ローマ劇場毒殺事件
エラリー・クイーン/石川年訳
目 次
まえがき
第一幕
第一場 芝居見物と死体の出現
第二場 行動のクイーン、観察のクイーン
第三場 おくやみ≪牧師≫
第四場 二人の容疑者
第五場 クイーン警視の尋問
第六場 地方検事、死者を語る
第七場 クイーン親子の鑑定
第二幕
第八場 クイーン親子、フィールドの情婦と出会う
第九場 用心棒マイクルズの登場
第十場 シルクハットが捜査の鍵
第十一場 過去の暗影
第十二場 クイーン親子の正式訪問
第十三場 父と子
第三幕
第十四場 帽子の大捜査
第十五場 意外な告発
第十六場 クイーン親子の観劇
第十七場 いくつもの帽子の出現
第十八場 行き詰まり
幕間 読者への挑戦
第四幕
第十九場 クイーン警視の再喚問
第二十場 マイクルズの脅迫状
第二十一場 クイーン警視出動
第二十二場 終幕――解明
あとがき
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この捜査に関係のあった人物の略歴
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〔註〕ここにかかげる、モンティー・フィールド殺害事件の物語に登場するすべての男女人物の表は、ただ読者の便宜のために用意したものである。分りにくくするかわりに、分りやすくするためである。謎とき推理小説の読者は、通読の途中で、実際には事件解決の重要な鍵をにぎるが、一見さほど重要でなさそうな多くの人物を見おとしがちであるが、そうならないでいただきたい。そこで、作者は、みなさんがこの物語をじっくり読んでいくあいだに、時々、この表を見て下さるようにおすすめする。読んでも推理できなかった方々が、――きっと≪不公平だ≫とそしられるだろうから、作者としてはそのそしりを防ぎたいだけで、他意はないのである。
エラリー・クイーン
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モンティー・フィールド……重要人物――被害者。悪徳弁護士
ウィリアム・プザック……番頭。福助頭の男
ドイル……頭のきれる巡査
ルイス・パンザー……ブロードウェイの劇場支配人
ジェームス・ピール……≪拳銃稼業≫の女蕩し役
イーヴ・エリス……おしつけがましくない友情を持つ女優
スティーヴン・バリー……青年の不安が分る立役者
ルシル・ホートン……≪街娼≫役者
ヒルダ・オレンジ……英国生まれの上品な女優
トマス・ヴェリー……犯罪については多少知識のある刑事部長
ヘッシー、ピゴット、フリント、ジョンスン、ヘイグストローム、リッター……殺人課の刑事連
サミエル・プラウティ医師……医務検査官補
マッジ・オッコネル……殺人のあった通路の案内嬢
スタットガード医師……観客の中から、よく出てくる先生
ジェス・リンチ……おとなしいオレンジエード売りの青年
ジョン・カッザネルリ別名≪牧師ジョニー≫……職業がら≪拳銃稼業≫に興味を持つ男
ベンジャミン・モーガン……疑わしい男でしょうかな。弁護士
フランセス・アイヴス・ポープ……社交界の新星
スタンフォード・アイヴス・ポープ……金持ちの、のらむすこ
ハリー・ニールスン……おっちょこちょいの劇場宣伝マン
ヘンリー・サンプスン……かつて優秀なりし地方検事
チャールズ・マイクルズ……小悪党《フライ》――または、蜘蛛。フィールドの手下
アンジェラ・ルッソー夫人……とかくうわさのある女。フィールドの女
ティモシイ・クローニン……検事調査員
アーサー・ストーツ……検事調査員
オスカー・リューイン……被害者の事務所の主任
フランクリン・アイヴス・ポープ夫人……ヒステリーの母親
フィリップス夫人……役に立つ中年の天使
サデュース・ジョーンズ博士……ニューヨーク市毒物係
エドマンド・クリュー……警察付き建築家
ジューナ……風変りな物好き小僧。クイーン家の召使い
問題
モンティー・フィールド殺害犯人はだれか。
こんな問題を解くのを得意とする鋭敏な紳士諸君のご協力を。
リチャード・クイーン
エラリー・クイーン
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ニューヨーク市毒物係主任
アリグザンダー・ゲットラー教授へ
この物語の構想に、友好的な便宜を供与せられたことに深甚の謝意を表します。
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まえがき
ぼくは、このモンティー・フィールド殺害事件物語の、簡単なまえがきを書くようにと、作者と出版社からたのまれた。まず最初に申し上げておくが、ぼくは作者でも、犯罪学者でもない。したがって、犯罪の手口や犯罪小説について、権威ある発言をすることは、あきらかに、ぼくの能力の及ばないところだ。しかしながら、おそらく過去十年間において最も不可解な犯罪に材をとった、この注目すべき作品を紹介する特権が、ぼくに与えられるのも当然な理由があるからだ。……ぼくがいなかったらこの≪ローマ劇場毒殺事件≫は、決して読者の手許にとどかなかったろう。これが世間に公刊されたについては、ぼくに責任があるから、その成り行きについても、いささか関係があるわけだ。
去年の冬の間、ぼくはニューヨークの垢《あか》を落としに、欧州旅行に出た。大陸の隅々を、気ままに放浪している途中(退屈まぎれの放浪というものは、青春を求める放浪詩人コンラッドみたいな若者には、よくあることだ)――八月のある日、ぼくはイタリアの小さな山村にいた。どうしてそこへ行ったのか、その場所、村の名前などは、どうでもよい。株屋相手の当てにならない約束でも、約束は約束というやつだ。ぼくがぼんやり覚えているのは、そのけわしい山の岩棚にのっかっている玩具《おもちゃ》のような小屋に、二年間も会っていない二人の旧友がいることだった。二人はニューヨークの繁華街から、イタリアの田舎《いなか》の平和の光にひたるためにやって来たのだ――とにかく、ぼくに二人の静かな生活をおびやかさせたのは、おそらく、ほかのことはさておいて、二人がどんなに後悔しているかを見てやりたい好奇心からだったかもしれない。
前よりも白髪がふえ、目が鋭くなったリチャード・クイーン老と、令息のエラリーが示した歓迎ぶりは、親身あふれるものだった。むかし、われわれは友人以上の親しい仲だった。そして今もそうなのは、おそらく、ぶどう酒かおるイタリアの空気が頭にきて、まだ、垢まみれのマンハッタンの思い出を、消し去ることができなかったのであろう。何はともあれ、二人はぼくに会って大喜びだった。エラリー・クイーン夫人は――エラリーも今では、すばらしい美人の夫君であり、とてもよくおじいちゃんに似た子供にとまどっている父親だ――名前にふさわしい美人だった。ジューナまでが、もはや前のようなごくつぶしではなく、望郷のなつかしみをこめて挨拶した。
エラリーが、ぼくにニューヨークを忘れて、この田舎のすばらしい美しさを楽しませようと、懸命の努力をしてくれたが、ぼくはその小さな小屋にいく日も泊まらないうちに、またぞろけしからぬ考えにとりつかれて、気の毒なエラリーを死ぬほどなやましはじめた。ぼくはほかにとりえはないが、根気強いことでは定評がある。そこで出発の前に、さすがのエラリーも、妥協するより仕方がなかった。エラリーは、ぼくを図書室につれこみ、ドアに錠をかけて、古い鉄製の書類戸棚をあさった。ゆっくり探してから、ずっと手許にあったとおぼしい一物を、渋々とり出した。それは、色あせた原稿で、エラリー好みの青い紙をとじたものだった。
激論だった。ぼくはその原稿をトランクに入れて、エラリーの好きなイタリアの岸を離れたいのに、エラリーは、問題の書類は、戸棚に秘蔵しておくと頑張るのだ。リチャード老は、ドイツの雑誌に≪アメリカの犯罪と捜査法≫という論文を書いていたが、机から立って、とりなしに来た。クイーン夫人は、労働者のように、握りこぶしをふりあげて、問題を解決しようとする夫君の腕をひきとめた。ジューナも青くなって、とめにはいった。エラリー二世までが、丸っこい手を口からはなして、長くのばし、わけのわからぬ言葉で、たしなめるようだった。
こんな大さわぎのあげく、この≪ローマ劇場毒殺事件≫は、ぼくの荷物と一緒に、合衆国へもどって来たのである。しかしながら、無条件ではない――エラリーは一風変った男だ。ぼくは、おごそかに、ありとあらゆるぼくにとって大切なものにかけて、友人と、この物語の主要人物たちの正体はすべて、仮名《かめい》でかくし、その実名は永久に読書界に知れないようにすること、万一、それに反する場合は即刻、約束は破棄されることを、誓約させられた。
したがって、≪リチャード・クイーン≫と≪エラリー・クイーン≫は、この二人の紳士の実名ではない。エラリーが自分で選んだのだ。そして早速、言い添えておくべきだと思うが、エラリーは、この名前の文字の組みかえから、外見上の手がかりを得て、真相をつきとめようとする読者の裏をかくために、選ぶのに相当苦労した名である。
≪ローマ劇場毒殺事件≫は、ニューヨーク市の警察保存文書の中にある実在の記録にもとづくものである。エラリーと父親とが、いつもどおりに、協力して働いている。この当時のエラリーは、かなり人気のある推理作家だった。事実は小説よりも奇なりという警句を信奉して、将来、自分の殺人ものに使えそうな面白い捜査のノートをいつもとっていた。この帽子の事件は、非常に興味をひかれて、出版するつもりで、いつもより熱心にノートをとっておいたものである。しかしながら、そのすぐあとで、エラリーはほかの捜査にとりかかったので、その仕事にとりかかる機会がなかった。そして、最後の事件がうまく解決した時に、エラリーの父である警視が、一生の希望をみたすために、引退して、手荷物、旅行鞄をかかえてイタリアへ移ったのだ。エラリーはこの事件の最中に意中の女性をみつけて、文学の上でも≪一仕事≫しようと、おそろしく張り切っていたし、イタリアはのどかに思えたしするので、父の祝福を受けて結婚すると、親子三人はジューナを連れて、ヨーロッパの新居に移ったのである。そんなわけで、この原稿は、ぼくが救い出すまで、まったく忘れられていたのだ。
この骨が折れて出来のよくないまえがきを終るに当って、ぼくの立場を明確にしておきたい点がある。
ぼくは常々、リチャードとエラリーの両クイーンと呼ぶが、二人を結びつけている特種な愛情を、他人に説明するのが非常にむずかしいと思う。ひとつには、二人が決して単純な性格の人物ではないからだ。粋な中年紳士、リチャード・クイーンは市警察に三十二年も奉職し、警視に昇進したのも、ただ勤勉だったからではなく犯罪捜査技術の面で、特別な手腕を持っていたからである。たとえば、今は昔の物語であるバーナビイ・ロス殺人事件における花々しい捜査活動中には≪リチャード・クイーンは、その功績により、タマカ・ヒエロ、仏人ブリヨン、クリス・オリバー、ルノオ、青年ジェームス・レディックス、などの、犯罪捜査の大家連と肩をならべる名声を確立した≫と新聞に書かれている。
新聞の讃辞にはいつも照れ屋であるクイーンは、この大げさなべたぼめを先に立って笑いとばしたが、エラリーは、老人がその記事をこっそり切り抜いてとってあると、睨《にら》んでいるのである。それはともかくとして――ぼくは、空想好きな記者どもが、伝説中の人物に祭り上げようと努力するにもかかわらず、リチャード・クイーンを一個の人間的人格として考えたい――リチャード・クイーンの職業的業績の多くのものは、その成功を、息子の英知に負うこと、きわめて大だった事実を、いくら強調してもしたりないのである。
これは世間一般に知られていないことだ。二人の生涯の思い出の品々は、今でも友人たちの手で大切に保存されている。二人がアメリカ時代に住んだ西八十七番街の小さな独身住宅は、今では、半ば私設博物館になって、二人が活躍時代に集めた骨董品《こっとうひん》がおさめてある。ティローが描いた実にすばらしい親子の肖像画は、某富豪の画廊にかかっているし、リチャードが、競売場から掘り出してきて、以来ルビーよりも大切にしていた、古代フィレンツェ細工の貴重な、かぎたばこ入れは、濡《ぬ》れ衣《ぎぬ》から救ってやった、あるかれんな老婦人が、あまりほめるので、ついにその手に渡っている。エラリーの、暴力に関する書籍の一大コレクションは、これほど完全なものはおそらく世界中にあるまいと思えるほどのものだが、クイーン家がイタリアへ移るとき、心おしくもあとに残されたが、それと一緒に、クイーン親子によって解決された多くの事件の記録をふくむ、未公表の文献も、むろん今は、せんさく好きな人々の目をのがれて、市警察の文書保管庫に収められている。
しかし心の問題――父と子をつなぐ精神的結び目――については、今まで、二、三の特に親しい仲間をのぞいては一般には秘密にされている。幸いにしてぼくもその仲間のひとりに数えられている。老人は、過去半世紀の間に、刑事課に勤めた最も有名な役人で、世間的名声に関しては、ほんの短期間警察長官の椅子についた紳士方をしのぐものがあるのではあるまいか。――くりかえして言うが、その老人の名声の相当の部分は、息子の才能のおかげなのである。
純粋にねばりの問題で、だれが手がけても解決の可能性が一応ひらけている場合は、リチャード・クイーンは無類の捜査官であった。水晶のように明澄《めいちょう》な、細部にゆきわたる目と、複雑な動機と手口に関する底しれぬ記憶力と、乗り越えがたく思える障害にぶつかったときの、冷静な判断力を持っていた。支離滅裂にひき裂かれた、釣り合いも、続き合いもでたらめな百の事実を与えてみるがよい。リチャード・クイーンは、たちまちのうちに整理をつけてしまう。まるで、すっかりかき乱されて、のぞみのうすい嗅跡から、本ものの匂《にお》いをかぎあてて追って行く猟犬のようである。
それに引きかえて、直観力と、天与の想像力は、作家、エラリー・クイーンのものだった。二人は、異常に発達した精神能力を持ち、それぞれひとりでは無力だが、一方が片方に力をかすと、ものすごい力を出す双生児だったかもしれない。リチャード・クイーンは、その花々しい成功を可能にした、息子との協力をはばかるどころか――量見のせまい男ならはばかるところだが――自ら進んで、友人たちにはっきりと吹聴していた。同時代の法律破りどもにとって、その名前が禁句だった痩身《そうしん》半白のこの老人は、いつも、そのほこらしい父性愛によるものとしか説明できないような、すなおさで、彼のいわゆる≪告白≫なるものを語るのだった。
最後に一言いえば、二人のクイーンによって追求されたあらゆる事件のうち、すぐにその理由がはっきりするが、エラリーが≪ローマ劇場毒殺事件≫と名づけたこの事件こそ、最上にくらいするものなのである。犯罪学愛好家や、推理小説愛読者は、なぜエラリーがモンティー・フィールド殺しを、研究の価値ありと考えたかを、この物語が説明してくれるのが分るだろう。世間なみの人殺しの動機や手口なら、犯罪の専門家には、たいていは見当がつく。しかしながら、フィールド殺しの場合には、そうはいかない。この事件では、クイーン親子が、精緻《せいち》な知能と、異常な巧妙さを持つ人物とわたり合う。事実、リチャードが事件解決の直後に指摘したように、その犯罪は人知の及ぶかぎりの完璧《かんぺき》さをもって計画されたものだった。しかし、多くの≪完全犯罪≫における場合のように、ちょっとした運命のくいちがいと、エラリーの的確な推理的分析とが重なって、狩り立てるクイーン親子に、最後には謀殺者を破滅させる唯一の手がかりを与えたのである。
一九二九年三月一日
ニューヨークで
J・J・マック
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第一幕
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警察官というものは、しばしば、「馬鹿鳥」の戒律に従わなければならないものだ――つまり「馬鹿鳥」どもは、浜漁《はまいさ》りの男どもが、手どりやなぐり殺しにしようと待ち受けているのを知っているのに、あえて、不名誉な死を冒しながら砂浜に卵を埋めにくるのである。……まさに、警察官と似ている。全日本人は、「馬鹿鳥」どもが卵を完全にかえそうとする馬鹿の一徹を、思いとどまらせるべきではない。
[#地付き]たまか・ひえろ著「千葉集」より
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第一場 芝居見物と死体の出現
一九二―年の芝居シーズンは、少し調子が変った始まり方だった。劇作家ユージン・オニールは知的観客層を動員するような新作の執筆を怠けてしまったし、大して芝居好きでもないのに、劇場《こや》から劇場を見てまわるような俗人どもは、まともな芝居を見すてて、手っとり早く楽しめる映画館のほうへ移った。
そんなわけで、九月二十四日の月曜日の夕方は、三十七番街からコロンブス広場までの、劇場支配人や演出家たちは、折から、ブロードウェイ劇場街の花々しい電飾をにじませている霧雨の空を、恨《うら》めしそうに見上げていた。いくつかの芝居は、「はずれ」たのも神と気象台のせいとばかり、お天気だのみ神だのみのおえら方から、即刻打ち切り命令が出された。骨までしみるような雨のせいで、芝居の見物衆は、家に引きこもって、ラジオやブリッジにへばりついていた。さすがのブロードウェイも、人足まばらな通りを歩きまわる勇気のある連中にとっても、寒々とした眺めだった。
しかし、四十七番街の「ホワイト・ウェイ」の西側のローマ劇場の前の歩道は、芝居シーズン最中の、お天気の日のような客足でたてこんでいた。≪拳銃稼業≫という外題《げだい》が、入口のガラス張りのひさしに、華やかに輝いていた。出札係が、「当日売り」の窓口で、おしゃべりしながら行列している客たちを、手ばやくさばいていた。制服の重々しさと、年功の落ちつきとが目立つ、黄と青の服をつけた案内頭が、≪拳銃稼業≫のような芝居をかけている者にとっては、無慈悲なお天気など、ちっともこわくないという顔で、シルクハットをかぶったり、毛皮にくるまれている、ごひいき客たちに、丁寧におじぎをして、平土間に迎えいれていた。
ブロードウェイでも、一番新しいこの劇場の内では、観客たちが、今夜の芝居が荒っぽいものだという噂《うわさ》を聞いて来ているせいか、はっきりそれと分るほど座席でざわめいていた。やがて、大方のお客たちがプログラムをめくる音もやみ、おくれて来た連中が、隣席の客の足につまずくほど、場内の灯が暗くなり、幕が上がった。しんとした場内にピストルの音が咳《せき》をするように響き、男の悲鳴がきこえ……芝居が始まった。
≪拳銃稼業≫は、暗黒街におなじみの音響効果を使った、このシーズン幕あけの芝居だった。自動拳銃、機関銃、ナイトクラブのなぐり込み、ギャング出入りのもの凄《すご》い騒ぎ――すべてこれ、小説じみた犯罪社会の手持品といったものが、三幕のアクションものにまとめられていた。それは、誇張された時代の反映で――少し荒っぽく、少しばからしいが、全体としてはお客たちには|うけ《ヽヽ》ていた。そのために、晴雨にかかわらず劇場は満員だった。今夜も、この客の入りが、|うけ《ヽヽ》ている証拠だった。
芝居はうまく進行していた。観客は第一幕の、凄いクライマックスに、興奮していた。雨があがったので、客たちは、最初の十分間の幕間を、路地でひと息いれるために、ぞろぞろと出て行った。第二幕の幕が上がるとともに、舞台の銃声はいよいよ烈しくなった。脚光をとびこえて響く烈しい科白《せりふ》のやりとりが、第二幕目の大きなやま場へかかっていった。劇場の後部座席のほうで、かすかなざわめきがおこったが、このさわぎと暗さの中では、だれも気がつかないのがあたりまえだった。だれ一人何か故障のあったことに気がついた者はいないらしく、芝居はどんどん進んでいた。ところが、だんだんに、ざわめきが大きくなってきた。その頃になると、後部の左側の座席の二、三人の連中が、そわそわしだして、低い声で怒り、文句を言い出した。と、たちまち、文句が拡がっていき、あっという間に、いく十人の目が、平土間のほうへ注がれた。
突然、絹を裂くような悲鳴が、劇場《こや》をひきさいた。舞台のやま場の進行に、興奮して、うっとりしていた観客たちは、この芝居の刺激的な新手だと思い、それを見ようと、夢中になって悲鳴のおこったほうへ首をのばしたのである。
いきなり場内の灯がついて、戸惑《とまど》った顔や、恐怖にとらわれた顔や、知ったかぶった顔を、照らし出した。一番左手の、ドアの閉まっている出口の近くに、大男の警官が立って、やせた青白い男の腕を支えていた。警官は大きな片手で、物見高い一団の人々を押しのけながら、とてつもない大声で、どなっていた。「皆さん、席についとって下さい! 席をはなれちゃいかん! 皆さん!」
観客たちは笑った。
その笑い声は、すぐに消えた。というのは、観客たちは舞台の役者たちが、妙にとまどっているのに気がつき始めたからだ。役者たちは、脚光の後ろで科白は言いつづけていたが、平土間のほうへ、けげんそうな目を向けていた。それに気づいた人々は、悲劇のにおいをかぎつけて、腰を浮かしてさわぎはじめた。警官は堂々たる声で、どなり続けた。「坐っとれと言うんだ! 離れちゃいかん!」
観客は、この出来事が、芝居ではなくて、現実なのに、突然、気づいた。女たちは叫んで、連れの男にしがみついた。階下で何がおこったのか見られない二階席の連中が、騒ぎ出した。
警官は、夜会服を着て、両手をもみながら、そばに立っている、ちょっと外国人のようなずんぐりした男のほうを、ふり向いた。
「すぐ出入口を全部閉鎖して、戸口を見張ってもらわねばなりません。パンザーさん」と大声で命じた。「全部の出入口に守衛を配置して、一切の出入りをとめるように命令して下さい。署から応援が来るまで、通路のほうへもだれかを見張りにやって下さい。早くして下さい、パンザーさん。やじ馬の先手を打って!」
色の浅黒い小柄な男は、警官が大声で制止するのもきかずに、ひしめき合って問いかけようとする群衆を押し分けて、大急ぎで出て行った。
紺制服《こんせいふく》の男は、左側の座席の最後列の入口に、仁王立ちになって、そのむっくりと肥えた大きな体で、座席の間の床に、夜会服をきて奇妙な恰好《かっこう》で倒れている紳士の姿をかくしていた。警官は、そばでびくびくしている男の腕を、しっかり掴んだまま目をあげて、オーケストラ席の後ろのほうを、じろっと見た。
「おい、ニールスン」と、叫んだ。
背の高い、亜麻色《あまいろ》の髪の男が、正面出口のそばの小部屋から急いで出て来て、警官のほうへ人ごみを押しわけて来た。彼は床に倒れて動かぬ人の姿を、じっと見下ろした。
「何ごとなんだね、ドイル」
「この人に訊いてくれ」と、警官が苦々しく答えた。そして、掴んでいる男の腕をゆすぶり「男が死んでるんだ。そして、この人が」――と、おどおどしている小男を、うつむきかげんに睨《にら》みつけた。――「プザック。ウィ――ウィリアム・プザックです」と小男はどもった。――「この、プザック君が」と、ドイルはつづけて「この男の、やられたという声をきいたと言ってる」
ニールスンは死体を見つめて、黙っていた。
警官は唇をかんだ。「ぼくは|てんてこまい《ヽヽヽヽヽヽ》なんだ、ハリー」と、かすれ声で「なにしろ警官はおれひとりっきりで、がなり立ててる阿呆《あほう》どもはごまんといる。てんで処置つかんよ……君に手伝ってもらいたいんだ」
「まったくだ……まったくひどいさわぎだな」
ドイルは真っ赤になって、三列前の席で、椅子に立って、なりゆきを見ようとした男をどなりつけた。「おい、君」と、がなり声で「おとなしく坐ってるんだ! おい――席にもどるんだ。みんなもだ! さわぐ奴は、みんなひっくくるぞ!」
ドイルはニールスンを振り返って「急いで机にもどって、本部へ殺人だと報せてくれよ、ハリー」と小声でつづけた。「警官隊を送れと言ってくれ――大人数をな。現場は劇場だと言ってくれ――そうすりゃ分る。それからな、ハリー――ぼくの呼笛《よびこ》を持って外に出て吹いてくれ。すぐ、たすけがほしいんだから」
ニールスンが、人ごみを分けて部屋に戻ろうとしている後ろから、ドイルが叫んだ。「クイーンおやじが来るように、たのんでくれよ、ハリー」
亜麻色の髪の男は事務室に消えた。一、二分すると、劇場の前の歩道で、呼笛が鋭くひびいた。
ドイルが出入口や通路に見張りを置くようにたのんだ、ずんぐりした支配人は、人ごみを押し分けてもどって来た。ぴんとしたシャツが少しもみくちゃになり、いかにも弱ったというふうに、額にしわをよせていた。一人の女が、もみ合っている支配人を引きとめて、黄色い声でなじった。
「この警官は、なぜ私たちをここに足どめするの? パンザーさん。私は帰ってもいいはずよ、ねえ、いいんでしょう! 事件がおきたってかまやしないわ――あたしには関係がないのよ――あなた方の問題じゃないの――罪のない人間に、こんなばかげた命令をするなんて、やめるように言ってちょうだい」
小柄な男は、何とか逃げ出そうと、どもりながら「ねえ、奥さん、どうぞ。警官もそれは心得とるでしょうよ。人殺しがあったんです――大事件ですよ。ねえ、お分りでしょう……劇場の支配人としては警官の命令を守らなければならんのです……落ち付いて下さい――少しご辛抱ねがいます」
支配人は、やっと女につかまるのをのがれて、また文句を言い出すまえに、抜け出した。
ドイルは椅子に上がって、激しく手を振りながら、がなり立てた。「みんな、席について、静かにしているんだ。命令だ。市長だって命令を守ってもらう。君! おい! 君だ! 片眼鏡だ!――坐ってくれ。さもないと引きずり下ろすぞ! 事件がおこったのが君らには分らんのか。静かにしろと、言っとるんだ!」ドイルは床にとび下りて、帽子のあごひもに溜った汗をふきながら、ぶつぶつ言った。
混乱と昂奮とで、平土間のほうは大鍋《おおなべ》のようにわき立っていたし、二階席の手すりからは、さわぎの原因を知ろうとあせって、見えもしないのに、のぞき込む観客の首が鈴なりになっていたので、舞台の上で芝居が急に止んでしまったのを、観客は気がつかなかった。役者たちは、脚光の前方でおっぱじまった現実の芝居のせいで、聞く者もなくなってしまった科白を、てんでんばらばらに、つぶやいていた。やがて、ゆっくり幕が下りて、その夜の芝居に|けり《ヽヽ》をつけた。役者どもは、しゃべりながら、楽屋階段のほうへ急いでいた。観客たちと同じように、とまどいながら、騒ぎの中心点を、のぞいていた。
けばけばしい服をきた、丸ぽちゃで美しい老婦人は――「女郎屋の女将《おかみ》」マダム・マーフィーの役に招《よ》ばれた外国女優で――ヒルダ・オレンジという名だった。すらりとした美女で「街娼のナネット」役は――イーヴ・エリスで、この芝居の主演女優。背の高い、がっしりした≪拳銃稼業≫の主役ジェームス・ピールは、ツイードの服とキャップで舞台をつとめていた。ギャングの魔手におちる社交界の青年をやる夜会服の似合うスティーヴン・バリー。ルシル・ホートンは「街の女」役で、劇評家たちから絶賛のあらしをうけていたので、この|はずれ《ヽヽヽ》年の芝居シーズンにも、大してこぼすことはなかった。また、ヴァンダイクひげの老け役が着ている、すばらしい夜会服は、≪拳銃稼業≫全配役の特別衣装係、ル・ブラン氏の腕前を示して余すところがなかった。悪玉仕立ての役者の舞台でのいがみ面は、今、熱狂している客席を、ずーいとひとわたり睨みまわしたところで、いかにも柔和な表情に変ってしまっていた。事実、この芝居の出演者は全員、かつらをつけ、白粉《おしろい》をぬり、紅をはき、|くま《ヽヽ》どりをしていたが――ある者は、タオルを振りまわして、急いでメイキャップをおとしていたし――ひとかたまりになって、下りてくる幕の下をくぐり、舞台のはしの階段を下りて、平土間にはいり、座席の間の通路を、騒ぎの現場に向かって、もみ合って近づいていた。
正面入口で、もうひとつの騒ぎがおこり、ドイルが精いっぱいに制止するのに、多くの人々は、もっとよく見ようとして席を立った。紺制服の一隊が、警棒を持って場内に急いではいって来た。この先頭の平服の背の高い男に敬礼すると、ドイルは、ほっとして、ため息をした。
「どうしたんだね、ドイル」と、かけつけて来た男は、あたりの物凄い騒ぎに顔をしかめて訊《き》いた。その男と一緒に来た警官たちは、群衆を平土間の後方の椅子席へ追い込んでいた。立っていた連中は、あわててもとの席へすべりこもうとしたが、捕えられて最終列の後ろで、わいわい怒っている連中の中に押し込まれた。
「この男が殺されたようです、部長」と、ドイルが言った。
「ふうん」と、平服の男は珍しくもないという顔で、劇場内でただひとりの動かぬ人間を見下ろした。――殺された男は黒い袖の腕を顔の上になげかけ、前の席の椅子の下に、人形のように足をなげ出して、足もとに横たわっていた。
「なんだね――ハジキか」と、目を光らせて、ドイルに訊いた。
「ちがいます――ハジキじゃないようです」と警官が答えた。「観客の中の医者に、まず診《み》せたんですが――毒薬らしいそうです」
部長は、ふんといった。「何者だね」と、ドイルのそばで震えているプザックを指さしてどなった。
「死体を発見した男です」と、ドイルが答えた。「あれからずっとここを動かないんです」
「よくやった」部長刑事は、一、二フィート後ろに、押しつめられている連中を振り向いて、おだやかに訊いた。「支配人はだれかね」
パンザーが進み出た。
「ぼくは、本部から来た部長刑事ヴェリーだ」と、平服の男が、むぞうさに言った。「君は、このがあがあわめいとる阿呆鳥《あほうどり》どもを、静かにさせるために、何の手も打たなかったのか」
「できるだけのことはしたんですよ、部長さん」と、支配人は、もみ手をしながら、もじもじと言った。「でも、この警官のやられることにみんな怒ってるようでして」――と、すまなそうにドイルを指さして――「どなりつけたりされたのでね。何事もおこらなかったように、お客様方を静かにお席についていていただくためには、どうしたらよいものか、うまい思案もつかないもんですから」
「なるほど。ぼくらが面倒みよう」と、ヴェリーはさえぎって、近くにいる制服の男に口早に命令した。「ところで」と、ドイルに向かって「ドアと出入口はどうした? 何か手を打ったか?」
「もちろんです、部長」と警官は微笑して「このパンザーさんに、全部の戸口に見張りを置いてもらいました。どっちみち、今夜は、ずっと案内人がいたんですが、念には念を入れたかったものですから」
「そりゃよかった。逃げ出そうとした者はないかね」
「そりゃ大丈夫だと思いますよ、部長さん」と、パンザーが、おずおずと口をはさんだ。「この芝居の運びには、雰囲気《ふんいき》をもり上げるために、出入口ごとに守衛を配置しておいたほうがいいんです。なにしろギャングもので、撃ち合いだとか、叫び声なんてものが、どっさり使ってありますから、出入口に守衛がついているほうが、全体に怪奇的な効果を高めるというものですからね。おのぞみなら、すぐにでもお調べになって……」
「ぼくのほうでやろう」と、ヴェリーが言った。「ドイル、だれを呼んだね?」
「クイーン警視です」と、ドイルが答えて「宣伝係のニールスンに、本部へ電話させたんです」
ヴェリーはきびしい顔に微笑を浮かべた。「よく気がついたな、え? さて、死体はどうだね。この男が発見してから、全然手を触れんだろうな」
ドイルに掴《つか》まえられてびくびくしている男が、泣きべそをかきながら、わめいた。「私――私は見つけただけですよ、警官――神にちかって、私は――」
「よし、よし」と、ヴェリーは冷静に「黙ってなさい、いいかね。泣きわめくこたあないよ。それから? ドイル」
「私が来てからは、死体には指一本触れさせません」と、自信満々の調子で、ドイルが答えた。「もちろん、スタットガード医師は別ですがね。観客の中から探し出して、その男が死んでいるのを確認してもらったんです。医者のほかは、だれ一人、死体に近づきませんでした」
「とても忙しかったろう、ドイル。だが、それほど疲れておらんようだな」と、ヴェリーは言って、ぐるっとパンザーを振り向いた。パンザーはぎょっとしてあとずさりした。
「舞台にかけ上がって皆に報せたまえ。クイーン警視が来て帰宅の許可が出るまで、各自の席についていてもらうんだ――分ったかね。さからっても駄目だと言うんだ――さからえばさからうほど、ここに長くいることになるんだ。それから、各自の席についてることと、だれでもへたにまごつくと、とんでもないことになるということを、はっきり分らせとくんだ」
「はい、分りました。ああ、なんて災難だ!」と、パンザーは、舞台への通路を歩きながら、ぐちをこぼした。
と、この時、劇場の後方の大きな扉を押しあけて、二、三人の連中がはいり、一団となってカーペットの上を進んで来た。
第二場 行動のクイーン、観察のクイーン
リチャード・クイーン警視には、容貌態度ともに、とり立てて言うべき特徴がない。小柄で、半白で、どちらかといえば、もの静かな老紳士だ。少し背をかがめて歩き、房々した灰色の髪と、口ひげと、やわらかい灰色の目と、しなやかな両手とが、その慎重な態度に、ぴったりとあう。
カーペットの上を、小股《こまた》で足早に近づく警視の姿は、四方八方から、くい入るように見ている目には、あまり印象的ではなかった。しかし、その姿からにじみ出す、穏やかな威厳は並々ではなく、老顔にただよう微笑は、無邪気で人情味あふれているので、警視の歩みにぴったり合うように、それと分るようなざわめきが場内に流れていった。
部下たちの間には、はっきり変化がおこった。ドイルは左側の出口の近くの隅に引き下がった。死体を見下ろしていたヴェリー部長は――ヒステリーじみた雰囲気にも超然として、冷静な皮肉な態度だったが――まるで有利な地位を喜んで手放すように、その態度を少しゆるめた。通路をかためていた紺制服の連中も、きりっと敬礼した。いら立って、小言を言い、腹をたてていた観客たちも、なんとなく、ほっとして、静まった。
クイーン警視は歩みよって、ヴェリー部長と握手した。
「すまなかったな、トマス君。帰りかけとるところへ、この事件がおこったんだってね」と、つぶやいた。ドイルへは父親のようにほほえんだ。それから、気の毒そうに、床にのびている死体をのぞき込んだ。「トマス。出入口はみんな監視しとるか」と訊いた。ヴェリーは、うなずいた。
老警視は振りかえって、興味深げに、あたりの光景を見まわした。低い声でヴェリーに訊き、ヴェリーは一々、うなずいた。それから、指で合図して、ドイルを呼んだ。
「ドイル、この席に坐っていた連中はどこにいるかね」と、死者の席につづく三つと、すぐ前の列の四つの椅子を指さした。
警官は弱ったように「そこには、だれも坐っておりませんでした、警視――」
クイーンは、しばらく黙っていてから、ドイルを、もとの場所にもどらせ、ヴェリーに小声で「大入満員だったのにな……そのことを覚えておくんだ」ヴェリーは真面目《まじめ》に目をむいた。「この事件は気にくわんな」と、警視は穏やかにつづけた。「今、分っとるのは、死体と、汗ばんで騒いどる群衆だけだ。ヘッシーとピゴットに、しばらく、交通整理をさせてくれ」
ヴェリーは、警視について劇場にはいった二人の平服の刑事に、てきぱき命令した。二人は人々を押しのけて場内の後部へ向かった。まわりにつめかけていた連中は、いやおうなしに押しのけられた。警官たちが二人の刑事と合流した。男女優の一団は後ろへさがるように命令された。中央の列から後ろの一劃が縄張りされて、五十人ほどの男女が、そのせまい場所に押し込まれた。おちついた刑事たちが、まわって歩いて、切符の提示を求め、ひとりずつ各自の席へもどした。五分後には、立っている観客はひとりもいなくなった。俳優たちは、しばらくの間、縄張りの中にいるように注意された。
一番左側の通路にいたクイーン警視は、外套《がいとう》のポケットを探り、茶色の木彫りの|かぎたばこ《ヽヽヽヽヽ》入れを大事そうにとり出し、いかにも楽しそうにひとつまみとった。
「少しよくなったな、トマス」と、笑いながら「騒がしいのはやりきれんのだよ……あの、のびている気の毒な男は何者だね。知っとるか」
ヴェリーは首を振った。「まだ、指一本触れてないんです。警視」と言って「あなたより、ほんの二、三分早く来たばかりです。四十七番街をパトロールしていた男が、交番から電話で、ドイルの呼笛《よびこ》を報せてきたのです……ドイルはなかなかよくやったもんです……係りの警部補からの勤務評定も良いです」
「そうか」と、警視はいって「おい、君、ドイル。来たまえ」
警官は進み出て敬礼した。
「ところでな」と、小柄な老警視は、気持ちよさそうに椅子の背によりかかって「一体、何ごとがおこったんだね、ドイル」
「私の知っておるのは、警視」と、ドイルが答えた。「二幕目が終る一、二分前でした、この男が」と、片隅にちぢこまっているプザックを指して「後ろのほうに立って、芝居を見ていた私のところへ、かけつけて来たんです。そして、≪人殺しです、警官≫と訴えました。……≪人殺しです≫と赤ん坊みたいに泣きべそをかいているので、私は、この男がパンチでもくったのかと思いました。そこで、私はここへかけつけたんです。――この辺は暗くて、舞台では銃声と叫び声がいっぱいでした――それから、床に倒れているあの男を見つけたのです。動かさなかったんですが、心臓に手を当ててみると、脈がなかったんです。仏になっているのをたしかめるために、大声で医者はいないかと呼んだら、スタットガードという紳士が、出て来たんです……」
クイーン警視がすっくと立った。鸚鵡《おうむ》のように首をかしげていた。「上出来だ。よくやったドイル。あとでスタットガード医師に訊いてみる。それから、どうしたね」
「それから」と、警官は「この通路の案内嬢を事務室へやって、支配人のパンザーに報せました。ルイス・パンザーは――あそこにいる支配人です……」
クイーンは、一、二フィート後ろに立ってニールスンと話しているパンザーをちらっと見て、うなずいた。「あれが、パンザーだね。よろしい。分った……エラリー、ことづけはとどいたか」
警視は、パンザーを押しのけて、とび出した。支配人は恐縮してあとずさりした。警視は、正面ドアをくぐり抜けて来て、ゆっくりと、あたりの光景を眺めまわしている背の高い青年の肩をたたき、腕を組み合わせた。
「都合が悪かったんじゃないかい。今夜はどこの本屋をひやかしてたのだい。エラリー、とにかくよく来てくれたな」
警視はまたポケットを探って、かぎたばこ入れをとり出し、粉たばこをすった――深く吸いこんだので、むせった――それから、息子の顔を見上げた。
「実を言うと」と、エラリー・クイーンは、あたりをきょろきょろと見つづけながら「お父さんに、色よい返事はできませんよ。あなたはぼくを愛書家の天国からおびき出したんですからね。もう少しで本屋から、ファルコナーの初版本という、貴重なやつをせしめるところで、本部へ行って、あなたからお金を借りようとしていたんです。電話をかけたら――ここへ来ることになっちまって。あのファルコナーは、すばらしい。明日でも話はつくでしょうけどね」
警視はくすくす笑った。「わしの気に入りそうな、古い|たばこ入れ《ヽヽヽヽヽ》でも掘り出したとでも言うなら話になるがね。まあいい――ぶらぶらしていてくれ。どうやら今夜は一仕事せにゃならんぞ」
親子は左手の、小さな一団のほうへ向かった。父は息子の上衣の袖をつかんでいた。エラリー・クイーンは父より六インチも背が高かった。肩が四角で、歩くときには、気持ちよくゆれた。オックスフォード・グレイの服を着て、軽いステッキを持っていた。鼻の上には、スポーツマン・タイプの男には不似合なものがかかっていた――縁《ふち》なしの鼻眼鏡だ。しかし、眉のすぐれた、線の細い面長の顔、ひときわ輝く目をみれば、行動型よりも思索型の人だというのが分る。
親子は連中と一緒になった。ヴェリー部長が丁寧にエラリーに挨拶した。エラリーは椅子席にかがみこんで、じっと死体を眺めてから、引き退った。
「それから、ドイル」と、警視が急に言った。「君は死体をみつけて、発見者を引きとめて、支配人を呼んだ……それから、どうしたね」
「私の命令で、パンザーは即刻全部の出入口を閉め、一人も出入りしないように見張らせました」と、ドイルが答えた。「観客は大騒ぎでしたが、そのほかには何事もありませんでした」
「結構、結構」と、警視は言って、かぎたばこ入れをさぐった。「よく手配した。そこで――あそこの紳士だ」
警視は隅で震えている小柄な男のほうへ合図したので、男は、おずおずと、出て来た。いくども唇を舐《な》め、たよりなさそうにあたりを見まわしてから、黙って立っていた。
「君の名は?」と、警視が、やさしく訊いた。
「プザック――ウィリアム・プザックです」と、その男が言った。「私は帳簿係です。私はただ――」
「一度にひとつずつ答えなさい、プザック君。君は、どこに坐っていたのかね」
プザックは、最後の列の通路から六番目の席を、真剣になって指さした。五番目の席にいる、おびえ上がった若い女性が、みんなのほうを、じっと見つめていた。
「分った」と、警視が言った。「あの若い婦人は君の連れかね」
「はい、そうです。婚約者です。名はエスターです。エスター・ジャブロー……」
すぐ後ろで、一人の刑事が、手帳に書きこんでいた。エラリーは父の後ろに立って、次から次へと出入口を見ていた。外套のポケットからとり出した小さな本の見返しに、見取図を書きはじめた。
警視がその女をじろりと見たので、女は目をそらした。「ところで、プザック君、どんなことがあったのか聞かせてほしいな」
「私は――私は道にはずれたことは何もしておりません」
警視はプザックの腕をそっとたたいて「だれも君を非難してはおらんよ。プザック君。わしの聞きたいのは、何があったかということなんだよ。ゆっくりでいい――話しやすいように話したまえ――」
プザックは妙な目をした。それから、唇をしめして、話し出した。「そうです、私はあそこの席に、連れとならんで――ジャブローさんと――坐って、芝居を楽しんでいたんです。二幕目はとてもスリルがあって――舞台では銃声と叫び声がいっぱいでした――それから私は立って、通路へ出ようと、椅子の間を行きました。この通路です――ここの」と、プザックは、立っているカーペットの上の場所を、おずおずと指さした。クイーンは、やさしく、うなずいた。
「私はジャブローさんの前を押して通らなければなりませんでした。ジャブローさんと、通路の間には、男の人が一人きりしかいませんでした。だから、そっちのほうへ出ることにしたんです。私は――」と、もじもじ言いわけするように「一番面白い場面のさいちゅう、人の前を通って、邪魔になるようなのが厭《いや》ですから」
「なかなか親切なんだね、プザック君」と、警視は微笑した。
「はい。そこで私は椅子の間を手探りで進んだんです。なにしろ場内が暗かったもんですから。すると私はぶつかったんです――この人に」プザックは身ぶるいして、早口に続けた。「妙な恰好で坐っているなと思いました。ひざが前の席にくっついていて、私が通れないんです。で、私は≪すみませんが≫と言いました。二度もことわったんですが、ちっとも、ひざを動かしてくれないんです。どうしていいか分らなくなって――私は、ほかの人みたいに短気ではないので、まわれ右して、引き返そうとしました。そのときです、不意にその人の体が床にずり落ちたのが感じられました――私はすぐそばにぴったりくっついていたのです。もちろん、私はどぎもを抜かれました――それも道理で……」
「そうだろうな」と、警視は同情して「本当にびっくりしただろうね。それから、どうしたね」
「それがです……それから、どうしたのだろうと思う前に、その人は椅子からのめり出して、頭が私の足にぶつかったんです。どうしていいか分りませんでした。助けをよぼうにも声が出ないし――わけは分らないが、どうしようもないし――そこで、酔っぱらっているか、病気か何かだと思いながら、助け起こしてやるつもりで、なんとなしに、その男の上にかがみこんだのです。そのあと、どうしようかなどとは、まるっきり考えてもみなかったんです……」
「君の気持ちはよく分るよ、プザック。それで」
「それからのことは――この警官に話しました。私がこの男の頭に手をかけたそのとき、手がのびてきて、私の手をつかむのが感じられました。まるで、何かを、しっかりつかもうと、骨を折っているようでした。それからうめいたんです。とても低くて、ききとれませんでしたが、何かおそろしい言葉でした。それをはっきりとは、とても言えませんが……」
「さあ、先をつづけよう」と、警視が言った。「それから」
「それから喋りました。とても、喋るなんてものじゃないのでした――まるでしめられて、のどを鳴らしてるようでした。二言三言でしたが、まるっきり聞きとれないのです。しかし、酔っぱらいや、病人とちがうのに気がついたので、私は、口に耳をつけるほどかがみこんで、一生懸命に聞きました。息も絶え絶えに≪人殺しだ……殺された≫と、そんなことのようでした――」
「じゃ≪人殺しだ≫と言ったんだね」警視は鋭くプザックを見つめた。「なるほど。ところで、君は、さぞ、ぎくりとしたろうね、プザック」と言って、急に「この男が≪人殺し≫といったのはたしかなんだね」
「そう聞こえました。私は耳はたしかです」と、プザックは言い張った。
「そうか」と、クイーンは顔をやわらげて、また微笑しながら「むろん、ただ確かめたかったんだ。それから、どうしたね」
「それから、少しもがいたようでしたが、急に、私の腕の中でぐったりしました。死にやしないかと思って、そのあとは、どうしたか覚えがありません――次に覚えているのは、後ろへ行って、警官にすっかり話したことです――その警官です」と、ドイルを指さした。ドイルは直立不動の姿勢で立っていた。
「それで全部かね」
「はい、はい、そうです。私の知っている全部です」と、プザックは、ほっとしたように言った。
クイーンは、プザックの上衣のすそをつかんで、どなりつけた。「全部じゃない! プザック。最初に席を立った理由を言い忘れとるぞ!」それから、プザックの目を睨みつけた。
プザックは、からぜきをして、しばらく体を前後にふらつかせていた。次の言葉を口に出すのをはばかるようだったが、やがて、前かがみになって、警視の耳に口をよせて低い声で、言いにくいことを言った。
「そうか」と、クイーンは苦笑を唇にうかべたが、重々しい口調で「分った、プザック。いろいろありがとう、役に立った。すっかり済んだよ――席へもどって、あとから、皆と一緒に帰ってよい」と言い、もどるように手を振った。プザックは、床の死体をこわごわみながら、最後の椅子席の外側の壁づたいに、婚約者のとなりの席にもどった。その女は、すぐにひそひそ話をはじめたが、かなり昂奮しているようだった。
警視が少し微笑しながら、ヴェリーを振り向いたときに、エラリーはちょっとじりじりした様子で、何か喋りかけて思いとどまり、それから静かに後ろに退がって、姿を消した。
「じゃあ、トマス」と、警視は低い声で「この男を見ようじゃないか」
警視は椅子席の最後の列と、その前の列との間の床にひざまずいて、死体の上にすばやくかがみこんだ。天井の照明は、ぎらぎら輝いていたが、床のあたりは、かげになっていて暗かった。ヴェリーは懐中電灯を点《つ》けて、警視の上においかぶさり、警視の手が動くとおりに光を死体に当てていった。クイーンは、無言で、きちんとしたシャツの胸を、一点だけ汚しているみにくい茶色のしみを指さした。
「血ですか」と、ヴェリーがきいた。
警視は注意深くシャツの匂いをかいで「どうやら、ウィスキーらしいな」と、答えた。
警視は、すばやく死体をさぐり、心臓とカラーのゆるんでいる首をしらべて、ヴェリーを見上げた。
「毒殺らしいな、トマス。スタットガード医師というのを連れて来てくれ。プラウティが来る前に、医者の意見を訊いておきたい」
ヴェリーが命令を出すと、まもなく、夜会服をつけ、オリーブ色の顔に黒い口髭《くちひげ》のある、中肉中背の男が、刑事につれられて来た。
「つれて来ました。警視」と、ヴェリーが言った。
「あ、そうか」と、クイーンは調査をやめて見上げた。「やあ、先生。あなたが死体発見の直後に診られたそうですな。特にはっきりした死因が分らんのですが――先生のご意見は?」
「ごく大ざっぱな診察でしてね」と、スタットガード医師は、サテンの折襟《おりえり》をなんとなく払いながら、慎重に言った。「薄暗いし、こんな状況でしたから、最初は、異常な死因は何も分りませんでした。顔面筋肉の様子からみて、普通の心臓障害かと思いましたが、よく調べてみると顔が真っ青です――今は明るいから、はっきり分るでしょう。口がアルコールでぷんぷん匂いますから、おそらくアルコール中毒だと思います。はっきり言えることは――この男は、撃ち殺されたり、刺し殺されたものでないということです。そこで、すぐにそのことをたしかめてみました。首もしらべました――カラーは私がゆるめたのです――調べてみると、しめ殺したものでもありませんでした」
「なるほど」と、警視は微笑して「どうもありがとう先生。ああ、ついでに」と、何かつぶやきながら退がりかけたスタットガード医師に訊いた。「この男はメチルアルコールにやられたのでしょうかね」
スタットガード医師はすぐに答えた。「ちがうでしょう。何か、もっと強力で、利き目のはやいものです」
「この男を殺した毒物の名がお分りでしょうか」
オリーブ色の顔をした医師は、ちょっと、ためらっていたが、ぎこちなく答えた。「すみませんが警視、もっとはっきりさせようとしても無理ですよ。なにしろ、こんな状態ですからね……」医師は言葉をにごして去って行った。
クイーンは微笑しながら、また、いやな仕事にもどるために、かがみこんだ。
死体が床にのびているのはよい眺めではない。警視は静かに、死者の握りしめている手を持ち上げて、苦痛にゆがんだ顔をじっと見た。それから、席の下を調べた。何もなかった。しかし、黒い絹裏のケープが一枚、椅子の背に、無造作にかけてあった。警視は、夜会服と、ケープのポケットを、次から次へと探って、空《から》にしていった。内側の胸ポケットから二、三通の手紙と書類をとり出し、チョッキとズボンのポケットをさらい、見つけた物を二山に分けた――一山は手紙と書類、もう一山は小銭、鍵、小物類だった。尻ポケットから出てきた銀のフラスクには≪M・F≫と頭文字があった。そっとフラスクの首のところを持って、指紋でも探すように、きらきらする表面を眺めまわした。それから、首を振って、とても注意深く、きれいなハンカチに包んで、傍に置いた。≪左LL三二≫と記された青い入場券の切れはしは、自分のチョッキのポケットに入れた。
ほかの物は一々しらべる手間をかけないで、チョッキや上衣の内側をさぐり、ズボンの中の足をすばやくなぜまわした。それから、夜会服の上衣の後ろすそのポケットを探りながら、低い声で叫んだ。
「ほう、こりゃあ、トマス、――うまいものが見つかった!」と、ライムストーンがきらめいている、小さく、ふっくらした婦人用の夜会バッグを、引き出した。
それを手の平にのせて、ひっくりかえしてみてから、パチッと口をあけて、中を見て、こまごました婦人用品をとり出した。小さな仕切りの中には口紅と一緒に、小型の名刺入れが見つかった。しばらくして、品物をもとにもどすと、バッグを自分のポケットに入れた。
警視は床から書類をとりあげて、ちらっと目を通した。最後の一枚まできて、眉をしかめた――差出人に気がついたのだ。
「モンティー・フィールドって知っとるか、トマス」と、言って顔を上げた。
ヴェリーは唇をかみしめて「おぼえがありますよ。町で指折りの悪徳弁護士です」
警視は顔をひきしめた。「じゃあ、トマス。こりゃモンティー・フィールドの――なれのはてというわけだ」ヴェリーが、うなった。
「普通の警察がよく失敗するのは」と、エラリーが父の肩ごしに言った。「モンティー・フィールドのような悪徳を流す紳士を、徹底的に追求しないことですよ」
警視は立って、ていねいにひざのほこりを払い、かぎたばこを吸って言った。「エラリー、お前は決していい警官にはなれんぞ。お前はフィールドを知っとったのか」
「特に仲よくしていたというわけじゃありませんよ」とエラリーが答えた。「でも、パンテオンクラブで、何度か会っています。そのとき聞いた話では、だれかがこの世から彼を取り除いても不思議じゃありませんね」
「フィールド氏の悪徳については、もっと適当な時に論じよう」と、警視が真面目《まじめ》に言った。「わしも、この男のことは二、三聞いておるが、どれも、いい話じゃないな」
警視が向きをかえて、まさに立ち去ろうとしたとき、死体と座席とを注意深く観察していたエラリーが、ゆっくり訊いた。「何もなくなっていませんか、お父さん――何ひとつ?」
警視はふり向いて「どうして、そんな分りきったことを訊くんだね」
「そのわけは」と、エラリーが顔をしかめて「ぼくの見ちがえでなければいいが、その男のシルクハットが、座席の下にも、死体のそばにも、近くのどこにも見当りませんよ」
「お前も、それに気がついたのか、エラリー」と、警視は苦々しく言った。「死体を調べるために、かがんだときにわしはすぐ気がついたんだ――いや、最初は気がつかなかったかもしれん」と、話しているうちに、不機嫌になったらしい。眉をしかめ、灰色の口髭がふるえた。肩をしゃくって「しかも、帽子の預り証が、服の中にはない。いずれ……フリント!」
平服の大柄の刑事が前に出た。
「フリント、うずうずしとるだろうから、四つんばいになって、帽子を探してくれ。どこかそこらにころがっとるはずだ」
「はい、警視」と、フリントは活発に答えて、指示された場所を、順序よく探し始めた。
「ヴェリー」と、クイーンは事務的な調子で「君はリッターとヘッシーを見つけろ――そうだ、二人だけでいい――つれて来てくれ」ヴェリーは出て行った。
「ヘイグストローム!」と、そばに立っているもう一人の刑事を呼んだ。
「はい、警視」
「こいつをまとめて」と、フィールドのポケットから出して床に置いた二山の小物を指さして――「残らず、わしの鞄にしっかり入れるんだ」
ヘイグストロームは死体のわきに、ひざまずいた。エラリーはそっと、のぞきこんで、上衣を開き、さっき劇場の見取図を書いた本の見返しに、すぐメモをとった。その本を軽くたたきながら、つぶやいた。「しかも、こいつは、シュテンドハウゼの私家版だ!」
ヴェリーがリッターとヘッシーを連れて来た。警視がてきぱき命令した。「リッター、この男のアパートへ行け。名はモンティー・フィールド。弁護士だ。住所は西七十五番街一一三。交代が行くまで張り込め。現われた奴は、押えておけ」
リッターは、口をもぐもぐして帽子に手を当て「はい、警視」と言って去った。
「ところで、ヘッシー、君は」と、もうひとりの刑事に命じた。「チェンバース街五一のこの男の事務所へ急行するんだ。連絡があるまでそこにいろ。できれば中にはいれ。さもなければ、ドアの前で一晩中頑張るんだ」
「はっ、警視」と、ヘッシーは姿を消した。
クイーンは振り向いて、エラリーが幅の広い肩をうつむけて死体を調べているのを見て、笑い出した。
「おやじに信用がならんのか、エラリー」と、叱りつけるように「何をのぞきまわっとるんだ」
エラリーは立って微笑した。「好奇心だけなんですよ」といった。「このいやな死体には、とてもぼくの興味をひくものがあります。たとえば、頭のサイズをはかりましたか」と、訊いて、上衣のポケットから本をしばってあった紐《ひも》を引き出して、父に調べさせるように、それを渡した。
警視はそれをとって、渋い顔で、劇場の後方にいる警官を呼んだ。そして低い声で命令すると、警官はその紐を受けとって、調べに行った。
「警視」
クイーンが見ると、ヘイグストロームが、すぐわきに立って、目を輝かせていた。
「書類を拾おうとしたら、これが、フィールドの座席の下の奥へ押しやってありました。後ろの壁のとこです」
刑事の持っている暗緑色のビンは、よくジンジャエールの会社で使うやつだった。色ずりのラベルには「ペイレイス・エキストラ・ドライ・ジンジャー・エール」と刷ってある。ビンは半分|空《から》だった。
「よし、ヘイグストローム。まだ何か言うことがあるだろう。きかせてくれ」と、警視はてきぱき言った。
「はい。死んだ男の座席の下でこのビンを見つけたときに、おそらく今夜使ったものだと思いました。今日は、マチネーはなかったし、場内は二十四時間ごとに、掃除婦が掃除するんです。この男か、この男に関係のある者かが、今夜使って置いたのでなければ、このビンがあるはずはないんです。≪こいつは手掛りになるかもしれない≫と思ったので、この辺を受け持つ売り子を探し出して、ジンジャエールを売ってくれといいました。すると、その売り子が言うには」と、ヘイグストロームは微笑して――「この劇場では、ジンジャエールは売っていないそうです」
「なかなか気が利くな、ヘイグストローム」と、警視は満足そうにいって「その売り子を、つかまえて、連れて来てくれ」
ヘイグストロームと入れちがいに、夜会服が少し乱れている、がっちりした小男が、ひとりの警官に腕をしっかりとらえられて、わめきながらやって来た。警視はため息をした。
「この事件の責任者は君かい」と、五フィート二インチの小男は、汗だらけになって、背のびして、かみついた。
「わしだが」と、警視は重味をつけて言った。
「それじゃ聞いてくれ」と、小男はどなった。「おい、放せったら放せ、きこえんのか――君に言いたいことがある……」
「手を放してやりたまえ、君」と、警視はいっそう重味をつけて言った。
「……こんなやり方は、一から十まで、最もひどい不法行為じゃないか。ぼくは、妻と娘と一緒に、芝居に邪魔がはいってから、もう一時間の上も坐ってるんだ。しかも、君の部下は立つことさえ許さんのだ。許すべからざる不法行為だ! 君はこれだけの観客を、勝手に引きとめておけると思っとるのか。ぼくは、ずっと君を見ていた――まちがいなしだ。ぼくらが、坐らされて、苦しんどるのに君はのらくらしとった。きいてくれ――いいか、よくきいてくれ――ぼくらがここを出て行くのを、すぐに許可してくれないなら、親友の地方検事サンプスンに連絡をとって、君を個人的に告発する」
クイーン警視は、小男の怒って紫色になっている顔を、苦々しげに睨んだ。そして、ため息をつき、きびしい調子で「ねえ、君、一時間そこそこ引きとめられたぐらいのことで、ぶうぶう言っとるが、人殺しをした奴が、この観客の中にいるかもしれんのだ、現に今、ひょっとすると――君の細君や娘さんの隣りに坐っとるかもしれんのだ。その男も、君みたいに、逃げ出そうとして、やっきになっとる。もし、君の親友の地方検事に訴えたかったら、この劇場を出てからにしたらよかろう。それまでは、すまんが席にもどって、帰宅を許可するまで辛抱してもらうより仕様がない……わしのほうでも早くさっぱりしたいんだ」
近くで、小男がへこまされるのを面白がっていたらしい観客たちが、くすくす笑い出した。小男は、のっそりとついてくる警官に送られて、ぷりぷりして去った。警視は「とんま奴《め》」と、つぶやいて、ヴェリーを振り向いた。
「パンザーをつれて切符売場に行って、この席番の札が全部そろっているか調べてくれ」警視は最後の列と、その前の列をのぞきこんで、古封筒の裏に、番号を書いた。左LL三〇、左LL二八、左LL二六、左KK三二、左KK三〇、左KK二九、左KK二六。そのメモをヴェリーに渡すと、ヴェリーはすぐに出て行った。
最後の列の後ろの壁に、ぼんやりと、よりかかって、父や、観客を眺めたり、時々劇場の配置を見直したりしていたエラリーが、警視の耳にささやいた。「ぼくはちょっと変な事実に気がついたんです。≪拳銃稼業≫のような、人気のある大衆劇の上演中に、殺された男のすぐ近所の席が七つもあいていたなんて変でしょう」
「いつから不思議に思い始めたんだね」と、クイーンが訊いた。そして、エラリーが、無意識にステッキで床をつついていると、いきなり大声で呼んだ。「ピゴット!」
ピゴットが進み出た。
「この通路の案内嬢と、外のドア係り――あの外の道にいる中年男だ――二人をここへ連れて来い」
ピゴットが歩み去ると、髪の乱れた若い刑事が、ハンカチで顔をふきながら、クイーンのそばにやって来た。
「どうした、フリント?」と、すぐ警視が訊いた。
「掃除婦のようにはいまわりましたがね、警視。場内のこのあたりで帽子を探しても駄目です。うまくかくしたんでしょうよ」
「よし、フリント、待っとれ」
刑事は足をひきずって去った。エラリーがゆっくり言った。「あのディオゲネス〔ギリシアの哲人。樽に住んでいた〕にシルクハットが見つけられると思ってたんですか、お父さん」
警視はふふんと鼻をならした。そして通路にはいり、ひとりひとりに顔をよせて、低い声で訊いていった。警視が列から列へ、通路の両側の座席を次々に訊きまわって行くと、観客たちの頭は警視の進むほうへ向けられた。そして、つまらなそうな顔で、エラリーのほうへ戻って来たとき、紐を持っていった警官が来て敬礼した。
「サイズはどうだった?」と、警視が訊いた。
「帽子屋の番頭が言うには、正確に七と八分の一だそうです」と、警官が答えた。クイーン警視は、うなずいて、相手を放免した。
ヴェリーが、しおれているパンザーをひきつれて大股《おおまた》でもどって来た。エラリーは前のめりになって、ヴェリーの言葉を聞き取ろうと、真剣な様子を示した。クイーンは緊張して、その顔に深い興味の色をうかべた。
「すると、トマス」と、訊いた。「切符売場で、何かみつかったのか」
「それがです。警視」と、ヴェリーは、普通の調子で報告した。「あなたが番号を書いて下さった七枚の入場券は、切符綴りにはないんです。売場の窓口で売れたもので、その日付は、パンザーさんも調べようがないそうです」
「その入場券は、プレーガイドに廻されたのかもしれない、ヴェリー」と、エラリーが口をはさんだ。
「それもたしかめてみました、クイーンさん」と、ヴェリーが答えた。「あの入場券は、どこのプレーガイドにも出ていないのです。それを証明する原簿があります」
クイーン警視は、灰色の目を輝かして、ひっそりと立っていた。やがて、言った。「つまり、言いかえれば、初日以来大当りをとっている芝居に、七枚の切符がかためて買われた――ところが、買った連中は、都合よくも、みんなそろって見に来るのを忘れたということになるわけだ」
第三場 おくやみ≪牧師≫
四人の男は、めいめいに何か心をきめたらしく、黙って、互いに見合っていた。パンザーは足をもじもじさせて、しきりに咳をし、ヴェリーは何かを思いつめるように顔を引きしめ、エラリーは一歩退がって、うっとりと父の青とグレイのネクタイを見ていた。
警視は口髭をかみながら立っていた。そして急に肩をゆすぶると、ヴェリーを振り返った。
「トマス、君にいやな仕事をしてもらうつもりだ」と言った。「五、六人の制服を指揮して、場内の人間を一人残らず身体検査させるんだ。観客全部の住所姓名を一人ずつ調べるだけでいい。大仕事だし、時間もかかるが、絶対に必要だからな。ところで、トマス、捜査中に、二階席を受け持つ案内人をだれか尋問しなかったかね」
「まさにぴたりという人間をつかまえて情報をききました」と、ヴェリーが「平土間の階段の口に立っていて、二階席の切符を持っている客を階上に上げる役なんです。ミラーという若造です」
「非常に真面目な男です」と、パンザーが、もみ手をしながら口をはさんだ。
「ミラーはすぐに証言しました。第二幕の幕が上がってから、一人も、平土間から上に上がった者もないし、上から平土間に降りた者もないそうです」
「それじゃ、君の仕事もはぶけるな、トマス」と、慎重に耳をかたむけていた警視が言った。「部下を連れて、平土間と、オーケストラ席だけを洗ってくれ。忘れるなよ――ここにいる人間全部の住所姓名がいるんだ――一人残らずだ。それから、トマス――」
「はい、警視」と、ヴェリーが振り返った。
「調べとる間に、各自が坐っていた席の切符の切れはしの提示を求めるんだ。切れはしを失くしている者は、名前のそばに印をつけとくんだ。それからまた――まずいないだろうが――坐っていた座席と切符番号が合わない切れはしを持っている者も、印をつけておいてくれ。抜かりなくやってくれよ」
「はっ、分りました」と、ヴェリーは意気込んで立ち去った。
警視は半白の口髭をなぜて、かぎたばこをひとつまみ、深く吸いこんだ。
「エラリー。何か考えとるらしいな。吐《は》いちまえ」
「え!」と、エラリーは驚いて目をぱちくりした。それから鼻眼鏡をはずして、ゆっくり言った。「ねえ、お父さん、ぼくは今、考えかけてたんですよ――あのね、もの静かな愛書家にとっては、この世にはほとんど平和がないんですね」エラリーは殺された男の椅子の肘掛《ひじかけ》に腰を下ろして、悲しそうな目をした。ふと微笑して「お父さんも、昔話の肉屋のみじめな失敗をくりかえさないように注意して下さいよ。大事な庖丁《ほうちょう》を見つけるために、四十人もの弟子をかり立てて、上を下への大騒ぎをしていたら、なんと、庖丁は自分の口の中に鎮座ましましてたんですとさ」
「お前はこのごろ説教好きになったな」と、警視はいらいらして言った。「フリント!」
刑事が進み出た。
「フリント」と、警視は続けた。「君には今夜は愉快な仕事を一つしてもらったが、もう一仕事してもらおう。君の背骨はもう少し曲げても大丈夫だろうな。たしか、君は外勤で苦労していたころ、警察運動会で重量あげ競技に出たことがあったな」
「出ました」と、フリントは、ほこらしげに微笑して「たいていのことには辛抱できると思います」
「よろしい。じゃあ」と、警視はポケットをさぐりながら「ひとつやってもらおう。部下を引きつれて――しまったな、予備隊をつれて来るんだった――この劇場《こや》の建物を、隅から隅まで、徹底的に捜査するんだ。内も外もだ。切符の切れはしを捜すんだ、分ったな。捜査がすんだときには、切符の切れはしに類するようなものは、全部わしのところへ持ってくる。特に注意するのは、客席の床だ。それから、椅子の後ろ、二階へ登る階段、外のロビー、劇場の前の歩道、西側の路地、階下の休憩室、男子手洗所、女子化粧室も抜かるなよ――おい、いかん。女子化粧室はいかん。近くの署から婦警を呼んでやらせるんだ。分ったな」
フリントは、うれしそうにうなずいて去った。
「さて、それから」と、クイーンは手をもみながら「パンザー君、ちょっとこっちへ来てくれたまえ。すまんね。今夜は、ひどい迷惑をかけているかもしれんが、やむを得んのだ。観客が騒ぎ出しそうだから、すまんが、ひとつ舞台に上がって、もうほんのしばらく辛抱して、ここにいてほしいというようなことを、一席ぶってくれんかね。たのむよ」
パンザーが中央通路を急いで行きかけると、観客が上衣のすそをつかんでひきとめ、そのそばにヘイグストローム刑事が立ちどまっているのが警視の目についた。刑事のわきには、十九歳くらいのやせて小柄な青年が、休みなしにガムをかみしめて、これから立ち向かう試練に対して、それと分るほど神経質になっていた。黒地を金色でかざり立てた制服を着ているが、そのけばけばしさは、糊のきいたシャツの胸や、ウィングカラーや蝶ネクタイという清々《すがすが》しさと不釣合いだった。給仕のかぶるような、ふちなしの帽子を、ブロンドの頭にのせていた。警視が来るように合図すると、恨めしそうに咳をした。
「この劇場では、ジンジャエールを売らないといった男です」と、ヘイグストロームが、いかにもつかまえているというふうに、青年の腕をつかんで、きっぱりと言った。
「そうじゃないだろう、え?」と、クイーンが、やさしく訊いた。「どうしたんだね」
青年は、すっかり尻ごみしていた。ドイルの大きな顔を見て、こわそうにきょときょとした。ドイル巡査は、元気づけるように青年の肩をやさしくたたいて、警視に言った。「ちょっとおびえているんですが――いい子です。がきのころから知っているんです。私の受持地区で育ったのです。さあお答えするんだ、ジェス……」
「あのね、ぼくは――よく知らないんだ」と、青年は、どもりながら言って、足をもじもじした。「休憩時間に売っているのはオレンジエードだけさ。そういう契約してるんだ――」と、有名な飲料会社の名をあげて――「その品物だけ売ってほかのを売らないと、とてもいい手数料をくれるんだ。だから――」
「そうか」と、警視がいって「飲みものは休憩時間の間だけ売るのかい」
「そうです」と、青年が少し落ちつきをとりもどして答えた。「幕が下りて、両側の路地のドアが開くと、ぼくたちは――相棒と二人で、スタンドを立てて、コップに注いで待っているのさ」
「ああ、それじゃ君らは二人いるんだね」
「いいえ。三人です。忘れてたけど――階下の大休憩所にも一人いるんです」
「ふーん」と、警視は、大きな暖かい目を向けて「ところでね。このローマ劇場でオレンジエードしか売らないとすると、このジンジャエールのビンは、どうしてここにあるか分るかね」
警視は、ヘイグストロームのみつけた暗緑色のビンをつかみ上げた。青年は青ざめて、唇をかみ始めた。逃げ道をみつけるようにきょろきょろした。太い汚れた指をカラーと首の間に入れて、咳をした。
「そりゃ、そりゃあ」と、言いにくそうだった。
クイーン警視はビンを下ろして、しなやかな体を椅子の腕によせかけた。そして、いかめしく腕組みをした。
「お前の名は?」と、いかめしく訊いた。
青年の顔色が、青からくすんだ黄色にかわった。そして、これみよがしにポケットから、鉛筆と手帳をとり出して、こわい顔で控えているヘイグストロームを、こわごわと見ていた。
青年は唇をなめて「リンチです――ジェス・リンチです」と、かすれ声で言った。
「幕間の間の君の受持はどこだ」と、警視は、おどかすように訊いた。
「ぼくは――ぼくはここの、左側の路地です」と、青年はとぎれとぎれに答えた。
「そうか」と、警視は、ひどく八の字をよせて「すると、今夜は左側の路地で飲物を売っていたんだな。リンチ」
「もちろん、そうです」
「するとこのジンジャエールのビンのことを、何か知っとるだろう」
青年は、舞台の上の、小柄でがっちりしているルイス・パンザーの姿を眺め、彼が挨拶しようとしているのを眺めてから、口をよせて、声をひそめて「はい――このビンのことはよく知ってます。ぼくが――前に言いたくなかったのは、パンザーさんは規則を破ると、とてもやかましい人だからなんです。もしぼくのしたことがわかれば、すぐ首です。あの人に言わないで下さい」
警視はのり出して、微笑した。「さあ言うんだ。気がとがめることがあるんだろう――言って、さっぱりするんだ」警視が態度をやわらげて、指を鳴らすと、ヘイグストロームがこっそり去って行った。
「こんなことなんですよ」と、ジェス・リンチが熱心に話し出した。「ぼくは、一幕目の終る五分前頃、いつもどおりに、路地でスタンドを建ててたんです。幕が下りて、この路地の案内娘が、ドアを開けたとき、ぼくはドアから出て来る人たちに、上品で気のきいた売口上をかけました。みんなそうするんです。飲みものを買う人が大勢で、とても忙しかったから、まわりでどんなことが起こっているか気がつく暇もなかったんです。しばらくして、ほっと一息ついてると、お客さんが来て≪ジンジャエールを一本くれ≫と、言いました。見ると、夜会服を着たしゃれた人で、少し酔ってるようでした。思い出し笑いなんかして、とても気分よさそうでした。ぼくは胸のなかで言ったんです≪どうしてジンジャエールが欲しいかぐらい分ってるさ≫。すると、思ったとおり、その人は尻ポケットをたたいて、ウィンクしました。そいで……」
「ちょっと待ってくれ」と、クイーンがとめて「死んだ人をみたことがあるかい」
「そりゃ――もちろん、ありませんが、見たって平気だろうと思います」と、青年はびくびく答えた。
「たのもしいな。君にジンジャエールをたのんだのは、この男かい」と、警視は青年の腕をとって、死体のほうへかがませた。
ジェス・リンチは、みいられるように、こわごわと死体を見つめてから、とてもはげしく、頭を振った。
「そうです。あの人です」
「たしかなんだね、ジェス」青年はうなずいた。「そうすると、君に話しかけた時にも、この服装をしていたのかね」
「はい、そうです」
「何か失くなってるものはないかい、ジェス」
暗い隅に引っこんでいたエラリーが、少しのり出した。
青年は妙な顔をして、警視を見て、クイーンから死体へ、死体からクイーンへと目を移した。それから、たっぷり一分間は黙っていた。クイーン親子は次の言葉を待っていた。やがて、急に顔をかがやかせて叫んだ「そうだ――そうです。帽子をかぶってました――ぴかぴかのシルクハットだ。話しかけた時です」
クイーン警視は満足そうに「それから、ジェス――やあ、プラウティ。来るのがおそいじゃないか。さしさわりでもあったのかね」
背の高い、ひょろ長い男が、黒い鞄を下げて、カーペットの上を大股で近づいた。その男は、とてもひどい安葉巻を、防火規則などおかまいなしに、ぷかぷか吸いながら、なにかせかせかしていた。
「事件だってね、警視」と、鞄を下ろして、クイーン親子と握手した。「知ってのとおり、ぼくは越したばかりで、まだ電話もないときてる。今日は一日ひどかったんだ。それで早寝ってとこでね。本部じゃ、ぼくがつかまらなくて――家まで使いを出すって始末さ。これでも、すっとんで来たんだよ。一件はどこだね」
警視が床の死体を指さすと、その男は通路にひざまずいた。警官が呼ばれて、医務検査官補が検屍している間、懐中電灯を持って照らした。
クイーンはジェス・リンチの腕をとって片隅につれて行った。「ジンジャエールをたのんでから、どうしたね、ジェス」
検屍をじっとみていた青年は、大きく息を吸いこんで、続けた「それで、無論ぼくは、ジンジャエールはありません、オレンジエードだけですと言ったんです。あの人は少し前かがみになったので、息が酒くさかったです。こっそりと言いました。≪ひとビン都合してくれれば五十セントやるよ。すぐほしいんだ≫ねえ――大したもんでしょう――このごろはたいていチップをくれないんですからね……。とにかく、ぼくは言ったんです。今すぐ差し上げるわけにはいかないが、二幕目が始まったら、すぐとび出して、ひとビン買ってきてあげましょうって。あの人は立ち去りました――座席をぼくに教えていきました――そして場内にはいったんです。休憩時間が終って、案内嬢がドアを閉めるとすぐ、ぼくは路地のスタンドをはなれて、通りを走り渡って、リビーのアイスクリーム・パーラーへとびこんだんです。ぼくは――」
「いつもスタンドは路地に置いとくのかい」
「いいえ。いつもドアが閉まる前に、スタンドを持ち込んどいて、それから、下の休憩室へ運ぶんです。でも、あの人が、ジンジャエールがすぐ欲しいというので、先に一本買っておけば手数がはぶけると思ったんです。それから路地にもどって、スタンドを持って玄関から場内に持ちこめばいいと思ったのです。だれも文句はいわないし……。とにかく、スタンドを路地に放っといてリビーの店にかけつけました。ペイレイのジンジャエールをひとビン買って、この人にこっそり渡したら、一ドルくれました。気前のいい人ですよ。約束は五十セントだったんですからね」
「上手に話してくれたな、ジェス」と、警視はほめて「そこで、一つ二つ訊くが、あの男はこの席に腰かけていたのか――君に教えていったのはこの席なのか」
「ええ、そうですよ。左LL三二と言いましたし、来てみたら、たしかにここでした」
