ギリシア棺謀殺事件
エラリー・クイーン/石川年訳
目 次
まえがき
第一部
一 TOMB……墓地
二 HUNT……探索
三 ENIGMA……謎
四 GOSSIP……ゴシップ
五 REMAINS……遺骸
六 EXHUMATION……死体発掘
七 EVIDENCE……証拠
八 KILLED?……殺人か
九 CHRONICLES……記録
十 OMEN……前兆
十一 FORESIGHT……見とおし
十二 FACTS……諸事実
十三 INQUIRIES……調査
十四 NOTE……書き置き
十五 MAZE……迷宮入り
十六 YEAST……パン種
十七 STIGMA……烙印
十八 TESTAMENT……遺言
十九 EXPOSE……解明
二十 RECKONING……報い
二十一 YEARBOOK……日記帳
第二部
二十二 BOTTOM……どん底
二十三 YARNS……作り話
二十四 EXHIBIT……展示
二十五 LEFTOVER……食べかす
二十六 LIGHT……光明
二十七 EXCHANGE……交換
二十八 REQUISITION……強請
二十九 YIELD……収穫
三十  QUIZ……クイズ
読者への挑戦
三十一 UPSHOT……終演
三十二 ELLERYANA……エラリー式
三十三 EYE・OPENER……大椿事
三十四 NUCLEUS……核心
あとがき
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登場人物
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ゲオルグ・ハルキス……美術商
ギルバート・スローン……ハルキス画廊の支配人
デルフィーナ・スローン……ハルキスの妹、スローンの妻
アラン・シェニー……デルフィーナの息子
デミー(デメトリオス・ハルキス)……ハルキスの従弟、白痴
ジョアン・ブレット……ハルキスの秘書
ジャン・ヴリーランド……ハルキスの外交員
リュシー・ヴリーランド……ヴリーランドの妻
ネーシオ・スイザ……ハルキス画廊の理事
アルバート・グリムショー……前科者
ワーディス医師……イギリス人眼科医
マイルズ・ウッドラフ……ハルキスの弁護士
ジェームス・J・ノックス……富豪の美術愛好家
ダンカン・フロスト……ハルキスの主治医
ジェレミア・オデール……鉛管工事請負人
リリー・オデール……ジェレミアの妻、昔グリムショーの女
ペッパー……地方検事補
サンプスン……地方検事
サムエル・プラウティ……医務検査官補
トリッカーラ……ギリシア語通訳官
ユナ・ランバート……筆跡鑑定係
トマス・ヴェリー……部長刑事
ジューナ……クイーン家のボーイ
リチャード・クイーン……名警視
エラリー・クイーン……特別捜査官、警視の息子
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――M・B・Wに感謝の念をもって
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まえがき
この「ギリシア棺謀殺事件」の序文を書くのは、私には非常に興味がある。というのも、エラリー・クイーン君は、この本の出版をひどくためらったからである。
愛読者諸君は、これまでのクイーン君の小説の序文で、すでにご存知のことと思うが、有名なリチャード・クイーン警視の子息、エラリーの回想録が、小説として公刊されるようになったのは、じつに偶然なきっかけからで――しかも、クイーン父子は、つまり功なり名とげて、楽々とイタリアに引退してからであった。しかし、私がエラリーを説得して最初の一冊〔「ローマ劇場毒殺事件」〕の出版を承認させ、「クイーンもの」を本にまとめることができてからあとは、万事順調に運んで、時にはなかなか気むずかしいこの青年をおだてて、その父リチャード警視がニューヨーク警察本部刑事課に在任中の数々の冒険談を次々に小説化させるのに大して骨も折れなかったのである。
それなら、なぜクイーン君が、このハルキス事件録の出版をためらったかと問われるであろうが、それには面白い理由が二つある。第一の理由は、このハルキス事件がおこったのはクイーン君が非公式捜査官として父警視の権威の庇護のもとに働き出した最初の頃であったし、当時のエラリーは、その有名な分析推理方式をまだ十分に完成させていなかったからである。第二の理由は――この方が強力な理由だと信じるが――エラリー・クイーン君はハルキス事件では最後まで全く屈辱的な敗北を喫したのである。だれでも、いかに謙虚であろうとも――エラリー・クイーンは謙虚な方ではないから、私の言い分にすぐ賛成すると思うが――自分の失敗を好んで世間に吹聴したくないものだ。一度世間の恥さらしになると、その汚名はいつまでも残るものだ。「いかん」とエラリー君は断固として言った。「たとえ活字の上でも、もう一度自責の念にかられるような気分は、味わいたくないね」
われわれ――つまり編集者と私――がハルキス事件(今ここに「ギリシア棺謀殺事件」という題名で出版しようとしている事件)は、大失敗どころか、大成功だと指摘するまで、クイーン君は、てんで心を動かそうともしなかったのである。――エラリー・クイーンは何か人情に欠けていると非難する皮肉な精神の持ち主たちに、エラリーにもこんなふうに世間体を気にするところがあるのを指摘するのは、私の喜びとするところである。……そんなことで、エラリーも最後には両手をあげて降参した。
後年、エラリーの足をあの輝かしい勝利の道へ踏み込ませたのは、このハルキス事件の驚くべき失策がきっかけだったと、私は確信している。この事件が解決するまで、エラリーは試練の業火にさらされ、その上……
もうやめよう、諸君の楽しみを傷つけるのは心ないわざにちがいない。――私のこんな子供っぽい感激を、エラリーも許してくれると思うが――この「ギリシア棺謀殺事件」はあらゆる点から見てエラリー・クイーンの最もすばらしい冒険談なのである。
ご愛読を願うものである。
J・J・マック
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第一部
科学、歴史、心理学など、現象面の探求に思考の適用を要するあらゆる分野では、すべてのものごとが、外見とちがっていることが多い。有名なアメリカの思想家ローウェル〔一八五七〜一九四三 ハーバード大学総長〕は「賢明な懐疑主義はよき批評家たる第一属性である」と言っている。私は、この同じ理論は犯罪学の研究者にもあてはめることができると思う。……
「人間の精神は、おそろしい、そしてひねくれているものである。そのどの部分にでもひずみができると――たとえそれが、現代の精神病理学のどんな測定器を使っても測れないほど軽いひずみでも――その結果、精神の混乱を生じやすいものである。動機の説明がだれにできるだろうか。情熱なのか。一種の精神作用なのか。
もはや、記憶にもとどまらぬほど長い年月、頭脳の予知しえない濃霧の中に手をひたしてきた私は、諸君に忠告する。諸君の目を使い給え。神が与え給うた小さな灰色の細胞を使い給え。しかし、常に警戒を怠り給うな。犯罪行為には型はあるが論理はない。混乱に脈絡をつけ、混沌に秩序をもたらすのが諸君の任務である」(――フロレンツ・バッハマン教授のミュンヘン大学における「応用犯罪学」講座最終講演より。一九二〇年)
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ゲオルグ・ハルキス氏逝去 心臓麻痺、六十七歳
――三年前に失明していた国際的に著名な美術収集家兼美術商――
ゲオルグ・ハルキス氏は、当市有数の美術収集家兼鑑定家兼取引人であり、ハルキス画廊の創設者で、ニューヨークの旧家ハルキス家最後の生存者のひとりであったが、土曜日朝、自宅の書斎で、心臓麻痺のため、六十七歳で逝去された。
ハルキス氏は数年来、主治医ダンカン・フロスト氏がその失明の原因という内臓疾患のために自宅療養中であったが、突然の死を迎えた。
同氏は終世、ニューヨーク市民であり、アメリカが有する最も貴重な美術品の数々を、わが国に招来した人物である――それらの美術品は現在、各地の美術館、同氏取引先のコレクション、五番街のハルキス画廊に収められている。
遺族は、ハルキス画廊支配人ギルバート・スローン氏夫人で故人のただひとりの令妹デルフィーナ夫人、スローン夫人の先夫との令息アラン・シェニー氏、従弟デメトリオスの三人――遺族は、ニューヨーク市東五十四番街十一番地の故人の邸宅に居住している。
告別式ならびに埋葬式は十月十五日火曜日に執行されるが、故人生前の希望を尊重して、厳重に近親者のみによるとのこと。
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一 TOMB……墓地
ハルキス事件は最初から暗いメロディをかなでていた。この事件は、あとから明るみに出て来た事がらと照らし合わせてみると妙に調和がとれているが、ひとりの老人の死から始まった。その老人の死は、対位法のメロディのように、その後次々におこった複雑な手段による死の行進の縦糸となっていったが、そのメロディからは普通無心の人が死を悲しむ声は全く聞こえなかった。そして最後には、そのメロディが犯罪の一大オーケストラの最高音になり、そのいまわしいメロディの終曲がすんでからも、長くニューヨークの人々の耳に、いまわしい哀歌としての残響を残したのである、いうまでもなく、ゲオルグ・ハルキスが心臓病で死んだ時には、エラリー・クイーンをはじめだれひとりとして、それが殺人交響曲の開幕のモティーフだなどとは気づかなかった。事実、ゲオルグ・ハルキスが死んで、その盲目の老死体が世間なみに、だれでもが当然最後の安息場だと思っている場所へ葬られてから三日経って、ある事実がエラリーの注意を否応なしにひきつけるまでは、エラリー・クイーンはハルキスが死んだことさえ気がつかずにいたらしい。
新聞がハルキスの死亡を最初に報じた時に特筆大書するのを忘れたのは――その死亡記事は新聞雑誌など、てんで読まないエラリーの目にふれなかったが――ハルキスの墓地が風変りな場所にあるという点だった。それは古いニューヨーク地区の珍しい一面を示すものだった。東五十四番地十一番地のハルキスの古風な褐石建ての邸宅は、あの伝統豊かな教会の隣りだった。教会はフィフス・アベニューに面していて、フィフス・アベニューとマジソン・アベニューにまたがる地域の半分を占め、北は五十五番街、南は五十四番街に接していた。そして、ハルキス邸と教会との間に教会の墓地があるが、それはニューヨーク市唯一の古い私有墓地である。故人の骨が納められたのはこの墓地なのだ。ハルキス家は、ほぼ二百年もこの教会の教区員だったから、市の中心地区の埋葬を禁じた衛生法令に縛られることはなかった。フィフス・アベニューの高層建築の蔭に葬られるハルキス家の権利は、代々教会の墓地の地下納骨堂のひとつを所有してきたことによって確保されていた。――その納骨堂は墓地の芝生をいためないように入口が地下三フィートのところに埋められていたので通行人の目には見えなかった。
葬儀は静かで、涙もなく、内々で行なわれた。故人は防腐処理をされ、夜会服を着飾り、大きな黒い立派な棺に納められて、ハルキス家の一階の応接室の棺台の上に安置されていた。儀式は隣りの教会の牧師、ジョン・ヘンリー・エルダー師の手でとり行なわれた。――エルダー師の説教や社会悪に対する具体的な論難攻撃はニューヨークの新聞紙上で優遇されていることをお知らせしておこう。葬儀には、故人の家政婦シムズ夫人が大げさに気絶してみせたほかは、大して興奮する者もなく、ヒステリーをおこす者もいなかった。しかし、後になって秘書のジョアン・ブレット嬢が言ったとおり、何か変な空気だった。その変なものは、医者に言わせれば全くのナンセンスかもしれないが、女性特有の直観力というものかもしれなかった。とにかく、ブレット嬢は一風変ったイギリス流にずばりと、息づまるような空気と説明している。そんな緊張感をひきおこしたのは何人《だれ》か、いかなる個人または複数の個人がその緊張――もし実際にそうだったとすれば――に対して責任があったのか、それについてはブレット嬢は明言できず、また明言したくないようだった。にもかかわらず、万事は秘《ひめ》やかな悲しみをこめて、慎《つつま》しやかに順調にとり行なわれたらしい。たとえば、簡素な儀式がすんだ時、家族の面々や参列の友人たちや使用人どもは列をなして棺にご焼香をし、故人に最後の告別をしてから威儀を正して各自の席にもどった。打ちしおれた故人の妹デルフィーナは泣いていたが、とても上品な泣き方で――ちょっと涙をながし、すぐハンカチでふき、ほっとため息をつくという調子だった。デミー以外の名で呼ぶことをだれひとりとして考えてみたこともないほど皆に親しまれている故人の従弟デメトリオスは、ぽかんとして白痴らしい目をむいて、棺の中の従兄の冷たい平和な顔に見とれているらしかった。故人の妹の亭主ギルバート・スローンは細君のぽっちゃりした手を軽くたたいていた。故人の甥《おい》アラン・シェニーは少し顔をあからめて上衣のポケットに両手を差し込み、じっと宙をにらんでいた。ハルキス画廊の理事、ネーシオ・スイザは喪服に威儀を正して、片隅《かたすみ》に白々しく立っていた。故人の顧問弁護士ウッドラフは、しきりに鼻を鳴らしていた。すべてが自然でごくあたりまえだった。やがて不景気|面《づら》の銀行屋みたいな葬儀屋のスタージェスが店員どもを指図して、棺のふたを手早く閉じつけた。あとはもう野辺の送りだけで、そのものうい仕事のほかは何もなかった。アラン、デミー、スローン、スイザの四人は棺台のわきに陣取り、例によって例のとおり少しごたごたしてから、棺を肩にかつぎ上げて、葬儀屋スタージェスの厳密な点検を受け、エルダー牧師が祈りを誦す中を、葬列はおごそかに邸《やしき》を出て行った。
さてジョアン・ブレットは後日エラリー・クイーンがほめたように、非常に頭のきれる若い女性だった。その彼女が息づまるような空気を感じたのなら、息づまるようなものがたしかにあったにちがいない。しかしどこに――どの方向から? その源を――だれなのかを――つきとめるのは非常にむずかしかった。ヴリーランド夫人とならんで葬列のしんがりをつとめているあごひげをたくわえたワーディス医師から発するものかもしれないし、棺をかついでいる連中からかもしれないし、ジョアンのすぐあとに続いて来る連中からかもしれなかった。ある意味では、家政婦のシムズ夫人がベッドで泣き悲しんでいたり、執事のウィーキスが故人の書斎でぽかんとしてあごをさすっているといったことがもとで、邸そのものから発するものかもしれなかった。たしかにそれは、死の行進をさまたげるほど大したものではないようだった。葬列は五十四番街の表門をくぐらずに、裏門から五十四番街と五十五番街に面している六軒の家に囲まれた私道用の細長い中庭を進んで行った。そして左に曲り、中庭の西側の門をくぐって墓地にはいった。五十四番街にうるさく群がっていた物見高い野次馬連中はおそらくがっかりしただろうが、墓地へ行くのに私道がえらばれたのは、まさにそのためだったのである。野次馬どもは先の尖がった垣《かき》にしがみついて鉄柵の間から小さな墓地を覗《のぞ》きこんだ。新聞記者やカメラマンもまじっていたが、みんな妙に黙りこんでいた。悲劇の主演者たちは観衆には目もくれなかった。葬列はなだらかな芝生をうねって渡ると、芝生に掘られた長方形の穴ときちんと盛り上げた土の塚をとり囲んでいる別の一隊と落ち合った。二人の墓掘り人――スタージェスの店員――と教会の寺男ハネーウェルと、もうひとり、ひどく時代おくれの黒いボンネットをかぶり、涙がとめどなく流れ出る明るい目をふきながら、ひとりぽつねんと立っている小柄な老婦人が、そこにいた。
息づまるような空気は、もしわれわれがジョアン・ブレットの直感を信じるなら、たしかにまだ続いていたと言える。しかもその後の経過は、それまでの事がらと同じく何の変りもなかった。いつもどおりの儀式の準備。墓掘り人が前にかがみこんで、地中に水平に埋まっているさびついた古い鉄のドアの把手《とって》をつかんであける。死んだ空気がかすかに吹き出す。棺が静かに、古い煉瓦《れんが》でたたまれた地下納骨堂に降ろされる。人夫どもの働く気配、低い早口の言葉《やりとり》、棺がゆっくり持ち上げられて片側によせられ、やがて見えなくなる。棺は地下納骨堂の数多くの壁龕《へきがん》のひとつにそっと押し込まれる。鉄のドアがばたりとしまり土と芝がその上にもどされる。……そしてどうしたことか、ジョアン・ブレットが後日その時の印象をはっきり語るのだったが、その時、なぜか息づまるような空気が消え失せたそうだ。
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二 HUNT……探索
消えたと言っても、それは野辺の送りがすんで一同が中庭の小道を引き返し、邸にもどってから、わずか数分後までのことだった。それから、また現われて次から次へと不気味な出来事が続き、その根源がはっきりとわかってきたのはずっと後になってからである。やがて来たるべきものへの最初の警告は、故人の弁護士マイルズ・ウッドラフによって発せられた。この段階での画面はひどく彫りの深いものだったらしい。エルダー牧師は聖職者らしく威儀を正しながらも、いかにも気忙《きぜわ》しそうな寺男のセクストン・ハネーウェルを従えて、おくやみを言いに邸へ引返して来た。涙で目を光らせて墓地で葬列を迎えた例の小柄な老婦人は、何か心づもりでもあるかのように、もどって行く列に加わり、今は邸の応接室にはいって、棺を送り出したあとの棺台をヒステリーじみた目つきでじろじろ見つめていた。一方、葬儀屋スタージェスと店員どもは連中の陰惨な仕事の跡片づけに忙しく立ち働いていた。この小柄な老婦人を招いた者はだれもいなかったし、おそらく白痴のデミーのほかは、だれひとりとして彼女のいることに気がつく者はなかった。そして、デミーはかすかにわかる嫌悪《けんお》の色をうかべて彼女を眺めていた。その他の連中は椅子《いす》に腰かけたり、当てもなくぶらぶら歩きまわっていた。ほとんど口をきく者もなく、葬儀屋と店員どものほかは、だれにも、どうしたらいいかわからなかったらしい。
マイルズ・ウッドラフも後で言っているように、他の連中同様そわそわして、埋葬の後の始末に悪い手持無沙汰をなんとかごまかそうと、全く何の当てもなく故人の書斎にはいって行った。執事のウィーキスがいささかあわてて立ち上がった。少し舟を漕いでいたらしい。ウッドラフは憂鬱《ゆううつ》な気分で、相変らず当てもなく手を振りながら部屋を横切って、ハルキスの壁金庫が備えてある二つの本棚の間の壁の方へ歩いて行った。そして金庫のダイヤルをまわし、鍵《かぎ》のコンビネーションを合わせているうちに、思いがけず、重い小さな扉がぱっとひらいた。その行動は全く無意識にやったことだと、ウッドラフはあとで強調している。たしかに、それを調べるつもりもなかったし、ましてそれがなくなっている事実を発見したのは、たしかにウッドラフだ。――その発見が警告の調《しらべ》をかき鳴らし、因果まつわる「ジャックの建てた小屋」〔「ジャックの建てた小屋」は十八世紀の童謡で、百姓がとうもろこしをまき、牡鶏がそれをほじってたべてときをつくり、牧師さんの目を醒させ、牧師さんが若者を結婚させ……というふうに因果が続く、宗教的な匂いのする古謡である〕のように、再び息づまるような空気をまきおこし、次から次へと、いまわしい事件を招くことになったのである。
それがなくなっていることに気づいたウッドラフの反応は大げさなものだった。いきなり、ウィーキスの方をくるりと向いたので執事はウッドラフの気が狂ったと思ったにちがいない。ウッドラフはおそろしい声で「この金庫にさわったな」と叫んだ。ウィーキスはもぐもぐ言って否認し、ウッドラフは荒々しく息をはずませた。ウッドラフはとりのぼせて追及したが、見当はさっぱりついていないようだった。「どのくらい、ここにいたのかね」
「おとむらいがお邸を出てお墓に行きましてから、ずっとここにおりましたのです」
「ここにいる間に、だれかがこの部屋にはいらなかったかね」
「どなたも見えませんでした」ウィーキスはすっかりおじけづいて、ピンク色のはげ頭の後の白い綿のような、耳にかぶさっているまき毛が、はげしくふるえていた。ウィーキスのしかつめらしい老眼は、ウッドラフの高飛車な頭ごなしの態度におびえていた。ウッドラフはその大柄な図体《ずうたい》と、赤ら顔と、われ鐘のような声とで、ウィーキスを縮み上がらせ、ほとんど泣き出さんばかりにおどしつけているようだった。「眠りこけていたのか」と、がみついた。「わしがはいって来た時に舟を漕いでおったな」
ウィーキスは、たよりない声でもぞもぞ言った。「ちょっと、うつらうつらしておりましただけで。本当でございますよ。ちょっと、うつらうつらしていただけで。片時も眠りこけてはおりませんでした。あなた様が、はいっていらっしゃった時も、すぐ足音に気づきましたでしょう」
「うん……」と、ウッドラフは調子をやわらげた。「そうらしかったな。スローンさんと、シェニーさんに、すぐここへ来るように言ってくれ」二人の男がけげんそうな顔ではいって来た時、ウッドラフは救世主のような恰好《かっこう》で金庫の前に立ちはだかっていた。そして証人にかみつく時のようなお得意の態度で、黙って二人をじろじろ見つめていた。すぐに、スローンが怪しいと気がついた。だがはっきりとは突きとめることができなかった。アランの方は、いつものように若い顔をしかめて、弁護士のウッドラフに近づいて来た時、ぷんぷんとウィスキーの匂う息が鼻をついた。ウッドラフはその弁論に言葉おしみはしなかった。二人に向かってばりばりまくし立てながら、開いた金庫を指さして、疑い深くひとりひとりをにらみつけた。スローンはライオンのような頭を振った。この男は気力旺盛な男盛りで最新流行のおしゃれをしていた。アランは無言で――無関心に貧弱な肩をすぼめた。「かまわんよ」と、ウッドラフが「わしはかまわんよ。だが、この点は徹底的に調べるつもりだよ、諸君。すぐにだ」
ウッドラフは得意の絶頂らしかった。さっそく家じゅうの者を書斎に呼び集めた。驚くべきことのようだが、葬式の連中がハルキス邸にもどってから四分も経たぬうちに、ウッドラフはその全員を――ひとり残らず、葬儀屋のスタージェスやその店員たちまでひっくるめて――審問の席に呼び集め、その男女の最後のひとりまで訊問《じんもん》し、金庫から何も持ち出さなかったとか、その日は一日じゅう金庫のそばに近づきもしなかったなどと、弁解するのを聞きながら何となく満足していた。
