちいち|せんさく《ヽヽヽヽ》されずには、みかんひとつ食えんのかと言うことだよ」
「ところがこのチャイナ・オレンジだけは、そういうわけにはいかないんですよ、ご先祖さま。見のがせませんよ」とエラリーは突然、かんしゃくを起こして、かみつくように「なにしろ登場人物の中に中国から来た小説家がいるし、中国切手専門の収集家がいるし、この犯罪に関係のあるすべてのものがあべこべになっているというこの場合ですからね……」と、ふと口をつぐんだ。少ししゃべりすぎたと思ったらしい。すばらしい英知の色が目にうかんだ。エラリーはそのまま立って、しばらく考え込んでから、ひょいと帽子をかぶり、うわの空で父親の肩をぽんとたたくと、急いで出て行った。
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八 あべこべの国
ハッベルはカーク家のアパートのドアをあけて、そこにエラリー・クイーン氏が、ホンブルグ帽を手に、ステッキを気がるに持ち上げ、いかにも親しそうに微笑しながら立っているのを見て、ちょっと驚いたようだった。
「はい、ご用向きは?」と、ハッベルは、あわてもせずに、調子の高い声で訊いた。
「ぼくは無作法ものでね」と、エラリーが、ステッキの石突きを敷居に突きたてて、たのしそうに言った。「つまり、無作法をするんだ。それとも、はねっかえりと言っていいかもしれないな、ハッベル君。そうだとも、昨夜ほうり出されたから、はねっかえって来たんだ。ほうり出されたからね。ところで、ぼくは――」
ハッベルは当惑顔で「お気の毒でございますが、実は――」
「実は、なんだね」
「お気の毒でございますが、実は、どなたもお留守なのでして」
「相変わらず月なみなせりふだね」エラリーは情けなさそうな顔で「ハッベル君、まあ君、ぶつぶつ言うなよ。それとも困るってわけかい……そのあいまいなせりふはどう言う意味かね。つまりだれもぼくに会いたくないと言うことなんだろう」
「お気の毒でございますが」
「意味ないよ、君」と、エラリーは、やさしく相手を押しのけながらつぶやいた。「そう言う挨拶は、会いたくないお客にだけ通用するよ。ぼくは公務上の資格で来たんだから、追い出すわけにはいかん。ねえ君、偉大なる使用人階級にとっては人生は、まことに複雑なものにちがいないよ」エラリーはサロンの入口でちょっと立ちどまった。「まさか君は本当のことを言ったんじゃあるまいな、ハッベル君」サロンはからだった。
ハッベルは目をぱちくりして「どなたに、お会いになりたいのですか、クイーンさま」
「とくに誰という当てもないんだ。ハッベル君。テンプルさんでもいいな。目下のところ、カーク博士とは、どうもうまくまともに話し合えそうもないからね。ぼくはここからほうり出されるのがこわいんだ。テンプルさんがいいよ君、あのひとは居るんだろう」
「見てまいりましょう」それからハッベルが言った。「外套とステッキをどうぞ」
「公務なんだよ」と、エラリーはゆっくり言って、ぶらぶら歩きまわった。「つまり、外套は着たままということさ。二流の探偵なら、帽子もかぶったままさ。ほうこりゃ、いいマチスの絵だな。本物のマチスならね……たのむよ、ハッベル君、ぽかんとしていないで、さっさとテンプルさんをつれて来てくれたまえ」
小柄な女がすぐにはいって来た。すがすがしい、しとやかなドレスを着ていた。
「クイーンさま、お早うございます。どうしてそんなにしかめつらしくしていらっしゃいますの。まさか、手錠を持っていらっしゃったのじゃございますまい。外套をおぬぎになって、どうぞ。おかけ下さいませ」二人はまじめな顔で握手した。エラリーは腰をおろしたが、外套は脱がなかった。ジョー・テンプルが、ひどく早口で「クイーンさま、昨夜は本当にひどいことで、なんとおわび申し上げたらよろしいやら。カーク博士さまは――」
「カーク博士はご老人です」と、エラリーは苦笑して「あのご老人に腹を立てるなんて、ぼくも到りませんでしたよ。テンプルさん、失礼ですが、お召物のお好みがいいですね。|あじさい《ヽヽヽヽ》みたいな感じですよ、中国にある花じゃないですかな」
彼女は笑った。「蓮の花のことをいっていらっしゃるのね。ほめて下さってありがとうございます。こちらへ参りましてから、こんなうれしいおほめをいただいたのは初めてですわ。西洋の方たちは、女をうれしがらせるのに、想像力があまりおありじゃございませんものね」
「ぼくにはその点は分かりかねます」と、エラリーが「なにしろぼくは女ぎらいですから」それから二人は同時に顔をほころばせた。そして、二人とも黙りこんでしまったので控えの間を通るハッベルの靴音しか聞こえなくなった。
ジョーはひざに手を組んで、じっとエラリーを見つめた。「で、なにを考えていらっしゃいますの、クイーンさま」
「中国のことです」
いきなり言ったので、彼女はびくりとし、口をつぐんで、椅子に深く腰かけた。「中国のことですって? クイーンさま。でも、あなたのような頭のいい方が、なぜ中国のことなど?」
「気になってしかたがなかったからですよ、テンプルさん。ひどく気になって。ぼくはチャイナという五文字が、こんなにも気になるとは思いがけませんでしたよ。昨夜は一晩中、それで、うなされていたんです」
彼女は目もはなさずにエラリーを眺めながら、サイド・テーブルに手をのばして、たばこ入れをとり、ふたをあけて、シガレットをすすめた。たばこの煙がゆったりとまい上っているあいだ、どちらもなにも言わなかった。
「じゃあ、昨夜、おやすみになれませんでしたの?」と、やっと彼女が言った。「妙ですわ、クイーンさま。私もよ。あの気の毒な小さな男のかたが、枕もとにちらついて。闇から出て来て、四時間も、私に笑いかけていましたの」と、ちょっと身ぶるいして「それで、クイーンさま」
「ぼくが聞いたところでは」と、エラリーがゆっくり言った。「話をもとにもどしますが、中国というのは、風習がこちらとは万事あべこべな国だそうですね」
彼女は坐り直して肩をすぼめた。「まあ、まあ、クイーンさま、そんなばかげた小手しらべはおやめにしましょうよ。本当は、なにをおっしゃりたいのですか」
「実は」と、エラリーがおだやかに「いろいろな知識がほしいんですよ、テンプルさん。そしてこの際、ぼくにとってはあなたが本当に知識の泉なんですよ。なにか中国のことを話して下さい」
「そうね、中国は急速に近代化しておりますわ。もしこんなことがお聞きになりたいのならば。北清事変以来たいへんな変わり方ですわ。日本がむりやりに中国をひきずって――」
「いや、ぼくのききたいのはそんなことではないんですよ」と、エラリーは身をおこして、シガレットを、押しつぶして消した。「お聞きしたいのは、文字通り風習の≪あべこべ≫ということについてです」
「おお」と、彼女は言って、黙りこんだ。それから、ため息をして「お察しすべきでしたわね。どうせおたずねになるはずですもの。そうですのよ、あなたのおっしゃることは完全に当たっていますわ。本当におどろくほどですわ――偶然とでも言ったらいいんでしょうか――中国の文字通りの≪あべこべ≫という事情に照し合わせてみて、あなたがこの不可解なあべこべ事件に専念していらっしゃるかぎり、中国から来た私をつるし上げようとなさるのもごむりじゃございませんわ」
「結構です」と、エラリーがつぶやいた。「それで互いに理解し合ったわけです。テンプルさん、実はぼくはこの事件にお手上げなんですよ。ぼくの考えていることは、あるいは全くのたわごとかもしれないし、全然、筋の通らないことかもしれませんがね。それにまた――」と、エラリーは肩をすぼめた。「社会的、宗教的、経済的習慣というものは単なる見方の問題ともいえるものです。西欧流の見方からすれば、つまり、中国人は、万事われわれのやり方とちがう――反対にやる――と言うことが、西欧流に言えば≪あべこべ≫ということになるわけです。こういってもいいでしょうか」
「いいでしょうね」
「たとえば、ぼくは東洋の風習については、ずぶの素人《しろうと》ですが、どこかで聞いたような気がするんです。中国人は友達に会うと――妙な習慣で――友達と握手しようとせずに自分自身の手を握り合わせるとかいうことですが、そうなんでしょうか」
「ええそうですわ。昔からの習慣で、私たちの握手の習慣よりずっと気がきいてますわ。というのは、その風習の底には、自分自身で握手すれば、友達に余計な痛い思いをさせずにすむという精神が流れているんですものね」
「どうしてですか」と、エラリーはにこにこして「すみませんが――もう少しくわしく、どうぞ」
「そうすれば病気を簡単に人にうつさなくてもすみますでしょう」
「なるほど」
「古代の中国人が病菌の知識を持っていたとは限りませんが、でもよく考えてみると――」と彼女はため息をして、言葉を切り、ふたたびため息をして。「あのね、クイーンさま。これは非常に面白いことですけれど、ただそれだけのことですわ。私はあなたの一般的な中国知識を豊かにしてさし上げるのがいやではないのです。でも、こんなふうにして当てもなくあべこべ探しをしていても、ばからしいじゃございませんか。そうじゃございません?」
「なるほど」と、エラリーはつぶやいた。「女性というものはどうも変わっていますね。ものごとに独特の見方をなさる。しかし、あなたもつい昨日はこのあべこべ沙汰を、ひどく重視されていたようなのに、今日は、ばからしいとおっしゃる。ひとつそのわけを聞かせてください」
「きっと」と、彼女は慎重に言った。「考え直したからですわ」
「そりゃちがうでしょう」と、エラリーが「おや、おや。ぼくらは、どうやら俗に言う袋小路にはいっちゃったらしいですね。あべこべ探しのばからしさは許していただくことにして、テンプルさん、もう少しその話をして下さいませんか。知っていらっしゃること、いま思いつかれることをすべて話して下さい。中国の習慣や制度で、こちらの習慣や制度と正反対という意味で≪あべこべ≫と思えるものをすべてきかせて下さいませんか」
彼女はややしばらく、もの問いたげにエラリーをみつめてから、気をかえて、目を閉じ、小さな口にシガレットをくわえた。そして、やさしくつぶやくように話しはじめた。「どんなことからお話したらいいか分かりませんけれど、多くの点で違っていますのよクイーンさま。たとえば、|わらぶき《ヽヽヽヽ》の小屋を建てる場合、中国の農民は――特に南部では――たいてい骨組みの上にまず屋根を|ふい《ヽヽ》て、つまり上から下へ立てていきますわ。私たちがやるように、下から上へ立てていくのとはちがいます」
「どうぞ、続けて下さい」
「お聞き及びでしょうが、中国人は丈夫なあいだお医者さまにお金を払っていて、病気になると払うのをやめます」
「賢明なしきたりですね」と、エラリーが、ゆっくり言った。「ええ、そのことは聞いていますよ。それから」
「涼しくしたいと思ったら、熱いものを飲みます」
「すてきだ。中国人がますます好きになりそうですよ。ぼくも、体内の温度をたかめると外界の温度に耐えやすくなるのには気がついています。つづけて下さい。実に面白いお話だ」
「おからかいですの!」と、ふいに彼女は声を高くしたが、やがて肩をすくめて、また話し出した。「ごめんなさい。もちろんご存知でしょうけれど、中国の習慣では、よそでご馳走になるときには、お食事中はできるだけ賑やかにいただいて、お食後は、さかんに、|げっぷ《ヽヽヽ》をするんですの」
「そこのご主人に対して、充分ご馳走になったことを示すためなんでしょうね」
「そうなんですのよ。それから……そうね」彼女は、かたちのいい下唇に指を当てて考えていた。「そう、そう。中国人はからだを冷やすときには熱いタオルを使いますの……ちょうど、熱いものを飲むのと同じ理屈ですわね――それに汗をふくときには、ぬれた手ぬぐいを使いますわ。とても暑い土地ですからね」
「なるほどね」
「もちろん、左側通行で右側通行ではないんです――でもそれは東洋だけとはかぎりませんわね、ヨーロッパはだいたい左側ですものね。そうね、それから、中国では魔よけのために玄関の前に低い塀をつくりますの、悪魔はいつもまっすぐに来ると思っているからですわ。ですから、玄関へ通る小道は、みんな塀に添ってまわるようになっています。こうして、完全に悪魔を近づけないようにしているのです」
「子供っぽいですね」
「ちがいますわ。論理的ですのよ」と、彼女は抗議した。「あなたは、どうやら、こと東洋人のことになると、ひどく西欧人ふうな大人っぽい顔をなさるようですわね。東洋人は白人のお荷物だとでもおっしゃりたいようなお顔を――」
エラリーは赤面した。「こりゃどうも参りましたね。その他になにか?」
彼女は不機嫌な顔で「そりゃ、いくらでもありますけれど……そう、女がズボンをはいて、男がスカートのような服をつけますわ。それから、中国の学生は、教室ではがやがや騒ぎながら勉強しますの――」
「そりゃあいったい、どうしてですか」
彼女はにっこりして「そうすれば、学生が真剣に勉強しているかどうか、先生にも、たしかめられますものね。それからまた、中国人は生まれ落ちたときに一歳なんです。生命は妊娠から始まるので、出生から始まるのではないと考えているからですわ。ですから、そのために、中国人は、何月生まれの人でも、お正月に誕生祝いをするだけですの」
「なるほど、それで、ことが簡単になってるんですね」
「それほど簡単ではございませんわ」と彼女はま顔で「中国の新年は女の魚行商人の言葉みたいにいろいろに変わるんです。かなり不正確ですのよ。一年を十三か月に割る方法で計算しますから、毎年の新年が一定の時期にきまってはいないのです。それに、中国は年二度の勘定で暮していますの――五番目の月と新年が勘定月なんです。それは借り手には好都合ですのよ、と言いますのは、勘定日がまわって来たときだけ身をかくしてしまえばいいのですものね。で、気の毒な貸し手は、真昼間に|ちょうちん《ヽヽヽヽヽ》をつけて、借り手を町中探しまわるんですの」
エラリーは目をむいて「どうして、昼間にちょうちんなんかつけるんですか」
「それはね、もしお正月になってからでも、貸し手が|ちょうちん《ヽヽヽヽヽ》をつけて歩いていれば、まだお正月がまったく過ぎていないから大晦日《おおみそか》の夜だということになるじゃありませんか。いかが?」
「そりゃあいい」と、エラリーは笑い出した。「まるっきりぼくたちの考え方があべこべだったような気がしますよ。その方式を西洋でも使うと、かなり役に立ちそうですね。ところで、中国の劇場はどうですか。あべこべのところがありますか」
「特にとり立てて言うほどのことはないですわ。もちろん、舞台というものはございませんの、クイーンさま――エリザベス時代の劇場に似ていましてよ。それに、中国音楽はみんな音階がひとつで、短調ですし、歌はみんなファルセット〔仮声〕でうたいますの。それから、中国人は死ぬ前に、お棺をつくり、死装束をえらんでおきますし、理髪屋は店の中で刈ったり剃ったりしないで、往来でやりますし、敵に恨みを晴らす最大の復讐法は、敵の門口で自殺することなんですのよ――」
彼女は、ふと口をつぐんで、唇をかんだ。そして、すばらしく長い眉の下から、ちらっと鋭くエラリーを見て、目を伏せ、じっと手を見つめた。
「本当ですか」と、エラリーはおだやかに言った。「非常に面白い点ですよ、テンプルさん。それをよく思いだして下さいましたね。ところで、そのちょっとした復讐の儀式の底には、どんなすばらしい考えがひそんでいるんでしょうね、教えて下さい」
彼女は小声で「それは、敵の秘密は世間に公表して、永遠の恥を世間にさらさせることになりますものね」
「しかし、自分は――死――死んでしまうんですよ」
「ええ、復讐するほうは死ぬんですわ。そうですわ」
「とっぴな考え方だな」と、エラリーは天井をにらんで考えこんだ。「実に、こりゃ、とっぴだ。日本人の切腹の一種の変形ですね」
「でも、こんなこと、この事件には少しも関係ないじゃございませんか――この殺人事件には。クイーンさま」と、彼女がせきこんで言った。
「え? おお、ないでしょうね。ええ、たしかにありません」エラリーは鼻眼鏡をはずして、きらきらする玉をハンケチでふき始めた。「ところで、中国オレンジについてですが、テンプルさん」
「なんでしょうか?」
「中国オレンジですよ。あの――タンジールみかんです。あれは、あべこべ沙汰にはかんけいがないでしょうかね」
「あべこべ? そうですわね……でも、中国のは、本当はタンジールみかんではございませんのよ、クイーンさま。中国のオレンジは、こちらのタンジールみかんより、もっと大きくて、種類も多いですし、もっとおいしいですわ」と、彼女はちょっとため息をついて「おいしいわ。あの大きくて、甘い汁がどっさりあるみずみずしいオレンジにかぶりつくまでは、本当に、オレンジをたべたことにはなりませんわよ……」それから彼女がふと聞きなれぬ言葉をまるで歌うように口にしたので、エラリーはもう少しで眼鏡を落としそうになった。
「なんと言ったんですか」と、鋭く訊いた。
彼女は鼻歌のように、その言葉をくり返した。≪タンジャー≫というように、はっきりきこえた。「これはオレンジという言葉の中国の方言なのです。そんな方言は――そう、何十もありますでしょう。一種類ごとに名がちがいますし、中国のみかんの産地ごとに、ちがった名がつけられているんですの。みかんは、今では――」
しかし、エラリーはもう彼女の言葉を聞いてはいなかった。細いあごをなぜながら壁を眺めていた。「教えて下さい」と、やぶから棒に訊いた。「あなたはなぜ、昨日、ドン・カークの事務室へ行ったのですか、テンプルさん」
しばらく彼女は返事をしなかった。やがて、ふたたび手を組んで、かすかに微笑した。「お話が急にとびますのね、クイーンさま。大したことじゃないんですのよ。ちょっと思いついただけなんですの。それに私、とても気まぐれなんです。それで晩餐の着付けをしてから、とび出して、ドンに会いに――用件でカークさんに会いに行ったんです」
「どんなご用件で?」
「ちょっと、中国の画家のことで」
「中国の画家」と、エラリーはすっくと立って「中国の画家ですか。どんな画家ですか」
「クイーンさま、いったい、どうなすったのですか」
エラリーは彼女の小さな肩をつかんで「どんな画家ですか、テンプルさん」
彼女は少し青ざめて「ユエンですわ」と、小声で言った。「友達ですの。あの人は、コロンビア大学で勉強しています。この市にいる多くの中国人と同じですわ。カントンでも指折りの裕福な貿易商のむすこさんです。そして本当にすばらしい才能のある水彩画家です。私たちは、私の本のカバーに挿絵をしてくれる人を探していたのです――カークさんが出版しようとしている私の本の――で、ふと、ユエンさんのことを思いついたんですの。それで、大急ぎで――」
「なるほど、そうですか」と、エラリーは言った。「分かりました。で、そのユエンさんは、どこにいるんですか、テンプルさん。どこへ訪ねて行けば会えますか」
「太平洋上ですわ」
「え?」
「あの晩ドナルドさんが――カークさんが、いらっしゃらなかったので、このアパートにもどって来て、大学に電話をかけたのです」と、彼女はため息をして「ところが、あの画家は十日ばかり前、急にもう戻らぬつもりで中国へ帰ったのだそうです――きっとお父さんがなくなられたのでしょう。もちろん、あの人にとっては帰国しなければならない不文律のようなものですからね。ご存知のように、中国人は祖先を実に大切にしますからね。ですからお気の毒なユエンさんは今ごろは海の上でしょうよ」
エラリーはがっかりして「そうですか」と、つぶやいた。「その筋からは、なにもつかめないわけだな、どっちみち。しかし……」と、ふたたびほほえみながら話しかけた。「ところで、昨日、あなたのお父さまはアメリカの外交官だったように、うかがいましたが?」
「そうでしたの」と、彼女は静かに答えた。「昨年、なくなりました」
「おお、そりゃお気の毒でした。すると、あなたも西欧流の家庭でお育ちになったのでしょうね」
「全然ちがいましてよ。父は公務上の仕事では西欧流の習慣を守っていましたけれど、私には中国人の|うば《ヽヽ》がついて、ほとんど純粋に中国ふうの環境で育てられたのです。母は私がまだ子供のころになくなりましたし、父は、とても忙しかったものですからね……」彼女は立ち上った。小柄にもかかわらず、背が高く感じられた。「ご用件はそれだけでしょうか、クイーンさま」
エラリーは帽子をつまみ上げた。「おかげで大いに助かりましたよ、テンプルさん。本当に感謝します。もうこれで結構です。いろいろよく分かりましたよ――」
「私がこの事件に関係のある人物だということがね」と、彼女はやさしい声で言った。「誰よりもよく、いわば、あべこべについて知っていて」
「おお、ぼくはそんなことを言うつもりじゃ――」
「でも、私は西欧流に見れば、万事あべこべな国で育ったんですものね、クイーンさま」
エラリーは赤面した。「テンプルさん。犯罪捜査にかかると余儀なくせざるを得ないこともあるんですよ――」
「でもこんなことがみんな意味のないことなのは、お分かりになっているんでしょう」
「どうも」と、エラリーは残念そうに「今日は昨日ほどぼくがお気に入らないようですね、テンプルさん」
「賢明な女性だ」と、ぶっきら棒な声がしたのですぐ二人がふり向くと、フェリックス・バーンが、控え室の戸口に立って二人を冷ややかに眺めていた。その後にはドナルド・カークがいた。
ドナルドはまるで服のまま寝たような恰好をしていた。例のだらしのないツイード服が、しわくちゃだし、ネクタイもゆがみ、髪の毛は目にかぶさりかかり、目のまわりは赤く輪になり、どう見ても|かみそり《ヽヽヽヽ》を当てる必要があった。バーンのすんなりした姿には非の打ちどころもなかったが、少し不安そうに頭をかしげているようだった。
「よう」と、エラリーは言って、ステッキを取り上げた。「ちょうどおいとまするところだったよ」
「それが君のくせらしいな」と、バーンは冷笑しながら、つきさすような冷い目でエラリーを見つめた。
エラリーはなにか言いかけたが、ドナルド・カークの目付きに気がついて遠慮した。
「やめてくれよ、フェリックス」と、ドナルドがしわがれ声で言い、前に進み出て「君に会ってよかったよ。クイーン君。おやじの昨夜の失礼な行動を、この際、おわびさせてもらうよ」
「あんなことなんでもないよ」と、エラリーが言った。「もうなにも言わないでくれ給え。ぼくのほうが悪かったんだからね」
「人おのおの自らの分を知るべしだ」と、バーンが、渋々言った。「とにかく、すなおなのが君のいい点だよ、クイーン君」それから、わざわざジョーのほうを向いて「テンプルさん、あなたと本の題名をご相談しようと思って寄ったんです。このドナルドがパール・バックの本の猿まねをして、≪またいとこ≫とか≪義理の兄弟≫とか≪お人好しのおじいさん≫とかなんて題名をつけようとしているらしいのでね。それでぼくは――」
「それで私は」と、ジョーが何気ないように言った。「あなたを卑怯だと思いますわ、バーンさま」
バーンはみるみるむっとした顔色になって「おやおや、あなたは――」
「カークさんが、そんなことをお考えになっていないことは、あなたもよくご存知じゃありませんか。それに私も、夢にもそんなことは考えておりませんわ。私がお目にかかってからずっと、あなたは私に本当に失礼なことばかりなさっていらっしゃるのね、バーンさま。もっと紳士らしく、まともになっていただけないのなら、あなたと本のご相談をするのをお断りしなければなりませんわ」
「ジョー」と、カークが大声でおさえた。そしてバーンをにらんだ。「いったいどうしたというんだね。さっぱり分からんじゃないか。フェリックス」
「思い上がりもいいところだ」と、バーンがにがりきって言った。
「マンダリン出版には、少しも義理はないんですのよ」と、ジョーは、相変わらずもの静かに、ゆっくり言った。「私の本を出さなければならない義理は。バーンさま、お望みなら、よろこんで契約を破棄してもよろしいんですのよ」
バーンは、身うごきもせず立ちつくしていた。ただ、胸がふくらみ、白目がすわっていた。その目には、なにかおそろしい、ゆるぎないものが宿り、ぎこちないつめたい声でしゃべり出した。「なろうことならね……ドナルドが、知能的にやっと幼児期を脱したばかりのような人間の、しかも名作の下手な模倣《もほう》にすぎないような未熟な原稿をどうしても出版しようとするなら、それもしかたがない。そんなふうだからマンダリン出版もこんなに行きづまる――」と、言いかけて止めた。それからひどくさげすむように「テンプルさん。ぼくはあなたのすばらしい作品を拝見しましたよ。そのためにまるまる一晩の熟睡を棒にふりましたがね。駄作だと思いますよ」
彼女はくるりと背を向けて窓のほうへ歩いていった。エラリーは静かに立ってなりゆきを見ていた。カークは褐色の拳《こぶし》を握ったり開いたりしながら、バーンのほうへ一歩進み出て、きっぱりした声で言った。「その言葉をとり消したまえ、フェリックス。また酔ってるな。その話は事務室で話をつけよう」
バーンが舌なめずりした。エラリーは口を出した。「まあまあ、みなさん。活劇のどたばたの場が始まる前に聞きますがね、バーン君。なぜ昨日はディナーにおくれたのですか」
出版屋は相棒から目をはなさなかった。
「バーン君、答えたまえ」とエラリーが言った「なぜ昨夜おくれたんですか」
その言葉で、バーンはゆっくりと浅黒い顔をふり向けて、まるで小ばかにしたように、ぼんやりとエラリーを見ながら「余計なこった」と言った。
ジョーは窓ぎわで怒りに身をふるわせていたし、ドナルドはにぎりしめた拳のやり場に困っていたし、エラリーとバーンは互いに相手を測ってにらみ合っていたちょうどそのとき、アパートの中のどこかから老人のしわがれたわめき声が聞こえてきた。「誰か来てくれ。どろぼうだ。だれか来てくれ」
エラリーは食堂を駆け抜け、びっくり顔のハッベルのそばをすり抜け、寝室二つを通りこして、カーク博士の書斎にとび込んだ。後から、ジョーとドナルドがかけつけた。バーンは姿を消していた。カーク博士はとりちらかされた書斎のまん中で、片手で車椅子の背にしっかりつかまり、片手でもじゃもじゃの白髪をつかみながら、じだんだふんでわめいていた。「君。クイーンだな。どろぼうにやられた」
「なにをやられたんです」と、エラリーは息をはずませながら、すばやくあたりを見まわした。
「おとうさん」と叫んで、ドナルドが老博士のそばへとんで行った。「すわってなさい。くたくたになっちゃいますよ。どうしたんですか。なにを盗まれたんですか。誰が盗んだんですか」
「本だ」と、七十おやじが、紫色の顔でわめいた。「わしの大事な本だ。おお、盗人めひっとらえたら……」と急に、うなって、ぐったりと車椅子にくずれた。
廊下からこっそりはいって来てディヴァシー嬢は、まっさおになって縮み上っていたが、ちらっと患者の顔を見て、車椅子のそばに馳けよった。
それを博士がすごい力でつきのけたので、彼女はよろめいてころびそうになった。
「出て行け、このあまめ」と老人がかなきり声で「胸くそが悪い! お前の看護も、お前のアレジニ大先生もな。医者も看護婦もみんな犬にくわれちまえ。おい、クイーン、おい、おい! ふぬけみたいに、口をあけて立っとるんじゃない! わしの本を盗んだ奴を探し出せ……」
「ぼくはぽかんとしてるんじゃありませんよ」と、エラリーは苦笑しながら「あなたが、落ち着いて正気にもどるのを待っているんですよ。興奮がさめたら、あなたから筋の通ったお話がきけるでしょうからね。目下は、あなたの本が盗まれただろうとは思いますがね。どうして盗まれたことが分かるんですか」
「探偵なんて」と、老博士が鼻をならして「ばかなもんだな! あの棚を見ろ」博士は長い曲った指で、作りつけの本棚の一つを指さした。その棚の半分以上が、がらあきになっていた。
「おお、あれには気がついて、あそこが、あなたの貴重本の置き場所だったのかと、いろいろ推定していたところです。博士、いいかげんにわけのわからないことを言うのをやめて、ぼくの質問に答えて下さいな」
「どうして盗まれたことが分かったかって?」と、カーク博士はうなるように言って、ごつごつ頭を大蛇のように左右に振った。「おお、ばかを相手じゃ話にならん。論より証拠、本がなくなってるじゃないか」
「だからって必ずしも盗まれたことにはなりませんよ、博士。いつなくなったのですか。最後に見たのは、いつですか」
「一時間前だ。朝食のすぐ後だ。そのとき、わしは着換えをしに寝室へ行って、それからこの――この女アスクレピウス〔医神〕が――」と、向こうのはじの壁際に引き下がって青くなって立っているディヴァシー嬢をにらみつけて「わしを押したり引いたり、のしかかったりしおった。そうこうして、少し前にここにもどって来ると、本がなくなっていたんだ」
「ディヴァシーさん、あなたはどこにいました?」と、エラリーが鋭く訊いた。
看護婦は涙声で「あの方が――私を追い出したのでございます。私は事務室へまいりました――つまり、だれかにぐちをこぼしたかったので……」
「そうですか。博士、おとなりの部屋で着換えをしておられたとき、この部屋でなにかしている物音がきこえませんでしたか」
「なにか、聞こえたかって? いや、なにも――」
「少し耳が遠いんだ」と、ドナルド・カークが小声で「それをかなり気にしているんだ」
「こそこそ話はよせ、ドナルド。それで、クイーン、それで?」
エラリーは肩をすくめて「ぼくはなにも千里眼を気取ったことは一度もありませんよ、博士。いったいどんな本が盗まれたのですか」
「モーゼの五書の注釈本だ」
「え、なんのほんですか」
「無学者奴」と、老博士がどなった。「ヘブライの本だ、ばか奴。ヘブライの教典だ。わしはこの五年間、ある題目について、律法師の書いたものを専心に研究しとったんだ、それで――」
「ヘブライの本と言うと」と、エラリーがおだやかに「つまり、ヘブライ語で書かれた本ですか」
「うん、もちろん、そうだ」
「他にはなにも?」
「うん。ありがたいことに、悪党奴も、中国語で書いた、わしの原稿はみのがしおった。あれをやられたら、全くがっかりするところだった――」
「ああ」と、エラリーが「中国語の原稿といわれますと、あなたはむろん、表意文字を使う言葉には精通しておられるんでしたね、思い出しましたよ。そうそう、あなたの言語学者としての名声は、私たち俗物の耳にもはいっていますからね、博士。ところで、そう……こりゃすっかりなくなっていますね」と、エラリーは本棚に近よって見まわした。しかし、その目は空っぽになった棚にはなく、眼底深く沈んで、一道の光をおびていた。
「どういう理由で、こんな本を盗んだのか、盗人の気持ちが、さっぱり分からんね」と、ドナルドが、力なく首を振って言った。「いやはや、泣きっ面に蜂だよ。いったい、どう思うね、クイーン君」
エラリーはゆっくり振り向いて「いろいろに考えられるがね、君。ほとんど暗中模索ってとこだよ。ところで博士、あなたのその本は高価なものですか」
「とんでもない。学者以外のものには無価値だ」
「非常に面白い点ですね……ねえ、カーク君、ヘブライ語の本には、本当に注目すべき点がひとつあるんだよ」
その言葉にカーク博士は思わずひき入れられてじろりと見つめた。ジョー・テンプルはエラリーの口許を静かに見つめて――なにを言い出すかと、はらはらしながらも、じっと感情を押えて静かにしていた。
「注目すべき点というと?」と、カークがどぎまぎして言った。
「そうさ。ヘブライ語というのはいっぷう変わった言葉でね。書き方も、印刷し方も、あべこべに書かれるんだ」
「あべこべ?」と、ディヴァシー嬢が、息をのんで「おお、それでは――」
「書き方が」と、エラリーは小声で「あべこべなんだ。あべこべに読む。あべこべに刷る。すべてが、はっきり、ラテン系の言葉の逆なんだ。そうですね、博士」
「たしかに、その通りだ」と、老博士は皮肉たっぷりに「なぜ、その違いをラテン系の言葉だけに限るんだ? それに、バシャン〔ヘブライ語で豊かな土地〕の七等の牡牛の名にかけて、なぜ、そんなことに、おどろくんだ?」
「それは」と、エラリーがわびるように「今度の犯罪が、あべこべに関係があるからなのです」
「おお、生かじりは始末におえんな」と、カーク博士が「それがいったいどうしたと言うんだ? わしはただ本を取りもどしたいのだ。君の言う、あべこべなんぞ、どうでもいい!」博士は一息入れて、そのひからびた目を、きらきら光らせながら「おい、ばか者、君はあの愚にもつかん人殺しのことで、わしを責めようというのか」
「ぼくは誰も責めようとはしていませんよ」と、エラリーが「しかし、よりによってこんなときにこんなことがおこるなんて非常に変だということはうち消せないでしょう」
「そんなことはくそくらえ!」と、カーク博士がどなった。「さっさとわしの本を取りもどせ!」
エラリーは、ため息をして、ステッキを堅く握りしめた。「残念ですが博士、目下のところあなたの本を取り戻す方法が分かりません。父に電話して下さい――クイーン警視です――警察本部にいます。そしてこの新事実を報らせて下さい。……ところで、テンプルさん」
彼女はびっくりして「はい、クイーンさま」
「ぼくたちは、しばらくここを遠慮しようじゃありませんか」一同は、エラリーが小柄なテンプル嬢を廊下に連れ出して、うしろ手にしっかりとドアをしめるのを、あきれて見送った。「なぜ、さっき話してくれなかったのですか、蓮の花さん」
「なんのことでしょうか、クイーンさま」
「今、ふっと思い出したんですが、中国の風習の中で、特にきわだっているあべこべの事例のひとつは――中国の言葉ですね。そのことを、なぜ話してくれなかったのですか」
「言葉? そうね」と、彼女はちょっとほほえみながら「本当にうたぐり深い方なのね、クイーンさま。そのことに思いつかなかっただけですわ。あなたがおっしゃりたいのは、ヘブライ語をのぞいては、中国語が世界中で、おそらくただひとつのあべこべに印刷される言葉だということなのでしょう。その上、横書きのかわりに縦書きにしますわ。でも、それがどうしましたの」
「どうもしません――ただね」と、エラリーがつぶやいた。「あなたがそのことを話し忘れたということだけですよ」
彼女は足ぶみをして「おお、あなたもお人が悪いのね。ここには、きっと人を白痴にしてしまうようなものが、空気の中に流れているらしいわね。ドナルド・カークさんの他は、みなさん軽い精神異常になっていらっしゃるようですわ。それに、あの方さえ――それに私がそのことをお話ししなかったとしても、それがどうなんですの? いずれにせよ、そんなことに大した意味があるとは、おっしゃれないでしょう。盗人はカーク博士の中国語の本は盗まなかったのですものね」
「そこですよ」と、エラリーが顔をしかめて「ぼくが頭をなやましているのは。なぜか。深慮遠謀で見のがしたのか。あるいはぼくが、たかがもぐらの穴を大山扱いにしているのか。とにかく、これは考えてみる必要のあることです。……中国、中国、中国か。この東洋学の密教的謎を解くために、チャリー・チャン〔ビガーズの作品に出る中国人の名探偵〕がここに出て来てくれるといいと思いますね。まいったな。まるっきり筋がつかめないんです、まるっきり。こりゃ世界一の謎の事件ですよ」
「お手伝いできると」と、ジョーが目を伏せて「本当にいいんですけれどね」
「ふーん」と、エラリーが「そりゃ、どうも、ありがとう、テンプルさん」と、手をとって、振った。「万事落ち目のときにはこうしたもんですよ。もっと落ち目になるかもしれませんね。明日は、どんな裏目が出るか分かったものじゃありませんからね」
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九 福州の誤刷切手
そのあくる朝、クイーン家の雑役少年、ジュナーが、とがった黄色い顔を、寝室につっこんだ。「おや、エラリーさん」と、大声で「もう、起きてたんですか」
そのおどろきは、今までの経験を、それが今急に破られたことによるのだった。エラリー・クイーン氏は――自分の気に入ったことでなければ、いっさい骨折りもしないし、頭も使わない人物で――とても早起きだなどと言えたしろものではない。事実、父親のとなりのベッドに、そのやせぎすな姿を横たえて、ぐっすり寝込んでいるのを見て、警視がまるで爆発寸前の火山のように、うなりを発してお説教するのは毎朝のことである。しかし今朝は、髪こそ寝みだれのままだったが、紬《つむぎ》のパジャマを着て坐り、細い鼻柱に鼻眼鏡をかけて、前代未聞の午前十時という時間に、厚い本を読んでいた。
「にやにや笑うんじゃない。ジューナ」と、エラリーは、本から目をはなさずに、うわの空で言った。「たまには早くおきることだってある」
ジューナはしかめ面で「なにを読んでるんですか」
「中国の風習に関する誰かの労作さ、野蛮人。しかしあんまり役に立つとも言えないな」エラリーは本をそばに置いて、あくびをし、深呼吸しながら、また枕にひっくり返った。「トーストを一ヤードと、コーヒーを一リットル。急いでくれよ、ジューナ」
「起きたほうがいいですよ」と、ジューナが苦い顔で言った。
「なぜ起きたほうがいいんだね、坊や」と、エラリーは枕に顔を埋めたまま、もぞもぞ声で言った。
「だれかが、会いに来て、待ってますからね」
エラリーがむっくり起きあがったので、眼鏡が耳にぶらさがった。「ほう、そりゃおどろいたな――。なぜそれを先に言わないんだ、ちんちくりん奴が。誰なんだ? その男はどのくらい待っているんだ?」と、ベッドからはい出して、部屋着に手をのばした。
「マクゴワンさんですが。どうして男とお客ってことが分かったんですか」と、ジューナは、ドアのところに立ちどまって、賞賛にたえぬという顔で訊いた。
「マクゴワンか。そりゃ妙だ」と、エラリーがつぶやいた。「あ、そのことか。簡単なことさ、坊や。いいか、人間には男と女しかいない――自然のいたずらでできた中間の奴は勘定に入れないことにする。すると、少なくとも半分は、当てずっぽうで当たるわけだ」
「なあんだ」と、ジューナはあいまいな笑いをうかべて姿を消した。やがて、また現れて、いたずらっぽい顔を部屋に突っこむと「コーヒーをテーブルにおいときました」と言って、また消えた。
エラリーがクイーン家の居間にはいると、背の高いグレン・マクゴワンが、火床でぱちぱちはぜている炉の前を、いらいらと往ったり来たりしていた。そして、急に足をとめると「ああ、クイーンさん。失敬しました。朝っぱらからあなたを、ベッドから引きずり出すつもりじゃなかったんです」
エラリーはマクゴワンの大きな手を不精ったらしく握った。「かまいませんよ。かえってありがたいくらいで。ぼくあ、いつおきるか分からないほうですからね。朝食でもつき合って下さい、マクゴワンさん」
「もうすませましたよ、どうも。おかまいなく、どうぞ。お待ちしますよ」
「あなたは」と、エラリーは笑いながら「ヒーバー僧正〔一七八三〜一八二六「グリーンランドの氷の山から」の賛美歌作者〕がくしくも名づけた≪スウィフトの八番目の至福≫をご存知でしょうね。元来はポープ〔英詩人評論家〕の言葉ですがね」
「なんと言われましたか、失礼ですが」と、マクゴワンは面くらった。
「ポープらしい忠告ですよ。ポープと言ったんです。ジョン・ゲイ〔詩人〕への手紙で≪何事も予期せぬ者は幸いなり、なんとなれば失望することなければなり≫と書いています。ところで、ぼくは今朝はあまり施しをするような気分にはなれないようですよ……実は、そう、ぼくは腹ぺこなので、そのほうに専心しますよ。胃袋に燃料を入れながら、お話しましょう」
エラリーは椅子について、オレンジ・ジュースに手をのばした。マクゴワンはあきれてぽかんと口をあけていた。エラリーは台所のドアのすき間に、きらきらする若い目がひとつ、はりついているのに気がついた――その目はひどくもの珍しそうにお客さまに注がれていた。
「本当に、つき合いませんか」
「ええ」と、マクゴワンはためらいがちに「そのう――いつも朝食前に、こんなふうにしゃべられるんですか、クイーン君」
エラリーは一口のみこんでにやりとした。「失敬、悪いくせでね」
マクゴワンはまた歩きはじめた。やがて、ふと立ちどまって言った。「そう、クイーン君。先夜は失礼しました。カーク博士は実に気まぐれな人でしてね。マーセラもぼくも――ぼくたちはみんな――あの気まずい出来事を、たいへんすまなかったと思っていますよ。もちろん、あの老人の、年寄りの権利の濫用ですよ。あの人は暴君です。その上、公式捜査の必要性など、認識しとらんのです――」
「なあに、いいんですよ」と、エラリーはトーストをかじりながらたのしそうに言った。そしてあとはお客に勝手にしゃべらせるつもりで、それ以上はなにも言わなかった。
「ところで」と、マクゴワンは急に首を振って、火のそばの肘掛け椅子に腰をおろした。「ぼくがなぜ今朝来たのか、ご不審なことでしょうね」
エラリーはコップをもち上げた。「そりゃ、ぼくだって人間並みですからねえ。まさか、あなたが見えるとは思ってもみませんでしたよ」
マクゴワンはちょっと陰気に笑って「もちろん、ぼくは個人的に、おわびがしたかったのです。ぼくはカーク家の一員だと思っているんです、というのはマーセラとぼくは……ねえ、クイーン君」