「よろしい」と、警視は、ちょっとひと息入れてから、ふと訊いた。
「あの男はひとりきりだったかね、ジェス」
「そうでしたよ」と、青年は元気に答えた。「この最後の席にひとりっきりで坐ってました。それに気がついたわけは、この芝居は初日以来大入りなのに、このまわりがこんなにたくさん空いてるんで、変に思ったんです」
「なかなかいいぞ、ジェス。それなら探偵ができそうだな……座席がいくつ空いていたか知ってるかな、分らんだろう」
「それはですね、暗かったし、大して注意もしなかったからね。全部で六つぐらいじゃなかったかな――あの人のとなり近所と、前の列の右のほうとで」
「ちょっと、ジェス」青年は振り向いて、エラリーの低い冷たい声に、ぞっとして唇をかみしめた。「ジンジャエールのビンを渡したときに、あの男のシルクハットについて何かもっと見なかったかい」と、エラリーは、きれいな靴の先をステッキで突きながらたずねた。
「もちろん、ええ、そうです」と、青年はまごつきながら「ビンを渡したときには帽子をひざの上にのせていましたが、ぼくが戻ろうとしたとき、座席の下に入れましたよ」
「もう一つききたいがね、ジェス」警視のたのもしい声をきくと、青年はほっとしたように太息をついた。「二幕目が始まってから、この男にビンをとどけるまで、どのくらいの時間がかかったか、思い出せるかな」
ジェス・リンチは、しばらく考えこんでから、はっきり言った。「ちょうど十分ぐらいです。芝居はきっちり時間表どおりにやるんです。で、ぼくが十分ぐらいというのは、ビンを持って場内にはいった時に、舞台では、女がギャングのたまり場でつかまって、悪党にいじめられてる場をやってましたからね」
「目はしのきくヘルメス〔ギリシアの神の使い〕小僧だ」と、エラリーは、つぶやいて急に、にこにこした。オレンジエード売りの青年は、エラリーの微笑に誘われて恐怖心を消して、ほほえみ返した。エラリーは指で|来い来い《ヽヽヽヽ》とやって、自分も前にのり出して「いいかい、ジェス。通りを渡って、ジンジャエールをひとビン買って、劇場に戻るのに、どうして十分もかかったんだい。十分じゃあ、かかりすぎるじゃないか」
青年は真っ赤になって、救いを求めるようにエラリーから警視のほうへ目を移した。「それはですね……女の子と二、三分話してたせいでしょう……」
「君の女の子か」と、警視はちょっと意外というふうに訊いた。
「ええ。エリナー・リビーです――おやじさんが、アイスクリーム店をやってるんです。彼女が――ぼくがジンジャエールを買いに行ったら、お店にちょっと一緒にいてくれといったんです。ぼくが劇場へ届けなければならないというと、そんならいいけど、すぐ戻って来ないといけないと言うんです。だからぼくはそうしました。ぼくたちは二、三分いたんですが、じきにぼくは路地にスタンドを出しっぱなしにしといたのを思い出したんです――」
「路地のスタンドだね」エラリーは熱心になって「たしかなんだね、ジェス――路地のスタンドだね。まさか、うっかりして路地に帰ったなんて言わんだろうね」
「たしかに帰ったんですよ」と、青年は驚いて答えた。「ぼくの言うのは――エリナーと二人で帰ったんです」
「エリナーと君とでね」と、エラリーは、やさしく訊いた。「二人でどのくらいいたの?」
エラリーの言葉をきいて、警視の目が光った。なにか満足そうに、ぶつぶつ言い、青年の答えをじっと聞いていた。
「それで、ぼくはすぐにスタンドを片づけたかったんだけど、エリナーが一緒でしょ――二人で話してたんです――それにエリナーが言うには、なぜ次の休憩時間まで路地にいないのかって――そりゃいい考えだと思ったんです。ぼくは、幕の下りる十時五分のちょっと前まで待っていて、それからオレンジエードをもっと注ぎ足しておけば、次の休憩時間にドアが開いたときには、用意ができてるってわけです。だから、二人でそこにいたんです……悪くないでしょう。何も悪いことじゃないと思うんです」
エラリーはからだをまっすぐにして、じっと青年の目を見つめた。「ジェス、よく注意して答えてもらいたいんだ。正確に、何時に、君とエリナーは路地に着いたんだね」
「それは……」ジェスは頭をかいた。「あの人にジンジャエールを渡したのが、九時二十五分頃でした。それから、通りを渡ってエリナーのところへ行き、二、三分いて、それから路地に来たんです。ちょうど、九時三十五分頃かな――そのころです――ぼくが、オレンジエードのスタンドに帰ったのはね」
「ようし。じゃ、正確に、何時ごろ路地を出たかね」
「ちょうど十時でした。ぼくがオレンジエードを注ぎに行く時間じゃないかと訊いたので、エリナーが腕時計を見たんです」
「劇場の中で起こっていることが何か聞えなかったかい」
「いいえ。夢中になって話してたもんでね……ぼくは路地を出て、ジョニー・チェーズに会うまで、場内で起こったことは何も知りませんでした。ジョニーは案内人で、あそこに立って、見張りをしてたようです。場内に事件があって、パンザーさんが左側の路地の外に立って見張るよういいつけたんだと教えてくれたんです」
「なるほど……」と、エラリーは、興奮して、鼻眼鏡をはずして青年の鼻先でいじりまわした。「よく考えるんだよ、ジェス。路地にエリナーといる間に、だれか出入りした者はいなかったかい」
青年は、すぐ、きっぱりと答えた。「いいえ。一人もいませんでした」
「もういいよ」と、警視は青年の背中を親しげにたたいて、にこにこしながら引きとらせた。クイーンはじろりとあたりを見まわして、舞台の上であまり役にもたたない挨拶をし終ったパンザーの様子をうかがい、命令するように指をあげて招いた。
「パンザー君」と、無造作に言った。「芝居の時間割について少し訊きたいんだが……二幕目の幕があがるのはいつかね」
「二幕目はきっちり九時十五分に始まって、十時五分きっかりに終ります」と、すぐ、パンザーが答えた。
「今夜の芝居もこの時間表のとおりに運んだかね」
「もちろんです。きっかけや、照明なんかのために、きっちりやらなければならないんです」と、支配人が答えた。
警視はひとりでぶつぶつ計算していた。「すると、九時二十五分には、ジェスが、フィールドの生きているのを見ている」と、考えてみながら「死んで発見された時間は……」
警視はくるりと振り向いて、ドイルを呼んだ。ドイルが走って来た。
「ドイル」と、警視が訊いた。「君は、このプザックが事件を報せに来た時間を、正確に覚えておるかな」
警官は頭をかいた。「それは、正確には覚えておりません、警視」と、答えて「その時に、二幕目がほとんど終りかけていたのはたしかです」
「はっきりせんな、ドイル」と、クイーンはいら立って「役者どもは、どこにいる?」
「すぐ向こうの中央の席の後ろに、押しこめてあります」と、ドイルが「そうするよりほかに、どうしていいか分らないものですから」
「一人つれて来てくれ」と、警視が命じた。
ドイルが走り去った。クイーンは、男と女をつれて、すぐ後ろに立っているピゴット刑事を手招きした。
「ドアマンをつれて来たね、ピゴット」と、クイーンが訊いた。ピゴットが、うなずいた。背が高く肥えた老人が、ふるえる手に帽子を持ち、ぶよぶよの体に|しわ《ヽヽ》だらけの制服をきてよろよろと進み出た。
「君は劇場の外に立っている男だね――正規のドアマンかね」と、警視が訊いた。
「はい、そうです」と、ドアマンは帽子をひねりながら答えた。
「そうかね。さあ、しっかり考えてくれ。だれかが――だれでもだよ――二幕目の間に、劇場を出て行かなかったかね」警視は、小さな猟犬のように、前かがみになった。
ドアマンは答えるのにちょっと手間どった。やがて、ゆっくりと、だがはっきりと答えた。「いいえ。だれも劇場から出ませんでした。だれひとりもです。オレンジエード売りのほかは」
「ずっとあそこにいたのか」と、警視がどなった。
「はい」
「それじゃ。二幕目の間に、だれかはいった者を覚えとるかね」
「そうですね。……ジェス・リンチが、オレンジエード売りが、芝居が始まるとすぐ、はいりました」
「そのほかにだれか?」
ドアマンが考えをまとめようと努力して、しばらく黙りこんだ。やがて、絶望的な目をして、みんなをひとりずつ、困ったように眺めた。それから、もぐもぐと言った。「覚えておりません」
警視はいまいましそうに睨んでいた。ドアマンは真剣に気を使っているらしかった。冷汗をかいて、いくども、そばのパンザーをぬすみ見した。まるで、この物忘れのために、地位を失うかもしれないと思っているようだった。
「まことに相すみません」と、ドアマンは繰り返した。「本当にどうも。だれかいたはずなんですが、若い頃のように記憶がよくないので――私には、ちょっと思い出せません」
エラリーの落ちついた声が、ドアマンの鈍重《どんじゅう》な言葉をさえぎった。
「どのくらいドアマンをやってるのかね」
ドアマンは新しい質問者に、おどおどした目を向けた。
「そろそろ十年になります。ずっと、ドアマンをやっとったわけじゃないんです。年をとって、ほかのことは何もできなくなったもんですからね」
「よく分るよ」と、エラリーはいたわるように言った。そして、しばらくためらってから、きっぱりとした調子で「君のように長くドアマンをやった男なら、第一幕のことは忘れるかもしれないがね。二幕目にやってくる人は、そうめったにはいないから、もっとよく考えれば、何とか、はっきりした返事ができるはずだよ」
苦しそうな返事だった。「私には――思い出せません。だれもいなかったといえば、嘘になるかもしれませんのです。お答えできません」
「もういい」と、警視はドアマンの肩に手をかけた。「気の毒だった。少し訊きすぎたようだね。さしあたりこれでいいよ」ドアマンは、みじめな老人の足どりで、よろめき去った。
ドイルが背の高い、荒いツイードの服を着て、顔には舞台化粧のあとが縞《しま》になってついている美青年をつれて、一同のところへやって来た。
「ピールさんです、警視。芝居の主役です」とドイルが言った。
クイーンは役者に手を差し出しながら微笑した。「お近づきになれてうれしいです。ピールさん。二、三お伺いして、助けていただきたいんです」
「よろこんでお手伝いします、警視」と、きれいなバリトンの声で答えた。ピールは、死体を調べている医務官の背中をみて、おぞましそうに目をそらした。
「あなたは、この不幸な事件で、騒ぎがおきたとき、舞台におられたでしょうな」と、警視がたずねた。
「ええ、いました。実際、全部の役が出ています。何がお知りになりたいんですか」
「観客の中に何か間違いがあったことに気づかれた時間を、正確に言っていただけますか」
「ええ、言えます。ちょうど、幕切れの十分ほど前でした。芝居の山場で、ぼくの役は拳銃を撃つとこでした。芝居のこのところは稽古のときに議論したのを覚えてます。だから、時間をはっきり言えるわけなんです」
警視はうなずいた。「結構です、ピールさん。それがわたしの知りたい点でした。……ついでですが、こんなふうに一座の皆さんを、ぎゅうづめにしておいてすみません。なにしろ忙しいものですから、ほかの手はずをととのえる暇がないんです。あなたと、ほかの役者方は、ご自由に舞台裏にお引き取りねがいましょう。もちろん、お報せするまでは、劇場をお出にならんようにして下さい」
「よく分りました、警視。お手伝いできてよかったです」ピールは|おじぎ《ヽヽヽ》して観客席の後部へもどった。
警視は傍の椅子によりかかって、考えこんだ。その横で、エラリーは、漫然と、鼻眼鏡のレンズをみがいていた。父親が、息子に、意味ありげな身ぶりをした。
「どうだね、エラリー」と、低い声で、クイーンが訊いた。
「要するに、ワトスンさん〔シャーロック・ホームズの助手をしゃれて〕」と、エラリーも小声で「わが尊敬すべき被害者氏は、九時二十五分には生きている最後の姿を人に見られ、ぎりぎり九時五十五分には死体として発見された。問題は、この時間内に何がおこったかです。ばかげてるほど単純ですよ」
「大口をたたくな」と、クイーンはつぶやいて「ピゴット」
「はい」
「例の案内嬢だね。尋問を始めよう」
ピゴットは、傍に立っている若い女の腕を放した。小生意気な、白粉《おしろい》を塗りたてた女は、歯ならびのいい白い歯をみせて、かすかに微笑をうかべていた。小刻みに前へ出てまじまじと警視を見つめた。
「あんたが、この通路の正規の案内係りかね。名前は――」と、警視が気軽く訊いた。
「オッコネル、マッジ・オッコネルですわ、私」
警視は女の腕をやさしくとって「その元気で、ひとつ勇気を出してもらわねばなるまいよ」と言った。「ちょっとこっちへ来てくれたまえ」警視につれられて、LLの列で立ちどまると、女の顔は青白くなった。「すまんが、先生。ちょっとお邪魔するよ」
プラウティ医師はきょとんと見上げて「いいとも、さあ、どうぞ、警視。ほとんど片づいたよ」と、立って、わきへよけ、葉巻をかんだ。
クイーンは、女が死体をのぞきこむ顔色を見ていた。女はヒューッと、息を吸いこんだ。
「今夜、この男を、この席に案内したのを覚えとるかな、オッコネルさん」
女は口ごもって「案内したようですけど。今夜も、いつものように、とても忙しかったんです。全部で二百人も案内しなければならなかったのよ。ですから、はっきりしませんわ」
「今、あいてるこの席だがね」――と、警視は、あいている七つの椅子を指さして――「今夜の一幕目と二幕目の間、ずっとあいていたかどうか、思い出せんかね」
「そうね……あたし、この通路を行ったり来たりするんで、気がついてるはずなんですけど……そうだわ。今夜はこの席にはだれも坐らなかったようだわ」
「二幕目の間に、この通路を行き来した者はないかな。オッコネルさん。しっかり考えてくれたまえよ。正しく答えてくれることが大事なんだよ」
女はまた、ためらって、ものおじしない目で、無表情な警視の顔をちらっと見た。「ええ――この通路を通った人は、ひとりも見かけませんでした」それから早口で付けくわえた。「お話することは、あんまりないわ。この事件については何も知らないんですよ。あたし、勤勉なんですからね、それに、あたし……」
「うん、うん、よく分ってる。じゃあ……お客を席に案内しないときは、あんたは、いつも、どこに立っているのかね」
女は通路の入口を指さした。
「二幕目の間、ずっと、あそこに立っていたのかね、オッコネルさん」と、警視がやさしく訊いた。
女は言いにくそうに唇をしめした。「それは――そうですわ。でも、本当に、一晩じゅう、変ったことは何も見なかったんですよ」
「よろしい」と、警視はおだやかな声で「結構でした」女はくるっとふり向いて、足どりも軽く去って行った。
一同の背後がさわがしくなった。クイーンが振り向くと、鞄を片づけて立ち上がったプラウティ医師と鼻をつき合わせた。プラウティは、ものうい曲を口笛で吹いていた。
「どうかね、先生――終ったらしいな。診断は?」と、クイーンが訊いた。
「至極、簡単だね。警視。この男は死後約二時間、死因は、ちょっと疑問があったが、まず毒、というところに落ちついたな。あらゆる点からみて、この徴候は、アルコール性の中毒だな――皮膚が青黄色くなっているのに気がついたろう。息のにおいをかいだかい。ぼくが今まで|かいだ《ヽヽヽ》うちじゃ、一番いいにおいのする酔っぱらいだ。豪勢に呑んでたらしいな。とは言うものの、普通のアルコール中毒じゃないな――こんなに早くまいるはずがないんだ。今、言えることは、そんなもんだ」と、言い終って、上衣のボタンをかけた。
クイーンは、ハンカチにくるんだフィールドのフラスクをポケットから出して、プラウティ医師に渡した。「死んだ男のフラスクだよ、先生。中身を分析してほしいな。だが、君がいじる前に、指紋をとらせに、ジミーに実験所へ持って行かせよう。それから――ちょっと待ってくれ」と、警視は見まわして、カーペットのすみに立ててあった半分残ってるジンジャエールのビンを、つまみ上げた。「このジンジャエールも分析してくれたまえ、先生」と言いたした。
医務官補は、フラスクとビンを鞄にしまって、ていねいに帽子をかぶり直した。
「じゃ、引き上げますよ、警視」と、ゆっくり言って「解剖がすんだら、すっかり報告します。何か参考になるものをみつけましょう。どうやら、死体運搬車が外に来たらしい――途中から電話しといたからね。じゃ、失敬」と、あくびしながら、のろのろと出て行った。
プラウティ医師と入れちがいに、白衣の男が二人で担架を運んで、足早に、カーペットを横ぎって来た。クイーンの指図で、死体を持ち上げ、担架にのせ、毛布でくるんで急いで運び去った。ドアを見張っている刑事や警官たちは、ほっとして、いやらしい荷物が運び去られるのを見ていた――今夜の主な仕事が、ほとんど終ったのである。観客たちは――ざわめき、立ち上がり、咳払いし、つぶやきながら――死体が無造作に運び去られるのを、新しい興味の目で、からだをねじまげて見送った。
ちょうど、クイーンが、疲れたように太息して、エラリーを振り向いたとき、場内の右手の一番すみから、不気味なざわめきが聞こえてきた。観客たちは、警官の制止もきかずに、総立ちになってのぞきこんだ。クイーンは、そばにいる制服の警官に、早口で命令した。エラリーは目を輝かせて片側に身を引いた。騒ぎはあっという間に近づいた。二人の警官が、あばれる男を押えつけて現われた。警官たちは、捕えた男を左の通路の入口まで引きずって来て、力いっぱいに支えて、立たせようとした。
その男は背が低くて、ずるそうだった。じみな仕立ての、安っぽい出来合いの服を着ていた。田舎牧師がよくかぶっているような黒い帽子を頭にのせていた。口が妙にみにくくひんまがっていた。その口で、毒々しくのろいの言葉を吐いていた。しかし、睨みつけている警視の目をみると、抵抗をやめて、すぐにしゅんとなった。
「この男が、建物の向こう側の路地のドアから抜け出そうとしているのを見つけました、警視」と、紺制服の警官の一人が、息を切らせながら言い、とらえた男を荒々しくゆすぶった。
警視はくすくす笑って、茶色のかぎたばこ入れをポケットからとり出し、うれしそうに例の一服をやって、くしゃみをしてから、二人の警官にはさまれておどおどしている無言の男に笑いかけた。
「こりゃ、牧師さん」と、警視はおだやかに言った。「実にうまいところへ来てくれましたな」
第四場 二人の容疑者
世の中には、妙に気が弱くて、哀れっぽい人間を見ていられない者がいる。黙って、おびやかすように、みじめな≪牧師≫なる人物をとりかこんでいる一同の中で、エラリーだけは、自分をしっかりさせようとしている捕虜の様子をみて、胸のむかつくような思いがした。
警視のとげのある言葉に、≪牧師≫はからだを固くして、ちょっと警視の目を睨んだ。それから前の作戦にもどって、自分をとり囲んでいるたくましい腕に反抗した。歯をむき出し、つばをはきかけ、のろいの言葉を吐き、それからまた、黙りこんでしまった。はあはあ息を切らせた。暴れまわるその男の狂暴さが自然に警官たちにも伝染して、もう一人が手を貸し、三人でその男を床にねじ伏せた。すると急に、その男は穴のあいた風船みたいに、ぺしゃんこにしぼんだ。警官が荒っぽく引きずり起こすと、立ち上がって、目を伏せて、体を突っぱらし、帽子を握りしめた。
エラリーが顔をそ向けた。
「さあ、牧師君」と、警視は、|かんしゃく《ヽヽヽヽヽ》の発作《ほっさ》がおさまり、まるで駄々っ子のようにすねているその男に向かって言った。「そんな芝居をしたって通じやあせんよ。この前、川っぷちの、オールド・スリップで暴れてみたときは、どうだったかね」
「訊かれたら答えるんだ」と、制服の一人が、わき腹をこづいて叱りつけた。
「わたしは何も知らんし、言うことは何もない」と、≪牧師≫は足ぶみしながら、つぶやいた。
「こりゃ、おどろいたな、牧師さん」と、クイーンはものやわらかに「わしは、何もたずねちゃおらんよ」
「罪のない者をつかまえる権利はない」と、≪牧師≫は、いまいましそうに叫んだ。「わたしはここにいるほかの連中と同じように善良なんだ。切符を買って、ちゃんと金も払ってる。何だって、こんなことをするんだね。――家へ帰ろうとする者を引きとめるなんて」
「すると切符は買ったのかね」と、警視は靴のかかとに力をいれてからだをゆすりながら「そうか、じゃあ切符の切れはしを出してパパにお見せ」
≪牧師≫は無意識に、指をチョッキの下のポケットに入れて器用に探した。やがてゆっくりと、空《から》の手を引き出して、真っ青になった。それから、ひどく困った様子で方々のポケットを探しはじめたので、警視は思わずにやにやした。
「ちくしょう!」と、≪牧師≫は、ぼやいた。「何て間が悪いんだ。切符の切れはしは、いつも持ってるんだが、今夜にかぎって捨てちまったにちがいない。すみません、警視」
「ああ、そりゃそれでいいよ」と、クイーンは言って、いかめしい顔つきになった。「ごまかすな。カッザネルリ! 今夜、この劇場で何をしていたんだ。どうして急に抜け出す気になったのだ。答えるんだ!」
≪牧師≫はあたりを見まわした。きびしい目付の連中がとりまいていた。二人の紺制服の警官が両手をしっかりつかまえていた。とても逃げ出せる見込みなどなかった。≪牧師≫の顔はまた表情が変った。いかにも牧師らしく、いかにも無実の罪に怒るようだった。小さな目には、涙がうかび、まるで異端審判官に責められている、本当のキリスト教の殉教者《じゅんきょうしゃ》のようだった。≪牧師≫はうまく目的を達するために、がらっと人柄を変えてみせる、この手を、よく使うのだった。
「警視」と言った。「あんたはこんなふうに私を苦しめる権利がないことを知ってるだろう。弁護士を呼ぶ権利がないのかい。あるとも、あるんだ!」そうして、これ以上は何も言わないぞとばかり、ぎゅっと口を閉ざした。
警視は妙な目で≪牧師≫を見ながら「フィールドを最後に見たのはいつかね」と訊いた。
「フィールド? まさか――モンティー・フィールドじゃなかろうね。関係ないよ、警視」と、≪牧師≫は少しぎょっとして「私に何をおっかぶせようとしてるんだ」
「何にもね、≪牧師≫さん、何もかぶせやせんよ。だが、今、答える気にならないかぎり、しばらく待っててもらわねばならんよ。多分、あとから何か言う気になるだろうからね……忘れちゃいかんよ、≪牧師≫、あのけちくさいボノモ・シルク盗難事件に、まだちっとばかりひっかかりがあるんだぞ」警視は警官の一人のほうを向いて「この友達を支配人事務所の続き部屋へ護送して、しばらく相手をしてやってくれ」
エラリーは、劇場の後方へひきずられていく≪牧師≫を、何か考えながら見ていたが、「あの≪牧師≫は、あまり利口じゃないな。あんなふうに逃げ出そうとするなんて――」と父が言うのを聞いてびっくりした。
「小さな恵みにも感謝せよ」と、エラリーは微笑して「一つの過ちが、二十の過ちを生み出しますよ」
警視はにやりと笑って振り向き、ちょうど、一束の書類を持って来たヴェリーと向き合った。
「ああ、トマス、戻ったか」と、上機嫌に笑った。「何を見つけて来たね、トマス」
「それが、警視」と、刑事は書類のふちをがさがさいわせながら「はっきり言えませんが、これはリストの半分で――あとの半分はまだできてないんですが。この中に、ちょっと面白いものが見つかりそうなんです」
ヴェリーは、走り書きした住所姓名の束をクイーンに手渡した。それは、警視がヴェリーに命じて、観客を尋問するときに、ききとらせた姓名だった。
クイーンは、肩ごしにのぞくエラリーと一緒に、リストを調べ、いちいちの名前を丹念に見ていった。書類の中ほどまできたとき、警視は、ふと緊張した。そして、引っかかった名前を横目で見て、何かを解こうとするように、ヴェリーを見上げた。
「モーガン」と、考えながら言った。「ベンジャミン・モーガン。聞きおぼえのある名だな、トマス。何か思い出さんかね」
ヴェリーはにやりとして「訊かれるだろうと思いましたよ。警視、ベンジャミン・モーガンは二年前まで、モンティー・フィールドのパートナーだったんです」
クイーンは、うなずいた。三人は目を見合わせた。やがて、警視が肩をしゃくって、ぼそっと言った。「モーガン氏を、もっと調べねばなるまいな」
警視はため息をついて、またリストにもどった。そして、いちいちの名前を調べ、時々目をあげて考えこみ、頭を振って、先へ進んだ。クイーンの記憶力がエラリーよりたしかなのを知っているヴェリーは、敬意をこめて、上官を見守っていた。
最後に警視は書類を刑事に返して「ほかには何も見当らんな、トマス」といって「わしが見逃したものを、何か気がつかなかったかな」と、重い口ぶりだった。
ヴェリーは、ものも言わずに警視を見つめて、頭をふり、歩み去ろうとした。
「ちょっと待て、トマス」と、クイーンが呼んだ。「あとのリストを作り上げる前に、モーガン氏にパンザーの事務所まで来るように言ってくれんか。おどかしちゃいかんよ。そして、ついでに、事務所へ来る前に、切符の切れはしを持っとるか調べてくれ」ヴェリーは出かけた。
刑事たちの指図で、クイーンの捜査に働いている一隊の警官たちを眺めていたパンザーを、警視が手招きした。小柄でがっちりしている支配人は、走って来た。
「パンザー君」と、警視が訊いた。「掃除婦たちは、いつも何時に掃除にかかるのかね」
「さよう、もうかなり前から来て、かかるのを待ってますよ、警視。たいていの劇場では早朝に片づけるんですが、私はいつも、夜の興行が終ったらすぐやらせるんです。どうかしましたか」
警視の言葉を聞いて少し渋面をつくっていたエラリーは、支配人の返事で、顔を明るくした。そして満足そうに、鼻眼鏡をみがきはじめた。
「ところで君にたのみたいんだが、パンザー君」と警視はおだやかに「今夜、客がみんな帰ったら、特に丁寧に探すように、掃除婦たちに手配してくれんか。拾い集めた物を全部とっておく――どんなつまらないと思える物も全部だ――特に切符の切れはしを探してほしいんだ。あの連中は信用できるかね」
「そりゃ、大丈夫です、警視。あの連中はこの劇場が建った時から働いてるんです。何も見落しっこありません。安心して下さい。集めた屑はどうしましょうか」
「丁寧にまとめて、明朝、本部のわし宛てに、信頼できる男に、運ばせてほしい」と、警視はひと区切りして「念を押しとくが、これは重要な仕事だよ、パンザー君。思ったより大事なことなんだ。分ったね」
「はい、分りました」と、パンザーは急ぎ足で去った。
白髪まじりの刑事が、早足でカーペットを横ぎって来た。左の通路をまわって来てクイーンに敬礼した。さっきヴェリーが持って来たのと同じような書類の束を持っていた。
「ヴェリー部長が、この名簿をお渡しするように申しました。残りの観客全部の住所姓名だそうです、警視」
クイーンは、ちょっと緊張して、刑事の手から書類を受け取った。エラリーが、のり出した。警視は細い指でページをくりながら、ゆっくりと一つ一つ、名前を見ていった。最後のページの終り近くでにやりとして、しめたというふうにエラリーを見て、書類をとじた。ふり向いてエラリーの耳に何かささやいた。エラリーは、うなずきながら、明るい顔をした。
警視は控えている刑事のほうを向いて「来てくれ、ジョンスン」といった。クイーンは、調べ終った書類のページを開いて、その刑事によく見させた。「ヴェリーを見つけて、すぐ連絡するように言ってくれ。それが済んだら、この女をつかまえるんだ」――と、一つの名前と、それに続く、座席の列と番号を指さした――「君と一緒に支配人の事務所へ来てもらうんだ。モーガンという男もそこにいるはずだ。わしの連絡があるまで、二人と一緒にいるんだ。もしかして、二人が話し合ったら、よく聞いておけよ――どんな話か知りたいからな。女は丁寧に扱えよ」
「はい。もうひとつ、ヴェリー部長からの伝言ですが」と、ジョンスンは続けた。「残りの観客から、一団の人たちを分けました――切符のきれはしを持っていない連中です。その連中をどうしたらよいか、ご指示がほしいそうです」
「連中の名前は、リストにのってるのか、ジョンスン」と、クイーンは聞きながら、二番目のリストを、ヴェリーに返させるために手渡した。
「のっています」
「じゃ、ヴェリーに言ってくれ。その連中も皆と一緒に帰らせていいが、帰らせる前に、連中だけのリストを作るようにな。さし当って、わしが連中に会って尋問する必要もあるまい」
ジョンスンは敬礼して去った。
クイーンは、何か考えているらしいエラリーのほうを向いて、話しこんだ。そこへ、パンザーが来たので、話がとぎれた。
「警視さん」と、支配人はもったいぶって咳払いした。
「ああ、なんだね、パンザー君」と、警視は答えて、くるっと向くと「掃除婦たちには、いいつけどおり、指図しただろうな」
「はい、しました。ほかに何かすることがあるでしょうか……。ところで、お伺いしたいんですがね。いつまでお客様方を待たせておくのでしょうか。皆から、いろいろ訊かれて困っとるものですから。今度の事件で厄介なことが起こらないように願いますので」暗い表情の顔が汗で光っていた。
「ああ、その心配はいらんよ、パンザー君」と、警視がすぐに言った。「もうそんなに待たしやせん。実は、すぐにも帰らせるように命令を出そうと思っていたんだ。しかし、帰る前に、もう一度、ぶつぶつ言わせることになるな」と、言って、苦笑した。
「何でしょうか、警視」
「うん、そりゃ」と、クイーンが答えた。「みんな身体検査をしてもらわにゃならん。反対するだろうがな。君は、訴えるとおどかされるし、暴力を振う奴も出るだろうが、心配するな。今夜、ここでおこることは、全部、わしが責任をとる。君には面倒をかけんようにする……さて、部下を手伝うために女の検査人がいるんだがな。婦警も一人いるが、階下で仕事しているんだ。信頼できる女性はおらんかな――なるべく中年で――だれにもありがたくない仕事だが、文句言わずにやってくれる人で、しかも口のかたい女性がいいがね」
支配人はちょっと考えていた。「お望みの女性がいると思います。フィリップスさんという、衣装係です。もう何年もやっていて、そんな仕事には、うってつけの、気分のいい女性です」
「よさそうな人だな」と、クイーンはすぐに言った。「すぐ連れて来て、正面出口に配置してくれ。刑事部長のヴェリーが、必要な指示を与えるからな」
ヴェリーが来合せて、最後の言葉を聞いていた。パンザーは急いで、ボックスのほうへ、通路を下りて行った。
「モーガンは、つかまえたか」と警視が訊いた。
「はい、警視」
「それじゃ、次に、もう一仕事だ。それで今夜はお終いだ。トマス。平土間とボックスの客を出すのを指図してくれ。ひとりずつ出して、帰す前に身体検査をするんだ。正面出口のほかは、だれひとり出しちゃならん。脇出口にいる連中にしっかり言付けて、全部、正面出口にまわさせるようにするんだ」ヴェリーが、うなずいた。
「分ったな、検査を手伝え。ピゴット!」ピゴットが駆けて来た。「君はエラリーやヴェリーに、ついて行って、正面出口を出る者を、一人残らず調べるんだ。女を調べるために婦警が来ている。持物は全部調べる。何か疑わしい物を持っとるかもしれんから、ポケットもよく調べろ。切符の切れはしはみんな集める。特に≪余分な帽子≫に気をつけるんだ。わしがほしいのはシルクハットだ。しかし、どんな種類でも、余分な帽子を持っている者を見つけたら押えるんだぞ。手やわらかに押えるように気をつけろ。さあ、みんな、かかれ!」
柱によりかかっていたエラリーは、しゃんと立って、ピゴットに、ついて行った。それに続いてヴェリーが歩きかけると、クイーンが、大声で言った。「平土間が、空になるまで、二階の連中を出しちゃならん。だれかを上げて、静かにさせとけ」
最後の重要指令を与えると、警視は近くに立番しているドイルのほうを向いて、静かに言った。「階下の携帯品預り所へ行って、客が荷物を受け取るのを見張るんだ、急げ、ドイル。客がみんないなくなったら、預り所を、くまなく捜査しろ。棚に何かが残っていたら、わしのもとへ持って来い」
クイーンは、人殺しのあった席の後ろに、ぼんやりと照らし出されている大理石像のような柱によりかかっていた。ぼんやりした目で、背広の襟をつかんで立っていると、肩幅の広いフリントが興奮して目を光らせながら、駆けつけて来た。
「何かあったか、フリント」と、警視は、かぎたばこ入れをいじりながら訊いた。
刑事は、黙って、青い色の、左LL三〇と刷ってある切符の切れはしを差し出した。
「ほう、こりゃ」と、クイーンは大声で「どこで見つけたね」
「正面ドアのすぐ内側です」と、フリントが答えた。「劇場にはいって来て、すぐに捨てたようです」
クイーンは黙っていた。すばやく、自分のチョッキのポケットから、死んだ男の持っていた青い切符の切れはしをひき出して、黙って見くらべた――二つとも色も文字もまったく同じの切れはしだったが、一つは左LL三二、もう一つは、左LL三〇だった。
見たところ何でもない二枚のボール紙の切れはしを目を細くして調べていた。よく見るためにうつ向きこみ、ゆっくり裏と裏とを合わせてみた。そして、灰色の目に不審そうな色をうかべて、表と表を合わせてみた。まだ、腑《ふ》におちぬ顔付で、裏と表を合わせた。
その三つのやり方では、どの一つも、二枚の切符の切り口が合わなかった。
第五場 クイーン警視の尋問
クイーンは、平土間の後部に敷いてある赤いカーペットを急いで渡りながら、帽子を目ぶかに下げた。ポケットの底のかぎたばこ入れを、まさぐっているのはいつもどおりだ。警視は明らかに頭をフルに使っていた、というのは、二枚の青切符の切れはしを片手にしっかり握って、まるで自分の考えに、全然不満なように、顔をしかめていた。
支配人事務所と記してある、緑の斑入りのドアをあける前に、警視は振り向いて後ろの光景をみた。観客の追い立ては事務的に行われていた。わいわい言う声が場内にいっぱいだった。警官や刑事たちが座席の列のあいだをまわって、命令し、質問に答え、観客を席から追い立て、正面出口で身体検査を受けるために、中央通路に並ばせていた。警視は、観客たちがこれから受ける身体検査に対して、ほとんど抗議していないのをぼんやり見ていた。みんな疲れすぎていて、検査される屈辱に反撥《はんぱつ》する力もないようだった。半ば腹を立て、半ば面白がっている女たちの長い列が片一方に並んで、手ばやく、次から次へと、黒い服を着た母親のような女性に検査されていた。クイーンは出口をかためている刑事たちを、ちらっと眺めた。この道では長い経験のあるピゴットが、なれた手つきで、すばやく男たちの服を調べていた。そのそばで、ヴェリーが、検査を受けるいろんな種類の男たちの、反応振りを見ていた。時には、自ら検査する男もいた。エラリーは少し離れて立って、両手を外套の大きなポケットに突っこみ、巻きたばこを吸いながら、買い損ねた初版本より重要なものはないと考えているらしかった。
クイーンは、ため息をついて、事務所にはいった。
事務所の控え室は、せまくて、青銅と樫材《かしざい》で調度がととのっていた。壁ぎわの椅子のひとつに、その革ばりのクッションに深く埋まるように、≪牧師≫ジョニーが坐って、平気のへいざをよそおいながら、せかせかと、たばこを吸っていた。椅子のそばに一人の警官が立って、たくましい手を、≪牧師≫の肩にかけていた。
「ついて来い、≪牧師≫」と、クイーンは、立ちどまりもせずに言った。その小悪党は、のろのろと立ち、たばこの吸いがらを、ぴかぴかにみがいてある真鍮《しんちゅう》の灰皿に、器用にはじき込み、ぐずぐずと警視について行った。その後から警官が護送した。
クイーンは事務所の本部屋のドアを開けて、入口に立ち、すばやく見まわした。そして、わきへよけて、まず、悪党と警官をはいらせた。三人の後ろで、ドアが、ばたんと閉った。
ルイス・パンザーは事務所の設備には、やかましい趣味を持っていた。彫刻をほどこした机の上には、すっきりしたみどり色の電灯の傘が、明るく輝いていた。椅子、灰皿、スタンド、細工のこまかい外套かけ、絹ばりの長椅子――そんな品々が、趣味よく室内に備えられていた。おおかたの支配人事務所らしくなく、パンザーの事務所には、スターの写真も、自分の写真も、演出家の写真も、≪美人≫の写真も、飾ってなかった。数枚の良い版画と、大きな壁掛けと、コンスタブル筆の油絵の風景画が壁にかかっていた。
しかし、クイーン警視のそのときの関心は、パンザー氏の私室の芸術的風格にはなかった。むしろ、警視に面と向かっている六人の人物にあった。ジョンスン刑事の側には、抜けめのない目をした中年肥りの男が、迷惑そうに顔をしかめて坐っていた。一点非のうちどころのない夜会服姿だった。そのとなりの椅子には、飾り気のないイブニングを着て、コートを羽織っている、かなり美しい若い女性がいた。帽子を手にもって、彼女の椅子にうつむきかけている、夜会服の美青年を見上げながら低い声で夢中になって話していた。二人の側には、すらりとした女が二人いて、二人とも前にのり出すようにして熱心に話をきいていた。
でっぷりした男は、ほかの連中に、超然としていた。クイーン警視が、はいってくるとすぐ、文句を言いそうな顔で立ち上がった。一同はぴたっと静かになって、クイーンのほうへ、しかつめらしい顔を向けた。
いやらしい咳払いをして、≪牧師≫ジョニーは、護送の警官と、敷物を渡って隅へ行った。まわりの連中の華々しさに、圧倒されたらしかった。≪牧師≫は足をもじもじして、絶望的な目で警視を見た。
クイーンは机のところへ行って、一同と向き合った。手で合図すると、すぐジョンスンが、そばに来た。
「三人余計にいるじゃないか、ジョンスン」と、ほかの連中に聞きとれぬ声で言った。
「あの年かさのがモーガンです」と、ジョンスンがささやいた。「それから、そばに坐っている美人が、連れて来いと言われた女です。平土間へ行ってみると、青年と二人の女が連れでした。四人とも仲よしらしいです。あの女に命令を伝えると、おどおどしましたが、おとなしくついて来ました――ただ、ほかの三人も来ちまったのです。あの連中にもご用があるかどうか分らないもので、警視――」
クイーンは、うなずいた。「何か聞いたか」と、相変らず低い声で訊いた。
「一言も喋りませんでした。警視。あの年かさの男は、あの連中を全然知らないようです。あの連中は、ただ、どうして、あなたが、あの女に用があるのだろうと、不思議がっているんです」
警視は、手を振ってジョンスンを隅に引っこませてから、待っていた連中に声をかけた。
「あなた方お二人にお話がしたくて来てもらったんです」と、警視は愛想よく言った。「それから、あなた方も待っていて下さる分には差しつかえありません。しかし、差し当り、そこの紳士と、ちょっと仕事を片づける間は、控え室のほうへ行っていて下さい」警視は悪党のほうへあごをしゃくった。≪牧師≫はふてくされて、体をかたくした。
興奮して喋りながら、二人の男と三人の女が出て行くのを、ジョンスンが送り出してドアをしめた。
クイーンは、ぐるっと、≪牧師≫ジョニーのほうへ向いた。
「そのどぶ鼠を連れて来い!」と、ぴしゃりと警官に命じた。警視はパンザーの椅子に坐って、指をぽきぽき鳴らした。悪党は引き立てられて、敷物を渡り、机の前に引きすえられた。
「さあ≪牧師≫」と、クイーンは、おどすように「ちょうどいいときに捕えたぞ。これから、だれにも邪魔されずに、とっくり話をしよう。いいな」
≪牧師≫は黙って、疑り深そうに目を上げた。
「ふーん。何も言わんつもりか、ジョニー。わしが、いつまでも、見逃しておくと思っとるんだ」
「さっき言ったでしょう――私は何にも知らないんだし、弁護士が来るまでは、何にも言いませんよ」と、悪党は、ふくれて答えた。
「弁護士か。それじゃ≪牧師≫、弁護士の名は?」と、警視が、さりげなく訊いた。
≪牧師≫は唇をかんで、黙っていた。クイーンはジョンスンのほうを向いた。
「ジョンスン、君はバビロン強盗事件を手がけたんだな」と、警視が訊いた。
「はい、やりました」と、刑事が答えた。
「あれで」と、クイーンはおだやかに、悪党に言った。「君は一年くらいこんだのだ。おぼえとるだろう、≪牧師≫」
≪牧師≫は、まだ口をきかない。
「それから、ジョンスン」と、警視は椅子の背にゆっくりもたれこみながら、続けた。「思い出させてくれ。ここにいる友達を弁護したのはだれだったかな?」
「フィールドでした。それは――」と、ジョンスンは≪牧師≫を睨んで、思わず大声を出した。
「そうだ。いま、死体置場の冷たい台に寝ている紳士だ。さあ、どうした。芝居はやめろ。モンティー・フィールドを知らないなんて、どこを押せばそんな音《ね》が出てくるんだ。いいか、わしがフィールドと言っただけで、お前にはモンティーと分ってるんだ。さあ、吐いちまえ」
悪党は、観念の色をうかべて、警官のほうへよろめき出た。それから唇をしめして「参りましたよ、警視――だけど、今度のことは、本当に何も知らないんですよ。フィールドには一月も会ってないんです。ひどいや――ひどいよ。まさか、この殺しでわたしを絞めあげるつもりじゃないでしょうね」
≪牧師≫はうらめしそうにクイーンを睨んだ。警官が≪牧師≫を引きもどした。
「おい、≪牧師≫」と、クイーンが言った。「どうしていきなり結論へとぶんだね。わしはただ、ちょっとした情報を探してるだけだよ。もちろん、お前が殺しを白状するなら、部下を呼んで、お前の話をすっかりたしかめた上で、わしは家へ帰って寝るさ。どうする?」
「ちがう」と、わめいて、いきなり腕を突き出した。警官がひょいとその腕をとって、もがく背中にねじあげた。「どっからそんな|ねた《ヽヽ》をつかんで来たんだ。何も白状なんかしてないし、何も知らないんだ。今夜はフィールドに会わなかったし、来てるのも知らなかったんだ。本当だ……警視、おれはお偉方《えらがた》にも友達がいるんだ――そんなばかなことを、ひっかぶせられやしないぜ。言っとくぜ」
「そりゃ残念だな、ジョニー」と、警視は一息いれて、かぎたばこを吸った。「よろしい、じゃ、モンティー・フィールドを殺さなかったことにしよう。ところで、今夜は何時にここへ来た? 切符はどこへやった?」
≪牧師≫は帽子をねじって「さっき、何も言わないと言ったのはね、警視、あんたが、わたしを、ひっかけてぶちこもうとしてると思ったもんでね。いつ、どうやって、ここへ来たかを完全に説明できるんだよ。八時半ごろに着いて、パスではいったのさ。それだけさ。この切れっぱしで証明できるさ」悪党は上衣のポケットを、丹念に探して、穴のあいた青切符のきれはしを、とり出した。クイーンは受けとって、丁寧に見てから、ポケットに入れた。
「すると、どこで」と、警視が訊いた。「どこでパスを手に入れたんだね、ジョニー」
「わたしは――わたしの女がくれたんでさ。警視」と、悪党が神経質になって答えた。
「そうか――この事件にも女がはいるか」と、クイーンは面白そうに「その|別ぴん《ヽヽヽ》さんの名前は? ジョニー」
「名前だって――なぜ。彼女は――おい、警視、まさか、その娘《こ》をまき込もうってんじゃあるまいね」と、≪牧師≫がわめいた。「素人娘だし、何にも知っちゃいないよ。本当だ。わたしは――」
「その女の名は?」と、クイーンがさえぎった。
「マッジ・オッコネルさ」と、ジョニーが哀れっぽい声を出した。「ここの案内娘さ」
クイーンの目が光った。ジョンスンにちらっと目配《めくば》せすると、刑事はすぐ部屋を出た。
「そうか」と、警視はまた椅子によりかかって気持ちよさそうに「そうか、おなじみの≪牧師≫ジョニーは、モンティー・フィールドのことは知らんのか。こりゃ、どうも、どうも。まあ、君の女友達の話が、どこまで君を尻押しするか、きいてみよう」と、言いながら、悪党が手で持っている帽子をじろりと見た。それは安物の黒いソフトで、着ている粗末な服と、釣り合っていた。「おい、≪牧師≫」と、いきなり言った。「君の帽子を見せてみろ」
悪党のおずおずした手から帽子をとりあげて調べた。内側の革バンドを下ろして、こまかく見てから返した。
「そうそう忘れてたよ、≪牧師≫」と言った。「おい。カッザネルリの身体検査をしろ」
≪牧師≫は、いやな顔をして検査を受けたが、きわめておとなしくしていた。「はじきはありません」と、警官は手みじかに言って調べ続けた。≪牧師≫の尻ポケットに手を入れて、ふくらんでいる財布を引き出した。「これは? 警視」
クイーンは受け取った。無造作に金を数えて、警官に返し、警官はそれをポケットにもどした。
「百二十二ドルだね、ジョニー」と、低い声で「どうも、ボノモ・シルクの匂いがするな、この札は。どうなんだ」と、笑って、紺制服に向かって訊いた。「フラスクは持ってないか」警官が首を振った。「チョッキやシャツの下に何かなかったか」また首を振った。検査がすむまで、クイーンは黙っていた。≪牧師≫ジョニーは、ほっとしてため息をついた。
「おい、ジョニー、今夜は運がよかったな――はいれ!」クイーンが、ノックに答えた。
ドアが開いて、宵の口に尋問した、すんなりした案内娘の制服姿があらわれた。ジョンスンがあとからはいって、ドアを閉めた。
マッジ・オッコネルは、敷物の上に立って、うなだれて床を見ている愛人を、悲しそうに見ていた。ちらっとクイーンを見た。それから、口をとがらせて悪党に浴びせかけた。
「見なさいよ。やっぱり捕まったじゃないの、バカね! あんなことで、逃げようとしちゃいけないと言ったじゃないの」娘は、軽蔑して、≪牧師≫に背中を向けると、やけに、パフで顔をたたきはじめた。
「なぜ前に言わなかったんだね、娘さん」と、クイーンが、やさしく「あんたの友達のジョン・カッザネルリにパスをやったことを」
「何から何まで言うとはかぎらないわよ、お巡りさん」と、娘はぞんざいに答えた。「なぜそうしなければいけないの? ジョニーは、この事件には何も関係がないのよ」
「その話はまたにしよう」と、警視は、かぎたばこ入れをいじりながら「今、訊きたいことは、マッジ、あんたの記憶力がさっき話した時より、よくなったか、どうかということさ」
「どういう意味なの」と、娘が訊いた。
「つまりね。さっき話したところによると、ちょうど芝居の始まる前にいつもの場所にいた――大勢のお客さんを席に案内した――死んだモンティー・フィールドを座席に案内したかどうか、覚えていない――芝居のあいだ中は、左の通路の出口に、ずっと立っていた、芝居のあいだ中、ずうっとだよ、マッジ、そのとおりかね」
「たしかよ、警視さん。だれかがあたしがいなかったとでもいうの?」娘はむきになってきたが、クイーンがそのふるえる指先をじろりと見ると、ふるえがとまった。
「おい、やめなよ、マッジ!」と、≪牧師≫が、いきなり口を出した。「これ以上へまをするなよ。遅かれ早かれ二人が一緒に、よそに行ってたことをみつけ出すぜ。そうなると、お前さんに、何か言いがかりをつけるぜ。こいつの凄いのを知らないんだ。白状しちゃいなマッジ」
「そうか」と、警視は、愉快そうに、≪牧師≫から娘のほうへ目を移して「≪牧師≫、年の功で少し分別ができたらしいな。君らは二人一緒にいたと言ったようだな。いつ、どうして、どのくらいの時間だね」
マッジ・オッコネルの顔が赤くなったり、青くなったりした。そして、毒々しく愛人を睨むと、クイーンのほうへ向き直った。
「白状したほうがよさそうね」と、いまいましそうに「この薄馬鹿が泥を吐いたんですもの。みんな言うわよ、警視さん――間抜けな支配人に言いつけたかったら言いつけなさい」クイーンは眉を釣り上げたが、口はさしはさまなかった。「ジョニーにパスをやったのは、たしかよ」と娘はにくったらしく「だって――そうなの、ジョニーのような男は、切った張ったが好きでしょ。それに、休みの晩だったし。だから、パスを手に入れてやったのよ。パスは同伴券なのよ――みんなそうなの――だから、ジョニーの隣りの席は、ずっと空いていたわ。左の通路ぎわの席で――あの口やかましいちびちゃんから手に入れられる最上の席よ。一幕目のあいだは、とても忙しくて、一緒に坐ってなんかいられなかったわ。でも、最初の休憩のあとで、二幕目の幕があがってからは、すっかり暇になって、この人の隣りに坐るチャンスができたのよ。もちろん、坐ったわ――そして、ほとんどその幕いっぱい、となりに坐っていたのよ。いけないかしら――手のすいてる時に少しぐらい休んだっていいでしょ」
「分った」と、クイーンは眉を下げて「さっき話してくれれば、時間と手間がだいぶはぶけたのにな、娘さん。二幕目のあいだ中、全然、席を立たなかったかね」
「そうね、一、二度は立ったようだわ」と、娘は用心して「でも、手落ちはなさそうだし、支配人さんも近くにいなかったから、また坐りに行ったわ」
「通りがかりに、フィールドに気がついたかね」
「いいえ――ちっとも」
「フィールドの隣りにだれか坐っちゃいなかったかね」
「いいえ。その人がいることさえ気がつかなかったわ。きっと――そっちのほうを見なかったんだわ」
「ということは」と、クイーンは、冷たく言った。「二幕目のあいだは、一番最後の列の一番はじの席にはだれも案内したおぼえがないということだね」
「ええ――ああ、あたしあんなことしなければよかったんだわ。でもね、ひと晩中、何も変ったことは見なかったのよ」問いつめられるたびに、娘はますます神経質になった。そして≪牧師≫をちらちら見た。≪牧師≫は床を見つめたままだった。
「おかげでたすかったよ」と、言って、クイーンは、ふと立ち上がった。「行っていいよ」
娘がくるりと向きをかえて、出て行きかけると、≪牧師≫が、しらっとぼけて横目をつかいながら、こっそりと娘について出ようとした。クイーンが警官に合図した。≪牧師≫は、ぐいっと、ひきもどされた。
「急ぐんじゃない、ジョニー」と、クイーンは、刺すような声でいった。「オッコネル!」娘は、平静を装って振り向いた。「しばらくの間、このことはパンザー君には言わないつもりだ。しかし、目上と話すときは、もっと足もとに気をつけて、言葉もきれいにすることを習っておくといいな。さあ行っていいよ。だが、今度、へまがあったら、わしは知らんぞ」
娘は笑い出して、からだをゆすぶりながら急いで部屋を出た。
クイーンは警官のほうを向いて「手錠をかけろ」と、ぴしりと言って、悪党を指さした。「署へ引いて行け」
警官は敬礼した。手錠が光り、かちゃりと鳴った。≪牧師≫は手首に手錠が、かかるのを、口をあけて見ていた。そしてもの言うひまもなく、部屋から追い立てられた。
クイーンはたまらないというふうに手を振って、革ばりの椅子に、どっかりと腰かけると、かぎたばこを、ひとつまみ吸い、がらっと調子をかえて、ジョンスンに命じた。「すまんが、ジョンスン君。モーガン氏にお越しをねがってくれたまえ」
ベンジャミン・モーガンは、しっかりした足どりで、クイーンの臨時調べ室に、はいって来たが、どことなく、心の動揺をかくしきれないようだった。しかし、元気のいい声で、気持ちよさそうに言った。「やあ、警視、来ましたよ」そして、忙しい一日が終って、クラブへ来て、ほっと一息抜く男のように、みちたりた顔をして、ゆったりと椅子に坐った。クイーンは、それに調子を合わせず、かなり長く、じっと見つめていたので、中年太りの白髪頭の男は、てれた。
「わしはクイーンです。モーガンさん」と、親しみをこめて「リチャード・クイーン警視です」
「そうだろうと思っていました」と、モーガンが、握手の手をのばした。「私をごぞんじでしょう、警視。何年も前に、刑事裁判所で、いくどか、お見かけしました。あの事件は多分――覚えとられるかな? メリー・ドウリットルが殺人犯で起訴されたのを、弁護した時でしたな」
「なるほど、そうでしたね」と、警視はなつかしそうに「どこかでお見かけしたと思っとりました。あなたは、多分、あの女を無罪にしましたね。すばらしい腕前でしたな。モーガンさん――たいしたもんでした。ああ、あの時のが、あなたでしたか。こりゃ、どうも」
モーガンが笑った。「あの時は、うまくいきました」と、言って「しかし、あれも、もう昔話になりましたよ、警視。ごぞんじのように――私はもう刑事のほうからは手をひいているんです」
「ほう?」と、クイーンは、かぎたばこを吸って「そりゃ、ちっとも知りませんでした」――と、くしゃみをして――「まずいことでもあったんですかな」と、親身になって訊いた。
モーガンは黙りこんだ。しばらくして、足を組んで言った。「ちょっとまずいことがあったんです。たばこいいんですか?」と、急に訊いた。許可を得て、太い葉巻に火をつけ、うずをまく煙に見入った。
二人ともしばらく黙っていた。モーガンはきびしく監視されているのを意識しているらしく、いくども足を組んだり、ほぐしたりして、クイーンの目をさけようとしていた。警視は、首をうなだれて、深く考えこんでいるらしかった。
沈黙はだんだん重苦しくなり、緊張してきた。室内には、隅の置時計の針の音しか聞こえなかった。劇場内のどこかで、罵《のの》しり合う声が、急におこった。口々に、罵ったり、抗議するらしい声が、急に高まったが、やがてそれも、ぴたりと、とぎれた。
「さあ、警視……」モーガンは咳払いした。姿は葉巻のこく渦まく煙に覆われ、声は、緊張して、しわがれていた。「これは一体何です――巧妙な拷問《ごうもん》ですか」
クイーンは驚いて目をあげた。「え? 失礼しました、モーガンさん。考えが、すっかりこんぐらかってしまったようで。何か失礼なことでも言ったでしょうかな。どうも、もうろくしてきたようです」警視は立って、手を後ろに組んで、部屋の中を、廻り始めた。モーガンは、それを眺めていた。
「モーガンさん」――と、警視は、いきなり相手のふところにとびこむ、いつもの手で、おそいかかった。「わしが、あなたに残って話をうかがいたいとお願いしたわけが分りますか」
「どういうことか――さっぱり分りませんよ、警視。当然、今夜の事件に関係あることだとは思いますがね。しかし、どんな関係が私にあり得るのかは、実のところ、分らんのです」と、モーガンは、はげしく葉巻をふかした。
「多分、すぐお分りになるでしょうよ、モーガンさん」と、クイーンは、机によりかかりながら「今夜、ここで殺されたのは――事故でなかったことは、確信しています――モンティー・フィールドという男です」
警視はおだやかに報せたのだが、モーガンに与えた効果は、おどろくほど激しかった。モーガンは、本気に椅子からとび上がって、目をむき、手をふるわせ、息をはずませた。葉巻が床に落ちた。クイーンは、むっつりした目で眺めていた。
「モンティー・フィールド!」モーガンの叫び声は、ぞっとするほどだった。目をむいて警視の顔を見た。それから、椅子に崩折れて、ぐったりした。
「葉巻を拾いたまえ、モーガンさん」と、クイーンが言った。「パンザーさんの好意を、あだにするのは厭だからね」モーガンは、機械的にうつむいて葉巻を拾い上げた。
「こいつは」と、クイーンは胸のうちで考えた。「世界一の名優か、一生に一度のショックを受けたんだな」それから、姿勢を正して「さあ、モーガンさん――しっかりしなさい。どうしてフィールドの死が、そんなにこたえたんですか」
「まさか――まさか、あの男が、モンティー・フィールドが……ああ、なんてことだ」それから、そっくり返って、げらげら笑い出した――あまりの異様なおかしがり方なので、クイーンは、警戒して身構えた。発作が続き、モーガンはヒステリー状態で、からだを前後にゆすぶった。警視は、そんな症状には慣れていた。モーガンの顔に平手うちをくわせ、上衣の襟をつかんでしゃんと立たせた。
「逆上しちゃいかんね、モーガン」と、クイーンは叱りつけた。きびしい声が利いた。モーガンは笑いやめ、焦点のない目で、クイーンを見、どさっと椅子に坐った。――まだふるえてはいたが、正気にもどった。
「どうも――申し訳ありません、警視」と、つぶやいて、ハンカチで顔をふいた。「本当に――意外だったので」
「そうでしょうな」と、クイーンはそっけなく言った。「足もとで大地が口をひらいても、そんな驚き方はしないでしょうな。ところで、一体こりゃどうしたことだね、モーガンさん」
弁護士は顔の汗を、拭きつづけた。木の葉のように震えて、頬が赤らみ、決心がつきかねて、唇をもぐもぐかんだ。
「よろしい、警視さん」と、やっと言った。「何が知りたいんですか」
「それでよろしい」と、クイーンは満足そうに「モンティー・フィールドに最後にお会いになったのはいつですか」
弁護士は神経質に、軽く咳払いして「えーと。――えーと、何年も会っていないんです」と、低い声で言った。「ごぞんじのように、もとはあの男と協同で仕事をしていました――相当はやる法律事務所をやっていましたが、事情があって、別れたんです。その後、私は――あの男とは会っていません」
「どのくらい前のことですか」
「二年ちょっとです」
「結構です」クイーンはのり出して「あなた方が別れた理由も、ぜひ伺いたいんですがね」
弁護士は敷物に目を落して葉巻を指先でいじりまわした。「私は――さよう、あなたもモンティー・フィールドの評判は知っとられるでしょう。あの男とは道徳的な点で意見が合わず、少々いさかいをして、解散することにきめたのです」
「円満に別れたのですか」
「そりゃ――あの時の状態としては、そうです」
クイーンが机をどんと打った。モーガンは、不安そうに目をあげた。明らかに、驚いた心の動揺を、まだ押えかねていた。
「今夜は、何時に劇場に着きましたか、モーガンさん」と、警視が訊いた。
モーガンはその尋問におどろいたようだった。「そりゃ――八時十五分過ぎごろです」と答えた。
「切符の切れはしを見せて下さいませんか」と、クイーンが言った。
弁護士は、方々のポケットを探してから、それを差し出した。クイーンは受けとって、ポケットにしまっておいた三枚の切れはしをとり出し、両手が見えないように机の下におろした。そしてすぐ、さりげなく相手を見ながら、その四枚のボール紙の切れはしを、ポケットにもどした。
「すると、中央のM二に坐っていたんですね。とてもいい席ですな、モーガンさん」と、警視は言った。「ところで、どうして今夜≪拳銃稼業≫を観にくることになったんですか」
「どうしてって、なかなか面白い芝居じゃありませんか、警視さん」モーガンは当惑しているようだった。「自分から来る気になったかどうか分りませんがね――わたしは芝居好きじゃないんです――ところが、このローマ劇場の事務所から、親切にも、今夜の芝居の招待券を送られたものですからね」
「本当ですか」と、クイーンは、おどろいて叫んだ。「そりゃ親切ですね。で、いつ切符を受け取られましたか」
「えーと、切符と招待状は、土曜日の朝、私の事務所で受け取りました」
「ほう、招待状も受け取られたのですな。そこにお持ちじゃないでしょうな」
「えーと――たしか――持って来たんだが」と、モーガンはポケットを探しはじめた。「ああ、ありました」
モーガンは、小型の矩形《くけい》の白い紙を警視に渡した。へりがぎざぎざで証券用紙をつぶしたものだった。クイーンは、そっと持って、灯にすかしてみた。タイプで打った文章の間から、すかし模様が、はっきり見えた。唇をすぼめて、注意しながら、それを、書類敷の上に置いた。モーガンの見ている前で、パンザーの机の一番上の引き出しをあけ、中をかきまわして、用箋を一枚探し出した。大型の四角い紙で、上部に、飾りつきの劇場の紋章が麗々しく刷り込んであった。クイーンは二枚の紙をならべて、ちょっと考えていたが、ため息をついて、モーガンが渡したほうの紙をとりあげた。そして、文面をゆっくり読んだ。
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当ローマ劇場は、九月二十四日月曜日≪拳銃稼業≫夜の部の上演に、ベンジャミン・モーガン氏のご観劇を、謹んでご招待申し上げます。ニューヨーク法曹界に指導的地位を占められるモーガン氏の、社会的、法律的記録としてのこの劇に対するご高見を、ぜひ、拝聴したいのであります。しかしながら、このご招待には、何らの義務的なものはなく、なお招待をお受けになっても、モーガン氏には一切、義務的なものが付随しないものであることを、重ねて保証いたすものでございます。
(署名)ローマ劇場
私信・S
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≪S≫の文字は、インクでなぐり書きしたもので、かろうじて判読できた。
クイーンは微笑しながら目をあげた。「この劇場もなかなか気が利いてますね、モーガンさん。ところで、ちょっと気にかかることがあるので――」と、なおも微笑しながら、隅の椅子に坐って、黙ってやりとりを見ていた、ジョンスンに合図した。
「支配人のパンザーさんを連れて来てくれ、ジョンスン」とクイーンは言った。「それから、宣伝係の男もいたら――ビールスンとか、ピールスンとか、何とかいう男だ――そこらにいたら、ここへ来るように」
ジョンスンが出て行ってから、警視は弁護士のほうを向いた。
「ちょっと、手袋を見させていただきたいんだが、モーガンさん」と、気軽に言った。
モーガンは妙な顔をして、手袋をクイーンの目の前の机の上に置いた。するとクイーンは、珍しそうに拾いあげた。白い絹で――普通の夜会用の手袋だった。警視は一生懸命に調べている振りをした。裏返してみたり、一本の指先の|しみ《ヽヽ》を念入りに調べたり、わざわざはめてみたりしながらも、モーガンに冗談を言いつづけた。調べ終ると、もったいぶって、手袋を弁護士に返した。
「それから――ああ、そうだ、モーガンさん――とてもすばらしいシルクハットをお持ちですね。ちょっと見せていただけますか」
弁護士はだまって帽子を机にのせた。クイーンは、さりげなく、帽子を手にして、少し、調子っぱずれに≪ニューヨークの歩道≫の口笛を吹いた。帽子をひねくりまわしてみた。とびきり上等の品で、つややかだった。裏は、光沢のある白絹で、≪ジェームス・チャウンシー商会≫と、製造元の名が金文字ではいっていた。≪B・M≫の頭文字が、やはり金文字で、バンドに打ちこまれていた。
クイーンは、かぶってみて、にこにこした。ぴったりだった。それから、すぐにぬいで、モーガンに返した。
「わがままを許していただいて、ありがとうございました、モーガンさん」と、ポケットから取り出した手帳に、急いでメモをとりながら、言った。
ドアが開いて、ジョンスンと、パンザーと、ニールスンが、はいって来た。パンザーは、おずおずと進んで来た。ニールスンは、ひじかけ椅子に坐った。
「何かご用でしょうか、警視」と、パンザーは、自分の椅子に、おさまりこんでいる白髪まじりの紳士の存在を無視しようと、けなげな努力をしながら、震え声で訊いた。
「パンザーさん」と、クイーンは、ゆっくり「ローマ劇場では、いく種類の用箋を使っているのですか」
支配人は目をむいて「一種類きりです、警視。あなたの目の前にある紙です」
「ふーん」と、クイーンは、モーガンから受け取った紙片を、パンザーに渡した。「この紙をよく調べてもらいたいんだが、パンザーさん。それと同じ紙が、ローマ劇場にあるんじゃないかね。知っとるだろう」
支配人は、けげんな顔で見ていた。「いや、ないですよ。たしかにないですよ。これは何ですか」と叫んで、タイプされた文章の頭の二、三行を、ちらっと見た。「ニールスン!」と、宣伝係を振り向きざまに、どなりつけた。「これは何だ――お前の新手の宣伝か」と、ニールスンの鼻先で、その紙片を、ふりまわした。
ニールスンは支配人の手からひったくって、すばやく読んだ。「こりゃ、おどろいたな」と、おだやかに言った。「まるで大西洋無着陸飛行の記録が破られたような、おどろきだ」ニールスンは、いかにも感心した顔で、読み直した。それから、四|対《つい》の目が、まじまじと自分を見つめているのを意識しながら、紙片をパンザーに返した。「こんな気の利いたアイデアに関係ないなんて、残念ですよ」と、のろのろ言った。「どうして気がつかなかったんだろうな」と、残念そうに、もとの場所に引きさがって、深く腕組みをした。
支配人は、当惑してクイーンのほうを向いた。「とても妙です、警視。私の知るかぎりでは、ローマ劇場は一度も、こんな用箋を使ったことはありませんし、こんな宣伝法を許可した覚えも絶対にありません。それに、ニールスンが関知していないとすれば――」と、肩をすぼめた。
クイーンはその紙片を、そっとポケットに入れた。「用件はそれだけです。ありがとう」と、あごで合図して、二人を放免した。
クイーンは、首から髪の根まで、真っ赤な顔をしている弁護士を、じろりと見た。それから、手をあげて、ばたんと、机におろした。
「どうお考えですか、モーガンさん」と、さりげなく訊いた。
モーガンはとび上がって「ひどいわなだ!」と、クイーンの鼻先で拳を振りながら、どなった。「私は何も知らん――君より知らんのだ。失礼ないい方だがね。その上、手袋や帽子なんか調べまわして、そんな手品で私を、おどせるとでも思っとるのか――どうだね、いっそのこと、私の下着でも調べてみたら、警視」と、息が切れて言葉につまり、顔を紫色にした。
「しかし、モーガンさん」と、警視はものやわらかに「なぜそんなに逆上なさるんですか。まるで、私がモンティー・フィールド殺しで、あなたを責めているようじゃありませんか。坐って、落ちついて下さい。私は簡単なことをお訊きしただけですよ」
モーガンは椅子に崩れるように坐った。ふるえる手で額をなでて、つぶやいた。「すみません、警視。癇癪《かんしゃく》をおこして。それにしてもひどいことをするもんだ――」と、つぶやきながら、静まった。
クイーンは、不審そうに見つめていた。モーガンはハンカチをだしたり、葉巻に火をつけたりして、落ちつこうと努力していた。ジョンスンは天井を見上げて、てれかくしに咳払いした。場内でまた騒ぎがおこるのが壁ごしに聞こえたが、すぐに押えられて音がぼやけた。
クイーンの声が、鋭く沈黙を破った。「すみました、モーガンさん。行ってよろしい」
弁護士は、よろよろと立って、何か言いかけたが、口をぎゅっと結び、乱暴に帽子をかぶって、部屋を出て行った。警視の合図で、ジョンスンは、さりげなく先に立って、ドアをあけてやり、二人とも姿をかくした。
ひとり部屋に残ったクイーンは、忙しく仕事にとりかかった。ポケットから、四枚の切符の切れはしと、モーガンが出した手紙と、死者のポケットから探し出したライムストーンの婦人用夜会バッグをとり出した。そのバッグを、ふたたび開いて、中身を机の上にひろげてみた。一、二枚の名刺には、≪フランセス・アイヴス・ポープ≫と、きれいな銅版で刷ってあった。上品なレースのハンカチが二枚。口紅、頬紅、白粉の詰めてあるバニティケース。小銭入れには札で二十ドルと硬貨が少し。それに玄関の鍵。警視はそれらの品を、何か考えながら、しばらくいじってから、バッグにもどして、バッグと、切符の切れはしと、手紙とをポケットにおさめ、立ってゆっくりと、あたりを見まわした。それから、部屋を横切って帽子掛けに、ただ一つかかっていた山高帽をとりあげ、内側を調べた。頭文字は≪L・P≫で、サイズは六インチ八分の七、それが興味をひくようだった。
警視は帽子を元に戻して、ドアを開けた。
控え室に坐っていた四人は、ほっとした表情で、とび立った。クイーンは、上衣のポケットに手を入れて、微笑しながら入口に立っていた。
「さあ、あなた方の番です」と言った。「どうぞ、みなさんこちらへはいって下さい」
警視は礼儀正しく道をあけて一同を通した。――三人の女と一人の青年だ。一同は、そわそわと興奮して、かたまってはいり、女たちは青年が忙しそうに、それぞれの椅子をならべてくれるのに腰を下ろした。四対の目が、ドアのそばに立っている老人を熱心にみつめた。警視は、父親のように、微笑みながら、控え室をぐるりと見まわしてから、ドアを閉めて、悠然《ゆうぜん》と机に歩みよって、腰を下ろし、かぎたばこ入れを指でなぜた。
「さて」と、機嫌よく言った。「皆さんを大変長くお待たせしてすみませんでした――どうも、役所仕事というものは……。ところで、さてと。ふーん。そうか――そう、そう。やっぱりそうしなけりゃ――いいですか。さて、まず最初に、皆さんとお知り合いになる方法だが」と、三人の中で一番美しい女性に、やさしい目を向けた。「多分、あなたが、フランセス・アイヴス・ポープさんでしょう。まだご紹介を受けてはいませんがね。そうでしょう」
その娘はおどろいて目を見張った。「そのとおりでございますわ」と、美しい音楽的な声で「どうして私の名を知っていらっしゃるのか、まるで分りませんけれど」
フランセスは、にっこり微笑した。とても魅力があって、人をひきつけずにはおかないような、女らしさのこもった、すばらしい微笑みだった。青春の盛りの成熟しきった体と、ぱっちりした茶色の目と、クリーム色の肌とで、輝くばかりの健康さだった。警視はすがすがしく感じた。
クイーンは娘を見下ろして「それが、アイヴス・ポープさん」と笑いながら「普通の人には不思議に思えるでしょうね。それに、私が警官なので、いっそう不思議なのでしょう。しかし、ごく簡単なことなんですよ。あなたは、よく写真にとられるでしょう――実は、今朝の新聞の社交欄で、あなたの写真を見たんですよ」
フランセスは少し神経質に笑った。「まあ、そうでしたの」といって「こわくなりかけましたわ。あの、お聞きになりたいことは、何ですの?」
「仕事です――いつも仕事で」と、警視はつまらなそうに「だれかに関心を持つといえば、いつもそれです。仕事熱心なんでしょうかね……質問を始める前に、お友達のことを伺いたいですな」
クイーンが目を向けると、三人の中から、迷惑そうな咳払いがおこった。フランセスは愛嬌よく言った。「失礼しましたわ――警視さん、ほんとに。紹介させていただきます、こちらは、ごく親しいお友達の、ヒルダ・オレンジさんと、イーヴ・エリスさん。それから、こちらは、私のフィアンセのスティーヴン・バリーです」
クイーンは、驚いたように、一同を見て「思いちがいでなければ――皆さんは、≪拳銃稼業≫の俳優諸君じゃありませんかな」
みんなが渋々、うなずいた。
クイーンはフランセスのほうを向いて「あんまりかたぐるしいと思われたくないんですがね、アイヴス・ポープさん。でも少し、説明していただきたいことがあるんです……なぜお友達をお連れになったんですか」と、警戒心を解くように微笑しながら訊いた。「失礼な申し分かも知れませんが、部下には、あなたに、お一人で来ていただくように命令したのを、はっきり覚えているものですからね……」
三人の役者たちは、固くなって、体を起こした。フランセスは三人から警視のほうへ訴えるような目を移した。
「あの――ごめんなさい、警視さん」と、早口で「私は――一度も警官に尋問されたことがないんですの。それで、私、心配なので――フィアンセと、一番仲のいいお友達二人に、お目にかかっている間、そばにいて下さるように、おねがいしたんですの。あなたのお考えにそむくなんて、まるで気がつかなかったのです……」
「そうですか」とクイーンは、微笑しながら答えた。「よく分りました。しかし、お分りでしょう――」と、きっぱり断る身振りをした。
スティーヴン・バリーは、フランセスの椅子にうつむきこんだ。「ぼくは君と一緒にいるよ、ねえ、そうしてほしければ」それから、挑戦するように警視を睨んだ。
「でも、ねえ、スティーヴン」と、フランセスは心細そうに叫んだ。クイーンは梃子《てこ》でも動かぬ顔をした。「あなた――行ったほうがよくってよ。でも、外で待っててちょうだいね。長くはかからないんでしょう? 警視さん」と、訊いて、悲しそうな目をした。
クイーンは頭をふった。「大して長くかかりません」がらっと態度が変っていた。残忍になったようだった。相手方も警視の変り方に気がついたので、どことなしに態度が敵意をふくんできた。
顔のどこかに美しい若さをのこしている、中年ぶとりの四十女、ヒルダ・オレンジは、部屋の冷たい照明の下で、かぶっていた猫をかなぐりすてて、フランセスを庇《かば》うようにしながら、警視を睨みつけた。
「外で、あなたを待ってますからね」と、ヒルダがいまいましそうに言った。「もし卒倒しそうになったり、なにかあったら、少し金切り声を出しなさい。そうすれば、どうなるか分るわよ」ヒルダはぷいっと出て行った。イーヴ・エリスはフランセスの手を、やさしくたたいた。「心配ないわよ、フランセス」と、やさしく澄んだ声で言った。「みんながついているわよ」そして、バリーの腕をとって、ヒルダ・オレンジに続いた。バリーは、怒りと不安のまじった目で、クイーンを穴のあくほど睨んで、ばたんとドアを閉めた。
クイーンは、すぐに立ち上がった。その態度は威勢よく、非情だった。フランセスの目をきっかりと見つめて手の平を机の上についた。「さて、フランセス・アイヴス・ポープさん」と、きっぱりした口調で「これからは仕事で、お付き合い願わねばなりません……」警視は、ポケットに手を入れて、手品師が舞台でやるような身振りよろしく、いきなり、ライムストーンのバッグを、取り出した。「あなたのバッグをお返ししたい」
フランセスは浮き腰になって、警視を見、きらきら光るバッグを見た。顔から血の気がひいた。「まあ、それは――私の夜会バッグよ」と、つぶやいた。
「そうです、アイヴス・ポープさん」と、クイーンが言った。「劇場内でみつかりました――今夜です」
「そうですの」フランセスは、少し神経質に笑いながら、椅子に腰を落とした。「私、間抜《まぬけ》ね。失くしたことを、今まで気がつかないなんて……」
「ところが、アイヴス・ポープさん」と、小柄な警視は、落ちつきはらって続けた。「あなたのバッグが見つかったということは、それが見つかった場所ほどには重要ではないんですよ」と、ひと息いれて「今夜、この劇場で人が殺されたのはごぞんじでしょう」
フランセスは、目に激しい恐怖の色を浮かべて、ぽかんと、警視をみつめていた。「ええ、聞きましたわ」と、息をのんだ。
「それで、あなたのバッグは、アイヴス・ポープさん」と、クイーンは、情け容赦なく続けた。「殺された男のポケットから見つかったんです」
フランセスの目に恐怖があふれた。それから、しめつけられるように叫んで、椅子にうつぶし、真っ青な顔が、ひきつった。
クイーンは、前にとび出した。すぐに、同情と心配の色を顔にうかべた。うつぶしているフランセスに近づこうとしたとき、ドアがぱっと開いて、スティーヴン・バリーが、上衣のすそをひらめかして、凄い勢いでとびこんで来た。ヒルダ・オレンジと、イーヴ・エリスと、ジョンスン刑事が、後から駆けつけた。
「どんなひどいことをしたんだ! ろくでなし野郎!」と、役者は、クイーンを肩ではねのけて、叫んだ。そして、フランセスの体を、やさしく抱いて、目にかぶさりかかる黒髪の房を掻き上げ、耳に口を当て一生懸命に、やさしい言葉をかけた。フランセスは、紅潮した男の顔が近づいたのを見て、おどおどと目をあげて、ため息をした。「スティーヴン、わたし――気絶したの」と、つぶやいて、男の腕の中で、ぐったりとなった。
「だれか水を持って来てくれ」と、バリーは、フランセスの手をこすりながら、どなった。いち早く、ジョンスンが、男の肩ごしに、コップの水を差し出した。バリーが、フランセスの喉に、むりに水を二、三滴、流しこむと、女はむせて、正気を取り戻した。二人の女優は、バリーを押しのけて、つっけんどんに、男たちに外へ出るように言った。クイーンは、抗議する役者と刑事について、おとなしく外へ出た。
「大変ご立派なお巡りさんだよ」と、バリーはいきり立って警視に言った。「一体、どうしたんだ――いつものお手並で、頭でもなぐったんだろう」
「まあ、まあ、君」と、クイーンはもの静かに「荒っぽいことは言いたまうな。若いご婦人は、すぐ、ショックを受けるもんだよ」
みんなは、ドアが開いて二人の女優が両脇からフランセスを支えて出て来るまで、緊張して、黙って立っていた。バリーが、フランセスのそばへとんで行った。「もういいかい、ねえ」と、手を握りしめながら、ささやいた。
