フランス・デパート殺人事件
エラリー・クイーン/石川年訳
目 次
まえがき
第一話
一 [女王様がたはお客間よ]
二 [王様がたはお勘定場よ]
三 [せむしのふさぎや、高みから落っこった]
四 [王様の馬もそっくり]
五 [王様の家来もそっくり]
六 証言
七 死体
八 守衛
九 守衛たち
十 マリオン
十一 てんやわんや
十二 陳列窓は落第
第二話
十三 私室にて 寝室
十四 私室にて 手洗い
十五 私室にて カード室
十六 私室にて ふたたび寝室
十七 私室にて 書斎
十八 証拠集め
十九 意見と報告
第三話
二十 たばこ
二十一 またしても、鍵だ
二十二 またしても、本だ
二十二 確認
二十四 クイーン父子の吟味
第四話
二十五 本の虫、エラリー
二十六 バーニスを追う
二十七 六冊目の本
二十八 糸をほぐす
二十九 手入れ
三十 挽歌
三十一 アリバイ──マリオンとゾルン
三十二 アリバイ ──マーチバンクス
三十三 アリバイ ──カーモディ
三十四 アリバイ ──トラスク
三十五 アリバイ ──グレー
三十六 [時が来た ──]
【中口上と挑戦】
最終の話
三十七 用意!
三十八 大団円
訳者あとがき
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登場人物
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サイラス・フレンチ……フランス・デパート社長
マリオン・フレンチ……その娘
バーニス・カーモディ……サイラスの後妻ウィニフレッドの連れ娘
ヴィンセント・カーモディ……バーニスの父、骨董屋
ヒューバート・マーチバンクス……デパート重役、ウィニフレッドの兄
A・メルヴィル・トラスク……デパート重役、バーニスの婚約者
ジョン・グレー……デパート重役、サイラスの親友
コルネリュース・ゾルン……デパート重役、妻はソフィア
アーノルド・マッケンジー……デパート支配人
ジェームス・スプリンジャー……デパート書籍部主任
ウェストリー・ウィーヴァー……デパート社長秘書
ウィリアム・クルーサー……デパート探偵主任
ポール・ラヴェリー……フランス人デザイナー
スコット・ウエルズ……ニューヨーク警察長官
リチャード・クイーン……警視
エラリー・クイーン……特別探偵、警視の子息
トマス・ヴェリー……刑事部長
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まえがき
【編集手帳】 クイーン氏の最近の推理小説の序文は、自らJ・J・マックと名のる紳士が書いています。出版者には、その当時も今も、クイーン父子の友人であるその紳士の素姓がわかっていません。しかしながら、マック氏は著者の希望にそって、この新作の序文を、ふたたび書いてくださいました。ここに掲載いたします。
私は、クイーン父子の運命を、一時的なきまぐれからでなく、長い間、見つめてきました。クイーンの他の多くの友だちよりもずっと長いあいだです。そして不幸にも、いまや私は芝居の前口上《コーラス》屋になり下がったのです。それは、エラリーも認めるところです。由来、前口上《コーラス》屋というものは、昔の芝居で、まずお客様がたのごひいきをお願いし、おもしろおかしく芝居の筋を口上して、あげくのはてに、よくっても、引っこめ! とどなられるぐらいの奴《やっこ》でございます。
にもかかわらず、私はまたこの殺人と探偵の現代小説の前口上役を、喜んで引き受けるものであります。この喜びには二つの理由があります。クイーン氏の処女作が好評であったこと、あれをペンネームで出版したのには、多少私も責任があるのです。それから、クイーン父子と私とはじつに長い年月の友情をもちあっていること、ときには骨も折れましたがね。この二つの理由です。
[骨が折れる]というのも、一平凡人にすぎない私が、多忙をきわめるニューヨーク市の警視と、その子息で、理屈っぽい本の虫の知的活動とに、うまを合わせる苦労といったら、並み大抵ではなく、骨が折れると言うよりうまくは、あらわしようもありませんからね。
リチャード・クイーン氏は、引退されるずっと前から親密にしていまして、ニューヨーク市警察本部に三十二年間も勤務されたベテラン、活動的な小柄な半白の紳士で、精励勤勉そのものです。犯罪と、犯人と、法を、骨のずいから知りつくしていました。しかも、大胆な捜査法を使って、なみなみならぬ功績をのこし、普通の刑事警視をはるかにしのぐ名声を得られました。ご子息の、かなり直感的捜査法の強い支持者ではありましたが、ご本人は爪《つめ》の先まで実証的な警官でした。その長い刑事部在任中、上役たちが、その理論あるいは新聞世論を満足させるために、刑事部に口ばしを入れて、自ら監督の任に乗り出した苦難時代を除いて、刑事部はいくたの重大犯罪解決のレコードをつくり、それは今日に至るまで、ニューヨーク警察史上比類ないものであります。
エラリー・クイーンは、想像力を使うことの少ない面が多い父の職業を、不満に思っていたようです。エラリーは純粋の理論家で、空想家と芸術家の素質も少々兼ねそなえています──これは、極悪人どもにとってはしまつに悪い精神構造で、いつもその鼻眼鏡《はなめがね》の下で捜査をつづける鋭敏な知能のために、不幸にも犯罪を見破られてしまうのです。父が引退するまでの、エラリーの[命がけの仕事]は、たまたまエラリーが推理小説を書く気になって、それをひとつ、一生の仕事にしてみようと思うまでは、けっして人目にふれなかったでしょう。もともと、エラリーは教養と知識の学問的追求に打ち込んでいたので、母方の伯父《おじ》の遺産で独立の収入がはいり、いわゆる|すねかじり《ヽヽヽヽヽ》でなくなってからは、特に自ら[理想的な知的生活]とよぶ生活を送っていました。エラリーが犯罪の解決に深い興味をもったのは当然のことで、子供のころから人殺しや無法者の話にあふれていた環境のせいです。しかし、生来芸術家肌のエラリーは、警察の普通の捜査法を役にたたないと思っていたのです。
今もなまなましく思い出すのは、ずっと以前のある日、犯罪捜査について論じている父子が、全く反対の見解を示したことです。ここにその時の会話を引用しますが、ふたりの違いがはっきり結晶していて──クイーン父子を完全に理解するには、じつに大事なものだと思います。
その時、警視は、その職業について、私にくわしく論じていました。一方エラリーは、私たちふたりの間の椅子にのんびりと腰かけていたのです。
「普通の犯罪捜査は」と、老人が「ほとんど全部機械的なものと言っていいな。たいていの犯罪はいわゆる[悪玉]というやつによって行なわれる──そいつらは、つまり、環境や反復行為によって、法破りが常習になっているやつらだ。やつらは九十九パーセントまで前科持ちだ。
だから、捜査にあたっては九十九パーセントまで推定資料が沢山ある──ベルティヨン測定法、指紋台帳、人体《にんてい》写真、完全な身体調査書などだ。そのうえ、犯人の個人的性癖についての調書も少しはそろっている。捜査科学のこの方面では、われわれはロンドン、ウィーン、ベルリンの警察ほど進歩していないが、少なくとも基礎になるだけのものはある……
たとえば、ドアや窓をこじあけたり、金庫破りをするのに、いつも同じ手口を使う、押込みや、いつも粗末な手製のマスクを使うホールド・アップや、いつも一定の銘柄のたばこを吸って、そのすいがらを落としていく癖のあるピストル強盗や、なみはずれて女好きなギャングや、いつもひとりで仕事をする空巣や、必ず見張りを使う空巣など……やつらの手口の癖は、ときには、指紋と同様に犯人を割り出すきめ手になる。
犯罪者がいつも同じ手口《モダン・オペランディ》を使うのは、普通人には奇妙に思えるだろう」と、クイーン警視はおなじみの、かぎたばこ入れから、ひとつまみ、深々と一服やって──この警視につきものの習慣だ──「いつも同じ吸い方の同じたばこを落としてゆく。いつも同じ種類のマスクをつける、いつも仕事のあとで女に乱暴ないたずらをしていく。つまり、やつらは、犯罪は犯罪者の事業だということを忘れとるんだ。そして、どんな事業も、それをやる事業家の|くせ《ヽヽ》をはっきりともっとるもんだ」
「ところが、マック、君の心理学的警官はね」と、エラリーが皮肉に、にやりとして「密告者《たれこみ》の力も無視しないようだよ。密告者《たれこみ》というやつは、犀《さい》の背中にとまっている|だに食い鳥《チック・バード》みたいなもんで、危険が近づくと犀に教える……」
「これからその話をするところだ」と、父親が静かに、やりかえして「最初に言ったように、常習犯の場合には、捜査資料が、かなりあるが、たいていの場合は、せがれは冷やかすが、暗黒街の、密告者《たれこみ》や囮《おとり》──もっとひどい名でよばれとるが──そいつらの力を借りて、ありふれた犯罪を解決しとるんだ。密告者《たれこみ》がなかったら、兇悪犯罪のかなりの部分が迷宮入りになるだろうということは公然の秘密なんだ。やつらは大都市の警察にはじつに必要なんだ。ちょうど、弁護士に適当な判例集が必要みたいなものだ。そのわけは──暗黒街は、その驚くべき連絡網で、だれが大仕事をやっつけたかは、必ず知れちまうものなんだ。問題は、お目こぼしを目当てに、手伝ってくれるスパイを見つけることだ。見つかったところで、いつもうまくゆくとはかぎらんが、ともかく……」
「児戯《じぎ》に類しますね」と、エラリーが、さからって、にやりとした。
「わしは確信しとる」と、警視が断固として「もし暗黒街の情報屋の組織がなくなったら、世界じゅうのどこの警察も半年でつぶれちまうよ」
エラリーは、のんびりと論戦に加わった。「お父《とう》さんの言うことは、大部分、たしかに真実ですよ。だから、お父さんの捜査の九十パーセントまでは、まるっきりぼくには魅力がないんです。問題なのは残りの十パーセントじゃありませんか。
警察の捜査がみじめに失敗しちまうのはね、J・J」と、エラリーは私の方を向いて、ほほえみながら「犯人が常習者でない場合の犯罪さ。したがって、犯人は台帳にのっている指紋にうまく合うような指紋も残さないし、その性癖調査もまるっきりわかっていない、ただ前科がないということだけでね。ばからしい話さ。普通、そういうやつは暗黒街の連中じゃないから、いくら念入りにスパイをしぼりあげても、役に立つ情報なんか、これっぽっちも出ちゃこないんだ。
あえて言うがね」と、エラリーは鼻眼鏡をくるくるまわしながら、つづけて「犯罪自体よりほかに捜査のてはないんだ。観察と捜査によって、犯罪自体が示す手がかりや推理の鍵《かぎ》をつかむ以外には捜査のてはないんだ。はっきり言うがね──むろんおやじの昔の仕事には、それ相応の敬意を表しちゃいるが──そのような事件となると、犯人をあげるのは、かなりむずかしいし、さんざん頭もいためなければならないよ。それが──わが国の迷宮入りの事件のパーセンテージが、おそろしく高くなっている理由だし、だからこそ、ぼくが捜査道楽に熱をあげるというしだいになる──二つの理由さ」
この「フランス・デパート殺人事件」は、クイーン父子の保管箱にある古い事件記録のひとつで──前にも述べたように、現実にあった事件だし、エラリーが独特の才能の輝かしい証拠を示した一事件です。エラリーはフランス・デパートの捜査中に、この事件のノートをとっていました──不精者としては珍しいことです。後になって、エラリーは、殺人犯人が判明するとともに、この実験に基づき、事実を発展させ、肉づけして、文学の形式にかなうようにして、一冊の本を書きあげたのです。
私はエラリーにすすめて、原稿に手を入れ、第二作としてペンネームで出版させることにしました──それは、私がイタリアのクイーン父子の山荘の清らかな屋根の下に滞在している時のことでした。みなさんもご記憶でしょうが、エラリーはもとの職業を全くやめて、今では結婚して家庭人となり、古い事件簿は保管|戸棚《とだな》の奥にしまいこんで、無遠慮な友人が口をすっぱくしてすすめる以外には、なんとしても、その興味ある原稿にふたたび日の目を見せることを同意させえなかったのです。
クイーン警視に対してあくまで公平であるために、留意していただきたいのは、このフランス・デパート殺人事件では、老探偵の役割りが比較的小さいことです。しかし、これは、当時、クイーン警視が大車輪で活躍していた時代で、莫大《ばくだい》な公務をかかえていたのと、新任の民間人警察長官スコット・ウエルズが少なからず警視の仕事に干渉していたからなのです。
筆をおくにあたって、この文章の執筆中、クイーン一家は、なお、イタリアの小さな山荘に住んでいること、エラリーのむすこがよちよち歩きを覚えて、無邪気な片言《かたこと》を|くそまじめ《ヽヽヽヽヽ》にしゃべっていること、ジューナも健康で、最近村の美しい乙女《おとめ》と、とてつもない恋愛をして張り切ったこと。警視は、ドイツの雑誌に専門的な論文を書きつづけ、時々ヨーロッパの警察事情を視察して歩いていること。エラリー・クイーン夫人が最近の病気から幸いにも回復したこと。エラリー自身は昨秋ニューヨークを訪れたあと、心から喜び勇んで[宝石ちりばめる]ローマの景色へ引き上げていったこと。いうところによると(あやしいものですが)ウェスト・サイドの楽しみなんか、くそくらえと言ったとか。等々、こんな消息をみなさんにお伝えするは、この上もない私の喜びです。
あとはただ、みなさんがこの「フランス・デパート殺人事件」を読んで、私と同様に、たっぷり楽しんでいただきたいと願うばかりです。
一九三〇年五月 ニューヨークにて
J・J・マック
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第一話
注釈的にいえば……多くの場合、犯罪捜査の成功と失敗の唯一の差異は、一種の……浸透不足ともいうべきことにある。(探偵側の精神的知覚作用をいうのだが)[それらしく思える]繊毛を浸透して[現実にあるもの]の主流に達すべきなのだ。
[#地付き]ルイジ・ピンナ博士著『犯罪のための処方箋』より
一 [女王様がたはお客間よ]
一同はクイーンのアパートの、古い|くるみ《ヽヽヽ》材のテーブルを囲んで座《すわ》っていた──人数は五人、それぞれ特徴のある人物の集まりだった。
地方検事ヘンリー・サンプスンは、やせ型で明るい目をした男であり、その隣に苦い顔をしているのは、麻薬捜査部長サルバトーレ・フィオレリで、右の頬《ほお》に黒ずんだ長い傷あとのある大柄なイタリア人だった。サンプスンの部下の赤毛のチモシー・クローニンもいた。それに、リチャード・クイーン警視とエラリー・クイーンも、かなり深刻な顔をして、肩を寄せ合うように腰かけていた。
老警視は気むずかしく、口ひげの先を噛《か》んでいたし、エラリーはフィオレリの傷あとを、ぼんやり眺《なが》めていた。
そばの机の上のカレンダーは、一九──年五月二十四日火曜日で、やわらかい春風が窓かけをそよがせていた。
警視は板壁を眺めながらサンプスンに「ウエルズが今までしたことは、一体どんなことなんだ。知りたいもんだな、ヘンリー」
「おい、おい、Q、スコット・ウエルズは、それほどつまらん男でもないぜ」
「狐狩りをして、ゴルフはコース・スコアー九十一、それが警察官の資格になるとでも思うのか。とんでもないこった。きまっとるよ。結局、わしらに、無駄な仕事を山ほど押しつけるだけさ……」
「そう悪く言うもんでもないぜ」と、サンプスンが「肩をもつわけじゃないが、あれでいい仕事も結構やってる。洪水救援委員会の──社会事業だ。……大いに活躍したのが、政界以外の分野だったからって、まるっきり役に立たん男だということもあるまい、Q」
警視はふふんと鼻をならして「あの男は、任命されてから、一体、いく日|経《た》つというんだ。何も言わんでいい──わかっとるよ。たった二日だ。いいか、その二日間にやったことときたら──こいつを、しっかり噛みしめてみるんだな」
「第一に──失踪《しっそう》人課を立て直した。気の毒に、なぜパースンズが首になったのか、わしにはさっぱりわからん。第二に──七名の分署長を、すっかり配置換えしてしまって、連中、古巣に帰るのに交通地図がいるってしまつだ。第三に──B・C・Dの交通系統を変えた。第四に──二ダースの二級刑事を減員して交番勤めにした。なぜだ。きっと、大伯父の姪《めい》が知事の四番目の秘書と血つづきだなんてやつの入れ知恵だろう。第五に──警察学校をひっかきまわして校則を変えた。今度は、わしの大事な殺人課を目の仇にしとるんだぞ……」
「そんなにおこると血管が破裂しますよ」と、クローニンが言った。
「何も聞いとらんとみえるな」と、警視が、苦々しげに「今後一級刑事は、みんな日課報告を毎日──義務としてだぞ──各自の日課報告を、直接に長官の事務室に出せというんだ」
「なるほど」と、クローニンが、にやにやして「あのひとは大喜びで、そいつをみんな読んでみたいんでしょうよ。あの連中の半分ぐらいは、殺人なんか手に負えませんからね」
「読むもんか、チム。そんな手間暇なんかかけやせん。どういたしまして。絶対にそんなことはせんよ。あのおしゃれのちび秘書官、シオドア・B・B・セント・ジョーンズに持たせて長官よりリチャード・クイーン警視に敬意を表す。長官は、ここに添付《てんぷ》した報告書の信憑性《しんぴょうせい》について、一時間以内に貴見を承るを得れば幸甚《こうじん》と、丁重な付箋をつけて、わしの事務所に届けてよこすんだ。しかるにわしは、今度の麻薬捜査のために頭をはっきりさせておこうと、大理石の机に大汗をかかしとる最中なんだ──見てくれ、この山のような刑事たちの報告書に、注意書きを書きこんどるというのにな。いまいましいこったよ」と、警視が、いまいましそうに、かぎたばこ入れを、かきまわした。
「そんなこっちゃ、まだ足りんよ、クイーン君」と、フィオレリが、うなるような声で「一体なんだい、あの節穴眼《ふしあなまなこ》の海象《せいうち》野郎は。しようがないこそこそ歩きの[民間人種]め。わしの課に、こっそり来おって、部下どもをかぎまわり、阿片の鑵《かん》を一個ちょろまかして、ジミーの所へ送りつけたんだ──一体なんだと思う──指紋を調べるんだとさ。たまげるじゃないか、指紋ときた! まるで、ジミーがあの鑵から、売人《ばいにん》の指紋を見つけ出せるとでも思っとるらしいんだ。あの鑵にはギャングともが一ダースも手をかけてるんだぜ。それにさ、指紋なら、こっちで、とっくに取ってあるのになあ。いやはや、奴《やっこ》さん、こっちの説明なんぞ聞きゃあせんのさ。そこで、スターンが、その鑵をさんざん探しまわってから、ぼくのところへ駆けつけて、ぼくらの探しとる犯人が大手を振って本部にやって来て、阿片の壺《つぼ》を掠《かす》めて行ったぞなんて、ばかげた話をするってことになるしまつさ」
フィオレリは、おかしそうに大きな両手をひろげて、ずんぐりした安葉巻を口にくわえた。
ちょうどこの時、エラリーはテーブルから表紙の破れた小型の本を取りあげて読みはじめた。
サンプスンの微笑が消えた。
「ともかく、冗談はさておき、われわれが、即刻麻薬団をやっつけんと、みんな厄介なことになるぞ。ウエルズも、われわれにせっついて、今さら、ホワイトのテストケースなんか蒸し返しているどころじゃないんだがな。どうも、あの一味は──」と、サンプスンが、むずかしいぞといわんばかりに、首を振った。
「それで、腹がたつんだ」と、警視が不平たらたら「わしは、やっと、ピート・スレイヴィン一味の動きを、つかみかけとるのに、法廷の証言で、まる一日ついやさにゃならんのだからな」
みんな黙りこんだが、じきにクローニンが沈黙を破った。
「キングスリー・アームズ殺人事件のオシャフネッシーは、どうやって決着をつけたんですか」と、クローニンが、もの好きそうに「やつが吐いたんですか」
「昨夜のことさ」と、警視が「ちょっとばかり汗をかかせてやらにゃならなかったが、わしらが、たっぷり証拠を握っとるとみて、観念しおったのさ」警視は口もとのけわしい線をやわらげて「あれはエラリーがなかなかうまくやった。考えてもみたまえ。まる一日かけて、オシャフネッシーがヘーリンを殺した証拠が、さっぱりつかめなかったんだ。やつの仕業だという確信はついとるのにね──そこへ、せがれがぶらりとやって来て、十分ばかり現場にいたかと思うと、殺人犯人をとっちめるに十分なだけの証拠をつかみ出したんだ」
「またも奇跡かね」と、サンプスンがくすくす笑って「真相は、どんなことなんだね、Q」
一同はエラリーの方を見たが、エラリーは背を丸めて椅子《いす》で本に読みふけっていた。
「丸太をころがすように、たわいない話さ」とクイーンが胸を張って「せがれの説明をきけば、たいていそうなる。──おいジューナ、もっとコーヒーをついでくれ。そうだろう、エル」
台所から首を出した、すばしっこい少年が、にっこり笑って、黒い頭をぺこりと下げると、姿を消した。ジューナは、クイーン家の召使で、なんでも屋で、料理人で、小間使で、刑事課の非公式マスコットだった。ジューナはパーコレーターを持って来ると、テーブルの上に並んでいる茶碗《ちゃわん》に注《つ》いでまわった。エラリーは、手さぐりで自分の茶碗をとって飲みはじめたが、目は本に釘づけになっていた。
「簡単というもおろかさ」と、警視が続けて「ジミーがあの部屋《へや》中に、指紋検出粉をふりまいたんだが、ヘーリンの指紋しか何も出てこん。──しかも、当のヘーリンは鯖《さば》みたいに死んどるんだからな。連中はみんな思い思いの場所に粉をまきちらしてみるんだから──それが続いている間は、たいした見ものだったよ……」と、警視はテーブルをたたいて「そこへ、エラリーがやって来た。わしは事件のあらましを説明して、見つけたものを見せてやった。君たちも覚えとるだろう、食堂の床の、粉々になった|しっくい《ヽヽヽヽ》の上に、ヘーリンの足跡があったのを。あれには、なんとも迷わされてしまった。犯行の状況からみて、ヘーリンが食堂にいたなんて、どうしても考えられんからな。ところが、頭のいいやつは、君らもそう言うだろうと思うが、たちどころに、手品を見破ってしまった。エラリーが言うには[それはたしかにヘーリンの足跡なんですか]わしは、足跡に、疑問の余地はないと、その理由を話してやると、せがれも同意した──しかし、どうしても、ヘーリンが食堂にいたなんて考えられん。それなのに、まぎれもなく食堂に足跡がある。[よろしい]と、うちの大事なせがれが言いおった。[やはり、ヘーリンは食堂にいなかったのかもしれませんよ][だが、エラリー──足跡があるぞ]と、わしが抗議した。[ぼくに考えがあります]と、大事なせがれが言いおって、寝室にはいって行った。いいかね」と、警視が、ひとつため息をした。
「せがれめ、たしかに考えがあったのだ。寝室でヘーリンの死体の足を調べとったが、靴《くつ》をぬがせて、ジミーから指紋検出粉をもらってその靴にふりかける一方、オシャフネッシーの指紋の写しをとりよせた──まさに図星だった。靴から、はっきり親指の指紋が出た。せがれめ、それを指紋帳と較べたら、オシャフネッシーのものじゃないか。……いいかね。わしらはあの指紋を求めてアパートじゅうをくまなく探しまわったんだ。肝心の指紋のあった場所──死体──だけを除いてな。まさか、被害者《がいしゃ》の靴から、犯人の指紋が出てこようなんて、だれも思いつかなかったんだ」
「意外な場所ですな」と、イタリア人が、うなった。「どうして、それに思いついたのかね」
「エラリーの説明だと、ヘーリンはあの部屋にいなかったのに、靴だけがいたとなると、だれかほかのやつがヘーリンの靴をはいていたか、靴で小細工をしたということになる、というんだ。まったく子供だましだ。しかし、そいつに考えつくのが大変なんだ」
老人は、腹にすえかねるようにじろりと見て、うつむいているエラリーの頭ごなしに「エラリー、一体、何を読んどるんだ。その態度は、気の利く主人役とはいえんぞ、エル」
「素人《しろうと》の指紋道楽も、結構役にたつもんだね」と、サンプスンが、にやにやして「なあ、エラリー君」
エラリーは興奮したような目を上げた。そして勝ち誇るように本を振りまわしながら、テーブルを囲んで、あっけにとられている連中に朗読して聞かせはじめた。
「[サンダルをはいたまま寝ようとすると、皮ひもが足にくいこみ、サンダルが足に凍りつくのだった。これは、彼らのサンダルが古くてだめになったので、新しくはいたばかりの、なめしてない革靴を、はいているせいだったことにもよるのである]お父さん、これが、ぼくにいい思い付きをさせたのだということを知っていますか」
エラリーは上気した顔で、手をのばして鉛筆を取った。
クイーン警視は、すっくと立って、かみつくように言った。「奴《やっこ》さんがあんな調子のときには、何も引き出すことはできんよ。……行こう、ヘンリー──フィオレリ君、君も行くかね。──市庁に出かけよう」
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二 [王様がたはお勘定場よ]
十一時に、クイーン警視は、サンプスン、クローニン、フィオレリと一緒に家を出て、刑事裁判所の建物に向かった。
ちょうどその時刻に、そこから二、三マイル南にあるビルのアパートの書斎の明かりとり窓の所に、ひとりの男が、じっと立ちつくしていた。その部屋は、五番街のフランス・デパートの六階で、窓のそばにいる男は、そのデパートの筆頭株主で、重役会議長サイラス・フレンチだった。
フレンチは五番街と三十九丁目の交差点に渦《うず》まく車の流れを、見るともなしに、じっと見下ろしていた。年は六十五歳、ずんぐり、むっくりで、髪は鉄灰色の見るからに気むずかしい顔をしていた。黒っぽい背広を着て、衿《えり》のボタン穴に白い花をかざっていた。
フレンチが「十一時から重役会なのは、はっきりさせておいたろうね、ウェストリー」と、言って、窓の前のガラス板を敷いた机のわきに腰かけている青年の方に、くるりと向き直った。
ウェストリー・ウィーヴァーは、大きくうなずいた。ウェストリーは、三十一、二歳の、いきいきした顔の青年で、きれいにひげを剃《そ》り、見るからにきびきびしていた。
「はっきりしています」と、愛想よく答えた。そして、それまで書きつづけていた速記帳から目を上げて「私が昨日《きのう》の午後タイプした回状のカーボンの複写がありますが、たしかにそうなっています。社長が今朝《けさ》この机の上でご覧になった写しのほかに、それと同じ写しを各重役がたにお配りしておきました」
ウェストリーは、卓上電話機の傍に置いてある一枚の青い紙を指さした。机の右端の筒型《つつがた》の縞《しま》めのうのブック・エンドに立ててある五、六冊の本、電話機、メモ帳のほかには、敷ガラスの机の上には何もなかった。
「三十分ほど前にメモのとおり、重役がたにお電話しました。みなさんは、定刻までに、ここに参集されるそうです」
フレンチは、何かぶつぶつ言いながら、また背を見せて、朝の交通ラッシュの渦を見下ろした。そして、両手を後ろに組み、少しきしるような声で、店の仕事について口授しはじめた。
五分ばかりして、控え室の外のドアをノックする音で、その仕事がさえぎられた。フレンチがいらだたしそうに大声で「おはいり」と言った。だが、そこからは見えないドアのノブをまわす音が、かちゃかちゃ聞こえてきた。フレンチが言った。「ああ、そうだ、ドアがしめてあったっけ。あけてやりたまえ、ウェストリー」
ウィーヴァーは足ばやに控え室を通り、重いドアを、さっとあけて、しなびた小柄の老人を迎え入れた。その老人は歯の間に白いガムを見せてにこにこしながら、年のわりには驚くほどの身軽さで、さっさと部屋へはいって来た。
「サイラス、君の部屋のドアがいつもしめてあるのをついうっかりしてね」と、老人は笛のような声で言い、ウェストリーと、フレンチに握手して「わたしが一番乗りだね?」
「そうだよ、ジョン」と、フレンチが、ちょっと微笑しながら「みんなも、まもなく、やって来るだろう」
ウィーヴァーが、老人に椅子をすすめた。「おかけになりませんか、グレーさま」
グレーのほっそりとした肩には、七十年の歳月がさりげなく乗っかっていた。小鳥みたいな頭には薄い白髪が生え、顔色はしみのある羊皮紙のようで、たえず微笑をたたえ、赤く薄い唇《くちびる》の上には白い口ひげがぴんとはね上がっていた。翼カラーのシャツに、蝶《ちょう》ネクタイをしめていた。
グレーは椅子をもらって、驚くほど身軽に腰かけた。
「旅行はどうだったね、サイラス」と、きいた。「ホイットニーとの話はうまくいきそうかね」
「むろん、むろんだよ」と、フレンチが、また行ったり来たりしながら「実は、今朝の会議で正式に全員の同意を得れば、合併は一か月以内に実現できそうだよ」
「そりゃ結構。大成功だ!」と、ジョン・グレーは妙な身ぶりで両手をもみ、ふたりはくすくす笑い合った。
ドアに二度目のノックの音がし、ウィーヴァーが、ふたたび控え室にはいって行った。
「トラスク様とマーチバンクス様です」と、大声で「ゾルン様もエレヴェーターをお下りになったようにお見うけします」
ふたりが部屋へ通り、ややおくれて三人目の紳士が通り、やがてウィーヴァーが急いで机の傍の自分の椅子に戻った。自動ドアが、さっと閉じて、かちりとしまった。
集まって来た連中は、互いに握手をして、部屋の中央の長い会議テーブルを囲んで席についた。特徴のある連中だった。
トラスク──A・メルヴィル・トラスクと紳士録に出ている人物──は、いつものとおりうつむいた姿勢で椅子に腰かけて足をのばし、目の前のテーブルの上の鉛筆を、つまらなそうにいじっていた。同僚たちはトラスクにはほとんど無関心だった。
ヒューバート・マーチバンクスはどっしりと腰かけていた。小太りの四十五歳の男で、赤みをおびた不恰好《ぶかっこう》な手をしていた。声はかん高く、きまった間をおいて、ぜんそくでぜいぜい咳《せ》いた。
コルネリュース・ゾルンは、重役仲間を、旧式な金縁眼鏡の奥から眺めていた。がっちりした禿《は》げ頭で、指は太く、赤毛の口ひげを生《は》やし、その寸づまりの体《からだ》は椅子にぴったり詰まっていた。見たところ、金まわりのいい肉屋の亭主そっくりだった。
フレンチはテーブルの上座に座って、他の連中を、重々しく眺めていた。
「諸君──今日の集会は、デパート商売の歴史に残るものですぞ」と、フレンチは、ひと息入れて、えへんと咳ばらいし、「ウェストリー、絶対にじゃまされずに会議を続けたい。ドアのところに見張りを置くようにしてくれんかね」
「はい、社長」と、ウィーヴァーは卓上電話をとって「クルーサー君の事務所を、どうぞ」しばらくして、ウィーヴァーが「クルーサー君? だれ? ああ、そう……探さなくってもいい、君にやってもらおう。フレンチさんのアパートのドアの所へ、店の探偵をひとり、よこしてくれないか。重役会の間、フレンチさんにじゃまがはいらないように見張ってもらうんだ。……だれをよこすかね……ああ、ジョーンズか。結構。クルーサー君が帰って来たら、そのことを言っといてくれたまえ。……ああ、九時には来ていたんだね。じゃあ、顔が会ったら、そう伝えてくれたまえ。ぼくは今、忙しいから」
ウィーヴァーは電話を切って、急いでフレンチの右手の椅子に戻ると、鉛筆をつかみ、ノートをとって用意した。
五人の重役たちは、書類の束と睨《にら》めっこしていた。みんなが、書類の内容をのみこむ間、フレンチは腰かけたまま窓の外の五月の青空を眺めていた。厚ぼったい両手がテーブルの上でもじもじしていた。
ふと、ウィーヴァーの方を向いて、小声で「うっかり忘れるところだった。ウェストリー。家へ電話をかけてくれ。ちょっと待てよ──十一時十五分だな。今ごろはもう、みんな起きとるだろう。家内が案じてるかもしれない──昨日、グレート・ネックへ発《た》ってから、一度も連絡しとらんのでね」
ウィーヴァーが交換手にフレンチ家の電話番号を申しこみ、しばらくして、低い声で送話器に「ホーテンス? 奥さんは起きていらっしゃる。……そう、じゃあ、マリオンさんかバーニスさん? ……結構、マリオンさんをお呼びして……」
ウィーヴァーは、ジョン・グレー老人と低い声で話しこんでいるフレンチから、身をそらせるようにした。やがて、ウィーヴァーの目が輝き、顔が急に赤らんだ。
「もし、もし、マリオンさん?」と、ささやくように「ウェスです。ごめん、ごめん──そうね──お父様のお部屋からかけているんです──お父様があなたにお話があるそうで……」
低い女性の声が答えた。「ウェストリーね。わかったわ……ああ、本当にA残念ね。でもお父様がそこにいらしちゃ、長話もできないわね。私を好き? 言って!」
「おお、でも、そんなこと、できませんよ」と、ウィーヴァーが、小声をとがらせた。後ろから見ると、肩がぎごちなく四角ばった。そして、押えきれない愛情のあふれた顔を、フレンチからそむけた。
「言えないのはわかってるわよ、おばかさんね」と、線の向こうで、女が笑って「ちょっと、困らせてあげようと思っただけよ。でも、愛してるんでしょう。あたしを好きでしょう」と、女は、また笑った。
「ええ、そりゃ、もちろんですよ」
「じゃあ、お父様を出してちょうだい。あなた!」
ウィーヴァーは、から咳をして、つくろい、急いでフレンチの方を向いた。
「やっと、マリオン様がお出でになりました」と、受話器を老人に手渡した。「奥様も、バーニス様も、まだ降りていらっしゃらないと、ホーテンス・アンダーヒルが言っています」
フレンチは急いで受話器を、受け取って「マリオンかい。わたしだ。さっき、グレート・ネックから帰ったばかりだよ。ああ、元気だ。なにも変わったことはないかね……どうした、ちょっと疲れているようだが。……いいとも。無事に戻ったのを報《し》らせたかっただけさ。母《かあ》さんにもそう伝えておくれ。──今朝はとても忙しいから、もう電話はかけられない。さようなら、マリオン」
フレンチは席に戻り、重役連中を、じっくり見まわして、口をひらいた。
「さて、諸君、ホイットニーと弾《はじ》き出した数字は、十分頭にはいったと思います。では、仕事にかかりましょう」
フレンチは人差指を振りまわした。
十一時四十五分に、けたたましく電話のベルが鳴って、フレンチとゾルンの激論を、さえぎった。ウィーヴァーの手が受話器にとびついた。
「もし、もし、フレンチ様はお忙しい最中です。……あんたか、ホーテンスか。なんだって? ちょっと待って」と、ウィーヴァーはフレンチ氏の方へ向き直って「失礼ですが、社長──ホーテンス・アンダーヒルが出ています。何か困ったことがあるようですが、お聞きになりますか、それとも断わりましょうか」
フレンチはゾルンを睨んで、太い首の汗を、荒っぽく拭《ぬぐ》いながら、ウィーヴァーから、受話器をひったくった。
「おい、なんの用かね」
女の震え声が答えた。「旦那様、大変なことがおこりました。奥様とバーニス様のお姿が見えません」
「え?、何を言っとるんだ? どうしたんだね。ふたりはどこにいるんだ?」
「それがわかりませんのです、旦那様。今朝は、お昼までベルを鳴らして女中をお呼びにならなかったので、どうかなすったのかと思いまして、ちょっと前に、私が様子を見に上がってまいりましたんです。そうしますと、まさか──まさか旦那様もお信じになれないと思いますが──私には、さっぱりわかりませんが──」
「それで?」
「おふたりのベッドが、手も触れてありませんの。昨夜、おふたりとも家《うち》でおやすみにならなかったようですの」
フレンチ氏の声が怒りをおびて高くなった。「お前は、ばかだな──そんなことで、重役会のじゃまをするなんて? 昨夜は雨だったから、ふたりとも、どこかで友だちと一緒に夜を過ごしたんだろう」
「でも、旦那様──どちらからもお電話がございませんでしたし、それで──」
「たのむよ、ホーテンス。家の仕事に戻ってくれ。あとから、なんとか考えるから」と、フレンチは受話器を、がちゃりとたたきつけるように戻した。
「ばかなことだ」と、つぶやいてから、フレンチは肩をすくめた。そして、ふたたびゾルンの方を向き、両方の手の平をテーブルについた。
「ところで、どこまでだったかな。すると、君は、二、三千ぽっちの小金で、この合併に反対するというのかね。君に言っておきたいんだが、ゾルン君……」
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三 [せむしのふさぎや、高みから落っこった]
フランス百貨店はニューヨークの中心地、第五《フィフス》アヴェニューのまん中の一画を占めていた。はでな高級住宅地、上町《アップタウン》と、事務所のビルがつづく下町《ダウンタウン》地区との境界線をなすあたりで、ふところの楽なお客と苦しいお客がまざり合ってやって来る店だった。
昼休みには、その広々とした店内の通路と六階の各階の売場はオフィスガールやタイピストたちで混み合い、午後になると客種の色合いが、がらりとよくなるのである。そんなわけで、この店は、ニューヨークじゅうで、値段が一番安く、最新流行の型で、各種の品物を広く豊富にそろえているというのを売りものにしていた。てごろな値段と、ほかで買えない特殊商品との釣合いをうまく保っている結果として、市中で一番人気のある百貨店だった。そのために朝の九時から午後の五時半まで、フランス百貨店は、買物客やら、ひやかし客で、ごったがえし、その大理石の建物と、多くの翼をとりまく歩道は、通行もむずかしいぐらいだった。
サイラス・フレンチは、デパート業界の先駆者で、重役陣の助力によって、この強大な組織の財力を握ってフランス百貨店を市の名所にしようとしていた──これは二代にわたるフランス百貨店主の信条であった。アメリカに、実用品や実用衣類の美化運動が波及するずっと以前に、フランス百貨店では、すでに、ヨーロッパ出張員たちと連絡をとって、美術品、美術家具、モダンな子供用品の一般展示会をひらいていたのである。その展示会は大観衆を店にひきつけた。第五アヴェニューに面している大陳列窓のひとつは、もっぱら輸入品の定期的な展示に力を入れていた。それで、その陳列窓はニューヨーク全市民の注目のまとになり、物見高い連中が、いつも、そのガラス窓の前を取り囲んでいた。
五月二十四日火曜日の朝、十二時三分前に、この陳列窓の重い枠《わく》なしのドアがひらいて、白いエプロンをかけ、白い帽子をかぶった。黒人のモデル女がはいって来た。モデル女は陳列窓の中をぶらぶら歩きまわって、陳列品を鑑賞しているような恰好をし、やがて、予定の、神秘な仕事にとりかかるために、立ちどまって、きりっと、気をつけの姿勢をとった。
陳列窓の中は、居間と、寝室の間どりで、その斬新なデザインは、パリのポール・ラヴェリー作と、説明板が片隅《かたすみ》に立ててあった。説明板には、ラヴェリー氏の展示許可を得たこと、なお[当店五階にてラヴェリー氏の講演あり]というお知らせがかいてあって、みんなの目をひいた。
陳列窓の奥の壁にモデル女の出て来たドアがあるだけで、あとはいっさい飾りがなく、パステル・グリーン一色に塗られていた。壁には、大きな、枠なしの、まわりが不等形に切ってある、ヴェネチア風の鏡がかかっていて、壁ぎわに、蝋《ろう》みがきで木理《もくめ》のままの生地《きじ》仕立ての、細長いテーブルが置いてあった。テーブルには、当時、オーストリア独特の近代工芸工場だけから入手できた、くもりガラスの、ずっしりとした虹色のスタンド・ランプがのせてあった。
風変わりな品々──椅子、わき机、本棚、長椅子などは、どれも型変りで、大胆な意匠で──それらが、陳列窓のぴかぴかな床の、あちこちに置かれていた。両側の壁は、雑多な用途の品々の背景に使われていた。
天井と両側の壁の照明は、当時、急速に大陸ではやり出した[間接式]だった。
正午の鐘が鳴ると、陳列窓にはいって来てから、じっと立っていたモデル女が、急に活動を開始した。そのころには、窓の外の歩道は、大変な人だかりで、肩でもみ合いへし合い、むさぼるような目で、モデル女が宣伝を始めるのを待っていた。
宣伝文がいくつかかけてある金枠を持ち出したモデル女は、長い象牙《ぞうげ》の棒をとり、最初の宣伝ビラの文句をさしてから、おもむろに東側の壁ぎわの、その品物に近より、無言劇で、その構造と特徴とを説明しはじめた。そして、五枚目の宣伝ビラには──このころには見物人は二倍にもふくれあがり、歩道からあふれていた──こんな文句が書いてあった。
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壁ベッド
この品は西の壁に
仕込まれていて
見えません。ボタンを押せば
電気仕掛けで出てきます。
この独特のデザインは
ポール・ラヴェリー氏の考案
本邦唯一の
壁ベッド。
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モデル女は、念を押すように、もう一度文句を指さしてから、ゆっくりと西側の壁に歩み寄り、身ぶりよろしく、真珠色の羽目板に取りつけてある象牙の小さなボタンをさし示して、それから、細い指でボタンを押そうとした。そして、モデル女はもう一度、窓の外にひしめく物見高い群衆を見かえした。首という首が、まさに顕現しようとする摩訶不思議《まかふしぎ》を見ようと、張り切って、長くのびていた。
見たものは、たしかに摩訶不思議だった──その椿事《ちんじ》の勃発《ぼっぱつ》は、見た瞬間、全く思いがけず、じつに奇怪醜悪なものだったので、とても信じられないといった表情が、顔という顔に凍りついた。全く信じられぬ悪夢から、ひきちぎってきた一瞬と言ってもいい──というのは、モデル女が象牙のボタンを押すと、壁の一部が、音もなく、するするとせり出して下がり、折りたたみの二本の小さな脚《あし》がひろげられて、寝台の頭部が突き出し、やがて水平に落ちついた──そして、まっさおな顔で、ひんまがり、髪ふり乱した女の死体が、寝台の絹のシートから、モデル女の足もとにころがり落ちた。着衣には二か所、血がにじんでいた。
まさに、十二時十五分のことである。
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四 [王様の馬もそっくり]
モデル女は、厚いガラスを通して聞きとれるほど、はげしい恐怖の叫びをあげて、目をむき出し、気絶して、死体のそばに倒れた。
外の見物人たちが、また、見ものだった──みんな声をのんで、化石のようになり、おびえあがっていた。
やがて、歩道で、ぴったりと顔を陳列窓にはりつけていたひとりの女が、金切り声をあげた。とたんに、静止していたものが狂乱に変わり、沈黙が破れて、なんともいえぬ叫び声となった。恐怖にかられた群衆は、やみくもに、ひしめきながら、われ勝ちに後退した。この騒ぎで、ころんだ子供がふみにじられた。かけつけた警官が呼び子笛を吹き、制服がわめきながら、棍棒《こんぼう》をやたらに振りまわして、群衆をかき分けた。巡査は、この混乱に逆上したらしかった──陳列窓の中にころがっている二個の人体がまだ目にはいらなかったからだ。
突然、陳列窓の中のドアが、さっとあいて、短く尖った口ひげを生やし、片眼鏡をかけた長身の男が、室内にとび込んで来た。その男はぎょろりとした目で、ぴかぴかの床に倒れて動かないふたりの女を見、窓の外でもみ合っている群衆と、棍棒をふりまわしている警官をちらりと見てそれからとても信じられないというふうに、また、ぼんやりと床を見下ろした。いまいましそうに何かぶつぶつ言いながら、窓のプレート・ガラスの隅にかけ寄り、絹の紐《ひも》をつかんで、引いた。すぐに、半透明のカーテンが垂れて、外で狂乱している人々の姿をかくした。
ひげ男はモデル女のそばにひざをついて、脈を看《み》てから、恐る恐る、もうひとりの女の肌に手を触れて、立ち上がるとドアの方へ駈けもどった。ちょうど、陳列窓の外の、広い一階売場には、女店員や買物客たちが、ぞくぞくと駈け集まっていた。三人の男──巡視係──が、陳列窓にはいろうと人々を押し分けて、駈けつけた。
窓の中の男が鋭い声で「君──すぐ、探偵主任を呼んでくれ──ああ、もういい──やって来る──クルーサー君、おい、クルーサー君! こっちだ、こっちだ!」
顔にしみのある、肩幅の広くがっちりした男が、呪い言葉をわめきながら、群衆をかき分けて近づき、やっと、陳列窓の入口に辿《たど》りついた時、外の歩道の群衆を追いちらした警官も駈けつけて来て、クルーサーと一緒に、陳列窓にとびこんだ。三人の姿が窓の中に消えると、その後ろのドアを制服巡査が、ぴしゃりとしめた。
ひげ男が片側によって「おそろしい事故だよ、クルーサー君……警官、あんたがいて大助かりだ。ああ、なんたることだ!」
デパートの探偵主任は、足音高く陳列窓の中を歩いて近寄り、ころがっているふたりの女を見下ろした。
「一体どうしたんです? この女たちは? ラヴェリーさん」と、大声で、ひげ男にきいた。
「気絶したんだろう」
「おい、クルーサー、ちょっと見せてくれ」と、警官が不遠慮にラヴェリーを押しのけた。そして、ベッドからころがり出た女の死体に、かがみこんだ。
クルーサーがしかつめらしく咳ばらいして「おいブッシュ、調べとるひまはないよ。本部に報《し》らせるまでは、何ひとつ手を触れちゃいかん。ラヴェリーさんとぼくが──見張っとるから、電話をかけてきたまえ。さあ、行くんだ、ブッシュ、まごまごするんじゃない!」
警官は立ち上がって、頭を掻きむしりながらちょっと心をきめかねていたが、やがて、急ぎ足で陳列窓を出て行った。
「こりゃ、やっかいだな」と、クルーサーが、うなるように「一体何が起こったんですか、ラヴェリーさん。一体、この女はだれなんだろう?」
ラヴェリーが細い指であごひげをしごきながら、神経質そうに「おや、知らないのかい。そうか、知らないはずだな……クルーサー君、どうしたらよかろう?」
クルーサーが眉《まゆ》をしかめて「ラヴェリーさん、いまさら、あわてたってしようがないですよ。こりゃ、純粋の警察仕事です。はっきりしてますよ。とにかく、ぼくがすぐ現場に駈けつけて幸いでした。いずれ警察が来て何とかするでしょうから、ゆっくり、本庁の指示を待ちましょう。まあ、気を鎮めてください」
ラヴェリーが冷ややかに店の探偵主任を見つめて「ぼくは完全に大丈夫ですよ、クルーサー君」と、言い「それより、ぼくの考えでは」と、言葉に重みをつけて「すぐ、店の警備員たちを指図して、売場の秩序を保つようにしたほうがいいぜ。何事もなかったようにみせかけるんだ。マッケンジー君を呼びたまえ。それから、だれかをやって、フレンチさんと、重役の連中に報《し》らせたまえ。たぶん、上で会議をしているはずだからね。こりゃ──大事件だよ──君が考えているよりもずっと大変だ。さあ、行きたまえ」
クルーサーは、むっとしてラヴェリーを見返し、頭を振って、ドアの方へ行った。ちょうど、ドアをあけようとした時に、診察|鞄《かばん》を持った色の黒い小男が部屋にはいって来た。その男はすばやくあたりを見まわして、何も言わずに、倒れているふたりの女の方へ近づいた。
その男は倒れているモデル女をちらっと見て、脈をとった。そして、顔も上げずに言った。「もしもし──ラヴェリーさんですね。──手を貸してください──あなたの手伝いに、外にいる男をひとり呼んでください──モデル女は失神しているだけですよ──水を一杯やって、そこの長椅子に寝かせてください──だれかをやって診療室から看護婦をひとり呼んでください……」
ラヴェリーはうなずいた。そして、ドアのところへ行き、売場でひそひそ話し合っている群衆の頭ごしに見まわした。
「マッケンジー君! ちょっとこっちへ」
中年の、気持ちのいい顔付きのスコットランド人が、急いで部屋に駈けつけて来た。「ちょっと手を貸してください」と、ラヴェリーが言った。
医者は、もうひとりの女の死体を忙しく診《み》ていた。医者の動作のために女の顔は隠されて見えなかった。ラヴェリーとマッケンジーは、正気づいたモデル女を持ち上げて、長椅子へ運んだ。陳列窓の外にいた巡視係のひとりが、水を一杯とりにやらされて、すぐに戻って来た。モデル女は、水をのまされて、うめき声をたてた。
医者が深刻な顔で見上げて「こちらの婦人は死んでいます」と、告げた。「かなり前に死んだのです。それに射たれています。心臓に命中しています。こりゃ、殺人のようですよ。ラヴェリーさん」
「|Nom du chien《ノムドシャン》(なんとなんと)」と、ラヴェリーがつぶやいて、気分が悪そうに青い顔をした。
マッケンジーが小走りに部屋を横ぎり、取り乱した死体を見おろした。そして、たじたじと後ろにさがりながら、大声で叫んだ。
「こりゃ大変だ。社長の奥さんだ!」
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五 [王様の家来もそっくり]
陳列窓のドアがさっと開いて、ふたりの男がとびこんで来た。そのひとりは、やせて、背が高く、黒っぽい安葉巻をくわえていたが、ちょっと立ちどまってあたりを見まわし、それから死体に目をとめると、すぐに、壁ベッドの向こうの、女の死体が伸びている床の方へ進んで行った。鋭い目で、小男の医者をじろりと見ると、ぺこりと頭を下げただけで、あとはうんもすうもなく、しゃがみこんだ。そして、しばらくして顔を上げた。
「君は、店の医者かね」
医者は神経質にうなずいて「そうです。ざっと診ました。女は死んでいます。ぼくは──」
「わしにもわかるよ」と、新来の男が言った。「わしは、医務監査官補プラウティです。手伝ってくれたまえ。先生」新来の男はふたたび死体にかがみこんで、片手で鞄をあけた。
やって来たふたりの、もうひとりの男は、あごの角張った大男だった。その男はドアをはいった所に立ちどまって、静かにドアを押して後ろでしめた。そして、ラヴェリー、マッケンジー、店の医者のこわばった顔を、すばやく見まわしていた。当人の顔は、冷静できびしく、無表情だった。
プラウティ医師が検査にとりかかると、その男は生き返ったように活動をはじめ、用ありげに、つかつかとマッケンジーに近づきかけた時、ドアが激しくたたかれて、ゆれた。その男は急に立ちどまった。
「おはいり」を鋭く言って、はいって来る者の目から死体を隠すように、ドアとベッドの間に立ちはだかった。
ドアが一方にさっと開いて、小さな一団がなだれこんで来た。背の高い大男は、その行く手に立ちふさがった。
「ちょっと待った」と、おちつきはらって「ここには、そんなにたくさんはいれない。君たちはだれかね」
サイラス・フレンチが、かっとして、ぴしりと言った。「私はこの店の社長だし、この紳士たちも、みんなここにはいってもかまわない連中ですよ。ここの重役たちです──こっちは警備主任クルーサーです──さあ、通してもらいますよ」
背の高い大男はびくともしなかった。
「フレンチ氏だって? 重役連だって? おい、クルーサー……この男は何者かね」と、一同のはずれで少し青ざめてうろうろしているウェストリー・ウィーヴァーを指さした。
「私の秘書、ウィーヴァーです」と、フレンチがじりじりして言った。
「あなたは一体、どなたなんですか。何事が起こったんですか。早く通してください」
「そうだな」と、背の高い大男は、ちょっと迷っていたが、やがて、きっぱり言った。
「殺人課のヴェリー部長です。すまんが、フレンチさん、ここでは、私の命令をきいてもらいます。はいってもよろしいが、いっさい手を触れてはなりませんぞ。命令に従ってください」
部長は道をあけた。そして、疲れを知らぬ根気よさで、何かを待っている様子だった。
サイラスがつかつかと、ベッドの方へ行くのを見て、ラヴェリーが走りよった。そして老社長の衿《えり》をつかんで引きとめた。
「フレンチさん──見ちゃいけません──今のところ……」
フレンチは怒って、その手を払った。
「放っといてくれたまえ、ラヴェリー。なんのまねだね。さからうなんて? この店で私に命令するなんて」
ラヴェリーがあきらめて後ろにさがったので、フレンチはベッドへ進みよった。ラヴェリーはふと思いついたように、ジョン・グレーを引きよせて、何か耳打ちした。グレー重役は、さっと顔色を変えて、一瞬ためらったが、すぐ低く叫びながら、フレンチのそばへ駈けよった。
うまい間《ま》だった。社長はプラウティの肩ごしに、好奇の目で覗《のぞ》きこみ、床にころがっている女の死体を一目みると、声もなく倒れかかり、それを、うまく、グレーが抱きとめた。ラヴェリーがとび出して、ふたりで、ぐんなりした社長の体を、部屋の隅の椅子に運んだ。
白衣白帽の看護婦が、そっと部屋にはいって来て、長椅子の上でヒステリーを起こしているモデル女の世話をした。その看護婦がフレンチに駆け寄り、鼻の穴に気付け薬のびんを当てながら手をもむようにと、ラヴェリーにたのんだ。グレーは、ぶつぶつひとりごとを言いながら、そわそわと歩きまわっていた。店の医者が、急いで看護婦を手伝いに行った。
重役連と秘書は、怖《こわ》さで立ちすくんでいたが、ひとかたまりになって、そろそろと、死体の方へ寄って行った。ウィーヴァーとマーチバンクスが死体の顔を見て、同時に叫んだ。ゾルンは唇を噛んで目をそらした。トラスクはさっと顔色を変えておびえた。やがて、一同は、みんなぎくしゃくした動作で、のろのろと部屋の隅に戻り、互いに頼りなげに顔を見かわした。
ヴェリー部長が太い指を曲げて、警備主任クルーサーを呼びつけて「どんな処置をしたかね」
店の警備主任はにやりとして「万事うまく手配しました。ご心配いりません。手下《てか》の連中を一階売場に集めて、やじ馬どもを追っ払いました。統制がとれています。部長、このビル・クルーサーに任せといてください! お宅の連中にしてもらうことはいくらもありませんよ。本当です」
ヴェリーが、がみがみ声で「じゃあ、差し当り、ひとつやってもらおう。一階売場の右側に繩を張って区切るんだ。だれも近づかんようにする。いまさら出入口をしめても、もう手おくれだろう。大して役に立つまい。この殺しをやったやつは、今ごろはここから何マイルも離れちまってるだろうよ。さあ、かかってくれ、クルーサー」
警備主任は大きくうなずいて、出て行きかけて、ふり向いた。
「あの、部長さん──床に倒れている女はだれなんですか、教えてくださいよ。すぐ役にたつかもしれませんよ」
「そうか」と、ヴェリーが冷たく笑って「どうかなあ。わかったところで、大して役にもたたんだろうが、フレンチの細君だ。ちくしょう! ここはどえらい殺し場だな」
「まさか」と、クルーサーは、口をあんぐりあけて「へえー、フレンチさんの奥さんがねえ。こりゃ大変だ……へえー、そうですか」
クルーサーはフレンチの沈みこんだ姿をちらっと見た。やがて、外で指図するクルーサーの大声が陳列窓のガラス越しにひびいた。 陳列窓の中は静まりかえっていた。隅の一団は身動きもしなかった。モデル女もフレンチも正気にもどり──モデル女は、糊のきいた看護婦のスカートにすがりついて、きょろきょろとあたりを見まわし、フレンチは青白くなって、椅子からなかば身を起こして、グレーの低い慰めの言葉を聞いていた。グレー自身、いつもの元気さを失ってしまっていた。
ヴェリーがプラウティ医師の後ろで、うろうろしているマッケンジーに手招きして呼びよせた。
「君が、支配人のマッケンジーさんかね」
「さようです、部長さん」
「もう、そろそろ仕事にかかる頃合《ころあ》いだね、マッケンジーさん」と、ヴェリーが冷静に相手を見ながら「しっかりしなさい。だれかが正気でいなくちゃだめだ。こりゃ、君の仕事の一部だよ」支配人は、そう言われて胸を張った。
「いいかね。こりゃ大事な仕事で、抜かりなくやってもらいたいが」と、部長は声をおとして「使用人はひとりも、このビルから出さないように──これが第一の仕事。全責任をもって、遂行してもらう。第二に、持ち場を離れていた使用人全員を調べあげる。第三に、今日《きょう》、店を休んだ使用人全員のリストを作ってもらう、欠勤理由もつける。すぐかかってくれたまえ」
マッケンジーは、すなおにうなずいて、走り去った。
ヴェリーは、ウィーヴァーと立ち話しているラヴェリーを片隅に連れて行った。
「あんたは、ここの責任者のひとりらしいね。あんたの名前は?」
「ぼくはポール・ラヴェリーです。ぼくはここの五階の催し場で近代家具の展示をしています。この部屋はその展示の見本なのです」
「なるほど。ところで、あんたはおちついていましたな、ラヴェリーさん。亡くなったのは、フレンチ夫人だね?」
ラヴェリーは目の色を変えた。「そうですよ、部長。まったく、ショックでした。むろん。あのひとが、一体、どうしてこんな|とこ《ヽヽ》に──」ラヴェリーはふと口をつぐんで、唇を歪めた。
「こんな|とこ《ヽヽ》に来たんだろうと、言おうとしたんだね」と、ヴェリーが、まじめな顔で相手の言葉をおぎなった。
「さあ、そこのところが問題だな。わたしは──あ、ちょっと待った、ラヴェリー君」
ヴェリーは、くるりと向き直って、戸口に着いた人々を、急いで迎えに行った。
「お早ようございます、警視。エラリーさん今日は。待っていましたよ。いやはや、手もつけられん騒ぎです」
ヴェリーは道をあけて、大きな手をふりまわして、室内の連中をさし示した。
「ごらんのとおりのしまつで、犯罪現場というよりお通夜《つや》ってわけです!」ヴェリーの長口上だった。
リチャード・クイーン警視──小柄で、活発な頭の白い小鳥のような人物──警視は、ヴェリーの手につれて、ぐるりと見まわした。
「なんたることだ!」と、警視は腹だたしそうに大声で「どうして、こんなに大ぜい、この部屋にはいれたんだ? 呆《あき》れたやつだな、トマス」
「警視」ヴェリーの太い声で、クイーン警視が黙った。「そうおっしゃると思いましたよ──」と、部長の声は、だんだん、聞きとれなくなり、ひと言ふた言、警視に耳うちした。
「うん、うん、そうか、トマス」と、警視はヴェリーの腕を軽くたたいて「あとで聞こう。どれ、仏さんにお目にかかろう」
警視は、とことこと部屋を横切り、壁ベッドの向こう側にすべりこんだ。プラウティ医師が、手まめに死体をいじくりまわしながら、会釈《えしゃく》した。
「殺しだね」と、医師が「拳銃は見当たらんよ」
警視は死んだ女の青ざめた顔を食い入るように覗きこんでから、乱れた着衣に目を走らせた。
「なるほど、もう少しあとで刑事どもに調べさせよう。仕事を続けてくれよ先生」
警視は、ひとつため息をしてから、部屋の反対側のヴェリーの所へ戻った。
「さあ、聞こう、トマス。最初からだ」
ヴェリーが低い声で、この三十分間の出来事を、かいつまんで、手っとり早く報告しているあいだ、警視は、その明敏な小さな目で、室内にいる人々を、次々に見ていた。……窓の外には、私服の一団と、方々にちらばっている制服巡査たちが見えた。ブッシュ巡査も、その中にいた。
エラリー・クイーンは、しめたドアによりかかっていた。背が高く、いい体格で、運動家のような手をし、指先は細かった。グレイのツウィードの服で、ステッキと軽いコートを手に持ち、ほっそりとした鼻の上に、鼻眼鏡をかけ、その上には色白の苦労知らずの額がひろがっていた。髪はつやつやと黒かった。コートのポケットからは、表紙の汚れた小型本が覗いていた。
エラリーは、室内の連中を、ひとりひとり、もの珍しそうに見ていた──まるで、じっくり観察するのを楽しむように、ゆっくりとほじくるように。次から次へと見ていくと、ひとりひとりの特徴が、エラリーの頭の隅にたたきこまれるようだった。その検討ぶりは、いかにも念入りにしているといっていいほどだった。しかし、それでも全精神を集中しているふうでもなく、一方では、警視に説明しているヴェリー部長の一語一語に耳を澄ませていた。次々と移るエラリーの目が、隅の壁に、しょんぼりとよりかかっているウェストリーの目と、ふと、ぶつかった。
ふたりの、目が合ったとたん、相手がわかった。と、同時に、互いに手をのばして進み出た。
「エラリー・クイーン。こりゃ、おどろいた」
「テオピロの七人の処女にかけて(たしかに)──ウェストリー・ウィーヴァー」
ふたりは、うれしさを隠そうともせずに手を握り合った。クイーン警視はふたりの方を、おかしそうにちらりと見、向きをかえて、ヴェリーの説明の残りに耳を傾けていた。
「昔なじみにまた会えるなんて、すばらしいじゃないか、エラリー」と、ウィーヴァーがささやいた。だがその顔は、ふたたび緊張のしわをたたんで、うなだれた。「君が──あの警視の──?」
「まさに肉の一片さ、ウェストリー」と、エラリーが言った。「おやじ様さ、鼻の利く──ところで、積もる話が聞きたいな、君。あれから──ああ、しばらくだね──この前会ってから五、六年になりゃしないか」
「ざっとそうなるよ、エラリー。ここで会えてじつにうれしい、久しぶりで会えたというだけじゃなくてね、エル。少し気強くなったよ」と、ウィーヴァーが低く言った。「この──この事件は……」
エラリーの微笑が消えた。「悲劇だな、ウェス。話してくれよ──君は、どう思っているんだい。まさか、君がこの婦人を殺したんじゃあるまい?」
エラリーはわざとおどけて言いながらも、その言葉の底には、聞き耳を立てている父警視が、おやっと思うような不安が、ひそんでいた。
「エラリー、まさか」と、ウィーヴァーが、まともにエラリーの目を見て「冗談じゃないよ」と、またみじめな顔になり「こわいよ、エル。本当にこわい。どんなにこわいか、君にゃ想像もつくまいがね」
エラリーが、ウィーヴァーの腕を、そっとたたいた。そして、無意識に、鼻眼鏡をはずした。
「すぐにわかるだろうよ、ウェストリー。あとで、君とふたりで話したいな。それまでお預けにしとこう。おやじがしきりに合図してるからね。じゃあ、元気を出すんだ、ウェス」と、エラリーは、また微笑しながら、歩み去った。ウィーヴァーの目に希望のかげが宿り、また壁によりかかった。
警視はしばらく、息子と何か低い声で話し合っていた。やがて、エラリーは、つかつかとベッドの向こう側へ行き及び腰でプラウティのわきに立った。そして医務検査官補が、てきぱきと死体を調べているのを眺めていた。
警視が、室内に集まっている連中の方にくるりと向いて「少し静かにしてもらいたい」と言った。
厚いカーテンのような沈黙が部屋を包んだ。
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六 証言
警視が一歩前へ出た。
「みんなここに待っていてもらいたい」と、四角ばった口調で口をきった。「その間に、初動捜査を行なう。ことわっておくが、どんな要求を出しても特権を認めるわけにはいかん。これは疑いもなく殺人事件である。殺人事件の場合は、何人《なんびと》に対しても、最も重大な告発をすることができるし、法は平凡な個人に対しても名士に対しても遠慮はしない。一婦人が強殺《ごうさつ》された。何者かが殺したのである。その人物は、現在、数マイルも離れているかもしれんし、今、ここにいるかもしれん。わかったかね、諸君」──そして、警視は、疲れたような目でじっくりと、五人の重役を見た──「一刻も早く仕事にかからなければならん。かなり時間のむだをしすぎたから」
警視は、そそくさとドアのところへ行き、あけて、胸をさすような声で呼んだ。「ピゴット! ヘッス! ヘーグストローム! フリント! ジョンスン! リッター!」
六人の刑事が部屋にはいって来た。たくましいリッターが、後ろ手にドアをしめた。
「ヘーグストローム、記録だ」ヘーグストロームが、小さなノートと鉛筆を取り出した。
「ピゴット、ヘッス、フリント──部屋にかかれ!」警視は低い声で何か言い足した。三人の刑事は、にやりとして、それぞれに違った持ち場に散った。刑事たちは、ゆっくりと、組織的に、家具、床、壁と、捜査を始めた。
「ジョンスン──ベッドをやれ!」残ったふたりのうちのひとりが、まっすぐに壁ベッドへ行って、その中身を調べはじめた。
「リッター──待機しとれ」
警視は外套《がいとう》のポケットに手をすべりこませて、茶色の古い、かぎたばこ入れを、取り出した。そして、小鼻に香りの高い粉たばこをつめると、深く吸いこんで、容器《いれもの》をポケットに戻した。
「ところで」と、言って、すっかり縮みあがっている室内の連中を睨みまわした。ちらりと、エラリーの目と合うと、かすかに微笑した。
「さて、そこにいる、君だ!」と、警視は、告発するような指先で、モデル女を指さした。モデル女は大きな目で警視を見つめ、その肌は恐怖で青ざめていた。
「はい」と、モデル女は、おびえて、よろよろと立ち上がった。
「名は?」と、クイーン警視が、鋭くきいた。
「ダ──ダイアナ・ジョンスンです」と、怖ろしさに魅せられて、警視を見つめながら、つぶやくように言った。
「ダイアナ・ジョンスンだな」警視は一歩前へ出て、モデル女の胸に指をつきつけた。「今日、十二時十五分に、このベッドを開いたのは、なぜかね」
「あたくし、あたくしの仕事で」と、どもりながら「それはつまり──」
ラヴェリーがおそるおそる、警視に手を振って「その説明はぼくがします──」
「だまれ!」
ラヴェリーは顔を赤くしたが、やがて皮肉そうに微笑して「答えなさい、ジョンスンさん」
「そのう、それが展示する定刻でしたの。あたくしは、いつも、十二時二、三分前にこの部屋に出まして、支度するんですわ」やっと言葉が、うまく出るようになった。「そうして、それから、この新案の品物をすっかりお客様のお目にかけてから」──と、モデル女は、ソファ、ベッド、本棚と組み合わせになっている長椅子を指さした。──「壁のところへまいりまして、ボタンを押しました、すると、その時──あの亡くなったご婦人が、あたくしの足もとに転がり落ちたんです……」
モデル女は、身震いして、深く息を吸い込み、速記しているヘーグストローム刑事を眺めた。
「ボタンを押す時に、中に死体がはいっているとは思わなかったかね、ジョンスンさん」と、警視がきいた。
モデル女の目がとび出しそうだった。
「いいえ、そんなこと! 知っていれば、千ドルいただいても、あんなベッドになんか、手も触れませんわ」制服の看護婦が、癇《かん》にさわる声でくすくす笑い出したが、警視がその方をじろりと睨むと、すぐにやめた。
「結構、それでよろしい」警視はヘーグストロームの方を向いて「残らず書いたか」
刑事は、何か言いかけたが、警視が片目をつぶってちらっと合図したので、かたく口を閉じたままだった。
クイーン警視は一同の方へ向き直り「看護婦さん、ダイアナ・ジョンスン嬢を二階の医務室に連れて行って、わしが使いをやるまで、とめといてくれたまえ」
モデル女は、一刻も早く陳列窓を出ようとして、つまずいた。そのあとから看護婦が、つまらなそうについて行った。
警視が巡査のブッシュを喚問した。巡査は敬礼して、死体がころげ落ちた時の、歩道の騒ぎと、陳列窓の中の様子について、二、三の質問に答えたあと、五番街の持ち場に戻るように指令された。
「クルーサー!」その店の警備主任は、エラリーと、プラウティ医師のそばに立っていたが、前かがみに歩み出て、クイーン警視を、まともに見つめた。「君が、店の警備主任だね」
「そうです、警視」クルーサーは足をもじもじさせて、にやにや笑い、やにだらけの歯を見せた。
「ヴェリー部長の話だと、死体発見の直後に、部下を集めて、一階売場の要所要所に配置するように、指令したそうだが。君はそのとおりにしたかね」
「はい、しました。外まわりの警備員を六人配置して、都合のつく守衛もみんな任務につかせました」と、クルーサーは、てきぱき答えた。「だが、まだ、怪しい者はひとりも見つかっていません」
「望み薄だろうな」警視は、かぎたばこを、もうひとつまみやって「君がここにはいった時、何を見たか話してもらおう」
「それがです、警視、私が最初にこの殺しを知ったのは、警備員のひとりが二階の私の部屋に電話をかけてきて、外の歩道で何か起こった──暴動か何かが、と知らせて来た時です。すぐに階下に降りて、この窓のところを通りかかると、ラヴェリーさんが大声で、私を呼びとめました。走り込んでみると、ここに死体がころがっていて、モデル女が気絶して床にのびていたんです。巡邏《じゅんら》中のブッシュ巡査が、私のすぐあとから、とびこんで来ました。私は、本庁から人が来るまで何も触っちゃいけないと、みなに言いました。それからすぐ外のやじ馬を追っ払わせ、ヴェリー部長が来るまで、あらゆるものを監視していたのです。そのあとは、ヴェリー部長の命令に従いました。それだけです。私は──」
「おい、おい、クルーサー、それで十分だ」と、警視が言った。「ここにいてくれ。あとで君にしてもらうことがあるかもしれん。なんとも手が足らんのでね、どうもならん! デパートときちゃあ!」と、警視は、あとを口の中でぶつぶつ言いながら、プラウティ医師の方を向いた。
「先生! そろそろ用意はいいかね」
ひざをおろしている医務官が、うなずいた。
「ちょうどいいところさ、警視。すぐここで、仕事にかかれというのかい」医師は、むやみに素人たちの前で報告をして、知識を与えることには問題があると、ひそかに思っているようだった。
「よかろう」と、クイーン警視が、突っかかるように「そう教えるというものでもなかろう」
「そりゃ、なんともわからんよ」プラウティは、どっこいしょと立ち上がって、くわえている安葉巻を、ぎゅっと噛みしめた。
「この女は二発ぶちこまれとる」と、医師は無造作に言った。「二発ともコルト三八自動拳銃で撃ったものだ。おそらく同じ銃だろう──顕微鏡の下に置いてみんと、正確なところは言えんがね」医師は、血まみれの金属の玉を二個取り出した。ひしゃげて全く形が変わっていた。警視はそれをとって、指先でいじりまわし、黙ってエラリーに廻した。エラリーはすぐに、うつむきこんで、妙に熱心に、それを調べていた。
プラウティはポケットに両手を突っ込んで、夢みるように死体を見下ろしていた。
「一発は」と、つづけた。「直接に心臓の中央部にぶちこまれた。みごとな鋸歯状心嚢傷《きょしじょうしんのうしょう》だよ、警視。胸骨をくだき、胸腔《きょうこう》から心嚢を分離している薄い膜、心嚢壁を貫通し、あとはお定まりのコースで──まず、心嚢の繊維層、次に、内部|漿液《しょうえき》層、最後に大血管のある心臓の前部の先端に達しているな。ほんの少しばかり、黄色い心嚢液も洩れている。弾は角度がついてぶちこまれとるから、すごい傷が残ったんだ……」
「すると、即死だったんですね」と、エラリーが「二発目は、不要だったんですね」
「そのとおり」と、プラウティが、そっけなく言った。「どっちの弾の傷にしたって即死ものさ。実のところ、二発目のやつは──そいつが二発目ではないかもしれんが、というのは、むろん、そいつが先に撃ちこまれたのかもしれんからね──ともかく、二発目のやつは一発目よりきいとるね。なにしろ、心臓の少し下、腹腔の心臓前部を、ぶち抜いとるからね。その傷も鋸歯状だよ。その部分には、最も重要な血管や筋肉が集まっとるから、心臓と同じに致命的な場所なんだ……」
プラウティは、ふと口をつぐんだ。そして、いかにも腹だたしそうに、床の上の女の死体を眺めまわした。
「拳銃は、体《からだ》につけて撃たれたのかね」と、警視が口をはさんだ。
「火薬のしみはないぜ、警視」と、プラウティが、顔をしかめて死体から目を離さずに言った。
「弾は二発とも、同じ場所から撃たれたのですか」と、エラリーがきいた。
「なんとも言えないな。横の角度は、ほとんど同じだから、この二発をぶちこんだやつは、女の右側に立っていたことになる。だが、弾の下向のコースが、くせものなんだ。少し似ていすぎるんだ」
「というと」と、エラリーが前に乗り出してきいた。
「そうだな」と、プラウティが安葉巻を噛みながら、苦々しげに「二発ぶちこまれた時、女が全く同じ姿勢でいたとすれば──むろん、二発ともほとんど同時に発射されたものとみて──弾の下向角度が大きくなるのは、心嚢部より心臓前部の傷のはずなんだ。というのは、心臓前部は心臓の少し下にあるから、そこを撃つには、銃口は少し下をねらわなければならないはずだ……とはいうものの、こりゃあ、ぼくの言うべきことじゃないかもしれんな。角度の相違点については、いろんな説明がつくだろうからな。ともかく、弾と傷を、ケン・ノールズに見せるべきだな」
「あの男に一仕事やろう」と、警視が、ひとつため息をして「それだけかね、先生」
エラリーは、もう一度、手の中の二発の弾をじっくり見てから、目を上げた。
「死後どのくらいですか」
すぐ、プラウティが「約十二時間、間違いないな。解剖の結果、もっと正確に決定できる。しかしこの女の死亡時刻は、たしかに、零時より前ということはないし、午前二時以後でもあるまいよ」
「さしあたり、それだけか」と、クイーン警視が、くどくきいた。
「うん、だが、ちょっとわからんことがある……」と、プラウティは歯をくいしばった。「妙なことがあるんだ、警視。心臓前部の傷あとからみて、出血が少なすぎるのが、信じられんよ。あんたも気がついとるだろうが、二つの傷口の上の着衣に凝結した血液がこびりついてるが、その量が思ったよりずっと少ない。少なくとも、医者が思うよりもね」
「なぜかね」
「心臓前部の傷は今までずいぶん見とるが」と、プラウティがおちついて「ひどいもんだよ、警視。ごまんと血が出る。事実、特にこの症状だと、弾の角度の関係で、傷口がとても大きく裂けているから、血の池地獄だったはずなんだ。心嚢のほうは出血しやすいが、むやみにたくさんは出ない。だが、こっちのほうは違う──だから、妙なことがあるというのさ。あんたの注意をひいておこうと思ってね」
エラリーが、ちらっと目配せして、父を押えたので、老人は返事をしかけた口を閉じて、プラウティの言葉に、あいまいに、うなずいた。エラリーがプラウティに二発の弾を返すと、相手はそれを注意して鞄に納めた。
医務官は、吊りベッドからシーツをとって、ゆっくりと死体を包み、最後に死体運搬車を早くよこすと言い残して出て行った。
「店の医者がいるかね」と、クイーンがきいた。
小柄な色の浅黒い医者が、隅から、おずおずと進み出た。口を開くと、白い歯が光った。
「はい、私です」
「プラウティ先生の説明に、何か言い足すことがあるかね、先生」と、クイーン警視が、ざっくばらんの気やすさできいた。
「何もありません。何ひとつありません」と、店の医者が、プラウティの出て行く姿を、おずおずと見ながら「かなり大ざっぱな診断でしたが、あのとおりです。二発の弾がはいったのは──」
「結構、先生」と、クイーン警視は小柄な医者に背を向けて、おうへいに、店の警備主任を呼びつけた。
「クルーサー」と、低い声で「夜警の主任はだれかね」
「オフラハティ──ピーター・オフラハティです、警視」
「夜は、夜警は何人いるのかね」
「四人です。オフラハティが三十九丁目側の夜間出入口に陣取っています。ラルスカとパワーズが巡回、ブルームが三十九丁目側の夜間貨物口を番しています」
「そうか」警視はリッター刑事に向かって「支配人のマッケンジーという男をつかまえて、オフラハティ、ラルスカ、パワーズ、ブルームの住所をきき、車をぶっとばして、すぐ連れてこい。すぐだぞ!」リッターが、とび出して行った。
急にエラリーが、すっくと立ち、鼻眼鏡をしっかりと掛け直して、父に歩み寄った。ふたりはしばらくひそひそやっていたが、それがすむと、エラリーは引き退ってベッドの近くのうまい場所に坐り込んだ。警視は、指を曲げて、ウェストリー・ウィーヴァーを呼んだ。
「ウィーヴァー君」と、警視が「君はフレンチ氏の信頼する秘書と見うけるが」
「はい、そうです」と、ウィーヴァーが、警戒して答えた。
警視は目をそらして、ぐったりと椅子にうずくまっているサイラス・フレンチを見た。ジョン・グレーの白い小さな手が、なぐさめ顔にフレンチの腕をたたいていた。
「この際、フレンチ氏を質問攻めにしたくないんでな──君は今日の午前中、フレンチ氏と一緒にいたかね」
「はい」
「フレンチ氏は奥さんが店にいるのを知らなかったかね」
「はい。ご存じありませんでした」即答で、きっぱりしていた。ウィーヴァーは不審そうに、クイーン警視を見つめていた。
「君もか?」
「私が? もちろんです」
「ふふん」警視は、あごを胸にうずめて、ちょっと、考え込んだ。それから急に、部屋の向こう側にいる重役どもに向かって、指を突き出した。
「君らはどうかね。だれかが、フレンチ夫人が店にいるのを知っとったのじゃないか──今朝か、昨夜?」
一同は口をそろえて、こわごわ否定した。コルネリュース・ゾルンが顔をまっかにし、かんかんになって抗議しはじめた。
「どうか、静かに!」警視のひと声で、一同はしゅんとなった。
「ウィーヴァー君。今朝は、どうして、この諸君が店に集まっていたのかね。毎日来るわけじゃあるまい?」
ウィーヴァーの正直な顔が、ほっとして、明るくなった。「当店の重役さんがたは、みんな店の経営に熱心なのですよ、警視さん。毎日、一時間そこそこですが、必ず出ていらっしゃいます。今朝は、階上《うえ》のフレンチさんの私室《アパート》で重役会があったのです」
「え?」と、クイーン警視は、おどろいて、興味が湧いたらしく「階上の私室《アパート》といったね。それは何階かね」
「六階です──つまり、店のてっぺんです」
エラリーが活気づき、いくども部屋を横切って行き、父に耳うちした。いくども老人がうなずいた。
「ウィーヴァー君」と、警視がひどく熱のこもった口ぶりで続けた。「今朝は、君や重役連中は、どのくらいフレンチ氏の私室《アパート》にいたのかね」
ウィーヴァーはその質問にびっくりしたらしい。
「むろん、午前中ずっとです、警視さん。私は八時半ごろ着きました。フレンチさんが九時ごろ、それから他の重役がたは十一時ちょっと過ぎでした」
「なるほど」と、警視はおもしろそうに「午前中、君はその部屋を一度も出なかったかね」
「出ませんでした」と、即答だった。
「他の連中は?──フレンチ氏と重役連は?」と、警視がくどく押し返した。
「どなたも出ません。私たちは、店の警備員のひとりが、ここで事件がおこったと報らせてくるまで、みんな部屋にいました。それに、言っておきますが──」
「ウェストリー、ウェストリー……」と、エラリーが押えるように、小声で注意したので、ウェストリーは、きょとんとして、そっちを向いた。そして、エラリーの意味ありげな目配せにあうと、目を伏せて、神経質に唇を噛んだ。言いかけたことが、まだ残っていたのだ。
「ところで」と、警視は、たいぎそうだったが、ひそかに楽しんでいるらしく──室内の連中の迷惑そうな目など 全く無視していた。
「ところで、君。気をつけて口をきくんだ。事件の報らせは何時に来たかね」
「十二時二十五分です」と、ウィーヴァーがおちついて答えた。
「結構──それから、ひとりのこらず、私室《アパート》を出たんだね」
ウィーヴァーが、うなずいた。
「ドアの錠をかけたかね」
「出てからドアをしめました、警視」
「すると、部屋はそのままなんだね、見張りもつけずに?」
「どういたしまして」と、ウィーヴァーが、すぐに「今朝、会議が始まる時、フレンチさんのお指図で、警備員をひとり呼んでドアの外に立ち番させました。特別命令ですからまだ立っているはずです。事実、私はあの男が部屋の外で見張っているのをこの目で見て来たんです。ここで何事がおこったかと、みんなでとび出した時に」
「そりゃ結構」と、老人は満足そうな顔で「警備員といったね。信用できる男かね」
「絶対できます、警視」と、クルーサーが横から声をかけた。「ヴェリー部長も知っています。ジョーンズという男ですが──以前は警官で──前にはヴェリーさんと組みになって回っていました」
警視が、その言葉をたしかめるように部長を見ると、ヴェリーは、大きくうなずいた。
「トマス!」と、クイーン警視は、ポケットに片手を入れて、かぎたばこをつまみながら「見て来い。ジョーンズがまだ立ち番しとるか、何か不審なものを見たか、ずっとそこにいたか、フレンチ氏、ウィーヴァー君、他の重役連があの私室《アパート》を出払ってから、押し入ろうとした者がいるかどうか、調べるんだ。ひとり連れて行って交替させてやれ──交替させるんだぞ、いいな」
ヴェリーは無表情にふんと言って、どたどたと陳列窓を出て行った。入れちがいに、ひとりの警官がはいり、警視に敬礼して、報らせた。
「外の皮製品売場に電話がかかってきて、ウェストリー・ウィーヴァーさんを呼んでいます。警視」
「なんだって? 電話?」警視が、隅にしょんぼり立っているウィーヴァーの方を向いた。
ウィーヴァーが元気づいた。「たぶん、監査室のクラフトからでしょう」と、言った。「今朝、報告書を出すことになっていたんですが、会議や、このごたごたで、すっかり忘れてしまっていたんです……行ってもいいですか」
クイーン警視は、ちょっと迷って、無心に鼻眼鏡をいじっているエラリーの方を、ちらりと見た。エラリーは、かすかにうなずいてみせた。
「行きたまえ」と、警視がウィーヴァーに太い声で「だが、すぐ戻るんだよ」
ウィーヴァーは警官にみちびかれて、陳列窓のドアのすぐ前の、皮製品売場へ行った。店員のひとりが、急いで電話を手渡した。
「もしもし──クラフト君? こちら、ウィーヴァー。報告書のことは、どうも失敬。──だれ? おお」
マリオン・フレンチ嬢の声が線を伝ってきたので、ウィーヴァーは、ちょっと妙な顔になった。ウィーヴァーは、すぐ声をおとして、受話器にかぶさりついた。後ろについている警官は、電話を聞こうとして、こっそりとすり寄った。
「まあ、どうしたんですの」と、マリオンが、いかにも心配そうな声できいた。「何かあったんですか。お父《とう》様のお部屋へ電話をかけて、あなたをつかまえようとしたのに、返事がないのよ。交換手に、あなたを探してもらわなければならなかったわ。……今朝は、お父様は重役会をなさったんでしょう」
「マリオン」と、ウィーヴァーは、せきこんで「ゆっくり説明してるひまがないんだよ。とりこんでてね。君──とんでもないことになってね……」ウィーヴァーは言葉をきって、胸の中でどうしようと迷っているらしかった。こわばった口調で「ねえ君、たのみがあるんだが、してくれないか」
「でも、ウェス」と、心配そうな娘の声が「いったい、どうしたのよ。お父様に何か?」
「いや──そんなこと」ウィーヴァーは必死になって電話にかじりつき「たのむから、今はきかないでおくれよ……今、どこにいるの?」
「むろん、お家《うち》よ。でも、ウェス、どうしたっていうのよ」マリオンの声が少しおびえていた。「ウィニフレッドかバーニスに関係のあること? ふたりとも家にいないのよ、ウェス──昨夜からずっと。……」やがて、マリオンがちょっと笑って「じゃ、いいわ。あなたを困らせないことにするわよ。タクシーに乗って、十五分ぐらいで、そちらへ行くわ」
「そうなるだろうと思っていたよ」と、ウィーヴァーは、ほっとして泣き出しそうになった。「何がおころうとも、ぼくは君を愛してる。愛してるよ。わかるね」
「ウェストリー! ばかね──私を驚かせて、頭が変になったわ。じゃ、切るわよ──すぐ、そちらへ行くわ」受話器を伝って、やさしい小さな音──キスの音らしい──ウィーヴァーは、ため息をして、受話器をかけた。
警官は、ウィーヴァーが振り向くと、とび退《さが》った──とび退りながら、顔じゅうでにやにやした。
「若い婦人が、まもなくここへ来ます、警官」と、ウィーヴァーが早口に言った。「十五分ぐらいで着くはずです。来たら私に報らせてもらいたいんですが。マリオン・フレンチ嬢です。私は陳列窓の中にいますから」
制服巡査は笑いを消して「それがねえ──」と、あごをかきながら、ゆっくり言った。「それについちゃあ、なんとも言えないな。まあ、警視に話すんだな。ぼくには、そんな権限がないんだから」
警官は、ウィーヴァーの抗議などとりあわないで、しっかりと腕をつかみ、陳列窓に連れもどした。
「警視」と、敬意をこめて、ウィーヴァーの腕をつかんだまま「この男は、マリオン・フレンチ嬢とかいう娘さんが来たら、報らせてくれと、私に頼みました」
クイーン警視は、驚いて顔を上げた。その驚きは、たちまち激しい口調に変わった。
「あの電話は、クラフトからじゃなかったのか?」と、ウィーヴァーにかみついた。
ウィーヴァーが口をひらく前に、警官が口をはさんだ。「全然ちがいます。女性からでした。たしか、マリオンと親しそうに呼んでいました」
「ねえ、警視さん」と、ウィーヴァーは赤くなって、青制服の手を振りほどいて言った。「ばかげたことですよ。電話はクラフト君からだと思ったら、フレンチ嬢──社長さんのお嬢さん──からだったんです。そのう──私用の電話でした。それで、出過ぎたことかもしれませんが、すぐこちらへ来てくださいと、頼んだのです。それだけですよ。それが、いけませんでしたか。来たら報らせてほしいと言ったのは──むろん、あのひとが何も知らずにここへはいって来て、床に倒れている義理のお母《かあ》さんの死体を見て、ショックを受けないようにしてあげようと思ったからです」
警視は、かぎたばこをひとつまみして、やさしい目を、ウィーヴァーからエラリーに移した。
「わかった。わかった。すまん、ウィーヴァー君……そのとおりかね、君」と、警視は、くるりと巡査の方を向いて、ぴしりと言った。
「はい、そうです。この耳で、はっきり聞きました。真実を述べています」
「証人がいて運がよかったな」と、警視が大声で言った。「退ってよろしい、ウィーヴァー君。若いご婦人が着いたら、こっちでとりはからう……さて、次は」と、警視は手をもみながら「フレンチさん!」と、呼んだ。
老社長は、ぼんやりと、困ったように顔を上げた。その目は、うつろに見開かれていた。
「フレンチさん、この事件の謎《なぞ》を解くような話が、何かありませんかな」
「私は──か──かんべんしてほしい」と、フレンチは、椅子の背から、かろうじて首をもたげて、どもりどもり言った。妻の死にショックを受けて、何も考えられないようだった。
クイーン警視は気の毒そうにフレンチを眺めてから、むっとしているジョン・グレーに目を移して「心配ご無用」と、つぶやいて、肩を張った。
「エラリー、おい、じっくり死体を調べてみようじゃないか」と、たれ下がった眉の下から、エラリーを見つめた。
エラリーは、はっとして「見物衆のほうが」と、はっきり言った。「役者より、見巧者だ。この文句が、この際、あてはまらないと思うようじゃあ、お父さんは、せがれごひいきの作者、匿名詩人をご存じないということになりますね。さあ、幕を上げましょう」
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七 死体
クイーン警視は、部屋の反対側に歩いて行った。死体は、窓とベッドの間に、ころがっていた。ベッドの敷布をかきまわしているジョンスン刑事をわきに寄せて、老警視は女の死体のそばに、ひざをついた。そして死体を覆うている白いシーツをめくった。エラリーは父の肩ごしにかぶさりかかるようにして覗《のぞ》き込んだ。遠目ではあるが一目で全体が見えるので都合がよかった。
死体は妙にひねくれた恰好でころがっていた。左腕をのばし、右腕を少し曲げて背の下に敷いていた。頭は横を向き、トーク型の茶色の帽子が、あわれにもずれて片目にかぶさっていた。フレンチ夫人は、小柄ですんなりし、手足のきゃしゃな女だった。目は開いたままで、あっけにとられたような目つきをしていた。口からはよだれにまじって、乾いて黒くなった細い血のしたたりが、あごまで流れていた。
服装はさっぱりしているが、非常に上品で、フレンチ夫人の地位と年齢に、いかにもふさわしいものだった。薄手の茶色の外套は、衿と袖口を茶色の毛皮でふちどりされていた。濃い茶色のジャージーのドレスは、胸とウェストに、オレンジと茶をあしらって仕立ててあった。茶の絹靴下と、茶の散歩靴をはいていた。
警視が顔を上げた。
「靴に泥がついとるな、エル」と、低い声で言った。エラリーがうなずいた。「大した目利きでもありませんよ」と、エラリーが「昨日《きのう》は一日じゅう雨で、たしか夜はどしゃ降りでしたよ。気の毒に、品のいい足が濡れたことでしょうね。そら、トーク帽のふちにも濡れたしみがありますよ──こりゃ、フレンチ夫人は、昨日は雨の中を出かけたんですね。大して重要じゃないが」
「どうしてだ」と、老人はきいて、そっと外套の衿《えり》をひろげた。
「おそらく、店へはいろうとして、歩道を渡る時に、帽子と靴が濡れたんでしょうからね」と、エラリーが返事した。「それはなんでしょう」
警視は何も言わずに、突然夫人の外套の下に手を突っ込み、薄い、はでな色どりのスカーフをひき出した。
「曰《いわ》くありそうだ」と、言いながら、そのガーゼのようなスカーフを手でひろげた。「ベッドから、ころがり落ちる時に、外套の中にすべり込んだんだろうな」
警視は思わず、あっと叫んだ。スカーフの端に絹糸で、頭文字が縫いとってあった。エラリーが、のめるように父の肩ごしに覗きこんだ。
「M・F」と、エラリーが読み、何も言わずに、すっと立って、眉をしかめた。
警視は室内の向かい側に立っている重役連の方へ頭を向けた。みんなより集まって、警視の一挙一動を注視していた。警視が振り向いたので、みんなはぎょっとして、あわてて顔をそむけた。
「フレンチ夫人のファースト・ネームは、なんというのかね」と、一同に向かって警視がきいた。みんなは、それぞれ自分にきかれたような気がして、すぐ、異口同音に「ウィニフレッド」と、答えた。
「ウィニフレッドだね」と、老人はつぶやいて、ふたたび死体に目をもどして、上から下まで眺めまわした。それから、灰色の目を、鋭く、ウィーヴァーに向けた。
「ウィニフレッドか」と、もう一度つぶやいた。ウィーヴァーが、機械的に首をもたげた。警視の手にある絹の布《きれ》を見て、はっとしたらしい。「ウィニフレッド──なにかね? ミドル・ネームか、イニシアルは?」
「ウィニフレッド──ウィニフレッド・マーチバンクス・フレンチです」と、ウィーヴァーが、どもりながら言った。
警視は軽くうなずいた。立って、サイラス・フレンチに歩みよった。フレンチは、不可解な目でぼんやりと警視を見つめていた。
「フレンチさん──」と、クイーン警視は、資本家の肩を、そっとゆすぶった。──「フレンチさん、これは奥さんのスカーフかね」と、スカーフをフレンチの鼻先に持ち上げた。「わしの言うことがわかるかね。このスカーフは奥さんのものかね」
「え? 私は──よく見せてくれたまえ」と、老社長は、スカーフを、いきなり警視の手からひったくった。そして、うつむきこんで、むさぼるように見ながら、ふるえる指で撫でたり、ぬいとりの頭文字を調べると──へたへたと椅子に坐り込んだ。
「奥さんのかね、フレンチさん」と、警視は、スカーフを取りもどしながら、重ねてきいた。
「ちがいます」ぶっきらぼうで、まるで無関心、無表情な答え方だった。
警視は黙り込んでいる他の連中の方を向いた。「だれかこのスカーフを知っとる者はおらんかね」スカーフを高くかかげた。なんの答えもなかった。警視は、もう一度、質問をくりかえして、ひとりひとりを睨みまわした。みんなの中で、顔をそむけたのは、ウェストリー・ウィーヴァーだけだった。
「そうか。ウィーヴァーだな。さあ、冗談じゃないぞ、若いの!」と、クイーン警視は、ぴしりと言って秘書の腕をつかんだ。
「M・Fという文字は、どういうんだ──マリオン・フレンチだな?」
若者は息をのんで、苦しそうな目をエラリーに向けたが、エラリーはあわれむように見返しただけで、ひとりごとをつぶやいているサイラス・フレンチ老人を眺めていた。
「あのひとは何も──何も関係がないんです!」と、ウィーヴァーは、むやみに手を振りまわしながら叫んだ。
「とんでもない──そんなばかな! まるで無関係です。信じてください、警視さん。あのひとは、とても立派で、まだ若くて、とてもそんな──」
「マリオン・フレンチ」と、警視はジョン・グレーの方を向いて「たしか、フレンチ氏の令嬢だね、ウィーヴァー君が、さっきそう言ったようだが」
グレーが、しぶしぶうなずいた。サイラス・フレンチが急に椅子から、立ち上がって、しわがれた声で呼んだ。「とんでもないことだ。ちがう。マリオンじゃない。マリオンじゃない」フレンチの目はもえ上がるようだった。そばにいたグレーと、マーチバンクスと、他の重役連が走り寄って、その震える体を押えた。発作《ほっさ》はじきにおさまって、フレンチは、崩れるように椅子に戻った。
クイーン警視は、ものも言わずに、死体の調査に戻った。エラリーも黙って、このちょっとした一幕を見物していた。その鋭い目を人々の顔から顔へ移して、何かを見抜こうとしていた。やがて、ぐったりとテーブルによりかかっているウィーヴァーに、大丈夫だよと目配せすると、かがんで、死んだ女のまくれたスカートにほとんど隠されていたものを、床からひろい上げた。
それは、濃い茶色の革の、小さなハンド・バッグで、W・M・Fと頭文字がついていた。エラリーはベッドの端に腰かけて、ハンド・バッグを両手でいじりまわした。そして、興味ありげに、小さな口金をつまみ上げて、中身を敷布の上にとり出して並べた。小さな小銭入れ、金色のバニティ・ケース、レース・ハンカチ、金色のトランプの箱。どれにもW・M・Fと頭文字がはいっていた。それから、最後に、彫りのある銀のケースの口紅棒をとり出した。
警視が目を上げて「何をしとるんだ?」と、鋭くきいた。
「仏さんのハンド・バッグ」と、エラリーが、小声で「調べてみたいですか?」
「調べてみたいか?」と、警視が、かっとして、むすこを睨みつけた。「エラリー、お前は、時々、癪《しゃく》にさわるぞ!」
エラリーは、微笑して、バッグを渡した。老人は手ばやく、バッグを調べた。それから、手をのばしてベッドの上に並んでいるものをいじりまわしてから、苦々しそうに手をひっこめた。
「目ぼしいものは、何もないな」と、警視は不満そうに「それに、わしは──」
「そうですか」と、エラリーは、わざと怒《おこ》らせるような言い方をした。
「というと?」と、父親は口調を変えて、バッグの中身をもう一度見直した。「財布、バニティ・ケース、ハンカチ、トランプ、口紅棒──目ぼしいものはない」
エラリーはみんなに見えないように、肩を張って、ベッドの上の品物を隠しながら、口紅棒をつまみ上げて、注意深く父親に渡した。老人は、不審そうに、受けとって、いきなり、あっといった。
「ね!──Cですよ」と、エラリーが小声で「どうですか」
口紅棒は太めで、長かった。口金にCという頭文字が模様風に彫ってあった。警視は呆れたようにじっと見つめていた。そして、いきなり室内の連中に何かきこうとしかけた時、エラリーが急いで、いけないという身ぶりをし、口紅棒を父の手からとりあげた。そして、頭文字のついている口金をまわしてあけ、管をひねって、赤い口紅を半インチほど押し出した。それから、女の死体に目を移した。ふたりは、何かに気がついて、目を輝かした。
エラリーは、すばやく父のそばに、ひざをついた。ふたりの体に、さえぎられて、何をしているのか、他の連中には見えなかった。「ちょっと、これをご覧なさい、お父さん」と、エラリーは低く言って、口紅を差し出した。老人が、いぶかしそうに見入った。
「毒でもまじっとるのか」と、警視が「まさか、そんなこと──分析もせんのに、どうして言えるんだ!」
「いえ、ちがいます」と、エラリーが相変わらず低い声で「色ですよ、お父さん──この色!」
警視は顔色を軟らげた。そして、エラリーの差し出す口紅の色と、女の死体の唇の色を見くらべた。論より証拠だった──唇の色はエラリーが手にしている口紅棒のものではなかった。唇の色は赤で、薄くてほとんどピンクに近いのに、口紅棒そのものは、真紅《しんく》に近かった。
「おい、エル──ちょっと貸せ!」と、警視は、口紅棒を受け取ると、すばやく、死んだ女の顔にその紅をぬってみた。
「ちがう、たしかだ」と、つぶやいた。警視はシートの端で、ぬった紅のあとを拭き消した。「しかし、どうしたわけだろうな──」
「たしかに、もう一本、他の口紅棒があるはずですね?」と、エラリーが、立ち上がりながら、そっと言った。
老人は女のハンド・バッグを、さっと取り上げて、あわてて、調べ直した。なかった。他の口紅棒は影も形もなかった。警視はジョンスン刑事を手招いた。
「ベッドか、この戸棚で何か見つけたか、ジョンスン」
「何ひとつありませんでした、警視」
「たしかだな? 口紅棒はなかったか」
「全然」
「ピゴッド! ヘッス! フリント!」
三人の刑事は捜査中の手をとめて、警視のもとに歩みよった。老人は同じ質問を三人にくり返した……答えはノーだった。刑事たちは、この室内で、めぼしいものは、何も見つけ出さなかったのだ。
「クルーサー! おい! クルーサー!」店の警備主任が駈けつけて来た。
「店の様子を見に行っていました」と、クルーサーが、きかれもしないのに言った。「万事うまくいっています──部下たちも、張り切ってやっています。まったく──ご用はなんでしょうか、警視」
「死体を発見した時、この辺で口紅棒を見かけなかったかね」
「口紅棒ですか。見ませんでしたよ。どっちにしろ、見かけても、手を触れなかったでしょうからね。みんなにも、何ひとつ手を触れないように命令したんです。その点は心得たものですよ、警視」
「ラヴェリーさん!」フランス人が歩み寄った。これもだめだ。ラヴェリーも、口紅棒は、てんで見かけなかったそうだ。もしやモデル女が──?
