エラリー・クイーン/石川年訳
シャム双子殺人事件
目 次
まえがき
第一部
一 火矢
二 変物
三 奇妙な連中
四 真昼の惨劇
第二部
五 スペードの6
六 スミスという男
七 なげきの夫人
八 ジフォパガス〔剣状接合双生児〕
九 殺人犯の正体
十 左利き右利き
第三部
十一 埋葬所
十二 美女と野獣
十三 犯罪テスト
十四 人を呪えば穴二つ
第四部
十五 指環
十六 ダイヤのネイヴ〔ジャック〕
十七 ネイヴ〔ジャック〕のいきさつ
十八 最後の避難所
十九 クイーンの話
訳者あとがき
登場人物
ジョン・S・ゼーヴィア博士……外科医
サラ・イゼール・ゼーヴィア……博士夫人
マーク・ゼーヴィア……博士の弟
パーシヴァル・ホームズ……博士助手
クイーン父子……警視とむすこ
マリー・カロー夫人……双子の母親
アン・フォレスト……カロー夫人秘書
フランシスとジュリアン……双子
スミス……よそ者
ホイアリー……家政婦
『骸骨』……下男
まえがき
エラリー・クイーンの、忠実な友、いわば、良心の守り神として、私は、アロー・マウンテンと呼ばれている、あの人里離れた非情の山でエラリーが行なった興味深い捜査物語をまとめて発表することが私のつとめだと思っています。――最初におことわりしておきますが、ここでアロー・マウンテンというのは、ディリエンにある山ではなく、それより北の、昔のインディアン地区の中心にあるテピーズ連峰の中の、いかにも山らしい山なのです。
この本は、いろいろな点で素晴しい物語です。舞台が異常であり、登場人物の少なくともふたりが常人でなく、その上ワグナーの音楽のライトモティフのような、激しい山火事のメロディが全篇に鳴りひびくのです。そればかりでなく、この物語は、クイーン君が発表した数々の冒険談の中で、初めて、全く官権の介入なく、自由に捜査した事件を扱っているからです。つまり、父リチャード・クイーン警視以外、この事件の舞台には、普通の殺人事件につきものの――探偵、警官、検視官、指紋係、銃器専門家等々という手合いは、まるっきり登場しません。
些細な容疑だけで、探偵どもが、でか足でどたばたと現場を踏み荒らす、わが国のようなところで、どうしてこんなことが起こり得たかも、この意外な驚きにみちた物語の、最も興味深い要素の一つです。
みなさんがこの物語を大いに楽しまれることを願ってやみません。
一九三三年七月
クレアモント・ニューヨーク州
J・J・マック
第一部
人間の本性こそ、この世を下賎《げせん》な人殺しどもの跳梁《ちょうりょう》から守る、唯一の要素である。と同時に、その最大の弱点は、実に複雑怪奇な犯罪心理が存在するということである。いわゆる『利口な』殺人犯人を連れて来たまえ。私は、そいつが、すでに死刑の宣告をされている男だという点を、証明してお目にかける。
ルイジ・ペルサノ著『犯罪と犯罪人』(一九二八年)
一 火矢
道は粗《あら》びきの石の粉を巨大なオーヴンで焼き上げたようにでこぼこし、蛇《へび》のようにくねくねとうねり、山の横腹をぐるぐると巻いては、伸びていた。そして、やがて元気いっぱいに登りになった。路面は、太陽にいりつけられて、その一部が酵母《イースト》ででもあるかのように、ふくれ上がって、一気に五十ヤードほど、とうもろこしパンのように茶色に盛り上がっているかと思うと、次の五十ヤードは、まったく理由《わけ》もなくくぼんで、タイヤ泣かせのわだちをなしていた。偶然、こんな悪路に迷いこんだ不運なドライバーの命を縮み上がらせるかのように、道はねじれ、曲り、くぼみ、くねり、上《のぼ》り、下《くだ》り、広まり、せばまり、実に、見るからに驚異だった。
しかも、汗まみれで這い上がる人間の肉にとっついたら最後、がっちり噛みついてやろうと待ちかまえているイナゴのようなざらざらな砂ぼこりを、まき上げるのだった。
痛む目に、ほこりだらけなサングラスをかけ、リネンの帽子を目深かに引き下げ、リネンの上着の|しわ《ヽヽ》という|しわ《ヽヽ》に三つの郡の砂ぼこりをひっかぶり、むき出しになっている肌が汗ばみ、びりびりと日やけしているので、全くそれと、見分けもつかないようなエラリー・クイーン氏は、がたびしの愛車デューゼンバーグのハンドルにのしかかって、かなり死にもの狂いの思いでハンドルと格闘していた。そして、『谷』の入口といわれている四十マイル下のタッケサスから今の場所にたどりつくまでの、道とは名ばかりの悪い道の曲り角ごとに呪《のろ》いの言葉を浴びせて来たので、もう、言葉も種ぎれになっていた。
「お前のせいだぞ」と、父親はぐちっぽく「畜生、お前は山の中は涼しかろうと思ったんだろう! わしは、だれかに、からだじゅうを紙やすりで、こすられとるようだぞ」
灰色の絹のスカーフを、埃よけのために目まで覆っている小柄な老アラビア人のようなクイーン警視は、凸凹の道路のままに、五十ヤードごとに跳ね上げられて、文句たらたらぶつぶつと小言を言うのだった。エラリーのわきの座席で、身をねじり、うめきながら、警視は、後ろにくくりつけてある荷物の山越しに通って来た凸凹道を、恨めしそうにふりかえった。そして、ぐったりともとの姿勢にもどった。
「谷の本道を行けと言ったじゃないか」と、警視は吹きつける暑苦しい空気に向かって人差指を振りまわした。「エル、だから、わしの言う通りにしろと言ったんだ――こんな、ろくでなしの山の中じゃ、どんな変てこな道に迷い込むかも分からんと、言ったのにな。言うことをきかんからだ。いやおうなしに冒険をしなければならんことになったじゃないか、そろそろ日暮れだというのに、まるで盲めっぽうのコロンブスのようにな」と、警視はぼやきやめて、影の深まる夕空を眺めながら「がんこだからな、おふくろそっくりだぞ――魂よ、安かれ」と、あわてて言い足した。警視は、根は信心深い老紳士なのだ。「さぞ満足なこったろうよ」
エラリーは、ため息をつき、行手《ゆくて》にのびるジグザグの道から目をはなして、ちらりと空を見上げた。見上げる空は、きわめて静かに、しかもすばやく、茜《あかね》色に深まり――人々の胸に詩を呼びおこすようだった。だが、となりで疲れて、暑がって、腹を空かせて、返答もできないような屁理屈《へりくつ》をぶつぶつならべている親父だけは別だなと、エラリーは思った。
谷に沿う麓の道から見たときには気持がよさそうだった、みどりの深い林は涼しそうだったが――全く期待はずれだったと、エラリーは、しょんぼりした。
デューゼンバーグは、ますます憂鬱さのます中を突進して行った。
「そればかりじゃない」と、警視が、埃よけのスカーフの覆面《ふくめん》ごしに、行く手の道を、じりじりした目でねめまわしながら「休暇のどん尻というところでひどい目にあったもんだ。災難だ、まったくの災難だ。すっかり気分をこわされて――さんざんだぞ。くそいまいましいこった、エル、何から何まで気にくわんぞ。食欲がてんでなくなっちまうぞ」
「僕はちがいますね」と、エラリーが、もう一度、ため息をついて「腹ぺこで、今なら、グッドイヤー・タイヤに、フレンチ・フライにしたガスケット〔パッキング〕を添えて、ガソリン・ソースをかけてでも食べられますよ。ところで、いったい、どこなんだろうな、この辺は?」
「テピーズだろ。合衆国のどこかさ。わしに分かるのはそれだけだ」
「すてきだな。テピーズ。まさに詩的な言葉ですね。たき火の上の鹿の丸焼きを思い出させますよ……たのむぞデュージイ〔デューゼンバーグの愛称〕おや、ありゃ野菊《デイジイ》じゃありませんか」
警視は、はね上げられて頭をふっとばされそうになっている時だったので、目をむいた。野菊《デイジイ》なんて、のんきなものを考えているひまなど、てんでなかったのだ。
「まあまあお父さん、こんなちょっとしたことなんか気にしないがいいですよ。自動車旅行には、えてしてありがちなもんです。モントリオールのスカッチ・ウィスキーを持って来なかったのが、まずかったですね、お父さん、のみ助のアイルランド人としては。……おや、あれ何んだろう、見えますか」
車は、無数にある、思いがけぬ曲り角をまわって、台地に出ていた。エラリーはしんから驚いて車を停めた。数百フィート下の左手に横たわるトマホーク渓谷は、空にそそり立つみどりの木々のはざまから、すばやく下りて来る茜《あかね》色のマントに、とっぷりとくるまっていた。そのマントの下には、何か巨大な暖くてくにゃくにゃした生きものが、うごめいているようだった。灰色がかった條虫《さなだむし》のような道が、はるか下までくねくねとつづき、その半《なか》ばは、すでに茜色のマントにくるまれていた。見渡すかぎり、灯かげも家も、人気《ひとけ》も、てんでなかった。今や、見上げる空も暮れなずんで、谷の向こうのはるかな峰の後ろに沈む日が瓜《うり》のひとかけらのように光っていた。道の突端は十フィートほど先にあり、そこから急傾斜で、谷底のみどり色の敷布に向かってなだれ込んでいた。
エラリーが振り返ってみると、アロー・マウンテンが頭上に大きくそそり立って、松や、いじけた樫《かし》や、敷きつめた下草《したくさ》で織りなした濃いエメラルドの壁懸《かべか》けのようだった。そのあざやかな木々の葉のたかまりは、頭上数マイルもそびえているようだった。
エラリーは、また、デューゼンバーグを走らせた。「苦労したかいがあったというものですね」と、くすくす笑いながら「もう、気分がよくなったでしょう。さっぱりしなさいよ、警視さん。こりゃ大したもんですよ――純粋《なま》の自然という奴《やつ》は――」
「生々しすぎてかなわんな」
たちまち夜の闇が、ふたりを押し包んだので、エラリーはヘッドライトをつけた。ふたりは黙って車をとばしていた。エラリーは夢見心地で、警視は腹立たしそうに、ふたりとも行く手を見つめていた。行く手の道につき刺さるような光線の中を妙な薄煙がただよい始めて、迷い霧のように、たなびき、うずまいた。
「こんなことになるだろうと思っとったぞ」と、警視が薄闇の中でまばたきながら文句を言った。「そろそろ下りにかかったのかな。それとも、そんな気がするだけかな」
「かなり下っていますよ」と、エラリーが小声で「少し暑くなったじゃありませんか。あの太っちょの田舎者は――タッケサスのガレージの男は――ひどい訛《なま》りで、オッスケワまでどのくらいあると言ってましたかね」
「五十マイルだ。タッケサスをオッスケワと言うんだからな。畜生、この地方ときたら、まったくうんざりさせるな」
「殺風景だと言うんでしょう」と、エラリーはにやりとして「古代インディアンの語原の美しさが分からないんですか。それが、皮肉なもんでしてね。わが同胞は海外旅行をして、『外国』の地名について、ひどくこぼしてますがね――ルヴーフ、プラーグ(今じゃ、なんだってプラハなんて味けない呼び方をするんですかね)、ブレシァ、ヴァルデペニヤス、それに、古きよき時代のイギリスのなごり、ヘーリイッチ、レスタシャーなんてのを。しかもこれがみんな一音節の言葉なんで――」
「ふふん」と、警視は変な調子で言い、また目をしばたいた。
「――これをわが国の土語のアーカンソー、ウィンネバゴ、ショーラリ、オッセゴ、スー・シティー、サスクィヘナ等々とくらべてごらんなさい。故事来歴ずばりじゃありませんか。いいですか、それらの土地を、顔に紅殻を塗りたくったレッド・インディアンどもが、山を越え、谷を渡って徘徊《はいかい》していたんですよ。しかも馬に打ちまたがって、われわれの頭の皮をはぎに殺到したんですよ。皮靴《モカジン》をはき、鹿のなめし皮を着、髪を辮髪《べんぱつ》にし七面鳥の羽かざりをつけたインディアンどもがね。合図ののろしの煙を――」
「ふふん」と、警視はもう一度言って、急にきっと身がまえた。「すぐ近くだぞ、奴らは、まだ煙を上げとるらしい」
「えっ?」
「煙だぞ、煙だ、エル。見ろ」と、警視は立ち上がって行く手を指さし「そこだ」と、大声で「まん前だ」
「ばかな」と、エラリーがとがった声で「こんな所に、煙が上がるなんて、いったいどうしたのかな。たぶん夕方の霧のせいでしょう。こんな山は、時々妙ないたずらをするもんですよ」
「こりゃただごとじゃないぞ」と、クイーン警視は生《き》まじめに言った。埃まみれのスカーフがいつのまにかひざの上にずり落ちていた。鋭い小さな目は、もはや、疲れてぼんやりした色ではなかった。首をのばして、かなり長い間、振り向いていた。
エラリーは眉をしかめて、防風ガラスの鏡をちらりと見てから、すぐにまた行く手に目をやった。道は谷に向かって急な下りになり、下がるにしたがって妙な霧は深まっていた。
「どうしたんです、お父さん」と、低い声で言った。小鼻がふるえていた。妙に気に入らない刺激的な匂いが、空気の中に、かすかにただよっていた。
「どうも」と、警視が腰を下ろしながら「どうも、急いだ方がいいようだぞ、エル」
「すると――?」と、エラリーが弱々しい声で言い、ごくりと唾《つば》をのんだ。
「たしかにそうらしいな」
「山火事?」
「山火事だぞ。匂いがするじゃないか」
エラリーの右足がアクセルを踏みしめた。デューゼンバーグが前へとび出した。警視は、不平もどこへやら、座席のそばの、車のへりに身を乗り出して、強力なサイドランプのスイッチをひねった。さっとばかりに、その光が、山の斜面をひとなでした。
エラリーは唇をかみしめ、どちらも口をきかなかった。
土地が高く、山は日が落ちて冷えているのに、妙な熱気が空気にこもっていた。デューゼンバーグがかき分けて行く霧の渦《うず》は、今は、黄ばみ、綿のように濃くなっていた。たしかに、乾いた木と、埃まみれの木の葉の燃える煙だった。その刺すような微分子が、急に鼻に押し入り、肺を焼き、咳《せ》き込ませ、目にしみて涙を浮かべさせた。
渓谷のある左手は、夜の海のように、ただ黒々と霧にくるまれて、何一つ見えなかった。
警視は、はっとして「停めた方がいい、エル」
「そうですね」と、エラリーは低い声で「そうしようと思ったところですよ」
デューゼンバーグは急にとまり、あえいだ。行く手には煙が、黒い荒波のようにうねっていた。そのすぐ先に――百フィートそこそこのところに――煙に噛みつく、小さなオレンジ色の歯が見え始めた。谷の下の方にも、何千という、おびただしいオレンジ色の歯が見え、それが舌になり、長いオレンジ色の舌がちらちらしていた。
「行く手の真正面ですね」と、エラリーが同じ奇妙な口調で「向きを変えて引き返した方がよさそうですね」
「向きが変えられるかな」と、警視がため息をした。
「やってみましょう」
まっくらがりの中で、神経のつかれる、きわどい仕事だった。かなり前に、気まぐれから拾い上げて来て、私用のために修理したポン骨スポーツカーのデューゼンバーグ、これほどひょろ長くて、意地悪野郎に思えたことはなかった。エラリーは、罵《ののし》りながら、バック、ゴー、バック、ゴーをくり返して、ひと汗かき――かろうじて、ほんの少しずつ車をまわしていた。その間に、警視は小さな白《しら》っ茶けた手で防風ガラスにしがみつき、口ひげの先を、熱っぽい空気にふるわせていた。
「早くした方がいいぞ、エル」と、警視が静かな声で言い、アロー・マウンテンの暗く静まり返っている斜面を、じっと見上げて「どうやら――」
「どうかしましたか」と、エラリーは、車の向きをまわし切るのに、ひと苦労しながら言った。
「火が、すぐ道の後ろまで――はい上がってくるらしいぞ」
「まさか、そんなこと、お父さん」
エラリーがぎょっとして暗闇の中を見たとき、デューゼンバーグが、ぶるんぶるんと身ぶるいした。エラリーは急に笑い出したくなった。あまりにもばかげている、火の罠《わな》にかかるなんて。……警視は坐《すわ》ったまま、身をのり出して、鼠のように神経を集中して、静かにしていた。やがて、エラリーが一声かけると、腰をすえて力いっぱい、アクセルを踏みつけた。いきなり、車がとび出した。
目の下の山の斜面は、すっかり燃え上がっていた。山肌はいたるところで引きさかれ、小さなオレンジ色の歯や、長いオレンジ色の舌が、それぞれにくっきりと光りながら、いきり立ち、ねちっこく山の斜面を、めらめらとなめたり齧《かじ》っていた。
ふたりのいる高みからは、はるかに小さな点のように見えていた全景が、いきなり炎になった。あっけにとられて、気違いじみた山道を大急ぎで引き返しながら、どうしてこんなことになったのかが、やっと分かって来た。七月の末で――猛暑と、一年中で一番乾燥している月だ。しかも、この辺はほとんど処女林ときている――深い木々と灌木は、ずっと前から太陽に水分を吸いとられている。もみほぐした|ほくち《ヽヽヽ》のように燃えやすい。キャンプの連中が、たき火をいいかげんに踏み消しておいたり、うっかりたばこを捨てたり、そよ風で枯木がこすれ合ったりしただけでも燃え上がろうというものだ。すると、火はたちまち林の下に燃えひろがり、山すその下草をくいつくすと、いきなり斜面を炎にくるんで、上の乾いた空気を焼けこがすことになる……
デューゼンバーグは速度を下げ、ためらい、前のめりになりながら、ブレーキをきしませて停った。
「すっかり囲まれちまった」と、エラリーはハンドルの後ろで腰をうかせながら「前も後ろも」それから、ふと落ちついて腰をおとし、たばこをつまみ出した。そして力なく笑った。「こりゃおかしなことになったもんじゃありませんか。火の裁《さば》きときた! お父さんは何か悪いことをしましたか」
「ふざけるんじゃない」と、警視が荒々しく言い、立ち上がって、すばやく左右を見まわした。道のすぐ下を炎がめらめらと噛んでいた。
「なんとも妙なのは」と、エラリーはたばこを深く吸い込み、音もなく煙を吐き出しながら、「お父さんをこんなことにまき込んでしまったことですよ。どうやら、僕のばかのしおさめになりそうですよ。お父さん、見まわしたって無駄です。まっしぐらに、火中を駆け抜けるより手がないですよ。道はせまいし、行く手の林も下草も、もう火がついてますからね」エラリーはもう一度笑ったが、その目は埃よけ眼鏡の下で熱気をおび、その顔は真青《まっさお》に汗ばんでいた。
「百ヤードも行けそうもありませんよ……ごらんなさい――道は曲りくねってますからね。……火につかまらなくとも、道からまっさかさまに落ちるのが関の山ですね」
警視は小鼻をふくらませて、口も利かずに見まわしていた。
「いまいましいメロドラマだな」と、エラリーは眉をしかめて谷を眺めながら、強いて努力して「どうやって抜け出せるか、まるっきり見当もつきませんよ。――まるで片なしですよ――日ごろの大ぼらも」と、咳きこみ、苦々《にがにが》しそうにたばこを放り投げた。
「さあ、どうしましょうか。このままいて火あぶりになるか、運を天に任せて道を突っ走るか、それとも頭の上のがけをよじ登ってみるか。すぐ決めなくっちゃ――敵は待ったなしですからね」
警視はどしんと腰を下ろして「落ちつくんだ、エル。どうやら、あの上の森までは行けそうじゃないか。さあ、やれ!」
「はい、警視」と、エラリーは、つぶやいた。その目は煙のせいばかりではない苦悩にみちていた。デューゼンバーグが身ぶるいした。
「見まわしたって無駄ですよ、お父さん」と、急に心細い声になって「出口はありませんよ。一本道で――横道は全然ありませんからね……お父さん。もう立たないで下さいよ。ハンカチで口と鼻を覆って下さい」
「行けと言ったんだぞ」と、老人はいきりたって、どなりつけた。両眼は血ばしり、うるんで、しめった石炭火のようにぎらぎら燃えていた。
デューゼンバーグは千鳥足で進んだ。晃々《こうこう》と輝く三つの車灯の光も、車のまわりに、渦まき、まつわる黄っぽい蛇のような煙が、ますます濃くなるのを見せるだけにしか役立たなかった。エラリーは感覚よりも本能にたよって車を運転した。強《こわ》ばった顔で、行く手の悪路の気まぐれ沙汰を正確に思い出そうと、懸命に努力していた。……ふたりともひっきりなしに咳きこみはじめた。塵よけ眼鏡をかけてはいたが、エラリーの目には涙が流れはじめた。煙にむせぶ鼻孔に、別の妙な匂いがまじった。ゴムのこげる匂いだ。さては、タイヤが……
ふたりの服に灰が、そっと積って、ぶちになった。
どこか、遠く、はるか谷の下の方から、あたりで燃えはじける音を抜けて、田舎の消防サイレンが鳴りつづける音が、かすかに開こえて来た。オスケワの警報だなと、エラリーは悲痛な思いで考えた。山火事を見つけて、駆け集まっているのだろう。間もなく、一群の人間蟻どもが、バケツや、はたきや、手製の庭箒《にわぼうき》をたずさえて、燃えあがる林にむらがり寄ってくるだろう。連中は火との闘いになれている。きっと、連中がこの火事を鎮めるか、火事が自然に消えるか、恵みの雨が降って来て火を圧《おさ》えるかするだろう。しかし、どうやら確かなことはと、エラリーは煙の中に突っこみながら、ごほんごほんと咳き入りながら考えていた。クイーンと名のるふたりの紳士が、センター街〔ニューヨーク警察本部〕と、ブロードウェー上町《かみまち》〔クイーンの住所〕から、はるばるやって来て、こんな人気《ひとけ》のない山の燃えあがる山道で、あえない最期をとげ、この世を去るのを誰ひとり見守る者もいないことになるんだなと。すると、急にこの世が、とても甘美に貴重に思えて来た……
「あそこだ!」と、警視がとび上がって叫んだ「あそこだ、エル。見おぼえがあるぞ。覚えとるぞ」警視は座席でおどり上がりながら左手を指し、涙と安堵《あんど》と満足ではげしく声をふるわせた。「間道があったような気がしとったんだ。停めろ!」
胸をひどくどきつかせながらエラリーはブレーキを踏んだ。煙の幕を通して、洞穴《ほらあな》のような隙間が黒い口をあけているのが見えた。アロー・マウンテンの胸を巨人の胸毛のように覆って生え茂る急斜面の森林を抜けて上へ出る間道の口にちがいなかった。
エラリーは力いっぱい、ハンドルと格闘した。デューゼンバーグは、さっと後退し、悲鳴をあげると、唸《うな》りを生じて突進した。セコンド・ギアを入れると、本道から急角度を切って、山道にとび込んだ。モーターが、うめき、きしみ、わめき――車はその山道をはい上がって行った。精いっぱいのスピードで、はい上がった。はっと立ちどまるかと思うと、ひょいととびだした。やがて、道は曲りになり、ひと曲りすると、なんともいえぬおいしい風がさっと吹き込み、松葉の匂いがし、甘美な涼気がみちて来た。……
二十秒もたたぬうちに、夢のように、ふたりは、炎と煙と、運命と死とから逃れていたのだった。
*
今、あたりはまっ暗だった――空も林も道も。空気は酒のように、ほんのりと温《ぬく》みのある冷《つめ》たさで、ふたりのいためつけられた肺や喉を浸したので、ふたりはものも言わずに酔いしれていた。ふたりは肺がはちきれそうになるまで、その匂いをかぎ、深々と吸いこんだ。やがて、ふたりとも笑い出した。
「いやはや」と、エラリーは車を停めながら、とぎれとぎれに「いや、まったく――まったく夢のようだ」
警視もくすくす笑って「まさにそうだな。やれやれ」と、ふるえる手でハンカチを取り出して、口のあたりを拭った。
ふたりは帽子をとって、涼風を心ゆくまで味わった。闇を通して、互いに見合った。そして、すぐにふたりは黙り込んだ。感情が消えかけていた。やがて、エラリーはハンド・ブレーキをはなして、デューゼンバーグを動かし始めた。
これまでの下の道が至難というなら、この先の道は不可能に近かった。牛の通い路よりせまく、岩だらけで草むしていた。しかし、ふたりとも文句はさらさらなかった。天の賜物《たまもの》だったのだ。曲りくねり、よじのぼっていたので、ふたりはすなおに曲りくねりよじ登った。人気《ひとけ》はまるでなかった。ヘッドライトが昆虫の角のように行手をさぐった。空気はだんだん酷《きび》しくなり、甘く強い木の匂いがぶどう酒のようだった。翼あるものどもが、羽音をたててあかりにとび込んで来た。
急にエラリーが、また、停車した。
うつらうつらしていた警視が、はっと目をさまし「今度は、何だ」と、眠むそうにつぶやいた。
エラリーはじっと耳をすまして「前方で何か音がしたようなんですよ」
警視が白髪頭をもたげて「こんな高みに、人が住んどるかな。まさか」
「そうは思えませんね」と、エラリーが、不愛想に答えた。行手のどこかから、かすかに物の折れるような音がきこえたが、はるかな茂みで大きな獣が歩きまわる音らしくもあった。
「マウンテン・ライオンだと思うのか」と、クイーン警視は少し神経質に官給拳銃を手探りながら、うなるように言った。
「そうは思えませんね。そうだとしても、向こう様の方がこっちよりおびえてるでしょうよ。この辺には山猫類が住んでますか。きっと――熊や鹿みたいなもんでしょうよ」
エラリーは、また車を出した。ふたりとも、すっかり目がさめて、ふたりともすっかりそわそわしていた。ものを折るような音がますます高くなっていた。
「こりゃ、どうも象みたいな音だな」と、老人が低く言った。そして拳銃を出して構えた。
急にエラリーがふきだした。そこからやや真直《まっすぐ》な道がつづき、はるか向こうの曲り角から、二本の指のような光が闇を探るようにのびて来るか、と思うと、すっと伸びて、デューゼンバーグのきらきら光る目玉を睨みつけた。
「車ですよ」と、エラリーがくすくす笑って「その大砲を収《しま》うんですね、お婆ちゃん。マウンテン・ライオンはよかった!」
「お前だって鹿とかなんとか言っとったくせに」と、警視は、やり返した。だが、拳銃をズボンのポケットに戻さなかった。
エラリーはまた停車した。先方の自動車のヘッドライトが、ぐっと近づいた。「こんな所で道づれができるなんて運がいい」と、元気に言って、車からとび出し、自分の車のライトの前に立ち「おーい」と、叫んで腕を振った。
以前はかなり立派だったらしい、ずんぐりしたセダンの古いビュイックだった。車は、ひしゃげた鼻で埃道をかぎまわるようにしながら停まった。乗っているのはひとりらしく、その男の頭と肩が、埃まみれのウィンド・シールド越しに、二台の車のまじり合ったライトに、ぼんやり照らし出された。
男は横の窓から頭をつき出した。ぼやけた窓ガラスから出ると、その人相がはっきりした。おんぼろのフェルト帽を耳まですっぽりかぶり、耳が類人猿のように、大きな頭から横に張り出していた。ばかでかく、もっさりとふくらんで、じめじめした化けもの面《づら》だ。蛙のような出目が、ぶよぶよの肉塊の中にはまっている。大きな鼻があぐらをかき、唇が薄くひきしまり、その大きな不気味な顔は、なんとなく険《けん》があり、妙に落ちついていた。こんな顔の奴には、うっかり冗談も言えないぞと、エラリーは、とたんに感じた。
きらきらと光る穴みたいな目で、エラリーのすらっとした姿を、がま蛙のようにじっと見つめていた。それから、後ろのデューゼンバーグに目を移して、おぼろげな警視の上半身を見きわめると、さっとエラリーに視線をもどした。
「道をあけてくれ、おい」と、低いがらがら声をとがらせて「道をあけるんだよ」
エラリーは強いあかりに目をしばたいた。化けもの面が、また、透明なウィンド・シールドの蔭に引っこんだ。広く盛り上がった肩のたくましさが想像できた。しかも、猪首《いくび》だと、エラリーはいまいましく思った。やくざ野郎だ。手ごわい奴にちがいない。
「だって」と、エラリーは、なるたけ明るい声で「そりゃうまくないよ――」
ビュイックは鼻息あらく、かぎまわるようにせり出して来た。エラリーの目が光った。
「ストップ」と、大声で「この道を下《くだ》れやしないぜ――とんでもないこった、君。下は山火事なんだぜ」
ビュイックはエラリーの二フィート、デューゼンバーグの十フィート前でぴたりと停り、また、男が首をつき出した。
「なんだって?」と低音で重々しく言った。
「ぎくりとするだろうと思ったよ」と、エラリーは満足げに「いったい、この辺には、礼儀らしいものが少しもないのかね。下の方はきれいさっぱりまる焼けだって言うんだよ――今頃は道も焼けちまってるだろうよ。だから、君もターンして引っ返した方がいいぜ」
蛙のような目が、しばらくの間、無表情に見つめていた。
やがて「道をあけてくれ」と、また言って、ギヤに手をかけた。
エラリーは信じられぬというふうに目をみはった。ばかか気違いだ。
「そうか、その気なら豚のバラ肉みたいにあぶられるがいいさ」と、エラリーは、ぴしゃっと言った。「おれは知らんよ。この道はどこへ行くのかね」
答えもなく、ビュイックは気ぜわしく、じりじりと前進して来た。エラリーは肩をすくめてデューゼンバーグに、のろのろと戻り、乗り込んで、ばたんとドアを閉め、ぶつぶつ悪口雑言しながら、バックしはじめた。道はせますぎて二台の車がすれ違えないほどだった。エラリーは、木にぶつかりそうになるまで、下草を踏みくだきながらバックしなければならなかった。やっとビュイックがかすかにすれ違えるだけの余地ができた。ビュイックは、うなりながら前進して、エラリーの車の右のフェンダーにたいしてやさしくもないキスをして闇に消えた。
「妙な奴だ」と、警視が考えこみながら言い、エラリーがデューゼンバーグを道路にもどしたときに、拳銃をしまった。
「奴のふくれっ面がもう少しふくらめば、風船みたいに飛んじまったろうにな。厭な奴だ」
エラリーがげらげら笑って「すぐ引っ返してくるでしょうよ」と言った。「あのいまいましいまずい面がね」それから、道路に全精神を集中した。
*
何時間も登ったような気がした――どこまでも登りで、デューゼンバーグは力いっぱい頑張らされた。どこにも人の住んでいる気配がなかった。森林は、これでもかと言わんばかり、ますます深まり、凄くなった。道もよくなるどころか、ますますせばまり――悪くなり、岩だらけになり、草ぼうぼうだった。一度など、道のすぐ目の前に、とぐろをまいているカッパー・ヘッド〔毒蛇〕のきらきらする目を、ヘッドライトが照らし出した。
警視は、それまでの長い不安な感情から解き放されたのであろう、ぐっすり眠りこんでいた。低いいびきがエラリーの耳底を打っていた。エラリーは歯をくいしばって先を急いだ。
木の下枝がますますたれ下がり、絶えずざわめいて、まるで遠くの方で外国人の婆さんどもがおしゃべりしているようだった。
はてしない無慈悲な登り坂のあいだ、エラリーは一度ならず星の光をとらえた。
「地獄行きは助かったが」と、エラリーは、ひとり言をいった。「なんと、ワルハラ〔北欧神話、戦死者の天国〕へ直行ときたか。それにしても、なんて高い山なんだ」
エラリーはまぶたがくっつきそうになるので、はげしく頭を振って、目を醒ましていた。途中でいねむりでもしたらことだ。悪路はシャムの踊り子のように、ねじくれ、くねくねしているのだ。エラリーは歯をかみしめて、空きっ腹が騒ぐのを抑えつけようとし始めた。ほかほかに湯気のたつコンソメが一杯あったらなあ、次に、じゅくじゅく焼き立てのサーロインの厚いやつをひと切れ、グレーヴィ・ソースをかけて、こんがりとあげたポテトつきでやりたいもんだ。それから舌のやけるようなコーヒーを二杯……
エラリーは行く手をのぞいて、はっとした。道が広くなるようではないか。それに林も――まばらになっていくようではないか。やれやれ、やっと来た。行く手の様子が少し変わってきた。おそらくこのいまわしい山の頂上にたどり着き、やがて道は向こう側の下《くだ》りになり、次の谷をまわって、町へ下り、暖かい夕食とベッドにありつけるに違いない。そして、明日は元気になって大急ぎで南へ下《くだ》り、明後日はニューヨークの家へ着く。エラリーはほっとして高らかに笑った。そして、ふと、笑いやめた。道は、はっとするほど広くなっていた。デューゼンバーグが、切りひらいたような土地にはいって行った。右に左に、木立が闇の中に遠のいていた。頭上には、無数の宝石をちりばめたような、限りなく深い空がひろがっていた。ばらばらな髪をなぶる風も、さらに荒々しくなっていた。広げられた道の両側には、とんがり石から玉石まで、さまざまな岩がころがっていて、その割れ目や隙間から、いじけて、ひからびた雑草がのび、そして、その先に――
エラリーはぶつぶつ呪いながら車を出て、冷えきった関節の痛みに顔をしかめた。ヘッドライトの光をまともに受けて、デューゼンバーグの十五フィートほど前に、二つの高い鉄門が立っているのが見えた。その両側には、疑いもなくこの禁断の土地の土産らしい石を積んだ低い塀がめぐらせてあった。塀は左右に分かれてのび、その先は闇の中に消えていた。門のすぐ内側に少し道がのびているのがヘッドライトに照らし出された。しかし、その先に何があるかは、あらゆるものを覆いかくす真の闇に閉《とざ》されていた。
道は行きどまりだったのだ。
エラリーは自分のばかさかげんに腹が立った。気がついてよかったはずだ。下方の曲りくねった道は山をぐるぐるまきにしていなかったではないか。道は抵抗の一番少ない線に沿って、右へ左へとのこぎり状にくねっていただけじゃないかと、今になって、それに気がついた。してみると、アロー・マウンテンの頂上まで、ぐるぐるまわりに登りつめる道をつけられない理由が何かあるにちがいない。その理由は、山の向こう側が人間に通れないと考える他はない。おそらく断崖なのであろう。
つまり、山をくだる道はただ一本で――ふたりが登って来た道があるだけなのだ。ふたりは行きどまりの道にとびこんだわけなのである。
エラリーは、世界と風と夜と森と山火事と自分自身と、生きているあらゆるものに腹を立てながら門の方へ歩みよった。門の鉄柵に青銅の板がとりつけてあり、『矢じり荘』と、書いてあるだけだった。
「今度はどうした?」と、警視がデューゼンバーグの奥から眠むそうな声で「ここはどこだ」
エラリーがしょげた声で「行きどまりです。旅路の果《は》てですよ。幸先《さいさき》よしというところじゃありませんか」
「なんたることだ」と、警視はどなりながら、道路にはい下りて「このいまいましい道は、ここでどん詰りなのか」
「そうらしいですね」と、エラリーは腿《もも》をたたいて「まったく」と、うめくように「ばかな真似をしちゃった。ぼんやり突っ立っていても仕方がない。手を貸して下さい、門をためしてみますから」エラリーは重い鉄柵と取っ組んだ。警視も肩を貸した。門はひどく抵抗してきしみながらわずかに開いた。
「すっかりさびついとる」と、警視はうなりながら、手の平を見つめた。
「いらっしゃい」と、エラリーは車にかけ戻りながら言った。警視も、だるそうに小走りで後につづいた。
「僕もどうかしてるな。門と塀があれば家があり人が住んでるはずだ。きまってるのに。結局、この道路があるってことは、誰かが住んでることだ。食物《くいもの》と風呂とねぐらにありつけるって寸法ですよ……」
「おそらく」と、ふたりが車を出して門をくぐり抜けかけたときに、警視がにがにがしげに「ここには誰も住んどらんかもしれんぞ」
「ばかな。そんな間の悪いことがあるもんですか。それに」と、いまや、エラリーが浮々とした調子で「あのビュイックに乗っていたお多福面の先生も、どこかから出て来たにちがいありませんからね。そらそら――そこにタイヤのあとがありますよ……畜生、どこかに灯が見えるはずなんだがな」
家は間近かにあって、あたりの闇に、すっぽりとつつまれていた。その大きな黒々とした建物が、妙な形に星空を区切っていた。デューゼンバーグのヘッドライトが、木造のポーチに続く石段を照らし出した。警視がサイドランプで右から左へと照らしてみると、人気のない長いテラスが家の横手いっぱいにつづき、ゆり椅子や腰掛けがちらばっているだけだった。家の両わきは岩だらけの庭が草むしていて、家は森から数ヤードしか離れていなかった。
「ぞっとせんな」と、警視はランプを消しながらつぶやいた。「つまり、誰も住んどらんかもしれん。怪しいもんだな。テラスの先のフランス窓もみんな閉っとるし、床までブラインドを下げとるようだ。二階の方にも灯が見えんじゃないか」
家は二階建てで、屋根部屋があり、破風《はふ》作りの屋根は、スレートのこけら葺《ぶ》きだった。しかし、どの窓もまっ暗で、ひからびて、うすぎたない、つたかずらが板壁をなかば覆っていた。
「そうですね」と、エラリーは不安をひそめた声で「でもまさか、そんな――無人だなんてことはないでしょうよ。そんなことがあったひにゃ、ノックアウトを食らっちゃいますよ。なにしろ、今夜は気違いじみた冒険をしたあとですからね」
「なるほど」と、警視が不平たらたら「だが、誰かいるなら、わしらの来たのに気がつきそうなもんじゃないか。お前のおんぼろ車が、すごい音を立てて来たんだからな。ホーンを鳴らしてみろ」
エラリーがホーンを鳴らした。デューゼンバーグのクラクションは、とてつもないいやな音で、亡者さえとび上がらせるといってもいいほどなのだ。音をとめて、ふたりは、じりじりしながら、耳を澄まして、身をのり出した。目の前の静まりかえった建物からは、何の返事もなかった。
「どうも」と、エラリーは不審そうに言いかけてやめ「何か聞こえませんでしたか――」
「こおろぎが雌を呼び立てとるようだぞ」と、老人が大声で「わしに聞こえるのは、それだけだ。さて、次にどうするつもりだ、いったい。お前はわが家の知恵袋なんだからな。いかにうまく、わざわいを切り抜けるか、お手なみ拝見といこう」
「そんないや味を言うもんじゃないですよ」と、エラリーはうめくように「なるほど、たしかに今日は天才的な腕のいいところは見せられませんでしたがね。なにしろ腹ぺこで、|Gryllidae《グリリデー》 でも何でも食べたいところですよ」
「なんだと」
「|Salatorial orthopters《サラトリヤルオーソプタース》」と、エラリーがしかつめらしく説明した。「こおろぎってやつですよ。僕が昆虫学をやって、ただ一つ覚えてる学術語ですよ。だが、そんなものはこの際なんの役にも立ちませんね。いつも言うんだが、高等教育というものは日常生活の急場の役にはたたないもんですね」
警視はふふんと鼻を鳴らして、ふるえながら外套を、いっそう身にまとった。あたりの様子が何となく不気味で、いつも、ものに動ぜぬ警視も身の毛がよだつようだった。食べものと眠りを考えて、いつにない幻想がしきりに去来するのを努《つと》めて追い払いながら、目を閉じ、ため息をもらしていた。
エラリーは車のポケットから懐中電灯を見つけ出して、砂利道をざくざくと踏みならしながら、家の方へ行った。石段を登り、ポーチの板の床をこつこつと横切って、懐中電灯の光で表ドアを調べてみた。ひどく頑丈でびくともしないドアだった。ノッカーさえ、インディアンの矢の根の型を刻んだ石塊で、不吉で手も触れたくなかった。しかし、エラリーはノッカーを持ち上げて、樫の鏡板を、とんとんと叩いた。
「こりゃあ」と、エラリーはドアをこづきながら、いまいましそうに「まるで悪夢を見かけてるようだな。こんな目にあうなんて、まったくなっちゃない――」ドンドン「やっと火の海地獄をくぐり抜けたっていうのに――」ドンドン「辛抱《しんぼう》のかいもなくこんなことになるなんて。だが、まあ――」ドンドン「あんな目にあった後だから、ドラキュラ〔吸血鬼〕だって歓迎したいな。畜生、ここはハンガリーの山の吸血鬼のすみかを思い出させるぞ」
エラリーは腕が痛くなるまでドアを叩いたが、家の中からは、かすかな物音一つ返って来なかった。
「おい、来い」と、警視が大声で「腕がばかになるだけだ。叩いても無駄だぞ。ここは退散しよう」
エラリーはがっくりと腕を下ろした。そして、ポーチのそこここを、懐中電灯で照らしてみた。
「あばら家です……行くって、どこへ行くんですか」
「そんなこと知るものか。戻って横っ腹でも火にあぶった方がいいだろう。少なくとも、下の方が暖かいぞ」
「ごめんですね」と、エラリーがきっぱりと「僕はこのままここで野宿しますよ、荷物からひざかけなんかをひっぱり出してね。お父さんも、分別があるなら、そうするでしょうね」
エラリーの声はしんとした山気の中を遠くまでひびいた。しばらくは、恋にやつれた大こおろぎが後足で翅《はね》をこする音しか、答えるものはなかった。やがて、前ぶれもなく家のドアが開き、平行四辺形の灯が、さっと、ポーチにとび出した。
黒々と、長方形にくぎられたドアの光を背にして立っているのは、ひとりの男の姿だった。
二 変物
あまりにも突然に、ひょいと現われたので、エラリーは本能的に一歩引きさがり、懐中電灯を握りしめた。下から警視のうめき声が聞こえた。その声は、絶望の淵《ふち》に臨んでいるとき、奇跡的に善良なサマリア人が現われたので、うれしい悲鳴を上げるかのようだった。老警視は重々しく砂利道に足をひきずって近づいた。
男はこうこうとまばゆい玄関のホールを背にして立っていて、エラリーの位置からは、頭上の電灯と壁掛けと大きな木彫りのある食卓の角と右手にあいているドア口しか見えなかった。
「今晩は」と、エラリーはふくみ声で言った。
「何か用かね」
化けものの声はぎょっとするような年寄り声で――うわべはおこりっぽくがみがみした調子で、その底に深い敵意がこもっていた。エラリーは目をぱちくりした。目に強い光がはいるので、見えるのは、背後から射す金色にきらめく光に浮かぶその男の黒い影だけだった。ネオンサインの光管が作り出した化けものみたいなその男の輪郭は、よろよろして、不恰好で、長い両手がたれさがり、まばらな髪の毛が、毛焼きした残り毛のように脳天にこびりついていた。
「今晩は」と、警視の声が、エラリーの後ろでした。「夜分、こんな時刻にお邪魔して恐縮だが、われわれは、実は――」と、警視は玄関のホールの家具をじろじろ見まわしながら――「われわれは、実は途方にくれとるようなわけで、ごらんの通りでな。それで――」
「そう、それで?」と、男がどなった。
クイーン父子は、がっかりして互いに見かわした。幸先《さいさき》のよくない歓迎ぶりだな。
「実はですね」と、エラリーが弱々しい微笑をうかべて「ここまで追い上げられちまったんですよ――ここはあなたの私道でしょうが――どうにもしようがない羽目になりましてね。この道が行けると思ったもので――」
ふたりは事情の説明を始めた。その男は思ったより老《ふ》けていた。顔は大理石のように灰色で、羊皮紙のように|しわ《ヽヽ》だらけで、石のようにこちこちだった。目は黒く、小さく燃えるようだった。着ている粗末なホームスパンが、やせ細った身《からだ》にたれさがって、みにくい縦ひだをなしていた。
「ここはホテルでねえです」と、荒っぽく言って、後ずさりし、ドアを閉めかけた。
エラリーは歯をかみしめて、父がどなり出すのを聞いた。「しかし、君、おい!」と、大声で「分からんのかね。わしらは途方にくれとるんじゃ。どこに行きようもないじゃないか」
戸口の長方形がせばまり、ドアのすその光も細いV字形になった。それを見ると、エラリーは舌なめずりして、薄いパイの切れを思いうかべた。
「オスケワまで十四、五マイルしかねえ」と、玄関の男はそっけない声で「迷いっこなしだ。アローからは下りの一本道だ。五、六マイル下って少し広い道に出たら右に曲って、そのまんま行けば、オスケワでさ。宿もあるだ」
「どうも」と、警視がどなった。「おい、エル。実にいやな土地だな。畜生、豚野郎め!」
「まあ、まあ」と、エラリーがすがりつくように早口で「事情がお分かりでないようですね。その道は行けないんですよ。山火事なんですよ」
しばらく静まりかえっていたが、また、ドアがやや広く開いた。「山火事だって? ふんとかね」と、男がいぶかしげに言った。
「何マイルも燃えてます」と、エラリーが腕を振って叫び、熱をこめてしゃべった。「どこも、どんどんぱちぱちですよ。ふもとは炎のかたまりです。なんとも――おそろしい火の海です。ローマの炎上だって、これにくらべれば子供だましの小っぽけなたき火にすぎませんよ。むろん、君、半マイルも近づけば命なんかあったものじゃない。お助け下さいと言うひまもあらばこそ、油紙より早くぺらぺらと燃えちまいますよ」
エラリーは深く一息ついて、じろじろと相手をうかがいながら、意地も外聞もなく、子供みたいに、あどけなくにこにこして(舌にとろけるご馳走を思いうかべ、ほとばしり出る湯の音をこころよくすでに聞く思いで)「さあ、これで入れてくれますか」と、訴えるように言った。
「そうだな……」と、男はあごを掻いて考えこんだ。クイーン父子は息をつめて見守った。勝負は五分五分だった。一刻一刻が過ぎて行くにつれて、エラリーは自分の話の持ち出し方が、まだお手やわらかだったと感じ始めた。奴の胸にある花崗岩のような硬いしこりをやわらげるためには、正真正銘の悲劇物語を編み出さなければならなかったのだ。
やがて、男がむっつり声で「ちょっと待ちなせえ」と、ふたりの鼻さきにぴしゃりとドアを閉め――現われ出たときと同じように、ぷいっと姿をかくし――ふたりをまた元の闇に残して行った。
「いったい、なんて奴なんだ」と、警視が憎々しげに大声で「こんなばかな話があるか。ちょいと親切心を出すだけだってのに、くそいまいましい――」
「しっ」と、エラリーが鋭くささやいた。「ぶちこわしになりますよ。しかめっ面をやめて、にこにこするんですね。そう、いくらかよくなりましたよ。奴さんが戻ってくるようです」
しかし、ドアがさっと開いたとき、出て来たのは別の男だった――いわば、別世界から来たような男だった。おっそろしくのっぽで、ゆったりとした肩をし、柔和に愛想よく微笑して「おはいり下さい」と、心から明るい声で言った。
「うちの『骸骨』がたいへん不調法いたしまして申し訳ありませんでした。こんな山の上だものですから、夜のお客には少々要心しておりますので、本当に失礼いたしました。ふもとの山道が火事だとかいうお話ですが……どうぞ、おはいり下さい」
無愛想きわまる男から、けんもほろろの扱いをうけたあとで、この親切あふれる扱いに、あっけにとられたクイーン父子は、調子抜けの体《てい》で目をぱちくりしながら、唯々諾々《いいだくだく》と従った。ツイードを着た愛想のいいのっぽの男は、ふたりの後から静かにドアを閉じて、微笑していた。
ふたりは、暖かく気持のいい控えの間に立っていた。エラリーは例のそわそわした調子で、さっきテラスからちらりと見えた壁のエッチング〔銅版画〕が、レンブラントの名画「解剖の実習」を刻《きざ》んだみごとなものなのに気がついた。主《あるじ》がドアを閉めている間に、エラリーはゆっくりと、こんな生々しいオランダ人の死体の内臓にお目にかからせるようなお客の迎え方をする男は、いったい何者だろうかと考えてみた。瞬間ぞっとしたが、そばにいる背の高い主《あるじ》の風格のある顔立ちや愛想のいい表情を見ると、ぞっとするのも疲れたからだのせいだと思った。クイーン好みの想像過多だなと反省した。主《あるじ》は外科医好みなのかもしれない……そうだ外科医かもしれないぞ。エラリーは思わず微笑した。
たしかにこの紳士は解剖刀を扱う職業らしい。そう思い付くと、すぐにエラリーはやや気が楽になった。父を見ると、老人にはこの立派な壁かざりなぞ、てんで問題にもならないらしかった。警視はしきりに唇を甜《な》めたり、かぎたばこを吸っていた。たしかに、まちがいなく焼豚の匂いが、あたりにただよっていた。
最初にふたりに顔を見せた鬼おやじは、あれっきり姿を見せなかった。おそらく、ねぐらに引きこもって、夜の訪客からうけた手きずを、むっつりと甜めてでもいるのだろうと、エラリーは思いながらくすくす笑った。
*
ふたりがうやうやしく帽子を手にして、控えの間を通って行くと、右手に半ば開いているドアから灯一つない大きな部屋がちらりと見えた。まっ暗で、テラスに面したフランス窓から星が光っているだけだった。主《あるじ》がふたりを案内して控えの間を通るとき、明らかに誰かが、その部屋の窓のブラインドを上げたらしい。そいつは、主《あるじ》が意味不明だが『骸骨』と呼ぶ、あの怪物のしわざかもしれない。そうでもないらしい。というのは、その右手の部屋から、数人のささやき声のかすかなひびきが、ふたりの耳に聞こえて来たし、少なくともそのひとりは、まごうかたなき女の声なのがエラリーに分かったからである。
だが、なぜ連中は闇の中にいるのだろう。エラリーはまたぞっとしたが、いらいらしながらそれをふるい落とした。この家にはなにか非常に不気味な点がいくつかあったが、まあ、そりゃ明らかにエラリーの知ったことじゃない。放っておくにこしたことはない。肝心なのは、すぐにもご馳走にありつきたいことだった。
のっぽの男は右手のドアには目もくれず、静かに微笑しながら、伴《つ》いてくるように合図して、控えの間を抜けて、家を仕切っている廊下の方へ、一、二歩、ふたりを案内した。表から裏へつづくその長い廊下の突き当たりに、ドアがしまっているのが、ぼんやり見えた。のっぽは左手のあいているドアの前でとまった。
「こちらへ」と、低い声で、ふたりを大きな部屋へ導き入れた。その部屋は、控えの間を境にして家の左半分を占めるテラスに面しているのが、一目で分かった。
その居間は、フランス窓が丈の高いカーテンに覆われていて薄暗く、電灯もまばらに照らし、肘掛け椅子や、小型|絨毯《じゅうたん》や白熊の皮があちこちに置いてあり、小さな丸テーブルの上には本や雑誌や灰皿やたばこ壷がのっていた。突き当たりの壁の大部分は暖炉で、やや陰気な油絵や銅版画が、あちこちにかかっていた。そして、凝《こ》った丈《たけ》の高い燭台から流れる火影《ほかげ》が、炉の火影とまじり合ってゆらめいていた。この部屋は暖かく、ここちよさそうな椅子や、本があり、気持よく照明されていたが、クイーン父子はなんとも言えず気がめいるのだった。つまり――空《むな》しい気がするのだ。
「お掛け下さい」と、大男が「外套など、お脱ぎになって。おくつろぎ下さい。それから、お話を伺いましょう」と、微笑しながら、ドアのそばの呼鈴の紐《ひも》を曳《ひ》いた。エラリーはなんとなくいらいらして、よせよ、笑いごとじゃないと、思った。
しかし、警視はそれほど気むずかし屋ではなかった。いかにも満足そうに深いため息をして、ふっくらとした椅子に、どっかと腰を下ろすと、短い両足をのばして、低い声で「あ、いい気持だ。これで苦労の埋め合わせがつくと言うものですな」
「さぞ、登りは冷えたでしょうからね」と、大男がにこにこして言った。
エラリーはちょっとまごつきながら、立っていた。炉の炎と電灯のあかりで見ると、その男には、かすかに見覚えがあるような気がした。年のころ四十五、六で、がっちりと大柄で、髪はあざやかなブロンドだったが、どうやらゴール型〔フランス人〕だなと、エラリーは思った。粗末な服をむぞうさに着て、いかにもなりふりかまわずというふうだが、どこかにゆかしさがあり、人をひきつける人がらだった。その目には殊《こと》に特長があった――深々と輝く、学者の目だった。手は妙に生々《いきいき》としていて、大きく、広く、指が長く、堂々たる動きを示していた。
「初めはほどよく暖かだったがね」と、警視はにやにやして、すっかりいい気持になったらしく「しまいにゃ、命からがら逃げ出す始末でしてな」
大男は眉をしかめて「そんなにひどかったんですか。そりゃひどい目にあわれましたね。火事とか、おっしゃったが?……ああ、ホイアリーさん」
黒い服にエプロンをかけた、がっしりした女が廊下の戸口に姿をあらわした。明らかに何かを気にしているらしく、青ざめた顔色だと、エラリーは感じた。
「お呼びになりましたか、先生」と、女は、女学生のように、どもりながら訊いた。
「うん、お客さまのお召物をおあずかりして、何か、お食事の支度ができるかどうか、見ておくれ」女は黙ってうなずくと、クイーン父子の帽子と警視のダスター・コートを持って姿を消した。
「空腹でしょう」と、大男はつづけた。「私どもは夕食をすませましたので、さもなければ少しはましなご馳走が差し上げられますのに」
「実のところ」と、エラリーがうめくように言い、急に気が楽になって腰をおろした。「ふたりとも危く食人種になっちまうところでした」
男はおかしそうに笑って「ひどいお迎え方をしましたからには、お互いに自己紹介をしなければなりますまいな。私はジョン・ゼーヴィアです」
「おお」と、エラリーが思わず大声で「お見かけしたことがあると思っていましたよ、ゼーヴィア博士。新聞でいくどもお顔を拝見しました。実は、控え室の壁のレンブラントの版画を見て、この家のご主人はお医者さまだと見当はつけていました。あんな――その――風変わりな装飾品を飾られるのは、お医者さまにちがいありませんからね」と、にっこりして「先生のお顔は覚えているでしょう、お父さん」
警視はぼんやりとうなずいた。目下のところ覚えがあろうとなかろうとどうでもいいという気分だった。
「私たちは、クイーン父子です、ゼーヴィア博士」
ゼーヴィア博士は、うれしそうに何かつぶやきながら「クイーンさんですか」と、警視に向かって言った。警視とエラリーは互いに目くばせした。どうやら、この家の主《あるじ》は、警視が警察に関係のあることを知らないらしい。エラリーが父親を目で抑えたので、警視はあいまいにうなずいた。警視の肩書きを持ち出しても意味がないように思われた。普通人は、刑事の警官のというと、得てして固くなりがちだ。
ゼーヴィア博士は革椅子に腰を下ろして、たばこをすすめた。
「ところで、うちの優秀な家政婦が、食事の支度に、てんてこまいしとるあいだに、火事――とかおっしゃったお話を、うかがいましょう」
博士のものやわらかく、いささか放心したような表情は少しも変わらなかったが、声の調子にちょっと妙なものがまじった。
警視がこまごまとしゃべりはじめると、主《あるじ》は一語一語にうなずき、ほうと、上品におどろき続けた。その様子をじっと見つめながら、エラリーはポケットから眼鏡サックをとり出し、ぼんやりと鼻眼鏡のレンズをみがき、それを鼻柱にかけた。あらゆるもののあら探しをしたい気分で、ひそかに胸の中でつぶやいた。ゼーヴィア博士が上品におどろくのも無理はないじゃないか。家は山の上にあり、ふもとが燃えているんだからな。きっと、ゼーヴィア博士は大げさに驚いて見せる方じゃないんだろう、と、エラリーは目を閉じて考えた。
警視はもったいぶった口ぶりで「問い合わせてみるべきですな。博士。電話は?」
「肘《ひじ》のそばですよ、クイーンさん。谷からアローにのぼっている支線です」
警視が受話器をとって、オスケワを呼び出した。かかるのにひどく手間どった。やっとかかってみると、町中、町長から吏員、町会議員にいたるまで、山火事の消火作業にかかっているらしい様子なのが分かった。たったひとりの交換手が応答に当たっていた。
老警視は緊張した顔で受話器を置いた。「いつもの山火事より少し大きいらしい。火はふもと全体にひろがっとるらしい。全地域の動ける者は男も女も、全員で消火にかかっとるようですぞ、博士」
「おやおや」と、ゼーヴィア博士がつぶやいた。驚きが深まり、つつしみが消えた。立ってそわそわ歩きまわり始めた。
「こりゃ」と、警視がのんびりした声で「少なくとも今晩は、足どめをくいましたぞ、博士」
「おお、そりゃ」と、大男はたくましい右手を振って「むろんです。普通の状態であっても、出て行っていただこうなどとは思いませんよ」と、いっそう渋面をつくりながら唇をかみしめて「こいつは」と、言いかけた。「どうやら……」
エラリーの頭はくるくる回転していた。どうも謎が深まりそうな空気だが――この淋しい山の肩にはりついている一軒家に何か実に奇妙なことが起こりつつあるような気がするのだが――今はベッドと眠りが恋しいのだった。空腹もどこへやら、いわんや火事など、はるかに遠のいて思えた。まぶたもくっつきがちで、いつものようにひらいてはいられなかった。ゼーヴィア博士の重々しい声に、かすかに興奮と|なまり《ヽヽヽ》がまじって、何か言っていた。「乾燥して……自然発火したんでしょう……」しかし、エラリーには、やがて何も聞こえなくなっていた。
*
エラリーはぎょっとして目をさました。遠慮がちな女の声が耳もとでした。「もしもし、よろしかったら……」あわてて居ずまいを正すと、家政婦のホイアリーのがっしりした姿が、太い手にお盆をささげて、椅子のそばに立っていた。
「おお、こりゃ」と、エラリーは赤くなりながら大声で「醜態をお目にかけて。失礼しました、博士。実は――長旅と、火事で、すっかり――」
「かまいませんよ」と、ゼーヴィア博士がわざと高笑いして「今、お父上と、今どきの青年が肉体的な刑罰に耐える力が実に不充分だということを論じているところでした。本当にかまいませんよ、クイーンさん。お食事の前に顔でもお洗いになったら――」
「そりゃ、どうも」と、エラリーは、ひもじそうに盆をながめた。また急に目がくらむほどひもじくなり、目の前の冷えた食べものを、すぐ、皿までかぶりつきたかった。
ゼーヴィア博士は先に立って廊下に出、左に曲り、玄関に通じる廊下と交差する別の廊下を見おろす階段に、ふたりを案内した。絨毯を敷きつめた階段を一つ上がると踊り場があり、そこは明らかに寝室のつづく階だった。踊り場の上にほの暗い夜間灯が一つついているほかは、一筋の廊下はまっ暗だった。ドアはみんなぴたりと閉じていた。ドアの向こうの部屋はどれも、墓穴のように静まりかえっていた。
「ブルル」と、エラリーは堂々と廊下を渡っていく主《あるじ》を見やりながら、父親の耳に小声で「気の利いた殺し場ですね。吹く風も役割りを心得てるようですよ。聞いてごらんなさい、あのわめきようを。バンシー〔スコットランド伝説の泣き男。人の死を知らせる妖怪〕も今夜は総出ってところですね」
「聞きたければ聞くさ」と、警視がぷんぷんして「仲間入りするがいい。バンシーの大群がおしよせたって、わしはびくともしやせんぞ、エル。むろん、ここはわしには大理石の宮殿に思えるからな。人殺しだと? ばかも休み休みにしろ。わしはこんないい家には足をふみ入れたこともないってとこだ」
「僕はもっといい家を知ってますよ」と、エラリーがしょげて「ともかく、お父さんときたら、なんてったって、常識人なんだからなア……ああ、博士、本当にご親切なことで……」
ゼーヴィア博士がさっと、ドアを開いた。そこは広い寝室で――このだだっ広い家はどの部屋もばかでかかった――大きなダブル・ベッドの足もとの床に、種々雑多なクイーン父子の旅行荷物が、きちんと置かれていた。
「どういたしまして」と、ゼーヴィア博士は、相変わらずのうつろな調子で、およそ行きとどいた主《あるじ》にふさわしい心の暖かさが、まるで感じとれなかった。
「ふもとが火事では、どこへも行けますまいよ。このあたり、数マイルにわたって、ただ一軒の家ですからね、クイーンさん……おことわりもせずに、あなた方が下で休んでおられる間に――家の『骸骨』に、お荷物をここへ運ばせておきました。『骸骨』とは――妙な名でしょう。ずっと以前、私がひろい上げてやった、身よりなしの不幸せな年寄りでしてね、少々ぶしつけですが、実に忠実な男ですよ、はっはっはっ。車のお世話は『骸骨』がします。ガレージがありますからね。このくらいの高さだと、車を外に出し放しにすると、すっかり濡《ぬ》れてしまいますからな」
「『骸骨』によろしく」と、エラリーが低く言った。
「ええ、いいですとも……さあ、こちらが洗面所です。浴場《ふろ》は踊り場の裏です。では、ゆっくり洗浄《せんじょう》して下さい」
主《あるじ》はにっこりして静かにドアをしめて出て行った。残されたクイーン父子は広い寝室のまん中に立ち、言葉もなく顔を見かわした。やがて警視は肩をすくめ、上衣を脱いで、示された洗面所のドアへ近づいた。
エラリーもついて行きながら小声で「洗浄か。この二十年ぶりに初めて聞く言葉だな。クロスレー校で教えてくれた口うるさい老ギリシア婦人を思い出すな。あのマラプロップ夫人はこの言葉を |absolution《アブソリューション》〔赦免〕と、始終とっちがえていたっけ。|ablutions《アブリューション》〔洗浄〕とはな。ねえお父さん、この不吉な家は、見れば見るほど虫が好かなくなりますよ」
「それで、お前もますますばかになるな」と、警視は鼻を鳴らし、水をじゃあじゃあ流しながら、顔を洗った。「やあ、いい気持だ。これにかぎる。さあ、エル、お前もさっさと顔を洗え。早く階下《した》に行かんと、ご馳走が片づけられちまうぞ」
ふたりは顔を洗い、髪にくしをかけ、衣服の埃を払い落として、暗い廊下に出て行った。
エラリーは身ぶるいして「さて、どうしますかね――急いで階下《した》に降りますか。どうもこの家は、かなり謎めいていますから、客らしい客として、何事にもへまをやりたくないものですね」
「おや!」と、警視がささやいた。急に立ちどまって、ふるえる手でエラリーの腕をつかんだ。顎をひきつらせ、目に恐怖の色をむき出しにして、その小さな灰色の顔を、エラリーがかつて見たこともないほど真青にして、息子の肩ごしに廊下の奥の何かを見つめた。
その夜のみじめな経験で、すっかり神経がたかぶっていたエラリーは、ぎくっとして急いであたりを見まわした。腕に鳥肌《とりはだ》が立ち、ぼんのくぼが|ちり毛《ヽヽヽ》立った。
だが、異常なものは何も見えなかった。廊下は前のように暗く、ひっそりしていた。そのとき、ドアを閉めるような、かすかなかちっという音が聞こえた。
「いったい、どうしたんですか」と、父のおびえあがった顔を、まじまじと見ながら、エラリーが神経質にささやいた。
警視の緊張したからだがほぐれた。ため息をつき、ふるえの残る手で口のあたりを撫でて「エル、わしは――たしかに――お前にも見えたか―――」
ふたりは背後にかすかな足音を聞いて、とび上がった。廊下の闇の奥から、何か大きな得体《えたい》のしれないものが、ふたりの後ろに迫って来た。燃えるような二つの目……だがそれは、ゼーヴィア博士が暗いものかげから姿をあらわしただけだった。
「お支度がすみましたかな」と、博士は深く愛想のいい声で言った。クイーン父子の緊張したささやき声を聞いたにちがいないし、警視をおびえ上がらせた原因も見たにちがいないのに――と、エラリーはとっさに見てとった――博士はまるで何にも妖《あや》しいものには気がつかない様子だった。その、外科医の声は、ちょっと前と同じく、澄んで、ゆったりして、ものやわらかで、動揺の色はなかった。博士はふたりの腕をとると「さあ、階下に降りましょう。ホイアリーさんの手料理を味わってやって下さるでしょうな」
そう言ってから、やさしく、しかも断固としてふたりを踊り場の方へ急《せ》きたてた。
*
三人が肩をならべて広い階段を降りるとき、エラリーはちらっと父の顔を見た。老人は少しげんなりした口許を見せてはいたが、つい先ほどの興奮の色は、どこにも残していなかった。しかし、半白の眉の間に深い縦じわをきざみ、意志の力で支えるかのようにしゃんと胸を張っていた。
エラリーは薄明りの中で頭をゆすっていた。頭の中が煮えくりかえるような興奮で、眠む気などふっとんでいた。いったい、どんないやらしい人間関係の渦中に、知らぬ間にふみ込んでしまったのであろう。
エラリーはしかめっ面《つら》で、静かに歩を運んだ。いら立つ頭をしずめて、眠りをとらせるためには、すぐにも解決しなければならない大事な問題が三つあった。警視の不可解な、思いがけぬ恐怖の原因。主《あるじ》が二階の廊下の闇の中で、ふたりの部屋のすぐそばにひそんでいた理由。エラリーの腕に触れているセーヴィア博士の太い腕が、まるで死んで死後硬直《リゴール・モルチス》にでもなったかのように、ぎごちなく固くなっている異常な事実に対する納得できる説明。
三 奇妙な連中
後年、エラリー・クイーンは、その夜のテピーズ山での異常な出来事のすべてを生々しく覚えていた。山頂には荒々しい風が吹きすさび、まさに謎そのものの家が立っていたのだ。もしも、心の中の想像の幻影をはぐくみそだてる陰惨な苗床《なえどこ》になるような山の夜の闇黒がなかったら、ああまで悪くはなかっただろうと、エラリーは指摘している。その上、何マイルも下のふもとの山火事が、青白く燃える糸でつむいだ編みもののように、ふたりの心に明滅していたのだ。そんな情況のもとで、ふたりが悟《さと》ったのは、その家から逃げ出せないということだったのだ。たとえその家にどんな悪魔がひそんでいようと、いや応なしに対決しなければならない――さもなければ、ふもとの荒野と火事に、すすんで、一か八かとびこむしかないのだ。
さらに困ったことに、父親も息子も、共通の恐怖を、ふたりきりで話し合うチャンスがなかった。宿の主は一瞬もふたりきりにはしてくれなかった。一階の居間にもどり、家政婦のホイアリーが黙ってお給仕してくれる熱いコーヒーをのみ、盆の上の冷《つめ》たいポーク・サンドウィッチやブラックベリーのタルトをたべながら、クイーン父子はゼーヴィア博士が早く引きとってくれるといいとねがっていた。だが、大男はふたりについていて、呼鈴をならしてホイアリーに、もっとサンドウィッチとコーヒーを出すように命じたり、葉巻をすすめたり――いたれりつくせりで、席をはずしてくれるという肝心なことを除いては、申し分のない主《あるじ》ぶりだった。