「ねえ――スティーヴ――家へ――つれてって」と、フランセスは、バリーの腕に、ぐったりとよりかかりながら、あえいだ。
クイーン警視は道をあけて通してやった。連中が、ゆっくりと正面出口へ歩いて行き、出て行く観客たちの短い列に加わるのを、警視は痛ましそうな目で見送っていた。
第六場 地方検事、死者を語る
リチャード・クイーン警視は奇人だった。小柄で、屈強で、頭には霜をいただき、顔には年功の|しわ《ヽヽ》をきざみ、会社の重役にも、夜警にも、何にでもなれるという人物だった。たしかに、適当な衣装をつければ、そのもの静かな顔は、どんな変装にも似合うだろう。
この広い順応性は、その態度にも同じように現われていた。警視の本質を知っている者は、ほとんどいない。協力者にとっても、敵にとっても、法の手続きに引渡すみじめな人間の屑にとっても、警視は、つねに驚異の源だった。好きなときに、芝居がかることも、やさしくすることも、横柄になることも、父親のようになることも、攻撃的になることもできるのだった。
しかし、心の底には、感傷過多のだれかが言ったように≪金のハート≫を持っていた。本心は無邪気で、さっぱりしていて、世間の邪悪に少しもそまってはいなかった。事実、仕事の上で警視ににらまれる連中にとっては、会うたびに同一人物と思えぬような人柄だった。常に新しいひとつの個性から別の個性へと移っていくのだ。警視は、それを仕事上便利なものと思っていた。人々はそんな警視を理解し得なかったし、何をしようとしているのか、何を言い出すか分らないので、いつも少しこわがることになるのだ。
今、警視は、パンザーの部屋に、たったひとりで引きこもり、ドアを閉め切り、捜査を一時打ち切っているので、警視の本来の性格が、顔にうかんでいた。さしあたり、それは老人の顔だった――肉体的に老い、精神的にも老いながらも、年功の智慧を備えた顔だった。自分が驚かせて卒倒させた娘の一件が、まず第一に気になっていた。娘の恐怖にひきつれた顔の幻が、警視をたじろがせた。フランセス・アイヴス・ポープは、年輩の人間にとっては、自分の娘であってほしいような人柄に思えた。むち打たれて倒れるフランセスを考えると心が痛んだ。フランセスを守るために必死になる許婚者《いいなずけ》のことを思うと、深くはじ入るのだった。
節約家である警視のほどのよい道楽はたばこで、今も、ためいきをしながらかぎたばこ入れをとって、思う存分、たばこを吸った……
はげしく、ドアをノックする音がきこえると、警視は、また、カメレオンのように人柄を変えた――机に向かって、明知を働かせ、思慮深くかまえている警視だった。実際は、エラリーが、もどって来たのならいいがと思っていたのだ。
「おはいり」と愛想よく言うと、ドアがさっと開いて、厚い外套を着、毛のマフラーを首にまいた、やせて、目の明るい人物が、現われた。
「ヘンリーさん」と、警視は思わず声を高めて、立ち上った。「どうして、出ていらっしゃったんですか。医者が寝ているようにいったと思ってましたが」
地方検事ヘンリー・サンプスンは、ウィンクしながら椅子にぐったりと腰かけた。
「医者かい」と、説教調で「言うことを諾《き》いていると首が痛むよ。ところでお手並みはどうだい」
検事は、うめくように言った。のどが痛いのだ。警視はまた腰を下ろした。
「大人のくせに、ヘンリーさん」と、警視はきめつけるように「あなたは一番わがままな患者らしいですな。生身なんだから、気をつけないと肺炎になりますよ」
「まあね」と、検事はにやりとして「保険はうんとかけてるからね。心配しないのさ……ときに、訊いたことに答えてもらいたいな」
「ああ、そのこと」と、クイーンは鼻であしらって「訊いたのは、お手並みはいかが、でしたね。ヘンリーさん、目下お手上げですよ。ご満足ですかな」
「もう少しくわしく願いたいな」と、サンプスンが言った。「なにしろ病人で、頭ががんがん痛むんでね」
「ヘンリーさん」クイーンは、のり出して、熱っぽく「はっきり言っときますが、本庁が今までに手がけた中でも、一番の難事件にぶつかってる最中ですよ……頭が痛いんでしょ。そんなら、わしの考えてることを言いたくないですよ」
サンプスンは苦い顔で警視をみつめた。「君の言うとおりなら――ぼくもそう思うが――弱り目にたたり目だ。選挙もそう遠くない――不手際な当局に任せて、殺人事件が迷宮入りにでもなると……」
「そりゃ、一つの見方ですね」と、クイーンは低い声で言った。「この事件が投票の条件になるとは、正直なところ、考えられませんね、ヘンリーさん。一人の人間が殺された――そして目下のところ、ぼくには、だれが犯人か、どうやって殺したかが、さっぱり分らないと、はっきり言っているだけですからね」
「君の意味深長な叱責《しっせき》を受け入れるよ、警視」と、サンプスンは、やや明るく「しかし、ちょっと前にぼくが聞いたような話を、君が聞いたらなあ……電話だったよ……」
「ちょっと待った、ワトスン君、と、エラリーなら言うところです」クイーンは、例の得意な性格の変化というやつをやりながら、くすくす笑った。「何があったかぐらい分りますよ。あなたは、家で寝てたでしょう。電話がかかった。声が、がなり立て、いきり立ち、くどき立てた。声の主が興奮したときにやれるだけのことをやったんでしょう。こう言ったでしょう≪罪人なみに警官にとじこめられてたまるか。あのクイーンという奴を厳重に処罰してほしい。人権の侵害だ≫というようなことをね、つまりありふれた文句ですよ……」
「おどろいたな、君は」と、サンプスンが笑いながら言った。
「その、いきり立った声の紳士は」と、警視はつづけて「背の低い、がっちりした、金縁眼鏡をかけた、特に目につく女性的ないやな声で、≪親友の地方検事サンプスン≫を、心から心配しているようにふるまう人物でしょう。どうです」
サンプスンはおどろいて見つめた。やがて、才走った顔に微笑をうかべた。
「まったく驚いたな、ホームズ君」と、つぶやいた。「ぼくの友達を、そんなによく知っているなら、名を言うのもわけないだろうね」
「そりゃ――とにかくその男だったんでしょう」と、クイーンは言って顔を赤らめた。「ぼくは――ああ、エラリーが来た。よく来たな」
エラリーが部屋にはいった。エラリーは、長い交際の親しみをこめて挨拶するサンプスンと、かたい握手を交して、地方検事の健康に対する無茶をちょいとたしなめ、大きなコーヒー・ポットと、フランス菓子らしい紙袋を、無造作に机にのせた。
「さあ、皆さん、大捜査は終りました。失敗でした。汗びっしょりの刑事諸君に、これから夜食を差し上げます」エラリーは笑いながらやさしく父の肩をたたいた。
「すると、エラリー」と、クイーンは、うれしそうに大声で「そりゃ大歓迎だ! ヘンリーさんも、ささやかなお祝いに参加して下さい」と、三杯の紙コップに熱いコーヒーをついだ。
「お祝いの意味が分らんが、仲間にして下さい」と、サンプスンも言って、三人はすっかり、意気投合した。
「何かあったかね、エラリー」と、父は満足そうにコーヒーをのみながら訊いた。
「神は飲まず食わずですみますがね」と、エラリーはクリーム菓子をたべながら、つぶやいた。「ぼくは神みたいにはいかない。ところで、この臨時拷問室で何があったか話して下さいよ……ぼくもお父さんが知らないことをひとつ話しますよ。リビーさんが、リビー・アイスクリーム・パーラーの主人で、このおいしい菓子もあの店で買ったんですが、ジェス・リンチの、ジンジャエールの話を確認しましたよ。それから、エリナー・リビー嬢も、路地の話を立派に確証しました」
クイーンは、大きなハンカチで、上品に唇をふいた。「そうか。とにかく、プラウティにジンジャエールは調べさせてる。わしは、数人尋問したが、目下のところお手あげだ」
「ありがとう」と、エラリーはそっけなく言った。「見事なお答えでした。今夜のいやらしい事件を、地方検事殿のお耳に入れたんですか」
「君たち」と、サンプスンは、コップを置きながら「ぼくの知ってるのはだ。一時間半ほど前に、≪ごく親しい友達の一人≫から電話があった――その男は政治の舞台裏で多少権力のある男だ――今夜の芝居中に、一人の男が殺されたと、はっきり報せてきた。リチャード・クイーン警視は、つむじ風のように劇場内に舞い下りて、部下のつむじ風と一緒に、だれかれの差別なしに、一時間以上も足どめした――許すべからざる、まったくの不当行為だと、訴えてきたんだ。その上、警視は自分を犯人扱いにしたばかりか、劇場を出る許可を与える前に、警官を指揮して、自分と妻と娘とを身体検査させたと、申告している。
情報提供者の話は、ざっとそんなもので――あとの話は、悪口雑言、本筋には関係がない。そのほか、私の知っているただひとつのことは、ヴェリーが、殺された男の名を教えてくれたことだ。ところで、諸君、その男のことが、この事件で一番関心の持てる山だね」
「ほとんどわしと同じぐらいごぞんじですな」とクイーンがぶつぶつ言った。「おそらくわしよりくわしいかもしれませんな。なにしろ、あなたはフィールドの行状はすっかり心得ておられるでしょうからね……エラリー、身体検査のさいちゅう、どんなことがあったかね」
エラリーは気持ちよさそうに足を組んで「お察しのとおり、観客の身体検査はまったく、無駄でした。何も出てきませんでした。何ひとつ。だれも犯人らしい者はいず、だれも白状しそうな者はいませんでした。言いかえれば、完全な失敗でした」
「そうだろうな、むろん」と、クイーンが言った。「この事件のかげには、とても利口な奴がいる。怪しい余分な帽子にも行きあたらなかったろうな」
「それですよ、お父さん」と、エラリーが言った。「そのためにぼくは、休憩室のお飾りになっていたんですが、駄目でした――帽子はありませんでした」
「みんな帰してしまったのか」
「ぼくが飲みものを買いに通りを横切っているときに、ちょうど、すんだんです」と、エラリーが答えた。「天井さじきの怒っている観客を、並べて階下に下ろし、町に出してやるよりほかは、何もすることがなかったのです。みんな外に出ました――天井さじきの連中も、従業員たちも、役者も……役者というのは奇妙な人種ですね。舞台で、神様を演じ、それから急に自分にもどると、普通の町の人間になり下がって、人間くさい災難にとっつかれたりしてね。それはそうと、この事務所から出た五人を、ヴェリーが身体検査しました。あの若い女性は相当な心臓の持ち主ですよ。アイヴス・ポープ女史とその仲間だと、私は見当をつけましたが……お父さんは、あの連中を忘れてるんじゃないですか」と、エラリーは笑った。
「そこで進退きわまったわけか」と、警視はつぶやいて「こういうことですよ、ヘンリーさん」と、その夜の出来事を、サンプスンに、かいつまんで話した。相手は、渋い顔をして、黙って坐っていた。
「つまり、まあ」と、クイーンは、この小部屋で演じられた一場を手短に話しおわって「こんなことです。ところで、ヘンリーさん。モンティー・フィールドのことを話してくれませんかな。われわれは、狡《ず》るがしこい人物だとは知っていても――それだけしか分らんのです」
「それでは手ぬるいと言うものだ」と、サンプスンは荒っぽく言った。「あの男の生涯の物語なら、ほとんど、そらんじているほどだ。君もこれから相当手こずるだろう。あいつの過去の事件を話せば、いくらか参考になるだろうよ。フィールドが、はじめて、ぼくの役所の関心をひくようになったのは、前任者のころからだ。空相場のスキャンダルに関連して、詐欺《さぎ》を働いている疑いがあったのだ。
当時検事補だったクローニンが調べたが、あの男について何一つ、つかめなかった。フィールドは、自分の思惑買いを、うまくごまかしおおせたんだ。われわれの握っていたものは、奴の一味から放り出された≪おとり≫から聞いた噂話《うわさばなし》だけだったので、それが本当か、どうか、分らなかった。もちろん、クローニンは、嫌疑がかかっていることを、直接にも間接にもフィールドにさとられるようなへまはしなかった。事件は立ち消えになったが、クローニンは食いついて離さなかった。だが、何かつかんだと思うたびに、結局は何もものにできなかったんだ。問題なく――フィールドは狡る賢い奴さ。
ぼくが役所にはいったときに、クローニンの熱心な提案で、われわれはフィールドの素性を徹底的に調べ始めた。もちろん極秘でね。そして発見したのは、モンティー・フィールドは生粋のニューイングランドの家系の出だ――メイフラワー号でアメリカに来た連中の子孫というほどのものではないがね。子供のころは、家庭教師つきで、ぜいたくな予備校に通い、かろうじて卒業すると、父親の猛運動でハーバードに入れてもらったんだ。子供の時からかなり手におえない奴だったらしい。といっても犯罪的にではなく、ただ乱暴なんだ。その一方、自尊心のかけらは持っていたとみえて、家族と衝突したときに、実際、改名したぐらいだ。家名のフィールディングをちぢめて――モンティー・フィールドとなったのだ」
クイーンとエラリーは、うなずいた。クイーンはサンプスンをじっと見つめていたが、エラリーは何か心の中で考えているようだった。
「フィールドは」と、サンプスンがつづけた。「全然駄目な奴じゃない。頭はいいんだ。ハーバードでは法律を勉強して成績もよかった。弁論も立つほうで、法律技術に関する深い知識によって裏づけられるものだったらしい。しかし卒業後まもなく、家族が望んでいたような学問的地位の栄誉を得る道をすてて、きたない女性関係にまきこまれたんだ。父親はすぐに勘当した。あいそがつきたんだ――駄目だ――家名をけがした――というようなわけさ。
ところが、われらの友人は、もちろんそれしきのことで、へこたれる男じゃなかった。少しばかりの財産を分けてもらって、それを最も有効に使い、世間に出て金をつくろうと決心した。その頃を、どうやって切り抜けたのか、われわれにはついに発見できなかった。次にあの男の名が出てきたのはコーエンという名の男と組んだということだった。そいつは同業者の中でも一番ずるがしこい悪徳弁護士の一人なんだ。実にひどい共同事業さ。やつらは、詐欺仲間でも名うての連中を上顧客にして、せっせと金をつくった。これで君らにも、最高裁判所の判事よりも法律の抜け道を心得ているあの男から、何かを≪つかむ≫ということが、どんなにむずかしいか分ったろう。やつらはことごとにうまくすり抜けた――犯罪の黄金時代だったんだ。悪党どもは、コーエン・アンド・フィールド法律事務所が、弁護を引きうけてくれるので大船に乗った気でいた。
当時は、コーエンが共同事業の先輩格で、壺《つぼ》を心得ていて、客との≪契約≫を結んだり、料金をきめたり――ろくな英語も喋れないくせに、なかなかうまくやっていたんだ――ところが、コーエンはある冬の夜、ノースリバーの川っぷちで、哀れな最期をとげたのさ。頭をぶち抜かれたんだ。あの運のいい事件から十二年にもなるが、犯人はまだ分らないんだ。つまり――法律的に言う犯人がね。だが犯人の素性については、かなりしっかりした目星はついていた。モンティー・フィールドが今夜殺されたので、おそらくコーエン事件が記録からはずされることだろうな」
「へえー。かなりな奴だったんですね」と、エラリーがつぶやいた。「死顔もよくなかった。あいつのために、初版本を買い損ねたから、なおさらだ」
「もうよせ、本気違い」と、クイーンが、叱って「つづけてくれたまえ、ヘンリーさん」
「そこで」と、サンプスンは、机の上に一個残った菓子をつまみ、うまそうに食べながら「これからが、フィールドの生涯の花盛りさ。共同経営者の不慮の死で、あいつは目が出たんだ。その後は自分の手で仕事をつづけた――実際の法律事務をね――もちろん、やりぬくだけの頭はあった。数年間、独力でやって、それまでにつくられていた悪評を、だんだんに消して行き、時には、軽薄な法曹界の大家連から、少しは敬意をもたれるようにさえなったのだ。
表面的な善行時代が六年つづいた。それから、ベン・モーガンに出会ったのだ――堅実で、経歴もきれいだし、評判もいい男だが、大弁護士になるにはかなり活気がたりない男なんだ。とにかく、フィールドは、モーガンを口説いて共同経営者にした。やがて、面倒がおこってきたんだ。
当時、ニューヨークに、ひどくいかがわしい事件がおこっていたのを、君も覚えているだろう。≪故買者≫、悪党、弁護士、時には政治家が加わって、大きな犯罪組織ができているらしいのを、われわれもうすうすは気づいていた。いくつかの大窃盗事件が、ぬけぬけと行われ、市の郊外地区では、かなり専門的に酒の密造が行われ、大胆な強盗殺人事件がいくつもあって、警察は、てんてこ舞いをさせられた。そのことはよく知ってるだろう。君らは、そいつらのいく人かを、≪もの≫にした。しかし、組織は破れなかったし、暗黒街の大物には近づけなかった。死んだモンティー・フィールドはその組織の裏で糸をひく頭脳だったと信じられるあらゆる根拠を、ぼくは持っているんだ。
あれぐらいの腕があればそんなことはわけないさ。最初の協力者だったコーエンの手びきで、あいつは暗黒街の顔役どもと、すっかり知り合いになっていた。コーエンに利用価値がなくなると、あっさり消しちまったんだ。それから、フィールドは――これからの話は、まったくぼくの推定で、実際の証拠はひとつもないんだよ――とにかく、フィールドは、尊敬すべき法律家の仮面をかぶって、正々堂々とやりながら、こっそりと、広汎《こうはん》な犯罪組織を築き上げた。どうやって作り上げたかは、もちろん、知る方法がないんだ。仕事にかかるお膳立てができたところで、有名な評判のいいモーガンを協力者として結びつけて、今日の法曹界の地位を得てから、この五年ぐらいの間に、ぬけぬけと行われた、大きな不正取引のほとんどを、あやつりはじめたのだ……」
「どの辺からモーガンも関係してるんですか」と、エラリーが、何となく訊いた。
「そのことなんだがね。モーガンが、フィールドの秘密の仕事にはまったく無関係だと信じる証拠はあるんだ。モーガンは真正直な男で、いかがわしい人物の弁護を、いくども断わったことがある。モーガンが、こっそり行われている悪事をかぎつけたときに、二人の関係は緊張したにちがいない。これが事実かどうか、ぼくには分らないが――モーガンから調べ上げることはわけもないだろうよ。とにかく、二人は手をきった。解散以来、フィールドのやり口はやや大っぴらになってきたが、なお、法廷に持ち出せるような具体的な証拠は、ひとっかけもないんだ」
「お話の途中ですがね、ヘンリーさん」と、クイーンが、考えこみながら「二人が手を切った次第をもう少しくわしくきかせて下さい。モーガンをもう一度尋問するときの切り札にしたいんで」
「いいとも」と、サンプスンは沈んだ調子で「訊いてくれてよかったよ。共同経営を解散する話が本ぎまりになったとき、危く悲劇になりそうな、激しい衝突があったんだ。ウェブスター・クラブで、食事をしているときに、大喧嘩がはじまったそうだ。口論がはげしくなって、しまいには、はたの者の仲裁がはいる騒ぎだったんだ。モーガンは、激怒して、取り乱して、フィールドを殺してやると、その場で、おどしたそうだが、フィールドのほうは冷静だったということだよ」
「喧嘩の原因をうすうす知っている証人はいないでしょうかね」と、クイーンが訊いた。
「残念ながらいないな。とっさのことだったからね。それから、二人はおだやかに解散して、それが世間で二人の話をきいた最後だろう。もちろん、今夜までのね」
地方検事が語り終えたとき、意味ありげな沈黙がただよった。エラリーは、シューベルトの曲を口笛で吹き、クイーンは、無造作に、かぎたばこを、ひとつまみ、勢いよく吸った。
「当てずっぽうだがね」と、エラリーは宙をみつめて、つぶやいた。「モーガン氏は、ひどい煮え湯をのまされたんだろうな」
クイーンはぶつぶついった。サンプスンは、真剣な口ぶりで「それは、それは君たちの仕事だ。ぼくは自分の領分でやる。フィールドが消えてなくなったからには、奴の一件書類や、記録を、徹底的に調べてみるつもりだ。ほかのことはともかくとしても、あれが死んだんだから、結局は、あいつのギャング組織も一掃したいもんだな。明朝、あいつの事務所に、部下をやるよ」
「もう、わしの部下が張りこんでいます」と、クイーンは、上の空で言った。「じゃ、モーガンだと思ってるのかい」と、警視は目を光らせて、エラリーに訊いた。
「さっき、ぼくは何か言ったようですね」と、エラリーは冷静に「モーガン氏は煮え湯をのまされただろうというようなことをね。それ以上は何も言えませんよ。モーガンが、どうもくさいような気がするんです――ただ、ひとつの点が足りないんですがね」
「例の帽子だな」と、すぐ、警視が言った。
「いいえ」と、エラリーが「別の帽子です」
第七場 クイーン親子の鑑定
「現状がどうなっているか」と、エラリーは休まずに続けた。「もっとも基本的な線について考えてみましょう。
事実をまとめてみるとこうなります。モンティー・フィールドなるいかがわしい人物、おそらく大きな犯罪組織の頭であり、疑いもなく多くの敵を持っていた人物が、ローマ劇場で、二幕目の芝居の終る十分前、正確には九時五十五分に、死体となって発見された。発見者は、ウィリアム・プザックというあまり知性のありそうにない事務員で、同じ列の四つ離れた席に坐っていた。その男は、外に出ようとして、被害者のそばをすり抜けて行くとき、被害者が死の直前≪人殺しだ。殺されたんだ≫というような言葉をうめくのをきいた。
警官が呼ばれて、フィールドの死をたしかめるために、観客の中から医者を探して診てもらった。その医者は、被害者がアルコール性毒薬で殺されたのだと診断した。次いで、医務官補のプラウティ医師が、その診断を確認し、なお、ただひとつの疑点があるといった――つまり、メチルアルコールでは、こんな急死はしないと言うのだ。ここで、死因の問題はしばらく措くとしよう。結局、解剖を待って、断定するより仕方がないんだ。
大観衆を扱うために、警官が救援を求め、近くの署から署員が来て任務につき、やがて本部から部員が来て、すぐ捜査を始めた。第一の捜査目標は、犯行があってから死体が発見されるまでの間に、犯人が現場から逃げるチャンスがあったかどうかということだ。最初に現場にかけつけた警官のドイルは、すぐ支配人に命じて、あらゆる出入口と左右の路地に見張りを配置させた。
ぼくが行ったときに、最初に気がついたのはその点で、自分でも調べてみた。ぼくは全部の出入口を廻り、見張りに尋問した。そして二幕目の間じゅう、劇場の全部のドアにはそれぞれ見張りがついていたことを知った。ただ二つのドアだけは、当てにならない。それはあとから話すことにしよう。さて、オレンジエード売り、ジェス・リンチの証言によれば、被害者は一幕目と二幕目の間の休憩時間中生きていた――ジェスは路地で、フィールドに会い、話している――その上、二幕目の初めの十分間はぴんぴんしていたことは明らかだ。これは、ジェスが、ジンジャエールの瓶を、フィールドの座席にとどけているからたしかだ。その座席でフィールドは死体となって発見されたのだ。場内では、天井さじきに通じる階段の口にいる案内人が、二幕目の間じゅう、登った者も降りた者も、ひとりもいないと陳述している。この証言で、犯人が天井さじきに抜けたという可能性は消滅する。
さっき、二つのドアは当てにならないと言ったのは、一番左の通路のドアで、見張りがついていたはずなんだが、たまたま案内娘が席をはずしていた。案内娘のマッジ・オッコネルは、愛人の座席のとなりに坐っていた。このことから、もしかしたら犯人はその二つのドアから抜け出たのかもしれないと思える。犯人が逃げ出そうとすれば、ちょうどいい場所にあるからだ。しかし、お父さんがオッコネルを尋問したあとで、ぼくが聞いてみて、その娘の陳述から、犯人が逃亡する可能性は消滅した」
「お前は、こっそりと娘を尋問したのか、けしからん奴だ!」と、エラリーをにらんで、クイーンが、どなりつけた。
「ええ、訊きましたよ」と、エラリーがくすくす笑って「そして、捜査の今の段階では、肝心だと思える重大な事実を発見しました。オッコネルは、≪牧師≫ジョニーのそばに坐りに行く前に、ドアの上下に掛金がかかる、内側の床錠を踏んどいたそうです。騒ぎが始まったとき、あの娘は≪牧師≫のそばからとび立ってドアに戻ってみると、掛金はかかったままだったと言いました。それから、ドイルが観客を鎮めているときに娘が掛金をはずしたそうです。娘が嘘を言っていないかぎり――言っていないと思いますが――犯人はあのドアからは逃げていない証拠ですし、死体が発見されたときにも、ドアは内側から閉められていたのです」
「そうか、やられたな!」と、クイーンがうなった。「あの娘は、その話を、わしにしなかったぞ。けしからん。こっぴどい目にあわせてやるぞ。小にくらしい奴だ!」
「もっと合理的に考えましょう、|法の番人さん《ル・ガルディアン・ド・ラ・ペイ》」と、エラリーは笑い出した。「あの娘が、ドアを閉めた話をしなかったのは、あなたが訊かなかったからですよ。あの娘は自分が不利な立場にあると思っていたんでしょう。
とにかく、娘の証言で、被害者の座席の近くの二つのドアは犯人の出入りには関係がなかったようです。ぼくは、その問題にはあらゆる種類の可能性がふくまれているのを認めます――たとえば、マッジ・オッコネルは共犯者だったかも知れないんです。これはただ可能性というだけで、論理ではないんです。いずれにせよ、犯人は、サイド・ドアから逃げて、人に見られるような危険は冒さないでしょうからね。その上、二幕目の間は、ほとんど立った人がいないのですから、変な様子で変な時に外へ出たりしたら余計目立つでしょうからね。念をおせば――犯人はオッコネルがサボっていることを前もって知らなかったはずです――もしあの娘が共犯者でなければね。犯罪は、慎重に計画されたものです――あらゆる点から認めざるを得ません――犯人は最初からサイド・ドアから逃げるつもりではなかったのでしょう。
こうなると、捜査の線は、ただ一本だけ残されているようですね。正面出口です。しかし、切符切りと、外側のドア・マンが、二幕目の間にはひとりもそこを通って建物を出た者はいないという、決定的な証言があるのです。もちろん、あの毒にも薬にもならないオレンジエード売りは別ですがね。
全部の出口は見張りがついているか、錠が下りていたし、路地は九時三十五分から、リンチと、エリナーと、ジョニー・チェーズと――案内人――その後は警官に、ずっと見張られていたのです――これらの事実と、ぼくが尋問したり調査した結果から」と、エラリーは沈んだ声で「死体が発見された時から、捜査が行われていた間中、犯人はずっと、劇場内にいたと断定せざるを得ないのです」
エラリーが話し終ると、みんな黙りこんだ。「ついでですが」と、エラリーが静かに言い足した。「案内人と話していて、思いつきで、二幕目が始まったあとで、席を立った者はいなかったかと訊いてみたところ、席を替えた人はひとりも思い出せないと言っていました」
クイーンは、ぼんやりとかぎたばこをつまんだ。「立派な説明だ――そして立派に筋も通ってるな――だが、結局、決定的なものは一つも出てこんじゃないか。犯人がずっと場内にいたとしても――どうやって、とっつかまえることができただろう」
「そんなことをエラリー君は言っとらんじゃないか」と、サンプスンが微笑しながら口をはさんだ。「そう気を廻しなさんな、だれも、君に手ぬかりがあったなんて言っとるんじゃない。ぼくの聞いたかぎりでは、今夜の君の処置は上々だ」
クイーンが、ぶつぶつ言った。「もっと徹底的にドアの件を洗わなかったことは恥かしいな。しかし、もし犯人が犯行直後に逃げてしまったとしても、なお劇場内にいるものとして、観客を尋問せざるを得なかったろうな」
「そりゃお父さん――当然ですよ」と、エラリーが真面目に言った。「あなたにはしなければならないことがたくさんあったのに、ぼくは、何もしないでソクラテスみたいに傍観していればよかったんですから」
「捜査の網にひっかかった連中に関しては、どうかね」と、サンプスンが面白そうに訊いた。
「ええ、あの連中のことね」と、エラリーが引きとって「連中の話からも行動からも、決定的な結論は引き出せないでしょうよ。≪牧師≫のジョニーを押えました。悪党だが、現場にい合わせた目的は、明らかに、自分の職業の面白い側面をえがいた芝居を楽しむだけだったのです。次には、マッジ・オッコネルですが、非常に疑わしい人物だが目下の段階では、きめ手はないのです。共犯者だったかもしれないし――白かもしれないし――ただサボっていただけかもしれないし――そのどれにも当りそうな存在です。次はウィリアム・プザック、死体の発見者です。あの男の低能型の頭に気がついたでしょう? それから、ベンジャミン・モーガンです――ここで多少とも、可能性のありそうな足場にぶつかったわけです。しかし、あの男の今夜の行動は何も分っていません。たしかに、招待状と招待券の話は妙です。手紙なんかだれにでも書けるんだし、自分でも書けたでしょう。しかも、フィールドを公然と脅迫したことや、理由は分らないが、二年前に二人の間にあった敵意も見逃せません。そして最後に、フランセス・アイヴス・ポープ女史です。尋問中にぼくがいなかったのはとても残念です。未解決の事実――しかも興味あるやつです。――つまり、イブニング・バッグが死体のポケットから発見されています。どんな説明がつくでしょうか。目下の情況は、こんなところです」と、エラリーは残念そうにつづけた。「今夜の余興からどうやら引き出せたものは嫌疑過剰と事実の貧困だけなんです」
「そこまでなら、お前」と、クイーンがさりげなく言った。「石橋をたたいて渡るようなもんだ。しかし、あの怪しい空席が大事なかぎだということを忘れとるな。それから、もっと不思議な事実は、フィールドの切符のきれはしと、犯人のものと推理される唯一の別の切符のきれはし――これはフリントが見つけた左LL三〇なんだが――この二枚の切れはしが符合しないんだ。つまり、切り口の具合からみて、それぞれ、別の時に、別の切符切りが扱ったにちがいないんだ」
「参った!」とエラリーが言った。「その問題はしばらくおいて、フィールドのシルクハットの問題にうつりましょう」
「帽子か――いいとも、どう思うかね」と、クイーンが面白そうに訊いた。
「こうですよ。まず最初に、帽子が偶然になくなったものではないという事実は、はっきりしています。被害者が二幕目が始まって十分後に、帽子をひざにのせていたのは、ジェス・リンチが見ています。それが今はないのです。その紛失を説明し得る筋の立つ理論は、犯人が持ち去ったということです。ところで――しばらく、帽子がどこにあるかという問題は忘れましょう。帽子が持ち去られたということから、すぐ引き出せる結論は、二つの理由のうちの一つです。第一の理由は、帽子そのものに何らかの犯人を指示する標識があって、残しておけば犯人の素性が分るからです。その標識がどんなものかは、目下のところ想像もできません。第二の理由は、帽子の中に犯人の欲しいものがあったのです。というと≪なぜ欲しいものだけ盗って帽子を残して行かなかったか≫と言うでしょうが、おそらく、ぼくの推理が正しいとすればそれを取り出すひまがなかったか、それをとり出す方法がなかったので、帽子を持ち去って、あとでゆっくりとり出すつもりだったのでしょう。ここまでは賛成するでしょうね」
地方検事はゆっくりうなずいた。クイーンは黙って坐って、落ちつかない目をしていた。
「帽子に何がはいっていたかを、少し考えてみましょう」と、エラリーは眼鏡をていねいに拭きながらつづけた。「帽子のサイズ、型、容積から考えて、推理の範囲はそう広くありません。シルクハットに何が隠せるか。自然にぼくの胸に思い浮かべるものは、ある種の書類か、宝石か、紙幣か、何か小型で値打のあるもので、あんな場所でも人に見つかりにくいものです。なんにしても、その品物は、ただ帽子の天井に入れただけでは運べません。というのは、帽子を脱げば、すぐに落ちるでしょうからね。この理由で、帽子に入れられる物の範囲がせばまります。大きい固い品物は除外しなくてはなりません。宝石なら隠せるでしょう。紙幣も書類も隠せるでしょう。モンティー・フィールドの人柄から、宝石は除外してもいいでしょう。もし何か価値のあるものを持っていたとすれば、おそらく職業に関係のあるものにちがいありません。
ところで、紛失したシルクハットを根本的に分析するのに、あとひとつの点を考えなければなりません。そしてこの点が、事件解決の中枢的推理になるかもしれないんです。犯人が犯行前に、モンティー・フィールドの帽子を持ち去るつもりだったかどうかを、つきとめることが一番大事な点なのです。言いかえれば、帽子に意味があったとして、犯人が帽子の重要さを、前もって知っていたか、ということです。ぼくは事実から推理すると同時に、理論的に事実を推理してみて、犯人は予知していなかったと言いたいのです。
よく考えてみて下さいよ……モンティー・フィールドのシルクハットがないし、そのかわりの帽子も発見されないということは、帽子がたしかに持ち去られたのだという動かぬ証拠です。皆さんも、ぼくが前に指摘したように、帽子を持ち去った者を、犯人だとするのが、一番妥当的なことには異存がないでしょう。さて、持ち去られた理由は考えないことにしても、持ち去った動機は二つあって、そのどちらかなのです。そのひとつは、犯人が事前に持ち去らなければならないのを知っていたこと、もうひとつは、事前に知っていなかったこと、なのです。先のほうの場合の可能性を丹念に考えてみましょう。予知していれば、きっと、被害者の帽子を紛失するような、危険で、はっきりした手がかりを残さないために、フィールドの帽子の代りのものを劇場内に持ってくると考えるのが論理的ですよ。それに、代りの帽子を持ってくるのはわけなくできることです。犯人が代りの帽子を手に入れるのはむずかしいことでもないし、帽子の重要さを予知していれば、必ずフィールドのシルクハットのサイズや型やそのほかの細々した点を調べて、用意できたはずです。しかし、代りの帽子はないのです。このように慎重に仕組まれた犯罪には、当然、代りの帽子があると思っていいのです。しかもないのだから、犯人はフィールドの帽子の重要さを前もって知っていなかったと断定していいでしょう。さもなければ、犯人はきっと、ほかの帽子を残しておくように前もってたくらんだはずです。そうしておけば、フィールドの帽子に何か曰くがあったことなど、警察には全然知られずにすんだでしょう。
それを確証するひとつの点は、もし犯人が、何か分らないが自分の都合で、代りの帽子を残したくなかったとしても、きっと、帽子の中にあるものを手に入れるために切り取る手はずをしたでしょう。そうするために鋭利なもの――たとえばポケット・ナイフなどを用意するだけでいいのです。たとえ切られた空の帽子でも、紛失した帽子のように、犯人に後始末の問題を残さなかったでしょう。帽子の中身を予知していれば、犯人は必ず後のほうの方法を選んだはずです。しかし、それさえしていないのです。このことは、犯人がローマ劇場に来る前に、帽子かその中身を持ち去る羽目になるのを知らなかった確証だと、ぼくには思えるんです。|証明終り《クオド・エラト・デモンストランダム》」
地方検事は唇をとがらしてエラリーを見つめた。クイーン警視は、うつらうつらしていたので、かぎたばこをつまんだ手が、たばこ入れと、鼻との中間で、とまどっていた。
「君は何を言いたいのだ、エラリー」と、サンプスンが訊いた。「犯人が帽子の意味を、予知していなかったことを知るのが、なぜ、君にとって必要なのかね」
エラリーは微笑して「それはつまりこうです。犯行は二幕目が始まってから行われた。というのは、犯人が、帽子の意義を予知していなかったので、第一回目の休憩時間に計画の主目的であることを、何ひとつできなかったのだというのを、ぼくは自分で納得したかったのです……もちろん、フィールドの帽子がこの建物のどこかから出てくるかもしれません。そうすれば、すべての仮説は崩れますが――出てこないだろうと思いますよ」
「君の分析は初歩的なものかもしれないが、ぼくにはよく筋が通っていると思えるね」と、サンプスンが感心して言った。「君は立派な裁判官になれるよ」
「クイーン家の頭の良さにはかなわんさ」と、クイーンは急に笑い出して、顔をくしゃくしゃにした。「わしは、これから別の方面を洗ってみようと思うよ。そうすれば、帽子の謎の風向きもかわるだろう。エラリー、お前も、フィールドの上着に縫いつけてあった洋服屋の名に気がついたろう」
「いわずもがなです」と、エラリーはにっこりして、外套のポケットに入れていた小さな本を取り出し、見返しを開いて指さした。「ブラウン兄弟商会、ねえ――ぴたりでしょ」
「そのとおりだ。朝のうちにヴェリーをやって調べさせることにしよう」と、警視が言った。「フィールドの服は特別高級品なんだ。あの夜会服は、三百ドルはかたいところだ。ブラウンの店は、その程度の気前のいい値段をつけてくる芸術屋なんだ。その上、それに関連しているもうひとつの注意すべき点がある。それは、被害者の着衣にはみんな同じマークがついていたんだ。金持ちにはありがちのことだがね。ブラウンの店ではお客の身の廻り品は、頭のてっぺんから爪先までこしらえているんだ。おそらく、間違いないことだが――」
「フィールドの帽子もその店だな!」と、サンプスンが、得々として叫んだ。
「そのとおり、タキツス〔ローマの歴史家〕」と、クイーンは、にやりとした。「ヴェリーの仕事は、着衣を調べることと、できればフィールドが今夜かぶっていた帽子と同じ奴を手に入れることだ。わしはどうしても、見たいんでな」
サンプスンは咳払いをして立った。「どうやら、ぼくは帰って寝なければならんよ」と、言った。「ぼくが出て来たのは君らに市長を逮捕させないように見張るためだったのさ。ところで、ぼくの友人はかんかんになってる。とても聞いちゃいられなかったんだ」
クイーンは、あいまいな微笑を浮かべてサンプスンを見上げた。「ヘンリーさん、帰る前に、わしの今の立場がどうなのか分ってくれたでしょうな。わしが今夜は高飛車な手を使ったことは知っていますが、それも止むを得なかったことは分ったでしょうね。この事件に、あなたの部下をよこすつもりですか」
サンプスンは警視をみつめた。「ぼくが君の捜査方法に不満だとでも思ってるのかい、気が弱いぞ!」と、サンプスンはたしなめた。「ぼくは君を調べやせんし、調べるつもりもない。君にこの事件の解決が、うまくつかんものを、ぼくの部下にできるなんて思いもせんよ。クイーン君、やってくれ、必要ならニューヨーク市民の半分でも足どめしてかまわん。ぼくは君の肩を持つからな」
「ありがとう、ヘンリーさん」と、クイーンが言った。「たしかめておきたかったのです。ようし、あなたがそこまで分っててくれるなら、目にものみせますよ」
警視は大股で控え室にはいり、戸口から、場内へ首をつき出して呼んだ。「パンザー君、ちょっと来てくれ!」
警視は、色の浅黒い支配人をしたがえて、苦笑しながら、もどって来た。
「パンザー君、こちらは、地方検事サンプスンさんだ」と、クイーンが引き合わせ、二人は握手した。「さて、パンザー君、もうひとつ仕事をしたら、帰って、寝てくれたまえ。ねずみ一匹通れんように、劇場を密閉してほしいな」
パンザーは青ざめた。サンプスンは、まるでこの事件から手を洗うかのように、肩をすくめた。エラリーは満足そうにゆっくりうなずいた。
「でも――でも警視、大入満員つづきなんですから」と、小柄な支配人はうめいた。「だめですか」
「絶対必要だよ、君」と、警視は冷やかに答えた。「二人の部下に、この建物を、常時巡回させるつもりだよ」
パンザーはもみ手をして、救いを求めるようにサンプスンを見た。しかし、地方検事は、みんなのほうに背中を向けて立って、壁の版画をながめていた。
「弱りましたな、警視」と、パンザーは泣き声で「プロデューサーの、ゴードン・デーヴィスが、かんかんになるでしょうがね……ご命令なら、そうしますがね」
「おい君、青くなりなさんな」と、クイーンは、やさしく「今度の事件が、大宣伝になっとるから、再開のときは、劇場を拡げなくちゃなるまいよ。どっちみち、二、三日以上、閉鎖する気はないんだ。外の部下には必要な命令はしておく。今夜、君のいつもの仕事が済んだら、あとはわしの残しておく部下にまかせて、家へ帰りたまえ。再開の日は、一、二日中に通達するよ」
パンザーは、悲しそうに首をふって、一同と握手して去った。サンプスンがすぐに、クイーンのほうへ向き直って言った。「驚いたな、クイーン君、やりすぎじゃないかね。なぜ、劇場を閉鎖したいんだい。ここはもう徹底的にやったんじゃないのかい」
「それが、ヘンリーさん」と、クイーンはゆっくり言った。「帽子がまだ見つからんのです。観客はみんな行列して身体検査されて出たが――だれもひとつしか帽子を持っていなかった。だから、われわれが捜している帽子は、まだ、どこかこの内にあるはずでしょ。もし、まだあるなら、だれにも、入って来て持ち去るチャンスを与えたくないんです。そのために打つのなら、どんな手でも打ちますよ」
サンプスンはうなずいた。エラリーは、三人で事務所を出て、人影もない平土間へはいってからも、うかぬ顔をしていた。方々で、忙しそうに椅子にうつむきこんで床をしらべていた。舞台近くの|さじき《ヽヽヽ》を急いで出入りする男たちも見えた。ヴェリー部長は、正面出口に立って、ピゴットやヘイグストロームに、低い声で話しかけていた。フリント刑事は、殺人課の連中を指揮して、はるか平土間の前で捜査していた。掃除婦の一群が、あちこちで、のろのろと、電気掃除器を使っていた。後方の隅で、太った婦警が年寄の女と話していた――パンザーが、フィリップスさんと呼んでいた女だ。
三人は正面出口に歩いて行った。エラリーとサンプスンが、がらんとした場内の殺風景な様子を黙って眺めている間、クイーンはてきぱきと、低い声で、ヴェリーに命令してから、ふり向いて「さあ、諸君、今夜は切り上げだ。出ましょう」と言った。
外の歩道では、何人かの警官が、かなり広い場所を、縄で仕切って交通を遮断し、その向こうでは、野次馬が、おし合いへし合いのていだった。
「午前二時だというのに、夜渡りどもは、ブロードウェイをうろついとるんだな」と、サンプスンが、いまいましそうに言った。同乗をていねいにことわるクイーン親子に手を振って、サンプスンは自分の車に乗った。一団の事件記者が、仕切りをのりこえて、クイーン親子をとりかこんだ。
「おい、おい。何だね、諸君」と、クイーンが眉をしかめて言った。
「今夜の捜査の結果はどうですか、警視」と、ひとりが、せっついた。
「ききたいことはヴェリー部長刑事からきいてくれたまえ――内にいる」記者連中が一団になって、ガラスの扉からなだれこむのを見て、警視は微笑した。
エラリーとリチャード・クイーンは、曲り角に立って、警官たちが群衆を押し返しているのを、だまってみていた。やがて、老人はいかにも疲れたというふうに「行こう。途中まで歩こう」と言った。
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第二幕
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……たとえば、あるとき、ジャン・Cという青年が――むずかしい任務について、まる一か月も捜査に努力したあとで、私のところへ来た。疲れきった顔だった。そして、ものも言わずに一枚の官庁用紙を差し出した。読んでみておどろいた。辞表だったのだ。
≪おい、ジャン≫と私は叫んだ。≪一体何のまねだね≫
≪失敗しました、ブリヨンさん≫と、ジャンはつぶやいた。≪一か月捜査して無駄でした。ぼくは見込みちがいしてたんです。申し訳ありません≫
≪おいおいジャン≫と、私は厳粛に言った。≪君の辞表への答えだが≫と、驚いて見ている前で、こなごなに破いてしまった。≪さあ、行くんだ≫と、私は、はげました。≪最初から始めるんだ。いつも次の諺《ことわざ》を忘れるんじゃないぞ、正しいことを知ろうと思う者は、まずあやまちを知らねばならぬ≫
[#地付き]オーギュスト・ブリヨン著「ある警視総監の追憶」
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第八場 クイーン親子、フィールドの情婦と出会う
西八十七番街のクイーン家のアパートは、暖炉の上のパイプ立てから壁に輝くサーベルまで、どうみても、男世帯だった。彼らは、ヴィクトリア王朝風をとどめる、三世帯住みの、褐色の石造住宅の最上階に住んでいた。はてしれぬほど長く、きちんとして、うすぐらいホールを通って、厚い絨毯《じゅうたん》をしきつめた階段をのぼりながら、こんな陰気な場所に住めるのは、ミイラになった人間ぐらいなものだろうと思い込むころ、大きな樫材《かしざい》のドアに辿りつく。そこには≪クイーン家≫と――きちんとした文字で、縁のとってある標札が、かかっている。それからドアがひらきジューナが、すき間からほほえみかけて、諸君は新世界にはいるのだ。
いくたりもの人間が、わが家の祭壇で祈りつくして、なやみのはてに、喜んでこの無愛想な階段をのぼり、この世の安息所を求めて、ここにくるのだ。有名人の名刺が、いく枚も、ジューナの手で、玄関から居間へ、愛想よく運ばれたものである。
玄関は、実は、エラリーの工夫である。小さくてせまくて壁が高くて、妙な塔のようである。一方の壁をすっかり覆っている狩猟の図のタペストリーは、なかなか重々しさがあって、この中世風の部屋には、うってつけの装飾である。クイーン親子は本当は気にくわないのだが、ある公爵から感謝の|しるし《ヽヽヽ》として贈られたので飾っているのだ。その公爵は直情的な紳士で、その令息のスキャンダルをリチャード・クイーンは救って、そのいきさつを世間に洩れないようにしてやったのである。壁掛けの下には、どっしりしたミッション風のテーブルがあって、その上には、羊皮紙の傘のついたスタンドと、三巻のアラビアンナイト物語を挟んだ一対の青銅の本立が置いてあった。
そのほかには二脚のミッション風の椅子と小さい敷物が、玄関の飾りをなしていた。
いつも、陰気で、ぞっとするような玄関を通ると、その威圧的な気分で、どんなことがあろうと驚かないという気になるが、その奥の広い部屋は、思いもかけず、からっと明るく気持ちがいい。このコントラストの妙は、エラリーの茶目っ気で、もしエラリーがいなければ、クイーン老人は、ずっと前に玄関をとりこわして、家具類を、暗い物置に放り込んでいただろう。
居間の三方は、革の匂いをたてている本棚がそそり立って、棚は天井まで、積み重なっていた。残りの一方の壁には、素朴な大きな暖炉が切られていて、頑丈な樫《かし》の梁《はり》のマントルと、鈍く光る鉄枠が火床を仕切っていた。炉の上には、リチャード・クイーンが青年時代ドイツに留学した折りに、同宿していたニュールンベルグのフェンシングの師範から贈られた自慢のサーベルが十文字にかけてあった。大きな広々した部屋の隅々まで、明るく電灯が照らし出して、安楽椅子、肘掛椅子《ひじかけいす》、低い長椅子、足台、色はなやかな革のクッションなどが、方々に置いてあった。要するに、二人の|ぜいたく《ヽヽヽヽ》な趣味を持つ、知的な紳士が、二人の居間として工夫のかぎりをつくした気分のいい部屋なのである。そして、そのような場所は、時が経てば、ただ変っているというだけで鼻もちならなくなるものだが、執事で、何でも屋で、下男で、従僕で、マスコットでもあるジューナという陽気な男の子がいるので、そんな結果になるのを防いでいた。
ジューナは、エラリーが大学へ行っていて、リチャード・クイーンがひとりで淋しかった頃に、ひろいあげた子である。この愉快な十九歳の青年は、記憶するかぎりでは孤児であり、苗字のないのがこれ幸いというほうだ――やせて小柄で、神経質で陽気で、元気いっぱいにはしゃぎまわるかと思えば、必要な時には、小ねずみのように静かにしている――このジューナは、昔のアラスカ原住民がトーテムポールを拝むように、リチャード老人を崇拝しているのだ。エラリーとの間にも、ひかえ目な親近感があって、それはごくたまに、少年のひたむきな奉仕ぶりにあらわれるのだった。ジューナは、クイーン親子の寝室の上の小部屋で寝るのだが、ひどいねごとで、リチャードが笑いながら言うところでは≪夜中に、のみが仲間に歌ってきかせる唄が聞こえる≫そうだ。
モンティー・フィールド殺しの騒動があった、あくる朝、ジューナが朝の食卓の支度をしているところへ、電話のベルが鳴った。朝早くからの電話には慣れっこのジューナは、受話器を、とりあげた。
「こちら、クイーン家の、ジューナです。どなたでしょうか」
「ああ、そうかい、そうかい」と、低い声がうなるように伝わってきた。「いいか、ジプシーおまわりの小せがれ奴《め》。警視をたたき起こすんだ、すぐだぞ!」
「どなたかおっしゃるまでは、クイーン警視をお起こしできません」ヴェリー部長の声をよく知っているジューナは、にやにやして、舌で梅干をこしらえた。
細い手が、ジューナの首をしっかりつかむと、部屋の真ん中ぐらいまで、ジューナをふりとばした。着換えをすました警視は、朝の最初のかぎたばこの一服をすませて、満足そうに小鼻をふるわせながら受話器に向かって「ジューナなんか放っとけ。トマス。何だ? クイーンだ」
「ああ、あなたですか。リッターが、今、モンティー・フィールドのアパートから電話してきました。さもなければ、こんな早朝からお電話しませんが、面白い報告なんです」と、ヴェリーは、がらがら声を立てた。
「そうか、そうか」と、警視は笑って「すると、リッターが、だれかを、捕えたんだな。だれだね、トマス」
「図星ですよ」と、ヴェリーのおちついた声が伝わった。「報告では、リッターはあそこで、あられもない裸の女性を捕えたそうです。これ以上二人きりにしておくと細君に離婚されるそうです。どうしますか」
クイーンは大笑いした。「大変だ、トマス。二人ばかりすぐやってリッターを守ってやれ。わしも、羊が二回尾をふるあいだにかけつける――ということは、エラリーをたたき起こしたらすぐだ」
警視は受話器をかけて、にやにやした。それから「ジューナ!」と大声で呼んだ。ジューナはすぐ、台所のドアから首をつき出した。「急いで、コーヒーと卵だ」警視がエラリーの寝室を覗くと、ちょうど、カラーなしで服を着かけたエラリーが、ねぼけ面で突っ立っていた。
「ほう、ひとりで起きたか」と、警視は、ゆったりと肘掛椅子に腰をかけて、不満そうに言った。「お前を引きずり起こしてやらにゃなるまいと思っとったのにな、無精者奴!」
「安心してらっしゃいよ」と、エラリーはうわのそらで「もう目があきました。もう大丈夫ですよ。ジューナが腹の虫に活をいれてくれたら、すぐ出かけて、お父さんのお手数はかけませんよ」と、エラリーは寝室にもどり、すぐに、カラーとネクタイをふりまわしながら出て来た。
「おいおい。どこへ行くつもりなんだね」と、クイーンが、おどろいてどなった。
「本屋へ行くんですよ、お父さん」と、エラリーは、くそまじめに「ぼくが、ファルコナーの初版本をむざむざ見のがすとは思わないでしょう。きっと――まだ店にあるはずですからね」
「ファルコナーなんか放っとけ」と、クイーンは苦がりきって「手をつけたからにゃ、決着がつくまで手伝うんだ。おい――ジューナ――めしは間に合うか?」
ジューナは、片手に盆を、片手に牛乳差しを、うまく持って、すぐはいって来た。たちまちテーブルをととのえた。コーヒーが煮えたち、トーストがこげた。親子はものも言わずに、とりこんだ。
「さあ」と、エラリーは、からのコップを置きながら言った。「アルカディア風の食事がすみましたよ。火事はどこですか」
「帽子と外套を着ろ。つべこべ言うな、なさけない奴だな」クイーン警視がたしなめた。三分後には、二人は歩道に立って、タクシーをとめていた。
車が、すばらしいアパートの建物に近づいた。歩道に立って、たばこを唇にぶらさげているのは、ピゴット刑事だった。警視は目で合図して、小走りでロビーへはいった。エラリーと一緒にエレベーターで四階へ運ばれた。ヘイグストローム刑事が二人に挨拶して、4b号室を指さした。標札の文字をみようと前かがみになったエラリーが、何か面白そうに言って父親のほうをふり向いたとき、クイーンが気ぜわしく鳴らしたベルの音で、ドアがさっと開き、リッター刑事の平べったい赤ら顔が、つき出した。
「おはようございます、警視」と、リッターは、ドアを押えて、もじもじ言った。「来てくださって、たすかりました」
クイーンと、エラリーは中へ通った。ぜいたくな玄関の小部屋に立った。すぐ目の前に居間があり、その先はドアが閉っていた。縁飾りのついた女のスリッパと、すんなりした|くるぶし《ヽヽヽヽ》が、ドアのはしから見えていた。
警視は、ずかずかとふみこみ、ふと気をかえて、廊下のドアを開けて外をぶらぶらしているヘイグストロームを呼んだ。刑事はすぐかけつけた。
「中にはいれ」と、クイーンはいかめしく「仕事だ」
エラリーと二人の私服をしたがえて、警視は居間へはいった。
熟れきった美しい女が、すらりと立ち上がった。少し疲れて、濃いめに刷《は》いた頬紅の下に、いらだった顔色がちらちらしていた。女は、はでな、すき通るネグリジェを着ていて、髪が乱れていた。いまいましそうに、たばこをふみつぶした。
「あなたが親玉なのね」と、クイーンに食ってかかり、怒って声をふるわせた。クイーンは、じっと立って、知らん顔で女を鑑定していた。「手下のおまわりをよこして、一晩中、あたしを閉じこめておくなんて、一体どうしたことなのよ」
女はつかみかかるように、とび出した。リッターが、すばやくさえぎって、女の腕をつかんだ。「おい、よせ」と、リッターが叱りつけた。「訊かれるまで、黙ってるんだ」
女はリッターを睨みつけた。それから、牝虎のように身をひねって、手をふりほどくと、椅子に腰かけて、息をはずませ、怒りに燃える目をあげた。警視は両手を腰にあてて、嫌悪《けんお》の情もあらわに、じろじろと女を見下ろした。エラリーは女をちらりと見ただけで、ぶらぶらと室内を歩きまわり、壁かざりや浮世絵をみたり、側机の本をとりあげてみたり、暗い隅を覗いたりした。
クイーンはヘイグストロームに合図した。「この女性をおとなりへ案内して、しばらくお相手しとれ」と命じた。刑事はぞんざいに女をせき立てた。女はふてぶてしく頭をふって次の部屋へはいって行った。刑事もつづいた。
「さあ、リッター君」と、警視はため息をつきながら安楽椅子に腰を下ろして「何があったか、話してくれ」
リッターは、ぼそぼそと答えた。目がひきつって、充血していた。「昨夜は、すっかりご命令どおりにしました。ここへは警察の車で来て、角で下りました。だれか見張っているかもしれないと思ったんです。そこから、このアパートまで歩いて来ました。何も異状ありませんでした――あかりもついていませんでした、というのは、はいる前に中庭に出てアパートの裏窓を眺めたのです。それから、そっとベルを押して待っていました。応答なしです」と、リッターは、あごをひきしめて、つづけた。「もう一度ベルを鳴らしました――少し強く、長くです。今度は応答がありました。内側の掛金をはずす音がして、この女が甘い声で≪あんたなの? 鍵はどうしたのよ≫と言いました。ふふん――と思いました――フィールド氏の情人だなと。そこで、ドアのすき間に足をねじこみ、あっという間に、女をひっつかんだのです。ところがです。たまげましたよ。とんでもないことに」と、てれて笑いながら「とんでもないことに、服を着てるものとばかり思っていたのに、ひっつかんだのは、うすい絹の|ねまき《ヽヽヽ》だったんですからね。きっと真っ赤になってたろうと思います……」
「おお、善良な法の手先の役得だな」と、エラリーは、つぶやきながら、小さな|うるし《ヽヽヽ》塗りの花瓶にかがみこんだ。
「とにかく」と、刑事がつづけた。「私がひっつかんだので女が叫びました――とてもすごい叫び声でした。女を居間にせきたてました。女が灯をつけたので、じっくり見ました。女は青ざめていましたが、相当のしたたかさでした。悪口を浴びせはじめて、一体私がだれなのか教えろとか、夜、女のアパートにはいりこんでなにをするつもりなのか、なんてことをしこたま浴びせました。警察手帳を見せたんです。するとです、警視、あの高慢ちきなシバの女王は――手帳をちらっと見たら、ぴたりと|かき《ヽヽ》みたいに口を閉じちまって、何を訊いても、うんでもすんでもないんです」
「なぜだろう」老警視は、部屋の様子を眺めまわしながら、床から天井へ眼を投げた。
「分りかねます、警視」と、リッターが言った。「最初はおびえていたようですが、手帳を見たら、すばらしく向こう気が強くなりました。そうして、私がねばっているうちに、だんだん、あつかましくなるんです」
「フィールドのことは言わなかったろうな」と、警視は低い声で、鋭く訊いた。
リッターは、うらめしそうに上官を見て「ちらっとも洩らしません」と言った。「それで、いくらやっても女からは何も引き出せないことが分ったんです――なにしろ、わめき立てるのは≪モンティーが帰るまで待つのよ、まぬけ!≫の一点張りなんです――それから寝室を見ました。だれもいないので、女をつれこみ、ドアを開けたまま、明りをつけたままで、一晩中がんばったんです。しばらくして、女はベッドにはい上がりましたから、寝ただろうと思います。朝の七時ごろ、女はとび起きて、もう一度、同じことをわめきはじめました。フィールドがあげられたものと思っているらしいです。新聞をくれとせがみました。そんなことはできない相談だと言っといて、署に電話したんです。それからあとは何もありません」
「あのねえ、お父さん」と、エラリーが、部屋の隅から急に言った。「敵は何を読んでたと思いますか――分らないでしょう、≪筆跡から性格を知る法≫ですとさ」
警視は立って、不機嫌に「くだらん本など放っとくんだ。ついて来い」と言った。
警視は寝室のドアをさっと開けた。女はベッドの上にひざを組んで坐っていた。ベッドは、飾りたくさんな、いかもの趣味の、フランスの時代ものの型で、天蓋《てんがい》がつき、天井から床まで、ダマスコ織りの重いカーテンがかかっていた。ヘイグストロームが固くなって窓によりかかっていた。
クイーンは、すばやく見まわして、リッターに向かって「あのベッドは、昨夜来たときも、乱れていたかね――寝ていたように見えたかね」と、ささやくように訊いた。
リッターは、うなずいた。「じゃ、もういい。リッター」と、クイーンが、ねぎらうように言った。「家に帰って、休め。ご苦労だった。出て行くとき、ピゴットをよこしてくれ」刑事は敬礼して出て行った。
クイーンは女のほうを向いた。ベッドに近づき、女のそばに腰を下ろして、そむけた顔を見つめた。女は、ふてくされてたばこに火をつけた。
「わしは、本庁のクイーン警視だ」と、老人はおだやかに話しかけた。「がんこに黙っていたり、嘘をつこうとすると、君が、ひどい面倒にまきこまれるだけだということを、忠告しておくよ。それどころじゃない。むろん分ってるね」
女はそっぽを向いて「あんたがどんな権利で、あたしを尋問するのか分るまでは、訊くことにひとつも答えないわよ、警視さん。あたしは何も悪いことをしちゃいないし、経歴もきれいなもんよ。そのことを、パイプにつめて、吸っとくのね」
警視は、女がたばこのことをもじったので、喫煙の悪習を思い出したらしく、かぎたばこをひとつまみ吸った。そして「ごもっとも」と、けろりと言った。「無理ありませんな。ひとりきりで寝ておられるところを、真夜中にたたき起こされたんですからな――寝ておられたんでしょうな」
「あたりまえよ」と、すぐやりかえして唇をかんだ。
「……しかも、警官が立っとる……さぞ、驚かれたでしょうな」
「驚くもんですか」と、甲高《かんだか》く言った。
「まあ、その話はやめましょう」と、クイーンはいたわるように言った。「お名前を聞かせていただけないでしょうかな」
「言う必要もないけど、言っても差しさわりはないようね」と、女は答えた。「アンジェラ・ルッソーよ――アンジェラ・ルッソー夫人よ――あたし、あの、フィールドさんと婚約しているのよ」
「そうですか」と、クイーンは、まじめになって「アンジェラ・ルッソー夫人で、フィールド氏の婚約者ですね。結構。ところで、昨夜はこの部屋で、何をしておられましたか、アンジェラさん」
「あなたに関係ないわ」と、冷やかに「あたしを、もう許したほうがよくってよ――まちがったことは何もしていないんだから。あたしにつべこべ言う権利はないはずよ、お爺ちゃん」
部屋の隅で窓から覗いていたエラリーが、微笑した。警視は、軽く頭を下げて、女の手をやさしくとった。
「ルッソー夫人」と言った。「信じて下さい――あなたが昨夜、ここで何をしておられたかを、どうしても知らなければならない、大事な理由があるのです――どうぞ、おっしゃって下さい」
「あんたたちが、モンティーをどうしたか言うまでは、あたしは口をひらきませんよ」と、女はクイーンの手を払いのけて叫んだ。「あの人をつかまえたのなら、あたしをいじめることはないでしょ。何も知らないのよ」
「モンティー氏は目下のところ非常に安全な場所にいます」と、警視は、からだを起こしながら、ぴしりと言った。「ずいぶん手加減してるつもりなんですよ、夫人。モンティー・フィールドは死んだんです」
「モンティーが――フィールドが――あの」女の唇が、機械的に動いた。女はとび立って、太ったからだにネグリジェをかき合わせて、落ちつき払ったクイーンの顔を睨んだ。
けたたましく笑って、ベッドにうっぷした。「まあ、そう。――あたしをひっかける気ね」と、女は、あざけった。
「冗談で死んだなどとはいわんよ」と、老人は微笑しながら答えた。「わしの言葉どおりにとりなさい――モンティー・フィールドは死んだんだ」女は、ぱくぱく口を動かして、目をむいた。「そればかりじゃない、ルッソー夫人、殺されたんだ。さあ、わしの訊くことに答える気になったろう。昨夜の十時十五分前には、どこにいましたか」と、警視は顔を近づけて、女の耳にささやいた。
ルッソー夫人は、目に恐怖の色をうかべて、ベッドに、ぐったりとなった。ぽかんと警視をみていたが、慰めてくれそうもないのをみると、わっと泣き出し、しわくちゃな枕に顔をあてて、すすり上げた。クイーンは一足さがって、ちょっと前に部屋にはいって来たピゴットに、低い声で話しかけた。女のはげしいすすり泣きが、ふと、とまった。女は身をおこして、レースのハンカチで顔を拭いた。目が、異様にかがやいた。
「分りましたわ」と、静かな声で言った。「昨夜十時十五分前には、このアパートのこの部屋にいたのよ」
「証明できますか、ルッソーさん」と、クイーンが、かぎたばこ入れをいじりながら訊いた。
「証明はできないわ、でも証明する必要もないわ」と、女はぐったりして言った。「もし、アリバイをさがすのなら、階下の門番が、九時半ごろ、あたしがここにはいって来たのを見てるはずよ」
「すぐ調べてみましょう」と、クイーンが、うなずいて「それじゃ――なぜ昨夜、ここへ来られたんですか」
「モンティーと約束があったんです」と、消え入りそうに答えた。「昨日の午後、うちへ電話をかけてきて、昨夜デートすることになったのよ。十時ごろまでは、仕事で外にいると言っていましたわ。だから、ここで、あの人が来るのを待っていたんです。あたしは来て」――女はちょっと間をおいて、あけすけにつづけた――「あたしは、ちょいちょい、ここに来てたんです。あたしたちは、いつも、ちょっと、≪なにして≫それから、一緒に夜遊びに出たのよ。婚約してるんですものね」
「ふーん。そうですか」警視は、困ったように、咳払いした。「それで、あの人が時間どおりに来なかったんですね――」
「あの人の予定がのびたのだろうと思ったんです。それであたし――そうよ、待ちくたびれたので、ちょっと寝たのよ」
「なるほど」と、クイーンはすぐ言った。「どこへ行くとか、どんな仕事だとか、あなたに言いませんでしたか」
「何も」
「もうひとつ教えて下さると大助かりですがね、ルッソーさん」と、警視は言葉に注意して「フィールドさんは芝居見物のほうはどうでしたか」
女は不思議そうに見上げていた。やっと元気をとりもどしたらしかった。「めったに行きませんでしたわ」と、きっぱり答えた。「なぜですの」
警視は明るい顔で「ねえ、だから変でしょう」と、切り返しながら、ヘイグストロームに合図した。刑事はポケットから、手帳を出した。
「フィールドの交友関係のリストをほしいんですがね」と、クイーンがたのんだ。「それと、あなたが知っておられる仕事関係の知り合いの方のも」
ルッソー夫人は、なまめかしく、頭の後ろに手を組んだ。「実のところ」と、甘い声で「だれも知りませんのよ。モンティーとは約六か月前に、グリーニッチ・ヴィレッジの仮装舞踏会で出会いましたの。私たち、こっそり婚約していたんです。本当に、あの人のお友達とは全然会ったことがないのよ……どうも」と、女は打ちあけるように「どうも、モンティーには友達が多くなかったようですわ。ですもの、仕事関係の交際など、なお知りませんわ」
「フィールドさんの財政状態はどうだったでしょうか、ルッソーさん」
「女にそんなことが分ると思うの?」と、完全に、|はすっぱ《ヽヽヽヽ》な調子になって、逆襲した。「モンティーは、いつも金使いは荒いほうだったわ。お金がない時なんてなかったわ。ひと晩に五百ドルも、あたしのために使うことも、ちょいちょいあったわ。モンティーってそんな人よ――とても気前がよくって。運が悪かったのね。かわいそうに」女は涙をふいて、気ぜわしくすすりあげた。
「しかし――銀行預金は?」と、警視はきびしく追及した。
ルッソー夫人は微笑した。どうやら、いくらでも感情を変える力を持っているらしい。「うるさくしないでよ。モンティーが、あたしをまともに扱ってくれる以上、そんなこと、あたしの知ったことじゃないわ。それにあの人のほうから言うはずもないし、だからあたしが気をまわすこともないじゃないの」と、言った。
「あなたは、どこにいたんですか、ルッソーさん」と、エラリーが、さりげなく訊いた。「昨夜の九時半までは」
女は驚いて、新しい声のほうを振り向いた。二人は、注意深く、互いにさぐり合っていた。ふと、女の目がやわらいだ。「あなた、だれだか知らないけど、それが知りたければ、セントラル・パークの恋人たちに訊いてみるのね。あたし、しばらく公園を散歩していたのよ――たいくつだったのでね――七時半ごろから、ここに来る時間まで」
「まったく運がいい」と、エラリーは、つぶやいた。警視はドアに急いで、指をまげて、三人の刑事に合図した。「われわれは席をはずしますから、着換えて下さい、ルッソーさん。差し当り、用はすみましたよ」女は、皆がならんで出て行くのを、おかしそうに見ていた。最後に出たクイーンは、ドアをしめながら、父親みたいな目で、女をちらっと見た。
居間に出ると四人の男は、手早く、徹底的に捜査した。警視の命令で、ヘイグストロームとピゴットが、隅の彫りのある机の抽出《ひきだ》しを調べた。エラリーは、面白そうに、≪筆跡で性格を知る法≫のページをくっていた。クイーンは、こまめに歩きまわって、玄関に近い室内の洋服戸棚に首を突っ込んでいた。かなり広い衣類のしまい場所には――組みになった外套と、ケープなどが、洋服掛けにかけてあった。警視はポケットを探した。二、三のつまらない品物――ハンカチ、鍵、古手紙、小銭入れ――などが出てきた。警視はそれを片わきに置いた。上の棚には数個の帽子があった。
「エラリー、帽子だよ」と、警視が、うなった。
エラリーは読んでいた本をポケットに収めて急いで歩みよった。父親は意味あり気に、帽子を指さした。二人は一緒に、手にとって調べた。帽子は四個で――色のあせたパナマと、灰色と茶色のソフトが一個ずつ、それと、山高帽だった。どれにも、ブラウン兄弟商会の商標がついていた。
二人は帽子をひっくり返してみた。二人とも、すぐに、中の三個には――パナマとソフト二個――裏がないのに気がついた。四番目の高級な山高帽を、クイーンは、こまかく調べた。裏地にさわってみて、革の|びん革《ヽヽヽ》を裏返してみて、頭を振った。
「正直なところ、エラリー」と、警視はゆっくり言った。「こんな帽子から手がかりが得られるなどとは、断じて思っとらんよ。昨夜、フィールドはシルクハットをかぶっとったのだから、それがこの部屋に、あるはずはないんだ。今まで調べたところでは、わしらが行ったときには犯人はまだ劇場内にいたはずだ。リッターは十一時にここに来ている。だから、あの帽子をここに持ち込むことはできなかったはずだ。かりに、もし実際にできたとしても、犯人には、そんなことをする理由は何もないだろう。われわれがすぐフィールドのアパートを捜査するぐらいのことは気がついていたろうしな。駄目だ、わしも少しやきがまわったらしいな、エラリー。こんな帽子からは何も得られやせんよ」警視は、いまいましそうに山高帽を棚になげ返した。
エラリーは、むずかしい顔で考えながら立っていた。「お父さんのおっしゃるとおりです、この帽子は役に立ちません。でも、ぼくにはどうも腑《ふ》におちないんです……それはそうと」エラリーはからだを起こして、鼻眼鏡をはずした。「お父さんは、昨夜、フィールドの持物で、帽子のほかに何か紛失しているものに気がつきませんでしたか」
「訊くは易く答えるは難しだな」と、クイーンは、むずかしい顔をした。「たしか――ステッキがなかった。だがどうしようもないな。フィールドが持っていたと仮定してみても――だれかステッキを持って来なかった奴が、フィールドのを持って劇場を出るのは造作ないことだ。しかも、そいつを引きとめたり、ステッキの素性を調べる方法もないんだ。だから、わしはそんなことに気を使うのはやめとるんだ。それに、もしまだローマ劇場にあるとすれば、そのままにしてあるだろう――心配いらん」
エラリーは笑った。「その点については、シェリーかワーズワースの詩を引用して」と、言った。「お父さんの腕前をほめたいですよ。だが、≪お前は私をだましたね≫という詩の句を思いつくだけですね。なぜなら、ぼくは今の今までそのことに思いつかなかったんですからね。しかも、それは重大なことです。この戸棚には、どんな種類のステッキも一本もないんですからね。イヴニングで出かけるような、おめかし屋のフィールドのような男は、たいてい、服装に適うステッキを何本か持っているはずですよ。それなのにステッキがないという事実は――寝室の押入れでステッキが見つかれば別ですが、まず駄目でしょう、というのは上衣類は全部ここにあるんですからね――してみると、この事実は、フィールドが昨夜ステッキを持っていたという可能性を消すものです。だから――ステッキのことは忘れていいことになります」
「なるほどな」と、警視は、ぼんやりと答えた。「わしもそこまでは考えなかった。さて――みんながどうしとるか見に行こう」
二人は部屋を横切って、ヘイグストロームとピゴットが机を調べているほうへ行った。机の上には、書類と覚え書が積み上げてあった。
「何か面白いものがあったか」とクイーンが訊いた。
「役に立ちそうなものは一つもありません、警視」と、ピゴットが答えた。「ありふれたものばかりです――手紙です、ほとんど、あのルッソーという女からのもので、大熱々《おおあつあつ》です――あとは、大部分、勘定書と領収書みたいなものです。ここでは何も見つかりそうもありません」
クイーンは、書類に目を通した。「うん、大したものじゃないな」と、なっとくした。「じゃ、ほかをみよう」二人は書類を机にもどした。それからピゴットとヘイグストロームは、すばやく室内を捜査した。家具をたたき、クッションの下をのぞき、敷物をまくり上げた。手なれた仕事だった。クイーンとエラリーが黙って立って見ていると、寝室のドアが開いた。ルッソー夫人が、茶の散歩服とトック帽という、いきな姿であらわれた。女はドアのところで立ちどまり、大きな、無邪気な目で、あたりを見まわした。二人の刑事は、わき目もふらずに捜査をつづけた。
「あの人たち、何をしているんですの、警視さん」と、だるそうな声で訊いた。「いいものを探してるのね」と、目が好奇心で光ってきた。
「女性としてはとても着換えが早いですね、ルッソーさん」と警視がほめて「お帰りですか」
女はじろっと警視をみて「そうよ」と答えて、目をそらした。
「お住いは――?」
女はグリーニッチ・ヴィレッジのマクドーガル街の番地を教えた。
「ありがとう」と、クイーンは、書きとめながら礼を言った。女が部屋を歩きかけた。「あ、ルッソーさん」女がふり向いた。「お出かけの前にちょっと――フィールド氏の遊びぐせについて少し話していただきたいんですがね。大酒のみといってもいいほうだったでしょうかね」
女は楽しそうに笑って「それだけでいいの?」と言った。「そうとも、そうでないとも言えるわ。あたし、モンティーが、ほとんど一晩中飲んでもまるで――そうね牧師さんのように、しゃんとしてるのを見たことがあるわ。そうかと思うと、ほんの一、二杯で、ぐでんぐでんになるときもあったわ。時によりけりだわ――そうでしょ」と、女は、また笑った。
「なるほど、たいていの人間はそうですな」と、警視がつぶやいた。「あなたに、ひとの秘密をあばいてもらうつもりじゃないんですがね、ルッソーさん――あなたなら、フィールドさんの酒の出所をごぞんじではないかと思ったのでね」
女は急に笑いやめて、いかにも、さげすむような顔をした。「一体、あたしを何だと思ってるの」と、詰問《きつもん》した。「知りませんよ。知ってても言うもんですか。苦労してる密売者の中には、つかまえようとしている連中より、ずっとましな人が大勢いるわよ、たしかよ」
「人間みんな同じですよ、ルッソーさん」と、クイーンはなだめるように言った。「ところでね」と、やさしくつづけた。「いずれまた、情報がいるときには、きっと、助けて下さるでしょうな。どうですか」沈黙があった。「じゃ、今のところ、これで結構です、ルッソーさん。ただ、町にはいて下さるでしょうね。じきにあなたの証言がいるだろうと思いますからね」
「そう――じゃ、さよなら」と、女は頭を上げて言った。そして、玄関のほうへ歩いて行った。
「ルッソーさん」と、クイーンが、不意に、鋭く呼びとめた。女は玄関のドアのノブに、手袋をはめた手をかけたまま振り向いた。唇から微笑が消えていった。「ベン・モーガンは、フィールドと共同経営を解散してから、何をしていましたか――知ってるでしょう」
女はややしばらく、ためらってから答えた。「だれのことですの」と訊いて、額に皺を寄せた。
クイーンは敷物の上にすっくと立ったまま、さりげなく「気にせんで下さい。さよなら」と言い、くるりと、女に背を向けた。ドアが、ばたりとしまった。しばらくして、ヘイグストロームが、ピゴットとクイーンと、エラリーを、アパートに残して、出て行った。
三人は、まるでひとつことを考えていたように、寝室に走り込んだ。さっき出たときのままのようだった。寝台は乱れて、ルッソー夫人の夜着とネグリジェが床にちらばっていた。クイーンは寝室の戸棚を開けてみた。
「ヒュー」とエラリーが唇をならした。「あの男は、服にはなかなか、やかましかったんですね。音に高い、イギリスの伊達男《だておとこ》マルベリー街のボー・ブランメルみたいだ」
三人は戸棚を探したが何も出てこなかった。エラリーは首をのばして上の棚をのぞいた。「帽子なし――ステッキなし、これできまった」と、ひとりで納得して、つぶやいた。小さな台所に姿をかくしたピゴットが、半分空になった酒瓶の箱詰をえっちらおっちら運んで来た。