警視は八の字をよせて、エラリーを振り返り「おい、なんとも、おかしいじゃないか、エラリー? ここにいるだれかが、いまわしい口紅棒を、猫ばばでもしたかな?」
エラリーが微笑して「トム・デッカー〔十七世紀英劇作家〕の台詞《せりふ》にありますよ。[実直者は顔立ちがいい]そうです。だが、この台詞どうも、いただけないな、お父さん……よしましょう。口紅泥棒を捜そうと骨を折ってみても、無駄ですよ。もうじき、ぼくに、うまい考えが湧きそうですよ……」
「というと! エル──」と、警視がうなるように「どこかにあるとでもいうのか? だれもとらんというのか?」
「時が経てば否応《いやおう》なしにわかってきますよ」と、エラリーがおちつきはらって「だが、もう一度気の毒な仏の顔を調べてごらんなさい、お父さん──特に唇のあたりをね。口紅の他に、何か興味ある点に気がつきませんか?」
「え?」と、警視は驚いて死体に目を向けた。そして、そわそわと、かぎたばこ入れを探り、大まかにひとつまみとった。
「どうも、わしには、べつに──おやっ!」と、警視は口の中でつぶやいた。「唇は──塗りかけだぞ……」
「そのとおりです」エラリーは鼻眼鏡を指でくるくるまわした。
「死体を見た時に、すぐ、その点に気がついたんです。女盛りの美しいひとが、唇を半分塗りかけでやめるなんて、一体どんな事情にぶつかったんでしょうね」エラリーは口をつぐんで深く考え込んだ。その目は女の死体の唇に食い入っていた。上唇と下唇に口紅のピンク色がついていて、紅の塗られていない部分が、上唇に二か所、下唇のまん中に一か所、現われていた。紅の塗られてない部分の唇は、気味の悪いほど紫色で──死がむき出していた。
警視が疲れたように額をなでた時、ピゴッドが帰って来た。
「どうだ?」
「モデル女は気絶したそうです」と、刑事が報告した。「壁ベッドから死体が、ころがり出したとたんに。何にも目にはいらなかったそうです。口紅棒どころの騒ぎじゃなかったそうです」クイーン警視は、むっつりと黙りこんで、死体にシーツをかぶせた。
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八 守衛
ドアが開いて、ヴェリー部長が、目のすわった、黒い服の男を連れて来た。新しくはいって来たこの男は、丁寧に、警視に敬礼して、立って待っていた。
「ロバート・ジョーンズです、警視」と、ヴェリーが低く、早口に「この店の警備員のひとりで、信頼していい男です。ジョーンズは、ウィーヴァーに呼ばれて、今朝、重役会議中、ドアの外に立ち番していたそうです」
「どんな事情だった? ジョーンズ」と、クイーン警視がきいた。
「今朝十一時に、フレンチさんの部屋へ来るようにいわれました」と、警備員が答えた。「外に立って、会議中、だれも入れないように見張るようにいわれました。それで、命令に従って……」
「それで、そりゃ、だれの命令だね」
「ウィーヴァーさんが[電話]で命令したのだと思います」と、警備員が答えた。警視が目をやると、ウィーヴァーが大きくうなずいたので、話をつづけるようにと、身ぶりで合図した。
「私は命令に従って」と、ジョーンズが「会議のじゃまにならないように、音をたてずに部屋の外を巡回していました。そして、十二時十五分ごろまで、六階のあの部屋のわきの廊下にいたのです。その時、いきなり部屋のドアがあき、フレンチ氏と、重役さんたちとウィーヴァーさんが、とび出して来て、エレヴェーターで下へ降りました。みんな、ひどく興奮しているようでした……」
「フレンチ氏や、他の重役連や、ウィーヴァー君が、なぜ、そんなふうに部屋をとび出したか、その理由を知っとったかね」
「知りませんでした。申し上げたとおり、みんな興奮していて、私には目もくれませんでした。フレンチ夫人が亡くなられたことは、三十分ほどして店員のひとりが、そのニュースを報らせてくれるまで、何も知りませんでした」
「重役連は、部屋を出る時、ドアをしめたかね」
「ドアは自動式です」
「すると、君は、あの部屋にはいっとらんな」
「はい、そうです」
「今朝、見張りをしとった時に、だれか部屋に来た者はいないか」
「ひとりもいません、警視。重役さんたちが出て行ったあと、いま申し上げた男のほかは、だれひとり来ませんでしたし、その男も、ただニュースを知らせただけで、すぐ階下に戻って行きました。私は五分ほど前まで見張りをつづけていました。ヴェリー部長が刑事をふたり連れて来て交替させてくださるまで」
警視は何か考え込んでいた。
「すると、たしかに、あの部屋にはだれもはいらなかったんだな。ジョーンズ。非常に重要な点なんだが」
「はい、たしかです、警視」と、ジョーンズが、はっきり答えた。「重役さんたちが部屋を出たあと、見張りをつづけていたのも、あの状況のもとで、どうしたらいいかはっきりわからなかったからです。それに私は、何か変わったことがあった時には、そのままじっとしているのが安全だと、いつも思っているんです」
「結構なことだよ、ジョーンズ」と、警視が言った。「もういい」
ジョーンズは敬礼してから、クルーサーのところへ指令を受けに行った。店の警備主任は胸を張って、店内のやじ馬整理の手伝いをするように指令した。それで、ジョーンズは出て行った。
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九 守衛たち
警視は、急いでドアの所へ行き、一階売場にひしめき合っている群衆の頭ごしに見まわして「マッケンジー! マッケンジーはいるか?」と、大声で呼んだ。
「はい!」と、支配人の声が、遠くでかすかに聞こえた。「すぐ、参ります!」
クイーン警視は、かぎたばこ入れを、いじりながら、足早に、戻った。そして、茶目っぽい目で重役連を眺めていた。少し機嫌がよくなったらしい。深い悲しみにとざされて、まわりのことなど、目にも耳にもはいらない、サイラス・フレンチを除いて、陳列窓の中の一同は、少し怖《こわ》さを忘れて、いらだちはじめた。ゾルンは、厚い金時計をのぞいて見た。マーチバンクスは、むっつりと歩きまわった。トラスクは、一定の間をおいて、横を向いては、ポケットから取り出したフラスコのウィスキーを飲んだ。グレーは自分の白髪と同じような顔色になってフレンチの椅子の後ろに立っていた。
ラヴェリーは、冷静に、明るいもの問いたげな目で、警視と部下たちの行動を仔細に見守っていた。ウィーヴァーは、子供っぽい顔に、緊張の|しわ《ヽヽ》をよせて、心中の苦しみに耐えているようだった。そして、時々、エラリーの方へ、やるせないまなざしを投げて、どうしてもだめだとはわかっていながら、救いの手を求めるのだった。
「もう少しの辛抱ですぞ、諸君」と、警視が小さな手の甲でひげを撫で上げながら言った。「あと、一つ二つすることが残っとるから──それから、われわれは……ああ、君が、マッケンジーか。その連中が守衛かね。みんな入れてくれたまえ」
中年のスコットランド人は、おびえ顔で、手をもじもじさせている四人のかなり年輩の男を追い込むようにして、陳列窓にはいって来た。リッターが殿《しんが》りをつとめていた。
「そうです、警視さん。私はヴェリー部長さんの指令で、使用人を調べていたんです」
マッケンジーは、四人の男を前へ出るように手で合図した。四人は、ためらいがちに、足をひきずって、もう一歩前へ出た。
「君たちの中で、だれが夜番の主任だね」と、警視がきいた。
肉付きのいい顔立ちで、澄んだ目をした、かっぷくのいい老人が、額を撫でながら前へ出た。
「私です──ピーター・オフラハティと申します」
「君は、昨夜、勤務についとったかね、オフラハティ」
「はい。就いていました」
「何時に就いたかね」
「定刻です」と、守衛が「五時半です。三十九丁目側の夜警詰所の机で、オシェーンと交替しました。ここにいるふたりが──」と、|たこ《ヽヽ》のできている太い人差指で、後のふたりを指差し──「私と一緒に来ました。昨夜は私と一緒の組でして」
「そうか」と、警視は、ちょっと中休みして「オフラハティ、何がおこったか知っとるかね」
「はい。聞きました。いやなことですよ、警視さん」と、オフラハティが、まじめ顔で答えた。そして、サイラス・フレンチのしおれた姿をちらりと盗み見して、まるで悪いことでもしたかのように、あわてて警視の方へ顔を振り向けた。相棒たちもオフラハティの視線を追って、また、まったく同じ恰好で警視の方を向いた。
「君は、フレンチ夫人を見てわかるかね」と、警視が、小さな鋭い目で、その老守衛をじろじろ見ながらきいた。
「わかります」と、オフラハティが「奥さんは、フレンチさんが居残っておられると、時々、閉店後に店へ来られました」
「たびたびか」
「いいえ。ほんのたまのことです。でも、私はちゃんと奥さんを知っておりましたです」
「ふーん」と、クイーン警視は、少し調子をゆるめて「ところで、オフラハティ、慎重に答えるんだぞ──それに正直に、証人台に立っとるつもりで真実を述べるんだ。──君は昨夜、フレンチ夫人を見かけたかね?」
部屋の中がしんとなった──その静けさの中で、みんなの鼓動が高まり、脈が早くなるようだった。みんなの目が、老守衛のしみだらけな広い顔に集まった。オフラハティは、いくども唇をなめて思い出そうとしているようだったが、やがて肩をそびやかせた。
「はい、見かけました」と、かすかに舌打ちしながら言った。
「何時に?」
「ちょうど、十一時四十五分でした」と、オフラハティが「ご承知のように、閉店後は、店の出入口は夜間口だけになっているんです。他のドアや出入口は全部、しめきられるのです。三十九丁目側の使用人出入口だけがひとつあいているきりです。このビルに出入りするには、あそこを通るしかないのです。私は──」
エラリーが急に動き出したので、みんないっせいにそっちを見た。エラリーはオフラハティの機嫌をとるように微笑した。
「すみません、お父さん。ちょっと思いついたことがあるものですから……オフラハティ君、君はたしか、閉店後、この店にはいる道はひとつきりだと言ったね──使用人出入口だと?」
オフラハティは、剃《そ》りあとの青いあごをもぐもぐさせて考えていた。
「むろん、そうですよ」と言い、「何か間違っていますか」
「ちょっとね」と、エラリーは微笑して「三十九丁目側に、夜間貨物口があると思うんだが、その点だけがね……」
「ああ、そのことですか」と、老守衛は鼻を鳴らして「ありゃ、出入口とは言えませんよ。ほとんどいつもしめきりです。だから、私が言ったように──」
エラリーがすんなりした手を上げて、さえぎった。「ちょっと、オフラハティ君、君の言う[いつもしめきり]とは、そりゃ、どういう意味かね?」
「それがです」と、オフラハティは頭の後ろを掻きながら「夜の十一時から十一時半以外は、一晩じゅう、ぴっちりしめきってあるんです。それで、出入口の勘定に入れにくいんです」
「そりゃ、君の考え方だ」と、エラリーが理屈っぽく言った。「当然、そこに、特別の夜番が詰めているにちがいないと思うんだがね。そりゃ、だれだね」
「あそこの、ブルームです」と、オフラハティが「ブルーム、おい、前へ出て、この旦那に面《つら》をお見せしろ!」
赤毛で、白髪まじりの、がっちりした中年者のブルームが、おどおどと前へ出た。
「私です」と、ブルームが「昨夜は、私の貨物口には異常はありませんでしたぜ。それがお知りになりたいならね……」
「なかったって?」と、エラリーが鋭く見つめながら「貨物口を十一時から十一時半まであけておく正確な理由は?」
「肉や野菜なんかの食品を搬入するためです」と、ブルームが答えた。「店の食堂で毎日、とても大量に使いますし、それに店員食堂もありますからね。毎晩、新しく仕込むんです」
「トラックの運転手はだれだ?」と、警視が口をはさんだ。
「バックレー・エンド・グリーン社の男です。毎晩、同じ運転手が、荷を下ろしていきます」
「そうか」と、警視が「書いとけ、ヘイグストローム。それから、トラックの連中を尋問する件もメモしといてくれ……他に何かきくことがあるか、エラリー」
「ええ」と、エラリーは、また赤毛の夜番の方を向いて「毎晩、バックレー・エンド・グリーンのトラックが着くと、どんなふうにするのか話してくれないか」
「へえ。私は十時に仕事に就きます」と、ブルームが「毎晩十一時に、トラックがやって来て、運転手のジョニー・サルヴァトーレが貨物口の扉の夜間ベルを押すんです……」
「貨物口の扉は五時半以後はずっとしめきってあるんだろ」と、支配人のマッケンジーが口を出した。
「十一時にトラックが着くまで、けっしてあけません」
「それから? ブルーム君」と、エラリー。
「ジョニーがベルを鳴らすと、私が扉の掛け|がね《ヽヽ》をはずします──扉は鉄板で──まき上げるのです。すると、トラックがはいって、マリノが荷を下ろし、包みを解いて貯蔵所へ運ぶんです。その間、ジョニーは私と一緒に、扉のそばの詰所で、荷を調べるんです。調べがすむと、連中がトラックを外に出し、私は扉をまき下ろし、錠をかけて、あとは一晩じゅう、詰所にいるんです」
エラリーが考えながら「荷を下ろしている間は、扉はあけたままなんだね」
「そうですよ」と、ブルームが「たった三十分ばかりだし、私たちの目にふれずには、だれも入れやしませんからね」
「たしかにそうかね?」と、エラリーが鋭く「保証するかね。誓うかね、君」
ブルームがたじろいだ。「そりゃ、そんなことがあるなんて、てんで考えられませんよ」と、自信なさそうに「マリノが荷を下ろしているんだし、私とジョニーは、扉のすぐそばの詰所にいるんですからね……」
「貨物室の電灯はいくつついているかね」と、エラリーがきいた。
ブルームは困り顔で「そりゃ、トラックの停《とま》る上に大きな電灯がひとつと、私の詰所に小さなのがひとつ、それにジョニーはトラックのヘッドライトをつけっぱなしです」
「貨物室の広さは、どのくらいかね」
「奥行約七十五フィート、間口約五十フィートです。店の急用トラックも、夜はそこに、駐車してあります」
「詰所と、トラックが荷を下ろす場所は離れているのかね?」
「積み下ろしは、ずっと奥の、調理場の落し場のそばで、詰所の後ろの方です」
「すると、その広い暗がりに、電灯はたったひとつというわけだな」と、エラリーがつぶやいた。「詰所には囲いがあるんだろうね」
「囲いはありますが、貨物室の中の方へ向いて、ガラス窓があいてます」
エラリーは鼻眼鏡をいじっていた。
「ブルーム君、君に見られずに、入口を通って、貨物室にはいった者はひとりもいないことを、たしかに君は誓うかね」
ブルームは弱々しく微笑して「そうですね」と、言った。「絶対とは誓えませんね」
「昨夜、貨物口の扉があいていて、君とサルヴァトーレが詰所で荷物を調べている間に、だれかはいってくるのを見かけなかったかね」
「いいえ、見かけませんでした」
「だが、だれかがはいったはずだよ」
「私──私も、そんな気がしてきます……」
「もうひとつきくが」と、エラリーがご機嫌で「貨物の運搬は、毎晩、正確に同じ時刻に行なわれるのかね?」
「そうです。私の知っている限りでは、ずっとそうでした」
「もうひとつ、気にさわったら許してくれたまえ。昨夜、君は十一時半に、すぐ貨物口の扉に錠をおろしたかね?」
「すぐやりました」
「一晩じゅう、扉のそばを離れなかったかね?」
「はい扉のすぐそばに、腰かけていました」
「異常はなかったんだね。不審なものは、何も見聞きしなかったんだね?」
「ええ、そうです」
「もしかして──だれかが──あの扉から──建物を──出て──行こうと──したら」と、エラリーは、はっきりと一語一語に力を入れて言った。「それを君は必ず見るか聞くかすると言うんだね」
「まちがいなしです」と、ブルームは弱々しく答えて、マッケンジーの方へげんなりした目を向けた。
「それで結構」と、エラリーがゆっくり言って、無造作にブルームに手を振った。
「じゃあ、次の尋問を進めてください、お父さん」それから、エラリーは、ノートに何かを忙しく書きこみながら、引き退《さが》った。
警視は、ふたりのやりとりを聞いているうちに、だんだんわかって来たぞという顔になり、ひとつ、ため息をして、オフラハティに向かって「昨夜、十一時四十五分ごろ、フレンチ夫人がこの建物にはいったと、言ったが。それから、どうしたね? オフラハティ」
夜番の頭《かしら》は、少しふるえる手で額を撫で、エラリーの方を、いぶかしげに眺めてから、ぼつぼつと、話しはじめた。
「それがです。私は一晩じゅう、詰所の机に坐っていて──一度も立ちませんでした。その間に、ここにいるラルスカとパワーズが、一時間ごとに見廻りました。それが私の任務なのです──その他に、超過勤務した幹部の人たちなんかを、控えておくんです。そうなんですよ。それで私は──」
「おちついて話せよ、オフラハティ」と、警視が興味深げに「フレンチ夫人が着いた時のことを、正確に聞かせてくれ。たしかに、十一時四十五分なんだな?」
「たしかです。私は机のそばの、タイム・クロックを見たんです。来訪者の名を全部、夜勤簿に書いておかなければならないんでね……」
「おお、夜勤簿があるのか」と、クイーンがつぶやいて「マッケンジー君、昨夜の夜勤簿がほしい、すぐ持って来てくれんか? 使用人たちの報告はあとでいいから」マッケンジーがうなずいて、出て行った。「いいよ、オフラハティ、それから?」
「へえ。ホールの向こうの夜間出入口にタクシーが停まって、奥さんが降りるのが見えました。。奥さんは運転手に料金を渡して、ドアをノックしなさった。私は顔をたしかめて、急いでドアをあけましたよ。奥さんは元気よく今晩はと言いなさって、サイラス・フレンチさんが、まだ、ビルの中にいなさるかと、おききになりました。いいえ奥さん、社長さんは、夕方ちょうど私が仕事に就いた時に、書類鞄を持ってお帰りになりましたよと、お答えしたんです。奥さんは、ありがとうと言って、ちょっと考えてから、ともかく、フレンチさんのお部屋へ上がってみると、おっしゃって、詰所から、専用エレヴェーターの方へ歩いて行かれました。そのエレヴェーターは、フレンチさんのお部屋に上るときだけ使うのです。それで私は、奥さんに、だれか給仕を呼んで、エレヴェーターを運転させて、お部屋のドアをあけさせましょうかときいたんです。すると、奥さんは、いいえいいわと、丁寧におっしゃり、鍵があるかどうかを探すように、しばらく、ハンド・バッグを掻きまわしておられました。さよう、鍵はお持ちでしたよ──バッグから、つまみ出して、私にお見せになったからね。それから、奥さんは──」
「ちょっと待った、オフラハティ」と、警視が腑に落ちない顔で「夫人は私室《アパート》の鍵を持っていたと言ったな? どうして、それがわかったのだ?」
「それですが、警視さん、フレンチさんのお部屋の鍵はきまった数しかないんですよ」と、オフラハティは、少し得意になって「私が知っている限りでは、サイラス・フレンチさんが一個、奥さんが一個、マリオン嬢さんが一個、バーニス嬢さんが一個、持っているんですよ──なにしろ、私はここに十七年も勤めているんですから、家族のみなさんをよく知ってるんでさあ──それから、ウィーヴァーさんが一個と、詰所の私の机の中に、親鍵が一個、いつも置いてあるんです。全部で六個です。親鍵は万一の場合に使うやつなんです」
「フレンチ夫人は、君の詰所を出る前に、鍵を見せて行ったと、言ったな? オフラハティ。それが、フレンチ氏の私室《アパート》の鍵だと、どうしてわかったのかね?」と、警視がたたみこんだ。
「なんでもないことでさ、警視さん。いいですか、どの鍵も──イェール特製の鍵で──どれにも、持ち主の頭文字を入れた飾りがついているんです。フレンチ夫人が見せた鍵にも飾りがついていました。それに、あの鍵には見覚えがあるし、たしかに、まちがいありませんよ、絶対に」
「ちょっと待った。オフラハティ」と、言い、警視はウィーヴァーの方を向いて「そこに、私室《アパート》の鍵を持っとるかね? ウィーヴァー君。ちょっと、見せてくれんか?」
ウィーヴァーは、チョッキのポケットから革の鍵ケースを出してクイーン警視に手渡した。いろんな鍵の中に、つまみの小さな穴に、小さな金色の丸い札をつけたのがあった。その机にW・Wという頭文字が彫ってあった。
警視がオフラハティを見て言った。
「こんな鍵かね?」
「それと、全く同じやつです」と、オフラハティが「頭文字が違うだけです」
「なるほど」と、クイーン警視が、鍵ケースをウィーヴァーに返しながら「ところで、オフラハティ、先を続ける前に、ひとつ答えてくれ──君が持っているあの私室《アパート》の親鍵は、どこに置いとるのかね?」
「机の中の特別|抽《ひ》き出しです。夜も昼も、いつもそこに置いてあります」
「昨夜も、その場所にあったかね?」
「はいありました。いつも必ず調べてみます。たしかにありました──たしかに親鍵でした。まちがいありません。名札もついてるんです。[親鍵]ってね」
「オフラハティ君」と、警視が穏やかにきいた。「たしかに一晩じゅう、机についていたんだね。詰所を全然離れなかったんだね」
「はい」と、老夜番が語勢を強めて答えた。「五時半に詰所にはいってから、今朝八時半にオシェーンと交替するまで、一歩も離れませんでした。私は勤務時間がオシェーンより長いんです。というのは、やつのほうが、従業員の出勤を調べたりなんかで、担当の仕事が多いもんですからね。机を離れないようにするために、私は家から弁当を持って来るんですよ、熱いコーヒーまで魔法びんに詰めてね。だから、離れるなんてことはありません。一晩じゅう詰め切っていました」
「わかった」クイーン警視は頭を振って、眠気を払い、先をつづけるようにと、守衛に手で合図した。
「それで」と、オフラハティは「フレンチ夫人が詰所を出て行かれた時、私は椅子から立ってホールへ出て見送りました。夫人はエレヴェーターに行き、ドアをあけて乗りこみました。私が夫人を見たのは、それが最後です。夫人が上がったきり降りて来ないのに気がつきましたが、私はなんとも思っていませんでした。というのは、夫人が階上のフレンチさんの私室《アパート》で夜を過ごされるのは度々《どど》のことでしたからね。昨夜も、てっきり、お泊まりになったものと思っていました。私の知っているのは、これで全部です」
エラリーがそわそわした。そして、死んだ女のハンド・バッグをベッドから取り上げて、夜番の目の前で振ってみせた。
「オフラハティ」と、めんどくさそうにきいた。「君はこのバッグを前に見たことがあるかね」
夜番が答えた。「はい、もちろんです。昨夜フレンチ夫人が持っていたのは、そのバッグですもの」
「すると、このバッグから」と、エラリーが、穏やかに追求した。「名札のついている鍵をとり出したのかね」
夜番はへどもどして「もちろん、そうですよ」
エラリーは、その答に満足したらしく、バッグをベッドに放り出して、父親に何か耳打ちした。警視は眉をしかめて聞いていたが、やがてうなずいた。そして、くるりと、クルーサーの方を向いた。
「クルーサー。三十九番街側の詰所へ行って、親鍵を持って来てくれんか」クルーサーは元気よく返事して出て行った。
「じゃあ、次に」と、警視は、死体からみつけた、M・Fと頭文字のついているはでなスカーフを、つまみ上げて「オフラハティ、昨夜、フレンチ夫人がこれを着けていたのを覚えとるか? よく考えてくれ」
オフラハティは、ぺらぺらの絹布を、太いごつごつの手にとって、と見こう見していたが、額に八の字をよせて、「そうですね」やがて、ためらいがちに「たしかとは言えませんがね。フレンチ夫人がこれをかけていたようでもあるし、かけていなかったようでもあります。いや、どうも、はっきりしません。だめです」そう言いながら、どうにもしようがないという身ぶりで、スカーフを警視に返した。
「はっきりせんのか」と、警視は、スカーフもベッドに放り出して「昨夜は、何も異状はなかったかね。警報も鳴らなかったのか」
「はい。もちろんご存じでしょうが、店にはすっかり防犯装置ができとります。昨夜は、教会みたいに静かでした。私の知る限りでは、何も異状はありませんでした」
クイーンが、ヴェリー部長に「トマス、盗難予防協会に電話して、昨夜はなんの報告もなかったかどうか、聞いてみてくれ。たぶんないだろう、あれば今ごろまでには、われわれの耳にはいっとるはずだからな」ヴェリーは例のごとく、黙って出て行った。
「オフラハティ、君は昨夜は、フレンチ夫人がビルにはいったところしか見かけなかったんだな。一晩じゅう、ほかにはだれもはいって来なかったんだな」と、警視が続けた。
「そうです。ほかには、絶対にひとりもはいりませんでした」オフラハティは、スカーフについてはあいまいだったのに、この点をいやに強調するように見えた。
「やあ、ご苦労、マッケンジー。その勤務表をこっちへ見せてくれ」
クイーン警視は、細長く巻いた紙の筒を持って戻った支配人から、勤務表を受けとった。そして、急いで目を通した。何かがその目にとまったらしい。
「君の書き込んだ表を見ると、オフラハティ」と、警視が「昨夜は、ウィーヴァー君と、スプリンジャー君が、最後に店を出とるね。この印は君がつけたんだろう?」
「はい、そうです。スプリンジャーさんが出たのは七時十五分前ぐらいで、ウィーヴァーさんはそれから二、三分経ってからでした」「そのとおりかね、ウィーヴァー」と、警視が秘書を振り向いてきいた。
「はい」と、ウィーヴァーは感情のない声で答えた。「昨夜は、いつもより少しおそくまで居残りしました。今日の会議のために、フレンチさんの書類を準備したんです。それから顔を剃って、……七時ちょっと前に帰りました」
「このスプリンジャーというのは?」
「おお、ジェームス・スプリンジャーは書籍売場の主任です、警視」と、マッケンジーが、穏やかな口調で「時々居残りします。非常に良心的な男です」
「そうか、そうか。ところで──君らだが」と、警視は、まだ一語も口をきかなかったふたりの夜番を指さして「何か言うことはないかね。オフラハティの話に、つけ加えることは? 一度にひとりずつだ……君の名は?」
ひとりの守衛が神経質に咳ばらいして「ジョージ・パワーズです、警視さん。いいえ、私には何も申しあげることはありません」
「巡回中に、何も異状はなかったんだね。君は店の、この辺を見廻るのかね」
「はい、そうです。私の巡回中は万事OKでした。いいえ、私は一階売場は見廻りません。そりゃ、ラルスカの受け持ちです、ここは」
「ラルスカか。そうか。君のファースト・ネームは? ラルスカ!」
三人目の守衛が、いきごんで「ハーマンです。ハーマン・ラルスカです。私の考えでは──」
「ほう、何か考えがあるのか」と、クイーン警視は振り向いて「ヘーグストローム、もちろん、これも書いておけよ」
「はい、警視」と、刑事はにやりとして、ノートに気ぜわしく鉛筆を走らせた。
「さて、ラルスカ、何か考えついたんだな、きっと重要なことだろうな」と、警視がぴしりと言った。また、ご機嫌ななめになりかけて「どんなことなんだ!」
ラルスカはこちこちになって「昨夜、一階売場で変な音がしたように思うんです」
「ほう、変な音がしたか。正確に言って、どの辺で、した?」
「ちょうどここでした──この陳列窓の前でです」
「そうか」と、クイーン警視は、ひどくおちつきこんで「この陳列窓の前か。いいぞ、ラルスカ。どんな音だった?」
守衛はクイーン警視の穏やかな声で、多少、元気をとりもどした。
「ちょうど、午前一時ごろでした。ちょっと前だったかもしれません。その時、私は店の五番街と、三十九丁目側の売場の近くにいました。ここの、この窓は、五番街に向いていて、詰所からは、かなり離れています。私は、変てこりんな音を聞きました。なんの音か、さっぱりわかりませんでした。だれかが動きまわっている音かもしれないし、足音か、ドアをしめる音かもしれませんでした。──全く、聞き分けられませんでした。ともかく、私は大して気にもしませんでした。──だれだって、夜番などをしていると、しもしなかった音が聞こえるような気がすることがあるもんですよ。……でも私は、音のした方へ行って調べてみました。何も異状がなかったので、気のせいだったなと思ったんです。陳列窓の二つのドアまで調べたんですからね。二つとも、完全に錠が下りていました。むろん、このドアも調べました。それで、詰所に寄って、ここにいるオフラハティに報告してから、見廻りに出て行きました。それだけです」
「おお」と、クイーン警視は、ちょっと失望したらしく「すると、どこから音が聞こえたか、はっきりせんのだね──もし、本当に音がしたとしても」
「それがです」と、ラルスカが慎重に答えた。「もし音がしたとすると、やっぱり、この売場の、この大きな外向きの陳列窓の辺からでした」
「その他には、一晩じゅう、何もなかったかね」
「はい、ありませんでした」
「結構、君ら四人はこれでもういい。家へ帰って寝不足をとりかえしていいよ。今夜は、またいつもどおりに、出勤するんだろう」
「はい、警視さん。では──」と、守衛たちは陳列窓から姿を消した。
警視は勤務表を手で振りまわしながら、支配人のほうに「マッケンジー君。君はこの勤務表を調べてみたかね」
スコットランド人の支配人が答えた。「はい、警視さん。──おたずねがあるかもしれないと思って、途中で調べて来ました」
「結構だ! マッケンジー君、君の調べでは? 昨日は店の従業員は全員、規定どおり記入されとるかね」クイーン警視は、何気ない顔できいた。
マッケンジーはなんのためらいもなく「ご覧になればわかるように、各部ごとに──簡単な記入方法をとっております。……昨日店に出勤していた者はみんな記入してあります。まちがいありません」
「幹部や重役連中も含んどるかね」
「はい、はいっています。──規定の場所に、みんなの名が書いてあります」
「結構──結構」と、警視が何か考えながら「欠勤者のリストを忘れんでくれたまえ、マッケンジー」
この時、ヴェリーとクルーサーが一緒に戻って来た。クルーサーが警視に、ウィーヴァーの持っているのと、全く同じ鍵を手渡した。それには、オフラハティが言ったとおり、つまみに、[親鍵]と彫ってある小さな丸い金の札が着いていた。ヴェリー部長は、盗難予防協会へ問い合わせたが、昨夜は何事もなかったと報告した。夜の間には、何も変わった事件がおこらなかったというのである。
警視は、もう一度、マッケンジーの方を向いて「オフラハティは信用できる男かね」
「絶対忠実です。フレンチさんのためなら命も投げ出しますよ、警視」と、マッケンジーは親身になって「店で最古参の従業員ですし──ずっと昔からフレンチさんを知っている男です」
「そのとおりです」と、クルーサーも口を添えて、自分の意見も採用してもらいたいといわんばかりだった……
「ちょっと思いついたが……」と、クイーン警視は、マッケンジーに向き直って、改めてきくというふうに「フレンチ氏の私室《アパート》は、どの程度個人的なのかね。フレンチ氏の身内と、ウィーヴァー君のほかに出入りできるのはだれだれかね?」
マッケンジーは、ゆっくりと、あごを撫でながら「ほかの者はほとんど出入りできませんでした、警視さん」と、答えた。「もちろん、定期の重役会は、社長の私室《アパート》で開かれて、会議や経営上の相談が行なわれていました。だが、あの私室《アパート》の鍵はオフラハティが申しあげた人たちだけが持っていたのです。実際、われわれのほとんどが、社長の私室《アパート》のことは、さっぱり知らないのです。私がこの店に勤めましてから、十年ほどになりますが、その経験からいっても、あの私室《アパート》にはいったおぼえは、六回もないんですからね。そうそう、つい先週、社長は店のことで特別指令をするために、私をあの私室《アパート》に呼ばれました。他の従業員たちとなりますと、──そう、社長はご自分の私生活を、絶対、みんなには知らせない方《かた》です。週に三回、オフラハティがドアをあけて掃除女《そうじおんな》を入れてやり、掃除が終わって帰る時に出してやるほか、店の従業員はだれひとりとして、あの私室《アパート》に出入りしたり、しばしば訪れたりできる者はいません」
「そうか、わかった。私室《アパート》か──結局はあの私室《アパート》を洗わにゃならんな」と、警視はつぶやき「おい、ここで調べることは、もうほとんどなさそうだ。……エル。お前、どう思う?」
エラリーは父親を眺めながら、いつにない激しさで、鼻眼鏡をくるくるまわしていた。その目の底に、困惑の色が沈んでいた。
「どうだ? どう思う? ですって」と、エラリーは、いらだたしそうに微笑した。「ぼくの推理機能は、この三十分ぐらい、やっかいな問題に取り組んでいるんですよ」と、唇を噛みしめた。
「やっかいな問題? なんだ?」と、父親は、目を細くして「わしは、はっきり考えてみるひまもなかったのに、お前ときたら、問題があるなんて言い出すんだからな!」
「ほかでもありませんがね」と、エラリーは、はっきりと、だが他の連中には聞きとれぬほど低い声で「フレンチ夫人の持っていた、ご亭主の私室《アパート》の鍵が、なぜ失くなったかということなんですよ」
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十 マリオン
「大した問題じゃない」と、クイーン警視が「どうしても鍵を見つけなければならんわけでもあるまい──さしあたり。わしには、それほど重要なこととも思えんが」
「|Alors《アロール》(じゃ)──それはそれとしておきましょう」と、エラリーは微笑しながら「ぼくは、少しでも手を抜くのがきらいなんですよ」
エラリーは引き退って、チョッキのポケットのシガレット・ケースを探った。父親はむすこをじっと見つめていた。エラリーは、めったにたばこを喫《す》わないほうだった。
この時、ひとりの警官が陳列窓のドアをさっとあけて、警視のところへ歩み寄った。「外に、マリオン・フレンチと名のる若い娘が来て、ウィーヴァーさんに面会したいそうです」と、かすれ声でささやくように「警官とやじ馬とに、肝をつぶしています。整理係がひとりついています。どうしましょうか、警視」
警視が目を細めて、ちらりとウィーヴァーを見た。秘書には、警官の低い言葉が聞きとれなかったはずなのに、その報告の内容を感づいたらしく、すぐ前に進み出た。
「失礼ですが、警視さん」と、ウィーヴァーが熱っぽく「もし、フレンチ嬢なら、すぐ行ってあげたいんです。よろしいでしょうか。それに──」
「いい勘だな」と、警視が、急に大声で言って、笑顔になった。「そうだ。そうそう──ついて来たまえ、ウィーヴァー君。フレンチ嬢に紹介してもらおうじゃないか」
警視はヴェリーを振り向いて、きびしい声で「トマス、あとをたのむぞ。だれも出しちゃならん。すぐ戻ってくる」
生き返ったようなウィーヴァーを先に立てて、警視は陳列窓を出ていった。
ふたりが一階売場に足をふみ入れると、すぐにウィーヴァーが突然走り出した。小さく、ひとかたまりになった刑事や警官の中に、ひとりの若い娘が身を固くして立っていた。娘の顔からは血の気が引き、その目は口に出せぬ恐怖に、おののいていた。ウィーヴァーの姿を見かけると、娘はおびえた叫び声をあげて、ふらふらと進み出た。
「ウェストリー! 一体、何があったの? このおまわりさんと──刑事さんたち──」
マリオンは腕を差しのべて、警官や警視がにやにや見ている中で、ふたりは抱擁《ほうよう》した。
「スウィート・ハート! しっかりしなくちゃいけないよ……」と、ウィーヴァーは、とりすがるマリオンの耳に、一生懸命にささやいた。
「ウェス──教えて。だれなの? まさか?」と、マリオンは身を引いて、恐怖にみちた目で「まさか──お母様が、ウィニフレッドが」
ウィーヴァーがうなずく前に、マリオンは相手の目の色を読みとっていた。
警視が、きゃしゃな体で、ふたりの間に割ってはいった。「ウィーヴァー君」と、にこにこしながら「よかったら、ひとつ──」
「あっ、そう、そう」と、ウィーヴァーは、急いで娘からはなれて、身をひきながら、ちょっと、自分のうかつさにびっくりしているようだった。警視に割り込まれて、やっと気がついたのだ。それまでは、場所がらも、時も所も忘れていたのだ。……「マリオンさん、こちら、リチャード・クイーン警視。警視さん──こちらはフレンチ嬢、ご紹介します」
クイーン警視は、差し出された小さな手をとって、おじぎした。マリオンは、お座なりの挨拶《あいさつ》をのべながら、大きな灰色の目を見ひらいて、ひどく興味深げに、自分の手をとっておじぎしているまっ白な口ひげの紳士を、じっと見つめた。
「捜査中ですのね──犯罪事件ですか、クイーン警視様」と、口ごもりながら、身を引いてウィーヴァーの手にすがりついた。
「お気の毒です、お嬢さん」と、警視が「こんないやな目にあわれて、なんとも、どうも──どう言ってよいか」
ウィーヴァーは、憎悪《ぞうお》にもえながら、警視を睨んでいた。この古狸《ふるだぬき》め! これからどうなるか知ってるくせに!……警視は、ぬけぬけと、猫撫で声で「義理のお母さんです。お嬢さん──むごたらしい殺されかたで。おそろしい、ひどいことです」と、おせっかいな婆《ばば》っ鶏《とり》のように、舌打ちした。
「殺された!」と、娘はしゅんとなった。ウィーヴァーとつないでいる手をいっそう握りしめたがすぐ力がなくなった。その瞬間、ウィーヴァーも警視も、娘が失神すると思い、思わず前へのり出した。しかし娘はよろめいて、あとじさりしただけだった。
「いいえ──大丈夫よ」と、つぶやいた。「まあ──ウィニフレッドが! お母様もバーニスも昨夜は家をあけたのよ──ひと晩じゅう。……」
警視はちょっと緊張した。そして、かぎたばこ入れを、手さぐった。「バーニスとか、おっしゃったね、お嬢さん」と、警視は「夜番も、さっき、その名を出したが……お姉さんかね?」と、機嫌をとるようにきいた。
「おお──どうしたら──おお、ウェス、私を連れてって! どこかへ連れてって!」と、娘はいきなりウィーヴァーの上着の衿に顔を埋めた。
ウィーヴァーが、マリオンの頭の上で言った。「全く無理もない話なんですよ、警視。家政婦のホーテンス・アンダーヒルが、今朝、会議中に、電話で、奥さんもお嬢さんのバーニスさんも、昨夜は家にいなかったと報らせてきました。……ですから、むろん、おわかりでしょうが、マリオン──いや、フレンチ嬢は……」
「うん、うん、なるほど」と、クイーン警視は微笑しながら、娘の腕に手をかけた。マリオンは、はっと驚いた。
「こっちへ来てくれるでしょう、お嬢さん──? 勇気を出してください。あなたにたのみたいことがある──見てもらいたいものがある」
警視は返事を待っていた。ウィーヴァーは怒りをこめて警視を睨んだが、勇気づけるように娘の手をしっかりとって、よろめきながら、陳列窓の方へ引いて行った。警視は、そのあとからついて行きながら、近くの刑事に手で合図した。刑事は三人が陳列窓にはいるとすぐ、ドアの外に陣取った。
ウィーヴァーがマリオンをかばいながら陳列窓にはいると、人々はちょっとざわめいた。フレンチ老人まで、|おこり《ヽヽヽ》にかかったように身ぶるいし、ちょっと正気づいたような目の色で娘を睨んだ。「マリオン、お前は!」と、フレンチが、おどろくような声で叫んだ。
マリオンはウィーヴァーをふりほどいて、父親の椅子の前に、へなへなと膝をおとした。だれも口をきく者はなかった。みんな不安な目をそらした。父娘は互いにすがりついた……
死んだ女の兄、マーチバンクスが死体のある部屋にはいってから、初めて口をひらいた。
「じつに──ひどい!」と、マーチバンクスは、怒って、ゆっくりと言い、血走った目で警視とエラリーを睨みながら、片隅から背を丸くしてのり出して来た。「こんなことは──やめさせて──やるぞ」
警視がヴェリーに合図した。たくましい部長は、のしのしと部屋を横ぎって行き、両手を下げたまま、無言で、マーチバンクスに立ちはだかった。堂々とした大男のマーチバンクスも、この巨人刑事を前にしては、さすがに尻ごみした。そして、顔を赤らめ、何かぶつぶつ言いながら、後退した。
「さて」と、警視は冷静な声で「フレンチのお嬢さん。二、三質問をさせてもらいます」
「ちょっと申しあげますが、警視さん」と、ウィーヴァーが、エラリーがよせと指で合図したにもかかわらず、警視に抗議した。「こんなことは、絶対に必要なんですか──」
「どうぞ質問していただくわ」と、娘が静かな声をかけて立ち上がった。その目は少し赤くなっていたが、澄んでおちついていた。父親のほうは、また椅子にへたりこんだ。娘のことはもう、忘れてしまっていた。マリオンは、部屋の隅から熱心に見つめているウィーヴァーに弱々しくほほえみかけた。しかし、片隅のベッドのそばにシーツをかけてある死体からは、顔をそむけていた。
「お嬢さん」と、警視が、死んだ女の着衣から見つけ出したガーゼのような布を、マリオンの目の前で振りながら、ぴしりと言った。「これは、あなたのスカーフかね」
マリオンの顔が青ざめた。「そうです。どうしてこんな所に?」
「それを」と、警視はおだやかに「わしもぜひ知りたい。ここにあるわけが説明できるかね」
娘の目が光ったが、ひどくおちついた口調で「いいえ、できませんわ」
「お嬢さん」と、警視は、ひと息ついて続けた。「あなたのスカーフは、フレンチ夫人の外套の衿《えり》の下で、首にまきついていたのです。何か思い当たることはないかね──うまく説明できそうなことが」
「首にまきついていたのですって!」と、マリオンは、息をのみ「私──私には、さっぱりわかりませんわ。母は──母はそんなこと、今まで一度もしたことがありませんもの」と、マリオンは心細げにウィーヴァーを見やった。そして目を上げると、エラリーと視線が合った。
ふたりはちょっと、どぎまぎして見合っていた。エラリーは、そのすらりとした娘の煙るような髪と、深い灰色のひとみを見てとった。その若いからだの線も、わざとらしくない清潔さをたたえていて、ウィーヴァーのためにうれしく思った。顔の表情にも、素直さと意志の強さがあらわれていた──正直そうな目、しっかり結んだ唇、小さな力強そうな手、形のいいくびれたあご、立派なすらっとした鼻。エラリーは、思わずほほえんだ。
マリオンは、すらりとして、みずみずしい力にみちているスポーツマンのような体と、おどろくほど知性をたたえている顔と、冷静で、もの静かで、穏やかなエラリーの姿を見ていた。三十歳ぐらいだが、もう少し若く見える。服はイギリスふうで、流行のボンド・ストリート仕立てらしい。しなやかな指に、小型の本を持ち、鼻眼鏡ごしに、こっちを見ている青年──やがてマリオンは、少し赤くなりながら、警視の方へ目を移した。
「あなたが、このスカーフを最後に見たのは、いつのことかね」と、老警視がつづけた。
「おお、私は」と、自制心をとりもどしたマリオンが、声もおちついて「昨日、それを使った時だと思いますわ」と、ゆっくり答えた。
「昨日かね。そりゃおもしろい、お嬢さん。思い出せるかな? どこで──」
「私はお中食のすぐあとで、家を出ました」と、マリオンが「その時、この外套の下に、そのスカーフを着けて出ましたわ。そして、カーネギー・ホールで友だちと落ち合って、一緒に午後を過ごしましたの。──パステルナークのピアノ・リサイタルを聴《き》いたのです。リサイタルが終わってから友だちと別れて、バスに乗ってデパートへ行きました。そのスカーフを一日じゅう着けていたと思いますわ……」と、眉を深くよせて考えこみながら「でも、家へ帰った時、そのスカーフをしていたかどうか、はっきり思い出せませんの」
「この店に来たと言われましたな、お嬢さん」と、警視が、丁寧に口をはさんだ。「何か特別なわけでもあって?」
「いいえ──べつにこれといって。まだ、お父様に会えるだろうと思ったんですの。お父様がグレート・ネックに行らっしゃることは知っていましたが、いつお出かけになるか、はっきりしなかったので、それで──」
警視が、ちょっとおどけるように、小さな白い手を上げて「待ってください、お嬢さん。お父上が、昨日、グレート・ネックに行くことになっていたと言いましたな?」
「ええ、そうですわ。お仕事で行くことになっていましたの。ちっとも──ちっとも変じゃないでしょう──そんなこと? そうでしょう」と、マリオンは唇を噛んだ。
「いや、いや──ちっとも変じゃありませんよ」と、警視は微笑して受けた。そして、ウィーヴァーの方を向いた。
「フレンチさんが、昨日、商用で出かけたことを、なぜ言わなかったんだね? ウィーヴァー君」
「おききにならなかったからです」と、ウィーヴァーがやりかえした。
警視はきょとんとして、くすくす笑い出した。「一本まいったな」と、警視が「帰ったのはいつかね? それに何の用で行ったのかね?」
ウィーヴァーは、社長のぐったりして、とりとめのない顔を同情するように眺めていた。
「社長は昨日の午後早く、ファーナム・ホイットニー氏と交渉するために、ホイットニー氏の邸に行かれました。合併問題でです、警視さん──今朝の重役会で、その問題を討議したのです。社長さんのお言葉では、ホイットニー家の運転手の車で、今朝早くニューヨークにはいり、九時に店に着かれたそうです。ほかに何か?」
「今はそれだけでいい」と、クイーン警視は、またマリオンとの話にもどった。
「どうも失敬、話の腰を折って……さて、昨日、店に来た時に、どこか、特に行った所はないかね?」
「六階の父の私室《アパート》へ参りました」
「そうかね」と、警視はつぶやいて「なぜお父上の私室《アパート》へ行かれたのか、よかったら話してくださらんか?」
「私は店へ来ると、いつも父の私室《アパート》へ参りますの。たまにしか店へ来ませんけれど」と、マリオンは、はっきりした声で「昨日は、ウィーヴァーさんが、そこでお仕事中だと聞きましたので、ちょっと覗いてみるのも──悪くはないと思ったんですのよ……」マリオンは父親に意味ありげな眼を送ったが、父親のほうは娘の言葉に、何も感じないようだった。
「店にはいって、まっすぐに私室《アパート》へ行ったのかね? それからすぐ私室《アパート》から帰ったのかね?」
「はい」
「もしや」と、警視が、ごく穏やかな口調で「私室《アパート》に、このスカーフを落としたのじゃないかな、お嬢さん」
マリオンは、すぐには答えなかった。ウィーヴァーが一生懸命、マリオンの目を捕えて、ノーと言わせようと、唇をうごかして見せた。マリオンは首を振った。
「そうかもしれませんわ、警視様」と、マリオンが静かに答えた。
「そうかね」と、警視は顔を明るくして「ではお母さんを最後に見たのは、いつかな?」
「昨日のお夕飯の時ですわ。私は晩のお約束があったので、ほとんどすぐに出かけましたの」
「お母さんはいつものようだったかね。言葉や行動に、何か異常な点、いつにない様子は見うけられなかったかね?」
「そうね……バーニスのことを心配していらっしゃるようでしたわ」と、マリオンが、ゆっくり答えた。
「おお」と、クイーン警視は両手をもみながら「するとあなたの──義理のお姉さん?──お姉さんは、夕食にはいなかったんだね」
「ええ」と、マリオンは、ちょっと、ためらいがちに「ウィニフレッド──義理のお母様は、バーニスは出かけていて、お夕飯には帰って来ない、と、おっしゃってましたわ。そして、なんだか、心配していらっしゃるようでしたの」
「何を心配しているのか、言われなかったかね」
「ええ、少しも」
「お義姉《ねえ》さんの姓は? フレンチかね?」
「いいえ、警視様。お義姉様は、カーモディという実父の姓を名のっていますの」と、マリオンがつぶやくように言った。
「なるほど、よくわかりました」警視は立って、じっと考えこんだ。ジョン・グレーが、辛抱しかねるように、もじもじして、ぐったりとフレンチ氏の椅子によりかかって、しょんぼりと頭を振っているコルネリュース・ゾルンに、何か耳打ちした。クイーン警視は、その連中には目もくれずに、マリオンを眺めていた。マリオンの、すなおな小さな顔が、疲れて、うつむいていた。
「さしあたり、いまひとつおききするが、お嬢さん」と、警視が「あとは休んでいただく……どうかね、何か心当たりはないかね? フレンチ夫人の経歴とか、身辺の事情とか、最近の様子などから考えて──昨夜のことでも、昨日のことでもいいが──何か、それと気づくようなことがなかったかね?」と、熱っぽく「この事件に役にたちそうな説明を思いつかないかね? むろん、これは殺人事件で」と、マリオンが口をひらく前に、おしかぶせるように早口でつづけた。「当然、あなたには答えにくいだろうがね。ゆっくり時間をかけて──最近あったことを全部慎重に思い出してくださらんか……」
警視は中休みした。
「さあ、お嬢さん、わしの知りたいようなことを、何か話してくださらんか」
室内は水を浴びたように静まり──どきどき脈打つようなその静けさは、あたりの空気を、ひきしめていた。エラリーは、室内のみんなが、息をつめ、身を引きしめ、目をこらし、手に汗を握るのを感じた。ただ、サイラス・フレンチが、ぼんやりと前のめりに、うつむいているだけで、他の連中の目は、立っているマリオンを見つめて、一同の方を向いているひとりの男、警視に向けられていた。
やがて、マリオンが、ひどく、あっさり「いいえ」と言った。警視の目が光った。一同は胸を撫でおろした。だれかが、ほっとため息をした。ゾルンだなと、エラリーは思った。トラスクがふるえる指で、シガレットに火をつけようとしたが、火が消えた。マーチバンクスは凍りついたように腰かけたままであり、ウィーヴァーは、ちょっと絶望的な身ぶりをした。……
「じゃ、それまで。お嬢さん」と、クイーン警視が、マリオンと同じように、さりげなく返した。そして、何か楽しそうに、ラヴェリーのきちんとしたネクタイを、眺めていた。
「どうか、お嬢さん」と、いかにも楽しそうに言い添えた。「ここから出ないでくださいよ。……ラヴェリー君。ちょっと耳を貸してくださらんか?」
マリオンが引き退ると、ウィーヴァーは椅子を持って、かけ寄った。娘は、わずかにほほえみながら深く腰を下ろして、弱々しく片手で目を覆《おお》った。そして、もう一方の手を、ウィーヴァーが熱っぽく握るのにまかせていた。……エラリーはふたりをしばらく見てから、その鋭い目をラヴェリーに向けた。
そのフランス人は、腰をかがめて、短いあごひげをいじりながら、じっとしていた。
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十一 てんやわんや
「たしか君は、この近代家具展示会の責任者だったね、ラヴェリー君」と、クイーン警視は、元気な声できいた。
「そのとおりです」
「この展示会はどのくらいやっとるのかね」
「約一か月ぐらいです」
「君のおもな展示場ははどこかね」
「五階です」ラヴェリーは両手をひろげて「ご承知のように、これはニューヨークでは、ある意味で皮切りの企画なんです、警視。この運動に大変理解のあるフレンチ氏や重役さんがたのすすめで、私の作品をアメリカの方々に展示することにしたのです。今度の企画的な面は、まったくフレンチさんの発案であることを、申し添えます」
「そりゃ、どういう意味かね」
ラヴェリーは歯を見せて微笑しながら「たとえば、この陳列窓の件などです。これは全くフレンチさんの案で、さぞ、このデパートの大宣伝になったろうと思います。外の歩道から五階の展示室まで、特別の係を呼んで整理しなければならないほど、大ぜいのお客さんが集まりました」
「なるほど」と、警視は丁寧に、うなずいた。
「すると、このショーウィンドーの展示は、フレンチさんの案だったんだね? そう、そう、──それは君が今言ったところだね……この陳列窓の特別な飾りつけは、いつからこうなっているのかね、ラヴェリー君」
「これは──そう──この居間兼寝室の展示はちょうど二週間前からです」と、ラヴェリーが、しゃれた短いひげを撫でながら「正確に十四日です。明日は室内の配置を変えて、ベッドなどを取り去って食堂のモデル・ルームにする予定でした」
「おお、すると、陳列窓は二週間ごとに模様替えするんだね。じゃあ、これはあなたの二度目の展示というわけだね?」
「そのとおりです。最初のは、全部、寝室の展示でした」
クイーン警視は、じっと考えこんだ。疲れた目を床に落とした。下まぶたが、黒ずんで、ふくれていた。警視は、しばらく、部屋の中を往《ゆ》き来《き》し、もう一度ラヴェリーの前で足をとめた。
「どうも、わしには」と、警視はラヴェリーに言うより、自分に言ってきかせるように「この不幸な出来事と、その付随的状況が、あまりにも偶然に一致しすぎとるように思われる……いかになんでも! ところで、ラヴェリー君、この陳列窓の展示は、毎日、同時刻に行なわれるのかね?」
ラヴェリーは目を見ひらいて「は──はい。そうですよ」
「正確に、毎日、同じ時刻にね? ラヴェリー君」と、警視が念を押した。
「ええ、そうですよ」と、ラヴェリーが「展示の開始以来、毎日正午にモデル嬢が、この陳列窓に、はいることになっていました」
「結構」警視はふたたび楽しそうな顔になり「さて、ラヴェリー君──この展示の催しが始まってからひと月の間に、開始予定時刻が狂った日が、一日でもあったかね。覚えとらんかね?」
「全然ありませんでした」と、ラヴェリーが、はっきり答えた。「しかも、ぼくは、そのことをはっきり知りうる立場にいるんです。毎日、モデル嬢の実演中陳列窓のすぐ後ろの一階売場に立っていたんですからね。階上での説明会は、午後三時半から開く予定になっていたんですよ」
警視が眉を釣り上げた。「おお、君は説明会もやっていたんだね、ラヴェリー君」
「そりゃむろんです!」と、ラヴェリーが「噂《うわさ》によれば」と、もったいぶって「ウィーンのホフマン〔ヴィルヘルム・ホフマン。ドイツ生まれの作家、音楽家、画家〕の作品についてのぼくの解説は、美術界に、ちょっとした波紋を投じたということですからね」
「なるほど」と、警視が微笑して「ラヴェリー君、さしあたりもうひとつきかせてもらって、終わりにしよう。この展示会の人気は、すへて自然に生じたものとは言えんのじゃないか。つまり」と、警視が言い添えた。「この陳列窓の実演と階上の講演を、広く宣伝するために特別な手がうたれたんじゃないかね」
「むろんです。宣伝のほうは、とても慎重に計画されていました」と、ラヴェリーが話にのってきた。「美術学校や協力団体には、すべて廻状をまわしました。掛け売りのお得意には、営業部から個々にもれなく手紙を出したと思いますよ。けれど、大衆の注意をひいたのは、やはり、新聞広告だったでしょうね。むろん、あなたも広告はご覧になったでしょう?」
「ところが、デパートの広告は、めったに見ないんでね」と、警視が早口に「すると、あらゆる種類の宣伝の手を使ったわけですな?」
「ええ──そうです」と、ラヴェリーは、また、ちらりと白い歯を見せて「なんでしたら、ぼくの切抜帳をご覧になれば──」
「その必要はないでしょうよ、ラヴェリー君、長々と、どうも。もう結構です」
「ちょっと待ってください。お父さん──いいですか」と、エラリーが微笑しながら、進み出た。警視はエラリーを見て、[お前の番]と言わんばかりに手で合図して引きさがり、ベッドに腰をおろして、ため息をした。
ラヴェリーはちょっと立ちどまり、ひげを撫でながら、しかつめらしく、いぶかしそうな目をした。
エラリーはしばらく何も言わなかった。そして、鼻眼鏡をくるくるまわしていたが、ふと目を上げて「あなたのお仕事は全く興味深いですね、ラヴェリーさん」と、うちとけた調子で「残念ながら、ぼくの美術の知識は、近代室内装飾をこなせるほどじゃないんですが、実は、こないだの、あなたの、ブルノー・ポールの講演には、すっかり感心してしまいましてね──」
「すると、階上の、ぼくの講演をきいてくださったんですね」と、ラヴェリーは、じつにうれしそうに、大声で「おそらく、ぼくは、ポールに熱を上げすぎているんじゃないかと思いますよ──あの男をよく知っているものですからね──」
「そうですか」と、エラリーは、床に目を落として「あなたは、前にアメリカにおられたことがあるんでしょう、ラヴェリーさん──あなたの英語には全くフランス訛《なま》りがありませんからね」
「さよう、ぼくはかなり広く旅行しているほうです」と、ラヴェリーが認めて「アメリカも、今度で五度目の来訪ですよ。あなた、クイーンさんでしょう?」
「どうも失礼しました」と、エラリーが「ぼくはクイーン警視の不肖《ふしょう》なせがれです。……ラヴェリーさん、この陳列窓では、一日に何回、実演をするんですか」
「一回だけです」と、ラヴェリーは黒い眉を釣り上げた。
「実演は一回に、どのくらい時間がかかりますか」
「正確に、三十二分です」
「興味ある点だな」と、エラリーはつぶやいた。「ところで、この陳列窓はいつもあけ放しなんですか?」
「とんでもないこの陳列窓には非常に高価な品が、いくつか置いてあるんです。実演のために使う時以外は、ずっと錠がかけてあります」
「そりゃそうですね。間抜けな話でしたよ」と、エラリーが微笑して「むろん、あなたはここの鍵をお持ちなんでしょうね?」
「ここの鍵はたくさんありますよ、クイーンさん」と、ラヴェリーが「錠をかけるのは、夜間の泥棒防止よりも、昼間、気まぐれ者がはいりこまないようにするためなのです。閉店後は、ここのように警備の整っている店では──最新式防犯装置あり、夜警ありですからね。──この陳列窓は盗難に対しては全く安全と見ていいと思いますよ」
「差し出口で申し訳ありませんが」と、支配人マッケンジーが、恐縮した声で「しまりのことでしたら、役目上私のほうが、ラヴェリーさんより、くわしく説明できますが」
「そりゃ結構ですね」と、エラリーが、すぐ答え、またもや鼻眼鏡をくるくる振り廻した。ベッドに腰かけている警視は、黙ってやりとりを見守っていた。
「どの陳列窓にも、合鍵はいくつかございます」と、マッケンジーが説明をはじめた。「特にこの陳列窓のは、ラヴェリーさんが一個、実演係ダイアナ・ジョンスン嬢が一個(これは、仕事が終わって帰る時に、人事部の机に置いて行くことになっています)それから、一階大売場のこの区画の監督と警備員たちが、それぞれ一個ずつ持っています。それに、中二階の総務室に合鍵は全部そろえてあるのです。鍵を手に入れようと思えば、かなり多くの人間が手に入れられたんじゃないかと思います」
エラリーはべつにおどろいた様子もなく急に、ドアまで歩いて行き、あけて、一階売場をしばらく見まわしてから戻って来た。
「マッケンジーさん。この窓の正面の皮製品売場の係を呼んでください」
マッケンジーは出て行き、やがて、背が低くがっちりした中年男を連れて戻って来た。その男は青ざめて、びくびくしていた。
「今朝、君は持場にいましたか」と、エラリーが、やさしくきいた。その男は、そうだとうなずいた。
「すると、昨日の午後は?」
もう一度、うなずいた。
「昨日の午後か、今日の午前中、いつか席を離れやしませんでしたか」
店員はやっと口をひらいた。「いえ、離れませんでした」
「そうですか」と、エラリーが、やさしく「ところで、昨日の午後か、今日の午前中に、この部屋に出入りした人がいませんでしたか?」
「いいえ」と、店員は自信のある声で「私はずっと持場にいましたから、もしこの部屋を使った人があれば、いやでも気がつくはずです。そんなに忙しくはなかったですからね」と、言い足して、申し訳なさそうに、マッケンジーを横目で見た。
「もうよろしい」店員は急いで出て行った。
「さて」と、エラリーはため息まじりに「だいぶはかどったが、まるっきり、形をなさないな」と、肩をすぼめて、ラヴェリーの方を向いた。
「ラヴェリー君、この陳列窓は、夜は照明するんでしょうね」
「しませんよ、クイーンさん。実演がすむたびに、カーテンをひいて、翌日まで、しめきっておくんです」
「すると」と、エラリーが、やや力をこめて「ここの照明器具は、単なる飾りものと、見ていいんですね」
みじめな思いで待ちくたびれている連中の目が、いっせいに、何かを期待しながら、エラリーの指さす方を見た。エラリーは、おもしろい形に切った曇りガラスの壁ランプを指さしていた。一同の目は、それにつられて、室内のあちこちに置いてある、いろいろなおもしろい形のランプを次々に見ていた。
ラヴェリーは答える代わりに、後ろの壁に歩いて行き、ちょっといじりまわして、最新型の照明器具のひとつを取りはずした。電球をはめるソケットの部分が、|から《ヽヽ》だった。
「照明の必要がないので」と、ラヴェリーが「その設備はしてないんです」と、言いながら、なれた手つきで、はずした器具を、旧の壁にとりつけた。
エラリーは、いきごんで前へ出たが、思い返したように、首を振りながら戻って、警視の方を向いて「これから、しばらく、さしあたり、ぼくは沈黙を守りますよ」と、エラリーはにやりとして「ローマの哲学者気どりでね」
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十二 陳列窓は落第
ひとりの警官が、人々を押し分けて、はいって来た。そして、上官の目をひこうとするかのように、大げさにあたりを見まわしていたが、クイーン警視に頭から呼びつけられると、二言三言もぐもぐ言って、来た時と同じように、すばやく出て行った。
警視はすぐにジョン・グレーを呼び寄せて、重役の小さな耳に何か耳打ちした。グレーは、うなずいて、ぽかんと宙を見つめてひとり言《ごと》を言っているサイラス・フレンチのそばへ寄った。そして、ウィーヴァーとゾルンの手を借りて、フレンチが死体に背を向けるようにその椅子の向きを変えてやった。フレンチは何もわからない様子だった。デパートの医者が、つききりで脈をとった。マリオンはのどに手を当てていたが、ふと立ち上がって父親の椅子の背によりかかった。
やがて、ふたりのキャップをかぶった白衣の男が、担架を運んではいって来た。ふたりはシートをかけた死体を指さす警視に敬礼した。
エラリーは部屋の隅に退《さが》って、寝台の向こう側で、じっと、鼻眼鏡を手にして考えこんでいた。鼻眼鏡を見つめたり、眼鏡で手の甲を軽くたたいたり、しまいには、軽い外套をベッドに放り出して、腰かけ、両手で頭をかかえこんだ。
やがて、甲乙がついたかのように、上着のポケットから小型本をとり出すと、その見返しに、そそくさと走り書きを始めた。女の死体に、かがみこんでいるふたりの人夫などには目もくれなかった。
担架運びのすぐあとからはいって来た神経質そうな男が、助手を相手に、死んだ女の床に伸びている恰好や、ベッド、ハンド・バッグなど被害者に関係のある品々を撮影しながら、ものも言わずに、荒っぽくエラリーの席を追いたてた。しかしエラリーは文句もいわずに、警察の写真班の活動を、ぼんやりと目で追っていた。
やがて、小型本をポケットに戻して、父がこっちを見るのを、待つともなしに待っていた。
「おい、エル」と、警視が近づいて「疲れたな、くたくただ。それに心配になってきた」
「心配ですって? ねえ、お父さん──そんなばかげた考えにとりつかれちゃいけませんよ。もう、めどがつきかけているんですよ、めどが……」
「おお、お前は犯人のめどがついとるのに、ポケットに隠しとるのか」と、老人が、唸《うな》るように「わしが気にしとるのは犯人じゃない。長官のウエルズのことなんだ」
「そりゃどうも!」と、エラリーは身を寄せて「ウエルズのことなんか放っときなさい。ぼくはあの人を、お父さんが思っているほど、悪い人だとは思っていませんよ。あの人が、お父さんに根掘り葉掘りきいているうちに、ぼくが、こっそり一仕事してみせます──どうですか、そういう手は?」
「悪い手じゃなさそうだな」と、警視が「畜生! 奴《やっこ》さん、いつここに踏み込んでくるかわからん。エル。それをついうっかり忘れとったよ。今ごろは電話で報告を受けて、そして──おい、なんだ?」
制服巡査が紙きれを置いて行った。
警視が、うめくように「いよいよウエルズ長官お出ましの報らせだぞ──さて、逮捕、記者会見、尋問、事件記者の襲撃とくる。いやはや、お忙しいこった──」
エラリーのからかい気分がさっと消えた。父の腕をとって、足早に、壁の片隅に引っ張って行った。
「そういうわけなら、ぼくの考えを言いましょう──すぐに」と、エラリーはあたりを見まわした。部屋の中の連中は全くふたりを見ていなかった。エラリーは小声で「たしかな、結論が出ましたか、お父さん。ぼくの意見を出す前に、お父さんの判断を聞いておきたいんです」
「それだが」と、老人は用心深くあたりをうかがい、小さな手で口をかこんで「ふたりきりの話だが、エル。この事件は全般的に、奇妙な点がある。細部のことになると、どうも、はっきりつかめん──お前がわしより、はっきりつかんどるとすれば、そりゃ、お前が客観的に見ていられる有利な地位にあったからだろうな。だが、この犯罪自体──考えられる動機──裏の真相──ということになれば、わしにも言い分がある。殺しよりも、殺しを必要とした事情のほうが、ずっと重要だと考えざるをえないな。……」エラリーが考えながらうなずいた。「疑いもなく、これは慎重に計画された殺人だ。現場が妙な場所だし、一見、すき間だらけの犯罪のようだが、どうして、なかなか手抜かりがないようだ」
「マリオン・フレンチ嬢のスカーフの件は、どう思いますか」と、エラリーがきいた。
「ごまかしさ」と、警視が小ばかにしたように「大して意味があるとは思えん。おそらく、あの娘がどこかに置き忘れたのをフレンチ夫人が拾って持っていた、というぐらいのところだろう。……だが、長官はきっと、あれにしがみつくだろう、半分ぐらい賭けてもいいな」
「その点は違うと思いますよ」と、エラリーが、たしなめた。「長官はフレンチ氏ともみ合いたくないでしょうからね。悪徳防止協会長としての、フレンチ氏の力を軽視しちゃいけませんよ……。そうですとも、お父さん。さしあたり、ウエルズ長官は、マリオン・フレンチ嬢には手を触れないようにするでしょうよ」
「そうかな。ところで、エラリー、お前の結論は?」
エラリーは小型本を取り出して、いましがたしきりに書き込みをした見返しのページを開いた。そして、顔を上げて「ぼくにはこの犯罪の動機が、うまくつかめないんですよ、お父さん」と、言った。「けれど、犯罪自体よりも、動機のほうがはるかに重要な意味を持っているとおっしゃる点は、おそらく正しいだろうと、ぼくにも思われます。……たしかに、ぼくは今の今まで、目先の状況にとらわれすぎていたようです。解決を要する興味ある謎が四つあります。いいですか、よく聞いてください」
「第一の、おそらく最も重要なものは」と、エラリーがメモを見ながら「フレンチ夫人の持っていた鍵の謎です。この件のいきさつは、かなりよくわかっています。夜番のオフラハティが、昨夜十一時半ごろ、被害者が金盤付きの私室《アパート》の鍵を持っていたのを、目撃しています。その後、夫人は今日の十二時十五分、死体となって発見されるまで、だれにも目撃されていません──しかも、夫人はこの店内で発見されたにもかかわらず、例の鍵は犯行現場から紛失しています。そこで、問題がおこる。なぜ鍵が紛失しているのか。表面的には、ただ捜し出せばいいように思われますが、そうでしょうか? だが──いろいろな可能性を考えてごらんなさい。この際、鍵の紛失を犯罪よりも犯人に結びつけて考えるほうが、当たっているようです。つまり、犯人と鍵が消えているわけで、一緒に消えたと思うのはむずかしいことじゃありません。ところで、もしそうなら──さしあたり、そういうことにきめておいて──では、犯人はなぜ鍵を奪って行ったか? 明らかに、今は、まだこの答は出せません。しかし──犯人はたしかに鍵を──あの、六階の私室《アパート》の鍵を、持っていると推定できますよ」
「そうだったのか、それで」と、警視が低い声で「今朝、あの私室《アパート》へ刑事をやって、見張らせろと言ったんだな。たすかったぞ」
「あれは、単なる思いつきですよ」と、エラリーが「それより、ほかに気になることがあります。どうも、鍵の紛失は、死体を他からこの陳列窓に運びこんだことを、示しているように思えて」
「わしには、全然、そう思えん」と、警視が反対した。「そのことと、鍵とに、関係があるものとは思えん」
「この点で言い合うのはよしましょう」と、エラリーが低い声で「ぼくの疑問を、正当化する、きわめて興味ある可能性が、考えられるんですがね。しかも、マリオン・フレンチのスカーフの件も、その可能性に当てはまると思うんです。ともかく、もうじき、いろいろな事情を全部まとめてみられると思います──そうなれば、この問題も、もっとはっきり証明されるだろうと思います……ところで、第二の点ですが。
この窓で死体が発見されたのだから、犯罪が行なわれたのはここだと思うのが人情です。普通は、だれでも、その点を疑ってみようともしません」
「そりゃ、おかしいぞ」と、警視が眉をよせた。
「ああ、お父さんも、おかしいと思いますか。この問題は、いずれ解明してご覧に入れますがね」と、エラリーがうきうきとして「われわれが、はいって来て、死体を見て、まず思い込むのは、ここが犯行現場だということです。次に、ちょっと観察してから、待てよ、プラウティの報告だと死後十二時間ぐらい経過しているそうだ。そして死体の発見されたのが正午だ。すると、フレンチ夫人が死んだのは真夜中ちょっと過ぎということになる。言いかえれば、その時刻に犯罪が行なわれたことになると思い直すんです。ところで、犯行が真夜中だという点に注目してください──その時刻にこの陳列窓の状態はどうだったか──このビルのこの辺の様子はどうだったか。おそらくまっ暗だったでしょうね」
「それで?」と、警視が、無造作に口をはさんだ。
「お父さんは、ぼくが|かあ助《ヽヽヽ》になっているのに、本気になっていないようですね」と、エラリーが笑って「まっ暗ですよ、いいですか。しかも、ぼくたちはここが現場だと思っているんです。ぼくらは陳列窓をひっかきまわし、自問自答している。ここには照明があるか。もしあれば、話はそれで|けり《ヽヽ》がつくのです。ドアは閉じていたし、道路に面しているほうには厚いカーテンが引いてあったしするから、陳列窓の外からは光も見えなかったはずだ。ぼくらは捜査し、発見する──いや、照明はない。こんなにたくさんあるランプにはソケットに──電球が一つもついていない。実際は、ランプに配線がしてあったかどうかさえ、あやしいものだと思います。そういう状態の中で──いきなり、闇《やみ》の中で行なわれた犯罪という事実が、とび出してくる。そんなことが信じられますか──そんなのは気に入らないでしょう。ぼくだって気に入らない!」
「懐中電灯というものもあるんだぞ、おい」と、クイーン警視が抗議した。
「そりゃそうです。その点はぼくも考えてみました。そこで自問してみたんですが、もし、ここで犯罪が行なわれたとすると、当然それに必要な事前行動が何かなければならないはずです。犯罪には、被害者と加害者の出会い、それからおそらく喧嘩《けんか》口論、殺人という筋が想定されますが、この事件では、死体の処置に、きわめて奇妙な、不便な──壁ベッド──などという場所が択ばれています……こんなことがすべて、懐中電灯の光の中で行なわれたのでしょうか。これには、さすが不敵のシラノ・ド・ベルジュラックでも音《ね》をあげるでしょうよ。いや、ごめんこうむる! とね」
「むろん、電球を持ちこんだのかもしれんぞ」と、警視がつぶやき、ふたりは目を見合わせて、ぷっとふきだした。
エラリーが、また、真顔になって「さて、照明などという些細《ささい》な問題は、さしあたり保留にしておきましょう。まさか、そんなばかなことはありえないと、お父さんも思うでしょう。
じゃあ、ここで、きわめて興味深い、例の小物、つまり、頭文字のCが彫ってある口紅棒の件に移りましょう」と、エラリーが息つぎをして、続けた。
「これが、ぼくの指摘する第三の問題です。そして、どこから見ても、非常に興味深いものと思いますよ。あの口紅棒がフレンチ夫人のものでないのは、頭文字のCからすぐわかります。夫人の頭文字はW・M・Fで、それは夫人のハンド・バッグの中にあったほかの三つの品にも彫ってありました。しかもCマークの口紅棒の色は、死んだ夫人の唇に塗られていた口紅よりもずっと色が濃いのです。そのことは、Cマークの口紅棒が夫人のものではないという推定の裏付けになるばかりではなく、少なくとも、どこかほかにフレンチ夫人用の口紅棒があるという証拠にもなります。いいですか? では、どこにその口紅棒があるか? この陳列窓の中では、どこにも見当たらなかった。だから、どこかほかにあるはずです。犯人が鍵と一緒に持ち去ったのか? そんなばかげたことは考えられません。ああ──ところが、それに就いての手がかりが一つでもあるでしょうか? むろんあります。というのは、よく見てください……」と、エラリーは一息いれた。
「死んだ夫人の唇をよく見てください。塗りかけですよ! しかも、Cマークの口紅より、薄い色です。これは一体、どういう意味か? 疑いもなく、フレンチ夫人は、いまは紛失している自分の口紅棒で、唇を塗っている最中に、じゃまがはいったのです」
「なぜじゃまがはいったと言える?」と、警視がきいた。