エラリーは、食べながら博士を観察して、妙な気がした。ゼーヴィア博士は犯罪小説に出てくるような、にせ医者らしくも、怪しげな人物らしくもなかった。カリガリ博士やカリオストロ〔十八世紀のイタリアの画家で詐欺師〕のようなところもなかった。教養があり、上品で、温和な、気持のいい中年に近い男で、その職業にふさわしい専門家らしい風貌をしていて――時々『ニューイングランドのメイヨー』〔ミネソタ州の有名な外科医〕とたたえられるのを、エラリーは思い出した――近づいて知れば知るほど人をひきつけるおだやかな人柄だった。たとえば、晩餐に招く客としては理想的な人物だ。体格からみて、疑いもなく運動家肌だし、科学者で研究家で紳士なのだ。だが、まだ他に何か、隠しているものがあるようだった。……エラリーは顎を上下させながら、脳みそをひっかきまわしてみたが、二階で警視を鳥肌立てさせた『物』以外には、うまい答えも考え浮かばなかった。確かに、あれは――科学的怪物なんてものじゃあるまいと、エラリーは考える。博士がそんなものを隠しているなんて思うのはひどすぎる。立派な外科医だし、外科の未開発分野で先駆者的な業績はあげているが、ウェルズの小説の主人公モロー博士〔いろんな動物をつなげて怪物をつくった〕の同類とみなすのは――ばかげている。
エラリーは父を見た。警視は静かに食べていた。恐怖はもう去ったらしい。しかし、その代わり、一心にぱくついているふうをしながらも、一皮むけば、鋭く油断なく警戒しているのが見てとれた。
そのうち、突然エラリーは別のことに気付いた。廊下からの光が強くなった。話し声もきこえた―――普通の声だ――その声は、さっき、ささやき声がした方向から聞こえてくる。まるでヴェールがとれたか、博士がテレパシーで、さっきささやいていた連中に普通の声になれと命じたかのようだった。
*
「さあ、お食事がおすみでしたら」と、ゼーヴィア博士は、ふたりの盆を、にこにこしながら眺めて「うちの連中と一緒になりましょう」
「お宅の方たち?」と、警視はさりげなく返した。この家に他の連中がいるなどとは思いもかけなかったようである。
「ええ、そう、弟と家内と研究助手です――私は、ここで研究をしとるものですからね。裏手の方が、ちょっとした研究室になっています――それに、もうひとり……」と、口ごもって「……客がおります。お寝みには、まだ少し早いようですから、いかがですかな……」
博士は、クイーン父子が一家だんらんに加わるのをやめて、早々《そうそう》に眠りを楽しむことをねがうような口ぶりで、ちょっと言葉を切った。
だが、エラリーがすぐに「おお、すっかり元気をとりもどしましたよ、ねえ、お父さん」
のみこみの早い警視も、大きく、うなずいた。たしかに乗り気になった、うなずき方だった。
「すっかり眠む気が消えましたよ。それに、あんなに興奮したあとですからね」と、エラリーが笑いながら、言いたした。「楽しいお仲間入りができるのは、うれしいですな」
「そりゃ、そうでしょうとも」と、ゼーヴィア博士は、ちょっとがっかりした調子で「こちらへ、どうぞ」
博士は先に立って、居間を出、廊下を横切り、ほとんど真向かいのドアにふたりを案内した。「前もって」と、ドアのノブに手をかけながら、ためらいがちに「お話しておくべきでしたが……」
「いや、いや」と、警視が楽しそうに言った。
「でも、しかし……どうも、今夜の私どもの行動は、おそらく、あなた方には――きっと、少々妙だったろうと思われますのでね」と、また、口ごもって「ご存知のように、こんな淋しい山の上では、めったにない事ですので――婦人たちは、少し――そのう――あなた方が表のドアを叩かれた音におびえましてね。まず『骸骨』を出した方がいいと考えたわけです――」
「おっしゃるまでもありませんよ」と、エラリーが明るく言ったので、ゼーヴィア博士は顔を伏せると、くるりとドアの方を向いた。頭のいい聞き手の耳には、自分の説明が、どんなにこじつけにひびくかを、よく悟ったようだった。エラリーはこの大男に同情を感じ始めた。ついさっき、たくましい想像力で作り上げた科学的怪物がいるかも知れないなどという考えが、いっぺんに消しとんでしまった。この大男は少女みたいにおとなしいのだ。何か気に病んでいるとしても、それは自分自身のことではなく、何か他人に関することにちがいない。それも、合理的な問題で、幻想的な恐怖になどまるっきり関係のないことにちがいない。
*
三人のはいったのは、音楽とゲームをする部屋だった。片すみにはコンサート用のグランド・ピアノがあり、肘かけ椅子や、燭台《しょくだい》が、ピアノのまわりに、うまく配置してあった。そして、部屋の大部分は、いろいろな形のテーブルが置いてあった。ブリッジ用、チェッカー用、チェス盤、ピンポン台、それに玉突台まであった。その部屋には他にドアが三つあり、一つは左手の壁、もう一つは玄関の控えの間につづく廊下の壁で――そこから、ささやき声がきこえたのだ――それと、もう一つのドアは突き当たりの開け放ちになっているもので、エラリーがちらりと見ると、その方は図書室になっているらしい。表側の壁は、全部フランス窓で、テラスが見おろせた。
これらのことをすべて、エラリーは最初にぐるりと見まわしただけで見てとった。しかも、二つのテーブルにはカードがちらばっていて、それが一番注目すべき事実だと思った。それから、博士と父について歩きながら、部屋にいる四人の人物に注意を集中した。
すぐに確信のついたことの一つは、四人とも、ゼーヴィア博士と同じように、はげしい興奮状態を抑《おさ》えていることだった。男たちの方が女たちよりむき出しだった。ふたりの男は立ち上がったが、どちらもクイーン父子の方を真直《まっす》ぐに見ようとしなかった。そのひとりは、目が鋭く肩幅のひろい大きなブロンド髪の男で――明らかにゼーヴィア博士の弟だ――神経のたかぶりを行動でごまかそうとし、ほとんど喫っていないたばこを目の前のブリッジ・テーブルの上の灰皿に押しつぶして、すばやく顔を伏せた。いまひとりは、意味もなく赤くなった。青い目が鋭く、顎の張った、顔立ちのいい青年で、髪は茶色で、指先に薬品の|しみ《ヽヽ》がついていた。クイーン父子が近づくと、二度、足をもじもじさせて、そのたびにすべすべした肌がいよいよ赤らみ、目をきょろきょろと動かした。
「助手だな」と、エラリーは思った。「色男だ。この連中が隠しているものは何か分からないが、助手先生も一緒になって隠しているな――だが、たしかに、それがいやだと思っているな」
婦人たちは、急場をうまく切り抜ける、例の女性特有の力で、そわそわしている様子を、ほとんど示さなかった。ひとりは若く――いまひとりは年配が分からなかった。若い方は、大柄で、やり手らしいと、エラリーはすぐに感じた。二十五歳ぐらいで、自分のことは自分で始末する力を充分に持っているな、と、エラリーは見きわめた。おっとりとしているが、活々《いきいき》とした茶色のひとみで、実に魅力のある顔立ちだが、その底に、必要となれば思いきった行動をする力がひそめられているようだった。その女は両手をひざに置き、微笑さえ浮かべながら、身うごきもせず静かに坐っていた。ただ、その目が裏切っていた。緊張して、そわそわ、きょときょと、輝いていた。
いまひとりの婦人は、その場の支配的な人物だった。椅子にかけていてさえ背が高く、盛り上がった胸、白髪まじりの漆黒《しっこく》の髪、誇らしげな黒い眸、ほとんど化粧もしてない、清々《すがすが》しいオリーブ色の肌、どこででも、ひときわ目立つ婦人だった。三十四、五歳であろう、エラリーには分析できないような、フランス人くささがあった。情熱的な気質だなと、エラリーは直感した。危険な女だ。憎悪にも危険だし、特に愛情には危険な女だ。このタイプの女は、とかく身ぶりたっぷりで気短かで、移り気のままに、すぐ行動しがちである。ところが、この女は催眠術にかかってでもいるように、じっと身動きもせず坐って、ぬれているような黒目で、エラリーと警視の間の宙を見つめていた。……エラリーは目を伏せて、心をしずめ、ほほえんだ。
つとめて、なごやかな雰囲気が保たれた。てれくさい出会いだった。
「ねえ、お前」と、ゼーヴィア博士が黒い目のすばらしい婦人に「これが、私たちが浮浪人とまちがえた紳士方だよ」と、軽く笑いながら「家内です、クイーンさん。こちらはクイーンさんの息子さんだよ」
紹介されても、女はふたりをまともに見ようともせず、そのすてきな目でちらりと盗み見しただけで、上品に微笑した。……「こちらは、フォレストさんです、クイーンさん。こちらはクイーンさん……フォレストさんは、さっきお話した、うちのお客です」
「よろしく」と、若い女が、すぐ言った。博士のくぼんだ目から警戒の色が放たれたのだろうか。女はほほえんで「失礼いたしまして、お許しねがいますわ。本当に――いやな晩で、とてもびっくりいたしましたものですから」と、身ぶるいした。本ものの身ぶるいだった。
「ごもっとも、フォレストさん」と、警視が愛想よく「こんな場所で、夜、玄関のドアをどんどんたたくのは、まともな奴だとは思えませんからな。ありゃせがれの奴で――向こう見ずの乱暴者ですよ」
「そりゃ、お父さんのことでしょう」と、エラリーが微笑した。
みんな笑い声を立てたが、すぐまた静まりかえった。
「おお――これが、弟のマーク・ゼーヴィアです」と、外科医は、目が鋭く、背の高いブロンドの男を指さして、急いで言った。「それに、私の同僚、ホームズ博士」その青年医師は、ぎごちなく微笑した。
「さあ、ご紹介がすみました。おかけ下さい」
ふたりは椅子に腰かけた。
「クイーンさんと、息子さんは」と、ゼーヴィア博士が、さりげなく低い声で「偶然、ここに見えたので、来ようと思われたわけじゃない」
「お迷いになったのね」と、ゼーヴィア夫人が、初めて、まっすぐにエラリーへ目を向けて、ゆっくり言った。エラリーは肉体的なショックを受けたような気がした。熔鉱炉《ようこうろ》を覗き込んだようだった。夫人の声はその目と同じように、情熱的な、なやましい、ふるえをおびたかすれ声だった。
「そうじゃないんだよ、お前」と、ゼーヴィア博士が「おどろいちゃいけないが、実はふもとの方が山火事かなんかで、おふたりはカナダへ休暇旅行をなさった帰り道、避難のために、やむなくアロー道路にはいって来られたわけなんだ」
「山火事ですって」と、みんなが叫んだ。みんな心からおどろいているらしいのを、エラリーは見てとり、たしかに山火事の第一報だったなと、思った。
それで、一座のわだかまりがとけると、しばらくの間、クイーン父子は、色めきたった質間に答えづめで、ふたりが危く炎を逃れた話をくり返しづめだった。ゼーヴィア博士は、かたわらに静かに坐り、上品に微笑しながら耳を傾け、自分もまた、初めてこの話を聞くかのようにふるまっていた。やがて話がとぎれるとマーク・ゼーヴィアは、いきなりフランス窓の一つに近寄り、じっと外の闇をのぞいた。この家にひそんでいる怪物がまた頭をもたげた。ゼーヴィア夫人は唇をかみ、フォレスト嬢は、ばら色の指先をじっと眺めはじめた。
「おい、おい」と、外科医が急に言った。「そんな不景気な顔をするもんじゃない」とすると、博士も、それに気がついているんだ。「たぶん、そんなに大したことじゃあるまい。一時、交通遮断になるだけさ。オスケワや付近の村々は山火事の防火設備をちゃんと持ってるし、たいてい、年に一度はあるからね。去年の火事を覚えてるかい、サラ」
「はっきり覚えていますわ」と、ゼーヴィア夫人がちらりと夫に向けた目が謎めいていた。
「どうでしょう」と、エラリーがたばこに火をつけながら「もっと楽しい話をしましょうよ、ゼーヴィア先生、たとえば」
「こりゃ、どうも」と、外科医は赤らみながら言った。
「そりゃ結構ですわ」と、フォレスト嬢が、突然、席からとび上がって「あなたのことをお話しましょうよ、先生、有名で、ご親切で、すばらしい方よ。もう、いく日も、うずうずしていましたのよ、でも、奥さまに髪の毛を引きぬかれでもしてはと、こわくて口に出せなかったのですわ」
「まあ、フォレストさん」と、ゼーヴィア夫人が、にがり切って言った。
「あら、ごめんなさい」と、若い女は、部屋の中を歩きまわりながら叫んだ。自制心を失っているようで、目が異様に輝いていた。「すっかり神経がたっているようですわ。ここにはお医者さまがふたりもいらっしゃるのよ、鎮静剤でも……さあ、さあ、シャーロックさん」と、ホームズ医師の腕を引っぱった。青年は、びっくりしていた。「棒みたいに突っ立ってないで、なんとかして頂戴《ちょうだい》」
「だって」と、どもりながら、早口で「分かってるでしょう……」
「シャーロック」と、警視が微笑しながら「変わったお名前ですな、ホームズ先生……ああ、なるほど」
「もちろんですわ」と、フォレスト嬢が、えくぼをうかべた。そして閉口しきっている青年医師の腕にかじりついて「シャーロック・ホームズよ。私のつけた名前ですの。本当は、パーシヴァルとかなんとか、そんな不景気な名ですの……でも、シャーロックそっくりなんですの、そうでしょ、あなた。いつも、顕微鏡や、いやらしい液体なんかに、忙しく取り組んでいて」
「まあ、まあ、フォレストさん」と、ホームズ医師がまっ赤になって言いかけた。
「それに、ホームズ君はイギリス人なんです」と、ゼーヴィア博士が、いとしそうに青年を眺めながら「それで、その名前が実にぴったり合うというんで気に入ってるんですよ、フォレストさんは。だが、しようがないおてんばさんだな、あなたは。パーシヴァルは、非常に神経がこまかいんだよ、英国人はたいていそうなんだよ。ホームズ君もあなたには手を焼いているんだよ」
「いや、いや」と、ホームズが口下手らしく、しかし、非常に早口に言った。
「おや、まあ」と、フォレスト嬢が青年医師の脇腹をこづいて、両手をふりながら、悲しそうに「だれも私を好いてくれないのね」と言い、黙って窓辺に立っているマーク・ゼーヴィアのそばへ行った。
「うまいもんだな」と、エラリーは、まじめに考えた。「この連中は揃って舞台に出るべきだな」それから、ほほえみながら高い声で「ベーカー街のホームズになぞらえて、シャーロックなどと呼ばれたくないんですね、ホームズ先生。ある人々にとっては、そう呼ばれるのは、むしろ名誉なんですがね」
「私には刺激的な小説類は向かないんです」と、ホームズ医師が、あっさり言って、腰を下ろした。
「そこが」と、ゼーヴィア博士がくすくす笑いながら「パーシヴァルと私のちがうところで、私はそういったものに目がないんですよ」
「困るのは」と、ふいに、ホームズ医師が、フォレスト嬢の滑らかな背中を横目で見ながら「連中のいいかげんな医学知識です。実にひどいもんですよね。連中《ブライターズ》が努力して医学知識を勉強しているとでも考えられますかね。それに、あの作中の英国人ときたら――私の言うのはアメリカの作家についてですがね――英国人にしゃべらせる言葉が、まるで……まるで……」
「あなたは生きて歩いている矛盾《むじゅん》ですよ、先生」と、エラリーが、いたずら好きな目を光らせて「連中《ブライターズ》なんて言葉を使う英国の連中《ブライターズ》を僕は知りませんよ」
ゼーヴィア夫人までが、その言葉に、思わずにこりとした。
「君は、あらさがしをしすぎるんだよ、ホームズ君」と、ゼーヴィア博士が「空《から》の注射器で空気を注射して殺人を犯す話を読んだことがあるがね。冠状動脈破裂とか、なんとかいうものなんだ。いいかね、そんな事実は、君も知っての通り、百人のうちにひとり起こるかどうかという死因なんだよ。だが、私には、そんなことは気にならないよ」
ホームズ医師は不服そうだった。フォレスト嬢とマーク・ゼーヴィアはしきりに話し込んでいた。
「寛大なお医者に会えてほっとしましたよ」と、エラリーが、自分の小説に医学上誤りの事実があるという辛辣《しんらつ》な手紙を医者連中から受けとったことを思い出しながら、にやにやした。「ただ楽しみに、小説を読まれるんですね。どうやら先生は、謎ときのファンのようですね、こんなにたくさんゲーム類をそろえておられるところをみると。当てごとがお好きなんでしょう」
「どうも、そいつが私の救いがたい道楽で、おそらく家内の大軽蔑でしょうがね。家内の趣味はもっぱらフランス小説の方です。葉巻いかがですか、クイーンさん」
ゼーヴィア夫人が、またほほえみかけたが――ぞっとするような微笑だった。ゼーヴィア博士は、うっとりとゲーム・テーブルを眺めまわしていた。
「実は、あなたが指摘されたように、私はゲーム感覚が異常に発達しているんですよ。どんなゲームでもいいんです。外科医の仕事からくる肉体的な緊張をほぐすのには、ゲームが絶対だと思うんです……私がそう思ったのは、つまり」と、変に口調をかえてつづけた「ずっと以前のことで、私がまだ手術室で働いていたころからです。今は引退していますからね……それ以来、今でもゲームは習慣になっていますが、すてきな気晴らしですよ。私は今でも研究室で、忙《せわ》しくやっとるもんですからね」
博士は前かがみになって、たばこの灰をおとし、かがんだままで、ちょっと、夫人の顔色をうかがっていた。ゼーヴィア夫人は、美しい顔に相変わらず漠然とした笑《え》みをたたえ、夫の一語一語にうなずきながら坐っていた。だが、アルクトウルス〔牛飼い座の星〕のように、はるかに遠く、冷たくしていた。火山をひそめた、冷たい女性だな。エラリーはそれとなく夫人を観察していた。
「ところで」と、警視が足を組みながら急に言った。「ここへ来る途中で、お宅のお客のひとりと出会いました」
「うちのお客?」と、ゼーヴィア博士は、ひたいに不審げなしわをよせて、いぶかしそうにした。ゼーヴィア夫人のからだが、さっと緊張した。その動きがエラリーに章魚《たこ》のあがきを思わせた。やがて、夫人はもと通りに静かになった。窓のそばのマーク・ゼーヴィアとアン・フォレストの低いしゃべり声が、ぱたりと止まった。ホームズ医師だけは、まるで無関心らしく、すねたように麻ズボンの折り返しを見つめて、明らかに、心ここになかった。
「ええ、そうですとも」と、エラリーは緊張した低い声で「ふもとの地獄沙汰から逃げ出してくる途中で、その先生にぶつかったんですよ。少し旧型のビュイックのセダンを運転していました」
「でも、うちには客など――」と、ゼーヴィア博士が、ゆっくりと言いかけて口をつぐみ、目を細めて伏せると「そりゃ、ちょっと変ですね」
クイーン父子は顔を見合わせた。どうしたということだ。
「変ですかな」と、警視がおだやかに訊いた。そして、主《あるじ》が機械的にすすめる葉巻を断わって、古びた茶色のたばこ容《いれ》をポケットから取り出し、中身をひとつまみ、鼻に吸い込んだ。「かぎたばこですわ」と、いいわけするように「悪癖《あくへき》ですな……変ですと? 博士」
「変です全く。どんな男でしたか?」
「見たところ、とてもがっちりしていましたよ」と、エラリーが、すぐ言った。「蛙みたいな目で、ラッパみたいな声で、おそろしく肩幅がひろくて、ざっと、五十五歳ぐらいに見えました」
ゼーヴィア夫人が、また、身動きした。
「でも、うちには全然、お客はありませんでしたからね」と、外科医が落ちついて言った。
クイーン父子はびっくりした。「じゃあ、あの男はここから来たんじゃなかったのか」と、エラリーがつぶやいた。「だが、この山には、他に誰も住んでいないと思いますがね」
「たしかに、ここには私たちしか住んでいませんよ。ねえ、サラ、誰か、分からないかね――」
ゼーヴィア夫人が、ぺろりと唇をなめた。心の中でどうしようかと迷っているらしい。その黒い眸に、思惑《おもわく》と狼狽と、なんとも言えぬ残忍性が宿っていた。やがて、びっくりしたような声で
「いいえ」
「そりゃ、おかしい」と、警視がつぶやいた。「あの男は、さか落しに山を降りて来たんだ。一本道しかなければ、ここがその行きどまりだし、しかも、他に誰も住んでいないとすれば……」
後ろでがちゃんと音がした。みんな、はっと振り向いた。だが、フォレスト嬢がコンパクトを取り落としただけだった。フォレスト嬢は、頬をまっ赤にして、しゃんと胸をそらし、妙にきらきらと目を輝かして、楽しそうに言った。
「さあ、おしゃべりなさいよ。次には、みなさん、お化けの話でもなさるんでしょう。あなた方が、どうしてもこわいお話をなさるんなら、私がこわがって差し上げますわよ。変な人が、うろつきまわってるなんて、きっと、今夜は、何者かが私をふとんむしにでもすることでしょうね。いいこと――」
「そりゃ、どういうことです? フォレストさん」と、ゼーヴィア博士が、ゆっくりと「何か起こるとでも――」
クイーン父子は、また目くばせした。この連中はみんなで何か隠しているだけでなく、銘々に、ちょっとした秘密を持っているようだった。
フォレスト嬢は首をふって「そんなことを言うつもりじゃなかったんです」と、肩をすくめて「本当になんでもないんですもの。それに――それに……」明らかに言いかけたことをくやんでいるらしかった。「おお、そんなことはみんな忘れてしまいましょうよ。そしてダックス・アンド・ドレークス〔水切り遊び〕でもしましょうよ」
マーク・ゼーヴィアが、ちょこちょこと急ぎ足で進み出た。鋭い目が、たけだけしく光り、口がひきしまっていた。「さあ、フォレストさん」と、荒っぽく「何か気になることがあるんですね。僕たちもそれを知りたいですよ。この辺をうろうろする奴がいるとすれば……」
「むろん」と、フォレスト嬢が、おだやかに「そうですのよ。どうしても言えとおっしゃるなら、よござんす。でも、前もってお断わりしておきますわ。それで、きっと、説明がつくと思いますけど……先週、私は――あるものをなくしたのです」
ゼーヴィア博士が、他の誰よりも驚いたように、エラリーには思えた。そのとき、ホームズ医師が立って、小さな丸テーブルに近づき、たばこに手をのばした。
「何かをなくしたって?」と、ゼーヴィア博士が重々しい声で訊いた。
部屋中が、おどろくほど、|しん《ヽヽ》となった。あまり|しん《ヽヽ》となったので急に高まる宿の主《あるじ》の息づかいが、エラリーに聞こえた。
「ある朝、なくなっていたのですわ」と、フォレスト嬢が低い声で「先週の金曜日、だったと思います。どこかへ置き忘れたのだろうと思いましたの。それで、さんざん探したんですけど、見つかりませんでしたわ。きっと、どこかへ落としたんでしょうね。そう、たしかに、なくしたんですわ」と、あいまいに言葉を切った。
かなりの間、誰も口をきかなかった。やがて、ゼーヴィア夫人が、しわがれた声で「さあ、さあ、あなた。そんなことならなんでもないじゃないの。誰かがとったとおっしゃりたいんでしょ」
「まあ、奥さま」と、フォレスト嬢が、くるりと首を振って、叫ぶように「私にそう言わせたいんですの。そんなつもりじゃなかったんですのよ。でも、たしかに、なくしたか、それとも、その――クイーンさまのお話の人が、どうにかして、部屋に忍びこんで――とったんですわ。だって、考えられないことですもの、他の誰かが――」
「どうですか」と、ホームズ医師が口ごもりながら「その――その楽しい話はまたの機会にのばしては?」
「なくなったのは何ですか」と、ゼーヴィア博士が、おだやかな声で訊いた。すっかり、また、自制心をとりもどしていた。
「値打ちものですか」と、マーク・ゼーヴィアが、すぐ訊いた。
「いいえ、いいえ」と、フォレスト嬢が熱をこめて「全く値打ちのないものですわ。質屋に持って行っても、木の五セント玉にもなりませんのよ――誰も貸してくれませんわ。古ぼけた、かたみの品ですものね、銀の指環で」
「銀の指環」と、外科医が言った。そして立ち上がった。博士の顔に、何かしおれて、打ち沈んだ、憔悴《しょうすい》の色がうかぶのを、エラリーは初めて気がついた。「サラ、お前の話し方は、たしかにひどく意地が悪かったよ。ここには盗みなんかする者は、ひとりもいないじゃないか。そりゃ分かってるんだろう。それとも、いるかい」
夫婦の目が合った。夫の方が目を伏せた。「そうは言えませんわよ、|あなた《モン・シェル》」と、妻がやさしく言った。
クイーン父子は身動きもせずに坐っていた。こんな場面での、泥棒話は、たしかにまずいものだった。エラリーはゆっくりと鼻眼鏡をはずして、みがき始めた。不愉快な女だな、あの女は!
「いや」と、外科医は明らかに自分を抑えて「それに、フォレストさんは、値打ちのない指環だと言ってるじゃないか。盗まれたと疑う余地もないと思うがね。きっと、どこかへ落としたんでしょう、フォレストさん。それとも、いま言われたように、指環の紛失が、謎の浮浪人と何かの関係があるとでも」
「ええ、もちろん、そうですわ。先生」と、フォレストが、ほっとしたように言った。
「失礼な差出口を許していただければ」と、エラリーが小声で言った。みんなは、ふり返ってエラリーを見、そのままの姿勢でじっとしていた。警視さえ顔をしかめた。だが、エラリーは鼻眼鏡を元にもどして、微笑した。
「いいですか。もし、私たちの出会った男が、本当にこのお家に関係のない、えたいの知れない人物だとすると、あなた方は妙な立場に立つことになりますよ」
「それで、クイーンさん」と、ゼーヴィア博士が、きっとなって言った。
「むろん」と、エラリーが手を振って「ちょっと考えてみる必要がありますね。フォレスト嬢の指環が金曜日になくなったとすると、そのときあの浮浪人はどこにいたのでしょう。しかし、これは、必ずしも不可解な点ではありませんよ。あの男はオスケワを根城にしているのかもしれませんからね。つまり……」
「それで、クイーン君」と、ゼーヴィア博士が、また言った。
「しかし、僕が言う通り、あなた方は妙な立場に立つことになりますよ。と、言うのは、あのでっぶり顔の紳士は不死鳥でも地獄の悪鬼でもありませんから」と、エラリーはつづけた。「火事のために、父と僕が足どめをくったように、今夜はきっと立往生するでしょうよ。したがって、山から出られないのを悟るでしょう――今ごろはきっと悟っているでしょうね」と、肩をしゃくった。「困った立場ですよ。近所には他に家もないし、火事は執念深いやつかもしれないし……」
「おお」と、フォレスト嬢が息をのんだ。「あの男が――戻って来るのね」
「まず、数学的に確実ですね」と、エラリーがむぞうさに言った。
ふたたび、しんとした。それが合図ででもあるように、エラリーが招いた妖精どもが、家のまわりで、いっそうわめき始めた。ゼーヴィア夫人が急に身ぶるいし、男どもさえ、フランス窓の外の夜の闇を、不安そうに見守った。
「あの男が泥捧なら――」と、ホームズ医師が、たばこをもみ消しながら、低い声でいいかけてやめた。そしてゼーヴィア博士と目が合うと、顎を引きしめた。「僕が言いかけたのは」と、静かにつづけた。「フォレストさんの言われることは、きっとたしかですよ。おお、疑う余地もありません。いいですか、僕も先週の水曜日に、認印つきの指環をなくしたんです。たしかに、値打ちのない古ものですし、あまり|はめ《ヽヽ》なかったので、僕にとっては大したことじゃありませんが、しかし――まあ、そんなわけで、失くなったことは事実ですよ」
一時とだえていた沈黙が、よみがえった。エラリーは皆の顔を眺めて、また、うんざりするような|しつこ《ヽヽヽ》さで、この家庭のおだやかそうな上面《うわづら》の底にはどんな汚水溜めが潜んでいるのだろうと、いぶかり始めた。
マーク・ゼーヴィアが沈黙を破った。その大きなからだが、いきなり動いたので、フォレスト嬢が小さな叫び声をあげた。
「あのね、ジョン」と、兄のゼーヴィア博士に向かって、きっぱりと「今夜は、窓も戸も、みんなしっかり戸締りをした方がいいですよ……じゃあ、おやすみ、みなさん」
マーク・ゼーヴィアは大股に部屋を出た。
*
アン・フォレスト――その夜の心配で、癒《いや》しようもなく落ちつきを失ったらしい――と、ホームズ医師は、じきに、あいさつをして出て行った。エラリーには、ふたりが廊下を階段の方へ行きながら、小声で話し合っているのが聞こえた。ゼーヴィア夫人は、レオナルド・ダ・ビンチの肖像画『ジョコンダ』の表情のような、ぎごちなく説明しがたい、モナ・リザ風の微笑をうかべて、静かに坐っていた。
クイーン父子は、おずおずと腰を上げた。「わしらも」と、警視が「そろそろ、ベッドに駆け込ませていただきますぞ、博士、お差しつかえなければ。実になんとも感謝しております――」
「どうぞ」と、ゼーヴィア博士があっさりと「何ぶんここでは、人不足でしてね、クイーンさん――召使はホイアリーさんと『骸骨』だけなんです――それで、私がお部屋へご案内しますよ」
「いや、結構です」と、エラリーが急いで答えた。「道は分かっています、博士。ご親切にありがとうございます。おやすみなさい、奥さん――」
「私も寝ませていただきますわ」と、博士夫人は立ち上がりながら、急に言い出した。夫人はエラリーが思っていたよりも背が高く、すっくと立ち上がると、深くひと息して「お寝みになる前に何かご用がございますなら……」
「何もございません、奥さん。ありがとう」と警視が言った。
「でも、サラ、私の考えでは――」と、ゼーヴィア博士が何か言いかけたが、やめて、肩をすぼめた。なんともやりきれないという姿勢で、だらりと肩を下げた。
「あなたもお寝みになるんでしょう、ジョン」と、夫人が鋭く言った。
「もうしばらく」と、博士は、夫人の目を避けながら、重々しい声で「寝る前に、研究室で少しばかり仕事をしようと思うんだ。用意しといた『スープ』が、当てにしている化学反応を起こすのでね……」
「そうですか」と、夫人が、また、気味悪い微笑をうかべた。そしてクイーン父子の方を向き「こちらへ、どうぞ」と言って、足早に部屋から出た。
クイーン父子は口ごもりながら、主《あるじ》に『おやすみ』をいい、夫人につづいた。ふたりが外科医を最後にちらりと見たのは、廊下に曲って行くときだった。博士はふたりが別れたときの場所に立ち、ひどく気落ちした様子で、下唇をかみしめ、粗い布地のシャツにネクタイをとめている、少し派手な棒ピンをいじくっていた。急に老《ふ》けこみ、精神的に疲れ切ったというふうだった。やがて、図書室の方へ部屋を横切る博士の足音がきこえた。
*
寝室のドアを閉め切り、天井の電灯をつけるとすぐに、エラリーはくるりと父の方を向いて、鋭く小声で「お父さん。さっき、ゼーヴィアが後ろからぬっと出て来る前に、外の廊下でお父さんが見た、あのおそろしいものは、いったい、何だったんですか」
警視は、ネクタイの結び目をゆるめながら、のろのろとモリス式安楽椅子に腰を沈めた。そして、エラリーの目をさけて「そうだな」と、口ごもりながら「はっきり分からん。どうやら、少しばかり――うん、のぼせていたらしいな」
「のぼせていたなんて」と、エラリーがあきれて「いつでも烏賊《いか》みたいな神経の持ち主がね。さあ、言っちまいなさいよ。今夜は、いままで、ずっと、訊きたくてうずうずしていたんですよ。あのいまいましい、大男《でか》め! ちょっとの間も、僕たちをふたりきりにしないんだから」
「そうだな」と、老紳士はネクタイをとり、カラーのボタンをはずしながら小声で「話すかな。ありゃあ――ものすごかった」
「さあ、さあ、いったい、何だったんですか」
「実をいうと、わしには分からんのだ」と、警視が、恥かしそうに「お前でも、他のだれでも、あれをわしに説明できたら――この首をくれてもいいぞ。畜生め!」と、吐きすてるように「あれは、どうみても人間じみたもんじゃないな、たしかだ」
エラリーはびっくりして父を見つめた。父の口からこんな言葉が出るなんて。きわめて散文的な小男の警視、ニューヨーク警察本部で、他のだれよりも多く、死体を手がけ、不法の流血を浴びて来た父の口から!
「ありゃ――見たところ」と、警視は、いささかも愉しさのない苦笑をうかべて、弱々しくつづけた。「蟹《かに》――に似とったな」
「蟹ですって」
エラリーは父の言葉に二の句がつげなかった。やがて、平べったい頬がふくれ上がると、手で口をふさいで、腹の底からこみ上げる笑いを抑えた。からだが前後にゆれ、目から涙が流れた。
「蟹ですって」と、息をつまらせながら「は、は、は、は、蟹とはね」と、またもや、笑いにむせた。
「おい、よせ」と、老紳士がいらだって「ローレンス・チベット〔歌手〕が|のみ《ヽヽ》の唄《うた》でも唄っとるような声を出して! やめろ!」
「蟹ですか」と、またしても、エラリーはむせび、涙を拭いた。
老人は肩をすくめて「いいか、わしは、あれが蟹だったとは――言っとらん。一組の気狂いじみた曲芸師かレスラーが、ホールの床で小手調べをしとったのかもしれん。だが、まるで蟹みたいだった――大きな蟹だ。人間ぐらいか――いや人間より大きかったぞ、エル」
警視はそわそわ立って、エラリーの腕をつかみ「さあ、おとなしくするんだ。わしは、見たところ変わりないだろう。まさか、わしが――げ、幻覚なんぞ、持っとらんだろう」
「あなたの持ってるものが分かれば、大したもんだがなあ」と、エラリーはけらけら笑いながら、ベッドに身を投げ出して「蟹を見たなんて。もし、あなたをこれほどよく知っていなければ、その蟹を特に狂暴な赤象に仕立て、あなたの妄想をもっと大げさに騒いであげるところですがね。蟹とはね」と、首を振って「さあ、いいですか、そいつを、ひとつ、もっと人間らしく合理的に検討してみましょうよ。お化け屋敷に、迷い込んだ子供みたいにしていないでね。あのとき、僕は、お父さんと向き合って話していましたね。お父さんは真直ぐ廊下の先の方を見ていた。はっきり言って、どこに見えたんですか、そいつは――その幻想的な動物というやつは。ね、警視さん」
警視はふるえる指で、|かぎたばこ《ヽヽヽヽヽ》を一つまみやって「廊下のこの部屋から二つ目のドアだ」と、つぶやいて鼻を鳴らし「むろん、わしの想像にすぎんよ、エル。……廊下のこの部屋の側だった。まっ暗だったからな、あそこは……」
「お気の毒に」と、エラリーがあくびをして「もう少し明るかったら、きっと、少なくとも恐竜ぐらい見えたでしょうにね。ところで、それを見てふるえ上がったとき、蟹君、いったい何をしていたんですか」
「そうほじくるなよ」と、警視がしょげて「ちらっと見ただけなんだからな――そいつを。そいつ、あわてふためいとったぞ――」
「あわてふためいてた!」
「その言葉がぴったりだ」と、老紳士はいまいましそうな声で「あわてふためいて戸口をくぐった。それからカチリとドアの閉まる音を、お前も聞いたろう。聞いたはずだ」
「こりゃ」と、エラリーが「調べる必要がありますね」と、ベッドからとび起きて、大股でドアに近づいた。
「エル、たのむぞ、気を付けろよ」と、警視が心配声で「夜、他人の家を、うろつきまわるのなんてとんでもない」
「浴室に行くぐらいならいいでしょう、ねえ」と、エラリーはおごそかに言って、ドアを開け、姿を消した。
*
クイーン警視は、坐ったまま、爪《つめ》をかみ、首を振っていた。それから腰を上げて、上衣とシャツを脱いだ。ズボン吊りが椅子の足許までたれ下がった。思い切り両腕をのばして、あくびをした。くたくただった。疲れて、眠くて――こわかった。そうだ、外部の何人も立入ることを許されない、ドアのない心という個室のなかで、このセンター街の古狸《ふるだぬき》クイーン警視が、こわがっているのを自認せざるを得なかった。妙なことだった。今までにも何度か、こわかったことはあるが、臆病者ジャック・ドールトンを自任するのは、ばかげている。しかも、今度ばかりは全く新しい種類のこわさだった。未知への恐怖だった。肌が鳥毛立つようで、後ろで何か音がするような気がするだけで、ぎくりと振り返らずにいられなかった。
そんなわけで、警視は、寝る支度をしながら、あくびをしてみたり、のびをしてみたり、眠る前に考えなくてもいいような、つまらないことをいろいろ考えて、気をまぎらせようとした。しかし、その間も、エラリーが大笑いしたあの声が、まだ|こだま《ヽヽヽ》している頭の中に、やはりこわさがこびりついて離れなかった。しまいには――思い切り自分を嘲《あざ》けってみるとともに――口笛を吹き出しさえした。
ズボンを脱ぎ、服をきちんとたたんで、モリス椅子の上に置いた。それから、ベッドの足許に置いてある旅行鞄の一つにかがみ込んだ。そうしかけたとき、一つのフランス窓で何かが、がさりと音をたてた。はっと緊張して見上げた。しかし、閉めかけのシェードがあるだけだった。
押えられない衝動にかられて、ちょこちょこと部屋を横切り――下着姿の灰色の鼠みたいな恰好で――窓のブラインドをひいた。ブラインドが下りてくるとき、ちらりと外を見た。外は、はてしない暗黒の深淵のように思えた。たしかにそうだったのだ。というのは、あとから分かったのだが、その家は次の谷に向かって数百フィートも切り立っている断崖のふちに、のっかっていたからである。警視の小さく鋭い目が、ちらりと窓を見たとたん、警視は窓からとび退き、手を放れたシェードが、ばしゃりと音を立ててはねあがった。警視は一気に部屋を駆《か》けもどり、すばやく電灯のスイッチを切った。いきなり部屋はまっ暗になった。
*
エラリーは自分たちの寝室のドアを開け、おどろいてちょっと立ちどまり、それから、幽霊のようにそっと滑り込んで、すばやく音もたてずに後ろ手にドアを閉めた。
「お父さん」と、小声で「寝てるんですか。なぜ灯を消したんですか」
「だまっとれ」と、父親の鋭い声がきこえた。「必要以上の音をたてるんじゃない。この辺にとても妖《あや》しいものがいる。まさに、正体がつかめそうなんだ」
エラリーは、しばらく、しゅんとしていた。目が闇になれてくると、ぼんやりした、もののけじめがつきはじめた。後ろの窓々から星の光が、かすかに見えた。素足でパンツ姿の父が、部屋の先で、ほとんどひざまずかんばかりに、うずくまっていた。右手の壁に三番目の窓があり、警視が、うずくまっているのは、その窓のそばだった。
エラリーは父にかけより、窓からのぞいた。その側窓からは、中央で凹んでいる、家の裏手の壁でかこまれている中庭が見下ろせた。中庭はせまかった。一階と同じ高さの中庭には、裏手の壁を支えにしてバルコニーが突き出していて、明らかに、クイーンたちの部屋のとなりの寝室に通じていた。エラリーが窓に達したとき、ちょうど、ふわっとした影みたいな姿が、バルコニーからフランス窓にすべり込み、姿を消すのが見えた。星あかりに光る白い女の手が部屋から伸びて、二重窓を閉めた。
警視は、ぶつぶつ言いながら立ち、ブラインドを全部ひき下ろし、ばたばたとドアのところに戻って、電灯のスイッチをひねった。汗びっしょりだった。
「どうしたんです?」と、エラリーが、ベッドの足許にじっと立ったままで、ささやいた。
警視はどしんとベッドに腰を下ろし、半裸の小人のコボルド〔ドイツ神話の小妖精〕のように背をまるめて、白髪まじりの口ひげの片はじを気むずかしげに引っ張った。
「ブラインドを引きに行ったら」と、警視は低い声で「横窓から、ちらりと女の姿が見えたんだ。バルコニーに立って、空を眺めとるようだった。じっとしとった。しきりに星を見上げとるようだった。放心の|てい《ヽヽ》だった。鼻をすすり上げるのが聞こえた。赤ン坊のように泣いとるのだ。ひとりっきりでな。やがてお前がはいって来たとき、女は隣の部屋に引っ込んだんだ」
「本当ですか」と、エラリーは言い、そっと右手の壁に忍びよって耳を当てた。「ちえっ、この壁じゃ何も聞こえやしない。ところで、それが、どう臭いんですか。その女は誰なんですか――ゼーヴィア夫人ですか、それとも、あのおびえきっている娘、フォレスト嬢ですか」
「それが」と、警視は苦々しく「どうも臭いんだ」
エラリーはまじまじと父を見つめて「謎なんですね」と、上着を脱ぎ始めた。「さあ、言ってしまいなさいよ。僕たちが、今夜、会わなかった人物なんでしょう。しかも、あの蟹じゃなかった」
「その通りだ」と、老紳士はむっつりして「ありゃ、会わなかった人物でも、蟹でもなかった。ありゃ……マリー・カローだった」警視はその名を呪文のようにとなえた。
エラリーは、もがきながらシャツを脱ぎかけていた手をとめて「マリー・カロー? ねえ、いったい、何者ですか、その女は。全然聞いたこともありませんよ」
「やれやれ、何てこった」と、警視が、うめくように「マリー・カローを聞いたことがないと来た。ばか息子をそだてた報《むく》いだな。お前新聞を読まんのか、阿呆め。社交婦人だぞ、エル、社交婦人だ」
「ヒヤ、ヒヤ」
「社交界の選《え》りぬきだ。大金持だ。ワシントン官界のきけものだ。父親はフランス駐在大使、はえ生きのフランス系で、革命時代にまでさかのぼる名家だ。あの女の、おじいさんのおじいさんなんてのがラファイエット〔フランス革命の花形で米独立戦争を助けた〕と、こんな仲なんだ」と、老紳士は中指と人差指をくっつけてみせて「みんな大した一族でな――伯父も従兄弟《いとこ》も甥《おい》も――みんな外交官なんだ。あの女は二十年ほど前に――同姓の――従兄弟《いとこ》と結婚した。亭主は今は死んどる。子供はない。まだ若いが再婚はしておらん。三十七ぐらいだろう」と、警視は息を切らせて、言葉を切り、エラリーを見つめた。
「ブラボー」と、エラリーはシャツを脱ぎおえて、くすくす笑いながら「実に完璧な女性像ですね。お父さんの例の旧式な写真的記憶力がまた働き出したってわけだ。ところで、それがどうだっていうんですか。実を言うと、それを聞いて僕は大いに安心しましたよ。やっと、謎の実体にとりついたというわけですからね。明らかに、ここの連中は、あなたのいとも尊きカロー夫人が、ここにいるという事実を隠すべき理由を持っているらしい。|Ergo《エルゴ》〔故に〕、今夜、僕らの自動車が、うなりを立てて登って来るのを聞いて、あの連中は、あわてて、そのいとも尊き社交界の女王を寝室に押しこめたんですよ。夜中のいまごろ来る客が、こわいなんて言うのは、全くのでたらめですよ。主《あるじ》と家族の連中がびくびくしていたのは、あの女がここにいるのを勘づかれないようにするためだったんですよ。でも、なぜかなあ」
「その理由《わけ》は、わしに分かる」と、警視が静かに「新聞でみたが、今度の旅行に出かける三週問ほど前のことだ。お前も読んどるはずだぞ。世間の動きに、もう少し注意を払わにゃいかんな。カロー夫人はヨーロッパにいることになっとる」
「ほう」と、エラリーがおだやかに言った。そして、ケースから、たばこを一本取り出し、マッチを探しに、ナイト・テーブルの方へ行った。
「そりゃ面白い。でも、必ずしも説明がつかなくもありませんね。ここには有名な外科医がいるんです――たぶん、あの小柄な貴夫人は、その貴い純血か、あるいはぴかぴかの内臓に何か故障があって、それを世間に知られたくないんでしょうよ……いや、それだけじゃすっきりしないな。それ以上のことがあるにちがいないな……なかなかいい問題ですよ。泣いていたんですね。すると、誘拐でもされたのかな」と、エラリーは期待するかのように「あのすてきな主殿《あるじどの》にね。……畜生、マッチはどこだ」
警視は、あえて返事をせず、口ひげを引っ張って、床を見つめていた。
エラリーはナイト・テーブルの引出しをあけて、マッチの束をみつけ、唇を鳴らした。
「おやおや」と、あきれ声で「名医どのは、実に用意周到な紳士ですよ。まあ、この引出しの中のがらくたを見てごらんなさい」
警視は、ふふんと鼻を鳴らした。
「あの男は」と、エラリーが感心して「目的に対して実に一途《いちず》なんですね。無邪気なゲームについてよほど偏執狂ですよ。だから、お客たちにも偏執狂になってもらわなければいられないらしい。ここには、退屈な週末のひまつぶしを解決する道具が、すっかり揃っていますよ。ま新しいカードは封も切ってないし、クロスワード・パズルの本も一冊――なんと! これも、手つかずときてる――チェス盤と、話の泉の本、他にもいろいろな遊び道具、それに鉛筆まで削ってありますよ。どうです」と、ため息をつき、引出しをしめて、たばこに火をつけた。
「きれいだ」と、警視がつぶやいた。
「何がですか」
老紳士が、ぽつりぽつりと「思わず口に出たんだ。バルコニーにいたあの夫人のことさ。実にきれいなひとだったぞ、エル。しかも、泣いとった――」と、首を振り「まあいい。わしらには、てんで無関係なことだ。どうやらわしらは、ひどいお節介《せっかい》やきらしいぞ、ふたりとも」
それから、ふと顔を上げて、灰色の目に、例の|すき《ヽヽ》のない色を浮かべると「そうそう。外の様子はどうだ。何か目についたか」
エラリーはベッドの向こう側に、悠々と横になって、足を脚板《あしいた》にのせて組み、天井に向けて煙を吹くと「ああ、あの――そう――大きな蟹のことなんでしょう」と、目をくりくりさせて言った。
「わしの訊くことを百も承知のくせに」と、警視は耳まで赤くなりながら、ぴしりと言った。
「それですがね」と、エラリーは気もなさそうに「それが問題なんですよ。廊下には人かげもないし、どの部屋も閉ってます。もの音一つありません。僕は足音を立てて踊り場を通り、浴室へはいりました。それから、そっと出てみました――そっとね。浴室には長くいなかったんです……ところで、お父さんは、蟹どもの好物が何か知ってませんかね」
「おい、おい」と、警視が不機嫌に「今度は、いったい、何を考えとるんだ。いつも、もってまわった物の言い方をしおって」
「つまり」と、エラリーは低い声で「僕は階段の足音を聞いて、廊下のこの部屋の近くの、暗がりに隠れざるを得なかったんですよ。踊り場を通って浴室に引きかえすわけにはいかなかったんです。そんなことをすれば、誰か分からないが、階段を上がってくる奴に見とがめられますからね。そこで僕は、踊り場の明るみを見張っていました。上がって来たのは誰だろう、あの太っちょのデメテル〔ギリシア神話の農業の女神〕、神経質な飼育係のホイアリーさんなんですよ」
「家政婦のか。それがどうした? 寝に行くところだったんだろう。あの女と、いかさま野郎の『骸骨』は――畜生、とんでもない名前だ!――二階の屋根部屋で寝るんだろうよ」
「まあ、そうでしょうね。だが、ホイアリーさんは楽しい夢の国へおでましじゃなかったんです、はっきり言っときますがね。あの女はお盆を運んでいたんです」
「えっ」
「お盆ですよ、いいですか、夜食を盛ったやつをね」
「きっと、カロー夫人の部屋に行ったんだろうな」と、警視が低い声で「そりゃ、上流婦人だって、ものは食わねばならんさ」
「どういたしまして」と、エラリーが夢みるように「だから、蟹どもの好物をご存知じゃないかと、訊いたんですよ。僕は、蟹が牛乳を飲んだり、白パンのミート・サンドウィッチを食べたり、果物をかじったりするなんて話を、かつて聞いたことがありませんよ。……いいですか、あの女は、カロー夫人のとなりの部屋へ、いささかのおそれ気もなく、つかつかと這入って行ったんですよ。その部屋ですよ」と、エラリーはふざけた口ぶりで「あなたが、大きな蟹を見たというのは――なんとね――」警視に両手を振り上げてみせて、それから、旅行鞄にその手をさしこみ、パジャマを探した――「ばからしい話ですよ」
四 真昼の惨劇
エラリーが目をひらくと、見慣れないベッドに横たわって、その掛け|ぶとん《ヽヽヽ》に、まぶしい陽が、ふりかかっていた。しばらく、どこにいるのか思い出せなかった。|のど《ヽヽ》がいがらっぽく、頭はぼやけていた。深く息をして、からだをもぞもぞさせていると、父親の声が聞こえた。「目がさめたのか」と、やさしい声だ。頭をひねって警視を見ると、警視はまっ白い麻服を、きちんと着込み、きゃしゃな両手を、しっかりと背で組み合わせ、静かに、うっとりと、裏手の窓から外を眺めていた。
エラリーは、うめき声を出し、のびをしてから、ベッドを這《は》い出た。そして、あくびをしながら、パジャマを脱ぎ始めた。
「ちょいと見ろ」と、警視は振り向かずに言った。
エラリーはのっそりと父親のそばへ行った。窓が二つあって、その間にふたりのベッドが置いてある側の壁はゼーヴィア家の裏手に当たっていた。昨夜、まっ黒な深淵に見えたものは、荒々しい岩の絶壁に変わっていて、深く、身の毛もよだつようなので、エラリーはしばらく目を閉じて、目まいを防いだ。やがて、また、目をあけた。太陽は遠い山々の上に、すっかりのぼっていた。そして、谷や崖の隅々を、顕微鏡で見るように、非常にあざやかに、くっきりと染め出していた。非常な高所なので、谷底の方は、まるで、静かな人気もない深い井戸の底の縮図のようだった。流れ雲がふたりのいる少し下の方にただよい、山の頂にすがりつこうとしていた。
「あれが見えるか」と、警視がささやいた。
「何ですか」
「はるか下の、崖が谷になだれ込もうとしとる所だ。山の側面だ、エル」それで、エラリーが見ると、アロー・マウンテンの縁《ふち》をとりまいて、はるか下方の、びっしりと緑一色にしきつめた緑樹帯がぶつりと切れている鋭い絶壁のあたりに、一筋の吹き流しのように煙がなびいていた。
「火事だ」と、エラリーは声を高めて「あの運のよさを、いっさい、悪夢だったと思いかけているところでしたよ」
「火が山の裏手にまわっとるが、あそこは崖だ」と、警視が何か考えながら「この裏山は岩ばかりで、火事もとりつくすべがない。燃えるものはないからな。だからといって、わしらには何の役にもたたんがな」
エラリーは手洗いに行きかけて、足をとめ「そりゃ、いったい、どういうことなんですか、お父さん」
「大したことじゃない。ただ、わしが考えるのは」と、老紳士が考え深そうに「もし火事が大事《おおごと》になるとすれば……」
「それで」
「わしらは、たっぷり足どめをくうことになる、エル。あの崖は虫も通れやせん」
エラリーはあきれ、しばらく目をむいていた。それから、くすくす笑い出した。「こんな素晴らしい朝に、けちをつけようってんですか。いつも、悲観論者なんだからな。そんなことは忘れちまうんですよ。すぐ戻って来ます。素晴らしく冷たい山の水を、かぶって来ますからね」
しかし、警視は忘れなかった。エラリーが、シャワーを浴び、髪をくしけずり、着換えをすますあいだ、ずっと、目ばたきもせずにかすかな煙の流れを見守っていた。
*
クイーン父子が階段を下りて行くと、下でひそひそ声がきこえた。下の廊下には人影がなかったが、控えの間の先の表ドアがあいていて、昨夜、薄暗かったホールは、強い朝の光で、いちおう陽気だった。ふたりがテラスに出てみると、それまで熱心に話し合っていたホームズ医師とフォレスト嬢が、ふたりの姿をみて、ぴたりと話を止めた。
「おはよう」と、エラリーが元気な声で「いいお天気ですね」と、ポーチの|ふち《ヽヽ》へ行って、深く息を吸い、満足そうに、真青《まっさお》な空を見上げた。警視は、ゆり椅子に腰をおろして、たばこいれを、とり出した。
「ええ、そうね」と、フォレスト嬢が、低い、妙な声で言った。エラリーは、くるりと振り向いて、女の顔色をさぐった。少し青ざめていた。パステル・カラーの服で、なよなよとして魅力的だった。だが、その魅力には、何か緊張がまじっていた。
「暑くなりそうですね」と、ホームズ医師が、長い足を神経質にゆすりながら「おお――よく、お寝みになれましたか、クイーンさん」
「ラザロ〔ヨハネ伝十一、十二〕のようにね」と、エラリーが明るく「山の空気のせいでしょう。ゼーヴィア博士は変わった土地に家を建てられたものですね。人間の|すみか《ヽヽヽ》よりも、|わし《ヽヽ》の巣にふさわしい」
「本当に、そうね」と、フォレスト嬢が、息苦しそうに言い、みんな黙り込んだ。
エラリーは明るい日ざしの中で、場所を検分した。アロー・マウンテンの頂上は、わずか二、三百フィートの上だった。広々とひろがった家は、断崖の突端を背にして、前にも横にも空地はほとんどなく、これだけの整地をするのには明らかに非常に骨が折れたことだろう。ごろごろしている岩石を取り去り、土地を平らにする努力が払われていたが、それも明らかにいいかげんで止めたらしく、鉄柵のある門から続く自動車路を除いては、敷地のいたる所に、突き出た大きな石が涸沢《かれさわ》のようにごろごろし、ごみだらけの草が、からみ合って、まばらに生えていた。頂上の四分の三ほどのところから、急に森がひろがり、急傾斜で山腹を下がっている。その取り合わせが、いかにも荒涼として、美しく、奇怪だった。
「まだ、だれも起きんのかな」と、警視が楽しそうに訊き、間をおいて「かなりおそいから、わしらがびりかと思ったが」
フォレスト嬢がはっとした身ぶりで「そうですわね――でも、よく分かりませんけど。まだ、ホームズ先生と、あのこわい『骸骨』さんにしか会ってませんわ。あのひと、どこか横手の方をうろついてます。気の毒なほどちっぽけな花壇かなにかをいじりまわして、何かをつくろうとしてるんですわ。ホームズ先生、誰かにお会いになって?」
今朝は、この娘とうっかり冗談も言い合えないぞと、エラリーはひとりで考えていた。すると、ふと一つの疑惑が心に浮かんだ。フォレスト嬢は『お客』なのだろうか。おそらく、この女は、二階の寝室にひそんでいる謎の社交婦人と何らかの関係があるのだろうと、いまになって、思いついた。これで、昨夜この女が、非常に神経質だったことも、今朝の顔色の悪さや不自然な行動も説明がつく。
「いいえ」と、ホームズ医師が「実は、朝食のために、みんなを待っているんですよ」
「そうか」と、警視はつぶやいて、しばらく、外の岩だらけな庭を眺めていたが、やがて立ち上がって「おい、エル、もう一度、あの電話を借りた方がいいようだな。小火《ぼや》がどうなったか様子をみて、出発しよう」
「そうですね」
ふたりは控え室へ向かった。
「おお、でも、むろん、朝食までは、いらっしゃるでしょう」と、ホームズ医師が、せき込んで、顔をあからめながら「何も上がらずに、お発《た》たせするわけには、とても、いきませんからね――」
「いや、いや、ご心配いただいて」と、警視はにっこりして「もう、すっかりお世話になって、なにしろ――」
「お早うございます」と、ゼーヴィア夫人が戸口から声をかけた。みんな、いっせいにその方を見た。エラリーは、たしかに、くいいるような不安の色をフォレスト嬢の目に読みとった。博士夫人はまっ赤な朝のガウンを着こみ、白髪まじりの、つややかな黒髪を、スペイン風に束《たば》ね上げ、オリーブ色の肌がやや青ざめていた。夫人は不可解そうに、警視とエラリーをこもごも見つめた。
「お早う」と、警視は急いで「ちょうど、オスケワに電話しようとしとるところです、奥さん。それで、火事の模様では――」
「オスケワには、もう、電話しましたわ」と、ゼーヴィア夫人が、|にべ《ヽヽ》もない声で言った。エラリーは、夫人に少し外国なまりがあるのを、最初から気付いていた。
フォレスト嬢が息を殺して「それで?」
「あの人たち、ちっとも消火が、はかどっていないんですのよ」ゼーヴィア夫人はテラスのふちに、すうっと行って、おそろしい景色を見下ろしていた。「ずっと燃えつづけて――燃えひろがっていますわ」
「ひろがっているんですって?」と、エラリーが、つぶやいた。警視は、静まりかえっていた。
「ええ、手がつけられないらしいんですの。でも」と、ゼーヴィア夫人が、狂気じみたモナ・リザの微笑を浮かべて「ご心配はいりませんわ。安全でしてよ。本当に時間の問題ですわ」
「すると、まだ、下りようがないな」と、警視がつぶやいた。
「そうですわね」
「いやはや」と、ホームズ医師が、たばこをはじきとばして「朝食にしましょうよ、ねえ」誰も答えなかった。フォレスト嬢が、突然、蛇でも見たようにとび退いた。みんなが首をのばしてみると、長い、羽根のような灰が空からまい下りて来たのだった。みんなが、ぽかんと見守る中を、灰は、ほかにも降って来た。
「灰だわ」と、フォレスト嬢が、あえぐように言った。
「まあ、何もそんなに」と、ホームズ医師が、ひきつるような高い声で「風が変わっただけですよ、フォレストさん」
「風が変わった」と、エラリーが何か考えながら、その言葉をくり返した。そして、ふと眉をしかめ、ポケットに手を入れて、たばこケースを探《さぐ》った。ゼーヴィア夫人の広い、すべすべした背中は、筋肉《すじ》一つ動かなかった。
マーク・ゼーヴィアが表ドアから声をかけたので、沈黙が破れた。「お早う」と、いせいのいい声で「こりゃ、ひどい灰ですね」
「おお、ゼーヴィアさん」と、フォレスト嬢が大声で「火事がますますひどいのよ」
「ますますひどいって?」マークは、すたすたと歩みよって、義姉のそばに立った。鋭い目も今朝は、白目に血管が浮いて、どんよりと光っていた。徹夜をしたか、深酒でもしたようだった。
「そりゃまずいな」と、低い声で「まずいな」と、いくどもくり返した。「見たところ別に――」そこで言葉を切ると、声を張り上げて、荒っぽくわめくように「それにしても、いったい、何を待っているんですか。火事は燃えさせとくさ。朝飯はどうなってるんですか。ジョンはどこです。僕は飢え死しそうですよ」
背が高く、ひょろひょろして、がたぴししそうな『骸骨』が、つるはしと、泥まみれなシャベルを持って、横手の方から姿をあらわした。日中みれば、汚れた仕事着を着て、いかつい目付きで、きりっと口を結んだ、やせた老人にすぎなかった。重そうに足をひきずって、階段をのぼり、右も左も見ずに、表のドアを通って消えた。
ゼーヴィア夫人がはっとした身ぶりで「ジョンは? そう、ジョンはどこでしょう」と、振り向いて、吸い込まれるように、その黒い目で義弟の血ばしった目に見入った。
「知らないんですか」と、マーク・ゼーヴィアが、にやりとした。
いったい、なんて連中なんだと、エラリーは思った。
「ええ」と、夫人はゆっくり「知りませんわ。あのひと、昨夜は、寝に来なかったんですよ」夫人の黒い目が光りぽっとあからんだ。「少なくとも、今朝、あのひとはベッドにいませんでしたわ。マーク」
「ちっとも珍しいことじゃない」と、ホームズ医師が、強いて笑いながらあわてて「きっと、研究室で、夜の半分を、こつこつ仕事されたんでしょうよ。ある実験に打ち込んでおられるから――」
「そうね」と、ゼーヴィア夫人が「たしか、昨夜、あのひと、研究室で仕事をつづけるようなことを、話していましたわね、クイーンさま」と、言い、ふと振り向いて、すばらしい目で警視を見た。
警視は苦い顔をした。そして不愉快さを隠しかねて「そうでしたな、奥さん」
「じゃ、僕が行って連れて来ますよ」と、ホームズ医師が威勢よく言って、ゲーム室の、あけてあるフランス窓の一つを、とびこえて行った。
みんな黙り込んでいた。ゼーヴィア夫人は、またくい入るように空を見上げていた。マーク・ゼーヴィアは静かにテラスの柵に腰かけていた。その半ば閉じた目に、たばこの煙が渦まいた。アン・フォレストは膝《ひざ》の上で、ハンカチを、まいたりほぐしたりしていた。控えの間から足音がして、家政婦のホイアリーが、がっしりした姿を見せた。
「朝ご飯のお仕度ができました、奥さま」と、神経質にいい「どうぞ皆さま――」と、クイーン父子に合図して――「こちらもごいっしょに……?」
ゼーヴィア夫人がふり向いて「もちろんよ」と、怒りっぽく言った。
ホイアリーは赤くなって引きさがった。
そのとき、急にみんなは、ついさっきホームズ医師がとび出して行ったフランス窓を、見つめた。背の高いイギリス青年が、その窓に立っていた。右手を白くなるほど握りしめ、茶色の髪が妙に乱れて、さかまき、口をもぐもぐさせ、顔は着ているツイードのニッカーボッカーのように灰色だった。
いつまでも、何も言わず、ただ、口をぱくぱくさせるだけで、声は全然出なかった。
やがて、エラリーが、かつて耳にしたこともないほど、しゃがれた、おろおろ声で「博士が殺されてます」と言った。
第二部
心理学は決して間違わない。最もむずかしい問題は、諸君の被実験者を知ることである。心理学は無限の細目を持つ精密科学である。
(理学博士S・スタンレー・ホワイト著『有情、無情の精神』)
五 スペードの6
ゼーヴィア夫人のロー・カットの首筋から始まった、小きざみな震えは、だんだん下に波及して、深紅色のスカートを震わせて消えた。夫人はテラスの手すりによりかかり、両手でがっちりした体《からだ》の左右の手すりを、しっかり握りしめていた。オリーブ色の握りこぶしが白っ茶けて、軟骨の塊りのように見えた。黒い目は、さらした桜桃《さくらんぼ》のような色で、とび出しそうになっていた。だが、夫人は全然声を立てず、表情も変えなかった。しかも、あの、不気味な微笑をつづけていた。
フォレスト嬢の目はぎょろぎょろして、わずかに、楕円形《だえんけい》の白目から、|ひとみ《ヽヽヽ》の弧がのぞいていた。いたましい叫びをたてて、椅子からとび立ったが、すぐまた、どさっと崩れた。
マーク・ゼーヴィアは親指と人差指で、たばこの火先をひねりつぶすと、手すりをとびはなれ、身じろぎもしないホームズ医師のそばをすり抜けて家へ駆けこんだ。
「殺された?」と、警視がゆっくり言った。
「おお、神さま」と、フォレスト嬢が呟き、右手の甲を噛んで、ゼーヴィア夫人を見つめた。
そのとき、エラリーが、マークの後を、他の皆がエラリーの後を追ってとび出し、ゲーム室のドアを走り抜けて、本棚の並んでいる図書室になだれこみ、その先のドアへ殺到した……
ゼーヴィア博士の研究室は、四角い小部屋で、窓が二つあり、家の右横手の、せまい岩だらけの空地と、森の|へり《ヽヽ》が見えていた。ドアは四つあった。一つは図書室へ通じ、部屋に向かってま左のドアは、横廊下に通じ、三番目のドアは同じ壁についていて外科医の研究室に通じ、四番目のドアは部屋の突き当たりにあって、これも研究室に通じていた。そのドアは開け放ちになり、その向こうにある白い壁の、ずらりと棚の並ぶ研究室の一部が見えた。
書斎の飾りつけは質素で、僧院めいていた。ガラス戸つきの丈の高いマホガニーの本箱が三つと、古い肘掛け椅子、電気スタンド、固い黒革張りの長椅子、小さな整理箱、ガラスケースにはいっている銀盃、ディナー・ジャケット姿の人間が、より集まって写っている細長い、粗末な写真――それは額縁に入れて壁にかかっていた。そして、部屋のまん中に、大きなマホガニーの机が図書室のドアに面して据えられていた。
その机の後ろに回転椅子があり、その椅子にゼーヴィア博士がいた。
目の粗いツイードの上着と、赤い毛織のネクタイが、むぞうさに肘掛け椅子になげかけてある他は、昨夜、最後に見かけたときと、同じ服装をしていた。頭と胸は、目の前の机の上に、ぐったりと横たわり、左の腕は肘から先が頭のそばに投げ出され、長い指がぎごちなく伸び、手のひらがマホガニーの机に平らにのせられていた。右腕は机の下にたれ下がっていて、肩から下が見えなかった。カラーはゆるめられて、灰青色の首から引きはなされている。
頭は左の頬を下にして机にのり、口はひきつれて閉じ、目は大きくむき出していた。上半身は机の表面から、半分ほどねじ向けてはなされ、シャツの右胸の表面に深紅のしみが、べっとりと見えた。深紅の凝結したうねりの中に、黒ずんだ穴が二つあいていた。
机の上には普通机の上に置いてあるような品は何もなかった。吸取紙挾みや、インク壷や、ペン皿や紙のかわりに、トランプがちらばっているだけで、その並べ方が、かなり妙だった。いくつもに小さく積まれたトランプの大部分は、外科医のからだに隠されていた。
床に敷いてあるみどりの絨毯のはしの、横廊下に通じる、閉めたドアの近くのすみに、銃身の長い黒い回転拳銃がころがっていた。
*
マーク・ゼーヴィアは図書室のドアの框《かまち》によりかかって、書斎の中の動かぬ兄の姿を見つめていた。
ゼーヴィア夫人が、エラリーの肩ごしに、思いつめたように「ジョン」と呼んだ。
やがて、エラリーが「皆さんは、あちらへ行かれた方がいいでしょうよ。ホームズ先生だけ残って下さい。手伝っていただきます。さあ、皆さん、どうぞ」
「手伝ってもらう?」と、マーク・ゼーヴィアがとげとげしく言った。充血した目の上でまぶたがぱちぱちした。框からふらふらと離れて「どういうことなんだね――そりゃ。いったい、君たちは、自分を何者だと思っているんだい、え?」
「だめよ、マーク」と、ゼーヴィア夫人が反射的に言って、夫の死体から目をそらし、赤い麻ハンカチで唇をおさえた。
「マーク呼ばわりはやめてほしいな。けしからん」と、ゼーヴィアはくってかかり「おい、君――君――クイーン――」
「チッ、チッ」と、エラリーがおだやかに舌打ちして「ゼーヴィア君、神経が少したかぶっているようですね。議論してる場合じゃありませんよ。おとなしくして、ご婦人方をお連れして下さい。こちらには、しなければならないことがありますからね」
大男は拳を握りしめて、エラリーの顔を睨みながらつめより「君らをなぐりつけてやりたいぞ。君らふたりは、出しゃばりすぎてやしないか。いいかげんに引っ込んだ方が身のためだぞ。出て行ってくれ!」その時、急に何かを思いついたらしく、血走った目が、いなずまのようにきらりと光った。「君らふたりには、どうも、ひどく妙なところがある」と、ゆっくり「わかったもんじゃない、君らが――」