エラリーはため息をして、坐り直し、ナプキンで口をふいた。そして、マクゴワンにたばこをすすめたが相手がことわったので自分で一本つまみあげた。「さあ」と、エラリーは「これで腹ごしらえができた。さて、マクゴワンさん、用件をおうかがいしましょう」
二人はややしばらく、全く無言無表情で相手の肚《はら》をさぐり合っていた。やがてマクゴワンがチョッキの胸ポケットをさぐりはじめた。「ねえ、クイーン君、君がなにを考えているのか見当もつきませんよ。どうやら君はとぼけてはいるものの、いろんなことを知っているように見えますね――」
「ぼくは|ばった《ヽヽヽ》みたいな人間で」と、エラリーが小声で「保護色をもっているんです。実は、これは職業上の必要から習得した態度なんですよ、マクゴワンさん」エラリーはたばこを横目でにらみながら「あの殺人事件のことを言っているんですね」
「ええ、そうですよ」
「実はなんにも分かっちゃいないんです。なんにも」と、エラリーはしょげて言った。「分からんのと同様です。今までのところはね。とにかく、あなたの知っていることをうかがいたいですね」マクゴワンはおどろいているようだった。「ぼくはあなたに一杯くわすようなことはしませんよ。しかしあなたはなにか知っているようですね。それをぼくにも教えてくれるほうがいいと思いますがねえ。うまい言い方をすればね。ぼくは役人じゃない――ありがたいことにね。だから言うべきだと思うことは話すが、後は胸におさめておける立場なんです」
マクゴワンは神経質に長いあごをなぜた。「そりゃどう言うことなんですか。ぼくがなにかをかくしているとでも思うんですか? 実は――」
エラリーはわざと落ち着きはらって相手を見つめ、ふたたび、たばこをくわえて、考えながら煙をくゆらした。「どうもぼくの見込みちがいだったかもしれませんね。ところで、マクゴワンさん、なにをくよくよ考えてるんですか――それとも、情報はその手のうちにあるものなんですか」
マクゴワンが大きなにぎり拳をひらくと、巾の広い手の平に、トランプのケースのような小さな革製品があらわれた。「これです」と、マクゴワンが言った。
「革か模造革のケースですね。不幸にしてぼくの目はレントゲンのように中を見透《みすか》せないんです。ちょと拝見」
しかし、マクゴワンは手の平のケースから目を離さず、差し出そうともせずに言った。「このケースの中のものは――買ったばかりなんです。高価なものです。もちろん、全くの偶然で手にはいったのですが、どうも気がかりなんです――なにか面倒なことにまきこまれそうな気がするんです。ぼくは断じて潔白なんですがね……」エラリーはまばたきもせずに相手を見守っていた。マクゴワンはひどく神経質になっていた。「この中のものをかくす必要は少しもないんですが、黙っていても、いずれは警官のだれかが、かぎつけるだろうと思ってね。そうなるとことが厄介になるし、不愉快なことになるでしょうからね。それで――」
「どうせ調べますよ」と、エラリーがつぶやいた。「どういうことなのですか、マクゴワンさん」
マクゴワンは革ケースを手渡した。
エラリーは、長年奇妙なものを調べ慣れて来た、いかにもさりげない様子で、珍しそうに、そのケースをいじりまわした。それは、かざりつけのない黒いモロッコ革で、見たところ簡単な|ばね《ヽヽ》仕掛けになっていた。小さなボタンを押すと、|ふた《ヽヽ》がひょいとあいた。ケースの中は、ビロード底でくぼみがついていて、そのくぼみに、半透明のパラピン紙の四角い封筒がはいっていた。そして封筒の中の小さな袋に切手が納めてあった。
マクゴワンは黙ってニッケルの切手用ピンセットを出して、エラリーに渡した。エラリーは封筒をひらき、やや不器用にピンセットで中の袋をひき出した。セロファンをすかして、切手がはっきり見えた。縦よりも横が長い、大型の切手で、四つのはしには、一様にミシン目がはいっていた。わくは、黄色がかったオークル色で、切手の下のほうに中国風な花模様らしいものがあり、下の両すみに切手の単位価額が、一と刷られていた。上のわくに沿って、オークル色のずんぐりした大文字で、フーチュー〔福州〕と刷ってあった。
しかしその切手のわくの中には当然、他の色で刷った切手の絵模様がエラリーの素人目にも見えそうなものなのに、そこには――なにもなかった。ただ空白で、白い切手の地紙が見えるだけだった。
「おかしいな」と、えらりーがつぶやいた。「ぼくは切手収集家ではないが、まん中の図案が空白になっている切手なんて、見たことも、聞いたこともない。こりゃ、いったいどういうものなんですか、マクゴワンさん」
「光りにすかして見たまえ」と、マクゴワンが静かに言った。
エラリーはちらっと鋭く相手を見つめて、言う通りにしてみた。すると、すぐに薄い紙を通して、黒く浮き出たのは、きわめて美しい小さな景色だった。前景は細長い一種のお祭りの船に土民がいっぱいに乗っていて、背景は港の景色だった。切手の上部の文字からみて、明らかに福州の港の景色である。
「こりゃおどろいた」と、エラリーが「まったくおどろいた」もう一度、マクゴワンに鋭い視線をなげたエラリーの目にはなにかが光っていた。
マクゴワンは相変わらず静かな声で言った。「切手を裏がえして見たまえ」
エラリーは言う通りにした。するとそこに、信じられないだろうが、港の景色が黒い印刷インキで、裏から刷ってあったのだ。絵の上に乾いた糊が光って、ひびわれて筋がはいっていた。
「あべこべだな」と、エラリーはゆっくり言った。「もちろん、こりゃあべこべだ」
マクゴワンはピンセットにはさまれている小さな紙袋を受けとって、袋を封筒に収めた。
「珍しいものでしょう」と、おだやかな声で「切手界を通じて、ぼくの知っているかぎりでは、こんな誤刷は、これひとつきりです。収集家がよだれをたらすような珍品ですよ」
「あべこべですね」と、エラリーは、答がはっきりしすぎている問いを自分に問いかけるようにもう一度言った。そして椅子の背によりかかって、目を半ばとじてたばこをふかした。「なるほど、こりゃあ。とてもありがたいご入来でしたよ、マクゴワンさん。どうしてこんな誤刷が生じたものですかね」
マクゴワンはケースのふたをぱちんとしめ、実にむぞうさに胸のポケットに収めた。
「そう、これはご覧の通りの二色刷り切手です。収集仲間で二色ものと言う奴です。この場合はオークルと黒です。切手のシートは――むろんシートで印刷されるのですが――一度に二色で印刷されるのではなくて、印刷機を二度くぐるということになるのです」
エラリーがうなずいた。「オークルを一度と、黒を一度ですね。たしかにそうだ」
「さて、そこでこんな珍しい場合が生じることが推察できるでしょう。オークルが刷り上って乾いたところで手違いができた。シートの表面を上にして機械にかけるところを、不注意な職工が表面を下向きにしてかけてしまった。それで、黒刷りが切手の表でなく裏に出てしまったのです」
「しかし、それにしても政府の検査みたいなものがあるでしょう。わが国の郵政当局はうるさいですからね。どうしてこんな切手が出まわったか、さっぱりのみこめませんよ。こんな誤刷が生じた場合、そのシートは全部破棄されるものとばかり思っていました」
「たいていの場合はそうですが、時には、そんなシートが一枚か二枚出まわることがあります――事務員の手違いか、さもなければ、係員が切手収集家相手にひともうけするつもりで、盗み出すのです。たとえば、アメリカの二十四セント航空切手のさかさ刷りのシートが、検査員のちょっとした見落しで、出まわったのは有名な話です。この福州切手は――」と、マクゴワンは首を振って「どんな事情だったかは全然分かっていません。だが切手は現にこうしてあるのです」
「なるほど」と、エラリーが言った。あとは、二人とも黙りこんでいた。ジューナが台所で朝食の皿を洗う威勢のいい音だけがきこえていた。「そこで、君はその切手を買ったことを話しに来たんですね、マクゴワンさん。あべこべなのが気になって?」
「ぼくはなにも気にしちゃいません」と、マクゴワンがぎこちなく言った。エラリーはその落ち着いた目と、しっかりした長いあごをみつめて、相手を信じていいと思った。「とは言うものの、ぼくは抜け目のないスコットランド人ですよ、クイーン君、だから尻尾をつかまれるようなことはしたくないんです……」と途中で言葉を切り、ふたたび口を開いたときには、ずっと気軽な口調になっていた。「この福州切手はぼくらの言う≪地方もの≫です――つまり、福州市は開港条約による港で、あの地方の郵便制度のために、独自の切手を発行していたのです。ぼくはご存知のように地方もの専門なんです、他の種類はいっさい集めません。地方ものなら、どこのでも――アメリカ、スウェーデン、スイス……」
「すると」と、エラリーが小声で「これは新発見なんですか。今まで存在すると思われていなかったものに、ぶつかったというわけなんですか」
「いや、いや。専門家の間では、この切手の発行当時、印刷上の間違いがあったことは、長年にわたって知られていましたが、誤刷されたシートは福州の郵政当局の手で破棄されたものと推定されていたのです。ぼくも実物を見たのはこれが初めてです」
「どうして、これにめぐり合ったんですか。話していただけますかね」
「それがかなり妙な話なんですよ」と、マクゴワンが眉をしかめて「ヴァリーアンという男の名を耳にされたことはありませんか」
「ヴァリーアン。アルメニア人らしい名ですね。聞いたことありません」
「ええ、アルメニア人です。あの連中はたいがい似たりよったりの名前ですよ。ところで、ヴァリーアンはニューヨークで一番名の通っている切手商のひとりです。今朝、早朝に家へ電話をかけてきて、すぐ店に来ていただきたい、きっとぼくがとびつくようなものがあるから、それをお見せしたいと、言うのです。なにしろ、今週は掘り出し物が全然なくて――てんで面白いものにぶつかりませんでしたし、しかもあの殺人事件のいやな後味ものこっているしで……少しは息抜きもしなくちゃと思ってたところです」と、マクゴワンは肩をすくめた。「ヴァリーアンがなにかいいものを持っていなければ、電話をかけてくるはずがないのは分かっていました。いつもぼくのために地方ものの掘り出しをしてくれるんです。そんなものの収集家はたくさんいないし、地方もの自体が数が少ないんです」マクゴワンはそり身になって広い胸に手を組んだ。
「そういうことは以前にもあったんでしょうね」
「そうですとも。そんなわけで、ヴァリーアンはこの福州切手をぼくに見せたんです。この切手は、シートとして、検査の目をのがれて出たのか、こんな非常な珍品の莫大な価値を知っている者が印刷所から盗み出したものだろうと言っていました。むろん、長年、どこかにかくしてあったんでしょう――なにぶん古い切手ですからね。条約港として繁栄していた当時の福建省で発行されたものです――それが今になって急に日の目を見たわけです。ヴァリーアンが売りに出したのです」
「うかがったところでは」とエラリーが「この切手があきらかに誤刷であるという偶然の事実以外には、――誤刷という点にちょっと気がかりなものもありますが、――この取り引きには不審な点は見当たりませんね――そこまでは。ところで、これは本ものでしょうね。にせものなんかじゃないでしょうね。そんな切手のにせものをつくるぐらい造作ないとぼくには思えますがね」
「とんでもない」と、マクゴワンは微笑しながら「まぎれもない本ものです。切手を刷る原版には、ちゃんと見分けのつく微細な特徴が、必ずいくつかついているのです。この福州切手にはそれらの特徴がちゃんとそなわっているのをぼくは自分でたしかめました。にせものを作ることは実際に不可能です。それに、ヴァリーアンも保証しています。あの男はなにしろ専門家ですからね。紙質、デザイン、ときにはミシンの目まで……いや、全く完全です。本ものにまちがいありません。決してにせものなんかじゃありません」
「とすると」と、エラリーが訊いた。「なにが気がかりなんですか」
「この切手の出所です」
「出所?」
マクゴワンは身を起こして焔のほうを向いた。「なにか腑におちないものがあるんです。ぼくはもちろん、ヴァリーアンがこの福州切手をどこで掘り出したか知りたいと思いました。切手が本ものであることを鑑定するには、切手そのもののそなえている証拠もさることながら、そんな珍品の所有者が誰であるかということが、しばしば重要な鍵になるのです。ところが、ヴァリーアンはそいつを言おうとしないんです」
「なるほど」と、エラリーは言って考え込んだ。「いいですか。どこで手に入れたかについては、絶対に口を割らないのです。どうしても言えないと言うんです」
「あなたの印象では、本当に知らないようでしたか、それとも、知っていて言わないようでしたか」
「たしかに知っているんです。あの男は誰かの代理をしているように思えました。それが気にくわんところなんですよ」
「なぜですか」
マクゴワンが向き直った。その大きな体がちらちらもえる焔を背にして黒々と見えた。「実は、はっきりとなぜだか分かりませんが」と、ゆっくり言った。「どうも気にくわないんです。なにか、くさいところがあるようで――」
「するとあなたは」と、エラリーが低い声で「盗品だとでも思うんですか。それが気がかりなんですか」
「いや、いや。ヴァリーアンは正直な男です。盗品ではないという彼の言葉を信じます――その点はざっくばらんにきいてみました。実際、かんかんに怒りましたよ。だからその点は、本当のことを言っているのはたしかです。あの男は、ぼくがなぜ切手の出所を知りたがるのかと訊きました。前にはそんな≪うるさいこと≫はなかったじゃないかと言いました。そんなことを言うんです! だが、そんな言い分そのものがおかしい、実に失敬千万ですよ。しかし、そのときは、あの男がいかがわしい品ものを扱っているようなことを言われたので怒っているのだと思ったんです……あの男は、ぼくが地方ものの収集では一番だと思って、まずぼくに知らせたと、説明していました」
「なにか勘づけるといいんですがね」と、エラリーが、むっつりして言った。それから、にやりとしながら大男を見上げて「しかし、駄目ですね」
「ぼくが形式にこだわりすぎるんでしょう」と、マクゴワンはつぶやいて肩をすくめた。「慎重すぎるんです。だがぼくの立場も分かるでしょう。なにかいわくがあるんですよ――ねえ、あのいやな人殺しのあったあとで、どこからか、あべこべものがとび出してきたんですからね……」と、額にしわをよせて「それに、その他にも、この取り引きにはなにか妙なとこがあったんです」
「ひどく不愉快な朝を迎えたらしいですね」と、エラリーは笑いながら「それとも、いつもそんなに慎重なんですか。ところで、その妙なことというのはどんなことですか」
「それが分かるには、まずヴァリーアンという男を知ってもらわなくっちゃね。前にも言った通り、|さいころ《ヽヽヽヽ》のようにまっ正直な男ですが――根はアルメニア人なんです。アルメニア人固有の商魂を持っているんです。いつも、とてつもない値をふっかけておいて、抜け目なくかけ引きするというやり方です。あの男の言い値をねぎらずに買ったおぼえはないくらいです。ところが」と、マクゴワンはゆっくり言った。「今度にかぎって、値を切り出して、それを絶対に値ぎらせないのです。それで、ぼくはいい値通り払わなければならなかったんです」
「なるほど」とエラリーが考えながら「そいつは変ですね。言われる通りなら、その男は、前もって切手の売価をきめて、誰かにたのまれたにちがいないように思えますね。おそらく手数料も加わえてでしょう」
「本当にそう思いますか」
「まず間違いないでしょう」
「すると」と、大男はため息をして「どうやらぼくはこの取り引きに老婆心で取りこし苦労をしていたらしいですね。だが誰かに相談しなくちゃいられない気持だったんです。すると心配はいらないんですね」
「私の考えるかぎりでは、潔白なものですよ」と、エラリーは愛想《あいそう》よく言った。それから身を起こして、灰皿にたばこをこすりつけた。「ところで、マクゴワンさん、ぼくにそのヴァリーアンという人を紹介してくれませんか。ちょっと調べてもかまわないでしょう」
「すると、あなたの考えでは……」
エラリーは肩をすくめた。「気にくわない点がたったひとつあります――偶然の一致というやつです。それに、ぼくは偶然という奴がきらいでしてね」
アヴド・ヴァリーアンの店は、東四十一番街にあって、郵便切手のカードがほこりっぽい陳列窓にちらばっている小さな店だった。二人が狭い店内にはいるとガラスを敷いたカウンターがあり、ガラスの下にはひとつひとつ定価をつけた同じような切手カードが並べてあった。奥には大きな旧式の鉄製金庫がすえてあった。
ヴァリーアンは、やせて背が高く、色が浅黒い男で、顔付きが鋭く、長いまつ毛の下に美しい黒い目をしていた。そのものごしには、なにか敏捷な自信たっぷりといったところがあり、その指は芸術家のように器用で鋭敏らしかった。二人がはいったとき、ヴァリーアンはカウンターごしにみすぼらしい老人の相手をしていた。その老人は古ぼけた手帳をたよりに、切手の番号を読みあげていた。ヴァリーアンはマクゴワンをちらっと鋭く見て「おお、マクゴワンさん。間違いでもありましたか」と言い、目のすみで、エラリーをぬすみ見て、また目をそらした。
「いや、ちがう」と、マクゴワンが、ぎこちなく言った。「友達を紹介しようと思って、戻って来ただけだよ。手があくまで待ってるよ」
「そうですか」と、ヴァリーアンは言って、みすぼらしい老人のほうへ向き直った。
エラリーはお客の相手をしているヴァリーアンをじっと見守っていた。まるで生きもののようにピンセットを扱っていた。切手の裏に貼りつけてある小さなパラピン紙をはがす手つきなどは見ていても面白く、実に手ぎわがよかった。ひとかどの人物だとエラリーは思った。身についた場所にいると、いかにも西欧ふうなディケンズの小説の中の人物といったおもむきがあった。店といい、人柄といい、手といい、かびくさいかおりがにじみ出ていて「古い骨董店」〔ディケンズの作品〕のなつかしい匂いをそぞろに思い出させ、読書狂にため息をつかせそうだった。エラリーは、色のついた小さな紙片が、ポケットのついたカードに納められていくのに見とれていた。
マクゴワンは、見るともなしに、展示されている安ものの切手カードを見てまわっていた。
やがてみすぼらしい老人は、パンとチーズをきりつめてためたらしい二十ドル札を四枚、財布からとり出して、何枚かの小額紙幣と銀貨の|おつり《ヽヽヽ》を受けとり、買った切手カードを大事そうに服に納めて、ほのかな微笑を目にうかべながら、店を出ていった。
「お待たせしました、マクゴワンさん」と、ヴァリーアンは、ドアについている古風なベルの音がなりやまないうちにものやわらかに言った。
「やあ」とマクゴワンはやや青ざめて「エラリー・クイーンさんを紹介するよ」
ヴァリーアンはすばらしく大きな黒く光る目をエラリーに向けた。「エラリー・クイーンさんですか。すると、あなたも切手収集家ですか、クイーンさん」
「切手の収集じゃないんです」と、エラリーはあいまいに言った。
「おお。すると古銭のほうでしょうな」
「いや、ちがう。ヴァリーアンさん、ぼくは変な事実の収集家なんですよ」
ヴァリーアンのまぶたが輝くひとみの四分の三ほどとじだ。「変な事実ですって?」と、ヴァリーアンは微笑して「どうも、私には分かりかねますが、クイーンさん」
「それがね」とエラリーは面白そうに「そっちにもこっちにも変な事実はころがってるんだよ。今朝もきわめて変な事実を追いかけているところなんだ。それがぼくの収集の中でも逸品になりそうなんだ」
ヴァリーアンが乳白色の歯をむき出した。「マクゴワンさん、あなたのお友達は私をおからかいなんですな」
マクゴワンは赤くなって「ぼくは――」
「ぼくは大まじめなんだよ」と、エラリーがカウンターにのしかかって、きらきらするその男の目をにらみながら、ぴしりと言った。「おい、ヴァリーアン君、今朝、マクゴワン君に売った福州切手は誰にたのまれたのかね」
ヴァリーアンはゆっくりとエラリーを見返してから、目つきをやわらげて、吐息した。「まさか」と、非難するように「あなたがそんなに信用できない人とはね、マクゴワンさん。あれが内密の取り引きだってことは了解ずみだと思っていましたよ」
「ぜひクイーンさんに話してくれ給え」と、マクゴワンは、まだ赤い顔で、つっけんどんに言った。
「なぜですか」と、アルメニア人はおだやかな声で「なぜあなたのお連れのクイーンさんに、あの切手のことを話さなければいけないんですか、マクゴワンさん」
「というのは」と、エラリーがいやにゆっくり「ぼくは殺人事件の捜査をしているんだよヴァリーアン君。そしてあの福州切手がどこかで、その殺人事件に結びついていると信じる理由があるからだよ」
相手ははっと息をのみ、その目に警戒の色がながれた。「人殺し」と、かすれた声で「きっと、あなたは――どんな殺人事件ですか」
「君もじれったいな」と、エラリーが「新聞をよまないのかね。チャンセラー・ホテルの二十二階で見許不明の男が殺されたのさ」
「チャンセラー」と、ヴァリーアンは赤黒い唇をかんだ。「でも、私はなにも知りませんでしたよ……新聞を読まないんです」ヴァリーアンはカウンターの後の椅子を手探りして腰をおろした。
「そうですか」と、低い声で「私はあの切手を売ることをたのまれたのです。そのひとの身元はあかさないでくれといわれたんです――だれにたのまれたかは」
マクゴワンはカウンターに|こぶし《ヽヽヽ》をのせて、叫んだ。「ヴァリーアン君、いったい誰だったんだ、その人は」
「まあ、まあ」と、エラリーが「暴力は必要ないよ、マクゴワンさん。きっと、ヴァリーアン君はすぐ話してくれるよ。そうだろう君」
「お話しますよ」と、アルメニア人はしぶしぶ「私がまず最初にマクゴワンさんに電話したわけも話しますよ。まさか殺人事件とは……」と、身ぶるいして「私に――その人が私に言ったんです」と、唇をなめて「あなたに最初に話しをかけろとね」
マクゴワンの大きなあごが、がっくりうなだれた。「するとなにか」と、せきこみながら「今朝、ぼくに福州切手を売ったのはその男からの特別の指図だったんだな。ぼくにだけ売ることになっていたんだな」
「そうですよ」
「だれなんだ? ヴァリーアン君」と、エラリーがやさしく訊いた。
「私は――」ヴァリーアンは口をつぐんだ。その黒い目は、ひどくあわれみを請うようだった。
「吐いちまえ、こいつ」と、マクゴワンはどなりつけて、いきなりつめよった。そして、大きな手で、アルメニア人の上着をむんずとつかむと、相手の黒い頭がふらふらし顔がまっさおになるほどゆすぶった。
「よすんだ! マクゴワン」と、エラリーがきびしい声で「よせといったら」
マクゴワンは、はあはああえぎながら、ふしょうぶしょうに、手をはなした。ヴァリーアンは、二度ばかりごくりとのどをならして、おびえたように二人を身くらべていた。
「どうだ言うか?」と、マクゴワンがどなった。
「それがね」と、アルメニア人は、おどおどした目をぎょろつかせてつぶやいた。「その人は世界的な収集家のひとりで特に――」
「中国切手だろう」と、エラリーが妙な声で「しめた、そうだ。福州――中国」
「はい。中国切手です。それが――それが――」
「だれなんだ」と、マクゴワンがおそろしい声でわめいた。
ヴァリーアンは両手をひろげて、いかにもあきらめたような哀れっぽい身ぶりで「なんとも申しわけないんですが――その人は、あなたのお友達の、ドナルド・カークさんですよ」
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十 妙な泥坊
マクゴワンはぎゃふんと参ったようだった。それで、ヴァリーアンの店からチャンセラー・ホテルへ帰るタクシーの中で、クッションにぐったりよりかかって、青い顔で黙りこんでいた。エラリーも口をきかなかったが、ひどく八の字をよせて考え込んでいた。
「カークか」と、やがてエラリーがつぶやいた。「ふーん。どうも分からないな。たいていの登場人物の行動は少なくとも人間心理の常識に照らしてみて分かるものなんだがな。人間は――ほとんどの人間は――内部的衝動に従って行動する。だから、こちらは目をあけて、まわりの人形どもの心理的な可能性を計っているだけでいいんだ。しかしまさかあのカークとは……どうも信じられん!」
「ぼくにはさっぱり分からない」と、マクゴワンが、低い沈痛な声で「なにかのまちがいにちがいないですよ、クイーンさん。ドナルドがそんなことをするなんて……ぼくに対して。そんな――そんなことはとても考えられない。およそあの男らしくもない。わざとぼくを巻き込むなんて。ぼくたちは親友なんですからね、クイーンさん。ぼくはおそらくこの世でただひとりの真の友なんです。ぼくは近くあれの妹と結婚することになっているし、あれは妹を愛しているんですよ。たとえぼくに腹をたてることがあったとしても、気にくわないことがあったとしても……ぼくをきずつければ、自分の妹をきずつけることになるぐらい知っているはずですからね――……とてもひどく傷つけることぐらい。なんとも分かりませんね、まるっきり」
「自然に分かるまで待つより他に手はないよ」と、エラリーが軽く受けながして「しかし妙だな。ところで、どうして君は、ドナルドの収集の中に福州切手があるのを知らなかったんですか、マクゴワンさん。君たちはとても仲がよかったんでしょう」
「おお、ドナルドはいつも、自分の収集品については人に知らせないほうでしてね、特にぼくには。ある意味でぼくたちは競争相手だったんですよ。他のことでは、なんでも分かち合うくせに互いの趣味だけは別という友達は珍しくないですよ。たとえば、ぼくたちは、どこへも一緒に行くし――行ったもんです、ぼくがマーセラと婚約する以前はね――しかし、切手の競売や切手の取り引きだけは一緒に行きませんでした。もちろん、ぼくは自分が収集家なので、あの男の秘密を侵《おか》すようなことは決してしませんでした。時々は、あの男が、オズボーンが珍品を見せてはくれましたが、しかし福州切手だけは一度も見せてくれたことがないんです。こんな地方ものの珍品は――」マクゴワンが急に言葉を切ったのでエラリーは、はっとしていぶかしげに彼を見つめた。
「さあ、なにを言いかけたんですね――」
「えっ? いや、なんでもありません」
「なんでもない、お前の知ったことじゃないというわけですかね。ドナルド・カークが地方ものの珍品を持っていることが、どうしてそんなに不思議なんですか。あれは中国切手でしょう、それにドナルドは中国切手専門じゃないですか」
「そりゃそうですが……そうね、あの男はぼくの知るかぎりでは、以前には地方ものをなにも持っていなかったんです」と、マクゴワンは口ごもって「たしかに持っていなかった」
「しかし、持っちゃいけないわけもないでしょう、とにかく中国ものなんだから」
「分かっちゃいないな」と、マクゴワンがじれったそうに「アメリカものの収集家――つまり合衆国切手の収集家――の場合は別だが、どの専門分野でも地方ものに手を出す専門家はほとんどいないんです。地方ものは真の切手収集の対照とは見なされないんです。いや、これじゃ説明がまずいな。世界中ほとんどどこの国でも、それぞれの全国的郵便法が成立する以前には、種々雑多な地方切手が発行された時期があって――市や、自治体や、町がそれぞれの地方切手を発行していたのです。国家的に――全国にわたって発行され、使われた切手だけを集めるんです。カークもそのほうで、いつも中国で発行されて全国的に認められていたものだけを集めているのです。ところがぼくはそういう普通でないものに手を出している仲間のひとりで――もっぱら各国の地方ものだけを集めているんです。正統に発行された切手には興味がないんです。この福州切手はまったくの地方ものです――中国の条約港でそれぞれの切手を発行していたのは、他にもたくさんあるんです。それが、どうして」と、マクゴワンは顔をくもらせて「この福州の地方切手にドナルドが手を出したんだろう」
二人はしばらく黙っていた。タクシーは、第六アベニューの標注をぬって走った。
やがてエラリーがものうげに訊いた。「ところで、この福州切手はどのくらいするんですか」
「値段ですか」と、マクゴワンはうわの空ですぐ返事した。「時によりけりですね。たいていの場合珍品の値段は、最後の売買が、いくらであったかによって、いろいろに値が変わってくるのです。有名な一八五六年の英領ギアナ切手――スコットのカタログに十三号としてのっている深紅色の一セント切手――は、アーサー・ヒンド卿の持ちものでぼくの記憶では三万二千五百ドルの値がするんです――おぼえちがいかもしれないが、ヒンド卿が買ったときの値は、だいたいその見当です。カタログでは五万ドルになっているが、そんなものは意味ないんです。ヒンド卿がパリのフェラリの競売で払ったのが三万二千五百ドルだから、その見当とふめばいいんです……この福州切手は正味一万ドル吐き出させましたよ」〔ギアナ十一セント切手は、四セントの誤刷なのである。スコットはニューヨークの有名な切手カタログ〕
「一万ドル!」と、エラリーは口笛をならした。「しかし、その切手が前に取り引きされた値段は見当もつかなかったんでしょう、それまでに一般に知られていなかった切手なんですから。それなのに君はどうして――」
「ヴァリーアンがきめた値段で、頑張るものだから、ぼくはそれだけの小切手を書いたんです。それだけの値打ちはあるが、相当な値ですよ。ぼくの知るかぎりでは、この種のもので現存しているのはこれ一枚きりですからね――しかも、誤刷の特殊な性質を考えて――もし競売に出せば、今日すぐにでも十分利益を上げることができるでしょうよ」
「すると、どっちにしても、君は被害を受けたわけじゃないですね」と、エラリーがつぶやくように言った。「カークは君を絞ろうとしたわけじゃないですね、気やすめのようだけれどね……さあ、着きました」
二人がカーク家のアパートの控え室で、外套をぬいでいると、ドナルド・カークの声が客間から聞こえて来た。「ジョー……あなたにお話しておきたいことがあるんです――おねがいしておきたいことが」
「なんでしょう」と、ジョー・テンプルがやさしい声で言った。
「知っといてほしんだが――」と、カークが早口で熱をこめて「ぼくはあなたの作品をたいへんすばらしいものだと信じているんですよ、ジョー。フェリックスの言ったことは気にしないで下さい。あの男はどこか間抜けで、つむじ曲がりの皮肉屋で、酒をのむと、本当に無責任なことを言うんです。ぼくがあなたの作品を採用したのはなにも――あなただから特別にというのではなかったので……」
「ありがとうございます」と、ジョーが、いつものきわめてやさしい声で言った。
「つまり――そのう――世間によくある、いやらしい含みがあってのことじゃなかったのです。ぼくは本気であの作品がほしくて――」
「私がほしかったのではないんでしょう。ドナルド・カークさま」
「ジョー」何ごとかがおこったらしかった。しばらくしてあとを話しつづけるカークの声が緊張していた。「フェリックスの言うことなど気にしないで下さい。もし一千部しか売れないとしても、すばらしい作品であることにはちがいないんだからね、ジョー。もし――」
「もしも一千部しか売れなかったら、ドナルド・カークさま」と、ジョーがとりすまして「私は、も少しお利口になって、でも、も少し悲しくなって中国にもどりますわ。私は何万部も売れることを夢みているんですの……でも、いまお話しになりたいのはなんでしょうか」
マクゴワンは不愉快そうな顔をし、エラリーは肩をすくめた。二人はわざと足音をたてて、客間の入口のほうへ歩いて行ったが、そこでふたりとも立ちどまった。
というのはカークが妙なかすれ声で言うのが聞こえたからだ。「ぼくはあなたが好きになっちゃったんですよ! ぼくは恋ができるなんて思ってもみなかった。ぼくを夢中にさせる女性がこの世にいるなんて、思ってもいなかった――」
「とおっしゃると」ジョーが冷静な声でききかえした。その押えた声が妙にふるえていた。「アイリン・リューズさんでもですか」
しんとなったので、エラリーとマクゴワンは顔を見合わせた。それから一緒に、大きくせき払いして客間にはいった。
カークはうなだれて立っていた。ジョーはかたくなって坐っていた。彼女は緊張のために小鼻のあたりがぴくぴくしていたが、唇にはかすかな微笑がうかんでいた。ふたりともびっくりしてしまい、カークが、あわてて言った。「おう、これは、これは。君たちとは意外だったな。一緒に来たのかい。さあ、どうぞ腰かけ給え、クイーン君。マーセラに会ったかい、グレン」
「マーセラ」と、マクゴワンは重々しく「いや、まだ会ってないよ。お早う、テンプルさん」
「お早うございます」と、目を伏せたまま、ジョーがつぶやいた。その白いのどもとの肌が、白いどころかまっ赤になっていた。
「マーセラはどこかへ出かけているが、すぐ帰ってくるだろうよ。いつもどこかを遊び歩いてるんだ、セラときたら」と、カークは落ち着きを失って動きまわりながら、ぺらぺらしゃべった。
「ところで、クイーン君。なにか新しい情報かね。それとも、もう一度訊問かね」
エラリーは腰をおろして、きまじめな、いかめしい様子で、鼻眼鏡をかけ直した。「カーク君、君にかなり重要な質問があるんだよ」
ジョーが、すっと立ち上った。「あなた方だけでお話なさりたいのでしょう。よろしければ、私は失礼させていただきますわ――」
「重要な質問だって?」と、カークがおうむ返しに言った。その顔は青ざめていた。
「テンプルさん」と、エラリーが重々しく「あなたもここに残っていただいたほうがいいでしょうね」
なにも言わずに、ジョーが腰をおろした。
「どんな質問かね」と、カークが、かわいた唇をなめながら訊いた。マクゴワンは、その広い背中を沈黙の垣にして、窓ぎわに立って身動きもせずに外を眺めていた。
「君はなぜ」と、エラリーがはっきりした声で「福州市の地方切手の珍品を、友人グレン・マクゴワンに売りつけるように、アヴド・ヴァリーアンという商人に指示したのかね」
背の高い青年出版社長は、椅子にへたり込んで、ふたりのほうを見ずに、しゃがれ声で言った。「ぼくがばかだったんだ」
「ちゃんとした答えになっとらんね」と、エラリーがそっけなく言って目を細めたが、そのとき、テンプル嬢の妖精のような顔にあらわれた表情を見て、はっとした。その美しい純真な顔が、極度のおどろきでひきつれ、自分の耳がまったく信じられないというようすだった。そして、大きな目を見ひらいて宿主を見つめていた。
「グレン」と、カークがつぶやいた。
「君に見つかるとは思わなかったんだ。別に大したことじゃないんだ。あの切手が手もとにあったし、ぼくは知ってるからね、君が――なあ、グレン。あの切手を、世界中のだれよりも君の手に入れさせたかったのさ。分かるだろう」
マクゴワンは疲れた馬のようにゆっくり向き直って、石のような冷たい目付きで「それで、あれが、あべこべものだということは、考えてもみなかったと言うんだね」と、にがにがしげに言った。
「まあ、まあ」と、エラリーがおだやかに「ぼくにまかせて下さい、マクゴワンさん。カーク君、君の商売上のことは君自身に関することで、商売上の特殊な性質上おこる些細ないざこざはぼくの知ったことじゃない。しかし、あの福州切手は偶然にもあべこべものだったんだよ――またしても、あのしつっこい謎めいた|あべこべ《ヽヽヽヽ》事件に関係のありそうな現象があらわれたわけなんだ。すると、これはぼくの仕事になる」
「あべこべ」と、テンプル嬢がつぶやきかけた口を押えてドナルド・カークを見つづけていた。
エラリーはドナルドの目に恐怖の色がうかぶのを、はっきりと見てとった。それは単なる見せかけだろうか? ドナルドはマクゴワンをちらっとにらんだ。しかし、大男はまた窓のほうへ向きを変えて、なにか怒って意地になっているように肩をいからしていた。
「しかし、ぼくはなにも――」と、カークは言いかけて、呆然としたように口をつぐんだ。
「ねえ君」と、エラリーがゆっくりと言った。「君には二つの点を説明してもらわなくちゃならないな。君がなぜあの福州切手を、こんな時に、あんなこそこそしたやり方で売ったのかという点と、どこであの切手を最初に手に入れたのかという点だ」
一座がしずまりかえっているとき、ハッベルが控え室を大股で通り抜けながら、ゆきずりに、じろりと、好奇心まる出しの視線を、客間に投げかけた。
やがてカークが言った。「いずれ分かるだろうと思っていたよ」と、がっかりして、ものうげに「だから、さっき、ばかなまねをしたと言ったのさ。まさかこういうことになろうとは――」カークがしばらく両手で顔をかくした。すると、その子供っぽくしょげこんだ様子を見てテンプル嬢の顔に、不思議なやさしさがうかんだ。カークはしょんぼりと顔を上げた。「グレンはぼくの現在の経済状態をいくぶんか知っているはずだ。ぼくらの暮しはこの住居を見て、君らが想像するような楽なものじゃない。このことは、あなたにも言っておきますよ、ジョー。実はもっと前に話しておくべきだったが……ぼくは現在、経済的にかなり苦境に立っているんだよ」
テンプル嬢はなにも言わなかった。
「おお」と、エラリーが言った。それから明るい口ぶりで「そうかい。この混乱時代には、大して珍しい話でもないじゃないか、カーク君。マンダリン出版もがたついてるのかい」
「ひどいもんだよ。売掛け金はふえる、集金は悪くなるので、本屋は片っぱしから倒れている……」と、ドナルドは頭を振って「莫大な未払金があるんだ。長い間、なんとかして切り抜けようと思って、事業資金をつぎこんで来た。もちろんバーンは文なしなんだ。あの男がどこで金を使うか知らないが、金を持っていたためしがないんだ。こんなことがいつまでも続くはずはない、いずれ景気もよくなるだろう、そうなれば大丈夫切り抜けられるよ。バーンのベスト・セラー作品を見つけてくる才能のおかげで、しっかりした著者をつかんでるからね。しかし、さしあたりは――」と、からだ全体で絶望をますように妙な身ぶりで肩をゆすった。
「ところで、あの切手だが」と、エラリーが、おだやかに訊いた。
「最近、収集の中から二、三枚を現金にかえなくてはならなかったんだ。まあ、そんなしだいで――」
マクゴワンが向き直って、きんきん声で言った。「よく分かったよ、ドナルド。だが、まだ分からない点は、なんだって君はあんなふうに、こっそり売ったんだね。おかげでぼくはひどい破目になって、まるで……いったいなぜぼくに相談しなかったんだ、ドナルド」
「またたのむのかい」と、青年社長はあっさり言った。
マクゴワンは唇をかんだ。「遠慮する必要はないじゃないか――言えばいいのにさ、ドナルド、まさかぼくが――」
「そうは言うがね」と、カークは立って、一同のほうにきっと向き直った。「実はね、クイーン君――ぼくは良心の重荷をおろして、いっさいをはっきりさせなけりゃならないよ――実は時々グレンに金の融通をしてもらっていたんだ。それが相当の借金になってるんだよ。おやじは自分の金というものを持っていない。そのことを知らせてない……くよくよさせたくないからね――そんなことで、ぼくはにっちもさっちもいかなくなった。ぼく自身の財産はすっかりすって、もうこれ以上現金を作ることができなくなっているんだ。その大部分は抵当にはいって凍結されている。北極よりも、もっとひどい凍結ぶりなんだよ」と、陰気に笑った。「そういったわけで――ぼくはグレンから金を借りていたんだ。グレンは実によくしてくれてね。その点については今さらなにも言うことはない。金など借りないですめばいいと、どれほど思ったかしれないがしかたなかったんだ。もちろんグレンは、ぼくの窮状をずっと知っていた……しかし、クイーン君、ぼくのきんけつはとてもひどいもんだよ――とても。そこにもって来て、またしても急に相当の現金が必要になってきたんだ――いろんな事情でね」カークの目は半ばとじられた。「ぼくの収集の中で一番金目なのが、あの福州切手なんだ。妙だろう。ぼくの気持ちでは、グレンには、すでにたくさん借りているんだから、この上正面切ってあの切手を現金にかえてくれとはとてもたのめなかったし、現金はどうしても必要だったんだ。そこでヴァリーアンを使って、名前をかくしてあの切手をグレンに売らせたのだ。実際、ぼくが持っていられないなら、グレンに持っていてもらいたかったからなんだ。話はそれだけさ」
カークは言い終るといきなり腰をおろした。テンプル嬢は、深い関心を示しながらも、やさしさをこめて、しげしげと見守っていた。
マクゴワンが低い声で「よく分かったよ、ドン。すまなかった――だがね」と、声を大きくして「あの福州切手もクイーン君が言う、いまわしいあべこべの特徴を持ってるもののひとつだという事実はどうなるんだね、ドナルド。このさい、ぼくにあんな切手を買わせれば、いろんないまわしいぬれぎぬをかぶせることになるなんて、まるっきり考えなかったのかい」
ドナルドはふちの赤くなっている目を上げた。「グレン、ちかって言うが……そんなこと思いもかけなかったんだ。まるっきりね。おお、まさかグレン、君はぼくがわざとやったとでも思ってるんじゃあるまいね。悪意があって! まさかそんなことは考えないだろう。君は、どうなんだクイーン君。君たちが言い出すまで、まるっきり気がつかなかったんだよ……」