エラリーと父親は箱の上にかがみこんだ。警視は慎重に瓶の栓を抜いて、中身を嗅ぎ、それをピゴットに渡した。ピゴットも上官のとおりに、しさいらしくやってみた。
「色も匂いも別状ないようですな」と、刑事が言った。「だが、味をみるのはごめんこうむります――昨夜のこともありますからな」
「その用心は、もっとも至極」と、エラリーがくすくす笑った。「しかし、もし君が気を変えて、バッカスの霊魂を呼び出そうときめたら、そのときは、ピゴット君、こう祈るといいよ。≪酒よ、汝、人に知られたる名前なくば、汝を、死と名づけしめよ≫」
「この酒を分析させよう」と、クイーンが苦々しく言った。「スコッチとライの混合酒でレッテルも本物らしい。だが、当てにはならん……」エラリーが急に父の腕をつかんで、緊張して前にのり出した。三人はきっと耳を立てた。
ごくかすかな爪でひっかく音が、玄関のほうからきこえてきた。
「だれかが、ドアに鍵をさす音らしい」と、クイーンが低い声で「かくれてろ、ピゴット――だれでもかまわん、はいって来たら、とびかかれ」
ピゴットは急いで居間から、玄関へ行った。クイーンとエラリーは、見えないように、寝室にかくれて待った。
玄関のドアをかちかちする音のほかは、しんとしていた。新来者は、うまく鍵がはまらないらしい。不意に、錠前のおろし金がはずれる音がして、すぐに、ドアがさっと開き、とたんに、ばたんと閉じた。
おし殺した叫び声。しゃがれた牛のようなうなり声。ピゴットの喉をしめられながらの罵り声。どたばたとふみならす足音――エラリーとクイーンは、居間を走り抜けて玄関へとびこんだ。
ピゴットは、がっちりとしてたくましい黒服の男の腕の中でもがいていた。スーツケースがひとつ、格闘の途中で投げ出されたらしく、かたわらの床にころがっていた。一枚の新聞が、空中に舞い上がって、ちょうど、エラリーがいがみ合っている男たちのところへかけつけたときに、寄木細工の床に舞い下りた。
この侵入者を押えつけるのには、三人がかりでやっとだった。ついに、ひどく息を切らせながら、その男は床に倒れた。ピゴットの腕が、男の胸を、しっかり押えつけた。
警視はかがみこんで、その男の、真っ赤になって怒っている顔を、不審そうにのぞきこんで、おだやかに訊いた。「おい、君はだれなんだ」
第九場 用心棒マイクルズの登場
侵入者はぎこちなく立ち上がった。背が高く、いかめしい顔付の堂々たる男で、うつろな目をしていた。風采も態度も、特徴のないほうだった。もし、あえて特徴らしいものをとりあげれば、風采も態度もごく平凡だというところだろう。素性や職業はともかくとして、まるで個性的な特徴をすっかり消すために慎重な努力をしているかのようだった。
「一体何だってこんな手荒なまねをするんですか」と太い声で言ったが、その口調も、平板で、うるおいがなかった。
クイーンはピゴットに向かって「どうしたんだ」といかめしく訊いた。
「ドアの後ろに立っていたんです、警視」と、ピゴットも、はあはあ息をはずませながら「この山猫がはいって来たので、奴の腕に手をかけたんです。すると、奴が、貨車に積み込まれる虎みたいに、とびかかってきたんです。すごい奴だ。まっこうから突っかかってきました――で、なぐりつけてやったんです、警視……すると、ドアからとび出して逃げようとしたんです」
クイーンはしかつめらしくうなずいた。侵入者はおだやかに言った。「嘘《うそ》ですよ。とびかかってきたから防いだんです」
「もういい、分った」とクイーンはつぶやいた。「とんでもないことで……」
不意にドアがさっと開いて、ジョンスン刑事が戸口に立った。ジョンスンは警視をわきに呼んで「ヴェリー部長が、もしかすると用があるかもしれないから行けといわれました、警視……ここへ来るとき、この男を見かけました。何をかぎまわっているのか分りませんでしたが、とにかくつけて来ました」クイーンは力強くうなずいた。「よく来た――用があったんだ」と、警視はつぶやいて、ほかの連中に合図して、先に立って居間へ通った。
「おい、君」と、警視は、大男の侵入者にそっけなく言った。「茶番は幕だ。君はだれだ? ここで何をしていたんだ?」
「私は、チャールズ・マイクルズといいます――モンティー・フィールドさんの召使いです」
警視は目を細めた。男の挙動が、何となく変ってきた。ぽかんとした顔も態度も、前と同じように、これといって変った様子もない。しかも、たしかに変ったことが感じられた。警視はちらっとエラリーの目を見て、エラリーも同じ感じでいるのをたしかめた。
「そうか」と、警視はぴしりと言った。「召使いか? こんなに朝早くから、旅行鞄を持って、どこへ行くつもりなのかね」警視は、ピゴットが玄関から居間へ運んで来た、安物の黒い旅行鞄のほうへ手をのばした。エラリーが急に玄関のほうへ歩いて行って、しゃがんで、何かをひろいあげた。
「はあ?」と、マイクルズは、尋問にあわてたらしい。「これは私の物でして」と、打ちあけるように「私は今朝、休暇に出かけることになっていまして、発つ前にここへ来て、フィールドさんから給料の小切手をいただくお約束になっていたのです」
老警視の目が光った。思ったとおりだ。マイクルズの表情も物腰もほとんど変らないが、声と言葉つきが、ひどく変っていた。
「すると、今朝、フィールド氏から小切手をもらう約束だったんだね」と、警視はつぶやいて「おかしいじゃないか。よく考えてごらん」
マイクルズの顔には手ばなしの、おどろきの色が浮かんだ。「おや――なぜですか。フィールドさんはどこにいるんですか」ときいた。
「≪旦那は、冷たい冷たい土の中≫」と、エラリーが玄関でくすくす笑った。エラリーは、マイクルズがピゴットともみ合っている間に落した新聞紙を手にひらひらさせながら、居間にもどってきた。「おい君、ちょっと、とぼけすぎやしないかい、え? これは君が持って来た朝刊だぜ。拾うときに最初に、くっきり目についたのは、フィールド氏のちょっとした事故を報道する黒い大見出しだよ。第一面の全面刷りだ。それを――君は、読まなかったとでも言うのかい」
マイクルズは、石のようになって、エラリーと新聞を見つめていた。それから目を伏せてもぐもぐ言った。「今朝はまだ新聞を読む暇がなかったんです。フィールドさんは、どうなさったのですか」
警視が浴びせた。「フィールドは殺された。マイクルズ、君は、それを知っとっただろう」
「いいえ、知りませんでした。本当です」と、召使いは、いんぎんに抗議した。
「嘘つくな」と、クイーンはきめつけた。「ここに来た訳を言うんだ。さもないと、ぶち込んで、とっぷり、喋ってもらうことになるぞ」
マイクルズは辛抱強く老人を見つめていた。「私は本当のことを申し上げたんですよ」と言った。「昨日フィールドさんが私に、今朝ここへ小切手をとりに来いと言ったのです。私の知ってるのはそれだけです」
「ここで会うつもりだったのか」
「そうです」
「じゃ、なぜ、ベルを押すのを忘れたんだね。だれもここにいないと思って鍵を使ったんだろう、どうだ?」と、クイーンが言った。
「ベルですって?」と、召使いは目をむいた。「いつも鍵を使うんです。できるだけフィールドさんのお邪魔をしないようにです」
「フィールドはなぜ昨日、君に小切手を渡さなかったんだ」と、警視がどなった。
「手もとに小切手帳がなかったんだろうと思います」
クイーンは唇をまげた。「君には、ろくすっぽ想像力もないんだな、マイクルズ。昨日、フィールドを最後に見たのはいつだね」
「七時ごろでした」と、マイクルズはすぐ答えた。「私はこのアパートに住んでいません。ここはせまいし、それにフィールドさんは――他人に邪魔されるのが嫌いなんです。私はいつも、朝早く来て、朝食を作り、風呂の支度をし、衣類のお世話をするんです。それから、事務所へお出かけになったあとは、掃除などをして、夕食時までは、私の時間なのです。私は五時にもどって来て、ひるまにフィールドさんから、外で召し上がるとお知らせがないかぎり、食事の支度をして、夕食と夜会服をそろえておくのです。そのあと夜はご用なしです……昨日は、すっかりお支度をととのえたあとで、小切手のことを話されたのです」
「特に疲れるというほどの日課じゃないね」と、エラリーはつぶやいて「ところで、昨夜はどんなものを支度したかね、マイクルズ」
召使いはうやうやしくエラリーのほうを向いた。「下着と、靴下と、イヴニング用の靴と、胸の固いシャツと、カフスボタンと、カラーと、白いネクタイと、夜会服と、ケープと、帽子と――」
「ああ、そう――帽子だ」と、クイーンがさえぎって「どんな帽子だったね、マイクルズ」
「いつものシルクハットです」と、マイクルズが答えた。「帽子はひとつだけ、とびきり上等のを、お持ちでした」と、言葉に力を入れて「ブラウン兄弟商会のだと思います」
クイーンは、しょざいなさそうに、椅子の腕をたたいていた。「それでは訊くが、マイクルズ」と、言った。「昨夜、ここを出てから何をしておったかね――つまり、七時からあとだ」
「家へもどりました。旅行鞄をつめねばなりませんし、少し疲れていました。手軽に食事をしてから、すぐ寝まして――ベッドに入ったのは九時半近くだったでしょう」と、すらすら答えた。
「住所はどこだね」マイクルズは、ブロンクス区の東一四六番街の番地を教えた。「そうか……いつもフィールドを、ここへ訪ねてくる者がいたかね」と、警視がつづけた。
マイクルズは、気取って眉をしかめた。「私の口からは申し上げにくいです。フィールドさまは、俗に言う交際好きの方ではありませんでした。それに私は夜はここにおりませんので、私が帰ってからは、どなたがみえたか、分りません。しかし――」
「それで?」
「女性がおられました……」マイクルズは固くなってためらっていた。「こうした事情のもとでは、お名前は言いたくないのですが――」
「名前は?」と、クイーンが、面倒くさそうに促した。
「それがです――こんなことはいけないんですがね――ルッソー。アンジェラ・ルッソー夫人とおっしゃるので」と、マイクルズが答えた。
「フィールド氏とルッソー夫人のつき合いは、どのくらいかね」
「五、六か月です。グリーニッチ・ヴィレッジあたりのパーティでお会いになったようです」
「なるほど、きっと婚約しとったんだろうね」
マイクルズは困った顔で「そうおっしゃってもよろしいでしょうが、少し正式ではないようでして……」
言葉がとぎれた。「君はモンティー・フィールド氏に、雇われてから、どのくらいになるね、マイクルズ」と、警視がつづけた。
「来月で三年になります」
クイーンは尋問の筋を変えた。そして、フィールドの観劇趣味や、経済状態や、飲酒癖について訊いた。それらの点についてのマイクルズの答えは、ルッソー夫人の証言を裏づけるものだった。新事実は何も出なかった。
「さっき、三年もフィールドに仕えているといったが」と、クイーンは椅子の背によりかかりながらつづけた。「どうやって雇われたのかね」
マイクルズは、すぐには答えなかった。「新聞の広告で来たのです」
「本当かね……もし三年もフィールドに仕えていたのなら、きっと、ベンジャミン・モーガンのことを知っとるだろうね、マイクルズ」
マイクルズは唇に、ひかえ目の微笑をうかべた。「たしかに、ベンジャミン・モーガンさんは存じております」と、うれしそうに言った。「あの方は、本当に紳士でした。ごぞんじのように、法律関係のお仕事で、フィールドさまのパートナーでした。しかし、二年ほど前に、お別れになって、それ以来、モーガン様にはあまりお目にかかりませんでした」
「解散する前には時々会ったかね」
「いいえ」と、大男の召使いは、いかにも残念そうに答えた。「フィールド様は、モーガン様のような方ではありません――つまり――型がです。で、お二人は普通のおつき合いはしませんでした。そう、私はモーガン様が、このアパートへ来られたのを三、四回お見かけしましたが、いつも急ぎのご用の場合だけでした。そのときのことも、大してお話できません、というのも、私は夜はここにいないものですから……もちろん、私の知るかぎりでは、事務所を解散されてからは、一度もお見えになりませんでした」
クイーンは、尋問をはじめてから、初めて微笑した。「正直に言ってくれてありがとう、マイクルズ……じゃ、昔のことでも訊こう――二人が解散当時、何か不愉快なことでもあったのを覚えとらんかね」
「とんでもないことで」と、マイクルズがやり返した。「お二人の喧嘩みたいなことを、一度も耳にしたことがありません。事実、フィールド様は、解散したすぐあとで、モーガン様とはいつまでも友達だ――親友だとおっしゃっていたぐらいです」
マイクルズは、腕にさわられて、上品な、うつろな表情でふり向いた。エラリーが顔をつき合わせるように立っていた。「何でしょう」と、いんぎんに訊いた。
「マイクルズ君」と、エラリーはきびしい口調で「ぼくは古傷をあばきたくないがね。なぜ君は刑務所に行っていた時のことを、警視に言わないんだ」
まるで裸電線をふみつけたように、マイクルズのからだが、ぴくっとして固くなった。顔から血の気がひいた。落ちつきを失い、口をあけたまま、エラリーの微笑する目を見つめた。
「それは――どうして、それが分りましたか」と、召使いはあえいだ。言葉から上品さもやわらかさも消えた。クイーンは、ほこらしげにエラリーを見た。ピゴットとジョンスンが、ふるえている男に、にじり寄った。
エラリーはたばこをつけて「今まで少しも気がつかなかったんだよ」と、楽しそうに言った。「つまり、君が言うまではね。君もデルフォイの神託を勉強しておけばよかったんだ、マイクルズ」
マイクルズの顔が真っ青になった。ふり向いて、クイーンに手をふりながら「あんたが――あんたが何もそのことを訊かなかったからね」と、細い声で言った。だが、また太い、平板な声になって「それに、そういうことは警官には言いたくないもんですよ……」
「どこにいたんだね、マイクルズ」と、警視がやさしい声で訊いた。
「エルミラ刑務所です」と、マイクルズが呟いた。「初犯でした――食うに困って、金を盗んだので、あげられたのです……短期刑でした」
クイーンが立ち上がった。「さて、マイクルズ、もちろん君には分っとるだろうが、現在、完全に自由なからだじゃない。家に帰って、ほかの仕事を探したければ探していいが、現在の住所にいて、いつ呼び出しがあってもいいようにしているんだ……行く前にちょっと」と、警視は黒いスーツケースに近づいて、いきなり開けた。ごちゃごちゃの衣類のひと山――黒い服、シャツ、ネクタイ、靴――きれいなのと、きたないのと――が出てきた。クイーンは、すばやく鞄の中をひっかきまわしてから、ふたを閉めて、かたわらで、しょんぼり立っているマイクルズに渡した。
「ほんの身のまわりのものしか持っていかないようだね、マイクルズ」と、クイーンは微笑しながら言った。「休暇がおじゃんになって気の毒だった。だがな、とかく浮世はこんなもんだ」マイクルズは低く、さよならとつぶやき、鞄を持って立ち去った。すぐ後を追ってピゴットもアパートを出て行った。
エラリーは頭をのけぞらして、晴れやかに笑った。「なんて、お上品な間抜けだろう。見えすいた嘘をついて、お父さん……何をとりに来たんでしょうね、あいつ」
「むろん、何かをとりに来たんだな」と、警視は首をひねって「してみると、きっと、われわれが見落しているもので、何か重要なものがあるにちがいないな……」
警視は考えこんだ。そのとき電話が鳴った。
「警視ですか」ヴェリー部長の声が、がんがん聞こえてきた。「本部にかけましたら、おられんので、フィールドのところにおられると思いましてね……ブラウン兄弟商会で、面白い情報が手にはいりました。私がそちらへまいりましょうか」
「いや」と、クイーンが答えた。「ここは済んだ。チェンバース街のフィールドの事務所に寄って、すぐ本部へ帰る。その間に、何か重要なことがおきたら、本部に連絡しろ。君は今、どこだね」
「フィフス・アベニューです。ブラウンの店から出たところです」
「じゃ、本部へ帰って、わしを待っててくれ。それから、トマス――制服をひとり、すぐここへ派遣してくれ」
クイーンは、受話器をもどして、ジョンスンを振り向いた。
「警官が来るまでここにいてくれ――じきに来る」と、いいつけた。「アパートをよく見張らしてくれ。それから交替の手配をして、本部に帰って来て報告したまえ……行こう、エラリー。忙しい日になりそうだぞ」
エラリーにはうむをいわせず、せっかちに追い立てて建物を出、通りに下りた。町はひどいタクシーの爆音で、いい塩梅《あんばい》に警視の声も、もみ消されてしまった。
第十場 シルクハットが捜査の鍵
クイーン警視とその息子が、曇りガラスのドアを開けたのは、正確に午前十時だった。ドアの文字は、
モンティー・フィールド弁護士
二人の入った大きな待合室は、フィールドの服装の趣味から、想像できるような飾り方だった。がらんとしている室内を、クイーン警視は、けげんそうに見ながら、ドアを押しあけ、エラリーを従えて事務室に通った。机のならんでいる広い部屋は、法律書がぎっしりつまっている本棚がなければ、新聞社の≪編集室≫に似ていた。
事務室はごったがえしていた。タイピストたちがより集って、興奮して喋っていた。五、六人の男の事務員たちが隅で小声で話し合っていた。部屋の中央にはヘッシー刑事が、こめかみが白髪まじりの、やせて陰気そうな男と熱心に立ち話していた。弁護士が死んだので、事務に支障をきたしたことは、明らかだった。
クイーン親子が入って来たので、事務員たちは驚いて互いに目を見合わせ、各自の机へこっそりと、戻りはじめた。不安な沈黙があった。ヘッシーが急いで近づいた。目が赤く、緊張していた。
「おはよう、ヘッシー」と、警視が気軽に声をかけて「フィールドの私室は?」
刑事は二人を案内して部屋を横切り、大きな字で、私室と鏡板にしるしてある別のドアへつれて行った。三人は、とても|ぜいたく《ヽヽヽヽ》な、小部屋に入った。
「この男もなかなか|こり屋《ヽヽヽ》だったんですね」とエラリーは笑いながら、赤い革張りの肘掛椅子に、腰かけた。
「報告してくれ、ヘッシー」と、警視もエラリーにならって腰かけながら言った。
ヘッシーが早口で話しはじめた。「昨夜ここへ来てみると、ドアは閉じていました。灯もついていませんでした。耳をすましてみたのですが、何のもの音も聞こえないので、室内にはだれひとりいないと思いました。そこで、私は一晩中、廊下で張っていました。今朝九時十五分前ごろに、事務主任がとびこんできたので、すぐ、とっつかまえました。入っていらっしゃったときに、私が話していた、背の高い男です。名は、リューイン――オスカー・リューインです」
「事務主任なんだね」と、警視は、かぎたばこを吸いながら、念をおした。
「そうです。奴は、唖《おし》でなかったら、だんまりを心得とる奴です」と、ヘッシーがつづけた。「もちろん、朝刊を読んで、フィールド殺しを知っとります。とにかく奴は、ひどく、私の尋問をきらっているようです――奴からは何も聞き出せませんでした。てんで駄目です。奴が言うには、昨夜は、真っ直ぐに家へ帰ったそうです――フィールドは四時頃にここを出て、もどって来なかったらしいです――奴は新聞を読むまでフィールド殺しのことは何も知らなかったそうです。あなたのお出を待って、朝のうち、ずっと手をこまぬいていたというわけなんです」
「リューインをつれて来てくれ」
ヘッシーはひょろ長い事務主任をつれてもどって来た。オスカー・リューインは好感のもてない人相だった。ずるがしこい黒い目をして、ひどくやせこけていた。かぎ鼻や、骨張った顔には、どん欲なものがあった。警視は冷やかに眺めまわした。
「君が事務主任なんだね」と訊いた。「ところで、今度の事件を、どう思うかね、リューイン君」
「恐ろしいことです――まったくこわい」とリューインは、うめいた。「どうしてこんなことになったのかさっぱり、わけが分りません。何しろ、昨日の午後四時には話していたんですからね」リューインは本当に悲しんでいるようだった。
「君と話していたとき、フィールド氏は、何か困っているようなところとか、妙なところはなかったかね」
「全然ありませんでした」と、リューインは神経質に答えた。「本当に、いつになく上機嫌でした。ジャイアントのことで冗談をとばしたり、昨夜は当り狂言を見に行くのだと言っていました――≪拳銃稼業≫です。そしたらなんと、劇場で殺されたんですね。新聞でみましたが」
「ほう、君に芝居のことを話したんだね」と、警視がたずねた。「もしや、だれかと一緒に行くとは言わなかったかね」
「いいえ」と、リューインは足をもぞもぞした。
「そうか」と、クイーンは、ちょっと休んで「リューイン君、君は主任として、当然ほかの事務員よりもフィールドとは、親しかったはずだね。あの男の個人的なことを何か知っとるだろう」
「何も知りません。本当に何も」と、リューインは、あわてて打ち消した。「フィールドさんは、使用人と親しくするような人ではありませんでした。時にはご自分の話もしましたが、いつも世間話みたいなことでしたし、たいていはまじめな話ではなくて冗談でした。われわれには、いつも理解と思いやりがあって寛大なご主人でした――それだけです」
「あの男の扱っていた仕事の規模は、正確にはどの程度のものかね、リューイン君、君はきっと、そのことなら何か知っとるだろう」
「仕事ですか」と、リューインは、おどろいて「もちろん、法律関係の仕事で私の知っておるかぎりでは、どこよりもすばらしいぐらいでした。私がフィールドさんの許で働いているのは二年ほどですが、地位の高い有力なお顧客《とくい》がいくらもあります。名簿をお見せすることもできますよ……」
「見たいな、送ってくれたまえ」と、クイーンが言った。「すると、なかなか繁昌で、まともな仕事だったんだね。特に個人的な客はなかったかね――最近になって」
「いいえ。お顧客のほかは、ここで見かけた方はひとりも覚えがありません。もちろん、お顧客の中には個人的な交際のある方もあったでしょうがね……あ、そうそう、むろん、召使いはときどきここへ来ました――背の高い、マイクルズという名の、屈強な男です」
「マイクルズか。あいつの名が出たな」と、警視は考えこみながら、リューインを見上げて「結構、リューイン君。今のところはそれだけだ。事務所の連中は今日は帰してやってよろしい。それから――君はもう少しいてくれ。じきに、サンプスン検事の部下が来るはずだ。きっと君の手がいるだろうからね」リューインは重々しくうなずいて、引きさがった。
ドアが閉まると、クイーンは立ち上がった。「フィールドの私用手洗所はどこだ、ヘッシー」と訊いた。刑事は部屋の先の隅のドアを指さした。
クイーンは手洗のドアを開いた。エラリーはぴったりくっついていった。二人は壁の隅に仕切られた、小さな小部屋をのぞきこんだ。洗面台と、薬箱と、小さな衣装戸棚があった。クイーンはまず薬箱をのぞいた。ヨジームの瓶と、オキシフルの瓶と、シェービング・クリームのチューブと、髭剃り用品が入っていた。「何もないですね」と、エラリーが言った。「戸棚はどうでしょう」老人は興味深そうに、戸棚を開けた。外出着が一着ぶらさがっていた。六本ほどのネクタイと、中折帽子が一個あった。警視は帽子を事務室に運んで調べた。それからエラリーに渡したが、エラリーは、ばかにしたように、すぐ、戸棚の釘にかけた。
「いまいましい帽子だ」と、警視が吐きすてるように言った。ノックがきこえて、ヘッシーがブロンドの青年を通した。
「クイーン警視ですか」と、青年が丁寧に訊いた。
「うん」と、警視がすぐ受けて「新聞記者なら、モンティー・フィールド殺しの犯人を二十四時間以内に逮捕すると書いていいよ。今、君にあげられるネタはそれだけだ」
青年は微笑して「すみませんが、ぼくは記者じゃないんです。アーサー・ストーツです。地方検事サンプスン事務所に新しく入ったものです。今朝まで、検事から連絡がなかったし、ぼくはほかの事件で忙しかったので――それで、少しおくれてしまったのです。フィールドもひどい目にあったですね」青年は帽子と外套を椅子に投げ掛けながら微笑した。
「見方によるね」と、クイーンがぶつぶつ言った。「たしかにフィールドは面倒をよく起こす男だったよ。サンプスンの指令は、どうなんだね」
「それですが。ぼくはむろん、フィールドの経歴についてはよく知らないのですが、ティム・クローニンのピンチヒッターなんです。クローニンは今朝はほかの仕事につかまっているので、それが片づくまで、多分午後になるでしょうが、さしあたり、ぼくが手をつけておくことになったのです。クローニンは、ごぞんじのように、一、二年前から、フィールドを追っていた男です。いま頭痛鉢巻でその記録をしらべているところです」
「そりゃいい。サンプスンからきいたとおりだと、クローニンは――もし、記録や|とじこみ《ヽヽヽヽ》の中に犯罪事実があれば、きっと探し出すだろうな。ヘッシー! ストーツ君をあちらへ連れてって、リューインに引き合わせなさい――ここの事務主任だよ、ストーツ君。あの男から目を放さないようにね――ずるがしこい奴らしいからな。それから、ストーツ君――いいかい、君の仕事はここの記録から、顧客《とくい》先をしらべたり、正当な事務を当ってみたりするのでなくて、インチキを見つけるんだよ……あとでまた」
ストーツは、明るくほほえんで、ヘッシーについて出た。エラリーと父親とは、やや離れて向き合っていた。
「何を持っているんだね」と、老人が声をとがらせた。
「本箱からとり出したんです。≪筆跡鑑定≫」と、エラリーはぼんやり答えた。「どうかしましたか」
「その本のことで考えついたんだがな」と、警視がゆっくり言った。「その筆跡の一件は、どうもくさいな」警視はだめだというように首を振って立った。「さあ行こう、エラリー、ここにはあやしい物はない」
がらんとして、ヘッシーとストーツとリューインしかいない事務室を通り抜けながらクイーンは刑事を手招きした。「家へ帰れ、ヘッシー」と、やさしく言った。「君に風邪をひかせるわけにはいかんよ」ヘッシーはにっこりしてドアを出て行った。
数分後には、クイーン警視はセンター街の本部の私室に坐っていた。エラリーは、その部屋を≪スター・チェンバー≫と呼んでいた。〔スター・チェンバーは十七世紀の英国裁判所〕その部屋は小さくて、居心地がよく、落ちついた部屋だった。エラリーはゆったりと椅子にかけて、フィールドのアパートと事務所からとってきた、筆跡に関する二冊の本を熱心に読み始めた。警視がブザーを鳴らすと、トマス・ヴェリーのがっちりした顔が、のっそりと戸口に現われた。
「おはよう、トマス」と、クイーンが言った。「君がブラウン兄弟商会で手に入れたという、すばらしい情報とは、何だね」
「すばらしいかどうか分らんですが、警視」と、ヴェリーは、壁ぎわに並んでいる背の真っ直ぐな椅子にかけながら、落ちついて言った。「どうも本ものくさい気がします。昨夜、フィールドのシルクハットを探せとご命令でした。ところが、それとそっくり同じのが机の上にありますよ。ご覧になりますか」
「ふざけちゃいかん、トマス」と、クイーンが言った。「走ってもって来い」ヴェリーは出て行って、すぐに帽子箱を持って来た。そして、紐を切って、クイーンが目をぱちくりするほど高級な、ぴかぴかのシルクハットを、とり出した。警視はもの珍しそうに、とりあげてみた。内側のサイズの印は七インチ八分の一だった。
「私はブラウンの店の、古い番頭と話したんです。長年、フィールドの係りでした」と、ヴェリーが説明した。「フィールドは、衣類は全部あの店で買ってたらしいです――ずっとです。そうして、たまたまひとりの番頭が気に入りになってたのです。当然、その古狸《ふるだぬき》は、フィールドの趣味や買物を、よく心得ていました。
そいつの言うのには、フィールドは、着るものには気むずかしやで、服はいつも、ブラウンの特別仕立部へ注文していたそうです。服地も仕立てもこったものが好きで、下着類もカラーやネクタイも最新流行だったそうです……」
「帽子の好みはどうだったね」と、エラリーが本から目をはなさずに口をはさんだ。
「今、お話するところです」と、ヴェリーが、つづけた。「その番頭が、帽子のことについて、特に注目すべきことを言いました。たとえば、シルクハットのことを訊くと、答えて、≪フィールド様は、帽子にはまるで気違いでして、そりゃ、この半年に少なくとも、三個お買上げでした≫というんです。むろん、私はその言葉をとりあげて――販売台帳を調べさせましたが、そのとおりです。たしかに、この半年の間にフィールドはシルクハットを三つ買っています」
エラリーと父親は、思わず目を見合わせて、異口同音に、訊いた。
「三個――」と、老人が口を切った。
「こりゃ……とほうもない話じゃないか」と、エラリーは鼻眼鏡に手をやった。
「一体、ほかの二つはどこにあるんだ」と、クイーンが、あきれて言った。
エラリーは黙りこんだ。
クイーンは、ヴェリーのほうを見て、促した。「ほかに何か見つけなかったか、トマス」
「あまり役に立つものはないでしたが、ただ次の点は」と、ヴェリーが答えた。「フィールドは着る物のことになると、まったく鬼みたいだったそうです。昨年は、服を十五着と、シルクハットを含めて帽子を少なくとも一ダースは買ったそうですからね」
「帽子ばかりだな」と、警視は、うなった。「あいつは気違いだったんだろう。ところで、――フィールドはブラウンでステッキを買ってはいなかったか」
ヴェリーはしまったという顔をした。「そいつは――そいつは警視」と、くやしそうに「すっかり抜かりました。訊こうともしなかったんですからね。それに昨夜、何もおっしゃらなかったので――」
「いいさ。だれでも、うっかりすることはあるよ」と、クイーンはつぶやいた。「番頭を電話に呼び出してくれ、トマス」
ヴェリーは机上の電話をとりあげて、しばらくすると、受話器を上官に手渡した。
「こちら、クイーン警視だが」と、老人は早口に「君は長年、モンティー・フィールドの係りだったそうだね……そこで、ちょっとしたことを調べたいんだ。フィールドは、君のとこで、ケーンかステッキを買ったことがあるかね……何だって、ああ、そうか……うん。じゃあ、もうひとつだ。あの男は仕立職人に、特別の注文を出したかね――特別のポケットをつけろとか何とか……そんなことはない、よろしい……何? ああ、分った。ありがとう」
警視は受話器をもどして振り向いた。
「あわれな友は」と、クイーンは苦々しく「帽子にこったのとはあべこべに、ステッキはさっぱり気にしないらしい。あの番頭は、何度も、フィールドをステッキ好きにしようとすすめたらしいが、フィールドはきまって買わなかったそうだ。好きでなかったんだろうな。それに、かくしポケットについては、われわれの考えていたことを裏書きしたよ――そんなことはないそうだ。そこで、われわれは袋小路に行き当っちまったな」
「あべこべですよ」と、エラリーが冷静に言った。「そんなことはありませんよ。つまり、昨夜犯人に持ち去られた、ただひとつの身のまわり品は、帽子だったということが立派に証明されたんです。そのことは、問題を簡単にしてくれたように思えますね」
「どうもわしの知能は低いらしいな」と、父はぐちっぽく「そんなことは大したこととは思えんよ」
「ところで警視」と、ヴェリーが、しかめ面で口をはさんだ。「ジミーが、フィールドのフラスクに付いていた指紋の報告をしてきました。いくつも付いていなかったそうですが、間違いなく、全部、フィールドの指紋だったそうです。もちろん、ジミーは死体置場から、フィールドの指紋をとって、照合しました」
「そうか」と、警視が言った。「あのフラスクは、犯罪には全然関係がないのかもしれんな。とにかく、プラウティが中身の報告をしてくるのを待たなければならんな」
「まだほかにあります、警視」と、ヴェリーが言い足した。「ごみ屑です――劇場をさらったごみ屑です――あなたが昨夜、パンザーに送るように言い付けられたのが、二、三分前にとどきました。ご覧になりますか」
「もちろんだよ、トマス」と、クイーンが言った。「出たついでに、君が昨夜作った、切符のきれはしを持っていなかった連中の名簿を持って来てくれ。座席番号も、名前にそれぞれついているだろうね」
ヴェリーは、うなずいて出て行った。クイーンが、ゆううつそうに、息子の頭の|てっぺん《ヽヽヽヽ》を見ていると、部長が、かさばった包みと、タイプした名簿を持ってもどって来た。
一同は注意して、包みの中身を机の上にひろげた。集められたごみ屑のほとんどは、丸めたプログラムや、キャンディの箱から出た紙片や、切符の切れはしだった――フリントや、その部下の捜査隊の目こぼしになったものだった。型のちがう婦人手袋が二つ、男の上衣から落ちたものらしい小さな茶のボタンが一個、万年筆のキャップが一個、婦人用ハンカチが一枚、その他、普通劇場内で紛失したり、捨てられるような雑多なものが出てきた。
「大したものもないようだな」と、警視は言った。「さあ、いよいよ切符の切れはしを調べる番が来たな」
ヴェリーが、落ちていた切符の切れはしをつみあげて、番号と文字を読みはじめると、クイーンが、ヴェリーの持って来た名簿と照らし合わせた。そんなに多くないので、照合は、まもなく済んだ。
「それで全部か、トマス」と、警視は訊いて、目をあげた。
「全部です」
「そうか。この名簿によると、まだ五十人ほど、照合もれだな。フリントはどこだ?」
「どこか、この中にいます、警視」
クイーンは電話をとって、手短に命令した。フリントが、ほとんど、すぐ現われた。
「昨夜、何かみつけたか」と、警視が、いきなり訊いた。
「それが、警視」と、フリントは、恥かしそうに答えた。「われわれはあそこを、すっかり洗い上げたんです。いろんなものをみつけましたが、ほとんどがプログラムみたいなものばかりなので、一緒に働いていた掃除婦たちにまかせたんです。しかし、切符の切れはしは、特に外の路地でうんと拾いました」フリントは、ゴムバンドで、きちんとたばねたボール紙の束をポケットから出した。ヴェリーがそれを受け取って、番号と文字を読む仕事をつづけた。読み終ると、クイーンが、タイプした名簿を、目の前の机の上にたたきつけた。
「闇夜に灯明もなしですか」と、エラリーが本から目をはなして、つぶやいた。
「参ったな、これで切符の切れはしを持っていない連中はひとり残らず調べがついた」と、警視がうなった。「切れはしも、名前も全部調査済みだ。……そうだ、もうひとつやることがあった」警視は、名簿に照らし合わせながら、切れはしの山を捜して、フランセス・アイヴス・ポープの切れはしを見つけ出した。そして、月曜日の夜に集めた四枚の切れはしをポケットから出すと、ポープの切れはしを、フィールドの座席の切符の切れはしと、注意深く重ね合わしてみた。切り口は符合しなかった。
「まだ見捨てたもんじゃない」と警視は、五枚の切符をチョッキのポケットに収めながら、続けた。「まだ、フィールドの席の両隣と、すぐ前の席の六枚の切符が見つかっていない」
「見つからないでしょうよ」と、エラリーが口を出した。そして本を置いて、いつになく真剣に父親の顔を見つめた。「昨夜、フィールドがなぜ劇場にいたか、その理由が全然分っていないんですよ、お父さん。それを考えるのを止めちゃったんですか」
クイーンは白髪まじりの眉をしかめた。「その問題では、むろん、頭をなやましとるよ。ルッソー夫人やマイクルズの口裏だと、フィールドは芝居好きではなかったらしいからな――」
「人間って奴は、どんな気まぐれをおこすか分りませんよ」と、エラリーはきっぱり言った。「何かのきっかけで芝居嫌いの人間が、ひょいと、あんな娯楽を求めに行く気になるなんてこともあり得るでしょうからね。未解決の事実が残ってます――あの男が劇場にいたという事実がね。ぼくが知りたいのは、あの男があそこにいた理由です」
老人は重そうに頭を振った。「仕事の上の約束でもあったのかな。ルッソー夫人の言葉だと――フィールドは十時に帰ると約束している」
「ぼくも仕事上の約束という線を考えてみました」と、エラリーは賛成した。「しかし、それに、どれほどの可能性があるでしょうかね――ルッソーという女が嘘をついているのかもしれないし、フィールドはそんなことを何も言わなかったのかもしれないし、もし言ったとしても、はじめからあの女と十時に会う約束を守らないつもりだったかもしれないんです」
「わしの考えはきまっとるんだ、エラリー」と警視が言った。「可能性があろうとなかろうと、フィールドは昨夜、芝居を見にローマ劇場へ行ったんじゃない。はっきりした事情があって行ったんだ――取引でな」
「ぼくも一応はそうにちがいないと思います」と、エラリーは、ほほえみながら言った。「しかし、いくらいろんな可能性を測ってみても、それで慎重すぎるということはありませんよ。そこで、もし取引で行ったとすれば、だれかに会いに行ったことになりますね。そのだれかが犯人だったんでしょうか」
「お前はいろんなことを訊きすぎる、エラリー」と警視が言った。「トマス、その包みの品物を見せてくれ」
ヴェリーは、丁寧にひとつずつ、雑多な品物を警視に手渡した。手袋、万年筆のキャップ、ボタン、ハンカチ、それらを、ちらっと見て、クイーンは、わきへ置いた。あとは、キャンディの包み紙と、しわくちゃなプログラムばかりだった。キャンディの紙屑のほうは、手がかりになりそうもなかった。クイーンはプログラムに手をつけた。調べているうちに、突然、うれしそうに大声を出した。「みつけたぞ、みんなみろ」
三人の男は肩ごしに、のぞき込んだ。クイーンは一枚のプログラムの皺をのばした。明らかに、破いて捨てられたものだった。内側のページの一枚に、普通の男の服飾品の広告があり、そのふちに、いろいろな落書きがしてあった。あるものは文字になり、あるものは数字になり、なおそのほかに、たいくつしているときによく書くいたずら書きの模様みたいなのもあった。
「警視、どうやらフィールドのプログラムを見つけられたようですね」と、フリントが叫んだ。
「うん、たしかにそうだな」クイーンが、てきぱき命じた。「フリント、昨夜、被害者の着衣からみつけた書類をさがして、フィールドのサインのある手紙をもって来てくれ」フリントは急いで出て行った。
エラリーは、熱心に、そのいたずら書きを検討していた。
フリントが手紙を持って来た。警視はサインをくらべた――明らかに同じ筆跡だった。
「実験室に送ってジミーに調べさせよう」と、老人が、つぶやいた。「だが、まず本物だろうな。フィールドのプログラムに、間違いないだろう。……どう思う、トマス」
ヴェリーはがらがら声で「ほかの数字は、どういうのか分りませんが、この≪50,000≫というのは、ドルの意味なんでしょうね、警視」
「あいつ、自分の銀行勘定を書いてたんだろうな」とクイーンが言った。「自分のサインを見て悦に入ってたんだろう」
「そんなことを言っちゃフィールドに気の毒です」と、エラリーが抗議した。「人は、何かがおこるのを、ぼんやり坐って待っているときなど――芝居が始まる前に劇場に坐っているようなときなどは――手近なものに自分の頭文字や名を書いたりするのが、ごく普通の行動ですよ。劇場では一番手近なものはプログラムでしょうからね……自分の名を書くのは心理作用の基本的なものです。だから、これを見て考えるほど、フィールドは自意識過剰な人間ではなかったでしょうよ」
「そんなことはどっちでもいい」警視は、眉をしかめて、いたずら書きを検討しながら言った。
「そうかもしれませんね」と、エラリーは答えた。「ところでもっと重要な問題にもどりましょう――あなたが≪50,000≫は、フィールドの銀行勘定だろうというのには反対です。だれでも、自分の銀行勘定を書くときは、そんな、きっちりした数字は書かないものですよ」
「それが当っているか、いないか、すぐ分る」と、警視が電話をとりあげながら、たしなめた。そして警察の交換台にフィールドの事務所の電話番号を呼び出させ、しばらく、オスカー・リューインと話したあとで、しょげた恰好で、エラリーのほうをふりむいた。
「お前の勝ちだよ」と言った。「フィールドの個人勘定は、おどろくほど少ないぞ。帳尻は金額で六千ドルたらずだ。しかも、時々、一万、一万五千という預金をしているんだ。リューインもそれには驚いている。わしが調べてくれと言うまでは、フィールドの個人的財政状態がどうなっていたか、リューインは知らなかったと言っとるよ……フィールドはきっと株か馬をやってたに違いない。賭けても大丈夫だ。ドーナッツとドルとでいくか」
「ぼくは、そんな情報には別におどろきませんね」と、エラリーが言った。「それで≪50,000≫の理由がほぼ想像つくというもんです。この数字は金額を示しているだけじゃなくて、それ以上の意味があるようです――賭け金が五万ドルという取引高を示すようです。もし生きていて受けとれば、一晩の取引きとしては悪くないですよ」
「ほかの二つの数字は何だろう」と、クイーンが訊いた。
「それを少し考えてみようとしてるんです」と、エラリーは、椅子に戻りながら答えた。「こんな莫大《ばくだい》な金が動く取引きが、どんなものか、それが知りたいんですよ」と、無心に鼻眼鏡をみがきながら、言い足した。
「どんな取引きか分らんが」と、警視は考えこみながら、「きっと、まともな取引きじゃないだろうな、エラリー」
「まともな取引きでないって?」と、エラリーが真剣な口調で訊いた。
「金はわざわいの|もと《ヽヽ》だよ」と、警視が微笑しながらさとした。
エラリーは同じ口調で「|もと《ヽヽ》どころか、お父さん――|むくい《ヽヽヽ》でもありますよ」
「また、借りものか」と、老人がからかった。
「フィールディングの言葉です」と、エラリーは、委細かまわず言った。
第十一場 過去の暗影
電話のベルが鳴った。
「|Q《クイーン》かね、サンプスンだ」と、地方検事の声が伝わってきた。
「おはよう、ヘンリーさん」とクイーンが答えた。「今どこですか。ご機嫌ですか」
「事務所だが、機嫌悪いね」と、サンプスンはくすくす笑いながら「ぼくが起きていれば、死体になるぞと医者は言うし、ぼくが仕事をしなければ市は暗闇になると事務所は言うし、一体、どうしたらいいかな……なあ、Q」
警視は、まるで≪用件は分っている≫というふうに、テーブル越しにエラリーにウィンクした。
「それで、ヘンリーさん」
「ここに、君が会ってみたらとても役に立ちそうな紳士が来とるんだ、事務所にね」と、サンプスンは小声でつづけた。「その人も君に会いたがっとるが、何をさしおいても、ここへかけつけてもらえんもんだろうかね。そのひとは」――と、サンプスンはいっそう声を殺して――「つまらんことで敵にまわしたくないのでね、たのむよ、Q」
警視は顔をしかめて「アイヴス・ポープなんでしょう」と言った。「昨夜、掌中の玉を尋問したので、かんかんになってるんでしょう」
「そうでもないよ」と、サンプスンが言った。「実際、寛大な老人なんだ。ひとつ――そう――ひとつ、やさしくしてやってくれないか、Q、たのむよ」
「絹の手袋でいきましょうかね」と、クイーンは、くすくす笑って「少しでも、あなたの気やすめになるならね、せがれを引っぱって行きます。いつも社交上の義理には同席することになっていますから」
「結構だとも」と、サンプスンが感謝した。
警視は受話器を置いて、エラリーを振り向いた。「ヘンリー先生、大弱りの体《てい》らしい」と、おどけて言った。「ご機嫌とりをするのもいちがいには責められんよ。病気でへこたれとるのに、政治屋どもがとびかかるんだからな。どうやら、クロイソス〔ギリシアの王で大金持ち〕が玄関先で、吠えとるらしい――ついて来い、エラリー。その名も高い、フランクリン・アイヴス・ポープに会いに行こう」
エラリーは両腕をのばして、うなった。「こう忙しいと、もうひとり病人が出ますよ」と、こぼしながらも、とび立って、帽子を深くかぶり直した。「実業界の大立者を見に行きましょうかね」
クイーンはヴェリーに笑いかけて「忘れんうちに言っとくが、トマス……今日は、少し、探しものをしてもらいたいな。君の仕事は、あんなに繁昌している法律事務所を持ち、王侯のような暮らしをしているモンティー・フィールドが、どうしてたった六千ドルばかりしか個人勘定を持っていないかを、探ることだ。おそらく、ウォール街か、競馬場だろうが、確かめてもらいたいんだ。支払い済みの小切手帳を調べれば、何か分るだろうし――フィールドの事務所のリューインが手伝ってくれるだろう……それから、ついでにだが――これは特に重要なことなんだ、トマス――フィールドの昨日一日中の行動を、完全に洗い上げてくれ」
クイーン親子は、サンプスンの本部へ出かけた。
地方検事の事務所は、ひどく忙しい場所なので、刑事局警視といえども、この神聖な部屋では、けんもほろろの扱いだった。エラリーは、ぷんぷんだったが、父親のほうは微笑していた。やっと地方検事が自ら私室をとび出して来て、大事な友人を固いベンチに腰かけさせて腰を冷えさせるとは何事だなどと、事務官に小言を言った。
サンプスンが不始末をしでかした男に、ぶつぶつ小言をいいながら、二人を私室に案内したとき「気をつけて口をきけよ、エラリー」とクイーンが注意して「財界の大立者に会うのに、わしの恰好は、これでいいかな」と訊いた。
サンプスンがドアを開けておさえた。入口に立ったクイーン親子は、両手を頭の後ろに組んで、見ばえもしない窓外の景色を眺めている男を見た。地方検事がドアを閉じると、部屋にいた男は、地位の高い人物としては、おどろくほどの気軽さで、くるりとふり向いた。
フランクリン・アイヴス・ポープは、もっと経済界に活気のあった時代の古兵者《ふるつわもの》だった。金の力だけではなく強い個性の力でウォール街に君臨した昔のコーネリュース・バンダービルドのように、強い自己主張をもつタイプの巨頭の面影を残していた。アイヴス・ポープは、澄んだ灰色の目で、銀髪で、白髪まじりの口ひげをたくわえ、がっちりした体には、今なお青春の気がみなぎり、見るからに堂々たる貫禄がそなわっていた。うすよごれた窓の光を背にして立っている姿は、非常に印象的だった。エラリーとクイーンは前に出ながら、他人の庇護など少しも必要としない知能のある人物だと、すぐにさとった。
その実業家は、サンプスンがまごついて紹介しかねているうちに、深いさわやかな声で話しかけた。「人狩りの名人、クイーン君だね」と言って「かねがね一度お会いしたかった、警視さん」それから大きな角ばった手を差し出した。クイーンは、いんぎんに握手した。
「私はご挨拶にお返ししないでもいいようですな、アイヴス・ポープさん」と、少しほほえんで「以前に、一度、私はウォール街にちょっと手を出しましてね、あなたは、私の金をいくらかもうけられたようですよ。これは、せがれのエラリーです。クイーン家の頭脳であり、誇りです」
巨頭はエラリーをたのもしそうにじろじろ見ていた。そして握手しながら言った。「立派なお父さんがあって、いいね」
「ところで」と、地方検事は椅子を三つ並べながら、ため息をついて「これでほっとしました。あなたにはお分りにならんでしょうがね、アイヴス・ポープさん、私は、この会見には、ずいぶん、気を使っていたんですよ。なにしろ、クイーン君ときたら、社交的な礼儀など、てんで分らんという代物《しろもの》ですからね。握手する手に手錠をかけかねないんですよ」
巨頭が愉快そうに笑ったので、ぎこちない空気がほぐれた。
地方検事は、いきなり話の要点にはいった。「アイヴス・ポープさんは、ご令嬢の問題を、どうしたらよいか、ご自分で当ってみるために来られたんだよ、Q」クイーンは、うなずいた。サンプスンは実業家のほうを向いた。「前にもお話したとおり、われわれはクイーン警視を信頼しています――ずうっと信頼してきたのです。警視は常に、地方検事局の干渉や監督を受けずに独立して仕事をしています。この際、この点を明瞭にしておきたいのです」
「それは健全なやり方だね、サンプスン君」と、アイヴス・ポープはうなずいて「わしも、事業には、つねにその主義をとってる。その上、わしの聞いとるところでは、クイーン警視は、信頼に価する人物らしい」
「時には」と、クイーンが慎重に言った。「自分の気持ちにそむいて仕事をしなければならないこともあります。正直に申し上げれば、昨夜、私が任務としてしたことのあるものは、私にとっては特に不愉快でした。アイヴス・ポープさん、ご令嬢は、昨夜、私の尋問でさぞびっくりなさったでしょう」
アイヴス・ポープは、しばらく黙っていた。それから頭をあげて、がっちりと、警視の視線を受けとめた。「ところで、警視君」と、言った。「われわれは二人とも世間を知っている人間だし、ひとかどの仕事をしている人間だ。いろんな癖のある人物とも交渉を持っている。そうして、ほかの連中にはとても骨の折れる大問題をいくつも解決してきている。そうだろう。だから、ざっくばらんに話せると思うのだがね……君の言うとおり、娘のフランセスは、おどろいたどころのさわぎじゃない。そればかりか、妻もすっかり驚いてしまったのだ。何しろ、ずうっと、病身なものだからね。それに、せがれのスタンフォード、つまりフランセスの兄貴なんだが、こいつが――いや、そこまでお話する必要もないが……フランセスは昨夜――友達につれられて――家にもどってから、わしに全部の出来事を話したのだ。わしは娘をよく知っておるが、警視君、フィールドなどとは、爪の垢《あか》ほども、関係はないですぞ。それに全財産を賭けてもいい」
「アイヴス・ポープさん」と、警視は、おだやかに答えた。「私はご令嬢を何も非難したわけではありません。犯罪捜査の過程では、思いがけぬ妙なことが起こりがちだということを、私ほどよく知っている者はないでしょう。そこで、どんな小さな盲点でも、見落さないように注意しているのです。私がご令嬢におねがいしたのは、夜会バッグの確認だけでした。ご自分のだと言われたので、バッグの出所をお教えしたのです。当然私は、ご令嬢の釈明があるものと思っていました。ところが、釈明がなかったのです。……人が殺されて、殺された人のポケットから婦人用バッグが出てきた場合、そのバッグの持主を調べて、その持主である男か女と犯罪との関係をつきとめるのは、警官として当然の義務です。それはお分りになっていただけますね、アイヴス・ポープさん。しかしもちろん――その点について、あなたを説得するつもりではないのですよ」
巨頭は椅子の腕をどんとたたいて「言われることはよく分ります、警視君」と言った。「それはあきらかに君の任務だし、問題をとことんまでつきとめるのも君の任務でしょう。実際そのためには全力をつくしていただきたい。だが、わしの個人的な意見では、娘は情況の犠牲者と思われる。と言って、娘を弁護したいと思うのじゃない。わしは、全面的に、君を信頼して、娘の件は、君が問題を究明してからの判断にお任せしたいんだ」と、ひと息ついて「クイーン君、明日の朝、わしの家に来ていただけんかな。少しご相談したいのでな。こんなことをお願いして何とも恐縮だが」と、言い訳がましく「実は、フランセスは病気になっとるし、妻も外へ出られん状態でね。お願いできるかな」
「よく分りました、アイヴス・ポープさん」と、クイーンは、はっきり答えた。「お伺いしましょう」
実業家は会談の終るのを惜しむようだった。椅子の中で重苦しそうに姿勢を変えて「わしは、いつも公平にやってきた人間です。警視君」と、言った。「自分の地位を利用して、何らかの特権を得ようとしているかのように、非難されやせんかと気にしとるがね。実は昨夜、君のとられた処置にショックを受けて、フランセスは満足に話もできんのだ。家で、家族も一緒なら、きっと、君の満足のいくように、事件との関係をすっかり話せるだろうと思うのでな」アイヴス・ポープは、しばらく、ためらってから、冷やかな調子で続けた。「婚約者も来るから、きっと、娘も落ちついて話せるだろうと思うよ」その声の調子では、自分ではそう思っていないようだった。「では、おいで願えるとして、十時半ではどうだろう」
「結構です」と、クイーンは、うなずいて「どなたが立ち合われるか、もっとはっきり、おたずねしておきたいですな」
「ご希望どおりに手配するよ、警視君」と、アイヴス・ポープは答えた。「しかし、わしの家内と、バリー君――やがて、フランセスの夫になる男だが、この男も、フランセスについていたがるだろうし」淡々と説明した。「多分、フランセスの友達も二、三人――演劇の仲間だが。それに、せがれのスタンフォードも、押しかけて来るだろうな――忙しい男だがね」と、苦々しげに、言いたした。
三人の男は、ばつが悪そうにもじもじした。アイヴス・ポープは、吐息をついて立ち上った。エラリーとクイーンとサンプスンも立った。「話はこれで。では、警視君」と、実業家は気軽く「ほかに何かご要求があれば」
「何もありません」
「じゃ、失礼しますぞ」サンプスンとエラリーのほうを向いた。「サンプスン君、もし、できれば、むろん君にも来てもらいたいがね。来てもらえるかな」地方検事は、うなずいた。「それに、クイーン君」――と巨頭はエラリーを見て「君も来るだろうね。君は父上をたすけて、捜査に当っておられると思うとるが、来てくれるとありがたいんだ」
「参ります」と、エラリーが静かに言った。それから、アイヴス・ポープは事務所を出て行った。
「おい、どうだね、Q」と、サンプスンが回転椅子で、そわそわしながら訊いた。
「とても面白い人物だ」と、警視が答えた。「なかなか公平な精神の持ち主だな」
「あ、そう――そう」と、サンプスンが「ねえ――Q、君が来る前にたのんどったがね、発表のほうはお手やわらかに願いたいとさ。特別の配慮を持ってほしいというわけさ」
「ぼくに直接言うのは気がさすのかな」と、警視はくすくす笑った。「やはり人並みだね……いいですよ、ヘンリーさん、全力をつくしましょう。しかし、もしあの娘が本当に深入りしていたら、新聞を押えるわけにはいきませんからね」
「いいとも、分ったよ。Q――それは君に任せる」と、サンプスンは、じりじりして「ああ、のどが、がらがらだ!」と、机のひき出しから、吸入器をとり出して、いまいましそうに、のどに薬を、吹き込んだ。
「アイヴス・ポープ氏は、最近、化学研究基金に十万ドル寄付したようでしたね」ふと、エラリーが、サンプスンに訊いた。
「そんな話を聞いたようだったね」と、サンプスンが、うがいをしながら、言った。「なぜだね」
エラリーはぼそぼそ説明したが、サンプスンが吸入器をしゅうしゅうやるので、聞きとれなかった。考えてみながら、エラリーをながめていたクイーンは、首を振って、懐中時計をみて言った。「さあ、エラリー、そろそろ昼食の時間だよ。どうだろう――ヘンリーさん、あなたもつき合ってくれませんか」
サンプスンは、作り笑いをして「仕事がびっしりつまっとるがね、地方検事も食わなくちゃなるまいな」と言った。「お供するには条件があるよ――ぼくのおごりだ。とにかく、君には借りがあるからね」
三人が外套を着終ったとき、クイーンは、サンプスンの電話を借りた。
「モーガンさん?……あ、やあ、モーガン君。ぼくだ。今日の午後、少しお話したいが、ご都合はどうだろう。……よろしい。二時半、結構。じゃ、また」
「これで決まった」と、警視は楽しそうに「丁寧にすれば、それだけのことはあるよ、エラリー――覚えとくんだな」
二時半に、クイーン親子は、ベンジャミン・モーガンの静かな法律事務所にかけつけた。その部屋はフィールドの豪華な設備にくらべると、ひどくあっさりしていた――設備は行きとどいているが、もっと事務的で単純化されていた。若い女性が、ほほえみながら迎え入れてドアをしめた。モーガンは控え目な態度で挨拶した。椅子につくと、葉巻の箱を出してすすめた。
「いや、結構――ぼくはかぎたばこでね」と、警視はおだやかに断った。エラリーは巻たばこに火をつけて、煙を輪に吐いた。モーガンは震える指で葉巻をつけた。
「昨夜の話の続きで、来られたのでしょうな、警視さん」と、モーガンが言った。
クイーンは、かぎたばこを吸って、たばこ入れを元に戻しながら、椅子の背によりかかった。「ところで、モーガンさん」と、警視はさりげなく「あなたは、ざっくばらんに話してくれなかったね」
「というと」と、モーガンは少し赤くなりながら訊いた。
「君の昨夜の話だと」と、警視はくり返すように「昨夜の話だと、二年前に、フィールド・アンド・モーガン法律事務所を解散するとき、フィールドとは円満に別れたように聞こえたが。そんな話だったね」
「そうですよ」と、モーガンが答えた。
「じゃ、君」と、クイーンが訊いた。「ウェブスター・クラブで、やった喧嘩騒ぎを、君は、どう説明するかね。他人の生命をおびやかすような言葉を吐くのは、決して、≪円満≫な、共同経営の解散の仕方とは言えないと思うのだがね」
モーガンはしばらく、黙っていた。クイーンは辛抱強く、じっと見つめていた。そして、エラリーはため息をついた。やがて、モーガンは目を上げて、感情を押し殺した声で話し始めた。
「すみません、警視」と目をそらして、つぶやいた。「あんなおどかし方は、きっとだれかに覚えていられるだろうとは思っていました……ええ、たしかにそうです。フィールドに誘われて、ある日、ウェブスター・クラブで昼食をしていました。私としては、あの男と、接触しなければならないことが、少なければ少ないほどよかったんです。ところで、昼食の目的は、解散の最後の条件を相談することにあったのですが、もちろん、私には否応なしの話でした……私はかんしゃくを起こしたらしいのです。あの男を殺してやると脅しましたが、それは……つまり、一時の腹立ちまぎれの言葉でした。その週の終りには、そんなことはすっかり忘れてしまっていたんです」
警視はすなおにうなずいた。「なるほど、時にはそんなこともあるもんだね。だが」――と、次の言葉を予想して、情けなさそうに唇をなめるモーガンに――「たとえそのつもりはなくても、ただ単に仕事上の些細なことで、他人の生命をおびやかす者はいないな」警視はモーガンの縮み上がったからだに指をさしつけて「さあ、君――吐いちまうんだ。何をかくしているんだ?」
モーガンの全身がぐったりした。唇が白くなって、目に無言の訴えをこめながら、一人のクイーンから、もうひとりのクイーンのほうを見つめた。だが、二人の視線は冷酷だった。やがて、モルモットを観察している生体解剖学者のようにモーガンを見ていたエラリーが、口をはさんだ。
「モーガンさん」と、エラリーは冷やかに言った。「フィールドは、何か、あなたの弱味をつかんでいて、あの時に、それを切り出すいいチャンスをつかんだのでしょう。そうでしょう、あなたの目の中の赤い血みたいに、はっきり分りますよ」
「一部分はご推察のとおりです、クイーンさん。私は神様がつくられた人間の中で、最も不幸な者の一人です。あの悪党のフィールドは――あいつを殺した者はだれでも、人道上の貢献者として勲章を与えられる値打がありますよ。あいつは|たこ《ヽヽ》みたいな悪魔でした――人間の皮をかぶった良心のない獣でした。私は何ともいえず幸福です――実に幸福です――あいつが殺されたのでね」
「落ち着きなさい、モーガン君」とクイーンが言った。「わしらの共通の友人が、とてもひどい男だったということは調査済みだがね、そんな言い方をして、君に対して同情的でない人間に聞かれると、まずいだろう」
「すっかりお話します」と、モーガンは、机の上の書類敷を見つめて、とぎれとぎれに口を割った。「お話しにくいんですが……私が大学生だった頃、ある娘と問題を起こしました――学生食堂の女給仕でした。悪い娘ではないのです――ちょっと体が弱かっただけです。それに私は、その頃、かなり乱暴なほうでした。とにかく娘に子供ができたのです――私の子です。……ごぞんじでしょうが、私は、やかましい家柄です。もしごぞんじでないなら、お調べになればすぐ分ります。家族の者は私に期待していましたし、世間的な栄達を望んでいました――手みじかにお話すれば、私は、その娘と正式に結婚して、妻として父のもとに、連れて行けなかったのです。それは恥ずべき行為だったのです……」
モーガンはひと息入れた。
「しかし、できたことはできたことで、それがすべての問題のもとでした。私は――いつもその娘を愛していました。ところが娘は身の振り方を心配していました――私はたっぷりもらっていた学費から、どうやら仕送りができたのです。だれひとり――その娘の母親は、未亡人の立派な老婦人ですが、その人のほかは、この世にだれひとりとして、この恋愛事件を知っている者はいませんでした――ちかってひとりもいません。それなのに――」モーガンは、拳を握りしめて、ため息まじりに続けた。「結局、私は家で選んだ娘と、結婚させられたのです」モーガンは喉をつまらせた。せつないような沈黙がつづいた。「それは、マリアージュ・ド・コンヴェナンス〔地位財産目当ての結婚〕でした。――それ以外の何ものでもなかったのです。嫁のほうは古い貴族の家柄、私のほうは金持ちでした。私たちは、明るく幸福に暮らしていました……やがて、フィールドに会ったのです。私はあの男と提携することを承知した日を、くやむのです――当時、私の仕事は、必ずしも目算どおりには行っていなかったし、フィールドは、ほかのことはともかく、進歩的な、敏腕な弁護士でした」
警視はかぎたばこを吸った。
「初めのうちは、万事順調に行きました」と、モーガンは、相変らず低い声で「しかし、だんだんに、私は、自分の共同経営者が、見込み違いの人間ではなかったかと、疑いはじめたのです。妙な客が――本当に妙な客が――執務時間後、あの男の私室に出入りするのです。その連中のことを訊くと言葉をにごすのです。だんだん妙なことになってきました。ついに、あの男との提携を続けていると、私の評判に傷がつくと思って、解散の話を持ち出したのです。フィールドは強硬に反対しましたが、私も断じて譲らず、あげくの果てに、あの男は私の希望を押えられなくなって、二人は手を切ったのです」
エラリーは、無心にステッキの握りを、指でたたいていた。
「それから、ウェブスター・クラブでの一件です。あの男が昼食をしながら、最後の二、三の細目を決めようと、言い出しました。もちろん、それが、あの男の目的ではなかったのです。あいつのたくらみは、見当がつかれるでしょう……私が女と私生児に仕送りしているのを知っているぞと、まさかと思うような話を、にやにやしながら持ち出してきました。それを証明する私の手紙と、私が女に送った支払いずみの小切手も何枚か持っているというのです……私の手許から盗み出したのを認めました。むろん、私は何年もそんなものは調べていませんでした……それから、あいつは、その証拠をもとに金をつくるのだと、図々しくも言ったのです」
「ゆすりですね」と、エラリーは、目を光らせながら小声で言った。
「ええ、ゆすりです」と、モーガンは苦々しく、繰り返して「それ以外の何ものでもありません。あいつは、この話が世間に洩れたらどういうことになるかを、ことこまかに説明しました。ああ、フィールドという奴は実にずるがしこい悪党です。私は自分の築き上げた社会的地位の全部が――そのためには長い年月の努力を要したのです――それが瞬間に崩れ去るのが目に見えるようでした。妻や、一族や、家族や――そればかりか、私たちのまわりの世間に対して――私は泥沼におちこんで顔向けもできなくなるでしょう。そして仕事のほうも――むろん、すぐにも大事なお顧客は法律上の依頼をほかへ移すでしょう。私は、罠《わな》にかかったのです――私も、あいつも、そのことを知っていたのです」
「それで、どのくらい要求したかね、モーガン君」と、クイーンが訊いた。
「大金です。二万五千ドルです――ただの口留め料として。それで、けりがつくという保証さえもしないのです。私はひっかかったのです。それもまんまとひっかかったのです。というのは、事件は、何年も前に終ったというものではなかったからです。私は、気の毒な女と、私の子供に、まだ仕送りをつづけていたのです。今でも続けているのです。私は――いつまでも仕送りをするつもりなのです」モーガンはじっと指の爪をみつめた。
「私は金を払ってやりました」と、くやしそうに続けた。「ほんの一時凌ぎなのは分っていながら、払ったのです。とにかく、ひどいことをされたんです。私は、あのクラブで、かっとなりました。そして――あとはごぞんじのようなことになったのです」
「すると、ゆすりは、ずっと続いていたのかね、モーガン君」と、警視が訊いた。
「そうです――丸二年間です。あいつは、実に底なしの奴です。今でもよく分らないのですが、あいつは自分の仕事で、ずいぶん報酬を得ていたはずなのに、しかも、いつも金に困っていたようです。とにかくはした金ではなかったのです――私の払ったのは一度に一万ドル以下ということはなかったのですからね」
クイーンとエラリーは、思わず顔を見合わせた。クイーンが言った。「なるほど、そりゃ、実に大変だったね、モーガン君。フィールドの話を聞けば聞くほど、あいつを葬った奴に手錠をかけるのがいやになるな。それにしても、君の話をきくと、君が昨夜、フィールドとは二年も会っていないと言ったのは、明らかに真実ではないことになる。最後に会ったのはいつかね」
モーガンは記憶をたどっているようだった。「ああ、二か月ほど前です、警視」と、しばらくして言った。
警視は椅子の中で姿勢を変えた。「そうか……君が、昨夜、全部話してくれなかったのは残念だったな。無論、分っとるだろうが、君の話は警察からは絶対にもれる心配はないよ。しかも非常に重要な情報だった。ところで――もしや、アンジェラ・ルッソーという名の女を知らんかね」
モーガンは目をむいて「もちろん、知りませんよ、警視さん。聞いたこともありません」
クイーンはしばらく黙っていた。「≪牧師のジョニー≫という男を知っとるかね」
「その男なら情報があげられると思いますよ、警視さん。たしかに、共同経営しているころ、フィールドが、自分の、何か後ろ暗い仕事に、小悪党を使っていました。その男が執務時間が終ってから、こっそりと事務所にはいってくるのを何度も見かけました。それでフィールドに訊いてみたら、いつも、にやりと笑って言うのでした。≪ああ、あいつは、ぼくの友達で、牧師ジョニーというのさ≫しかし、それだけで、あいつの素性はよく分ります。二人の関係がどんなものだったかは、知らないので、お話できません」
「ありがとう、モーガン君」と、警視が言った。「よく話してくれたね。ところで――最後の質問だが、チャールズ・マイクルズという名に心当りはないかね」
「たしかに知ってます」と、モーガンはいまいましそうに「マイクルズは、表向きはフィールドの召使いです――あの男は用心棒で、実は手下なのです。そうでなかったら、私の眼鏡違いですがね。時々、事務所にやって来ました。そのほかのことは、あまり思い当りませんよ、警視さん」
「奴は、もちろん、君を知っとるね」と、クイーンが訊いた。
「多分――知っとるでしょう」と、モーガンが、いぶかしげに答えた。「私は口をきいたことは一度もありませんが、事務所へ来たときに、私を見ていることはたしかです」
「なるほど、じゃ、これで結構、モーガン君」と、クイーンは立ち上がりながら、ぼそりと言った。「大変興味があり、役に立つ話でした。それから――いや、さしあたり、もう何もないと思うがね。心配せんでいいだろうよ、モーガン君。しかし町を出ないようにね――なにか必要があればすぐ連絡とるからね。いいね、それを忘れんように」
「忘れやしません」と、モーガンがぐったりして言った。「それから――もちろん私の話は――私生児のことですが――世間に洩れやしないでしょうね」
「心配したまうな――大丈夫だ。モーガン君」と、クイーンが言った。それから二、三分後には、親子は往来に出ていた。
「やはりゆすりだったんですね、お父さん」と、エラリーがささやいた。「それで、ひとつ考えが湧きましたよ、分りますか」
「うん。わしも二つ三つ考えとる」と、クイーンが笑った。それから、言い合わせたように黙り込んで、急いで本部のほうへ歩いて行った。
第十二場 クイーン親子の正式訪問
水曜日の朝、ジューナは、黙って考えている警視と、むだ口をたたいているエラリーに、コーヒーを注いだ。電話が鳴った。クイーンとエラリーは電話にとびついた。
「おい。何をするんだ」と、クイーンがどなった。「わしに電話があるはずなんだ、それだろう」
「まあ、まあ、お父さん。書物気違いが、自分の電話を使う特典ぐらい認めてもいいでしょう」と、エラリーがやり返した。「仲よしの本屋が、珍本ファルコナーのことで、電話をよこしそうな気がするんです」
「おいおい、エラリー、だまらんか――」二人が、テーブルを挟んで、冗談半分にやり合っている間に、ジューナが、受話器をとった。
「警視――警視ですね。警視――」と、ジューナは薄っぺらな胸に受話器を当てながら、にやにやして「あなたの勝ちです」
クイーンが、いかにも勝ったぞといわんばかりに受話器をとった。エラリーは、すごすごと腰を下ろした。
「何かね」
「警視ですね。ストーツです。フィールドの事務所にいます」張りのある若い声がきこえた。「クローニンさんと代わります」
何事かを予期して、警視は眉をよせた。エラリーはじっと耳を澄ました。ジューナでさえ、やせた顔に猿みたいな好奇心を浮かべて、まるで、自分も重大ニュースを待っているかのように、部屋の隅に立ちすくんでいた。そう思ってみると、ジューナは、類人猿の兄弟じゃないかと思うほど似ていて――驚いたり、好奇心を燃やすような時の恰好といい、しぐさといい、いつもクイーン親子をよろこばせるのである。
やっと、甲高い声がきこえてきた。「こちらは、ティム・クローニンです、警視」と言った。「いかがですか。しばらく、お目にかかる折りがないでしたが」
「ぼくは少し腰が曲がり、白髪がふえたよ、ティム、ま、そのほかは相変らずだ」と、クイーンが答えた。「どういう用件かね。何か見つかったかね」
「ところで、実に奇妙なことなんですがね、警視」と、クローニンの声が高まった。「ごぞんじのように、ここ数年、私はフィールドの奴に目をつけてきました。もう忘れちまうほど前から、夢の中でまで追っかけまわした奴です。地方検事が一昨日の晩、あなたに話されたそうですから、それには触れる必要はないですがね。しかし、それほど長い年月、監視し、待機し、探索したのに、悪党として法廷に持ち込めるような証拠を、なにひとつ見つけることができなかったんです。しかも、奴は悪党ですよ、警視――首を賭けてもいいです……とにかく、もう一切が昔話ですがね。私は、できるだけフィールドを調べたんですから、これ以上、どうなりようもないのは分っていますがね。しかし、それでも――もしかしたら、どこかで、どうかして、尻尾《しっぽ》を出さないものでもないと祈らざるを得ませんでしたよ。そして、奴の個人的記録に手をかけることができたら、そのときはひっつかまえてやろうとね。ところが警視――お手あげです」
クイーンの顔に、失望の色が走ると、エラリーは、ため息をついて、立って、せかせかと部屋の中を歩きまわった。
「どうも仕様がないな、ティム」と、クイーンはつとめて元気に「気にするな――ほかにも手があるよ」
「警視」と、クローニンが、急に言った。「あなたは手詰りというわけじゃないんです。フィールドは実に抜け目のない奴です。私の見たところ、奴は実に抜け目がないばかりか、うまうまと監視の目をごまかして、裏をかく天才ですよ。そのものずばりです。ところで、書類はまだ半分しか調べていませんし、調べた分も、私が言うほど見込みがないものではないかもしれませんよ。フィールドの後ろ暗い仕事をにおわす部分が、どっさりあります――ただ、直接の有罪証拠がないというだけなんです。調べていくうちには、何か見つかるだろうと思っています」
「分った、ティム――しっかりやってくれよ」と警視がつぶやいた。「ひとつお手並みを見せてくれよ……リューインはおるかね」
「ここの事務主任ですね」クローニンは声を低くして「その辺にいるでしょう。なぜですか」
「目玉をむいていたほうがいいよ」と、クイーンが言った。「奴は見た目ほど間抜けじゃないと、睨んでいるんだ。その辺にあるほどの書類にも、うかつに手を出させちゃいかんよ。奴がフィールドの側役らしいのは、調べがついとる」
「分りました警視。またあとでお電話します」と、クローニンが受話器をもどす音が、かちりと聞こえた。
朝の十時半に、クイーンとエラリーは、リバーサイド・ドライブのアイヴス・ポープ邸の入口の巨大な扉を押しあけた。エラリーは、鹿爪らしいモーニング姿で公式に訪問しなければならないような雰囲気を感じて、石造の玄関を通されるとき、かなり不愉快になった。
事実、アイヴス・ポープ家の運命を秘めているこの邸は、クイーン家のように質素な趣味を持つ人間には、多くの点で尻ごみさせるようなものだった。だだっ広い古い石造建築で、ドライブウェイから、かなり引っこみ、相当広い芝生の中にそびえていた。
「かなり金がかかっとるな」と、警視は、邸の周囲の芝生の起伏を見渡しながらつぶやいた。庭園、あずまや、散歩道、木陰の休憩室――ほんの数ヤード先の、邸の囲りの高い鉄柵の外で、わめき立てている街からは何マイルも離れているように静かだ。アイヴス・ポープ家は、巨大な富を持って、アメリカ植民地時代からの、はるか昔にさかのぼる古い家系の錨をこのずばぬけた邸におろしていた。
玄関の扉を開けたのは、背中が鋼鉄製のようにそり返り、鼻が急角度で天井を向いている、頬ひげを生やした貴族だった。エラリーは感心して、この制服の貴族を見やりながら、玄関の広間へはいっていった。その間に、クイーンはポケットの名刺をさがしていた。かなりかかったが、背中のしゃちこばった奴は、石仏のように突っ立っていた。やっと警視は、赤くなりながら、しわくちゃな名刺を見つけ出した。そして、名刺を差し出した盆にのせて、執事がうやうやしく、どこか家の中へ引き退るのを見送っていた。
やがて、彫りのある大きなドアから、フランクリン・アイヴス・ポープの、たくましい姿が現われると、父がはっと威儀を正したので、エラリーはくすりと笑った。
実業家は二人のほうへ急いで来た。
「警視さん、クイーンさん」と、親しそうに呼んで「すぐ通っていただこう。長くお待たせしたかな」
警視は口ごもりながら挨拶した。一同は、渋い古風な家具がそなえてある天井の高い、床のぴかぴかな広間《ホール》を通り抜けた。
「時間どおりに来られましたな」と、アイヴス・ポープは、かたわきへよけて、大きな部屋へ二人を通らせた。「これが、集会のメンバーです。ここにいる連中は皆ごぞんじでしょうな」
警視とエラリーは、皆を見まわした。「あの紳士のほかは、皆ぞんじております――あれは、多分、スタンフォード・アイヴス・ポープさんでしょうな」と、クイーンが言った。「せがれはまだお近づきを願っていないと思いますので――ピールさん、でしたな――バリーさん――そして、もちろん、アイヴス・ポープさん」
かなり緊張した空気で、紹介がすんだ。「ああ、Q」と、地方検事サンプスンが、急いで部屋を横切って来て、小声で「間に合って、本当によかった。尋問に立ち合うあの連中は、ほとんど、ぼくには初対面だよ」
「あのピールという男は、ここで何をしとるのかね」と、クイーンが小声で地方検事に訊いた。その間にエラリーは部屋を横切って、向こう側の三人の青年たちと話し始めていた。アイヴス・ポープは、言いわけをして出て行った。
「ピールは、アイヴス・ポープ二世の友達で、もちろん、あのバリーとも、相棒さ」と、地方検事が答えた。「君が来る前のお喋りで分ったんだが、アイヴス・ポープの息子のスタンフォードが、妹のフランセスに、あの役者どもを最初に紹介したらしい。そんなわけで、フランセスはバリーに会って、恋におちたんだ。ピールも若い令嬢と、うまくいっているらしいよ」