「おお、この|ばか《ヽヽ》に話してやって下さい、お父さん」と、エラリーがたまりかねたように言い、書斎にはいって行った。エラリーはゼーヴィア博士の上半身が乗りかかっているトランプのカードに、ひどく気をひかれているらしかった。
大男の顔は、赤くなったり青くなったりして、口を動かしたが声は出なかった。ゼーヴィア夫人が急に、ドアによりかかって両手で顔を覆った。ホームズ医師もフォレスト嬢もおどろきで身じろぎもせず、いつまでも、いつまでも死人の動かない頭を見詰めていた。
老紳士は胸の内ポケットをさぐって、すりきれた黒いケースをとり出し、ぱちっとふたをあけて、それを差し示した。ケースの中には、金色の楯形のバッジがはいっていた。
マーク・ゼーヴィアの顔から赤みがゆっくりとひいて行った。まるで生まれながらの盲目で色盲で、立体感のあるものを、いま初めて見るかのように、そのバッジを見つめていた。
「警官か」と、唇をしめしながら辛うじて言った。
その言葉で、ゼーヴィア夫人の両手がだらりと下がった。顔色が真青になり、黒い目に、暗い苦痛、実に生々しい苦痛の色が、燃え上がった。そして「警官なの」と、つぶやいた。
「わしは殺人課のクイーン警視、ニューヨーク警察の」と、老紳士は事務的な声で「まるで、作り話か、古いメロドラマじみて聞こえるだろうが、まさにその通り、どうしようもない。どうしようもないことは、多いもんだ」と、一息入れてゼーヴィア夫人を見守り「昨夜、わしが警官なのを話さなかった点は、はなはだすまんと思っとります」
だれも答えなかった。皆は、恐怖と意外さのまじった表情で、バッジと警視を見つめていた。
警視はぱちりとふたを閉めて、ケースをポケットに戻した。「それというのも」と、警視は人間狩り商売の、いつもの鋭さで目を光らせながら「ジョン・ゼーヴィア博士は、当然、今朝もびんびん元気に生きとるものと、確信しとったからね」
警視は少し身をまわして書斎を覗きこんだ。エラリーが、死人にかがみ込んで、目や、襟首や、硬直している左手にさわってみていた。警視はまた向き直って、普通に話すような調子で「今朝は、美しい朝で、死ぬにはもったいないほど、美しい」と、つづけながら、漫然と一同を見まわした。その目は明らかに一同を疑っていると同時に、こんな経験には慣れっこで、うんざりだといわんばかりだった。
「で、でも」と、フォレスト嬢が口ごもりながら「わ、わたくしは――なにも……」
「さよう」と、警視がむぞうさに「だいたい、人は警官が同じ屋根の下にいるときは殺人はせんものだよ、フォレストさん。運が悪かったな――ゼーヴィア博士は。……ところで、皆さん、よく聞いて下さい」エラリーは今は、書斎を静かに歩きまわっていた。警視の声が引きしまり、鞭打つような調子が加わると、ふたりの女は本能的に身をすくめた。マーク・ゼーヴィアは、ぴくりともしなかった。
「ゼーヴィア夫人、フォレスト嬢と、君、ゼーヴィア君は、この図書室にいてほしい。ドアは開けておくが、君らはだれも、この部屋を出ないでほしい。ホイアリーさんと『骸骨』君は、後で調べる。とにかく、誰も逃げ出せん。うまいことに、麓の小火《ぼや》で出口がふさがっとるけれどもな……ホームズ君は、わしと一緒に来てほしい。さし当たり役に立つのは、君ひとりだろうな」
小さな老紳士は書斎にはいって行った。ホームズ医師は、ふるえて目を閉じ、ふたたび開いて後につづいた。
他の者は、みんな目ばたきも、身じろぎもせず、何も聞こえなかったように無表情で、そのまま、床に凍りついたかのように、もとの場所に残っていた。
*
「どうだ、エル」と、警視がささやいた。
エラリーは机の後ろで、ひざをついていたが、立ち上がり、ぼんやりと、たばこに火をつけた。
「非常に面白いですね。あらまし調べ終りましたがね。こりゃ妙な事件ですよ、お父さん」
「この半気違いどもに、かかり合いがあるんだろうな」と、どなるように「まあ、いずれにしても、一、二分で片がつくんだろう。すぐ片付けねばならんことが、二、三ある」
警視は、机の前に立って、ぎらぎらする目で、同僚の死体を見守っているホームズ医師の方を向き、イギリス青年の腕を、それほど荒っぽくなくゆすぶった。「先生、そんなにきょとんとしていないで。先生が故人の友達で親しかったことは心得とるが、さし当たり、わしらの手伝ってもらえるお医者は、先生だけなんだ」
ホームズ医師の目から凝視が消えて、ゆっくりと頭を振り向けた。「僕に何をしてほしいんですか」
「死体の検査さ」
青年は青ざめて「おお、とてもそんなこと、駄目ですよ。できっこありません」
「おい、おい、君、しっかりしてくれ。君は専門家じゃないか。実験室では、死体をどっさり扱って来たに違いないだろう。前にもこんなことがあった。わしの友人の、マンハッタン医務検査局員プラウティは、自分のポーカー友達の死体を解剖しなければならんはめになったことがある。あとで少々病気になったが――立派にやりとげたよ」
「はい」と、ホームズ医師は唇をなめながら、息をつまらせて「はい、分かりました」と、身ぶるいした。それから、歯をかみしめて、やや落ちつきをとりもどし「承知しました、警視」と言い、足を曳きずるようにして、机をまわって来た。
警視は、ホームズ医師の角張った肩を、ちょっと見ていたが、小声で「しっかりした青年だ」と、つぶやき、目を移して、ドアの向こうの連中を、ちらっと眺めた。連中は身動きもせず元の場所にいた。
「ちょっと、エル」と、警視が、うなるように言った。エラリーは、ひどく目を輝かせながら、父のそばに歩み寄った。「ちょっと妙な立場だな、エル。なにしろ、正式な権限は全然ないんだから、死体にも手が触れられんわけだ。オスケワに通報せにゃならん――あそこの管轄だろうよ」
「むろん、僕もそう考えていたところですがね」と、エラリーは八の字をよせて「火事をうまく抜けて来られればいいが――」
「そうさな」と、警視は少しにがい顔で「ふたりだけで事件を扱うのは、これが最初でもないからな――しかも、また休暇中の事件だ〔エジプト十字架事件〕」と、図書室のドアの方を頭で指して「あの連中を見張っててくれ。居間へ行って、オスケワに連絡してみる。保安官がつかまるかどうか、やってみよう」
「分かりました」
警視は急ぎ足で、絨毯《じゅうたん》の上の拳銃も目にはいらないかのように部屋を横切り、横廊下につづく戸口から姿を消した。
エラリーは、しばらく、ホームズ医師を見ていた。医師は、青ざめてはいたが落ちついて、死体のシャツをはぎ、二つの銃創を露出した。孔のふちは、かわいた血の下で青くなっていた。ホームズ医師は、死体の位置を動かさずに、じっと孔をのぞき込むと、ちらりと、警視の出て行った戸口に横目を走らせ、大きくうなずいて、死人の腕を触りはじめた。
エラリーも、うなずいて、その戸口に、ぶらりと近づいた。しゃがんで、拳銃の長い銃身をつまみ上げた。そして、窓からの光に照らしてみて、首を振った。
「アルミニウムの粉があればいいんだがな――」と、つぶやいた。
「アルミニウム粉」と、ホームズ医師は目も上げずに「指紋の検出に使うんでしょう、クイーンさん」
「ほとんど必要もなさそうだな。柄《つか》は大変よくみがいてあるし、引き金もぴかぴかです。銃身はどうかな――」と、エラリーは肩をそらせて、弾倉を二つ折りに開けてみた。「誰が使ったのかしらないが、普通の用心がしてあって、銃の指紋もきれいに拭きとってある。時々思うんだが、推理小説にも、一つの掟《おきて》があるべきだな。推定犯人に、手がかりを多く与えすぎますよ。ふーん……弾倉が二つ空《から》になってる。きっと、これが凶器にちがいないと思うな。しかし、ともかく、先生に弾をほじくり出してもらわなくちゃ」
ホームズ医師は、うなずいた。やがて、立って研究室に行き、ぴかぴか光る道具を持って戻った。そして、また、死体にかがみ込んだ。
エラリーは小さな書類箱《キャビネット》に注意を向けた。書類箱は図書室に通じるドアがある壁の一部を占め、図書室のドアと横廊下へのドアの中間に立っていた。一番上の引出しが少しあいていた。あけてみると、色があせ、きずだらけな革の拳銃ケースが、引出しの底にころがっていた。ベルトは見当たらなかった。引出しの奥の方に、薬包の箱が一つ、中には一、二発の薬包しかなかった。
「こりゃ自殺臭いな」と、エラリーはつぶやき、拳銃ケースと薬包箱を見てから、引出しをしめた。「こりゃゼーヴィア博士の拳銃でしょう、先生。銃とケースからみると、古いアメリカ陸軍の兵器だと分かりますよ」
「ええ」と、ホームズ医師はちょっと目をあげて「博士は第一次大戦に従軍していたんです。歩兵大尉でね。記念としてこの拳銃を持っているんだと、いつか話していました。それが、今――」と、黙り込んだ。
「それが、今」と、エラリーが引きとって「自分に向けられた。ものごとというものは、変なめぐり合わせになるもんですね……ああ、お父さん。どうですか、何か分かりましたか」
警視は横廊下のドアをいきなり閉《し》めて「運よく、町にいる保安官が、やっとつかまった。ひる寝をしに戻ったところでな。こちらの想像どおりだよ」
「うまく突っ切れないんですか」
「全然だめだ。火事はますますひどくなっとる。たとえ、突っ切れても、今は忙しくて手が出ないと言っとるのだ。全部を動員してもまだ手が足りんそうだ。すでに焼死者三人、電話の話しぶりから察すると」と、警視がにがにがしげに「ここで、もう一つ死体が出たと聞いても、大しておどろきもせんようだ」
エラリーは黙って框《かまち》によりかかっている背の高いブロンド男の姿を、見つめていた。「そうですか、それで?」
「わしが電話で身分を明かすと、奴さん、得たりとばかり、わしを特別代理人に仕立てて、捜査、逮捕の全権を任すといいおった。火事場が突っ切れるようになり次第、郡の検視官を連れて駆けつけるそうだ……つまり、わしらに一任というわけだ」
戸口の男が妙なため息をもらした――ほっとしたのか、がっかりしたのか、ただ疲れたのかは、エラリーには判《わ》からなかった。
*
ホームズ医師がまっすぐに立ち上がった。その目は全くどんよりしていた。「もう、すっかり済みました」と、抑揚のない声で言った。
「ああ」と、警視が「ご苦労。判定はどうかね」
「正確に」と、医師は右手の拳をトランプのちらばっているテーブルのふちに置いて訊いた。「何が知りたいんですか」ものを言うのも困難らしかった。
「死因は射殺かね」
「ええ。他に暴力を加えられた痕跡はありませんよ、外診ではね。右の胸部に二発、胸板のやや左よりで、一発はやや高めです。一発は第三胸骨をぶち抜いて右肺のてっぺんにとびこんでいます。低い方の一発は二本の肋骨のあいだをくぐり、心臓の近くの右の気管支にはいりこんでいます」
戸口の向こうから、ごくりとのどを鳴らす音が聞こえたが、三人は気にもとめなかった。
「内出血は?」と、警視がすぐ訊いた。
「ありますね。ご覧の通り、唇に血泡が出ています」
「即死かな」
「じゃないでしょうね」
「僕にも分かるな」と、エラリーがささやいた。
「どうして?」
「じきに分かりますよ。お父さんは、まだ、死体をじっくり見ていないんですよ。で、先生――弾の方向はどうでしょう」
ホームズ医師は片手で口を撫ぜながら「その点については疑問はほとんどないと思いますよ、クイーンさん。拳銃は――」
「そうです、そうです」と、エラリーはじりじりして「そりゃ、はっきり分かりますよ、先生。だが、弾から発射角度が割り出せますか」
「割り出せるでしょうね。そう、たしかに。二発とも進路は、同じ角度を示しています。君が拳銃を拾いあげた、絨毯のほぼその場所から発射されたものです」
「よろしい」と、エラリーは満足そうに「ゼーヴィア博士のやや右よりで、正面からですね。すると、博士には殺人犯人のいるのがほとんど分からなかったわけだ。ところで、昨日の夕方、この拳銃があの引出しの中にあったか、どうか、あなたには分からないでしょうね」
ホームズ医師が肩をすくめて「残念ながら、知りませんよ」
「なに、大したことじゃないんです。おそらくあったんでしょうよ。情況からみて、衝動的な犯罪のようです。少なくとも、計画的であったか、どうかという点から言う限りではね」
エラリーは凶器の拳銃が、ゼーヴィア博士の書類箱の引出しから取り出された博士のものであり、犯行後、指紋をきれいに拭きとったものなのを、父に説明した。
「すると、事件を想像するのは、たやすいな」と、警視は考えこみながら「犯人が四つのドアのどれからはいったか、説明する方法はない。廊下からか図書室からだろう。だが、はっきりしとるのは、犯人が侵入したとき、博士は、今の、その場所で、ひとりでトランプをしていたことだ。犯人は引出しを開け、拳銃をとり出した……銃は装填してあったか?」
「そうだと思います」と、ホームズ医師が、ものうげに言った。
「銃をとり出し、廊下のドアのそばの、その書類箱のあたりに立ち、二発射ち、銃をきれいに拭いて、絨毯の上に落とし、横廊下から逃げ出した」
「必ずしもそうじゃありませんよ」と、エラリーが言った。
警視は目をむいて「なぜ、そうじゃない? すぐ後ろにドアがあるのに、部屋を横切って、わざわざ遠いドアから出る奴があるか」
エラリーが、おだやかに「僕は『必ずしも、そうとは限らない』と言っただけですよ。僕も、そんなことだろうとは思いますが、それだけでは何も分かりゃしません。犯人がどのドアから部屋に侵入し、どのドアから逃亡しようと、それだけでは、特別に確定的なことは、何も分かりませんよ。この四つのドアは、どれも、他に出口のない部屋に通じていません。つまり、二階から、こっそりとこの階に降りて来た者なら、だれにでも、どのドアも通り抜けられますからね」
警視がぶつぶつ言った。ホームズ医師が、疲れた声で「ご用がこれだけなら………弾はこれですよ」と、机の上に放り出した、黒く血のこびりついているひしゃげた二つの弾を指さした。
「同じ種類か」と、警視が訊いた。
エラリーはむぞうさに調べて「ええ、拳銃や薬包箱に残っている弾と同じものです。別になにも……行く前に、ちょっと、先生」
「何ですか」
「ゼーヴィア博士は死後どのくらいですか」
青年医師は腕時計を睨んでいたが「今、十時近くですから、少なくとも死後九時間は経っていると思いますね。死んだのは、ほぼ、今朝の午前一時頃ですね」
戸口に立っているマーク・ゼーヴィアが初めて身動きした。きっと頭をそらし、口笛を吹くような音をたてて息を吸った。それが合図かのように、ゼーヴィア夫人が、うめき声をあげて、書斎の椅子に、よろめきながら腰をおろした。アン・フォレストが、唇をかみしめ、夫人にかぶさるようにして、低い声でなぐさめた。未亡人は、機械的に首をふり、椅子によりかかり、ちょうど戸口越しに見える亡夫の、ぎごちなく突っぱった左手を、じっと見つめていた。
「午前一時」と、エラリーは眉をよせて「昨夜、僕たちが部屋に引きとったのは十一時少し過ぎだった。そうか……お父さん、何か見落としがありますよ。争った形跡が少しもありません。ということは、博士は、おそらく犯人を知っていて、悪いことをするなどとは思いもかけず、気付いたときには、もう手遅れだったのでしょうね」
「そりゃ大変役に立つな」と、警視が唸《うな》って「たしかに、博士は加害者の顔を知っていたんだ。博士は、この辺の山の連中を、みんな知っとったはずだ」
「むろん、あなたのおっしゃるのは」と、ホームズ医師が強《こ》わばった声で「この家の者のことでしょう」
「先生、あんたはわしの言うことが、初めて分かったね」
*
廊下のドアが開き、家政婦のホイアリーが、こざっぱりした灰色の頭をのぞかせて「朝のお食事――」と、言いかけてから、目をむき、あごを、妙にひきつらせた。そして、すぐ悲鳴をあげて、危く、戸口に崩折《くずお》れかけた。やせこけた『骸骨』の姿が、家政婦の後ろから、ひょいと現われると、長い腕をのばして、その太ったからだを抱きとめた。やがて、『骸骨』も、ゼーヴィア博士の静止している姿を、ちらりと見ると、青くて|しわ《ヽヽ》だらけな頬が、いっそう青ざめた。あやうく、家政婦のからだを取り落としそうにした。
エラリーが、とび出して、家政婦を抱きとめた。家政婦は失神していた。アン・フォレストがそそくさと書斎にはいりかけ、ちょっとためらい、息をぐいとのんで、手伝いにかけよった。エラリーとふたりで、ひきずるようにして、老家政婦を図書室に、かかえ込んだ。マーク・ゼーヴィアも博士未亡人も、全然、身動きしなかった。
家政婦の世話を、フォレスト嬢にまかせて、エラリーは書斎にもどった。警視は、やせこけた老人を、さりげなく見つめていた。『骸骨』は、主人の死体を、ぽかんと口をあけて見ていて、その様子は死人よりも、もっと死人みたいだった。ぽかんとあけた黒い口から、黄色い歯ぐきが見えていた。その目は、とび出して、ガラス玉のようだった。やがて、正気がもどると、その目に妙な怒りの色が浮かんで来た。音もなく、しばらく口をぱくぱく動かしていたが、やっと、皺だらけの喉から、しわがれた、獣《けもの》みたいな叫び声を立てた。そして、身をひるがえして廊下へとび出して行った。横廊下をどたどたと駆けながら、気が違った男のようにいくどもいくども意味もない叫び声を上げるのが聞こえた。
警視がため息をして「すっかり、たまげちまったらしいな」と、つぶやき「さて、諸君!」
警視は書斎の戸口に歩みより、一同を見まわした。一同は、警視を振り向いた。家政婦のホイアリーは、正気をとりもどして、奥さんのそばの椅子で、静かにすすり泣いていた。
「もっと綿密な調査をすすめる前に」と、警視が冷やかに「二、三はっきりさせておかねばならんことがある。いいかね、わしの求めるのは真実だ。フォレストさん、あんたとホームズ先生は、昨夜は、わしたちのすぐ前に、ゲーム室を出た。君らは、真直ぐに部屋に行ったかね」
「ええ」と、フォレストは低い声で答えた。
「すぐ寝たかね」
「ええ、警視さま」
「君、ホームズ君は」
「寝ましたよ」
「奥さん、あんたは昨夜、踊り場でわしらと別れてから、真直ぐにお部屋へ行かれ、一晩中、部屋におられたかな」
未亡人は、そのすばらしい目を上げたが、その目はうつろだった。「わたくし――ええ」
「すぐ寝《やす》まれたかな」
「はい」
「夜のあいだ、ご主人が寝みに上がって来られなかったのに、気がつかれなかったかな」
「はい、気がつきませんでしたわ」と、夫人が、ゆっくり「今朝までぐっすり寝ておりましたの」
「ホイアリーさん、あんたは?」
家政婦はすすり上げて「わたくしは、今度のことは、何も存じませんです。神さまがご存知ですわ。わたくしは、すぐ寝《やす》みました」
「君はどうかね、ゼーヴィア君」
マーク・ゼーヴィアは答える前に唇をなめた。喋《しゃべ》り出した声は、かすれていた。「ひと晩中、ベッドから動かなかったですよ」
「そうか、そんなことだろうと思っとった」と、警視はため息をして「すると、伜《せがれ》と、奥さんと、わしが、昨夜ゲーム室から出たあと、誰も博士を見ていないことになるな」
一同は、ほとんど真剣に、うなずいた。
「銃声はどうかね。誰か聞いたものはいないか」
一同は、ただ目を見張るばかりだった。
「山の空気のせいにちがいない」と、警視はあざけるように「とは言うものの、その点は、わしの方が少しむりかもしれんな。わし自身聞かなかったのだから」
「壁が防音装置になってるんです」と、ホームズ医師が元気のない声で「特に作らせたのです――書斎と研究室は。僕たちは、動物実験をたびたびやるものですからね、警視さん。なにぶんにも、騒々《そうぞう》しくて――」
「なるほど。ここいらのドアは、いつも、錠を下ろしてないのだろうな」家政婦のホイアリーと夫人が同時に、うなずいた。「拳銃については、どうかね。書斎のあの小さな書類箱に、銃と弾があることを知らなかったひとがいるかね」
フォレスト嬢が、すぐに「わたくしは存じませんでしたわ、警視さま」
老警視は鼻を鳴らした。エラリーは書斎で、考えこみながらたばこをすっていて、ほとんど、何も聞いていなかった。
警視は、しばらく一同を見てから、手短かに「さし当たりこれで結構。いや」と、さりげない調子で言いたした。「このままにしとって下さい。まだまだ聞きたいことがあるからね。ホームズ先生は、わしらと一緒にいてほしい。必要とすることがあるかもしれんから」
「おお、お願いですわ」と、ゼーヴィア夫人が腰を浮かせて言いかけた。やつれて、ふけた顔つきで「あの、わたくしたちは――」
「奥さん、どうぞ、そのままにしとって下さい。片づけねばならんことが、どっさりあるんですよ。その一つは」と、警視が重々しく「お宅にかくれとるお客のカロー夫人に降りて来てもらって、少しばかりお喋《しゃべ》りしたいんです」そう言ってから、驚きあきれる一同の顔を尻目に、ドアを閉めかけた。
「それに」と、エラリーも生真面目《きまじめ》に「蟹ですよ。お父さん、蟹を忘れないで下さいよ」
しかし、一同は、呆然として、とても口が利けなかった。
*
「さて、先生」と、ドアがしまると、エラリーが、すぐつづけて「死後硬直はどうですか。見たところ板みたいに硬いようですがね。僕も死体の検査には、多少経験があるんですが、これは、いちじるしく、硬直が進んでいるようですがね」
「ええ」と、ホームズ医師が、低い声で「硬直は完全です。事実、硬直は九時間で完全になっています」
「おい、おい」と、警視がむずかしい顔付きで「そりゃたしかかね、先生。どうも、型通りでないようだが――」
「その点はたしかです、警視。というのは、ゼーヴィア博士は――」と、唇をなめて――「ひどい糖尿病でしたからね」
「ああ」と、エラリーが穏かに「また、糖尿病患者の死体に出会ったわけですよ。オランダ記念病院のドールン夫人を覚えているでしょう、お父さん。それで、先生」
「ごく普通のことなんです」と、イギリス青年は、ものうく肩をすくめて「糖尿病の場合、硬直は死後三分で早くも始まります。むろん、血液の特殊条件のためです」
「思い出した」と、警視は、嗅《か》ぎたばこを一つまみとり、深く吸い込み、ため息をして、たばこいれをしまった。「なるほど、面白いが、別に役にはたたんな。ホームズ君、その長椅子に腰を下ろして、しばらく、こんな事件は忘れるようにしたまえ……ところで、エル、お前がぶつぶつ言っとった妙な点を、すっかり調べてみるとしよう」
エラリーは吸いかけのたばこを、あいている窓から放り投げて、机を回り、ゼーヴィア博士の死体が腰かけている回転椅子のそばに立った。
「ごらんなさい」と、床をさして言った。
警視は一目見ると、はっと驚いた顔付きで、しゃがみ込み、だらりとたれ下がっている死人の右腕をつかんだ。それは鉄製のように硬くなっていて、動かすのに大骨折りだった。警視は死人の手をつかんだ。
握りしめていた。三本の指――中指、薬指、小指――が、しっかりと手のひらに折りこまれていた。伸ばされた人差指と親指との間に、死んだ外科医は、しわになった固い紙片を持っていた。
「こりゃ何だ」と、警視はつぶやき、二本の死んだ指の間から、その紙片を引き抜こうとした。指はしっかり握っていてはなれない。老紳士は、ぶつぶつ言いながら、親指を片手で、人差指をもう一方の手でつかみ、力いっぱい押しひろげようとした。苦労のあげく、やっと十六分の一インチほど、つかんだ指をひろげることができた。固い紙片が絨毯の上にひらひらと落ちた。
警視は、それをひろって、立ち上がった。
「なんだ。ちぎれたカードじゃないか」と、がっかりしたような声の調子だった。
「そうですか」と、エラリーが、おだやかに「ひどく、がっかりしたように言いますね。お父さん。ぼやきなさんな。そいつは、見かけよりずっと重要なもののような気がしますよ」
それは、スペードの6のちぎれた半分だった。
警視が裏返してみると、裏面は |fleurs-de-lis《フルールドリス》〔いちはつ〕の組み合わせ模様で、派手な赤い色だった。机の上のカードを見ると、みんな裏は同じ模様だった。
警視がいぶかしげにエラリーを見、エラリーがうなずいた。ふたりは進みよって、死体をひき起こした。やっと、机の表面から少し引きはがすと、回転椅子を一、二インチ後ろにずらせて、死体をまた伏せたので、頭だけが机のふちにもたれかかった。それで、広げられていたカードが、ほとんど全部現われた。
「このスペードの6は、この机の上のです」と、エラリーが小声で「ごらんの通り」と、カードの列を指さした。ゼーヴィア博士が、殺される前に、普通の|ひとり遊び《ヽヽヽヽヽ》をやっていたのは明らかだった。遊び手は|めくり《ヽヽヽ》のために十三枚のカードを|やま《ヽヽ》に積み、表を向けて四枚のカードを一列に、五枚目のカードを表を上にして数の順に重ねて行く、あの遊び方である。遊びはかなり進行していた。四つのグループの二番目のカードはクラブの10で、その下に、10にほとんどかくれて、ハートの9の札があり、ほとんど同じ置き方で、その下がスペードの8、次がダイヤの7、そして、かなり隙間をおいて、最後にダイヤの5があった。
「このスペードの6は、ダイヤの7と、ダイヤの5の間にあったんだな」と、警視がつぶやき「なるほど。博士はこの列から抜き出したんだな。ところで、どうも……このスペードの6の片われはどこにある?」と、急に訊いた。
「机の後ろの床にありますよ」と、エラリーが言い、机をまわって、腰をおとした。そして、くしゃくしゃに丸めたカードを持って立つと、それをのばし、死んだ男の右手からとりあげた切れっぱしと、合わせてみた。切れ口は、少しの重なり合いもなく、ぴたりと合った。
死人の手からの切れはしと同じように、もみくちゃの切れはしの上にも楕円形の指の|しみ《ヽヽ》がついていた。明らかに親指のしみで、片方のと同じようだった。半分ずつのカードをつないでみると、二つの|しみ《ヽヽ》は互いに向かい合って、どちらも裂いた線に対して斜めに上向きになっていた。
「むろん、この|しみ《ヽヽ》は、博士がカードを裂いたときにできたものだな」と、警視は、何か考えこみながら言い、死人の両手の親指を調べて「たしかに、汚れとる。こりゃ、山火事の煤《すす》だろうな。そこいらじゅうに降っとる。そうだ、エル、お前の言う意味が分かったぞ」
エラリーは肩をしゃくり、くるりと窓を向いて、外を眺めた。ホームズ医師は、黒い長椅子で、ほとんど二つ折りになるほど身を曲げ、両手で頭をかかえていた。
「博士は二発くらい、犯人は死んだと思って、ずらかった」と、警視が、ゆっくりつづけた。
「だが、死んではいなかった。最後の意識のあるうちに、やりかけていた、ひとり遊びのカードから、スペードの6をとり、故意に二つに裂き、半分を丸めて捨て、それから息をひきとった。だがいったい、なぜ、そんなことをしたんだろうな」
「分かりきってることを訊くんですね」と、エラリーが振り向きもせずに「あなたも、僕と同じに知ってるじゃありませんか。机の上に紙も書く道具もないのは、むろん、調査ずみですよ」
「そこの、一番上の引出しは、どうだ?」
「見ました。このカードはその中にあったものです――例によって、遊び道具が詰まってます。紙はありますが、ペンも鉛筆もありません」
「着衣にもないかな」
「ええ、スポーツ着ですもの」
「他の引出しには?」
「みんな錠がおりてます。鍵は身につけていません。ほかの服にあるか、どこかほかにあって、立ち上がって探しに行けなかったんでしょうね」
「なるほど、すると」と、警視がぴしりと言った。「話は、はっきりしとる。博士には犯人の名を書く手段がなかったわけだ。そこでこのカードを残したんだ――丸めなかったカードの半分を――書く代わりにな」
「まさにそうですね」と、エラリーが咳いた。
ホームズ医師が頭をあげた。まぶたが怒りでまっ赤になっていた。
「えっ? 博士が残したって――」
「そうさ、先生。ところで、ゼーヴィア博士は右利きだったろうね」
ホームズ医師はぽかんとして、目を見張った。エラリーはため息をして「おお、その通り。手始めに、それを調べましたよ」
「調べたって――?」と、老紳士が、びっくりして言いかけた。「だが、どうやって――」
「いくつも方法はありますよ」と、エラリーが面倒くさそうに「猫を殺すにも、方法はいくつもあるのを、猫とりが教えてくれますさ。その肘掛け椅子にかかってる博士の上着のポケットを調べてみたんですよ。パイプもたばこ入れも右のポケットにはいっていました。ズボンのポケットも当たってみましたが、小銭は右のポケットで、左は空《から》でした」
「おお、博士は右利きでした。たしかです」と、ホームズ医師がささやいた。
「そうでしょう、そうでしょう。それで、右手にカードを持っていたことや、カードの隅の|しみ《ヽヽ》の向きと、符合しますよ。素敵だ。ところが、それだけじゃ、前と同じで、一歩も進んだことにはなりませんよ――ほんの少しもね。いったい、カードの切れはしで何を分からせようとしたんでしょうか。先生、博士がこんなふうにスペードの6を残したのは、どんなつもりだったか見当がつきませんかね」
まだ目を見張っていたホームズ医師が、はっとして「僕? いや、分かりません。本当に、てんで見当もつきません」
警視が図書室のドアに歩みより、さっと開けた。家政婦のホイアリーと、ゼーヴィア夫人と、故人の弟は――みんな元の通り、そこにいたが、フォレスト嬢の姿は見えなかった。
「あの若い女性は、どこへ行ったのかね」と、警視が荒っぽく訊いた。
家政婦のホイアリーはふるえ上がったが、ゼーヴィア夫人の耳には聞こえなかったらしく、夫人は断続的に、からだを前後にゆすっていた。
だが、マーク・ゼーヴィアが「出て行きました」
「カロー夫人にご注進に行ったな」と、警視がぴしりと言い「まあ、いい。誰ひとり逃げ出せっこはないんだからな、ありがたいこった。ゼーヴィア君、こっちへ来てもらおう」
ゼーヴィアは、のろのろと椅子から立ち、そり身になって、肩を張り、警視について書斎にはいった。そして、兄の死体から目をそらしながら、生つばをのみ、あちこちと視線を移していた。
「いやな仕事をせにゃならんのだよ、ゼーヴィア君」と、老紳士がてきぱきと「ホームズ先生にも手伝ってもらわなくちゃならん」
イギリス青年は目をぱちくりした。
「君にはどんなことか分かっとるはずだ。オスケワの保安官がやって来るまで、わしらはここで頑張っていなくちゃならん。それがいつのことになるか見当もつかん。その間、わしは捜査を行なう権利は保安官から委任されたが、これは重大犯罪だから、被害者の死体を埋葬する権利はない。規定通りの検視裁判と法律上の手続きが済むまで、死体は保管しとかねばならんのだ。分かったかね」
「すると」と、マーク・ゼーヴィアがけわしい声で「この――このひとを、このままにしとかなければならないと言うんですか。まさか、そんな――」
ホームズ医師が立って「運よく」と、強わばった声で「ここには――研究室に冷蔵庫があります。冷蔵しておく必要のある実験用のいろいろな液体をしまっておくのに使われているのです」と、言いにくそうに「それを――役に立てたらいいと思います」
「結構」と、警視が青年の肩をぽんとたたいて「うまい考えだよ、先生。死体が見えなくなれば、みんなすぐ気分も少しはよくなさるさ……さあ、手を貸したまえ、ゼーヴィア君、それに、おい、エラリーもだ。ひと仕事になりそうだぞ」
*
電気機具や、奇妙なかたちをしているガラス器が異様な恰好《かっこう》で林立している広い研究室から戻った三人は、顔色も青ざめ、汗にまみれていた。太陽はすっかりあがって、室内は耐えられぬほど暑く、息苦しかった。エラリーはできるだけ窓をみんな開け放した。
警視が、また、図書室のドアをあけて「さあこれで」と、いかめしく「少しばかり、探偵の仕事をする段どりになった。あまりいい気持じゃないかも知れんがね。みんなわしと一緒に二階へ上がって、そして――」
警視は言いかけてやめた。家の裏手の方から、金《かな》もののぶつかる音と、つんざくような叫び声がきこえて来た。片方の声は、怒りにふるえる、下男の『骸骨』のものだった。もう一方は、かすかに聞きおぼえのある、深い絶望的な唸り声だった。
「何事だ」と、警視は、くるりとふり向いて「だれもやって来れんはずだがな――」
警視は護身用の拳銃を抜き、書斎を駆け抜け、横廊下にとび出すと、けたたましい音のする方へ走り出した。エラリーが後につづき、他の連中も、あわてて、夢中になり、ころがるように後を追った。
警視は横廊下が本廊下と交差するところを右折し、前の晩、エラリーとふたりで家に招じ入れられたとき、ちらりと見えた、奥の突き当たりのドアに突進した。そして、ドアをさっと開き、拳銃を差し上げた。
とび込んだ所は、ちり一つないタイル張りの台所だった。
台所のまんなかの、へこんだ鍋《なべ》や、こわれた皿のちらばっている中で、ふたりの男が、からみ合って、必死に組打ちしていた。
ひとりは、例のやせこけた上っ張り姿の老人で、目がとび出し、大声で罵《ののし》りながら、気違いじみた力をふりしぼって、相手にくいさがっていた。
『骸骨』の肩ごしに、前の晩、クイーン父子が暗いアロー・マウンテンの山道で出会った例の男の、でっかく醜怪な、脂肪ぶとりの顔と、蛙のような目が、ぎょろりとのぞいていた。
六 スミスという男
「おお、お前か」と、警視が低い声で「やめろ」と、鋭く「もう、こっちのもんだ。じたばたすると容赦せんぞ」
太った男は、だらりと腕を下げて、ぽかんと目を見張った。
「ああ、あの自動車の先生か」と、エラリーはくすくす笑いながら、台所にはいった。そして、太った男の尻と胸を、ぽんとたたいた。「パチンコはないな、ふん。とんでもない手ぬかりだ。さあ、いったいどうしたんだね、フォルスタッフ君〔シェイクスピアの『ウィンザーの陽気な女房たち』の中の太っちょ〕」
紫色の舌が男の口にすべり出た。ずんぐりと、ばかでかく――横幅のひろい、人間の砦《とりで》みたいな男で、小さな、まるっこい、おなかをしていた。一歩進み出ると、からだがジェリーのようにゆらゆらゆれた。どうみても、けんのんな中年のゴリラという恰好だった。
『骸骨』は、角ばった全身の骨組みを引きつらせて、憎らしそうに男を睨みつけていた。
「おれが何をしたっていうんだ」と、得体《えたい》の知れないその男は、いやな低声《バス》で言い始め、その小さな目に狡《ずる》そうな色を浮かべた。「いったい、こりゃ、どういうんだ」と、胸を張って威厳をつけ「こいつが、おれに襲いかかったんだ――」
「自分の家の台所でかい」と、エラリーが低くつぶやいた。
「嘘つきめ」と、『骸骨』がぷりぷりして金切り声をあげ、「そいつが、開いている玄関から忍びこんで、台所を、うろつきまわってるところを、とっつかまえたんでさ。そいから、こいつは――」
「ああ、空《す》きっ腹《ぱら》なんだな」と、エラリーがため息をついて「ぺこぺこなんだろう。引き返してくるだろうと思ってた」
男はいきなり振り向いて、後ろに集まっている連中の顔を探るように見まわした。みんなは、きょとんとした目で、|でぶ《ヽヽ》を見つめていた。
「じゃ、このひとが」と、ゼーヴィア夫人が、かすれ声で言った。
「ええ、そうです。前に見かけたことがおありですか」
「いいえ、ございません」
「ゼーヴィア君、ホイアリーさん、ホームズ先生、どうですか……妙だな」と、エラリーがつぶやいて、でぶに歩みより「とりあえず、押込みの件は見のがしてやりましょうよ。まあ、人情としても、飢えた人間には、少しはめぐんでやるべきですからね。それに、食料はあり余ってるんですから……一晩中、死にものぐるいで火事をくぐり抜けて、やっと、今日たどりついたんだ、さぞ腹ぺこだろうね」
でぶは何も言わなかった。その小さな目で一同の顔をきょろきょろ見まわし、息をつまらせて、あえいだ。
「ところで」と、エラリーが鋭く「昨夜は、山で、何をしていたのかね」
でぶのはだけた胸が急にふくらみ「それが、あんたに、何の関係があるんだい」
「まだ、ぷりぷりしてるのかい。じゃ、教えてやるが、君には殺人容疑が濃いんだよ」
「殺し」あごがだらりとなり、蛙みたいな目から狡さが消えて、目《ま》ばたきしながら「えっ――誰が――」
「ふざけるな」と、警視がぴしりと言った。まだ拳銃を握っていた。「誰がだと? いましがた思いついたんだが、言いのがれようったって駄目だぞ……誰が人殺しならいいというんだ」
「まさか」と、でぶは、大きく吐息して、落ちつきのない目で「むろん――人殺しなんて――そんなこと全然知っちゃいませんぜ、皆さん、おれにできっこないさ。おれは夜中まで道を――出口を探して山の中をうろついてたんですぜ。それから、道を少しはずれたところに車をとめて、朝まで寝てたんだからね。そんなことってあるもんか」
「お前は下の道が通れないのが分かったので、結局、この家まで引き返して来たんだろう」
「なぜ――いや、人殺しなんかしませんぜ」
「そうか。じゃ、いったいなぜ、すぐ引き返さなかったんだ?」
「おれは――思いつかなかったんでさ」
「名は?」
でぶは、ためらいながら「スミスでさ」
「名は」と、警視がなんとなく「スミスだそうだ。よし、よし。なにスミスだ。ただのスミスか。それとも、まだ、ファースト・ネームをこねあげるだけ、頭が働かなかったのか」
「フランク――フランク・スミス。フランク・J・スミスでさ」
「どこからまい込んだんだ」
「そりゃ――その、ニューヨークでさ」
「変だな」と、警視がつぶやいた。「わしはニューヨークの悪党の面ならみんな知っとるつもりだがな。ところで、昨夜は、ここいらで、いったい、何をしとった?」
スミスは、また、紫色の唇を甜《な》めて「そりゃ――道に迷った|よう《ヽヽ》なんで」
「|よう《ヽヽ》だって?」
「つまり、迷子になったんでさあ。おれは――そう、おれはこのてっぺんまで来て、行きどまりと分かったんで、すぐまた引き返して山を下ったんでさ。そんとき、あんたたちに出会ったじゃないかね」
「あの時は、口のききようが違っとったぞ」と、老紳士が、にがにがしげに「しかも、とてつもなく急いどったな。すると、お前はこの家の者を誰も知らんのか。昨夜、道に迷ったとき、ここで停ったり、道を訊いたりなど、しなかったのか」
「いいや」と、スミスは、後ろで黙り込んでいる連中に、クイーン父子から目を移して「でもちょっとききたいが、誰が、不幸な目に――」
「この世からあの世へ、乱暴に送り込まれた不幸な人は誰かというのかい」と、エラリーが何か考えながらスミスの顔色を読んで「ジョン・ゼーヴィア、ジョン・S・ゼーヴィア博士と、おっしゃる方さ。この名で何か思いつかんかね」
やせこけた下男は、筋張ったのどの奥で、おびやかすようにうなり始めた。
「ないね」と、スミスがせかせかと「そんな名前、聞いたこともないね」
「それに、このアロー・マウンテンの山道をよじ登ったことも、ないんだろう、君――その――スミス君。昨夜が最初で――つまり、君のデビューってわけか」
「そうでさあ……」
エラリーは身をかがめて、でぶのずんぐりした片手を持ち上げた。スミスが、びっくりしてうなり、あわてて手を引っこめた。
「おお、噛みつくつもりじゃあないよ。指環をみただけさ」
「指環?」
「はめてないな」と、エラリーがため息をして「どうやら、お父さん、われわれは――そのう――当分の間、もう一客《ひときゃく》、迎えたってことらしいですね。奥さん――いや、ホイアリーさんが、お客の支度をしてくれるでしょうよ」
「そうらしいな」と、警視が、拳銃をしまいながら、憂鬱《ゆううつ》そうに「車から、荷物をとって来い、スミス、がらくたを」
「そりゃ、むろん、そうしますが、できるなら――もう火事が消えてやあ――」
「駄目だ。火事も消えとらん。車から荷物をとって来るんだ。『骸骨』君にお前を任すわけにはいかんからな――お前の耳をくいちぎりたがっとるからな。でかしたぞ、『骸骨』君、元気があっていい。目玉をむいとってくれよ」と、警視は、黙り込んでいる下男の骨ばった肩をぽんぽんたたいた。
「ホイアリーさん。スミスの部屋を二階に、とってやってくださらんか。どっか空き部屋があるでしょう」
「は、はい」と、ホイアリーが、びくびくして「いくつか、ございます」
「それから、何か食物をやって下さい。おとなしくしとるんだ、スミス。変な真似をするんじゃないぞ」
警視は、ひどく縮みあがって、肉がしぼんでいるような、ゼーヴィア夫人の方へ向き直り「どうも、奥さん」と、四角ばって「お宅で、こんな勝手なふるまいをして、申し訳ないが、殺人事件ともなれば、礼儀作法にかまっとるひまもないもんですからな」
「結構でございますとも」と、夫人が小声で返した。エラリーは新しく湧いた興味にかられて、じろじろ夫人を見ていた。夫の死体が発見されてから、すっかり生気を失ってしまったらしい。そのけぶるような黒いひとみの炎も消えて、生気がなかった。じっと見つめている目の底に、恐怖がひそんでいるように思える。あの、ぞっとするような、うす笑いのほかは――がらっと様子が変わっていた。うす笑いだけは、肉体の強いくせで、しっかりと唇にこびりついているのだ。
「これでよし。みなさん」と、警視がいきなり「これから、二階の社交婦人をちょっと訪ねてみよう。みんなと一緒にカロー夫人に会い、誰かがひとに何かをなすりつけたり、隠したりしないように、話の筋道を通してみようと思う。そうすれば、このいまわしい事件も目鼻がつくだろうからな」
低い、音楽的な落ちついた声が聞こえて来たので、一同は、はっとして廊下へとび出した。
「いらっしゃることはございませんよ、警視さま。私が降りてまいりましたものね」
その瞬間、エラリーはくるりと向きを変えて、ゼーヴィア夫人の目をとらえた。夫人の目は、また、元のように、熱っぽく、黒々としていた。
七 なげきの夫人
カロー夫人は、背の高いアン・フォレストの腕によりかかり――上品で、たおやかで、甘美な果実の花のように美しかった。とても三十歳にも見えなかった――かつかつだけれど。小柄なからだを、グレーのふわっと柔らかな衣裳にくるみ、いきで、優雅で、すらりとしていた。髪は黒々とし、茶色の目の上に、まっすぐな二本の眉がくっきりしていた。すき通るような小鼻と小さな口許は、ものごとを感じやすそうだった。目のまわりに、ほんのりと|くま《ヽヽ》ができて、かすかに皺《しわ》がよっていた。その身のこなし、かまえ、立ち姿、頭のささえ方に、エラリーは育ちのよさを見てとった。すばらしい女だ。その点では、ゼーヴィア夫人と同様な、すばらしさだ――と、エラリーは思った。その考えがエラリーをゆさぶった。ゼーヴィア夫人は、奇跡的に若さをとりもどしていた。そのくっきりした目の炎は、それまでになく輝きをまし、だらんとしていた全身の筋肉が一時によみがえっていた。そして猫のように緊張した目で、カロー夫人を、じっとうかがっていた。むき出しの、ひたむきな憎悪が、恐怖の色にとってかわっていた。
「マリー・カロー夫人ですな」と、警視が訊いた。前の晩、エラリーに語ったような賞賛の念を、今でも持っているかどうか、それをけぶりにも示さなかった。
「はい」と、小柄な夫人が「さようでございます……ちょっとごめん下さいませ」と、目の底に奇妙な苦痛と同情の色をひめて、ゼーヴィア夫人に向かい「本当にお気の毒に存じますわ。アンから伺いましたが、私にできることがございましたら何でも、どうぞ……」
黒いひとみが見ひらかれ、オリーブ色の小鼻がふくらんだ。「そうね」と、ゼーヴィア夫人は、一歩ふみ出して叫んだ。「この家から出てっていただきますわ。それならおできになるでしょう。あなたには、いいかげん苦労させられましたわ……出てって頂戴《ちょうだい》、あなたも、あなたのいまいましい……」
「サラ」と、マーク・ゼーヴィアがいら立った声で叫び、夫人の腕をつかんで荒っぽくゆすぶりながら「落ちつきなさい。何を言ってるか、わかってるんですか」
背の高い夫人は金切り声になって「このひとが――このひとが――」口の片隅につばがにじみ出し、黒いひとみは、|るつぼ《ヽヽヽ》のように燃え上がった。
「まあ、まあ」と、警視がおだやかに「いったい、こりゃどうしたことです、奥さん」
カロー夫人は動じた色もなく、血の気のない頬が、わずかに心の動きを示すだけだった。アン・フォレストがカロー夫人のふっくらした腕を、いっそう、しっかりと抱いていた。ゼーヴィア夫人は、ふるえて、頭を左右に振っていた。そして、義弟に、ぐったりとよりかかった。
「もう、これでよろしい」と、警視は、相変わらずおだやかな声でつづけ、エラリーに目くばせした。だが、エラリーはスミスの顔を観察していた。でぶのスミスは台所の奥に引き退《さ》がって、息を殺していた。まるで、死にもの狂いで消えてなくなろうと、身を細めているらしかった。肉のたるんだ顔は真青になっていた。
「居間に行って、話すことにしよう」と、警視が言った。
*
「ところで、カロー夫人」と、老警視は、フランス窓から暑い日の光がさし込む大きな部屋に、一同がぎごちなく着席すると口を開いた。「お話をうかがいましょう。ありのままに話してほしい。あなたからうかがえなくとも、他の者から聞き出しますからな。あらいざらい胸のうちをぶちあけて下さるがいいですぞ」
「何がお知りになりたいんでしょう」と、カロー夫人がつぶやくように言った。
「何から何まで。まず、実際問題からお聞きするが、この家に、どのくらいご滞在かな」
「二週間ですわ」夫人の音楽的な声も、ほとんど聞きとれぬほど低く、じっと床に目を落としていた。ゼーヴィア夫人は肘掛け椅子にゆったりと腰かけて、目を閉じ、小ゆるぎもしなかった。
「ここのお客ですかな」
「そう申しても――よろしいわ」と、夫人は言いかけて、目を上げ、また目を伏せた。
「誰と一緒に来られたかな、カロー夫人。おひとりで来られたのかな」
夫人は、また、ためらった。アン・フォレストが、すぐに「いいえ、わたくしが一緒にまいりました。わたくしは、この方の個人的な秘書ですの」
「そりゃ気がついとった」と、警視が冷やかに「あんたは、しばらく控えとってもらいたい。命令違反で、あんたと話をつけなければならんことが、うんとある。わしは、証人が抜け出して、他の者に告げ口をするのが――気に入らんのでな」フォレスト嬢はまっ赤になって唇を噛んだ。
「カロー夫人。いつから、ゼーヴィア博士とお知り合いかね」
「二週間前からですわ、警視さま」
「おお、そうか。すると、他の連中とも前から知り合いじゃなかったわけですな」
「ええ」
「そうかな、ゼーヴィア君」
大男は低い声で「その通りです」
「すると、病気でここまで登って来られたんだね、カローさん」
夫人は、ふるえて「ええ――まあね」
「あなたは目下ヨーロッパ旅行中だと、世間では思っとるんでしょう」
「はい」夫人は、訴えるように目をあげて「あの――わたくしは、世間に知られたくなかったものですから――」
「それで昨夜、わしとせがれが車でここに来たとき、あんたは隠れていたんですな。それに、ここの連中が、神経を立てて、あなたをかくまったんですな」
「はい」と、夫人はささやくように言った。
警視は胸をそらせて、何か考えながら、かぎたばこを吸った。特に幸先《さいさき》がいいとも言えんなと思った。そして、ぐるりと見まわしてエラリーを探したが、エラリーは、どうしたわけか、姿が見えなかった。
「すると、あなたは、ここの人たちと、前から知り合いじゃなかった。ただ治療を受けに来たというんですな。診察を受けに」
「はい、警視さま、そうなんですの」
「ふーん」と、老人は、部屋をひとまわりした。誰も口を利かなかった。
「おたずねするが、カロー夫人――昨夜は、どんな理由にしろ、ご自分の部屋を離れなかったですかな」カロー夫人の返事は、ほとんど、ききとれなかった。「どうかな?」
「離れませんでしたわ」
「嘘よ」と、ゼーヴィア夫人が、目をひらいて、いきなり叫んだ。そして、すっくと立ち、威《い》たけだかに頭ごなしに「部屋を出たわ。私は見たわ」
カロー夫人が真青になった。フォレスト嬢が目をぱちぱちしながら立ちかけた。マーク・ゼーヴィアが、びっくりして、腕を妙な恰好にのばした。
「かくしだてしとるな」と、警視はつぶやいた。「どいつもこいつも。奥さん、あなたはカロー夫人が部屋を出るのを見たといわれたが」
「はい。真夜中少し過ぎに、お部屋を抜け出して、階下へ急ぎ足で行きましたわ。私は見てましたよ。このひとが、夫の書斎へはいって行くのを。そこでふたりが――」
「それで、奥さん。どのくらいの時間?」
ゼーヴィア夫人の目がたじろいだ。「それは分かりませんわ。わたくし――待ってなんか――いませんでしたもの」
「本当かね、カロー夫人」と、警視が相変わらず、おだやかな声で訊いた。
小柄な夫人は急に涙ぐんだ。唇をふるわせて、むせび泣きはじめた。「はい、そうですわ」と、フォレスト嬢の胸に顔を埋めて、しゃくりあげながら「でも、わたくし、けっして――」
「ちょっと待った」と、警視はゼーヴィア夫人をくすぐるように、にやにや笑いながら見つめて「たしか、奥さんは、昨夜はお部屋にはいられるとすぐ、一晩中ぐっすりおやすみになったと言われましたな」
背のたかい夫人は、いまいましそうに唇をかみ、いきなり、椅子に腰をおろした。「そうよ。嘘を言ったんです。疑われると思ったのでね――でも、たしかにそのひとを見たんですよ。たしかよ。そのひとは――」と、言葉をにごして黙った。
「それで、待っていなかった?」と、警視が、落ちついて「出て来るのを見とどけなかった? おや、おや、いったい、あなた方ご婦人というものは、さっぱり見当がつかんな。よろしい。ではカローさん、真夜中すぎにゼーヴィア博士とおしゃべりをするのに、なぜ、みんなが寝しずまるまで待ってなかったのかね」
カロー夫人は、ねずみ色の絹ハンカチをとり出し、目を軽くおさえて、小さなあごを引きしめ「嘘を申しまして、あさはかでしたわ、警視さま。ホイアリーさんが、お部屋に下がる前に、私の部屋に寄って、あなた方――お客さま――が、ふもとの火事で、夜お泊まりになると知らせてくれました。そのとき、ゼーヴィア先生は階下にいらっしゃるというので、私は―――心配になったものですから」と、茶色の目をしばだたいて「それで、先生に話しに下におりたのです」
「わしとせがれのことについてかね」
「はい……」
「それと、あんたの――そう――容態についてもね」
夫人は顔を赤らめて、もう一度言った。「はい」
「博士の様子はどうでしたかな。変わりはなかったかね。元気だったかね。自然だったかね。いつも通りだったかね。心配の様子は見えなかったかね」
「いつも通りでしたわ、警視さま」と、低い声で「ご親切で、思いやりが深くて――いつものように。わたくしは、しばらくお話してから、二階の部屋へもどりました……」
「ひどいひと!」と、ゼーヴィア夫人が、また立ち上がって金切り声で「とても、がまんがならないわ。そのひとったら毎晩、主人とこそこそやって――ここへ来てからずっとよ――ひそひそ、ひそひそ、ずるそうなお愛想笑いなどつくってね――主人をとろうとしたのよ――そら涙なんかこぼして――主人の情《なさけ》をもてあそんで……それに、主人ときたら、美人にはまるっきり弱いんですものね。このひとが、なぜここに来たのか、そのわけをお話しましょうか、警視さま」と、のっそりと前へ歩み出し、縮こまっているカロー夫人の鼻先に、指をつきつけて「言ってみましょうか。どう。言いましょうか」
一時間も口をつぐんでいたホームズ医師が、はじめて口をひらいた。「おお、奥さん、僕は」と、口ごもりながら「まさか、そんなこと――」
「いや、おお、いけませんわ」と、カロー夫人が両手で顔を覆って、うめくように「どうぞ。どうぞやめて……」
「本当に見さげはてたひとね」と、アン・フォレストが、かっとなって、とび立った。「言いたければ言うがいいわ――女狼! そんなことしたら、あたし――」
「アン」と、ホームズ医師が低く言って、フォレスト嬢の前に立ちはだかった。
警視は、そのふたりの姿を、明るくほほえましそうな目で見つめていた。一同がやり合っている間、その顔を見まわすために、頭を動かそうともせず、身うごきもしなかった。広い部屋は怒声や荒い息づかいで、がやがやしていた……「言ってやるわ」と、ゼーヴィア夫人が、狂気じみた目付きで叫んだ。「言ってやるわ」
そのさわぎも、まるで誰かが大力で|たち《ヽヽ》切ったように、ぴたりと、いきなり鎮まった。廊下でもの音がしたのだ。
「本当にそんなことなさる必要はありませんよ、奥さん」と、エラリーが明るい声で「そんなことはみんな分かってるんですからね。涙をおふきなさいカロー夫人。こんなことは、悲劇の本筋からはずれてますよ。僕もおやじも、きわめて信用できる人間ですから、あなたの秘密をいつまでも守りますよ、信用して下さって大丈夫です――いつまでもね」と、悲しげに首を振って「他のだれよりも長くね……ところで、お父さん、僕はよろこんであなたにお知らせしますがね――そら――あの――あなたが昨夜見たか見たような気がしたもの」警視は息をのんだ。「言い添えますがね。ありゃ、明朗で、可愛く、礼儀正しくて、親しみ深いふたりの少年なんです。寝室にこっそりかくまわれているのに退屈して、宿主の家にまぎれ込んで来た、ものおそろしい連中を、ひと目|覗《のぞ》いてみようと、好奇心から廊下へ忍び出ることにしたんですよ。みなさんどうぞよろしく――左から右へ――ジュリアン君とフランシス君。カロー夫人の令息です。僕もついさっき知り合いになったばかりですがね、実に愉快な少年たちですよ」
エラリーは戸口に立ち、ふたりの背が高く、顔立ちのいい少年のそれぞれの肩に、片手をかけていた。少年たちは目を輝かして、もの珍しそうに目の前の光景を細々《こまごま》と見まわしていた。その後ろで、エラリーは微笑しながらも、きつい目で父親をたしなめておかなければならなかった。老人は、あきれて、ぽかんと立っていたが、あえぎながら、よたよたと歩みよった。
少年たちは十六歳ぐらいで――がっちりと、肩幅もひろく、日焼けした顔立も美しく、いかにも男前で、母親そっくりだった。片方は、まるで引きうつしのモデル人形のように、もう片方と瓜二つだった。からだつきから顔かたちまで、どこからどこまで瓜二つなのだ。服装さえ――プレスのきいたねずみ色のフランネルの服、明るい空色のネクタイ、白いワイシャツ、黒いグレーン革の靴――何から何まで、瓜二つなのだ。
だが、警視のあいた口がふさがらなかったのは、ふたりの少年が双子だという事実のせいではなかった。ふたりが、少し向き合いになっていて、右側の少年の右腕が、その兄弟の胸にくっつき、左側の少年の左腕がその兄弟の背中にかくれて見えず、ふたりのスマートなねずみ色のジャケツが、胸骨の高さで一緒になって、なんと、つながっているという事実のせいだった。
ふたりはシャム双子だったのだ。
八 ジフォパガス〔剣状接合双生児〕
少年たちは、子供っぽく、もの珍しそうに警視を見てから、かわり番こに、おずおずと、自由な方の手を差し出して、親しげに握手した。カロー夫人は、すっかり元気をとりもどし、胸を張って椅子に腰かけ、少年たちにほほえみかけていた。大変な努力を払っているなと、エラリーは感心した。そのことは、おそらく、アン・フォレストの他、だれにも分からないだろう。
「すごいなあ」と、双子の右手の少年が、気持のいいテノールで「あなたは、本ものの、警視庁の警視さんなんですか。クイーンさんが言ってた通り」
「そういうことになるらしいよ」と、警視が、かすかにほほえみながら「で、君の名前は?」
「フランシスです」
「で、君は?」
「ジュリアンです」と、左の双子が答えた。ふたりの声がそっくりだった。ジュリアンの方がしっかりしとるなと、警視は思った。ジュリアンは、熱心に警視を見つめて「よかったら――金のバッジを見せて下さいませんか」
「ジュリアン」と、カロー夫人がささやいた。
「はい、お母さん」
少年たちは美しい母親を見上げた。ふたりはすぐにほほえんだ。純真な、快よいほほえみだった。それから、全く優美に楽々と、ふたりは部屋を横切って歩いた。警視はふたりのゆったりして若々しい背中が、歩くリズムにつれてゆらぐのを見ていた。ジュリアンの左腕が兄弟の腰の後ろにくっついて、だらりとぶら下がっていた。少年たちは母親の椅子の前に、かがみ込み、母親はひとりひとりの頬に接吻した。それがすむと、少年たちは真面目くさって、長椅子に腰をおろし、じっと警視を見つめて、老人をどぎまぎさせた。
「さて」と、警視は、何か拍子抜けの|てい《ヽヽ》で「これで、話はまた、ちがって来た。どうやら、万事のいきさつが、のみこめそうな気がする……そりゃそうと、君――ジュリアン君の方だが――君の手は、どうしたんだね」
「ああ、くじいたのです」と、左手の少年がすぐ答えた。「先週、外の岩場で、ちょっと落ちたのです」
「ゼーヴィア先生が」と、フランシスの方が「ジュリアンの手当てをしてくれました。大していためやしなかったんだろう、ジュール」
「大したことじゃない」と、ジュールが大人っぽく答えた。それからまた、ふたりは警視に微笑を向けた。
「ふーん」と、警視が「君らは、ゼーヴィア博士が災難にあったのを知っとるだろうね」
「はい」と、ふたり一緒に、まじめに答えて、微笑を消した。しかし、目の中の興奮した光はかくせなかった。
「どうやら」と、エラリーが部屋にはいって、廊下のドアを閉めながら「われわれは完全に了解がついたようですね。むろん、この部屋で何を話されようと、カロー夫人、他に洩れることはありません」
「はい」と、夫人は、ため息をついて「まったく、悪いめぐり合わせでしたのよ、クイーンさま。わたくしは望んでいましたのに……わたくしはそう勇気のある方ではございませんの」と、すらりとして、からだの大きい息子たちを、妙にいたましそうに、ほこらしそうに、あたたかい目で眺めた。
「フランシスとジュリアンは十六年ほど前に、ワシントンで生まれましたの。その頃は夫もまだ生きておりました。ふたりは、生まれたときは全く健康で、正常な子供たちでしたが、ただ」と、言いよどんで目を閉じ「ごらんの通り、一つのことがちがっていたんですの。生まれながらに、ふたりはくっついていたのです。申すまでもなく、家族のものはみんな――ぞっといたしました」と、夫人は言葉を切って、少し息をはずませた。
「名門にありがちな、視野のせまさですね」と、エラリーが元気づけるように、ほほえんで「おっしゃる通り、そりゃ大騒ぎするほどのことじゃありませんね。ほこりを持ってしかるべきことでしよう――」
「ええ、私は誇りにしています」と、夫人は叫ぶように「世界一いい子たちです――丈夫で、すなおで――我慢強くて……」
「そりゃお母さんのことです」と、フランシスがにこにこして言い、ジュリアンはじっと母を見つめて、満ち足りているようだった。
「でも、わたくしには荷が勝ちすぎました」と、カロー夫人は低い声で「わたくしは気が弱くて――おじけづいていたのですわ。夫も世間並みに不幸なことと思っていました。それで……」
夫人は妙にやるせなさそうな身ぶりをした。どんなことが起こったか、想像にかたくない。世間ていを気にする名門家族。親族会議。口どめ料としてばらまかれた大金。産院から神かくしになった赤ん坊たち。信頼できる有能な保母への委託。カロー夫人が死産をしたという新聞発表……
「わたくしは時々、こっそりと訪ねて子供たちに会いました。子供たちも大きくなるにつれて、よく分かってくれました。一度も、不平を言ったことはありません。いい子たちで、いつも元気で、少しも恨んだりしませんでした。むろん、立派な家庭教師とお医者さまがつききりでした。夫が亡くなったとき、わたくしは考えました……でも、やはり、わたくしには荷が勝ちすぎたのです。それに、申しました通り、わたくしはとても勇気が足りませんでした。それで、いつも心にかけながら――胸のしめつけられるような思いで――」
「ごもっとも、ごもっとも」と、警視は言い、あわてて咳ばらいして「よく分かりました、カローさん。なんとも手の打ちようがなかったのでしょうな――医学的に言って」
「その説明ならできますよ」と、フランシスが元気に言った。
「おお、君にできるかな」
「できますとも。いいですか、僕らは胸骨でつながっているんですよ――結《けっ》――結《けっ》――」
「結紮《けっさつ》だよ」と、ジュリアンが眉をしかめて「君はどうしても、この言葉が憶えられないんだなあ、フラン。憶えとかなくっちゃ駄目だよ」
「結紮《けっさつ》ね」と、フランシスが、相手のこごとにうなずきながら「とても強い結紮なんです。六インチぐらい引っ張りのばせるんですからね」
「しかし、そんなことしたら痛いだろう」と、警視が顔をしかめて訊いた。
「痛い? いいえ。耳をひっぱっても痛くはないでしょう」
「なるほど」と、老人は答えて、にやにやしながら「気がつかなかった。痛くはなかろうな」
「軟骨性結紮です」と、ホームズ医師が「畸形《きけい》学で、剣状増殖と呼ぶものです。実に珍しい症例なのです、警視。完全な弾力性をそなえて、しかも、驚くほど強靱《きょうじん》なのです」
「それを利用して、曲芸もできますよ」と、ジュリアンが、ぼっそり言った。
「まあ、ジュリアン」と、カロー夫人が弱々しい声でたしなめた。
「でも、できるんですよ、お母さん。できることを知ってるじゃありませんか。僕たち、最初のシャム兄弟がやっていたような曲芸を練習して、いつか、見せたじゃありませんか」
「おお、ジュリアン」と、カロー夫人は微笑をおさえながら、かすかに言った。
ホームズ医師の強張《こわば》った若い頬が、急に、職業的な熱をおびて輝いた。
「チャンとエン――それがシャム兄弟の名ですが――ふたりは互いに、その結紮で相手の体重を支えることができたのです。このふたりも、結紮を使って、大変な曲芸ができますよ。とても、僕なんかにはできないようなことが」
「そりゃ、先生が充分に練習しないからですよ、ホームズ先生」と、フランシスがつつましく「なぜ、砂袋をなぐる練習をしないんですか。僕たちは――」
この時、警視がにこにこし出して、部屋中が急に明るい気分になった。少年たちの、全く普通な話し方や、明るく、利口で、少しもみじめさがなく、つつしみ深い様子が、ふたりがいることで当然かもし出しそうな気まずさを吹き消していた。カロー夫人は可愛いくてたまらないというふうに、ふたりにほほえみかけていた。
「とにかく」と、フランシスはつづけて「先生たちが、ここだけを心配されるのなら」と、自分の胸を指さして「大丈夫なんだけどなあ。でも――」
「僕が説明した方がいいだろうよ、君」と、ホームズ医師が、穏かに「いいですか、警視。いわゆるシャム兄弟には普通――普通というのも変ですが――普通三つの型があり、そのいずれもが、医学的に有名な症例で代表されているのです。第一に、腎部接合型《パイゴパガス》――背中と背中の接合――があり、これは腎臓連結の症例で、つまり腎臓がつながっているのです。たぶん、この型で一番有名なのは、ブラシェック双子で、ローザとジョセファの場合でしょう。ふたりには、外科的に切り離す試みが行なわれました――」と、医師は顔を曇らせて、言葉を切った。「ところが、それが――」
「試みは成功したんですか」と、エラリーが静かに訊いた。
ホームズ医師は唇を噛んで「それが――失敗でした。しかし、当時は、まだ医学的に大して分かっていなかったので――」
「いいんですよ、ホームズ先生」と、フランシスが熱心に「そんなことは、僕たちみんな知っているんですよ、クイーンさん。むろん、自分たちに関係のある事例には興味がありますものね。ブラシェック姉妹は手術の結果死んだんです。でも、その頃は、ゼーヴィア先生はいなかったんだし――」
カロー夫人の頬が、その白目《しろめ》より青ざめた。警視は鋭くエラリーに目くばせしてから、ホームズ医師に話をつづけるように合図した。
「次に」と、ホームズ医師はしぶしぶ「剣状接合《ジフォパガス》――つまり、胸骨が剣状突起のかたちで接合した双子があります。その最も有名な症例は、むろん――最初のシャム双子、チャンとエンのバンカー兄弟です。ふたりとも健康で、正常な人間でした……」
「一八七四年に」と、ジュリアンが「チャンが肺炎にかかって死にました。ふたりとも六十三歳だったんですよ。ふたりとも結婚して、子供もたくさんあって、結構な身分だったんです」
「あのふたりは、本当のシャム人ではなくて」と、フランシスが微笑しながら言い足した。「四分の三が中国人で、四分の一がマレー人か、なんかだったんです。すごく頭がよくてね、警視さん、それに大金持で……僕たちも同じ種類なんですよ」と、口早に「剣状――剣状接合なんだけど、僕たちはお金持じゃないんです」
「僕たちは金持だよ」と、ジュリアンが言った。
「うん。僕の言うことが分かってるのにさ、ジュール」
「最後に」と、ホームズ医師が「いわゆる脇腹と脇腹型があります。この子たちは、正面と正面型と僕は呼ぶんですが――肝臓が接合しています。それに、もちろん、血液循環が共通なのです」と、ため息をして「ゼーヴィア博士が完全な病歴記録を持っています。カロー夫人の主治医からもらったのです」