カークは、疲れはてて、ぐったりと椅子によりかかった。マクゴワンはしばらくの間入り乱れる感情に迷っているような顔をしていたが、やがてカークのそばに寄り肩をたたいて、うめくような声で、「みんな忘れちまえよ、ドン。ぼくにできることならなんでも――」
「フーン」と、エラリーが「さて、これでその問題は片付いた。カーク君、ぼくの二番目の質問についてはどうなんだね」
「二番目というと」と、カークが目をぱちくりして訊いた。
「そうさ。あの切手を、最初にどこで手に入れたんだね」
「そうか」と、青年社長はすぐ答えた。「買ったのさ。ずっと前にね」
「誰から」
「どこかの切手商人か、なにかからね。忘れちまったよ」
「嘘つき」と、エラリーはたのしそうに言って、マッチの火を両手で囲った。
カークはまっ赤になって、身をちぢめた。大男のマクゴワンは、カークを見、エラリーのほうを見た。あきらかに、友情と、疑念の再燃との板ばさみになって、もがいているようだった。テンプル嬢は、ハンカチをねじってくしゃくしゃに丸めていた。
「クイーン君」と、カークが言いにくそうに「君の言うことが、のみこめないな」
「おい、おい、カーク君」と、エラリーは、煙をはきながらのんびり言った。「嘘をついているな。福州切手は、どこで手に入れたのかね」
テンプル嬢がハンカチの玉をとり落として言った。「クイーンさま――」
カークが席からとび上がった。「ジョー、いけない」
「いいのよ、ドナルドさん」と、ジョーは落ち着いて「クイーンさま。カークさんは本当に紳士でいらっしゃるのよ。昔の騎士とそっくりですわ。私のためにそうして下さるのはありがたいんですけど、本当にその必要はございませんのよ。ええ、ドナルドさん、私には隠すことはなにもないの。あのね、クイーンさま、ドナルドさんは、私から、あの福州切手を手にお入れになったんです」
「ああ」と、エラリーはほほえみながら「それでいい。ずっといいですよ。きざな言い分ですがね、真実はつねに最後の勝利者ですよ。ぼくはここへ来たときに、そんなことだろうと、感付いていました。カーク君、君はやはり教養のある紳士だったね。ところで、テンプルさん。その先を話して下さるでしょうね」
「話す必要はないんですよ、知ってるでしょうがね、ジョーさん」と、カークが、すばやく口をはさんだ。「強制されることはないんですよ……」
マクゴワンがカークの腕に手を当てて「落ち着くんだよ。ドン。本当に話したほうがいいよ。クイーンさんの考えは正しい」
「その通りですわ」と、テンプル嬢が明るく言った。「私の父は、前にも申しました通り、アメリカの外交官で、中国に赴任していたのですが――これはカークさんだけにしか興味がないことだろうと思って、他の方にはお話しなかったんですが――父もやはり、ちょっとした収集家だったのです。でもドナルドさんや、マクゴワンさんのように、はでなものではありませんでした。高価なものに手が出せるほどの収入がありませんでしたものね」
「ジョーさん。まさかあなたは――」
「いいえ、ドナルドさん。今、はっきりさせておいた方がいいのよ。かくしておいても、なんの役にも立たないと思うの。それに、私は世間知らずだけれど、結局は正しいことが――そのう――勝つと思いますわ」と、にっこりほほえんだので、カークもつりこまれてほほえみ返した。「父は、ずっと昔福州で、おちぶれたユーラシア〔欧亜混血児〕の素姓のあやしい男から、その切手を手に入れたのです――その人が、どうしてその切手を持っていたのかは、はっきりしたことは分かりませんわ。たぶんあの地方の郵便局員だったろうと思います。とにかく、父はおかしいほどの安値で、あの切手を買って、父がなくなるまで、その収集の中にあったのです」
「ほう、運がいいなあ」と、マクゴワンが目を輝かせて叫んだ。
「して、他の収集家たちは、あなたのお父さんが、それを持っていることを知らなかったのですか」と、エラリーが訊いた。
「よくは存じませんけれど、だれも知らなかったろうと思いますわ、クイーンさま。父はあまり収集家の方たちとおつき合いしませんでした。それにしばらくすると自分の収集品に対する興味もほとんど失ってしまったものですから。……ただ、物置に放り込まれて、ほこりをかぶっていたんですの。私の阿媽《アマ》がいつも、もったいないと言っていたのを覚えていますわ」
「たまらんな」と、マクゴワンがつぶやいた。「そんなふうにして、貴重な珍品が失なわれていくなんて。全く、そりゃあ――そりゃあ犯罪的な怠慢というもんだ! こりゃ失礼、テンプルさん」
「いいえいいんですのよ、マクゴワンさん」と、ジョーが言って、ため息をした。「ごもっともだと思いますわ。それで、父がなくなってから、収集品はほとんど売りましたの――いくらにもなりませんでしたけれど、お金が必要だったものですからね。けれど、どうしてか、あの福州切手だけは売る気になれませんでした。父が多少なりとも熱をこめて話していた、たったひとつのものでしたからね。それで私は――おかしな感傷的な気持で、その切手を持ちつづけていたのだろうと思いますの」
「ところで」と、エラリーが訊いた。「他の収集品を誰に売られたのですか」
「おお、なんとかいう北京の切手商でしたわ。名は忘れましたけれど」
「ツオ・リンじゃありませんか」と、マクゴワンが好奇心から訊いた。
「たしか、そんな名の人だったと思います。なぜ知っていらっしゃるんですの」
「文通したことがあるんです。あの男なら本当に正直な中国人ですよ、クイーン君」
「ふーん。その男に福州切手のことを話されましたか、テンプルさん」
ジョーは美しい眉をよせた。「話さなかったとは言いきれませんわ。とにかく、私の文学上の計画について、カークさんと文通が始まったとき、ふとしたことから切手の話が出て――そう、そのことはカークさんから聞いていただきましょう」
カークが熱心に話しだした。「それはごく自然の成り行きだったんだよ、クイーン君。あるとき、ふとぼくが中国切手を収集していることを手紙に書いたら、テンプルさんが、お父さんの福州切手のことを書いて来たんだ。もちろんぼくはとても興味をもったね――」と、顔をくもらせて「それに当時はぼくも経済的に今よりずっとらくだった。とにかく福州切手は地方ものでぼくの筋ではなかったが、非常に珍しいと思ったので手に入れようと思ったのさ。つづめて言えば、切手を手放すようにと、テンプルさんを口説いたんだ」
「たいしてむずかしいことではありませんでしたわ」と、小柄な女が、やさしく言った。「もともと私は切手なんかに大して関心がありませんでしたから、その切手を私蔵しているのは、身勝手だと思いましたの。私もこうしたことには、世間の女なみに思慮が浅いんでしょうね。それに当時は、とてもお金に困っていたんです。カークさんがその切手に途方もない値をつけて下さったので、はじめは半信半疑でしたわ――中国育ちの無知な少女をおからかいになるんじゃないかと思ったのです」
「しかし、やがて」と、エラリーがにやりとして「カーク君の誠実な手紙で風向きが変わったというわけですね。ところで、カーク君、君はテンプルさんに、いくら払ったんだね」
「一万ドルさ。それだけの値打ちは充分ある。そうだろう、グレン」
マクゴワンは夢からさめたように、はっとして「うん。たしかにそうだ。そのくらいしなければぼくだって買わないさ」
「と言うわけですの」と、テンプル嬢が、ため息をして「お分かりになりまして? クイーンさま。本当にきれいなお話ですのよ。これできっと、あなたのお疑いも晴れたと思いますけど、どうでしょうかクイーンさま」
「テンプルさん。クイーンという奴は血の気が多いんでしてね」と、エラリーが立ち上りながら微笑した「しかしどうもお話の通りらしいですね。ところで、殺人事件のあとで、その切手が|あべこべ《ヽヽヽヽ》ものだったことに、気がつかれませんでしたか」
「きっと」と、ジョーが残念そうに「切手のことは、ころっと忘れてしまっていたらしんですの。人ってなにからなにまで覚えているわけにもいきませんものね」
「そうとも限りませんよ」と、エラリーがじらすように「特に大事な事はね。じゃあ、ご機嫌よう。どうも、みなさんのおじゃましちゃいましたね。ぼくも無駄骨を折りましたよ。心配ないよ、マクゴワン君、銀山でよく言う≪洗っているうちに出てくる≫って奴さ」
「はっはっ」と、マクゴワンが笑った。
「どうです」と、エラリーがにやりとして「少なくとも骨を折っただけのことはあったでしょ。じゃ失敬」
ハッベルに、カークのアパートから送り出されたとき、エラリー・クイーン氏は、疑いがとけたという気分にもなれず、そのまま立ち去る気持にもなれなかった。廊下にじっと立って、明らかに心の底からわき上るがんこな反撥心をかみしめて、顔をしかめたり、考えこんだりしていた。
「すべてが、なんともおかしな話だな」と、ひとりごとを言った。「どこかに光明が見つかれば、頭の切りかえができるんだがな」
廊下の向かいのドアに気がついて、ため息をした。そのドアを開けて、すっかりひっくり返されている室内に、着衣を|あべこべ《ヽヽヽヽ》にされた死体を発見したのは、もう一世紀も前のような気がした。ふとある考えが浮かんだので、ホールを横切って、ドアを開けてみようとした。だが鍵がかかっていた。
肩をすくめて、角をまがり、エレベーターのほうへ行こうとしたとき、廊下のはるか先にものの動く気配がしたので、エラリーはおどろかされたカンガルーのようにとび上ってすばやく角を曲り、息を殺してじっと立ちつくした。帽子をぬいで、そっとのぞいてみた。
つき当たりの非常階段の口からひとりの女があらわれて、さっきのドアの反対側をカーク博士の書斎のほうへ歩いて行った。その様子がどうも変だった。
両手で、かさばる茶色の紙包みをかかえていたが――歩きにくそうなところをみると、重い包みらしい。女は足音をしのばせようとし、どうやらびくびくしていて、警戒心の強い野獣のように、あっちこっちに目を配っていた。背の高い若い女が、流行の毛皮でふちをとった服を着、軽快なトック帽子をかぶり、きちんと手袋をはめて、しかも、あんなかさばる重い紙包みをかかえて、よたよた歩いているのは、まことに妙なものだった。なんともこっけいだった。
しかし、エラリーは笑わなかった。息をつめて、全神経を集注しながら見守っていた。「なんて間《ま》がいいんだ」と思った。
女は頭をまわしてエラリーのほうを見たが、エラリーはとっさに身をかくした。エラリーが、次にのぞいて見ると、女はひどくあわてて、カーク博士の部屋のドアのノブをつかもうとしていた。やがてドアがさっとひらき、女は室内に姿を消した。
エラリーは外套のすそをひらめかして、風のように廊下をすべって行った。そして、物音も立てずにこっそりとドアに近づいていた。ホールをくまなく、うかがったが、人影もなかった。カーク博士はアパートにはいないらしかった。おそらく、ディヴァシー嬢に押してもらって車椅子でチャンセラー・ホテルの屋上に朝の運動に出て吉例の小言《こごと》と悪口雑言をはき、かんしゃく玉を破裂させているのだろう。……エラリーはひざまずいて鍵穴からのぞいてみた。女が室内で、すばやく動きまわっているのは見えたが、視界がせますぎて、全体の見通しはつかなかった。
エラリーは廊下を大急ぎで走って、次のドアまで行った。そのドアがカーク博士の寝室に通じているのを覚えていた。気むずかしいご老人がいないといいが……エラリーはドアを押してみた。鍵がかけてなかったので、こっそりと部屋にはいった。そしてもうひとつの寝室につづく、右手のドアに走りよって、かんぬきをかけてから、書斎につづく閉まっているドアへ急いだ。こっそりと音を立てずに、ドアのノブをまわしてすき間をつくるのに、かなり手間どった。
女はほとんど仕事を終っていた。茶色の包装紙が床に落ちていた。夢中になって女は包みの中身を――大型の重そうな本だった――カーク博士のヘブライ語の本が盗み去られた棚にならべていた。
女が包み紙をくしゃくしゃに丸めて持って出て行ってから、エラリーは静かに書斎にはいった。
女が棚にならべていったのは、思った通り、ヘブライ語の注釈書の全巻だった。その本は、老博士から盗み去られたものにちがいなかった。
エラリーはこっそりと引き返して、寝室のつき当たりのドアの|かんぬき《ヽヽヽヽ》をはずし、廊下にすべり出た。ちょうどそのときカーク家の控え室のドアが、ばたんとしまるのがきこえた。エラリーは下のロビーに着くまで、エレベーターの中で、ずうっと、ひたいにしわをよせて沈思黙考しながら、じっと立っていた。
実におどろくべきことだった。なんという進展であろう。かつてぶつかったことのないほど、謎めいた事件の綾《あや》に、もう一本、不可解な糸がまじったのだ……そのとき、ふとある事を思いついたので、エラリーはじっくり考えはじめた。そうだ、あり得ることだ……すべての事実を解く論理が、少くとも表面的に……そうだとすれば、そこにはまた別の……
エラリーはじれったそうに頭を振った。考えてみる値打ちはある。
なんとなれば、女はマーセラ・カークだったからだ。
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十一 未知数
警察科学の最もめざましい発達は、おそらく、現代の探偵が、いわゆる失踪人の足どりをたどり、身元を洗って突きとめる、その精妙な腕前にある。探偵といえども、絶対にまちがいないとはいえないし、その成績も満点とはいえないが、失踪者捜査のミノタウロスの迷路のようなむずかしさを考えれば、その成功率はおどろくべき高さである。警察制度の全機構は、油のきいた|じくうけ《ヽヽヽヽ》のまわりを、うなりを立ててまわっている。
しかしなお、チャンセラー・ホテルで殺された謎の小男に関するかぎり、警察はまだなんらの成功を収めていなかった。普通失敗したときの例でも、なにかを発見している――手がかりか、足どりか、かすかなつながりか、たまたま人に身覚えられた最後の行動かを。しかし、今度ばかりは、暗黒の空間以外、なにひとつなかった。その小男は、ぞっとするような宇宙の謎をひめて、他の遊星から地球に落ちて来たかのようだった。
クイーン警視は――殺人事件捜査の責任者だったが――その手に身元確認の手がかりはてんで集まって来なかったが、|ひる《ヽヽ》のようなしつっこさで、仕事にかじりついていた。捜査の定石が全部お手あげになったあとでさえ、失敗をみとめなかった。被害者の写真を公示し、人相書と依頼状を他の都市の警察に送り、身元調査課の記録を、うむこともなく調べ上げ、被害者の最後の足どりを私服たちがぶっつづけに洗い、被害者に犯罪関係があるかもしれないという考えから暗黒街の密告者たちもしぼり上げた。
警視は歯ぎしりかんで、さらに多くの部下たちを、捜査に投入《とうにゅう》した。しかし、続々とはいる報告書は――|なにもなし《ヽヽヽヽヽ》、足どり不明、当地に該当者なし、指紋なし――だった。あらゆる捜査の線は|cul-de-sac《クユルドサック》〔袋小路〕につき当たった。謎のめくら壁が立ちふさがって、乗り越えられそうもなかった。
失踪人課は、この種の捜査が専門だが、結局こうした場合さけられない結論に達した。あらゆる捜査の手が成功しなかったのだから、おそらく被害者は、ニューヨーク人ではないし、事実、アメリカ人でさえないかもしれないと言わざるを得ないと言うのである。
クイーン警視は頭を振った。「どんなことでもやってみるぞ」と、失踪人課の責任者である、目のどんよりした係員に言った。「しかし、君のいう結論はちがうぞ。この事件にはなにかとてつもないひねくれたところがある……被害者は君の言う通り外国人かもしれんが、わしは、そうは思わんよ、ジョン。外国人くさくなかった。それに、奴と死ぬ前に話をした連中――シェーン夫人という女や、オズボーンという男や、カーク家で働いとる看護婦も奴の言葉をふたことみこときいとるが――みんな、奴の言葉には、どんな外国訛りもなかった、ただちょっと妙にやさしい声だったと主張しとるんだ。そのやさしい声というのは、おそらく、言いまわしや、口ぐせなんだろう」そして警視は小さなあごをかみしめて「とにかく、やってみる分にはさしつかえなかろう。だからやってみてくれ、ジョン」
そんなわけで、全世界の主要都市の警察に照会するという大仕事を、すでに試験的に始められてはいたが、今度は徹底的に大至急に押しすすめることになった。詳細《しょうさい》な人相書と指紋とが、口調《くちょう》がやさしいという特徴に念をおして、送達された。被害者の写真は、航空会社の従業員や、大西洋航路の船員や、沿岸航路の乗組員や、鉄道従業員に、のこらず展示された。それに対する報告は、ごむまりのように、否応なしにはね返って来た。≪身元確認し得ず≫、≪該当者なし≫、≪本航路にて見かけたることなし≫。手ごたえはなにもなかった。
テンプル嬢があの福州切手の持ち主だったことを告白してから三日目に、クイーン警視がエラリーにがみがみいった。「たまには、鼻面にがんと一発くらうような、破目《はめ》にぶつかるときがあるのかもしれんな。交通関係の人間は時々、腑抜けの発作におそわれるもんだということを、わしは経験上知っとる。腑抜けか発作かよく分からんが――そんなときには、忘れっぽくなって今しがた出たあくびより前のことは、なにもおぼえとらんものなんだ。この線の捜査が失敗だったからと言って、なにも奴が――いまいましい奴だ!――船も汽車も航空機も使わなかったということにはならん。なんとしたって、奴がニューヨークに来るのには、なにかの方法を使ったにちがいないからな」
「結局、もしも、あの男がニューヨークに来たものならば、のことですね」と、エラリーが「つまり――ずっとニューヨークにいたのではなければの話ですね」
「どうもこの事件には≪もしも≫が多すぎるぞ、エラリー。わしはなにもむりに主張するわけじゃない。奴は、この町で生まれて、育って、ブロンクス〔ニューヨークの下町〕を一歩もはなれたことがないのかもしれんし、あるいは今度が、はじめてニューヨークに来たのかもしれん。しかし、ニューヨークっ児でないことは、かけてもいいぞ」
「おそらくそうでしょうね」と、エラリーが大儀そうに言った。「ぼくもその点について、やっと確信に達したところです。実はぼくもおっしゃる通りだと思いますよ」
「おお、お前もそう思うのか」と、警視がぴしりと言った。「ところでお前がそんな口のきき方をすると、わしはなにかあるなと思いたくなる。おい――なにを知っとるんだ」
「あなたの知らないことなど、ひとつも知っちゃいませんよ」と、エラリーが笑った。「ぼくはあなたのいないところでおこった事は、どんな些細なことでも、ひとつのこらず話しましたよ。たまに意見が一致したからって、なにもそんなに馬どろぼうみたいに、はね上がらなくったっていいじゃありませんか」
警視はうわの空で、かぎたばこ容れを、軽くたたいていた。そして、ややしばらくの間は、当局に対する忠誠のしるしとして、しきりに「ニューヨークの歩道」〔当時のニューヨークの市歌〕を口ずさむくせのある制服警官が、二階下のあたりで、またもや甲高くその曲を口笛で吹いている音の他は、なにもきこえなかった。エラリーはゆううつそうに警視室の窓の鉄格子から外をながめていた。
するうちに、ふと気がさして父親のほうを見て、はっとした。父はなにかを発見しようとしてこりかたまった目付きで、エラリーを見つめていた。見ていると、老警視はいきなり廻転椅子からとび出して、つんのめりそうになりながら、呼鈴のボタンを押そうとした。
「なんということだ!」と、警視はしめつけられるような声で叫んだ。「ばかな。わしはなんたるまぬけだ……ビリー」そして駈けこんで来た書記に大声で「トマスはいるか」書記が引きさがると間もなくヴェリー部長がのっそりと、はいって来た。
警視は嚊ぎたばこをひとつまみ吸いこんでからぶつぶついった。「そうだ、きっと、こいつが切り札になる……やあ、トマス。なぜもっと早くに気がつかなかったんだろうな。まあすわれ」
「どうしたんですか」と、エラリーが訊いた。「いったいなにを思いついたんですか」
警視は、ことさらにエラリーを無視して、机に向かって腰を下ろし、両手をもみながら、くすくす笑った。「トマス、切手と宝石の捜査情況はどうだ?」
「あんまり、うまくありません」と、部長は、がらがら声で、陰気に答えた。
「なにも出て来んか」
「さっぱりです。どいつもこいつも、奴のことはまるっきり知らんのです。どうも、うそじゃないらしいですよ」
「妙だな」と、エラリーが眉をしかめて、つぶやいた。「どうも他にも解《げ》せない点がある」
「解せない点はほっとくさ」と、警視が面白そうに「こいつが本筋だぞ。おい、トマス。ホテルのほうの報告は全部そろっとるか」
「はい。奴は市内のどのホテルにも登録していません。その点は絶対にたしかです」
「ふーん。じゃよくきけよ、トマス。お前もだエル。もし、お前がその大いに解《げ》せない点にとっつかまって目をまわしとるなら別だが。ところでかりにあのちびがニューヨークの人間ではなかったとしよう。その点はわしらはみんな確信しとるわけだろう?」
「火星あたりから来た奴じゃないかな」と、ヴェリーがうなった。
「ぼくには確信はないが」と、エラリーが、面倒くさそうに「おそらくそうかもしれませんね」
「市の郊外から出て来たものじゃないのはたしかだ。そいつは全部調査ずみだ――すると、どういうことになる?」と、警視は前にのり出して「すると、奴はどこか遠くの土地から来たことになる。アメリカか外国か分からんが、少なくとも遠い土地だ。そこまではいいか」
「まあそんなとこでしょうね」と、エラリーが父親を見守りながらしぶしぶ答えた。「|Alors《アロール》(それで)」
「アロールか、エル」と、警視は珍しく上機嫌に、爪で机をこつこつやりながら「アロールだ、エル、奴はよそからニューヨークへ来た男ということになる。とすれば、エル、奴の手荷物《ヽヽヽ》があるはずだ」
エラリーは目をむいた。部長はあっと口をあけた。エラリーは椅子からとび上った。「お父さん。実にすばらしい、さすがに大したもんだ! いったいどうして、こんな分かりきった結論を、ぼくは見のがしてたんだろう。そうですとも。まったくその通りです。手荷物とはね……いや、参りました。恥ずかしくて頭も上げられない。こういうことにはやはり経験を積んだ頭がいるもんだなあ。手荷物! ね」
「図星のようですな、警視」と、部長が考えこみながら、マストドン〔古代の象〕のような顎をなぜた。
「そうだろう」と、警視は両手をひろげて、にやにやした。「なんてこともないさ。たねもしかけもない、あたり前のことさ。今から言っとくほうがいいが……」と、顔を伏せて「いいか、大して望みをかけんほうがいいのかもしれんぞ。問題は、奴がどこのホテルにも登録しとらん点だ。それに、チャンセラー・ホテルの二十二階で、エレベーターを降りたときにはなにも持っていなかった。だが、奴は手荷物があったにちがいない。とすると、どうなる」
「すると奴はどこかに一時預けしたことになりますな」と、部長がつぶやいた。
「そのものずばりだぞ、トマス。そこでひとつたのむぞ、カルネラ〔当時のヘビー級チャンピオン〕君。狩り出せる人間は総動員する――失踪人課の手も借りる――そして、市中のあらゆる手荷物預かり所をしらみつぶしに捜査するんだ。バタリーからヴァンダーヴィア公園まで〔ニューヨークの最南から最北〕だ。ひとつのこらずだ――ホテル、駅、百貨店、いっさいがっさいだ。ついでに、空港も忘れるな。カーチス・フィールド、ルーズヴェルト、フロイド・ベネットも見落とすな――しらみつぶしに調べろ。それに税関もだ。殺人のあった日の午後に預けられて、まだ取りに来ないものは全部当たって見ろ。それから、刻々、わしに連絡《れんらく》をとるんだ」
部長はにこにこして退《さ》がって行った。
「いい腕ですね」と、エラリーはたばこをつけながら「あなたは、ついに、なにか足がかりを得たような気がしますよ、警視殿」
「まあな」と、老警視はため息をして「これがもし失敗に帰したら、あきらめなければならんだろうな、エル。今度こそは手ごたえが――」
書記がはいって来て警視の机の上に一通の封筒をほうり出した。
「なんですか」と、エラリーはたばこを宙にとめて訊いた。
警視は封筒をとって「ああ、ヤード〔スコットランド・ヤード〕からの返事だ。わしの電報の」と、すばやく目を通して、エラリーになげてよこした。「ほう」と、沈んだ声で「お前の勘が正しかったらしいな、エル。どうやらお前の勘が当たったようだ」
「なにがですか」
「あの女さ」
「本当ですか」と、エラリーは電報に手をのばした。
「どうして見当をつけた?」
エラリーはちょっと、ふくれて、にやりとした。「見当なんかつけませんよ、分かってるじゃあありませんか。例の|あべこべ《ヽヽヽヽ》の手口をまねたのですよ」
「あべこべ?」
「そうですよ」と、エラリーはため息をして「どうもあの女が素姓《すじょう》をごまかしてるような気がしたんです。それで、スコットランド・ヤードに記録《ドジエ》があるかもしれないから照会してごらんなさいと、すすめたんですよ。しかし、あの名前は――」と、肩をすくめて「紙に、|Sewell《シーウエル》と書いてあなたに渡したのは、つまり、|llewes《リューズ》という名をためしにあべこべにしてみたんですよ――なんともはや、ぼくの根性《こんじょう》まがりは始末におえないようですね。それに、あの女の変名かどうかは別として、リューズをあべこべにするとシーウェルになることは言うまでもありませんからね」
エラリーは、すぐ電報に目を通した。
アイリン シーウェルハ トウチ オヨビ タイリクノケイサツニ ヨクシラレタルエイコクウマレノ オンナサギシナルモ モッカテハイシオラズ」ホウセキニメガナク タンドクコウドウナリ カコニ リューズト ナノリタルコトアリ ゴケンショウヲイノル
スコットランド・ヤード・ケイシ
トレンチ
〔アイリン・シーウェルは、当地及び大陸の警察によく知られたる英国生まれの女詐欺師なるも、目下手配し居らず。宝石に目がなく、単独行動なり。過去に、リューズと名乗りたることあり。ご健勝を祈る。スコットランド・ヤード警視 トレンチ〕
「特に宝石に目がないのか」と、エラリーは電報を置きながらつぶやいた。「すると、カーク家には、とても甘い蜜のつぼがあるってわけだ……お父さん、あの女のことはなにか調べ出してありますか」
「少しはな。一、二ヶ月前にイギリスからやって来て、堂々と、チャンセラーに泊りこんだんだ」
「ひとりですか」
「小間使いがひとりいる――ロンドンなまりの。どうもくさい。とにかく、アイリンはドナルド・カークと、うまく知り合いになっておるが――どうやったのか分からん。きわめて短時間にそこまでこぎつけたんだ――そして今では二人はかなりな仲になっとるようだ。あの女は、珍しい土地の経験を、たくさんもった世界旅行者というふれこみなのだ。――」
「ふれこみだけじゃありませんね、トレンチの電報から察するに」
「わしもそう思う」と、警視がにがにがしく言った。「とにかく、あの女はいろいろな経験をたくさん持っているので、そいつを本にするというふれこみで一杯くわせたらしい――遠い土地の旅行記、有名人の思いで話――たとえば、ジュネーブにも長く滞在しとる――そんなことでな。そこで、そんなことを全部本にするつもりらしい。ところが、若い出版屋なんてものはたいがい察しがつくしろものさ。カークは、わしの聞いとるところでは、なかなかしっかりした頭を肩の上にのせとるそうだが、あの女はきれいだし、当たりがやわらかいからな、それで――そう、奴は参っとるらしいぞ」
「女のほうにね」と、エラリーが口を出した。
「どっちにほれとるのかを当てるのは|さいころ《ヽヽヽヽ》勝負だな。奴がテンプルという娘を見るときのうっとりした目付きから判断すると、どうも女のほうじゃないようだな」
「だが、ジョー・テンプルはリューズ嬢よりおくれて来たんですからね。運が悪い」と、エラリーがつぶやいた。「おそらく、そのときまでには、損害は――もしありとすれば――与えちまってたでしょうね。それからどうなんです。妙にわくわくさせますね」
「とにかく、連中は≪本≫の相談を始めた。カークは妙な時間にあの女と≪打ち合わせ≫をするようになったんだ」
「どこで?」
「チャンセラーのあの女の部屋でだ」
「他にはだれも付き添いなしですか」
「どうぞ、クイーンさま」と、警視が色っぽくにやりとして「なんだと思っとるんだ。家庭週報の記事じゃないんだぞ。いいか。それにその女中が――トマスに|たね《ヽヽ》をみんなよこしたんだ――そして、いつでも事のしだいを証言するそうだ」
エラリーは眉をつり上げて「事のしだいをね。カークと、あのあばずれリューズのね」
「勝手に想像するがいいさ」と、警視がにやにやした。「わしはいつも人の良いところしか信じない気のいい老骨だからな。しかし、なにしろあんな艶っぽい美人と夜をともにする、いつもあんな薄い服を着てるかどうかは分からんが……」と首を振って「それに、つまりは、カーク青年も若いし、見たところ人なみに血気さかんらしいからな。やがて、奴はあの女をパーティに連れまわるようになり、友人たちや家族みんなに紹介するようになった――それは、正式のお茶の会だったがな。やがて夜明けが来たという寸法だ」
「と言うと?」
「夜明けさ」と、警視はねむそうな声でくりかえした。「カークの目がさめたんだ。パチンコ遊びかなにか知らんが、とにかく、遊びごとにあきたんだ。そこで、あの女を避けようとしはじめた。まあ、こんなわけなんだ。どうなると思う。月なみさ。女は持ち前のいやらしい微笑にものを言わせる。相当ものをいわせたこったろうよ」
「どうなったかは造作なく見当がつきますね」と、エラリーは考えながら「そんな|ひひ《ヽヽ》おやじみたいなまねをやめれば、真相がつかめるでしょうよ――ねえお父さん、いいかげんに、ばかげたまねをやめて――話をもとに、もどして下さい。ジョー・テンプルが登場したときには、若いドナルド・カークは、すっかり心変りして悩んでいたにちがいないですよ。三日前に、ぼくはマクゴワンと一緒に、はからずも、ちょっと風変りな甘いラブ・シーンにぶつかったんですが、そのときの様子では、ドナルドはジョーに一目《ひとめ》ぼれというところでしたよ。こうなればもちろん、若きロザリオ〔ニコラス・ロウの劇中の色男〕にとっては、リューズ嬢はもはや退場ですね。ところが、リューズ嬢のほうは――企《たく》らみがあっての色ごとを仕かけていたんだから――そうあっさり退場するわけがありませんよ。あげくのはてに――カーク君、頭をかかえて、助けてくれ牝虎に追っかけられているって、|ぼんち面《ヽヽヽヽ》に泣きべそ、というわけですね」
「あのシーウェルという女は、カークの急所をにぎっとるにちがいない」と、警視が言った。「のがれられん急所で、身うごきがとれんのだろう。そこで、あの女は奴をしぼっとるんじゃないかな……おい、奴はきっと窮地におちいっとるんだぞ。奴が経済的に行きづまっとるのは、あの女にゆすられて、たっぷり甘い汁をすわれとるためだとは思わんか」
「そのせいということもあるでしょうがね、お父さん。あの男の経済的な行きづまりは、リューズ嬢が現われる以前からのことだと思いますよ。それより、今まで暗い謎につつまれていたあることが分かったんですがね」
「なんだ?」
「殺人のあった日の夕方、グレン・マクゴワンがカークに書き残していったはしりがきの手紙の秘密です。あの文句をおぼえていますか。≪ぼくは知っているよ。君が取り引きしているのは危険な人物だ。ぼくがゆっくり説明できる時がくるまで、ことを急ぐな。ドン、足下に用心しろ≫」
「たぶん」と、警視がぶつぶつ言った。「マクゴワンが、あの死体になった太っちょのちびについて、言っとるんじゃないかな」
「いいえ、ちがいますよ。そうじゃないと確信します。明らかにマクゴワンは最初から、あのリューズという女を疑っていたんです――マクゴワンという男は頭の鋭い男だし、道義的な骨っぷしも太いしするから、おそらく、あんな俗っぽい眉つばものをみたら、どんな場合でも一応は疑ってかかるでしょうからね……」
「マクゴワンがか?」と、警視はいぶかしげに「そうは見えなかったぞ。平凡な奴だと思っとったが」
「おお、たしかに平凡人ですよ。しかし人間には捨てきれないものがあります。そのひとつは道義心ですよ。あの男の一族は昔セイレム・タウン〔アメリカ最古の町のひとつで、マサチューセッツにあり、魔女裁判で有名〕で魔女どもを火あぶりにした連中です。ぼくだって、マクゴワンが、婉曲《えんきょく》に言って、肉体の問題を超越しているとは言いませんが、しかしあの男は、超越しているか――あるいは全然関係ないほうですよ――肉体の問題で、ときどきおこるスキャンダルや悪評には。つまり、実践的な道義心の持ち主です」
「分かった。分かった。わしの負けにしとく。それで、どうなんだ?」
「あの男はリューズというあばずれを、じっと観察していて、あの殺人のあった日の午後、なにかを発見したにちがいないんです。その情報源はヴェリー部長のと同じじゃないかとにらんでるんですがね――つまりあの小間使です。とにかく、できるだけ早くあの女のことをカークに警告しなければならないと思ったのでしょう――かるがゆえに、あの書き置きです。そうです。そうです。そうにちがいないと確信しますよ」
「もっともらしいこじつけだな」と、警視はしぶしぶ認めた。
「お父さん、むやみに強引な手を使っても決していい結果を得られないことが分かったでしょう。あなたはハメット〔『血の収穫』の作者〕を読みすぎますよ。ぼくはいつも言うんですが、現代のいわゆる写実的な血なまぐさい活劇小説を読んではならんと禁止すべき階層があるとすれば、それはわれわれの貴重な警官たちです。ああいう小説はいたずらに壮大な夢ばかり育てますからね……ところでどこまで話しましたっけ? そうそう、われわれが真相の所在をかぎつけたということと、主要登場人物に疑心をおこさせない程度に謎をといたというところまででしたね」
「ドナルド・カークが、マクゴワンの書き置きの紛失に気がつかんと思っとるのか」と、警視が、にやりとした。
エラリーが小さな声で「さあね。なにしろあの晩はあの男ひどくとりみだしていましたからね。それに、もし紛失に気付いても、どこかに落したと思うにちがいありません。まさかぼくが失敬したとは勘づかないでしょうよ。ぼくがひとかどの教養人に見えるおかげでね」
「お前に対して妙なそぶりを見せやしないか」
「見せません。だからさっきのような思いきった断定を下したんですよ」
「ふーん」と、警視はエラリーがそそくさと外套を着るのを見守っていた。「この件からなにかが割れて来そうな、妙な予感がするぞ」
「手荷物の件ですか」
「待ってろ」と、警視は照れくさそうに言った。「今に分かる」
エラリーが長く待つまでもなかった。その夜、エラリーがアパートの暖炉の前にゆっくりと腰かけ込んで、大声でジューナに――ジューナはとてもたいくつそうな顔をしていたが――モック・タートルの演説集を読んでやっているところへ、警視がとび込んで来た。
「エル。思いがけぬことになったぞ」と、老警視は帽子をほうり出して、エラリーに向かって口をとがらした。
エラリーが本を下におくと、ジューナは、ほっと大きくため息をして、助かったとばかり逃げ出した。「割れましたか」
「割れたよ。ぱっくり割れたよ、エル。ぱっくりとな」
警視は晩年のナポレオンのように外套のままで室内を歩きまわった。「今日の午後、チャンセラー・ホテルのシーウェルという女の部屋を洗ったんだ」
「どうでした?」
「今、言うよ。どこかへ行って留守だったから手早くやったよ。なにが見つかったと思う?」
「まるで見当もつきませんね」
「宝石《いし》だよ」
「ほう」
警視はたのしそうに、かぎたばこをすすり上げた。「なあに、簡単な話しさ。あの女が宝石に目がないと、トレンチが電報をよこした。そして今、われわれは女のアパートで|しろもの《ヽヽヽヽ》が、うんと隠されているのを見つけたというだけのことさ。とても上ものなんだ。がらくたはひとつもない。そこで女のものではないとにらんで、早速部下をやってダイヤの出所を洗わせた。するとなにが分かったと思う」
エラリーはため息をして「ふだんの仇討ちですね。ときどきはぼくもこんなふうに、お父さんをいらいらさせると見えますね。自分じゃまるで気がつきませんでしたが。いったいなにが分かったんですか」
「まともな宝石商に当たってみたら、あのダイヤはみんな珍品なのが分かった。珍しい台についている古い石で、ちゃんと故事来歴もついていて収集家のねらうものなんだそうだ」
「あきれましたね」と、エラリーが大声で「そんなものを盗むばかはないでしょう」
「その点は」と、警視がつぶやいた。「わしにも分からんのだよ。だがひとつだけ分かっとる」警視はエラリーの服のえりをひっぱった。「椅子から出ろ、行くところがある。ひとつだけ分かっとることは……その商人が刑事を通じて、その品の持主と思われる人間を報せて来た。その人物は業界では誰でも知っていると言うのだ」
「まさか――」と、エラリーがゆっくり言いかけた。
「そうさ。ひとつのこらず、みんなドナルド・カークの収集した宝石の中から出たものなんだ」
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十二 贈物の宝石
被害者の手荷物の捜査に向かっていたところを、急に変更されてアイリン・リューズのアパート襲撃を担当することになったヴェリー部長が、チャンセラーのロビーで、警視に報告していた。
「邪魔は、はいりませんでした警視。刑事をひとり――ジョンスンを――捜査のあとで、ホテルのボーイに化けさせて、鉛管修理の口実で、女の部屋に張り込ませてあります。小間使も大丈夫です。午後休みで外出して六時までは帰って来ません」
「小間使は、どんなことがあったか知らないのか」と、警視が鋭く訊いた。
「気付いていません」
「アイリンのほうはどうだ?」
「ジョンスンの話しですと、六時半ごろ、とんで帰って来て、パーティーにでも出かけるらしく、ぴかぴかものに着換えたそうです。壁金庫のダイヤには振り向きもしなかったそうです。手持ちの宝石――化粧かばんの中の宝石箱の――ものをえらび出して、身につけたそうです」
「部屋を出るとき、ケープをつけて行ったかね」と、エラリーが訊いた。
部長がにやりとして「ところが部屋から出て行かんのですからね、クイーンさん」
「じゃあひとりでいるのかい?」
「いいえ、あなたには分からんはずですよ。あの女はカークの仲間のために――カクテル・パーティーをひらこうとしているんです。そう言っているのを聞いたと、ジョンスンが報告しました。今ごろは、みんな集まっとるでしょう」
「ふーん」と、警視が言った。「よし、どこだって同じだ。あの女をとっちめる前に、二十二階に上ってみよう」
「いったいなんだって」と、エラリーが言った。「そんなことがしたいんですか」
「ちょっと思いついたことがある」
エレベーターが混んでいたので一同は箱の後部の青銅張りの壁におしつけられていた。警視が小声で「マーセラという娘も集まりに出ていると、一石二鳥で、老人の例の本の件も聞き出せるぞ。お前が先日あの件はあとまわしにしろといったのはなぜだ」
「まだ充分にめどがついていなかったからですよ」と、エラリーがぴしりと言った。
「おお、すると今はめどがついているというわけか」
「ちょっと検討すれば、たわいもないことですよ。あのときすぐ気がつかなかったのは、ぼくも|うかつ《ヽヽヽ》でした」
「すると、その理由は?」
しかしそのときエレベーターが二十二階に着いたので、エラリーは返事もせずに、父や部長より先にとび出した。
シェーン夫人は、はっとして、どぎまぎしながら机のところからあいさつした。しかし、警視は、それに目もくれないで、すたすたとドナルド・カークの事務室へ近付き、ノックもせずに開けた。ヴェリー部長がどなりつけた。「おい、起きろ、巡査!」その制服警官は殺しのあった部屋のドアのそばの椅子で居ねむりしていた。
オズボーンが机から立ち上って、切手用のピンセットを手からおとした。「警視――クイーンさま! またなにかおこりましたか」と、少し青ざめた。
「まだだ」と、警視がうなった。「よくきけ、オズボーン君。カーク君の収集の中に≪大公妃の冠≫と呼ばれている宝石があるかね」
オズボーンは当惑顔で「たしかにありますが、なぜですか」
「それから≪赤いブローチ≫というやつも」
「ええ。それがどうか――」
「エメラルドのペンダントがついた平打ちの銀の|首飾り《ラヴァリエール》があるかね」
「はい。でも、どうしたんですか。クイーン警視さま」
「知らんのか」
オズボーンはいかめしい老警視の顔から、エラリーに目を移して、のろのろとまた椅子に腰を下ろした。「い――いいえ。私はカークさんの古い宝石の収集には、あまり関係しておりません。おききになれば分かります。カークさんは、宝石類を銀行の金庫に保管して、あの方だけが出し入れをされています」
「そうか」と、警視がほえるように「それが、なくなったんだ」