「唇を塗りかけでやめる女性がいるでしょうか。そんなひとはけっしていませんよ。唇をすっかり塗りおえないでやめているのは、何かじゃまがはいったにちがいないのです。しかも、よほど強い妨害だったのです。賭けてもいいですよ。よほど意外な出来事がないかぎり、女性が塗るべき所に紅を塗っているのを途中でやめさせることはできっこありませんからね」
「殺しだな」と、警視は異様に目を光らせながら、高い声で言った。
エラリーが微笑した。
「おそらくそうです──するとどういうことになるかわかりますか、お父さん。夫人は、犯人あるいは殺害直前の出来事に妨害された。しかも夫人の口紅棒がこの陳列窓から出てこない。──」
「もちろんだ。むろんわかる」と、老人が大声で言い、重々しく「だが、犯人は何かほかの目的で、口紅棒を持ち去ったのかもしれんぞ」
「だが、一方」と、エラリーが答えた。「犯人が持ち去らなかったとすると、この建物か、そのまわりのどこかに、今もあると言えますよ。この、いまわしい万屋《よろずや》の六階を、上から下まで、すっかり洗いあげるように命令したほうがいいですよ」
「そりゃ、無理な相談だ。だが、いずれ、やってみる必要があるな」
「ところで、これから十五分以内に、その必要がなくなると思うんです」と、エラリーが「いよいよ、最も興味ある問題にぶつかります。Cマークの口紅棒は、一体だれのものか、もしフレンチ夫人のものでないとすると。お父さんも、調べてみるんですね。この答は、かなりやっかいなものだろうと思いますよ──スコット・ウエルズ問題のようにね──」
警察長官の名が出たので、警視が、うんざりした顔になって「言いかけたことを、早く言っちまうがいいぞ、エラリー。もうじき奴《やっこ》さんがやって来るぞ」
「じゃ、急ぎましょう」と、エラリーは鼻眼鏡をはずして、せかせかと宙に振りまわしながら「第四の点に移る前に、お父さん、婦人用の二個のアクセサリー──マダムの口紅棒と鍵──を捜し出す必要があるということを、忘れないでください。……
では、第四の点をあげます」と、エラリーは、夢見るような色を目に浮かべながら続けた。
「第四の点に関しては、ひどい安月給で、しかも尊敬すべきサム・プラウティ医師の、鋭い勘を信用しなければなりません。あの人は、フレンチ夫人の傷の性質からみて出血が少なすぎておかしいと言っていました。少ないとは言っても、夫人の体と着衣にかなり、血のあとがあり……夫人の左の手に乾いた血がこびりついていたことは──むろん、お父さんも気がついたでしょう」
「見たよ、たしかに」と、警視がつぶやいた。「おそらく、撃たれた瞬間に、手で傷口を押えたのだろう。それから──」
「それから」と、エラリーが引きとって「死んで手はだらりと下がり、それから、サム先生の言葉によれば、あらゆる物理的法則に従って、聖なる命の液が、どっとばかり溢《あふ》れ出たはずです。はたして溢れ出たでしょうか?──どうでしょう? ぼくはあえて言いますが」と、エラリーは一息入れて、重々しく言った。「正確な科学の不滅の法則どおり、さっとばかりに、ほとばしったはずです……」
「何を言おうとしとるのか、わかってきたぞ……」と、老人がつぶやいた。
「さっとばかりほとばしったはずです──だが、この陳列窓で、ではなかったのです。つまり、死体を発見した時には、当然血まみれのはずの銃創が実際はほとんど出血していなかった、この現象を完全に説明するためには、いくつかの要因を、うまく組み合わせてみなければならない、ということになるのです。
ここで、今までの手がかりをまとめてみましょう」と、エラリーが口早くつづけた。「ぼくの考えでは、フレンチ夫人の持っていた私室《アパート》の鍵の紛失、この陳列窓に普通の照明設備がなかったこと、フレンチ夫人は口紅を塗りかけでやめているから、おそらく死の直前まで持っていたはずの夫人常用の口紅棒の紛失。当然血まみれなはずの二つの傷口の出血が少ないこと、マリオン・フレンチ嬢のスカーフが見つかったこと、それに、包括的だが、かなり信用できる、もろもろの状況──それらが、みんな結びついて、ひとつの結論になると思います」
「つまり、ここが犯行現場ではないと言うんだな」と、警視は、ぎごちなく、かぎたばこをつかみ出した。
「まさにそのとおりです」
「結論に結びつく、他のもろもろの状況というのは、どういう意味だ、エル」
「お父さんは、全然気にしなかったんですか」と、エラリーがゆっくり答えた。「この陳列窓は殺しの場としては、およそ変な道具立てじゃありませんか」
「わしがそう思っとることは、さっきも言った、だが──」
「あなたは、あんまり細かいことにとらわれすぎて、この事件の心理的な見方が足りないんですよ。完全謀殺には、人目を避けること、秘密にすること、地の利を得ることの三点が、必要なのを考えてごらんなさい。ところで、ここは──殺人犯人にどんな利点があったでしょうか。照明がなく、定時見廻りのくる陳列窓です。徹頭徹尾危険です。夜番の詰所がある一階のどまん中なんです。しかも夜警主任が不断に詰めている事務所から十五フィートも離れていないんです。どうです? 利点さらになし、全くばかげてるじゃありませんか、お父さん。ぼくはここにはいって来て、すぐそれに気がつきました」
「全くだ」と、警視がつぶやいた。「だが──もしここで殺らなかったのなら、なぜ、殺してから死体をここへ運びこんだんだろうな。もし運んだものとすればだが? 死体を運ぶのは、ここで殺《や》るほどではないとしても、ほとんど同程度の危険があるはずじゃないか……」
エラリーは眉をしかめて「ぼくも、むろん、その点を考えてみました。……何か理由があるんだ、ないはずはないとね。どうも、この仕事はイタリア人の仕わざらしいですね……」
「ともかく」と、警視がちょっといらだって話の腰を折った。「お前の分析でかなりはっきりしてきた。この陳列窓はたしかに殺しの場ではあるまい。わしはどうも、そうか──そうだ、むろんお天道さまのようにはっきりしとる──殺《や》ったのは、上のフレンチの私室《アパート》だぞ」
「おお、それそれ!」と、エラリーが、ほかのことを考えながら言った。「そうですとも。ほかに考えようがありませんね。鍵と口紅棒のありそうな場所、人目につかぬ場所、照明のある場所……そうだ、そうだ、どうしたって六階のあの私室《アパート》です。これからぼくが乗りこむ場所ですよ……」
「ところが、それがどうもうまくないようだぞ、エル」と、警視が、ふと思いついたように言った。「考えてもみろ。あの私室《アパート》は、今朝ウィーヴァーが八時半に出勤してから、ずっと五人の人間が使っておった。しかも、その連中、事件のことなど、夢にも知らなかったのだから、事件を知った時までには、犯跡は、すっかり消されちまっとるにちがいない。畜生! もし、ひとっかけらでも残っとればなあ──」
「まあ、まあ、お父さん、夢想にうなされて、お弱い脳味噌《のうみそ》を疲れさせることも、ありませんよ」と、エラリーが笑いながら、ふと明るい調子をとりもどして「むろん、上っ面の犯跡は消されているでしょうよ。いや、中澄《なかず》みさえ消されているかもしれませんね。しかし奥底の澱《よど》みとなると、そう簡単には消せませんから、調べれば何か出てくるかもしれません──もっとも、あまり当てにはできませんがね。やはり、ぼくが、次に乗りこむ場所は、あそこですよ」
「だが、なぜ、この陳列窓を使ったかという点が、どうも、気になる」と、警視が渋い顔で「時間という問題以外には、犯人がここを使う必要は……」
「こりゃ、驚いた。お父さんの頭は、まったく天才的ですね」と、エラリーが、いかにもたのもしそうに、にこにこして「ぼくは、まさにその問題を、自分で解こうとしていたのです。なぜ、死体を陳列窓に置いたのか? 正しいと思われる原則論に当てはめてみましょう。……
それには、二つの可能性が考えられます。そのどちらかひとつ、あるいは双方とも正しいのです。第一は、真の犯行現場から注意をそらすことで、その場合、犯行現場は疑いもなく、あの私室《アパート》です。第二は、もっと論理的な見方ですが、|正午前に死体が発見されない《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》ようにする。毎日の実演時刻がきっちり定まっているのを利用したという点──これは、むろん、あなたも気づいたように、ニューヨークじゅうに知れわたっていた──この見方はあまりにもうまく、当てはまりすぎるような気がしますが」
「だが、エラリー?」と、クイーン警視が反問した。「なぜ、正午まで死体の発見を延ばす必要があったんだ?」
「それがわかれば造作ないことですがね」と、エラリーが肩をすぼめて、つぶやいた。「でも、大ざっぱに考えてみると、こんな筋合いになるんじゃないかな。もし犯人が十二時十五分に死体が発見されるように仕組んでおいたとすれば──その時刻をやつは前から確実に知っていたのですよ──そうすれば、やつは正午前に何か|すること《ヽヽヽヽ》があって、死体の発見が早まれば、それをするのが危険になるか、不可能になる、にちがいなかったのです。わかりますか」
「だが、一体──」
「そうです。一体全体」と、エラリーが情けなさそうに「一体、犯人は犯行後の午前中に何をしなければならなかったのか? それが、さっぱりわかりませんね」
「依然として暗中模索だな、エラリー」と、警視が、かすかにうめき声を出した。「前提から結論へ、よろめき出たにすぎん。一筋の光明もない……たとえば、なぜ犯人は、この建物の中で、昨夜のうちにすべきことをしてしまわなかったかと言うんだ。だれかに連絡しなければならないなら、このとおり、店にはたくさん電話もあるんだし……」
「電話もねっ。じゃあ──それはあとから、調べてみる必要がありますね」
「すぐかたづけよう──」
「ちょっと、お父さん」と、エラリーがさえぎった。「なせ、ヴェリーをやって、私室《アパート》専用エレヴェーターに血痕があるかどうか、調べさせないんですか」
警視は、はっとしてエラリーを見つめて、拳《こぶし》をにぎりしめ「しまった! おれとしたことが、なんて|へま《ヽヽ》をやっとるんだ」と、叫び「もっともだ! トマス!」
ヴェリーが歩みよって、何か耳うちされると、すぐに出て行った。
「もっと前に気づくべきだった」と、警視がいまいましそうに言って、くるりとエラリーの方を向いた。「あの私室《アパート》で殺したのなら、むろん死体を六階からここへ下ろさなければならなかったはずだからな」
「おそらく何も見つからないでしょうよ」と、エラリーが意見を言った。「ぼくは自分で階段を調べてみますがね……ところで、ねえ、お父さんにたのみたいことがあるんですよ。──ウエルズ長官は今にも、ここにやって来るでしょう。そしておそらくこの陳列窓を犯罪現場とみるでしょうね。そこで、どっちみち、もう一度すっかりくりかえして、みんなの証言を聞きたがるでしょう。そこで、長官をここに引きとめておいてほしいんです──その間、ぼくとウェストリー・ウィーヴァーを二人だけで、一時間、階上の私室《アパート》にいさせてほしいんですが、どうですか。あの私室《アパート》を、先に調べてみたいんです。重役会の後は、だれひとりはいっていないし──ずっと見張りがついていたし──きっと何か手がかりがつかめるはずです……どうでしょう?」
警視はすがりつくようにエラリーの手をとって「むろんいいとも、エル──言うとおりにしよう。きっとお前のほうがわしより新鮮な気持ちで、その仕事に当たれるだろうからな。ウエルズは引きとめておく。あの男は、どうせ、従業員出入口の詰所や、貨物部屋や、一階売場の要所要所を調べたがるだろうからな。……だが、なぜウィーヴァーを連れて行くんだ?」と、声をおとして「エラリー──お前、あぶない真似をしようというんじゃあるまいな」
「なんですって? お父さん」と、エラリーはびっくりして目をむいた。「どういう意味なんですか? 気の毒なウェスに少しでも容疑をかけているならすぐ解くんですね。ウェスとぼくは学校友だちなんですよ。いつか、ぼくが友だちと一緒にメーン州で夏を過ごしたのを覚えてるでしょう。あれはウェストリーの父親《おやじ》の家へ行ったんです。ぼくはあの男をよく知っています、お父さんを知っているぐらいにね。父親《おやじ》に言わせれば牧師、母親《おふくろ》に言わせれば聖人みたいな男なんです。経歴もきれいだし、生活も公明正大なものです。秘密もないし、過去もないし……」
「だが、この町で何をやらかしとるか、わからんだろう、エラリー」と、警視がさえぎった。「お前は何年ぶりかで会ったのだから」
「ねえ──お父さん」と、エラリーが生真面目に「お父さんは、ぼくの考えどおりにしてまちがったことが、今まで一度もなかったじゃありませんか、そうでしょう。だから今度もぼくの言い分を通してください。この事件では、ウィーヴァーは仔羊みたいに潔白です。あの男がそわそわしているのは、もっぱら、マリオン・フレンチのせいなんですよ。……そら……写真班で何か用があるようですよ」
ふたりは写真班の方を向いた。クイーン警視は、しばらく、警察の写真班と話してから、その男を開放し、意を決して支配人のスコットランド人を手招きした。
「マッケンジー君、ちょっと聞くが──」と、ぶっつけるように「閉店後の電話の処置はどうなっとるのかね」
マッケンジーが「元線のひとつを除いて、電話は六時にみんな切ります。元線は夜間出入口の詰所のオフラハティの机に通じています。外からの通話があれば、オフラハティが受けることになっているんです。そのほかには、夜間の電話はいっさい通じません」
「オフラハティの勤務時間表と報告書によると、昨夜は外からのも内からのも通話はひとつもなかったらしいな」と、警視は、表を見ながら言った。
「オフラハティは信用できますよ、警視」
「ところで」と、クイーン警視がたたみこんで「居残りしている部があると、そこの電話は切らないでおくのだろうな」
「はい」と、マッケンジーが「でもそういう場合はその部の部長が要求を出すことになっています。──ついでですがこの店では、そういうことはほとんどないのです。というのは、フレンチさんは、いつもやかましく、閉店時間を厳守するように言われるのです。むろん、ときには例外もありますが──オフラハティの記録に、要求書がのっていなければ、昨夜は通じている電話は詰所以外には一本もなかったものとみて、まちがいありません」
「フレンチの私室《アパート》でもそうかね?」
「むろんフレンチさんの私室《アパート》でも」と、支配人が「フレンチさんか、ウィーヴァーさんが交換係の主任に、特に指示しないかぎりは、そうです」
警視が探るようにウィーヴァーを見ると、ウィーヴァーは、そうだとばかり、強くうなずいた。
「もうひとつきくが、マッケンジー君。フレンチ夫人が昨日以前に店へ来たのはいつかね? 君が最後に見かけたのは?」
「一週間前の、たしか、月曜日でした、警視」と、マッケンジーは少しためらいながら「さよう、はっきり覚えています。奥さんは来られて、舶来服地のことを聞かれました」
「で、その後は店に現われなかったかね?」と、クイーン警視は、室内にいる他の連中を見まわした。だが、だれからも返事はなかった。
この時、ヴェリーが、またはいって来た。そして上司に何か耳うちして、退った。警視はエラリーに向き直って「エレヴェーターからは何も見つからなかった──血の跡はないそうだ」
制服巡査がはいって来て、警視に近づいた。
「長官がみえました、警視殿」
「すぐに行く」と、警視は、うんざりしたように言った。父が部屋を出て行く時、エラリーは、意味ありげに目配せした。父が、かすかにうなずいた。
やがて警視が、威風堂々たるスコット・ウエルズ長官と、お付きの刑事や警察事務官連を案内して戻った時には、エラリーとウェストリー・ウィーヴァーの姿は消えていた。そして、マリオン・フレンチ嬢は椅子に坐って、父親の手をしっかり握って、まるでウィーヴァーと一緒に、その魂と勇気が行ってしまったかのように、ぼんやりとドアを見つめていた。
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第二話
「手がかりという言葉は、その根源は神話からきているのである……|clue《クリユー》は語源的に clew から発するので(たとえば、Trew Blew などのように、語尾を同じくする他の多くの語と似ていて)……ギリシア語の糸という言葉を文字どおりに、古代英語に移したものである。そして、この語をまっすくに辿《たど》っていけば、ミノタウロスを殺したあとで、アリアドネがテセウスに与えた糸の玉の伝説に達する。テセウスは、その糸をたぐりながら迷宮を抜け出したのである。……
捜査上の手がかりというものは、実体を具えている場合もあり、具えていない場合もあるし、精神の状態という場合もあるし、事実の状態という場合もある。あるいは、当然あるべきものが欠如しているものからひき出される場合もあるし、当然あるべからざるものが介在するものからひき出される場合もある。……
しかし常に、その性質がどんな種類のものであっても、手がかりというものは、犯罪捜査官をして、本質的でないデータの迷宮をくぐり抜けて完全理解の光明へ導かしめるものである。……
[#地付き]──ジョン・ストラング著『犯罪手口』へのウィリアム・O・グリーンの序文より
十三 私室にて 寝室
エラリーとウィーヴァーは、一階売場の群衆に気づかれないように抜け出した。売場の裏手の壁の曲がり角に小さな鉄格子《てつごうし》のドアがあるのをウィーヴァーが指さした。ひとりの警官が鉄格子によりかかって見張っていた。
「あれが専用エレヴェーターだよ、エラリー」
エラリーはクイーン警視のきちょうめんな字で書いてある警察の特別通過証を示した。すると、警官が敬礼してドアの鉄格子をあけた。
エラリーは角を曲がった所に階段があるのをたしかめてから、エレヴェーターに乗った。そして、慎重にドアをしめ、6の字のボタンを押した。すると、エレヴェーターが昇りはじめた。ふたりは黙っていた。ウィーヴァーは唇を、かみしめていた。
エレヴェーターは青銅と黒檀《こくたん》で仕上げられ、床は合成ゴム張りだった。しみひとつなく清潔だった。奥の壁には低い寝椅子のような、黒ビロード張りの座席がしつらえてあった。エラリーは鼻眼鏡を直して、興味深そうにまわりを見まわした。ビロードの座席にかがみこんで、しげしげと調べたり、壁の隅の暗がりに首をのばして、疑わしそうに覗きこんだ。
「ヴェリーが何ものも、見のがすはずはないのはわかってるんだが」と、エラリーは思った。
エレヴェーターが、がちゃんと停まった。自動ドアが開き、ふたりは広々として人けのない廊下に出た。廊下のつき当たりに高い窓があった。エレヴェーターの出口のほとんど真正面に、重々しい一枚板のマホガニーのドアがあった。ドアには、すっきりした小さな札に、次の文字が書いて、かかげてあった。
私室 サイラス・フレンチ
ひとりの私服刑事が、だらしなく、ドアによりかかっていたが、すぐ、エラリーに気がついたらしく、敬礼して、側《わき》へよけた。
「おはいりですか、クイーンさん」と、きいた。
「むろんさ」と、エラリーが、元気な声で「たのむぜ、ここで見張っていてくれたまえ。その間に部屋の中を調べるからね。だれかがやって来たら──お偉方だったら──ドアをこつこつやってくれたまえ。さもないやつだったら、みんな追っ払ってくれたまえ、いいね?」
刑事が、うなずいた。
エラリーがウィーヴァーの方を向いて「君の鍵を貸してくれ、ウェス」と、さりげなく言った。ウィーヴァーは何も言わずに、さっき、クイーン警視が陳列窓で調べた鍵ケースを、エラリーに渡した。
エラリーは金盤付きの鍵を探し出して、鍵穴に差し込んだ。鍵をまわすと、ばねが音もなくはずれた。エラリーは重いドアを押しあけた。
エラリーはその思いがけぬ重さに、びっくりしてドアから手を放して、後ろに退ると、すぐにドアは、はね返ってぴしゃりとしまった。エラリーはノブをまわそうとした。ドアはまた鍵がかかっていた。
「ばかみたな」と、つぶやきながら、鍵で錠をはずして、また、ドアをあけた。エラリーは手で先に行くように合図して、ウィーヴァーと部屋にはいり、ドアがもう一度、ばたりとしまるのにまかせた。
「特別製のスプリング錠だよ」と、ウィーヴァーが説明した。「何をおどろいているんだい、エラリー。プライバシーを絶対に守るためなのさ。うちのおやじは、その点、少し気違いじみてるのさ」
「すると、このドアは鍵がないと、外からはあけられないな?」と、エラリーがきいた。「ドアを一時的にしまらないようにする、かんぬき止めの装置がないんだね」
「このドアはいつも、あんなふうにがっちりしまってるんだ」と、ウィーヴァーがかすかに、にやにやしながら「そんなことしたって、大して差があるとも思えないがね」
「おそらく、雲泥の差があるだろうよ」と、エラリーが眉をしかめた。そして、肩をすくめて、あたりを見まわした。
ふたりは明かりとりを改造した飾りつけのほとんどない小さな控え室に立っていた。……床にはペルシア絨毯《じゅうたん》が敷かれ、ドアの反対側の壁ぎわに皮の背がついた長椅子が置かれ、そばに灰皿スタンドがあった。……その左側に椅子が一脚と、小さな雑誌立てがあった。それだけだった。
四番目の壁には小さめで、さほど頑丈でなさそうなドアが切り込んであった。
「思ったほど大したもんでもないね」と、エラリーが批評した。「これが大金持の普通の好みなのかね?」
ウィーヴァーは、エラリーとふたりきりになったので、もちまえの明朗さをとりもどしているらしかった。「うちのおやじを誤解しないでほしいね」と、ウィーヴァーがすぐ言った。「おやじはじつに、まっとうな老人でね、普通の部屋と娯楽室とを区別しているんだ。ここは、悪徳防止協会の仕事で会いにくる連中のためにとってある控え室なのさ。まあ待合室みたいなものさ。とはいっても、実は、あまり使われなかったがね。知ってのとおり、フレンチ氏は、ずっと上町のほうに悪徳防止協会用の大事務所を持っていて、協会の仕事は大部分、そこで扱っていたんだ。だが、ここを設計した時には、おそらく、協会のごく親しい連中だけは、ここで接待したかったんだろうね──」
「最近、その連中が来たかね」と、エラリーが、室内のドアのノブに手をかけながらきいた。
「おお、いや。ここ数か月はさっぱり来なかったよ。おやじは差し迫ったホイットニー合併のことで頭がいっぱいだったからね。悪徳防止協会には痛手だったろうよ」
「なるほど、すると」と、エラリーは分別くさく「ここには興味をひくものは何もないわけだ。先へ行こう」
ふたりは次の部屋へはいり、ふたりの背中でドアがばたりとしまった。ドアには鍵がなかった。
「ここは」と、ウィーヴァーが「書斎だよ」
「そうらしいね」と、エラリーはドアによりかかって、ひどく熱心に、じろじろ見まわした。
ウィーヴァーは黙っていられないらしく、唇をなめて言った。
「この部屋は重役会の会議室や、おやじの隠れ場所なんかに使われていたんだ。かなり気のきいた部屋だろう?」
エラリーの見積りでは、少なくとも二十平方フィートの広さで、見たところ、一応事務室風につくられていた。部屋の中央に長いマホガニーのテーブルがあり、そのまわりに、どっしりした赤い革張りの椅子が並んでいた。椅子は乱雑で、ばらばらにテーブルを囲んでいて、今朝の集会が中止になった時の、あわてぶりを示していた。書類がテーブルのそこここに、ちらばっていた。
「いつもはこんなじゃない」と、ウィーヴァーがエラリーの不愉快そうな目を見て、いいわけするように「なにしろ、重要な会議だったし、みんな興奮していたし、そこへもってきて、階下のあの事件の報らせだろう!……もっと、ごちゃごちゃになっていないのが不思議なぐらいさ」
「そうだろうな」
エラリーの向かいの壁に、一八八〇年代の服装をした、赤ら顔の、堂々たる角顔の男の油の肖像画が、きっちりと額に納まっていた。エラリーは質問するように眉をあげた。
「フレンチ氏の父親──この店の創立者さ」と、ウィーヴァーが言った。
その額の下に、作りつけの本棚と、大きな安楽椅子と、モダンな型の小机があり、椅子の真上に、エッチングが一枚かかっていた。
廊下側と、ふたりが立っているそばの壁には、好みのいい家具が並んでいた。左右の壁には、全く同じような飾りドアがあり、いずれも、押し開きで回転|蝶番《ちょうつがい》型のものだった。ドアは、みごとな赤い人造革で張ってあり、真鍮《しんちゅう》の桟《さん》で鋲止《びょうど》めがしてあった。
部屋の第五アヴェニューがわには、後ろの壁から五フィートぐらい離して、大きな平机が置いてあった。そのぴかぴかな表面の上に、フランスふうの電話機と一枚の青いメモ用紙がのっていて、部屋の内部に向いている机の隅には、みごとな縞|めのう《ヽヽヽ》のブック・エンドに本が五冊立ててあった。机の後ろの壁には大きな屋根窓があいていて、ずっしりした赤ビロードの窓かけがかかっていた。この窓の下が第五アヴェニューだった。
エラリーは眉をしかめながら、立ったままでの観察を終わった。そして、まだ手にしていたウィーヴァーの鍵ケースを見つめた。
「ところで、ウェス」と、エラリーが急に「こりゃ、君の鍵なんだろう。だれかに貸したことがあるかね」
「うん、こりゃぼくの鍵さ、エラリー」と、ウィーヴァーは、無造作に「なぜだね?」
「ぼくはただ、この鍵が君の手から離れたことがあるかどうかがわかったら、おもしろいと思ってね」
「あいにくと、そんなことはないね」と、ウィーヴァーが「手もとから離したことは一度もないよ。事実、ぼくの知ってるかぎり、五つの鍵は、この私室《アパート》が建って以来、すべて持ち主の専用なんだ。人に貸すなんてことはないだろう」
「まさか」と、エラリーがそっけない調子で「フレンチ夫人の鍵のことを忘れてるな」と言い、じっくりと手の鍵を見つめた。「しばらくこの鍵を預かったら、ひどく困るかい、ウェス。この特殊な形の鍵を集めてみようと思うんだがね」
「いいようにしたまえ」と、ウィーヴァーが小声で答えた。エラリーは金盤のついている鍵を、ケースからはずして、あとをウィーヴァーに返し、はずした鍵を胸のポケットに入れた。
「ところで」と、エラリーが「ここは君の事務室でもあったんだろう」
「いや、ちがう」と、ウィーヴァーが答えた。「五階にぼくの事務室があるんだ。毎朝、ここへ来る前に、そっちに顔を出すことになってる」
「じゃあ」と、エラリーは急に歩き出して「行こう! ウェス。ぼくはフレンチ氏の寝室の秘密を覗いてみたくてたまらないんだ。よろこんで道案内してくれるだろうね」
ウィーヴァーは向かいの壁の真鍮の鋲を打ったドアを指さした。ふたりは黙って厚い絨毯を敷きつめた室内を横ぎり、ウィーヴァーがドアを内側にさっと押した。そして、第五アヴェニューと三十九番街を見下ろす窓のついている、広い四角い寝室にふみこんだ。
寝室は、色も飾りも、エラリーにとっては、目新しく、大変モダンだった。対《つい》の寝台は、ほとんど床につくほどの高さで、よく磨いた卵型の木の台の上に据えられているのが、すぐ目についた。変わり形の男用洋服箪笥と、大胆なデザインの婦人用化粧台があって、この部屋がフレンチ氏にも夫人にも使えるようになっているのがわかった。おちついた色だが、立体派模様のある壁に、二か所色変わりの所があって、その内側が押入れになっているらしい、対のベッドの間に、変わり型の椅子が二脚、小さなナイト・テーブル、電話台、はでな小型の絨毯があって──ヨーロッパの流行に不慣れなエラリーには、最初はとっつきにくかったが、このフランス式寝室はじつに魅力ある見ものだった。
廊下よりの壁にドアがひとつあった。少しあいたままだった。そのすき間から、寝室と同じように、ひどくモダンな色タイル張りの手洗いが見えた。
「何を探しているんだね。何か特別なものでも探そうというのかね」と、ウィーヴァーがきいた。
「口紅棒さ。ここにあるはずなんだ……それと、夫人の鍵さ。まあ、出ないほうがいいがね」と、エラリーは微笑しながら、寝室のまん中にはいって行った。
ベッドは二つとも整頓してあるのがわかった。何から何まできちんとしているようだった。エラリーは洋服箪笥に歩み寄って、がらんとした箱の上を見た。化粧台が目をひいた。何か見つかるかもしれないと、なかば期待しながらエラリーは歩みよった。ウィーヴァーが好奇心につられてついて来た。
化粧台の表面には、こまごましたものが少しばかりちらばっていた。真珠母《しんじゅも》の小さな貝皿、白粉壷《おしろいつぼ》、手鏡。皿の上には、婦人用品が少しばかり──小さな鋏《はさみ》、やすり、つや出し。どれも最近使った様子はない。
エラリーは眉をしかめた。そして顔をそらしたが、いかにも化粧台に気をひかれるかのように、また顔を振り向けた。
「たしかに」と、エラリーはつぶやいた。「ここにあるはずなんだがな。ほかのどこよりも、ここにある道理なんだ。たしかだ!」
エラリーの指が貝の皿に触れた。貝はふちのところが、かすかに丸味をもっていた。皿を動かしてみると、皿のふちの下にひっかかっていた何かが、テーブルに転がり出して、床に落ちた。
エラリーは得意そうに、にやりとして、それを拾い上げた。小さな、金環のついている口紅棒だった。ウィーヴァーはそれを見ると、驚いて近づいて来た。エラリーが、ふたについているW・M・Fの三つの頭文字を指さした。
「おや、そりゃ、フレンチ夫人のだ」と、ウィーヴァーが叫んだ。
「フレンチ夫人様々だ」と、エラリーがのどの奥で、つぶやいた。そして、口紅棒のふたをとり、ねじってみた。桃色の口紅が首を出した。
「そのものずばりだ」と、エラリーが高い声で言った。ふと気づいたように、上着のポケットをさぐり、陳列窓の中で死んだ女のバッグで見つけたやや大き目な、銀環のついている口紅棒をとり出した。
ウィーヴァーが危く声を出しそうだった。エラリーが、とがめるようにウィーヴァーを見つめた。
「ほう、君にも見覚えがあるんだね、ウェス」と、にやにやしながらきいた。「さあ話したまえぼくらはふたりきりだし、ぼくの前でなら信頼してぶちまけても大丈夫だ……Cの頭文字のついているこの口紅棒は、だれのものなんだね」
ウィーヴァーは顔をしかめて、エラリーの冷静な目を見つめた。「バーニスのだよ」と、重い口で言った。
「バーニス? バーニス・カーモディ、姿をくらましている女性のかい?」と、エラリーは間のびした調子で「フレンチ夫人は、あのひとの実母なんだろう」
「フレンチ夫人は、老社長の二度目の奥さんなんだ。先妻の娘がマリオンさんさ。前の奥さんが死んでから七年ほどになる。バーニスさんはフレンチ夫人が再婚した時の連れ子なんだよ」
「で、これはバーニスの口紅棒なんだね」
「うん、ぼくにはすぐわかった」
「そりゃそうだろう」と、エラリーはくすくす笑いながら「あんなふうにとび上がったものね。……ウェス、君はバーニスの行方不明について、何か知っているんだろう。マリオン・フレンチの様子から見て、何か知ってるな、と睨んでいるんだがな。……まあ、まあ、ウェス──勘弁しろよ。ぼくは恋人でもなんでもないんだからな」
「わかってる、だが、ぼくはマリオンは何もかくしていないと思うよ」と、ウィーヴァーが反対した。
「さっき、ぼくと警視とで、入口の近くまでマリオンを迎えに行った時に、バーニスとフレンチ夫人が昨夜は家にいなかったと、警視に告げていたよ……」
「本当かい」と、エラリーは本当にびっくりして「どうしてそんなことが、ウェス。事実を、君、事実をきかせてくれ」
「今朝、ちょうど会議の前に」と、ウィーヴァーが説明した。「老社長が家に電話をして、奥さんに、無事グレート・ネックから帰ったことを伝えるようにと、ぼくにたのんだ。それでぼくは家政婦の──家政婦以上の存在だが──ホーテンス・アンダーヒルに電話で話した。あの家政婦は十二年の上も老社長につかえているのさ。そのときホーテンスが、起きているのはマリオンひとりだと言っていた。あれは十一時ちょっと過ぎだった。それで、フレンチさんはマリオンを呼び出して、普通の話をしていた。
ところが、十二時十五分前に、ホーテンスが、あわてふためいて電話をかけてきた。ホーテンスはフレンチ夫人とバーニスが、しんかんとしているので心配していたが、寝室へ行ってみると、ふたりとも姿が見えず、ふたりともベッドに寝た形跡がないというのさ。つまり、むろん、ふたりとも一晩じゅう家にいなかったことになるわけさ……」
「それに対して、フレンチ氏は何か言ったかね」
「心配するというより、怒っていたようだったよ」と、ウィーヴァーが答えて「おそらく、ふたりが、友だちのうちで泊まったとでも考えているらしかった。それから、会議をつづけていたのさ、あの報らせを受けて、中断されるまでね──そんなわけさ」
「いったい、なぜ、おやじはふたりの行方を追及しなかったのだろう……」と、エラリーは、ちょっと顔をゆがめて、つぶやいた。そして、いきなり電話にとびついて、デパートの交換手に、ヴェリー部長を呼ぶように命令した。ヴェリー部長が電話の向こうで、どら声を出すと、エラリーは、急いで事情を知らせ、バーニスをすぐ捜し出すことが絶対に必要だと考えている旨を警視に報らせるように指示した。そしてクイーン警視ができるだけ長く、ウエルズ長官を階下に引き留めておくようにと、つけ加えた。
エラリーはウィーヴァーから聞いたフレンチ家の電話番号を、すぐ、交換手につながせた。
「もしもし」と、受話器の底で、聞きとりにくい声がつぶやいた。「もしもし、こちらは警察だが。ホーテンス・アンダーヒルさんですね……そのことは今、気にしないでいいですよ、アンダーヒルさん……バーニス・カーモディさんはまだ戻られませんかね……そう……どうぞ、すぐ車で、フランス・デパートに来てください。そう、そうです……すぐです。ついでですが、カーモディさん付きの女中がいますか……結構。一緒に連れて来てください。……そう、六階のフレンチさんの私室《アパート》です。店に着いたら、ヴェリー部長にそう言ってください」
エラリーは受話器をかけて「バーニス嬢はまだ戻っていないよ」と、穏やかに言った。「一体どんなわけか、さっぱりわからんね」エラリーは手の中の二本の口紅を見て考えこんだ。
「フレンチ夫人は未亡人だったのかね、ウェス」と、しばらくしてきいた。
「いや、奥さんは、カーモディと離婚したのさ」
「もしや、その男は、古美術商のヴィンセント・カーモディじゃないか」と、エラリーはさりげなくきいた。
「あのひとさ。君は知ってるのか?」
「ちょっとね。あの男の店へ行ったことがある」と、エラリーは眉をしかめて、二本の口紅棒を見つめた。ふと、エラリーの目がけわしくなった。
「こりゃ、ひょっとすると……」と、言いながら、金の口紅棒をわきに置いて、銀の口紅棒を手の中でころがしていたが、キャップをはずし、中の深紅色の紅が顔を出すまで軸をねじまわした。そして口紅がすっかり出つくすまで、熱心にまわしつづけた。そのうえ更にねじまわそうとした。驚いスことに、はっきり、かちっと音がして、紅はすっかり金属のばねから抜け出し、銀色の筒からエラリーの手にころげ落ちた。
「まだ何かはいっているようだな」と、エラリーはしんから驚いて、筒を覗きこんだ。ウィーヴァーも、もっとよく見ようと、のり出して来た。エラリーは筒をさかさまにして振ってみた。
太さ半インチ、長さ一インチほどの小さなカプセルが手に落ちた。カプセルには白い粉状の結晶物がいっぱいつまっていた。
「なんだろう」と、ウィーヴァーは息をのんだ。
エラリーは振ってみて、光に当ててみた。「そうだね、ウェス」と、ゆっくり言いかけたが、エラリーの唇のすみにかすかな微笑が残っていた。「どうやら、ヘロインらしいね」
「ヘロイン。あの麻薬の?」と、ウィーヴァーが興奮してきいた。
「まちがいないな」エラリーはカプセルを口紅棒の筒に納め、紅の部分をもとどおりにねじこみ、その口紅棒をポケットに入れた。
「商売用の上等なヘロインだ。ちがうかもしれないが、どうもそうらしい。こいつを本部で分析させてみよう。ところで、ウェストリー」と、エラリーはフレンチの秘書の方へ、ぐるりと向き直って「正直に言ってほしい。君の知っているところで──あるいは知っていたところで──フレンチの家族に、だれか麻薬中毒者はいないかね」
ウィーヴァーが意外に素早く答えた。「君がこのヘロインを見つけたし、それが本物だとすれば、バーニスの、特に最近の様子や行動が何か妙だったことを思い出すんだ。それはバーニスの口紅だろう──エラリー。バーニスが麻薬常用者だとしても、ぼくはちっとも驚かないよ。バーニスは、興奮しやすく、神経質で、やせこけているし──急にはしゃぐかと思うと、急に沈みこんだりするんだ……」
「君の説明は中毒患者の徴候にぴったりだな」と、エラリーが「そうか、バーニスがね。あの女は時が経つにつれて、ますます興味ある存在になるな。ところで、フレンチ夫人や──フレンチ氏や──マリオン嬢は、どうなんだね」
「いや──マリオンはちがう」と、ウィーヴァーは、大声で言い、やがて、恥ずかしそうに微笑しながら「失敬。ちがうよ、エラリー、かりにも、うちの老社長は悪徳防止協会の会長なんだよ──とんでもないことだ」
「それがたいした地位だとでも思っているのかい、え?」と、エラリーがにやりとした。「それで、フレンチ夫人は、その点、正常だったかね?」
「ああ、絶対に大丈夫だ」
「君のほかに、あの家族の中で、バーニスが麻薬常用者なのに気づいている者がだれかいるかな」
「いるとは思わないな。いや、たしかにひとりもいないだろうな。老社長もきっと気がついていない。マリオンが時々バーニスの妙なそぶりや行動をこぼしていたことがあるが、でもたしかに勘づいちゃいないな──その点には。フレンチ夫人については──そうだな、どんなふうに考えていたかわかりにくいよ。いつも、可愛いバーニスのことになると、しっかり口をつぐむほうだったからね。もし勘づいていたとしても、どうにもしなかったところをみると、麻薬のことについては、まるで気がつかなかったものと思いたいな」
「しかしだね──」と、エラリーの目が光った。「じつに妙だな。ウェス。この銀の口紅棒はフレンチ夫人の死体から──実際はハンド・バッグからだが──出て来たんだよ。……なあ、妙じゃないか?」
ウィーヴァーは弱々しく肩をすくめて「ぼくの頭はすっかりこんぐらがっちゃったよ」
「ウェストリー、なあ君」と、エラリーは鼻眼鏡をいじくりながら、追求した。「自分の家族の中に麻薬中毒者がいると知ったら、フレンチ氏は、一体、どうすると思う?」
ウィーヴァーは身ぶるいした。
「君は、あの老社長の癇癪玉《かんしゃくだま》が破裂したらどんなものか知らないんだ。しかも、そんなことでもあったら、かんかんになるだろうよ──」と、ウィーヴァーは、ちょっと口をつぐみ、まじまじとエラリーを見つめた。エラリーは微笑していた。
「時間がおしいよ。無駄にしちゃ」と、エラリーは明るく言ったが、その目はいらだたしそうに光っていた。
「さあ、手洗いを見せてもらおう」
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十四 私室にて 手洗い
「ここで何が見つかるか、見当もつかないがね」と、ふたりがぴかぴか光っている浴室に立った時に、エラリーはおぼつかなげに言った。「しかし、実のところ、最後に調べる場所は、この浴室だけなんだ。……異状はないかね、ウェス。何か様子のおかしい所に気がつかないかね」
ウィーヴァーが、すぐさま答えた。「変わりはないようだね」だが何か自信のない声だった。エラリーはウィーヴァーを鋭く見つめてから、浴室を見まわした。
細長く狭い部屋で、浴槽は床にはめこまれていた。洗面台も小型でモダンだった。その上には目だたぬように作られた戸棚があった。エラリーは、その隠し戸をあけてみた。中は三段のガラス棚で、家庭薬のびんがいくつかと、ヘアトニック、香油、チューブ入り歯みがき粉、シェービング・クリーム、変わった木箱にはいっている安全かみそり、二本のくし、その他に、こまごましたものが載っていた。
エラリーは少しがっかりして、ばたんと戸をしめた。
「行こう、ウェス」と、うなるように言った。「とんだひまつぶしだ。何もありゃしない」
だが、エラリーは立ちどまって、横手の扉を開いた。それは手洗用の布類を納めておく戸棚だった。エラリーは片手を汚れものの籠に突っこみ、汚れたタオルを二、三枚とり出した。そして、無造作に調べて、投げ戻しながら、ウェストリーを見つめて……
「おい、言っちまえよ、君」と、明るい声で「何か隠しているね。デンマークのもめごとは一体、なんだね」〔デンマークのもめごと云々はシェイクスピアのハムレットのせりふ〕
「妙だよ」と、ウィーヴァーが考えこみながら口をとがらせて「さっき妙だと思ったことが、今はっきりしてきた、そうだ──考えれば考えるほど妙だよ……エラリー、なくなっているものがあるんだ!」
「紛失しているって?」と、エラリーは、いきなり手をのばして、ウィーヴァーの腕をぎゅっとつかんだ。「どうして黙っていたんだ? おい、何がなくなっているんだ」
「ばかみたいに思えるだろうがね……」と、ウィーヴァーがへどもどした。
「ウェストリー、おい!」
「すまない」と、ウィーヴァーが、から咳をして「それがね、かみそりの刃が一枚なくなっているんだよ、実を言うとね」と、エラリーが小ばかにしやしないかと、その顔をうかがった。
だが、エラリーは笑わなかった。「かみそりの刃か? くわしく話してくれよ」と、戸棚の戸によりかかりながら、促した。そして、何かを期待するかのように、洗面台の上の戸棚を見守っていた。
「ぼくは今朝は、いつもより少し早くここに着いたんだ」と、ウィーヴァーが、心配そうに眉をしかめて語り出した。「老社長の来る前に準備しておかなければならなかったし、重役会の書類も整えておかなければならなかったんだ。知ってのとおり、社長はいつも十時までは、ここに来ない。特別の時だけ──今度の重役会のような時──には少し早く来る。……それで、ぼくはあわてて家をとび出して、ここでひげを剃るつもりだったのだ。時々そうしているんだ。ついでに言うが、そのためにぼくはここに自分のかみそりを置いてあるんだよ。……ぼくがここに着いたのは──八時半ごろだった──ぼくは急いで、ひげを剃ろうとした。ところが、刃が一枚もないんだよ」
「べつに、変だと言うほどのことでもないようじゃないか」と、エラリーが微笑しながら「ただ君が、戸棚の中に刃を入れておかなかっただけだろう」
「ところが、入れておいたんだよ」と、ウィーヴァーが抗議した。「どうも変だと思うのは、昨日の夕方退店する前に、ぼくはここで顔を剃り、刃をかみそりに入れたままにしておいたからだよ」
「ほかに替え刃はなかったのか」
「うん、刃がきれていて、補充しておこうと思っていたところなんだ。だが、今朝は持ってくるのを忘れたんだ。それで、不精ひげを剃ってやろうと思ったんだが、どうしようもなかったのさ。刃がなくなっているんだものね。おかしいじゃないか、それに、昨日わざわざ、かみそりに刃をつけたままにしておいたのは、前にも刃を補充するのを忘れたことがあったからさ。君にもおぼえがあるだろうが、古い刃でも結構もう一度ぐらいは剃れると思ったもんだからね」
「その刃がたしかに紛失したと言うんだね。君がかみそりに入れたままにしておいたのは、たしかなんだね?」
「たしかさ。刃をきれいにして、もとどおりにもどしといたんだから」
「刃を折りでもしたんじゃないか」
「絶対にそんなことはないよ、エラリー」と、ウィーヴァーが、じれったそうに「その刃はたしかに、そこにあったのさ」
エラリーの唇が、さもおかしそうにもちあがった。「そりゃたしかに大問題だね」と、言った。「それで不精な顔をしているんだな」
「そうさ、今日は、ひげを剃りに行く暇もなかったからね」
「妙だな」と、エラリーが考えこみながら「君は戸棚の中に刃を一枚しか残しておかなかったんだね。すると、フレンチ氏の刃は、どこにあるんだ」
「あの人は自分のを持っていないんだよ」と、ウィーヴァーが、少し、ぎごちなく答えた。「全然持っていないんだ。毎朝、ひいきの理髪店に行くんだ」
エラリーは、それ以上、何もきかなかった。そして、戸棚をあけて、木のかみそり箱を、取り下ろした。中の銀色の、飾りのないかみそりを調べたが、関心をひくものは何も見当たらなかった。
「君は今朝、このかみそりに手をふれたかね」
「と、いうと?」
「箱から、これを取り出したかね」
「おお、そんなこと、全然しないよ。刃がないのに気がついたもの、手もふれやあしないさ」
「非常に重要な点だな」と、エラリーは、かみそりを取りあげて、その銀色の表面に指がふれないように注意しながら目の高さまで持ち上げた。そして、金属の面に息を吹きかけた。たちまち、全面がくもった。
「指紋は全然ないな」と、エラリーが言った。「おそらく、拭きとったのだろう」と、急に、微笑しながら「どうやら、幽霊か化けものが、昨夜、ここにいたらしい形跡が見えかけたよ、君。男か女かわからんが、そいつは、とても用心深いやつらしいな」
ウィーヴァーが大声で笑った。「すると、君は、盗まれたぼくのかみそりの刃が、この事件と関係があるとでも言うのかい」
「考えることは」と、エラリーが生《き》まじめに「知ることだ。……覚えておきたまえ、ウェストリー。たしか君は昨夜七時少し前にここを出たと、さっき階下で言ってたね。すると、かみそりの刃は昨夜七時ごろから、今朝の八時半までの間に、この私室《アパート》から持ち出されたことになる」
「おどろいたな」と、ウィーヴァーが、からかうような口ぶりで「探偵になるには、そんな手品みたいな考え方を練習しなければならないのかね」
「笑うがいいさ、お坊っちゃん」と、エラリーがぴしりと言った。……エラリーは沈思黙考という様子で、立っていた。
「さあ、次の部屋へ行こう」と、がらりと調子をかえて「かすかな光が見えはじめた。まだはるかかなただが──かすかなりとも、光は光だ。さあ行こう、お坊っちゃん」
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十五 私室にて カード室
エラリーは目算がある様子で、手洗い所を出ると、のしのしと寝室を通り抜けて、もう一度書斎へはいった。ウィーヴァーはついて行った。その顔は、それまで神経質だったのに、今はうってかわって、ひどく好奇心にもえていた。何かを、すっかり忘れてしまっているようだった。
「あのドアの向こうは何かね」と、エラリーが、部屋の突き当たりの赤革張りで真鍮の鋲の打ってある二番目のドアを指さしながら、無造作にたずねた。
「カード室だよ」と、ウィーヴァーが意気ごんで「あそこも捜査してみるつもりなのかね、エラリー。なんと、すっかりぼくを興奮させちまったな」と、言いかけてやめ、心配そうな顔で、しげしげと友を見つめながら立っていた。
「カード室なのか」エラリーの目が光った。「きくがね、ウェス──君は今朝このアパートに最初にはいったんだし、立場上、一番よく知っている人間なんだぜ──今日書斎にいた連中のうち、どこかほかの部屋にはいった者がいたかね」
ウィーヴァーはしばらくためらっていた。「今朝来た時、老社長が寝室にはいって、外套と帽子を脱いで来たほかには、だれも書斎から出なかったよ」
「フレンチはトイレに行かなかったかい」
「うん。社長は大急ぎで店のさしずをし、会議の準備をしなければならなかったからね」
「社長が寝室に行った時、君も一緒だったのか」
「うん」
「たしかなんだね、ほかの連中──ゾルン、トラスク、グレー、マーチバンクス──連中は今朝はひとりもこの部屋を出なかったんだね」と、エラリーは部屋の中を二、三歩あるきまわった。「ついでだが、君は一分一秒たりとも、ここを離れなかったんだろうな」
ウィーヴァーが、にっこりして「今日の午後は、ぼくはなんでも肯定できる気分らしい──その質問には両方ともイエスだよ」
エラリーは少しうれしそうに両手をもんで「すると、この私室《アパート》の書斎以外は、君が今朝八時半に出て来た時のままの状態なんだね。すてきだ。じつにすてきだ。きわめて役にたつ物知りウェストリーだ」
エラリーはすばやくカード室のドアに歩みより、さっとあけた。ウィーヴァーがすぐあとにつづいた。そして、エラリーの広い肩の後ろから首をのばして、あっと叫んだ。……
カード室は、寝室や書斎より小さかった。羽目板は|くるみ《ヽヽヽ》材で、五番街を見下ろすただひとつの大きな窓には、明るい色のカーテンがたれ下がっていた。そして床には厚い絨毯が敷きつめてあった。
しかしエラリーは、ウィーヴァーの視線を追って、部屋のまん中にある、ベーズ布のかかっている六角形のカード・テーブルを見てウィーヴァーの驚いたわけがわかった。小さなブロンズの灰皿と、妙なふうに並んだカードが、テーブルの上にあった。二脚の重い折りたたみ椅子がテーブルから押しのけられていた。
「どうしたんだい、ウェス」と、エラリーが鋭くきいた。
「だって、あの──あのテーブルは、昨夜はなかったんだ」と、ウィーヴァーが、どもりながら「ぼくは帰る前に、パイプを探しに、ちょっとここに来たんだから、たしかだ……」
「本当かい」と、エラリーはつぶやくように「すると、あのテーブルは、たたんで、かたづけられていて、見えなかったと言うんだね」
「もちろんさ。この部屋は昨日の朝、掃除婦が掃除した。それに、この灰皿の吸いがら……エラリー、昨夜、ぼくが帰ってから後、だれかがここにいたんだ」
「たしかにね。浴室にもはいったらしいな、かみそりの刃がなくなっているという話を信じるとすればね。大事な点は──なぜ、だれかがここにいたかだ。待てよ」と、エラリーは、すばやくテーブルに近づいて、カードを珍しそうに見ていた。
テーブルの両端には、カードが小さく積まれていて──一方は表をさらし、一方は伏せてあった。ベーズのテーブルかけのまん中には、ひらいた、四つの山のカードが二列に並べられて、エラリーがよく調べてみると、数の多いほうから少いほうへ順々に重ねてあった。その二列の間に、三つの小さな山があった。
「バンクだな」と、エラリーはつぶやき「妙だな」と、ウィーヴァーを見た。「この遊びは、むろん、君も知っとるだろう」
「いや、知らない」と、ウィーヴァーが「だが、それがバンクの並べ方だってことはわかるよ。フレンチさんの家でやっているのを見たことがあるからね。しかし、その遊び方はよく知らないんだ。それに、たいていのカード遊びがぼくには頭痛の種なんだ。ぼくはカードには弱いんだ」
「そうだったね」と、エラリーが笑って「特に、ブルームバリーの家でのあの晩は、君が競馬で負けた借金百ドルの穴埋めをするために、君の代わりにぼくがテーブルについてやらなければならなかったじゃないか……ところで、君はフレンチの家でこの遊びをやっているのを見たことがあると言ったね──そりゃ、非常におもしろい点だよ。いろいろきく必要があるな。ロシア式のバンクの遊び方を心得ている人間は、それほど多くいないからね」
ウィーヴァーはけげんそうにエラリーを見つめた。そして、灰皿に乗っている四本の吸いがらのほうへこっそりと目を移したが、すぐに振り向いて「フレンチ家で、バンク遊びをするのは、ふたりだけだったよ」と、絞《し》めつけられるような声で言った。
「で、その人たちは──君の口に合わせて過去形を使えば──だれだったんだね」と、エラリーがおちついた声できいた。
「フレンチ夫人と──バーニスさ」
「ほう」と、エラリーは唇を鳴らして「ほかならぬバーニスさんかね……ほかにはだれもやらなかったんだね」
「老社長は賭け事は徹底的にきらいだった」と、ウィーヴァーは当惑げに唇を指で押えながら「けっしてカード遊びなどはしない。エース(一の札)とデゥース(二の札)の区別も知っちゃいない。マリオンはブリッジをやるが、社交上の必要からだけなんだ。カード遊びは好きじゃないんだ。それにぼくはフレンチに雇われるまでバンクなんて遊びはきいたこともなかったよ。……ところがフレンチ夫人とバーニスさんは、とても熱中していた。ひまさえあればやっていたよ。ぼくらにはさっぱりわからなかったがね。手もつけられない賭けの虫というやつなんだ、あのふたりは」
「では、あの家族の友人たちは?」
「そうだね」と、ウィーヴァーがゆっくりと「老社長は家でカード遊びを厳禁するほど狭量じゃないよ。だから、この私室《アパート》にもカード室を設けたってわけさ。つまり、重役達のためにね──連中は会議の暇々に、ここでやってたからね。だが、自宅では、ぼくもずいぶんあそこのお客や友人達に会う機会はあったが、フレンチ夫人とバーニスのほか、バンクをやっている人を一度も見かけたことはないよ」
「結構──結構」と、エラリーが「じつに理路整然としとるね。万事そうこなくっちゃあ……」だが、エラリーは眉をしかめて,何か考えていた。「ところで、吸いがらのことだがね、君──君はなんだって、さっきから灰皿の中の吸いがらを、まともに見まいとしとるのかね、わけを聞きたいな」
ウィーヴァーは気がとがめて、まっかになった。「おお」と、言いかけて黙りこんだ。「言いたくないんだよ、エラリー、ぼくはどう考えても苦しい立場に立たされているんだ……」
「むろん、このたばこは、バーニスの愛用してるものだろう……はっきり言ったほうがいいぜ」と、エラリーがさりげなく言った。
「どうして、それがわかるんだね」と、ウィーヴァーが大声で「だが──そんなことは頭のいい人間にはお見通しなんだろうな……いかにもバーニスさんのさ。愛用品なんだ。いつも──特別に注文して作らせているものなんだ」
エラリーは、その吸いがらをひとつ、つまみ上げた。銀口《ぎんぐち》で、銀紙のすぐ下に、筆記体で、公爵夫人《ラ・デュセス》と、銘柄がはいっていた。エラリーは、残りの吸いがらをつつきまわしてみた。そして、どれも、ひとつ残らず、全く同じ長さ──吸い口から約半インチ──まで吸ってあるのに気づいて、目を光らせた。
「どれもこれも、じつによく吸ってあるな」と、批評しながら、つまんで匂いをかぎ、もの問いたげにウィーヴァーを見つめた。
「たしか、匂い入りだよ。すれみの匂い」と、ウィーヴァーが、すぐに答えた。「業者がお客の好みに応じて香料を入れるんだ。少し前に、フレンチ家へ行った時、バーニスさんが、注文しているのを聞いた覚えがある──電話で注文していたんでね」
「しかも、公爵夫人《ラ・デュセス》という銘柄は珍しいから、捜査上かなり有力な手がかりになる。……こりゃ、運がいい」と、エラリーは相手に聞かせるというより、ひとりごとのように言った。
「そりゃ、どういう意味だね」
「いやなに……それより、むろん、フレンチ夫人はたばこを吸わないんだろうな」
「そうさ──どうしてそれがわかるんだい」と、ウィーヴァーが、驚いてきいた。
「何もかも、つじつまが合うじゃないか」と、エラリーが、つぶやくように「じつに、ぴたりだ。それにマリオン嬢は──吸うかね」
「とんでもない──吸わないよ」
エラリーはいぶかしげに、ウィーヴァーを見つめた。「そうかね」と、すぐ言うと「さあ、このドアの向こうを見ようじゃないか」
エラリーは窓の反対側の壁の方へ、すたすたと歩いて行った。小さな、簡単なドアをあけてみると、中は小ぢんまりした、飾り気のない寝室になっていた。その奥に、小さな浴室があった。
「雇人部屋さ」と、ウィーヴァーが説明した。「元は部屋男用に作ったんだが、ぼくの知る限りでは使われたことは一度もない。老社長は気むずかしくないほうでね、部屋男は五番街の自宅のほうに置いているんだ」
エラリーは、二つの小部屋を、すばやく調べて、すぐに肩をすぼめながら出て来た。
「何もないな。ないはずだ……」と、言いかけて、鼻眼鏡を宙でくるくるまわした。
「さて、ここで、かなり重大な局面にぶつかったことになるよ、ウェス。考えてみたまえ。今、われわれは、バーニス・カーモディ嬢が昨夜このアパートにいたことを示す、直接証拠を三つ手に入れた。いや、むしろ二つと言ったほうがいいかもしれない、もう一つの──最初のほうのは──状況証拠的なものだからね。つまり──フレンチ夫人のハンド・バッグから出て来たCの頭文字のついている口紅棒だ。むろん、あれは三つの証拠の中で一番薄弱なものだよ。というのは、あの口紅棒はバーニスが、この場にいたことの証拠にはならないし、フレンチ夫人が持って来たのかもしれないからね。だが、覚えておかなければならない点だ。第二は、バンクのゲームだ。これについては、君みたいな有力な証人の証言がいくらでも集まるだろうよ。つまり、このゲームに熱中していたのは、家族ならびに家族の友人中、特にフレンチ夫人と、バーニス嬢だけだったということのね。たぶん、君も気がつくだろうが、このゲームは明らかに、勝負どこで中断されているんだ。ここに並んでいるカードのぐあいからみると──ゲームがまさに白熱化しようとしている時に、中断されたことが、すぐわかる。……それから、第三の最も決定的な証拠は──公爵夫人《ラ・デュセス》印のたばこさ。こいつは、明らかにバーニスのものとして、法廷で受理される証拠だと確信する。もし、確実性のある強力な状況証拠の裏付けがあればね」
「だが、そんな証拠があるかね! ぼくにはわからない──」と、ウィーヴァーが叫んだ。
「バーニス・カーモディ嬢が姿をくらましたという、不審な事実さ」と、エラリーが重々しく「逃げたのかもしれない」と、いきなり、ウィーヴァーに浴せた。
「まさか──信じられないな」と、ウィーヴァーは弱々しく答えたが、妙にほっとした声だった。
「母親殺しは、たしかに、異常犯罪だ」と、エラリーが考えこんだ。「しかし、ないわけじゃない……もしかすると──」
エラリーの瞑想《めいそう》は、部屋のドアをけたたましくたたく音で、ぶちこわされた。その音は、カード室、書斎、控え室の三方の壁をゆるがすばかりのけたたましさだった。
ウィーヴァーが、ぎょっとして目を上げた。エラリーは、すばやく、もう一度、あたりを見まわして、ウィーヴァーに先へ出るように合図した。そして、真鍮の鋲を打ったドアを、そっとしめた。
「善良な家政婦、ホーテンス・アンダーヒルと、女中にちがいない」と、エラリーは、うきうきして「どうやら、幸先のいいおふたりさんで──バーニス嬢に不利な証拠がふえるかもしれない」
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十六 私室にて ふたたび寝室
ウィーヴァーが表ドアをさっとあけて、ふたりの女を入れた。トマス・ヴェリー部長がふたりの後ろに肩をいからせて姿を見せた。
「この女たちを呼びよせたんですか、クイーンさん」と、ヴェリーが大きな体でドアをふさぎながら「階下の刑事のひとりが、この連中がエレヴェーターの見張りの前を通り過ぎようとしとるところを、つかまえたら──あなたが呼んだと言っとります。それでいいんですか」
ヴェリーの目が、ねちっこく私室《アパート》を見まわした──廊下のドアから見えるだけ見ていた。エラリーがにっこりした。
「そのとおりだよ、ヴェリー」と、ゆっくりした口調で「ぼくに任しとけば大丈夫だ。……ところで、長官と警視のご巡察のほうはどうかね」
「例のスカーフの手がかりをつかみかけましたよ」と、ヴェリーは太い声で言い、とたんにウィーヴァーが拳を握りしめるのを鋭く見つめた。
「電話で話した筋を当たってみたかね」と、エラリーが静かにきいた。
「はい。あの女は行方不明らしいです。捜査に、二人まわしました」部長のきびしい顔が、にやにやし出した。「あと、どのくらい続ければいいんですか、警視の──階下《した》の協力のほうは、クイーンさん」
「電話するよ、ヴェリー。さあ、退散してくれ、いい子だ」
ヴェリーがにやりとしたが、その顔は、いつもの冷たい無表情にもどり、くるりと向きを変えるとエレヴェーターの方へ歩み去った。
エラリーが女たちの方へ向き直った。ふたりの女は寄り添って不安そうにエラリーを見つめていた。エラリーはふたりのうち、背が高く年かさの──やせぎすで、五十そこそこのスラブ型の顔立ちで、灰色の髪、不気味な青いひとみの女──の方へ声をかけた。
「ホーテンス・アンダーヒルさんだね」と、改めてきいた。
「そうですわ──フレンチ家の家政婦ですわ」その声は見かけによらず──細く、鋭く、硬かった。
「それに、このひとがバーニス・カーモディ嬢の女中さんなんだね」
もうひとりの女は、小柄で、おどおどしていて、薄茶色の髪で、目だたない顔つきだったが、直接に声をかけられると、はっとばかりにおじけづいて、ホーテンス・アンダーヒルにいっそう寄り添って身を縮めた。
「そうですわ」と、家政婦が答えた。「ドリス・キートンさん、バーニス様付きの」
「よろしい」と、エラリーが微笑して、さりげなくうなずきながら道をあけた。「ついて来てください。どうぞ──」エラリーは先に立って、赤い革張りのドアを通り、大きな寝室に案内した。ウィーヴァーも、おとなしくあとからついて来た。
エラリーは寝室の二つの椅子を指さして「腰かけてください、どうぞ」ふたりの女は腰を下ろした。ドリス・キートンは、どんよりした大きな目をエラリーから離さずに、こっそりと、自分の椅子を家政婦の方へずらせた。
「アンダーヒルさん」と、エラリーが、鼻眼鏡を手に、口をきった。「前にも、この部屋に来たことがありますか」
「ありますわ」家政婦はエラリーを睨み負かす気になったらしい。その冷たい青い目が、ひえびえともえ上がった。
「おお、来たことがあるんですね」と、エラリーは一息入れて、相手を見つめたまま「いつですか? どんな時でしたか、聞かせてください」
家政婦はエラリーのおちついた様子にもひるまず「いく度も来ましたわ。まあ、そう申せますわ。でも、奥様のご用がないときには、一度も来たことはありません。いつも、お召物のご用でしたわ」
「お召物?」エラリーはけげんそうな顔をした。
家政婦はぎごちなくうなずいて「ええ、むろんそうですわ。もう、ずっと前のことになりますけれど、奥様がこちらでお泊まりになるときは、次の日の着替えを持って来るようにと、おいいつけになったものですわ。そんなわけで──」
「ちょっと、アンダーヒルさん」何かを考えついたエラリーは、うれしそうに目を輝かせて「それは、奥さんのいつものしきたりでしたか」
「わたしの知っているかぎりでは」
「いつ?」──と、エラリーはのり出して──「いつでしたか。夫人が最後に、あなたにそれを頼んだのは?」
家政婦は、すぐには答えなかった。やがて「たしか二か月前でしたわ」
「そんなに前ですか」
「二か月前なんですよ」
エラリーは、ため息をして、胸をそらした。「すると、この戸棚のどっちかは、フレンチ夫人のものですね」と、きき、壁にはめこみになっているモダンな二枚の扉を指さした。
「ええ──あちらのがそうですわ」と、家政婦は手洗いに近い、隠し戸を指さして、すぐに答えた。「でも、奥様のお召物だけではなく、──他のお嬢様がたも時々、お持物を収《しま》っておかれます」
エラリーが眉を釣り上げた「本当かね、アンダーヒルさん」と、思わず大声で言い、手で、そっとあごを撫でた。「すると、マリオン嬢も、バーニス嬢も、時々、フレンチさんの私室《アパート》を使っていたと考えていいね」
家政婦はまっすぐにエラリーを見つめて「時々ですわ。そうたびたびじゃありません。奥様がお使いにならないときだけ、お嬢様がたはお友だちとご一緒に夜をお過ごしになったのです──思いきり自由に遊ぶ、とでも申しますのでしょう」
「なるほど、お嬢さんたちは友だちと──あんたはたしか女友だちと言ったね──最近、ここに泊まったかね?」
「それは知りませんわ。少なくとも、ここ五、六か月は、そんなことはありませんでした」
「結構」と、エラリーは鼻眼鏡を、急に、くるくると宙でまわした。
「ところで、アンダーヒルさん。カーモディ嬢を最後に見たのはいつか? その時の様子はどんなだったか、正確に聞かせてもらいたいものだがね」
ふたりの女は意味ありげに目配せした。女中のほうは口をぴったりと閉じて、後ろぐらいように目をそらした。しかし、家政婦は相変わらずの態度で「こんなことになりはしまいかと思っていたんですよ」と、はっきりした声で言った。「でも、うちのかわいそうな仔羊さんたちは、どちらも、この事件に少しでも関係があるなどと、お考えになる必要はありませんのよ。あなたがどなたとしてもね。おふたりとも無関係ですわ、絶対大丈夫ですわ。私はバーニス様の居所を知りませんが、きっと、いたずらをなさっているんだと思いますわ……」
「アンダーヒルさん」と、エラリーが穏やかに「とてもおもしろい話だとは思うがね、なにしろ、こっちは急いでるんだよ。きいたことに答えてくれるといいんだが──」
「いいですわ、ぜひとおっしゃるなら」と、家政婦は唇をかみ、手をひざに組んで、ウィーヴァーをさりげなく見守りながら、口をきった。
「昨日のことでしたわ──あの方たちが朝、お起きになった時からお話ししたほうがいいですわ。そのほうがお話ししいいのでね。──そう、奥様と、バーニス様は、昨日は朝十時ごろお起きになって、おふたりとも、ご自分のお部屋に美容師を呼んでお化粧をなさったのです。お召替えがすんでから、軽いお食事をなさいました。その時はマリオン様のお食事はおすみでした。私が自分でおふたりのお給仕をしました……」
「途中だが、アンダーヒルさん」と、エラリーが口をはさんだ「その食事中に、ふたりがどんな話をしていたか、聞いたかね」
「私は自分に関係のないことには聞き耳を立てないことにしておりますの」と、家政婦が、ぴしりとやりかえして「ですから、おふたりがバーニス様のお召物の新調のお話をしていらっしゃったことしかお答えできませんわ。それに、奥様は少しぼんやりしていらっしゃったようです。現に、袖口をコーヒーでお汚しになったりしましたわ──お気の毒に。でも、そういえば、近ごろ、奥様はいつも、少しご様子がおかしいでしたわ──きっと、こんなことになる予感がしていらっしゃったのでしょうね──神様どうぞ奥様の心にやわらぎを……
そう、お中食のあと、おふたりは午後二時ごろまで音楽室で、おしゃべりなどをしてお過ごしでした。どんなことをなさっていたのか、どんなおしゃべりをなさっていたのか、全然存じませんわ。それに、おふたりきりで、お話しなさりたいらしかったんです。ともかく、お部屋から出てこられた時に、奥様がバーニス様に、お二階で着替えてくるようにと、言っていらっしゃるのが聞こえました。──公園にドライブにおでかけになるところでした。バーニス様はお二階へ上がり、奥様はお残りになって、運転手のエドワード・ヤングに、車を出すように言っておくれと、おいいつけになりました。それから奥様は、お召替えに、お二階へ行かれました。
でも、五分もたたないうちにバーニス様がすっかり外出のお支度で階段を下りてこられて、私を見ると、お母さまにことづけてちょうだいとおっしゃいました──低い声で──公園にドライブに行くのは気が変わりましたから、お買物に出かけますって。それから、お家をとび出して行かれたのです」
エラリーはひどく気がひかれた様子で「よく口がまわるね。だが、おかげではっきりしたよ、アンダーヒルさん。それで、昨日のカーモディさんの神経の状態はどんなふうだったかね」
「お気の毒でしたわ」と、家政婦が「でも、バーニス様は、いつも癇が強くて、神経が過敏な方《かた》ですのよ。昨日はいつもよりも神経がたっていらしたようですわ。そうそう今思い当たりますけど、お家をとび出して行かれた時、青ざめて、そわそわしていらっしゃいましたわ……」
ウィーヴァーがいきなり、何かしようとして身動きした。エラリーはウィーヴァーを目で押えて、家政婦に先をつづけるように合図した。
「それから、まもなく奥様が、ドライブのお支度で降りていらっしゃいました。バーニスは、とおききになったので、バーニス様が急いで出ていかれたことと、おことづけをお伝えしました。すると、瞬間、奥様は卒倒なさるんじゃないかと思うほど──病人のようにまっさおになられて、いつものご様子とまるっきりちがっていました。でも、じきにご自分をとりもどされて、おっしゃいました。[いいよ、ホーテンス。ヤングに車を車庫にもどすように言っておくれ。出るのをやめにするからね……]そうして、またまっすくに二階へお戻りになりました。おお、そうそう、二階へお上がりになる前に、バーニス様がお帰りになったらすぐ報らせるようにと、おっしゃいました。……そうなんですよ、それがバーニス様を最後にお見かけした時で、事実上フレンチの奥様をお見かけしたのも、それが最後と言ってもいいくらいですわ。と申しますのも、おかわいそうな奥様は、あの日の午後はずっとお部屋にこもっていらっしゃって、マリオン様とご夕食に階下にお降りになってから、またお部屋へお戻りになったのですものね。奥様はひどくバーニス様をご心配のご様子で、二度も電話をかけようとなさいましたが、思い直されたようでした。ともかく、奥様は夜の十一時十五分ごろに、帽子と外套《がいとう》を着けて、降りていらっしゃいました──それも、おききになりたいんでしょう──帽子は茶のトークで、外套は毛皮でふちをとった毛織のものです──そうして、出かけてくるとおっしゃって、お出かけになりました。それがお気の毒なフレンチの奥様をお見かけした最後なんですのよ」
「車はいいつけなかったのかね」
「はい」
エラリーは部屋をひとまわりした。
「それで、マリオン・フレンチ嬢はあの日一日じゅう、どこにいたのかね」と、不意にきいた。ウィーヴァーは、びくっとしてエラリーを見つめた。
「おお、マリオン様は朝早く元気にお起きになり──いつも早起きなんですよ、あのお嬢様は──それから、ご中食のあとですぐに、お友だちとお買物に行く約束があるとおっしゃって、お出ましになりました。それに、午後はカーネギー・ホールに行かれたと思いますわ。あの前の日に、だれか外国人のピアノの演奏会があるとかで、その切符を見せていらっしゃいましたからね。マリオン様は大変音楽がお好きですのよ。そして夕方の五時半ごろまでお帰りになりませんでした。マリオン様と奥様はご一緒に夕飯をとられましたが、バーニス様がお帰りにならないのを大変気にしておられましたわ。いずれにせよ、マリオン様はご夕食のあとで、お召替えになって、またお出ましになりました」
「マリオン・フレンチ嬢は何時に戻ったかね」
「それはわかりませんわ。私は召使たちに夜の暇を出してから十一時半に寝てしまいましたからね。どなたも帰っていらっしゃるのを見かけませんでした。それに、奥様は起きて待たなくていいとおっしゃいましたし」
「あまりきちょうめんな家庭とはいえないな」と、エラリーがつぶやいた。「アンダーヒルさん、家を出る時カーモディ嬢はどんな服装だったか話してくれんかね──たしか、二時半ごろだったね、その時は」
ホーテンス・アンダーヒルは、おちつかぬ様子で、椅子でもじもじしていた。女中は、おびえた目で、ぽかんとエラリーを見つめたままだった。
「そのころでしたわ」と、家政婦が「そうですわ。バーニス様のお召物は──ちょっと考えさせてください──けばけばしい飾り付きの青いフェルト帽子で、グレイのシフォンのドレス、毛皮でふち取りをしたグレイの外套、ラインストーンのバックルがついた黒いパンプスをはいていらっしゃいましたわ。お知りになりたいのはこんなことでしょうか?」
「そのとおり」と、エラリーは機嫌よくにこにこした。そして、ウィーヴァーを片隅に連れて行き「ウェス、ぼくがなぜこの役にたつおふたりを参考のために呼び出したのかわかるかね」と、低い声できいた。
ウィーヴァーが首を振って「バーニスのことを知りたいだけじゃないのか……ああ、そうかエラリー君、バーニスがここにいたという証拠を、もっと捜し出そうとしてるんだな」と、あきれ顔をした。
エラリーがゆううつそうにうなずいた。「新聞記事流に言えば、バーニス嬢がこの私室《アパート》に来たと推定しうる証拠が、明瞭に三つある……どうやら、もっとありそうな気がするんだ。自分で探せない証拠だがね。だが、家政婦や女中なら──バーニスの女中なら──」と、エラリーは言いかけて、自分自身の考えに、じれったそうに首を振った。そして、控えている女たちの方へ向き直った。
「ドリス・キートンさん」呼ばれた女中は、びくっととび上がり、ひどくおびえた目をした。
「こわがることはありませんよ、キートンさん」と、エラリーがやさしく「あなたに噛みつきはしませんよ……昨日、中食のあとで、バーニス嬢の着替えを手伝いましたか」
女中はささやくように「は、はい」
「じゃあ、バーニス嬢が身につけていたもの、たとえば昨日着ていたものなどを、今ここで見ればわかりますか」
「わ、わかると思いますわ」
エラリーは手洗いに一番近い戸棚に歩み寄って、そのドアをさっと開き──色とりどりの衣裳がかけてある衣桁《いこう》や、ドアの内側に吊ってある絹の靴袋や、帽子|函《ばこ》がいくつか乗っている上の棚をむき出しにすると──身を引いて言った。
「さあ、あんたの領分だ、キートンさん。何が見つかるか、見てください」と、エラリーは女中のすぐ後ろに立って、きらきらする目で、じっと見守っていた。女中の反応にすっかり気をとられていたので、そばにいるウィーヴァーの存在さえ感じなかった。家政婦は、椅子に座り、細長い石みたいに身をかためて、ふたりを見守っていた。
女中は指を震わせて、衣桁にかかっている多くの衣裳をかきまわしていた。全部捜してから、おずおずとエラリーの方を向いて、首を振った。エラリーはもっと捜しつづけるように合図した。