「アイヴス・ポープと、貴族出の細君が、子供が平民と交際するのを、どのくらい喜ぶかね」と、警視は、興味深そうに、向かい側の若い連中を眺めた。
「すぐに分るさ」と、サンプスンがにやりとした。「アイヴス・ポープ夫人が、あの役者どもを見るたびに、蔑《さげす》みきった目をするから見ていたまえ。あの連中はボルシェビキ〔共産主義過激派〕のように扱われているのさ」
クイーンは両手を背中で組んで、面白そうに室内を見まわしていた。ここは図書室で、豪華本や珍本が、きちんと分類してガラス戸の中にぎっしり並べられていた。部屋の中央には大きな机が据えてあった。金持ちの書斎としては飾り気がなくて、警視には気に入ったらしかった。
「それに」と、サンプスンは続けた。「君が、月曜日の夜、ローマ劇場で、アイヴス・ポープ嬢に、婚約者と一緒についていたという、イーヴ・エリスも来ているよ。二階で、あととり娘のお相手をしているんだろうな。老夫人にはお気に入らんらしいが、二人ともかわいい娘だよ」
「アイヴス・ポープ家の連中が、役者どもと、一緒にいるときは、さぞ面白いながめだろうな」と、クイーンが苦々しく言った。
四人の青年が、クイーンのほうへ歩いて来た。スタンフォード・アイヴス・ポープは、すらっとして、よくみがきのかかった青年で、流行の服を着ていた。目の下に深いくぼみがあった。退屈でいらいらしているのが、クイーンにはすぐ分った。役者の、ピールとバリーは、すきのない身なりをしていた。
「クイーン君の話では、かなりむずかしい事件に取り組まれているんだそうですね、警視さん」と、スタンフォード・アイヴス・ポープが、ものうげに言った。「かわいそうな妹が、それにまきこまれているのを見て、ぼくらは非常に残念に思うんです。一体どうして、妹のバッグが、あんな男のポケットに、はいってたんでしょう。バリーは、フランセスの立場を心配して、いく日も眠れなかったそうです。本当ですよ」
「スタンフォードさん」と、警視は目をぱちくりしながら言った。「フランセスさんのバッグが、どうしてモンティー・フィールドのポケットに入ったかが分っていれば、今朝はここに来なかったはずですよ。この点も、今度の事件を、とてつもなく面白くしているものの一つです」
「それはみんな、君たちの楽しみでしょう、警視さん。しかし、フランセスが今度の事件に、ちょっとでも関係があるとは、まさか、考えないでしょうね」
クイーンは微笑して「まだ何も考えてはいませんよ」と、釘をさした。「妹さんが、なんとおっしゃるか、まだ聞いていませんからね」
「あの人はちゃんと説明しますよ、警視さん」と、スティーヴン・バリーが、疲労の色をうかべた美しい顔で言った。「ご心配はいりませんよ。あの人が何かしただろうと疑うなんて、ぼくは腹がたつんです――ばかげてて話になりませんよ」
「君の気持ちはよく分るよ、バリー君」と、警視はやさしく「この機会に、こないだの夜のわたしの行動について、お詫びをしておきます。わたしは少し――手きびしかったようです」
「ぼくもお詫びしなければなりませんよ」と、バリーがしらけた微笑をうかべて言った。「あの事務所では心にもないことを口走ったようです。怒りにまかせて――フランセスが――アイヴス・ポープ嬢が、失心するのを見たもんですからね――」バリーは、きまり悪そうに口をつぐんだ。
モーニング姿で、晴ればれと健康そうな顔色をしている大男のピールが、バリーの両肩にやさしく手をかけた。「大丈夫さ、警視さんは分ってくれるよ」と、快活に言った。「あんまりくよくよしたまうな――万事うまくおさまるさ」
「クイーン警視に任せなさい」と、サンプスンは警視のわき腹を、ふざけるようにこづきながら「警視はぼくの知っている連中の中で一番勇猛だが、心のやさしい警察官だからね――もしアイヴス・ポープ嬢が、この男の納得いくまで、妥当な程度でよろしいが、事情をはっきりさせることができれば、それで、ことは決着ですよ」
「さあ、それはどうかな」と、エラリーが考えこみながらつぶやいた。「何しろ、おやじは、人をびっくりさせるのが得意ですからね。ご令嬢といえば――」と、うらやましいというふうに微笑しながら、役者に叩頭《おじぎ》した――「バリー君、君は本当に幸運な人だね」
「母に会えば、その考えは変るでしょうよ」と、スタンフォードが、面倒くさそうに言った。「どうやら母上のお出ましだ」
一同はドアのほうを振り向いた。ひどく肥った夫人が、よたよたとはいって来た。白衣の看護婦が片手に大きなみどり色の薬瓶を持ち、太い片腕で、用心深く、夫人を支えていた。実業家は元気よく後に従い、その側には、黒い服を着、黒い鞄をかかえた、白髪の、若々しい顔付きの男がついて来た。
「キャザリーンや」と、アイヴス・ポープは、でっぷりした夫人が大きな椅子にからだを沈めるのをみて、低い声で言った。「あんたに話した紳士方が見えとられる――リチャード・クイーン警視と、エラリー・クイーンさんだよ」
クイーン親子はおじぎをした。アイヴス・ポープ夫人は近眼で、冷やかにじろりと見た。「ようこそ」と、甲高い声で「看護婦さんはどこ。看護婦さん、気分がよくないのよ」
看護婦が、かけつけて、みどり色の薬瓶のふたをとった。夫人は目を閉じて、深く吸入して、ほっと吐息をついた。実業家は手みじかに、白髪の主治医のヴィンセント・コーニッシュ博士を一同に紹介した。博士は早口に、挨拶して、執事の後ろに身をひいた。
「コーニッシュというのは、大した男だよ」と、サンプスンがクイーンにささやいた。「この辺で一番はやってる医者だが、同時に、本ものの科学者だよ」警視は眉を上げたが、何も言わなかった。
「おふくろを見ていると、医者になろうという興味がなくなるんですよ」と、スタンフォードがかなり大きな声で、エラリーにささやいた。
「おお、フランセス」と、ドアへ急ぐアイヴス・ポープの後から、バリーがとんで行った。その後ろ姿をアイヴス・ポープ夫人の冷たい目が、いまいましそうに見守っていた。ジェームス・ピールが、困ったようにせき払いをしてサンプスンに、何かぼそぼそ言った。
薄いモーニング・ガウンを着たフランセスは、女優のイーヴ・エリスの腕にぐったりともたれながら、青い、ひきつった顔で、部屋にはいって来た。強いて微笑しながら、低い声で、警視に挨拶した。ピールが、イーヴ・エリスの紹介をしてから、二人の女は、それぞれ夫人の側に坐った。老夫人はゆったりと椅子にかけたまま、まるで、いじめられる子を守る牝獅子《めじし》のように、あたりを睨んでいた。召使いが二人、そっとはいって来て、男たちの椅子を用意した。アイヴス・ポープがしきりにすすめるので、クイーンは大きな机の椅子についた。エラリーは、椅子を断わって、一同の横の、本棚に立ってよりかかっていることにした。
話し声がとだえたところで、警視は咳払いして、フランセスのほうを向いた。フランセスは、おどろいて目をぱちぱちさせてから、じっと警視を見返した。
「まず最初に、フランセスさん――そう呼ばせていただきますが」と、父親のような調子で、クイーンが口をきった。「月曜日の夜のわたしの行動を説明させてもらいます。それから、あなたにとって許しがたいほど手きびしく思えたことに対してお詫びします。お父上のお話ですと、モンティー・フィールド殺しのあった月曜日の夜のあなたの行動を説明して下さるそうですね。したがって、あなたに関するかぎり、今朝のこの小さな会談で、われわれの捜査からは事実上、除外されることになると思います。実は、あの月曜日の夜、あなたと会談するまでは、わたしにとってはあなたは単に多くの容疑者の一人だったにすぎません。そこで、わたしは、いつもそんな場合にやるように行動したのです。今のわたしには、あなたのような育ちと社会的地位を持つ婦人が、あのように緊張した状況の下で、警官に責めたてられると、今のあなたのような状態になるほどのショックを受けるものだということが、よく分っています」
フランセスは、弱々しく微笑して「もう、よろしいのよ、警視さん」と、はっきりした低い声で言った。「あんなにおばかさんだったのは私のほうが悪かったのよ。私にお聞きになりたいことは何でもお答えするつもりですわ」
「ちょっと待って下さいね」と、警視は少しのり出して、しんとしている一同を見まわして注意した。「皆さんに、ひとつはっきりさせておきたいことがあります」と、重々しく言った。「われわれがここに集まっているのは、はっきりした目的があるからです。その目的は、ご令嬢のバッグが死んだ男のポケットから発見されたという事実と、ご令嬢がどうやらこの状況のもとでは説明しにくいという事実との間に、必ずあるにちがいない、何らかの関係を発見することなのです。さて、今朝のこの仕事が、実を結ぼうと、結ぶまいと、ここでの話は、絶対に秘密にしていただくように、皆さんにお願いしておきます。地方検事がよく知っておられるように、わたしは、普通、こんなに多数の人前では取り調べはしないのです。しかし、この例外的な措置をとったのは、この事件にまき込まれた不幸なご令嬢に、皆さんが深い関心をよせられていると信じるからです。しかし、今日の会談が一言でも外部に洩れたら、もう私の手心を期待することはできませんよ。皆さんよくお分りですね」
「そりゃ、警視さん」と、若いほうのアイヴス・ポープが抗議した。「そりゃちょっと酷じゃありませんか。ぼくたちはみんな、話を知っているんですよ、どっちにしたって」
「そうでしょうな、アイヴス・ポープ君」と警視は苦笑しながら、たしなめた。「だから、わたしは皆さんが集まることを承知したんですよ」
一同が少しざわめいた。アイヴス・ポープ夫人が、とてもひどい言葉をなげつけそうに口を開いたが、夫に鋭く睨まれて、不満そうな身ぶりで、唇をへの字に結んだ。そして、フランセスの側に坐っている女優を睨むようにした。イーヴ・エリスは睨まれて赤くなった。看護婦が薬瓶を持って、獲物をねらう犬のように、夫人のそばで身構えていた。
「さて、フランセスさん」と、クイーンは、やさしく話をもどした。「目下の状況はこうなのです。わたしは、モンティー・フィールドという男の死体を調べました。かなり有名な弁護士で、あんな惨めなやり方で片づけられるまでは、面白い芝居を楽しんでいたらしいのです。ところが、その男の夜会服の上衣のすそのポケットから、夜会用のバッグが発見されました。それがあなたのものだというのを、中にあった二、三枚の名刺と、いく通かの私信によって、確信したのです。そこでわたしは≪ああ、また犯罪の蔭に女あり≫と考えました――当然のことです。それから部下に、あなたを呼んで来させて、もっとも疑わしい点を、説明していただこうと思いました。あなたは来られて――あなたのバッグを見、それが発見された場所を聞くと卒倒されたのです。そのとき、わたしは≪この婦人は何か知っているな≫と、悟りました――不自然な結論ではないでしょう。ところで、あなたが何も知らないのだということを、どうやってわたしに納得させて下さいますか――それに、あなたが卒倒したのは、ただ、事の成り行きのショックのためだったということもね。注意しておきますが、フランセスさん――わたしは、リチャード・クイーンとしてではなく、一警官として、事件の真相を調査しているのですよ」
「私のお話は、おそらく、ご期待なさるほど、参考にはならないかもしれませんわ、警視さん」と、フランセスは、クイーンの結びの言葉にしゅんとなって、静かに答えた。「どんなお役に立つかは、さっぱり分りませんけれど、私が、ごくつまらないと思うようなことでも、専門家のあなたにとっては重要かもしれませんわね……ですから、出来事を、あらまし申し上げますわ。
月曜日の夜、ローマ劇場に行ったのは、ごくあたりまえのことでした。まだ内々のことなんですけれど、バリーさんと婚約しましてから」――アイヴス・ポープ夫人は鼻を鳴らし、実業家は娘の黒い髪の上あたりをじっと見つめていた――「私は時々劇場に行って、芝居がはねてから、婚約者に会うことにしていました。そんな時には、バリーさんはいつも家まで送ってくれるか、近所の店へ、夜食をとりにつれて行ってくれるのです。たいていは、劇場で落ち合う前に、約束しておくのですが、時には、私の都合がつけば、不意に行ったりしました。月曜日の夜はそんな時のひとつでした……
私がローマ劇場に着いたのは、一幕目の終る数分前でした。もちろん≪拳銃稼業≫は、それまでに何度も見ているんですものね。私はいつもの席につきました――その席は何週間も前に、パンザーさんにことわって、バリーさんがとってくれたのです――その席について芝居を見かけたときには幕が下りて、第一回の休憩時間になりました。少しむし暑いし、空気もよくなかったので……私は、まず、階下の大休憩室の奥の婦人化粧室に行きました。それから、また一階にもどって、開いていたドアを通って路地に出ました。大勢の人々が外気を楽しんでいました」
フランセスは、しばらく間をおいた。書棚にもたれていたエラリーは、一同の顔を、細かく、観察していた。夫人は、巨大な水棲動物のように、あたりを見まわしていた。アイヴス・ポープは、まだフランセスの頭ごしに壁を見つめていたし、スタンフォードは爪をかんでいたし、ピールとバリーは、はらはらしながら、フランセスを見たり、フランセスの言葉がどんな効果があるかをはかるように、クイーンの顔色をうかがったりしていた。イーヴ・エリスは、こっそり手をのばして、フランセスの手をかたく握っていた。
警視は、もう一度、せきばらいした。
「どちら側の路地でしたか、フランセスさん――左側のですか、右側のですか」と、訊いた。
「左側のですわ、警視さん」と、フランセスはすぐ答えた。「ごぞんじのように、私の席は左M八ですから、左側の路地に出るのが自然ですわ」
「そうですな」と、クイーンは微笑しながら「どうぞ、続けて下さい」
「私は路地へはいって行きました」と、フランセスは、大分落ちついて続けた。「そして、知った人がだれもいないので、開いている鉄のドアの少し後ろの、劇場の煉瓦《れんが》の壁ぎわに立っていました。雨のあとだったので、夜の空気はとてもさわやかでいい気持ちでしたわ。そこに立って二分もたたないうちに、だれかがすり寄って来たのです。自然に、私は少し片側によけて、だれかが、よろめいたのだろうと思いました。でも、その人は――男の人ですが――またすり寄ってくるのです。私は少しこわくなったので、立ち去ろうとしました。するとその男は――手首をつかんで引きもどしました。私たちは半開きの鉄のドアの後ろにかくされていたので、だれもその男のすることには気がつかなかっただろうと思いますわ」
「なるほど――なるほど」と、警視は、おもいやり深く、つぶやいた。「全然見知らぬ男が、公の場所でそんなことをするのは、普通じゃありませんな」
「キスしようとしたようです、警視さん。顔をよせて、ささやきましたわ≪今晩は、お姐《ねえ》ちゃん≫――それで、もちろん、そうと分ったのです。私は少し身を引きました。そして、できるだけ冷静に≪放して下さい。さもないと声を立てますよ≫と、言ったのです。ウィスキーのにおいがぷんぷんして気分が悪くなるほどでしたわ」
フランセスは言葉を切った。イーヴ・エリスは、なぐさめるように、フランセスの手を軽くさすった。ピールは、むっとして立ちかけるバリーを、肘でおさえつけていた。「フランセスさん。妙な質問をしたいのですがね――本当にばかげていると思われるでしょうが」と、警視は椅子の背によりかかりながら訊いた。「良いウィスキーのにおいでしたか、わるいウィスキーのにおいでしたか……そら、お笑いになると思いましたよ」一座のものは、みんな、クイーンのおどけた顔を見て、くすくす笑った。
「そうね、警視さん――お答えしにくいけれど」と、令嬢は朗らかに、「私、お酒にはくわしくないんですもの。でも、考えてみると、どちらかといえば良いお酒のにおいのようでしたわ。良いお酒にしても――とても大変なにおいでしたわ」と、少し頭をあげて、いまいましそうに、言い終った。
「ぼくがいれば、すぐに銘柄《めいがら》を当ててやったのになあ」と、スタンフォードが、つぶやいた。
父親は唇をかみしめたが、じきに、にやりと笑いかけて、口許をゆるめた。そして、息子をたしなめるように頭を振った。
「それからどうしましたか。フランセスさん」と警視が促した。
「本当にこわかったわ」と、唇をふるわせて、令嬢がつらそうに「胸がむかむかしたりしましたから――その人の伸ばした手をふりほどいて、夢中で場内に、よろめいてはいりました。次におぼえているのは、自分の席に坐って、二幕目の開幕をしらせる舞台裏のベルが、けたたましく鳴るのを聞いていたことです。どうやって席にもどったか思い出せませんの。気が転倒してしまっていたんですわ。今、はっきりおぼえているのは、その出来事をスティーヴンに――バリーさんに――何も言うまいと考えていたことです。バリーさんが、その男を見つけて、ひどい目にあわせたがるといけませんからね。バリーさんは、とても、やきもち屋さんですからね」フランセスはやさしく婚約者へほほえみかけ、向うも、あわててほほえみ返した。
「月曜日の夜の出来事について、私の覚えていることは、これだけですの、警視さん」と、フランセスはつづけた。「あなたは、私のバッグが、どこでこの話と関係があるのかと、お訊きになるおつもりでしょう。そうよ――全然関係がないのよ、警視さん。なぜって、私、バッグのことは、なにひとつ思い出せないんですもの、本当に誓いますわ」
クイーンは椅子に坐り直した。「どうしてでしょうか、フランセスさん」
「本当に、支配人の事務所で見せて下さるまで、なくしたことさえ気がつかなかったのです」と、令嬢は、はっきり答えた。「覚えているのは、第一幕の終りに、席を立って、休憩室に行くとき、持って行ったことと、そこでパフを使うときに開けたことだけです。でも、そのまま化粧室に忘れてきたのか、その後、どこかで落したのか、今でも分りませんのよ」
「こう考えられませんかな、フランセスさん」と、クイーンが口をはさみながら、かぎたばこの箱をとり出したが、夫人のとがめるような目を見て、急いで照れくさそうにポケットにもどした。「その男が、すり寄ったあとで、路地に落したかもしれませんね」
令嬢は、ほっとしたように、顔が生き生きとしてきた。「そうですわ、警視さん」と叫んだ。「ずっと、そう考えていたんですけれど、なんだか、つじつまのあわない説明のような気がして――それに、私、からみつかれやしないかと――蜘蛛《くも》の糸みたいに――それがとても恐ろしかったので……お答えする勇気がなかったんですもの。本当は少しも覚えていないのですけれど、それなら、つじつまが合いそうじゃございませんか――手首を、つかまれたときに落して、あとから、まったく忘れてしまったとすれば」
警視は微笑して「それどころか、お嬢さん」と、言った。「それこそ事実を完全に説明する答えのようですよ。おそらくその男がバッグを路地で見つけて――それを拾って――生酔い気分の浮気心でポケットに入れて、後であなたに返すつもりだったのでしょう。もう一度、あなたに会うチャンスができますからね。その男は、あなたの魅力にすっかりひかれたらしいですね――そうにちがいないです」と警視がわざとぎこちなくおじぎしたので、すっかり元気をとりもどしたフランセスは、真っ赤になって、まぶしいような微笑を送った。
「ところで――もう一つ二つおたずねしますよ、フランセスさん。それで、尋問は終りです」と、クイーンが続けた。「その男の風体《ふうてい》をおぼえていますかな」
「ええ、覚えていますわ」と、フランセスが、すぐ答えた。「とてもどぎつい印象でしたものね、お分りになるでしょう。私より少し高くて――五フィート八インチぐらい――そして、ふとり気味でしたわ。顔はふくらんで、目の下は青黒くたるんでいました。私はあんな道楽者みたいな人は見たことがありませんわ。ひげはきれいに剃っていました。鼻がきわだって高いというほかは、これといって特徴のない顔つきでしたの」
「どうやら例のモンティー・フィールドらしいですな。よく分りました」と、警視が苦々しく言った。「ところで――よく考えて下さいよ、フランセスさん。その男と、前に、どこかで出会ったことがありますか――その男がすぐに分りましたか」
令嬢がすぐに答えた。「たいして考えるまでもありませんわ。はっきり申せますわ。あんな人は生れてから一度も見たことがございません」
しばらく言葉がとぎれたとき、エラリーが、冷たい単調な声をかけた。一同は、おどろいて、エラリーのほうへ顔を向けた。
「お話の途中で、失礼ですが、フランセスさん」と、エラリーは丁寧に言った。「あなたにすり寄った男が、どんな服装だったか、お気がつかれたかどうか、ぜひ伺いたいのですが」
フランセスは、ひとなつこい目をぱちぱちさせているエラリーに、ほほえみかけた。「私は、あの男の身なりに、特に注意していたわけじゃありませんけど」と、白くかがやく歯を見せて言った。「正式の夜会服のようでしたわ――シャツの胸にちょっとしみがあって――お酒のしみのようでしたわ――それに、シルクハットをかぶっていました。みなりのことを思い出してみますと、どちらかといえば、おしゃれで、趣味のいいほうでしたわ。もちろん、シャツのしみは別ですけれど」
エラリーは、魅せられたように、お礼を言い、本棚のほうへ引き退った。エラリーをじろりと見て、クイーンが立った。
「では、これで結構です、皆さん。この件は片づいたと思われてさしつかえないでしょう」
皆がいっせいに満足の叫びをあげて、倖《しあわ》せではちきれそうなフランセスのもとに殺到した。バリーとピールとイーヴ・エリスは、勝利の行進のようにフランセスを、つれ去った。スタンフォードは、淋しそうな微笑をうかべて、いたわるように、母親へ、腕をさしのべた。
「一巻の終りです」と、スタンフォードは、丁重に言った。「お母さん、卒倒する前に、ぼくの腕を」不服そうな、アイヴス・ポープ夫人はその腕に、ずっしりともたれかかって去った。
アイヴス・ポープは、クイーンの手をかたく握った。「これで、娘に関するかぎり、すっかり済んだものとお考えなのですな」と、訊いた。
「そう思いますよ、アイヴス・ポープさん」と、警視が答えた。「では、いろいろありがとうございました。そろそろ失礼させていただきます――たくさんの仕事を抱えておりますので。行きましょう、ヘンリーさん」
五分後には、クイーンと、エラリーと、地方検事サンプスンは、リバーサイド・ドライブを七十二番街のほうへ、並んで歩きながら、今朝の出来事を熱心に話し合っていた。
「ぼくは、この線の捜査が無事に済んで、うれしいよ」と、サンプスンが、思わず言った。「あの娘の勇気は、見上げたもんだね、Q」
「良い娘だ」と、警視が言った。「お前、どう思うかね、エラリー」と、川を見ながら歩いている、息子をふり向いて、ふと訊いた。
「ええ、きれいなひとですね」と、エラリーは、ぼんやりしていた目を輝かせて、すぐ言った。
「娘のことを訊いとるんじゃない」と、父親はいらいらして「今朝の仕事の概評さ」
「あ、そのことですか」と、エラリーは、ちょっと微笑して「イソップを気取ってもいいですか」
「いいよ」と、父親は、うなった。
「ライオンも」と、エラリーは言った。「小鼠の恩恵にあずかるかもしれませんよ」
第十三場 父と子
夕方の六時半、ちょうどジューナが夕食のテーブルの皿などを片づけて、クイーン親子にコーヒーを出そうとしているときに、玄関のベルが鳴った。何でも屋の小男は、ネクタイを直し、ジャケツをきちんと引き下げて(警視とエラリーは、面白がって目をぱちぱちさせながら見ていた)おもむろに、玄関の間のほうへ行った。やがて、二枚の名刺がおいてある銀の盆を支えて、もどって来た。警視は眉をよせて、名刺をつまみ上げた。
「もったいぶったな、ジューナ」と、警視はささやいて「これは、これは、プラウティ先生がお客をつれて見えた。お通ししなさい、茶目小僧」
ジューナは、引き返して、医務検査補と、痩せて、背が高く、丸禿で、短く刈ったあごひげをつけている、貧弱な男をつれて来た。クイーンとエラリーは立って迎えた。
「君からの連絡を待っていたよ、先生」と、クイーンは、にこにこしてプラウティと握手した。「私の間違いでなければ、こちらは、ジョーンズ教授ではありませんかな。よくお出で下さいました、博士」痩せた男は、おじぎした。
「これは、せがれで、私の守り神です、博士」と、クイーンは、エラリーを紹介した。「エラリー、こちらは――サデュース・ジョーンズ博士だよ」
ジョーンズ博士はぶよぶよの手を差し出した。「それじゃ、君が、父上やサンプスン君が、よく噂《うわさ》するご本尊だね」と、大きな声で「会えてうれしいよ」
「私もニューヨークのパラケルスス〔十五世紀のスイスの錬金術師〕で、高名な毒物学者に、ぜひお目にかかりたかったのです」と、エラリーは微笑した。「死の骸骨にものをいわせる光栄は、全部あなたのものですものね」エラリーはいかにも怖《おそろ》しそうに身ぶるいしてみせて、椅子をすすめた。四人の男は座についた。
「コーヒーでもいかがですかな」と、クイーンが言って、台所のドアのかげから目を光らせているジューナに、どなった。「ジューナ、おい、コーヒー四つだ」ジューナはにやりとして引っ込み、すぐに、熱いコーヒーを四杯持って、びっくり箱からとび出すように、とび出して来た。
メフィストフェレス〔「ファウスト」の中の悪魔〕張りのプラウティは、ポケットから、毒々しく黒い安葉巻をとり出して、もくもくと吸いはじめた。
「こんな雑談は、君たち閑人には結構かもしれないが」と、ぷかぷかやりながら、無愛想に言った。「ぼくは、今日は一日中、海狸《ビーバー》のように、女の胃袋の中身を分析していたんでね、家へ帰ってねむりたいよ」
「分りますよ」と、エラリーがつぶやいた。「ジョーンズ博士の援助を求めたとすると、モンティー・フィールドの死体解剖で、何か障害にぶつかったんでしょう。白状なさい、アエスクラピウス君〔ローマ神話の医術の神〕」
「白状するよ」と、プラウティは苦々しく答えた。「そのとおり――大障害にぶつかったのさ。ぼくも、職業がら、少し口はばったいようだがね。死んだ紳士淑女諸君の内臓の検査には、かなり経験があるつもりだが、実のところ今度のフィールドみたいなめちゃなやつにぶつかったのは、初めてなんだ。まじめな話、ジョーンズ君が、その真実を証明してくれるでしょう。たとえば、あの男の食道や気管の全体は、まるでだれかが火炎放射器で内側から、ゆっくり焼き上げたみたいになってるんだ」
「何でしょうか――水銀の二塩化物でも飲んだんじゃないですか、博士」と、正確な科学知識のないことを、ほこりにしているエラリーが訊いた。
「そうじゃないだろうな」と、プラウティがうなった。「まあ、ことの次第を話してみよう。毒物は全部毒物表と対照してみたんだが、こいつばかりは、石油の成分を持っていることは分るが、正確にはつきとめられないんだ。いやはや――てんで歯が立たんのさ。そこで、こりゃ内密だがね――医務主任は、ぼくが過労で、なまくらまなこになったと思ったらしく、御みずから、得意のイタリア人のお手を汚される仕儀に相なった。ところが、何と、諸君、結果は、ゼロさ。しかも、主任は、化学分析とくると素人じゃないんだよ。そこで、われわれは、かぶとをぬいで、その解決を、学識の泉におねがいしたんだ。先生のお話が、ふき出してくるでしょうよ」
ジョーンズ博士は、たしなめるように、咳払いした。「君、芝居がかった紹介で、恐縮するな」と、低く太い声で「そうです。警視。死体は私のところへ廻ってきました。今、ここで、真面目に言いたいのですが、あの死体から私が発見したものは、この十五年間に、毒物課が扱った、最も驚くべきものでした」
「ほほう」クイーンは、かぎたばこを吸いながら、つぶやくように「わが友、殺人犯の頭脳に敬意を表したくなるな。近頃は、何もかもが桁《けた》はずれだ。それで、何が見つかりましたか、博士」
「プラウティ君と、医務主任が、基礎実験をちゃんとやっといてくれたので助かりました」と、ジョーンズ博士は、細い足を組みながら言った。「ほぼ済んでいたんです。そこで、何より先に、怪しい毒物の分析にかかりました。怪しいというのは、つまり、犯罪にはあまり使われないということです。私が、どのくらい細かく調べたか説明しましょう――私は、推理作家連中が好んで使う、クラーレまで考えてみましたよ。この南米産の毒薬は、五冊の推理小説中四冊までが使うやつです。しかし、やたらに使われるこの系統の毒物では、役に立たなかったのです……」
エラリーが、椅子にのけぞって笑った。「もしあなたが私の職業を、やんわり皮肉られるつもりなら、申し上げときますがね、ジョーンズ博士、私の小説では一度もクラーレは使っていませんよ」
毒物学者は、まばたきした。「すると、あなたも作家なんですか。クイーンさん」と、フランス菓子をゆっくり噛んでいる警視のほうを見て、気の毒そうに言った。「こりゃ、どうもすみません……ところで、皆さん、珍しい毒の場合は、普通は、あまり手を焼かずに、決定できるものなんですよ――つまり、薬局方にある珍しい毒ならばね。もちろん、われわれが知らない珍しい毒物が、たくさんあります――特に東洋の毒にはね。
さて、かいつまんでお話すれば、私は、お手あげという不愉快な結論に達してしまったんです」と、ジョーンズ博士は、残念そうに笑って「いい気持ちじゃありませんでした。私が分析した毒物は、プラウティ君が言うとおり、ほとんど知られていない系統に属する、ある特質を持っていたが、そのほかのことはまるっきり見当がつかないんです。昨夜はほとんど徹夜で、レトルトやビーカーと首っぴきでした。あけがた不意に答えが出たんです」
エラリーとクイーンは、身じまいを正したが、プラウティは、ほっとして、ため息をつきながら、二杯目のコーヒーに手を出した。毒物学者は足をほどいて、前よりいっそういかめしく大きな声で言った。
「警視、あの被害者を殺した毒は、四《し》エチル鉛《なまり》といわれているものです」
科学者にとっては、こういう断定を下すのは、とても劇的なものらしく、ジョーンズ博士の声は深いひびきを持っていた。ところが、警視にとっては、ただ毒が分ったというだけだし、エラリーときたら「神話の怪物みたいですね」とつぶやく始末だった。
ジョーンズ博士は、微笑しながら「ほう、君たちは大しておどろかないね。じゃ、四エチル鉛のことを少し説明しよう。無色透明だ――厳密にいえば、物的外見はクロロホルムに似ている。それが第一点。第二点は――一種の匂いがある――ほんのかすかだが――はっきりとエーテルのように匂う。第三点は――恐ろしく強力だ。その強力さを――この化学物質が生物の細胞に、どんな強い作用をするか説明しましょう」
この時になって、毒物学者の言葉は、きくもの一同の注意をすっかりひきつけた。
「私は、普通の実験用の健康な兎をつかまえて――いいですか、ただ塗るだけですよ――耳の後ろのやわらかい部分に、薄めないままのその毒薬を塗ってみたんです。内服させたのじゃないですよ。ただ、皮膚に塗っただけです。血管に届くまでには、真皮を通して吸収されなければならないんです。そして、私は一時間兎を観察していました――それだけで、あとはもう観察する必要がなくなりました。自然死の兎と同じような状態で死んでいたのです」
「そんなに強力とは思えませんがね、博士」と、警視が、異議を申し立てた。
「とんでもない。いいかね、私の言葉を信用しなさい。凄いですよ。まったく健全な皮膚にただ塗っただけですからね――驚いてしまいましたよ。皮膚に少しでもけががあったり、内服させでもしたら、まったく話がちがいますよ。だから、この毒を飲んだフィールドの内臓がどんなことになったか、想像できるでしょう――しかも、うんと飲んだのだから」
エラリーは眉をしかめて考え込んだ。そして、鼻眼鏡のレンズをみがき始めた。
「それだけじゃなくて」と、ジョーンズ博士がつけくわえた。「私の知るかぎり――私は市警察に勤めてから何年になるか分らんほどだし、世界のほかの地方で行われている毒物学の進歩に、注意を怠っているわけでもないが――私の知るかぎり、四エチル鉛は、かつて犯罪の目的で使われたことは一度もありません」
警視は驚いて、のり出した。「その言葉は重要ですよ、博士」と、つぶやいた。「本当ですか」
「本当です。だから私もひどく興味があるんです」
「この毒で人を殺すのに、どのくらい時間がかかりますか、博士」と、エラリーが、ゆっくり訊いた。
ジョーンズ博士は顔をしかめて「それには、決定的な答えができないんです。というのは、これまでに、この毒の作用で死んだ人を、一人も知らないからです。しかし、ほとんど適確な推定ならできます。フィールドが、毒を飲んでから、最大限十五分か、二十分以上は生きていたとは思えませんね」
一同の沈黙は、クイーンが咳をしたので破られた。「博士、考え方では、毒が非常に珍しいものだということは、出所を突きとめやすいことですね。普通、どこにありそうですかな、教えて下さい。出所はどこでしょう。もし私が犯罪の目的でその毒がほしいとしたら、手掛りを残さずに手に入れるには、どこへ行ったらいいでしょうかね」
毒物学者の顔に、気味悪い微笑がうかんだ。「この毒物の出所をつきとめる仕事は」と、熱をこめて「あなたにお任せします。手に入れるのはね。四エチル鉛は、私にはっきり言えることは――いいですか、ほとんど世間には知れていませんが――ある種の石油製品には、たいがい含まれています。相当量のその毒を作る簡単な方法を知ろうと思って、ほんの少しばかりいじってみました。どうして、そんなことができたか想像つかないでしょ。その毒は、毎日使っているごく普通のガソリンから抽出できるのです」
クイーン親子は、ため息まじりに叫んだ。「ガソリンか」と警視が「こりゃ――一体、どうやってつきとめるんだ!」
「それが問題ですね」と、毒物学者は答えた。「私は、町角のガソリンスタンドに行って、車のタンクをいっぱいにして、家に帰って、タンクからガソリンを抜いて、実験室へはいって、たちまちのうちに、ほとんど骨も折らずに、四エチル鉛を蒸溜することができました」
「するとこうなりますね、博士」と、エラリーが、目をかがやかせて口をはさんだ。「フィールド殺しの犯人は実験室の経験があるか――化学分析か、何かそんなことの知識がある者ですね」
「いや、ちがう。家庭醸造用の≪蒸溜器≫を持っている者なら、だれでも、痕跡を残さずに、この毒を蒸溜することができます。その手順の要点は、四エチル鉛が、ガソリンに含まれているほかのどの成分よりも沸騰点が高いことです。ある温度で、ほかの成分を全部蒸発させるだけでいいのです。そうすれば毒が残るのです」
警視は、震える指で、かぎたばこをつまんだ。「あきれたな――犯人に帽子を脱ぐよ」と、つぶやいた。「それじゃ――博士――そんな知識を持っている奴は、多少毒物学を知っとるんじゃないですかな。何か特別の興味でもなければ、そんな毒のことを知るはずがない――したがって訓練を経た奴だな――その問題については」
ジョーンズ博士はふふんと鼻をならした。「警視、あなたにはあきれましたね。そのことなら、もう答えましたよ」
「それは、どういう意味かな」
「今、毒の作り方を話したばかりじゃありませんか。毒物学者から毒の製法を聞いたんだから、≪蒸溜器≫さえあれば、あなたにも作れるはずですよ。四エチル鉛の沸騰点のほかは、何も知識はいらないのです。自分でやってみれば分りますよ、クイーンさん。毒物を追って犯人をつきとめるなどというチャンスは、絶対にないと言ってもいいですね。おそらく、犯人は毒物学者同士の話か、その毒のことを知っている医者同士の話を立ち聞きでもしたんでしょう。あとはもうやさしいもんです。この犯人がそうだと言うのではありませんが、犯人はその点については化学者といっていいでしょうよ。しかし、私はただ、あり得そうなことをお話しているんです」
「ウィスキーにまぜてのませたんでしょうな、博士」と、クイーンは、力なげに訊いた。
「うたがいないですね」と、毒物学者が答えた。「胃の中には多量のウィスキーが検出されました。たしかに、犯人が被害者に毒を盛るには、たやすい方法ですからね。それに、近頃のウィスキーはたいてい、エーテルの匂いがしますよ。だから、フィールドは、おそらく、おかしいと気がつく前に飲んでしまったのでしょうね――たとえ、気がついてもね」
「毒の味がしなかったでしょうか」と、エラリーが、元気なく訊いた。
「味わったことがないから、はっきり言えませんがね、エラリー君」と、ジョーンズ博士は、面倒臭そうに「第一、あの男が味わったかどうかあやしいな――しまったと思うひまもなかったろう。とにかく、一度、のみこんでしまえば結果は同じことだよ」
クイーンは、火の消えた葉巻をくわえているプラウティのほうを見た。気持ちよさそうに寝こんでいた。「おい、先生」
プラウティは、ねぼけまなこを開けた。「ぼくのスリッパは――スリッパがみつからないんだ、畜生め」
一瞬、三人はぎょっとしたが、医務官補のおかげで、いっせいに、笑い出した。自分の寝言がはっきり分るほど正気づいたとき、医務官補も、皆と一緒に笑い崩れながら、言った。「ぼくは家へ帰ったほうがいいということを証明しただけだよ、クイーン君、聞きたいことがあったのかい」
「あのね」と、クイーンはまだ笑いながら「ウィスキーの分析の結果は、どうだったね」
「そう」と、プラウティは、すぐ正気になって「フラスクの中のウィスキーは、ぼくが今まで味利きしたのよりずっと上ものだった――ぼくもずいぶん長く味利きばかりやってるがね。最初、息の匂いで、フィールドが安酒を飲んだなと思いこんだのは、酒にまじっていた毒の匂いだったんだね。フィールドのアパートから、瓶のまま、届けてよこした、スコッチ・アンド・ライも、とびきり上等だった。おそらく、フラスクの中身も、瓶づめと同じだろうね。じっさい、両方とも輸入品にちがいないよ。ぼくは戦争以来、国産品ではあのクラスの酒にぶつかったことがないからね――つまり、戦前ものを貯蔵してあるのは別としてね……それから、ジンジャエールは間違いなしという私の報告を、ヴェリーがあなたに伝えただろうね」
クイーンは、うなずいた。「これで、片がついたようだね」と、クイーンが、うんざりして言った。「どうやら、四エチル鉛の件で、また、壁に突き当ったらしい。ところで、念のために、もう一度、たのむが――教授と協力して、毒の出所をつきとめるように努力してほしいんだ。わしの手許には、この件について、君たちより詳しく知っている人間はおらんのだ。闇くもに刀をふりまわすようなもので、おそらく手ごたえはないかも知れんがね」
「それはたしかですよ」と、エラリーが、つぶやいた。「小説家だと、いやおうなしに最後まで頑張らなければならないところですよ」
「ぼくはこれから」と、二人の医者が帰ったあとで、エラリーが、声をはずませて「ファルコナーの本を買いに本屋まで行って来ます」と言って、外套をとりに急いだ。
「おい」と、警視が、どなって、エラリーを椅子に引きすえた。「駄目だ。お前のほしがっとる、くず本は逃げ出しゃせん。ここに坐ってわしの頭痛のつき合いをするんだ」
エラリーは、ため息をして、革のクッションに腰をおろした。「人間の心の弱点をいくら探り出したって、役に立たないし、時間の無駄だと思ってるんですがね。うちの大将ときたら、また、ぼくに、無駄な考えごとを、させようとするんだからな。しようがないや。何を考えるんですか」
「わしは、何も無駄な考えごとをさせようと言うんじゃないぞ」と、クイーンが、うなった。「あんまり大げさな言い方をするな。わしはくさくさしとるんだ。お前にしてもらいたいのは、このいやにこみ入った事件を一緒に考えてほしいんだ、そうしてな――いいか、糸口を見つけたいんだ」
「そんなことだろうと思いましたよ」と、エラリーが言った。「どこから考え始めましょうか」
「お前じゃない」と、父親がたしなめた。「わしが今夜は語り手になるから、お前は聞き手にまわるんだ。そうして、メモをとっといてくれ。まず、フィールドから始めような。月曜日の夜、奴がローマ劇場に行ったのは、楽しみのためじゃなく、仕事のためだったとみる。どうだ」
「疑問の余地はないようですね」と、エラリーが言った。「フィールドの月曜日の行動についてのヴェリーの報告は?」
「フィールドは午前九時三十分に事務所に着いた――いつもの出勤時間だそうだ。正午まで執務。一日中、私的訪問者なし。十二時に、ひとりで、ウェブスター・クラブで昼食。一時三十分に事務所へもどる。四時まで精勤――その後、家へ直行したらしい。アパートの門衛と、エレベーター係が、四時半に帰って来たと証言しとる。そのあとは、マイクルズが五時に来て六時に帰ったという以外のデータは、ヴェリーにはとれなかった。フィールドは七時三十分に、殺されたときと同じ服装で家を出た。その日事務所で会った客のリストはあるが、大して役には立たんのだ」
「銀行勘定の少ない理由は?」とエラリーが訊いた。
「わしの推察するところでは」と、クイーンが答えた。「フィールドは株でしこたま損していたようだ――ちっとやそっとの額ではない。ヴェリーがちょっと調べただけでも、フィールドは競馬場の常連で、そこでもかなり|すって《ヽヽヽ》いたらしい。抜け目のない男の割りには、一枚上の奴にかかると、いい鴨《かも》だったらしい。とにかく、そんなわけで、個人勘定の現金が少なかったんだな。だから余計――われわれが見つけた、プログラムに書いてあった≪50,000≫という数字の意味が、いっそう、はっきりするわけだ。あれは金高なんだ、しかも、たしかに、劇場で会うつもりだった人間に、何らかの関係がある金にちがいない。
ところで、犯人はフィールドを、よく知っていた奴だと決めてもいいようだな。第一の理由は、フィールドは明らかに、何の疑念もなく、少なくとも問題なく、飲みものを受けとっていることだ。第二の理由は、二人の会合は、明らかに人目をごまかすという目的で、手配されたようだな――さもなければ、会合場所を劇場にきめるなどということは考えられない」
「よろしい。では、同じ問題を訊きますがね」と、エラリーは唇をとがらした。「なぜ、秘密の取引をするのに劇場をえらんだのでしょうか、どうせ、後ろ暗い仕事でしょうにね。公園のほうがいっそう秘密が守れるし、ホテルのロビーのほうが、ずっと便利でしょうにね。この点はどうですか」
「不幸にして」と、警視がおだやかに言った。「フィールド氏は、まさか殺されようとは、夢にも思っていなかったんだろうな。フィールドが気にしていたのは、ただ取引するときの自分の役割だけに注意を払うことだったんだろう。事実、フィールドが自分で、会合場所を劇場にきめたのかもしれない。おそらく、何かアリバイを作っておきたかったのだろう。あの男が何をしたかったのか、今のところではまだ分らないがね。ホテルのロビーでは――明らかに人にみられる危険が大きい。公園のような淋しい場所で、危険を犯すことは、いっそう、厭だったのだろう。そして、いまひとつ、あの男には、何か特別な理由があって、一緒にいるところを、ひとに見られたくなかったのかもしれない。覚えているだろう――われわれが見つけた半券で、相手がフィールドと一緒に、劇場に来たのではないことが分る。しかし、こんなことはみんな無駄な憶測だな――」
エラリーは考え込みながら、微笑したが、何も言わなかった。どうやら父は自分自身の見解に充分満足しているわけではないらしい。こんなことは、クイーン警視のように一本気な考え方をする人にとっては珍しいと、エラリーは考えていた。
しかし、クイーンのほうは話し続けた。「まあ、それはいいとして。フィールドと取引をした奴が、犯人ではなかったかもしれないという可能性も心に留めておかなくてはならんな。むろん、それは単なる可能性だがな。この犯罪はうまく計画されすぎているようだ。だから、もし取引の相手以外に犯人がいるとすれば、月曜日の夜の観客の中から、フィールド殺しに関係のある男を二人見つけねばならんことになるな」
「モーガンですか」と、エラリーが、何気なく訊いた。
警視は両肩をしゃくって「多分な。あいつ、昨日の午後話し合ったときに、なぜ、そのことを言わなかったのかな。ほかのことは全部白状したのにな。そうか、モーガンは、殺された男にゆすられて金を払っていたことを白状して、しかも、そいつと一緒に劇場にいたとなれば、状況証拠が、少しばかり、不利になりすぎると思ったのかもしれんな」
「こうも考えられますね」と、エラリーが言った。「≪50,000≫という金高をはっきり示す数字を、プログラムに書き残して死んだ男が、発見された。そして、サンプスンとクローニンから、その男が、悪い奴で、おそらく犯罪者的な性格の人間だと聞かされた。その上、モーガンから、その男、フィールドがゆすり屋だということも聞かされた。そこで、月曜日の夜、フィールドは、まだ分っていないだれかと、五万ドルの金をゆする交渉をするためか、あるいは、ゆすりの金を取り立てるために、ローマ劇場へ行ったと推定しても間違いないでしょう。そこまでは正しいでしょうね」
「その先は」と、警視は、むっとしてあいまいに言った。
「よろしい」と、エラリーは続けた。「もし、あの晩の、ゆすられた人物と犯人とが同一人であったとすれば、これ以上動機を探す必要はありません。月なみな動機です――犯人がゆすり屋フィールドの息の根をとめたにすぎません。しかし、もし、犯人と、ゆすられた者が同一人物ではなく、まったく別の二人だと推定すれば、われわれはまだ、犯罪の動機を探すのに一苦労しなければなりません。だがぼくの考えでは、そんな必要はない――つまり犯人とゆすられた人物は同一人だと思います。お父さんはどう思いますか」
「わしも、お前の考えに賛成したいよ、エラリー」と、警視が言った。「わしはただ、別の可能性もあると言ったまでで――確信があるわけじゃないんだ。じゃ、しばらく、フィールドがゆすった男と、犯人とが同一人物だという推定を押し進めてみよう……さて――|なくなった切符《ミッシング・ティケット》の問題を、はっきりさせたい」
「ああ――|かくし札《ミシング・チケット》ね」と、エラリーが、つぶやいた。「あれで、どんな手をつくるつもりかと思っていたんですよ」
「ふざけるんじゃない、悪い奴だ」と、クイーンが叱った。「わしの考えはこうだ。全部で八つの座席に関係がある――一つはフィールドの坐っていた席で、その半券はフィールドの身柄から見つかった。一つは犯人の坐っていたと思われる席で、その半券はフリントが見つけた。そして、あとの六つの座席は空席で、切符の売れていることは切符売場の報告で確かだが、その半券は、完全なのはおろかきれっぱしさえ、場内からも切符売場からも見つかっていない。まず最初に考えられるのは、その六枚の切符が、月曜日の夜には、全部劇場内にあって、だれかのからだについて出て行ったという可能性。これは、ほとんどないといっていいだろう。そりゃ、身体検査は、必ずしも切符のような小さなものを探し出すほど徹底的ではないが、しかし、まず不可能とみていいだろう。一番筋の通る説明は、フィールドか、犯人かが、八枚の切符を全部一緒に買って、二枚だけ使い、あとの六枚はとっておいて、取引のすむまでの短い時間、絶対人を近づけないようにしたということだ。この場合、最も利口な方法は買ったらすぐ、不用の六枚の切符を破りすてることだ。おそらく、フィールドか、犯人か、会合の手配をしたほうが、それをやったのだろう。そこで、われわれは六枚の切符は考えないことにする――なくなってしまって、決して手には入らないだろうからな。それからだが」と、警視が続けた。
「フィールドと犯人が別々に劇場に入ったのは分っている。このことは、二枚の半券の裏と表を重ね合わせてみると、切り口が合っていない事実から、はっきり推定できる。二人の人間が一緒に入るときには、たいてい切符は二枚一緒に出すものだから、二枚一緒にもぎられるものだ。ところで――この事実は、必ずしも、実際に二人が同時に来なかったのだということの説明にはならない。なぜなら、安全をはかる目的で、互いに知らんふりをして、前後して入ったかもしれないからだ。一方また、マッジ・オッコネルは第一幕の間は、LL三〇にはだれも坐っていなかったと言っとるし、オレンジエード売りの、ジェス・リンチは二幕目が始まって十分後に、LL三〇には、まだだれもいなかったと証言している。これは、犯人がまだ劇場に入って来ていなかったか、あるいは、前に入っていて、当然ほかの座席券で平土間の、ほかの場所に坐っていたかだ」
エラリーは、うなずいた。「わしにもお前ぐらいのことは分る」と、クイーンは念を押すように言った。「筋道を立てて考えてみると、どうも犯人は正規の時間に劇場に入ったらしくないようだな。二幕目が始まってすくなくとも十分は経ってから入ったらしい」
「その証明はできますよ」と、エラリーが、退屈そうに言った。
警視はかぎたばこを吸った。「うん――プログラムのいたずら書きのことだろう。その数字の意味だが。
930 815 50,000
五万という意味は分っている。ほかの二つの数字は金高よりも、時間を示しているんじゃないかな。≪815≫を考えてみよう。芝居は八時二十五分に始まっとる。どうやら、フィールドは八時十五分ごろ来たらしいし、もしそれより早く来たのなら、何かの理由があって、その時間に時計を見たのだろう。ところで、フィールドがそれよりおそく来るだれかと約束していたとすれば、フィールドがプログラムに、落書きをすることもありそうなことだな――まず≪50,000≫という数字は、これから行われる取引で、五万ドルゆすり取ることを考えていたことを示している。とすると、八時十五分はフィールドが取引のことを考えていた時間になる。そして、最後の九時三十分は――ゆすりの被害者が到着するはずの時間にちがいない。フィールドが、あんな落書きをしたのは、最も自然なことだったのだ。所在のないときに落書きをするくせのある人間ならだれでもそうするだろう。われわれにとっては運がよかった。というのは、そのことが二つの点を示してくれるからだ。ひとつは、犯人と約束した正確な時間だ――それは九時三十分だ。もうひとつは、実際の犯行時間に関するわれわれの推定を裏書きしてくれるのだ。九時二十五分に、リンチは、フィールドが生きていて、ひとりでいたのを見ている。九時三十分には、フィールドが書き残したように、犯人が来るはずだった。そして来たとみていいだろう。ジョーンズ博士の証言によれば、毒薬がフィールドを殺すのに十五分から二十分はかかるというし――九時五十五分にプザックが死体を発見しているから、九時三十五分ごろに毒が盛られたとみてよかろう。もし、四エチル鉛が利くのに最大限二十分かかったとすれば――九時五十五分になる。むろん、それよりずっと前に、犯人は、犯行現場を離れている。ここで忘れてならぬのは――われらが友プザックが、急に立って席を離れたくなるとは犯人の思い及ばなかったことだ。犯人は、フィールドの死体が、十時五分の幕間まで発見されないと思っていたのだろう。そうすれば、フィールドが何も言い残さずに死んでしまうまで、たっぷりと時間があったのだ。不明の犯人に運がよかったのは、フィールドの発見がおくれたから、ただ殺されたという以外、何も情報を聞き出されなかったことだ。もし、プザックが五分早く席を立っていたら、われわれの逃亡した友人は今ごろ、鉄格子の中に納まっていたろうな」
「すごい」と、エラリーは、うれしそうに微笑をしながら「すばらしいお話でした。謹んで敬意を表しますよ」と、つぶやいた。
「おい、顔を洗って出直せ」と、父親が苦々しげに言った。「ここでお前が月曜日の夜、パンザーの事務室で持ち出した一件について考え直してみたい――犯人が犯行現場を離れたのは九時三十分から、九時五十五分の間だが、全部の観客が帰宅を許されるまで、ずっと劇場内にとどまっていたという事実だ。お前が守衛たちや、オッコネルという女をしらべた結果や、ドアマンの証言や、ジェス・リンチが路地にいたことや、案内人どもの供述などから考えて、まず次の事実に間違いなさそうだ……つまり、犯人は場内にいたのだ。
この点では目下のところお手上げだ。そこで、捜査線に浮かび上がってきた連中を考えるより仕方がない」と、警視は、ため息をして「まず――マッジ・オッコネルは、二幕目の間じゅう、通路を出入りした者はひとりも見かけなかったと言っているが、真実を述べているのだろうかな。しかも、あの晩じゅう、ずっと、九時半から、死体の発見される十分か十五分前まで、LL三〇に坐った男がいるはずなのに、だれも見かけなかったと言っているのだ」
「そりゃ、むずかしい質問ですよ、お父さん」と、エラリーが真剣に「もしあの女が、嘘を言っていたとすれば、われわれは情報源を見落したことになりますからね。嘘じゃないでしょう――まさか――嘘なら、今ごろは、おそらく、犯人の名前を、喋らされるか、人相を供述させられるか、認定させられているはずですよ。それに、あの女が妙にそわそわしていたのは、愛人の≪牧師≫ジョニーが場内にいて、警官たちが、逮捕しやしまいかと、それが心配だったからだとも言えますよ」
「どうもそうらしいな」と、クイーンは、ぶつぶつ言った。「ところで、≪牧師≫ジョニーはどうだ。奴はあてはまらんかな――全然白かな。モーガンが供述したとおり、カッザネルリは、フィールドと密接な関係があったということを、いつも念頭においておかねばならんよ。フィールドは奴の弁護士だったし、おそらく、クローニンがかぎまわっとるフィールドの後ろ暗い仕事では、金をやって≪牧師≫に片棒かつがせていたかもしれない。もし、奴が、あの場にいあわせたのが偶然でないとすれば、フィールドの手びきでいたのか、二人が口をそろえて言うように、マッジ・オッコネルの手びきでいたのか、どっちだろう。わしは、ひとつ――」と、きゅっと口ひげをひっぱって「≪牧師≫ジョニーを締め上げてやろうかと思っとる――奴の面の皮は厚いから少々のことでは口を割らんぞ。それに、あのおちゃっぴいのオッコネルもだ――あいつの口から泥をはかせても、大して悪いことじゃあるまいよ、どっちみち……」
警視は、思いきりかぎたばこを吸い、エラリーが同情して笑い出すほど、むせた。
「それに、ベンジャミン・モーガンの古狸だ」と警視はつづけた。「奴は、あの怪しげな招待券の差し出し主と、いやらしい招待状について、真実を供述しているのだろうか。どうも都合よくできすぎとる。
それに、はなはだ興味ある女、アンジェラ・ルッソーもだ……女性には相すまんが、女という奴は、男の理知を濁らせるもんだ。あの女の供述だと――九時半にフィールドのアパートに来たというが、アリバイは完全なのかな。むろん、アパートの門番は、その供述を裏づけしとるが、門番を買収するのはわけもないことだ……あの女は、フィールドのことについて、供述した以上のことを知らんはずはない――特に奴の裏の仕事についてな。フィールドが十時に帰ると言ったというのは、うそじゃないかな。いいか、フィールドは九時半以後に、ローマ劇場で会合する約束があったらしい――奴は、本当に会合をすませて、十時までに帰れるつもりだったのだろうか。車でも、このこみようじゃ、家まで十五分か、二十分はかかるんだ。すると取引する時間は十分しかないわけだ――まあ、それでもできるだろうがな。地下鉄では、そう早くは帰れないだろうな。と同時に、あの女は、あの晩、劇場には全然いなかったということも忘れられんな」
「今に、あのイヴみたいな別ぴんで、てこずりますよ」と、エラリーが注意した。「あの女が、何か、隠していることは、はっきりしていますよ。あの、小面にくいふてくされぶりに気がついたでしょう。くそ度胸というだけのもんじゃありませんよ、何か知ってるんです、お父さん。ぼくは、あいつを見張っててやります――きっと、そのうちに、尻尾を出しますよ」
「ヘイグストロームにお守りさせとこう」と、クイーンは、ぼんやりと言った。「ところで、マイクルズは、どうだ。奴には月曜日の夜のアリバイがない。しかし、それは大したことじゃないな。劇場にはいなかったんだからな……しかし、どうも奴にはくさいところがある。火曜の朝、フィールドのアパートに来たときには、本当は何かを探しに来たのじゃないかな。あの部屋は徹底的に捜査したが――何か見落したかもしれんしな。奴が給料の小切手のことを話していたが、あれは、まっ赤な嘘だ。だがフィールドが死んでるからたしかめようがない。しかも考えてみれば――奴は、フィールドの部屋に来たら危険だということは当然、知っとったにちがいないのだ。フィールド殺しを新聞で読んでいれば、あの部屋に警察が手をまわすのをぐずぐずしているだろうなどと、考えるばかはない。だから奴は一か八かをねらったのだ――なぜそんなことをしたのだろう。分るかい」
「奴の刑務所入りと何か関係があるかもしれませんよ――きっと。ぼくがばらしたら、奴は、とても驚いたじゃありませんか」と、エラリーは、くすくす笑った。
「そうかもしれんな」と、警視は答えた。「ところで、ヴェリーの報告だと、マイクルズはエルミラ刑務所に入った。だが、奴の罪状ははっきりしない――刑務所の記録では軽犯罪だが、それより重大な犯罪らしいな。マイクルズは紙幣偽造の嫌疑であがったのだが――相当濃厚なものだったようだ。弁護士フィールドが、マイクルズをまったく別な罪状に、うまくすりかえたのだ――こそ泥ぐらいのことにな――そして、それっきり紙幣偽造事件は、沙汰やみになっとる。マイクルズは、どうも大物くさいぞ――しばらく尾行をつけなくてはなるまい」
「マイクルズには、ぼくにも考えがあるんですがね」と、エラリーが考えながらいった。「でも、しばらく、おいておきましょう」
クイーンには、聞こえなかったらしく、石造の暖炉でうなりを立てている炎をみつめていた。「それから、リューインだ。リューインのような男が、奴の陳述した以外のことを知らないとは考えられんよ。ほかのことを全然知らずに、雇主とあんなに密接に協力していたとは到底信じられない。何を隠しているのかな。もしそうなら、かわいそうに。――クローニンが、じきに奴をしめ上げるだろうよ」
「ぼくはクローニンは好きだな」と、エラリーが、ため息をして「一体どうしたら、あの男みたいに頑としてひとつの考えにこりかたまれるんだろうな……お父さんはこんなことを考えませんか。もしやモーガンとアンジェラ・ルッソーは知り合いじゃないかとね。互いに知らないと言っていますが、もし、知り合いだったら、とても興味あることですよ」
「おい、エル」と、警視がどなった。「面倒なことをほじくり出すんじゃないぞ。これ以上手を拡げないでも目下、手いっぱいなんだ……いいか」
ゆらめく炎のほうへ手足をのばして、警視はだまってくつろいだ。エラリーは、汁気の多い菓子を、満足そうに、ほおばった。ジューナは部屋の向こうの隅で、目を光らせていたが、こっそりとしのびよって、床にやせた尻をおとし、うずくまって二人の話に聞き耳を立てていた。
急に、父親は何か思いついたように、エラリーの目を見た。
「あの帽子だが……」と、クイーンがつぶやいた。「結局、話は帽子にもどるな」
エラリーは困った顔をした。「帽子にもどるのは悪いことじゃないですよ、お父さん。帽子――帽子――帽子か。どこに当てはまるかな。帽子のことは、いくらも分ってませんからね」
警視は椅子に坐り直した。そして、足を組み、元気をもりかえすように、かぎたばこをひとつまみ吸った。「そうだ。あのいやらしいシルクハットの問題を放っとくわけにはいかんな」と、元気よく言った。「われわれに、どこまで分っとるのかな。まず、あの帽子は、劇場から外へ出ていない。そのことが、おかしいじゃないか。あんなに洗い上げたのに、全然、手掛りがないということがあり得るかな。……観客がみんな帰ったあと、携帯品預り所には何も残っていなかったし、掃除のときも帽子をこなごなに破るか、焼きすてたのかもしれないと思わせるようなものは何も見つかっていない。事実、姿も影もなしなんだ。だから、エラリー、この問題について、ただひとつの、筋の通った結論といえば、帽子の探し場所が間違っているということになる。しかも、その場所がどこであろうと、月曜日の夜以来、念のために劇場を閉鎖させてあるのだから、帽子はまだそこにあるはずだ。エラリー、わしらは明朝、劇場へ行って、すっかりひっくり返してみよう。この問題に光明がさすまでは、夜の目も寝れんよ」
エラリーは黙っていた。「今、おっしゃったことには、必ずしも賛成じゃありませんよ、お父さん」と、しばらくして、エラリーが、つぶやいた。「帽子――帽子――どこか、何かが間違ってるな」と、もう一度、黙りこんだ。「いや、帽子こそ、この捜査の要点なんだ――それ以外に解決の方法はないですよ。フィールドの帽子の謎を解けば、犯人を指摘する重要な手掛りを発見できます。帽子の説明に目鼻がつけば、そのときこそ捜査が本筋にのっていると満足できるだろうと、ぼくは確信しているんです」
老人は力強くうなずいた。「昨日の朝以来、帽子の問題を考えるたびに、どうも、見当ちがいをしているような気がするんだ。しかも、水曜日の夜の今でも――まだ目当てがないんだ。必要な手はみんな打ったが――見込みがない。……」警視は炉の火をみつめた。「あらゆることがひどくこんがらがってる。わしはあらゆる糸ぐちをつまみあげてみたが、いまいましい理由のために、つなぎ合わせられないんだ――結びつけて――説明づけるわけにいかん……疑いもなく、筋が通らない部分は、シルクハットの件なんだ、エラリー」
電話が鳴った。警視がとびついた。ゆっくりした男の声を、注意深く聞いてから、元気よく応答して、やがて受話器をかけた。
「こんな真夜中に、喋る奴はだれですか、まるで身上相談所みたいですね」と、にやにやしながら、エラリーが訊いた。
「エドマンド・クリューだよ」と、クイーンが「覚えとるだろう、昨日の朝、ローマ劇場に行かせた男だよ。昨日と今日のまる二日かけて、あの劇場の建物には、どこにも秘密の隠し場所がないことを確かめて報告してきたんだ。この種の建築上の問題では権威者の、エディ・クリューが隠し場所がないと言うからには、絶対信じていいな」
警視はさっと立ち上がって、隅であぐらをかいているジューナをみつけた。「ジューナ、ねどこの支度だ」と、どなった。ジューナは、黙って、にこにこしながら、するりと室を横切って姿をかくした。クイーンは、上着を脱ぎ、ネクタイをいじりまわしているエラリーのほうへ、くるりと向いた。
「明日の朝の一番仕事は、ローマ劇場へ行って、もう一度、捜査をやり直すんだ」と、きっぱり言った。「お前に言っとくがな――わしは、もう、どじはふまんぞ。お前も用心しろよ」
エラリーは、片腕で、父の肩をやさしく抱いた。「さあ、おやすみなさい。はったりやさん」と、言って笑った。
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第三幕
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よい探偵というものは生得のもので、訓練によってできるものではない。ちょうど、あらゆる天才たちのように、民衆の中から、とび出してくるもので、慎重に訓練された警察から生み出されるものではない。私が、かつて知っていた一番すぐれた探偵は、密林の中から一歩も外に出たことのない、みにくい老まじない師だった……彼が冷厳な論理に、三つの触媒《しょくばい》を使うことができたのは、真に偉大な探偵としての特異の天分であった。その触媒とは、事件に対する異常な観察力、人間心理への知識、人間精神に対する洞察力である。
[#地付き]――ジェームス・レディックス(二世)著「探偵入門」
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第十四場 帽子の大捜査
九月二十七日の木曜日、ローマ劇場で事件が起こってから三日目の朝のこと、クイーン警視とエラリーは、早く起きて、急いで外出の支度をした。二人は、不服そうにジューナが見ている前で、ありあわせの朝食をかっこんだ。ジューナは、ベッドからたたき起こされて、彼が得意としているクイーン家の食堂の礼服をあわてて着せられたのである。
二人がまずそうにパンケーキをもぐもぐやっているとき、警視は、ジューナに命じて、ルイス・パンザーを電話に呼び出した。やがて、警視は、電話で楽しそうに話し出した。「おはよう、パンザー。こんなに朝早くから起こしてすまないんだがね……どうやら重大なことが起こりそうなんで、君に手伝ってほしいんだ」
パンザーは、ねむそうに、ぶつぶつと承諾した。
「すぐローマ劇場に行って、扉を開けてもらいたいんだ」と、警視はつづけた。「あまり長くは劇場を閉鎖させないつもりだと言っといたが、どうやら、君の稼げる時が来たらしいよ。事件で、宣伝が利いているからね。いつ再開できるか、はっきりしたことは今言えんがね。今夜は芝居が開演できるようになるかもしれんのだ。行ってくれるだろうね」
「そりゃすばらしい」と、パンザーの熱のこもった声が伝わってきた。「劇場へすぐ行ってほしいんですね。三十分以内に行きます――まだ服を着ていないので」
「結構だ」と、クイーンが答えた。「言うまでもないが、パンザー――まだ、だれも内へ入れるわけにはいかない。鍵をあける前に、歩道でわれわれを待っていてくれ。それから、だれにも気づかれんようにしてくれ。あとから劇場で話すが……ちょっと待って」
警視は受話器を胸でふさいで、しきりに手で合図するエラリーを、何だと言うふうに見た。エラリーはだれかの名を、声を出さずに唇で言い、警視は分ったと、うなずいた。そして、再び電話をつづけた。
「もうひとつ、すぐやってほしいことがあるんだが、パンザー」と、つづけて「君は、あの年増のフィリップス夫人と連絡がつくかな。できるだけ早く、劇場に来てもらいたいんだ」
「いいですとも警視。できるだけやってみます」と、パンザーが言った。クイーンは、受話器をかけた。
「これで、まずまずだ」と、言って、手をもみ、ポケットから、かぎたばこ入れを出しかけて「さてさて、ウォルター・ローリー卿、並びに、この汚い草の葉のために戦った開拓者諸君の骨折りに祝福あれだな!」と、うれしそうに鼻をならして「一ぷくして出かけよう、エラリー」
警視は、もう一度、受話器をとりあげて、刑事部屋を呼び出した。てきぱきと命令して、がちゃんと受話器をテーブルにもどすと、エラリーをせきたてて、上衣を着せた。ジューナは悲しそうに二人を見送った。クイーン親子がニューヨークの裏町へ、ぶらりと出かけるのに付いて行きたいと、いつも、警視にたのんでいたからだ。しかし、青年教育に一家言を持っている警視は、きまってそれをことわっていた。そこで、自分の保護者を、石器時代人がお守りをあがめるようにあがめているジューナは、駄目なものは駄目とあきらめて、いずれは許されるだろうとその日を待っていた。
うすら寒く、じめじめした日だった。エラリーと父親は、ブロードウェイを地下鉄のほうへ歩きながら、外套の襟をたてた。二人とも黙りこくっていたが、顔は期待で輝いていた――二人とも不思議なほど似ているが、まるで違った表情だ――それは、胸のおどるような、神のおつげがある日の前兆のようだった。
ブロードウェイと、縦横のビルの谷間は、朝の冷たい風に人かげもなく、二人は四十七番街をローマ劇場へ向かって足早に歩いて行った。ロビーのガラス扉が閉まっている前の歩道を、だらしなく外套を着た男が、ぶらぶらしていた。もう一人の男は、往来と左側の路地を仕切っている垣に、気持ちよさそうに、よりかかっていた。劇場の正面ドアの前に立って、フリント刑事と話しているパンザーのずんぐりした姿が見えた。
パンザーは興奮して手をふりながら「よかった、よかった」と大声で「ついに閉鎖がとけるんですね……とてもうれしいんですよ、警視さん」
「ああ、それはまだはっきりせんがね」と、老人は微笑して「鍵を持っとるかね。おはよう、フリント。月曜の夜から、少しは休んだかい」
パンザーは大きな鍵束をとり出して、ロビーの正面扉を開けた。四人は中へ入った。色の黒い支配人は、内扉の鍵をがちゃがちゃいわせて、やっと、内扉をあけた。暗い平土間が、目の前に口をひろげた。
エラリーは身ぶるいした。「メトロポリタン・オペラハウスか、タイタス王の墓なら、いざしらず、こいつは、ぼくが今までに足をふみ入れた中では、一番陰気な劇場《こや》だな。殺された男にとっては実に似合いの墓場だ……」
散文的な警視は、エラリーを暗い平土間の口へおしやりながら、ぶつぶつ言った。「いいかげんにしろ。みんなを、おじけづかせる気か」
先頭を急いだパンザーが、電源のスイッチをいれた。客席が、大きなアーク燈や、シャンデリアの光りで、いつもの見なれた姿に浮かび上がった。エラリーの連想的な言葉も、父親が思うほど、気違いじみていないのが分った。長い椅子の列は、うすよごれた防水布で覆われ、陰気な影が、ほこりをかぶっている敷物の上に縞《しま》をえがき、がらんどうの舞台の奥の白い裸壁が赤いビロードの波間にうかぶ、不気味な|しみ《ヽヽ》のようだった。
「せっかく防水布がかけてあるのに気の毒だが」と、警視がパンザーにつぶやいた。「めくらなくちゃならんよ。平土間を、ちょっと捜査しなければならんのでね。フリント、外にいる二人の男を呼んでくれ。市から金を貰ってるだけの仕事はさせてもいいだろうからな」
フリントは急いで出て、すぐ劇場の前を警備していた二人の刑事をつれて来た。警視の指図で刑事たちは座席を覆っているゴム引きの大きなシートを、片側にめくって、クッションのついている椅子の列をむき出した。一番左の通路のはじに立っていたエラリーは、月曜日の夜、この劇場で、メモや略図を書きこんだ小さな本をポケットからとり出した。そして、下唇をかみながら、調べていた。ときどき、劇場の配置をたしかめるように見まわした。
クイーンが、座席の後ろで、いらいらと歩きまわっているパンザーのところへ急いで行った。「パンザー、ここで一、二時間手がかかりそうなんだ。それに、うっかりして、余分の人間をつれてくるのを忘れた。君にたのみたいことがあるんだがな……すぐ手配しなければならんことを思いついてね――大して手間ひまはかからないんだが、手伝ってくれると大助かりだよ」
「いいですとも、警視さん」と、小柄な支配人が答えた。「よろこんで、お手伝いさせてもらいますよ」
警視はせきばらいした。「わたしが君を小僧っ子のように使うとは、思わないでくれたまえ、ねえ君」と、言い訳をするように言って「あの連中は、こんな捜査になれているから、手をはずさせたくないし――一方、下町でこの事件を別の方面から調査している地方検事の二人の部下から、少しばかり有力な資料が得たいんでね。すまないが、わたしの手紙を、その男――クローニンという名の男――のところへ持って行って、渡してくれる包みを、持って来てもらえないかな。こんなことは、頼みたくないんだがね、パンザー君」と、つぶやいた。「重要なことなんで、ただの使いじゃ心細いんだ――弱ったよ、にっちもさっちもいかんのでね」
パンザーは、愛想よくにっこりした。「よく分りました、警視さん。何でもやりますよ。いま手紙を書かれるなら、事務室に紙も封筒もあります」
二人はパンザーの事務室へ行った。五分たって、また観客席にもどって来た。パンザーは封をした封筒を持って急いで町に出て行った。クイーンはそれを見送ってから、ため息をつきながら、フィールドの殺された椅子の腕に腰かけて、まだ略図を調べているエラリーのところへ近づいた。
警視は一言二言《ひとことふたこと》、エラリーにささやいた。エラリーは微笑して、父の背中をぽんとたたいた。
「さて、仕事にかかろうかな、エラリー」と、クイーンが言った。「フィリップス夫人という女に、連絡がついたかどうかを、パンザーに訊くのを忘れとった。多分ついたんだろう、さもなければ、何とか言うはずだからな。一体、あの女はどこにいるんだ」
警視は、防水布をめくる骨折り仕事で、二人の刑事を手伝っているフリントを手招きした。
「フリント、今朝はひとつ、流行の美容体操をやってもらおう。二階席にあがって精出してくれ」
「今日は何を探せばいいんでしょうか、警視」と、肩の四角い刑事がにこにこして「月曜の夜より、|つく《ヽヽ》といいんですがね」
「帽子を探すんだ――しゃれ者がかぶるような、ぴかぴかの上物だよ、シルクハットだ」と、警視が言った。「しかし、もしほかのものでもみつけたら、大声で呼ぶんだ」フリントは、大理石の階段を二階席めざして、かけあがった。クイーンは頭をふりながら見送っていた。「気の毒にあの男、またがっかりするだろうよ」と、エラリーに言った。「しかし、上には何もないことを確かめねばならんのだ――それに、月曜日の夜二階席へ行く階段を見張っていた案内人のミラーが真実を言っているかどうかもな。ついて来い、怠け者!」
エラリーは、ぐずぐず外套をぬいで、小型本をポケットにおしこんだ。警視はアルスター外套をぬいで、息子の先に立って通路に入った。そして、並んで、観客席の最前列のオーケストラ席から捜査を始めた。何も見つからないので、また平土間にもどり、エラリーは場内の右側、父親は左側を、ゆっくりと、組織的、徹底的に洗いはじめた。椅子を持ちあげたり、ビロードのクッションを、警視が胸ポケットから手品のようにとり出した長い針でさしてみたり、ひざをついて敷物を残るくまなく懐中電灯で照らしてみたりした。
防水布をめくり終えた二人の刑事は、警視の手短な命令で、ひとりずつ場内の両側に分れて、椅子席を調べていった。
かなり長いこと、四人の男は黙って働いていた。クイーン警視のはあはあいう息づかいだけがきこえた。エラリーは手早く、能率的に片づけ、父親のほうはゆっくりやっていた。ひとつの列の捜査を終りかけて、真ん中近くで顔が合うと、互いに頷き合い、頭を振って、次の列にかかるのだった。
パンザーが出かけてから二十分ほど経ったころ、捜査に熱中していたエラリーとクイーンは、電話のベルが鳴り出したのに驚いた。静かな場内に、ベルの音は、けたたましく鳴りひびいた。父と子は、ぽかんとして、一瞬顔を見合ったが、やがて父が笑い出して、急いで通路を、パンザーの事務室へ向かった。
警視はすぐもどって来て、微笑しながら「パンザーからだ」と、告げた。「フィールドの事務所へ行ってみたら閉っていると言うんだ。無理もない――まだ九時十五分過ぎだからな。クローニンが来るまで待てと言っといた。長くもかかるまいよ」
エラリーは笑って、また二人で捜査にかかった。
十五分ほど経ったころ、二人はほとんど捜査を終っていた。そのとき、正面のドアが開き、黒い服をつけた小柄な老婦人が、アーク燈の光りをまぶしそうにして立ち現われた。警視はその婦人のほうへとび出して行った。
「フィリップス夫人ですね、そうでしょう」と、やさしく言った。「こんなに早く来て下さって本当にありがとう。あなたはクイーン君を、おぼえていらっしゃるでしょう」
エラリーは、心からほほえみながら、進み出て、丁寧に腰をかがめた。フィリップス夫人は本当に愛すべき老女性だった。小柄で、いかにも母親らしかった。輝くばかりの銀髪や、やさしい様子が、すぐにクイーン警視の心をやわらげた。警視は、中年婦人の前に出ると、感傷的になるくせがあった。
「ぞんじておりますわ、クイーンさん」と、夫人は手を差し出しながら言った。「月曜日の夜、年よりの女に、とても親切にしてくださいましたものね……でも、ひどくお待たせしちゃったのじゃありませんかしら」と、やさしく言って、警視のほうを向きながら「パンザーさんが今朝お使いを下さったんですよ――電話がございませんのでね。舞台がありますときは留守にしますのでね――大急ぎで参ったんですのよ」