「なくなった?」と、オズボーンが息をつめて、肚の底からびっくり仰天していた。「すっかりですか」
「収集の中の逸品ばかりがいくつかだ」
「それで――カークさんはご存知なのでしょうか」
「そのことを」と、警視はにが笑いして「しらべようとしとるんだ」警視は連れの二人にあごをしゃくって「行こう。オズボーンの裏書きがほしかっただけだ。念のためにな」と、くすくす笑いながらドアのほうへ歩き出した。
「警視さま」と、オズボーンが机の両はしをつかんで「あなたは――まさか、今すぐカークさんを訊問なさるおつもりじゃないでしょうね」
警視はひょいと立ちどまり、くるりと振り向き、いかにも意地悪そうな顔を、オズボーンにつきつけるようにして「そうだったら、どうなんだい、オズボーン君。なにか君に関係があるのか」
「あいにく皆さんは――つまりそのう」と、オズボーンは青白い唇をなめながら「カークさんは、ちょっとしたお祝いをなさっていらっしゃるのです、警視さま。どうもすぐではうまくないと――」
「お祝いか」と、クイーン父子は目くばせした。「カーク君の部屋でかね」
「いいえ」と、オズボーンが真剣になって「一階下のリューズ嬢のお部屋です。実は、カークさんが婚約なさったのを聞かれて、リューズさんが皆さんをカクテル・パーティにお招きになったのです。ですから私が――」
「婚約だって!」と、エラリーがつぶやいた。「分からないことが多いもんだな。おお、闇の力よ。すると、オッジー、米中同盟というわけなんだな」
「え? おお、さようです。テンプルさんとです。そんなわけですから、あなた方のお仕事のほうも、うまくまいりますまいと――」
「テンプルという娘とか、へえー」と、警視がつぶやいた。
「ここに来たついでに聞くがね」と、エラリーが、のんびりと「オッジー、君はある切手のことを聞いたことがあるかね――」と、切手がちらばっている机の上をさりげなく見まわしながら「福州切手で、標記価格は一ドル、オークルと黒の二色刷りで、黒のほうはまちがえて裏の糊の側に刷ってあるやつだ」
オズボーンは静かに坐っていた。疲れたような目を上げ、にぎりしめた手首がねずみ色になっていた。「もちろん――私は――そんな誤刷ものには見覚えがありません」と、つぶやいた。
「嘘だろう」と、エラリーは面白そうに「すっかり分かっているんだよ、オッジー。君をオッジーと呼べるほど、よく知ってるんだからね……」
「あなたが――知っていらっしゃるので?」と、オズボーンは言葉につまりながら、目を上げた。
「そりゃ、そうさ。ドン・カークが話したもの」
オズボーンはハンカチをとり出して額をぬぐった。「失礼いたしました、クイーンさん。まさか――」
「さあ行こう」と、警視がじりじりして、ぴしりと言った。「お前はここにいろ」と、おどろいて、青ざめている巡査を、どなりつけた。「お前はこのオズボーンが、電話にさわらないように、五分間だけ見張っていろ。おとなしくしとれよ、オズボーン……さあ、みんな、行こう。向こうに面白いことがありそうだから、仲間に入れてもらおうじゃないか」
リューズの住居の三部屋は、カーク家のアパートのすぐ下だった。警視がベルを鳴らすとすぐ、頬骨がとび出し、みにくいとがり鼻の、ごつごつした小間使がドアを開けた。そして、鼻にかかったロンドンなまりの声で、弱々しく断りかけたが、制服の部長を見ると、はっとして後ずさりした。警視はものも言わずに小間使を押しのけて、大股で客待ちを通り抜け、笑い声と話し声がうずまいている居間へはいった。そのとたん、ぴたりともの音がとまった。
みんなそろっていた――カーク博士、マーセラ、マクゴワン、バーン、ジョー・テンプル、アイリン・リューズと、その他に、クイーン父子が見たことのない二人の女と一人の男がいた。見なれぬひとりは背の高い、はつらつとした女で、顔立ちは外国人らしく、妙に色っぽい様子でうっとりとフェリックス・バーンの腕にすがりついていた。みんな夜会服だった。
リューズ嬢が足早やに近よって来てほほえんだ。「ねえ」と甘えるように「ねえ、ご覧の通り、お客さまですの、警視さま。いずれまた……」
マクゴワンとドナルド・カークは、じっと黙りこんでいる三人を見守っていた。カーク博士が、鼻先を紫色にして、車椅子を気ぜわしくまわしながら前へのり出して来た。「今ごろのり込んで来るとは何事じゃね、諸君。この狂乱の世の中で、わしら善良な人間は、うるさい厄介者どもから守ってももらえんのかね」
「落ち着きなさい、カーク博士」と、警視がやさしく言った。「すみませんね、諸君、こんなふうに押しかけて来て。だが仕事だもんですからね。ちょっとだけお邪魔します。あの――カーク君、君にちょっと用があるんだ。リューズさん、他の部屋をほんの二、三分使わせてくださらんか」
「どうかしたんですか、警視」と、グレン・マクゴワンが、おだやかに訊いた。
「いや、いや、大したことじゃない。さあ、パーティをつづけてて下さい……ああ、そこで結構です、リューズさん」
リューズは一同をもうひとつの居間につづくドアへ案内した。ドナルド・カークは青くなって黙りこみ、死刑室へはいる囚人のように、歩いて行った。そして、小柄なジョー・テンプルが、傲然と頭をあげて、しっかりした足どりでつづいた。警視が眉をしかめてなにか言いかけたが、エラリーがその腕をおさえた。それで、警視はなにも言い出さなかった。
ドナルド・カークは、その部屋のドアがしまり、ヴェリー部長の巨大な背中がドアを背にして立ちふさがるまで、ジョーに気がつかなかった。
「ジョー」と、ドナルドがかすれた声で「君はこの事件にまき込まれないでほしいよ――少しでもね。おねがいだよ。外へ出てみんなと一緒に待っていてくれないか」
「ここにいますわ」と、ジョーはほほえみかけて、ドナルドの手をさすった。「だって、妻というものは――まだ正式ではないかもしれませんけれど――夫の責任を少しも分け合わないようじゃ、価値がないじゃありませんの」
「おお」と、エラリーが「どうも近ごろは万事だし抜けですね。とにかく心からおめでとうといわせてもらいますよ」
「ありがとう」と、すぐに二人は口をそろえて言った。そして目を伏せた。妙な恋人たちだなと、エラリーは思った。
「ところで、いいかね」と、警視が始めた。「カーク君、言うまでもないが、君はわれわれに対して、どこまでも公正であったとは言えんな。なにか情報をかくしとるし、終始、不可解な行動をとっとる。そこで、君に弁明の機会を与えるつもりなんだがな」
カークがひどく、ゆっくり言った。「なにをおっしゃってるのか分かりませんね、警視」するとジョーが、横目でちらっと、なんとも分からない視線をなげた。
「カーク君、最近、盗難にあったかね」と、老警視がぴしりと言った。
「盗難?」カークは全くたまげたらしい。「もちろんそんなことはありませんよ……おお、父の本のことを言っておられるんですか。それなら、不思議なことに、あの本はみんなもどって来ましたよ」
「あの本のことじゃない、カーク君」
「盗難ね」と、カークは眉をしかめて「さっぱり――わかりませんね」
「たしかかね。よく考えるんだよ、君」
ドナルドはいらいらと、タキシードのポケットに両手を突っこんで「だが、たしかにぼくは――」
「たしか君は、古代ものの宝石をいくつか持っとるね――収集品だ――有名な、≪赤いブローチ≫≪大公妃の冠≫、エメラルドのペンダントつきのラヴァリエール、十七世紀の中国の翡翠《ひすい》の指輪なんかを」
すばやくカークが答えた。「いいえ。みんな売り払いました」
警視はしばらくじっとドナルドを見つめてから、ドアに近付いた。ヴェリー部長がわきによると、老警視はドアをあけて呼んだ。「リューズさん、ちょっと来て下さい」やがて、背の高いリューズが部屋にはいり、あいまいに微笑しながら、細い眉を、もの問いたげに上げた。その衣装は、長目で、曲線がくっきりと浮かんで、挑発的で、体にまつわりつくようなものだった。えりのたち方がひどく低いので、乳房のくぼみが、息をするたびにせばまったりひろがったりするのが生々しく、まるで打ちよせる波のまにまに、見えかくれする波打ぎわの岩の割れ目のように見えるのだった。
警視がおだやかに言った。「ちょっとの間、座をはずされたほうがよくはありませんかな、テンプルさん」
テンプルのかわいい鼻が愛敬《あいきょう》たっぷりにくしゅんとした。しかし、なにも言わずに、カークの手を握りしめて放さなかった。
「そんならよろしい」と、警視はため息をした。そして背の高いリューズのほうを向いてにやりとした。「お互いに本名を知っといたほうがいいようだね、あんた。ところで、あんたはなぜ、本名がアイリン・シーウェルだと言わなかったのかね」
カークはけげんそうに目をぱちくりした。そして、背の高い女も、胸をそらして目をぱちくりした。ちょっと、おどろかされたみどり色の目の猫のようだった。やがて、女はほほえみかえした。エラリーはチェシャー猫の第四次元の微笑のように、あいまいな実体のない微笑だと思った。「なんとおっしゃったんでしょうか。よくききとれませんでしたわ」
「ふーん」と、警視は感心したように、にやりとして「いい度胸だな、アイリン。だが、とぼけてもなんの役にも立たんぞ。おい、すっかり分かっとるんだよ。スコットランド・ヤードのトレンチ警視はわしの旧友でな、君とも古い古いなじみだそうじゃないか。今しがた電報でしらせて来たばかりだよ。有名なイギリスの女詐欺師だとか言って来た。だが、それはトレンチが君をそう見とるだけの話で、全く失敬なことさ。カーク君、それを知っとったかね」
ドナルドは唇をなめて、どうやらはっきりとは見えそうもない目で、女を見つめていた。「女詐欺師?」と、どもりながら言った。だが、そのためらいがちな調子はなにかひどくどぎまぎしていた。エラリーはため息をして、人間の良識に対して気恥かしくなり、そっと顔をそむけた。この劇の中でただひとりのまともな人物は小柄なテンプル嬢だなと、エラリーは思った。彼女は少しも芝居をせずに、ありのままの姿だった。そして背の高い女を、まるで遠くにあるこわいものででもあるかのように、じろじろ眺めていた。
背の高い女はなにも言わなかった。そして、みどり色の目の底に、なにか警戒の色をたたえながらも、まるで、いささかあわて気味のアリスに、ちょいと謎めいたじゃれ方をするチェシャー猫のように、なんとも得体のしれないあざけりの色をうかべていた。
「白状したほうがいいな、アイリン」と、警視が小声で「たねはみんなあがってるんだ。たとえば、お前の持ちものの中に、カーク君の収集の中にあった、値打ちものの宝石が、どっさりあるのも分かっとるんだ。どうだアイリン」
一瞬、女は警戒をといて、部屋のはずれのほうのドアをちらりと見た。それから唇をかんで、ふたたびにっこりしたが、今度はチェシャー猫のような微笑ではなく、絶望的な微笑だった。
「おお、寝室の壁金庫の中を当てにしてもむだだよ」と、警視がくすくす笑って、「もう、そこにはないからな。今日の午後、君が留守の間に運び出しといた。どうだ、アイリン、全部白状するか、それともやっとこをかませなければならんかな」
「やっとこですって」と、女は眉をしかめてつぶやいた。
「おい、おい、アイリン。あんたの国ではあれのことをそう言っとるだろう。それに、あんたも今までに、その美しい手首に一度ならず、そいつをはめたにちがいないと思っとるがね」警視は急にがまんできなくなって「お前はあの宝石を盗んだろう!」
「ああ」と女は言って、今度は顔いっぱいに微笑して、不思議にも希望をよみがえらせていた。「警視さま、あなたは本当にわけのわからない文句をおっしゃるのね。あれがカークさんのものだという確信がおありですの」
「確信だと?」と、警視は目をむいて「今度は、どんな趣向で来るんだい?」
「あれがカークさんのものだったら、なぜ犯罪にかかわりがあるとおっしゃるんですか、警視さま。紳士が淑女に宝石の贈りものをするのが犯罪なんでしょうか。もう少しで、カークさんが、あれを盗んで来たものだとでもおっしゃるのかと思うところでしたわ。とんでもない」
しばらく、みんな押し黙っていた。やがて、エラリーが、早口に「どうだね、カーク君」
ジョー・テンプルは、すっかりとまどって、かわいい鼻に小じわをよせていたが、ドナルドの腕を強くつかんで「ドナルドさん。あなたが上げたの――あれを?」
カークは身動きもせず立っていたが、その心中は煮えたぎる|るつぼ《ヽヽヽ》のようになり、いろんな小さな感情がまるで小型のラオコーンの子供たちにからみつく小さな蛇のようにからみ合い、もつれ合いしているにちがいないと、エラリーは見てとった。いつものすべすべした顔色も消えて、白っちゃけて、よどんでいた。
ほとんど無意識にジョーの手を腕からはなして言った。「そうだよ」ドナルドは一度もアイリン・リューズをまともに見ようとはしなかった。
「そらね」と、リューズはうれしそうに叫んだ。「これでお分かりでしょう。から騒ぎでしたわね。警視さま、すぐに私の宝石を返して下さいますわね。アメリカの警察の不信用についてはおどろくような話を聞いたことがありますわ――」
「よしたまえ」と警視がぴしりと言った。「カーク君、本当かね。君は本当にあんな高価な宝石をこんな女に贈ったというのかね」
カークの自制心はつぶれた風船玉のようにぺしゃんこになった。ジョーの緊張した目に見つめられて、そばの椅子にくず折れ、両手に顔を埋めた。あわれなくぐみ声がきこえた。「そうです。いやちがう……どうしたのかはっきりしません」
「ちがうわ」と、リューズがすぐに言った。「ああ、ドナルド。あなたはなんて忘れっぽいのよ」といいかけて、あとはものも言わずに寝室に走りこんだ。部長がきっと身構えたが、警視が頭で合図したので顔色をやわらげた。じきに、女は一枚の紙をもって戻って来た。「私の言う通りなのよ、ドナルドさんは自分の言っていることが分からないのよ、警視さま。私は、普通なら、こんな内輪な――ものを、人目にさらしたくないんですけれど、でもこうなれば他にしかたがないでしょ警視さま。ドナルドさん、はずかしいとお思いにならない!」
警視はいかめしい顔で女をにらんでいたが、やがてその手から紙片を受けとって大声で読んだ。
[#ここから1字下げ]
親愛なるアイリンへ。あなたを愛しています。そのことを信じてもらうためにどんなことをしてもたりない気持です。この宝石類は私の持っているもののうち、最も貴重なものです。ロシア大公妃の頭を飾った≪冠≫や、クリスチナ王の母后の持ちものだった≪赤いブローチ≫や中国皇帝の姫の指を飾った|ひすい《ヽヽヽ》など――その他の宝石類もみんな長い間私が秘蔵していたものですが、それらをあなたに贈ることは、あなたに対する私の感情のあかしではないでしょうか。それで、私は喜んで、世界一すばらしい女性たるあなたにそれらを贈ります。どうぞ私と結婚すると言って下さい。 ドナルド
[#ここで字下げ終わり]
テンプル嬢が目に見えるほど身ぶるいした。「クイーン警視さま」と、冷ややかな声で訊いた。「その恋文の日付は――いつになっておりまして?」
「かわいそうにねえ」と、リューズ嬢が小声で「お気持ちはよく分かってよ。でも、ご自分で見たら、はっきり分かるわ。あなたがこの町に来る前にドナルドさんが私によこしたお手紙なのよ、まだあなたを知る前にね。ところがあなたと出会ってから……」リューズは、むき出しの、すばらしい肩をすぼめた。「セラゲールエジトンバビクテイム(私はあなたとのたたかいにまけたんだからしかたないわ)。私はあなたを恨んだりしやあしません。いさぎよく、あなたとドナルドさんを、今夜お招きしたのが、そのたしかな証拠でしょう」
「まずいな」と、警視がせせら笑った。「もしこれが、ジュリエットをつなぎとめようとする男の熱烈な恋文だと思いこむようなら、わしは全くのあきめくらだ。まるで歴史の論文みたいじゃないか。作りものだ。どんなに汗水を流そうとも、真相をつきとめてみせるぞ――おまえたち二人から。カーク君、この女の口述でこんな手紙を書かされるなんて、君はいったいどんな尻尾をにぎられているのかね」
「口述ですって?」と、リューズ嬢は眉をしかめた。「ドナルドさん。本当にばかげたお話になって来たわね。さあ、話してやって頂戴。話すのよ、ドナルドさん」と、女は地団駄ふんだ。「早く話してと言っているのよ」
青年社長は、はじめて、すっくと立って、まともに女と向き合った。その目はおどおどしていたが、とにかく女と向き合ったままで警視に話しかけた。「こんな茶番をやっていても意味がないのが分かりました」と、のどにひっかかるような声で「自分のやったことだから、自分で苦い薬をのまなければなりますまい。ぼくは嘘をついていました」エラリーは背の高い女の目に、安堵の色がわき上がるのを見たが、女はすぐにまぶたを閉じてその色をかくした。「その手紙はぼくが書きました。それからリューズ嬢に――本名はシーウェル嬢かしれませんがね――宝石をやりました。このひとの過去はなにも知りませんでした。それに、そんなことはどうでもかまわなかったのです。これはあくまで私的なことで、そんなことがどうして今度の事件に――この殺人事件にひき合いに出されなければならないのか、その理由がさっぱり分かりません。ぼくの私事とこの事件には少しも関係がありませんからね」
「ドナルドさん」と、ジョーがせつない声で「あなた――あなたはこのひとに結婚を申し込んだんですの」
リューズ嬢がちょっと勝ちほこるようにほほえんだ。「ばかなことをおっしゃらないで頂戴。申し込んだら、どうだと言うの。私だって、なにも世界中で一番いやな人間ってわけじゃないでしょ。ドナルドさんが一時の気の迷いで書いたものにしておけばいいじゃないの。きっとそうだと思うわ。そうでしょ、ドナルドさん。ともかく、もうみんなすんだことなのよ。そして、今ではドナルドさんはあなたのものよ。こんなことでやぼはおっしゃらないでしょ、あなたも」
「ごりっぱだね」と、エラリーがつぶやいた。
「ドナルドさん。あなた――あなたはそれをおみとめになるの?」
「うん」と、ドナルドは相変わらずのかすれ声で「認めるよ。おねがいだ、いつまでぼくはこんな苦しみに耐えなければならないんだ」ドナルドは中国から来た小柄な女のほうには目を向けずに「もし世間になにも知れないですむなら、ぼくはよろこんで財産を全部なげだしてもいいと宣言するよ。もうすんだことだ――おしまいだ。けりがついたんだ。なぜぼくをそっとしといてくれないんだね?」
「そうかね」と警視は冷たく言った。「それで、宝石は? カーク君」
「たしかにその人に上げたんです」
ジョーが静かに、背の高い女の前に進み出ていった。「本当にあなたって卑劣きわまるひとね。ドナルドさんだって、本当のことはまるで分からずにまきこまれたんだわ……」ジョーはおびえて立っている青年社長のほうにくるりと向き直ると「ドン、私はこんなことを信じやしませんわよ――みんな出たらめですわ。あなた――あなたのことはよく分かっているつもりです。あなたは本当に悪いことのできるひとじゃないのよ。おお、私は気にしやしませんよ、こんな――こんなちょっとした浮気なんか。心外だけど、でも……真相はどうなの、ドン。このひとが、あなたにどんなことをしたの? 私には話せないことなの?」
ドナルドは妙にやさしい声で「ありのままのぼくを受けとめてほしいよ、ジョー」
背の高い女はにやにやしていた。しかし、その声は変に強《こ》わばり、自信にみち、いどみかかるようなものをふくんでいた。「私はとても辛抱強いたちなのよ。他のひとだったら、とっくにひとさわぎおこしているでしょうよ。ジョー・テンプルさん、あなたのはしたない悪口は見のがして、そのかわりに私の広い経験にもとづく忠告を上げましょうね。手もつかないおばかさんにならないことよ。このひとはあなたのものだし、このひとはとてもいい青年なのよ」ジョーは相手を無視して、顔をそむけている青年社長を、じっと見守っていた。「さあ、警視さん、あなたの犬たちを解散させていただきましょう。こういつまでも責めたてられちゃたまりませんもの。あなたのほうでいつまでもこうしていらっしゃるなら、私はすぐ退散させていただきますよ」
「そんなことを考えとるのか」と、警視が苦々しげに「しかし、わしが許可するまで出てはならんよ。ちょっとでも国外に出るそぶりをみせたら、容疑者として逮捕するぞ。容疑というのはいい言葉だ、どうにでも融通がきいてな。実を言うと、今すぐにでも好ましからざる人物という|かど《ヽヽ》で鉄格子の中にたたきこめるんだぞ。だから、このアパートの部屋に引っこもっているんだぞ、シーウェル。そして神妙にしているんだ。わしの目を盗もうなどとするんじゃない」警視は目の前で黙り込んでいるカークとジョーをちらっと横目で見た。「君だが、カーク君、君はいつかきっと、いままきこまれているいざこざを、すっかり胸のうちからさらけ出さなかったことを、ひどく後悔することになるよ。この女が、どんな悪だくみをしたか知らんが、君はすっかり釘づけにされとると見えるな。へまをやったもんだよ、君……さあみんな引きあげよう」
エラリーは、はっとしてため息をついた。「でも、あなたは、言語学のことで、マーセラ・カークさんに、ちょっと質問するんじゃなかったですか」
ドナルド・カークのやつれた目に、さっとものものしい警戒の色が浮ぶのを見て、エラリーはひどくビックリした。「マーセラだけはそっとしといて下さい。たのみます」と、青年社長がまっさおになって叫んだ。「こんなことに引き込まないで下さい。そっとしといて下さい、おねがいです」
クイーン警視は、急に興味をよみがえらせて、冷たくドナルドを見つめた。それから、おだやかに言った。「そうか。わしは君らにはもう愛想をつかすところだったよ。しかし、考え直してもう少し辛抱しよう。トマス、マーセラ・カーク嬢と、おやじさんをつれて来い」
ドナルドが放たれた弾丸のようにヴェリーがあけかけたドアにとびついて、あっけにとられている部長につかみかかり、手荒くわきへつきのけた。そして、決意を見せて震えながら、ドアの前に立ちはだかった。「いけない。たのむ、クイーン君、おねがいだ。やめさせてくれ!」
「なんだ、小生意気なちびいたち奴《め》――」と、部長がわめいて、とびかかろうとした。
「待って、ヴェリー君」と、エラリーがのんびり言った。「なんだその真似は、カーク君。誰も君の妹君をいためつけようとは言ってないよ。ちょっとした誤解があるから、それをはっきりさせなければならないんだよ。本当にそれだけなんだ」エラリーは歩みよって、肩をいからしているカークの腕に、やさしく手をかけた。「テンプルさんに階上《うえ》に連れて行ってもらいたまえ、カーク君。こう神経がたかぶっていちゃ、どうしても一杯やって少し休まないと駄目だよ」
「クイーン君、まさか君は――」と、その声は妙に哀れっぽかった。
「もちろんだよ」と、エラリーはなぐさめた。そして、小柄な女に目くばせした。女はため息をしてドナルドに歩みより、その手をとってなにかやさしくささいた。こちこちになっているカークの筋骨がやわらぐのがエラリーには分かった。部長はぶつぶつ言いながらドアをあけて、二人を出してやった。別室では、おどろいている人々の目が二人を迎えた。
「お前もだ、アイリン」と、警視がにがり切って言った。女は肩をすぼめて、ぶらぶらと、カークとジョーのあとから出た。しかし、その美しく張った肩には、まるで後からの一撃を用心するかのような挑戦的なかまえがあった。ヴェリー部長がその後につづいた。
「あの若造はいったいなにをかくしとるんだろう」と、警視が一行を見送っていった。
エラリーは、はっとした。「え? ああ――カークですか」と、たばこを取り出して、ゆっくりマッチをすった。「興味|津々《しんしん》たるものですね。ちらっと見えて来ましたよ。ごくかすかな光明がね……さあ、連中が来ましたよ」
来たのは二人ではなく三人だった。ヴェリー部長はたけだけしく目にかどを立てていた。
「このマクゴワンという男が、どうしても来ると言ってきかんもんですから」と、がらがら声で「つまみ出しましょうか、警視」
「そうまでしないでもいいでしょう、部長」と、エラリーが、おかしそうに口をほころばせて、マクゴワンの強そうな図体を見た。
「そうだな、立ち会いたいならそれもよかろう」と、警視がしぶしぶ言った。「この人のおとむらいなんだからな。さあ、お嬢さん――」
マーセラ・カークは、父親と婚約者にはさまれて、静かに息をつめて、身を細めて立っていた。父親は娘の片腕にしっかりすがりついていた。老博士は、骨ばったやせたからだを、しょんぼりさせて、不思議にも、いつもの挑戦的なところをひっこめて神妙にしていた。老いた目に、人目をはばかるような色をうかべていた。
マクゴワンがおだやかに言った。「お手やわらかに願いますよ、警視。ぼくのフィアンセはとても感じ易いたちですからね。それに、ぼくだって、あなたの強引なやり方に、いつまでがまんできるかどうか分かりませんからね。いったいどういうつもりで、文句のつけようがないこのカクテル・パーティをぶちこわしたんですか」
「君はだまって引っこんでいたまえ、マクゴワン君」
カーク博士が身をふるわせて「ドナルドにどんなことをしたのかね。けしからん」
「では訊問にかかります」と、クイーン警視がおごそかに言った。「カーク博士、あなたは先日、盗まれたヘブライ語の本が戻ったと届けて来られたが、それに相違ありませんか」
「それで?」と、老学者の声がかすれた。
「すっかり戻りましたか」
「もちろんさ。だから騒ぎ立てんでほしいと言ったのさ。本は戻って来た。それでもうなにも言うことはない」老博士は娘のあらわな腕を、やせた指で無意識になぜていた。「すると、見つけたとでも言うのか――盗んだ奴を」
「まあ、そんなところですね」
マーセラ・カークがため息をついた。唇が白い肌の色にくらべて、まっ赤に浮き上っていた。
マクゴワンはなにか言いかけたが、気をかえて、娘の顔から、将来の義父の顔に目を移した。そして、顔色を失いながら、唇をかみしめて、力をこめてマーセラの手を握った。
「ぼくに言わせてもらうと」と、エラリーがつぶやいた。三対のおどおどした目が、エラリーを見つめた。「ぼくらはみんなわけのわかる大人だと思いますよ。お嬢さん、まず申し上げますがね、ぼくはあなたにはほとほと感心しているのです」
マーセラは、目をとじて、ふと、よろめいた。
「と、言うと?」と、マクゴワンがかすれ声で訊いた。
「マクゴワン君、君のフィアンセは、勇気のある、誠実な人だよ。ぼくにはこの人のものの考え方がはっきり分かるよ……ぼくはずっと、今度の奇妙なあべこべ事件の本質を追究していた。きっと、お嬢さんは、即座にある光景を、思いうかべられたのですよ――父上の……つまり、博士、あなたが……ヘブライ語の本に読みふける光景を」と、エラリーは中休みして――「ヘブライ語の第一の特徴、文字があべこべになっていることを、お嬢さんは知っておられた。そこで――」
「私が盗みましたの」と、マーセラはしめつけられるようにすすり泣いて「おお、私は心配で――心配で」
カーク博士はさっと顔色をかえた。「マーセラや」と、やさしく言った。そして娘の腕を抱きかかえると、少し、からだをおこした。
「だが、お嬢さん、あなたはうっかり忘れていましたね」と、エラリーがつづけた。「お父さんの書斎にたくさんの稿本がある、あの中国語も、つまり、あべこべの言葉です。そうでしょう」
「中国語?」と、マーセラは息をのみ、目を丸くした。
「こんなことだと思いましたよ、お父さん、この件に関してはこれ以上立ち入る必要はないですね。全くぼくのせいなのです。お嬢さんの行為は、ぼくがこの犯罪のあべこべの性質について口走ったことに対する反応だったことは歴然たるものです。さあこれで事情がはっきりしたのですから、あとはみんな忘れてしまうのが一番いいと思いますよ」
「だが、ヘブライ語のあべこべでは――」
「ああ」と、エラリーはため息して「まるっきり駄目ですよ。てんでヘブライ語なんか知っちゃいないんです。それに、われ、あに、わがはらからの守りならんや〔創生期第四章第九節〕です」エラリーはマーセラとマクゴワンに、にっこりして言った。「行け、そして再び罪を犯すなかれ〔ヨハネ伝八章第十一節〕」
「おお、じゃあこれでよかろう」と、警視がうなった。「出して上げろ、トマス」
部長が道をあけると三人は静かに出て行ったが、マクゴワンはなにかを隠している目付きだった。
「ここにいる間に」と、警視がつぶやいた。「もうひとつ、はっきりしておきたい事がある」
「今度はなんですか」と、エラリーがきいた。
「フェリックス・バーンという奴だ。トマス――」
「バーン?」と、エラリーは目を細めた。「バーンがどうしたんです?」
「殺しのあった日の、奴の行動を、やっと洗い上げたんだ。どうもひとつくさい……。トマス。バーンと、今ここに来るときに見た、奴の腕にとっつかまってた外人くさい女を連れて来てくれ。わしの勘が当たっていれば、あの女は事件になにか関係がありそうだ」
「どういうふうにくさい――?」と、部長が大股で出て行くとき、エラリーが、早口で訊いた。
警視は肩をすぼめた。「どうも、そこがよく分からんのだがな」
バーンはひどく酔っていた。険しい目をいからせ、鋭くとがった顔に、嘲るような色をうかべて、よろよろとはいって来た。つれの女はおびえているようだった。背の高い、すんなりしたブルネットで、ぴちぴちしたからだをしていた。バーンの黒いそでの腕に、はなれるのがこわいといった恰好で、胸全体を、おしつけていた。
「なんだね」と、バーンはゆっくり言った。薄い唇が|こっけい《ヽヽヽヽ》にゆがんでいた。「今夜はなんだね――スジャンボックか、足の裏の笞刑《ちけい》か、それともプロクラステスのベッド〔寝台にあわせて犠牲者のからだを切ったり引き伸ばしたりしたギリシアの強盗〕かね」
「今晩は、バーン君」と、エラリーが低い声で「探偵の仕事もだんだん手びろくなるようですな。こんな教養の深い人たちに会えてうれしいですよ。スジャンボックとかなんとか言われましたね。どうもそいつはオランダ領アフリカの言葉らしいですね。それはなんですか」
「さいの皮でつくったむちなんだ」と、バーンは相変わらず酔っ払いの微笑をたたえながら「君を南アフリカの叢林《ヴェルト》につれて行けたらね、クイーン君、なによりかにより、そいつを味わせたいよ。ぼくはどうも君が気にくわん。こんなきらいな奴に出会ったことは一度もないよ。地獄へ行っちまえ……ところで、ポケット版のルシファー〔悪魔〕」と、いきなりクイーン警視にくってかかった。「なにを考えとるんだ。早くほざいてみろよ。ばかげた質問にとっつかまってひと晩棒にふるわけにはいかんからな」
「ばかげた質問だって?」と、警視がうなった。「もう一度、そんなふざけた口を利いてみろ、ここにいる部長を君にけしかけるぞ。お利口さん。そのときになって、どんなほえ面をかかねばならんか、よく考えてみるんだな」警視はくるりと女のほうを向いた。「君だ、君の名は?」
女は、いっそう出版屋にすりよって、子供っぽい信頼の目で、男を見上げた。
バーンが面倒くさそうに「教えてやれよ、|cara mia《カーラミア》〔恋人〕。人相は悪いが、あれで害はない男だよ」
「私は――あの」と、女は言いにくそうに「ルクレッツィア・リッツオよ」ひどいイタリアなまりだった。
「どこから来たのかね」
「イタリアよ。お家は――そのう――フィレンツェ」
「フローレンスだね」と、エラリーはつぶやいた。「ボッチチェリの女の絵のたくましさの底にある霊感の本質が、やっとつかめましたよ。あなたは、とても美しいし、美しい町から来られたんですね、マドンナさん」
女はさきほどまでおびえきっていた目とは似ても似つかぬ、上目使いのながし目で、じっとエラリーを見つめていた。だが、なにも言わずに、相変わらずバーンの腕にすがりついていた。
「いいかね。わしは忙しいのだ」と、クイーン警視がどなった。「ニューヨークに来て、どのくらいになるかね|奥さん《シニヨーラ》」
ふたたび、女はバーンを見上げた。するとバーンがうなずいてみせた。「一週間そこそこですわ」と女が、甘いやわらかい歯にかかる声で言った。
「なぜそんなことを訊くんだね」と、バーンが大儀そうに「リッツオさんを、殺人容疑でお手のものの豚箱にぶち込もうと思ってるのかね、警視。そんなら言っときますがね、あんたは早とちりしてるが、この罪もないイタリア娘を、まるっきり勘ちがいしてるかですよ。それに、ルクレツィアさんは未婚だぜ」
「既婚か未婚かしらんが」と、警視はぴしりと言った。「わしが知りたいのは、殺しのあった日に東六十四番街の君の独身アパートで、このひとがなにをしていたかだ」
エラリーはちょっとおどろいたが、バーンはけろっとしていた。出版屋は相変わらず酔っぱらいの微笑をつづけながら歯をむき出した。「ああ、わが首都の警察は、今では道徳浄化を旗じるしにしとるのかね。なにをしていたと思う? よく知っとるんだろう。でなければ訊くこともなかろうじゃないか……いつもぼくに分からんのは、返答の知れきっていることを、訊くというばかげた習慣さ。まさか、ぼくが返答を拒否するとでも思ったわけじゃないだろうね」
警視の小鳥のような顔が刻々に赤くなった。警視はバーンをにらみつけて言った。「わしはあの日の君の行動にたいへん興味を持っとるんだ、バーン君。それに、君のおしゃべりで、わしの目をごまかそうなどとは考えるなよ。この女がモレタニア号で君と一緒に海を渡って来たことも、船から二人でまっすぐに君のアパートへタクシーで行ったことも分かっとるんだ。あれはあの日の午前中だった。カーク家の二階へ姿をあらわすまで、君はあの日いっぱい、なにをして過ごしたんだ」
バーンは微笑しつづけていた。その充血した目のきらきら光る美しさを、エラリーはうっとりと見つめていた。「おお、そりゃあ、あんたには分かりっこないよ、警視」
「なんだと! 君は――」
「はっきりしてるじゃないか。あんたにそれが分かるぐらいなら」と、バーンが低い声で「そんな野暮な訊き方はしないはずさ。楽しんでいたんだよ。大いに楽しんだね。なあ|Cara《カーラ》。われわれの女房や家庭や市民の名誉を守る愚直な警官にはさっぱりお分かりにならないとさ。それに、なにしろ単純なんだから、きっとお察しもつかないんだろう。おお、こりゃあどうも、少しやぶにらみだったかな。言い直すよ、つまり、察してみたんだが、まるっきり見当もつかなかったというしだいさ」女は、とまどいながらも、たのもしそうに男を見上げていた。あきらかに、早口でまくし立てる英語が貧弱な女の語学力では、とうていこなしきれなかったのだ。「それに、われわれアングロ・サクソンの法律の、気楽な迷路に信頼して、証拠がないということは、つまり自分を母親のない子供みたいなもんだと思い込んでる。それとも」と、バーンは面倒臭そうに「保護者のいない美しいイタリア女の肉のひと切れだとでも思い込んでるのかね、警視さん」
バーンの最後の言葉が消えると、室内には重苦しい静けさがひろがった。父親を見ていたエラリーは、とんでもないことになりはしまいかと、不安になった。老警視の顔色は大理石のようになり、小鼻が険悪にふるえて、顔がいっそうひきしまり、きびしい表情になった。ヴェリー部長のほうからも危機は迫っていた。その巨大な肩は拳闘家のように盛り上り、エラリーがぞっとするようなこわい面構《つらがま》えで出版屋をにらみつけていた。
不気味な瞬間がすぎた。警視がほとんど事務的な調子で言った。「すると君は、一日中この女と君のアパートで過ごしたと言うんじゃね」
バーンは、緊張した空気にまったく無関心らしく、肩をしゃくって「こんな色っぽい女と二人っきりでいる男が、どこで一日を過ごしたらいいと思うのかね」
「こっちが訊いとるんだぞ」と、警視が落ち着いて言った。
「なるほどね。そんなら答えは、むろんイエスですよ」と、バーンは相変わらず不愉快ににやにやしながら「訊問終わりかね、警視。かわいいルクレツィアをお供に連れて行ってもいいかね。礼儀というものがあるからね。主人役を待たせちゃいけないと言うだろう」
「行き給え」と、警視が言った。「出てうせろ。わしの手がお前のそのにやにや面をにぎりつぶす前に、出てうせろ」
「ブラボウ〔万歳〕」と、バーンがのんびりした声で「さあ行こう。もう用はないそうだ」と言って、とどまっている女を、いっそう引きよせ、やさしくかかえるようにして、ぐるりとまわしてやり、ドアのほうへつれて行った。
「でも、フェリーチオ」と、女はささやいた「どうして――なの――」
「おれの名をイタリアふうに呼ぶんじゃない」と、バーンが「フェリックスと呼ぶんだ」と言いながら二人は出て行った。
しばらくの間、三人はだれも口を利かなかった。警視は元の場所に立ったまま、無表情にドアを見つめていた。ヴェリー部長は、まるではげしい緊張に耐えていたあとのように、深く息を吸い込んだ。
やがて、エラリーが静かに言った。「ねえ、お父さん。あんな酔いどれに気を使うことはありませんよ。実はぼくもむかつきましたがね。ぼくだって、とさかに来る思いだったんですよ……そんなこわい顔をするのはおよしなさいよ、ねえ、お父さん」
「あんな奴は初めてだぞ」と、警視がいまいましそうに「この二十年間に、わしがぶち殺してやりたいと思った奴はな。もうひとりの奴は自分の娘を強姦した奴だが、そいつは少なくとも気違いだったぞ」
ヴェリー部長がぶつぶつなにか毒々しい言葉を自分にはきかけていた。
エラリーは父の腕をゆすぶって「さあ、さあ。ちょっとしてもらいたいことがあるんでしょ、お父さん」
クイーン警視は、ため息をついて、振り向いた。「そうか。次はなんだね」
「あのシーウェルという女に、なにか口実をつけて、今夜おそく、本庁にひっぱってもらえませんかね。それに、小間使のほうもなんとかして追っぱらって下さい」
「ふーん。いったいなんのためだ」と、警視は、ふと興味をひかれて、訊いた。
「ぼくはね」と、エラリーが考えこみながら、たばこをふかして「ちょっと前に言った、あのかすかな光明という奴にもとづいて、あることをやってみようと思いついたんですよ」
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十三 寝室の場
エラリー・クイーン氏は、他人の家に自由に忍び入ったり忍び出たりして、しかもなお、適当な気転を持ちつづけるような奇才にめぐまれているラッフルズ〔有名な宝石泥棒〕を育てたニューヨークの暗黒街そだちではなかったから、チャンセラー・ホテル二十一階の廊下で、びくびくきょろきょろとあたりをうかがった。首尾がいいと分かると、着ぶくれた外套の下で、肩を二、三度ふるわせて、リューズ嬢の部屋の入口のドアの鍵穴に合鍵をすべりこませた。鋭くきしみながら|かけがね《ヽヽヽヽ》がはずれたので、ドアを押しあけた。
控えの間はまっ暗だった。エラリーはじっと立って、耳が痛くなるほど緊張して、様子をうかがった。だが、その住居は、ことりとも物音がしなかった。
エラリーは自分の臆病さを叱りつけて、大股で暗闇の中を進み、電灯のスウィッチがあったのをおぼえている壁のところへ行った。手探りで、探し当てて、押した。ぱっと明るくなり、控え室が、いきなり明るく目の前に現れた。客間ごしに、ちらっと居間のドアを見定めてからスウィッチを切り、灯りを消して、そのドアのほうへ歩き出した。女の座椅子の脚につまずいて、バランスをとるために大げさに宙を泳ぎながら、いまいましそうに舌打ちした。しかし、やっと目標にたどりついてドアをひらき、こっそりと居間に忍びこんだ。
ビルの谷間の通りの向かいにあるホテルのネオン・サインの明滅する光りをたよりに、寝室のドアを見定めて、そのほうへ向かった。
ドアはすき間があいていた。首をつっこみ息を殺してうかがったが、なんの物音もないので、忍び込んで内からドアをしめた。
「まあ、うまくいった」と、ひとりごとをつぶやいて暗闇の中でにやりとした。「どうも、押し込みの才能は持たずに生まれて来たらしいな。さて、スウィッチはどこだろう」
エラリーは明滅する薄あかりの中で眸《ひとみ》をこらして探しまわった。「ああ、ここか」と、大声でつぶやき、壁に手をのばした。
しかし、その手は宙で氷りついた。背筋を、さっと冷いものが走った。一瞬に、千々《ちぢ》の思いが頭をかすめた。しかし、エラリーはこそりとも動かず、息もしなかった。
何者かが入口のドアをあけた。まちがいない。油のきれている鍵のかすかなきしみがきこえた。
またたく間に、エラリーの行動力がもどって来た。エラリーは腕を下げ、かかとでくるりとまわり、さっきスウィッチを探しているときに、ぼんやり見えた日本絹張りの屏風《びょうぶ》のほうへ、すべって行った。そして、屏風にたどりつくと、その後に背をかがめてかくれ、息を殺した。
寝室のドアのノブを、そっとまわす金属の音がきこえるまで、まるで無限の時が経ったかのように思われた。ドアの敷居にこすれる靴の音もきこえた。やがて、人間の息のあえぎが、はっきり聞こえた。金属性の音がまたきこえた。侵入者が後手にドアを閉めたのだ。