女中は爪先を立てて、上の棚から三つの帽子函を取り下ろし、ひとつずつふたをあけて、手早く調べた。初めの二つの函のはフレンチ夫人の帽子だと、女中がためらいがちに言った。ホーテンス・アンダーヒルがぎごちなくうなずいて、裏書きした。
女中は三つ目の函のふたをあけた。そして、小さな悲鳴をあげると、あとじさりして、エラリーに手が触れた。するとまるで熱いものに触ったかのようにあわててとびのき、ハンカチを探した。
「どうしたね」と、エラリーがやさしくきいた。
「これは──これはバーニス様のお帽子です」と、低く言って、神経質にハンカチを噛んだ。「これは──昨日の午後、家をお出になった時にかぶっていらっしゃった帽子です」
エラリーはその帽子を、函にはいっているままで、ふちからてっぺんまで、丁寧に眺めた。てっぺんはやわらかい青いフェルトで、むりに押しこまれたせいで、くしゃくしゃになっていた。ぴかぴか光るピンが、裏返しになっているふちの上部にとめられているのが、エラリーの立っている所からかろうじて見える……。エラリーが言葉みじかにいいつけると、女中は帽子を函から出して手渡した。エラリーがそれをいじりまわして調べてから、黙って女中に返すと、彼女は黙って受けとり、片手を帽子の内側に入れ、軽くたたいて裏返しにし、手ぎわよくそのままの格好で函にもどした。目をそらしかけたエラリーは、一瞬、はっとなったが、しかし何も言わずに、女中が三つの函を棚にもどすのを見守っていた。
「次は靴のほうを、どうぞ」と、言った。
女中は、すなおに、戸棚の扉の内側にかけてある絹の袋のついている靴掛けを覗きこんだ。そして、婦人靴に手をかけようとした時、エラリーがその肩に手をかけてやめさせると、家政婦の方へ向き直った。
「アンダーヒルさん、これがカーモディ嬢の帽子かどうか、たしかめてくれませんか」
エラリーは長い腕をのばして、青いフェルト帽のはいっている函を取り下ろし、帽子を取り出してホーテンス・アンダーヒルに渡した。
家政婦はちょっと調べた。どうしたわけかエラリーは戸棚の所から歩み去って、手洗所のドアのそばに立っていた。
「バーニス様のものですわ」と、家政婦が、いどみかかるような目つきで「でも、こんなことが何かの役に立つんでしょうか、さっぱりわかりませんわ」
「まあね」と、エラリーは微笑して「その函を棚に戻してくれませんか」と、言いながら、ゆっくりと近づいて来た。
家政婦は、ふんと鼻を鳴らして、帽子の内側に手を入れて裏返しにすると、ふちを上にして帽子を函に納めた。そして、静かに函を棚にもどすと、静かに椅子にもどった。……ウィーヴァーは、エラリーが急ににやりとするのを、あっけにとられて見つめていた。
それから、エラリーはみんながあきれるような事をした──エラリーを見守っている三人が、いっせいに目をむくようなことだった。なんとエラリーは腕をのばして、またしても棚の上の、その同じ帽子函を取り下ろしたのだ。
そして、調子っぱずれに口笛を吹きながら、ふたをあけて、いいかげんいじりまわした青い帽子を取り出して、ウィーヴァーに差しつけて調べるように言った。
「おい、ウェス、君の男としての意見を言ってくれよ」と、楽しそうに「これは、バーニス・カーモディの帽子かね」
ウィーヴァーはびっくりしてエラリーを見つめながら、無意識に帽子を受け取った。そして、帽子を見ながら、肩をすぼめて「そうらしいが、エラリー、確かだとは言えないな。ぼくは女性の服装には、めったに注意しないんでね」
「ふん」と、エラリーはくすくす笑いながら「帽子をもどしてくれたまえ、ウェス」
ウィーヴァーはため息をして帽子のてっぺんを注意深くつかむと、ふちを下にして函の中におとした。不器用な手つきでふたをしめると、函を棚にほうり上げた──三度目のこの行事には五分もかからなかった。
エラリーはいきなり女中の方を向いた。
「キートンさん、カーモディ嬢は服装に気むずかしかったかね」と、鼻眼鏡をいじりながらきいた。
「わ──わたし、おっしゃることがよくのみこめませんけど」
「あのひとは手がかかったかね。いつも自分のものは自分でかたづけたかね。君の役目は、正確には、どんなものだったのかね」
「おお」女中はたすけを求めるように、またしても家政婦をうかがった。それから、目を絨毯《じゅうたん》におとした。
「そうですね、バーニス様は──お召物やお持物に、いつも気を使われる方でしたわ。外からお帰りになると、たいていはご自分で外套や帽子をおかたづけになりましたわ。私の仕事は、もっと身近なこと──おぐしをまとめたり、お召物を出すとかいうようなことでしたわ」
「とても気のつくお嬢様でした」と、アンダーヒルが冷たく言った。「珍しく並みはずれだと、私はいつも言っていたくらいですわ。それに、マリオン様も同様でしたわ」
「こりゃいいことを聞いた」と、エラリーが、くそまじめに「なんともいいようがないほど、うれしいよ……さあさあ、キートンさん、その靴だ!」
「え?」と、女中がたまげた。
「靴だよ──靴と言ったんだよ」
型や色のちがう靴がとりまぜて少なくとも十二足、靴掛けの個々のポケットからはみ出していた。例外なくどの靴も、それぞれの仕切りの中に、先を下にし、かかとを見せて、ポケットのふちに掛けてあった。
女中のキートンは仕事にかかった。靴をみまわし、二、三足取り出して細かく調べた。突然そばのポケットにはいっている一足の黒いパンプスをひっつかんだ。そのパンプスにはずっしりした大きなラインストーンのバックルがついていて、エラリーの前に差し出した時に、差し込む日の光が当たってきらきら光った。
「これですわ、この靴ですわ」と、大きな声で「昨日お出かけになった時、バーニス様がはいていらっしゃったのはこれですわ」
エラリーがその靴を女中の震える手から取った。しばらくして、エラリーはウィーヴァーの方を向いた。
「泥がはねているね」と、簡単《あっさり》と言った。「濡れたあともある。まちがいないだろう」
エラリーが靴を女中にもどすと、女中は手をふるわせながらまた元のポケットに納めた。……とたんに、エラリーの目が細められた。他の靴はみんな爪先を下にしてかかとが見えているのに、その靴だけ、女中がかかとを下にしてポケットに納めたからである。
「アンダーヒルさん」エラリーはポケットからその黒いパンプスを引き出した。家政婦がむっつりと立ち上がった。
「カーモディ嬢の靴だね」と、エラリーはきいて、靴を手渡した。
家政婦はちらりと見て「そうですわ」
「完全に意見が一致したからには」と、エラリーが微笑をたたえながらゆっくり言った。「お手数だが、靴を靴掛けにもどしてくれませんか」
家政婦は何も言わずにいいつけに従った。そしてエラリーは、家政婦も女中と同じやり方で、かかとから先に入れるので、爪先とバックルがポケットからはみ出すのを、じっと見ていて、にやりとした。
「ウェス──」と、すぐにエラリーは言った。ウィーヴァーが、のっそりと近づいた。ウィーヴァーは窓の所に立って、ゆううつそうに第五アヴェニューを見下ろしていたのだ。……ウィーヴァーが靴を靴掛けにもどす番になった。ウィーヴァーは、かかとをつかみ爪先を先にして袋に突っ込んだ。
「なぜそんなやり方をするんだね」と、エラリーがきいた時、家政婦と女中は、エラリーの気がふれたものと思って、不安そうに戸棚の前からあとずさりした。
「どんなやり方だって?」と、ウィーヴァーがきいた。
エラリーは微笑して「まあまあ、ハムレット……なぜ君はかかとがポケットからはみ出すようにして、靴を袋にもどしたのかね」
ウィーヴァーはエラリーの顔を睨んで「なぜって、みんなそうなってるじゃないか」と、ぶっきらぼうに言った。「なぜぼくが逆の入れ方をしなければならないんだね」
「|なるほど《アロール》」と、エラリーが「|道理だね《オンナレゾーン》……アンダーヒルさん、あんたはなぜ、ほかの靴がみんなかかとを上にしているのに、その靴だけ、爪先を上にして靴掛けにもどしたのかね」
「きまってますわ」と、家政婦はぴしりと言った。「その黒いパンプスには大きなバックルがついていますわ。ウィーヴァーさんが爪先から入れようとして、どんなことになったか気がつかなかったのですか。バックルが袋の布《きれ》にひっかかったじゃありませんか」
「大したもんだ」と、エラリーがつぶやいた。「すると、ほかの靴には、むろん、バックルがついていないんだね……」エラリーは、家政婦の目に肯定の色を読みとった。
エラリーは一同を戸棚の前に立たせたままで、静かに寝室の端から端まで行ったり来たりした。唇をきりっと結んで何か考えていた。そして急にアンダーヒルの方を向いた。
「アンダーヒルさん、この戸棚を慎重に調べてみて、もしできれば、当然ここにあると思えるもので、何かなくなったものがあるかどうか、教えてほしいな……」エラリーは身を引いて、手で合図した。
家政婦はすぐ仕事にかかり、衣服、帽子函、靴を、もう一度、十分にかきまわした。ウィーヴァーと女中とエラリーは、ものも言わずにそれを見ていた。
家政婦がふと手をとめて、自信なさそうに靴の袋を見、棚を見上げていたが、ためらいがちにエラリーの方を向いた。
「はっきりとは言えませんが」と、冷たい目でエラリーをさぐるように見ながら、考え深そうに「奥様のものでここにあるはずのものは、みんなありますけれど、バーニス様のものであるはずのものが、二つ見当たらないようですわ」
「そうかね」と、エラリーはほっと息をした。少しも意外そうではなかった。「帽子と靴が一足だろう」
家政婦はちらりとエラリーの顔を見上げて「どうしておわかりになりますの……そうですのよ、私もそう思いました。たしか二、三か月前に奥様のものを持って参りました時に、バーニス様は灰色のトーク帽を持って来るようにおっしゃいました。それで私はお運びしました。それに、あの時バーニス様の灰色のかかとの低いキッドの靴がここにありました──灰色の二色の靴でしたわ──それも前に私がここに持って来たのを、かなりはっきり覚えていますわ……」と、家政婦はくるりと、ドリス・キートンの方を向いて「家のバーニス様の衣裳戸棚に、あの靴があるかい、ドリス」
女中は強く首を振った。「いいえ、アンダーヒルさん。あの靴は、もう長いあいだ見かけませんわ」
「ねえ、そうでしょう。灰色の、ぴっちりした、ふちなしのトーク帽と、灰色のキッドの散歩靴、その二つがなくなっていますわ」
「それですよ」と、エラリーが、アンダーヒルにちょっと頭を下げたので、家政婦は、おどろいて目を見張った。「まさに思ったとおりです。どうもありがとう。……ウェス! アンダーヒルさんと、おとなしいキートンさんを、ドアまでお送りしてくれないか。外の見張りに言って、おふたりをヴェリー部長の所へ連れて行き、少なくともみんなが上がってくるまで、ウエルズ長官の目にふれないようにしてほしいと伝えさせてくれたまえ……アンダーヒルさん、マリオン・フレンチ嬢もおそらく喜ぶでしょうよ」と、エラリーはもう一度家政婦に頭を下げて「あなたが母親のようにあたたかくそばにいてあげたらね。じゃ、さよなら」
ウィーヴァーとふたりの女が出て、外のドアがしまるとすぐ、エラリーは、カード室のドアを目がけて書斎を走り抜けた。そそくさと中にはいると、きれいに積み上げてあるカードの山と、吸いがらだらけの灰皿がのっているカード・テーブルを見下ろした。注意深くひとつの椅子に腰かけて、カードを調べた。目の前に伏せてあるカードの大きな山を取り上げて、順序を変えないように並べて見た。しばらく眉をしかめて考えてから、テーブルのまん中の十一のカードの山を調べた……やがて、立ち上がり、いぶかしそうにして、投げ出してしまった。そして、全部の山を最初のとおり、正確に元にもどした。
それからゆううつそうに灰皿の吸いがらを見つめていると、外のドアがかちりとしまり、ウィーヴァーが書斎にもどって来る音がした。エラリーはすぐ振り向いてカード室を出た。赤い革張りのドアが静かにエラリーの背で弾ねて、しまった。
「婦人たちの世話を見てくれたかね」と、エラリーはうわの空できいた。ウィーヴァーがひどくめんどくさそうにうなずいた。エラリーは肩を張り、目をしばだたいて「マリオンのことを心配しとるんだろう」と言った。「心配するなよ、ウェス。おばあちゃんのようにくよくよするな」
エラリーはゆっくりと書斎を眺めまわした。そして、しばらくすると、その目が屋根窓の前の机に釘づけになった。
「どうだね」と、エラリーはおっかぶせるように言いながら机の方へ歩みよった。「おしゃべりなどしながら、少し休もうじゃないか、そしてわれわれにわかっただけのものを考えてみよう。休息は勤労の甘美なソースだとは、プルタークも、うまいことを言ったもんだね──腰かけたまえ、ウェス」
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十七 私室にて 書斎
ふたりは腰を下ろした。エラリーは机の後ろの気持ちいい回転椅子に、ウィーヴァーは会議用テーブルに並んでいる革張りの椅子のひとつに腰かけた。
エラリーは、体を楽にして、書斎の壁を次々に眺めたり、書類のちらかっているテーブルや、壁にかかる絵や、目の前の机の上のガラスの敷板を見ていた。……するうちに、エラリーの目が、電話機のそばに置いてある一枚の青いメモ用紙にぶつかった。全く何気なく取り上げて読んでみた。
それは正式な回状で、きちんと、用件がタイプしてあった。
エラリーは熱心に回状を読み返した。そしてウィーヴァーの、つまらなそうな顔を見上げた。
「ふにおちないな……」と言いかけて、不意にやめた。「おい、ウェス──君はいつこの回状をタイプしたんだね」
「えっ」ウィーヴァーはエラリーの声の調子にびっくりした。「ああ、それか。それはぼくが重役会に配った回状だよ。昨日の午後タイプした。社長がグレート・ネックに出かけてからね」
「何通タイプしたね」
「全部で七通さ──各重役に一通ずつ、自分用のが一通、ファイル用のが一通。その一通は社長のさ」
エラリーがすぐ言った。「それがどうしてこの机の上にあるんだろう」
ウィーヴァーは一見くだらないエラリーの質問に驚いた。「ああ、そのことか」と、やり返した。「形式上のことさ。朝になって社長に、その件はもうかたづいたことがわかるように、残しておいたんだよ」
「ここにあったんだね──机の上に──昨夜君がこの私室《アパート》を出た時にも?」と、エラリーが追求した。
「そうさ、もちろん」と、ウィーヴァーが「よそにおいてもしようがないものね。そればかりか、今朝ぼくが来た時にも、そのままそこにあったよ」と、かすかに笑った。
だが、エラリーはしんけんだった。その目がきらきら光った。「それは確かなんだね……」と、妙にいきり立って回転椅子から腰を浮かした。そして、また腰を下ろすと「はめ絵の他の部分とぴったり合うな」と、つぶやき「解けなかったひとつの点を、こいつがみごとに説明してるな」
メモ(写し)
フレンチ殿
グレー殿
マーチバンクス殿
トラスク殿
ゾルン殿
ウィーヴァー殿
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一九──年五月二十三日 月曜日
五月二十四日火曜日、午前十一時、当会議室にて特別重役会開催。
必ず出席されたし。ホイットニー=フレンチ合併交渉の経過報告並びに最終決定の討議予定。絶対に貴殿の御出席を要す。
ウィーヴァーは午前九時に会議室にてフレンチ氏と打ち合わせをなし、最終的討議のための書類を至急用意すること。
(署名)サイラス・フレンチ
(起案)ウェストリー・ウィーヴァー 秘書
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エラリーは何か考えながら、胸ポケットから取り出した大きな紙幣《さつ》入れに、その青い紙を、折りたたまずに収いこんだ。
「むろん、このことはだれにも言わないでくれよ」と、エラリーがゆっくり言った……ウィーヴァーがうなずいて、またげんなりした様子にもどった。エラリーは前かがみになって、机の上のガラス板に肘《ひじ》をつき、頭を抱えた。そして、目の前をじっと見つめた。……何かエラリーの夢想をかきみだしているようだった。やがてぼんやりと、何かに気をとられている目が、しだいに、視線のまっすぐ前の机上のめのうのブック・エンドの間に立ててある本に注《そそ》がれた。
しばらくすると、たかまる好奇心で、エラリーはすっくと身を起こして、本の題名を貪るように見入った。長い腕をのばして一冊とると、抜き出して更にくわしくしらべはじめた。
「愛書家の常識としては」と、やがてエラリーはつぶやき、ウィーヴァーを見やって「なんとも妙な蔵書だね。君の雇主《やといぬし》は古生物学概論なんて、こんな固苦しい本を読むくせがあったのかね。ウェス? それとも、これは君の卒業論文の名残《なご》りの参考書かね。君が科学に特に興味を持っていたとも覚えていないがね。しかもこいつは古くさい、ジョン・モリソンの著ときてる」
「おお、それか」と、ウィーヴァーはちょっと、とまどって「いや、そりゃあ──社長のだと思うよ、エラリー。みんな社長のさ。実は、ぼくはその本の題名なんか気にしたこともなかったんだ。なんてったかな──古生物学? 社長がそんなものを読んでるなんて知らなかったよ」
エラリーは、ウィーヴァーにちらりと鋭い目をくれてから、本を元に戻した。
「そればかりじゃないよ──君は気がついていたかい」と、穏やかな声で「これはおどろいたな」
「なんだね」と、ウィーヴァーがそわそわしてきいた。
「いいかね。この本の題名にちょっと耳を傾けてみたまえ。スタニ・ウェジョフスキー著『十四世紀の貿易と商業』ときた。デパート王が商業史に興味をもつのはふさわしいが、君には縁が遠いだろう……それに、こっちは──ラモン・フレイバーグ著『子供のための音楽史』だ。いいかい、子供のための歴史だよ。それからユーゴー・ソルズベリー著『切手収集の最近の発展』だ。切手熱とはね。妙だ、じつに妙じゃないか……それに──なんと──だじゃれ集ときたぜ。白痴じみたA・I・スロックモートン著のね」
エラリーは、とまどっているウィーヴァーの目を見つめながら「親愛なるデンマーク青年〔ハムレット〕よ」と、ゆっくり言った。「慢性書物狂が、なにかのもくろみで、机の上にこんな妙な本を集めておくのなら話もわかるが、大商人でしかも悪徳防止協会長のサイラス・フレンチと、こんな妙な本とのつながりを、うまく理解できるようだと、ぼくも、いよいよ地獄行きってわけだ。……君の主人が、古生物学研究家としての知的素質をもち、切手収集マニアで、中世紀の商業史に熱情をもち、子供用の音楽史を読まなければならないほど音楽の知識が少なく、しかも、年間最高の──あるいは最低の──寄席《よせ》のだじゃれや、胸くその悪くなるような冗談にうつつを抜かしていたなんて、こりゃとても受けとれないな……ねえ、ウェス、こりゃ見当もつかないわけがあるにちがいないぜ」
「ぼくにもさっぱりわからないよ」と、ウィーヴァーが、もじもじしながら言った。
「そうだろうとも、そうだろうとも、君」と、エラリーは言いながら、立って、左手の壁の本箱の方へ歩いて行った。そして、スラブ行進曲のテーマをそっと口ずさみながら、ガラス棚の中に並ぶ本の題名を眺めた。しばらく眺めてから机に戻り、また腰を下ろして、ぼんやりとブック・エンドにはさまれている本を指でいじっていた。ウィーヴァーの目が不安そうに、そのしぐさを見ていた。
「本箱の中の本からみると」と、エラリーが結論をつけるように「どうやら疑問がはっきりするようだね。社会福祉関係の本と、ブレット・ハート、オー・ヘンリー、リチャード・ハーディング・デービスなどの全集以外は一冊もない。それらはすべて、明らかに君の立派な老社長の知性の度合いをぴたりと示している。しかし、机の上には……」と、考えこんで「しかも、これらの本は読んだ形跡がない」と、口をとがらせた。まるで文学に対するこのひどい|ぼうとく《ヽヽヽヽ》でいっそう疑惑を深めたかのようだった。
「このうちの二冊は、袋とじになっているが、まだページも切ってない……ウェストリー、正直に言ってくれよ。フレンチ氏はこんな種類の本に興味をもっていたのかい」と、エラリーは目の前の本を指ではじいた。
ウィーヴァーがすぐ答えた。「ぼくの知るかぎりでは、そんなことはないよ」
「マリオンか、バーニスか、フレンチ夫人か、重役連中か」
「フレンチ家の連中については、はっきり言えるが」と、ウィーヴァーは、椅子からとび立って、大股で机の前を行ったり来たりしながら「こんなものを読む者は、ひとりもいないよ。重役連となると──そうだな、君が会ってわかってるだろう」
「グレーがこんなくだらんものに興味をもちそうだね」と、エラリーが考えこみながら「あの男は、そんなタイプだ。しかし、子供用の音楽史とはどうも……そうだ!」
エラリーはまた気を取り直した。そして、上着のポケットから取り出した小型本の見返しに、机の上の本の題名と著者の名を丁寧にメモした。やがて、ため息をして鉛筆を胸のポケットにもどすと、またしても、ぼんやりと本を眺めはじめた。そしてブック・エンドのひとつを何気なくいじっていた。
「この本についてフレンチにきいてみなければならない」と、部屋の中を大股でうろうろ歩いているウィーヴァーに聞かせるというよりも自分に言ってきかせた。
「──坐れよ、ウェス。考えごとのじゃまになるよ……」
ウィーヴァーが肩をすくめて、おとなしく腰を下ろした。
「こりゃ、立派なもんだね」と、エラリーがブック・エンドを指さして、さりげなく言った。「|めのう《ヽヽヽ》のこの彫りはじつにみごとなものだ」
「グレーさんも相当金を出したでしょうよ」と、ウィーヴァーが、口の中で言った。
「おお、すると、グレーさんが贈ったものかい」
「この前の誕生日にグレーさんが社長に贈ったのさ──三月にね。舶来品だよ──二、三週間前に、ラヴェリーが、その美しさと珍しさをほめていたものね」
「三月──だと言ったね」と、エラリーが聞きとがめて、黒光りのするブック・エンドを目もとに近づけた。「たったふた月前じゃないか、それなのにこの……」と、すばやく、対のもうひとつのブック・エンドを取り上げた。そして、急に、とても慎重に扱いながら、机の敷ガラスの上に、二つを並べて、ウィーヴァーを手招きしながら「この二つのフェルトの色はちがってやしないか」と、少し興奮してきいた。
ウィーヴァーはのぞきこんで、そのひとつを取り上げようと、手をのばした。
「触っちゃいけない」と、エラリーが鋭く言った。「どうかね」
ウィーヴァーは身を起こして「そんなにどならなくってもいいだろう、エラリー」と、むっとして「見たところでは、こっちのほうのフェルトの、色があせているようだね」
「君、ぼくの乱暴な態度なんか気にするなよ」と、エラリーが「この色合いのちがいは、ぼくの気のせいばかりじゃないと思ってね」
「なぜ、このみどりのフェルトの色がちがうのか、ぼくにはわからないな」と、ウィーヴァーは不思議そうに言いながら、椅子にもどった。「このブック・エンドは、ほとんど新品なんだ。社長がもらった時には、色が同じだったにちがいないよ──いやたしかにそうだったよ。片方の色があせていたら、今までにぼくが気がつくはずだもの」
エラリーは、すぐには答えなかった。彫りのある二つの|めのう《ヽヽヽ》を、じっと見つめていた。二つとも、円筒形で外側に彫りがあった。机に置く底の部分にあざやかなみどり色のフェルトが貼ってあった。大きな窓から射しこむ、強く明るい午後の日ざしの中で、その片方は明らかにみどりの色があせていた。
「こりゃじつに不思議だ」と、エラリーはつぶやいた。「一体、何を意味するのだろう、全然意味があるかないか、目下のところわからないな……」
エラリーは目を光らせてウィーヴァーを見上げた。
「このブック・エンドはグレーにもらってから、一度でもこの部屋の外に持ち出されたことがあるかね」
「いや」と、ウィーヴァーが「一度もない。ぼくは毎日ここにいるから、もし持ち出したりしたら、きっとわかるはずだよ」
「ここにあったとしても、こわれて修繕したようなことがあるかね」
「どうして? もちろんそんなことないさ」と、ウィーヴァーがいぶかしげに「なんだ、つまらない話ばかりして、エル」
「だが、それが重要なことなのさ」と、エラリーは腰を下ろして、鼻眼鏡をくるくるまわし、食い入るようにブック・エンドを見つめていた。
「グレーはフレンチの親友なんだろう」と、急にきいた。
「親友さ。なにしろ三十年以上のつき合いだからね。老社長《おやじ》が白人醜業婦売買や売春なんて問題に熱を入れているので、時々は罪のない口論もするけれど、いつも非常に仲がいいんだ」
「そりゃ、そうだろうな」と、エラリーは深く考えこみながらも、ブック・エンドからは目を離さなかった。「もしかすると、今……」と、上着のポケットに手を入れて、小さな拡大鏡を取り出した。ウィーヴァーは驚いてその手を眺めていたが、いきなりふき出した。
「エラリー、おどろいたな。シャーロック・ホームズ張りだね」いかにも愉快そうで、当人の人柄をそのままに、罪がなく、子供っぽかった。
エラリーは照れくさそうに、にやりとした。
「芝居がかって見えるかもしれないがね」と、言いわけじみて「しかし、ちょっとした道具を持って歩いていると、ときには便利なものだよ」エラリーは、うつむきこんで、フェルトのみどり色が濃いほうのブック・エンドに拡大鏡を当てた。
「指紋を探すのかい」と、ウィーヴァーが、くすくす笑った。
「君なんかにわかりっこないさ」と、エラリーが、もったいぶって言った。「拡大鏡では絶対にまちがいなしとはいかないんだ。確実を期すには指紋検出粉が必要なんだ……」
エラリーは、そのブック・エンドを調べ終わると、対《つい》になっているもうひとつのほうを拡大鏡でのぞいた。そのフェルトのみどり色があせている部分を、じっとのぞいているうちに、エラリーの手がぶるぶる震え出した。ウィーヴァーが[どうした?]と叫ぶのも相手にせず、エラリーはフェルトが|めのう《ヽヽヽ》にはりつけられている端の部分についている物質にじっと見入っていた。肉眼では髪の毛のようにしか見えないほどの、ごく細い線がレンズで拡大されて、少し太く見えた。その線は、ブック・エンドの底部をぐるりとひとまわりしていて、明らかに|にかわ《ヽヽヽ》──フェルトをめのうに貼りつけている|にかわ《ヽヽヽ》でできたものである。フェルトの色のあせたほうのブック・エンドにも、むろん、そのにかわの線があった。
「おい、ウェス、拡大鏡で、フェルトとめのうのつなぎ目に焦点を合わせてみろよ」と、エラリーはブック・エンドの下部を指さしながら言った。「そして何が見えるか言ってくれ──めのうの表面にさわらないように注意するんだよ」
ウィーヴァーはかぶさりついて、熱心に拡大鏡をのぞきこみ「おや、|にかわ《ヽヽヽ》に、ごみみたいなものが付いてるよ──ごみだろう」
「ただのごみじゃなさそうだ」と、エラリーが重々しく言って、レンズを取り、また、フェルトのにかわ線の部分を調べた。今度は、ブック・エンドの表面も、レンズでひととおり見まわした。もうひとつのブック・エンドも同じようにして調べた。
ウィーヴァーが思わず短く叫んだ。「おい、エル、そりゃ君がバーニスの口紅棒で見つけたのと、同じものじゃないかな。たしか、ヘロインと君が言ってたものと」
「いい線だよ! ウェス」と、エラリーはレンズから目を離さずに、微笑した。「だが、はなはだ疑問だな……これはすぐに分析してみなければならないよ。どうも、いやな胸さわぎがする」
エラリーは拡大鏡をテーブルに置いて、もう一度、考え深そうに二つのブック・エンドを見てから、手をのばして電話機をとった。
「ヴェリー部長をたのむ──そう、刑事部長──すぐ出てもらってくれ」エラリーは受話器を耳に当てて待っている間に、早口でウィーヴァーに話しかけた。「こいつがもしぼくの考えるようなものだったら、君、からくりはいよいよこみいってくる。いずれ、わかるだろうがね。浴室の戸棚から、脱脂綿をたっぷり持って来てくれないか。たのむよ、ウェス。もしもし、ヴェリー部長?」と、エラリーは受話器に言った。その時、ウィーヴァーは真鍮の鋲の打ってあるドアの外に姿を消した。
「こちら、エラリー・クィーン。そう、上の私室《アパート》から……ヴェリー君、腕っこきの男をすぐよこしてくれないか……だれ? ……うん、フィゴットかヘッスで結構。すぐだよ。このことは長官の耳に、入れないでほしいね。……いや、そいつは言えないよ──まだ。がまんするんだね、デカさん」と、受話器をかけて、くすくす笑った。
ウィーヴァーが脱脂綿を詰めた大きな箱を持って来た。エラリーがそれを受け取った。
「見ていたまえ、ウェス」と、笑いながら「よく見ていたまえ。近い将来、証人台に立って、今日ぼくがここでしたことを、明確に証言する必要が生じるかもしれないからね……用意はいいかい」
「目をむいて見ているよ」と、ウィーヴァーがにやにやした。
「|そら行くぞ《アレー・ウープ》」と、エラリーは手品師のようなあざやかな手さばきで、サック・コートの大きなポケットから、妙な金属の小箱をとり出した。小さなボタンを押すと、ふたがさっとひらき、中はざらざらの黒革張りで、その革には穴をあけて、蝋引きの糸の小さな耳がいくつもとりつけてあった。その糸のひとつひとつに、小さなきらきら光る道具がついていた。
「これは」と、エラリーはよくそろった白い歯を見せながら「ぼくの一番自慢のものなんだ。去年アメリカの宝石泥棒ドン・ディッキーの逮捕をちょっと手伝ったお礼に、ベルリン市長殿《ヘール・ブルゴマイスター》が贈ってくれたんだ……気がきいているだろう」
ウィーヴァーはいささか閉口のていで「一体、なんだね」
「犯罪捜査官用のものとしては、こんな便利な発明品は、今までになかったと言っていいね」と、エラリーは答えながら、薄い革の台をいじりまわした。
「これはベルリン市長とドイツ中央検察局の協力で、このぼくのために特に調整してくれたものさ。ぼくの注文でね──そうだろう、ぼくの欲しいものはぼくが一番よく知ってるからね。……見たまえ、この驚くほど小さなアルミ箱に、ほとんど信じられないほどいろいろなものがはいっているんだ──とにかく、アルミの箱は軽いからね。しかも箱の中のものは、どれもこれも、一流の探偵が科学的捜査をするに必要な道具なんだ──形こそ小人国的だが、丈夫で、精巧で、この上もなく実用的なのさ」
「へえー、驚いたなあ」と、ウィーヴァーが叫んだ。「そんなものに、君がそれほどご執心だとは知らなかったよ、エラリー」
「この仕事箱の中身を紹介しよう」と、エラリーは微笑しながら「この二つの補助レンズは──ツァイス製だよ──携帯用拡大鏡さ。普通のやつよりずっと強力なんだ。この小さな鋼鉄の巻尺は巻き返しが自動的で、九十六インチの長さで、裏はセンチメートルになってる。赤、青、黒のクレヨン。小型の製図用コンパスと特製の鉛筆。白と黒の指紋の検出用粉のびん、らくだの毛の刷毛《はけ》とスタンプ台。一束の透明封筒。小さな測径器とピンセット。長さを加減できる折り畳み式の探り針。焼きを入れた鋼鉄のピンと針類。リトマス試験紙と二本の小さな試験管。二枚刃で、せん抜き、ねじ廻し、きり、穴あけ、へらのついている組合わせナイフ。特製の磁石──笑うなよ。犯罪捜査のすべてがニューヨークの中心で行なわれるとはかぎらないからね……道具はこれでおしまいというわけじゃない。この白、赤、みどりの組紐は糸ぐらいの細さだが、非常に丈夫だ。それに封蝋《ふうろう》。小さなライター──すべてぼくのための特製だ。はさみ。それから、むろんストップ・ウォッチもある。世界一の時計工が作ったものさ──ドイツ政府が雇っているスイス人でね。どうだね、ぼくの仕事箱は? ウェス」
ウィーヴァーは信じられないという顔で「そんなものがみんな、その妙なアルミ箱にはいっているというのかい?」
「そうさ。この考案品は、幅が四インチで丈が六インチ、重さが二ポンドにもならないんだ。少し厚目の本というところさ。ああ、そうそう、このアルミ箱の一辺に水晶鏡がはめこんであるのを言い忘れたよ……ところで、仕事にとりかかったほうがよさそうだね。しっかり見ていてくれよ!」
革の下敷きのひとつから、エラリーはピンセットを抜き出した。そして、携帯拡大鏡に、もっと度の強いレンズをとりつけると、最初のブック・エンドを注意深くテーブルの上に固定して、左手で拡大鏡を目に当てて右手で苦労しながらピンセットで怪しい粉がまじっているらしい、かわいたにかわの中を探った。ウィーヴァーに透明封筒を持っているように命じて、ほとんど目に見えないような小さな粒をつまみ出しては、注意しながら封筒の中に入れた。
エラリーは拡大鏡とピンセットを下に置いて、すぐに封筒をとじた。
「これで、すっかり採集したと思うよ」と、満足そうに「それに、見落したやつはジミーが、採集するだろうから……おはいり!」
ピゴット刑事が来た。ピゴットは外のドアを静かにしめて、好奇心をかくしきれない顔つきで書斎にはいって来た。
「部長の話では、私に何かご用ですって、クイーンさん」と言い、ウィーヴァーをじろじろ見た。
「そうだよ。ちょっと待ってくれ、ピゴット君。すぐ仕事をたのむから」
エラリーは封筒の裏に、何かを黒々と走り書きした。走り書きは──
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ジミー君、この封筒の中の粉を分析してくれたまえ。Aと印をつけたブック・エンドの|にかわ《ヽヽヽ》の線の中に、まだ粉がついていれば、それも取り出して分析してくれたまえ。Bの印のブック・エンドにも同じような粉がついているか検べてくれたまえ。粉を分析したあとで(分析の前ではだめ)両方のブック・エンドについているぼく以外の指紋を調べてくれたまえ。指紋ならぼく自身でも検出できるが、もし君が見つければ、すぐ実験室にまわして、写真に焼きつけてもらえるからね。仕事がすんだら、すぐにいっさいの情報を、直接、ぼくに電話で知らせてほしい。ぼくはフランス・デパートのフレンチの私室《アパート》にいる。あとはピゴットが話す。E・Q
[#ここで字下げ終わり]
赤いクレヨンで、ブック・エンドにA・Bと印をつけると、脱脂綿でくるみ、ウィーヴァーが机から探し出した紙に包んで、その包みと封筒をピコットに手渡した。
「できるだけ早く、これを本部の実験室のジミーに届けてくれたまえ、ピゴット君」と、エラリーは念を押すように「途中で引きとめられちゃいけない。もし、ヴェリーやぼくのおやじにとっつかまったら、ぼくの用事だと言いたまえ。どんなことがあっても、君がこの建物から何を運び出そうとしているかを、長官に気どられちゃいけないよ。さあ、ひとっ走りたのむ」
ピゴットは何も言わずにとび出した。クイーン父子のやり方によくなれているので、へたな質問などしなかった。
ピゴットがドアを出た時、くもりガラスの壁ごしに、昇ってくるエレヴェーターの影が見えた。ピゴットは見をひるがえして、非常階段を走り下りた。ちょうどその時、エレヴェーターのドアがするすると開き、ウエルズ長官、クイーン警視を中に、ひとかたまりの刑事や警官の一行が出て来た。
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十八 証拠集め
五分も経たぬ間に六階のフレンチ氏の私室《アパート》の外の廊下には二十人ほどの人間がつめかけた。ふたりの警官がドアの見張りに立ち、もうひとりの警官がエレヴェーターを背にして立って、そばの非常階段のドアを監視していた。私室《アパート》の控えの間には五、六人の刑事がたばこをすいながら、たむろしていた。
エラリーは書斎のフレンチの机の後ろに坐って微笑していた。ウエルズ長官は気ぜわしく部屋の中を歩きまわり、刑事たちに命令したり、書斎から他の部屋につづくドアをあけてみたり、近眼のふくろうのように、大きな目をきょときょとさせて、もの珍しそうにいろいろな物を覗《のぞ》きこんでいた。クイーン警視は屋根窓の近くで、ヴェリーやクルーサーと話しこんでいた。ウィーヴァーは、しょんぼりと隅に立って、目だたなかった。そして、控えの間のドアをちらちら見ていた。ドアの外にマリオン・フレンチが来ているのに気がついたのである……
「いいか、クイーン君」と、ウエルズが、息を切らせながら、がなりたてる。「たばこの吸いがらと、やりかけのゲーム──チェッ、また忘れたぞ──、そう、バンクのゲーム。それが、カーモディという娘がここにいたという唯一の証拠だというんだな」
「それだけじゃありません、長官」と、エラリーが慎重に「戸棚の中の帽子と靴をお忘れです。家政婦の証言を報告したはずですが──?」
「うん、うん、もちろんきいた」と、ウエルズがぶつぶつ言って、眉をしかめた。
「おい、指紋係」と、大声で「カード部屋の向こうの小部屋もすっかり調べたろうな」と大声で、返事も待たずに、カードと吸いがらのちらばっているテーブルのまわりで忙しく働いている数人の写真班に、意味もない命令をくだした。それから、ひたいをこすりながら、クイーン警視を、おうへいに手招きした。
「どう思うかね、クイーン君」と、高びしゃに「じつに、はっきりした事件のようだがな、え?」
警視はむすこの方を横目で見て、謎めいた微笑を浮かべた。
「さあ、どんなもんですかね、長官。まず、失踪《しっそう》した娘を見つけさせなければならんでしょうね……仕事はまだ序の口です。たとえば、関係者のアリバイひとつ調べるひまがなかったのです。これらの証拠がバーニス・カーモディをさしているとしても、どうもふにおちませんね。もっと底に何かあるように思えて……」と、警視は首を振り「ともかく、長官、仕事が山ほど待っています。だれか尋問してごらんになりたい者がおりますか? みんな外の廊下に待たせてありますが」
長官はけわしい顔で「いや、今の段階では尋問などできん……」それから、から咳をして「君の次の予定は? わしは市長と会議があるから市役所へ行かなければならない。だから、この事件に対して、さしあたり個人的に尽力をするわけにはいかんのだ。それで君は?」
「二、三あいまいな点をはっきりさせたいと思います」と、クイーンはそっけなく答えた。「外に待たせてある連中を尋問してみます。フレンチ当人も──」
「フレンチ。そう、そう。ちょっとむごいことだがな。本当に気の毒だ。ひどい打撃を受けたろうに」
ウエルズは神経質にあたりを見まわして、声を低めた。「ところでクイーン君、任務の至上命令から少しでもはずれるというわけじゃないが、それは君にもわかってもらえるだろうがね。どうだろう──そのう──フレンチは家に帰して、医者にかからせたほうがよくはないかな……あの義理の娘については、できれば──」と、苦々しげに言いよどんで──「どうも、完全に雲隠れしちまったような気がする。むろん、君は念入りに追及するだろうがね。……いや、どうもひどいことだ。わしは──とにかく行かなければならないよ」
ウエルズは会釈《えしゃく》もせずに、くるりと背をみせ護衛の刑事たちを従えて、ドアへ向かいながら、いかにもほっとした様子だった。そして、控えの間から大声で言った。「早く解決してほしいよ、クイーン君──ここひと月ばかりは、殺人課のお宮入りが多すぎるからな」そして、肥えた腹をひとゆりすると、姿を消した。
控えの間のドアがしまってから、数秒の間、沈黙がつづいた。やがて警視が肩をちょっとすぼめて部屋を横ぎり、エラリーの傍へ行った。エラリーが父親のために椅子を引きよせてやり、ふたりはかなり長く、ひそひそ話をつづけた。とびとびに聞こえる言葉は[かみそりの刃]……[ブック・エンド]……[書物]……[バーニス]……などであった。エラリーの話を聞く老人の顔はだんだん沈痛になっていった。ついには、絶望的に首を振って立ち上がった。
控えの間のドアごしに、言い合いの声がしたので、書斎にいた連中はみんな顔を振り向けた。女の感情的な声と男のぶあいそうな声がまじって聞こえた。ウィーヴァーは小鼻をふるわせて、部屋を横ぎり、とび出して行ってさっとドアをあけた。
マリオン・フレンチ嬢が、控えの間にいる刑事の、ずんぐりむっくりした体を夢中になって押しのけようとしていた。
「でも、私はクイーン警視様に会わなければならないのよ」と、マリオンが叫んだ。「お父様は──私にさわらないでちょうだい」
ウィーヴァーが刑事の腕をつかんで、はげしく押しのけた。
「このひとに手をかけるんじゃない」とウィーヴァーがうなるような声で「ご婦人の扱い方をしらないのかい。教えてやる……」
この時、マリオンがウィーヴァーの肩に手をかけなかったら、ウィーヴァーはきっと、にやにやしている刑事に、とびかかったろう。ちょうどそこへ、警視とエラリーが駆けつけた。
「おい、リッター。よせ!」と、警視が声をかけた。「一体、どうしたのです、お嬢さん」と、やさしくきいた。
「お──お父様は」と、マリオンはあえぐように「おお、ひどいわ。ひどいじゃありませんか……父は病気で、ぼんやりしているのがわからないんですか。おねがい、家へ運ばせてください。いま、失神しましたわ」
一同は廊下にとび出した。大理石の床に、血の気を失って、倒れているサイラス・フレンチのまわりに人々が集まって、のぞきこんでいた。小柄で色の黒い店の医者が、困った顔つきで、そのそばにしゃがんでいた。
「参ったのか」と、警視も心配そうにきいた。
医者はうなずいて「すぐ寝かさなくちゃいけません。卒倒して、かなり危険な状態です」
エラリーが父に耳うちした。老人は困ったように舌打ちして首を振った。「万一ということもある、エラリー。この男は病気なんだ」警視が合図すると、ふたりの刑事が、腕をだらりとたれたサイラス・フレンチを私室《アパート》に運びこみ、ベッドのひとつに寝かせた。サイラスはしばらくして正気づき、うめき声を出した。
ジョン・グレーが警官を押しのけて、寝室にとびこんで来た。
「あんたはこんなことをやらかして、このまますむと思ったら大間違いだよ、警視だろうとなんだろうと」と、甲高《かんだか》い声で叫んだ。「フレンチ君を、すぐ家に帰してもらいたいね」
「おちつきなさい、グレーさん」と、警視が穏やかにたしなめた。「もうすぐ帰れますよ」
「私も一緒に行くよ」と、グレーがきいきい声で「フレンチ君にはぜひとも私が必要だ。このことは市長に談じこむからな。きっと──」
「黙りたまえ」と、クイーンはまっかになってどなりつけた。そしてくるりとリッター刑事の方を向き「タクシーを呼んでこい!」
「お嬢さん」マリオンは、はっとして目を上げた。警視はじれったそうにかぎたばこをひとつまみ吸った。「あなたは、お父さんやグレーさんと一緒に帰ってよろしい。だが、午後にわれわれが行くまで、お宅にいてください。お宅を調べたり、もし会えるような容体だったら、たぶん、父上におたずねしたいこともありますからね。それから──お気の毒でした、お嬢さん」
マリオンは、うるんだまつ毛のあいだから微笑した。ウィーヴァーが、こっそりと近づいて、少し離れた場所へ引っぱっていった。
「マリオン──あいつを殴《なぐ》りつけてやれなくて残念だよ」と、どもりながら「あいつはひどいことをやったかい」
マリオンはやさしい目を見張って「ばかなまねをなさらないでね、ウェス」と、小声で「おまわりさんといざこざを起こしちゃあだめよ。私はグレーさんのお手伝いをして、お父様をお家へ連れて帰るわ、そしてクイーン警視のいいつけどおりに、ずっと家にいるわ……あなたのほうは、何も心配はないんでしょ」
「だれが? ぼくがかい?」と、ウィーヴァーは笑い出して「いいかい、ぼくのことで可愛い頭を悩ませることは何もないよ──それに、店のほうは、抜かりなく目を配っておくからね。お父さんが話してわかるようになったら、そう言っといてください……ぼくが好き?」
人目を盗んで、ウィーヴァーは、すばやくからだをかがめて接吻した。マリオンの目がいきいきした。
五分後に、サイラス・フレンチとマリオン・フレンチと、ジョン・グレーは警官に守られて建物を出て行った。
ヴェリーが、がらがら声で「ふたりばかりで、カーモディの足どりをたぐらせています」と、報告した。「長官がうろついているところで、言いたくなかったもんですからね──ごたごたしていたもんで」
クイーンは顔をゆがめて、くすくす笑った。
「お前たちはみんな市の裏切者になろうとしとるな」と言い「トマス、だれかやって、フレンチ夫人が昨夜家を出てからの足どりをとってくれ。昨夜十一時十五分ごろ家を出たらしい。十一時四十五分にここに着いとるから、おそらくタクシーで来たんだろう。芝居のはねたあとの車の混雑でちょうどそのくらい時間がかかるはずだ。わかったな」
ヴェリーが、うなずいて姿を消した。
エラリーは、静かに口笛を吹き、遠くを見るような目つきで、また机に向かって腰を下ろした。
警視は支配人のマッケンジーを書斎に連れて来させた。
「店員を調べたかね、マッケンジー君」
「ちょっと前に、助手から報告がありました」エラリーは聞き耳を立てていた。「調べのついたかぎりでは」と、スコットランド人はリストを見ながら「店員たちは、昨日も今日もみんな職場についていることがわかりました。今日のところは、いつもどおり、異状はないようです。むろん、欠勤者のリストもここにあります。その連中をお調べになるんでしたら、これがリストです」
「ちょっと調べてみよう」と、警視は言って、マッケンジーからリストを受け取り、それをひとりの刑事に渡しながら何か命令した。
「ところで、マッケンジー君、君はもう仕事に戻っていいよ。店はいつもどおりにやるんだ。だがこの事はいっさい他言しないように気をつけるんだよ。それから事件を宣伝なんかに使うんじゃないぞ。第五アヴェニューの陳列窓はしめたままで、命令するまで見張りをつけたまえ。当分の間、しめきらなければならないだろうな。それだけだ。行ってよろしい」
「お父さんのほうで何もきくことがないなら、ぼくが残っている重役連中を尋問してみたいんですがね」と、マッケンジーが出て行くと、エラリーが言った。
「あの連中から何かがひき出せるとは──どうも、わしには思えんが」と、クイーンが答えた。「ヘッス! ゾルン、マーチバンクス、トラスクを連れて来い。もう一度、調べてみよう」
ヘッシー刑事は、三人の重役を連れて、すぐに戻って来た。みんな頬がこけて、げっそりしていた。マーチバンクスは、ひどくくずれた葉巻を、荒っぽく噛んでいた。警視はエラリーに手を振って合図し、自分は一歩さがった。
エラリーは立って「みなさん、二、三おききします。あとは、クイーン警視が、みなさんが仕事に戻るのを許可すると思います」
「いよいよ潮時か」と、トラスクがつぶやいて、口をつぐんだ。
「ゾルンさん」と、エラリーがめかしこんだトラスクのほっそりした姿を見ずに「重役会は定期的にあるんですか」
ゾルンはずっしりした時計の金ぐさりを、神経質にいじりながら「そう──そうですよ、むろん」
「いかにも根掘り葉掘りおうかがいするようですがね。その会合日はいつですか」
「隔週、金曜日の午後です」
「その規定は、正確に守られているんですか」
「そう──そうです」
「今朝、会合があったのはどうしてですか──火曜日ですよ」
「特別会議だったのです。必要な場合はフレンチ君が召集するんです」
「しかし、特別会合のあるなしにかかわらず、半月ごとの会合は開かれるんですね」
「そうです」
「なるほど、すると、先週の金曜日に会合があったんですね」
「そうです」
エラリーはマーチバンクスとトラスクの方を向いて「みなさん、ゾルンさんの証言は、そのとおり正しいですか」
ふたりは、めんどくさそうに、うなずいた。エラリーは、にっこりして、三人に礼を言い、腰を下ろした。警視も微笑して礼を言い、丁寧に、お引きとりになって結構と言った。そして、先に立ってドアまで送って行き、見張りの警官に、聞きとれない小声で何かを指示した。ゾルン、マーチバンクス、トラスクの三人は、すぐ、専用廊下を出て行った。
「外におもしろい男が来とるよ、エル」と、警視が言った。「フレンチ夫人の前夫、ヴィンセント・カーモディだ。次にあの男に当たってみよう。──ヘッス! 二分ほどしたら、カーモディ氏を連れて来てくれ」
「階下《した》にいる間に、三十九丁目側の夜間貨物搬入口を、すっかり調べましたか」
「調べたとも」警視は考えこみながら、かぎたばこをひとつまみ吸った。「あやしい場所だ。エル。守衛とトラックの運転手が小さな詰所の中にいたんだから、だれかがこの建物に忍びこむなんてことは造作ないな、特に夜間は。すっかり調べあげた。たしかに、犯人が昨夜侵入した手口がわかりそうだ」
「犯人が侵入した手口は説明するかもしれませんが」と、エラリーが、さりげなく言った。「しかし、脱出した手口の説明にはなりませんね。あの出入口は十一時半にはしめきられたんです。犯人がもしあのドアからこの建物を出たのなら、十一時半より前に出なければならないことになりますよ。そうでしょ」
「だが、フレンチ夫人は十一時四十五分まで、ここに来なかったんだぞ、エル」と、警視が異議をはさんだ。「それに、プラウティによると、あの細君が殺されたのは真夜中ごろだ。とすると、犯人は、十一時半以前に、あの出口から出ることができるはずはないじゃないか」
「答は、つまり」と、エラリーが「犯人にはできなかったんだから、出なかったということになりますね。貨物部屋から本館へ忍びこめそうなドアがあるんですか」
「あるどころじゃない」と、警視が苦りきって「詰所の裏の陰にドアがひとつある。鍵がかけてなかった──いつもかけないんだ──あのばかどもは、表のドアに鍵がかけてあれば、内のドアにはかぎをかける必要がないなどと思いこんでいるらしい。いずれにせよ、そのドアは夜番の詰所の前を通る廊下と平行している廊下にまっすぐ通じているばかりか、本館の一階売場に出られるようになっとるのだ。暗闇《くらやみ》でこっそりとあのドアにすべりこみ、廊下をこっそりと通り抜けて角を曲がり、三十フィートそこそこを歩いてエレヴェーターや階段口にたどりつくのは、ばかばかしいほどやさしいにちがいない。おそらくそこらが答えだろうな」
「階下の詰所の親鍵はどうでしたか」と、エラリーが「日勤の守衛が何か言っていませんでしたか」
「さっぱりだ」と、警視が浮かぬ顔で「オシェーンという男だが、やつの勤務中は、錠の下りた抽《ひ》き出《だ》しから、親鍵を一度も取り出さなかったと、断言しとる」
ドアが開き、ヘッスが、目つきの鋭い、まばらな半白のあごひげを生やした、並はずれて背の高い男を部屋に連れて来た。いかにも悪ずれのした美男子で、目だつ顔だちだった。エラリーは、その男の三角にとがったあごを、おもしろそうに見つめていた。さりげない服装だが上物を身につけていた。その男は、すばやく警視に一礼して立ったままで待っていた。目を光らせて、次から次へと、室内の人間の顔を見まわした。
「階下では話しするひまがまるでなかったのでね、カーモディ君」と、警視が、あいそうよく言った。「二、三、たずねたいことがあってね。腰かけんかね」
カーモディが椅子に腰を下ろした。秘書のウィーヴァーと目が合うと、ちょっとうなずいたが、何も言わなかった。
「さて、カーモディ君」と、警視は、エラリーが静かに坐っている机の前を大股で行ったり来たりしながら口をきった。「大して重要ではないが、必要なことを二、三、きくがね。ヘーグストーム、用意はいいか」警視が目くばせすると、刑事はうなずいて、手帳を構えた。警視はまた絨毯《じゅうたん》の上を歩きはじめた。そして、ふと目を上げた。カーモディの目は燃えるように宙を見つめていた。
「カーモディ君」と、警視がいきなり言った。「たしか君は、こっとう店、ホルバイン・スタディオの唯一の経営者だったね」
「そのとおりですよ」と、カーモディが言った。その声ははっとしたようで──低く、ふるえて、慎重だった。
「フレンチ夫人と結婚していたが、七年ほど前に離婚した?」
「それもそのとおりです」
その言い方は、ひどく耳ざわりの悪い調子だった。そして、じっと自分を圧《おさ》えているのが見てわかった。
「離婚後は、フレンチ夫人に会ったことがあるかね」
「ええ、何度も」
「おつきあいかね。君たちの間には、特に不愉快なことはなかったかね」
「そんなものは、ひとつもありません。たしかに、わたしはフレンチ夫人とつき合っていました」
警視がちょっとじりじりしてきた。この証人はきかれたことだけ正確に答えるが、それ以外のことには口をつぐんでいる。
「どのくらい会ったかね、カーモディ君」
「社交シーズン中には週二回も会いました」
「それで、最後にフレンチ夫人に会ったのは?」
「一週間前の日曜日の夜、プリンス夫人邸で──スタンディッシュ・プリンス夫人が催された晩餐会《ばんさんかい》ででした」
「フレンチ夫人に話しかけたかね」
「ええ」と、カーモディはぎくりとして「フレンチ夫人は大変なこっとう趣味で、それも、おそらく私たちの結婚中に養われた趣味でしょうがね」この男の神経は鉄製らしい。まるっきり感情の動きを見せないのだ。「夫人が特に手に入れたがっていたチペンデール〔十八世紀のイギリスの家具デザイナー〕の椅子のことを、しばらく話し合いました」
「その他に何か? カーモディ君」
「そう、私たちの娘のことも」
「ほう」と、警視は口をすぼめて、ひげをひねった。「離婚後、バーニス・カーモディ嬢は、奥さんのほうの世話になっていたんだね」
「そうです」
「娘さんにも、定期的に会っていたんだろう」
「ええ、フレンチ夫人が娘の世話をすることになっていましたが、離婚のときの非公式な取りきめでは、娘にはいつ会ってもいいことになっていたのです」いかにも温みのこもる声だった。警視はちらりと見て、目をそらした。そして、新しい筋の質問にとりかかった。
「カーモディ君、何か今度の犯罪を説明できそうなものに、思いつかんかね」
「何にも思いつきません」カーモディは急に冷静になり、わけもなく目を上げてエラリーを、しばらく、じっと見つめていた。
「君の知っとるところで、フレンチ夫人には敵があったかね」
「いいえ。あれには、人に憎まれるような、性格の強さというものが、まるっきりありませんでしたから」と、カーモディは、全く赤の他人のことでも話すかのように、その声も態度も、まるで超然としていた。
「君自身もかね。カーモディ君」と、警視が穏やかにきいた。
「私自身もですよ、警視」と、カーモディは相変わらずの冷たい調子で「その点がお気になるなら申しあげますが、家内への愛情は、まだ結婚生活をしている間に薄れてきて、全然消えてしまったので、はっきり離婚したんです。当時、家内に対して少しも悪感情をもっていませんでした。むろん今でも。もちろん、あなたは」と、言葉の調子も変えずに「この点については、私の言葉どおりにお取りになってくださっていいんです」
「最後に会ったころ、フレンチ夫人は神経質になってはいなかったかね。何か心配事でもあるように見えなかったかね。何かかくしごとを気にしているような気配はなかったかね」
「私たちの話は、そんなに立ち入った性質のものじゃなかったんですよ、警視。私はあれが、いつもと変わっている点など、まるで気がつきませんでした。それに、あれはきわめて散文的な人間でして、物ごとにくよくよするなんてたちじゃ全然ないんです、たしかですよ」
警視は中休みして黙っていた。カーモディはもの静かに坐っていた。やがて、カーモディが、いきなり、感情のない声で、しゃべり出した。それが、ただ口をひらいてしゃべり出しただけなのだが、あまりにも思いがけなかったので、警視はひどく驚き、狼狽《ろうばい》ぶりを隠すために、あわてて、かぎたばこをひとつまみ取り出した。
「警視さん、あんたは私がこの犯罪に何か関係があるかもしれない、何か重要な情報をもっているかもしれない、と思って、尋問しておられるらしいが、そりゃ時間の無駄というものですよ」と、カーモディは前こごみになって、妙にきらきら目を光らせ「私の言葉を信じてください。私は生きているフレンチ夫人にも──死んだフレンチ夫人にも、てんで関心をもっちゃいないんです。それに、ろくでもないフレンチ一族なんか、みんなどうでもいいんです。私が一番心配しているのは娘のことです。失踪しているそうですが、もしそうなら、何か娘をおとしいれる悪だくみがあったんです。もし娘が母親殺しだなどと、ちょっとでも考えるんなら、そんなばかげたことはありませんよ……。すぐバーニスの行方を突きとめて、姿をくらました理由を見つけるようになさらないと、無実の娘に対して罪を犯すことになるんです。その点については、私も喜んで協力を惜しみません。あなたがたが、すぐ娘を探そうとしないなら、私立探偵を雇って捜索にかからせます。申しあげることは、これだけです」
カーモディは、おどろくほど高い背丈で、すっくと立ち上がり、身動きもせずに待っていた。
警視はむっとして「これからは、もっと穏やかに口をきいたほうがいいね、カーモディ君」と、無造作に言った。「帰ってよろしい」
ひと言も言わずに、こっとう屋は、くるりと背を向けて、私室《アパート》を出て行った。
「おい、カーモディをどう思うね」と、警視が、いぶかしそうにきいた。
「こっとう屋で一風変わっていない男なんていませんね」と、エラリーが笑った。
「ともかく、冷静な奴《やっこ》さんですね……ところで、お父さん、ぼくはぜひとも、もう一度、ラヴェリーさんに会ってみたいですよ」
書斎に案内されて来たフランス人は、青ざめて、そわそわしていた。ひどく疲れているとみえてすぐどっかりと椅子に坐ると長い両足をのばして、ほっとため息をした。
「外の廊下で椅子ぐらいあてがってくれてもいいですね」と、警視をなじった。「しかも一番あとに呼ばれるなんて、ついてないなあ。えてして、人生なんてこんなもんでしょうがね」と、おかしそうに肩をしゃくり「たばこ吸っていいですか、警視」
返事も待たずに、シガレットに火をつけた。
エラリーは立って元気よく体《からだ》をゆすぶった。そしてラヴェリーを見つめると、ラヴェリーのほうでもエラリーを見返してから、ふたりとも、なんとなしに、にやりと笑った。
「ざっくばらんに言いますがね、ラヴェリーさん」と、エラリーは間のびした調子で「あなたは世慣れた方です。間違った思慮分別に左右されることはないでしょう。……ラヴェリーさん、フレンチ家に滞在中に、バーニス・カーモディ嬢が麻薬常習者だとお感じになったことはありませんでしたか」
ラヴェリーが、びっくりして、用心深く、エラリーを見つめた。
「もう、そのことに気がついたんですか。あのお嬢さんを見もしないで。さすがですね、クイーンさん、ご質問には、躊躇《ちゅうちょ》なく答えさせてもらいますよ──言われるとおりです」
「えっ、いったい君に」と、ウィーヴァーが、急に片隅から抗議した。「どうしてそんなことがわかるんだね、ラヴェリー。ほんのわずかな交際《つきあい》で」
「ぼくは中毒患者の症状を知っているんだよ、ウィーヴァー君」と、ラヴェリーが穏やかに答えた。「血色が悪くて、ほとんどサフランのような顔色だし、目が少しとび出し、歯が悪く、不自然に神経質で興奮しやすく、いつもそわそわとおちつきのない様子だし、すぐヒステリーをおこして、すぐおさまる。ひどくやせ細って、ますます目先のことばかりに気をとられるようになる──そうなんだ。あの若い娘の病気の診断をするのはぞうさもないことだよ」ラヴェリーは細い指でちょっと合図して、エラリーの方を向いた。「ぼくの意見は単なる意見で、それ以上のものではないことを、はっきりことわっておきますよ。決定的な証拠は何ももっていません。しかし、医者から反対の意見が出てこないかぎり、ぼくは素人《しろうと》として、あの娘が相当進んだ麻薬中毒患者であることを誓ってはばかりませんよ」
ウィーヴァーがうなった。「老社長が──」
「むろん、非常に気の毒だと思うが」と、警視がすぐに口をはさんだ。「ラヴェリー君、君はあの娘が麻薬中毒だと、すぐ気がついたのかね」
「一目見た時からですよ」と、フランス人は言葉を強めて「ぼくには、あんなにはっきりわかるのに、多くの人々の目につかないというのが、いつも驚きの種でした」
「みんな気がついていたんだろうよ──たぶん、みんなね」と、エラリーはつぶやき、眉をしかめた。そして、とりとめのない考えを追い払って、もう一度、ラヴェリーへ問いかけた。
「この部屋にはいったことがありますか、ラヴェリーさん」と、エラリーはさりげなくきいた。
「フレンチさんの私室《アパート》ですか」と、ラヴェリーは大声で「むろん、毎日はいりましたよ。フレンチさんはじつに親切で、ぼくがニューヨークに来てからは、ずっとこの部屋を使わせてくれました」
「じゃあ、もう何もうかがうことはありません」と、エラリーは微笑した。「まだ間に合うんでしたら、講演室へお引き取りになって、アメリカの欧化という大事業をお続けになってください。ご苦労さまでした」
ラヴェリーは腰をかがめて、にこやかにあたりを見まわし、大股で私室《アパート》を出て行った。
エラリーは机に向かって腰を下ろし、手荒くこき使っている小型本の見返しに、何かを熱心に書きこんでいた。
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十九 意見と報告
クイーン警視はナポレオンのように書斎のまん中に立って、いまいましそうに控え室のドアを見つめていた。そして、テリア犬のように、隅から隅へと、ゆっくり頭を向けながら、ぶつぶつ言っていた。
そして、カード室の入口で写真技師を手伝っている店の探偵クルーサーを手招きした。
「おい、クルーサー。君には職業がら、こんなことはよくわかるだろうが」と、警視は粉たばこを小鼻につめながら「あのドアが気になってしようがないんだが、一体なんだってフレンチは、廊下のドアに特製のスプリング錠をつけさせたんだね。たまにしか使わない私室《アパート》にしては、用心がよすぎるようだがな」
クルーサーは、たしなめるように、にやりとして「そんなことに頭を悩まされんほうがいいですよ、警視。あの老人はとてもプライバシーにうるさい男でしてね。それだけですよ。他人に乱されるのが大きらいなんです──そんなわけですよ」
「だが、盗難防止設備のあるビルの中で、盗難よけの錠を使うなんて」
「そりゃあ」と、クルーサーが「あなたが、あのひとのことを、どう思われようとお勝手ですがね。事実は、警視」と、声をおとして「あのひとは、事と次第によっては、少々風変わりな方だったんです。いつか今朝みたいな日に、社長から命令書が来たのを思い出しますよ。署名なんかがごてごて書いてあって、特別製の錠を作れというんです。二年ほど前で、私室《アパート》を改築していたころでした。それで、私は命令どおりに、錠前専門屋にたのんで、あのドアの外側の錠を作らせましたよ。とても、社長の気に入って──アイルランド人のおまわりのように満足そうでしたよ」
「ドアに見張りをつけたのはどういうわけかね」と、警視がきいた。「あの錠前があれば、会いたくないやつは絶対にだれもはいって来れんだろうにな」
「そう──それがです」と、クルーサーはへどもどしながら「なにしろ社長は、とてもプライバシーにうるさいひとで、ドアをノックされるのも好みませんでした。それで、時々見張りをつけるように、私にたのんだんでしょうな。いつも廊下に見張りをつけていたんですが──見張りの連中はみんな、その仕事をいやがりましたよ。控え室にはいって休むことも許さなかったんですからね」
警視は、しばらく、自分の正規の警官靴を見つめてから指を曲げてウィーヴァーを呼んだ。
「おい君、来てくれ」ウィーヴァーが大儀そうに、絨毯をふんで近づいた。「フレンチがひどくプライバシーにうるさかったのには、どんなわけがあったのかね。クルーサーの話からみると、ここは、いつも要塞《ようさい》のようにかためられていたようだな。家族のほかには、一体、だれがここにはいることを許されたんだね」
「そりゃ社長の癖にすぎませんよ、警視さん」と、ウィーヴァーが「大げさにとらないでください。社長はとても癖の多い人でした。この私室の中を見た人は、ほとんどいないんです。私のほかには、肉親たちと、重役連と、先月中にラヴェリーさんぐらいのものです。このデパートの連中は、本当にだれひとりとして、ここにはいるのを許されている者はいません。いや、違いました。店の支配人、マッケンジーさんが、社長じきじきの命令を受けるために、時々呼ばれていました──事実、先週もそうでした。しかし、マッケンジー以外、店員たちにとっては、ここは完全な謎でした」
「おっしゃるとおりですよ、ウィーヴァーさん」と、クルーサーが、面白そうに口をはさんだ。
「そんなわけなんですよ、警視さん」と、ウィーヴァーがつづけて「クルーサーでさえ、この二、三年ここにはいったことはないでしょう」
「今朝より前に、ここを最後に見たのは」と、クルーサーが訂正した。「約二年前、ここを改造したり、家具を入れかえた時でしたよ」
クルーサーは自尊心を傷つけられたとでも思ったらしく、顔を赤くした。「店の主任探偵をこんなひどい扱いするなんてね。まったく」
「市に勤めればよかったんだ、クルーサー」と、警視が苦々しげに「ぐちを言わんで、楽な仕事に満足しとるんだな」
「前に申しあげてなかったら、説明しなければなりませんが」と、ウィーヴァーがつけ加えた。「その禁忌《タブー》というのは、いってみれば店員に限られているんです。ここには大ぜいの人が出入りしました。だが、大部分のお客たちは、必ず老社長と面会の約束をとっておかなければなりませんでした。それも悪徳防止協会の仕事で来るお客で、ほとんどが牧師さんでした。政治家も少しは来ましたが、あまりたくさんじゃありません」
「そのとおりです」と、クルーサーが相槌《あいづち》を打った。
「そうか」と、警視は目の前のふたりを、じろりとにらんで「ときに、カーモディという娘も、とんだことになったもんだな。君らはどう思うね」
ウィーヴァーは苦しそうな顔を、なかばそむけた。
「そうですね。そのことについては、よく知りませんが、警視」と、クルーサーが重々しい口ぶりで「その件についての私の意見は──」
「ほう。君の意見?」と、警視は驚いたような顔をしてから、ほほえみをおしころしながら「君の意見はどうなんだね、クルーサー。そりゃあ、聞きものかもしれんぞ」
エラリーは、ぼんやりと机に向かって、連中の話を小耳にはさんでいたが、例の小型本をポケットにねじこむと、立って、ぶらりと連中のそばに近づいた。
「なんですか? 死後検証ですか」と、エラリーはたずねて、微笑しながら「この件に対する君の意見をぜひききたいね、クルーサー君」
クルーサーはちょっと困ったような顔つきで、足をもじもじさせていた。だが、やがて肩をそびやかせて、語り手の役まわりを手放しで喜ぶかのように、まくしたてはじめた。
「私の考えでは」と、言いかけた──
「ああ」と、警視が促した。
「私の考えでは」と、クルーサーが、しゃあしゃあと言葉をくりかえして「カーモディ嬢は被害者ですよ。つまりね、陰謀の被害者です」
「ちがうね」と、エラリーがつぶやいた。
「それで」と、警視が意味ありげに言った。
「そりゃ、この鼻みたいに明々白々ですよ──ごめんなさい、警視──あなたの顔の鼻みたいにね。自分のお袋をばらす娘なんてありゃしませんよ。不自然じゃありませんか」
「だが、カードがある、クルーサー、靴も、帽子も」と、警視が、穏やかに言った。
「つまらんこってすよ、警視」と、クルーサーは自信たっぷりに「とんでもないこった。靴の一足や帽子なんかで小細工にもなりゃしませんよ。まさか、カーモディ嬢がやっつけたなんて言うつもりじゃないでしょうね。そんなこと信じられないし、信じちゃいけませんよ。私は常識でものを言ってるんで、それが事実なんですよ。娘が自分の母親を撃つなんて、そんなことありっこないですよ、警視」
「なるほど、そういうのももっともだ」と、警視がきっぱりと言って「では、マリオン・フレンチ嬢のスカーフを、どう考えるかね、クルーサー。君がこの犯罪を分析してみて。あの娘もこの事件に、どこかでかかわり合いがあると思うかね」
「だれです? あの小娘ですか」と、クルーサーは顔をほころばせて、鼻を鳴らした。「そうね、あれも陰謀くさいですね。さもなければ、スカーフを、うっかり忘れて行ったんでしょうよ。どうも、私には陰謀くさく思えますな、まったく」
「すると、君が言うのは」と、エラリーが横から口を出した。「君がホームズ流の捜査をやったところでは、この事件はつまり──どういうことになるのかね」
「言われることが、よくのみこめませんがね」と、クルーサーが自信たっぷり「こりゃ、てっきり殺人と誘拐《ゆうかい》事件ですよ。それよりほかに説明しようがないじゃありませんか」
「殺人と誘拐か」と、エラリーが微笑して「そう的はずれでもないな。立派なお説だったよ、クルーサー君」
探偵は顔を赤らめた。意見を述べるのを絶対に避けていたウィーヴァーは、外のドアのノックで、会話がやんだので、ほっと安堵《あんど》のため息をもらした。
外の見張りの警官がドアをあけて、ふくれた鞄《かばん》をかかえている、禿げ頭のしなびた小男を送りこんだ。
「よう、ジミー」と、警視は上機嫌で「何かいいものを鞄に入れて来てくれたんだな」
「そうですとも、警視」と、小柄な老人が黄色い声を出して「できるだけとばして来たんですよ──今日は、クイーンさん」
「会えてうれしいね、ジミー」と、エラリーは大きな期待の色を浮かべながら言った。この時、撮影技師や指紋係の連中が、帽子や外套をつけたまま、道具をしまいこんで、どっと書斎にはいりこんで来た。[ジミー]と、互いに名を呼びすてにして、挨拶《あいさつ》し合った。
「ここは終わりました、警視」と、写真技師のひとりが「ほかに何かご命令がありますか」
「目下のところないな」と、クイーン警視は指紋係の方を向いて「だれか、何か見つけたかね」
「指紋はごまんとありました」と、連中のひとりが報告した。「だが、大体みんなこの部屋のものばかりです。カード室にも寝室にも、そこのクイーンさんの指紋が二つ三つ残っていただけで、ほかにはひとつもありませんでした」
「この部屋の指紋から、何か出そうか」
「断言できませんね。朝のうち、この部屋を重役会で使っていたとすれば、どうも、全部正当のものとみていいようです。連中をつかまえて指紋を調べるつもりなんですが、いいですね、警視」
「やってくれ。だがお手やわらかにやるんだぞ、みんな」警視は手を振って一同をドアの方へ追いやった。「じゃ、さよなら、クルーサー、まだあとで」
「承知しました」と、クルーサーは元気に言い、技師連のあとについて出て行った。
残って部屋のまん中に立っているのは、警視とウィーヴァーと、エラリーと[ジミー]老人だけだった。クイーン付きの刑事たちが控え室にたむろして、低い声でしゃべっていた。老警視は控え室とのドアを用心深くしめて、元気よく両手をこすり合わせながら、急いで一同のそばへ戻った。
「さて、ウィーヴァー君」と、警視が口をきった。
「かまいませんよ、お父さん」と、エラリーが穏やかに「ウェスには何も隠す必要はありません。ジミー、何か話すことがあれば、てっとり早く、要領よく話してくれ。何よりもてっとり早くね。さあ、ジェームス聞こう」
「いいですとも」と、[ジミー]が、あいまいに禿《は》げ頭を掻きながら「知りたいのはなんですか」
ジミーは持って来た鞄に手を突っこみ、軟らかい紙で幾重にも包んであるものをそっととり出した。そして、慎重に包み紙を解くと、中から|めのう《ヽヽヽ》のブック・エンドのひとつがあらわれた。同じように軟らかい紙でくるまれたもうひとつのブック・エンドを取り出して、先に取り出したのと並べて、フレンチの机の敷ガラスの上に置いた。
「ブック・エンドじゃないか」と、クイーン警視がつぶやき、もの珍しそうに前かがみになって|めのう《ヽヽヽ》とフェルトが合わさっているふちのところに、かろうじて見える|にかわ《ヽヽヽ》の筋を調べた。
「正真正銘の|めのう《ヽヽヽ》製ですよ」と、エラリーが口を出した。「ジミー、ぼくがパラピン紙の袋に入れて届けた白っぽい粉はなんだったね」
「普通の指紋用の粉です」と、ジミーが、すぐ答えて「白い種類のやつです。どうして、これについていたんでしょうな。そりゃあんたたちのほうでわかってるでしょうが──わたしにはわかりませんよ、クイーンさん」
「今のところわからんな」と、エラリーが微笑して「指紋用の粉ね? にかわの中にももっと見つかったかね」
「あなたがほとんどみんな取ってましたよ」と、小柄な禿げ頭のジミーが「そりゃ、ほんと少しはありましたがね。むろん、ほかの物質も少しは出て来たが──大体、ほこりでしたね。しかし粉のほうは今言ったしろものです。ブック・エンドのどちらにも、あなたのを除いて、ほかの指紋はひとつもないでしたよ、クイーンさん」
クイーン警視はジミーからウィーヴァーへ、エラリーへと、目を移したが、その顔には妙な光がさしかけていた。そして、神経質に、かぎたばこの小箱をいじりまわしていた。
「指紋用の粉か」と、あきれたような声で「もしかすると──」