「でも、いったい、どんな目的で」と、エラリーがつぶやいた。「この元気ないたずらっ子たちを、『矢じり荘』へ連れて来られたのですか、カロー夫人」
小さな沈黙があった。また重苦しい空気になった。ゼーヴィア夫人が、ぼんやりとカロー夫人を見つめていた。
「博士がおっしゃるには」と、小柄な夫人がささやくように「おそらく――」
「博士は、あなたに希望を与えたんですね」と、エラリーがゆっくり訊いた。
「いいえ――そうとも言えませんわ。見込みは、ほとんど、ないと申せるほどですものね。でも、アンが――フォレストさんが、実験的な手術をなさるとか聞いてまいりましたので……」
「ゼーヴィア博士は」と、青年医師がぶっきら棒に口をはさんで「ここで、かなり奇妙な実験に――かかっていたのです。奇妙といっちゃいけない、むしろ、未公認とでも言うべきでしょうね。むろん、博士は非常に立派な方ですが」と、ひと息入れて「その実験に――たいへんなお金と時間をかけたのです。いくらか評判にはなりましたが、大したものじゃありませんでした。博士は宣伝ぎらいでしたからね。それで、カロー夫人が手紙をよこされたとき――」と、言葉を切った。
警視が目をカロー夫人からホームズ医師に移して「なるほど。すると」と、低い声で「君はゼーヴィア博士ほど熱心じゃなかったんだね、ホームズ君」
「そりゃあ」と、イギリス青年が、ぎごちなく「話がそれます」と答えて、妙に愛情と苦痛のまじった目で、カロー夫人の双子を眺めた。
また沈黙がおこり、老人はぐるりと部屋をひとまわりし、少年たちは、すっかりおとなしくなって、緊張していた。
警視は歩をとめると「君たちは、ゼーヴィア博士が好きかね」と、いきなり訊いた。
「はい」と、ふたりが一緒に、すぐ、答えた。
「あのひとは一度でも――そう、君たちをいたい目にあわせたことがあるかね」
カロー夫人は、はっとして、やさしい目に狼狽の色を浮かべた。
「いいえ」と、フランシスが「僕らを診察しただけです。あらゆる検査をしました。レントゲンや、特別食や、注射なんかで」
「僕たちは、ああいうことに慣れているから、平気です」と、ジュリアンが、しょんぼり言った。
「そうか。ところで、昨夜のことだが、よく眠ったかね」
「はい」ふたりは、すっかり口が重くなって、息使いも少し早くなっていた。
「夜のあいだに、変なもの音を聞かなかったろうね。鉄砲を射つような音を」
「ええ」
老人はしばらく顎を撫でまわしていた。そして、にこにこしながら、また話しかけた。「君たちは、朝のご飯をたべたかね」
「はい。今朝早く、ホイアリーさんが部屋に持って来てくれました」と、フランシスが答えた。
「でも、もうお腹がすいちゃった」と、ジュリアンが、急いで言い足した。
「じゃあ、君たち急いで台所へ駆けつけていいよ」と、警視がやさしく「ホイアリーさんに、急いでご馳走をこしらえてもらうんだね」
「はい」と、ふたりは声を合わせて叫ぶと、立って母に接吻し、みんなにあいさつして、歩く動作をすると、ふたりのからだにつきまとっている、あの妙に優雅なリズムで、部屋を出ていった。
九 殺人犯の正体
フランス窓の向こうのベランダに、腰の曲った男が姿をあらわして、居間を覗いていた。
「おい、『骸骨』君」と、警視が呼ぶと、その男は立ちすくんだ。「こっちへ来てくれ。ここにいてもらいたい」
爺やは窓をくぐり抜けた。その陰気な顔は、前よりいっそう残忍そうに筋張り、長い、皮のたるんだ腕は、ぶらりと垂れ下がって、ふるえ、指が縮んだり伸びたりしていた。
エラリーは穏かな父の顔を見ながら考えていた。何か思いついたらしい。何かの思いつきが、いきなりとび出しては来たが、まだ形をなさないらしい。それが警視の頭の中で渦まいているらしい。
「奥さん」と、老人がおだやかな声で「ここにどのくらいお住いかな」
「二年です」と、夫人が生気のない声で答えた。
「この家はご主人が買われたのだね」
「建てたんですわ」夫人の目に恐怖の色が浮かび始めた。「あの頃、主人は引退して、アロー・マウンテンの頂上を買い入れ、整地してこの家を建てたんですの。そして越してまいりました」
「結婚されて間もなくだったんですな」
「はい」と、夫人は、すっかりあわてて「六か月ほど前ですの――こちらへ移ります」
「ご主人は裕福だったんでしょうな」
夫人は肩をしゃくって「財政上のことは立ち入って訊いたことは一度もございませんわ。主人《たく》は、いつも、何でも最上のものを、あたくしにくれました」瞬間、また、猫のような目つきになって「物質的に最上のものをね」と、言い添えた。
警視はたんねんに、かぎたばこを一つまみして、いかにも自信満々「ご主人は前に一度も結婚されなかったように覚えとるが、奥さん。あなたはどうかな」
夫人は口もとをこわばらせて「わたくしは、当時、未亡人でしたの――主人《たく》に会いましたころは」
「どちらの結婚にも、お子さんはなかったですな」
夫人は妙にため息をして「ええ」
「ふん」と、警視はマーク・ゼーヴィアに指で合図して「兄上の財政状態は、君なら何か知っとるだろう。うまくいっとったのかね」
ゼーヴィア青年は、はっとして、深い夢見心地から覚めた。「え? おお、お金ですか。ええ。兄貴は裕福でしたよ」
「有体資産でかね」
相手は肩をそびやかして「一部は不動産になっています。ご存知のように今日では、不動産は相当の値打ちですよ。しかし、資産の大部分は手がたい国債です。兄貴は医者を開業したときに、おやじから、いくらか金をもらいましたが――今の資産――故人の資産――はほとんど自分でこしらえたんです――商売でね。僕は兄貴の顧問弁護士をやっていたんですよ」
「ああ」と、警視が「それを聞いて安心した。わしは、こんなふうに八方ふさがりで、遺言問題を、どう切り抜けたらいいかと心配しとったところだ。……すると、君は顧問弁護士だったというんだね。博士は、むろん、遺言状を残されたろうね」
「二階の兄の寝室の金庫に、写《うつ》しがあります」
「その通りかね、奥さん」
「はい」と、夫人が、しごくもの静かに答えた。
「金庫の錠のコンビネーションは」と、夫人の説明を聞いて「よろしい。みんなここにいて下さい。わしはすぐ戻って来る」と、警視は、上衣のボタンをそわそわしながらはめると、急いで部屋を出て行った。
*
警視はなかなか戻って来なかった。居間の中は|しん《ヽヽ》としていた。裏部屋の方から、ジュリアンとフランシスの、はしゃいだ叫び声がきこえた。どうやら、家政婦ホイアリーの食料部屋のクリームを、大はしゃぎで元気いっぱいに平らげているらしい。
やがて、廊下で重々しい足音がしたので、みんなドアの方を向いた。しかし、ドアは閉じたままで、足音は控えの間の方へ、ずしずしとつづいて行った。間もなく、スミスのゴリラみたいな姿が、テラスにあらわれた。スミスは家の前の、わびしい岩だらけの地面を眺めまわしていた。
エラリーは隅に引っこんで、爪をなめていた。とらえがたいほど、漠然とした考えをもて余していた。父は上がったきりで、いったい何をしているのだろうか。
やがてドアが開き、父が姿をあらわした。その目は輝き、手に、法律関係らしい書類を持っていた。
「この通り」と、警視はドアを閉めながら、上機嫌に言った。エラリーは眉をしかめて、じっと父の様子を見守った。何かくさい。警視が捜査中に機嫌がよくなるのは、いつも、くさいものをつかんだときだ。
「遺言状を見つけましたぞ、この通り。はっきりしましたぞ。ご主人の遺言によると、奥さん、あなただけが、事実上、ただひとりの相続人になっとる。前から知っておられたかな」と、警視は書類を振ってみせた。
「むろん、存じていました」
「そうですか」と、警視は快活に「マーク君と二、三のいろいろな専門的学会――研究機関など――に、わずかばかりの遺贈があるだけで――資産の大部分は、奥さんが相続されることになっとります。ゼーヴィア君が言う通り、こりゃ相当の資産だ」
「そうです」と、ゼーヴィアが、つぶやいた。
「見たところ、遺言状の検認や財産の処理には、べつに面倒はなさそうだ」と、老人がつぶやいて「法律的に文句の出るおそれはないんだろうね、ゼーヴィア君」
「むろん、ありませんね。異議を申したてる者はいません。僕は、たとえ根拠があったとしても――そんなものありゃしませんが――絶対に異議など申したてません――僕はジョンのただひとりの血縁のものですがね。実は、こんなことはどうでもいいんですが、兄嫁にも、生きている親戚はひとりもいません。僕らは、どちらも、血族中の最後の人間というわけです」
「そりゃ、とても都合がいいわけのもんだ」と、警視はにっこりして「ところで、奥さん、ご主人との間に、本当の意味で、いざこざはなかったでしょうな。つまり――近ごろ、ご夫婦仲にひびをいらせるようないろいろな問題で、いざこざはなかったとかいうことだがね」
「まあ、なんということを」と、夫人は手で目を押えた。すると、これも、問題ないな、とエラリーは冷たく考えた。エラリーは父を見つめていた。全神経がとがっていた。
思いもかけず、『骸骨』がしわがれ声で「そりゃ嘘だ。奥さんは旦那さんを苦しめ抜いたです」
「『骸骨』」と、ゼーヴィア夫人が、あえいだ。
「奥さんは、いつも、旦那にがみついとったです」と、『骸骨』は喉の筋を立ててがなり立て、目は、またきらきら燃えていた。「奥さんは、ただの一分も旦那をくつろがせなかっただ。ひどいひとだ」
「そりゃ面白いな」と、警視が、微笑をつづけながら「君は、この家では、変わり種らしいな。『骸骨』君。つづけてくれ。ゼーヴィア博士が、よほど好きだったらしいな」
「博士のためなら命もいりません」と、骨ばった拳をかためて「あの方だけが、この浮世で、わたしが落ちぶれたときに、あったかい手をさしのべて下さっただ。それに、あの方だけが、わたしを人間扱いして下さっただ――そのう――屑もの扱いにしないで。……奥さんは、わたしを、ごみ扱いにしなさっただ」と、いちだんと声を張り上げて「言ってやるだ、奥さんは――」
「よし、よし、『骸骨』」と、警視が、ぴしりと「やめろ。さあ、みんな、わしの言うことを聞いてほしい。ゼーヴィア博士の死体の手に、半分にちぎれたトランプのカードがあった。明らかに、死ぬ前に、殺人犯の正体の手がかりを残す力があったと見える。博士はスペードの6の札を半分にちぎっとる」
「スペードの6ですって」と、ゼーヴィア夫人が息をのみ、曇った眼孔から目をむき出した。
「そう、奥さん、スペードの6」と、警視がなにかほくほくした様子で、夫人を見守り「ちょっと、当てっこをしてみましょうかな。あのカードで、何を知らせるつもりだったのか。いいかね。あのカードは博士自身の机の上のものだ。だから誰のものかは問題にならん。さて、博士は、カードをまるまる一枚使ったわけではない。使ったのは半分だけだ。つまり、あのカードは、まるまる一枚では重要ではなく、重要なのは、あのカードの切れはしか、切れはしについているものということになる」
エラリーが目をむいた。結局、何かをひねり出そうとしているんだな。年寄りにだって、新しい術《て》を教えられるもんだ。と、エラリーは黙ってにやにやした。
「あの切れはしには」と、警視が「6という字が、カードの隅っこにあり、それにいくつか――何てったかな?」
「印《ピップス》」と、エラリーが言った。
「そう、印《ピップス》は――スペードだ。スペードで、何か思い当たらんかね」
「スペード」と、『骸骨』は唇をなめて「わたしが鋤《スペード》を使っとりますだ――」
「おい、おい」と、警視がにやりと笑って「お伽話《とぎばなし》はやめとこう。そんな暇はないんだ。ちがうな、博士はお前のことを指しちゃおらんよ、『骸骨』」
「スペードは」と、エラリーがすぐに「もし、意味があるとすれば、占いで死を示すといわれていますが、どんなもんですかね。よく、そういうでしょう」と、言いながら、目を細めて、じっと父親にだけ注意を払っていた。
「そうだな。スペードにどんな意味があろうと、それが重要な点じゃない。大事なのは数字の6だ。数字の6で、何か思い付かんかね」
みんなが、警視を見つめた。
「見たところ、何も思いつかんらしいな」と、警視はくすくす笑いながら「さよう、わしもそんなことだろうと思っとった。数字が、ここにいる誰かを指すとは思えない。まあ、近ごろ流行の推理小説の中の秘密結社とかなんとかいうものになら、そんな趣向があるかもしれんが、実社会では、まずないな。ところで、数字としての6で、何も思い当たらんのなら、言葉としての|6《シックス》では、どうかな」と、警視の微笑が消えて、その顔がけわしくなった。
「奥さん、あんたのミドル・ネームは?」
夫人は手で口をおさえ「はい」と、かすかに「イゼールですわ。娘時代の名ですの。フランス人ですから……」
「サラ・イゼール・ゼーヴィアですな」と、警視は重々しく言った。そして、ポケットに手をやり、薄色紙で、上の方に三つの頭文字が組み合わせて刷ってある、私用便箋をとり出した。
「奥さん、この用箋は、二階の大寝室のあんたの机で見つけたもんだが、これを、あなたのものだと、認めますかな」
夫人はよろよろと立ちながら「はい、そうですわ。けれど――」
警視は、目を皿のようにしている一同に、よく見えるように、その紙を高々と差し上げた。組み合わせの頭文字は、|S・I・X《シックス》、と読めた。警視は紙を下げると、つかつかと進みよった。
「ゼーヴィア博士は、いまわのときに、SIXが自分を殺したのだと、告発したのですぞ。わしは、あんたの頭文字の二つがSXなのを思い出したとき、めどをつかんだと思いました。ゼーヴィア夫人、夫殺しとして逮捕されるものと、ご承知願いますぞ」
その怖しい瞬間、フランシスの楽しそうな笑い声が、台所から、かすかに、みんなの耳にひびいた。カロー夫人は死んだように真青になって右手で胸をおさえ、アン・フォレストはふるえていた。ホームズ医師は、背の高い夫人が一同の前でよろめくのを、不信と嫌悪と、こみ上げる怒りで、目ばたきしながら見つめていた。マーク・ゼーヴィアは椅子の中で、身をかたくし、顎の筋肉だけをぴくぴくさせていた。『骸骨』は、復讐の神のように突立って、勝ちほこり顔に、ゼーヴィア夫人を見つめていた。
警視がぴしりと言った。「あなたは、ご主人の死で、大金持になられることを、知っとられただろう?」
夫人は、息もたえだえに、少し後ずさりして「はい――」
「カロー夫人のことで嫉妬しとったね。病的な嫉妬を。あのふたりが、あんたの鼻先で、わけあり気に振舞うのを見て、我慢できなかったんだろうな。――ところが、ふたりは、いつも、カロー夫人の息子たちのことで話し合っていたにすぎんのだ」警視は、小柄な白髪まじりの懲罰の神よろしく、きびしい目を夫人から片時もはなさずに、じりじりと歩みよった。
「ええ、ええ」と、夫人はあえぎながら、たじろいだ。
「昨夜、カロー夫人をつけて下に降り、夫人が、あなたのご主人の書斎に忍び込み、しばらくして、また忍び出て行くのを見て、嫉妬の怒りで、気が狂ったんだろう」
「はい」と、夫人はささやいた。
「あんたは、書斎にはいり、引出しから拳銃をとり出し、ご主人を射ち殺した。あなたが殺したんだろう、奥さん。そうじゃないかね」
椅子のふちに、足をさえぎられて、夫人はよろめき、どさりと、倒れこんだ。水族館のガラス窓で見る魚の口のように、夫人は声もなく口をぱくぱくやっていた。
「はい」と、低い声で「はい」
見ひらかれた黒い目が、くるりとまわったかと思うと、ひきつけるように身をふるわせて、夫人は気絶した。
十 左利き右利き
ひどい午後だった。太陽は強烈だった。あらゆるものを熔かすような猛威をふるって、家と岩を火炎地獄にするほどだった。一同は、あたかも現身《うつせみ》の幽霊のように家の中をうろつきまわり、ほとんど口もきかず、互いに避け合い、汗ぐっしょりの衣服と、だるい手足で肉体的に参っていたし、精神的にも、気が重く、くたくたになっていた。双子たちさえ、参ってしまって、テラスにぐったりと坐りこんで、目を丸くして大人たちを見守っていた。
気絶した夫人は、ホームズ医師とフォレスト嬢の介抱に任されることになった。この優秀な若い女性は、カロー夫人に雇われる前、看護婦としてかなり職業的訓練を受けていることが、分かった。男たちは、ゼーヴィア夫人の重いからだを二階の家長の――いまは家長のいない――寝室に運び上げた。
「しばらく眠れるように処置した方がいいだろうね、先生」と、警視が、ぐったりと横たわる夫人の美しい姿を見下ろしながら、考え深そうに言った。その目には、勝利の色はなく、ただ嫌悪の情が宿っていた。
「神経質なんだな。感情的に少しでも動揺すると、ハンドルを失っちまうんだ。正気づいた上で、処分する方法を考えねばならんな。それが、この女にとっては一番いいことだろう。あわれな奴だ……睡眠薬でも、やって下さい」
ホームズ医師は黙ってうなずき、研究室に降りると、薬をいれた注射器を持って戻った。フォレスト嬢は、がみがみ言って、男たちを寝室から追い出した。そして、午後はずっと、医者と看護婦が交替で、眠りつづける夫人のベッドのそばにつきそっていた。
家政婦のホイアリーは、女主人の犯罪を聞かされると、ちょっと泣いたが、真の涙とは見えず、いつも思っていたんですよと、涙をしぼりしぼり、警視に告げた。「うまくいくとは思えませんでしたわ。奥さまは焼きもちが過ぎますものね。あんなにご親切で、善良で、ご立派で、おとなしくて、よその女などには目もくれない旦那さまなのにね。わたくしは、旦那さまのご結婚前から家政婦をしておりましたが、奥さまがいらっしゃって、一緒にお暮らしになるとすぐ、始まったのですからね。焼きもち、それも気違いじみていましたわ」
警視は鼻をならして、実際問題にはいった。みんなは前の晩から、一口も食べていなかったのだ。「ホイアリーさん、なんとか、あり合わせで、軽い食事の用意でもしてもらうわけにはいかんものだろうかな」警視自身、餓え死にしそうだったのだ。
ホイアリーはため息をつき、最後の味けない涙をふくと、台所の食料部屋をふり向いた。
「と申しましても」と、家政婦は、出て行こうとする警視に、口ごもりながら「家には、食べものは、いくらもございませんのよ、申しわけありませんけれど」
「何だって?」と、警視が足をとめて鋭く言った。
「あのう」と、ホイアリーが鼻をすすりながら「罐詰みたいなものはございますが、いたみやすい食品――ミルク、卵、バター、肉、鳥――などは、ほとんどなくなりかけていますの。オスケワの食料品店が週に一度配達してくれますんですが、なにしろ、こんな山の中の道で、道のりもずいぶんありますしね。昨日来るはずでしたのに、このおそろしい山火事で、それでみんな――」
「そうか、まあできるだけやってくれ」と、老人はやさしく言って台所を出た。廊下の暗がりの、誰も見ていない所へくると、うんざりしたようにべそをかいた。事件は解決したが、先の見通しは、かんばしくない。ふと、電話のあることに思いついて、希望をかけながら、小走りに居間へはいった。
しばらくして、警視は受話器をかけて、肩を落とした。線が死んでいた。避けられない事態がおこったのだ。火事が電柱に達して、電線が焼け落ちたのだ。一同は完全に外部から遮断されてしまったのである。
これ以上みんなを動揺させても意味がないと思った警視は、テラスに出て、双子に機械的に笑いかけた。今度の休暇をとるように誘いかけた運命が呪わしかった。エラリーといえば――
警視がエラリーを思い出したとき、ちょうどホイアリーが控えの間から顔を出して、昼食の用意ができたことを知らせた。
エラリーはどこだろうと、警視は思った。ゼーヴィア夫人を二階へ運んでから、間もなく姿を消したきりだ。
警視はポーチの端まで出て、照りつける太陽の下に、ごろごろしている岩場をのぞいてみた。あたりは、別世界の生命のない惑星の表面のように、荒涼として、みにくく不気味だった。そのとき、家の左手の先にある、一番近い木の下に白いものがちらりと見えた。
エラリーは樫の木蔭に大の字になり、両手を頭の下で組み、頭上のみどりの茂り葉を、じっと見上げていた。
「ひるめしだぞ」と、警視は両手をラッパにして叫んだ。
エラリーは、はっとした。それから、だるそうに起き上がり、服を払って、のろのろと家の方へ歩いてきた。
*
陰気な食事だった。みんなほとんど黙々として食べていた。料理は貧弱で、おそろしく雑多だったが、そんなことはどうでもいいらしかった。というのは、みんな食欲がなく、何を口に入れているかほとんど気がつかなかった。ホームズ医師は、まだ二階でゼーヴィア夫人についていて姿を見せなかった。アン・フォレストは食事を終えて、静かに席を立ち部屋を出ていった。間もなくすると、青年医師が姿をあらわし、席について、食事を始めた。誰も何も言わなかった。
昼食がすむと、みんな、ばらばらになった。スミス氏は、よほど想像の幅をひろげなくては、とても幽霊とは呼べそうもない男だったが、それでも幽霊みたいにしょげていた。一足先にホイアリーに食事をさせてもらっていたので、他の連中と一緒に、食堂には出なかった。厳格に孤立していて、誰も、あえて近付こうとはしなかった。その午後の大部分を、まるでゴリラよろしく、大きな図体で、湿った葉巻を噛みながら、のっしのっしとテラスを歩きまわっていた。
「なにをくよくよ考えとる?」と、警視が、昼食のあとで部屋に引き上げ、シャワーを浴び、着換えをしながら、エラリーに訊いた。「そんな不景気面をしとると、あごが曲っちまうぞ」
「ああ、何も」と、エラリーは、ベッドに身をなげながら「いらいらしてるだけですよ」
「いらいらする。何に?」
「自分にですよ」
警視はにやりとして「あの用箋をよう見つけなかったことか。そう、いつも、運がいいというわけにはいかんさ」
「ああ、そのことじゃないんです。あれはとても手ぎわがよかったですよ。そんなに謙遜なさる必要はありません。僕がいらいらしているのは、他のことです」
「なんだ?」
「それですよ」と、エラリーが「僕がいらいらしているのは。何だか、自分でも分からない」と、起き上がって、そわそわと頬をなでた。「虫のしらせとでもいうか―――便利な言葉ですね。そいつが、僕の意識の壁を破って連絡をつけようともがいているんですよ。かすかな影みたいなもんなんです。そいつが何か、つかめるといいんですがね」
「シャワーを浴びろ」と、警視がなぐさめ顔に「頭が少し重いだけなんだろうよ」
ふたりが着がえをすませると、エラリーは断崖につき出している裏手の窓に歩みよって見下ろした。警視は戸棚に服をかけながら、動きまわっていた。
「長逗留《ながとうりゅう》になりそうですね」と、エラリーは、つぶやくように言ったが、ふり向きもしなかった。
警視は目をむいて「そうだな。一仕事になりそうだ」と、やがて、口をとがらせて「二、三日中に、怠けてはおれんようになりそうだ」
「というと」
老人は答えなかった。
しばらくして、エラリーが「この事件については、完全に手落ちのないように処理しておく方がいいでしょうね。階下の書斎は錠を下ろしておきましたか」
「書斎?」と警視は目をぱちくりして「なぜだ。下ろしとらんぞ。何のために?」
エラリーが肩をすくめて「この先どうなるか分かりませんよ。書斎へ下りてみましょう、とにかく、僕はちょっと不気味なあの雰囲気にひたってみたくなりました。どうやら虫のしらせが本物になりそうなんです」
ふたりはがらんとした家の中を、階下へ降りた。スミスがテラスにいるだけで、誰の姿も見えなかった。
犯罪現場は元のままだった。エラリーは、かすかな不安の念にかられて、部屋を調べてみた。しかし、机の上にはカードがあるし、回転椅子も、書類戸棚も、凶器も、薬包も――全部、手を触れた様子がなかった。
「お前は苦労性だな」と、警視がやじるように「だが、凶器を放り出しといたのは、迂闊《うかつ》だったな。それに薬包も。もう少し安全な場所に入れとくとしよう」
エラリーは、憂鬱そうに机の上を見まわしていた。「このカードもしまっといていいですよ。やはり、証拠品ですからね。実に奇妙な事件ですね。死体は冷蔵庫に入れておかなければならないし、適当な役人がくるまで、証拠品は保管しなければならないし、足もとからは――もののたとえが――少しばかりあぶり上げられるし……いやはや、さんざんですね」
エラリーはカードを掻き集め、裏表をみんな同じに揃えてまとめると、それを父に手渡した。スペードの6の印があるカードの切れっぱしと、まるめたその半分を、ちょっとためらってからポケットに入れた。
警視は、エール鍵が研究室の書斎の側のドアの錠にささっているのを見つけて、研究室に通じる二つのドアを締め、書斎の側から鍵をかけ、図書室のドアは、自分の鍵束から、普通型の鋼鉄製の合鍵を出して錠を下ろし、同じ鍵で横廊下のドアにも、外から鍵をかけた。
「証拠品はどこにしまうつもりですか」と、エラリーが、階段を上《のぼ》りかけたときに訊いた。
「さあね。安全な場所を見つけねばならんな」
「なぜ書斎に置いとかないんですか。わざわざ手数をかけて、三つのドアを閉めたのに」
警視は苦い顔で「廊下からのドアと、図書室からのドアは子供でもあけられる。形式として錠を下ろしただけなんだ……こりゃどうだ?」
主人の寝室のあいているドアのあたりに、二、三人よりかたまっていた。ホイアリーと『骸骨』まで、まじっていた。
ふたりが人をかき分けてみると、ホームズ医師とマーク・ゼーヴィアが、ベッドにかがみ込んでいた。
「どうしたね」と、警視が、早口で訊いた。
「正気づきましたよ」と、ホームズ医師が息をはずませて「少し荒れそうなんです。しっかり押えてくれよ、ゼーヴィア君。フォレストさん――注射器をとって……」
女は、男に押えつけられ、手足を殻竿《からざお》のようにどたばたさせて、必死でもがいていた。目はうつろに大きく見ひらかれ、天井を睨んでいた。
「もしもし」と、警視は低い声で言い、ベッドにかぶさりかかるようにすると、張りのあるはっきりした声で「奥さん」
どたばたがやみ、夫人の目が正気づいて来た。あごを引き下げて、あたりを、きょとんと見まわした。
「あなたのしておられることは愚の骨頂ですぞ、奥さん」と、警視が同じ鋭い調子で「そんなことしたって、どうにもなりゃしませんぞ。やめるんですな」
夫人は、身をふるわせて目を閉じた。やがて、目を開けると、さめざめと泣き出した。
男たちは、ほっとして、ため息をつきながら、からだを起こした。マーク・ゼーヴィアは額の汗をぬぐい、ホームズ医師は、ぐったりして肩をおとしながら身を引いた。
「もう大丈夫だろう」と、警視が静かな声で「だが、ひとりで放っとくわけにはいかんな、先生。おとなしくしとればいいがね。また荒れるようだったら、眠らせるんだな」
そのとき、しゃがれてはいるが、落ちついた女の声が、ベッドから聞こえたので、警視は、はっとした。
「ご面倒は、もうおかけしませんよ」と、夫人が言った。
「そりゃ結構、奥さん、結構だ」と、警視が、ほっとして「ところで、ホームズ先生、君なら知っとるだろうが。どこか、この家に、安全にものをしまっておける場所はないかね」
「そりゃ、この部屋の金庫なら、たぶん」と、医者は、むぞうさに答えた。
「そうだな……まずいな。証拠品――なんだからな」
「証拠だって」と、ゼーヴィアが、うなった。
「博士の書斎の机の上にあったカードさ」
「おお」
「居間に、あいているスチールの書類戸棚がございますよ」と、ホイアリーが、廊下に集まっている連中の中から、おずおずと口をさしはさんだ。「金庫みたいなものですけれど、旦那さまは何もお入れになったことはございません」
「誰かコンビネーションを知っとるかね」
「コンビネーションはございません。妙な錠のようなものがついていまして、妙な鍵は一つしかないんですの。その鍵は、大テーブルの引出しの中にございます」
「そりゃいい。もってこいだ。ありがとう、ホイアリーさん。ついて来い、エル」と、警視は、大股で寝室を出た。みんながいっせいに見送った。エラリーも眉をしかめて、ゆっくりついて出た。階段の降り口につくと、エラリーは、茶目っぽい目付きで父をちらりと見て「ありゃちがってますよ」と、つぶやいた。
「えっ」
「ちがってます。間違いです」と、じれったそうに、エラリーはくり返して「だからって、大したこともありませんがね。僕はここに、このポケットの中に、重要な証拠品を持ってるんです」と、半分に破られたカードが入れてあるポケットを、ぽんぽんとたたきながら「これがものを言うかもしれませんよ。おとりの餌《えさ》みたいなもんです。お父さんもそう思ってるんじゃありませんか」
警視はてれくさそうに「そうだな……確信はないが。わしはそんなふうには見とらんが、お前の考えが当たっとるかもしれんぞ」
ふたりは人気《ひとけ》のない居間にはいり、書類戸棚を見つけた。暖炉の近くの壁に埋めこまれていて、表面は壁の羽目板と合うようにペンキが塗ってあったが、明らかに、隠し場だった。エラリーは大テーブルの一番上の引出しから鍵を見つけ出し、しばらくひねくりまわしてから、肩をすくめて、それを父に放って渡した。
警視は鍵を受けとり、気むずかしそうにつかむと、書類戸棚の錠をあけた。仕掛けは、複雑なかちりかちりという音を規則正しくつづけながら動いた。深く凹んだ引出しの中はからだった。警視は、ばらばらになったカードの束をポケットからとり出し、ちょっと調べると、ため息をついて、それを凹みの底に、なげ込んだ。
テラスで、かすかなもの音がしたので、エラリーはくるりと振り向いた。スミス氏の巨体がフランス窓の向こうに見えた。だんご鼻を、ぺちゃんこになるほど、ガラスに押しつけて、明らかにふたりの様子をうかがっていたらしい。エラリーが振り向いたので、ばつが悪そうに、はっと身を起こして、姿を消した。テラスの木の床を行く象のような足首が、エラリーにきこえた。
警視がポケットから、凶器と、薬包の箱をとり出した。ちょっと考えて、また、ポケットに納めた。「まずいな」と、低く言った。「あぶなすぎる。自分で持っとろう。この書類戸棚の鍵はこれ一つきりかどうか、調べねばならんな。さて、これでよし」と、書類戸棚の戸を、ばたんと閉めて錠をおろした。鍵は自分の鍵束につけた。
*
午後が、おそくなるにつれて、エラリーはだんだん黙り込んだ。警視はあくびをして、エラリーを好きにさせたまま、ひるねをして、ゆっくり二階の部屋に上がって行った。通りがかりに、ゼーヴィア夫人の寝室を覗いてみると、ホームズ医師は前面の窓のそばに立ち、手を後ろに組んでいたし、夫人は目を大きくあけて静かにベッドに横たわっていた。他には誰もいなかった。
警視は、ため息をついて、歩いて行った。
一時間ほどして、警視がすっかり元気をとりもどして姿を現わしたときには、夫人の寝室のドアはしまっていた。そっと開けて覗いてみた。ゼーヴィア夫人はさっき見た通りに寝ていたし、ホームズ医師は、窓のそばの場所から、びくとも動いた形跡はなかった。だが、今度は、フォレスト嬢が加わり、ベッドのわきの長椅子に腰かけて、目を閉じていた。
警視はドアを閉めて階下《した》に下りた。
カロー夫人、マーク・ゼーヴィア、双子、スミス氏が、テラスにいた。カロー夫人は雑誌を読んでいるようだったが、目が曇り、頭が左から右へ文字を追っていなかった。スミス氏は、ぼろぼろの葉巻のはじを噛みながら、相変わらずテラスをぐるぐる歩きまわっていた。双子は重なり合って、ポケット用の磁石つき盤と金属の駒を使って、チェスに夢中になっていた。マーク・ゼーヴィアは椅子に半のびになり、うなだれて、眠りこんでいるようだった。
「せがれを見かけませんでしたかな」と、警視が、誰に訊くとなく言った。
フランシス・カローが顔を上げて「やあ、警視さんだ」と、元気よく「クイーンさんなら、一時間ほど前に、あの林へ行くのを見たような気がしますよ」
「カードを一組、持って行きましたよ」と、ジュリアンの方が言いたした。「さあ、フラン、君の番だよ。君の負けらしいぞ」
「とんでもない」と、フランシスがやり返した。「ビショプをやって、クイーンをとれば、負けやしないさ。どうだい」
「ちえっ」と、ジュリアンが苦い顔で「負けた。もう一番いこう」
カロー夫人が、かすかにほほえみながら目を上げた。警視は夫人にほほえみ返して、空を見上げてから、石段を砂利道の方へ下りていった。
林を目ざして左へ曲り、ひる飯前にエラリーが、寝ころんでいた方へ向かった。太陽は傾き、空気は静まりかえって、重苦しかった。空は燃える円盤のように、多彩な光線を放っていた。突然、鼻をくんくんといわせて足を止めた。そよ風が、むせるような匂いを鼻に運んで来た。こりゃ――そうだ、木のこげる匂いだ。ぎょっとして、林の真上の空を見上げた。だが、煙は見えなかった。風向きが変わったなと、警視はふさぎこんで、この分では、また風が変わるまで、樹脂の燃える悪臭になやまされるだろうと、思った。歩いていると、大きな灰が一つふわふわと、片手にふりかかった。警視は、それを払いのけて先を急いだ。
林のはしの木蔭まで辿《たど》りつくと、からっと明るい空地を歩いたあとの、ひりひりする目で、木闇を覗き込んだ。エラリーはどこにもいなかった。警視は、目が日蔭に慣れるまでじっとしていて、それから、聞き耳を立てながら林にはいって行った。木々が警視を押し包み、むれるようなみどりの匂いで息苦しかった。
大声でエラリーを呼んでみようとしたとき、左手から、ものを裂くような変な音が聞こえた。その方へしのびよって、大きな木の幹のかげから覗いてみた。
十五フィートほど向こうで、エラリーが杉の木によりかかり、奇妙な仕事にとりかかっていた。ちぎって、くしゃくしゃにしたトランプのカードが、あたり一面にちらばっていた。警視が見つけたとき、ちょうど、エラリーは前に両手を上げて、両方の人差指と親指とで、一枚のカードのはしを、そっとつまんでいた。目は、真向かいの木のてっぺんの枝に、じっと注がれていた。それから、ほとんどむぞうさに、そのカードをひき裂くと同時に、片方の切れっぱしを丸めて捨てた。そして、すぐ目をおとして、手に残っている半分の切れっぱしを調べ、ぶつぶつ言って、それを地面に放り出すと、また上着のポケットに手を入れて、べつのカードを取り出し、つまみ、見上げ、裂き、まるめ、調べるなんていう、見当もつかない手順を、もう一度、すっかり繰り返し始めた。
警視は目をこらして、しばらく、息子を見守っていた。それから、踏み出すと、小枝がぴしりと折れた。エラリーの顔が、くるりと音の方を向いた。
「ああ、お父さんか」と、エラリーは、ほっとしながら「そいつは悪い癖ですよ、おやじさん。いつか、一発くらいますよ」
警視は睨みつけて「さっきから何をしとった?」
「大事な実験ですよ」と、エラリーが八の字をつくりながら「今日の午後話した亡霊の正体をつきとめようとしてるんです。どうやら、つかめそうなんですよ。そら」と、手をポケットに突込んで、また別のカードをとり出した。警視は、それが前の晩、ゲーム室で見かけた一組のカードのうちの一枚なのに気付いた。
「手伝って下さいよ、お父さん」と、エラリーは、おどろいている父親の手に、その厚紙のカードを握らせて「このカードを二つにちぎって、片方の切れっぱしを丸めて投げすてて下さい」
「いったい、何のために?」と、老紳士が訊いた。
「さあ、さあ。疲れた探偵の新しい息抜きですよ。やぶいて、片方を丸めるんです」
肩を一つしゃくって、警視は言う通りにした。エラリーの目は、じっと、父の手を見守っていた。「どうだ」と、警視は、うなるように言い、残っている切れっぱしを調べた。
「ふーん。面白いな。そうなるだろうと思った。でも、何を求めるのかが分かっているので、確信が持てなかったんですよ。求めるものが分かっていて実験するのは、実にむずかしいもんですね……さあ、ちょっと待って下さい。これが真実だとすれば、たしかにユークリッドの原理みたいに明確に思えるが、そうすれば、あとは、ただ一つの問題があるだけだな……」と、エラリーは杉の根本のカードがちらばっている地面に、かがみ込み、しゃがんで下唇をなめながら、ぼんやりと地面を見つめていた。
警視はたばこをふかし始めた。その方がましだと思ったのである。そして、辛抱強く、息子の深遠な、疑いもなく異教的な瞑想の結果が出るのを待っていた。エラリーが、目当てもなく神秘的な行動をとることは、めったにないのを、それまでの経験で、警視は心得ていた。息子の日焼けした額の皺のかげで、何か重要なことが起こっているのは明白だった。いろいろな可能性を考えて、やっと、警視がかすかな光明をつかみかけたとき、エラリーがひどく目を光らせて、とび立ったので、びっくりした。
「分かった!」と、エラリーは大声で「畜生。もっと早く分かるべきだった。もう一つのにくらべて、まるで子供だましだ。そうだ、どう考えてみても理屈に合ってる……当たっているにちがいない。悲しくも誤用された観察法や、推理法に対する輝かしい雪辱ですよ。乾盃だ! さあ行きましょう、お父さん。化けの皮をひんむくのを目撃できますよ。今朝、僕の頭骸骨にとっついたちっちゃな幽霊の執念深さに感謝するのは、誰だろうな」
*
エラリーは、まじめな顔で、いかにも誇らしげに、空地の方へ急いで出て行った。警視は、胃袋の底にかすかな重苦しさを感じながら、とぼとぼと、ついて行った。
エラリーはポーチの石段を勢いよく上がって、あたりを見まわし、少し胸を弾ませながら「みなさん、ちょっと僕と一緒に二階へ上がって下さい。大事な仕事がありますから」
カロー夫人が、びっくりして立ち上がり「みんなですの。大事なことですの、クイーンさま」双子は小型のチェス盤を落として、口をあんぐりあけて、とび上がった。
「大事なことですよ。ああ――スミスさん、あなたも一緒に、どうぞ。ゼーヴィア君も是非必要です。フランシスとジュリアンも、もちろん」
返事も待たずに、エラリーは家に走り込んだ。女とふたりの男と双子たちは、心配そうに、うろたえ気味に警視を見たが、老人は気むずかしそうなふりをして――これが初めてではないが――役割りを演じていた。きびしい、何でも知っているぞといわんばかりの顔付きだった。そして、一同について家にはいりながら、心ひそかに、何事だろうといぶかっていた。ますます胃が重苦しくなっていた。
「さあ、はいって下さい」と、エラリーが快活に言った。一同はゼーヴィア夫人の寝室の入口で、もじもじ立ちどまっていた。殺人を自白した夫人は、ベッドで頬杖をつき、凍りつくような恐怖の色をうかべて、何をするかわからないエラリーの背中を見つめていた。フォレスト嬢は、緊張をむき出しにして、青くなって立ち上がり、ホームズ医師は、不審そうにエラリーの横顔を観察していた。
一同は、かたまってはいり、ベッドの上の夫人を見ないようにして、おどおどしていた。
「四角ばることはありませんよ」と、エラリーは、同じ明るい口調で「お坐り下さい、カロー夫人。ああ、あなたは立っている方がいいんですか、フォレストさん。よろしい、おせっかいはやきませんよ。ホイアリーさんはどこかな。それに『骸骨』君も。『骸骨』君もいなくっちゃ」と、廊下にとび出した。大声で家政婦と下男を呼ぶのが聞こえた。エラリーが戻って、しばらくすると、がっしりした家政婦と骨ばった下男が、真青な顔をあらわした。
「さあ、はいった。はいった。さて、これで、巧妙な犯罪計画の小さな実験をお見せする支度がととのったようです。あやまちは人の常、ありがたいことに、われわれはお互いに血肉をそなえた人間ですからね」
このすばらしい文句は、すぐ利いた。ゼーヴィア夫人は、ベッドでゆっくり起き上がり、黒い目を見張り、手でシーツをつかんだ。
「いったい何ですの――」と、夫人は、かわいた唇をなめながら「もう済んだんじゃないんですの――わたくしのことは」
「そして、人を許すことは崇高なことですよ……むろん、みなさんもご存知でしょうが」と、エラリーはさっさとつづけた。「奥さん、しっかりしていて下さいよ。いささかぎょっとするようなことかもしれませんからね」
「早速、要点にはいってもらおう、君」と、マーク・ゼーヴィアが、どなった。エラリーは冷い目でじろりと見すえて「どうか邪魔せずに、この実験をやらせて下さい、ゼーヴィア君。罪という言葉は、意味が広く、含みが多いものだということを、示してみたいんです。僕らはみんな、罪人を石で打つ部類の人間です――言うなれば、最初の石投げ族ですよ。それをよく覚えておいて下さい」
マーク・ゼーヴィアは妙な顔をした。
「ところで」と、エラリーは落ちついて「勉強にかかります。これから」と、ポケットに手を入れながら「トランプ手品をお目にかけます」と、一組のトランプのカードを取り出した。
「トランプの手品ですって」と、フォレスト嬢が息をのんだ。
「ありふれたトランプ手品じゃないんですよ。不滅の名人フージニでさえ、上演目録《レベルトアール》に持っていなかったものです。さあ、お目をとめて、ようくご覧うじろ」と、エラリーは、カードをみんなの前につまみ上げた。他の指は全部カードの裏にかけ、表には二本の親指が向き合うようにした。「取り出しましたるこのカードを半分にひきさいて、その片方を丸めて、なげすててごらんに入れます」
一同は息を殺して、エラリーの手のカードを見つめた。警視は、何かうなずき、声も立てずにため息をついた。
エラリーは左手を固定し、右手をすばやく動かして、カードを半分に裂き、右手に残った分を、すぐに丸めて捨てた。そして、左手を差し上げた。左手には別の半分のカードが残っていた。
「ようくご覧うじろ」と、エラリーが「いかなることに相成りましたか。僕はこのカードを二つに裂いたのですが、この簡単でしかも、すばらしい指芸を、どう演じたでしょうか。右手に力を入れ、右手でまるめ、右手で不用な半分を投げ捨てました。したがって右手には何もなく、左手にカードの半分が残ったわけです。つまり、左手はふさがっていたのです」と、声を強め「芸を演じまするあいだ、この半分のカードで、ふさがっていたのです。左手は、右手の引き裂く力に釣り合うように力を入れただけです。そして、丸めなかった半分が、これ、この通り左手に残ったのでありまあす」
エラリーは、あきれ顔の一同を、じろりと見まわした。おどけた様子は、すっかり消えていた。
「いったいこれは何を意味すると思いますか。僕が右利き、つまり、手仕事のほとんど全部を右手にまかせているということを意味するのです。僕は本能的に手仕事には右を使う。それは僕の肉体構造の不可分な特徴なのです。特に意志の力を用いなければ左手での身ぶりや動作をしたことはありません……ところで、皆さんもご存知のように、ゼーヴィア博士も右利きだったことを、僕は言いたいのです」
瞬間、みんなの顔に、納得の色が流れた。
「僕の意図がお分かりになったでしょう」と、エラリーは、おごそかにつづけた。「われわれは、ゼーヴィア博士の右手に、スペードの6の丸められなかった半分があったのを発見しました。しかし、今お目にかけたように、右利きの男が、裂いて、まるめて、その半分をすて、他の半分を手に残すという動作をすれば、当然、残る方は左手になるはずです。一枚のカードの半分は、どちらも実際に同じだから、どちらを択ぶかは、精神的な問題にはなりません。したがって、残る方の半分は、つまり、動かさなかった方の手に残るのが普通でしょう。だから、ゼーヴィア博士は、カードの半分を、まちがった手の方に持っていたことが分かります。つまり、ゼーヴィア博士があのカードを裂いたのではないということになります。したがって、だれかがあのカードを裂いてゼーヴィア博士に握らせ、うっかりして、ゼーヴィア博士は右利きだったから、カードは右手に持っているはずだと、思いこんで、つい間違えてしまったのでしょう。だから」と、中休みして、ふと同情の色を顔にうかべ「ゼーヴィア夫人を殺人犯人と誤認して、耐え難い精神的苦悩を与えたことを、心から深くおわびせねばなりません」
ゼーヴィア夫人は、ぽかんと口をあけて、暗闇から白日のもとに曳きずり出された女のように、目をぱちくりした。
「と、いうのは、みなさん」と、エラリーが落ちついて「もし誰かが、スペードの6の、丸めなかった半分を故人の手に持たせたということになれば、その誰かは――故人ではない――ゼーヴィア夫人を夫殺しの罪におとしたかったということになります。しかも、故人が、その告発者でないとなると、事件はすっかり、どんでん返しになるわけです。罪を犯した者の代わりに、無実の、罠にかけられた女を捕えた。真犯人の代わりに、潔白な、濡れ衣《ぎぬ》をかけられた女を捕えたことになるのです。そして、真犯人以外に、誰がこのでっち上げをやれたでしょうか」と、エラリーは言葉を切って、丸めた半分のカードをひろい、二枚の切れっぱしを一緒にして、ポケットに入れた。
「この事件は」と、ゆっくり言った。「解決されたどころか、始まったばかりです」
しばらく、沈黙がつづいたが、一番しんとしていたのはゼーヴィア夫人だった。夫人は枕に埋まるようにして、両手で顔を覆っていた。他の連中は、急に、こっそりと互いの顔色をうかがった。家政婦のホイアリーは、弱々しくうめいて入口の柱によりかかった。『骸骨』は、あっけにとられて、ゼーヴィア夫人からエラリーへ、目を移した。
「でも――でも」と、フォレスト嬢がベッドの夫人を見守りながら、とぎれがちに「なぜ奥さまは――なぜ――?」
「きわめて適切な質問ですよ、フォレストさん」と、エラリーが低い声で「それは、僕が解かねばならん二つの問題の二番目のものでした。第一の問題を解いて、ゼーヴィア夫人が無実であると結論したからには、当然、二番目の問題が出て来ます。つまり、もし奥さんが無実だったのなら、なぜ罪を告白したのか。だがそれは」と、ひと息入れて「ちょっと考えると、すぐ分かって来ます。奥さん」と、やさしく「無実なのに、なぜ、罪の告白をされたのですか」
夫人は胸を波打たせながら、すすり泣きはじめた。警視はくるりと背を向けて窓のそばへ行き、外を眺めた。そのとき、身も世もない思いだった。
「奥さん」と、エラリーが低く言い、ベッドにかがみこんで、手をとった。手は顔からはなれ、夫人は涙のながれる目でエラリーを見上げた。「あなたは実に見上げた方ですね。だが、犠牲になろうとされるのを、見のがすわけにはいきません。誰をかばっておられるのですか」
第三部
それはちょうど、頑丈なドアを、力いっぱいに押し倒し、全力をつくしてぶち破るようなものである。しばらくは、光で目をうばわれ、真実が見えたと思い込むものである。やがて、目が慣れるにしたがって、事実はとんでもない錯覚だったことが分かってくる。その部屋はからっぽで、その先にまた別の頑丈なドアがあるのが分かってくる……私はあえて言うが、普通以上巧妙に仕組まれた事件の犯罪調査に当たる捜査官は、みんなこれと同じような感情を経験するであろう。
(リチャード・クイーン著『過去への散歩』より)
十一 埋葬所
ゼーヴィア夫人の顔に現われた変化は、目を見張るほどだった。顔の筋肉が一本のこらず石に化したようだった。まず皮膚が強張《こわば》り、次に口と顎が強張った。皮膚はコンクリートを流し込んだように、つるつるにかたまり、まるで鋳型でとった女のようになっていた。またたく間に、夫人特有の即時調整の錬金術で、永遠の若々しさをとりもどしていた。
夫人は、例のジョコンダの微笑のような微笑さえうかべた。だが、エラリーの頭をつき出しての質問には答えなかった。
警視はゆっくり振り向いて、見慣れた人形どもの顔をじろじろ見た。そして、連中はいつも人形みたいだなと、思った――きたない|でく《ヽヽ》人形の顔だ――そんなときは、連中は何かを隠そうとしているんだ。それに、殺人事件の捜査では、みんな何かを隠したがるものだ。しかし、こういった罪ありげな顔付きからは、とかく、何もたぐり出すことはできないものだ。それに罪悪感というものは、人間動物が持つ個人差のある天性にすぎないのを、警視は苦い経験知で心得ていた。罪の有無を告げるのは顔ではなくて、心だ。警視は、ため息をついて、コロンビア大学教授の友人が考案した嘘発見器を、つくづく欲しいと思った。特にこの際は……
エラリーはそり身になって、鼻眼鏡をはずした。「すると、この重要な点にだけは、だんまりというわけですね」と、何か考えながら「お分かりでしょうが、奥さん、話すのを拒否することで、ご自分を従犯にしようとしてるんですよ」
「何のお話か、さっぱり分かりませんわ」と、夫人が低く冷たく言った。
「そうですか。少なくとも、あなたには、もはや自分が人殺しと見られていないという暗黙の事実がお分かりなんでしょうね」
夫人は黙っていた。
「話したくないんですか、奥さん」
「何も申し上げることはございませんの」
「エル!」と、警視が、いきなり頭を振り向けて声をかけたので、エラリーは肩をすくめて引退がった。老紳士は進み出て、妙な敵意を見せながらゼーヴィア夫人を睨んだ。要するに夫人は警視の獲ものなのだ。
「奥さん、この世には妙な人間がいっぱいおって、いろんなくだらんことをやるが、概して、なぜそんなことをやるのか自分でも分からんらしい。人間という奴は実に頼りないもんですぞ。しかし、警察官は、なぜ、ある人間がそんなことをするのかという理由を、話して上げられる。他人の重罪を自ら買って出て苦しんどるような場合にはね。奥さん、あんたが犯しもしない殺人の罪を進んでかぶっとるわけを、言ってみましょうかな」
夫人は枕を背に押しつけ、両手でベッドをしっかりおさえて「クイーンさまが、もう……」
「さよう、わしはそれを更に押し進めることができますぞ」と、警視は顎をさすりながら「少しむごい話だが、奥さん。あなたぐらいの年配のご婦人は……」
「わたくしぐらいの年配の女と申しますと」と、夫人は訊いて、いきまいた。
「そら、そら、あんたもやっぱり女性だ! あなたぐらいの年配の女性が最大の自己犠牲を払うには、原因は二つの中の一つだ――愛か情熱だ」
夫人はひきつけるように笑って「その二つを、区別なさるというの」
「区別しますとも。わしは心のうちで、はっきり区別しとる。愛は最高の精神的な――そう――感情であって……」
「まあ、ばからしい」と、夫人は半分顔をそむけた。
「本当にそう思っているらしい口ぶりだが」と、警視が低い声で「ちがうな。思うに、あなたには、そう、子供のために犠牲にはなれそうもない――」
「子供ですって」
「お子さんはない。そこで、わしはこう睨むんだが、奥さん――あなたが庇《かば》っているのは」と、警視はぴしりと言った。「愛人でしょう」
夫人は唇を噛んで、シーツをいじり始めた。
「こんなことを言わなければならんのは残念だが」と、老紳士は落ちついて「海千山千のおやじとしては、まあ賭《か》けてもいいですぞ。相手は誰ですな、奥さん」
夫人はその白い手で絞め殺したいような目で、警視を睨んだ。「本当にいやなおじいちゃんね。今まで会ったこともないわ、あなたみたいな人に!」と、夫人は大声で「おねがいだから、放っといて頂戴」
「話すのを拒絶するのかね」
「みんな、出てって!」
「言うことは、それだけかね」
夫人は怒りの感情をかき立てながら「畜生《モンデュー》」と、つぶやくように「出て行かないと――」
「ドゥゼ〔二十世紀初頭のイタリアの名悲劇女優〕だ」と、エラリーは苦々しく言うと、くるりと向きをかえて部屋をゆっくり出て行った。
*
一同は夕方の暑さで、ぐったりしていた。罐詰の鮭《さけ》と沈黙の夕食を済ませたあと、申し合わせたように一同が集まったテラスから見ると、空は見渡す限り妙な茜《あかね》色で、朱色の幕が、山々の姿をふちどり、見えない麓の山火事地帯から巻き上がる雲煙で、あたりはどんよりと、まぼろしのようになっていた。少し息苦しかった。カロー夫人は、ごく薄いねずみ色のヴェールで口と鼻を覆い、双子たちは、苦しそうに咳きこんで、背を丸めていた。麓から吹き上げる風の翼に乗って、オレンジ色の光斑が空に舞い上がり、みんなの衣服は灰でよごれていた。
ゼーヴィア夫人は、すっかり生気をとりもどして、退位した女王のように、ただひとり、テラスの西のはずれに腰かけていた。黒いサテンのドレスで、夕闇にとけこむようなその姿は、見た目よりも重苦しい感じの存在だった。
「ポンペイ最後の日みたいだなあ」と、ホームズ医師が、長い沈黙のあとで、やっと口をひらいた。
「ちょっとちがうところは」と、エラリーが、テラスの柵に片足をかけてゆすぶりながら、むぞうさに「今は、われわれも世の中も少々狂っているってことですね。ヴェスヴィオ火山の噴火口は、当然町のあるべきところにあったし、ポンペイの住民たちは――あの陽気で話好きな連中は――当然噴火口のあるべき場所に住んでいたんですよ。すばらしい見ものだったでしょうね。熔岩が噴き上げたんだから。僕はニューヨークに帰ったら、そのことを、アメリカ地理学協会に書いてやろうと思いますよ」と、ひと息入れて、しょんぼりしながら「もしも」と、つまらなそうに、にやりとして「帰れたらね。僕は真剣に、心配し始めているんです」
「そうよ」と、フォレスト嬢も、がっしりした肩をふるわせて「私も、そうよ」
「ああ、そんなことは絶対にありゃしませんよ」と、ホームズ医師が、すばやく言って、いら立った目をエラリーに投げた。
「そうかな」と、エラリーは、憂鬱そうに「じゃあ、山火事がひどくなったら、どうします。かわいい小鳩のように、翼に乗って飛び去りますか」
「君は山と岡を、とり違えてるよ、クイーン君」
「僕は山を火事だと言ってるんですよ――もう、たっぷり燃えてる……おや、おや、ばかなことを口走って、議論したってつまりませんよ、先生、お詫びします。ご婦人方をすっかりこわがらせてしまいましたね」
「もう何時間も前から分かっていましたわ」と、カロー夫人が静かに言った。
「何がですかな」と、警視が小声で訊いた。
「わたくしたちが、とても危険な状態にいるということですわ、警視さま」
「おお、そんなこと、カロー夫人」
「そう言っていただくのはありがたいけれど」と夫人は微笑して「もう、予感をごまかそうとしても意味がないじゃございませんか。わたくしたちは罠におちたんですよ、まるで――まるで、びんの中の蝿のようにね」と、声が少しふるえていた。
「まあ、まあ、そんなに悪くもありませんぞ」と、警視が笑い消そうと努めながら「ただ時間の問題ですぞ、カロー夫人。これで、なかなかの手ごわい古山ですからな」
「燃えやすい木ばかりで覆われていますよ」と、マーク・ゼーヴィアが、冗談めかして「やはり、神の正義というものがあるんでしょうね。おそらく、この火事騒ぎも、殺人犯人をあぶり出すための、天の配剤かもしれないな」
警視は、こわい目で、じろりと睨んだ。「それも、一つの考え方だな」と、うなるように言い、目をそらして灰赤色の空を見上げた。
午後のあいだ一言も口を利かなかったスミス氏が、いきなり椅子を後ろにはねのけたので、みんながびっくりした。その巨体が白壁を背に、不気味な影となって、ぼわっと浮かび上がった。スミスは、ずしずしと階段のへりまで行き、一段下りかけてためらい、大きな頭を警視の方へ振り向けた。
「その辺を少し歩いても、ええでしょうな」と、がらがら声で訊いた。
「暗がりで、石で足を折りたいなら、勝手にするがいい」と、老紳士が苦々《にがにが》しそうに「かまわんとも。君は逃げ出せんのだ、スミス君、それだけがわしの関心事だ」
でぶは何か言いかけたが、薄い唇をぴたりと閉じて、足も重そうに階段を下りて行った。間もなく姿が見えなくなってからも、大きな足がドライヴの砂利道を、ざくざく踏みつける音が聞こえていた。
エラリーは、たばこに火をつけながら、控え室の戸口からテラスにもれる光に照らし出されたカロー夫人の顔をちらりと見た。その顔つきに、エラリーはぎょっと立ちすくむ思いがした。夫人はやさしい目に恐怖の色をにじませて、かたくなって、でぶの幅広い背中をいつまでも見送っていた。カロー夫人と不審な男スミス。……マッチの軸が指先まで燃えて来たので、エラリーは、口の中で舌打ちしながら放り出した。さっき台所でも何か気になったがなと、思った。……しかも、たしかにスミスも、このワシントンから来た|かわいい女《プチット・ダーム》をおそれていた。なぜ、夫人の目に恐怖の色があるのだろう。互いに怖れ合っているなんて、筋が通らないじゃないか。言葉にも動作にも教養のかけらもないこのいやらしい|でかぶつ《ヽヽヽヽ》と、薄幸の国から来たようなこの立派な婦人とが……たしかにあり得ないことではないが、まさか……過去の流れでまじり合った異質な生きものたちかもしれない。エラリーは、どんな秘密が潜んでいるのだろうと、緊張のたかまる胸で、いぶかった。他の連中も気がついているだろうか――。だが、まわりの顔を慎重にうかがってみたが、どの顔にも、何か知っていそうな表情や、秘密を抱いていそうな表情は見当たらなかった。フォレスト嬢だけは、どうかすると別かもしれない。妙な娘だ。その目が、カロー夫人の強張った顔を見るのを避けようとするかのように、おどおどしていた。してみると、この娘も気がついているのかな。
スミスの重い足音が砂利道を引き返してくるのが聞こえた。スミスは階段をのぼり、前と同じ椅子に腰かけた。その蛙のような目はけろりとしていた。
「探しとるものが見つかったか」と、警視がぼそっと言った。
「えっ?」
老紳士は手を振って「気にするな。ここは警察のパトロールの区域外だからな」と、苦々しげにくすくす笑った。
「わたしは散歩しただけですぜ」と、でぶは、むっとしてどなり「わたしが逃げようとしてるとでも思うなら――」
「そんなことは考えんでいい。考えても、文句はいわんが」
「ところで」と、エラリーが、たばこの火を見つめながら「スミス君、君とカロー夫人は古い知り合いなんだろう。そんな気がするが、当たったろう」
男は身動きもせずに坐っていた。カロー夫人は口の上のヴェールのはしをまさぐっていた。やがて男が「さっぱり分からないが、なぜ、そんなふうに考えるのかね、クイーンさん」
「ああ、気まぐれさ。じゃあ、間違ってたかな」
スミス氏は、どっさり持っているらしい茶色の太い葉巻を、服の大きなポケットから、ひょいと取り出して、いかにもわざとらしく口にくわえて「なぜ、ご婦人に訊かんのだ」
アン・フォレストが、突然立ち上がって「ああ、我慢ならないわ」と、大声で叫んだ。「わたしたち、いつまでも、こんなふうに質問ぜめから、のがれられませんの。シャーロック、何かしましょうよ。ブリッジか――何か。奥さまも許して下さると思うわ。こんなふうに、ただ坐って、お互いに苦しめ合っていたら、気違いになってしまうわ」
「いい考えだ」と、ホームズ医師は大いに賛成して、腰をうかせ「カローさんは――?」
「結構ですわね」と、カロー夫人は立って、ためらいがちに「ゼーヴィアさん、あなたはとてもゲームがお上手でしたわね」と、ひどく明るい声で「わたくしと組んで下さいません?」
「そりゃ結構ですな」と、弁護士は立ち上がった。薄暗がりの中で、背が高く、ぼやけて見えた。「他にどなたか?」
四人はしばらく待っていたが、誰も返事をしないので、ぞろぞろとフランス窓をくぐって、ゲーム室へ入っていった。ぱっと灯がつき、少し不自然に高めた声が、テラスにいるクイーン父子の耳に聞こえた。
エラリーは、まだ、たばこを見つめていた。身動きもしなかった。スミス氏も同様だった。そっと様子をうかがい、スミス氏の丸顔にたしかに安堵の色が浮かんでいるのを、エラリーは見てとった。
フランシスとジュリアンが、突然、控え室からさすあかりの中に姿をあらわして「僕たちも――」と、フランシスの方が震え声で言った。双子たちは、おびえているようだった。
「君たち、どうかしたかね」と、警視がやさしく訊いた。
「僕たちも、行ってもいいですか」と、ジュリアンが「少しばかり――なんだか――ここにいるのは退屈になりました。僕たちは、球突きをしたいんです、いいでしょうか」
「もちろん、いいとも。かまわんよ」と、警視は微笑して「球突きをやるんだって? わしにはどうも考えられんが――」
「おお、僕たち、たいていのことができるんです」と、ジュリアンが口ごもりながら「僕はいつも左手を使うんですけど、今夜は少し暴れてやろうと思うんで、右の手を使うつもりなんです。僕たち、うまい方なんですよ」
「まあ、そうとしとこう。さあ、やりたまえ。大いに楽しむんだ。こんなところじゃ、君たちのやることがいくらもないことぐらい、神さまもご存知のはずなのにな」
少年たちは、うれしそうににこにこして、例の優雅な身のこなしで、フランス窓をくぐって姿を消した。
クイーン親子は、かなり長いあいだ、黙って坐っていた。ゲーム室からは、カードを切る音や、ひそひそ声や、球突きの球の音が聞こえて来た。闇にくるまれて、ゼーヴィア夫人は、いないようだった。スミスは火の消えた葉巻を口にくわえて、うたたねしているらしかった。
「くさいですよ」と、エラリーが、やがて低い声で「つきとめてみたいですね、お父さん」
「へえー」と、老紳士が夢からさめたように、はっとした。
「さっきから、そのことで、研究室をのぞいてみたいと思っていたんです」
「こんな時刻にか? あのとき、調べたじゃないか――」
「ええ、そうです。それで、思いついたんですよ。何か見たような気がするんです……それに、あのとき、ホームズ先生が、なんだか変なことをしたでしょう。一緒に来ますか」と、エラリーは立ち上がって、たばこを、闇の中に弾《はじ》きとばした。
警視もうめきながら、立ち上がって「よかろう。おお、ゼーヴィア夫人」
テラスのはずれの暗がりで、かすかにもがく音がした。
「奥さん」と、警視は、あわてて繰り返した。そして、姿の見えない夫人の腰かけている方へ急いで行き、上からのぞきこんで「おお、済まんことをしました。しかし、あなたも、本当に、あんなことをすべきじゃなかったですぞ」
夫人は、すすり泣いて「おお……どうぞ。もう、この上、いじめないで下さいませ」
老紳士はへこたれた。そして、おずおずと、夫人の肩を軽くたたいて「いやどうも。わしのあやまちでした、おわびしますぞ。奥さんは、なぜ、あのひとたちと一緒にならんのですか」
「あのひとたちは――あたくしがきらいなんです。あのひとたちの考えでは……」
「ばからしい。そりゃ、あなたの神経だ。ちょっとおしゃべりすれば気も晴れますぞ。さあ、さあ。外にひとりでいたくはないでしょうが」
警視の指先に、夫人のふるえているのが感じられた。「ええ。そりゃ、あたくしだって、何も」
「じゃあ、いらっしゃい」
警視は手をかして、夫人を立たせ、やがて、ふたりは灯りの方へゆっくりはいっていった。エラリーはため息をついた。背の高い夫人の顔は涙にぬれ、目が赤くなっていた。夫人は足をとめて、ハンカチをさがし出し、目をぬぐって、にっこりすると、テラスから家へはいった。
「なんという女だ」と、エラリーはつぶやいた。「あきれたな。目がとび出るほど泣いたくせに、荒れたお化粧を直しもしないなんて……さあ、行きますか」
「行こう、行こう」と、警視はじりじりしながら「無駄口をたたいとらんで、行動するんだ。わしは、この仕事が片付かんうちは、死んでも死にきれんぞ」
「是非そう願いたいもんですよ」と、言って、エラリーは控え室へ向かった。その口調には、うわついたところはなかった。
*
ゲーム室をよけて、ふたりは大廊下を通り、横廊下へ行った。向こうの台所の開けっぱなしのドアから、家政婦ホイアリーの広い背中と、『骸骨』のじっとしている姿が、ちらりと見えた。ふたりは二つある台所の窓の片方に立って |Stygian《ステイジアン》(地獄)の闇の夜を覗いていた。
クイーン父子は右に曲り、二つの廊下の交差点とゼーヴィア博士の書斎のドアとの中間にある、とじたドアの前でとまった。警視が押すと、ドアは開いた。ふたりは暗い部屋にすべり込んだ。
「スイッチはどこなんだ」と、警視が、不機嫌そうに言った。エラリーが見つけて押すと、研究室はぱっと明るくなった。エラリーは閉めたドアに背をもたせて、あたりを見渡した。
ゆっくりと研究室を調べることができるようになった今、エラリーは、しみじみと、科学の近代性と機械の能率性に対する印象が深まるのを感じた。その印象は、その日の朝早く、ゼーヴィア博士の死体を移す、あのいやな仕事に加わったときにも感じたものだった。あたりには不気味な機械が立ちならび、素人目《しろうとめ》にも研究実験室の粋をつくしているように映った。科学知識がまるっきりなく、このぴかぴかした妙な形の機械の用途がほとんど分からないエラリーは、陰極管の列や、曲りくねったレトルトや、太い試験管の棚や、気味の悪い液体のびんや、顕微鏡や、化学薬品の壷や、妙な形のテーブルや、レントゲン機械などを、いかにも感心したように眺めていた。天体望遠鏡などだったら、これほど驚きはしなかったろう。この多種多様で複雑な機械を見ても、エラリーには、ゼーヴィア博士が、化学と物理の実験と同時に生物学の実験をしていたらしいということくらいしか、ほとんど見当がつかなかった。
父と子は、冷蔵庫のある部屋の隅の方は見ないようにした。