エラリーは日本ふうの一双《いっそう》屏風の折り目から眸をこらしてのぞいた。妙なことに、ほのかな香料の匂いがしたので、香水をつけた女性がいるのではないかと思った。だがすぐに、その匂いは侵入者や、自分が来る前からあったのだと気付いた。それはアイリン・シーウェルの残り香だったのだと……。闇になれてくると、エラリーの眸が大きくなり、ぼんやりと人間の姿が見えはじめた。それは男の姿で、室内に明滅する薄明かりの中では顔色も見えないほど顔をかくしていた。男はそわそわしてすばやく動きまわり、頭をきょろきょろと左右につき出し、むせび泣きをしているのかと思えるほど、ぜいぜいと息をきらせていた。
やがて男は背の低い、モダーンなかたちの化粧台に、おそいかかり、音の立つのもおかまいないらしく、腕をいっぱいに伸ばして、手荒く、ひき出しを抜きはじめた。
エラリーは爪先立ちで屏風のかげから出て、足音も立てずに厚い中国絨毯の上を横切ってドアの近くの壁まで行った。そして、腕を上げると同時に、愉快そうな声でゆっくり「おい、こら」と言いながら、とたんにスウィッチを押した。
侵入者は虎のように、くるりと向き直り、目をぱちくりしながら、口がきけずにいた。まぶしい灯りの中で、エラリーはその男の顔をはっきりと見定めた。上衣の立てたえりが、ぴんと元にもどった。
その男は、ドナルド・カークだった。
二人は、まるで目を切りはなすことができないかのように、まるで見ているものを信じられないかのように、いつまでも、互いに相手をさぐり合っていた。ふたりとも、おどろいて口もきけなかった。
「おや、おや」と、やがてエラリーは言い、ほっとひと息ついて、身動きもせずに立ちつくしている背の高い青年社長のほうへ進みよった。「こそこそやってたのは、君だったのか、カーク君。こんな陳腐な夜の訪問をするなんて、どういうことなんだね」
ドナルドは急にぐったりと力が抜けた。まるでこれ以上はもう緊張に耐えられないかのようだった。そして、そばの白いビロード張りの椅子にくず折れて、ふるえる指でシガレット・ケースをとり出し、たばこに火をつけた。
「いかにも」と、ちょっと絶望的に笑って「ぼくなんだよ。現行犯をつかまったね、クイーン君――しかも、人もあろうに、君にさ」
「よかったな」と、エラリーがつぶやいた。「運がいいんだよ君は。君みたいな落ち目の若者としてはね。もっと威勢のいい刑事だったらきっと――どう言ったらいいかな、うん、そうだ――まず君のどてっぱらに穴をあけて、後から訊問することになっただろうからね。君は運がいいよ。気が弱いので、ぼくは拳銃を持って歩かないからね……カーク君、こんな夜更けに、女の寝室を歩きまわるなんて、とても悪い癖だよ。面倒をひきおこすもとだ」
そう言って、エラリーはビロードの椅子に向かい合っているシベリン〔黒貂まがいの毛織もの〕張りの長椅子にゆったりと腰をおろして、自分もシガレット・ケースをとり出し、ぼんやりと放心のていで、一本抜き出して火をつけた。
ふたりはしばらくの間、互にさぐり合いの目をはなさずに、黙って、考えこむようにたばこをふかしていた。
やがてエラリーが口いっぱいの煙を吸い込んで言った。「ぼくも少し不眠症で困ってるんだがね。君は、どういう処置をとってるね」
カークがため息をして「さあ、つづけて、話してくれたまえ」
エラリーはだるそうに「話してもいいかね」
青年社長はむりに笑って「妙なことだが、ぼくは今、人と話す気になれないんだ」
「妙だね、ぼくは話したいんだ。おだやかな雰囲気で、二人のインテリ青年が、たばこを吸っている――ちっとばかり話をするには、もってこいのお膳立てじゃないか、カーク君。ぼくはいつも言うんだが――むろんきわめてひとりよがりの見解だがね――アメリカが必要とするのは、こんなにもたくさんある上等の五セント葉巻じゃなくて、雑談の文化的効用なんだとね。君も文化的になりたくないかね、野蛮人君」
出版社長は鼻の穴からぷかぷかと煙を出した。それから急に乗り出して、ひじを膝について「ぼくをからかってるのかい、クイーン君。どうしようって言うんだ」
「その質問は」と、エラリーはそっけなく「そっくりそのまま、ぼくの方からしたいところだよ」
「分からんね」
「そうか、じゃあ具体的に行こう。ついいましがた、君はアイリン・シーウェル嬢の化粧台を夢中になって探していたが、いったいなにを探していたんだね?」
「それは断じて答えんよ。断じて」と、カークは小鼻をふくらませて反抗的にぴしゃりと言った。
「残念だな」と、エラリーがつぶやいた。「どうもぼくの説得力は弱くなったらしい」それから、かなり長い間、ただむやみに黙っていた。
「きっと君は」と、やがてドナルドが絨毯を見つめながら小声で言った。「ぼくを突き出すだろうね」
「ぼくが?」と、エラリーは大仰《おおげさ》におどろいてみせ「カーク君、情けないことを言ってくれるなよ。ぼくは――君――警官じゃないんだよ。なんでぼくが人々を不幸にするような人間なんだね」
カークは指先までもえて来たたばこを、無意識にもみ消して「すると君は」と、ゆっくり言った。「見のがしてくれるのかい。このことは誰にも言わないでくれるのかいクイーン君」
「その気がなくもないんだ」と、エラリーがのんびり言った。
「なんて、君はいい人なんだろうな!」カークは、生き返った人のように、椅子からとび上った。「実にありがたいよ、クイーン君。ぼくは――なんとお礼をいっていいか分からないよ」
「そうかい」
「おお」と、青年社長は声の調子をかえて、また椅子に腰かけた。
「ねえ君、君は気の弱いあほうだな」と、エラリーが、あいている窓から、たばこのすいがらをはじきとばしながら、気軽く言った。「自分で作り出した秘密に身をさいなまれているなんて、つまらないまねはもういいかげんにたくさんだとは思わないのかい。君は根が正直だし、陰謀をたくらむだけの腕も才覚もないよ。今度のみじめな事件で君が犯した最大のあやまちは、ぼくを信頼しなかったことだってのが、そのがんこ頭には、まだ納得できないのかね」
「分かってるさ」と、ドナルドがつぶやいた。
「すると、やっと正気にもどったわけか。すっかり話すつもりかい」
カークはやつれた目をあげて「だめだね」
「だが、いったい、どうして駄目なんだね」
青年社長は立って絨毯の上をせかせかと歩きはじめた。「駄目だから駄目さ。というのは――」と、ためらいがちに話しかけた――「実はぼくの秘密じゃないからさ、クイーン君」
「おお、そうか」と、エラリーがおだやかに「そんなことはぼくにとっては別に耳新しくもなんともないよ、君」
カークはぴたりと立ちどまった。「なんだって……知っていたのか」その声には悲痛な深い絶望のひびきがあった。
エラリーは肩をすぼめた。「もし君の秘密なら、ずっと前にうち明けていただろう、カーク君、自分の愛する女性が、自分に対して、おそろしい誤解をもとうとしているのに、それを防ぐためのなんの手も打たずに、ただぼんやりと見ている奴はいないよ――誰か他の人間をかばうために、ものが言えなくなっている場合は別だがね」
「やっぱり君には分かっていないんだな」と、カークがつぶやいた。
「誰かをかばってるね」と、エラリーが同情するような目付きで「君がかばっている者が分からないようじゃあ、人間観察者としてのぼくの才能もたかがしれてるってものさ――かばってるのは妹のマーセラさんだろう」
「おどろいたな、クイーン君――」
「図星だったろう。で、マーセラさんは……自分をおどしているのが誰か知っているのかい、カーク君」
「知っちゃいない」
「そうだろうと思ったよ。で、そいつから君が妹さんを守っているんだね。おそらくは、妹さん自身がやけになるのを。立派だよ、カーク君、ぴかぴかの鎧《よろい》をつけた紳士の行ないだ。この世に不正が正されずにある限り騎士道の時代は決して去らないであろうと、キングスレー〔作家〕が言っているのも、もっともだと思うよ。そして、もちろん、世の女性どもをひきつける行ないだよ。君のかわいいジョーさんだって明らかに例外ではないよ……だめだめ、拳骨《げんこつ》なんか固めるなよ。ぼくは君をからかってるんじゃないよ。本当だ。ところで、君はあくまでぼくの言うことを否定するんだろうね」
ドナルドのこめかみの血管が怒りでにょきにょきふくらんでいた。ひたいに、ぎらぎらと汗がふいていた。そして、かすれ声で「ちがう」と言い、すぐ「うん、そうだ」といい直して、ひかれた手綱にさからう馬のようにいきり立って頭をもたげて振り立てた。
「しかもなおぼくは、あの殺人の当夜、君がいっさいをこのパパ・クイーンにうち明けてくれるものと信じていたよ。ところが、死体がみつかると、君は殻の中にひっこんでしまった。あのとき君は、ぼくに相談するつもりだったんだろう、どうだね、カーク君」
「うん。だがこの事についてでは――なかった。あの、リューズさ――シーウェル――という女についてさ……」
「ああ、すると、君の妹さんについての秘密は、かわいいアイリンとは無関係なのかい?」とエラリーが、すかさず訊いた。
「いや、いや、そんなことは言わんよ。おお、おねがいだ、クイーン君、そんなにぼくをいじめないでくれよ。もうこれ以上は言えないんだ」
エラリーは立って、あいている窓に近より、灯《ひ》のちらちらする目の下の暗い谷間を、不思議そうに見下ろした。それから振り向いて、気軽に言った。「どうやら、ぼくらのちょっとした議論も峠に達したようだから、この寝室の女主《おんああるじ》があわてふためいて帰ってくる前に、ここを立ち退いたほうがいいらしいな。そうしよう、カーク君」
「いいとも」と、カークがふくみ声でいった。
エラリーはドアをおさえて、カークを出してやってから灯を消した。あたりには人影もなかった。ふたりは、ちょっと立っていた。
それから、ドナルド・カークが「じゃあ、失敬」と、疲れきった調子で言い、一度も振り返らずに廊下を、階段のほうへよろよろと歩み去った。
エラリーは、カークのしょんぼりした肩が見えなくなるまで見つめていた。
それから全くさりげない身ぶりで振り向き、後の曲がり角のあたりを、目のすみで鋭く、うかがった。そこにはなにか……いやなにも見えなかった。
たっぷり五分間、エラリーは身動きもせずに、その場に立っていた。誰も角を曲って来なかったし、廊下の遠いはてから、こっちを見る者もいなかった。エラリーは耳をすまし、眸をこらした……しかし、廊下は寺院のようにしんとしていた。
そこで、今度は、何のためらいもせずに合鍵をドアの錠にさしこみ、またすばやくリューズの住居に、ふたたびはいった。
しかし、闇の中にひとりぼっちでいながらも、なにか気にかかるものがあった。たしかに、だれかを見たような気がするのだ。そして、その人物の足首が細いようだったから、二人がアパートから出るのを見張っていたのは、あるいはジョー・テンプルだったかもしれないと思った。
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十四 パリから来た男
アイリン・シーウェル、別名リューズは、午前二時に、ワルツを口ずさみながら、足どりも軽く、アパートにもどって来た。警察で数時間も、根ほり葉ほり調べあげられた女らしいところは、さっぱりなかった。
腕には小さな茶色の紙包みをかかえていた。
「ルーシー」と、陽気に大声で呼び、その声は客間にひびいた。だが返事がないので、ミンクのコートを床にするりとぬぎすてて、居間にはいって来た。灯りをつけて、鼻唄をつづけながら、大きな茶色の目でゆっくりと、あたりを見まわした。ふいに鼻唄がやんだ。その大きな美しい顔に不審の色がうかんだ。第六感で、なにか変だと感じたのだ。なにが変なのかは分からなかったが、しかしたしかに……目がもえ上り、大股で進み出ると、寝室のドアをさっと開けて、ぱっと灯りをつけた。
エラリー・クイーン氏がビロード張りの椅子に腰かけて、ドアのほうを向き、微笑しながら、ゆったりと足を組み合わせていた。肘のそばには、すいがらの溢れた灰皿が置いてあった。
「まあ、クイーンさん。これはいったいどうしたことですの」と、リューズはのどにからむ声で訊いた。
「お帰りなさい、リューズさん」と、エラリーは楽しそうに言って立ち上った。「お仕事はどうでしたか。話はそう面白くなかったでしょう。陳腐な話、そう思いませんでしたか」
「答えていただきましょう」と、鋭い声で「真夜中のこんな時刻に、私の寝室で、なにをしていらっしゃるの」
「とおっしゃると、もっと早い時刻なら、かまわなかったとおっしゃるんですね。どうもありがとう……」と、エラリーは細い腕をのばして、そっとあくびした。「ずいぶん長く待ちましたよ、リューズさん。ぼくの父のもてなしぶりが、とてもお気に召したんじゃないかと、思いはじめるところでしたよ」
リューズはそばの椅子の背をつかむと、突然仮面をぬぎすてた。腕にはまだ包をかかえていた。「すると、あれは手《ヽ》だったのね」と、ゆっくりいった。「警視さんはカークさんの宝石を私に返して、つべこべ訊問してたけど……」リューズは家具を見まわして、かきまわされた形跡をしらべていたが、化粧台の一番下のひき出しがひらかれているのを見ると、ちょっと目を見張った。「すると、あなたはあれを見つけたのね」と、いまいましそうに言った。
エラリーは肩をそびやかして「手抜かりでしたね! あなたのような経験のゆたかな女性は、もっと分かりにくい隠し場所を択ぶだろうと思ってましたよ。そうです。見つけましたよ。だからこうしてひどく眠くなる椅子に坐ってがまんして待っていたんです」
女は、なにを言っていいか、どうしたらいいかとっさに分からないらしく、妙におぼつかない足どりでエラリーのほうに進み出た。「それで?」と、やっとつぶやいた。そして女は妙な足どりで、化粧台のほうへそれて行った。
「おっと、二二口径は、もうそこにはありませんよ」と、エラリーが行った。「だから、腰かけたほうがいいでしょうよ、リューズさん」
女はちょっと青ざめたが、なにも言わずに、おとなしく引き返して長椅子のそばへ行き、がっかりしたように坐り込んだ。
エラリーは考えながら絨毯の上を歩きはじめた。「最後の時になりましたね――あの不朽の|せいうち《ヽヽヽヽ》の文句じゃないが――根本的な問題を話し合う時に。あなたは、ずっと火あそびをして来ましたがね。今やその代価を払わねばなりませんよ」〔ルイス・キャロルの「鏡の中のアリス」に出てくる、せいうちの言葉〕
「どうしろとおっしゃるの」と、女はしゃがれ声で訊いた。その声は反抗的ではなかった。
エラリーは油断なく女を見つめた。「情報と釈明ですね……実を言うと、ぼくはひどく意外だったばかりでなく、あなたには少し失望しましたよ、アイリンさん。本能的にあの小さな二二口径を手にしようとしただけで、それ以上の抵抗をしようとしないんだからな。ちえっ! ちえっ! この勝負はおとなしくしているほうが勝だと肚をきめたんでしょう」
「なにも言うことはないわよ」女は椅子の背によりかかった。すると夜会服のひだが長い、くっきりした曲線をえがき出した。「あなたの勝よ。私、ばかだったわ。|しょうがないわ《ヴオーラ》」
「どうも、紳士としては、本意に反するのですがね」と、エラリーが小声で「そうらしいですね。あなたは、間抜けだっただけではなく、犯罪者としても手抜かりでしたよ、アイリンさん。こんな大事な手紙を、むぞうさに寝室に置いとくなんて! なぜ壁金庫に入れておかなかったんですか」
「壁金庫や普通の金庫では、人がまず目をつけますものね」と、リューズがぎこちなく微笑した。
「デュパンの原則〔ポーの「盗まれた手紙」の中のトリック。人目につきやすい所がかえっていい隠し場〕ですか」と、エラリーは肩をしゃくって「それに、また、あなたのような人は、銃《ガン》に信頼をおきすぎますね。二二口径で十分身が守れるとでも思ってるんでしょうね」
「私はいつも」と、女がつぶやいた「ハンドバックに入れて歩いているのよ」
「ところが今夜は、本庁に出頭するので、もちろん、その物騒な宝石はおいていったわけなんですね。そりゃそうでしょう。こりゃ少しぼくの早合点かな、アイリンさん……さて、もうかなり夜更けですね。こうして|tete-atete《テタテート》〔さし向い〕をたのしむのもいいけれど、ぼくは実はもっと眠りたいんですよ。ところで」と、急にきびしい口調になって「なぜ、シーウェルからリューズに変名したんですか」
「面白い変名でしょう」と、女は朗らかに言った。
「リューズはシーウェルを、あべこべに書いたものですね。そのことは、承知の上ででしょうね」
「ええ、そりゃ。もちろんよ。それがどうかしたんですの……」女はあわてて坐り直した。「まさかあなたはそれを――そんなつもりじゃ――」
「ぼくのつもりや考えは、どうでもいいです。ぼくは捜査機構の中のひとつの歯車にしかすぎないんですからね」
「でも変名を使ったのはずっと以前のことで――もう何年にもなるのよ」と、女はむきになって「ちかって言いますけど――今度の事件には、ほんの少しも関係があるはずがないわ、私の名前とそのあべこべと――」
「そのことはいずれ分かりますよ。さて、リューズさん、目下の仕事を片付けましょう。ぼくはこれらの手紙と証明書の写しを見つけ出しました。だから、あなたが小さな火遊びをして、その勝負に負けたなどということを改めて説明する必要もありませんね」
「それを持っていることは――つまり、それは専門用語では証拠書類というのでしょう、クイーンさん――」と、女は急に目をかがやかせて「そのことは単に事実を証明するだけじゃありませんか。それをとり上げてもあなたは私の頭から、事件に関して私の知っていることを消し去ることはできませんのよ。それに、ドナルド・カークさんは、私が静かにしていることをきっと切望しているはずですわ。その点をあなたはどうお考えですの?」
「やっと抵抗のお目覚めだ」と、エラリーはくすくす笑った。「また見当ちがいですよ。法廷ではあなたの言葉は――なにしろ長い前科のあるひとなんだから――ぼくの言葉にあったらひとたまりもありませんよ。ぼくがこれらの書類をあなたの持物の中から見つけたと証言すればね。それにカーク君は、その書類がもうあなたの手にないことを知れば、得たりとばかり、あなたが脅迫したことを証言するでしょうからね。そうなれば――」
「おお」と、女は微笑して立ちながら、長い白い腕をのばして「でも、あの人はそんなことはしやしませんよ、クイーンさん」
「なかなか抵抗がつづきますね。あなたをばかだと言ったことを取り消しますよ。あなたが書類を持っていようといまいと、カーク君はただあなたが沈黙を守ってくれることだけを切望している、もし捕縛、裁判ということになれば、カーク君には法廷でのあなたの陳述を防ぐ手がないとでも思っているんでしょう?」
「頭がいいわね、クイーンさん」
「まあ、まあ、お世辞は結構ですよ。ところでひとつ反証をあげることにしますかね」と、エラリーは無造作に言った。「いよいよ法廷で対決ということになれば、どっちみち、話は明るみに出ます。そして、どうせ明るみに出るのだし、出るのを防ぐ力がないと観念すれば、カーク君は、復讐心にもえて、夢中になって、あなたに不利な証言をするでしょうよ。そうなれば、あなたの魅力的な肉体を鉄格子の中に――醜悪なアメリカの鉄格子の中に――何年も何年も何年もとじこめることになるでしょうね。それをどう考えますか、アイリンさん」
「よく分かりましたわ」と、女はささやきながら、すりよって「つまり、取引をお申し込みになろうというのね。申し合わせて沈黙を守ろうとおっしゃるのね、クイーンさん。私が沈黙を守れば、そのかわりに告発しないとおっしゃるんでしょ」
エラリーはおじぎをして「もう一度あやまりますよ。あなたのもの分かりのよさを見くびっていたようですね。ぼくの提案はまさにその通り……ところで、たのみますから、そんなに近付かないで下さいよ。ぼくもこれで、かなり自制心の強うほうですが、今はどうもぐらついていますからね。ぼくだって人間ですよ。午前二時なんて時刻には、ぼくの道徳的抵抗力も一番弱ってますからね」
「私あなたが好きになりそうだわ――とっても、クイーンさん」
エラリーはため息をして一歩さがった。「ああ、メー・ウェスト流ですね。こりゃ、どうも。ぼくはいつも言うんですがね。ハメットやウィットフィールズが、探偵というものは自分のセックス・アピールをほしいままにするチャンスが無限にあるように思い込んでいるらしいが、あれは大まちがいだってね。ところがどうも、この分ではぼくの言い分がまちがっていたらしいな……ところで、さっきの件は同意してもらえますかね、リューズさん」
女は冷ややかに見つめながら「同意しますわ。それに、私はばかでしたわ」
「とにかく、とても魅力のあるおばかさんですよ。かわいそうに、カークは、あなたには、かなりひどい目にあったようですね。ところで」と、エラリーは、唇の微笑とは似合わぬ鋭い目付きで、ささやいた。「あの男を、どのくらい知っていたんですか」
「どの人ですの」
「パリから来た男ですよ」
「おお」と、女はまた仮面をかぶった。「大してよくは知らないわ」
「でも会ったことはあるんでしょう」
「一度だけよ。でもそのときあの人はひげぼうぼうで――本当にひげを生やしていたんですよ、本当よ。そして、あの手紙を売りつけたときにはぐでんぐでんに酔っていましたわ。手紙とお金をとりかえるとき、会ったきりです。その時だけよ。その前の交渉はいっさい文通でしましたからね」
「ふーん。リューズさん、あなたは先日、階上で、あの死体の顔を見たでしょう」と、エラリーはちょっと言葉を区切り、それから、ゆっくりつづけた。「パリから来た男が、階上で殺された男だというようなことはないでしょうか」
女はあっけにとられて、たじろいだ。「まさか――あの小男が……まさか、そんな」
「どうなんです?」
「知りませんわ」と、女は唇をかんで、あわてて言った。「知りませんわ。なんとも言えませんわ。ひげがないと……なにしろ顔がかくれるほどのひげでしたものね。それに、とてもみすぼらしくて、きたなくて、おちぶれてたんですもの。でも、もしかすると……」
「ああ」と、エラリーが肩をしかめて「もっと、はっきり認定してほしかったんですがね。どうやら確信はもてないようですね」
「ええ」と、女は考えこみながら「とても確信は持てませんわ、クイーンさん」
「じゃあ、これで失礼します、ゆっくりおやすみなさい」エラリーは急いで外套をとって、着た。女はなおも部屋の中央に立って、まるで衣装をつけた木よろしく、じっと考えこんでいた。「おお、そうだ。うっかり忘れものをするところだった」
「なにかお忘れもの?」
エラリーは長椅子に歩みよって、茶色の紙包をとり上げた。「ドナルド・カーク君の大事な骨董品です。こりゃ、どうも。これを忘れて行ったらたいへんな手ぬかりになるところでしたよ」
女の顔から血の気がひいた。「まあ、あなたって」と、とがった声で責めた。「それまで、とり上げるつもりなの。あなたは――あなたはどろぼうよ!」
「ほう、とても美しいな。おこると美しくなりますよ。だが、まさかこれをあなたに残して行くとは思っちゃいなかったでしょう」
「でも、それじゃ私はすっからかんよ――なにも残らないじゃないの!」女は泣かんばかりに怒っていた。「こんなに、いく週もいく月もかけて、お金もかけて……こうなったらすっかりいきさつをばらしてやるわ。新聞にぶちまけて、世間にまきちらしてやるわ」
「そうして、あなたのこれから先の一生を、冷い灰色の壁にかこまれて、せまい独房の中で、過ごそうって寸法ですか。そのやわ肌を、ごわごわの木綿の下着にくるんで――言っときますが、獄衣はとてもごわごわですよ――それでいいんですか」と、エラリーは気の毒そうに首を振って「まさかね。あなたはたぶんまだ三十五じゃないですか――」
「三十一よ、けだもの!」
「こりゃ失礼。三十一ですか。すると出て来るころには――たぶん――そうそう、あなたの場合前科も多いんだから、刑期は――」
女は長椅子に身をなげ出してあえいだ。「おお、出てってよ」と大声で「出てって! さもないと目をくりぬくわよ!」
「まあまあ、ご近所が目をさましますよ」と、エラリーは、おどろいてみせてから、微笑しておじぎをし、紙包みを腕にかかえて出て行った。
エラリーはチャンセラー・ホテルのロビーで、ホテルの専用電話にいきなり手をのばして、夜勤の事務員をびっくりさせた。
「もしもし」と、夜勤が大声で「なにをなさるおつもりですか。もう二時半に近いのをご存知ないんですか」
「警察だ」と、エラリーが重々しく言うと、男は、口をあんぐりあけて引っ込んだ。エラリーはホテルの交換台に小声で「二十二階のドナルド・カーク君をつないでくれたまえ。そう、重要な用件なんだ」エラリーはたのしそうに口笛を吹きながら待っていた。「誰だね。おお、ハッベルか。こちらはエラリー・クイーンだ……そう、そうだよ、クイーンだ。ドナルド・カーク君はいるかね……そうか、じゃあ起こしてくれ……ああ、カーク君……いや、いや、大したことじゃないよ。実は、いい報らせがあるんだ。こんなとんでもない時間に起こしたが、君の喜ぶことなんだ。君に上げたいものがあるんだ……ちょっとした婚約のお祝いと言ってもいい……いや、いや、ホテルの事務所に君あてに言伝けていくよ。それから君に言っとくがね、カーク君、君の心配事はきれいに片付いたよ。|M《マー》のことだ、ぼくの言うのは……そうさ。そうだよ、そんなに大声を出すなよ、耳がいたいぜ、君。それにI・L嬢に関するかぎり、あの雌虎の爪を永久に切っといてやったからね。今後は二度と、君を苦しめないだろうよ。いい子だから、もうあんな女に近付かないで、ジョーという女性に――運がいい奴だぞ、君は――専心するんだな。おやすみ!」
それから、くすくす笑いながら、エラリーは事務員に小包をあずけて、チャンセラー・ホテルから出て行った。ひどくつかれてふらふらしたが、善行がひどくうまくいったと思うと、気分は爽快だった。
エラリーは、いつもの警視の朝食時間にテーブルに姿をあらわして、警視とジューナをびっくりさせた。その時間は本当に早朝なのだ。
「おや、だれかと思ったよ」と、老警視は、口いっぱいに卵トーストをほおばりながら、もがもが言った。「病気じゃないか、エル? どこか具合が悪いんでこんなに早く起きたんじゃないか」
「からだの調子はいいんですよ」と、エラリーはふちの赤い目をこすりながら、あくびして、うめきながら椅子に坐り込んだ。
「昨夜は何時頃帰った?」
「三時頃です……ジューナ、ローヤル・ウーフをたのむよ」
「ウーフ?」と、ジューナがけげんそうな顔で「それ、なんですか」
「なんでございますかと訊くもんだよ、ジューナ。八十七番街のこの辺の若い者とつきあってると、上品になれないぞ。ウーフというのは、フランス語の卵というのを、もじったいい方だよ、ジューナ。さし当たり、上等の卵をたっぷりたべたい腹具合なんだ。ひっくり返して、裏からたたいた奴、知ってるだろう――いつもの奴だ」
ジューナはにやにやして台所へ消えた。警視が大声で「どうした?」
「どうしたとは、お言葉ですね」と、エラリーは、つぶやきながら、たばこに手をのばした。「実にうまくいったと報告するのはうれしいですね」
「ふーん。なんの話か説明せにゃ分からんじゃないか」
「簡単に状況を説明すればこうです」と、エラリーは、椅子に背を持たせて、煙を吐いた。「ぼくはあのリューズという女を――色っぽいあばずれを――連れ出してくだされば、ちょっとばかりぼくの見込み捜査ができるんだがと、お父さんにたのみましたね。あの女はたしかにカークの弱点を握っていて――それをカークの頭の上でふりまわして、あの若い悩めるろばの口を封じ、それを取り戻すためなら残っている財産を吐き出してもいいという気にさせていたのです。ところで、あの女がカークの頭の上でふりまわしていたものはなにか? なにか具体的なものであることは、これまた明白です。そこでぼくは、今は亡びてしまった文学上の典型的ロココ・スタイル〔かざり気の多い古風な文章〕で、自問自答してみたんですがね。こういう場合、たいていは、あの女の持ち物で、しかも、あの魅力ある人物の身近かにある品にちがいない。すると場所は? もちろんあの女のアパートだ。なにしろずるがしこい牝狐ですから、保管金庫を使って記録を残すようなへまはしないでしょうからね。そこで――あなたにむりにおねがいして、あの女をセンター・ストリートに引っぱってもらい、あなたとおしゃべりしてもらっている間に、あの女の部屋に押し込みをかけたんです」
「また、家宅捜査状なしだな?」と、警視があきれ返って「これで二度目だぞ、ばか奴が。むちゃをしおるといつかは、とんでもない厄介ごとにまき込まれることになるぞ。もし、目当てのものがなかったらどうするんだ。それはともかく、見つかったか」
「たしかに、見つけました。センター街の通り言葉、クイーン父子に失敗なし、です」
「センター街のうわさなど、どうでもいい」と、老警視がうなった。「お前は、本庁でどういううわさが立っとるか心得ておけよ。それで、どうした」
「そうそう、言い忘れましたが、押し込みの最中、カーク青年とはちあわせしましたよ。どうやら、ふたりとも、同じような思いつきで押し込んだらしいですね――」
「なんだと!」
「そんなにびっくりした顔をするもんじゃありませんよ、お父さんらしくもない。あの気の毒な青年はやけになってたんです。すくなくとも、午前二時半まではね。ぼくは奴をベッドに追い返してから、リューズ嬢のアメリカでの巣にもどっていって見つけ出したんです――あの――書類をね。それから、あのすばらしい女性が本庁の訪問を終えて、巣に帰ってくるのを待っていたんです。お父さんは、お弁当でもとって、あの女をもてなしただろうと思ってましたよ。そこで、口はばったいんですが、あの女を改心させてやりました。信じられますかね。あの女はカークからまき上げた宝石まで返したんですよ」
「そこまで考えつくとは、お前の頭も相当なもんだな」と、警視がきっぱり言った。「あれを、あの女に渡さなければならなかったのは、とても辛かったよ。さ、さ、そいつを見せてもらおう――そのう、なにか知らんが」
「それがとてもおかしなことで」と、エラリーがのんびりと言った。「どこに置いたのか、てんでおぼえていないんですよ。昨夜は、とにかく、ひどくねむかったんでね――」
老警視がにらみつけた。「なんだって――おい、エル、ふざけるのもほどほどにしろ。その書類をわしに見せるんだ」
「きっと」と、エラリーは落ち着いて「見ないほうがいいですよ。内容はお話しますが、証拠物件はこちらで保存しておきます」
「だが、いったいなぜわしに渡したくないのだ」と、警視がどなった。
「だってお父さんはとても職務に忠実だからですよ。やっぱりぼくの手許に置いておきましょう。そうすれば、世にも哀れな悲しい物語を、明るみにひき出す誘惑に負けないですみますからね」
警視はしばらく、ぶつくさ言っていた。「実になまいきな若造だな。もう少しわしの役に立つかと思っとったら……じゃあ、まあいい、話して見ろ」
「まず確約をしてもらわなくてはなりません」
「確約だと!」
「絶対二人だけの話ですよ。他に洩らさないで下さいよ、誰にも――新聞にも、長官にも、副総監にも」
「おいおい、大した話らしいな」と、警視が皮肉まじりに「よし、約束する。さあ、いったいどういう話なんだ」
エラリーは考え深そうにたばこをふかして「マーセラ・カークのことなんです。ちょっと泣かせる悲劇なんですよ。それに、リューズというような女|禿鷹《はげたか》が汚いくちばしでほじくり出すには、もってこいの話です。マーセラは見かけほどのおぼこじゃないんです。数年前に――まだ社交界に出る前に――ひとりの男に出会ったのです。その男はどうやら――アメリカから国外追放になっていたか――なっている奴で、そのころはほとんどパリで狼どもと一緒に過ごしていたのです。ところが、マーセラはそいつとニューヨークで出会って恋仲になったのです。男は明らかにマーセラの父親になってもいいほどの年配なのに、マーセラはひどく夢中になってしまった。男はそこにつけこんだのです。とにかく、カークの金に目をつけたんでしょうが、マーセラを連れ出して、グリニッチ〔ニューヨークの芸術家の町〕で、こっそり結婚してしまったのです」
「それで?」と、警視がうなった。
「どころがドナルドはもう取り返しがつかなくなるまで、まるっきりその男の存在に気がつかずに、全く放任しておいたのです。その男は通称、カリナン、ハワード・カリナンと言う奴です。カークは、熱心にしかも秘密に調査して、カリナンがすでに結婚していてパリに妻がいることをつきとめました」
「そりゃあ、また」と、警視が言った。
エラリーはため息をして「それが実に厄介な話なんですよ。他の者はだれひとり知らなかったらしいんです。カーク老博士さえね。ドナルドはマーセラがグリニッチにひとりぼっちでいるのをつきとめて――男はどこかへ行って留守でした――調べ上げたことをマーセラに話して聞かせて、死にたいと言うあわれな妹を連れもどしたのです。カリナンは相当面の皮の厚い奴らしく、カークが重婚で訴えるよりも事件のもみ消しにかかるだろうとずるがしこくも見当をつけたのです。そして、この下劣ないざこざの結末は、カークがその男に相当の口どめ料を払ってけりがついたのです」
「そう、それにしても――」と、警視が毛虫眉をしかめてつぶやいた。
「フッフッ。このあとがもっと悪いんですよ。月なみな話ですがね。ここまでだって、ずいぶん悪いにゃちがいないですがね。ところでマーセラは、ふたりが駆け落ちする前と同じように、こっそりとカリナンに手紙を書きつづけていたんです。とてもやけになって、頭が狂い、自殺寸前だったのです。実際はどんなことになっているのかを、兄にさえも話すのがこわかったのでしょうよ」
「おお」と、警視が低い声で「妊娠《にんしん》してたのか」
「そうです。それで話ががらっとかわったのです。むろん、カリナンは女から手を引いてしまいました。マーセラの妊娠は、奴にとっては事がうるさくなるだけです。奴はもらうだけのものはもらってしまったし、金だけが目当てだったのですからね。そこで、マーセラは、みじめなことになって、やっとドナルドに事情をうち明けたのです。気の毒なカークの気持ちも分かるでしょう」
「その下司《げす》男ののど笛をかき切っても、わしはなにも文句をいわんぞ」と、警視がうなった。
「こりゃ妙だ」と、エラリーが変な微笑をうかべながら「ぼくと同じ意見ですね……とにかく、ドナルドは、マーセラが神経衰弱になったという口実で家族や友人の手前もつくろい、あのアンジニという医者に事情を話して――あの医者はたいへん老人でもあり信頼できる人だったので――医者とカークの二人でマーセラをヨーロッパに連れて行ったのです。あの立派な医者が万端の手配をうまくやって、マーセラは向こうで赤ん坊を生んだのです。ところが、あいにく赤ん坊は生まれつき丈夫で、今もヨーロッパで、信頼のおける乳母《うば》の手で育てられているのです」
「そいつだな、シーウェルがカークの首根っこをおさえている点は」と、警視がつぶやいた。
「相当な弱みですよ、ね。首絞め人種どもが大手をふれるたねですよ。……それを、あの女がどうしてかぎつけたか分かりませんが、とにかく見つけたんですね――たぶん、暗黒街の仲介者の手を通したもんでしょうが――そうして、パリにまいもどってあっぷあっぷしていたにちがいないカリナンと交渉してマーセラの手紙と結婚証明書を買い取ったのです。その手紙には、たまたま事のいきさつを完全に推定できるだけの話が書いてあった……そこでアイリン・リューズ嬢は、ドナルド・カークをとことんまでしぼり上げるだけを目当てに、わざわざフランスから海を渡って、チャンセラー・ホテルに乗りこんで来たわけです。その後の出来事もちょっとした物語です。かわいそうにカークはうまうまとひっかかった――」
「むろん、マクゴワンもな」と、老警視が暗い声でいった。
「そうですよ。それはともかくとして、やがてマーセラは若さの力で、もと通り元気になり、彼女の暗い過去をだれひとり疑う者はいませんでした。そして、あのいやなおそろしい出来事をほとんど忘れかけました。そこへ、カークの親友のマクゴワンがあらわれて、ドナルドに美しい年頃の妹がいることにふと気がついたしだいです。かくしてロマンスは発展し、ふたりはめでたく婚約という段取りになりました。次の場合は、リューズという女があらわれて、カークがのっぴきならぬ立場にはまり込んだというしだいですよ」
「マーセラ・カークは、その間の事情を知らなかったのかな」
「ぼくの考えるところでは、おそらく夢にも知らなかったでしょうよ。手紙の内容からみると、マーセラは、良心と屈辱に責められて、半気違いになっていたようです――つまり妊娠中はね。そこでまた面倒がおこれば、マーセラを駄目にしてしまうと、カークは思ったんでしょうよ。それにマクゴワンは、なるほど常識を心得た人物ではありますが、根は清教徒的な精神の持ち主だし、保守旧弊な家庭の出身で、ちょっとでもスキャンダルの匂いをかぎつけたら、きっと婚約の破棄を主張するでしょうからね。気の毒にカークは全く手づまりだったんですよ」
「それで、シーウェルにダイヤをまき上げられたんだな」
「ゆすりですよ。あの女にとっては思いがけない収穫だったんでしょうが、とにかくうまくやったわけです。悪くないですものね。あの女は、宝石詐欺の専門だし、おそらくアムステルダムの≪故買商≫と関係があるでしょうしね……ドナルドは、こんなわけで、収集した宝石の一部をあの女にやらなければならなかったのです。と言うのが、あの場面にあの女がとびこんで来たとき、ドナルドは運悪くもひどく金づまりの時だったんですからね。有り金を全部かき集めてあの女にやり、現金が手づまりになったので――ドナルドは絶体絶命でマクゴワンから借金さえしていたんです――そこで収集した宝石の一部を与えなければならなかったのです。ぼくに言わせればあの女がとりこんだものは相当なものですよ。でも、それはお父さんにも分かってるでしょう」
「それから、あの女は、なにか手ちがいが起こったときに身をかばうための、あの手紙を、いやおうなしにカークに書かせたんだな」と、警視は考えこみながら言った。「抜け目のない奴だ。あの手紙の中でカークがあの女に求婚したようにしてあるのは、将来のための、ちょっとした抱き卵だったんだろう――もしあの男が経済的に立ち直れば、婚約破棄で訴えるとおどすつもりだったのだな。ところが殺人があって警察がそこらをかぎまわり始めると、あの女は少しおじけづいて、気前よくカークを新しい恋人に渡すことにしたんだ。そうだ、そうだ。ところで、これからどうなるかな」
「殺人事件についてですね」と、エラリーがつぶやいた。
「そうだ」
エラリーは立って窓のところへ行き「分かりませんよ」と、当惑顔に「本当に分からないんです。てんで考えようがない――」
「そうだ」と、警視が、ひどく興奮して椅子からとび立った。「おお、なんてばかなんだ。いいか、聞けよ、エル。こいつをきくんだ」警視は頭をたれ、後手を組んで部屋を歩きまわった。「ひょいと思いついたんだ。それで辻褄《つじつま》が合う。うまいぞ。いいかチャンセラー・ホテルでばらされた奴は、マーセラ・カークのボーイ・フレンドにちがいないぞ」
エラリーがゆっくり言った。「幽霊をつきとめた。そう思うんですね」
「そうさ。どんぴしゃじゃないか」と、警視は細長い腕をふりまわした。「まずすかんぴんの男がいる。その奴の消息がこっちではわからん。ところで、マーセラの男はパリでごろついていた。そうだこりゃありそうなことだぞ……奴はカークをしぼるつもりでこっちへやって来た。下船してすぐカークのところへ来る。あの日フランスから一隻来てる……奴はせっぱつまっていた。奴がそれまで敬遠していたのは、マーセラが子供を持っていたからだ。それだけさ。だが奴はひどく金に困っていたから、もう一度よりをもどそうと思ったんだ。それで、チャンセラー・ホテルへ行ってカークに会おうとした……どうだ」そこで警視は顔を伏せて「だが、その男なら、カークに見覚えがあるはずだな。おそらく――」
「妙な話ですがね」と、エラリーが小声で「カークはカリナンにあったことはないんです。カークは郵便で奴に金を払ってたんです」
「だが、マーセラがいる……あの娘は死人をちらっとみただけで気を失ったと言ったな」
「ええ。でもあれはただショックを受けただけでしょうよ」
「と同時に、もし奴がパリにいた男なら」と、警視は考えこみながら、押し殺した調子で「マーセラは当然口をつぐむさ。当然知らんふりをするさ。シーウェルという女も、カリナンを見知らんのかな」
「一度会ったことがあるが、そのときはとてもひどい状況だったといっていますよ。なにひとつ確かなことは分からなかったそうです。いかにも、ありそうなことですね。その点は疑う余地がないでしょうね」
「これでいいんだ」と、警視が凄みをおびた微笑をうかべた。「これでいいんだ、エル。これで話の辻褄が合う。今度のいまわしい事件で、わしは初めてぶち当てた感じだ――ネン――ネン――そらなんと言ったかな」
「粘着性ですか」
「そいつだ。万事、すっかり結びつく。これで強力な関連が立証できるから――」
「理論上はね」と、エラリーがそっけなく言った。
「そうさ。あの死んだ風来坊と他の連中のほとんどが、こいつで結びつく。連中のうちのほとんどどれにも、動機がある。水晶のようにはっきりしている」
「そうでしょうかね」