ジョアン・ブレットとアラン・シェニーが、ふと同じことを思いついたのは、まさにこの少しこっけいじみた劇的な瞬間だった。二人は戸口にかけ出し、ぶつかり合って部屋をとび出すとホールをかけ抜けて玄関へ走りこんだ。ウッドラフは大声でどなりながら何事ならんと二人を追って行った。アランとジョアンは互いに助け合って玄関のホールのドアの掛け金をはずし、転がるように土間をかけ抜け、錠のかかっていない表玄関のドアをさっとひらいて、ちょっとあっけにとられている往来の野次馬の前に姿を見せた。ウッドラフはあわてて二人を追って来た。ジョアンがよくとおるアルトの声で叫んだ。「どなたか、この三十分ばかりの間に、この邸におはいりになりませんでしたか」アランも大声で「はいった人はだれかいませんか」そしてウッドラフも思わず同じ言葉を叫んでいた。記者の群にいたひとりのがっしりとした青年が、歩道に面して掛け金のかけてある門ごしに、はっきり答えた。「いないね」そしてもうひとりの記者が南部なまりで「どうしたんだね、先生。一体何だっておれたちを入れてくれないんだい。おれたちは何もさわったりなんかしないぜ」と言うと、往来の野次馬どもが、そうだそうだと、ちょっとざわめいた。アランが大声で「この家から出て行った者はいませんでしたか」と叫ぶと、みんなは口をそろえて「いないね」とわめいた。ウッドラフは咳払いした。この群衆の面前でいささか自信のぐらついたウッドラフは腹立たしそうに二人の若者を屋内に追い入れると、後手にドアをしめて用心深く掛け金をおろした。――玄関と、土間のドアを二つともしめた。しかし、ウッドラフは、いつまでも自信のぐらついたままでいるようなタイプの人物ではなかった。書斎にもどるとすぐ、ふたたび自信をとりもどした。そこには他の連中が立ったりすわったりしながら、様子いかにとばかりきょろきょろ見まわしていた。ウッドラフはその連中に質問をあびせかけ、次から次へと問いただして、家じゅうの者のほとんど全員が、金庫の錠のコンビネーションを知らないのがわかると、がっかりしてかみつきそうな顔をした。
「わかった」とウッドラフは「わかった。この中のだれかが早いとこやっつけたんだ。だれかが嘘をついとる。だが、すぐに見つけてやるぞ。すぐにだ。はっきり約束しとくぞ」と、一同の前を行ったり来たり歩きまわった。「わしだって、君らと同じぐらいに頭は働くぞ。これはわしの義務だ――いいか、義務なのだ」一同は人形をならべたように、ぴょこぴょことうなずいた。「家じゅうの者をひとり残らず身体検査する、今すぐはじめる」すると一同は、うなずくことをやめた。「おお、この中にはこの考えが気に入らん者がいるだろう。わかっとる。わしが好きこのんでやるとでも思うのか。だがわしは是が非でもやる。わしの鼻っ先で盗まれたんだからな、鼻っ先で」この時、重苦しい空気にもかかわらず、ジョアン・ブレットがくすりと笑った。ウッドラフの大きな鼻が相当広大な場所を占めていたからだ。
おしゃれなネーシオ・スイザがかすかに微笑した。「おお、ねえ、ウッドラフ君。こりゃあ少し芝居がかってやあしないかね。こりゃあ案外簡単に説明のつくことかもしれないよ。君は大げさにしとるんだ」
「そうかな、スイザ君、君はそう思うのか」ウッドラフはジョアンを睨みつけていた目をスイザの方へ移した。「どうやら君には身体検査をするという考えが気に入らんようだな。なぜだね」
スイザはけらけらと笑った。「ぼくが法廷に立っとるとでもいうのかね、ウッドラフ君。おいおいしっかりしろよ。君は首をちょんぎられた鶏みたいなことをやっとるんだよ。おそらく」とスイザがきっぱり言った。「おそらく君が葬式の五分前に、金庫の中に箱があるのを見たと思ったのは、思い違いだったんだろうよ」
「思い違いだって? 君はそう思うのか。この中から泥棒が出て来たら、思い違いではなかったことがわかるだろうよ」
「とにかく」とスイザは白い歯をむき出して、くってかかった。「こんな頭ごなしなやり方にはがまんできないな。やってみるさ――すぐやってみるがいいよ、君。――さあ、ぼくの身体検査から」こうなるともうどうにもならなくなって、ウッドラフは完全に自制心を失った。かんかんにおこり出して、とりとめのないことをわめきながらスイザのとがった鼻の下で、がっちりした拳骨《げんこつ》をふりまわしてみせた。「畜生め、見とるがいい。いいか、頭ごなしのやり方がどんなものか、思い知らせてやるぞ」とがなり立てて、まず最初にしておくべきことだったことにとりかかった――つまり、故人の机の上にあった二つの電話機のひとつを引っつかみ、熱病にとりつかれたようにダイヤルをまわして、どもりながら姿の見えない審問官に訴え、受話器をがちゃんともどすと、悪意にみちた最終宣言を下すように、スイザをきめつけた。
「いまに、君が身体検査を受けるかどうかわかるさ。なあ君。この邸にいる者はひとり残らず、検事局から人が来るまで、この建物から一歩も出ることはならんよ。地方検事サンプソンの命令だぞ」
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三 ENIGMA……謎
地方検事補ペッパーは人品のいい青年だった。ウッドラフの電話がかかってから三十分後に、ハルキス邸に足をふみ入れたとたんから物事は万事きわめて順調に進んだ。ペッパーは人の口をひらかせる才能をもっていた、というのはおせじの価値を知っていたからで――その才能は、しがない刑事弁護士ウッドラフにはついにもてなかったものである。ウッドラフさえ、ペッパーとちょっと話しただけでいい気分になったのにはおどろいた。それで、ペッパーについて来た丸顔で葉巻をふかしている人物の存在には、だれも注意を払わなかった。――その人物は地方検事局付きの刑事コーハランで、ペッパーの警告にしたがい、書斎の入口にひっそりと立ち、自分の存在を全然目立たないようにして、黒い草の葉〔たばこ〕をふかしていたのである。ウッドラフはせかせかと大男のペッパーを部屋の隅に案内して、葬儀の次第をくどくど話した。
「ところで、ペッパー君、こういうことなんだ。この邸の中で葬式の行列がつくられる五分前に、わしはハルキスの寝室にはいって行った」――とウッドラフは書斎のもうひとつのドアの方を漠然と指さして――「ハルキスの手提金庫の鍵を持ってここにもどって来て金庫を開き、手提金庫をあけた。そのとき手提金庫はちゃんと目の前にあった。ところが今は――」
「何がはいっていたんですか」
「まだ話さなかったかな。少々とりのぼせているらしい」ペッパーはそんなこと見ればわかると言いたかった。ウッドラフは汗ばんだ顔をぬぐって「ハルキスの新しい遺言状がはいっていたんだ。新しいやつだよ、君。手提金庫にはいっていたのは、たしかにその新しい遺言状だったんだ。わしがそれをとり上げてみると、ちゃんとわしの封印がしてあった。それをわしは手提金庫にもどして、手提金庫の錠をかけ、金庫に入れて、金庫の錠をかけてからこの部屋を出た……」
「ちょっと待って下さい、ウッドラフさん」ペッパーは情報を得たいと思う人を、丁寧にさんづけで呼ぶのがいつもの術《て》だった。「ほかには手提金庫の鍵を持っている人はいないんですか」
「ひとりもいないよ、ペッパー君、ひとりも。手提金庫の鍵はたったひとつしかないと、ハルキスがついこないだ自分で話していたよ。それでわしはその鍵をハルキスの寝室の服の中から見つけ出したんだ。手提金庫と壁金庫の錠をおろしてからわしはその鍵を自分のポケットにしまいこんだ。現にわしのキーホルダーに差して、ここに持ってる」と、ウッドラフは尻ポケットをさぐってキーホルダーをとり出した。その中からひとつの小さな鍵を択び出してはずし、それをペッパーに手渡した。ウッドラフの指はぶるぶる震えていた。「この鍵がずっとわしのポケットの中にあったことを誓うよ。もちろん、だれだってわしから盗めっこない」ペッパーは重々しく相槌《あいづち》を打った。「第一そんな暇がなかった。わしがこの書斎から出るとすぐ、野辺送りの支度がはじまり、それから埋葬をしたんだ。式からもどると、虫の報《しら》せとでもいうんだろうな、わしはふたたびここに来て金庫をあけた――するとどうだ、遺言状のはいっている手提金庫が影も形もないじゃないか」
ペッパーは同情するように舌をならした。「だれが持ち出したか心当りはありませんか」
「心当りかい」と、ウッドラフは室内を見まわした。「いろいろ心当りはあるがね、証拠がない。ところでいいかね、ペッパー君。状況はこうなんだ。第一に、わしがこの部屋で、手提金庫の中の遺言状を見た時にこの邸にいた連中は、ひとり残らず今ここにいる。だれひとり邸を出て行っちまった者はいない。第二に、葬式に参列した連中はみんなひとかたまりになってこの邸を出たし、ひとかたまりになって中庭を通り抜けて墓地へ行ったし、その間ずっとみんな一緒だったのがわかっている。墓地でわしらを迎えた二、三人の連中以外にはわしらと接触した外部の者はひとりもいない。第三に、最初に出て行った連中がもどって来た時には、墓地にいた外部の連中も一緒にもどって来て、今もここにいる」
ペッパーの目が光った。「非常に面白いお膳立てですね。つまり、もし最初からの連中のひとりが遺言状を盗んで外部の者のひとりに手渡したとしても何の役にも立たないわけですね。なぜなら、外部の連中の身体検査をすれば、遺言状を墓地か途中のどこかに隠しでもしないかぎり、すぐばれるわけですからね。こりゃ面白いですよ、ウッドラフさん。ところで、あなたのおっしゃる外部の連中というのはどの人たちですか」
ウッドラフは旧式な黒いボンネットをかぶっている小柄な老婦人を指さした。「この人もそのひとり、たしか、スーザン・モース夫人と言ったな。中庭のまわりの六軒の家の一軒に住んでいる。気違いじみたもうろく婆《ばあ》さんでね、お隣りさんだ」ペッパーがうなずくと、ウッドラフはエルダー牧師のかげにふるえながら立っている寺男を指さした。「次はそのハネーウェル。そのちぢみ上がっている男さ――隣りの教会の寺男だ。それから、そのならびの二人の仕事師は墓掘りで、あそこにいる葬儀屋――スタージェス――の雇い人なんだ。さて次に第四の点だが、わしらが墓地にいたあいだに、この邸に出入りした者はひとりもいない――わしはそのことを、邸の外にねばっていた新聞記者どもにたしかめた。そのあとでわしは自分の手でドアをしめたから、それ以後だれひとりとして出入りできなかったわけだ」
「なかなか厄介ですね、ウッドラフさん」と、ペッパーが言った時、いきなり後から怒声が上がった。ふりかえって見ると、アラン・シェニー青年が、いっそう真赤《まっか》になってウッドラフにふるえる人差指をつきつけていた。
「君はだれだね」と、ペッパーが訊《き》いた。
アランは大声で「おい! お役人、その男の言うことを信じちゃいけない。その男は新聞記者に何も訊きゃあしなかった。ジョアン・ブレットが訊いたんだ――そこにいる、ブレットさんが。そうだろ、ジョアニー」
ジョアンは、およそ冷えきったような、冷たい顔をした――背が高く、すらりとしたイギリス人タイプで、つんとすましたあごと、すきとおるような青い目と、ともすれば人に突っかかって来そうな、皮肉な尖った鼻をしていた。ジョアンはシェニーの後からペッパーの方を見やりながら、冷たいりんとした声で「また飲んでいらっしゃるのね、シェニーさん。私のことをジョアニーなんて呼ばないでほしいわ。いやねえ――」
アランは酔眼で、むきになっているジョアンの肩を眺めていた。ウッドラフがペッパーに言った。
「あの男はまた酔っぱらってるんだよ――アラン・シェニーと言ってね、ハルキスの甥だ。そして――」
ペッパーは「ちょっと失礼」と言って、ジョアンの方へ歩みよった。ジョアンは少しむっとして顔を向けた。「新聞記者に訊こうと思いついたのはあなただったんですか、ブレットさん」
「ええ、そうですわ」その時ジョアンの頬《ほほ》にかすかなピンク色の斑点が浮かんだ。「もちろん、シェニーさんもそれに思いついて、私たちは一緒に行ったんです。ウッドラフさんは後からついて来たのです。あの若い酔いどれさんが女性に花をもたせるなんて、おどろきだわ……」
「そうですとも」と、ペッパーが微笑した。――ペッパーは女性をひきつける微笑をもっていた。
「それで、あなたは? ブレットさん――」
「ハルキスさんの秘書でしたの」
「どうもありがとう」と、ペッパーはしょげ込んでいるウッドラフの方へもどって「さて、ウッドラフさん、お話の途中でしたね――」
「何もかもぶちまけるつもりだったのさ、ペッパー君」と、ウッドラフは咳払いして「わしが言いかけていたのは、埋葬の最中にこの邸の中にいた人間は二人きりで、そのひとり、家政婦のシムズ夫人はハルキスが死んだとき卒倒してそれ以来部屋にとじこもっている。もうひとりは執事のウィーキスなんだが。ところでウィーキスは――ちょっと信じられんが――わしらの留守中ずっとこの書斎にいたウィーキスは、だれもはいって来た者はないと断言しとる。あの男はずっと金庫を見張っていたことになるわけだ」
「なるほど。それで目鼻がつきそうですね」とペッパーが手短かに言った。「ウィーキスの言葉が信用できるとすれば、盗難の推定時刻を少しばかりはっきりさせることができそうですね。つまり盗難は、あなたが遺言状を見た時と会葬者が邸を出るまでの五分ばかりの間におこったことになりそうですね。どうやら事は簡単らしい」
「簡単だって?」ウッドラフは半信半疑の声を出した。
「そうですとも。コーハラン君こっちへ」呼ばれた刑事は、あっけにとられた人々に見守られながら、のっそりと部屋を横切って来た。「いいかね。われわれは盗まれた遺言状をさがすんだ。遺言状は四か所のどこかにあるはずだよ。この邸内に隠されているか、いま邸内にいるだれかが身につけているか、中庭の私道のどこかに落ちているか、墓地そのものの中で見つかるかだ。さて、ひとつずつ片づけていこう。検事を電話で呼び出すあいだしばらく見張りをたのむよ」ペッパーは地方検事局の電話番号をまわし、地方検事サンプスンに手短かに報告して、もみ手をしながらもどって来た。「地方検事は、警察を応援によこすそうだ。要するに、われわれの捜査しているのは重罪犯だよ。ウッドラフさん、私とコーハランが中庭と墓地を調べてくるあいだ、この部屋にいる全員を見張る全権をあなたに委任します。どうか皆さんもそのつもりで。ちょっとのあいだです」
一同はぽかんとしてペッパーを見つめていた。その顔には決断のつかぬ、けげんそうな、当惑の色が浮かんでいた。「私の代わりにウッドラフさんがここにいます。みなさんもどうぞ協力して下さい。どなたもここから出て行かないで下さい」ペッパーはコーハランと大股《おおまた》で部屋を出て行った。十五分ほどして二人が徒手《からて》でもどってみると、書斎には四人の新顔がふえていた。クイーン警視の班に属するげじげじ眉《まゆ》の大男トマス・ヴェリー部長と、その部下のフリント刑事、ジョンスン刑事、それにでっぷり太った婦人警官だった。ペッパーとヴェリーは片隅で熱心に話し合っていた。ヴェリーはいつものとおり冷静で、はっきりした態度を見せなかった。そのあいだ他の連中はぼんやりと腰かけて待っていた。
「中庭と墓地は調べたんだね」と、ヴェリーが唸るように言った。
「うん、だが、君たちの手でもう一度調べてくれるといいかもしれないな」と、ペッパーが言った。「確かめるためにね」ヴェリーが二人の部下に何ごとかをささやくと、フリントとジョンスンが出て行った。ヴェリーとペッパーとコーハランは組織的に邸内の捜査を始めた。まず、今いるハルキスの書斎から捜査の手をつけて、次には故人の寝室と浴室、それからその向うのデミーの寝室を調べた。そしてもどって来ると、ヴェリーはものも言わずに、もう一度書斎を調べた。金庫の中や電話の置いてある故人の机の抽出《ひきだ》しをひっかきまわし、壁に沿っている本棚の本も一々調べた。……何ひとつ見落さなかった。壁のくぼみに取りつけてある小さな炊事台のパーコレーターや、こまごました茶道具まで慎重に調べ、パーコレーターの固いふたをずらして中を覗き込んだ。ヴェリーはぶつぶつ言いながら書斎からホールへ移り、それから客間、食堂、戸棚、裏の食器部屋へと捜査の手をのばしていった。部長は葬儀屋スタージェスが持ち込んだ葬儀用の飾り物のとりはずしてある品々を特に慎重に調べたが、何も発見されなかった。一同は階段を上がって、寝室を片っぱしから、まるで西ゴート人〔四、五世紀にヨーロッパを荒す〕のように手荒く荒しまわったが、シムズ夫人の神聖な私室だけは避けた。それから、そろって屋根裏部屋にのぼり、古箱や古トランクをかき回して、もうもうと塵《ちり》をたてた。
「コーハラン君」とヴェリーが「地下室を調べてくれ給え」コーハランはしょんぼりと火の消えた葉巻をしゃぶっていたが、とぼとぼと地下室へ下りていった。
「ところで部長」とペッパーはヴェリーと並んで屋根裏部屋の裸壁によりかかって、ひと息入れながら「例のいやな仕事をしなければならないようですね。いやだな、あの連中の身体検査をしなければならないなんて、じつにたまらないな」
「こんなよごれ仕事のあとだもの」と、ヴェリーが汚ない指先を眺めながら言った。「大いに楽しみさ」一同は階下に下りた。フリントとジョンスンもやって来た。「何かあったかい」とヴェリーが太い声で聞いた。小柄で、きたない白髪《しらが》まじりの、顔立ちのさえないジョンスンが鼻をひとなぜして言った。「処置なしです。その上困ったことには、ひとりの女《あま》っ子《こ》をつかまえましてね――女中みたいな女《あま》っ子《こ》ですが――中庭の向う側の家の者です。裏窓で葬式を見たあと、ずっとそこらをうろついていたんだそうです。それで、部長、その娘が言うには、二人の男のほかは――ペッパーとコーハランらしいんですが――葬式の連中が墓地からもどったあとは、この邸の裏口を出た者はひとりも見かけなかったそうです。それに中庭を囲んでいるどの家の裏口からもひとりも出て来なかったそうです」
「墓地そのものはどうだった?」
「その方も片なしですよ」とフリントが「墓地の五十四番街側の鉄柵の外に、新聞の足軽どもが、たむろしていましたがね。連中が言うには葬式のあと、墓地には人っ子ひとりいなかったそうですよ」
「おい、コーハラン、君の方は?」コーハランはやっとまた葉巻に火をつけることができて、うれしそうな顔をしていたが、そのまん丸い顔を強く横に振った。ヴェリーが低い声で「おい、なにもおかしいことはないと思うがな、うすのろ牛め」と言いすてて、部屋の中央に大股で進み出た。そして豪然《ごうぜん》と頭をそらして、まるで観兵式の軍曹のような大声でどなった。「気をつけ!」一同はかなりうんざりしていた気分を払いのけて、しゃんとすわり直した。アラン・シェニーは頭を抱えて片隅にうずくまり、おとなしくからだをゆさぶっていた。スローン夫人はずっと前にお義理の涙をすっかり拭きとって何か事あれかしだったし、エルダー牧師までが何かを期待する顔付きだった。ジョアン・ブレットはヴェリー部長の顔を不安そうに見つめた。
「さあ、よく聞いてくれ」と、ヴェリーがけわしい声で言った。「わたしはあえて人の感情を害したくないが。いいかね。わたしにはしなければならない任務がある。これから、それにとりかかろうと思う。邸内の者を全部身体検査する。――必要とあれば裸になってもらう。盗まれた遺言状は、ここよりほかにあるはずがない。――今ここにいるだれかが持っているはずだ。君たちが利口なら、スポーツをやるつもりになってほしい。コーハラン、フリント、ジョンスン――男を受け持て。それから、監督」――と、がっちりした婦警を振り向いて――「あんたは婦人連を応接室へ連れていって、ドアをしめて手っとりばやく片づけてくれ給え。それから忘れんようにね。この人たちから何も見つからなかったら二階の家政婦と、家政婦の部屋を調べるんだよ」たちまち、書斎の中は、こそこそしゃべりや、ぼそぼそと不平をならす声や、あきらめながらもぶつぶつ文句をいう声で満たされた。ウッドラフは退屈そうに机の前でぶらぶらしていたが、ざまを見ろといわんばかりにネーシオ・スイザを見やった。するとスイザはにやりと笑い返し、すすんで最初の犠牲者になり、コーハランに身を呈した。婦人連はつながって部屋を出た。ヴェリーは電話をつかんで「警察本部か……ジョニーを呼んでくれ……ジョニーか。エドマンド・クリューをすぐ東五十四番街十一番地によこしてくれ。急用だ。すぐ手配しろ」それから机によりかかって冷たい目で、三人の刑事たちが、臆面《おくめん》もなく、男たちを片っぱしから情け容赦せずに、すっかり裸にして調べあげるのを見守っていた。その傍にはペッパーとウッドラフがついていた。ヴェリーがふと身うごきした。エルダー牧師が不服もいわずに次の犠牲者になろうとしていた。「牧師さん……おい、フリント、やめろ。牧師さん、あなたの検査は控えましょう」
「そんなことをする必要はありませんよ、部長さん」と牧師が答えた。「あなたの立場からすれば、私にも皆と同じ可能性があるでしょうからね」ヴェリーのきびしい顔がどうしてよいかきめかねているのを見てとって、牧師は微笑した。「よろしい。では目の前で、自分で調べてご覧にいれましょう、部長さん」
さすがに牧師の服に無遠慮な手をかけるのはためらったが、牧師が自ら次々にポケットをひっくり返したり、服をゆるめてフリントの手をとって、無理にからだを調べさせる段になると、ヴェリーは鋭い目を光らせた。
婦人警官が、のっそりと引き返して来て、何も見つからなかったと、渋々《しぶしぶ》報告した。女たち――スローン夫人、モース夫人、ヴリーランド夫人、それにジョアン――は、みんな顔を赤らめていた。そして男たちの目をさけていた。「上のあの太った女《ひと》は――家政婦ですか。――あれもOKです」と婦警が言った。沈黙があった。ヴェリーとペッパーは憂鬱そうに顔を見合わせた。ヴェリーはとうていありえない事実にぶつかって腹を立てかけていたし、ペッパーは明るい詮索好きな目の奥でじっと考え込んでいた。「どこかに、何か変な節《ふし》がある」と、ヴェリーががらがら声で「君、確かなんだろうな、監督」と訊いた。婦警はふんと鼻をならしただけだった。
ペッパーがヴェリーの上着の襟《えり》に手をかけて「ねえ、部長」と、おだやかな声で「君のいうとおりとても変てこりんなところがある。だがわれわれはこれで、石壁に頭をぶつけたことにするわけにはいきませんよ。もしかするとこの邸の中には、われわれがまだ見つけていない秘密の戸棚か何かがあるかもしれませんからね。もしあれば、お宅の方の建築専門のクリュー君がその場所を見つけてくれるでしょうよ。要するにわれわれとしては全力をつくしてできるだけのことをしたわけです。それに、この連中をいつまでも引き留めておくわけにはいきませんよ。特にこの邸内に住んでいない連中はね……」
ヴェリーは力まかせに絨緞《じゅうたん》をふみにじった。「畜生、この件で警視から、こてんぱんにやられるだろうな」処置は手早く行なわれた。ヴェリーが身を引き、ペッパーが丁寧にお客は引き取るようにと指図した。邸の者には正式な許可を得て、そのつどすっかり身体検査を受けなければ建物を離れてはならないと告げた。ヴェリーは若くてたくましいフリント刑事と婦警に指で合図し、先にたってホールを抜けて玄関に出、表ドアのそばにいかめしく陣取った。モース夫人が足を引きずって近づくと、ちょっとおびえ声をあげた。「もう一度、この女《ひと》を調べなさい、監督」と、ヴェリーがどなった。……エルダー牧師に、にやりと笑い顔を見せ、寺男のハネーウェルを自分で調べてみた。そのあいだにフリントが葬儀屋スタージェスと二人の店員と、迷惑顔のネーシオ・スイザを再検査した。前のすべての検査と同じで結果はゼロだった。
お客が帰って行くと、ヴェリーはフリントを家の外の見張りに残し、玄関のドアと石段の下にある地下室の表ドアの両方を監視させて、足音荒く書斎へ引き返した。ジョンスンを中庭に降りる木の階段のてっぺんの裏ドアに配置し、コーハランを中庭につづく地下室の裏口に派遣した。ペッパーはジョアン・ブレットとしきりに話し込んでいた。かなり酔いのさめたシェニー青年が髪をかきむしりながらペッパーの背中を睨みつけていた。ヴェリーは無骨な指を曲げてウッドラフに合図した。
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四 GOSSIP……ゴシップ