「どうだい」と、しばらくして、警視がむっつりと「ここでは何もつかめそうにないな。昨夜、犯人はこの部屋に足を踏み入れたらしくもないぞ。何が気にかかっとるんだ」
「動物ですよ」
「動物?」
「動物と」と、エラリーは、はっきり繰り返した。「言ったんですよ。ホームズ先生が今朝、この部屋の防音装置の話をしたとき、いろんな生物の実験をするとか、そいつが騒ぎたてるとか言ってたじゃありませんか。だから僕は、その実験動物に、ひどく興味を持ってるんですよ。生体解剖に非科学的な恐怖心をもつものでね」
「騒ぎたてるって」と、警視が眉をよせて「さっぱり聞こえんぞ」
「おそらく、軽い麻酔がかけてあるんでしょう。それとも眠ってるのかな。ちょっと待てよ……そうだ、あの仕切り部屋だぞ」
研究室の奥に、なんとなく肉屋の氷室を思い出させるような板囲いの仕切り部屋があり、その入口の重いドアにクロームの掛け金がついていた。エラリーが押してみると、鍵はかかっていなかった。開けてはいり、天井の電球をさがして、スイッチをひねると、目をぱちくりしながらあたりを見まわした。部屋には棚がしつらえてあり、棚にはいろいろな形の檻《おり》がならんでいた。そして檻には、見たこともないような、およそ奇妙ないろいろな動物が入れられていた。
「こりゃあ」と、エラリーは息をのんで「こりゃあ――おどろいたな。コニー・アイランドの見世《みせ》もの師たちに、大もうけさせるだけのものがありますよ。お父さん、見てごらんなさい」
光で動物どもは目を覚ました。エラリーの言葉尻は動物どもの騒ぎたてる声にのまれてしまった。きいきい、きゃあきゃあ、ぎゃあぎゃあ、妙な鳥どもの金切声もまじって。
警視は、少しおじけづきながら、小さな仕切り部屋にはいってくると、目をむき、気持悪そうに、鼻に小皺をよせた。
「ぷぷっ。動物園のような匂いだな。こいつあ、たまらんぞ」
「それ以上ですよ」と、エラリーがむぞうさに訂正して「ノアの方舟《はこぶね》ですね。差し当たり要るのは、長いあごひげを垂らした長老服の老人だけです。おや、二つずついる。雄雌になってるのかな」
どの檻にも同種類の動物が二匹ずつ入れてあった。妙な恰好の兎が二羽、毛のさかだった牝鶏《めんどり》が二羽、ピンク色をしたモルモット属の動物が二匹、もっともらしい面付きの鼠猿が二匹……どの棚もいっぱいつまっていて、しかも、どの檻にも動物調教師の悪夢が生み出したような奇怪きわまる生きものが集められていた。その大部分のものは、クイーン父子には名前さえ分からなかつた。
しかし、ふたりを驚かせたのは、集められている動物が、種々雑多だという点ではなく、ふたりが見た限りでは、どの一対の動物も双子――動物界のシャム双子であるという事実だった。
そして、いくつかの檻は空になっていた。
*
ふたりはあたふたと研究室をとび出し、廊下のドアを後ろに閉めたとき、警視は、ほっとして安堵のため息をついた。「おどろいた場所だな。早々退散だ」エラリーは答えなかった。
しかし、ふたりが二本の廊下の交差点まで来たとき、エラリーが急いで言った。
「ちょっと待てよ。僕は『骸骨』君と、少しお喋りしてみようと思います。何かつかめそうです……」と、エラリーは、あいている台所のドアの方へ急いだ。警視は、だるそうにとぼとぼとついて行った。
エラリーの足音をきくと、家政婦のホイアリーが、くるりと振り向き「おお……おお、あなたでしたの。びっくりしましたよ」
「無理もないです」と、エラリーは快活に「ああ、ここか、『骸骨』君、君に是非訊きたいことがあるんだ」
老骨《ろうこつ》は、苦い顔して「さっさと、訊きなさるがええ」と、しぶしぶ言った。「訊くなったって、訊きなさるもんな」
「そりゃ、とめられないさ、『骸骨』君」と、エラリーが入口の柱によりかかって「ひょっとすると、君は園芸家じゃないかね」
相手は目をむいて「え、何ですって?」
「母なる大地の賛美者で、お婆さんの好きな花のたぐいに特別な趣味を持っているかと言うんだよ。そう言うのも、外のあの石ころの土地に、花壇をつくろうとしているんじゃないか」
「花壇ですと、とんでもない」
「ああ」と、エラリーは何か考えながら「フォレストさんがそう言っていたが、僕はそうは思わなかったんだ。ところが今朝君は、シャベルと鶴嘴《つるはし》を持って、家の横手から現われたじゃないか。あれから、横手の方を調べてみたんだが、貧弱なアスターも、豪勢な蘭《らん》も、ちっちゃなパンジーも、けぶりにも見えないじゃないか。今朝、君は、いったい何を埋めたのかね、『骸骨』君」
警視はびっくりして思わず声を立てた。
「埋めるって」と、老骨は少しもさわがず、むしろ前より、いっそう落ちつきこんで「むろん、動物でさ」
「図星だ」と、エラリーは肩越しにつぶやいて「要するに、空の檻は空の檻ってわけですよね。……で、君はなぜ動物を埋めなければならなかったのかね、『骸骨』君……ああ、そうか、分かったぞ。つまり、君はゼーヴィア博士の納骨堂の墓守りだったんだろう、え? ところで、なぜ動物を埋めなければならなかったのかね。さあ、さあ、言ったり、言ったり」
相手は、にやりと笑って黄色い歯ぐきを見せ「ご立派な質問でさ。死んだからでさ」
「その通りだよ。間抜けな質問さ。でも、聞かなきゃ分からないからね、『骸骨』君……死んだのは双子の動物だったんだろうね、ちがうかい」
はじめて、おびえるような色が、雛《しわ》だらけな顔をよぎった。「双子――双子の動物かって?」
「失敬、あいまいな言い方をしたかな」と、エラリーは力を入れて「双子の動物――ふ・た・ご、双子だよ」
「そうだよ」と、『骸骨』は床を見つめた。
「昨日の分を、今日埋めたんだね」
「そうだよ」
「でも、埋めたときはシャム双子じゃなかったろう、どうかね、君」
「言うことが、のみこめませんだ?」
「ああ、でも分かってるんじゃないかい」と、エラリーがなさけなさそうに「僕の言うのは、ゼーヴィア博士は、一時、下等な種類の動物のシャム双子を使って実験をしていた――その実験動物をいったいどこで手に入れたか分からないがね――そして、熱心に、全く残酷でなく、まさに科学的なこころみとして、外科手術で、生命を失わせないように、二匹に切り離す研究をしていたのじゃないか、ということなんだ。その通りだろう?」
「そんなことは知りませんだ」と、老骨がつぶやいた。「そんなことは、ホームズ先生にたずねなさるがええだ」
「その必要もなさそうだ。二、三――いやほとんど――おそらく、全部、その実験は成功しなかったろうな。そこで、君は動物の葬儀屋という、特殊な役をつとめていたんだろう。外の、あそこには墓がいくつもあるんだね、君」
「いくらもないでさ。大して場所もとらないしね」と、『骸骨』が、ぼっそり言った。「だけど、一度だけ、でかい双子――牝牛――があったでさ。だが、たいてい小さい奴でさ。とぎれ、とぎれに一年ばかり続いとりますだ。先生さまが、うまくいったのもござんした」
「ああ、成功したのもあったのかい。ゼーヴィア博士ほどの優秀な腕前なら、さもありなんだな。それにしても――まあいい、ありがとう、爺さん。お休み、ホイアリーさん」
「ちょっと待った」と、警視が、どなった。「奴が外で何か埋めて来たとしても……それが、何か他のものでないと、どうして分かる?」
「他のものですって。ばからしい」と、エラリーは言い、やさしく父を台所からつれ出した。
「誓いますよ、『骸骨』は正直に喋《しゃべ》っています。いや、僕は、そんなことに興味があるんじゃありません。僕が色を失うような可能性は……」と、エラリーは黙り込んで歩いた。
「どうだい、いまのショットは、ジュール」と言うフランシス・カローのりんりんする声が、ゲーム室から聞こえた。エラリーは足をとめ、首を振って、また歩きつづけた。警視は、ひげを噛みながら跟《つ》いていった。
「どうも妙だ」と、警視はつぶやいた。
ふたりは、テラスで、スミスの重い足音がするのを耳にした。
十二 美女と野獣
ふたりにとって、かつてない、息苦しい夜だった。クイーン父子は、ねばりつくような闇と、鼻をつき刺すような空気のまじり合った地獄の中で、三時間も並んでねころがっていたが、やがて、どちらからともなく、眠ろうとする努力を投げ出してしまった。エラリーはベッドをはい出して、ぶつぶつ言いながら、ぱっと電灯をつけた。そして、たばこを捜し出すと、裏手の窓の一つのそばへ、椅子を引いて行き、味気なくたばこをふかした。警視は仰向きにひっくりかえって、刈り込んだ口ひげを、撫で上げたり下ろしたりしながら、天井を見つめて、何かもぐもぐ言っていた。ベッドもねまきも、汗でぐっしょりだった。
五時になると、暗い空も明るみ、ふたりは代わり番こにシャワーを浴び、もの憂《う》そうに服を着た。
朝は臆面もなくやって来た。最初のかすかな光さえ、ものを熔かすように暑かった。窓のそばのエラリーは目をしばたたきながら、谷を見下ろした。
「ますますいけませんね」と、エラリーが憂鬱そうに言った。
「何が、ますますいかんのだ」
「火事ですよ」
老紳士は、たばこいれをしまい込んで、静かにもう一つの窓のそばへ行った。アロー・マウンテンの裏山の半円形のふちから、一マイルもある灰色のフランネルの旗のような濃い煙が、太陽に向かって、ねじれながら、立ちのぼっていた。しかし、麓の方には、もう煙は見えず、火は沈黙の脅威を宿しながら、はるかに上方まで進み、ちろちろと山頂を甜《な》めているように、ふたりには思われた。谷はほとんど見えなかった。ふたりは宙に浮いているようだった――山頂も、家も、みんなも。
「空中の、スウィフトのガリヴァー旅行記の中の島のようですね」と、エラリーが小声で「うまくないですね、お父さん」
「実に、まずいな、エル」
あとは何も言わずに、ふたりは階下に下りた。家中しんとしていた。あたりには誰もいなかった。山の朝の冷気も、テラスに立って、憂鬱そうに空を見上げるふたりの汗ばんだ頬をさますには足りなかった。今では灰と燃えがらがしきりに降っていた。見渡しの利く場所なのにもかかわらず下界は何も見えず、風に乗ってまき上げられる火の粉が、間断なく山に渦まき、火事が驚くべき速さで燃えひろがっているのが分かった。
「いったい、どうしたもんだろうな」と、警視が「こりゃひどいことになりそうだぞ。どうも対策を考えとかなくちゃならんな。とんでもないはめになったぞ、エル」
エラリーは両手で顎をおさえて「この情況で、一個の人間の死など、さして、大事とも思えませんね。……ありゃ、何でしょう」
ふたりは、はっとして、耳をそばだてた。家の東側の方から、そっと、おし殺したような金属的な音が引きつづき聞こえて来た。
「まさか誰にも――」と、老紳士は言いかけて「一緒に来い」
ふたりは階段をかけ下りて、ドライヴの砂利道を、音の方へとんで行った。家の東側へ曲りかけて、立ちどまった。ドライヴはそこで分かれ、枝道は低い粗末な木造の車庫へ続いていた。車庫の大きな二枚戸が開かれ、音はその中から聞こえて来た。警視は駆けより、暗い車庫の中をそっと覗き、エラリーを手招いた。エラリーは爪先立って、砂利道のふちの草の生えているところを歩き、父親のそばへ行った。
車庫には自動車が四台、きちんと並んでいた。そのうちの一台は、床の低いデューゼンバーグで、クイーンたちのである。次の、車体の長い、堂々たる黒い車は――疑いもなく故ゼーヴィア博士のだ。その次の、力の強そうなセダンの外国車は、おそらく、カロー夫人のものであろう。最後の、ぼろビュイックはニューヨーク市のフランク・J・スミス氏の巨体を、けわしいアロー・マウンテンの山道に運び上げたものだった。
スミスの車の後ろで、金属を打ち合う、耳をつぶすような音がしていた。やかましい音を立てている男の姿は車の、ボディーにかくれて見えない。
ふたりはビュイックと外国車の間を抜けて、しゃがみ込んだ男がさびた手斧《ておの》で、|でぶ助《ヽヽヽ》の車のガソリン・タンクをたたきこわしている前に、おどり出た。タンクはすでに五、六か所ぶち破られ、黒くて、くさく、どろっとした液体がセメントの床に流れていた。
男はおびえ声をあげて、斧を落とし、とびかからんばかりだった。クイーン父子は、相手をなだめるのに、数分間、骨を折った。
その男は『骸骨』で、相変わらず不機嫌そうに、睨んでいた。
「いったいぜんたい」と、警視は急《せ》き込んで「何をしとると思うんだ。このばか気違いが」
相手は骨ばった肩をだらりと下げて、反抗的に「あいつの、ガソリンを抜きとっちまうんでさ」
「そうか」と、警視がきびしく「そりゃ分かっとる。だが、なぜだ?」
『骸骨』が、肩をしゃくった。
「それに、タンクをスクラップにする代わりに、なぜ、ガソリンだけを抜かんのだ」
「こうしとけば、また注ぎ込めないでさ」
「むちゃな虚無主義者《ニヒリスト》だなあ」と、エラリーが情けなさそうに「奴は、他の車をうばうこともできるんだよ」
「みんな役にたたなくしてしまうつもりだったんでさ」
ふたりは目をむいた。「ふーん、あきれたな」と、警視が、しばらくして「お前ならやりかねんだろうな」
「ばかげてるじゃないか」と、エラリーがなじるように「あの男は逃げ出せやあしないよ、君。どこへ行けるんだね」
『骸骨』は、また肩をしゃくって「こうしとけば安心だからね」
「でも、なぜ、そんなに苦労してスミスさんの出かける邪魔をするんだね」
「あのむくんだ面が気に入らんでな」と、老人がいきまいた。
「なんだ、そんな理由なのか」と、エラリーは大声で「いいかい、君。こんど、この車のまわりをうろついているところをつかまえたら、いいか、そのときは君を――君をぶち殺しちまうぞ」
『骸骨』は、からだをゆすぶり、しなびた唇に皮肉な微笑を浮かべ、足をひきずって、あたふたと車庫を出ていった。
警視は手を振り上げて『骸骨』のあとを追った。エラリーは残って、何か考えながら、ガソリンに足の爪先をひたしていた。
*
「どうせ火あぶりになるなら」と、警視が朝食のあとで「働いていても、怠けていても火あぶりになるさ。一緒に来い」
「働くんですか」と、エラリーが、あきれたように答えた。エラリーは、朝から六本目のたばこを吹かしながら宙を見つめていた。そして、一時間近くも眉をしかめたままだった。
「わしのいうことが聞こえたんだろう」
ふたりは、他の連中が扇風機のなまぬるい風の下に生気もなく集まっているゲーム室を出て行った。そして、警視が先に立って、廊下をゼーヴィア博士の書斎のドアの方へ向かった。警視は、自分の鍵束から取り出した合鍵を使ってドアを開けた。室内は、その前の日に、ふたりが最後に見たままのようだった。
エラリーは、ドアを閉めて、よりかかった。「それで、どうしようというんですか」
「博士の書類を調べたいんだ」と、クイーン老人が低い声で「何が出るか分かったもんじゃない」
「おお」と、エラリーは肩をすくめて、一つの窓のそばへ行った。
警視は、長年の経験できたえられたてきぱきした容赦のないやり口で、書斎を調べ上げていった。書類箱、机、本箱――凹み、隙間を一つ残さず漁り、覚え書、古手紙、医学上の記号のはきだめ、受領証――ありふれた、そんな屑《くず》みたいなものを、一つ残らず目を通した。エラリーは外の猛暑にゆれている木々を眺めるだけで満足していた。室内は炉のよう、ふたりとも骨のずいまでぐっしょりだった。
「何もない」と、老紳士がいまいましそうに告げた。「何もない、がらくたばかり、こんなだ」
「がらくたですって。ねえ、それだって、何か役に立たないこともないでしょうよ。僕はいつも、他人のがらくたの山に興味があるんです」と、エラリーは、警視が最後の引出しを調べている机に歩みよった。
「まさに、屑の山だ」と、警視はぶつぶつ言った。
引出しはつまらない雑物でいっぱいだった。予備の文房具、こわれてさびついた外科道具、チェッカーの駒の箱、長短二十本以上の鉛筆も、ほとんど先が折れていた。まん中に小さな真珠をあしらったカフス・ボタンの片われ――明らかに対《つい》の残りものだ。少なくとも十二個以上のネクタイピンとクリップ、そのほとんどがみどり色にさびていた。やや風変わりなデザインのシャツの飾りボタン。豆ダイヤが二粒とれている古い同窓会の記念ピン。二本の時計の鎖。銀細工の鍵が一個。時代もので、黄ばんだ磨いた動物の歯が一本。銀の楊枝が一本……その引出しは男の小道具を詰めこんだ墓場だった。
「愉快な男だったらしいですね」と、エラリーはつぶやき「なんと、よくもこれほど役に立たないがらくたを集められたもんですね。さあ、行きましょう、時間の無駄っていうもんですよ」
「そうらしいな」と、警視もしぶしぶ言った。そして、ばたりと引出しを元にもどし、坐ってしばらく腹立たしそうに口ひげをひねっていたが、やがて、ため息をついて立ち上がった。
警視はドアに錠を下ろして、ふたりはゆっくり廊下を歩いて行った。
「ちょっと待て」と、老紳士は突然、横廊下のドア越しに、ゲーム室を覗いた。そして、すぐ頭を引っこめた。「よしよし、あすこにいる」
「誰がいるんですか」
「ゼーヴィア夫人だ。夫人の寝室に忍びこんで、ちょっとばかり調べるチャンスがあるというものだ」
「おお、そりゃいい。でも、何を探したいのか、さっぱり分かりませんね」
ふたりは暑さにうだりながら、やっと二階へ上がった。踊り場から廊下越しに、カロー夫人の部屋で、ベッドにかがみこんでいる家政婦ホイアリーの広い背中が見えた。ホイアリーは、こちらのふたりに気がつかず、足音も聞こえなかった。ふたりは、そっと、ゼーヴィア夫人の部屋にはいり、ドアをしめた。
それは広々とした寝室で、二階で一番大きな部屋だった。どうみても女くさい部屋で――エラリーがあっさり評したように、女主人の支配的な性格をたたえていた。ゼーヴィア博士の存在を示すものは、ほとんど見当たらなかった。
「どうやら気の毒な主人公は、書斎で日夜を過ごしていたようですね。たしかに、博士は階下のあのぼろ長椅子で、幾晩も寝たらしい」
「つべこべ言うのを止めて、廊下の音に気をつけろ」と、警視は文句を言った。「ここでつかまると工合が悪いぞ」
「あの用|箪笥《だんす》からかかると、時間と汗の節約になりますよ。他のものは、きっと、女族のパリ式ぺらぺらものでいっぱいですよ」
問題の大きな家具は、他の家具と同じように、フランス風だった。警視は年とったラッフルズ〔宝石泥棒。小説のヒーロー〕よろしく、用箪笥の仕切りや引出しを調べあげた。
「シャツ、靴下、下着、みんな月並みな代物《しろもの》だ」と、報告するような調子で「それに、安ぴかものだ。なんと、ひどい安ぴかものだ! 上の引出しは、そいつでいっぱいにつまっとる。階下の書斎の屑とちがって、こっちの方は新品らしい。医者は移り気でないなんて、うまいことを言ったもんだ。あの仏さんは、ネクタイピンなんて十五年も前に流行おくれになっとるのを知らなかったのかな」
「だから時間の無駄だと言ったでしょう」と、エラリーがじりじりして言った。そのとき、ふと思いついて「指環はありませんか」
「指環?」
「指環ですよ」
警視が頭を掻いて「なるほど、こりゃ、妙だな。がらくた好きの男なら、少なくとも、指環の一つぐらい持っとると思うんだな、そうだろう」
「そうですよ。たしか、指には一つもはめていなかったようですね」と、エラリーが声を強めて言った。
「うん」
「ふーん。指環の件が、この事件全体の中で、もっとも奇妙な点ですね。僕たちも自分の指環に気をつけた方がいいですよ、さもないと、暑さぼけで失くすかもしれませんからね。値打ちのあるなしにかかわらず、たしかに、誰かが指環を追っかけてるのかもしれないな――値打ちがないと分かっていながらね。ちえっ。どうもおかしいな……ゼーヴィア夫人のはどうでしょう。ジミー・ヴァレンタイン〔有名な宝石泥棒〕になって、夫人の宝石箱を調べてみたらどうでしょう」
警視は、すなおに、宝石箱が見つかるまで夫人の化粧テーブルをひっかきまわした。ふたりは慣れた目で、箱の中を調べた。中には、数個のダイヤの腕飾り、二本のネックレス、イヤリングが六組、いずれも明らかに高価なものがはいっていたが、指環は全然、安ものさえ、一個も見当たらなかった。
警視は考え込みながら、ふたをしめて、元あった場所へもどした。「どういうわけだろうな、エル」
「僕も知りたいもんですよ。妙だ、実に妙だ。全く、わけもへちまも分からない……」
外で足音がし、ふたりは同時にふり向き、音もたてずにドアへ忍びよった。そして、息を殺して、互いにドアの後ろにぴったりと寄りそった。
ノブがちょっと動いて、とまった。かちっと音がして、また動き、やがて、ドアがきわめてゆっくり内側へ押し開けられた。半分開いたところでとまり、隙間を通して、誰かの荒い息づかいが聞こえた。エラリーは隙間から覗いて、はっとした。
マーク・ゼーヴィアが片足を義姉の部屋に、片足を廊下にかけて立っていた。顔色は青ざめ、からだは緊張してこちこちになっていた。そのまま、身動きもせず、たっぷり一分は立っていた。入ろうかやめようか迷っているらしかった。どのくらい、そのままにしていたか、エラリーには分からなかったが、突然、マークはくるりとまわれ右して、あわててドアを閉め、足音から判断すると、廊下を駆け去ったらしい。
警視はドアを開けて覗いてみた。マーク・ゼーヴィアは絨毯《じゅうたん》の敷いてある廊下を、はるか向こうの自分の部屋の方へ駆けて行った。そして、ちょっと、ノブをいじっていたが、ドアを引きあけて姿を消した。
「さあ、こりゃどういう意味だろう」と、エラリーがつぶやきながら、ゼーヴィア夫人の部屋から出て、父の後ろにドアを閉めた。「何におびえたのかな。いったい、なぜこの部屋に忍び込もうとしたんでしょう」
「誰か来る」と、警視がささやいた。ふたりは急いで廊下を自分たちの部屋の方へ行った。それから、向きをかえて、ちょうど階下に行こうとしているかのように、また、ぶらりともどって来た。
髪をきれいにした若い頭が二つ、下から現われた。双子が二階へ上がってくるところだった。
「おお、君らか」と、警視が愛想よく「ひるねに行くのかね」
「はい、そうです」と、フランシスの方が答えて、びっくりした様子で「ふーん――あなた方は、ずっとここにいたんですか」
「僕たちは――」と、ジュリアンの方が言いかけた。
フランシスはさっと青くなった。しかし、兄弟の間に何かがひらめいたらしく、ジュリアンが、ふと、口をつぐんだ。
「ちょっといただけさ」と、エラリーがにこにこして「なぜだね」
「誰か見かけませんでしたか――上がって来たのを」
「いや。寝室から出て来たばかりだからね」
少年たちは、かすかに、弱々しく微笑して、ちょっと足をもじもじしていたが、やがて自分たちの部屋にはいっていった。
「やはり子供は」と、ふたりは階段を下りながら、エラリーが言った。「子供ですね」
「どういう意味だ?」
「おお、はっきりしてますよ。連中は、マーク・ゼーヴィアが二階に上がるのを、好奇心から、つけてみたんですよ。マークの方はふたりの来るのを聞きつけて、駆け去ったんです。普通の少年はたいていミステリーもののファンですよ」
「フーン」と警視は唇をへの字にして「そりゃそうかもしれんが、どうして、ゼーヴィアだと分かる? いったい、なんのために奴は上がってきたのかな」
「いったい何のために上がったんでしょうね」と、エラリーが大まじめに「まったく」
*
家は正午の太陽のもとでげんなりしていた。あらゆるものが触《さわ》ると熱く、灰ぼこりでざらざらした。一同はわりに涼しいゲーム室に集まり、話す元気も遊ぶ元気もなく、ぶらぶらしていた。アン・フォレストはグランド・ピアノに向かって、意味もない旋律を爪弾きしていたが、その顔には汗がにじみ、指先もキイの上でぬれていた。スミスさえ、テラスの炉のような暑さに追いたてられて、ピアノのそばに、ひとり離れて坐り、火の消えた葉巻をくわえ、蛙みたいな目を、ときどき、ぱちくりやっていた。
ゼーヴィア夫人は、まる一日ぶりで、初めて女主人としての責任感をとりもどしていた。何時間も前から、悪夢からさめているらしく、顔色もやわらぎ、目にもそれほど苦悩の色はなかった。
夫人は呼鈴を鳴らして、老家政婦を呼び「おひるよ、ホイアリーさん」
ホイアリーは見た目にも困った様子で、手をもみ合わせ、青白い顔で「おお、でも、奥さま、私――私にはつとまりません」と、ささやいた。
「おや、どうして?」と、夫人が冷やかに訊いた。
「普通のおひるご飯が差上げられないという意味ですの、奥さま」と、老女は情けなさそうに「あのう――本当に品数がございませんのです……召し上がりものの」
背の高い夫人がすっと立って「何ですって――食料が不足してるとお言いかえ」と、ゆっくり言った。
家政婦はあきれ顔で「でも、奥さまはご存知のはずですけど」
夫人は手を額に当てて「そうね、そうね、ホイアリーさん。――たぶん、わたしは――わたしがうっかりしていたのね。少し取りみだしていたものでね。でも、あるでしょう――何かは?」
「罐詰類がいくらかございます、奥さま――鮭とか、まぐろとか、サーディンとか。それでしたらどっさりございます。それに、豆とアスパラガスと果物の罐詰が、ほんの僅かばかり。パンは、今朝、焼きまして――粉とイーストはまだ少しございます――でも、卵、バター、ポテト、玉ねぎは、もうございませんの。それから――」
「もういいわ。サンドウィッチでもこしらえて頂戴。コーヒーは残ってて?」
「はい、奥さま、クリームはございませんが」
「じゃあ、お紅茶にして」
ホイアリーは顔を赤らめて出て行った。
ゼーヴィア夫人は低い声で「本当にお気の毒です。最初から少し不足だったんですけれど、それが今になって、食料品店が毎週の配達をしてくれず、それに火事が――」
「よく分かっていましてよ」と、カロー夫人がにっこりして「普通の場合ではございませんもの、普段のしきたり通り注文しようとは誰も思いませんわよ。どうぞ心配なさらないで――」
「あたしたちみんな立派な兵隊ですわ、なんと言ったって」と、フォレスト嬢が快活に言った。
ゼーヴィア夫人はため息をついて、部屋の向こう側にいる小柄な女を、まともに見まいとしていた。
「おそらく、各自の割当てを減らしたらいいんじゃないかな」と、ホームズ医師が遠慮がちに言いかけた。
「そうしなければならないようね」と、フォレスト嬢が叫び、ピアノをパンとたたいてから、顔を赤くして黙り込んだ。
かなりの間、誰も何も言わなかった。
やがて警視が穏かに言った。「さて、皆さん。わしらは事態を胸にたたき込んでおく方がいい。わしらはひどい苦境におちいっておるのですぞ。今まで、わしは、麓の連中が火事をなんとか始末してくれるものと、当てにしておった」みんなはこっそりと警視を見て、銘々の胸騒ぎを隠そうと努力していた。警視は急いでつけ加えた。「おお、連中は、きっと、これからも……」
「今朝、煙をごらんになりまして?」と、カロー夫人が静かに「わたくしは、寝室のバルコニーから見ましたわ」
また沈黙がおりた。「とにかく」と、警視が早口に「あきらめてはいけませんぞ。ホームズ先生の言う通り、厳重な食事制限をせにゃなりますまい」警視はにやりとして「ご婦人方にとっては、うってつけじゃないかな」一同はその言葉で、にやにやした。「それが賢明なやり方ですぞ。肝心なのは、できるだけ長く持ちこたえること――つまり、助けがくるまでだが。それもなあに、ただ時間の問題にすぎませんぞ」
大きな椅子に埋まるように深く腰かけていたエラリーは、そっとため息をついた。ひどくしょげ込んでいた。ただ、いつまでも、ゆっくり待つこと……しかもなお、その頭脳はエラリーに休息を与えようとはしなかった。解かねばならぬ問題があるという、しつこい亡霊のようなその考えが、またしても、エラリーを悩ました。何かがあるんだ……
「最悪の事態なのでしょうね、警視さま」と、カロー夫人がそっと言った。夫人は目の前に静かに腰かけている双子をちらっと見ると、その目になんともいえぬ、痛ましさが宿った。
警視はやり切れなそうな身ぶりをして「そうですな、まあ――さよう、かなりよくない」
アン・フォレストの顔色が、そのスポーツ・ドレスのように、まっ白になった。そして、警視をまじまじと見ると目を伏せ、ふるえを隠すために両手を握り合わせた。
「畜生」と、マーク・ゼーヴィアが椅子からとび上がって叫んだ。「僕は、じっと坐って、ねずみみたいに穴からいぶり出されるまで、待っちゃいられない。なんとかしましょうよ」
「落ちつくんだ、ゼーヴィア君」と、老紳士が穏かに「とりのぼせてはいかんよ。これから、わしの考えを言うところだ――つまり、打つ手を。さて、みんなに、今の立場がのみこめたところで、君の言う通り、手をこまぬいて、のらくらしとっても意味がない。だが、わしらは、まだ、事態を本当に見とどけたわけじゃあるまい」
「見とどけるとおっしゃるのは?」と、ゼーヴィア夫人がびっくりして訊いた。
「つまり、わしらはまだ足場さえ調べておらん。家の裏手の崖はどうなっとるか――下りる道はないか、それが危険な道としても」と、警視は早口に「万一そんな事態になったらのことだが。わしはいつも非常口があるのが好きでしてな、ははは」
誰も警視の弱々しい笑い声に同じなかった。
マーク・ゼーヴィアが、真剣な顔で「あの急な崖は山羊《やぎ》でも下りられませんね。そんな考えはやめるんですね、警視」
「ふーん。考えてみただけの話さ」と、老紳士は力なく言った。「だとすれば、じゃあ」と、警視はわざと愉快そうに両手をこすり合わせて「打つ手は一つだけだ。サンドウィッチを食べてから、ちょっと探検旅行に出かけるんだな」
みんなは、希望を抱きながら警視を見守ったが、エラリーは椅子の中で、腹の底から深いやり切れなさを感じた。アン・フォレストの目が輝きはじめた。
「つまり――森へはいろうと、おっしゃるんですのね、警視さま」と、フォレスト嬢はひざをのり出すように訊いた。
「こりゃお察しがいい娘さんだ。わしの言うのは、まさにその通り、フォレストさん。それから、ご婦人方は、みなさん、一番おそまつな服をつける――お持ちなら、ニッカーか、乗馬服を――そうして、みんなで、この森を隅から隅まで、滑りころんで、調べるとしましょう」
「すてきだな」と、フランシスが大声で「行こう、ジュール」
「いえ、いけません、フランシス」と、カロー夫人が「あなた方は――いけませんよ、ふたりとも――」
「なぜいかんのです、カローさん」と、警視がやさしく「少しも危いことはないし、子供たちには、さぞ楽しみでしょうに。わしらも、みんな楽しいですぞ。骨のずいから、憂《う》さを吹きとばしてくれますぞ……ああ、ホイアリーさん、こりゃありがたい。さあ、みんな、掻っこみましょう。早く出かければ、早いほどいい。サンドウィッチだ、エル」
「いただきましょう」と、エラリーが言った。
警視はエラリーをじっと見て、それから肩をすくめ、年寄り猿のように、はしゃいで喋りはじめた。しばらくすると、みんなにこにこして、陽気に見えるほど、たのしそうに、お互いに喋り出していた。みんなは、行儀よく、慎み深く、バターなしの魚サンドウィッチを、一口ずつよく味わって食べた。そんな一同を見ると、エラリーはますます胃が重くなるようだった。みんなは、ゼーヴィア博士の、こちこちの冷たい死体など、忘れてしまったかのように見えた。
*
警視は晩年のナポレオンのように、手勢を指揮して、これからの探検を楽しいゲームにするとともに、目の下に音もなく煙っている森の一ヤードたりとも調査もれのないようにと、抜け目なく計画をたてた。家政婦のホイアリーも組み入れられ、むっつり屋の『骸骨』も加えられた。自分は半円形の森の最西端に立ち、エラリーを最東端に立て、他の連中を一定の間隔でその間に配置した。マーク・ゼーヴィアを中央にして、マークと警視との間には、フォレスト嬢、ホームズ医師、ゼーヴィア夫人、双子兄弟がはいり、マークとエラリーの間にはカロー夫人、『骸骨』、スミス、ホイアリーがはいった。
「さあ、みんなよく覚えとって下さい」と、警視が、自分とエラリー以外の連中が、みんな、位置についたとき、大声で「真直《まっすぐ》に下りて行く。できるだけ真直ぐに。したがって、下りるにつれて、お互いがだんだんはなれてくる――頂上から下りれば、山は末広がりになるからね。だが、しっかり目を開けていてほしい。火事に近づいたら――あまり近づかんことだ――くぐり抜ける道があるかどうか、しっかり見とどけてほしい。もし、望みがありそうな道でも見つけたら、叫んでくれれば、みんな駆け集まる。用意はいいかね」
「用意、よろしい」と、フォレスト嬢が叫んだ。ホームズ医師から借りたニッカーボッカーをはいて、なかなか立派だし、頬が紅潮して、クイーン父子がはじめて見るほど、いかにも生々としていた。
「では、出発」と警視が低音《ソットボーチェ》で「神のご加護多からんことを」
一同は森にとび込んだ。カローの双子が、森の下草をふみ分けて姿を消すとき、若いインディアンのような叫び声を上げるのが、クイーン父子に聞こえた。
父子は、ちょっと黙って目を見合った。
「さあ、どうです、古代ローマ先生」と、エラリーがつぶやくように「ご満足ですか」
「まあ、なんとかせにゃならんからな。それに」と、警視は言いわけするように「下り道が見つからんとも限らん。望みなきにあらずだ」
「まず、望みありませんね」
「その議論は止めとこう」と、老紳士がぴしゃりと言い「わしが、お前を東に配置し、自分で西に陣取ったのは、お前が何と言おうと、一番望みのありそうな二つの地点だからだ。できるだけ崖のふちに近寄って行くんだ。おそらく、木が一番茂っとるだろうし、出口があるとすればそのあたりだろうからな」警視はしばらく黙りこんで、それから肩をすくめた。「じゃあ、行くとしよう。うまくやれ」
「お父さんも、しっかり」と、エラリーは生《き》まじめに言い、向きをかえて、車庫の裏手へ曲って行った。家の角をまわるときに振り返ると、父が西に向かって、しょんぼり足をひきずって行くのが見えた。
エラリーはネクタイをゆるめ、濡れたハンカチで額の汗をぬぐって前進した。
車庫の裏手にあたる、家のすぐそばの崖のへりから出発して、できるだけ断崖のふちに近く添って森へはいって行った。日に蒸《む》れた木の葉が頭にかぶさりかかり、すぐ新しく汗が全身の毛孔から、ふき出した。空気は重苦しくて息もつけなかった。目に見えないが、のどを刺激する煙が充満していた。じきに目から涙が出だした。エラリーは頭を低くして、むちゃくちゃに前進した。
骨の折れる前進だった。乗馬服を着、軟かい乗馬靴をはいていたが、下草は深く茂り、足許もおぼつかないので、靴の革はすぐに、そこいらじゅうに掻ききずができ、ひざの上の丈夫な布地にも小さな|かぎざき《ヽヽヽヽ》ができた。乾いた茨《いばら》はナイフのように切れる。エラリーは歯をくいしばって、股に襲いかかる激しい攻撃を気にすまいと努力した。咳が出はじめた。
滑りころんで、顔と手をすりむき、百年もこけむした窟《あな》に、踏み込むような気がした。一すべり下りるごとに、ますます息苦しく濁った空気に落ちこんでいくような気がする。エラリーは、用心しなければならないと、絶えず自分にくり返して言いきかせた。というのも、いつなんどき、断崖のぎざぎざのへりが気まぐれを起こして、森の下をくぐっている自分の足許から崩れ落ち、自分をはるか下の奈落へ放り出すかもしれないからだった。一度立ちどまり、木によりかかって、息をつくことにした。木の葉の隙間から、次の谷が見下ろせた――夢のように、はるかで目のくらむ思いだった。ほんの時たま、細部を見分けることができた。今は、谷の煙も、古綿のようだった。少なくとも、谷とエラリーのいる所との間は、そうだった。そして、山に渦まく、強い熱風も、そのしつこい煙の層を吹き払えなかった。
エラリーは、にぶい、地をゆるがす爆発音で、いきなり、はっとした。
その方向と距離を見定めるのはむずかしかった。またしても、もう一度。前とは違う場所で……エラリーは顔の汗を拭き、少しあきれながら、この現象に戸惑った。やがて、分かった。爆破だ。燃えひろがるのをくいとめる必死の努力で、森のあちこちをダイナマイトで爆破しているのだ。
エラリーは、また進んで行った。
はてしなく、よろめきながら下りて行くようで――そんな自分が、灰と煙の焦熱地獄を、たったひとりで、さまよう呪われたアハズエラス〔さまよえるユダヤ人〕のように思われた。熱気は、ひりひりと灼《や》けつくようで、耐えがたかった。エラリーはその猛威のもとで、あえぎ、むせんだ。いったい、いつまでつづくのだろう、とエラリーはゆがんだ微笑をうかべて考えながら、なお、進んで行った。
そのとき、それが見えたのだ。
最初は幻影だと思った。涙の流れる目で、四次元を通して、どこか幻想的なエーテル界の奇怪きわまる坑《あな》をのぞき込んでいるように思った。やがて、火事場に行きついたのだと分かった。
目の下で、ばりばりと焼けつづけ、巨大なオレンジ色のものが、狂人の夢が生み出した変幻自在な生きもののように、たえず形を変えていた。油断も隙もなく上に向かってはい上がり、見棄てられ、水気もきれ、しなびた木々を餌食にして、前衛を送り出す――炎の触手は、たちまち、下草を甜めてみて、薄気味悪い知恵のある原生動物のように伸び上がり、乾いた幹や下枝に、あっという間に火をつけ、あとには白熱する火の線と、赤いネオン管を残すだけだった。やがて火の本隊がやって来て、そのお残りを、否応なしに片づけるのだ。
エラリーは顔を両手で覆って、たじたじと後退した。はじめて、前途の容易ならざる怖しさが身にしみた。炎は容赦なく攻めてくる……それは大自然が、最も強欲な、怖しくあさましい本性をむき出している姿だった。エラリーは踵《きびす》をかえして、めくらめっぽうに――どこへでもいい――この火事から逃げ出したい衝動にかられた。そんな自分を制するために手の平に爪がくいこむほど、手を握りしめなくてはならなかった。そのとき、また、熱気が、まともに吹きつけたので、エラリーはあえぎながら、よろよろと後ずさりし、朽葉の山に尻餅《しりもち》をついた。
エラリーは火線の横側に沿って、南に道をとり、断崖の横に出られそうな場所へ向かった。いまは、心に絶望感がみち、その冷たく鉛のような塊りが、内心の恐怖の圧力で、まさに爆発しそうだった。道があるにちがいない……やがて、立ちどまり、落ちないように、樺の細い幹にしがみついた。断崖のふちまで来たのだ。
エラリーは、かなり長く、そこに立って、霞む目をしばたたきながら、煙りの立ちこめる谷間を見ていた。活火山の噴火口に立って、火口を見つめているような気がしたろう。
木はぎざぎざの岩の間際まで生えていた。そして、少し下の、断崖が弓なりに突き出ているので、エラリーによく見える所では、木々はほかの木と同じように猛火につつまれていた。
少なくとも、この道からは逃げようがない。
*
アロー山を登って頂上に帰りつくのに、どのくらい時間が、かかったか、エラリーには分からなかった。登りは下りより、いっそう辛く、背骨が折れ、心臓が破裂し、肺がつぶれるほどの苦労だった。長靴ばきの足が化石のように無感覚になり、両手も生々しいひっかききずで血がにじんだ。エラリーは、はっはっと息をとぎらせ、目を半ば閉じ、脚下の崖の怖しさを考えまいと頭を空っぽにして、はい上がった。後から考えると、何時間もかかった。
やがて、呼吸がもっと楽になり、頂上の最後の木の茂みが見えるようになった。ようやく森のへりまで辿りつくと、ほっとした喜びで力が抜け、冷い木の幹によりかかって、へなへなと崩れた。充血した目を上げて空を見ると、陽《ひ》は傾き、前ほど暑くなかった。水、楽しい入浴、傷の手当にヨード液……目を閉じて、家までの最後の数ヤードを切り抜ける力を貯えようと努めた。
うっすらと目をあけた。誰かが、右手のあまり遠くない所を、下草をふみ分けて通った。連中のひとりが戻って来る……いきなり、エラリーは身を縮めて、すばやく、後ろの森の深い茂みに滑り込んだ。疲れも、憂鬱もけしとんで、緊張した。
でぶのスミスの大きな頭が、少し西よりの森のみちから、ひょいと突き出し、用心深く、山頂の様子をうかがった。髪が乱れ、顔色が青ざめ、エラリーと同様にひっかき傷だらけなのが遠目にも分かった。しかし、エラリーが身をひそめたのは、謎の老ゴリラが傷つき疲れて狩から戻ったためではなかった。
むしろ、スミスのそばに、その伴《つ》れと同じように、美しい顔にひっかき傷をつくりながらも緊張したカロー夫人が現われたからである。
*
その妙なふたり組は、いかにも人目を忍ぶ様子で、しばらく、家のまわりの空地をうかがっていた。やがて、ふたりが最初に帰って来たと信じたらしく、大胆に森から出て、上がなめらかな石に歩みよると、カロー夫人は、あたりに聞こえるほどのため息をついて、へたへたと腰を下ろした。そして、片手を握りしめてあごを支え、伴れの大男に不審の目を向けた。でぶ助の大男は、すぐそばの木によりかかって、小さな目できょろきょろ見まわした。
女が喋り始めた。エラリーは緊張して、その唇の動きを見ていたが、遠すぎて、何を言っているのか聞こえなかった。せっかくふたりの近くに出ながら、話が聞きとれるほど近くない運の悪さを、ひそかに呪《のろ》った。男は、そわそわして、ぐったりと木によりかかり、重そうに、片足から片足へからだを支えかえて、どうやら、女の舌鋒《ぜっぽう》にへこたれているようだった。
女はしばらく早口で喋り立てて、相手に答える隙を与えなかった。やがて、女はいきなり立ち上がり、威《い》たけだかに相手を蔑《さげす》みきった様子を見せて右手を伸ばした。
その瞬間、エラリーはスミスがカロー夫人を殴りそうだと思った。スミスは木からとびのき、大きな顎をひんまげ、頬をふるわせて、何か夫人にがみついた。腕をふり上げかけた。女はひるまず、伸ばした手を下げなかった。男ががみついている間じゅう、伸ばした手は微動もしなかった。
とうとう、男の怒りが穴のあいた風船玉のようにしぼんで、ぐにゃぐにゃの上着の胸ポケットに手をやり、ふるえる指で財布をとり出すと、中から何かを抜き出した――エラリーには何か見えなかった――そして、それを、女の白く小さな手の赤みをおびた手の平に、たたきつけると、もう女を見ようともせずに家の方へよろめき去った。
カロー夫人は、かなり、その場に立っていたが、握りしめた手を見ようともせず、青ざめて、塑像のように固くなっていた。やがて、左手を上げて右手と合わせると、握りしめていた手の平をひらいて、スミスが不承不承、たたき返したものを、慎重な動作で破り始めた。乱暴にこなごなに裂くと、最後にその断片を、森に向かって、勢いよくなげすてた。それから、くるりと向きを変えて、よろよろとスミスの後を追った。エラリーが見ると、夫人の肩がふるえていた。夫人は両手で顔をかくし、盲人のように歩いて行った……
しばらくして、エラリーはため息をつき、立ち上がって、今しがた男と女の分かれた場所へ、歩みよった。すばやく、あたりを見まわした。さっきのふたりは家の中に姿を消し、空地には人影もなかった。そこでエラリーはしゃがみこんで、見つかるだけの切れっぱしを拾い集めにかかった。思った通りの紙きれで、一目見ただけで、知りたいと思っていたものの一部なのが分かった。十分ばかりも、はいまわり、仕事が終わると森にはいって、地面に坐り込み、ポケットから古手紙をとり出し、それをテーブル代わりにひろげて、さっきの断片をつなぎ合わせ出した。
しばらく、目を細くして、仕上がりを睨んで坐っていた。それは、ワシントン銀行の小切手で、日付は、クイーン父子が、せまいアローの山道で、ビュイックに乗ってでぶ助と出会った日になっていた。持参人払いで、細い女の筆跡で、署名はマリー・カローとなっていた。
小切手の額面は一万ドルだった。
十三 犯罪テスト
エラリーは、まる裸で、ベッドにひっくり返り、冷いシーツの肌ざわりを楽しみながら、手のたばこをくゆらせ、夕蔭のせまる白い天井を見上げていた。風呂を浴び、無数の切り傷、掻き傷を、洗面所の薬箱から持ち出したヨジウムで手当し、すっかり肉体的に生きかえる思いだった。しかし、頭の中には、いくつかの画面が、しつこく思い返された。その一つは、一組のカードで、もう一つは指のあとだった。その二つ以上に、いくら努力しても毒々しく消えない光景は、麓で燃え狂う業火《ごうか》の変幻きわまりない姿だった。
楽々と横になって、たばこを喫《す》いながら考えていると、時々、外の廊下を通る帰って来た連中の疲れた足音が聞こえた。足音の調子が、実に雄弁に連中の話を物語っていた。人声は全然しなかった。足音は、重く、曳きずるようで、頼りなかった。ドアは、いかにも骨が折れるように、かちりと閉まった。廊下のはるか向こうのはずれで……あれはフォレスト嬢らしい、もはや、楽しい冒険に出かける娘のあの元気もどこへやらだ。そのすぐあとで、廊下を行ったのは――ゼーヴィア夫人だ。それから、のろのろと四本の足が、よろめくリズムは――双子で、もう、大声を出す元気もない。最後に、ホームズ医師とマーク・ゼーヴィア、ややおくれて続く他の足音もやんだあとから、さらに、足をひきずる二組の足音は……家政婦のホイアリーを『骸骨』が、屋根部屋に連れて行くところだった。
それからかなり長い間、家中がしんとしていた。エラリーは考えあぐねながら、父はどこにいるのだろうと不安になった。きっと、まだ甲斐《かい》のない希望に望みをかけて、ありもしない出口を探しているのだろう。ふと新しい考えが浮かんだので、エラリーは他の一切を忘れて、それに打ち込み、追及した。
ドアの外で、ゆっくり足を引きずる音がしたので、エラリーは、むっくり身をおこし、急いで、シーツにくるまった。ドアが開き、警視が幽霊みたいに死んだような目付きで、戸口に現われた。
老人は一言も口を利かずに、よろよろと洗面所にはいった。顔と手を洗う音が、エラリーに聞こえた。それから、よろよろと出て来て肘掛け椅子に腰を下ろし、相変わらずうつろな目で壁を見つめた。左の頬にまっ赤な長い引っ掻き傷があり、皺のよった両手も傷だらけだった。
「駄目でしたか、お父さん」
「駄目だ」
エラリーにはほとんど聞こえない声だった。疲れて、しわがれていた。
やがて老人がつぶやくように「お前の方は?」
「いやはやです……凄いもんですね」
「まったくだ――ありゃ」
「お父さんの側で爆発音がしましたが」
「うん。爆破だ。役にゃ立たん」
「まあ、まあ、お父さん」と、エラリーが穏かに「連中も全力をつくしてるんですよ」
「他の連中はどうだ?」
「みんな帰ってくる足音がきこえましたよ」
「誰も何も報告せんか」
「連中の足音ですべて分かりますよ……お父さん」
警視はかすかに頭をあげて「え?」と、元気なく、もぐもぐ言った。
「非常に重要な発見をしましたよ」
老人の目に希望が燃えて、くるりと振り向くと「火事のことか――」と、叫んだ。
「いいえ」と、エラリーが静かに答えると、半白の頭は、また、うなだれた。
「どうやら、その問題は他人に任せるより――しようがないかもしれませんね。ひょっとすると……」と、エラリーは肩をすくめて「どうにもならないことは、あきらめるんですね。どうにもならないことが、あらゆることの終わりだとしてもね。分かってるでしょうが、われわれのチャンスは――」
「ほとんどないな」
「そうですね。だから、冷静にしている方がいいでしょうよ。実際、どうにもできないんですから。もう一方の方は……」
「殺人か。ばからしい!」
「なぜですか?」エラリーは起き上がって、膝をかかえ「さし当たりそれだけが、まともな――そう、健全な仕事ですよ、どっちみちまともな事をさせておけば男も――女も――気が狂わないですみます」警視が弱々しく何かぶつぶつ言った。
「そうですよ、お父さん。こんなことぐらいで弱気にならないで下さいよ。火事のせいで、何か失ってるんです。少しばかり浮わつかされてるんです。僕は自分でくだらない話だと思うとばかにして――語りぐさになる例のイギリス人の『がんばり精神』なんて、いままでまるで信じちゃいませんでした。しかし、あれにはたしかに何かがありますね……ところで、報告しなければならないことが二つあるんです。一つは、ここに戻ってくる途中で見かけたんですが」
老人の自に好奇心がひらめいた。
「見たって?」
「カロー夫人とスミスが――」
「あのふたりか」警視は目を細めて、椅子からとび上がった。
「それでいい」と、エラリーはくすくす笑いながら「またお父さんらしくなりましたよ。あのふたりは、人目につかないと思って、こっそり話し合っていました。カロー夫人がスミスに何か要求していました。スミスはてんで取り合いませんでしたよ、あの大猿め、ところが夫人が何か言うと、ぺちゃんこになって、羊みたいにおとなしく、夫人の要求するものを渡しました。夫人はそれを粉々に破って捨てましたよ。それは、持参人払いの一万ドルの小切手で、署名《サイン》は、マリー・カローになっていました。その切れっぱしは、僕のポケットにはいっています」
「あきれたもんだ」と、警視はとび立って、部屋の中を歩きはじめた。
「かなりはっきりしてると思いますね」と、エラリーが考え込みながら「いろんなことを説明しています。こないだの晩、スミスがあんなにも山を降りたがった理由、ここに戻らざるを得なかったとき、カロー夫人と顔を合わせたがらなかった理由、今日の午後ふたりがこっそり会った理由。脅迫《ゆすり》ですよ」
「たしかに、そうだ」
「スミスはカロー夫人を跟《つ》けて、ここにやって来て、夫人とふたりきりか、どうかするとあのフォレストという娘も立ち会いの上で、会うことにした。そして、夫人から一万ドルまきあげた。ずらかりたがったのも無理はありませんね。ところが、たまたま人殺しがあって、僕たちが突如として登場したし、山火事で誰も逃げ出せなくなったしで、事情が、がらりと変わった。分かるでしょう」
「ゆすりか」と、警視はつぶやいて「あの子供たちを種にしたんだろう……」
「他に考えようがありませんね。夫人がシャム双子を生んだ事実を世間に知られないようにしておくためなら、スミスの口止め料に、どんな大金でも喜んで払うでしょうからね。ところが人殺しがあって、捜査が始まるとなれば、山道が通れるようになり次第、警察がこの現場まで登ってくるにきまっているし、そうなれば、夫人の秘密もすっかりばれてしまう――だから、今更、口止め料を、フランク・J・スミス氏に払う必要が、なくなるわけです。したがって、夫人は勇気をふるい起こして、小切手の返還を求めたのでしょう。スミスもそこに気がついて小切手を返した……と、いったところですよ」
「だがな――」と、警視は慎重に言いかけた。
「おお、いろんな可能性はありますよ」と、エラリーが小声で「だが、そりゃ、大したことじゃありませんよ、お父さん。他に、心当たりがあるんです。そいつを考えてたんですよ……」
警視が、ぶつぶつ言った。
「そう、考えに考え、さんざん記憶をたどり、やっと結論に達したところですよ。そいつを聞いてもらいましょう――」
「殺人についてか」
エラリーは、ベッドのすそにかけてある新しい下着に手をのばして「そうです」と言った。
「まさに、殺人犯についてです」
*
家政婦ホイアリーの苦心になる、罐詰のまぐろと、砂糖漬けのプラムと、しなびたトマトの夕食をすませたあとで、ゲーム室に集まった面々は、やけど面の、意気銷沈した連中だった。みんな怖しい森をくぐり抜けた痕跡をのこしていて、こんなにも膏薬《こうやく》だらけ、ヨジウムのあとだらけの人間の集まりを、エラリーはかつて見たことがなかった。しかし、みんなの口をへの字にさせ、目に絶望のきらめきを宿させているのは、内心の傷口だった。双子でさえしょんぼりしていた。
警視がいきなり喋り始めた。「みなさんに、ここに集まってもらったのには、二つの理由がある。一つは探検の結果を調べること、もう一つは、あとですぐ分かる。まず最初に、誰か、下で何か見つけたかな?」
しょげ込んだ、みんなの顔で、答えはよく分かった。
「そうか、じゃあ、坐って待つより手がない。それはそれとして」と、警視は鋭い声で続けた。
「諸君の注意を喚起しておきたい。事態は前と同じ状態のままですぞ。家の中には死体があり、殺人犯人がいるのですぞ」
エラリーは、全員ではないが、大部分の連中が、そのことをすっかり忘れてしまっていたらしいのを見てとった。さし追った自分の危急のために、すっかり忘れていたのである。いま、以前の緊張がもどり、瞬間に、顔付きが変わった。スミスは、じっと静かに坐っていた。アン・フォレストは警戒の目付きでカロー夫人をちらりと見た。マーク・ゼーヴィアは神経質に、たばこをちぎった。双子は息を弾ませ、ホームズ医師は青くなり、カロー夫人はハンカチをくちゃくちゃに丸めた。
「わしは」と、警視が、すぐに「最悪でなく最善の場合を期待しとる。つまり、みんながなんとかして、この困難な事態から、脱出できるものと期待しとる。したがって、わしらは、火事はなかったもの、ただ、この山中の一帯を管轄する正規の警官の到着がおくれたものとして、事を運びたい。お分かりかね」
「また蒸《む》しかえしか」と、マーク・ゼーヴィアが嘲けるように「僕らのうちの誰かを、鞭《むち》打って、しめ上げようって寸法ですか。なぜ白状しないんですか。あんたたちが困ってるってことを、だれかがあんたや僕たちに事件の始末をおっかぶせてるんだってことを、あんたはただ、僕らのひとりをおどかして、名乗り出させようとお節介をやいてるだけなんだってことを」
「ああ」と、エラリーがつぶやくように「しかし、そりゃ闇の中で手探りするなどという問題じゃないんだよ、君。全く違う。僕らには、ちゃんと分かっているんだ」
相手の生々とした肌が、だんだん青ざめた。「あんたたちには――分かってるって?」
「どうやら、君にも、もう、そんな口はばったいことは言えなくなったらしいな」と、エラリーが大儀そうに「お父さん。これで了解がついたようですよ。……ああ、ホイアリーさん、おはいり。それに、君もだ、『骸骨』君。君たちふたりもいないと困る」
みんなはいっせいに、控え室のドアを振り向いた。家政婦と下男が敷居のところでもじもじしていた。
「さあ、さあ、どうぞ君たち」と、エラリーは明るく「みんなそろっていてほしいんだ。腰を下ろして下さい。その方がいいよ」
警視は開いたブリッジ・テーブルの一つによりかかって、みんなの顔を次々と見つめていた。
「ご承知だろうが、ここにいるクイーン君が、ゼーヴィア夫人に夫殺しの罪を着せようとした巧妙な企《たくら》みの裏をかいた。夫人は罠にかけられたので、その罠をかけた奴が、誰か知らんが、ゼーヴィア博士を殺した犯人だ。みんな、あのときのことを覚えとるね」
むろん、みんなは、そのことを覚えていた。ゼーヴィア夫人は青ざめて目を伏せた。他の連中はちらりと夫人を見て、急いで目をそらした。マーク・ゼーヴィアは、ほとんど目を閉じんばかりに緊張して、警視の口許を見つめていた。
「さて、わしらは、これから、みんなを実験にかけてみようと思うとる――」
「実験?」と、ホームズ医師が、ゆっくり「ねえ、警視、そりゃあ少し――」
「控えてもらおう、先生。実験といったからには、実験にすぎん。それがすっかり済めば、煙もはれるというものだ」と、言葉を切り、改まった口調で「目当ての男も分かろうというものだ。あるいは」と、また、一息入れて「目当ての女かもしれん。ともかく、犯人がつかまるのに、それほど長くもかかるまい」
誰も答えず、みんなは、警視のにこりともしない口許を見つめていた。やがて、エラリーが進み出て、警視に目くばせすると、警視は退いて、フランス窓のそばに陣取った。窓は、少しでも空気を入れるように、開け放されていた。外の闇を背にして、小柄な警視の姿が、くっきりと直立していた。
「拳銃を」と、エラリーはぴしりと言って、父の方へ手をのばした。警視は、ゼーヴィア博士の書斎の床で見つけた銃身の長い拳銃を取り出し、ぱちりと開けて、空の弾倉を調べ、ぱちりと閉めて、何も言わずに、エラリーに手渡した。
一同は息もつかず、あっけにとられて、このだんまり芝居を見ていた。
エラリーは謎めいた微笑をたたえて、その武器を持ち上げ、それから、ブリッジ・テーブルを椅子の前にひき出して、テーブルの後ろの、誰が腰かけても一同の方を向くような位置に椅子を据えた。
「さて、ここでみなさんにご想像ねがいたいのですが」と、エラリーはてきぱき言った。「ここがゼーヴィア博士の書斎で、このテーブルが博士の机、この椅子が博士の椅子とします。そこまではお分かりですね。結構です」と、ひと息入れて「フォレストさん」
鞭をあてるように鋭く名を呼ばれて、娘は椅子からとび上がり、不安そうに目をむいた。ホームズ医師は立って抗議しかけたが、また腰を下ろし、目を細めて見守った。
「わたくし?」
「そうです。立ってて下さい、どうぞ」
娘は椅子の背をつかんで、言われた通りにした。エラリーは部屋を横切って向こう側まで行き、グランド・ピアノの上に拳銃を置くと、テーブルのそばの自分の席にもどった。
「で――でも、なにを――」と、娘は、真青になりながら、また、ささやいた。
エラリーは椅子に腰を下ろして「フォレストさん、僕はあなたに」と、自信のある口調で「射撃を再演してもらいたいんです」
「射――射撃の、再《さ》――再演ですって」
「どうぞたのみます。僕をゼーヴィア博士として――真からそう信じて、僕の言う通りにして下さい。あなたの後ろのドアを通って、横廊下に出て下さい。僕が合図したら、はいって来る。僕に向かって少し右手に立つんです。僕はゼーヴィア博士で、机に向かってカードのひとり遊びをやっています。あなたは、部屋にはいったら、ピアノの所へ行き、拳銃をとって、正面から僕をねらって、引き金を引く。言っておきますが、拳銃には弾はこめてありません。たしかめて見て下さい――ああ――そのままにしておく。分かりましたね」
娘は真青になり、何か言おうとしたが、唇がふるえて何も言えず、言おうとする努力をやめて、急いでうなずくと、エラリーが指示したドアから、部屋を出て行った。かちりとドアが後ろにしまると、あとは、沈黙と一同の凝視だけが残った。
警視はフランス窓のそばに立って、真剣に見守っていた。エラリーは両腕を組んで、目の前のテーブルのふちにのせると、大声で「いいですよ、フォレストさん」
ドアが、静かに、実に静かに開き、フォレスト嬢の白い顔が現われた。ためらいがちにはいると、後ろのドアを閉め、それと同時に目をつむり、身ぶるいして目を開き、不承不承にピアノの所へ行った。ちょっと、いまわしそうに拳銃を見下ろしてから、それをつかむと、ほぼエラリーの方をねらって、叫んだ。「おお、ばからしいわ」と、すばやく引き金を引いた。そして、武器を落として、そばの椅子に腰を下ろすと、さめざめと泣き出した。
「やあ」と、エラリーは明るい声で言い、立って部屋を横切りながら「本当によくできました。あのご埃拶以外はね、フォレストさん」エラリーはかがんで拳銃を拾いあげると、父に向かって「むろん、気がついたでしょうね」
「うん、気が付いた」
今や、一同がぽかんと口をあけていたし、フォレスト嬢は泣くのを忘れて、頭を上げ、みんなと一緒にあきれて見ていた。
「さあ、次は」と、エラリーがつづけて「スミスさん」
さっと、でぶ男の顔に、みんなの視線が放列を集めた。スミスはじっと坐り、目をぱちくりし、のろまな牛みたいに顎をもぐもぐやっていた。
「立って下さい、どうぞ」
スミスは、やっこらさと立ち上がり、体重を片足から片足へと移して、たえず足をかえていた。
「これを持って!」と、エラリーはぴしりと言って、拳銃を差し出した。スミスは、また目ばたきして、ひゅうと息を鳴らして受けとったが、拳銃は、だらりと指先からぶら下がっていた。
「どうするんだね」と、しわがれた声で訊いた。
「君は人殺しなんだよ――」
「人殺しだって!」
「かりに、この小実験のためにね。君は人殺しで、射ったところさ――つまり――ゼーヴィア博士をね。まだ煙りの出ている凶器を、君は持っている。その武器はゼーヴィア博士のものだから、そいつを始末する世話は要らないわけだ。だが、むろん君は指紋を残すつもりはない。そこで――君のハンカチをとり出し、銃をきれいに拭き、それから、きわめて用心しながら、そいつを床に落としておく。分かったね」
「わ、わかったよ」
「じゃあ、やってくれたまえ」
エラリーは退《しりぞ》いて、冷やかな目で、でぶ男を見守った。スミスは、ちょっとためらっていたが、やがて、できるだけ早く、この実験での役割りを片付けるのを唯一の念願にしているかのように、せかせかとやり出した。拳銃の握りをしっかりつかむと、ナプキンみたいな大ハンカチをとり出して、握りと銃身と引き金と安全装置を、きわめて慣れた手つきで拭きとり、それから、ハンカチでくるんだ手で武器を持ち、床に落とした。そして、席に戻って腰を下ろし、太い腕で、ゆっくりと額を拭いた。
「上できです」と、エラリーが低い声で「実に結構でした」エラリーは落ちた拳銃を拾い上げて、ポケットに入れ、元に戻って「次は君、ホームズ先生」イギリス人は不安そうにもじもじした。「さて今度は、とっぴですが、かりに僕が死体になります。この芝居で、あなたの役割は、僕の冷たくなった暴行を加えられた死体を医学的に検査することです。これ以上説明しなくても、お分かりだと思います」
エラリーはブリッジ・テーブルに向かい、テーブルにうつ伏せになり、左手を卓上に平にのばし、右手をだらりと床に下げ、左の頬をべったりとテーブルにつけた。
「さあ、さあ、早く片づけて下さい。僕だって、この役はあまりぞっとしませんからね」
ホームズ医師は立って、よろめきながら進み、エラリーのじっとしている体に、うつむき込んで、首の根っこや、のどの筋肉を調べ、頭をひっくり返して目を診《み》、あえぎながら手足を検《しら》べ……手早く、専門的な検査をすすめて行った。
「これでもう充分じゃないか」と、ついには、絞めつけられるような声で「それとも、こんな不気味な茶番を、もっとやるのかね」
エラリーがとび起きて「いや、もう充分ですよ、先生。だが、言葉にはもっと気をつけてほしいな。こりゃ、茶番どころか、大変な大悲劇なんですよ。ご苦労でした。……さて、ホイアリーさん」
家政婦は胸を押えて「は――はい」と、へどもどした。
「立って、部屋の向こうへ行って、控え室のドアのそばの電灯のスイッチを切って下さい」
「切――切るんですの」と、ふるえながら立ち上がって「でもそうすると――暗くなりますですよ」
「そうだろうね」と、エラリーが重々しく「さあ、早く、ホイアリーさん」
ホイアリーは唇をなめながら、指図を仰ぐように、ちらりと女主人を見、控え室の方へよろよろと進んだ。壁ぎわで、ためらっていると、エラリーは、じりじりして、早くするように合図した。家政婦はふるえ、スイッチを手探りした。ぱっと、急に室内がチョコレート・シロップのように暗くなった。アロー山上の星の光も、戸外を閉している煙の雲をつらぬくことができなかった。一同は海底五マイルに埋まったようだった。
やがて、一年も経ったと感じられるころ、エラリーのはっきりした声が、沈黙を通して、ひびき渡った。
「マッチがあるかね、『骸骨』君」
「マッチ」と、老人《じじい》がだみ声を出した。
「うん。すぐ、一本、すってくれ。すぐだよ、急いで」
マッチをこする音がし、小さな灯がともり、『骸骨』の不気味な手と、陰気な皺のきざまれた顔の一部が照らし出された。その光が、まばたいて消えるまで、誰も、何も言わなかった。
「結構、ホイアリーさん。もう、灯りをつけていいですよ」と、エラリーが低い声で言った。
ぱっと、明るく灯がついた。『骸骨』は元のまま坐って、手の燃えがらの軸を見つめていた。ホイアリーが急いで元の椅子に戻った。
「さて、次は」と、エラリーが落ちついた声で「あなたの番ですよ、カロー夫人」
夫人は青ざめていたが落ちついて立ち上がった。
エラリーはテーブルの浅い引出しを開けて、新しく封のしてあるカードを一組とり出し、封を切り、薄い包み紙の片方のはしを破り捨てて、カードをテーブルの上に、ぱたんと置いた。「ひとり遊びは、ご存知ですね」
「知っていますわ」と、夫人はびっくりしたような声で答えた。
「一番簡単なひとり遊びですよ。つまり――十三枚を伏せておき、四枚を開いて並べ、十八枚をその上に順々に積んで行くやつです」
「知っていますわ」
「結構です。では、このカードをとって、このテーブルに坐って、始めて下さい、カロー夫人」
カロー夫人は、気はたしかかといわんばかりにエラリーを見つめてから、静かに進み出て、テーブルについた。両手でカードをとり、ゆっくりと切り、十三枚数えて、一山にして伏せ、次の四枚は表を向けて横に並べ、あとのカードをその上の方に置いた。それから、残りのカードを持って、三枚目ごとに表を見、そのカードより一つ上の数字のカードを捜しながら、ゲームを始めた……
夫人は、すばやく、神経質にゲームをつづけ、一区切りごとに指先が、さっと動いたり、とまどったりした。二度間違ったが、エラリーが黙って、そのたびに指摘して、やり直させた。一同はかたずをのんで見守っていた。どうなるのか?