「そうさ。たとえば、あの気の毒な青二歳のドナルド・カークだが、奴はあの日の午後ホテルにいた――シーウェルの女《あま》に話をもちかけられて会っていたにちがいない。カークはおそらく――パリから来た例の男――カリナンが上で待っているか、会いに来るのを知っていた。そこでこっそり二十一階から階段を上り、邪魔がないのを見すまして、あの控え室に忍びこみ、カリナンをばらして引き返した……次にマーセラをとってみよう。これも同じだ。次に|せいうち《ヽヽヽヽ》老人《じじい》のカーク博士もだ。みんな同じ理由を持っとる――カリナンの口を封じる理由を。もちろん、ドナルドとマーセラ以外の連中は、マーセラの恋愛事件を知っている二人の人間が、世間をうろついているのをだれも知らなかった」
「それで、マクゴワンは?」と、エラリーはたばこを横目で見ながらつぶやいた。
「あの男にも可能性がある」と、警視はむきになって言った。「なにかのきっかけでマーセラの話を知っていたのに知らないふりをしていたのかもしれんぞ。もっと勘ぐって見ることもできる。案外あの男はカリナンの口から聞き出していたのかもしれんぞ。たとえば、カリナンが新聞でマクゴワンとマーセラの婚約を見て、すぐに、脅迫状をよこしたとしたらどうだ?」
「すばらしい」と、エラリーが言った。
「そこでマクゴワンは|あいつ《ヽヽヽ》を海の向こうから呼びよせて、殺してしまう――」
「親友の部屋でですか」と、エラリーが首を振った。「筋が通りませんね、お父さん。あんな仕事をするのに、まさかあすこを選ぶはずはないですよ」
「そうか、じゃ、よろしい」と、警視は不服そうに「マクゴワンは除外するとしよう。だが、リューズまたはシーウェル、名などはどうでもいいが、あの女にも動機はある。あの女は、殺人のあと、あの事務室にあらわれているな? どうだ、一種のごまかしのためにそうしたとは思えんか。あの午後、あの女が二十二階にいたことはたしかだ。あの女はあの控え室でカリナンを見かけたのかもしれんし――奴がどんな人相だったか覚えていないと、嘘をついとるのかもしれんし――奴の口から、カークか、マクゴワンか、だれかを脅迫する計画があるのを知ったのかもしれんぞ。とすると、どうなる。当然あの女は、奴に甘い汁をすわせないためか、自分の獲物を横取りさせないために奴を殺す、というのはどうだ」
「大したものですよ」と、エラリーがつぶやくように「他の連中についてのあなたの仮説と同様にね。古くさい言い方をすれば、どうやら、叙情詩的動機という奴をつかんだらしいですね。しかし、ちょっとした材料だけで、あなたの言う動機なるものを根底からひっくり返すことができるんですよ」
「なんだと?」
「犯人があらゆるものをあべこべにした事実と、それに」と、エラリーは考えこみながら「もうひとつ、つけくわえれば犯人がインピ族の槍を被害者の服に突きさしている事実です」
「なるほど、そうかもしれんが」と、警視は腹立たしそうに「犯人がなぜそんなばかげたことをしたか、たとえその理由が分からないとしても、それがわしの理論を崩すことにはならん。それどころかそれでもなお、正しいかもしれんぞ」
「そうも考えられますね」
「だがそうは考えんのだろう?」
エラリーは八十七番街の空を眺めながら「時々、真相のはしくれらしいものが、ちらちら見えかけるんですがね。いまいましいったらありゃしない。まるで闇の中で濡《ぬ》れている石鹸をつかもうとするかのように、どうしてもうまくつかまらないんです。あるいは、たしかに見たが思い出せない夢みたいなんです。ぼくに今言えるのは、そんなとこですよ」
二人はかなり長い間、黙り込んでいた。ジューナが台所のストーブで元気いっぱいに、かたことやっていた。「ウーフ(卵)か」と感心して大声を出した。
警視が意地になって「わしにはお前のいうそのちらりと見えるものなんぞ、信用できん。確実なものでなくちゃいかん。エル、いいか、こいつこそ今度の事件で初めてつかまえた確実な手がかりなんだぞ」それから電話のところへ行き、警察本部の番号をかけた。「もしもし、こちらはクイーン警視だが、わしの書記を呼んでくれんか……おお、ビリイか。いいか、すぐに、パリの警視総監に打電してくれ。書きとってくれ。本文。≪パリ在住と思えるアメリカ人、ハワード・カリナンの詳報を送られたし。検認のために写真電送す≫わしの署名にして、大至急だ……なんだって?」
警視は急にとび上るように、受話器にしがみついた。その小さな鋭い目にさっと驚きの色がうかんだ。
窓ぎわにいたエラリーが眉をしかめて、振り返った。
老警視はかなり長い間、耳をかたむけていたが、やがて、どなった。「うまい。よし分かった。すぐ手を打たにゃならん」と、通話を切り、気ぜわしそうに交換手を呼んだ。
「どうしたんです?」と、エラリーが不思議そうにたずねた。
「もしもし、チャンセラー・ホテルの受付につないでくれ。……邪魔するな、エル。とうとう大ものが割れたぞ。支度をしろ。早いとこ、ずぼんをひっかけろ」エラリーは目をむいて、ものも言わずに、寝室にとびこみながら、部屋着をぬぎすてた。「もしもし。チャンセラー・ホテルの受付係かね。こちらは、警察本部のリチャード・クイーン警視だ。……殺人課のヴェリー部長がそこにいるだろう?……そりゃよかった、電話に出してくれ……おい、トマスか。クイーンだ。いいか。今、本部から急報があった。メッセンジャー・ボーイをあげちゃいかん……駄目だ、いかんと言っとるんだ、うどの大木めが。そいつにちゃんと仕事をやらせるんだ。……つべこべきかんでいい、あほう奴が。電報会社の分室のほうを調べて、そのボーイが一味とぐるの人間かどうかたしかめただろうな。……よし。じゃこうするんだ。そのボーイに鞄を渡すんだ。見たところなんでもないようにしてな。それから、指令通りにさせて、グランド・セントラル〔駅名〕に持って行かせろ。きっとそこで相手と落ち会うんだろう。こちらはボーイを尾行して、鞄を受けとる奴をひっくくる。うまくやれよ、トマス、これでけりがつくかもしれんぞ。……いや、駄目だ。鞄をしらべたりして手間どっちゃいかん。なあに大丈夫だ。ボーイを下手に引きとめて長びかすと、相手が怪しむ。……そうだ。すぐかかれ! わしは十五分以内に、グランド・セントラルに着く」
警視は受話器をたたきつけて、大声で「支度はできたか」と叫んだ。
「なんてこった」と、エラリーが寝室で息をきらせながら「ぼくをなんだと思ってるんですか――消防夫じゃあるまいし。いったい、どうしたんです」と言い、居間の入口に姿をあらわした。見れば、靴のひもはまだ結べていないし、ズボンつりはぶら下がっているし、シャツのボタンはかけてないし、ネクタイは手に持っていた。ジューナが台所から、あきれて見ていた。
「帽子と上着を持って行け、車の中で着込むんだ」と、警視がどなりながら、エラリーを控え室のほうへひっぱって行き、「さあ来い」と、ドアをとび出した。
エラリーはしめつけられるような声を立て、オックスフォード型の靴の舌皮をぱたぱたさせながら、後を追って駆け出した。
「このウーフはどうするんですか?」と、ジューナが、うめくように言った。
しかし、階段をどたどたと駆け下りる足音の外は、なんの返事もなかった。
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十五 わな
パトカーが一台、歩道のそばでうなりを上げ、警官のひとりが歩道で車のドアをあけて待っていた。
「お乗り下さい、警視」と、えしゃくしながら、口早に「いましがた短波で、お迎えに行けと急報して来たんです」
「血のめぐりのいい奴がいて助かる。よくやったぞ、シュミット」と、警視が言った。「おい、ラフテリー。早く乗れ、エル。……グランド・セントラルだ。サイレンを鳴らしっぱなしにしろ」
車はシュミット警官を後にのこして歩道のわきをとび出し、片側の二輪を浮かすようにして角を曲り、南に向かってサイレンをけたたましく鳴らしながら疾走した。
「いったい」と、エラリーは父とドアにはさまれて、靴ひもを結ぶためにかがみこんで苦闘しながら、あえぎあえぎ言った。「なんだって、ワルキリーの伝令みたいにすっとばすのか、わけを話して下さいよ」
老警視はむっつりと前方を見つめたまま、すれちがう人や車の流れをながめていた。まるで、世間の車がみんな立ちどまつているようだった。ラフテリー警官は、すばらしい無頓着さですっとばした。車の中ではラジオがのんきに唄っていた。エラリーはうなって、いっそうかがみ込んだ。俗に言う間一髪で、ひとりの通行人をひき倒すところだった。
「話はこうだ。少し前に、電報配達が、チャンセラー・ホテルの手荷物預り所に預り証を差し出したんだ。ホテルで出している、正規の真鍮《しんちゅう》の合札だった。係が合札に示されている鞄を引っ張り出して来た。そうして、荷札をもぎとろしたとき、ふっと、思いだしたことがあったのだ。鉄砲豆をくったようでしたと、その男は言っとるが、ちょっと妙な鞄だったらしい――大きな、キャンバス製の旅行鞄で、お百姓が持ち歩くズックの古くさい奴だ――そこで、いつもモダーンな鞄ばかり扱っている係の先生、あんなことに気がついたんだな」
「まさかお父さんは――」と、エラリーがネクタイをいじりながら言った。
「話し中だぞ」と、警視がどなった。「その係が荷札におしてある日付を見ると、その鞄はかなり長く預り所にあったらしい――たいていは一時預けで――一晩ぐらいのものだからな――ところがその鞄はばかに日数がたっていた。しかも、預かった日付が殺人の日だったのだ」
「すると勘が当たったわけですね」と、エラリーは言い、ズボン釣りを肩にかけようとひどくもがきながら「なにか――」
「黙ってきけよ。話がききたいんだろう」警視はパトカーが急停車したキャデラックの前を稲妻のように、走りすぎたので、思わず首をすくめた。「とにかく、その係は、鞄を預けていった男を、ふと思い出したのだ――その男の顔は、昨日、刑事さんが写真を見せてくれたばかりですからねと言っとる。つまりトマスの部下どもが、わしの命令で全市の手荷物預り所を片っぱしから調べて、チャンセラー・ホテルにも出向いたのだ」
「すると、その鞄はたしかに殺された男のものなんですね」と、エラリーがつぶやくように言った。
「そうらしいな」
「すると、いったい、なぜその男は前に写真を見たときに被害者の確認ができなかったのでしょう。今日になって思い出すぐらいなら――」
「そりゃ、その男の言い分では、あの写真の顔にはてんで思い当たるふしがなかったそうだ。あのでぶのちび助のことをすっかり忘れとったらしいのだ。だが、鞄を引っぱり出しているときに、ふっと思い出したのだろう――」
「分からないこともありませんね、その点は」と、エラリーがつぶやいた。「さあ、とうとう乗り込んだぞ。ラフテリー、おい君、たのむから運転に気をつけてくれよ……重要な点は、連想のすきまを埋めるのには、その鞄が必要だったということ――つまり、あの男の写真を見ただけではすきまが埋まらなかったことですね。ふーん。さあ、つづけて下さい」
「そこで」と、警視が不服そうに「係は気の利く奴で、ボーイを待たせといてナイを呼んだんだ。そら、あのぷんぷん甘ったるい匂いをさせてる支配人のナイだ。ナイは自分ひとりでは、責任を取りたくなかったんだろう、ホテルの探偵のブランマーと一緒に係の話をきき、ブランマーが警察に電話をかけた。刑事連中がみんな町に出払っていたので、電話はトマスに取りつがれ、トマスがチャンセラーに駆けつけたわけだ。使いに来たボーイはその話しに間違いはないと言うので、トマスはボーイの勤めている電報会社の支店に電話で確かめた」
車は、サイレンの音で、機関銃のように行く手を一掃しながら五十九番街にとびこんだ。
「なるほど、それで?」と、エラリーはじれったそうに「で、電報会社の連中の話は?」
「支店長の話では、今朝早く、チャンセラー・ホテルの手荷物預り証と、タイプした手紙のはいっとる小包が、事務所にとどいたそうだ。封筒にはその手紙と五ドル紙幣がはいっていた。そして、手紙には、チャンセラーに使いのボーイをやり、合札で鞄を受けとり、グランド・セントラルの二階の旅行案内所の近くで、手紙の署名人に渡してくれと指示してあったそうだ。電報会社のお客サービスとかなんとか言うものだ」
「そりゃ、どうも」と、エラリーがうなった。「実に運がいい。どうせ署名はでたらめでしょうね」
「役に立たんだろう。≪ヘンリ・バセット≫とかなんとか署名してあるそうだが偽名だろう。それも手で書いたものじゃない。名前はタイプしてあるんだそうだ。奴は石橋をたたいて渡ってるらしいが、どっこいそいつが思いもよらん破目に落ち込んだわけだ」車はプラザを急旋回し、フィフス・アヴェニューを、うなりながら走り去った。行く手の道が魔法のようにひらける。「手荷物係の物覚えがよかったのが運のつきだ。さもなければ、とっくに鞄を持って飛んじまったろう」
エラリーはたばこに火をつけて、肩を楽な姿勢にしようと、もぞもぞしていた。「ヴェリーは鞄を開けてみなかったんですか」
「その時間がなかった。わしはそのボーイに、手紙の指示通り鞄を持たせてグランド・セントラルに行かせるように指令しておいた」と、警視は薄気味悪くにやにやして「たいして時間の無駄はしていない。任務についているのは私服ばかりだし、駅は人が混んどるから仕事は楽だ。トマスはなにひとつ手ぬかりがない。部下をひとり電報会社にやってその手紙を押収させた。――証拠物件だからな。絶対大丈夫だ。全部で三十分もむだにしてやあせん。うまく行くにきまっとる」
車は四十四番街を東に折れて、グランド・セントラル駅のタクシー乗降口に向かった。マジソンのたてこんだ往来も、くしが乱れ髪をすくように、パトカーの前に道をあけた。次の瞬間、ヴァンダービルド街を横切って、駅の自動車乗入れ口にはいって行った。警視の命令で、サイレンはフィフス・アヴェニューと四十四番街の角から消されていた。クイーン父子が警察自動車からとび出すのをぼんやりと見ていたタクシー運転手が二、三人いたが、なんということもなかった。警官ラフテリーは帽子のひさしにちょっと手を当てて、無邪気ににこにこしながら、車をとばして去った。クイーン父子は足どりも軽く駅にはいって行った。
まだ朝が早いので、グランド・セントラルの人の出入りは多くはなかった。大きな駅舎は、いつも通りの物音でざわめき、時々ぼやけた叫び声がこだました。出札口にはほとんど人影もなく、赤帽が走りまわり、はるか向こうの改札口でちょっとした人の群が待っていた。他の二つの改札口からは通勤客が流れ出ていた。
クイーン父子はヴァンダービルド・アヴェニュー側からゆっくりとした足どりで、大理石の階段を降りて行き、すぐに駅の中央の大理石の丸囲《まるがこ》い――旅行案内所――に目を吸いつけられた。すらりとした電報会社のボーイがあざやかな青い制服で、足許にほぼ三角形の汚れたキャンバスの大きな鞄を置き、案内所の北側で人待ち顔に立っているのが苦もなく見つかった。かなり離れた二人のところからでさえ、そのボーイがおどおどしているのがみてとれた。きょろきょろと頭を左右にふって見まわし、青い帽子の下の顔は緊張で青ざめているようだった。
「しょうがない奴だな」と、警視は階段を降りきると言った。「すっかりぶちこわしそうだ。猫みたいにびくびくしおって」二人は出札口のある南の壁ぎわのほうへぶらぶら歩いて行った。「目立たぬようにしたほうがいいぞ、エル。相手に見られないようにしたほうがいい。向こうだって用心しているにちがいない。きっとわしらを知っている奴だぞ。ちらっとでも見かけたら、一目散に逃げ出すだろう」
二人は四十二番街に面した中央口にぶらぶら歩いて行き、出入口の片側に静かに立っていた。そこからは、出入りする人目につかずに、出入口と、はるか向こうの案内所のデスクの前にいるボーイを完全に見張ることができた。
「ヴェリー君はどこですか」と、エラリーがたばこをふかしながら小声で訊いた。いつになく緊張して青ざめていた。
「心配するな、そこらにいる」と、警視がボーイから目をはなさずに言った。「それに、他の連中もいる。そら、ヘイグストロームはあそこだ。古いスーツケースを持っとる。案内所のそばに立って係員と話しとる。抜かりのない奴だ」
「何時に――」
「ボーイが少し早く来すぎたようだ。相手はいつ現れるかもしれんぞ」
二人はじっと待っていた。それがエラリーにとっては少なくとも永遠のように長く感じられた。
エラリーはおどおどしている青い制服のボーイから目をそらして、案内所の上にかかっている四つの金色の大時計のひとつを見つめていた。一分一分経つのが実に長かった。時というものがこんなにも長いものとは、かつて気がつかなかった。実に長くて、空虚で、気疲れがした。
警視は表情もかえずに見張っていた。こういう幕間劇にはなれていたし、多年の経験から、忍耐強くなっていて、エラリーにとっては多少たよりないと思えるような結果を期待してじっと待っているのだった。
二人はヴェリー部長を一度見かけた。巨人部長は階上の待合室の東側の壁の張り出しから、階下の光景を、こわい目で見下ろしていた。腰かけるか、うずくまるかしているらしく、下の二人からは、その巨大な姿がすっかりは見えなかった。
一分一分がのろのろと過ぎ、何百人もの人々が出入りした。ヘイグストロームが案内所から姿を消した。あまり長くぐずぐずしていてはまずいと思ったのだろう。しかし、すぐその代わりにピゴット刑事があらわれた。ピゴットも警視の班のベテラン刑事だ。
ボーイは待ちつづけた。
赤帽がそのそばを急いで往来していた。はっとするような幕間劇もあった。丸々として眠そうな犬をかかえている婦人が赤帽と口論をはじめたのだ。一度は、有名人がやって来た。小柄な女性で、胸に切りたての蘭の花をつけ、そうぞうしい記者やキャメラマンどもにかこまれていた。二十四番線の改札口でポーズをとり、微笑した。フラッシュの閃光が青く流れた。その女性は姿を消し、取りまき連中の姿も消えた。
ボーイは、なおも待ちつづけた。
その頃までには、ピゴット刑事は丸い案内所のそばから去って、リッター刑事が――その筋骨たくましく堂々とした姿をあらわし、葉巻をくゆらせながら――大声でごま塩頭の係員になにか話しかけていた。
もの静かなジョンソン刑事は、ぶらぶらと歩みよって、時間表をしらべていた。
そして、ボーイは、まだ待っていた。エラリーを爪をかみながら、時計を見上げた。もう百度目にもなるのだった。
空しく二時間半も経ったころ、警視は階上の張り出しにいるヴェリー部長に指で合図し、あきらめたように肩をすぼめ、一言も言わずに大理石の床をふんで、案内所のデスクにむかって行った。ボーイもさすがにあきらめきった様子で鞄に腰かけていた。キャンバスの鞄は、その軽いからだで、くしゃくしゃになっていた。ボーイは近づいてくるヴェリー部長をじっと見上げていた。
「どけよ」と、部長はがらがら声をかけて、ボーイをそっと押しのけ、鞄を持ち上げると、警視や、駅のいたる所から、ひょっこり現われ出た部下の一団と一緒になった。
「おい、トマス」と、警視は苦笑しながら「どうやら見込みちがいだったな。奴はおじけづいて逃げたらしいな」そして、興味深かそうに鞄を見つめた。
「そうらしいですな」と、部長が不景気に言った。「だが、どうして気付いたか、さっぱり分かりませんな。どこにも手抜かりはなかったはずですがね」
「そうさ。うまくやったよ、トマス」と、老警視は小声で「とにかく、後悔先にたたずだな」
「きっと子供だましですよ」と、エラリーが眉をしかめながら「奴はすぐに、わなに気がついたんですよ。最初からね」
「どうしてですか、クイーンさん」と、部長がかみついた。
「あとからとやかく言うのはやさしいさ。ぼくは二時間前にふと気がついたんだが、五ドル札に指示の手紙をつけて送った奴は、実に用心深く、背後にかくれていて、姿を見せないようにしていたのさ」
「それで?」と、警視が言った。
「そこで」と、エラリーが大儀そうに「奴はどうすると思いますか。運を天にまかせますかね」
「なにを言っとるんだ」
「おや、おどろきましたね、お父さん」と、エラリーがじりじりして「あなたが相手にしてる奴は、間抜けどころじゃありませんよ。奴がチャンセラー・ホテルの受付のあたりをぶらぶらしていて、配達ボーイが荷物の預り証を出しているのを見張ることぐらい、きわめてたやすいことじゃないでしょうかね」
ヴェリー部長がまっ赤になった。「しまった!」とくやしそうに「そいつには気がつかなかった」
警視は小さな冷い目に確信をこめながら、エラリーを見つめて「たしかに一理あるな」と、残念そうな声で言った。
「いまいましいな」と、エラリーが苦りきって「ぼくも実はそこに気がつかなかったんです。気がついたときは手おくれだった。すばらしいチャンスだったのになあ。しかし、どうも分かりかねるな……もちろん、奴は警戒はしていただろうが。ただ手落ちがないように確かめたかったにちがいないんだ。してみると、ホテルのロビーにいても安全な奴なんだな――」
「ことに」と、ヴェリーがつぶやいた。「あそこに住んでる奴なら、誰にもうたがわれない」
「それとも、ふだんあそこに出入りする奴ならね。しかし、それは肝心な点じゃない。奴の計画は、ボーイがチャンセラーで鞄を受け取るのを見張ってから、グランド・セントラルまで尾行するつもりだったにちがいない。そうすれば万事絶対安全だという確信が持てるでしょうからね」
「すると奴は、係がナイとブランマーを呼ぶのを見、トマスを見、刑事たちを見ていたわけだ……」と、警視は肩をすぼめた。「まあ、できたことはしかたがない。それでも鞄だけは手に入れたからな。本部にもどって一応調べてみよう。とにかく、まる損ではなかったわけだ」
エラリーがふいに頓狂《とんきょう》な声をあげたのは、下町に向かう途中だった。「ぼくはなんてまぬけなんだ。世界一の大ばかだ。これじゃ脳味噌を調べてもらう必要があるな」
「そりゃ、その通りだが」と、警視はそっけなく言った。「今度はなにを思いついたんだ。お前のその脳味噌の中を、のみみたいにとびまわっとるのはどんな考えだ?」
「鞄ですよ、お父さん。今、ふと思いついたんです。ぼくの頭の働きも年とともに、にぶって、大脳が硬化したらしいですよ。以前だったらこんなこと、事件発生と同時に思いついたんですがね……被害者がニューヨーク生まれでないらしいという事実から、手荷物があるだろうと推理したお父さんの論理は完璧でした。そして鞄を捜査させたこともね。だが」と、エラリーは眉をよせて「犯人はどうして鞄をほしがったんでしょう」
「なるほどお前の脳味噌はにぶっとるな」と、警視が鼻であしらった。「お前はなぜだと思う? なるほど、その点はわしも事前に予想できなかったが、お前の考えついたことなど、説明するのはきわめてやさしいこった。犯人はわしらに被害者の身元を突きとめられないようにひどく用心しとるじゃないか。そこで、被害者の鞄が宙にまよっていて、ひょいとすれば警察の手にはいるかもしれないという場合、犯人はのうのうとおさまりこんで、むざむざと警察の手に入れさせるかな。いや、自分の手でなんとかしようとするにきまっとる。奴は鞄の中に被害者の身元を確認するものがなにかはいっていることを、おそれたか、あるいは実際に知っていたのだ」
「ああ、なるほど」と、エラリーは言って、足許の鞄をいぶかしげに見つめた。
「だから、なにをわめいとるんだと言うんだ。分かりきっとることを訊くなんてあきれたもんだぞ」
「単なる質問のための質問ですがね」と、エラリーは鞄を見たままでつぶやいた。「真鍮《しんちゅう》の合札があったという事実だけで、その解答は分かっています。奴はあのちびを殺したあとで、ポケットをさらっているとき、被害者がチャンセラー・ホテルの合札を持っているのを見つけた。合札は一目瞭然《いちもくりょうぜん》だ。犯人はそれを持って逃げた。だが、なぜ、今まで鞄をとろうとしなかったのだろう。なぜ、こんなにぐずぐず待っていたのだろう」
「こわかったんだ」と、もったいぶって警視が言った。「勇気がなかったんだ。万一をおもんばかったんだ。ことに、鞄はチャンセラーに預けてあったんだからな。その事実だけで、犯人はあのホテルになにか関係のある奴と睨んで間違いないだろうよ、エル。つまり、ホテルで顔の知れている奴だ。奴は、わしらがチャンセラーを監視することをよく心得とった。もし全然外部のものだったら、鞄の始末をするのに手間ひまかけなかったろう。だがわしらが奴を知っとるので、おじけづいたのだ」
「ぼくもそう思います」と、エラリーがため息をして「こいつの中身をあばきたくて、うずうずしますよ。いったいなにがみつかるでしょう」
「なあに、もうすぐ分かる」と、警視はおだやかに言った。「たとえ犯人の首っ玉を押さえそこなったとしても、この鞄が、うまい話をしてくれるだろう。どうもそんな勘がするんだ」
「ぼくも心から」と、エラリーがつぶやいた。「そう願いますね」
一見みすぼらしくてなんの変てつもない鞄があけられる段になって、クイーン警視の事務室は、一瞬、しんとした。ドアはしめきられ、一同の帽子や外套は部屋の隅に放り出され、警視、エラリー、ヴェリー部長が、それぞれ緊張した表情で、警視の机の上を見つめていた。
「では」と、やがて警視がややしわがれた声で「とりかかろう」
警視は鞄をとり上げて、うすぎたなく汚れているキャンバスの外側を注意深くしらべた。ラベルめいたものは一枚もはってなかった。留金は少しさびていた。キャンバスの折り目がすりむけていた。頭文字も名も書いてなかった。
ヴェリー部長がうなった。「まったくよく使い古したもんだな」
「そうだな」と、警視が低い声で「トマス、鍵をかしてくれ」
部長は黙って、合鍵の束を差し出した。警視は鞄のさびた錠に合う鍵をさがすのに、半ダースもの合鍵をためしてみた。小さくきしる音をたてて、錠の内側の掛けがねがまわった。警視は両はじの締めがねを引きおこし、錠の中央部を押して鞄の口金を左右に押しあけた。
エラリーとヴェリーが、のぞき込んだ。
クイーン警視は、手品師がシルクハットから品物をとり出すように、鞄の中身をとり出した。最初にとり出したのは黒いアルパカの上着で、着古したものらしいが、きちんと折目もつき、きれいに洗濯してあった。
エラリーの目が細くなった。
老警視は品物をすばやくとり出して、机の上につみ上げた。鞄が空になると、明るいほうへ持ち上げて、内部をこまかく調べ、ぶつぶつ言いながら側《そば》に放り出して、机に向き直った。
「必要とあらば、こいつの出所も洗えるだろう」と、警視はちょっとがっかりした声で言った。「ところで、どんなものか見てみよう。品数はいくらもないじゃないか」
上着は上下そろいの服のかたわれで、その他にちょっと外国仕立てらしいズボンが一着あった。警視はズボンをとりあげて自分のからだにあわせてみた。短い脚と寸法はぴたりだった。「これはあの男のものらしいな」と、つぶやき「ポケットにはなにもはいっていない。運がついていないな」
「上着のポケットにもなにもありません」と、部長が報告した。
「チョッキがない」と警視が考えこみながら言った。「そうか、夏服だからないんだろう。こちらではあまり見かけない代物《しろもの》だな」
次の展示品はシャツ類だった――朝と木綿もので、どれもカラーなしの堅襟つきで、どれもぴんとしているから、全くの新品らしかった。その次の山は堅いカラーで、はばが細く、まっ白で旧式なものだった。
そのそばにハンカチが置いてあった。
それから、きれいに洗濯した軽い夏ものの下着類の小さな山。
半ダースの黒い木綿靴下。
古びて、でこぼこの黒靴が一足。
「プラウティ先生なら、たこと水虫の診断をくだす奴ですね」と、エラリーがつぶやいた。
鞄から出て来た衣類はみんな安物だった。そして、服と靴は全部新品で、上海《シャンハイ》の洋品店のラベルがついていた。
「上着か」と、警視は考えながら「中国だな、エル」といぶかしげに「中国だぞ」
「そうらしいですね。なにも仰々《ぎょうぎょう》しく言うことはないでしょう。失踪人課の連中が、アメリカに住んでいた男じゃあないと見立てたのが当たっただけじゃありませんか」
「だがわしの考えでは――」と、言いかけて、警視は目に妙な光りをうかべた。「おい、こりゃあぺてんじゃないだろうな」
「質問ですか、見解ですか」
「つまり、それもあり得るじゃないかと言うんだ」
エラリーが眉をつり上げて、「どうしてでしょう。チャンセラーの手荷物係が、鞄の預け主はたしかに被害者当人だったと証言しているんですよ」
「お前の言う通りかもしれん。わしはどうも、少し疑い深い性分なのかもしれんな」と、警視は机の上の衣類の山を見ながら、ため息をした。「ところで、どっちみち、これで一仕事できるというものだ。なあ、おい!」と、エラリーをじっと見つめて「予言が当たったじゃないか。お前は今度の事件は中国に関係があると、くどく言っとったからな。これでも、仰々しく言うようなことじゃないというつもりかね。どうして分かったのだ」
エラリーは眉をすぼめた。「ぼくの言うことを一々言葉通りに解釈されちゃ困りますね。その聖書を見せて下さい」
エラリーは鞄から出て来たこまごました物をかきまわして、手ずれて、うす汚く、表紙のとれた本を一冊とり上げた。喧嘩の武器代わりに使われでもしたかのような本だった。
「聖書じゃないな。ありふれた安ものの日課祈祷書だ」と、エラリーはつぶやき「ふーん。それにこのパンフレットは――ああ、信仰の手引きだ。どうやら、とても信心深い老紳士に見参というところですよ」
「信心深い老紳士が殺されるなんてことはめったにないぞ」と、警視がそっけなく言った。
「それに、これは」と、エラリーはその本を置いて、他のをとり上げながら「古い版だ――ロンドン版の――ホール・ケイン〔イギリス作家〕の≪キリスト者≫です。それに、パール・バックの≪大地≫もある。こちらはアメリカ版の原書で、ここから北京にほうりなげたように新しい。東は東、西は西なんて言ったのはいったいだれだ……おや、妙だ」
「妙なこともあるまい。あの男が中国から来たのなら、パール・バックぐらい読むだろう」
エラリーは、はっとして夢想からさめた。「おお、そうですとも。ぼくはひとりで考えごとをしていたもんですからね。この本のことを言ったんじゃないんです」エラリーは黙り込んで、親指をしゃぶりながら、ちらかっている机の上を見つめていた。
「こんなことだろうと思ったよ」と、ヴェリー部長がしよげた顔で「こいつが不発弾だろうってことはね。名前の手がかりすらない」とうなった。
「おお、そんなことはないぞ」と、警視がつかみどこのない表情で「そう悪くもないぞ、トマス。じきに奴が何者か分かるだろうさ」警視は机に向かって腰を下し、呼び鈴を押した。「わしはすぐ上海のアメリカ領事に電報を打ってみる。そうすればじきに、あいつの経歴がすっかり分かるだろうよ。あとは、ぞうさなく片づくさ」
「どうしてそう思うんですか」
「犯人は被害者の身元を隠そうとして、とてつもなく苦労しとる。だから、その身元が分かれば、すぐになにか真相がつかめるだろうじゃないか。おお、はいれ、はいれ。上海のアメリカ領事に電報を打つから書きとってくれ――」
警視が電報を口述している間に、ヴェリー部長は事務室から出て行った。エラリーは警視の部屋の一番いい椅子に長いからだをくの字にして、たばこをとり出して火をつけ、ひどく眉をしかめて煙を吹いた。いつにないむずかしい顔色をしていた。目をむいて、もう一度、机の上に置いてあるものをじろりと見て、また、目をとじた。そしてえり首が椅子の背にかかるまでからだをずらした――いっそう精神を集注して、沈思黙考するときに、いつもする得意な姿勢なので――そして、書記が出て行くまでそのままの恰好で身動きもしなかった。やがて老警視は両手をもみ合わせながら、くすくす笑って、振り向いた。
「さあ、もういい。長くはかかるまい」と、警視が上機嫌に言った。「あとは時間の問題だ。もう解決したも同じだろうよ、エル。正しい手を考えつけば、どんなことでも自然に解決するものさ。たとえば、渡航者を全部洗い上げた一件だってそうだ。われわれは大西洋に注力を注いだが、あれは間違っていた。奴は、おそらく太平洋を渡って、サンフランシスコから汽車で大陸を横断したんだろう」
「すると、なぜだれかが」と、エラリーがつぶやいた。「あのチャンセラーの受付係のような気の利く男がいて、あの男を見覚えていなかったんでしょう。鉄道関係の連中も、相当徹底的に洗ったんでしょうにね」
「いつかも言ったが、生やさしい仕事じゃない。手落ちはないんだが、奴はごく平凡なちびだから、誰の目にもつかなかったんだろう。それだけのことさ。鉄道の連中は毎日何千人もの顔を見るんだ。小説の中でなら、奴もちゃんと見覚えられることになるんだろうが、現実生活ではいつもそう、うまくいくもんじゃないぞ」と、警視は、そり身になって、天井を眺めながら「上海か、え。中国だ。お前の考えが当たったようだな」
「なにについてですか」
「おお、なんでもない。なんでもない。ちょっと考えとったんだが……どうやら、その点、つまり、カリナンという男については勘違いしとったらしいな。パリと上海では結びつけようがないな。もうじき、キアッペ〔当時パリの警視総監〕から回答がくれば、くわしく、分かるだろうよ」と、しゃべりつづけた。
いきなりもの音がしたので、警視は、はっと気がついて、まわりを見まわした。そしてエラリーが立ち上るのをみて、おどろいて身をおこした。
「おい、いったい、どうしたんだ」
「なんでもありませんよ」と、エラリーが言った。その顔付きは妙にうっとりとしていた。「なんでもありません。神、空をしろしめし、このあした露さわやかに、なべて世は事もなし〔ブラウニングの詩をもじる〕過ぎし世やよきかな。人の世やさらによきかな……やっと分かったぞ」
警視は机のふちをつかんだ。「なにが分かったのだ?」
「解答です。真赤な、血まみれな解答です」
警視はじっとすわっていた。エラリーは目をきらきら光らせて、興奮して、その場に根が生えたように立っていた。やがて、何度も力強くうなずいた。そして、微笑しながら、窓に近づき、外を眺めた。
「その解答というのは」と、警視がそっけなく「いったいなんだね」
「とてもおどろくべきことですよ」と、エラリーは振り向かずに、ゆっくり言った。「ものごとが分かってくるということは実に不思議なものですね。ただじっくりと考えることが必要なだけです。するうちに、ぱんとわれて、なにかがとび出し、万事解決というわけです。解答はそもそもの初めから目の前にあって、こっちを見つめていたんですよ。ずっとね。まるで簡単で子供だましみたいなものです。ぴんからきりまでね。ぼく自身、いまだに信じられないぐらいです」
長い沈黙があった。やがて警視がため息をして「つべこべ言うとるところをみると、わしには教えたくないらしいな」
「実はまだ、すべての可能性の検討を始めていないんですよ。ただ、事件全体を解く鍵をみつけたばかりなんです。それがつまり――」
警視の書記が封筒を持ってはいって来た。エラリーはまた坐った。
「そうか。死んだ男はカリナンじゃなかった」と、老警視がうなった。「パリの警視庁からの電報だ。キアッペは、カリナンがパリにいると言って来た。ぴいぴいしとるが健在だそうだ。まあ、そんなところだ。お前はなにか話しかけだったな」
「ぼくが言いかけていたのは」と、エラリーがつぶやくように「その鍵が、実際に、あらゆる謎を解くということですよ」
警視はいぶかしけな顔をした。「あべこべの手口のすべてをか――着衣と、室内の家具をあべこべにしたあの謎をか?」
「全部とけます」
「たったひとつの小さな鍵でとけるのか」
「たったひとつの小さな鍵でです」
エラリーは立って、帽子と外套に手をのばした。「だが、まだ分からない点があります。だから、それが分かるまでは思い切った手はなにも打てません。お父さん、ぼくはそろそろ家へ帰りますよ。そうして、スリッパでもはいて、暖炉の前にじっくり腰をすえて、のらりくらり逃げまわる考えを、なんとかつかまえてみますよ。今はまだ解答の一部分が分かっただけなんです」
また沈黙が続いたが、今度はかなり気まずい空気だった。事件が完全に解きほぐせるまで、かたくなに口を割らないエラリーの態度が、いつも父子の気まずさのもとになっていた。エラリーが一分のすきもない完璧《かんぺき》な理論を組み立てたと、精神的に自分で納得するまでは、いくらおどしてもすかしても、一言も説明の言葉をひき出すことはできなかった。だから、質問をしても実際なんの役にも立たないのは分かっていた。
しかも、なお、警視は腹立たしかった。いつもそうなのだ。「すると、なにが手がかりになったんだ?」と、いら立ってきいた。「わしだって、それほどひどいばかじゃないが、それが分からんとなると、かぶとを脱がにゃならんな――」
「その鞄ですよ」
「鞄だって!」警視はけげんそうに机の上を見た。「だがお前は、解答は最初からずっと目の前にあったと言ったろう。そしてこの鞄をみつけたのは、ほんの二、三時間前なんだぞ」
「その通りです」と、エラリーが「しかし、その鞄は二つの役目を果たしたんですよ。まず連想に点火したこと、次に燃焼の結果が判明したとき、それ以前にあったことを裏書きしたことです」エラリーは考えこみながらドアのほうへ歩いて行った。
「もっと分かり易い言葉で言えんのか。いったい、どこまで分かっとるんだ、死んだ男は何者なんだ」
エラリーは笑った。「ぼくの頭脳の花々しい働きぶりを見せて、お父さんを面くらわせたくないですよ。それに、ぼくは千里眼じゃありません。第一あの男の名前なんぞ、事件の解決にとっては、なんの重要性もありませんよ。それよりあの男の肩書きが――」
「肩書きだって?」
「そうですよ。ぼくはあの男がなぜ殺されたかも分かるような気がしますが、その点はまだ充分に考えるところまで来ていないのです。今、ぼくが一番困っている点は、殺されたのは誰か、なぜ殺されたのかということではなくて、どうやって殺されたかという点ですよ」
警視は息をのんだ「どうかしたんじゃないか――いったい、なにを言い出すんだ。気でも狂ったんじゃないか、エル」
「とんでもない。その点になにか重要な問題がからまっているんです。目下のところぼくにもどうやってだかはっきり分かっていませんがね。その解答を突きとめるのが、一仕事になりそうですよ」
「でも、どうやって殺されたかは、よく知っとるはずじゃないか」
「それが妙なんですがね、ぼくにはさっぱり分からないんです」
警視はとても信じられないというふうに、指の爪をかみながら「くだらん謎をかけて、わしをやっつけるつもりなのか。それにどうしてお前ときたら、アメリカの領事がわしにどんな返事をよこそうとも、さらにかまわんという様子をするんだ」
「かまいませんものね」
「なんだと。領事が被害者について、なにを知らせて来ても、お前にはまるで関係がないと言うのか」
「ありませんよ」と、エラリーは微笑して「ちっともね」それからドアをあけて「実を言うと、ぼくは今すぐにでも、領事の返事の内容がどんなものか、言おうと思えば言えるんですよ」
「お前か、わしかどっちかの気が狂っとる」
「気違いというのは、見解の相違じゃないですか。まあ、まあ、お父さん、ぼくのことはよくご存知でしょう。まだ自分の論拠に充分な確信が持てないだけなんです」
「そうか、じゃわしはじりじりしながら待たにゃならんな。ところで、お前は誰があの殺しをやったか、はっきり分かっとるのか。なにかとんでもない勘ちがいで、早のみこみしとるんじゃないのか」
エラリーの帽子のふちをひき下げた。「誰がやったか知っとるかですって。なんだって、そんなこと考えるんですか。もちろん、ぼくはまだ犯人を知っちゃいませんよ」
警視はすっかりどぎまぎして、がっくり腰をおとし「いいよ、あきらめたよ。お前が嘘をつきはじめたら――」
「ぼくは嘘なんかついていませんよ」と、エラリーは気を悪くして「本当に知らないんですよ。おお、いいかげんな当てずっぽうなら言えますがね、しかし……。そんなことは言えないし、とにかく」と、こわばる唇で続けた「ぼくだって知りたくないわけじゃないんですよ。でも、今すばらしい糸口をつかんだんです。実に信じがたいようなね。今はまずその解答を見つけなければならないんです。それがつかめればあとは、考えるまでもなく――」
「お前の言うことを聞いとると」と、警視は苦々しく「本当に重要なことはなにも知らんようだな。なにか知っとるとわしは睨んどったが」
「そりゃ、知ってますよ」と、エラリーがじれったそうに言った。
「そうか、じゃあ、殺された男の背中から、アメリカ土人の槍が二本つき出ていたのは、いったいどういうんだ?」警視はエラリーの顔にうかんだ表情にはっとして椅子から腰を浮かせた。「おい、どうしたんだ。今度はなにかね」
「槍ね」と、エラリーはぼんやりと父を見つめながら「槍ね」
「だが――」
「分かったぞ、殺しの方法が――」
「わしには分かっとる、だが――」
エラリーの顔がいきいきとした。顔がひきしまり、目が燃え、唇がふるえた。そして、気が狂ったようにどなった。「みつけたぞ! 解答だ! 槍のおかげだ!」
そして、叫び声をあげて事務室をとび出した。とり残された警視は、あきれて、がっくりとなった。
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読者への挑戦