エドマンド・クリューは、まさにうっかり者の大学教授を絵にしたような人物だったから、その不景気な馬面や、どんよりした目や、ひねくれた鼻を見ると、ジョアン・ブレットは危く大声でふき出しそうになるのを抑えるのにひと苦労だった。しかし、ひとたびクリュー氏が口をひらくとそんな気持はけしとんだ。「この邸の持主は?」クリューの声は無電の火花のように鋭くぴちぴちとんだ。
「おだぶつになった男さ」
「もしかしたら」とジョアンが少し顔を赤らめて「わたくしがお役に立てるかもしれませんわ」
「この邸はどのくらいの古さですか」
「さあ、それは――わたくし存じません」
「じゃあ、どいて下さい。だれか知りませんか」
スローン夫人が小さなレースハンカチで気取って鼻をかんだ。「それなら――そう、ざっと八十年にはなりますわ」
「建て直したんですよ」とアランが熱心に言った。「たしかです。建て直したんです。ずっと以前にね。伯父《おじ》がそう言っていました」
「どうもはっきりしないな」とクリューが腹立たしそうに「まだ設計図が残っているかな」一同は自信のなさそうな目を見合わせた。「じゃあ」とクリューが気短かに「だれか何か知っていませんか」
だれも何も知らないようだった。この時、二枚の美しい唇をかたく閉じていたジョアンが、低い声で訊いた。「あの、ちょっとお待ちになって。ご入用なのは青写真みたいなものなんですね」
「そう、そう、お嬢さん。どこにありますか」
「さあ……」とジョアンは考えこみながら、とても美しい小鳥のように首をかしげて、故人の机の方へ行った。そして机の一番下の抽出しをかき回して、やがて黄色い書類がはみ出している薄くて古ぼけた厚紙製のファイルをさがし出した。ペッパーは満足そうにくすくす笑った。「古い領収書綴りです」と、ジョアンが言った。「きっとこれが……」ジョアンの考えはぴたりと当っていた。というのは、すぐに、白い紙をピンでとめてある折りたたんだ一組の青写真が見つかったからだ。
クリューはジョアンの手から、その紙束を受け取ると、机のそばに立ってうつむき、そのひねくれた鼻先を青写真に突っ込みはじめた。そして時々うなずいていたが、ふとからだを起こすと、ものも言わずに青写真を持って部屋を出て行った。またしても、覆いかぶさる霧のような、しらけた空気が部屋にたちこめた。
「君たちに心得といてもらうことがある、ペッパー君」と、ヴェリー部長はペッパーをわきへ引っぱって行き、同時にウッドラフの腕を、失敬だと思うほどの手荒さでつかんだ。ウッドラフの顔が蒼白《そうはく》になった。「さあ、いいかねウッドラフさん。遺言状がだれかに盗まれた。それにはその理由がなければならない。君は新しい遺言状だと言った。ところで、それがなくなるとだれが何を損するのかね」
「それがね――」
「また一方」とペッパーが考えこみながら「そのことが非常に重大な事態だとは思えませんね、犯罪的な意味は別としてですよ。あなたの事務所にある新しい遺言状の控えで遺言者の遺志はいつでも確かめることができるでしょうからね、ウッドラフさん」
「できるどころか」とウッドラフは言って、鼻を鳴らした。「できるどころか。いいかね」と、そっとあたりを見まわして二人をいっそう引きよせた。「わしらには故人の遺志を確かめる方法がないんだ。じつに奇妙な話なんだが、すぐにわかる。いいかね、ハルキスの元の遺言状は先週の金曜の朝まで有効だったのだ。元の遺言状の条項は簡単だった。ギルバート・スローンがハルキス画廊を相続して、それには美術|骨董《こっとう》商の仕事と私設画廊も含まれる。それから信託基金が二つ設定されることになっている――ひとつはハルキスの甥のシェニーの分、もうひとつは、あそこにいるうすのろの従弟デミーの分だ。邸と身のまわり品は妹のスローン夫人に遺贈する。あとはありきたりの条項で――シムズ夫人とウィーキスと雇人たちに、現金を遺贈することと、美術品を博物館に寄付する細目などが指定してあった」
「執行人はだれになっていましたか」とペッパーが訊いた。
「ジェームス・J・ノックス氏だ」
ペッパーはぴゅっと口笛を吹き、ヴェリーは困った顔をした。「あの億万長者のノックスですか。美術気違いの」
「そのとおりさ。あの男はハルキスさんの一番の顧客で、あの男を遺言状の執行人に指名したところをみると、きっと、仲もよかったんでしょうよ」
「大した友達だな」とヴェリーが「今日《きょう》の葬式に、なぜノックス氏は来なかったんだろう」
「おやおや部長君」とウッドラフは目を丸くして「あんたは今日の新聞をみなかったのかね。ノックス氏はお偉方なんだ。ハルキスさんの死亡通知を受けて葬式に出る予定だったところ、まぎわになってワシントンに呼ばれたんだ。実は今朝《けさ》のことだがね。新聞によれば、大統領の個人的要請で――なにか連邦の財政問題についてだそうだ」
「いつ帰ってくるかな」とヴェリーがかみつくように訊いた。
「だれにもわかりませんさ」
「まあ、そのことはそれほど重要じゃないですよ」とペッパーが言った。「それより新しい遺言状の内容はどうなんですか」
「新しい遺言状ね。うん」とウッドラフはひどく抜け目のない顔付きで「それが奇妙な話なんだがね。先週木曜日の真夜中ごろハルキスさんから電話がかかってきた。そしてそのあくる朝――つまり金曜日の朝――新しい遺言状の草稿をそろえて来いと言うんだ。いいかね、新しい遺言状は一か所の変更を除けば、元の遺言状とそっくり同じなんだ。ハルキス画廊の受益者、ギルバート・スローンの名をけずり、だれか新しい名前を挿入するようにその場所を空白にしておいてくれとたのまれたのだ」
「へえー、スローンをけずる?」ペッパーとヴェリーはこっそりとスローンの方をうかがった。スローンは細君の椅子の後ろに立って胸高鳩のようによりそい、ガラスのような目で宙をみつめながら、片手をふるわせていた。「それで、ウッドラフさん」
「それで、わたしは金曜日の朝、一番に新しい遺言状をまとめ、それを持って正午よりもだいぶ前にここへ駆けつけた。ハルキスさんはひとりでいた。ハルキスさんは普段なかなか頑固《がんこ》おやじだった。――冷静で気むずかしくて、事務的な人間と言ってもいい。――だがその朝は何かそわそわしていた。とにかく、ハルキスさんはわたしを見るとすぐに、はっきりと、画廊の新しい受益者の名前はだれにも、誠実につくしてくれた君にも、知らせるわけにはいかん、と言った。わたしはハルキスさんが適当な名を空白の場所に書き込めるように、遺言状を目の前にひろげた。――ところが、呆れたことには、ハルキスさんは書類を持ってわたしのそばを通り抜け、部屋の隅に行って立った。――それから立ったままで何かを書き込んだ。多分新しい受益者の名前だろう。それから自分で吸取紙を当て、すばやくそのページを閉じ、ブレット嬢とウィーキスとシムズ夫人を呼んで署名の証人に立て、遺言状に署名して、わたしに手伝わせて封印をほどこし、壁金庫の中にしまってある小さな手提金庫に遺言状を納めて、手提金庫と壁金庫に自分で錠をおろした。というわけだからね――ハルキスさんのほかは新しい受益者がだれかを知っている者はひとりもいないのだ」
部長とペッパーはその話をかみしめていた。やがてペッパーが訊いた。「元の遺言状の条項を知っていたのはだれですか」
「そりゃみんなが知っていたろう。邸じゅうでの話題だったんだからね。ハルキスさんも、そのことを、ちっとも気にしてはいなかったな。新しい遺言状については、遺言状を作りかえたことを伏せておくようにと、特別に念をおさなかった。わたしも別に隠しておく必要は何もないと思うしね。当然、三人の署名立会人たちは知っているわけだから、邸じゅうにふれまわっているものと思うよ」
「すると、スローンも知っていたんだな」と、ヴェリーが声をとがらした。
ウッドラフがうなずいた。「知っていたと思うな。事実、あの日の午後わたしの事務所にやって来たが――その時にはもう、ハルキスさんが新しい遺言状に署名したことを、たしかに知っていた。――そうして変更があの男にとって何らかの影響があるかどうかを知りたがっていた。そこでわたしは、だれかが、君にとって代わったが、それがだれなのかは、ハルキスさん以外には、だれにもはっきりわからないと話してやった。するとスローンは――」
ペッパーが目を光らせた。「そりゃまずいな、ウッドラフさん。そんなことをする権利はあなたにはないじゃないですか」
ウッドラフが恐縮して「なるほど、そりゃペッパー君、そうかもしれない……だが、ねえ君、わたしは新しい受益者はスローン夫人だろうとふんだんだ。そうすれば結局、スローンは細君を通して画廊を手に入れることになるから、どっちみち何も損しないことになるものな」
「おお、しかしね」とペッパーは声をとがらせて「そんなことをするのは道義的じゃないですよ。無分別だな。まあ、すんでしまったことをつべこべ言っても仕方がないですね。ところであなたが葬式の五分前に例の箱の中の新しい遺言状を見た時、新しい受益者が誰だったか見つけましたか」
「いや、わたしは葬式がすむまで遺言状を開くつもりはなかったからね」
「それが正式の書類だったのはたしかですか」
「間違いない」
「新しい遺言状には破棄条項がありましたか」
「あった」
「そりゃあ何だね」と、ヴェリーがいぶかしげにうなった。「そりゃあどういう意味なんだね」
「とてつもなく頭の痛い|しろもの《ヽヽヽヽ》さ」とペッパーが説明した。「新しい遺言状に破棄条項があるということは、遺言人にはそれ以前のすべての遺言を破棄する意図があることを示すのさ。つまり、新しい遺言状が見つかろうが見つかるまいが古い遺言状は先週の金曜日の朝で無効になったということになるんです。そして」と、重々しく言い足した。「もしわれわれが新しい遺言状を見つけて、画廊の新しい受益者を確認できないと、ハルキスは遺言しないで死んだものと見なされることになる。こりゃとても厄介なことだ」
「つまり」とウッドラフはしょんぼりとして「ハルキスさんの財産は、相続法によって厳正に分配しなければならないことになるんだ」
「なるほどな」とヴェリーがまたうなった。「スローンという奴《やつ》は新しい遺言状が見つからないかぎりは、どっちにころんでも自分の分け前にありつけるわけだ。ハルキスに一番近い肉親の妹はスローン夫人だからな……うまくできてる」
幽霊のようにこっそりと書斎を出たり入ったりしていたエドマンド・クリューが青写真を机に放り出して三人に近づいて来た。「どうだねエディー」とヴェリーが訊いた。
「何も見つからん。はめ込みの鏡板もないし、隠し戸棚もない。二つの部屋を秘密に結ぶための壁の隙間《すきま》もない。天井も床も頑丈にできてる――元々そんなつくりだったらしい」
「参ったな」とペッパーが言った。
「いや、まったくね」と建築の専門家がつづけた。「邸内のだれかが遺言状を身につけていなければ、そいつはこの邸には絶対ありっこないと言っていいな」
「しかし、どうしても、あるはずです」と、ペッパーが何かにすがりつくように言った。
「ところがないんだよ、お若いの」クリューが部屋を出て行ってしばらくすると表ドアがばたんとしまるのが聞こえた。三人の男たちは一言も口をきかなかったが、それは言葉より雄弁な沈黙だった。ふいに、ヴェリーが足音荒く書斎を出て行き、しばらくすると、いっそう苦りきってもどって来た。いたましい絶望感がその巨大なからだからにじみ出ていた。「ペッパー」とヴェリーはやりきれなさそうに言った。「お手上げだ。中庭と墓地を自分で調べてきたんだがな。処置なしだ。遺言状は破棄されたにちがいない。どう思うかね」
「思いつきがひとつあるんですがね」とペッパーが言った。「ただ思いつきというだけですよ。でも、それは、まず検事と相談してみなくちゃなりません」
ヴェリーは手を握りしめてポケットに突っ込み、戦場をねめまわしていた。「そうか」とヴェリーはうなった。「お手上げだ。きいてくれ諸君」一同は謹聴していたが、待ちくたびれてすっかり活気がなくなり、無気力な犬みたいな目でヴェリーを見守るだけだった。「この邸を出て行く時に、ここと向うの二部屋を閉鎖するつもりだ。わかったね。だれもはいってはいかん。だれもハルキスの部屋やデメトリオス・ハルキスの部屋に手を触れてはいかん――すべて現在あるがままにしておくんだ。それにもうひとつ。君らはこの邸に自由に出入りしてよろしいが、出入りのたびにいちいち身体検査を受ける。だから、だれも変な真似をするんじゃない。それだけだ」
「もしもし」とだれかが胴間声をかけた。ヴェリーがゆっくり振り向いた。ワーディス医師が進み出た。――中背で古代の予言者のようなあごひげを生やし、猿そっくりの恰好だった。ひどく明るい茶色の|寄り目《ヽヽヽ》で、茶化すようにヴェリー部長を見つめた。
「一体、何の用だね」と、ヴェリーは絨氈の上に股をひらいて仁王立ちになった。
相手の医者はにこにこして「あなたの命令は、この邸の住人にとっては大して不便でもないでしょうがね、部長さん。ぼくにとっては、とても困ることなのですよ。いいですか、ぼくは単なるお客にすぎないのです。それがこの悲しみにとざされた邸で、いつまでも厄介になっていなければならないんですか」
「おい、君は何者なんだね」と、ヴェリーは、のっそり近づいた。
「ぼくはワーディスというイギリス市民で、国王殿下のまずしいしもべです」と、ひげ男は目をぱちくりしながら答えた。「ぼくは医者で――眼科医です。ぼくはこの数週間ハルキス氏を診察していたのです」ヴェリーがふんと言った。ペッパーが近づいて耳打ちした。ヴェリーがうなずき、ペッパーが言った。「ワーディス先生、もちろんあなたやあなたの宿主にご迷惑をかけるつもりはありませんよ。あなたがお発ちになるのは全く自由です、無論」ペッパーは微笑しながらつづけた。「最後の形式をおふみになることにはご異議がないでしょうね――お発ちになる時、お荷物とからだをすっかり調べさせていただきますが」
「異議ですって? もちろんありませんよ」と、ワーディス医師は茶色のもじゃもじゃひげをいじりながら言った。「それはそれとして――」
「おお、どうぞ滞在なさって、先生」とスローン夫人が金切り声をあげた。「こんな怖ろしい時に私たちを残して行かないで下さいな。先生はとてもご親切ですもの……」
「そうですとも、そうして下さいな。先生」と別の声がかかった。それは大柄な美しい女性――たくましく色の浅黒い美人の胸の底から出た声だった。医師は一礼して何かつぶやいたが、聞きとりにくい言葉だった。ヴェリーがむかついて「奥さん、あなたはどなたですか」
「ヴリーランドの家内ですわ」と、無礼をたしなめるように目が光り、声がかすれた。するとハルキスの机に凭《もた》れて、しょんぼりしていたジョアンが、思わず浮かび上がる微笑をかろうじて抑え、青い目でワーディス医師のたくましい肩甲骨《けんこうこつ》をほれぼれと見上げた。
「ヴリーランドの家内ですわ。ここに住んでおります。夫は――あのう――ハルキス様の外交員ですの」
「よくわからんな。どういうんです――外交員というのは? ご亭主はどこにいるんですか、奥さん」
その婦人はさっと真赤《まっか》になって「なんて口のきき方ですの。私に向かってそんな失礼な口のきき方をなさる権利はないでしょ」
「それがあるんですよ、小母さん。訊くことに答えなさい」とヴェリーが冷やかな目をした。ヴェリーの目は冷たくなると、刺すように冷たい。
むっとした声がつぶやいた。「主人は――カナダのどこかを旅行中ですわ。買いものの品をさがしまわっています」
「旅行先を突きとめましょう」と、ギルバート・スローンが、ふいに口をはさんだ。ぴっちりと黒い髪をポマードでこてつけ、小さな口ひげをきちんとしているのに、およそそぐわない、とろんとした目つきで、いかにも遊びつかれた道楽者といった様子だった。「旅先はわかりますよ――最後のたよりではカナダのケベックを本拠にして、古い手織り絨毯の聞き込みを追って歩いているようでした。向うからは、まだ返事はありませんが、彼の泊った最後のホテルに通知してあります。おそらくゲオルグの死亡記事は新聞で見たでしょうよ」
「見ていないかもしれんな」と、ヴェリーがあっさり言った。「わかった。ところでワーディス先生、あんたはここに滞在するかな」
「そうしてほしいと望まれているんですから――そうします。喜んでそうしますよ」と、ワーディス医師は引きさがり、わざとヴリーランド夫人の堂々としたからだにくっついて立つようにした。それをヴェリー部長はうさんくさそうに見ていたがペッパーに合図して二人で廊下に出た。ウッドラフもあわてて後に続いたので、もう少しで二人のかかとをふむところだった。三人は、もつれ合うように書斎を出、ペッパーが慎重にうしろのドアをしめた。ヴェリーがウッドラフに訊いた。「さてどう思うかね、ウッドラフさん」
控え室のドアのそばで立ちどまり、二人はウッドラフの方を振り向いた。弁護士はとがった声で言った。「いいかね。ペッパー君は、さっきわたしの判断が間違っとると難癖をつけたんだ。わたしは石橋をたたいて渡る主義でね。部長、わたしも身体検査をしてもらいたい。君の手でな。さっき、あの部屋で検査してもらわなかったからなあ」
「まあまあ、そんなふうにとらないで下さいよ、ウッドラフさん」とペッパーがなだめるように言った。「けっしてそんなつもりじゃあ――」
「そりゃ、とても結構な考えだ」と、ヴェリーがにがにがしく言った。そして断わりもなくウッドラフをこづいたり、ひっかきまわしたり、つねったりした。ウッドラフの顔色から察するとまさかそんな目にあうとは思ってもいなかったらしい。その上、ヴェリーは弁護士がポケットに入れていた書類を、全部くそ丁寧に調べた。そしてやっと、いけにえを解放した。「君は文句なしだ、ウッドラフさん。さあ行こうペッパー」
邸の外に出てみると、たくましい私服のフリント刑事が、歩道の門のところに根気よくねばっているひと握りの居残り組の記者連とむだ口をたたいていた。ヴェリーはフリントと、裏口にいるジョンスンと、邸に残してきた婦警とに、交替をよこす約束をして、つかつかと門をくぐり抜けた。記者連中が、ぶよの群のようにヴェリーとペッパーにたかって来た。
「部長、かもは何だね」
「何があったのかね」
「ネタをくださいよ、つんつんしないでさ」
「おい、ヴェリー部長、そういつもしかめっ面してるもんじゃないぜ」
「黙っていりゃあ、ごほうびがいくら出るんだね」
ヴェリーは肩にかけられた連中の手を払いのけて、ペッパーと一緒に、道ばたに待っていたパトカーに逃げ込んだ。「警視にどう報告したらいいんだ」と、車が動き出すと、ヴェリーがうめいた。
「これじゃあ、かみつかれちまうな」
「どの警視だね」
「リチャード・クイーン警視さ」部長は不機嫌に運転手の血色のいい首筋を見つめていた。「まあ、できるだけのことはやったんだ。邸はまず封鎖してある。部下をひとりやって金庫の指紋を調べさせることにしよう」
「そりゃ、役に立つでしょうね」ペッパーの朗らかさも消え失せ、すわって爪を噛んでいた。「地方検事も、きっとぼくをこてんこてんにやっつけるだろうな。ぼくは意地でもハルキス邸から目を離さないつもりだ。明日《あした》も行って様子を見てやろう。もし、邸の馬鹿どもが、われわれがあんなふうに行動制限したことについて、とやかく文句でもつけようとしたら――」
「そんな、ばかなこと」と、ヴェリーが言った。
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五 REMAINS……遺骸
十月七日、木曜日の朝は妙に陰気な日だった。サンプスン地方検事が捜査会議を召集した。そしてエラリー・クイーンが後日「ハルキス事件」として有名になったこの不可解な謎《なぞ》に正式に紹介されたのは、この日だった。当時のエラリーはまだ若くて生意気だった。〔ギリシア棺の事件はすでに出版されたクイーンの事件記録としては時間的にみて先だつものであることに注意して下さい。これはエラリー・クイーンが大学を卒業してまもない頃の事件です。 J・J・マック〕それにニューヨーク市警察との関係がまだ確立されていなかったから、リチャード・クイーン警視の令息という特別な身分にもかかわらず、余計な出しゃばり者のように見られていた。事実、老練な父警視さえ、現実の犯罪学に純粋理論を当てはめようとするエラリーの能力には、かなり疑問をもっていた。しかし、まだ未完成であったが、その推理方式を使って、二、三の事件を解決したことがあるので、サンプスン地方検事が警鐘を打ちならした時は、当然馳せ参ずる捜査会議の一員だと、エラリーはあつかましくも、自分勝手に思い込んでいた。実を言うと、エラリーはハルキスの死については何も聞いていなかったし、遺言状の盗まれたことなど、てんで知らなかった。そのために、エラリー以外の出席者がみんな回答を知っているような愚問を発して、地方検事をうるさがらせた。後年、辛抱強い同僚になった検事も、当時はまだそうではなかったから、明らかにいらいらしていた。警視自身も迷惑そうに、歯に衣《きぬ》を着せずにたしなめた。それでエラリーも少し離れて、サンプスン事務所の、一番上等の革椅子に深く腰を下ろして、控え目にするのだった。
一同はひどくむずかしい顔をしていた。サンプスンは、まだ駆け出しで、やせてはいるが、とても頑張り屋で、年も働き盛り――明るい目の、仕事熱心な男だった。しかし、一見つまらなそうに見えて、調べてみるとなかなか厄介な今度の難事件にぶつかり、いささかあわてていた。それから、ペッパーだが、この頭の切れるサンプスン配下の検事補は、サンプスンが自分で任命した男ではなく官選だった。ペッパーは元気いっぱいの大きな図体で、絶望的にしおれていた。また、おなじみのクローニンもいた。クローニンはサンプスン配下の主席検事補で、犯罪知識に関しては、検事やペッパーよりも通じている検事局の古参株――赤毛で、神経質で仔馬《こうま》のように敏捷《びんしょう》で、老馬のような分別のある男だ。それからリチャード・クイーン警視だが、すでに初老となり、少ししなびた鋭い顔と房々した銀髪と、口ひげとで、ますます小鳥に似てきた。――この、すんなりと小柄な老人は、ネクタイにこった好みをもち、グレイハウンドのような弾力性を内にひそめて、正統派の犯罪学の広汎な知識をもっていた。警視はげんなりした様子で、おなじみの茶色のかぎたばこ入れをいじくっていた。
それから、もちろんエラリー自身もいた。――エラリーは、一時的におとなしくしていた。発言する時には鼻眼鏡のレンズをきらきらと振りまわし、微笑すると顔じゅうがほころびた。――とてもいい顔立ちという評判で、長い、上品な輪郭と、大きく澄んだ考え深そうな目をもっていた。他の点では、母校の匂いがまだ抜けきれない一般の青年と大差なく、背が高く、きりっとしまったからだつきと、いかり肩はどこかスポーツマンらしい。エラリーがサンプスン地方検事をじっと見つめると、地方検事は明らかにもじもじするのだった。
「さて諸君、われわれはまた例によって例のごとき事件にぶつかることになった」とサンプスンが低い声でつぶやくように「手がかりは、いくらでもあるが、めどがつかないというやつだ。ところでペッパー君、ほかに何かぼくらを困らせるものは発見しなかったかね」
「これといって何も」と、ペッパーがしょげて「むろん、まず最初の機会をつかまえてこのスローンという男をしぼってみましたがね――他にだれもいない時に。ハルキスの新しい遺言で損をするのはあの男だけですからね。ところがスローンは貝みたいに口をとじて――昨日は全然話そうとしないんです。手がつかないんですよ。証拠がひとつもないんですからね」
「方法はいくつかある」と、警視がぼそりと言った。