それはカードの偶然の組み合わせで、ゲームはいつ終わるか見当もつかない。四つの少しずつずらして重ねたカードの列は、だんだん長くなっていった……。とつぜん、エラリーが夫人の指に手を置いた。
「それで結構です」と、穏かに「神さまは親切ですね。思い通りの結果を得るには、もっとゲームをつづけなければならないでしょうよ」
「結果と申しますと」
「そうですよ。そら、カローさん、四番目にならべたカードに出て来てるでしょう――赤の5と赤の7の間に――謎を解く鍵の、スペードの6が」
ゼーヴィア夫人があっと叫んだ。
「まあ、まあ、おびえないで下さい、ゼーヴィア夫人。これは、また別の罠じゃありませんからね」と、エラリーはカロー夫人に微笑して「それで、もう結構です……次はゼーヴィア君」
かなり前から、背の高い弁護士は、嘲笑気分を消していた。手がふるえ、口許がゆるんでいた。こいつ、強いやつを、ぐいっと一杯ひっかける必要があるなと、エラリーは満足そうに考えた。
「何だね」と、ゼーヴィアは荒っぽく言って、前へ出た。
「そこでだ」と、エラリーはにやりとして「君には、きわめて興味ある実験を、ちょっとやってもらいたいんだ、ゼーヴィア君。そこに出ているカードの、スペードの6をとってくれたまえ」
ゼーヴィアはぎょっとして「とるって――?」
「どうぞ」
相手はふるえる指で言われた通りにした。「何だね――何だね、次は」と、強《し》いてほほえもうと、つとめていた。
「さて」と、エラリーは鋭く「そのカードを二つに裂いてほしいんだ――すぐに。さあ、すぐ。ぐずぐずしないで、裂くんだ」びっくりして、ゼーヴィアは思わず引き裂いた。「その半分を投げ棄てる!」ゼーヴィアは片方のきれっぱしを、指先にやけどでもするかのように落とした。
「それから」と、弁護士は唇をなめながら、つぶやいた。
「ちょっと待て」と、警視が後ろからむぞうさな感情のない声をかけた。「そのままにしていろ、ゼーヴィア君。ここへ来い、エル」
エラリーは父のそばへ行き、しばらくの間、ふたりはきき取れぬ声で、熱心に話し合っていた。やがて、エラリーが頷《うなず》いて、みんなのところへ戻って来た。
「正式に合議しました結果、一連の実験は大成功だったことを報告いたします」と、エラリーは楽しそうに言い「ゼーヴィア君、このテーブルのそばに坐って下さい。二、三分かかるかもしれませんから」弁護士はブリッジ椅子に腰をおろして、手にはまだ、厚紙の切れっぱしを握っていた。「結構。さて、みなさん、よく聞いて下さい」
それは不必要な発言だった。一同は前へ乗り出し、成りゆきいかにと、この緊迫した劇に見入っていた。
「さきほど、僕がやった、つまらない手品論議を思い出して下されば」と、エラリーは鼻眼鏡をはずしてレンズをみがきながら「きっと、僕が二、三の重要なことがらを証明したのを思い出されるでしょう。あのとき証明した一つは、ゼーヴィア博士は右利きだったから、右手にカードの切れっぱしがあったのは、置き違えられたものだということです。もし博士がカードを裂けば、右手で、裂き、丸め、放り出す仕事を全部片づけるはずですから、片方の切れっぱしは左手に残るはずです。この点から、次のような結論も引き出せます。つまり、違う手にカードの切れっぱしを持っていたのだから、あのカードを裂いたのはゼーヴィア博士ではない。したがって、犯人の素姓を示す『手がかり』を残したのは、博士ではなかった。あのカードは、ゼーヴィア夫人を、犯人に指摘していました。だが、被害者が手掛りを残したのではないとなると、あの手掛りは正当なものではなく、証拠にはならない。つまり、単にゼーヴィア夫人を夫殺しの犯人におとし入れ、博士が、あの風変わりな方法で夫人を告発したかのように見せかけようと企てた人物の、小細工にしかすぎないことになります。あのとき、結論として言いましたが、そんなことができたのは誰か――そいつが犯人だと。みなさんは覚えているでしょう」
みんなは思い出したらしく、みいられたようなみんなの目が、はっきり、そう答えていた。
「すると、問題の帰着点は、自らこうなります。スペードの6を現実に、二つに裂いた人物を見つけろ、そうすれば、犯人がつかまる」
スミスが、このとき、あざけるような |basso《パッソ》 |profundo《プロフンド》〔太いだみ声〕で「立派な思いつきだ――できればな」と、がなりたてたので、クイーン父子を含めて、一同はみな、びっくりした。
「ご親切にね、スミス君」と、エラリーが低い声で「もうできてるんですよ」
*
スミス氏は、あわてて口を閉じた。
「そうですよ」と、エラリーは夢みるような目で天井を眺めながら「犯人の正体をはっきり示す立派な手掛りがあったんですよ。かなり前から目の前にあったのに、僕は自分の盲目ぶりを思うと、今、汗顔のいたりです。だが、人間、あらゆるものを見落とさないというわけにはいきませんからね」と、ゆっくり、たばこに火をつけ「しかしながら、今になってみると、実にはっきり見えます。手掛りは、言うまでもなく、カードについています――裂かれたカード、犯人が丸めて、ゼーヴィア博士の死体のそばの床に放り出したカードの半ぺらにね。では、どんな手掛りか。さよう、その手掛りの存在については、火事に感謝しなければなりません。カードの上の指の|しみ《ヽヽ》は、空を覆う煤《すす》がつくってくれたのですからね」
「|しみ《ヽヽ》だって」と、ゼーヴィアがつぶやいた。
「その通り。さて、どうして、しみがついたか。どうやって、犯人はカードを裂いたか。誰でもいいが、どうやって、カードを裂くか。さよう、ゼーヴィア君、君は今がた、裂き方の二つのうち一つを見せてくれました。僕は今まで、何時間も裂いてみて、カードを半分に裂くには、普通、二つの方法のうちの一つが使われると言えそうです。ごく普通の方法は、二本の親指の先を裂こうとするふちに、一緒に置く、だから、親指の先が合い、互いに鋭角をなし、他の指はみんなカードの裏側に当たることになる。そこで裂く――うまいことにわれわれの親指は煤まみれと来てる。いったい、どうなるでしょうか。引き裂くときの二本の親指の圧力――いや、むしろ、カードをしっかり持っている親指と、力を入れて引くなり押すなりする、もう一方の親指の圧力と言うべきでしょうが――その圧力が、カードに楕円形の親指の痕《あと》を残すことになるのです。一つは、カードの左半分の右上の隅で、つまり左親指のあと、もう一つは右半分の左上の隅で、つまり右親指のあとです。ここで右とか左とか言うのは、むろん、僕がカードを真直ぐ前に持つものとして、左半分というのは僕に向かって左側のことです」と、エラリーは考えながら、しばらく、たばこをくゆらせて「もう一つの裂き方というのも実質的には、前のと同じで、ただ違うところは、カードのてっぺんに置かれた親指が互いに向き合って、斜め上方を指さないで、斜め下方を指していることです。楕円形の親指の痕は、今、説明したと同じ隅に残ります。違う点は、むろん、その痕が互いに向き合って上方を指さないで、下方を指していることです。どちらにせよ、その結果――これから説明しようとしている結果――は、本質的には同じなのです。では、どんな結果が分かるかといえば」
一同はエラリーの一語一語に耳をそばだてた。
「ところで」と、エラリーはゆっくり「ゼーヴィア博士の書斎の床で見付かった、丸められた半分のカードを、もう一度調べてみましょう。平らにのばして、親指の痕が上部にくるようにまわして見ます。なぜ上部にするのか。それは、誰でも上から下へ裂くもので、下から上へは裂かないものですからね。僕が、第二の方法は、第一の方法と、結果において、実質的には違いがないと言ったのは、そのためです。親指の痕は、角度は違うが、なお、カードのほぼ同じ隅に生じるし、同じ手の親指の痕です。さて、のばした切れっぱしを、カードが裂かれたときに取られたはずの位置にあててみると、何が分かるでしょうか」と、エラリーは、また、たばこを吸い「カードの切り口は右側にくるし、親指の痕は右側の上の隅に向かって、斜めに上方を指しています。言い変えれば、そこに残された|しみ《ヽヽ》は左の親指のです。つまり、裂いて丸められたカードの半分を持っていたのは左手ということになるのです」
「とおっしゃると」と、フォレスト嬢がつぶやいた「左利きの人が――」
「勘がいいな、フォレストさん」と、エラリーはほほえんで「僕が言いたかったのは、まさにその点です。カードのその半分を持ったのは犯人の左手なんですよ。だから、犯人が左手でその半ぺらを丸め、左手で捨てたことになるんです。つまり、あらゆる操作をやったのは、奴の左手です。故に、ゼーヴィア博士殺害犯人で、ゼーヴィア夫人を罠にかけようとした奴は左利きの男と言えます」と、エラリーはちょっと一息入れて、みんなの不審そうな顔を見まわした。
「そこで問題は、みなさん、紳士淑女たちの中で、誰が左利きかを見付ければおのずから解けるわけです」みんなの不審そうな顔色が、恐慌の表情に変わった。「これが今夜の、少々奇妙な実験の目的だったのです」
「トリックだ」と、ホームズ医師が吐きすてるように言った。
「しかし、非常に重要な点ですよ、先生。事実、犯人をつきとめるには、こんな、犯罪心理を少しばかり探るような実験など要りませんよ。実験をする前に、誰が右利きで、誰が右利きでないかぐらい、今までの観察を思い出すだけで分かっていたんです。それに、同じ観察の結果から、あなた方の中には、両手利きはひとりもいないことも知っています。さて、今夜の実験で三人は除外しました。ゼーヴィア夫人とカロー少年たちです」双子はびっくりした。「ゼーヴィア夫人は、濡《ぬ》れ衣を着せられたし、自分で自分に罠をかけるはずもないという事実から除外しましたが、夫人は右利きで、僕は何度もそのことを見ています。双子については、理論的にも有罪を認めようなんてばかげています。右側のフランシスが当然右利きなのは僕も見て知っているし、左側のジュリアンは左利きだが、左腕を折ってギブスをはめていて、指先の仕事などできっこありません。それに」と、エラリーはむぞうさに「あらゆる場合を考えてみて、この少年たちが、現在の状態のもとで、あんな親指の痕を残すことができる唯一の方法は、ふたりのくっついている手を互いちがいにして引き裂くしかないことが分かったので、納得したのです――そんなことは、考えるまでもなく全く無意味な行動ですからね……さて、そこで」と、エラリーはきらりと目を光らせた。「残るみんなの中で、誰が左利きか。今夜自分でしたことを思い出して下さい、みなさん」
一同は不安そうにもじもじして、唇をかみ、眉をしかめた。
「みなさんが何をしたのか説明しましょう」とエラリーが、穏かにつづけた。「フォレストさんは、拳銃をとって、右手で射とうとしました。スミス君は拳銃を左手で持って、右手で拭きました。ホームズ先生は、僕の仮りの死体を模擬《もぎ》検査されたが、幸いなことに、もっぱら右手を使われましたね。ホイアリーさんは、右手でスイッチをつけたし、『骸骨』君は右手でマッチをすった。カロー夫人は、カードの束を左手で持ち、右手で配った――」
「待て」と、警視が、どなって、また進み出た。「求めているものを、今、手に入れた。説明しておくが、クイーン君は、わしのためにこの実験を行なったので、目的は誰が右利きで、誰がそうでないかを判別するにあった。その点には、今まで、わしは気付かなかった」と、警視はポケットから紙と鉛筆をとり出して、それを、いきなり、あっけにとられている弁護士の目の前の、ブリッジ・テーブルの上に叩きつけた。「おい、ゼーヴィア君、君に記録係をやってもらいたい。オスケワの保安官ウィンスロー・リードに渡す覚え書だ――もし、あの男がここへ着いたらな」と、せかせかと、休まずに「さあ、さあ、ぽかんとしとらんで、書くんだ、いいかね」
すべてが、さっぱりと手ぎわよく、静かに効果的に行なわれた。すべての心理的効果が、最後の末端にいたるまで、ちゃんと計算ずみだった。警視のいらだち、頭ごなしのむぞうさな言い方で、ゼーヴィアは急いで鉛筆をとり、口をもぐもぐさせながら、紙の上に構えた。
「まずこう書く」と、警視は、行ったり来たりしながら大声で「兄、ジョン・S・ゼーヴィア博士は――」弁護士は、烈しく鉛筆を走らせながら、死人のように青ざめて、急いで書きとった。
「最も近い司法管轄権所在地オスケワより十五マイル、タッケサス郡アロー・マウンテン山上の自宅『矢じり荘』の一階の書斎にて殺害せられ、死因は射殺によるものにて、下手人は――」と、警視は一息入れ、マーク・ゼーヴィアの左手の鉛筆がふるえた。「私自身である。さあ、署名するんだ。とんでもない奴だ」
しばらく、時の流れがとまり、水を打ったような沈黙が落ちた。一同は、急に唖《おし》になったように、身じろぎもせず、色を失って、椅子から身をのり出して坐っていた。
鉛筆がマークの指から落ち、その肩が、本能的に身を守るように、ぶるっと盛り上がった。血ばしった目がぎらぎらした。それから、おびえ上がった神経と、自制を失った筋肉の相互作用で、誰も身動きできぬうちに、ぱっと椅子からとび出した。とび上がったとたんに、テーブルがひっくり返った。二足か三足で、身近かのフランス窓にかけつけ、ばりっと突き破って、テラスにとび出した。
警視がはっとして「とまれ」と、叫んだ。「とまれ、おい。とまらんと、射つぞ」
だが、マークはとまらず、ころがるようにしてテラスの柵を乗り越え、どさっと音たてて下の砂利道にとび下りた。その姿は、ゲーム室の灯《あか》りからだんだん遠ざかって、ぼやけはじめた。
一同は、いっせいに立ったが、その場所から動き出そうともせず、催眠術をかけられたように、首をのばして外の闇を覗いていた。エラリーは、微動もせずに立っていた。唇から一インチばかり離して、たばこを持ったままだった。
警視は妙な吐息をもらすと、尻ポケットに手を伸ばし、警官用拳銃を抜き、ぱちりと安全装置をはずすと、背の高い窓の一つの片側に背をもたせて、幽霊のようにひらひらしている姿をねらうと、思い切って引き金をひいた。
十四 人を呪えば穴二つ
みんなは、あの気違いじみた光景のいやな思い出を、残りの生涯を通じて、ずっと、になって行かなければならないだろう。みんなは石みたいになり、信じられぬことだが、あの半白の小柄な老紳士が窓によりかかって、拳銃を握り、ぱっと火と煙を吐いて、銃声がし、はるかに、ほとんど見えなくなっている男がもの蔭をもとめて、よろよろと走って行く……やがて、その男の悲鳴が一声、ハーピー〔怪鳥女神〕のように鋭く、ぞっとするようなその悲鳴が、ぶくぶくと喘《あえ》ぐような音になり、すべてが、突然、始まり、ぷつりと終わったのだ。
マーク・ゼーヴィアの姿は見えなかった。警視は安全装置をもどし、拳銃を尻ポケットに納め、相変わらず死人のような手で、妙な手つきで口許を拭い、それから、とことこと、テラスに出て行った。そして、柵を越えて、苦労しながら、下の地面におりた。
そのとき、エラリーは、はっとして部屋を走り出た。テラスの柵をとび越え、父を追い抜いて闇に駆けこんだ。
ふたりの行動が、金《かな》しばりになっている一同を解きほぐした。ゲーム室では、カロー夫人が、ふらふらしながらも、フランシスの肩につかまって身を支えた。色を失ったフォレスト嬢は、絞めつけられるように小さく叫ぶと、前にとび出し、それと同時に、ホームズ医師も、あえぎながら、鉛のように重い足をせき立てて、窓に向かった。ゼーヴィア夫人は椅子に深く坐って、小鼻をふるわせていた。双子は、根が生えたように、固くなって床に立っていた。
みんなは、外の岩の上に、静かに伸びているマークの、ねじれた姿を見つけた。エラリーは、ひざをついて、その男の心臓を調べていた。
「このひと――このひとは――?」と、フォレスト嬢が、駆けつけて来て、はあはあ喘いだ。
エラリーは、見下ろしている父を、下から見上げて「まだ生きています」と、抑揚のない声で「指先に血がついた」と、ゆっくり立ち上がり、窓の灯にすかして手を調べた。
「手当てをたのみますぞ、先生」と、警視が静かに言った。
ホームズ医師は、ひざをついて、指先で調べていた。すぐに顔をあげて「ここじゃ、どうしようもない。クイーン君、君は、背中に触ったんだろう。その怪我のところに。まだ意識があるらしい。どうぞ、早く、手を貸して下さい」
地上の男は、もう一度うめき、また、ぶつぶつ、あえぎ声が口から洩れた。手足が発作的にひきつった。三人は、静かに持ち上げて、ポーチの階段を運び上げ、テラスを通ってゲーム室に運び込んだ。フォレスト嬢は、悩ましげに、肩越しに森をちらりとふり返り、急ぎ足で跟《つ》いて来た。
黙って、三人は、怪我人をピアノのそばのソファに、うつ向けに横たえた。ぱっと明るい部屋で、ゼーヴィアの広い背中が、みんなの視線を集めた。肩甲骨の少し右下に、赤黒いしみでできたぎざぎざの中に、黒い丸い穴があいていた。
血の|しみ《ヽヽ》を見ながら、ホームズ医師は上着を脱ぎすてた。シャツの腕をまくり上げて、小声で「クイーン君、研究室のテーブルにある僕の外科道具を。ホイアリーさん、すぐ、大鍋に熱湯をわかして、どうぞ。ご夫人方は、あちらへ行っている方がいいですよ」
「お手伝いしますわ」と、フォレスト嬢が、すぐに「わたくし、看護婦でしたの――先生」
「よろしい。他の人は向こうへ行って下さい。警視さん、ナイフをお持ちですか」
家政婦のホイアリーは部屋からとび出し、エラリーも横廊下につづく戸口を出、研究室の廊下側のドアをあけ、つまずきながらスイッチを探し当ててひねると、実験台の上に、小さな黒い革鞄が、すぐ見つかった。鞄にはP・Hという文字がついていた。エラリーは冷蔵庫の方を見ないようにして、その鞄を、さっと取ると、ゲーム室に駆け戻った。
ホームズ医師の忠告にもかかわらず、ひとりとして動こうとしなかった。みんなは、医者の器用な手さばきと、マークのうめき声に魅せられているようだった。ホームズ医師は、警視のナイフの鋭い刃で、弁護士の上着の背を下から上まで切り裂いた。上着を裂き終えると、怪我人のシャツと肌着を破って、弾《たま》きずをむき出しにした。
エラリーは、石のように、マークの顔を見つめて、その左の頬がひきつれるのを見ていた。口には血泡をふき、目は半ば閉じたままだった。
ホイアリーが、熱湯の大鍋を持って、よたよたとはいってくると、ホームズ医師は鞄をひらいた。アン・フォレストが婆さんのふるえる手から湯を受けとり、床にひざを下ろしている医者のそばに置いた。医者は、大きな脱脂綿のかたまりを、束からむしり取り、それを湯につけた……
怪我人の目がふいにくわっと開き、何も見えないのに一点を見つめた。二度ほど、音もなくあごが動いた。やがて、あえぎ声がきこえた。「僕はやらない。僕はやらない。僕はやらない」と、何度も何度も。まるで、怪我人の幻想世界の仄《ほの》ぐらい教室で、果てしなく繰り返さなければならないと教えこまれた、学課のようだった。
警視が進み出て、ホームズ医師にかぶさるようにして、低い声で「よほど悪いかね」
「重症です」と、ホームズ医師は、言葉すくなに「右肺のようです」と、すばやく、丁寧に傷口を洗い、血を拭きとった。強い、消毒薬の匂いがした。
「どうかね――話せるかね」
「普通なら、禁止です。絶対安静が必要ですからね。しかし、この場合は――」と、イギリス人は、仕事の手をとめずに、細い肩をすくめた。
警視は急いでソファの頭にまわり、マークの血の気のない額の前に、ひざをついた。弁護士は、まだ、ぶつぶつ言っていた。「僕はやらない。僕はやらない」と、一種、間のびのした根気のよさだった。
「ゼーヴィア」と、警視が、せきこんで「わしの声が聞こえるか」
ぼやけた声がとまり、頭がぴくっと動いた。かろうじて警視の顔が見えるほど、目がうわ向いた。正気づき、発作的な苦痛が、さっと目に浮かんだ。ゼーヴィアは低い声で「なぜ、あんたは――僕を射った、警視。僕がしたんじゃない。僕はしない……」
「なぜ逃げたんだね」
「常軌を――逸して。僕は思った――もう、何もかも駄目だと――ばかだった……僕はしやしない、僕じゃない」
エラリーは爪さきがくいこむほど、ぎゅっと手を握りしめていた。及び腰になって、鋭い声で「重態なんだよ、ゼーヴィア君。この期《ご》に及んでなぜ、嘘をつくんだ。君がやったのは分かっているんだ。家中で左利きの男は君ひとりだし、君だけが、あのスペードの6が裂かれていたように裂けるんだよ」
ゼーヴィアの唇がふるえて「僕じゃない――やったのは。ちがうよ」
「君はあのスペードの6を裂いて、死んだ兄貴の手に握らせて、義姉《ねえ》さんに濡れ衣を着せようとした」
「そうだ……」と、ゼーヴィアが喘《あえ》いで「そりゃ――本当だ。僕がやった。義姉《あね》に罪をかぶせた。僕は欲しかったんだ――だが――」
ゼーヴィア夫人が、目に恐怖の色をうかべて、ゆっくり立ち上がった。口に手を当てたままで、まるで初めて見るような目で、義弟を見つめていた。
ホームズ医師は、唇が青ざめ、ものもいわないフォレスト嬢を助手として、手速く働いていた。きれいになった傷口からは血が噴いてとまらなかった。鍋の湯はまっ赤になった。
エラリーの目は節穴になり、口はわけもなく動き、顔にはなんとも不審な表情が浮かんだ。「そうか、すると――」と、のろのろ言った。
「分からないのか」と、ゼーヴィアがとぎれとぎれに「あの晩、僕は寝られないので、ベッドで転々としていた。下の書斎にほしい本が一冊あった。……うーん――背中がひどく痛む」
「それから、ゼーヴィア君。手当を受けてるんだよ。それから」
「僕は――ガウンを着て階下《した》に下りて――」
「何時だった?」と、警視が訊いた。
「二時半……書斎に行ってみると灯りがついていた。ドアは閉って、隙間があった。――僕は、はいって、ジョンを見つけた――冷く、固く、死んでいた。……それで――それで、兄嫁に罠をかけた。濡れ衣を着せた――」
「なぜ」
ゼーヴィアは顔をしかめて、のたうちまわった。「だが、僕がやったんじゃない。ジョンを殺しやしない。僕が行ったときには死んでいたんだ、誓うよ。机に向かって、石のように死んでいたんだ――」
傷口を繃帯して、ホームズ医師が注射器に薬を入れた。
「嘘を言っとる」と、警視が息をのんだ。
「僕は正直に言ってるんだ、誓うよ。死んでいたんだ――行ったときには……兄を殺しやしない」と、一インチほど首をもたげたが、首筋が白っぽくねじれた。「しかも――知ってるんだ――やった奴を……誰がやったか――知ってるんだ……」
「知っとる」と、警視がどなった。「どうして知った。そいつは誰だ。白状するんだ、おい!」
部屋中がしんとした。まるで、みんなの息がとまり、時の流れがとまり、はるかに暗く漠々とした遊星間の虚空にただよっているかのように、みんなは立ちつくしていた。
マーク・ゼーヴィアは力をふりしぼっているようだった。超人的な努力をしていた。見ている方が辛かった。起き上がろうとする左手が、ひきつれ、ふくらんだ。血ばしった目が、いっそう、ますます、めちゃくちゃに赤くなった。
ホームズ医師がゼーヴィアの裸の左腕の皮をつまんで、注射器を構えた――非情な自動機械のように。
「僕は――」それが努力の唯一の結末だった。血の気のうせた顔が青白くなり、唇に血泡が噴き出し、失神して、ぐったりとなった。
針が腕を刺した。
やがて一同は息を吹き返し、また、ざわめいた。警視は、やっと立ち上がって、ハンカチで汗まみれの顔を拭いた。
「死んだのですか」と、エラリーが、唇をなめながら訊いた。
「いや」と、ホームズ医師も立ちながら、感慨深げに、静まった患者の姿をじっと見下ろした。
「失神しただけです。モルヒネを与えました。筋肉を弛《ゆる》め、安静させるだけのものです」
「容態は?」と、警視が、かすれ声で訊いた。
「危険です。チャンスはあると思いますが、すべて、この男の健康状態にかかっています。弾は右肺に、はいっています――」
「取り出さなかったのか」と、エラリーが真青になって叫んだ。
「探り出せと言うんですか」と、医師は眉をあげて「ねえ君、そりゃあ、ほとんど致命的なんだよ。僕の言う通り、チャンスは一にかかって、この男の健康状態による。ざっくばらんに言うが、健康状態はさしていい方じゃないな、今までに一度も診察したわけじゃないがね。この男は、知っての通り、かなり呑み助で、少し太り過ぎだよ。盛《さか》りは過ぎたところだね。なんとしても」と、肩をすくめて、フォレスト嬢の方を向き、顔色をやわらげて「ありがとう――アン。とても助かったよ……さて、みなさん、どうか、二階に運ぶのを、手伝って下さい。きわめて慎重にしないと、出血を起こすといけませんからね」
四人の男たちは――スミスは、ばかみたいに隅に立っていた――ぐったりした体を持ち上げて、二階の、家の西角で道路を見下す寝室に運び込んだ。他の連中は、互いに庇《かば》い合うかのように、かたまって、その後からどやどやと跟いて来た。ひとりになって、ほっとする者はひとりもいないようだった。ゼーヴィア夫人はぽかんとしていた。その目から恐怖の色が去っていなかった。
四人の男たちは、ゼーヴィアの服を脱がせ、こまごまと世話をしながら、ベッドにねかせた。ゼーヴィアは荒い息づかいになっていたが、もうもがかず、目も閉じられていた。
やがて警視がドアを開けて「はいってよろしいが、音を立てちゃいかん。一言《ひとこと》、言っておきたいことがある。みんな、よく聞いてほしい」
一同は機械的に命令に従った。みんなの目はシーツの下の静かに動かない姿にひきつけられていた。ベッドのそばのナイト・テーブルの上の灯りが、ゼーヴィアの左の頬と、夜具の下のからだの左側の輪郭を明るく照らし出していた。
「どうやら、わしらは」と、警視が沈んだ声で「またも、失策をやらかしたらしい。わしには、まだ確信はない。実は、マーク・ゼーヴィアが嘘を言うとるかどうか、決めかねとる。しかし、死ぬ三秒前にも嘘を言う奴らをわしは、いままでにも見て来ておる。人間は、死期を知ったからというて、本当のことを言うとは限らん。同時に、この男の言ったことには、何か――そう、信用できるものがある。もし、この男が、ゼーヴィア夫人に罠をかけただけで、博士を殺さなかったとすると、真犯人は、まだ、この家で、大きな顔をしていることになる。そこで、わしはみんなに言っておく」と、きらりと目を光らせて「今度こそは、決して失策はせん」
一同は、ただ目を見張るだけだった。
エラリーがぴしりと言った。「もう一度、意識を回復するでしょうか。先生」
「可能性はあります」と、ホームズ医師が低い声で「モルヒネの効力が消えると、前ぶれもなく意識をとり戻すかもしれないし」と、肩をすくめて「とり戻さないかもしれない。どうにでも考えられる。死についても、同様のことが言える。数時間後になって内出血をおこすかもしれないし、いつまでも意識不明が続いて、病毒に感染するかもしれない――傷口はきれいにし、消毒しておいたが――それでも、余病を併発するかもしれない」
「なかなか興味がありますね」と、エラリーが不服そうに「それはそれとして、チャンスはあるんですね? だが、僕に興味のある点は、実際に、意識をとりもどすことになれば、その時こそ、この男が――」と、意味深長な目でじろりと見まわした。
「きっと、話すでしょう」と、いきなり、双子が叫び、自分たちの声に面くらって、母親にしがみついた。
「そうだよ、君たち。話すだろうよ。なかなかむずかしい問題ですよ、お父さん、だから僕は、そのチャンスをつかむためには、一つも手落ちがないようにするのが一番だと思うんです」
「わしも、そう考えてたところだ」と、警視が重々しく「今夜は、交替で見張ることにしよう――お前とわしとで。そして」と、ちょっと間をおいてから「他の者ではいかん」と、ホームズ医師の方に、いきなり向いて「わしがまず見張る、先生。午前二時まで。それからは、朝まで、せがれが交替する。もし、君に用があれば――」
「意識回復の最初の徴候が見えたら」と、ホームズ医師が、ぎごちなく「すぐ僕に報らせて下さい。すぐですよ。最初の一秒が貴重ですからね。僕の部屋は廊下の向こうのはしで、あなた方の隣です。目下のところ、実際、あなた方には、何も手のほどこしようがありませんよ」
「まだ命があれば、そいつを守るだけだな」
「きっと、あなたに報らせます」と、エラリーが言い、他の連中を、しばらく眺めてから「この中に、無法な手段をとろうと考える者がいるかもしれないから、その人のために言っておきますが、今夜、このベッドを見張っている人間は、気の毒なゼーヴィアをやっつけた同じ武器で武装していますよ……それだけです」
*
意識不明の男がそばにいるだけになると、クイーン父子は、妙な気づまりを感じた。警視は気持のいい寝室椅子に腰かけて、カラーをゆるめ、とりとめのないことを忙しそうにやり始めた。エラリーは窓のそばで憂鬱そうにたばこをくゆらせていた。
「どうも」と、やがてエラリーが「ひどい厄介な目にあいましたね」警視が不服そうにした。「昔話の間抜け探偵というところですね」と、エラリーが辛そうに「気の毒にね」
「何をぶつぶつ言っとる」と、警視が不安そうに、どなった。
「早くて、待ったなしで、向こう見ずな射撃ぐせのことですよ、お先祖さん。実際、必要なかったですね。逃げられっこないんだから」
警視は不愉快な顔をして「そうだな」と、つぶやき「そうかもしれん。だが、人殺しだと見られとる人間が、いきなり突っ走って逃げ出せば、気の毒な間抜けの探偵は、いったい、どう考える? そりゃ、白状したようなもんだ。むろん、わしは警告を発してから、一発、お見舞したんだ――」
「おお、その点は、万点でしたよ」と、エラリーがむぞうさに「年寄りのくせに、鷲《わし》のような目は衰えず、射撃の腕はいささかもにぶってない。でも、あんなことをしたのは、むちゃで妥当じゃなかったですね」
「なるほど、そうかもしれん」と、警視は、かんしゃくをおこし、赤くなってどなった。「わしばかりじゃない、お前のせいでもある。お前が思い込ませたんだ――」
「おお、お父さん、すみませんでした」と、エラリーが後悔するように言った。老紳士は、気を静めて、ぐったりと椅子に坐った。「お父さんのおっしゃる通りです。実際、お父さんの、というより、僕の失策でした。僕の推理では――いまいましい自惚《うぬぼ》れでしたよ――誰かがゼーヴィア夫人に夫殺しの濡れ衣をきせた、そいつが殺人犯人にちがいないと、きめ込んでいたんです。むろん、よく考えてみると、そんな推定には、全然、根拠がないんです。そうですとも、そいつはこじつけにすぎない。事実がいかに空想的なものであっても、論理まで空想的であっていいって法はありませんからね」
「奴が嘘をついとるんだろう――」
「そうじゃないと思いますよ」と、エラリーがため息をついて「おや、また早合点してる。僕には確信の持ちようがありませんよ、あのことにも、他のことにもね。この事件では、僕は全くお手上げです……じゃあ、目をしっかり開けてて下さいよ。二時に戻って来ます」
「わしのことは心配するな」と、警視は怪我人を、ちらりと見て「ある意味では、これも罪ほろぼしの一種だ。もし、こいつが助からんとすると、どうやら、わしは……」
「助からないのは、その男か、あなたか、ほかの誰か、知れたものじゃない」と、エラリーは、ノブに手をかけて、謎めいた口ぶりで言った。
「そりゃ、どういう意味だ」と、警視がつぶやくように訊いた。
「あのきれいな窓から、ちょっと外を覗いてみるんですね」と、エラリーは、むぞうさに言って部屋を出た。
警視はエラリーを見つめてから、立って窓のそばへ行った。そしてすぐため息をついた。梢の上の空は赤黒く光っていた。夕方の騒ぎで山火事のことをすっかり忘れていたのだ。
*
警視はナイト・テーブルの灯りの笠《かさ》を傾けて、傷ついた弁護士を、もっと明るく照らすようにした。そして、ゼーヴィアのかさかさな皮膚を憂鬱そうに見下ろして、もう一度ため息をつくと肘掛け椅子に戻った。半分首を動かせば、部屋のたった一つのドアとベッドの上の男が見えるように椅子の位置を変えた。やがて、何か思い付いて、顔をきびしくし、尻ポケットから、警官用の拳銃をとり出した。生真面目な顔で、拳銃をちょっと見てから、上着の右ポケットに入れた。
薄明りの中で、警視は椅子に背をもたせかけると、手を組んで、へこんだ腹の上に置いた。
ほぼ一時間の上も、とぎれとぎれにもの音がきこえていた――ドアを閉める音、廊下を歩く足音、低い声のささやきなどが。やがて、耳慣れた退屈なもの音が静まるにつれて、しだいに静寂が深まり、じきに、すっかり、あたり一面を満たして、警視は、一番身近かな意識ある人間から一千マイルも距ってしまったような気持になった。
警視はゆったり椅子に腰かけてはいたが、今までにかつてないほど緊張していた。生涯をかけての、人間の絶望の研究からの洞察力で、どこに危険が横たわっているかを知っていた。ひとりの男が死にかけている、そして、その弱った舌の力の中に危険が横たわっている。殺人犯人にとっては、どんな手段だろうと、どんな無分別だろうと、いとうひまはないであろう……警視は坐っていながら、もし歩きまわる自由があるなら、まわりの暗い部屋部屋へ忍び込み、まだ目覚めている奴や、暗がりにうずくまっている奴を驚かしてやりたいものだと、半ば思った。しかし、一瞬たりとも、この死にかけている男のそばを離れるわけにはいかないのだ。ふと、不安になって、ポケットの武器を握りしめ、立って窓のそばへ行った。しかし、そこからこの寝室に近づくことは不可能だった。それをたしかめて、また自分の椅子にもどった。
時がのろのろと進んだ。なにも変わったことは起こらなかった。ベッドの男は身動きもしない。
一度、かなり経ってから、小柄な半白の老人は、外の廊下で何か音がしたような気がした。老人はからだ中の筋肉を引きしめて坐り直しながら、どうやら誰かがドアを開けたてする音らしいと思った。そう思うとすぐ音もなく椅子を立って、ナイト・テーブルの灯りを消し、闇の中をそっとドアまで急いで行った。拳銃を手に、音もたてずノブをまわし、すばやく引きあけて、身をかわして、待ち構えた。
何事もなかった。
警視は静かにドアを閉め、また灯をつけて、椅子に戻った。大して驚いたわけではない。訓練された神経でも、夜の闇の中では乱調子になりがちなものだ。あのもの音は、おそらく空耳《そらみみ》であり、恐怖心のこだまだったのだろう。
しかしながら、警視はあくまで実際的な人間だったので、拳銃をポケットに戻さなかった。戻すかわりに、膝の上にそっとのせて、いざというとき、間髪を入れず、つかみとれるようにしておいた。
それ以上、もの音もなく、何事も起こらず、夜が更けていった。まぶたが、ひどく重くなって、時々頭を振って目をさました。今は、前ほど暑くはなかったが、まだかなり息苦しく、服はぺったりとからだにはりついた。……警視は、何時だろうと思ってずっしりした金時計をひき出した。
十二時半だった。警視は時計をしまい、ため息をついた。
まさにそのときだ――そのあとで、また時計を見たが――そのとき、警視の全神経が、また、ぴくっとしたのだ。しかし今度は、外からの実音か空耳ではなかった。もの音は、すぐそばのベッドからしたのだ。死にかけている男から出たのだ。
時計をあわててしまいこむと、警視はとび立って、絨毯の上をころげるようにベッドに近よった。ゼーヴィアの左手が|けいれん《ヽヽヽヽ》して、数時間前に階下で聞いたようなひどいあえぎ声をたてていた。頭も少し動いた。あえぎ声はたかまり、やがてしゃがれた咳《せき》になった。あまり激しく高く咳《せ》くので、家中の者が目を覚ますかもしれないと、警視は思った。灯りに顔をそむけているゼーヴィアに、かがみ込んで、ゆっくりと引き起こし、苦労しながら右腕を首の下に差し込んだ。そして、左腕で、背中の傷口をベッドに触れさせないように用心して、ゼーヴィアの向きを変えてやった。それで、やっと警視が腰をのばしたときには、ぐったりしたゼーヴィアのからだは灯りの方を向いて横たわっていた。目はまだ閉じていたが、あえぎ声はつづいた。
ゼーヴィアは徐々に意識を回復していた。警視は迷っていた。待っていて、この男に話させるべきだろうか。そのとき、ホームズ医師の忠告を思い出したのと、手遅れになると怪我人を死なせるかもしれないと思いついたので、いきなり自分の椅子にかけより、拳銃をつかんでドアへ、すっとんだ。だが、一瞬たりともゼーヴィアをひとりにしておくわけにはいかないと、とっさに考えた。医者を呼びに部屋を出てるすきに乗じられるようなことがあってはならない。警視はドアをあけ、頭をつき出して、大声でホームズを呼ぶことにした。他の連中が目を醒ましても、そんなことはかまうもんか。
警視はノブをつかみ、がちゃりとまわして、ドアを押し開けた。そして、頭をつき出して、口をひらいた。
*
エラリーは、ぐらぐらする断崖の黒いガラスのような壁をよじのぼろうともがきながら、下の烈火にたぎる大鍋に滑り落ちまいと、必死になっているような気がした。固くすべすべな、人をあざけるような壁を両手でたたき、指先を血まみれにしていた。頭の中には、無限に燃えつづける地獄の姿が、まざまざとこびりついていた。頭がふくれ、いっぱいになり、はち切れそうになっていた。エラリーは、ずるずるとすべっていく……はっとして目がさめると、冷汗でぐっしょりだった。
暗い室内で、ナイト・テーブルの上の懐中時計を手さぐりで探した。夜光の文字盤を見ると、二時五分過ぎだった。エラリーはうめきながらベッドを出た。からだは、そこら中、痛くて汗まみれの肉塊にすぎず、全身の筋肉がいうことをきかない。闇の中で服をさがした。
そっと部屋を出て、廊下を歩いていくと、家中はまだしんとしていた。踊り場の電球がいやに明るく、目をぱちぱちさせてみると、万事異状はないようだった。ドアはみんな閉まっていた。
エラリーは廊下のはずれまで行き、ゼーヴィアの部屋の外で立ちどまった。歩く足音を立てないし、ドアはしまっていたしするので、父親はむろんのこと、誰ひとりとして、エラリーの動く気配に気付いた者があるなんて想像する理由はなかった。そう思ったとたん、エラリーは恐怖心がこみ上げて来た。そうだ、自分にも適用できることなら、他の人間にも充分適用できるはずだ。さては、おやじは――
だが、おやじは、いままでのいろいろな楽しい経験から分かっているが、自分で自分の始末は充分できる人間なのだ。しかも、拳銃を持っているし、すでにそいつで――
子供っぽい恐怖心をなげ捨てて、そっと、ドアを開き「僕です、お父さん、おどろかないで下さい」返事はなかった。もっとドアを押しあけて、はっと、その場に立ちすくんだ。心臓がとまりそうだった。
警視はドアのそばの床に、うつ伏せに倒れ、拳銃はその動かぬ手から数インチのところに放り出されていた。
あきれて、ベッドの方に目を向けると、ベッドの前のナイト・テーブルの引出しが開いていた。マーク・ゼーヴィアの右手がだらりと床に下がり、何か握っていた。からだはベッドから半ばはみ出し、頭ががっくりとたれ下がっていた。その顔に見ることができたものがエラリーをぞっとさせた――ひきつった顔は、にたりと歯をむき出し、変に青ざめた歯ぐきまで見せていた。
ゼーヴイアは死んでいた。
しかし、肺でうずく弾のせいで死んだのではなかった。エラリーには証拠を見る前に、ひと目《め》でそれが分かった。ゼーヴィアはひどい苦痛で死んだかのようで、苦痛にゆがんだその顔が、意味深長だった。しかも、もっと意味深長なのは、ベッドから数フィートはなれた絨毯の上に、大胆不敵な奴が落として行った空の薬瓶が、ころがっていることだった。
マーク・ゼーヴィアは、殺されたのだ。
第四部
「おれは気違いになりそうだった。本ものの気違いにな。おれが坐っとると、奴らは、おれを見下ろして立っていて、どいつも何も言わないんだ。その間じゅう、血まみれのシャツが灯りをあてられて放り出してあるんだ。おれには奴の面《つら》が見えるんだ、奴が死体置場でのびてるってのにな。たまらなかった。まったく気が狂いそうだったぜ、そいで白状《はい》たんだ」
一九――年十一月二十一日
(シン・シン刑務所で死刑執行を待つ間、A・Fが記者団へ行なった言明)
十五 指環
エラリーは、どのくらい立っていたか分からなかった。頭は狂ったようにかけめぐったが、筋肉は言うことをきかず、心臓は胸の中で花崗岩のようになっていた。
悪夢とそっくりだなと、エラリーは思った。さっき見ていた怖しい夢のつづきのようだ。おそらく、まだ夢を見つづけているのだ……ベッドの上の男を、まず、すばやく吟味してから、首をねじ向けて、うつぶせになっている父の姿に目を釘づけにした。死んでいる……父が死んだ。エラリーの頭は、事の重大さを前にして、きりきりまいしていた。父が死んだのだ。あのすばしこい灰色の目が、もう、ふたたび輝かないのだ。あの薄い小鼻が、もう、決して、怒りにふくれあがることはないのだ。あの老いた喉は、もう、決して、ちょっといらだって、どなったり、つぶやいたり、茶目っけなユーモアをみせて、くすくす笑ったりしないのだ。あの疲れ知らずな小さな足は……父が死んだのだ。
それから、エラリーは、われながら意外な大きな驚きを経験した。何か濡れるものが頬をしたたり落ちていた。エラリーは泣いていたんだ。そんな自分に腹が立って、激しく頭を振った。すると、急に、生命と希望と力が血管の中に暖かくあふれてくるような気がした。筋肉がゆるんだ。しかし、それも束の間、すぐにまた緊張して、エラリーは前へとび出した。
警視のかたわらに、とびつくように膝を下ろすと、おやじのカラーをひきちぎった。父の顔は蝋のように青ざめ、いびきをかくように呼吸していた。呼吸《いき》がある。では、生きているんだ。
エラリーはよろこびにあふれる力強い手で、細い小さな父のからだをゆすぶって叫んだ。「お父さん。目をあけて。お父さん、僕です」そして、気が狂ったように、にやにやしたり、あえいだり、泣いたりした。だが、警視の灰色の小鳥のように小さな頭はわずかにゆらぐだけで、目も閉じたままだった。
ふたたび恐慌にとらわれたエラリーは、おやじの頬を平手で打ったり、腕をつねったり、どんどんなぐったり、こづいたりした……やがて急に手をとめて、くんくん匂いをかぎながら頭を上げた。ショックで肉体の諸機能がにぶっていたのだ。それが今、最初に部屋に踏み込んだときから、潜在意識的に気付いていたことを、はっきり自覚した。あたりには、甘ったるい匂いがみちていた。そうだ、今度は父親の口もとに、もっと鼻を近づけてみると、その匂いはいっそうきつかった。……警視はクロロホルムを嗅がされたのだ。
クロロホルムだ。すると、警視は見張りができないようにされて、殺人犯人は警視の防衛力を奪っといて――さらに、殺人を犯したのだ。
そう考えると、冷静さと、梃《てこ》でも動かぬ決意がもどって来た。エラリーは、どこで間違いをおこしたか、いかに本質的に盲目だったかを、いまいましいほど、はっきり悟った。自らの自信に快く身をまかせながら、エラリーは、これまで追跡が終わるどころか曲がり角に来ただけで、霧にくるまれた前途はいよいよ長いと、いま悟った。だが今度は、話が違うぞと、歯をくいしばって自分に言いきかせた。殺人犯人の手は強制されたのだ。これは、意志や気まぐれの犯罪ではなく、やむを得ない必要にせまられた犯罪なのだ。そのために、犯人は意志に反して姿をさらしたのだ。ベッドの上の死体を最初にちらりと見たときに、すぐ気がついたのは……
エラリーはしゃがんで、父の小柄な体を腕に抱き上げ、肱掛け椅子に運んだ。静かにそこに下ろして、老人のシャツを開き、からだを楽な姿勢に置きかえた。シャツの下に手を入れ、老人の心臓がしっかり脈打つのを手の平に感じると、大きくうなずいた。警視は大丈夫だ――醒めるまで寝かせておくだけのことだ。
エラリーは立って、ベッドに近づき、目を細めた。誰か他の者がこの場に来る前に、見ておかなくてはならぬものを、すぐに見ておくつもりだった。
死人はとてもひどいざまだった。顎と胸は濃いみどりと茶がかった、どろどろの、吐気がするほどいやな匂いの汁でおおわれていた。エラリーは見まわして床の薬びんを見つけて近寄り、そっとつまみ上げた。白っぽい液が、わずかばかり、びんの底に残っていた。びんの口を嗅いでみてから、思い切って、指に一滴たらすように、さかさにした。すぐに、それを拭きとり、液をたらしたところを、舌で触ってみた。舌がやけるようにぴりっとし、いやな酸っぱい味がした。指もひりひりした。少し胸苦しくなり、ハンカチにペッと吐いた。間違いなく、内容は毒物だった。
エラリーはびんをナイト・テーブルの上に置き、死人のたれ下がっている頭のそばに膝を下ろした。開いているテーブルの引出しと、死人の右手がたれ下がっている床のあたりを、ちらっと見ただけで、信じがたい経緯が呑みこめた。引出しには、エラリーの部屋のナイト・テーブルの引出しにつまっているのと、ほぼ同じような遊び道具が散らばっていたが、例のトランプのカードの束がなくなっていた。札は、ベッドのそばの床にちらかっていた。
そして、死んだマーク・ゼーヴィアの手がかたく握っているものは、そのうちの一枚だった。
エラリーは骨を折って、固くなっている指から、それをひきはなした。そして、見たものに頭を振った。間違えていたのだ。一枚のカードではなく、カードの半ぺらだった。エラリーの目は床に向き、すぐに、あとの半ぺらが、まき散らされた他の札の上に乗っているのを見付けて、ひろい上げた。
マーク・ゼーヴィアがカードを二つに引き裂いたのは、死んだ兄貴が、すぐ前に前例を作っていた事実と思い合わせて、大して驚くには当たらないと、エラリーはすばやく頭を働かせた。ゼーヴィアが引き裂いたカードがスペードの6でなかったのも驚くには当たらない。というのは、あのごまかしは、永遠に化けの皮がはげたんだからと、エラリーは考えた。
エラリーを腹立たせたのは、そのカードがダイヤのネイヴ〔ジャック〕だったことである。
*
今度は、なぜダイヤのネイヴ〔ジャック〕なんだ、と、エラリーは、いらいらしながら自問した。一組《ひとくみ》、五十二枚の札の中から、択びに択んで。
引き裂いた半ぺらがゼーヴィアの右手にあったことに、大して役に立つ意味もなかった。あるべきはずのところにあったのだ。毒殺された左利きの弁護士は、意識が残っていた最後の瞬間に、テーブルに手をのばし、引出しを開け、カードの束をみつけるまで手探りし、カードを開き、ダイヤのネイヴ〔ジャック〕をぬき出し、あとの札の束を床に落とし、ダィヤのネイヴ〔ジャック〕を両手で持ち、左手で引き裂き、その半ぺらを左手で投げ捨て、残りの半ぺらを右手に握って死んだのだ。
エラリーは落ちている札を探してみた。スペードの6は全体の中の手つかずの一枚として残っていた。
エラリーは立って、眉をしかめながら、また薬びんをつまみ上げた。そして、口もとの唇のそばに近付け、ガラスに、強く息を吹きかけ、それから、びんをまわして、びんの表面の全部に息の湯気がかかるようにした。しかし、指紋は一つも現われなかった。殺人犯人は、前と同じように、用心深かった。
エラリーはびんをテーブルに下ろして、部屋を出て行った。
*
廊下は、前のように、人気がなく、ドアは全部、閉まっていた。
エラリーは廊下をつき当たりの右手の最後のドアまで大股で歩いて行き、鏡板に耳をつけて、しばらく聞いていたが、何のもの音もしないので、はいって行った。部屋はまっ暗だった。今度は男の静かな息使いが、部屋の奥から聞こえて来た。
エラリーはベッドを手探りで探し、見つかったので、触れてみてから、寝ている人の腕を、そっとゆすった。腕が固くなり、男のからだが、おどろいてとび起きるのを感じた。
「大丈夫ですよ、ホームズ先生」と、エラリーが、おだやかに「クイーンです」
「おお」と、青年医師は、ほっとして、あくびをし「ぎょっとさせるねえ」と、ベッドのそばのテーブルの上のスタンドをつけた。そして、エラリーの顔付きを見たとたんに、あごがだらりと垂れた。「ど、どうしたんだね」と、息をのみ「何かあったのかね。もしやゼーヴィアが――」
「どうぞ、すぐ来て下さい、先生。してもらいたいことがあるんです」
「でも――誰かが――」と、イギリス人は、ぼんやり言いかけた。その青い目が恐怖できらきらした。それから、ベッドをとび出し、部屋着を羽織り、毛織りのスリッパに足を突っこみ、ひとことも言わずに、エラリーについて来た。
エラリーはゼーヴィアの寝室のドアまでくると、一歩退がって、ホームズに先にはいるようにと合図した。ホームズは入口で、ちょっと立ちどまって、目をむいた。
「おお、こりゃあ、なんと」と、言った。
「ゼーヴィアにとっては、なんと、どころじゃありませんよ」と、エラリーが低い声で「狡《ずる》がしこい、殺人趣味のいたずら野郎が、またひと仕事やったんですよ。不思議なのは、どうして父が――はいりましょう、先生、誰かにききつけられないうちにね。僕は、特に、内密にあなたの意見が聞きたいんです」
ホームズ医師は、よろめきながら敷居を越し、エラリーはついてはいり、後ろのドアを静かに閉めた。
「死因と死亡時刻を教えて下さい」
その時はじめて、ホームズ医師は、椅子にのびている警視の動かない姿に気がついた。すると恐怖で目をむき「だって、こりゃ大変だよ、君、君のお父さんじゃないか。お父さんも――お父さんが――」
「クロロホルムです」と、エラリーがぶっきら棒に言い「できるだけ早く、正気にもどして欲しいんです」
「そうか、じゃ、何をぼやぼや突っ立ってるんだね」と、青年医師が、目を光らせて叫んだ。「さっさとやるんだ。ゼーヴィアなんか放っとけ。窓をみんな開ける――できるだけ広く開けたまえ」
エラリーは、あっけにとられたが、すぐ、とび出していいつけ通りにした。ホームズ医師は警視にかがみ込んで、心音を聞き、まぶたをめくって見、うなずいて、部屋についている洗面所にはいって行った。そして、間もなく、冷い水にひたした五、六本のタオルを持って戻って来た。
「患者をできるだけ窓に近づけてくれたまえ」と、ずっと落ちついた声で「新鮮な空気が絶対に必要だ――このいまいましい場所で、吸えるかぎりの新鮮なやつがね」と、余計なことを言い「早くだよ、君」ふたりは両側から椅子を持ち上げて、開けた窓のそばへ運んだ。医師は警視の胸をひらき、濡れタオルを、なめらかな肌に貼りつけた。別のタオルを、床屋のむしタオルのように、間のびのした顔にのせ――小鼻だけを残して、顔中をくるんだ。
「大丈夫だろうね」と、エラリーがやきもきして「まさか君は僕に――」
「いや、いや、何も心配はないよ。おいくつかね」
「まだ六十にはなっていません」
「健康だったかね」
「金釘のように」
「じゃあ、大したこともあるまい。覚醒させるためには、思い切った手段をとらなくちゃなるまいよ。ベッドから枕を二つとって来たまえ」
エラリーは死んだ男から枕をうばって来て、たよりなさそうに立って待っていた。「次は、何を?」
ホームズ医師はちらりとベッドを見て「あそこへ寝かせるわけにはいかないな……足を持ってくれたまえ。椅子の手に寝かせることにしよう。頭をからだ全体より低くする」
ふたりは老人の体を安々と持ち上げて、ひっくり返した。ホームズ医師は大きな枕を老人の背にかった。老人の頭が椅子の片方の手ごしに垂れ下がった。
「脚をできるだけ高くする」
エラリーは、ぐるりと椅子を回って、いう通りにした。
「しっかり持っていたまえよ」と、医師は、たれ下がっている頭にかがみ込んで、老人のあごをつかんだ。そして、口が開くまで押しつけ、指を差し込んで、警視の舌を引き出した。「よし、これでいい。アドレナリンかストリキニーネか、新薬のアルファロベリンをたっぷり注射してもいいが、その必要もあるまい。少し手を貸してやるだけで醒めるだろうよ。しばらくは薬が残るだろうがね。いいかね。人工呼吸をほどこすから。酸素タンクがあると……なにしろ、手ごろなのがないんでね。それで――しっかり押えて」
医師は警視の胴にかぶさりかかって作業を始めた。エラリーは、おどろいて見ていた。
「どのくらいかかりますか」
「吸飲してる量によるな。ああ、うまいぞ。そう長くはかからんよ、クイーン君」
五分もしないで、老人ののどから、絞めつけられるようなうめきがもれた。ホームズ医師は、しっかり作業をつづけた。しばらくして、手をとめ、顔のタオルを取り去った。老人はぼんやりと目をひらき、口がかわくかのように唇を甜めていた。
「もう大丈夫だ」と、ホームズ医師が、生々と言って立ち上がった。「醒めた。よう、警視、気分はどうですか」
警視の最初の一|言《こと》は「畜生」だった。
*
三分後には、警視は肘掛け椅子にかけて、手で顔を覆うていた。ちょっと吐き気がする他は大して気分が悪くもなかった。
「いったいどうしたんだ」と、とぎれとぎれに「まんまと一杯くわされたぞ。この男を死なせたについては、わしに二重の責任がある……畜生め……古い手にひっかかるなんて。灯りを消すのを忘れて、頭を外へ突き出したんだ。当然、外の暗い廊下で待ち伏せていた奴にとっては、しめ子のうさぎだ。誰かしらんが――待ち伏せとった。わしが出て行くのは、ゼーヴィアが正気づいて、あんたを呼びに行くときだけだと、心得とったんだな、先生。だから奴は――女かもしれん――子供かもしれん、何者か知れんが、奴はわしの鼻と口に濡れた布を押しつけ、片手でのどをしめつけた。布にはクロロホルムを浸ませてあったので、わしは手も足も出ず、組みつくひまもなかったんだ。すぐ意識を失ったわけじゃないが、力が抜けて――もうろうとして――拳銃を落としたのが分かったが、それから……」
「濡れた布《きれ》を探したって意味ありませんよ」と、エラリーが落ち着いて「使った奴は、今頃は下水管の中にでも始末しちまってるでしょうよ。研究室にクロロホルムがありますか、先生」
「むろんあります。今日は、食事が少なかったから、よかったですね。腹いっぱいだったら――」と、青年は、頭をふり向けて、ベッドを見た。
クイーン父子は、ものも言わずに目を見張った。老人の目には、ひどい恐怖の色が浮かんだ。エラリーは力づけるように父の肩をつかんだ。
「ふーん」と、ホームズ医師が、死人のめちゃめちゃな顎やひきつれた顔を見て、つぶやくように「毒殺だな」と、うつむきこんで、少し開いている口の匂いを嗅ぎ「まさに、そうだ」と、あたりを見まわして、テーブルの上の|びん《ヽヽ》を見つけて、つまみ上げた。
「味をみました」と、エラリーが、だるそうに「酸っぱくて、舌がひりひりしました」
「なんと!」と、ホームズが大声で「たっぷり甜めなかっただろうね。だって、こりゃ怖しい腐食性の毒薬だぜ。蓚酸《しゅうさん》水溶液だ」
「用心しましたよ。それも研究室から持ち出したんでしょうか」
ホームズ医師はうんとうなずき、また死体の方を向いた。それから、ぴんと立って、考え深い目で「死後一時間ぐらいですね。口をこじ開けて、蓚酸液をのどに流しこんだんです。頬と顎に、つかんだ指の跡が見えるでしょう。かわいそうに。死ぬのは非常に苦しかったでしょうよ」
「引出しからカードを一組、とり出せたらしいですね。そして、一枚の札を二つに裂いています。毒をのまされて、のました奴が去ってからでしょうがね」
「そう、犯人は相手が必ず死ぬと知っていたはずです。蓚酸は一時間か、時にはそれ以内で命とりになるものです。この男はすっかり衰弱していたから助かりようがありませんよ」と、ホームズ医師は床にちらばっているカードを妙な目で見て「またしても――」
「またか」
警視は立って、ベッドに歩みよった。
*
エラリーはひとり部屋を出て、そっと廊下に立ち、あたりを調べた。この家の誰かが、茨のベッドに伏して、待ちに待つほか手がなくて、のたうちまわっているのだ。蛮勇をふるって、音もなく各部屋へ押し込み、寝ている奴の顔に、ふいに強い光を当ててやれればいいと思った。しかし、女たちは……エラリーは思慮深く口をすぼめた。
立っている場所の向かいのドアはアン・フォレストの部屋につづくのを、エラリーは気付いた。そして、その娘が、警視の襲われたことも、人殺しの行動も、逃亡も、そのあとのごたごたも、一切耳にしていないらしい事実を、ひそかにあやしんだ。ちょっとためらってから、すたすたと廊下を横切り、右の耳をドアに押しつけた。何も聞こえなかった。そこで、ノブをにぎり、静かに静かに動かなくなるまでまわした。そして押した。驚いたことにはドアは開かなかった。フォレスト嬢が内から錠を下ろしているのだ。
「はて、いったいどうしてそんなことをするんだ」と、エラリーは爪さき立って廊下を隣の部屋に向かいながら考えた。「明らかに護身用だ。何から身を守るのだろう。死を招く見えざる手からか」と、ひとりでくすくす笑いながら「畜生め、いまいましい夜のせいでこの騒ぎだ。フォレストには予感があったのかな。それとも、ただ用心のためにドアに錠をおろしたのかな。チェッ、僕はフォレストの半分も用心していなかったんだ」
娘の部屋の隣にはカローの双子がいた。少なくとも、そのふたりは病的な恐怖に脅かされてはいなかった。手をかけると、ドアはすぐ開いたので、忍び込んで、きき耳をたてた。ふたりの規則正しい呼吸は、なんの乱れもなかった。エラリーは、また忍び出て、廊下を渡って行った。
双子の部屋のドアのま向かいは、家政婦のホイアリーが、スミスと名乗るでぶ紳士に割り当てた部屋のドアだった。エラリーは躊躇《ちゅうちょ》なく、音も立てずにはいり、ドアのそばの電灯のスイッチに指がかかるところまで忍び寄り、闇の中から象のような鼾《いびき》がきこえてくるあたりに目をこらして、いきなり、ぱっと灯をつけた。部屋中がさっと目にはいり、ベッドにころがっているスミスの山のような姿が、パジャマの上衣のボタンをはずして、嵐のような呼吸のたびに、不健康そうな桃色の肉のかたまりを上がり下がりさせているのが見えた。
男はすぐ目をひらき、びっくりしていたが、隙はなかった。あの大きな図体からはとても信じられないような速さでさっと腕を振り上げ、どうやら、なぐられるか、射たれるか、何か命にかかわるような攻撃をうけるのを、半ば予期しているらしかった。
「クイーンだよ」と、エラリーがつぶやくと、大きな太い腕が、どさりと下りた。スミスは蛙みたいな目をまぶしそうにぱちくりした。「ちょいとご機嫌伺いでね、君。よく眠れたかね」
「ふーん」と、スミスはあきれて目を見張った。
「さあ、さあ、ねぼけ目《まなこ》をこすったりこすったり、そして起きるんだ――そのう――夢のねぐらで、うなってないで」と、エラリーは部屋の細部を見まわした。ここには、前には一度も、はいったことがなかった。いや、ここもゼーヴィアの部屋と同じように、他にはドアが一つしかなく、しかもそれは、例によって洗面所につづいているのが見てとれた。
「どうしたってんだ」と、スミスは坐り直して、しゃがれ声で「なにがあったんだね」
「また仲間のひとりが神のお召しを受けてね」と、エラリーがまじめな顔で「殺し屋が流行になったらしい」
大きな顎がだらりと垂れた。「だ、だれかがまた、や、やられた――」
「ゼーヴィア君だ」と、エラリーはノブに手をかけて「部屋着を着て、次のドアへ行くんだ。警視とホームズ先生が、そこにいるから。あとでまた会おう」
エラリーは、でぶ助が後ればせにふるえ上がって、ぽかんと口をあけているのを後にして、すばやく部屋を出た。
エラリーはスミスの隣の部屋のドアを無視して、廊下をまた渡って行った。それが空き部屋なのを知っていた。カロー夫人の部屋のドアをさわってみた。すぐ開いた。ちょっと迷ってから、肩をすくめて、中にはいった。
すぐに|しまった《ヽヽヽヽ》と思った。規則正しい呼吸音もきこえず、全然、息の音がしないのだ。妙だ。ワシントンから来た貴婦人が午前三時に、ベッドから離れているなんてことがあるだろうか。だが、夫人の留守の謎で心を占められながらも、なお、|しまった《ヽヽヽヽ》という気持が頭にひらめいた。夫人は留守ではなかった。夫人は起きて、長椅子の足元に坐り、息をつめ、バルコニーの窓から差し込むほのかな月の光に目を輝かせていた。
エラリーの足が家具につまずき、夫人は叫び声をあげた――甲高い叫び声で、エラリーの脳天の毛をさかだて、背骨に氷を流したようにぞっとさせた。
「やめて下さい」と、ささやいて、前へ出た。「カロー夫人、エラリー・クイーンです。どうぞ、やめて下さい」
夫人は長椅子からとびのいた。そのとき、エラリーはスイッチを見つけて、灯りをつけた。みると夫人は奥の壁を背にして、ちぢこまり、恐怖で目を光らせ、ネグリジェを、必死にかき合わせていた。
目の色が落ちついて来た。夫人は、すらりとしたからだに、いっそう、ネグリジェをかき合わせて「わたくしの寝室で何をしていらっしゃるんですか、クイーンさま」と、きびしく言った。
エラリーはまっ赤になって「ああ――ごもっともなお言葉です。悲鳴をあげられたのも無理はありません。……ですが、こんな早朝に、起きて、何をしておられたのですか」
夫人はこわばる口で「さっぱり分かりませんわ、クイーンさま……息苦しくて、眠られなかったのよ。でも、あなたは、まだ――」
エラリーは、ばかげているような気がして、眉をしかめてドアの方を向いた。「おや、誰かが、あなたを助けに来るようですよ。実は、奥さんに、お報らせすることがあって――」
「どうした? 誰の悲鳴だ」と、警視が戸口から、ぴしりと言った。そして、はいって来て、じろりと、エラリーからカロー夫人へ目を移した。双子が、中扉から、二つの首を突き出してのぞいた。ホームズ医師、フォレスト嬢、スミス、ゼーヴィア夫人、『骸骨』、家政婦の面々が――それぞれ妙な恰好で――廊下の戸口にむらがり、警視の肩越しに首をのばしていた。
エラリーは冷汗の額をぬぐい、弱々しく笑って「まったく僕の失策です。カロー夫人の部屋に忍びこんで――けしからん考えなど、もうとうなかったんですよ、誓います。――それで夫人が、おびえて、あんなどえらい悲鳴をあげられたわけで、無理もありません。夫人はきっと、ルクレチアに対してタルキヌスがみだらなふるまいをしたように僕がするものと、勘違いされたのでしょうよ」〔ルクレチアはタルキヌスに犯されて自殺したギリシアの節婦〕
みんなが非難の目を向けたので、エラリーは、また赤くなったが、今度は怒っていたのだ。