私は今までにいろいろな作品を書いている間に、途中どこかで、ひとつのよい思いつきを失念していました。親切な読者諸君の中には――かなり以前のことになるでしょうが――クイーンという名の紳士が書く推理小説に注目して、その立派な作品を読みつづけ、その初期の作品の中で、それぞれの本の肝心かなめな場所に、私が読者への挑戦を入れていたのを、思い出されることでしょう。
ところが、どうしたことか、はっきりとは自分でも分かりませんが、ひとつの作品を書き上げ、組み版ができ、ゲラの校正がすんでから、出版社の人から――実に気のきく人でした――いつもの≪挑戦≫が落ちていることを注意されたのです。どうも私が書き忘れてしまったらしいのです。私はあわてて、冷や汗をかきながら、書き落とした部分をつぎたして、最後の瞬間に脱落本に挿入しました。そのとき気がとがめたので、少しばかり調べてみましたら、それ以前の本にも、挑戦を忘れているのがありました。とにかく longa dies non sedavit vulnera mentis〔日が経ってもあやまちはあやまち〕だと思います。
さて私の出版社はクイーンの著書の完璧を期することきわめて厳格なので、私は皆さんに提出します……≪挑戦≫を。非常に簡単な問題です。あなた方が「中国切手殺人事件」をここまで読んでくれば、事件を明快に解決するために必要不可欠な手がかりは全部手にはいったものと、私は確信します。あなた方は、今、ここで、この先を、つまり、ドナルド・カークの控え室で名なしの小男が殺された事件の謎を解くことができるはずです。材料は全部そろっています。重要な手がかりや事実はひとつも欠けていません。それらを全部まとめあげて――≪お母さん≫とつづるほどやさしくはないでしょうが――論理的推理を働かせながら、唯一の可能な解決点に達することが、あなた方にできるでしょうか。
エラリー・クイーン
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十六 実験
人間の頭は妙な道具である。実によく海に似て、淵《ふち》あり浅瀬あり――冷たく暗い深みと、日に光る波頭がある。岸にくだける白い波もあれば、すごすごと引く潮もある。微風に波立つ水面の下には競い流れる急潮がある。そして、潮の干満によく似た不断の鼓動のリズムがある。あらゆる霊感が、うつろに泡立つはるかかなたに退いて行く引き潮のときがあるかと思えば、力強い考えが、しゃにむに押しよせて来て、なんとも手のつけられない上げ潮のときもある。
ダニエル・ウェブスター〔一七八二〜一八五二。米国の雄弁な政治家〕は別の比喩《ひゆ》を使って、人間の精神はあらゆるものの支点をなす|てこ《ヽヽ》であると、かつて言ったことがある。また人間の思考は人類の目的を次々に解いて行く手段だとも言っている。しかし、|てこ《ヽヽ》は作用を示唆《しさ》し、そして作用あるところ必ず反作用があることを示唆する。こうして、ウェブスターは、間接的に、精神の全体の作用は、活動期と無活動期との波状交互運動をなすものであると説明したのだ。
ところでいつも頭蓋骨の中でぎりぎりの活動をしているエラリー・クイーン氏は、その長い探究生活の中で、それが普遍的な法則であり、知的な光明を得るには、知的な暗黒の段階をいやでもくぐり抜けなければならないのが宿命だということを知っていた。死んだ妙な小男の問題は、エラリーの経験の中でも珍しい事例だった。何日間もたてつづけに、エラリーの頭脳は、とらえがたい霧の中で、道標を手探ぐるような努力をした。自ら好み、むしろ熱中したが、能率はあがらなかった。そのあげく、ふいに、しょぼしょぼした目に一道の光明が冷くさし込んで来たのだった。
エラリーは即座に≪宇宙平衡説≫の元祖ウェブスターに、感謝の意を表した。反作用が来たのだ。光明がさした。しかし光はまだ霧の尾をひいていてはっきりしなかった。霧を追い払わなければならないし、それにはただひとつの手段しかない――つまり精神集注だ。
そこで、論理的な人間であるエラリーは、精神を集注した。
その記念すべき日の残りの時間を、エラリーはお気に入りの部屋着にくるまって過ごした。やにの匂いがしみこんだ着古した部屋着には、茶色くふちのこげた焼けこげの小さな穴が無数にちらばっていて、長い間のたばこ好きが、火の子をおとしたことを示していた。部屋の暖炉の前に陣どり、首すじを椅子の背にもたせて、足の爪先をほかほかと暖めながら、明るいうっとりとするような目で天井を見上げ、指先まで|もえ《ヽヽ》つきたシガレットの吸いさしを無意識に炎の中にほうりこんでいた。少しの気取りもなかった。ひとつには気取ってみせる相手がいなかった。というのも、警視は本部でぐずぐずと他の事件にとっつかまっていたし、ジューナはどこかの映画館のかび臭い暗闇に坐りこんで、数かぎりなくいるごひいきの|がに股《ヽヽヽ》のヒーローのひとりの熱狂的な運命に、手に汗を握っていたからだった。それにまた、エラリーは自分のことなど考えていなかった。それに妙なことには、エラリーは時々目を天井からずらして、やや下の暖炉の上に十文字に交叉してかけてある長い剣を見つめた。それは父の過去の古い記念品で――ハイデルベルクの学生時代を思い出させるものであり、ドイツ人の友達が警視に贈ったものだった。たしかにその剣は今手がけている事件とはなんの関係もなかった。しかもエラリーは長い間、熱心に見つめていた。もっとも、実を言うと、エラリーの目には、それがどきどきするような巾の広い刃のついているインピ族の槍に姿を変えて映っていたのである。
やがて観察の期間が過ぎると、エラリーはいっそう深く椅子に埋もれて、からだから分離した考えに、すっかり身を任せていた。
午後四時にエラリーはほっとため息をつき、身をおこして、椅子をきしませながら立つと、吸いがらをもう一本炉に投げこんで電話のそばに行った。
「お父さん?」と、クイーン警視が出たとき、エラリーはふくみ声で「エラリーです。していただきたいことがあるんですが」
「どこにいるんだ」と、警視がどなった。
「家です。ぼくは――」
「いったい、なにをしているんだね」
「考えていました。それでねえ――」
「なにを考えとった? お前の頭の中では、もうすっかり片がついとると思うんだがな」と、警視は少し苦々しく言った。
「まあ、まあ」と、エラリーはしょげた声で「そんなふうに言わないで下さいよ。ぼくはあなたの気を悪くさせようとなんかしませんよ。気むずかしいおじいちゃんだな。ぼくは本当に働いていたんですよ。ところで、なにか新情報は?」
「うまいものはひとつもないな。ところで、なんの用だ? わしは忙しいんだぞ。四十五番街で浮浪者がひとり撃たれて手いっぱいなんだ」
エラリーは暖炉の上の壁をうっとりと眺めながら「お父さんは、どこか信用できる舞台衣装屋を知りませんかね、秘密の仕事をしてもらっても大丈夫で、口の堅い人物」
「衣装屋――? いったい、どうしようと言うんだ?」
「正義のための実験です。ねえ、知っているでしょう」
「ひとりぐらいは探しだせるだろうよ」と、警視はぶつくさ言って「お前ときたらまた実験か。四十九番街のジョニー・ローゼンツワイグに一度仕事をたのんだことがある。信用しても大丈夫だ。どんな話だね」
「人形がほしいんです」
「なんだって?」
「人形ですよ。人間じゃありませんよ」と、エラリーはくすくす笑った。「シャツに詰物をした口のきけないやつで間に合います。やあ、面くらわせたようですね。その友達のローゼンワイグさんにたのんで、殺された男と背丈からだつきのほぼ同じ人形を作らせてくれませんか」
「おい、頭がぼけたんじゃないのか」と、警視がおこり出した。「そんなものがこの事件に必要だと思っとるのか。それとも、お前はばかげたこじつけの探偵小説の腹案でもたてとるんじゃないのか。もしそうなら、エル、わしはそんなことにかかり合っとるひまはない――」
「いいえ、ちがいます。ちかいますがね、これはニューヨークの正義を高い王座につけるための飛石になるものなんですよ。すぐ仕事にかからせてもらえませんか」
「よかろう。たかが、死んだ男と同じ身丈恰好の人形ひとつだからな」と、老警視は皮肉まじりに「他になにか注文はないか。ちょっとばかり入歯などはどうだい? それとも少し隆鼻術でもほどこしたら?」
「たくさんです。まじめな話なんですよ。死んだ男の体重は分かっているんでしょうね」
「うん。プラウティ医師の報告書に出とる」
「そりゃあ、ありがたい。全体の重さを、被害者の体重と同じにしてほしいんですよ。行きとどいたいい仕事をしてもらいたいんです。手足や胴体や頭を、全く同じ重さくらいにできるかどうか訊いてみて下さい。特に頭です。それが一番大事なんです。うまくできるでしょうかね」
「できるだろう。重さの点ではプラウティの助力が必要だろうがね」
「人形は手足を自由に動かせるようにしてほしいと、念を押しておいて下さい――」
「と言うと?」
「動かないでくの坊じゃ困るんですよ。重みをつけるのになにを使ってもかまいませんが――鉄でも鉛でも――しかし、頭から足まで一本棒じゃ困るんです。足、すね、胴、腕、頭と、別々に重みをつけさせて下さい。そういうふうにすれば、人形の各部分が死んだ男の各部分と、そっくりそのままの引き写しになりますからね。その点が大切なんです、お父さん」
「針金かなんかで、つなぎ合わせられるだろう」と、警視はつぶやいた。「手足は自由に曲げられるだろうな。他になにか注文は?」
エラリーは下唇をかんで「そうですね。人形には死んだ男の服を着せて下さい。そこが、ぼくの芝居の勘どころです」
「あべこべに着せるのか」
「もちろん、そうです。人形はあの小男の死体とそっくりでなくてはなりません」
「おいおい」と、警視がぴしりと「お前はまさか、容疑者をつれて来て、死んだ奴が起き上ったと思わせるような、あの旧式な心理的な芝居を打とうと言うんじゃあるまいな。とんでもないぞエル、あんなものは――」
「おやおや」と、エラリーは情けなさそうに「なんとも思いやりのないお言葉ですね。ぼくの頭をそんなに安っぽくみているんですか。もちろんそんなことは爪の垢ほども考えてやあしません。科学としての実験なんですよ、お父さん。手品なんかじゃありません。さっき芝居と言ったのは思いつきなんですよ。分かりましたか」
「なにを言っとるのかのみこめんが、まあそうとしておこう。それで品物はどこへとどけさせる」
「ここへ送らせて下さい、アパートへ。手を入れておきたいんです」
警視はため息をして「よし、よし。だが、お前の言う考えというやつはすっかり頭に来ちまっとるようだな。はっはっ」と、情けなさそうに笑って、受話器をかけた。
エラリーは微笑して、のびをし、あくびをしながら寝室にはいり、ベッドに身をなげて、一分もたたないうちにぐっすり眠りこんだ。
その夜の九時半に、ヴェリー部長が人形を運んできた。
「おお」とエラリーは長くて重い木箱の片はじをつかんで叫んだ。「こりゃ、重いな。墓石がはいっているみたいだ」
「そうですな。死体とほぼ同じ重さだと、警視が言っとられました、クイーンさん」と、部長が言った。「やあ、ご苦労」と、木箱を二階まで運ぶ手伝いをした男にあごをしゃくってみせた。相手は帽子にちょいと手を触れて去った。「さあ、ひきずり出してみよう」
二人は仕事にかかり、ジューナがこわそうに目をむいている前で、人間らしきものを引き出した。エジプトのミイラみたいに包装紙でくるんであった。エラリーは包み紙をはぎとると、びっくりして息をのんだ。人形はエラリーの腕からすべりおちると、すぐに体の各部分が次々にぐったりとなって、まるで本ものの死人のように、居間の絨毯の上にたおれかかった。
「やあ、これは――これはまさにあの男だ」
一同にほほえみかけているのは、あの太った小男のてらてらした顔だった。
「紙の張子《はりこ》ですがね」と、部長は人形を誇らしげに見ながら「ローゼンツワイグという奴はいい腕をしていますな。その顔は写真から再生したんですが、ペンキとはけで実に見事な出来栄《できば》えですな。あの髪をごらんなさい」
「見てるよ」と、エラリーはうっとりして、つぶやいた。まさに部長の言う通り、実に精巧なものだった。白髪まじりの髪がふちどっているピンク色のはげ頭は、まるで生き写しだった。真鍮の火かき棒でなぐられてくだけたきずあとまであり、ジェリーのようなかわいた血が流れ出していた。
「おや」と、ジューナは細い首をのばしてささやいた。「ズボンをあべこべにつけてますよ。それに上衣もなにも――」
「注文通りだ。これでよし」と、エラリーはひと息いれて「わが友、ローゼンツワイグに敬礼だ。どんな男かしらないが、彼の才腕のおかげで、たしかに大助かりだよ。ぼくの目的に、これ以上ぴったり叶う人形はできっこない。さあ、かざりつけよう――」
「連中にひと泡ふかせるんですか」と、ヴェリーが、しゃがんで人形の肩を持ち上げながら、うなるように言った。
「いや、ちがう、ヴェリー君。そんなむごいことはしないよ。寝室のドアのそばの椅子に腰かけさせてくれないか。あそこだ。ちょっとした思いつきさ……さあ、部長」エラリーは身を起こして、顔を少し赤らめながら、巨人部長のきびしい目をのぞき込んだ。部長はあごをかきながら不審そうな顔付きだった。
「なにかして欲しいんでしょう」と、訊問するように「人にしられたくないことをなにか」
「まさにそうなんだ。それでね――」
「警視にさえも知らせたくないのでしょう」
「おお」とエラリーは元気に「おやじをおどろかせる必要はないものね。ヴェリー君、おやじは人生を大して面白がらない人だからね」エラリーは巨人部長の腕をとって控えの間のほうへ連れて行った。ジューナは、むっとして、台所へ引っこんだ。だがきき耳を立てていると、エラリーが熱心にささやき、一度ならず巨人部長があっとばかり声をあげるのがきこえた。どうやら、部長はあきれかえっているらしかった。やがて表のドアがばたんとしまる音がし、エラリーがにこにこともみ手をしながらもどって来た。
「ジューナ」
その呼び声がかかる前に、ジューナはエラリーのそばに立って、軍馬のように息をはずませて張り切っていた。
「なんかやるんですね」
「ところで、わがベーカー街分隊のコック長君」と、エラリーは考えこみながら、微笑している人形の顔を見つめて「どうだね。君を今、特別実験室の第一助手に任命するがどうだね。ここにはわれわれ二人しかいないし、他人の目も耳もない――」エラリーは、ジューナをにらむように見て「君はジプシーの紳士〔ジューナは放浪児〕として、今夜われわれの間で行われることは以後永遠に秘密であることを、ちかえるかな。血書するんだぞ。心臓に十字を切って、死んでも言わんのだぞ」
ジューナは急いで心臓に十字を切り、死んでも言わないとちかった。
「よしきまった。では最初に」と、エラリーは親指をなめながら「ああ、そうだ。物置から、あの小さい敷物を持ってくるんだ、ジューナ」
「敷物ですね」と、ジューナが目をむいた。「はい」と、答えて姿を消し、命じられた敷物を持ってすぐにもどって来た。
「次には」と、エラリーが部屋を横切り、暖炉の上の壁を見上げながら「ふみ台だ」
ジューナはふみ台を持って来た。エラリーは台にのぼって、高僧が秘法を行うようなおごそかな仰々しい態度で、かなりよごれている長い剣を壁の刀架《とうか》からはずして、下におろした。それを巻いた敷物のそばに置くと、くすくす笑いながら、手のひらをこすり合わせた。
「お膳立てはこれでよしだ、ジューナ。最後に使いに行ってもらおう――」
「使い――」
「使者だよ。若殿、お使者の装いを! おお助手殿」
ジューナはしばらく八の字をよせていたが、すぐにやにやして姿を消し、帽子と外套をつけて現われた。「どこへ行くんですか」
「セント・ニコラス通りの荒物屋だ。あのばかでかい雑貨屋さ」
「はい」
エラリーは紙幣を渡して「いいかね、助手殿、あの店にある、あらゆる種類の紐、細引きのたぐいを、少しずつ買って来るんだ」
「はい」
「それから」とエラリーは眉をよせながら「細くてやわらかい針金も――少しばかりな。真実を祭る聖壇の探求に、いささかたりとも、見おとしがあってはならぬ。分かったな」
ジューナが駆け出した。
「ちょっと、若造君。新しい箒《ほうき》も一本買って来たほうがいいぞ」
「なぜですか」
「月なみな言い方だが、掃くものだからさ。しかし、そう言ってしまうと事実を曲げることになるかもしれないな。まあ、使者の用件だけおとなしく聞いておくんだね」
ジューナは頑固に首を振った。「でも、箒なら新しいのがあるんですよ」
「どうしてももう一本ほしいんだ。うちののこぎりはちゃんとあるだろうね、ジューナ」
「物置の道具箱にはいってますよ」
「よしきた。剣でやりそこなったら箒で間に合うだろう。じゃあ、さあ、行くんだ。小僧っ子奴。科学は、お前の筋肉の力をたよりにしてるよ」
ジューナは小さな口をへの字にまげて、薄い胸を張り、どすどすと部屋から出て行った。エラリーは腰を下ろして両足をのばした。
そのとき、ジューナが顔をのぞかせて「ぼくが帰ってくるまで、なにもしないんでしょうね、エラリーさん」と、心配そうにきいた。
「おい、ジューナ」と、エラリーがとがめるような声で言ったので、ジューナは再び姿を消した。エラリーはのびのびと椅子の背によりかかって目をつむり、大声で笑った。
十一時十五分に、クイーン警視が疲れた足をひきずって部屋にはいってみると、ジューナとエラリーが暖炉の前で、熱心に語り合っていた――が、警視がはいると、ぴたりとやめた。人形は箱におさめられて部屋のまん中に置いてあった。敷物や、紐の巻いたのや、箒は見当たらなかった。長い剣さえ、暖炉の上のいつもの場所に戻されていた。
「おい、なにをこそこそやっとるんだ」と、老警視がぶつぶつ言いながら、帽子と外套をほうり出して、暖炉に近より手をあぶった。
「ついにわれわれは――」と、ジューナが勢いこんで口ばしるのを、エラリーの手がぴしゃりと口をふさいだ。
「なんたるざまだ、助手殿」と、エラリーがきびしく「聖なるちかいを立てたのに。お父さんに、お知らせします――いや、われわれ二人はお父さんに報告しますが――実験は成功しました。完全無欠な、決定的成功です」
「そうかい」と、警視はつまらなそうに言った。
「あなたは大してうれしくなさそうですね」
「わしは疲れとるんだ」
「残念ですね」ちょっと座が白けた。ジューナは、家庭争議を見こして、こっそりと自分の寝室に逃げ出した。「でも、本当なんですよ」
「そりゃよかった」警視は、うめくように言って腰を下ろした。そして、部屋の中央にあるお棺のような木箱を、横目でじろじろ見ていた。「人形が無事に届いたらしいな」
「おお、そうです。ありがとうございました」また間があいた。エラリーは気がめいるらしく、立って暖炉のそばへ行き、ややいら立って、棚の上の鉄製の蝋燭立てをいじっていた。「四十五番街の浮浪人はどうなりましたか」
「横っ腹に一発くっていてね」と、警視は鼻をすすって「だが、まあ大したことじゃない。ぶちこんだ奴はつかまえたよ。コカイン中毒のマクガイアという奴さ。奴の花々しい生涯もこれで一巻の終りだな」
ふたたび間があいた。「訊こうとしないんですか」と、エラリーが、とうとう訴えるような声で「クイーン家の用語で、成功と言ったら、どんなものか」
「察しはついとる」と警視がかぎたばこ容れに指をつけながら、おっくうそうに言った。「お前のだんまりの発作がすめば、訊かなくてもしゃべり出すだろうとな」
「事件解決ですよ」と、エラリーが、いまいましそうに言った。
「そりゃめでたい」
「真相がすっかり分かったんですよ。主要なことがらは全部ね。あのちびの名は分かりませんが、それは重大じゃありません。だが、彼を殺した人物、その動機、その方法――特に殺害の方法は――みんなぼくの頭の中で解決されています」
警視は黙っていた。小さな両手を頭の後にまわして、ゆううつそうに火を見つめていた。
エラリーは、ふと微笑して椅子をつかみ暖炉のそばへ曳いて行って腰を下ろした。そして、前かがみになり父親のひざを、ぽんとたたいた。「さあ、さあ、小言屋さん」と、エラリーはくすくす笑いながら「いいかげんにして下さいよ。自分でも芝居してるのが分かっているんでしょう。ぼくは確信を持ったんだから、ぜひ、話したいんですよ……それとも、聞きたくないとでも――」
「お前にまかせるさ」と、警視はぎこちなく言った。
そこでエラリーは両手をひざの間にはさみ、前かがみになって話した。
一時間ほど話していた。その間じゅう、クイーン警視は身動きもせず、じっと炎を見つめて、小鳥のような小さな顔をゆがめ、眉をしかめていた。
やがて、ふと、顔じゅうに笑《えみ》をたたえ叫んだ。「そうか。わしはごていねいな馬鹿だったな!」
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十七 あべこべ談義
エラリー・クイーン氏は、その多種多様な経験の中で自分の居間で大実験を行なったあくる朝ほど、真剣に舞台装置をしたことはなかった。そして今度は、クイーン警視が一緒だった。
その準備になぜそれほど慎重をきわめ、苦心をする必要があるのかを、ふたりは、誰にもあえて説明しようとはしなかった。いつもきちょうめんな、ヴェリー部長も姿をかくしていた。それに、クイーン警視が平気で部長の不在を認めているのも、異例なことだった。口火が切られるとあとはきわめて順調に進んだ。朝早く、本部から派遣されたこわい顔の刑事が、事件関係者をひとりずつ訪ねて行って、そのまま無料奉仕の護衛役をつとめた。説明も言いわけもしなかった。ただひとこと「クイーン警視の命令」と言うだけで、あとは、どの刑事も口をつぐんでいた。
やがて、十時頃になると、ドナルド・カーク事務所の控室――犯罪現場――には、少しおびえながらも好奇心をもった連中が集まりはじめた。ぷりぷりしたヒュー・カーク博士がディヴァシー嬢をお伴にして、ヘイグストローム刑事に監視されながら、車椅子で、控室にはいって来た。ドナルド・カークと妹のマーセラはリッター刑事に付きそわれてやって来た。テンプル嬢はまっ赤な顔をしてヘッス刑事と一緒に来た。グレン・マクゴワンは、ぶりぶり腹を立てながらも肚《はら》の虫をおさえて、ジョンスン刑事に守られながら大股ではいって来た。フェリックス・バーンは早めに、ピゴット刑事にせき立てられて来たが、刑事はその任務がいやでたまらなかったらしい。クイーン警視は、自らアイリン・シーウェルについて来た。オズボーンはたくましい警官に追い立てられて控室へ来た。チャンセラーの支配人ナイと毛虫眉のホテル探偵ブランマーさえ、丁重だが厳重な監視のもとにやって来た。二十二階の受付係シェーン夫人も、カーク家の雇人ハッベルもご同様だった。
一同がみんなそろったところで、エラリー・クイーン氏は黙って坐っている連中ににっこりと笑ってみせ、ぴしゃりとドアをしめて、壁ぎわに並んでいる刑事どもに、じろりと職業的な一瞥《いちべつ》をくれてから、廊下側のドアの前に黙って陣どっているクイーン警視にうなずいて、部屋の中央に進み出た。
窓からは、低くたれた陰気な空から、どんよりと射す青白い朝の光が流れこんでいた。例のお棺のような木箱は一同の前に置かれ、ふたがゆるめてあった。どこか石棺に似た箱の中身は一同に明かされていなかったので、一同は一再ならず、けげんそうな目を向けじろじろと眺めていた。
「淑女ならびに紳士諸君」と、エラリー・クイーン氏は、きれいにみがいた片方の靴を木箱にかけながら、口を切った。「みなさんには、今朝のこの集まりが何事ならんと、さぞご不審のことでしょう。私はみなさんをご不審のままにしておくつもりはありません。われわれが今朝集まったのは、ついさきほど、この部屋で殺された男の犯人をあばくためなのです」
一同は、恐ろしさにしびれたようにエラリーを見つめて、ぎこちなく坐っていた。やがてディヴァシー看護婦がささやいた。「すると、あなたにはお分かりに――」と、唇をかんで、あわてて赤くなった。
「だまれ」と、カーク博士が看護婦にかみついた。「クイーン君、これは君が耽溺《たんでき》しとると言う評判の犯人捜しのばかげた発表のひとつと了解してもいいのかね? 冗談じゃない――」
「発言はいっぺんにひとりずつにして下さい」と、エラリーが微笑した。「そうです。博士、まさにおっしゃる通りするつもりなのです。つまり、論理の絶対性を実際に証明してみるのです。精神が物資より優位にあることをね。鍛錬された頭脳が勝利を得るものであることをね。ところで、ディヴァシーさんのご質問ですが、われわれは興味のある二、三の点について論議して、その結果を考えてみたいのです」エラリーは手をあげて「いやいや、なにも訊かないで下さい、どうぞ。……そう、とりかかる前に、時間と頭脳の骨折りを節約するために、あの小さな死体の殺害者は前へ出るようにすすめたいのですがこれは言っても無駄でしょうね」
エラリーは重々しく一同を見まわした。むろん誰ひとり答えなかった。みんな後ろめたそうに目を前方に据えていた。
「よろしい」と、ぴしりと言って「では始めましょう……」エラリーはたばこに火をつけて、目を細くした。「この事件の難問は、犯罪現場のあらゆるものが、もちろん被害者の着衣まで、ひっくりかえされ、あべこべにされていたという、おどろくべき点にあるのです。あえて、≪おどろくべき≫といいますが、こんな現象の判断と観察になれている私さえ、心中はなはだ驚きにたえぬものがあったのです。このあべこべ仕事を考えついて立派に実行した犯人自身でさえ、その結果がいかにおどろくべきものであるかを、夢にも自覚しなかったでしょう。
その衝撃がおさまったあとで、私はいろいろな事実の、いやむしろ、あべこべ仕事の分析にかかりました。経験によって私は知っていますが、犯罪者というものは、なんらかの目的なしには、めったに積極的に――無意識の行動にくらべて言うのですが――何事をもすることはないのです。ところで、この仕事は積極的にしたものであり、意識的にしたものでした。それをなしとげるには、たいへんな骨折りと、貴重な時間の無駄をしなければならないのです。そこで、私が前に、それにはそれだけの理由があると言ったことが正しかったのです。つまり、表面はいかに気違いじみて見えようとも、少なくともその目的は正気のものだったにちがいありません」
一同は神経をとがらして聞き入っていた。
「実を言えば」と、エラリーは語をついだ。「つい昨日まで、その目的がなやみの種でした。私は頭脳的にぎりぎりのところまで追いつめていったのですが、なぜあらゆるものがあべこべにされていたのかを、つきとめることができなかったのです。もちろん、この犯罪のあべこべ仕事が、事件関係者の中の誰かのあべこべな事実を示すものではないかと推理してみました。それが唯一の可能性のある筋に見えました。しかも、私は言語学や切手収集や、錯雑な術語の暗礁に乗り上げて、すべての謎をなげ出してしまおうといくど思ったかしれないのです。あらゆる種類の難問がひかえていていちいち解かなければなりませんでした。もし、すべてのものがあべこべにされているのが、誰かのあべこべな点を指示するものなら、その誰かはどこかでこの犯罪に巻きこまれているはずです。とすると、あべこべの性質の正体はなにか。誰を犯罪に巻き込もうとしているのか。そして、もっと大事なことは、まず、誰がすべてのものをあべこべにしたのか。誰が誰を指示しようとしているのか。ということでした」
エラリーはくすくす笑って「みなさんも混乱されているようですが、むりもないと思います。私は手がかりをたくさん見つけました。それらはたしかに手がかりの役を果たしてくれましたが、不幸にして、問題を解明するものではなく、昏迷《こんめい》させるものだったのです。あべこべ仕事をやったのは誰かという問題についても、それが犯人の仕わざか、はからずも殺しを目撃した者の仕わざか、分かりかねます。しかし、もし犯人が他の誰かを指示しようとしたものであるなら、その誰かは無実の罪を負わされているはずです。しかもそのやり方は実に下手なもので、いかにも要領を得ず、漠然としていて、全く不可解なものであります。またもし、あらゆるものをあべこべにしたのが、犯罪を目撃した何者かであるなら、犯人の素姓を知る手掛かりを残すために、なぜそんな手のこんだ、しちめんどうくさい方法をとったのか、そんなことをするかわりに情報を申し出る気にならなかったのか。私がどんな面倒な問題にぶつかっていたか皆さんにもお分かりになるでしょう。どちらを向いてもお手あげだったのです」
「やがて」と、エラリーはつぶやくように「それがいかに簡単なものか、私がいかにうまうまと迷わされてきたかに気がつきました。私は間違っていたのです。事実を読みちがえていたのです。論理が不完全だったのです。このあべこべ仕事の目的が、ひとつのものではなく、ほぼふたつのものだというおどろくべき事実に思い付かなかったのです」
「そんなキケロ〔ギリシアの哲人〕流な大演説なんか、さっぱり分からんよ」と、フェリックス・バーンが急に口をはさんだ。「もともとそんに秘教的なものなのかい、それとも君はなにをしゃべっとるのか自分で分かってるのかい」
「マンダリン出版の紳士よ」と、エラリーが「どうか礼儀を守って、おしずかに願いたい。いますぐにその点が分かりますよ、バーンさん……と言うのは、この謎には二つの可能な解答があることを私は考えついたのです。そのひとつは、すでにお話した通り、あらゆるものをあべこべにしたのは、この事件に関係のある何者かについて、なにかあべこべな点があることを|指示しよう《ヽヽヽヽヽ》としているのです。それともまた、この点は私が見おとしていたのですが」と、エラリーは前かがみになってつづけた。「あらゆるものをあべこべにしたのは、事件に関係のある何者かのあべこべな点を|隠す《ヽヽ》ためだったのかもしれません」
エラリーはひと息入れて新しいたばこに火をつけた。マッチの火を手でかこいながら一同の顔を眺めたが、ただ困惑の色を見るばかりだった。
「もう少しくわしく説明する必要がありそうですね」と、エラリーはゆっくり言ってたばこの煙りを吐いた。「第一の可能性は犯罪から遠ざかるものであり、第二の可能性は犯罪に近づくものです。第一の可能性は暴露《ばくろ》を、第二の可能性は隠蔽《いんぺい》をいみするのです。おそらく、みなさんに次の質問をすれば、いっそうはっきりするでしょう。死体や犯罪現場のあらゆるものをあべこべにすることによって、隠せると考えられた対照の人物は何者か。また、事件関係者のだれについてなにを隠し、カムフラージュし、ごまかそうとしたのか」
「そうですわね。死体につけているものが、みんなあべこべにしてあったとすれば」と、テンプル嬢が低い声をさしはさんだ。「きっと、隠さなければならないものは、被害者についてだったのでしょう」
「おみごと。テンプルさん。おっしゃる通りぴたりですよ。この事件で、すべてのものをあべこべにすることによって、隠蔽の効果をあげ得る者は、ただひとりしかいません。それは被害者自身なのです。言いかえれば、犯人や、いたかもしれない共犯者や、いたかもしれない犯行の目撃者についてのあべこべの性質を探すかわりに、被害者自身についてのあべこべの性質を探す事が必要です」
「君が自信ありげに言うと、もっともらしいが、ただそれだけさ」と、バーンが言った。「だが、ぼくには分かりかねるな――」
「ホメロス〔ギリシアの詩人〕が言ってる通りさ」と、エラリーがつぶやいた。「≪われに任せておけ。かくしてアキレウス〔ギリシアの英雄〕は重ねて問わざりき≫古典好きな人には古典と言うところですよ、バーンさん……ところで、次に当然おこる疑問は、被害者に重点を置いて考えてみると、このあべこべの性質はなんだろうということです。文字通りその身につけているなにかあべこべなものだったのでしょうか。そうです。われわれの推理からすれば、犯人が隠し、ごまかし、隠蔽しようとしたものは、被害者の身につけているなにかあべこべのものだったのです。つまり、もし被害者がなにか、ひとつのものでもあべこべに身につけていたとすれば、そのときには、犯人は被害者が身につけている他のものを全部あべこべにひっくりかえすことで、そのあべこべに身につけているものをかくすことができるはずです――つまり、そうすれば、被害者が最初からあべこべに身につけていたものがなんだったか見分けにくくなるわけです」
出版屋は目に驚きの色をうかべて、椅子に身をひき、唇をかみしめた。それからあとは、あらためてエラリーを見直したように少しとまどった様子でじっと見つめていた。
「ひとたびこの推理の段階に達すれば」と、エラリーは面白そうな顔でつづけた。「私は、ついに強固な地盤に立っていることを自覚しました。私が追及しなければならないものは――実に明白なものであり、具体的な手がかりなのです。ここまでくれば、それまでの総てのことが、ただちに納得がゆき、霧は魔術のように消え去ります。なぜなら、私はただ、被害者が身につけていたもので|最初から《ヽヽヽヽ》あべこべの現象と考えられる性質を示していたものがあったとすれば、そのものを隠す目的で犯人は他のあらゆるものをあべこべにしたのだと、自問自答すればよかったのです。答えは即座に出て来ました。まさにあったのです」
「手がかりが」と、マクゴワンがつぶやいた。
「ぼくはこの目で死体を見たんだがな」と、ドナルド・カークがけげんそうに言いかけた。
「どうか、みなさんお静かに。話がわき道にそれては時間がもったいないです。その証跡、その手がかりはなんだったんでしょうか。あの男の体にも犯罪現場にも|ネクタイがなかった《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》という事実です」
たとえエラリーが大声で≪アブラカタブラ≫〔呪文〕と叫んだとしても、これほどのおどろきというよりもあきれたというみなの顔を見ることはできなかっただろう。
「ネクタイがなかった?」と、ドナルドが息をのみ「しかし、それがどうして――」
「まずぴんとくるのは」と、エラリーは落ち着いて「被害者はネクタイをつけていたが犯人が持ち去った。というのは、ネクタイから被害者の身元が割れるか、足がつくと思ったからでしょう。しかし今では、|ネクタイはなかったのだ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》ということが、私には、はっきりしています。つまり被害者はネクタイを全然つけていなかったのです。被害者がディヴァシーさんのいるところで、オズボーン君に話しかけたときも、シェーンさんに話しかけたときも首のまわりに、えりまきをしっかりまいていたのを、覚えておいででしょう。つまり、犯人が持ち去りたくてもあの男はネクタイをつけていなかったのです」
「しかし、ひいき目にみても」と、カーク博士が思わずひき入れられるように抗議した。「それは独断的な結論にすぎんな、クイーン君。ひとつの仮説とは言えるが、必ずしも真理じゃない」
「でも、博士、この仮説はあのあべこべ仕事がなにかを隠すために行われたという理論から、必然的に出て来るものです。だが、これまでの説明では、まだ不完全だということを認めます。しかし幸いにして、これを実証的に裏付けてくれる事実があるのです」エラリーはズックの鞄の一件を手短かに話して、その中身を列挙した。「つまり、その中には被害者の必要な衣類が――服から靴までいっさいはいっていたのです。――にもかかわらず、ごく普通の装身具がひとつだけ鞄の中に見当たりませんでした――それはネクタイです。それで、ネクタイが見当たらない理由は、≪鞄の持ち主がいつもネクタイをつけて≫ないからだと確信したのです。お分かりでしょう」
「ふーむ」と、カーク博士がつぶやいた。「たしかな証拠だな。ネクタイをつけない人物とすると……」
「あとは子供の遊びですよ」と、エラリーが肩をしゃくって、たばこを振りまわした。「私は自問してみました。普通の背広を着てネクタイをつけないのは、どんな職業の男だろうかと」
「牧師さんですわ」と、マーセラが思わず大声を出して、顔を赤らめ、椅子にうずくまった。
「その通り、お嬢さん。カトリックの牧師か――もっと正確に言えば、カトリックの牧師又はエピスコパリアンの聖職者です。そこで、私はもっと他のことを思い出したのです。被害者を見たり、言葉をかわした三人の目撃者がみんなそろって、被害者の声に特徴があったことを陳述しています。それはひどくなめらかで甘ったるく、妙にやわらかい声だったそうです。そして、これだけではもちろん結論にはなり得ませんし、いい手がかりとも言えないでしょうが、私が牧師だと推定した点には、適う性質のものです。その上、鞄の中にはひどくすりきれた日課祈祷書や信仰の手引きがありました……こうなるともう疑う余地はありません。
そこで、私は全体のあべこべ仕事の核心をつかみました。ネクタイの手がかりが示すあべこべ性は――いろいろと無関係なあべこべ仕事の中にうずもれて、まぎらわしくなっているあべこべ現象の中の――どの現象に当たるのだろうか。そのとき、いきなりなぐられるように思い当たったのは、カトリックやエピスコパリアンの聖職者たちがカラーをうしろむきにつけていることでした。まさにあべこべです」
息づまるような沈黙があった。廊下に通じるドアのところにいるクイーン警視は身うごきもしなかった。そして反対側の、事務室につづく閉まっているドアを異様な目でじっと見つめていた。
「そこで私はついに、この事件のあべこべ仕事の意味をかぎつけたのです」と、エラリーはため息をして「犯人があらゆるものをあべこべにしたのは、被害者が牧師だという事実を隠すためであり、被害者がネクタイをつけていず、カラーを後ろむきにつけている事実を隠すためだったのです」
一同は、まるで誰かが合図でもしたかのように、すぐに生気をとりもどしてざわめいた。だが、どうにか聞きとれるのはテンプル嬢のものやわらかな声だけだった。「なにか妙じゃございませんか、クイーンさま。それはごく普通のカラーだったのでございましょう。とすれば犯人は被害者の首のカラーをまわすだけで、普通人のカラーのようにすることができたわけじゃございませんか」
「まことにごもっともです」と、エラリーは微笑して「もちろん私もそのことに思いつきましたし、犯人もきっと思いついたでしょう。と同時に、被害者がネクタイなしだったことは、さぞ犯人にとっても大きなおどろきだったろうと思います。なぜなら、この事件に関係のある者は、もちろん犯人も含めてですが、あのずんぐりした小男が、この階のエレベーターから、ひっそりと出て来るまで、実際にあの男に会った者はひとりもいなかったでしょうからね。くびをえり巻ですっかり覆っていたので、犯人も殺してしまうまで、被害者が牧師だとは気がつかなかったのでしょう。……ところでテンプルさん、あなたの質問にお答えしますが、もし犯人がカラーをまわしたとすれば――つまり普通のむきになるようにまわしたとすれば――それは親指の頭のやけどのように目立ったでしょうよ。そしてネクタイのないことが、きっと被害者への注意をいっそう喚起する点になったにちがいありません。それこそ犯人がなんとしても隠したかったことなのにね」
「だがいったい」と、マクゴワンが異議をはさんだ。「そんな問題なら、なぜ犯人はどこかからネクタイを持って来て、死体の首につけるだけで解決できなかったんだろうか」
「なるほどね」と、エラリーは目を光らせて「その疑問は私にもおこりました。事実、その点が全体の論理を組み立てる上に一番重要な指標でした。今は充分に説明しないでおきますが、じきに、なぜ犯人はネクタイを手に入れることができなかったかお分かりになるでしょう。もちろん、犯人は自分のネクタイを使うわけにはいきませんでした――」と、エラリーはいたずらっ子のように、にこにこして「犯人が男なら、否応なしに他の人にも出会うでしょうしね。もし仮りに女だったとすれば、むろん、女としてはネクタイをはずして提供するわけにはいかないのが普通でしょう。しかし一番重要な点は、犯人が控え室から出られなかったということです。それについては、あとで説明します。とにかく、犯人にとっては、カラーをそのまま――うしろ前のまま――にしておいて、そのことをまぎらせるために、死体の着衣と、部屋中のものをみんなあべこべにするのが最良の方法だったという点は、さし当たり、私の言葉をそのまま受けとって下さい。犯人はそうすることでカラーがうしろ前になっていたり、ネクタイのないという点を隠し、捜査の目をごまかせるはずだったのです」と、エラリーは一休みして、考えながらつづけた。「実は、ここまで推理してから、私は相手にしている人物が、非常に想像力が強く、頭脳明晰で、その上、きわめて組織的な性質の持ち主なのに気がついたのです。着衣を全部あべこべにすることに気付くのは一種の天才ですし、着衣をあべこべにするだけでは充分でないと見こすには、かなりな知能と推理力を要するのです。着衣だけの様子が変になっていることが、かえって注意を喚起する危険がありますからね。そこで犯人はまわりにあるすべての家具や動かせるものをあべこべにして、着衣やカラーからの注意をそらそうとしたのです――その仕事には全部、論理的な筋が通っているのです。しかも、ほとんど手落ちなくやってありました」
