スペイン岬の裸死事件
エラリー・クイーン/石川年訳
目 次
まえがき
一章 キャプテン・キッドの大失策
二章 失策の穴埋め
三章 裸体男の問題
四章 待ったなしの潮時
五章 珍客邸
六章 主役はなんと意固地者《いこじもの》
七章 仁義《じんぎ》と殺人と婦人について
八章 接客法
九章 夜、その青黒き猟人よ
十章 ニューヨークからの紳士
十一章 三途《さんず》の川の渡し賃
十二章 ゆすりそこない
十三章 間違いだらけ
十四章 おめみえ女中の意外な告白
読者への挑戦
十五章 とんだ邪魔
十六章 赤裸々な真実
むすび
訳者あとがき
[#改ページ]
登場人物
[#ここから1字下げ]
家族
ウォルター・ゴッドフリー……スペイン岬の持ち主
ステラ・ゴッドフリー……その妻
ローザ・ゴッドフリー……その娘
デーヴィッド・カマー……ステラの弟
客
ローラ・カンスタブル……四十太りのヒステリー
アール・コート……ローザのフィアンセ
ジョン・マルコ……山賊先生(女たらし)
セシリア・マン……ブロードウェイの女優くずれ
ジョーゼフ・A・マン……アリゾナ出の男
ゆきずりの人物
キッド(船長)……土地っ子
ルシュース・ペンフィールド……弁護士
ハリー・ステビンズ……土地のガソリン屋
ホリス・ウェアリング……留守の隣人
召使い
バーリー……家政婦
ジョラム……下男
ピッツ……ステラの小間使い
テイラー……部屋男
(その他)
調査人
マクリン(判事)……休暇中の法律家
モリー(警視)……地区保安官
エラリー・クイーン……屁理屈屋
[#ここで字下げ終わり]
[#改ページ]
赤裸々なる真実
ホラティウス「カルミーナ」1-24-7
[#改ページ]
[#ここから1字下げ]
舞台
舞台は、北大西洋岸の奇怪な岩層を持つスペイン岬《みさき》とその付近である。岬は、約一平方マイルの岩棚が海へ突出したもので、狭い断崖のくびれで本土とつながっている。広いハイウェイから、わずか二、三百ヤードしか離れていないし、岬の西側は公衆海水浴場になっているのに、岬は、まったくの私有地で、まったく外部から遮断されている。
[#ここで字下げ終わり]
まえがき
スペイン岬は、グレート・ノース・ツー・サウス航空の空路の真下の、大西洋岸にあるから、私は、その場所を、よく知っている。それに、私の貧弱なモーター・ボートの舷から、見飽きるほど見ているし、少なくとも、三度は、空から見下ろしている。
海から眺めると、その岬はまるで、世界的に有名なアルプス山脈の主峰のひとつの、あの風雪にさらされた巨大な岩塊を削りとってきたようである。側面を手荒く切りとって、脚部を大西洋の大波に浸すために、その山のある場所から、何千マイルも引っぱって来て、海に投げ込んだもののようだ。岬にぐっと近づいてみると――岬の脚部を取り囲んでいる峨々《がが》たる岩塊に近づけるだけ近づくと――岬は、すばらしく巨大な、圧倒的な、難攻不落な花崗岩《かこうがん》の城塞《じょうさい》で、まるで、ジブラルタルのようである。
海から見るスペイン岬は、荒々しく、身の毛もよだつようなものと、想像していただいてよい。
しかし空から見ると、ほとんど詩のように美しく、まるでちがう印象を受けられるだろう。目の下はるかに、濃緑色の神秘的な、珍しい形のエメロードが、紺碧《こんぺき》に波立つ木理《もくめ》に埋めこまれているように横たわっているのだ。岬には深い林が茂り、下草が生い茂り、機上からは、岬を覆《おお》いつくす緑の中に、たった三つの空地が浮き上がって見えるだけである。
そのひとつは、入江の白い小さな砂浜で、砂丘が少し盛り上がっている(けれど、その入江がおちこんでいる周囲の断崖の高さより、はるかに低い)。もうひとつは邸宅《やかた》で、だだっ広く、何か幻想的な恰好《かっこう》の白壁の建物と、広々とした農園があり、中庭と、スペイン風の赤い屋根瓦が見える。醜いわけではないが、空から見ると、アメリカ式の現代建築であるガソリン・スタンドが、その館《やかた》に非常に接近して見えるので、ちょっと目につく調子をつくっている。しかし、そのスタンドは実際には決してスペイン岬にあるのではなくて、ハイウェイの反対側に建っているのである。
残るひとつの浮き彫りされた空地は、緑一色の岬を斬《き》りさくナイフのような細道で、ハイウェイから、まっすぐなインディアンの矢のように伸びて、岬を本土とつなぐ岩のくびれを通り、岬のまん中を、入江まで切りさいている。その細道は、空から見ると白い。私は、まだ足を踏み入れたことは一度もないが、コンクリートの道だと思っている。夜でも、月光にほの白く光っている。
この沿岸一帯の物知り人種と同様に、私はこのすばらしい岩層が――それは、もちろん、数百万年に及ぶ、絶え間ない海の侵蝕《しんしょく》作用の結果であるが――ウォルター・ゴッドフリーの所有地だということを知っている。これ以上|詳《くわ》しいことを知っている者はほとんどいない、というのも、ゴッドフリーは、常に富豪の特権を使って、世間から身を隠しているからである。
私は、この劇的な事件が岬をゆすぶり――その持ち主をゆすぶって――彼らの伝統的な孤立状態から押し出すまで――実際に、このゴッドフリーの夏別荘にすぎないスペイン岬を訪問した人物には、だれひとりとして会ったことはない。しかも、その時になっても、この岬への侵入者が、わが友、エラリー・クイーンになるとは、もちろん思いがけなかった――クイーンは、妙な運命につきまとわれているようである。
運命との闘いの大部分がそうであったように、エラリーは絶えず、兇悪な犯罪に先行されるか、追いかけられている。その結果、われわれの共通の友人がある時、冗談めかして、私に言ったことがある。「エラリーを、一晩泊りか、週末休暇にぼくの家へ誘い出そうとするたびに、かたずをのむよ。エラリーときたら、いつも人殺しを引き寄せる――冗談を許してもらえば――犬がのみをひきつけるみたいにね」
まさにそのとおりだし、スペイン岬では、実際、その言葉どおりだった。
裸死事件――エラリーが自らそう呼ぶ――その事件には、人をひきつけずにはおかないような、いらだたしい、まったく不可解なことがたくさんあった。現実生活には、このような特種な犯罪が、このような特別壮大な背景のもとで、おこるということは本当に稀である。人違いの誘拐《ゆうかい》によっておこったジョン・マルコ殺しと、この上なく不気味なマルコの裸の死体は、完全な謎を生んだ。そして、またしても、推理を駆使して成功するクイーン好みのこの事件は、第一級の好読物を、もう一冊つくらしめるに過ぎなかったのだ。
例によって、私はこの兇悪な過誤《かご》による惨劇のさきぶれをする特権を得たことを心から喜ぶと同時に、わが友の許しを得て、永遠にうち勝ちがたきものと見えたものに対する、彼のすばらしい頭脳的な勝利の道に、花をまくものである。
J・J・マック
イサンプトンにて
[#改ページ]
一章 キャプテン・キッドの大失策
実際、それはお話しにならない大失策だった。犯罪者というものは、たいてい、せっかちだったり、不注意だったり、頭脳的な近視眼のせいで、まず過《あやま》ちを犯し、それが命とりになるものだ。そして、終いには、せいぜい、鉄格子の中で、自分の過ちを思い起こし、長い年月のわびしい回想にふけるようになるものだ。しかし、これからの話は、特筆すべき失策なのだ。
キャプテン・キッド〔イギリス海賊船長。十八世紀初頭、死刑になる〕などという大それたあだ名の持ち主は、いろいろ良いところもあったが、どうも、頭脳だけは明晰《めいせき》だとは言えないらしい。信じられないほどの大男だったが、彼に特大の体を与え給うた気まぐれな神も、そのかわりに、脳味噌《のうみそ》のほうを少し減らしておいたようである。キャプテン・キッドがしでかした失策の手始めは、明らかに、彼の知能不足の結果なのだった。
気の毒なことに、その失策というのは、犯罪的なものだったが、事件に直接責任のある悪漢はもとより、間抜けな大男をあやつった蔭の人物には、なおさら、明らかになんらの痛痒《つうよう》をも与えなかったようだ。あとで明らかになるように、すべての結果が、犠牲者の頭上にふりかかったのである。
さて、事件が起こったとき、キャプテン・キッドなる間抜けな人物が、どんな風の吹きまわしで、気の毒なデーヴィッド・カマーを犠牲者に選んでしまったのかという点で、(エラリー・クイーン氏も含めて)皆の意見が一致したところは、その解答がヴェールに包まれている宇宙論的な問題の一つだということだった。一同はデーヴィッドの姉のステラが、ヒステリックに泣き悲しむのを、やりきれない気持ちで、じっと聞いて頷《うなず》くより仕方がなかったのだ。「だってデーヴィッドは、いつも、とてもおとなしい子だったのよ。思い出すわ……私たちが子供のころ、町に来たジプシーの女が、デーヴィッドの手相をみたことがあって、そのとき≪暗い運勢≫があると言ったわ。おお、デーヴィッド」
ところでこの事件は、あっさりとは話せぬ長い物語であり、エラリー・クイーン氏が、どうしてこれに捲きこまれたかも、これまたこみ入った事情によるのである。実験室で人間心理の珍現象を覗《のぞ》きこむ顕微鏡学者としてのエラリー・クイーン氏も、たしかに、最後には、キャプテン・キッドの奇怪な失策に感謝するようになったのだった。というのも、波瀾万丈《はらんばんじょう》の日々のあとで、解決の曙光《しょこう》がさしてきたとき、この大男の船長の失策が、事件解決にとって、いかに重要だったかということが、実際に、心にしみて、はっきり分かったからである。ある意味では、エラリーの推理の全機構が、それに依存することになった。しかも、最初は、その失策は、ただ紛糾《ふんきゅう》のもとにすぎなかったのだ。
一方デーヴィッド・カマーの人ごみ嫌いがなかったら、おそらく、その失策は決して起こらなかったろう――デーヴィッドの人ごみ嫌いは、病的なものではなくて、むしろ個人的な嫌悪だった――それにまた、彼の姪《めい》、ローザに対する愛情がなかったら、やはり失策は起こらなかったろう。ところが、この二つはデーヴィッドの特質だった。カマーは人のことはいっさいかまわなかったし、人々のほうでも彼をうるさがらせたり、いら立たせたりはしなかった。しかも、人好きのいい世捨て人として、人々に尊敬され、好かれてさえいた。
その頃、カマーは三十台も半ばすぎて、背が高く、がっしりして、大柄な男だった。自分の生き方は梃子《てこ》でも変えず、有名な義兄ウォルター・ゴッドフリーと同様に、独立独歩だった。一年のほとんどを、カマーはマレー・ヒルの独身住宅に住み、夏を、スペイン岬で、ゴッドフリー一家と過ごした。辛辣な皮肉屋の義兄は、カマーを岬に惹《ひ》きつけるものは、姉や姪への親近感ではなくて、岬そのもののすばらしい美しさではないかと、しばしば疑っていた――これは、いささか不当な疑いである。しかし、二人には何か共通するところがあった。つまり、二人とも孤独で、もの静かで、自分の生き方を堂々と守っているのだ。
時々、カマーは長靴ばきで猟に出て、一週間も姿を隠したり、ゴッドフリーの帆船や大型ランチで沿岸を巡航して歩いたりした。スペイン岬の西側にあるナイン・ホールのゴルフ・コースの、起伏のはげしい地勢には、ずっと以前からおなじみだったがほとんどコースに出ることもなく、ゴルフは≪老人の遊び≫と言っていた。適当な相手となら、テニスを数セットやることもあったが、たいていはひとり遊びのスポーツを楽しんでいた。むろん、独立の収入を持っていた。そして、少し筆の立つほうだったが、主に戸外の題材を書いていた。
カマーはロマンチックではなかった。そして、人生はかなり厳《きび》しい教訓を与えてくれたと、好んで口にし、現実を固く信じていた。生まれつきの行動人で、常に≪事実に直面する≫ほうだった。彼の生活は性の問題で乱されることはなかった。姉のステラと、その娘のローザを除いては、女はいっさい問題外だった。ゴッドフリー夫人の仲間うちでは、カマーは二十台の初めに不幸な恋愛事件があったとか言われていたが、ゴッドフリー家のものは決してそれを口にしないし、もちろん、彼も永遠に沈黙を守っていた。
キャプテン・キッドによって、忘却の彼方《かなた》に追いやられた犠牲者、背が高く、浅黒いスポーツマン、デーヴィッド・カマーは、ざっとそんな男である。
ローザ・ゴッドフリーは、カマー系で、家系型の黒く長い眉と、がっしりしてまっすぐな鼻を持ち、水平な目と、しなやかで強い体をしていた。並べてみると、ローザと母親のステラは姉妹のように見え、カマーが二人の兄のようだった。ローザは、知的には、叔父と同じように、もの静かで、母のステラのような、神経の鋭さや、社交的な気ぜわしさや、本質的な狭量さは、何も持っていなかった。もちろん、ローザと、背の高い叔父との間には、何もなかった――悪い意味での何事も。二人の愛情は血のつながりを重んじていた。二人とも、それ以外のことを暗示されたら、怒り出すだろう。それに二人の年は二十の上も離れているのだ。しかも、ローザが困難にぶつかったとき、すがりつくのは、母でもないし、また自分ひとりで静かに暮らし、放っておかれるのが何よりも幸せとしている父でもなく、結局、カマーだった。それはローザがまだお下げ髪のころからだった。ウォルター・ゴッドフリー以外の父親だったら、このような父親の感情的特権を横領するカマーに腹を立てただろう。
だが、ウォルター・ゴッドフリーは、家族にとっては得体のしれぬ人物だった。ちょうど、メーメー鳴く羊どもにとって、彼らの毛を刈って大財産を蓄めこんだウォルターのような人間が、得体の知れぬもののように。
館は人でいっぱいだった。少なくともカマーにとっては、そう思えた。カマーが土曜日の午後、黙り屋の義兄にこぼしたように、姉のステラが社交的な権力好きなので、つまらん客をかきあつめることになってしまったのだ。
夏も終りに近づいていた。もう終りだというので、得体のしれない、いまいましい客たちが集まって来ていた。もちろん、マルコもその一人で、女主人公の男の身内の連中から、険悪な目で見られているのもおかまいなく、けろりとして何週間も滞在していた。マルコには、そんなことは平気だった。めったにそんなことを口にしない夫があるときこぼしたように、ステラ・ゴッドフリーの、やや見当はずれの霊感で招待されている一人だった。美男のジョン・マルコは――世間に男友達がひとりもなく、少しでも儀式ばったことに耐えられない男だったから、一度迎えられると、それをいいことにして――カマーの言葉を借りれば≪毛じらみのようにしんねりむっつり≫かじりついているのだった。マルコは、ウォルター・ゴッドフリーにとってさえ、夏のよい季節の大部分を台なしにしてしまった。ウォルターはたいてい、古い仕事ズボンを着て、岩場を歩きまわり、明らかに妻が家につれて来た連中を無視していたのだが、そのほかの連中が、夏の残りの部分を台なしにした。ローザが、くすくす笑いながら≪四十太りのヒステリー≫と、その特徴を言い当てたローラ・カンスタブル。教養などは薬にしたくも見られないマン夫妻。それに、週末ごとにスペイン岬にやって来て、いじらしくもローザを追いまわしている、不幸な金髪の青年アール・コート。人数は多くはなかったが――コートだけは軽蔑しながらも好意を持っていたから、まあ別として――カマーにとっては、その連中は、まるで一大隊いるかのようだった。
大柄なカマーが、ローザを涼しいパティオ〔スペイン風の中庭〕から誘い出して、大きなスペイン風の館から、まだ暑さの残っている庭のほうへだらだら坂をくだって行ったのは、土曜日の、おそい夕食の終った後だった。石敷きのパティオでは、ステラがお客たちと話していたし、コートは、マン夫人の手くだに引きとめられて、叔父と姪の後ろ姿を、狂おしいあこがれのまなざしで、追うのが精いっぱいだった。すでにたそがれていたので、カンスタブル夫人の椅子の腕に腰かけているマルコの本当に美しい横顔の輪郭がくっきりと空にシルエットをえがいていた。マルコはそこに居合わせる女たち皆のために、わざわざポーズをとっているらしい。だが、彼はいつもポーズをとっているので、別にとりたてていうほどのことでもなかった。マルコが思いどおりにしている中庭でのおしゃべりは、うるさいだけで中身はなかった。鶏どもの啼き声のようなもので、まったく取りとめがなかった。
二人が石段をぶらぶら降りていくとき、カマーは、ほっとしてため息をついた。「実にあきれた連中だ。ねえ、ローザ、君の大事なママは、面倒なことになりかけているよ。ママが連れこんだ、つまらん連中のために、実際、上品な社交界の脅威になりかけてるんだよ。ウォルターが、がまんしている気が知れない。あの、わめきちらす猿どもにね」そう言って、笑いながら姪の腕をとった。「君は、今夜は、とてもきれいだよ」
ローザは、白っぽい、涼しげな、ぴらぴらと石段になびくようなものを着ていた。「ありがとう、叔父さま。わけはとても簡単なのよ」と、ほほえみながら、「オーガンディの布地とホイテッカーさんのすばらしい仕立ての腕の合作よ。とても、すなおな方なのね、デーヴィッド叔父さまは――それにとても社交嫌いなのね。でも、よく気がつくわ。たいていの人よりも」と、言いくわえて、ほほえみをおさめながら「気がつくのね」
カマーはブルドッグ型のパイプに火をつけて、残照の映える空を見上げながら、うまそうに吸っていた。≪たいていの人よりも≫と言われたのが気に入った。
ローザは、唇を噛んで、やがて二人は石段の下まで降りた。いい合わしたように、二人は、海岸のテラスのほうへ歩いて行った。この時間になると、テラスはまったくもの淋しく、上の館からは見えも聞こえもしなかった。美しいたそがれの中の、小さな気持ちのいい場所だった。足許には彩色した石畳があり、頭上には白い梁《はり》が、あずま家の開放屋根を支えていた。道からテラスに降りる石段があり、テラスから半月形の下の波打際に降りる石段があった。ローザは、大きく華やかなビーチ・パラソルの下の籐椅子に、少しすねたように腰かけて、手を組み、きりっと結んだ唇を突き出すようにして、小さな浜と、入江の砂をなめる波を見つめていた。入江の狭い口を通して、はるかに、もり上がるような海の広がりに、ふくらんだ白帆がいくつか見えていた。
カマーは、静かに彼女を見ていた。それからパイプをふかしながら「なやんでるんだね、おねんねさん」
ローザは、おどろいて「なやんでる? 私がなやんでるって。なぜ。どうしてそんなこと考えるの――」
「君の芝居は」と、カマーは笑いながら「君の水泳ぐらいのうまさだな、ローザ。どっちもあまり栄えないように思うがね。もし、君のハムレットのアールのせいなら――」
ローザは、ふふんと鼻を鳴らした。「アールですって。まるであの人に私をなやませることが、できそうじゃない? ママが、どうしてあの人を、自由に出入りさせるのか分からないわ。ママは気が変になりかかっているんじゃないかしら。あの人をうろつきまわらせるなんて……私はあの人はきらい。叔父さまもごぞんじのように、あの人とは、もう、きっぱり話がついているのよ。デーヴィッド叔父さま。ああ、私――私、昔、あの人と、ばかなことをしたと思うわ。結婚の約束をしたりしてね――」
「何度目のことだね」と、カマーが、まじめに聞いた。「ああ、そうだ。八度目だったと思うな。最初の七回は、君たちは、ただ、ままごと遊びをしてたんだろうからね。ねえ、ローザ、君は、まだ、ほんとにねんねなんだよ、感情的にはね――」
「ありがとう、おじいちゃま」と、ローザがひやかした。
「――君の色呆けしてる若い恋人と同じだよ。感情的に似たもの同士が結婚するのは良いことだと信じてはいるがね。そりゃ――なんだ――子孫のためになる。だがコートよりも君のほうが損するかもしれないな、ねえ、ローザ、なにしろあの男の新派大悲劇ぶりときたら」
「私のどこがねんねなのよ。私はもう子供じゃないわ。あの人――とても、たまらないわ。大の男が、あんな半熟生焼けの、けばけばしくて安っぽいコーラス・ガール上がりに、ちゃらちゃらするなんて、考えても、ぞっとするわ……」
「あの女にはうってつけの男さ」と、カマーがため息をついた。「猫の血筋なんだな。ところが君に似合う人は、どんなに立派な人でもまだ足りないぐらいだよ。ねえ、ねんねさん、利口になるんだ。もし、ちゃらちゃらするというなら、そりゃ、マン夫人のかわいい舌がするんで、アールの舌じゃないと思うよ。あの男は、さっき、病気の仔牛のように君を見送っていたよ。さあ、さあローザ、何か、かくしてるね」
「なんのことを言ってるのか分からないわ」と、ローザは言って、海を眺めた。目の下の海はもう青から紫に変わっていた。空のピンク色の斑点は消えて、波の音が高まってきた。
「分かっているはずだよ」と、カマーがささやいた。「君は、まったく気違いじみたことをする瀬戸ぎわにいるんだよ、ローザ。ねえ、ぼくは君がやろうとしていることが、気違いじみていると断言するよ。相手がマルコ以外の人間なら、ぼくの知ったことじゃないがね。しかし、どうもこの様子じゃあ……」
「マルコですって」と、ローザは、自信なさそうに、口ごもった。
カマーの皮肉な青い目がちょっと微笑した。夕闇が深まる中で、ローザはその微笑を見てとり、自分の青い目を伏せた。「ねえ、前にも一度、忠告したはずだよ。しかし、こんなことになろうとは思わなかったな――」
「どんなことよ」
「ローザ」カマーの叱るような口調に、ローザは、ちょっと顔を赤らめた。
「私は――思うのよ」と、ローザは、ふくみ声で「あの人――マルコさんが、とても気を使っているのは――そうよ。マン夫人とカンスタブル夫人よ――そう、ママにも気を使ってるわ――私にじゃないのよ、デーヴィッド叔父さま」
「そりゃ」と、カマーは気むずかしげに「また、別の問題だよ。今、議論しているのは、もっと若い女性についてなんだよ。たぶん、そんなに馬鹿じゃないだろうがね」ローザのほうへ身を寄せて、カマーは目を細めた。「ねんねさん。はっきり言っとくが、あの男は駄目だ。取り柄のない色事師だよ。はっきりした収入の道もない。ぼくの聞いたところでは、評判もかんばしくない。ぼくはちょっと苦労して、あの男を調べてみたんだ。そりゃ、ぼくだってあの男の肉体的魅力は認めるがね――」
「ありがとう。デーヴィッド叔父さまは、気がつかないのね」と、ローザは思いきって意地悪をするように「肉体的には、あの人、とても叔父さまと似ているわ。きっと、ある種の性的な代償作用なんでしょうね――」
「ローザ。みだらなことを言うもんじゃない。ぼくにとっては冗談事じゃないんだ。この世の中で、ぼくが少しでも心配している女性は、君とママだけなんだよ。言っておくけど――」
ローザは、海を見つめたままで、急に立ち上がった。「ああ、デーヴィッド叔父さん、あの人のことを話したくないのよ」ローザの唇が震えた。
「しかし話すんだよ、ローザ」と、カマーはパイプをテーブルに置いて、ローザの肩に手をかけて、ぐるりと振り向かせたので、彼女の青い目が、ぐっと近づいた。「ずっと前から、こうなるだろうと思っていたんだ。君がしようとしていることをするなら――」
「私がしようとしていることが、どうして分かるの」と、ローザは低い声で訊いた。
「見当がつくさ。マルコが下劣な奴なのは分かってるから……」
ローザはカマーの腕をつかんだ。「でも、デーヴィッド叔父さん、私、本当に何も約束なんかしていないのよ、あの人と――」
「しないって。あの男の得意そうな目の色から、別の印象を受けたがね。言っとくが、ぼくが聞いたところでは、あの男は――」
ローザは荒々しく手を下ろした。「あなたの聞いたことなんかナンセンスよ。ジョンが美男だから、ほかの男たちから嫌われるんだわ。むろん、あんな好男子ですもの、女のひとはいるにちがいないわ。……もうたくさんよ、デーヴィッド。何も聞きたくないわよ」
カマーはローザの肩から手をはなして、しばらくじっと見つめてから、わきに退《の》いて、パイプをとり上げ、灰を落して、パイプをポケットに入れた。「君も、ぼくと同じで、頑固なんだから」と、カマーが呟いた。「文句をいう筋もないと思うよ。すっかり肚《はら》がきまっちまってるんだね、ローザ」
「そうよ」
やがて二人は、どちらも黙りこんで、少し寄り添いながら、テラスの石段のほうを向いた。だれかが、上の道を、テラスのほうへ降りて来た。
実に妙なことだった。砂利を踏む重い足音がきこえた。その音は、下手《へた》な忍び足のような調子で、ざくざく聞こえた。まるで、巨人が、痛さなど気にもとめないで、ガラスの破片の上を爪先立ちで歩いているようだった。
とっぷり日が暮れていた。カマーは、ふと、腕時計を見た。八時十三分過ぎだった。
ローザは、まったくわけもなく、肌がむずむずして、身ぶるいした。彼女は叔父にぴったりくっついて、頭上の暗い小路の奥を見つめた。
「どうしたんだね」と、カマーが落ちついて訊いた。「震えてるじゃないか、ローザ」
「そうかしら。変ね――だれなんでしょう」
「きっと、ジョラムが、見廻りをしているんだろう。腰かけなさい、ローザ。すまなかったね、君をいら立たせたりして――」
こんな、ひょいとしたきっかけから大事になったのだ。それはまた、偶然から起こった結果とも思える。カマーはまっ白な服を着ていた。大柄な男で、髪も顔色もブルネットだし、きれいに髭《ひげ》を剃《そ》り、顔立ちも悪くない。……そのとき、あたりはどんどん暗くなって、月の出ない夜の田舎や海岸に独特の、あの真の闇夜というやつがひろがってきた。
テラスの石段の頂上に、黒い影が、ぼわっと浮かび上がった。それは、とほうもなく大きかったが、やはり人影だった。流れるように動いた。やがて、凍りついたように立ちどまり、二人の顔を見定めるようだった。
しわがれたどら声で言った。「動くな。お前さんたち。銃《ガン》がねらってるぜ」二人には、そいつが何か小さなものを手に握っているのが見えた。
カマーが落ちついて訊いた。「いったい、君はだれだね」
「だれだっていいさ」太い腕は、こゆるぎもしなかった。ローザはじっとしていながら、寄り添っているカマーの体が、引き緊まるのを感じた。彼女は闇の中でカマーの手を手探りし、警告するように、訴えるように、ぎゅっと握った。カマーの指が、温い電力のようにローザの指を握ったので、彼女はそっと一息入れた。「こっちへ上がって来い」と、どら声が続いた。「早くするんだ。静かにしろよ」
「本当なの」と、ローザは自分の声が案外しっかりしているのに、驚きながら「私たちをピストルでねらっているの」
「上がれ」
「行こう、ローザ」と、カマーがやさしく言って、ローザのあらわな腕をとるために手を上げた。二人は途中の石畳を横切って、石段を登りはじめた。ぼわっとした人影は二人が近づくと少ししりぞいた。ローザはふき出したくなった。不可解な恐怖が今はっきりしてきたのだ。すべてがまったくばかげきっている。それも、所もあろうに、スペイン岬でだ。たぶん、今、ローザは、それに気がついたのだろう。まったく、だれかの悪ふざけだと思った。きっと、アールだ。アールならやりかねない――その――その――
そのとき、くすくす笑いが、あえぎに変わった。すぐ目の前に、どら声の主が、ぬっと現われたのだ。はっきりしないがたしかに見えた。怖ろしさの実態を、はっきりさとらせるには充分だった。
その男は――ただ男のように見えたのだが――カマーにくらべると、とても背が高く、六フィートをこすカマーも、まるで小人のようだった。少なくとも、六フィート八インチはあるだろう。とほうもない図体で、支那の角力取《すもうと》りみたいだし、ファルスタッフ〔シェイクスピア劇中の肥大騎士〕をふくらましたみたいだし、ペルジュロン〔フランスの輓馬〕のように、がっちりした肩と、大きな腹をしていた。実際、とてつもなく大きくて太っているので、ローザは震えながら、本当に――人間だろうかと思った。その男の手に握られている三八口径の拳銃は、まるで子供の玩具のようだった。服装は粗末な船乗り風だった。ダンガリー〔目の粗い木綿布〕のズボンは、汚れて、しみだらけで、海風にさらされた帆布のようだし、黒か青か見分けもつかないピー・ジャケット〔水夫外套〕には、変色した真鍮ボタンと、帆布みたいなズキンがついていたし、帽子のひさしも、破れて欠けていた。
その上、いっそう怖がらせるかのように、大きな丸顔いっぱいにハンカチをかぶっていた。黒いハンカチで、どうやら、バンダナ〔スペイン風スカーフ〕らしい。目まで覆っていた。ローザは、あっけにとられた。その男はひとつ目だった。こんなばかでかい男が――片目ですむはずはない。左の目に黒い眼帯をかけていた。……ローザは、また急に笑い出したくなった。なんて間抜けな泥ちゃんだろう。覆面《ふくめん》で素姓が隠せるとでも思っているのかしら。六フィート半の上もあるのっぽの大男で、三百ポンドもありそうな図体で、しかも片目だなんて……こっけいだった。ギルバートとサリヴァン〔オペラ「ミカド」の共作者〕のコミック・オペラから抜け出した道化みたいだった。
「同じことよ」とローザは息を殺して言った。「変な覆面なんか、おぬぎになっても。人相はすっかり分かってるわ――」
「ローザ」と、カマーがとめた。ローザは黙った。その巨人がゆっくり息を吸う音がした。
「だが、お前さんたちにゃ、できやしないさ」とどら声で言った。二人は少し確信がなさそうな声だと思った。「できやしないよ、娘さん」男の低いだみ声には、牛みたいな、のろのろした、間抜けた調子があった。牡牛みたいな男だった。「二人ともこの道を上がって、自動車が曲って、家のほうへ入って行くところまで、歩いて行きな。分かったな。おれは、後から踉《つ》いて行くぜ。いつでも、ぶっ放せるようにな」
「泥坊するつもりで来たのなら」と、ローザがさげすむように言った。「私の指環と腕環を盗って行きなさいよ。私たち、けっして――」
「装身具なんかねらうもんかよ。さあ行きな」
「ねえ、君」と、カマーが静かに言った。両手を小わきにあてていた。「君が誰であろうと、女性をこんなことに捲き込む手はないよ。ぼくに用があるんなら、いったい――」
「お前さん、ローザ・ゴッドフリーだろ」と、巨人が訊いた。
「そうよ」と、ローザは、また怖ろしくなりながら答えた。
「それが分かりゃいいんだ」と男は満悦の体で、だみ声を出した。「じゃ、間違っちゃいねえや。お前さんも、こっちのも――」
カマーの鉄拳が、男の太った腹に、めり込んだ。ローザは小鼻をふくらまして、逃げ出そうとした。ぶくぶく太りのくせに、巨人の脂肪の下は筋金入りだった。カマーの一撃など、さっぱり感じないらしく、身動きもせず、声も立てなかった。そのかわりに、無造作に拳銃をポケットにもどすと、太い腕を伸ばしてカマーの首をつかみ、まるで子供でも扱うように、つるし上げ、もう一方の手で、ローザの肩をつかんだ。ローザは叫ぼうとして口を開いたが、すぐ閉じた。デーヴィッドは、息がつまって、あえいでいた……
巨人は、おだやかに言った。「お前さんたち、変なまねをするんじゃないぜ。おとなしくしなよ、マルコ」
ローザの足もとで大地が波打ち、道の両側の断崖が目の前でねじれた。カマーは少し身動きした。日灼けした顔色が白くなり、両足が、首をつられた男のようにぶらぶらした。
ローザにはやっと分かった。これは陰謀なのだ。女たちから好かれ、男たちから嫌われているマルコに対して仕組まれたものなのだ。それなのに、かわいそうな、デーヴィッドが。きっと、服のせいなのだ。マルコも今夜は白い服だったし、年頃も、背丈も、体つきも似ている。この太っちょの馬鹿が、マルコの風体を聞かされていたとすれば、こんな情況のもとでは、間違えてデーヴィッドを捕えるのも無理のないことだった。しかし、どうして、この広いスペイン岬の地内で、二人のいる所が分かったのだろう。たしかに、誰も二人をつけて来たものはなかった。それに、マルコの服装を、誰がこの男に教えたのだろう。教えられたにちがいないんだから……ローザの頭の中には千々の思いが駆けめぐった。ローザが正気にもどったのは、何時間も経ってからのようだった。
「放しなさい」と、ローザが叫んだ。「つかまえてるのは――ちがう人よ。放して――」
巨人はローザの肩を放して、ほこりと、ウィスキーと綱索のまじり合った匂いがする手で、彼女の口をふさいだ。それから、カマーを砂利の上におろし、もう片方の指をカラーのえり首にひっかけた。カマーは、息がつまって、呼吸を楽にしようと、もがいた。
「行くんだ」と、巨人が、だみ声で言い、三人は歩き出した。
ローザは鉄のような手に口をふさがれて、もがもが言っていた。噛みつこうとしてみたが、巨人は、そっと彼女の口をたたくだけだったので、目に苦痛の泪《なみだ》を溜《た》めて、あきらめた。三人は、片側にカマーのカラーをつかみ、もう一方にローザの口をふさいでいる巨人を中にはさんで、行進した。こんなふうにして、砂利を踏む三人の靴音だけがあたりの静寂を破りながら、ぎこちなく、だが足早に、もとの道にもどって行った。三人は、両側に切り立ったような峡谷をなしてそびえる、けわしい断崖の間を進んでいった。
やっと、道が左に分かれて、広いのぼり坂の自動車道路になる地点に着いた。その分かれ目のすぐ前の崖の蔭に、無灯の古いセダンが、停まっていた。その車は前もって、スペイン岬から出る主要道路のほうへ頭を向けてあった。
巨人が、おだやかに言った。「ゴッドフリーの娘さん。おれは、お前さんの口から手を放すよ。大声を立てると、歯をへし折って呑ましちゃうからな。行って、あの車の前のドアを開けな。おいマルコ、お前さんのカラーから手を放すからな、すぐ前の席にとび乗って、ハンドルの前にすわりな。おれは後ろに乗って行先を教える。二人とも、騒ぎ立てるんじゃないぜ。さあ、言うとおりにしな」
巨人は二人を放した。カマーは喉をそっと触ってみて、弱々しく笑顔をつくった。ローザは、しゃれた麻ハンカチで唇をぬぐい、怒りにもえる目で叔父を見た。しかし、カマーは警告するように、ちょっと首を振った。
「教えてあげるわ」と、ローザは、くるりと巨人のほうを向いて、必死でささやいた。「この人は、ジョン・マルコじゃないのよ。カマーさんよ。叔父さんの、デーヴィッド・カマーさんよ。違う人を捕えたのよ。ああ、分からないの――」
「叔父さんかい。へえー」と、巨人は、感心したように低く、くすくす笑って「マルコじゃないって。そうかい。娘さん、車に乗んな。お前さんをひどい目にあわせたくないんだよ。なかなか勇気があるじゃないか」
「ああ、あんた馬鹿ね」と、ローザは叫んだが、ドアを開けて、ぐずぐず車に乗った。カマーは、その後から、肩をおとして乗り込んだ。カマーはその時すでに、悪運を予感していたらしく、最後の抵抗をするために力をセーブしていたのだろう。それは、ローザが恐怖に煮えかえる頭で、受けとった印象だった。ローザは前の席から身をねじまげて、真正面から巨人を見つめた。巨人は後ろのドアを開けて、ステップに片足を出していた。
ローザは月が昇っているのに気づいて、はっとした。今、砂利道はほの白く光り、スペイン岬の表面にぼっとそびえ立つ、断崖の垂直の岸壁に、銀色の光の斑ができていた。その時、巨人の足が見えた。……ほころびた黒靴をはいていた。右足だった。内側には穴があいていて、腫物が頭を出していた。それはガルガンチュア〔ラブレー作の巨人伝の主〕大の底豆だった。こんな大足はみたことがないので、ローザは目をぱちくりした。まったく、人間のものとは信じられなかった。……その巨人がむりやりにドアから押しこみ、座席にずしりと腰を下ろしたとき、足が見えなくなった。座席のスプリングが軋《きし》むので、ローザは笑いたくなった。しかし、ヒステリーの初期症状だと気づいて、やっと自制した。
「出しな。マルコ」と、だみ声で、「スイッチに、キイがさしてあるぜ。お前さんが、黄色いロードスターを運転してるのを知ってるんだぜ」
カマーは、前かがみになってライトのスイッチを入れ、イグニッション・キーをまわし、スターターを踏んだ。モーターが静かにうなり出したので、カマーはハンド・ブレーキをゆるめた。「行先は」と、しわがれた低い声でカマーが訊いた。
「まっすぐに岬から出るんだ。このへこんだ道を突っ切って、岬の首を越え、まっすぐに公園を通り抜けて幹線道路に出るんだ。そこで左へ曲ってまっすぐに行け」重い声に、じりじりしている調子がまじった。「さあ、急ぐんだ。おれの気にくわんことをちょいでもしてみろ、絞め殺しちまうぞ。お前さんも、静かにしているんだぞ、娘さん」
車が動き出すと、ローザは目を閉じて、座席によりかかった。ただの悪夢なのだ。じきに、身震いして目をさまし、こんなばかげたことを笑いとばしてしまうだろう。デーヴィッドを探して、夢の話をし、二人で大笑いする。……そんなことを考えている時、ふと、隣りにすわっているカマーのぎこちない右腕を感じて、身ぶるいした。かわいそうなデーヴィッド。デーヴィッドは、運命の気まぐれで、不必要に、ひどい目に遭っているのだ。そして、自分といえば……肌がむずむずした。あまりに気持ちが悪くて、どうしていいのか、あらゆる場合を考えてみるひまはなかった。
目を開いてみると、岬の首を越し、その先の細長い遊園地を通りすぎて、車は、左に曲って幹線道路に入ろうとしていた。公園道路の入口の真前に、道を距《へだ》ててガソリン・スタンドの灯が見えた。ローザには、白いオーバーオールを着たハリー・ステビンズ老人が、ホースを手にして、自動車のガソリン・タンクを覗きこんでいるのが見えた。ハリー小父さん。思いきって、叫びさえすれば、一度だけで……そのとき、首すじに、怪人の熱いくさい息がかかり、警告するようなだみ声が耳に入ったので、ローザは、嘔きけがしてがっくりと席にもたれかかった。
カマーは、へりくだっているといっていいほど、おとなしく運転していた。しかし、ローザにはデーヴィッドの下心が分かっていた。カマーの黒い髪の下にはよく働く頭脳があり、それが猛烈に活動しているにちがいなかった。ローザは、叔父がうまく計画を仕組むことを、ひそかに祈った。この鬼のような巨人をうち負かすには、よほどうまい方法がいる。腕力では、カマーの力をもってしても、この巨人の怪力には歯もたたないだろう。
一同はコンクリートの公道を疾走していた。交通はかなり混んでいた。どの車も、十マイルほど先の、ワイランド遊園地に向かっていた。土曜日の夜だ……家では、みんな何をしているだろうと、ローザは考えた。ママは? ジョン・マルコは?……デーヴィッドのいうとおりだったんだろうか。ジョンについては、結局、自分が大変な間違いをしてしまったのだろうか。しかし、今……自分とデーヴィッドの失踪にみんなが気がつくのは何時間も経ってからかもしれないと思うと、情けなくなった。スペイン岬の連中は、特にデーヴィッドは、始終、外を歩きまわっているし、最近は、自分も、気まかせに外に出るし……
「左へまがれ」と、巨人が言った。
カマーとローザは驚いた。たしかに何か変だ。スペイン岬道路を出はずれてから、まだ一マイルも来ていない。カマーが、喉の奥で何か呟いたが、ローザには聞こえなかった。左折は――私道になって、公衆海岸の先のウェアリングの別荘へ続くはずだ――目前に、スペイン岬の断崖が見える所だ。
ふたたび一同は人影もない遊園地を疾走し、じきに広々とした田舎の道路に出た。海水浴場……車は高い柵に沿って、すれすれに走り、道のそばは砂地になった。カマーはヘッドライトをつけた。道の行手に、かなり老朽した小さな建物が建っていた。カマーは速度をおとした。
「どこへ行くのかね、サイクロプス〔ギリシア神話の一つ目巨人〕」と、カマーがおだやかに訊いた。
「中休みだ。あそこの小屋へ乗りつけな」それから、巨人は、ローザがあえぐのを見て、げらげら笑った。「何にも当てにしなさんなよ、娘さん。だれもほかにはいないからな。この地主のウェアリングという奴は、ほとんど夏中、ここにはいないんだぜ。あの小屋は、閉めっぱなしだ。行きな、マルコ」
「ぼくはマルコじゃないよ、君」と、カマーは前と同じように、静かに言った。そして徐行した。
「お前もか」と、巨人は、むっとしてうなった。ローザは、がっかりして、座席に沈みこんだ。
車はゆっくりと、明りもなく人気もない小屋のわきに停まった。小屋の向こうにはボート・ハウスのような小さな建物があり、近くにはガレージだったらしい建物があった。どの建物も波打際にあった。一同が、ぎこちなく車から出ると、わずか二、三百ヤード先の、月光のちらつく波の上に、スペイン岬の断崖が黒くそびえて見えた。しかし、それが二人にとって何の役にもたたないのだから、二、三百マイル離れているのも同じだった。断崖は垂直で、高さは少なくとも五十フィートあり、その足許にころがる荒々しい岩塊に、うち寄せる浪が荒れ狂っていた。ウェアリングの浜の、ここからでさえ、岬に近づけるものではなかった。小さな建物の上にのしかかるような断崖は、その壁面のどこにも足がかりひとつなく、その高さも、岬が海から突き出ている高さよりちょっと低いぐらいのものだった。
もう一方の側には、公衆海水浴場があったが、紙屑のちらばっている砂浜にすぎなかった。砂地は月光にほの白く光っていた。
ローザは、叔父がこっそりと、すばやく辺りを見まわすのを見て、必死なんだなと思った。巨人は二人のすぐ後ろに立って、悠然と片目で見張っていた。巨人はまるで急ぐそぶりも見せずに、二人が人影もないこの場所を心ゆくまで眺めるのを許しているようだった。桟橋らしい掛け橋が、ボート・ハウスから波打際までのびていて、半ば磯波の中に、馬力のありそうなキャビンつきの小型発動機船がもやっていた。五、六本の船を動かす|ころ《ヽヽ》が砂地にちらばり、ボート・ハウスのドアは開け放ちになっていた。明らかに巨人が自分で押し入って船を引き出し、何かの支度をしたらしい……何の支度だろう。
「あれはウェアリングさんの船だわ」と、浅黒く日灼けした娘が船を見て叫んだ。「あんたが、盗んだのね。あんたは――あんたは人でなしよ」
「あくたれたって気にせんさ。娘さん」と、巨人は、まるでおこっているように、ぶっきら棒に言った。「おれはしたいようにするさ。さあ、マルコ――」
カマーは振向いて、ゆっくりと歩みよった。ローザは、カマーの青い目が月の光できらりと光るのをちらりと見て、いよいよ最後の必死の手を打つことにきめたなと思った。カマーの引きしまってすべすべした顔に、決意があふれていた。船乗りの服を着て、まったく無表情に立って見守っている巨人の姿に歩みよるカマーには、ぜんぜん恐怖の色はなかった。
「君が見たこともないほどの大金をやろう――」と、デーヴィッドは、急ぐふうもなく巨人に歩みよりながら、なめらかな言葉で話しかけた。
終いまで言うひまはなかった。ローザには、叔父がどうするつもりだったかついに分からなかった。恐怖のために声も出ず、足がへなへなになるのを感じただけで、自分たちを誘拐した、とてつもない怪人をぼんやりと感心して見ていた。彼女のかすんだ目が、ついて行けないほどの素ばやさで、巨人は拳を高くふり上げてとびかかった。皮と骨の太い棒が何かをぴしゃりと殴りつけた。次の瞬間、ローザは、おびえて固定したままの目の高さからカマーの顔が、ぐらっと沈んで行くのを見た。やがて、カマーは砂地にのびて、動かなくなった。
何ものかが、ローザの脳裡にひらめいたので、悲鳴をあげて、巨人の広い背中にとびついてひっかいた。巨人は失神したカマーの側に、静かに膝をついて呼吸をきいていた。ローザの体重を感じると、立って肩をひねるだけだった。ローザは地面に放り出されて砂の上に泣き伏した。それから、巨人はものも言わずに、ローザを摘み上げて、泣いたり、蹴ったりする彼女を暗い小屋へ運んで行った。
ドアは錠が下りているか、かんぬきがかかっていた。巨人はローザを片腕で抱いて、もう一方の手でドアの羽目板を押した。羽目板はめりめりと壊れた。こわれたドアを蹴開けて、のしのしと入って行った。
ローザが最後に見たものは、巨人が足先で後ろのドアを閉めたとき、月の光にひっそりとしている発動機船の手前で、砂に倒れているデーヴィッド・カマーの顔だった。
巨人の懐中電灯の光でぼんやり見て、おどろいたことには、そこは、まったく住み心地よさそうな居間だった。ローザはホリス・ウェアリングを知らなかったし、一度も会ったことがなかった。彼はニューヨークの実業家で、時々、一週間か二、三日、ここへ過しに来る。ローザは、いま現に波打際につないである船で、彼が岬の沖を巡航するのをよく見かけた(後日、彼女がエラリー・クイーンに語ったところによると)――彼は小柄な弱そうな半白の男で、リンネル製のキャップをかぶり、いつも一人ぼっちだった。ローザは、ジョン・マルコが黄色いロードスターにごたごたと荷物を積んで現われるずっと前の、夏の初めから、ウェアリングがこの小屋に来ていないことを、薄々知っていたし、誰かが――たしか父だったと思うが――ウェアリングはヨーロッパに旅していると言った気がした。ローザは父とウェアリングが知り合いだとはちっとも知らなかった。たしかに二人はこの海岸で会ったことは一度もなかった。だから二人が知り合いだとすれば、単なる取引関係かもしれない。そんな知り合いが父には多い――
巨人はローザを暖炉の前の敷物の上におろした。「そこの椅子にすわりな」と、一番やさしい声で命令した。そして、その椅子に、強い光を集中するように、そばの長椅子の上に懐中電灯を置いた。
黙ってローザは腰を下ろした。彼女の肘から三フィートもない小卓の上に電話があった。電話器の格好からみて地方局のもので、おそらくまだ線は切断されていないものと思われた。手がとどけば、受話器をひったくり、助けが呼べるのに――巨人は電話器をとって、線をいっぱいにのばして、十フィートも向こうの床に置いた。ローザは、ついに抗うすべもなく、椅子にぐったりとすわった。
「どうするつもりなの――私を、どうするの」と、ローザは、かさかさな小声で訊いた。
「お前さんは痛めつけるつもりじゃないよ。こわがらんでもいい、娘さん。おれのやるのは、マルコって奴だけさ。お前さんを連れて来たのは、騒ぎ立てられないためさ。放っときゃ、騒ぐだろうからな」と、あやすように笑いながら、片方のポケットから太いコードの巻いたのを取り出してほどき始めた。「さあ、静かにすわるんだ。ゴッドフリー嬢ちゃん。おとなしくすりゃ、大丈夫だぜ」ローザが、身動きもしないうちに、信じられないほどの素早さで、彼女の手を後ろにしばり上げて、椅子の背にくくりつけた。ローザは急に必死になって引いたり押したりしたが結び目がしまるばかりだった。それから、しゃがみこんで、彼女の足首を椅子の脚につないだ。ローザは、キャップからはみ出した荒い白髪まじりの髪と、赤味をおびたえり首にあるみにくい古傷のひきつりのでこぼこを見た。
「なぜ、さるぐつわをはめないの」と、ローザはいまいましそうに言った。
「なんのためにだ」と、巨人は、見るからにご機嫌で、笑った。「よかったら頭がふっとぶほどわめきなよ、娘さん。誰にも聞こえやしないぜ。さあ、行くか」
巨人はローザを椅子ごと持ち上げて、もうひとつのドアまで運んだ。大きな足のひと蹴《け》りでドアを開け、むっとするような小さな寝室に入り、ローザを椅子ごと、ベッドの傍に置いた。
「私をここへ置いてきぼりするんじゃないでしょ」と、ローザはぞっとして叫んだ。「だって、私は――私は飢え死にしちゃうわ。窒息しちゃうわ」
「おい、おい、お前さんは大丈夫さ」と、巨人がなだめるように「見つかるように考えてやるからな」
「でもデーヴィッドは――叔父さまは――あの外の人よ」と、ローザは息をはずませて「あの人をどうするつもりなの」
巨人は、小さな部屋にどすどすと足音を響かせて、居間へ通じるドアのほうへ大股で歩いて行った。「なんだと」と、振り向かずにどなった。その背中が急に怖ろしいものに見えた。
「あの人をどうするつもりなのよ」と、ローザは、恐さで狂い出しそうに叫んだ。
「なんだと」と、巨人はもう一度言って出て行った。ローザはくくりつけられている椅子に、ぐったりともたれかかった。胸がはりさけそうで、喉がつまった。ああ、あいつは白痴だ。白痴で――太っちょの人殺しの道化だ。ここから抜け出しさえすれば――間に合う間に――あいつをつきとめるのはなんでもないんだが。あいつみたいな奴は世界中にただ一人きりだ。あんなこっけいな人間の格好なんて二つとあるはずがないと、ローザは、苦々しく考えた。だから――手おくれにさえならなければ――仕返しをするのはわけもない……
ローザは、くくりつけられた鳥のように、たよりなくすわって、小さな耳の全力をあつめて、きき耳を立てた。怪人が居間を行ったり来たり歩きまわっているのが、はっきり聞こえた。するうちに、何かほかの音がした。ちりんという、澄んだ硬い音だ。ローザは顔をしかめて唇を噛んだ。何だろう――電話だ。そうだ。ダイヤルの番号をまわすときの、電話器のかちかちいう金属音がきこえた。ああ、自分が掛けられるんだったら――
ローザは必死になって立とうとしたが、椅子が、ほんの少し床から持ち上がって、かがんだような格好になることができるだけだった。どうしてそんなことができたのか分からなかったが、気がついてみると、必死の努力でドアのほうへ向かっていた。一歩一歩よろめきながら、背中の椅子が、ローザをからかうようにひょこひょこ動いた。かなり大きな音を立てたが、隣室の巨人は、あきらかに電話を聞きとるのに夢中になっていて気がつかないようだった。
やっとドアに辿《たど》りついてぴったりと耳をつけたが、疲れよりも、興奮のために、身がぶるぶる震えて何も聞きとれなかった。まだ通話が済むはずはないと思った。とすると、巨人は電話のつながるのを待っているにちがいないとローザは考えた。彼女は、強い意志の力を、ただひとつのことに集中しようと全精力を傾けた。巨人の話を聞き、できればその相手をつきとめなければならない。彼女は、巨人のだみ声が、ドア越しに響いてきたので、息を殺した。
しかし、初めの声は、ぼやけて、聞きとれなかった。誰かを呼び出してもらっているらしい。そうだとしたら、ローザには相手の名が聞きとれなかった。もし名前だったとしたら……ローザは頭痛がし、目がくらんだが、下唇を噛みしめて、その痛さで頭がすっきりするまで、根気よく、頭を振りつづけた。ああ。
「……すんだよ。うん……マルコは外に放ってある。一発くらわせなければならなかったよ。……いや、大丈夫でさ。おれが一発やればみんなのびるさ」沈黙。ローザは、翼があったら千里眼だったらと、しきりにねがった。ああ、なんとかして通話相手の男か女の名がきけたら。しかし、巨人のどら声が、また聞こえてきた。「ゴッドフリー嬢ちゃんは大丈夫だ。寝室にくくりつけてある。……けがはないよ。いや、何もしやしないさ。ただ、あんまり長くここにおいとかんほうがいいぜ。あの娘さんは、あんたに何もしなかったんだろう。……うん、うん……海に出て、それから……あんたはお医者だ……分かった、分かった。大丈夫、マルコはのびてまさ……」しばらくの間、ぼやけたしわがれ声よりほかは何も聞こえなかった。何でもいい、何でもいい、何かの手がかりが……「オーケー、オーケー。おれは出て行くぜ。もうマルコはあんたに世話やかせないよ。だが、娘さんのことを忘れなさんな。しっかりしてる娘だよ、本当に」それから、ローザは、むかむかしながら、受話器をがちゃんと置く音と、かなり人のよさそうな、まのびのした巨人のくすくす笑いの声を聞いた。
ローザは疲れて、ふたたび椅子に沈みこみながら、目を閉じた。だが、居間のドアが、たたきつけられる音を聞いて、また、すぐに目を開けた。巨人が出て行ったのだろうか、誰かが入って来たのだろうか。しかし、しんとしているだけなので、巨人が小屋を出て行ったのが分かった。なんとかして、見なくてはならない……ローザは、もがきながら後退りして、ドアを開け、前と同じような不器用な家鴨《あひる》みたいな格好で、居間の床をよちよちと横切り、一番手近な表の窓へ行こうとした。巨人の懐中電灯がなくなって、部屋はまっ暗だった。ローザは物にぶっつかり、一度など、しばられている右腕を、ひどくすりむいた。とうとう窓に行き着いた。
月が高くのぼっていて、小屋の前の白い砂浜も、波静かな海も鏡のように照り返していた。浜全体が、やわらかな銀色に輝き、視度は完全だった。
ローザは胸の痛みも、ねじまげられた筋肉に針を刺すような苦痛も、唇や喉のかわきも忘れた。窓の外の景色は、まるで映画のフィルムで写し出したように、影と光がくっきりして、いかにもすばらしくあざやかだった。二人を誘拐したあの巨人の姿さえ、まるでどこかにいる監督がロング・ショットを命じたかのように小さく見えた。ローザがカーテンのない窓に辿りついたとき、巨人はデーヴィッド・カマーの体に、かがみこんでいた。カマーは、ローザが最後に見たときと、そっくり同じ格好で、失神して倒れていた。ローザは、山のような巨人が、苦もなくカマーを持ち上げ、ぐんなりした体を肩にひっかけて、岸にひき上げてある発動機船のほうへ歩いて行くのを見つめていた。巨人はカマーを無造作に船へ放り込み、大きな足を桟橋にかけ、肩を船の胴に当てて、ぐいっと押した……
船は動き始め、巨人が押すにつれて速くなり、ついにぽっかりと水に浮んだときには、巨人は膝頭の上まで海につかっていた。それから、船べりに手をかけると、大猿のような身軽さで、船ばたごしに、はい上がった。すぐに、発動機船の停泊灯が、静かにまばたきはじめた。見ていると、巨人は甲板にうずくまり、じっとして動かぬ叔父の体を持ち上げて、船室に運び入れた。やがて、モーターがうなり、青白い海に白波を蹴立てて、小型の船は岸からすべり出して行った。
ローザは目が痛くなるまで見つめていた。それでも、停泊灯から目をそらそうとしなかった。灯は上下左右にゆれて――南へ向かってスペイン岬を遠ざかった。そして、ついに、波に消されるように消え去った。
しわくちゃによごれた服で、重罪人のように椅子に縛りつけられている日灼けした肌の娘には、ふと、自分は今、気が狂いそうになっていて、浜がそっと盛り上がってきて自分を殺そうとしているし、海が、意地の悪い、怖い顔をした生命のある波を作っているように思えた。
そして、気を失って椅子にぐったりなったとき、痛む頭の底を、もうふたたびデーヴィッド・カマーには会えないのだという確信が、稲妻のようにひらめきすぎた。
[#改ページ]
二章 失策の穴埋め
その朝はさわやかで涼しく、ちょっぴりと湿り気があった。しかし、それは海のしぶきの、潮のしめりで、二人の男の鼻を刺激して元気づける利《き》き目があった。東の空に日はまだ低く、海上の風は、まさに灰色の夜霧を吹き払って、渦巻く白い雲とまっ青な空のきれはしをむき出そうとしていた。
名だたる自然愛好家、エラリー・クイーン氏は、車台の低い、おんぼろデューゼンバーグのハンドルの後ろで、肺をふくらまして空気を吸った。そして、実際的な人間でもあるので、コンクリートのハイウェイをとばすタイヤの音に、満足そうに耳を傾けた。肺も車も調子が申し分ないので、エラリーは満足の吐息をついた。道は後方に一直線にのびて、人影ひとつない朝の道路は、ほのかに光る灰白色のリボンのようだった。
エラリーは連れをふり向いた。銀髪の老紳士で、長い足をジャック・ナイフのように前で折り曲げ、灰色の目は、しわくちゃなヴェルベットの中にはめこんだ古い宝石のように、皺《しわ》のひだに深く埋まっていた。マクリン判事は七十六歳だったが、まるで仔犬が生まれて初めて空気を吸うように潮風に鼻をうごめかしていた。
「疲れましたか」と、エラリーはエンジンの音にまけまいと、大声で訊いた。
「君より張り切っとるよ」と、判事が返した。「海は、海は、すばらしいな……エラリー、わしは本当に若返るようだ」
「丈夫な多年草ですね。こんなに長く乗っていると、ぼくはどうやら自分の年の重みを感じはじめているんですがね。しかし、この微風はあなたには利くようですね。もうじき着くはずでしょ、判事」
「間もなくだ。行けよ、ヘルメス〔ギリシャ神話の足に翼ある青年〕」そう言って老紳士は、毛むくじゃらの首をのばし、モーターの音と競うように、力強いみごとなバリトンで歌い出した。歌は船乗りに関係のあるものだったので、エラリーは微笑した。この老いぼれ鴨は、若い奴よりスタミナがあるわい、と思いながら、エラリーは注意を道路のほうに向け、右足に少し力を入れてアクセルを踏んだ。
エラリー・クイーン氏の夏は仕事がないどころか、むしろ、忙しすぎたのである。そんなわけで、海へ出かけたのも、週末の一、二回で――海が好きだが――まとまった休暇はぜんぜんとれなかった。暑い最中を、ニューヨークに封《と》じこめられて、ある特別不可解な殺人事件の解決に奮闘していた。(註、この殺人事件というのは、エラリーが捜査したうちでも最も特殊なものだった。新聞は、その事件を≪負傷したチロル人事件≫と呼んでいた。その特殊性をここではこれ以上に説明しないが、私の知っているかぎりでは、エラリーをお手上げにさせた、きわめて稀な事件のひとつであり、今でも未解決の犯罪である――J・J・マック)実を言うと、エラリーはまだその事件を解決できないで、労働祭〔九月の第一月曜日〕が過ぎると、なんとかして一度だけでもいいから、秋になるまでに、太陽のいっぱいな海岸へ遠出して、裸に近い生活を楽しみたいと熱望していたのである。それにまた、おそらく、失敗にくさってもいただろう。とにかく、父親はセンター街(本部)で、耳もとまで仕事に埋まっているし、誘い出せる友達はひとりもいないし、どこかでしょんぼりと休暇をするより仕方ないとあきらめかけていた時に、マクリン判事から誘いがかかったのだ。
マクリン判事はエラリーの父親の終生の友で、事実、警視が警察本部に入ったころは、この判事が尻押ししてくれたのだった。真は美であり、美は真である、と信じる数少ない法律家のひとりで、その多忙な一生の大部分を、法の執行に献げてきたのだった。その結果、円満な人情味と、適当な財産と、全国的な名声を得ていた。独身で子供がなく、若いエラリーを、はがいの下に庇護《ひご》して、エラリーの大学と学科を選んでやり、警視が父親の責任について、明らかに戸惑っていた頃の、エラリーの暗い青年時代を通してずっとエラリーの相談相手となっていた。そして、エラリーの論理的真実に対して、誤ることのない直感力を作り上げるのに大きな寄与をしたのであった。立派に過した七十年という年月のあとで、今ではこの老紳士も数年前から法廷を引退して、余生を、平和で静かな旅行に送っていた。エラリーにとっては、二人の年がはなれているにもかかわらず、判事は同僚であり、刺激剤だった。しかし、判事が公的生活から引退してからは、二人はめったに会わなかった。最後に会ってから一年の上も経っていた。エラリーが≪ソロン≫〔ギリシャ七賢人の一人、法律家〕と愛称しているこの判事から、呼び出しを受けたのは、実に思いがけなかったし、偶然でもあったので、特にうれしかった。それに、これ以上よろこばしい休暇友達は求むべくもなかったから、格別うれしかったのだ。
判事はテネシー州の、とんでもない土地から――(判事の話だと)そこで、物好きにも暑い間、老骨を休め、≪土人の研究≫をしていた――エラリーに電報をよこして、中間地点まで出てくれば、あとは海岸まで一緒に旅行し、海岸で一か月の休暇を共同生活して過そうと言ってきた。その電報に、エラリーは大喜びでとび上がり、急いで旅行鞄に身まわり品を放り込み、父とジューナに笑いながら、あばよと言い、もとは有名な競走車だった車輪と機械から成り立つ、ドン・キホーテ的しろもの≪忠実なロジナンテ≫に乗り込んだ。そして出かけて来たのである。二人は約束の場所で落ち合い、抱き合って、女のように一時間も喋《しゃべ》りまくり、夜を明かすべきか――二人が会ったのは午前二時半だった――それとも、すぐ出発すべきかの問題を、慎重に協議して、この際は英雄的手段に出るべきだと決定した。そして、二人ともろくに寝ていないのに、ぶったまげている宿の亭主に支払いをすませ、午前四時十五分に、エラリーのデューゼンバーグにとび乗って、判事の雄々しいバリトンの歌を伴奏にして出発したのだった。
「ところで」と、エラリーは大事な用件を済ませ、一年ぶりのお喋りの片をつけてから、訊いた。「その、アルカディア〔ギリシャの桃源郷〕はいったいどこなんですか。ぼくは、いいかげんに走っているんですよ。千里眼だと分かるんだがなあ」
「スペイン岬のある場所を知っとるかね」
「ぼんやりとね。話にはきいています」
「そうか」と判事が言った。「そこへ行くんだよ、スペイン岬じゃないが、すぐ傍の、美しい古小屋だ。ウェイランド公園から、ほぼ十マイル先、マーテンズから五十マイルほど南だ。州道から少しはずれとる」
「誰かを訪ねるんじゃないでしょうね」と、エラリーが、おどろいて訊いた。「子供っぽい熱情で、お友達に不意打ちのお客を、つれこみかねないんだからな、あなたは」
「そして、悪党をこらしめるって寸法かい」と判事はくすくす笑いながら「ところが、ちがう、そんなんじゃない。スペイン岬の近くに小屋を持っとる友人がいるんだ――すぐ波打ち際で、粗末な小屋だが、気持ちがいいし、まったく夏向きなんだ――行先はその小屋さ」
「うまい話のようですね」
「見れば分かるさ。ずっと前から年々、そこを借りているんだ――去年の夏はノルウェーに行っとったので借りなかったがね――だから、この春、思いついて、ニューヨークの彼の事務所に手紙を出したんだ。そして例年のように契約したから、出かけて来たんだよ。十月の半ばまで借りてあるから、すばらしい釣りができるだろうよ」
「釣りですか」と、エラリーは、うなって「実際、あなたときたらなあ、ちぇっ! いつも、ぼくをなぶり殺すような真似《まね》をして、目から火がでるような目にあわせるんですからね。ぼくは釣竿一本――錘《おもり》さえ持って来ちゃいないんですよ。本当に釣りをするんですか」
「みんなするから、わしらもしよう。今に、君を若い釣師《ウォルトン》に仕立ててやるよ。〔アイザック・ウォルトン「釣魚大全」の作者〕ボート・ハウスには申し分のない発動機船があるんだ。わしがそこが好きなのも、ひとつには、そのためだよ。道具のことは心配するな。町にいるわしの家政婦に手紙を出しておいたから、針もリールも糸も竿も、一式そろえて月曜日には、至急便で、とどくはずだよ」
「汽車が」と、エラリーは、憂鬱そうに「故障でもおこすといいなあ」
「しっかりしろ! 実は、一日早く来たんだよ。ウェアリングとの契約では――」
「誰とですか」
「ホリス・ウェアリングだ。家主さ。月曜日までは、乗りこまないことになっているんだがね。たいてい大丈夫だろうよ」
「まさか、その人と、ぶつかりゃしないでしょうね。とにかく、ぼくは、仮差押えするのは、まっぴらごめんですからね」
「そんなことはない。春に来た手紙だと、あの男はこの夏は、その小屋をほとんど使わないつもりだそうだ――八月から九月へかけて、ヨーロッパへ出かけるそうだから」
「その人をよくごぞんじですか」
「ほとんど知らん。実は、文通だけで知っているんだ。それから、小屋の件で三年前に一度会ったきりだ」
「建物の管理人がいるんでしょうね」
マクリン判事は、とても若々しい灰色の目を、ぱちくりした。「うん、いるとも。頬ひげを生やして、しゃちこばってる執事と、わしらの靴をみがく男とがな。生粋《きっすい》の、バートラム・ウースター・アンド・ジーブ〔ユーモア作家ウッドハウスの作中人物〕仕立てだ、親愛なる若きクロイソス〔伝説の大金持ち〕。いったい君は、どちらへお出掛けになるおつもりかね。粗末な小屋なんだ。どこか近所で、有能な婦人を掠《さら》って来ないかぎり、洗濯も、買物も、料理も、みんな自分でやらにゃならんのだ。わしは、フライパンにかけちゃ、てんで駄目なんだよ」
エラリーは自信のない顔で「ぼくの料理の才能も、出来合いの粉でつくるビスケットと、出がらしのコーヒーと、スペインまがいのオムレツぐらいのもんですからねえ。別荘の鍵は持ってるんでしょう、もちろん」
「置いてあると、ウェアリングが言って来とる」と、判事は重々しく言った。「小屋の東北の角を、対角線上二歩の地点に、地下一フィートの深さで埋めてあるそうだ。ユーモアのある男だよ。エラリー、ここは正直な土地柄でね。わしがここで過しとる間に出会った、最も犯罪らしい事件は、近くの公道沿いに、食堂とガソリン・スタンドをやっとるハリー・ステビンズが、ハム・サンドウィッチに三十五セント請求したぐらいのものだ。なあ、君、この辺では、どこの家でも鍵などかけんのだよ」
「もう、まもなくだ」と、判事は、車が道路の坂の上にかかったとき、風防ガラス越しに眸《ひとみ》をこらしていたが、いきごんで教えた。
「それに、潮どきですよ」と、エラリーが大声で「お腹が空いてきましたよ。食料はどうなんですか。あなたの怪《あや》しげな家主さんが、かん詰めの買い溜《だめ》を、うんと置いて行ったなんて言わないでくださいよ」
「しまった」と、老紳士が、悲しげな声で「すっかり忘れとったぞ。ワイで停まらなくちゃならん――スペイン岬へかかる、ちょっと手前で、北へ約二マイル――そこで、まぐさを仕入れなくっちゃ。そこだ。そこをまっすぐ行くんだ。八百屋かマーケットがやってるといいがな。まだ七時はすぎとらんだろう」
とても運よく、二人は、店の前で、あくびをしながら新鮮な野菜を下ろしている商人をみつけ、エラリーは豪勢な食糧を腕いっぱいに仕入れて、よろめきながら車へ戻って来た。どちらが金を払うかについて、ちょっともめたが、判事の接待に関する不文律の堂々たる講義によって、あっさり片がついた。それから、二人は食糧品を車の後部にとりつけてある折畳み座席にしまいこんで、旅を続けた。今度は、判事が、≪錨《いかり》をあげて≫を歌った。
三分もかからず、スペイン岬に近づいた。エラリーは徐行のブレーキをかけながら、不気味に迫って来る岩塊にみとれていた。自然の気まぐれで、視界内の水平線の上に、かなり高くそびえているのは、岩の多いその土地だけだった。岬は朝の日に静まり、ねむれる巨人のように横たわっていた。なだらかな頂上は見えず、そのまわりは林や灌木で覆われていた。
「すばらしいだろう。どうだ」と、判事がうれしそうに、どなった。「おい、エル、停めろ。向こう側のガソリン・スタンドだ。昔なじみの、ハリー・ステビンズに挨拶したいんだ――あの山賊おやじに」
「あのみごとな大きな岩塊は」と、エラリーはデューゼンバーグを操《あやつっ》て、道路からはずし、例の赤塗りのポンプが立っているギリシャの回廊風な、ガソリン・スタンドの前の砂利道へまわしながらつぶやいた。「公共用地じゃないんでしょうね。そうじゃないでしょ。わが国の億万長者どもが、そんなことを許すはずはありませんからね」
「私有地さ、いまいましいが」と、マクリン判事が笑った。「ハリーはおるかな。いまいましいなんていう騒ぎじゃない。第一、あそこへ行く陸路ときたら、たった一本しかないんだからな。向こうに見える枝道が、ハイウェイからはいっているんだ」エラリーが見ると、道の向こうに、大きな石の門が二本、枝道の入口にそびえ立っていて、枝道は見るからに涼しそうな、遊園地の木立の中にのびていた。「遊園地は狭いもんだ。それに枝道は両側に鉄条網が張ってある。遊園地を通り抜けると、岬の道を通らねばならん――そこは車二台が、やっとすれちがえるぐらいの岩道だ。道は平坦だが、スペイン岬が盛り上がっているから、結局、くぼみ道になって、そいつが岬の突端の海ぎわまで、突き抜けている。あの断崖を見ろ、ぐるっと岬をとりまいているんだ。よじ登ってみたいだろう。……次に、岬の持ち主は、ウォルター・ゴッドフリーなんだ」判事は、その名をきくだけで、すべて分かるだろうと言うように、断定的な口調で、おごそかに言った。
「ゴッドフリーというと」と、エラリーは、八の字をよせて「ウォール街のゴッドフリーですか」
「あの一族さ――つまり――音にきこえた株屋街の狼の一匹さ」と、マクリン判事が、低い声で「ひどく排他的でな。あのすばらしい岩塊の上には五、六人しか住んどらんようだが、持ち主はその数には入っとらんのだ。わしは、あそこから石を投げれば、とどくくらいの所に、ずっと暮していながら、一度も岬へ行ったことはないんだ。こっちは岬の連中との近所づきあいをさけたわけじゃないんだがね」
「田舎づきあいの心易さを信じないんですかね」
「そうさ。実は、ウェアリングとわしとの間で文通したおしゃべりでね、ウェアリングも同じことを書いて来とるよ。一度もゴッドフリー家に近づいたことはないそうだ――あの館にね――何年もここに住んでいて一度も近づきになったことはないそうだから」
「たぶん」と、エラリーはにやにやしながら「あなたも、ここの家主さんも、気取り方が足りないんでしょうよ」
「うん、そうにちがいない。ある一部では、正直な判事は、あんまり歓迎されんよ。なあ……」
「そら、そら、お説教ですか」
「ちがう、そんなことじゃない。ゴッドフリーのように、あんな短期間に、ウォール街の金を掻《か》き集めたような人間は、相当自由に法律を解釈しないと、ああはできなかっただろうと言いたいだけなんだ。わしは、あの男のことは何も知らんが、人間の性質についてはいろいろなことを疑ってみるだけの知識はよく心得ている。わしの聞いているところから判断すると、あの男は変人らしい。しかし、いい娘がいる。二夏ほど前のこと、ある日、その娘が、ブロンドの青年と一緒に、カヌーでやって来たことがある。わしと娘はすっかり仲よしになったよ。青年はふくれとったがね……やあ、ハリーが来たぞ、のら犬め。水泳着なんか着こんどる」
判事はデューゼンバーグから、ころげ出してかけつけ、ガソリン・スタンドの事務室から、顔を輝かせて、眼をぱちくりしながら出て来た、まっ赤な水着にゴム靴姿の、血色のいい、中年ぶとりの小男の手を握った。ハリーはふとった赤い首をトルコタオルで拭いていた。
「マクリン判事さん」と、ステビンズは、あっけにとられて、タオルを捨てて、顔中でにこにこしながら、力強く判事の手を握って振った。「こりゃ、本当に、うれしいこった。この夏はこっちへお見えになるってことを知っとりましたがね。去年の九月はどちらでしたか。ずっと、お変りありませんでしたかね、判事さん」
「まあまあだよ、ハリー。去年は外国にいたんでね。アニーはどうかね」
ステビンズは悲しそうに、とんがり頭を振って「どうも、はかばかしくないんでさ。判事さん、坐骨神経痛なんで」エラリーは、その気の毒なアニーとは、しあわせなステビンズのおかみさんのことだなと思った。
「そりゃ、いかんね。あんな気の若い人がね。細君によろしく言ってくれたまえ。それからハリー君、わしの親友、エラリー・クイーン君と握手してくれんかね」エラリーは、型通りに、その男のがっちりした濡れた手を握った。「わしらは、ウェアリング荘で、ひと月、共同生活をするつもりさ。ところで、ウェアリングは、おらんだろうね」
「夏の初めから、見えませんですよ、判事さん」
「泳ぎに行って来たんだな。その太鼓腹《たいこばら》をひざまでぶらさげて、公道をぶらつくのを人にみられて恥ずかしくはないのかい、このろくでなし奴《め》」
ステビンズは照れくさそうに笑って「それが、判事さん、あっしは人さまの目の薬だと思ってますよ。それに、この辺では、みんなこうですよ。あっしは朝早く浴びるのが好きでしてね。公衆海水浴場は、いま頃はからっぽですからね」
「さっき通って来た、一マイルばかり先の浜ですか」と、エラリーが訊いた。
「そうですよ、クイーンさん。反対側にもうひとつありますよ――これからおいでなさるウェアリングさんの別荘のすぐ隣りにね」
「この辺の道路は、さぞ見ものでしょうね」と、エラリーが、したり顔で言った。「暑い夏の午後はね。きれいな女の子たちが、水着でうろつきまわるでしょうからね――しかも、今年の流行の水着ときたら……」
「しようがない若造どもだな」と、判事が、こわい声で「実際、二年ほど前の夏、気取り屋夫人どもが、海水浴客が裸に近い姿で道路を歩くことについて、当局に陳情したことがあるのを覚えとるよ。ところが、ここには、泳ぐ連中が海水着で道路を歩いてもいいという、地方条令があるんだったな。その後、何も変らないのかね、ハリー」
「相変らずですよ、判事さん」と、ステビンズは、くすくす笑って「まだ条令を守って、裸で歩いてますさ」
「そんな議論をするのも、年寄りのやっかみさ。わしらは泳げんしな――」
「そろそろ習っていいですよ」と、エラリーが、くそまじめに「そうすれば、ぼくは若いロロ〔北欧の族長〕みたいに、あなたを海から釣り上げたりなんかしなくてすみますからね、六年前にメーン州の湖でやらされたようにね。人間、七十六にもなったら、乾いた土地以外の環境にも適応する術を学ぶべきですよ」
「釣りに行ったときの話しなんだ」と、判事は赤くなって、急いで言った。「どうかね、ハリー、喰いはいいかな」
「とても良いという情報ですよ、判事さん。自分じゃ、行くひまが、あんまりないんですがね。まあ、なにしろ、お元気そうですね。ほう、食糧を買いこみなさったね。いつでも、言ってくだされば――」
「そう手早く、ハム・サンドウィッチで、三十五セントも、わしからまき上げるわけにはいかんぞ」と、判事は、いかめしい口調で「今年こそは――」
よごれた茶色の小型車が、どんな仕事か分からないが、ひどく熱をあげて、ハイウェイを驀進《ばくしん》して来た。そのセダンのフロント・ドアに金文字で一行何か書いてあったが、あまり早く走っていたので文字は読みとれなかった。驚いたことに、そのセダンは、ブレーキを軋《きし》らせて左にかしぎ、スペイン岬の入口の石の門塔の間にとび込み、公園に立ちならぶ木立の下へ消えて行った。
「あれが」と、エラリーが訊いた。「このすばらしく美しい地帯での普通の運転法なのかね、ステビンズさん」
ガソリン・スタンドのおやじは頭を掻いて「一般人には通用しませんよ。おそらく、ありゃ警察ですよ」
「警察」と、判事とエラリーが異口同音に、ききかえした。
「郡警察の車ですよ」と、ステビンズは妙な顔をして「二台目です。十五分ほど前に一台、岬へかけつけるのを見ましたよ。何かあったんでしょう」
三人は黙って、公園の木蔭の道を覗き込んでいた。しかし、なんの物音もきこえなかった。空はまっ青だし、太陽はかなり高くのぼって暑さが加わり、そよ吹く潮風が、強く匂ってきた。
「警察だって」と、マクリン判事は考えこむように言った。形のいい小鼻が、ちょっと震えた。
エラリーがあわてて判事の肩をたたいた。「さあ、判事さん、お願いですよ。ぼくらは骨休めに来たんでしょう。まさか、他人の私事に口ばしを入れる気じゃないでしょうね」
老人はため息をして「そんなつもりはないよ。だが、君はどうなのかと、思ってね――」
「くわばら、くわばら」と、エラリーは、大まじめに「いやですよ。なるほど、ぼくは仕事を趣味にしてきましたがね、ソロン殿。言っときますが、それも今日までのことです。ぼくが今、望んでいるのは、純粋に動物的になることですよ。泳いで、卵をうんと食って、それからなつかしいモルペウス〔眠りの神〕ですよ。じゃ、ステビンズさん、また」