警視は顔をほころばせた。「女性としては、とても早いです、本当に早いですよ、マダム」
「父はむかし、おせじ上手になるおまじないに、アイルランドのブラーニーの石に口づけしたことがあるんですよ、フィリップスさん」と、エラリーが、まじめくさって「言うことを信じちゃいけません……平土間の捜査の残りをお父さんに任せても、かまわないでしょうね。ぼくは、フィリップスさんと、少しばかりお話がしたいんです。ひとりで捜査をかたづける体力があるでしょうね」
「体力だって」と、警視は噴笑《ふきだ》して「お前たちは、あの通路に行って、勝手にやるがいいさ、エラリー……フィリップスさん、せがれの仕事をできるだけ手伝ってやって下さい、たのみます」
エラリーは、ほほえむ銀髪の夫人の腕をとって、舞台のほうへみちびいて行った。クイーン警視は、考えこみながら二人を見送り、肩をすくめて、やがて捜査をしに引き返した。しばらくして、警視が腰を上げて、ふと見ると、エラリーとフィリップス夫人は、まるでリハーサルをやっている二人の役者のように、舞台にすわって熱心に話し合っていた。クイーンは椅子の間をゆっくりと行き来し、空席を出たりはいったりして、得るものもなく、がっかりしながら最後の二、三列目に近づいた。そして、舞台を見ると、二つの椅子には人影がなかった。エラリーと老婦人はどこかへ消えていた。
クイーンは、やっとLL三二左の席にたどりついた――モンティー・フィールドの殺された座席だ。綿密にクッションを調べた。あきらめの色が目にうかんだ。ぶつぶつ言いながら、ゆっくりと劇場後部の敷物を歩いて、パンザーの事務室へはいった。ちょっとしてから出て来て、宣伝係ハリー・ニールスンが使っている小部屋へ向かった。その小部屋にしばらくいて、出て来ると、切符売場へ行った。調べがすむとドアを閉めて、平土間の下の一般休憩室に通じる劇場の右側の階段を降りて行った。かなり時間をかけて、すみずみをのぞきこみ、壁のくぼみを残らず調べ、屑箱をあさりつくしたが――まったく得るものがなかった。噴水の下の大きな水盤は、特に注意して調べた。水底を覗きこんで、何にもないのが分ると、ゆっくりそこを離れた。それから、ため息をつきながら、婦人化粧室と金文字でしるしてあるドアを開けて、入った。やがて出て来て、男子手洗所の、はね戸を押して入った。
地階の精密な捜査を済ますと、また階段をゆっくり上がって行った。平土間では、ルイス・パンザーが、疲れた顔を少し赤らめて、得意満面、にこにこしながら待っていた。小男の支配人は、ハトロン紙にくるんだ小さな包みを持っていた。
「うまくクローニンに会えたね、パンザー」と警視は言いながら急ぎ足で近づいた。「本当にご苦労だったね――お礼の言いようもないよ。クローニンがよこした包みだね」
「そうです。いい人ですね、クローニンさんは。あなたに電話してから、いくらも待ちませんでした。クローニンはストーツとリューインという人を連れて来ました。十分も待たせませんでしたよ。これが役に立つといいですね、警視さん」と、パンザーはほほえみながら「私も、謎ときに役に立ったと思いたいんですよ」
「役に立つって」と、警視は、支配人から包みを受けとりながら大声で「これが、どんなに役に立つか分らんのだろう。いずれ、くわしく話すよ……ちょっと失礼するよ、パンザー」
小柄の男は、ちょっとがっかりしたようにうなずいた。警視はにやにや笑いながら、暗いすみにさがって行った。パンザーは肩をすくめて、事務室へ姿を消した。
パンザーが帽子と外套を脱いで出て来ると、警視は包みをポケットに押し込んでいた。
「お望みのものが手に入りましたか」と、パンザーが訊いた。
「ああ、そう、そうだとも」と、クイーンは手をもみながら「ところで――エラリーはまだもどらんようだ――もどってくるまで、君の部屋でしばらく暇をつぶそう」
二人はパンザーの個室に入って腰かけた。支配人は長いトルコたばこに火をつけ、警視は、かぎたばこ入れをとり出した。
「差し出がましいかもしれませんが、警視さん」と、パンザーは太く短い脚を組み、たばこの煙をはきながら、さりげなく訊いた。「事件はどうなってるんでしょう」
クイーンは困ったように首をふって「まずいね――まずいよ。捜査が本筋に乗っとらんような気がする。実は、君になら言ってもかまわんのだが、ある品物をつきとめないと、失敗しそうなのだ……本当につらいよ――こんなむずかしい捜査に当たったことは一度もない」
警視は、かぎたばこ入れを、ぱちんと閉めながら、八の字をよせた。
「お気の毒ですね、警視さん」と、パンザーは同情して舌を鳴らした。「私はただ――そうだ。われわれは法の要請に対して個人的な好奇心を動かしてはいけないんですがね。部外者に話してもかまわないのなら、うかがいたいんですが、警視さんの探しているものは、何ですか」
クイーンはうれしそうに「かまわんとも。君には今朝からいろいろ世話になったしね――なんてこった! 今までこんなことに気がつかないなんて!」パンザーは熱心に身をのり出した。「君はローマ劇場の支配人を何年勤めているのかね、パンザー」
支配人は眉をあげて「創立以来です」と言った。「その前は四十三番街の、あの古いエレクトラの支配人でした――あれもゴードン・デーヴィスさんのものです」と、言い足した。
「そうか」と警視は深く考えこんで「じゃあ、君はこの劇場のことは一から十まで知っとるだろうな――建物については、建築屋と同じぐらい精通しとるだろうな」
「むしろ建築屋よりくわしいですよ」と、言って、パンザーはそり身になった。
「そりゃすばらしい。じゃあ、ちょっと訊かしてもらうがね、パンザー……もし君が何かを隠すとする――たとえばシルクハットだ――この建物の中にだよ。建物全体を、どんなに捜してもみつからないようにするには、どうするね。君ならどこに隠すね」
パンザーは、たばこを見つめて、考えながら顔をしかめた。「とっぴな質問ですね、警視さん」と、やがて言った。「しかも答えにくいですね。私は劇場の設計をよく知っています。建築にかかる前に建築家と打ち合わせました。だから、はっきり言えるのですが、最初の青写真には、中世紀風の隠れ家《が》や、抜け道や、秘密の戸棚などはありませんでした。シルクハットのような、比較的小さなものを隠す場所なら、いくつか数えられますが、本気になって徹底的に捜査しても分らないところはひとつもありません」
「そうか」と、警視はがっかりして、指の爪をじっと見ていた。「やはり駄目だな。知ってのとおり、この建物は上から下まで、くまなく捜したが、手掛りがなかったんだ……」
ドアが開いて、エラリーが、ちょっと眉をしかめながらも、明るくほほえんで、入って来た。警視は、ひどくいぶかしげに、エラリーを見つめた。パンザーは、はっきり親子二人だけにして出て行こうとするように、ためらいながら立ち上がった。クイーン親子は、目でうなずき合った。
「いいんだよ、パンザー――行かんで」と、警視がきっぱり言った。「君には何も隠すことはないんだ。坐りたまえ」
パンザーは腰を下ろした。
「ねえ、お父さん」と、エラリーは机の角に腰かけて鼻眼鏡をはずしながら「パンザーさんに、今夜から芝居を開演することを報せてあげてもいいじゃありませんか。さっき、パンザーさんのいないときに、今夜から興業の再開を許可することを決めたじゃありませんか」
「忘れとったよ」と、警視もとぼけて受けた。だが、こんな決定をきくのは警視には不意打ちだった。「ちょうど、ローマ劇場の封鎖を解こうとしていたんだ、パンザー。ここではこれ以上何もすることがないから、もう君の営業を差しとめる理由もないんだ。今夜から再演していいよ――実は、われわれも、ぜひ、芝居を見たいんだよ。なあ、エラリー」
「ぜひどころじゃない」と、エラリーはたばこをつけながら「無理にでも見たいんですよ」
「そうだな」と、警視はきびしい声で「無理にでもそうしたまえ、パンザー」と、低く言った。
支配人は椅子からとび上がって顔を輝かした。「まったくすばらしいことですよ」と大声で「すぐデーヴィス氏に電話で朗報を報せましょう。もちろん」――と、うつむいて――「こう急では、今夜の芝居に、客の入りはあやしいもんです。再開を広告する間もないんで……」
「それは心配せんでいいよ」と、警視がさえぎった。「わしが閉鎖をしたんだから、今夜、そのつぐないをすることにしよう。新聞記者どもに電話をかけて、次の版で、開場の太鼓《たいこ》をたたいてもらおう。君にとっては、思いがけぬ大宣伝だろうし、むろん広告料はいらないし、必ず人気をかり立てて、大入満員うたがいなしだ」
「本当にありがたいことです、警視さん」と、パンザーは両手をすり合わせて「差し当り、私で、何かお役に立つことがありましょうか」
「お父さん、条件をひとつ忘れていますよ」とエラリーが口を出した。そして色のあさぐろい小男の支配人のほうを向いた。「今夜は、左側のLL三〇とLL三二の座席は売らないことにしてくれませんか。警視と私とで、今夜の芝居を見たいんです。実は、まだ見ていないもんですからね。それに、まったく匿名《とくめい》でとっといてほしいんですよ、パンザーさん――群衆に目立ったりするのは厭ですからね。もちろんあなたも秘密にしておいて下さいね」
「おっしゃるとおりにします、クイーンさん。あの座席券はとりのけておくように、切符売場に指令します」と、パンザーは、うれしそうに答えた。「じゃあ、警視さん――新聞には電話をかけて下さるんですね――」
「いいとも」と、クイーンは電話をかけて、市内数社の新聞社の編集長を呼び出して、手早く通話した。それが終ると、パンザーは、大急ぎで二人にさよならをいい、たてつづけに電話をかけた。
クイーン警視とエラリーは、ゆっくり平土間に出て行った。そこには、ボックス席を調べ終ったフリントと二人の刑事が待っていた。
「君らは、劇場の周囲を、全面的に警戒してくれ」と、警視が命令した。「特に午後は気をつけてくれ……何かみつけたか」
フリントが、ふくれっ面で「ロングアイランドのカナルシー族にまじって蛤《はまぐり》を掘ってるみたいです」と、不愉快そうに言った。「月曜日の夜からこの仕事にかかってるんです。警視。もし今日になって何かみつかったら責任問題です。二階席は犬の歯をみがくように、きれいに洗いあげました。もうひと骨折りに行かなければならんのでしょうか」
クイーンは大男の刑事の肩をぽんとたたいて「どうしたと言うんだね。赤ん坊みたいにごねるんじゃない。何にもないものを捜そうったって無理だ。そっちは何かみつけたか」と、ほかの二人のほうへ手を振ってたずねた。
二人は、ゆううつそうに首を振った。
やがて、警視とエラリーは通りがかりのタクシーに乗って、本庁までのわずかなドライブの間、ゆっくりくつろいだ。老人は、客席と運転席の間のガラス窓を、ぴったり閉めた。
「おい、エル」と、ぼんやりたばこをくゆらせているエラリーのほうを向いて、不機嫌に言った。「わしに、パンザーの事務室で急にあんなことを言い出した手品の種明かしをしてくれ」
エラリーは唇をきっと結んで、話し出す前に、窓の外を見つめた。「順を追って話しますよ」と、エラリーは言った。「お父さんの今日の捜査は無駄でした。部下の連中も失敗でした。ぼくもやってみましたが、失敗でした。そこで、まず基本的な点をたしかめてかかりましょう。月曜日の夜、≪拳銃稼業≫の芝居を観ていたときに、モンティー・フィールドがかぶっていた帽子は、第二幕目の初めには目撃者がいたのです。だから、犯行のあとで犯人が持ち去ったものと推理できます。つまり、現在ローマ劇場にないし、月曜日の夜以来なかったのです。このことからみて」クイーンは白髪まじりの眉をあげて、エラリーを見つめた。「おそらく、フィールドのシルクハットは、もうこの世にはないのでしょう。お父さんがかぎたばこ入れを賭けるのなら、ぼくもこの珍本ファルコナーを賭けますがね、あの帽子は、この世をのがれて市の塵埃《じんあい》処理場で灰に生れかわって、せいせいしていることでしょうよ。これが第一の点です」
「それから」と、警視が促した。
「第二の点は、たわいないほど初歩的なのです。あえて、クイーン家の英知を辱しめることとして言えば……もし、フィールドの帽子が、月曜日の夜以来、現在も、ローマ劇場にないとするなら、当然あの夜の間に、いつのまにか、ローマ劇場から持ち出されたにちがいありません」
エラリーは窓の外を見ながら、考え深そうに言葉を切った。四十二番街とブロードウェイの交叉点で、交通巡査が腕を振っていた。
「そこでこう言えます」と、エラリーは明るい声で「われわれに三日間、大骨を折らせた基本的な点、つまり、捜査中の帽子は、ローマ劇場にはないのです……論理的にいってそうなります。殺人のあった夜、ローマ劇場から出て行ったのです。そこで、いよいよ大問題になるのです――いつ、どうやって、あの帽子が出て行ったかです」エラリーはたばこを吸って、火先が赤くなるのを見ていた。「月曜日の夜、帽子を二つ持ったり、ひとつも持たずにローマ劇場を出た者が、ひとりもいないのは分っています。また、劇場を出た者には、不審な身なりの者はひとりもいなかった。つまり、礼装をしている者はひとりもソフトをかぶって出なかったし、平服の者は、ひとりもシルクハットをかぶって出なかったのです。いいですか、この線からは不審な者はひとりも出なかったのです……だから当然のこととして、第三の基本的な結論に達すると言わざるを得ません。つまり、モンティー・フィールドの帽子は、きわめて自然な状態で、劇場から出て行ったのです。すなわち、ちゃんとした夜会服を着た男の頭にのって行ったのです」
警視は非常に興味深そうに、エラリーの言葉を、しばらく考えていた。そして、おごそかに言った。「どうやら、めどがつきそうだな。ところで、お前は、だれかがモンティー・フィールドの帽子をかぶって劇場を出たのだと言ったが――それは重要かつ啓発的な発言だ。ではひとつ答えてもらおう、帽子を二つかぶって出た者はいないのだから、その男の自分の帽子はどうしたんだろうな」
エラリーは微笑して「いよいよ謎の本筋にふれてきたわけですよ、お父さん。しかし、このことはしばらくおいておきましょう。ほかにもとくと考えてみなければならない点が、いくつかあります。たとえば、モンティー・フィールドの帽子をかぶって出た男は、殺人犯人自身か、殺人の共犯者か、そのどちらかであるはずです」
「お前の考えとることは見当がつく」と、警視がつぶやいた。「言ってみろ」
「もし犯人とすれば、それは男で、あの晩、夜会服を着ていたということが、はっきり分っているのですが――その点は、大して役に立たないでしょう。というのは、そんな男は劇場に何十人もいたのですからね。もし共犯者だったとすれば、犯人は次の二つの場合のひとつということになります。平服を着た男か、女です。平服の男ならシルクハットをかぶって出れば、必ず疑われるでしょうし、女なら、もちろん、シルクハットなどかぶるまねはしないでしょうしね」
警視は革のクッションに身を沈めて「勝手に屁理屈《へりくつ》をならべとれ」と、大声で笑った。「なあ、わしは、お前に感心するところだったよ――つまり、もしお前が、それほどいや味な気取屋でなければな……ところで、お前がパンザーの事務室で打った小芝居の理由を少しも説明しとらんじゃないか……」
エラリーが前にのり出したので、警視は、声を低くした。二人は、タクシーが本庁の前に着くまで、はたで聞きとれぬ声で話しつづけた。
クイーン警視とエラリーが連れだって、うす暗い廊下を大急ぎで歩き、小さな事務室にもどるとすぐ、ヴェリー部長が立ちはだかった。
「迷子になったかと思いましたよ、警視」と、部長が叫んだ。「さっき、あのストーツという青年が、困った顔をして来ましたよ。クローニンが、フィールドの事務所で、頭をかきむしってるそうです――まだ、犯罪の証拠になるようなものが、書類の中から見つからんそうです」
「放っとけ、放っとけ、トマス」と、警視はやさしくいなした。「わしは、死んだ者を鉄格子の中にぶちこむような、小さな問題には、わずらわされたくないよ。エラリーとわしは――」
電話が鳴った。クイーンはとび出して、机の上の受話器を、とり上げた。聞いているうちに、やせた頬が青ざめ、ふたたび額に八の字がよった。エラリーは、それを食いいるように見つめていた。
「警視ですか」と、せき込んだ声がきこえた。「こちら、ヘイグストロームです。ちょっとしかひまがありません――長く話していられません。午前中ずっとアンジェラ・ルッソーを尾行したんですが、骨がおれました……尾行してよかったと思います……三十分前に、私をまいたと思いこんだらしく――車にとび乗って、下町にとばしました……きこえますか、警視――三分ほど前に、ベンジャミン・モーガンの事務所に入ったんです」
クイーンがどなった。「出て来たところを、ひっくくれ」それから受話器を、がちゃんともどして、エラリーとヴェリーのほうを、ゆっくりふり向いて、ヘイグストロームの報告を、くり返した。エラリーは、にがむしをかみつぶしたように顔をしかめた。ヴェリーは、はっきり、うれしそうにした。
しかし老人は弱々しく、回転椅子に腰を下ろして、声をとぎらせた。そして、やっと、うめくように言った。「まったく思いもかけなかったな」
第十五場 意外な告発
ヘイグストローム刑事は、鈍重な男だった。それはノルウェーの山地の先祖ゆずりのもので、そこでは鈍感が美徳であり、堅忍《けんにん》が最上の尊敬をうける気風なのだ。しかしながら、マッダーン・ビルディングの二十階で、
弁護士
ベンジャミン・モーガン
と標札の出ている、青銅とガラスのドアから、三十フィートほど離れて、てらてら光る大理石の壁によりかかっていると、さすがに、いつもより胸が高鳴った。いらいらと足ぶみをし、かみたばこを、力いっぱいにかみくだいていた。正直なところ、ヘイグストローム刑事は、長い警官生活でいろいろなことを経験したが、逮捕するために女の肩に手をかけたことは一度もなかった。それに、自分が待ちかまえている女の激しい気性を、はっきり覚えているから、これからの仕事が大変だと、びくびくしていた。
そう思うのも無理はなかった。二十分ほど廊下で待っていて、もしかすると獲物がほかの出口から抜け出したのではあるまいかといぶかっているとき、いきなりベンジャミン・モーガン事務所のドアが開いて、最新流行のツイードのアンサンブルを着たアンジェラ・ルッソー夫人の、大きな、ゆがんだ顔があらわれた。あられもないののしり声で、きれいに化粧した顔が、ゆがんでいたし、大股でエレベーターの昇降口へ急ぎながら、いまいましそうにハンドバッグを振りまわした。ヘイグストロームは、ちらっと腕時計をみた。十二時十分前だった。もうじき昼食時間で、方々の事務所の連中が出て来るだろう。だから、できれば、まだ人のいない間に、逮捕してしまいたかった。
そこで、刑事はしゃんと立って、オレンジとブルーのネクタイを直しながら、落ちつきはらって、近づいて来る女の正面に進み出た。女は刑事をみるとすぐ、はっきりと足並みをゆるめた。ヘイグストロームは、逃げると思って、急いでかけつけたが、アンジェラ・ルッソー夫人は、身をひきしめて、堂々と顔をあげ、臆した色もなく歩いて来た。
ヘイグストロームは、大きな赤い手を、女の腕にかけた。「用は分ってるだろうね」と、するどく「さあ来るんだ、じたばたすると、手錠をかけるぞ」
ルッソー夫人は手をふりほどいた。「おや、おや――手荒いお巡《まわ》りさんね」と、低く言って「一体、どうなさるつもりなのよ」
ヘイグストロームは目をむいて「つべこべ言うな」と、エレベーターの≪下り≫のボタンを荒々しく押して「黙って、ついて来るんだ」
女はやさしい顔を向けて「ねえ、どうしてもつかまえるつもり?」と甘い声でいった。「つかまえるのなら、逮捕状がいるんでしょう、ねえお巡りさん」
「おい、よせよ」と、刑事はどなった。「逮捕するんじゃない――ちょっと本庁までお運びねがって、クイーン警視と話してもらいたいのさ。来るかね、護送車を呼ぼうかね」
エレベーターがぱっと明るくとまった。エレベーター・ボーイが威勢よく「降ります」といった。女はちらっと不安そうにエレベーターをみ、それからおずおずとヘイグストロームの顔をうかがって、渋々乗り込んだ。刑事は女の肘をしっかりつかんでいた。物見高い乗客たちに、じろじろ見られながら、二人は黙って降りた。
ヘイグストロームは、連れ立って静かに歩いている女の胸の中に、嵐がまきおこりそうなのを感じて、びくびくものだったが、がんとして油断しなかった。本庁に向かうタクシーに並んで腰かけるまで、しっかりつかまえている手をゆるめなかった。ルッソー夫人の頬紅の下で顔は青ざめていたが、唇にはふてぶてしい微笑をうかべていた。不意に夫人は警官の硬くなっている体に、ぴったりとすり寄って、顔を近づけた。
「ねえ、お巡りさん」と、ささやいた。「百ドル札を使ってみない?」
女は思わせぶりにハンドバッグを探った。ヘイグストロームは癇癪玉《かんしゃくだま》を破裂させた。
「ふん、袖の下かい」と、せせら笑って「警視のお耳に入れなければならんな」
女の微笑が消えた。あとは本庁へつくまで、じっと運転手のえり首を見つめていた。
本庁のうす暗い廊下を、分列式の兵士のように行進して行くころになって、やっと女は、いつもの態度を、とりもどした。そして、ヘイグストロームがクイーン警視の部屋のドアをあけると、気取って頭をかしげ、婦警をも欺しそうな明るい微笑をたたえて中に通った。
クイーン警視の部屋は、そのとき、明るい日がいっぱいにさしこんで、まるでクラブのように気分がよかった。エラリーは細長い足を、ゆっくりと厚い敷物の上にのばして、面白そうに「筆跡分析入門全集」と題名のある小型の安本に読みふけっていた。軽く指にはさんだたばこの煙がまき上がっていた。ヴェリー部長は、かなり離れた壁ぎわの椅子に坐って、クイーン老警視が、親指と人差指とで、そっと持っているかぎたばこ入れを、じっと見つめていた。クイーンはゆったりした肘掛椅子に坐りこんで、うっとりともの思いに沈みながら微笑していた。
「ああ、ルッソーさん、どうぞ、どうぞ」と、警視は、とび立って大声で言った。「トマス! ルッソーさんに椅子をあげてくれんか」部長は黙って、警視の机のわきに、木の椅子をおいて、ものも言わずに、もとの場所に引きさがった。エラリーは女のほうを見ようともしなかった。そして、相変らずほほえみながら、本を読みつづけていた。老人はルッソー夫人に、くそ丁寧におじぎした。
女は、不思議そうに、このおだやかな光景を、眺めまわした。いかめしさや、きびしさや、荒々しさを予想していたので――この小さな部屋の家庭的な雰囲気に、すっかり驚いてしまった。しかし、椅子に坐って、一瞬のとまどいがおさまると、さっき廊下で、うまく演じたように、いかにも淑女らしい物腰でやさしく微笑していた。
ヘイグストロームはドアの内側に立って、むっとして、腰かけている女の横顔を睨みつけていた。
「私に百ドル札をつかませようとしました」とヘイグストロームが、にがにがしげに「袖の下を使おうとしましたよ」
すぐ、クイーンは、おどろいたように目を見張って「おや、ルッソーさん」と、悲しそうに叫んだ。「まさか、あなたはこの優秀な警官に、市に対する義務を忘れさせようとしたんじゃないでしょうね。むろんそんなことはないでしょう。どうもばかなことを言っちゃって! ヘイグストローム、君が勘違いしたんだろう。百ドルとは――」警視は、なさけなさそうに首を振りながら、革の回転椅子に腰を沈めた。
ルッソー夫人は微笑した。「妙ね、お巡りさんたちは、どうしてすぐ勘違いするのでしょう」と、愛らしい声で訊いた。「はっきり申しますわ、警視さん――私、ちょっとからかってみただけですよ」
「そうでしょうとも」と、警視は、この言葉をきいて、人間の本性に対する信頼を取り戻したかのように、ふたたびほほえんだ。「ヘイグストローム、その話はもうすんだ」
刑事は、ぽかんと口をあけて、上官から、微笑している女へ目を移したが、じきに気を取り直して、女の頭ごしに、ヴェリーがクイーンに目ばたきするのを見てとった。そして、ぶつぶつ言いながら、急いで出て行った。
「さあ、ルッソーさん」と、警視は事務的な口調で始めた。「今日は何かご用でしょうか」
女はあきれて警視を見つめた。「おや――まあ、あなたが会おうとなさったんでしょ……」と、唇をひきしめて「お芝居はやめて下さい、警視さん!」と、ぴしりと言った。「私のほうから、こんなところへ、訪ねて来たんじゃないんですのよ。お分りじゃありませんか。どうして、私を、つかまえたんですか」
警視はなだめるように細い指をひろげて、抗議するように唇をすぼめた。「でも、ルッソーさん」と、警視が言った。「きっと、何かお話があるんでしょう。だから、来られたんでしょう――来られたという明らかな事実は否定できないでしょう――なにか理由があるから来られたんでしょう。たとえ、あなたの自由意志で来たのではないとしても――何かお話があるから、つれて来られたのです。お分りになりませんか」
ルッソー夫人は警視の目をじっと睨んだ。「なんですって――ねえ、警視さん。一体、私にどうしろとおっしゃるの。どうして、私に話すことがあると思うの。私は、火曜日の朝、あなたのお聞きになることには、みんなお答えしましたわ」
「なるほど」と、老人は顔をしかめて「こちらから言うと、あなたは火曜日の朝、どの質問にも、絶対正確に答えたとはいえませんね。ところで――ベンジャミン・モーガンをごぞんじですか」
女はひるまなかった。「分ったわ。あなたの勝ちね。あなたの犬が、モーガンの事務所から出たところをつかまえたのよ――それが何よ」女はわざとらしくハンドバッグをあけて、鼻の頭をパフでたたきはじめた。そうしながら、目の隅で、エラリーをそっとうかがった。エラリーは女を無視して、まだ本に夢中になっていた。女は頭をふり上げて、警視のほうを向いた。
クイーンは、情けなさそうに女をながめて「ルッソーさん、あなたは、哀れな年寄りに対して、思いやりがありませんよ。わしが言いたいのはただ――つまり――この前、あなたがわしに嘘をついたということです。ねえ、警官に対して、そんなことをするのは、とても危険ですよ――危険です」
「ちょっと!」と、女は急にしゃべり出した。「そんな甘口にはのりませんよ。警視さん。おっしゃるとおり火曜日の朝は嘘を言いましたわ。だって、こんなにいつまでも尾行されるとは思いませんでしたもの。そうよ、私は一か八かやってみて、負けたのよ。だから私が嘘をついたことが分ったんでしょう。それで、そのわけを知りたいんでしょう。お話するわ――でも、また本当のことはお話しないわよ」
「ほう――」と、クイーンはおだやかに言った。「すると、あなたは、勝手なことを言っていても安全な立場にいると思っているんですね。しかし、ルッソーさん――ご自分の美しい首に縄をかけようとしているんですよ、本当です」
「何ですって?」仮面がはぎとられると、女の顔には狡《ずる》い本性がむき出しになった。「私をどうもできやしませんよ。分ってるでしょう。そうよ――嘘をつきましたわ――だから、どうなさろうというの。嘘をついたことを認めるわ。それに、モーガンという男の事務所で何をしたかをお話してもいいわよ、もし、お役に立つのならね。これでも、私は、正直ものなのよ、警視さん」
「ねえ、ルッソーさん」と、警視は強いて微笑しながら、つらそうに答えた。「今朝、あなたがモーガンの事務所で何をしていたかは分っていますから、そのことを告白していただいても全然ありがたくはないんです……あなたがそれほど罪人になりたがっているのが、実に意外ですよ、ルッソーさん。ゆすりは、大変な重罪なんですよ」
女は真っ青になった。腰を浮かせて椅子の腕を握りしめた。
「やっぱり、モーガンが密告したのね、汚い奴!」と、女は歯をむいて「もう少しましな奴かと思ってたわ。あたしだって、あいつを密告する種はあるのよ、お話するわよ」
「ああ、やっと話せるようになりましたね」と、警視はつぶやきながら、ひと膝のり出した。「ところで、モーガンさんについて、どんなことを知っているんですかな」
「あの男のことならよく知ってるわ――でも、ねえ、警視さん。すごい情報をあげられるのよ。あなたは、あわれなひとりものの女を、ゆすりの罪におとし入れやしないでしょうね」
警視は顔色をやわらげて「まあ、まあ、ルッソーさん」と、言った。「そんなことを言っちゃまずいですよ。むろん、何も約束はできないが……」警視は身を起こした。そのやせたからだは死者のようにぴんと張っていた。女は少し身じろぎした。「胸にあることを話して下さい、ルッソーさん」と、落ちつき払って「そうすれば、一般に認められている方法で、私の感謝の意を表する機会がないともかぎりませんからね。さあ話して下さい――正直にね。いいですか」
「あなたが、とても一筋縄ですむ人じゃないのは知ってますわよ、警視さん」と、女は低い声で「けれど、公平でもあるのね……何が知りたいんですか」
「全部です」
「でも、全部は知りませんよ」と、女はやや落ちついて言った。しばらく、クイーンはしげしげと女を見ていた。モーガンをゆすったなと、きめつけて、意表をつくことに成功したが、ふと、疑問がわいてきたのだった。あまりにも女がモーガンの過去のことを全部知っていると信じすぎているように思われるのだ。そして、そのことは顔が会ったときから警視には、そんな気がしていたのだ。警視はエラリーのほうをちらっと見て、すぐに、息子の目が、もはや本をはなれてルッソー夫人の横顔にくい入っているのに気がついて、安心した。
「警視さん」と、ルッソー夫人は、勝ちほこったような声で、甲高《かんだか》く「モンティー・フィールド殺しの犯人を知っています」
「何だって?」クイーンはとび上がって、青白い顔を赤くした。エラリーは反射的に、腰かけたまま胸を張って、鋭い目で女の顔を注視した。読んでいた本が指からすべって、ばさっと床に落ちた。
「モンティー・フィールドを殺した人を知っているのよ」と、自分の言葉がまきおこした衝撃を明らかに意識しながら、ルッソー夫人はくりかえした。「ベンジャミン・モーガンよ。モンティーが殺される前の晩に、モーガンがモンティーを脅迫しているのを聞いちゃったのよ」
「おお」と言って、警視は腰を下ろした。エラリーは本をひろいあげて、ふたたび「筆跡分析入門全集」の勉強にとりかかった。また静けさがもどってきた。びっくり仰天した親子を見守っていたヴェリーには、二人の態度が急に変った理由が分りかねるようだった。
ルッソー夫人がおこり出した。「また嘘をついていると思うのね、ちがうわ」と、叫んだ。「たしかにこの耳で聞いたことを言ってるのよ。日曜日の晩に、ベン・モーガンがモンティーに、殺してやると言ってたのよ」
警視は悲痛な顔をしていたが、動じなかった。「あなたの言うことを少しも疑ってはいませんよ、ルッソーさん。たしかに日曜日の晩でしたか」
「たしかよ」と、女はかん高く「たしかですとも」
「どこで、そんなことがあったんですか」
「モンティー・フィールドのアパートでよ。あそこでよ」と、女はかみつくように言った。「日曜日の夜は、ずっとモンティーと一緒でした。それで、私の知るかぎり、モンティーもまさかお客があろうとは思っていなかったようよ。だって、いつも二人で夜をすごすときは、お客はしませんからね……十一時ごろ、ドアのベルが鳴ったとき、モンティーは自分でとびおきて≪一体どこのどいつだ≫と言ったわ。その時、私たちは居間にいたんです。でも、立ち上がってドアのところへ行きました。すると、すぐに、外から男の声がきこえました。私は、モンティーがだれにも私を見られたくないだろうと思って、寝室に入ってドアを閉めるときに、少しすき間をあけといたんです。モンティーがその男を追い払おうとしている声がきこえました。するうちに、二人は居間に入って来ました。ドアのすきまから見ると、その男はモーガンでした――その時にはだれか分らなかったんですが、二人が話しているうちに分ってきたのです。そして、後から、モンティーがそういいました」
女は言葉を切った。警視は静かにきいていたが、エラリーは女の話にはまったく無関心だった。女はやけっぱちになった。
「私が声を立てることができるまで、三十分ほど、二人は話し合っていました。モーガンは冷静で落ちついていました。最後になるまで興奮しませんでした。どうやら話の様子では、つい近頃モンティーがモーガンに、何かの書類と引換えに、相当|莫大《ばくだい》なお金を要求してあったらしいんです。それで、モーガンは、そんなお金は持っていないし、都合もつかないと言っていました。訪ねてくるのもこれが最後で、もう呼び出しても駄目だと言っていました。モンティーは、とても皮肉で、下司《げす》な態度でした――あの人は必要に応じて、おそろしく下司になれるんです。モーガンはだんだん逆上してきました。はらの虫を一生懸命におさえているのが分りました……」
警視が口をはさんだ。「フィールドが金を要求した理由は何でしたか」
「分ればよかったんですが、警視さん」と、女はぞんざいに答えた。「二人とも、とても用心していて理由を口に出さないんです……どっちみち、モンティーがモーガンに買わせたい書類に関係のあるものなんですわ。モンティーがモーガンの弱味を握っていて、とことんまで利用しようとしていたぐらいのことは、苦もなく分りますわ」
書類という言葉で、エラリーは、ルッソー夫人の話に、興味をとりもどした。本を下に置いて、きき耳を立てた。警視は、そんなエラリーを、横目で見ながら、女に訊いた。
「フィールドは、一体、どのくらいの額を要求していたのかね、ルッソーさん」
「お話しても本当になさらないでしょうけどね」と、女は小馬鹿にするように笑いながら「モンティーはちんぴらじゃありませんわ。吹っかけたのは――五万ドルよ」
警視は顔色も動かさずに「それから?」
「それから二人で」と、女がつづけた。「はげしく押し問答していました。モンティーはますます冷静になるし、モーガンはだんだん猛りたったのです。しまいにモーガンは帽子をつかみあげて、どなりました。≪悪党奴! これ以上しぼられたらお手あげだ。勝手にするがいい――おれはごめんだ、わかったな? もう絶対にごめんだ≫真っ青でした。モンティーは坐ったままで言いました。≪好きにするがいいさ、ベンジャミン君、だが、かっきり三日で金を渡してもらうぜ。割引なしだよ、いいな。五万ドルだ、ことわれば――どんな不愉快な結果になるか、あらためて言う必要もなかろう≫モンティーは、とてもそつのない男なのよ」と、女は感心したように「まるで玄人のように啖呵《たんか》がきれるのよ。モーガンは、帽子を持ってもじもじしていました」と、女は続けた。「まるで手のやり場に困っているようでした。やがて、わめいたのです。≪切り上げどきを言っといたぞ、フィールド、おれは言ったとおりにするぞ。書類を公表したらよかろう、そうすりゃ、ぼくは破滅するかもしれない――そのかわり、お前にも二度とだれもゆすれないようにしてやるぞ≫と、モンティーの鼻先に拳《こぶし》をつきつけて、まるで、その場でやりかねないかのように、しばらく睨みつけていました。それから、急におとなしくなって、ものも言わずに部屋を出て行ったのです」
「話はそれだけかね、ルッソーさん」
「それで充分でしょう?」と、女はやっきになって「あなたはどうなさるつもりよ――卑怯な人殺しを保護するの?……まだあるのよ。モーガンが出て行ってから、モンティーが私に言ったわ、≪あいつの言うことを聞いたかい≫私はなにも聞かなかったように思いこませようとしましたが、モンティーに抜かりはありませんわ。私を膝に抱き上げて、冗談半分に言うんです。≪奴も後悔するさ、エンジェル……≫私のことをいつもエンジェルと呼ぶのよ」と、てれくさそうに女は言った。
「なるほど……」と、警視は、じっと女を見て「ところで、モーガンさんは正確にはなんといったんですか――あなたが、フィールドの生命を脅かしていると受け取った言葉を」
女は信じかねるように警視を見つめて「まあ、あきれた、あなたつんぼなの?」と、叫んだ。「モーガンの言ったのは≪お前にも二度とゆすりができなくしてやるぞ≫よ。しかも、その次の晩に、私のモンティーが殺されたのよ……」
「きわめて自然な推理です」と、クイーンはほほえみながら「ベンジャミン・モーガンを告発しようとされるんですね」
「私は、そっとしておいてもらいたいだけなんですよ、警視さん」と、女はやりかえした。「私はただいきさつをお話しました――あとはお好きなようになさったらいいわ」女は肩をしゃくって立ち上がりそうにした。
「ちょっと、ルッソーさん」警視は細くきれいな指をあげて押えた。「あなたは、フィールドがモーガンの頭の上で振りまわしていた何かの≪書類≫のことを話しましたね。フィールドは二人が言い争っている間に、一度でも、書類を、実際に持ち出しましたか」
ルッソー夫人は冷やかに老人を見て「いいえ、そんなことしませんでした。だからって、ちっとも私は残念だとは思いませんわよ」
「ご立派な態度です、ルッソーさん。では、またいずれ――分っといていただきたいのですが、あなたのスカートは、必ずしも――失礼、もののたとえですがね――この件に関しては全然しみがないとは言えませんよ」と、警視が言った。「だから、これから訊くことに、慎重に考えて答えて下さい。モンティー・フィールドは、個人的な書類を、どこにしまっていましたか」
「考えるまでもありませんわ、警視さん」と、女はぴしゃりと答えた。「知りません。もし知る機会があれば、知ってたでしょうけどね。その点は抜かりはありませんわ」
「じゃ、フィールドが留守のあいだに、少しは探してみたことがあるんでしょう」と、クイーンは微笑しながら追及した。
「ええ、少しはね」と、えくぼをつくって答えた。「でもまるっきり駄目でした。きっとあの部屋にはないんでしょうよ……じゃ、警視さん、まだほかに何か?」
エラリーが澄んだ声をかけたので、女は驚いたようだった。しかし、なまめかしく髪をなぜながら、エラリーのほうを向いた。
「あなた知ってらっしゃるでしょう、ルッソーさん」と、エラリーは冷たく言った。「長いあいだ、粋なレアンダーとご親密だったんですからね――フィールドさんはシルクハットを何種類持っていましたか」〔レアンダーはギリシア伝説の巫女ヘロの恋人で、セストスのアプロディテの神殿の灯を目あてに、ヘレスポントスを泳いで、夜ごと逢いに来たが、ある夜、嵐で灯が消えたので溺れ死んだ〕
「あなたは、まったく新しいクロースワード・パズルみたいなのね」と、女はかすれた声で「私の知るかぎりでは、たった一個でしたわ、あなた。殿方にはいくつ必要ですの?」
「それは、たしかでしょうね」と、エラリーが言った。
「まちがいありませんわ。クイーンさん」女は、ふと甘えるような声でいった。エラリーは、珍しい動物でも見るように目を見張った。女はちょっと口をとがらして、おかしそうに向きをかえた。「私はここではあまり人気がないんですのね。そろそろ失礼しますわ……私を汚い豚箱に入れるおつもりじゃないんでしょう、警視さん。もう帰ってもいいんでしょうかしら」
警視は会釈した。「いいですよ――お帰りになって、ルッソーさん、ある程度監視しますがね……なお、ご諒解ねがっておきますが、遠からず、また楽しい会談をおねがいするかもしれません。ずっと町におられるでしょうね」
「うれしいこと、本当に」と、女は笑って、さっと部屋を出て行った。
ヴェリーが兵士のようにすっくと立って言った。「ねえ、警視、これで犯人がきまりましたね」
警視は椅子にぐったりと身を沈めた。「君はお先走りだな、トマス。まるでエラリーの小説の間抜けな部長みたいだ――君はそうじゃないだろう――モンティー・フィールド殺しで、モーガンをあげるつもりか」
「じゃあ――どうするんですか」と、ヴェリーはきょとんとした。
「しばらく待つんだ、トマス」と、老人は重々しく答えた。
第十六場 クイーン親子の観劇
エラリーと父親とは小さな事務室の両端から顔を見合わせた。ヴェリーは八の字をよせて椅子にもどった。そして次第に深まる沈黙の中に、しばらく静かに坐っていたが、急に決心したらしく、部屋を出てよいかと訊いた。
警視は、かぎたばこ入れのふたをいじりながらにやにやしていた。
「お前もぞっとしたか、エラリー」
エラリーは、しかし、大まじめだった。「あの女はウォードハウスの小説に出てくる女のように、≪おじけ≫をふるわせますよ」と、身ぶるいして「ぞっとするなんてものじゃない」
「しばらくはあの態度が腑《ふ》におちなかった」と警視が言った。「われわれが暗中模索しているものを、あの女は知っていたのだと思うと……わしの分別もふっとんだよ」
「会談は大成功でしたね」と、エラリーが批評した。「特にぼくが、このややっこしい筆跡研究の本から二、三の興味ある事実を集めていたから成功したんです。それにしても、アンジェラ・ルッソー夫人は、およそぼくの考えている女性というものからは、思いも及ばない女性ですね……」
「わしのみるところ」と、警視はくすくす笑って「あのあだっぽい女は、お前にぞっこん参ったらしいな。機会をのがさんようにしろよ、エラリー」
エラリーは、にがむしをかみつぶしたように顔をしかめた。
「ところで」と、クイーンは卓上の電話に手をのばしながら「ベンジャミン・モーガンは、もう一度、見のがしておくべきだろうな、エラリー」
「罪があるなら絞り首ですね」と、エラリーが不機嫌に「しかし、一応当っとくぐらいでしょうね」
「書類のことを忘れとるぞ、エラリー――書類のことを」と、警視は目を光らせて言った。
警視は快活な口調で、警察の交換手に命じた。しばらくして、ブザーが鳴った。
「こんにちは、モーガンさん」と、クイーンは愛想よく「ご機嫌いかがですか」
「クイーン警視ですか」と、モーガンは少しためらいながら訊いて「やあ、こんにちは。事件の進行ぐあいはどうですか」
「痛いとこですね、モーガンさん」と、警視は笑って「とにかく、職務怠慢で叱られそうだから、答えにくいですね……ときに、モーガンさん、今夜、お暇はありませんかね」
電話がとぎれた。「そう――必ずしも手があいてるわけじゃないんですが」と、弁護士の声は、やっと聞きとれるほど低く「家に戻ることになってるんです、むろん夕食にね。それに、家内がブリッジのパーティをする手筈《てはず》をしているようです。しかし、何かご用でしょうか、警視さん」
「今夜、せがれも一緒に、私と食事をつき合っていただきたいと思いついたんですがね」と、警視は残念そうに言った。「お宅の夕食時間の、席をはずすわけにはいかんでしょうかね」
かなり言葉がとぎれた。「どうしてもとおっしゃるのなら……警視さん」
「むりにとは申しませんがね、モーガンさん……招待をうけて下さるとありがたいんです」
「おお」と、モーガンは今度は、かなりはっきり「そういうわけなら、おっしゃるとおりにしますよ、警視さん。どこでお目にかかりましょうか」
「よかった、よかった」と、クイーンが言った。「カルロスの店で六時に、どうでしょう」
「承知しました、警視さん」と、弁護士は静かに答えて、受話器をかけた。
「あの気の毒な男には、同情にたえんな」と、老人がいった。
エラリーは鼻をならした。同情する気にはなれなかったのだ。アンジェラ・ルッソー夫人の後味が口にこびりついていて、とてもひどい不愉快さだった。
六時早々に、クイーン警視とエラリーは、カルロス料理店の、うきうきするような待合室で、ベンジャミン・モーガンと落ち合った。モーガンは、しょんぼりと赤革の椅子に坐って、手の甲をながめていた。唇はものうげにたれさがり、意気|銷沈《しょうちん》して、膝が自然に、だらしなく広く開いていた。
クイーン親子が近づくと、モーガンは、けなげにも微笑をうかべようとした。そして、すっくと立ち上がった。だが、敏感なクイーンたちには、モーガンが観念して、予定の行動をしているものと見てとれた。警視は上機嫌だった。それは、このでっぷりした弁護士が心から好きだったし、今夜の会食がひとつの仕事だったからだ。エラリーはいつものように超然としていた。
三人は旧友のように握手した。
「時間どおりによく来てくれましたね、モーガンさん」と、しゃちこばった給仕頭が隅のテーブルに三人を案内したとき、警視が言った。「お宅の夕食からつれ出したりして本当に申し訳ありません。一度は思い直して――」と、ため息をついて、三人は椅子にかけた。
「ご心配には及びませんよ」と、モーガンは弱々しくほほえんで「ごぞんじのように、結婚した男には、時々は、女気ぬきの食事も楽しみですよ……ところで、何をお話しになりたいんですか、警視さん」
老人はたしなめるように指をあげて「今は仕事の話はよしましょう、モーガンさん」と言った。「ルイが、工夫してうまいものを食べさせてくれるでしょうよ――そうだろう、ルイ」
すばらしい料理だった。味覚などには無頓着な警視は、献立のよりごのみなどは息子に任せた。エラリーはうまいものや、その調理法などという、デリケートな問題に狂的なほど興味を持っていた。そのおかげで、三人の食事は大ご馳走だった。初めのうち、モーガンは味もそっけもなく食べているようだったが、次から次へと出るおいしい料理に、だんだんひきいれられて、しまいにはすべての悩みを忘れて、主人側と笑いながら、喋っていた。
食後のコーヒーと、上等の葉巻が出た。エラリーはゆっくり味わうように葉巻をふかし、警視は無造作に喫い、モーガンは楽しそうにくゆらした。そのときクイーンが切り出した。
「モーガンさん、単刀直入に言いますが、今夜来ていただいたのには、お気づきでしょうが、わけがあるのです。私はつつみかくさず言います。四日前の――九月二十三日、日曜日の夜の事件について、あなたが沈黙を守っておられたわけを説明していただきたいのです」
警視が話しはじめるとすぐ、モーガンは真顔になった。葉巻を灰皿にのせて、いかにもゆううつそうな表情で、老人を見つめた。
「こうなるのは分っていました」と、モーガンが言った。「いずれはあなたが探り出すにちがいなかったのにね。ルッソー夫人が、腹いせに、告げ口したんでしょう」
「そうです」と、クイーンはかくさずに言った。「紳士としては、そんな話は聞くべきではないが、警官としては聞かなくてはならんのです。なぜ、そのことを私にかくしていたんですか、モーガンさん」
モーガンは、スプーンでテーブル掛けの上に、意味のない図をかいていた。「つまり――その。人間というやつは、とかく自分の馬鹿さかげんに、鼻をつくまで気がつかないもんですね」と、静かに言って、目をあげた。「どんなに祈ったかしれないんですよ――それが人間の弱点でしょうがね――あの事件が、死者と私との秘密として保たれるようにね。ところがあの淫売が寝室にかくれていて――私の言葉をすっかり聞いていたと気がついたとき――風船玉から空気が抜けたような気分でした」
モーガンはごくりとコップの水を飲んで、早口に「神かけて正直に言いますが、警視さん、私は、罠《わな》にひきずりこまれて、そのことを証明するに充分な証拠を示すことができないと思っていたのです。あのとき、劇場の中で、私の仇敵が殺されて発見された場所からそう離れていないところにいたのに気がついたのです。なぜ劇場にいたかを説明するには、あきらかに馬鹿げた裏づけのない話しか持ち合わせていませんでした。それに、殺された男と、その前の晩に喧嘩した事実を、まざまざと思い出したんです。身動きのならぬ立場でした、警視さん――分って下さるでしょうね」
クイーン警視は何も言わなかったし、エラリーは椅子の背によりかかって、陰気な眸《ひとみ》でモーガンを見つめていた。モーガンは、ごくりと唾をのみこんで続けた。
「それで私は何も言わなかったのです。法律の知識がある人間が、自ら求めて決定的な状況証拠の網を張りめぐらすことになるようなときに沈黙を守るのを、非難はなさらんでしょうね」
クイーンはしばらく黙っていた。やがて――「まあ、そのことはしばらくお預けにしておきましょう、モーガンさん。ところで、日曜日の夜にフィールドを訪ねた理由は何ですか」
「立派な理由があったのです」と、弁護士は辛そうに答えた。「前の週の水曜日に、フィールドは私の事務所を訪ねて来て、最後の冒険仕事をするので、すぐに五万ドル作らなければならないと言いました。五万ドルですよ」と、モーガンはかすれ声で笑った。「年とった牝牛のようになるまで、私の金を絞りあげたあげくですよ……しかも冒険仕事というのが――何だと思いますか。もしあなたがフィールドを、私のようによく知っていたら、その答えが、株か馬だと分るでしょう……ちがうかもしれません。多分金に詰っていたか、古い借金を払おうとしていたのかもしれません。とにかく、まったく新しい提案を持ち出して五万ドル要求したのです――五万ドル出せば書類の原本を、たしかに返すと言うのです。そういう出方をしてきたのは初めてです。いつも――前には――高飛車に口留め料をゆすっていたのです。ところが、今度は、取引きを提案したのです」
「それは面白い点ですね、モーガンさん」と、エラリーが目をかがやかせて口をはさんだ。「フィールドの言葉の中に、あなたがさっき言った≪古い借金を返す≫というように受けとれる決定的なものがあったんですか」
「ええ。だから私はそういったんです。私の印象では、あの男は、行き詰って、少し休暇をとろうとしているようでした――その休暇というのは、三年ばかり欧州へ遊びに行くだけなんです――それで≪友人たち≫全部を、せびっていたのです。あの男が大仕掛けにゆすりをやっているとはまったく知りませんでしたが、今度こそ――」
エラリーと警視は目を見合わせた。モーガンはおもむろに話をすすめた。
「私はあの男に本当のことを話しました。あの男のせいで、経済的に困っていること、要求するような大金は絶対に工面できそうもないことなどを。ところが、あの男は笑うだけで――がむしゃらに金を出せというのです。私としては、むろんどうしても書類が手に入れたいし……」
「あなたは支払いずみの小切手帳から紛失しているものがあるのを調べましたか」と、警視が訊いた。
「その必要はなかったのです、警視さん」と、モーガンは、嘔きすてるように「あの男は二年前にウェブスター・クラブで喧嘩したときに、私へのあてつけに、小切手帳と手紙類を、実際に出して見せたのです。だから、まったく疑問の余地はないんです。奴は一枚上です」
「それから」
「先週の水曜日には、ゆすりをかくそうともせずに、のしかかって来たのです。私は話し合っているうちに、何とかしてあの男の要求に応じようとしているのだということを信じさせようと必死の努力をしました。というのも、ひとたび私を絞りつくしたとさとったら、書類を公表することなど、屁《へ》でもない奴なんですからね……」
「あなたは書類を見せてくれと要求しなかったんですか」と、エラリーが訊いた。
「たしかに要求しました――ところが、あの男はせせら笑って、金の面を見たら、小切手と手紙の面を見せると言うのです。抜け目のない悪党で――大事な証拠をうっかり持ち出すと、私が何をするか分らないと思って、そんな危ない橋は決して渡らないのです……私が何もかも話しているのがお分りでしょう。時には暴力に訴えようと思うこともたしかにありました。あんな状態におかれると、だれでもそんな考えを持たざるを得ないじゃありませんか。しかし私は真剣に人を殺そうと考えたことは一度もありませんよ――それにはちゃんとした理由があるんです」と、モーガンはひと息入れた。
「そんなことをしても何の役にも立たなかったんでしょう」と、エラリーが、おだやかに「あなたは、書類のありかを知らなかったんだから」
「そうです」と、モーガンがおびえるように微笑しながら答えた。「知らなかったのです。それで、その書類がいつ明るみに出るか分らず――だれの手に渡るか分らないのだから――フィールドが死んでも、何の役にも立たないわけですよ。悪い親方をいっそう悪い親方にかえることになってしまうかもしれないんです……あの男の要求する金をつくろうと三日間四苦八苦したあげく、日曜日の夜――どうしても金ができないので――最後の決着をつける肚《はら》をきめたのです。あの男のアパートへ行ってみると、部屋着姿で、たいへん意外だったらしく、私に会うのを極力避けたがっていました。居間はちらかっていて――そのとき、ルッソー夫人が次の間にかくれているとは気がつきませんでした」
モーガンはふるえる指で葉巻に火を点《つ》けた。
「私たちは喧嘩しました――というより、私がいきり立ち、あの男がせせら笑ったのです。こちらの言い分にも、訴えにも耳をかさないのです。五万ドルよこせ、さもなければ話をぶちまける――証拠もつけてな、と言うのです。するうちに、私はかなり疳《かん》にさわってきたらしいのです……私は自制心を完全に失わないうちに出て来ました。それだけなのです、警視さん。私は紳士とし、また不利な状況の犠牲者としての名誉にかけて申します」
モーガンは顔をそむけた。クイーン警視はせき払いをして葉巻を灰皿にすてた。そして、ポケットからかぎたばこ入れをとり出し、ひとつまみとって、深くすいこんで椅子によりかかった。すぐにエラリーがコップに水をついでやると、モーガンはそれをとって飲みほした。
「ありがとう、モーガンさん」と、クイーンが言った。「あなたは本当に正直に話して下さったのだから、日曜日の夜、フィールドと喧嘩しているときに、殺すぞと言ったかどうかも、ありのままに話して下さい。お知らせしておくほうが公平だと思いますが、ルッソー夫人は、あなたがあの時腹立ちまぎれになにか言ったというので、あなたをフィールド殺しの犯人だと、はっきり非難しています」
モーガンは青くなった。眉をしかめ、おどおどした目を見ひらいて、悲しそうに警視をみつめた。
「嘘をついてるんです」と、しわがれた声で叫んだ。近くのテーブルについていた客たちが、物見高くふり向いた。クイーン警視はモーガンの腕をかるくたたいた。モーガンは唇を噛んで、声を低くした。「そんなことは何も言いませんでした、警視さん。なるほど、さっき、時々は、腹立ちまぎれにフィールドを殺してやろうと考えたといったことは、事実です。でも、それは、見当はずれの、ばかげた、意味のない考えでした。私には――私には人を殺す勇気などありません。ウェブスター・クラブで、とりのぼせて、あんな脅し文句をどなった時でも、本当にやる気はなかったのです。たしかに日曜日の夜は――警視さん、あんな恥しらずの、お金一点ばりの売春婦よりも、どうか私を信じて下さい――たのみます」
「私はただあなたの言ったことを説明してほしいんです。というのは」と、警視は静かに「変に思えるかもしれませんが、あの女が、あなたが言ったという言葉を、あなたが言明したものと信じているのです」
「どんな言明ですか」モーガンは不安で冷汗をうかべ、目がとび出しそうになった。
「≪書類を公表したらよかろう、そうすりゃ、ぼくは破滅するかもしれない――そのかわりお前にも二度とだれもゆすれないようにしてやるぞ≫」と、警視は文句をくりかえして「こういったのでしょう、モーガンさん」
弁護士は、ぽかんとしてクイーン親子を見ていたが、身をそらして笑い出した。「おどろいたな」と、しまいに息をきらして「私がした≪脅迫≫というのは、それですか。そりゃ、警視さん、こういう意味なんです。あの男の不当な要求に応じきれなくて、もし書類が公表されるような時には、私も対抗上、警察に訴えて、あの男を破滅の道連れにしてやるつもりだったのです。本当に、そのつもりでした。それを、あの女が、殺してやるといったと思いこんだのでしょう――」モーガンは、がむしゃらに目をぬぐった。
エラリーは微笑して、指をあげて給仕を呼んだ。そして金を払い、たばこをつけて、同情しながらぼんやりとモーガンを見つめている父を横目でみていた。
「分りました、モーガンさん」と、警視は椅子を後ろに押しやって立った。「知りたかったのはそれだけです」警視は、まだ放心の体で震えている弁護士を、携帯品預り所のほうへ先に立って行かせるために、いんぎんに道をゆずった。
クイーン親子が、ブロードウェイから四十七番街に歩いて来たときには、ローマ劇場の前の歩道は人であふれていた。ひどいこみようなので警官が整理に出ていた。狭い往来は一区画全部が、完全に交通がとまっていた。正面ひさしの電飾は、煌々《こうこう》とかがやいて≪拳銃稼業≫の外題《げだい》を浮かび上がらせ、やや小さい電飾が≪主演――ジェームス・ピール、イーヴ・エリス。助演オールスター・キャスト≫と、役者の名をえがいていた。男も女も、ごった返す群衆の中を、もみ合って通り抜けようと、肘をふりまわしていたし、警官は声をからして叫びながら、警戒線を通す前に、いちいちその夜の観劇券の提示を求めていた。
警視はバッジを見せて、エラリーと一緒に、ひしめく群衆におしまくられて、小さな休憩室に入った。切符売場のそばに、支配人のパンザーが、ラテン系の顔をほころばせて立ち、丁寧に、だが厳然と胸を張って、当日売りの観客の長い列を、切符売場の窓口から、座席券受取り係のほうへ急がせるのを手伝っていた。もったいぶったドアマンが、汗だくで、当惑しきった顔つきで片側に立っていた。切符売場の連中は気ちがいのように働いていた。ハリー・ニールスンが、休憩室の隅に押しつけられて、新聞記者らしい三人の男と、熱心に話していた。
パンザーはクイーン親子を見かけて、急いで挨拶に来ようとしたが、警視が押しとめるような身ぶりをしたので、二の足をふみ、やがて、大きくうなずいて切符売場の窓口へもどった。エラリーは、おとなしく行列について、切符売場から、予約座席券を二枚、受けとって来た。二人は押し合いへし合いしながら、平土間に入った。
エラリーが、左LL三二、左LL三〇とはっきり記されている二枚の切符を差し出したとき、マッジ・オッコネルは、びっくりしてあとずさりした。警視は、その女案内人が、おどおどして切符を受けとり、不安そうな目を向けるのにほほえんだ。女は厚い敷物の上を歩いて、一番左の通路へ案内し、だまって最後の列の最後の二つの座席を示すと、すぐ立ち去った。二人は腰をおろし、帽子を座席の下の針金の帽子掛けにおさめて、どうみても、ひと夜の血なまぐさい芝居をたのしもうとする観客のように、ゆったりと座席の背によりかかった。
客席は満員だった。通路を案内されてくる人の群れで、たちまち、空席がふさがっていった。人々が物見高くクイーン親子のほうをふり向くので、思いもかけず、二人は、関心のまとになって、まずかった。
「まずいな」と、老人が舌打ちして「幕があがってから入ればよかった」
「あなたは人気を気にしすぎますよ、お父さん」と、エラリーが笑って「ぼくは評判なんか気にしませんよ」といいながら腕時計を見て、意味ありげに、目を見合わせた。ちょうど、八時二十五分だった。二人は少しもじもじしてから、落ちつきこんだ。
照明が次々に消えていった。それにつれて、観客のおしゃべりが静まった。暗黒の中で、幕があがり、不気味なうすぐらい舞台があらわれた。銃声が静寂を破った。男の絞め殺されそうな叫び声がして、場内は、はっと息をのんだ。≪拳銃稼業≫は、宣伝どおり、芝居気たっぷりな段取りで、幕を切っておとした。
父親が上の空でいるのに、エラリーは三日前の夜、フィールドの死体があったその椅子にゆっくりと坐りこんで、身うごきもせず興味|津々《しんしん》たるメロドラマを楽しんでいた。舞台でくりひろげられる山場山場で、ジェームス・ピールの美しく豊かな声が、凛々《りんりん》とひびきわたった。その圧倒的な演技が、エラリーの胸をおどらせた。イーヴ・エリスと、スティーヴン・バリーが、低い、わななくような声で、やりとりする場では――ぴったりと、役になりきっていた。スティーヴン・バリーの美しい顔と快い声は、警視のすぐ右隣に坐っている若い娘に、感にたえかねたような嘆声を吐かせた。ヒルダ・オレンジは、役柄にふさわしい、けばけばした扮装で、片隅にちぢこまっていた。老≪性格俳優≫は、舞台の上を、あてどもなく歩いていた。エラリーは父のほうへかがみこんだ。
「適役ぞろいですね」と、低い声で「あの、オレンジという女優はうまいな」
芝居は沈んだり盛り上がったりして進行した。爆発するような科白《せりふ》と音響のかみ合いのうちに第一幕が終った。警視は、ぱっと点いた照明で、時計を出して見た。九時五分だった。
警視が立ったので、エラリーも臆劫《おっくう》そうについて行った。マッジ・オッコネルは二人に気づかぬようなふりをして、通路口の重い鉄のドアを開けた。観客は列をなして、灯のうすぐらい路地に出はじめた。クイーン親子も皆にまじってゆっくり出た。
制服のボーイが、紙コップを並べた、小ぎれいなスタンドの後ろに立って、低い≪なれた≫声で呼び売りをしていた。モンティー・フィールドにジンジャエールを頼まれたと証言したジェス・リンチだった。
エラリーは鉄扉の後ろに入ってみた――扉と煉瓦壁の間に、すき間があった。路地の片方の側を仕切っている壁は、ほぼ六階の高さですき間がなくのっぺりしているのに気づいた。警視は、ボーイからオレンジエードを買った。ジェス・リンチは警視を見ておどろいたが、警視は機嫌よく声をかけた。
人々は三々五々、かたまって立ち、あたりの様子に好奇心をわきたたせているようだった。怖そうに、しゃべっている女の、魅入られるような声が、警視の耳に入った。「あの人は月曜日の夜、すぐここに立って、オレンジエードを買っていたんですってさ」
じきに開幕のベルが場内でひびきわたり、外に息抜きに出ていた人々は急いで平土間に引きかえした。坐る前に、警視は客席の後方の、二階席につづく階段口を、見やった。背の高い制服の青年が、登り口のところに立って見張っていた。
さっと、二幕目の幕が上がった。観客は、舞台の上で演じられる烈しい撃ち合いに、ざわめき立ち、満足そうに固唾《かたず》をのんだ。クイーン親子も、急に、その活劇にひきこまれたかのようだった。エラリーも父親も前にのり出し、からだをかたくして、眸をこらしていた。エラリーは九時三十分に時計をみた――それから、クイーン親子はまた椅子の背によりかかり、舞台では、活劇がつづいた。
九時五十分きっかりに、二人は立って、帽子と外套を持ち、LLの列からこっそり出て、平土間の後ろのすいた場所へ行った。何人かの記者が立っていた――警視はその連中にほほえみながら、声をひそめて、新聞の力に礼を言った。顔の白い女案内人、マッジ・オッコネルは、固くなって柱によりかかり、じっと、宙を見つめていた。
クイーン親子は、パンザーが事務室の入口に立って、満員のお客をにこにこ眺めているのを見つけて、歩み寄った。警視は支配人に内へはいるように合図して、急いで小さな控えの間に入り、エラリーが後ろから、ドアを閉めた。パンザーの顔から微笑が消えた。
「今夜はお気に召しましたでしょうか」と、神経質に訊いた。
「お気に召す? うん――そりゃ、君の言葉の意味によるな」と、老人はちょっと思わせぶりに肩をふって、隣りのパンザーの私室に入って行った。
「おい、パンザー」と、警視は少し興奮して歩きまわりながら「ここに、平土間の、各座席、各番号、各出入口を書いた手ごろな図があるかな」
パンザーは目を丸くした。「あると思います。ちょっとお待ち下さい」支配人は書類戸棚を探し、二、三の書類綴りをかきまわしたあげく、二部に分かれている大きな劇場の図面をとり出した――一部は平土間、もう一部は二階席だった。
警視は待ちかねたように、第二部のほうを押しのけて、エラリーと一緒に平土間の図に、うつむきこんだ。しばらく調べていた。クイーンは、次に何をきかれるかと明らかにはかりかねて、敷物の上で足をもぞもぞしているパンザーを、見上げた。
「この図面を借りていいね、パンザー」と、警視があっさり言った。「二、三日中に、汚さずに返す」
「どうぞ、どうぞ」と、パンザーが「まだ何か、ほかにご用はございませんか、警視さん……宣伝についてはひとかたならぬご配慮をいただきまして、ありがとうございました――ゴードン・デーヴィスさんも、今夜の≪入り≫に大満足で、くれぐれもよろしくとのことです」
「いいんだ――いいんだ」と、警視は図面をたたんで胸ポケットに入れながら、つぶやいた。「こうなるはずだったんだ――なるようになったのさ……ところで、エラリー、行こうか……おやすみ、パンザー。このことは内証だよ、いいな」
クイーン親子は、パンザーが秘密を守る約束をくりかえしているのを後に、事務室を抜け出した。
二人はもう一度、平土間の後ろを、一番左の通路のほうへ歩いて行った。警視は、マッジ・オッコネルをちょっと手招きした。
「はい」と、女は青白い顔で、息をはずませた。
「ちょっと、わしらが通れるだけ、この扉を開けてくれんか、オッコネル、そして、あとは、このことを忘れてしまうんだ。いいかね?」と、警視は、にやにやしながら言った。
女は、かすかな声で何かつぶやき、LLの列に面した大きな鉄扉の一つを押しあけた。警視は、だめを押すように頭を振って、くぐりぬけた――エラリーもついて出た――すると、扉は静かにまた閉まった。
十一時に、最後の幕が下りて、観客たちの最初の一団が、大きな出口から吐き出されたとき、リチャード・クイーンとエラリーは、正面扉から、ふたたびローマ劇場に入って行った。
第十七場 いくつもの帽子の出現
「坐りたまえ、ティム――コーヒーはどうかね」
ティモシイ・クローニンは、髪が火のように赤く、房々して、背が高く、目の鋭い男だ。クイーン家の安楽椅子に腰かけて、いくらか遠慮がちに、警視の申し出を受けた。
金曜日の朝で、警視もエラリーも、はでな部屋着を着て、上機嫌だった。二人は前の晩はいつになく早く寝た――珍しいことだ。そして、十分に睡眠をとったのだ。ジューナが、自分でミックスしたコーヒーの熱いポットを持って来て卓上においた。世間万事たしかにうまくいっているようだった。
クローニンは、ばかげた時間に、クイーン家の楽しい部屋にふみ込んで来たのだ――ぼさぼさの髪で、不機嫌に、遠慮もなく文句を言っていた。警視が遠まわしにたしなめても、口をついて出るひどい文句を、せきとめることはできなかった。ところがエラリーは、素人が玄人の言葉に耳を傾けるように、司法官の言葉を、まじめくさって聞いていた。
やがてクローニンは場所柄に気がつき、真っ赤になって、すすめられるままに腰を下ろし、まるで短気な実業家が、朝食の支度をせかしているかのように、ジューナのぴんと背をそらした後ろ姿を見つめた。
「乱暴な言葉づかいを詫びる気はないんだろう、ティム・クローニン君」と、警視は、仏陀《ぶっだ》のように、おなかの上で手を組みながらたしなめた。「どうしてそんなに腹が立つのか訊きたいね」
「なあに、きくまでもないですよ」と、クローニンは、敷物の上で乱暴に足ぶみしながら、うなった。「見当がついているでしょう。フィールドの書類の件で、ぼくは壁につき当たっちまってるんです。いまいましい畜生だ。吹っとんじまえ」
「吹っとんだよ、ティム――吹っとんじゃったから、もう心配ないよ」と、クイーンが悲しそうに「かわいそうなフィールドの奴、今ごろは、ちょろちょろもえる地獄の炭火で爪先をあぶっているだろう――そして、君の悪態に身をさらして、げらげら笑ってるだろうよ。ところで、正確なところ情勢はどうかね――どうなっとるね」
クローニンは、ジューナが前に置いたコーヒー茶碗をつかんで、ぐっとひと息に、煮え立っているやつを飲みほし「どうなってるって?」と、叫んで、ばしんと茶碗をもどした。「どうもこうもありません――台なし、形なし、お手上げです。まったくのところ、すぐにも何か証拠書類が手に入らないと、気が狂いそうですよ。ねえ、警視――ストーツとぼくは、フィールドのあのだだっ広い事務所をすっかりひっかきまわしたんですよ。どんなかくし場所にも鼠一匹かくれていられないほどにね――しかも、何もないんです。皆無ですよ――信じられません。ぼくは名誉をかけてもいいですが――きっとどこかに――フィールドの書類はかくされていて、だれかが来て持っていくのを待ちこがれているにちがいありませんよ」
「君は隠された書類の件で恐怖症にかかったらしいね、クローニン」と、エラリーが、やさしく言った。「暴君チャールズ一世の時代に生きてるんじゃあるまいし、隠された書類なんてものはないんだよ。ただ、探す場所が分ればいいんだよ」
クローニンは不遜《ふそん》な微笑をうかべて「どうもご親切に、クイーン君。モンティー・フィールドの書類の隠し場所を教えてくれるんでしょうね」
エラリーはたばこをつけた。「いいとも、挑戦に応じましょう……君の言うところによると――君の言葉を少しも疑うわけじゃないが――あの書類はフィールドの事務所にはないと思っているらしいね……ところで、君が言うように、フィールドが自分を有罪にするような、大きなギャング組織に関する書類を持っているという確信は、どこから来たのかな」
「書類は必ず持っているはずですよ」と、クローニンは反撃した。「妙な理屈だがたしかです……われわれが、いつも≪押えよう≫としてついに押えられなかったギャング団の頭株と、フィールドとを結びつける手紙や計画書を持っていたという事実については、ぼくは絶対にたしかな情報を持っているんです。これは信用して下さい、その事情はこみ入りすぎていて今は話せませんがね。しかし、これだけは覚えていて下さい、クイーン君――フィールドは破棄したくない書類を持っていたんです。ぼくが探しているのは、その書類です」
「よろしい」と、エラリーは改まって「ぼくはその事実を確かめたかっただけだ。さて、くりかえすが、その書類は事務所にはなかった。とすると、もっと広範囲に探さなければならないことになる。たとえば、どこかの安全保管金庫にかくされているかもしれない」
「だが、エル」と、エラリーとクローニンのやりとりを面白そうにきいていた警視が異議をはさんだ。「今朝言ったじゃないか、その点なら、トマスが徹底的に調べ上げた。フィールドは、どこの保管金庫にも、ボックスを持っていなかった。調査ずみだ。それにあの男は、本名でも偽名でも――郵便局の局留《きょくどめ》口座も、私書箱も持っていなかった。
トマスはフィールドのクラブ関係も調べたが、あの弁護士は七十五番街のアパートのほかには、一時的にも永続的にも、住所は一つも持っていないのが分った。その上、トマスが調べまわったところでは、隠し場所らしいものはてんでなかった。トマスはフィールドが書類を、包みか鞄に入れて商店みたいなところに置いとるんじゃないかと考えたが、手がかりなしだ……ヴェリーはこの方面では腕利きだよ、エラリー。お前の仮定が間違っていることに、お前の最後の一ドルを賭けても大丈夫だ」
「ぼくはクローニンのために要点をはっきりしようとしているんです」と、エラリーが言い返して、そっとテーブルに手をひろげて、ウィンクした。「ねえ君、ぼくらは決定的に≪ここになければならない≫と言えるまで、捜査範囲を縮めなければならないんだ。事務所と、保管金庫と、郵便局の私書箱は除外された。しかも、フィールドが出入りしにくい場所に、書類をしまっておくおそれはまずないだろう。ぼくは君が探している書類があるとは保証できないがね、クローニン、われわれの探している書類なら話がちがうよ。間違いなく、フィールドは、どこか手近なところに持っていたはずだ……しかも、いうならば、全部の重要な秘密書類を同じ隠し場所にしまっていただろうと推定しても妥当だ」
クローニンは頭を掻いて、うなずいた。
「そこで初歩的な規則を当てはめてみよう」と、エラリーは次の言葉の効果をはかるために、ひと息入れて「われわれは、ただひとつの場所を除いて、可能性のある隠し場所全部を排除するまで、捜査範囲を縮めたのだから――書類はその最後の隠し場所になければならない……それ以外の場所にはない」
「ちょっと待てよ」と、警視は、急に不機嫌になりながらゆううつそうに口をはさんだ。「その場所の捜査にあたって、もっと慎重にやるべきだったのかもしれないな」
「われわれが本筋を追っていることは確かです」と、エラリーが確信をもって言った。「今日は金曜日だから、三千万所帯の夕食に魚料理が出るのと同じぐらい確かです」
クローニンは腑におちぬ顔で「さっぱり分らないな、クイーン君。可能性のあるただひとつの隠し場所が残されているというのは、どういうことなんだね」
「フィールドのアパートさ、クローニン君」と、エラリーはけろりと言った。「書類はそこにあるのさ」
「しかし、そのことについては、昨日、地方検事と話し合ったばかりです」と、クローニンが反発した。「検事は、あなた方がすでにフィールドのアパートを捜査して、何も出てこなかったと言ってました」
「そうさ――そのとおりさ」と、エラリーが「フィールドのアパートを探したが、何も出なかった。問題は、正しい場所を調べなかったことなんだ、クローニン君」
「ああ、そうか、それが分ったのなら、すぐ取りかかりましょう」と、クローニンは椅子をとび立って大声を出した。
警視は赤毛の男のひざをやさしくたたいて、坐るように指示した。「坐りたまえ、ティム」と、すすめた。「エラリーはただ、得意の推理遊びをしているだけなんだ。書類がどこにあるか分らないのは君と同じさ。あてずっぽうさ……推理小説で」と、悲しげに微笑して言った。「つまり、≪推理技術≫というやつさ」
「どうやら」と、エラリーはたばこの煙を吐きながらつぶやいた。「また挑戦されたようだな。こうなれば、あれからぼくはフィールドの部屋に行っていないが、クイーン警視のお許しを得て、もう一度行って、雲がくれた書類を探したいな」
「その書類のことだが」と、警視が言いかけたが、ドアのベルが鳴ったのでやめた。ジューナがヴェリー部長を招じ入れた。部長は、おどおどしてふるえている小柄のうさんくさい青年をつれていた。警視はとび立って、二人が居間にはいるのをとめた。クローニンが目を丸くしていると、クイーンが言った。「この男なのか、トマス」すると大男の刑事は、いまいましそうにおどけて「大捕りものですよ、警視」
「君は捕《つか》まらずにアパート泥棒ができるんだね」と、警視は、新顔の男の腕をとって、やさしく訊いた。「まさにわしの求めている人だ」
うさんくさい青年は、ちぢみ上がって足がすくんだようだった。「ねえ、警視さん、わたしをからかうつもりじゃないでしょうね」と、どもりながら言った。
警視は安心しろというように微笑して、控えの間につれて行った。そこで、低い声で話していたが、話しているのは警視だけで、その男のほうは老人が話すたびに、うんうんと相槌《あいづち》を打っているのだった。居間にいるエラリーとクローニンは、小さな紙片が、警視の手からその男へ、すばやく受け渡されるのを、ちらっと見た。
クイーンは、元気な足どりで戻って来た。「これでいい。トマス、あとの手配は君がやってくれ、そうして、あの男に迷惑がかからないようにしてくれ……さて、諸君――」
ヴェリーはぶっきら棒に挨拶して、おじけづいている男をつれて、部屋を出て行った。
警視は腰を下ろした。「フィールドの部屋へ行く前に」と、考えこみながら「二、三の点を明らかにしておきたい。まず、ベンジャミン・モーガンが話したことだが、フィールドの本業は法律事務だったが、大きな収入源は――ゆすりだった。そのことは知っていたかね、ティム。モンティー・フィールドは何十人という一流人物を絞り上げていた。おそらく何十万ドルという金額だ。事実、フィールド殺しの背後の動機は、あの男の内密な行動の分野に関係があると信じているんだ、ティム。疑いもなく、あの男は、莫大な口留め料を要求されて、その苦痛に耐えられなくなった何者かに殺されたのだ。