「いいえ、お父さんの考えている点は、ぼくがもう調べあげました」と、エラリーが生真面目に言った。「ぼくが自分で|にかわ《ヽヽヽ》についている粉を見つける前には、この部屋には警察の連中はひとりもはいっていません。実はぼくも、すぐに粉の正体に気がついたんですが、でも、むろんたしかめたかったのでね……そう、あなたの部下のひとりがこのブック・エンドに指紋用の粉をふりかけたんじゃないかと、お考えなら、そりゃ違いますよ。そんなことはできなかったんです、たしかです」
「じゃ、どういうことになるか、むろん、わかっとるのだろうな」と、警視が勢いこんで声をとがらせた。そして、くるりと敷物の上で身をひるがえすと「わしはあらゆる種類の経験を積んできとる」と、警視が「手袋を使う犯人どもは多い。そいつは法律破りどもの、おきまりの手口だ。思うに──三文小説や赤新聞の犯罪記事の産物らしい。手袋、キャンバス、寒冷紗《かんれいしゃ》、フェルト──やつらはそれらを使えば、指紋がのこるのをふせげるし、残ったとしても崩せると思うらしい。しかし、こりゃ──こいつをやったやつは──」
「超犯罪者とでも?」と、ウィーヴァーがおずおずと口を出した。
「そうだ。超犯罪者だ」と、老警視が答えた。
「三文小説くさいじゃないか、どうだ、エル。それで、思いつくんだが──市刑務所でわしが送りこむのを待っとるこの犯人は、おそらく[イタ公]トニーや赤毛のマクロスキー級の屠殺者《とさつしゃ》だろうな。たいていの警官は超犯罪者と聞いただけで、ふふんとせせら笑うが──わしはやつらを知っとる──刈りこんでみるとやつらは、なんといっても珍しい、貴重な星だよ……」
警視はいどみかかるようにせがれを見つめた。
「エラリー、男か女か知らんが、ともかく──この仕事をやっつけたやつはただの鼠《ねずみ》じゃないぞ。やつは──あるいは、その女《あま》は──じつに用心深く仕事をやっつけてから、おそらく手袋を使ってやったのだろうが、それだけでは満足せず、警官愛用の捜査用品指紋検出粉を部屋に振りまいて自分の指紋を見つけ出して全部拭き消したんだ。……万が一にもまちがいはない──わしらの相手は、間抜けな気のきかぬ仲間どもから傑出した、きわめて異常な性格をもつ常習犯罪者にちがいないぞ」
「超犯罪者? ……」と、エラリーはちょっと考えてからひょいと肩をすくめて「そうとしか考えられないんですって? ……この部屋で殺しをやってから、そのあとでとても手のこんだあとしまつをしているところをみると指紋が残ったのかな? おそらく残ったんだろう。おそらく手袋が使えないほど細かい仕事をしなければならなかったんだろう──そんなふうにお父さんは考えているんでしょう」
「しかし、どうもふにおちんな──つまり」と、クイーン警視がつぶやいた。「手袋も使えないほどの仕事といったら、いったいどんな仕事をやらなければならなかったのか、さっぱり見当がつかん」
「ちょっと思いつきがあるんですがね」と、エラリーが口をはさんだ。「だがそれはそれとして先へ進みましょう。犯人は少なくとも、ちょっとした重要な仕事にだけは手袋を使わなかったと見ていいでしょうね。それにやつはこのブック・エンドに指紋が残ったものと思いこんだ──ということは必然的に、つまり、やつがしなくてはならなかったことが、このブック・エンドに関係があることになります。いいですね。ところで犯人は、このめのうの表面を丁寧に拭きとるだけで、証拠のしるしをすっかり消し去ったものと信じて、満足したでしょうか。そうじゃなかった。やつは、指紋粉を取り出して、ひとつずつ、この|めのう《ヽヽヽ》の表面にそっとふりかけて、渦巻き状の指のよごれを見つけると、すぐに消し去ったのです。こうして、やつは指紋がひとつも残らなかったことをたしかめたのです。抜け目のないやつですよ。むろん、少しは骨が折れたが──しかし命がけで賭けをしているんだから、あくまで石橋をたたいて渡ったんでしょうよ。そうですとも」と、エラリーがゆっくり言った。「やつは──万一の僥倖《ぎょうこう》なんか当てにしなかったんです」
ちょっと、しんとなった。[ジミー]が禿げ頭をそっと撫でまわす音が、かすかに聞こえるだけだった。
「少なくとも」と、やがて警視がじれったそうに「そこらじゅう、指紋を探しまわっても意味がないことになるな。こんな手数をかけるほど抜け目なく立ちまわる犯人だったら、指紋などひとつも残しておかんのは確かだろう。そこで──さしあたり指紋の点は忘れることにして、もう一度、人間のほうを何人か当たってみることにしよう。ジミー、もう一度、このブック・エンドを包んで、本部に持ち帰ってくれ。刑事をひとり連れて行くほうがいい──こっちも、石橋をたたいて渡ろうじゃないか。つまり、そいつをなくさんようにな」
「承知しました、警視」と、警察の実験室員はブック・エンドをじょうずに薄紙でくるむと、鞄にねじこみ、元気な声で[失礼します]と言って部屋から姿を消した。
「ところで、ウィーヴァー君」と、警視はゆったりと椅子に腰をおろしながら「君も腰かけたまえ。捜査中に出会った連中のことを少し聞かせてほしいんだ。エラリー、お前も坐れよ。目ざわりでいらいらするから」
エラリーは微笑して、机の前に腰をおろし、妙に強い好奇心を、その机に抱きはじめたらしかった。ウィーヴァーは、革張りの椅子のひとつに、ひっそりと、くつろいだ。
「なんなりと、どうぞ、警視さん」と言いながら、ウィーヴァーはエラリーを見やった。エラリーは机の上の本を、じっと見つめていた。
「そうだな、手始めに」と、警視が明るい声で始めた。「君らの雇い主のことを何か話してもらおう。とても変わり者だったらしいじゃないか。悪徳防止の仕事で、頭が変になっていたらしいなあ」
「あなたの老社長に対する判断は少し不正確だと思いますね」と、ウィーヴァーがだるそうに言った。「あんなに善良で寛大なひとは世間には珍しいですよ。アーサー王伝説の中の人物のように、視野はきわめて狭いが、純粋に人間的な性格の人を想像されれば、ほぼ社長と合うと思います。俗に言う、心の広い人というほうではありません。それに、少々筋金入りでした。さもなければ悪徳防止の奮闘をしなかったでしょうね。本能的に悪徳を憎んでいたんだと思います。というのは、社長の家庭には、今まで醜聞とか、犯罪性などというものは、まるっきりなかったんですからね。そんなわけで、今度の事件は、社長には大打撃でした。社長はおそらく、新聞がお好みの記事として、この事件を取り上げる悪どさを予想したでしょうよ──悪徳防止協会長夫人の怪死とかなんとかね。それに、また、社長は奥さんをとても愛していたと思います。奥さんのほうではそれほど愛していたようではありませんけれどね──」と、ためらいがちに、だが、はっきりと「でも、奥さんは奥さんなりの冷たい控え目なやり方で、社長にはよくつくしていました。むろん、奥さんは社長よりずっと若かったんです」
警視が軽く咳をした。エラリーはぼんやりとした目でウィーヴァーを見つめたが、その心は、はるか遠くにあるらしかった。おそらく、机の上の本のことを考えていたのだろう。その表紙を、手でぼんやりといじりまわしていた。
「ウィーヴァー、話してくれんか」と、クイーン警視が「社長の近ごろの行動に、何か──そう、異常なものはなかったかね。気がつかなかったかね。この一、二か月の間に、あのひとを、ひそかに悩ませていたような問題を、君が個人的に知っていると、なおいいんだがな」
ウィーヴァーはかなり長く黙りこんでいた。やがて「警視さん」と言い、まともにクイーン警視の目を見て「実は、私はフレンチさんや、ご家族、友人たちのことをたくさん知っているんです。私は醜聞あさりじゃありません。私のひどくつらい立場もわかっていただきたいんです。信頼を裏切るのはやりきれませんよ……」
警視は満足そうだった。「男らしく話しちまうんだな、ウィーヴァー君。エラリー、お前の友だちに説明してあげろ」
エラリーはウィーヴァーに同情の目を向けた。
「ウェス、なあ君」と、エラリーが「人がひとり冷酷無残に殺されたんだぜ。その命を奪ったやつを罰するのがぼくらの仕事なんだ。君にどう説明していいかわからない──ひとの家庭の秘密を洗いざらいさらけ出すのは、まともな考えの人間にはむずかしいことさ──だが、ぼくが君の立場だったら、話しちまうな。というのは、ウェス」──と、エラリーは中休みして──「君は警官を相手にしているんじゃないんだぜ。友だちを相手にしているんだよ」
「じゃあ、話しましょう」と、ウィーヴァーは観念したように言った。「なんとか、うまく話せるといいんですがね──最近の社長の行動に何か変わった点がなかったかと、おたずねでしたね、警視さん。おたずねのとおりです。フレンチさんはひそかに悩んで取り乱しておられました。そのわけは──」
「なぜかね──」
「そのわけは」と、ウィーヴァーが力のない声で「二、三か月前から、フレンチ夫人とコルネリュース・ゾルンの間に──よからぬ友情が生まれたからです」
「ゾルンとだって? 恋愛沙汰かね、ウィーヴァー」と、クイーン警視が、猫撫で声できいた。
「そうじゃないかと思います」と、ウィーヴァーがもじもじしながら答えた。「けれど奥さんがゾルンに目をかけたのは──おや、ぼくはいやしい金棒引きになりかけてるな。実は、ふたりがあまりたびたび会いすぎるので、あの世にもまれな猜疑心のない老社長まで、何か変だと感じはじめたのです」
「たしかな証拠は何もないんだろうな」
「実際に悪いことは何もないと思います、警視。それに、もちろんフレンチさんは、そのことについては、奥さんに、ひと言もいわれませんでした。奥さんの感情を害すことなどあのひとには思いもよらないことです。しかし、そのことが社長の胸の底にこびりついていたのは、私にもわかりました。というのは、ある時、私の前でふと口をすべらせて、まざまざと胸のうちを見せたことがあるんですからね。社長が万事丸くおさまるのを必死で願っていたことは、こりゃあ、たしかです」
「その問題では、ゾルンはフレンチの心配など知らん顔をしていたんだろうな」と、警視が考えこみながら言った。
「もちろんです。ゾルンはフレンチ夫人に対する自分の感情を隠そうともしませんでした。奥さんはなかなか魅力のある婦人ですしね、警視。それにゾルンはとてもちゃちな男です。老社長の奥さんにまつわりついて、一生の友情を破ったんですからね。そのことが、何よりも老社長の感情をひどく傷つけたんだろうと思います」
「ゾルンには細君があるんだろう?」と、エラリーが、ふと口を出した。
「もちろん、そうさ、エル」と、ウィーヴァーが、ちらっとエラリーの方へ顔を向けて答えた。「ソフィア・ゾルンも風変わりな女なんだ。フレンチ夫人が嫌いなんだと思うな──あの女の風采《ふうさい》には女らしいやさしさなど、まるっきりないんだ。かなり鼻もちならん性質の女なんだよ、あの女は」
「ゾルンを愛しているのかい」
「答えにくいね。あの女は、異常に強い所有欲をもっていて、それであんなに嫉妬《しっと》深いんだろうな。あらゆる機会にそれをさらけ出して、時々、われわれみんなに気まずい思いをさせるんだ」
「どうも」と、警視が苦笑いしながら口をはさんだ。「世間にありがちな話だな。よくあることだ」
「ありすぎますよ」と、ウィーヴァーが苦々しく「何から何まで、いやらしい茶番だったのさ。おお、ぼくは自分の手でフレンチ夫人を絞め殺したいと何度思ったから知れやあしない。老社長をめちゃめちゃにしようとしてる夫人を見てね」
「おいおい、検察官の前で、そんな陳述をするものじゃない、ウィーヴァー君」と、警視がにやにやして「身近な家族に対して、フレンチ氏はどんな感情を抱いていたかね」
「むろん奥さんを愛しておられました──あの年にしては珍しいほど細かいことに気を配っていました」と、ウィーヴァーが「マリオンさんに対しては」──と、目を輝かして──「目にいれてもいたくないほどでした。完全に愛し合っている父娘でしたよ……ぼくにとっては──少しおもしろくなかったですよ」と、低い声で言いたした。
「君たちふたりの挨拶の仕方が変によそよそしいので、およその察しはついとったがね」と、警視が、無造作に指摘したので、ウィーヴァーが子供っぽく頬を赤らめた。
「ところで、バーニスに対してはどうだった?」
「バーニスとフレンチさんですか」と、ウィーヴァーが、ため息をした。「目下の状況のもとで、あなたが知りたいと思われることについてね。もし、老社長について言うなら、あのひとは、公平でしたよ。その点、かなり行きすぎるほどでした。むろん、バーニスさんは、あのひとの実の娘ではありませんから──なんとしたって、マリオンさんを愛すようにはいかなかったでしょうよ。しかし、ふたりとも全く同じように扱っていました。ふたりに同じように気を配っていました。小遣いも着るものも同じようにしていました。──あのひとに関するかぎり、ふたりに対して、ほんの少しもけじめをつけなかったのです。だが──やはり、一方は実の娘だし、片方は義理の娘ですからね」
「生《な》さぬ仲というやつだな」と、エラリーがくすくす笑いながら「そこに辛辣《しんらつ》な警句が生じるってわけだね。ところで、ウェス──フレンチ夫人とカーモディの間はどうなんだね。君は、あの男の言ったことを聞いていたろう、みんなあのとおりかい」
「あのひとの言ったことは、どこからどこまで本当だよ」と、ウィーヴァーがすぐに「カーモディという男は、得体の知れない男でね──バーニスに関係のないことには、魚みたいに冷血なんだ。バーニスのためなら、まるはだかにもなるだろうよ。だが、フレンチ夫人に対しては、離婚後は、まるで社交上やむをえないから交際《つきあ》うという態度をとっていたんだ」
「ところで、どうして別れたんだ」と、警視がきいた。
「カーモディの不貞です」と、ウィーヴァーが「こりゃどうも、井戸端会議のおかみさんみたいでいやな気持ちですが──とにかく、カーモディは、とんでもない思慮のないことをしでかして、ホテルでコーラスの女と一室にいるところをあげられたんです。事件はもみ消されたんですが、真相が洩れるのを食いとめることはできなかったんです。当時道徳的にいくらかやかまし屋だったフレンチ夫人は、すぐに離婚訴訟を起こして勝ち──同時にバーニスの後見も許されたのです」
「道徳的やかまし屋とは言えないな、ウェス」と、エラリーが評した。「ゾルンとの関係から考えるとね。むしろ、──自分のパンのバターのついている側をちゃんと心得ていて、不貞な亭主にくっついているより広い世間に出たほうが、もっといい魚がいると見切りをつけたというべきだね……」
「七面倒な言い方だね」と、ウィーヴァーがにっこりして「まあ、言うことはわかるがね」
「フレンチ夫人の性格の側面がややわかりかけた」と、エラリーがつぶやいた。「あのマーチバンクスという男は──フレンチ夫人の兄だったね」
「そして、それだけのことさ」と、ウィーヴァーが苦々しく「お互いに毒虫みたいに憎み合っているよ。マーチバンクスは夫人のせいで何か迷惑をこうむったらしいな。あの男だって純白な百合《ゆり》の花じゃないしね。とにかく、互いにあまり役に立つ仲じゃなかった。それも老社長の悩みのたねだったんだ。というのは、マーチバンクスが重役会の古顔だったからね」
「大酒呑みだろう。ひと目でわかる」と、警視が「マーチバンクスとフレンチはうまくいっていたのか?」
「ふたりのつき合いはほとんどないんです」と、ウィーヴァーが「仕事の上では、うまが合っているようでした。だが、それも、老社長がじつに細かに気を使っていたからです」
「さしあたり、わしに興味のある人物がいまひとりだけいるが」と、警視が「そいつは、道楽者らしい、おしゃれな紳士重役のトラスクだ。あの男は仕事以外に、フレンチの家庭と、何か交渉があるかね」
「仕事どころか、ほかのことのほうが多いくらいです」と、ウィーヴァーが答えた。「しゃべっているうちに、つい口がすべって、言わでものことを言ってしまうかもしれませんよ。しゃべり終わったら黒板ふきがほしくなりそうです。──A・メルヴィル・トラスクさんは、ただ店の|しきたり《ヽヽヽヽ》として重役になっているんです。あのひとの先代がデパートの創立者のひとりで、その遺言で、あのむすこさんが重役の地位をついでいるんです。それにはいろいろめんどうな手続きが必要でしたが、結局、あのひとを重役陣に押しこむことに成功して、以来、店のおかざりになっているんです。脳なしですが、ずるいことにかけては──大したもんです。トラスクさんは、もう一年ごし、バーニス嬢をものにしようとやっきになっているんです──重役になってからずっとですからね」
「そりゃおもしろい」と、エラリーがつぶやいた。「それでどうかね、ウェス──あの男の経済状態は?」
「図星だな。先代のトラスクさんが株で大損をしたところへ、せがれが輪をかけて泥沼にはまりこみ、噂によれば経済的には、にっちもさっちもいかないところへ来ているらしい。そこでぼくの考えでは、あの男は金持ちの娘と結婚するのが、最上の策と思っていたにちがいない。そこに、バーニスが現われた。あの男はもう何か月も、バーニスを追いまわして、きげんをとったり、連れ出したり、母親に取り入ったりしているんだ。そして、どうやらバーニスの愛情に食いこんだんだ──かわいそうに、バーニスには賛美者がほとんどないからね。──そんなわけで、ふたりは事実上、婚約しているんだ。正式じゃないが、了解がついている」
「反対はないのか」と、警視がたずねた。
「大ありです──」ウィーヴァーはためらいがちに──「老社長が筆頭です。社長はトラスクみたいな男から、義理の娘を守ってやるのが義務だと感じているんです。トラスクは下司な男で、しまつに悪い道楽者です。かわいそうに、あんな男と一緒になると、犬みたいな生活をしなければなりませんからね」
「ウェス、あの男はどうしてバーニスに金がはいると確信しているんだね」と、エラリーが急にきいた。
「そりゃあ」──と、ウィーヴァーは口ごもって──「考えてみたまえ、エル。フレンチ夫人は相当の財産を自分で持っていたんだ。だから、もちろん、公然の秘密だったんだよ、奥さんが死ねば──」
「それがバーニスに行くわけだな」と、警視が言った。
「おもしろいな」と、エラリーは言い、ぬうっと立ち上がって、大儀そうに|のび《ヽヽ》をした。「ところで、なんてことなしに、朝から何も食べていないのを思い出したよ。みんなで、サンドウィッチを食べたり、コーヒーでものみに行かないか。お父さん、まだ何か仕事がありますか」
「さしあたり何も思いつかんな」と、老警視は、いつもの気むずかしさにもどりながら「錠を下ろして、出かけるとしよう。ヘーグストローム! ヘッス! このたばこの吸いがらとカードをわしの鞄に入れとけ──この靴も帽子もだ……」
エラリーは机から五冊の本を取り上げて、ヘーグストロームに手渡した。
「この本もまとめといてくれ、ヘーグストローム」と、エラリーが「お父さん、これはみんな本部へ持って行くんですか」
「そうさ、もちろん」
「じゃあ、考え直しだ。ヘーグストローム、この本は自分で持って行くよ」刑事は警察用の用具鞄から出した茶色の包紙で、丁寧に本をくるみ、それをエラリーに渡した。
ウィーヴァーは寝室の戸棚のひとつから、帽子と外套を取り出した。そして、警視、エラリー、ウィーヴァーは刑事たちを先にたてて、私室《アパート》を出て行った。
エラリーが|しんがり《ヽヽヽヽ》だった。廊下に出て、片手をドアのノブにかけたまま、私室《アパート》から持ち出した本に、ゆっくりと目を移した。
「かくて終わりぬ」と、静かにひとりごとを言った。「第一課は」エラリーが手を離すと、ドアはひとりでに、ぴしゃりと閉じた。
二分後には、制服の警官がただひとり残っていて、どこからか持って来た得体の知れない椅子に腰かけて、ドアによりかかり、タブロイド新聞を読んでいた。
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第三話
人間狩りは、あらゆる点からみて、この世で最もスリルに充ちた職業である。
そのスリルは……人間狩りをする当人の気質に正確に比例する。そのスリルが完全な充足感に達するのは……犯罪現象を微細に観察して、それらを正確に照合し、天与の想像力を働かせて、どんな些細な事実をも何ひとつあますところなく、すべての現象を包括する理論を組み立てていく捜査官の場合である。……洞察力《どうさつりょく》、忍耐力、そして情熱──これらの資質が珍しくも合体して、はじめて犯罪捜査の天才が生まれるのである。同時に、これらの資質は、あらゆる職業の天才を生むものでもある。むろん、きわめて卓越した手腕が要求されるものであるのは言うまでもない。
[#地付き]――ジェームス・レデックス著『暗黒街は存在する』より
二十 たばこ
サイラス・フレンチ邸は、ハドソン川に面して、下リヴァーサイド・ドライヴにある。ドライヴからかなり引っこんで建てられ、よく刈りこんだ潅木《かんぼく》に取り囲まれた古い陰気な邸《やしき》である。低い鉄柵が邸のまわりにめぐらしてあった。
クイーン警視、エラリー、ウェストリー・ウィーヴァーの三人が応接室にはいって行くと、ヴェリー部長がもう来ていて、他の刑事と熱心に話しこんでいるところだった。刑事は、警視たちの一団がはいっていくとすぐに出て行った。そして、ヴェリー自身も、ばつの悪そうな顔を上官の方へ振り向けた。
「鉱脈を掘り当てました、警視」と、ヴェリーが静かな低音で言った。「昨夜フレンチ夫人を乗せたタクシーを、ほとんどすぐに、突きとめることができました。いつもこの辺をまわっているイエロー・タクシーです。運転手をつかまえて聞くと、苦もなくお客のことを思い出してくれました」
「すると、なんだな──」と、警視が憂鬱《ゆううつ》そうに言いかけた。
ヴェリーが肩をしゃくって「手柄にゃなりませんよ。運転手は昨夜十一時二十分過ぎごろ、この邸のまん前で夫人をひろったそうです。第五アヴェニューまで行くように命じたそうで、その注文どおりにしたんです。三十九番街で停めろと言って、降りたそうです。やつは料金をもらって、車を出したそうです。夫人が往来を渡って、デパートへ行くのを、はっきり見たと言っています。それだけです」
「大したことはないな」と、エラリーが小声で「たしかだね。下町へ行く途中で全然車をとめなかったのか? 夫人は途中でだれかと連絡をとらなかったのか?」
「その点はよくきいてみました。処置なしですよ、クイーンさん。夫人は三十九番街に着くまで、ほかの注文は何もしなかったそうです。もちろん、交通が混んでいたので、何度も停車しなくちゃならなかったと言ってました。停車中にだれかがとび乗って、また降りたということも考えられますがね。しかし、やつはそんなことはないと言っています。異常はなかったそうです」
「もう少し頭を働かせれば、当然、何かわかったろうにな」と、警視がため息をつきながら言った。
女中が一同の帽子や外套をかたづけたすぐあとマリオン・フレンチが姿を出した。ウィーヴァーの手を握りしめると、クイーン父子に、さびしげにほほえみかけて、ご用を承りましょうと言った。
「いや、お嬢さん。さしあたり、あなたにしていただくことは何もありません」と、警視が「お父さんのぐあいはどうですか」
「ずっとよろしいですわ」と、マリオンはちょっとわびるような表情をした。「私室《アパート》では、わたくし、とても醜態を演じまして、警視様。お許しくださいませね──父が気絶するのを見ましたので、自制心を失ったんですの」
「許すもなにも、マリオンさん」と、ウィーヴァーがうなるように「警視さんに代わって言いますがね。クイーン警視は、お父さんが、実際、どれほど悪いか気がつかなかったんだと思いますよ」
「おい、おい、ウィーヴァー君」と、警視が穏やかにたしなめて「お父さんに、三十分ほどお会いしたいが、どうでしょう、お嬢さん」
「そうですわね……お医者様のお許しがでれば、警視様。あら、失礼。どうぞお掛けくださいません? すっかりとりみだしていまして──このさわぎで……」マリオンの顔が曇った。一同は椅子に腰を下ろした。
「あの、警視様」と、マリオンがつづけて「父には看護婦がついておりますし、お医者様もまだいらっしゃいます。それに古いお友だちのグレー様も。都合を見てまいりましょうか」
「どうぞたのみます、お嬢さん。ついでに、おさしつかえなければ、ホーテンス・アンダーヒルを、ちょっと、こちらによこしてくれませんか」
マリオンが部屋を出て行くと、ウィーヴァーが急いでことわりを言ってあとを追った。じきに、マリオンがおどろいて「まあ、ウェストリー」とたしなめるのが、大広間から聞こえてきた。ふいに静まり、それと分かる軟らかいもの音がし、やがて遠のく足音が聞こえた。
「思うに」と、エラリーがむっつりして「ありゃ色っぽい女神《めがみ》に対する甘ったるい挨拶《あいさつ》らしい。……なぜサイラス老人、ウェストリーが未来の婿《むこ》さんになるのを、渋っているのかな。地位と金がないからかな」
「フレンチでもそんなものを望んどるのか」と、警視がきいた。
「そうだろうと思いますよ」
「まあ、そんなことはどうでもいい」と、警視はそっとかぎたばこを吸った。「トマス」と呼んで「バーニス・カーモディのほうはどうした。何が手がかりがあったか」
ヴェリーが顔をいつもより引きのばして「たったひとつだけありましたが、どうって、大して役にたちそうもありませんな。あのカーモディという娘は昨日の午後、この邸を出て行くのを、昼勤の守衛──請願巡査──に見られているんです。──その男はこの界隈《かいわい》を巡回するために、個人的に雇われているんです。カーモディ嬢を見知っています。あの娘が急ぎ足で七十二番街の方へ下りて行き──まっすぐにドライヴにはいるのを見たと言っています。見たところ娘はだれにも会った様子はなかったそうで、非常に急いでいたそうですから、はっきりした行き先へ向かっていたんでしょうな。その男は、一、二度ちらりと見返しただけで、べつに特に注意する理由もないので、どの辺までドライヴを下りて行ったか、途中で横町に曲がったかどうか、知っていませんでした」
「ますますいかんな」と、警視は考えこみながら「あの娘はとても重要なんだ、トマス」と、ため息をして「必要と思えば、増員しても、あの娘の行方を突きとめるんだ。どうしても捜し出さなければならん。着衣とかなんとか、こまかい人相書きは手にはいっとるんだろうな」
ヴェリーがうなずいた。「はい。あの娘には四人かかっています。何かあるものなら、きっと見つけ出しますよ、警視」
ホーテンス・アンダーヒルがつかつかと部屋にはいって来た。
エラリーがさっと立ち上がった。「お父さん、家政婦のアンダーヒルさん、こちらクイーン警視ですよ、アンダーヒルさん。警視が二、三おたずねしたいことがあるそうです」
「それでまいりましたのよ」と、家政婦が言った。
「ふふん」と、警視が女をじろりと見て「せがれの言うところによると、アンダーヒルさん、バーニス・カーモディ嬢は、昨日《きのう》の午後、母親の意志に反して邸を出たそうじゃないかね──事実、目を盗んでこっそり出たそうだね。それに違いないかね」
「違いありませんわ」と、家政婦が、にやにやしているエラリーを憎らしそうに睨みつけながら、やりかえした。「そのことが、事件とどんな関係があるのかわかりませんけれどね」
「そりゃそうだ」と、老警視が「カーモディ嬢にとっては、いつものことなんだな──母親から逃げ出すのが」
「あなたにどんな目当があるのか、さっぱりわかりませんけれど、警視様」と、家政婦が冷ややかに「あのお嬢様をまきこもうとなさるのなら──ええ、そうですわ。月に一、二度は、そうなさいましたわ。何もおっしゃらずにお邸を抜け出して、たいてい三時間ぐらい留守になさいました。帰っていらっしゃると、いつも奥様と、ひともめなさいましたわ」
「あんたは知らないでしょうね」と、エラリーがゆっくりきいた。「そんなとき、お嬢さんはどこへ行かれるのか。そして帰って来ると、奥さんが何を言ったのか」
ホーテンス・アンダーヒルは、不愉快そうに歯をかみ鳴らして「行き先は存じません。奥様もご存じありません。それでひともめなさったんです。けれど、お嬢様は何もおっしゃいませんでした。ただおとなしく坐って、奥様にお小言を言いたいだけ言わせて、いらっしゃったのです。……もちろん、先週は例外でした。あとでまた悶着《もんちゃく》がおきましたけど」
「おお、すると先週は何か特別なことがあったんだね」と、エラリーが「すると、フレンチ夫人は何かを知っていたらしいね」
家政婦のこわばった顔に、思わず、驚きの色が、さっと走った。「ええ、そうだと思いますわ」と、それまでよりも、一段ともの静かに言った。そして、急に興味をもったように。ちらりとエラリーを見た。「でも、どんなことなのか私にはわかりません。たぶん、バーニス様のいらっしゃるところを見つけられたので、そのことで口論なさったのでしょうよ」
「それはいつのことかね、アンダーヒルさん」と、警視がきいた。
「一週前の月曜日でした」
エラリーがぴゅっと口笛を吹いた。そして警視と目くばせした。
警視がひざを乗り出して「ではきくが、アンダーヒルさん──カーモディ嬢が、いつも、姿をかくす日についてだが──たいてい同じ日だったか、違う日だったか、思い出してほしい」
ホーテンス・アンダーヒルは警視からエラリーの方へ目を移し、話しかけて、ちょっと考え、それからまた目を上げた。「今思い出してみますと」と、ゆっくり言った。「いつも、月曜日とは限りませんでしたわ。火曜日のことも、水曜日のことも、木曜日のこともあったようです。……そうですわ、毎週、順々に日を変えて、お出かけでしたわ。こりゃ一体、どういう意味なんでしょうか」
「アンダーヒルさん」と、エラリーが眉をしかめながら「とてもあなたにはわかりっこありませんよ──実はぼくも、その点に関しては……ところで、フレンチ夫人とカーモディ嬢の寝室に、今朝から手をつけたかね」
「いいえ。お店で人殺しがあったと聞いた時、寝室は二つとも鍵をかけました。なんということなしにでしたけれど──」
「重要なことだと思ったんでしょう、アンダーヒルさん」と、エラリーが「よく気がききましたね……二階へ案内してくれませんか」
家政婦は何も言わずに立って、大広間へ出て、中央の幅の広い階段を昇った。三人の男はついて行った。家政婦は二階で立ちどまり、黒い絹のエプロンのポケットから取り出した鍵束の中のひとつの鍵でドアをあけた。
「ここがバーニス嬢のお部屋です」と、言って、かたわらに寄って道をゆずった。
一同はみどりと象牙色の広い寝室にはいった。時代ものの家具で飾り立てられていた。大きな天蓋つきのベッドが部屋を威圧していた。いくつもの鏡や、絵や、異国風の品物が飾られていたが、その部屋はなんとも言えぬほど陰気だった。ひえびえとしていた。三つの大窓から日がさしこんでいたが、暖かい雰囲気をつくるどころか、妙にわびしさをますばかりだった。
部屋にふみこむと、エラリーは、あたりの不気味さなどには目もくれず、すぐに、ベッドのそばの、けばけばしい彫りのある大きなテーブルをじっと見つめた。テーブルの上にはシガレットの吸いがらが溢れている灰皿が載っていた。エラリーは足早に部屋を横切って、灰皿をつまみ上げた。それから、異様に目を光らせながら、またテーブルにもどした。
「この吸いがらのたまっている灰皿は、今朝《けさ》あなたが鍵をかけた時、ここにありましたか。アンダーヒルさん」と、エラリーが鋭くきいた。
「はいありました。私は全然手をふれませんでしたわ」
「するとこの部屋は、日曜日以来、かたづけなかったんですね」
家政婦が顔を赤らめた。「この部屋は月曜日の朝、お嬢様が起きられてから、お掃除《そうじ》しましたわ」と、ぷりぷりして「家事の取り締まりについては、つべこべ言っていただきますまい。クイーン様、私は──」
「でも、なぜ月曜日の午後にしなかったんですか」と、エラリーがほほえみながらさえぎった。
「それはバーニス様が、ベッドができたら、女中を追い出されたからですわ。それだけの理由ですわ」と、家政婦がいきりたった。「女中は灰皿をかたづけるひまもなかったんです。ごなっとくいきまして!」
「なるほどね」と、エラリーが低い声で言い「お父さん──ヴェリー君──ちょっと来てください」
エラリーはものも言わずに、吸いがらを指さした。少なくとも三十ぐらい灰皿にのっていた。たばこは、ひとつのこらず平べったいトルコたばこで、長さの四分の一だけ吸って、灰皿に押しつぶしてあった。警視はそのひとつをつまみ上げて、吸い口のそばの金文字の文句を覗《のぞ》きこんだ。
「それで、何を驚くことがあるんだ?」と、きいた。「こりゃ、私室《アパート》のカード・テーブルにあったたばこと同じ品じゃないか。この吸い方でみると、あの娘はひどく気短からしいな」
「でも、その長さですよ、お父さん、長さ」と、エラリーが穏やかに「いかに同じ品だとしても……アンダーヒルさん、カーモディ嬢はいつもこの公爵夫人《ラ・デュセス》を吸っていたんですか」
「はい、そうです」と、家政婦はおもしろくなさそうに「それも、体のためによくないほどたくさん。妙な名のギリシア人からお買いになって──グザントスとか言いましたわ──そのひとが、上流階級の若い婦人がたの特別注文でこしらえるとかって、香水入りですのよ」
「注文はいつもきまっていたんでしょうね」
「おっしゃるとおりです。バーニス様はたばこが切れると、ただ注文なさるだけで、いつも五百本入りの箱ひとつでした。……たしかに、バーニス様の欠点のひとつですけれど、でも、それをとりたててとやかく言うほどのことでもありませんわ。なにしろ、同じような悪い習慣にそまっているお嬢さんがたはたくさんいらっしゃるんですしね──でも、カーモディ様も健康のためにほどほどになさればいいのに、全くたくさん吸いすぎますわ。奥様も、マリオン様も、旦那様も全然、お吸いになりません」
「うん、うん、そういうことはみんな分っていますよ、アンダーヒルさん」と、エラリーは言い、例の携帯用具箱からパラピン封筒を取り出すと、ゆっくり、灰皿のよごれものを封筒の中にあけて、それをヴェリーに手渡した。
「これも、事件関係の記念品と一緒に、本部に保存しとくほうがいいな」と、明るい声で「きっと最後の締めくくりに役にたつと思うよ。……さて、アンダーヒルさん、大事な時間をもうちょっとさいていただきたいんですがね……」
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二十一 またしても、鍵だ
エラリーはけばけばしい室内をちらりと眺めまわしてから、横手の壁についている大きなドアに歩みよった。それをあけて、満足そうに低く叫び声をあげた。女の衣裳類──ガウン、コート、靴、帽子──などがごたごたにつまった衣裳|戸棚《とだな》だった。
エラリーはふたたびホーテンス・アンダーヒルを振り向いた。家政婦は妙に不安そうにエラリーを見つめていた。唇をかみしめて、エラリーの手が、無造作に、衣桁《いこう》にかかっているガウンを次々とかきまわしていくのを見ていた。
「アンダーヒルさん。あんたは、カーモディ嬢が私室《アパート》へ行ったのは何か月も前で、それ以降行っていないと、言っていましたね」
家政婦はぎごちなくうなずいた。
「最後に行った時に、どんな服装だったか覚えていますか」
「実は、クイーン様」と、家政婦は冷ややかに「私は、あなたが信じてくださるほど、記憶がよくはないんですの。とても思い出せっこありませんわ」
エラリーはにやりとして「じゃよろしい。カーモディさんの、私室《アパート》の鍵はどこですか」
「まあ」と、家政婦は肚《はら》の底から驚いて「なんとおかしいことがあればあるものね、クイーン様──だって、あなたがそんなことをお聞きになるんですもの。つい昨日の朝、バーニス様は、私室《アパート》の鍵をなくしたらしいから、他のひとの鍵を借りて、合鍵をひとつ作らせてほしいと、おっしゃったばかりなんですよ」
「なくしたって」と、エラリーはがっかりした顔で「たしかですね、アンダーヒルさん」
「今、申しあげたとおりですわ」
「さて、|がさ《ヽヽ》をやってもかまわないでしょう」と、エラリーが元気に言って「おい、ヴェリー君、この衣裳を手つだってくれないか。いいでしょう、お父さん」
次の瞬間、エラリーと部長は、がむしゃらに衣裳戸棚を攻撃した。警視はくすくす笑い、ホーテンス・アンダーヒルは憤慨して息をはずませていた。
「いいかね……」と、エラリーは歯をくいしばって、すばやくコートやガウンをかきまわしながら「人間というものは、概して、ものをなくさないものだよ。ただなくしたと思うだけさ……この場合だって、カーモディ嬢は、たぶん心当たりを二、三か所探しただけで、だめだとあきらめてしまったんだろうよ……おそらくは、鍵を入れといた衣服を探さなかったんだろうな……ああ、あったね、ヴェリー、うまい!」
背の高い部長がずっしりした毛皮のコートを持ち上げていた。その左手に、金の丸い札のついている鍵が光っていた。
「内ポケットにありました、クイーンさん。毛皮のコートだったところをみると、カーモディ嬢が最後に鍵を使った日は、天気が悪かったとみえますな」
「なかなか慧眼《けいがん》だな」と、エラリーは言って、鍵を受けとった。ポケットから取り出したウィーヴァーの鍵と、今出て来た鍵をくらべてみるとぴたり同じで──丸い金札に彫られているB・Cという頭文字以外は全く対のものだった。
「どうして、鍵を全部欲しがるのだ、エル」と、警視がとがめるように「わしには、どうもわけがわからん」
「お父さんの洞察力は大したものですね」と、エラリーがあらたまって「どうしてぼくが、全部の鍵を欲しがっているのがわかったんですか。でも、まさにそのとおり──欲しがっているんですよ。それに、もうじき全部の鍵を集めてみせます。理由は、クルーサーの言葉をかりて言えば、たしかに自分の鼻面みたいにはっきりしとるさ、とでもいうところですね。……しばらくの間、あの私室《アパート》にはだれも入れさせないんです。しごく簡単な理由でしょう」
エラリーは二個の鍵をポケットに納めて、にがりきっている家政婦の方へ向き直った。
「あんたはカーモディさんのいいつけで、この[紛失した]鍵の合鍵をつくらせたかね」と、ぶっきらぼうにたずねた。
家政婦は鼻を鳴らした。「つくらせませんでしたわ」と、言った。「と申しますのは、今思えば、鍵がなくなったとおっしゃった時、バーニス様が私をからかっているのかどうか、はっきりしなかったものですからね。それに、昨日の午後、ちょっとしたことがあったので、合鍵をこしらえるのをためらったのです。もう一度バーニス様に会っておききしてからにしようと思って」
「それはどんなことだったんだね、アンダーヒルさん」と、警視がしごく穏やかにきいた。
「実は、ちょっと妙なことですの」と、家政婦は考えこみながら言った。そして、急に目がきらきらと輝き、その表情がおそろしく人間味をおびた。「ぜひお役にたちたいと思いますわ」と、静かに言った。「考えてみればみるほど、あの出来事はお役にたつような気がしますわ……」
「あんたの言葉は、ぼくらをそわそわ昂奮させますよ、アンダーヒルさん」と、エラリーは顔色もかえずにつぶやいた。「さあ、話をすすめてください」
「昨日の午後、四時ごろかしら──いえ、三時半ごろだったようですわ──バーニス様からお電話がありました。こっそりとお邸をお出になってからでしたわ──ご存じのとおり」
三人の男は緊張してかたくなった。ヴェリーは何かわからぬことをいまいましそうに口の中でつぶやいていたが、警視がじろりと睨んだので静かになった。エラリーは身をのり出していた。
「それで、アンダーヒルさん」と、エラリーが促した。
「とても不思議ですの」と、家政婦がつづけて「バーニス様は、ご中食前に、鍵をなくしたと、何度もおっしゃったのに、しかも、午後のお電話で最初におっしゃったことは私室《アパート》の鍵がいるから、すぐメッセンジャーをとりにやるですって」
「もしかすると」と、警視が小声で「君がもう合鍵をこしらえてくれていると思ったのかもしれんよ」
「いいえ、警視様」と、家政婦がきっぱりと「まるでそんなことは考えてもいない口ぶりでしたわ。事実、鍵をなくしたことなんかすっかり忘れてしまっているようでしたわ。それで私はすぐに、今朝鍵をなくしたから合鍵を作れと、おっしゃったじゃありませんかと申しましたの。すると、本当にがっかりなさったように[ああ、そうね、ホーテンス。けろっと忘れちまうなんて、本当にうっかりしてたわ]と、おっしゃって、何かほかのことを話しかけましたが急に言葉をきって[心配しないでいいわよ、ホーテンス、べつに大したことでもないんだから。今夜、ちょっと私室《アパート》に寄ってみようと思っただけなのよ]と、おっしゃいました。それで、私は、そんなに私室《アパート》においでになりたいなら、守衛の机にある親鍵をお使いになれますよと、申しあげました。でも、大して関心もないらしく、すぐに電話をお切りになったんです」
ちょっと座が静まった。やがてエラリーが興味深げに、きらきら光る目で見上げた。
「思い出してほしいんだが、アンダーヒルさん」と、エラリーが「カーモディ嬢が会話中に何か言いかけて、思い直してやめたらしいが、何を言おうとしたんだろうね」
「はっきりとはわかりませんけど、クイーン様」と、家政婦が「どうやら、バーニス様は、私室《アパート》にはいるためにほかの方の鍵を手に入れてほしいと、おっしゃりかけたようでしたわ。私の勘違いかもしれませんが」
「勘違いでしょうね」と、エラリーがあいまいな口ぶりで「だが、あんたが勘違いだったというほうに、大きく賭けるつもりはないな……」
「それに」と、ホーテンス・アンダーヒルが、思い出したように言い足した。「お嬢様が、あれを言いかけて、おやめになった時、私の感じでは──」
「だれかがカーモディ嬢に話しかけていたというんでしょう、アンダーヒルさん」と、エラリーが問いかけた。
「そうですの、クイーン様」
警視はびっくりした顔をむすこに向けた。ヴェリーが大きな体を身軽に警視に近よせて、何か耳うちした。老警視がにやりとした。
「うん、図星だ、トマス」と、警視はくすくす笑いながら「わしもそう思っとったところだ……」
エラリーがおどかすように指を鳴らした。
「アンダーヒルさん、あんたに奇跡のような正確さを見せてもらおうとは思っちゃいないが」と、エラリーが真顔になって、期待するような調子で「しかし、ぜひききたいな──電話であんたに話しかけたのは、たしかにカーモディ嬢に違いなかったかね」
「それだ」と、警視が思わず大声を出した。ヴェリーがにやりとした。
家政婦は異様にきらきらする目で三人の男を見つめた。四人の胸を、はっとするような思いがはためいた。
「私には──どうも──そうは──思えませんでした」と、家政婦が細い声でつぶやいた……
しばらくして、一同は、失踪《しっそう》した娘の寝室を出て、次の間にはいって行った。いっそう色がおちついていて、ちりもとめぬほど清潔だった。
「奥様のお部屋です」と、家政婦が低い声で言った。夫人を思い出すと、このこみいった悲劇が身にしみるらしく、とげとげしさが急にやわらいだようだった。そして、深い尊敬の念をこめた目でエラリーのあとを追った。
「何も異常はないかね、アンダーヒルさん」と、警視がきいた。
「はい、ありません」
エラリーは衣裳戸棚に歩みよって、きれいに架けてある衣裳かけを、何か考えながら睨《にら》んでいた。
「アンダーヒルさん。この衣裳かけをしらべてみて、マリオン・フレンチ嬢の衣裳がまじっていたら教えてくれませんか」
家政婦は三人の見ている前で、衣裳かけを調べた。丁寧に調べ終わってから、自信をもって、首をふり、ひとつもないと言った。
「すると、フレンチ夫人は娘さんのものを着るようなことはなかったんですね」
「ええ、そんなことはけっして」
エラリーは満足そうにほほえみ、すぐに例の間に合わせの手帳にしている小型本に虫のはうような字で書きこんだ。
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二十二 またしても、本だ
三人の男は居心地悪そうにサイラス・フレンチ老の寝室に立っていた。看護婦がホールをぱたぱたと歩きまわり、患者との間をがんじょうなドアがさえぎっていた。マリオンとウィーヴァーは階下の応接室へ行っているように命じられていた。フレンチ氏の主治医、スチュワート先生は大柄な印象的な男で、職業的な気むずかしい様子で、フレンチ氏のベッドのそばの持ち場から、クイーン父子を見つめていた。
「五分間──だけです」と、いかめしい口調で「フレンチさんは、話のできる容体ではないですぞ」
警視はなだめるように舌を鳴らして病人を見守った。フレンチは大きなベッドにまるまって横たわり、きょときょと、検察官たちの顔をひとつずつ睨みまわした。
ぐんにゃりした白い片手で絹の掛け布をつかんでいた。その顔は血の気がなく、けばだって、見るからにひどく病人くさかった。しわだらけな額に白髪まじりの髪の毛がかぶさりかかっていた。警視がベッドに近づいて、かがみこむようにして低い声で言った。「警察のクイーン警視です。フレンチさん。聞こえますか。奥さんの──事故について、二、三形式的な質問をしますが、答えてくださる元気がありますかな」
きょろきょろしていた目玉が停まって、穏やかな警視の灰色の顔をじっと見つめた。急にその目に知性が輝いた。
「はい……はい」フレンチは赤い舌で薄く青ざめた唇を舐《な》めながら、つぶやくように「なんでも……この怖《おそ》ろしい事件を……究明するためなら」
「ありがとう、フレンチさん」と、警視はいっそうかがみこんで「奥さんのなくなられたのを説明するような原因が、何か考えられませんかな」
うるんだ目がまばたき、閉じた。その目が開いた時、血ばしった目の奥に、ひどくあわてた表情が見えた。
「いや──何もない」と、フレンチはつらそうにかすかな声で「何もない……これといって……家内──家内には……友だちが多かったが……敵はない……わたしには……とても信じられん……家内を殺すほど……それほど敵意をもつ……人間がいたなんて」
「そうですか」と、警視は器用な指先でひげをひねり「すると、奥さんを殺すような動機《ヽヽ》をもっとる人間を、ひとりも知らんわけですな、フレンチさん」
「ええ……」しわがれた弱々しい声が急に力づいて「この恥……この悪評が……わしを葬り去るでしょう……全力をあげて……悪徳を亡ぼそうと努力してきたわしに……こんなことが起ころうとは。いまわしい、じつにいまわしいことだ」
その声がだんだん激しくなった。警視がスチュワート医師に警戒の合図をしたので、医師は患者の上にすばやくかがみこんで脈をとった。そして、非常にやさしい声で患者をなだめたので、のどのごろごろいうのがおさまり、掛け布を握りしめていた手がゆるみ、やがて動かなくなった。
「まだきくことがたくさんありますか」と、医師はぶっきらぼうに低い声で「急いでいただかなければなりませんぞ、警視」
「フレンチさん」と、クイーンが穏やかに「店の私室《アパート》のご自分の鍵は、いつも持っとられますか」
フレンチの目がねむそうにくるりと動いた。「えっ、鍵、ええ……いつも持っとる」
「この二週間ほどの間、たしかにお手許から放されなかったんですね」
「うん……たしかに放さなかった」
「どこにありますか、フレンチさん」と、警視がやさしい声でせっついた。「二、三日お借りしても、かまわんでしょうな。むろん、法の利益のためです……どこにありますかな。ああ、そう、スチュワート先生、フレンチさんがズボンの尻ポケットから鍵束を取り出してくれるようにと、あなたに頼んでいますよ。衣裳戸棚──衣裳戸棚の中です」
たくましい医師は何も言わずに衣裳戸棚に歩みより、最初に目についたズボンをひっかきまわしていたが、すぐに皮の鍵ケースを持って戻って来た。警視がC・Fと彫ってある金色の丸い札のついている鍵をはずして、鍵束を医師に返すと、医師はそれをすぐにもとのズボンに戻した。フレンチは静かに横たわって、はれぼったい目を閉じていた。
警視がサイラス・フレンチの鍵をエラリーに渡すと、エラリーは他の鍵と一緒にポケットに納めた。それから、エラリーは進み出て病人にかがみこんだ。
「ご安心なさい、フレンチさん」と、エラリーがなだめるような低い声で「あと二、三おききするだけで、ゆっくり静養していただけますよ……フレンチさん、私室《アパート》の、あなたの机の上にどんな本を置いておかれたか、覚えていますか」
老社長の目がぱっとあいた。スチュワート医師が腹だたしげにぶつぶつと「ばからしい──じつにばかげた探偵法だ」などと、いきまいた。エラリーは相変わらずつつしみ深い様子でフレンチのゆるんだ口もとに顔を近づけていた。
「本ね?」
「そうですよ、フレンチさん。私室《アパート》の机の上の本です。題名を覚えていますか」と、エラリーが穏やかに促した。
「本ね」と、フレンチは必死の努力を注いで、口をゆがめた。「うん、そう……むろん、わしの気に入りの本で……ジャック・ロンドンの冒険物語……コナン・ドイルの『シャーロック・ホームズの帰還』……マッカチェオンの『グラウスターク』……ロバート・W・チェンバースの『カーディガン』と……さてな……もう一冊あったが……そうだ。リチャード・ハーディング・デーヴィスの『運のいい兵士』……そうだ──デーヴィス……デーヴィスを知っとる……乱暴だが……大したやつだ……」
エラリーと警視が目くばせした。警視は興奮をおさえて顔をまっかにしていた。そしてつぶやいた。「なんということだ!」
「たしかですね、フレンチさん」と、エラリーは、もう一度、ベッドにかがみこんで、念をおした。
「うん……たしかだ。わしの本だ……知っとるはずだよ……」と、老社長は、かすかに怒りをおびた声でささやいた。
「もちろんですとも。ただたしかめただけです……ところで、あなたは、たとえば古生物学とか──切手の収集とか──中世紀の商業とか──だじゃれとか──初歩の音楽なんてものに、興味をもたれたことがおありですか」
フレンチ氏はぐったりした目を、けげんそうにきょとんと見ひらいた。そして、二度ほど頭をくるりと振った。
「ないな……そんなことはないな……わしの固いほうの読書は社会学の本に限られとる……悪徳防止協会の仕事のためだ……わしの立場は知っとるだろう……」
「あなたの私室《アパート》の机の上に、今でも、デーヴィスやチェンバースやドイルなど五冊の本が置いてあることはたしかなんですね、フレンチさん」
「たぶんそうだよ」と、フレンチがもぐもぐ言った。「あそこにあった……何年もだ……あるはずだ……変わったことには気づかなかった……」
「結構でした。全く申し分ありません。ありがとうございました」エラリーは、見るからにじりじりしているスチュワート医師をちらりと見て「もうひとつおたずねしますよ、フレンチさん。それでおいとまします。ラヴェリーさんは近ごろ、あなたの私室《アパート》に出入りされたことがありますか」
「ラヴェリー? うん、もちろん。毎日だ。わしの客だから」
「じゃあ、これでおしまいです」と、エラリーは後ろにさがって、もう書ききれなくなっている小型本の見返しに何か走り書きした。フレンチは目を閉じ、かなり疲れてはいるが、明らかにほっとした様子で、かすかに身動きした。
「どうぞ静かにお引き取りください」と、スチュワート医師がぷりぷりして「あんたがたのおかげで、たっぷり一日は回復がおくれましたよ」
医師はいまいましそうに、くるりと皆に背を向けた。
三人の男は爪先立って部屋を出た。
しかし、階下の大広間に下りる階段口で、警視がつぶやいた。「一体、あの本の件は、事件のどこに当てはまるんだ?」
「そんな、あわれっぽいきき方をしないでくださいよ」と、エラリーが、うらめしそうに「実はぼくもそれを知りたいんですよ」
それから、みなは黙って階段を降りて行った。
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二十三 確認
降りてみると、マリオンとウィーヴァーが、手を握り合って、うろんくさく黙りこんで、応接間に、しょんぼりと坐っていた。エラリーは考えこみながら鼻眼鏡をみがき、ヴェリーは目をすぼめて壁のルノアールの絵をちらちらと眺めた。
青年と娘はとび立った。
「どうでして──お父様はどうでして?」とマリオンが、すんなりした片手を赤らんだ頬に当てながら、あわててきいた。
「今は静かに休んどられるよ、お嬢さん」と、警視がうるさそうに答えて「そう──お嬢さん、あと、一、二おたずねしてから、おいとましますよ……エラリー!」
エラリーはいきなり要点をついた。
「お父さんの私室《アパート》の鍵ですが、お嬢さん」と、エラリーがたずねた。「あなたの分は、ずっとお持ちですか」
「あら、むろんですわ、クイーン様、あなたは、まさか──」
「重要な問題なのです、お嬢さん」と、エラリーが丁重に「あなたの鍵は、さよう、この四週間くらいの間、お手もとから放したことはありませんか」
「むろん、ございませんわ、クイーン様。私の鍵ですもの。それに私室《アパート》にはいる場合には、男も女もみんな銘々の鍵を持っていて使うんですのよ」
「明快なお答ですね。では、あなたの鍵をしばらく貸してくださいませんか」
マリオンは目にためらいの色をうかべて、ウィーヴァーの方を向きかけた。ウィーヴァーがマリオンの腕をつかんで、おちつかせた。
「なんでもエラリー君の言うとおりにしなさい、マリオン」と、言った。
マリオンは何も言わずに呼鈴を鳴らして女中を呼んだ。そしてまもなくいまひとつの鍵をエラリーに渡した。すでに手に入れた鍵と違う特徴はきらきら光る丸い札に、M・Fと、はっきり彫りこまれている点だけだった。エラリーはそれを、他の鍵と一緒に収《しま》いこみながら、ぼそぼそと礼をのべて引き退った。
警視がつかつかと進み出た。
「ぶしつけなことを、うかがわなくちゃならんのですがな、お嬢さん」と、言った。
「私──私たちを、完全にあなたの思いどおりになさるのね、クイーン警視様」と、娘は皮肉ってかすかにほほえみながら言った。
警視はひげをひと撫でして「あなたがたの仲はどうでしたかな、つまりそのう、あなたと、義理のお母さん、お姉さんの仲は? うまくいっていましたか? うまくなかった? はっきり言って反目していましたか」
マリオンは、すぐには答えなかった。ウィーヴァーが足をもじもじさせて、顔をそむけた。やがて、娘は大きな眸《ひとみ》でまともに老警視の目を見つめた。
「はっきり言えば[うまくいっていなかった]と思いますわ」と、娘はきれいな甘い声で「三角関係のどちらにも初めから失うだけの愛情があったとは言えませんの。母はいつも私よりバーニスのほうが先ですし──むろんそれが人情ですものね。それにバーニスといえば、私たち初めから気が合わなかったんですの。ですから、年月が経つにつれて──いろいろなことがおこり始めると、ますます私たちのみぞは広まるばかりでしたわ……」
「いろいろなことというと?」と、警視がさっそくたたみかけた。
マリオンは唇《くちびる》を噛《か》んで赤くなった。「そりゃ──ほんのつまらないことですわ」と、まぎらすように言ってから、せきこんで「私はみんなお互いに気が合わないのを、一生懸命に隠そうと努力したんですの──お父様のためにね。父はみなさんが思っていらっしゃるより、ずっと敏感なひとですのよ」
「なるほど」と、警視が興味ありげに舌打ちして、独特のすばやい身のこなしで胸を張った。「お嬢さん、義理の母上を殺した犯人について、何かヒントになるようなことを、ご存じじゃないかな」
ウィーヴァーが、息をはずませて青ざめた。そして、激しく抗議しかけそうだった。だが、エラリーが腕をつかんでおしとめた。娘はからだを固くしたが、たじろがなかった。手で弱々しく額を撫でた。
「私──存じません」と、かろうじてささやいた。
警視はちょっとなだめるような身ぶりをした。
「おお。これ以上はもう何もきかないでくださいな──あのひとのことは」と、マリオンは急に苦しそうな声で叫んだ。「こんなこと、とても私には続けられませんわ。あのひとのことを話すなんて、本当のことを話そうとするなんて、だって……」と、ややおちついて「……だって、そんなことは、とても悪趣味じゃありませんか──かわいそうな──死んだひとの悪口を言うなんて」マリオンは身ぶるいした。ウィーヴァーが人目もはばからず、娘の肩に腕をまわした。娘はほっとしてため息をつき、ウィーヴァーの胸に顔を埋めた。
「お嬢さん」と、エラリーがごく穏やかな声で「ひとつ聞かせてくださると助かるんですがね──義理のお姉さんは──どんなシガレットを喫っていたんですか」
一見、無関係なこの質問に、マリオンはびっくりしてはっと顔を上げた。
「え──ラ・デュセスですわ」
「たしかですね。それに、ラ・デュセスばかり吸っていたのですか」
「ええ。少なくとも、私の知っている限りでは」
「それで」と、エラリーは調子よく「それで、お姉さんには、何か吸いくせがありましたか、お嬢さん。おそらく、何か少し変わったくせが」
かわいい眉をしかめて少し渋面《じゅうめん》をつくりながら「あなたが|くせ《ヽヽ》とおっしゃるのが」──と、口ごもりながら──「ひどい神経質のことでしたら──そうでしたわ」
「その神経質というのは、目立つほどはっきりしていましたか」
「休みなしに吸っていましたわ、クイーン様。それに、一本で、五、六服しか吸わないのです。静かに吸えない|たち《ヽヽ》だったようですわ。五、六服吸うと、まだ長い吸いさしを押しつぶしてしまうのよ──まるで目の敵《かたき》にして。それで吸いさしは、いつも曲がって、ねじれていましたわ」
「どうもありがとう」エラリーの固い唇が満足そうにほころびた。
「お嬢さん──」と、警視がたたみかけた。「昨夜あなたは、お食事のあとでここを出られましたな。そして夜中まで戻られなかった。あの四時間ほどの間、どこにおられたのですか」
沈黙。ぞっとするようなその沈黙は、たちまち、かくされた複雑な感情にみちみちて、ほとんど実在するもののようだった。それはほんの瞬間に生じた活人画だった。痩身《そうしん》の警視は、緊張して身構え、前にのり出し、エラリーのすらっとした体は、ぴくりとも筋肉を動かさず、巨漢ヴェリーは力をためて息をつめ、感じやすいウィーヴァーの顔に恐怖が凍りつき──そして、かぼそいマリオン・フレンチのしおれた姿は全くみじめだった。
だが、それもつかの間に崩れた。マリオンがため息をもらし、四人の男たちは、ひそかに、ほっとした。
「私は──散歩していましたのよ──公園を」と、マリオンが言った。
「おお、そうですか」と、警視が微笑してうなずきながら、ひげを撫でた。「では、もうおききすることはありませんよ、お嬢さん。失礼します」
それだけ言うと、警視と、エラリーと、ヴェリーは部屋を出て応接間を通り、一言も口をきかずに邸を出た。
だが、残されたマリオンとウィーヴァーは、ひとく気抜けがして、不安がたかまり、もといた場所に突っ立ったままで、表のドアがはっきりかちりとしまったあとも、長い間、互いに目をそむけ合っていた。
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二十四 クイーン父子の吟味
フレンチ邸の前で、ヴェリーがすでに開始されている謎《なそ》の失踪人バーニス・カーモディの捜査陣を指揮するためにクイーン父子と別れた時には、町はもうたそがれていた。
ヴェリーが去ったあと、警視は静かな川を眺めたり、暮れかかる空を見上げたり、歩道を見つめたまま夢中になって鼻眼鏡をみがいているむすこに目をやった。
警視はため息をして「外気に当たるのはわしらには大変いいぞ」と、いかにも疲れたように「ともかく、濁った頭をさっぱりしたいもんだ……エラリー、歩いて帰ろう」
エラリーはうなずいて肩をならべ、ふたりはぶらぶらとドライヴの曲がり角の方へ歩いて行った。曲がり角で、東へ曲がり、ゆっくりとものを考えながら歩く足どりになった。ふたりは、どちらからも口を開こうともせずに、さらに一ブロック歩いた。
「本当に、やっとチャンスが来ましたよ」と、やがてエラリーが元気よく父親の腕をつかみながら「これで、今まで起こった多くの要因の全部を、ゆっくり考え合わせてみることができます。意味深長な要因、手ごたえのありそうな要因をね、お父さん。あまり多すぎて、|mal a la tete《マルアラテート》(頭が痛い)」
「本当かい」と、警視は意気銷沈して、しょんぼりと、肩をたれていた。
エラリーは父を鋭く見つめて、老人の腕をつかむ手に力をこめた。「さあ、お父さん。元気を出して。お父さんが、途方にくれているのは、近ごろ精神的に心配ごとが多いせいですよ。ぼくの頭は、このところ、いつになく、捜査からはなれていましたからね。すっきりしていて、今日のこの事件がさらけ出した、驚くべき根底の真相もつかめそうです。ひとつ、ゆっくり考えさせてください」
「それで、エラリー」
「この事件の最も有力な手がかり二つの中の一つは、死体が第五アヴェニューの陳列窓の中で発見されたことです」
警視がふんと鼻を鳴らして「わしは、お前があの仕事をやったやつがわかったとでも言うのかと思ったぞ」
「わかっています」
警視はどきんとして立ちどまり、あわてて信じられないという顔つきでエラリーを見つめた。
「エラリー、冗談だろう。どうしてわかる?」と、やっと、吐き出すように言った。
エラリーはまじめな顔で微笑した。「誤解しないでください。ぼくはフレンチ夫人を殺したやつを知っていると言っているんです。ぼくがそういうのは、いくつかの徴候が、信じられぬほどの一貫性をもって、一人物をさしているという意味なんです。証拠は何もありません。徴候の一貫性の裏にある意味も、ぼくには十分の一もわかっていません。動機も、犯罪の背後に必ずある下劣な真相も、ぼくは全く知らないのです。……したがって、ぼくが心に描いている人物は話さないことにします」
「そんなことだろう」と、警視がうなるように言い、ふたりは歩き出した。
「ところで、お父さん」と、エラリーはかすかに笑った。そして、デパートを出た時から、手放さずに持ち歩いていたフレンチ氏の書斎のテーブルの上の本をまとめた小さな包みを、しっかりと抱きしめた。「ぼくが犯人の名を言わないのには、ちゃんとした理由があるんです。第一に、ぼくが一連の偶然の一致によって、とんでもない見当ちがいをさせられていることも大いにありえますからね。そんな場合、もしだれかを非難して、あとで赤恥をかくようなことになると、なんとも|こけ《ヽヽ》な話ですからね……証拠を手にいれたら──そりゃあ、お父さんに、まず話しますよ……今のところ、説明のつかない、一見説明のつけようがない事柄がたくさんあるんです。たとえば、この本ですが……そうでしょ」
エラリーはしばらく何も言おうとせず、ふたりは通りを大股に歩いて行った。
「初めに」と、やがてエラリーが「フレンチ夫人の死体が陳列窓で見つかったことがいぶかしいと言いましたね。少なくとも、いぶかしいと言えますよ。われわれが直面したあらゆる理由から見て──つまり、出血の少ないこと、鍵の紛失、口紅棒と紅を塗りかけの唇、照明のない点、犯行現場としてはどうみても非常識な陳列窓。
フレンチ夫人があの陳列窓の中で殺されたものでないのは全く明白です。すると、どこで殺されたのか? 守衛の報告では、夫人は私室《アパート》に行くと言っていた。夫人がエレヴェーターに向かうのをオフラハティが見た時、夫人が持っていた私室《アパート》の鍵が紛失している──これらの事実は、ただちに私室《アパート》を調べるべきだということを示唆《しさ》しました。そこで、ぼくはすぐにそうしたわけです」
「つづけてみろ──そんなことは、みんなわかっとる」と、クイーン警視が、にがにがしく言った。
「辛抱してくださいよ、ディオゲネス〔ギリシアの哲人〕さん」と、エラリーはくすくす笑って「私室《アパート》の捜査でかなりはっきりと筋道がわかりました。フレンチ夫人があそこにいたことは疑う余地がありません。それに、カード、ブック・エンド、それにそれらのものが物語るもの……」
「それらのものが何を物語ったか、わしにはわからん」と、警視がにがにがしく「あの白い粉のことなのか」
「今のところ、そこまで行きませんよ。いいですか、さしあたりブック・エンドのことはしばらく忘れておいて、先へ行きましょう──ぼくが寝室の化粧台の上で見つけた口紅棒ですが、あれはフレンチ夫人のものです。あの色は、夫人の塗りかけの唇の色とぴったり合います。女というものは、何かおそろしく重大な妨害がないかぎり、唇を塗りかけでやめるものではありません。塗りかけで殺された。その可能性があります。たしかに、殺しにつながる出来事だったでしょう……まあこんなわけで、ぼくはフレンチ夫人があの私室《アパート》で殺されたものだという結論に達したのですが、それらの点は明日になれば、お父さんにも、もっと詳しくわかるだろうと思いますよ」
「わしは今お前と議論はせんつもりだ。お前のあげた理由は今のところはばかばかしいが、おそらく的を射とるだろうからな。だが、それから先は──もっと具体的なことを話してみろ」と、警視が言った。
「それには前提を置くことを認めてくださらなければ」と、エラリーが笑いながら「私室《アパート》の件は立派に証明してごらんにいれますよ。さしあたり、私室《アパート》が犯罪現場だと認めてください」
「認めることにしよう──しばらくの間」
「よろしい。私室《アパート》が殺人現場とすれば、陳列窓は現場ではないことになる。すると死体は私室《アパート》から陳列窓に運ばれて、壁ベッドに押し込まれたことになるのは明白です」
「その場合は、そうなるな」
「だが、なぜか、とぼくは自問してみました。なぜ死体を陳列窓に運んだのか。なぜ私室《アパート》に残しておかなかったのか」
「私室《アパート》が殺人現場だとさとられないためじゃないか。だが、それでは筋が通らん、なぜなら──」
「そうです。なぜなら、バンク遊びのトランプや口紅棒などフレンチ夫人が居たという痕跡を消そうと努力していないからです──だが、あの口紅棒が残っていたのは、見落としだろうと思いますがね。してみると、死体を運んだ理由は明らかに、私室《アパート》が殺人現場だと悟られないようにするためではなく、死体の|発見を遅らせる《ヽヽヽヽヽヽヽ》ためだったのです」
「話はわかるな」と、警視がつぶやいた。
「むろん、時間の要素もあります」と、エラリーが「犯人はあの陳列窓が、毎日、正午きっかりに開かれることを知っていたにちがいない。つまり、あの陳列窓は正午までは閉鎖されていて使用されないのです。ぼくは死体移動の理由を探していました。そして、死体が正午まで発見されないという事実に思い当たったとき、さっとその解答がひらめいたのです。つまり何らかの理由で、犯人は犯罪の発見を遅らせたかったのです」
「なぜだろうな……」
「むろん、そのわけは正確にはつかめませんが、発見を遅らせることが犯人の当面の目的には役だつためだろうとはいえますね。犯人が正午まで死体が発見されないように仕組んだのなら、犯人は午前中に何かしなければならないことがあって、死体が発見されればその妨げになると思ったのでしょう。わかるでしょう」
「なるほどな」と、警視は譲歩した。
「|Allon《アロン》──|Continuons《コンテイニユオン》(さあ──その先は)」と、エラリーが「ちょっと見には、犯人が犯罪の発見によって、仕とげられなくなる仕事を何かもっていたということは、かなり難問に見えます。しかしながら、われわれにはいくつかの事実がわかっています。たとえば、どうやって店にはいったにしろ、犯人は一晩じゅう、店にとどまっていなければならなかったという事実です。人目につかずに店にはいる方法は二つありますが、殺しをやってから人目につかずに出て行く方法はひとつもなかった。犯人は閉店後まで店のどこかに隠れていて、こっそりと私室《アパート》に忍びこむことはできたし、三十九丁目の開いている貨物口から忍びこむこともできたでしょう。しかし、使用人口を通って出ることは絶対にできなかったはずです。というのは、オフラハティが一晩じゅう、通る者をだれも見のがさない場所にがんばっていたのですからね。しかも、オフラハティはだれも見かけなかったと言っています。また、犯人は貨物口から出て行くはずはありません。なぜなら、あそこのドアは午後十一時半に錠を下ろされたのだし、フレンチ夫人は十一時四十五分まで来なかったのですからね。もし、犯人が貨物口から抜け出したのなら、殺しをやったはずはないということになります。それは明白でしょう。結局、貨物口は、女が殺される少なくとも三十分前に、しめきられたことになるんですからね。だから──犯人は一晩じゅう、店にもぐっていなければならなかったんです。
ところで、そうなると、犯人は少なくとも翌朝の九時までは逃げ出せなかったわけです。九時には開店でドアが開きます。そうすればだれでも早朝の客のようなふりをして出て行けますからね」
「なるほどな。すると、なぜ正午まで発見を防ぐために死体を陳列窓にかつぎこむような、ばかな真似をしたもんだろうな。一体なんのためなんだ」と、警視がきいた。「やつは九時に店を出られる。何かしなければならんことがあったとするなら、なぜその時しなかったんだ。その場合、しなくてはならないことは、九時の直後にできたはずだから、いつ死体が見つかろうとかまわんじゃないか」
「そのとおりです」と、エラリーの声が熱っぽくなった。「犯人が九時には自由に出て行けて、そのまま外にいるのなら、何も死体の発見を遅らせる理由はなかったでしょうよ」
「だが、エラリー」と、警視が抗議した。「やつは現に死体の発見を遅らせとるんだ。ひょっとすると──」と、警視の顔がかすかに明るんだ。
「まさにそうです」と、エラリーが平然として「もし犯人が何か店に関係のあるやつなら、店をあければそのことで目をつけられるし、少なくとも殺人が発見されたあとで、注意をひくことになるおそれがあるはずですよ。ところが、正午までは発見されないことがわかっている場所に死体を隠しておけば、犯人は、午前中に、いつか店を抜け出して、かたづけなければならない仕事をするチャンスを覗う暇があるということになりますからね。
むろん他にも事情があるでしょうが、犯人が私室《アパート》でフレンチ夫人を殺害してから、その死体を陳列窓に隠すことを、前から計算に入れていたかどうかは、大いに問題のあるところです。どうもぼくには、死体を移すことはそれほど前から計算されていなかったような気がしますね。その理由は、ふだんあの私室《アパート》には午前十時まではだれもはいらなかった。ウィーヴァーには自分の事務室があるし、フレンチ氏は十時までは出て来ませんからね。そこで犯人は最初、私室《アパート》で殺して死体はそのままにして置くつもりじゃなかったかと思います。つまり、九時に店を抜け出しても十時前にはゆっくり帰って来られますからね。死体が朝の忙しい仕事をすませたあとで発見されさえすれば、身に危険はふりかからなかったはずですよ。
ところが犯人はあの私室《アパート》に侵入した時か、殺害した後に、何かを見て、死体を陳列窓に移すことが絶対必要になったにちがいありません」と、エラリーは一息入れて「私室《アパート》の机の上には青い回覧状がのっていました。月曜日の午後からずっとのっていたので、それは、ウィーヴァーが月曜日の夕方店を出る時に机にのせておいたと証言しています。そして、火曜日の朝も、もとのままになっていました。だから、犯人はきっと、それを見たはずです。その回覧状には、ウィーヴァーが九時に出社すると書いてあったんですよ。なんの変てつもない重役会の召集状だったのですが、それを見て犯人はびっくり仰天したにちがいありません。だれかに九時に私室《アパート》に来られたら、犯人が絶対にかたづける必要がある仕事、その仕事が何かはさっぱりわかりませんが、ともかく、それをやってのける暇がないわけですからね。そこで死体を陳列窓に移すなんて細工をやってのけたんでしょうね。わかるでしょう」
「その証明には穴があるようだな」と、警視がぶつぶつ言ったが、その目は興味深げに輝いていた。
「今すぐしなければならない大事なことがひとつありますよ」と、エラリーが何か考えながら「犯人が何者であろうとも、やつは、昨日の午後から店に隠れて閉店時間を待っていたなんてことは、ありっこありません。なぜなら、この捜査に関係のある者、全員の出勤簿は、完全に調べあげてあります。全員の出退時間がわかっています。われわれが関心をもっている者はみんな五時半か、その前に店を出ています。ただ、ウィーヴァーと、書籍部のスプリンジャーだけは別です。しかしふたりとも出て行くのをまちがいなく見られていますから、残って犯罪を犯したものでないのは明らかです。関係があると思える連中の名を覚えていますか。ゾルン、マーチバンクス、ラヴェリーのような連中は出て行くのにいちいち記帳はしませんが、昨日の場合は、連中が店を出た時間と名とが書いてあります。みんなが退店したあとですから、犯人にとっては、店にはいりこめる通路は──三十九丁目の貨物口──しかなかったわけです。ともかく、犯人にとっては、そうするのが合理的だったのでしょう。あの夜のアリバイも立つし、十一時から十一時半の間に、貨物口から店に忍びこむ暇があったはずですからね」
「もう一度、みなの昨夜の行動を調べねばならんな」と、警視がうんざりしたように「ひと仕事だ」