「クイーンさん」と、ゼーヴィア夫人が冷たい声で「紳士とばかりお見受けしていましたのに、何というはしたない行動をなさるんですの」
「ねえ、いいですか、皆さん」と、エラリーがたまりかねて「皆さんには全く分かっていないんです。いやはや。僕は――」
フォレスト嬢がすばやく「もちろんよ。しっかりなさいよ、マリー……あなた方、あなたも警視さんも、ちゃんと服を着ていらっしゃるのね、クイーンさん。何が――何があったんですの」
「ちょっと待った」と、警視がどなった。「みんなが起きた以上、話しても差しつかえあるまい。それに、フォレストさんが言う通り、せがれの道心を疑って、大事な事実をすっかりごまかすわけにはいかん。せがれは時々、ばかな真似をするが、それほどばかじゃない。せがれは話そうとしておったのです、カロー夫人――そのとき、あなたが悲鳴をあげた――つまり、また襲撃があったんですぞ」
「襲撃!」
「その通り」
「ひ――ひと殺しですか」
「さよう、あの男は、たしかに死んどる」
一同の頭がゆっくり動き、もの問いたげな様子にかわり、いっせいに互いの顔をさぐるようだった。……
「マークですか」と、ゼーヴィア夫人が陰気な声で訊いた。
「さよう、マーク君」と、警視が、じろりと睨みまわして「毒を盛られて、宵のうちに話しかけた話をする前に、口をふさがれてしまった。この事件でわしの身にふりかかった、ちょっとしたごたごたは、話したくないが、まあ、諸君も知りたいだろうから話すが、その悪党はわしにクロロホルムを嗅がせおった。さよう、ゼーヴィア君は死にましたぞ」
「マークが死んだ」と、ゼーヴィア夫人は、前と同じ陰気なだみ声でくり返し、急に、両手で顔をかくして、すすり泣き始めた。
緊張で青ざめたカロー夫人は、仕切りのドアのところへ行き、子供たちの肩のあたりに手を当てた。
*
その晩は誰も眠れなかった。皆は、自分の寝室に戻りたがらないようだった。そして、おびえた動物の集団本能でそのままよりかたまって、夜のもの音の一つ一つに、びくびくしていた。
いささか残忍好みだが、エラリーは無理やりに、ひとりずつ、死人の部屋に連れていって、死体を検分させた。そして、じっくりと、皆を観察した。しかし、誰かが芝居をしていたにしても、そのごまかしを見破ることはできなかった。連中はひどくおびえた人間の集まりにすぎなかった。家政婦のホイアリーは演技中に失神して、水と気つけ薬で、正気づかせねばならなかった。双子は、手のつけられない子供みたいに混乱してしまったので、その実験に加わることを許された。
やがて実験が終り、死んだ弁護士は研究室の冷蔵庫に移されて、兄のお仲間入りをした。そして、腹だたしい暁《あかつき》が来た。
クイーン父子は、死人の部屋に立って、憂鬱そうに、乱れた空のベッドを眺めていた。
「おい、エル」と、警視は、ため息をして「どうやら手を引いた方がいいらしいな。荷が勝ちすぎる」
「そりゃ、僕らが盲《めくら》だからです」と、エラリーが、拳をにぎりしめて、大声で「証拠は全部揃っています。ゼーヴィアの手掛りは……おお、畜生、よく考えさえすればいいだけですよ。それに、僕の頭はうまく回転していますよ」
「一つだけは」と、老紳士が不服そうに「ありがたいと思ってもよかろうな。あいつが最後だ。あいつは兄殺しの背後の直接の動機には、まき込まれておらん。そりゃ確かだ。人殺しが誰かしゃべらんように、片付けられたのだ。ところで、どうしてあいつには犯人が分かったんだろうな」
エラリーは黙想からさめて「そうです。それが大事な点だと思いますよ。どうして、あの男は知ったのか……ところで、あの男が、最初に、なぜ兄嫁に濡れ衣を着せようとしたかを、考えてみたことがありますか」
「次々とごたごたが重なったんでな――」
「簡単なことですよ。兄のジョン・ゼーヴィアが死ぬと、ゼーヴィア夫人が相続人になります。ところが、ゼーヴィア夫人は一族の最後のひとりで、子供もない。もし夫人に万一のことがあれば、誰が財産を手に入れますか」
「ゼーヴィアだ」と、警視は目を見張って叫んだ。
「そうです。あの罠は、自分の手を血まみれにしないで、相当の財産をつかむために、夫人を片づける、うまい手だったんです」
「そうか、抜かったな」と、警視は首を振り「それで、わしは思うのだが――」
「どう思うんですか」
「あのふたりには、何か関係がある」と、警視は眉をしかめて「ゼーヴィアの細君が自分の犯しもしない罪の非難をあえて受けようとした理由は、マーク・ゼーヴィアをおいては、他に誰も考えられん。細君はあの男がやったと考え、しかも、あの男と火遊びをしていたとすれば……だが、それじゃ、あの男が細君に罠をかけたのと話が合わんな」
「よくあることですよ」と、エラリーがむぞうさに「違っているように見えたからって、あっさり見捨てるもんじゃありませんよ。義弟と火遊びするような熱っぽい女は、たいてい、非常識なことをやらかすもんですよ。ともかく、あの女は半気違いです。だが、そんなことはどうでもいいんだ」と、ナイト・テーブルに近より、ゼーヴィアが死んだ手に持っていたダイヤのネイヴ〔ジャック〕の裂かれた半ぺらを、つまみ上げた。「僕を悩ますのは、このちっぽけな紙屑ですよ。僕には、ゼーヴィアがカードの手掛りを残そうと思いついた理由が分かりますよ。あの男がカードの束をとり出したその同じ引出しに、紙も鉛筆もあったのにね……」
「紙も鉛筆もあったのか」
「ありましたとも」と、エラリーはだるそうに手を振って「だが、あの男には前例がありましたからね。法律に明るい頭で――あの男は、頭の切れる人間でした。それは疑う余地もありませんよ――あの男は命がたすかると見てとったのです。いいですか、人殺しの名前は、失神する前に言いかけていたんです。正気にもどったときにも、その名前は唇の先に、まだとまって待っていた。そして、カードのことを思い出した。頭ははっきりしていた。そこへ犯人がやって来た。手も足も出ず、無理やりに|びん《ヽヽ》から蓚酸《しゅうさん》を飲まされた。カードはまだおぼえていた。……おお、あんなことをしたのも不思議じゃありませんね」
「気にくわんようだな」と、警視がゆっくり言った。
「え! とんでもない」
エラリーは窓の一つに近より、赤々と明けて行く外を眺めた。警視もだまって一緒になり、右手を窓にかけて、いかにも疲れて、しょげたように、もたれかかった。
「火事は、見たとこ、ますますひどくなるようだな」と、つぶやき「くそ、頭が、さっぱり利かん。火事が始終、気にかかってな。あの凄い熱を感じないか。……そこへ、犯罪とくる……重ねてな。ゼーヴィアの奴、あのダイヤモンドのジャックで、いったい何を言おうとしたのかな」
エラリーは、肩をすくめて、窓から半分はなれかけた。そして、固くなって目をむき、窓にかけている警視の手を見つめた。
「今度は、なんだ」と、警視は自分の手を見ながら、自信なさそうに言った。それから、警視も固くなった。そして、ふたりは、しばらくの間、皺がたるみ、小さくて血管の透いてみえる華奢《きゃしゃ》な警視の手を、指が一本なくなりでもしたかのように見つめていた。
「わしの指環だ」と、警視は息をのんで「なくなった」
十六 ダイヤのネイヴ〔ジャック〕
「なんと、そりゃあ」と、エラリーがゆっくり「大変だ。いつなくなったんですか」と言い、本能的に自分の手を見た。手にはつい最近、フィレンツェで、わずか数リラで掘り出した中世紀細工の非常に珍しく美しい指環が光っていた。
「なくしたって」と、警視は両手をあげて「わしはなくしやせん、エル。昨夜も、今朝も、たしかにあった。そうだ、思い出したぞ。十二時半に懐中時計を見たとき、たしかに薬指にはまっているのを見た」
「さあ、よく考えてみましょう」と、エラリーが顔をしかめて「昨夜、僕が、ひとやすみするので、お父さんと別れたときには、まだ指にはまっていたのを覚えています。それが、二時に床に倒れているのを発見したときには、見当たりませんでしたよ」と、唇をきゅっと閉じて「畜生、盗まれたんだな」
「そうさ」と、警視が自嘲するように「それにきまっとる。たしかに盗まれたんだ。わしを眠らせて、ゼーヴィアを片付けた、あの糞泥棒めが盗みおったんだ」
「たしかにね。まあ、そんなに興奮しないで下さいよ」と、エラリーは、せかせかと往ったり来たりしていたが「今までの出来事の中で、お父さんの指環が盗まれた一件が、一番僕の興味をひきますね。実に危い綱渡りだな。しかも、何のためだろう。たかが十ドルもしない、旧式なかまぼこ型の、つまらん結婚指環で、質屋に持っていってもメキシコ・ドルで一ドルを貸しそうもないものをね」
「ともかく」と、警視はきっぱりと「なくなったんだ。畜生、盗んだろくでなしに、くらいついてやりたいぞ。あれは、お前のお母さんのものだったんだ、エル。千ドルくれたってわしは手放しやせん」と、警視はドアの方へ行きかけた。
「ちょっと」と、エラリーが、その腕をとって「どこへ行くつもりなんです」
「どいつもこいつも、すっ裸にして捜してやる」
「とんでもない、お父さん。いいですか」と、エラリーが熱をこめて「みんなぶちこわしちゃいますよ。言っときますが、指環は――この事件の|かなめ《ヽヽヽ》なんですよ。理由はつかめないが、前にも値打ちのない指環が盗まれているのを考え合わせるとね」
「それで?」と、警視は眉をつり上げた。
「辻褄《つじつま》が合います。見当はついていたんです。でも、もう少し待って下さい。人間や場所を探しても、何にも得るところはありませんよ。泥棒は、たしかに、盗品を身につけているほど馬鹿じゃないし、もしこの家のどこかから見つけ出したところで、隠した奴を突きとめられないでしょう。どうか、待って下さい。どっち道、しばらくの間ですよ」
「おお、いいとも。だが、わしは決して忘れやせんぞ。それに、わしらがここを立ち去るまでに――そんなことになればの話だが――わしは、きっと見付け出すか、盗んだわけを突きとめてやる」
もしも警視に、一寸先が見える力があったら、そんな自信たっぷりな口は利かなかっただろう。
*
火事が容赦なく燃えひろがって来ると、『矢じり荘』と、そこに取り残された無援の連中の上に、不気味な静寂が下りて来た。皆は、肉体的にも精神的にも疲れはてて、むちゃな気持になっていた。みんなの中に、血まみれな姿の見えぬ人殺しがいるという脅威さえ、空と森から、はいよってくる、より大きな脅威を打ち消すことはできなかった。もはや、その脅威をまぎらわせる方法は何も講じられなかった。女たちはヒステリーをむき出しにし、男たちは青ざめて心配していた。日が闌《た》けるにつれて、暑さは耐えきれなくなった。空気は漂う灰に満たされて、皆の皮膚や衣服を汚し、息苦しくさせた。逃げ出せる避難所は、全然なかった。家の中は蔭になって、吹きさらしの山頂よりも、やや涼しくはあったが、微風もなく、空気がすっかりよどんでいた。それでも、中のいく人かは――特に女たちだが――ひとりになって、各自の洗面所でシャワーを浴び、一時凌ぎをしに行こうとはあえてしなかった。みんな、ひとりになるのがこわかったのだ――お互い同士が、沈黙が、火事が、こわかったのだ。
楽しげな会話など、まったく消えてしまった。各々の恐怖心にかられて、寄り集まってはいるものの、ただ坐って互いに睨み合い、深い猜疑心《さいぎしん》をまる出しにしているだけだった。神経がむき出しになっていた。警視はスミスといがみ合っていたし、フォレスト嬢は、全く黙り込んでしまったホームズ医師に、かみついていたし、ゼーヴィア夫人は、しょげて、うろつきまわるカローの双子に小言をいっていた。カロー夫人が双子の弁護にかけつけて、ふたりの女は、いやみを言い合った。……怖しく、悪夢のようだった。今はもう、濃い煙が、絶え間なく押しよせて来て、みんなは、特に皮肉な悪魔の手で、永遠の地獄にとじこめられ、せめさいなまれる人間みたいだった。
もう、パンを焼く小麦粉も尽きていた。皆は、食堂の共同テーブルに集まり、にがい顔をして、食欲もなく、相変わらずの魚の罐詰で栄養をつけていた。みんなは、時々、希望の失せた目を、クイーン父子に向けた。互いに冷淡なくせに、もし救いがくるものなら、クイーン父子の手でもたらされるだろうと、思っているらしかった。しかし、クイーン父子はただ黙って食べていた。何も言わないのは、まるっきり何も言うことがないからだった。
昼食のあと、一同は何をしていいか分からないようだった。雑誌を取り上げ、パラパラとページをめくり、読む気もない目で眺めるだけだった。連中はただうろつきまわり、全然、一言も声を出さなかった。何か妙な成り行きで、みんなは、マーク・ゼーヴィア殺しの方が、家の主《あるじ》殺しよりも悲劇的に見ているようだった。あの、のっぽの弁護士は個性が強くて、むっつりして、無口で、むずかしい顔をして、あの男が一枚加わると、いつも、部屋の空気が陽電気をおびたようにぴりぴりしたが、今や、その男も仲間にいないとなると、いないことをひしひしと感じ、そのために沈黙が苦痛になるのだった。
そして、一同は絶えず咳きこみ、目がひりひり痛み、服の下はじめじめしていた。
警視はもはや我慢がなりかねて「いいかね諸君」と、いきなり大声で、みんなをおどろかせ、縮み上がらせた。「こんなことは続けておれん。みんな気が変になる。なぜ君らは、二階へ行って、シャワーでも浴びるか、玉はじきでもなんでもして遊ばんのかね」と、赤い顔して、手を振りながら「なぜ、舌を抜かれた牛どものように、むっつりと歩きまわるのを止めんのだ。さあ、さあ、みんな、行ったり行ったり」
ホームズ医師が白くなるほど握りしめた指の節を甜めて「婦人方は怖がっているんですよ、警視」
「怖い。何が怖いんだね」
「そりゃ、ひとりになるのが」
「ふーん。この中には地獄から鬼が出て来ても怖くない人間がいるがな」と、言い、それから老紳士はものやわらかに「まあいい、分からん話でもないようだな。お望みなら」と、また皮肉まじりの声で「みなさんを、ひとりずつお部屋まで、お送りしてもいいですぞ」
「おお、ご冗談はおやめになって、警視さま」と、カロー夫人が、うとましそうに「そんな――そんなこと、ただ神経をいらだたせるだけですわ」
「そうよ。警視さまのおっしゃることが正しいと思いますわ」と、フォレスト嬢が、半年前の「ヴァニティ・フェア」〔流行雑誌〕を、どさっと床に落として「私は二階へ上がって、冷い山の水を浴びますわ。平気よ――ふたりの人殺しにだって、止めさせやしないわ」
「いい元気だ」と、警視は抜けめなくフォレスト嬢をちらっと見て「みんなを、あんたと同じように、ふるいたたせてくれると、大いに助かるんだがな。今は二十世紀の世の中で、しかも真昼間ですぞ。しかも、みんな目も耳も利くんですぞ。いったい、何がそんなに怖いのかね。そうだろう、諸君」
そんなことで、しばらくすると、クイーン父子だけが残った。
*
ふたりは、途方にくれたみじめなふたり連れのように、背をならべて、ぶらりとテラスに出た。太陽は高く昇り、外の火山岩を照りつけて、かげろうを燃え上がらせていた。慰めのない、荒れはてた光景だった。
「ここも家の中と同じで、われわれはうだってしまうな」と、警視は、ぶつぶつ言いながら、ぐったりと椅子に腰を下ろした。その顔には、うす汚れた汗が流れていた。
エラリーも、そばに腰を下ろして、うなった。
ふたりは、かなり長い間、坐っていた。家の中は、気がめいるほど静まりかえっていた。エラリーは目をとじ、両手をだらりと胸に組み、椅子によりかかって、長々と手足をのばしていた。ふたりとも、できるだけ静かに坐って、骨があぶり上げられる苦痛に、文句もいわずに耐えていた。
陽が西に傾き、だんだん沈むまで、ふたりは身動きもせず坐っていた。警視は、うつらうつらと、寝苦しくまどろみ、時々、ほっとため息をもらした。
エラリーも目は閉じていたが、眠らなかった。その頭がこんなに緊張したことは、それまでになかった。問題は――すでに何十回も心の中で検討ずみだった。隙間がないかを調べ、重要でない枝葉部分、それほどにも思われなかったが、重要かもしれない枝葉部分を、思い起こそうと努力していた。なかなか分かりにくい。最初の殺人については、何かひっかかるものがあった。科学的事実の問題だが、それが、エラリーの思考の表面でゆらゆら浮いていた。とっつかまえて、つなぎとめようとするたびに、そいつはするりとすべって逃げ、やがてまた浮き上がるのだった。それに、また、ダイヤのネイヴの問題もあった……
エラリーは、一発くらったかのように、全身を緊張させて、さっと起き直った。警視も、はっと目をあいた。
「どうした?」と、警視が眠むそうにもぐもぐ言った。
エラリーは椅子からとび立って、じっと立ち、耳を澄して「何かが聞こえたようで……」
おどろいて、老人も立ち上がり「何が聞こえた?」
「居間です」と、エラリーは、すたすたとテラスを渡って、向かいのフランス窓に近づいた。
居間の方から、つかみ合いの音がきこえたので、ふたりははっとして立ちどまった。フランス窓の一つから、家政婦のホイアリーがとび出して来た。えびのようにまっ赤になり、髪が濡れて乱れ、雑巾を持っていた。そして、はあはあと息をしていた。
ふたりを見つけると立ちどまって、妙な手つきで招き「クイーン警視さま、クイーンさま。こちらへいらして下さい――変なことがあるんです……」
ふたりは手近かな窓に駆けよって室内を覗いたが、中はがらんとしていた。
「何が妙なんだね」と、エラリーが鋭く訊いた。
家政婦は汚れた手を胸にあてて「わ、わたくしは、誰かが何かしている音をききました……」
「おい、おい」と、警視がじりじりして「どうしたってんだ、ホイアリー」
「それがです」と、家政婦はささやくように「何もすることがないものですから、つまりお炊事なんかを、それに少し――いらいらするものですから、階下のお部屋を少し片づけようと思ったんです。なにしろ、取りちらしたままでございますから、あのことで――あの……」
「うん、それで」
「ともかく、みんなひどく灰だらけですので、一通り雑巾がけをして、少しはさっぱりしようと思ったのです」と、家政婦は、肩ごしに、おびえた目で、がらんとした部屋をちらっと見ながら「食堂からとりかかりまして、ちょうど、半分ほど済ませましたときに、妙な音がしましたんです――この居間から」
「音がしたって」と、エラリーが眉をしかめて「僕らには、何も聞こえなかったよ」
「そんなに高くない音でした。釘を打つぐらいの音で何の音か分かりませんが。ともかく、どなたかが、雑誌か何かをとりに、居間に戻っていらっしゃったのだろうと思いました。それで、お掃除をつづけておりますうちに、ふと思ったのです。もしかすると――ほかの音かもしれないと。そこで、爪先立ちでドアへ行き、できるだけそっと開けかけました――」
「なかなか勇気があるね、ホイアリーさん」
ホイアリーは、顔を赤らめて「きっと、ドアを開けるので少し音をたてたのでしょう。それで、少し開けて覗いてみると……何ごともないじゃございませんか。音におどろいて――誰か分かりませんが――逃げたのです。殿方か――ご婦人か――おお、私はすっかり、こんがらがってしまいまして」
「あんたが言うのは、誰かが、あんたの来るのを聞きつけて、廊下の窓から逃げ出した。そうだね」と、警視がぴしりと言って「そうか、それで全部かね」
「いいえ、私は、はいって行きました」と、ホイアリーが口ごもりながら「そして、ほとんどすぐ目にはいりましたのは……ごらんに入れますわ」
家政婦は重そうに足をひきずって居間に戻って行った。クイーン父子は眉を吊り上げて後につづいた。
家政婦は大きな部屋を、暖炉の方へ、ふたりをみちびいて行った。そして、太い人差指をさっと上げて、とがめるように、壁にはめこんだキャビネットの胡桃《くるみ》仕立てに塗ってある金戸《かなど》を指さした。そのキャビネットは、最初の殺しのあった朝、ゼーヴィア博士の机の上で見つけた一組のトランプを安全に保管するために、入れておいたものだった。
頑丈な錠には、引っ掻き傷がついていたし、真下の床には、暖炉用の先のとがった火かき棒が落ちていた。
*
「だれかキャビネットに手をかけたな」と、警視がつぶやいた。「こりゃ、とんだへまをするところだった」
警視は歩みより、金戸の上の掻き傷を、本職の目で調べた。エラリーは火かき棒をとり上げて、しばらく何か考えながら見てから、そばへ放り出した。
「ふーん」と、警視が苦い顔で「まるで、マッチ棒で銀行の金庫の錠をこじ開けようとするようなもんだ。だが、いったいなんだって、そんなことをしたんだろうな。この中にはカードしか何もはいっとらんのに」
「実に妙ですよ」と、エラリーが小声で「実に妙です。お父さん、この小金庫をあけて、中を調べてみるといいでしょうよ」
ホイアリーは、ぽかんと口を開けて、ふたりを見ていた。「あなたのお考えでは――」と、もの問いたげな色を目に浮かべて訊きかけた。
「考えるべきことは、わしらで考える。ホイアリーさん」と、警視がきびしい口調で「目を見張り、耳をそばだてていたのは、お手柄だったが、ホイアリーさん。今度は、もっと、お手柄をたてなければならんよ。口をしっかりしめとくことだ。分かったね」
「おお、分かりました」
「じゃ、ご苦労だった。お掃除にもどりたまえ」
「はい」むっとしたように、食堂のドアを後ろ手に閉めて、家政婦が出て行った。
「さあ、見てみよう」と、老紳士が、鍵束をとり出しながら、どなった。そして、キャビネットの鍵をえらび、金戸を開けた。
エラリーがおどろいて「その鍵を、まだ持っていたんですね」
「むろんまだ持っとるさ」と、警視がエラリーを見つめた。
「すると、そいつが、また、非常に妙な点ですよ。ところで、このキャビネットの鍵は、それ一つだけでしょう」
「心配せんでいい。それは、こないだ、たしかめといた」
「別に心配してもいませんがね。ともかく、中を調べてみましょう」警視が金戸をひろく開けて、ふたりは覗き込んだ。箱の中にはカードの束があるだけで、以前のように、空《から》だった。そして、カードは警視が置いたときのままだった。キャビネットは、警視が最後に錠をかけて以来、明らかに開けられていなかった。
警視はカードを取り出して、エラリーと一緒に調べた。疑いもなく、前のと同じものだった。
「変だな」と、エラリーがつぶやいて「どうも訳が分からないな……最初、カードを調べたときに、何か見落としがあったなんてことが、あるだろうか」
「一つ確かなことがある」と、警視が何か考えながら「わしがカードを収《しま》う場所を訊き、ホイアリーがこのキャビネットと鍵のことを話したときには、わしらはみんな二階にいた。たしか、あの女はこの箱が空《から》だといったと思う。事実空だった。だから、わしがここにカードを収《しま》うことにしたのを、みんなが知っとった。キャビネットには、他に何もないとすると――」
「もちろんですよ。このカードは証拠品です。ゼーヴィア博士殺害の証拠品です。犯人だけがこのカードを追う動機を持つものとみていいですよ。この出来事から二つの推定.がひき出せますよ、お父さん。今すぐ僕が解いてみます。ここに忍び込んで、キャビネットを破ろうとしたのは殺人犯人で、奴がそうした理由は、この一組のカードの中に、われわれが見落としてはいるが、明らかに、ひょっとすると奴にとっては命取りになりかねないものがある。それで破棄したかったんですよ。このいまいましいカードを調べてみましょう」
エラリーはそのカードを父の手からひったくるように取って、小さな丸テーブルの方へ急いで行った。カードをひろげ、表を向けて、どの一枚も、慎重に調べた。しかし、どれからも、はっきりした指紋は出ず、|しるし《ヽヽヽ》らしいものは、見分けのつかない|しみ《ヽヽ》だった。それから、裏返して、カードの裏をよく調べたが、結果はほとんど何も出なかった。
「弱ったな」と、エラリーはつぶやき「何かあるはずだがな……積極的な証拠の問題でないとすれば、当然、消極的な証拠でなければ――」
「何を、ぶつぶつ言っとるのだ」
エラリーが顔をしかめて「僕は釣りをしてるんです。手掛りはいつも|何かがあること《ヽヽヽヽヽヽヽ》とは限らない。しばしば|何もないこと《ヽヽヽヽヽヽ》が手掛りになることもある。調べてみましょう」と、カードを寄せ集めて、きれいに山積みにし、それから父の驚いたことには、数えはじめた。
「なんだ、そんなこと――ばかばかしい」と、警視が鼻を鳴らした。
「たしかにね」と、エラリーは忙しく数えながら、低い声で「四十四、四十五、四十六、四十七、四十八――」と、手をとめて目を光らせた。「僕に分かったことが、分かりましたか」と大声で「四十九、五十――これで全部です」
「全部だって」と、警視が、思わず、つられて「一組五十二枚のはずだ。いや、これは五十一枚あるはずだ。スペードの6はお前がとったからな、あの切れっぱしを――」
「そう、そう、カードが一枚、なくなっています」と、エラリーがじりじりして「なあに、なくなったのが何か、すぐ見付けますよ」手早く、エラリーはカードを種類別に分けていった。四つの山をつくり、どの組も一つの種類にして、クラブの山をとってみた。それは、Aからキングまで完全にそろっているのが、すぐに分かった。それを置いて、次にハートを調べた。完全だ。スペードは――6を除いて完全だし、6の半ぺらは二枚とも、二階の服のポケットにおさめてあった。次にダイヤは……
「そうか、そうか、そうか」と、エラリーはカードを見下ろしながら、穏かに「気付くべきだったな。ずっと見張っていながら、カードを数えてみるという、初歩的な用心に思いつかなかったとは、あきれたものだ」
なくなったカードは、ダイヤのネイヴ〔ジャック〕だった。
十七 ネイヴ〔ジャック〕のいきさつ
エラリーはカードを置くと、フランス窓に歩みより、窓かけを全部ひき、急いで部屋を横ぎって廊下のドアを閉じ、食堂のドアへ行って戸締りをたしかめ、数個の電灯をつけてから、テーブルのそばの椅子に腰を下ろした。
「坐って話し合いましょう。見当もつかなかったことが、どっさり分かって来ました」と、足をのばして、たばこをつけ、煙ごしに父を覗いた。
警視も腰を下ろして足を組むと、ぴしりと言った。「わしもそうだ。ありがたいことに、明るみがさして来たぞ。なあ、おい、マーク・ゼーヴィアは、襲われて、無理やり毒をのまされたとき、犯人の手掛りとして、ダイヤのジャックの引き裂いた半ぺらを残した。そして今、ジョン・ゼーヴィアが殺《や》られた時から、ダイヤのジャックがなくなっておったことが分かった――博士が射たれたとき、手にしておったカードの束の中からなくなっているんだ。こりゃ、どういうことになる?」
「まさに、正しい線ですね」と、エラリーが賛成して「僕にいわせると、当然、次の疑問が生じますよ。ゼーヴィア博士の使っていたカードの中のダイヤのジャックが、同時に、ゼーヴィア博士殺しの手掛りだったろうかという点です」
「そんなことは、手ぬるい」と、警視がやりかえした。「手掛りだったろうかなんて。むろん、手掛りだったことが、全体の経過からみて、唯一の論理的解答じゃないか」
「そうは見えますがね。だが」と、エラリーがため息をついて「なにしろ、こんな奇怪凶悪な事件にぶつかると、万事慎重にならざるを得ませんからね。白状すれば、キャビネットから、あのカードの束を盗み出して、あのネイヴがなくなったことを、われわれに発見されないようにしたのなら、そりゃ、たしかに犯人の企みだということが説明されます。犯人すなわちダイヤのジャックと、われわれの方程式が立つのなら、そりゃそれで別に問題もありませんがね」
「それについては、わしにも思案が出て来そうだ」と、老紳士が、うなるように「ほんのいま思いついたんだ。だが、まず、このジャック問題をじっくり考えてみよう。そうすれば、全貌がはっきりしてくる。マーク・ゼーヴィアは、犯人の手掛りとして、ダイヤのジャックを残した。ところが、ダイヤのジャックというものは――ある意味で――前の、兄貴|殺し《ヽヽ》にも登場しとる。というのは、前の殺しで押収したカードの中から、ダイヤのジャックは抜けていたんだからな。もしかすると――わしもお前同様マリアさまのような口ぶりで言えば――ダイヤのジャックという手掛りは、死にかけていたマークが、兄貴の死体を見たときに見た何かから、教えられたものじゃあるまいか」
「なるほど」と、エラリーがゆっくり「つまり、マークがあの晩、書斎を覗いて、ゼーヴィア博士が射殺されているのを発見したとき、マークはダイヤのジャックを博士が握っているのを見た、ということになるんですか」
「そうだ」
「ふーん。それは情況的には符合しますね。と同時に、マーク自身が犯人に襲われてダイヤのジャックを残したのは、犯人の顔を見て、そいつの素姓を知らせる手掛りとして、兄貴がやったのと同じように、同じ|しるし《ヽヽヽ》のカードを残すことを思いついたのかもしれませんね」と、首を振り「いや、そんな偶然の暗合はありえないな、ことにあの暗闇で。……お父さんの方が正しいですよ。マークは、兄貴がダイヤのジャックを持っていたので、同じものを残したのです。むろん、犯人は同一人物で、マークは兄貴がどうやったかを知っていたので、同じ手を使ったにすぎません。そうです、マークはジョン・ゼーヴィアが死んでいるのを見つけたとき、同時に、ジョン・ゼーヴィァの手にダイヤのジャックがあるのを見つけたと言っていいかもしれませんね。その時、マークは手掛りをすり変えた、あのジャックの札を取りあげて――ゼーヴィア夫人を故意におとし入れるために、机の上のひとり遊びのカードの中にあったスペードの6と取り替えたのです」
「それでお前の演説は終わったか」と、警視はにやにやしながら、急に張り切って「じゃ、わしが|ぶつ《ヽヽ》ぞ。奴はなぜ兄貴の手からダイヤのジャックを取りあげて、スペードの6にしたのか。いいか、分かっとる通り奴の動機は兄嫁を厄介払いして――」
「待って下さい」と、エラリーが小声で「そう先走っちゃいけませんよ。何かを忘れてますよ。二つのことです。一つは確認です――いったい奴が、罠をかけるのに、なぜスペードの6を択んだのかという点は、説明がつきました。また兄貴が手にカードを握っていたのだから、カードの手がかりを残すことを、すぐ思いついたという点もはっきりしました。残るいま一つの疑問は、手がかりのカードを、ダイヤのネイヴ〔ジャック〕からスペードの6にすりかえたときに、なぜ、マークは、あっさりと、そのネイヴを元の場所――机の上のカードの中――に戻しておかなかったのかという点です」
「それだが――奴が、あの呪われたカードを取り上げたのは事実だ――見つからなかったんだから、そうにちがいない。なぜ、元に返しておかなかったのかな」
「辻褄の合う理由はただ一つですよ。マークは死んだ兄貴の手から取り上げて、机の上にちらばっているカードの中に放り込んだり、カードの山にすべり込ませたにしても」と、エラリーが落ちついて答えた。「それが手がかりとして使われたという事実を隠せなかったからに違いありませんよ」
「また、謎みたいなことを言いおる。意味ないじゃないか。どうしてそんなことが言える」
エラリーは考え込むように煙をはいた。「そりゃ完全に説明がつきます。マークは、自分の場合はダイヤのジャックを――引き裂いて残しました」警視がはっとした。「しかし、それで話は合いませんかね。つまり、マークが死んだ兄貴の手の中でみつけたのは、ジャックの半ぺらだけだったんですよ。見つけたのが引き裂かれたジャックだったとすれば、明らかに、マークはそれを犯罪現場に残しておくわけにはいかなかった。その裂かれている点が、すぐに人の注意をひくでしょうからね。特にマークは、代わりに、引き裂いた6を残しておこうとしていたんですから。論理的に言って、マークが兄貴の手の中でみつけたのは、引き裂かれたジャックだったにちがいなく、それが、あの場合、持ち去ったことに対する、唯一の納得できる説明だと僕は主張しますよ。持ち去って、破棄したんでしょうよ。まさかカードを数えようと思いつく者なんかひとりもあるまいと信じてね。……」と、エラリーは眉をしかめて「事実、犯人がこの部屋のキャビネットから、カードを盗もうとしさえしなければ、誰ひとり、数えようとなんか思いつかなかったでしょうよ」
「うん、なかなかいい」と、警視がきっぱり言って「ところで、その先だが、わしは神の摂理など問題にせん。お前の解釈は達見だったぞ、エル。……重要な点は――スペードの6が、罠だったことはマーク・ゼーヴィアの自供で分かった――この問題で残るただ一つの重要な点は、二つの犯罪の場合いずれも、被害者が、犯人の手掛りとして、破いたダイヤのジャックを残したことが分かったことだ。むろん、手掛りが同一なら、犯人も同一人だ。この件でただ一つ妙なことがある。半ぺらのジャックを兄貴の殺された現場から持ち去ることで、マークは犯人を庇《かば》っとる――罪を真犯人からゼーヴィアの細君に移して、おっかぶせとる。それから自分が殺される段になると、居直って、最初の事件のとき、嫌疑から救ってやった奴の罪を問うている。どうも少し話が合わん」
「そんなことはありませんよ。マーク・ゼーヴィアは」と、エラリーがむぞうさに「悪党としては自己犠牲型でもロビンフッド型でもないようですからね。あいつは、ただ、古くさくてありふれた打算的な動機から、ゼーヴィア夫人に罪をなすりつけようとしたんです。明らかに、手掛りのジャックの札を現場に残してはおけなかった。かけた罠がうまくいくことを望んでいたんです。言いかえれば、ダイヤのジャックを『取り込んだ』のは、人間としての誠実さや愛情からではなく、純粋に金銭的な理由からなんです。ところが、自分の最期《いまわ》の時となると、話はちがって来ますよ……他にもわけがありますよ。お父さんが兄貴殺しときめつけたとき、マークは冷静さを失って、もう少しで、真犯人の名をばらそうとしました――それは二つのことを示します。つまり、本質的には真犯人を庇ってやろうという切実な望みなどなかった、特に自分の首が危いとなればね。次に、マークには、ジャックが誰を指しているかという問題が解けていたのでしょう。したがって、あとは、マークが兄貴殺しの犯人をどうして知ったかという問題を解くだけですよ。兄貴の手にあった、半ぺらのジャックが犯人を教えたんです」
「それでかたがつくな」と、警視がつぶやくように「つまり、悪い情報をしゃべらせないようにするために、犯人はマークを片付けたんだ」と、立って室内をぐるりと歩きまわり「そうだ。すべてあのダイヤのジャックに結びつく。ジョンとマークが、あのジャックの半ぺらを残したときに、誰のことを考えていたか、そいつが分かれば、犯人がつかまるわけだ。そいつが分かればなア――」
「分かりますよ」
「分かる?」
「僕は昨夜から、古なじみの脳味噌《のうみそ》に残業をさせて、まる十二時間もこつこつ働かせたんですよ」と、エラリーがため息をついて「そうです、問題がそれだけなら、事件は解決です。腰を下ろして下さいよ、お父さん、検察会議を始めますからね。警告しておきますが――かつて聞いたこともないほど、奇想天外な事ですよ。あのスペードの6よりも、ずっととっぴなことです。そして、その解決には、もっともっと、みがきをかける必要がありますよ。まあ、腰を下ろして下さい」
警視は大急ぎで腰を下ろした。
*
一時間の後、戸外は、赤黒い夜がぎらぎらしていた。意気銷沈した連中がゲーム室に集まった。警視が控え室の戸口に立って、黙りこくっている連中をひとりずつ呼び入れた。みんなは、おずおずと、ものうげに、はいり、警視のきびしい顔を、情けなさそうに、あきらめ切った様子で、眺めていた。警視の顔からは救いが求められないので、みんなはエラリーの顔をうかがったが、エラリーは窓のきわに立って、テラスの先の夜の闇を眺めていた。
「さあ、これでみんなそろった」と、警視は顔色と同じきびしい口調で「腰かけて、足を休めなさい。これが、今度の殺人事件についての、最後の集会になることと思うが、この捜査は実にさんざんだった。実のところ、もう、あきあきして、投げ出すところだった。しかし、やっと事件を解決しましたぞ」
「解決したって?」と、一同は息をのんだ。
「解決というと」と、ホームズ医師が低い声で「つまり、分かったんですか、誰が――」
「警視さま」と、ゼーヴィア夫人が低い声で「まさか見つかったのではないでしょう――本当の犯人が」
カロー夫人は、じっと坐っていたし、双子は興奮したように互いに顔を見合わせていた。他の連中は呼吸をとめた。
「君は英語が分からんのかね」と、警視がぴしりと言った。「解決したと言っとるんだ。さあ始めろ、エル。この集まりは、お前にまかせる」
一同は目を上げてエラリーの背中を見た。エラリーは、ゆっくり向きを変えた。
「カローさん」と、いきなり「あなたは、フランスのお生まれでしょう」
「わたくしが。フランス人」と、夫人が迷惑そうに、同じ言葉を返した。
「そうですよ」
「そりゃ――もちろんですわ、クイーンさま」
「すると、フランス語は完全にお分かりですね」
夫人はふるえていたが、弱々しく笑おうとした。「でも――まあね。わたくしは、変則な言葉と、パリの俗語の中で育ちましたのよ」
「ふーん」と、エラリーが進み出て、ブリッジ・テーブルの前で立ちどまった。「これからすぐ説明にかかりましょう」と、さりげなく「僕がお話しようとしているのは、いわゆる、『知能』犯罪と呼ばれるものの歴史の中で、おそらく、最も奇想天外な手掛りの解明といってもいいものでしょう。信じられないほど、巧妙なものです。普通の観察の領域や、『不思議の国のアリス』から何かを引き出すというような単純な推理をはるかに越えたものです。しかも――事実として存在するので、無視するわけにはいきません。どうぞ、僕の言うことを、しっかり注意して聞いて下さい」
この驚くべき前置きを、みんなは、しんとして聞いていた。みんなの顔には、深い混乱と受けとれるような色があらわだった。
「みなさんもご承知のように」と、エラリーが落ちつき払って「マーク・ゼーヴィアの死体を発見したとき、同時に発見したのは、あの男が手に――利き手に、偶然にも――破れたカードを握っていたことです。その証拠品はダイヤのネイヴ〔ジャック〕の半ぺらで、疑いもなく、ゼーヴィア殺しの犯人の素姓を割り出す情報を与えるつもりだったのでしょう。ところであなた方が知らないこと――少なくとも大部分のわれわれが知らないこと――があります。それは、あの晩、マーク・ゼーヴィアが兄の書斎にはいり、兄の死体を発見し、兄嫁ゼーヴィア夫人を、おとしい入れるにせの手掛りとして、死人の手にスペードの6を残そうときめたとき、死人の指には、すでに別のカードが握られていたのです」
「別のカードですって」と、フォレスト嬢が思わず声を出した。
「別のカードです。そのことが、どうして分かったかをあなたに説明する必要を認めませんが、ともかく、マーク・ゼーヴィアが、ゼーヴィア博士の硬直している指をこじあけて……ダイヤのネイヴの半ぺらを、むりやりにもぎとったという事実は、疑う余地がないのです」
「別のカードですわね」と、カロー夫人が、ささやいた。
「そうです。言いかえれば、あのふたりは、死の間ぎわに、ふたりともダイヤのネイヴの半ぺらを、加害者の正体を示す手掛りとして残したのです。――ふたりが同じ手掛りを使ったのだから、明らかに、ふたりを殺したのは、同一犯人です。ふたりは、ダイヤのネイヴの半ぺらで、何を示そうとしたのでしょうか」
エラリーは、さりげなく一同の顔色をうかがった。警視は壁にもたれて、光る目で見つめていた。
「心当たりはありませんか。前にも言ったように、実にとっぴなことです。では、一点ずつ、点検してみましょう。まず『ネイヴ』というものを洗ってみましょう。妙な暗合ともいいきれないものがあります。確かに、犯人は『ネイヴ』〔悪党〕と呼ばれてもいいような人間でしょう。しかし、それでは、古い言いまわしを熱心に収集している者を満足させるだけの話です。『ネイヴ』が普通『ジャック』と呼ばれている事実はどうか? この中にはジャックという人はいないし、こじつけてみれば、ジョン・ゼーヴィア博士に宛てはまるかと思えますが、博士自身が最初の犠牲者ですからね。では、カードのしるしのダイヤ――はどうか。この事件には宝石の問題は無関係です。ただ一つ関連があると思えるのは――」と、一息いれて「盗まれたと思われる指環です。しかし、盗まれた指環には、ダイヤのものは一つもありません。すると、表面的には、ダイヤの札が何を意味するか、つかまえようがありません」
そこで、エラリーは、いきなりカロー夫人の方を向いたので、夫人は椅子で身を縮めた。
「カロー夫人、フランス語のカローというのは英語では、どういう意味ですか」
「カローね」と、夫人は褐色の目を大きな池みたいに見開いて、「そりゃ」と――目をぱちぱちしながら「いろいろな意味がございますわ、クイーンさま。膝かけ、火のし、菱形《ひしがた》、窓ガラス……」
「敷石、板瓦《タイル》。その通りです」と、エラリーは冷たく微笑して「それに、意味深長な慣用句もありますね。|rester《レステ》 |sur《シュー》 |la《ラ》 |carreau《カロー》、翻訳すれば、|to《ツー》 |be《ビー》 |killed《キルド》 |on《オン》 |the《ザ》 |spot《スポット》〔その場で殺される〕、シカゴのギャング言葉を、ぴたりと直したようなフランス語ですね……しかし、こんなものはみんな適当でないので、はぶきましょう」と、エラリーは、夫人をじっと見据えながら「しかし、まだほかに、カローの意味があるでしょう」
夫人は目を伏せて「でもわたくし――存じませんわ、クイーンさま」
「それに、フランス語は、|遊び《ヽヽ》の言葉が実に発達していますね。フランス語で、トランプのダイヤを、カローと言っているのを忘れたんですか」
夫人は黙りこんだ。一同の顔に驚きと恐怖の色が浮かんだ。
「でも、まさか」と、ホームズ医師が息も荒く「とんでもないことだよ、クイーン君」
エラリーは、縮こまった夫人を見据えながら、肩をすくめて「僕は事実を述べているので、架空なことじゃないですよ、先生。運命のカードがダイヤであり、ダイヤはフランス語ではカローと言い、ここに数人のカローがいる、こりゃ意味深長じゃありませんか」
フォレスト嬢が椅子をとび出し、唇を真青にして、エラリーに迫り「こんなばかげた、こんな残酷ないたずらって、あるもんですか、クイーンさん。あなたは、そんな薄弱な証拠にもとづいて――何をほのめかそうとしているのか、ご自分で分かってらっしゃるの?」
「坐って下さい、どうぞ」と、エラリーは面倒くさそうに「分かりすぎるぐらい分かってるつもりですよ、あなたよりずっとね、忠実なお嬢さん。ところで、どうですか、カロー夫人」
夫人は手を蛇のようにねじっていた。「どう、お答えすればいいんですの。申し上げることは――あなたが大間違いをしていらっしゃるってことだけですわ、クイーンさま」
双子がソファから、とび上がって「とり消せ」と、両拳をかためて、フランシスの方が叫んだ。「お母さんに向かって、そ、そんなことは言わせないぞ」
ジュリアンの方が大声で「気違い、この大気違い!」
「坐りたまえ」と、警視が壁のところから声をかけた。双子たちは、エラリーを睨んだまま、言うことをきいた。
「先をつづけましょう」と、エラリーは、また、疲れた声で「僕だってこんなことを言うのは、あなた方と同じように、いい気持じゃありません。カードのダイヤをカローと呼ぶことは、今、言った通りです。そこで、ジョンとマークのゼーヴィア兄弟が、犯人の手掛りとして、ダイヤのジャックを残したとき、それが、いわば、カローを意味するつもりだったという、いかにも空想的な理論を裏づける事実が何かあるかというと、不幸にも、あるんです」と、手を振って、もう一度「不幸にも――あるんです」
壁の方から、警視の落ちついた、無感情の声が「君たちのどちらかが」と、はっきり、シャム双子に向かって「あのふたりを殺したかね」
*
カロー夫人が、とび立つと、牝虎のような勢いで、さっと駆けより、ものも言えない少年たちの前に立ちはだかると、両手をひろげて、激情で全身をわななかせた。「ひどい行きすぎです」と、大声で「まさか、ばかなあなた方でも、そんないいがかりが通らないぐらいお分かりでしょう――この子たちを人殺しだなんて。わたくしの子たちが、人殺しだなんて。あなた方は、おふたりとも、大気違いよ」
「いいがかりですって」と、エラリーがため息をついて「ねえ、カロー夫人。あなたは明らかに、手掛りの意味をとり違えていらっしゃる。あのカードは、単なるダイヤの札ではなく、ダイヤのジャックだったんですよ。カードのネイヴはどんな構図ですか。若い男がふたり、つながっていますよ」夫人がぽかんと口をあけた。「ああ、あなたには、それほど筋が通らないでもないということがお分かりになったようですね。ふたりのつながった若い男――年寄りではない。いいですね、年寄りならキングが該当します――若い男で、くっついている。信じられないでしょう。信じがたいことだと、最初にいっといた筈です。しかも、この家には、くっついている若い男がふたりいて、その名がカローと言うんですからね。これを、どう考えますか」
夫人は少年たちのそばのソファにへなへなと腰を下ろして、口も利けなかった。双子たちは、声もなく口を動かしていた。
「その上、われわれが疑問とするのは、二度とも、なぜ、カードは二つに裂かれていたか――つまり――なぜ、くっついているふたりのうちのひとりが、手掛りとして残されたかという点です」と、エラリーは、情け容赦《ようしゃ》もなく、ゆっくりと「明らかに、死んだ人たちは、カローの双子たちのうちのひとりを、犯人と指摘するつもりだったのでしょう。そんなことができるか。さよう、もし片方が、もう片方に引きまわされたものとすれば、見て分かる通り肉体的に引き退ることができないので、意志に反して、否応なしに現場に立ち合い、他の片方が実際に罪を犯す間、単なる傍観者にならざるを得なかったと思えます。……君らの、どっちが、ゼーヴィア博士を射ち、マーク・ゼーヴィアに毒を盛ったのかね?」
ふたりの唇がふるえた。ふたりともファイトを失っていた。フランシスの方が涙声でつぶやいた。「でも――でも、僕たちじゃない、クイーンさん。僕たちは、しやしない。むろん、ぼ――ぼくたちにはできやしない……そんなこと。本当にできっこない。それなのに、なぜぼくたちがしたなんて。なぜ。そんなひどい……おお、あなたには分からないかな」
ジュリアンの方が、がたがたふるえた。そして、怖さに魅入られるように、エラリーの顔を見つめていた。
「理由を話そう」と、警視が、ゆっくり「ゼーヴィア博士は、シャム双子の動物を、研究室で実験しておられた。君らは、ここへ来たとき、博士が奇跡を行なって、ふたりを外科的に切り放せると考えていた――」
「そんな、ばかな」と、ホームズ医師がつぶやくように「僕はてんで信じたことはない――」
「そうだ。そんなことができるなどとは、君は信じなかった、ホームズ君。そんなことは、成功したためしがないじゃないか、このての双子の場合。そこで言いたいのだが、この仕事を邪魔立てしたのが君なんだ。君は、その『信じない』ことを記録にとり、この連中にゼーヴィア博士の腕を疑わせた。そのことを、双子たちにも、カロー夫人にも話してきかせたろう。どうかね」
「そりゃ……」と、イギリス人はもじもじして「それが非常に危険な実験だと、忠告したにはしましたがね――」
「そうだろうな。それで、こんなことになった」と、警視が灰色の目を輝かせて「どんなことがあったか、はっきりは分からんが、おそらく、ゼーヴィア博士が頑固で、手術の計画を進めようと主張したんだろう。子供たちと、カロー夫人は、こわくなった。これは、ある意味では、自己防衛の殺人だった――」
「まあ、とても滑稽じゃありませんの」と、フォレスト嬢が大声で「とても子供っぽいわ。ゼーヴィア博士は、全然マキァヴェリアン〔手れん手くだの人〕じゃありません。それに、推理小説や映画に出てくる『気違い医者』でもありませんわ。関係者全部の完全な同意がなければ、そんな手術なぞ、決してなさるはずはありません。それに、私たちが、さっさと引き上げるのをさまたげるものが、何かあったでしょうか。お分かりになりませんの? あなたのおっしゃることなんか、まるっきり取るにたりないものですわよ、警視さま」と、フォレストの声は勝ちほこっていた。
「その上」と、ホームズ医師が、きっぱりと「手術は全然、確定していたわけじゃないんです。カロー夫人はただ診察のために子供たちを連れて来たんです。他のことが一切ととのったとしても、ここでは手術はできなかったでしょう。それに、ゼーヴィア博士の動物実験は、純粋に研究のためのもので、カロー夫人が来られるずっと前から行なわれていたのです。保証しますが、ゼーヴィア博士はただ理論の問題として以外には、この少年たちに、何の底意もなかったのですよ、警視。あなたのいわれることは、実に驚きですね」
「そうよ」と、フォレスト嬢が、目を光らせて、また叫んだ。「いま思いついたけれど、あなたの理論には、何か不合理な点がありますわ、クイーンさま。お言葉だと、ふたりのジャックがついている札を裂いて、ひとりのジャックにしたのは――死んだ人が、くっついているふたりの中のひとりを示そうとしたものだとおっしゃるけれど。あのカードを二つに裂いたのは、誰かが、殺したのはフランシスとジュリアンだと思わないようにするためだったとも言えるんじゃありません? つまり、もし、あの人たちが、ジャックがふたりついている、ジャック札を残したとすると、誰かが双子に思いつくかもしれませんからね。ふたりのジャックを切り離すことで、あの人たちは『双子がしたと思っちゃいけない。やったのは、くっついていない、ひとりの人間だ。だから、まるまる一枚のカードを残しておかないんだ』と、言っているのかもしれませんわ」
「大したもんだ」と、エラリーが低い声で「天才的ですよ、フォレストさん。だが、残念ながら、あなたは、あのカードが二度ともダイヤであり、ここにいる男のカローが双子だという点を見落としていますよ」
フォレスト嬢は、唇をかんで引き退った。
カロー夫人がきっぱりと「考えれば考えるほど、これはすべて、とんでもない誤解だと、思えて来ますわ。まさか、あなた方は逮捕しようと――おっしゃるんじゃないでしょうね……」と、夫人は、ふと口をつぐんだ。
不安になった警視は、顎を掻き、エラリーは、何も答えなかった。エラリーは、ふたたび、窓ぎわに戻っていた。
「ところで」と、老人がためらいがちに「あなたは、あのカードについて、もっと別の解釈ができるかな」
「いいえ、でも――」
「あなた方は探偵さんじゃありませんか」と、フォレスト嬢が、また勢いづいて「私は、こんな議論はみんな――気違い沙汰だと、主張しますわ」
警視は窓の一つに行って、テラスへ出た。しばらくして、エラリーも後を追った。
*
「どうですか」と、エラリーが言った。
「気にくわん」と、警視は口ひげを噛んで「連中の言うことにも一理ある――カードの件はともかくとして、手術のことなんかいろいろとな」と、うめくように「実にもっともだ。なぜ、あの子供たちが博士を片付けなければならんのだ。たしかに、気にくわん」
「その点は、連中に話す前に、打ち合わせたじゃありませんか」と、エラリーは、それを言って肩をすくめた。
「うん、そりゃ分かっとる」と、老人が情けなさそうに「しかし――畜生、どう考えていいか分からん。考えるほど分からなくなる。もし、話が本当で、子供の一方が人殺しだとしても、いったい、どうやって立証することができるんだ。奴らが口を割らない限り――」
エラリーの苦しそうな目に、光明がさして来た。「この問題には、いろいろ面白い点がありますよ。あのひとりが白状したとしても――どうにでも一番都合のいい理屈がつけられますからね――アメリカ有数の法律家にとっても、この事件は、どえらい頭痛の種だってことを、ちょっと、まあ考えてごらんなさい」
「と、言うと?」
「そうですね」と、エラリーが小声で「かりにフランシスの方が犯人だとしてみましょう。フランシスの方が法廷で自供し、ジュリアンの方は、フランシスに強制されて、フランシスが悪事を働くのを傍観していなければならなかったのだから、ジュリアンには罪はないし、共犯でもないと言ったとします。また、ジュリアンが意志においても行動においても、全く無罪であることが証明されたとします。そこで、フランシスの方は裁判を受け、有罪とされ、死刑を宣告されます」
「そうか」と、警視がうなった。
「どうなるか想像がついたようですね。フランシスの公判、断罪、死刑の宣告の間じゅう、あわれなジュリアンは、否応なしに、極度の精神的苦痛を味わされ、肉体的には収監され、最後にくるものは――何か。死じゃありませんか。しかも、ジュリアンは無実の、情況の犠牲者なんですよ。それなら手術ができるか。現代科学の力では――少なくとも、故ジョン・S・ゼーヴィア博士の声を除いては――大きな器官を共有するシャム双子は、分離に成功はしないと言っています。その結果は、無実の少年を有罪の少年と一緒に殺すことになるのです。そこで、外科手術は駄目。では、どうするか。法律では、死刑を宣告された者は、処刑されることになっています。処刑ができるか。この場合、無実の人間をも死刑に処すことなしには、処刑できないことが明白です。では、処刑をしないでおくか。それは明らかに |Lex talionis《レクスタリオニス》〔復讐法〕の無視です。ああ実に厄介な事件ですね。不可抗力と不動の障害との衝突です」と、エラリーが、ため息をついて「僕は、この問題をひっさげて、ひとりよがりの法律家どもと、対決してみたいですよ――実に立派な権利闘争の問題としてね。僕は賭けてもいいが、刑法史の全部をなげ出さなければならないような……どうですか、警視さん、この貴重な事件は、どうなると思いますか」
「放っといてくれんか」と、父親が、もぐもぐ言った。「お前はいつも、とてつもない問題を持ち出す奴だ。そんなことが、わしに分かるか。わしは神じゃないんだ。……こんなことが、もう一週間もつづけば、わしらはみんな精神病院行きだぞ」
「もう一週間もつづくと」と、エラリーが、憂鬱そうに言って、おどろおどろした空を見上げ、肺をよごさずにそっと、息をしようと努めながら「どうやら、僕らはみんな冷たい灰になっちまいそうですね」
「わしら自身が、地獄の釜の一歩手前にさしかかっとるのに、個人の犯罪や有罪なんて問題で頭をしぼるなんて、ばかげとるようだな」と、警視がつぶやき「内へもどろう。事態を検討し、組を分けて、とりかからねばならんだろう――」
「おや、あれは、何かな」と、エラリーが鋭く言った。
「何が、どうした」
エラリーは、テラスを駆け出し、一足とびに階段を下り、自動車道に立って、赤い夜空を見上げた。「あの音」と、ゆっくり「あれが聞こえませんか」
かすかな、雷のようなひびきで、はるか遠くの天の一角から発しているようだった。
「しめたぞ」と、警視が、大地に、はいつくばりながら「たしかに、雷だ!」
「こんなに待ちに待って、やっと、とても信じられない……」と、エラリーの声が細って、つぶやきになった。
ふたりは顔を上げて、空にさらした。それは、ほの白く浮かぶ二つの希望の影だった。ふたりは、どたばた、ときこえるテラスの足音にも振り向かなかった。
「何でしょう」と、ゼーヴィア夫人が金切り声で「きこえたわ……雷かしら」
「ワアーイ」と、フォレスト嬢が縄をさくような声で「雷なら、雨よ」ごろごろという音が、はっきり、高くなった。妙に生々しくて、しかも、そのひびきには、何か金属的なものがあった。ごろごろ鳴った。……
「僕は前にもこんな音を聞いたことがある」と、ホームズ医師が大声で「こりゃ、めったにない気象現象だ」
「何です」と、エラリーが、まだ空に首を伸ばしたままで訊いた。
「大気のある状態のもとでは、山火事の広がった地域に、雲が生じやすいそうだ。上昇気流で湿気が凝結するんです。この種の火事は、実際に、火事自らが作り出した雲によって、消火するものだと、何かで読んだことがあります」
「神さま、感謝いたします」と、家政婦のホイアリーが身をふるわせた。
エラリーが、ふいに振り向いた。みんなが、テラスの柵に、一列に並んで――緊張で青ざめた顔を空に向けていた。一つを除いて、どの顔も希望で生々としていた。カロー夫人の美しい顔だけに、恐怖がはりついていた。すべてを察知した恐怖だった。雨になり、火事が消え、通知網が復興すれば……夫人は、むすこたちの肩を、しっかり握りしめた。
「まだ、神さまにお礼をいうのは早いですよ、ホイアリーさん」と、エラリーが荒っぽい口調で「ちがいますよ、雷じゃありません。あそこに、赤い灯りが見えるでしょう」
「雷ではないって」
「赤い灯りだって」
みんなは、エラリーの指さす方を、すかして見た。すると、濃い葡萄《ぶどう》酒のような空を背にして、小さな針の先のような明るい赤い色が、まばたきもせず、すばらしい速さで動いているのが、見えた。雷のような音をたてて、アロー・マウンテンの頂上に向かっていた。だが、雷鳴ときこえたのは、モーターの音にすぎず、赤い針先は、夜間飛行のライトにすぎなかった。
十八 最後の避難所
一同はいっせいに、ため息をついた。希望の死滅を伝える怖ろしい、ため息だった。家政婦のホイアリーが胸のはりさけるような、うめき声を出した。燐光を放つように、湿った空気をつんざいて『骸骨』が、ふいに、ひどい呪いの言葉を吐いたので、一同は、はっとした。
やがて、フォレスト嬢が大声で「飛行機よ。あれは――あれは、こっちへ来るのよ。何か報らせに来るのよ」
フォレスト嬢の叫び声でみんなは元気づいた。警視が声を張り上げて「ホイアリーさん。『骸骨』君、誰でもいい。家中の灯りをつけるんだ。他の者は、みんなで燃えるものを集めるんだ――何でもいい――さあ、急げ。向こうに見えるように、ここで、たき火をするんだ」
みんなは、急いで、互いにぶつかり合った。『骸骨』が、テラスの椅子を、柵ごしに放り出し始めた。家政婦のホイアリーは、フランス窓の一つを抜けて姿を消した。女たちは、かたかたと、階段を駆け下りて、家から離れた砂利と岩の上に椅子を運び出した。エラリーは家に走り込み、すぐに、両手いっぱい、古新聞や古雑誌や屑紙をかかえて出て来た。双子たちは、目前の興奮に自分たちの苦境を忘れて、今は煌々《こうこう》と灯のはいった居間から、ずっしりつめものをした椅子を持ち出し、その重みでよたよたしながらポーチへ運んでいた。みんなが、闇の中の働き蟻《あり》のように見えた。
警視は、やせた尻であぐらをかき、少しふるえる手でマッチをすった。うず高い、雑多な可燃物の山が、その細っそりした姿を小人のように見せた。マッチの炎を、山の下につめた紙にうつすと、急いで立ち上がった。一同はまわりに集まり、その小さな炎を、もみ消そうとする熱い微風にやきもきした。そして、その間じゅう、大きく見張った目を、空に釘づけにしていた。
炎は、どん欲に、めらめらと紙を甜《な》め、ばちばちと音をたてながら、|まき《ヽヽ》を積み上げた山の底の、間にあわせの|たきつけ《ヽヽヽヽ》に燃え移った。たちまち山の底は火の海となり、みんなは顔を隠して、熱のあおりから後退《あとず》さった。
みんな息をつめて、赤い灯を見守っていた。今は、ずっと近づいて来て、その高度では、飛行機の爆音は耳をろうするばかりだった。頭上どのくらいかは測りがたかったが、飛行士が旋回しているので、山頂から二、三百フィートも離れていないように思われた。見えない飛行機の、赤い一つ目の灯りが、刻々と近づいて大きくなった。
突然、頭のすぐ上で爆音がひびき――飛び去った。
その瞬間、みんなは、まっ赤な空に照らし上げる、たき火の炎の明るみに、無蓋の小型単葉機のおぼろげな姿を、ちらりと見た。
「ああ、行ってしまうわ」と、フォレスト嬢がうめいた。
しかし、赤い灯は横すべりして、新しい方向をとり、美しい弧を描いて、さっとばかりに戻って来た。
「たき火を見つけたのよ」と、家政婦のホイアリーが大声で「まあ、うれしい。たき火で私たちを見つけたのよ」
パイロットの行動は腑《ふ》におちなかった。着陸地点が分からないかのように山頂を旋回するだけで、どうしていいか分からないらしい。やがて、信じられないことだが、赤い灯が遠のき始めた。
「なんだ」と、ホームズ医師が荒っぽく「下りるんじゃないのか。放ってっちまうのか」
「下りる? とんでもない」と、エラリーが、きっとなって、やりこめた。「こんな岩のごろごろしたところに、下りられるのは小鳥ぐらいのものでしょう。急降下するために機体を直しているんですよ。あの上空で何をしていたと思うんですか――鬼ごっこでもしていたと思うんですか。地上の様子を調べていたんですよ。きっと――いまに何か起こるでしょうよ」
一同が息つくひまもなく、機はこっちへ向かって、びゅうぴゅうと風を切り、耳の痛いようなプロペラの音も高く、突っかけて来た。ぐんぐんと、急降下して来る大胆さに、みんなは、怖しさと、感嘆のいりまじった気持で、棒立ちになっていた。あの気違いじみたやり方で、何をするつもりだろう。みんなのしびれた頭では、飛行士が自殺を企てているとしか考えられなかった。
今や百フィートもない高さに迫り、あまり低いので、一同は思わず頭をすくめた。着陸装置が、頂上のふちの木々のこずえを、かすかにかすめて過ぎた。いきなり、稲妻のように一同の上におそいかかった――はらわたを吐き出すような不気味な音をたてて、烈しく体をふるわせながら、とびかかる翼のある生きもの――そして、過ぎ去り、遠ざかった。みんなが、立ち直る前に、機は山頂を過ぎ、翼を傾けて、早くも、血のような月に向かって、新しい旋回運動にはいり、上昇していた。
しかし、今、一同は、飛行士の気違い沙汰が、その冷静な健康さを示し、その無謀は勇気のあらわれであるのを知った。
小さな白いものが、操縦席から羽毛のように落ちて来た。黒くのばされた人間の手が放り出したもので、それが、たき火から二十フィートばかりの所に、どさっと落ちた。
警視は凸凹の地面を猿のようにかけつけて、あっという間に、落下物をつかんだ。そしてふるえる指先で、石にくくりつけてある数枚の紙をひらいた。