君も知っとるとおり、ティム、ゆすりというものは、たいてい、ゆする男が、相手を罪におとし入れるような文書を持っているからその悪業が成り立つのだ。だから、どこかにその書類が隠されていると信じるし――ここにいるエラリーは、それがフィールドの部屋にあると主張する。よろしい、いずれ分るだろう。万一その書類が見つかれば、君が長いあいだ探していた文書も、さっきエラリーが言ったようにおそらく発見されるだろう」
警視は考えこんで口をつぐんだ。「わしがどんなに、そのいまいましい文書を手に入れたがっとるか、口では言えんほどだよ、ティム。わしにとっても重要なのだ。それがあれば、まだ分らない多くの疑問が氷解するだろう……」
「それじゃ、出かけましょう」と、クローニンが椅子から立ち上がって促した。「警視さん、ぼくが、この数年間フィールドを追いまわしたのも、その文書を見つけるためだったのを、ごぞんじでしょう。今日は、わが生涯の最良の日になりそうですよ……警視さん――行きましょう」
しかし、エラリーも警視も、急ごうとはしなかった。二人は寝室にはいって着換えていた。そのあいだ、クローニンは居間で、しびれをきらせていた。もしクローニンが自分勝手な希望で夢中になっていなかったら、さっき来たときあれほど機嫌のよかったクイーン親子が、今はすっかりゆううつになってしまったのに気がついただろう。警視は特に不機嫌で、いらだって、どうしても避けられない方向へもう一度捜査をすすめるのを、しぶっているようだった。
やがて、クイーン親子はすっかり着換えて出て来た。三人は通りへ出た。そして、タクシーに乗りこんだとき、エラリーがため息をついた。
「はったりの尻が割れるのが心配なのか、エル」と、老人は、外套の襟に鼻を埋めてつぶやいた。
「そんなことを考えてるんじゃありませんよ」と、エラリーが返した。「そりゃ別のことです……書類はみつかります、心配いりません」
「君の言うとおりだといいな」と、クローニンがいきごんで言った。そして、それが、最後の言葉になった。車が七十五番街の大きなアパートの前で停まるまでみんな黙りこんでいた。
三人は四階までエレベーターでのぼり、静かな廊下に出た。警視は、すばやくあたりを見まわし、フィールドの部屋のドアのベルを押した。返事はなかったが、何者かがドアのかげでごそごそする音がきこえた。不意にドアが勢いよく開いて、不安そうに尻ポケットの拳銃に片手をまわしている赤ら顔の警官が姿を現わした。
「びくつかんでいい――噛みつきゃせんぞ」と、警視はまったく理由もなく不機嫌になって、どなりつけたので、若駒のように張り切って神経質になっているクローニンも、ぎくりとした。
警官は敬礼して「何者かがうろつきまわっているのかと思いましたので、まさか警視とは」と、しょげて言った。
三人は控えの間に通った。老人は細い白い手で、ばたんとドアを閉めた。
「何か変ったことがあったか」と、クイーンは大股で居間の入口に歩みよって、のぞきこみながら、手短に訊いた。
「何もありません」と、警官が答えた。「キャシディーと交替で四時間勤務についていますが、時々リッター刑事が変りがないか見まわりに寄っています」
「そうか、あの男が、来とるか」と、老人はふり向いて「だれかがここに忍びこもうとしなかったか」
「私がいる間は、そんなことはありませんでした、警視――キャシディーのときも同じです」と、警官は緊張して答えた。「それに、私たちは火曜日の朝から交替勤務に就いています。リッター刑事のほかに、この部屋に近づいた者はひとりもありません」
「二時間ばかり、この控えの間に陣取っていてくれ」と、警視が命令した。「椅子を持って来て、なんなら居眠りしてもいいぞ――だが、もし、ドアをいじる者がいたら、すぐ、知らせるんだぞ」
警官は居間から椅子を控え室へひきずって来て、玄関のドアに背をもたせて坐りこむと、腕を組んで、恥ずかしげもなく目を閉じた。
三人はゆううつそうに室内を見まわした。控えの間は小さかったが、家具や装飾品のがらくたが、ごたごた置いてあった。本棚には手もふれてないような本がつまり、小机の上には≪近代趣味≫のスタンドと、象牙彫りの灰皿がいくつかのせてあった。アンピール風の椅子が二脚、飾り棚とも書きもの机とも見える妙な家具が一台、それに多くのクッションと、足敷きがちらばっていた。警視はこのがらくたを、不機嫌そうに、立って眺めていた。
「おい、エル――捜査をすすめる一番いい方法は、三人で全部の品ものをひとつずつ、片っぱしから調べあげることだな。まあ、望みはあるまいがな」
「哭壁《こくへき》の紳士という顔ですね」と、エラリーはうめくように言った。「高貴なお顔には、悲しみが、くっきりときざみこまれている。ところが、あなたも私も、クローニンも――みんな悲観論者じゃないでしょう」〔哭壁はエルサレムにある石壁で、毎週金曜日に、ユダヤ人はここに集って泣いて祈る〕
クローニンが大声で「ねえ、ねえ――無駄口をたたいていないで、やりましょうよ。あなた方の口争いにはほとほと感心しますけどね」
エラリーは感心したようにクローニンを見つめた。「君は思いこんだら梃子《てこ》でも動かぬ、食虫類のような男だな。人間というより戦争蟻みたいだ。獲物のフィールドは、死体置場にあるときてる……|さあ、進め《アロンザンファン》〔フランス国歌の頭の句〕」
三人は警官が舟をこいでいる目の前で仕事にかかった。ほとんど物音もたてなかった。エラリーは自信にみちた顔をしていたし、警視はいら立ってものうげだったし、クローニンは、がむしゃらに張りきっていた。本は一冊ずつ、箱から抜き出して綿密に調べられた――ページを振ってみ――表紙を丹念に調べ――背はつまんだり針をさしたりした。二百冊ぐらいあったから、全部調べるのにかなりかかった。しばらく働いてから、エラリーは面倒な調査をクローニンと父にまかせて、だんだん、本の標題に注意を集中するようになった。するうちに、うれしそうな声をあげて、薄い安装丁の本を一冊、明るみに持ち出した。クローニンはすぐ目を光らせてとんで来た。警視はちょっと気をひかれたように目をあげた。だが、エラリーが見つけたのは、筆跡分析の、もう一冊の本にすぎなかった。
老人は、考え深そうに唇をすぼめて、黙って、面白そうに、息子を見つめた。クローニンは、ぶつぶつ言いながら本箱の捜査にもどった。しかし、エラリーは、すばやくページをくりながら、もう一度、声をあげた。二人の男はエラリーの肩ごしにのぞきこんだ。二、三ページの余白に、鉛筆の覚え書きがあった。それは人名で≪ヘンリー・ジョーンズ≫≪ジョン・スミス≫≪ジョージ・ブラウン≫と書いてあった。しかも、その名前は、ちょうど書体をかえて書く練習でもしたように、ページの余白に、何度もくり返して書いてあった。
「フィールドには、こんな子供っぽい、いたずら書きをするくせがあったんでしょうかね」と、エラリーは、鉛筆書きの名前を、しげしげと見ていた。
「いつものように、こっそりと何か、考えとるな、エル」と、警視が、面倒くさそうに言った。「お前の考えていることは察しがつくが、さし当り役には立たんだろうな。ただ――そうだ、こりゃ、思いつきだぞ!」
警視はかがみこんでまた捜査にとりかかった。新しい興味で振るい立っていた。エラリーはほほえみながら父を手伝った。クローニンはぽかんとして二人を見つめた。
「ぼくも仲間にいれてくれませんか」と、情けなさそうに言った。
警視は、身をおこして「エラリーが何かをつかんだんだ。そいつが正しければ、われわれは少し運がいいぞ。フィールドの性格のほかの一面をひんむくことになる。じつに腹黒い奴だ。なあ、ティム――もし一人の男が、常習のゆすりで、そいつが、筆跡分析の手本で、いつも字の練習をしていた証拠が、次々に上がったら、どういう結論をひき出すかね」
「すると奴は偽筆使いだったと言うんですか」と、クローニンは顔をしかめて「長年追いまわしたのに、その点は全然気がつきませんでした」
「偽筆使いだけじゃないよ、クローニン」と、エラリーが笑った。「モンティー・フィールドが小切手なんかに、他人の名を書いているのを、とても発見できないだろうね。狡い奴だからおそらく大きな手抜かりするようなことはあるまい。奴がやっていたのは、ある人間を罪におとし入れるような書類の原本を手に入れると、それを模写して、模写のほうを相手に買いとらせ、原本のほうは手許に残して、先へ行ってまた使う手だったんだろうな」
「とすると、ティム」と、警視は重々しく言いたした。「もし、その書類の在《あ》り家《か》をどこかでみつければ――見込みがないとは思うが――モンティー・フィールドを殺すことになった書類の原本も、見つかるかもしれない」
赤毛の地方検事補は、悲しそうな顔を二人に向けて「≪もしも≫が多すぎるようですね」といって、頭を振った。
三人はいっそう無口になって捜査に打ち込んだ。
控えの間には何も隠してなかった。根気よく、骨身おしまずに一時間も探したあげく、しぶしぶ、その結論に到達せざるを得なかった。残るくまなく探したのだ。本棚とスタンドの中まで、きゃしゃな、台板の薄いテーブル、書きもの机の内も外も、クッションも、壁までも警視は注意深くたたいてみた。警視はすっかり、興奮していた。自制してはいるが、ひどく唇をかみしめ、頬を紅潮させていた。
三人は居間を調べた。まず最初に手をつけたのは、控えの間に続く居間の内側にある大きな衣装戸棚だった。警視とエラリーは、洋服掛けにかかっているトップ・コートと、オーバーコートと、ケープを調べ直した。上の棚には火曜日の朝に調べた――古いパナマと、ダービーと、二個のフェドラ――帽子が四個あった。クローニンは床にひざをついて、がむしゃらに戸棚の暗い隅をのぞき込んだり、壁をたたいたり、木の部分に細工をほどこした形跡がないかを調べた。しかし何もなかった。警視は椅子に乗って、棚の上の隅々をのぞいてから、椅子を下りて首を振った。
「これで戸棚は忘れることにしよう」と、つぶやいた。三人は居間に入った。
ヘイグストロームとピゴットが三日前にかきまわした彫刻つきの大机が捜査欲をそそった。中には、書類や、支払いずみの勘定書や手紙がつまっていて、全部老人の査閲を受けた。クイーン老は、それらの破れたり、しわになっている紙片を、まるでかくしインキで通信文がこっそり書かれているもののように、いちいち、すかして見た。それから、肩をすくめて、なげ出した。
「いい年をして、ロマンチックになるなんて、なってないぞ」と、警視はうなった。「小説書きのどら息子にかぶれたかな」
警視は火曜日にこの戸棚の外套のポケットから自分で見つけ出した、小物類を、つまみ上げた。エラリーはしかめ面になり、クローニンも八の字をよせて、もの思いに沈みはじめた。老人は、ぼんやりと、鍵や、古手紙や、札ばさみをかきまわしてから、見切りをつけた。
「机には何もない」と、がっかりして「悪魔の片腕みたいな抜け目のない奴が、机のように目につきやすいものを、隠し場所にえらぶはずもあるまい」
「エドガー・アラン・ポーを読んでいれば、そうするかも知れませんよ」と、エラリーが、つぶやいた。「探してみよう。たしかに、かくしひき出しはないだろうね」と、クローニンに訊いた。クローニンは赤毛の頭を、悲しそうに、だがはっきりと振った。
三人は家具の中や、敷物やスタンドの下や、本立ての中や、カーテンの棒まで、こと細かに調べあげた。次から次へと失敗するにつれて、捜査の望みが失われていくのが、はっきり、皆の顔に浮かんだ。居間の捜査が終ったときには、まるですっかり台風の通ったあとに落ちこんだかのようだった――まるで、なぐさめようのない、もうたくさんという感じだった。
「あとは、寝室と台所と便所しか残っとらん」と、警視がクローニンに言って、三人は、月曜日の夜、アンジェラ・ルッソー夫人がいた寝室に入って行った。
フィールドの寝室は飾りつけが、ひどく女性的だった――その特徴はエラリーが、芸術づいたグリーニッチ・ヴィレッジ族のようだと指摘するものだった。ふたたび、三人はその部屋を調べた。その探査の手と、注意深い目は、ちょっとの空間も見のがさなかったが、またしても失敗を認めるよりしようがないようだった。ベッドを分解して、スプリングまで調べてから、もとどおりにして、今度は押入れを攻めた。どの服も片っぱしから引き出されて、みんなのしつこい指でもみくちゃにされた――浴室着、部屋着、靴、ネクタイも調べられた。クローニンは、気乗り薄に壁や、小壁《こかべ》を調べ直した。敷物をめくり、椅子をずらし、ベッドわきの電話机の電話帳のページをぺらぺらと振って見た。警視は床のスチーム管のまわりにはめこんである鉄板まで上げてみた。少しゆるんでいて、あるいはと思えたからだ。
三人は寝室から、台所へ入った。炊事用具がいっぱいで、身動きもできぬほどだった。大きな食器戸棚をかきまわした。クローニンは、腹立たしそうに、粉や砂糖壺の中までいら立つ指を突っこんだ。ストーブも、茶碗戸棚も、鍋戸棚も――すみにあるただひとつの大理石の流し台さえ――きちんと調べ上げられた。床の片側に、半分空になった酒瓶の箱があった。クローニンは、そっちのほうを、もの欲しそうに眺めたが、警視がにらんだので、やっと、きまり悪そうに目をそらした。
「次は――浴室だ」と、エラリーが低い声で言った。みんないやにだまりこんで、タイル張りの便所に入って行った。そして三分後には、黙ったまま出て来て、居間にもどり、ぐったりと椅子に腰を下ろした。警視は、かぎたばこ入れをとり出して、思いきり吸ったし、クローニンとエラリーはたばこに火をつけた。
「こうなると、エル」と、警視は、控えの間でうたたねをしている警官のいびきだけがきこえる重苦しい空気の中で、暗い調子で言った。「シャーロック・ホームズ君とその一党に名声と財産をもたらした推理の方法も今や見当違いだということになるな。お前を非難しとるわけじゃないんだが……」と言いながらも、梃子でも動かぬぞといわんばかりに、椅子に腰を据えてしまった。
エラリーは神経質な指先で、すべっこいあごをなぜた。「どうやら、ぼくは、とんでもないばかなことをしてたらしいですよ」と、白状した。「しかし、書類はまだここのどこかにありますよ。ばからしい考えかもしれませんが、論理的にどうしてもそうなります。全体を十として、その中から二と三と四を加えたものを引くと、まだあと一が残ります……古くさい人間のようですみませんがね。書類は必ずここにありますよ」
クローニンは、ふんと鼻を鳴らしてもくもくと煙をはいた。
「君の異議は認めるがね」と、エラリーは椅子の背によりかかってつぶやいた。「もう一度、現場を当ってみよう。いや、ちがうよ」と、クローニンの迷惑そうな顔を見て、エラリーは、あわてて言い足した。「口だけで当ってみるのさ……フィールド氏のアパートは控えの間と、居間と、寝室と、台所と、手洗い所からなっている。ところが、控えの間と、居間と、台所と、手洗い所の捜査は無駄だった。ユークリッド〔ギリシアの数学者〕なら、どんな結論を下すだろうな……」と、考えこんで「どんなふうに、その部屋を調べたか」と、いきなり自問した。「目につくものはみんな調べた。目につくものは、みんなひっかきまわした。家具、スタンド、敷物――目につくものはこんなものだ。それから、床と、壁と、小壁はたたいてみた。捜査をまぬかれたものは何もないようだ……」
エラリーは言いやめて、目を光らせた。警視もすぐに疲れを吹きとばしたようだった。いままでの経験で、エラリーが不合理なことに昂奮することなど、めったにないのを知っていたからだ。
「しかも、なおかつ」と、エラリーは父の顔を魅入られたように見つめながら、ゆっくり言った。「セネカの金の屋根にかけて、われわれは何かを見落しているんだ――実際に見落しているんだ」
「えっ!」と、クローニンがどなった。「冗談だろう」
「いや、冗談じゃない」と、エラリーが、足をのばして、くすくす笑った。「われわれは、壁も床も調べたが――天井はまだだ」
エラリーが芝居気たっぷりに言うので、ほかの二人は、おどろいて目を見張った。
「おい、何を考えとるんだ、エラリー」と、父親が、八の字をよせて訊いた。
エラリーは、すぐたばこを灰皿にこすりつけて「これだ」と言った。「論理的に言って、与えられた方程式の中で、ひとつを除いて、あらゆる可能性をきわめつくした後に残るひとつのものは、どんな不可能な、どんなにこっけいな仮定のように見えても――正しい仮定でなければならないはずです……このような定理によって、書類がこのアパートの中にあると結論を下すのです」
「しかし、クイーン君、一体どうやって――天井を」と、クローニンがわめいた。警視はいぶかしそうに天井を見上げた。それを見て、エラリーは笑い出して頭を振った。
「左官屋を呼んで、この気持ちの良い中流住宅の天井を崩させようと言うんじゃないよ」と言った。「もう答えが出ているからです。ここのいくつかの部屋の天井にあるものは何でしょう」
「シャンデリアだ」と、クローニンは、頭をひねりながら、頭上に重々しくとりつけてある、ブロンズの器具を見上げた。
「そうだ――ベッドの天蓋だ」と、警視が叫んで、とび立って、寝室へかけこんだ。クローニンも足音高く後を追ったが、エラリーは面白そうにゆっくりついて行った。
三人はベッドの足元に立って、天蓋を見上げた。アメリカ風の普通の天蓋とちがって、この派手な装飾品は、大きな四角い布を四本の柱に張ってあるだけではなく、ベッドの一部分としてとりつけてあった。ベッドは、四本の柱が、その四隅から始まって、床から天井にとどくようにつくられていた。天蓋の、どっしりした栗色の綾織《あやおり》の緞帳《どんちょう》も天井から床にとどき、上のほうは、輪付きの横棒にとりつけられて、緞帳のひだが、優雅に垂れ下がっていた。
「よし、もしどこかにあるとすれば」と、警視は、綾織のカバーをかけた寝室用の椅子を引きよせながら「この上だ。おい、みんな、手伝え」
警視は、靴で絹張りをふみ破ることなど、てんで気にかけないで椅子の上に立ち、せいいっぱいに手を伸ばしても、天井にとどくまで、まだ数フィートもあるのが分ると、下におりた。
「これは、お前にもとどきそうにないな、エラリー」と、つぶやいた。「しかし、フィールドだってお前ぐらいのものだ。どこかに、奴がのぼるのに使った手ごろな梯子があるはずだ」
エラリーが、あごをしゃくって方向を示したので、クローニンは、台所へかけこんだ。やがて、六段ある踏《ふ》み台を持って来た。警視が一番上の段にのぼってみたが、まだ天蓋の横棒に手がとどかなかった。エラリーは父に下りるように言い、自分でのぼって、この問題を解決した。踏み台の上に立つと、天蓋の上部をさぐれる高さだった。
エラリーは緞帳をしっかりつかんで引っぱった。布がずれて、片はしに寄ると、十二インチほどの深さの羽目板があらわれた――布にかくれていた木の枠だった。エラリーは浮き彫りのほどこしてある羽目板の上を、指で、すばやくなぜまわした。クローニンと警視は、いろいろに表情を変えながら、エラリーを見守っていた。さし当って、出入口らしいものが見当らないので、エラリーはのり出して、羽目板の底のすぐ下の緞帳を調べた。
「ひきちぎれ」と、警視が、どなった。
エラリーが荒っぽく引っぱると、天蓋の緞帳が、ベッドに落ちて、飾りのなくなった羽目板の底が、むき出しになった。
「中空のようです」と、エラリーは、枠の底を拳でこつこつたたきながら言った。
「そんなことはあたりまえでしょう」と、クローニンが言った。「どうせ、一枚板のはずはないんだから。なぜ、ベッドの向う側を調べないんですか、クイーン君」
しかし、からだを後ろに引いて、羽目板の側面を調べ直していたエラリーが、うれしそうに叫んだ。複雑な、マキァベリ式の≪かくし戸≫を見つけあてたのだ――そのかくし戸は、せいぜいすべり戸を工夫したぐらいのものにすぎなかった。うまく目立たないようにかくされていた――すべり戸と、固定した木枠の合わせ目は、一列にならんでいる木製のバラの花や、不細工な飾りで覆われていた――しかし、それは、謎ときにくわしい人間が、すばらしい隠し方だと、ほめるような出来ではなかった。
「ぼくの主張が立証されかけたらしいな」と、エラリーは笑いながら、見つけ出した暗い穴の奥をのぞきこんだ。そして、穴に、細長い腕をさし込んだ。警視とクローニンは、胸をはずませて見守っていた。
「邪神にちかって」と、エラリーは急に叫んだ。細いからだが、昂奮でぶるぶる震えた。「ぼくの言葉をおぼえていますか、お父さん。例の書類の在り家は必ず――帽子だと言ったのを」
エラリーは袖口をほこりまみれにして、腕をひき出した。下の二人は、エラリーのつかんでいる、かび臭いシルクハットを見た。
エラリーが、その帽子をベッドの上におとして、また口をあけている穴に手を差しこんだときに、クローニンは、妙な恰好で小踊りした。やがて、エラリーはもうひとつの帽子をつかみ出した――それからもう一個――さらにまた一個。帽子はベッドの上にならべられた――シルクハット二個と、ダービーが二個だった。
「この懐中電灯を使え、エル」と、警視が命令した。「まだそこに何かないか見るんだ」
エラリーは差し出された懐中電灯をとって、穴の中を照らしてみて、すぐにかぶりを振りながらはい下りた。
「これで全部です」と、袖口のほこりを払いながら言った。「だが、これで充分でしょうよ」
警視は四個の帽子をつまみ上げて、居間に運び、ソファーの上に置いた。三人は真剣な顔で腰をおろして、互いに顔を見合わせた。
「なにがなんでも見たくてたまりません」と、クローニンが、かすれる声で、やっと言った。
「見るのがこわい気がするな」と警視が答えた。
「|メネメネ(数えたり数えたり)|テケル(測れり)|ウパルシン(分かれたり)」と、エラリーが笑った。「その言葉も、この場合は≪羽目板の上の文字≫というべきでしょうね。調べてみよ、マクダフ!」〔メネメネテケルウパルシンは、バビロンの王宮の壁に書かれた文字で、旧約聖書によれば、ダニエルが解読して、バルシャザル王の滅亡を予言したという。マクダフは、「マクベス」の登場人物で、ダンカンの子を助けて、マクベスを討った〕
警視はシルクハットのひとつをつまみあげた。上等なサテンの裏地に、すっきりしたブラウン兄弟商会の商標がついていた。裏地をはいでみたが下には何もないので、革の汗とりバンドを引き裂こうとした。力まかせにやっても駄目だった。クローニンのナイフを借りて、骨を折ってバンドを切りとってから、顔をあげた。
「この帽子には、ローマ人よ、国人《くにびと》よ」〔シェイクスピアの「ジュリアス・シーザー」の中のアントニオの科白〕と、警視は楽しそうに「帽子部品のほかには何もない。君も調べてみたいかね」
クローニンは、荒っぽく叫びながら、帽子をひったくると、腹だちまぎれに、文字どおりこなごなに、ひきさいた。
「畜生!」と、くやしそうに、残りを床にたたきつけながら「ぼくの、でぼ頭にも分るように説明して下さいな、警視さん」
クイーンはほほえんで、二つ目のシルクハットを、とりあげて、もの珍しそうにながめた。
「君は事情にくらいのだ、ティム」と、警視が言った。「われわれには、この帽子のひとつが空っぽだということが分っとる。なあエラリー」
「マイクルズ」と、エラリーがつぶやいた。
「そうだ――マイクルズさ」と、警視が答えた。
「チャーリー・マイクルズか」と、クローニンが大声で「フィールドの用心棒だ、あいつは! どこで事件と結びつくんですか」
「まだ分らんよ。奴のことは何か分っとるのか」
「フィールドの腰巾着だったこと以外は何も分っていません。奴が前科者なのはごぞんじでしょう」
「うん」と、警視は考えこみながら「マイクルズの件は、いずれ話し合おう……ところで空の帽子の説明をしよう。マイクルズは、殺人の当夜、奴の陳述によると、フィールドの夜会服とシルクハットの支度をした。マイクルズは、奴の知るかぎりでは、フィールドの持っているシルクハットはただひとつだと証言している。そこで考えてみるに、フィールドが書類をかくすのに帽子を使っていて、あの夜、フィールドが、≪書類をかくしている帽子≫をかぶってローマ劇場に行ったとすれば、当然、マイクルズが支度した空の帽子と、書類をかくしている帽子とを、とりかえなければならないはずだ。フィールドは戸棚にはシルクハットをひとつしか置かないほど用心深い奴だから、もしマイクルズがほかの帽子をみつければ、きっと疑いを持つだろうと、思っていたんだ。だから、帽子をとりかえて、空《から》のほうを隠さなければならなかったのさ。それには、書類のかくしてある帽子をとり出して、その代りに空のを置いとくより自然なことはないだろう――つまり、ベッドの上の羽目板の中さ」
「なるほど、参ったなあ」とクローニンが叫んだ。
「それで」と、警視がつづけた。「帽子について、おそろしく用心深かったフィールドだから、ローマ劇場から戻ったら、劇場へかぶって行った帽子を、元の隠し場所へ戻しておくつもりだったとふんで、まず絶対に間違いないところだ。そのとき、今君が破りすてた帽子をとり出して、戸棚にもどしておくつもりだったんだろうよ……ところで、次のやつを調べよう」
警視は、二つ目のシルクハットの裏側のバンドをひっぱり出した。それにもブラウン兄弟商会のマークがはいっていた。「まあ、見てみろ」と、叫んだ。二人の男がのぞきこんでみると、バンドの内側の表面に、紫色のインキで、かすかにベンジャミン・モーガンと書いてあった。
「秘密を守ってもらわねばならんよ、ティム」と、警視は、すぐ赤毛の男を振り向いて「どんなことがあっても、ベンジャミン・モーガンをこの事件にまきこむような書類の発見に立ち合ったことを、口外してはならんよ」
「ぼくをだれだと思うんです、警視」と、クローニンが、うなって「ぼくは牡蛎《かき》みたいに口がかたいんですよ、信じて下さい」
「よし、じゃあ」と、クイーンは帽子の裏をさぐった。はっきりがさがさ音がした。
「これで」と、エラリーが、おだやかに言った。「月曜日の夜、フィールドのかぶっていた帽子を犯人が持ち去らなければならない理由が、はじめてはっきりしたわけですね。おそらく、これと同じように犯人の名が書いてあったんでしょう――消せないインキでね――それで犯人は自分の名入りの帽子を犯罪現場に残して行けなかったのでしょう」
「畜生、帽子がありさえすれば」とクローニンが叫んだ。「犯人がだれかわかるのになあ」
「ティム、おそらくその帽子は」と、警視が無造作に答えた。「永久に姿を消してしまったろうよ」
警視は、裏地を帽子に縫いつけてある、内側のバンドの底部の、ていねいなかがり目の列をむき出しにして、すばやく、かがり糸をむしり、指を裏地と帽子のいただきの間に差しこんだ。そして、細いゴムバンドでまとめてある書類束を、そっと引き出した。
「ぼくが、一部の人が考えるほど、いやみな奴なら」と、エラリーが口ごもりながら胸をそらした。「≪言ったとおりだろう≫と、いばるところでしょうよ」
「かぶとをぬいだとき先刻ご承知だ。エル――くどく言うな」と、警視はくすくす笑って、手ばやくゴムバンドをはずし、ちらっと書類を見て、満足そうに、にっこりと、胸ポケットに入れた。
「モーガンの言うとおりだ」と、あっさり言って、ダービー帽のひとつにとりかかった。
バンドの内側に、あやしげなXのしるしがあった。警視はシルクハットとまったく同じのかがり目を見つけた。書類を引き出した――モーガンのより大束だ――ざっと目を通して、クローニンに渡した。クローニンの指が震えた。
「ついてるぞ、ティム」と、ゆっくり言った。「きみが尻尾をつかまえようとしていた男は死んだが、これには大した名前がどっさり出ている。近いうちに、君も男を上げるだろうよ」
クローニンは書類をつかんで、夢中になって一枚めくった。「こいつだ――こいつだ」と叫んで、書類をポケットにねじこみながら、とび立った。
「この始末をつけなければなりません、警視」と早口にいって「とうとう大仕事ができました――それに、四番目の帽子から何が見つかっても、ぼくには関係ないですしね。どうも、本当にありがとうございました。警視、クイーン君、失礼します」
クローニンは部屋からとび出した。しばらくすると、控えの間の警官のいびきがぴたりと止んで、玄関のドアがばたんと閉じた。
エラリーと警視は顔を見合わせた。
「こいつがどんな役に立つか分らんな」と、老人はぶつぶついいながら、最後のダービー帽の内側のバンドを、さぐった。「われわれは、いろいろな実物や、推定される物を見つけて、推理をせばめてきたが――さて……」警視はため息をつきながら、バンドをあかるいほうへ持ち上げた。
バンドには≪雑≫と印《しる》されていた。
第十八場 行き詰まり
クイーン警視と、エラリーと、ティモシイ・クローニンが、夢中になってフィールドの部屋を捜査していた金曜日の午後、ヴェリー部長は、いつもどおりの、無感動な、むっつりした様子で、ゆっくりと、ブロードウェイから八十七番街を歩いて、クイーン親子の住んでいる住宅の褐色砂岩の石段をのぼって、ベルを鳴らした。人の好い部長が、まじめくさってのぼって来たのを、ジューナの明るい声が迎えた。
「警視は留守です」と、ジューナが、生意気な口ぶりで言った。ジューナのやせたからだは、とほうもなく大きな主婦用のエプロンに、すっぽりかくれていた。肉のオニオン焼きの、くさい残り香が、あたりにみちていた。
「やっとるな、小僧め!」と、ヴェリーは低い声で言って、胸の内ポケットから、部厚い封筒を出してジューナに渡した。「警視が帰られたらこれを渡してくれ。忘れたらイースト・リヴァーに放りこむぞ」
「あなただけですよ、そんなの」と、ジューナは、ひどく唇をまげて、息まいたが、くそていねいに、言い足した。「はい、部長さん」
「じゃ、いいな」と、ヴェリーは、おもむろに、背を向けると町へ下りて行った。四階の窓から、にやにや見ているジューナには、部長の広い背中が、けたはずれに大きく映った。
六時少し前に、クイーン親子が、疲れた足をひきずって部屋にはいると、警視のすばやい目は、自分の盆の上におかれている公用封筒にとびついた。
警視は封筒の隅を破いて、タイプした数枚の刑事課の便箋を引き出した。
「おい、おい」と、のろのろと外套をぬいでいるエラリーに声をかけた。「関係者の調査が集まっとるぞ……」
肘掛椅子に坐りこみ、ぬぎわすれた帽子をかぶったまま、外套のボタンもかけたままで、大声で報告書を読みはじめた。まず最初の紙には――。
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釈放報告
一九二×年九月二十八日
ジョン・カッザネルリ、別名≪牧師≫ジョニー、別名イタリア野郎ジョン、別名ピーター・ドミニック、本日、保釈により、拘置所より釈放。
ボノモ絹糸工場盗難事件(一九二×年六月二日)に関し、当人の共犯関係を内偵せるも調査失敗。さらに情報を得るため、警察通報人≪ちび≫のモアハウスを捜査中なるも、該当人は、平常の出入り場所より、姿をくらませり。
釈放は地方検事サンプスンの勧告によってなされしものなり。当人は監視中。何時にても連絡し得る。T・V
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警視が八の字をよせて、≪牧師≫ジョニーについての報告書をかたわらに置いて、二枚目にとりあげた報告書には、次のように書いてあった。
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ウィリアム・プザックに関する報告
一九二×年九月二十八日
ウィリアム・プザックの調査記録は左のとおり。
三十二歳。ニューヨーク州ブルックリン生まれ。両親は帰化人。未婚。行状は正常。社交的性格。週三、四回の夜のデートをなす。宗教あり。ブロードウェイ一〇七六番地、衣類商スタイン・エンド・ラウチ商会の帳簿係。賭博、飲酒癖なし。不良仲間なし。唯一の悪癖は女好きと解さる。
日曜日夜以後の行動は正常。手紙の発信なし。銀行預金の引き出しなし。時間は几帳面《きちょうめん》。いかなる種類の疑わしき行動もなし。
女性、エスター・ジャブローは、プザックの≪婚約者≫と見なさる。月曜日以後、デート二回――火曜日昼食時と、水曜日夜。水曜日夜は、映画に行き、中華料理店に赴く。
刑事第四号 T・V認証
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警視はふふんと鼻をならしてその紙片をなげ出した。三枚目の報告の見出しは――
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マッジ・オッコネルに関する報告
二×年九月二十八日金曜日まで
オッコネル、住所、十番アベニュー、一四三六番地。貸室、四階。父なし。ローマ劇場休場につき、火曜日より休勤。月曜日夜は、一般観客の釈放と同時に劇場退出。帰宅途上、八番通りと、四十八番街角のドラッグ・ストアに立ち寄り、電話す。呼び出し先つきとめ得ず。通話中、≪牧師≫ジョニーに言及せるを傍聴す。興奮せるを認む。
火曜日は午後一時まで外出せず。市刑務所内の≪牧師≫ジョニーと、連絡する企てなし。ローマ劇場の無期限閉鎖を知り、女案内人の職を探すため、劇場関係口入れ業者をたずね歩く。
水曜日中と木曜日、異常なし。支配人の呼び出しにて、木曜日夜より、ローマ劇場の仕事に復帰。
≪牧師≫ジョニーと、面会または連絡せんとする企てなし。電話の呼び出し、来訪者、来信なし。不審のかどあり――尾行に≪気付く≫もののごとし。
刑事第十一号 T・V認証
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「ふふん!」と警視はつぶやいて、次の紙片をとりあげた。「こいつには何が書いてあるかな!」
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フランセス・アイヴス・ポープに関する報告
一九二×年九月二十八日
フランセス・アイヴス・ポープは、月曜日夜、支配人事務室より、クイーン警視に釈放されし後、ただちにローマ劇場を退出。正面ドアにて、退去するほかの観客とともに身体検査を受く。登場俳優イーヴ・エリス、スティーヴン・バリー、ヒルダ・オレンジとともに退出す。タクシーにて、リバーサイド・ドライブのアイヴス・ポープ邸に帰る。半ば失心状態にて伴れ出さる。俳優三人はまもなく邸を辞去す。火曜日は外出せず。終日|臥床《がしょう》せりと庭番より聴取。
水曜日朝、邸内にてクイーン警視との会見あるまで、正式には姿を見せず。会見後、スティーヴン・バリー、イーヴ・エリス、ジェームス・ピール、兄スタンフォードと、ともに外出。アイヴス・ポープ家の車にて、ウェストチェスターまでドライブす。外出によりフランセスの元気回復。夜はスティーヴン・バリーと共に在宅。ブリッジ・パーティをひらく。
木曜日はフィフス・アベニューに買物に行く。スティーヴン・バリーと会い昼食。バリーにつれられてセントラル公園に行き、戸外にて午後を過ごす。五時前、バリーが女を家まで送る。バリーは夕食までとどまり、食後、舞台監督の電話にて、ローマ劇場へ出勤のため辞去。夜、フランセスは家族とともに在宅。
金曜日朝、報告なし。週間、不審の行動なし。不審人物の接近一度もなし。ベンジャミン・モーガンとの通信連絡は、往来ともなし。
刑事第三十九号 T・V認証
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「こんなこったろう」と警視はつぶやいた。次にとりあげた報告はごく短かった。
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オスカー・リューインに関する報告
一九二×年九月二十八日
リューインは、火、水、木曜日の終日と、金曜日午前をモンティー・フィールドの事務所にて、ストーツおよびクローニン両氏とともに働く。三名とも、毎日昼食をともにす。
リューインは妻帯。住所、ブロンクス区東一五六番街二一一番地。毎夜、在宅。不審な通信物、来訪者なし。悪癖なし。生活は質素、謹厳。評判よし。
刑事第十六号
付記、オスカー・リューインの経歴、性癖などについての詳細は、必要に応じ、ティモシイ・クローニン地方検事補を通じて入手可能なり。T・V
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警視は五枚の報告書を盆の上に置いて、立ち上り、帽子と外套を脱ぎ、ジューナの差し出している腕になげこんで、また、腰を下ろした。それから、封筒の中身から、最後の報告をとり出した――少し大きな用箋で、それには≪R・Qへの覚え書≫としるした小さな紙がピンでとめてあった。その小さな紙には――
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プラウティ医師が、今朝、貴下に転送するようにと、追加報告を小生に残して行きました。自身で出頭して報告できないのを残念がっていますが、バーブリッジ毒殺事件で手いっぱいなのだそうです。
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ヴェリーの見なれたなぐり書きの頭文字の署名がしてあった。
添付されていたのは、医務主任事務所のレターヘッドのある紙に、急いでタイプされた文面だった。
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Q殿〔以下報告〕四エチル鉛についての情報をおしらせする。ジョーンズと二人で、監督に当り、あらゆる可能性のある出所を極力追及したが、成果なし。この点に関しては貴殿も、運命とあきらめるほかなきものと思う。モンティー・フィールドを殺害せし毒物の出所をつきとめることは不可能なるべし。以上は貴下の謙虚なる下僕の見解のみならず、主任およびジョーンズの見解なり。われら三人は、最も論理的な説明としてガソリン説をとることに一致せり。その線で洗いたまえ。シャーロック君。
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プラウティ医師の筆で、なお追記があった。
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もちろん、何か分ったら、即刻ご通知する。お元気で。
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「この線を洗うのは大仕事だ」と、警視がつぶやいたとき、エラリーは、ものも言わずに、腕の良いジューナがこしらえた、香りのたかい、おいしい料理を平らげにかかった。警視は、いまいましそうに、フルーツ・サラダにさじを深く突っこんだ。幸福そうではなかった。口の中でもぐもぐ言いながら、皿のそばの報告書をにがにがしく見たり、疲れたエラリーの顔や、おいしそうに噛んでいるあごをながめて、とうとうさじをなげてしまった。
「どいつもこいつも、無駄な、しゃくにさわる、愚にもつかぬ報告ばかりだ。こんなばかげた報告書は、今までにない――」と、ぐちった。
エラリーは微笑して「お父さんは、むろん、ペリアンダー〔ギリシア七賢の一人〕のことを知ってるでしょう……ねえ? 礼節を守るべきですよ……コリントのペリアンダーは、しらふのときに言っていますよ、≪勤勉なるものに不可能事なし≫」
暖炉の火がうなりをあげていた。ジューナはお得意の姿勢で片隅の床にうずくまっていた。エラリーはたばこを喫いながら気持ちよさそうに炎を眺めていた。一方、クイーン老人は、かぎたばこ入れの中身を、しきりに、鼻につめこんでいた。二人のクイーンは腰をすえて真面目な議論をするつもりだった。もっと正確に言えば――クイーン警視が、腰をすえて、その話しぶりに熱を入れているのに、エラリーのほうは、超然とした夢見ごこちで、罪と罰などという味けない些事《さじ》には、とても感動しそうもなかった。
老人は手をふり下ろして、椅子の腕をぴしゃりと打った。「エラリー、おまえは生まれてから、こんなに神経をなやます事件にぶつかったことがあるかね」
「とんでもない」と、エラリーは薄目で火を見つめながら答えた。「お父さんは、自分から神経質になっているんですよ。殺人犯を捕えるなどというつまらないことにすっかり、とりのぼせてるんです。快楽主義的な理屈ですみませんがね……もし、ぼくの小説≪黒衣の未亡人事件≫をおぼえておいでだったら、ねえ、あの中の腕利きの探偵は、犯人を取りおさえるのに、全然苦労しなかったでしょう。なぜかといえば、あの連中は冷静だからです。結論として、常に冷静であれ……目下ぼくは明日からのことを考えているんです。すばらしい休暇をね」
「学問をしたくせに、エル」と、警視は気むずかしげにおこった。「お前はおどろくほど、首尾一貫性のない男だな。お前のおしゃべりには、何にも意味がないし、大事なときにはしゃべらない。いや――わしはすっかり頭が混乱しとるかな――」
エラリーは、ふきだした。「メーンの森――朽ち葉の色――湖畔のなつかしいショーヴィンの丸太小屋――釣竿――いい空気――神様、そんな明日の日が来ますように」
クイーン警視は、あわれむように、じっと見つめていた。「わしも――お前がいい休暇を迎えることを望んでいるんだよ……わしの言葉を気にするな」警視はため息をついた。「わしが気になるのは、エル、あの|こそ泥《ヽヽヽ》が失敗すると――みんなわしの責任になるということだ」
「盗賊はびこる地獄に栄えあれ!」と、エラリーが叫んだ。「人間の苦しみなんか、牧羊神は知っちゃいません。ぼくの次の作品も、いつものようにうまく書けるでしょうよ、お父さん」
「またアイデアを実在の犯罪から借りるつもりだな。困った奴だ」と、老人がつぶやいた。「もしフィールド事件を小説にするなら、最後のいく章かは、ぜひ読みたいもんだな」
「お父さん」と、エラリーはくすくす笑って「人生なんかそう生まじめに考えるもんじゃありませんよ。失敗するときは失敗するもんです。モンティー・フィールドなんか、どっちみち、ひと山の肥料ほども値打がないんですよ」
「そんなことを問題にしとるんじゃない」と、老人が言った。「かぶとをぬぐのが厭なんだ……この事件は動機も計画も、実に複雑だな。エラリー。こんな難解な事件は、わしの長い経験でも、はじめてぶつかった。まったく脳溢血《のういっけつ》でもおこしそうだ。人殺しの犯人も分っとる――犯行の理由も分っとる――犯行の経過も分っとる。しかも、わしには手が出せんのだ……」と、警視は言いやめて、やけに、かぎたばこをつまみとった。「無の世界から何百万マイルも距っているところに、わしはいるようだ」と、うめいて、沈みこんだ。
「たしかに、とても異常な立場ですね」と、エラリーがつぶやいて「しかし――もっと難解な事件も解決したんじゃありませんか……頑張って下さいよ。ぼくは早く、アルカディア〔ギリシアの理想的田園地〕の冷たい流れにひたりたいな」
「そして肺炎になるさ、多分な」と、警視は、心配そうに言った。「今、約束しといてもらおう。旅先で自然に帰れなんて真似をしないでくれよ。わしは葬式の世話はしたくないからな――わしは……」
エラリーは、ふと、黙りこんだ。そして父を見やった。ちらつく炎の光りで、警視は、妙に老《ふ》けこんでみえた。彫りの深い顔に、まざまざと苦悩のかげがうかんでいた。灰色の髪をかき上げる手が、いかにもかよわそうだった。
エラリーは立って、おずおずと、顔を赤らめて、ひょいと身をかがめて、父の肩を、そっとたたいた。
「元気をお出しなさいよ、お父さん」と、低い声で言った。「ぼくが、ショーヴィンとの約束がなかったらなあ。……万事うまくいきますよ――ぼくの言葉を信じて下さい。もし出かけなければ、少しでもお父さんの役に立つというならともかく……もう、ぼくが役に立つことは何もありませんしね。あとは、お父さんの仕事だけです――しかも、お父さんよりうまくやれる人は、世界中にいませんよ……」老人は、いとしげに、エラリーを見上げた。エラリーは急いで顔をそむけた。「じゃあ」と、あっさり言った。「明朝、七時四十五分で、グランド・セントラル駅を発ちたいから、荷物をまとめます」
エラリーは寝室へ姿を消した。隅でトルコ人のようにあぐらをかいていたジューナが、すばやく立って、部屋を横切り、警視の椅子に近づいた。そして床にうずくまり、警視のひざに頭をもたせかけた。炉の中ではぜるまきの音と、隣りの部屋でごそごそ動きまわるエラリーの音が静けさを時々破った。
クイーン警視はひどく疲れていた。その顔は、つやがなく、やつれ、青白く、しわがよって、にぶい火の光りに照らされるカメオのようだった。警視は、ジューナのまき毛の頭をなぜていた。
「ジューナ、お前は」と、つぶやいた。「大人になっても決して警官になるんじゃないぞ」
ジューナは首をねじ向けて老人をじっと見上げた。「ぼくは、あなたのようになりたいんです」と、はっきり言った……
そのとき電話のベルが鳴ったので、老人はとび立った。テーブルから受話器をひったくるようにとり、青白い顔で、息づまるように言った。「こちら、クイーン。もし、もし」
しばらくして受話器をもどし、寝室のほうへ足をひきずって行った。そして入口の柱に、ぐったりと、よりかかった。エラリーは、旅行鞄から身を起こして――とんで来た。
「お父さん」と大声で「どうしたんです?」
警視は、強いてほほえもうとした。「なに――ちょっと――疲れたんだよ。多分な」と、にがにがしげに「こそ泥から、電話があったところだ……」
「それで――?」
「何にもなかったそうだ」
エラリーは父の腕を支えて、ベッドの傍の椅子につれて行った。老人はぐったりと腰を下ろして、なんとも言えぬ弱々しい目付で「エラリー」と言った。「最後の証拠のかけらも、なくなってしまった。気違い沙汰だ。法廷で犯人を殺人罪にする物的な有形の証拠は、ちりっぱもないんだ。われわれにあるものは、完全に筋の通った一連の推理だけだ――それだけだ。腕の良い弁護士にかかれば、いい鴨《かも》にされてしまうさ……まあいい。まだ最後の手がないわけじゃない」と、椅子から立ち上がって、急に、にこにこしながら言った。そして、元気を取り戻して、エラリーの広い肩を、ぽんとたたいた。
「もう寝なさい」と言った。「お前は明日の朝は早く起きなければならないんだ。わしは、もう少し起きて考えてみるつもりだ」
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幕間 読者への挑戦
ここに謹んで読者の注意を喚起する
推理小説の現在の流行は、読者を主任探偵の立場に置いて、推理してもらうことである。この点に関して、私はエラリー・クイーン君を説得して、ローマ劇場毒殺事件において、読者への挑戦を挿入する許可を得た……「モンティー・フィールドを殺したのはだれか」「いかにして殺人が行われたか」……推理ものの敏感な読者は、今や必要ないっさいの事実を手に入れているのだから、話がこの段階までくれば、提出された問題に対して、すでに決定的な結論に達しているだろうという私の考えに、クイーン君も同意している。解答――もしくは、誤りなく犯人を指摘するに充分な答えは……一連の論理的推理と、心理的観察によって到着し得るはずである……この物語に、私が顔を出す最後に当たり、読者に、「|買手危険持ち《カヴェアー・エムプトル》」の替え言葉「読者危険持ち」という忠言を献げさせていただく。
J・J・マック
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第四幕
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完全犯罪者は超人である。その犯行には小心翼々、≪放れ狼≫のように、見られず、見られ得ず、でなければならない。友人も依存者も、持ってはならない。手落ちに対しては用心深く、頭脳も手足も敏捷でなければならない……しかも、それだけでは何もならない。そんな男はたくさんいる……また一方では、運命の寵児でなければならない。――自分ではほとんど制御し得ないような状況にあっても、決して転落しないように切り抜けねばならない。これを達成するのは、かなりむずかしいことのように思われる。……しかし、あらゆる条件の中で、最もむずかしい、最後のものは、自分の犯罪や、武器や、動機を、決して二度と、繰り返してはならないことである。……私はアメリカの警察官として四十年在職したが、ついに一度も完全犯罪者にぶつかったことはないし、完全犯罪を捜査したこともない。
[#地付き]――リチャード・クイーン著「アメリカの犯罪と捜査法」
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第十九場 クイーン警視の再喚問
土曜日の夕方、いつもの彼らしくないリチャード・クイーン警視をみて、サンプスン地方検事は、とても珍しく感じた。老人は、いら立ち、短気になっていて、まったく不機嫌だった。支配人ルイス・パンザーの事務室のカーペットの上をせかせかと歩きまわり、唇をかみしめて、ぶつぶつ言っていた。警視には、サンプスンと、パンザーと、今までこの劇場の私室で見かけたことのない三番目の人物が坐っているのも眼中になかった。三番目の人物は、目を皿のようにして、パンザーの大きな椅子のひとつに、ねずみのように坐っていた。それは、目を輝かしているジューナで、今度のローマ劇場巡視にあたって、半白の主人から、前例のない特権をあたえられて、ついて来たのである。
実際、クイーンはかなり参っていた。今までの警官生活で、何度も、明らかに解決できそうもないような事件にぶつかってきたし、失敗を転じて勝利を得たことも多い。だから、警視の不思議な態度は長年この老人と協力してきて、一度もこんなにひどく弱りこんでいるのを見たことがないサンプスンにとっては、何とも理解しがたかった。
老人の不機嫌は、サンプスンが心配しているような、フィールド事件の捜査が、はかどらないためではなかった。片すみで口をあけて坐っているやせっぽちのジューナだけは、警視が気違いじみて歩きまわっている真の理由を指摘できる傍観者だった。ジューナは、鋭い少年の洞察力と、生まれつきの観察力と、親愛の情を通じてクイーンの気質をよく知っていたこととで、主人の態度は、ただエラリーがこの場に居合わさないためなのだということを知っていた。エラリーは、その朝、ふさぎこんだ父に駅まで送られて、七時四十五分の急行でニューヨークを発った。最後になって、青年は気をかえて、メーン州への旅行をとりやめ、事件が片づくまでニューヨークで父のそばに踏みとどまる決心を告げたが、老人は、とり上げようとしなかった。エラリーの気持ちを、するどく見抜いている警視には、息子が一年ごしに初めて迎える今度の休暇を、どんなに張りきって、楽しみにしているかがよく分っていた。息子には、いつも傍にいてもらいたいのだが、長いあいだ、待ちこがれていた楽しい旅行を、やめさせる気にはなれないのだった。
それで、エラリーの申し出をことわり、お別れに肩をたたき、弱々しくほほえんで、列車のステップに押し上げたのだ。列車が駅からすべり出るとき、列車のステップで、エラリーが叫んだ最後の言葉は「お父さんのことは忘れませんよ。着いたらすぐ手紙を出します」だった。
今、ひっそりしている支配人パンザーの私室の敷物をふみにじりながら、警視は、しみじみと別離の情をかみしめていた。頭はにごり、体は弱り、腹は力が抜け、目はかすんでいた。警視は、世間からも、市民からもまったく切り離されたような気がして、そのいらだたしさを隠そうともしなかった。
「そろそろ時間だろう、パンザー」と、警視は、ずんぐりしたちびの支配人をどなりつけた。「いったい、あのいやらしい観客どもを全部追い出すのに、どのくらい時間がかかるんだ」
「すぐです、警視さん、すぐです」と、パンザーが答えた。地方検事は風邪気味で鼻をかんだ。ジューナは自分の守護神を、うっとりと見守っていた。
ドアをたたく音に一同はふり向いた。亜麻色の髪をした宣伝係のハリー・ニールスンが、ごつごつした顔を部屋に突っ込んだ。「ぼくも仲間入りしていいですか、警視さん」と、楽しそうに訊いた。「最初にいたんですからね――これから決着がつくんだったら――むろん、お許しを得て、立ち合いたいんですよ」
警視は濃い眉毛の下から、じろりと睨んだ。まるでナポレオンのように立ち、髪の毛も、筋肉も、不機嫌でびりびりしていた。サンプスンはびっくりして見ていた。クイーン警視が、思いもかけない怒りの一面を見せているのだ。
「いいだろう」と、警視は大声で「一人ぐらいかまわん。わんさといるんだからな」
ニールスンは少し顔を赤らめて、ひきさがろうとしかけた。警視の目は、ちょっと機嫌を直して、まばたいた。
「おい――かけたまえ、ニールスン」と、言った。そんなに無愛想でもなかった。「わしのような老いぼれを気にすることはないよ。ちょっと疲れとるんだ。今夜は君が必要かもしれんよ」
「役に立たせてもらえばうれしいですよ、警視さん」と、ニールスンはにこにこして「何が始まるんですか――スペインの宗教裁判みたいなものですか」
「まあな」と、老人は眉をふせて「だが――いまに分る」
このとき、ドアがあいて、背が高く肩幅のひろいヴェリー部長が、ずかずかと部屋に入り、持って来た一枚の紙片を警視に手渡した。
「みんなそろいました」と言った。
「客はみんな出たか」と、クイーンが鋭く訊いた。
「はい。掃除婦たちには待合室に降りて、こちらがすむまで待つように言っておきました。切符売りの連中と、男女の案内人どもは帰しました。役者連は、舞台裏で着がえ中だと思います」
「よし。さあ、諸君、行こう」と、警視は、ぴったりくっついてくるジューナをつれて、大股に部屋を出た。ジューナは、その晩は一晩中、ときどき感嘆して、音もなく息をのむほかは、まったく口をひらかなかった。そんなジューナを面白がって見ていた地方検事にも、その理由は分らなかった。パンザー、サンプスン、ニールスンもついて来た。ヴェリーが、しんがりをつとめた。
場内は、ふたたび、がらんとして人気《ひとけ》のない場所になり、からになった座席の列が、冷たく硬直していた。劇場の照明は全部|点《つ》けられていたので、その冷たい光りが、平土間の隅々まで照らし出していた。
五人の男とジューナが一番左の通路に押し出していくと、座席の左の区画で、人の頭がいっせいにゆれ動いた。小さな一団の人々が警視の到着を待ちかねていたのはあきらかだった。警視は重々しく通路を歩いて行き、着席している人々に面と向かうように、左のボックス席の前に陣どった。パンザーと、ニールスンと、サンプスンは通路の一番後ろのはしに立ち、そのそばに、ジューナが目を輝かしていた。
集まっている人々は妙なふうに坐らされていた。平土間席から少し下がって立っている警視の一番近い列から、座席の後方に向かって、人が坐っているのは左の通路に接する席だけだった。十二の列のはしの二つの座席に、雑多な取り合わせの――老若男女がいた。その人々は、事件のあった夜、この席で芝居を見ていた同じ連中で、死体発見後、クイーン警視が自ら取り調べた連中だった。例の八つの座席の一画――モンティー・フィールドの席と、まわりの空席――には、ウィリアム・プザック、エスター・ジャブロー、マッジ・オッコネル、ジェス・リンチ、≪牧師≫ジョニーが、集められていた――≪牧師≫ジョニーは、きょときょとして、不安そうに、やにくさい手で口を覆い、女案内人になにかささやいていた。
警視が突然、きっとなったので、一同は墓のように静まりかえった。まぶしいシャンデリアや照明や、人かげのない場内や、たれ下がっている舞台の幕を見まわしたサンプスンには、いまから何か劇的な意外な出来事が始まるために、舞台装置がととのえられたような気がしてならなかった。サンプスンは興味をもって、身をのり出した。パンザーとニールスンは、静かに、緊張していた。ジューナは老人に目を釘づけにしていた。
「みなさん」と、クイーンは集まっている人々を、見まわしながら、無造作に口を切った。「皆さんに来ていただいたのには、はっきりした目的があるのです。わたしは、絶対に必要でないかぎり、長くはお引きとめしませんが、何が必要で、何が必要でないかは、すべて私にまかせてもらいます。私の質問に対して、真実の答えがなされていないと思う場合は、だれでも、私が納得いくまで、ここにとどまっていただきます。始める前に、この点をよく理解しといて下さい」
警視は言葉を切って、睨《にら》みまわした。不安のざわめきがおこり、急にひそひそ声がおこりかけて、すぐ消えた。
「月曜日の夜」と、警視は冷静につづけた。「あなた方はこの劇場で観劇していた。今、後ろの席にいる二、三の人と、一部使用人をのぞいては、みなさんは、今、坐っている同じ席についていました」サンプスンは、警視の言葉で、みんなが急に尻の下が気持ちわるくなったり、温かくなったりするかのように、背中をこわばらすのに気がついて、にやにやした。
「みなさんに今、月曜日の夜だと思っていただきたい。あの夜を思い返して、すべての出来事を思い出すようにして下さい。すべての出来事というのは、どんな些細なことでも、明らかに重要でないことでも、とにかくみなさんの記憶に印象の残ったことすべてです……」
警視が自分の言葉に酔っているとき、ひと群れの人たちが、平土間の後部に、ぞろぞろはいって来た。サンプスンは低い声で、挨拶した。その連中は、イーヴ・エリス、ヒルダ・オレンジ、スティーヴン・バリー、ジェームス・ピールのほか、二、三人の≪拳銃稼業≫の役者たちだった。みんな普段着だった。ピールはサンプスンに、みんな楽屋から出たばかりで、声がするので観客席へ寄ってみたのだとささやいた。
「クイーン警視がちょっと集会をしてるんです」と、サンプスンが低く答えた。
「ぼくたちがしばらくここで聞いていても警視は反対しないでしょうか」と、バリーは低い声で、話しやめてみんなのほうを冷たくにらんでいる警視に、不安の目を向けながら、訊いた。
「そんなことはあるまい――」と、サンプスンがあいまいに言いかけたとき、イーヴ・エリスが「シーッ」といったので、みんな黙りこんだ。
「ところで」と、警視は、ざわめきが静まったところで、にがにがしげに「状況を言います。思い出して下さい。みなさんは今、月曜の夜にもどっているのです。二幕目の幕が上がって、場内はうすぐらくなっている。舞台からは、はげしい物音がきこえて、みなさんは、手に汗をにぎって芝居の熱演にひき入れられている……あなた方の中のだれか、特にこの通路ぞいの席に坐っていた者の中で、ちょうどそのとき、あなた方のまわりか、近くで、なにか変な、普通でない、あるいは気がかりなことに、気づいた方はありませんか」
警視は言葉を切って反応を待った。みんなは不安そうに頭をふった。だれも答えなかった。
「よく考えて」と警視がどなった。「みなさんは、月曜日の夜、私がこの通路を下りて行って、ひとりひとりに同じ趣旨の質問をしたのを覚えているでしょう。むろん、嘘はききたくない。それに、月曜日の夜でさえ何もおぼえていなかったあなた方が、今になって意外なことを話してくれるだろうとは、当然期待していません。しかし、どたん場なのです。ここでひとりの男が殺され、われわれは、まっ向からその捜査に当っているのです。かつてなかった難事件のひとつなのです。このような状態に照らして、われわれが白壁《しらかべ》につき当り、どうしていいか、まるっきり考えも浮かばないと気がついたとき――みなさんが味方だと思って正直に言うのですが――五日前の夜、この観客席にいて、もし何か重要なことが起こったとすれば、それを見ることができた場所にいたあなた方だけには、どうしても援助を願わなければならないのです……私の経験によれば、神経がたかぶり、昂奮しているときは、男女を問わず、ちょっとした細かいことは忘れがちで、二、三時間、二、三日、二、三週間の後、平静になってから記憶にもどってくることが、しばしばあります。皆さんにも、そんなことが、ありはしないかと、思っているのです……」
クイーン警視が話し、その言葉が心にしみ入るように流れているうちに、一同は、ひきつけられるような興味で、だんだん神経が静まっていった。話が終ると、皆は額を集めて興奮してささやき合ったり、時々うなずいたり、低い声ではげしく議論したりしていた。警視は辛抱強く待っていた。
「何か話すことのある人は手をあげて下さい」と、警視が言った。
ひとりの女がおずおずと白い手をあげて、振った。
「どうぞ、マダム」と、クイーンは指さして「何か、異常なことを思い出されたのですか」
髪の白い女が、おそるおそる立って、しわがれた声で、どもりながら話し始めた。「重要なことか、どうか、分らないのですが」と、ためらいながら「たしか二幕目のあいだに、ひとりの女の方が、女の方だったと思いますが、この通路に入って来て、すぐにまた出て行ったのを、おぼえています」
「そうですか。それは耳よりな話です、マダム」と、警視が受けて「それはいつごろでしたか――おぼえておられますか」
「時間は覚えておりませんの」と、老婦人は、甲高い声で「でも、幕があがってから、十分そこそこでしたわ」
「そうですか……して、そのひとの恰好を、何か覚えていませんか。若かったですか、お年寄りでしたか。どんな服装でしたか」
老婦人は困ったように「はっきり覚えてはいないのです」と、ふるえ声で「そんなに注意してたわけでも……」
後ろの席から、高い、はっきりした声が、老婦人の言葉をさえぎった。みんないっせいにふりむいた。マッジ・オッコネルが、椅子からとび上がった。
「そのお話は、それ以上、ほじくりかえす必要はありません、警視さん」と、女案内人は、きっぱり言った。「その方は、私が通路に入って、またひき返したのを見たんですわ。それは、私が――すぐ前のことでした。ごぞんじでしょう」と、オッコネルは、警視のほうへ、あつかましくウィンクした。
みんなは息をのんだ。老婦人は、あきれて、あわれむように女案内人を見守り、それから警視の顔を見て、やっと腰をおろした。
「別に意外じゃないな」と、警視はおだやかに言った。「ところで――だれかほかに?」
返事がなかった。みんな、人前で、自分の考えをいうのが、気はずかしいのだろうと察した警視は、通路から出て、列から列をまわり、ほかの人には聞きとれない小声で、ひとりずつ別々に訊いて歩いた。全部訊き終ってから、ゆっくり元の場所にもどった。
「これで、みなさんを、お宅の暖かい炉辺にお帰ししなければならないようです。ご協力、ありがとうございました……解散します」
警視はいきなりそう言った。一同はきょとんと警視を眺めてから、ぶつぶつ言いながら立ち上がり、ヴェリーが見張っている鋭い目の下で、外套と帽子をとって、場内から出はじめた。ヒルダ・オレンジは、仲間と一緒に、最後の座席の列の後ろに立って、ため息をついた。
「あの気の毒なご老人の失望ぶりを見ているとたまらないわね」と、ヒルダは仲間にささやいた。
「さあ、みなさん。私たちも行きましょうよ」男女優たちも劇場を出て行く連中にまじった。
しんがりの男女が見えなくなったとき、警視は通路にもどって来て、残っている連中をゆううつそうに眺めながら立っていた。みんなは、にえくりかえる老人の胸中を察して、びくびくした。しかし警視は、その特徴とする電光石火の態度豹変ぶりで、すぐに、いつもの人なつこい態度に変った。
警視は座席のひとつに腰を下ろし、腕を後ろに組んで、マッジ・オッコネルや≪牧師≫ジョニーや、ほかの連中をじろじろ見ていた。
「さあ、諸君」と、警視は打ちとけた調子で「どうだね、君は、≪牧師≫君。君は自由なからだだよ。もう絹糸会社の件は心配せんでもいい。だから、誇りある一市民として口をきいていいんだよ。この事件で、何かわしらを援けてくれられるかな」
「駄目でさ」と小悪党は、つぶやいた。「知ってることはみんな話しましたぜ。もう、何も申し上げることはないんでさ」
「そうか……なあ、≪牧師≫、われわれは君とフィールドの関係に興味があるんだよ」悪党はぎくりとして警視を見上げた。「そうだな」と、警視はつづけた。「そのうちに、今までのフィールドとの取引について話してもらいたいな。そのことはおぼえといてもらおう、いいな≪牧師≫」と、ぴしりと言った。「モンティー・フィールドを殺したのはだれだ? だれがやったんだ。知っとるなら――白状しろ」
「あっ、警視さん」と≪牧師≫は悲鳴をあげて「また、わたしにおっかぶせようってんじゃないでしょうね。わたしが知ってるもんですか。フィールドは抜け目のない奴でさ――敵にいっぱい食うような奴じゃありませんや。たしかです。何にも知りませんよ――わたしにはよくしてくれましたよ――一、二度、無罪放免にしてくれました」と、図々しくもほざいて「でも、まさか月曜日の夜、ここに来てたなんて――畜生、まるっきり知らなかったんでさ」
警視はマッジ・オッコネルのほうを向いた。
「君はどうだね、オッコネル」と、やさしく訊いた。「せがれのエラリーの話だと、月曜日の夜、君は出入口の扉を閉めたと言ったそうじゃないか。そのことは、わしには何も言わなかったね。何か知っとるだろう」
女は冷たく警視を見返した。「前に申し上げましたわ。なんにも申し上げることはございません」
「君はどうかね、ウィリアム・プザック君」と、クイーンは、おどおどしている小男の帳簿係をふり向いた。「月曜日の夜に、忘れていたことを、何か思い出さんかね」
プザックは居心地わるそうにもじもじして「お話するつもりだったんです、警視さん」と、口ごもりながら「事件を新聞で読んだときに思い出したんです……月曜日の夜、フィールドさんにかがみこんだとき、ぷんぷんウィスキーの匂いがしていました。あのとき、お話したかどうか、おぼえていないのです」
「ありがとう」と、警視は無造作に言って、立ちながら「われわれの捜査に、大変参考になった。帰ってよろしい、諸君みんな……」
オレンジエード売りのジェス・リンチは、がっかりしたようだった。「ぼくの話も聞きたくないんですか」と、熱心に訊いた。
警視は、あいまいにほほえんで「そうだな。気が利くオレンジエード売り君……何か、話すことがあるのかね、ジェス」
「ええ、フィールドという人が、ぼくのスタンドに、ジンジャエールをたのみに来る前に、路地で何かひろい上げるのを偶然見ちゃったんです」と、青年は真剣な顔つきで「何か、ぴかぴかしたもののようでしたが、はっきりは見えなかったんです。あの人は、すぐ尻のポケットに入れました」
ジェスは、ほこらしげに言い終って、ほめてもらいたい様子で、あたりを見まわした。警視は、かなり興味を持ったようだった。
「そのぴかぴかしたものは、どんなものだったね、ジェス」と訊いた。「拳銃らしかったか」
「拳銃? とんでもない。そうじゃないな……」と、オレンジエード売りの青年は、確信がなさそうに「四角いもののようでした、ちょうど……」
「ハンドバッグみたいだったろ」と、警視が、口をはさんだ。
青年は顔をほてらせて「それだ」と叫んだ。「たしかにそうですよ。まるで色のついた宝石みたいに、ぴかぴかでした」
クイーンはため息をして「結構、リンチ」と言った。「もう、まっすぐ家へ帰りたまえ」
悪党と案内嬢と、プザックとつれの女と、オレンジエード売りの青年は、黙々と立って出て行った。ヴェリーが出口までついて行った。
一同が出て行くまで待っていたサンプスンが、すぐに警視を片すみにつれて行った。
「どうしたんだね、Q」と訊いた。「うまくいかんじゃないか」
「ヘンリー君」と、警視は微笑して「考えられるだけのことはしたよ。もう少しだ……わしの望みは――」警視は望んでいることを言わなかった。そして、ジューナの腕をしっかりにぎって、パンザー、ニールスン、ヴェリー、地方検事に、ゆっくりと、おやすみを言って、劇場を出た。
アパートについて、警視が鍵をあけて、勢いよくドアをひらいたとき、ジューナは床におちている黄色い封筒にとびついた。明らかに、ドアの下のすきまから、押しこまれたものだった。ジューナはそれを警視の鼻先でひらひらさせた。
「きっと、エラリーさんからですよ」と大声で「忘れちゃいないんですよ」電報を手にして、にやにやしながら立っているところは、かつてないほど、さらに猿そっくりだった。
警視は、外套や帽子を脱ぐひまもおしんで、ジューナの手から封筒をひったくり、部屋の電灯をつけて、あわただしく封筒から黄色い紙片を抜き出した。
ジューナの言うとおりだった。
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ブジツク〔と電文はつづいた〕シヨーヴインハオオヨロコビ、ツリハタイリヨウノミコミ。ジケンノカイケツハ、ツイタトオモウ。ヤムヲエズスルコトハ、ススンデセヨ、トイツタ、ラブレー、チヨーサー、セクスピアト、トクニシタシマレタシ。ナゼ、ゴジブンデ、ユスリヲシナイノデスカ。ジユーナヲ、シカツテ、コロサヌヨウ。サヨナラ、エラリー。
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警視は、変哲もない黄色い紙片を見つめていたが、ふと、何かを悟ったように、はげしく、顔の表情をかえた。
警視は、いきなりジューナのほうを向き、小猿紳士のもじゃもじゃ頭に帽子をかぶせて、意味ありげに、腕をとった。
「ジューナ」と、はしゃいで「町へ行って、クリームソーダでお祝いをしよう」と言った。
第二十場 マイクルズの脅迫状
一週間目に、はじめて、クイーン警視は自信をとりもどし、本部の建物の自分の小さな事務室へ、大股で元気よく入って行き、外套を椅子に投げかけた。
月曜日の朝だった。自分の机の椅子にどっかりと坐って、手ばやく、数多くの郵便物や報告書に目を通しながら、手をこすり合わせたり、≪ニューヨークの歩道≫を口ずさんだ。三十分ほどは、刑事課の方々の事務所にいる部下たちに、口頭や電話で指令を出したり、秘書が前に置いていく、おびただしい報告書を手早く検討していたが、やがて、卓上の呼鈴のボタンのひとつをおした。
すぐ、ヴェリーが顔を出した。
「おはよう、トマス」と、警視は機嫌よく「すばらしい秋の朝じゃないか、どうかね」
ヴェリーもにこにこしながら「調子いいです、警視」と言った。「警視は? 土曜日の夜は、少しお天気が悪いようでしたな」
警視はくすくす笑って「すんだことはすんだことだよ、トマス。昨日はうちのジューナをつれて、ブロンクス動物園に行った。わが同胞の動物どもと、四時間ばかり楽しんだよ」
「きっと、お宅のちびには、お里帰りだったでしょうな」と、ヴェリーがやじった。「特に、猿にまじったら」
「おい、おい、トマス」と、警視がたしなめた。「ジューナを見そこなうなよ。あいつはちょいと頭のきれる若造だよ。将来相当なものになるぞ、覚えとくがいい」
「あれが?」と、ヴェリーは、まじめにうなずいて「そうかもしれませんな、警視。よろこんで仲間にしてやりますよ……今日のお予定は?」
「今日の予定はどっさりあるぞ、トマス」と、クイーンは思わせぶりに言った。「昨日の朝電話したとおり、マイクルズをつかまえたか」
「はい、警視。もう一時間も外で待っています。朝早く来ました。ピゴットがつきそっています。ピゴットが四六時中尾行していたので、すっかり参ってます」
「そうか。いつも言うように、ばかでなければ警官になる奴はおらんよ」と、クイーンは笑った。「鴨をつれて来い」
ヴェリーは出て行って、しばらくすると、背の高い、でっぷりしたマイクルズをつれて、もどった。フィールドの召使いは地味な身なりをしていた。いらいらして不安そうだった。
「おい、トマス」と、警視は、マイクルズに、自分の机のそばの椅子に坐るように合図してから、言った。「君は出てドアに錠をおろすんだ。長官直々のお出ましでも、わしの邪魔をさせんようにな。分ったな」
ヴェリーは妙な目でちらっと見、ぶつぶつ言いながら立って行った。やがて、ヴェリーの大きな図体が、ドアのすりガラスに、ぼやけた影を映していた。
三十分ほどすぎて、ヴェリーは電話で警視の部屋に呼び付けられて、ドアの錠をはずした。警視の机の上には、目の前に、封をしない安ものの角封筒が置いてあり、中からノートの紙の一部分がのぞいていた。マイクルズが、青ざめて、ふるえながら立って、肉づきのいい両手で帽子をにぎりつぶしていた。ヴェリーの鋭い目は、マイクルズの左手の指がインクまみれになっているのに気づいた。
「マイクルズ君の世話をよく見てやってくれ、トマス」と、警視が愛想よく言った。「特に、今日は楽しませてくれよ。君にはきっと、何かうまいプランがあるだろう――たとえば映画に行くなども――いいな。とにかく、わしの指令があるまで、この紳士と仲よくしとるんだぞ……だれとも連絡してはいかんよ、マイクルズ、分っとるな」それから大男のほうを、いきなり振り向いて、ぶっきら棒に言い足した。「君はただヴェリー部長にくっついて、楽しく遊ぶんだ」
「私は正直者なんですよ、警視さん」と、マイクルズはにがにがしく口ごもりながら「そんな必要ないですよ――」
「用心のためさ、マイクルズ――形ばかりの用心さ」と、警視がさえぎって、微笑した。「大いに楽しんでくれたまえ」
二人は出て行った。警視は机に坐り、回転椅子をそらせ、すぐ、目の前の封筒をとりあげ、安っぽい白紙をとり出して、ちょっとにやにやしながら、目を通した。
紙面には日付も挨拶もなく、文章は、唐突に始まっていた。
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私はチャールズ・マイクルズです。知っているでしょう。二年以上も、モンティー・フィールドの片腕でした。
まわりくどいことは言いません。先週月曜日の夜、あなたは、ローマ劇場で、フィールドを殺しました。モンティー・フィールドは、劇場で、あなたと会う約束があると、日曜日に言いました。このことを知っているのは私だけです。
その上、私は、あなたがあの男を殺した理由も知っています。あなたは、フィールドの帽子の中の書類を手に入れるためにあの男を片づけた。しかし、あなたはあの男からとった書類が原本ではないのを知らないのです。このことを証明するために、フィールドの所有物だった、ネリー・ジョンスンの証明書の中の一枚を同封します。フィールドの帽子から奪った書類が、まだあるのなら、あなたの持っているのと、これをくらべてごらんなさい。私が本ものをあげたことが、すぐ分るでしょう。そして、原本の残部は、決してあなたの手のとどかないところに、安全に隠してあります。警視が全力をあげて探していることも言っておきましょう。この書類と、ちょいとした情報をもって、私がクイーン警視の事務所へ行ったら、面白いことになりゃしませんか。
私は、あなたに、この書類を買うチャンスをあげましょう。私の指示する場所へ、二万五千ドルを持ってくれば、書類はあなたに手渡します。私は金がほしいし、あなたには書類と私の沈黙が必要でしょう。
明火曜日夜十二時に、フィフス・アベニューと、五十九番街の西北の角から始まるセントラル公園の舗装道路の右側の七番目のベンチで、私と会いましょう。私はグレイの外套と、グレイのソフトで行きます。ただ≪書類≫とだけ言って下さい。
あなたが書類を手に入れ得る唯一の方法はこれです。約束の時間の前に、私を探してはいけません。もしあなたが来なければ、私のすべきことは、心得ています。
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はしり書きで、びっしりとつめて、骨を折って書いてある手紙には≪チャールズ・マイクルズ≫とサインしてあった。
クイーン警視は、ため息をして、封筒のふちをなめて封じた。そして、同じ筆跡で封筒に書かれた宛名と住所をじっと見つめた。ゆっくりと片すみに切手を貼った。