「しかも、おそらく何も出てこないでしょうしね。しかし、絶対必要だとおもいますよ。できるだけ早くやるべきですね」と、エラリーは悲しそうにほほえんで「ところで、この事件には枝葉が多いですね」と、考えをわき道にそらせながら、いいわけじみた言い方をした。
「たとえばフレンチ夫人です──なぜ、店に来たんでしょう。問題ですよ。あの女が、上の私室《アパート》に行くと、オフラハティに言ったのは嘘じゃなかったでしょうかね。むろん、守衛はあの女がエレヴェーターに乗るのを見ていますし、六階に行ったことは、たしかな証拠があるのだから、まずまちがいのないところでしょうね。それに、ほかに行くところもないようですよ。陳列窓なんて、とんでもない。あの女はまっすぐに私室《アパート》に行ったと見てさしつかえないでしょうね」
「もしかすると、マリオン・フレンチのスカーフはその時陳列窓の中にあったので、夫人は何らかの理由で、それを取りに行ったのかもしれんな」と、警視が苦笑して言ってみた。
「そうですよ、お父さんだって」と、エラリーが言い返した。「マリオンのスカーフの件はぞうさなく説明できるもんじゃないと思ってるでしょう。たしかに、あの娘については、もっと何か不可解な点がありますがね……ここにひとつの問題点がありますよ。つまり、ウィニフレッド・フレンチ夫人は、店のあの私室《アパート》でだれかと会う約束があったんじゃありませんかね。事件全体が謎に包まれていることは認めるとしても──人気のなくなったデパートで、こっそり人と会うなんて──殺された夫人はどうしてもだれかと会わなければならない用件があって、来なければならなかったんだろうと考えざるをえませんね。すると、その場合、ウィニフレッドは、会う相手、つまりあとで自分を殺すことになったその相手が、変わった方法で店にはいって来ることを知っていたんでしょうか。それとも、相手も自分と同じように正規の夜間通用口を通って来るものと思っていたのでしょうか。明らかにそうじゃない、というのは、守衛のオフラハティにはほかの人のことは何もきいていない。もし、何か隠さなければならないことが何もないなら、相手のことを言ったでしょうからね。それなのに夫人は、用があって寄ったのだと、はっきり印象づけているんです。してみると、夫人は何か後ろ暗い仕事にまきこまれていて、その相手が人に見つからないように、こそこそと用心するにちがいないということを──はっきり知っていたか、うすうす知っていたことになります。
その相手がバーニスだったか、マリオンだったか。証拠品を見たかぎりでは、バーニスだったと信じる理由がありますね。バンク遊びや、バーニスのシガレット、バーニスの帽子と靴──ことに帽子と靴は意味深長で、大変気がかりです。一方また、バーニスの問題について、二、三の側面事情を検討してみましょう。
フレンチ夫人殺しの犯人が、夫人用の私室《アパート》の鍵を持ち去ったということには異論がないでしょう。この点でまず考えに浮かぶのは、バーニスで、あの娘はあの日の午後、自分用の鍵を持っていなかったのですからね──事実、その鍵を持っていたはずはない、というのは現に今日われわれはその鍵を自宅のバーニスの戸棚で見つけたんですものね。たしかに、昨夜バーニスが店にいたとすれば、夫人用の鍵を持っていったとみていいでしょうね。しかし、はたしてバーニスは店にいたのでしょうか。ここまでくれば、もう、あの幽霊は、おっぽり出してもいいと思いますね」と、エラリーがふざけるような口調で「バーニスは昨夜、フランス・デパートにはいなかったのです。むしろこの点に関しては、バーニスは母親殺しではないと言ったほうがいいようです。第一に、ふたりが熱中していたというバンク遊びがわざわざやりかけてあったこと、バーニス愛用のたばこの吸いがらがわざわざ残してあったことで、でっちあげなのがわかりますよ。麻薬中毒だったバーニスは、愛用の|La Duchesse《ラ・デュセス》 をいつも四分の一しか吸わないで、長い吸いがらを押しつぶすくせがあったのは、疑う余地もなく立証されています。ところが、私室《アパート》で発見した吸いがらは一本残らず、ていねいに口許まで吸ってありました。これはあまりにも不自然で、バーニスが吸ったものとは決めかねます。一、二本のたばこがそんな吸い方をされているというのなら話もわかりますが、十本以上も見つかったとなると、こりゃ、いただけませんよ、お父さん。バーニスがだれかの何かをかばいたてているのなら、むろん、最後にはその事実をつきとめてみせますが、そうでないなら、だれかが姿をくらました娘に罪をなすりつけるために、わざわざ吸いがらを残したものとみていいですね。次に、バーニスからホーテンス・アンダーヒルにかかったとみられる電話の件ですが、臭いですよ、お父さん──じつに眉つばものです。だめですね、バーニスがあんなばかげた鍵の忘れ方をするものですか。危険を冒して電話をかけたり、使いの者を送ってでも、是が非でもバーニスの鍵がほしかった人間がほかにいたんですよ」
「すると、あの靴も──あの帽子も」と、エラリーをまじまじと見つめながら、警視がふとつぶやいた。
「そうですとも」と、エラリーが力強く「さっき言ったとおり、意味深長で警戒すべきものですね。もしバーニスが陰謀にひっかかり、犯罪現場から、殺人の日にバーニスが身につけていた靴と帽子が出て来たとすれば──とりも直さず、バーニス自身が災難にあったとみていいですね。あの娘も被害者にちがいありませんよ、お父さん。生死のほどはわかりませんがね。その点は、今度の事件の裏にある本筋しだいです。しかし、この推理がバーニスの失踪と、その母親殺しとを、密接に結びつけることはたしかです。ところで、なぜあの娘も一緒にかたづけなければならなかったのでしょう。おそらく、バーニスが生き残れば、情報源になるおそれが多分にあったのでしょうよ──少なくとも殺人犯人にとってはね」
「エラリー」と、警視が大声で、興奮にふるえながら「フレンチ夫人殺し──バーニスの誘拐──しかも、あの娘は麻薬中毒とくると……」
「驚くにはあたりませんね、お父さん」と、エラリーがもの静かに「お父さんはいつも鼻がききますからね……そうです、ぼくもそうみているんです。バーニスは父の邸から、喜び勇んで出て行ったと言いますね。あれは、おそらく、|切れた麻薬の補給《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》に出かけた──と見ていいですね。
おそらくそうでしょうが、もしそうなら、この事件全体を覆いかくし、こみいらせている操り手は──麻薬密売者どもということになりますね。われわれは、麻薬取締りなんてつまらない仕事にはまりこんだような気がしますよ」
「つまらんどころじゃないぞ」と、クイーン警視がどなった。「エラリー、事件がだんだんはっきりしてきたな。しかも、麻薬密売の増加で、世間が騒がしくなっている時だ──もし、わしらがその大仕掛けな仕事をやっとる一味をあばき──親玉をあげてみろ──エラリー、こりゃ大手柄だぞ。事件の裏の真相を話してやるときのフィオレリの顔が見ものだぞ」
「まあ、そう興奮しすぎないほうがいいですよ、お父さん」と、エラリーが悲観的に「大仕事かもしれませんよ。ともかく、今の段階では、まだほんの憶測にすぎませんからね。あまり期待して、うちょうてんになっちゃいけませんよ。
ところで、今度の犯罪地図をもっと正確に位置づけるのに役だつ証拠物件が、まだひとつあります」
「本立てだな」と、クイーン警視が自信なさそうにきいた。
「むろん、これもまだほんの推測にすぎませんが、ぼくは首をかけてもいい、結局はそれから真相がつかめると信じますね。結論がいろいろな条件にぴたりと合うところからみて、ぼくの推定の確率は圧倒的に高いと思いますよ……
ウェストリー・ウィーヴァーは、あの|めのう《ヽヽヽ》のブック・エンドはジョン・グレーがフレンチに贈ってから、修繕に出したことも、書斎から持ち出したこともないと、はっきり保証しています。調べてみると、あの二つの本立ては、底、つまり底の面に貼ってある緑色のフェルトまたはらしゃの色がひどく違っていました。ウィーヴァーも変だと言っています。なぜでしょうか。あの緑色が違っているのに、はじめて気づいたからです。しかも、ウィーヴァーはあの二つの本立てをもう何か月も見ているんですよ。新しいうちは、あのフェルトの色はたしかに同じだったと言っています。二つともそっくり同じだったはすですからね。
実際問題としては、いつから薄い色のフェルトになったのかを正確にたしかめる方法はありませんが、ひとつだけ確かなことがあります」と、言って、エラリーは考えこむように足許を見つめた。
「ブック・エンドの、色の薄いフェルトは最近貼られたものです。絶対にまちがいありません。にかわは、かなりきいて、もう硬くなっていますが、一種の粘着力と、妙な弾力をもっているので、そのことが、すぐわかりました。それに、にかわの筋に白い粉粒がついていました──そうです、たしかな証拠です。犯人は昨夜、あのブック・エンドをいじったのです。もし指紋検出粉を使ったという事実がなければ、おそらく、フレンチ夫人に嫌疑をかけたかもしれませんよ。しかしこの仕事は、お父さんのいう[超犯罪者]のしわざで、あくまでも中年の社交夫人の仕事じゃありませんね」と、エラリーは微笑した。
「ブック・エンドとこの犯罪をもっと結びつけてみましょう」と、エラリーは、ちょっと黙りこみ、目を細めて前方を眺めた。老人は移り変わる町の景色を見ながら、足どりも重くむすこのそばを歩いていた。
「犯罪現場にはいって、いろいろ変わったものを見つけましたね。カード、口紅棒、シガレット、靴、帽子、ブック・エンド──みんな風変わりで普通とは言えないものです。ブック・エンドを除いて、その材料をすぐ犯罪に結びつけてみました。ところが、可能性という点からみて──なぜブック・エンドだけが結びつかないのか。ぼくは既知の事実と釣り合いのとれたすばらしい仮定を立てることができました。たとえば、指紋用の粉です。犯罪にはつきものです。しかも犯罪が行なわれている。その粉が新しく貼りつけられたフェルトにくっついていて、妙なことに、そのフェルトはもうひとつのと色合いが違っている。二つのフェルトの色合いが最初から違っていたかもしれないが、それじゃあ、どう見てもたしかに理屈に合わない。あんな高価な特別製の対のブック・エンドで、そんなことはありようがないでしょう。それに、あの色合いの違いは今まで全然気づかれなかったものですからね……そうです、あらゆる可能性という点からみて、昨夜だれかが、あの片方の元のフェルトをはいで、新しいフェルトを貼りつけ、ブック・エンドについたかもしれない指紋を検出するために指紋粉をまき、指紋を消した時に、はからずも新しい貼り目に、わずかばかり粉が残ったものと結論せざるをえませんね」
「その証明は納得がいくな」と、警視が「それから?」
「|Alors《アロール》!(そこで)ぼくはブック・エンドを調べました。二つとも硬性めのうです。そのうえ、ただひとつ作りの変わったところは、一方の元のフェルトがはがされているだけでした。そこで、ブック・エンドは、中に何かを隠すためか、中から何かを取り出すために手を加えられたものではないかとみました。ところが、内側などはないのです。全部表面だけなのです。
このことを心において、自問してみました。ものを隠したり取り出したりした痕跡を消すのでないなら、手を加える理由が何かほかにあったんじゃなかろうか。つまり、その点に犯罪の実体がある。この犯罪とブック・エンドをひとつに結びつけることができないものか、とね。
それが、できたんです。なぜ元のフェルトをはがして別のと取りかえなければならなかったのか。|それはフェルトに何かがおこって《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|そのまま残しておくと《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|犯罪の痕跡がばれる《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》からです。犯人に最も必要だったのは、朝のうちに重要な仕事をすますまで、殺人の事実をだれにも知れないようにしておくことだったのを、覚えておいてください。それに犯人は書斎は朝の九時には人がはいるし、ブック・エンドが変になっていればおそらく人々の目を引くだろうということを知っていたのです」
「血だな」と、警視が叫んだ。
「図星です」と、エラリーが答えた。「おそらく血痕よりほかにはないでしょうね。何かすぐに疑問をもたれる性質のものだったにちがいありません。さもなければ、犯人はあんなに手数はかけなかったでしょうからね。もうひとつ、カードがありますが──、死体を発見されると心配するなら、カードだけで殺人を暗示するということもないし、不正が行なわれたとさえ疑う者はないでしょう。しかし血となると、暴力の目印しですからね。
そこでぼくは、何かのはずみでフェルトに血がしみこんだので犯人はフェルトを取り換え、その危険きわまる密告者をしまつしなければならなかったのだろうと推定しました」
ふたりはかなり長い間、黙って歩いた。警視はあれこれと考えめぐらせていた。やがて、エラリーが、またしゃべりはじめた。
「お父さん」と、エラリーが「ぼくは今まで、かなりの速度で、この犯罪の物理的要素をもう一度組み立ててみました。そして、血のしみこんだフェルトという結論まで逆もどりしたとき、すぐに思いついたのは、いまひとつの、うまく結びつかない事実です……プラウティ先生が死体に血が少ないことを不思議がっていたのを覚えているでしょう。あの場での推測では、犯人がどこかほかで殺したのだろうということでしたね。これで、欠けていた環が見つかったわけです」
「そうだ、そうだ」と、警視がつぶやきながら、ぶるぶるふるえる手で、かぎたばこ入れを取り出した。
「あのブック・エンドは」と、エラリーが早口に「血痕がついていたということにならないかぎり、この犯罪ではなんの価値もないのは明白です。むろん、血痕がついてから次々に起こったことは、論理的発展の筋道どおりで──フェルトを取りかえる、ブック・エンドに手をかける、手をかけたためについた指紋を消すために指紋粉を使う……
そこで、ぼくは、あれに血痕がついたのは偶然の出来事だったにちがいないと思うんです。ブック・エンドは机の敷ガラスの上に、立っていたのです。それに、どうして血がついたのでしょう。血のつく可能性は二つあります。第一は兇器に使われた。だが、このほうは弁護の余地なしです。というのは、傷口は拳銃で射たれたもので、ブック・エンドで、殴ってつけたような打撲傷の痕跡はどこにもありませんでした。すると、残る唯一の可能性は、思いがけず血がついたということになります。どうして、そんなことになったのでしょう。
簡単です。あれは机の敷ガラスの上にあったんですよ。その底部に血がたどりついてはっきりしみこむ唯一の方法は、ガラスの板の上を血が流れていって、フェルトにしみこんだにちがいないのです。だが、このことから、どんなことがわかるでしょうかね」
「フレンチ夫人は机に向かって坐っとるところを撃たれたんだ」と、老人が陰気に言った。「心臓の下をやられた。椅子に崩れてから、もう一発、心臓のまん中をぶち抜かれた。崩れる前に、最初の傷口から、血がほとばしったんだ。二番日の傷からの血は、夫人が机にうつぷせになってから、したたって、フェルトにしみこんだのだ」
「まさにご明答」と、エラリーがほほえんで「プラウティ先生が、プレコルディアル部の傷は特にどっさり出血すると言ったのを覚えているでしょう。おそらく、そのとおりだったのでしょう……さて、いまや犯罪の再組立てを一歩すすめることができますよ。フレンチ夫人が机に向かって坐っていて心臓を撃たれたとすれば、当然、加害者は夫人と向き合って机ごしに撃ったことになります。夫人の着衣に火薬の痕跡がないから、数フィート離れていたのでしょう。われわれは、死体にはいった弾の角度を調べれば、ほぼ犯人の身長を推定できます。だが、これはあまり信頼できません。というのは、正確に弾がどのくらいとんだかを決める方法がない、言いかえれば犯人が発砲したときに、夫人と、どのくらい離れていたかがわからないからです。それに一インチの違いが、犯人の身長の計算を、いちじるしく狂わせてしまいますからね。お父さんのところの銃器専門家ケニス・ノールズに扱わせてごらんなさい、だが大して効果があるとは思いませんね」
「わしもそう思う」と、警視がため息をして「それにしても、この犯罪を、こうまではっきりさせることができて、よかったな。みんなうまくつながっとるぞ、エラリー──なかなかみごとな推理だ。すぐ、ノールズを仕事にかからせる。ほかに何かないか、エル」
エラリーは、かなり長い間、何も言わなかった。ふたりは西八十七番街に曲がっていった。半ブロックほど先に、ふたりが住んでいる褐石づくりの古い家があった。ふたりは足を早めた。
「お父さん」と、エラリーは上の空で「あれこれと理由があって、まだ突っ込んでない問題がたくさんあるんですよ。手がかりは全部はっきり見えているんです。しかしながら、それらを賢明にまとめあげることが必要なんです。おそらく、今の場合、それらを組み合わせる頭脳的能力をもっているのは、お父さんひとりでしょうよ。ほかの連中は……それにしても、お父さんは気苦労で、いつになく頭が鈍っているようですね」と、エラリーは住まいの褐石の石段にさしかかった時、にっこり笑った。
「お父さん」と、エラリーは一番下の段に片足をかけて「今度の捜査の一段階でぼくは途方にくれているんです。それはつまり」と、腕に抱えている本を軽くたたきながら「フレンチの机から持って来たこの五冊の本ですがね。この殺人事件と何か関係があると思うのもばかげていますが──しかし、こいつの秘密をあばき出せば事件の解明には非常に役にたつだろうなんてことを考えているんですよ」
「考え過ぎて、少しぼけたんじゃないか」と警視がうなるように言いながら、息をきらせて階段を登った。
「とはおっしゃいますがね」と、エラリーは古風な彫りのあるドアの錠に鍵をさしこみながら「今夜は、ひとつ、こいつを、とっくり分析してみることにしますよ」
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第四話
東洋の警察は、西洋の警察よりも、犯人のアリバイというものを重視しない。……われわれは、いかにねじまげられた奸計《かんけい》というものがありうるかということばかりを知りすぎているので……巧妙にごまかされた話の化けの皮をはぐより、むしろ感情と本能を調べあげるという手をとる。この点は、東西両人種の心理の違いによって、たしかに説明しうる。……東洋人が西洋人より疑い深いのはまぎれもない事実であり、表面的なことより根底的なものを問題とする。……西洋世界ではうまくやった悪党どもに拍手を送り、バンザイ!と叫ぶ傾向があるが、東洋では、悪党どもの耳をそぎ、軽犯はさらし者、重犯は死罪にする──しかし常に刑罰を受けるのはこの上もない恥辱だということを(この点はおそらく日本人の真の明敏さによるのであろうが)実例によって教える精神を忘れないのである。
[#地付き]――タマカ・ヒエロ著『千葉集』英訳版序文
二十五 本の虫、エラリー
クイーン家の古巣は、西八十七番街の古ぼけた褐石づくりの家だった、こんな一世紀も前に亡びてしまったような飾りっけのない木造の家に住んでいるのは、むすこの影響が父親に強く及ぼしている証拠で、エラリーの古本集め、生《なま》っかじりのこっとう趣味、尚古《しょうこ》趣味が、当然現代風の快適な生活をしたがるエラリーの気持ちを圧えつけて、[ほこりっぽくてかび臭い]という、父警視のぼやきに、頑《がん》として立ちふさがっているというわけなのである。
そこで、諸君も見当がつくだろうが、クイーン父子はだだっ広い古家のてっぺんに住み、さびのついた樫《かし》のドアに(これだけが便宜主義への唯一の譲歩)──[クイーン寓]と標札をかかげ、ジプシー系のジューナに取り次がれて中にはいると、つんと鼻をつくのは古い皮と男世帯の匂いというざまである。
控えの間には大きな壁かけがたれ下がっている(これは某公爵の贈りもので、警視が事件を内済にしてやったお礼だ)。その部屋はゴシック趣味で、これまたエラリーの考えから、警視が競売場で買おうとする近代家具などよせつけないのである。
それに居間兼書斎ときたら、本だらけで、本の山だ。樫の梁《はり》を渡した天井──広い樫の戸棚と、古めかしい鉄枠をはめこんだ大きな素朴な暖炉──その上にはニュルンベルクのサーベルがいかめしく十文字にかけてある──古いランプ、真鍮細工《しんちゅうざいく》、どっしりした家具類、椅子、長椅子、足台、革のクッション、灰皿──いかにものん気なひとり者の天国といった調子である。
居間の先の寝室は、簡素で気持ちがよさそうないこいの場である。
全体の采配《さいはい》をふるっているのは陽気なちびのジューナで、エラリーが大学へ留学中、淋しかったクイーン警視が養子にした孤児である。
ジューナの世界は、愛護者とその住居の中に限られていて、ボーイ、コック、家政婦、ときには話し相手にもなるのである……
五月二十五日水曜日の午前九時──ウィニフレッド・フレンチ夫人の死体がフランス・デパートで発見された次の日──ジューナは居間でおそい朝食のテーブルをととのえていた。いつになくエラリーの姿は部屋に見えなかった。警視は、お気に入りの椅子に、ぶすっとした顔で腰かけ、ジューナの褐色の手が見えかくれするのを眺めていた。
電話が鳴り、ジューナが受話器をとった。
「あなたですよ、おやじさん」と、ジューナが、もったいぶって「地方検事さんから」
警視はのそのそと電話へ歩いて行った。
「もしもし、ヘンリーさん……え、まあ、少しははかどってます。エラリーが何か嗅ぎつけたようだ。実はせがれがそう言うんで……何? ……うん、わしに関する限り、まるっきり見当もつかん。ぴんからきりまでさっぱりさ。──まあ、なんとでもお世辞をいうさ。わしはありのままを話しとるんだ……情勢はざっと、こうさ」
警視はかなり長く、興奮したり絶望したりしながらしゃべっていた。地方検事へンリー・サンプスンは耳を傾けているらしい。
「目下情勢は」と、警視が話を結びながら「そんなとこだ。どうやら、エラリーが、お得意の手品にとりかかるらしい。昨夜も夜中まで起きていて、あのろくでもない本ととっ組んでいたようだ。……うん、いいとも、君との連絡は保つよ。そのことで、じきに君を必要とするかもしれない。エラリーは時々奇跡を演じるからな、わしは来年の給料をかけてもいいんだが──おお、いいかげんに自分の仕事にもどりたまえ、そうほじくりまわさんで」
警視は受話器をかけると、おりから、あくびをしいしい、片手ではネクタイをひねくりまわし、片手では部屋着の前を合わせようとやっきになりながら部屋に出て来たエラリーを迎えた。
「なんと!」と、警視はうなって、どっかと椅子に腰をおろした。「何時に寝たんだ、エル」
エラリーは器用に二つの作業をかたづけると、椅子にすべりこんで、ジューナの脇腹をそっとつついた。
「お小言はあとまわし」と、トーストに手をのばしながら「ごはんは済んだんですか。まだ? 不精者を待ってたんですか。お父さんもこのすばらしいコーヒーをご馳走になるんですね──話は食べながらでもできますよ」
「何時なんだ」と、警視がテーブルにつきながら、手きびしく、くりかえした。
「世間なみに言えば」と、エラリーがコーヒーを一口のんで「三時二十分でしたよ、朝の」
老人の目がなごんだ。「そんなまねするんじゃないぞ」と、パーコレーターに手をのばしながら、ぶつぶつと「身《からだ》に毒だ」
「ごもっとも」と、エラリーはコップをあけて「多忙でございましてな……今朝、何か情報がありましたか」
「大して意味もないことばかりだ」と、警視が「七時から電話にかかりきりだった。……サム・プラウティの解剖の予備報告をきいた。昨日話したことのほかには、麻薬中毒や常用の症状はひとつもないと言ってきただけだ。あの夫人はたしかに[麻薬常習]じゃなかった」
「おもしろいですね、必ずしも役にたたない情報じゃありませんよ」と、エラリーが微笑して「ほかに何か?」
「火器係のノールズの報告も、漠然としておって、とりたてて言うほどのものでもないな。弾がからだにとどくまで、どのくらい飛んだか、その距離を正確にフィートで測れんというのだ。発射角度は簡単にきめられるが、あの男の計算では犯人は身長五フィートから六フィートならどれでもいいそうだ。それじゃ大して役にたたんだろう」
「そうですね。そんな証拠じゃ、だれひとり断罪できませんよ。だが、ノールズを責める気にもなれません。そういうことはほとんど確定できませんからね。ところで、昨日店を休んでいた連中のほうは?」
警視がしかめ面をした。「部下のひとりが、マッケンジーと一緒に昨夜一晩かかって調べあげた。今がた、マッケンジーから電話があったばかりだ。全員説明がつくそうで、説明がつかん者や不審な者は、ひとりもおらん。それに、カーモディという娘のほうは、かわいそうにトマスが昨夜一晩じゅう糸をたぐってみたそうだ。隣近所をしらみつぶしに調べ、失踪人捜査課も動員した。麻薬の件を耳うちしてやったものだから、麻薬捜査班も、わかってるたまり場をかたっぱしから調べあげたんだが、お手上げだ。影も形もないんだ」
「あっさり消えてなくなったわけですね……」と、エラリーが眉をしかめて、コーヒーをもう一杯ついだ。「実のところ、あの娘が心配ですよ。昨日も言ったとおり、どう見てもかたづけられているようでね。かたづけられていなければ、きっと、どこか遠い隠れ場所に、厳重に監禁されているんでしょうね。ぼくが犯人なら、あの娘も被害者のリストに入れるでしょうよ。……生きているチャンスはまずありませんよ、お父さん。ヴェリーはえらく骨を折らなければなりますまいよ」
「トマスのことなんぞ気にするな」と、警視が重い口で「あの娘が生きていれば、間に合ううちに見つけ出すさ。死んでいれば──そうだな。トマスは全力をつくすさ」
電話がまた鳴った。警視が出た。
「そう、クイーン警視だが……」がらりと調子が変わって、四角張った。「お早うございます、長官。ご用は何でしょうか。……はい、長官、うまくいっております。多くの糸口をつかんで、まとめておりますが、なにぶんにも死体を発見してからまだ二十四時間も経ちませんので。……いいえ、そりゃあフレンチ氏はこの事件で少々逆上されておりまして。ごく穏やかに調べましたから──その点ご心配はいらないと思います、長官。……はい、存じております。事情の許すかぎり、あの方には気軽にしてさしあげるつもりでおります。……いいえ、長官。ラヴェリーは絶対に非難の余地がない徳望をもっています。それに、もちろん外国人ですし……なんですって? そんなことは絶対にございません。……マリオン・フレンチ嬢のスカーフについては完全に無理のない説明がついております。長官、実は私もそう信じております。……解決が早いかですって? それよりもずっと早いだろうと思います、長官。……はい、長官、わかりました。ありがとうございました、長官。たえず連絡いたします」と、電話をきった。
「あいつは全く」と、警視は丁寧に受話器をかけて、鉛色をした顔をエラリーに向け、声を殺して「からっぽ頭の、特別腑抜けの見本みたいな男だよ。実にほらふきのあほう鳥だ。この市はおろか、どこへ行ってもちょっとお目にかかれん警察長官だよ」
エラリーがげらげら笑った。「自制しないと、いまに口から泡を吹くことになりますよ。ウエルズ長官に腹をたてているのを見るたびに、あの賢明なドイツの諺を思い出しますね。[役職にある者は、非難攻撃に耐えることを覚えるべし]」
「ところが、わしはウエルズからやさしい言葉をたまわったんだ」と、警視は、おだやかな声で「どうやらフレンチ事件で肝をつぶしとるらしい。フレンチはあの役にたたん古くさい社会改善論者に、大きな権力をふるっとるので、ウエルズのやつ、万全を期しとるんだな。わしが電話で、長官を慰めるために口から出まかせの嘘っぱちをしゃべるのを聞いとったろう。ときには、わしはまるっきり自尊心を失っちまうらしいぞ」
しかし、エラリーは返事もせずに、突然、もの思いにふけりはじめた。その目は、フレンチの机からもってきて、そばのサイドテーブルにのせてある五冊の本をじっと睨んでいた。そして、ぶつぶつとよく聞きとれぬ同情の言葉を父にかけながら、立ってテーブルに歩みより、さも大事そうに本をいじりはじめた。老人の目がけわしくなった。
「それがどうかしたのか」と、警視が「本から何かわかったかな」と、いぶかしげに椅子を立った。
「ええ、わかったようですよ」と、エラリーがゆっくりと言い、五冊の本を取り上げて、食卓に持って来た。「かけてくださいよ、お父さん。昨夜の夜なべも全く無駄じゃありませんでしたよ」
ふたりは坐った。警視は好奇心で目をかがやかせ、手当たりしだいに本の一冊を取り上げて、なんとなくページをめくってみた。エラリーは父を見守っていた。
「どうでしょう、お父さん」と、エラリーが「あなたがこの五冊の本を取り上げて、次々に調べてみるとします。すると、こんな情況になりますね。五冊の本があるが、考えなくてはならない唯一の事実は、これがある一人の人物のものとしては妙な取り合わせだということです。それから、なぜこの五冊の本があの場所にあったのかということを説明する理由を探しはじめます。さあ、やってごらんなさい」
エラリーはたばこをつけて椅子によりかかり、板張りの天井に向かって煙を吐いた。警視は本をつかんで、けんめいに調べはじめた。一冊がすむと次をとり上げる、そんなふうにして五冊全部調べ終わった。額のしわが深まり、やがて、さも不思議そうな目をエラリーに向けた。
「畜生、この本には何も目ぼしいものはないじゃないか。エラリー。それに、みんなに共通するような点もさっぱり見当たらんな」
エラリーが、にっこりして、あわただしく居ずまいを直した。そして注意をひくために、長い人差指で本をポンポンはじきながら「それがまさに特徴といえる点なんですよ」と、エラリーが「共通点がさっぱり見当たらない。事実、ひとつの些細なつながりを除けば、共通点は全然ないんです」
「ちんぷんかんぷんだぞ」と、警視が「はっきり言ってみろ」
返事するために、エラリーは立って寝室に姿を消した。そして、すぐにまた姿をあらわした時には、細長い紙を持っていた。それは、走り書きの字が、いっぱい乱雑に書きちらしてある覚え書きだった。
「これは」と、エラリーはテーブルにもどって腰を下ろしながら「五人の著者の頭脳のせがれの幽霊どもと、昨夜とっくり話し合った結果なんですよ。……まあお聞きください、クイーン父さん……
本の著者と題名は次のとおり──分析をはっきりさせるために言うだけですが──ユーゴー・ソルズベリーの『切手収集の最近の発展』、スタニ・ウェジョフスキーの『十四世紀の貿易と商業』、ラモン・フレイバーグの『子供のための音楽史』、ジョン・モリソンの『古生物学概論』、そして最後に、A・I・スロックモートンの『ナンセンス傑作集』です。
この五冊を分析してみましょう。
第一に、題名は互いに全く無関係です。この事実からして、本の主題が捜査と関係があるという考えは、はずしてよいことになります。
第二に、共通性のないことは、その他多くの小さな点でも認められます。たとえば、全部、表紙の色が違っています。実際は、青いのが二冊ありますが、その色合いは本質的に違う青なのです。判《はん》もそれぞれ違っていて、三冊は大判ですが、その大きさはそれぞれまちまちです。他の一冊はポケット判、最後の一冊は普通判です。装丁も違っていて、三冊はクロースですが、きめが違います。中の一冊はデラックス版で皮だし、他の一冊は麻布とじです。中の紙質も違っていて、二冊は薄い灰色をおびたインディアン紙、他の三冊は白い紙が使われています。その白い紙は、一見して、斤量《きんりょう》が違うのがわかります。活字の型も、いま試験中ですが、そんな技術面にあまり知識のないぼくにも、それぞれ本質的に違うのがわかります。ページ数もまちまちで──その数を実際に当たってみて何も割り出せないし、無意味です。……値段まで違っていて、皮表紙の本が十ドル、他の二冊が五十ドル、四冊目のが三ドル五十セント、ポケット判が一ドル半といったぐあいだし、出版社もちがいます。発行日も版数も違っています……」
「だが、エラリー──むろん──そんなことはわかりきっとる……」と、警視が、さえぎって「それから、どんな結論を引き出そうとしとるんだ?」
「分析においては」と、エラリーが、やりかえした。「どんな些細なものでも見のがしてはなりませんよ。それらのことは、なんの意味もないかもしれませんが、また大きな意味があるかもしれないのです。どちらにしろ、以上言ったことが、この五冊の本の決定的な事実なのです。その事実はなんの意味も示さないとしても、五冊の本が事実上、あらゆる点からみて、物理的に違っていることを示すのは確かです。
第三に──これが興味ある進展の手始めですが──裏の見返しの右手の上の隅──くりかえしますよ──裏の見返しの右手の上の隅に──硬い鉛筆で日付が書きこんであります」
「日付だって」と、警視は手早くテーブルから一冊取り上げて裏の見返しをひらいてみた。あった、右手の上の隅に鉛筆で小さく日付がしてあった。他の四冊も調べてみると、ぴたりと同じ場所に同じような鉛筆書きの日付があった。
「この日付を」と、エラリーはおちついて「日付順に並べてみると、次のようになります。
4/13/19─
4/21/19─
4/29/19─
5/7/19─
5/16/19─
これらの日付を暦に照らしあわせてみてわかりましたが、並べた順序に、水、木、金、土、月となるのです」
「おもしろいな」と、警視がつぶやいて「なぜ、日曜日が抜けとるのかな」
「小さいが価値のある点ですね」と、エラリーが「頭の四つの場合は、一週間おいて、曜日が順ぐりになっています。最後の一つの場合は一日──日曜日を──とばしています。これは日付をつけた人間が見落したものとも思えないし、本が一冊抜けていることもありえません。というのは、初めの四つの日付の間の日数は八日で、五つ目はそれが九日に増えているだけですからね。すると、日曜日は一般に数に入れない──仕事を休む日──という理由から、はぶかれたにちがいありません。どんな仕事なのか、今のところ説明できませんがね。しかし、日曜日をはぶくという変則は、どんな仕事の社会にも見受けられる筋の通った変則としていいでしょう」
「よくわかる」と、警視がうなずいた。
「よろしい、では第四の点に移ります。非常に興味ある点ですよ。お父さん、五冊の本を取って日付順に題名を読んでごらんなさい」
老人はうなずいて「スタニ・ウェジョフスキー著『十四世紀の貿易と商業』次は──」
「ちょっと」と、エラリーがとめて「本の裏の見返しの日付は?」
「四月十三日だ」
「四月十三日は何曜日ですか」
「水曜日だ」
エラリーはほこらしげな顔を輝かせて「そらね」と大声で「その関係がわかったでしょう」
警視はちょっと八の字をよせて「わからんな……二冊目は、A・I・スロックモートン著『ナンセンス傑作集』」
「日付と曜日は」
「木曜日、四月二十一日だ……次は、ラモン・フレイバーグ著『子供のための音楽史』──金曜日、四月……──そうか、エラリー、金曜日、四月二十九日だ」
「そうですよ。次は」と、エラリーが満足そうにうなずいた。
警視はさっさとかたづけた。「ユーゴー・ソルズベリー著『切手収集の最近の発展』──こいつは土曜日、五月七日だ……最後のやつは、ジョン・モリソン著『古生物学概論』むろん、月曜日だ……エラリー、こりゃじつにおどろいたな。全部、日付の曜日と、著者の名の頭の二字が組み合っとる」
「そいつが昨夜の夜なべのめぼしい成果なんですよ」とエラリーが微笑した。「ちょっとしたもんでしょう、ウェジョフスキーと水曜日《ウェンズディ》、スロックモートンと木曜日《サースディ》、フレイバーグと金曜日《フライディ》、ソルズベリーと土曜日《サタディ》、モリスンが月曜日《マンディ》で、日曜日は気をきかせてお休みとくる。これが偶燃の一致でしょうかね。とんでもない、お父さん」
「なるほど、こいつはとてつもないわるさだぞ、エル」と、警視が急に、にやりとして「これが殺しに関係があるものとは思えんが、しかし、非常に興味があることだな。暗号だな、こいつは!」
「殺しで苦労しているなら」と、エラリーがやりかえした。「第五の点をよく聞いてください。……ともかく、日付は五つわかっています。四月十三日、四月二十一日、四月二十九日、五月七日、五月十六日。屁理屈として、六冊目の本がどこかにかくされていると仮定してみましょう。すると、確率からいって、もし六冊目があるとすれば、五月十六日の月曜日から八日目の日付がついているはずですね、その日は──」
警視がとび上がった。「うーむ、こりや大事だぞ、エル」と、大声で「火曜日、五月二十四日だ──その日は……」警視の声が、妙にしょげてひっそりした。「だめだ、殺しの日じゃない。殺しのあくる日だ」
「ねえ、お父さん」と、エラリーが笑い出オて「ちっぽけなことだからって、そんなにさっさとかたづけるもんじゃないですよ。おっしゃるとおり、大ごとなんですよ。もし六冊目の本があるとすれば、五月二十四日の日付がついているはずです。さしあたり、どうしようもないとしても、六冊目の本があるということは堆定できます。当然そう続くはずでしょう。ものごとは、単なる偶然で、そうたびたび起こるものじゃありませんよ……その問題の六冊目の本が、ここにある本と犯罪とを決定的に結びつけるものです。……お父さん、五月二十四日、火曜日の朝に、この犯人は何かをしなければならなかったのだとは、思いつきませんか」
警視が目をむいて「すると、その本は──」
「いろいろ考えてみましたよ」と、エラリーは、ゆっくり立って細い体でのびをした。「どう考えてもたしかに六冊目の本はありそうですね、それに、六冊目の本の手がかりが、ひとつだけありますよ……」
「著者の名の頭がTuで始まるんだな」と、すぐ警視が言った。
「そうです」と、エラリーは、まちまちの本をかき集めて大きな机の抽き出しに丁寧に納めた。それからテーブルにもどって来て、ぼんやり考えながら、小さなピンク色のはげがちらばっている父親の白髪頭を見下ろしていた。
「一晩じゅうぼくが考えていたのは」と、エラリーが「よろこんで──この欠けている情報を提供してくれる人間が──ただひとりいるということです。……お父さん、この暗号のついた本の裏には曰《いわ》くがありますよ。そいつは疑いもなく今度の犯罪に結びつきます。自信がありますよ、なんならピエトロの夕飯を賭けてもいい」
「お前とは、賭けなんかするものか、とんまめ!」と、警視は目をしばだたきながら低い声で「で、その情報を知っとるやつは?」
「ウェストリー・ウィーヴァーです」と、エラリーが「すっかり知ってはいないかもしれませんが、おそらく、あの男にとっては無意味だが、われわれにとってはこの謎を解く手がかりになるような情報を、隠していると思いますね。何かの理由でわざとその情報を隠しているのなら、その理由はマリオン・フレンチに関係があるものでしょうね。かわいそうに、ウェスは、マリオンが今度の事件で泥沼にはまりこんでいると思っているらしい。そのとおりかもしれないし、──そうでないかもしれない。それはだれにもわかりませんよ。ともかく、今度の捜査にあたって、全面的に信頼できる者があるとすれば、ウェストリーだけです。あの男は少々鈍いけれど、まともなやつです……ぜひ、ウェストリーと話してみたいんです。ここに呼んで、談合に加わらせたら大《ヽ》いに役にたつでしょうよ」
エラリーは受話器をとって、フランス・デパートの番号を告げた。通話を待っているエラリーを、警視は半信半疑で見ていた。
「ウェスかい。エラリー・クイーンだよ……すぐ車にとび乗って、家へ来てもらいたいんだ。三十分ぐらいでいいんだ。重要な用件だよ……そう、仕事を放って、かけつけたまえ」
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二十六 バーニスを追う
警視は、じりじりして、せかせかと室内を歩きまわった。エラリーは寝室で身じまいをすませ、父親が、時々、不運を呪《のろ》ったり、犯罪や警察長官をぐちったりするのを、おちつきはらって聞いていた。ジューナはいつものように黙って、居間のテーブルの朝食のあとかたづけをして、自分の台所に引っこんでいた。
「もちろん」と、警視はややおちついて「プラウティの話だと、やつもノールズも、二発目をぶち込まれた時には、フレンチ夫人は腰かけていたと確認しとる。ともかく、それはお前の分析の一部を裏書きするものだ」
「たすかりますよ」と、エラリーは骨を折って靴をはきながら「専門家の証言はどんな裁判でもじゃまになりませんからね、ことにプラウティやノールズのような専門家ならね」
クイーンがふふんと鼻をならして「お前はまだわしほど裁判を経験しておらん。……気になるのはその拳銃だが、ノールズの話だと、弾は、黒いコルト三八で撃ったもので、十セント玉十二枚も出せば、どこの[けいず買い]からでも買えるしろものだそうだ。むろんノールズがその拳銃を手に入れれば、あの弾を撃った痕跡を必ず立証してみせるさ。弾には独自の条痕がついとるから、確実に認定できるんだ。ついでだが、二発とも同じ銃から発射されとる。だが、一体、どうやってその銃を手に入れるかだ」
「謎をかけてるんですか」と、エラリーが「ぼくにはそいつはわかりませんね」
「しかも、銃がないと、重要な証拠が、ひどく足りんことになる。銃はフランス・デパートの中にはなかった──屋根裏から地下室まで洗ったんだがな。してみると犯人が持ち去ったのかな。手に入れようなんて虫がよすぎるのかもしれん」
「そうですね」と、エラリーがスモーキング・ジャケツを着ながら「でも必ずしも、そうとはいえませんよ。とかく、犯罪者はばかげたことをするものでしょう、お父さんも、そりゃ、ぼくよりよく知ってるじゃありませんか。まあ一歩をゆずるとして──」
ドアのベルがけたたましく鳴り、エラリーが驚いてとび出した。「まさか、ウェストリーがこんなに早いなんて」
警視とエラリーが書斎にはいってみると、もったいぶったちびのジューナが、デパートの雇探偵ウィリアム・クルーサーを通すところだった。クルーサーは興奮して赤くなりながら、すぐ口をきった。
「お早うございます、みなさん、お早う」と、クルーサーはにこにこ顔で「お疲れ休みというわけですかな、警視さん。ところで、実はきっと興味をもたれそうな情報をかぎつけましてな──さよう、本当ですよ」
「よく来てくれたな、クルーサー」と、警視は腹にもないことを言い、エラリーはクルーサーがもち出そうとする新しい情報に期待して目を細めた。
「腰かけて、すっかり話してくれんか」
「どうも、どうも、警視さん」と、クルーサーはほっとため息をして、警視愛用の肘掛椅子に身を沈めながら「ほとんど寝ずじまいでしたよ」と、前置きして、くすくす笑い「昨夜は、方々かぎまわりましてな、今朝は、また六時から駈けずりまわりですわ」
「正直な仕事は天に報いを求めず」と、エラリーがつぶやいた。
「えっ」と、クルーサーはいぶかしそうな顔をしたが、そのご機嫌面をにたにたさせて、チョッキのポケットから、油じみた葉巻を二本取り出した。「ご冗談ですな、クイーンさん。一本いかがですか、警視さん。あなたも、クイーンさん。……喫ってもかまいませんか」と、葉巻に火をつけて、無造作に、もえているマッチを暖炉に投げこんだ。テーブルの食後のかたづけをしているジューナの顔に、ちらりと苦々しい色が走った。ジューナは家事を乱されると、がまんがならないたちだった。それで、クルーサーの広い背を、憎々しげに睨みつけて、足音荒く台所へ引っこんだ。
「それで、クルーサー、なんだね」と、警視がじりじりした声できいた。「さあ、話してくれ」
「承知しました、警視さん」と、クルーサーは謎めかして声を低め、ふたりの方へ乗り出して、話にもったいをつけるように、煙の出る葉巻のはしをつき出した。「昨夜から私が何をしとったと思われますか」
「見当もつかない」と、エラリーが興味探そうにした──
「私は、バーニス・カーモディを、追って、いたんです」と、クルーサーが震えをおびた低い声で、ささやいた。
「おお」と、警視は目に見えてがっかりしながら、つまらなそうにクルーサーを見つめた。「それだけかね。わしは腕っこきを、大ぜいその仕事にかからせとる、クルーサー」
「なるほど」と、クルーサーは胸をそらせて、たばこの灰をカーペットに落としながら「この話でキスしていただこうなんて、まさか、思っちゃいませんよ、警視さん。実は……だが」と、またも狡《ずる》そうに声をおとして「あなたの手下さんたちには、私が手に入れたような情報は手にはいりませんぜ」
「おお、何か手にはいったのかね」と、警視がすぐ「さあ、そりゃ聞きものだ、クルーサー。どうもわしは早とちりでな……一体、何をほじくり出したんだね」
クルーサーは得意そうに目配せして「あの娘は町を出てるんですぜ」
エラリーは、真から驚いて目をぱちくりした。「そこまでつきとめたんですか」と、父親に笑顔を向けながら「ヴェリーが一本とられましたね、お父さん」
警視はむっとしたが、興味も湧いたらしく「とんだ手抜かりだ、首つりものだ」と、つぶやき「どうやったんだね、正確な話はどうなんだ、クルーサー」
「まあこうなんですよ」と、クルーサーは足を組んで煙を吹き上げながら、すぐに言った。見るからにご満悦だった。
「私が追ったのは──あなたや刑事さんたちには敬意をはらっちゃいますがね、警視さん──バーニス・カーモディはかたづけられたという線なんですよ。誘拐されたか殺されたか──そりゃわかりませんが、まず、そんなところでさあ。私の感じじゃあ、あの仕事は、徴候からみるとあの娘がやったようだが、そうじゃない、まったくの話が……そこで、昨夜私は勝手にフレンチ邸をかぎまわって、あの娘がどうやってあそこを抜け出したか、できるだけ洗ってみたんです。あそこの家政婦にも会いましたが、あなたに話したことを私にも話したようです。気を悪くしないでくださいよ、警視さん……ともかく、あの娘がドライヴを七十二番街の方へ歩いて行くのを見たという[請願]の話も聞きました。それで方針がきまったんですが、ものにするまでには、いやというほど娘のあとを追って歩かされました。娘の人相に似た女を、ウェストエンド・アヴェニューと七十二番街の角で拾ったという流しの運転手もみつけました。個人タクシーでした。運がよかっただけですがね。追跡ってやつは、運半分の汗半分ですからね──そうでしょう、警視さん」
「うん、うん」と、警視が渋い顔で「たしかに、トム・ヴェリーに一発かませたよ。それから。もっと何かつかんだかな」
「つかみましたとも」と、クルーサーはまた葉巻に火をつけて「運ちゃんは娘をアスター・ホテルまで乗せたんです。娘は待つように言ったそうです。それから、ロビーへはいって、一、二分後に、ブロンドで背の高い男と出て来たそうで、男は立派な身なりでスーツケースを下げていたそうです。ふたりは急いで車に乗りこみました。運ちゃんの話だと、娘はおびえているようだったが何も言わなかったそうで、その男がセントラル公園を通ってドライヴしろといいつけたそうです。公園にはいると、まん中ごろで男が窓をたたいて車を停めろ──降りるからと言ったそうです。それで運ちゃんは変だと思ったそうで──ともかく、公園のまん中で車を帰すなんて人間にぶつかったことはないそうです。でも黙っていると、ブロンドの男が料金を払って、行っていいと言ったそうです。運ちゃんは車を出しましたが、出す前に娘をちらっと見ました。まっさおで半分正体を失って──酔っぱらっていたようだと言ってました。それで運ちゃんは、さりげなく車を徐行しながら、目を放さずにいると、はたせるかな、ふたりはそこから五十フィートも離れていない所に停まっていた車まで歩いて行って、乗りこみ、車はすぐに上町の方へ、公園をとび出して行ったそうです」
「なるほど」と、警視がしわがれ声で「そりゃ大した話だ。その運転手を調べねばならんな……その運ちゃんは娘をつれ去った車の車体番号を覚えとったかね」
「遠すぎて見えなかったそうで」と、クルーサーは、ちょっとしかめ面をしたが、すぐに晴れやかになって「でも、遠くといっても、マサチューセッツの鑑札をつけていたのはたしかめたそうです」
「すばらしい、クルーサー君、大したもんだ」と、突然エラリーが大声で言い、すっくと立った。「そんなに頭のしっかりした男がいてくれて、じつにありがたい。その車の種類は何かね──運ちゃんは見たかね」
「もちろん」と、クルーサーがにこにこした。ほめられて肩を張って「箱型──セダン──濃い青塗り──ビュイックだったそうです。どんなもんです?」
「上出来だ」と、警視はあまりうれしくもなさそうに「ほかの車へ歩いて行くときの娘の様子はどうだったかな」
「そうですね、運ちゃんには、そこまではよく見えなかったそうです」と、クルーサーが「だが、娘がつまずきかけたら、のっぽがその腕をつかんで、無理に引きずって行くようだったと言ってました」
「でかした。でかした」と、警視がつぶやいて「箱型の車の中の運転手の人相を見とるかな」
「いいえ、でもビュイックにはだれかが乗っていたらしくて、運ちゃんの話だと、ふたりは車の後ろの方に乗りこみ、車はすぐに公園を出て行ったそうです」
「そのブロンドののっぽは、どんなやつかな、クルーサー君」と、エラリーが、はげしくたばこをふかしながらきいた。「タクシーの運転手から、そいつの人相書が細かくとれるだろうがね」
クルーサーが頭を掻いて「あいつのことをきくのをうっかりしちゃって」と、白状した。「ねえ、警視さん──私が手を引いたところから、あなたの部下にかからせてみたら、どうでしょう。なにしろ私は店の方にうんと仕事があるんですよ。店じゃいろんなことが、てんやわんやですからね。……運ちゃんの名前と住所がいりますか」
「もちろんだ」クルーサーが名と住所を書いているあいだ、警視は心の中で、精神的な問題と格闘していた。店の探偵がその紙きれを渡した時、明らかに善が勝った。警視は弱々しくほほえんで握手の手をのばし「おめでとう、クルーサー。一晩の仕事としては大したもんだ」
クルーサーはにこにこして、警視の手を元気よく上下に振りながら「お役にたってうれしいですよ、警視さん──本当です。われわれ部外者でも、少しは仕事の仕方を心得てるってことを証明できたわけでしょう。私はいつも言うんです──」
ドアのベルが鳴って、警視が手を握られて困っているのを救った。エラリーと父親は、ちらりと目を見交わした。それからエラリーがドアに駈けよった。
「お客をお待ちだったんですね、警視さん」と、クルーサーが、無造作にきいた。「おじゃまになるといけませんから、私はこれでおいとましたほうが──」
「いや、いや、クルーサー君、そのままにしていたまえ。君はちょうどいいときに来てくれたと思っているんだ」と、エラリーが控えの間のドアの方へ歩きながら、急いで言った。
クルーサーは顔を輝かせて、また腰を下ろした。
エラリーがさっとドアをあけた。ウェストリー・ウィーヴァーが、心配そうな顔で、髪をふりみだし、そそくさと部星にはいって来た。
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二十七 六冊目の本
ウィーヴァーはみんなと握手して、クルーサーがいるのに驚いた顔をした──店の探偵は足をもじもじさせてにこにこしていた──ウィーヴァーは神経質そうな手で顔をこすり、坐って、待っていた。そして、心配そうに警視の方を見た。
エラリーは、それに気づくと、微笑しながら「何も心配することはないよ、ウェス」と、やさしく言った。「拷問なんかしないんだ。たばこをつけて、気を楽にしたまえ。そして、しばらく話をきいてくれよ」
みんなはテーブルのまわりに椅子を寄せた。エラリーが何か考えながら爪を見ていた。
「ぼくは、フレンチ氏のアパートの机の上から持って来たあの本のことで、苦労していたんだ」と、エラリーが話しはじめた。「そして、おもしろいことを発見したんだよ」
「本?」と、クルーサーがうろたえ気味に叫んだ。
「本ね」と、ウィーヴァーが、自信のなさそうな普通の調子で、聞きかえした。
「そうさ」と、エラリーがくりかえして「本さ。ぼくが不審を抱いていたあの五冊の本だよ、ウェス」と、じっと青年の目の中をのぞきこみながら「それで、思いついたんだが、どこか君の心の隅に、役にたつ情報のかけらでも、ひっかかってやしないかってね。あの五冊の本についての情報さ。ざっくばらんに言うと、ぼくが最初あの本に手をかけた時に、君が妙にそわそわしたような気がしてね。気にしているのは何なんだい──何かあるんじゃないか──だからこの話をもち出したんだが──何か話すことがあるんじゃないかな」
ウィーヴァーはまっかになって、どもりながら「だって、エラリー、ぼくはけっして──」
「おい、おい、ウェス」と、エラリーは乗り出して「何か考えてるね。マリオンのことなら、ここではっきり言っとくが、われわれはだれひとりとして、あの娘《こ》に少しも嫌疑をかけていないよ。あの娘《こ》のそわそわしている態度の裏には何かあるかもしれないが、それがなんだろうと、犯罪に関係のあるものではないし、おそらくフレンチ夫人殺しにはほとんど関係のないことだろうさ……これで君の心の中の不安がとれたかい」
ウィーヴァーはしばらく友の顔を見守っていた。警視とクルーサーは静かに坐っていた。やがて青年は話し出した──今度は、それまでと、全く違う声で、新しく生まれた信頼感にみちあふれていた。「そう、たしかにそうさ」と、ウィーヴァーはおちついて「マリオンのことが気がかりだったのさ。あのひとが今度の事件に関係があるかもしれないと思って、当然そうすべきなのに、率直にはなれなかったんだ。しかも、本について、知っていることがあるのにね」
エラリーが満足そうにほほえんだ。みんなは、ウィーヴァーが考えをまとめるのを、静かに待っていた。
「あなたがたはスプリンジャーという名の男を、話題にのせたことがあったでしょう」と、やがて、ウィーヴァーがはっきりした普通の話し口調で「たしか、夜警の日誌を調べられた時に、その名が出たと思いますよ、警視さん。月曜日の夕方、スプリンジャーが七時まで店から出ず、そのすぐあとでぼくが帰ったのを覚えているでしょう。その事実はオフラハティの日誌に記入されています」
「スプリンジャーね」と、エラリーが眉をしかめた。警視がうなずいた。
ウィーヴァーは、ためらうようにクルーサーを見てから、警視の方を向いた。「いいですか──」と、当惑ぎみにつづけた。
エラリーが父親の代わりに、すぐ答えた。「いいとも、ウェス。クルーサーは最初から事件に関係しているし、これからも役にたつだろうと思ってるんだからね。かまわず続けたまえ」
「わかった。じゃあ」と、ウィーヴァーは言いかけた。クルーサーは満足げに、深く椅子にもたれた。「ふた月ほど前で──正確な日は忘れたが──経理部からフレンチ氏に、書籍部に何か不正事実の疑いがあると注意してきました。むろん、スプリンジャーが書籍部長なのです。不正というのは金銭上のことで、収益が取引高と釣り合わないとみられたのです。それは極秘事項で、おやじはかなり狼狽《ろうばい》していました。ところが、経理部のいだいた疑問には断定しうる証拠が何もなかったのです。それに話全体が漠然としているので、経理部員には、一時、その話は全部忘れるようにと命令が下り、おやじはぼくに、個人的に少し調査するようにといいつけたのです」
「へえ、スプリンジャーがな」と、クルーサーがぷりぷりして「妙だね、私の耳には、はいらなかったよ、ウィーヴァーさん」
「フレンチ氏は」と、ウィーヴァーが説明した。「あまりたくさんの人に知らせるべきじゃないと思われたのです。嫌疑といっても、ごく漠然としたもので内密にする必要がありました。それで、おやじに個人的に関係のある問題は大部分ぼくが扱っているので、ほかの人間よりも、むしろぼくに相談をもちかけたわけです。……もちろんぼくには……」と、ウィーヴァーはばつが悪そうに「勤務時間中に内偵してまわることはできません。スプリンジャーがいつも職場にいるんですからね。それでやむなく、閉店後、調査することにしたんです。ぼくは店員がみんな店から退出したとおぼしいころを見はからって書籍部へ行き、伝票と帳簿を調べていましたが、三、四日たったある晩、妙なことにぶつかりました。しかし短時日の夜の調査からは何も出てこなかったと言っていいんです──万事異常はないようでした」
クイーン父子とクルーサーは、注意を集中して聞いていた。
「妙なことにぶつかったといった晩」と、ウィーヴァーが続けた。「書籍部へはいろうとすると、いつになく明るく──多くの電灯が煌々《こうこう》とついているんです。最初はだれかが残業しているのだと思いました。そしてそっと様子をうかがってみると、どうやら、思ったとおりでした。スプリンジャーが、ひとりで、書籍部の通路を歩きまわっていたのです。ぼくがなぜ身をひそめたのかは、自分でもはっきりわかりません──おそらくすでにスプリンジャーを疑っていたからでしょう──とにかく、かくれて、何をしているのかと、好奇心にかられて見守っていました。
見ていると、あの男は一方の壁の本棚に行き、こっそりとあたりを見まわし、すばやく一冊の本を引き出しました。そして、ポケットから長いパテント鉛筆を出すと、本の裏の方を開いて、すばやく何か書きつけ、ばたりと本を閉じると、その背に何か印をつけて、すぐに別の棚にもどしたのです。本の置き方をばかに気にしているらしいのがわかりました。気に入るまでかなり迷っているらしいのです。それだけのことです。それから、スプリンジャーは奥の自分の事務室にはいって、すぐに帽子と外套《がいとう》を着て出て来ました。そして、ものかげの壁のくぼみに立ちすくんでいるぼくの前を、すれすれに通って書籍部を出て行ったのです。まもなく、夜通しついている一、二灯をのこして、全部の電灯がぱっと消えました。あとから調べてみると、スプリンジャーは、夜警に仕事の済んだことを告げ、オフラハティに書籍部の電灯のスイッチを切るように命じて、正規の手続きをとって退出したのがわかりました」
「大して珍しいこっちゃないね」と、クルーサーが「きっと、仕事の一部だったんでしょうよ」
「疑ってかかると」と、警視が、さりげなく「えてしてそんなことが気になるもんだ」
「ぼくも、そんな気がしました」と、ウィーヴァーが「しかし、スプリンジャーが残業するのが、第一、ちょっと変なんです──フレンチさんは、残業をよろこばないんですからね。
でもその時は、その事件は少しも変なことじゃあるまいと思いました。スプリンジャーが出て行ってから、ぼくはその本棚に行って、あの男がしまったばかりの本を取り出して見ました。そして裏を返してみると、裏の見返しに鉛筆で書いた日付と所番地があったんです」
「住所?」と、エラリーと警視が同時に叫んだ。「どこの?」と、警視がきいた。
「今、覚えてませんが」と、ウィーヴァーが「でも、ポケットの手帳に書いてあります。もし、なんでしたら──」
「今のところ住所はいいよ」と、エラリーが妙におちつきはらって「ぼくがフレンチ氏の机から持って来たあの五冊の本のことだが、どうもふにおちない点がある。あれは実際にスブリンジャーが書き込みをしたやつかね」
「いや、そうじゃない」と、ウィーヴァーが「しかし、あの事件の続きとして、もう少し何か話したほうがいいだろうな。かなりこみいっているんだ……日付と所番地を見つけたが、それにどんな意味があるのか、さっぱり見当もつかないしまつだったし、スプリンジャーが何か書きこんだ本の背を調べてみると、著者の名の下に薄く鉛筆で線がひいてあるだけなんだ」
「君が話している時から、その本の背に気をひかれてるんだがね」と、エラリーが何か考えながら「ウェストリー、たしかに、その印は著者の名の全部の下についていたのかい。名の頭の二字の下だけじゃなかったかい」
ウィーヴァーが目をむいて「なぜだね。たしかにそうだった」と、大声で「だが、一体、どうしてそれを、エラリー」
「当てずっぽうさ」と、エラリーはさりげなく「でも当たってる。どうやら」と、父の方を向いて「あの本からは、あれ以上のことがつかめなかったはずですよ、お父さん。ありや本物じゃないんです。……それから、ウェス」
「そういうわけで」と、ウィーヴァーがつづけた。「あの本について、思いきった処置をとる理由がなかったんです。住所と日付を控えただけで、その本をスプリンジャーが最初に置いたとおりの場所にそっともどしてから、あの男の帳簿調べにかかりました。事実、その事件はすっかり忘れていました。ところが、その次の週──正確に言えば八日目に──その事件をまた思い出したのです」
「スプリンジャーがまた同じことをやったんだね、てっきり」と、クルーサーが叫んだ。
「でかした、クルーサー」と、エラリーがつぶやいた。
ウィーヴァーがちらりと笑って続けた。
「そうさ、スブリンジャーが同じ状況のもとで同じことをしたのさ。というのは、その晩も調査のためにぼくは書籍部へ下りて行って、また見てしまったんだ。今度は、あの男がその前の週にやったのとそっくり同じことをくりかえしているのに気がついて、こりゃ変だと思った。それなのに、その仕事の意味がさっぱり思い当たらないんだ。それで、また日付と住所を控えただけで──ついでに言えば、それは前の週のと違っていたよ──ぼくは自分の仕事にとりかかった。それから三週目になって──八日すぎてから──やっと疑惑の念が少したかまってきたのさ」
「その時」と、エラリーが「君はその本と同じ本を持ち出したのだろう。それが、[十四世紀の貿易と商業]で、著者はスタニ・ウェジョフスキーだろう」
「そのとおり」と、ウィーヴァーが「三度目になって、所番地が重要なんだなと思いついた。なぜ重要なのかは見当がつかないがね。しかし、何かの目的で本が置いてあるのだと悟ったから、少し実験してみることにした。ウェジョフスキーの本の場合、スプリンジャーが去ってから、同じ本の別なのを取り出して、参考のため裏に日付を書きこみ、新しい所番地は控えをとってから、その副本の方を二階のぼくの事務室に持って上がった。たぶんその本のどこかに、ぼくに光明を与えてくれるものがあるだろうと思ったんだ。むろん、元の本のほうはスプリンジャーが置いたとおりにしといたんだ。
顔が青くなるほど、ぼくはその本を調べてみたが、結局、何もつかめなかった。その後、四週間、ぼくは同じ行動をくりかえしてみた──すると、スプリンジャーが八日目ごとに、例の凝わしい小細工をするのがわかった──その間も、ぼくは根《こん》限り副本を調べてみた。ところが、どうしても意味をなさないので、だんだん望みを失いかけていたんだ。言っておくが、その間もぼくはスプリンジャーの帳簿は調べつづけていて、やっと光明をみつけかけたんだ。スプリンジャーは店の部門別制度の欠陥を利用して、じつに狡猾《こうかつ》なやり方で自分の勘定をごまかしていたんだ。そこでぼくは本が何か意味をもっているにちがいないと悟った──ぼくの調査に閑係があるかどうかはわからないがね。だが、その本が何か不正な意味をもっていることは、もはや疑う余地はなかった。
ともかく、六週目にはぼくは全く絶望していた。あれは月曜日の晩だ──殺しのあった晩だが、まさか、数時間のうちに、あんなことが起ころうとは、てんで思いも及ばなかった。ぼくがいつものとおりスブリンジャーに目をつけていると、あの男は例の儀式をやって、帰って行った。だが今度はぼくは思いきったことをするつもりだった。つまり、元の本を取って来たのだ」
「うまいぞ、君」と、エラリーは、おぼつかない指で、たばこに火をつけながら「じつにすてきだ。それから、どうしたね、ウェス。とてもおもしろいぜ」
警視は何も言わず、クルーサーは、改めて尊敬するような目でウィーヴァーを見つめていた。
「ぼくは別の本に、正確に印を写して、それをスプリンジャーが置いた元の本の代わりに置き、元の本のほうは持って来ちまったのさ。この仕事は大急ぎでかたづけなければならなかった。というのはその夜、スプリンジャーを尾行して、その行動から何か手がかりがつかめやしないかと思っていたからだ。運よく、あの男はオフラハティのところに立寄って、おしゃべりしていた。だから、ぼくが、スプリンジャーの一番新しく印をつけた本を小脇にかかえて、店をとび出してみると、あの男がちょうど第五アヴェニューの角を曲がって行くのが見えた」
「一人前の刑事さんでさ」と、クルーサーがほめあげた。
「いやいや、どうして」と、ウィーヴァーが笑って「とにかく、一晩じゅう、スプリンジャーの足取りをつけました。ブロードウェイのレストランでひとりで夕食をすませてから、映画へ行きました。どうやら、ぼくはばかみたいにあの男をつけまわしたようですよ。というのはあの男は一晩じゅう、不審なことは何もしないし、だれにも電話をかけないし、だれにも話しかけなかったのですからね。真夜中ごろ、やっと、家に帰りました──ブロンクスのアパートに住んでいるんです。ぼくは一時間ほどその家を見張り──あの男の部屋のある階まで忍び足で上がってまで見たんですが、スプリンジャーはたしかに部屋にはいったきりでした。それで、とうとう、スプリンジャーの書きこみをした本をかかえたままで家に帰って来ちゃったんです。あの男と別れてみると、尾行《つけ》はじめた時より、ちっとも利口になっていないのがわかりましてね、結局無駄骨折りでしたよ」
「とはいうが」と、警視が「あの男にくいさがったのは、立派な判断力を示しとるよ」
「六冊目の本の題名は? そりゃどこにあるんだね。フレンチ氏の私室《アパート》で他の五冊をみつけた中に、なかったのはどういうんだね。むろん、あの五冊は君が置いといたんだろう」と、エラリーがせきこみながらたずねた。
「一度に一つずつ聞いてくれよ」と、ウィーヴァーがほほえみながら頼んだ。「本はルュシアン・タッカーの『最近の室内装飾の傾向』さ……」
ウィーヴァーが著者の名を言った時に、警視とエラリーは目を見交わした。
「その本はあそこに置いておかなかったから、他の五冊の中にはなかったのさ。ぼくの家に持っていったのさ。それはね、副本のほうは大して重要じゃないと思いこんでいたからさ。問題なのは明らかに元の本なんだ。おそらく、ぼくが間違っているかもしれないが、六番目の本はたしかに元の本だから、他の五冊よりも貴重だと思ったのさ。それで月曜日の夜家に持ち帰って安全な場所に置いといた──ぼくの寝室にね。他の五冊の本を店のほうに置いといたのは、暇をみて調べられるように手近におきたかったからさ。本のことなんかで、老社長をわずらわしたくなかったというのは、社長はホィットニーの合併交渉で手いっぱいだし、どっちみち、細かいことはいつもぼく任せなんだからね。それで、あの本は一冊ずつ手にはいりしだい、おやじの机の本立ての間にすべりこませといたんだ。同時に数をそろえておくために、おやじの本を一冊ずつ抜きとって、本箱のがらくた本の後ろに隠しておくようにした。こんなふうで、五週目の終わりには、おやじの五冊の本はみんな本箱に姿を消して、スプリンジャーの印をつけた本の副本がブック・エンドに並ぷことになったのさ。おやじが机の上の目新しい本に気がついたら説明するつもりだったが、気がつかないので、放っといたんだ。どっちみち、おやじの[愛読書]というやつはおかざりで、いつも机の上にあるのを見慣れてるもんだから、当然あそこにあるものと思いこんでいるんだ。何週間も毎日のようにあの机のまわりをうろついているくせにね。だれにでもよくあることだよ……スプリンジャーがあの机の上に妙な本があることに気がつくなんてことはありっこないのさ。あの男にはフレンチ氏の私室《アパート》にはいる機会が全然ないからね」
「じゃあ」と、エラリーが、いきいきと目を光らせながら「あの五冊の本は、君が毎週毎週本立てにはさんでいったものとみていいんだね。つまり、最初の、ウェジョフスキーの本は、六週前に机に置いたことになる?」
「そのとおり」
「そりゃとてもおもしろい」と、エラリーが浮かしていた腰を椅子に沈めた。
警視がいきなり訊いた。「じゃあ、ウィーヴァー君、その所書きを見せてもらおう。そこに持っていると言ったね」
答える代わりに、ウィーヴァーはチョッキのポケットから小さい手帳を取り出して、紙を一枚抜き出した。警視、エラリー、クルーサーの三人は好奇の目を光らせて、その紙をのぞきこみ、七つの住所を読んだ。
「そうか、こいつは──」と、警視の声はふるえながらとぎれた。「エラリー、この場所を知っとるだろう。この二つはフィオレリの部下どもが、何週間も内偵をつづけとる麻薬密売のたまり場なんだ」
エラリーが何か考えながら、からだを後ろに引き、クルーサーとウィーヴァーが顔を見合わせた。
「大して驚くにはあたりませんね」と、エラリーが「二つどころか。七つともみんな、おそらく麻薬取引きの本拠でしょうよ……毎週場所を変えるんです……頭がいい。疑う余地もありません」と言い、急にからだをのり出して、
「ウェス」と、叫ぶように「六冊目の本に書きこまれた所書きは? どこにある? 早く」
ウィーヴァーが急いで、もう一枚のメモを取り出した。住所は、東九十八番街の番地だった。
「お父さん」と、すぐエラリーが「大した堀り出しものですよ。手のうちに何があるかわかりますか。|昨日の麻薬取引場所《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》です。日付は──五月二十四日──火曜日──手がかりは、まだほやほやで湯気を立ててますよ」
「図星だ」と、警視がうなった。「そのとおりだ。九十八番街のその番地にまだ人間がおるかもしれんぞ──いないはずはない──」
警視はいきなり立って、電話に手をのばした。警察本部の番号を告げると、じきにヴェリー部長と話し出した。早口に何か言い、麻薬班に切りかえさせた。手短かに、班長のフィオレリに話すと、電話をきった。
「フィオレリに流してやった。連中がすぐに九十八番街のその家に手入れする」と、楽しそうに言い、なれた手つきで、かぎたばこをひとつまみやりながら「連中はトマスを連れていく。ここに寄ってわれわれを拾って行くんだ。こいつは見のがせんぞ」と、警視のあごがいかめしく引きしまった。
「手入れですと!」と、クルーサーは立って筋肉をしゃちこばらせた。「私も行ってかまいませんか、警視。ピクニックみたいなもんでさ──まったく」
「かまわんとも、クルーサー」と、警視が、うわの空で「ともかく、君にも、見るだけの手柄はあったからな……フィオレリはわしの知らせてやった二つの所番地の手入れをしたが、どちらも、もぬけのからで、星のずらかったあとだったそうだ。今度こそ、ずらかるひまがないといいがな」
エラリーは何か言いかけた口を、ぴたりと閉じてしまった。すぐに何か考えはじめた。
ウィーヴァーは、自分が火つけ役になった爆弾にとまどっているようだった。そして、ぐったりと椅子に身を沈めていた。
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二十八 糸をほぐす
みんなは急に不安になってエラリーを見つめた。半分口をあけていたクルーサーは、口をとじて頭を掻き出した。ウィーヴァーと警視は同時に椅子で重そうに居ずまいを直した。
エラリーは何も言わずに台所へはいって行った。ジューナに何かいいつける低い声が聞こえた。それから、エラリーはふたたび姿を見せると、例の鼻眼鏡をはずして、ぼんやりとくるくるまわしはじめた。「気がかりなことを、ふと思い出した──だが」と、顔色を明るくして「それほど悪いことじゃない」
エラリーは細い鼻に眼鏡をかけ直して、立つと、テーブルのまわりを、ぶらぶらと行ったり来たりしはじめた。ジューナは台所を抜け出して部屋から出て行った。
「麻薬班の車を待つ間に」と、エラリーが「ウェストリーがもたらした新情報に照らし合わせて、事態を少し検討してみるのもいいでしょう。
こうなると、フランス・デパートが麻薬取引の重要な中継所として使われていたことは、だれにも疑問の余地がないでしょうね」
エラリーはちらっと、みんなにいどみかかるような目を向けた。クルーサーのがっちりした顔に怒りの色がもえた。
「もしもし、クイーンさん。そりゃ酷ですよ」と、クルーサーが大声で「スプリンジャーというやつが悪《あく》なのは否定しませんがね──それより言いようがないがね──しかし、麻薬密売団が、店のわれわれの鼻っ先で堂々と活躍してるなんてことが、どうして断定できるんです」