一同は警視のまわりに群がり、その上衣にしがみついた。
「何ですか、警視さん」
「何と言っていますか」
「もう――消えたんですか」
「どうぞ、話して下さい」
警視は、ちらつく、たき火の光で、タイプで打った文章を、すかして見ながら、むさぼり読んでいた。読むにつれて、青白い顔の輪郭がのび、肩がちじまり、希望と生命のきらめきが目から消えていった。
みんなは、警視の顔に、自分たちの運命を読みとった。一同の涙によごれた頬が、げそっとなり、死の影がさした。
警視がゆっくり「これなんだがな」と言い、低い力のない声で読んだ。
オスケワ臨時本部
リチャード・クイーン警視殿
遺憾ながら、トマホーク渓谷とテピーズ連山地区、特に貴下が封じ込められているアロー・マウンテンは、山火事を絶対制圧し得ないことを、お報らせしなければなりません。もはや、われわれには、制圧し得る何らの希望もありません。火は、きわめて急速にアローをよじ登りつつあり、奇跡のおこらぬ限り、間もなく山頂をなめつくすでしょう。
われわれは数千人で消火に当たっていますが、死傷者は日に日に増えています。何十名もの者が、煙や重い火傷にやられて、本郡ならびに近接地区の病院要員は、最大限まで動員されています。目下死者は二十一名です。われわれは、爆破および焼き払い戦術など、あらゆる手を打ちましたが、今や、失敗に帰したことを認めなければなりません。
アロー山頂のゼーヴィア博士邸におられる、あなた方には脱出の道はありません。既にお気付きのことと思います。
この通信はスピード飛行士ラルフ・カービイが投下します。通信を読まれたら合図してやって下さい。そうすれば、貴下が通信を受理したことが分かり、諸君の脱出にそなえて、薬品と食糧を投下するでしょう。水は充分にあるのは分かっています。諸君を飛行機で救出する何らかの方法があればむろん実施しますが、それは不可能です。アロー山頂の地勢は分かっています。あまりにも険阻なので、着陸を強行すれば、機を大破し、パイロットの死は、ほぼ確実です。ジャイロ機でも無理でしょう。それも手元にあればいいのですが、ないのです。
山林監視人たちに、貴下の窮状について、助言を求めたところ、監視人たちは、次の方法のうちの一つか、両方を行なうよう勧告しています。風向きがいいなら、まだ燃えていない村に火を放って、延焼してくる火事を防ぐこと。しかし、この方法は、山頂の風向きが当てにならず、常に変わりやすいので、役に立ちますまい。もう一つの方法は、山頂の木立のまわりに、幅の広い壕を掘ることで、火の手が飛びこせないかもしれないという希望が持てます。それから、付帯的な安全措置として、家のまわりの枯れたやぶや草むらを全部除去するようおすすめします。家には水をかけておくこと。この火事に対して打てる手はただ一つ、燃えつきるまで燃えさせるだけです。すでに、周辺何十マイルもの森林地帯を荒廃に帰しています。
唇をかみしめて、元気いっぱいに戦って下さい。小生の裁量で、貴下の所在と現在の苦境について、ニューヨーク市の警察本部に通報しておきました。先方では、しきりに電話連絡をとってきています。警視、小生にはこれ以上のことができなくて、まことに残念です。みなさんの幸運を祈ります。さよならとは申しません。
オスケワ保安官
(署名)ウィンスロー・リード
「少なくとも」と、エラリーは、あとにつづく、不気味な沈黙の中で、苦々しく高笑いして言った。「こいつは、つべこべいう奴じゃありませんか。やれ、やれ」
*
警視は、呆然自失の体《てい》で、できるだけ火に近より、力なく、ゆっくりと両手を振った。すぐに、まだ上空を旋回していた飛行士が機を立て直して、前と同じ操作をくり返した。今度は、頭上でうなったかと思うと、操縦席から、大きな丸い包みが落とされた。それから、また、二度旋回すると、去りにくそうに、もう一度ぐっと近付き、悲しそうに翼を振って挨拶をし、夜の空に突込んで去って行った。赤い灯が、遠いまっ暗な空に消えるまで、だれひとり、指一本も動かさなかった。
やがて、カロー夫人が、へなへなと地べたにくず折れて、胸がはりさけるように、すすり泣いた。双子は、母親の背にちぢこまり、歯をがちがちいわせていた。
「おい、何をぐずぐず待ってるんだ」と、いきなり、スミスが、太い腕を風車のように振りまわして叫んだ。気違いじみた目をむき出し、大きな頬に、汗がだくだくと流れ落ちた。「いまいましい役人野郎の手紙を読んだんだろ。火を放てときた! 壕を掘れとな。さあ、しっかりして、とっかかろうぜ」
「火は駄目だ」と、エラリーが静かに「この辺の風は気まぐれだから、家を燃やしちまう」
「ともかく、壕の方は、スミス君の言う通りだ」と、ホームズ医師が、あえぎながら「僕たちは、ぼんやり立って待っているわけにはいかない――屠殺者を待つ牛のようにね。『骸骨』君――車庫から、シャベルや鶴嘴《つるはし》を持ち出したまえ」
『骸骨』は、毒々しい呪いの言葉を吐きながら闇に駆け去った。
「どうやら」と、警視が、ぎごちない不自然な声で「やれるのは、それだけらしいな。掘るんだ。掘れば気がすむ」と、深く息を吸った。すると、以前のきびしさが、そのものごしに戻って来た。「いいか」と、きっぱりした口調で「掘るんだ。誰かれなしに。見にくくないように、できるだけ脱ぎすてる。女も――子供も――みんな手伝う。すぐ始めて、死ぬまでやめるんじゃない」
「あと、どのくらい保ちますの」と、ゼーヴィア夫人が、ささやいた。
スミスが闇にとびこみ、けぶる森に姿を消した。ホームズ医師が上衣とネクタイを、かなぐり捨てて、急いで『骸骨』の後を追った。カロー夫人は、泣きやんで立ち上がり、ゼーヴィア夫人は身動きもせずに、スミスの去った方を見つめていた。
みんなは、しだいに幻想的になりまさる悪夢の中で、悪魔のように立ち働いていた。
スミスがよろめきながら、煙の中からぬっとあらわれて「もう間近かだぞ」と、叫び「火は、すぐ下だ。道具は、どこにあるんだ」
その時、『骸骨』とホームズ医師が、鉄製の道具類を背負って、よろよろと闇の中から出て来た。そして、悪夢は本式に始まった。
みんなの手許を明るくするために、一番体力のない家政婦のホイアリーが火をたき続けることになり、新しい燃料は、双子たちが、家の中で見つかるだけの、持ち運べる家具類を、片っぱしから引きずり出した。強い風がまき起こり、たき火の火の子を、こわいほどの勢いで、思い切り吹きちらした。その間に、警視は森のへりに、掘る場所の四分の三ほどを、半円を描いてしるしをつけた。女たちは、石だらけの土地の割れ目に生えている枯れた灌木を引き抜きにかかり、ときどき火にくべて、燃料のたしにした。山頂からは、巨大なインディアンの、のろしのように、煙が立った。みんな咳きこみ、叫び、働き、汗まみれになり、腕が鉛のように重くなり、痛くて上げられなくなった。フォレスト嬢は、気が狂うほどじれて、すぐに、灌木抜きを投げ出し、土掘りを手伝いに駆けつけた。
男たちは、息をたくわえながら、黙々と働いた。腕が上がっては下り、上がっては下り……
夜明けが来た――荒れ狂う煙のただよう赤い夜明けが――それでもまだみんなは掘りつづけていた。今は、初めの激しさはなかったが、無残な絶望を胸に、しっかり掘りつづけていた。家政婦のホイアリーは、消えかけた火のそばで気絶し、意識もなく、うめきながら、岩の上にぐったりと横たわっていた。男たちは、みんな肌ぬぎになり、すすや灰にまみれない素肌の部分が、にじみ出す脂でぎらぎらしていた。
だれひとりとして、飛行士が落としていった食料や薬品でふくれている包みには、目もくれなかった。
午後二時にカロー夫人が倒れ、三時にゼーヴィア夫人が倒れた。だが、アン・フォレストは、一すくい投げるたびに、力なくよろめいてはいたが、まだ掘りつづけていた。
それから四時半に、フォレストの痺《しび》れた手先からシャベルが落ち、自分も地に倒れた。「わたし――もう――駄目」と、あえぎながら「わたしは――もう」
五時に、スミスも倒れて、起き上がれなくなった。他の連中は、働きつづけた。
六時二十分過ぎに、二十時間の驚くべき苦闘のあとで、壕は完成した。
*
みんな、いた場所に倒れ、泥と汗にまみれた肌を、掘り返された地べたにおしつけて、疲労のはての最後の|けいれん《ヽヽヽヽ》に身をゆだねていた。地べたにのびて、うめいている警視はさながら、バルカン〔鍛冶の神〕鍛冶場の仕手方《してかた》の小人が地面に倒れているようだった。その目は顔にくいこむように沈み、紫色にくまどられていた。口を大きくあけて、ぜいぜいと空気を吸っていた。白髪まじりの髪は濡れて、ぺったりとへばりつき、指にはすっかり血がにじんでいた。
他の連中も大同小異の状態だった。スミスは、まだ倒れたままになっていて、ふるえる肉の山よろしくだった。エラリーは、やせて、ひょろひょろした、すすだらけの幽霊みたいだった。『骸骨』はまるで死人だった。女たちは、泥まみれで、ほころびだらけの衣類のかき集めみたいだった。双子は岩に腰かけて、うなだれていた。ホームズ医師は、目を閉じ、小鼻をひくひくさせて、静かに寝ていた。その白い肌は、屠殺所の荒肉のようだった。
みんなは、一時間以上も、身動きせずに、ころがっていた。
やがて双子が、がさごそやって、互いに何か低い声でしゃべっていたが、立って、よちよちと家へはいった。かなりしてから、バケツに三杯の冷い水をかついで来て、一心に、疲れ切った連中の介抱にとりかかった。
エラリーは、波打っている胴体に、氷のような水をぶつかけられて、うっと息をのんで、正気づいた。充血した目に狼狽《ろうばい》の色をうかべて、うめきながら、何はともあれ起き上がった。やがて、記憶がもどって来ると、青白い双子の顔に、弱々しくほほえみかけた。「許すことは――尊いことだね」と、低い声でいい、骨を折って立ち上がると「どのくらいの時間――」と、それ以上は続けられなかった。
「七時半だよ」と、フランシスが口ごもって言った。
「そりゃあおどろいた」
エラリーが見まわすと、正気づいたカロー夫人が、ポーチの段をよじのぼっていた。『骸骨』の姿はなかった。警視は、倒れた場所に坐り込んで、ぼんやりと、血のにじんだ両手を見つめていた。アン・フォレストとホームズ医師は、並んで、あお向けにひっくり返り、暮れていく空を眺めていた。スミスは、喉の奥で、とりとめのない事を口汚なくぶつぶつ言っていた。家政婦のホイアリーは……
「おどろいたな」と、エラリーは、目をぱちくりしながら、もう一度、低くつぶやいた。
出かかった言葉が、ふいに吹きつける熱風の勢いにおされて、口先で吹きちぎられた。耳は、とてつもないうなり声で、ふさがれた。煙が森から吹き出した。
やがて、火が、火事の先ぶれが見えた。炎は、頂上のへりの木々を、貪るように甜めていた。
とうとう、火事が延焼して来たのだ。
*
みんなは家へ向かって走り始めた。恐怖が全身の腺によみがえり、熱い分泌物を血に流し込み、それが筋肉に電流を通じて、新しい力を与えた。
テラスで、みんなは言い合わしたように立ちどまり、狂おしい目で振り返った。丸く切りとられた森のへりの木が、みんな、どっと燃え上がった。ぱちぱちと吼《ほ》える声、じりじり焼きつく熱気で、一同はしばしも居たたまれず、恐ろしい火の海から逃れて、家へ追い込まれた。炎は、五十フィートもある硬い幕のようで、風がゆっくりと、その内の方へ吹き込んでいた。表部屋のフランス窓を通して、一同は、外の炎熱地獄のすさまじさを、あっけにとられて口も利けずに見守っていた。風は、ますます強くなった。炎の幕は、しつこく、垂れ下がろうとしていた。何千万という、ひきちぎられた火の子が、家の上で踊りまわった。あの壕、みすぼらしい壕が――持ちこたえるだろうか。
スミスが大声で「役にはたたんよ。あんなに働いたのにな。壕なんて――畜生、ちゃんちゃらおかしいや」と、どなり、けらけらと、ヒステリーのように笑いながら、わめき声で「壕と来た」と、あえぎ「壕だとさ」と、からだをくの字に折ると、バンドの上で、腹のくびれがふくらみ、汚れた頬に涙が流れた。
「やめたまえ、ばかだなあ」と、エラリーが、しゃがれ声で「やめるんだ――」と、言いかけて、絶句し、何か一声高く言って、また、テラスにとび出してしまった。
警視が大声で「エラリー」
エラリーの細っそりした姿が、柵をのり越えて駆け出した。上も前も、炎の壁が迫っていた。火中に身を投げ入れようとしているようだった。岩の間にとびこむとき、半裸のからだが、ねじれて、ふり向いた。やがて、しゃがみこむと、よろめき、何か拾って、よろよろと戻って来た。
熱気のために、上半身が暗赤色になり、顔がまっ黒だった。「食物ですよ」と、息を切らせて「食料包みを忘れちゃいけませんよ」と、目を輝かせて「おい、みんな、ばか面して、何を待ってるんだい。壕なんて失敗さ。それに、あのいまいましい風じゃあ……」
一同は風の前にひれ伏し、風とともにうなった。
「どこか、すぐ隠れ場所を探すより他に手がない」と、エラリーはうめき声で「もう、家はあちこち燃えてるんだが、こうなっては、一連隊つれて来たって、くいとめようがない。屋根の上に、二、三杯の水をぶっかけたって……」と、自分から笑い出した。火を背にして踊る悪魔のような気がした。「穴ぐらだ――穴ぐらはどこだ。たのむ。どこか、誰も知らないのか。おお、なんたる大ばかどもだ。誰か、教えてくれ」
「あなぐら」と、みんなは、エラリーにつられていっせいに言い、ぎらぎらする目で、エラリーの顔を見つめた。みんなは、半裸の死人の集まりで、自ら煉獄に堕ちた、うすぎたない白いゾンビーズみたいだった。「穴ぐらだ」
「階段の裏です」と、ゼーヴィア夫人が、かれた声で言った。夫人の服は片袖が肩からちぎれて、手も、かききずだらけで、あざができていた。「おお、早く、早く」
それで、一同は、廊下を、どやどやと走って行った。ゼーヴィア夫人は、二階に上がる階段の下にとりつけられている厚い、頑丈なドアに案内した。一同はわれ勝ちに戸口を通り抜けようとして、互いに、もみ合った。
「お父さん」と、エラリーが静かに「行きましょう」
警視は、はっとして、白っぽい唇を、ふるえる手で拭いて、エラリーについて行った。エラリーは、ひどい煙で濛々としている廊下を抜けて、よろよろと台所へ歩いて行き、気違いのように戸棚をひっかきまわして、いろんなものを放り出した。そして、鍋《なべ》、壷、茶缶を見つけ出した。
「蛇口の水を詰めて下さい」と、咳をしながら、頼んだ。「大急ぎです。水が要りますよ。沢山ね。いつまで保つか、分かりませんから」
ふたりは、水のたれる荷物を持って、骨を折りながら廊下を歩いた。穴ぐらのドアの前で、エラリーが大声で「ホームズ君、スミス君、この水を下ろしてくれ給え」と、叫び、相手が出てくれるのを待たずに、もっと持ってくるために、よろよろと台所へ戻って行った。
ふたりは六回も往復して、見つけただけの大きな入れものに、みんな水をみたした――ブリキのバケツ、空のバター缶、洗面器、古ボイラー、その他、雑多な名付けようもない品々だった。そして、最後に、警視が涼しいセメント作りの穴ぐらへ、よちよちと下りて行くのを、エラリーは梯子のてっぺんに立って見ていた。穴ぐらは、山の洞窟のように、広く、暗く、陰気だった。
「食料の袋は、誰かが、そっちへ下ろしたかね」と、エラリーは、穴ぐらの厚いドアを閉める前に訊いた。
「僕が下ろしたよ、クイーン君」と、ホームズ医師が、どなり返した。
エラリーは、ばたんと、ドアを閉めた。「女のどなたか、布《きれ》をくれませんか――何でもいいです」
アン・フォレストが、やっと立ち上がり、闇の中のエラリーのそばへより、自分のドレスを引きちぎった。
「どっちみち、こんなもの――そう長く必要じゃないと思いますわ、クィーンさま」と、言って笑ったが、その声はふるえていた。
「アン」と、ホームズ医師が「よしなさい。袋の布があるよ――」
「おそすぎたわ」と、フォレスト嬢は、楽しそうに言ったが、その唇はわなないていた。
「いいひとだ」と、エラリーがつぶやいた。そして、フォレスト嬢のドレスを受けとり、裂いて小布《こぎれ》をつくり始めた。小布をドアの下の隙間に詰めてから、立ち上がると、フォレスト嬢の白い両肩に手をかけて、一緒に下のセメントの部屋へ降りた。
ホームズ医師が、湿って、ぷんと匂う、きたならしいカーキ色の古外套を手に、待っていた。
「ここで見つけたんだ。『骸骨』の冬外套さ」と、荒っぽく言って「アン――気の毒だが……」
背の高い娘は、ふるえて、その外套を肩に羽織《はお》った。
エラリーとホームズ医師は、飛行士が落としていった袋に、しゃがみ込んで、口を切って開けた。厚い詰めもので保護されているのは、薬瓶の包みだった――消毒剤、キニーネ、アスピリン、膏薬、モルヒネ、注射器、絆創膏《ばんそうこう》、脱脂綿、繃帯が出て来た。別の包みもあった――サンドウィッチ、ハム、パンの塊り、ジャムの瓶《びん》、棒チョコレート。熱いコーヒーのはいった魔法瓶……
ふたりは食べものを分配した。そして、しばらくの間は、噛み合わされる顎と、ごくりと呑み込む音の他は、何のもの音もしなかった。魔法瓶は手から手へと渡された。みんなは、ゆっくりと食べて、一口一口味わった。みなの心のうちは同じ思いだった。これがこの世の食いおさめかもしれない……とうとう、この上はもう食べられないというところまで来たので、エラリーは残りの食料を丁寧に集めて、また袋にしまった。裸の上半身に、みみず脹《ば》れと、ひっ掻き傷が縦横無尽にできているホームズ医師が、消毒剤をもってみんなの中を静かにまわって、傷を洗い、絆創膏を貼り、繃帯をした……
あとは何もすることがなく、医師は古い卵箱に腰かけて、両手に顔を埋めていた。
みんなは、古い荷箱の上や、石炭置場の中や、石の床の上に、腰を下ろしていた。裸電球が、たった一つ、頭上で、黄色い弱い光を放っていた。かすかに、戸外の火事のうなりが聞こえた。火は、いっそう近づき、とても近いように思われた。
一度、みんなは、続けさまに起こる、ぼかんという爆発音に、はっとした。
「ガレージのガソリンだ」と、警視が低い声で「これで、車も駄目だな」
誰も答えなかった。
また、一度、『骸骨』が立って、闇に消えた。そして、息をきらせて戻り「穴ぐらの窓でさ。古金物を平べったい石で、しっかり詰めて来ただ」
誰も答えなかった。
こうして、一同は、希望もなく、うなだれて、疲れはてて泣く力もなく、ため息をする力もなく、身動きもできずに、ぼんやりと床を見つめて坐り……最後の迫るのを待っていた。
十九 クイーンの話
時が経った。どれほど経ったか、みんなには分からなかったし、分かろうともしなかった。薄暗く広い穴ぐらには夜も昼もなかった。ぼんやりした電球のかすかな光が、みんなの月であり、太陽だった。一同は、石のように坐っていた。ただ不規則な息使いが聞こえなかったら、みんなはすでに死んでいたのかもしれない。
エラリーにとっては、奇妙な、目まいのするような経験だった。思いは、生から死へ、ほのかにちらつく思い出の景色から、かき立てられた空想の去来する幻へと、移り変わっていた。謎の断片が帰って来て、エラリーをいらだたせた。無理やり、脳細胞に押し入り、意識を掻きみだした。同時に、大きな問題を無視したり、せいぜいよくても回避するくせに、比較的重要でもない問題に、頑固にこだわる人間の心の不安定と矛盾に苦笑した。自分の滅亡に直面している人間にとって、殺人犯人がひとりだろうと多かろうと少かろうと、それがどうだというんだ。理に合わない、子供っぽいことだった。そんなつまらないことにやきもきする代わりに、みずからの神々とともに、みずからの心の平和をつくり出すことに専念すべきなのだ。
ついには、さからいかねて、ため息をし、自分の思考のすべてを、事件にぶち込むことにした。まわりにいる他の連中などには目もくれず、エラリーは目を閉じて、疲れて戻って来た昔なじみの精神集中力をかき集めて、じっと考え込んでいた。
*
永遠の時が過ぎてから、ふたたび目をあけたときにも、何一つ変化はなかった。双子たちは、母親の足もとにうずくまっていた。ゼーヴィア夫人は、荷箱の上に、きちんと腰かけて、荒いセメントの壁に頭をもたせかけ、目を閉じていた。ホームズ医師と、フォレスト嬢は、相変わらず肩をよせ合って、並んで腰かけ、身動きもしなかった。スミスもまだ古箱の上にあぐらをかき、うなだれて、裸の腕が、フォルスタッフじみた腿《もも》のあいだに、だらりとたれていた。家政婦のホイアリーも石炭の山の上に横になって、片腕を目の上にだらんと投げかけていたし、『骸骨』も、そのそばで足を組み、木彫りの像のように、目ばたきもせずに坐っていた。
エラリーは、身ぶるいして、両腕をのばした。そばの箱に腰かけていた警視が、もぞもぞした。
「どうした」と、老人が、口のなかで言った。
エラリーは首を振り、やっと立って、穴ぐらの梯子を、よろよろとのぼった。そのとき、みんながもぞもぞして、だるそうにエラリーを見ていた。
エラリーは梯子のてっぺんに腰を下ろして、ドアの下の隙間の詰めものを少し引っぱり出してみた。さっと濃い煙が吹きこみ、エラリーは目をしばたたき、咳き入った。急いで詰めたものをもどし、よろよろと梯子を下りた。
みんなは耳を澄まして、ひゅうひゅういう炎のうなりに聞き入っていた。その音は、今や、頭の真上から聞こえていた。
カロー夫人は泣いていた。双子たちは、不安そうにそわそわして、いっそうしっかりと母親の手をつかんでいた。
「空気が――悪くなったようですわね」と、ゼーヴィア夫人が、うっとうしそうに言った。
みんなは鼻をくんくんいわせた。たしかににごって来ていた。
エラリーが肩をいからして「聞いて下さい」と、ふくみ声で言った。みんなが見た。「われわれは、まさに、不愉快きわまる死に臨もうとしています。最後の希望がたたれた、こんな危機に際して、人間という動物は何をすべきものか、どんな行動をとるべきものか、僕には分かりませんが、次のことだけは知っています。僕だけは、猿ぐつわをはめられた、いけにえのように、じっと手をこまぬいて、黙って死を待つようなまねは、断然拒否するものであります」と、ひと息いれて「みなさんもご存じの通り、われわれは、もう先は長くない」
「ああ、黙れ」と、スミスが、にくにくしげに「くだらんお説教は、もう沢山だ」
「そうじゃないかもしれないよ。スミス君、とかく、君のような人間が、最後の瞬間に取り乱して、身近かな壁で脳味噌を叩き割ろうとするもんだよ。最後まで生き抜こうとする真の誇りを、ある程度持ち合わせているところを、思い出させてくれると、ありがたいんだがなあ」スミスは目をぱちくりして、うつ向いた。「ところで、実は」と、エラリーが、咳きこみながら「いま、君は自ら、話をすることを買って出た。そこで、僕はこの際、肥大漢閣下に関連する小さな謎を、是非解明したいものだと願っているんです」
「おれに」と、スミスが口ごもって言った。
「ええ、そう。僕たちは、今、最後の懺悔室《ざんげしつ》にいるわけで、それは君にも分かっているだろう。そこで、僕は考えるんだが、君も、胸の中をきれいさっぱりと潔《きよ》めないままで、少々やぶにらみの創造主の前に立ちたくはないだろう」
「何を懺悔するんだね」と、でぶ助が反《そ》り身になって、かみついた。
エラリーは用心深く、みんなを眺めた。みんなは、しゃんと坐り直して、耳をそばだて、さし当たり興味を示した。
「君がとんでもない|わる《ヽヽ》だということを、懺悔するのさ」
スミスは、やっこらさと立ち上がり、拳をかためた。「なんだと、こいつ――」
エラリーは、つかつかと歩み寄り、ぶよぶよするスミスの胸に手をかけて、一押しした。スミスは、どさりと箱に尻もちをついた。「どうしたね」と、エラリーが、のしかかるようにして「最後に一つ、野獣のように戦ってみようかね、スミス君」でぶ助は唇を甜めた。そして、ぐいっと、首をもたげると、憎々しげにわめいた。「いいとも、悪くないな。どっちみち、もう少しで、焼肉になっちまうんだ。たしかに、おれは、あの女をゆすったさ」と、せせら笑って「さぞ、ご満足なこったろうさ。いまいましいお節介野郎め」
カロー夫人が泣きやんだ。夫人は、しゃんと坐り直して、もの静かに「十六年間も、ゆすりつづけていたんです」
「奥さん――いけません」と、フォレスト嬢が懇願するように言った。夫人は手を振って「もう、どうでもよくってよ、アン。わたくしは――」
「奴が、あなたの、むすこさんの秘密を握ったんでしょう」と、エラリーが低く言った。
夫人が息をのんだ。「どうしてお分かりになりまして」
「ともかく、さし当たり、そんなことは、どうでもいいですよ」と、エラリーが、少し辛そうに言った。
「そのひとは、お医者さまの助手だったんです、子供たちが――生まれましたときに……」
「こぎたない、ごろ豚め」と、警視が目をぎらぎらと怒らせて、うなった。「そのぶよぶよ面を、はりとばしてくれるぞ――」
スミスがぼそぼそとぼやいた。
「それからは信用を落として、医者の免状も取りあげられてしまったのです」と、フォレスト嬢が、いきまいて「背任行為ですもの、むろん。その男は、私たちの後をつけて、ゼーヴィア博士の邸までやって来て、こっそりと、カロー夫人に会う手だてをして――」
「分かってます。分かってます」と、エラリーが、ため息をついて「あとは、みんな分かってます」と、頭の上のドアを見上げた。取るべき道は一つしかないことを、エラリーは知っていた。それには、連中に興味を持たせ、わきたたせ、こわがらせておかなければならない――なんでもいい、できるだけ長く、頭上で、呪え狂う炎の怖ろしさを考えさせないようにしなければならない。
「みなさんに、お話を、一つ聞かせたいんですが」
「話だと」と、ホームズ医師がつぶやいた。
「僕が前にぶつかった、とんでもない勘違いをした、驚くべき事件の話です」と、エラリーは、梯子段の一番下の段に腰を下ろし、少し咳きこみながら、血ばしった目を、きょろきょろさせた。
「僕がつまらない話をする前に、だれか、スミス君のように、懺悔したいひとはいませんか」
しんとしていた。エラリーは、ひとりずつ、ゆっくりと顔色をうかがった。
「最後まで頑固なようですね。よろしい、じゃあ、僕の最後の――次の数分間を、この仕事に献げましょう」と、むき出しの首筋をもんで、小さな電球を見上げて「とんでもない勘違いといいましたが、そう言ったわけは、全体のいきさつが、とても信じられないほど奇想天外で、いまだかつて、こんな陰謀が精神の不均衡な人間によって、考えられ実行されたことはなかったんです。普通の場合だと、一瞬たりとも、僕はごまかされはしなかったでしょう。しかし、事情はかくの通りで、これがいかに持ってまわった事件であったかを悟るのに、相当の時間を要したのです」
「何のお話ですの」と、ゼーヴィア夫人が、強《きつ》く言った。
「あの『手掛り』です。なくなったご主人と、義弟《おとうと》さんの手に残っていた手掛りですよ、奥さん」と、エラリーは低い声で「しばらくして、あんなことは不可能だと思うようになりました。あんなものは、死にかけている人間が思いつくにしては、巧妙すぎます。巧妙すぎて、複雑すぎます。その巧妙すぎる点が、それを使った犯人の愚かさを示します。普通人には見落とされてしまいます。事実、あの現場に僕が偶然に現われなかったら、十中八、九、あの手掛りの意図するものは洞察されないでしまったでしょう。これは僕がうぬぼれから言うのではなく、ある意味では、僕自身の精神が、この殺人犯人の精神のようにひねくれているからです。僕には犯罪精神があるのです。そして、うまいことに、殺人犯人にも、それがありますからね」と、中休みして、息をついた。「それで、今もお話した通り、しばらく経つと、僕はあの手掛りの真実性を疑いました。それから、またしばらくして――今、ここで考えてみて――あの手掛りは、すっかり放棄することにしました。すると、たちまち、僕には、全体の奇怪な真相、奇怪で悪賢く、とっぴで驚くべき真相が分かって来たのです」
エラリーは、また一息ついて、乾いた口の中で舌を動かした。警視は面くらって、エラリーを睨んでいた。
「いったい、何の話をしているのかね」と、ホームズ医師が、かすれ声で言った。
「これから話しますよ、先生。われわれは最初、この事件には、ただ一回の罠――マーク・ゼーヴィアが、ゼーヴィア夫人に仕かけた罠しかないという、誤まった推定から、事件の追及を始めました。つまり、われわれの推定では、ゼーヴィア博士殺しの手掛り、あのダイヤのネイヴ〔ジャック〕は、本当に博士が残したものとみていたのです」
「すると、エル」と、警視が問いただすように「あの弁護士は、あの晩、書斎で、兄貴の手に半ぺらのジャックが握られていたのを、発見したんじゃないというのか」
「おお、マークはたしかに、半ぺらのジャックを見付けたのです」と、エラリーは、うるさそうに「そして、その点が問題の要《かなめ》なんです。その時、マークも兄のジョンが、加害者の手掛りとして、あの半ぺらのジャックを残したものと推定したにちがいありません。ところが、それは、われわれ同様、全く誤った推定だったのです」
「だが、どうして、そんなことが分かる?」
「いましがた、思い出した事実によってです。ホームズ先生が、同僚の死体を検診したあとで、ゼーヴィア博士は糖尿病だったから、その病理的条件によって、死後硬直がきわめて迅速で、時間の問題というより、むしろ分の問題だと言いました。ゼーヴィア博士が午前一時頃死んだのは分かっています。マーク・ゼーヴィアは二時半に死体を見付けています。そのときには、死後硬直は、ずっと前に完了してしまっていました。ところで、あの朝、われわれが死体を発見したとき、ゼーヴィア博士の右手は、握りしめられて、スペードの6を持っており、左手は机の上に、手の平を下にして平らに投げ出され、指は固く真直ぐになっていました。だが、もし死後ただちに硬直が始まったとすれば、マーク・ゼーヴィアが、兄の死後一時間半たってから、死体を発見したときには、あの両手は、同じ状態だったはずです」
「それで」
「これでも、分かりませんかね」と、エラリーが大声で「マーク・ゼーヴィアが、兄の右手が握りしめられ、左手が硬直して平らになっているのを発見したのなら、死んで硬くなっている指を折るか、目的を達するためには非常に大きな力を加える必要があったことを示す痕跡を残さずに、兄の右手を解いたり、左手を握らせることはできなかったはずです。もし、死んだ手に細工をしなければならなかったとしても、同時に、元のままにしておかなければならなかったはずです。その点には問題はない、しかし、マークは、ジョンが右手を握りしめ、左手をのばしていたのを発見しています。われわれが発見したのと同じ状態です。ところで、マークがスペードの6とダイヤのジャックをすりかえたのが分かっています。すると、マークがすりかえをやったとき、ダイヤのジャックは、どちらの手にあったはずでしょうか」
「むろん、右だ。握ってた方にきまっとる」と、警視がつぶやいた。
「その通り。ダイヤのジャックはゼーヴィア博士の右手にあったのです。マークはただ、お父さんが、故人の手からスペードの6を抜きとったと全く同じ方法をとらなければならなかったはずです。つまり、充分に、カードが落ちる程度、死んで硬く握りしめられている指を、ひき離すだけでよかったのです。そして、スペードの6を挿しこみ、わずか一インチばかり離れていた指を元にもどして、握りしめている形に直したのです。ダイヤのジャックが左手になかったのは、マークが発見したときに、ジョンが左手でそれを握っていなかったからに過ぎないのです。なぜなら、もし左手で握っていたのなら、その手をほどいて、机の上に平らに戻しておかなければならず――そんなことするのは、前にも言った通り、暴行の痕跡を残さずには、不可能ですし、死体を検査したとき、そんな形跡は、まるでなかったのです」
エラリーは言葉を切った。しばらくの間は、みんなの頭上で、ばりばりともののはぜるおそろしい音ばかりだった。数分前から時々、上の床で、どさっという鈍い音がしていた。今もその音がしたが……みんなの耳には、つかなかったらしい。みんなは、また、魅せられるような興味のとりこになっていた。
「でも、それで――」と、フォレスト嬢が、からだを前後にゆすりながら言いかけた。
「まだ分からないんですか」と、エラリーがかなり、愉快そうに「ゼーヴィア博士は右利きでした。僕が前に証明した通り、右利きの人がカードを二つに裂けば当然右手で裂き、右手で丸め――丸めないとしても、少なくとも、要らない半ぺらは右手で捨てたはずです。というのは、どっちの半分を捨て、どっちの半分を残すにしろ、どちらも正確に同じものだったのだから、なんら変わりはありませんものね。だから、ひとりでに、左手に、半分残すことになります。だが、僕は、マークが発見したとき、残された半ぺらは、ゼーヴィア博士の右手にあったはずだと説明しました。したがって、ゼーヴィア博士は、全然、あのカードを裂かなかったということになります。だから、誰か他のものが、あのカードを裂いて、博士の右手に残していったことになります。したがって、双子の犯罪を意味するあのジャックの半ぺらも、罠だったことになり、双子はゼーヴィア博士殺しについては、全く無実だと解さなければなりません」
一同は、ぽかんとして、微笑することも、ほっと胸なぜ下ろすこともできず、ただ呆れて、エラリーを見つめていた。有罪無罪をひっくるめて、みんなの頭上のドアの外まで死が迫っているのに、こんなことは大した問題じゃないなと、エラリーは思った。
「最初の罠がしかけられたのは」と、エラリーが、すぐつづけた。「二時半より前で、マークが犯罪現場に偶然ぶつかった前だから、ダイヤのジャックを使ってカロー双子《きょうだい》をはめようとした最初の罠は、たしかに、犯人によって仕かけられたものと主張してもいいかと思います。よほど屁理屈をこねまわさない限り、罠をかけた奴が犯人ではなく、マークの前だが、犯人のあとから書斎に現われたなどと言うことにはなりません。つまり、犯人の他に、罠をかけた奴がふたりいたなどというのは」と、強く首を振って「あまりにも空想的にすぎます。だから、双子を罠にかけた奴が、真犯人なのです」
「死後硬直の点からみて、双子に罪をかぶせるために、ダイヤのジャックを残したのは犯人であって、ゼーヴィア博士じゃないというのは」と、ひどく興味をそそられながらも、警視は、疑わしげに「どうも――そう、少し独断にすぎるようだな。どうも納得しかねる」
「そうかな」と、エラリーは、必死になって、一同の注意を炎から外らさせようとしながら、微笑をうかべて「おお、たしかに、そりゃ理論じゃなくて、事実です。実証できますよ。しかし、そうする前に、そうなると当然おこる別の問題、マーク・ゼーヴィア殺しの犯人はその兄殺しと同一人物かという問題を、取り上げてみたいのです。同一人物が二つの犯罪を犯した確率は圧倒的に有力ですが、論理的にそう推定する権利はありません。僕はそう推定しませんでした。僕は自分が納得するために、証明してみただけです。
マークが殺される直前の状況はどうだったでしょうか。マークは兄殺しの名前だと主張するものを明かそうとした直前に意識を失ってしまったのです。ホームズ先生の見立てだと、あの怪我人は数時間のうちに意識を回復するチャンスが充分にありました。みんな、その場にいて、先生の見立てを聞いていたんです。では、マークの意識の回復で、一番危険にさらされるのは誰だったでしょうか。われわれが因果関係の最も初歩的な真理を認めるなら、死にかかっている男によって、化けの皮をひんむかれそうだと思った奴、つまり、博士殺しの罪の意識を持っていた奴であることは明白です。したがって、この特殊な、重大な情況のもとで、あの夜マークの寝室に忍び込み、永遠に口をふさぐためにマークに毒を盛った奴が、ゼーヴィア博士殺しの真犯人だということに疑いをさしはさむのは、理性の前に面をそむけることだと、僕は言いたいのです。それに、いいですか、マークが本当に誰が犯人かを知っていようがいまいが、これは真実です。ただ、おどしだけでも、犯人に手を出さざるを得なくするに充分だったのです」
「その点は異議なしだ」と、警視がつぶやいた。
「実際に、その確証もあります。別の場合を考えてみましょう。つまり殺人犯人はふたりで、マーク殺しと、ジョン殺しは別人だったとする場合です。その場合、第二の殺人犯人は、その犯罪を行なうのに、あのような、おそらく最悪の時期を択んだでしょうか――僕はあえておそらく最悪の時期といいますが、奴はマークが専門の、しかも爪先まで武装している探偵に監視されていることを知っていたからです。そうです。この危険をあえて冒した唯一の人物は、冒さざるを得なかった誰かですし、マークを殺すのはいつでもいいと言うのではなく、あの晩、マークが正気づいて口を割る前に殺さなければならなかった誰かです。そこで僕はあえて言いますが、われわれが取り組んでいる犯人はただひとりです。この説には、論理的にも心理的にも、なんらの欠陥もあり得ないと思うのです」
「だれも異存はない。だが、双子に罪をきせるために、あのダイヤのジャックを残したのが、ゼーヴィア博士ではなく、犯人だったという、その結論を、どうやって確証できるんだ」
「いまその点にふれようとしていたところです。実際には、確証する必要はないんです。ゼーヴィア博士を殺したあとで、双子を罠にかけようとしたことは、犯人自身が自白していますよ」
「自白してる?」その言葉には、警視をはじめみんな、唖然とした。
「言葉よりも、むしろ行動でね。きっと、善良な皆さんは、マーク・ゼーヴィアの死後、誰かが、ゼーヴィア博士の机の上にあった一組のカードを隠しておいたあのキャビネットの錠をこじ開けようとしたと聞くと、びっくりするでしょうね」
「何だって」と、ホームズ医師が、おどろいて「そりゃ、知らなかった」
「お知らせはしませんでしたからね、先生。しかし、マークの死後、誰かが、居間の壁のはめこみキャビネットの錠をいたずらしました。あのキャビネットには何がはいっていたか。ゼーヴィア博士殺しの現場から持って来たあの一組のカードが入れてあったのです。あの一組のカードには、ただ一つ特徴があったのです。誰かがあのキャビネットの錠をこじ開けようとしたのを正当づける何らかの理由があったとすれば、それは、その特徴です。では、いったい、どんな特徴か。それは、あの一組には、ダイヤのジャックが欠けていたという事実です。だが、あの一組からダイヤのジャックが欠けているのを知っていたのは、だれでしょう。それはふたりだけで、マーク・ゼーヴィアとゼーヴィア博士殺しの犯人です。しかし、マーク・ゼーヴィアは死にました。すると、こじ開けようとしたのは、犯人だということになります。
ところで、犯人がキャビネットをこじ開けようとした動機は、はたして、どんなものでしょう。あのカードを盗んだり、破棄したかったのでしょうか。ちがいます」
「いったい、どうして、そんなことが言えるんだ」と、警視が、どなった。
「家中の者が、あのキャビネットの鍵は一つしかないことを知っていたし、あの中にあるのはあのカードだけなのを知っていたし、最も重要な点は、そのただ一つの鍵をお父さんが持つているのを知っていたからですよ」と、エラリーは冷く笑って「では、どうして、そのことから、犯人にはあのカードを盗んだり破棄したりする意志がなかったことが証明できるか。それには証拠があります。もし犯人があのカードに手をかけたいなら、お父さんがマーク・ゼーヴィアの寝室の床に、手も足も出ず、意識を失って倒れていたときに、なぜ鍵を奪いとらなかったのでしょう。その答は、奴は鍵など要らなかったし、キャビネットに手を入れる気はなかったし、あのカードを盗んだり破棄したくなかったのです」
「分かった。かりにそうだとして――もし奴が手をかけたくないのなら、いったい、なんだって、キャビネットをこじあけようとしたんだ」
「そりゃ非常に適切な質問ですよ。ただ一つ考えられるのは、奴はあのカードに注意を向けさせたかっただけでしょうね。その点には確証すらあります。金属製のキャビネットをぶちこわそうとするのに、ちっぽけでけちな火かき棒しか使っていないので、奴の意図が、盗むことよりはむしろ、盗もうとしたことを吹聴しようとしたものだということが分かったのです」
「畜生め」と、スミスが、しゃがれ声を出した。
「たしかにね。ともかく、あの出来事が、最初のあの一組のカードに、われわれの注意をひいて、もう一度調べさせ、ダイヤのジャックが欠けているのを発見させるための、ごまかしであり、策略であり、方便だったことは明らかです。しかし、ジャックが欠けていることに、われわれの注意を向けさせる動機を持っていそうな者は誰でしょう。なくなったダイヤのジャックで罪を告発されている双子でしょうか。もし、双子たちがキャビネットをこじあけようとしたのなら、その動機は、あのカードを破棄する決意以外にはあり得ません。僕はただ今、こじあけようとした者の目的は、あのカードに注意をうながすことだと説明しました。――もし、双子たちが罪を犯していたのなら、なおのこと、絶対にそんなことはしたくなかったはずです。だから、双子たちが錠をこじ開けようとしたのではありません。また一方、錠をこじ開けようとしたのが殺人犯人だと言いました。したがって、この点でもまた、双子たちは――その一方にせよ、両方にせよ――殺人犯人ではないということになります。だから、結局、双子たちは殺人犯人に罠をかけられたことになります――以上が、もともと、僕の立証したかったことです」
カロー夫人がため息をついた。双子たちは、目に尊敬の色もあらわに、エラリーを見つめていた。
エラリーは立ち上がって、せかせかと、大股で歩きまわり始めた。「誰が真犯人であり――罠をかけた人殺しか」と、かすれるような不自然な声で「犯人の正体をあばく、徴候か証拠か手掛りが、何かあるか。そうです、たしかにあるんです。そして、僕は今、それに思い当たりました――しかし、時すでにおそく」と、あっさり言いそえた。「自ら慰めるより他に、何も手の打ちようがありません」
「じゃあ、知ってらっしゃるの」と、フォレスト嬢が叫んだ。
「たしかに知っていますよ、お嬢さん」
「だれだね」と、『骸骨』が、だみ声で「だれかね、そん畜生は――」と、じろじろ見まわし、骨ばった握り拳を、ぶるぶるふるわせた。その目は、スミスを一番長く睨んでいた。
「犯人は、普通の情況のもとでは、誰にも解釈できなかったような、奇想天外な手掛りを作ろうなどという、つまらない真似をしましたが、それはそれとして」と、エラリーは急いでつづけた。「たいへんひどい手抜かりを一つしました」
「手抜かりだと」と、警視が目をぱちくりした。
「ああ、それがなんとも大変な手抜かりです。ふみにじられた自然の掟が、犯人に強要した――全く避け得られない手抜かりで、犯人の異常性から生じた手抜かりです。それは、マークを殺し、警視にクロロホルムをかがしたとき、その人物は」――と、一息入れて――「警視の指環を盗んだことです」
一同は、あきれて、警視を見つめた。ホームズ医師が、ぼっそりと言った。「なんだと――またか」
「それは、まったくつまらない、ちゃちな指環でした」と、エラリーが夢みるように「一ドルもしないような、金の|かまぼこ《ヽヽヽヽ》指環です。そう、先生、僕たちがここへ着いた晩、あなたとフォレストさんが、ためらいがちにお話になった、あのつまらない指環|盗人《ぬすっと》の二の舞いですよ。妙ですねえ、こんな風変わりな、まるっきり無関係に見える事実が、犯人の首をしめ上げるんですからね」
「だが、どうして」警視が、口と鼻に当てていた、すすだらけなハンカチの下で咳きこんだ。みんなも鼻をむずむずさせて、新たな不安にかき立てられた。空気はひどくよごれていた。
「さて、なぜ、あの指環が盗まれたのでしょう」と、エラリーは大声で「なぜ、フォレストさんのと、ホームズ先生の指環が盗まれたんでしょう。何かご意見がありますか」
誰ひとり答えなかった。
「さあ、さあ」と、エラリーは、からかうように「最後の時間を、とんちくらべで、楽しくやりましょう。きっと、みなさんにも、動機らしいものが、少しは考えられるでしょう」
エラリーの切り込むような声でみんなは、また首を擡《もた》げた。
「そうだな」と、ホームズ医師が、つぶやくように「指環の値打ちのために盗まれた、なんてことはあり得ないね、クイーン君。そりゃ、君自身が指摘したものね」
「その通り」君のすばしっこい頭のおかげで話がうまくつづいてたすかると、エラリーは思いながら「ともかく、ありがとう。誰か他には。フォレストさんは?」
「だって……」と、娘は乾いた唇を甜《な》めた。その目がらんらんと輝いていた。「そりゃ――そう、感傷的な理由じゃあり得ませんわね、クイーンさま。どの指環も、きわめて個人的な価値しかなかったのはたしかね。つまり――持主にとってという意味でよ。泥棒には、きっと、そんな理由は、何一つなかったでしょうね」
「うまい解釈だな」と、エラリーがほめて「全く、その通り、フォレストさん。さあさあ、気を抜かないで。面白くやりましょう」
「もしかして」と、フランシス・カロー少年が、おずおずと口をはさんで「家にあった指環の中の一つに――そう、かくし穴かなんかがあって、何か秘密か、毒みたいなものが、入れてあったのかもしれない」
「僕も今、そう考えてたんだ」と、ジュリアンが言って、咳をした。
「利口だな」と、エラリーが、無理に、にやにやして「他の指環を盗んだ場合だったら、そんなことも有り得るだろうがね、しかし、同一人物が――明白に同じ人間が――警視の指環を盗んだのを考えると、その可能性も消えちまうだろう、フランシス君。考えるまでもなく、泥棒が、警視の指環からかくし穴を探し出すなんてことは、とても言えないだろう、フランシス君。まだ、他には?」
「そうか」と、いきなり、警視が、うなった。そして、ガンジーのように小柄で細っそりしたか躯《からだ》で立ち上がり、疑わしげに、あたりを見まわした。
「ついに嗅《か》ぎつけましたね。いつ、分かるかと思ってたんですよ、お父さん。ねえ、警視の指環の泥棒が、はっきり示している通り、いままでの泥捧も、すべて目的は一つ――単に所有欲だけです」
ホームズ医師が、はっとして、何か言いかけた。そして、身をすくめて、言葉をのみこむと、じっと石の床を見つめた。
「煙だわ」と、ゼーヴィア夫人が、立って階段を見守りながら叫んだ。その声で、みんなとび上がり、黄ばんだ電灯の下で、青ざめた。煙は、エラリーがドアの下の隙間に詰めたものの間から洩れて来ていた。
エラリーはブリキのバケツをひっつかんで、階段を駆け上がった。そして、中の水を、くすぶっている詰物にぶっかけると、じゅうっと音たてて煙が消えた。
「お父さん。その大バケツの水を持って来て下さい。さあ、手伝います」ふたりで支えて、バター缶を階段の上に運び上げた。「ドアを濡らしておきましょう。できるだけ長く、避け得ない事態を引きのばしたいですからね……」階段から駆け下りたエラリーの目は、きらきらしていた。「もう少しです、皆さん、もう少し」と、浮き足立った連中の注意を引こうと、懸命になっている客引きのように言った。その言葉尻は、ドアを濡らすために、警視が必死に水をかける音でかき消された。「単なる所有欲だと言いましたが、皆さんに、その意味が分かりますか」
「おお、やめて」と、誰かが、あえいだ。みんな、立ち上がり、おびえ上がって、ドアを見つめていた。
「お聞きなさい」と、エラリーが荒っぽく「僕が、ひとりひとり、ゆすぶって上げなきゃ駄目かな。坐りなさい」みんなは、ぼーっとして、腰を下ろした。「その方がいい。さあ、聞いて下さい。値打ちのない指環みたいな、一定の物を無差別に盗むのは、ただ一つのことだけを意味します――窃盗狂です。窃盗狂患者は、ただ単に指環を、どんな指環でもいい、指環だけを盗むのに専念します。僕がそう言うのは、見たところ、他のものは何も盗まれていないからです」
みんなは、また耳を傾けていた。耳を傾けようと強いて努力していた。頭上の焦熱地獄を考える以外のことなら何でもしようと強いて努力していた。今や、絶え間なく、もえがらの落ちる音が、どさんどさんと聞こえて来た。まるで、墓穴の底に下ろした棺に土くれが落ちるような音だった。
「つまり、みなさんの中の窃盗狂《クレプトマニア》を探し出せば、それが、ゼーヴィア博士とマーク・ゼーヴィアを殺した犯人であり、双子少年たちを罠にかけようとした犯人です」
警視が、もっと水をとりに、息を切らせながら、とび下りて来た。
「そこで」と、エラリーは、たけだけしく顔をゆがめて「僕は、つまらん一生の最後の切り札として、まさにそいつをやりとげようと思います」と、いきなり手を上げ、小指にはめている非常に珍しく美しい指環を抜き始めた。一同は茫然として、エラリーを見守った。
苦労して抜きとると、それを古箱の上に置いた。そして、その箱をみんなのまん中に、そっと押しやった。
それから、胸を張ると、二、三歩さがって、あとはもう何も言わなかった。
みんなの目は、その小さなきらきらする装身具の上に、絶望的な計略の表象というより、それが救いででもあるかのように、釘づけられていた。咳さえ聞こえなくなった。警視も下りて来て、その視線のいっせい射撃に加わった。そして、誰も、全然口をひらかなかった。
気の毒なばかどもだと、エラリーは肚《はら》の中でうなりながら思った。『何がおこるか、僕が何をしているのか』が分からないんだからなあ。エラリーはできるだけ、こわい顔をして、冷静に、睨みまわしていた。そして、今この瞬間に、みんなの注意力が完全に奪われている間に、みんなが死から顔をそらせているほんの束の間に、みんなの上に天井が崩れ落ちて、その衝撃と煙とともに死がくればいい、何の警告も苦痛もなく、みんなの命が一瞬に消え去ればいいと、切望していた。そして、いつまでも、睨みつづけていた。
一同はそのまま身動きもせずに、時がたつのも分からなかった。聞こえるものは、頭上にものの崩れ落ちる音と、かすかに、ひゅうひゅうと絶え間なく鳴りつづける炎の音だけだった。穴ぐらの冷気は、ずっと前に消えて、鼻孔をつまらせるような、むんむんと堪え難い熱気に代わっていた。
それから、いきなり、女の悲鳴があがった。
*
おお、神さま、僕の策略が当たった、と、エラリーは思った。なんとしたことだ。なぜ死ぬまで頑張れなかったんだ。だが、女には、いつも、自分の浅知恵に溺れる、あわれなか弱いおろかさがあるのだ。
*
女は、もう一度悲鳴をあげて「そうよ、私がしたのよ。私がしたのよ、かまやしないわ。私がしたのよ、何度でもしてやるわ――畜生――どこにいたって」
女は息をのみ、目に狂気じみた色を浮かべて「何のちがいがあって?」と、金切り声で「どっちみち、みんな死ぬのよ。地獄に行くんだわ」と、ふるえる双子を抱きかかえるようにしているカロー夫人の、化石のような顔の前に腕を振り上げて「私が殺したのよ――あのひとを――それを知ったから、マークも。あのひとは、愛し合ってたわ、あの――あの……」女の声はのどにつまり、支離滅裂《しりめつれつ》なつぶやきになったが、また高まって「打ち消したって駄目よ。ひそひそ、ひそひそ、いつまでもひそひそ――」
「ちがいます」と、カロー夫人が、ささやくように「子供たちのことだけを話し合ったのよ。いいこと。わたくしたちの間には、なんにもなかったのよ――」
「仕返しだったのよ」と、女が叫んで「みせかけたのよ、まるで――あなたの子供たちが、あのひとを殺したかのようにね――あなたが、わたしを苦しめたように、あなたを苦しめるためにね。でも、マークが、最初のをぶちこわしたわ。誰がしたか知ってるぞと言うもので、マークを殺さなければならなかったのよ……」
一同は女がわめくままにしておいた。すっかり気が狂ってしまって、口の隅から泡を吹いていた。
「そうよ、指環も私が盗んだわ」と、大声で「あなたは、指環をそこへ置けば、私には我慢ができないと思ったのね――」
「そうさ。君には我慢ができないさ」と、エラリーが、口ごもって言った。
女は聞いていなかった。「あのひとが引退したのは、そのためだったのです、それから……あのひとは、気がついて――私の病気に。私を癒そうとして、私を世間や、誘惑から引き離そうとしましたわ」と、ほろほろと涙を流しながら「そうよ。あのひとは成功しかけてもいたのよ」と、金切り声で「その時、あいつらが来たの――あの女と、悪魔の申し子たちが。それに、指環も、いくつも、いくつも……もう、どうなってもかまわないわ。喜んで死ぬわ――喜んでよ。聞いてるの? うれしいわ」
それは、ゼーヴィア夫人だった。煙るような黒目と、波打つ胸をした、ゼーヴィア老夫人は、ぼろぼろになったガウンをまとい、肌は煤《すす》と涙にまみれて、すっくと立ってふらふらゆれていた。
夫人はふるえながら、深くひと息吸い、すばやく、まわりを見回したかと思うと、誰ひとり身動きするひまもあらばこそ、一同の恐怖をしり目に、さっとばかり隙間を跳ね越え、化石のように突っ立っていた警視を突きのけ、警視がよろよろとバランスをとっているうちに、穴ぐらの階段を、すてばちの異常なすばやさで、駆け上がった。エラリーが追いつく前に、夫人は穴ぐらのドアを引きあけ、ちょっと立ちどまり、もう一声叫ぶと、さかまく煙をくぐって、まっしぐらに炎に包まれた外の廊下へ、とび込んで行った。
*
エラリーは、とっさに夫人を追った。煙と炎に、たじたじと押し返されて、咳き入り、むせんだ。目の前の焦熱地獄に向かって、けたたましく叫び、叫んでは咳き入り、また叫んだ。だが返事はなかった。
そこで、しばらくしてから、ドアを押して閉め、アン・フォレストのドレスの小布れを、底の隙間に詰めもどした。警視は、よろめく自動人形のように、さらに水を運んで階段をよじ登った。
「まさか」と、フォレスト嬢が、おどろいて、ささやいた。「あの方が――あの方が……」と、ヒステリックに笑ったかと思うと、ホームズ医師の両腕に身を投げて、恐ろしくいつまでも笑ったり、泣いたり、むせんだりしていた。
エラリー父子は、ゆっくりと階段を下りて来た。
「だが、エル」と、警視は哀れっぽいふくみ声で、子供のように「どうして――なぜだ――さっぱり分からん」と、煤だらけな手で額を撫ぜながら、せがんだ。
「最初からずっと分かっていたはずなんですよ」と、エラリーがつぶやいたが、その目には生気がなかった。「ジョン・ゼーヴィア博士は装身具好きで、引出しいっぱい持っていましたね。だが、指環だけは一つもなかった、なぜでしょう」と、唇を甜めて「僕は窃盗狂《クレプトマニア》に思いついたとき、そのわけがつかめたんです。それもそのはず、博士の最も身近かな、最愛のひと――誰あろう、あの奥さんが窃盗狂《クレプトマニア》だったんですからね。博士は、その特殊な誘惑から、奥さんを遠ざけようとしていたんです」
「奥さまが」と、叫んで、家政婦のホイアリーが、いきなり、石炭の山の上で、|ひきつけ《ヽヽヽヽ》て、びくびくと、からだを痙攣《けいれん》させた。
エラリーは階段の一番下に腰かけて両手に顔を埋め「このいまいましい事件は、まるっきり無駄骨折りでしたね」と、苦々しげに「お父さんは最初から正しかった――ただし、別の理由でね。驚くべきことは、あの日、夫殺しを難詰《なんきつ》されたとき、夫人が自白したことです。なんと、お父さんには分からないんですか。あのひとは自白したんですよ。その自白は本ものでした。誰もかばってはいなかったんです。あのひとは降参したんです、なんて、あわれな弱い人間だったのだろう――あのひとは」と、身ぶるいして「僕はなんてばかだったんだろう。あのひとを罪におとした証拠が、嘘の証拠だということを証明して、あのひとを救ってやり、無実の罪をそそいでやる機会を与え、あのひとが誰かを庇《かば》っているんだという、われわれの疑惑をたきつける機会を与えちまったんだから。あのひとは、どんなに僕を笑ったことだろう」
「あのひとは笑ってはいませんわ――もう」と、カロー夫人が、かすれた声で言った。
エラリーの耳には、はいらなかった。「だが、あの罠については、僕は正しかった」と、つぶやいた。「あのひとは罠にかけられた――マーク・ゼーヴィアに。それは僕が説明した通りです。しかし、それについて、驚くべきことは――全体の話を通じて、最も意外な部分は――マーク・ゼーヴィアが、博士夫人を罠にかけたとき、全く無意識に真犯人を罠にかけていたということですよ。全くの偶然で、です。おそろしい皮肉じゃありませんか。マークは夫人を無実と思いながら、実は、有罪人の首に縄をかけてたわけなんだから。そうですとも、マークは最初、夫人に罠をかけるとき、実際は双子が有罪だと考えていたと、僕は確信します。おそらく、後になって真相を勘づいただろうと思います。マークがゼーヴィア夫人の寝室に、はいり込もうとした日のことを憶えていますか。あの時、夫人が罪を自白したときの様子から、偶然にも、本ものの罪人を罠にかけたことを勘づき、更に別の不利な手掛りを残して、のっぴきならなくしてやろうと思っていたのでしょうよ。しかしその点は永久に分からないでしょう。マークを毒殺して、その手にダイヤのジャックを残したのは夫人です。マークには自分でそんなことをするチャンスはなかった。僕には、とうてい信じられませんよ――死にかけている男が、そんなことをするなんて……できるなんて……」と、エラリーは言い終って、うなだれた。
やがて、エラリーは顔を上げて、みんなを見まわした。ほほえもうとした。スミスは、こわさ呆けしていたし、家政婦のホイアリーは、あわれなうめき声を出して、石炭の山の上でもがいていた。
「どうです皆さん」と、かなり努力しながら「僕は、もう、事件のことは、きれいさっぱり忘れちまいましたよ。今ごろは、もう、そろそろ……」
エラリーは、また言葉を切ったが、切ると同時に、みんなが、いっせいに、はね起きて、がやがやと「ありゃあ何だ? 何でしょう?」
それは、もののぶつかる響きで、家の土台をゆすぶり、まわりの峰々に、かすかに|こだま《ヽヽヽ》した。
警視が三股で階段をとび上がった。そして、腕で目を炎から守りながら、ドアを、さっと開いた。
ちらっと空が見えた――上の建物は、かなり前に焼け落ちて、焼けぼっくいになっていた。すぐ足の前で、実に不思議な現象がおきていた――何百万という小さな槍《やり》が、沸騰《ふっとう》していた。その鋭い刃先から、じゅうじゅういう音が立ちつづけていた。煙よりもはかない蒸気の雲が、あたり一面、立ちのぼっていた。
警視はドアを閉じて、実にうやうやしく、まるで一歩一歩が祈りであり、祝福ででもあるかのように、階段を降りて来た。下まで降りついたとき、みんなは、警視の顔色が紙よりも白く、目にいっぱい涙ぐんでいるのを見た。
「どうしたんですか」と、エラリーが、こわごわ訊いた。
警視は不機嫌のように「奇跡だ」
「奇跡って」と、エラリーは、あいた口がふさがらなかった。
「雨が降っとる」(完)
訳者あとがき
この作品は一九三三年十一月に初版が出た、The siamese twin mystery で、エラリー・クイーンの国名シリーズとしては、第七作目の作品である。
エラリー・クイーンの国名を冠したシリーズは、読者に挑戦する謎解きを特徴としているが、この作品では、特に、読者への挑戦がない。しかし、一枚のトランプのカードに焦点を絞ったこの作品の謎は、なかなか精巧で、エラリーに引っぱられることなしに、自分の力で、解いてみると実に興味深い楽しみがある。
シャム双子といえば、皆さんもご存知のように、背中のくっついた双子で、畸型中の畸型である。そういう双子が出てくるだけでもこの作品が、何か陰惨で、奇怪な気がするが、ここに出て来る双子は、ほほえましい、愛すべき兄弟に書かれている。作中に双子の説明があるが、エンとチャンというシャム〔タイ〕の双子兄弟が実在した。一八一一年五月にシャムのバンゲサウで生まれ、身長五フィート二インチに育ち、歩行、水泳、走行ができ、アクロバット芸人として、名をなし、アメリカに帰化して、結婚し、一八七四年一月にノースカロライナ州、マウント・エアリで幸福に死んでいる。この兄弟が世界的に有名であり、人気者でもあったので、接合双子のことを俗に、シャム兄弟というのである。エラリーは、この兄弟を思い浮かべて、接合双子の明るい面を書こうとしているようだ。
双子といえば、皆さんもすでにご存知のように、エラリー・クイーンというのは、フレデリック・ダンネーとマンフレッド・ベニントン・リーという、ともに、一九〇五年生まれの従兄弟《いとこ》同士のふたりの推理作家の合作に使われる筆名である。つまり、この作品そのものが接合双子と言えるであろう。接合双子といえども、当然、ふたりの性格は、微妙に違うはずである。この作品で、どちらが情景描写を受け持ち、どちらが筋立てや、謎を考えたか分からないが、気をつけてみると、二つの話の展開が、巧妙に、編み合わせてあるようだ。
休暇旅行の途中で山火事に追いつめられて、怪しげな山荘に逃げ込む、クイーン父子に迫る火の手との対決。一方、窃盗狂《クレプトマニア》の愛妻を救うために、世を捨てて山荘にひそみ、畸型の研究に打ち込む有名外科医の死。世に珍しいシャム双子を生んだ名門夫人の愛と受難。話はなかなか華麗であり、妙に人間くさく、ロマネスクである。ことに、山火事が迫ってからの、クイーン父子の、あくまでも生きようとする努力と、犯人をも含めて、山荘の人々の死の恐怖をやわらげようと懸命に勉めるヒューマニティは、しみじみと読みごたえのある、美しい物語を展開している。このようないくつかの話の筋の、どちらをフレデリックが、どちらをマンフレッドが受け持って書いたか、この点を推理してみるのも、この作品の興味の一つではあるまいか。
下手な長談義は、さっさと切り上げて、あとは、読者の皆さんに、楽しんでいただくことにしよう。だが、最後に、ひと言。殺しや、かたりや、ゆすりや、のび〔強盗〕が、書いてあれば推理小説だという風潮が、かなりあったが、近ごろ、ようやく、本格推理小説を求める声が聞こえるようになって、ご同慶のいたりである。本格推理小説は謎解きに始まり謎解きに終るロマンチックな、頭のレクリエーションだと、思うのだが、これは、酢豆腐《すどうふ》のたぐいかな。呵々。(訳者)