「冗談じゃないよ、Q」と、サンプスンがきめつけた。「あの男に不利な証拠は、ひとかけらもないんだよ。理論的に動機があるからといって、単なる嫌疑で、スローンのような男をおどしあげることはできないさ。ほかに何か、ペッパー君」
「それがです。ヴェリー君とぼくはお手あげだってことを悟りました。あの邸を世間から隔離しておく権利は全然ないのですからね。ヴェリー君は昨日二人の部下を引きあげなければなりませんでした。ところが、ぼくはそうやすやすと諦めかねたので、虫のしらせで昨夜は一晩じゅう見張っていました。――ぼくが張り込んでいたことは、おそらくだれも気がつかなかったでしょうよ」
「何かつかんだかね」と、クローニンがひとひざのり出した。
「それが」とペッパーは口ごもり「あることを見るには見たんだが……しかし」と急いでつづけた。「別につかんだというわけじゃない。あの娘《こ》は、とてもいい娘で――そんなことはできそうもない――」
「一体、だれのことを言っとるんだね、ペッパー君」と、サンプスンが訊いた。
「ブレット嬢、ジョアン・ブレット嬢です」とペッパーがおずおず答えた。「今朝の一時に、あの娘がハルキスの書斎をうろつきまわっているのを見かけました。もちろん、あんな所をうろついてちゃいけない――ヴェリー君が、みんなに近づくなと、はっきり言い渡したんですからね……」
「怪死した男の美人秘書ですね」と、エラリーが訊くともなく訊いた。
「うっふ、そ、そうです」とペッパーは、ちょっといつもと勝手のちがうという口ぶりで「そうですよ。その娘が少しばかり金庫をいじくりまわしました――」
「へえー」と警視が言った。
「……しかし、何も見つけなかったようです。しばらく書斎の真ん中にじっと立っていたようですからね。ネグリジェ姿はとてもいいでした。それから床をぽんと蹴って出て行きました」
「訊問してみたかね」とサンプスンがぷりぷりして言った。
「いいえ、しませんでした。なにぶん、その一件については怪しいことは何もないと思いましたからね」とペッパーが両手をひろげて弁解しはじめた時、サンプスンが冷たく言った。「君は美人に弱いのを卒業しなくちゃいかんよ、ペッパー君。その娘を訊問すべきだな。そしてしゃべらせるんだ。なっちゃないな」
「よくおぼえてとくんだね、ペッパー君」と、クローニンが笑いながら「ぼくにもおぼえがある。ある時、女がたおやかなやさしい腕をぼくの首にまきつけてさ――」サンプスンが苦い顔をした。ペッパーは首筋を真赤にして、何か言いかけたが結局何も言わないことにきめた。
「ほかに何か?」
「ごく事務的なことだけです。コーハランはまだハルキス邸に詰めていますし、ヴェリー君のとこの婦警もそうです。二人で邸を出る者をひとり残らず検査しています。それに、コーハランがリストをつくりました」と、ペッパーは胸ポケットをさぐり、ちび鉛筆でひどく走り書きのしてある、しわだらけの紙片をとり出した。「われわれが火曜日にあの邸を引き上げてから、外部から訪問して来た連中全部のリストです。ちょうど昨夜までの分がそろっています」
サンプスンは、その紙片をひったくるようにして大声で読みあげた。「エルダー牧師、モース夫人――これが例の妙な婆さんだね。ジェームス・J・ノックス――するとワシントンからもどって来たな。クリントック、エイラース、ジャクスン、この三人は新聞記者だ。それから、こりゃ、だれだね、ペッパー君――この二人は。ロバート・ペトリーとデューク夫人というのは?」
「故人の良いお顧客《とくい》です。弔問《おくやみ》に来たんです」
サンプスンは、ぼんやりとそのリストをいじりながら言った。「ところでペッパー、これで君の役目はすんだよ。ウッドラフから遺言状が紛失したと電話がかかった時、君がこの事件にかかりたいと言ったから、君にチャンスを与えたのだ。くどく言いたくはないが、そりゃその女はすばらしい美人だろうがね、君がもしブレット嬢に気をとられて、分別をなくし、肝心な任務を怠るようじゃあ、わたしとしては、あっさり君の役目をとりかえなくちゃならない……まあ、そりゃそれでいいとして、その点どう考えるかね。何か意見があるかね」
ペッパーは目を白黒させて「そんなことで、しくじりたくはないですよ……そこで、ひとつ考えがあるんですがね、検事。正直に言って、いろいろな事実からどう考えても、こんなことってありませんよ。遺言状はあの邸内にあるにちがいないのに、しかも出てこないんです。ばかげた話ですよ」ペッパーはサンプスンの机を平手でたたいた。「いいですか、ただひとつの事実があるために、他の多くの事実がみんな不可能に見えるんです。それはつまり――ウッドラフが葬式の五分前に金庫の中の遺言状を見たという事実なんです。そうでしょう、検事――その事実についてはウッドラフの証言があるだけです。私の言いたいことがわかるでしょう」
「君の言いたいのは」と警視が考えこみながら「あの遺言状を見たというのは、ウッドラフが嘘をついていると言うんだろう。言いかえれば、遺言状は見たという五分前より、ずっと前に盗まれていたにちがいないし、盗んだ奴は自分の行動を説明しなければならない時までに、それを邸の外に持ち出したにちがいないと言うんだろう」
「そのとおりです、警視。いいですか――われわれは論理的に考えなければならない。そうでしょう。あの遺言状が空中に消えることなんてありえないでしょ」
「どうしてそれがわかるかね」と、サンプスンが反問した。「遺言状はあの五分間の間に持ち出されたとウッドラフが言っているんだよ。それがその前に燃やされたか破棄されたものらしいなんて」
「しかし、サンプスンさん」とエラリーがおだやかに言った。「手提金庫を燃やしたり壊したりすることはたやすくないでしょう」
「それもそうだな」と地方検事がつぶやいた。「手提金庫は、一体どこに行っちまったんだろう」
「だからぼくが言うんですよ」とペッパーがここぞとばかりに「ウッドラフが嘘をついているんです。遺言状も手提金庫も、あの男が見た時には金庫にありゃしなかったんですよ」
「だが、一体なぜなんだ」と警視が大声で「なぜウッドラフはそんな嘘をつかねばならなかったのだ」
ペッパーが肩をすぼめた。エラリーがおかしそうに言った。「諸君、君たちはだれひとり、この問題に対してまともな取り上げ方をしていないですよ。こんな問題こそ、十分に分析して、あらゆる可能性を検討しなければならないんですがね」
「君はもう分析したんだろうな」と、サンプスンが苦々しく言った。
「ええそうです。そうですとも。ぼくの分析だと、こりゃ――実に面白いと言える――面白い可能性が出てきますよ」エラリーは胸を張って微笑した。警視は、かぎたばこを、ひとつまみ吸って、黙っていた。ペッパーは聞き耳を立てて前に乗り出し、はっとしてエラリーを見つめた。まるで今はじめてエラリーがいるのに気がついたようだった。
「では今までの事実を検討してみましょう」と、エラリーが無造作に言った。「諸君はこの問題に二つの補足的な可能性があることに同意されるでしょうね。つまり、そのひとつは、現在、新しい遺言状が存在しないということ、いまひとつは、現在も新しい遺言状が存在するということです。まず前の方を考えてみましょう。もし遺言状が現存しないとするなら、ウッドラフが嘘をついていたことになる。というのは、葬式の五分前に金庫の中にあるのを見たと言っているが、遺言状はその前にひとりまたは多数の何者かによって破棄されていて、その時にはすでになかったはずです。また、ウッドラフが真実を言っているとすれば、遺言状はウッドラフが見た後で、あの五分間に盗まれて破棄されたことになる。この場合、泥棒は遺言状を破るか燃すかして、その残物を、おそらく浴室の排水に流し込んでしまうことができたでしょう。だが今しがた言ったように手提金庫が全然見つからないという事実はこの破棄説が当を得ないものであることを示しています。手提金庫のかけらも見つからないのです。すると手提金庫はどこにあるのでしょうか。おそらく持ち去られたのでしょう。もし手提金庫が持ち去られたのなら、むろん遺言状も一緒に持ち去られたことになり、破棄されていないことになります。だが、ウッドラフが真実を言っているとすれば、あの情況のもとでは、手提金庫はとうてい持ち去れないと言っていいでしょう。したがって、われわれはこの最初の主要な可能性については、これで行きづまりということになります。いずれにせよ、もし遺言状が破棄されたのが事実なら、これ以上どうすることもできません」
「するとそいつが」と、サンプスンは警視の方を振り向きながら「そいつが助言というわけかね。おい君」と、ぷりぷりしてエラリーの方に向き直り「そんなことはみんなわかっとるよ。一体君は何を言おうとしてるんだね」
「警視さん」と、エラリーは情けなさそうに父に向かって「このひとがあなたのせがれを侮辱するのを放っとくんですか。ねえ、サンプスンさん。あなたはぼくの言うことをよくきかないで、先走りしているんです。そいつは論理をすすめるには禁物ですよ。さて第一の理論はあまり稀薄でつかみどころがないので、しばらくおいておいて、次の理論にとりかかることにしましょう――つまり遺言状は現在も存在するという課題です。ところでそれについての手がかりだが――ああ、この出来ごとで一番魅力のある場面ですよ。よく聞いて下さいよ、諸君。葬列について邸を出て行った連中はひとり残らずもどってきました。邸内には家の者二人だけが残っていました――そのひとりのウィーキスは実際にずっと書斎にいたし、そこには金庫があった。葬式のあいだ邸にはいった者はひとりもいないのです。そして、家の者と会葬者とは、外部の者に接触する暇はなかったのです。墓地にいた人物に遺言状を渡すことができたとしても、その連中もみんな邸にもどって来たのです。しかも……」
エラリーは早い口調で続けた。
「遺言状は、邸内からも、邸の中の人間からも、中庭の小道からも、墓地からも、見つからなかったのです。そこでぼくは諸君に懇願し、訴え、切望し、折り入ってお願いしたいんですがね」
エラリーはいたずらっぽい目付きで「ひとつ、この質問に、はっきり答えていただきたいんです。葬式のあいだに家から出て行ったもので、式のあとももどって来なかったし、遺言状の紛失がわかってから、一度も調査されなかった唯一のものは何でしょうか」
サンプスンがむっとして「ふざけるんじゃない。あらゆるものが捜査された。しかも、君も聞いたとおり徹底的にやられたんだ。そんなこと君も知っとるじゃないか」
「そりゃ、むろんそうだよ、エラリー」と、警視が穏やかに言った。「見落としたものは何もない――それともお前は事実を聞かされても、のみこめなかったのか」
「おお、なんてこったろう」と、エラリーはなげくように「そろいもそろって、明き盲なんですね」と、呆れて見せ、それから静かな声で言った。
「ほかでもないですよ、えらい小父さま方。そりゃ、ハルキスの遺骸《いがい》を納めた棺じゃありませんか」
それを聞いて、警視は目を白黒し、ペッパーは、あっとのどの奥で叫び、クローニンは、ぷっとふき出し、サンプスンは、ぽんと額をたたいた。エラリーは小馬鹿にするように、にやにやしていた。やがて、ペッパーが我にかえると、にやにやしながら「頭がいいな」と言った。「じつにいいですね」
サンプスンがハンカチを口に当てて咳払いした。「わたしは――そのう、クイーン君、前言を取り消すよ。先を続けたまえ、君」警視は無言だった。
「さて、諸君」と、エラリーがゆっくり言った。
「こんな立派な方々の前でお話するのは光栄です。ぼくの論旨は注目に値するものと思います。葬儀準備の最終段階での、どさくさにまぎれて、泥棒が金庫をひらき、遺言状のはいっている手提金庫を盗み出し、客間の中で隙をうかがって、手提金庫ごと遺言状を棺の中の詰物か、ハルキス氏の|経かたびら《ヽヽヽヽヽ》の下に滑り込ませるのはきわめてたやすいことだったにちがいありません」
「なるほどな」と、クイーン警視がつぶやいた。「遺言状を屍体《したい》と一緒に埋めれば破棄すると同じ効果がある」
「そうですよ、お父さん。すぐ埋葬することになっている棺に滑り込ませるだけで、同じ目的を達せるんですもの、なにも遺言状を破棄するまでもないでしょう。ハルキス氏が自然死だったから、あの棺が、最後の審判の日まで、この世で再び開いて調べられる、などと心配する理由は、たしかに泥棒にはなかったはずです。こうして――あの遺言状は、焼きすてて下水道に処理されたのと同様に、完全に生者の世界から葬り去られたのでしょう。それにこの説には心理的な裏付けもあります。手提金庫の鍵はただ一個で、ウッドラフが身につけていたのです。したがって泥棒は、葬儀の参列者が邸を出て行く前の、わずか五分の間に、手提金庫をあけることはできなかったはずです。それに遺言状のはいったあの手提金庫を身につけて持って歩くこともできなかったし――そうしようとも思わなかったでしょうね。かさばるし、危険も多すぎますからね。|そこで諸君《アロール・ムッシュー》、手提金庫と遺言状はおそらくハルキスの棺の中にあるはずです。もしもこれが耳よりの話なら、大いに役立てて下さい」
クイーン警視が小さな足ですっくと立った。「すぐ発掘するのが順序だろうな」
「そうらしい、どうも」と、サンプスンは、再び咳払いして警視を見つめた。「エラリー君が言うとおり――えへん――エラリー君が指摘するとおり遺言状が棺の中にあるとは必ずしも言いえないがね。ウッドラフが嘘をついとるのかもしれんよ。しかし棺を開いて確かめねばならんな。君はどう思うかねペッパー」
「たしかに」と、ペッパーが微笑しながら「クイーン君の素晴らしい分析は、まさに図星というところですね」
「よし、明朝発掘する手筈《てはず》にしたまえ。いまさら急いで今日しなければならない理由もなさそうだからね」
ペッパーは気がかりな様子で「故障がはいるかもしれませんよ、検事、こいつをやるには。要するに、こいつは殺人の容疑があってやるわけじゃないですからね。どうやって判事の了解を得るか――」
「ブラッドレーに会いたまえ。あの男ならこういう話がわかるほうだからね。わたしもあとから電話をかけておく。面倒はおこらんだろうよ、ペッパー君。すぐにとりかかってくれ」
サンプスンは手をのばして電話をとり、ハルキス邸の番号を呼び出した。「コーハランを……コーハラン君、こちらはサンプスンだ。あしたの朝、会議をするから、家の者はみんな出席をするように指令してくれ……そうだ、ハルキスの屍体を発掘する予定だと言っといていいよ……掘り出すんだ、ばかだな……だれだって? よろしい、わたしが話そう」検事は受話器を胸に当てて警視に言った。「ノックスがいるんだよ――例のノックスさ……もしもし、ノックスさん? こちらは地方検事サンプスンです……そう、どうも残念なことで、まことに御愁傷《ごしゅうしょう》さまです……ところで、ある事情がおこりまして遺骸を掘り出さなければならないそうです……おお、どうしても必要なのです……何ですか……もちろん大変|遺憾《いかん》な事ですがね、ノックスさん……そう、別に気をもまれることもありませんよ。万事注意してとりはからいますからね」検事は静かに受話器をかけて言った。「厄介なことだな。ノックスは紛失した遺言状の執行人に指名されている。もし遺言状が見つからず、画廊の新しい受益者が確認できないとなると、執行人もいらないことになるんだ。ハルキスは遺言せずに死んだものとみなされるんだ……それで、ノックスはそのことをひどく気にしているようだ。明日、遺言状が棺の中から発見されなければ、ノックスが遺産管理人に任命されると見なければならないだろうな。ノックスはあの邸で目下ウッドラフと打ち合わせの最中だ。遺産の下調査というわけだね。一日じゅうあそこにいると言っていた。あの財産が全部自由になるというのは、ノックスにとって大したことだからなあ」
「あのひとも発掘に立ち会うんですか」と、エラリーが訊いた。「ぼくは常々大富豪というものに一度会ってみたいと思っていたんです」
「立ち会わないと言っとったよ。明日はまた朝早くから出なければならないんだそうだ」
「少年時代の夢が、またひとつ破れましたよ」と、エラリーがしょんぼり言った。
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六 EXHUMATION……死体発掘
かくして、エラリー・クイーン氏が、ハルキス悲劇の出演者たちや、捜査現場や、ジョアン・ブレット嬢が二、三日前に感じたと言い、その時とくにエラリーの関心をひいた、あの「息づまるような空気」なるものにおめみえしたのは十月八日の金曜日だった。その金曜日の朝、ハルキス邸の応接室に集合したのは――みんな非常におとなしく物わかりのいい連中だった。そして、地方検事補ペッパーとクイーン警視の到着を待っているあいだに、エラリーは背が高くて初々《ういうい》しいイギリス美人と話し合っていた。「あなたが、ブレットさんなのでしょう」
「ええ」と、娘はかたくなって「私のことをすっかりご存知でいらっしゃるのね」しっとりと露を含んだような青いきれいな目の底で少しほほえんでいた。
エラリーも微笑して「実はそれほどでもないんですよ。たとえ、よく知らなくても感じでわかるというもんじゃありませんか」
「まあ、敏感でいらっしゃるのね」ブレット嬢は、白い両手をつつましくひざに置いて、ウッドラフとヴェリー部長が立ち話をしているドアの方を横目で見た。「あなたは、おまわりさんですの」
「その影法師みたいなものですよ。有名なクイーン警視のせがれ、エラリー・クイーンです」
「あまりはっきりした影法師とは申せませんわね、クイーンさま」
エラリーは娘の背の高い、姿勢のいい美しさを、ものほしそうな目付きで、ほれぼれと眺めていた。「とにかく」と、エラリーは言った。「あなたはけっして影法師なんて言われることはないでしょう」
「まあ、クイーンさま」と、娘はしゃんと胸を張ってほほえみながら「あなたはお上手に、私の容貌《ようぼう》をけなしていらっしゃるのね」
「アルタルテ〔セム族のみのりの女神〕そっくり」と、エラリーはつぶやいた。そして、いっそう、じろじろと娘のからだを見まわしたので、娘は真赤になった。「実は、そんなこととは気がつかずに言ったんですよ」
それで二人はふきだした。すると娘は言った。「私は、別の意味で影みたいなものなんですのよ、クイーンさま。私は、とても暗示にかかりやすいんですの」
と、いうようなことで、エラリーは思いがけず、あの葬式の日の息苦しい空気というものを知ったのである。ところが、しばらくして、娘に会釈《えしゃく》して父とペッパーを迎えに立った時に、また新たに息苦しい空気が湧いたようだった。というのは、アラン・シェニー青年が殺気をはらんだ目で、エラリーを荒々しくにらみつけていたからだ。ペッパーと警視のすぐあとを追って、フリント刑事が、小肥りで汗まみれの年寄りを引ったててやって来た。「だれだ、こいつは?」と、ヴェリー部長が応接室の入口に立ちはだかって、どなった。
「このうちのもんだそうです」と、フリントは小肥りの男の丸々した腕をつかんで言った「こいつはどうしましょうか」
警視は外套《がいとう》と帽子を椅子にほうり出しながら歩みよって「君はどなたかね」新顔の男はきょときょとしていた。小柄でぽってりしているオランダ人で、白髪をなびかせ、頬紅《ほほべに》でも刷《は》いたようなばら色の頬をしていた。その男は頬をふくらませて、いっそう当惑顔になった。ギルバート・スローンが部屋の向う側から声をかけた。「大丈夫ですよ、警視。うちの外交員のジャン・ヴリーランド君です」スローンの声は妙に無愛想でさりげなかった。
「おお」と、警視は、じろじろとその男を見つめて「ヴリーランド君なのか」
「はい、そうです」と、ヴリーランドはあえぐように「ヴリーランドです。一体どうしたんですか、スローンさん。この方々はどなたなんですか。ハルキスさんが……家内はどこにいますか」
「ここよ、あなた」と、うわずった甘い声が聞こえて来て、ヴリーランド夫人が戸口に立ち現われた。小男は妻に走りよって、気ぜわしくその額にキスした。――夫人はやむなく腰をかがめ、その大きな目が、ちらっと、腹立たしそうに光った。――ヴリーランドは帽子と外套をウィーキスに渡してから、棒立ちになって、驚いたようにあたりを見まわした。警視が訊いた。「今頃やっと帰って来たというのは、どういうことかね。ヴリーランド君」
「昨夜《ゆうべ》ケベックのホテルにもどってみると」と、ヴリーランドはせかせかと少し咳込みながら言った。「電報が来ていました。それまでハルキスさんが亡くなられたことをちっとも知りませんでした。驚きましたよ。ところで、これは何の集まりですか」
「今朝、ハルキス氏の墓をあばくんだよ。ヴリーランド君」
「へえ」と、小男はしんみりして「わたしは葬式にも間に合わないで……ちっちっ! でもなぜお墓をあばくのですか。もしや――」
「どうでしょう」と、ペッパーがじりじりして「そろそろとりかからなくちゃならんでしょう警視」と言った。
一同が行ってみると、寺男のハネーウェルが墓地でそわそわしながら、埋葬の時に土を掘りおこした四角い芝生の前を行ったり来たりしていた。ハネーウェルが場所を示すと、スコップを手にした二人の男が、手につばをして、力いっぱい掘りはじめた。みんな無言だった。女たちは邸に残り、事件に関係ある男たちもスローンとウッドラフだけが立ち会っていた。スイザはそんなことを見るのがいやだと言うし、ワーディス医師はごめんだと肩をすぼめたし、アラン・シェニーは身ぎれいなジョアン・ブレット嬢にへばりついていて離れようともしなかった。クイーン父子とヴェリー部長と、痩せたのっぽで、黒い頬ひげをはやし、怪しげな安葉巻を口にねじこみ、足許に黒い鞄《かばん》を置いている新顔の男が、そばに立って墓掘りどもの力仕事を眺めていた。新聞記者連は、五十四番街に面した鉄柵に並んで、カメラを構えていた。警官が往来に群がる群衆をおさえ、執事のウィーキスは中庭の垣根の後ろからこわごわ覗いていた。刑事連は垣根によりかかっていた。中庭に面した家の窓々から人々が頭をつき出し、首をのばしていた。
三フィートほどの深さで人夫どものスコップが、かちんと鉄にぶつかった。人夫どもは、下っ端海賊が埋めてある宝を掘り出すかのように、せっせと土をかきのけ、地下の納骨堂に通じる水平な鉄扉のおもてをきれいにした。それで仕事が片づいたので、人夫たちは浅い穴からとび出して、スコップによりかかった。
鉄扉がこじあけられた。するとすぐに、やせてのっぽな、安葉巻をくわえている男が大きな鼻の穴をぴくぴくさせて、なにか神秘的な言葉を口の中でつぶやいた。そして、いぶかしげに見ている一同の前に進み出て、地面にひざをつき前のめりになって、鼻をくんくん鳴らした。やがて地面から手をはなし、よろめきながら立って、いきなり警視に言った。「変なにおいだな」
「どうしたんだね」
ところで、やせてのっぽで安葉巻をくわえているこの男が、むやみにあわてふためいたり取り乱したりするような人物ではないのを、クイーン警視はそれまでの経験で知っていた。この男はニューヨーク地区医務検査官主任付き、助手サムエル・プラウティ医師で、非常に慎重な紳士だった。エラリーは脈がはやまるのを感じた。ハネーウェルは見るからに強張《こわば》った顔付きになった。プラウティ医師は警視には答えようともせずに、墓掘りどもに向かって「穴にはいって、新しい棺をひき出してくれ。あとはわれわれが引き上げるからな」
人夫たちは用心しながら暗い穴に降りた。しばらくの間、入り乱れたしわがれ声や、どたばたする足音が聞こえていた。やがて、大きな黒光りの棺が見えてきた。大急ぎで道具がととのえられ、指示が与えられた……。そして、ついに、棺は口をあけた墓穴の片側に少しかたよせて、墓地の表面に置かれた。