「だがたとえそうとしても、たとえ被害者が牧師だと分かっても――」と、ドナルドが言いかけた。
「どうなるかと言いたいのでしょう」と、エラリーがにがい顔をして「たしかにそうですよ。被害者が牧師だと分かっても、捜査範囲がしぼられるだけで、決定的なものとは言えません。しかし、まだ鞄の問題があるのです」
「鞄?」
「ええ、私は手荷物のことにはまるで気がつかなかったんです。それに気付いたのはクイーン警視の不滅の功績です。しかし、犯人は自分にとって不利なものを、すみずみまで知っていました。被害者のポケットをさらったときに、チャンセラー・ホテルのしるしがはいっている手荷物預り札を見つけました。犯人の主な目的は被害者の身元が割れるのを防ぐことだったので、チャンセラー・ホテルの手荷物預り所に保管されている被害者の手荷物が警察の手におちないように、持ち出さざるを得なかったことは明らかです。しかし犯人はこわかった。ホテルは厳重に監視されていたのです。犯人はぐずぐずし、不安におそわれ、びくびくし、くよくよしていて手おくれになってしまったのです。やがて、犯人は鞄の中のものを手に入れる方法に考えついたのです。偽名の手紙を書き、五ドル札をつけて、電報会社へたのむという手です。そして偶然のことから、われわれは尻尾をつかまえました。犯人は手荷物預り所を見張っていて細工が失敗したのを知ると、グランド・セントラル駅で、なんとかして、鞄を受けとろうともしなかったので、鞄はわれわれの手におちたのです。
さて、犯人の致命的な尻ごみがどんな結果をみちびいたかを見てみましょう。鞄をあけたときに、われわれは上海のラベルがついている被害者の衣類を発見しました。その衣類はみんな新品だったので、おそらく最近に中国で買ったものにちがいありません。私はこの事実を、徹底的な捜査をしたのに被害者の証跡が国内のどこからも見つからなかった事実と、考え合わせてみました。被害者が合衆国に住んでいる牧師で、単に中国を訪問して帰国したというのなら、身元確認者が名乗り出るはずです――友人か親類の誰かがね。ところが、ひとりも出ませんでした。そこで、被害者が東洋に長く滞在していたものと考えてもさしつかえないでしょう。また、もし中国から来たカトリックの牧師だとしたらどうでしょうか。仏教と道教のあの国にはクリスト教の聖職者の身分はたったひとつしかないのです。
「伝道師ですわ」と、テンプル嬢がゆっくり言った。
エラリーはほほえんで「おっしゃる通りですよ、テンプルさん。そこで私は、鞄の中に日課祈祷書と信仰の手引きを持っていたあの慈悲深そうで、ものやわらかな口のきき方をする小がらな死者は、中国から来たカトリック伝道師だったと確信したのです」
クイーン警視のやせた肩がよりかかっていたドアを、何者かがけたたましくたたいたので、老警視はくるりを向き直り、すぐドアをあけた。あらわれたのはヴェリー部長で、相かわらず苦虫をかみつぶしたようないかつい顔をしていた。
エラリーが低い声で「ちょっと失礼」と言い、急ぎ足でドアに近付いた。一同はその三人の男が、見るからに不安と心配のまじり合った顔で相談しているのをながめた。部長は毒々しい調子で何事かをぼそぼそしゃべり、警視は得意げな顔をし、エラリーは部長のひと言ごとに力強くうなずいていた。やがて、ヴェリーの分厚い手がなにかをエラリーに渡し、エラリーはくるりと背を向けてそれをしらべ、にこにこと振りかえりながら手に持っているものをポケットに入れた。それから部長はクイーン警視にならんで、のっそりとその長身をドアによせかけた。
「話がとぎれて失礼しました」と、エラリーがおだやかに言った。「しかし、ヴェリー部長が画期的発見をしましたのでね。どこまで話しましたっけ? おお、そうそう、私はそこでドナルド・カーク君の訪問者が誰か、ほぼ分かったのです。それから、ちょいと考えて犯人を馳り立てた直接の動機――つまり|casus belli《カススベリ》〔開戦理由〕――なるものを突きとめたのです。あの牧師さん自身、実在の人物としては、この部屋にいるどなたにも未知の人だったことは明らかです。しかも、あの男は名ざしで、ドナルド・カーク君を訪ねて来たのです。カーク君のここの事務室を時々訪ねてくるのは、切手関係か宝石関係か、出版関係の主として著者か、三種類の人たちだけです。しかも、あの牧師さんは、カーク君の信任厚い秘書のオズボーン君に、自分の職業も、名前さえも告げようとしなかったのです。このことから、どうも出版の件ではなさそうなので、おそらく牧師さんとカーク君との取り引きは、カーク君の二つの道楽、切手と宝石に関することだろうと見当をつけました。
さて、もし見当が正しければ、あの伝道師は切手か宝石を売るか買いに――あるいは、その両方をかねた用件で来たのだろうと推理しました。あの男の粗末な身なりと、その職業と、長旅をして来たらしいことから、私はこれは買い手ではないと判断しました。とすれば売り手です。それはあの男の秘密そうなそぶりに、ぴったり合います。あの男はドナルド・カーク君に売るために何かの高価な切手か宝石を持っていたのです。だから慎重な態度だったのです。つまり、あの男は中国からはるばる売りに来た切手か宝石を持っていたので殺されたのにちがいありません。もうひとつ突込んで言えば、カーク君が中国切手の専門家なので、あの伝道師はおそらく宝石よりも中国切手を持っていたのでしょう。たしかではないかもしれないが、それの公算は大いにあります。|Ergo《エルゴ》〔かるが故に〕自分なりに事件を解決した私は、ヴェリー部長に命じて、中国切手を見つけるように犯人の家宅捜索をしてもらい、同時に宝石も見つけるようにたのみました」エラリーは、中休みしてもう一本たばこをつけた。「私の見込みは当たっていました。部長がその的中を報告してきました。切手を見つけたのです」
だれかがのどをならした。しかし、エラリーが一同の顔を見まわしてみると、みんなはただ、がんこにおずおずと目を光らせているだけだった。
エラリーは微笑してポケットから細長いハトロン封筒をとり出した。その中から、もう一枚の小型の封筒をぬき出した。それには(たぶん)中国文字で宛名がかいてあり、片隅に消印を捺した切手がついていた。「カーク君とマクゴワン君」二人は不安そうに立ち上った。「お二人の切手収集家におねがいしましょう。これをどう思われますか」
ふたりは好奇心にかられて、ゆっくり前に出た。カークがそっと封筒をとり、マクゴワンがその肩ごしにのぞきこんだ。やがて、ふたりとも同時にあっと叫び、圧し殺した声で、熱心に語り合った。
「さあ、君たち」と、エラリーがつぶやくように「みんなが説明を待ちこがれていますよ。それはなんですか」
封筒に貼ってある切手は、小さな四角形の薄い強い紙で、明るいオレンジ色の、一色刷だった。四角いわくには類型化された竜がとぐろをまいていた。標記価格は五|元《げん》だった。切手の印刷は粗末で、封筒そのものも古びて黄ばみ汚れていた。中国文字の手紙――文面――が封筒の内側に書いてあった。これは今でもヨーロッパや他の土地で使われている旧式のやり方で、宛名と文面とをきれいに折り分けて、郵便に出すのである。
「これは」と、ドナルドがつぶやいた。「ぼくが今まで見たうちで、一番すばらしいものだ。中国切手の専門家にとって、とてつもない大発見だ。中国での最初の官制郵便切手で、標準カタログに普通最初の切手として印刷されているものより、ずっと以前のものだ。ごく少数だけ試験的に発行されて、ほんの二、三日だけ使用されたものだ。われわれの言う封《ヽ》、つまり封筒に貼られている切手も――|はがし《ヽヽヽ》、つまり封からはがした切手も――こんなのは今までに一枚も発見されていない。実に、なんともすばらしい!」
「専門の中国切手カタログにも出ていない」と、マクゴワンが、むさぼるように封筒に見入りながら荒々しく言った。「古い切手関係の本に、色のことをひどくほめて出ているだけだ。ちょうど、英国の最初の全国的公認切手を、切手収集家たちが、黒の一ペニーと呼んでいるようにね。実に見事なものだ」
「どうですか」と、エラリーがのんびり言った。「これは一財産というほどの値打ちものですか」
「値打ちかね」と、ドナルドが大声で「もちろん、君、これは英領ギアナ切手よりも、ずっと値打ちものなんだよ、収集家にとってはね。つまり、本物ならね。鑑定が必要だが」
「本ものらしい」と、マクゴワンが真剣な顔をした。「封ものだし、消印も明瞭だし、文面が裏に書かれているし――」
「どのくらいの値打ちですか」
「おお、いくらにでもなる。全くいくらにでもなる。こういうものは収集家の払いしだいで、それだけの値打ちになるのさ。ギアナ切手には五万ドルの値がついている」ドナルドが顔をくもらせて「もし金づまりでなければ、ぼくは自分からすすんでそれだけ出すんだがなあ。切手としては最高値だろうがね。それにしても、こんなすばらしいのは世界に二つとあるまいよ」
「ああ、ありがとう。ご両人」と、エラリーがその封筒をハトロン紙の袋にかえして、ポケットに入れた。カークとマクゴワンはゆっくりと各自の席にもどった。かなり長い間みんな黙りこんでいた。「この中国切手は、つまり」と、エラリーがやがて口をひらいた。「 deus ex machina《デウスエクスマキナ》〔時の氏神〕の役をしたといつてもいいでしょうね。わが友伝道師さんを、はるばる中国から招きよせた。つまり、あの男はどこか人知れぬ土地でこれを見つけ、これの価値が、あの男の余生をたっぷり楽しく送らせてくれることにふと気がついて、その職業の精神的慰安にいやけがさし、伝道の仕事を辞めようとしたのでしょう。上海で調べて、このような珍品を買いあさっている大収集家たちのいることが分かったのでしょう。そこか、もしくは北京で――どうも上海らしいが――ドナルド・カーク君のことを知ったのでしょう……そして、そのことがあの牧師を殺すことになったのです。というのは殺人はカーク君の名前に結びついて行なわれたのですからね」
エラリーは言葉を切って足もとのお棺のような箱を考えこみながら見おろした。「被害者の身元が割れたので、そこで――名前は割れませんでしたがそれは大したことではないのです――私は動機について満足のいく結論を得たのです(これも論理的な立場からいえば大して重要なものではありませんが)次に、私は犯人の素姓という――最も重要な考察に――とりかかったのです。
しばらくのあいだ、この最も重要な点は、どちらかといえば、私の脳裏から離れていました。解答が目前にあることは知っていました。ただつきとめさえすればいいのでした。ところでこの犯罪には、私を含めて、だれにも解釈できなかった明らかに不可解な現象がひとつふたつあったのです。解決のきっかけは、警視のふとした質問によってつくられました。そして、ある実験によって全部のいきさつが判明したのです」
いきなり、エラリーはしゃがんで箱のふたをとりのけた。ヴェリー部長が黙って前に出た。そして二人で人形を持ち上げて箱の中に坐る姿勢をとらせた。
マーセラ・カークがかすかな悲鳴をあげて、そばにいるマクゴワンにすがりついた。ディヴァシー嬢はぜいぜいとあえいだ。テンプル嬢は目を伏せた。シェーン夫人は祈りをし、リューズ嬢は気色の悪い顔をした。男たちさえ青ざめた。
「ご心配には及びません」と、エラリーが身をおこしながら低い声で「ちょっとした私の道楽です。そして人形造りの技術の、かなり興味ある見本です。よく注意して見て下さい」
エラリーは控え室に通じるドアに近付き、ドアを明けて姿を消したが、すぐにそのドアの事務室の側の前に敷いてあった紙のように薄いインディアン絨毯を持って出て来た。その絨毯を、三分の一は控え室に、三分の二は事務室に出るように、ドアの敷居の上に、ていねいに敷いた。それから立ち上って、右のポケットから丈夫そうな紐をひとまき取り出し、みんなに見えるように差し上げた。ひとつうなずいて、みんなにほほえみかけ、紐の長さの三分の一をはかった。それからドアの控え室側のかんぬきから突き出ているノブに、紐の三分の一の個所をまきつけた。紐はノブにぶらさがった――つまり、紐の片方は短く、片方は長く、ノブにひとまきされて支えられていた。エラリーは手ぶりで、ひもに結び目がひとつもないのを示した。それから、紐の短いほうのはしをとってドアの下のすき間をくぐらせ、絨毯の上を向う側の事務室へ通した。そして、ノブに手をかけずにドアをしめた。ドアはしまったが、かんぬきはかからなかった。
一同は人形芝居に見入る子供のように、目をまんまるくし、夢中になって、不思議そうにエラリーを見守っていた。口をきく者はなく、きこえるものはエラリーの動きまわるものやわらかな音と、重苦しく乱れがちな息づかいだけだった。
エラリーは相変わらず黙り込んでその演技をつづけた。あとずさりして、ドアの入口の西側に据えてある二つの本棚を目で測った。しばらく調べていたが、つかつかとあゆみ寄ってドアに向かって右側の本棚を引きずり出しにかかった。そして右手の壁にそって四フィートばかり前方に引き出した。次には引きかえして一同からみてドアの左手の本棚を動かしはじめた。そして部屋の中に突き出してくるまで引いたり押したりした。――つまり、本棚の左側のうしろの一角がドアの蝶番にふれ、右側が部屋の中にかなりとび出して、本棚全体がドアと鋭角をなすようにしたのである。やがて、エラリーは満足そうにうなずいて、もどって来た。
「ごらんなさい」と、しんとしたなかで手短かに言った。「二つの本棚は、われわれが死体を発見したときに見たのと同じ位置にあります」
それが合図ででもあったように、ヴェリー部長がしゃがんで、人形を箱からとり出した。人形はかなりの重さなのに、それを生まれたての赤ん坊のように軽々と運んだ。見ると人形は死んだ男の衣装を、そっくり、しかもあべこべに着けていた。エラリーが低い声で何事かを部長に言い、ヴェリーは人形をまっすぐに足で立たせた。そして、大きな片手の指をひろげて、グロテスクな姿で直立するように人形のバランスをとっていた。
「さあはなせ、部長」と、エラリーが、のんびり言った。
一同はぎょっとした。ヴェリーが手をはなすと、人形はへなへなになり、垂直にくず折れて、さっきまで立っていた床の、その場にくしゃくしゃになって盛り上がった。
「あの死体とそっくりに筋肉不随です」と、エラリーが快活に言った。「ご苦労でした、部長。まだ死後硬直が始まっていないようです。実験でそれが分かりました。では次の段階に移ります」
ヴェリーが人形を抱き上げると、エラリーは箱のところへ行って、例の死体から発見された二本のインピ族の槍を持って来た。そして、人形のズボンの両足のすそに差しこみ、上衣を通して、頭の後ろに突き出し、どきどきする二枚の穂先が、張り子細工の脳天のはるか上に見えるようにした。それから部長が人形を運び、ドアと左手の本棚とのあいだにできた鋭角の内側に、顔を右向にしてよせかけた。人形はぴんと直立して、二枚の穂先が、角のように上衣から突き出ていた。その両足はインディアン絨毯のはじに、かろうじてかかっていた。
それから、エラリーが妙な仕事にかかった。紐の――長いほうの――ぶらさがっているはしを持って、ドアに近いほうの槍の柄の穂先のすぐ下に、ていねいに巻きはじめた。ふた巻きした。すると、ドアのかんぬきと槍につながる紐にかすかなたるみができた――宙にかかった紐がなだらかな弧をえがいているのだ。
「どうぞよく見て下さい。槍にまいた紐には結び目も輪もありません」と、エラリーが言った。それから、しゃがみこんでこんどは槍からたれさがっている残りの紐のはしを――ちょうどさっき、短いほうの紐のはしを押し込んだように――ドアの敷居に敷いた絨毯とドアのすそとのすき間に押し込んで、その先が事務室の中にかくれるようにした。
「だれも動いちゃいけませんよ」と、エラリーは身を起こしながらぴしりと言った。「人形とドアをじっと見ていて下さい」
エラリーは手をのばしてノブをつかみ静かにドアを手前にひいた。引くと、紐はいっそうたるんだ。ドアが充分にひらくと、エラリーは慎重に背を低くして紐の下をくぐり、せまい戸口を抜けて一同の前から姿を消した。やがて、ドアは静かにきしみながらもどり――かんぬきがかからずに閉じた。
一同はかたずをのんで見ていた。
三十秒ほど、何事もおこらなかった。
それから、ドアの下の絨毯が動いた。控え室から、ドアの向こうの事務室のほうへ、引きよせられていた。
一同は全くふいをつかれたのだ。口をあんぐりと、あけっぱなしだった。緊張して、まるで奇跡のようなその出来事に見とれていた。それは、いかにも突然におこったので、事の意味を一同がのみこむ前に、ほとんどすんでしまっていた。
というのは、絨毯を引くといろいろな事が同時に、おこったのだ。人形がふるえながらぐらつき出し、槍をさされてしゃちこばっている体が、突き出した本棚の上端にそって、ドアのほうへ少し外向きにすべりはじめた。しかし次の瞬間、どういうわけか横すべりがとまった。槍とかんぬきをつないでいる紐のたるみが引っぱられて、人形を引きもどして、横すべりをとめていた。人形はしばらくゆらゆらしていたが、ドアと平行に顔を下に向けて、前のめりに棒のように倒れはじめた。槍からかんぬきに渡した紐のたるみが消えて、人形の首が床から一フィートばかりのところへ来た。そこで紐がぴんと張り、奇跡がおこった。その紐の緊張力と、倒れる人形の重さの索引力とが、≪かんぬきを一同から見て左から右にすべらせドアのわき柱の受け金に、ぴったりとはまり込ませた≫
ドアにはしっかりかんぬきがかかったわけだ。
そして一同があっけにとられて、信じられない顔をしていると、もうひとつのほとんど奇跡といってもいいほどのことが起こった。紐の短いほうのはしが、まるでドアの向こう側から引かれるように動きはじめた。紐はドアのかんぬきのつまみにまいたところで、ちょっとの間、ひっぱられていたが、やがてそこで切れた。結び目がないから、切れた部分は――槍についたまま――人形とドアとの間の床にたれさがっていた。はしをひっぱられた残りの部分は、ドアの下を向こう側から引かれるように消えて行った。
それから一同が見ていると、もう片方の紐は――槍にまきついている三分の二の長さの部分――しばらくぴんと張っていたが、やがて、するすると柄のまわりをすべりはじめ、さっきかんぬきのつまみで切れてぶらさがった端《はし》も、同じ見えない手が、その三分の二の紐をドアの向かい側から事務室にひっぱりこむにつれ、だんだん短かくなった。そしてしまいには、ぶらさがっていた端が、柄のところまで来てするりとまわってすべり落ちドアの下のすき間をくぐって消えていった。そして次の瞬間、最初に人形をたおす原動力になった絨毯も消え去った。
こうして、人形はちょうどたおれていた死体と同じかっこうで横たわり、ドアにはかんぬきが下ろされ、本棚と二本の槍と、死体の位置の他は、どうやって向こう側からドアのかんぬきをかけることができたのかを示すものは、なにひとつ残っていなかった。
エラリーは走りもどって廊下のほうから控え室にとび込んだ。一同はまだ人形とドアを見つめていた。
刑事たちが壁ぎわに立っていた。警視が尻ポケットに片手をまわしていた。
だれかが立ち上って、窓から見える朝ぐもりの空のように陰気くさく、しわがれ声でつぶやいた。「だが私には――分からない――いったいどうして君に――分かったのか」
「槍のおかげさ」と、エラリーが、唖然として口もきけないみんなの沈黙をやぶった。「槍と事務室のドアの両側にならんでいる二つの本棚の位置さ。いろいろな事実を集めたら真相がつかめたのさ。伝道師はわれわれが見つけた場所で殺されたのではなく、部屋の他の場所で殺されたのだ。その点は床の血痕によってごく初期に立証された。そこで疑問がおこった。なぜ犯人は死体をドアのほうへ動かしたのか。明らかに、あの目的のために死体を使ったのだろう。次の疑問は、なぜ犯人は右手の本棚を右手の壁よりにドアからずらしたのか。それへの唯一の答は、ドアのそばの右手の壁の前にすき間をつくるためだ。三番目の疑問は、なぜ犯人は左手の本棚を、ドアの蝶番のきわまでずり動かし、右側を部屋の中に突き出すように引き出して、ドアと鋭角になるようにしたのか。その答えは、槍のことを思い出すまで、かなり悩まされたよ……
二本の槍は被害者の着衣を足もとから頭まで突き通していた。槍の柄は固い木だから、死体は頑丈な棒にくくられた獣の死骸のようになり、それで死体がぴんと突っ張っていたのだ。つまり槍がある意味での人工的な死後硬直をつくった。死人というものは、直立の姿勢からくず折れると、各部がへなへなになって、目も当てられないかたまりになるものだ。この死人は、槍がそのくにゃくにゃの死体を棒のように硬直させていたから、棒のようにぴんとして倒れたはずだ。しかし右手の本箱はドアの右手に余地ができるようにずらしてあった。つまり死人はドアの前に倒れて少なくともその一部はあけた余地にかかるように手配されていたのだ。それに、死体はドアと平行に倒れるように手配されていたのだ。さもなければドアのわきに余地をつくる必要はなかったはずだ。なんのために左手の本箱を移したのか。なぜ、わざわざ角度をつけたのか。ぼくの考えでは、もし死人があの角度で直立していて、どうかした拍子に動かされるようなことがあると、きっと、ほぼドアの向こう側の空間に倒れることになるはずだ。
ではなぜ犯人は死体が正確にそのように倒れることを望んだのか、ただ倒れるに任せなかったのか」と、エラリーは深くひと息ついた。「その疑問に対して与え得る唯一の論理的な解答は、ちょっとありそうもないことだが、つまり、犯人は死体を部屋の他の場所からドアのところへ運んで、死体が倒れるときに、あのドアに対してなにかをしてもらいたかったのだ……ここまでくればあとは、精神集注と実験だけだ。犯人にとって重要だと思えることで、ドアに対してなにかすることといえば、ドアに錠をおろすことだ。この事件ではドアにかんぬきをさすことだ。だがいったいなぜ死人にかんぬきをさせる必要があったのか。犯人は自分でこの部屋からかんぬきをさして、廊下に通じる別のドアから抜け出すことが出来たのにね」
しわがれ声がひびいた。「私は――まさか――それが分かるとは気がつかなかった」
エラリーがたたみこんで「それに対する唯一の可能性ある解答は、つまり犯人は廊下へ出るドアを使ってこの部屋を退散したくなかったか、できなかったということだ。犯人は事務室へ通じるドアからこの部屋を退散したかった。しかも、犯人は廊下のドアから逃げた、事務室のドアはずっとかんぬきがさしてあったと、みんなに信じさせたかったのだ。つまり、だれであれ事務室にいて部屋の外の廊下に姿を見せなかった者は、あきらかに犯人ではあり得ないと思わせたかったのだ」
ジェームス・オズボーンが両手で顔を覆って言った。「そうです。私がやりました。あの男を殺しました」
「ごらんの通りです」と、かなりたってからエラリーが顔を覆った男をいたいたしそうに見やりながら言った。他の連中はおそろしさにしびれ上ってオズボーンを見つめていた。「問題は論理的に分析すればおのずと簡単にとけるものです。槍を使ったことと、本棚をずらしたことと、死んだ伝道師の体を移したことから、犯人は犯行後事務室のドアから控え室を抜け出したことが証明されました。そこで犯人は、殺人の直後事務室にいたことになります。だがオズボーンは、自分で認めている通り、殺人の行われている間ずっと事務室にいたただひとりの人間でした。事務室に訪ねて来た者――マクゴワン君と、シーウェル嬢と、テンプル嬢と、ディヴァシーさん――は除外されます。と言うのは、もしそのうちのひとりが犯人だとすれば、男であれ女であれ犯罪現場をはなれるのに廊下へ出るドアを使ってここから、出て行けたでしょうから、事務室へ通じるドアにかんぬきをさすのはこの部屋の側からできるので、オズボーンがしたような手のこんだ方法にたよる必要はなかったはずです。言いかえれば、廊下側のドアを使ってこの部屋を出たものはだれでも、手のこんだ方法にたよらずに事務室へ通じるドアのかんぬきをさせるはずですから、廊下側のドアを使った者は、犯人と疑われるどころか、逆に全く潔白だということになる。これはわれわれが最初から主張して来た通りです。
ところで、事務室へ戻るとき、シェーン夫人に見つからずに控え室の廊下側のドアを使うわけにいかなかった、ただひとりの男はオズボーンでした。そこで、オズボーン、君だけがただひとりの可能性のある容疑者ということになる。君だけがドアと槍のトリックを必要とした男ということになる。それに犯人が殺人の部屋から廊下側のドアを使って逃げたという錯覚をおこさせることによって利益を得るただひとりの男ということになる。なぜ君はそのままにして出て行かなかったんだね――事務室側のドアのかんぬきをはずれたままにしてさ」
「それは」と、オズボーンはのどをつまらせながら「あの時は私がまず疑われると思ったからです。しかも、もし反対側からかんぬきをさしておけば、警察は――あなた方は決して私を疑うまいと思ったのです。いまだに分からないのは、どうして――」
「そうだろうな」と、エラリーが低い声で「複雑な頭脳だよ、オズボーン君。どうして分かったかといえば、なぞをとくかぎの組み合わせ番号にぶつかるまで、いくども失敗し、いくどもやってみただけさ。ぼくはただ自分を君の立場においてみて、君だったらどうするだろうかと考えてみただけさ。……さて、みなさんには、オズボーンが、どこかでネクタイを手に入れてネクタイなしの死んだ男にかけてやるぐらいのことがなぜできなかったかその理由がおわかりでしょうね。もちろん自分のものは使えなかったし、他のを手に入れる場所もなかったのです。というのは、かりそめにも、事務室をはなれたところをシェーン夫人に見られてはならなかったからです。たとえ、控え室の廊下側のドアを抜け出せても――つまり、廊下へネクタイを買いに行くとして――それにかかる時間と、ほとんど確実に人に見られる可能性があるという点でその危険はおかせなかったのです。また同じ理由で、カーク家のアパートへもネクタイをとりに行けなかったのです。それにオズボーンはチャンセラー・ホテルに住んでいない――カーク君がいつかぼくの目の前でオズボーンに≪うちへ帰りたまえ≫と言ったことがあります――だから、オズボーンは、アパートに行ってもネクタイを手に入れられなかったのです。……オズボーン、君はあの死んだ男のチョッキを持って行って事務室のどこかにかくしていやしないかね。あの男の着衣からはぎとった他のものと一緒に安全に焼きすてるときがくるまで」
「ええ」と、オズボーンは実に妙な弱々しさでため息をつくように言った。そのとき、ディヴァシー嬢が死人のように青ざめて失神しそうなのに気がつき、エラリーはいささかまごついた。
「ご存知のように」と、エラリーが低い声で「もしあの男が牧師でカラーの逆に向いている僧服をつけ、ネクタイをしめていなかったのなら、きっと、首までくるあの独特な僧服用のチョッキもつけていたはずです。そこで犯人は、僧服用のチョッキがあっては事をこわすので、はぎとって行ったにちがいないと考えました。ところがそれを立証するには、すでに手おくれになっているのに気がつきました。関係者一同の身体検査をする機会は、とっくに過ぎ去っていたのです……オズボーン、君はなぜ罪もないあんな小男を殺したのかね――君は、みたところ全然殺しをやるようなタイプの男じゃないのに。君はそろばんにあわない殺しをやったんだよ、オズボーン。あの切手はこっそりと売らなければならないはずだし、たとえ五万ドル手に入ったところで――」
「おい、オッジー――オズボーンいったい君は――」と、ドナルド・カークがつぶやくように言った。「まさか君が――」
「女のためでした」オズボーンが例の妙に弱々しい口調で「私は目のでない男でした。いくらかでも私に注意を向けてくれたのは、あの女がはじめてでした。それに私は貧乏です。あの女は、そのう――安楽な暮らしをさせてくれないような男とは結婚しようとは思わないとまで言いました。……それで機会が来たとき……」と、唇をなめて「それはひとつの誘惑でした。あの男は――数ヶ月前に、中国から、カークさん宛の手紙をよこしました。いつもするように、私がそれを開封したのです――カークさん宛の郵便は全部そうするのです。あの男は、あの切手のことや、伝道師をやめることや、ニューヨークに来て――あの男はアメリカ生まれなのです――切手を売って隠退することなどを全部書いていました。私は――いい機会だと思ったのです。私はあの切手のことを知っていましたし、もしあの男の言うことが本当なら、きっと……」と、オズボーンは身ぶるいした。口をきくものはひとりもいなかった。「そこで、私ははじめから計画をたてました。カークさんの名を使って文通したのです。あの男のことはカークさんにはひと言もいいませんでした。女にももらしませんでした。……私とあの男は長いあいだ文通したのです。それで、もしあの男が姿を消しても、探し出そうとする親類も友人もアメリカにはひとりもいないのが分かりました。あの男がやって来るのが分かったので、来る日を指定し――つまり、そのう――助言をしてやったのです。私はあの男が実際に姿をあらわすまでは――殺してしまって、えりまきがずり落ちるまでは――あの男が牧師服で、ネクタイをしめていず、カラーが後ろ向きだなどとは、夢にも思っていなかったのです。ただの伝道師――普通の洋服の伝道師だとばかり思っていました。メソジストかバプチストのね」
「それで」と、エラリーが、だまり込むオズボーンを、やさしくうながした。
「あの男をこの部屋に案内してから、すぐにまた戻ってきて、さっきは気がつかなかったが、あなたはカークさんが話しておられた中国から来られた方でしょう、切手のことは万事心得ていますなどと話しかけました。すると、あの男は打ちとけてくつろぎ、中国伝道会の伝道師仲間は、その切手のことをみんなよく知っているし、カークさんに売るためにアメリカに来たなどと話すのでした。それで、あの男を殺してから、誰であるかが、だれにも絶対に分からないようにしなくてはならなかったのです」
「なぜ」と、エラリーがきいた。
「それは、もし警察があの男を調べて中国伝道会にまでたどりつけば――あの男が牧師で、最近にアメリカに来たばかりだと警察に分かれば、それは造作もなく分かることですからね――警察は仲間の伝道師たちから切手のことや、アメリカに来た理由をきき出すでしょう――そうなればカークさんと私が調べられる。ところがカークさんは実際にあの切手のことは知らないのですから私が追及されることになるでしょう……おそらく私の書いた手紙を見つけて、署名の筆跡から私を突きとめるでしょう……私は――私はとても拷問には耐えきれません。私は役者ではないんです。きっとかぶとをぬぐにきまっています……そこで、とっさにあのあべこべ仕事を思いついたのです。しかし、ドアと紐と死体のことなどは、私は――ずっと前に計画してすっかり準備しておきました。万事片がついてから私はあの男を――死んだあの男をそこに立てかけて、うまくいくか試してみましたが、はじめは失敗でした――紐の調子がうまくなかったのです――そこで私はいくどもやり直して、ついにうまくいきました。ネクタイは手に入れることができませんでした……」オズボーンの声はだんだんかすかになって、しまいには全く消えた。その顔はぽかんとしていて、おそろしい自分の立場さえ分からないようだった。
エラリーは胸がいたんで、目をそらした。「その女のひとというのは、ディヴァシーさんだね」と、低い声で言った。「なにも話してなかったのなら、もちろん、この事件には関係がないはずだよ」
「おお」と、ディヴァシー嬢が叫んで気を失った。
だれひとりオズボーンの意図に気がつかないうちに、不意打ちだった。それほど、おとなしく、茫然と、恐れ入っていた。それが絶望の果ての賢明なポーズにすぎなかったのに気がついたときは、すでに手おくれだった……エラリーは背を向け、警視はドアのところにヴェリー部長とともに立ち、刑事たちは……。
オズボーンが牡鹿のようにはね上り、エラリーがふり向くまもなく、すり抜けた。クイーン警視と部長が同時にわめいてとびかかったが、一寸の差でとり逃がした。そしてオズボーンはあいている窓のわくをとびこえ、ひと声叫んで、消えていった。
「引きあげる前に」と、エラリー・クイーン氏は、半時間後、ほとんど人気のなくなった控え室で大儀そうに言った。「カーク君、君と二人きりで話したいんだが」
ドナルド・カークは身動きもせず椅子に腰かけたきりで、両手をやるせなさそうにひざのあいだにたらし、むなしくあいている窓を見つめていた。小がらなテンプル嬢がつつましくそばに坐って待っていた。すでに他の連中は出て行ってしまっていた。
「なにかね」と、ドナルドは重そうな目をあげて「クイーン君、どうしても信じられないよ。あのオッジーが……あの男はいつも、とても忠実で正直な奴だった。それが結局女のことでしくじるなんてね」ドナルドは身をふるわせた。
「カーク君、ディヴァシーさんを責めてはいかんよ。オズボーンは境遇の犠牲者だったのさ。感情を抑圧されていたし、危険な年齢だった。たくましい想像にかられて興奮していたんだ。……それにあの女はたしかに男好きのするほうでもあるしね。オズボーンの性格にひそんでいた一連の弱点が表に出て来たのさ……テンプルさん、あなたにお分かり願えるかな――あなたの婚約者をしばらく私と二人きりにしていただきたいんですがね」
テンプル嬢はなにも言わずに立ち上った。
しかし、ドナルドがその手をつかんで、そばにひきとめて言った。「いや、いけないよ、クイーン君。ぼくは決心したんだ。この人こそ、男にしあわせだけをもたらすひとなんだ。ジョーにはなにもかくしておきたくないよ。ほとほとよく分かったんだよ――」
「いい決心だ」と、エラリーは椅子にかけておいた外套に近より、ポケットに手を入れた。そして、小さな包みを持ってもどった。
「ぼくは君に」とほほえみながら「こないだ婚約祝いを上げたね。今度は結婚祝いを上げたいんだよ」カークはちょっと唇をしめした。「例の手紙だね」それからごくりとつばをのんで、テンプル嬢をちらりと見、歯をくいしばって「マーセラの手紙だね」と言った。
「そうだよ」
「クイーン君……」ドナルドは手紙を受けとって握りしめた。「とりもどせるとは夢にも思わなかったよ。クイーン君、ぼくはなんとお礼をいっていいのか――」
「チッ、チッ。まあ、すぐ火葬にしたほうがいいね」と、エラリーはくすくす笑いながら「君の未来の奥さんには事実上うち明けたことになるが、それは火にくべて、他の連中にはうち明けないほうがいいよ」エラリーはちょっとため息をした。「さあ」と、外套に近付きながら「これで片づいた。どんな不幸の中にも幸福というものもあるものさ。君たちもしあわせになってほしいな。あやしいもんだが」
「あやしいんですって、クイーンさま」と、テンプル嬢がつぶやいた。
「あ、それは」と、エラリーが急いで「あなた方のことではないんですよ。例によって女ぎらいなぼくの結婚観が出たんですよ」
「あなたはすばらしい方ね、クイーンさま」と、テンプル嬢がふとエラリーを見つめた。「あなたは今度の気味の悪い事件について、終始、いわば王者の風格で臨んでいらっしゃったわ。それで、根ほり葉ほりお伺いしてはいけないし――なにもかも丸くおさまったことをありがたく思わなければいけないんですけれど。でも、私にはどうにも腑におちないことが――」
「あなたの知能をもってすれば、すぐ分かることですよ。ぼくはあらゆることを、明瞭にしたじゃありませんか」
「それほどでもありませんわ」テンプル嬢はドナルドの腕に自分の腕をからませて、そっとひきよせた。「タンジールみかんのことで、大さわぎをなさったでしょう、エラリーさま。それなのに、それについてはまるで一言もおふれにならなかったでしょ」
エラリーの顔がちょっとくもったが、頭を振って「実に妙なことですよ。オズボーンのあの鋭敏な頭脳が、あんなとてつもない過失の悲劇を生むなんて、あなたにもお分かりになるでしょう。オズボーンがあんなあべこべ仕事をやってのけるにあたっては、だれも巻きぞえにしようなどとは考えなかったと思います。おそらくオズボーンはあのことの意味には全然気がつかずにあんなことをしたのでしょう。ただ単に逆むきのカラーとネクタイのないことをごまかすために、あらゆるものをあべこべにひっくりかえしたので、そのことがどんな意味を含んでいるのかは、考え及ばなかったのでしょうね。
しかし、運命はオズボーンにとって不親切でした。運命は事件に関係のない二、三の事実をとりあげて、ぼくになげてよこしたのです。ぼくはあらゆるものに、その意味を求めました。しかし、前にもお話した通り、まちがった種類の意味を求めていたのです。その結果、だれについても、あらゆるあべこべのものはみんな捜査すべきだと、ぼくには思えたのです。そして、そこへあなたがあらわれたのですよ、テンプルさん」と、エラリーは灰色の目をまばたいて「あべこべ生活の国、中国から来られたばかりでした。そこでぼくが、被害者が死の直前にタンジールみかん――中国オレンジ――を食べた事実の意味をさぐろうとしたのもむりはないでしょう」
「おお」と、テンプル嬢がつぶやいて、がっかりしたようだった、「すると、あのひとがタンジールみかんを食べたことには、まったく意味がなかったのですか。私はなにか非常に気の利いたお話でもあるものと思っていましたの」
「なにもありませんよ」と、エラリーがのんびり言った。「あの男が空腹だったということ以外にはね。そしてそれはどうでもいいことですよ。あの男が空腹をみたすのに、はちの中の梨やリンゴや他のくだものよりも中国オレンジを択んだという事実からは、なんの光明もしぼり出せなかったのです。ぼく自身、中国のオレンジが好きです、シカゴまでしか中国のほうへは行ったことがないくせにね……しかし中国オレンジについてはひとつ――そのう、面白いことがありますよ」
「なにかね」と、カークがきいた。手紙の束をまだしっかり握りしめていた。
「それはつまり」と、エラリーがくすくす笑いながら「運命の神秘と気まぐれを示すのさ。というのは、考えてもみたまえ、あの男がたべた中国オレンジは、この犯罪になんの役にもたたなかったが、あの男が持って来た中国オレンジは、ぴんからきりまでこの犯罪についてまわったよ。なにしろそれが犯罪の動機をかきたてたのだからね」
「あのひとが持って来た中国オレンジですって?」と、テンプル嬢がけげんそうにつぶやいた。
「そのオレンジのオーの字は大文字ですよ」と、エラリーが「つまり中国のオレンジ色の切手を中国オレンジと呼ぶという意味なんですよ。実は、この魅力ある暗合につられて他日ぼくがあわれなオズボーンとあのにこにこ顔の小男の中国伝道師の事件を小説化することがあったら、どうしても≪中国オレンジ切手事件≫と題をつけずにはいられないでしょうからね」(完)
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訳者あとがき
この作品は一九三四年に発表された、エラリー・クイーン国名シリーズの第八作で、題名はThe Chinese Orange Mysteryであるが、内容を加味して「中国切手殺人事件」としておいた。
チャイニーズ・オレンジというのは、中国橙、つまりタンジールみかんのことであるのは言うまでもないし、事実この作中にもタンジールみかんが出て来る。しかし、クイーンは、この作品で、「中国オレンジ」という言葉を果物としてではなく、「中国のオレンジ色の切手」という意味に使って、イギリスの黒刷りの一ペニー切手、通称「ペニー・ブラック」になぞらえているのである。
切手収集家なら誰でも知っている通り、ペニー・ブラックは、世界的に有名な切手で一八四〇年にイギリスで最初に発行された公認郵制切手なのだ。ついでながら、作中に出てくる英領ギアナの切手「ワンペニー・マゼンタ」(深紅色の一ペニー)は一八五六年の発行で、イギリスの有名な切手収集家、アーサー・ヒンド卿の収集中の珍品であり、四万五千ドルで取り引きされたといわれている。一枚の切手の値段としてはもちろん世界最高のものだが、ヒンド卿の死後一九三三年から三四年にかけてその収集が売りに出されたとき、このギアナ切手は十万ドルに評価されたということである。日本で一番古い切手は一八七一年発行の「水色の銭百文」で、洋文字がはいっていない切手としては珍品に属するものである。
話がわき道にそれたが、この作品に出て来る「チャイニーズ・オレンジ」なる切手は、クイーンの創作した福州発行の誤刷切手で、三万ドルという珍品だ。ある男が中国でこの珍品を手に入れ、それを売りに、ニューヨークに来る。そして、ホテルの一室で殺害される。しかもその室内は、あらゆるものが、あべこべにされているという奇々怪々な事件。誰が、なぜ、どうやって、殺したのか。第一、殺されたのは何者なのか。例によって、エラリー・クイーンの謎ときは明快である。
作品としては本格派の中の、密室ものと言える。切手収集熱の盛んな今日、切手を扱ったこの小説は、いろいろな切手知識がふくまれているから切手愛好家でなくても、少なからず興味があるものと思う。ご愛読をねがうものである。(訳者)