警視は、別のボタンを押した。ドアが開いて、リッター刑事があらわれた。
「おはようございます、警視」
「おはよう、リッター」警視は考えながら、手で封筒の重さをはかった。「今、なんの仕事をしてる?」
刑事は足をもじもじして「別にこれといって、警視。土曜日まではヴェリー部長のお手伝いをしていましたが、今朝はまだ、フィールド事件の仕事には何もついていません」
「よし、それじゃ、ちょいとした仕事をやろう」警視は、急に、にやにやしながら、その封筒をさし出した。リッターは、けげんそうに受けとった。「いいかね、一四九番街とサード・アベニューの角へ行って、一番近くのポストにこの手紙を入れるんだ」
リッターは目を丸くして、頭をかきながら、クイーンを見つめてから、手紙をポケットに入れて出て行った。
警視は、椅子をそらせて、いかにも満足そうに、かぎたばこをひとつまみ吸った。
第二十一場 クイーン警視出動
十月二日火曜日の宵、やがて十一時三十分になろうとするころ、軟らかい黒い帽子をかぶり、黒い外套を着、きびしい夜気を防ぐために襟を立てて顔を埋めた背の高い男が、セブンス・アベニューの近くの五十三番街の小さなホテルの待合室から出て、セブンス・アベニューをセントラル公園へ向かって、足早に歩いて行った。
五十九番街につくと東に曲って、人影もない往来をフィフス・アベニューのほうへ向かった。プラザ広場の先の、セントラル公園の、フィフス・アベニュー口に来ると、コンクリートの大きな門柱のかげに入り、ぼんやりとよりかかった。たばこに火をつけたので、マッチの焔がその男の顔を照らし出した。かなりの年寄りで、小じわがよっていた。白髪まじりの口ひげが、上唇に、もじゃもじゃとたれ下がっていた。帽子の下から半白の髪がはみ出して見えた。やがてマッチの火が、ゆらめきながら消えた。
その男は、コンクリートの門柱に、静かによりかかり、両手を外套のポケットに入れて、たばこをふかしていた。鋭い目を持っている観察者なら、その男の指が少しふるえ、黒靴をはいている足が、舗道を、こつこつと不安そうにたたいているのに、気がついただろう。
たばこを吸いおわると、なげ捨てて、腕時計を見た。針は十一時五十分を指していた。男はじれったそうに舌打ちして、公園の入口の門をくぐった。
プラザをふちどっている頭上のアーク燈のひかりは、男が石だたみの道を歩いていくと、だんだんほのぐらくなった。どうしてよいかきめかねるように、ためらいながら、あたりを見まわし、ちょっと考えてから、ひとつ目のベンチへ行って、ぐったりと腰を下ろした――まるで一日の仕事に疲れて、公園の闇と静けさの中で、ゆっくり十五分ばかり、息抜きをしている人のようだった。
だんだんに頭がさがり、顔がゆるんだ。居眠りでもはじめたようだった。
時が経っていった。ベンチに坐っている黒づくめの、ひっそりとした男の前を、だれひとり通らなかった。フィフス・アベニューでは車がうなりをあげて通りすぎた。プラザの交通巡査の鋭い警笛の音が、一定の間をおいて、冷たい夜気をつんざいた。肌寒い風が木々の間を吹きぬけた。どこか、公園の闇の奥から、女の澄んだ笑い声がきこえた――やわらかな、はるかな、しかし、おどろくほどはっきりした笑い声だった。うつらうつらと時が経った。その男はいっそう深く眠りこんだ。
しかし、ちょうど近くの教会の鐘が十二時を告げはじめると、その男の顔がひきしまり、ちょっと間をおいてから、決然と立ち上がった。
入口のほうへ向かうかわりに、反対に石だたみの道を、さらに奥のほうへ歩きはじめた。帽子のふちと、立てた襟がつくる、暗いかげの底で、用心深く、目が輝いた。しっかりした足どりで、急ぐ風もなく歩きながら、ベンチを数えて行くようだった。二―三―四―五―そこで立ちどまった。行く手の、うすあかりの中に、ベンチに腰かけている黒い人かげを、かろうじて見分けることができた。
男はゆっくり歩き出した。六―七―男は立ちどまらずに、先へ進んだ。八―九―十……そこまで行ってから、やっとまわれ右して、もどった。今度は、前より、活発なしっかりした足どりだった。するすると七番目のベンチに近づき、ちょっと立ちどまった。急に、心をきめたように、ぼやけた人かげが静かに坐っている場所に近よって腰を下ろした。人影は、ぶつぶつ言いながら、少し体をずらして、今来た男に、席をあけてやった。
二人の男は黙って坐っていた。やがて、黒ずくめの男は外套のポケットをさぐって、たばこの箱をとり出した。その一本に火をつけると、たばこの先が赤く輝き出したあとも、しばらくマッチを持っていた。マッチの火の光りで、そばに、ひっそりと坐っている男を、こっそりしらべた。つかの間のことでほとんど分らなかった――ベンチに坐っていた男も、同じように、襟で顔を包んで、かくしていた。マッチの火が消えて、二人はまた闇につつまれた。
黒ずくめの男は決心がついたらしい。前にのり出して、もう一人の男のひざを、いきなり軽くつついて、低い、しわがれた声で、ひとこと言った。
≪書類≫
声をかけられた男は、すぐ生気をとりもどした。少し腰をずらして、相手を見きわめると、満足したようにうなった。そして用心深く身をそらして、坐っている相手から遠のくと、手袋をはめた右の手を、外套の右のポケットにさしこんだ。黒ずくめの男はのめり出すようにして、目を輝かせた。相手の手袋をはめた手が、ポケットから出た。何か、かたいものをにぎっていた。
突然、手を出した男が意外なことをした。すばやい身のこなしで、さっとベンチをとびこえると、黒ずくめの男から遠のいた。と同時に、おどろいてうずくまっている男の姿に、真っ直ぐ右手を差しつけた。はるかなアーク燈のこぼれ灯で、その男の握っているものが、ほのかに見えた――拳銃だった。
はげしい叫び声とともに、黒ずくめの男は猫のような敏捷さで、とび上がった。稲妻のようなすばやさで、手を外套のポケットに入れた。そして、自分の胸をねらっている武器には目もくれず、緊張して立ちはだかっている相手に、まっすぐにとびかかった。
しかし、事態はがらりと変った。ちょっと前まで、広々として、暗く静かな田園を偲《しの》ばせていた平和な景色は、手品のように、緊迫した活劇の場にがらりと変った――のろいとわめき声のいりみだれる大乱闘。ベンチのすぐ後ろの灌木のしげみのかげから、拳銃を手にした連中が、うかび上がって、すばやく進み出て来た。それと同時に、道の向かい側からも、同じような連中があらわれ出て、もみ合っている二人のほうへかけよった。そして、道の西はじからも――百フィートほど先の入口のほうからも、その反対側の、公園のくらやみのほうからも――制服巡査の一団が、拳銃をふりかざして、かけつけた。たちまち、みんな、ひとつのかたまりになった。
拳銃をぬいて、ベンチからとび退った男は、応援が来るのを待ってはいなかった。つい先程までの相手が、外套のポケットに手を入れるとみるや、銃をかまえて、よくねらって、撃った。銃声がほえ、公園に反響した。オレンジ色の焔が、黒ずくめの男のからだに注ぎこんだ。男は反射的に肩をつかんで、前にのめった。ひざがくずれて、がっくりと石だたみの道に倒れた。まだ外套のポケットをまさぐっていた。
おそいかかった人々のからだで、男は、どんなに激しい行動に出ようと思っても、どうにもならなかった。遠慮のない多くの手が、男の腕をつかんで、ねじ伏せるので、ポケットから手を引き抜くこともできなかった。みんなは、ものも言わずに、男をぎゅうぎゅうおさえつけていた。やがて、みんなの後ろからてきぱきした声がかかった。「みんな注意しろ――奴の手を見ろ!」
リチャード・クイーン警視は、息をはずませている一団の中に割り込んで来て、舗道でのたうつ男を見下ろして立った。
「奴の手をひき出せ、ヴェリー――手やわらかにやるんだ、ゆっくりな。しっかりつかめ、そら――しっかりだ。おい、しっかりだぞ。いきなり刺すかも知れんぞ」
トマス・ヴェリー部長は腕をしめつけて、男がひどくじたばたするのをものともせず、慎重に、ポケットから手をひき出した。手が出た――何も持っていなかった。男はとうとう、ぐったりとなった。二人の男が、すぐ、万力のような力でしめ上げた。
ヴェリーが男のポケットを開けてみようとした。警視が一喝《いっかつ》をくわせてとめた。そして、みずから、舗道にのたうっている男の上にかがみこんだ。
注意深く、静かに、まるで自分の命が用心深さにかかっているかのように、老人は、そろそろと男のポケットに手を入れて、内部をさぐった。何かをつかむと、また同じように用心深く、それをひき出して、あかりのほうへさし出した。
皮下注射器だった。アーク燈の光りで、青白くとろっとした中身がきらきらした。
クイーン警視は、傷ついた男のそばに膝をついて、にやりと笑った。黒いフェルトの帽子を、はぎとった。
「すっかり変装しとるな」と、つぶやいた。
白髪まじりの口ひげをひっぺがし、しわだらけの男の顔を、すばやくなぜまわした。たちまち顔がしみだらけになった。
「おや、おや」と、警視は、怒りにもえるような目でにらみつける男に、やさしく声をかけた。「また会えてうれしいよ、スティーヴン・バリー君と、君の親友の四エチル鉛君」
第二十二場 終幕――解明
クイーン警視は居間の書きもの机の前に坐って、≪クイーンズ≫とヘッドが刷りこんである細長い用箋に、一所懸命で書きものをしていた。
水曜日の朝だった――日光が、明りとりと窓から室内にさしこみ、八十七番街の活気のあるざわめきが、下の舗道から、かすかにきこえる、からっと晴れた水曜日の朝だった。警視は部屋着をつけ、スリッパをはいていた。ジューナは朝食のテーブルの後かたづけに忙しかった。
老人は書いた。
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せがれよ。昨夜おそく打電したとおり、事件は解決した。マイクルズの名前と筆跡を餌に使って、スティーヴン・バリーを、うまくつかまえた。計画が心理的に的中したことを、心から祝福せざるを得ない。バリーは追いつめられて、ほかの多くの犯罪者たちが考えるように、同じ犯行をくりかえしても、つかまらぬと思ったらしい。
白状するのはいやだが、私はひどく疲れ、時には、人間狩りの仕事が精神的につくづくいやになる。ことに、あの気の毒なかわいいフランセス嬢が、人殺しの恋人として、世間に当面しなくてはならないと思うとね……なあ、エル、この世には正義はまれで、たしかに慈悲はすくない。しかも、彼女の汚辱には、むろん、多少なりとも、私の責任がある……だが、アイヴス・ポープは、まったく誠実な男で、ニュースをきくとすぐ、今しがた電話をかけてきた。私は、あの男とフランセスには、ある意味でサービスしたつもりでいる。われわれは――
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ドアのベルが鳴ったので、ジューナは、急いで、ふきんで手をふきながら、かけつけた。地方検事サンプスンとティモシイ・クローニンが入って来た――昂奮して、うれしそうに、すぐ二人は話しかけた。クイーンは、手紙を、吸取り紙でかくして、立ち上がった。
「やあQ君」と、サンプスンが両手をひろげて叫んだ。「おめでとう。今朝の朝刊をみたかね」
「コロンブス万歳!」と、クローニンはにこにこして、≪ニューヨークはスティーヴン・バリーの逮捕を称賛する≫と、わめき立てるような見出しの載っている新聞をふりまわした。警視の写真がでかでかとのり≪クイーンさらに栄冠を加う≫と見出しのついている熱狂的な記事が、二段ぶっ通しで紙面をうめていた。
しかし、警視はさっぱり感動しないようだった。客に椅子をすすめ、コーヒーを命じて、まるで、フィールド事件には興味がないかのように、市の部局のひとつの人事異動の予想について話しはじめた。
「おい、おい」と、サンプスンが大声で「一体どうしたんだね。胸を張ってもいいじゃないか、Q。成功どころか、まるで失敗でもしたようにしてさ」
「そういうわけじゃないんだよ、ヘンリー」と、警視はため息をついて「エラリーがそばにいないと、何事にも熱中できないような気がするだけさ。まったく、あいつが、くだらんメーン州の森などに出かけないで、ここにいてくれたらなあ」
二人の客は笑った。ジューナはコーヒーを注いだ。しばらくのあいだ警視は、夢中になって菓子をほおばっていた。たばこをすいながら、クローニンが口を切った。「ぼくは、ちょっと敬意を表しにお寄りしたんですがね、警視。今度の事件について、二、三、分らない点があるんですよ……サンプスンさんが来る途中で、話してくれたことのほかは、捜査全体についてはほとんど知らないのです」
「ぼくも五里霧中さ、Q」と、地方検事がわりこんで「何か話してくれるだろうと思ってね。さあ、話してくれたまえ」
クイーン警視は淋しそうに微笑した。「面子《めんつ》を保つためには、今度の捜査は、ほとんど全部自分で手がけたように話さなければならんだろうがね。実をいうと、この難事件の捜査の知的な部分は、まったくエラリーの仕事なのさ。わしのせがれは、きれる奴だよ」
サンプスンとクローニンは、からだを楽にし、警視はかぎたばこを吸って、肘掛椅子にゆったりともたれた。ジューナは片すみで静かにうずくまって、聞き耳を立てた。
「フィールド事件を話すとなると」と、警視が話し出した。「しばしばベンジャミン・モーガンの名を出すことになるが、あの男は、関係者全部の中で、本当に無実の被害者なんだ。〔クイーン警視の、この声明は、必ずしも正しくはない。ベンジャミン・モーガンは、決して≪無実≫とは言いきれない。しかし、警視の正義心と、決して口外せぬと約束したのを守るために、この弁護士をかばわざるを得なかったのだ――E・Q〕このことを覚えていてほしいよ、ヘンリー君。わしが、モーガンについてしゃべることは、職業上でも、世間話でも、今後一切口にしないでもらいたいんだ。ティムとは、もう沈黙を守ってもらう約束がしてある……」
二人の客は黙って、うなずいた。警視はつづけた。「ほとんどすべての犯罪捜査は、動機を探ることから始まるのは説明するまでもない。多くの場合、ひとつずつ容疑をとりのぞいていって、はじめて犯罪の背後の理由が分るものだ。今回の事件では、かなり長いあいだ、動機があいまいだった。いくつかの手がかりはあった、たとえばベンジャミン・モーガンの話だが、しかし決定的なものではなかった。モーガンは長い年月、フィールドにゆすられていた――ゆすりは、君たちの知らない、フィールドの仕事の一部で、君たちが知っているのは、奴の社会生活の別の面だけなんだ。このことから、ゆすりが、動機として指摘できそうだった――むしろ、ゆすりの根をたつことがね。しかしほかにも動機になり得る多くのものがあった――復讐《ふくしゅう》だ。フィールドのために≪送りこまれた≫犯罪者がやったのかもしれない。あるいは、奴の犯罪組織の中の一人がやったのかもしれない。フィールドには多くの敵がいたし、フィールドに弱味を握られているだけの理由で仲よくしていた友人も、おそらく多かったろう。何十人ものそういう連中のどの一人でも――男も女も――あの弁護士を殺す動機を持っているのだ。ところで、あの夜、ローマ劇場では、ほかの緊急焦眉のことを考えたり片づけたりしなければならなかったので、動機のことはあまり詮索できなかった。動機というものはいつも背景にかくれていて、呼び出されて役に立つのを待っているものなんだ。
しかし、この点は覚えていてほしい。ゆすりが動機なら――それが一番可能性がありそうに思えたから、結局、エラリーも私も、そうきめたのだが――少なくとも、それを証明するような、何かの書類が、フィールドの所有物のなかから浮かび上がりそうなものだった。モーガンの書類があるのは分っていた。クローニンは、探しまわっている書類が、どこかにあるはずだと主張した。そこで、われわれは、たえず、書類に目を光らせていなければならなかった――犯罪の背後の根本的な状況を明らかにするかしないか分らんが、とにかく、書類は実体的な証拠だからね。
それと同時に、文書の問題として、エラリーはフィールドの持物の中から見つけた、いく冊もの筆跡分析の本にとっついた。われわれは、フィールドのような奴、つまり、一度は確かにゆすりをやり(モーガンの場合だが)しかも、ほかにもいく度かゆすりをやっている疑いがある奴、その上、筆跡の研究にひどく興味を持っている奴は、文書偽造などお手のものだろうと狙いをつけた。この狙いが当っていれば、おそらくフィールドは、常習的にゆすりに使う書類の原本を偽造するものと考えられるし、それは妥当な解釈と思える。奴がそんなことをする唯一の理由は、もちろん、にせものを売って、原本は将来のゆすりのたねに保管しておくつもりだったのだろう。暗黒街とのつながりが、この商売のかけひきを習得するのに役立ったことは、うたがいもない。後日、この仮定が正しかったのが分った。そして、その時になって、この犯罪の動機が、ゆすりだったことが、決定的に判明したのだ。しかし、言っておくが、ゆすりと分っても、どうにもならなかったのだ。というのは、容疑者のどのひとりでも、ゆすりの被害者であり得たし、だれが被害者なのかをはっきりさせる方法がなかったのだ」
警視は顔をしかめて、さらにゆったりと椅子の背にもたれた。
「ところで、説明の方法を間違えとるらしいな。これで、習慣がいかに人間をつかんではなさんものかが分るだろう。わしはいつも、まず動機から始めるくせでね……とにかく、こんどの捜査には、きわだって、重要な、めどになる事実が、ただひとつあった。手のこんだ手がかりで――むしろ、手がかりにならないがね。紛失した帽子のことなんだがね……
さて、紛失した帽子について残念だったのは、月曜日の夜、ローマ劇場では、目前の調査があまり忙しかったので、帽子の紛失ということの重要性が、はっきりつかめなかったことなんだ。しかし、最初から意に介さなかったわけじゃない――それどころか、死体を検査したときに、まず気がついたことのひとつだったんだ。エラリーときたら、劇場に入って死体にかがみこんだとたん、それに気がついていた。しかし、しようがなかったんだ。気を配らなければならんことが山ほどあった――訊問もしなくてはならん、指令も出さねばならん、食いちがいを正さなければならん、うたがわしい発見を究明しなくてはならん――というわけで、つまり、われわれは、うっかり、大きなチャンスをのがしてしまったのだ。もし、あの時、あそこで、帽子が見えないことの意味を分析していたら――あの夜のうちに、事件を固めていたかもしれないんだ」
「でも、決して解決は長びいたわけじゃないよ、文句言いだな」と、サンプスンが笑った。「今日は水曜日で、殺しは先週の月曜日の夜あったんだから、その間たった九日だ――文句いうこともあるまい」
警視は肩をすくめて「だが、それが相当の違いになっただろうよ」と言った。「もし、あのとき分っていたらなあ――それはまあいい。そこでいよいよ帽子の問題を細かく分析することになったとき、まず最初に自問したのは、なぜ帽子が持ち去られたのか、ということだった。これには筋の通る二つの解答だけがあるようだった。ひとつは、帽子が犯人を指示すること。いまひとつは、帽子の中に犯人のほしいものがあり、そのために犯行が行われたことだ。事件が解決されたとき、そのどちらも正しい答えだった。その帽子には、汗どめの革バンドの下のほうに、スティーヴン・バリーという名が、インキで消せないように書かれていたから、つまり犯人を指示していたわけだ。そして、帽子には犯人がどうしても欲しがるものが、はいっていた――ゆすりのたねの書類だ。犯人は、もちろん、そのときには原本だと思ったんだ。
帽子の持ち去られた理由が分っても、それは大して役に立たなかったが、捜査の出発点にはなった。月曜日の夜、閉鎖を命じて、劇場を出た時までには、徹底的捜査を行なったのに、帽子はまだ見つからなかった。ところで、帽子が謎めいた方法で、まんまと劇場から持ち去られたものやら、捜査の目にひっかからないで、まだ劇場内にあるものやら、それを知る方法がなかった。木曜日の朝、ふたたび劇場に出かけたとき、モンティー・フィールドのいまいましい帽子の在りかの問題について、断案を下した――つまり、否定的にだ。劇場にはない――それはほとんど確実だった。しかも、劇場は月曜日の夜から閉鎖されているのだから、帽子はその夜、持ち去られたにちがいないことになる。
さて、月曜日の夜、劇場を出た者は、みんな、帽子はただひとつしか持っていなかった。したがって、二回目の捜査の結果、あの夜、だれかが、モンティー・フィールドの帽子を手に持つか、頭にかぶって行ったにちがいないし、そうすれば当然、自分の帽子を劇場内に残しているものと、結論せざるを得なかった。
犯人は、その帽子を劇場の外で、始末するわけにはいかなかった、というのは、犯人が外へ出るチャンスは、ほかの観客たちも出ることを許可された時以外にはなかったのだからな。それに、その時までには、あらゆる出入口は監視されるか閉鎖されていたのだ。左側の路地は、まず最初にジェス・リンチとエリナー・リビーが見張り、次には案内人のジョン・チェーズが替り、その後は、警官のひとりが番についた。右側の路地は、平土間からの出入口しかないし、それには終夜見張りがついていたから、使用する方法はなかった。
さらに考えてみると――フィールドの帽子はシルクハットだったし、夜会服を着ずに、シルクハットをかぶって劇場を出た者はひとりもいなかったから――当然、紛失した帽子を持ち去った者は、正装していたにちがいないということになる。前もって、あんな犯罪を企てるような男だから、帽子を持たずに劇場に来たかもしれない、したがって、始末する必要はなにもなかったろうと、言えるかもしれないが、ちょっと考えてみても、そんなことは、ほとんどあり得ないことが分るはずだ。もし、シルクハットなしで来ると、特に劇場に入るときには、かなり人目についただろう。むろん、帽子なしで来ることもあり得るから、その点も考えてはいた。しかし、あんな計画的犯罪を企てるような男が、人に見覚えられるような、不必要なあぶない橋を渡ることはさけるだろうと、推理した。それにまた、エラリーは自信を持って、犯人がフィールドの帽子の重要性を前もって知ってはいなかったと指摘した。とすると、犯人が、自分の帽子を持たずに来る可能性は、いっそうあやしくなる。帽子を持って来たとすれば、最初の休憩時間の間に――つまり、犯行を行なう前にそれを始末したにちがいないと考えられる。しかし、犯人が事前に帽子の重要性を知らなかったという、エラリーの推理からすれば、このことは不可能だ。というのは、犯人は最初の休憩時間には、まだ自分の帽子をかたづけることの必要性を知っていなかったはずなんだ。とにかく、犯人は自分の帽子を劇場内に残しておかなければならなかったし、その帽子がシルクハットにちがいないと推定したのは正しかったと、思うのだ。ここまでは分るかな」
「筋の通る話だね」と、サンプスンが認めた。「かなりこみいってはいるがね」
「君には想像もできぬほどこみ入っているんだ」と、警視が、重々しく言った。「なにしろ、それと同時に、まだほかの可能性も念頭におかなくてはならなかったんだからね――つまり、フィールドの帽子をかぶって出た男は、犯人ではなくて、共犯者にすぎないかもしれんのだ。だが、先をつづけよう。
次に自問した問題は、犯人が劇場内に残したシルクハットはどうなったか、犯人はそれをどうしたか、どこに置いて行ったか、だ……白状するが、こいつは難問だった。われわれは劇場を上から下まで洗いあげた。事実、舞台裏で六、七個の帽子を見つけたが、衣装係のフィリップス夫人がそれらは、数人の役者の小道具用の帽子だと確認した。そして、どのひとつも、私有のシルクハットではなかった。すると、犯人が劇場に残していったシルクハットはどこにあるのか。エラリーは例の洞察力で、真相の核心をつらぬいた。エラリーの考えでは≪犯人のシルクハットはここにあるはずだ。しかも、その存在が、人目をひくか、異常だと思えるようなシルクハットはひとつも発見されていない。すると、われわれが探している帽子は、その存在が異常でないものでなければならない≫ということになる。分りきったことだろう、滑稽なほどだ。しかも、わし自身では、それに考えつかなかったのだ。
では、その存在が異常でないシルクハット――あることがきわめて自然で、その上、疑問の余地がないほど、自然な場所にある帽子には、どんなのがあったか。ローマ劇場では、衣装は全部ル・ブランから借りることになっているから、その回答は簡単だ。借りたシルクハットは芝居の目的で使われるのだ。では、そのシルクハットはどこにあるか。役者の化粧部屋か、舞台裏の一般衣装部屋のどちらかだ。エラリーは論理的にこの点までくると、フィリップス夫人をつれて舞台裏に行き、役者部屋と衣装部屋にあったシルクハットを虱《しらみ》つぶしに調べあげた。そこにあったシルクハットはひとつひとつみんな数えたが、紛失したものはなかった――みんな小道具のシルクハットで、裏革にル・ブランの印《しるし》がはいっていた。フィールドの帽子はブラウン兄弟商会のシルクハットであることが分っていて、小道具のシルクハットの中にも、舞台裏のどこにもなかった。
月曜日の夜、ひとつ以上の帽子を持って劇場を出た者はひとりもいないし、モンティー・フィールドの帽子は、明らかに、その同じ夜、劇場から持ち出されたのだから、犯人自身のシルクハットは、ローマ劇場が閉鎖されていたあいだ、ずっと劇場内にあったはずだし、われわれの二度目の捜査のときにも、まだそこにあったということは絶対に確実だと判定された。さて、劇場に残っているシルクハットはみんな小道具の帽子だということが判明した。そこで、こういうことになる。犯人自身のシルクハット(フィールドのを、かぶって出たから、残して行かなければならなかった帽子)は、舞台裏の小道具の帽子のひとつでなければならない。くどいようだが、小道具のシルクハット以外には、物理的に犯人の帽子であり得るものはないからだ。
言いかえれば――舞台裏の小道具のシルクハットのひとつは、月曜日の夜、正装してフィールドのシルクハットをかぶって劇場を出た男のものだということになる。
もしその男が犯人だときまれば――ほとんどその男以外はないだろうが――われわれの捜査範囲は、相当せばめられてくる。その男は、夜会服を着て劇場を出て行った男優のひとりか、同じような服装をした劇場に密接な関係のある人間以外にはあり得ない。後者の場合には、そのような人物は、第一に、残して行く小道具のシルクハットを持っており、第二に、衣装部屋や楽屋に、とがめられずに出入りでき、第三に、小道具のシルクハットを、衣装部屋にでも、楽屋にでも残して行けるチャンスがあるものでなければならない。
ここで後者の場合の可能性を検討してみよう――犯人は劇場と密接な関係があるが、役者ではない場合だ」警視は中休みして、愛用のかぎたばこ入れから、ひとつまみとって、深く吸いこんだ。
「舞台裏の裏方連中は除外される。というのは、フィールドのシルクハットを持ち去るためには絶対必要な、夜会服を着ている者は、ひとりもいないからだ。切符売場の連中、案内人たち、ドアマンたち、それ以下の使用人たちも、同じ理由で除外される。宣伝係りのハリー・ニールスンも、普通の背広だった。支配人のパンザーは正装をしていたにはいたが、骨を折って頭のサイズを調べてみると、六インチ四分の三なのが分った――並はずれて小型だ。とても、七インチ八分の一もあるフィールドの帽子が、かぶれるものじゃない。われわれが、パンザーより先に、劇場を引きあげたことは事実だが、わしは出がけにトマス・ヴェリーに厳命して、パンザーの場合も別扱いにせず、ほかの連中とまったく同じように身体検査させることにしておいた。それに、あの晩早く、パンザーの事務室にいるあいだに、単なる義務感から、帽子を調べてみたが、あの男のはダービーだった。ヴェリーがあとから報告してきたが、パンザーは自分のダービー帽をかぶって出たし、持物にも帽子はなかったということだ。ところで――もしパンザーが、探している男だとすれば、フィールドの帽子がいかにサイズが大きかろうと、ただ手に持つだけで出て行けたはずだ。しかし、ダービー帽で出たのだから、フィールドのシルクハットを持ち去ることができなかったことは、決定的だ。それに、劇場はあの男が出るとすぐ閉鎖されて、それ以来だれひとりとして――任務についた部下が見張っていたが――木曜日の朝、わしの目の前で入るまでは、あの建物にはだれも入らなかったのだ。論理的に言って、パンザーでも、ローマ劇場のほかのだれでも、フィールドのシルクハットを劇場内にかくすことができたものは、犯人であり得た。だが、この最後の仮定も、公認建築技士、エドマンド・クリューの報告で消えてしまった。その報告では、ローマ劇場には、秘密の隠し場所はどこにもないと断言している。
パンザーとニールスンと従業員たちが除外されると、可能性あるものとして残るのは、俳優だけだ。最後に、どうやって、バリーをつきとめるまで、捜査範囲をせばめて行ったかは、しばらくおいておこう。この事件の興味ある部分は、実におどろくほど複雑な推理の積み重ねによって、純粋に論理的な論証を通して、われわれが真相に達したことにあるんだ。あえて≪われわれ≫というが――実はエラリーなのだ……」
「あなたは警視のくせに、風にそよぐすみれみたいだな」と、クローニンが、くすくす笑った。「まったく、探偵小説はだしだ。そろそろ仕事に行かなければならないんですが、ボスも、ぼくと同じに面白がってるようだから――さあ、その先を、警視さん」
クイーンは、微笑して、話し出した。
「犯人を俳優だと煮つめたことは」と警視はつづけた。「おそらく君たちも抱くだろうし、われわれも最初は、かなりなやませられたひとつの疑問に答えてくれた。最初は、なぜ、秘密の取引の会合場所に、劇場がえらばれなければならなかったかが、理解できなかった。ちょっと考えてみたまえ、劇場は普通の状態では、非常に不利益に思えるだろう。そのひとつだけ言ってみても、隣近所に空席をつくって、秘密を保つためには、余分の切符を何枚も買わなければならない。会合場所としてはほかにもっと便利なところがあるのに、なんだって、ばかげた手数をかけたもんだろう。場内は、大部分の時間暗くて、ひっそりと静まりかえっている。ちょっとさわいだり、おしゃべりしても目立つ。群衆の目は不断の危険になる――認知される危険だ。しかし、こういう点は、犯人バリーが役者の一人だったことが分ると、自然に説明がつく。バリーの立場からすれば、劇場こそ理想的な場所だった――被害者が平土間で死んで発見されたときに、舞台の上の俳優のひとりを、殺人犯人と疑うものなんかありゃしない。むろん、フィールドは、バリーがどんなことを考えているか疑いもせず、自分が殺されるのに手をかしているなどとは夢にも思わずに、出かけることを承知したのだ。たとえ、少しは疑ったとしても、危険な人物との取引にはなれているし、おそらく、自分を守る力ぐらいは充分あると思っていたにちがいないんだ。この点、少し自信が強すぎたのだろう――むろん、今ではその点を知る手はないがね。
ここで、もう一度、エラリーの話にもどるよ――わしのお得意だ」と、警視は、吸いこむような笑い声をたててつづけた。「帽子についての推理のほかに――実は、まだ推理が完全に出来上る前のことだが――エラリーは、アイヴス・ポープ邸での会談のあいだに、風向きを、はやくもかぎつけたのだ。フィールドが、単に、女にふざけるつもりで、幕間に、路地で、フランセス・アイヴス・ポープに近づいたのではないのはあきらかだ。エラリーには、このひどく縁のない二人の間に、何か関係があるように思えたのだ。ところで、このことは、フランセスがその関係を知っていたということにはならない。フランセスはフィールドを一度も見たことも聞いたこともないと断言した。フランセスの言葉を疑う理由はひとつもなかったし、かえって信じる理由がたくさんあった。関係ありとすればスティーヴン・バリーだ。もしバリーとフィールドが、フランセスの知らないところで、互いに知り合っていたとすればね。たとえば、フィールドは月曜日の夜、劇場で役者と会う約束があり、そこへ不意にフランセスがあらわれたとすれば、生酔い気分のあの男があえて女に近づこうとしたことはあり得る。ことに、あの男とバリーとが、ともに関心を持っている問題が、フランセスに深い関係があるものとすればなおさらだ。フィールドがフランセスを知った点だが――毎日の新聞をみている何万人という人間は、あの女の顔容《かおかたち》をよく知っている――あの女は、しょっちゅう写真にとられる社交界の花形だからな。フィールドも、たしかに、まったく仕事には関係なく、あの女の顔容を知っていたはずだ……ところで、三人の関係にもどろう――フィールド、フランセス、バリーの三人だが――それは、もっとあとで、くわしく話そう。バリーを除いては、ほかのどの役者も、なぜフィールドがフランセスに近づいたかという問題に、充分満足する回答を与え得るものがないのは、君たちにも分るだろう。バリーはフランセスと婚約しているし、フィアンセとして公表されていたし、写真や新聞雑誌などの記事であつかわれていた。
フランセスに関するもうひとつの面倒な事実――つまり、あの女のハンドバッグがフィールドの服から発見されたことは――酔っぱらいの弁護士が近づいたときに、当然のことながら取りのぼせて、落したということで立派に説明がつく。しかも、この件は、後になってフィールドがフランセスのハンドバッグを拾うのを見たという、ジェス・リンチの証言で確認された。かわいそうに――あの娘には本当に気の毒だった」と、警視はため息をついた。
「さて、帽子の件にもどろう――いつも、あのいやらしい帽子のことにもどるのに、気がつくだろう」と、クイーンは、一息いれてつづけた。「わしは今まで、たったひとつの事実が、捜査のあらゆる面をこれほど支配した事件には、一度も出会ったことがない……ところで、注意してもらいたいのは、役者全員の中でバリーだけが、月曜日の夜、夜会服を着、シルクハットをかぶって劇場を出た、ただひとりの人間だったことだ。月曜日の夜、観客が行列を作って出て行くのを、正面ドアのところで見張っていたエラリーは、バリーをのぞくほかの役者がみんな普通の背広を着て劇場を出たのをはっきり記憶していて、事実、あとから、パンザーの事務室で、サンプスンとわしにそのことを話したが、そのときには二人とも、その重要性にはさっぱり気がつかなかった……したがって、バリーは役者全員の中で、フィールドのシルクハットを持ち去ることができた、ただひとりの人間ということになる。そこのところを、しばらく考えてみれば、エラリーの帽子についての推論と照らし合わせて、なんら疑うことなく、バリーの肩に有罪の責任をとらせ得ることが分るだろう。
次の段階は、芝居の実地検証だった。それはエラリーが決定的な推論をくだした日の夕方――木曜日だ。その理由が分るだろう。バリーが二幕目の間に、殺人を犯す時間があるかどうかを見て、結論を裏づけたかったのだ。すると、おどろくべきことには、役者全員の中で、バリーだけに、まさに、その時間があったのだ。バリーは九時二十分から舞台にいなかった――幕初めに舞台に顔を出して、すぐ消えて――九時五十分まで姿を見せず、九時五十分に舞台にもどって、あとはその幕の終りまで演っていた。これは議論の余地のないことだ――決定されていて変更できない時間表の一部なのだ。ほかの役者たちは、どのひとりも、舞台に出つづけていたか、ごく短時間の合い間をおいて、舞台に出たり入ったりしていた。これが分ったので、先週の木曜日の夜、五日以上前のことになるが――事件全体としては九日かかったわけだが――事件の謎を解決したことになったのだ。だが、殺人犯人の謎をつきとめたというだけでは、まだ司直の手に引き渡すには先が遠い。そのわけはすぐ分るだろう。
犯人が九時三十分ごろまで場内に入れなかったということは、左LL三二と左LL三〇の切符の切り口が符合しなかった理由を説明する。フィールドにとっても、バリーにとっても、別々の時間に、劇場に入る必要があったことは、分るだろう。フィールドには、バリーと一緒に入るのはまずいし、はなはだしくおくれて入るのもうまくない――バリーにとっては秘密にすることが非常に重要だったし、フィールドも、事を秘密裡に運ぶことの重要さを理解していたし、理解していると思っていたのだ。
木曜日の夜、バリーが犯人だとつきとめたとき、すぐにほかの役者連や、舞台裏の職人たちを訊問することにした。もちろん、バリーが楽屋から出て行って戻って来たのを実際に目撃したものがいないかを知りたかったのだ。あいにくとそんなものは、だれひとりいなかった。みんな、舞台に出ているか、衣装がえをしているか、舞台裏で働いていて忙しかったのだ。このちょっとした捜査は、あの夜、舞台が終ってからやったので、バリーはすでに劇場を出てしまっていた。こいつは失敗だったというほかはない。
ところで、その前に、パンザーから、座席の図面を借りておいた。この図面と、左手の路地と舞台裏の楽屋の配置とを合せて検討してみて――木曜日の夜、二幕目のすんだあとですぐ検討したのだが――どんなふうに殺人が行われたのかが分った」
サンプスンが勢いこんで「そのことでは、ぼくも頭をなやましていたんだ」と、白状した。「なんといっても、フィールドだって、ずぶの素人じゃない。バリーという奴は魔術師みたいな奴なんだろうな、Q。どうやってやったんだね」
「どんな謎でも、答えが分ればやさしいもんだ」と、警視がやりかえした。「バリーは、九時二十分にからだがあくと、すぐ楽屋にもどり、すばやく抜かりなく顔をこしらえて、自分の舞台衣装の一部だった夜会用の外套をひっかけ、シルクハットをかぶった――念のために言えば夜会服はすでに舞台で着ていたのだ。――そして、こっそり部屋を出て路地へ入った。
むろん、君たちはあの劇場の建物、敷地がどうなっているか知るはずもないがね。あの建物の舞台裏の翼は、左手の路地に面して、いく階にも仕切られて楽屋になっている。バリーの部屋は、一番下の階でドアが路地に向かってひらいている。鉄の階段がついていて舗道に降りられるのだ。
そのドアを通って、バリーは楽屋を出て、二幕目のあいだ、劇場の横扉がすべて閉められているうちに、くらい路地を通り抜けたのだ。そして、通りへ忍び出た。その時には、路地の出口には見張りがいなかったし――そのことを、バリーは知っていた――ジェス・リンチと、その≪女≫はまだ来ていなかった。運よくもね。それから、まるでおくれて来た客のように、正面入口から、堂々と劇場に入ったのだ。ドアで切符――左LL三〇――を見せた。外套で口許をかくしていたが、むろん、うまく変装していた。場内に入ると切符の切れはしは、わざとなげ捨てた。そのほうが賢明な行動だと思ったのだろう。というのは、場内で切符の切れはしが見つかれば、それは観客のひとりを示すことになり、すぐに舞台からは目がそらされると考えたからだ。それに、もし計画が失敗に終って、あとで念入りに調べられて、切符の切れはしを身につけているのが見つかれば、のっぴきならぬ証拠になるだろう。どうころんでも、切れはしを捨てるのは、捜査を惑わすばかりでなく、わが身を守ることになると考えたのだ」
「だが、どんな方法で、案内人に案内されずに――つまり姿を見られずに席へ行ったんでしょうね」と、クローニンが、横やりをいれた。
「案内人をさける計画はなかったんだろう」と、警視が答えた。「むろん、あの男は、芝居中だし場内はくらいから案内人が近づく前に、ドアに一番近い、最後の列まで行くつもりだった。しかし、たとえ案内人が先まわりして、席に案内したとしても、すっかり変装しているし、場内は暗いから、見覚えられる心配はほとんどなかった。そんなわけで、あの男にとって、最悪の事態がおきたとしても、せいぜい覚えられているのは、どこのだれとも分らぬ、ろくに人相も説明できない人間が、二幕目のあいだに来たということぐらいのものだ。ところが、運よくマッジ・オッコネルが恋人といっしょに坐っていたから、だれにも近づかれずにすんだ。あの男は、だれにも気づかれずに、こっそりとフィールドの隣りの席に忍びこむことができた。いいかね、今、話したことは」と、警視は、から咳をしてつづけた。「推理や捜査の結果ではないのだ。このような事実をかぎ出す方法を持つことはできないんだ。昨夜、バリーが自供したから、これらの点がはっきりした……むろん、バリーが犯人と分れば、われわれにだって、全部の手順がすっかり推定できただろう――犯人が分れば、これは、簡単で、自然な状況なのだ。しかし、そんな推定の必要がなかった。こんなことを言うと、エラリーとわしが言い訳をしているように聞えやせんかね。ふふん」と、老人は、かすかに微笑した。
「バリーがフィールドの隣りに坐ったときには、すでに、慎重に行動の手順の計画を立てていたのだ。バリーが厳密な時間表にしばられていて、一分でも無駄にできないのを忘れてはいかんよ。一方、フィールドのほうも、バリーが舞台にもどらなくてはならないことを知っていたから、無駄に長びかせなかった。事実は、バリーが自供したが、フィールドとの話し合いは、もっと面倒だろうと思っていたのに、実際には、それほどでもなかったそうだ。それどころか、フィールドは、バリーの提案や話を、機嫌よくきいたのだ。おそらく、かなり酔ってもいたし、じきに大金が受けとれると思っていたのだろう。
バリーはまず書類を要求した。すると、フィールドは書類を出す前に、抜け目なく金を要求した。バリーは、見たところ本ものの紙幣でふくらんでいる財布を見せた。場内は暗かったし、バリーは紙幣をとり出しては見せなかった。実は小道具の紙幣だったのだ。バリーは思わせぶりに、それをたたいてみせて、フィールドが予期していたような態度をとった。つまり、書類を調べるまでは金は渡せないと拒否したのだ。バリーは腕達者な役者だから、舞台での修業で身についている自信たっぷりな態度で、このむずかしい場をやってのけたのは、想像にかたくない……フィールドは、座席の下に手を入れて、バリーがおどろき、あきれている間に、シルクハットを取り出した。バリーの話だと、そのとき、フィールドは≪書類がこの中にしまってあるとは、とても気がつかなかったろう? 実を言うと、この帽子は君の一件専用のものなんだ。見たまえ――君の名がついてる≫と言ったそうだ。そして、このおどろくべき言葉とともに、バンドを裏返して見せたそうだ。バリーはポケットペンシル型懐中電灯で、自分の名が、革バンドの下方にインキで書かれているのを見た。
この瞬間、バリーの心中を、どんな思いがはせめぐったか、まあ、想像してみたまえ。バリーは、その瞬間、慎重な計画が、こなごなになるような事件にぶつかったのを、さとったのだ。死体が発見されて、フィールドの帽子が調べられれば――むろん調べられるはずだ――その時には、バンドのスティーヴン・バリーの名が、のっぴきならぬ証拠になるだろう……バリーには、バンドをひきちぎるひまはなかった。第一ナイフを持っていなかった――不運にもね。つぎに、バンドは丈夫な帽子の地に、ぴったり固く縫いつけられていた。とっさの考えで、残されている唯一の方法は、フィールドを殺してから、帽子を持ち去ることだけだと、すぐに見てとった。バリーとフィールドは、ともに普通の体格だし、フィールドは七インチ八分の一のサイズの帽子をかぶっているから、バリーはフィールドの帽子を手に持つか、かぶって劇場を出て行こうと、すぐに決心した。自分の帽子は楽屋に残しておく、そこなら帽子があってもおかしくはない、それから、フィールドの帽子を持って劇場を出て、自分の部屋に帰ったら、すぐこわしてしまえばいいわけだ。また、ひょっとして、劇場を出るときに、帽子を調べられるようなことがあっても、内側に自分の名が書いてあるから、きっと疑われずにすむと思っただろう。こんな思いがけない状況になろうとは、バリーは予想もしなかったが、以上のような事実によって、格別に危険を冒しているような感じを持たないですんだものと見ても、ほぼ間違いあるまい」
「悪がしこい悪党だ」と、サンプスンが、つぶやいた。
「すばしっこい頭脳だよ、ヘンリー、きれる頭だ」と、クイーンは重々しく言った。「そのために、多くの人間が、往々にしてしばり首の輪に首を突っ込んだのさ……バリーは即座に帽子を持って行く決心をしたが、そのかわりに自分の帽子を残して行くわけにはいかないとさとった。第一に、バリーの帽子はたためる奴で――オペラ・ハットだ――しかも、もっと重大なことには、舞台衣装店ル・ブランの名が印してあった。すぐに役者の中のだれかだと目をつけられるのは分りきっている――それこそ、バリーが避けたいことなのだ。バリーはこうも言っていた。その時も、しばらく経ってからも、帽子の紛失から警察が推理することは、せいぜい、何か価値のあるものが帽子にはいっていたからだと思うぐらいだろうとね。バリーには、この捜査上の推理が、どうして自分の身辺に容疑の目を向けさせることになるかが、分らなかったのだ。帽子の紛失という事実だけから、エラリーが組み立てた一連の推理を話してやったら、バリーは本当におどろいていた……ここまで話すと、君たちにも分るだろうが、バリーの犯罪の根本的な欠陥は、あの男の側に見落しや過失があったせいではなくて、予期できなかった出来事のせいなのだ。あの男がやむを得ずやったことから、全体の鎖がたぐり出されたのだ。フィールドの帽子にバリーの名が書かれていなかったら、わしの心中に疑念もおこらず、いまごろあの男は、自由で、容疑もかけられずにいたろう。警察記録には、またしても一つのお宮入りの殺人事件が書きこまれただろうね。
言うまでもなく、バリーのこの一連の考えは、今ここで説明するのに要した時間よりも、はるかに短時間のうちに、あの男の脳裡にひらめいたものなのだ。奴は、何をなすべきかを知るとすぐ、計画を、新事態に即応するように修正した……フィールドが書類を帽子から出すと、バリーは、弁護士が見守るうちに、手早く調べた。例の鉛筆型懐中電灯を使ってやった――そのかすかな光の筋は、二人のからだにかくされてほかからはまったく見えなかった。書類は間違いなく、そろっているらしかった。だが、そのとき、バリーはゆっくり書類を調べていられなかった。バリーは情けなさそうに笑顔を上げて言った。≪たしかに、みんなそろっているようだね。けしからん男だな≫――と、さりげなくね。ちょうど二人は休戦中の仇同士で、バリーのほうが、いさぎよくふるまっているようにね。フィールドはその言葉を、バリーの注文どおりに受けとった。バリーはポケットに手を入れた――懐中電灯は消していた――そして、まるで神経を鎮めるように、上等なウィスキーをつめたフラスクをとり出して一口飲んだ。それから、無礼をわびるように、手打ちにいっぱいやってくれないかと、愛嬌たっぷりに、フィールドにたのんだ。バリーがそのフラスクから飲むのを見ていたから、フィールドは卑劣なたくらみがあるなどとは疑えなかった。事実、バリーが自分をやっつけようとしているなどとは、おそらく夢にも思わなかったろう。バリーはフラスクを渡した……
しかし、それは同じフラスクではなかった。闇にまぎれて、フラスクを二つとり出していたのだ――ひとつは、左の尻ポケットから出して自分が使ったものだ。フィールドに渡すときに、もうひとつの奴とすりかえたのだ。簡単なことだ――暗がりだったし、弁護士が酔っぱらい状態だったから、いっそう簡単なわけさ……フラスクの手品はうまくいった。しかも、バリーは運を天にまかせるようなことはしなかった。ポケットには毒を入れた注射器を持っていたのだ。もし、フィールドが飲むのを断わったら、バリーは弁護士の腕か足に針を刺すつもりだった。バリーは、何年も前に医者が買ってくれた注射器を持っていた。バリーは神経痛を病んでいたが、一座とともに方々を巡業するので、落ちついて医者にかかっていられなかった。だから、その注射器は、何年も前のもので、入手の経路は、すでに消えていて、出所をかぎ出される心配はなかった。それで、フィールドが飲むのを断わったら刺すつもりだった。分ったろう――奴の計画は、この点だけでも、ぬかりがなかったのだ……
フィールドの飲んだフラスクにはたしかに上等のウィスキーがつめてあったが、四エチル鉛もたっぷりまぜてあった。毒のかすかなエチルの匂いは、酒の香りで消えていたから、酔っていたフィールドは、何か変だと気がついても、そのときにはもう、がぶりと飲みこんでしまったあとだし、おそらく全然気がつかなかっただろう。
フィールドが機械的にフラスクをバリーに返すと、バリーはそれをポケットに入れて言った、≪この書類を、もっと慎重に調べたいんだ――君は信用できんからね、フィールド君……≫このときには、もう、大して興味も持っていなかったフィールドは、けげんそうにうなずいて、座席に深くうずくまった。バリーは実際に書類を調べていたが、目の隅で、始終、たかのようにフィールドを見守っていた。見ていると五分ぐらいでフィールドはまいった――うまくいった。完全に意識を失わなかったが、失いかけていた。顔がゆがみ、呼吸がせまった。叫んだり、もがいたりはできないようだった。もちろん、バリーのことをすっかり忘れていた――ひどい苦しみでね――おそらく、意識も長くは残っていなかったろう。プザックに、二言三言うめいたのは、事実上死んでいる人間の、超人的努力だったのだ……
バリーは、そこで時計を見た。九時四十分だった。フィールドといたのは、わずかに十分だった。九時五十分には、舞台にもどらなければならない。あと三分間待つことにした――予定より早く片づいたので――フィールドが騒ぎを起こさないのをたしかめるためだった。ぴたり九時四十三分に、フィールドが五臓六腑の末期の苦悶《くもん》を、おそろしいほどじっと耐えているのを尻目に、バリーはフィールドの帽子をとり、自分の帽子をたたみこんで外套の下にかくして、立った。途中、じゃまがはいらなかった。ぴったりと壁について、非常に注意深く、人目につかぬように通路を歩いて、だれにも気づかれずに、左側のボックス席の後ろにたどりついた。芝居は一番の山場だった。すべての目は舞台に釘づけにされていた。
ボックス席の後ろで、つけ毛をむしりとり、すばやくメイキャップを直して、楽屋口を通り抜けた。そのドアは、せまい通路に通じ、そこから廊下に出て、廊下から舞台裏のいろんな場所へ行く道が分かれている。バリーの楽屋は廊下の入口から数フィートのところだ。バリーは楽屋にすべり込むと、自分の小道具の帽子をほかの小道具の中になげ出して、大急ぎで毒入りのフラスクのウィスキーの残りを手洗いの流しにあけて、フラスクをきれいに洗った。注射器の中身は、便所の排水管にあけて、針をはずして、洗った。もし見つかっても――何ということもない。注射器を持っていることには完全に申しひらきのつく理由があるし、殺人にはその道具を全然、使わなかったのだ……バリーは、舞台に出る支度をすませて、落ちつき、しゃんとして、ちょっと疲れているようにしていた。正確に九時五十分に呼び出しがかかって、舞台に出た。そして、九時五十五分に平土間が拍手喚声でわき立つまで、舞台にいた……」
「君の手のこんだ計略を話してくれないか」と、サンプスンが大声を出した。
「初めて聞いたときに感じるより、手がこんではおらんよ」と、警視が答えた。「バリーは、ずばぬけて頭のいい奴だし、特に、腕利きの役者なんだからな。あんなたくらみは、よほど腕達者な役者以外には実行できない。結局、手段は簡単だったが、一番むずかしかったのは、時間割りを守ることだったろう。もしだれかに見られても、変装していた。計画の中で危険な部分は逃げることだけだ――通路を歩いて、ボックス席の楽屋口から舞台裏にもどる時だ。通路については、フィールドの隣りに坐っているあいだじゅう、案内人から目を離さないように注意していた。むろん、芝居の性質上、案内人どもが、どちらかといえば、忠実に持場を守っていることを、前もって知っていたが、変装していることと、注射器を持っていることで、どんな万一のことがあろうとも大丈夫だと考えていた。ところが、マッジ・オッコネルが職務を怠っていたので、あの男には、もっけの幸いだった。バリーは昨夜、いくらか得意になって言っておったが、あらゆる不慮の故障に対して用意していたそうだ……楽屋口については、芝居の進行があの段階に達したころは、実際に役者はみんな舞台に出払っていることを、経験上、知っていたのだ。照明や道具方も、それぞれの持場で、手いっぱいなのもね……忘れてならぬのは、あの男は、どんな条件のもとで自分が行動しなければならないかを、正確に前もって知っていて犯罪を計画したことだ。そして、危険や不確実な要素があったとしても――つまりは、計画そのものが、危険な仕事じゃないですか――と、あの男は昨夜もほほえみながら言った。ほかのことはともかくとして、あの男のこの理屈だけは、ほめてもいいな」
警視はもじもじ足を動かして「どうかね、これではっきりしたろう、バリーの犯行ぶりがね。ところで、われわれの捜査だが……帽子の推理から、犯人の割り出しはできたが、犯罪の背後の正確な状況は、まだ見当がつかなかった。もし君たちが、木曜日の夜、われわれが集めた物的証拠をおぼえているなら、手がかりになるものは、全然ひとつもなかったことが分るだろう。われわれの最高の希望は、みんなで探していた書類のどこかに、バリーを逮捕できるような手がかりが出てくることだった。それだけでは充分ではないがね……そこで次の段階では」と、警視はため息をついて「フィールドのアパートのベッドの天蓋の上の巧妙な隠し場から書類を発見したことだ。これは一から十までエラリーの手柄だった。フィールドには、書類をかくす安全保管金庫も、郵便私書箱も、別宅も、懇意な隣人も商人もないし、しかも事務所にも書類がないのが分った。消去法を使って、エラリーは、書類はフィールドの部屋にあるはずだと主張した。その捜査の結果は知ってのとおりだ――エラリーの得意の純粋論理のすばらしい片鱗《へんりん》だよ。こうして、モーガンに関する書類も、クローニンが探していたギャング活動に関する書類も発見した――途中だが、ティム、われわれが暗黒街の大掃除を始めたら、どんなことがおこるか、わしにはとても面白くてたまらんね――ところで、最後に、雑多な書類の束をみつけたんだ。その中に、マイクルズ関係のと、バリー関係のとがあった……さっき話したようにティム、エラリーは、筆跡分析の件から推理して、バリーの書類の原本が見つかるだろうといっていたが――そのとおりだった。
≪マイクルズ≫の事件は面白いものだった。マイクルズが≪小窃盗罪≫でエルミラ刑務所に入ったのは、フィールドが巧妙に法をごまかしたからなのだ。しかし、フィールドは、マイクルズの痛いところをつかみ、将来いつか使うつもりで、あの男の真実の犯罪記録を、お得意の隠し場所に保存してあったのだ。保存好きな奴だよ、フィールドは……マイクルズが刑務所から出てくると、フィールドはその書類をふりかざして、おどして、否応なしに、自分の汚い仕事の手先に使ったのだ。
ところで、マイクルズも長い間、その書類を探していた。いかに書類を欲しがったか分るだろう。機会あるごとに、アパートを探しまわった。そして、いくども失敗して、しまいに絶望的になった。マイクルズが毎日毎日アパートをかきまわしているのを知って、きっとフィールドは、悪魔的な皮肉なやり方で、楽しんでいたにちがいないと思うよ。……月曜日の晩、マイクルズは自供したとおりやったんだ――家へ帰って寝たんだ。しかし、火曜日の朝早く、フィールドが殺されたのを新聞でみて、もう駄目だと思った。書類を探す最後の努力をしなければならなくなった――もし見つからなければ、警察が探し出して、煮え湯をのまされることになる。そんなわけで、警戒網にとびこむのは承知で火曜日の朝、フィールドの部屋にもどって来たのだ。小切手をもらうつもりだったというのは、むろん、嘘さ。
ところで、バリーの話をつづけよう。われわれが帽子から発見した≪雑≫と印してある原本には、下劣な話がのっていた。スティーヴン・バリーには、手っとり早く、ざっくばらんに言うと、ニグロの血が流れていたんだ。あの男は南部の貧しい家庭に生れた。それには決定的な証拠書類があった――手紙、出生証明書のようなものだが――あの男にはニグロの血がまじっていることを証明していた。ところで、フィールドは、知ってのとおり、こんなことを調べ上げるのを仕事にしていた。何らかの方法で、その書類を手に入れた。いつごろのことか分らんが、かなり以前のことなのはたしかだ。当時のバリーの地位を調べてみると、苦闘中の俳優で、金があるときよりも、ぴーぴーの時のほうが多かったから、しばらく放っておくことにしたのだ。バリーに金ができたり、人気があがったら、いずれは、ゆすれるからだ……フィールドのたくましい夢をもってしても、バリーが、血統正しい社交界の億万長者の娘、フランセス・アイヴス・ポープと婚約するとは予想できなかったろう。アイヴス・ポープ家に、自分の混血の話が知れることは、バリーにとって何を意味するかは、説明するまでもない。その上――非常に重大なことだが――バリーは賭博のために、しょっちゅう困窮状態にあった。かせいだ金は競馬の馬券屋のふところにころがりこんでしまい、その上、フランセスとの結婚がうまくいかなければ、とても払えないほど、莫大な借金を背負っていた。金にひどく迫られていたので、事実、あの男のほうから早く結婚しようと、巧妙に急がせていた。感情的には、フランセスを、どう見ていたか、いまだにわしには分らんよ。ひいき目にみて、あの男は金だけのために結婚しようとしたとは、わしは考えたくないな。あの男は、本当に、フランセスを愛したんだろう――それに、だれだって愛さずにいられないような娘だ」
老人は思い出にふけるように微笑してつづけた。「フィールドは、ごく最近、書類を持って、バリーに近づいた――むろん、秘密にね。バリーはできるだけ払ったが、おそろしく少なかったから、当然、あの欲ばりのゆすり屋は満足しなかった。あの男は、絶望的になって、フィールドをくいとめようとしていた。ところが、フィールド自身、賭博で、にっちもさっちもいかなくなったので、小さな取引先を片っぱしから≪集金≫していた。壁ぎわに追いつめられたバリーは、フィールドを黙らさないと、一切が失われることを悟った。そこで、殺しを計画した。バリーは、たとえフィールドの要求する五万ドルの工面ができても――ほとんど不可能だが――また、たとえ、書類の原本を手に入れても、まだフィールドが噂《うわさ》をひろめるだけで、バリーの望みをたたきつぶすかもしれないと思ったのだ。打つ手はただひとつだ――フィールドを消すことだ。そこで殺したのだ」
「ニグロの血とは!」と、クローニンがつぶやいた。「可哀そうな奴だ」
「顔をみただけではほとんど分らんな」と、サンプスンが批評した。「われわれと同じぐらい白いぜ」
「バリーは、純粋の黒人とは遠いんだ」と、警視がたしなめた。「ほんの一滴まじってるだけだ――ほんの一滴、だが、アイヴス・ポープ家にとっては、それだけでも充分すぎることなんだ。……あとをつづけよう。書類が見つかって、読んでみて――すべてが分ったんだ。だれが――どうやって――なぜ、罪を犯したのかがね。そこで、われわれは有罪判決にする手許の証拠を吟味することにした。証拠なしで、殺人罪で人を法廷にひったてるわけにはいかんからね。……ところでどんな証拠があったと思う。なんにもないんだ。
証拠として役に立てられる手がかりについて話してみよう。例のハンドバッグだが――あれはだめだ。価値がないのは言うまでもないだろう……毒薬の出所――完全な失敗さ。偶然にも、バリーは、ジョーンズ博士の言ったとおりの方法で入手したのさ――毒物学者、ジョーンズのね。バリーは普通のガソリンを買って、蒸溜して四エチル鉛を作ったんだ。証拠は何ものこしてなかった……もうひとつの有望な手がかりは――モンティー・フィールドの帽子だ。ところがそれは、なくなってしまった。……空いていた座席の余分の切符は――見つからなかったし、見つかるチャンスもほとんどなかった。……そのほかの唯一の物的証拠――書類は――動機を示すが、ほかのことは何も証明しない。書類だけで言えば、モーガンも罪を犯したことになるかもしれないし、フィールドの犯罪組織のだれだって同じ立場だ。
有罪判決に持ち込む唯一の方法は、バリーのアパートにこそ泥を入らせて、フィールドの帽子か、空席の切符か、毒薬か、毒薬器具のような何かの手がかりを見つけ出させる計画しかなかったのだ。ヴェリーがこそ泥の玄人を連れて来て、金曜日の夜、バリーが劇場で出演しているあいだに、アパートを調べた。ところが、いま言ったような手がかりは、なにひとつ出てこなかった。帽子、切符、毒――どれも破棄されてしまっていた。明らかにバリーがやったのだ――われわれはないことをたしかめただけだった。
行きづまったぼくは、あの夜バリーを見て、おぼえている者がみつかるかもしれないと思って、月曜日の夜の観客連中を召集したのだ。人間には、前に訊問されたときには昂奮してまったく忘れていたことを、あとから思い出すことがままあるものだからね。しかし、これもまた、あいにく、失敗だった。出てきた唯一の値打ちものは、フィールドが路地でハンドバッグを拾うのを見たという、オレンジエード売りの証言だけだった。しかしながら、バリーに関するかぎり、この証言では、何の役にも立たない。それから、木曜日の夜、役者連を尋問したときも、直接役に立つ証言はひとつも得られなかったことを覚えていてほしい。
こんなふうに、陪審員たちのためには事実についての立派な仮定的な言明は持っていたが、本質的な証拠は、ちりっぱひとつなかった。われわれが提出するために持っている証拠は、抜け目のない被告弁護人に苦もなく破られるだろう。みんな主として推定にもとづく状況証拠なのだ。こんな状態で、事件を法廷に持ち込んだら、どうなるか、分りきっていることじゃないか……折あしく、わしには本当に厄介なことがおこった。エラリーが休暇で町を出て行かねばならんことになったのだ。
わしはずいぶん頭をなやましたよ――ない智慧を絞ってね」と、警視は空のコーヒー茶碗を、にがにがしく見つめた。「目先がまっ暗だった。証拠がないのに、どうして人を断罪できよう。気違いになりそうだった。しかし、そのとき、エラリーがひとつの暗示を電報してきて、最後のつとめをはたしてくれたのだ」
「暗示ですか」と、クローニンが訊いた。
「少しゆすりをやれという暗示だった……」
「君がゆするのか」と、サンプスンが目をむいて「意味が分らんな」
「うわべはあいまいでも、エラリーの言う意味は、はっきり分る」と、警視がやり返した。「わしに残されている唯一の道は、証拠を作れということだと、すぐに分った」
二人の男は、けげんそうに眉をしかめた。
「至極、簡単だ」と、クイーンが言った。「フィールドは珍しい毒で殺された。それは、フィールドがバリーをゆすっていたからだ。すると、バリーが同じ手で、いきなりゆすられたら、また同じ毒殺の手を使うだろうと、推理してもよかろうじゃないか――しかも、十中の八九、あの同じ毒でね。言わでものことだが≪一度毒殺したものは、いつまでも毒殺する≫だ。バリーの場合、もし、ほかのだれかに四エチル鉛を使わせるように仕向けることができさえすれば、つかまえられるのだ。その毒は、ほとんど世間に知られていない――が、これ以上説明はいらないだろう。あの男が四エチル鉛を持っているところを捕えれば、わしが必要とする証拠が充分そろうことになるのだ。
どうやって、その目的を達するかは、また別の問題だった。……ゆすりの機会は、状況にぴったりだった。バリーの出生と混血に関する書類の原本は、現にわしの手もとにあった。バリーは、それが破棄されたものと思っていた――フィールドから奪った書類が、巧妙なにせものだとは夢にも疑うわけはなかった。わしがゆすれば、あの男は前と同じ立場になる。当然、同じ行動をとらざるを得ないだろう。
そこで、わしは、わが友チャーリー・マイクルズを使うことにした。マイクルズを利用した唯一の理由は、あの男がフィールドの用心棒で、いつも一緒にいたから、書類の原本を持っていても、不思議ではないと、バリーが思うだろうからね。わしが口述して、マイクルズに手紙を書かせたのだ。マイクルズに書かせたかったわけは、おそらく、バリーはフィールドとの交渉で、マイクルズの筆跡をよく知っていただろうからね。これは些細なことのようだが、石橋をたたいて渡りたかったのだ。もし、計略に手抜かりでもあれば、バリーは、きっとすぐ見抜いて、わしは、ふたたび奴を捕えることができなくなるからね。
原本の一枚を手紙に同封して、新しいゆすりが手ごわいものだと思わせてやった。フィールドが持っていったのは、バリーの書類の写しだと言ってやった――同封した一枚が、それを証明するものだとも言ってやった。マイクルズが、主人がやったと同じように、自分を絞ろうとしているのを疑う余地は、バリーには全然なかった。手紙は最後通牒のような言葉使いにした。時と場所を指定した。つづめて言うと、計画は図に当った……
話はこれまでだな、諸君。バリーは来た。信頼する小さな注射器に、四エチル鉛をつめてね。フラスクも持って来た――場所が違うだけで、フィールド殺し、そっくりそのままだった。部下には――リッターだが――万が一にも仕損じがないように命令しておいた。リッターはバリーを見つけると、すぐ尾行して、警報を発した。運よく、われわれは、すぐ後ろの茂みにかくれていた。バリーは絶望的になっていたから、ちょっとでもすきがあればリッターを殺して、自殺するかもしれなかった」
語り終えて、警視は、ため息をつき、前かがみになって、かぎたばこをつまみあげた。みんなしゅんとなっていた。
サンプスンが坐り直して「スリラーものを聞くようだね、Q」と、賛嘆した。「ところで、二、三はっきりしない点がある。たとえば、四エチル鉛が、ほとんど世間に知られていないのなら、一体、どうして、バリーがそれを知っていたんだろう――実際に自分で造り出すほどにね」
「おお」と、警視は微笑して「ジョーンズが毒の説明をした時から、わしもそれで苦労した。逮捕してからも、分らなかったのだ。ところが、なんと――自分の馬鹿を見せつけられただけさ――その答えはいつも鼻先にぶら下がっていたんだよ。君は、アイヴス・ポープ邸で、コーニッシュとかいう医者に紹介されたのを、おぼえているだろう。ところで、コーニッシュは、老実業家の親友で、二人とも薬学に興味を持っているのだ。そういえば、エラリーが一度、訊ねたことがあったよ、≪アイヴス・ポープは、最近、化学研究に十万ドル寄付しませんでしたか≫とね。あれは事実だった。バリーが偶然、四エチル鉛のことを知ったのは、数か月前のある宵、アイヴス・ポープ邸で集りがあった時なんだ。コーニッシュの紹介で、科学者の代表が、あの大実業家を訪ねて、≪基金≫に財政的援助をたのんだのだ。当然、その夜の話題には、医学界のゴシップや、最近の科学上の発明が出たはずさ。バリーは、≪基金≫の理事の一人で、有名な毒物学者と同席して、あの毒の話を小耳にはさんだことを認めた。そのときには、バリーは、その知識を役立てようとは思ってもいなかったが、フィールドを殺そうと決めたとき、すぐに、その毒の有利性と、出所をつかまれないことに気がついたのだ」
「土曜日の朝、ルイス・パンザーに手紙を持って私のところへ来させたのは、一体、どういうことですか、警視」と、クローニンが不思議そうに訊いた。「おぼえてるでしょう。あなたの手紙は、リューインとパンザーが会うとき、二人が互いに知っているかどうかを、見とどけてくれということでした。ぼくが報告したとおり、あとでリューインに訊いてみたら、パンザーを全然知らないと否定しました。あれは、どういう考えだったんですか」
「パンザーか」と、警視はおだやかに、もう一度「パンザーね。パンザーは始終、わしをまどわしとったのさ、ティム。君のところへやったときは、あの男を無関係だとする帽子の推理がまだ、出来上がっていなかったからなんだ……だが、単にものずきから、君のところへやったんじゃない。もし、リューインがパンザーを知っていれば、パンザーとフィールドの関係が分ると思ったんだ。わしの考えは確認されなかった。初めから望みはかけていなかったんだがね。パンザーは、リューインの知らないところで、フィールドと知り合いだったかもしれないものね。一方また、あの朝、パンザーに劇場をうろつきまわられたくないわけがあったから、使いをたのんだほうが、双方のために、よかったんだよ」
「なるほど、あなたの指示どおりに、新聞の束を持たせて帰したのが、ご満足だったわけですね」と、クローニンはにやにや笑った。
「モーガンが受けとった匿名の招待状はどうなんだね。あれは人の目をごまかすためだったのか、どうなんだ」と、サンプスンが訊ねた。
「あれはちょっとした、巧妙なぺてんさ」と、クイーンが、にがにがしく答えた。「バリーが昨夜説明したがね。あの男は、モーガンがフィールドを殺すとおどしたことを聞いていたのだ。だが、フィールドがモーガンをゆすっていることは、もちろん知らなかった。しかし、月曜日の夜、つくり話で、モーガンを劇場におびき寄せることができれば、捜査の方向を狂わすのに、きわめて強い策になるだろうと考えたのだ。モーガンが来なくても損はないし、来ればうまい――と、あの男はそんなふうに考えたのだ。あの男は、ありふれた安ノートの紙をえらび、タイプライター販売店へ行き、手袋をはめて、手紙を打ち、なんの意味もない頭文字をなぐり書きにサインして、普通の郵便局から、送ったのだ。指紋に注意したから、たしかにあの手紙から足がつくことはなかった。ついてたんだろう、モーガンは餌にとびついて、やって来た。バリーが考えていたとおり、モーガンの話のばからしさと、手紙が、まっかなにせものだったので、モーガンは有力な容疑者にされてしまったのだ。考えようでは、神の摂理が、その償いをしたようでもある。というのは、モーガンから得た、フィールドのゆすり稼業についての情報が、結局はバリー氏に、大損害を与えたんだからね。さすがのバリーも、このことだけは予想できなかったのだ」
サンプスンが、うなずいた。「あとひとつだけ分らんよ。バリーは、どうやって、切符を買う手配をしたのかね――それとも、全然、手配しなかったのか」
「手配したのさ。バリーはフィールドを説きつけて、会合と書類の受け渡しは、極秘裡に劇場で行なう方が、フィールドのために好都合だと思いこませたんだ。フィールドも賛成して、切符売場で八枚買うことを、手もなく承諾させられたのさ。フィールド自身、人に邪魔されないためには、余分な切符が六枚いると考えたのだ。フィールドは、バリーに七枚送り、バリーはすぐに左LL三〇の切符以外は全部破棄してしまったのさ」
警視は、疲れたようにほほえみながら立って「ジューナ」と低い声で言った。「コーヒーをくれ」
サンプスンが、手ぶりで、少年にことわった。「ありがとう、Q。そろそろおいとまするよ。クローニンもぼくも、ギャング事件の調査で大仕事を背負ってるからね。しかし、君の口から全部の話を聞くまで、落ちつかなかったんだ……Qおやじの口からね」それから、おずおずと「これはまじめに言うんだが、君は実にすばらしい仕事をやったね」
「こんな話はきいたことがないですよ」と、クローニンが、熱心に口をはさんだ。「初めから終りまで、実に謎にみちた大事件で、また実にあざやかな推理ですね」
「本当にそう思うかね」と、警視が静かにきいた。「そう言われると実にうれしいな。すべての功績はまさにエラリーのものなんだからね。あいつ、せがれながら、あっぱれな奴だよ……」
サンプスンとクローニンが帰って行き、ジューナが朝食のあとかたづけで、小さな台所に引きさがると、警視は、書きもの机に向かって、万年筆をとりあげた。そして、息子あてに書いたものを、大急ぎで読みかえした。ため息をして、もういちど、用箋の上にペンをはしらせた。
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これまで書いたことは忘れるとしよう。あれから一時間以上たった。サンプスンとクローニンが来たから、ふたりのために、事件に関するわれわれの仕事をまとめて話してやらなければならなかった。あんなコンビは見たこともない。二人とも、まるで子供だ。まるでお伽話《とぎばなし》でもきくように夢中になっていた……話しながら、わしが実際にしたことがいかに少なく、おまえのしたことがいかに多いかが、情けないほどはっきり分った。おまえが良い娘をみつけて、結婚する日を、待ちこがれている。そうしたら、このとほうもないクイーン家をたたんで、イタリアへ行き、平和な生活に落ちつけるだろう……さて、エル、支度をして本部へ行かねばならん。先週の月曜日から、日課の仕事がすっかりたまっている。やはり今の仕事がわしには適しているらしいな。
いつ帰るかね。せき立てるわけではないが、ひどく寂しいんだよ。私は――いや、自分勝手で、少し疲れてもいるようだ。わしは甘やかせてもらいたがる、よちよちの頑固おやじにすぎないんだ。だが、お前はじき帰ってくるだろうね。ジューナがよろしくと言っている。あいつは、台所の皿の音で、私をつんぼにしようとしている。
愛する父より
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あとがき
この作品は、一九二九年八月に初版が出たエラリー・クイーン、国名シリーズの最初のもので、原題は The Roman Hat Mystery であるが、内容を加味して、「ローマ劇場毒殺事件」と訳出した。
エラリー・クイーンというのは、フレデリック・ダネイとマンフレッド・リーという従兄弟同士の二人が合作に使う筆名で、この作品で初めて地上に生れたのである。つまり、この作品は、エラリー・クイーンズ・マガジンの主催者の処女作というわけである。しかも、この作品は、雑誌の懸賞小説に応募して書かれたもので、当選はしたけれど、雑誌には発表されず、単行本として出版された。そしてこの一作で、エラリー・クイーンの名が推理小説界におどり出したと言われている。
一口に推理小説というが、その中にはいろいろな要素が含まれていて、いわゆる、探偵小説から、猟奇小説、変態・異常心理小説、空想科学小説、犯罪小説、スパイ小説、社会派小説等々、無限といってもよいほどであるのは、読者諸兄もすでにごぞんじのことであろう。
ところで、エラリー・クイーンのこの作品は、推理小説の中の本格派といわれるもので、犯罪の謎ときの面白味に耐えられる構成とテーマを持つ佳品である。謎ときの妙味は、作品の日常性《レアリテ》に左右されるとも言えるので、われわれの平凡な日常生活の、一見、何の奇もないところに、ふと、口を開いている謎の間隙を発見するとき、われわれの興味と、好奇心と、推理欲がかき立てられる。謎作りの名人と言われるクイーンは、さすがにこの点をよく計算して、この作品を書き、その解決を、読者に挑戦する。
ローマ劇場で観劇中の男が殺され、その帽子が持ち去られる。その一個の帽子の推理から論理的に犯人をつきとめるクイーン父子の脳の働きはみごとである。由来、種が分っては手品は面白くないから、筋の解説はやめる。
読者の皆さんも、この謎とき遊びに参加して、クイーンを凌いでいただきたい。詰将棋のような妙味がある。そして、必ず詰る。王手は、あなた方のものだ。ただし、推理の本質は、きわめて自然的な追求の道に、その成功があることを、訳者としてご忠告申し上げる。
脚本仕立てにしたのは、劇場ものだからだし、原作の章節の分け方が、脚本仕立てと見たからだ。