「あの人を見ているとフランケンシュタイン博士を思い出すな」と、エラリーはプラウティ医師を見ながら、ペッパーにささやいた。だが二人とも、にこりともしなかった。プラウティ医師は猟犬のように鼻をくんくん鳴らしていた。しかしいまや一同は胸の悪くなるような悪臭にへこたれた。刻一刻と悪臭はひどくなった。スローンの顔が灰色にかわった。そしてハンケチをとり出して激しく鼻をかんだ。
「このいまいましい死体には防腐処理をしたのかね」と、プラウティ医師が棺にかぶさりかかって訊いた。だれも返事をしなかった。二人の墓掘りがふたのねじ釘をゆるめかけた。ちょうどこの劇的な瞬間に、第五アベニューに群がる自動車の大群がやかましく警笛の不協和音を立てはじめた――その音は悪臭ただようその場の光景にぴたりと合う冥土《めいど》の伴奏のようだった。
やがて、ふたがとりのけられた……おそろしい信じがたいひとつの事実が、すぐ明らかになった。つまり、それが墓の悪臭の源《もと》だった。というのは、ゲオルグ・ハルキスの防腐処理をされて硬直している死体の上に、その道づれが、手足を折りまげて詰めこまれ――腐りかけのからだがむき出しになり――すっかり青ざめて斑点ができて――折り重なっていたのである。第二の死体が。
おそろしい死の緊迫によって、一切がかたわらに押しのけられ、時間そのものも静止して、人の世がじつにみにくいものになるのは、こんな瞬間である。心臓がひと打ちするつかのま、一同は活人画の人形にでもなったかのように――身動きもできず、黙然と、ものも言えず、見ひらいた目に、おびえ上がる恐怖の色をうかべていた。やがてスローンが、もどしそうな音をたて、ひざをがくがくふるわせて、分厚いウッドラフの肩に、子供みたいにすがりついた。ウッドラフもジャン・ヴリーランドも、息をのんで――このハルキスの棺にもぐり込んだいまわしい死体を見つめるだけだった。プラウティ医師とクイーン警視は唖然《あぜん》として顔を見合わせた。やがて、老警視が絞めつけられるような声とともに前へとび出し、ふるえる小鼻をハンカチで覆いながら、棺の中をまじまじと覗きこんだ。プラウティ医師の指が猛禽《もうきん》の爪のように曲り、忙しく働きだした。エラリー・クイーンは両肩をそらして空を見上げた。
「殺されたのだ。銃殺だ」プラウティ医師の簡単な検査で、それだけのことがわかった。プラウティはヴェリー部長の手を借りて、死体をひっくりかえした。被害者は、うつ向きになり、ハルキスの死体の肩に顔をうずめていた。いまや一同は、その顔をじかに見ることができた――目は深く額に落ちこみ、かっと見ひらいた眼球が、信じられないほど干からびて茶色になっていた。しかし顔そのものは人間のかたちを失うほどいたんではいなかった。不規則な鉛色をした斑点の下に黒ずんだ皮膚があった。鼻は、今は少しぺちゃんこになっているが、生前は鋭く尖っていたにちがいない。顔の輪郭と凹凸《おうとつ》は、腐敗のために、ぐにゃぐにゃになって、ふくれていたが、くずれる前にはきりっとした顔立ちだったにちがいない。クイーン警視は口ごもるような声で言った。「おや、この面は見たことがあるぞ」
ペッパーは警視の肩ごしに覗き込んで、じっと見つめていた。そしてつぶやいた。「ぼくもですよ、警視、もしかすると――」
「遺言状と手提金庫がありましたか」と、エラリーが、のどにひっかかるような声でそっけなく、訊いた。
ヴェリーとプラウティ医師が手を突っこみ、ひっぱったり、なでまわしたりした。……「ない」とヴェリーがいまいましそうに言った。そしてじっと手を見て、股のあたりでこっそりと拭くような身ぶりをした。
「今さらそんなものはどうでもいい」と警視がぴしりと言った。そして身を起こして小さなからだをふるわせていた。「おい、お前の推理はすばらしいもんだぞ、エラリー」と大声で「すばらしいぞ。棺をあばけば遺言状が見つかるなんてな……ふふん」と、鼻をしかめた。「トマス!」
ヴェリーが警視のそばに歩み寄った。警視がその耳に何かささやいた。ヴェリーは、大きくうなずいてはなれ、中庭の門へ向かった。警視が鋭い声で「スローン、ヴリーランド、ウッドラフ、さあ邸へもどるんだ、すぐにだ。だれにも、ひとことも話しちゃいかん。おい、リッター!」墓地の向うの柵によりかかっていた、たくましいひとりの刑事が急いで墓地を横ぎって来た。「記者どもを追っ払え。いま、連中にかぎまわられたくない。大急ぎだ」リッターは墓地の五十四番街側の門の方へとんで行った。「おい、寺男君、君の名は? そこにいる君たちは、ふたをしめて、この仏を――こいつを邸に運んでくれ。さあ行こう、先生。仕事ができたぞ」
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七 EVIDENCE……証拠
ニューヨーク市警察部のどの係官よりも、おそらくは、クイーン警視が、どうすればよいかを一番よく知っている仕事があった。五分もたたぬうちに、ハルキス邸は再び戒厳令下にあった。応接室は臨時の実験室になり、不気味な二つの死体を詰めた棺が床に置かれた。ハルキスの書斎は徴発されて集会室になり、出入口には全部見張りがつけられた。応接室に通ずるドアはしめきられて、ヴェリーの幅のひろい肩が、その羽目板によりかかっていた。プラウティ医師は、上衣を脱ぎすてて床にうずくまり、第二の死体と忙しく取り組んでいた。書斎では地方検事補ペッパーが電話のダイヤルをまわしていた。刑事連は、謎の任務で走りまわりながら邸を出入りした。エラリー・クイーンは父親と向き合い、互いに陰気そうな微笑を交していた。「おい、ひとつたしかなことがある」と、警視が唇を舐《な》めながら「お前の勘が、おそらくだれも思いがけない殺しをあばいたことだ」
「ぼくはあの不気味な顔を夢にみそうですよ」と、エラリーがつぶやいた。その目は血走り、無意識に鼻眼鏡を指先でくるくるまわしていた。
警視は満足そうに、かぎたばこを深く吸いこんだ。「そいつを少し見よくしてくれよ、先生」と、警視がプラウティ医師に、落ちつき払って言った。「邸の連中に面通しさせてみたいんだ。素性がわかるかもしれんからな」
「すぐに片づくよ。どこに置くかね」
「棺から出して床に置く方がいいな。トマス、毛布を持って来て顔だけ出して包んでくれ」
「香水かなんか持って来て、このひどいにおいを消さなくちゃあ」と、プラウティ医師がおどけてこぼした。
予備検死がすんで、急いで第二の男の死体を人前に出せるようにすると、おじけずいて青ざめた連中が列を作って応接室にはいり、また出て行ったが、死人の顔の確認ができる者はひとりもいなかった。たしかに見覚えがないのか。ない。連中はその男を一度も見たことがないと口をそろえて言った。君もか、スローン君。ええ、知りません――スローンはすっかり嘔気《はきけ》がついて、死人を見ると胸がむかつき、小さな気つけ薬のびんを手に持って、ときどき小鼻にあてていた。ジョアン・ブレットは意志の力でかろうじてひとみをこらして、考え深そうに見ていた。シムズ夫人も病床から起き出して、ウィーキスと刑事に連れて来られたが、何のことか見当もつかず、異様な死人の顔をこわごわと長いこと見つめていたが、すぐに叫び声をあげて気を失い、ウィーキスと三人の刑事が力を合わせて二階の部屋に運び上げなければならなかった。一同はみんなハルキスの書斎に追い返された。警視とエラリーは、プラウティ医師ひとりを死人のお守り役として応接室に残して、急いで一同のあとを追った。ひどく昂奮したペッパーが、ドアのところで、じりじりしながら二人を待っていた。
ペッパーの目が輝いた。「殻《から》が割れましたよ警視」と、低い声に力をこめて「あの顔はたしかにどこかで見た気がします。それに、あなたにもきっと見覚えがあるはずですよ――そら、犯罪者写真陳列室で」
「そうらしいな。だが、何という奴だったかな」
「それで、以前の同僚の弁護士、ジョーダンに電話をかけてみました。――ぼくがサンプスンの役所に採用される前の同僚です。あなたもご存知でしょう。ジョーダンならあいつがだれかを知っているだろうと思いついたんです。はたして、ジョーダンがぼくの記憶をよみがえらせてくれました。あいつは、アルバート・グリムショーという男です」
「グリムショーか」と、警視は、はっと言葉をのんで「紙幣偽造犯だったな」
ペッパーがにやりとした。「憶えがいいですね、警視。しかしあれは奴の犯罪のひとつにしかすぎません。五年前に、ジョーダン・アンド・ペッパー法律事務所をやっていた頃、あの男を弁護したことがあるんです。ぼくらは敗けて、あの男は五年の刑を受けたと、ジョーダンが言っていました。ねえ、奴は刑務所から出て来たばかりにちがいありませんよ」
「そうか。シンシン刑務所だな」
「ええ」二人は部屋にはいって行った。みんなが二人を見つめた。警視がひとりの刑事に向かって言った。「ヘッシー、急いで本部へもどって、紙幣偽造でこの五年間シンシンにくらい込んでいたアルバート・グリムショーの記録を調べてくれ」ヘッスは出て行った。「おいトマス」ヴェリーが呼ばれてのっそりと進み出た。「だれかをやって、刑務所を釈放されてからのグリムショーの行動を洗わせてくれ。いつごろ出たか調べるんだ――どうやら善行を積むのにたっぷり時間があったらしいぞ」
ペッパーが言った。「検事にも電話で、新事態の発生を報らせておきました。こっちの方はぼくがおやじのかわりに、面倒を見るようにとの、命令です。――検事は例の銀行の調査で忙しいそうです。で、死体には何か身許を確認するものが見つかりましたか」
「まるっきりない。つまらんがらくたと、小銭が少々、それに古ぼけた空財布だけだ。着衣にも身許を示す印はてんでついておらん」
エラリーがジョアン・ブレットの目をじっと見ながら「ブレットさん」と、穏やかに言った。「さっき、あなたが応接室で死体を見ていた時に、どうも、変な気がしたんですがね、つまり……あのひとを知っているんでしょう。なぜ見たこともないなどと言ったんですか」
ジョアンは赤くなって、床をとんとふみ鳴らした。「まあ、失礼よ、クイーンさま。私は何も……」
警視が冷やかに訊いた。「知っとるのかね。知らんのかね」
ジョアンは唇をかんだ。「それには長いお話がありますのよ。それにそのお話は何の役にも立たないと思いますわ、あのひとの名も知らないんですものね」
「役に立つか立たないかは警察が立派に判断します」と、ペッパーが、ことさらにきびしい口調で「ブレットさん、何か知っているのに言わないと、情報を隠した罪にとわれますよ」
「そうかしら、本当に」と、ジョアンは頭をもたげて「でも、私は何も隠してはいません。ペッパーさま。ちらっと見ただけでは、はっきりしなかったんです。あのひとの顔は――そのう……」と、身ぶるいして「今になって考え直してみると、あのひとを見たことがあるような気がしますわ。一度――いえ、二度見かけました。でも、申し上げたとおり、あのひとの名前は知りませんのよ」
「どこで見かけたかね」警視はきびしい口調で、ジョアンが若く美しい女性だなどということにはまるでおかまいなしだった。
「ここの邸ですわ、警視さま」
「ほう、いつかね」
「じゃあ、お話いたしますわ」と、ジョアンはちょっと口ごもったが、すぐに、やや自信をとりもどした。そして、エラリーにほほえみかけたので、エラリーは元気づけるように大きくうなずいてみせた。「あのひとを最初に見かけたのは、先週の木曜日の夜でしたわ」
「九月三十日だね」
「はい。あのひとは夜の九時頃、玄関に姿を見せました。くり返して申しますが、名前は知りませんのよ」
「グリムショー。アルバート・グリムショーという名です。それから? ブレットさん」
「女中があのひとをお通しした時、ちょうど、私は控えの間を通りかかって……」
「どの女中だね」と警視が訊いた。「ここの女中にはひとりも会っとらんが」
「おお」とジョアンはびっくりしたらしい。「でもあの時――うっかりしていましたわ――むろん、あなたが知っていらっしゃるはずはないわ。あの時、ここには女中が二人いたんですのよ。でも二人とも無知で迷信《かつぎ》屋さんだったので、ハルキスさまが亡くなった日に、おひまをくれと言い出してきかなかったのです。それで私たちも、無理に、二人をひきとめるわけにもいかなかったのです。『人の死んだ家』なんて言い張るんですものね」
「そのとおりかね、ウィーキス」執事は黙ってうなずいた。
「それで? ブレットさん、どうだったのかね? まだほかに何か見たかね」
ジョアンはため息をした。「たいして見ませんでしたわ、警視さま。女中のひとりが、ハルキスさまの書斎に入って、グリムショーとかいうあの人を取り次いで、出て来るのを見ただけです。あの晩はそれだけでした」
「グリムショーが帰るのを見ましたか」と、ペッパーが口をはさんだ。
「いいえ、ペッパーさま……」ジョアンがペッパーのパーを妙に長く発音したので、ペッパーはむっとして顔をそらした。検察官としては好ましくない感情的なところを隠そうとするかのようだった。
「で、二度目にあの男を見かけたのは、いつかね、ブレットさん」と、警視が訊いた。しかしその目はほかの連中を抜け目なくさぐっていた。みんなは乗り出すようにして聞き耳をたてていた。
「二度目にあのひとを見かけたのは、次の日の夜――つまり先週の金曜日の夜でしたわ」
「それはそうと、ブレットさん」と、エラリーが妙な調子で口をはさんだ。「あなたはハルキスさんの秘書だったんでしょう」
「そうですわ、クイーンさま」
「それに、ハルキスさんは|めくら《ヽヽヽ》でひとりではどうにもならなかったのでしょう」
ジョアンはちょっとふくれて「目はお不自由でしたけれど、ひとりで、どうにもならないほどではありませんでしたわ。なぜそんなことをお訊きになるんですの」
「つまりそのう。ハルキスさんは木曜日に来客があることを、あなたには何も言わなかったんですか――あの晩来たあの男について? 面会の約束をあなたにさせたのじゃないですか」
「ああ、そのこと……いいえ、そんなことはなさいませんでした。木曜日の晩にお客がみえるなんてひと言もおっしゃいませんでした。私には全く意外でしたし、事実、ハルキスさまにとっても全く意外だったようですわ。じゃあ話をつづけさせていただきますわ」ジョアンは、濃いくっきりした眉をわざとしかめて、娘らしい腹立たしさを、うまく伝えた。「あなた方ってすぐ口をおはさみになって……金曜日というのは間違いでした。金曜日の夜のお食事のあとで――十月一日でしたわ、クイーン警視さま――ハルキスさまは私を書斎へお呼びになって、あることについて非常に慎重なご指示をなさいました。本当に、とても慎重なご指示でしたわ、警視さま、そうして――」
「さあ、さあ、ブレットさん」と、警視がじりじりして「まわりくどくなく話して下さい」
「あなたが証人台に立っているとすれば」とペッパーが顔をしかめて「どうやら好ましからざる証人ということになりそうですよ、ブレットさん」
「必ずしもそうじゃないわ」と、ジョアンがつぶやいた。そしてハルキスの机に腰かけると、両足を組み、それまでよりも少しスカートを引き上げた。「よござんす。模範的な証人になりますわ。こんな恰好なら感じが出るでしょう、ペッパーさま。……あの晩、来客が二人ある予定だとハルキスさまは、おっしゃいました。ずっとおそくなってからで、そのおひとりは、つまり、身分をかくして来るとおっしゃるんです――ハルキスさまのお言葉ですと、その方はとても身分をかくしたがっていらっしゃるから、だれにも見られないように注意してほしいとおっしゃるんです」
「妙だな」と、エラリーがつぶやいた。
「そうでしょう」とジョアンが言った。「よござんすか、ここまでは。その上、私はその二人のお客さまを自分で家に入れて、召使たちの目につかないようにすること、ご案内したら、あとは寝てしまえとおっしゃいました――たしかに、そのとおりなんですのよ。それにハルキスさまは、そのお二人の紳士とのお仕事はごく内密なものだとわざわざおっしゃいましたから、もちろん私は何もお訊きしないで、いつものとおり、つつましい秘書として、お言付けどおりにいたしました。ちょっと気の利いたせりふでしょ、ヒッギンボサム卿」警視は八の字をよせたが、ジョアンはつんとすまして目を伏せた。「お客さま方は十一時にいらっしゃいました」と、ジョアンがつづけた。「そしてお二人のうちのひとりは、その前の晩にひとりで来られた方だと、一目でわかりました――それがあなた方がグリムショーだとおっしゃる男の方です。もうひとりの、謎の紳士は、目から下をかくしていましたので、お顔は見えませんでした。でも、中年か、もう少し年配の方のような気がしましたが、あの方については本当にそれだけしか申せませんわ、警視さま」
クイーン警視が鼻を鳴らした。「あんたの言う、その謎の紳士というのが、わしらの立場からすると、きわめて重要な人物らしい、ブレットさん。もっとくわしく人相を言えんかね。どんな服装だったね」
ジョアンは思い出そうとして片足をぶらぶらさせた。「その方は外套を着て、ずっと山高帽子をかぶっていましたわ。でも外套の色も型も、まるで思い出せません。それに、私がお話できるのは本当にこれっきりなんですのよ。あなた方のおっしゃる――」と、身ぶるいして「あのこわいグリムショーさんについては」
警視が首を振った。明らかに気にくわない様子だった。「しかし、今はグリムショーのことを訊いているんじゃない。ブレットさん。さあさあ。その二番目の男について、ほかにもっと何かあるんだろう。あの晩、何か注意をひくようなことがおこらなかったかね――何か、その男をつきとめる|たし《ヽヽ》になるようなことが」
「おお、ほんとに」と、ジョアンはすらりとした足を蹴るようにつき出して、笑った。「あなた方、法と秩序の番人さんは、とてもくどいのね。よござんすわ――シムズさんの猫さわぎまで大事件だとでもお思いになるのなら……」
エラリーが興味をそそられて「シムズさんの猫ですって? ブレットさん。そりゃ面白そうだ。そうですとも、そりゃ大事件かもしれませんよ。そのぞっとする話をくわしくして下さい。ブレットさん」
「いいわ。シムズさんは、とてもいたずらな猫を一匹飼っているんです。トウチーと呼んでいます。トウチーは、いつもそのちっぽけな冷い鼻面を、おとなしい仔猫なら鼻を突っ込んではならないような場所に突っ込んでくるんですの? どう?――おわかりになって? クイーンさま」ジョアンは不気味な警視の目付きを見て、ため息をつき、後悔するように「本当に、警視さま、私は――私は無知な田舎娘《いなかむすめ》じゃありませんわ。ただ、私は――そのう、何もかにもこんぐらがっちゃって」ジョアンはしばらく黙りこんだ。何かしら――恐怖、神経質、こわそうな懸念《けねん》といったものが――その可愛らしい青い目に浮かぶのが見えた。「きっと、神経のせいね」と、ものうく言った。「それに私、神経質になると、ひねくれて、はしたないおてんば娘みたいに、何もかもおかしくなるんですの……その出来事というのは、実は」と、急に改まって「目まで顔をかくしていた謎の人物は、私がドアをあけると、先に立って控え室にはいって来ました。グリムショーは、その少しうしろから、そのひとの片がわについていました。シムズさんの猫は、いつも二階のシムズさんの寝室にいるんですけれど、いつの間にか階下におりて来て玄関の間にはいり、表ドアをあけたすぐ目の前の通路にねそべっていたんです。私がドアをあけて、その得体《えたい》の知れないひとが一足ふみ込んだ時、そのひとは危くころびそうになって片足を宙に浮かして立ちどまり、かろうじて猫をふまずにすんだんです。あの猫ったら、ひっそりと音もたてずに、絨毯の上にすわりこんで、のん気に顔を洗っていたんですもの。あのひとがかわいいトウチーをふみつけまいとしてアクロバットみたいな恰好をするまで、私はトウチーが――いかにもシムズさん好みの名でしょう――そこにいたなんて、全く気がつかなかったんですよ。それから、もちろん私はトウチーを通路から追い出しました。すると、グリムショーとかいう人がはいって来て言いました。『ハルキスさんが私たちを待っているはずだ』それで私はお二人を書斎にお通ししたんです。シムズさんの猫騒ぎって、それなんです」
「大して役に立ちそうな話ではありませんね」とエラリーが認めた。「それで、その顔を包んだ男は――何か言いませんでしたか」
「なにしろ、とても失礼なひとで」と、ジョアンがちょっと眉をしかめて「まるっきりひと言も言わないばかりか――だって、私が奴隷でないことはひと目でわかってたでしょうにね――私が書斎の入口まで案内して、ノックをしようとしたら、あのひとは手で私を押しのけて自分でドアをあけたりしたんですのよ。それにノックもしないで、グリムショーと一緒に急いで部屋にはいって、私の鼻先にぴしゃりとドアをしめたんです。とても腹がたって、茶碗《ちゃわん》でも噛みくだいてやりたいほどでしたわ」
「驚きましたね」と、エラリーがつぶやくように「すると、その男はひと言もしゃべらなかったんですね。確かですね」
「確かですわ、クイーンさま。お話しましたとおり、私はむかむかして二階へ上がりかけたんです」この瞬間、ジョアン・ブレット嬢が非常に激しい気性の持ち主である証拠を暴露した。これから言おうとしていることが、胸の中の憎悪の源にふれたらしく、ジョアンの明るい目が曇り、十フィートも離れていない壁のところによりかかって、両手をポケットに突っ込んでいるアラン・シェニー青年の方へ、苦々しい視線をなげた。「その時、いつも錠が下ろしてある玄関のドアで鍵を使うかちっという音が聞こえたんです。私が階段の中途で振り向いてみると、まあ、なんということでしょう! 人もあろうにアラン・シェニーさんが、ぐでんぐでんに酔っぱらって、控えの間にはいって来るじゃありませんか」
「ジョアン」と、アランが責めるようにつぶやいた。
「酔っていたんだね」と、警視があきれ顔で訊き返した。
ジョアンが大きくうなずいた。「ええ、酔っていましたわ。警視さま。たしかに――へべれけでしたわ。一杯きげんで。泣き上戸《じょうご》で。だらしがなくって。何とでも言えますわ。あの晩のシェニーさんみたいな様子を表わす言葉なら、英語にはきっと三百語以上もありますものね。ひと言で言えば、酔っぱらって大将になっていたんですわ」
「本当かね、シェニー君」と、警視が訊いた。
アランは弱々しく苦笑した。「驚くには当りませんよ、警視。ひっかけるとなると、ぼくはいつも家も国も忘れちまう方でしてね。おぼえていません。だが、ジョアンがそう言うんだから――してみると、そうだったんでしょうよ」
「おお、本当にそうなんですよ、警視さま」と、ジョアンがしゃんと頭をもたげて、ぴしりと言った。「とてもだらしなくて、胸がむかつくほど酔っぱらっていましたわ――よだれだらけになって」ジョアンはシェニーを睨みつけた。「それで私、あんなひどい様子じゃあ、ひと騒ぎするんじゃないかと心配になりました。ハルキスさまからは、もの音をたてないように、騒がしくしないようにとおいいつけでした。それで私――そうなんです。否応《いやおう》いってはいられませんでしたの。わかっていただけるでしょう。シェニーさんは、いつものだらしのない恰好で、にやにやと笑いかけていました。私は階段を駆け下りて、しっかりと腕をつかまえ、あのひとが家じゅうの者の目をさまさせないうちに、二階のあのひとの部屋へ連れていったんです」