「どうぞ、どうぞ」と、ステビンズは、はっとして言った。そして、まじめな目つきで、スペイン岬の道を見つめていた。「お目にかかれてうれしいでしたよ、クイーンさん。家政婦がお入用じゃないですか、判事さん」
「いるだろうな。誰かいるかな」
「うちのアニーが、もう少しよくなればね――」とステビンズが言った。「そうですね。差し当たり手の空いてる人は知りませんがね、判事さん。気をつけておきましょう。たぶん、アニーなら心当たりがあるでしょうよ」
「きっと見つけてくれるだろう。じゃ、またハリー」といって、判事は、デューゼンバーグに乗り込んだ。三人とも、ちょっと浮かない様子だった。判事は黙りこんだし、ステビンズは心配そうだったし、エラリーはいつもしなれている簡単な発車に、変にむきになっていた。やがて、半白の小男、給油所のおやじに見守られながら、二人は車で去って行った。
二人の男は、給油所から、ウェアリングの小屋と海辺へ通ずる左側の枝道へ行く短い距離を走る間それぞれの思いにふけっていた。エラリーは、判事の簡単な指図で道を曲り、車はすぐに、公園の涼しい木蔭にとび込んだ。
「なるほど」と、しばらくしてエラリーが言った。「こりゃ大したことだ。腹は空しく、喉はからからだし、疲れているのに、ぼくは浮き浮きしてきました」
「え」と、判事は上の空で「ああ。そうだよ。本当にすばらしい所だよ、エル」
「口ほどには」と、エラリーが、そっけなく言った。「楽しんではいないようですね」
「ばかな」と、判事は、やせた体を元気よくのり出して、前方をすかして見た。「すでに、十年も若返っとるよ。まっすぐに行くんだ。じきに公園を抜けると、そこからは道はまっすぐだよ」
二人は太陽がかっと照りつける下に出た。そして、きらめく浜の美しさと、空と海の青を満喫《まんきつ》した。前方と左手に、スペイン岬の断崖が、静まりかえって、近づきがたい気配で、そびえていた。
「印象的な場所だ」と、エラリーは車を徐行させながら、つぶやいた。
「うん。まったくな。あそこだよ、エル。向こうに見える、あのひとかたまりの建物だ。右側の垣根はやじうまを防ぐもので、垣根の外は公衆海水浴場だよ。ウェアリングが、どうして、こんな場所の近くに小屋を建てたのか、気がしれんよ。しかし、大して悩まされもせんと思うがね。この辺の連中は行儀が良いんだ」判事はふと言葉を切って、聡明そうに澄んだ目の、しわのよった目ぶたをぱちぱちさせながら、少しのび上がって、前方を見つめた。「エラリー」と、鋭い調子で「ウェアリングの小屋の側にあるのは車かい。それともわしの目のまよいかい」
「たしかに、車ですよ」と、エラリーが「あの車はウェアリングのもので、あなた用に置いて行ったのじゃないかと、思ってたんですがね。だけど、考えてみれば虫のいい話ですがね。それにしても妙ですね」
「ウェアリングのじゃないだろう」と、マクリン判事が、つぶやいた。「たしかにヨーロッパに行っているはずだし、第一、パッカードより小さい車は持っとらん。あれは、ヘンリー・フォードの、おんぼろ車らしいぞ。あのそばにつけろ、エル」
デューゼンバーグは、静かに滑って、ウェアリングの小屋のそばの、道のつきあたりにあるぼろ車の後ろに停まった。エラリーは砂利道に、とび下りて、不安そうな目をしながら、停まっている車に歩みよった。判事も少し緊張して、口を真一文字に閉じて、車を下りた。
二人は一緒にその車を調べた。車内には、変わったところがなく、まったく無人車だった。点火のキイは穴からとび出していたし、ほかにもいくつかのキイが、短い鎖で、フロント・グラスにぶら下がっていた。
「ライトがつけっ放しだ」と、エラリーがつぶやいたとき、明滅して消えた。「ふん。バッテリーが尽きたな。たぶん、一晩中ここに停まっていたんだろう。これは、これは、ちょっとした謎ですね。こそ泥でしょうかね」と、エラリーは、前部ドアに手をのばした。判事は、腕組みしていた。
「わしなら手をふれんぞ」と、静かに言った。
「いったい、なぜいけないんですか」
「いけないかどうか分からんよ。とにかく、わしは、指紋の功能についてこちこちの信者なんだ」
「へえー。小さな警察自動車がすっとんでったんで、想像をたくましくしてるんですね」と、言いながらも、エラリーは、ハンドルに触れるのを止めた。「ねえ、何をぐずぐずしてるんですか。さあ――その――ウェアリングが、あなたのために埋めておいたという、ロマンチックな鍵を掘り出して、ぼくらの仕事にかかりましょうよ。ぼくは疲れましたよ」
二人はその車をまわって、ゆっくりと小屋に近づき、ふと、立ちどまった。
ドアが少し開いたままで、蝶番《ちょうつがい》のあたりの板が、生々しくはじけていた。家の中は冷え冷えと静まりかえっていた。
二人はけげんそうに顔を見合わせ、急に目の色をかえた。やがて、エラリーは物音をたてずに、すばやくデューゼンバーグにとって返し、重いレンチを探し出し、それを握ってかけ戻ると、判事にどいているように合図して、ドアにとびつき、足で蹴開けて、レンチを振り上げて、静まりかえっている家へとび込んだ。
老紳士も唇をかみしめて、あとからとび込んだ。
判事は、エラリーがぶちこわしたドアのすぐ内側に立って、表窓のすぐ下の床の一隅を見つめているのに気がついた。それから、口の中で何かののしりながら、また、レンチを振り上げ、寝室にとびこんで行った。しばらくして出て来ると、台所へ姿を消した。
「残念でした」と、エラリーは息を切らせて、もどって来て、レンチをなげ出した。「どうしたんです、判事」
マクリン判事は、セメントの床に、骨ばったひざをついていた。椅子が一脚、ひっくりかえって、手足を太い綱でしばりつけられた女が、その椅子に横たわっていた。女は、明らかにセメントの床に頭をぶつけていた。右のこめかみの下に乾いた血のりがこびりついて失神していた。
「なんと」と、判事はおだやかに言った。「わしらは、かたじけなくも、首根っこまで、何かにまきこまれたらしいな。エラリー、これは、スペイン岬の泥坊男爵の娘、ローザ・ゴッドフリーだよ」
ローザの閉じた目の下には、紫色のくまができていた。髪はみだれて、黒い絹糸のように顔にまつわりついていた。ひどく疲れて、やつれて見えた。
「かわいそうに」と、マクリン判事がつぶやいて「ありがたいことに、まともに息をしているぞ。このむごたらしいくびきからはずしてやろう、エラリー」
二人はエラリーのナイフを使ってローザを解いてやり、ぐったりしている軟らかい体を二人で持ち上げて寝室へ運び、ベッドの上に置いた。エラリーが台所から運んだ水を、判事が顔にかけてやると、ローザは少しうめいた。こめかみの傷はほんのかすかで、上《うわ》っ面《つら》のかすり傷だった。ローザが、椅子にしばられたままで窓の傍にすわっていて、失神し、がっくりとなったその急激な動きで椅子が倒れ、椅子とともに転がって、こめかみを、ざらざらなコンクリートの床にぶつけたのは明らかだった。
「泥坊男爵の娘に対する趣味は相当なもんですね」と、エラリーはつぶやいた。「とても美しい娘さんですね。ぼくも認めますよ」と、エラリーは、綱が深く喰いこんで、痺《しび》れているローザの手を、熱心にもんだ。
「かわいそうに」と、判事はもう一度言って、こめかみの血をふきとってやった。ローザは身を震わせて、もう一度うめき、目ぶたをぴくぴくさせた。エラリーは行って薬箱を見つけ、ヨードチンキのビンを持って来た。消毒剤の刺激でローザは、息をとめ、目を大きく見ひらいて、恐怖の色をうかべた。
「おお、気がついたね」と、判事は、なだめるように「もう、こわがることはないよ。味方なんだよ。ぼくは、マクリン判事だ――おぼえてるだろう、一昨年の夏会った――マクリン判事さ。無理しちゃいかんよ。ひどい目にあったね」
「マクリン判事さま」と、ローザはあえぎながら、起き上がろうとした。しかし、うめきながら倒れたが、青い眸からは恐怖の色が消えていた。「ああ、どうしましょう。どうしましょう。あの――あのデーヴィッドは見つかりましたか」
「デーヴィッド?」
「叔父さまのデーヴィッド・カマーよ。あの人、――まさか、死んだんじゃないでしょ……」と、ローザは手の甲で口をふさぎ、二人をみつめた。
「わしらは知らんのだよ、お嬢さん」と、判事が、ローザのもう片一方の手を軽くたたきながら、やさしく言った。「ねえ、わしらはいま来たばかりだよ。すると、あんたが椅子に縛られて居間にいたんだ。休んどりなさい、お嬢さん。その間に、あなたのご両親に報せてあげるからね――」
「あなた方はお分かりにならないのよ」と、ローザは叫びかけて、ふと言葉を切り「ここはウェアリングさんの別荘ね」と、窓を眺めた。日の光が床にこぼれていた。
「そうだよ」と、老人は、おどろいて言った。
「朝なのね。あたし一晩中ここにいたのね。とてもおそろしいことが起きたのよ」それから、急に口をつぐんで、ちらりと、エラリーのほうへ妙な目を向けた。「大丈夫でしょうか――この方はどなた? マクリンさま」
「わしの若い親友だよ」と、判事が急いで言った。「エラリー・クイーン君を紹介させていただこう。実は、この男は、相当名のある探偵だよ。何かおそろしいことでもあったのなら……」
「探偵さん」と、ローザはつらそうな声で、くりかえして「手おくれでなければいいんですけど」ローザは枕の上に倒れ伏して、目を閉じた。「でも、出来事を話させてくださいね。クイーンさま。何はともあれ」と、ローザは震えて、また青い目を見張りながら、あの兇悪な巨人の話を始めた。
二人は、顔をしかめて、黙って、気づかわしげに、じっと聞いていた。ローザは巨人がやってくるまで、テラスで叔父と話していたことを除いては、なにひとつ残さず、はっきりと話した。そして語り終えたときに、二人は顔を見合わせ、エラリーは、ため息をして、部屋を出て行った。
エラリーが戻ってくると、日にやけてすらっとしている娘は、ベッドから足をぶら下げて、ぼんやりと身づくろいしていた。ローザは、しわくちゃになったオーガンディを手でのばし、髪を調えていた。しかし、エラリーの足音をきくと、さっと立ち上がった。「どうでして? クイーンさま」
「外には、あなたが話したことに、新しい色づけをするようなものは、ひとつもありませんでしたよ、お嬢さん」と、エラリーはつぶやいて、ローザにたばこを差し出した。ローザがことわったので、エラリーは、無意識に自分で一本、つけた。判事は喫《す》わなかった。「発動機船はないし、あなたの叔父さんと、叔父さんをかどわかした男は、影もかたちも見えません。ただひとつの手がかりは、まだ外にある車ですが、あれからは大したことは分かりそうにもありませんね」
「おそらく盗んだ車だろう」と、判事が小声で「あれで足がつくようなら、残しては行かんだろう」
「でも、あの男はとても――とても馬鹿でしたわ」と、ローザが大声で「どんなことでもやれそうでしたわ」
「そうでしょうね」と、エラリーは気の毒そうに微笑して「大して利口じゃないでしょうね。あなたのお話が本当ならね。とにかく、本当に変な話ですよ、お嬢さん。ほとんど信じられませんよ」
「そんなばかでかい奴なら――」と、判事は、また小鼻を震わせて「すぐに身許が洗えるだろう。しかも片目をかくしているとすれば――」
「おそらく変装でしょう。見たわけじゃないが……一番興味のあるのは、その男が、かけた電話ですよ、お嬢さん。あなたは、どうしても、そいつが呼び出した相手の手がかりを、ぼくたちに教えられませんかね」
「ああ、お話できるといいんですけど」と、ローザは息をはずませて、こぶしを握りしめた。
「ふん。ぼくにはかなりはっきり見当がつきましたがね」と、エラリーは眉をしかめて室内を歩きまわった。「その大男の馬鹿者は、ジョン・マルコを誘拐することを誰かにたのまれたんでしょう。ところが、マルコは、万事運よくまぬかれたようですね。おそらく、誘拐者は写真なしで、マルコのだいたいの人相を教えられたのでしょう。マルコは夕食には、いつも白服を着るんですか、お嬢さん」
「ええ、そうですわ」
「それで、あなたの不幸な叔父さんは、あなたの言うとおり、体格も体つきもたいへんマルコに似ていたし、しかも昨夜は白い服を着ていたので、まったく人違いの犠牲になったのでしょうね。ところで、お嬢さん――失礼は許してくださるでしょうね――いつも、食後には、マルコと散歩なさっていたんですか――あなたがお話しになったテラスのほうへでも」
ローザは目を伏せた。「はい」
エラリーは、しばらく、不思議そうに、ローザを見ていた。「すると、あなたも一役買ったわけですね。恐ろしい間違いの悲劇です。その男がやって来て、命令にまったく忠実に、叔父さんがマルコではないことを、どうしても信じなかった。そうしてこんなことになった。電話をかけたことは、非常に重要な点です。つまり、あなたを襲った男が、雇われたものであるのを証明するからです。同時に、この別荘から報告するように命じられていたことも明らかです。ここは犯行には、うってつけの場所です。人気はないし、ボート小屋には手ごろな発動機船もありますしね。その巨人は明らかに手先にすぎません」
「だが、誰に電話をかけたのだろう」と、判事が、おだやかに訊いた。
エラリーは肩をしゃくって「それが分かればな――」
一同は黙りこんで、同じことを考えていた。地方局の電話と、スペイン岬の家に近いことだ……。
「いったい」と、ローザがつぶやいた。「どうお考えですの――デーヴィッドはどうしたんでしょう」
判事は顔をそむけた。エラリーが、やさしく言った。「分かりきった事実を無視してもしょうがないと思いますよ、お嬢さん。その大男が電話で≪あいつはもうあんたに迷惑はかけませんぜ≫というようなことを言っていたと、おっしゃったでしょう。さっき、この犯罪は誘拐だとぼくが言ったのは、あなたの感情をいたわるためだったのです、お嬢さん。あなたを捕えた男の言葉は、どうみても誘拐とは受けとれませんね。荒っぽい――引導のように聞こえますよ」
ローザは、ごくりと何かをのみくだして、目を伏せた。白っぽい顔に苦悩の色が見えた。
「わしも、そんな気がするよ」と、判事がつぶやいた。
「しかしながら」と、エラリーが、やや明るい声で続けた。「取越し苦労をしても始まりませんよ。どんなことが起こったかもしれないし、これから起こるかもしれません。とにかく、この事件はすべて、正規の警察の仕事です。警察は、もう、スペイン岬に乗り込んでいるんですよ、お嬢さん」
「来て――いますの」
「警察の車が二台、ちょっと前に、岬にはいって行くのが見えました」と、エラリーはたばこの火を見つめて「ある意味では、ぼくらがここへ来たことが、事をぶちこわしたかもしれませんね。その大男が誰に電話をかけたにしろ、その相手の人物は、お嬢さん、あなたが本当にひどい目に遭う前に、あなたを釈放するように取りはからうつもりだったのは、明らかですよ。お話によれば、あのゴリアテ〔旧約聖書の巨人〕は電話でそう言ったんでしょう。ところが、こうなってはそうするのに手おくれかもしれませんよ」と、エラリーは頭を振って「待てよ、ひょっとすると、ぶちこわしではないかもしれない。こんなひどいことを教唆《きょうさ》した男は、雇った手先が間違った男を捕えるなんてへまをやったことに気がついているかもしれない。すると、そいつは身をひそめているだろう……」と、エラリーはひとつの窓の側へ行き、開けて、少し乱暴に、たばこを投げすてた。「お嬢さん、あなたの無事を、お母さんにお報せしたほうがよくはありませんか。きっとひどくご心配でしょうからね」
「ああ……お母さま」ローザは口ごもりながら、しょんぼりした目を上げた。「私――忘れていましたわ。ええ。すぐ電話をかけますわ」
判事がローザの前に立ちふさがって、エラリーのほうへ、警告するような視線をなげた。「クイーン君にさせなさい、お嬢さん。あんたは、まだ寝ているほうがいい」ローザは言われたとおりベッドにもどった。口がぴくぴく動いた。
エラリーは居間に入り、寝室のドアを閉めきった。判事とローザは、ダイヤルをまわす音と、エラリーの低い声を聞いていた。老人も娘も何も言わなかった。やがて、ドアが開き、エラリーが、細面に少し妙な表情をうかべてもどって来た。
「デーデーヴ――」と、ローザが、のどのつまるような声で言いかけた。
「いいえ。叔父さんの消息は、なにもありませんよ、お嬢さん」と、エラリーがゆっくり言った。「当然、あなたと、カマーさんのことは非常に心配していましたよ。ぼくは、モリーというこの土地の警察官と話しました――郡刑事課のモリー警視ですがね」エラリーは、明らかにその先を言いたくないらしく、言葉を切った。
「消息はないんですの」と、ローザはうつろな声で言って、床を見つめた。
「モリーか」と、判事が、うなるように「会ったことがある。いい男だ。二年ほど前に、仕事のことで、大いに話し合ったことがあるんだ」
「お母さんが、すぐに車を、よこすそうです」と、エラリーが、日灼けした娘を見ながら、何かむずかしい、不可解なものを測るようすで続けた。「警察自動車でしょう……ところで、お嬢さん、お宅の客の一人が変な行動にでたらしいですよ。ちょっと前に、お父さんの車を一台借りて、まるで地獄で鬼に追いかけられてでもいるように、スペイン岬をとび出して行ったのです。電話のかかるすぐ前に、モリーに報告されたのだそうです。オートバイで、二人の警官が追ってるそうです」
ローザは聞きにくかったかのように、額《ひたい》にしわをよせた。「誰ですか」
「アール・コートという青年です」
ローザは、ひどく驚いたようだし、判事はけげんそうな顔をした。「アールが」
「二年前に、あんたとカヌーに乗っていた青年じゃないかな、お嬢さん」と、判事が呟いた。
「ええ、そうです。アールが……そんなことあり得ませんわ。いいえ――決してそんなこと――」
「複雑怪奇ですね」と、エラリーは言ってから、くるりとふり向いた。「コート君の逃亡や、お嬢さんとカマーの誘拐より、何かもっと緊急なことが、起こったんですよ、判事」
老紳士は唇を引きしめて「そいつは、エル――」
「お嬢さんにも知らせるべきでしょう。どうせ、すぐに知らなけりゃならないことですからね」
日灼けした娘は、ぐったりして、とまどったようにエラリーを見上げた。ローザは目まいがした。「な、なにが――」唇が思うように動かなかった。
エラリーは何か言おうとして口を開いたが、また閉じた。みんなは、おどろいて、振り向いた。うなりから判断すると、かなり馬力の強い自動車が、この小屋に向かって、道路をとばしてくるらしい。一同が身動きもできないでいるうちに、ブレーキの軋る音と、車のドアをばたんと閉める音と、砂利道を駆けつける足音が聞こえた。次いで、つむじ風のように小屋にかけこんで来たのは――背が高く、ブロンドの髪を乱し、日灼けした皮膚がすべすべしている、がっちりした青年だった。半ズボン姿で、腿や腕の筋肉が盛り上がっていた。
「アール」と、ローザが叫んだ。
アールは、ドアを後ろにばたんと閉め、その前に半裸の姿で立ちふさがり、ローザの無事をたしかめるかのように、じろりとひと目みて、それからエラリーにどなった。「おい、山賊め、しゃべるんだ。いったいどういう料簡なんだ。デーヴィッド・カマーは、どこにいる」
「アール、ばかね」と、ローザがやり返した。いつもの顔色がもどっていた。「マクリン判事さまを覚えていないの、二年前に会ったじゃない。こちらは、判事さまのお友達のクイーンさまよ。お二人とも、この別荘をお借りになって、今朝、ここにいらっしゃって、私を見つけたのよ。アール、ばかみたいに立ってないでよ。いったいどうしたの?」
青年は一同をにらみつけたが、その目つきはじきに羞恥《しゅうち》に変わり、首筋がうっすらと赤らんだ。「どうも――どうも失礼しました」と、つぶやいて「気がつかなくて――ローザさん、大丈夫?」と言って、ベッドにとびつき、ひざまずいて、ローザの手をとった。
ローザは、すぐ振り払った。「大丈夫よ。ありがとう。昨夜、あなたの助けがいるときに、あなたはどこにいたの、あのとき――デーヴィッド叔父さまと私が、一つ目の恐ろしいけだものにさらわれたのよ」と、ローザは、ヒステリー気味にけらけら笑った。
「さらわれた?」と、アールは息をのんで「デーヴィッド――気がつかなかったな。ぼくはてっきり――」
エラリーは考え深そうにコート青年を見た。「追跡して来る音が聞こえないね、コート君。ぼくは、スペイン岬のモリー警視と話したばかりだが、二人の警官が、オートバイで君を追跡してると言っていたよ」
青年はよろめきながら立ち上がって、まだ性根がつかないように「この道に曲るときに、まいちゃったんだ……あの連中、まっすぐに行っちゃった。でも、デーヴィッドさんが――」
「君には」と、マクリン判事がおだやかに訊いた。「どうしてお嬢さんのいる所が分かったのかね、コート君」
コートは椅子に崩れるようにすわって、両手で顔をかくした。それから、頭を振って目を上げた。「ごめんなさい」と、コートは、ゆっくり「ぼくの弱い頭には、荷がかちすぎるんですよ。岬の邸で、ちょっと前に、誰かから電話がかかってきたんです。ローザさんが、ここの、ウェアリング荘にいると言って来ました。邸には、もう警官が来ていましたが、ぼくの一存で――電話の主をつきとめようとしましたが、駄目でした。それから、きっと――ぼくは、とりのぼせちゃって、駆けつけて来たんです」
ローザは、青年の顔をじっと見つめていた目をそらした。何かを怒っているようだった。
「ふん」と、エラリーが「電話の声は、バスだったかね」
コートはしょげていた。「気がつきませんでした。電話の接続が悪いようでした。その声から、男か女かの判断さえ、ぜんぜんつけられなかったのです。ささやくような声でした」コートは、妙な苦悩の色をうかべて、日灼けした娘のほうを向いた。「ローザ――」
「あのね」と、ローザは壁のほうを見ながら、ひややかに言った。「私はここにすわって、一日中、聞いてなくちゃならないの――ただ聞くだけ? それとも、お家で、何があったのか、どなたかが話して下さるの?」
エラリーは、アール・コートの顔から目を離さずに答えた。「コート君を呼び出した人物が、事件をこみ入らせますね。お邸には電話が何本あるんですか、お嬢さん」
「五、六本です。各部屋に切り換え電話がついていますわ」
「ああ」と、エラリーがおだやかに言った。「すると、コート君、君に電話をかけた人物は、邸の中からもかけられるね。そのわけは、昨夜の事件――お嬢さん、あなたの誘拐についでおこったあの事件は――あなたを誘拐した男が電話をかけた相手は、お父さんの邸にいる誰かだったことを示しているように思えますからね。もちろん、断言はできませんが……」
「私――そんなこと信じられませんわ」と、ローザが、また青くなって、つぶやいた。
「それにまた」と、エラリーが低い声で「あのとてつもない海賊の失策は、ほとんど同時に、雇い主にも発見されていたように思えますからね」
「同時にですって? 私――」
「しかも失策は修正されたんです――おそらく雇い主の手でね」エラリーは眉をしかめて、もう一本、たばこをつけた。アール・コートは顔をそむけた。それから、エラリーは、かなり、きびしく、言いにくそうに「と言うのはですね。ジョン・マルコは今朝早く、お宅の海岸のテラスで、すわっているのを発見されたんですよ、お嬢さん……死んでね」
「死――死――」
「殺されたのです」
[#改ページ]
三章 裸体男の問題
モリー警視は、赤ら顔で、いかつい口つきで、どことなくがっちりしている半白の古強者《ふるつわもの》だった――これは、世界を股にかけた老練な人狩りの特徴で、必要に応じて鉄拳を使い、常習犯どもの顔と手口を覚えていて、下っぱからたたき上げたことと、生得の冷静な俊敏さがあることを示している。こういう男は、犯罪が常道からはずれると、しばしば狼狽しがちである。
モリー警視は、ローザの話と、コートがぼそぼそと説明するのを、口もはさまずに聞いていたが、エラリーは、その眉の間に、困惑の情を読みとった。
「ところで、クイーンさん」と、モリーは、判事がローザを助けて警察車に乗せ、コートが、情けなさそうに、一同の後ろで顔をしかめているときに、言った。「こいつはたしかに大仕事です。私の線からは少しはずれています。――私は、その――あなたのお噂はよく聞いていますし、もちろん、判事さんの推薦《すいせん》もありますので、私としては充分です。よかったら――ひとつ――助けてくれませんかね」
エラリーはため息をして「ぼくの願うのは、さし当たり……われわれはちっとも寝てないんですよ、警視さん、それに食べるほうも――」と、エラリーは、デューゼンバーグの、ドアを開けっ放しの後部席を、恨めしそうに見やった。「とにかく、マクリン判事とぼくとで――そのう――いわば、試験的な、検証をやってみましょう」そういう声には何か熱がこもっていた。
本道からはずれて、スペイン岬への入口には、郡警察の機動部隊がすでに警備についていた。明らかに、コートの一時的な脱出が、予防警戒措置をとらせたのだ。車は猛スピードでそのそばを通過したが、一同はまったく無言だった。ローザは刑場にひかれる女のように、かたくなってすわっていた。目がきらきらしていた。コートは、その横で爪をかんでいた……。岬の首根っこの岩道には別の機動隊員が立っていた。そして、岬の中心に通じるくぼんだ石道に沿って、機動隊のオートバイが点々と、とめてあった。
「あの乗り棄ててあった車は」と、エラリーがモリー警視に低く話しかけた。その目はもの問いたげに生き生きとしていた。
「今、二人ばかりで調べています」と、警視は、憂鬱そうに言った。「指紋があれば、みつけるでしょうが、私は指紋には大して望みをかけてないんです。手口は実にあざやかにやっていますが、どうも、職業的な犯罪者の仕事ではないようですね。あの大男と言うのは……」と、警視は、こちこちの唇をなめて「まったく、妙な奴だな。つきとめるのは造作ないはずですよ。とにかく、この辺で、そいつの人相に合致する奴のことを以前耳にしたことがあるような気がします。じきに、思い出しますよ」
エラリーは、それ以上、何も言わなかった。車がへこんだ道を出はずれると、いままで進んで来た道のはるか上に、浜のテラスの入口が見えた。そこではひとかたまりの人間がごった返していた。やがて、車はその角を曲って、邸のほうへ登り始めた。はでな瓦ぶきの、無造作にかさなり合った屋根が見えて、遠くからでも、切妻で、それと知れた。
道路の両側には、わざと手をかけないで荒れさせてある、ささやかな岩庭がひろがり、潮風とまじって、ぴりっと甘いような匂いをたてていた。はるか左手のほうで、岩のような顔色をした節《ふし》くれだった老人が、跼《かが》んで仕事をしていた。まるで、他人の非業《ひごう》の死などで、労働の神聖さを犯されてたまるものかという調子だった。あたり一面、咲き乱れる花のしげみと、色とりどりの岩と、みずみずしい灌木だった。やがて、前方に邸が浮かび上がった――細長い、屋根の低いスペイン風の建物だった。……エラリーは、岩庭で働いていた老人が、ウォルター・ゴッドフリーその人ではなかったろうかと、ふと思った。
「ジョラムですよ」と、モリー警視が、エラリーの顔色に気づいて言った。
「そのジョラムというのは?」
「ここで、ぶらぶら働いている取り柄のない老人ですよ。ゴッドフリー老がこの世で持っているただひとりの友達でしょうよ。ゴッドフリーのロビンソン・クルーソーみたいな生活の中で、善良なフライデーみたいな働き手です――時には自動車の運転もするし、見張りもするし、親分の年がら年じゅうの庭いじりのお相手もするってわけです。二人組の泥坊みたいにうまがあってます」モリー警視の鋭い目は、何かを考えこむようだった。「二つばかり調べたいことがあります。第一は、昨夜、ホリス・ウェアリングの小屋から、かけられた電話だが、もしかすると、突きとめることができるかもしれません――」
「ダイヤル式の電話を突きとめようというんですか」と、エラリーは、つぶやいた。「しかも、コート青年も、自分にかかってきた電話を、突きとめられなかったと言っているんですよ」
「コートの言ったことなど」と、警視は、かんで捨てるように「ちっとも、問題にはしてませんさ。だが、部下のひとりに、彼のことは、もう調べさせましたがね、今までのところでは、本当のことを言っているようです……さあ、着いた。お嬢さん、元気にするんですよ。お母さんもずいぶん心配してたんだから。これ以上、心配させたくないでしょう。今日は、とても悲しい思いをされたんですからね」
ローザは作り笑いをして、髪を直した。
恐怖にとらわれた一団の人々が、パティオにじっとしていた。その人々のまわりを、いかめしい顔つきの警官たちが、たえず歩きまわっていた。おどおどした目が、いくつか、バルコニーから覗いていた。明らかに召使いどもの目である。人声は、まるっきり聞こえなかった。はでな色の家具が置いてあり、パティオの中央では噴水がしぶきをあげ、床は明るい色の石畳で――すべてが、きらきら光り、いつものとおりだった。あたりの光景は、ぎらぎら光る太陽の下で、気違いの絵からぬけ出したもののように、現実ばなれがしていた。
ローザが警察自動車から、とび下りると、目を泣きはらした、日にやけて背の高い、がっしりした婦人が、すんなりした手首に、ハンカチをひらひらさせながら、無我夢中で、自動車道にかけよって来た。二人の女は、ひしと抱き合った。
「大丈夫よ、お母さま」と、ローザは低い声で「で、でも、デーヴィッドが――もしかしたら――」
「ローザ、あなた――ああ、よかったわ……」
「ねえ、お母さま――」
「あなたのことを、どんなに心配したか……とても、おそろしかったわ。おそろしい日だったわ……最初は、あなたと、デーヴィッドのことで、それから、ジョー――マルコさんのことで……ねえ、ローザや、マルコさんが殺されたのよ」
「ねえ、お母さま。落ちついてちょうだい」
「そんなこといっても……悪いことつづきで。今朝は、まず、ピッツがね――あの娘《こ》、どこへ行ったんでしょう――すると、あなたと、デーヴィッドが、それからマルコさんですもの……」
「分かったわ、分かったわ、お母さま。さっきおっしゃったわよ」
「でも、デーヴィッドは。あの人――あの人――」
「知らないのよ、お母さま、私は知らないのよ」
エラリーが、モリー警視にささやいた。「ねえ、ピッツというのは誰ですか、警視」
「さっぱり分からんのです。待ってください」と、警視は手帳をとり出して、ぎっしりと書き込んであるページを見ていた。「これだ。小間使いのひとりですよ。奥さん付きの小間使いです」
「でも、ゴッドフリー夫人が、今、その女がいなくなったと言いましたね」
モリーは肩をしゃくって「どこか、そこらにいるんでしょう。差し当たって、女中の心配までしてはいられませんよ――こいつを片づけるまで、ちょっと待ってください。私は――」
モリーは言葉を切って、しばらく黙っていた。髪の乱れたコートは、パティオの入口に頑張って、食い入るようにローザをみつめ、なやましげに爪をかみながら、いつまでもその目を放さなかった。やがて、いらだたしそうに頭を振り、表情を変えて、仕方がないというふうに歩を移した。
小柄ながら、がっちりした半白の男が、少し汚れたズボンのまま、のっそりと入口をはいって来て、いかにも気が進まないようすで、ローザの手をとった。幅広い小柄の体にくらべると、細長い、頭がばかに小さいので、パンプティ・ダンプティ〔童話「マザーグース」の中のせむし男〕のように、おしりでっかちの格好だった。あごがほとんどないので、海賊鼻が、実際より大きく見えた。目は小さく、鋭くて、蛇のように、まったく生彩も感情もなく、すわっていた。……全体として、庭師かコックの下働きのようだった。たしかに、彼の容貌には、権力を示すようなものは何もなかった――もしありとすれば蛇のような目だけだし――大財産を興廃させる者を思わしめる態度だけだった。ウォルター・ゴッドフリーは、まるで養育費だけ払っている親というような調子で、娘の手をとっていたが、細君のほうは、ぜんぜん無視していた。
警察自動車の運転手が、車を運転して去ると、しばらくは気まずい沈黙がつづき、やがてゴッドフリー親子はゆっくりと、パティオへはいって行った。
「しめた」と、モリー警視は、つぶやいて、指を鳴らした。
「何事だね」と、マクリン判事が、まだゴッドフリーを見つめたままで、低く訊いた。
「分かったぞ。あいつのことです。ちょっと待ってくださいよ、すぐ思い出しますからね……よし、よし、ジョー。分かったぞ。その報告は後からだ」警視は急いで、邸の角を曲って行きかけ、やがて、頭をつき出した。「はいって、待っていてください、判事。それから、君、エラリー君も。すぐ戻って来ます」と言って、また、姿を消した。
エラリーと、判事は、やや遠慮がちに、パティオにはいった。「金持ちがいると、ぼくは、どうも気押されるほうでしてね」と、エラリーが、小さな声で「いつも、プルードン〔フランスの社会主義者〕の言葉を思い出すんです」
「プルードンはどんなことを言っとるのかね」
「財産とは、盗賊を意味する」判事は、うなった。「これを思い出すと、元気が出るんです。ぼくは貧乏だけれど、泥坊仲間に対してなら――その――ちゃんとしていられますからね。つまり、ぼくらも気を楽にしていられるでしょう」
「いつも屁理屈屋《へりくつや》だな。わしには、ここの空気の中に死が匂っているようでかなわんよ」
「どうやら、あの善良な連中の中にも、そんなのがいるようですね。あの中の誰かを知っていますか」
「ひとりも知らんな」と、老紳士は肩をすくめた。「どうやら、ゴッドフリーの苦い顔をみると――あの不愛想な小男のごろつきがゴッドフリーならば――わしらはあまり歓迎されとらんな」
ローザが、少しつらそうに籐椅子《とういす》から立ち上がった。「申し訳ありません、判事さま。私はたぶん――少し取り乱していまして。お母さま、お父さま、こちらは、マクリン判事さまですわ。手伝ってくださるそうよ。それから、こちらは、エラリー・クイーンさま――探偵さんですの。――私は――あのひとはどこ?」ローザは急に、驚いたように叫んで、泣きはじめた。言いかけたのはデーヴィッド・カマーのことか、ジョン・マルコのことか、分からなかった。日に灼けた青年は、つらそうにしていたが、とび出して、彼女の手をとって「ローザ」と、なだめた。
「探偵か」と、ウォルター・ゴッドフリーは、きたないズボンをつまみながら「手は充分まに合っとるようだがな。ローザ、泣くのをやめなさい。行儀が悪いぞ。あの悪党には、当然の報いといってもいいな。奴を片づけた人類の恩人が、割り前を出さんですむといいと思うとるよ。お前が、わしの言うことをもっとよく聞いとったら、こんなことは――」
「愉快な人だ」と、エラリーが判事とともに引きさがりながら、つぶやいたとき、ステラ・ゴッドフリーが、にくにくしげに夫を睨《にら》みつけて娘のほうへかけよった。「ごらんなさいよ、われらの若き英雄を。世界中で、もっともありふれた色男ってやつですね。涙にはしごく弱い奴です。どうやら、あの男はこの事件には関係なさそうですね。ところで、あそこにいる満艦飾のが、ローザさんが言っていた、≪いかれ≫マダムのカンスタブル夫人でしょ」
ローラ・カンスタブルは、目に灼《や》きつくように赤い、朝のドレスを着て、夢うつつに、すぐ近くにすわっていた。ローラの目には、判事もエラリーも、ステラ・ゴッドフリーがローザを家へ送り込むのも、唇をかみしめているアール・コートも、パティオのまわりをうろつく刑事たちを、にがにがしく睨んでいるウォルター・ゴッドフリーも、ぜんぜん、映らなかった。ローラは、ガウンの下に甲冑《かっちゅう》を、きっちりと着込んでいるのに、それでもまだ、みだらなまでにたくましい体つきで、胸のあたりは、やりきれないほどだった。
しかし、その大げさなこわがりようにくらべれば、図体の大きさなど、さして目立たない。肥えて、不細工なてらてらの顔に浮かべている恐怖の色は、気違いじみていた。その原因は、多くの警官がいることや、死人のそばにいること、というだけでは説明できないほどだ。エラリーはじっと、観察していた。脂ぎった喉《のど》には青筋が浮き上がり、充血している左の目の、まぶたが、ぴくぴく動いていた。そして、喘息患者のように、ゆっくりと、重々しく、骨を折って、呼吸していた。
「なんとも生々しい眺めだな」と、判事が不機嫌に「何を気に病んでおるのかな……」
「ただごとじゃありませんね……あそこに腰かけているのが、マン夫妻らしいですね」
「停止しとる信号塔みたいな連中だ」と、マクリン判事が小声で「妙な動物どもを集めたもんだな」
その女の素姓はすぐ分かった。美しい顔が、何千もの新聞雑誌にのったものだ。中西部の草深い田舎で生まれて、二十歳《はたち》になる前に、数多くの美人コンクールの優勝者として、あやしげな名声を得た。その後しばらくはモデルをしていて――とても写真うつりのいい、かわいらしいブロンド娘の容姿だった。やがて姿を消したかと思うと、パリにあらわれて、道楽者のアメリカの金持ちの妻になっていた。それも二か月後には、有利な離婚をして、ハリウッドの映画へ契約していた。
彼女の経歴の中で、女優時代のエピソードは、軽率だったとともに、多事だった。きわだった才能はなかったが、ぶっ続きに、三つのスキャンダルに巻きこまれると、ハリウッドを見捨ててニューヨークにまいもどった――そして、ほとんどすぐ、ブロードウェイのレビューに、主役として出る契約にありついた。そこで、セシリア・ボールは、自分の本業にぶつかったものらしい。というのは、彼女は次から次へと、休みなく、レビューに出演して、ブロードウェイと、バルカンの政情にだけ考えられるような、打ち上げ花火式成功をおさめたのである。そうしているうちに、ジョーゼフ・A・マンと、めぐり会ったのだ。
マンはひとかどの人物だった。十代には月三十ドルで、牛を追いまわしていた西部の果ての人間で、あのいまわしい戦争では、パーシング〔第一次大戦米軍指揮官〕の派遣軍に参加して、欧州戦争の嵐にまきこまれていた。そして、軍曹の階級と二つの勲章をフランスでもらい、榴散弾の破片を三つ体に持って、文なしの英雄になって合衆国に帰って来たのである。この戦傷も彼のヘラクレスのような精力を損なうことができなかったのは、その後の経歴によって証明される。帰国後、ほとんどすぐに、あやしげな不定期貨物船に乗り込んで、ニューヨークから姿を消し、かなり長い間、消息不明だった。やがて、ふいにニューヨークに戻って来たときには、年も四十台になり、スペイン人と土人の混血児のように色黒く、髪は、もとどおりにこわく縮れて、もの静かな威厳を備え、数百万ドルの財産家になっていた。どうやってそれだけの金をこしらえたかは、取引き銀行のほかには誰にも分からなかったが、もっぱらの噂によれば、革命と、牧畜と、鉱山が富の源だということだった。とにかく彼は南アメリカの内情には精通しているらしかった。
ジョー・マンは、執念のようになっている、ひとつの考えを持ってニューヨークへ出て来たのだ。つまり、できるだけ早く、長年にわたるきびしい馬上生活や、従軍生活や、混血女とのわびしい関係の埋め合わせをすることだった。だから、セシリア・ボールにひっかかるのも無理はなかった。けばけばしいナイトクラブで、人々は陽気だし、酒もふんだんにあり、音楽も刺激的だった。マンはぐでんぐでんに酔っぱらって、マハラージャ〔インドの王族〕さながら、湯水のように金をまきちらした。体も大きく堂々としていて、セシリアがいつも見なれている青白い男たちとは、非常にかけはなれていたし、その上、はかり知れぬほどの金持ちだった――それは、言わずもがなだ――だから、セシリアには、すぐに抵抗できない男性になったのだ。その翌日の昼、マンはコネチカットのあるホテルの一室で目を醒ましてみると、そばにはセシリアが媚笑をたたえてい、机の上には結婚許可証があったのだ。
ほかの人間なら、それぞれの性格なりに、おこっておどしつけたり、弁護士に相談するだろうが、ジョー・マンは大声で笑って「結構だよ、娘さん。おれをひっかけたな。だが、それもおれの手ぬかりだし、それにお前さんは、そうつき合いにくそうでもないからいいさ。ただ、これだけは覚えとけよ。今日からは、お前さんは、ジョー・マンの女房だよ」
「忘れるもんですか、あなた」と、セシリアはからみついて、甘えた。
「ところが、忘れるやつをいくども見たよ」と、マンはにたにた笑いながら「こうなれば、二人の間は、閉鎖会社みたいなもんだよ。いいか。お前さんが何者か、どんな奴と遊んだかなどというやぼなことはいっさい訊かん。おれの過去だって、かんばしいものじゃないんだ。おれは、たんまり金は持っとる。おそらく、おれほど、お前さんに金をやれる人間には会ったことがないだろうよ。それに、おれは、たいていのいざこざなら、自力で片づける自信がある。いいかね、今後、おれたちのいざこざは、内輪で始末するんだ。分かったな」そして、マンはすぐに、自分の考えを証明しはじめた。
というわけで、セシリア・マンは、そのときの夫の鋭い黒いまなざしを思い出すたびに、ぞっとするのだった。
それは数か月前のことだった。
今、マン夫妻は、ウォルター・ゴッドフリーのハシエンダ(館)のパティオ(中庭)に、並んですわっている――無為、無言で、息も殺していた。セシリア・マンの感情状態を推察するのはむずかしくはない。化粧の下で顔はまっ青になり、にぎりしめた手をひざではさみつけて、大きな灰緑色の目には、恐怖の色をたたえていた。胸が波打つのを押えかねていた。明らかに、ローラ・カンスタブルとはまた別の形で、おびえきっていた。
マンは妻のそばに、傲然とひかえていた。牡牛のようだ。黒い目を半眼にして、茶色のまぶたの下で、小ねずみのように動きまわるひとみは、何も見落さぬようだ。たくましい手を、スポーツ着のポケットに半ばかくしていた。顔色はまったく無表情で、仕事中の賭博師のようだった。エラリーは心ひそかに、この西部人の筋肉が、ゆったりした着付の下で、電光石火の行動に備えているのを見てとった。マンは、何事かを知り――それに備え――万全を期しているようだった。
「いったい何をみんなこわがってるんでしょう」と、エラリーが判事にささやいたとき、モリー警視の頑丈な姿が、パティオの向こうの角に現われた。「こんなにひどくおじけづいている連中をみたことがありませんよ」
老紳士は、しばらくだまっていた。それから、ゆっくり言った。「わしは殺された男に、ひどく興味がある。その顔を見てみたいな。おびえた顔をしとるかどうか」
エラリーは、ジョー・マンの身じろぎもしない姿に、ちらっと目をはせた。「おびえてるでしょうね」と、静かに言った。
刑事が大股で近づいて来た。「まあまあですよ」と、低い声で報告した。「電話局を調べました。昨夜のウェアリング別荘からの通話の記録がありました」
「うまい」と、判事が叫んだ。
「うまくないんです、まったく。掛けた奴をつきとめる方法がないんです。ダイヤル式だから、処置なしなんです。だが、この区域内で呼び出してます」
「そうか」
「ええ。それも少しは役に立ちますがね。たしかに、あの巨人という奴は、この館の中の何者かに報告したらしいですよ。だが、なんとかして証明しなければね」と、警視は奥歯をかみしめた。「それに、あの巨人の素姓が分かりましたよ」
「誘拐者がか」
「いずれは思い出せると思ってましたよ。そして調べ上げたんです」と、モリーは、両切りのイタリア葉巻を口にくわえた。「まあ、聞いてください――信じないでしょうがね。キャプテン・キッドという名の奴なんですよ」
「冗談だろう」と、エラリーが抗議した。「それじゃ、当て推量を無限に拡大することになっちまう。片目に眼帯をしてるとくれば、いったい、どうなるって言うんですか。しかも、キャプテン・キッドだなんて。義足でなかったらがっかりですよ」
「眼帯はつけてただろうよ」と、判事が、むぞうさに言った。「名前から考えてもな」
「まあ、そんなところでしょうな」と、警視は、きついにおいの煙を吐きながら、ぶつぶつ言った。「義足といえば、クイーン君――ゴッドフリー嬢が話したことのひとつで思い当たるんだが、奴は、ポーランドからこっちで、一番大きなどた靴をはいています。ボクサーのカルネラの靴より大きいということです。この辺の男どもは、奴をかっかとさせようとするときには≪馬鹿の大足≫と呼ぶそうです。お嬢さんが言っていた首にきずあとがあるという話も、役に立ちました。弾のきずでしょうからね」
「そりゃ本ものの剣士だね」
「その上、だれも、そいつの本名を知らんのです。キャプテン・キッドと呼ぶだけです。眼帯も本ものです。十年ほど前に、港で荒くれどもと喧嘩して、えぐりとられたんだということです」
「じゃ、この辺では名の通った男ですね」
「よく知れてます」と、モリーが苦々しく「バーラムのほうの沼地の掘立小屋に、ひとりで住んでいて、釣りの案内に雇われて、どうやら暮らしているらしい。ぼろ舟みたいなものを持ってるようです。安酒を一日に何クォート飲んでも、かなりしゃんとしてるという奴です。ならず者という噂です。この辺の海岸に、二十年の上も住みついとるんですが、誰も、あいつのことはくわしく知らんようです」
「帆船を持ってるのに」と、エラリーが考えながら「どうして、ウェアリングの発動機船を盗んだのだろう。本心から出たことかな」
「速力があるし、どこへでも行けますからね。それに船室もあるし。実は、部下からの報告ですが、この水曜日に、自分の船をほかの漁師に売ったばかりだそうです。曰《いわ》くがありそうでしょ」
「売ったのか」と、判事が急に真剣な口調で言った。
「そういう話です。海岸一帯に警戒命令を出しましたし、沿岸警備隊も目を光らせるように注意してあります。奴が昨夜やった仕事から、うまく逃げ出せると思ったら、たいへんな、間抜けです。誰かが、奴をなぶりものにして、からかってるんです。あの大きな図体じゃ、田舎まわりのサーカスの象にでもならないかぎり、変装のしようもありませんからね。ばかな奴ですよ」と、警視は鼻を鳴らして「あの車も、予想どおり、盗難車でした。持ち主が五分ばかり前に確認しました。五マイルほど先で、昨夜六時頃、横町に駐車してあったのを盗まれたんです」
「変だな」と、エラリーがつぶやいた。「どうも、話しをきいてみると、上《うわ》っ面《つら》ほど馬鹿げてはいないな。君の言う海賊キッドみたいな男なら、最後の一仕事をして消えようと肚をきめるのは造作ないでしょうね。生活の唯一の手段だった船を売ったことが、その証明のように思えるな」と、エラリーはゆっくりたばこに火をつけて「君が言うように、奴は今、どこへでも行ける船を手に入れた。もし、前金を受けとっていれば、何マイルも沖の決してみつからない海に、カマーの死体を沈めて、どこへでも好きな所へ行けるはずだ。もし奴をあげても、しっかりした罪体はつかまえられないんじゃないかな。罪体というやつは、とかくつかみがたいもんだから。しかも、罪体のみつかる可能性はほとんどないような気がするな。おそらく奴は永遠に消えてなくなるんじゃないかな。警視、どうも、君は、それを観念してかからなくちゃならないような気がしますよ」
「もう見捨てるんですか」と、モリーは、くやしそうに「とにかく、奴が昨夜、マルコを殺したかどうかが問題です。どう考えても、奴はマルコだと思って、カマーを海へつれ去ったんです。だから、奴が電話で報告した男は、キッドからの電話のあとで、マルコを見かけたので、きっと驚いたにちがいないし、キッドが間違えてほかの男をひっとらえたのに気がついたでしょう。そこで、キッドがカマーを海へ何マイルも運び出している間に、昨夜自ら手をくだしてマルコをやったんでしょう」
「もしかすると」と、判事が言い出した。「キッドは昨夜、沿岸のどこかに上陸して、もう一度雇い主に電話をかけたかもしれんぞ。そして、戻って来て仕事の片をつけるように命令されたかもしれん」
「それもあり得ますが、私たちは二つの殺しを追っているんだと思います。殺しは一つじゃありません。殺人犯人は別々ですよ」
「だが、モリー君、二人は関係があるにちがいないな」
「ええ、そうです」と、警視は目をぱちぱちして「奴は、いつかはガソリン補給のために上陸しなければならないんです。そのときひっとらえてやりますよ、キッドのことですがね」
「発動機船のガソリンだね」と、エラリーは肩をしゃくって「馬鹿だろうが、とにかく仕事は片づけたぐらいだから、燃料のようにまず用意しておかなければならないものを手抜かるとは、どうも信じられないな。どこか人目につかない場所に、どっさり隠しているかもしれない。なんとも言えませんよ――」
「なるほど、いずれ分かるでしょうね。なにしろ仕事は山ほどあるんですよ。この館さえ、全部洗う暇がなかったんです。いらっしゃいませんか。すばらしいものをお目にかけたいんです」
エラリーはたばこを口から離して、刑事をじっと見つめた。「すばらしいものだって?」
「大したもんですよ。そうざらに毎日見られるものじゃありませんよ、クイーンさん――あなただってね」モリーは少し皮肉な声で「そいつは、あなたには、ぴったりするはずのものですよ」
「おい、おい警視、わざと、じらしているんですね。すばらしいものって何です?」
「死体です」
「ああ、そうか」と、エラリーは苦笑して「聞くところによると、アドニスみたいな美男だったそうですね」
「まあ、見るんですな」と、警視は真顔で「アドニスなんか、彼にくらべると、酔っぱらいの移民労働者みたいなもんですよ。あいつが鯖《さば》みたいにのびてたとしても、きっと、多くの女たちは、そんなことにおかまいなしにのぞきたがるでしょうね。二十五年間、ずいぶん死人にも出会ってきましたが、こんな奇怪なのは初めてです」
すさまじいことに、ジョン・マルコは、死んだまま、テラスの丸テーブルに向かって腰かけていた。少しぐったりして、右手には、まだ黒いステッキを、敷石の上に、ほとんど水平にかまえて持っていた。黒く縮れたまき毛はちょっと斜めにかぶっている黒いフェドラ帽にかくされていた。首のところで、止め金を組み紐《ひも》でひっかけた舞台衣裳みたいな黒いオペラ・マントを肩にまとっていた――そのほかは、まっ裸だった。
四分の三裸でも、半裸でも、ほとんど裸でもなかった。マントの下が、生まれたままのまっ裸なのだった。
判事とエラリーは、田舎の市《いち》にでかけた田吾作《たごさく》のように、ぽかんと口をあけていた。やがて、エラリーは、目をぱちくりして、たしかめるために、もう一度、見直して「なんと!」と、好事家が、美術品に感嘆して見入るような調子で言った。マクリン判事は、ただ見つめるだけで、ものも言えなかった。
モリー警視はそばに立って、少し情けなさそうだが、おかしそうに、二人の呆れ顔を見守っていた。「この新型はどうですか、判事」と、低い声で「あなたは法廷では、裸体の女の問題に関する事件は、いくつも聞かれたでしょうが、裸体の男となると――いったいこの先世の中がどうなるのか分かりかねますね」
「まさか、君が言いたいのは」と、老紳士は、胸がむかつくような顔で「女の仕わざ――」
モリーは、がっちりした肩をしゃくって、安葉巻をはき出した。
「ふざけてる」と、エラリーが言ったが、自信のない声だった。呆れて見つめるだけだった。
まっ裸なのだ。死者はマントの下には布切れひとつ着けていなかった。青白く、毛のない胴体は長い年月で磨滅した大理石像のように、朝の光に、鈍く光っていた。強《こわ》ばった肌には、まぎれもない死の色が、きざみつけられていた。平らな角ばった胸と、幅びろくがっちりした肩が、引き緊った腰に向かってだんだん細くなっていた。細長いわき腹は、死んで硬くなっていたが、丸々と筋肉がついていた。少年のような脚はすらっとして、血管も浮いていず、なんとも言えず美しいのだった。
「こりゃハンサムだ」と、エラリーは、死人の顔へ目を移して、ため息をついた。ととのったローマ型の顔は、唇がやや厚く、ほんの少しばかりわし鼻だった――きれいに剃ってみがいた油断のならぬ顔は、無感動でこわばって、死んでからでも、ひとをあざけっているようだった。マクリン判事が想像していたような死の恐怖の影はなかった。「発見されたままなのかね」
「ご覧のとおりですよ、クイーンさん」と、モリーが言った。「違うところは、今のようにマントを肩にかけていなかったんです。まっすぐに垂れて、ぴっちり、体をくるんでいました。垂れをまくり上げてみて、まったく驚いてしまったんです……気違い沙汰じゃありませんか? しかし、われわれは一インチも動かしませんでしたよ。本のさし絵か、気違い病院から抜け出して来たもののようでしょ……あ、郡の検屍官が来ました。おーい、ブラッキー、急いでやってくれよ」
「妙だな」と、マクリン判事はつぶやいた。疲れた顔をしているやせて骨ばった男が、テラスの石段を、のろのろ降りて来たとき、老体を片側へよけて道をあけた。「この男だがね、警視、この男には、こんなみっともない裸姿で、うろつきまわる習慣があったのかね。それとも昨夜だけは特別だったのかね、さっぱり分からん。どっちみち、昨夜は裸だったことはたしかだろうがね」
「そうらしいですよ。調べ出すことができたかぎりでは、そうです、判事さん。習慣かどうかという点は、私もあなたと同じように考えているんですが」と、モリーは苦々しそうに「習慣だとすれば、この辺の女どもに一大スリルを与えてたでしょうな。おい、ブラッキー、日曜の朝めし前の仕事としちゃ、こりゃどうだね」
検屍官ははき出すように「なんと! 裸か。見つけたままかね」と、死体にうつむきこんで、信じられないというように見つめ、黒い鞄をどさりと、敷石の上に置いた。
「十回目だよ」と、警視は、憂鬱な声で「イエスと答えるのがね。たのむから、早く片づけてくれよ、ブラッキー。なんともはや、変ちきりんなんだ。すぐに、分かるだけのことを聞かせてもらいたいな、急いでね」
三人の男は、一足さがって、検屍官の仕事を見守っていた。しばらく皆は黙っていた。
やがて、エラリーが、ゆっくり訊いた。「まだこの男の服はみつからんのですか、警視」
エラリーはテラスを見廻した。大して広くはなかったが、そのかわり、色と雰囲気があふれていた。のびのびとしていて――気うとくなるような、ひめやかな小さな寺院のようだった。梁《はり》をむき出しにした白い屋根から、陽光が足もとの灰色の敷石に降りそそいで、いかにも夏らしい、あざやかな明暗を織りなしていた。
装飾のすみずみまで、ぬかりない手と目がとどいていて、人をして海とスペインの二つの印象を感じさせていた。スペイン風の赤と黄を主調としたビーチ・パラソルが、気のきいた丸テーブルに、さしかけてあり、卓上には貝がらの灰皿がいくつもおいてあり、革と真鍮《しんちゅう》でこしらえた葉巻容れや、たばこ皿と、いろいろなゲームの道具がそろえてあった。テラスの石段のてっぺんの道の両側に、ひとつずつ、花を植えた、大きなスペイン風のオリーブ油の壺が置いてあった。石段の下の敷石の上にも同じような壺が二つ置いてあった。それらは、いずれもすばらしく大きく、ほとんど等身大で、ゆったりと腹がふくらんでいて、アラビアン・ナイト物語から抜け出したもののようだった。断崖のかげにあたる左手の岩壁にはスペインのガレオン船の模型が台にのせてあった(エラリーが後から発見したのだが、巧妙なからくりで両開きにすると、きわめて実用的なバーになるのだった)あざやかな色の大理石像が、岩壁のくぼみに、いく体か置いてあったし、壁面には、テラコッタや、漆喰《しっくい》で巧みにつくったスペインの海を主題とする歴史画の浮きぼりが、ほどこされていた。二基の大きな探照灯が、あけっぱなしの屋根の梁の両端に、哨兵のように立っていて、太陽がその真鍮金具とレンズにぎらぎら反射していた。探照灯はまっすぐに向いて、入江をかこむ断崖のすき間をにらんでいた。
裸の死人がすわっている丸テーブルの上には書きもの道具があった――妙な形のインク壺、インクを吸いとるこまかい砂を入れた、かざりつきの優雅な鵞ペン箱、それにかなりこった文房具箱などだった。
「服は」と、モリー警視は顔をしかめて「まだ出ません。だから、厄介なんです、クイーンさん。ひとりの男が、夜、この小さな浜辺へ下りて来て、着ているものをぬいで、涼むために、海で泳ぎまわるなんてことは、めずらしくはないが、いったい、その男の服はどうなっちまったんでしょうね。しかも、タオルもないんですよ。タオルなしで、夜分に体をかわかすわけにはいかんでしょう。泳いでいる間に、ほかの奴が子供みたいに、服をさらっちまったなんてことはないでしょうしね。とにかく、あることが分かるまでは――ぼんやりと――そんなふうに考えてもみたんですよ」
「あの男は泳げないんでしょう」と、エラリーが低く言った。
「そのとおり」と、正直そうな赤ら顔に、不快の色を浮かべて「とにかく、泳いでいたという考えはぺけです。外套を着て、杖を持っていたのだし、しかも、殺されたときには手紙を書いていたんですからね」
「ほう、そりゃあ」と、エラリーがさりげなく「面白いな」
三人は、死んですわっている男の後ろに立っていた。マルコの死体は、外套をかけた幅の広い背をテラスの石段に向けて、小さい浜辺のほうをまっすぐに向いていた。まるで、きらめく砂浜と、入江の入口にみちている青い海の曲線をながめながら、考えこんでいるようだった。潮はひいていたが、エラリーが見ている間にも、海の水は、ほとんど分からぬほどの速さでこっそりと上げて来ていた。三十フィートほどの、むきだしの砂地は、まったく平坦で、なんの異状も見当たらなかった。
「面白いと言うのは――どういう意味ですか」と、モリーが鼻をならして「たしかに面白いですよ。ご自分で見てごらんなさい」
エラリーは死人の肩ごしに、顔をつき出してのぞきこんだ。そばで働いていた検屍官がぶつぶつ言ったので、エラリーは身を引いた。しかし、モリーが面白いという意味が、はっきり分かった。マルコの左手は、テーブルのそばでまっすぐにたれ下がっていた。硬直した指が不気味に指さしている足もとの敷石の上には、あざやかな色の鵞ペンが一本落ちていて、それは砂壺にさしてあるのと同じものだった。ペン先は乾いた黒いインクでよごれていた。五、六行書きかけてある用箋が――クリーム色の紙で、上のほうに、赤と金で、王冠の形をした紋章が浮き出しになり、ゴッドフリーという名が、古風な書体で、紋章の下の小旗に刷ってあった――死体からわずか二、三インチはなれてテーブルの上に置かれていた。明らかにマルコは書いている最中に殺されたのだ。というのは、文面の最後の言葉が――はっきり書きかけだし――ぷつりと切れていて、濃い黒いインクの線が用箋の上に尾をひいて流れ、テーブルのはじまでずっと表面を横ぎっていた。死者の左手の中指の腹に黒インクのしみがついているのを、エラリーは、うつむき込んで見てたしかめた。
「そっくりそのままらしい」と、エラリーは身をおこして言った。「しかし、妙な気がしないかな、少なくとも、片手だけで書いていたことになる」
警視は目をむいたが、マクリン判事は眉をよせた。「なるほど、こりゃどうも」と、モリーが大声で「いったい、手紙を書くのに何本手がいるんです?」
「クイーンの言うことが分かるようだ」と、判事はゆっくり言いながら、澄んだ目を輝かした。「わしらは、ものを書くのに手を二本使うことを、いつもは考えもしないがね。実際は両手がいるんだ。片方で書き、片方で紙をしっかり押える」
「ところで、マルコは」と、エラリーは、老判事の、のみこみのよさに満足するように、うなずきながら、ゆっくりと「見たところから判断すれば、右手に象牙《ぞうげ》のステッキを握っていて、しかも同時に左手で書いている。つまり――その――妙だな」と言ってから、急に言い足した。「上《うわ》っ面《つら》のこと、ただ上っ面のことですよ。何か説明があるかもしれないな」
警視はにやにや笑いながら「あんたは、何も見のがさんですな、クイーンさん。私は気がつかなかったが、あんたの言うことが間違いとも言えませんな。しかし、こう説明したらどうでしょう。書いている間、ステッキをそばのテーブルに置いていたかもしれない。そして背後にもの音が聞こえた――たぶん、緊張したでしょう――とっさに身を守るつもりで右手でステッキを握ったときに、左手が用箋をこすったのかもしれない。ところが、ステッキを握っただけで、どうしようもないうちに、殴りつけられた。だからご覧のとおりだ」
「もっともらしい説明ですね」
「これが明確な答えでしょうよ」と、モリーは落ちついて「なぜなら、この手紙については疑問の余地はぜんぜんなしです。マルコが書いたものです。にせものだと考えているのなら、無駄です。たしかです」
「たしかかね」
「絶対ですよ。私が、今朝、最初に調べ上げたんです。この家には、そこらじゅうに、マルコの筆跡の見本があります――奴は、自分が立ち寄った所へは、どこにでも名を書きたがる種類の人間でした――それに奴が昨夜書いたこの字は、筆跡がぴったりしてるんです。さあ、見てごらんなさい――」
「いや、いや」と、エラリーは、せきこんで「ぼくは、あなたの意見に反対してるわけじゃないんですよ、警視。ぼくは、手紙が本ものだというご意見は、まったく信用してるんです」しかしエラリーは、ため息をついて、言いたした。「左利きだったんだな」
「それも調べました。左利きです」
「すると、この点に関しては、もう何も言うことはないわけですね。なにもかも、いっそう分からなくなりますね。だが、いったい、手紙を書くのに、オペラ・マントのほかは何も着ないで、戸外に出る奴があるでしょうか。きっと、服を着ていたにちがいない。そのう――スペイン岬は、かなり広い土地なんですよ、警視。奴の服が見つからないのは確かですか」
「私は何も確言しやしませんよ、クイーンさん」と、モリーが、辛抱強く「だが、私がここに来てからは、部下の連中に、何もさせずに服を探させているんですが、まだ見つからんのですよ」
エラリーは下唇をなめて「この断崖の根元をとりまいている荒岩のふちのあたりですかね」
「言わず語らずですね。もちろん、私も、何者かがマルコの着衣を、岬の崖のどこかから海へ投げ捨てたかもしれないと推理してみました。崖の根元までは、二十フィートか、それ以上も深さがあります。それはともかくとして、岩礁には何もありませんでしたよ。いずれ何か道具が手にはいったら、すぐ部下に、下のほうをさらわせてみるつもりですよ」
「君たちはいったい」と、判事が訊いた。「なんだってマルコの着衣をそんなに重要視するのかね――もしかすれば――もともと着ていなかったのかもしれんだろう」
警視は肩をすくめて「クイーンさんも服を着ていたことを認めているようですよ。いいですか、もし着ていたとすれば、犯人がそれをはいだり、始末するのには、きっとそれだけの理由があったにちがいないんです」
「それとも」と、エラリーは低い声で「わが友フルーエレン〔シェイクスピアの「ヘンリー五世」の中に出てくるウェールスの軍人〕が、調子っぱずれに言ってますがね。≪すべてのものごとには、なぜ、何のためにという、原因や理由があるもんだ≫とね。こりゃ失礼、警視さん。あなたの言い方のほうがぴったりしてますよ」
モリーは目をむいて「え?……ああ、済んだかね、ブラッキー」
「ほとんどね」
モリーは非常に注意深く、テーブルから用箋をとりあげて、エラリーに見せた。マクリン判事は、エラリーの肩ごしに、ちらっとのぞきこんだ――判事は眼鏡をかけたことはない。七十六歳だから老眼がきていたが、けっして老衰に負けようとはしなかった。
紋章の少し右下に日付が、それから達筆で、≪日曜午前一時≫と書いてあった。左側には、書き出しの敬語の上に宛名があった。
ルシュース・ペンフィールド殿
パーク・ロー十一番地
ニューヨーク市、ニューヨーク州
そして、書き出しの敬語は、≪リュークさま≫となっていて、文面は次のようだった。
手紙を書くには、とんでもない時刻だが、待っている間に、ちょっとひとりきりの暇ができたので近況を、お報せしたい。近頃、ほとんど手紙しないのは、用心しなければならないからだ。ぼくがどんな年増《としま》を操っているか知っとるだろう。準備万端ととのうまでは、煮え立ってもらいたくないのだ。時が来たらいくら煮え立たせてもぼくは安全だからね。
万事好調だ。今はただ時間の問題だよ。そのうちに、手際よく最後の清算ができるだろう――
文面はそこまでだった。清算の算の字の尻尾から、太いインキの線がとび出して、クリーム色の用箋を、ナイフで切るようにのびていた。
「さて、どんな清算を――≪最後≫の清算だが――この猿は考えていたんでしょうな」と、モリー警視が静かに訊いた。「それが大したことでないならね、クイーンさん。ぼくも猿の親類ということになる」
「そりゃいい質問ですね」と、エラリーが言いかけたとき、検屍官がなにか叫んだので、一同はくるっと振り向いた。
ややしばらく検屍官は、まじまじと死体を見つめていた。硬直した死体に何か腑《ふ》におちないものがあるようだった。だが、すぐにかがみこんで、死体の、のど元にかかっているオペラ・マントの、とめ金から、組み紐をはずした。すると、マントは、大理石のような肩からずりおちた。それから検屍官は死体のあごに手をかけて、硬直した首から上をぐいっと持ち上げた。
細い赤い線が、マルコの首の肉に、深く食いこんでいた。
「絞殺だな」と、判事が叫んだ。
「そうですな」と、傷を調べながら、検屍官が言った。「ぐるっとのどをまいている。えり首のも同じ性質のくずれた傷だ。ここで結んだのだな。見たところ、針金だな。しかし針金が見えないぞ。見つけましたか、警視」
「ほかのものを探してたんでね」と、モリーがうなった。
「すると、マルコは後ろから襲われたのかな」と、エラリーが鼻眼鏡をくるくるまわして考えながら、訊いた。
「死体に関してなら」と、検屍官は、そっけなく「そのとおり。犯人は後ろに立って、マントのえりのゆるんでいる下の首に針金をまきつけて、強くひっぱり、えり首のところで針金をねじって結んだ……たいして時間はかからなかっただろうな」検屍官は、しゃがんでマントを拾いあげて、無造作に死人の体にかけた。「さて、これで済みだ」
「だが、それにしても」と、警視が不服そうに「争ったあとがないじゃないか。少なくとも、席から体をねじまげて、襲った奴を突きとばすぐらいのことは、しそうなもんじゃないか。だが、こいつは、じっとすわって、振り向こうともせずに、君の言うとおり、襲われたんだな」
「言うことをしまいまで聞けよ」と、骨ばった男はやり返した。「絞められたときには意識がなかったんだ」
「気絶してたのか?」
「見ろ」と、検屍官はマントを持ち上げて、マルコの黒いまき毛をさらけ出した。そして、頭のてっぺんあたりの髪を上手にかき分けた。頭蓋骨《ずがいこつ》の皮膚に、どす黒い血のあとが見えた。それから、マントを放して、もとに戻した。「何か重い道具で、顱頂骨《ろちょうこつ》の真上をしたたか殴られたんだ。骨は砕けなかったが、打撲傷をつくるぐらいにね。それで眠らされたんだ。そうなってからは、カラーの下に針金をすべり込ませて絞め殺すのなんか簡単なものさ」
「だが、なぜ犯人は棍棒で片づけなかったのかな」と、マクリン判事がつぶやいた。
検屍官はくすくす笑って「あ、それにはいろいろわけがあったんでしょうよ。死体をめちゃくちゃにしたくなかったのかもしれないし、せっかく持って来た針金を無駄にしたくなかったのかもしれませんな。はっきり言えませんが、どうもそんなことらしいですな」
「何で殴ったんだろう」と、エラリーが訊いた。「何か見つかりましたか、警視」
モリーはスペイン風の壺のそばの岩壁のくぼみに引きかえして、ずっしりした小さな彫像を持ち上げた。「奴はコロンブスでなぐられたんですよ」と、ゆっくり言った。「こいつは、テーブルのかげの床でみつけたんだが、私があそこのくぼみに戻しといたんです。あそこだけからになっていたのは、この像をあそこから持って来たからでしょうよ。この石は指紋がつかないから、調べたって無駄です。それに、ふみ込む前に、このテラスの床は調べ上げたんだが、風で吹き上げられた大量の砂ほこりのほかは、ろくなものは見つかりませんでした。ゴッドフリー家の連中は、恐ろしくきれい好きか、使用人どものしつけがいいらしいですな」と言って、彫像を元にもどした。
「すると、針金の当たりはないんですね」
「探したわけじゃないが、部下がこの建物の中で拾い集めた、見込みのありそうなものについては全部報告を受けています。その中に針金はありません。犯人が持ち去ったんでしょうよ」
「この男の死んだのは、何時頃ですか」と、いきなり、エラリーが訊いた。
検屍官は、おどろいたらしく、表情をかたくして、モリー警視を見上げた。モリーが、うなずくと、口を切った。「できるだけ正確に推定しても――推定時間というものは、希望するほど正確にはいかないものだが――まず、午前一時から一時半に死んだようですな。たしかに、今朝の一時前じゃありません。そこで三十分の幅をみておけば充分でしょう」
「死因は絞殺ですね」
「そうだと、言いませんでしたかね」と、検屍官は、突っかかるように「ご覧のとおりの田舎者ですがね、仕事のことは心得てますよ。絞殺です、事実即死だったでしょう。それだけです。死体には、ほかに何も印がありません。解剖が必要かね、モリー」
「したほうがいいだろうな。何か出るかもしれん」
「よろしい。だがまず必要はないだろうよ。あんたの調べがすんだら、部下に車で運ばせるよ」
「調べはすんでる。ほかになにか知りたいことがありますか、クイーンさん」
エラリーは、もったいぶって「ええ、たくさんね。しかし、検屍官殿のお手をわずらわせずにすみそうですよ。あなたが死んだ色男《アポロ》を運び去る前にちょっと……」と、急に敷石にひざまずいて、死体の足首をつかんで、引っぱった。だが、敷石に根を生やしでもしたかのように、びくともしなかった。エラリーは見上げた。
「死後硬直です」と、検屍官は皮肉に笑いながら「どうしようとするんですか」
「ぼくは」と、エラリーは、気を静めて「足が見たいんですよ」
「足なら、そこにありますよ」
「警視、すみませんが、検屍官と一緒に、椅子ごと死体を持ち上げてくれませんか、ねえ――」
モリーと骨ばった男は、警官の手をかりて、死体ごと椅子を持ち上げた。エラリーは頭をかしげて、死体の裸の足の裏を、のぞいて見た。
「よごれていない」と、つぶやいて「きれいだ。おかしいな――」エラリーはポケットから鉛筆をとり出して、骨を折って足の親指と人差し指の間に、ずぶっとさし込んだ。それから、次々に両足の全部の指の間にさしこんでみた。「一粒の砂もない。これでいい、皆さん、ありがとう。貴重なマルコ氏の調べはすっかりすみました――生前のマルコ氏が残した屍《から》ですがね」
それからエラリーは立って、ひざのちりを払い、ぼんやりとたばこを手さぐりながら、入江をかこむ絶壁のきれ目から海を眺めていた。
警視と検屍官は死体をおろし、検屍官はテラスの石段の上で、ぶらぶらしている二人の白衣の男に合図した。
「どうだね、エル」と、肩ごしに声をかけられたエラリーが、ふり向くと、マクリン判事が、じっと見つめていた。「どう思うかね」
エラリーは肩をしゃくって「大した発見もありませんね。犯人が着衣をはいだんでしょう。ぼくは、足の裏をみれば、生前、裸足《はだし》で歩いていたかどうか分かるにちがいないと思ったのです。裸足なら、ある意味では、自分で裸になっていた証拠になりますからね。しかし、足は思ったよりきれいで、実際に裸足で歩きまわったものじゃないようです。指の間に砂がないから、たしかに、海岸に裸足で下りたのじゃありません。それに、靴をはいて下りたのでもないですよ。と言うのは、靴のあとがありませんからね――」エラリーはふと言いやめて、初めて海を見るような目で、浜を見つめた。
「どうしました?」
エラリーが、返事もしないうちに、頭上で、じりじりした男のどら声が、急にしゃべり出すのがきこえた。一同は見上げた。警官の青い制服の袖が見えた。警官は頭上の高い崖のふちに立っていた。その崖は、邸のある側から、テラスと浜を見おろすように切り立っていた。
警官の声がきこえた。「お気の毒ですが、奥さん、そんなことをしてはいけません。家にもどらなければいけません」
一同は、その婦人の顔を、ちらっと見た。ものにつかれたような目で、崖のふちからのぞき込み、ジョン・マルコの無防備の裸体が、テラスで二人の白衣の男の手で、わくのついたかごに放りこまれるのを、燃えるように見つめていた。大理石のような死体には、テラスの梁の影がおちて、まっ黒い筋をきざんでいた。鞭で打ち殺されたように見えた。――それをじっと見おろしている女の顔が連想させる、奇怪なまぼろしだった。
それは、太って、まっ青で、ひきつったカンスタブル夫人の顔だった。
[#改ページ]
四章 待ったなしの潮時
やがてカンスタブル夫人の姿が消えたとき、モリーが考えこみながら「何が気になるんだろう。まるで初めてみるような目で、マルコを見ていたが」
「危険な年齢だよ」と、マクリン判事が眉をしかめて「未亡人だろう」
「まあ、それに近いですね。私が知り得たところでは、あの女の亭主は、病気で西部のアリゾナあたりへ行ってから、一年ほどになるそうです。サナトリュームで療養しているんです。無理もないですな。十五年もあの顔を見ていたんじゃ、男も丈夫じゃいられませんよ」
「すると、亭主はゴッドフリー家を知らんのだな」と、老判事は言って、考え深そうに口をつぐんだ。「余計なことを言ったな。前に、あの女自身、ゴッドフリー家の連中を、よく知っとらんような印象を受けたことがある」
「そうですか」と、モリーが妙な顔をして「ところで、聞いたところでは、ゴッドフリー家の連中も、カンスタブルの亭主のことはぜんぜん知らんそうです。会ったこともなければ、ここへ来たこともないそうです。クイーンさん、さっき言いかけていたのは何ですか?」
ぼんやり聞いていたエラリーが振り向いた。二人の男が両方から死体のかごをさげて、砂利道をよたよたとのぼって行くところだった。重そうに足を引きずって、ぺちゃくちゃしゃべっていた。やがて、エラリーは肩をしゃくって、籐の安楽椅子に腰をおろした。
「この辺の」と、たばこをふかしながら「潮のことを知っていますか、モリー警視」
「潮、というと、海の潮のことですね」
「今、ちょっとあることを想像したのでね。ぼくの訊くことを、はっきり説明してくれれば、目下漠然としていることが、明瞭になるかもしれませんよ」
「はっきり説明できるかどうか」と、警視は、苦笑しながら「エラリーさんは何を訊くつもりなんでしょうな、判事さん」
マクリン判事はむずかしい顔で「わしに分かればいいんだがなあ。実際に調べてみるとなんでもないことを、いかにも意味ありげに言うのが、この男の悪いくせのひとつでね。おい、おい、エラリー、真面目《まじめ》な仕事なんだぞ、遊びごとじゃないんだ」
「ご注意をどうも。ぼくは簡単な質問をしたんです」と、エラリーはむっとした調子で「潮だよ、君、潮だ。特にこの入江の潮さ。その説明がほしいんだ、正確なら正確なほどいいんだがな」
「おお」と、警視は頭をかいて「そうですか。実は、私は潮のことはよく知らんのですが、この浜のことなら、たなごころを指すがごとしという部下が一人います。その男なら説明できるでしょうよ――なんのためか、さっぱり分かりませんがね」