「まあ、怒らないで聞きたまえ、クルーサー君」と、エラリーが、穏やかに「連中は手先をひとり店に送りこんだだけだよ。じつにうまい手だ」と、エラリーが、いかにも感心したような口ぶりでつづけた。「麻薬密売団としてはね。まぎれもない簡単な暗号を使ってさ。暗号であることは、もうとっくにわかっていたがね。そいつを、連絡用になんの変てつもない本を使ったり、悪徳防止協会長じきじきの敬虔《けいけん》な領土内で仕事の段どりをつけるなんて──じつに天才的ひらめきがあるというものだ──それに──いいかい。これにかわる妙案はありっこない。われわれが発見したところでは、八日間の間をおいて──ひとつだけが例外で九日だが、これには日曜日をあけるという立派な説明がつく──書籍部の主任が、あまり売れそうにもない退屈な本に所番地を書きこむ──これが全体のたくらみの中で、すばらしい要素のひとつさ……君たちは、それぞれの本の日付が、スプリンジャーが書きこんだ当日のものではないことに気がついたかな。そうさ、どの場合でも、翌日の日付を書きこんでる。それに水曜日《ウェンズディ》と書きこむ本の著者はWeで始まる名でいつも同じ本棚に置いてあった。毎週同じ本棚だったろう、ウェス」
「そうだ」
「すると、水曜日と印された本は火曜日の晩に、他のいろんな本と一緒に、いつもと同じ本棚に置かれる。次の週の木曜日の本は水曜日の晩に置いておくというふうにね。これは一体どういう意味なのか。明らかに、スプリンジャーは、所番地を書きこんだ晩と、その本が|拾い上げられる時《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》までに、あまり間をおきたくなかったのです」
「拾い上げるというと?」と、警視がきいた。
「そうですとも、どこから見ても、作戦計画はちゃんとしていて、その中でのスプリンジャーの主要任務は本を使ってだれかに所番地を知らせることだったのです。スプリンジャーが口頭で謎《なぞ》の人物か謎の団体に連絡がとれるなら、めんどうな本を使っての暗号連絡など、なぜとる必要があったのでしょう。そうですとも、スプリンジャーはおそらく細工した本をとりに来る連中を知っていたでしょうが、相手のほうは下っぱなのでスブリンジャーを知らなかったのでしょう。だが、そんなことは全く問題じゃない。問題の重点は、スプリンジャーが細工した本を、長く棚ざらしにしておけなかったことです。客が買って行くかもしれない、そうすれば書いてある所番地が、はからずも無関係な人間の注意を引くことになります。お父さんが、もしスプリンジャーの立場だったら、本が拾い上げられる時間を、どう手配しますか」
「わかりきっとる。スプリンジャーが、夜、手はずしておいて、翌朝ひろい上げられるという寸法だ」
エラリーがにっこりして「そうです。そうすれば危険はほとんどないですもの。やつは閉店後、本に住所を書きこむ、そうすれば当然、夜の間に、他人がその本を動かすことはありませんからね。そして、その翌朝、かねてきまりの使いが来て、きまりの棚から本を持っていく──その場所は計画が最初ねられた時に、むろんきちんときめておくという寸法です。実際問題としては、その使いは翌朝できるだけ早く来ればほとんど危険がないわけです──おそらく、開店の九時すれすれに来たでしょうね。使いは本のひろい読みなどをしたあとで例の本棚に行き、目印でわかっている本を取り上げ、目印のことはすぐ説明しますが、普通に代金を払い、情報を抱えて店を出る──安全で手ぎわよく、ばかなほど楽な仕事です。
さて、二、三の推論をたててみましょう。朝来る使いはスプリンジャーとはなんの接触ももたないと推定しなくてはなりません──事実、どの点から見ても、スプリンジャーと使いとは全く無関係の人間で、どちらも相手の素姓さえ知らないはずです。すると、前の晩にきめられた本を、使いが手に入れる唯一の手がかりは、前もってきめておいた暗号か、方法ということになります。こりゃあ常識です。だが、どんな暗号だったか、これがこの計画の巧妙な点です。
なぜ、この計画に著者の名──少なくとも頭の二字──が、使いが本を拾い上げる日の曜日の頭の二字と合致する必要があるのだろうと、ぼくは自問してみました。その答えは、使いがこまかいことをいっさい知らされていない、と思えば解けます。使いが仕事についた時、最初の指令は次のようなものだろうと思えば、全部のからくりがはっきりします。つまり[毎週フランス・デパートの書籍部へ行って、住所の書きこんである本を取って来い。その本は、書籍部のかくかくの場所にある書棚の四番目の仕切りの一番上の棚にある。……ところで、毎週、違う日に行くんだ。正確に八日目だ。日曜日がはさまったら抜かして、そのときは九日目になる。──前回が土曜日だったら次は一週おいての月曜日ということになる。かりに、水曜日の朝、本をとりにいかなければならないことにすると、とって来るのは、水曜日《ウェンズディ》のWeと照合するWeで名まえの始まる著者の本だ。絶対に間違わないように見つけて、一刻も早く書籍部をはなれるために、棚の本をいちいち探しまわらなくてもいいようになってる。著者の名の頭の二字に薄い鉛筆の印がつけてある。それが目的の本の目印だ。本を取り上げて、裏の見返しに住所のあるのを確かめたら、その本を買って店を出る]……どうです、うまい指命でしょう」
三人は口々に賛成の声をあげた。
「じつに巧妙きわまるたくらみです」と、エラリーが考えこみながら「ちょっと手がこみいりすぎていますがね。しかし実際には、どんなにこみいっていても、時がたつにつれて慣れますからね。この仕組みのいいところは、走り使いは指令を最初一度だけ受ければいいので、あとの仕事は何か月でも、滞《とどこお》りなく無限に続けられることです。……次の木曜日《サースディ》には著者の名がThで始まる本の鉛筆の印を探せばいい、その次の金曜日《フライディ》にはFrというぐあいに続ければいいのです。本を手に入れた使いが、その本をどうするかは、まだ議論の余地があります。いろんな状況からみて、これは中央に強い力があり、高度に組織化された麻薬密売団で、仕事についている手先どもには、やらせている仕事の内容をできるだけ知らせないようにし、おそらく団長とか頭株については全く無知であるようにしてあると思います。そこで当然おきてくる問題は──」
「しかし、なぜ」と、ウィーヴァーが「八日目にしたんだろう。なぜ、毎週の同じ曜日の日じゃいけないんだろう」
「いい質問だが、答は簡単だと思うぜ」と、エラリーが「連中は万が一にも手違いが生じるかもしれないような危険な橋なんか、絶対に渡らない。もし特別の男が、毎月曜日の午前九時に書籍部に来てみたまえ、たちまち人目をひいて注意されるようになるじゃないか。しかし月曜日に来、次には火曜日、次には水曜日というふうに、まる一週間と一日おいて来る分には、人に見覚えられるおそれはほとんどないからね」
「畜生、なんてやつだ」と、クルーサーがどなった。「それで、かぎつけようがなかったんだな」
「じつに抜け目のないやつらだ」と、警視がため息をして「すると、エラリー、あの所番地はみんな麻薬密売の[たまり場]と考えていいのか」
「まちがいありませんね」と、エラリーが、新しくたばこをつけながら「みんな敵の利口さに感心しているが、この点はどう考えますか。一味は同じ所番地を二度と使っていません。それは、毎週違っているから明白です。それに、また、一味の取引の方法が、きっかり一週間で区切れるようになっているのも明白です。麻薬班の連中も、毎週使われている穴《ヽ》なら、きっとかぎ出すチャンスがあるでしょうし、おそらく人々も、その疑わしげな行動に気がつくでしょうし、場所や噂《うわさ》がいもづる式に暗黒街にも伝わるでしょうからね。だが、毎週取引場所を変えているギャングの尻尾をつかむのは、麻薬班にもまず無理ですよ。どうです、驚くべきからくりでしょう。そんなわけで、フィオレリが、情報屋や囮《おと》りを使ってやっとかぎつけたのは二か所だけです。それ以上つかめなかったのを見ると、いかにやつらの計画が水も洩らさぬ巧妙なものかがわかります。しかも、その場所を手入れしてみると、むろん一味はもぬけのからで──飛んじまってる。やつらは毎週午後|Soiree《ソアレ》(秘密会)をひらいて、最後のお客が引き上げるとすぐにその場所を空っぽにしていたんでしょうよ。
さて、やつらが本当に、いかに安全かについて考えてみましょう。奴らはお客と一定の経路で連絡していたにちがいない──きっと、限られたお客でしょうね。客があまり多いと、多いために危険になります。そこで、客はみんな金まわりのいい社交界の連中で、毎週電話でこっそり報らせを受けていたことになります──ほんの所番地だけ。お客のほうが、あとは心得ていますからね。お客がどうするか。どうしたがるか。中毒者が麻薬を絶望的にほしがって、その欲求を自制しがたいことを、われわれみんな、よく知っています。ところでここに、安全で、もっと大事なことには、定期的な薬の供給源がある。そうですとも、──お客たちはけっして、秘密を洩らしゃしませんよ。こんなうまい話があるもんですか」
「想像に絶する話だな」と、警視がつぶやいた。「みごとな仕組みだ。だが、今度こそ洗い上げてやれればいいが──」
「その答は情報通のおしゃべり好きにまかせるより仕方がありませんね。ぼくにはなんとも言えません」と、エラリーは笑いながら「しかしまあ、そのうちにわかってくるでしょうよ──
ところで、さっき言いかけたように、ここで、この殺しに直接関係がある二、三の問題が出て来ます。それは、バーニスがお客のひとりであるか──あった──と考えていいということです。それに、今までほんの影さえつかめなかった、後ろ暗い謎の動機が明るみに出始めたと思うんです。ウィニフレッド・フレンチ夫人は麻薬常習者ではありません。夫人の持っていたバッグから、ヘロインを詰めたバーニスの口紅棒が出て来た……夫人はそれを持ったまま死んだのです。じつに重要な付帯事実じゃありませんか、お父さん、じつに重要です。目下、殺しの動機がほかに見当たりませんからね、こりゃじつに目ぼしい点じゃありませんか。だが今度の事件では、動機なんか大して重要じゃないような気がしますね。かんじんな仕事は殺人犯人をひっとらえると同時に、麻薬団を一網打尽にすることですよ。この二つをやっつけるのは、推理づかれしてるぼくの頭ではなかなか骨が折れそうですよ……
もうひとつの問題は、スプリンジャーが麻薬取引の頭株か手先かということです。ぼくの考えでは──やつは仲間で、いっさいの事情を知ってはいるが、頭株じゃないようです。同時にまた、当然おこる疑問は──フレンチ夫人の心臓をぶち抜いた殺し道具を発射したのはスプリンジャーではないかという点です。さしあたりそこまで話をすすめないほうがいいでしょうがね。
最後に、麻薬団の仕事と、ウィニフレッド殺し──バーニスの失踪──とが、無関係な二つの事件ではなく、むしろ同一犯罪の不可分のものと見るべきではないかという点ですが、ぼくはひとつものと見ています。だが、偶発事件がおこらないかぎり──今のところ、事の真相をつかむことはできないと思いますよ。本陳述人は、さしあたりお手上げなので、着席してin toto《まとめて》事件を考えることにいたします」
エラリーは坐って、あとはひとことも言わずに、ぼんやりと鼻眼鏡をいじっていた。
警視とウィーヴァーとクルーサーは、いっせいにため息をした。
一同がそんなふうに坐って、静かに顔を見合わせていた時、下の通りから短くサイレンの音がひびいて、フィオレリとヴェリーと、手入れの一隊の到着を報らせた。
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二十九 手入れ
刑事や係官を満載した警察車は、上町に向かって、ウェスト・サイドを駆け抜けた。けたたましいサイレンの音で、往き交う車は、さっと道をひらいた。何千もの目が、いぶかしげに、その疾走のあとを追った。
警視が、排気のうなりにまけないような声で、クルーサーの話した個人タクシー運転手やマサチューセッツ鑑札の謎の自動車の件を、しょげこんでいるヴェリーに話していた。部長は運転手の話をすぐ洗ってみることと、その新情報を失踪娘の捜査にかかっている全員に周知させることを、憂鬱《ゆううつ》そうに約束した。クルーサーはくすくす笑いながら、警視の手から運転手の所書きを受けとるヴェリーのそばに坐っていた。
ウィーヴァーはいいわけをして、警察車が着いた時に、フランス・デパートへ帰っていった。
フィオレリは静かに坐って爪をかんでいた。そして、きびしく熱っぽい顔で、警視をちょっと引っぱった。
「九十八番街の所書きの場所へは、部下の一隊を先行させて、家を包囲してあります」と、フィオレリは太いしわがれ声で「万一にもずらかれないようにしてあります。部下がかくれて網をはってますから、鼠一匹見のがしっこありませんよ」
エラリーは静かに坐ったまま、目にとび込み、とび去る群衆を眺めていた。そして、視界をさえぎる金網を指先で、拍子をとってたたいていた。
強力なトラックは九十八番街に曲がって東の方へ爆進した。あたりは家ごみになり、うす汚くなってきた。車がなお、イースト・リヴァーに向かって突進すると、走りすぎる景色は、おんぼろビルと、みすぼらしい人の姿に変わった……
やがて車がぴたりと停まった。私服がひとり、一軒の戸口から道路のまん中にとび出して、意味ありげに、低い、二階建ての、ペンキのはげたぼろ家を指さした。ひどく、歩道にかたむきかかって、ちょっとした自然の震動ででもひっくりかえり、こなごなに崩れそうだった。表ドアはとじ、窓という窓はしっかりふさがれて、空家で人気がないようだった。
車のブレーキが軋《きし》るとすぐ、あちこちの角や戸口から十人ほどの私服が走り出すのが見えた。問題の家の荒れはてた裏庭におどりこんだ数名が拳銃を抜いて、建物の裏手にせまった。フィオレリを先頭にトラックから刑事や警官の一隊がとび下り、ヴェリー、警視、クルーサーがそれにつづいて、がたぴしの木の階段をかけ上がって表ドアにせまった。
フィオレリがひびのはいっているドアの鏡板をどんどんとたたいた。こそりとも返事はなかった。クイーン警視の合図で、ヴェリーとフィオレリが頑丈な肩をぶつけてドアを押し破った。木片がとびちり、ドアがめりめりとこわれると、薄暗くほこりだらけな室内があらわれた。こわれかけた古いシャンデリアと、絨毯《じゅうたん》も敷いてない二階への階段が見えた。
警官隊は拳銃をふりかざして建物にとびこみ、片っぱしからドアをあけ、隅々に押し入って、二階《うえ》と階下《した》を、同時に調べた。
この時、エラリーは、みなの後ろをぶらぷらと歩きながら、まるで奇跡のように家の外に集まり、制服巡査の警棒にせきとめられて、あっけにとられている群衆のさわぎを、さもおもしろそうに見ていたが、すぐに手入れが失敗だったのを悟った。
家は全く空っぽで、人がいたと思えるかすかな形跡すらなかった。
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三十 挽歌
一同はほこりっぽく荒れはてた部屋《へや》──古風な応接間で、見るからに尾羽打ちからした名残《なご》りをとどめるヴィクトリアふうの暖炉がある──その部屋の中に立って静かに話し合っていた。フィオレリは、やり場のない憤りにわれを忘れていた。そのどす黒くでっぷりした顔は煉瓦色《れんがいろ》になり、炉の消し炭を、部屋の隅まで蹴ちらした。ヴェリーは、いっそう沈鬱《ちんうつ》な顔をしていた。警視は失敗に終わった手入れを、あきらめ顔で見ていた。かぎたばこを一服やると、刑事を出して、近所にいるかもしれない家の|さはい《ヽヽヽ》か管理人を、探しにやった。
エラリーは無言だった。
くだんの刑事は、まもなく、大がらな、青ざめたニグロを連れて来た。
「お前がこの家の|さはい《ヽヽヽ》か」と、警視が、つっけんどんにきいた。
ニグロはごみだらけの帽子をとり、足をもじもじしながら「さいでがすよ、旦那」
「なんだね? ──|さはい《ヽヽヽ》なのか、管理人なのか」
「そんなもんでがす。あっしは、このブロックの家をみんなみとりますだ。借り手がくると、家主の代わりに貸しますんで」
「そうか。この家には昨日、人がはいっていたかね」
|さはい《ヽヽヽ》は勢いよく首を振った。「さいでがす、旦那。四、五日前にお客が来て、この家を全部借りたいってこってね。紹介所の人がついて来て、そう言うとりました。一か月分の家賃を紹介所の人に払っとりました。この目で見たんでがす」
「借り手はどんな男だったね」
「背が低くて、黒い口ひげをのばしてやした」
「いつ越して来た?」
「そのあくる日の──日曜日でさあ。車で家具を積んで来やした」
「そのトラックに、運送会社の名がついとったかね」
「いいや、旦那、たしかについとりませんでした。まるっきりなしでさあ。普通の無蓋車で、黒い防水布をかけてやした。トラックには全然、名がついてませんでした」
「それで、その黒い口ひげの男は、たびたび見かけたかね」
ニグロは頭をかいて「いいや、旦那。そうは言えないんで。なんしろ、昨日の朝まで、まるっきり見たことのねえ顔でしてね」
「その時はどうだった?」
「その時は、また引っ越しでがした、旦那。あっしには何も言わずに、朝の十一時ごろ、同じトラックがやって来て、運ちゃんがふたり家へはいったかと思うと、すぐに家具を運び出して、トラックに積んで行っちまったんでさあ。またたく間でがした──家具はどっさりじゃありませんからね。その時、口ひげの男が家から出て来て、運ちゃんに何か言って、どこかへ歩いて行くのを、あっしは見てやした。トラックもすぐ行っちまいました。それに、口ひげの男は、歩き去る前に、紹介所の人が渡した鍵を、あそこの玄関の前に、放り出していきましただ」
警視はしばらくヴェリーに低い声で話してから、ニグロの方へ向き直った。
「この四日の間に、この家へだれかはいるのを見たかね」と、警視が「特に火曜日の午後だ──昨日の」
「それが──そうなんで、旦那、昨日だけでさ。その前はだれも来ねえんでさあ。うちのばあさんは、いつも一日じゅう戸口に坐ってるだが、昨日のひるから、この空家に、ごまんと白人が押しかけて来たって、昨夜《ゆうべ》言っとりましただ。みんな、家がしまっとるのを見て、がっかりしたらしかったそうでさ。そう、十人ぐれえだったとかで、みんなすぐ帰っちまったそうでがす」
「ご苦労だった」と、警視がゆっくり言った。「お前の名と住所と、お前が働いとる不動産屋の名を、あの男に言っとけ。それからこのことは口をしっかりとじて、人に言うんじゃない、覚えとくんだぞ」
ニグロは固くなって、求められた情報を、口ごもりながら麻薬班の刑事に伝えると、あわてて部屋を出て行った。
「さあ、これですんだ」と、クイーン警視が、かたまっているヴェリー、エラリー、クルーサー、フィオレリに言った。「風をくらって逃げたんだ。臭いと感じて、ずらからざるをえなかったんだな──客に麻薬を売るひまもなかったらしい。現在、この町に、ひどい常習者が十人ぐらいはいるにちがいないな」
フィオレリがうんざりしたような身ぶりで「さあ、引き上げよう」と、うなるように「けちをつけやがったな、あのギャングどもは」
「運が悪かったですな」と、クルーサーが「早いとこやったにちがいないですよ」
「なんとかして、トラックをつきとめてやるぞ」と、ヴェリーが「手を貸してくれないか、クルーサー君」と、にやにや皮肉った。
「冗談でしょ」と、クルーサーが人がよさそうにことわった。
「もめるんじゃない、いまさら」と、警視がため息をして「やってみろ、トマス。注意しとくが、そいつは自家用トラックで一味の仕事だけをやっとるやつだぞ。それに、どうやらギャングどもは、今ごろはふるえあがって鳴りをしずめとるだろう。足どりをつかむのは急にゃいくまい。どうだな、エラリー」
「ぼくは」と、エラリーが手入れが始まってから初めて口をひらいた。「そろそろ家へ引き上げたらいいと思いますね。苦杯をなめたってとこですよ──」と、しょんぼりほほえみながら「どう割引きしてもね、今のところ」
フィオレリとヴェリーが警官隊をまとめて、輸送車で本部に引き上げ、九十八番街のあばら家の外には、見張りの制服をひとり残した。クルーサーは、ひらりと車に乗りこむがっちりしたヴェリー部長の横腹を、いたずらっぽく突っつくと、早々にフランス・デパートへ帰っていくことにした。
「店ではうろうろと私を探してるでしょうよ」と、にやにやしながら「ともかく、これで仕事に戻れるってわけですよ」
クルーサーは流しのタクシーを呼びとめて、西に向かい南に曲がった。クイーン父子は別のタクシーで、その後につづいた。
エラリーは車で薄い銀時計を取り出し、おもしろそうに文字盤を見つめていた。警視がその様子を不審そうに眺めた。
「なぜ、家へ帰ろうというのかわからんぞ」と、警視が不服そうに「もう、役所の出勤時間にひどく遅れとる。机の上には仕事が山積しとるだろう。今朝は数か月ぶりに、初めて朝の点呼をさぼっちまった。それにさぞウエルズが何度も電話をかけてきただろうよ。そして──」
時計に目をこらしているエラリーの唇に、微笑がうかんだ。警視はぶつぶつ言いながら、やがて黙りこんだ。
タクシーが八十七番街の褐石の住居の前でとまると、エラリーは運転手に料金を払い、父親をやさしくせきたてて階上にあがらせ、ジューナがふたりの後ろでドアをしめるまで、何も言わなかった。
「十分だ」と、満足そうに言い、時計のふたをぱちりと閉じて、チョッキのポケットにもどしながら「九十八番街とイースト・リヴァーの南から反対側の八十七番街までの時間としては、普通のところでしょうね」と、にやりとして軽いコートを脱ぎすてた。
「また神がかりになったのか」と、警視が息をきらせながら言った。
「狐みたいにね」と、エラリーは言い、電話をとって、フランス・デパートの番号をかけた。「店かね。書籍部のスプリンジャーさんを出してください……もしもし、書籍部? スプリンジャーさんを、どうぞ……何? あなたはどなた?……おお、そう……いや、それならいいんです。ありがとう」
エラリーは受話機をかけた。
警視は不安にたえかねて口ひげをひねっていたが、エラリーを見つめて「お前の考えでは、スプリンジャーが──」と、雷声で言いかけた。
エラリーはさらに動じる色もなく「スプリンジャー君は、若い助手の女の話では、五分ほど前急に気分が悪くなって、今日はもう帰らないと言って、なんだかあわてて出て行ったそうです」
老人はがっかりして椅子に崩れこみ「一体どうしてこんなことが予想できなかったのかな」と言い「やつはきっと、時間まで店にいるだろうと思っとった。家へ帰るとやつは言いおったんだな。それじゃ、もう二度とお目にぶらさがれまいよ」
「おお。ぶらさがれますよ」と、エラリーが、穏やかに言った。
そして例の引用癖を出した。「[準備は戦いのなかばなり。警戒して失う何ものもなし]あの立派なスペイン紳士《ドン》の言っていることは平凡な真理ですよ、|お父さん《ペードル》」
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三十一 アリバイ──マリオンとゾルン
姿をくらましたジェームス・スプリンジャーを口ぎたなく呪いながら、警視は急いで本部に行ってくるといって出かけた。残ったエラリーは、開いた屋根窓に、気持ちよさそうに身をのり出して、たばこをふかしながら、考えにふけっていた。ジューナは、むじゃきな猿みたいに、エラリーの足許の床に坐って、部屋に流れこむやわらかい日光を、目ばたきもせずに浴びていた……二時間経って、警視が戻ってみると、エラリーはたばこをくわえて机に向かって、覚え書きの束に目を通していた。
「まだそれにかかっとるのか」と、クイーンは、急に気がかりそうにきき、帽子と外套を椅子に投げ出した。それを、ジューナが音もたてずに拾い上げて戸棚にかけた。
「まだ、ひっかかっているんですよ」と、口を合わせたが、エラリーの眉間《みけん》には深い|しわ《ヽヽ》が刻まれていた。それから立って、考えこむように覚え書きを見ていたが、やがてため息をして机にしまいこみ、肩をすくめた。そして、父の乱れた口ひげと高いカラーに目を向けたときには、そのしわは消えて、きげんのよさそうな、なめらかな、かすかな細い線になっていた。
「本部では、何も変わったことはありませんでしたか」と、同情するようにきいて、また、窓辺に腰かけた。
警視は、せかせかと絨毯の上を歩きまわった。「さっばりだ。トマスがクルーサーのいっとった運転手に当たってみたが──どうやら、またしても袋小路にはまりこんだらしいぞ。あの運転手は、例ののっぽで金髪の誘拐者の人相を、かなりはっきり話してくれたから、むろん東部全域に電報で手配しといた。特にマサチューセッツにな。例の車のとバーニス・カーモディの人相書きもだ。いまや待つより手がない……」
「ふーん」と、エラリーはたばこの灰を払いながら「待ってても、バーニス・カーモディを墓場から連れもどせないでしょうね」と、急に熱っぽく言った。「それに、ひょっとするとまだ生きているかもしれない……捜査を東北方面に限るべきじゃなかったですね、お父さん。このギャングは抜け目がありませんよ。鑑札すりかえの古い手を使ったかもしれませんしね。実際は、車を変えて南へ向かったかもしれない──どんな手だってありますからね。実際、このニューヨークのどまん中でバーニス・カーモディが、生死のいかんにかかわらず、見つかったとしても、あえて、おどろくには当たりませんからね。要するに足どりがセントラル・パークで消えているというだけで……」
「トマスが目を光らせとるし、部下どもが八方へとんどる」と、警視がたよりなさそうに「それにトマスは、やつらの手口にはお前同様に通じとるよ。ちょっとでも手がかりがあれば、書きとめて──娘もろともギャングどももひっとらえるさ」
「|女を探せ《シエル・シエ・ラ・フアム》」と、エラリーは気軽に言って……坐って考えこんだ。警視は両手を後ろに組んで、大股で行ったり来たりしながら、しばらく、エラリーを不審そうに見つめていた。
「本部に、マリオン・フレンチが会いに来た」と、警視が、急に言った。
エラリーがゆっくり頭を上げて「そうですか」
老人がくすくす笑って「びっくりするだろうと思ったがな……そうなんだ、あの娘は、今朝、わしがまだここにいる間に、五、六回も電話をかけて来たそうで、ようやく、わしが役所に顔を出すと、とても、やきもきしておって──まあ、興奮というほどでもないが、しきりに何か取越し苦労をしとるんだ。それで、ふとお前のことを考えてな──お前が思うとるよりわしはいつもお前のことを考えとるんだぞ、ついでに言うとくが──ここで会いたいと言うといた」
エラリーはにこりとしただけだった。
「ウィーヴァーが、あの娘に何か話したんだろう」と、警視は口をとがらせて続けた。
「お父さん」と、エラリーがふき出して「あなたのお見通しには、時々、どぎもを抜かれますね」
ドアのベルが鳴り、ジューナが迎えに走った。マリオン・フレンチが、まっ黒なスーツ、意気な黒い帽子で、かわいいあごで|しな《ヽヽ》をつくって外に立っていた。
エラリーは勢いよく立って手でネクタイを直した。警視が足早に出迎えて、控え室のドアをひろくあけ。
「どうぞ、どうぞ、お嬢さん」と、警視は満面笑みをたたえて、父親気分で迎えた。マリオンは、とまどったような微笑をジューナに向け、居間に通ると、おちついた低い声で警視に挨拶した。そして、エラリーの暖かい迎えの言葉に、頬を赤らめた。警視の親切なすすめで警視専用の肘掛椅子に坐ると、革の座席のはしっこにちょこんと腰かけ、両手を握りしめ、きゅっと唇を閉じた。
エラリーは窓のそばに立っていた。警視は椅子を引きよせて、娘の正面近くに座をとった。
「さて、何をお話しになりたいのですかな、お嬢さん」と、警視がうちとけた口ぶりできいた。
マリオンは、おずおずとエラリーを見て、伏目になり「私は──あのう」
「月曜日の夜、ゾルンさんのお宅を訪ねられたお話なんでしょう、お嬢さん」と、エラリーが微笑しながらきいた。
マリオンは息をのんで「どうして──どうして、それがおわかりですの」
エラリーはいいわけするような身ぶりで「知っているというようなものじゃありませんよ。つまり、当てずっぽうなんです」
警視ほマリオンの目をじっと見すえたが、相変わらず、穏やかな口調で「ゾルンさんに何かつかまれているんですかな──それとも、何かあなたの父上に直接関係のあることですかな」
マリオンは耳を疑うように、警視とエラリーを、見つめた。「まあ」と、少しヒステリーじみた笑い声をたてて「そんなこと、私は、ずっと、だれにも知れない秘密だと思っていましたわ……」と、晴れかけた顔が、また曇った。「筋道をたててお話ししたほうがよろしいと思いますわ。もうおききになったんですってね、ウィーヴァーが申しましたわ──」と、マリオンは口をとじてまっかになり「こんなことお話ししちゃいけないんですけれど──あのひと、私たちがそのことを話し合ったことは、黙っているようにと特に念を押したんですの……」
警視とエラリーはマリオンの無邪気さに、思わず声をたてて笑った。
「ともかく」と、マリオンはかすかに微笑しながら「あなたがたはおきき及びだと思いますわ──あのう、私の義母《はは》とゾルンとのこと……本当は噂だけで、それ以上のことは何もございませんのよ」と、叫ぶように言ったが、すぐおちつきをとりもどして「でも、実は私にもはっきりとはわかりませんの。それで、私たちは──そりゃ一生懸命に──父の耳にそんないやらしい噂がはいらないように努力しましたの。でも、どうやら、完全に成功したらしくもございませんわ」マリオンの目に、急に恐怖の色がもえ上がり、口をつぐんで、床を見つめた。
エラリーと警視が目くばせした。「それから、お嬢さん」と、警視が相変わらず猫撫で声で促した。
「そのうちに」と、マリオンはかなり早口になって──「偶然に、その噂を裏打ちするようなことを耳にいたしましたの。大したことではないんですの──ふたりの仲は、けっして深入りしていたわけではないんですが、危険になりかけていたんです。私にさえわかりましたもの……月曜日には、そんな状態でしたわ」
「父上に話されましたか」と、警視がきいた。
マリオンは身ぶるいして「いいえ。父の健康や、名声や、それに──心の平和を守ってあげなければならないんですものね。私はウェストリーにさえ相談しませんでしたわ。あのひとはきっと私のすることを──いえ、したことを、引きとめたでしょうからね。私はゾルンさんと、奥さんを訪ねましたの──」
「それで?」
「おふたりのアパートへまいりました。私は全く思いつめていたのです。ちょうどお夕飯のあとで、おふたりともいらっしゃるのを知っていましたの。それに、ゾルンの奥様にいてほしかったのです。と申しますのは、奥様は知っていらしって──魔女のように嫉妬《しっと》していらっしゃったんですものね。脅迫までなさって──」
「脅迫したんですか、お嬢さん」と、警視がききとがめた。
「おお、それはなんでもないことなんですのよ、警視様」と、マリオンが急いで打ち消して「ただ、それで、あの方がいっさいご存じなのがわかったんですの。そして、そりゃあの方にもかなり責任がございますわ、ゾルン様が恋愛なさるなんて──ウィニフレッドなどと。奥様は──そりゃとてもこわい方で……」と、力なく微笑した。
「あなたがた、私をいやらしい金棒引きだとお思いでしょうね……でも、私は、おふたりの前で、ゾルン様を責めて──おやめになってくださいとおたのみしましたの。奥様はとてもおそろしくお怒りになって、悪態をつきはじめましたわ。悪いことはみんなウィニフレッドのせいにしてうらみつらみをおっしゃるんです。声をいからせてひどいことをおっしゃいましたわ。ゾルン様は私と議論しようとなさいましたが──ふたりの女が責めたてるのに閉口してその気力も失われたのでしょう、怒って、アパートから出て行かれましたの──それで私は怖ろしい奥様とふたりきりになりましたの。あの方、まるで気が狂ったようでしたわ……」と、マリオンは肩をふるわせた。「それで私、少しこわくなって──そう、駆けるようにして逃げたろうと思いますの。廊下にまで奥様の金切り声が追ってきましたの。……それから、それだけですわ、警視様。それだけ」と、口ごもりながら「ゾルン様のアパートを出ましたのは十時ちょっと過ぎでした。ぐったりして気分が悪くなりました。それで昨日お話しいたしましたように、本当に公園を歩いていたのです。くたくたになって倒れるまで歩いて家に帰ったんです。ちょうど、真夜中ごろでした」
ちょっと沈黙があった。無表情に娘を見ていたエラリーが頭をそむけた。警視が、咳ばらいした。
「すぐ床にはいられたかな、お嬢さん」と、警視がきいた。
娘は警視を見つめて「それは、どういう意味でございますの……私は──」また恐怖の色が目にうかんだが、娘は元気よく「はい、警視様、すぐ寝《やす》みましたわ」
「あなたがお宅にはいられるのを、だれか見た者がいますか」
「いいえ、だれも」
「だれにも会わず、だれとも話さなかったんですな」
「はい」
警視が八の字をよせて「そうですか。ともかく、お嬢さん、あんたのしたことは正しい──ひとつだけはね──わしらに話してくれましたからな」
「お話ししたくなかったんですけど」と、娘は小さい声で「今日、ウェストリーに話しましたら、お話ししなければいけないと申しますので、それで──」
「なぜ話されたくないんですか」と、エラリーがきいた。マリオンが話し出してから、初めてエラリーが口をきいたのだった。
娘はかなり長く黙っていた。やがて、心をきめたらしく「お答えいたしかねますわ、クイーン様」と言って、腰を上げた.
警視もすぐ立ち上がった。そしていやに白々しい空気の中を、娘をドアまで送って行った。
警視が戻ってくると、エラリーがくすくす笑って「まるで天使のように透明ですね」と言い「そんなに苦い顔をしないでくださいよ、お父さん。ときに、わが友サイラス・フレンチ氏のアリバイは、もう調べましたか」
「うん、それだが」と、警視は情けなさそうな顔で「それが、昨夜ジョンスンに当たらせた。今朝報告して来たが、フレンチは、たしかに、グレート・ネックのホイットニーの家に行っとったんだ。月曜日の夜九時ごろ、ちょっと胃が痛んだとかで、すぐ寝たんだそうだ」
「偶然の一致ですかね」と、エラリーがにやにやした。
「えっ!」と、警視が苦い顔で「とにかく、あの男にとっては有利な証拠になるな」
「そりゃ、そうですね」と、エラリーが腰かけて長い足を組んだ。「こりや、純粋に頭の遊戯ですからね」と、いたずらっぽく「べつにどうってもんじゃありませんよ。でも、いいですか、サイラスが九時に寝たとします。かりに、サイラスが宿主に知らせずにニューヨークに帰りたいと思ったらどうなるでしょうね。あの晩、急にね。サイラスは家を抜け出してとぼとぼと道を歩く……待てよ、ひょっとするとだれかが、あんなに朝早くホイットニーの車で発ったサイラスを見ているでしょうよ」
警視は目をむいて「むろん、運転手が見とる──あの男を市まで運んだんだ。ジョンスンの話だと、フレンチは他の者が起き出すずっと前に出発したそうだ。だが、運転手となると」
エラリーが笑って「だんだんよくなりますね」とつづけた。「運転手なら口どめできますよ。きっとそうしてる……すると、わが悪徳防止のえらい親玉は、邸を抜け出し、おそらく共犯者の、あの運転手が、こっそりと、駅まで送ったんでしょうよ。ちょうどその時刻に列車があります。三週前の月曜の夜、ブーマーの家から帰るんでその列車に乗ったから、ぼくはよく知っていますよ。ペン〔ペンシルヴェニア〕駅につくのは、たった三十分ぐらいのものです。デパートの貨物口からすべりこむのにちょうど間に合う……」
「だが、そうすると一晩じゅう、店にとじこめられなくちゃならんぞ」と、警視がうなった。
「そりゃそうです。でも、あの場合、もの分りのいい運転手がいて、アリバイはたててくれるんですからね……造作もないことじゃありませんか」
「おお、ばか言うな」と、警視がどなった。
「そうじゃないとは言いませんがね」と、エラリーは目をぱちぱちしながら「でも、覚えといていいことですよ」
「おとぎ話だ」と、警視がかみつき、ふたりは一緒に笑った。「それはそうとアリバイを調べる手配はしておいた。役所からゾルンに電話して、ここへ来るように言っておいた。マリオン・フレンチの話と合うかどうか、昨夜十時以後何をしとったか調べてみたい」
エラリーは冗談半分の態度を引っこめて、不満そうな顔をし、つまらなそうに額を撫でた。「みんなのアリバイを調べるのは」と、言った。「それはそれなりに、いい考えでしょうね。ゾルン夫人をここに呼ぶのも悪い案じゃないでしょうよ。だがぼくはその間、禁欲主義者たちの仲間入りをして口を閉じていますよ」
警視はあちこちに電話をかけ、その間、ジューナがあわただしく電話帳をくった。エラリーは安楽椅子にぐったりとよりかかって、目を閉じていた。
三十分ほどすると、ゾルン夫妻がクイーン家の居間に来て、警視と向かい合って坐っていた。エラリーはずっと遠くの隅に坐り、つき出た本箱のかげに、ほとんど隠れていた。
ゾルン夫人は骨組みの大きな女で、肉付きがよく、ばら色をしていた。冷たいみどり色の目と大きな口で、ちょっと見には三十がらみだが、よく見ると、あごと目のまわりに小じわがあって、見かけより十歳はふけていた。みなりは流行の尖端をゆき、なんとなく横柄だった。
マリオンの話にもかかわらず、ゾルン夫妻はとても仲がよさそうだった。ゾルン夫人は夫が警視を紹介するのを、しとやかな態度で受けて、夫に話しかけるたびに、甘い声で[ねえ、あなた]といちいち言うのだった。
警視は抜かりなく夫人を目で測り、言葉に手加減を加えまいと心をきめた。
まず、ゾルンの方へ向いて「お呼びしたのは、今度の捜査の当然の手続きとして、先週月曜日の夜の、あなたの行動を説明していただきたいからです、ゾルンさん」
取締役は禿げ頭をさすって「月曜日の夜ですな。つまり──事件のあった夜ですな、警視さん」
「そうです」
「あんたは言いがかりをつけて──」と、ずっしりとした金縁眼鏡の奥の目に、さっと怒りをこめた。ゾルン夫人がちょっと指で合図した。ゾルンは魔法をかけられたようにおちついた。「私はアパートで」と、何事もなかったかのように「家内と食事をしました。ふたりは夕方はずっと家にいました。そして十時ごろ、アパートを出て、第五アヴェニューと三十二番街の角のペニー・クラブへまっすぐに行きました。そこでグレーに会い、三十分ぐらいホイットニーとの合併問題の話をしました。そのうちに頭痛がしてきたので、散歩でもして治したいとグレーに言い、おやすみを言って私はクラブを出たのです。アヴェニューをずっと歩いて、実際、七十四番街の家まですっかり歩きづめでした」
「家に着いたのは何時ごろでしたな、ゾルンさん」と、警視がきいた。
「たしか十二時十五分前でした」
「奥さんは起きておられましたか──奥さんに会われましたか」
大柄なばら色夫人が、夫に代わって答えたいと言った。
「いいえ、警視様、実は会いませんでした。主人《たく》がアパートを出ましてから、すぐに召使たちにひまをやって、私はやすむことにいたしました。ほとんどすぐに寝入ったものですから、主人《たく》が帰ってきたのも気がつきませんでした」と、夫人は大きな白い歯を見せてにっこりした。
「どうもよくのみこめませんが、どうして──」と、警視がいんぎんに言いはじめた。
「主人《たく》と私は別々の部屋で寝《やす》みますのよ」と、夫人が笑《え》くぼを浮かべて言った。
「ふーん」と、警視は、夫人と話しているあいだ、静まりかえって坐っていたゾルンの方へ、もう一度向き直って「散歩中にだれか知っている人に会われませんでしたかな、ゾルンさん」
「いや──だれにも」
「アパートに帰られた時、うちのだれかに会いませんでしたか」
ゾルンは太い赤ひげをいじっていたが「だれにも会いませんでしたよ。アパートの夜番がひとり、十一時以後は電話の交換台についているだけですが、私が戻った時には座をはずしていました」
「たしか、エレヴェーターは自動式でしたな」と、クイーン警視がさりげなくきいた。
「ええ──そのとおりです」
警視はゾルン夫人の方を向いて「朝は何時にご主人にお会いでしたか──火曜日の朝です」
夫人はブロンドの眉を弓なりに張って「火曜日の朝──でございますね……そうそ、十時でございましたわ」
「ご主人はすっかり身支度をすまされていましたか、奥さん」
「はい。私が居間にはいりました時には、新聞を読んでいましたわ」
警視はうんざりしたように微笑して、立って室内をひとまわりした。やがて、ゾルンの前で足を停めると、鋭い目で睨みつけた。「なぜ、フレンチ嬢が月曜日の夜、お宅を訪ねたことを話さなかったのかね」
ゾルンがしゅんとなった.マリオンの名がゾルン夫人に与えた効果は篤くべきものだった。顔からはさっと血の気がひき、ひとみが虎のようにぎらぎら光った。たまりかねて口をきったのは夫人だった。
「それは──」と、低い、激しい声で言ったが、からだには深い怒りがみちみちていた。夫人の顔から、つつましい仮面がはがれて、抜け目のない、残忍な──年増《としま》の本性があらわれた。
警視は、夫人には耳を傾けずに「ゾルンさん、どうなんです」
ゾルンは神経質に、舌で唇をしめした。
「そのとおりです──本当です。そんなことはなんの役にもたたんと思いましたもので……ええ、フレンチ嬢が見えました。そして十時ごろ、帰りました」
警視はじりじりした身ぶりで「フレンチ夫人と君の関係について話したんでしょう、ゾルンさん」ときいた。
「ええ、ええ、そうです」その言葉は、いかにも、ほっとしたような口調だった。
「奥さんがいきりたたれたんでしょう」
夫人の目が、冷たいみどり色の炎を放っていた。ゾルンは口ごもって「はい、そうです」
「奥さん」夫人の目はまたヴェールをおろしていた。「月曜日の夜は十時ちょっと過ぎに寝《やす》まれて、翌朝の十時まで、お部屋を出なかったと言われましたな」
「はい、そう申しました、クイーン警視様」
「そうでしたら」と、警視が言葉を結んだ。「今のところ、これ以上、何もうかがうことはありません」
ゾルン夫妻が引き上げた時、警視は、エラリーがひっそりと片隅に坐って、黙って、ひとりで笑っているのを見た。
「何がおかしいんだ」と、老人がむっとして言った。
「ああ、お父さん──こりゃ、てんやわんやですね」と、エラリーが叫ぶように「なんとも手のつけようがないな。よくもこうみごとにくいちがったもんですね……今の会談を、どう思いますか、お父さん」
「お前の言うことは、てんでわからんが」と、警視がうなるように「わしにわかっとる唯一の点は、月曜日の夜十一時半から火曜日の朝九時少し過ぎまでの間のアリバイに、目撃者の証人を立てられんやつなら、だれにでも、この殺しができたということだ。仮定を立ててみよう。かりにXに殺しの可能性があるとしてみると、Xは月曜日夜十一時半以後、だれにも見られていない。家に帰って寝たと言っとる。その目撃者はおらん。となると、そいつは家に帰らなかったかもしれんし、貨物口からフランス・デパートに忍びこみ、翌朝の九時に店を出て、家に帰り、だれにも見られずに自分の部屋にすべりこみ、十時半ごろにのこのこ姿をあらわして、たくさんの人々に、わざと姿を見せたのかもしれん。その場合、やつは一晩じゅう家で寝ていたから、犯罪を犯すことはできなかったという推定がなり立つ。しかも、物理的にはなお犯罪を犯しうるんだ……」
「まったく、まったく」と、エラリーが小声で「じゃあ、次の犠牲者をお呼びなさい」
「もう、そろそろ来るはずだ」と、警視は言い、顔の汗を洗いに浴室へはいった。
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三十二 アリバイ ──マーチバンクス
マーチバンクスはぷりぷりしていた。恨みでも抱いているような仏頂面をして、警視をじろりと見、エラリーを無視していた。そして、ジューナが受けとろうとするのを荒々しくことわって、ステッキと帽子を、ばたんとテーブルに置いた。すすめられないのに椅子に腰かけて、椅子の腕を不快そうに、こつこつとたたいた。
「よしきた」と、警視は思った。「目にものみせてくれるぞ」
警視はわざとらしく、かぎたばこを一服しながら、おもしろそうにマーチバンクスを見守っていた。
「マーチバンクス」と、ぶっきらぼうに「月曜日の夕方と夜は、どこにいたかね」
死んだ女の兄はむっとして「こりゃなんだね──拷問かね」
「そうしたければそうしてもいい」と、警視が、できるだけ不愉快な声で、やりかえした。「もう一度きく。月曜日の夜はどこにいたかね」
「どうしても知りたいなら言いますがね」と、マーチバンクスはかみつくように「ロング・アイランドに行ってましたよ」
「おお、ロング・アイランドか」と、警視は、一応、感心したような顔で「いつ行った? どこへ? いつまでいたかね」
「あんたたちは、いつも[物語]をききたがるんだからな」と、マーチバンクスは、足を絨毯の上にしっかりとかまえて、皮肉るように「わかりましたよ。月曜日の夕方、七時ごろに市を出ました。自分の車で……」
「自分で運転したのか」
「そうですよ、私は──」
「だれか一緒だったか」
「いいえ」と、マーチバンクスは大声で「物語が聞きたいんでしょう。私は──」
「続けたまえ」と、警視が紋切り型に言った。
マーチバンクスは目をむいて「だから言いかけてるでしょ──月曜日の夕方の七時ごろ、自分の車で市を出かけたって。リトル・ネックに行くつもりでした──」
「リトル・ネックか」と、警視が怒ったように口を挟んだ。
「そうですよ、リトル・ネックですよ」と、マーチバンクスがいきごんで「それが、どうかしたんですか。そこの友だちの家のパーティに前から呼ばれてたんですよ──」
「友だちの名は?」
「パトリック・マローンです」と、マーチバンクスがややおちつきながら「行ってみると、家にはマローンの召使しかいなかったんです。召使の話だと、マローンはパーティの間ぎわになって、商用で出かけることになり、パーティはお流れにしなければならなかったと言うんです……」
「そんな思いがけないはめにぶつかるかもしれないのを、知っとったのか」
「マローンが用事で出かけるかもしれないのを知っていたかというのなら──ある意味では、知っていましたよ。あの日の朝早く、電話で、そんなことがあるかもしれないと、言ってきましたからね。ともかく、いてもしようがないので、すぐに友だちの家を出て、本街道を自分の丸太小屋の方へとばしたんです。そこから数マイル先で、時々遊びに行くので持ってる小屋です」
「そこには召使を置いとるかね」
「いいえ。狭いし、島にでかけるときには、ひとりのほうが好きですからね。そこでひと晩とまって、あくる朝、車で市に帰って来ました」
警視がひやかし顔でにやにやして「どうやら、君の陳述を証明できる人間には、そのひと晩もあくる朝も、ひとりも会わなかったということらしいな」
「どういう意味です? 何を考えてるんです?──」
「会ったのか、会わんのか」
「会いません」
「市に戻ったのは何時かね」
「十時半ごろです。寝坊ですからね」
「月曜日の夕方、マローンの家に着いて、召使と話したのは、何時かね」
「おお、たしか八時か八時半ごろです。正確には覚えてません」
警視は、さもおもしろそうに、部屋の向こうのエラリーに目くばせして、肩をすくめた。マーチバンクスは血色のいい顔をまっかにして、すっくと立ち上がった。
「もうおききになることがなければ、帰らしてもらいますよ、クイーン警視」と、帽子とステッキをとった。
「ああ、あとひとつきくが。坐りたまえ、マーチバンクス」マーチバンクスは、いやいや腰を下ろした。「君の妹殺しを、どう説明するかね」
マーチバンクスが忍び笑いして「そうきくだろうと思ってましたよ。お手上げなんでしょう。そりゃ、驚くにあたりませんね。市の警察ときたら──」
「きいたことに答えたまえ」
「説明なんかしないし、できやしませんよ」と、マーチバンクスが急にがなった。「そっちの仕事じゃないか。こっちの知ってるのは、妹が射殺されたことだけですよ。犯人を電気椅子でじゅうじゅういわせてほしいもんだ」と、息を切らせて言いやめた。
「うん、うん。当然、君が復讐の念にもえるのはよくわかる」と、警視がうんざりしたように「もう帰ってよろしい、マーチバンクス君、だが町を離れんようにな」
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三十三 アリバイ ──カーモディ
次に来たのはヴィンセント・カーモディだった。ひどく無口なのはいつもどおりで、その驚くべき長身を、折りたたむようにして、静かに審問の座についた。そして坐って待っていた。
「ああ──カーモディ君」と警視がそわそわしてききはじめた。こっとう屋はわかりきった質問には、あえて答えまいとしていた。「ああ──カーモディ君、ちょっとききたいことがあって来てもらったんだがね。わしらはフレンチ夫人と直接、間接につながりのある人たちすべての行動を一応しらべとるんだ。こりゃ純粋に形式だけのことで、君にもわかっとるだろうが……」
「ふーん」と、カーモディが、まばらなあごひげをいじっていた。
警視はおなじみの茶色のかぎたばこ入れから、急いでひとつまみして「さて、あなたの、月曜日の夜──殺しのあった──あの晩の行動を説明してもらえるといいんだがね」
「殺人」と、カーモディは無造作に「そんなものに興味はありませんね、警視。わたしの娘のほうはどうなっていますか」
警視はカーモディの無表情な細い顔が、いらだってくるのを見守っていた。「娘さんの捜査は当局の係のほうですすめていますよ。まだ見つけてはいないが、有望な新しい情報を手に入れたから、いずれ結果が出るでしょう。わしのきいたことに答えてください」
「結果ですって」と、カーモディはひどくみじめそうに「その言葉が、警察用語で、どんな意味か知ってますよ。あなたはさじをなげたんでしょう、そうなんでしょう。私は私立探偵に事件の調査をさせます」
「わしの質問に答えてくださらんか」と、警視がいらだった。
「おちついてください」と、カーモディが「月曜日の夜の私の行動が、この事件にどんな関係があるのかわかりませんな。自分の娘を誘拐する者があるでしょうか。だが、どうしてもと言われるなら、お話ししましょう。
月曜日の午後おそく、店のスカウトのひとりから電報が来ました。コネチカットのいなかで、初期のアメリカ家具がいっぱいある家を見つけたというのです。私はいつも、そういう種類の掘り出しものは、自分で調査することにしています。それで、グランド・セントラルで列車に乗り──九時十四分発列車──スタンフォードで乗り換えて、ほぼ真夜中に、やっと、目的地に着きました。本街道からずっと離れた場所です。所書きをもらって、すぐに家具の持ち主を訪ねて行きました。ところが、その家は空家でした。どうした手違いか今でもわかりませんがね。泊まる場所もないので──そこにはホテルがないのです──市に帰って来なければならなかったんです。乗り継ぎがうまくいかなくて、朝の四時まで、家に帰れませんでしたよ。それだけです」
「十分じゃないな、カーモディ君」と、警視が考えこみながら「市に帰って来た時だれかに会ったかね──たぶん、アパートででも」
「いいえ。真夜中でしたからね。だれも起きていませんでした。それに私はひとり住まいです。朝食はアパートの食堂で十時にとりましたから、給仕頭が証明してくれます」
「たぶん」と、警視がいいわけを認めないような顔で「旅行中には君を覚えとる人間にあっただろう」
「いいえ。列車の車掌が覚えてるかもしれませんがね」
「なるほど」と、クイーンは両手を背中にまわして組み、嫌悪《けんお》の色もあらわに、カーモディを睨んで「君の行動を全部書いて、本部に郵送してほしい。あとひとつきくが、君の娘、バーニスが麻薬常習だったことを知っとるかね」
カーモディは歯をむいて、椅子からとび上がった。たちまち、それまでの片意地な黙《だんま》りをすてて、ゆがめられた憤怒をむき出した。エラリーは思わず隅《すみ》の椅子で腰を浮かした。こっとう屋が、警視になぐりかかりそうな空気だった。しかし、老人は静かに立って、冷ややかにカーモディを見守っていた。カーモディは拳をにぎりしめていたが、やがて、静かに椅子にもどった。
「どうしてそれがわかったんです?」と、しめつけられるような声でつぶやいた。赤くなった、いかついあごの皮膚の下で、筋肉がぶるぶる波打った。「ウィニフレッドと私しか──だれも知らんと思っていました」
「ああ、するとフレンチ夫人も知っとったんだね」と、すぐに警視が「前から知っていたのかね」
「ついにばれたか」と、カーモディが、うなるように「情けない」と、やつれた顔をクイーンに向けた。「私は一年ほど前に気がついたが、ウィニフレッドは──」と、顔をこわばらして──「ウィニフレッドは全然気がついていなかったのです。母親のひいき目とでも言うんでしょうな」と、つらそうに「ばかな。あの女は自分のことしか考えないほうで……それで、二週間前に、話してやったのです。しかし、信じようとしないので、けんかになりましたよ。だが、しまいには信じました──私は娘の目を見てわかりました。私は口を酸っぱくしてバーニスにやめさせようとしたのですが、娘は恥しらずで、どうしても麻薬の入手先を吐かないんです。さじを投げて、ウィニフレッドにたのんだのです。私は失敗したが、ウィニフレッドなら成功するかもしれないと思ったんです。どうしていいかわからなかったんです……」と、低いつぶやき声になって「私は、バーニスを──どこかへ──どこへでもいい、連れて行って、癒してやるつもりだったのです。……するうちに、ウィニフレッドが殺され、バーニスが──いなくなっちまったのです……」と、その声が消え入った。目の下に大きな黒いくまができていた。この男は悩んでいる──いかに深く、どんなにかたくなな心で悩むのかが、隅に静かに坐っているエラリーにだけわかった。
やがて、ひと言も言わず、なんの説明もしようとせず、カーモディはさっと立つと、帽子とステッキをひったくるようにして、あたふたとクイーンのアパートをとび出して行った。窓に立つクイーン警視には、まだ拳を握りながら、気違いのように町を走り去るカーモディの姿が見えた。
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三十四 アリバイ ──トラスク
トラスクは約束の時間を三十分おくれて、クイーンのアパートに来た。だらだらとやって来て、だらだらとクイーン親子に挨拶し、だらだらと椅子に腰かけ、だらだらと硬玉のホールダーに気取ってさしたたばこにマッチの火をつけ、だらだらと警視の質問を待っていた。
月曜日の夜はどこにいたか? おお、町のあたりを──ぼんやりと、と、だらだらと腕を動かして、トラスクは口ひげの先をひねった。
「町のどの辺かね」そうですね、実は──思い出せません。最初に、どこかその辺のナイトクラブ。
何時だね? 十一時半ごろから始めたと思う。
十一時半より前はどこにいた? おお、友だちとの約束がフイになったので、最後のぎりぎりの時間に、ブロードウェイの劇場にはいった。
ナイトクラブの名は? 本当に、思い出せない。
[思い出せない]というのは、どういうわけだ? さよう──実は、闇酒を飲んだので、そいつにダイナマイトがはいっていたらしくてね──はっはっは。電灯を消すように、ぱっと正気がなくなった。ひどくのんじゃって、火曜日の朝十時に、ペンシルヴェニア停車場の便所で、顔に冷たい水をぶっかけるまで、何も覚えていません。とてもめちゃめちゃでした。ひどい一晩をすごしたにちがいない。おそらく朝になって、どこかのナイトクラブから、放り出されたんでしょう。それだけですよ。家にとんで帰って着がえをする時間がやっとあった。それからフランス・デパートの重役会に出た。
「立派なものだ」と、つぶやきながら警視はいやらしい小動物でも見るような目でトラスクを見つめた。トラスクは、灰皿に見当をつけて、たばこの灰をおとした。
「トラスク!」鞭《むち》うつようなクイーンの声で、のっぽでだらしのない重役が、はっと驚いてしゃんとなった。「どこのナイトクラブにはいったか、本当に覚えとらんのか」
「いいかね」と、トラスクはだるそうに、ぐったりと腰かけながら「この前の時も、ぼくをおどかしたね、警視。覚えていないと言ったじゃないか。全く、頭がからっぽになっちゃったんだ。何ひとつ思い出せない」
「そうか、そりゃまずいな」と、警視が苦々しく「もし、迷惑でなかったらきくがね──バーニス・カーモディが麻薬常習者だったのを知っとるかね」
「本当ですか」と、トラスクは坐り直して「すると、私の思ったとおりだ」
「おお、君は察しとったのか」
「いくどもね。バーニスは時々、じつに変でしたよ。中毒の徴候が、現われていました。私は[患者]をたくさん見てますからね」と、トラスクは、ものうく不愉快そうに、胸のガーディニアの花についたたばこの灰を払った。
警視がにやりとして「それを知っても、カーモディ嬢との婚約に尻ごみしたくなかったのかね」
トラスクは殊勝げに「いや、そんなことはありません。結婚してから癒してやるつもりだったんです。あの娘の家族のものに知らせないつもりでね。困ったもんだ──まったく」と、ため息をした。そして、また、ため息を重ねた。
「サイラス・フレンチとの関係はどうかね」と、警視がじりじりしてきいた。
「ああ、そのこと」と、トラスクは元気になって「絶対申し分なしですよ、警視。あなたは──そう──私の未来の義理の親父と一度話してみるといい。どんなものかわかりますよ、はははは」
「出てってもらおう」と、警視がきっぱり言った。
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三十五 アリバイ ──グレー
ジョン・グレーは手袋を丁寧にたたみ、上等な黒のダービー帽の中に入れて、明るくほほえみながら、ジューナに手渡した。そしてうやうやしく警視と握手し、適当な暖かみのある挨拶をのべながらエラリーに頭を下げ、警視のすすめるままに、椅子に腰を下ろした。
「これはどうも」と、白い口ひげを撫でながら、にこにこして「結構なお住まいですな。お見受けするところ、大変結構です。ところで、捜査のほうはいかがでしょうかな、警視。ツッツッ」グレーは絶えず目をくるくる動かしながら、元気のいい年寄り|おうむ《ヽヽヽ》のようにしゃべった。
警視が咳ばらいして「ちょっと調べたいことがありましてな、グレーさん。手続上のことです。お呼びたてしてご迷惑じゃありませんでしたかな」
「いいえ、けっして」と、グレーは愛想よく「サイラスを見舞って来たところですよ──サイラス・フレンチと言わにゃいけませんかな──あれも大変いいようです。ついでですが、大変いいようです」
「そりゃ結構」と、警視が「ところでグレーさん、ほんの法規上のことなんですがね、──あなたの月曜日の夜の行動を説明していただきたいんですよ」
グレーがぽかんとした。やがて、ゆっくりと微笑してから、くすくすとふきだした。「はい、はい。警視さん。まったく賢明なやり方ですな。念には念を入れなさる。じつにおもしろい。みんな同じような質問を受けにくるんでしょうな」
「ええ、そうです」と、警視が安心させるように「今日は、お仲間をたくさん、ここにお迎えしましたよ」それでふたりは笑った。グレーはいんぎんでまじめな態度になった。
「月曜日の夜? そうですな」と、考えながらひげをつまんで「そうそう、月曜日の夜はずっとクラブにおりました。ペニー・クラブ、ご存じでしょう。五、六人の仲間と夕食をとってから、玉突きをしました──いつものことです。たしか十時か、十時少し過ぎでしたろう、ゾルンが──もちろん、ゾルンはご存じでしょう、重役仲間のひとりです──あのゾルンと少しおしゃべりをしました。あのときは、来たるべき合併問題の議論をしました。それから、三十分ほどでゾルンは、頭痛がすると言って外へ出て行きました」
「なるほど、それで話はよく合います」と、クイーンがにやりとして「というのは、さきほどゾルンさんがここへみえて、あなたがたがペニー・クラブでお会いになった話が出ましたからね」
「そうですか」と、グレーがにこにこして「それでは、もうお話しすることは残っていないようですな」
「そうでもないですよ、グレーさん」と、警視は明るく舌打ちして「なあに、記録をととのえるだけのことですが──あの晩、あとはどう過ごされましたか」
「おお、いつもと同じことですよ。十一時ごろクラブを出て、歩いて家へ帰りました──あそこからそう離れていない、マジソン・アヴェニューに住んでいるんです。まっすぐに家へ帰って、寝てしまいました」
「おひとりでお暮らしですか、グレーさん」
グレーは顔をしかめて「不幸にして、女嫌いだものですから、家族はありません、警視さん。年寄りの女中が家事をやってくれています──私はアパートメント・ホテルに住んでいますのでね」
「じゃあ、家政婦は、あなたがクラブから戻られるまで起きていたんですね、グレーさん」
グレーはちょっと両手をひろげて「いいえ、ヒルダは土曜日の夕方、ジャーシー市の兄の病気見舞いに出かけて、火曜日の午後まで帰って来ませんでした」
「そうですか」と、警視はかぎたばこを一服やって「でも、きっと、だれかがあなたの帰宅を見たでしょう、グレーさん」
グレーははっとした顔で、また、例の目をまばたきながら微笑を浮かべた。「おお、あなたは、私のアリバイを──立証させようとしておられるんですね、警視さん」
「まあ、そういったところですよ」
「すると、もう何も申しあげることはありませんよ」と、グレーはうれしそうに「というのは、夜勤番頭のジャクソンが、私が建物にはいるのを見ています。私は郵便物が来ていないかをきいて、二、三分立ち話をしましたからね。それからエレヴェーターで部屋に昇ったのです」
警視の顔が明るくなった。「じゃ本当に」と、警視が「もう何も伺うことはありません。ただ──」と、ちらっと暗い表情をして「あなたが夜勤番頭と立ち話をして、階上《うえ》へ行かれたのは何時でしたかな」
「ちょうど、十一時半でした。ジャクソンの机の上にかかっている時計を見て、懐中時計と合わせたので覚えています」
「どちらのホテルですか、グレーさん」
「マジソンと三十七番街の角の、バートンです、警視さん」
「じゃあ、これで──エラリー、お前がグレーさんに、二、三おうかがいすることがなければ」
小柄な老重役は、いかにも意外そうに、すばやく振り向いた。部屋の隅に静かに坐って、ふたりのやりとりを聞いていたエラリーの存在を、すかっり忘れてしまっていたのだ。さあ来いと、いわんばかりのグレーを見て、エラリーは微笑した。
「ありがとう、お父さん──グレーさんに二、三おたずねしたいことがあるんですが、あまり長くお引きとめしてご迷惑じゃありませんか」と、エラリーがお客の方をたずねるように見た。
グレーは促すように「いいえ、少しもかまいませんよ、クイーンさん。なんでもお役に立つことでしたら──」
「そりゃどうも、では」と、椅子の中でエラリーがすらりと身を起こして、手足をのばした。「グレーさん、妙なことをおたずねしますが、あなたならお口が固いと信じますし、それに、フレンチさんに対するあなたの深いご友情と、あの方のご不幸に対してのあなたの厚いお心づかいを信じています。どうぞ率直に答えていただきたいんです」
「おっしゃるとおりに何でもしますよ」
「それでは、ひとつ仮定の問題を出させていただきますよ」と、エラリーが早口につづけた。「かりに、バーニス・カーモディ嬢が麻薬常習者だったとして──」
グレーが顔をしかめて「麻薬常習者ですって」
「そうなんです。それに、バーニスの母親や義父が、娘の病気やその症状に少しも気がついていなかったとしてみる。ところが、フレンチ夫人が突然、その真相を発見したと仮定してみましょう」
「なるほど、なるほど」と、グレーがつぶやいた。
「この仮定から、次の仮定の問題が出てきます。その場合、フレンチ夫人はどうするだろうとお考えですか」と、エラリーはたばこに火をつけた。
グレーは考えこんでいた。やがて、エラリーの目を見つめて「まず考えに浮かぶのは、クイーンさん」と、あっさり言った。「フレンチ夫人はそのことをサイラスに打ちあけないでしょうな」
「そりゃおもしろい。あなたは、あのふたりをよくご存じなので……」
「ええ」と、グレーがちょっとしわのよったあごを引きしめて「サイラスは生涯《しょうがい》の友ですからね。それに、おそらく、フレンチ家の知人の中では、だれにも劣らずあの夫人を、私はよく知っている──いや知っていたほうでしょうね。私は、サイラスの性質をよく知っていますし、夫人がその性質を心得ていることも知っていますから、夫人がそんなことを思いきってサイラスに告げるわけがないと確信します。夫人は固く自分の胸にしまっていたにちがいありません。もしかすると、前夫のカーモディには知らせたかもしれないが……」
「そこまでお話をすすめないことにしましょう、グレーさん」と、エラリーが「だが、夫人はなぜそのことをフレンチさんに秘《かく》しておくのでしょう」
「それは」と、グレーが率直に「サイラスは悪習──特に麻薬常用に対しては、非常にやかまし屋です。ご存じのように、あの男は後半生の大部分を、そのような悪習をできるかぎり市中から駆逐するために献《ささ》げているんですからね。それが、家族の中から出たとわかったら、きっと、気が狂うでしょう……だが、むろん」と、急いで言いたした。「あの男は知っていないでしょうな。夫人がそんなことはひとりの胸におさめていたにちがいありません。夫人は、内証で娘を癒そうとしたでしょうね、おそらく……」
エラリーがはっきり言った。「フレンチ夫人が、その問題を隠していたおもな理由のひとつは、娘のために夫の財産の大きな割り前を貰ってやるのが目当てだったんじゃないでしょうかね」
グレーが不愉快そうに「さよう──私にはどうも……そうね、真実を求められるなら、そうなるかもしれませんな。フレンチ夫人は計算高いんで──必ずしも狡《ずる》いというのじゃありませんが──打算的な、非常に実際的な女《ひと》でした。母親の情けとして、サイラスが死んだら、大きな遺産の分け前をバーニスにとらせたいと願っていたと思いますよ……ほかにも何か? クイーンさん」
「それでもう」と、エラリーが微笑しながら「十分です。大変、ありがとうございました、グレーさん」
「じゃ」と、警視が「これですみました」
グレーはほっとした顔つきで、ジューナから外套と帽子と手袋を受けとり、低い声で、いんぎんに挨拶をのべて出て行った。
警視とエラリーは、階段を町へ下りて行く軽いすばやい足音を聞いていた。
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三十六 [時が来た ──]
クイーン父子は黙って夕食をとっていた。ジューナも、黙って給仕し、黙ってあとかたづけをした。警視はかぎたばこ入れから茶色の粉をつまみ出し、エラリーは最初シガレットを、次にはパイプを、それからまたシガレットをつけた。その間じゅうひと言もしゃべらなかった。クイーン家ではさして珍しくないしみじみとした沈黙なのだ。
やがて、エラリーがため息をして、暖炉の火を見つめた。しかし、まず口をきったのは警視のほうだった。
「わしに関するかぎり」と、警視はがっかりした様子で「今日はまったく無駄だった」
エラリーが眉を上げて「お父さん、お父さん、あなたは日が経つにつれて怒りっぽくなりますね……あなたが近ごろ、忙しすぎて過労なのを知っていなければ、ぼくは腹をたてますよ」
「わしの、鈍感にか」と、警視が目をしばたたきながらきいた。
「いいえ、いつもの強い精神力がないことにね」と、エラリーは首をねじ向けてにやにやした。「今日の出来ごとが、なんの役にもたたなかったというつもりなんですか」
「手入れはどじをふむし、スプリンジャーはずらかるし、あの連中のアリバイからは、これといったものもつかめないし──お祝いのたねになるものは、さっぱり見つからん」と、警視がやりかえした。
「なるほどねえ」と、エラリーがしかめ面で「ぼくが楽観しすぎるのかもしれませんが──しかし、すべてがはっきりしてるじゃありませんか」
エラリーはすっくと立って、机の上をかきまわしはじめた。そして、分厚い覚え書きをとり出し、警視の疲れてどんよりした目の下で、手早くめくりながら目を通してから、それを書類箱に投げ戻した。
「すっかりすみましたよ」と、エラリーが改まって「完了です、あとは万歳を言うことと──証拠をつかむことだけです。手がかりはみんなつかみました──いやむしろ、フレンチ夫人殺しの犯人を情け容赦なくおびきよせる手がかりをつかんだといったほうがよさそうです。だが、この手がかりは、神聖な法廷や検察制度が要求するような確証にはなりませんがね。こんな場合、お父さんなら、どうしますか」
警視はいかにも自分がいやになったように、鼻にしわをよせて「わしにさっぱりわからん謎が、お前には、すべてはっきりしとるというのが癪《しゃく》だな。エル。わしはフランケンシュタインみたいな奴を育てあげて、こんな年になって、そいつにとっつかれるなんて……」警視はくすくす笑って、エラリーのひざに、少しおぼつかない手をかけた。
「立派なせがれだ」と、警視が「お前がいなけりゃ、どうしていいかわからんよ」
「およしなさいよ」と、エラリーが赤くなって「すっかり、ぐちっぽくなりましたね、お父さん……」ふたりはそっと指先をふれ合った。「さあ、しっかりして、警視殿。ぼくが決定を下すのを手伝ってください」
「うん、いいとも……」と、クイーンは当惑したように、身を引いて「お前は真相をつかんだという。説明はできるが証拠はない。それでどうなるというのだ……山勘だよ、エル。まるで手のうちが四のペアのくせにドローの前に大金を張り、本当に強い手のやつがねらっとるのに、もっと賭け金をせり上げようとするような、山勘だ。もっとせり上げてみろ、いたい目を見るぞ」
エラリーは考え深そうに「危い橋を渡ってましたよ……くわばら、くわばら」と、急に何か思いついて目を輝かせながら「なんてばかだったんだ!」と、すぐ叫んだ。「いい札をふところにかくしていたのに、すっかり忘れてた。山勘ですって! いまに、ぬらりくらり野郎のぬめり足をさらってやるぞ!」
エラリーは電話機を引きよせたが、ちょっとためらってから、愛情深くもの思いに沈んだ目で見つめている警視の方へ押しやった。
「これがリストです」と、紙片に走り書きしながら「重要人物連です。ぼくがこのやっかいな覚え書きを頭にたたきこんでいる間に、ひとつ、そのらっぱを吹いてみませんか」
「時間は──」と、警視がすなおにきいた。
「明日の朝、九時半」と、エラリーが「それから地方検事に、スプリンジャーを押えておくように電話していいですよ」
「スプリンジャー?」と、警視が大声をあげた。
「スプリンジャーですよ」と、エラリーが答えたあとは静かになり、時々警視の電話の声が聞こえるだけだった。
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【中口上と挑戦】
私は殺人小説を読んでいて、筋が解決の直前に来た時、本をおいて自分で論理的に分析して犯人を突きとめてみるのが、非常におもしろい頭の訓練になると思うことがしばしばあります。
……この特殊な珍味ある小説の食通たちの多くは、読むと同時に推理することに興味をもたれるものと信じるので、私は独自なスポーツマン精神にのっとって、読者に友好的な挑戦《ちょうせん》をすることにしました。……読者諸君、解決の部を読まないでいただきたい──フレンチ夫人殺しは何者か。……推理小説の愛好家には、勘を働かして犯人を当てようと努力する傾向が大いにあります。ある程度までは、それは避けえないものであるのを、私も認めましょう。しかし、論理と常識を働かせることは、大事なことですし、いっそう楽しみを増す源でもあります。……そこで、私は遠慮なく言明します。いまや読者諸君は、この段階で、フランス・デパート殺人事件の犯人を発見するに必要なあらゆる事実を十分知らされているのです。前がどうだったかを精細に検討すれば、結末がどうなるかが、はっきり理解できるはずなのです。|ではまた会う日まで《アリヴエデルシ》
E・Q
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最終の話
「|パリ警察《シュールテ》に四十年も勤めていれば、人間狩りの熱情もうすれると思われるかもしれないが、神様のおかげで、これがそうじゃない。少なくとも私自身の場合、あえて言うが、次から次へと、おもしろいことの連続だった。……愛すべき、アンリ・タンクヴィルは、モンマルトルの隠れ家に追いつめた時、目の前で喉《のど》をかき切ったし……ちびのシャルロは、降参する前の乱闘《メシー》で、私の忠実な部下ふたりを射殺し、善良なムーソン部長の鼻を少しばかりかじりとった。……いやはや、私も思い出にふけって多少感傷的になっているらしいが……これだけは今日でもはっきり言える。老いさらばえたとはいえ、追跡も最後の段階に来て、壁を背に、あえぎながら絶望的になっている獲物に、最後の一撃《クー・ド・メーン》を加えるスリルはけっして諦められない、──たとえ、トルコの神苑の永遠の愉悦をすべて与えられるとしても、それには代えられない。
――オーギュスト・ブリヨン著『一警視総監の回想録』
三十七 用意!