デルフィーナ・スローンは、自分の椅子のはじっこに、ひどくとりすましてすわっていたが、息子《むすこ》からジョアンの方へ目を移した。「ブレットさん、本当にどうも」と皮肉たっぷりに「おわびのしようもございませんわ、そんなお世話をかけて……」
「どうぞ」警視がスローン夫人を鋭くにらみつけたので、夫人はあわてて口をつぐんだ。「それから? ブレットさん」
壁によりかかっているアランは、床に穴があいて、その場から忽然《こつねん》と消えられればいいと祈っているようだった。
ジョアンはスカートをちょっとつまんでよじった。「きっと」と、やや興奮のおさまった声で「こんなことは申し上げるべきじゃなかったでしょうけど……とにかく」と、言いながら顔を上げて憎らしそうに警視を見て「私はシェニーさんを二階のお部屋におつれして――シェニーさんがベッドにはいるのを見とどけたんです」
「まあ、ブレットさん!」と、スローン夫人がたまりかねて、腹立たしそうに声をつまらせ「すると、アラン――するとあなた方二人は――」
「服を脱がせてはあげませんでしてよ、スローンさま」と、ジョアンが冷やかに言った。「そんなつもりで、当てこすっていらっしゃるのならね。シェニーさんを叱りつけただけですわ」――その言い方は、それは単なる秘書の領分ではなくて母親の領分じゃないかと皮肉っているようだった――「それで、言っときますけど、シェニーさんは、ほとんどすぐにおとなしくなったんです。おとなしくなったというのは、つまり、ただ――私が部屋におつれしてから、ひどく吐き気をもよおされたということで……」
「要点がそれとるよ」と、警視がたしなめて「二人の客については、それ以上何か見なかったかね」
ジョアンの声が低くなった。そして目を伏せて、足許の絨毯の模様を一心に調べているかのようだった。
「いいえ。私は生卵をとりに――階下《した》へおりて行きました。生卵でシェニーさんが少しは気分がよくなるかと思ったんです。台所へ行く途中、この書斎の前を通りかかった時、ドアの下の隙間から灯《ひ》がもれていないのに気がつきました。それで、私が二階にいる間にお客たちは帰り、ハルキスさまは、お休みになったのだろうと思いました」
「このドアの前を通ったと言ったが、その時は――あんたがあの二人を通してからどのくらい時間が経っていたかね」
「判断するのはむずかしいですわ、警視さま。たぶん三十分ぐらいだと思います」
「すると、それ以後二人を見なかったんだね」
「ええ、警視さま」
「たしかに、これは先週の金曜日の夜――つまり、ハルキス氏が死んだ前の晩のことだね」
「ええ。クイーン警視さま」
それから、完全な沈黙が来た。沈黙の底で、一同をとらえる当惑顔がいよいよ募るばかりだった。ジョアンは紅《あか》い唇をかみしめて、だれも見ようともせず、アラン・シェニーの顔色は、ひどく悩んでいるようだった。スローン夫人は、細っそりした顔を「赤い女王」〔チェスの赤の駒の女王で不思議の国のアリスに出て来る〕のようにこわばらせて、色あせて魅力のない姿を緊張させていた。部屋の向う側で椅子にかけて足をのばしているネーシオ・スイザは、たいくつそうにため息をついた。その黒いヴァン・ダイクひげの先が、何かをとがめるように床をさしていた。ギルバート・スローンは気つけ薬をかいでいた。ヴリーランド夫人はメジューサ〔ギリシア神話の髪が蛇の悪女〕のような目付きで、夫のばら色の老顔をにらんでいた。あたりの空気には、まるっきり明るさがなかった。そしてワーディス医師は、その褐色の濃いひげにうずまって考え込み、あたりの空気にひたっているようだった。ウッドラフでさえ意気消沈のていだった。その時エラリーの冷静な声が一同の目をひきつけた。「ブレットさん。先週金曜日の夜、この邸にいたひとは、正確に言ってだれとだれですか」
「はっきりとは申し上げられませんわ、クイーンさま。女中が二人、もちろん寝《やす》んでおりましたし、シムズ夫人はお部屋に引きとっていましたし、ウィーキスさんは外出していました――たぶん夜勤のない日だったのですわ。そのほかは、そう――シェニーさん。ほかにはだれがいたか私にはわかりませんわ」
「よろしい。すぐわしらが調べあげる」と、警視が不機嫌に言った。「スローンさん」と、警視が大声をかけたので、スローンはびっくりして小さな色付きの薬びんを、もう少しで指からすべらせるところだった。「先週の金曜日の夜、君はどこにいたかね」
「おお、画廊にいました」と、スローンがあわてて答えた。「おそくまで仕事していました。私があそこで真夜中まで働くのは、たびたびのことです」
「君と一緒にだれかいたかね」
「いえ、いいえ。私は全くひとりきりでした」
「ふーん」老警視は、かぎたばこ入れを片づけながら言った。「ゲオルグ・ハルキス氏自身、かなり謎に包まれた人物らしいな。ところで、あなた、スローン夫人――あなたは金曜日の夜はどこでしたか」
夫人は青ざめた唇をなめて、せわしく目をしばたたいた。「私ですか。私は二階で寝《やす》んでおりました。私は兄のお客さまのことは何にも存じません――何ひとつ」
「何時に寝みましたか」
「十時頃部屋へ引きとりました。私は――少し頭痛がしたものですから」
「頭痛。ふーん」警視は、くるりとヴリーランド夫人を振り向いて「あなたは? ヴリーランドさん。先週金曜日の夜は、どこで、どうして過ごしましたか」
ヴリーランド夫人は、大きな丸々したからだを起こして、色っぽく微笑した。「オペラにまいりましたのよ、警視さま――オペラですの」
「何のオペラだか?」と、エラリーが急に、とっちめたくなったが、かろうじて自制した。この色気たっぷりの女は、ぷんぷんと香水の匂いをさせていた――たしかに高級香水だが、やたらにふりかけたものらしい。
「ひとりで?」
「お友達とですわ」夫人は甘ったるく微笑した。「そのあと、バルビゾンでお夜食をいただいて、午前一時頃に帰ってまいりましたの」
「邸にはいった時に、ハルキス氏の書斎に灯がついているのに気がついたかね」
「気づかなかったようですわ」
「この一階で、全然だれも見かけなかったかね」
「墓場のようにまっ暗で、幽霊も見かけませんでしたわ、警視さま」
ヴリーランド夫人は、のどの奥まで覗かせて、けらけら笑ったが、それにはだれも釣りこまれなかった。スローン夫人が、いかにも居心地悪そうに、もじもじした。ヴリーランド夫人の慎みのなさが、どうにもやりきれないらしかった。
警視はひげをひねって考えこみながら、ふと目を上げると、ワーディス医師の、明るい茶色の目と、視線がぶつかった。
「そう、ワーディス先生」と、明るい調子で言った。「それで、あなたは?」
ワーディス医師はあごひげをなぶっていた。「ぼくはあの晩は、劇場にいましたよ、警視」
「劇場。そうですか。すると、真夜中前に、帰ったんですな」
「いいえ、警視。劇場がはねてから、一、二、遊び場所をまわりました。実は、かなり真夜中過ぎまで帰宅しませんでした」
「あの晩はひとりきりだったのかね」
「そうです」
老警視は、かぎたばこをもうひとつまみして、その指先に小さな目を細めて鋭く光らせた。ヴリーランド夫人は冷たい微笑をうかべてすわっていた。その目は大きすぎるくらい、見ひらいていた。ほかの連中はみんなかなり退屈していた。ところで、クイーン警視は、その職業柄、今までに何千人も尋問してきたので、警官としての特別な勘が発達していた――嘘を見破る直観力が養われていた。ワーディス医師のてきぱきした回答ぶり。ヴリーランド夫人の緊張した態度。これは何かありそうだとかぎつけた。……「どうもあなたは真実を述べていないようですな、先生」と、警視はさりげなく言った。「もちろん、あなたのご懸念はわかるがね。……先週金曜日の夜は、ヴリーランド夫人と一緒じゃなかったかね」
夫人は息をのみ、ワーディス医師は濃い眉をつり上げた。ジャン・ヴリーランドは医者から目をそらして困ったように細君の顔をうかがっていた。夫人の小さな丸顔は屈辱と不安でおどおどしていた。ワーディス医師が急に笑い出した。「大した推理ですよ、警視。たしかにそうです」医師はヴリーランド夫人をちらっと見て「ごめんなさい、ヴリーランドさん」夫人は気の立っている雌馬のように首をふっていた。「ねえ、警視、ぼくは夫人の行動を、変な目で見られるようにしたくなかったのでね。ヴリーランド夫人をメトロポリタン・オペラと、そのあとバルビゾンにご同伴したのは、ぼくですよ――」
「おやおや――。ぼくはまさか――」と、ヴリーランドが、せきこんで抗議しかけた。
「ねえ。ヴリーランド君、ありゃ君。まるっきり無邪気なひと晩だったのさ。それに、非常に楽しかったよ。誤解のないように」ワーディス医師は老オランダ人の浮かぬ顔をじっと見ていた。「ヴリーランド夫人は、長いあいだ君が留守なのでひどく淋しがっていたし、ぼく自身もニューヨークには友だちがいない――だから、二人が仲よくなるのは、自然なことだよ、そうだろう」
「そうかもしれないが、ぼくはいやだな」と、ヴリーランドが子供っぽく言った。「まったく気にくわんよ、ルーシー」ヴリーランドは細君の方へ歩みよって、丸まっちい小さな人差指をその鼻先で振ってみせた。細君は気が遠くなりかかって、椅子の腕にしがみついた。警視がいきなりヴリーランドに静かにするように命令したので、細君はぐったりと椅子によりかかって、くやしそうに目を閉じた。ワーディス医師は、幅の広い肩をかすかにゆすぶっていた。部屋の片側では、ギルバート・スローンが激しくひと息すい込んだし、スローンの細君の無表情な顔には活気がよみがえっていた。警視はきらきらする目で次から次へと見まわしていった。そしてその目がデメトリオス・ハルキスのよろよろしている姿の上でとまった。
デミーは、そのぽかんとしている白痴面をのぞけば、醜男でやせこけていて、従兄のゲオルグ・ハルキスと瓜二つだった。その大きな無表情な目は、ぽかんと見ひらいたままだし、厚い下唇はだらんとたれさがっていた。後頭部はほとんど扁平で、頭蓋骨《ずがいこつ》がばかでかくて奇形をしていた。足音も立てずにふらふらと歩きまわり、だれとも話しせずに室内の連中の顔を近眼のようにのぞきこみながら、その大きな手を、おそろしく規則正しく握ったり開いたりしていた。「おい――君、ハルキス君」と、警視が声をかけた。デミーは相変らず書斎の中をふらふらとまわりつづけていた。「つんぼなのか」と、老警視はじりじりして、だれへともなく訊いた。
ジョアン・ブレットが「いいえ、警視さま。ただ英語がわかりませんの。ギリシア人ですものねえ」
「ハルキスのいとこなんだろう」
「そうです」と、アラン・シェニーが不意に言った。「しかしここんとこが足りないんです」と、意味あり気に自分の形のいい頭に手をやって、「精神的には、まあ白痴の部ですね」
「そりゃ、とても面白い」と、エラリー・クイーンがおだやかに言った。「白痴《イディオット》という言葉はギリシア語から出ていて、語源的には、単にギリシアの社会組織のなかでの、無知な個人をさすものなのです――ギリシア語では|idiotes《イディオテス》です。けっしてわれわれが言う馬鹿じゃないんです」
「そりゃそうでしょうが、あの男は現代英語の意味での馬鹿ですよ」と、アランがげんなりして言った。「伯父はあの男を約十年前にアテネから呼びよせたんです――向うにいる最後の身内の者だったんです。ハルキス家の者はほとんど、もう六代もつづいてアメリカ人なんですよ。デミーは、どうしても英語が覚えられないんです。――母の話だと、ギリシア語も明盲目《あきめくら》だということです」
「そうか。だがこの男と話をせにゃならんな」と、警視はがっかりしたように言った。「スローン夫人、この男はあなたにとっても、いとこに当る。そうだろう」
「はいそうです、警視さま。気の毒なゲオルグが……」夫人の唇がふるえて今にも泣き出しそうになった。
「まあ、まあ」と、警視が急いで言った。「あなたは言葉がわかるかね。つまり、ギリシア語が話せるかね。それともこの男のしゃべる言葉が」
「これと話すぐらいならできますわ」
「では先週金曜日の夜の行動を訊いて下さらんか」スローン夫人はため息をして立ち上がると、衣づくろいして、背のひょろ高い白痴の腕をとって、力いっぱいゆすぶった。白痴はのろのろ振り向いて、けげんそうな顔で、じっと夫人の顔をのぞきこみ、それからにやにやしながら夫人の手をとった。夫人が金切り声で「デメトリオス」と呼ぶと白痴は再びにやりとした。夫人はのどにかかる発音につっかかりながら、外国語でしゃべりはじめた。白痴はそれを聞いて、けらけら笑いながら夫人の手をぎゅっと握りしめた。デミーの反応は子供のようにあけすけだった。――母国語をきいてうれしくてたまらないのだ。デミーも夫人と同じ外国語で、少し舌ったらずにしゃべりながら答えた。その声は深くてしわがれていた。スローン夫人が警視の方を向いて「あの晩は十時頃、ゲオルグがベッドに追いやったと言っていますわ」
「寝室は、あのハルキスの寝室の向うかね」
「そうです」
「ベッドにはいってから、この書斎で何か物音を聞いたかどうか、訊いて下さらんか」
もう一度、奇妙な言葉のやりとりがあった。「いいえ、何も聞こえなかったと言っていますわ。すぐに寝ついて、一晩じゅう、ぐっすり寝込んでいたそうです。デミーは子供みたいに眠りますのよ、警視さま」
「それで、書斎のだれも見なかったのかね」
「でも、警視さま、眠りこんでいたのに、そんなことできるはずがないじゃございませんか?」
デミーは面白そうに、だがちょっと困ったように従妹《いとこ》の顔から目をはなして警視を見つめていた。老警視はうなずいた。
「ありがとう、スローンさん。今のところはそれだけで結構」
警視は机にもどって、電話機をとり上げて、ダイヤルをまわした。「もしもし。こちらクイーンだ……おい、フレッド、刑事法廷ビルをうろついとるギリシア語通訳の名は何というんだったかな。……え? トリッカーラ?……よし。その男をすぐつかまえて、東五十四番街十一によこしてくれ。わしの名を言ってくるように」警視はがちゃんと電話機を机にもどすと「みんなここでわしを待っとって下さい」と言い、エラリーとペッパーを手招きして、ヴェリー部長にちょいとあごをしゃくると、大股でドアの方へ出て行った。デミーは、びっくりした子供のような目つきで、出て行く三人の姿をじろじろ見送っていた。
三人は絨毯をしきつめた階段をのぼり、ペッパーの合図で右に曲った。階段を上がりきったところのすぐわきのドアを、ペッパーが指さしたので警視はノックした。女の涙声が低く「どなたですか」と、おびえたようにひびいた。
「シムズさん。クイーン警視です。ちょっと失礼していいかね」
「どなた? どなたですか。おお、どうぞ。ちょっとお待ち下さい、ちょっとです」あわただしくベッドがきしみ、せかせかした女の息づかいをともなった衣《きぬ》ずれと、弱々しくあえぐような声がした。「さあどうぞ、おはいり下さい」警視はため息をしてドアをあけた。そして三人が部屋にはいると、おそろしい化けものが目の前にあらわれた。シムズ夫人は古ぼけたショールでむっくりした肩を覆っていた。白髪まじりの髪はぼさぼさで――固く編んだ髪の房が四方八方につき出しているので、王冠をつけた自由の女神の像にちょいと似ていた。顔は赤くはれあがり、涙のしみができ、旧式なゆり椅子に腰かけてからだをゆすぶるたびに堂々たる胸が精力的に盛りあがった。厚手の毛のスリッパで大きな丸々とした足先をつつんでいた。そして、なげ出した足もとに、年とったペルシア猫がねそべっていた――たしかにその猫が冒険好きなトウチーだ。三人は静かにはいって行った。シムズ夫人はエラリーがはっとするほどおびえた鈍重な目で三人を見つめていた。
「気分はどうかね、シムズさん」と、警視があいそうよく訊いた。
「おお。ひどいですわ、とてもひどいです」と、シムズ夫人はいっそうひどくからだをゆすりながら「あの応接室にあるおそろしい死体は、どなたですか。あの人が――私をちぢみ上がらせちゃったんですよ」
「おお。すると前に会ったことはなかったのかね?」
「私が?」と、家政婦は金切り声で「とんでもない。私が? めっそうもない。絶対ありませんわ」
「わかった、わかった」と、警視が急いで言った。「ところで、シムズさん。先週の金曜日の晩のことをおぼえているかね」
涙でしめったハンカチが鼻のところでとまり、やや正常な色が夫人の目にもどってきた。「先週金曜日の晩ですね。ハルキスさまが亡くなった――前の晩ですね。覚えていますわ」
「そりゃうまいな、シムズさん、そりゃいい。あんたは早くベッドにはいったんだったね――そりゃたしかだね」
「そのとおりですわ。ハルキスさまがじかにいいつけられたんです」
「ほかに何か言ったかね」
「なぜですの。これといって、別に何も。あなたのお訊きになるのが、そういうことなら」と、シムズ夫人は鼻をかんだ。「ただ、私を書斎にお呼びになって、そうして――」
「あんたを呼んだんだって?」
「ええ、呼鈴を鳴らされたんですよ。旦那様のお机には階下の台所に通じているブザーがありますので」
「そりゃ何時だったね」
「時間ですか。さあ」家政婦はしなびた唇をつき出しながら考えこんだ。「たしか、十一時十五分前頃だったと思いますわ」
「もちろん、夜のだね」
「そりゃ、そうですわ。むろんそうです。そして、私がお部屋にまいりますと、水のはいった湯わかしと、三人前のお茶碗と受け皿と、お茶袋と、クリーム、レモン、お砂糖をすぐ持って来るようにおっしゃいました。急いでと、おっしゃいましたわ」
「あんたが書斎にはいった時には、ハルキス氏はひとりだったかね」
「ええ、おひとりでした。おひとりで、お気の毒な旦那様は、きちんと机に向かってまっすぐに腰かけていらっしゃいました……考えれば――考えるほど――」
「いや、考えなさんな、シムズさん」と警視が言った。「それから、どうしたね」
家政婦は涙をふいて「私はすぐにお茶の支度を運んで、机のそばの小さな台に置きましたわ。すると、いいつけたものを全部そろえて来たかと、旦那様がおききになりました――」
「ちょっと、そりゃ変だな」と、エラリーがつぶやいた。
「いいえ、ちっとも。ご存知のように旦那様は目が見えなかったんですもの。それから旦那様は少しきつい声で――少しいらいらしていらっしゃったようですわ。おたずねもないのに申し上げますけれどね――こうおっしゃいました。『シムズ、すぐベッドへ行って寝なさい。いいね』それで私は『はい、旦那様』と言って、まっすぐに自分の部屋に引きとって寝《やす》んだんです。それで全部ですわ」
「あの晩、お客があることについては、あんたに何も言わなかったかね」
「私にですか? おお、いいえ」シムズ夫人はまた鼻をかんで、ハンカチで力強くふいた。「でも、お客さまがあるだろうとは察しがつきました。茶碗を三組も揃えたんですものね。でも、余計なことをおたずねするのは私の仕事ではありませんものね」
「むろんそうだね。するとあの晩、あんたはお客をだれも見なかったんだな」
「はい、警視さま。申し上げましたとおり、私はすぐに部屋へ引きとって、ベッドにはいりました。それに、あの日は、一日じゅう、リューマチが痛んで、とても疲れていたんです。私のリューマチは――」トウチーがむっくり起きて、のびをし、顔を洗いはじめた。
「よし、よし。よくわかるよ。さし当ってはこれで結構だ、シムズさん。どうもありがとう」と、警視が言って、三人は急いで部屋を出た。エラリーは何か考えながら階段を下りた。ペッパーが、心配そうにエラリーを見つめて言った。「君の考えでは――」
「ペッパー君」と、エラリーが「これはぼくの悪い性分でね。いつも何か考えてるんだよ。バイロンがチャイルド・ハロルドの詩篇で――君はあのすばらしい第一節の名句をおぼえているだろ? ――『生命をむしばむものなる――悪の思考』と、いみじくも唱《うた》っている。あの思考にとりつかれているんだよ」
「なるほど」と、ペッパーがあいまいに言った。「意味深長ですね」
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八 KILLED?……殺人か
三人が階下の書斎に、再びはいりかけると、ホール越しに応接室からの声が聞こえた。警視は不審そうに急いで歩みよりドアをあけてのぞきこんだ。そして目をとがらして、ずかずかとふみこんだ。ペッパーとエラリーはおとなしく従いていった。見ると、プラウティ医師が葉巻をかみながら、窓から墓地を眺めていて、もうひとりの男が――三人とも見たことのない男だ――グリムショーの臭い死体のまわりをうろついていた。その男は、すぐに姿勢を正して、もの問いたげにプラウティ医師を見つめた。医務検査官補は、その男を手短かにクイーン父子とペッパーに紹介して「ハルキスの主治医、フロスト博士。今、見えたんだ」と言うと、また窓の方へもどった。
ダンカン・フロスト医師は風采《ふうさい》のいい、清潔な感じのする人物で、年は五十歳前後――第五アベニューの上町、マジソン・アベニュー、ウェスト・サイド辺の高級人種が健康相談をもちかけるような、典型的な如才のない、ちゃっかりした町医者だった。フロスト医師は、いんぎんに何かつぶやきながら身をひき、ひどく興味深げに、ふくれあがった死体を見下ろしていた。
「われわれの掘り出しものを調べられたようですな」と警視が声をかけた。
「ええ。非常に興味深いですな。全く非常に興味深いです」と、フロスト医師が「それに、私には全く理解ができません。一体どうして、こんな死体がハルキス氏の棺にもぐり込んだのか?」
「それがわかれば、われわれもほっとするんですがな、先生」
「すると、ハルキス氏が埋葬された時には、たしかにこの死体はなかったんですね」と、ペッパーが冷やかに訊いた。
「もちろんです。だから、とても驚いているんですよ」
「あなたはハルキス氏の主治医だったと、プラウティ君が言ったようでしたな」と、警視がいきなり訊いた。
「そのとおりですよ、警視さん」
「前に、この男を見かけたことがありますか。診察したことが?」
フロスト医師は首を振った。「全然知らない男です、警視。それに私はずっと長い年月、ハルキス氏とおつき合いしていました。実は、私の住居はここの裏庭のすぐ向う側で――五十五番街にありますからね」
「どのくらい経ちますか」と、エラリーが訊いた。「この男が死んでから」
医務検査官補は窓ぎわで振り返り、にたにた笑った。二人の医者は目くばせした。「実はそのことで」と、プラウティ医師が、小声で「フロスト君とぼくは、君らがはいって来るまで議論してたんだよ。外見検査だけでは決めがたい。決定を下す前に、死体を裸にして、体内も調べなくちゃね」
「話がだいぶちがってきますからね」と、フロスト医師が言った。「ハルキスの棺に入れられる前に、死体がどこに保存されていたかによってね」
「おお」と、エラリーがすぐ言った。「すると、この男は死んでから三日以上経っているんですね。ハルキスの葬式の日、火曜日より前に死んだのですね」
「そりゃたしかです」と、フロスト医師が答え、プラウティ医師がむぞうさにうなずいた。「死体の外部的変化は、たしかに、最低三日は経過していることを示しています」
「死後硬直はとっくに終って、二度目の軟化状態が認められる。死斑も完全に出ているようだ」と、プラウティ医師が渋々言った。「着衣をはがさなくても、それだけは言えるな。特に死体の前部表面はそうなってる。――死体は顔を下にしてうつむきに棺に入れられていた。着衣の圧迫が加わった個所や、鋭い角や面に接していた部分は、ところどころ死斑が濃くなっている。だがそんなことは枝葉末節だね」
「ということになると……」と、エラリーがうながした。