「その人を呼んでくれると、助かりますよ」とエラリーが、ほっとして言った。
モリーが大声で「サム! レフティをここへ連れて来てくれ」と、どなった。
「服を探しに行って、いません」と、誰かが、上の道から叫び返した。
「そうだったな、忘れとった。すぐ探して来い」
「ところで」と判事が訊いた。「死体の発見者は誰かね、警視。まだ、はっきり聞いてなかった」
「なるほど、そうでしたね。ゴッドフリー夫人です。サム!」と、警視が、またどなった。「ゴッドフリー夫人をよこしてくれ――ひとりでだ! ねえ、判事さん、われわれは今朝六時半ごろ、急報があって、十五分でここにかけつけました。それからは頭が痛いことばかりで何もありませんでした。私はゴッドフリー夫人以外、だれとも話す折りがなかったのです。しかも夫人は、はっきり話せるような状態ではありませんでした。すぐ、その点を、はっきりさせるほうがいいでしょう」
一同は海を眺めて考えながら、黙って待っていた。しばらくたってから、エラリーは腕時計を見た。十時ちょっと過ぎだった。それから、入江で波が輝いているのを見た。目に見えて波はたかまり、かなり浜にくい込んでいた。
テラスの石段の足音で、一同は体を起こした。日に灼けた背の高い女が、いかにも苦しそうに、ゆっくり降りて来た。その目は、まるではれものができているように、はれ上がっていた。手にしているハンカチは、泪にぬれて、だらりとしていた。
「さあ、下りていらっしゃい」と、モリー警視が、愛想よく言った。「もうご心配はいりませんよ、奥さん。ちょっとお聞きしたいだけです――」
夫人は警視をさがしもとめていた。見ていて、それが分かった。はれ上がった目できょろきょろしながら、自分より強い力にひきずられるようなたよりない歩き方だった。そして、いやだが早く片づけたいとでも思っているような、ぐずぐずした足どりで石段を下り続けた。
「あの方もなくなってしまって――もう――」と、弱々しい低い声で言いかけた。
「運び出しましたよ」と、警視は重々しく「おかけなさい」
夫人は手さぐりで椅子に腰を下ろした。そして、ゆっくり、からだをゆすりはじめ、ジョン・マルコがすわっていた椅子を眺めていた。
「今朝のお話ですと」と、警視が口を切った。「このテラスで、マルコの死体を見つけたのは、あなたでしたな。あなたは海水着をつけておられた。浜へ泳ぎに行かれるところだったんですか、奥さん」
「はあ」
エラリーがやさしく訊いた。「午前六時半にですか?」
夫人は、初めて気づいたように、はっとした顔色で、エラリーを見上げた。「まあ、あなたは――あのう――」
「クイーンです」
「そう、探偵さんですのね」と、笑い出した。そして急に手で顔を覆った。「なぜ、皆さんはお引き上げになりませんの」と、せぐり上げながら「私たちを放っといてくださいませんの。済んだことは済んだことですわ。あの人は――死にました。それだけのことですわ。生き返らせることができますの?」
「奥さん」と、マクリン判事が無愛想に「あなたは、あの男を生き返らせたいのですかな」
「いいえ。おお、なんとしたことを、いいえ」と、夫人はつぶやくように「とんでもない。このほうがいいんです。私――喜んでいますわ、あの人が――」そういって、顔から手を放すと、その目には恐怖がはりついていた。「そんなつもりで言ったのじゃないのです」と、すぐにうち消して「とりみだしていて――」
「午前六時半にですか、奥さん」と、エラリーは何事もなかったかのように、つぶやいた。
「おお」と、いかにもだるそうな身ぶりで、手をかざして日をさえぎりながら「そうです。そのとおりです。何年もつづけていますわ、早起きですの。十時、十一時までも寝ているひとの気がしれないんですのよ」明らかに思いは外《ほか》にあるという、うつろな言い方だった。やがて、その声に苦痛とともに正気がもどってきた。「弟と私は――」
「それで、奥さん」と、警視がのり出して促した。
「たいてい、ふたりで浜へ下りることにしていました」と、ささやくように「デーヴィッドは、ですし――でしたから――」
「でしたじゃありません、奥さん。もっとほかのことが分かるまではね」
「デーヴィッドと私は、いつも一緒に、七時前に泳ぎに行きましたわ。私はいつも海が好きでしたし、デーヴィッドは、むろん、スポーツマンでしたから――いえ、ですから――魚のように泳ぎが上手でした。家族中で泳ぐのは私と弟だけですわ。夫は水ぎらいですし、ローザは水泳を習おうともしませんし。あの子は子供のとき、おそろしい目にあったのです――もう少しで溺れそうになったので、それ以来、水泳は覚えようとしないのです」と、夢みるような口ぶりだった。何か隠していて、わざと見当違いの説明をしているようだった。ふと、その口調が変わった。「今朝は、あたくしはひとりで出かけたのです――」
「すると、弟さんの失踪を知ってたのですね」と、エラリーが低く言った。
「いいえ、いいえ、知りませんでしたわ。あのひとの寝室のドアを打《たた》いたのですけど、返事がないので、もう、ひとりで浜へ出かけたものと思いこんだのです。あたくし――あのひとが一晩中家にいなかったとは気がつきませんでしたわ。昨夜は、いつもより早目に寝《やす》みましたの――」と、言いよどんだ。そして、目の色がかげった。「気分がよくなかったのです。で、いつもより早目でしたの。ですから、ローザとデーヴィッドがいないのに気がつかなかったのです。今朝、テラスに降りてきて、そのとき、あたくし――マルコさんがそこにいるのを見つけたのです。あたくしのほうに背を向けて、マントを着て、そのテーブルについていました。あたくしは、≪おはよう≫とかなんとか、おざなりの言葉をかけましたが、あのひとはふり向きもしませんでした」顔が恐怖でひきつった。「そばを通りすぎてから、あのひとの顔をふり返って見たのです――虫のしらせでふり返ったんです……」夫人は身ぶるいして口を閉じた。
「何かにさわりましたか――何でもいいですが」と、エラリーが鋭く訊いた。
「とんでもないこと」と、叫んで「あたくし――そんなことをしたら死んでしまいますわ。とてもできっこないわ――」夫人はまた、全身をわなわなとふるわせた。「あたくしは悲鳴をあげました。ジョラムが駆けつけました――ジョラムは夫の雑役夫ですの……それであたくしは気を失ったようです。次に気がついたときには、あなた方が来ていらっしゃったのです――警察の方が」
「なるほど」と、警視が言った。みんなしんとだまりこんだ。夫人は、ぬれたハンカチのふちを噛んでいた。
悲しんではいたが、夫人の体には、ローザをしのぐ若々しさと弾力があって、あんな大きな娘があるとは思えないほどだった。エラリーは、そのすんなりした腰の曲線を観察していた。「ところで、奥さん。あなたの泳ぎの習慣ですが。それは――そのう――天気ぐあいで止めることもあるんですか」
「おっしゃることが分かりませんわ」と、夫人はちょっと驚いたように低く言った。
「毎朝、六時半に水浴びに行かれるんですか、降ろうと照ろうと」
「おお、そのこと」と、夫人は無造作に頭を上げて「もちろんですわ。雨の海も大好きです。水は温かいし、それに――肌をちくちく刺しますわ」
「快楽主義者の本音ですね」と、エラリーは微笑しながら「あなたの|感じ《ヽヽ》は、よく分かりますよ。ところで、昨夜は雨が降りませんでしたから、お聞きしたことは、みんな見当ちがいでしたね」
モリー警視が妙な格好で口とあごをなぜた。「ねえ、奥さん、つまらんおしゃべりをしていてもしょうがない。お宅のお客が殺されたんですよ。それに、週末のおなぐさみに殺される奴もないでしょう。この事件のことを、何か知っていませんかね」
「あたくしが?」
「マルコをここに招んだのは、あなたでしょう。それとも、ご主人でしたか」
「あたくし――ですわ」
「それで?」
夫人は警視と目を合わせた。その目は、急に、まったくうつろになった。「それで、なんですの? 警視さん」
「そうか」と、モリーはむっとして「私の言うことが分かってるはずです。マルコは誰と不和だったんですか。誰が、マルコをやっつけそうな理由を持っていたんですか」
夫人は立ちかけて「まあまあ、警視さん。ばかげていますわ。お客のもめごとになど、鼻を突っこみませんわ」
モリーは自制して、目を細くして夫人を見つめた。「もちろん、あなたがそんなことをなさるとは言っていませんよ。しかし、ここで何かがあったにちがいないんです、奥さん。晴天の|へきれき《ヽヽヽヽ》みたいに、だしぬけに殺人が行なわれるということはないんですよ」
「あたくしの知るかぎりでは、警視さん」と、夫人はにべもなく言った。「何事も起こりませんでした。むろんあたくしはなにもかも知ってるわけではありませんけれど」
「今滞在している人たちのほかに、お客か訪問者がありましたか――この一、二週間にですよ」
「ありませんでしたわ」
「まったく一人も?」
「はあ、ひとりも」
「ここで、マルコと、直接にも間接にも、喧嘩した人は、いなかったんですね」
ステラ・ゴッドフリーは目を伏せて「はあ……つまり、そういうことは一度も耳にしたことがありませんわ」
「ふん、すると、だれもマルコに会いに、ここに来なかったのは、たしかでしょうな」
「主人役として知るかぎりでは、たしかですわ。スペイン岬にはふいのお客はありませんのよ、警視さん」夫人の物腰には威厳がもどっていた。「こっそりはいってくる人は、ジョラムが、かなりきびしく見張っています。もし誰かが来たとしたら、きっと私の耳にはいっているはずですわ」
「ここに滞在中、マルコは郵便物を、たくさん受け取りましたか」
「郵便ね」と夫人はちょっと考えながら、ほっとしたらしいのを、エラリーは見てとった。「考えてみると、警視さん、多くはなかったようですわ。それというのも、配達人が郵便物をとどけてくると、家政婦のバーリーさんが、全部、あたくしのところへ持ってくるんですの。あたくしがそれを仕分けて、バーリーさんがみなさんの部屋へとどけるんです――家族の者や、ちょうどいらっしゃっているお客さまへね。そうしていましたから――分かるんです。マルコさんは」――夫人は声をのんだ――「ここにいらっしゃる間に、二、三通しか受けとりませんでしたわ」
「どのくらい」と、マクリン判事が、おだやかに「滞在してたんですか、奥さん」
「夏……いっぱいですわ」
「そりゃ、半永久的なお客というわけだ。じゃ、あの男のことは、よくごぞんじでしょうな」と、判事は夫人の目を、じっと見つめた。
「うっかりしてまして、失礼」と、夫人は、すばやく五、六回、目ばたきした。「よくぞんじています。つまり、あたくし――あたくしたちはこの二、三か月の間に、すっかり親しくなったのですわ。今年の春の初めに、ニューヨークではじめてお会いしたのです」
「どうして招待するようになったのですか」とモリーが、がみがみ訊いた。
夫人は両手をもじもじさせた。「あの方《かた》は――海が好きだし、夏のプランもまだきまっていないと言い出したのです……あたくしは――あたくしたちはみんなあの方《かた》が大好きでした。面白い方《かた》だし、とても上手にスペインの唄をお歌いになるし――」
「スペインの唄を、マルコが」と、エラリーが、うなずきながら「そうでしょうね……スペイン人でしたか、奥さん?」
「はあ――そう思いますわ。ご先祖がね」
「すると、あの男の国籍と、あなたの夏別荘の名が、偶然にもはち合わせしたわけですね。ぴったりだ。さて、それから――?」
「はあ、あの方はテニスは玄人《くろうと》でした――ごぞんじのように、岬の向こう側に芝生のテニス・コートが五、六枚と、ナイン・ホールのゴルフ・コースがあるのです……ピアノも弾きますし、ブリッジ遊びも上手でしたわ。夏別荘のお客としては、うってつけじゃありません?……」
「むろん、言うまでもないことですが」と、エラリーは微笑して「あの男の容姿が魅力的なのも、女性過多の週末休暇には、特にうってつけでしたね。いや、まったく、本当に残念な事件でした。そういうわけで、奥さんは、あの逸物を夏休みに招待されたんですね。あの男は、すばらしいご期待どおりに生活しましたか」
夫人の目は怒りにもえたが、じっとこらえて、ふたたび目を伏せた。「はあ、本当に、申し分なく。ローザが――娘はあの方を好いていました」
「すると、マルコをここに招いた張本人はお嬢さんなんですね、奥さん」
「あたくし――そんなことは申しませんでしたわ……はっきりとは」
「うかがいますがな」と、判事が低い声で「そう――マルコ君のブリッジは、どのくらいの腕でしたかな」老判事も、その悪る遊びをやるほうだった。
ゴッドフリー夫人は眉をつりあげて「よく分かりませんけれど――上手だと申しただけですわ、マクリン判事さま。私たちのだれより上手でした」
判事が、おだやかに「あなた方は、いつも、相当高く賭るほうですか」
「いいえ。とんでもない。半セントの時もありますけれど、たいていは五分の一セントですわ」
「それなら、わしらの仲間では高いほうですな」と、老判事は微笑して「たいてい、マルコが勝ったんでしょうな」
「まあそうですわ――失礼させていただきます、判事さま」と、ゴッドフリー夫人は冷《つめ》たく言って立った。「本当に、ひどいあてこすりをおっしゃいますのね。あなたのお考えでは、あたくしが――」
「失礼しました。誰が」と、判事はかまわずに訊いた。「いつも負けるほうでしたかな、お仲間で」
「あなたのお言葉づかいは、いい趣味とは申せませんわ、マクリン判事さま。あたくしも少し負けましたが、マン夫人も相当負けましたわ――」
「おかけなさい」と、モリー警視が手きびしく「さっぱり決着がつきませんな。失礼、判事、カード遊びの傷害事件じゃないんですよ。ところで、奥さん、手紙ですがね。誰が寄こしたのか分かりませんかな」
「そう、そうだ。その手紙は」と、エラリーがゆっくり言った。「非常に重要です」
「お役に立てると思いますわ」と、ゴッドフリー夫人は、同じような冷たさで言って、腰をおろした。「郵便物を仕分けていれば、どうしても気がつきますものねえ……その手紙は差し出し人が同じだったようです。封筒はみんな事務用のもので、角に事務所の名が刷ってありました。どれも同じ印刷でしたわ」
「ルシュース・ペンフィールドという者からじゃなかったんですか」と、エラリーが、ぴしりと訊いた。「ニューヨーク市、パーク・ロー、十一番地」
夫人はびっくりして目を丸くした。「ええ、それが住所と名でした。三通、たぶん二通ではありませんでしたわ。二、三週間の間をおいて」
三人の男は目を見交した。「最後のはいつ来ましたか」と、モリーが訊いた。
「四、五日前で、封筒には名の下に、弁護士と刷ってありました」
「弁護士か」と、マクリン判事が、つぶやいた。「知っとる男かもしれんな。住所からみて……」と、ちょっと黙って、そっとまぶたを細めた。
「もう、すみましたんでしょう」と、ゴッドフリー夫人が、言いにくそうにささやいて、また、立ちかけた。「ローザを見てやらなければなりませんの――」
「結構です」と、警視がにがにがしく「しかし、奥さん、私はどんなことがあっても、真相をつきとめるつもりですよ。あなたの答には満足していません。正直に言いますが、あなたはたいへん愚かな婦人だと思いますな。最初に、真実を語っておけば、結局は得なんですよ……サム、奥さんが家へ帰るのを送って行け――いいな」
ステラ・ゴッドフリーは、一同の顔を、ちらっと見て、不安な、もの問いたげな目をした。それから、唇をきっと結び、浅黒く美しい顔を傲然と上げ、警視の部下を従えて、テラスの石段を登って行った。
一同は、その姿が見えなくなるまで、黙って見送っていた。
やがて、モリーが言った。「あの女は、もっと知っとるくせに、とぼけとる。畜生《ちくしょう》、みんなが正直に話してくれさえすればこの仕事は楽なんだがなあ」
「最初に真実を語っておけば結局得なんだ」とエラリーが考えこみながら、モリーの口まねをして「この、ことわざはどうですか、判事」と、くすくす笑った。「警視、素朴な言いかただが、あれはよかったですね。バートレット〔アメリカの著述者。一八二〇―一九〇五〕の金言集の中でも、いい位置を占められる言葉ですよ。あの夫人は参りかけてる。つぼを、もう、ひとおしすればね……」
「来ました」と、モリー警視が、疲れた声で「レフティです。ここへ下りて来い、レフティ。マクリン判事とクイーンさんに会うんだ。クイーンさんが、この辺の潮のことを何か訊きたいそうだ。衣類はまだ見つからんか?」
レフティは、がっちりした小男で、樽《たる》をころがすような歩きぶりだった。赤毛で、赤ら顔で、赤い手をして、そばかすだらけだった。「まだです。みんな、今、ゴルフ・コースにかかってます。掃海組が、バーラムから着いたところです……みなさん、初めまして。潮の、どんなことがお知りになりたいのですか」
「ほとんど全部だよ」と、エラリーが言った。
「掛けたまえ、レフティ君、たばこは? ところで、君はこの辺の海のことは以前から知っているのかね」
「昔からですよ。ここから三マイルばかりのところで生まれたんです」
「そりゃうまいな。ここの潮はかなり難物かね」
「難物? 特にそうとも思いませんね。多少情況がひねくれている場所はありますがね。そのほかは」と、にやにやしながら「この辺の潮は、まずまずでしょう」
「この入江の潮はどうかな、レフティ君」
「ああ」と、笑いやめて「分かりました。ここはひねくれている場所のひとつです。ここの断崖の構造が変っていますし、入口が狭いので、昔から、干満表を狂わせるんです」
「君は、何時ごろの潮が、どんなふうか分かるかね」
レフティはあらたまって、だぶだぶのポケットから、角の折れたパンフレットを取り出した。「ええ。私は前に、この辺の沿岸測量部で働いたことがあるので、この入江のことはすっかり知っています。何日ごろの潮ですか」
エラリーはたばこを見つめながら、ゆっくり言った。「昨夜さ」
レフティはページをくった。マクリン判事は目を細めて、もの問いたげにエラリーを見た。しかし、エラリーは、白波をたてて、岸に押しよせてくる潮を、たのしく夢みるように眺めていた。
「ああ」と、レフティが「ここにあります。昨日の朝は――」
「昨夜から始めてくれたまえ、レフティ君」
「分かりました。昨夜の満潮は十二時六分です」
「真夜中ちょっと過ぎだね」と、エラリーが考えながら「それから潮が引きはじめる、すると……次の満潮は何時かね」
レフティは、また、にやにやして「今、上げて来ていますよ。満潮になるのは今日の午後十二時十五分です」
「それじゃ、夜の干潮は何時だったかな」
「今朝の六時一分でした」
「そうか。じゃ、レフティ君。普通は、どのくらいの速さで、この入江の潮はひくのかね」
レフティは赤毛をかきむしって「季節によるんですよ、クイーンさん、ほかもみんなそうでしょう。しかしここの引くのは速いですよ。測量してみると変った海底でしてね、それに、断崖が、ことを厄介にします。吸い出すようなんですよ、ここの潮は」
「ああ、すると、干潮のときと満潮のときでは、水深がひどく違うわけだね」
「そうですよ。ご覧のとおりの棚みたいな海岸で、急に深くなっています。春の潮は、時には、テラスから浜へ下りるあの石段の三段目までひたすことがあるんです。水深の差は、時には九フィートから十フィートになるかもしれませんよ」
「大した差だね」
「まったくですよ。この辺のどこより大きいです。でも、たとえば、メーン州のエスポートの潮の落差にくらべれば、もののかずじゃありませんがね。あすこでは十八フィート以上もあるんですからね。それから、ファンディ湾では四十五フィートです――それが一番の親玉でしょうね。それからまだありますよ――」
「もう、たくさんだ。よく分かったよ。君は、少なくとも動的海洋学に関しては、とてもくわしいらしいから、ひとつ教えてほしいんだがね、レフティ君」と、エラリーは低い声で「今朝の一時前後には、この浜は、どのくらい干上《ひあ》がって砂地が出ていただろうね」
マクリン判事と、モリー警視には、初めて、エラリーのねらう目的が分かってきた。判事は、急いで長い脚をねじるように組み合わせ、上げ潮のなめかかる浜を、じっと見守った。
レフティは黙り込んで、入江を見ながら何か考えていたが、やがて、声を出さずに、唇を動かして計算でもするふうだった。「そうですね」と、しばらくして言った。「いろんな条件を入れて考えなくちゃなりませんがね。今頃の季節の満潮を計算に入れて、できるだけ正確に考えてみると、浜は約二フィートほど水に浸されないはずだから、今朝の一時だと、少なくとも十八フィートか十九フィートぐらい干上がって砂地が出ていたでしょうよ。なにしろこの入江は干満表など無視しますからね」
エラリーはレフティの肩をぽんとたたいた。「すごい。ありがとう、それでいい、レフティ君。君は重要な点をはっきりさせてくれたよ」
「お役に立ってうれしいですよ。ほかに何か、部長」
モリーが上の空で首を振ったので、レフティは去った。「どうですか」と、しばらくしてモリーが訊いた。
エラリーは立って、浜へ下りるテラスの石段を降りて行った。しかし、砂浜までは降りなかった。「ところで、警視、このテラスに来るのには、上の本道を使うか、この入江からの道を使うか、二つしかないと思うが、そうでしょうね」
「そうです。見ただけで分かりますよ」
「ぼくは確認するのが好きでしてね。と、すると――」
「わしは議論はきらいだが」と、マクリン判事が小声で「テラスの両側に断崖があることを指摘したいね、エラリー」
「でも、高さが四十フィート以上もありますよ」と、エラリーが、たしなめた。「あなたは崖の頂上から、だれかがテラスか、それよりずっと下の浜まで、四十フィートもとび降りたとでも思うのですか」
「必ずしもそうじゃないが、綱というものもあるんだよ。下りようとするならな――」
「あの頂上には綱を結びつけるものは何もありません」と、モリー警視が、きっぱりと言った。「両側には、少なくとも二百ヤード以内には、立木も、ころがっている岩石もありません」
「しかし」と、判事はおだやかに抗議した。「共犯者が綱を支えていたらどうかね」
「おや、おや」と、エラリーはじれ込んで「今度は、あなたが詭弁家《きべんか》になるんですか、ソロン殿。もちろん、ぼくも、そんな特殊な可能性について考えてみました。しかし、ちゃんと道も、階段もついているテラスに来るのに、そんな危険な道を択ぶ者がどこにあるでしょう。しかも、見張りはないんだし、夜は断崖のかげになってまっ暗になるんですものね」
「音がするよ。砂利道だから」
「おっしゃるとおり。でも、もし綱にぶらさがって、ひっかいたり、ふんばったりしながら四十フィートも切り立った崖を降りてくれば、それ以上のもの音が立つでしょうし、目あての被害者にとっては、砂利道の足音より、もっと警戒させるもの音を立てることになるでしょう」
「なにしろキャプテン・キッドの足音だからね」と、判事は、くすくす笑いながら「エラリー、君の考えが正しいことを疑っとるわけじゃないよ。はっきりさせる必要があると思える点を、はっきりしておきたいだけなんだ。君は、いつも、自分で言っとるじゃないか、あらゆる点を計算しなくちゃならんと」
エラリーはぶつぶつ言いながら、ほこをおさめた。「そんなら、いいんですよ。このテラスに来る道は二つある。上の道と、下の入江からの道だ。ところで、今朝の一時には、たしかに、マルコは生きてここのテラスにいたことが奴の行動から分かっている――そのとき奴はペンフィールドという男に手紙を書きかけて、その冒頭に、時間を書きこんでいる。だから、今朝の一時に、それを書いていたという事実には疑問の余地がない。日付も入れているんだから」
「そのとおり」と、モリーが、うなずいた。
「さて、奴の腕時計がちがっていたとしても、その誤差はせいぜい三十分以上ということはあり得ないし、あらゆる点からみて、そんなにちがっていたということに対する証拠はない。検屍官は、実際に即死した死亡時刻を、一時から一時半の間と、推定している。すると、そこまでは、話の筋があっているわけだ」エラリーは、ちょっと休んで、おだやかな浜辺に目をやった。
「それが、どうだというんですか」と、警視が、ぶすっとして言った。
「殺人犯人が来た時刻を、確証しようとしとるんだろう」と、判事が小声で「それから、エラリー」
「さて、もしマルコが、今朝の一時に、生きて、ここにいたとすれば、殺人犯人はいつ来たか」と、エラリーは自問して、老判事の言葉に満足そうにうなずいた。「むろん、これは重要な問題ですよ。ところで、これを解くことで、本当に前進できるんです。なぜなら、先に来たのはマルコだという事実に関しては、あの男自身の言葉があるんだから」
「なんだって」と、モリーが言った。「そう結論を急いじゃいけませんよ。どうしてそう判断するんですか」
「そりゃ、君、あの男がそう言ってる――事実くどくどとね――手紙の中でね」
「説明してもらいましょうよ」と、モリーが頑張った。
エラリーはため息をして「あの男は≪いっときひとりだから≫と書いていましたね。誰かが一緒だったら、明らかに、あんなことは書かなかったでしょう。事実、誰かを待っていると書いています。その事実を無効にする唯一の証拠は、その手紙がにせ物であるということを証明することです。しかし、君は、それがたしかにマルコの筆跡であることに疑問の余地はないと主張しているし、ぼくも、君の言葉を熱心に支持します。ぼくの論証に役立つからです。マルコが午前一時に生きて、ひとりでいたのなら、殺害犯人は、まだ来ていなかったことになりますね」エラリーが言い終ったとき警視は、おどろいて見つめた。断崖の切れ目から、大きな手漕ぎ船のへさきが、はいってくるのが見えた。船には人が大勢乗っていて、妙な格好の機械が舷側にとりつけられ、その先が青い海の深みにかくれていた。スペイン岬の断崖のあたりの海底をさらって、マルコの衣類を探しているのだった。
「さて、潮流の専門家が」と、エラリーは船から目をはなさずに続けた。「今朝の一時には、浜は十八フィートほどは、水の上に出ていたと教えてくれました。しかも、ぼくはいま、今朝の一時には、マルコはまだ生きていたことを証明したばかりです」
「と、どうなるんです?」と、警視が、しばらくして訊いた。
「ねえ、君は今朝、海を見たでしょう警視」と、エラリーは、腕をつき出しながら大声で「マクリン判事とぼくが二時間ほど前に来たときでさえ、浜は、二十五フィートから三十フィートほど、干上がっていたんです。砂浜にはなんの痕跡《こんせき》もなかったでしょう、どうです?」
「痕跡があった証拠がありませんね」
「何もなかったのです。つまり、昨夜の一時から一時半の間にも、砂浜にはなんの痕跡もなかったことになります。潮は引きつづけて、テラスからだんだん遠ざかっていたんです。だから、そのテラスの石段の根本から海のほうへひろがる十八フィートの砂浜に、もし足跡がついていたとしたら、一時以後には波が足跡を消すチャンスはなかったわけです。それに、昨夜は雨も降らなかったし、どんなに風が吹いても、四十フィートもある切り立った岸壁でかこまれている場所だから、足跡を吹き消すことはまずできないでしょうからね」
「それから、エラリー、次は」と、判事が促した。
「さて、考えてみましょう。もし、マルコ殺しの犯人が、下の浜の道からテラスへやって来たとすれば、砂浜になんらかの痕跡を残すことは避けられなかったわけです。その理由は、説明したように、一時以後にここに着いたにちがいないからです――その時刻には、十八フィート以上の浜が干上がっていたのです。しかし、砂浜には痕跡がなかった。だから、マルコ殺しの犯人は、浜の道を通ってテラスにやって来たのではないということになるでしょう」
かなり長い沈黙がつづいた。時々船の浚渫人夫《しゅんせつにんぷ》の叫び声と、浜の小波《さざなみ》の音がきこえるだけだった。
「それが、君のねらいだったのですね」と、モリー警視が、憂鬱そうに頷いた。「お説のとおりだよクイーン君、しかし分かりきってることですよ。ぼくなら、そんなに手間ひまかけずに、同じことを言えますね。当然の理屈として――」
「当然の理屈として、テラスに来る道は二つしかない、そして浜辺の道は除外された、したがって、犯人は陸路の、あの道を通って来たにちがいない。そのとおりですよ、警視。理屈が分かってからあとは、当然の理屈です。ただ、理屈が分かる前は、当然の理屈でなかっただけです。ほかの考え方が、理にあわないということが論理的に証明されるまでは、何事も当然の理屈にはなり得ないんです」モリーは両手を宙に上げた。「いいですか、マルコ殺しの犯人は、上のあの道から来たのです。疑問の余地なしです。これがまず手がかりになります」
「ほんのちょっとはね」と、モリーが不服そうに言った。そして、少しずるそうにエラリーを見た。「すると、犯人は邸から来たと思うのですか」
エラリーは肩をしゃくって「道は――ただ道ですよ。スペイン岬の鼻に住んでいる連中は、行きがかり上、当然、第一の容疑者になりますよ。しかし、あの道は、また、岩のくびれを通る道に通じているし、岩のくびれを通る道は公園を抜ける道に通じるし、公園を抜ける道は――」
「幹線道路に通じる。ええ、分かりましたよ」と、モリーは、うんざりして「世界中の奴に、あいつをやっつけられたと言うんでしょう。私もふくめてね。分かりましたよ。さあ、邸へ行ってみましょう」
三人は、ぶつぶつひとりごとを言っている警視に続いて、ぶらぶら歩いて行った。エラリーが、漫然《まんぜん》と、鼻眼鏡のレンズをみがいていると、マクリン判事が小声で言った。「すると、犯人は、同じ道を通って、現場から立ち去ったことになるな。少なくとも、十八フィートはある砂浜を、とびこえることなんてできっこない。犯人はマルコを殺してから、海の近くへは行かなかったのだろう。さもなければ、犯人の足跡が見つかっているはずだ」
「ええ、まさに、そのとおりですよ。警視が、がっかりするのも無理はありませんよ。さっき、ぼくが言ったひとりごとからは、はっきりした見通しは何も出てこないですからね。ただ、事実を明確にしておきたかったのです……」と、エラリーは、ひと息入れて「マルコが裸でいたことが、どうしても気がかりなんです。そのことがワグナーの音楽の主題のように、ぼくの頭の中をかけめぐっているんです。判事、きっと何か、わながかくされていますよ」
「わなというのは、君が思いすごしているだけだろう、エラリー」と、マクリン判事は、考えこみながら大股で歩いて、強く言った。「解決はしごく簡単なものかもしれんよ。わしは、白状するが、こいつはなかなか難問だ。犯人が男か女か分からんが、なぜ被害者を裸にしなければならなかったのかな――」と、判事は頭を振った。
「ふん。裸にするのは、相当の仕事だったでしょう」と、エラリーが面白そうに「あなたは、意識を失った人間か、眠っている人間の服を脱がしたことがありますか。ぼくにはあるんですが、口で言うほど楽じゃないですよ、たしかです。手も足もからだも、てんでんばらばらで、始末がつきません。そうですとも、大仕事ですよ。特に今度のような時には、決定的に重要な目的がなければ、やってのけられる仕事じゃありませんよ。もちろん、犯人は、マントを脱がさずに、マルコの衣類を、はぎとることができたでしょう。マントは袖がないので邪魔にならなかったでしょうからね。あるいは、マントを脱がしてから、マルコを裸にして、またマントを着せたのかもしれません。しかし、なぜ、まる裸にしなかったのでしょう。なぜ裸にして、マントを着せておいたかが問題です。今、気がついたんですが、もし、マルコが、手紙を書く間もステッキを握っていたとしたら、犯人は、マルコを裸にするために、その右手からステッキを、とりのけなければならなかったでしょうね。とすれば、あとからマルコの手にステッキを戻したことになります――いかにも不自然な行動ですね。だが、何か意味があるんでしょう。どんな意味が、何のために? 捜査を混乱させるためでしょうか。頭が痛くなりそうですよ」
マクリン判事は口を閉じていた。「表面は、たしかに、正気の沙汰じゃないようだ、特に衣類を脱がしたところはね。少なくとも、正気とは思えない。エラリー、病的精神や、異常心理や、精神倒錯の犯罪と考えまいとして、わしは一生懸命なのだ」
「犯人が、もし、女だったとしたら――」と、エラリーが、夢みるように言いかけた。
「ばかな」と、老判事がぴしりと言った。「まさか、そんなことを信じちゃいまいな」
「ああ、信じちゃいけませんか」と、エラリーは冷やかすように「あなただって、同じような筋を考えているように見えますがね。ぜんぜん、可能性の外というわけじゃないですよ。あなたは、純粋な教会人種だから、そう思いたくないんでしょうが、この事件は単なる精神病医のものかもしれませんね。もしそうなら、性的偏執症を持っている見捨てられた女がいるはずです……」
「けがらわしい精神を持っとるんだな」と、判事が、ぶつぶつ言った。
「ぼくの精神は論理的なんです」と、エラリーがやり返した。「と同時に、明らかに精神病理論と合致しない二、三のあいまいな点があることも認めます――主として、犯人のほうで手を抜いた二、三の点です……お好みなら女の殺人犯としてもいいですよ」と言って、エラリーはため息をついた。「ところで、お友達のペンフィールドの悪い噂について何か?」
「えっ」と、判事は叫んで、急に立ちどまった。
「ペンフィールドですよ」と、エラリーは、ゆっくり言った。「ペンフィールドです。ニューヨーク市パーク・ロー十一番地の弁護士、ルシュース・ペンフィールドのことはよくごぞんじでしょう。さっきあなたが≪霊感をうけたもののように、うっとりと目を上げて≫すわり、≪憂鬱≫に負けまいとしていたのは、子供の目にも明らかでしたよ。思うに、あなたは、英国の詩人、ウィル・コリンズの詩句≪思いなやむ心に、音《ね》も高い角笛のしらべを注いで≫というのに、ぴたりの心境だったんでしょう」
「音も高い角笛なんか踏みつぶせ。ときどき君は、鼻もちならんよ」と、判事はにがり切って「わしの顔色はそんなに読み易《やす》いかな。実は、昔は、スフィンクスといわれたものさ。わしは憂鬱どころか、消えかけていた記憶を、ふと、とりもどして、いささか得意になっていたんだ。わしは思い出したんだ」
「何をですか」
「ずっと昔の出来事をね。十年以上にもなる。わしは――その――かなり有名だったんだ、当時の弁護士協会の不正活動についてね。粛正すべき、いやな事件が時々おこった。わしが、いやいやながら、ルシュース・ペンフィールド君に会うことになったのも、特にくさい調査問題があったからだった。それまでは、ただ噂を耳にしていただけだったが、会ってみると実際にくさい人物だったよ」
「ほう!」
「≪ぺっ!≫とやりたいぐらいのものさ」と、判事はそっけなく言った。「あの男は、腹を立てた同僚の弁護士のひとりから告訴されていたんだ。もちろん、あのペンフィールドが同一人物ならばだが……とにかく、あの男は、弁護士にふさわしからぬ行為のために告訴されていたのだ。はっきり、ずばりと言えば、証人に偽証をさせるようにたくらんだり、反対の陪審員に多額の賄賂《わいろ》をつかませたり、そのほかにも、けしからんことをどっさりやったんだ」
「どうなりましたか」
「どうもならん。同業の連中は、分別を働かせて、腹の虫をおさえてしまったのだ。連中には勝目はなかったのさ。あの男の弁明は、例によって、堂々たるものだった。……わしは、ルシュース・ペンフィールドのことなら、一日中でもしゃべれるよ、エラリー。しゃべればしゃべるほど、刻々に記憶が新しくなる」
「すると、ジョン・マルコは、とんでもない奴と文通していたんですね」と、エラリーがつぶやいた。「手紙の冒頭の挨拶の親密さからみると、ペンフィールドのくささをまったく気にしなかったらしいですね。ペンフィールドについて知っていることを、みんな話してくださいませんか」
「ありふれた文句で一口にいえる」と、マクリン判事はいまいましそうに唇をゆがめて「リューク・ペンフィールドは、しばり首にならなかった最大の悪党さ」
[#改ページ]
五章 珍客邸
中庭《パティオ》には、たいくつそうな警官が二人いるだけで人かげもなかった。一同はモリー警視について、色あざやかな敷石を渡り、ムーア風なエキゾチックなくぐりをくぐって、小さな廻廊に出た。その廻廊は、月並みな唐草模様で飾られ、つややかな色タイルで腰羽目がしてあった。
「会ってみたところでは、あの富豪が、東洋趣味に夢中だとは思えませんね」と、エラリーが批評した。「建築師に、スペイン建築のムーア的な面を強調しろと命じたにちがいありません。フロイド〔精神分析学者〕ものですよ」
「時々気になるが」と、老判事はぶつぶつ言った。「君はよくもまあ毎晩、熟睡できるもんだなあ――そんな精神状態で」
「同時に」と、エラリーは言いかけて立ちどまり、赤、黄、緑のどぎついタイルを見つめた。「ぼくも気になるんですが、こんなサラセン風な雰囲気の中で暮らして――辛《から》いスペイン料理をたべていれば――北欧的な理性も、きっと影響を受けずにはいないでしょうね。こんな雰囲気が、焼け木杭《ぼっくい》に火をつけるのは造作もありませんからね。たとえば、カンスタブル夫人のようなタイプの西欧婦人には……」
「どうぞ、こちらへ」と、モリー警視が気ぜわしく「仕事がうんとあるんです」
一同はひろびろとしたスペイン風の居間に集まった。その部屋は、カスティリアの中世の殿様の領地からそっくり移したものらしい。みんなそこに集まっていた――カンスタブル夫人の青ざめた顔は血の気をとりもどし、おびえていた目も、挑戦的な白々しさになっていた。マン夫妻は笑いを忘れた彫刻のようだし、ゴッドフリー夫人はふるえる手にハンカチを握り、ローザはしょげているアール・コートに背を向けていた。そして、ウォルター・ゴッドフリーは、よごれたズボンのまま、小ぶとりの召使いのように、はでな敷物の上を、せかせかと歩きまわっていた。みんなの頭に、ジョン・マルコの影が、ぼわっと黒く重くのしかかっているようだった。
「すぐあの男の部屋を調べましょう」と、モリーは気が気でないという目つきで「皆さん、聞いてください。私は義務を遂行する間、諸君が誰であろうと、どんなに感情を害されようと、苦情をのべるために、いくたりお偉方《えらがた》を呼ぼうと、そんなことにはかまっちゃいませんぞ。この郡にも村にも正当な役所がある。今いったことは、あなたにも当てはまりますぞ、ゴッドフリーさん」小ぶとりの男は、ねむそうな目でモリーをちらっと見て、歩きつづけた。「私は徹底的に調べるつもりだし、君たちのだれにも邪魔はさせん。分かりましたな」
ゴッドフリーは立ちどまった。「誰も君の邪魔はせんよ」と、手きびしく「文句言っとらんで、仕事にかかりたまえ」
「すぐとりかかるところですよ――仕事にね」と、モリーは少し意地悪く返して、にやりとした。「あなたも意外でしょうが、殺人事件の際は、どんなつまらんまねも許せんということを、人々に納得させるのが非常にむずかしいことが、しばしばあるんです。ゴッドフリーさん、あなたはひどく気をもんでいるらしい。あなたから始めることにしましょう。死んだジョン・マルコがこの夏、ここに来たのには、あなたは何も関係がないというのは事実ですか」
ゴッドフリーは、細君の緊張した顔に、ちらっと妙な視線をなげて「家内がそう言ったんですか」と、びっくりしているようだった。
「奥さんが言われたことなど気にせんでいい。質問に答えてください」
「事実だよ、わしは知らん」
「奥さんがここに招待する前に、マルコを社交的に知っていましたか」
「わしはごくわずかな人間しか社交的には知らんよ、警視」と、金満家《きんまんか》は冷やかに言った。「家内があの男と、ニューヨークで、何かの会で会ったんだろう。わしも紹介されたかもしれん」
「あの男と仕事上の取引きがありましたか」
「なんですと?」と、ゴッドフリーは蔑《さげす》むような顔をした。
「仕事上の取引きはなかったですか」と、モリーが食いさがった。
「ばからしい。一夏中、あいつとは三口もきかなかったよ。わしは、あいつが嫌いだ。そのことは誰に知れてもかまわん。しかし、わしは家内のつき合いには決して干渉せんからな――」
「今朝の一時には、どこにおられましたか」
金満家は蛇のような鋭い目をけわしくした。「ベッドで、寝とった」
「ベッドへはいられたのは?」
「十時半だ」
モリーが声を高めて「お客が起きているのを放っといてですか」
ゴッドフリーは、おだやかに「わしの客じゃない、家内の客だよ、警視。すぐはっきりするだろう。この人たちに訊いてみれば、すぐ分かるだろうよ。わしは、物理的に可能なかぎり、客たちとは接しないようにしておった」
「あなた!」と、ステラ・ゴッドフリーが腹立たしそうに叫んだが、すぐに唇を閉じた。ローザが若々しく日やけした顔をそむけた。その顔は、ひどく心配そうだった。マン夫妻は不愉快そうな顔をした。そして大男のマンは口の中でもぐもぐ言った。だがカンスタブル夫人だけは表情をかえなかった。
「すると、あなたが生きているマルコを最後に見たのは十時半ですね」
ゴッドフリーはモリーをにらんだ。「ばかだな」
「なんだって?」と、警視が息をのんだ。
「十時半以後にマルコを見たとしても、わしがそれをみとめると思うのかね」金満家は、汗をかいている小さな労働者のように、ズボンをつまみあげて、にこにこした。「時間の無駄だよ、君」
エラリーは、モリーの大きな手がびりびりとひきつり、太い喉の筋がひきしまるのを見ていた。だが、モリーはただ、顔をそむけて、おだやかに訊いた。「マルコを最後に見かけたのは誰ですか」
いらだたしい沈黙がつづいた。モリーは、さぐるように見まわした。「はにかむことはありませんよ。殺された時までの、あの男の昨夜の行動をつきとめようとしているだけなんです」
ゴッドフリー夫人が、強《し》いてほほえみながら「私たち――ブリッジ遊びをしましたわ」
「結構です。誰と、何時頃ですか」
「マンの奥さまと、コートさんが組んで」と、ステラ・ゴッドフリーは低い声で「相手は、カンスタブルの奥さまと、マルコさんでした。マンさんと、娘のローザと、弟のデーヴィッドと私とも、することになっていたのですけれど、ローザと、デーヴィッドが姿を見せなかったものですから、マンさんと私とは、見ていただけですの。あたくしたちは、お夕飯のすぐあとで、しばらくばらばらになっていて、最後にパティオに集まったのです。それから、居間に参りました――つまりここへ来たのですわ――そしてたしか八時頃に遊び始めたのです、もう少しおそかったかもしれませんわ。真夜中ごろにおひらきにしました。たぶん、十二時十五分前ですわ、もう少し正確に申しまして。それだけですわ、警視さん」
「それから、どうしましたか」
夫人は目を伏せた。「どうって――ただ、おひらきにしただけですわ。マルコさんが最初に出て行きましたわ。あのひと――ゲームのおしまいごろには少しいらいらしているようで、最後の三番勝負がすむとすぐ、皆さんにおやすみを言って二階のお部屋に上がって行きましたわ。ほかのひとたちは――」
「ひとりで上がって行きましたか」
「たぶん――ええ、おひとりで」
「そのとおりですか、皆さん」
一同はすぐ、うなずいた。ただ、ウォルター・ゴッドフリーだけは、みにくい小さな顔に、うすら笑いをうかべていた。
「お話中ですが、警視さん」モリーが肩をしゃくったので、エラリーは、愛想よくほほえみながら、皆の前に出た。「ゴッドフリーの奥さん、あなたは、ゲームの始まりから、おひらきになるまで、ずっとこの部屋におられたんですか」
夫人はぽかんとした顔で「ああ、そうじゃなかったようですわ。おひらきになるまでには、みなさん、いつか数分ぐらいは、この部屋をお出になりましたわ。そんなこと、特に気をつけませんしね――」
「最初の四人が、一晩中、勝負を続けたんですか。組合わせや、ひとは変らなかったんですか」
ゴッドフリー夫人はちょっと顔をそむけた。「私――思い出せませんわ」
マン夫人の、きつい美しい顔が急に生き生きとした。プラチナの髪が、窓からさしこむ陽の光に、きらきら輝いた。「そうよ。ゴッドフリーの奥さまに、コートさんが、一度――たぶん九時頃でしたけど――かわっていただけるかと、おたのみになりましたわ。奥さまはおことわりになったけど、コートさんがもうやめたいのなら、マンさんがなさるだろうとおっしゃったわ」
「そうだ」と、マンがすぐ言った。「そのとおり。すっかり忘れてたよ、セシリア」マンの顔は、本もののマホガニーづくりのように無表情で「私が仲間入りして、コートは、どこかへぶらっと出て行った」
「おお、そうですか、そうですか」と、警視が言った。「コート君、どこへ行ったのかね」
青年は耳をまっ赤にして、怒って唇をとがらせた。
「それがどうなんですか。ぼくが出たとき、マルコはまだゲームをやってたんですよ」
「どこへ行ったのかね」
「そう――ぜひ知りたいなら」と、コートは、ふてくされて低い声で「ローザを――お嬢さんを、さがしに行ったんです」ローザは背中をもじもじさせて、わざとふふんと鼻をならした。「あのひとが気になったのです」と、青年はわめいた。「夕食後、じきに叔父さんと出て行ったきり帰って来なかったのです。ぼくには腑におちないんで――」
「自分のことぐらい自分でできるわ」と、ローザは、振り向かずに、冷たく言った。
「昨夜は、うまく自分でできたね、どうだい」と、コートはにがにがしげにやり返した。「みごとなお手なみだったよ――」
「あなたこそ勇敢な英雄だったわ。それで――」
「ローザや」と、ゴッドフリー夫人がたまりかねてとめた。
「コート君は、どのくらい席をはずしていたんですか」と、エラリーが、おだやかに訊ねたが、だれも答えなかった。「どのくらいですか、マンの奥さん」
「かなり長くでしたわ」と、女優上がりの女は、甲高く言った。
「すると、コート君だけが、席をはなれて、かなり長い間――留守だったのですね」
思わず、一同は互いに顔を見合わせた。やがて、マン夫人が、金属的な声で、また言った。「あの人も留守しましたわ。ジョン――マルコさんも出て行ったんです」
一同は死のような沈黙につつまれた。「すると、それは何時でしたか」と、エラリーがやさしい声で訊いた。
「コートさんが出て行ってから二、三分あとでしたわ」と、白魚のような指で髪をなぜながら、ちょっとなやましい媚《こび》をうかべてほほえんだ。「マルコさんは、ゴッドフリーの奥さまに、かわってくれるようにおたのみになってから、おわびを言って、パティオに出て行きましたわ」
「なかなか憶えがいいじゃありませんか、マンの奥さん」と、モリーが、ぶつぶつ言った。
「まあ、すてき――おぼえがいいでしょう。ジョーが――主人《たく》がいつもそう言いますのよ――」
「コート君、正確にどこへ行ったのかね」と、モリーがだしぬけに訊いた。
青年の茶色の眼が、きらりとした。「おお、ぼくは庭をぶらついてたんです。五、六度、ローザを呼んだけれど、返事がないでした」
「マルコがゲームをやめる前に戻ったのかね」
「そうね……」
「失礼ですが、旦那さま、そのお答えは、私がお話しできるとぞんじます」と、ものやわらかな気持ちのよい男の声が、向こうの戸口から聞こえたので、一同は、おどろいて、そのほうを振り向いた。黒のこいきな服をきた小柄な男が、沈着にご機嫌をうかがうという態度で立っていた。手足の小さな、ぱっとしないちんちくりんで、すべすべの顔は、表情もはっきりとらえがたいが――皮膚のきめがこまかく、目が少し切れ長なところ――東洋人らしい。しかし、流暢《りゅうちょう》な教養のある英語を話し、地味な服装もロンドン仕込みだった。「先祖はユーラシア〔ヨーロッパとアジアの混血〕だな」と、エラリーは思った。
「君は何者だね」と、警視がどなった。
「テイラー。ひっこんどれ」と、ウォルター・ゴッドフリーが叱りつけ、大きなげんこつをにぎりしめて、黒服の小男ににじりよった。「だれが、お前に、情報を提供しろとたのんだ。訊かれたときに答えればいいんだ」
小男は、おずおずと言った。「はい、旦那さま」そして、引きさがろうとしたが、その目は好奇心にもえていた。
「おい、君、ここに来たまえ」と、モリーが、急いで「ゴッドフリーさん、たのむから、口出ししないでください」
「テイラー、言っとくが――」と、金持ちが、歯をむいた。
小男はおどおどした。モリーが、おだやかな声で言った。「ここに来たまえ、テイラー」ゴッドフリーは肩をすくめて、急に部屋の隅の、大きな飾り椅子に、ひきさがった。小男は足音も立てずに進み出た。「いったい、君は何者だね」
「私は部屋男でございます」
「もちろん、ゴッドフリーさんのだね」
「いいえ、ゴッドフリーさまはご自分では部屋男をお使いになりません。奥さまが、スペイン岬へ来られるお客さま方のご用をするために、私をお雇いになったのです」
モリーは期待に目をかがやかせて「よろしい。ところで、いったい、何を言おうとしたのかね」
アール・コートは、ちらっとテイラーを見て、目をそむけ、ブロンドの髪を日やけした手で神経質にかき上げた。ゴッドフリー夫人はハンカチをいじくっていた。小男が言った。「昨夜のコートさまとマルコさまのことをお話しできます。ご承知のように――」
「テイラー」と、ステラ・ゴッドフリーが低い声で「暇を出しますよ」
「はい、奥さま」
「おお、いけません。駄目です」と、モリーが言った。「この殺人事件が片づくまではね。テイラー君、コートとマルコがどうしたね」
召使いはせき払いをして静かに話しはじめた。アーモンドのような目を、向かいの壁に十文字にかけてある二本のサラセンの半月刀に釘づけにしていた。「夕飯のあとで息抜きに外へ出るのが」と、テイラーは妙な口調で話し始めた。「私のいつものくせなのです。たいていは、それまでにお客さまのお給仕もすんで、一時間ぐらい自分の時間ができますのです。時には、ジョラムさんのところへ行って、たばこを喫ったり、おしゃべりをするのです――」
「庭師だね、ジョラムというのは」
「さようです。ジョラムさんは庭に、自分の小屋を持っているのです。昨夜は、奥さまとお客さま方が、ブリッジをしていらっしゃる間に、いつものように、私はジョラムさんのところへ行きました。しばらくおしゃべりをしてから、私はひとりで、ぶらりと出ました。テラスへ下りてみようと思ったのです――」
「なぜ?」と、すぐモリーが訊いた。
テイラーはぽかんとして「なんとおっしゃいましたか。ああ、特に理由があったわけじゃございません。私は、あそこが好きなのです。とても静かですからね。どなたもいらっしゃらないと思っていました。もちろん、私は自分の身分を心得ております。そう申しては、なんですが……」
「ところが、だれかいたんだね」
「はい。コートさまとマルコさまが」
「その時は何時だったね」
「たしかに、九時が二、三分過ぎておりましたでしょう」
「二人は話していたんだね。何か聞こえたかね」
「はい。お二人は――その――口論しておられました」
「すると、聞いてたんだな、畜生」と、コート青年が、にがにがしく言った。「スパイめ」
「ちがいます」と、テイラーが元気のない声でつぶやいた。「あなたさまとマルコさまが、あまり大声でお話しなので、いやおうなしに聞こえたのでございます」
「行っちまったらよかったんだ、けしからん」
「足音が聞こえるといけないと思いまして――」
「そんなことはどうでもいい」と、警視がたたみ込んで「ふたりは、何を言いあらそっていたんだね、テイラー」
「お嬢さまのことでございました」
「ローザのこと」と、ゴッドフリー夫人は息をのんだ。そして、びっくりした目で、娘を振り向いたので、ローザの顔はしだいに赤らんだ。
「分かった、分かった」と、若いコートが口早に「いつかは、ばれると思っていました。このちびのおせっかいの野郎が、告げ口をしやがってさ。ぼくは、あの女たらしに、ぴしゃりと、ぶつけてやったんです。もし二度とローザさんに手を出したら、ただじゃすまさんぞって――」
「どうするって?」と、モリーが静かにきいたが、コートは口をつぐんでいた。
「たしか」と、テイラーが低い声で「コートさまは、なぐりつけるとかなんとかおっしゃいました」
「おお」と、モリーはがっかりして「すると、マルコが、お嬢さんに迷惑をかけていたんだね、コート君」
「ローザ」と、ゴッドフリー夫人が小声で「あなたは何も話しませんでしたね――」
「おお、あなた方《がた》はみんないやな方《かた》よ」と、ローザが叫んで、とび上がった。「それに、あなたったら、うぬぼれ屋のコートさん、もう二度と、私に口をきかないで。いったい、なんの権利があって――ジョンと喧嘩したの――そうよ、ジョンと……私のことで。あのひとは私に迷惑なんかかけなかったわ。どんなふるまいが――どんなことが、私たちの間にあったにしろ、私が承知の上なのよ。はっきり言っておきますけどね」
「ローザ」と、青年はしょげ込んで「ただちょっとした――」
「口をきかないで!」ローザの青い目は、怒りと反抗でかがやき、傲然《ごうぜん》と頭をそらせた。「あなたたちが、どうしても知りたいというのなら――そうよ、あなたも、ママあなたもよ――マルコは私に結婚してほしいとたのんだのよ」
「結――」と、ゴッドフリー夫人はあえいで「それで、あなたは――」
ローザは、少し落ちついて「私は――ええ、だいたいは、承諾したのよ。そんなにはっきりとはいわなかったけれど――」
実におどろくべきことが起こった。カンスタブル夫人が、椅子の中で身もだえして、おしつぶしたような声で言った――早朝から初めて口を開いたのだ。「悪魔だわ。卑劣な男だわ。冷血漢だわ。そんなことだろうと思っていたわ。あなたは盲目《めくら》だったのよ、奥さま。私の娘なら――あの男はいつもの手を使ったのよ――」そう言って、急に口をつぐんだ。その顔は凍りついたようで、ゆがみもしなかった。
恐怖のような色が、ローザの目にうかんだ。母親は、片手で口を覆いながら、おどろいてローザを見つめていた。背の高い、浅黒い若い女は、わが娘ながら、はじめて見るような気がした。
コート青年はまっ青になったが、威厳を保ちながら「お嬢さんがどんな羽目におちこもうとしていたか、自分ではまるっきり気がついていなかったとしか思えませんよ、警視。ぼくが話したほうがよさそうです。ぼくが話さなくてもテイラーがしゃべるでしょうからね――テイラーは長いことテラスにへばりついて、あのいざこざをすっかり聞いてたらしいから。マルコと二人で言い合いをしているうちに、お嬢さんが、今、あなたに話したことを、言い出したんです。つまり、その前の金曜日にプロポーズしたら、お嬢さんは事実上承諾したし、その結果は分かっているから、計画は立っていると言うのです。来週、お嬢さんと駈け落ちして結婚するつもりだったのです」少し心苦しそうだった。
ローザが口ごもって「そんなこと――まさかあのひとが――」
「あの男は」と、コートは静かにつづけた。「ぼくがゴッドフリーさんたちに告げ口しても、世間に発表してもかまわんと言いました。愛し合っているのだから、とめだてはできないんだと。その上、お嬢さんは、あの男の指図どおりにすると言うのです。ぼくのことを、でしゃばりの、うすのろ野郎で、やっとおしめのとれた青二才だと罵《のの》しるのです。そのほかにもさんざん悪態をついたんです。そうだろう、テイラー」
「そのとおりでございます、コートさま」とテイラーが呟いた。
「ぼくは、あの男をかんかんに怒らせてしまったらしいんです。いつもの彼だったら、あんなに簡単に怒ったり、悪態をつくことはなかったでしょう。とても興奮しているようでした。それで、ぼくも気が狂いそうになって逃げ出したのです。もう少しいれば、あの男を殺しただろうと思います」
ローザは、ふと頭を起こして、一言も言わずに、ドアのほうへ歩いて行った。モリーは、挨拶もせずに立ち去るローザを、じっと睨んだ。
「結婚」と、カンスタブル夫人が、苦々《にがにが》しく言った。「あの男《ひと》としてはお手やわらかだわ」それっきりで、あとは何も言わなかった。
「そうか」と、モリー警視は肩をいからして「ひどくこみ入って来たな。ところで、君とマルコはブリッジに戻ったのかね」
「マルコのことは知りません」と、青年は、ローザの消えたドアを見つめながら低く言った。「ぼくは、あまり取り乱していて、上品なお仲間に見られたくなかったので、庭をうろつきまわっていたんです。無意識にお嬢さんを探していたんだろうと思います。けれど、十時半ごろ、やっと気が鎮《しず》まってもどってみると、マルコも愉しそうにブリッジに加《くわ》わっていました。まるで何事もなかったような顔でした」
「そんなことかね、テイラー」と、モリーが訊いた。
テイラーは小さい手で口を覆ってせきをした。「コートさまは、おっしゃるとおり、小路をかけ上がって行かれました。やがてお邸のほうへ行く石段を、かたかたと上がる足音が聞こえました。マルコさまは、ひとりでぶつぶつ怒りながら、しばらくテラスに残っておられました。それから、見ておりますと――テラスの灯がついておりましたから――あの方は服をととのえ(そのときは白い服でした)、髪をなぜ、ネクタイを直し、ほほえみをなさってみて、灯を消して、テラスを去られました。まっすぐにお邸へ行かれたと思います」
「行ったか、行かないか、つけてみたろう」
「私は――はい」
「気がきく見張り人だな、テイラー」と、エラリーは微笑した。エラリーはテイラーの柔和な小さい顔から一度も目をはなさなかったのだ。「すばらしい報告だよ。ところで、ここでは誰が電話に出るのかね」
「たいていは、執事代理でございます。交換台はホールの仕切部屋のひとつにございます。私の考えでは――」
モリーがエラリーの耳に口を寄せて言った。「執事と、ほかの常雇いの連中には、部下をやって、訊かせました。昨夜、キッドが電話をかけたとおぼしい時刻の呼び出しの音を、おぼえているものは、ひとりもいません。しかし、それは問題じゃありませんよ、嘘をついているか、忘れているかなんだから」
「それとも、受けるほうで、待っていたのかもしれないな」と、エラリーが静かに言った。「交換でね……結構だったよ、テイラー君」
「はあ、おそれいります」と、テイラーは、ちらっとエラリーを見上げて、目をそらしたが、その一瞥《いちべつ》で、あらゆるものを見てとったらしい。
「たぶんお前も」と、隅のほうで、ソグローの漫画リットルキングのように、しゃちこばって構えていたウォルター・ゴッドフリーが、苦りきって「自分の小細工にさぞ満足しただろうな、ステラ」と言いすてて、立って娘を追って居間を出た。この謎めいた言葉がどういう意味か、だれも――とりわけ、くやしさと苦しみにうち沈んでいるゴッドフリー夫人はむろんのこと――進んで説明しようとはしなかった。
モリーがサムと呼んでいた刑事が、パティオから急ぎ足にやって来て、何事かを警視に耳打ちした。モリーは面白くもなさそうにうなずき、意味ありげな、まなざしをエラリーとマクリン判事に向けて――判事はずっと片隅に、ひとりで身をかたくして立っていた――大股に出て行った。
まるで電流が切られたように、たちまち緊張がほぐれた。ジョーゼフ・A・マンは、こっそり右足を動かして、音もなく深呼吸した。カンスタブル夫人の鬼瓦のような顔にも、人間らしい表情がもどってきて、うなだれた肩もひらいた。マン夫人は小さな麻ハンカチを、けわしい目もとに持っていった。コートはおずおずと小卓に行って自分で飲物を注いだ……テイラーが出て行こうとして背を向けた。
「ちょっと、テイラー君」と、エラリーが愛想よく言った。テイラーがぎくっと立ちどまった。ふいに電流がまた通じたようだった。「君のような素質のいい観察者は、遊ばしてはおけんね。きわめて近い将来に、君の才能を使わせてもらうよ……みなさん。この悲しい談合に、よけいなとび入りをさせていただきますが、ぼくはクイーンです。左におられる紳士は、マクリン判事です、ところで――」
「君たちみたいな男がくちばしを入れるのを、だれが許したんだ」と、ジョー・マンが、いきなりわめいて、すっくと立ち上がった。「おまわりひとりで充分じゃないか」
「まあ聞いてください」と、エラリーは虫をおさえて「モリー警視が捜査をたのんだんです――つまり――助手です。その資格で、少しばかり質問する義務があるのです――適切な質問だと――思います。マンさん、あなたから始めましょう、しびれを切らしておられるようだから。昨夜は何時にやすまれましたか」
マンは、口をひらく前に、しばらくエラリーを冷たい目で見つめた。その黒い眸は、スペイン岬の根元の波にさらされた岩のようにきびしかった。やがて言った。「十一時半頃だ」
「ブリッジは十一時四十五分に、おひらきになったのでしょう」
「終りの三十分は、やらなかったのさ。失敬して、寝に行ったんだ」
「そうですか」と、エラリーは落ちついて「すると、ゴッドフリー夫人、さっきは、なぜ、マルコが一番先にブリッジをやめて引き上げたと言われたんですか」
「まあ、そんなこと申しましたかしら。何から何まで憶えてはいられませんものね。本当にこんなことがまんできませんわ……」
「お気持はよく分かります。だが、正直に答えていただかなければならないのですよ、奥さん。多くのことが、あなたの記憶の正しさにかかっているかもしれませんからね……マンさん、あなたが二階に引きとった時には、マルコはまだこの部屋でブリッジをしていたんですね」
「そのとおり」
「あの男が、あなたのあとについて二階に上がった時に、姿を見るか、音を聞くかしましたか」
マンが憤然《ふんぜん》として「あいつは従《つ》いて来なかった」
「ものは言いようですよ」と、エラリーは、すぐに「どうですか」
「知らんよ。まっすぐ寝に行ったんだ。何も聞かなかった」
「すると、あなたは? マンの奥さん」
美しい女は「なぜこんなに、くどくど訊かれて、答えなければならないのか、分からないわ、あなた!」と、甲高い声で叫んだ。
「黙りなさい、セシリア」と、マンが言った。「家内は、わしがベッドへもぐり込むときに上がって来たよ、クイーン君。ここでは、ひと部屋を使っとるんでね」
「なるほど」と、エラリーは微笑して「さて、マンさん。あなたはマルコを前から知っていたんでしょうね」
「どう思おうと勝手だが、無駄なこったね。てんで間違っとるよ、君。ここに来るまで、あんなにやけ面《づら》の若造なんかに、一度も会ったことはないよ」マンは無造作に、幅のひろい肩をしゃくった。「大して残念でもないじゃないか。リオあたりでは、あいつみたいな女蕩《おんなたら》しは、白人の間じゃ長もちはしないんだ。まったくの話が」と、こわばった冷笑をうかべて「わしはこんな社交的なことはぜんぜん好かんよ、これで、よく分かった。――ゴッドフリー夫人には敬意を表するがね。わしと家内は、今すぐにでも、ここを出て行っていっさい打ち切りにするよ、なあお前」
「あなた!」と、マン夫人は、ゴッドフリー夫人を心配そうに見ながら、はげしくたしなめた。
「ところで――あなたはゴッドフリー夫人を、もちろんごぞんじだったんでしょうね」
大男はまた肩をゆすって「いや。わしは四、五か月前にアルゼンチンから出て来たばかりでね。ニューヨークで家内と出会って、一緒になったんだよ。向こうでしこたまもうけたんだが、金というやつは、どこでも、ものを言うもんだ。それから、招かれてスペイン岬に来ただけだ。わしの知っとるのはそれだけだ。おかしく聞こえてもかまわんが、わしは、以前のように、ハイカラな連中になどちっとも、おどかされやせんよ」
ゴッドフリー夫人は急に情けなさそうに手を上げて、おびえるような身ぶりをした。マンの口どめをするためか、危険を払いのけようとするかのようだった。マンは、ふと、けわしい目を細めて夫人を見つめた。「どうしたんです? わしがうっかり何かをばらしましたか」
「つまり、あなたのおっしゃるのは」と、エラリーが、少しのり出して、静かに訊いた。「あなたは、この別荘で二、三日滞在するように招待されるまでは、ゴッドフリー家の方々《かたがた》には、会ったことも、うわさを聞いたこともないのですね」
マンは日やけした大きなあごをなぜた。「奥さんに訊いたらよかろう」と、ぶっきら棒に言って、腰をおろした。
「でも――」と、ステラ・ゴッドフリーは緊めつけられるような声で言い始めた。小鼻がふくれて今にも気絶しそうだった。「でも――私は、いつもお招きするのです……面白い方《かた》たちをね、ここへ。クイーンさん。――マンさまは新聞で拝見すると、とても愉快な方《かた》らしいし、それに私――マンの奥さまとは、まだセシリア・ボールというお名前でブロードウェイのレビューに出ていらしたころから、何度もお会いしてたのです……」
「そのとおりよ」と、マン夫人が満足そうにほほえみながら、うなずいた。「私はたくさんのショーに出ましたわ。私たち、芸能人は、いつも、楽しい場所へご招待を受けるんですのよ」
マクリン判事が、よちよちと進み出て、静かに訊いた。「すると、あなた、カンスタブルの奥さんは、もちろん、ゴッドフリー夫人を昔からごぞんじじゃろうね」
ずんぐりした女は、ぎくりとして、また、さっきの恐怖の色を、こと新しく目にうかべた。ゴッドフリー夫人が、いまにも死にそうに、ぜいぜいと息をはずませた。
「そ、そうです」と、ゴッドフリー夫人はつぶやいて、歯をかちかち鳴らした。「おお、カンスタブルの奥さまは、昔からぞんじておりますわ――」
「そう――ずいぶん昔ね」と、カンスタブル夫人は、しゃがれた一本調子の声で、息をつまらせた。巨大な胸が荒海のように波打った。
エラリーとマクリン判事は意味ありげに目配《めくば》せした。そのとき、モリー警視が大股で、パティオからもどって来た。重いどた靴が、みがかれた床にどすどす鳴った。「ねえ」と、ごく低い声でうなるように「マルコの衣類はお手上げです。あきらめものですよ。連中は、岬のまわりの、断崖の真下の、岩の近くの海をすっかりさらったんです。それに、地内を一寸きざみに調べ、付近の公園からハイウェイまで捜したんです。衣類なし、まるっきりなしです」警視は部下の報告が信じられないかのように、下唇をかみしめた。「もちろん、連中は二つの海水浴場も調べましたよ――岬の外の――一般遊泳場もね。それに、むろん、ウェアリングの地所もすっかり。あの辺の浜には見込みがあると思ったんです――もしやと思ってね。だが、紙くずと、弁当の空箱と、足あとだけが、ごまんとあっただけで、お目当てのものは、てんでなしです。どうも腑におちないな」
「実に妙だね」と、マクリン判事がつぶやいた。
「まだ、打つ手がひとつ残っています」と、モリーは、四角いあごを張った。「この高級ごみ箱はほじくり返されたくないだろうが、おかまいなしに、いつもどおりやるつもりですよ。きっと衣類はどこか邸の中にあるにちがいないです。ないとは言いきれませんからね」
「ここの、邸か」
「ええ」と、モリーは肩をすくめて「こっそりと部下に捜させているんです。裏口がありましてね、五、六人二階へ上がって、寝室を洗っています。ジョラムの小屋と、ガレージと、ボート・ハウスと、その他、外の建物はみんな調べました。見込みのありそうなものは、みんな拾いあげるように言ってあります」
「ほかに何か情報は?」と、エラリーが、さりげなく訊いた。
「何にもなしです。キャプテン・キッドという奴と、デーヴィッド・カマーの消息は、まだつかめません。船もみつかりません。沿岸警備艇が、目下捜査に当たっていますし、多くの地区警官が監視についています。うるさい事件記者どもを追っ払ったところですが、そこいらじゅうに、うろうろしてるんです。全部、閉め出してやりましたよ……この事件の重要手がかりとみて、手を打っておいたのは、ニューヨークのペンフィールドだけです」
「どんな手を打ったのかね」
「優秀な部下を調べにやりました。捜査令状も持たせてありますから、必要なら、ペンフィールドをしょっぴいて来るでしょう」
「わしの知っとるペンフィールドなら駄目だな」と、マクリン判事が、苦々しく「奴は、とてもずるがしこい弁護士だよ、警視、とても手におえんだろうな。奴が来る気にならないかぎり、しょっぴくわけにはいかんだろう。来ることが、奴の目的に役立つと思うか、少しでも面倒がさけられると思えば来るかもしれんがな。まあ、運賦天賦《うんぷてんぷ》だな」
「いまいましいな」と、モリーが唸《うな》って「さあ、マルコの部屋へ行ってみましょう」
「先へ行ってくれ、テイラー」と、エラリーは、小男に微笑して「ほかの人はみんなここで待ってていただきます」
「私がですか」と、部屋男は、くっきりした細い眉をあげて、つぶやいた。
「うん、そうだよ」
気むずかしい顔をした警視について行くテイラーに続いて、二人も居間を出た。黙りこくった皆の顔が、背後に消えた。居間からの廊下が広々した階段に出たとき、テイラーは警視にうなずいて見せ、会釈して二階へ上がっていった。
「どうかね」と、マクリン判事が、鉛のように重い足を上げ下げしながら階段を上がる途中で、そっと訊いた。その瞬間、二人は昨夜眠らなかったことを思い出した。すると、急に、疲れがこみ上げて来た。階段を上がるのが、とてもしんどかった。
エラリーはかたく口を閉め、寝不足で少し充血しているまぶたの下で目を光らせた。「実に妙な情況ですよ」と、低い声で「しかし、筋道は、どうやら辿《たど》れそうです」
「君の言うのがマン夫婦と、カンスタブル夫人に関係があるらしいということなら――」
「あの連中をどう思いますか」
「人物としては、大したこともないな。マンは、今朝のローザの話や、わしの観察したところからみて、危険なタイプだ。野人で、頑健だし、こわいものなしだし、その上、明らかに暴力にはなじみのある生活をしてきている。しかし、それらの点をのぞいては、謎だな。あの細君は……」と、判事は吐息して「ごくありふれたタイプだが、どんな平凡なタイプでも、何をしでかすか分からんことが多いからな。あの女は扱いにくくて、安っぽくて、欲ばりで、マンと結婚したのも、あの男の肉体的魅力もさりながら、金が目当てだったにちがいない。亭主の鼻先で色ごとをやりかねないだろうよ……カンスタブル夫人は――少なくとも、わしには――つかまえどころがないよ。ぜんぜん、見当もつかん」
「そうですかね」
「あれは、見たところ中流階級の上の部の中年女だ。きっと、大きくなっておそらく結婚している子供たちもある良妻賢母だよ。ローザ・ゴッドフリーの証言とは違うが、四十はとうにすぎているだろうな。あの女には意見してやるべきだな、エラリー。あの女はこんな場所にいるべきじゃない――」
「しかも、典型的なアメリカ女性ですよ」と、エラリーが静かに言った。「パリの大通りのカフェのテーブルごしに、体格のいい腰の細い若い伊達男《だておとこ》どもを、ながし目で見ているというやつですよ」
「それには気がつかなかったな」と、判事は低い声で「なるほど、そのとおりかもしれん。すると、君は、あの女とマルコとが――」
「妙な家《うち》ですし」と、エラリーが「妙な人間が集まっていますね。一番妙なのは、マン夫妻とカンスタブル夫人がいることですよ」
「君も、そう思うんだな」と、老判事が早口でささやいた。「あの女は嘘をついている――みんな嘘をついている――」
「もちろんです」と、エラリーは肩をすくめ、立ちどまってたばこをつけた。「いろいろなことが分かってくるでしょう」と、煙を吐きながら言った。「ゴッドフリー夫人が、三人の奇妙な客を、夏別荘に招待した理由が分かればね」一同は階段を登りきって、広い、ひっそりした廊下に出た。「そして、なぜ」と、エラリーは、すぐ前を、厚い絨毯《じゅうたん》の上をちょこちょこと歩いて行くテイラーの本当に小さな背を見ながら、妙な口調で続けた。「三人の赤の他人どもが、見たところ、少しの疑念も抱かずに、ゴッドフリー夫人の招待を受けたかが分かればね」
[#改ページ]
六章 主役はなんと意固地者《いこじもの》
「そりゃ、社交的野心のためだろうよ――少なくとも、君のいう疑問のあとの半分は――」と、判事が意見をのべた。
「そうかもしれませんが、そうでないかもしれませんよ」と、エラリーは、言いかけて「どうしたんだね、テイラー」
モリー警視の前を行く小男は、立ちどまって、マニキュアのしてある手で、すべっこいおでこを、たたいた。
「おい、いったい、何を気にしとるんだ」と、モリーが、どなった。
テイラーは、困った様子で「申し訳ありません。ついうっかり忘れておりました」
「忘れてた? 何を?」と、エラリーは、すばやく、ひと足のり出した。判事もつづいた。
「置手紙です」と、テイラーは、おどおどと目を伏せて「うっかりしてたんです。本当に申し訳ありません」
「置手紙」と、モリーは声をとがらして、いきなりテイラーの小さな肩をわしづかみにした。「どんな置手紙だ? 何を言っとるんだ」
「申しかねますが旦那さま」と、テイラーは泣き笑いしながら、警視の手から、どうにか身をもぎはなした。「痛とうございます……もちろん、昨夜、私が庭をぶらついて戻りましたら、部屋に置いてあった手紙のことでございます」
テイラーは廊下の壁によりかかって、前に立ちはだかる三人の大男にわびる小人のように、じっと見上げた。
「そりゃあ」と、エラリーがせきこんで「ちょっとしたニュースだ。テイラー、君は旱天《かんてん》の慈雨《じう》だよ。助かった。はっきりいって、どんな置手紙だね。君ほどの――その――達人なら、われわれが必ず興味を持ちそうな、こまかい点まで見のがさなかっただろうな」
「はい、旦那さま」と、テイラーは低い声で「おっしゃるとおり私は――その――こまかい点まで、見とどけました。そうして、おどろきましたのです。そう申しましては、おこがましいのですが、なんだか変だと気がつきました」テイラーは薄い唇をなめて、ひと息つき、一同の顔色をうかがった。
「おい、おい、テイラー」と、判事はいら立って「君あてだったのかい。君がこの件を持ち出したからには、きっと、何か重要なことが書いてあったか、このいまわしい事件に何か関係があるものだろうな」
「重要なことか、関係のあることかとおっしゃられると」と、部屋男は小声で「残念ながら私にはなんとも申しかねます。なにしろその置手紙は私あてではございませんでしたので。ただ、私が言い出しましたのは、その宛名が――ジョン・マルコさまだったからでございます」
「マルコか」と、警視が大声で「じゃ、いったい何のために、それがお前の部屋に置いてあったのだ」
「さっぱり分かりませんのです、旦那さま。しかし、一応事情を申し上げますから、ご自由に判断なさっていただきたいのです。私がお邸へもどりましたのは、九時半ごろでございました――一階の用人棟に私の部屋がございます――それで私はまっすぐに部屋にはいりました。すると、その置手紙が、いやでも目につくように、私の給仕服の内ポケットの外側に、ごく普通のピンでとめてあったのでございます。ご承知のように、夜の九時半ごろには、給仕服に着かえて、お泊りのお客さま方が、何かのご用で二階へ上がられるのをお待ちして、お望みの方にはお飲物をお給仕することになっているのでございます。もちろん、一階では執事さんがそのようなお給仕をするのでございます。それで、私は――」