連中はひとりずつはいって来た──おどおどと、もの珍しそうに、無表情に、めんどくさそうに、ためらいがちに、見るからにびくついて。みんな静かにはいって来た。ある者は、厳重な警官の警戒網を意識し、ある者は緊張した空気にふるえあがり、ある者は自分たちのちょっとした行動をも見張り、計算する鋭い目を感じながら──大部分の者は迫りくる陰惨な破局を意識していたが、それがだれに、どんな重大な結果をもたらすかはわからないので、ただ推察するだけだった。
運命の木曜日の朝、九時半だった。みんなが黙って、重い足をひきずってはいったドアには、[サイラス・フレンチ私室]としるしてあった。……みんなは飾りけのないとりすました前室の中を抜けて、重々しく静まりかえっている書斎へ通り、屋根窓に向かって軍隊式にならべられている組立て椅子に意外な面持《おもも》ちで坐った。
その部屋にはみんな集まっていた。前列には、サイラス・フレンチ老が坐り、青白い顔をふるわせていた。そして、そばのマリオン・フレンチと、ひしひしと手を握り合っていた。マリオンの隣には、寝不足でやつれ顔のウェストリー・ウィーヴァーが坐り、フレンチの左には主治医のスチュワート医師が、職業的な鋭い目で患者を見守っていた。その隣には、きびきびして小鳥のようなジョン・グレーが坐り、時々医者のでっぷりしたおなか越しに、病人に何か耳うちしていた。
その後ろの列には家政婦のホーテンス・アンダーヒル、女中のドリス・キートンが、ぎごちなく坐り、口のすみで互いにささやき合ったり、おびえた目であたりをうかがっていた。
それにつづく列には……息をぜいぜいさせているマーチバンクス、時計のくさりをいじっている太っちょのゾルン、毛皮にくるまれ香水くさいゾルン夫人は、短いあごひげを撫でている男ぶりのいいフランス人、ポール・ラヴェリーにながし目を使っていた。トラスクは、衿《えり》に花をさしているが、まっさおで、目の下に大きな鉛色の|くま《ヽヽ》が出ていた。こっとう屋のヴィンセント・カーモディは、陰気なむっつりした頑固面《がんこづら》で、椅子に坐っていても、みんなの上に頭がつき出ていた。穏やかな物腰の店の総支配人アーノルド・マッケンジー。フレンチ夫人の死体を見つけたモデル嬢、ダイアナ・ジョンスン。それから、四人の守衛、オフラハティ、ブルーム、ラルスカ、パワーズ……
話し声はほとんどしなかった。前室のドアが開くたびに、みんなは座席で身《からだ》をねじまげ、首をのばし、何か悪いことでもしたように、互いに横目で見合い、ふたたびすばやく窓の方に視線を戻した。
会議用のテーブルは壁ぎわに押しつけてあった。テーブルの前の椅子の列には、トマス・ヴェリー部長と店の探偵主任ウィリアム・クルーサーが坐り、低い声で話していた。しかめ面の麻薬班長サルヴァトーレ・フィオレリは明るい黒い目を細めて、言い表わしようのないもの思いをじっと見つめているようで、その浅黒い肌の下で、例の傷あとがゆっくり脈打っていた。本部の指紋課の係員で、小柄で禿げ頭の[ジミー]もいた。
前室のドアにはブッシュ巡査が立って、戸口の警備という重要な役目を任されていた。たくさんの刑事たち、その中には、クイーン警視お気に入りの──ヘーグストローム、フリント、リッター、ジョンスン、ピゴット──もまじり、会議テーブルの真向かいの壁ぎわに、かたまっていた。部屋の四隅には帽子を手にした制服警官がひとりずつ無言で立っていた。
クイーン警視もエラリーもまだ姿を見せていなかった。みんなは、小声でそのことをささやき合った。そして、ブッシュ巡査の広い背中がよりかかっている控え室のドアの方を横目で見ていた。
しだいに、目に見えて、別の沈黙がひろがってきた。ひそひそ声は、ふるえ、たじろぎ、ついには消えた。あたりの様子をうかがう目はさらにこそこそするようになり、椅子で身動きする音がさらにはげしくなった。サイラス・フレンチが激しく|せき《ヽヽ》こみ、からだを折りまげて苦しがった。スチュワート医師が心配そうに見つめていた。老人の発作がとまった時、ウィーヴァーが遠くから老人の方へ身をのり出した。マリオンがびっくりしたようだった。すぐにふたりの頭が互いに近づいて触れ合った……
クルーサーが顔を撫でて「一体、なんでぐずぐずしとるんだね。部長」ヴェリーがむっつりして頭を振った。「ねえ、どうしたんだろう?」
「うるさいな」
クルーサーが肩をすぼめた。
沈黙がさらに深まり、みんなは石のように固くなった……時が経つにつれてさらに耐えがたいほどになり──沈黙はふくらみ、息づき、なまなましくなった……
ヴェリー部長が妙なことをした。ひざの上に置いている|へら《ヽヽ》みたいな人差し指が、調子をとって、はっきりと三度、たたいた。ヴェリーの隣に坐っているクルーサーでさえ、まるっきり、その合図に気づかなかった。だが、見張りについていた警官は、しばらく部長の指を見守っていたが、すぐ行動に移った。みんなの目が、たちまち、その警官に注がれ、その生きているしるしをつかみ、いじらしいほど熱心になりゆきを見守った。……警官は薄い防水布のかぶせてある机に近づき、手をのばして、慎重に覆いをどけ、後ろにさがって、その防水布をきれいにたたんでから、部屋の隅の元の席に戻った。……
しかし、すぐに警官は忘れ去られた。まるで本もののサーチライトの灯《ひ》が机の上に当てられでもしたかのように、部屋じゅうの目がひとつ残らず、各自の命の奥底から引き出された魅惑のとりこになって、机の上にさらけ出された品々に注がれた。
たくさんの雑多なものだった。ガラス板の上に順序に並べられて、ひとつひとつの前に小さなカード札がついていた。エラリーが寝室の化粧台で見つけたW・M・Fと彫ってある金の口紅棒。陳列窓で、死んだ女のバッグから出て来たCの頭文字のはいっている銀の口紅棒。金の丸札がついている五個の鍵──私室《アパート》の鍵で、その四個には、サイラス・フレンチ、マリオン・フレンチ、バーニス・カーモディ、ウェストリー・ウィーヴァーの頭文字がついていて、残りの一個に「親鍵」と彫ってあった。二個の|めのう《ヽヽヽ》で彫ったブック・エンド、その間に小さな白い粉のびんと、らくだの毛の刷毛《はけ》が置いてあった。五冊の妙な本は、エラリーがフレンチの机の上で見つけたものだ。洗面所の戸棚から持ってきたかみそり道具。吸いがらのつまった二つの灰皿──片方の吸いがらは、他の方よりずっと長い。被害者の首からとってきたM・Fと頭文字のついているはでなスカーフ。カード室のテーブルの上で、警官が最初に見たとおりに正確にカードが並べてある板。サイラス・フレンチの名がタイプしてある上に、査閲ずみのしるしがついている一枚の青いメモ用紙。バーニス・カーモディの寝室の戸棚から持ってきた青い帽子と散歩靴、それらは、ホーテンス・アンダーヒルとドリス・キートンが、バーニスが失踪した日に身につけていたと証言している。黒い三十八のコルト拳銃、銃口のそばには、命とりとなった二発の弾が、赤さびた屑鉄《くずてつ》になってころがっていた。
くっきりと、みんなの目にやきつく一|対《つい》の手錠が、にぶい鋼鉄の色で──どんなことになるかを、象徴し、予告していた。
そこにあるものは、捜査中にかき集められた、もの言わぬ手がかりで、それらが、エラリー・クイーンの招いた連中の不安なひとみに、まざまざとさらされていた。やがて、みんなはふたたび目を見張り、ささやき合った。
だが、今度は待つ間もなく、外の廊下のかすかなもの音が、書斎にはっきり聞こえてきた。ヴェリー部長が足音高く控え室のドアに急ぎ、ブッシュ巡査をわきへ退かせた。部長の姿が消えると、その背中でドアがゆれて締まった。
いまや、そのドアが、中《ちゅう》っぱらでとまどった人々の視線の焦点となっていた──ドアの外では、低い五、六人のささやき声が、しばらく神秘的につづいていたが……やがて、ずぱりとナイフでそいだように消え、一瞬の沈黙の後、突然、ドアのノブががちゃりと鳴り、さっと内側に押しひらかれると、八人の男がはいって来た。
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三十八 大団円
ノブに手をかけていたのはエラリー・クイーンで──いつもと一変したこの青年は、きりりとしまった顔の鋭い目で室内を、すばやく見まわしてから、控え室を振り向いた。
「おさきへどうぞ、長官」と、ドアを押えて、ささやいた。スコット・ウエルズ長官は、うなずいて、その大きな体を現わした。三人の私服──長官の護衛──が、きりっと唇をかみしめて、室内を机の方へ行く長官につきそった。
次に、待ちかまえている連中の前に姿を現わしたのは異様に改まったリチャード・クイーン警視で、ぎごちなくぴんと胸を張っていた。青白い顔で、黙って長官について行った。
そのあとから、地方検事ヘンリー・サンプスンと、その助手の赤毛のチモシイ・クローニン。ふたりは室内の連中を無視して、何かささやき合っていた。
ヴェリーがしんがりをつとめて、注意深く控え室のドアをしめきり、ちょっと指で合図してブッシュ巡査を元の持ち場に帰らせてから、クルーサーの隣の椅子にどっかと腰を下ろした。店の探偵は不審そうにヴェリーを見やった。ヴェリーはものも言わずに、大きな体をぴんと立てた。そして、ふたりとも、新しく加わった連中に目を移した。
エラリー・クイーンと、その仲間は、部屋のとっつきの机のそばに立って、しばらく、早口で話し合っていた。クイーン警視が、机のすぐ右側のちょっと後ろにあった革張りの会議用椅子を長官の席と指示した。ウエルズは、いつもより沈黙、厳粛な顔で──無言で腰を下ろし、机の前のエラリーの静かな顔に目をとめていた。
三人の護衛は他の刑事たちと一緒に、部屋の横手に退いた。
クイーン警視は自分で、机の左側の大きな椅子をえらび、クローニンをすぐわきに坐らせた。地方検事は長官のわきに坐った。中央の机にはいろいろなものがのっていて、人々の注目を集めていた。机の左右の椅子は係官が占めて、場内を威圧していた……
舞台ができた。
エラリー・クイーンは、部屋と、集まっている連中を、ひややかにもう一度見まわして、長官の短い質問に満足の旨を答えた。エラリーは机の後ろにまわり、屋根窓を背にして立った。頭を下げて、机を見、ガラス板を手で払い、ブック・エンドにさわり、白い粉のびんをいじった。……それから、微笑して、胸を張り、頭を上げ、鼻眼鏡をはずして、おちついてみんなの静まるのを待っていた……そして、完全に鎮まった瞬間、口をひらいた。
「紳士、淑女諸君」月並な文句だが、一瞬不気味などよめきのようなものが空気を震わせた。みんなの胸から同時にもれたため息だった。
「紳士淑女諸君、六十時間前に、ウィニフレッド・フレンチ夫人がこの建物の中で射殺されました。その死体が見つかったのは四十八時間前です。今朝《けさ》われわれが集まったのは、非公式な、そのしめくくりとして、犯人を指名するためであります」と、エラリーは静かにしゃべり、ちょっと息つぎをした……
だが、さきほどのため息の|かたまり《アンマス》のあとでは呼吸さえはばかっているとみえて、だれもしゃべらず、ささやかず、みんなは|かたず《ヽヽヽ》を飲んで待っているようだった。
エラリーの声に、刃のような鋭さがふと、加わった。
「よろしい。二、三予備的な説明を加えましょう。ウエルズ長官の──」と、少し長官の方を向いて「ご許可を得て、この非公式の審問を開いたのです」
ウエルズがうなずいた。
「では、説明に移ります」と、エラリーは、聴衆の方へ向き直って、つづけた。「私はただクイーン警視の代理をしているので、警視は少しのどをいためて、長くお話しすることが困難ですし、痛むからであります。そうでしょう、警視」と、父の方へおごそかに頭を下げた。警視はいっそう青ざめて、無言でうなずいた。
「なお」と、エラリーはつづけて「これからの話の中で、[私]という一人称が使われるときは、いつも、それはただ便宜上使うので──本当は、クイーン警視自身が捜査の経過を説明しているものと、了解していただきたいのです」
そこで、エラリーはいきなり言葉をきって、いどむように室内を見まわしたが、みんなは目を見張り、耳をすませているだけなので、すぐフレンチ夫人殺人事件の分析に移った。
「紳士淑女諸君を、これから、ただちに、この犯罪の捜査経過の中にご案内しましょう」と、鋭くきっぱりした調子で「一歩一歩、推理を重ね、観察を重ね、窮極の結論に達するまで進めます。ヘーグストローム、記録をたのむよ」
エラリーの視線をみんなの目が追った。部屋の横の刑事たちがたむろしている中に、ヘーグストロームが坐って、鉛筆を速記用紙の上にかまえていた。ヘーグストロームが大きくうなずいた。
「今朝ここで解明されることは」と、エラリーが愉快そうに「いずれ事件の公式記録になります。わき道の話はもうやめます」と、咳ばらいした。
「ウィニフレッド・マーチバンクス・フレンチ夫人は死体で発見されました──二発の弾丸で殺されたので、一発は心臓、一発は心臓の下のプレコルディアル部に命中しました。──発見は火曜日の昼、十二時十五分ごろでした。クイーン警視は現場に着いて、いくつかの事実を見つけ、その結果」──と、ひと息入れて──「一階の陳列窓は、犯行の行なわれた場所ではないと確信されたのです」
室内は静まりかえっていた。緊張で青ざめた人々の顔に、みいられるような、恐怖、憎しみ、悲しみ──さまざまな感情が音たてるばかりだった。エラリーはすぐつづけた。
「この初期の捜査で発見された五つの構成要因が」と、エラリーは「結論として、殺人が陳列窓の中で行なわれたのではないということを示していました。
第一の要因は、月曜日の夜、フレンチ夫人はこの私室《アパート》の夫人専用の鍵を持っていたのに、火曜日の朝夫人の死体が発見された時、その鍵は夫人のからだからも持物からも紛失していたことです。夜警主任のオフラハティの証言では、月曜日の夜十一時五十分に、夫人が夜警詰所を出てエレヴェーターにのる時には、たしかに、その鍵を持っていたそうです。しかも紛失している。店と建物をすっかり洗いましたが、鍵はまだ出ていません。これは何を意味するか? この犯罪とその鍵とはどこかで結びついているということです。では、どんなふうに? さて、その鍵はこの私室《アパート》と切りはなせないものです。それが紛失したとするなら、この私室《アパート》も、どこかで犯罪に一枚加わっているという証拠ではないでしょうか。少なくとも、鍵の紛失から、この私室《アパート》が犯行現場だったかもしれないと疑ってみるだけの理由は十分にあります」
エラリーは中休みした。そして目の前に並ぶ、解《げ》しかねるという人々の顔を眺めていると、ふとおかしくなって、唇がほころびた。
「屁理屈でしょうか? みなさんの顔に信じられんと書いてあるのがわかります。しかし、この事実を忘れんでください。鍵の紛失は、それだけならなんの意味もない事実ですが──これからお話しする他の四つの事実と結びつくと、じつに重要な意味をもってくるのです」
エラリーは、くるりと本筋にもどった。
「第二の要因は、グロテスクで滑稽《こっけい》でさえあります──ついでに言いますが、犯罪の探知というものは、つねに、しっかりしたあざやかな要素の上に築き上げられるものではなくて、たまたま今朝お話しするような辻褄《つじつま》の合わない要素の上に築き上げられるものなのが、みなさんにもだんだんおわかりになるでしょう。……まず、この犯行が真夜中少し過ぎに行なわれたにちがいないという事実を申しあげておきます。これはもっぱら、プラウティ医師の報告から割り出したもので──同医師は医務検査官補であり──その報告によれば、フレンチ夫人は死後約十二時間で発見されたのです。
もし、フレンチ夫人が真夜中少し過ぎに、陳列窓の中で射殺されたとするなら、みなさん」と、エラリーは目をしばだたきながら「犯人は闇の中か、ほのかな懐中電灯のもとで、仕事をやっつけなければならなかったことになるじゃありませんか。というのは、あの陳列窓には照明装置がないのです──事実、電球もないし──配線さえないのです。しかも、犯人は被害者と会い、話をし、おそらくけんかになり、それから、ねらいも正しく致命的な二発をぶちこみ、死体を壁ベッドに押しこみ、血痕を消したりしたと推理せざるをえない──それだけのことを全部、せいぜい懐中電灯の光しかない室内でやってのけたなんて。ちがいます、そんなばかな話はない。そこでクイーン警視が、犯罪は陳列窓で行なわれたのではないと判定したのは、まったく論理的だと、信じます」
興奮のざわめきが、ちょっと起こった。エラリーは微笑してつづけた。
「しかしながら、この点だけで、警視が確信に達したわけではありません。そこには第三の点があるのです。それが口紅棒で──長い銀側で──Cの飾り文字がついているその口紅棒は、フレンチ夫人の死体のそばのハンド・バッグから出て来たものです。それは明らかに夫人のものではありませんが、その点については今は論じません。重要な点は、その中身の口紅がきわめて濃い赤で、殺された夫人の唇にぬってある色よりずっと濃いということです。このことは、フレンチ夫人自身の口紅棒が──夫人はそれでやや薄い紅を唇に塗っていたのですが──どこかになければならないということを意味します。しかし見つからなかった。どこにあるのか。おそらく犯人が持ち去ったのかもしれません。しかし、そりゃ少しおかしい。となると、最も妥当な解釈は、紛失した口紅棒が、この建物の中のどこか他の場所にあるはずだということです……なぜ、この建物の中のどこかにあるというのか──なぜ、夫人の家か、少なくとも店の外であってはいけないのか。それにはきわめて立派な理由があります。薄赤く紅を塗っていたフレンチ夫人の唇──もの言わぬ死者の唇──は、夫人が、まだ口紅を完全に塗り終えていなかったことを示していました。上唇の両はしに口紅の小さな|むら《ヽヽ》があり、下唇のまん中にも小さなむらが、もうひとつありました。口紅がよくのびずにできたむらで──明らかに指を使ったので、そんなふうにのこったのでしょう……」と、エラリーはマリオン・フレンチの方を向いて、穏やかにきいた。「あなたはどういう塗り方をなさいますか、お嬢さん」
娘が小声で「あなたがおっしゃったとおりですわ、クイーン様。上唇の両はしにひとつずつと、下唇のまん中に一か所、つまり、三度につけますの」
「ありがとう」と、エラリーは微笑して「これで、口紅をぬりはじめた女性が、その作業を完了しなかったという確証が得られたわけです。しかも、そんなことは不自然で、おどろくべきことです。女性のそんなデリケートな仕事を中途半端に終わらせるような理由はほとんどないと言えます。きわめて、まれなことです。そのまれな理由のひとつは、ある種の暴力による妨害といっていいでしょう。はたして、暴力による妨害か? この場合殺人が行なわれているんですよ。それが妨害ではなかったでしょうか」
エラリーは調子を変えて話をすすめた。
「どうもそうらしいですね。しかし、どっちみちあの口紅は陳列窓の中で塗られたものではありません。では、夫人の口紅棒はどこにあったか。あとから私室《アパート》でみつけましたが、そのことはただ推定を裏づけただけです……
第四の点は生理学的なものです。プラウティ医師は死体に出血のあとが非常に少ない事実に疑問をもっていました。いずれの傷も──特に片方は──ひどく出血したはずなのです。プレコルディアル部には多くの血管と筋肉があり、弾丸の貫通のためにひどく引き裂かれてぎざぎざの傷あとを残していたのですからね。その血はどこにあるのか。犯人が掃除してしまったのか。しかし闇か薄暗闇で、それらの傷口から流れ出た多量の血痕をすっかりぬぐい去るなどということは犯人にはできるはずがないのです。そこで、またしても、血はどこか他の場所で流れたにちがいないと推定せざるをえなかったのです。とすると、フレンチ夫人はどこか陳列窓以外の場所で射たれたことになるのです。
そして第五の点は心理学的なもので、おそらく」と、エラリーは悲しげに微笑しながら「法廷では大して重要視されないのではないかと思います。しかしながら、私にとっては全く強力な意味をもつものなのです。というのは、あの陳列窓が、犯行現場とは、どうしても思えないからです。犯人たるべき人間の身になってみれば、あそこで殺しをするなんて、危険であり、不合理であり、じつにばからしいことです。被害者と会って殺す、これは極秘裡に行ない、人目をさけなければならないばかりか──その他にも多くの条件が必要とされるのです。あの陳列窓はひとつとしてその条件に合いません。夜警主任の詰所から五十フィートも離れていないし、あの辺は定期的によく見廻りが来るのです。射殺は、射撃しなければならないのに──だれひとり銃声をきいていません。そうです。クイーン警視と私は──以上のべた五つの理由、どのひとつも、それだけでは決定的なものではありませんが、五つまとめてみると重要な意味をもちます──犯罪はあの陳列窓の中で行なわれたものではないと思ったのです」
エラリーは中休みした。みんなは、話にひきこまれて、熱心に息を殺して謹聴していた。ウエルズ長官は小さな目をいきいきとさせてエラリーを見守っていた。警視は深く思い沈んでいた。
「陳列窓でないとするなら」と、エラリーが、また「犯行現場はどこか? ここで問題の鍵が私室《アパート》だと教えるのです──人目につかず、照明もあり、口紅を塗るにも適当な場所です──たしかに、私室《アパート》が一番可能性のある場所と思われました。そこでクイーン警視は、私の判断力と観察力を信頼して、私室《アパート》に行ってできるだけ調べろといいつけたのです。警視自身は、初動捜査が進行中なので陳列窓を離れるわけにはいかなかったからです。調べてみると、おもしろい結果が出てきました。……
私室《アパート》で最初に見つけたのは、フレンチ夫人の口紅棒で、寝室の化粧台の上に置いてありました」と、エラリーは金色の口紅棒を机からとり上げて、しばらくみんなに見せた。「この口紅棒で、月曜日の夜、夫人が私室《アパート》にいたことが、すぐわかりました。しかも、化粧台の上にある、あこや貝の皿のふちの下にかくれていたので、おそらく犯人が見落としたのだろうということもわかったのです。事実、犯人はそれを探してみようともしなかったのかもしれません。というのは、犯人はフレンチ夫人のバッグの中の口紅棒と、唇に塗っていた色とが違っているのにさっぱり気がついていないのです」と、言って、金色の口紅棒を机にもどした。
「さて、化粧台の上で口紅棒は見つかりました。これは何を意味するか。このことで、フレンチ夫人が化粧台に向かって口紅をぬっているところを妨害されたのだということがかなりはっきりわかります。しかし、見つかった時にまだ化粧台の上にあったという事実から、フレンチ夫人は寝室で射たれたのではないと、私には思えるのです。すると、どんな妨害だったか? 明らかに、ドアのノックか、犯人が私室《アパート》にはいる音だったにちがいありません。しかし、はいる音ではなかった。これはすぐに証明しますが、犯人は私室《アパート》の鍵を持っていなかったからです。すると、ドアのノックだったにちがいありません。しかも、それは、フレンチ夫人も待ち受けていたはずです。というのは、その音が夫人にはよほど重要だったのか、夫人をあわてさせたのか、ともかく、夫人はすぐに口紅を置いて、塗りかけなのもかまわずに、急いで書斎を通り抜けて控え室へ、夜の客を迎えに行っているからです。おそらく、夫人がドアをあける、客が通る、ふたりは書斎にはいって、夫人は机の後ろに、客はその真正面に立っていたものと思われます──つまり、フレンチ夫人の位置は、今、私の立っている所、犯人の位置は、今、ヘーグストローム刑事が座っている所ということになります。
どうしてこのことがわかったか?」と、エラリーは早口に「きわめて簡単です。書斎を調べて、机の上のこのブック・エンドに」──|めのう《ヽヽヽ》の対のブック・エンドを、慎重に持ち上げてみんなに見せて──「納得のいかない手が加えられていることを発見したからです。この片方に貼りつけてあるみどり色のフェルトが、対のもののより色が薄いのです。ウィーヴァー君が知らせてくれたのですが、このブック・エンドは、フレンチさんのこの前の誕生日にグレーさんが贈ってから、まだ二か月しかたっていなくて、その時見たままの状態では、フェルトはどちらも全く同じ色をしていたそうです。そのうえ、このブック・エンドは、部屋からも机の上からも一度も動かしたことはないそうです。してみると、フェルトの変化は、その前夜に起こったにちがいありません。それが証明されたのは、拡大鏡でフェルトを調べてみて、めのうとフェルトの合わせ目のにかわの線に、白い粉があちこちについているのに気がついたからです。
にかわにまだ少しねばり気があったので」と、エラリーが「ごく最近に、つけたのだということがわかりました。粉のほうは、その場で自分で調べましたし、警察の指紋係が分析試験をしましたが、それは普通に警察で使う指紋検出粉と判明したのです。この、指紋検出粉は犯罪を物語るものです。|めのう《ヽヽヽ》のブック・エンドには指紋はついていませんでした。それは指紋を消したことを意味します。では、なぜ指紋用の粉がついていたのか。明らかに、まず、ついたかもしれない指紋を検出するために、|めのう《ヽヽヽ》の表面にふりかけ、次に見つかった指紋を消したのです。これはまず、まちがいのないところです。
しかし、ここに、さらに大きな問題が生じます──一体、なぜブック・エンドに手をふれなければならなかったかという点です」と、エラリーはほほえみながら「これは重要な問題ですし、その答は重要な話になるのです。ところで、ブック・エンドは、片方のフェルトを変えるためにいじられたということがわかりました。しかし|なぜ《ヽヽ》フェルトを変えなければならなかったのか?」
エラリーは妙に挑戦的な目で、みんなを見た。
「つじつまの合う答えはただひとつです。犯跡をくらますか隠すためだということです。しかし、それほどの犯跡とはなんでしょうか──慎重にフェルトをすっかりはぎとり、フェルトや布地のある売場までかけ下りて、(大変な危険を犯したものじゃありませんか)フェルトとにかわをとって来て、そのあげく、ブック・エンドに新しい安全装置をつけるなんて! それはじつに致命的な犯跡だったはずです。その危険きわまりない犯跡は血痕だったものと──確信します。そして、それが正解でした。
プラウティ医師は、多量に出血したはずだと証言しています。それに、フレンチ夫人の心臓の血が噴き出した正確な場所をつきとめることができました。傷害の経過を組み立ててみましょう。ブック・エンドは、今、私の立っている場所の向かい側の机の一番はしにのっていました。すると、血は今の私の位置の近くから流れたはずです。もし、フレンチ夫人がここに立っていて射たれたものとみると、最初の弾丸は、腹の上のプレコルディアル部に命中し、血が直接机の上の敷ガラスに噴き出して、ブック・エンドまで流れていって、それを血まみれにしたはずです。それから夫人はちょうど同じ場所から射たれた二発目の弾丸が来る方へ前のめりになり、心臓をぶち抜かれて椅子に崩れ落ちたはずです。このときも、少し出血しました。ブック・エンドの片方だけが汚れたのは──もう片方のより机の中央に近かったからです。こうして、フェルトがすっかり血まみれになったので、犯人は全部はぎ取り、新しいのをつけなければならなかったのです。なぜ、犯跡を隠さなければならなかったかについては、後ほど説明いたします。新しいフェルトの色合がちがっていた点については──視覚上の問題で、人口光線の下では、日光よりも色の本質を見分けにくいからです。夜、この二色のみどりは、同じように見えたにちがいありません。日光のおかげで、私はその違いにすぐ気がついたのです……
これで、フレンチ夫人が殺されたときにいた場所を、どうやって正確に決定したかが、みなさんにもおわかりになったでしょう。犯人の位置については、傷そのものの角度から割り出したので、傷口は左の方を向いていて、むごたらしいものでした。それで犯人がかなり右に立っていたことがわかります」
エラリーは言葉をきって、ハンカチで口をかるくぬぐい「話が本筋から少しずれましたが」と、つづけて「それは、殺人がこの私室《アパート》で行なわれたという確証をもっているのを、みなさんに信じてほしかったからです。隣のカード室で、このカードや吸いがらを見つけたという事実がありますけれど」と、エラリーはそれらの品をちょっと並べてみせて「このブック・エンドに細工がしてあるのを見破るまでは、その点について、私には確信がもてなかったのです」
エラリーはカードの並んでいる盤を下に置いて「このカードはテーブルに並んでいたとおりに並べたもので、一見して、ロシア式のバンク遊びが中断されたものであるのがわかります。ウィーヴァー君の証言では、その前の晩は、カード室はきちんとしていて、カードはなかったということです。むろん、これはだれかが、夜の間に使ったことを示します。ウィーヴァー君は、さらに、フレンチ家の家族、友人、知己全部の中で、バンク遊びに熱中するのはフレンチ夫人とバーニス・カーモディ嬢だけだと証言していますが──事実、そのふたりがその遊びにどんなに熱心だったかは、よく知れ渡っています。
灰皿のたばこの吸いがらは、公爵夫人《ラ・デユセス》印で──これまたウィーヴァー君によって、カーモディ嬢愛用の品だと、裏づけされました。カーモディ嬢気に入りの香料、すみれの匂いがします。
すると、フレンチ夫人とカーモディ嬢が、月曜日夜、この私室《アパート》にいて、カーモディ嬢はいつものたばこを吸い、ふたりで大好きなバンク遊びをしたことになります。
寝室の戸棚から帽子と一足の靴が出てきましたが、それらは、フレンチ家の家政婦、アンダーヒルさん、女中キートンさんが、殺人のあった月曜日に邸を出たきり帰って来ないカーモディ嬢が身につけていたものだと証言しています。戸棚からは、もうひとつの帽子と靴がなくなっていますが、それはカーモディ嬢が、身につけていたしめったのと、なくなっている乾いたのをとり換えたことを示すものと思われます。
こんなことは、このくらいにして」と、エラリーは一息入れて妙にきらきらする目であたりを見まわした。聴衆からは、こそりとももの音がしなかった。みんなは、しびれたように緊張して、恐ろしい証拠が徐々に組み上げられていくのを、ただ見守るばかりだった。
「さあ、最も重要な点にふれましょう……さて、私室《アパート》が犯行現場だとわかると、そこから、どうしても起こってくる疑問は、|なぜ《ヽヽ》死体が階下の陳列窓に移されたのか? ということです。なんの目的に役だったのか。きっと何かの目的に役だったはずですからね──犯人が真の狂人で全然理由なくあんなことをやったとは、とても思えません。この犯罪には抜け目のない、よく調整された計画の数々が目につくからです。
まず考えられるのは、私室《アパート》が犯行現場でないとみせかけるために死体を移したという点ですが、これは事実に反します。もし犯人が、犯跡のすべてを私室《アパート》から移したかったのなら、なぜ、バンク遊びの跡も、吸いがらも、靴も、帽子も移さなかったのでしょうか。事実、死体が見つからず、殺人容疑がかからなければ、それらのものが見つかってもなんの犯罪も示しはしません。しかし犯人は、死体を永久に隠しおおすことは望めません。いつか、どうかして、必ず発見されて、私室《アパート》が調べられ、カードやたばこや他のものが、必ず私室《アパート》が殺人を犯した場所であることをばらしてしまいます。
すると、死体を移したのは全く他の理由からだったのが明白です。その理由は一体なんでしょうか? かなり考えてからその答が出たのですが──|おくらせること《ヽヽヽヽヽヽヽ》、死体の発見をおくらせることだったのです。どうしてこの結論が出たか。簡単な暗算です。陳列窓の展示は毎日一回きっちり正午に行なわれます。それが不変の規定でした。すると陳列窓には正午まではだれもはいらないのです。それはみなが知っていました。そこで死体を壁ベッドに隠せば、十二時十五分過ぎまでは発見されないという絶対の保証が犯人にはあったわけです。これは、じつに役だつ的確な理由でした──そして、事件全体の泥沼に差しこんだ唯一の光明でした。一体、なんだって陳列窓なんか使ったんだろうというような疑問で、ただでさえこんぐらかっていた事件が、いっそうてんやわんやになるような不利が重なっていた時ですからね。そこで、犯人が大骨を折って、はるばると六階から死体を陳列窓まで運びこんだのは、死体が次の日の午前中は発見されないのを知っていたからだ、ということは、疑う余地もないものになったのです。
すると当然、次の問題が出て来ます。犯人は、なぜ死体の発見を遅らせようとしたのか。よく考えてみれば、その確答はひとつしかないことがわかるでしょう──つまり、犯人は火曜日の朝、何かしなければならない仕事があったので、死体の発見が早いと、それをするのが危険になり、不可能にさえなりかねなかったのでしょう」
みんなは息をつめて、エラリーの言葉にかじりついていた。
「その仕事はなんだったのか」と、エラリーは目を輝かせて「さて、しばらく話の向きを変えましょう。……どうやって店にはいったにしろ、犯人は一晩じゅうとじこめられたはずです。はいる方法は三つあったが、人目にふれずに出る方法はありませんでした。ひるまはいって店に隠れていたか、閉店後使用人口からはいったか、それとも、貨物口から、夜十一時に、配達トラックが翌日の食料品を下ろしているすきに建物にすべりこんだか。この最後の方法が使われた公算が強いようです。というのは、オフラハティは受け持ちのドアからはいってくる者をひとりも見かけなかったそうだし、夜十一時にはいるほうが、午後五時半から真夜中まで店に隠れているより犯人には都合がよかったはずですからね。
しかし、どうやって出て行けたのか。オフラハティの報告では、受け持ちのドアからはだれひとり出なかったし、他の出入口はみんな錠をおろし掛金がかけてあったし、三十九番街の貨物口は十一時半に閉鎖されたそうです。それはフレンチ夫人が店に到着する十五分前、殺される三十分前です。だから犯人は一晩じゅう店にとどまっているよりほかに手はなかったのです。翌朝九時の開店まで逃げ出せなかったのです。九時には早朝の客をよそおって店から出て行けますからね。
しかし、また別の要因がはいってきます。犯人が九時に、自由な人間として店を出て行けるとすれば、死体の発見を遅らせるために陳列窓に運びこむなんて大骨折りをせずに、たとえどんな仕事だろうと、なぜ、その時にできなかったのか、ということです。つまり大事な点は、なぜ犯人があえて死体を運んだのかということです。結局、犯人は九時に自由な人間として、店を出ていけなかった、どうしても死体の発見を遅らす必要があった。|九時以後さえ店にいなければならなかった《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、ということになるのです」
部屋のあちこちで、一時にはっと息をのむのが聞こえた。エラリーはすばやく見まわして、だれが驚きか恐怖のショックを受けたのかを正確に見定めようとした。
「あなたがたの中のいく人かは、話の先を読んだようですね」と、エラリーは微笑しながら「犯人が九時以後も店にとどまっていなければならなかったわけを説明する理由は、だたひとつで、──つまり、犯人は店に関係のある人物なのです」
今度は、みんなのかたくなった顔に、懐疑と疑惑と恐怖の色がやきついていた。みんなは思わず隣の者から身をひいた。まるで急に、最後に指名される者が、この中に大ぜいいるのに気がついたかのようだった。
「そうです、これがやっと到達した結論なのです」と、エラリーが、感情を殺した声で「謎の犯人が店の使用人か、あるいは正式の資格のあるなしにかかわらずこの店に関連をもつ者なら、殺人が発見された時に、店にいなければ、当然人々の注意をひいたでしょう。それで、犯人には店をあける余裕がなかったのです。店にいないということが非常に重大なことに気がついたのです。犯人はむずかしい立場に立っていました。この回状は」──とエラリーは机の上の青い紙片をみんなに見せて──「ウィーヴァー君が前の晩この机に残しておいたものですが、これによって、ウィーヴァー君もフレンチさんも、翌朝九時にこの私室《アパート》に出てくることになっているのが、犯人にわかりました。死体を私室《アパート》に残しておけば、九時には殺人が発見されて、てんやわんやの大騒ぎになり、犯人は店を抜け出して秘密の仕事をかたづけるチャンスがなくなる。しかも、電話をかけても人目をひく。そこで犯人は店を抜け出すか、電話をかけるすきができるまで、確実に死体が発見されないようにしなければならなかった。(電話は監視命令さえ出なければ、尻尾をつかまれることはありませんからね)犯人は、確実に死体の発見を遅らせる唯一の方法は、死体を陳列窓に隠すことなのを知っていたのです。犯人はそれを実行して、みごとに成功したのです。
さて、ここで、犯人がどうやってこの建物にはいったかという小さな疑問を解くことができる段階になりました。月曜日の勤務表が手にはいっています。申したとおり、犯人は店の使用人か、何か店に関係のある者なのです。しかも、勤務表では、ひとり残らず、五時半前後に、正規の手続きをして退出したことになっていました。すると、犯人は貨物口からこのビルにはいったに違いありません。それが唯一の残された方法ですからね。
いまひとつの点は、犯人が死体の発見を遅らせたかったという問題を論じている時に……ふと気づいたのですが、あなたがたもきっと気づかれたでしょうが、謎の犯人は犯行でとりちらしたあとをかたづけはじめた時、なみなみならぬ危険をおかし、非常にこみいった手数をかけなければならなかったのです。たとえば──死体を階下へ運んだりしています。しかし、その点は、犯人が何か仕事をするために、午前中に時間をつくらなければならなかったという事実で説明されます。ついでですが、その仕事が何かというのはまだ説明していない題目です。と同時に──なぜ犯人は、わざわざ新しいフェルトを取りに行ったり、血痕を慎重に消したりするような骨を折ったのか。これもまた、犯人には午前中に時間が必要だったということと、血まみれのブック・エンドを朝の九時にウィーヴァー君が見つければ、すぐに犯罪がかぎつけられて、犯人がその仕事をかたづけるチャンスが、必ず重大な危険にさらされるということ、で説明されます。してみると、犯人がしなければならなかった仕事は、明らかに、よほど緊急重要なことで──それをかたづけるまでは、なんとしても犯罪をかぎつけられてはならない、単に疑われるだけの危険も冒せなかったのでしょう……」
エラリーは言葉をきって、チョッキのポケットから一枚の紙を取り出して、見ながら「さて、われわれの星が、正式あるいはなかば正式に、この店の関係者だということは、大体きまりましたが、それはしばらくおくとして」と、区切って「どうぞこの点は覚えていてください。では、しばらく、まったく別の推理をすすめてみましょう……
さきほど、バーニス・カーモディ嬢が月曜日の夜、この私室《アパート》にいたという具体的な証拠を四つあげて、みなさんの注意を喚起しました。発見した順に述べれば、カーモディ嬢と母親だけが熱中していたバンク遊びのカード。すみれの匂い入り、公爵夫人《ラ・デユセス》印のたばこは、カーモディ嬢の特別注文品。姿をくらました月曜日の午後、かぶっていたのを見られている帽子。それに、証言にぴったり合う、カーモディ嬢の靴です。
さて、ここで、それらの証拠品が、月曜日の夜、カーモディ嬢がここにいたことを証明するどころか、まさに反対の事実をも証明するものであるのを、説明しましょう」と、いきなり言葉をきってから「ところで、バンク遊びのカードは、この反論には大して役にたちません。カードはごく普通の並べ方で置いてあったんですからね。だからさしあたり、これは放っとかねばなりません。
ところが、このたばこが、はっきりと私の主張を示してくれます。これは」と、エラリーは証拠物件の載せてあるテーブルから、灰皿のひとつを、取り上げて──「この吸いがらは、カード室のテーブルで見つけたものです」と、灰皿から、吸いがらをひとつ、高くつまみ上げて「ごらんのとおり、このたばこはほとんど根本まで吸ってあります──事実、印が刷ってある吸口の小さな帯しか残っていません。この灰皿の十二、三個の吸いがらは、どのひとつも例外なく、まったく同じように小さくなるまで吸ってあります。
ところが、フレンチ邸のカーモディ嬢の寝室で見つけた吸いがらがこれで」と、エラリーは次の灰皿の、ごたごたによごれている底から、ひとつ、つまみ上げて見せながら「この吸いがらでお気づきのように、たばこはむろん公爵夫人《ラ・デユセス》印ですが、こっちは四分の一しか吸ってありません──つまり、カーモディ嬢は、五、六ぷく吸っただけで、残りを灰皿にこすりつけていたのが、はっきりわかります。カーモディ嬢の寝室から持ってきたこの灰皿の中の吸いがらは、どれもみんな同じようになっています。
言いかえれば」と、エラリーは無邪気ににこにこして「この二組のたばこからおもしろい現象がわかるのです。両方とも同一人物が吸ったと思われるのに、全く反対の様相を示す残存物を残しているということです。調査の結果、カーモディ嬢は非常に神経質でその理由はあとですぐわかりますが──同嬢をよく知っている人たちは、いつでも、愛用のたばこを、こんなふうに、ぜいたくな、気せわしい吸い方をしていたのをよく覚えているほどなのです。
このことから何がわかるか?」と、かなり間をおいて「つまり、カード・テーブルで見つけた吸いがらは、カーモディ嬢が吸ったものではない。あれは、四分の一しか吸わずに捨てるというカーモディ嬢の癖を知らない別の人間が吸ったか、用意しておいたものだということです。……
ところで、靴と帽子ですが」と、エラリーはみんなが最後の言葉に納得する余裕も与えないで「それにも細工されている様子が見てとれました。それらは一見、カーモディ嬢が月曜日の夜、ここにいたことを示していました。午後と夕方の雨でぬれたので、私室《アパート》を出て行く前に、ぬれた帽子と靴をかえて寝室の戸棚にあらかじめ用意してあった別のものを着けて行ったようにしてありました。だが調べてみると、帽子はふちを下にして帽子箱に押しこみ、靴は爪先を下にしてかかとが靴袋のポケットからはみ出すように突っこんであるのがわかりました。
普通こういうことはどんなやり方をするものかと調べてみると、婦人がたは、帽子を箱におさめるのに、てっぺんを下に、ふちを上にするのが、ほとんどですし、大きなバックルのついている靴、カーモディ嬢のもそうですが、そんな靴は、靴袋の布地がバックルにひっかからないように、かかとを先にして納めるのが普通のようです。それなのに、この二つの品は、女性のそんな習癖を、まったく知らない者のしわざであることを示していました。そこから、はっきりわかることは──女のカーモディ嬢がこの靴や帽子をかたづけたのではなく、|男の仕わざだ《ヽヽヽヽヽヽ》ということです。というのは、ふちを下にして帽子をしまうのは男の癖ですし、男には靴のバックルの意味がわかっちゃいませんからね。靴かけにあった靴は全部かかとが見えていました、ということは、どれにもバックルがついていなかったのです。だれにしろ、カーモディ嬢の靴を靴かけに納めた者は、機械的に、他の靴の例にならって納めたので、それは女性がしない方法だったのです。
さて、これらの点は、それだけをひとつずつ取り上げてみると、たしかに、薄弱で決定的なものではありません。しかし、三つ合わせてみると、見のがせないほど強力な証拠で──このたばこを吸い、この帽子と靴をしまつしたのは、カーモディ嬢ではなく、だれか別の──男だったということになるのです」
エラリーが咳ばらいして、かれたのどを通した。声はかすれていたが、調子は熱をおびて、たかまった。
「この最後の件に関して、非常に興味ある問題が、もうひとつあります」と、つづけた。「ウィーヴァー君と洗面所を調べていて、奇妙な盗難を発見したのです。ウィーヴァー君の安全かみそりの刃、月曜日の午後五時半に使ってから、それが最後の一枚なので、次の朝はそれで剃《そ》らなければならないと思い、きれいにしてケースに入れておいた──その刃が、なんと、火曜日の朝みると、なくなっていたのです。ウィーヴァー君は月曜日の夜は忙しかったので、つい新しい刃を仕入れるのを忘れて、火曜日の早朝に私室《アパート》に来たのです。──正確には八時半で、フレンチさんが九時に来るまでに、いくつかの仕事や報告書をかたづけておかなければならなかったからです。ウィーヴァー君は私室《アパート》で顔を剃るつもりでした。ところが前の日の午後おそく、かたづけておいたばかりの刃が、なくなっていたのです。一言おことわりしておきますが、フレンチさんは、かみそりを持っていず、一度も自分で剃ったことはないそうです。
さて、どうして刃がなくなったのか? むろん、その刃は、月曜日の夜か、火曜日の早朝、ウィーヴァー君がまだ着かないうちに、使われたにちがいありません。一体、だれが使ったのか? フレンチ夫人か、犯人か──ふたりのうちのどっちかです。フレンチ夫人が何かを切る道具として使ったともみえるし、犯人が使ったともみられます。
この二つの考え方では、たしかに後者のほうが妥当です。犯人はことの成り行き上、その夜を店で過ごさなければならなかった点を思い出してください。どこで過ごしたら一番安全か? むろん、私室《アパート》の中でしょう。暗い売場をぶらついたり、店内のどこかにひそんでいるのは、犯人にとって私室《アパート》にもぐりこんでいるほどの安全性は得られないのです──一晩じゅう私室《アパート》には夜警がみまわりに来ないのですからね。ところで──刃が使われているとすれば、当然、ひげを剃ったものと推定してもいいでしょう。なぜそう思ってはいけないでしょうか? 犯人は朝になったら店員か、係として店に現われなければならない人間だったんですからね。犯人が一時的に私室《アパート》にひそんでいた間に、ひげを剃ったと思うのは無理でしょうか。死人の部屋でひげを剃るというのはいかにも冷血漢のように思えますが、剃らなかったと思うより筋が通っているようです。では、なぜ刃がなくなったのか? 明らかに刃がどうかしたのです。どうしたのか? 折れたのかもしれません。そんなことがないともいえませんよ。あの刃はいくども使ったもので、折れやすくなっていたのでしょう。刃を入れて軸のほうを少しでもしめすぎると、刃は簡単にぴしっと割れてしまいます。そんなことがおこったのだと思ってみましょう。では、なぜ折れた刃を残しておかなかったのか? 犯人がずる賢いやつで、彼なりになかなかの心理学者だったからです。なまじ、折れた刃が残っていれば、前の日から折れていたと受けとられるよりも、前の日には折れていなかったと思い出されるほうが公算が多いものです。いっそ、刃がなくなっていれば、疑念をもたせたり、記憶を呼びおこすきっかけをつくらないわけです。なくなったものよりも、形の変わった物のほうが、心理的刺激を強めるものです。少なくとも、私が犯人の立場だったら、そう考えたでしょう。要するに、今度の事件を企んだ人物が、刃を持ち去ったのは正しかったのだと信じます──それが犯人の立場からみて正しいことだったのです。その証拠には、ウィーヴァー君は、注意を喚起するまで、刃のなくなっていることに、全然、いや、ほとんど気がつかなかったのです。それに気づいたのは、私が偏見のない、ごく一般的な観察眼を働かせたからにすぎません」
エラリーはちらっと白い歯を見せて「ごらんのとおり、私は仮説とかなり薄弱な推理を、もてあそんできました。しかし、この十分間に、お話しした、とりとめのない、ささいな事実も、ひとまとめにしてみれば、きっと、おわかりになるでしょうが、刃はひげを剃るのに使われ、それが折れたので、持ち去られた、という常識にしかすぎないのです。刃はその本来の使途以外の用途に使われた証拠は何も発見されていません。この点も今までの主張に力をそえるだけです。このお話は、しばらくさしおいて、別の全くちがう問題、それこそ今回の全捜査中最も重要なもののひとつである問題に移りましょう」
場内に、かたい椅子でそっと身動きするざわめきや、すばやく息を吸いこむ音がしていた。しかしみんなの目は吸いつけられるように、エラリーの顔から離れなかった。
「みなさんは」と、エラリーは静かな情け容赦のない声で「この事件にはひとり以上の人間が関係していると思われるかもしれません。つまり、たとえカーモディ嬢が靴や帽子を自分で片づけたのではないとしても──この際、カーモディ嬢がいなかったという決定的な証拠になる吸いがらの件は無視するとしても──なお、カーモディ嬢が犯罪の場にいたのではあるまいかと思われるかもしれません。また、他の──男が、帽子や靴をしまっているあいだ、カーモディ嬢はそばに立っていたか、何か他のことをしていたということもありえます。しかし、この点を、解明する調査はじつにうまくいきました」
エラリーは机に両手をついて、少し前かがみになり「みなさん、この私室《アパート》に正式にはいれる人はだれだれだったでしょうか。それは専用の鍵を持っている五人だけだったのです。フレンチさん、同夫人、カーモディ嬢、マリオン嬢、ウィーヴァー君です。親鍵はオフラハティの机に確保されていて、何ぴとといえども、オフラハティか昼の守衛オシェーンの許可なくして、それに手をふれることはできませんでした。しかも、そんな許可は与えなかったそうですから、明らかに親鍵は計算に入れないでもいいことになります。
もともと六つある鍵の中で、今あるのは五つと考えていいわけです。フレンチ夫人の分が紛失していますからね。夫人の分以外の四つの鍵は、それぞれの持主がけっして手放さなかったということが、調査の結果判明しています。フレンチ夫人の鍵は、刑事連が力を合わせて、徹底的に捜査しました。まだ見つかりません。つまり、月曜日の夜、店へはいった夫人がたしかに持っていたと、オフラハティが証言しているにもかかわらず、この建物の中にはないのです。
この即席の論証の冒頭で申しましたとおり、おそらく犯人は、その鍵を持ち去ったのでしょう。さて、ここで、犯人はそれを持ち去ったのではなく、持ち去らなければならなかったのだということを、はっきり申しあげます。
犯人が鍵を欲しがったという事実には確証があります。月曜日の午後、カーモディ嬢が、こっそりと邸を抜け出してから、しばらくして、家政婦のアンダーヒルさんに電話がかかってきました。電話の主は、カーモディ嬢だと名のり、私室《アパート》の鍵を用意しておいてほしい、すぐ使いをとりにやるからと、たのんだそうです。しかも、その日の朝、カーモディ嬢は、アンダーヒルさんに、鍵をなくしたらしいから、他の人の鍵を借りて合鍵をこしらえてほしいとたのんでいるのです。
アンダーヒルさんは電話の主がカーモディ嬢でないらしいと思っています。アンダーヒルさんは証言していいと言っていますが電話の主のそばにはほかにだれかいたらしく、今朝、鍵をなくしたからつくれとおっしゃったじゃありませんかとただすと、その返事を口授しているようだったそうです。それに、あわてて電話を切ったそうです……
そのことから想定できるのは? 電話の主はたしかにカーモディ嬢ではなく、犯人から口授された共犯者か犯人の手先で、この私室《アパート》の鍵を手に入れようとしたものにちがいありません」
エラリーは深くひと息入れて「このことから、いろいろおもしろい結果が引き出せますが、それはしばらく、みなさんに考えていただくことにして……これから、全然別の結論に達する論理の迷路へ、みなさんをご案内しましょう──これこそ、わざわざわき道へそれてきたこの議論の目的なのです。
なぜ犯人は鍵がほしかったか? 明らかに、私室《アパート》に近づく手段としてです。自分で鍵を持っていなければ、だれか鍵を持っている別の人物を仲だちとして、入るより手がなかったのです。思うに、犯人はフレンチ夫人が私室《アパート》に入れてくれると当てにしていたでしょうが、犯罪を慎重にたくらむには、どうしても自分で鍵を持っていなければならなかったのでしょう。この点は電話をかけたり、[使い]をやるなどと言ったことで説明されます。しかし、ここが大事な点です。
犯人はフレンチ夫人を私室《アパート》で殺した。その死体を前にして、前にお話ししたいろいろな理由から陳列窓まで運び下ろさなければならないはめになり、ふと気がついて、はたと行きつまったのです。私室《アパート》のドアはスプリング錠で、自動的にしまるのに気がついたのです。バーニス・カーモディのを取り上げそこなったので鍵はない。私室《アパート》からどうしても死体を運び出さなければならない。しかも、そのあとでやらなければならないことが、たくさんある──つまり血痕を消し、靴と帽子と、バンク遊びと、吸いがらとの細工をする。実際問題として、死体を取り下ろす前に、室内を掃除し、にせの証拠を細工するとしても、なお、私室《アパート》にもう一度はいる手段が必要でした。ブック・エンドを加工するに必要な、フェルトや|にかわ《ヽヽヽ》や、他の道具を求めて、店内をこっそり歩きまわらなければならなかったのですからね。どうやって、もう一度|私室《アパート》にはいりこめるか? それに、私室《アパート》で寝るつもりだったのも明らかです──いいですか、一度出たらどうやって戻れるか? 犯人が死体を下へ運んだのが、掃除の前であろうと、後であろうと、結局、私室《アパート》にもう一度はいる手段は必要だったのです……
犯人は最初、ドアと床の間に何か挟んで、自動的にしまらないようにしようと考えたにちがいない。しかし、それでは夜警の目をどうするか。きっとやつの考えは[夜警は一時間おきに廊下を見まわる。きっと開きかけのドアを見つけて調べるだろう]だったでしょう。どうしても、ドアはしまっていなければまずい。だが──そうだ。フレンチ夫人の鍵がある、夫人用の──それで夫人は私室《アパート》にはいって来たのだ。犯人はその鍵を使った。やつが、血まみれになって、テーブルにうつぶして死んでいる夫人のそばのバッグをあけて鍵を見つけ、それをポケットに入れてから死体をかつぎ上げて私室《アパート》を出て行ったのが目に浮かびます。こうしてやつが血まみれ仕事をかたづけてから戻ってくる方法が、確実に手にはいったのです。
しかしながら」と、エラリーが不気味に笑って「やつは、もう一度|私室《アパート》にはいるために、どうしても鍵を持って上がらなければならなかった、これは明白なことです。だから、死体からかぎは見つからなかったのです。事実、やつは私室《アパート》へもどり、掃除をしてから、鍵をもう一度、階下へもどすこともできたでしょうが、しかし──むろんそんなことは狂気の沙汰です──そんなことをしたら、どうやって、また私室《アパート》にもどることができますか。それに、危険にぶつかるかもしれない──つまり、一階の陳列窓にはいりこもうとすれば、もう一度人目にかかる危険を犯すことになるのです。……
一度目でさえ危険でしたが、それはやむをえなかったのです。そうです、やつはおそらくこう考えたでしょう、一番いいやり方は、鍵をポケットに入れておいて、朝になってビルを出たら捨ててしまうことだとね。事実、私室《アパート》に残しておく手もある。たとえばカード・テーブルの上などにね。しかし、鍵が私室《アパート》の中になかったのは、持ちさったことになります。──やつが鍵をしまつする方法は二つあり、そのひとつを択んだのです。
それでわかるのですが」と、エラリーはちょっと間をおいて──「この殺しをやったやつには、|共犯はいなかったのです《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。
疑問に思う方がいるようですが、これは、きわめて明白です。共犯がいれば、犯人が自分で鍵を持っていなければならない必要は全然なかったでしょう……死体を運び下ろすあいだ、共犯者は私室《アパート》に残って、やつが階下《した》の仕事をすましてきたら、ドアをあけてやればいいのです。これでおわかりになるでしょう。やつが鍵をとらなければならなかったという、その事実が、単独犯だというのを示しているのです。反対される方があるかもしれない。[そういうが、ふたりいて、ふたりで死体を運び下ろしたのかもしれんじゃないか]と。それには確信をもって[ノウ]と答えられます。というのは、そんなことをすれば、危険は倍加するわけで──ひとりよりふたりのほうが夜警の目につきやすいですからね。この犯罪はじつに周到に考えてありますから──立案者が、そんな不必要に見つかる危険を冒すはずがありません」
エラリーは、急に黙って、うつむいてノートを見た。だれも身うごきひとつしなかった。ふたたび顔を上げた時には、唇のあたりが引きしまっていて、だれにも見当のつかないエラリーの内心の緊張がただよっていた。
「みなさん、いよいよ謎《なぞ》の犯人の」と、エラリーは、平静な声で、改まって「面皮をある程度、ひんめくる段になりました。さぞ、犯人の素性をおききになりたいでしょうね」
エラリーは、みんなにいどみかかるような目で、室内を見まわした。興奮でこわばっているみんなのからだが、その挑戦にたじろいだ。みんなは、あわてて顔をそむけた。しかし、もの音ひとつしなかった。
「よろしければ、とりかかります」と、エラリーは、わざと凄味をふくんだそっけない声で「じゃあ、いいんですね」
前にのり出し、目が輝いた。「犯人は男です。靴と帽子を戸棚《とだな》にしまったあの手口に加えて、かみそりの刃がなくなっていることが、男性の証拠です。死体の処置などで肉体的な力が必要ですし、かなり常識の発達した手口からみて、なかなか鋭い頭ですし、その冷血さ、その大胆さ──すべて、まぎれもなく、男性の姿を描いているではありませんか。お望みなら、その男は毎日剃らなければならないほど、ひげの深いやつだと言い足しておきましょう」
みんな息をつめて、エラリーの唇の動きを追っていた。
「星は単独で、共犯はいません。紛失した鍵の推理を長々とやって、この結論が出たのです」
室内には見じろぎする音もなかった。
「その単独犯は、この店の関係者です。死体を階下の陳列窓に移したり、その他いろいろの付随的なやり口からみてわかります。この点も、かなりくどく説明しました」
エラリーは少し息を抜いて、少しほほえみながら、ふたたび室内をみまわした。ハンカチを口に当ててそっと見ると、ウエルズ長官は、びっくりした顔で、汗をかきながら椅子に坐っているし、父親は疲れきった様子で、細い片手で目を押えているし、左手には刑事たちが黙りこくっているし、右手にはヴェリー、クルーサー、[ジミー]、フィオレリが身構えていた。やがて、エラリーは、また口をひらいた。
「ひとつの点については」と、無造作に「まだ最終結論に達していないのです。というのは、火曜日の朝、犯人が特別気を使うほど、重要至極だった仕事の性質のことですが……
そのことで、この机の上で見つけた五冊の本が、じつにおもしろい問題を与えてくれたのです──それは古生物学、基礎音楽、中世の商業、切手収集、寄席の駄洒落集《だじゃれしゅう》といった、おもしろいばらばらな組み合わせでした」
エラリーは手短かに、五冊のまちまちの本と、それにつけられた印のこと、ウィーヴァーの話したスプリンジャーの二重人格のこと、所書きが麻薬密売所なのがわかったこと、そして最後に、ウィーヴァーが手に入れた六冊目の本でわかった九十八番街の住所の手入れが失敗だったことを、かいつまんで話した。
「スプリンジャーが六冊目の本を用意したとき」と、エラリーが、かたずをのむ聴衆に向かって「本の暗号がほかの者に細工されたり、知られているとは、思ってもみなかったでしょう。もし、気がついていれば、本を用意して、ウィーヴァー君の調査の手にゆだねるようなことはしなかったでしょう。そんなわけで、月曜日の夜、スプリンジャーは退店してから、ウィーヴァー君に尾行されましたが、六冊目の本、リュシアン・タッカー著『近代室内装飾の傾向』が、その若い素人《しろうと》探偵の手にはいっているなどとは夢にも思わなかったのです。それに、その晩スプリンジャーは、ブロンクスのアパートに帰ってからさえ、だれにも会わず、だれとも話をしていません。(電話会社を調べて、家に帰ってからも、だれにも電話をかけていないのがわかっています)ですから、次の日、つまり火曜日の早朝、店に出勤するまで、本の細工がいじられていたことを知りようがなかったわけです。言いかえれば、殺人が発覚したあとで知るようなことだったのでしょう。もし、スプリンジャーでない、別の人物が、第三者から暗号のばれたことを知らされたと想像してみましょう。その場合、たとえ何者でも、店内から外のだれかにそのことを知らせる唯一の方法は、電話をかけるしかないという点を忘れてはなりません。というのは、その人物は、一晩じゅう、店から出られなかったのですからね。それに、この店の電話施設は夜間は、オフラハティの机の幹線一本を除いて全部切られることになっているのがわかっていますし、オフラハティの証言では、その幹線も一度も使われなかったそうです。
すると、月曜日の夜から火曜日の早朝にかけて、店内にいた者からは、スプリンジャーにも他の何者へも、ウィーヴァー君が持ち去ったので、六冊目の本がなくなっていることを、知らせられなかったと思わざるをえません」
エラリーはどんどん話を進めた。「あくる火曜日の朝、麻薬、密売組織が大混乱におちいった事実は──つまり、火曜日の午後に、九十八番街の家を急に放棄したのが明らかな証明です──密売団の何者かが夜の間に、暗号がいじられているのを発見したためと思わざるをえません。ここでもう一度くりかえしますが、月曜日の夕方、スプリンジャーは、いつものように六冊目の本に暗号をつけています、この事実は、密売団のほうでは自分たちの組織がまだ安全だと思っていた証拠です。それなのに、次の朝には、あわてふためいて九十八番街の密売所を逃げ出し、おとくいの麻薬常用者たちに麻薬を分けるひまさえなかったのです。ここでもまた、その前の晩に、だれかが何か手違いが生じたのを発見したものと考えるのがつじつまの合う解釈でしょう。
その発見は次の場合にのみ起こりうることです。第一は、月曜日の夜、ウィーヴァーが退店したあとで、六番目の本が、書籍部のいつもの本棚から姿を消していることがわかった場合──ウィーヴァーは最後に売場を出た男です。第二は、月曜日の夜、フレンチさんの机に、五冊の副本を見つけた場合、第三は、以上の二つが合わさった場合です。したがって、犯罪が行なわれた翌朝、密売団の混乱がおこったところを見ると、月曜日の夜に、先にのべた事実のいずれかを発見した者が、それを知らせたとしか結論の下しようがありません。それが何者か──くわしく言えば──その男は、スプリンジャーやウィーヴァー君が退店したあとも店内にいた者、したがって、少なくとも火曜日の朝九時まで店から出られず、だれとも連絡できなかった者ということになります」
エラリーの目の前に、わかりかけたぞという顔がいくたりか見えた。エラリーはほほえんで「あなたがたのうちには、必然的な結論を望まれる方がいらっしゃるようです……あの晩、店内にいて、本についての発見ができる立場にいたのはだれか? その答えは、殺人犯人であり、否応なしに五冊の副本が目につく部屋で、フレンチ夫人を殺した男です。私室《アパート》で犯人が五冊の本をたしかに発見したという証拠になる犯跡があるか? そうです。あります。犯人が翌朝[仕事]するひまをつくるために、死体を陳列窓に移した事実がそれです──その[仕事]がなんであったかは今まで不明でしたが……
みなさん、推理の鎖は」と、エラリーが妙に勝ちほこるような声で「否応なしに、まっしぐらに真実に、結びつくものです。犯人の仕事は火曜日の朝、麻薬団に警告することだったのです。
言いかえれば、だんだんはっきりする人相書きに次の要素が加わるのです──犯人は男で、単独犯で、店に関係のある男で、よく組織された麻薬密売団に属しているやつです」
エラリーはひと息いれて、きれいな手で机の上の五冊の本をいじっていた。
「なおそのうえ、犯人の人相書きに、もうひとつの限定条件を加えることができる立場になりました。
というのは、麻薬密売の殺人犯人が、殺人の夜より前《ヽ》にフレンチさんの私室《アパート》にはいったことがあるとすれば──前《ヽ》にというのは、あの運命の夜から五週間以内という意味です──きっと、机の上の本を見つけ、疑念をもち、すぐに、書籍部の本に暗号をかきつけるのを中止する指令を出したでしょうからね。それなのに、殺しの当夜まで、本の暗号はまだ使われていたところをみると、先週月曜日の夜に先だつ一週間から五週間のあいだ、犯人はフレンチさんの書斎にはいったことはないと考えるのが至当です。……この点からも、机の上のこの本を見つけたものが犯人だったと確信します。汚れたブック・エンドを、調べて修理した犯人が、この五冊の本を見落とすはずはありませんし──この五冊がいかに怖ろしい意味をもっているか理解したはずです。
実際問題として」と、エラリーはすぐにかぶせて「犯人は机の上のこの犯罪を物語る本を見て、すぐに懐中電灯片手に階下の書籍部へ行き、六冊目の本もいじられているかどうかを、たしかめただろうと推定するのはさしてむずかしいことではありません。そして、むろん、本がなくなっているのを見つけたでしょう。──絶体絶命の発見であり、ゲームの終わったことを仲間に知らせなければならなくなったわけです。これはよく筋の通る推論ですし、いますぐ、もっと実証的に究明しうるものであると、申しあげるのは、非常にうれしいことです」
こう言いきると、エラリーはちょっと話をやめて、ハンカチで額をぬぐい、鼻眼鏡のレンズを、ぼんやりとみがきはじめた。今度は、話し声がわきおこって、あたりの静けさをやぶった。最初は低い調子だったのが、興奮状態にまでたかまり、エラリーが静粛にと手を上げると、ぴたりとやんだ。
「分析を完了するために」と、エラリーが、鼻眼鏡をかけもどしながら「これからの話には、個人的なさしさわりがあるかもしれませんが。というのは、あなたがたをひとりずつとりあげて、この分析のために用意した尺度で測ってみようというわけです」
たちまち室内は叫び声が渦まいた。怒り、反感、当惑、私利侵害への不満がみんなの顔にあらわれた。エラリーは肩をすくめて、ウエルズ長官の方を見た。長官は「よろしい」ときっぱりした口調で言い、目の前に集まっている人々を睨んだ。みんなは、ぶつぶつ言いながら静まった。
エラリーは、聴衆の方へ向き直って、笑顔をつくりながら「実は」と言った「私は大して、とっぴなことを言い出したわけではないのです。ですから、ここにいるどなたからも抗議を受けるようなことは、ほとんどないのです──はっきり申しますが、どなたからもですよ。ともかく、無実の人を除外してゆく、おもしろいゲームを、少しやってみようじゃありませんか。
私のつくった尺度の最初の単位──犯人は男であるという事実から始めましょう」と、言葉をついで「まず手はじめに、頭の練習として、マリオン・フレンチ嬢、バーニス・カーモディ嬢、コルネリュース・ゾルン夫人は、すぐ除外できますね。
第二の単位──単独であった──というのは、犯人の素性を決定するのに、無用、無益ですから、第三の単位、すなわち犯人は男で、このデパート関係者である、というのに移ります。それに、第四の単位、すなわち、犯人は過去五週間以内に、この私室《アパート》にはいったことがない、という点もふくめます。
まず、サイラス・フレンチさんですが」と、エラリーは、弱りこんでいる老富豪に、軽くおじぎして「フレンチさんはたしかにこの店に関係があります。そのうえ、物理的可能性を要因とみなすなら、この犯罪を行ないえたのです。私は、つい先日、個人的に立証してみたのですが、フレンチさんは月曜日の夜、訪問先ホイットニーさんの運転手に、袖の下を使って、グレイト・ネックから当市まで送ってもらい、そのことを忘れてしまうようにといいつけました。つまり、貨物口から忍びこめる時間が十分あり、この私室《アパート》にはいることができたということになります。ホイットニーさんの家で、月曜日夜九時に、ちょっと頭痛がするなどと言って寝室に引きとってからあとは、あの運転手のほかには、フレンチさんを見かけたものは、ひとりもいないのです。
しかしながら」と、エラリーは青ざめたフレンチに微笑を送りながら「フレンチさんはたしかに、過去五週間、この部屋にはいったことのある人物です──事実は、何年も毎日、この部屋にいたのです。そして、この事実からみて、あなたは犯人にはなり得ません。その上、ご安心なさい、フレンチさん。というのは、今までわざわざ言わなかったもうひとつの他の理由があって、それがあなたの有罪性を心理的に不可能にします」
フレンチがほっとして、しなびた唇の隅に、かすかな微笑をうかべた。マリオン嬢が父親の手を握りしめた。
「ところで」と、エラリーが忙しげに「ブック・エンドの贈り主であり、フレンチ家にごく親しいジョン・グレーさんですが、あなたは」と、重々しく、おしゃれな老重役を直接名ざして「いくつかの点で、除外されます。あなたは地位の高い職員としてこの店に関係があり、あの火曜日の朝の行動が不明なのは重視されますが、過去五週間以内に、しばしばこの部屋にはいっているし、事実、金曜日のここの重役会にもたしかに出席しています。しかし、あなたには月曜日の夜のアリバイがあり、それを調べてみると、あなたが思っているより有力な証拠なのがわかりました。ホテルの夜番が、月曜日の夜十一時四十分に、あなたと話をしたと、その点でのあなたの供述を裏書きしたばかりでなく、あなたの知らない、別の人──アパートメント・ホテルの同宿人──が、十一時四十五分に、あなたが自分の部屋にはいるのを見ていたからです。……
それがなくとも、あなたを有罪などとは、とても考えられません。なぜなら、あなたの友だちの夜番が正直者なのを疑う理由は何もないからです。それと同じように、フレンチさんの場合でも、ホイットニーさんの運転手が不正直だときめつける理由は、実際にはないのです。フレンチさんの場合、袖の下などともち出したのも、ただ可能性の問題として、偶然にも、そんなことがないでもない、ということを言いたかったからです」
グレーは妙なため息をもらして、椅子にぐったりと身を沈め、上着のポケットに小さな両手を突っこんだ。エラリーは、神経質に顔を赤らめて、時計の鎖をいじっているコルネリュース・ゾルンの方を向いた。
「ゾルンさん、あなたのアリバイは薄弱で、ゾルン夫人のあいまいな証言からみても、この殺人をやりえたようです。しかし、店の役員として、少なくとも週一回は、過去何か月もこの部屋にはいっていますし、あなたもまた、フレンチさんやグレーさんと同様に、前にのべたような心理的不適格性によって除外されます。
マーチバンクスさん」と、エラリーが太って、しかめ面の死んだ夫人の兄を見て「あなたが、自動車でロング・アイランドへ行き、リトル・ネックの小屋で一晩過ごしたというお話には、目撃者も証人もいませんから、これもまた、あなたがちょうどいい時間にニューヨークへ戻り、店に忍びこんで殺人を犯すことが物理的に可能だったということになります。しかし、昨日はあんなにおこらなくてもよかったのですよ──あなたも私のふせてある条件からいえば除外です。そのうえ、この店の重役会の常連としてここに出入りする点からも、ゾルンさんと同じ理由で除外されるのです。
それに、トラスクさんも」と、エラリーは少し厳しく「月曜日の夜から火曜日の朝にかけて、酔っぱらって町をぶらついていたそうですが」トラスクは、気まずそうにうつむいた。「あなたもまた、私の尺度からいっても、まだ説明していない秘密条件からいっても、無罪放免です」
エラリーは中休みして、ヴィンセント・カーモディの無表情な浅黒い顔を、考えこむように見守った。「カーモディさん。いろいろな点で、おわびするとともに、心からご同情申しあげます。あなたは、この店になんらの関係もないという事実から、われわれはあなたを、全然考慮に入れる必要がないのです。あなたが、あの夜はコネチカットを旅行していたとおっしゃるが、それを裏づける証拠はなく、嘘かもしれません。しかし、もし殺しをやったとしても、フレンチ夫人の死体を階下の陳列窓に運ぶ必要はなかったでしょう。というのは、朝の九時に店を出て行っても、だれにもあなたの不在をとがめられる心配はなかったのですからね。それに、この店には全然関係がないんです。あなたも、念のために言っときますが、私のすばらしい秘密条件からして、とっくに除外されているのです。
さて次に」と、エラリーは、なやまし気なポール・ラヴェリーのフランス型の顔を見て「あなたの番ですが、ご心配無用」と、ほほえみ──「あなたがやったんじゃない! それに確信があるので、あなたの月曜日の行動を話していただこうともしませんでした。あなたは四週間も毎日この私室《アパート》におられたし、ほんの少し前に、フランスから直接ここに来られたのだから──この国やこの町で、根深い組織で活動している麻薬密売団にまきこまれているのではないかと疑うことなど、とても考えられません。それに、あなたもまた、殺人犯人としては条件に合いません。私がいまだに保留している最後の条件と、論理的に合致しないからです。それに、もし私が精神病の大家だったら、あなたのように洗練されたヨーロッパ的知性の方は、けっして、わが尊敬する謎の犯人を苦境におちいらせたようなあんなばからしい失策はなさらないと、付言しておきましょう。というのは、われわれすべてのうちで、少なくもあなただけは、婦人の、帽子箱への帽子の納め方や、バックル付きの靴の靴袋への納め方ぐらい十分に心得ておられる常識家ですからね。
さていよいよ」と、エラリーは熱っぽく目を光らせながら、たのしそうに「捜査範囲が非常にせばまってきました。むろん、総支配人マッケンジーさんも、店員のひとりとして、審査すべきでしょう。いや、およしなさい、マッケンジーさん、抗議なさらないで結構──あなたは、とっくに除外してあります。まもなく発表するつもりの例の最終条件が、あなたには当てはまらないし、あなたは過去五週間以内に、この私室《アパート》にはいっているからです。しかし、この私室《アパート》に一度もはいったことがなく、月曜日夜の行動について、釈明できない、何百人という店員諸君は、一応殺人犯人とみてかかっていいわけです。すぐに、とりかかりますが、この際、みなさんに──」と、エラリーは前室のドアに立っているブッシュ巡査に、さっと合図した。ブッシュ巡査はすぐ、うなずいて、ドアをあけ放したまま出て行った。
「ここで、今まであまり知られていなかった紳士をひとり、ご紹介したい、その人はほかでもなく──」この時、外のドアにざわめきがおこり、ドアが開いて、ブッシュ巡査が、ひとりの刑事を先導して来た。その刑事は、手錠をかけられてまっさおになっている男の肘をつかんでいた。──「ジェームス・スプリンジャー君です」
エラリーは少し身を引いて、にやりとした。刑事が囚人を前の方へ護送してくると、係の警官がすぐに椅子を二つ用意した。刑事と囚人が腰を下ろした。スプリンジャーは手錠のかかった両手をしょんぼりとひざに置いて、くい入るように床を見つめた。顔つきの鋭い白髪まじりの中年男で、右の頬のなまなましい傷あとが、最近の乱闘を無言で物語っていた。
室内の一同は声もなくその男を見つめた。フレンチ老社長は、裏切り者の店員を見て、ものも言えないほど腹をたてた。ウィーヴァーとマリオンが社長のわななく腕をしっかり押えた。しかし、聴衆は声もたてずに──ただ熱っぽく見つめて、みんな化石のようにからだをかたくしていた。
「スプリンジャー君」と、エラリーが穏やかに──だがその声は弾丸のように、緊迫した部屋の空気をつんざいた。「スプリンジャー君は州側の証人になってくれました。スプリンジャー君は、うまく警察の目をくらませると思って、逃げかけたところを、警戒中のわれわれの手で、その日のうちに逮捕されたのです。スプリンジャー君のおかげで、とうていつかみえなかったこの犯罪の仕組の、こまかい点がいくつも明瞭になりました。
たとえば、殺人犯人はスプリンジャー君の親分《ボス》だったこと。その麻薬密売団は目下全国的に捜査追及されています。また、犯人は、当市の密売組織の[黒幕]という言葉がぴたり当てはまるやつの右腕だったということ。バーニス・カーモディ嬢は、調査の結果かなり重症な中毒患者でしたが、ヘロイン吸飲の悪習にそまり、いつか[黒幕]と会って、暗号を教えられ、麻薬なしではいられないようになった結果、進んで、交際仲間を新しいお客に引き入れていたこと。したがって、ある意味ではほとんど密売団の一員になっていたこと、などが判明しました。
カーモディ嬢のいまわしい麻薬中毒は、実父のカーモディ氏が疑念を抱いて、前妻フレンチ夫人に話すまで、家族からは疑われずにいたこともわかっています。フレンチ夫人は、バーニス嬢を観察して、それが本当だとわかると、持ち前の強引さで、直接、お嬢さんにぶつかり、その悪習を責めて、ついに、お嬢さんの衰弱している意志力を打ちくだいて、いっさいを自白させたのです──お嬢さんに、直接、麻薬を供給している、デパート関係者の名も出ました。フレンチ夫人は、ご主人には事の真相は知らせなかったと思われます。それは、ご主人がそのような悪習を極端にいみ嫌われるからでしょう。月曜日に、夫人は、カーモディ嬢が新しく補給して、特製の口紅棒のあげ底にかくしていた麻薬を取り上げてしまいました。そのうえ、令嬢を強要して、夫の店の使用人であるその男と、月曜日の真夜中、こっそり会見する約束をとらせたのです。令嬢のために、その男に訴えようとしたのです──夫人も知ったその麻薬組織を警官に暴露するとおどして、令嬢から手をひかせ、母親の手でこっそり娘の病気を直そうと思ったのでしょう。会見の約束は、カーモディ嬢を通じて、日曜日にできました。その男はただちに緊急事態をその頭、全能の[黒幕]に報告し、[黒幕]は例の冷血ぶりでフレンチ夫人殺害を指令したのです。夫人はいまや、致命的な情報を持ちすぎているので生かしてはおけなかったのです。同時にカーモディ嬢も消すように命じたのです。カーモディ嬢が機械の中の弱い歯車だということがわかったのでかたづけなければならなかったのです。そこで男は、自分も殺されるとおどかされて、計画をたて、会見の約束をしました。男は自分も店員なので毎夜必ず三十分だけひらかれるのを知っている貨物口から、忍びこみ、真夜中まで手洗いにひそみ、それからこっそりと六階の私室《アパート》まで行き、ノックして、二、三分前に来ていたフレンチ夫人に入れてもらったのでしょう。おそらく、夫人は机のそばに立って、ふたりは口論したでしょう。男は夫人のハンド・バッグにヘロインの詰まった口紅棒がはいっているのを知らなかった。知っていれば奪ったはずです。そこで、ためらうことなく夫人を射殺し、血が噴いて、ブック・エンドを血まみれにした。それで、机を覗きこんだら、五冊の本が目にはいり、だれかが本の暗号をいじったのに気づいたのでしょう。その時、翌朝九時にウィーヴァー君とフレンチさんが出て来るという青い回状もみつけた。しかし、この思いがけない事態を、だれにも知らせることができないのを知った。というのは次の朝の九時まで外に出ることも、電話をかけることもできなかったんですからね。そこで男は死体を陳列窓に隠す決心をした。そうすれば次の朝、抜け出して一味に警告する時間がたっぷりかせげるからです。もし死体を私室《アパート》に放置して、翌朝の九時に発見されれば、自分を守るために建物から出られないことになりますからね。かくして、やつはわれわれが発見した場所に死体を移したのです。それから、帰りがけに一階の書籍部に寄って、六冊目の本が紛失しているかもしれないという疑念を確かめた。その日の午後にせ電話をかけて、カーモディ嬢の鍵を取ろうとして失敗したので、フレンチ夫人の鍵を奪い、それで私室《アパート》に戻り、室内をとりかたづけ、ブック・エンドを繕い、カーモディ嬢に不利な証拠を細工し、夜を明かして、朝、ひげを剃り、折れた刃を持ち去ったのでしょう。それから、九時少し過ぎに早朝の客にまぎれて店を抜け出し、その後すぐに、正規の手続きをするために正式の使用人口から建物にはいりました。そして、その後まもなく、かろうじて店を抜け出すと、ギャングの頭に、本の暗号がばれたことを警告したのでしょう……」
エラリーは、咳ばらいして容赦なくつづけた。「スプリンジャー君はカーモディ嬢誘拐の事情もはっきりさせてくれました。日曜日に、フレンチ夫人に麻薬の貯えを取り上げられたので、絶望的になった令嬢は、自ら殺人犯人と連絡をとったのです。これはやつの思う壺で──新しく供給するから下町の方の密会所へ来いと言ったのです。それで令嬢は月曜日に出かけて、すぐに誘拐され、一味の者にブルックリンの隠れ家に連れていかれて、殺されました。カーモディ嬢の着衣は、はぎとられて、まだ殺しをやっていなかったフレンチ夫人殺しの手許に持って来られたのです。その衣類を、犯人は、月曜日の夜、私室《アパート》へ持って行きました──何でもない小包のようにみせかけた帽子と靴とは、雨で少し湿っていたので、ごまかしに使うには、もってこいでした。
さて、みなさんご期待の大団円《デヌーマン》にはいります前に、もうひとつ解いておくことがあります。……それは、バンク遊び、吸いがら、靴、帽子などを細工して、あたかもバーニス嬢がこの犯罪にまきこまれているように見せようとした理由についてです。これまた──渋々ながら──スプリンジャー君が説明してくれたのです──スプリンジャー君は悪の歯車の──ひとつの歯にすぎませんが──おそらく、重要な歯だったのでしょう。
カーモディ嬢が私室《アパート》にいた証拠を細工したのは、令嬢を消す必要があったからです。令嬢が殺されて行方不明ということになれば、二つの事件──娘の失踪、母親の殺害──を結びつけて考える筋が出て来ます。娘のいた証拠を残せば、一応娘がやったように見えますからね。もともとつくりごとだが、警察が混乱して、本筋の捜査を遠ざけることができるかもしれないとでも、犯人は思ったのでしょう。しかしやつは本気で、そのごまかしが長くつづくことを希ったわけではない──ただ捜査の目を自分からそらして、追跡の手を別の方向へ向けさせるものなら、なんでもよかったのです。それにそういうふうに[でっち上げ]るのは、やつにとってはじつに造作もないことだったのです。たばこは、カーモディ嬢取りつけのグザントスの店から手に入れたので、その特製のたばこを買う店を令嬢から聞いて知っていたのです。バンク遊びも令嬢から聞いていました。あとは子供だましみたいなものです……」
みんなは、固い折り畳み椅子のふちまで腰をのり出して、一語も聞きもらすまいと緊張していた。時々、互いにちらちらと、とまどうように、顔を見合わせて、分析の結末が、どうつくのかわかりかねるようだった。エラリーは、ひと言《こと》で、みなの注意をさっと引きもどした。
「スプリンジャー!」その声が鋭くひびきわたった。囚人は、はっとして青ざめ、おずおずと見上げたが、その目はすぐに、それまでじっと見つめていた足もとの絨毯《じゅうたん》の上に落ちた。「スプリンジャー、君の話したことを、忠実に完全に伝えたと思うかね」
スプリンジャーの目に急に苦悶の色がひらめき、眼孔の中でぐるぐるまわると、目の前でゆらめく人々の中のひとつの顔を気違いのように探しはじめた。そして何か言いかけたが、その声はしわがれて、単調で、きき耳を立てている人々にもほとんど聞きとれなかった。
「そうです」
「よろしい、では」と、エラリーが、のり出して、明らかに勝利をつげるような大声で「さっき[秘密の]と言った未説明の条件を、解き明かしましょう。……
ブック・エンドの、めのうと新しいフェルトの間の糊に付いていた白い粉のことを話しましたね。あれは普通の指紋用の粉でした。
粉の本質がわかった瞬間から、目の前の霞が消えて、真相が見えてきたのです。
最初考えたのは、みなさん」と、エラリーがつづけて「犯罪に指紋粉を使うなんて、どえらい殺し屋だ──全く、大した奴だということでした。しかし、もともと警察が使うものを使っているんだから──犯人は自然に思い浮かびますよ……だが」──その言葉がとても強く場内を圧した──「もうひとつ推理できることがあるのです──その推理によって、ただひとりの人間を除いて、全員の容疑が、いっぺんにけし飛んでしまうのです。ただひとりを除いてね……」と、エラリーの目がらんらんと輝き、そのかすれた声も直っていた。証拠物件の並べてある机の上に、慎重に身をのり出して、いまや個性の磁力で、みんなをひきつけていた。「ただひとりを除いて──全容疑者が……」と、ゆっくり言い直した。
かなり間を置いて「その人間は、この店の使用人であり、少なくともこの五週間以内にこの私室《アパート》にはいったことのない男。前科のない共犯者を使って、本当はすでに死んでいるバーニス・カーモディ嬢の行動について|にせ《ヽヽ》情報をわれわれに提供して、自分に対する追及の手を他へそらそうと企てた男。同時に、われわれがカーモディ嬢の[濡れ衣]を見破ったと見てとると、自分がそのでっち上げをやったくせにすぐに自分もそう思うとぬけぬけというほど抜け目のない男。本の暗号と、スプリンジャーへの嫌疑が論じられたその場に居合わせて──念のために申しますが、その場に居合わせたただひとりの容疑者です──スプリンジャーの逮捕で身に非常な危険が及ぶのを悟り、すぐスプリンジャーに逃げるように警告を発した男。さらに、最も重要な点は、|今回の捜査に関して《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|指紋用の粉の使用が《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|きわめて自然に合理的に出来た男《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、ということになるのです……」
エラリーは急に口をつぐんで、興味と期待と、追及の熱意をこめた目で、部屋の片隅を見やった。
「気をつけろ、ヴェリー」と、とっさに鋭く叫んだ。
みんなが振り向くひまもなく、目の前に、すばやく必死で演じられている光景の意味を見てとるひまもなく、短く激しくもみ合う音、猛牛のたけり狂う唸り声、かすれたはげしい息づかいがひびき、最後に鋭く耳をろうするような大きな銃声が一発。……
エラリーは、ぼんやりと、疲れた顔で、机のそばの自分の席に立っていた。みんなが部屋の四方八方から、すでに死んで、血の池の中に棒のようにのびている男の死体が静まりかえっている場へ、いっせいに殺到するのを、身動きもせずに見ていた。
電光のようなすばやさで、まっ先に、ひんまがった死体に馳けよったのは、クイーン警視で、すぐ絨毯にひざをつき、まっかな顔であえいでいるヴェリー部長を押しのけ、まだ|けいれん《ヽヽヽヽ》している自殺者の|からだ《ヽヽヽ》をひっくりかえしながら、すぐわきにいる連中にも聞きとれぬほど低い声でつぶやいていた。
「法的証拠はひとつもない──だが、山勘が当たった! ……せがれのために、よかった、よかった」
ひっくりかえされたその顔は、店の探偵主任、ウィリアム・クルーサーだった。(完)
[#改ページ]
訳者あとがき
この作品は一九三〇年に刊行された、エラリー・クイーンの第二作で、原名は『The French Powder Mystery』であるが、国名シリーズなので、『フランス・デパート殺人事件』と、訳してみた。
ニューヨークのどまん中、第五アヴェニューの角の、フランス・デパートのショーウィンドーで、まっ昼間、デパートの社長夫人が、展示中の新型ベッドから、死体となって転がり落ちる。いかにもクイーン好みのはでな発端から、麻薬密売団のからまる、この殺人事件は、珍しくも事件のドタバタ的発展というより、事件の渦中にある人々の、私小説的な人間関係の洗い出し方に、面白味のある手法を使いながら、じつに見事に解決されてゆく。
謎の口紅棒、はなやかなスカーフ、奇妙な取り合わせの五冊の本、白い粉のついためのうのブック・エンド、それぞれに、クイーン好みのペダンチックな趣向をあしらった小道具もそろっている。
舞台といい、小道具といい、まず申し分ない。そこへ登場する役者が、例によって、推理の申し子みたいなエラリーなのだから、おもしろくないはずがない。
序文にも、J・J・マックが書いているように、エラリーは、父警視とともに隠退して、スイスの山荘で、美しい妻、かわいい子、愉快なジューナと、優雅な生活を送っていて、ふたたび、人間狩りの世界には戻らないつもりらしい。事実、久々にニューヨークを訪れたが、[宝石ちりばめる]ローマの風景を愛して、早々と引き上げた、などと書いているが、本書の最終話の頭に引用の形で出している「追跡も最後の段階に来て、壁を背に、あえぎながら絶望的になっている獲物に、最後の一撃(クー・ド・メーン)を加えるスリルは、けっして諦らめられない──たとえ、トルコの神苑の永遠の愉悦をすべて与えられるとしても、それには代えられない」これが、エラリーの本音なのだろう。
踊る雀は百までというが、推理のおもしろさにとりつかれると、なかなか抜けないものである。そして、それはそれなりにひとつのプラスである。
例によって、作者はこの作品でも、本格的な推理の挑戦を読者にいどむ。読者のみなさん、どうぞ、作者に、最後の一撃(クー・ド・メーン)を与えるスリルを味わっていただきたい。(訳者)
〔訳者略歴〕
石川年(いしかわねん)
一九〇七年東京生まれ。国学院大学史学科卒。NHK勤務のあと日本放送作家協会理事を務めた。クイーンの「国名シリーズ」のほか、H・G・ウェルズの作品など多数の翻訳書がある。