「ぼくが今言ったことは、みんな大して意味がない」と医務検査官補が答えた。「死亡の正確な時日を決定するにはね。そりゃ、この死斑はたしかに、少なくとも死後三日から、あるいはその倍ぐらいの日数が経った腐敗状態を示しているが、しかし、それも解剖してみるまでは何とも言えないよ。さっきふれたその他の点は、単に、最小限度こうなるということを示したにすぎないんだからね。たとえば、死後硬直が経過していること自体は、死後一日や一日半、時には二日経っていることを示すだけさ。第二の軟化状態は、第三の段階で――普通、最初の軟化状態は死の直後にくる――死体のあらゆる部分が弛緩《しかん》する。それから硬直がくる。その硬直が経過すると第二の軟化状態がおこる――つまり、筋肉の弛緩がもどってくるんだ」
「そうか、だがそれだけでは――」と、警視が言いかけた。
「もちろん」と、フロイト医師が口をはさんだ。「ほかにもいろいろな条件がありますよ。たとえば、腹部に緑色の『斑点』がはっきり出ています。――これは腐敗の最初の徴候のひとつです――その特徴は、ガスでふくらんでくるのです」
「そいつは死亡時間を決定する参考にはなるがね、むろん」と、プラウティ医師が「しかし、ほかにも念頭におかねばならんことがたくさんある。もしこの死体が棺の中に入れられる前に、比較的空気の流通のいい、乾燥した場所に保存されたとすると、その腐敗は普通の場合のように早くはこない。ぼくが言ったとおり、絶対に、最少限三日はかかる」
「わかった、わかった」と、警視がじりじりして「腹をほじくりかえして、できるだけ正確に、死後どのくらい経過しているかを知らせてくれたまえ、プラウティ先生」
「ところで」と、ペッパーが突然言い出した。「ハルキスの死体はどうでしょうか。異状はないですか。つまり、ハルキスの死因に不審な点はないかということなんですがね。どうでしょう?」
警視がまじまじとペッパーを見つめていたが、小さなひざをたたいて叫んだ。「でかした、ペッパー、すばらしい思いつきだ。……フロスト先生、あなたはハルキスの死亡に立ち会われたんでしょう」
「立ち会いました」
「すると死亡診断書も書かれた?」
「そのとおりです」
「死因に異状はなかったかね」
フロスト医師が緊張して「ねえ、警視さん」と、冷やかに「ハルキス氏の死因が心臓病でもないのに、私が正式に心臓病と書くとでも思うんですか」
「何か併発症は?」と、プラウティ医師がうなるように言った。
「死亡した時には何もありませんでした。だが、ハルキス氏は多年病身でしてね。少なくとも十二年以上、悪質な代償肥大症で悩んでいました。――僧帽弁に欠陥があったので、心臓肥大だったのです。さらに悪いことに、約三年前に悪性な胃潰瘍《いかいよう》にかかったのです。ハルキス氏の心臓の状態から手術は不可能でしたから、静脈治療をやったのです。ところが出血がおこって、失明を招く結果になったのです」
「そんな条件では、よくおこる症状なんですか」と、エラリーが珍しそうに訊いた。
プラウティ医師が言った。「われわれの自慢の医学も、そのことについてはほとんどわかっていないんだよ、クイーン君。よくあるというものじゃないが、胃潰瘍や胃癌《いがん》の出血から、失明することが時々はあるんだ。その理由は、だれにも説明できないがね」
「とにかく」と、フロスト医師は、首をふりふりつづけた。「私が呼んだ専門医も私も、その失明が一時的な症状であることを希望しました。こうした失明は、時には、不思議にも、おこった時と同様に、ひとりでに癒ることがあるのです。しかしながら、ハルキス氏の症状はそのまま残って、ついに視力を回復しえなかったのです」
「そりゃ、たしかに、面白い話だがね」と、警視が「しかし、われわれにとっては、ハルキスの死因が心臓病ではなかったということの方が、はるかに関心が深いんだがな――」
「公表の死因について、疑念をもっておられるのなら」と、フロスト医師が、きっぱり言った。「ワーディス先生に訊かれるとよろしい。先生は、ぼくがハルキス氏の死去を正式に宣告した時に立ち会われたのだから。臨終には激しい苦痛も、芝居がかった一幕も、全くなかったのですよ、クイーン警視。潰瘍治療のための静脈注射と、当然守らなければならなかった厳重な食餌療法が、心臓の負担になったのです。その上、ぼくが特に注意したにもかかわらず、ハルキス氏は画廊の監督をつづけるといってきかなかったのです。もっともその方はスローンとスイザ君に命令を下すだけでしたけれどもね。それでハルキス氏の心臓は簡単に参ってしまったのです」
「しかし――毒物は?」と、警視が追及した。
「保証しますが、中毒症状はいささかもありませんでしたよ」
警視がプラウティ医師に手を振って「ハルキスの解剖もした方がよさそうだな」と言った。「たしかめておきたい。すでに殺人がひとつ行なわれたのだ――フロスト先生の言葉には敬意を表すとしても、殺人が二つ行なわれないとは、だれにも言いきれんからな」
「ハルキス氏の解剖がうまくやれますか」と、ペッパーが心配そうに訊いた。「なにしろ防腐処理がしてあるんだから」
「ちっともさしつかえない」と、医務検査官補が答えた。「防腐するために大切な器官を取り去りゃせんからね。異状があれば、必ず発見するよ。実際は、防腐処理のしてあるほうが助かる。死体の保存ができているからね――腐敗の徴候が少しもない」
「どうやら」と、警視が「ハルキスの死の前後の事情をもっと調べる必要があるな。そうすれば、このグリムショーという奴の手がかりがつかめるかもしれんぞ。先生、死体の方の面倒はみてくれるかね」
「いいですとも」フロスト医師は帽子と外套をつけて、どことなくよそよそしく出て行った。警視がハルキスの書斎にもどってみると、本部の指紋係が忙しそうに室内を調べていた。係は警視を見ると目を光らせて、駆けよった。
「何か出たかジミー」と、警視が低い声で訊いた。
「たくさん出ましたが、ひとつも役に立ちませんよ。ここは指紋だらけです。隅から隅まで。どうやら一週間じゅう、ごまんと人が出入りしたらしいですね」
「そうか」と、警視はため息した。「できるだけやってみてくれ。それから、広間の向うの応接室へ行って、小っちゃな死体の指紋もとっといてほしいな。あいつはグリムショーという奴らしいんだ。君は本部から指紋簿を持って来たかね」
「ええ」ジミーは早足で部屋を出た。
フリント刑事がはいって来て警視に報告した。「死体置場の車が来ました」
「連中を入れてやれ。だが、ジミーが広間の向うで仕事を終えるまで、待つように言うんだ」
五分ほどして、指紋係は、満足そうな顔付きで書斎にはいって来た。
「あれは、たしかに、グリムショーです」と、指紋係が「指紋が原簿とぴたりです」と言って顔を伏せた。「棺の方も調べてみましたがね」と、いまいましそうに「指紋だらけなんですよ。何もとれやしません。どうも町じゅうの連中が、あれに手をかけたらしいですね」
写真技師たちが、音もなくフラッシュで室内をみたした。書斎は小さな戦場のようだった。プラウティ医師が、さよならを言いに来た。二つの死体と棺が車にのせられて邸を出た。ジミーと写真技師たちが出ていった。そして、警視は舌打ちしながらエラリーとペッパーを書斎に呼び入れてドアをしめた。
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九 CHRONICLES……記録
ドアを高くノックする音で、ヴェリー部長は一インチほどあけた。そして、うなずくとひとりの男を入れて、またドアをしめた。
新たにはいって来たのは、ずんぐりして、つやつやした男で、クイーン警視は、その男がギリシア語の通訳、トリッカーラなのを初めて知った。そしてすぐ、先週金曜日の夜の白痴デミーの行動について訊問させた。
アラン・シェニーはこっそりとジョアン・ブレットのそばの椅子にすべり込んだ。そして、ひと息ついて、おずおずとささやいた。「どうやら、母のギリシア語の通訳の腕は警視に信用されなかったらしいな」――明らかにジョアンに話しかける口実だったようだ。しかしジョアンが振り向いて冷たく睨んだので、シェニーは弱々しくほほえんだ。
デミーの目にちらっと知的な色が動いた。どうやら、デミーは、今まで人々の興味の対象にされたことがほとんどなかったらしい。それで、今、なんとなく晴れがましい気持が心中をかき立てるのであろう、その白痴面が微笑でゆがみ、どもり気味のギリシア語が前よりも早口になった。
「この男が言うには」と、トリッカーラが、そのからだつきと同じようにつやつやした声で報告した。「つまり、あの晩は従兄にベッドへ追いやられたので、何も見ないし、何も聞かなかったそうです」
警視は通訳のわきに立っている背が高くよろよろしている道化みたいなデミーを、珍しそうに見つめていた。
「では、あの次の日の朝、起きた時、何があったか訊いてみてくれ――土曜日、先週の土曜日、従兄の死んだ日だ」
トリッカーラが、ごつごつした言葉を、ひとしきりデミーにあびせた。デミーは目をぱちくりしながら、ひどくつっかえながら、同じ国語で答えた。
通訳は警視の方を向いて「デミーが言うには、あの朝は従兄のゲオルグが、となりの寝室から呼び立てる声で目をさましたそうです。それで起きて服を着、従兄の寝室にはいって行って、従兄が起きて服をつけるのを手伝ったと言っています」
「何時だったか訊いてくれ」と、老警視が命令した。
二言三言、話していた。「午前八時半頃だったと言っています」
「なぜまた」と、エラリーが鋭く訊いた。「このデミーがゲオルグ・ハルキスの服をつけてやらなければならなかったのかな。ブレットさん、あなたはさっき、ハルキスは盲目だったけれど、人の手は借りなかったと言いましたね」
ジョアンが、くっきりと丸みのある肩をすぼめて「それはね、クイーンさま。ハルキスさまは、目の見えないことを大変引け目に感じていらっしゃいました。あの方はいつも気が強くて、失明のために少しでも日常生活を変えるなどということは、ご自分でさえ、認めようとなさいませんでした。ですから、画廊の運営も、それまでどおりに、ご自分でしっかりと手綱《たづな》をしめて行くと、言い張られたわけなのです。それにまた、お部屋や寝室の物には、一切他人の手をふれさせないことになさっていたのです。そんなわけで、ハルキスさまが失明されてからは、亡くなるまで、椅子ひとつ、いつもある場所から動かした者は、ひとりもおりませんでした。そうしておけば、あの方には、いつも、もののある場所がおわかりになって、まるで目が見えるように、ご自分の部屋の中では、自由に動きまわることがおできになるわけですものね」
「しかし、それじゃ、ぼくの質問の答えにはなりませんよ、ブレットさん」と、エラリーがおだやかに言った。「あなたの今の言葉から判断すると、ハルキスさんは、ベッドから起きたり、服をつけたりするような簡単なことで、人手を借りるのを断わりそうなもんですがね。むろん、ひとりで着換えはできたんでしょう」
「頭のいい方ね」と、ジョアンが、ほほえんだ。アラン・シェニーが、ついと立って、壁ぎわの、もといた場所へもどった。
「そりゃ、そうですわね。デミーさんが言おうとするのは、実際に、ハルキスさまの起きるのを手伝ったり、着換えに手を貸したという意味じゃないと思いますわ。おわかりでしょうけれど、ハルキスさまには、どうしてもご自分ではできなかったこと、するには人手を借りなければならなかったことが、ひとつ、あったのです」
「そりゃ一体、何ですか」と、エラリーは、鼻眼鏡をいじりながら、目の色を変えた。
「お召物を択ぶことですわ」と、ジョアンが得々として言った。「あの方は、お召物には、とても気むずかしい方で、お召物は最高級でなければいけなかったのです。ところが、お目が不自由なので、ご自分では毎日のお召物を択ぶことができなかったのです。そこで、毎日デミーさんが、択んであげていたのです」
自分が話している最中に、わけのわからぬ差出口がはいったので、ぽかんとしていたデミーが、自分を無視されたと思ったらしく、急にギリシア語で、おこり出した。
トリッカーラが通訳して「自分の話をつづけたい。従兄のゲオルグの着付けは、予定表のとおりにさせたと、言っています。デミーは――」
クイーン父子は、思わず同時に口をひらいた。「予定表のとおりだって!」
ジョアンが笑い出して「ギリシア語が話せなくて残念ね……デミーには、ハルキスさまのお召物の面倒なしきたりが、どうしてものみこめなかったのです。申しましたとおり、ハルキスさまはお召物には、とても気むずかしい方で――お召物をどっさりお持ちで、毎日、別のを身につけていらっしゃったのです。もし、デミーが普通の頭の持ち主なら、話はずっと簡単だったでしょうけど。でも、デミーはこのような精薄ですものね。それで、ハルキスさまは、毎朝、いちいち指図して新しいお召物の組み合わせを揃えさせる手数をはぶくために、うまい事をお考えになったのです。ギリシア語で、お召物の予定表をお作りになり、一週の毎日のお召物をきめておいて、デミーにのみこませるようになさったのですわ。それなら、かわいそうなデミーの足りない頭でも、そう荷になりませんものね。でも、その予定表を変更されることもありました。その日の予定を変えたいとお思いになると、ギリシアの言葉で、デミーに言いつけられたのです」
「その予定表は、ひとつのものをいくども繰り返して使用したのかね」と、警視が訊いた。「それとも、ハルキス氏は、毎週予定表を新しく作ったのかね」
「いいえ。それは七日間の予定表で、ひとつ表を毎週繰り返していらっしゃったのです。お召物がくたびれたとお思いになると――つまり、ハルキスさまが手ざわりでくたびれたなとお感じになると、だれが何と言おうと、がんとして耳を傾けられず、その点、ひどく頑固で――あっさりと、そのくたびれたお召物と全く同じものを、出入りの仕立屋に作らせておいででした。装身具や履物《はきもの》なども同じことでした。こんなふうにして、その予定表は、ハルキスさまが失明してからずっと同じものだったのですわ」
「面白いな」と、エラリーがつぶやくように「すると、夜の服装も予定表にされていたのでしょうね」
「いいえ、ちがいます。ハルキスさまは毎晩宗教的にきちんとした夜着を召していらっしゃいました。この方はデミーが覚えるのに苦労しないですむものでしたから、予定表はございませんの」
「そうかね」と、警視がうなるように「トリッカーラ、このうすのろに次におこったことを聞いてくれ」
トリッカーラの手が二、三度はげしく弧をえがき、口から言葉がとび出した。デミーの頭が活き活きとなった。そして、ようやく、機嫌を直して、しゃべり出した。やがて、トリッカーラが、やりきれないように額を拭きながら、デミーを押しとどめた。
「予定表のとおりに従兄のゲオルグの着付けをしたと言っています。そして、デミーと従兄が寝室から書斎へはいったのは朝の九時頃だったそうです」
ジョアンが口をひらいた。「毎朝九時に、書斎でスローンさまと打ち合わせなさることになっていました。そして、スローンさまと、その日の仕事のお話がすみますと、いつも、私があの方の口述筆記をすることになっていました」
トリッカーラが言葉をつづけた。「そのことについては、この男は何も言っていません。従兄がこの机につくのを見て、邸を出たと言っています。何を言おうとしているのかはっきりしません、クイーン警視殿。何か医者のことらしいですが、言葉があいまいで、どうも、要領を得ませんね」
「うん、そうらしいな」と、警視がぶつぶつ言った。「しようがないな。ブレットさん、この男が通訳に何を言おうとしているか、わからんかね」
「たぶん、精神科のベローズ先生のところへ治療を受けに行ったことを話そうとしているんじゃないでしょうか。ハルキスさまは、いつもデミーの精神状態を治療してやりたいと、心がけていらっしゃったのです。デミーの症状は不治だと、何度も聞かされていらっしゃったのですけれど。ベローズ先生は症状に興味をもって、わざわざギリシア語のわかる人を雇い、ここからつい鼻の先の、二、三ブロックおいた診療所で、デミーの治療に当たっていらっしゃるのですわ。デミーは月に二度、土曜日に治療することになっていましたから、きっと先生のところへ伺ったのでしょう。いずれにせよ、その間にハルキスさまが亡くなられて、あの午後のごたごたで、つい、うっかりして、デミーに知らせるのを、みんなが忘れていたのです。それで、デミーは帰宅した時には、ハルキスさまの亡くなったことを何も知らなかったのですわ」
「とてもみじめでございましたわ」と、スローン夫人がため息をついた。「かわいそうな、デミー。私が報らせてあげると、そりゃ驚いて、まるで赤ん坊のように、おいおい泣きました。馬鹿は馬鹿なりに、デミーはゲオルグを慕っておりましたのね」
「もういい、トリッカーラ。デミーに、ここにいるように言ってくれ。君も待機していてくれ。後でまた、デミーに訊くことがあるかもしれんからな」
警視は、ギルバート・スローンの方を向いて「先週の土曜日の朝、デミーのすぐ次にハルキス氏に会ったのは、君ということになるな。スローン君。君はいつもどおり、ここで九時に会ったかね」
スローンは神経質に咳払いして「正確に言えば、九時じゃないんです」と、少し照れて笑いながら「たしかに、毎朝九時ぴたりにこの書斎でゲオルグさんに会うことになっているんですが、先週の土曜日は寝坊しちゃって――前の晩に、夜遅くまで画廊で特別に仕事をしたもんですからね。それで階下におりて来たのは九時十五分過ぎになっちゃったのです。ゲオルグさんは、どうやら少し――そう、ご機嫌が悪かったようです。ぼくが待たせたのでひどくぷりぷり怒っていました。それもこの二、三か月は特に怒りっぽくなっていました。たぶん、からだの不自由なのがだんだん心細くなってきたんでしょうね」
クイーン警視は、かぎたばこを薄い小鼻に、こすりつけて、くんくんと鼻を鳴らし、落ちつき払って訊いた。
「あの朝、ここにはいって来て、何か目についたものはなかったかね」
「と言われると?……そうか、むろん何もありませんでした。みんないつもどおりで、たしかに平常どおりでした」
「ハルキス氏はひとりでいたかね」
「ええ、ひとりでした。デミーは出かけたと言っていました」
「君があのひとと一緒にいた間に、どんなことがあったか、正確に話してくれんかね」
「別に大したことは、何もありませんでしたよ、警視さん、保証します――」
警視がぴしりと言った。「すっかり話してほしいと言っとるんだ。大したことかどうかは、こっちできめる、スローン君」
「実際問題として」と、ペッパーが口をはさんだ。「ここにいる連中には、どんなことも、大したことには思えないようですね、警視」
エラリーがたのしそうな口調でつぶやいた。「|Wie《ヴィー》 |machen《マッヒェン》 |wirs《ヴィールス》 |dass《ダス》 |alles《アレス》 |frisch《フリッシ》 |und《ウント》 |neu《ノイ》――|Und《ウント》 |mit《ミット》 |Bedeutung《ベドイツング》 |auch《アオホ》 |gefaelig《ゲフェーリッヒ》 |sei《ザイ》?」〔ゲーテの「ファウスト」十五章。すべてが目新らしく新鮮で意義があって、しかも人の気をひくようにするには、どうしたらよかろう〕
ペッパーが目をぱちくりした。「えっ?」
「ご機嫌のゲーテさ」と、エラリーがまじめな顔で言った。
「おお、エラリーなんか、気にするな……ところで、この連中の態度を少し変えさせなければならんようだな、ペッパー」と、警視はスローンを睨みつけた。
「さあ、スローン君、話すんだ。あらいざらい吐くんだ。ハルキスが咳払いしたなんてことでもいいからな」
スローンはひどくあわてたようだった。「しかし……そう、私たちは大急ぎで、その日の仕事の打ち合わせをしました。ゲオルグは販売や蒐集《しゅうしゅう》なんかのほかに、何かを気にしているようでした」
「それで?」
「ぼくに対してぶっきらぼうでした。とてもぶっきらぼうで、ぼくもむっとしたくらいです、警視さん。ゲオルグの口のきき方が気に入らなかったので、そう言ってやりました。そうです。すると、ゲオルグは怒っている時のいつものくせで、いいわけじみたことをぶつぶつ言いました。きっと、自分でも行き過ぎたと悟ったのでしょう、いきなり話題を変えたのです。結んでいた赤いネクタイをいじりながら、少し明るい声で言いました。『どうもこのネクタイがくたびれているようだね、ギルバート』もちろん、ただ話のきっかけをつけるためだったんでしょうね。それで、ぼくもそのつもりで言ったんです。『なに、それほどでもないよ、ゲオルグ、そりゃまだちゃんとしてるよ』するとゲオルグは『いや、くたびれてる。――さわってみるとくなくななんだよ、ギルバート。出かける前に忘れずに注意してくれよ、バレットに電話して、今しめているのと同じようなネクタイの新しいのを注文したいから』と言いました。バレットはゲオルグの使っている洋品屋なのです――使っていたと言った方がいいかな……まあ、ゲオルグはいつもそんなふうなんです。ネクタイはちっともくたびれてはいないんですよ。だが、とても服装を気にする男だったんです。こんなことがお役に立つかどうかわかりませんがね――」と、スローンがいぶかしげに言った。
警視が口をきる前に、エラリーが鋭く言った。「それから? スローンさん。それであなたは部屋を出る前にハルキスさんに注意しましたか」
スローンは目をぱちくりして「もちろんです。それはブレットさんが保証してくれるでしょうよ。そうでしょ、覚えているでしょ、ブレットさん」と、心配そうに訊きながら、ブレットの方を振り向いた。「あなたは、ぼくとゲオルグがあの日の仕事の打ち合わせを、終えかけている時に、部屋にはいって来たんでしょ――そして指示を受けるために待っていましたね」
ジョアンは力強くうなずいた。
「そら、ね」と、スローンが得々として言った。「ちょうどその時、ぼくは言いかけていたんです。出かける前で、ゲオルグに『ゲオルグ、君はネクタイのことで注意するように、ぼくにたのんだよ』すると、ゲオルグが、うなずきました。それからぼくは邸を出ました」
「すると、あの朝、君とゲオルグ氏の間にあったことは、それで全部なのかね」と、警視が訊いた。
「全部ですよ、警視さん。何からかにまで、ぼくが話したとおりです――言葉までそっくりです。ぼくはすぐ画廊に向かったわけじゃなく……下町で取引上の約束があったのです……二時間ほどして画廊に着いて、はじめて使用人のひとり、ボーン嬢から、ぼくが邸を出るとまもなくゲオルグが死んだ、と報らされたのです。ここにいるスイザ君が、すでに邸に駆けつけていました。それでぼくもすぐ邸へもどりました。――画廊はここからわずか二、三ブロックしか離れていません。マジソン・アベニューですからね」
ペッパーが小声で警視に耳打ちした。エラリーもそこへ頭を突っこみ、三人はあわただしく相談した。
警視がうなずいて、光る目をスローンに向けた。「さっき、スローン君、先週土曜日の朝、この部屋で目につくものは見かけなかったと訊いたが、君は、何も見なかったと答えた。ところで、君も聞いとっただろうが、さっき、ブレット嬢がした証言によれば、ハルキス死去の前夜、われわれが死体として発見したグリムショーが、素性をひたかくしにしている謎の人物と一緒に訪ねて来たということだ。そこで、わしが知りたいのはその点だ。その謎の人物は、重要な手がかりかもしれんのだ。だから、よく考えてほしい。あの朝、この書斎の中に、何か、いつも置いてないようなもので、目につくものはなかったかね。それは机の上にあったかもしれんぞ。謎の人物が何か残したかもしれないからね――そいつの素性をわり出す手がかりになるかもしれないからな」