「ここのしきたりなんだね、テイラー」と、エラリーが、ゆっくり訊いた。
「さようです。こちらへ上がってからずっと、奥さまのお指図で、そうしてまいりました」
「家の人はみんなそのしきたりを知っていたかね」
「はい、ごぞんじでした。新しいお客さま方が、お着きになると、すぐそのことをお報せするのが私の役目でございました」
「すると、夜の九時半より前には、君は給仕服を着ないんだね」
「はい。それまでは、ご覧のとおり、黒い服でおります」
「ふうん。面白いな……さあ、それから、テイラー」
テイラーは会釈《えしゃく》して「はい。先を申し上げます。当然、私は置手紙のピンをはずしまして――封筒にはいっておりましたが――宛名を見ました――」
「宛名か。すばらしいぞ、テイラー。中に手紙があることが、どうして分かったかね。まさか、封をひらいたわけじゃあるまい」
「手ざわりで分かりました」と、テイラーは口重く「お邸の用箋でございました――少なくとも封筒はお邸のものでございました。タイプしてあった文字は≪ジョン・マルコさま。親展。重要。内密に渡すこと。今夜≫とありました。間違いございません。はっきりおぼえております。≪今夜≫という字には下に線がひいてあって、大文字でした」
「見当がつかんだろうな」と、判事は眉をよせて「その置手紙は、およそ何時ごろ君の給仕服にピンでとめられたものか、テイラー」
「見当がつくと思います」と、このおどろくべき小男はすぐに言った。「はい、たしか、奥さまとお客さま方が夕食をなさったあとでございます――すぐあとのことでございます――たまたまそのとき、私は部屋へもどりまして、押入れをのぞきましたのです。偶然、押入れの中の給仕服にさわりましたら、ぱっと前がひらきましたのです。まったくの偶然と申せましょう。もし置手紙があれば、きっと気がついたにちがいありません」
「夕食は何時に終ったかね」と、モリーが訊いた。
「七時半ちょっと過ぎでございました。三十五分ごろでしたろうか」
「そのすぐあとで部屋を出たんだね」
「はい。それから九時半に、置手紙をみつけるまで、部屋には戻りませんでした」
「すると、手紙が置かれたのは」と、エラリーがつぶやいた。「ほぼ、八時十五分前から、九時半の間だな。誰が、何時に、ブリッジ・テーブルから離れたかが、正確に分からんのは、まずいな……それから、テイラー、君はどうした?」
「私は置手紙を持って、マルコさまを探しに参りました。しかし、見ますと、マルコさまは居間でブリッジをしていらっしゃるので――さきほど申し上げましたのでごぞんじのようにあの方はテラスから戻られたばかりでした――私は封筒に指定してあったことを守って、内密にお会いできるまで待つことにいたしました。私はパティオをぶらついて、待っておりました。するうちに、ブリッジの途中だと思いますが、あの方が宣言者《ダミー》だったのでございましょう、息抜きに出て来られました。私は、すぐ手紙をお渡しいたしました。あの方はお読みになるとすぐ、顔色をお変えになって、目に意地の悪い微笑をうかべられました。それから、もう一度読み直されて、ちょっと――」テイラーは、うまい言葉をさがすように――「ちょっと、腑におちないようなお顔をされました。それから、肩をしゃくって、お札を一枚放ってくださいました。そうして――その――この手紙のことはだれにも言うなと口止めなさいました。それから、ブリッジにお戻りになりました。私は二階に引返して、ポータブル・バー〔酒をのせた給仕用台車〕のそばで、紳士方をお待ちしました」
「マルコは手紙をどうしたね」と、警視が訊いた。
「まるめて、上着のポケットに、突っ込まれました」
「だから、ブリッジを止めたくてじりじりしていたんだな」と、エラリーが、つぶやいた。「結構だった、テイラー。君がいなければ、お手上げだったよ」
「恐れ入ります。本当にご親切さまに。これでよろしゅうございましょうか」
「そうはいかんぞ」と、モリーが、きびしく「マルコの部屋へついて来るんだ、テイラー。もっといろんなことが出てくるような気がするぞ」
私服がひとり、廊下の東のつき当たりのドアに立てかけた椅子に、足をかけていた。
「何かあったか? ラウシュ」と警視が訊いた。
私服は廊下のはしに開け放してある窓から、つまらなそうに、つばをとばして、首を振った。「ひっそり閑《かん》ですよ、警視。みんな近寄らないようにしてます」
「いい心がけだ」と、モリーは、ぶっきら棒に「どいてくれ、ラウシュ。マルコのねぐらを見たいんだ」警視はノブをまわしてドアを押しあけた。
階下の凝《こ》った居間をみて、心構えはできていたはずだった。とは言うものの、スペイン岬の客間なるものを見て、一同は舌をまいた。王さまの寝室と言ってもよかった。スペイン式の粋をこらしてあって、申し分のない気品を持っていた――くすんだ材と、鉄金具と、原色をほどこした時代ものの気品だった。寝台は、巨大な四本柱に支えられる堂々たる天蓋《てんがい》つきで、ずっしりしたつづれ織の緞帳《どんちょう》がたれていた。柱、寝台、書きもの机、椅子、箪笥《たんす》、テーブルのすべてに、こまかな彫刻がほどこしてあった。ろうそくそっくりに作ったガラスと、鉄金具と鎖の大きな器具が、天井の照明にとりつけられていた。二本のお化けのようなろうそくが、みごとな鉄の燭台《しょくだい》にさして、箪笥の上に置かれていた。火焼けの具合《ぐあい》からみて、かなり長く使いこまれたらしい石造の火床が、一本の丸木を刻んで作った巨大なマントルピースを支えていた。
「ゴッドフリー老ご自慢のものらしいな」と、エラリーは、つぶやきながら、部屋にはいった。「しかも何のためにだ。自分だけは、浮世ばなれをしたつもりで、あらゆる厄介ごとを宿主まかせにしている、はっきり歓迎したくない客どものためにじゃないか。少なくとも、手前勝手なマルコに対してはそう言っていい。それにしても、このすばらしい道具立ての中では、マルコもさぞひき立ったことだろう。あいつは死骸になっても、どこかスペイン人らしいからな。スペイン風の長ズボンと胴着をつけたら……」
「地下六フィートに埋めれば、もっと似合うでしょうよ」と、モリー警視が、むっとして「クイーン君、ひまつぶしはよしましょう。ラウシュの報告だと、女中どもに聞いてみたら、今日は、だれもこの部屋に手を触れていないそうです。われわれがあんまり早く駈けつけたので、連中には手を触れるひまがなかったのです。それに、ラウシュが、七時十五分前から、このドアのそばに張り込んでいたんです。だから、この部屋は、昨夜、マルコがブリッジを終えて戻って来たままのはずです」
「夜のうちに、誰かが押し入らなければね」とマクリン判事が、心配そうに注意した。「どうも、あやしいね――」判事は進み出て、ベッドのほうへ細長い首をのばした。ベッド掛けは、とりのけられて、見当たらなかったし、シーツと、はなやかな文字模様の掛けぶとんの角がめくって折ってあった。――明らかに前の晩、お客の寝る支度を女中がしたのだ。しかし、大きな四角い枕は、ふっくらとして、押しつぶされたあともないし、天蓋《てんがい》の下には人間の体が横たわった形跡がなかった。掛けぶとんの上には、少ししわになった白い麻服と、白のワイシャツと、牡蛎色《かきいろ》のネクタイと、ツーピースの下着と、しわくちゃのハンカチと、一足の白い絹靴下が、無造作になげ出してあった。明らかに全部、一度は使ったものだ。ベッドのそばの床に、白いカーフスキンの靴が一足あった。「これはみんな、昨夜、マルコが着けていた衣裳かね、テイラー」と、老判事が訊いた。
あけ放しの戸口に静かに立っていた小柄な部屋男は、ラウシュ刑事が、ちょっとおどろいている鼻先に、ぴしゃりとドアをしめて、マクリン判事のそばへ近づいた。そして、取り散らした衣類と、靴とをのぞき込んだ。やがて、謎のような目を上げて、うやうやしく「はい、さようでございます」
「何か、なくなっていないか」と、モリーが訊いた。
「いいえ。ただ、たぶん」と、テイラーは、ちょっと黙りこんでから、改まった口ぶりで「ポケットの中のものが。時計がございました――蛍光文字盤で、ホワイト・ゴールド、十七石のエルジンですが――見えないようでございます。それに、マルコさまの札入れと、シガレット・ケースも見当たりませんです」
モリーは、いやいや感心するように、テイラーを見つめて「気が利く奴だな。テイラー、探偵の仕事がしたかったらいつでも、わしのところへ来い。ところで、クイーン君、どう思いますかね」
エラリーは、さりげなく白いズボンをつまみ上げ、無造作にベッドに放り出して、肩をすくめた。「どう考えたらいいかな」
「いいか」と判事が、やけぎみに「われわれは、まる裸の男をみつけた。そして今、そいつが昨夜、着ていた衣類をみつけたんだ、考えるまでもないことだ。たしかに、奇妙な、下品な結論だとは思うが、昨夜、あの男が、裸で、あのいやらしいマントだけを着て、テラスに行ったと見るよりしようがないだろう」
「ばからしい」と、モリー警視が、きっぱり言った。「こりゃ失礼、判事さん。しかし、いったいなぜ、部下に命じて、奴の衣類を求めて屋敷中を探させているか考えないんですか。もしあなたのように考えるんなら、この部屋をまっ先に捜してましたよ」
「皆さん、皆さん」と、エラリーは、なげすてた衣類から目を放さずに、くすくす笑いながら「お見受けしたところ、ソロン殿、あなたは、いまひとつの可能性には考えつかなかったようですね。それも奇怪な考え方ですが、つまり、犯人はここでマルコを殺して、裸にし、それから人目の多い邸の中を抜けて、テラスまで死体をかついで行ったという可能性です。まあ、まあ、判事、警視が言うとおりですよ。説明はそれよりもずっと簡単で、たぶん、これまでのように、テイラーがしてくれるでしょう。なあ、テイラー」
「できるとぞんじます」と、テイラーは目を光らせてエラリーを見つめながら、丁寧《ていねい》に言った。
「そらね」と、エラリーはゆっくり言った。「テイラーはなんでも知っている。マルコは昨夜、この部屋に戻って服を脱ぎ、すぐ、すっかり別の服に着換えたんだろう」
マクリン判事は顔を伏せた。「年のせいで、ぼけたらしい。まいったな。裸死体にひっかかったのだ。もちろん、そのとおりだろう」
「さようでございます」と、テイラーが言って、重々しくうなずいた。「ごぞんじのように、私には小部屋みたいなものがございます――食器室のようなものですが――それはホールの西の突き当たりにありまして、夜分おそく、紳士方が寝《やす》まれるまでそこに控えております。たしか、十二時十五分前にブザーが鳴りまして――ブザーのボタンはそのベッドのわきにございますよ、モリー警視さま――私はマルコさまの部屋へ呼ばれました」
「あの男が、ブリッジを終えて、二階へ上がったころだな」と、モリーがつぶやいた。モリーはベッドのそばに立って、取り散らした白い衣類を調べていたが、何ひとつ見つからなかった。
「たしかにさようです。マルコさまは、私がこの部屋にはいったとき、その白い服を脱いでいらっしゃいました。顔を赤くして、いらいらしているご様子でした。あの方は――その――私を、≪うすのろ奴≫と口ぎたなくどなりつけて、ダブルのウィスキー・ソーダを持って来て、ほかの服を揃えろとおっしゃいました」
「君にどなったんだな」と、警視は静かに言った。「それから」
「私はウィスキー・ソーダを持ってまいりまして、それから、あの方がそれを――その――あおっておられる間に、お指図の衣類をととのえました」
「でその衣類は?」とエラリーが気短に「おい、テイラー、くそっ丁寧に言うな。のんびりするひまはないんだよ」
「はい。その衣類は」と、テイラーはひと息いれて、眉をつり上げた。「オックスフォード・グレーのダブルで、チョッキつきの服と、先のとがったオックスフォード型の黒靴。カラーつきの白ワイシャツ。ダーク・グレーのネクタイ。新しいツーピースの下着ひとそろい。絹の黒い靴下。黒い靴下どめ。黒いズボンつり。胸ポケットに入れるグレーの絹のかざりハンカチ。黒いフェルトの中折。黒檀《こくたん》の重いステッキ。それと、正装用の黒い長いオペラ・マントでございました」
「ちょっと待て、テイラー。前から、あのマントのことを聞こうと思っていたんだ。あいつは、昨夜、どうしてマントを着たのか、分からんかな。かなり変な服装だからな」
「まったくでございます。しかし、マルコさまはちょっと変った方でした。あの方のお好みは……」と、テイラーはつやつやした小さな黒い頭を悲しげに振って「ほかの衣類と一緒にマントを出せといわれたとき、寒い晩だとかなんとか、つぶやかれたようでした。本当に肌寒うございました。そして、それから――」
「外出するつもりだったんだな」
「むろん、はっきりとは申せませんが、そうお見受けいたしました」
「いつも、そんなに夜おそく着換えをするのか」
「おお、いいえ。本当にめずらしいことでした。とにかく、私がお召物をそろえているあいだに、あの方は、そこのバス・ルームにはいって、シャワーを浴びられました。スリッパと部屋着姿で出てこられたときには、きれいにひげをそり、髪にくしを入れて――」
「いったい、真夜中にどこへ行くつもりだったんだろうな」と、モリー警視が大声で「おめかしする時刻じゃないぞ」
「さようです」とテイラーは低い声で「はっきりとは申せませんが、ご婦人に会う支度をなさっていたのは、まちがいないと思います。なにぶん――」
「ご婦人!」と、判事が叫んだ。「どうして分かる?」
「お顔に書いてありました。それに、シャツのカラーのちょっとしたしわを――おお、ほんのちょっとしたしわを――とても気にされていました。あの方はいつも――その――特別な婦人に会われるために、着付けをなさるときは――そんなふうになさいました。実際、私を頭ごなしになさって――ええ、まったく――」テイラーも、今度は適当な言葉が見つからなかったらしい。妙な表情が目にうかんだが、ほとんどすぐ消えた。
エラリーはじっと見つめていた。「君は、マルコ君が好きでなかったのだろう、テイラー」
テイラーは、ふたたび落ちついて、申しわけなさそうに微笑しながら「そこまで申すべきではございませんが――気むずかしい方《かた》でした。とてもむずかしい方で、その上、なにぶんにも、風采《ふうさい》に気をお使いになりすぎると、申してもよろしいでしょう。いつも、浴室の鏡で、顔をあっちへ向けたり、こっちへ向けたりして、十五分から三十分も、お調べになるのです。まるで毛穴のひとつひとつがきれいになっているか、右の横顔が、本当に左の横顔より、人目をひくかどうかをためしてごらんになるようでした。そうして――そのう――全身に香水をつけられるのです」
「香水をつける!」と、判事が、あきれて叫んだ。
「あきれたな、テイラー、まったく、あきれたもんだ」とエラリーが微笑しながら「ぼくの特異性を、君に論評されたくないもんだな。部屋男の観察――驚くにたえたりだな。ところで、あの男がバス・ルームから出たとき、どうしたって?……」
「ふん。女か」と、モリーは別のことを考えながら、つぶやいた。
「はい。バス・ルームからシャワーをすませてお出になったとき、私は、ポケットの中のものをとり出しておりました――小銭と、時計と、札入れと、シガレット・ケースと、小物類で、さっき申し上げたとおりです。もちろん、それらを黒い服へ移すつもりでいたのでございます。ところが、つまり――そのう――カラーにしわがよっているのをおこられたあと、すぐ――私にとびかかって、白い上着をひったくられたのです。たしかに、≪うすのろ奴≫と、どなられました。それから、ぷりぷりなさって、自分で着るからいい、部屋から出て行けと言われました」
「そういうわけか」と、モリーが言いかけるのを、エラリーがとめて「それだけじゃあるまい」と、考えこみながら、小男を見つめた。「あの男が特にいら立つ理由が、ほかにあったと思うかねテイラー。服のポケットに、何か――そう――内密のものを見つけたかね」
テイラーは、勢いよくうなずいた。「はい、さようです。あの置手紙がありました」
「ああ、それで君を部屋から追い出したんだな」
「そうだと思います」と、テイラーは、ため息をついた。「まったく、そうにちがいないと思います。と申しますのは、私がドアのほうへ行ったとき、あの方が、置手紙を封筒ごと破って、そこの暖炉へなげこむのが見えました。その暖炉は夕方早目に、ちょっとたきつけておいたのでございます」
三人の大男はいっせいに、期待で目を光らせながら、暖炉にかけよった。テイラーは、その場に立ったまま、かしこまって見守っていた。みんなが、ひざまずいて火床の中の冷えた灰の小さな山をかきまわし始めたとき、テイラーは、せき払いをし、目をぱちぱちして、ゆっくりと部屋のつき当たりの大きな衣裳戸棚へ歩みよった。そして戸をあけて、内側を探しはじめた。
「大しためっけもんですよ、もしも――」と、モリーが、つぶやいた。
「気をつけて」と、エラリーが大声で「まだ脈がありますよ――ほんの一部分が焼けただけでも、もろくはなっているでしょうからね……」
五分後には、三人はしかめ面で灰まみれの手をはたいていた。何も見つからなかった。
「すっかり燃えちまったな」と、警視がぶりぶりした。「大しためっけものだったのになあ、畜生奴――」
「待てよ」と、エラリーは、すっくと立って、すばやくあたりを見まわした。「火床の中の灰は、紙の燃えかすとは思えないな。たしかに、燃したにしては分量がたりない……」と、言いかけて、テイラーを、鋭くにらんだ。小男は落ちついて戸棚の戸を閉めていた。「何をしてる? テイラー」
「あの、マルコさまの衣裳棚を調べてましたのです」と、テイラーが、丁寧に答えた。「ついさっき、数え上げました衣類のほかに、何かなくなっているものがあれば、お知りになりたいだろうと、思いつきましたので」
エラリーは、口あんぐりのていで、テイラーを見つめ、やがて、くすくす笑い出した。「テイラー、君を抱いてやりたいな。われわれは大仲よしになれそうだ。ところで、何かなくなっているかい」
「いいえ」と、テイラーは残念そうに言った。
「たしかかい」
「たしかです。そりゃもう、マルコさまの衣裳なら、すみずみまでよくぞんじております。もしよろしければ、私が化粧箪笥を調べてみますけれど――」
「そりゃ思いつきだ。やってみてくれ」と、エラリーは言って、まだ何かを探すように、ふたたび部屋を見廻した。その間に、テイラーは――おだやかな小さな顔に満足のえみをうかべて――細かく彫刻のしてある化粧箪笥に近づき、ひき出しをあけた。モリー警視は、監視するために、こっそり歩みよった。
エラリーとマクリン判事は、ちらっと目配《めくば》せして、ものも言わずに、別々になり、手分けして寝室を捜査し始めた。一同は黙って仕事を続けた。聞こえる物音は、引出しのあけたてだけだった。
「何もございません」と、やがてテイラーが、化粧箪笥の一番下の引出しを閉めながら、しょんぼりと言った。「ここにあるはずのないものは何もございませんし、何もなくなっておりません。お気の毒でございます」
「自分のせいみたいに言うじゃないか」と、エラリーはゆっくり言いながら、開け放ちのバス・ルームに歩みよった。「だが、いい思いつきだったよ、テイラー」と、エラリーは、浴室に姿を消した。
「くずばかりだ、手紙なんかないぞ」と、モリーが、いまいましそうに「奴は、よほど用心深かったんだな。畜生、これまでか――」
エラリーの妙に冷たい声が、警視の言葉をさえぎった。一同が振り向くと、エラリーは浴室の戸口に、いかめしくすっくと立っていた。そして、テイラーの無表情な顔をにらみながら、抑揚《よくよう》のない、ぶっきら棒な声で「テイラー」と言った。
「はい旦那さま?」と、小男はもの問いたげに眉をあげた。
「うそをついたね。マルコに渡した手紙の中身を読まなかったなんて。どうだ?」
テイラーの目がちょっと光り、耳たぼが、だんだん、赤らんだ。「なんとおっしゃいましたのですか」と、静かに訊いた。
二人の目がからみ合った。やがて、エラリーが、ため息をして「そう言いたいのはこっちだ。だが、どうしても知らねばならんよ。昨夜、マルコに追い出されたあとでまた君はこの部屋にもどらなかったかい」
「もどりませんでした」と、相変らず静かな声で部屋男が答えた。
「寝に行ったのか」
「さようです。まず、食器部屋にもどって、ほかの方のお呼びがないかをたしかめました。なにぶん、まだほかにもマンさま、コートさまもおられますし、カマーさまもおいでのことと思っていました。あの時は、カマーさまがさらわれたのは知りませんでした。とにかく、何もご用がないので、私は階下の使用人部屋に下りて寝《やす》みました」
「マルコの命令で、君がこの部屋を出たのは何時かね」
「ほとんど、かっきり十二時だったと思います」
エラリーは、また吐息をついて、モリー警視とマクリン判事のほうへ頭で合図した。けげんそうに、二人が近づいて来た。
「ところで、君は、マンさんと、あとからマン夫人が、この階のふたりの寝室に行くのを見かけたろうね」
「マンさまのほうは、十一時半ごろでした。しかし奥さまのほうはお見かけしませんでした」
「そうか」エラリーは片わきに寄って「みなさん、そこに」と、さりげなく言った。「探している手紙がありますよ」
最初に、みんなの目についたのは、洗面台のふちにちらかしてあるひげそり道具だった――白くかわいた石鹸の泡がこびりついている刷毛、ローションのみどり色の小びん、シェービング・パウダーのかんなどだった。しかし、エラリーの親指の合図で、はいってみると、ふたをしたトイレット・シートの上に、手紙が置いてあった。
クリーム色の紙の小さなきれっぱしで――テラスの丸テーブルの上にあったのと同じ種類の用箋だった。ぼろぼろのこまかいきれっぱしは、みんなしわくちゃで、ほとんどはじがこげていて、一部は――紙の四角にすき間ができているところを見ると――なくなっているらしい。紙きれは、明らかに暖炉からひろい上げた誰かが、骨を折って破られたはしとはしとを合わせて、つないでみたものだった。
もうひとかたまりのクリーム色の紙きれが、トイレット・ボールのそばの、タイルの床にちらばっていた。
「床の上のは放っときなさい」と、エラリーが指図した。「封筒の切れっぱしで、ひどくこげています。手紙を読みなさい」
「君が、つなぎ合わせたのか」と、判事が訊いた。
「ぼくが?」と、エラリーは肩をすくめて「ぼくが見つけたままです」
年上の二人は、トイレット・ボールの上に、かがみこんだ。文面は、断片的だったが、それでも、驚くほどはっきり読めた。
日付も、前書きもなかった。文面はタイプしたもので、残っている読める部分は――
――晩、一―に――ラスで、私に会――い。とても大事――お目にかからな――きりで。私も――りで、まいります。どう――がいです、お忘――で。
ローザ
「ローザか」と、判事が口ごもって「まさか――信じられん。そんなはずがない――もちろん、物理的に不可能じゃないか」
「妙だ」と、モリー警視がつぶやいた。「実に妙だ。事件全体が、ひんまがっとる」
「理解できんな――おかしい」
「うんざりするな」と、エラリーが、そっけなく、言いたして「少なくとも、マルコはこの手紙どおりに受けとったのだろう。だから、この指示にしたがって、まっしぐらに、所謂《いわゆる》死の腕にとびこんでしまったんでしょうよ」
「これに、因果関係があると思うかね」と、判事が訊いた。「手紙がマルコを死にみちびいたと」
「それは楽に断定できますね」
「はっきりしているようだな」と、老判事は眉をしかめて「≪今夜一時にテラスで私に会って下さい。とても――≫――そうか、そうか――≪とても大事なことです。お目にかからなければ――≫――たぶん――≪ふたりきりで。私も――≫――ここは、そうか――≪ひとりで行きます≫まずこうなるな。あとは分かりいい≪どうぞ、おねがいです。お忘れにならないで、ローザ≫」
「ご当人の令嬢がいるんだ」と、警視は、ドアのほうへ歩きながら、不機嫌に「さっそく話してみたいな」と言って、ゆっくりふり向いた。「待てよ、ちょっと気がついたが。いったい誰がこの紙っきれを集めたんだろう。テイラーかもしれないな。もしも――」
「テイラーは正直に話しています」と、エラリーは、夢中になって、鼻眼鏡のレンズを、みがいていた。「たしかです。しかも、もし紙きれを集めたのがテイラーなら、見つかるようなところへ、そのままにしておくほど馬鹿じゃないでしょうよ。あの男は頭のきれる紳士だ。ちがう、ちがう。テイラーは放っときなさい。それより、昨夜マルコが致命的なランデブーに出かけたあとで、誰かがここに忍びこんで、暖炉から紙きれを拾いだして――きっと、火が弱かったので、ひどく興奮していたらしいマルコの気づかないうちに消えてしまったのでしょう――このバス・ルームへ持って来て、よりわけ、封筒の切れっぱしは不要だから捨てて、手紙の部分だけの断片を丹念によせ集めたのでしょう」
「なぜバス・ルームでやったか?」と、モリーがうなるように「その点もくさいな」
エラリーは肩をすくめて「その点は大して重要ではないでしょうよ。たぶん手紙を復元する間、ひとりきりでいられるからでしょう――ふいの邪魔がはいるのを防ぐために」エラリーは、財布からパラピン封筒をとり出して、手紙の断片を、ていねいに入れた。「これは必要になりますよ警視。もちろん、ちょっとお借りするだけです」
「署名も」と、マクリン判事が、いままでの考えの筋道を見失ったかのように、つぶやいた。「タイプだね。とすると――」
エラリーは、浴室のドアに歩みよって「テイラー」と、おだやかに呼んだ。
小男は、もとのままの場所に、かしこまって立っていた。
「はい」
エラリーは、ぶらりと近より、シガレット・ケースを出して、ぱちりと開けて「つけないか」と、すすめた。
テイラーはびっくりしたらしく「おお、いえ、いただかないことにしておりますので」
「へえ! そうかい。いかにも君らしいな」エラリーは一本、口にくわえた。浴室の戸口で二人の老人どもが、黙って不思議そうに眺めていた。テイラーは、服のどこかからマッチを出して、すって、さりげなくエラリーのたばこの先へ差し出した。「ありがとう。なあ、テイラー君」と、エラリーは、うまそうに煙を吐きながら「君はこの事件には、とても貴重な人物だった。君がいなかったら、どうしていいか分からなかったろうよ」
「おそれいります。正義は行なわれるべきでございます」
「そのとおりだ、ところで、邸の中にタイプライターがあるかね」
テイラーはまばたきして「あるとぞんじます。書斎に」
「それひとつかね」
「はい。なにぶん、ご主人さまは夏の間は、普通のお取引きのようなことはいっさいなさいませんので、秘書でさえおそばに置かれません。そのタイプライターも、ほとんどお使いになりません」
「ふうん……もちろん、テイラー、君に指摘するまでもないが、君にも不審な点が一、二ある」
「本当でございますか」
「本当さ。例えば、マルコを消した人類の恩人――これはゴッドフリー氏の言葉だが――その人物をのぞけば、生きているマルコを最後に見たのは君らしい。まずいことだよ。ところで、もし本当にぼくらのほうに運がついていれば――」
「でも、ご運は」と、テイラーが両手を握りしめてつき出しながら、愛想よく「おつきになっていますよ」
「えっ?」と、エラリーはたばこをいきなり下におろした。
「それがです。私が生前のマルコさまを最後にお見かけしたのではございません――つまり、犯人は別のことといたしまして」そう言って、テイラーは、せき払いして言葉を切り、恐縮したように目を伏せた。
モリーが急いで部屋を横切って来た。「呆れかえった奴だな」と、どなった。「お前から聞き出すのは、歯を抜くみたいだぞ。なぜ、さっき、それを言わん――」
「まあ、警視」と、エラリーが小声で「テイラーと、ぼくには通じてるんだが、こういう打明け話には、ある程度の――そのう――微妙な切り出しかたがいるんですよ。なあ、テイラー」
小男は、もう一度、今度は少し当惑げに、せき払いした。「お話してよろしいかどうか実は分かりかねますので。かなり微妙な立場だものでございますから――あなたさまがおっしゃるとおりの――」
「話すんだ、おい」と、警視がかみついた。
「この部屋から出るように、マルコさまから言われて、食器室へ引き取ろうとしておりましたときに」と、テイラーはけろりとして続けた。「どなたか階段を上がってくる足音を耳にいたしました。見ると、ご婦人が――」
「ご婦人かね、テイラー」と、エラリーはやさしく訊いて、目でモリーをおさえた。
「さようです。爪先立ちで廊下を、マルコさまのお部屋へ行かれ、すばやくはいられました――ノックもなさらずにです」
「ノックせずにか、へえー」と、判事は、おどろいて口もきけぬと言うように「すると、その女が――誰にしても――手紙の断片を暖炉からひろい出した人間だな」
「私はそうは思いませんです」と、テイラーが、申しわけなさそうに「マルコさまは、まだ、お召換えがすんでおりませんでしたので。すむはずがございませんよ。私が出ましてからほんの一分ほど経ったばかりでございましたもの。ですから、まだ寝室にいらっしゃったはずでございます。それに、何やら押し問答をしていらっしゃるのが聞こえました――」
「押し問答?」
「はい、さようです。とても荒いお言葉で――」
「たぶん」と、エラリーがおだやかに訊いた。「君の食器部屋は廊下の突き当たりだと言ったね、テイラー。君はマルコの部屋のドアで立ち聞きしたのか」
「とんでもない。でも、とても大声で話しておられたので――その時は。いやでも聞こえましたのです。やがて、静まりましたけれど」
モリーは、唇をかみしめて、大股で歩きまわり、首斬り役人の斧《おの》を持っていたらよかったかのように、テイラーのつやつやした小さい顔を睨みつけていた。
「そうか、そうか、テイラー」と、エラリーは心からの友情の微笑をこめて「で、こっそりと、マルコ氏のもとを訪れた、夜の客はだれかね」
テイラーは唇をなめて、はずかしそうに警視を見た。それから、ぞっとした表情で口をへの字に曲げた。「とても、ひどいお言葉で、マルコさまがとても大声でそのご婦人をののしられたとき――そのお言葉をはっきり覚えております。申し上げにくいのですが――≪このおせっかいの売女奴《ばいため》≫と言われました……」
「その女は誰だ」と、モリーが、もうがまんしかねるというふうで、がなった。
「ゴッドフリーの奥さまでございました」
[#改ページ]
七章 仁義《じんぎ》と殺人と婦人について
「はかどりますね」と、エラリー・クイーン氏は、夢みるように言った。「警視、鉱脈を掘り当てましたね。これも物知りテイラーのおかげですよ」
「おい」と、マクリン判事が息ごんで訊いた。「本当のことかい。ゴッドフリー夫人だったって。マルコが暴言をはいた――」
「それでふたりの話しは」と、エラリーはため息をついて「|ねんねえ《ヽヽヽヽ》の無邪気さについてだったんですよ。ソロン殿、あなたは、大法廷で居眠りするかわりに、家庭裁判所で二、三年過せばよかったですね」
「いったいぜんたい」と、モリーがやりきれなくなって「君は何を考えているんですか、クイーン君。ずっとこんなふうに、あなたのすることに差し出口をするのはいやだが、しかし、君――殺人犯を捜査してるんですよ。茶のみ話じゃないんですよ。はっきりと、ざっくばらんに話してください」
「テイラー」と、エラリーはきらりと目を光らせて言った。「君が人間という動物と、その行状について、すばらしい観察者だということは、よくわかった」エラリーは、ジョン・マルコのベッドに仰向けに寝ころんで、頭の後ろに手を組んだ。「女を罵るような男は、どんな奴かね」
「さようですなあ」と、テイラーは遠慮がちに咳払いしてつぶやいた。「たとえば、小説中の人物ならば、それは――そのう――ダシル・ハメットのようなタイプの男でございます」
「なるほど、内柔外剛《ないじゅうがいごう》というやつだね」
「さようでございます。毒舌、暴力の使用……」
「現実生活の話に限ろうじゃないか、テイラー。ところで、君は推理小説の愛好者らしいね」
「はい、さようでございます。あなたさまのお作も、たくさん拝見しております。それに――」
「ふーん」と、エラリーは、あわてて「その話はよそう。現実生活では、どうかね、テイラー」
「現実生活では」と、部屋男は、悲しそうにつぶやいた。「心のやさしいお方は、ほとんどおられません。もっぱら外剛の方ばかりでございます。口はばったいようでございますが、ご婦人を罵られる殿方には、おおむね二つのタイプがあるようでございます。徹底的な女ぎらいと、それから――ご亭主」
「うまい!」と、エラリーはベッドに起き直って「実にうまく言った。聞きましたか、判事さん。女ぎらいと、ご亭主か。大したもんだよ、テイラー、金言に近いね。いや、しまった、前言取り消しだ。万古不易の言だよ」
判事はくすくす笑わずにはいられなかった。しかし、モリー警視は、さじをなげたというように両手を上げて、エラリーを睨みながらドアのほうへ歩いて行った。
「ちょっと! 警視」と、エラリーはゆっくりと「これはむだ話じゃないんですよ」モリーは立ちどまって、のっそりと振り返った。「今までのところ、上出来だね、テイラー。ぼくらはジョン・マルコという名の紳士を心中にかいて哲学しているんだ。ほんの少し分析しただけで、あの男は君の言ったどちらのタイプにも、入らないことが分かる。故人について、知り得たところでは、あの男は慢性的女ぎらいとは正反対なタイプだ。奴は大した女好きだ。しかも、たしかに、あいつが昨夜大げさにどなりつけた特定な女性のご亭主ではない。それなのに、その女性を罵ったのだ。どんなわけだろうねえ?」
「さようですなあ」とテイラーが低い声で「しかし私にはどうも――」
「奴がゴッドフリー夫人といちゃついとったと言うつもりなら」と、警視がどなりつけた。「なぜ、そうと、はっきりした英語で言わんのだ!」
エラリーはベッドからはい出して、ぽんと手をたたいた。「ものごとの核心をつかむのは、老練な警官にかぎるな」と、声を立てて笑った。「そうです。そうですよ、警視、ぼくはそれを言おうとしていたんです。テイラー君、女をどなりつける男には、もう一種類ある、つまり、愛して、飽きた男だ。その男たちを――赤新聞や、小唄作者どもが≪情人《アマン》≫と呼ぶがね――実は≪愛の聖火≫にはぐくまれたくせに、やがて、その飼料に飽きてきた男どもさ。みじめだ! すると、愛は口先だけの時期にはいるんだ」
マクリン判事が怒って「まさか、マルコとゴッドフリー夫人のことじゃあるまいな――」
エラリーはため息をして「当て推量するのは、悪い習慣ですがね、微力な探偵には、ほかに何もしようがないですからね。あなたは、人を疑うことを知らぬ方ですが、われわれは事実に目をふさぐわけにはいきませんよ。ゴッドフリー夫人は、真夜中にマルコの部屋に忍びこんだのです。ノックもせずにね。スペイン風の客間に。いかに気がかりなことがあろうと、これは単なる女主人の行動ではありません。すぐその後で、マルコが声高《こわだか》に、言わでものことを言うなとばかり、夫人を罵《ののし》ったのです。これは単なる客人のおしゃべりではありませんよ……そうですとも、ラ・ロシュフーコーの言うとおり≪情人を愛せば愛すほど、きらいになっていくものだ≫でしょうね。マルコは、かつては美しいステラに大きな熱情を抱いていたからこそ、昨夜は、こっぴどく罵ったのでしょうよ」
「そうですね」と、モリーがすぐに賛成した。「二人の間には何かあったにちがいない。だが、君の考えでは、夫人が――」
「ぼくは、ド・スタール夫人と同じ考えです。恋愛は女性にとっては一生の歴史であり、男性にとってはエピソードにすぎない」と、エラリーは、静かに言った。「ところが、場合によっては、女性は真剣に愛情を殺そうとすることもありますからね。この場合、ぼくの思いすごしかもわかりませんが、しかし――」
ラウシュ刑事がドアを開けて、思い迫った声を出した。「飯らしいですよ、警視」
ステラ・ゴッドフリーが、戸口に姿を見せた。一同は、うわさの主がふいにあらわれたので、めんくらって、まぶしそうに夫人を見た。テイラーだけは、おずおずと床に目を伏せていた。
夫人はしゃんと立ち直って、顔の化粧を直し、折目だったハンカチを持っていた。一同は、それぞれ男心をそそられ、それぞれ、今さらながら、イヴの永遠の神秘に目ざめる思いだった。夫人は堂々として、しかも美しく、上品で、おっとりとして、ゆたかで、最上流階級の気品を身につけている女性だった。沈着そのもののような夫人を見ていると、彼女がみにくい恐怖の泥沼にもがき、古くさい愚行に身をゆだね、そのかぼそい上品な手が、つい最近、烈しく握りしめられたとは、とても思えなかった。夫人の人柄、容貌、物腰には、何か本質的に清浄なものがあった。清浄で、この世ならぬものが。
夫人は冷たく言った。「お邪魔してすみませんが、皆さん。お食事の支度をさせました。皆さんおなかがお空きでしょう。バーリーがご案内いたしますわ――」
こいつ食い物のことを考える余裕があったかと、マクリン判事は、ごくりとつばをのみ、顔をそむけた。エラリーは、マクベスの芝居のせりふらしい文句を、口の中でつぶやきながら、すぐ微笑した。
「奥さん――」と、モリーが、のどをしめられるような声で話しかけた。
「そりゃどうもご親切さまに」と、エラリーが、モリーのわき腹をつつきながら、うれしそうに言った。「実は、マクリン判事とぼくは、朝からずっと空腹で、そわそわしていたんですよ。なにしろ、昨夜から、何も食べていないもんですからね」
「家政婦のバーリーさんです」と、ステラ・ゴッドフリーは、静かに言って、道をあけた。
「はい、奥さま」と、つつましい声がして、夫人の後ろから、しゃちこばった、小柄な、古風な女が、姿を現わした。「どうぞ、皆さま、小食堂のほうへ、ご案内いたします――」
「そりゃどうも、バーリーさん、どうも。ところで、とんでもないことが起きたね」
「はい。さようでございます。怖ろしいことでございます」
「本当だね。君にも、なんとか手伝ってもらいたいんだがな」
「私がですか」と、バーリーは目を皿のようにして「おお、とんでもない。私はあの方をお見かけしてぞんじ上げているだけですもの。とてもそんな――」
「待ってください、奥さん」と、モリーがだしぬけに言ったので、背の高い日灼けした夫人が、きっとなった。
「行こうとしたのではございませんわ」と、夫人は眉を張って「お話しようとしていたのですが――」
「お話したいんです――いや、クイーン君、私流にやってみたいんだ。奥さん――」
「どうやら」と、エラリーは顔をしかめて「昼飯を少しのばしてもらわなくてはならんようですよ、バーリーさん。ぼくは当局の断固とした意図を見とどけますからね。ご馳走がさめないように、コックに言っといてください」バーリーはあいまいな微笑を浮かべて去った。「それから、テイラー君、ご苦労だった。君がいなかったら、どうなったか分からんよ」
部屋男はおじぎした。「これでよろしいんですか」
「ほかにかくしていることがなければね」
「何もございませんよ」と、テイラーは、うらめしそうに言って、ゴッドフリー夫人に、会釈《えしゃく》して姿をかくした。
日灼けした夫人は、急に氷りついたように、全身をかたくした。ただ、目だけは、室内を見まわしていたが、ベッドにちらかっている男の衣類や、乱雑な引出しや、戸棚を見て目をそらした。……モリー警視が、じろりと睨んだので、少したじろいだ。モリーはラウシュ刑事に目くばせして、ぴしゃりとドアを閉め、足で椅子を押しやって、夫人にすわるように合図した。
「なんでございましょうか」と、夫人はすわりながら、つぶやいた。唇が乾くらしく、舌の先でしめした。
「奥さん」と、モリーが、にがり切って「なぜすっかり話してくださらんのです。どうして事実をいわんのです?」
「おお」と、夫人はひと息入れて「何をおっしゃるのですか、警視さん」
「よく分かっとるでしょう」と、モリーは、思い入れよろしく、夫人の目の前を往ったり来たりした。「あんたらは、どんな事態に直面しとるか分からんのかね。生死の問題に際しては、ちっぽけな個人的な問題などなんですか? 殺人事件なんですぞ、奥さん――殺しですぞ」モリーは足をとめて、夫人を睨みつけながら、夫人の椅子の腕をにぎりしめた。「この州では殺人は電気椅子にかけるんですぞ、奥さん。人殺しは、人殺しは。これで分かったでしょうな」
「おっしゃることが分かりませんわ」と、夫人は頑固にくりかえした。「私をこわがらせようとしていらっしゃるんですか」
「分かりたくないんでしょう。あんたたちは、いいかげんな証言で事をこんがらがして、すましてしまおうと思っとるんですか」
「本当のことを申し上げたんですよ」と、夫人は低く言った。
「あんたの言ったことは大うそだ」と、モリーがまっ赤になって「スキャンダルがこわいんでしょう。ご主人がなんといわれるか、それが、こわいんでしょう、ご主人に知れたら――」
「スキャンダルですって?」と、夫人は口ごもった。夫人の防御力がだんだん弱まってきたようだった。やがて、心のなやみが顔に現われてきた。モリー警視は、ぐいっとあごを引いた。
「奥さん、昨夜の夜中に――マルコの――この部屋で何をしていましたか」
夫人の防御は、いっそう崩れた。ぽかんと口をあけ、青ざめた顔色で、警視を見つめた。「私――」と、夫人は顔を手で覆って、すすり泣きをはじめた。
エラリーはマルコのベッドに腰かけて、そっと、ため息をした。腹ぺこで眠かった。マクリン判事は、後手を組んで、窓のひとつのそばへ歩みよった。海は青く美しいなあと、思った。毎日毎日こんな海を眺めていたら、たいへんに幸福でいられる人間もいる。冬は目ざましい眺めだろう。波は下の断崖に打ちつけ、ひゅうひゅうと水しぶきを鳴らし、風に吹きとぶ水泡が頬をむち打つだろう……判事は目を細めた。はるか下方に、腰を曲げている男の姿が見えた。判事のいる所から見ると、いかにも小さく、ひねくれて、ちょこちょこしているように見えた。庭番のジョラムが、相変らず庭をいじっているのだった。やがて、破れた麦わら帽子をかぶった、ウォルター・ゴッドフリーのずんぐりした姿が、わきから現われてきた。まるで、太っちょのこぎたない下男みたいじゃないか、と、判事は思った。……ゴッドフリーはジョラムの肩に手をかけて、ぱくぱく口を動かした。ジョラムが見上げて、ちょっと微笑み、また草むしりをつづけた。マクリン判事は、二人の親密さと、暗黙の友情を感じて、少しいぶかしく思った。……億万長者は、咲きほこる花を調べるために、ひざをついた。その光景には、何か皮肉なものがあった。ウォルター・ゴッドフリーは、邸の中の連中よりも庭の花に、たえず注意しているらしいなと、判事は思った。誰かが、彼の鼻さきで、珍重している花を盗んだのに。
判事は、ため息をして、窓からはなれた。
モリー警視の態度ががらりと変わっていた。まるで父親のような思いやりをこめて「そりゃあ、まあ」と、ステラ・ゴッドフリーのすらりとした肩を軽くたたきながら、甘い低音で「辛いことは分かりますよ。とりわけ、赤の他人の前で、みとめるのはね。だが、クイーン君も、マクリン判事も、私も、ただの人間ではないんですよ、奥さん。いってみれば、まるっきり人間でさえない、つまり牧師みたいなもんですよ。それに、告白を聞いても、決して口外しないことは心得ていますよ。さあどうです――? 誰かに話せば胸がすっとするもんですよ」と言い、そっと肩をたたきつづけた。
エラリーはたばこにむせた。偽善者奴! と腹の中で笑いながらつぶやいた。
夫人は、ふと頭を上げた。頬の白粉《おしろい》に泪《なみだ》のあとが見え、目もと、口もとに、思いもよらぬしわがあらわれた。しかし、しっかり結んだ口もとは、もはや沈黙に耐えられなくなった女の表情というものではなかった。「よろしゅうございますわ」と、夫人はしっかりした声で「ごぞんじのようですから、否定はいたしますまい。おっしゃるとおり、私はここにおりました――あのひとと二人きりで――昨夜」
モリーは、これみよがしに肩をそびやかした。まるで≪どうだ腕前は?≫といわんばかりだった。エラリーは、その幅の広い背中を、やるせない気持ちで眺めていた。モリーは夫人の目色や口つきにまるで気がつかなかった。ステラ・ゴッドフリーは心の奥底で、新しい防御手段を見つけていた。「それでいい」と、警視がつぶやいた。「それでこそ分別があるというものですよ、奥さん。あんなことは隠しておこうとしても駄目ですよ――」
「ええ」と、夫人は冷やかに「私もそう思いますわ。きっと、テイラーでしょう。食器部屋にいたにちがいありません。うっかりしていましたわ」
夫人の口調の中の何かが、モリーをぞっとさせた。モリーはハンカチをとり出して、なんとなく首筋を拭い、目のはしで、エラリーを見ていた。エラリーは肩をすくめた。「ところで、そのとき、ここで何をしとったのですか」と、モリーが、ゆっくり訊いた。
「それは」と、夫人は同じ冷たい口調で「私事ですわ、警視さん」
モリーは荒々しく「ノックもしなかったんでしょう!」モリーは敗北をさとったらしい。
「そうでしたか。本当にうっかりして」
モリーは、ごくりとつばをのんで、怒りを押えようとした。「真夜中に男の部屋に忍び込んだ理由を言わんつもりなんですね」
「忍び込んだんですって、警視さん」
「今朝話されたときには、昨夜は早く寝に行ったと、嘘を言いましたね。マルコを最後に見たのは、階下のブリッジ・テーブルを離れた時だと!」
「もちろんですわ。誰だってそんなことを認めませんわ、警視さん」夫人はこぶしをかたくにぎりしめたので、指の節が死人のように白くなっていた。
モリーはつばをのみ、たばこをくわえて、マッチをすった。自分を落ちつかせようと懸命だった。「よろしい。そのことは言わんでよろしい。だが、マルコとあらそったでしょう」夫人は黙っていた。「マルコはあなたを、罵ったでしょう」夫人は不快の色を目に浮かべたが、唇をかみしめただけだった。「じゃあ、どのくらい、いたんですか、奥さん。どのくらい一緒にいたんですか」
「一時十分前に別れました」
「四十五分以上ですな」と、モリーは、にやりとして、苦しそうにたばこの煙をはき、とまどっていた。夫人は静かに、椅子のはしにすわっていた。
エラリーは、また、ため息をした。「あの――昨夜この部屋にはいられたとき、マルコはすっかり着換えをすましていましたか、奥さん」
今度は、夫人はかなり言いにくそうだった。「いいえ、と申しますのは――すっかりではありませんでした」
「何を着ていましたか。奥さん、あなたの私事はお話しにならんでもいいんですよ。だが、昨夜のマルコの着衣の件は、きわめて重要なのです。それに、その情報をさし控えられる理由は、あなたにもたしかにないはずです。マルコの白服は――宵の口にずっと着ていたものは――ベッドの上にありましたか、今、ここにあるように」
「はい」夫人は指の節を見つめながら「あの人は着換えるところで――私がはいる前にズボンをかえていました。たしか――濃《こ》いグレーでした。それから……話し合っているときにも、着換えを続けていました。ダブルのオックスフォード・グレーの服で、付属品もそれに適《あ》うグレーだったと思います。白いシャツと――ああ、思い出せませんわ」
「ステッキや帽子や外套にお気づきでしたか」
「私――ええ。ベッドの上にありましたわ」
「別れられたときは、すっかり着換えを終っていましたか」
「そう――ええ。ネクタイを直して、上衣をつけたところでした」
「一緒に出られたのですか」
「いいえ、私は――私は先に出て自分の部屋へ戻りました」
「もしや、あの男が出て行くのを、ご覧になりませんでしたか」
「いいえ」夫人の顔は、思わず苦痛の波でひきつった。「私が部屋に戻りましてから――すぐに――ドアの閉る音が聞こえましたので、それで私は――あの人が部屋を出て行ったものと考えました」
エラリーは頷いた。「あなたの部屋のドアをあけて、覗かれませんでしたか」
「いいえ」
「ふうん。なぜ新しく着換えるのか、そのわけを言いましたか、奥さん。それにどこへ行こうとしているのかを」
「いいえ」夫人の声は妙に張っていた。「言いませんでしたわ。でも、とてもじりじりしているようでした。まるで誰かと……約束でもあるかのようでした」
モリー警視が鼻を鳴らした。「それで、あなたは、あの男のあとをつけてみようとも思わなかったんでしょ。ねえ、そうでしょ」
「そうですわ、もちろん」夫人は急に立ち上がった。「私――私はこれ以上、責められるのはたくさんですわ。お話したことはみんな真実です。私はあまり――あまりしゃくにさわって、あの人をつけるどころか、探すのもいやでした。だって、私には、あなたがたのどなたにも――お話しできないわけがあるのです。私は――私はまっすぐ寝室へはいり、それっきり二度とあの人の生きている姿は見ませんでした」
三人は夫人の声の音色をはかり、その感情の底にかくされている真実性を計算していた。
やがて警視が言った。「よろしい。今はこれだけにしておきましょう」
夫人は背中を硬くして、いそいそと出て行った。全身、ほっとしたようだった。
「まあまあですね」と、エラリーが言った。「まだ口を割るところまで行っていませんな、警視。それに折りが悪かったですよ。あの女は大した知恵を持っているほうじゃないが、土性骨はしっかりしてるようです諱Bあなたに忠告しようとしてたんだが」
「こりゃあ、まだ手が焼けそうだな」と、モリーが、唸った。「それは――」と、数秒間、警視は熱っぽい口調でぶっ続けに、ジョン・マルコの経歴《らしいもの》や、気質、習慣、性質を述べ立てた。その理解力と明解さと具体性に、マクリン判事はびっくりしたし、エラリーは感心して目をむいた。
「おお、すばらしい」と、モリーが息をつくために余儀なく中休みしたとき、エラリーが機嫌よく言った。「すばらしい毒舌の実地教育ですよ。それでかなり気が晴れたでしょうね、警視。どうですかね、ここらでバーリーさんの招待を受けて、もっと動物的な欲望を満たすようにしてやったら」
昼食のあいだ――昼食は、きゃしゃなバーリー夫人の気の利くとりまわしで、執事代理が給仕に当たる大ご馳走で、サラセン風の豪勢な≪小≫食堂で行なわれた――モリー警視は、憂鬱そのものだった。警視の意気銷沈《いきしょうちん》ぶりはご馳走をぱくつく分にはさまたげにはならなかったが、一同の気分を重くした。一口食べるごとに八の字をよせ、コーヒーを一口飲むごとに思い余って溜息をもらした。数人の子星どもは、はっきりと親星の様子に気づいて、食卓のすそのほうでしゅんとしていた。エラリーと判事だけは、食物を食物として、完全に意識して、夢中になって食べていた。二人はとても空腹だったので、その飢えの苦しみの前では、死すら後まわしという調子だった。
「お二人にとっては、おなぐさみでしょうな」と、モリーは、オーストラリア風のパイに、うつむきこみながら、ぐちっぽく「あんた方は、楽しみながら手伝うだけですからね。もし、私がこの事件で失敗しても、あんた方には責任がないんですからね。なんだって、人間は殺されになんか行かなければならないんだ!」
エラリーは最後のひと口をほおばって、ナプキンをわきへ置き、バッカス的満腹にため息をした。「中国人は正しい社交観念を持っていますよ、判事。バーリーさんのこの大ご馳走に対しては、堂々とげっぷするのが正しいんですよ……いや、警視ちがう。われわれを誤解しています。あなたがもし、この事件で失敗するとしても、それはわれわれの最高の協力もついに力及ばなかったということになるのです。事実、世間にざらにころがっている平凡な事件じゃありません。裸死体という特徴は……」
「何か見解がおありですか」
「人それぞれに見解ありですよ、警視。ぼくだって六つぐらいの見解を持っています。だから、興味をそそられているのです。だが、どのひとつも、正しくないような気がしているんです」
モリーが不機嫌に「なるほど、じゃあ、ひとつ、その特徴をとりあげて――」
「わしは、昼寝のほうを、とりあげたいな」と、判事が、コーヒー茶碗《ぢゃわん》を、置きながら言った。
「じゃ、なぜ、そうなさらないんですの、判事さま」と、ムーア風の廻廊から、涼しげな声がきこえた。
声とともに、ローザ・ゴッドフリーが、入って来たので、一同は急いで立ち上がった。ショーツに着換えて、ひきしまった金色の肌が、太股《ふともも》の上まで見えていた。こめかみに残っているあざが、前の晩のウェアリングのバンガローでのさわぎを思い出させた。
「そりゃいい考えじゃ、お嬢さん」と、判事は眠そうな声で「車でわたしをバンガローまで送り返してくださらんか……かまわんだろうね、エル。とても、眠くて……」
「もう車の手配をして」と、ローザは、ちょいと頭をしゃくって答えた。「バンガローへやりましたわ――白バイの護衛つきですのよ――あなた方のお荷物や鞄をとってまいりますわ。あなた方は、ここで私たちと一緒にお過ごしになるんですのよ」
「ほう。そりゃあどうも――」と、老判事が言いかけた。
「どうもご親切に」と、エラリーが快活に「お嬢さん、お言葉に甘えますよ。ぼくは、とてももう駄目です。今更、やもめ炊事などしたくないですよ。こんなご馳走をいただいたあとからね。ソロン殿、あなたはもう、保《も》たんでしょう。しっしっ! あとは、モリー君とぼくでやりますよ」
「そのほうがいいでしょう」と、警視が考えながら「だれかが邸内に残るほうが。それがいい。そうなさい、判事――お休みなさい」
マクリン判事は、あごをなぜて、しょぼしょぼした目をしばだたいた。「それにあの食料品はみんな車に入れてある……とにかく、わしには断わる勇気がないよ」
「そうですとも」と、ローザがきっぱり言った。「テイラー!」小柄な部屋男が、ひょっこり現われた。「マクリン判事さまを、東側の藤紫の部屋へご案内しなさい。クイーンさまはお隣のお部屋よ。バーリーさんにはそのことをもう話しておきましたからね」
判事がテイラーについて姿を消すと、モリー警視が言った。「さて、ご老人に親切になさったんだから、お嬢さん、私にも親切にしてくれるでしょうな」
「どういう意味ですの」
「お父さまの書斎へ案内してください」
ローザは先に立って、うんざりするほどいくつもの部屋を通り抜けて、すばらしい書斎に案内した。見かけと同様に空気の匂いまでも、いかにも愛書家らしい趣きがあって、エラリーは感心して息をのんだ。ここも、ほかと同じように、スペイン風にしつらえてあった。モロッコ皮の装釘本《そうていぼん》が多かった。いかにも落ちついた書斎らしい書斎で、天井が高く、かげが深く、深ぶかと椅子に腰かけて、紙表紙や皮表紙の間で、平和を見いだせるような、壁の切り込みや、かぎの手が、さりげなく設けられていた。
しかし、むかむかしているモリー警視には美しさを味わう、心の余裕などなかった。鋭い小さな目で隅々をのぞきこんで、はき出すように言った。「タイプライターはどこですか?」
ローザはびっくりして「タイプライターですか。どこかしら――あそこですわ」ローザは、壁の切り込みのひとつに案内した。そこには机や、タイプライターや、整理箱のようなものが置いてあった。「お父さまの≪事務室≫ですの――こう言うと、ちょっと重味がつきますでしょ。とにかく、お父さまは岬にいる間はここで事務を片づけているんですの」
「ご自分でタイプなさるんですか」と、モリーが、けげんそうに訊いた。
「めったにいたしませんわ。手紙を書くのがきらいなんです。たいていのお仕事は、あそこにある電話ですましますの。あれはニューヨークの事務所に直通なんです」
「しかし、タイプはできるんでしょう」
「どうやらね」ローザは、エラリーのすすめるシガレットを一本とって、革の長椅子に、どしんと腰を下ろした。「なぜ、お父さまのことに興味がおありですの。警視さん」
「お父さんは、ちょいちょいここを使われるのですか? この|切り込み《ヽヽヽヽ》を?」と、モリーは、冷やかに訊いた。
「一日に一時間ぐらいですわ」ローザは、興味深そうに警視を眺めていた。
「あなたは、自分で、お父さんのために、タイプしたことがおありですか」
「私が?」と、ローザは笑って「ぜんぜんありませんわ、警視さん。家ののらくら者ですもの。何もできませんのよ」
モリーはしゃんと立って、葉巻を灰皿に置き、さりげなく訊いた。「おお、じゃタイプもできないんですね」
「残念ですけれど、お答えできませんわ。クイーンさま、これはいったいどういうことですの。新しい手がかりでもみつかりましたの。何か――」ローザはふとすわり直して、組んでいた足を下ろした。青い目を異様にきらきらさせた。
エラリーは両手をひろげた。「こりゃ、モリー警視の仕事でしてね、お嬢さん。最初に手がける権利は警視のものなんですよ」
「ちょっと失礼」と、モリーは言って、大股で書斎を出た。
ローザは椅子に背をもたせて、シガレットをすっていた。夢みるように天井を見上げるローザの小麦色の、のどが、あらわにエラリーに見えた。エラリーは、にんまりとして観察していた。この娘は大した役者だ。見たところ、冷静で、沈着な、ごく普通の若い女だ。しかし、ローザの、のどのつけ根に、こまかい神経があって、それが、押えつけられているもののように、ぴくぴくしていた。
エラリーは、たいぎそうに机のほうへ行き、そのうしろの回転椅子にすわって、体をさすった。長い骨折り仕事で、ひどく疲れていた。しかし、ため息をして、鼻眼鏡をはずし、仕事にとりかかる前のくせで、レンズを熱心にみがき始めた。ローザは目も伏せずに横目でじっと見ていた。
「ごぞんじかしら、クイーンさま」と、ローザは小声で「眼鏡をおとりになると、本当に素敵ですわよ」
「え? おお、そうですかね。だからかけているんですよ。胸に一物ある女性を避けるためにね。気の毒に、ジョン・マルコはこんな防御手段を講じなかったんですね」と、レンズをみがきつづけた。
ローザは、しばらく黙っていた。やがて、同じような明るい口調で、また話しかけた。「あのね、あなたのお噂は、かねてから聞いていましたわ。私たちみんな、たいていそうだと思います。ところが、私が想像していたような、こわいところは、ぜんぜん、おありにならないようね。あなたは、人殺しを大勢逮捕《おおぜいたいほ》なさったんでしょう」
「ぐちを言ってもしようがないですからね。きっと、持って生まれてるんですね。ぼくの体の中には、少しでも犯罪に近づくと沸騰点にまではねあがる、化学的な何かがあるんです。それは、フロイド的に分析できるものではありません。ぼくの中の数学者的なものにすぎないんです。しかも、ぼくは、ハイスクールでは幾何《きか》は駄目でしたよ。まるっきり分からないんです。ぼくは釣合いのとれないばらばらなものから結論をひき出すのが、好きなんです。特にそれが暴力という言葉で示されているときにね。マルコは方程式のひとつの因数をあらわしているんです。ぼくには、とても魅力的ですよ」エラリーは机の上でしきりに何かしていた。ローザは、こっそりのぞいた。どう見ても、小さな紙きれを入れた透明封筒のようだった。「たとえば、あの男が殺されて、裸にされたという、みだらなやり口です。新しい手口です。いくらか高度の数学を必要とすると信じますよ」
それとなく注意していると、ローザののどの神経が、二倍もぴくぴくした。肩が少しふるえた。「あれは――こわかったわ」と、押し殺した声で言った。
「いや。ただ面白いだけです。われわれは仕事に感情をまじえるわけにはいきませんからね。そうなると完全にぶちこわしです」エラリーは黙り込んで、やりかけのことに没頭した。ローザが見ていると、エラリーはポケットから妙な小さな箱をとり出して、開き、小さな刷毛《はけ》らしいものと、灰色の粉のはいっている小びんをえらび出して、紙の切れはしに――ならべて一枚にしてあった――粉をふりかけてから、なれた手つきで、そっと、刷毛で表面を刷《は》いた。エラリーは悲しい曲を口笛で吹きながら、紙きれを丹念にひっくり返した。その奇妙な作業をくり返した。何かが目をひいたらしく、小箱から小さな拡大鏡をとり出して、その紙きれに、机上の明るいスタンドの光を当てて、じっとのぞきこんだ。ローザが見ていると、今度はエラリーは頭を振った。
「何していらっしゃるの」と、ローザが大きく声をかけた。
「おどろくほどのことじゃありません。指紋を探しているんです」エラリーは口笛を続けながら、小びんと刷毛を小箱にしまい、ポケットに入れて、机の上の糊のびんに手をのばした。「一つ二つ勝手なことをしても、きっと、お父さまは怒られんでしょうね」と言って、何も書いてない黄色い用箋を一枚見つけ出すまで、ひき出しをかきまわした。それから、調べていた紙片を、ゆっくりとその黄色い用箋に貼りつけた。
「それは――」
「ところで」と、エラリーは急にまじめになって「モリー警視を待つことにしようじゃありませんか」と言って、その用箋を机の上に置いたまま立ち上がった。「さて、お嬢さん、ちょっと気まぐれですみませんが、お手をどうぞ」
「私の手を!」と、ローザはすわり直して、目を見張った。
「本当に」と、エラリーは、ローザとならんで長椅子に腰をおろして、ローザのぎこちない片手を自分の両手でとりながら、つぶやいた。「こんな喜びは、探偵が――そのう――仕事をしているあいだには、普通にはないことですよ。やわらかで、小麦色で、魅力のあるかわいいお手ですね――つまり、こりゃあ、ぼくの心にあるワトソンの言いぐさです。次には、シャーロック・ホームズの言い分ですが、どうぞ、気をお楽に」ローザは、ひどく驚いて、手を引っこめられなかった。
エラリーは、その手に目をよせて、掌を上に向け、鋭い目つきで、指先のやわらかいふくらみを調べた。それから、手を裏返して、爪を調べながら、自分の指先で、そっとふくらみをなぜてみた。「ふーん。断定はできないが、この指先は、少なくとも嘘を言っていませんね」
ローザは、ちょっと身を引いて、手を引っこめた。そして、おびえた目つきで「いったい何を、ぶつぶつ言っていらっしゃいますの、クイーンさま」
エラリーは溜息をして、たばこに火をつけた。「つかの間だな。人世の真《まこと》の快楽《けらく》は。たしかに、じれったいほどつかの間のことなんですね……まあ、まあ、ぼくの気違いぶりは気にしないでください。お嬢さん。ぼくは、あなたの正直なのに、満足しようとしただけなんですよ」
「私を嘘つきとおっしゃるの?」と、ローザがいきまいた。
「とんでもない。あのね、肉体的な習慣は――ごく普通に――感じ易い人間の体に、はっきりした印を残すものですよ。ベル博士がそのことをコナン・ドイルに教え、ドイルはそのとおり、シャーロック・ホームズに伝えたのです。それが、つまり、シャーロックの手品のような推理の秘訣だったのです。タイプライターを使うと、指先が硬くなるし、女性タイピストは普通爪を短く切っています。あなたの指先は、月なみな詩人の言葉をかりれば、小鳥の胸毛のごとくやわらかく、あなたの爪は、たいていなもの好きのおしゃれ娘より、よほど長めです。結局、そんなことは何も証明されなかったが、どっちみち、あなが常習的なタイピストではないということはたしかだ。しかも、ぼくに、あなたの手を持つチャンスを与えてくれたんですよ」
「手数をかけるまでもないさ」と、モリー警視が大股で書斎に入りながら、とても人なつこくローザに会釈《えしゃく》して「その技《て》は、ぼくも駆け出し時代によく使いましたよ、クイーン君。お嬢さんは白さ」
「≪良心はわしらみんなを弱気にする≫〔ハムレットのせりふ〕」と、エラリーは内心の気はずかしさで頬をそめた。「しかし、ぼくは最初から疑わなかったよ、警視」
ローザは立ち上がって、かわいいあごを強張《こわば》らせた。「嫌疑がかかっていたの――あんなひどい目にあったあとなのに?」
「まあ、まあお嬢さん」と、モリーがにが笑いして「あかしがたつまでは、なんでも、誰でも、一応は嫌疑をかけられるんです。ねえ、あなたは、もうあかしが立ったのです。あなたは、あの置手紙を絶対に書かなかったのです」
ローザはちょっとすてばちに笑って「何のお話をしていらっしゃるの。何の手紙ですの?」
エラリーと警視は目を見交《みかわ》した。エラリーは立って、マルコの浴室でみつけた、こげた置手紙のきれはしを貼りつけた用箋を、机から、つまみあげて、何も言わずに、ローザに渡した。ローザは眉をしかめて読んだ。しかし、サインを見て、息をのんだ。
「まあ。私はこんなもの書きませんわ! いったい誰が――」
「あなたがタイプが打てないということを」と、モリーは笑いやめて「調べてきたところです。本当だよ、クイーン君――この人はタイプが打てんのです。と言っても、一本の指で文句が打てないということにはなりませんがね。この置手紙のタイプは、一本指ではこう平均には打てません。誰かタイプに慣れた者が打ったんです。それに、誘拐事件と、あなたが昨夜は一晩中、ウェアリングの小屋で縛りつけられていた事実とを考え合わせると、あなたのあかしは立つと思いますよ。この手紙はくわせものです」
ローザはどさりと長椅子に腰をおとした。「指紋は出ません」と、エラリーがモリーに言った。「ものになりそうなのはね。ただ、しみがあるだけです」
「私には――さっぱり分かりませんわ。何時――どこで――その意味さえ分かりませんの」
「この置手紙は」と、エラリーが根気よく説明した。「昨夜おそく、まわりまわって、ジョン・マルコに送られたんです。ごらんのとおり、あなたから来たように見せかけてあります。そして――勝手な解釈をすると――あのテラスで午前一時に会う約束になっています」エラリーは机をまわって、タイプライターの覆いをとり、厚手のクリーム色のゴッドフリーの便箋を一枚さしこみ、いそがしくキイをたたきはじめた。
ローザは、書斎の薄暗い光のなかで、まっ青になった。「すると、その置手紙が」と、つぶやくように「あの人を死なせたのね。私――とても信じられませんわ」
「さよう。そうなりますな」と、モリーが言った。「クイーン君、どうかね」
エラリーは機械から紙をはずして、机の上に置き、さっき、紙きれを貼りつけた用箋と、ならべてみた。モリーが、その後ろにのっそりと歩みよって、二人は隣り合った二枚の紙を調べた。エラリーは、貼った紙にあるとおりの文字を打っておいた。
「同じタイプだ」と、エラリーは拡大鏡をとり出して、ひとつずつ、文字を引きくらべながらつぶやいた。「ふむ。はっきりしてる。警視、大文字のIを見たまえ。下の線の右側が、少しうすれているでしょう。地金がすり減ってるんです。それに、大文字のTの上部の右の線が、どっちもいかれています。実際、リボンの色の濃さまで同じように思えますね。小文字のeとoにも同じようなしみがついていますよ」エラリーが拡大鏡を渡すと、モリーはしばらく覗いてみてから、うなずいた。「うん。まさにこのタイプライターだ。間違いなしだ。この、もとの文句をタイプした奴は、誰か分からんが、この椅子にすわって打ったんですな」
エラリーがタイプライターに覆いをし、小箱をポケットにしまいこむあいだ、みんなしんとしていた。モリーは目をぎらぎら光らせて歩きまわっていたが、ふと、何か思いついたらしく、何も言わずにとび出して行った。ローザは、うちひしがれたように、ぐったりと長椅子に腰かけていた。そのとき、モリーが、もどって来て、しめたと言わんばかりに、息をはずませ「この機械が、邸から出なかったことを、たしかめようと、思いついたんです。ところが、そんなことはなかったそうです。ついに、手がかりがつかめましたな」
「君がつかんだのは」と、エラリーが言った。「犯人はこの邸に関係のある人間だという、確証なんですよ、警視。今までは犯人が誰であってもよかったんです。うん、まさに、根本的な発見です。それによって、いくつかの問題点が、解明するだろうと思いますな。だが……お嬢さん、少しばかり専門的な論理立てをはじめますがかまわないでしょうね」
「かまわないどころじゃありませんわ」と、ローザが青い目をもえ上がらせて「すっかりお聞きしたいわ。邸の中の人と関係があるとしても――人殺しはどんな場合でも卑劣なことですもの。どうぞお話しになって、できることなら、お手伝いしたいぐらい」
「やけどをするかもしれませんよ、いいですか」と、エラリーがやさしく言った。しかし、ローザはいっそう唇をひきしめるだけだった。「よろしい。それじゃあ。われわれに分かっているのは。殺人犯とみられる男をかりにXと呼んでおこう。Xの手先はジョン・マルコを誘拐して、海へ連れ出し、殺して、死体を海中に捨てるために、雇われたとする。この手先が、怪人キャプテン・キッドで、うかつにも、叔父さんのデーヴィッド・カマーとマルコとを間違えてしまった。この筋書の中での、あなたの役割りは、まったくの偶然だったんですよ、お嬢さん。Xはキッドに、マルコはあなたといると報せたのでしょう、だから、あなたは、ただ非常警報を鳴らさせないために、ウェアリングの別荘にくくりつけられることになったのです。キッドは、あなたの叔父さんをウェアリングの船で沖へ連れ去る前にXに電話した……あらゆる点からみて、Xはこの邸内にいた。キッドはXに≪マルコ≫を捕えた報告をした。そのかぎりでは、Xの企ては成功だった」
「それから」
「ところが、キッドの間抜けな失策で」と、エラリーはゆっくり続けた。「Xの計画は台なしになった。キッドの電話がかかってからすぐあとで、Xは命のちぢむ思いをした。この邸内で、死んで海のもくずとなっているとばかり思い込んでいた当の相手に、ばったり顔をつき合わせたんだ。とたんに、何事があったかをさとった。ちょっと調べるか、こっそり観察するだけで、キッド船長がかどわかしたのはカマーだったのが分かったはずだ。マルコは現にまだ生きている。カマーは、十中の八九死んでいる――お気の毒です、お嬢さん――しかも、Xには、どうもできない。キッドに連絡する方法がなかったのだ。その上、Xのマルコに対する最初の動機は、まだ残っていた。明らかに、マルコを殺そうという気持ちは、最初に計画を立てた時より、弱まっていたはずはない」
「気の毒な、気の毒なデーヴィッド」と、ローザがささやいた。
警視はうなるように「それで?」
「Xは図太い抜け目のない犯罪者だ」と、エラリーは重々しく続けた。「ぼくの解釈が正しければ、奴のあらゆる行動が、それを示している。奴はマルコが生きているのを見ると、すぐ、ショックから立ち直って、新しい計画をたてた。奴は、お嬢さん、あなたがウェアリングの小屋にとじこめられて、誰かが援けに行くまでは、どうにもならないのを知ったんです。それにまた――もういちど失敬しますよ――あなたからの手紙が、ほかのどんな呼び出し状よりも、マルコを動かすだろうということも知っていたんです。そこで、こっそりとここへ忍びこみ、文面をタイプし、あなたのサインをして、あんな早朝、邸内の人目につかぬ場所で、マルコと会う約束をしたのです。それから、その手紙を手渡す時刻を特に指定して、テイラーの部屋のテイラーの上衣にピンでとめておいたのだ」
「なぜ、テイラーを」と、モリーがつぶやいた。
「テイラーの部屋は一階にあるし、そのとき、近づきやすかったんだろう。それに、マルコの部屋にはいるのを人に見られる危険をおかしたくなかったんだろう。うまい計画だったし、うまく行った。マルコは一時に会う約束を守り、犯人はやって来て、マルコを見つけ、後ろから気絶させて、絞め殺した……」エラリーは、なんとも言えぬ妙にいやな表情を顔にうかべて言葉を切った。
「それから裸にした」と、警視が皮肉るように言った。「そこが解釈のつかないところなのです。ぼくをお手上げにする点なんです。畜生、なぜあんなことをしたんだろう」
エラリーは立って、こわばった足で、机の前を行ったり来たりし始めた。ひたいに苦しそうなしわをよせて「そうだよ、君の言うとおりだ、警視。どこから手をつけて行っても、結局はその点にもどってくる。マルコを裸にした理由がわかるまでは、何も決着がつかない。それが、どうもうまくおさまらない点です」
しかし、思いもかけず、ローザがすぼめた肩をふるわせて泣きはじめた。「どうしたんです?」と、エラリーが心配そうに訊いた。
「私は――ちっとも気がつきませんでしたわ」と、ローザは泣きじゃくりながら「私をまきぞえにするほど、恨んでいる人がいるなんて……」
エラリーがくすりと笑ったので、ローザはびっくりして泣き止んだ。「まあ、まあ、お嬢さん。そこが間違っているんですよ。それはぜんぜん見当ちがいです。表面的には、あなたは人殺しのぬれ衣を着せられたように見えますがね。それはぼくも認めます――なにしろ、マルコを死に追いやった手紙に、あなたの署名があるんですから。しかし、よく検討してごらんなさい。そうすればまったく別の話になりますよ」
ローザは、まだ少しすすり上げながら、心配そうにエラリーを見上げた。「ねえ、Xは、あなたに人殺しのぬれ衣を着せようとしたなどとは思えませんよ。奴は、あなたには有力なアリバイがあることを知っていたんです――なにしろ見つかるまでウェアリングの小屋でしばられていたんですからね。ことに、明らかに謎の第三者がコート青年にあなたのありかを電話してきた後ではね。手紙のことですが、おそらく犯人はマルコが破りすてるだろうと思っていたんでしょう。もし、マルコが破棄していれば、あなたの名がついている手紙の存在など、だれも疑わなかったでしょうし、あなたはぜんぜんまきぞえをくわなかったはずです。しかし、もしマルコが破棄しないで、手紙が発見されたとしても、Xは、あなたのアリバイと、あなたがタイプできないことと、署名はタイプした疑わしいものであることから、いんちきが、ばれるだろうということを、知っていたのです。事実、Xは、警察がいんちきを見破っても、少しもかまわなかったんでしょうよ。そんなことがばれても自分の身の安全をおびやかすはずはないし、ばれるまでにはマルコは死んでいるはずですからね。そうですとも、お嬢さん、Xは、あなたには充分気を配っていたんですよ。カマーやマルコに対するよりもずっと慎重だったんです」
ローザは、ハンカチのすみをかみながら、黙ってエラリーの言葉を味わっていた。「きっと、そうでしょうね」と、やがて、低い声で言った。それからエラリーを変なふうに見上げて「でも、なぜ、≪その男《ヽ》は≫とおっしゃるの、クイーンさま」
「なせ、≪その男《ヽ》は≫と言うかといえば」と、エラリーは、こともなげに「便宜上でしょうね」
「何も心当たりがありませんかな、お嬢さん」と、モリーが、すぐ訊いた。
「ええ」と、まだ、エラリーを見上げながらローザが答えて、目を伏せ「ええ、何も心当たりはありませんわ」
エラリーは立って、目をこするために眼鏡をはずした。「ところで」と、たいぎそうに言った。「少なくとも手がかりがついた。マルコを殺した男がこの手紙をタイプした。それにタイプライターはこの邸から外に出なかったのだから、犯人はこの邸の中でこれをタイプした。お嬢さん、あなた方は、みんなの胸の奥に、毒蛇を飼っているんですよ。変に聞こえるかもしれないが、それほどとっぴなことじゃないですよ」
むっつりした刑事がドアから声をかけた。「警視、年寄りが話したいと言ってます。それに、ゴッドフリー氏が、ここの外で、がなりたてています」
モリーはくるりと向き直って「誰だ? どんな年寄りだ?」
「庭師のジョラムです。何か重要なことがあると言ってます――」
「ジョラムだと」と、モリーは、はじめてその名に気がついたかのように、驚いた顔で、すぐ言った。「つれて来い、ジョー」
しかし、先に入って来たのは、きたないズボンをはき、ソンブレロをあみだにかぶった、ウォルター・ゴッドフリーだった。両ひざが泥まみれで、指の爪先も泥がつまって黒かった。ゴッドフリーは、蛇のような目で、エラリーと警視を突きさすように眺め、娘がいるのに、びっくりしてから、ドアのほうを振り向いた。
「はいって来い、ジョラム。誰も噛みつきゃせん」と、やさしい声で言った――そんなやさしい声を、娘のローザや妻のステラにかけているのを、今まで聞いたことがないな、とエラリーは耳を立てた。年寄りはよろめきながらはいり、大きなぼろ靴の裏で、床に泥のあとをつけた。近くでみると、遠くから見るのとちがって、驚くような肌をしていた。泥だらけの岩のような色で、とてもひどくしわがよっていた。帽子を握っている手は、大きくて、こちこちに筋ばっていた。まるで生きているミイラのようだった。
「ジョラムが何かおぼえとるらしい、警視」と、億万長者が、ぶっきら棒に言った。「そのことをわしに話した。君が成功しようと失敗しようと、わしの知ったことじゃないがね。君も知っとくほうがいいと思ってね」
「そりゃどうも」と、モリーは強ばった言い方をし「ジョラム、もし面白い話があるなら、いったい、なぜまっすぐに、わしのところへ来なかったのだ」
庭師はやせこけた肩をすくめて「あっしゃ、どこにでも出しゃばる人間じゃないんでさ。自分の仕事だけ考えるほうでさ、あっしゃあ」
「そうか、そうか。話してみろ」
ジョラムは、ごま塩のあごをなぜた。「話すこたあ何にもないんだけど、ゴッドフリーの旦那が話せといわっしゃるでね。だれもきかねえのにね。あっしゃね≪なぜこっちから話さにゃなんねえだ。訊くのが、そっちの商売ってもんだのによ≫と、腹んなかで思ってるだよ」ジョラムは、いかめしいモリーの顔を、反抗的に見つめながら「あの人たちをテラスで見たんでさ」
「誰を見たんだね」と、エラリーが、乗り出して「いつ見たんだね」
「答えなさい、ジョラム」と、ゴッドフリーは相変らずやさしい声で言った。
「へえ、旦那」と、年寄りはていねいに答えて「昨夜、マルコさんが、ここのピッツという娘っ子と一緒に、テラスにいるのを見たんでさあ。ふたりして――」
「ピッツ!」と、警視が大声で「ゴッドフリー夫人の小間使いじゃないかな」
「へえ、そのひとりでさ」ジョラムは青いハンカチをとり出して、ばかにするように鼻をかんだ。「ピッツはおちゃっぴいで、とんでもない、はねっかえりでさあ。身のほど知らずの娘っ子でさあ。だもんで、あの娘っ子の言葉がきこえても、大して驚かなかったさ――」
「おい、おい」と、エラリーが腹の虫をおさえて「筋を通して話してくれよ、ジョラム。君は昨夜、マルコと小間使いのピッツがテラスにいるのを見たんだね。よろしい。そりゃ何時だった」
ジョラムは毛むくじゃらの耳を掻いて「はっきりは言えんがな」と、得意げに「時計を持っとらんのでな。だが、たしか午前の一時ごろか、そのちょっとあとだったでさあ。あっしゃ、テラスのほうへ道を降りて行ったんでさ。寝る前の見廻りでね――」
「ジョラムは見廻りもしとるのでね」と、ゴッドフリーが、ちょっと説明した。「本式の役目ではないが、いつも注意しとるんだ」
「テラスは月でとても明るかった」と、年寄りはつづけた。「で、あっしのほうへ背中を向けて、テーブルのそばに腰かけてたがね、マルコさんはまるで舞台の役者みたいに、着飾ってなさった――」
「マントも着けとったかね、ジョラム」と、すぐエラリーが訊いた。
「へえ、旦那。あっしゃ、前にも、あのひとが、あんなものを着とるのを見たことがあるがね。あれを着ると、昔、マーテンズの町で見たオプリ(オペラ)の、メフィスト・フィールス〔すけべえ役者〕と、そっくりになりなさるだよ」と、ジョラムは、くすくすと下品に笑った。
「ピッツは、すっかり女中のおしきせで、あのひとのそばに立ってたんで、はっきり顔が見えたんでさあ。ぷりぷりしてたな。ふたりがまだよく見えないうちに、平手打ちのような音が聞こえましただ。そいから見るってえと、ピッツがぷりぷりして立ってたんでさあ。あっしゃ、自分に言いきかせたんでさ。≪おほっ。こいつぁ、猿芝居だぜ、ジョラム≫ってね。そいから、ピッツが、おこる声が、聞こえましただ。≪そんな口はきけないでしょ、マルコ。あたしは。まともな女なのよ≫そいから、ピッツが、はあはあ言いながら、あっしのほうへ、石段をかけ上がって来たで、あっしゃ、ものかげに逃げこんだんでさ。マルコさんは、なんにもなかったように、すわってやした。あのひとは、女にかけちゃ、図々しいひとでさ。前にも、台所で働いてるテッシーを口説いとるのを見たことがあるんでさ。だが、ピッツてえ娘っ子は、マルコさんにけんつくをくわせてね。妙なこった……」
ローザが手をにぎりしめて、書斎から駆け出した。
「ピッツを連れて来い」と、モリーが、扉口を張っている刑事に、ぴしりと命じた。
億万長者が、気ぐらいの高い羊飼いのように、庭師をひきつれて出て行くと、モリー警視が両手を振り上げた。「またこみ入って来た。いまいましい女中奴!」
「必ずしもこみ入ったとは言えないですよ。ジョラムの時間感覚が信用できるとすれば、われわれの最初からの事件の設定はまだ崩れません。検屍官はマルコの死亡は一時から一時半の間だと言っていましたね。するとピッツという女は、その時間内にマルコといちゃついていたことになりますよ。そして、ジョラムは、ピッツが立ち去るのを実際に目撃したんです」
「そうですね。ピッツの件が、なんでもないことか、どうか、すぐ分かるでしょう」モリーは椅子に腰かけ込んで、太い足を伸ばした。「畜生、くたくただ。君もかなり疲れたでしょうな」
エラリーは情けなさそうに微笑して「そりゃ禁句ですよ。ぼくは、マクリン判事が、さぞ気持ちよくいびきをかいていることだろうということしか考えられないほどです。一刻も早く、目を閉じたいだけですよ。さもないと、ぶっ倒れそうです」エラリーはぐったりと腰を下ろした。「ところで、これが犯人の置手紙です。地区地方検事が重視するかもしれませんよ――もしも――事件が起訴の段階に達するとね」
モリーは、貼り合わせた手紙を、丁寧にしまい込んだ。ふたりは、ぼんやりと、顔を見合わせながら、ぐったりとすわり込んでいた。書斎は地獄の修道院のように、しんとしていた。エラリーのまぶたが垂れかけた。
しかし、こつこついう靴音で、ふたりは、しゃんとなった。警視は緊張して振り向いた。使いにやった刑事が、ゴッドフリー夫人をつれて来たのだ。
「どうしたんだ、ジョー。小間使いはどうした」
「見つかりません」と、刑事は息をはずませて「奥さんが言うには――」
二人はすっくと立った。「すると、逃げたのか、え?」と、エラリーがつぶやいた。「今朝、お嬢さんにそんなことを話されていたのが、聞こえたようですがね、奥さん」
「はあ」夫人の浅黒い顔は心配そうだった。「実は、さっきあなた方におひるをお報せしに二階へ参りましたときに、ピッツが見えないことをお話しようと思っていたのです。それがあんなことになって、うっかり忘れてしまったのです」夫人はすんなりした手で額をなぜた。「たいしたこととも思わなかったので――」
「たいしたこととも思わなかったのかね」と、モリー警視が、どなって、おどり上がった。「だれも何ひとつ大事なこととは思っとらん。ジョラムは口を閉じるし、あんたもしゃべらんようにしとる。どいつもこいつもだ……小間使いはどこだね。最後に見かけたのはいつかね。どうかね、舌がないのかね、奥さん」
「おどなりにならないで、どうぞ」と、浅黒い夫人が冷静に言った。「私は召使いではありませんわ。落ちついてくだされば、知っているだけお話いたしますわ、警視さん。今日は朝からごたごたしていましたので、そんなことは、最初、大して気にもとめなかったのです。いつも、朝の水浴びをすませて、食事のために着換えをするまで、ピッツとは顔が合わないものですから。もちろん、あんなことがありましたので――事件のことですけど……死体を見つけてから――家にもどりますまでは、今朝は女中を呼びませんでした。あの娘《こ》がどこにいるか誰も知らないようでしたし、私も、ほかのことであわてて、ぼんやりしておりましたので、それをつきとめなかったのでございます。ほかの娘《こ》が私を手伝ってくれました。一日中、ときどき、あの娘《こ》がいないことが気にはなりましたけれど……」
「どこで寝るのかね」と、モリーは苦々しく訊いた。
「女中部屋ですわ、この一階の」
「そこを調べたか」と、刑事にどなった。
「はい、警視」と、刑事はちぢみ上がって「そんなこととは思いませんでした。――しかし逃げてしまいました。消えちゃってます。身の廻りのものや鞄をすっかり持って。てんで気もつかなかったんですからね――」
「お前らの鼻の先で火薬に火をつけても分からんのだろう」と、モリーはかんかんになって「みんなの徽章をとり上げるぞ、お前ら皆の」
「まあ、まあ、警視」と、エラリーは渋い顔で「そりゃ信じられんよ。こんなに多数の警官が見張ってるんだからね。奥さん、あなたが昨日その娘を最後に見たのはいつですか」
「私が自分の部屋にもどりましたときで――あのあと――」
「マルコの部屋を出られたあとですね。そうですか、それで」
「あの娘《こ》はいつも、ベッドをつくったり、髪をすいてくれるのです。ベルを鳴らしたのですけれど、かなり長い間、姿を見せませんでした」
「いつにないことですか」
「はい、やっと来たと思いましたら、気分が悪いから、お許しくださいと申しました。赤い顔をして、熱っぽいようでしたわ。もちろん、すぐさがるように許してやりました」
「ごまかしだ」と、警視が苦りきって「部屋を出たのは何時です」
「はっきりは分かりませんが、たぶん一時ごろでしたでしょう」
エラリーが低い声で「ところで、奥さん。あの娘《こ》はどのくらい勤めていたのですか」
「いくらでもございませんわ。前の女中が、この春、急に暇をとりましたので、そのあと、すぐにピッツがまいりました」
モリーはじりじりして「どこへ行ったか分からんだろうね。こいつは、てんやわんやだ――」
白バイの制服を着た、たくましい警官が戸口から大声で「コーコラン警部補の報告に来ました。黄色いロードスターが車庫からなくなっています。警部補がジョラムという男と、二人の運転手を取り調べ中です」
「黄色いロードスター」と、ステラ・ゴッドフリーが、息をのんで「まあ、ジョン・マルコさんの車ですわ」
モリーは血ばしった目で睨んだ。それから、どなりながら、刑事にとびかかった。「おい。何をばかみたいに、ぼんやり突っ立っとるんだ。仕事にかかれ。その車を追跡しろ。ピッツという女は夜のうちに逃げ出したにちがいない。かぎ出して来るんだ、とんま奴が」
エラリー・クイーン氏は、ため息をして「ところで、奥さん、前の女中は、いきなり暇をとったと言われましたね。そうしなければならない理由があったのですか、その点何かお気づきでしょうか」
「さあ、さっぱり」と、浅黒い夫人はゆっくり答えた。「ときどき考えてはみましたけれど、いい娘《こ》でしたし、お給金もはずんでいたのです。いつも、仕事を喜んでいるように言っておりましたわ。ところが――やめてしまって。ぜんぜん、理由はないんですのよ」
「たぶん」と、モリーが大声で「共産党だろう」
「はっはっ」と、エラリーは笑い出した。「それで、病身のピッツ嬢を、もちろん、紹介所から雇われたんでしょうな、奥さん」
「いいえ。あの娘《こ》は、ひとさまからのご紹介で、私は――」ゴッドフリー夫人が、ぷつりと言いかけてやめたので、部屋を歩きまわっていたモリーさえ立ちどまって、見据えた。
「ご紹介ですか」と、エラリーが「どなたが、その労をとられたのですか、奥さん」
夫人は手の甲をかんだ。「それが妙ですの」と小声で「そうそう……ジョン・マルコさんでしたわ。なんでも仕事をさがしている娘《こ》を知っているとかおっしゃって……」
「うたがいもなく」と、エラリーは、つまらなそうな声で「まともな女ですよ、警視。ふむ、すると、テラスでの一件は、ジョラムに見せるための一幕だったとはいえなくなりますよ。そうでしょう。……ところでね、君は受持ち地区の大事件で手いっぱいというところだが、ぼくのほうは、ねむくて死にそうなんですよ。奥さん、誰かにいいつけて、お嬢さんがご親切にも、へし折れそうにくたくたになっているぼくに提供してくださった聖堂へ、ぼくを案内させていただけませんか」
[#改ページ]
八章 接客法
船が沈みかけていた。まっ赤な波がさかまく海で、おもちゃのような船だった。すっ裸の巨人が、へさきに立ちはだかり、すぐ頭の上の暗い月を睨んでいた。船が沈み、巨人が消えた。しばらくすると巨人の頭が小さくなり、静かな波にただよって、暗い空を、じっと仰いでいた。月が明るくその顔を照らした。ジョン・マルコだった。やがて海が消え、ジョン・マルコは小さな焼きものの人形になって、コップの水を泳いでいた。死んで硬直していた。透明な液体が、マルコのすべすべな白いからだをひたし、縮れ髪を浮き上がらせ、コップのふちに、ゆらゆらと打ちよせていた。コップはしだいに染まってくる紅色で半透明になり、まるで……
エラリー・クイーン氏は闇の中で目をさまし、のどがかわいた。
ややしばらく、頭がぼやけながら記憶をたぐりよせようとしていた。やがて、記憶がもどると、起き上がって、口の中をなめながら、ベッドのわきのランプを手でさぐった。
「得意の潜在意識も役に立ったとは言えんな」と、つぶやいて、スイッチをつまんだ。部屋が、いきなり明るくなった。のどがひりひりした。ベッドのそばのボタンを押してから、わき机の上のケースからシガレットを抜き出して火をつけ、あおむけに寝て、ふかした。
夢の中で、大勢の男女や海や、森や、妙に生々しいコロンブスの胸像や、血まみれの針金の束や、ゆっくり走る発動機船や、片目の怪人や……ジョン・マルコを見た。マント姿のマルコ、裸のマルコ、白い麻服のマルコ、燕尾服のマルコ、ひたいに角を生やしたマルコ、でぶの女たちにハリウッド風の恋をしかけるマルコ、タイツでアダジオを踊るマルコ、腰のしまった上着と細いズボン姿で唄うマルコ、気違いのようにわめくマルコ。しかし、夢の中でのマルコの波瀾万丈《はらんばんじょう》の生涯のどこにも、マルコ殺害事件の合理的な解答は、ちらりとも見えなかった。頭が痛み、まるっきり休んだ気がしなかった。
ノックの音に、いやいや答えると、テイラーが、びんとグラスを盆にのせて、そっとはいって来た。父親のように、ほほえんでいた。
「さぞ、ゆっくりお寝みになれましたでしょうね」と言って、わき机の上に盆を置いた。
「さんざんさ」エラリーは、びんの中身を見て顔をしかめた。「水だよ、テイラー。ひどく、のどがかわくんだ」
「さようですか」と言って、テイラーは、くっきりした細い眉をつりあげ、盆を持って去ると、たちまち水差しを持って来た。「きっと、お腹もおすきになったでしょうね」と、エラリーが三杯目の水をのみほすのを見ながら、呟いた。「すぐ、お膳を持って上がらせるようにいたしましょう」
「おや、何時だね」
「お夕食はずっと前に終りました。奥さまが、お起こししないようにとおっしゃいましたので――あなたさまと、マクリン判事さまは。おっつけ十時でございますよ」
「奥さんは、親切だな。お膳か。たすかる、ぺこぺこなんだ。判事はまだ寝てるのか」
「お寝《やす》みと思います。ベルが鳴りませんから」
「≪寝れ、ブルータスよ。しかもなおローマは鎖につながれておる≫」とエラリーは悲しげに「いいとも、いいとも、そいつは年寄りの最大の冥利《みょうり》だ。ご老人はやすませとこう、それだけのことはしてきたんだからな。さあ、ぼくに膳を持って来てくれよ、テイラー、いい子だからな。その間にひとあびしたいもんだ。神と世間と、わが身とに敬意を表さなければならんだろう、なあ、君」
「さようでございますとも」と、テイラーは目をぱちぱちさせて言った。「こう申してはなんでございますが、お邸に来られた紳士方で、いっぺんにヴォルテール流の懐疑主義とベーコン流の経験主義をご引用なさったのは旦那さまが初めてでございます」と言って、テイラーは、目を丸くしているエラリーを後に残して、さっさと出て行った。
大した奴だなテイラーは、とエラリーは笑いながらとび起き、浴室へ向かった。
ひげを剃《そ》り、さっぱりして出て来ると、テイラーがクリーム色のナプキンをひろげてお膳の支度をしていた。大きな盆には銀色の皿がいく皿も、温かい料理のいい匂いをたてているので、口につばがたまった。エラリーは急いで部屋着をひっかけた。(気のきくテイラーが、湯にはいっている間に鞄をあけて、身の廻りのものを出しておいたのだ)それから食欲をみたすために腰をおろした。テイラーは、黙って、控え目に給仕した。その給仕ぶりは、テイラーの数限りない多彩な才能の、また別の面を示すものだった。
「うん――ぼくは文句をつけるつもりじゃないがね、テイラー、君の申し分のないもてなし方は」と、エラリーは最後に、コップを置いて「こりゃ、執事の任務《つとめ》じゃないのかね」
「本当はそうでございます」と、テイラーは皿を片づけながら低い声で「実は、執事がやめたいと申しましたのです」
「やめたい。どうしたんだ」
「おじけづいたんでございましょうよ。あのひとは昔かたぎで、人殺しのごたごたなど性にあわないんでございましょう。それにあのひとの言い分ですと、モリー警視さまの部下の方々の≪手もつけられない不行儀≫に腹を立てているのでございます」
「モリー警視という人は」と、エラリーはにやにやしながら「その男がやめると言っても、ここから出してやらんだろうな――この事件の片がつくまでは。ところで、ぼくが雲隠れしてから、何か変ったことがあったかね」
「何もございません。モリー警視さまは、二、三人の監視を残して引きあげられました。明朝また来ると、お言伝けするように申されました」
「ふむ。そりゃどうも。ところで、テイラー、このよごれものを片づけてほしいな……いや、いや、着換えは自分でできる。ぼくはぼく流に何年間もやってきたんだ。ここの執事君と同じで、習慣を変えたくないんでね」
テイラーが去ると、エラリーはすばやく新しい白服を着て、隣室へ通じるドアをノックしたが返事がないので、こっそり入った。マクリン判事が、藤紫の豪勢な部屋で、やすらかに寝息を立てていた。かなり派手なパジャマを着て、まっ白な髪が後光のように頭から無心にさか立っていた。老紳士は、きっと夜が明けるまで大丈夫だろうと見てとって、エラリーは、こっそりとその部屋を出て、階下へ下りた。
リヤ王の娘リーガンがやさしい心根から、年老いたグロースターのひげを引き抜いたとき、グロースターはもの悲しげに≪わしはそなたの主《あるじ》じゃ。わしの恩寵《おんちょう》をよいことにして、追いはぎのような狼藉《ろうぜき》を働くとはけしからん≫と言った。この叱責《しっせき》がリヤ王の娘の胸に、悔恨《かいこん》の情《じょう》を呼びおこしたとはしるされていない。
エラリー・クイーン氏は苦境に立っていた。しかし、それは、クイーンの生涯の最初のことではなかった。ウォルター・ゴッドフリーは、この邸の完全な主《あるじ》とはいえないし、太った小男で、顔の毛穴に毛も生えないタイプの男だった。しかしながら、エラリーには、いわゆる一宿一飯の恩誼《おんぎ》がある、しかも、ゴッドフリーの――顔の延長である――ひげを引き抜くことは、客人の仁義にひどく反する行為だった。
簡単に言えば、エラリーは、盗み聞きすべきか否かという、月並みなジレンマのせとぎわに立っていたのである。ところで、盗み聞きは歓待に対する侮辱であるが、探偵の仕事には根本的に必要なものなのだ。そこでエラリーの心中の大問題は、まず客人であるべきか、探偵であるべきかということなのだ。エラリーは、盗み聞きのチャンスが来るとすぐ、自分はただ特別の事情のもとに、客として黙認されているだけなのだ、それゆえ、自分が職務としている真実を追求するために、鋭い耳を力いっぱい働かせて聞く義務があると、決定した。そして、聞いた結果は啓発的だった。そして、かの、クリストが最後の晩餐《ばんさん》に使った聖杯(その聖杯は不徳の者が近づくと消え失せると言われている)を探し出すことも、ひとつの真実、ひとつの不滅の言葉を、ほんのちょっと見つけることにくらべれば大した困難をともなうものではないと思った。
まったく思いがけないことだったので、エラリーは、その瞬間、良心と格闘しなければならなかった。エラリーは人っ子ひとり見えないからっぽの家の中に降りて行った。広い洞窟《どうくつ》のような居間には誰もいなかったし、首を突っ込んでみた書斎も暗かったし、中庭《パティオ》にも人影がなかった。皆はどこにいるのだろうと思いながら、エラリーはひとりで、生暖かい日の光の中を、花の匂う庭に歩いて行った。
少なくとも、自分ひとりきりだと思っていた。貝がらで飾った小路の角まで来て、女のすすり泣きが聞こえるまでは、そう思いこんでいた。庭のそのあたりは木々の葉が茂って、灌木の背が高かったから、そのかげで、エラリーの姿はまったく向こうからは見えなかった。やがて男の声がしたので、エラリーには、思いもかけぬゴッドフリー夫妻が、曲り角の向こうにいるのが分かった。
ゴッドフリーは、低い声で話していたがそれでもなお、鞭打つような口調を消すことができなかった。「ステラ、お前に話さにゃならんぞ。もう、だれかが、きまりをつけてもいい頃だ。お前がこの事件の真相を話すか、でなかったら、わしが自分で、その理由をさぐり出すぞ、分かったな」
エラリーは、ほんのしばらく、とまどったが、やがて、とても熱心に聞き耳を立てた。
「おお、ウォルター」と、ステラ・ゴッドフリーは、すすりあげて「あたくし――うれしいわ。だれかに話さずにはいられなかったの。まさか、あなたが……」
告白にはうってつけの時だった。月はおぼろで、庭のたたずまいは、重荷を背負う魂に誘いかけていた。
億万長者は、いつもよりずっとやさしい声でうなった。「いやはや、ステラ、わしにはお前が分からんぞ。なにを泣いとるのだ。嫁に来てから、ずっと泣くよりほかは、何もしなかったようだぞ。お前の望むものは総て与えとるのは神さまもごぞんじだし、わしにほかの女などおらんことを、お前も知っとるじゃないか。話というのは、マルコ奴のことか」
ステラはおどおどと口ごもって「あなたはあたくしに何でもくださいましたが、かまってはくださいませんでしたわ、ウォルター。あなたはあたくしを無視なさってたのよ。あたくしがあなたと結婚したころには、あなたはもっとロマンチックでしたわ。それにあなたは――そんなに肥えていらっしゃらなかったわ。女はロマンスをほしがるものよ、ウォルター……」
「ロマンスだと」と、ゴッドフリーはふふんと鼻をならして「ばかな! もう子供じゃないんだぞ、ステラ。そんなものローザや、コートという若造なら、まだいいが。わしとお前が――もうそんな年じゃない。わしは卒業した。お前だって卒業したはずだ。いつまでも大人にならなくて困った奴だな。もう孫があってもいい年だということが分からんのか」しかし、その声には不安なひびきがあった。
「あたくしはいつまでも卒業しませんわ」と、ステラがかなり高い声で、「それがあなたにはお分かりにならないのね。それだけじゃないわ」ステラの声は落ちついてきた。「あなたは、あたくしを愛さなくなっただけじゃなくて、あなたの生活からあたくしを、まるっきり放り出してしまったんですよ。ウォルター、あなたが、ジョラムという汚い年寄りに気を使う十分の一もあたくしにかまってくださったら、あたくし――あたくしとても倖せだったでしょうに」
「ばかなことを言うもんじゃない、ステラ」
「あたくしには分からなかったのよ、なぜ、あなたが……ウォルター、本当よ。あなたが――あたくしをあんなことに、追いやったのか――」
「どんなことだ」
「つまり――こんなことよ。こんなごたごたよ。マルコは……」
ゴッドフリーが、あんまり長く黙りこんでいたので、エラリーは、どこかへ行ってしまったのではないかと、いぶかった。しかし、やがてゴッドフリーが荒々しく「やっと分かったぞ。ばからしい! わしに、いい子になっとれと言うんだな。お前が言おうとするのは――ステラ、わしはお前を殺せるんだぞ」
ステラはささやくように「自分で死ねますわ」
風がおこって庭を吹きすぎ、さやさやと妙な余韻《よいん》をのこした。エラリーは、その中に立ちつくして、ちょうどいい時に眼がさめた運のよさに感謝した。大気の中に啓示《けいじ》があった。まったく思いもかけないことだ――
億万長者は、静かに訊いた。「いつからだね、ステラ」
「ウォルター、そんな目で見ないでくださいな。……この――この春からよ」
「あの男に出会ってすぐ後だな。わしはなんて、間抜けだったんだ。あの男は苦もなくウォルター・ゴッドフリーの大事な桃を摘みとったんだな。間抜けな話だ。わしはくだらんこうもりみたいに盲目《めくら》だった。わしの鼻先でな……」
「そんなこと――そんなこと決して起こらなかったと思うわ」と、ステラはのどをつまらせて「もしあの人が……おお、ウォルター、あの晩は、あなたは本当にひどかったわ――とても冷淡で、とても無関心で。あの人が家まで送ってくれたのよ。家に送りかけたときに、あの人は――あたくしに言いよりました。あたくしは、はねつけようとしました。だけど――とにかく、あの人は自分のフラスクから、あたくしに一杯のませました。それからもう一杯。そしてそのあとは――おぼえていませんわ。おお、ウォルター――あの人はあたくしを自分のアパートへつれて行ったのよ――あすこへ行ってしまったのよ。あたくしは――」
「ほかに何人ぐらいそんな男があったんだ、ステラ」小柄な男の声は冷たい鋼鉄のようだった。
「ウォルター」と、おびえ上がった声で「ちがうわ……あの人がはじめてよ。たったひとりよ。あたくしはそれに耐えられなくなったのよ。おお、あなたにお話しなければならないわ。そして、あの人は――あの人は……」エラリーには、夫人の若々しい肩のふるえが見えるようだった。
肥えた小柄の男は、どうやら小路を歩きまわっているらしかった。砂利をふむ靴が、短く、はじけるような音を立てた。エラリーはおどろいた。ナポレオンのような小男が実際にため息をついているんだ。「そうか、ステラ、これはお前だけの過ちでなく、わしの過ちでもある。わしは時々、細君が不貞だったのを知ったときの亭主の気持ちはどんなだろうと思っていた。新聞によく出とるだろう――ピストルをとり上げたり、細君の頭をなぐりつけたり、自殺をはかったり……」と、ゴッドフリーは言葉を切って「しかし辛いぞ。実に辛いぞ。ステラ」
ステラは小声で「はっきり申しますわ、ウォルター、あたくしは決してあの人を芯から愛したのじゃないわ。ただほんの――あたくしの言うことが分かるでしょう。あんなことになったすぐあとで、あたくしは自殺することもできたはずなのに、たとえあの人が――あたくしを酔わせたとしてもね。あたくしはあなたより、よほど苦しんだのよ。でも、わなにかかってしまって、あの人――おお、あの人はおそろしい男だったわ」
「そんなわけで奴をここへ招待することになったのか」と、ゴッドフリーが呟いた。「わしも、口のきけん動物なりに、変だとは思っとった。お前はいつも、くだらん奴を招いてはいたが、あいつはきわだってくだらなかったぞ、しかもお前の情人とはな!」
「いいえ、ウォルター、あたくしは来てもらいたくなかったのよ。とうの昔に、手が切れていたのよ。でも、あの人が――あの人がむりに、お客にするようにと強いたのよ……」
砂利をふむ音がとまった。「お前はぬけぬけと、奴が自分で自分を招待したと、言うつもりか」
「そうよ。おお、ウォルター……」
「結構なこった」と、苦々しく「自分で招待して、わしの食いものを食い、わしの馬に乗り、わしの花を摘み、わしの酒を飲み、わしの女房をかわいがったんだな。奴にはさぞよかったろうて……それからほかの連中は?……マン夫婦や、だらしのないカンスタブル婆さんは?――連中をどこからひろって来たんだ。例のいつもの舞台裏からだろう。どうだな。すっかりわしに話しちまうがいい、ステラ。お前は気がつかんだろうが、わしらをひどい泥沼に落し込んだんだぞ。もし警察がお前とあの男のことをかぎつければ――」
しゅっと、激しく衣《きぬ》ずれの音がしたので、エラリーには夫人が夫の腕に身をなげたのが分かった。
エラリーはたじろいだ。非常に不愉快だった。死体解剖に立ち合っているようだった。しかし、唇をかみしめて、いっそう聞き耳をたてた。
「ウォルター」と、ステラがささやいた。「しっかり抱いて。こわいのよ」
「よしよし、ステラ、よく分かったよ」と、ゴッドフリーが、いく度も、やさしく、機械的にくり返した。「あらいざらい調べることにする。だから、真相をすっかり話さなければいかんよ。ほかの連中はどうなんだ。どこからやって来たんだ」
ステラはかなり長く黙りこんでいた。こおろぎが茂みで気違いのように啼《な》きたてた。やがてステラは、まるでため息のように、ひどくかすれた声で言った。「ウォルター、あの人たちが、ここに来るまで、実は、どなたにもまるっきり会ったことがなかったのです」
ゴッドフリーの驚きが、エラリーにも感じとれた。それは、手でさわれない突風になって、甘い空気の中にひろまった。ゴッドフリーは、息をつまらせて、適当な言葉を口に出すのに、しばらくかかった。「ステラ」と、やっと吐きすてるように「どうしてそんなことになったんだね。ローザが連中を知っとるのか。それともデーヴィッドか?」
「いいえ」と、ステラはうめくように「いいえ」
「しかし、どうして連中が――」
「あたくしが招きましたの」
「ステラ、ばかを言うな。さあ、しっかりするんだ。とても重大なことなんだぞ、どうやって連中を招くことができたんだ、知りもしないのに――」事ここにいたっても、ゴッドフリーには真相がつかめなかったらしい。
「マルコがあの人たちを呼ぶように言ったのです」と、ステラはしょげて言った。
「お前に命令したのか。奴が、いきなり、連中の住所氏名をつきつけて」
「そうよ、ウォルター」
「説明もしないでか」
「ええ」
「連中が来たとき、どうだった。なんとしたって、連中もそんな招待を、気持ちよく受けられんだろう――」
「分かりませんわ」と、ステラはゆっくりと「本当に分かりませんわ。とても変で――とても、こわいこわい夢みたいでしたわ。カンスタブルの奥さんが一番変でした。あのひと、最初からお芝居をしていて、まるで、ずっと昔からあたくしのお友達ででもあるように……」
ゴッドフリーの声が持ち前の甲高さをとりもどした。「最初からだって。来るとすぐここでマルコに会ったのか」
「ええ。どうやらあのひとは――マルコを最初に見たとき、気絶しそうでしたわ。でも、まんざらマルコを知らない仲とは思えませんでしたわ。きっと知っていたんだと思います――あのひとは今度の出会いには覚悟をかためていたんでしょうが――それでも、結局ショックを受けたんでしょう。マルコは冷静で――あざ笑っているようでした。まるで一度も会ったことがないような顔で紹介を受けたりして……しかしあのひとは、すぐに、ごまかし始めました。よほどこわかったのよ。――死ぬほどこわがっていたのよ」
ステラ・ゴッドフリーよ、あんたをこわがらせたのと同じことをこわがっていたんだと、エラリーは冷やかに考えた。しかも、この期《ご》におよんでも何かを隠しているな、ステラ・ゴッドフリーよ。この瞬間にも、あんたをこわがらせているものが、まだあるのを、言おうとしないな――。
「あのでぶの鬼婆め」と、億万長者は考えこみながら「もちろん、ありそうなことだ……それから、マン夫婦は?」
ステラの答えには、はっきりと疲労の色があった。「あのひとたちも妙よ。ことにマンの奥さんがね。あのひと――おかしいわ。安っぽい、あつかましい女よ、ウォルター、あなたが赤新聞でみる、欲ばりなコーラス・ガールみたいな女よ。あんな女が何かをこわがるなんて考えられないでしょう。ところが、マルコに会った最初から、死ぬほどこわがっていたのよ。あたくしたち――三人とも目かくしをして崖ぷちを歩いているようだったのよ。お互いにこわがって、恐る恐る話し、こわごわ息をし、互いにうち明けることをおそれて――」
「それで、マンは?」と、ゴッドフリーが、ぶっきら棒に訊いた。
「あたくし――あのひとはまるで分かりませんわ。あなたにも見当がつかないでしょ、ウォルター。粗野で下品で、そのくせ実力があって、考えていることを決して見せないわ。ここでは、あの程度の人としては本当に立派にふるまってるわ。あの人は≪上流社会≫の人間らしくしようとして、とても努力しているわ。社交界の人間になろうとして」
「マルコをどうあしらっていたかね」
ステラは少しヒステリックに笑った。「おお、ウォルター、それがとてもおかしいのよ。あなたと同じ屋根の下に、なんという人が住んでいたんでしょう……マルコを軽蔑しきってましたわ。大嫌いでした。ぜんぜん問題にしなかったのよ。たった一度、いつかの夜マルコが、マンの奥さんを庭に散歩につれ出したときだけあたくしは――マンさんの目の色ったら。ぞっとするようでしたわ」
またしばらく沈黙が続いた。やがて、ゴッドフリーが静かに言った。「そうか、分かるような分からんような話だな。お前たちは、マルコが別々の時にくどいた三人の女だったんだな。お前の弱味につけこんで、奴は楽しく、無邪気で、まっとうな夏休みをロハで過ごすチャンスをつかまえたんだ。どぶ鼠奴。それでほかの連中をここに招待させたんだ……わしが知ってたらなあ、知ってさえいたらなあ。ローザを捲きこませなかったのにな。奴はローザにも言いよっていたんだ、畜生奴。わしの娘ともあろうものが――」
「ウォルター、ちがうわ」と、ステラが怒って「あの人はローザをちやほやしたかもしれないけれど――目当はほかにあったのよ。たしかよ、――ローザじゃないわ。ローザじゃないのよ、ウォルター。あたくしは自分のことにかまけていて、どうなっているかまるで目くらになっていたのよ。アールの様子を見れば分かりそうなものだったのにね。かわいそうに、あの子、気違いのようになって……」
エラリーには、夫人が急に、はっと息をのむのが聞こえた。注意して茂みをはなれた。小枝が折れたが、二人には聞こえなかった。月の光を浴びて、二人はぴったりと寄り添いながら、道に立っていた。女は男より背が高かった。しかし男は女の手首をつかんで、みにくい横柄な顔に、実に奇妙な表情をうかべていた。
「お前をたすけてやると言ったが」と、男は、はっきりした口調で「まだ、すっかり話しとらんな。お前があんな女たらしの、道具に使われて、言いなりになっていたのは、わしに見つかるのが、こわかっただけなのか。こわさだけじゃなくて――ほかにも何か理由があるんじゃないのか。ほかの二人の女をちぢみ上がらせていたのと、同じ理由があるんじゃないのか」
しかし、侵害された宿主《やどぬし》たちの権利を守る、天の力があるものだ。それに、盗聴というものは、どう考えても当てにならぬ仕事だ。
誰かが小路を登って来た。ゆっくりと、重くひきずる足音で、芯《しん》から、ひどく疲れているのが分かった。
エラリーは、すばやく灌木の茂みにかくれた。こうしてその夜の、ステラ・ゴッドフリーの答は、ついに聞けない運命だった。エラリーはものかげにうずくまり、息をつめて、あわてて見すてた小路にひとみをこらした。
ゴッドフリー夫妻も、足音を聞いた。二人は、ぴたりと静かになった。
小路をやって来たのは、カンスタブル夫人だった。ぼわっと姿が浮かんできた。妙にぶかぶかしたオーガンディの服を着、でっぷりとしたむき出しの腕が月の光で大理石のように見え、まるで青白い幽霊のようだった。まだ足をひきずり、砂利道をそうぞうしくふみつけていた。その大きな顔は夢遊病者のうつろさそっくりだった。ひとりきりだった。小路の角を曲るとき、大きなお尻がエラリーのすぐ頭の上をかすめた。と同時に、びっくりしたような挨拶がはじまったが、それは玩具の鳥が機械仕掛けでさえずる唄のように作りものだった。
「まあ、カンスタブルの奥さま。どちらへお出ましでいらしたの」
「こんばんは、カンスタブルさん」
「おや。私――ただ散歩していましたのよ……ほんとにおそろしい日で……」
「ええ、本当にねえ――」
エラリーは、ひそかに運命の復讐心にいきどおりながら、そっと小路にはい出して、こっそり去った。
[#改ページ]
九章 夜、その青黒き猟人よ
マクリン判事は目をさまそうとしていた。しばらくは黒い大きなもやもやをかき分けて行こうとしているようだった。しかし、やっと、はっきり目がさめ、感覚がよみがえって、もの音を聞こうと意識しないうちに聞き耳をたて、目がぱっちりと開かないうちに、暗闇を通してものを見ようと緊張していた。はっと感じると、老いた心臓がピストンのようにどきどきした。危険を感じながら、静かに横たわっていた。
誰かが部屋にいるのを感じた。
目のすみで、スペイン風のバルコニーに通じている床までつづく大窓を見やった。カーテンは半分引かれているだけで、星のちらばる夜空が見えていた。夜中にちがいなかった。何時ごろだろう。思わず身ぶるいしたので、夜着がごそごそ鳴った。判事には夜の訪問者、まして殺人のあった家での夜の訪問者など、思いがけなかった。
しかし、だんだんに脈が静まって、何事もなかったかのように平常にもどり、常識が侵入者に対して働き出した。相手が誰であろうと、自分の命にふいに襲いかかろうとしているのかもしれないと、真剣に考えた。老いた筋肉の力を集めて、はね起きる用意をした。まだ、まだ、とっ組み合いにひけをとるほど、老いぼれてはいなかった……
突然、ドアが軋った。そして――闇になれた目には――何か白いものがドアを抜け出すのがはっきり見えた。訪問者が出て行くところだった。
「うおう」と、大声をあげて、裸の足を床につき出した。
どこか近くで落ちついた声が、むぞうさに「おお、とうとう起きましたね」
判事はとび上がった。「なんてことだ、エラリーか」
「ぼくですよ。あなたも、うろつきまわる奴の足音を聞いたでしょう。だめ、だめ、灯りはつけないで」
「すると君だったのか」と判事は息を弾ませて「いましがた――」
「出て行ったのが? とんでもない。ボーデの法則では、二つの物体が、同時に、同じ空間を占めることはできないとなってるじゃありませんか。まあ、それはそれとして、ぼくは科学に弱いですからね。いや、あれはぼくが待っていた、夜渡りですよ」
「待っていた?」
「実は、あの女がまさかこの部屋に来ようとは思いがけませんでしたよ。だが、すぐに説明がつくと思いますね――」
「女だって?」
「おお、そうです。女です。お白粉《しろい》がにおうでしょう。匂いと製造元の名が分からなくて残念です。ぼくはその方面のことは、ヴァンス(バンダイン)ほど、くわしくないんです。事実、その女は、何か長い、ふんわりした白いものを着ていました。ぼくはもう一時間以上もこの辺を見張っていたんです」
老判事はどもりながら「ここからかね」
「いいえ。もっぱらぼくの部屋からです。あの女がここへ入るのを見て、境のドアからとび込もうと考えていたんですよ――もし――万一の場合にはね。あなたはたいせつなお年寄りですからね。あなたが、しちくどい天女《ハウアリ》〔回教の極楽の女〕の夢を見つづけている間に、あの女が襲いかかるかもしれませんからね」
「下品な冗談はよせ」と、判事は声をひそめてぴしゃりと言った。「どうして、わしを殺そうとする者がいるんだ。ここの連中はほとんど知らないし、わしが誰にも何もしておらんことはたしかだ。何かの間違いにちがいない。あの女は部屋を間違えただけなんだ」
「ああ、きっとそうでしょう。からかってみただけですよ」判事はまだベッドの上にいた。何の物音もきこえなかったのに、エラリーがまた何か言ったとき、その声は部屋の向こう側の――ドアのほうからきこえてきた。「ふむ。あの女は一時的に、退却してみせたんですよ。待たなくっちゃならないようです。あなたがごそごそとベッドを出ようとしたので、おどろいて逃げ出したんでしょう。あなたはどうするつもりだったんですか」と、エラリーはくすくす笑いながら「ターザンみたいに、のど笛にとびつくつもりだったんですか」
「女とは思わなかったんでね」と、判事はてれくさそうに「ここに寝たままきざまれたくなかったんだよ。いったい、何者だろう」
「分かればいいんですがね。連中のひとりかも知れませんよ」
マクリン判事はひじ枕でねそべった。そして、ドアとおぼしきあたりに目をこらした。エラリーのじっとしている姿がかろうじて見えた。「おい」と、やがてふいに声をかけた。「話さんつもりか。どんなことがあったのだ。なぜ待ち伏せとるんだ。どうしてかぎつけたんだ。わしはどのくらい眠ったのかね。いらだたしい男だな――」
「わあ。一度にひとつずつ訊いてくださいよ。ぼくの腕時計は二時半をさしてますよ。あなたはとても目ざといんですね」
「あのとまどい女が現われなかったら、まだ寝てたろうな。また体がずきずきしだしたぞ。おい、どうなんだ」
「語れば長き物語りですよ」エラリーはドアを開けて頭をつき出した。そしてすぐにひっこめてドアを閉めた。「まだ、何も起こりません。ぼくは十時まで寝てたんです。あなたも、空腹でしょう、ね。テイラーが、うまいものを持って来てくれたんですよ――」
「テイラーなんかどうでもいいし、わしは腹もへっとらん。訊いたことに答えるんだ、ばか者! どうして、今夜は誰かがうろつきまわるだろうと見当をつけた? そして、何を見張っとるんだ」
「ぼくが見張っているのは」と、エラリーが「誰かが、となりの部屋に入るだろうと思って」
「となりは、お前の部屋じゃないか」
「反対側です。すみの部屋です」
「マルコの部屋か」と言って、老判事はしばらく黙っていた。「しかし、見張りがついとるんだろう。たぶんあのラウシュという刑事が――」
「それが妙なんです。ラウシュ君は、テイラーの寝室のゆりかごですやすや眠りこけているんですよ」
「そんなことしたらモリーがかんかんだぞ」
「ちがいますよ。少なくともラウシュには怒りません。あのね、ラウシュは命令で見張りをといたんです。実は――ぼくの命令で」
判事は、ぽかんと口をあけて闇を見つめた。「お前の命令で。わけがわからん。それとも罠《わな》かね」
エラリーはまた廊下をのぞいた。「あの女は、おびえ上がったらしい。あなたを幽霊とまちがえたのでしょう。……まさにそうです、罠です。邸の連中はみんな十二時前に引きとりました。かわいそうに。みんなくたくたでした。しかし、ぼくはそれとなく連中――みんなに――教えといたんです。死人の部屋のドアに見張りを置いても意味がない、あの部屋は捜査ずみだからと。そして、ラウシュ刑事が寝に行ったことも知らせといたんです」
「なるほど」と、判事はつぶやいて「すると、どうして誰かが罠に落ちるだろうと思ったのだ」
「それは」エラリーは落ちついて「また別の話ですよ……しっ!」
判事は息をつめた。下あごがぴくりとした。エラリーが耳に口をよせて「もどって来ましたよ。静かに。ちょっとのぞきに行きますからね。おねがいですよソロン殿、妨害しないでください」そう言って出て行った。床までたれている窓のカーテンが、音もなく、少しゆれ動き、エラリーの影が浮かんで消えた。判事は、ふたたび、遠く冷たい星をながめた。
寒気がした。
十五分すぎた。判事の耳には、崖下の岩打つ波と、窓から吹きこむ冷たい海風のほかは、何の物音もきこえなかった。マクリン判事は、そっとベッドからはい出し、やせたパジャマ姿を、ベッドからはいだ絹の掛蒲団でくるみ、部屋ばきを足に突っかけて、窓に忍びよった。頭のてっぺんの髪がさかだって、ちょんまげのような房になり、両肩をいかめしく掛蒲団で鎧《よろ》ったところは、出陣する昔のインディアンの斥候みたいにグロテスクだった。しかし、そのこっけいな姿におかまいなく判事はインディアンの伝統にしたがい、鉄柵をめぐらした細長いバルコニーに忍び出て、すぐ向こうの窓のそばにいるエラリーのわきへ行った……死んだジョン・マルコの寝室の窓のひとつだった。
エラリーは苦しそうな恰好《かっこう》で横向きにねそべり、一本の光の縞《しま》に目をくっつけていた。ベネチアン・ブラインドがぴったり下りていなかったので――夜盗側の不注意な見落しだ――ブラインドの下のほうにあいたままのすき間から室内がまる見えだった。エラリーは、判事が来るのを見て、気をつけるように頭で合図し、少し席をゆずった。
老紳士はそっと掛蒲団をひろげて、その上にやせた尻をおろし、ほとんど折り重なるようにして、エラリーのそばから部屋をのぞきこんだ。
大きなスペイン風の寝室は、たいへんな乱雑ぶりだった。押入れの戸は開けっ放しで、故人の衣類はひとつのこらず床にひきずり出されて、もみくちゃにされ、引きさかれたのもあった。トランクがひとつ部屋のまん中に運び出されて、ひき出しがあけられ空になっていた。数個の手提鞄《てさげかばん》と、スーツケースが失望した手で放り出されていた。ベッドもさんざんにやられていた。マットレスはナイフで裂かれて、中身と、スプリングが半分むき出していた。スプリングそのものもやられていた。天蓋のたれ幕は、むしりとられていた。部屋中の引き出しは、ひき出されて、その中身が、床にちらばって手もつけられないありさまだった。壁の絵も調べたとみえて、ゆがんでかかっていた。
判事は頬がほてってきた。「いまいましい鬼めはどこだ」と、低くうなった。「この冒涜《ぼうとく》を犯した奴は。わしは喜んでそいつを絞めあげてやるぞ」
「いや、償《つぐな》いのつかぬ損害でもありませんよ」と、エラリーは、光の縞から目を放さずに言った。「みかけのほうがひどく見えるんですよ。今、女は浴室にいます。きっと同じようなさわぎをやってるんでしょうよ。ナイフを持っています。壁にとびつくところを見せたかったな。まるで、オッペンハイムやウォーレスの小説に出てくるような抜け道があるとでも思っているらしかったですよ……しっ! レディのご入来です。美人じゃありませんか」
判事は目をむいた。セシリア・マンだった。
トイレットの戸口に立っているのは、仮面を脱いだセシリア・マンだった。明らかに、この女が常日頃世間《つねひごろせけん》に向けている顔は厚化粧だけのものだった。その下には、何か別のいやらしいものがかくされているのを、今、臆面もなくさらけ出していた。それは何か、生々しく、むき出しで、けがらわしいもの、ひんまげた唇、ぴんと張った青い肌、虎のような目をした生きものだった。片手は何もない空中を引っかき、片手には、台所からくすねてきたらしい普通のパン切りナイフを振りまわしていた。衣服ははだけて、あえぐ小さな胸が、なかばあらわになっていた。
セシリアは、かつて人間が見た、人間の怒り、困惑、絶望、恐怖というものを、もっとも的確に浮きぼりした絵のようだった。ブロンドの髪まで激情にかられて、かわいた雑巾のように不気味にさか立っていた。そのどぎつく、生々しい醜さを見ていると、ふたりは嘔き気がした。
「いやはや」と、老紳士は声を殺して「あの女は――ありゃ、けだものだ。あんなのは、かつて見たこともないぞ……」
「こわがっているんですよ」と、エラリーが小声で「こわいんです。みんなこわがっているんです。マルコはマルコ流に、マキアベリのような手練手管と、バアルゼブブ〔「マタイ伝」にある魔王〕のようなこわさをまぜ合わせたような男だったんでしょうね。奴はひとをふるえ上がらせて――」
ブロンドの女は猫のようにとびついた――まっすぐ電燈のスイッチに向かって。あとは真の闇だった。
二人は凍りついたように身を伏せていた。あんな瞬間的な筋肉の反射運動をさせた、ただひとつの理由は、きっと、誰かが来るのに気がついたからだろう。百年も経ったような気がした。実際はエラリーの腕時計が一、二回かちかち打っただけだった。ふたたび灯がついた。またドアが閉められ、カンスタブル夫人が、框《かまち》のそばのスイッチに片手をおいたままで、ドアを背に立っていた。マン夫人の姿は消えていた。
中年太りの女は、全身ことごとくジェリーのようにふるえていた。体も目も、ぶよぶよだった。目も、胸もだぶつき、全身ふくれていた。だが二人をひきつけたのは夫人の目だった。その目は、ごちゃごちゃなベッドや、とりちらかされた床や、からっぽにされた引き出しをじっと見ていた。スローモーションの映画を見ているようだった。二人は、夫人の目と、たるんだ顔に反映する心中の思いをいちいち読みとることができた。夫人はもはや、無表情な木偶《でく》の坊ではなかった。サテンの夜着の下で、全身わなないていた。太った全身のあらゆる細胞が、残らずふるえていた。驚きと、あわてふためきと、すべてが分かったことのあきらめと、絶望。そして、最後には、それらがまじり合った恐怖。まるで、大きなろうそくが溶けて熱い油になるように、夫人は恐怖にとけこんでいた。
夫人は、ひとかたまりの夜着と肉にでもなったように、床にひれ伏して、心臓がさけるばかりに、すすり泣いた。声を殺して泣いているので、その悲しみは、いっそうたまらないものだった。口を開くと夫人ののどはまっ赤な洞窟《ほらあな》のように見え、大粒の泪がぽろぽろと顔に伝わった。ひざまずいている夫人は組んだ脚を夜着からむき出しにしたまま、ひどい悲しみにうちひしがれて、からだを前後にゆすっていた。
マン夫人が、ベッドの後ろから猫のように進み出て、床ですすり泣いている大きな動物を見下ろした。その強い美しい顔からは、野獣のような表情が消えていた。さげすんだ目つきには、あわれみさえうかべていた。うっかりして、まだ、ナイフを握っていた。
「お気の毒な、おばかさんね」と、ひざまずいている女に向かって言った。
エラリーたちにも、はっきりと聞こえた。
カンスタブル夫人は、からだをゆすぶるのをやめた。おずおずと目を上げた。次の瞬間、サテンをひるがえして、よろよろと立ち上がり、広い胸もとをおさえて、まじまじとブロンドの女を見つめた。
「あたし――あたし――」そのとき夫人のおびえた目がマン夫人の手のナイフにそそがれた。たるんだ頬から血の気がひいて、すさまじい色になった。二度ほど口をもぐもぐしたが、二度とも、声にならなかった。やっと、ぼそぼそ言った。「あなた……ナイフ……」
マン夫人は驚いたようだった。だが、太った女がおそれているものが分かると、にっこり笑って、ナイフをベッドに投げ出した。「ほら、こわがらなくてもいいのよ、カンスタブルの奥さん。うっかりして持ってたのよ」
「おお」ほとんどうめき声だった。カンスタブル夫人は夜着のえりをかき合わせながら、目を細くとじて「きっとあたし――歩いたらしいのね……眠りながら」
「あんたは、このセシリアに、うそを言わなくてもいいわよ」と、マン夫人は、そっけなく「あたしもマルコの女のひとりだったのよ。すると、あのひとは、あなたにも、ハードルをとびこさせたのね。意外だったわ」
太った女は唇をしめした。「あたしは――何をおっしゃってるの」
「気がつくべきだったわ、あなたも私同様、ここの奥さまクラスではないんですものね。あの男は、あんたにも手紙を出したのね」マン夫人は、相変らず、あわれみとさげすみをこめた、きつい目で、醜く形のくずれた中年女をじろりと見た。
カンスタブル夫人は、夜着をいっそうかき合わせた。ふたりの目がぶつかった。すると、夫人は泣きべそをかきながら「そうよ」と言った。
「≪|急いで《プロント》来い≫と言ったんでしょ。至急《プロント》。これは私の夫の好きな言葉のひとつよ」わけもなくマン夫人は身ぶるいした。「ゴッドフリー夫人から招待されると言ってきたんでしょう。そうして、やがて招待が来たんでしょう。そのとおりでしょう。まるでずっと前からの知り合いのようにね。まるで、お下げ髪の頃から一緒にシャーロット・プディングを舐《な》めたみたいにね……分かってるわ。私にもそうだったのよ。それであなた来たのね。ねえ、それで来たんでしょう。こわかったんでしょう」
「そうよ」と、カンスタブル夫人は小声で「こわかったのよ――来ないと」
マン夫人の唇がゆがみ、目がもえた。「悪い奴ね……」
「あなたは」と、カンスタブル夫人は言いかけてやめ、だまって、手で弧をえがきながら「あなたがしたのね――これ」
「そうよ、あたしよ」と、ブロンドの女が、かみつくように「あなたは、私が手をつかねているとでも思ったの。あの男はあたしをさんざん苦しめたのよ。ねちっこい厭な奴よ。あたしはたった一度のチャンスだと思ったのよ。警官は眠りこんでるし……」
マン夫人は肩をすくめて「でも駄目だったわ。あれはここにはないのよ」
「まあ」と、カンスタブル夫人はささやくように「ないの。そんなこと――あるはずよ。おお、ないなんて考えられないわ。生きていられないわ――最初は、あなたが来て見つけたものと思っていたのよ」カンスタブル夫人はマン夫人の肩をつかみ、狂暴な目で睨んだ。「嘘じゃないわね」と、どもりながら「あたしを欺してやしないわね。ねえ、おねがい。あたしには年頃の娘がいるのよ。息子も結婚したばかりよ。子供たちは大きいのよ。あたしはいつもまともに暮して来たのよ。あたしは――どうしてあんなことになったのか分からないわ。いつも、あのひとのような人にあこがれていたのよ……おねがいよ……みつけたと言ってちょうだい……ねえ、言ってちょうだい」夫人の声は叫ぶように高まった。
マン夫人は、ぴしりと相手の顔を打った。叫び声がとぎれ、相手は頬を押えて、よろよろとたじろいだ。「ごめんなさい」と、マン夫人は言った。「そんなに叫んだら死人も目を覚ますわ。すぐおとなりにあの老人が寝ているのよ――さっき、まちがえて、あの人の寝室にはいっちゃったの……さあ、しっかりなさいよ。ここを出ましょう」
カンスタブル夫人は腕をとられて、今は、すなおに泣いていた。「でも、どうしたらいいんでしょう」と、悲しみながらうめいた。「どうしたらいいんでしょう」
「しっかり肚をすえて、口をつぐんでいるのよ」マン夫人は沈みこんだ女をじろじろ見て、肩をすくめた。「明日の朝、おまわりさんがここに来て、このさわぎを見たら、ただじゃすまないわよ。あたしたちは何も知らないことにするのよ、分かってるわね。何にもよ。仔羊のように寝ていたことにするのよ」
「でも、お宅のご主人は――」
「そう、うちの主人」と、ブロンドの女は目をけわしくして、ぶっきら棒に言った。「下の部屋で、大いびきをかいているわ。さあ、カンスタブルの奥さん、行きましょう。この部屋は――健康的じゃないわ」
マン夫人はスイッチに手をのばした。灯が消えた。やがてドアが、かちりと閉まる音が、窓ぎわのふたりの男に聞こえた。
「一巻の終り」と、エラリーは、しびれた足をもみながら、立って言った。「さあ、さあ、早くベッドにもぐり込んだほうがいいですよ。お若いの。肺炎にかかりたいですか」
マクリン判事は、夜着をとりあげて、ものも言わずに、せまいバルコニーを、自分の部屋の窓のほうへ歩いて行った。エラリーも判事につづいて窓をくぐり抜けると、まっすぐにドアのところへ行き、少し開けてみた。それから、ドアを閉めると、無造作に灯をつけた。
老紳士は考えこみながら、ベッドのふちに腰かけていた。エラリーはたばこに火をつけて、ほっとして椅子に腰を下ろした。
「ねえ」と、黙って考えこんでいる相手をいぶかしげに見ながら、やっと口をひらいた。「判決はどうですか、判事殿」
判事ははっとして「わしが引っこんでおる間に、どんなことがあったか話してくれんかエラリー。そうすれば、もっとはっきり筋道が立てられるんだがな」
「大したことはなかったですよ。大ニュースはゴッドフリー夫人がみんな話したことです」
「というと」
「妻が月光のもとで、夫に不貞を告白し、探偵が耳をすましてそれを聞く、ですよ」と、エラリーは肩をすぼめた。「しかも、啓発的でした。いつかは口を割るだろうと思っていましたがね、まさかご亭主に向かってとはね。大した男ですよ、ゴッドフリーは。相当なもんです。あらゆる点から見て、あの男は、妻の告白を見事に受けとめましたよ。……夫人は、われわれが前に論じていたことを確証しました……カンスタブル夫人にもマン夫人にも、スペイン岬に招待するまでは一度も会ったことはないと言うんです。そしてあの連中を、強制的に招待させたのはマルコだったようです」
「ああ」と、判事が言った。
「それで、カンスタブル夫人と、マン夫人は――少なくともマン夫人は――ゴッドフリー夫人と同様に、この事態に閉口していることは明白です」
老紳士は無心にうなずいた。「うん、うん、分かるよ」
「しかしながら、ひょっこりカンスタブル夫人がやって来たので、告白の重要な点が中断されました。大して」と、エラリーはため息をして「問題じゃありません。しかし、ゴッドフリー夫人の口から、聞きたかったんですよ」
「ふむ。君はあの夫人が、告白した以外のことを、まだ何か隠しているというのかね」
「たしかにね」
「しかし、あの細君がゴッドフリーに話そうとしたことは見当がついとるんだろう」
「まあね」と、エラリーが言った。「分かります」
判事は組んでいた長いすねをのばして、浴室にはいって行った。そして、顔にタオルを当てて出て来た。「ところで」と、ふくみ声で「隣室の一幕を見たんだから、わしにも分かりそうだよ」
「そりゃあいい。じゃ、一緒に検討しましょう。あなたの診断は?」
「ステラ・ゴッドフリーのようなタイプの女は、わしにも分かると思うよ」マクリン判事はタオルを放り出して、ベッドに横になった。「ゴッドフリーが社会学的標本として、どんなものであろうと、あの細君は、少なくとも、いわゆる≪階級の誇り≫といわれる、ごく普通の上流階級病の犠牲者だ。知ってのとおり、ルイスデール家の出身だ。君はあの連中のスキャンダルは一度も読んだことがないだろうな。マンハッタン草分けの、ちゃきちゃきだ。現代の経済状態がこんなふうだから、世俗的な幸運に、特別めぐまれているとも言えないが、レンブラント、ヴァン・ダイクの絵と、オランダの骨董品、それから格式ということになると、まったくのお大名だ。それがあの女の血に流れている」
「すると、どういうことになるんです?」
「ルイスデール家にとっては、基本的な罪科がたったひとつある。赤新聞に食いつかれることだ。スキャンダルを起こすなら、こっそりやれ、ということだ。そこにすべての問題があるんだ。あの女のおそれているのは、何か具体的なものを押えられているからだ。あの女はやくざとかかり合ったし、奴は具体的な証拠を握っているんだ。そんな単純なことだと思うな」
「お見ごと」と、エラリーは、くすくす笑った。「社会心理学のあやふや論文というところだし、格別、独創的でもありませんね。結論というものは、多くの事実から、当然みちびき出されるものでもないですよ。ところで、あのやくざが証拠を握っていたといわれるが、あなたが、奴をやくざだときめつければ、奴が証拠を握っているという結論が出るのは、ほぼ避けられないことでしょうよ。ぼくもそのやり方で取り組んでみて、大いに推理の労をはぶきましたよ。奴が証拠を握っているという仮定に立ってみると、万事、ぴったりと符号に合います。ゴッドフリー夫人の気違いじみたあわて方と、どうしても口を割るまいとする頑固ぶり――それは、おっしゃるとおり、夫人の遺伝質でしょう――また、カンスタブル夫人の凍りつくような怖れ方と、マン夫人の警戒ぶりと、見えすいたごまかし……マン夫人とカンスタブル夫人がここへ来るように命令されていたのを知ったとき……これはごくやさしい推理ですが――ふたりとも、どこかで、マルコの女たらしの腕にひっかかったのだという結論を出しました。そして、マルコの命令にすぐ従ったところをみると、ふたりとも怖れていたのです。たしかに、奴の握っている証拠を怖れているのです。三人の女どもはマルコの証拠を怖れているのです」
「もちろん、手紙だろうな」と、判事がつぶやいた。
エラリーは手を振って「それはどうでもいいのです。何であれ、女たちがとても重要だと思っているものです。しかし、この事態には、もっと面白いものがありますよ。マルコが、なぜ、カンスタブル夫人とマン夫人にここへ来てもらいたがったか、考えてみたことがありますか」
「サディズム的衝動だろう。ちがうな――マルコほどの美男なら――」
「そら、ね」と、エラリーは情けなさそうに「心理学が、そんな混乱を生むんですよ。サディズムですって、ちがいますよ、ソロン殿。もっとやぼったいものですよ、つまり……ゆすりです」
マクリン判事が目をむいた。「こりゃ、驚いたな。今夜はぼんやりしとるわい。恋文――ゆすり。この二つは、棒組だ。そうだ」
「そのとおり。そして三人の犠牲者を集めたのは、あの紳士が何かを企むためだったんでしょう――何を企んだのか分かりますか」
「殺されたときに、ペンフィールドにあてて書きかけていた手紙の中の例の≪清算≫だな」
エラリーは眉をしかめた。「そこからあとは、児戯《じぎ》に類します。女たちは三人とも絶望的になっていた。マルコはけちなばくち打ちじゃない。われわれの集めえた情報からみても、たしかにそうじゃない。もし、ゆすりに出たとすれば、結局、目当ては金だったに違いない。あまり欲ばりすぎたのでしょうよ、きっと。その結果、一時的に停頓状態となっている間に、だれかが、親切にも奴のくだらない命を消しちまったんでしょう。しかし、証拠は――手紙だろうと、何だろうと――まだ残っています。どこかにあるはずです」エラリーはもう一本、たばこをつけて「そこで、ぼくはあの女たちが証拠品を取り戻すチャンスをねらうだろうと見てとりました。それを見つけるためには天地も動かすでしょう。一番論理的な捜索場所は、マルコの寝室です。そこで」と、ため息をして「ぼくは、ラウシュ君に、睡眠をとる欲求をみたすようにすすめたのです」
「ゆすりとは思いつかなかったな」と、老紳士が白状した。「しかし、よく分かった――事件のあとで――あの女たちがマルコの部屋を探さなければならなかったわけがな。あ、そうか」と、判事はひょっこり起き上がった。
「どうしたんですか」
「ゴッドフリー夫人だ。たしかに、あの女は今夜、こんなチャンスを見のがすはずがない。あの部屋に見張りがつかないことを、洩らしたときに、あの女はその場にいたかね」
「いました」
「すると、あの女は捜すだろう――」
「捜しましたよ、先生、捜しました」と、エラリーは、おだやかに言って、立って、腕をのばして、のびをした。「あーあ、参ったな。ベッドにもどりますよ。あなたもそうしたほうがいいですよ」
「おいおい」と、判事が大声で「ゴッドフリーの細君が今夜、となりの部屋を、もう調べたというのかい」
「正確に、今朝の一時にね、判事どの。おかしい――あの女の一番大事なお客がこの世から旅立ってちょうど二十四時間後だ。おお、そうか、これも偶然の神の微妙《びみょう》な配剤《はいざい》か。ぼくはあの便利なバルコニーの窓にいました。無鉄砲なマン夫人よりも慎重でしたよ。部屋を生《き》のウィスキーみたいにさっぱりとして出て行きましたよ」
「では、見つけたんだな」
「いいえ」と、エラリーは境のドアに歩みよって「見つけませんでしたよ」
「しかし、それなら――」
「あそこにはないということです」
判事は、むきになって上唇をかんだ。「しかし、なんだって、君には、そんなにはっきり分かるんだね」
「それはですね」と、エラリーは、ほほえみながら、ドアをあけて「きっちり十二時半に、あの部屋をぼくが自分で捜してみたんですよ。さあ、さあ、ソロン殿、そんなにしていると熱を出しますよ。さっさとお寝みなさい。精いっぱい、休まなくちゃいけませんよ。明日は、花火大会があるような気がしますからね」
[#改ページ]
十章 ニューヨークからの紳士
「ところで、クイーンさん」と、その翌朝、スペイン岬から内陸へ十五マイルほど車をとばした所にある郡役所の所在地、ポインセットの警察本部の事務室で三人が顔を合わせたとき――モリー警視が、うなるように言った。「あんたは昨夜、ラウシュをひどい目にあわせましたな。今朝、電話で報告がありました。当然、あの男を平巡査に下げなければなりませんよ」
「ラウシュ君を責めないでください」と、エラリーは、すぐ言った。「すべてはぼくの責任でしたんです、警視。あの男はいささかも任務を怠ったわけじゃありません」
「そう、あの男もそう言っていましたが、マルコの部屋は、まるで野良猫どもにかきまわさせたみたいだと報告して来ました。その責任も君が持ちますか」
「間接的にはね」そして、エラリーは、前夜の話をした。まず、庭で盗み聞きしたゴッドフリー夫妻の会話から始めて、死者の寝室を三人の女が夜の訪問をしたことにおよんだ。
「ふむ。それは非常に興味があることですな。結構でした、クイーンさん。だが、なぜ私を仲間に入れてくれなかったんですか」
「君はこの青年を知らんのだよ」と、マクリン判事が、あっさり註釈した。「この男は、おりの中のひとり狼でね。わしに言わせれば、この男が黙っていたのは、ご自慢の論理で仕上げた仕事ではなかったからだよ。あれは、数学的な≪必然性≫ではなくて、単なる蓋然性《がいぜんせい》だったんだ」
「ずばりと動機を読みとりますね」と、エラリーは笑い出して「そんなところですよ、警視。ぼくの話をどう思いますか」
モリーは立って、鉄格子のはまった窓から、小さな町のもの静かな表通りを眺めた。「どうも」と、ぶっきら棒に「耳寄りな話ですな。その三人の女が探していたものについては疑う余地もないと思いますね。マルコはあの三人をひっかけた――つまらん古風な情事にあこがれる三人のばかな女どもをね。それから女どもの弱味になる品物を手に入れて、ねじを巻きはじめ、法外な代償を払わせたんだ。よくある話です。きっと、あの女どもはその品物を探していたんでしょう。……とにかく、そう信じますな。ところで、マルコについて、いくらか聞き込みがありましたよ」
「もうかね」と、判事が大声で「すばやいね、警視」
「おお、大して骨も折れなかったんですよ」と、モリーは謙遜《けんそん》して「今朝の便でちょいとした報告が着いたんです。大して骨も折れないというのは、奴は前にも調べられたことがあったんです」
「ほお」と、エラリーが「じゃ、前科者ですか」
モリー警視は机の上の部厚い封筒をぽんぽんはじきながら「そういうわけでもないんです。私の友人が、ニューヨークで私立探偵をやっとるんです。昨日の午後、あのマルコという奴のことをいろいろ考えてみたんだが、考えれば考えるほど、奴の名を前に聞いたことがあるような気がするんです。どうしたって、そいつは、ありふれた場合に聞いたんじゃない。するうちに聞いた場所を思い出したんです――たった六か月前に私がニューヨークへ行ったとき、その友人が奴のことを話していたんです。そこで、電報をしてみたら、私が正しかったことが分かったんです。特別航空便で情報を送ってくれました」
「私立探偵がね」と、判事は考えこみながら「どうやら焼餅《やきもち》やきの亭主がからむようだね」
「そのとおり。リオナードは――友人の名です――マルコから何かをとり上げてくれと、だれかにたのまれたんです。その|かも《ヽヽ》の細君が、マルコとねんごろになりすぎたらしいんです。ところで、リオナードは仕事のことは心得たもんです。マルコの痛いところをしっかりおさえといて、あの、のらくらいたちに尻尾をまかせ、手紙や写真を吐き出させたんです。むろん、リオナードの情報は、その特別な事件の解決以上にはおよんでいないので、マルコが、いつ、どうやって、あのマンという女と結びついたかは分からんのです。しかし、カンスタブル夫人がどうやって奴と結びついたかは分かります。というのは、リオナードが、奴を内密に調べているときに見つけたことのひとつなんです」
「すると、カンスタブル夫人との関係は、ほかの連中より早かったわけだな。ふむ。どのくらいかね」
「たった一、二か月ですよ。それ以前にも、犠牲者はかなりな数です。リオナードには本当の情報は大して手に入らなかったんです。お分かりでしょうが――マルコの元の女友達は、みんな、しっかり口をつぐんでいるんです。しかし、リオナードは、依頼者の前からマルコの姿を消させるだけのことはやったのです」
「奴は曰《いわ》くつきの経歴を持っとるにちがいないな」と、マクリン判事は考え込んだ。「ああいう悪党はたいがい持っとる」
「さよう、まあね。リオナードの言葉だと、奴は六年ほど前に、どこからともなくひょっこり現われたんだそうです。スペイン人で、毛なみはいいらしいが、落ちぶれたんだろうとリオナードは見ています。とにかく、奴は、どこかで相当な教育を受けていて、英語は英国人のように話すし、いつも詩を口ずさんでいたそうです――シェリーやキーツやブライアンやほかの恋愛詩人の詩をね……」
「バイロンでしょう」と、エラリーが訂正した。「しかしおどろいたな、警視。あんたが恋愛詩人たちにくわしいとは、意外でしたよ」
「そのくらいのことは知っとるよ」と、モリーはウィンクして「ところで、リオナードの話の続きだが。奴は金持ちや有名人のことを、まるでひとつの皿で蜜をなめ合ったかのように、なれなれしく話し、カンヌや、モンテ・カルロや、スイス・アルプスなどという、くだらん土地に精通しとるようだったそうです。初めは、しこたま金を持っているように見せかけていたが、私はどうも芝居らしいと睨んでいますよ。社交界にのり出すのも大してひまがかからなかったし、のり出してからは、順風満帆という調子。行楽地――フロリダや、カリフォルニア沿岸や、バーミュダ島などで、稼《かせ》ぐのが好きで、いたる所に、びっくりしたスカンクのような悪臭を後に残しているらしい。だが、調べあげるとなると大仕事だそうです」
「姦通《かんつう》によるゆすりは、そこが厄介だな」と、判事がいまいましそうに「相手が喜んで金を出している間は、ゆすり屋にとっては犠牲者が沈黙を守っとる保証になるんだからな」
「リオナードの報告だと」と、モリーは眉をしかめて「ほかにも何かありそうだが、それには手をつけることができなかったそうです」
「ほかにも何か」と、エラリーがちょっと驚いて訊いた。
「それが……共犯者がいるらしいです。ほんの嫌疑ですがね。マルコは何者かと組んで仕事をしているらしいのだが、そいつが何者か、どういう方法でやるかは、かいもく分からなかったそうです」
「畜生、それはとても重要なことだろうにな」と、マクリン判事が叫んだ。
「今、調査中ですがね。悪いことに」と、警視が言い添えた。「ぺてん師と組んでいたんです」
「えっ」
「おお、そいつの肩書は≪弁護士≫なんです」と、モリーがくやしそうに言った。
「ペンフィールドか」と、ふたりの男が叫んだ。
「優等生ですな。その紳士を不当に扱うべきではないかもしれませんがね。正直な弁護士なら、マルコのような屑とは組まんだろうと思いますから、そいつはぺてん師にちがいないでしょう。マルコは一度も告訴されたことも裁判にかけられたこともないらしいから、弁護士を必要としなかったはずです。ところが、マルコの代人としてリオナードと交渉して問題を解決したのが、そのペンフィールドという男です。スペイン人の奴は姿も見せなかったそうです。ペンフィールドがリオナードを訪ねて、懇談した。そのときペンフィールドが、彼の≪依頼人≫が尾行されてひどく迷惑しているが、リオナードさん、あなたは犬どもを呼びもどしてくれませんか、と言ったそうです。そこで、リオナードは指先を見つめながら、ちょっとした手紙や写真なんかのことがあって、自分の依頼人も困っているんだがと言ったら、ペンフィールドは≪それは、それは、さぞお困りでしょう≫と言った。それで二人は握手して別れた。そのあくる朝、リオナードが話した手紙と写真が全部、第一便で送り返されたそうですが、差出人の名はなかったそうです――しかし、その小包はパーク・ローの郵便局で出したものだそうです。ところで、ペンフィールドの住所は覚えとるでしょう。うまい話でしょ、どうです」
この驚くべき報告の間、エラリーと判事はいく度も目を見合わせた。そして、モリーの話が終るとすぐ、二人は同時に口を開いた。
「分かってます、分かってますよ」と、モリーが抑えて「あなた方は、マルコが、カンスタブル、マン、ゴッドフリー関係の手紙を、たぶん、この邸にはぜんぜん置かないで、ペンフィールドという奴が、マルコのかわりに、それらを保管しているかもしれないと、言いたいんでしょう」モリーは机の上のボタンを押した。「なあに、すぐ分かりますよ」
「ペンフィールドを外に待たせてるのかね」と、判事が叫んだ。
「私たちは、手っとり早いんでね……ああ、おい、チャーリイ。紳士を連れて来い。気をつけろよ、チャーリイ、手荒なことはするなよ。≪こわれもの≫と札がはってあるぞ」
ルシュース・ペンフィールド氏は、にこにこしながら戸口から現われた。ぜんぜん、≪こわれもの≫どころではなかった。事実、がっちりして、背の低い太った男で、ほとんど禿げているウェブスター〔米著述家〕型の大頭で、半白の口ひげを短く刈りこみ、エラリーが、人間の顔にかつて見たこともないほど無邪気な目をしていた。子供っぽく、天使のように、ぱっちりしていて――茶色の美しいつやをとかしこんだような目だった。まるで、ひそかに冗談をたくらんででもいるように、楽しそうに、まばたいていた。どこかディケンズ〔英作家〕風で、古びてうぐいす色になっただぶだぶでよれよれの背広を妙なふうに着ていたし、高いカラーをつけ、馬蹄型のダイヤ入りのピンで、幅のひろいネクタイをとめていた。まったくかぶと虫をふみつけそうになって、ちぢみ上がったという様子だった。しかし、マクリン判事は明らかに、この男を、そんなふうには見ていなかった。判事の面長の顔には、きびしいしわが刻まれ、目は一対の浮氷のように冷たかった。
「こりゃあ、アルバ・マクリン判事じゃありませんか」と、ルシュース・ペンフィールド氏は、手を伸ばしながら近づいて叫んだ。「ひょんなところでお目にかかるもんですね。ねえ、判事さん、ずいぶん、久しぶりじゃありませんか。月日のたつのは早いもんですね」
「しょうがないもんだよ」と、判事は握手をしようともせずに、冷たく言った。
「はっ、はっ、相変らず仕事の鬼ですな。私はいつも言うんですが、あなたが引退されて、法廷は最も誠実な法精神のひとつを失ったとね」
「君が引退するときに、同じようなことを、心から言えるかどうかあやしいな。つまり、もし君が引退するようなことがあればだが、その前に弁護士の資格を奪われるだろうな」
「相変らず、判事さんは、しんらつですな。はっはっ。ついこないだも、治安裁判所のキンゼー判事に言ったんですがね――」
「あとはいいよ、ペンフィールド君。こちらは君も、たぶんうわさを聞いとるだろうが、エラリー・クイーン君だ。このひととは、かかわり合いにならないようにしたまえ。そして、こちらは――」
「有名なエラリー・クイーンさんですな」と、禿頭の小男は叫んで、柔和なおどけた目を、エラリーにふり向けた。「これは、これは、まったく光栄ですよ。来てよかった。お父上を、よくぞんじ上げていますよ、クイーンさん。センター街では一番大事な方ですな……それからこちらは、判事さんが今、言いかけられた方、モリー警視で、私を忙しい商売から、ひっさらった方でしょう」
小男は立ったまま微笑しながら会釈して、すばやい、冗談ずきで快活そうな目で一同を見廻した。
「おかけなさい、ペンフィールド君」と、モリーはにこやかに「お話したいことがあるんです」
「君の部下の話で、そう了解していますよ」と、ペンフィールドは、すぐ椅子に腰かけた。「私の前の依頼人に関係のあることでしょうな。ジョン・マルコ君の。とんだことでした。あのひとの不幸は、ニューヨークの新聞で読みました。ご承知のとおり――」
「おお、すると、マルコは、あなたの依頼人だったんですな」
「やれ、やれ、こりゃ私にとっては、とても迷惑なことなんですよ、警視。ところでわれわれは――つまりその――内談《イン・カメラ》でしょうな。自由にしゃべれるんでしょうな」
「ええ」と、警視はきまじめに「いくらでも。だから、ポインセットまで連行させたんですよ」
「連行させた?」ペンフィールドは、いつもより、ほんの少し眉をつり上げた。「実に不愉快に聞こえますね、警視。私は逮捕されているわけじゃないと思うんですがね――はっはっ。たしかに、私はこちらの刑事の話をきくとすぐ……」
「おべんちゃらは、はしょるとしよう、ペンフィールド君」と、モリーはぴしりと言って「君と、この死んだ男との間には、関係があった。それがどんな関係か知りたいのだ」
「それを説明しようとしていたんですよ」と小男はあいまいに「警官は気が短いなあ。弁護士というものは、マクリン判事に聞けば分かりますがね、依頼人の召使いなんですよ。私には依頼人が大勢ありましたよ――そのう――どちらかというと手広くやっているほうですからね。警視さん。それで、そうしたいと思っても、そう慎重に依頼人を選ぶことができなかったんです。したがって、まことに残念ながら、ジョン・マルコが、つまり――そのう――好ましい人間ではなかったと、陳べる義務が生じたわけなんです。実際、どちらかというと臭い人物でした。しかし、私があの男について言えることは、本当にそれで全部なんです」
「おお、それがあんたの立場なんですか」と、警視は、うなって「あの男は、いったいどういうことを、依頼していたのかね」
ペンフィールドは、ダイヤの指輪を二つもはめた、丸っこい手で、ばくぜんと弧をえがいた。「いろいろなことですよ。あの男は――そのう――時々訪ねて来て仕事の助言を求めました」
「どんな仕事かね」
「それは」と、小男は残念そうに「お話する自由を持たんのですよ、警視さん。依頼人に対する弁護士の義務は、あなたも知ってるでしょう……たとえ依頼人の死後も――」
「しかし、殺されたんだよ」
「実に」と、ペンフィールドは、ため息をして「不運なことでした」
しばらく沈黙があった。やがて、マクリン判事が言った。「君は、刑事弁護士だったと思うがね、ペンフィールド君。君が言う仕事とは何かね」
「時代が変りましたよ判事さん」と、ペンフィールドは悲しそうに「あなたが引退されてからはね。しかし人間、生きねばなりませんからね。そうでしょ。きょう日、生きるということが、どんなに骨が折れるか、あなたには、想像もつかんでしょうよ」
「わしもできるだけ努力して考えとるよ。君の立場のことだがね。ペンフィールド君、わしらが最後に会ってから、君の倫理綱領はひどく発展したように思えるな」
「発展といえば、判事さん、たしかに発展ですね」と、小男は、ほほえんで「誰でも時流には勝てませんからね。職業上のひとつのニュー・ディール〔ルーズヴェルト大統領のまき返し政策〕みたいなもんです……」
「よくも抜け抜けと言うもんだね」と、判事が言った。
エラリーは、きょときょとするペンフィールドの顔から目を放さなかった。絶えまなく動いているのだ――目、唇、眉、しわのよった皮膚が。窓から差し込む日の光が、てらてらの頭のてっぺんに当たって、後光のようにかがやいていた。大した奴だとエラリーは思った。しかも、危険な相手だ。
「君が、最後にマルコを見たのはいつかね」と、モリーが大声で訊いた。
ペンフィールドは五本の指先を合わせて「そうですね、そう……ああ、そうだ。四月でしたよ、警視さん。ところが、マルコは今は死んでいる。ねえ、こりゃア、運命の買収しがたきことの、もうひとつの証拠ですな、そうでしょ、クイーンさん。下手な役者だ……死。ぴたりだ。法的技術のおかげで二十年も法の手をくぐりぬけていた兇悪犯が、ふと、ある日バナナの皮で滑って首の骨を折る。これが、わが国の司法制度に対する悲しい批判というところですね」
「用事は何だったね」
「えっ。おお、すみません、警視さん。四月に、マルコが何の用件で私に会いに来たかと言うんですね。そう、そう、たしかに。いつもの――そのう――仕事の相談でした。私はできるだけの助言を与えてやりましたよ」
「で、その助言というのは?」
「方針をかえることでしたよ、警視さん。私はいつもあの男にお説教していたんです。いろいろ欠点はありましたが、本当に、好いたらしい奴でした。しかし、私の言うことを聞きませんでした。かわいそうに、ごらんのとおりですよ」
「どうしてあの男が下手な役者だと分かったのかね、ペンフィールド君。もしあの男との関係がそれほどきれいなものなら」
「直感ですよ、警視さん」と、弁護士はため息をした。「誰だって、ニューヨーク州の法廷で三十年も刑法をいじりまわしていたら、不思議な第六感、つまり、犯罪心理についての感が発達せずにはいませんよ。たしかに、それはなにも――」
「ペンフィールド君と、そんなことをやってたって、何も得られんよ」と、マクリン判事は、にが笑いしながら「そんなことなら何時間でも続けられる人だよ。わし自身、その手をくったことがあるんだ、警視、要点にはいったほうがいいね」
モリーは相手を睨みつけ、手荒く引き出しを開け、何かをさっと取り出すと、机ごしに小男の目の前にたたきつけた。「読んでみたまえ」
ルシュース・ペンフィールド氏は、びっくりしたような顔をし、気乗りのしない微笑をうかべ、胸ポケットから取り出した角ぶちの眼鏡を鼻の先にかけて、その紙片をいやいや取り上げて、じっくり目を通した。非常に注意深く目を通した。それから、紙片を置き、眼鏡をはずしてポケットに収め、椅子の中でそり身になった。
「どうかね」
「これはたしかに」と、ペンフィールドは小声で「故人が書きかけた手紙で、私に宛てたものです。乱暴にとぎれているところをみると、死によって邪魔されたものであり、したがって、あの男が生きているうち最後に考えていたのは私だったように思えますね。さて、さて、大感激ですよ、警視さん。やさしい心づかいで、これを見せてくださったことを心からお礼します。なんといっていいか、口にも出せない感激です」と、本当に、ズボンからハンカチをとり出して、鼻をかんだ。
「ふざけとるな」と、マクリン判事が静かに言った。
モリー警視は拳骨《げんこつ》で、ばんと机をたたいて、すっくと立った。「そんなことぐらいで、たやすくのがれられると思うなよ」と、どなりつけた。「この夏、マルコと定期的に文通しとったのは分かっとるんだ。それに、奴が企てた脅喝《きょうかつ》事件が、君らふたりにとってかなり手強いものになったとき、君が始末をつけたのを、少なくとも一件は知っとるんだぞ。それにわしは――」
「いろいろごぞんじのようですな」と、ペンフィールドはおだやかに「うかがいましょう」
「わしの友達のメトロポリタン探偵社のデーヴ・リオナードが、君のことをみんな報せて来とるんだぞ。だから、内密の仕事上の相談だなんてことで、わしの目をくらまそうなどと考えんほうがいいぞ」
「ふん。手をこまぬいていたわけじゃないんですね」と、小男は、いかにも感心したように目をかがやかせて「ええ、この夏マルコと文通していたのはたしかです。それに、リオナードさんも訪ねましたよ――話の分かる人だ――一、二か月前に依頼人の利益のためでしたがね。しかし……」
「マルコが書きかけている、この清算というのは何かね」と、モリーがどなった。
「まあ、まあ、警視さん、暴力の因《もと》になるようなものじゃありませんよ。それに、マルコの考えを説明するなんてことは私にはできっこありませんよ。どういう意味か分からないんです。気でも狂ってたんでしょうよ、かわいそうに」
警視は口を開きかけて、また閉じ、ペンフィールドを睨みつけてから、くるっと向きをかえて足音も荒く窓へ歩みよって、自分を抑えようと努力していた。ペンフィールドは、しょんぼりと何かを当てにするような微笑をうかべてすわっていた。
「あのね――ペンフィールドさん」と、エラリーがゆっくり言った。弁護士は少し警戒気味に、くるっと顔を向けた。しかし、まだ微笑をうかべていた。「ジョン・マルコは遺言を残しましたか」
ペンフィールドは目をぱちくりして「遺言、私は知りませんよ、クイーンさん。あの男のそんな書類を作ったことはありませんよ。もちろん、ほかの弁護士が作ったかもしれませんがね。私はそんなものは手がけていません」
「あの男には、何か財産がありましたか。資産を残してはいないでしょうか」
微笑が消えて、はじめて、ペンフィールドの円転滑脱《えんてんかつだつ》ぶりが乱れた。エラリーの質問のどこかに、罠がかけてあると感じたらしい。答える前にしげしげとエラリーを見つめた。「資産ですか。知りませんな。お話したように、われわれの関係は絶対に――そのう――」と、言葉につまった。
「お訊ねしたわけは」と、エラリーは鼻眼鏡をいじくりながら、低い声で「マルコが、何かたいせつな書類の保管を、あなたに頼んだかもしれないと思ったからです。要するに、おっしゃるとおり、弁護士と依頼人の関係は、多少神聖なものですからね」
「多少はね」と、判事が口をはさんだ。
「たいせつな書類ですか」と、ペンフィールドはゆっくり言って「どうも、私にはとんとのみこめませんよ、クイーンさん。債券とか株式証券とかいうもののことですか」
エラリーはすぐには返事をしなった。眼鏡の玉に息を吹きかけて、何か考えながらみがき、それから鼻にかけた。エラリーがそうしている間、ルシュース・ペンフィールドは、かしこまって一心に見つめていた。しばらくして、エラリーが、さりげなく訊いた。「あなたは、ローラ・カンスタブル夫人をごぞんじですか」
「カンスタブル? カンスタブル? 知らないようですね」
「ジョーゼフ・A・マンは? 元女優のセシリア・ボールだったマン夫人は?」
「おお、おお」と、ペンフィールドは言った。「いまゴッドフリー家に泊っている人たちのことですね。あの人たちの名は、以前にも聞いたことがあるようです。いや、お目にかかったとはいえませんがね、はっ、はっ」
「あの人たちのことを、マルコは手紙に書きませんでしたか」
ペンフィールドは赤い唇をきっと結んだ。エラリーがどのくらいのことを知っているかが、分からないので、明らかに疑心暗鬼《ぎしんあんき》とたたかっていた。そして答える前に、天使のような目で、ちらっと、三度もエラリーの顔を見た。「どうも私は、とてもものおぼえが悪いんですよ、クイーンさん。書いていたかどうか思い出せんのです」
「ふうん。ついでですが、マルコは素人写真の道楽に熱中してやしませんでしたか。近頃の流行ですからね。どうでしょう……」
弁護士は目をぱちくりし、モリーは苦い顔をしてそっぽを向いた。しかし、マクリン判事は凍りつくような目で、じっと、小男の弁護士の顔を見つめていた。
「ひどく話がとぶじゃありませんか、クイーンさん」と、ペンフィールドはやがて、苦笑しながら、低い声で「写真ね。やってたかもしれませんよ。よくは知りませんがね」
「まさか写真をあなたのところに残してはいないでしょうね」
「残しちゃいません」と、すぐに小男は答えた。「たしかです」
エラリーは、モリー警視を見て「これ以上ペンフィールドさんを引きとめておいても意味がないと思いますよ、警視。このひとは、たしかに――そのう――役には立ちませんよ。わざわざこんな所まで来てくださってありがとうございました、ペンフィールドさん」
「どういたしまして」と、ペンフィールドは、大声で言い、きげんをとりもどして、明るい目をしばだたいた。そして椅子からとび立って「ほかに何かご用は? 警視さん」
モリーは仕方なく、うなるように「もう、いい」
ペンフィールドは急いで薄手の懐中時計をとり出した。「おやおや、クロスリー空港発の次の機をつかまえるには、急がなければなりませんな。じゃ、皆さん、お役に立たなくて申し訳ありません」ペンフィールドはエラリーと握手し、判事におじぎをし、わざとモリー警視を無視してドアのほうへ退った。「またお目にかかれてうれしいでしたよ、マクリン判事さん。キンゼーさんに必ずお伝えしますよ。それから、もちろん、クイーン警視にも、あなたにお会いしたことを、お報せしますよ、クイーンさん――」
ペンフィールドは、ドアが閉って、やさしい天使のような目がかくれるまで、たえずしゃべりつづけ、にこにこ顔で、会釈しつづけた。
「あの男は」と、マクリン判事は、戸口を見ながら苦々しげに「少なくとも百人の常習殺人犯を、陪審員を口説きおとして無罪にしとる。証人を買収し、正直な人間はおどしつける。判事どもをあやつり、証拠は故意に湮滅《いんめつ》する。一度などは、殺人裁判の直前に、暗黒街の名だたる女とのスキャンダルをでっちあげて、前途有望な青年地方検事補の一生を台なしにしたこともある……しかも、そんな奴から、君は何かを得ようとしたんだからな」モリーは音も立てずに唇をもぐもぐした。「忠告するがね、警視、あんな男のことなんか忘れちまいなさい。ずるがしこくて、とても正直な警官の手には負えんよ。それに、もし奴がマルコ殺しに関係があったとしても、その関係や証拠をみつけることはできっこないからね」
モリー警視は、自分の命令が遂行されたかどうかを調べるために、書記の部屋へつかつかとはいって行った。ルシュース・ペンフィールド氏は、知ってか知らずか、その筋では≪尾行≫といわれるものをつれて、ニューヨークへ帰って行った。
二人がスペイン岬へ車を走らせてもどる途中で、ふと、判事が言った。「どうも信じられんな、エラリー。奴はずるがしこいから、まさか、そんなことはせんよ」
無心にデューゼンバーグを運転していたエラリーは「何のことを言ってるんですか」ペンフィールドが出て行ったことで、モリーの事務所は、情報なしというヴィールスに感染したようだった。集まってくる報告はどれもこれも明らかに内容はゼロだった。ジョン・マルコの死体を、内外にわたって検査した検屍官は、マルコの死因については、最初の意見に付け加えるものは何もないと言って来た。沿岸警備隊から日報がはいって来たし、沿岸全域にわたる地区警備員からの≪進捗《しんちょく》≫情況報告書が、どっさりはいった。要約すれば、まだ誰も、ホリス・ウェアリングの盗まれた発動機船を見たものはないし、並はずれの人相をしているキャプテン・キッドのような人間は、殺人の夜以来、この海岸沿いではひとりも見かけないし、デーヴィッド・カマーの死体はまだ浜にうち上げられない、ということだった。何から何まで、かんばしくなく、二人が出て来たとき、モリーは、手も足も出せなくてやきもきしていた。
「わしが言うのは、ペンフィールドが例の手紙を持っているという考え方なんだ」
「おお、それが気になるんですか」
「奴は抜け目がないから、そんなものには自分の手を触れんよ、エラリー」
「逆に、奴はできたとすれば、まっ先にその書類に手をつけただろうと思いますね」
「いや、ちがう。ペンフィールドじゃない。助言や指図はしたろうが、自分では手をつけなかったろうな。マルコの犯罪性を知っとるだけで、手控えするのに充分だったろうし――そのことを頭にしまいこんでいることが、マルコをあやつる力にもなっていたんだろう」
エラリーは何も言わなかった。
デューゼンバーグを、スペイン岬の入口の反対側のギリシャ式柱廊の前にもって行ってとめた。ハリー・ステビンズがガソリン・スタンドのドアをほてい腹で押し開けた。
「判事さんじゃありませんか。クイーンさんも」と、ステビンズは、なれなれしく、デューゼンバーグのドアに腕をのせた。「昨日、あんた方が、スペイン岬からとび出したり、とび込んだのを見てましたぜ。とんでもない人殺しじゃありませんか。機動隊の警官が、話していったんですがね……」
「怖ろしいこったよ」と、判事が上の空で言った。
「あんなことをした畜生は捕《つか》まるでしょうね。マルコという人は素裸で見つかったとかってね。いったい、世の中はどうなることか、知りたいもんでさあ。わたしゃいつも言うんだがね――」
「わしらは目下岬に滞在しとるからな、ハリー、わしらの家政婦の心配はせんでもいいよ。とにかく、ありがとう」
「ゴッドフリー家にお泊りですって?」と、ステビンズは息をのみ「おや、おや」と、あきれて目を丸くした。「それじゃ、なンだ」と言いながら、油じみた手を上っ張りでふいて「それじゃ、なンだ、それが片づきゃ大助かりでさ。実は昨夜も、アニーの奴と、その女のこって相談してたんでさ。アニーが言うにゃ――」
「ぼくらもゆっくりしておかみさんの意見を聞きたいんだがね」と、エラリーが早口で「きっと面白いだろうがな。しかし、なにしろ忙しいんでね、ステビンズさん。ちょっと君に訊いてみたいんで寄ったんだがね。土曜日の夜は何時まで店をやっていたかね」
判事はきょとんとして、エラリーを見つめた。ステビンズは頭を掻いた。「もちろん、土曜日は徹夜でしたよ、クイーンさん。当てこみの晩ですからね。ウェイランドからの車はみんなやって来ますからね――ここから南へ十マイルばかり行った遊び場でさあ――というわけでね」
「ぜんぜん、閉めなかったと言うんだね」
「そのとおりでさあ。土曜日の午後にひるねするんです。そのときにはワイから若いのが来て手伝うんでさあ――わたしの住居はここから二、三百ヤードばかりしかありませんでね。だが八時には古巣にもどって来て、夜通し店をやるんですよ。その若僧がわたしに一息入れさせるために、そろそろやってくるころですよ。アニーも温かいものをこしらえて待ってるでしょうよ――」
「そうでしょうね、ステビンズさん。それが結婚生活のたのしみのひとつですってね。だがね――このガソリン・スタンドが土曜日は夜通し店を開いていることは世間に知れ渡っているかな」
「そりゃ、旦那、あそこの柱に看板が出てまさあ。それに十二年も夜通しやってんですぜ」と、ステビンズはくすくす笑って「いいかげん知れ渡ってるでしょうさ」
「ふん。で、土曜日の夜は君はここにいたかね」
「おお、いましたとも。そう言ったばかりでしょう。ねえ、わたしは――」
「午前一時ごろは、店の外にいたかね」
ほてい腹の男は、ぽかんとしたようだった。「一時ね。さあね……はっきりしないね。実は、クイーンさん、とても忙しい夜だったんでね。無我夢中でしたよ。どこからあんなにたくさんの車がふってわいたのか分からんぐらいで、しかもそいつらがみんないっせいにガソリンが切れてるようだったんでさあ。しこたま、かわりを仕入れてってね……」
「だが、君はいたんだろう」
「たしかにいましたさ。一晩中、店を出たりはいったり、かけまわってましたよ。なぜです」
エラリーは、ひょいと親指をつき出して、ステビンズの肩ごしに指さしながら「向こう側のスペイン岬道路からだれかが出て来るのに気がつかなかったかね」
「おお」と、ステビンズは狡るそうに二人を眺めて「そう、そのこってすか。ねえ、旦那、いつもの晩なら気がつくんですがね。この店の灯がかなり明るいからね、あの二本の石の柱をまともに照らしますよ。でも忙しい土曜日の夜だったんでね……」と、頭を振って「三時ごろまで立てつづけのこみようでしたからね。それに油鑵が店の中でしょ。しょっちゅう鑵をかえに店にはいらなくっちゃなりませんでしたからね。……誰か出て来たかもしれませんがね、旦那」
「たしかだね」と、エラリーが低い声で「君は、本当に誰も見なかったんだね」
ステビンズは首を振って「どっちか、はっきりしないんでさあ。見たかもしれないでさ」
エラリーは溜息をした。「うまくないな。もう少し正確なことが知りたかったんだがね」と、エラリーはブレーキに手をのばしたが、思い直して、また身をねじ向けた。「ところで、ゴッドフリーの運転手はどこでガソリンとオイルを入れるのかね、ステビンズ君。ここかね」
「そうですよ。あたしは一級品を扱ってますからね――」
「お、そりゃそうだろう。ありがとう、ステビンズ」と、エラリーはブレーキをはずし、ハンドルをつかみ、車を向こう側の石の柱のほうへ向かって出した。
「ところで、なぜ」と、判事は車が公園の涼しい木蔭を驀進しているとき訊いた。「あんなことを訊いたんだね」
エラリーは肩をすくめて「別に当てがあったことじゃないんです。ステビンズが気がつかなかったので残念ですよ。気がついていたら、いろいろなことが片づいたでしょうにね。犯人が陸路をとって逃げたことは昨日証明しました。この路を通らなければ、どこへも行けないはずです。断崖からとび込みでもしないかぎり、いま通って来た幹線道路の出口のほかには、外へ出る方法はなかったはずですよ。この公園も抜け出せなかったでしょうよ――あの高い針金の垣は、猫よりほかには、とても、よじのぼれるもんじゃありませんからね。ガソリン・スタンドの前には誰もあらわれなかったと、ステビンズが言った以上、少なくとも犯人が逃げこんだ場所を、かなりはっきりさせられるというもんですよ――つまり邸です」
「なぜそんなことを問題にするのか分からんな」と、老紳士が言った。「君は、厳たる事実を、≪証明≫するのに法外な手間をかけとるぞ。わしらは、基本的な情況からして、この事件は十中八九外部の者の仕業ではあり得ないということを、よく知っとるじゃないか」
「正しいと証明するまでは何事も知っているとは言えませんよ」
「ばかな。人生は数学的に割り切れるもんじゃない」と、判事がやりかえした。「たいていの場合、事実の証拠なしで物を≪知る≫んだ」
「ぼくはコルリッジのいわゆる≪思考の闇にとざされた懐疑家≫なんです」と、エラリーはしょんぼり言って「あらゆるものに疑問を持つんです。時には自分の思考の結果にさえ疑問を持つんです。ぼくの精神生活は非常に複雑なんです」と、また、ため息をした。
判事は鼻をならした。そしてそのまま二人とも、デューゼンバーグが邸の前に滑りこんで停まるまで一言も口をきかなかった。
コート青年が、不景気な顔で、パティオの戸口をぶらついていた。その向こうに、ローザが簡単な海水着姿で、デッキチェアに寝ころんで陽にあたっていた。あたりには、ほかに誰もいなかった。
「やあ」と、コートは、あいまいに「何か分かりましたか」
「まだだ」と、判事は低く言った。
「まだ警戒中ですか」日灼けした青年の顔が曇った。「神経にこたえてきましたよ。ぼくは働いているんですよ、ごぞんじでしょう。それが、こんな所から出られないなんて。ここには刑事さんがうようよしているんだ、やりきれたもんじゃない。今朝なんか、刑事のひとりが浴室の中までついて来ようとするんだからな。目つきで分かるんだ……ちょっと前に、あなたに電話でしたよ、クイーンさん」
「そう」と、エラリーは老紳士より先に車をとび出した。制服の運転手がかけよって車を運び去った。「だれからでした?」
「モリー警視がかけてきたようです……おお、バーリーさん」年とった背の低い家政婦が上のバルコニーを通りかかった。「ちょっと前に、クイーンさんに電話をかけてきたのは、モリー警視じゃありませんでしたか」
「さようでございます。お見えになったら、すぐ電話してほしいと言ってらっしゃいましたよ、クイーンさま」
「すぐ戻ります」とエラリーは叫んで、パティオを駆け抜け、ムーア式の廻廊に消えて行った。判事はゆっくりと石だたみの中庭に入り、ローザのそばに腰を下ろして、ほっとしたように、うーんといった。コート青年はパティオの白壁に背をこすりつけながら、ひどくすねたような顔つきで、見つめていた。
「どうでして?」と、ローザが低い声で訊いた。
「何もありません、お嬢さん」
二人は日光を浴びながら、しばらく黙り込んですわっていた。ジョーゼフ・A・マンの背の高いがっちりした姿が、家からぶらりと出て来て、そのすぐあとを、不景気な顔をした刑事がついて来た。マンは海水パンツをつけていて、巨大な胴がまっ黒に日に灼けていた。判事は半眼でマンの顔色を見ていた。こんなに苦もなく自制できる顔を見たことがないと思った。ふいに、長い年月のほこりまみれの窓を通してぼんやり見るように、もうひとつの別の顔を思い出した。顔つきはまったく似ていないが、表情がおどろくほど似ている顔である。その顔は、有名な兇悪犯の顔で、十指に余る州から強姦、殺人、銀行強盗、その他多くの軽犯罪で追われている男の顔だった。判事は、峻烈《しゅんれつ》な地方検事が、敵意を抱く陪審員の面前で、その顔の持ち主を痛烈に非難するあいだ、じっとその顔を見ていたものだ。また、憤《いきどお》りの評決が持ち込まれたときも、自分が死刑の判決をくだしたときも、注視していたものだが、ただの一度も表情を変えなかった顔だ……ジョーゼフ・A・マンは、それとまったく同じような不動、冷徹な才を持っていた。目も、心の手引きにはならず、灼熱の太陽のもとで広漠とした土地を見はるかして過した年月のせいで深まったしわに、なかば隠れて無表情になっていた。
「おはよう、判事さん」と、マンは深い声で、上機嫌に言って、すぐにやりと笑い「≪おはよう≫と言うのは気分のいいもんですな、判事さん。ところで、どんなふうですか」
「さっぱりだ」と、老紳士が低く言った。「目下の状態だと、マンさん、犯人は、ひょっとすると、いつまでも見つからずに、自由でいるかもしれませんぞ」
「まずいなあ。私はマルコという奴は嫌いでしたが、殺すこともないじゃないですか。生きたいように生きさせろというのが私のモットーですよ。私がやって来た土地じゃあ、やりたいときには堂々と始末をつけるんです」
「アルゼンチンだね」
「あの辺です。大きな国ですよ、判事さん。私は帰るつもりです。もともと当てにはしていなかったんですがね、こんな大都会暮らしなんか、ろくでもないことが、今こそ、はっきりしましたよ。出て行けるようになり次第、家内をつれて帰りますよ。家内も肥るでしょうよ」と、くすくす笑いながら「|牛飼い《ヴァケロス》と暮らせばね」
「そんな生活が細君の気に入るかね」と、判事が、むぞうさに訊いた。
マンは笑いやめて「家内は」と、大男は言った。「それが好きになることを覚えるチャンスを持とうとしているんですよ」それから、たばこに火をつけて「あなたを見ているとね、お嬢さん、あんまり深刻に考えないほうがいいですよ。男なんてからっきし値打ちありませんよ……あなたのような娘さんにとってはね……さて、泳ぎにでも行くか」マンは太い腕を親しそうに振って、パティオから出口のほうへ歩き出した。赤銅色《しゃくどういろ》の胴に日が輝いた。ローザと判事はじっと見送っていた。マンは立ちどまって、ぼんやりと出口に立ちつづけているコート青年に何か話しかけ、大きな肩をすぼめて、パティオを出て行った。刑事は、あくびをしながら、ぶらぶら跟《つ》いて行った。
「むずむずしちゃうわ」と、ローザは身をすくめて「あのアメリカのおでぶちゃん、なんだか――」
エラリーがつかつかと中庭にはいって来た。靴のかかとが敷石で鳴った。目が輝き、細面の頬にただならぬ気配があった。判事は椅子で中腰になった。
「見つけたか――?」
「え? おお、モリーがピッツについて最新の情報をつかんだと、電話して来ました」
「ピッツですって」とローザが叫んだ。「つかまえたんですか」
「そんなに興奮されることは何もありませんよ。あなたのお母さんの小間使いは、とても巧妙に姿をくらましたんですよ、お嬢さん。乗って逃げた自動車を見つけたんです。五十マイルほど北です。マーテンズの停車場のそばです」
「マルコさんのロードスターね」
「ええ。乗り捨てたんです。車には手がかりは何もなかったそうですが、あった場所が糸口を何か与えるでしょうね」エラリーはたばこをつけて、燃えるような目で、それを見つめた。
「それだけかね」と、言って判事は腰を下ろした。
「それだけで充分ですよ」と、エラリーは低い声で「ぼくにはとてつもない考えが湧いて来ますよ。悪魔のように、とっぴょうしもなく、しかも」と、顔色を暗くして「打撃的なやつです。この言葉を覚えていてください、判事、今こそ、がっちり、とっつかまえましたよ」
「何をつかまえたんだ」
「それは」とエラリーが言った。「いまに分かります」
[#改ページ]
十一章 三途《さんず》の川の渡し賃
エラリー・クイーン氏は以前に論じたことがある。「犯罪は、デュカミイエか誰かの言葉だが、社会という肉体の癌《がん》である。妙な言い方だが正にそのとおりだ。というのは、癌は乱殖する有機体であるにもかかわらず、なおかつ一定の型を持っているにちがいないからだ。研究者たちが実験室でそのことを確認しようとしている段階だが、科学もそこまでは認めている。研究者たちが失敗したのは、型があるかないかということではない。型はあるにきまっているのだ。この問題は犯罪捜査においても同じことで、犯罪の型を確認すれば、究極の真相もすぐ手近なのである」
ほかの連中と一緒に、大食堂で少し早目に、気の重い昼食をとったあとで、エラリーは自分の部屋でたばこを喫《す》いながら、ぼんやりと考えている間に、しみじみ反省したのだが、一番困ることは、いまだに型がつかまらないということだった。実際は、時々ぼんやりと見えたのだが、結局は、そのたびに、まい上がるいまわしいほこりのように、さっと吹き消えてしまったのだ。
何かが間違っているのだ。それが何かは分からなかったが、どこかで自分が間違っているのか、それとも、まんまと同じ結論に達するようなごまかしがなされているにちがいないと思った。ジョン・マルコ殺しは、見事な奇襲であり、論理的な計画の論理的な結果なのを、エラリーはますます確信した。それは冷静で的確な熟慮《じゅくりょ》と――いわゆる――謀殺のあらゆる徴候をそなえていた。計画が論理的であればあるほど、たやすく見抜けるはずだった。帳簿係はどんなに複雑でも正しく計算されている勘定を、やすやすと点検していく。どこかで間違いが犯されている時だけとまどいする。しかも、ジョン・マルコ殺しの錯雑な意図はさっぱり分からないのだ。どこか不均衡なのはたしかだ。エラリーは、ふと、自分の精神的無能力は犯人の陰謀の巧妙さや自分自身のあやまちによるというより、むしろまったくの偶然によるものかもしれないと思った……
偶然かと、エラリーは胸のたかまりをおぼえながら考えた。結局、そいつが一番いい解答かもしれない。いかによく仕組まれた計画でも、つまずくことがあるし、事実、よく仕組まれているほど、つまずきやすいことをエラリーは経験で教えられていた。計画の成功は、立案者がうまく相互作用をしてくれるだろうと期待する多くの要因によるのである。このことは殺人計画については特に真理であるのをエラリーは知っていた。ひとつの要因が適当に働くのを狂わせれば全体の計画が危険におち入るのだ。立案者はただちに取りつくろうだろうが、もはや、どうしようもないような情況が次から次へと起こって来ているだろう……そこで調子はずれの音が忍び込んで来て、論理を乱し、計画の均衡を狂わせ、捜査の目をくもらせるのだ。
そうだ、まさにそうだ。そう考えれば考えるほど、ジョン・マルコ殺しの犯人が、まったくの不運にぶつかったことが、いっそうはっきりしてきた。いったい、その偶然の出来事とは何だったんだろう。エラリーは椅子からとび出して、大股に室内を歩きはじめた。
このやっかいな問題に、いかに脳味噌《のうみそ》をしぼっても、すぐ解答が出るとは望んでいなかった。しかし可能性はあった。ジョン・マルコが裸だったこと……永遠に、いまわしい裸だったことだ。たしかにその点が、障壁になり、捜査の目をくらます者がいる証拠だ。それは健全な精神を無視している。たしかに、犯人の最初の計画の一部だったはずがない、とエラリーは感じるし、分かる。それにしても――それはどういう意味なのか、どういうつもりだったのか。
エラリーは八の字をよせ、唇をかんで、床をふみならした。それに、キャプテン・キッドの失策の問題がある……失策だ。エラリーは犯人の不運の線にそって考えてばかりいたので、間抜けなキッドの失策については一度も考えてみなかったのだ。デーヴィッド・カマーは、うっかり殺人計画の焦点にふみ込んだのだ。おそらくカマーが全体の問題を解く鍵だろう――不運なあの男自身はともかくとして、あの男が提示している事実、つまり、キャプテン・キッドがあの男とカマーを間違えた事実が鍵になりそうだ。たしかにその間違いが計画をひっくり返した。そのために犯人は早まった行動をすることになったのだろうか。単に早のみこみの失策の派生物というのが問題の解答だろうか。それより面倒なのは、キッドの失策と犯人が死者を裸にした事実とに、何か関係があるかどうかだった。
エラリーは溜息をして首を振った。どうも事実が不足していた。つまり、もし全部の事実がそろっているものとしても、何ものかがエラリーの明瞭に見通すことを妨げているようだった。エラリーは、今までに不幸にも出くわして来た犯罪捜査の中で、今度のが一番いまわしい事件だと思い込みそうになるのに目をつぶって、ほかのことに考えを転じた。
ほかにも考えるべきことがいろいろあったからだ。エラリーにはことのなり行きが、かなりはっきり思いえがけるような気がした。
最後にエラリーはマクリン判事を見やった。尊敬すべき法官は、ゴルフ・コースのあるスペイン岬のはるか彼方を、いそいそとしながら、大股で歩いていくところだった。ほかの連中は各自の部屋に引込むか、邸内にちらばり、ジョン・マルコの幽霊から逃れようと努力して、かなり神経質に普段どおりにしようとしていた。刑事たちは、ぶらぶらして体を休めていた。チャンスだと、エラリーは思った。闇のつぶてが当たるかもしれない。そんなことが今にも、起こるかもしれなかった。
エラリーは白い上着を着、たばこを灰皿になげすて、ゆっくりと階下へおりて行った。
それはきっかり二時三十分に起こった。
エラリーは一時間以上も、階下の大広間にある仕切部屋を熱心に監視していた。その部屋には小型の配電盤があって、いくつもの電話線と屋内線を管制していた。いつもは、見習い執事が番をしているのだが、エラリーは、すぐにその男を追い払った。盤の上の手ぎわよく書かれた図表に、全部の部屋の住人と、各部屋に通じている特別の屋内線が示されてあった。待つほかには何もすることがなかったから、エラリーは未知のものに対する期待にかき立てられて、実に根気よく待っていた。一時間の上も、配電盤のブザーは鳴らなかった。
しかし、急にブザーがしわがれた音を立てると、エラリーは、すぐに盤の前にすわって、耳にイヤホーンをぴったりとつけると、本線のプラグを操作した。
「はい」と、かしこまった声で召使いらしくきこえるように努力しながら「こちらは、ウォルター・ゴッドフリーの住居でございます。どなたさまへおかけでございましょうか」
耳をすましていた。耳にひびいてきたのは、妙な声だった。かすれたふくみ声で、話し手が何かを口につめこまれているか、目のあらい布を通してしゃべっているかのようだった。わざとらしいつくり声で、あきらかに、ごまかすために精いっぱい努力していた。
「ローラ・カンスタブルさんに」と、妙な声が言った。「かけたいんです。つないでください」
≪つなぐ≫エラリーの唇がひきしまった。すると、話し手は、配電盤があるのを知っているものだ。これが予期していた電話だったのだ。「少々お待ちください」と、同じとぼけ声で答えて、カンスタブル夫人の部屋を示す名札の下のスイッチを押して、ベルを鳴らした。返事がないので、いく度も、鳴らした。やっと、受話器をとる音と、眠りからさめたばかりらしい、かすれてぼやけた夫人の声がきこえた。「奥さま、お電話でございます」と、エラリーは暗誦するように言って、すぐ、二本の線をつないだ。
エラリーは椅子にすわり込んで、イヤホーンに手を当て、じっと注意力を集中した。
カンスタブル夫人は、まだ、夢うつつで、「もしもし。カンスタブルですが、どなたですの」
ふくみ声が答えた。「だれだっていいさ。ひとりきりかね。何でも話せるかね」
太った女の息を吐く音が、エラリーのこまくにがんがんひびいた。たちまち夫人の声から、眠気が吹きとんだ。「もし、もし、どなた――」
「よく聞くんだ。あんたは私を知らんし、会ったこともないさ。この電話が切れたら、どこからかかったかつきとめようとなんかしなさんな。警察にも言わんがいい。あんたと私のあいだの、ちょっとした取引きなんだ」
「取引きですって」と、カンスタブル夫人は、あえぎ「いったい――どういうことですの」
「言わなくとも分かっとるだろう。今、写真を見とるところさ。あんたと死んだ男が、アトランチック・シティーのあるホテルの部屋で、同衾《どうきん》してる奴さ。しかも当時は、その男は死んでいなかった。これは夜中にフラッシュでとった写真で、あんたはぐっすり眠ってて、ずっと後まで、そのことに気がつかなかったのさ。ほかに八ミリの映画フィルムも一巻持ってますぜ。そいつは、あんたとあの男がキスをしたり、いちゃついてるやつさ。去年の秋にセントラル公園で、あんたが知らないうちに撮ったものさ。まだありますぜ、昨年の秋から冬にかけて、あんたが雇っていた小間使いのサイン入りの陳述書でね、セントラル公園西アパートで、あんたが家族の留守中にやっていた外聞の悪いことの見聞を証言してるんでさ――あんたとあの死んだ男のことをね。まだまだ、あんたがあの男宛に書いた手紙も六通――」
「ああ、神さま」とカンスタブル夫人は奇妙な声で「あなた、どなた? どこから手に入れたの? あのひとが持っていたものよ。あたしには――」
「まあ、聞きなさい」と、ぼやけた声が「私が誰だろうと、どこから手に入れようと、気にしなさんな。大事な点は、そいつを私が持っているってこったよ。あんたが、それが欲しいだろうね、きっと?」
「ええ、そうよ」と、カンスタブル夫人がささやいた。
「もちろん、手に入れられるぜ。適当な値段でね」
夫人がかなり長い間、黙り込んでしまったので、エラリーは、どうしたのだろうと気になった。しかし、やがて夫人は、うちひしがれて情けなさそうな、とても弱々しい調子で答えたので、エラリーは、あわれで胸がせまった。「だめですわ……とてもあなたのお値段じゃあ」
ゆすり屋は、おどろいたらしく、ためらっていた。「と、おっしゃると――言い値は払えないと言うんですね。カンスタブルさん、まさか私がフィルムや手紙を持っていないのに、山かんをかけてるんじゃないかなんて考えてたら――」
「持ってらっしゃるでしょうよ」と、太っちょの夫人が口ごもりながら「ここにはなかったんですもの。きっと誰かが持っていったにちがいありませんもの――」
「そのとおり、私が持ってますよ。あんたは、金を払っても私がその品を渡さないだろうと心配してるんでしょう。まあ、お聞きなさい、カンスタブルさん――」
かわったゆすり屋だな、とエラリーはいまいましそうに考えた。ゆすり屋が下手に出て理屈をこねるのは初めて聞いたのだ。結局これはろくな手がかりになりそうもないな。
「あのひとはあたしから何千ドルも絞り上げたんです」と、カンスタブル夫人はうめくように「何千ドルもよ。あたしの持っていたものを全部。そのたびにあたしに約束したのよ……でも、約束をはたさなかったわ。ぜんぜんよ。あたしをだましたのよ。あの人はペテン師で、その上――その上……」
「私はそんなことはせんよ」とふくみ声が勢いこんで「この件については公平にやるよ。分け前がほしいので、それ以上の迷惑はかけないぜ。あんたの気持ちも分かるよ。金を払ったら品物は必ず返す、信用していいぜ。私の言う方法で五千ドル送るだけでいいんだ。そうすれば次の便で品物がもどることになる」
「五千ドルですって」と、カンスタブル夫人が笑った――エラリーの髪の毛が逆立つほど不気味な笑いだった。「それっぽっちなの。あたしには五千セントもないのよ。あのひとが、すっからかんにしぼっちゃったのよ、あいつが。いいこと、お金はないのよ。一文なしよ」
「おお、それがあんたの言い分ですか」と、得体の知れぬ呼出人がひやかした。「貧乏を売物ですかい。あの男はあんたからどっさり捲き上げた。あんたは金持ちなんですぜ、カンスタブルさん。そうやすやすとこの一件からのがれるわけにゃいきませんぜ、いいですかい。私は五千ドル欲しいんだから、あんたは払う気になったほうがいいですぜ、さもないと――」
「おねがい」と夫人が苦しそうにささやくのがエラリーに聞こえた。
「――さもないと、払えばよかったと思うようにしますぜ。旦那はどうなんです。たった二年前に一財産作ったんでしょ。旦那から引き出せないんですかい」
「いやよ」と、夫人が急に叫んだ。「いやよ。あのひとには絶対にたのめないわ」夫人の声がくじけた。「ねえ、分かってくれないの。あたしは、結婚してから長いのよ。あたし――あたしは本当におばあちゃんなのよ。大きくなった子供たちがいるわ、いい子たちよ。あの人は――主人はこのことを知ったら死んでしまうわ。とても病身なのよ。いつもあたしを信じていて、あたしたちは、ずっと倖せだったのよ。あの人に言うくらいなら、死んだほうが――ずっとましよ」
「奥さん」と、ゆすり屋は決定的な調子で「あんたは、どんな人間を相手にしているのか、さっぱり分からんのですね。私は、どんなことでもするんですぜ。いくら強情張ったってどうもなりゃしませんぜ。旦那のところへ、おしかけてでも、きっと、あんたから金はとりあげるからね」
「あの人は見つけられませんよ。どこにいるか分かりっこありません」とカンスタブル夫人はかすれ声で言った。
「子供さんたちのところへおしかけるさ」
「何の役にも立ちゃしないわよ。どの子も自由になるお金は持っていませんよ。子供たちのお金は全部封鎖されているわ」
「分かったよ、分からずやめ!」かなり抑えている調子だったが、エラリーには、本当に激怒しているのが察しられた。「不意打ちを、くらわせたなんて言いなさんなよ。目にもの見せてやるからね。あんたは私が冗談を言ってると思ってるんだ。写真、フィルム、陳述書と手紙は、あっと言う間に、モリー警視の手に渡るからね――」
「だめ、おねがいよ、ねえ」と、カンスタブル夫人が叫んだ。「やめてちょうだい。本当に、あたしは無力で、お金は持ってないの――」
「じゃあ、つくりなさい」
「でも、つくれないわ、お話したでしょう」と、夫人はすすり泣いて「たのみに行く人もいないのよ――おお、分かってくれないのね。誰かほかのひとからお金をとれないの? あたしは罪の償《つぐな》いはしました――おお、何千倍にもして償ったわ――涙と、血と、あたしの持っている全部のお金でよ。どうして、あなたはそんなに無情なんですか、そんなに――そんなに……」
「おそらく」と、声はたたきつけるように「モリー警視が品物を手に入れて、新聞に廻したとき、あんたは五千ドルを工面しておけばよかったと悔むだろうよ。あんたは、しようがないうすのろの、でぶ牛だよ」それから、がちゃんと受話器をかける音がした。
エラリーの指が配電盤をかけめぐって激しく動きまわった。接続を切ったときに、カンスタブル夫人の絶望しはてたすすり泣きを、かろうじて聞きとることができたが、すぐ交換手を呼び出した。
「交換手。今の電話の発信所をしらべてくれ。いま切ったばかりだ。警察だ――ゴッドフリー邸へ、すぐだ」
エラリーは爪をかみながら返事を待った。≪うすのろのでぶ牛≫これはまた、明らかにマルコの情事をよく知っているものの言葉だ。いまわしい写真や文書を偶然手に入れて分かったというより以上のことを知っている何者かだ。重要な関係を持つ奴だ。エラリーはそれを確信した。知り得た事実が、エラリーの嫌疑を結晶させた。時が来れば、その判断は実証されるだろう。それにしても、もっと迅速に事が運べたらいいのに……
「相すみません」と、交換手が歌うように「ダイヤルで掛けた電話でした。つきとめる方法がないんです。どうも」そして、エラリーの耳にかちりという小さな音がきこえた。
エラリーは椅子によりかかり、眉をしかめて、たばこに火をつけた。しばらく、黙ってすわっていた。それから、ポインセットのモリー警視の事務室を呼び出した。しかし、モリーの書記が、警視は留守だと告げたので、電話をくれるように伝言して、エラリーはイヤホーンをはずして、部屋を出た。
広間に出ると、ふと思いついて、砂をつめた鋳《い》もののすいがら入れで、たばこをもみ消し、二階のカンスタブル夫人の部屋のほうへのぼって行った。エラリーは恥知らずにも、ドアの鏡板に耳をつけて、耳を澄ました。聞こえるものは、むせび泣く声らしかった。
エラリーはドアをこつこつとたたいた。すすり泣きがやんだ。やがて、カンスタブル夫人の声がぎょっとしたように「どなた?」
「ちょっとお目にかかりたいのですが、奥さん」と、エラリーが、穏やかに言った。
沈黙。やがて「クイーンさんですか」
「ええ、そうです」
「駄目」と、相変らず異様な声で「駄目よ。あなたとお話したくありません。クイーンさん。あたし――気分が悪いのです。どうぞ引取ってくださいな。あとでまたね、たぶん」
「しかし、お話したいことがあるんです――」
「おねがい、クイーンさん。あたし本当に具合がよくないんです」
エラリーはドアをにらみつけて、肩をすくめ「そんなら、よろしい。失礼しました」と言って、歩み去った。
エラリーは部屋にもどり、海水パンツをはき、布靴とローブをひっかけて入江に下りて行った。テラスで見張っている警官にうなずきながら、このろくでもない事件が片づく前に、少なくとも一度は大西洋で泳いでおけると大まじめに考えた。その日はこれ以上配電盤にとりついていてもきっと得るところは何もないだろうと思った。これはほかの連中に対して……ひとつの教訓となるだろう。モリー警視から、すぐにも連絡があるはずだ。
潮はかなり高かった。エラリーは衣類を浜にぬぎすてて、水にとびこみ、沖へ向かって力強く泳ぎ出した。
エラリーはそっと肩をゆすられて目をあいた。モリー警視がのぞき込んでいた。警視の大きな赤ら顔には、ひどく妙な表情がうかんでいたので、エラリーは、ぱっと目がさめ、いきなり砂の上に起き上がった。太陽は水平線上にすっかり低くなっていた。
「今頃」と、モリー警視が「寝てちゃ毒ですよ」
「何時ですか」エラリーはふるえた。裸の胸に吹くそよ風は肌寒かった。
「七時過ぎです」
「ふむ。遠泳をやって入江にもどったときは、このやわらかな白い砂の誘惑に抵抗できなかったのでね。何かありましたね、警視。顔に書いてありますよ。あなたの書記に電話をくれるように伝言をしてきましたが、聞いたでしょう。ひるがすぎたばかりでした。二時半以後は、事務室にいなかったのですか」
モリーは唇をかみしめ、あたりを探るように頭をまわした。しかし、テラスには見張りの警官のほかは人かげもなく、両側の断崖のふちもがらんとしていて、空に切り立っていた。警視はエラリーのそばに腰を下して、ふくらんでいるポケットに手を突っ込んだ。
「見たまえ」と、静かな声で「これを」と、小さなぺちゃんこな包みをとり出した。
エラリーは手の甲で鼻をこすって、ため息をつき「すばやいな」と、包みをとった。
「え?」
「失敬、警視、ひとりごとを言って」
それはありふれた茶色の包装紙でくるみA少し汚れて安っぽい白いひもがかけてあった。包みの片方の表に、モリー警視の名とポインセットの事務室の宛名が、どうやら郵便局のものらしい水っぽい青インクで、木版のようにきっちりと書いてあった。エラリーは包紙とひもをほどいた。すると、うすっぺらな封筒の束と、写真と、映画フィルムのような小さなリールがころがり出た。エラリーは手紙を一通開いてちらっと署名を見、いやらしそうに写真をしらべ、フィルムを数フィートほごして、セルロイドの細い帯を空にすかしてみた。……それから全部を元通りにまとめて、モリーに返した。
「どうですか」と、モリーがしばらくして、うなるように言った。「大して驚かんようですね。興味もないですか」
「第一の質問に対しては――ぼくは大して驚きませんよ。第二の質問に対しては――非常に興味を持っていますよ。たばこがありますか。忘れて来てしまったので」エラリーは警視がマッチをすって火を差し出してくれるのに、うなずいた。「電話をかけたとき、このことを話すつもりだったんですよ、警視」
モリーはいきごんで「知ってたんですか」
エラリーはカンスタブル夫人と謎の電話の人物との会話を盗み聞きした一件を、根気よく事こまかに話した。モリーは八の字をよせて考えこみながらじっと聞いていた。「ふむ」と、エラリーが語り終ると、うなずいて「すると、何者か分からんが、そいつは、これを私に送りつけるというおどしを実行したんですな。ところで、クイーン君」と、まっすぐにエラリーの目を見つめて「その電話がかかるだろうということが、どうして分かったのですか」
「分かってたわけじゃないが、まあ、そんなことが起こりそうな気がしたんです。実際の思考経過を論じるのはまたにしましょう。いずれ話しますよ。ところで、どんなことがあったか話してくれませんか」
モリーは包みを手の平にのせて上下にゆすりながら「私は、ピッツという女の足どりについて有力そうな手がかりがあったので調べに出ていたんです。マーテンズまで行かされましたよ。ところが、そこで足どりがぷっつりと断ちきれてしまったので、事務室へもどってくると、君から電話があったという部下の言伝てでした。さっそく君に電話をかけようとしているところへ――一時間以上も前になるが――使いが来たんだ」
「使い」
「ええ。十九ぐらいの子供でね。去年二十ドルで買ったという古フォードでやって来たんです。まるっきり子供で、調べてみたがぜんぜん不審な点がない」
「その子供がいったいどうしてこの小包を持って来るようになったんです?」
「そいつは、マーテンズの奴でしてね。町ではみんな知っとるし、後家のおふくろと二人暮しです。すぐマーテンズの警察に電話して調べてもらったんだが、子供の話と、おふくろの話はぴったりなんです。今日の午後三時ごろ親子が家にいるとき、表のポーチでばさっと音がしたそうだ。二人が出てみるとこの包みがあって、十ドル札と、筆跡をごまかして書いたメモがつけてあった。メモにはただ、この包みをポインセットの私の所へすぐ届けるように書いてあったそうだ。そこで、子供が古フォードをひっぱり出して届けたというんです。親子はその十ドルがほしかったんでしょうな」
「それで、連中はポーチに包みをなげた人物を見かけなかったんですか」
「出てみたときは行っちまったあとだったそうです」
「まずいな」と、エラリーは夕べせまる海を眺めながら、考えこんで、たばこをくゆらせた。
「まずいのはそればかりじゃない」と、モリーは、浜からひと握りの砂をすくい上げて太い指の間から、さらさらと流しながら、つぶやくように「こいつを手にして、ひと目見るとすぐ、カンスタブル夫人を呼び出したんです」
「なんだって」エラリーは、はっとしてわれにかえり、たばこを指からとりおとした。
「どうしようもなかったんです。君がこっそりと、話をみんな聞いていたとは知らなかったしね。情報がほしかったんです。そういえば、あの女に電話したときに、ちょっと変だとは思いましたがね。あの女に話したのは――」
「まさか」と、エラリーはうなった。「手紙やなんかを受けとったことは何も言わなかったでしょうね」
「それがねえ……」警視はしょんぼりして「そのことをほのめかすようなことを言った気がしますよ。そして、この品物を送った奴をつきとめるためにマーテンズの警察と連絡をとるのが忙しくて事務室を離れられまいと思ったものだから、あの女に、車に乗って事務室まで話しに来るようにたのみ――部下に電話であの女を出しても差しつかえないと言っといたんです。あの女は――そう、すぐ来ると言っていました。それから忙しく電話をかけていて、気がついたときには一時間ぐらい経っていたが、あの太った女は来なかった。当然着いてる頃です。ここからポインセットまではのろのろ走ったって三十分以上はかからないんですからね。それで私がここにいる部下に電話したら、あの女は邸を出ていないと言うんです。そこで――まあ、私が出向いたわけです」モリーの声には、気がとがめて仕方ないというような心配そうなひびきがこもっていた。「いったいどうしてあの女が気をかえたのか調べてみたいんです」
エラリーはけわしい目を海に向けてしばだたいた。それからローブと布靴をつかんで、急に立ち上がった。「事をぶちこわしちまいましたね、警視」と、ぴしりと言って、もどかしそうにローブをひっかけ、靴をはいて「さあ行こう」
モリー警視は、すなおに立ち、砂を払って、仔羊のようについて行った。
ふたりはパティオで花畠の移植をしているジョラムを見かけた。「カンスタブル夫人を見なかったかね」と、エラリーはあえぎながら訊いた。テラスから急いで登って来たので息がきれていたのだ。
「太った奥さんかね」老人は首を振って「見ないね」見上げようともせずに、むっつりと仕事をつづけていた。ふたりはすぐカンスタブル夫人の部屋へ向かった。エラリーのノックに返事がないのでドアを押し開けてはいった。取り乱されて――ベッドかけは、もみくちゃになってしわがより、化粧着はまるめて床に放り出され、ナイト・テーブルの上の灰皿には、やにくさい吸いがらが溢れていた。……黙ってふたりは顔を見合わせて外に出た。
「いったい、どこにいるんだろう」と、モリーは、エラリーの目をさけて、低く言った。
「いったい誰がどこにいるんだね」と、やさしいバリトンの声がたずねたので、ふり向くと、階段の向かいの廊下の中ほどに、マクリン判事が立っていた。
「カンスタブル夫人です。見かけませんでしたか」と、エラリーが、声をとがらして訊いた。
「見かけたよ。どうかしたのかね」
「どうもしないといいが。どこで見ましたか」
老紳士はふたりを見つめて「岬の向こう側だよ。ちょっと前だ。わしは、向こうのゴルフ・リンクスを散歩して来たところだよ。あの夫人が断崖のふちに腰かけているのを見かけた――足をぶらぶらさせて――じっと海を見つめていた。北の側だった。わしはそっちのほうへ歩いて行って何か話しかけたよ。かわいそうに、とても淋しそうだった。ふり向こうともしないで、まるでわしの声が聞こえなかったようだ。じっと波を見つめたきりだったよ。だから、もの思いにふけらせておいたのさ。それから――」
しかし、エラリーは、もう、階段へ向かって廊下を駆け出していた。
一同は裸の岩壁にきざまれているけわしい石段をかけ上がった。エラリーがまっ先に、その後をモリー警視が息せき切ってつづき、マクリン老判事が緊張した顔をひきつらせながらしんがりをつとめた。スペイン岬の北の部分は、一様に平地をなしていたが、こっちのほうが南の側より、木立ちや茂みがずっとまばらで、土地は手入れされ、なだらかに芝が植わっていて、かなり人手が加えてあるようだった。石段の頂上に来たとき、マクリン判事はまっすぐ前を指さした。一同はその方へ向かって木立を走り抜けて、ふたたび広っぱへとび出して――立ちどまった。
「妙だな」と判事が言った。「きっとほかへ行ったんだろう――」
「手分けだ」とすぐエラリーが言った。「探し出さなければなりません」
「しかし――」
「言うとおりにしてください」
空にはあかね色のすじが流れて、だんだん暗くなっていた。
一同は手分けして、北の部分の中央を捜して行った。そのあたりは一番木が茂っている部分だった。時々、だれかひとりが広っぱにとび出し、あたりを見まわして、また林の中にとび込んだ。
ローザ・ゴッドフリーは、ゴルフ・バッグを片方の肩にかけて、リンクスから海のほうへ、歩いていた。疲れて、髪が風に吹き乱されていた。
突然立ちどまった。遠く、断崖のふちで、ちらっと白く光るものが見えたような気がした。気にとめるでもなく目をそらして、近くの雑木林の木蔭へ歩いて行った。ひとりぼっちのような気がした。日暮れの空と寄せくる波には、人間関係をわずらわしく思わせるようなものがあった。
アール・コートは、目をきょろきょろさせながら、六番のティー〔ゴルフの球座〕にさしかかっていた。
カンスタブル夫人は、太い脚を宙ぶらりんにして、草のしげる崖ぶちに腰かけていた。あごがほとんど胸につくほど、うなだれていた。きらきらする目で下にひろがるものを見つめていた。
やがて、太った両手をふちにかけて、海のほうへからだを乗り出し、身もだえしながら後ろへひいた。お尻が草の根の小石をこすり、危く横たおしになってころがり落ちるところだった。それから足をひき上げて、断崖の突端に立ち上がった。
目はまだ海を見つめていた。
夫人は波立つ海に向かい、スリッパの先を一インチも崖のふちからはみ出して立っていた。ガウンのすそが風にはためいていた。身動きもせず、こゆるぎもしなかった。ガウンだけが風にひらひらしていた。空に黒い姿をえがいて、じっと立っていた。
エラリー・クイーンは、林からすべり出た。十度目だった。緊張して見まわすので、目がつかれていた。そして、心臓が重くなって、みぞおちへ引っぱり込まれそうな、重苦しい感じだった。エラリーは足を速めた。
今、カンスタブル夫人は崖っぷちに立って、海をみつめていたが、次の瞬間、姿が消えた。
何ごとが起こったのか説明しにくい。夫人は両腕をさし上げ、しわがれた魂の声みたいなものが、つまった喉の筋肉を押しのけてとび出し、日暮れの空気をつんざいた。それから、まるで大地が吸い込んだかのように、あとかたもなく消えうせたのだ。
たそがれの薄闇の中で、何か魔術が行なわれたかのようだった。たとえ、日がふたたび水平線の下からかけのぼって来たり、海があっという間にかき消えたとしても、これ以上怖ろしくはなかっただろう。人間が、一抹の煙のように、かき消えるんだから……
エラリーは林からとび出した。そして、足を釘づけにした。
ひとりの女が、崖ぶちからずり落ちそうになって、草にうち伏していた。両手で顔を覆い、両肩がはげしくふるえていた。ニッカーボッカーをはいた男が、横腹に両手をあてて、崖ふちから一フィートほどのところに立っていた。ゴルフのクラブをいく本もつめたバッグが、そばにころがっていた。
後ろのほうで物音がするので、エラリーがふり向いてみると、モリー警視が林からとび出して来た。
「あの声が聞こえたかね」と、モリーが荒々しく叫んで「あのさけび声が」
「聞いたよ」とエラリーは、妙なため息をした。
「誰かな――」モリーは男と女を見て、眉をしかめてから、猛牛のようにかけよった。「おい」と、どなった。男は振り向こうともせず、女は顔を上げようともしなかった。
「手おくれか」と、ふるえ声が訊いた。マクリン判事がエラリーの肩に手をかけた。「どうしたんだね」
「かわいそうに、ばかな」と、エラリーはそっとつぶやき、判事には返事もせずに、崖のふちへ向かって歩き出した。
モリーは女を見おろしていた。それはローザ・ゴッドフリーだった。男はブロンドで帽子もかぶっていなかった。アール・コートだった。
「叫んだのは誰だ」
ふたりとも、何も分からぬらしかった。
「カンスタブル夫人は、どこにいる」と、モリーは、どもりながら低く訊いた。
コートは急にふるえ出して、ふり向いた。灰色の顔が汗まみれだった。ローザのそばにくずれるようにひざをつき、黒い髪をやさしくなぜた。「大丈夫だよ、ローザ」と、ゆっくり、いくどもくり返した。「大丈夫だよ、ローザ」
三人の大人たちは断崖のふちに歩みよった。何か白いものが、六十フィートほど下で、静かにゆれていた。だが、片はししか見えなかった。エラリーは、腹ばいになって、前のほうに身をのり出して、崖っぷちから顔を突き出した。
カンスタブル夫人が、断崖の根本にうずまく波の中で、底からつき出た、かみそりの刃のような岩の上に、仰向けに、つばさをひろげた|わし《ヽヽ》のように横たわっていた。長い髪の毛がとけて、ガウンや両足とともに、波にただよっていた。そのまわりの波は赤く染まっていた。どう見ても、高いところから落ちて、岩に当たってくだけた、ふとった牡蠣《かき》のようだった。
[#改ページ]
十二章 ゆすりそこない
静かに死ぬ権利は、とるに足りない人間どものために保留されている。横死は自動的に、つまらぬ人間を重要人物のはしくれにし、ありふれたものを重大な表徴とするものだ。ローラ・カンスタブルは死によって、生前、あんなにも逃れようとした悪名をかち得たのだ。そのくだけたからだが、当局の捜査の目の焦点になった。草むした崖のはなから、たそがれの海の灰色の岩へ、ほんのちょっとの間、空間をとび下りることで、現代のニュースの世界で、不滅なものとして通る重要性をかち得たのである。
男たちが来、女たちが来た。カメラのレンズが、死の過程での苦痛を経て、この上もなく、みにくくなったローラの、みっともない姿を凝視した。鉛筆が血煙り立てる言葉を書きとばした。電話が言葉少ない通話をがなりたてていた。骨と皮ばかりの検屍官が、ちょっと面倒臭そうな指先で、青ぶくれした夫人の肉を顔色も変えずにかきまわした。不思議にも、ガウンの一片が、飢えのためなら何をしてもいいと思うような奴にひきさかれて、なくなっていた。
この気違いざたのさわぎの中で、モリー警視は、顔をふせて胸中の思いをかくしながら、黙って歩きまわっていた。死体と、スペイン岬の北の一端と、血に染まった岩とを、記者どもの自由にまかせた。部下たちは、事のなりゆきに、すっかりとまどい、首をちょん切られたにわとりのようにうろたえていた。ゴッドフリーの一家と、コート青年、マン夫妻は、パティオにより集まり、呆然として、がめついカメラマンたちにポーズをとり、その質問に機械的に答えていた。すでに、モリーの部下のひとりが、カンスタブル夫人のニューヨークの住所を見つけ出して、むすこに電報を打った。夫の居所をつきとめようとしないように忠告したのは、死んだ女の悲痛な声を思い出したエラリーだった。あらゆることが起こったようであり、そのくせ何にも起こらなかった。悪夢だった。
記者連中がモリーをとりまいた。「警視、ネタはどうです」モリーはぶつぶつ言っていた。「犯人は? コートという奴ですか。自殺ですか、他殺ですか、おやじさん。このカンスタブルという女とマルコとの関係は? 噂じゃ、情婦だということですがね、そうなんですか、警視。さあ、ネタをくださいよ。あんたときたら、このごたごたについて、一口もしゃべってくれないんだからな」
そのさわぎがおさまって、最後までねばった記者が強制的に追い払われると、警視は部下のひとりに合図して、提灯《ちょうちん》のともっているパティオの戸口へ行かせ、疲れたように、ひたいをこすってから、ごくうちとけた声で訊いた。「さあ、コート君、どうしたんだね」
青年は目のふちを赤くして、モリーをにらんだ。「このひとがやったんじゃない。このひとじゃない」
「だれが何をやらなかったのかね」
かなり夜がふけていた。巧妙な電気仕掛けで、燃え上がるスペイン風のたいまつが、石畳の上に長く光のしぶきをなげていた。ローザは椅子にうずくまっていた。
「ローザです。あのひとをつきとばしやしません。ちがいますよ、警視さん」
「つきとばす――」と、モリーは目を丸くして、げらげら笑い出した。「カンスタブル夫人が、つきとばされたなんてことを誰が言ったんだね、コート君。記録をつくるので、筋をはっきりしておきたいんだよ。報告書を作らなければならんのだからね」
「すると」と、青年はつぶやくように「あなたは信じていないんですね――殺人とは」
「おい、おい、私がどう考えようと、気にせんでいいよ。何が起こったんだね。そのとき君はお嬢さんと一緒だったのか――」
「ええ」と、コートは熱をこめて「ずっと一緒でした。だからぼくは――」
「いなかったわ」と、ローザが疲れた声で「やめてちょうだい、アールさん。事を面倒にするばかりよ。私はひとりきりでした、あれが――あれが起こったときには」
「おねがいだ、アール」と、ウォルター・ゴッドフリーは醜い顔を苦悩の鬼のようにゆがめて、うなった。「本当のことを言ってくれ。こりゃ、ますます――ますます……」かなり冷えこんできているのに、顔の汗をぬぐった。
コートは生つばをのみこんで「なにぶん、このひとが――ぼくはこのひとを探していたんですよ」
「またかね」と、警視が微笑した。
「ええ、なんとなく気がかりだったので――そう、なんとなくです。誰かが――そこにいるマンさんだったと思います――ローザがリンクスを歩きまわっているのを見たと教えてくれたので、行ってみたんです。そして、あの近くの茂みから出たら――そこで、ローザが見つかったんです」
「なるほど」
「ローザは崖っぷちからのぞきこんでいました。どういうわけか分かりませんでした。大声をかけたんだが、まるで聞こえなかったんです。するうちに、とびすさって、草にうち伏して泣き出したのです。かけつけて、見まわしたら、あの死体が、下のほうの岩の上に横たわっているのが見えたんです。それだけです」
「次はあなた、お嬢さん」と、モリーは、また微笑して「お話したとおり、記録をとるだけなんですよ」
「アールさんの言ったとおりです」ローザは手の甲で唇をこすり、口紅で赤くなった皮膚をじっと見つめて「あの人が私を見つけたときには、そんなふうだったんです。あの人が叫ぶのは聞こえたけれど、私は……口もきけなかったんです」ローザは身ぶるいして、すぐ先をつづけた。「私はひとりでゴルフの球を少しばかり打ちに出ていたんです。なぜって、とても――ここは、とてもやりきれなかったのよ、あれからってもの……やがて疲れたので崖っぷちへ行って横になろうと思ったんです。ただ――そう、横になるだけ。私はひとりきりになりたかったんです。でも、ゴルフの障害地の、あのやぶ林を歩いて出ると、すぐに、私は――あのひとを見たんです」
「なるほど、そうですか」と、マクリン判事が熱心に「そこが一番大事な点だ。お嬢さん、あのひとはひとりだったかね。何をあなたは見たかね」
「あのひとはひとりだったと思います。私は何も気づきませんでした――ほかのことは。あのひとだけです。私のほうに背を向けて、海に向かって立っていました。あんまり断崖のふちなので、私は――こわくなりました。こわくて、動くことも、叫ぶことも、なにもできませんでした。私が、もし急に音を立てたら、あのひとは驚いて足をふみはずすかもしれないと心配だったのです。で、私はただそこに立って、見守っていたのです。あのひとの様子は、まるで――おお、こんなことを言うのは、ばかげて、ヒステリーみたいですわね」
「いや、お嬢さん」と、エラリーはおごそかに「つづけてください。あなたが見たり感じたりしたことを、みんな話してください」
ローザはツイードのスカートを、むしりながら「薄気味が悪かったわ、まったく。だんだん暗くなってくるし。あのひとは、あそこにじっと立って、黒い影が空にくっきり浮かんで、まるで――そう」と、叫ぶように「石像みたいでした。それから、私は自分でも少し頭が変になったにちがいないと思ったのです。なぜって、私はあのひとが――あの全体の場面が――なんだか映画から抜け出したもののように見えるなと――考えていたのを、おぼえています――まるで……そう、よく仕組まれたもののようにです。光と影の効果をよく計算に入れているようにね。もちろん、ヒステリー症状だったんですわ」
「ところで、お嬢さん」と、モリー警視がやさしく「お話はよく分かりましたがね、カンスタブル夫人については、どうなんですか。正確に、あのひとにはどんなことが起こったんですか」
ローザはじっとすわっていた。「それから……ふっと消えたんです。お話したとおり、あの方はあそこに石像のように立っていました。私の知っている次のことは、あの方は両腕をさっとさし上げて、一種の――悲鳴をあげて、崖ぶちから前のほうへ倒れたのです。そして消えたのです。私――私には、ばさっという音が聞こえました、あの方がぶつかったとき、下の……おお、生きているかぎり忘れられませんわ」ローザは椅子の中で身をもがき、口をもぐもぐさせて、むちゅうになって母の手をさぐった。ゴッドフリー夫人は、おびえたように、ぎこちなく娘をさすってやった。
みんな黙りこんだ。やがてモリーが言った。「だれかほかの人が、何か見た人はいませんか。何か聞いた人は?」
「いや」と、コートが「つまり」と低い声で「ぼくは見なかった」
ほかには誰も答えなかった。モリーはくるりと、エラリーと判事のほうを向いて、そっと言った。「行きましょう、ご両所」
三人は、めいめいの考えにふけりながら、てんでんばらばらになって二階へ上がった。カンスタブル夫人の部屋の外の廊下に、公共福祉局の制服をつけた二人の男が、例の少し不格好なかごを足もとにおいて待っていた。モリーがぶつぶつ言いながらドアを開けると、二人はついてはいった。
検屍官がシートをもとにもどしたところだった。からだを伸ばして、不機嫌な目つきでふり向いた。死体はベッドに小高く盛り上がっていた。シートには血痕がついていた。
「どうかね、ブラッキー」と、モリーが言った。
骨ばった男はドアに歩みより、そとの男たちに何か言った。ふたりは、はいって来て、かごを下ろし、ベッドのほうを向いた。エラリーと判事は、思わず目をそらした。そしてふり返ったときには、ベッドは空になり、かごはいっぱいになり、二人の制服の男は額をぬぐっていた。ふたりが出て行くまで、だれも口をきかなかった。
「さよう」と、検屍官が言った。ぷりぷりしていた。青白い頬に赤いしみが浮かんでいた。「いったい、私を、魔術師とでも思っとるんですか。えっ! あの女は死んでる、それだけのことですよ。落ちて、死んだんです。実際問題としては、背骨が二つに折れた上、頭蓋骨と、足に少し損傷があるんです。まったく、君らは、私をうんざりさせる」
「なにをぷりぷりしとるんだね」と、モリーが不服そうに「弾《たま》きず――きりきず――そういったものはないかね」
「ない」
「結構」と、モリーは手をもみながら、ゆっくり言った。「助かる。はっきりしたケースですな、皆さん。カンスタブル夫人は破滅に直面した――あの女のためにつくられた地獄にね。死にかけているご亭主や、中産階級のがんじがらめの環境やなんかでね。もみ消しのためにご亭主に相談に行けなかったし、自分には金がなかった。そこで、私からの報せで――例の手紙や品物が私に送られたことを知るとすぐに――まずかったが、なんてこった――あの女は自分で思いついたただひとつの逃げ道をとったんだ」
「自殺したと言うのかね」と、判事が訊いた。
「崖の根にぶち当たったんですよ、判事」
「はじめてですな」と、検屍官は、意地の悪い身ぶりでぴしゃりと診察鞄をとじながら、皮肉に「あんた方が筋の通った話をするのは。私の考えとぴたりです。いんちき行為の物的証拠は何もないです」
「そうかも知れんな」と、マクリン判事がつぶやいた。「感情的に不安定で、中年女性の危機で、自分の世界が足もとで崩れかける……いかにも、いかにも、ありそうなことだ」
「それに」とモリーは、わが意を得たりとばかり、声を高めて「あのローザという娘が真実を語っているとすれば――しかもあの娘はあらゆる点からみて、たしかに潔白だから――これは自殺以外の何ものでもあり得ませんな」
「おお、それが、あり得ますね」と、エラリーがゆっくり言った。
「なんだって?」と、モリーは、ぎくりとした。
「もし君が議論を始めたいならね、警視……それに論理的に言って、ぼくは念をおしておきますが、たしかに、自殺以外のものであり得ますよ」
「でも君、あの女がとびこんだときには、五十フィート以内には、ひとっこひとりいなかったんですよ。あの女は射たれてはいない。その点はたしかだ。それにナイフの傷もない。そういう情況なんです。苦もなく報告がすませられるなんて、大だすかりですよ」しかし、モリーはいかにも当惑顔でエラリーを見つづけていた。
「ありがたいしあわせも人によりけりですな、先生。あの女は背中をぶつけていたんじゃなかったんですか」
検屍官は鞄を取りあげて、しかめ面をした。「このひとに答えなければならんのかね」と、不服そうにモリーに訊いた。「ばかなことばかり訊いとる。会った瞬間から気にくわなかったよ」
「おいおい、ブラッキー、そんなにとんがらかるなよ」と、警視がにやにやした。
「そんなら、あんた」と、検屍官はばかにしたように「そのとおりですよ」
「あなたはソクラテス的な方法を好かれんようですな」と、エラリーはにやりとしたが、すぐに薄笑いを消して言った。「そして、あの女は、断崖から落ちる直前、ふちに立っていたんじゃないですか。そうでしょう。するとバランスを失わせるためには、大して手もかからないはずでしょう。もちろん、造作ないですね」
「何を言うつもりなんだね、エラリー」と、判事が訊いた。
「親愛なるソロン殿、モリー警視は、シーザーとともに≪|人はほとんど喜んで、自ら欲することを信じる者である(フエレ・リベンテル・オミネス・イド、クオドヴォルント・クレズント)≫ということを信じているんですよ。君には、カンスタブル夫人が自殺なら好都合なんでしょう警視」
「いったい、何をいうつもりなんです」
「もっと、考察をすすめることがお望みなら?」
「まあ、ちょっと聞きたまえ――」
「ねえ、ぼくは」と、エラリーは、まのびのした声で「あの女が自殺したんじゃないとは、言っていないんですよ。ぼくはただ、あんな情況のもとでも、カンスタブル夫人は殺される可能性があったかもしれないということを指摘したかったんですよ」
「どうやって」と、モリーがどなった。「どうやって殺すのかね。帽子から兎をとり出すようなまねをいつまでもつづけておれんよ、君。君が言うのは――」
「ぼくは兎をとり出しかけていたんです。おお、たしかに、とても原始的な方法によってだが、この場合、見かけだおしの現代的な方法より、はるかにまさっているんです。ぼくが言いたいのは、だれかが近くのやぶの中に立っていて、ローザやわれわれから見えないように、カンスタブル夫人の背中に石をぶつけるだけでよかったということも論理的には可能だということですよ――あの背中は大きな的になりますからね、あの夫人の体つき全体を思い出してみれば分かるでしょう」
一同は、黙りこんでその言葉を迎えた。検屍官は、くやしそうに、負けたという格好でエラリーをにらみつけていた。モリーは爪をなめていた。
やがて、マクリン判事が言った。「ローザが、何のもの音もきかず、加害者を見かけなかったらしいのは、まずそれでいいとしても、しかし、まっすぐにカンスタブル夫人を見ていたんだ。石があたるのに気がつくはずじゃないだろうか」
「そうだ」と、モリーが、渋面を消して、すぐに言った。「そのとおりです、判事。あの娘が気がつくはずじゃないかな、クイーン君」
「気がつくとは思えませんね」と、エラリーは肩をしゃくって「しかし、これは単なる意見にすぎないんです。いいかね、ぼくは現実に起こったことを話しているんじゃない。一足とびに結論にとびつくのが危険なのを、指摘しただけなんです」
「それじゃ」と、モリーは、しわくちゃなハンカチで顔をふきながら「自殺については、本当に何も疑問はあり得ないと思う。お説は実にすばらしいが、どうにもなりませんね。それに、私には、この事件の全体のからくりが、今、つかめましたよ。あんたにもぶちこわせない論理ですよ、エラリー君」
「全体の事実の、ひとつひとつの配置を、全部説明し得る論理なのですか」と、エラリーは、明らかに驚いて、つぶやいた。「警視、それが本当なら、ぼくはあやまらなくちゃならない。なにしろ君は、ぼくが見落していた何かを見つけたんでしょうからね」その口調にはなんの皮肉もなかった。「じゃ、それを聞かせてください」
「君はマルコを殺したのが誰か分かっとるつもりなんだね」と、判事が言った。「わしは、しんからそうあってほしいよ。これじゃまるで休暇にならない。正直なところ、今日にもここを退散したら、さぞせいせいすることだろうよ」
「たしかに、知っとります」と、モリー警視は、ねじれた安葉巻をとり出して、口にねじこみながら言った。「カンスタブル夫人です」
エラリーは、みんなと寝室を出て、検屍官を階下に、それから車まで送り、パティオを通り抜けて、月光にぬれる庭へぶらぶら出て行くあいだじゅう、ずっと、モリーから目をはなさなかった。パティオには人影がなかった。モリーはレスラーのようなあごをしていて、格別、知的な素質にめぐまれているようには見えなかったが、エラリーは、苦労して得た経験から、人を外見や通りいっぺんの知識だけで、決して判断してはならないということを知っていた。モリーが何か役に立つものを探り当てている可能性があった。エラリーは今度の事件では、自分の考察が、ずっと石女《うまずめ》だったことをさとっていたので、ひとりでほくほくしているらしいモリーが、説明してくれるのを辛抱強く待っていた。
モリーは、一同が頭上に木の葉が黒く生い茂る静かな場所に行きつくまで口をきかなかった。そして、まる一分間も、安葉巻を吸うのに気をとられて、そよ風がいやな匂いの煙を運び去るのを見まもっていた。
「ねえ」と、警視はやがて、じらすようなゆっくりした口調で「はっきりしとるですよ。あの女が自ら死んだからにはね。私も抜かった」と、わざとらしい謙遜のしかたで「と言うのは、前には、あの女のことを特別に考えもしなかったんです。しかし、この商売にはありがちなことですよ。最初は雲をつかむようでも、時が来るのを辛抱していると、そのうちに、どかんと――何かが爆発する。すると、万事解決、あとは凱歌《がいか》ばかりだ。必要なのは忍耐だけです」
「それについて、ローマの喜劇作者シルスが言っていますよ」と、エラリーはため息をして「≪あまりしばしば当てがはずれると気違いになる≫さあ、話してください、さあ」
モリーはくすくす笑って「マルコはカンスタブルという女に対して、いつもの手を使った。言い寄って、防備をたたきつぶして、情夫になった。あの女はおそらく手もなくひっかかった――ちょうど、いい男を映画でうっとりと眺めては、家に帰って夢をみるといった年配だからね。ところが、間もなく目がさめた。マルコは手紙と写真と一巻のフィルムを手に入れるとすぐ、テーブルにカードをならべて勝負と出た。金を払いな、おめでたい奥さん。あの女は死ぬほどおびえ上がって、金を払った。心中くやしかっただろうが、あの女は要求どおりの金を払い、証拠をとりもどして、万事をほうむり去ろうと考えた。どっこい、そううまくはいかなかった」
「そこまでは」と、エラリーがつぶやいた。「たしかに、驚くことは何もないし、おそらく正しいでしょう。それから」
「しかし、今日の午後、あんたが自分で盗み聞きした会話からわかるとおり」と、警視は淡々としてつづけた。「あの女はだまされた。金を払ったのに証拠品はとりもどせなかった。そこで、また払い、また払いして、ついには……どうなったか」モリーは、葉巻をふりまわしながら、のり出して「ついには、一文なしにされた。スカンクの口にねじ込んでやる金がもうなくなったんだ。あの女にどうすることができただろう。絶体絶命だ。亭主のところへは行けもしないし、行くつもりもなかった。あの女はほかに金の出どころはない。しかも、マルコはあの女の言うことなど信じなかった。だから、マルコの細工であの女はここに来たんだ。あの女からまだいくらかでもしぼれると思わなかったら、ここに招待するような細工はしなかっただろうからね。ねえ、しただろうか」
「いや、まったくそのとおり」と、エラリーは、うなずいた。
「ところで、マルコは最後の清算をするために舞台ごしらえをしていた。犠牲者をみんな集めて、いっぺんにたたきつぶし、金をかき集めて、ローザを連れ去る――私の知るかぎりでは、ローザと結婚するつもりだったらしい――そして、その手で暮らしの道をたてるほうがやさしいと睨んだんだろう。ゴッドフリーはあんな|むこ《ヽヽ》を追っ払って、娘をつれ戻すためにはたんまりと金を払うだろうしね。ところでどうなったかだ。カンスタブル夫人がやって来た、というのもマルコが命令したのだし、あの女には命令をこばみようがなかったからだ。あの男はもっと金を出せと要求し、あの女は金がないと訴える。そこで奴は強面《こわもて》になって、ごまかしをやめてさっさと金を払わないと、証拠品をタブロイド新聞か亭主に送りつけるぞとおどす。しかし、あの女は本当のことを言っているんだ。進退きわまる。そこで、どうするかね」
「おお」とエラリーは変な声を出した。「分かりました」がっかりしたようだった。「そこで、あの女はどうするんですか」
「奴を殺そうと計画する」と、モリーは得意になって「むしろ、奴が殺されるように計画したといえる。そして運よく男が手紙や証拠品を持って来ていれば、とり返して破棄するつもりだった。そこで、ここへ来ているうちに噂を知ったキャプテン・キッドなる人物を見つけ出し、マルコ殺しに雇った。ところが、キッドは間違えて、カマーをつかまえた。ほとんどすぐそれに気がついた女は、あの夜、テラスでマルコと会う約束のにせ手紙をタイプし、下りて行って、コロンブスの胸像をつかみ、マルコをなぐっておいて、持って行った針金で絞め殺した。そうして……」
「死体を裸にしたんですね」と、エラリーがおだやかに言った。
モリーは弱ったように「ありゃあ、子供だましさ」と、やり返した。「われわれの目をくらまそうとしただけです。何の意味もないですよ。もしあったとしても、ただ、ちょっと、かっとなってやっただけです――ねえ、分かるでしょう」
マクリン判事が首をふった。「警視君、わしは、君の意見には賛成とは言えんね」
「その先を」と、エラリーが言った。「警視の話はまだ終ってはいませんよ、判事。ぼくは、とことんまで聞きたいんです」
「うん、そのほうが私にもいい」と、モリーはいらいらして、ぴしゃりと言った。「あの女は、その時は安全だと思っていた。手がかりはひとつもない。呼び出し状は破られるだろうし、破られないとしても、ローザに疑いがかかる。そこで自分の手紙や写真を探しにかかる。ところが見つからない。事実、もう一度探すつもりで、次の晩――つまり昨夜、引き返してる。そのとき、あんた方が、あの女と、マンのお人形と、ゴッドフリーの奥さんを見かけたんだ。それからあの女は、現実に証拠を手に入れた人物から電話で呼び出され、またしても、そっくり元のままの、いまわしいゆすりにひっかかっていることをさとった。人を殺したのに役に立たなかった。今度は、だれが自分にかみついているのか相手さえも分からない。そこで、お手あげとなり、自殺した。こういうわけです。あの女の自殺は罪の告白にすぎません」
「そんなものかな」と、マクリン判事がつぶやいた。
「そんなものですよ」
老紳士は頭を振った。「まあ」と、おだやかに「君の論理にふくまれている多くの矛盾は別にしてもね、警視君、あの女は心理的に犯罪者として不適格だということは、きっと君も認めとるだろう。あの女はスペイン岬に到着した瞬間から、恐怖でおびえ上がっていたんだ。あれは、ブルジョア・タイプの中年女だ――純粋で単純な家庭婦人だ。善良でまっとうな人がらで、道徳的視野もせまく、家庭と夫と子供たちに愛着をもっている女だ。マルコとの出来事も、いわば、感情的な爆発で、起こると同時に終ったのだ。ねえ、警視、あんな女は、せっぱつまれば衝動的に人殺しをするかもしれんが、あらかじめ慎重に計画した巧妙な殺人はせん。あの女の精神はそれほど明晰だったはずがない。それに、充分な知能を持っとったかどうかも、うたがわしい」判事は美しい白髪頭を振った。「いや、いや、警視、君の言うことは本当らしく聞こえんよ」
「おふた方の口説《くぜつ》がおすみになったら」と、エラリーがのろのろ言った。「警視さん、すみませんが、二つ三つ、質問に答えてくれませんかね。いずれは、新聞屋どもの同じ質問に答えなければならないでしょうからね。連中は、なかなか頭のきれる若殿、姫君だ。君はまさか、われわれが下世話《げせわ》に言う|ゆるふん《ヽヽヽヽ》の状態で、連中につかまりたくはないでしょう」
「言ってみたまえ」と、モリーは言ったが、もはや勝ちほこったところも、当惑したところもなかった。どちらかといえば心配していた。すわって指の爪をかみ、まるでちょっとした言葉でも聞きのがすまいとするように、頭を片方にかしげていた。
「まず最初に」と、エラリーは、いきなり言って、田舎風な長椅子に席をうつした。「君の話では、カンスタブル夫人は、マルコのゆすりに金が払えないので、殺しを計画した。そして、殺しの計画を立てるに当たって、キャプテン・キッドを雇って、けがらわしい仕事をさせたと主張する。夫人はキッドに払う金をどこから持って来たのかを訊きたいですね」
警視は爪をかみながら、黙っていた。それから低い声で「そう、それはたしかに難問だが、仕事がすんだときに払うと約束しただけかもしれませんよ」
判事は微笑し、エラリーは頭を振った。「そして、すっぽかしたあげく、キュクロプス〔ひとつ目の巨人〕に首根っこをつかまれる危険をおかすというのですか。ぼくはそう考えませんよ、警視。それに、キッドが前金をもらわずに人殺しをやるようなタイプの悪党とも、思えませんね。ねえ君、君の論理には、少なくともひとつの弱点がありますよ、しかもきわめて根本的な弱点です。次に、カンスタブル夫人は、どうして、マルコとローザの関係を知ったかです――置き手紙の餌が役に立つのを確信するほどによく」
「それはわけない。あの女は目をひらいていて気がついたのさ」
「しかし、ローザは」と、エラリーは微笑しながら「そのことを、ごく内密にしていたことはたしかですよ。もしぼくの異論に取るところがあるとすればね、それが第二の弱点です」
モリーは黙っていた。「しかし、そんなことは――」と、しばらくして言いかけた。
「そして第三には」と、エラリーが気の毒そうにつづけた。「君はマルコが裸であった点を説明していない。もっとも重大な手抜かりですよ、警視」
「いまいましいマルコの裸体か」と、モリーはどなって、とび立った。
エラリーは立って、肩をすくめた。「残念ながら、この事件は簡単には解明できませんよ、警視。なぜ裸だったかを完全に説明する論理を見つけるまでは、満足すべき論理を持ったとはいえませんからね――」
「しっ!」と、判事が低い声で制止した。
一同は同時にそれを聞いた。女の声だった。かすれた、かすかな声だった。しかも庭の中の、どこか近くで悲鳴をあげた声だった。
三人は大急ぎで、深い草の上を音もたてずに走りながら、叫び声のほうへ向かって行った。叫び声はくり返されはしなかった。しかし、奇妙な女のくぐみ声が聞こえ、進むにつれて大きくなった。本能的に三人は忍び足が必要なのをさとった。
やがて三人は、|いちい《ヽヽヽ》の生垣《いけがき》をすかして、青い針樅の輪でかこんだ苗場をのぞき込んだ。ひと目見るなり、モリー警視は生垣をとび出そうと身がまえた。エラリーの手が警視の腕をぐいとつかんだので、モリーは腰をかがめた。
南米の金持ち、ジョーゼフ・A・マンが、顔色もかえずに、木立の輪のまん中に、いきり立って、厳然と突っ立ち、大きな褐色の手で細君の口をぴたりとふさいでいた。
その手はほとんど顔をふさいでいたので、恐怖におびえた細君の目だけが見えていた。細君は気違いのようにもがき、夫の手で、かすれ、ゆがめられた、ふくみ声を口ばしっていた。手で頭ごしに夫の顔をなぐり、とがった靴のかかとで、蹴《け》りつけていた。夫のほうは、細君がぶったり蹴ったりするのを、南京虫があばれるほどにも気にしてはいなかった。
ジョーゼフ・A・マンは、そのとき、金持ちらしくも、ポーカー・フェイスの|とばく《ヽヽヽ》師らしくもなかった。それまで、とても注意深く貼り重ねてきた薄っぺらなベニヤ板のような化けの皮が、一閃《いっせん》の激情でめくれて、かぶっていた冷徹な仮面が落ちると、ついにすさまじい怒りがむき出しになった。たくましいあごの筋肉が野獣のような唸り声とともに、うしろに引きつっていた。両肩のすごい筋肉の隆起と、鋼鉄のような二頭筋のかたまりが、ぴんと張った上着を通して見えた。
「細君取扱い方の」と、エラリーがつぶやいた。「第一課だ。実に教育的だ……」
判事は、とがったひじでエラリーのあばらを、こづいた。
「へらず口をやめるなら」と、マンはしゃがれ声で「はなしてやる」
細君はあばれ方を倍にし、そのくぐみ声は悲鳴のように高まった。夫の黒い目が光った。細君を地面からつるし上げた。細君の頭がうしろにのけぞり、息がつまった。くぐみ声がとまった。
マンは細君を草の上に放り出し、さわったのでよごれたといわんばかりに、服で手をふいた。細君は、うずくまって、ほとんど聞きとれない、短い、かすれ声で泣き始めた。
「さあ、よく聞くんだぞ」と、マンは言葉がぼやけるほど、のどをしめつけるような調子で「訊くことにまっすぐに返答するんだ。お前の蛇の二枚舌で、こいつをごまかしおおせるなどと思うなよ」マンはにくにくしげに細君をにらみつけた。
「あなた」と、細君はうめいた。「あなた。よして。殺さないで。あなた」
「ただ殺すのは、お前には分が過ぎる。蟻塚に釘づけにしてやるべきだぞ、この不貞者め、くされ売女め!」
「あ、あなた」
「あなたと呼ぶな。白状しろ! 早く!」
「何をよ……分からないわ――」細君は恐怖にふるえながら、なぐられるのを防ぐかのように夫を見上げて、あらわな腕を差し上げた。
マンは突然かがんで、片手を女の片脇に入れ、苦もなく女をひきずり起こした。女はベンチへ後ろ向きにすっとんで、どさっと、落ちた。男はひと足ふみ出して、手を振り上げ、女の頬の同じ場所に三度、びんたをくれた。びんたは、ピストルを射つような音がした。それが背骨にぎくっとこたえて、女は頭をのけぞらせ、ブロンドの髪もほつれた。女は怖ろしさのあまり、叫ぶことも抵抗することもできなかった。ベンチの上にへたばって、頬をおさえ、まるで一度も会ったことがない男に対するような、とげとげしい目で夫を見上げた。
エラリーの両わきのふたりは、仲裁しようとして、ぶつぶつ言った。
「だめ」と、エラリーは鋭く言って、指でふたりの腕をひきとめた。
「さあ、白状しろ、こいつ!」と、マンは落ちつき払って言い、後ろへさがった。そして、大きな手を上着のポケットにねじ込んだ。「お前は、あのにやけた奴と、いつからこんなことになったんだ」
細君は歯の根が合わず、しばらくはものも言えなかった。やがて、不自然な声で言った。「あのとき――あなたは――アリゾナへ取引きに行かれて、お留守でしたわ。すぐあとでした――結婚して」
「どこで奴と出会ったんだ」
「パーティーでよ」
「どのくらい奴と――」マンはのどをつまらせ、毒々しい文句で最後を結んだ。
「二――二週間よ。あなたがお留守のあいだ」
男はまた平手打ちした。女は赤くなった顔を両手に埋めた。「おれのアパートでか」男の声はほとんど聞きとれなかった。
「ええ――」
男の手がポケットの中で握りしめられた。女は見上げて、そのかくされた拳骨《げんこつ》に気がつくと、恐怖の色がしだいに顔にあらわれた。「奴に手紙を書いたのか」
「一通」と、女はやっとささやき声になった。
「ラブレターだな」
「ええ……」
「おれの留守中に女中を代えただろう」
「ええ」女のささやきにはなんとも奇妙な調子があったので、男は鋭くみつめた。エラリーの目が細くなった。
マンは後ろにさがって、顔に雷雲をみなぎらせながら、つながれた野獣のように木立の中を大股で歩きまわっていた。女は、不安で息もたえだえに男を見守っていた。やがて、男は立ちどまった。
「いいことを聞かせてやる」と、男はにやりとして言った。「お前を殺しやせんぞ、いいか。おれがやさしくなったからじゃない、分かってるな。ただまわりにデカが多すぎるからだぞ。これが西部かリオの南だったら、でくの坊みたいに平手打ちなんかくれるかわりに、お前をひねり殺してやるところだ」
「おお、あなた、私は悪いことをするつもりじゃなかったのよ――」
「ほざくな。おれは気が変りやすいんだぞ。あのマルコの野郎は、どのくらい、お前からしぼりあげたんだ」
女は尻ごみした。「また、ぶたないでね、あなた。ほとんど――ほとんど全部よ……あなたが私の銀行勘定に入れてくださったお金の」
「留守中の小づかいとして一万ドルやっといた。奴はいくらしぼり上げたんだ」
「八千ドル」女は自分の手を見つめた。
「おれたちをこのスペイン岬に来るように招待させたのは、あの女蕩しか」
「え――ええ」
「おれは安宿だと思っとった。なんて甘ちゃんだったんだろう」と、マンは苦々しく言った。「あのカンスタブルという女も、ここのゴッドフリーの女房も、二人とも乗り合いの客ってわけなんだな。それでなかったら、なんであのでぶ助が自殺なんかするもんか。お前も奴から手紙をとりもどせなかったんだろうな」
「ええ、ええ、ジョー、駄目だったわ。私をだましたのよ。売ろうともしないの。私たちがここに来たとき、お金を要求したのよ――もっと出せって。五千ドルほしいって。私――私は持っていなかったわ。あなたからもらえと言ったわ。さもないと、手紙と――女中の供述書をあなたに廻すって。私にはとてもそんなことできないと言うと、そうしたほうが身のためだぞと言ったわ。ちょうどそのとき――誰かがあの男を殺したのよ」
「しかも、うまく片づけたもんだ。奴にふさわしい殺され方でなかったのが残念だがな。南アメリカだと、こんなことはもっとうまく片づける。ナイフで、すばらしく上手にやるさ。お前が奴をやったのか」
「いいえ、ちがうわ、ジョー。ちかって私がやったんじゃないわ。私――私も殺そうとは思ったけど、でも――」
「そうさ、お前じゃないだろうさ。お前には、いざという場合には、しらみほどの勇気もないさ。おれがしゃくにさわるのはそんなことじゃない。畜生、お前のひん曲った口は、言いたくても本当のことは言えないんだな。手紙は見つけたのか――」
「探したんですけど」――と、ふるえ声で――「あそこになかったのよ」
「それで話がわかる。誰かが先廻りしたんだ」と、マンはしかめ面して考えながら「それで、カンスタブルという奴は、崖から身を投げたんだな。秘密がばれるのに耐えられなくてな」
「ジョー、どうして、あなたはそれを――知ったの」と、金髪の女がつぶやいた。
「一、二時間前に、うさんくさい声の電話がかかった。いきさつをすっかりしゃべって、手紙と女中の手記を売りたいと言うんだ。一万ドルでな。ひどく金につまっとるようだった。おれは考えとくと言っといた――それで、この始末さ」夫はゆっくりと細君の顔を上向けた。「ただ、あの馬泥坊め、ジョー・マンさまをごぞんじない。奴は直接お前のところへ行って、金を盗み出させたほうが、ずっとましだったろうにな」指先が女の肉にひどくくいこんだ。「セレー、きさまとおれは縁切りだぞ」
「ええ、ジョー……」
「この人殺しの悪臭が吹き消えたら、すぐ離婚手続をとるからな」
「ええ、ジョー……」
「お前の宝石はみんなとり上げるぞ――おれがお前にやった奴、お前がご執心の奴を全部だ」
「ええ、ジョー……」
「ラサールのロードスターもポン骨屋行きだ。冬の支度に買ってまだ一度も着ないミンクのコートも、燃してしまうぞ。お前の持っとる衣裳はひとつ残らず、たき火にくべちまうぞ、セレー」
「ジョー……」
「最後の一文までとりあげてやるぞ、セレー。それから、あとはおれがどうするか、分かるか」
「ジョー……」
「おれはお前を下水に蹴り込んでやる、こやしの中で、遊べるぞ、ほかの奴らとな――」しばらくの間、マンの声は、淡々として、聞く者の眉をしかめさせるような、アメリカ語とスペイン語の悪口雑言の数々をつづけた。その間じゅう、マンの指は細君のなぐられた頬にくい込み、黒い目は女の目にやきつくようだった。
やがて、罵りやめて、そっと女の顔を後ろに押しやり、きびすを返すと、邸のほうへ小道を去って行った。女はベンチにうずくまり、まるで寒気がするかのようにふるえていた。顔には黒ずんだぶちができ、月光に黒く見えた。しかし、女の態度には、まるでまだ生きているのが信じられないほど意外だったとでもいうような、奇妙な、異常な満足感が感じられた。
「ぼくの失敗でした」と、エラリーは眉をしかめて言い、三人はマンの後を追って邸のほうへ、用心しながら急いで行った。「マンに電話がかかるのを察知すべきでした。しかし、こう早くかかるとはね。さすがのぼくもね。奴は最後のどたん場で死にもの狂いにちがいない」
「もう一度、かけてきますよ」と、モリーが息をはずませた。「マンがはっきりそう言ってたでしょう。マンは地獄へ行けと言うでしょうよ――金は払いっこない――しかし、そのとき、そいつがどこから電話をかけているか、つきとめられるでしょう。いろいろ考えてみるとどうも邸の中がくさいですね。電話の数もたくさんあるから――」
「いや」と、エラリーはすぐ言った。「マンは放っときましょう。その電話は、前回のよりつきとめやすいだろうという理由はない。それに、事を台なしにするおそれもあります。切り札があと一枚あるんですよ――手おくれにならなければね」と、エラリーは歩調をはやめた。
「ゴッドフリー夫人か」と、マクリン判事がつぶやいた。
しかし、エラリーは、すでにムーア風の拱廊《アーチ》の下に姿を消していた。
[#改ページ]
十三章 間違いだらけ
エラリーは、ゴッドフリー夫人の居間のドアをたたき続けた。驚いたことに、億万長者が自分でドアをあけ、みにくい顔をつき出して、喧嘩腰にかみついた。
「なんだね」
「奥さんとお話ししなければなりません」と、エラリーが言った。「きわめて重大なことです――」
「ここは家内の私室だ」と、ゴッドフリーは、すぐ言った。「わしらは、そこいらじゅうから追い立てられて、かんにん袋の緒がきれた。わしのみるところ、君らのやったことといえば、しゃべりまくり、駆けずりまわっただけだ。その≪重大≫とかいう問題は、朝まで待てんのかね」
「ええ、駄目です」と、モリー警視がにべもなく言ったが、エラリーの胸中を知るよしもなく、億万長者を押しのけて部屋にはいった。
ステラ・ゴッドフリーは、ゆったりとした長椅子から、ゆっくり立ち上がった。夫人は、かさばった薄いものを着ていて、素足に寝室ばきをひっかけていた。そして、妙な光を宿した目をして、ネグリジェを、かきあわせた。その光が三人をまどわせた――やわらかい、夢見るような、この上もなくなごやかな表情だった。
ゴッドフリーは、錦織《にしきお》りの部屋着姿で妻のそばに歩みより、護衛するように、少し前に立っていた。三人は、驚いて目を見合わせた。ついに、ゴッドフリー家に平和が訪れたのだ――以前にはなかった平和と理解とが。してみると、この小男は、噂に聞いていたより、ずっと端倪《たんげい》すべからざる人物なのだ……その瞬間、三人は、庭で細君にのしかかっていたジョーゼフ・マンの怒り狂う顔を思い起こさざるを得なかった。マンは、野獣であり、心理の単純な原始人で――野蛮な所有観念を持ち、その観念が犯されると、傷つけ、なぐり倒し、ぶっつぶす衝動となってはけ口を見いだそうとするほど、かんかんになる男なのだ。ところが、ウォルター・ゴッドフリーの心理は、都会的で、ほとんど精力が消耗されてしまっているほど文化的なものなのだ。なぜなら、二十年以上も結婚の誓いに貞淑だった妻も、ゴッドフリーにはほとんど存在しないも同然だったのだ。それが、ついに誓いを破ったのを発見したとき、妻の存在をみとめ、明らかに妻を許し、あらためて妻を愛しはじめたのだ。もちろん、ゴッドフリーを妻にひきつけたのは、ローラ・カンスタブルの不幸な運命だったかもしれない。あの肥えた女は、黙っていてさえ、悲劇的な人物だったし、その非業の死は、ゴッドフリーの家庭を暗くした。それとも、あるいは、迫りくる危険や、覆いかぶさる法の脅威など、ありふれた恐怖のとけ合ったもののせいかもしれなかった。とにかく、ゴッドフリー夫妻のほうは、ちょうどマン夫妻が決定的に決裂したと同じ程度の強さで、やさしく和解していたのである。それはひと目で分かった。
「カンスタブルの奥さんは」と、ステラ・ゴッドフリーが言いかけた。目の下の黒い|くま《ヽヽ》がいっそう深まった。「あの方は――もう運んで行きまして?」
「ええ」と、モリーが重々しく言った。「自殺したのです。少なくとも、もうひとつの殺人が重なって、事件をこみ入らせなかったことを、感謝すべきでしょうな」
「まあ、こわい」と、夫人は身ぶるいして「そうでしたわ――とても淋しそうな方でしたわ」
「こんな時間に伺って恐縮ですが」と、エラリーが低い声で「暴力は暴力を生むものですし、むろん、あなた方はわれわれ一同に、やりきれないお気持ちでしょう。しかしながら、奥さん、われわれは、やりとげなければならない一定の任務があるんです。そして、実は、もうひときわ、あなた方のご協力が得られれば、それだけ早く、あなた方は厄介払いができるんですよ」
「どういうことでございましょう」と、夫人が静かに訊いた。
「手のうちの切札を、はっきりテーブルの上にひらく時が来たと信じるのです。あなたが黙っていらっしゃるので、われわれは、ひどく苦労したのですが、運よく、ほかの方法で、事の真相を、ほとんど知ることができました。どうぞ信じてください。今はもう沈黙を守られる必要はないのです」
日灼けした夫人の手が、夫の手をさぐった。「よろしい」と、急にゴッドフリーが口を出した。「そいつは公平だな。どれほど分かっとるね」
「マルコと奥さんに関するかぎりは」と、エラリーが気の毒そうに「全部です」
ゴッドフリー夫人はもう一方の手を、のどにあてて「それがどうして――?」
「あなたがご主人に、あやまちを告白なさったのを立ち聞きしたのです。ご厚遇に対して、心苦しい裏切り行為ですが、これも万やむを得なかったのです」
夫人は目を伏せて、顔をくもらせた。ゴッドフリーが冷たく言った。「そのことの是非は論じたくないが、つまらん噂のたねにはなりたくないもんだな」
「新聞記者どもには何も話してありませんよ」と、モリーが言った。「さあ、クイーン君。あなたの考えは?」
「もちろん」と、エラリーは言った。「このことは、厳密に、われわれ五人のあいだだけの話です。……奥さん」
「はい」と答えて、夫人は頭を上げて、エラリーの凝視にうなずいた。
「そのほうがいい」と、エラリーは微笑して「ジョン・マルコはあなたをゆすっていたでしょう。どうですか?」
エラリーは夫妻をじっと見つめた。もし、夫人が恐怖の反応をましたり、億万長者がショックを受けるか、怒り出すかするものと予想していたら、失望するところだった。前の晩の庭園での告白場面以来、夫人が完全に心の重荷を下ろしているのは明白だった。ある意味では、そのことを、エラリーは喜んでいた。そのほうが事を簡単にするからだ。
夫人はすぐに「そうです」と言った。ウォルター・ゴッドフリーがきっぱりした口調で「家内が全部、わしに話した、クイーン君。君の訊きたい点は?」
「マルコに何回金を払われましたか、奥さん」
「五、六回ですわ、よく覚えていませんの。最初はニューヨークで、あとはここで」
「相当の|たか《ヽヽ》ですか」
「かなりの」夫人の声はほとんど聞きとれなかった。
「要点にはいりたまえ」と、ウォルター・ゴッドフリーがせき込んだ。
「しかし、あなた個人の銀行勘定は、まだなくならなかったのですね」
「家内は自分名義で相当の財産を持っとるよ。いいかげんにして要点にはいりたまえ」と、ゴッドフリーがどなった。
「まあ、ゴッドフリーさん。ぼくは決して、単なるいいかげんな好奇心から、訊いてるんじゃありませんよ。ところで、奥さん。あなたは誰かに話されたことはありませんか――むろん、ご主人は別にして――マルコとの関係や、あれに払われた金について」
夫人は低い声で「いいえ」
「ちょっと待ってくれ、クイーン君」と、警視がのり出した。エラリーは迷惑そうな顔をした。
「奥さん。土曜日の夜、マルコの部屋に行かれた件を、説明していただきましょう」
「おお」と、かすかな声で「あたくしは――」
「そのことは家内がわしにすっかり話した」と、ゴッドフリーがとげとげしく「奴にたのみに行ったのだ。あの日早く、奴は最後通牒をよこしたんだ。月曜日には莫大な金を払えといわれていた。それで土曜日の夜、奴の部屋へ行って、要求を引っこめるようにたのんだんだ。家内は、わしに見つからずに、これ以上の金には手がつけられんと思ったのだ」
「そうです」と、浅黒い女は小声で「あたくし――あたくしはひざまずかんばかりにして、たのんだのです……あのひとは、冷酷でした。それからあたくしは――カンスタブルさんやマンさんのことを訊《たず》ねたのです。あのひとは、お前さんは自分のことだけ考えていればいいんだと言いました。ここはあたくしの家なんですのに」夫人の顔が怒りにもえた。「それからあたくしに悪態をついて……」
「うん、うん」と、エラリーが急いで「これだけ伺えばもう充分でしょう、警視。ところで奥さん、あなたがマルコに口止料を払っていたことを、ほかには誰も知らないと信じていたんですか」
「誰も知りません。おお、たしかに誰も――」
ローザがあいている戸口から、夫人の寝室へ向かって、はっきり言った。「お母さま、すみませんが、聞こえちゃいましたの……それ本当ではございません、クイーンさま。お母さまは嘘を言ってらっしゃるのじゃないけれど、ご自分のなさっていることが見すかしだってことに気がつかなかっただけなんです。お父さま以外の人にはみんな分かっていたのですよ、お父さまは盲目だったけれど」
「おおローザ」と、ステラ・ゴッドフリーがうめいた。すると娘は母にかけよって、日灼けした腕でかかえた。ゴッドフリーは、ちょっとたじろいで、目をそらしてぶつぶつ言った。
「なんてことだ」と、モリーが大声で「いろんなことがあるもんだ。それじゃあ、お嬢さん、あなたは、マルコとお母さんとの間にあったことを、みんな知ってたと言うんですな」
ローザは低い声で「ねえ、お母さま」と、すすり泣いている母親に声をかけて、静かに言った。「ええ。誰からも聞く必要はありませんでしたわ。私は女ですし、見る目もあります。それに、お母さまはお芝居が下手ですもの。あのけだものがここに来てから、お母さまが味わっていた苦しみは、全部、私も、こっそり分け合っていたのです。もちろん、私は知っていました。みんなも知っていたのです。デーヴィッド叔父さまも、はっきりと見抜いていたのはたしかです。アールでさえ――あのアールも――知っていたと思いますわ。それに、もちろん、召使いたちもみんな……おお、お母さま、お母さまはなぜ私に打ち明けてくださらなかったの?」
「それじゃ――でも――」と、ステラ・ゴッドフリーがあえぎながら「あのひととあなたとのことは――」
「ローザ」と、億万長者がどなった。
ローザはささやくように「なんとかしなくてはならなかったのです。あのひとの注意をそらすためにね。なんでも……私は、そのことを、いつもなんでも相談しているデーヴィッド叔父さまにさえ、あえて打ち明けなかったのです。それは――それは私がひとりでするべき仕事だと思い込んでいたのです。おお、私は、ばかで、間違っていたと思いますわ。私は、お母さまやお父さまと相談して、みんなで真向からその問題に立ち向かうべきでした。それなのに、私は、ばかみたいに自分ひとりでやろうとして――」
「気を利かせすぎたんだな。どっちみち」と、マクリン判事が、やさしく言った。その目はローザをほめるように輝いていた。
「なるほどね」と、エラリーは言って、深く息を吸いこんだ。「これは、あのコート青年にとってはいいニュースにちがいありませんね。……先を急ぎましょう。われわれが考えているほど時間の余裕はないかもしれませんからね。奥さん、マルコが殺されてから、誰か謎の人物が近づいて――マルコが持っていた、あなたとあの男との関係の物的証拠の何かを引きかえに、もっと金を払えとゆすられませんでしたか」
「いいえ」夫人は明らかに考えるだけでもふるえるという様子で、子供のようにローザの手にしがみついた。
「そんないまわしいことが突然ふりかかってきたら、どうなさいますか」
「あたくしは――」
「戦うんだ」と、ゴッドフリーがわめいた。「やっつけるんだ」その小さな鋭い目がきらきらした。「おい、おい、クイーン君、君は何かかくしとるな。わしは君を注意して見とったが、君のやり方が気に入った。これは協力してほしいということかね」
「そうです」
「じゃあ、引き受ける。ステラ、落ちつきなさい。われわれはこのことについて、もっと分別を働かせよう。この人たちは、こういうことに関しては、われわれよりもくわしいし、きっと慎重にやってくれるだろうからね」
「すてきです」と、エラリーは心から言った。「さて、誰かが、奥さんと死んだ男との関係の証拠品を手に入れているのです。その人物は、必ず、あなたに連絡してきますよ、奥さん。いつ何時、証拠品と引きかえに金で解決しようと言ってくるか分かりません。もし、あなたが、われわれの言うとおりにしてくだされば、ゆすり屋をとらえて、この事件の解決の重要な障害のひとつをとりのぞくことができる見込みが充分にあるのです」
「よく分かりましたわ、クイーンさま。精いっぱいやってみます」
「その意気ですよ。そのほうがましですよ、奥さん。ゆすり屋の思いもかけない団結力が、こっちにできるというもんです――」
「すると君は」と、ゴッドフリーがすかさず訊いた。「このゆすり屋が、マルコ殺しの犯人というのかね」
エラリーは微笑して「モリー警視は、そう信じています――ところで、いっぺんにひとつずつ片づけましょう、ゴッドフリーさん。さあ、警視、あなたの年季のはいった頭を働かせてくれるでしょうね――」
次の朝の十時になっても、予期していた電話は、ゴッドフリー夫人にかかってこなかった。三人の男は、だんだん不安になりながら、黙りこんで邸のなかをうろうろした。特にエラリーはひどく気をもんでいた。ゆすり屋が罠に気づくはずはなかった。そいつは、前の晩の十時半にマンにかけてきた。明らかに監視されていないと信じているマンは、手短に相手をやっつけて、電話を切った。配電盤で、モリーの命令で盗聴していた刑事は――エラリーが注意しておいたのに――電話の出所をつきとめることができなかった。しかしエラリーは、刑事のやったことには何ひとつ、呼出人に盗聴されている疑いをもたせるようなへまがなかったのを知った。
朝の新聞がとどいて、謎の一部が解消した。郡の地方紙と、マーテンズ市の有力タブロイド紙は、ともに、はでな大見出しで、ほぼ同じ記事をのせていた。セシリア・ボール・マンと故人ジョン・マルコとの不純な情事の記事である。どちらも同じ経営者のものだから、双方とも同じ証拠品――手紙や写真をのせていた。
「このことも予見しておくべきだったな」と、エラリーが、不快そうに新聞をなげ出しながら、つぶやいた。「もちろん、あの毒虫が二度同じ刺し方をするはずがない。今度は証拠品を新聞に送ったんだな。ぼくも、もうろくしかけたらしい」
「万一にも」と、判事が考えながら「またことがもみ消されてはなんにもならないと考えたんだ。カンスタブルの書類をモリーに送りつけたり、今度はマンの書類を新聞社に送ったりしたのも、その主な動機は、カンスタブル夫人やマン夫妻を罰するためよりも、ゴッドフリー夫人に警告するためにちがいない。必ずもうじき電話をかけてくるだろうよ」
「早ければ早いほどいいですよ。ぼくはそわそわしてきます。モリーは気の毒だ。記者会見から生きてもどれないでしょうよ。ラウシュの話だと、記者連中はみんな警視を追いかけまわしているそうです」二つの新聞の論説欄は、かなりはっきり、≪手ぬるい≫警察も、やっとマルコ殺しの動機をつきとめたらしいと書き立てていた。カンスタブル夫人の自殺も、どちらにもとれるような仮説――人殺し女の暗黙の告白ということに重点が置かれていた。しかし当局の確認のしるしはどこにもなかった。明らかに、警視は、ゆすり屋を犯人とみる自分の≪解答≫のほうが正しいと考えていた。今やマン夫妻が興味の中心となったので、モリーは、ふたりを記者どもの目と耳のとどかないところに隠してしまった――女はヒステリーを起こすせとぎわだし、男は警戒して、黙りこみ、険悪だった。
警視は疲れと腹立ちで、顔を白黒させながら、足音あらくもどって来た。三人はものも言わずに、配電盤のある仕切部屋にひきこもった。待つよりほかに手はなかった。ゴッドフリー夫妻は細君の寝室にいた。ひとりの刑事が、イヤホーンを頭にまきつけ、速記帳をひらいて、配電盤の前に頑張っていた。臨時電話が本線につながれていた。三人ともみんなイヤホーンを頭につけていた。
呼び鈴《リン》がみんなの耳で鳴ったのは十時四十五分だった。最初のひと言で、エラリーは真剣にうなずいた。まぎれもない、あの妙なふくみ声だ。その声はゴッドフリー夫人を求めた。刑事は落ちついて線をつなぎ、鉛筆をとりあげて待機した。エラリーは小声で、夫人がうまく役目をはたしてくれるように祈った。
案ずるまでもなく、夫人は、おびえ上がって言いなりになる犠牲者の役割りを完全に演じた――心にわき上がる安心感から生じる熱情的な演技さえ加えて。
「ステラ・ゴッドフリーさんですか」と、その声は、どことなし、ひどく急いでいるようだった。
「はい」
「おひとりですか」
「ひとりって――どなた? 何のご用ですの?」
「ひとりですか」
「ええ、どなた――」
「そんなことはどうでもいい。こちらは急いでいる。今朝のマーテンズ毎日新聞をみましたか」
「ええ、でも――」
「セシリア・マンとジョン・マルコの記事を読みましたか」
ステラ・ゴッドフリーは黙っていた。答えたとき、夫人の声は、かすれて、力がなかった。「ええ。何のご用ですの」
その声は一連の事実を数えあげ、そのひとつごとに、ステラ・ゴッドフリーは、うめいた。……声は今やヒステリーのように、ねちっこく、甲高くなっていた。実に奇妙なので、モリー警視とマクリン判事はけげんそうな顔をした。「こういったものを、新聞に送ってほしいですか」
「いいえ、おお、いいえ」
「それともご主人へ?」
「いいえ。何でもいたしますわ、おのぞみなら――」
「そのほうがいい。あなたはもの分かりがいいな。二万五千ドルほしいんです。ゴッドフリー夫人、あなたは金持ちだ。自分のふところから払えるし、誰にも知られずにすむ」
「でも、私はもう払ったんですよ――いく度も――」
「これが最後です」と、声が熱心に「私はマルコのように、ばかじゃない。このことについては、まともにやりますよ。金を払えば、次の便で、あんたは、写真や書類をとりもどせるんですよ。はっきり言います。あなたを裏切りゃしませんよ――」
「とりもどすためなら何でもいたしますわ」と、夫人はすすり泣いて「あれからずっと……おお、私の生活はみじめでしたわ」
「たしかにそうだったでしょう」と、声は、前より力強くなり自信ありげだった。「あなたの気持ちが分かりますよ。マルコは下劣な犬で、それにふさわしい報《むく》いを受けました。しかし、私はあんなことはしないし、金がいるんです……二万五千ドルそろえるのにいつまでかかりますか」
「今日」と夫人が叫んだ。「現金ではあげられませんが、ここにある私の金庫には……」
「おお」と、声が異様にひびいた。「それはいけません、奥さん。少額紙幣の現金でほしいんです。危ない橋は渡りたくないんで――」
「でも、現金と同じですわ」夫人はこの点を注意深く教えられていた。「流通証券です。それに、どうやって、そんな大金を少額紙幣で集められましょう。怪しまれますわ。警官が家中にいますから、邸を出ることさえできませんわ」
「それも道理だな」と声がつぶやいて「しかし、だれかを使いによこす気になれば――」
「そうすれば、警官に見つかるじゃありませんか。私を気違いだと思っているの? せめてもののぞみは誰にも――知られないことですよ。それに、あなたは証拠品を返さないでいいのよ――その証券が現金になるまではね。おお、おねがい――チャンスを与えてくださいな」
電話の主は黙りこんだ。明らかに危険性を測っているようだった。やがて、声は思い切ったように言った。「よろしい。そうしよう。どっちみち、あんたには来てもらいたくない。それに、私が行くわけにもいかない――あんたの家に警官がいないとしてもね。証券は郵送できるかね。警官に見つからずに、小包を出すことができるかね」
「きっとできますわ。おお、できますとも。どこへ――」
「書いちゃいけない。あんたも、メモを誰にも見つかりたくないだろう。宛名はそらでおぼえるんだ」声がとぎれた。すると、ゴッドフリーの邸は一瞬、墓場のようにしんとした。「J・P・マーカス。マーテンズ・中央郵便局・留置郵便気付。くり返してごらん」夫人はふるえ声でくり返した。「よろしい。証券をその名宛てに送りなさい。普通のハトロン紙を使って封印しなさい。第一種郵便で送るんだ。すぐにだ。すぐ出せば、今晩、閉鎖前に、マーテンズ郵便局につくはずだ」
「はい。分かりました」
「いいかね、もしごまかしをやると、写真やなんかは、マーテンズ毎日新聞の編集者の手に渡ることになる。そうなると話が一面にでかでかと出るのを、とめる手はないよ」
「駄目、私はけっして――」
「しないようにするんだね。もし、私をごまかさなければ、証拠品は二、三日中に、あなたに戻るよ。証券を現金に換えたらすぐにね」
カチリと音がして、通話がきれた。二階では夫人が夫の腕によろめきこんだ。夫は不思議なほどやさしい顔をしていた。配電盤のところでは四人の男たちがイヤホーンをはずして、互いに目を見合わせていた。
「そうか」と、モリーが声をひそめて「うまくいったようですね、クイーン君」
クイーン氏はしばらく黙っていた。眉をしかめ、鼻眼鏡のふちで唇をかるくたたいていた。それから小声で「テイラーに加勢を頼むべきでしょうね」
「テイラー」
「おお、それ以上の手はないですよ。もしぼくの予想どおりに行けば、きっとそういうことになります。重要なことは何も話す必要がない。テイラーはほんのちょっとした情報のはしくれにも満足していられる、珍しい渡り鳥のひとりですよ」
モリーはあごをこすった。「さよう、この案は君が主催者だもの、とりまわし方は知っとるでしょうからね」警視は手短に命令をくだすと、今や焦点になった郵便を出す仕事を監督しに、二階へ上がった。
「ただひとつ気がかりなことがある」と、モリー警視は、その日の午後おそく、大きな黒い警察車の後部シートにみんなと乗りこみ、マーテンズに急ぐ途中で、心配そうに言った。そうして、すぐ前の運転手の横にすわっているテイラーの、身だしなみよく山高帽子をかぶっている頭を、ちらっと見て、思わず声をひそめた。「つまり、ゆすり屋がG夫人をおどしている写真や陳述書や手紙なんていうものですがね。奴がどこかに隠していないとは、いいきれませんからね。奴をつかまえるのもいいが、証拠品はわれわれの指の間をすり抜けるなんてこともあり得ますよ」
「本気ですか」と、エラリーはたばこをくわえたまま言った。「警視、ぼくはむしろ、君が今日の午後、マルコ殺しの犯人を逮捕することばかり予想しているものと思っていました。まことに明確な論理だが――奴がもし書類のために殺されたものとすれば――現在その書類を持っている者が殺害犯人ということになりますからね。それが急に、宿の女あるじの苦労を心配するなんて、変ですよ」
「でもね」と、モリーがぶつぶつ言った。「そんなことになると、あの夫人にとっては、とんでもない厄介ごとです。あれで芯は立派な婦人ですからね。不必要な気苦労はかけたくないですよ」
「書類が失われる危険はまずない」と、マクリン判事が首をふりながら言った。「犯人にとっては、大した貴重品だから、そこらに放ってはおけまい。それに、もしこれが罠だと気がついたら――奴の電話の反応から判断して、そんなことはあるまいと思うが――どっちみち、集金するのぞみはないわけだ。奴は今や、まったく死にもの狂いだろうよ。なにしろ、カンスタブルとマンのゆすりに失敗してるんだからね。いや、いや、あのおどしは効果をねらっただけだ。奴をとらえれば、きっと書類を身につけているのが分かるよ、警視」
一同は、警視の主張で、こっそりとスペイン岬をすべり出た。それに、警視の命令で、すべての警備が、目に見えてゆるめられていた。茶色の、馬力の強い自動車が、私服をつめこんでつづき、一方、それとまったく同じような茶色の馬力の強い自動車が、万一にそなえて、スペイン岬の外の幹線道路を密行していた。マーテンズ警察との話し合いで、市の中央郵便局の建物には緊急手配がしかれた。局員たちは警戒態勢にはいり、細心な指示がなされた。にせの証券を入れた小包は、あくまでもゆすり屋の指令どおり、一番近いワイ町で、ほかの郵便物と一緒に召使いが、これみよがしに投函して、普通の手順で本局へ送られた。モリー警視は何ひとつ運まかせにはしなかった。
二台の車は、マーテンズ郵便局の数ブロック手前で乗客を降ろした。二番目の車に乗っていた刑事連は、ばらばらになって大きな大理石の建物に向かい、十分後には目に見えない非常線をはりめぐらした。モリー警視の一行は、裏口からこっそりと建物にはいった。もの問いたげに小さな目をかがやかせているテイラーは、特別指令を与えられて、一般郵便物配達係の大部屋のすみに陣取ることになった。
「知っとる人間をみかけたらすぐに」と、エラリーが、言い渡した。「局員に合図するんだ。あとは局員がやる。それともわれわれに合図してもいい。局員には名前で奴が分かるだろう」
「はい、かしこまりました」と、テイラーが低く「事件に関係のある人間なんですね」
「そうだ。抜かるなよ、テイラー。命がけとまではいかんがね。モリー警視は今日の午後を非常に重視している。人目につかないようにして、窓口に来る人間の顔が見えるところにいるんだ。われわれの求める人間は君を見かけると一目散に逃げ出すかもしれんからね」
「信頼してください」と、テイラーはまじめに言って、大部屋に陣取った。モリーと判事とエラリーは、ドアのそばの仕切りのかげに隠れ、銘々の椅子をすえて、壁にあいている、使っていない三つの落し戸に目を釘付けにした。数名の刑事が、広間に陣取って、テーブルでむだ書きをしたり、たえず無意味な為替用紙をこしらえていた。時々、ひとりが町へ出て行き、すぐにほかの刑事が交代に外からはいって来た。モリーは鋭い目で部下を点検したが、何も異状は認められなかった。こうして、罠はかけられ、まったくさりげなく見え、今は犠牲者を待つほか、何もすることがなかった。
一同は一時間二十分待った。壁の大時計の針が刻むたびに、緊張がましていった。一般の郵便事務は続けられ、人々は出入りし、窓口を通して切手や為替や小包が受け渡しされた。郵便貯金の窓口はたえず使われ、客の長い列ができては消え、できては消えた。
モリーの安葉巻はとっくに火が消えて、引き潮どきの棒杭のように、上下のあごのあいだにつきささっていた。会話はぜんぜんしなかった。
しかも、その瞬間が来たとき、それほどの緊張と警戒心にもかかわらず、うっかり見のがすところだった。偽装はそれほど完全に近かった。局員とテイラーがいなかったら――その心くばりに対して、モリー警視はあとで心から感謝した――待っていた貴重な時間が無駄になり、その間に、大混乱がおこり、目ざす犠牲者を逃がしたかもしれない。
窓口の閉鎖時刻もあと十分で、局は勤め帰りの人でこみ合っていた。その時、やせて小柄で顔の日灼けした男が、往来からはいって来て、留置郵便の窓口に歩《あゆ》みよった。目立たぬ服装で、黒い小さな口ひげを生やし、左の目の下の頬骨のてっぺんにほくろがあった。長い列に加わり、時々、はつかねずみのようにちょろちょろと前に歩いて行った。その男に目立つものがあるとすれば、その歩きぶりだった。ちょっと尻をふるような動き方で歩くのが、ひどく変だった。しかし、そのほかは特徴のない人間で、どんな群衆にも、まぎれ込んでしまいそうだった。
前の男が窓口から立ち去ると進み出て、小さな浅黒い片手を窓のへりにかけ、のど風邪をひいているような、しゃがれ声で「J・P・マーカスに何か来ていませんか」と言った。
落し戸からのぞいていた三人は、局員が右の耳をかいて、からだをねじまげるのを見た。
同時に、テイラーの顔が仕切りの角からのぞいて、ささやいた。「間違いなし。変装です。しかし、あいつです」
局員の合図と、テイラーのささやきで、三人は、さっとばかりに立ち上がった。モリーは大股でドアに行き、音も立てずに、さっと開けて、右手をあげた。警視の姿は大きな板ガラスの窓ごしに、通りの通行人に見えた。それと同時に、局員は、茶色の紙で包み、インクで宛名を書き、型通りに消印をおした小さな平べったい小包を持って窓口にもどった。小柄な浅黒い男は、ほっそりした手で小包をつかみ、窓口からどいて、なかば向きをかえた。
男は、おそまきながら虫のしらせで、はっとして目を上げ、まわりには自分を黙々と睨んでいる人間がいっぱいいるのに気がついた。男はじりじり迫ってくるいかつい男たちのがっちりした壁にかこまれていた。男の顔に奇妙な色がひろがった。
「その小包の中は何かね、マーカス君」と、モリー警視が、愉快そうに訊いて、左手で男の肩をつかみ、右手を男の上着のポケットに突っこんだ。
茶色の小包はほっそりした手から床へ、すべり落ちた。それと一緒に、浅黒い男は、よろめいて、その場にへたへたと崩折れた。モリーは、すばやくかがみこんで、男の胸のポケットをたたいてみた。そして唖然とした。何ともこっけいな表情が、警視の顔に浮かんだ。
「おや、その男は気絶したぞ」と、マクリン判事が大声をあげた。
「ちがいます、≪男≫じゃありません」と、背後でテイラーがおだやかな声で「口ひげはにせものです。言うならば、彼ではなくて彼女なんです――警視さんも、いま気がつかれたと思いますがね」テイラーは手で口を覆って、上品に忍び笑いをした。
「女だって?」と、判事は息をのんだ。
「いっぱいくわされた。まあいい」と、警視は立ちながら、誇らしげに言った。「しかし、おかげで、求める奴をおさえたよ。ものにした」
「うまい仮装だな」と、エラリーがつぶやいた。「しかし、特徴のある尻のふり方で正体をあらわしたな。これはゴッドフリー夫人の元の小間使いだろう、テイラー」
「私はほくろで気がつきました」と、テイラーが低い声で「おや、おや、なんて人間は罪を犯しやすいものなんでしょうね。さようです。この女はピッツです」
[#改ページ]
十四章 おめみえ女中の意外な告白
ポインセットの警察本部は、近頃になく歓喜にみちていた。部内にはうわさが乱れとび、記者どもは閉めきったドアにわめき立て、ほかの部課の連中は、捕えた女を医務官が診察しているモリー警視の部屋をのぞきこみに来、電話が気違いじみたコーラスで鳴りつづけた。警視が報告書の束をおしやると、この建物の中で一番冷静な人物であるエラリーがそれをとりあげて勝手にしらべてみたが、何も目新しいことはふくまれていなかった。つまり、ホリス・ウェアリングの発動機船やキャプテン・キッドやデーヴィッド・カマーやそれに――エラリーはくすくす笑った――ピッツの消息はまだ何もつかまえていなかったし、交代で働きつめている刑事たちの慎重きわまる捜査にもかかわらず、ルシュース・ペンフィールドに関する報告は何もなかった。
命令みたいなものが部屋の秩序をとりもどし、医者が眉をあげて、女が取り調べられる状態になったことを合図したとき、一同は熱心な注意を女にふり向けた。
女は、しっかりと椅子の腕をにぎりしめて大きな革椅子にすわっていた。肌は灰色でにごっていた。黒い巻き髪を男のように刈り上げていたが、帽子を脱ぎ、つけひげをとると、どうみても女だった――すさんだ茶色の目と、小ぶりなナイフのような顔立ちの、小柄な、おびえきった女だった。三十歳か、それよりひとつぐらい上の年配らしい、根からきつくて、すさんでいたが、こうなっても、あやしい美しさがあった。
「さて、ピッツ、あんたは」と、モリーは機嫌よく「まんまと、つかまったもんじゃないか」ピッツは何も言わずに床を見つめていた。「ウォルター・ゴッドフリー夫人の小間使い、ピッツであることは、否認せんだろうな」警察の速記係りが机に向かって、筆記帳をひらいていた。
「ええ」と、郵便局で聞いたのと同じような、しゃがれ声で答えた。「否認しませんわ」
「もの分かりがいいな。お前が、スペイン岬のローラ・カンスタブル夫人に電話をかけた当人だったんだね。マン氏に二度かけたのも、それから今朝、ゴッドフリー夫人にかけたのも」
「では、盗み聞きしたのね」と、女は笑って「いい面の皮だわ。ええ、私がその当人よ」
「カンスタブルの書類なんかを、マーテンズから子供に持たせてとどけてよこしたのは、お前なんだね」
「ええ」
「マン夫人の資料を新聞社に送ったのは、お前だね」
「ええ」
「分かりのいい娘《こ》だ。仲よくやれそうだな。ところで、先週土曜日の夜と日曜日の早朝にどんなことがあったか、話してもらいたいんだ。のこらずだよ」
女は、はじめて、すさんだ茶色の目を上げた。「それで、私が話したくなかったら?」
モリーのあごが、きっとしまった。「おお、でもお前は話すさ。話すとも、お前さん。お前は、むずかしい立場にいるんだよ。ゆすりがこの州ではどんな罰を受けるか知っとるだろう」
「ぼくにはどうも」と、エラリーがおだやかに言った。「ピッツさんは、殺人がどんな罰を受けるかについてもっと関心を持っとるようですな、警視」
モリーはエラリーを見つめた。女は乾いた唇をなめて、エラリーの顔をじろっと見ると、床に目を伏せた。「ここは、私にまかせてもらいたい、クイーン君」と、警視は腹立たしそうに言った。
「失敬」と、エラリーは低く言って、たばこに火をつけた。「だが、ピッツさんのために、情況をはっきりさせておいたほうがいいでしょうな。そうすれば、このひとにも沈黙が無益なのが分かるでしょうからね。
まず指摘したいのは、姿をかくしたゴッドフリー夫人の小間使いが、君の求めているゆすりだと、ぼくは心の中で信じていたことです、警視。それに思いあたったのは、あまりにも都合のいい偶然の暗合がつづくのに気がつきはじめた時です。ピッツはマルコと一緒のところを見られている――ジョラムにだ――ちょうど、マルコが殺されたとみなされる時間にだ。その少し前に、何者かがマルコの部屋に忍び込み、テラスで会う約束のにせの置手紙の切れはしを見つけて、つなぎ合わせている。これは偶然の一致だろうか。また土曜日の夜、ゴッドフリー夫人が自分の部屋にもどってすぐに、ベルをならして小間使いを呼んだが、小間使いはなかなか来なかった。来たときに病気だと言い訳をし、興奮している様子だった。これも偶然の一致だろうか。この小間使いは殺人時刻の間に姿を消した。逃走にはマルコの車を使っている。これも偶然の一致だろうか」女の目が光った。
「ピッツの足どりは、マーテンズで消えている。あなたに送られた例の証拠品の包みは、マーテンズからです、警視。これも偶然の一致だろうか。実際に、ゆすりがはじまったのは、ピッツの失踪直後からだ。これも偶然の一致だろうか。ゴッドフリー夫人の前の小間使いが、はっきりした理由もなく、突然やめたとき、夫人にピッツをすいせんしたのは、ジョン・マルコだった。これも偶然の一致だろうか。しかも、一番注目すべきことは――カンスタブル夫人、マン夫人、ゴッドフリー夫人の事件を通じて、その不幸な夫人たちにとって、最も強力な証拠物件のひとつが……その夫人の小間使いがサインした自供書だったことだ」と、エラリーはにが笑いして「偶然の一致だろうか。ほとんどあり得ないことだ。そこで、このピッツがゆすりだと確信する次第です」
「ずいぶん、頭がいいつもりなのね」と、女は薄い唇をまげて、皮肉った。
「ぼくは自信をもってるよ」と、エラリーはちょいと頭を下げて「自分の才能にはね、ピッツさん。それだけではなく、ピッツとマルコの間の根本的な関係をつきとめたものと確信しているんだ。警視、君はいつか、ニューヨークにいる友人の私立探偵リオナードが、かぎつけたところによると、マルコがその犠牲者をわなにかけるのに共犯者を使っているらしいと、自分の口から話していましたね。三つの別々の事件において、すすんで女主人に不利な証言をしようとする詮索好《せんさくず》きな女中は――もちろんそれぞれの供述書に別な名をサインしているだろうが、それらは単なる偽名と見做《みな》される――マルコのような男が使いそうな共犯者の疑念に完全に合致する。ゴッドフリー夫人をゆする小間使いを、その共犯者と見るのには、大して想像を働かせるまでもないことだったよ」
「弁護士を呼んでください」と、突然、ピッツは腰をうかせて言った。
「すわっとれ」と、モリーが、にがい顔で言った。
「たしかに、憲法が保証する法律的助言を求める権利はあるよ、ピッツさん」と、エラリーは二、三度うなずいて「だれか特に心当たりの弁護士があるかね」
女は希望に目をかがやかせた。「はい。ニューヨークのルシュース・ペンフィールドです」
はっとしたような沈黙があった。エラリーは両手をひろげて「それみろ。これ以上の証拠はだれにも求められませんね、警視。ジョン・マルコの悪徳弁護士は、ピッツからも求められているんです。これもまた、偶然の一致かな」
女は椅子に沈み、警戒の色をこくして、唇をかんだ。「私は――」
「勝負はついたよ、ピッツさん」と、エラリーは猫なで声で「何もかも胸のうちをすっかりさらけ出したほうがいいよ」
女は唇をかみしめていた。茶色の目には、必死の打算がかがやいた。「あなた方と取引きしましょう」
「なんで、お前は――」と、モリーがどなった。
エラリーは警視の胸を腕でさえぎって「どうしていけないんですか、ねえ? われわれも商売人なみにやっていいでしょう。少なくとも、提案を聞く分には、害はないですよ」
「聞いてください」と、女は熱をこめて「私はどんづまりだし、そのことを悟ってます。でも、まだ無茶することだってできるのよ。あなた方は、ゴッドフリー家のスキャンダルが世間に洩れるのを望まないんじゃなくって?」
「それで」と、モリーが吠えついた。
「それで、あなた方が私をまともに扱ってくだされば、そのことをしゃべらないわ。私がその気になれば、しゃべるのをとめることはできないわよ。直接、新聞記者に話すか、弁護士を通じて、話させますよ。とめることはできないわ。私にチャンスを与えてください、そうすれば黙っていますよ」
モリーはにがにがしく女を眺めてから、エラリーをちらっと見て、唇をこすりながら、しばらく歩きまわった。「よろしい」と、やがてうなるように「ゴッドフリー家に対して、わしは何も利害関係はないが、あの連中がいためつけられるのを見たくない。約束するわけじゃないが、いいか、わしは地方検事に話して、少しでも軽い刑を受けられないものかどうか、研究してみよう」
「それも」と、エラリーがやさしくつづけた。「あんたが、つまり、すっかり吐くかどうかによるんだよ」
「分かりました」と、女はつぶやいた。鋭い顔にもの哀れな様子が見えた。「あなた方が、どうしてそれだけ知ったのか分かりませんが、そのとおりです。私はマルコの手で、最初はカンスタブル夫人、次はマン夫人、それからゴッドフリー夫人のところに住み込まされたのです。アトランティック・シティーで夜の間に、あの肥えた夫人のフラッシュ写真をとりました。見たり聞いたりして全部の資料を手に入れたのです。カンスタブル夫人もマン夫人も、スペイン岬に来るとすぐ私に気がつきました。ふたりはゴッドフリー夫人が、どんなはめになっているか、知っていたと思いますわ。でも、マルコが私のことは黙っていろとふたりに命じたのです。あのひとたちは、今でも、そのことをしゃべるのを恐れているでしょうよ。さあ、これですっかりお話ししましたわ。おねがいです。リューク・ペンフィールドを呼んでください」
警視の目が輝いた。だが抜け目なく言った。「ただの道具だったと言うのかい。親分に逆手《ぎゃくて》を食わせたわけか。日曜日の朝早く、奴の部屋から書類や品物を盗み出して、ちょっとばかり甘い汁を吸うつもりで、ずらかったのかね。そうだったんだろう」
女の浅黒い顔が激情でゆがんだ。「それがなぜいけないの?」と叫んだ。「たしかにそうよ。あれは、あのひとのものだけど、私のものでもあるのよ。私はいつもワキ役を演じていたけれど、私のほうがうわ手だったのよ。そのことをあのひとはよく知っていたのよ」女は息つぎをしてから、病的なほこらしさで叫んだ。「道具ですって? まさにそうだわ。あのひとの妻なのよ」
一同はあっけにとられた。マルコの妻なのか。その瞬間、奴の不誠実さが、残るくまなく、一同の前にさらけ出された。一同はむかむかしながら、ローザ・ゴッドフリーがまぬがれた危険を思いうかべて、そんな男がいなくなって、世間からひとつの脅威がとりのぞかれたことに、ひどく満足する思いを、しみじみと感じるのだった。
「あの男の妻か。ふうむ」と、モリーが、やっと気をとりもどして、口がきけるようになったときに、重々しく言った。
「ええ、妻です」と、ピッツはつらそうに言った。「今ではたいして見られたもんじゃないでしょうけど、前には、これでも娘らしい容姿で、まんざら捨てたものでもなかったのよ。四年前にマイアミで結婚したんです。あのひとはどこかのお金持ちの未亡人を手なずけようとして、あそこに行っていましたし、私は一旗あげようとして懸命でした。私たちはすぐに結ばれたんです。あのひとは私のスタイルが好きだったのです。私のスタイルがとても好きだったので、それを楽しませてやるために、あの人と結婚してやったのです。あのひとが出会った大勢の女の中で、あのひとの一番いいところをつかんだ女は、私ひとりきりだと思っていました……それからは、ずいぶんたくさんのお芝居をしました。この小間使いの手はあのひとの思いつきで、最近に思いついたものです。私はどうしても好きになれませんでした。でも、この手でかなりかせいだんです……」一同はピッツにしゃべらせておいた。ピッツは、今では椅子の腕をつかみ、宙をみつめていた。「ちょっとした取引きをすますと、骨休めに出かけて、次の仕事の獲物を探すのです。そうして、お金がなくなると、次の取引きをしました。そんなふうにしてたんです。マルコが死んだので、私は行きづまりました。たくわえはないし、困りきったのです。生きていかなければなりませんものね。もし、あのひとが、あれほど底ぬけに貪欲《どんよく》でなかったら、たぶん今も生きていられたでしょうにね。だれにしろ、あのひとをやった人は、いいことをしたのですわ。私が天使でないことは神さまもごぞんじですけど、あのひとときたら、この世に生きていた一番悪いくずでしたわ。私はあのひとの根性がきらいになっていました。それに、どんなに私が堕落したって、自分の亭主が、ほかの女と情事をするのを見て喜ぶ女がいるでしょうか。あのひとはいつも仕事だと言っていましたが、自分では結構楽しんでいたんです、くさった根性ですわ」
モリーが女に近寄って、前に立った。女は口をつぐんで、警視を見上げて、はっとした。「それでお前は奴の首に針金をまきつけたんだな」と、警視が荒々しく「厄介払いして、自分で現なまを手に入れるために」
女はとび上がって叫んだ。「私がやったんじゃありません。そう思うだろうと思って、それがこわかったのよ。おまわりさんには分かってもらえるとは思わなかったわ」女はエラリーの腕をつかみ、その袖にしがみついた。「聞いてちょうだい。あなたには分かりそうだわ。間違っていると、言ってちょうだい。私だってマルコを――殺そうと思ったかもしれないけど、私はやらなかったわ。ちかって、やらなかったのよ。でも、岬にいて、見つけられるのはいやだったのよ。もし、お金のことを忘れちまえたら、見つけられなかったわ。おお、自分で何を言ってるのか分からなくなるわ……」
ピッツはすっかり取り乱していた。エラリーはやさしく女の腕をとって、むりに椅子にもどらせた。女は椅子のすみにちぢこまってすすり泣いていた。「ぼくらは」と、エラリーはなだめるように「少なくとも、あんたが無実を証明するために戦うチャンスを与えられることを、保証するよ――もしあんたが無実ならばね、マルコの奥さん」
「おお、私は無実です……」
「いずれ分かることだよ。土曜日の夜は、何であの男の部屋に行ったのかね」
女は電話で聞きおぼえのある、かすれたふくみ声で「ゴッドフリーの奥さまが、はいるのを見たんです。たぶん、少しやけたのね。それに、また、あの日はマルコと、おちおち話す機会がなかったのよ――マルコと二人きりで、二、三日もね。私はマルコが三人の女をどう始末しているか知りたかったんです。すっかり清算する手はずをととのえているはずでした」
女は言いやめて、鼻をすすった。判事がエラリーに低い声で「マルコがローザと駆け落ちするつもりだったのを知らなかったらしいな。奴は本気で重婚するつもりだったのだろうか。とんでもない悪党だ」
「そうは思いませんね」と、エラリーが低音で言った。「そんな危険を冒すつもりじゃなかったでしょうよ。奴の考えていたのは結婚じゃない……さあ、つづけて、マルコの奥さん」
「とにかく、私が見張っていると、一時二、三分前に、ゴッドフリーの奥さまが出て来るのが見えました」ピッツは顔を覆っていた手をはなして、ものうそうにエラリーを見つめながら、すわり直した。「それで、あのひとの部屋に忍び込もうとしていると、あのひとが出て来るのが見えました。誰かに見られるといけないので、あのひとを引きとめたり、話したりはしませんでした。あのひとはどこかへ行く様子でした。めかしこんでいました。私にはさっぱり分かりませんでした……私は部屋にはいって、あのひとが戻ってくるのを待っていたのです。そのとき、暖炉の中に紙きれがあるのをみつけて、とり出したのです。それを持って浴室へはいりました。だれかが来て、みつかるといけないのでね。その置手紙を読んで、私はかっとなったんです。あのローザという娘さんのことは、まるっきり知らなかったのです。あの娘さんをくいものにする話なんかなかったのです。それであのひとが、仕事と遊びを一緒にしていたことが、分かったのです……」と、女は手をにぎりしめた。
「そうか」と、モリー警視が、急にものやわらかに言った。「奴があんたを裏切っているのをみつけたときのあんたの気持ちがどんなだったか分かるよ。それで、テラスへ行って奴の様子をさぐったんだろう」
「ええ」と、女は小声で「ゴッドフリーの奥さまにひまをいただいたあとです――気分がよくないと言ってね。私は自分の目でたしかめたかったのです。邸の中はしんとしていました――真夜中でした……」
「それは何時だったね」
「テラスの石段のてっぺんあたりまで行ったとき、ちょうど、一時二十分ごろでした。私は――」と、女はつばをのんで「あの人は死んでいました。すぐに分かりました。私に背を向けて、じっとすわっていました。月が首筋を照らしていました。髪の下に赤い筋が見えました」と、女は身ぶるいして「でも、それだけじゃなかったのです、それだけじゃ。あのひとは――まる裸でした。裸なの」女は、またすすり泣きを始めた。
エラリーは、はっとした。「どういう意味なんだろう。で、あの男を見たときは? さあ早く。どういう意味か分かるかね」
しかし、女はエラリーの言葉が、まるで聞こえないかのように、しゃべりつづけた。「私は石段を下りて、テラスに、テーブルに行きました。目がまわるような気持ちでした。あのひとの前には紙が一枚あり、片手はペンを持ったまま床のほうへたれ下がっていたように覚えています。でも、とてもこわくて――とても……そのとき突然、足音が聞こえました。砂利道を歩いてくるのです。私は自分の立場に気がつきました。私は、テラスに向かってくる人に姿を見られずに逃げ出すわけにはいかないのでした。早く、何とかしなければなりませんでした。月が明るかったのでたすかりました……あのひとのもう一方の手にステッキを持たせ、頭に帽子をかぶせ、肩にマントをかけて、ひもを首で結んで隠したんです――赤い筋を」ピッツは|もののけ《ヽヽヽヽ》につかれたような恐怖の表情で、一同の姿をすかして、月下の光景を見つめているようだった。「マントで、あのひとが裸だったことが、隠せるだろうと思いました。私は足音が近づくまで待ってしゃべりはじめました――なんでも思いつくままにです――あのひとがあたしに言い寄ったのを、ひかえ目に、はねつけているように振るまいました。だれだか知らないが、それを盗み聞きしているのを、私は知っていたんです。それから、私は石段をかけ上がりました……私はそのひとが石段の頂上近くに隠れているのを見ましたが、気がつかないふりをしました。その人はジョラムでした。あんなことを聞いたのだから、ジョラムがテラスへ降りていかないだろうと思いましたが、万一の場合を考えました。私は邸に駆けもどって、マルコの部屋から、書類の束と写真を持ち出して――衣裳戸棚の奥にかくしてあったんです――自分の部屋に持って行き、持ち物を荷作りして、こっそりとガレージに降り、あのひとの車に乗って、逃げたんです。車のキイは持っていました。持っているはずですわ。私は……あのひとの妻だったんですもの。そうでしょ」
「もしお前が潔白なら」と、モリーがきびしい口調で「逃げ出したりしたら、自分のために不利になるとは思わなかったのかね」
「逃げなければならなかったのです」と、女は必死になって「見つかるのがこわかったんです。すぐ逃げ出したのは、もしジョラムがあのひとが死んでいるのを見れば、さわぎ立てるでしょうし、そうすれば私は邸から出られなくなったでしょうからね。それに、あの書類のこともありましたしね」
モリーは八の字をよせて、耳を掻いた。女の声にも話にも、まぎれもない真実のひびきがあった。いかにも、警視はこの女に不利な、すばらしい情況証拠と、慎重に作製された供述の速記録を手に入れたわけだが、しかし……警視は、わき見をしているエラリーのきりっとした顔を、ちらっと見て驚いた。
エラリーは、くるっと向き直ると、女のそばに走りよって、腕をつかんだ。女は、叫び声をあげて、身をそらせた。「もっと、はっきり言わないといかん」と、エラリーが、するどく「テラスで最初にマルコを見つけたときには、まる裸だったと言ったね」
「ええ」と、女はふるえ上がった。
「帽子はどこにあった?」
「もちろん、テーブルの上です。ステッキもよ」
「すると、マントは?」
「マント?」と、女は心から驚いて目をむいた。「マントはテーブルの上だったとは言いませんでしたよ。言いましたか? あたしすっかりこんぐらがっちゃって――」
エラリーはゆっくり女の腕をはなした。エラリーの灰色の目は希望にすがりつこうとしているかのようだった。「おお、テーブルの上になかったのだな」と、しめつけられるような声で「どこにあったんだ?――テラスの敷石の上か? もちろんそうだ。犯人が、着衣をはぎとって、なげすてたんだから、敷石の上にあったにちがいないな」エラリーの目はきらきらして、女の唇を一心に見つめていた。
女は狼狽《ろうばい》して「いいえ。テラスなんかに、なかったわ。私は――なんだってそんなにさわぐんですか? おお、なんのつもりもなかったのよ。分かった、きっとあなたは――」女の声はまた甲高《かんだか》くなった。
「ぼくの考えなど、どうでもいいんだ」と、エラリーはあえぐように言い、また女の腕をつかんだ。そして、はげしくゆすぶったので、女は息がつまり、後ろへのけぞった。「言うんだ。どこにあったんだ? どうやって、あすこへ持って来たんだ?」
「二階のあのひとの部屋で、置手紙を読んだとき」と女は、いっそう青ざめながら、小声で「徒手《からて》でテラスへ降りて行くのはまずいと思ったのです。もしだれかに見つかったとき、あそこにいる口実がほしかったのです。見るとあのひとのマントがベッドの上にありました。持って行くのを忘れたのだと思いました」エラリーの顔に何か熱っぽい激しいものが、燃え上がった。「私はマントをとって、持って行ったんです。もし誰かが見とがめたら――あのひとがマントを取りにやらせたのだと言うつもりだったのです。だれにも見とがめられませんでした。あのひとが裸にされているのを見たとき私は――マントをきせかけてやれるので、持って来てよかったと……」
しかし、エラリーは女の腕をはなして後ろにさがり、深々と呼吸をととのえた。モリーと判事と書記は、けげんそうな、ほとんどおびえたような目で、エラリーを見つめていた。エラリーは、ふと合点《がてん》がいったらしく、わが意を得たという様子だった。
じっと立って、女の頭ごしに、モリーの事務室の殺風景な壁をながめていた。それから、のろのろと指をポケットに突っこみ、巻きたばこをつまみ出した。
「マントは」と、みんなが聞きとれないほど低い声で「そうだ、あのマントが……失われていた解決の鍵なんだ」エラリーは巻きたばこを、もみくちゃにして、くるっと振り向き、気違いのように目をきらきらさせて言った。「諸君ついに、つきとめたぞ」
[#改ページ]
読者への挑戦
ニイチェ曰く≪真理の山に登りて徒労に終ることなし≫と。
おとぎ話の世界は別だが、自分はふもとに立ったままで、頂上をきわめようとねがうだけで、山に登り得た人間はひとりもいない。世の中はきびしく、業績をあげるには努力がいる。推理小説から最高の楽しみを得るためには、読者も、探偵の足跡をなぞるある程度の努力をしなければならないと、私はいつも感じてきた。細心に足どりをたどる努力をすればするほど、読者はいっそう究極の真相に近づき、その楽しみは、ますます深まるものである。
今まで何年も、私は、精密な観察を働かせ、ふるいにかけた事実への論理を摘要し、個々の結論を最終的に相関させることによって、事件の解決をするように、読者に挑戦してきた。私は、数多くの通信者のあたたかい讃辞をいただいて、この慣例を続けるように勇気づけられた。一度も試みたことのない方々には、ぜひやってみられるようにお勧めする。諸君は、筋を追っていくうちに、どこかで思わぬ障害にぶつかるかもしれないし、さんざん考えたあげく、結論がぜんぜん出ないことがあるかもしれない。だが、成否を問わず、その努力は楽しみがたかめられることで充分にむくわれるものである、ということは多くの人がすでに経験ずみなのである。
技術的には何も障害はない。ジョン・マルコの死の物語も、この段階で、すべての手がかりが出そろっている。読者諸君は、それらの手がかりを綜合して、論理的に、ただひとりの可能性のある犯人を、諸君はずばりと指し示すことができますか?
エラリー・クイーン
[#改ページ]
十五章 とんだ邪魔
スペイン岬へもどるドライブは、心おどる沈黙で終始した。エラリー・クイーン氏は、大きな車の後部シートに背をまるめてすわり、下唇をなめながら、深いもの思いに沈んでいた。マクリン判事は、時々、エラリーのしかめ面を、好奇心にかられて眺めていた。そしてテイラーも、前のシートから、一定の間合いをおいて、振り向いて見ずにはいられなかった。誰も口をきかなかった。そして、聞こえるものは、ひゅうひゅうと吹きつのる、すさまじい風の音だけだった。
エラリーはモリー警視の矢つぎばやの質問を、てんで受けつけなかった。気の毒な警視は神経がいら立って、われを忘れていた。
「早すぎますよ」と、エラリーは言った。「ぼくにこの特別な事件の解答が全部出たような印象を君に与えたのなら、申しわけない。マルコのマントについて語ったピッツの話――あれが方向を示してる。決定的にだ。ぼくには今、どこでぼくが間違えたか、どこで犯人の計画が手違いになったかが分かる。これで、この事件も、戦いの峠をこしました。だが、ぼくはまだ全部を、すっかり考えつくしてはいないんですよ、警視。時間がいるんです。考える時間がね」
一同は、疲労困憊《ひろうこんぱい》している囚人をかかえて、あわてて卒中をおこしそうなモリーを後にして出て来た。マルコ夫人、別名ピッツは恐喝未遂《きょうかつみすい》の罪名で正式に登録され、郡刑務所に収容された。目を泣きはらした二人の若者が来て、郡の死体公示場を訪ね、ローラ・カンスタブルの死体を引き取る法的手続をしたのは、悲しい中幕だった。刑事連と記者連がエラリーを質問ぜめにした。しかし、その大混乱の中でも、エラリーは毅然《きぜん》として平静を保ち、最初の機会をみつけるとすぐに、ポインセットを抜け出した。
車がハリー・ステビンズの給油所のところで、幹線道路からぐいっとはずれて、スペイン岬へ通じる公園道路にはいったとき、やっと沈黙が破られた。
「ひどい嵐がやって来ますよ」と、警察の運転手が不安そうに言った。「前にもここで、こんな嵐に遭ったことがあります。あの空をごらんなさい」
公園の木々は、しだいに吹きつのる突風にあおられて、激しくざわめいていた。車は公園地にはいり、本土から岬に通じる岩の隘路《あいろ》にさしかかった。夕空が見えた。どんよりとした鉛色で、もり上る水平線から、こっちへ向かって競《きお》い寄せる大きなふくれあがった黒い雲に、覆われていた。隘路では風の全力が吹き当てるので、車を道路上に保つために、運転手はハンドルと格闘した。
しかし、だれも運転手の言葉に答えず、やがて、車は無事に、岬の断崖の壁のかげに着いた。
エラリーは前かがみになって、運転手の肩をそっとたたいた。「とめてくれたまえ。邸にのぼる手前でね」車はブレーキを入れて止まった。
「いったい、どこへ――」と、判事が毛深い眉を上げて、訊きかけた。
エラリーはドアをあけて、道に降りた。まだ額にしわをよせていたが、目はけいけいとかがやいていた。「じき、上がって行きます。どうやら、急所にがっぷりかみついたようですよ。現場そのものに当たってみて……」と、エラリーは肩をしゃくって、さよならの微笑をうかべ、テラスに向かう小路を、ゆっくり降りて行った。
空はぐんぐん暗くなっていた。いなずまが小路を照らした。エラリーがテラスの石段のてっぺんに達して降りかけるのが見えた。
マクリン判事がため息をした。「われわれは邸へのぼったほうがいいな。すぐに雨になって、あいつも急いで駆けもどるだろうよ」
車は邸へのぼって行った。
エラリー・クイーン氏は、ゆっくりとテラスの石段を降り、色あざやかな敷石の上で、しばらく休み、それから、ジョン・マルコが死んで、腰かけていた丸テーブルのほうへ行った。岩の絶壁にはさまれて、四十フィート以上もの底に埋もれているので、テラスはひどい風からも安全な場所だった。エラリーはゆったりと椅子に腰をおろし、のびのびと背によりかかって、いつもの、ものを考えるときに好んでする姿勢をとった。そして、入江の口から外海を見つめていた。見渡すかぎり、船は一艘も見えなかった。嵐でみんな避難所へにげこんだのだ。入江の海面も、今では、たえずしぶきをあげて、わき立っていた。
わき立つしぶきは、エラリーが、もっとはるかな、つかみどころのないものを眺めはじめると、目につかなくなった。
すわっているうちにテラスは、ますます暗くなった。ついには、その暗さに気がついたエラリーが、ため息をして立ち、石段のたもとに行って頭上の灯のスイッチを入れた。布の雨よけがゆれて、はためいた。エラリーは、また腰を下ろして、紙とペンをとり、ペンをインキつぼにひたして、書きはじめた。
音からして、大粒の雨が、雨覆いのひとつに、ぶつかった。エラリーは書く手をやめて、ふり向いてみた。それから、考えるような目つきで立って、石段の一番下の段の左手にすえてある巨大なスペイン風のつぼのほうへ行き、そのまわりをのぞいてみた。やがて、つぼの後ろにはいってみた。うなずきながら出て来て、石段の右手にすえてあるつぼのほうでも同じようにやってみた。そうしてから、テーブルに戻り、腰を下ろし、髪を風になびかせながら、また書きものを始めた。
長い間、書いていた。雨の粒はいよいよ大きくなり、激しさを増した。雨粒は、目の前の紙にはねかかり、文字をにじませた。エラリーは、いっそう手早く書いていた。
大降りがはじまるころ書き終えた。その紙をポケットに入れて、勢いよく立ち上がり、灯を消して、邸のある台地へのぼる石段のほうへ、小路を急いで行った。パティオのものかげに着くころには、肩がぐっしょり濡れていた。
堂々とした執事が、エラリーを広間まで出迎えた。「お食事の支度ができております。奥さまのおいいつけで――」
「どうも」と、エラリーは上の空で答え、手を振った。そして、配電盤のある仕切り部屋へ急いで行き、ダイヤルをまわして、慎重な表情でかかるのを待った。
「モリー警視へ……ああ、警視ですか、まだいるだろうと思っていました。……うん。そうです。実は、すぐスペイン岬に来てくれれば、今夜、君が満足するように、この悲しい事件の片がつけられるだろうと思いますよ」
しめきった居間の中は、そこここにともされている灯で明るかった。外のパティオでは、屋根に当たる雨音が激しかった。激しい風が窓をあおっていた。雨のしぶきを圧して、岬の断崖にぶち当てる波のひびきが聞こえてきた。屋内にいるにはいい夜で、みんなは、ありがたそうに暖炉の炎を眺めていた。
「みんなここにいるが」と、エラリーは静かな声で言った。「テイラーがいないな。ぼくは特別テイラーにいてもらいたい。かまわないでしょうね、ゴッドフリーさん、テイラーはこの事件ではなかなかいい役割りでしたから、それ相当の報賞があってしかるべきです」
ウォルター・ゴッドフリーは肩をしゃくった。この男は、はじめて柄に合った身なりをしていた。まるで、細君をとりもどすとともに、社交的責任感をも、とりもどしたらしかった。ゴッドフリーは呼鈴の紐をひき、執事になにか手短に言って、ステラ・ゴッドフリーのそばに、ゆったりと腰を下ろした。
みんな集まっていた――ゴッドフリー家の三人と、マン夫妻と、アール・コートだ。マクリン判事と、モリー警視は、珍しく神妙に、皆と少し離れてすわっていた。そして、なにもそのような打ち合わせもなかったのに、モリー警視の椅子がドアに一番近かったのは意味深長だった。この九人のうち、ただひとり幸福そうだったのはコート青年だった。ローザ・ゴッドフリーのひざもとにうずくまるコートの顔には、いかにも満足至極といった表情があった。そして、ローザの青い目が、うっとりしているところを見ると、ジョン・マルコの暗いかげは、明らかにこの二人から、もう、晴れ上がっていた。マンは長い茶色の葉巻を、歯で噛みちぎりながら喫っていた。そして、マン夫人は死んだように静かだった。ステラ・ゴッドフリーは落ちついていたが、ぎこちなくハンカチを手で握りしめていた。そして、小柄な億万長者はなんとなく警戒していた。なんとなく重苦しい雰囲気だった。
「お呼びでございましょうか、旦那さま」と、テイラーがドアのところで丁寧に言った。
「おはいり、おはいり、テイラー」と、エラリーが「掛けたまえ。かしこまって立っているにはおよばないよ」テイラーはかなりおどおどして、後ろのほうの椅子に浅く腰を下ろして、ゴッドフリーの顔色をうかがった。しかし、億万長者は、警戒体制のままエラリーをじっと見つめていた。
エラリーは暖炉に歩みよって、ほのおに背を向けて立ったので、顔は影になり、体が黒いのっぺりしたかたまりになって見えた。灯が一同の顔を無気味に照らしていた。エラリーはポケットから、さっきの紙の束をとり出して、テーブルの角に置き、自分から見えるようにした。それから、マッチをすって、たばこをつけ、話しはじめた。
「どこから見ても」と、低い声で「今度の事件は、実に悲しむべきものでした。今夜は一再ならず、ぼくは実際に目をつぶって、すみやかに立ち去ろうと思いました。ジョン・マルコは最も悪質な悪党でした。あきらかに、マルコの場合には、悪心《マラ・メンス》と悪質《マルス・アニマス》との間に、中間地帯がなかったのです。犯罪精神の持ち主であり――良心の呵責など少しも感じなかったのは、疑問の余地もありません。われわれの知っている範囲だけでも、一婦人の幸福をおびやかし、もうひとりの婦人の破滅をはかり、三人目の婦人の生涯を破壊し、四人目の婦人を死にいたらしめているのです。疑いもなくあの男の元帳には、もし見ることができれば、同様のケースがたくさんあるでしょう。つまり、抹殺されるに、最もふさわしい悪党だったのです。ゴッドフリーさんがいつか言われたとおりです。誰にしろ奴を殺った者は人類の恩人だ、とね」エラリーは一息入れて、考えこむようにたばこをふかした。
ゴッドフリーがかなりはげしい調子で「それなら、なぜ君は、そっとしとかんのかね。明らかに君は結論に達しとるらしい。あの男は殺されてしかるべきだ。あの男がいなくなって世間はよくなったのだ。にもかかわらず――」
「それはですね」と、エラリーが、ため息をして「ぼくの仕事は記号を使ってやっているんですよ、ゴッドフリーさん、現実の人間を云々《うんぬん》するんじゃないんです。それにぼくは、モリー警視が、その管轄《かんかつ》区域を勝手に走りまわらせてくださった好意に対して、義務を背負っているんです。すべての事実が明らかになったときには、マルコ殺しの犯人は陪審の同情を得るすばらしいチャンスがあることを確信します。これは故意の犯罪ですが、その罪たるや――ある意味では、あなたがほのめかされたとおり――やらなければならなかったものなのです。ぼくは故意に人間的要素を黙殺して、この事件を数学上の問題として扱うことにしました。犯人の運命は、このような事件をさばく人々に任せることにしたのです」
エラリーがテーブルから一番上の紙をとり上げ、ちらつく火影《ほかげ》で、ちょっと見て、ふたたび下に置いたとき、静まりかえった緊張のとばりがおりた。「ぼくは今夜のこの瞬間まで、どんなに迷い、思い乱れたかしれません。事実の明快な解釈を妨げる何ものかがあったのです。ぼくはそれを感じ、かつ、知っていながら、つきとめることができなかったのです。それにまた、それまでの計算に、はなはだしい誤りを犯していたのです。あのピッツという女が――今ではマルコの細君と分かっていますが――あの女がある事実を吐くまで、ぼくも文字どおり五里霧中だったのです。しかし、マルコが発見されたときに着ていたマントは、マルコの死後、ピッツがテラスに持って来たものだったと話してくれたときに――言い方をかえれば、殺しが行なわれていた最中には、あのマントはその場にはなかった――ぼくは実にはっきりと解決の陽の目を見たのです。そして、あとは、たんに、時間と、適用と、綜合判断の問題だったのです」
「いったい、あのマントが、事件と、どんな関係があるのですか」と、モリー警視がつぶやいた。
「いっさいですよ、警視、今に分かりますよ。しかし、今は、マルコが殺されたときにマントを持っていなかったことが分かったのだから、まず、実際には何を持っていたか。われわれに分かっているものから、話をすすめましょう。マルコはいっさいの付属品をふくめて、完全な身なりをしていました。ところで、犯人はマルコの着衣をはいで、それらをいっさい――ほとんどいっさい、持ち去ったのが分かっています。つまり、上着、ズボン、靴、靴下、下着、シャツ、ネクタイ、それに、ポケットの中にあったかもしれないものも全部です。そこで、まず最初に解かねばならん問題は、犯人が死者の着衣をはいで持ち去った理由です。この一見、気違いじみた行動に、実は、正常な、あくまでも正常な理由があることが分かったのです。しかも、この問題の解答に全事件の解決が、かかっているのを、ぼくは直感したのです。
ぼくはこの問題をいく度もいく度も考えて、しまいには、その素糸《もといと》が出るようになるまでほぐしてみました。そして、ついに、殺された被害者の――ごく一般的な意味で、どの殺された被害者でもの――着衣を盗むということを説明できる可能な論理は、たった五つしかないという結論を得たのです。第一は」と、エラリーはメモを見ながら、つづけた。「犯人が着衣の中にあるもののために盗んだ、と説明するのが可能です。このことは、マルコと関係のある数人の人物の心の平和をおびやかす、ある種の書類が存在していたことと照らし合わせてみると、特に重要です。そして、われわれの知るかぎりでは、それらの書類をマルコが身につけていたかもしれないのです。しかし、もし犯人が求めていたのが書類であり、それが着衣の中にあったとすれば、なぜ犯人は書類だけうばって、衣類をそっくり残して行かなかったのだろうか。この場合、もし何か着衣の中にあるものなら、犯人はポケットをさらうか、縫い目を破るかすれば、死体から着衣をぬがさなくても、求めるものは得られたはずです。だから、第一の仮説は明らかに間違いです。
第二の仮説として当然考えられるのは、モリー警視に聞けば分かりますが、川から引き上げたり、森の中で見つかった死体は往々にして着衣がいたんでいたり、ぜんぜん紛失していることがあるものです。こういった場合の大部分は、理由が簡単です。被害者の身許をかくし、身許確認を妨げるために着衣を損傷したり盗むのです。しかし、この点はマルコの場合には、きわめて明白にあてはまらない。というのは、被害者はマルコだったし、マルコの確認をだれにさせるまでもなかったからです。そして、その着衣によって、あの男が誰か別の人間であることを示されたはずは絶対にありません。この場合、着衣があろうとなかろうと、死体の身許については、なんらの疑問もなかったし、あるはずもなかったのです。
逆にいえば、マルコの着衣を盗むことで、マルコ殺害犯人の身許をかくすのに役立つかもしれなかったという、第三の可能性が依然として残ります。諸君は分かりかねるという顔つきですね。ぼくが言わんとするところは、ただ、マルコが何か――もしくはそっくり――犯人のものを、着ていて、それを発見されることは、犯人自身の安全にとって致命的だと犯人が考えたかもしれないということなのです。しかし、これもまた、あきらかに見当はずれです。というのは、得難き人物、テイラーが――」テイラーは両手を組んで、かしこまって目を伏せていたが、その小さな耳がテリヤのように、ぴんと立っていた。「土曜日の夜、マルコが着換える直前に、とりそろえてやった特別の衣類は、マルコ自身のものだったと証言しているのです。それに、その衣類だけが、マルコの衣裳戸棚からなくなっているのです。そこで、マルコがあの夜着ていたのは、その衣類であり、それは、犯人のものであるはずがないということになります」
一同はひっそりしていたので、ぱちぱちはじけるまきの音がピストルの射撃のように室内にひびき、戸外の雨音も、滝のとどろきのように耳を圧した。
「第四は」と、エラリーが言った。「着衣に血痕がつき、なんらかの事情で、その血痕が犯人か、犯人の計画にとって危険だった場合です」モリーの重々しい顔に、おどろきの色がうかんだ。「いや、いや、警視、これはそれほど単純な問題じゃないですよ。もしその≪血≫がマルコのものなら、この仮説は二つの点で間違っています。犯人が持ち去ったマルコの衣類の全部に、血痕がついていたはずはありません――靴下、下着、靴に血がついていたでしょうか――しかも、さらに重要なのは、この犯罪の被害者に関するかぎり、血はぜんぜん見なかったのです。マルコは頭をなぐられて気絶し、その間《かん》、血は流されなかったのです。その後、絞め殺されたが、これもまた血は流されない操作なのです。
しかし、もしそれが――質問の先廻りをして言いますが、判事――着衣についた血が犯人の血だったらどうか。この場合、死体の位置から考えてそんなことはあり得ないようですが、マルコが犯人と格闘して、その途中で犯人が傷つき、はからずもマルコの着衣を犯人の血でよごしたとします。ところが、これにもまた二つの反論があります。第一に――ここでもまた、マルコの着衣の全部が全部に血痕がついていたはずがないのに、なぜ全部が持ち去られたのか。第二に――犯人が自分の負傷していることをかくしたい唯一の理由は、警察にけがした人間を探させたくないからだという仮説に立てば――この事件では、けがした者がひとりもいないということで簡単に片づきます。ローザさんは例外だが、あのひとには、そんな手のこんだごまかしを必要としないだけの完全に明快な説明があります。それゆえ、血痕説は成立しないのです。ところが実際には」と、エラリーは中休みして、静かにつづけた。「最後に、ただひとつの可能性がある仮説が成立するのです」
雨音ははげしく、炉の火はぱんぱんはじけた。一同は眉をしかめ、不思議そうな目をした。ほとんど確実に誰ひとり――マクリン判事さえ――その答を想像できなかった。エラリーは、たばこを火になげ込んだ。
くるり振り向いて口をひらきかけた……
さっとドアがあいたので、モリーはすぐにとび立ち、一同はおどろいてそのほうへ頭を向けた。ラウシュ刑事が息をはずませて立っていた。びしょぬれだった。ぱくぱくと三度も口をひらいて、やっと聞きとれる声で言った。
「警視、ただいま――大事件です……テラスからかけつけたんです……キャプテン・キッドを追いつめました」
一瞬、一同はあっけにとられて、ぽかんと口をあけているだけだった。
「ふうむ」と、モリーが、のどにつまった声で言った。
「沖で嵐につかまったんです」と、ラウシュは興奮して、しずくのたれる腕をふりまわした。「沿岸警備隊が、たった今、ウェアリングの発動機船を見つけました。どういうわけか、あの大猿奴、岸に向かっていました――岬に向かっていたんです。どうやら事故を起こしているらしいんです……」
「キャプテン・キッドが」と、エラリーが低い声で「まさか――」
「行こう」と、モリーがどなって、廊下へ駆け出した。「ラウシュ、来い――」警視の声は、どたどたと駆け去る足音とともに消えた。室内の連中はためらっていたが、やがて、どっとばかり警視を追って駆け出した。
マクリン判事はとり残されて、エラリーを見つめながら「いったいどうしたことだね、エル?」
「分かりません。実に奇妙な展開です――ちがう!」そして、こんな妙な言葉を言いながらも、エラリーもみんなの後から駆け出した。
一同はテラスに向かった。わいわいともみ合いながら、どしゃ降りをものともせず――男も女も、たちまちずぶぬれになったが、みんなの顔は期待と興奮とで、妙に活々《いきいき》とかがやいていた。モリーが先頭になって、靴で足もとの泥んこをはねとばした。マクリン判事だけが、嵐を防ぐだけの分別を持っていて、一番あとから、みんなよりゆっくりやって来た。判事の背の高い姿は、邸のどこかで見つけた雨外套をまとっていた。
一団の刑事たちが、上衣から雨をほとばしらせ、テラスの裸天井の白い|はり《ヽヽ》の上で、危なっかしくバランスをとりながら、二基の大きな真鍮製のサーチライトの回転軸と、取り組んでいた。ジョラムは片側に立って、無関心に、ほとんど王者という調子で眺めていた。男たちの服は風にひどくはためいた。
モリーは、大声で命令しながら、テラスにとびこんだ。頭上に荒れ狂う風雨にもかかわらず、だれひとり濡れた|はり《ヽヽ》からすべり落ちて、下の敷石で首を折らないのが不思議だった。やがてスイッチが見つかり、同時に一フィート幅の目もくらむような二本の白光が、闇にとびこみ、夜空につきささった。光の道に照らし出された豪雨は、灰色の地獄みたいだった。
「まっすぐ照らすんだ、間抜け奴」と、警視は、おどり上がって腕を振りながら、どなった。「前方の入江の口に焦点を合わせろ」
ゆらゆらしながら、光が指定の位置に向けられた。それからテラスと水平になり、入江の口の外に荒れ狂う波の十五フィートほど上で交差し、合流した。
一同は顔から滴《しずく》をたらしながら、首をのばし緊張して、くっきりした光線の道を目で追った。始めのうちは何も見分けられなかった。見えるものはただ下の黒い大波につき当たる、半透明の豪雨の壁だけだった。しかし、サーチライトのひとつが少し動いたとき、はるか沖に、狂うように踊りまわる斑点《はんてん》が見えた。
ちょうどその時、第三の光が海岸から視界にまわりこんできた。その光は斑点のまわりで踊っていた。
「沿岸警備隊よ」と、ゴッドフリー夫人が叫んだ。「おお、つかまえたわ、つかまえたわ」夫人は強くこぶしをにぎりしめ、髪がばらばらになって顔にたれ下がっていた。
沿岸警備艇が、ホリス・ウェアリングの発動機船に突進するのが見えはじめた。
発動機船は明らかに難破していた。痛々しく上下動し、船尾が危険なほど沈下していた。やや近づくにつれて、一同はデッキでよろめいている小人《こびと》のような人影を見分けることができた。その人影はあまり小さくて何者か見分けることはできなかったが、しかし、絶望的な状態にあることは、その行動からみて明らかだった。やがて、ふいに一同は、はっとして息をとめた。船首が棒立ちになり、大浪にぶつかってふるえ、一瞬見えなくなり……波がまき返したときには、船は消えていた。
一同はいっせいにうめいた。光が右往左往して、気違いのように探しまわった。
「あそこよ」と、ローザが金切り声で「泳いでるわ」
一本の光線が、波間にただよう黒い頭をつかまえた。腕が海から出たりはいったりしていた。その男は力強く泳いでいた。荒波にもまれて、入江へ向かって悪戦苦闘しながら進んでいた。沿岸警備艇は、かなり大きく見えていたが、泳いでいる人間を下敷にしないように離れていた。救命索《きゅうめいさく》がくねくねと光りながら投げられたがとどかなかった。しかし、あまりにも岩礁に近づいたので、警備艇もそれ以上は危険で近づけなかった。
「なかなかやるぞ」と、モリーが叫んだ。「だれか、毛布をもって来い。かわいた奴だぞ」
息もたえだえになりながら、泳ぎ手は入江に向かって少しずつ近づいた。しだいに弱っていた。頭のてっぺんしか見えなかった。
手のくだしようもなく、一同はただ眺めていた。何世紀もかかったような気がしたころ、いっさいは、悪夢のクライマックスのようにすっと終った。入江の口に近づいて、いきなり鰯《いわし》のように吸い込まれた。見えたのは手足をもつらせた体が、危険なほど右手の岸壁に近づき、コルクのように、ぴょいとはじかれて、入江の比較的安全な場所に打ちよせられただけだった。
刑事たちは、荒海にもまれて溺死しかけた人物に、ぴたりとサーチライトの焦点を合わせることができなかった。そのうちの三人がテラスにとび下り、モリー警視の後から浜辺を横ぎって水ぎわへ駆けつけ、力なくもがいている男に突進した。それから、モリーが男の首筋をつかみ、力いっぱいひっぱって、波にまきこまれるのを防ぎ、部下たちの手をかりて、引き込もうとする大浪から、その男を引き上げた。
マクリン判事のそばに、超然として立っていたエラリーには、救助された男は、何ひとつ見えなかった。しかし、二人の前に群がる人々の顔が見えた。そして、それらの顔に見えたものが、少なくとも、マクリン判事の目を細めさせた。皆の顔はまるで、口もきけないショックを受けたかのような、真からの驚き方だった。
だれかが、人々をおしのけて油布で包んだ毛布を持って行き、救けられた男のそばにひざをついたまま、その姿が見えなくなった。やがて、ゴッドフリー夫人が叫んでとび出した。みんなは、見ようとしてつめよった。
その男の、深い、疲れはてた声がきこえた。「ありがとう……ああ……ぼくは――奴が――おしこめて――ぼくを――どこかの――沿岸に。ぼくは――」声がとだえた。大きく、もの凄く、胸をゆすって、あえいだ。「逃げ出して――今夜――たたかった――舟が自由を失った――奴を――殺して……死体を海中に――船をこわされて――あらしで……」
エラリーは、マンとゴッドフリーを肩で押し分けた。警視が救われた男を毛布でくるんでいた。背の高い男だった。目は赤く充血しているし、頬には汚い不精ひげがのび、ひどく苦しんだらしく、全体がやつれていた。着衣は――かつて白い麻服だったらしいが――濡れて、ぼろぼろになっていた。
ローザと母親が、そばにひざを下ろし、泣きながら、すがりついていた。
エラリーの顔は苦しそうだった。しゃがんで、疲れ切った男の顔を持ち上げた。疲労でやつれているが、意志の強い、力強い、いい顔だった。
「デーヴィッド・カマーだね」と、エラリーはやっと言いにくそうに、しめつけられるような声で訊いた。
カマーがあえいだ。「そう――そうだ。君は?」
エラリーはさっと立って、ぬれた手を、水のしたたるポケットに突っこんだ。「大変気の毒だが」と、同じようなためらいがちの声で言った。「立派な計画だし、立派な戦いだった、デーヴィッド・カマー。だが、ジョン・マルコ殺しで、君を告発せねばならんよ」
[#改ページ]
十六章 赤裸々な真実
「かつてぼくがしなければならなかった仕事の中で、一番つらい仕事でした」と、エラリー・クイーン氏が低い声で言った。しょんぼりとデューゼンバーグのハンドルにかがみこみ、タイヤの下をすべり去るコンクリート道路を見守っていた。二人は北に向かって家路についていた。
マクリン判事がため息をした。「君にも判事が時々ぶつかる難問が分かったろうな。たとえ論理的には死にあたいする罪でも、その罪を犯した人間の運命を決定するのが、やはり同じく欠点の多い人間、陪審員の手によるんだからな。しかし、法廷ではしばしばそういうことが起こる。……われわれの誇りにする文明のすべてをもってしても、真の公平とは何かの問題は、まだ解決できていないんだよ」
「ほかにしようがなかった」と、エラリーが叫んだ。「ぼくはしばしば、人間的公平などぼくにとっては意味がないと広言してきました。だが、そうじゃない、断じて、そうじゃない」
「ただ、あの男が、いまいましいほど利口に立ちまわろうとさえしなかったらな」と、判事が悲しそうに言った。「あの男は、マルコがいかに姉のステラを破滅させ、悪党のしたことが姉の心の平和をみだしたかをよく知っていたと主張している。それから、姪のローザにどんなことが起こりそうかが分かったし――分かったような気がしたと主張している。あの連中の不運は、だれひとりほかの人間に打ち明けようとしなかったことらしく思われる。しかし、あの男のマルコに対する憤りの感情や、あの悪党を殺す決意の正しさは認めるとしても、なぜ、ピストルで、射って、片をつけなかったのだろう。陪審員たちはだれひとりとして、あの男を有罪にはしなかったはずだよ。ことに、あの男が、けんかのあげくの衝動的犯罪だと弁解すればね。あの情況のもとでは――」
「そこが頭のいい人間の始末に悪いところですよ」と、エラリーはつぶやいた。「連中の考えにてらして、犯罪が必要だとなると、連中は、とうてい解決されないほど、巧みにやろうと決心する。しかし、連中が利口であればあるほど、計画が複雑であればあるほど、何かの手違いがおこる危険が多くなるのです。完全犯罪なんて」と、エラリーは力なく首をふり「完全犯罪というのは、目撃者のいない暗い露地で、未知の人間を行き当たりばったりに殺ることです。気まぐれ以外のものじゃない。毎年百件近い完全犯罪がある――いわゆる変質者的暴漢が犯すのです」
二人は何マイルも黙っていた。スペイン岬の巨岩にまつわる何ものかが、二人の男の胸持《むなも》ちを悪くさせていた。まるで二人が犯人ででもあったかのように、こっそりと抜け出して来たのだ。ただひとつの明るい言葉は、ガソリン・タンクを満たすために店に立ちよったとき、ハリー・ステビンズの口から出たものだった。
「わしはカマーさんを知っとります。いい人でさあ」と、ステビンズはおだやかに言った。「わしが聞いとるマルコという奴の話が、本当なら、この州には、カマーさんを有罪にする陪審員はだれひとりいやしませんぜ。あのひとは、今から無罪放免も同様でさあ」
デーヴィッド・カマーはポインセットの郡刑務所に収容されて、まだ嵐の中でのひどい体験で弱り込んでいたが、落ちついてしっかりしていた。ゴッドフリーは、義弟を弁護させるために、東部第一の名弁護士を雇い入れた。スペイン岬は、急に襲いかかった悪天候で、不愉快そうに暗い顔をしかめていた。ローザ・ゴッドフリーはコート青年の腕に、そしてローザの母親は、夫の腕に、もぐり込んでいた。ただテイラーだけは相変らず――つつしみ深く、控え目で、沈着だった。
「まだ何も話しとらんぞ」と、判事は、疾走する車の中で、さりげなく言った。「どうやって、あのみごとな頭脳的手品をやってのけたのかい、エラリー。それともあれはぜんぜん、まぐれ当たりだったのかね」判事は抜けめない目で相棒をみつめて、エラリーが目をむくのをくすくす笑った。
「そんなもんじゃありませんよ」と、エラリーはにがりきって、やがてにやりとすると、はずかしそうな視線を、道路にもどした。「ちょっとした心理学者というとこですかね……それにまた、ありゃ、すばらしいノートだったんですよ」と、エラリーはため息して「とにかく、ぼくは、昨夜から、いくども復習しているんで、そらで覚えちまいました。いったい、あの難破船がとびこんで来たとき、どこまで話しかけていましたっけ」
「着衣に関しての五つの可能性のうち、第五番目のものだけが真実だという結論に達したところだった」
「おお、そうでした」と、エラリーは道路から目をはなさずに「あれは、つまり、犯人がマルコの衣類を持ち去った理由は、ただ、衣類として欲しかったからだということなんです」老紳士は、この結論の簡単さに、目をむいた。「しかし、犯人がマルコの衣類を衣類として欲しかった理由はなにか。自分で着るためです。すると、明らかに犯人は自分の衣類を持っていなかったことになります。おどろくべきことですが、当然そうなります。では、なぜ犯人は犯行後に衣類を必要としたか。これまた明らかに――逃走に役立てるためです。ずらかるのに必要だったのです」
エラリーはややいまいましげに手を振った。「ぼくは最初この可能性を放っといたのです。というのは、なぜ犯人がマルコの着衣を全部持ち去ったのに、マントだけ残していったかが分からなかったからです。マントは、いわば、包みかくすには、第一等の衣類です。犯人が、この身をかくすに絶好な衣類を持ち去るのを見のがすはずがない――それ自体、暗闇のように黒くて、のどからかかとまで包めるものだし――犯人が逃亡のための衣類として、衣類をほしがっていたのならね。事実、犯行後、急ぐ必要から、実際にうばったものの、全部とはいわないまでも、大部分――上着、シャツ、ネクタイはむろんのこと、ズボンさえ――やめにしておいて、マントだけを持って行くことができたはずです。おそらく靴は適当なはきものとして必要だったんでしょう。しかも、犯人はあの急場でマルコの着衣をひとつ残らずうばって、マントだけ残して行っている。この点からぼくは五番目の説明が間違いであり、なおほかに説明があるものと結論せざるを得なかったのです。ぼくは長い間、五番目の考え方にもどって来ることをしなかった――なんとも残念です。そして霧の中をさまよっていたんです。つい昨日の午後おそく、マルコの細君の証言で、犯行中には、あのマントはマルコの体にもテラスの上にもなかったことが分かったので、やっと、五番目の説明――逃亡のために着衣を衣類として必要としたというのが――結局は正しいにちがいないと気がついたのです。犯人がうばいたくとも、マントがなかったのです。そこで、ぼくは、あのマントが今度の事件では最も重要な手がかりだったと言うのです。マントについての重大な情報が少しもなかったら、今度の事件は永遠に解決されなかったかもしれませんよ」
「やっと分かった」と、判事は考えこみながら「しかし、どうやって君がカマーを割り出したかが、まだ分かりかねるな」
エラリーはクラクションのボタンを乱暴におして、びっくりしているピヤース・アローを一台追い抜いた。「待ってください。さっき、犯人は自分の衣類を持っていなかったと指摘しましたが、それを証明する必要があるんです。どの程度まで、犯人は自分の衣類を持っていなかったのか、つまり、意図した犯罪の舞台に乗り込んだとき、どの程度の裸だったかを、ぼくは自問してみました。さて、殺しをやったあとで犯人が死体からはいだものが、はっきり分かっていました。当然、犯人がマルコから奪ったものに照応するものは、何も身につけて来なかったはずです。さもなければそんなものは奪わないだろうと考えることができたのです。つまり、やって来たときには、シャツもネクタイも、上衣もズボンも、靴も靴下も、下着もつけていたはずがない。なるほど、マルコの帽子とステッキは残して行ったが、犯人がぼくの言ったような衣類を身につけずに現われて、しかも帽子かステッキか、あるいはその二品を持って来たというのはもちろん滑稽《こっけい》です。明らかに犯人には帽子とステッキは不必要だったから、その二品を残して行ったというだけです。ともかく、やって来たときには帽子もステッキも持っていなかったのです。そうすると、犯人が犯行をしに海岸のテラスに来るのに、着ていたと思われるどんな服装が残されているでしょうか」
「ふうん」と判事が言った。「たとえば水着でやって来るという可能性もある。まさかそれを見落しちゃいまいと思うがね」
「ずばりです。見落しちゃいませんよ。事実、犯人は水着か、水着とローブか、ローブだけでやって来たかもしれません」
「それで――」
エラリーはだるそうに「ところで、犯人が逃げるためにマルコの着衣を奪ったことはすでに立証しました。犯人は最初から着ていた水着か、水着とローブか、ローブだけで、逃げることができたかどうか。もちろんできます」
「そうは思わんよ」と、老紳士が反対して「もし犯人が――」
「おっしゃろうとすることは分かります。だがぼくはこの点を疑う余地のないまで分析しました。犯人がもしテラスから邸に逃げるつもりだったら、今分類したもののどれでも――水着か、水着とローブか、ローブだけでも――充分だったでしょうから、マルコの着衣を奪う必要がなかったはずです。早朝、誰かが≪泳ぎ≫からもどって来ても、人目をひくという点からいえば、目立つはずはないですからね――もし、人目にかかったとしてもね、あなたはこう訊くつもりでしょう、もし犯人が邸のほうへ逃げずに、ハイウェイを通って、もっと遠くに逃げたとしたらどうか、とね。その答えは、つまり、もし犯人があの道を通って逃走中に、水着か、水着とローブを着ていたとしたら、服装はそれで充分だったはずですよ。思い出してもごらんなさい、先週の日曜日の朝、あなたの友達のハリー・ステビンズが言っていたでしょう、二つの公衆海水浴場の海岸を結ぶハイウェイ部分では――スペイン岬の出口もふくめて――地方条令で、水着だけで歩いていいことになっていると。事実、われわれが会ったとき、ステビンズ自身、公衆海水浴場から水着ひとつで歩いて帰って来たところでしたよ。もしも、これが一般の風習なら、犯人は、どんな時刻だろうと、あんな服装で安全に逃げられたでしょうし――呼びとめられることはないと確信していたでしょうよ。くり返しますが、もし水着でハイウェイを通って逃げたのなら、マルコの着衣は要らなかったはずです。残る唯一の可能な逃げ道は――邸とハイウェイのほかの――海そのものです。しかし、もちろん、海に逃げるのに着衣を奪うはずはないし、それに砂浜には足跡がなかったのだから、入江を通って逃げたのでないことは確かです」
「しかし、その分析が正しければ」と、判事がいぶかしげに言いかけた。「わしにはさっぱり分からんが――」
「たしかに結論はいやおうなしに出るはずですがね」と、エラリーが大声で「もし犯人が、もともと、水着か、水着とローブか、ローブだけかを着ていたのなら、逃げるためにマルコの着衣を奪う必要がなかったはずですよ。しかも、犯人は逃げるためにマルコの着衣を必要としたことは説明したとおりです。そこで、犯人が犯罪現場にあらわれたときには、最初から水着もローブも着ていなかったと結論せざるを得ないんです」
「しかし、そうすると――」と、老紳士は、ぎょっとして言った。
「まさに、そのとおり」と、エラリーは落ちつき払って「つまり、犯人は最初から何も着ていなかったのです。言いかえれば、犯人がマルコに忍びよって頭をなぐりつけたときには、生まれたままのまる裸だったんですよ」
二人とも黙り込んだ。デューゼンバーグの強力なモーターの音のみひびいた。
やがて、判事がつぶやいた。「なるほど、ジョン・マルコの裸があっさり犯人の裸に早変わりしたんだな。頭がいい、実に頭がいい。つづけてくれ、エル。奇想天外だ」
エラリーは目ばたきした。ひどく疲れていた。なんていやな休暇だ、と思った。しかし、頑張って先をつづけた。「当然、次の疑問は、もし犯人が裸で来たのなら、どこから来たのかということです。これは一番やさしい点でした。裸で邸から来たのでないことは明らかです。むろんハイウェイからでもない。犯人が裸で来られたのは、三つの可能性のある道のうちの三番目のものだけです。つまり、海からです」
マクリン判事は組み合わせていた長いすねをゆっくりと解いて、ふり向いてエラリーを見つめた。「ふうむ」と、冷やかに「典型的な人間の弱点を掘り当てたようだな。わしは耳をうたがうよ。君はいま、犯人が海から来たにちがいないことを証明したが、ついこの前の日曜日には、それと同程度の確信をもって、犯人は海から来たはずがないと、君が証明するのを聞いたばかりだよ」
エラリーは赤くなって「つづけてください。あだに報ゆるに恩をもってす〔ロマ書〕ですよ。おぼえているでしょう、つい昨夜、ぼくは前の推理に致命的なあやまちがあったことを言ったじゃありませんか。まさに、ぼくはそのとおり≪証明≫しましたが、あれは、浅慮の瞬間を示す記念碑として永遠にぼくの胸に残るでしょうよ。それは、誤謬《ごびゅう》に免疫《めんえき》な議論というものは、きわめて少ないということを示すだけのものです。われわれは、ただあやまりなきを望むだけです……あれは、このこみいった事件での、ぼくの大失策でした。ぼくの≪証明≫が二つの推理の筋道にもとづくものだったのは覚えているでしょう。そのひとつは、マルコは襲われる前に、テラスで、きわめて個人的な手紙を書きかけていたし、その日付が一時となっていたし、ひとりきりだと書いてあったので、犯人より先に来ていたにちがいないことになる。もし犯人より先に来ていたとすれば、犯人は一時以後に来たことになる。しかし、一時頃は、潮が低く浜は少なくとも十八フィートは露出するのに、砂の上に足跡がなかった。そこで、犯人は海から来たはずはなく、陸上を、あの小路を通って来たものと推理したんです。ぼくの推理に誤謬があると思いますか」
「まさに、ないな」
エラリーは吐息をした。「その誤りは単純なものですが、ひっかかりやすいものです。ぼく自身、第二の推理の筋から、第一の筋が誤りであることを確信し、それを再検討するまで気がつかなかったのです。その誤謬は、ただ、マルコが一時にテラスでひとりきりだったという言葉を、そのまま受け取ったことです。あの男はひとりきりだと言っていたが、そう言ったという事実は――うそをついたり、うそをつく動機は何もなかったと認めたとしても――真実だったとはいえないのです。ただあの男がひとりきりだと思い込んでいたにすぎないのです。どちらの条件の場合でも――ひとりきりだと考えていた場合も、実際にひとりきりだった場合も――結果は同じことだったでしょう。つまりあの男は腰かけて私信を書きはじめたでしょう。ぼくは錯覚状態というものをうっかり計算に入れ忘れたのです」
「なるほどな!」
「さて、こうなると最初の≪証明≫が間違っていた理由がはっきりします。もしあの男がひとりきりだと思い込んでいただけなら、手紙を書いていたときに実はひとりきりではなかったという可能性があります。言いかえれば、最初に来たのはぜんぜんマルコではなく、犯人が先に来てテラスにかくれて、マルコに気づかれないように待ち伏せしていたかもしれないのです」
「しかし、どこに?」
「もちろん、石段の下のあの大きなスペイン風の壺の、どちらかの後ろです。あれが一番かっこうな場所です。人間ほどの大きさで、その後ろに楽々かくれられます。その上、覚えてるでしょうが、マルコを気絶させるのに使った武器は、あのアラビアン・ナイト風の壺のひとつの、すぐそばの壁のくぼみにあったコロンブスの胸像でした。犯人はただ手をのばし、像をつかみ、忍び足で――はだしで――腰かけて書いているマルコの背後から近づき、あの悪党の頭をなぐりつけたのです。それから、自分の首か手首か足首にまきつけて来た針金をとり出して、意識不明の男を絞め殺したのです。針金だけを使ったこと――もっと正式な武器をさけたこと――が、ある意味では、犯人が海から来たことを裏書きしています。針金は泳ぐ邪魔にならない、軽いし、銃のようにだめにならないし、ナイフのように持ち運びが厄介でない。ナイフなら、おそらく歯でくわえて運ばなければならないから、呼吸を困難にしたでしょう。もちろん、この最後の難点は重要ではありません。重要なのは、この推理があらゆる条件をほぼ満たすということです」
「しかし砂浜には、エル」と、判事が叫んだ。「足跡はなかったんだぞ。すると、どうやって犯人が来たと主張するんだ――」
「あなたはいつも、もっと洞察力があるのに」と、エラリーがつぶやいた。「だって、もし犯人が先に来たのなら、一時の前に、潮がそんなに引かない前に、浜が十八フィートも露出しない前に、いつでも来られたでしょう」
「だが、あの置手紙は?」と、老紳士は頑強にやり返した。「マルコは一時よりそんなに前に来られたはずがない。にせ手紙は現にマルコと一時に会う約束になっている。なぜ、犯人はそんなことをして、自分をそんなに早く来なければならなくしたんだね。時間は、たやすく、どうでもできただろうに――」
エラリーは吐息をして「置手紙は一時になっていましたか」
「そうさ」
「まあ、まあ、せかんでくださいよ。考えてもごらんなさい。あのタイプの文面は1の数字のすぐあとの紙片が紛失していたんですよ。間が悪かったですね、判事さん。正確な数字は12だったにちがいないですよ。2の字が失くなった紙片といっしょに欠《か》けたんでしょ」
「ふん。だが、どうして12だったことが分かる?」
「たぶんそうでしょうよ。もし数字が11か10だったら、きっとマルコは十一時半までブリッジに加わっているわけにはいかなかったでしょうからね。約束におくれないように、もっと早く、やめたでしょう。すると明らかに、約束の時間は十一時半に一番近い、次に来る時間に指定してあったでしょう――それは十二時です」
「なるほど、そうか」と、判事がつぶやいた。「カマーには不運だったな。カマーは、マルコがすぐ来るだろうと思って真夜中の少し前にテラスに着いた。手足を完全に自由にしておくために裸で泳いだのだろうし、身につけているものが少なければ少ないほど、身から手がかりを落すチャンスも少ないはずだと考えたのだろう。しかしマルコは、思いもよらず、自分の部屋でゴッドフリー夫人のために手間どり、まるまる一時間もひきとめられたのだ。夜空に、何も着ないで、海辺で一時間も待たされることを想像してみるがいい!」
「カマーの立場からすると、そんなことより、もっとずっとおそろしいことだったんですよ」と、エラリーがあっさり言った。「明らかにあなたは本筋をつかんでいないんですね。カマーが衣類を奪わなければならなくなったのは、その一時間の遅延のせいですよ。マルコが時間どおりに来ていれば、カマーに対する手がかりはぜんぜんなかったはずです」
「のみこめんな」と、判事が、うなった。
「分かりませんか」と、エラリーが大声で「犯人は潮を計算していたにちがいないんですよ。もし、真夜中の少し前に来れば、満潮で――潮が一番高いのです。犯人は水中からテラスにつづく石段の一番下の段へ足をかけることができたでしょう。砂にはぜんぜん足跡は残りません。マルコが時間どおりに来れば、殺して海を通って引き返せたでしょう――その時もなお足跡は残らなかったでしょう。と言うのは、潮はまだ充分高かったでしょうし――犯行はわずか一、二分ですむし――犯人は砂の帯をとび越えて磯波にはいればよかったでしょうからね。しかし、犯人はテラスに隠れて、潮の引くのを、手をつかねて眺めていなければならなくなった。砂浜はだんだん広がり、刻々広くなるのになお、マルコは現われなかった。そうですとも、カマーにとってはとてもやりきれなかったでしょうよ。しかしカマーは待って、逃げ方をむずかしくしたが、待っている間に、どうすべきかを考えていたんです。カマーは、殺しても露見しないような場所に、ふたたびマルコをおびき出すチャンスは得られないだろうと考えたのでしょう。マルコの着衣を奪うという思いつきは、カマーがマルコと同じような体格だったことに思い当ったことから出たにちがいありません。ともかく、こんなわけで、ぼくは、犯人が海から、真夜中前に、裸で来たことを知りました。ところで、犯人は殺人の行なわれた当時、ゴッドフリーの邸に住んでいたかどうか。そして、もし住んでいたとすれば、なぜ海を泳いで――道のりも長いし、骨も折れる廻り道をして来なければならなかったか――邸からじかに陸上の小路を来るほうが、ずっとやさしかったでしょうにね」
老紳士はあごを掻いた。「もちろん、もし犯人がそのとき、現に邸に住んでいたのに、泳いで来る方法をとったとすれば、それはただ、外の道から海を通って侵入せざるを得ない外部のものが犯人だと、見せかけたかっただけだろう。言いかえれば、犯人が邸に住んでいたという事実をごまかすためさ」
「まさにそうです」と、エラリーはほめて「しかし、もしそれが動機だったとすると、海から来たことをはっきりさせておくべきだったでしょうね。どうです?」
「それが動機なら――たしかにな」
「もちろんです。犯人はその事実を強調し、われわれに信じさせようと望んだことを、むりにも信じさせるようにしたでしょう。しかも、反対に、犯人は海から来た事実を極力隠そうとしているんです」
「わしも薄々気づいとるが、君の説明は?」
「そうですね、ひとつには、逃げ道がはっきりしていなかった、つまり、やって来た道――浜を通って海へ行く道をとらなかったためです。もしその逃げ道をとれば、出て行く足跡が砂に残り、それで一目で事態が分かってしまったでしょう。いや、犯人はあの時、邸に住んでいたのなら、そんな足跡を残すことなど、まったく気にしなかったはずです。ところが、犯人は実際にはどうしたか。そんな足跡を残すのを必死になって避けようとした。というのも、死体を裸にして、その服を借り着していたからで――それは海以外の道から逃げる目的にほかならないのです……言いかえれば、犯人は砂地に足跡を残すのを避けるために大変な苦労をしたこと、海から来た事実を隠そうとしたことは明白です。殺人の当時、ゴッドフリー邸に住んでいた者はだれでも、海から来た事実を隠そうとは欲しなかったでしょう。そこで、犯人は殺人の行なわれた当時、ゴッドフリー邸に住んでいなかったということになります。証明終り」
「しかし、ただ」と、判事はくすくす笑って「ある点までだな。そこから先は?」
「そうですね」と、エラリーはつまらなそうに「犯人が殺人当時、邸内に住んでいなかったということが分かってからは、子供の遊びみたいなものでしたよ。殺人の夜、あの邸か邸のまわりにいた者はみんな、殺人容疑者としては除外しなくてはなりません。その結果、ゴッドフリー夫妻、カンスタブル夫人、セシリア・マンとそのご亭主、コート、テイラー、ピッツ、ジョラム――その他もろもろが除外され、残るのはローザ・ゴッドフリーとカマーとキッドだけになりました」
「しかし、どうして特にカマーに目をつけたんだね。それとも、たんに最も有力な容疑者としてカマーをえらんだだけかね。実際問題としては、カマーが死んでいないと睨む理由はなかったんじゃないかね」
「お静かに」と、エラリーは節をつけて「実証できるものだったんです。なぜなら、この犯人の特徴とみるべきものは何かを――犯罪情況から帰納してみたからです。特徴は六つありました。ぼくは慎重に表にしてみたのです。
一、犯人はマルコと、マルコの関係者をよく知っていた。つまり、マルコとローザとの、内密とみられる関係をよく知っていて、ローザが書いたらしい、にせ手紙を使って、マルコをひっかけてにせの約束をさせている。
二、犯人はゴッドフリー夫人が毎朝早く水浴びに浜へ下ることを知っていた。もし知っていなければ、犯人は来た道から逃げたはずです――浜を通って入江の海へ、それから外海へと、足跡を残しておいて、どうせ、朝おそくなれば、潮がさして来て、足跡を洗い流してしまうでしょうからね。犯人がその道を択ばなかった事実は、潮が足跡を消す前に、ゴッドフリー夫人が現われることを予想していたことを示すものです。したがって犯人は夫人が来ることを知っていたことになります。
三、犯人は土地カンがあり、入江の潮時をよく知っていた。
四、犯人は水泳の達人だった。最初に海から来た以上、沖にとめた舟から来たはずです――人目につかないためには、かなり沖だったでしょう。しかし、舟から来たとなると、犯行を終ってから舟へもどらなければなりません。ところが、前にも言ったように、ハイウェイを通って逃げなければならなくなった――」
「ちょっと――」
「まあ先へ進みましょう。ハイウェイを通って逃げるためには服がいる、というのは犯人は水着もローブも持っていなかった。それに、ステビンズの店は岬の入口のまん前だし――そこは犯人が陸路、屋敷から出られる唯一の場所だ――その上、明るく照明されている出入口を裸で通って、人目につかぬというチャンスはまず得られない。そこで犯人はマルコの着衣を着て、どちらかの公衆海水浴場へハイウェイを歩いて行った。どちらの公衆海水浴場も、入江からほぼ一マイルあることは調べてあります。それから、どうしたか。犯人は公衆海水浴場で着衣を脱ぎ――午前一時半だから、人影なんかありっこない――それをまとめて(その場に残して行くような危険を冒すはずがない)――それから衣類をもって最小限一マイルは泳いで船へ帰ったのです。だから、論理的に犯人は水泳の達人だったことが割り出せると言うんです」
「抜け穴があるな」と判事は、エラリーがひと息入れたときに指摘した。「船から来たのだから、船に帰ったはずだというが。必ずしも――」
「絶対ですよ」と、エラリーがやり返した。「犯人はまず、裸で来たのでしょう。陸路を逃げるつもりだったでしょうか――裸でね。いや、やはり犯人は船に泳ぎ帰るつもりだったのです。そのつもりなら、逃走用の乗物が待っていたはずだから、やはり泳ぎ帰ったのです。しかし、話を進めましょう。
五、犯人はマルコと同じぐらいの体格だったにちがいない。なぜか? 犯人は、たとえ、ステビンズに見られても、公衆海水浴場へ行く道の途中で、だれかに出会っても、相手の注意をひいて、たちまち厄介なことがおこったり、思いがけぬ目撃者に消しがたい印象を残すような変な不似合なところが、どこにもないほど、うまくマルコの衣類を着こなしていたんですからね。大男で、それから――たしかにマルコと背格好は同じです。
次に、六、犯人は以前からゴッドフリー家に出入りしていた。これが最も重要な点です」
「置手紙のことかね」
「もちろんです。にせの置手紙を書くのにゴッドフリー家のタイプライターを使っている。しかし、そのタイプライターは邸から持ち出されたことはない。したがって、タイプした人物が、あの機械を使うためには、必然的に邸を訪ねたか、家庭内の一員だったかでなければならない」
エラリーは赤信号で減速した。「ところで」とエラリーは吐息をはいて「そこでぼくは考えたんです。ローザ・ゴッドフリーは、たとえ一晩中ウェアリング荘に縛られていたという話の真偽を疑うとしても――あの娘が犯人たり得たでしょうか。不可能です。泳げないし、タイプも打てない。それに、あの娘がマルコの着衣で変装したと仮定しても――論理的に――女性の髪を隠すために、きっとマルコの帽子を奪うはずですからね。しかし、マルコの帽子は奪われていない。すると、少なくとも三つの条件で落第です。
キッドはどうか。分かっている人相書によると、とても大男で、とほうもない図体だから、マルコの着衣など、ぜんぜんつけることができないはずだから、不可能です。それに靴です――ローザがあの男の大足のことを、ふるえ上がって話したのを覚えているでしょう。いや、どうしても、キッドじゃない。
まだ二、三」と、エラリーは、追憶にふけっているようだったが、疲れた微笑を浮かべて「あいまいな可能性もあったのです。例えば、カンスタブル――あの不幸なローラの病身の亭主です。しかし、論理的根拠だけでも除外できます。あの男はゴッドフリー家の連中と一度も会ったことがないから、ゴッドフリー夫人の泳ぎの習慣を知っているはずはないし、ゴッドフリー邸に来たことはないから、≪ローザ≫の置手紙をタイプすることができなかったはずです。
それから、ウェアリング、別荘と発動機船の持ち主です。あの男でない理由は? そう、あの男はローザの供述によると非常に小男だし、あの男は一度も――これはあなたの証言ですよ、ソロン殿、ゴッドフリー邸にはいったことはないからです。
すると、カマーだけが残ります。ぼくはあの男が死んだということは知っていなかった。そこであの男のことを考える必要があった。あの男が六つの条件を全部満たすのを発見して驚きました。あの男はローザに、ローザとマルコの関係を知っているとほのめかした。あの男は姉のステラが毎朝泳ぎに行くのをたしかに知っていた。事実、あの男が時々一緒に行くとステラが言っているんです。あの男はスポーツマンで――岬が好きで、船を乗りまわしていたから、潮の知識があったことは疑いもない。水泳は? 姉の言葉によれば、しごく達者だ。マルコの衣類を着る肉体的能力は? おお、ぴたりだ。ローザの話だと、死んだ男とほぼ同じ体格だった。そして最後に、あの男は邸の定住者だったから、ゴッドフリーのタイプライターに近づけたのは明白です。そこでカマーこそ、六つの条件を全部満たす唯一の男であり、その上、殺人当夜海上にいたただひとりの男です(キッドを除いて)。かかるがゆえに、犯人でなくてはならない。といったところですよ」
「どうやら」と判事はちょっと黙っていてから言った。「実際にはどんなことが起こったかを、組み立ててみるのは、さほどむずかしくはないだろうな――カマーが唯一可能な犯人だと割り出したからにはね」
エラリーがアクセルを乱暴にふみ、車は無限軌道トラックのそばをびゅっと走り抜けた。「もちろんです。明々白々です。もし、カマーが犯人だとすれば、あの誘拐事件は明らかに全部、純粋、単純ないんちきだったのです。自分を同情的な立場に立たせて事件の埒外《らちがい》にのがれ、感情的のみならず肉体的にも犯人ではあり得ないかのように見せかけるためのカマーのごまかしだったのです。非常に頭がいい――利口すぎます。
カマーが自分を誘拐させるために、キッドなる者を探し出して、秘かに雇い入れたのは明白です――おそらくその怪人には人をかつぐ冗談だぐらいに言っといたのでしょう。あるいは、本当のことを話して、少なくとも当分の間は黙っている約束で、充分な口止料を払ったかもしれません。カマーがローザを道連れにしたのは、事件の目撃者が欲しかったからで――信頼性のある目撃者が、事件のあとで、叔父がいかに勇敢にふるまったか、そして、ゴリラのようなキッドにとっつかまって手も足も出なかったかを、警察に話させたかったのです。それからまた、あのにせ手紙のからくりの邪魔をさせない場所に、ローザを取り除けておくほうが都合がよかったのです。
全体の演技はカマーとキッドの間で練習されたにちがいありません。キッドの腹をなぐることから、カマーを≪失神≫させた一撃までね。それはすべてローザに信用させるための用意だったのです。キッドがわざとカマーをマルコと間違えて近づいて来たのは――現にカマーをマルコと呼びかけています――警察に、カマーは無実であり、マルコ殺しの犯人は明白に外部の者か、邸内の誰かだと思い込ませるための妙案だったのです。抜け目のないカマーは、警察がキッドをマルコ殺しの真犯人とはみなさないだろうし、二人の間にはぜんぜん何も関係がないとみるだろうということを察知していたのです。そこで、キッドにだれかへ≪電話≫させた――もちろんローザが聞いている前で、これも慎重に計画されたものでした。たしかに――まるで、キッドが外部の雇い主に報告しているかのように、まるでボスがいるかのようにね(もちろん、カマー自身がボスにほかならない)。カマーが≪失神≫して浜に倒れている間に、キッドが電話をかけてみせた、完全なごまかしです。実際はどうだったかといえば、キッドはゴッドフリー家の番号をダイヤルして、線の向こうでだれかが受話器をとるかプラグをさす音が聞こえるまで待ち、その音がしたらすぐ指で送話器のボタンを押して通話を切り、それからゆっくりと、片道通話をやったのでしょう。いやはや、われわれはみんな、カマーの思わくどおり、あのすばらしいキャプテン・キッドを見当ちがいしてしまったのです。キッドは、あんなにも忠実に命令を守り、あんなにも手落ちなく実行したところをみると、愚直だったに違いありません。ちょいとした海洋劇の役者ですね」
「しかし、カマーはどうやってタイプした置手紙の件をやったのか。あのとき、邸の外にいたはずなのに――」
「手紙が見つかった時でしょう。もちろんです。しかし、こっそり手紙を置いた時には邸内にいたんですよ。カマーは夕食後、ローザを誘って、おしゃべりをするために一緒に外へ出て行く直前、手紙を階下のテイラーの戸棚に置いて行ったのです。テイラーは九時半までその手紙に気がつかないだろうということを心得ていた――ついでですが、テイラーの習慣を知っていたということもまた、犯人である資格のひとつです――九時半に見つかれば、キッドが≪ボス≫に電話をかけたあとで、手紙はタイプされて置かれたものと推定されるでしょうからね。われわれがウェアリング荘でローザにぶつかった朝、コートに匿名の電話がかかり、どこに行けばローザが見つかるかを教えたことも、覚えているでしょう。もちろん、あの電話もカマーがかけたのです。沿岸のどこに隠れていたか分からないが、あの電話をかけるためには、公衆の目にふれる危険を冒したのです。思うに、カマーはローザの髪の毛一本でも傷つけるぐらいなら、むしろ自首して出るほうを択んだでしょうよ。カマーはできるだけはやく、ローザが確実に見つけ出されることをねがったのです」
「置手紙にローザの名を使って煮え湯をのませているところをみると、そうばかりとは言えんな」
エラリーは頭を振って「カマーはローザにしっかりしたアリバイのあることを知っていたのです。つまり、タイプは打てないし、ウェアリング荘で縛りあげられているところを発見されています。警察が置手紙をにせものと見ても少しもかまわなかったし、事実、ローザのためにはそのほうがよかったぐらいです。それに、考えてもごらんなさい、もしマルコが手紙の破棄にあんなに不注意でなかったら、あの手紙は絶対に発見されなかったでしょうし、ローザも、あの件にまきこまれなかったでしょうよ」
車は大きな町に近づき、交通は不愉快なほど頻繁になっていた。いっとき、エラリーはデューゼンバーグを混雑から抜け出させるのに、|しゃりん《ヽヽヽヽ》になっていた。マクリン判事はあごをなぜながら、沈思黙考していた。
「どのくらい」と、判事が急に訊いた。「カマーの自供が真実だと信ずるかね」
「えっ? どういう意味か分かりませんね」
車は賑やかな本通りにゆっくりはいって行った。「カマーが昨夜、あの怪人キッドについて自供したことを、わしは疑っとるんだよ。つまり、カマーは嵐を利用して劇的な帰還をやってのけた。わざと発動機船を沈めて、命からがら岸に泳ぎついたと説明しとるんだがな。あの男は最初の話を――昨日の夕方、船上で格闘してキッドを殺したという話を――うそだったと認めている点さ。そして実際には、日曜日の夜、ウェアリングの発動機船で、スペイン岬から見えないところへ出るとすぐ――≪誘拐≫の後だ――人気のない場所に船を着けて、キッドに金を払い、立ち退かせたと言っとる。つまり、キッドが生きていて、どこか分からぬ所へ旅立ったという印象を故意に与えようとしたが、どうも、本当らしくは聞こえなかったな」
「おお、ばからしい」と、エラリーは、クラクションを鳴らしながら、吐きすてるように言った。車から身を乗り出し、顔をひきつらせて、群がるタクシーに向かって、自動車マニアに共通な、無理もない怒りをこめて、どなった。「何をぐずぐずしてるんだい」それから、にやりと笑って頭を引っ込めた。「実は、カマーをマルコ殺しの犯人と割り出したとき、当然、キッドはどうしたろうと自問してみましたよ。キッドは単なる道具にしかすぎなかったことは、明らかです。問題は、キッドが真相を知っていたか、あるいは、カマーは≪誘拐≫の手品の裏の真の目的をキッドにだまっていたか、です。そして、二つの点で二重犯罪とするのを妨げると思うのです……あなたも、カマーがキッドを殺したと思うんでしょう」
「白状すると」と、判事は顔をしかめて「そんな気がせんでもないんだ」
「ちがいます」と、エラリーが「カマーはそんなことはしません。まず、カマーはキッドに実際にしようとしていることを教える必要がなかった。次に、カマーは、いわゆる≪殺人型≫の人間ではない。あれは、今、おとなりにおられる方と同様に、法律を遵奉《じゅんぽう》するまったく健全な人間です。正気を失うような人間ではない。単に殺害するために同胞の命を奪ったり、少しばかりの慈悲の報いがある、と見込んで人殺しをするような人間でもない。キッドは悪党だが、たっぷり払ってもらったにちがいないですよ。キッドが、どこかで殺人事件のことを新聞で読み、カマーをゆすろうと思っても、自分自身がこの犯罪の景物だったことに気がついて思いとどまったでしょう。そこが、あの雇人に対するカマーの強味です。いや、いや、カマーは真実を語ってるんですよ」
車が町を出はずれて、ふたたび広々とした道路に出るまで、どちらも口をきかなかった。空気には秋の前ぶれの棘《とげ》があった。老紳士は突然、身ぶるいした。
「どうしたんですか」と、エラリーが丁寧に訊いた。「冷えますか」
「それがね」と、判事はくすくす笑いながら「殺人事件の反応か、風邪のせいか分からんがね、どうやら、ぞくぞくする」
ひと言もいわずに、エラリーは停車した。そして、車をとび出し、ごたごたの折り畳み座席を開け、ひっかきまわして、やがて何か黒くてやわらかな、かさばるものをひっぱり出した。
「そりゃなんだね」と、老紳士がいぶかしげに訊いた。「どこから持って来たのか、おぼえがないぞ――」
「これを肩に羽織りなさい、おやじさん」と、エラリーは車にとび込み、それを老人のひざになげかけた。「われらの経験のささやかな記念品ですよ」
「いったいこりゃあ――」と判事は、おどろいて、その衣類をひろげながら、言いかけた。
「自称、法の侵害者、推理の邪道ですよ」と、エラリーは演説口調で言い、ブレーキをゆるめた。「仕方なかったんですよ。実を言うと、今朝、モリー警視の鼻先から、ちょろまかして来たんですよ」
マクリン判事は持ち上げてみた。ジョン・マルコの黒いマントだった。
老紳士はまた身ぶるいし、深く一息すって、勇を鼓《こ》しながら、マントを肩に羽織った。エラリーは、にやにやしながらアクセルをふんだ。そして、間もなく老紳士は、たくましいバリトンで、いつ終るとも知れない≪錨をあげて≫のコーラスを歌い始めた。
[#改ページ]
むすび
私はある秋の夜、エラリーとマクリン判事と一緒に、イースト・サイドの、ロシア料理店にすわり、バラライカの音を聞き、たけの高いグラスで紅茶をのみながら、語り合っていたのを思い出す。隣のテーブルでは、黒いひげをはやした大男のロシア人が、正式なロシア風に、うるさい音を立てて皿から紅茶をすすっていた。そして、その男の図体から、話は自然に、キャプテン・キッドのことになり、やがてジョン・マルコ事件に移った。私はかねてから、エラリーに、ノートをまとめて、彼ら二人のスペイン岬での経験を、本に書くように勧めていたので、エラリーがその気になりそうなこのチャンスをのがさず、説得しようと思った。
「おお、いいとも」と、ついにエラリーが言った。「君は世界一残酷なボスだぜ、J・J。それに、この事件は、最近、ぼくがまきこまれたどの事件にも劣らないほど面白いもんだと思うよ」エラリーはこの夏、解決に失敗したチロル事件のせいで、まだ、ふさいでいた。
「君がこの事件を小説化するつもりなら」と、マクリン判事が、そっけなく忠告した。「君に言うとくがね。抜け穴だけはふさいどけよ」
エラリーは、獲物に向かう猟犬のように、きっとなって振り向いた。「なんですって」と、きびしい口調で「なんの当てこすりですか」
「穴ですって?」と私は言った。「事件の話は、すっかり聞いていましたがね、判事、穴なんか気がつきませんでしたよ」
「おお、しかし、一つあるさ」と、老紳士はくすくす笑って「むしろ、わし個人のことだがな。君らは理詰めの人間だ。だが、君らが、厳密な論理をあくまでも崇拝するかぎり、君らの尊敬する大衆が、勝ち誇った手紙をよこして、君らの生活をみじめにすることは、望まんだろう」
「さあ、思わせぶりをしないで」と、エラリーが、きっぱり言った。
「じゃあ」と、判事は夢みるように言った。「君は、あの分析の中であらゆる人を除去していって、犯人を割り出したと、思うとるんじゃないかな」
「もちろんです」
「しかし、君はそうしとらんのだ」
エラリーは、いかにも、わざとらしくたばこに火をつけて「おお」と言った。「そうしなかったって? 誰を抜かしましたかね。言ってください」
「マクリン判事をさ」
いつも物に動ぜぬエラリーの顔に、なんともこっけいな驚きの表情が浮かぶのを見て、私はお茶にむせった。判事は私にウィンクして、バラライカに合わせて鼻歌をうたい始めた。
「これは、これは」と、エラリーは、しょげて呟いた。「危くひっかかるところでしたよ。これは本に書いておくよ、J・J。手抜かりとはね!……親愛なるソロン殿――母羊が家を出て行く娘羊に言う言いぐさじゃないが――おふざけでないよ」
老紳士は鼻歌をやめた。「わしのことも考えたと言うのかね――なんだと、小僧っ子が。あんなにわしが世話してやったのに!」
エラリーはにこやかに笑って「そりゃ、ちゃんと認めますよ。しかし、結局は、真は美であり、美は真であり、そして、親しき友もめちゃめちゃにせよでしょ。ぼくは純粋に、論理の練習問題として、あなたのことを考えてみました。そして、実は、あなたを除外できることが分かって、ほっとしたんですよ」
「ご苦労」と、判事はひどくがっかりして言った。「そのことを言わなかったじゃないか」
「それは――そのう――親しき友に言うべきものじゃありませんからね」
「だが、どの点で除外できたのかね、エラリー」と私が大声で「君が話してくれた中には、何もなかったぜ、たしかだ……」
「なかったろうさ」と、エラリーが笑った。「しかし、本には、うまくはめこんでおこう。ソロン殿、日曜日の朝、われわれがステビンズと交した会話を、覚えていますか」老紳士は頷《うなず》いた。「ぼくがステビンズと何を話したか覚えていますか」老紳士は首を振った。「あなたは泳げないと言ったんですよ!」
J・J・マック (完)
[#改ページ]
訳者あとがき
この作品の原名は「ザ・スパニッシュ・ケープ・ミステリー」だが、訳名は内容を加味して「スペイン岬の裸死事件」としておいた。原作は一九三五年に発表された、エラリー・クイーン国名シリーズのひとつで、例によって、エラリーは読者に、謎ときの挑戦をする。
北大西洋岸に突出する岩塊の小さな岬、本土とは、せまい一本道で切り放されているそこに、孤独を楽しむアメリカの株屋町ウォール街出の億万長者、そこに集まる、とんでもないバカンス族たち、夏も終りの、あちらの避暑地を背景に事件は展開する。
スペイン系の美男の|女蕩し《マクロ》が、ある夜、テラスで殺された。だてなオペラ・マントを着ていたが、マントの下は、なんと、まる裸だった。折りから休暇を楽しみに来た、エラリーと、エラリーの庇護者《パトロン》マクリン老判事が、この事件にまきこまれて、捜査を手伝う。
被害者はなぜ裸にされたのか。しかも、なぜマントだけを着ているのか。この謎を解くエラリーの理詰めの推理は美事である。
この作品は、事件が事件を生むという類のものではなくて、事件の謎を解きながら、人間心理の起伏と、人世模様を、しみじみと味わうといった、いかにも秋の夜に、ふさわしい好読みものといえよう。
そのせいか、「アメリカ・ロデオ射殺事件」「ローマ劇場毒殺事件」のように、公衆の中で犯罪が行なわれて容疑者は無限にいるという設定とはまったく別なものにされている。最初から、容疑者くさい人物は四、五人にしぼられるし、犯行現場は、密室にも似て、逃亡のむずかしい岬が択ばれている。一見、問題はやさしい。きっと読者の皆さんにも、カンで当てるのではなく、理詰めで、王手が、かけられるはずである。
蛇足だが、題名のスペイン岬の岬《ケープ》は、オペラ・マント(ケープ)と、ひっかけてある。そして、そのマント(ケープ)が謎をとく鍵となっている。エラリーのユーモアの味噌《みそ》だ。味噌といえば、昔から、女の裸体は、値がつくが、男の裸体に値をつけたのも、エラリーの味噌ではあるまいか。笑々
一九六三年九月