スローンが首を振った。「そんなものは何も思い出せません。ぼくは机のすぐそばに腰かけていたんです。もし、ゲオルグのものでない品物があれば、きっと気がつくはずです」
「ハルキス氏は、前夜訪ねてきた客について、君に何か言わなかったかね」
「ひと言も言いませんでした、警視さん」
「結構、スローン君。控えていてもらおう」
スローンは、ほっとひと息ついて、細君のそばの椅子にぐったりと腰を下ろした。警視はにこにこして、親しげにジョアン・ブレットを手招きした。「ところで、お嬢さん」と、父親のような声で「これまでのところ、あんたは非常に役に立ってくれた――たよりになる証人だったよ。ところで、わしはあんたがどんなひとか気になるよ。あんたのことを何かきかせてくれんかね」
ジョアンの青い目がきらきらした。「警視さま、さすがにお見通しですわ。ちかいますけど、私には|dossiey《ドシエ》(いかがわしい過去)はございません。私はただの召使で、英語で言う『女中』にすぎませんの」
「なんとまあ、こんな美しい娘さんがねえ」と、老警視がささやくように「それにしても……」
「それでも、もっと私のことを、すっかりお知りになりたいのね」と、ジョアンが微笑した。
「よござんすわ、クイーン警視さま」と、ジョアンはまず、丸いひざ頭《がしら》の上で、スカートをととのえた。
「私の名はジョアン・ブレットです。私はこの一年ちょっと、ハルキスさまにおつかえしました。私は、今では、きたないニューヨーク弁のせいで少しみだれていますけど、おそらく私のイギリスふうの発音で、もうお気付きでしょうが――イギリス生まれの――淑女です、淑女なのです。さもしい貴族気取りですけれどね。私はロンドンで勤めていたイギリスの画商で、その道の専門家アーサー・ユーイン卿の紹介でハルキスさまの許に参ったのです。アーサー卿は、ハルキスさまの名声をお知りになって、私に本当にいい方を紹介して下さったのです。私は運のいい時に、こちらへ参りました。というのはハルキスさまが大変に助手を欲しがっておられたのです。それで、本当にいいお給金でお雇いになり、ごく立ち入ったことまでご相談にのる秘書として働くことになったのですわ。きっと私のもっている仕事上の知識がお気に召したのでしょうね」
「ふーん。そんな話は、わしが知りたがっとることとは少し筋ちがいだ」
「ああ、もっと私的なことなんですのね」と、ジョアンは口をつぐんだ。「そうですわね。私は二十二歳で――適齢期を越していますわ、警視さま――右のヒップにあざがありますの。そして、アーネスト・ヘミングウェイにすごい情熱をもっていて、お国の警官は、野暮くさいと思いますし、お国の暗黒街はすてきだと思っていますわ。|Cela《スラ》 |suffit《スフィ》(これいいですか)」
「ところで、ブレットさん」と、警視が弱々しい声で「あんたはこの年寄りを、からかっとるね。わしの知りたいのは、前の土曜日の朝、どんなことがあったかだよ。あの朝この部屋で、前の晩に来た謎の人物の正体を示すようなものを、何か見つけなかったかね」
ジョアンはまじめな顔で首を振った。「いえ、警視さま。何も気がつきませんでしたわ。何もかもきちんといつもどおりのようでしたわ」
「どんなことがあったか話してほしいな」
「そうですわね」ジョアンは紅い下唇に人差指を当てて「スローンさんがお話したとおり、ハルキスさまとスローンさんのお話がすむ前に、私は書斎にはいりました。スローンさんが、ネクタイのことでハルキスさまに念を押しているのを聞いていました。やがてスローンさんがお出かけになってから十五分ばかり、ハルキスさまの口述筆記をいたしました。それがすんでから、私はハルキスさまに申し上げました。『バレットの店へ電話して、新しいネクタイを注文して差し上げましょうか、ハルキスさま』すると、あの方はおっしゃいました。『いや、わたしが自分でするよ』それから、あの方は、封をして切手を貼った封筒を私に渡して、すぐポストに入れるようにと言われました。それで、私はちょっとびっくりいたしました――というのは、いつも私が、あの方の通信物をすべて始末することになっていますのに……」
「手紙かね」と、警視が興味を示した。「その宛名はだれになっていたかね」
ジョアンが眉をしかめた。「残念ですけれど、警視さま。私は本当に知りませんのよ。おわかりでしょうけど、詳しく調べてみませんでしたから。どうやら宛名はインクでペン書きだったと思います、タイプライターで打ったのではなかったようです。――それも道理、どっちみち、ここにはタイプライターはないんですものね――でも……」と、肩をすぼめて「とにかく、その手紙を持って部屋を出かける時に、ハルキスさまが電話をとり上げるのが見えました――あの方は、いつも、交換手が番号をつなぐ旧式な電話機をお使いになっていらっしゃったのです。ダイヤル式のは私が使うための電話機でした。――そして、あの方が洋品屋のバレットの店の番号を申し込むのが聞こえました。それから、私は手紙をポストに入れに出て行きました」
「そりゃ、何時だったね」
「きっちり、十時十五分前でしたわ」
「そのあとで、生きているハルキス氏に、また会ったかね」
「いいえ、警視さま、それから三十分後に、二階の自分の部屋におりました時、階下でだれかの叫び声が聞こえたのです。駆け下りてみると、シムズ夫人が書斎で気絶していて、ハルキスさまはお机のところで死んでおられたのです」
「すると、ハルキスは十時十五分前から、十五分過ぎの間に死んだんだな」
「そう思いますわ。ヴリーランド夫人とスローン夫人が、私のあとから駆けつけて、死体をお調べになって、金切り声をあげはじめたのです。私はお二人を落ちつかせようと骨を折りまして、やっと、かわいそうなシムズさんの世話を見るように説き伏せ、すぐにフロスト先生と画廊へ電話で報らせました。やがてウィーキスが邸の裏手からはいって来、フロスト先生も、びっくりするほど早く姿を見せられました。――それと同時にワーディス先生も来られました。先生は前の晩おそくお寝みだったと思いますがね。――それからフロスト先生がハルキスさまの亡くなられたことを宣言なさったのです。あとは、シムズさんを二階に曳き上げて、正気づけるよりほかには、本当に何もすることがございませんでしたわ」
「なるほど。ブレットさん、ちょっと待って下さい」警視はペッパーとエラリーをかたわらに引っ張って行った。
「どう思うな、君らは」と、警視が要心深く訊いた。
「どうやら目鼻がつきそうですね」と、エラリーがささやいた。
「どうしてそれがわかる?」
エラリーは古ぼけた天井を見上げ、ペッパーはぼりぼり髪を掻いた。
「今までにわかっただけじゃあ、ぼくにはまるっきり何もつかめっこありませんよ」と、ペッパーが言った。「土曜日にあったことなんか、ぼくは遺言状をさがしていた頃に、みんな調べあげて知っています。だが、とても見当が……」
「おいペッパー君」と、エラリーがくすくす笑って「おそらく君は、アメリカ人だから、バートンが『憂鬱《ゆううつ》の解剖』の中で引用している、中国の格言の第三の部類にはいるんだね。その格言というのは『われわれヨーロッパ人には目がひとつしかなく、中国人には二つあり、その他の世界中の人間はみんな盲だ』と言ってるのさ」
「冗談はよせ」と、警視がたしなめた。「二人ともよく聞け」と、警視が何か、きわめて思いきったことを言ったらしい。ペッパーは少し青ざめて、そわそわしたが肩をいからせた。その顔色から判断すると、何か決意をかためたらしい。
ジョアンは机のふちに腰かけて、じっと待っていた。どうなることか知っていながら、まるで顔色に出さないようだった。アラン・シェニーは緊張しきっていた。
「見とるがいい」と、警視は大声でけりをつけた。そして、一同の方へ向き直り、むぞうさにジョアンに問いかけた。
「ブレットさん、妙なことをたずねるがね。この前の水曜日の夜――つまり二日前の夜の、あんたの行動は、あれは一体、何だね」
墓地のような沈黙が書斎にかぶさりかかった。絨毯の上に、思い切り足をのばしていたスイザさえ、きき耳を立てた。みんなの目が、もじもじしているジョアンに判決を下そうとする陪審員のように注がれた。クイーン警視が質問の矢を向けると、すぐに、それまでぶらぶら振っていたジョアンの、美しい脚《あし》が、ぴたりと、とまり、ジョアンは凍りついたように、身じろぎもしなかった。やがて、再び脚を振りながら、さりげなく答えた。
「本当は、警視さま、そんなのは意外な質問でもなんでもありませんわ。このあいだの、とりこみで――ハルキスさまのご逝去で、お邸じゅうがごったがえし、お葬式の段取りや行事で――私は、すっかり、くたくたに疲れてしまいましたの。それで、あの水曜日の午後は、息抜きのためにセントラル・パークを歩きまわってから、早目に夕飯をいただいて、そのあとすぐ部屋に引きこもりましたの。そして、ベッドの中で一時間ほど本を読んで、十時頃に灯を消しました。本当にそれだけですのよ」
「ぐっすり寝こむ方かね、ブレットさん」
ジョアンはちょっと笑って「ええ。とても」
「それで、あの晩は、ひと晩じゅうぐっすり寝たかね」
「もちろんですわ」
警視はペッパーの固くなった腕に手をかけて言った。「では、ブレットさん。あの夜の午前一時頃――つまり、水曜日の真夜中を一時間ほどまわった頃――あんたが、この部屋をうろつきまわって、ハルキス氏の金庫をいじっているのを、このペッパー君が見ているんだが、その事実をどう説明するかね」
それまで、遠く雷をはらんでいたような沈黙が、いまや、天地鳴動といったていになった。かなりのあいだ、普通に息のできる者はひとりもいなかった。シェニーは凄い目つきでジョアンと警視を見くらべていた。それから目をしばだたいて、ペッパーの青白くなった顔を、噛みつきそうに、睨みつけた。ワーディス医師は、おもちゃにしていた紙ナイフを思わず取りおとした。しかしその指は、ナイフをつまんでいたままの恰好だった。そんな連中の中で、少しもとり乱していないのはジョアンだった。ジョアンはほほえんで、直接ペッパーに声をかけた。「あなたが、この書斎をうろついている私を見たんですって? ペッパーさん――金庫をいじっている私を見たんですって? たしかですか」
「まあまあ、ブレットさん」と、クイーン警視がジョアンの肩を軽くたたきながら「時間をつぶしても、少しも役には立たんよ。それに、ペッパー君を苦しい立場に追いこんで、あんたを嘘つきと呼ばせるようなことはしないがいい。あんな時間に、ここで何をしていたのかね。あんたは何をさがしていたのかね」
ジョアンは、いかにも迷惑そうに、にやりとして首を振った。「でも、警視さま、一体、あなた方が何のお話をしていらっしゃるのか、本当に、私にはさっぱりわかりませんわ」
警視はちらっとペッパーを見ながら、「ただわしらの話しとるのは、ブレットさん――おい、ペッパー、君は夢を見たんじゃないのか。それともあれは、ここにいる若いお嬢さんだったのか」
ペッパーは絨毯を蹴りつけて「ブレット嬢に間違いありませんでした」と、つぶやいた。
「そらね、お嬢さん」と、警視が愛想よく続けた。「ペッパー君は自分で言っとることに自信がありそうだよ、ペッパー、ブレットさんがどんな、なりをしていたか思い出せるかね」
「思い出せます。ネグリジェとパジャマでした」
「ネグリジェの色は?」
「黒でした。ぼくは部屋の向うの、そこの大きな椅子に腰かけて、うつらうつらしていたんです。ぼくの姿は見えなかったろうと思います。ブレットさんは、きわめて用心深く、こっそりと忍び込んで、ドアをしめ、机の上の小さなランプのスウィッチをまわしました。そのあかりで、何を着ているか、何をしているかが、見えたのです。ブレットさんは金庫をあけて、中の書類を、片っぱしから調べていました」終りの文句は、ひと息に流れ出した。ペッパーはまるで語り終るのがうれしくてたまらないという調子だった。
ジョアンは話が進むにつれて真青《まっさお》になっていった。ぐったりとすわったまま唇をかみ、その目には涙があふれ出た。
「そのとおりかね、ブレットさん」と、警視が、おだやかに訊いた。
「私――私、いいえ、そうじゃないんです」と、ジョアンは叫ぶと、手で顔を覆って、発作的に泣き出した。その時あえぎながら呪いの叫びを上げると、アラン青年がペッパーにとびかかり、真白なカラーをたくましい手でつかんだ。「やい、この嘘つき野郎め!」とわめいた。「罪もない女性をおとし入れるなんて――」ペッパーは顔を真赤《まっか》にして、シェニーの手を払いのけた。ヴェリー部長が、その巨体にもかかわらず、さっとシェニーに走りより、おそろしい力で青年の腕をつかんだので、シェニーは顔をゆがめた。
「おい、おい、君」と警視がおだやかな声で「取り乱しちゃいかん。これはなにも――」
「ひどいわなだ」と、青年はヴェリーの手の中でもがきながら、わめいた。
「すわっとれ。若造め!」と、警視がどなりつけた。「トマス、その暴れ馬を隅へ曳《ひ》いてって番をしとれ」
ヴェリーは、それまで見せたこともないような、うれしくてたまらないという顔で、うなり、苦もなくアランを部屋の一番奥の椅子に曳きずって行った。シェニーはぶつぶつ言いながら、されるがままになった。
「アラン、やめて」と、ジョアンが低いかすれた声で言ったので、一同はびっくりした。
「ペッパーさんのおっしゃることは本当なんです」と、すすり泣きで声をとぎらせながら「私――私は水曜日の夜更けに、この書斎にいたんです」
「だいぶわかってきたね、お嬢さん」と、警視が満足そうに「常に正直にすることだね。それで、何をさがしていたのかね」
ジョアンは声の調子をかえずに、早口でしゃべりだした。「私は――私はそれを認めると、弁解するのがむずかしいだろうと思ったのです……むずかしいわ。私は――そう、あの晩、一時頃に目をさまして、ふと、遺言執行人というんですか、あのノックスさまが、きっと、ハルキスさまの財産の証券類を項目別にしてほしいとおっしゃるだろうと、思いついたんです。それで、私は――その表をつくるために階下におりて行って、そうして――」
「午前一時にかね、ブレットさん」と、老警視が冷やかに訊いた。
「はい、そうです。でも、金庫の中の証券類を見た時に、すぐ気がつきました。本当です。こんな夜更けに、こんなことをするなんて、なんてばかなんだろうと気がついたんです。それで、証券類をもとにもどして、二階に行って、また寝たのです。そういうことなんですの、警視さま」
ばら色の斑点がジョアンの頬にあらわれ、その目はじっと敷物を見つめていた。シェニーは恐怖にとらわれて、まじまじとジョアンを見守り、ペッパーはため息をした。
警視はすぐそばにいるエラリーが、腕をひっぱるのに気づいた。
「なんだね」と、低く訊いた。するとエラリーが、唇に微笑を浮かべて大きな声で「筋の通った話ですね」と、快活に言った。父親の方は、ちょっとの間、身じろぎもせずに立っていた。それから「そうだな」と、警視が言った。「そうらしい。ああ――ブレットさん、あんたは少し逆上しとる。気分転換した方がいい。二階へ行って、シムズさんに、すぐおりてくるように言ってもらえんかね」
「承知いたしました――よろこんで」ジョアンは、この上ないかぼそい声で答えた。そして、机のへりから滑り下りると、本当にありがたそうにエラリーをちらっと見て、急いで書斎を出て行った。ワーディス医師がエラリーの顔を見て何か考え込んでいた。
家政婦のシムズ夫人が、けばけばしい化粧着姿で、愛猫《あいびょう》のトウチーを、そのしなびた足もとにしたがえて、堂々と姿をあらわした。ジョアンはドアのそばの――アラン青年の近くの椅子に滑り込んだが、アランはその方を見向きもしないで、シムズ夫人の白髪まじりの束ね髪を、くい入るように見つめていた。
「おお、シムズさん。さあどうぞ、すわって下さい」と、警視が大きく声をかけた。家政婦はゆったりとうなずいて、よろめくように腰を下ろした。
「さて、シムズさん。あんたは、ハルキス氏の亡くなった朝、先週の土曜日の朝のことを覚えとるかな」
「おぼえていますよ」と、シムズ夫人がふるえながら言った。たるんだ肉の波が、いちどきにゆらいだ。「おぼえていますとも、警視さま。死ぬまでおぼえていることでしょうよ」
「そうだろうな。ところで、シムズさん、あの朝のことを話してほしいんだがね」
シムズ夫人は、だぶだぶの肩を、いくども上げたり下げたりした。まるで爺《じじ》い鶏がこけこっこうと、ときをつくるために、精力をあつめているようだった。
「私は十時十五分過ぎに、この部屋にはいりました。はい、お掃除をしたり、前の晩のお茶道具をさげたりしますのが――朝のいつもの私の仕事なんですよ。私がドアを通りかかりますと――」
「おや――シムズさん」エラリーの声は、もの静かで敬意に満ちていたので、すぐに、家政婦の厚ぼったい唇に、かすかな微笑がうかんだ。なんて気分のいい青年なんだろう、というふうに。
「あなたは、そんなことまで、ご自分でなさるんですか」エラリーの声には、まさかシムズ夫人のような重要なひとが、そんなつまらない仕事をさせられていたなんて信じられないというようなひびきがあった。
「ハルキスさまのお部屋だけなんですよ」と、家政婦は急いで説明した。「ご存知のように、ハルキスさまは、若い女中にはおじけをふるっておられて――生意気な馬鹿娘どもと、いつも言っていらっしゃったのです。それでご自分の身のまわりは是非私が始末するようにと、おのぞみでしたわ」
「おお、すると、ハルキスさんの寝室の片付けも、いつもあなたがなさったんですか」
「はい、旦那さま、それにデミーさんの部屋もいたしました。それで、先週の土曜日の朝も、その仕事をするつもりでした。しかし、お部屋にはいったら、私は」――と、その胸がはげしく波打った。――「お気の毒なハルキスさまが、机にうつぶしていらっしゃるのを見つけたのです。つまりそのう、頭を机にうつぶせにしておられたのです。眠っていらっしゃるのだと思いました。それで――神様、どうぞご慈悲を――私がお気の毒な旦那さまの手にさわってみますと、とても、とても冷たくて。私は旦那さまをゆり起こそうとしたのです。そして、それから私は金切り声をあげました。覚えているのはこれだけです。聖書に誓いますわ」家政婦はそう言い終ると、まるでエラリーがその事実をうたぐっているのではないかと心配するように、エラリーを見守った。
「次におぼえていますのは、ここにいるウィーキスさんとひとりの女中が私の顔をなぜたり、たたいたりして気つけ薬かなんかをのませてくれていました。気がつくと私は二階の自分の部屋のベッドの中にいたのです」
「ということはですね、シムズさん」と、エラリーが相変らずのうやうやしさで「あなたは、ここの書斎の中のものや、寝室の中のものには、全然手を触れなかったということですね」
「はい、何にも手を触れませんでしたわ」
エラリーが小声で警視に何かを言い、警視がうなずいた。老警視が言った。「この家の者で、ブレットさん、スローン君、デメトリオス・ハルキス君のほかに、先週土曜日の朝、亡くなる前に、生前のハルキス氏に会った者はおらんかね」
一同は力強く、かぶりを振った。少しもためらう色が見えなかった。
「ウィーキス」と、警視が「君は先週土曜日の朝、九時から九時十五分の間に、たしかに、この部屋にはいらなかったかね」
ウィーキスの両耳の上の綿毛がふるえた。「私がですか。いいえ、警視さま」
「ひょっとして」と、エラリーが小声で「シムズさん。七日前にハルキスさんが死んでから以後、何かこの部屋のものに、手をつけませんでしたか」
「何ひとつさわっていませんわ」と、家政婦はおろおろ声で「ずっと病気だったんですもの」
「それなら、暇をとった女中たちは?」
ジョアンが遠慮がちに「さっきお話したと思いますけど、クイーンさま。あのひとたちは、ハルキスさまの亡くなった日にお暇をとったんです。あのひとたちは、この部屋に足をふみ入れることさえいやがりましたの」
「君はどうだ、ウィーキス」
「さわりませんです。お葬式のあった火曜日までは、何ひとつ手を触れずにそっとしてありましたし、お葬式のあとは、いっさい手を触れぬようにと、命令されていましたから」
「そりゃ、結構だ。ブレットさんは? あなたはどうですか」
「私はほかにすることがどっさりありましたから、クイーンさま」と、ジョアンが低くつぶやいた。
エラリーは、じろりと一同を見まわした。
「すると先週の土曜日以来、この部屋には、だれも手を触れていないんですね?」
返事がなかった。
「ますます結構です。ということは、犯行現場がそのまま保存されているらしいということですよ。女中たちがすぐに暇をとったので家事は手不足になり、家政婦のシムズさんは寝たきりだったので何もさわっていない、家じゅうがごったがえしていたから、だれも片づける者がいなかった。その上、火曜日の葬式のあとで、遺言状の紛失が発見されたので、ペッパー君の命令で、この部屋の中のものは、だれにもかきまわされなかったというわけです」
「葬儀屋のひとたちがハルキスさまの寝室で仕事をしましたわ」と、ジョアンが、おずおずと口をはさんだ。「お支度――埋葬のためのお遺骸のお支度で」
「それに遺言状をさがしているあいだに」と、ペッパーも割り込んできた。「クイーン君、ぼくらはどの部屋もかきまわしたが、持ち出したり、根本的に動かしたりしたものはひとつもない。そりゃ受け合いますよ」
「葬儀屋の連中は除外してもよさそうですね」と、エラリーが言った。「トリッカーラ君、そこにいるデミー君にたしかめてみて下さい」
「はい」トリッカーラとデミーが、また気違いじみた会話のやりとりをした。トリッカーラの訊き方は鋭くて爆発的だった。ゆがんだ白痴の顔はみるみる青白くなり、吃《ども》ってつばをとばしながら、ギリシア語で答えた。
「どうもはっきりしません、クイーンさん」と、トリッカーラが、むずかしい顔をして「どうやら、従兄が死んでからは、どちらの寝室にも足を入れなかったと言っているらしいんですが、ほかにも何か言いたいらしいんで……」
「差出口をしてすみませんが」と、ウィーキスが口をはさんだ。「デミーさまがおっしゃろうとしていらっしゃることは、私にはわかるような気がします。ごらんのとおり、デミーさまはハルキスさまのご逝去で、すっかり取り乱して、気も動転しておられます。子供が死を恐れるようなものと申せましょうか。それで、ハルキスさまの寝室の奥の、前のご自分の寝室で寝ることをいやがられました。私たちはスローンの奥さまのおいいつけで、二階の空いた女中部屋のひとつをデミーさまのために用意してさしあげたのです」
「デミーさんはずっとそこにこもっていました」と、スローン夫人がため息をして「あれ以来、水から上がった魚のようでしたわ。かわいそうなデミーには時々手をやきますわ」
「たしかめてもらいましょう」と、エラリーが声を改めて言った。「トリッカーラ君、デミーは土曜日以来ずっと寝室にこもっていたかどうか訊いて下さい」
デミーのおどおどした否認の言葉を、トリッカーラが翻訳する必要もなかった。白痴は縮み上がってよろよろと隅へひきさがり、立って、爪をかみながら、おびえた野獣のような目でまわりを見まわした。
警視が、褐色のあごひげを生やしているイギリス人の医者の方へ向き直った。「ワーディス先生、さっきダンカン・フロスト博士と話しとる時に、あなたがハルキス氏の死亡直後、死体を診断されたということだったが、確かかね」
「そのとおりです」
「死因についての、あなたの診断は?」
ワーディス医師は褐色の濃い眉をつり上げて「フロスト先生が死亡診断書に書き込んだとおりです」
「よろしい。では、二、三個人的な質問をしますよ、先生」と、警視は、かぎたばこを吸って、たのしそうに微笑した。「あなたがどういう事情でこの邸に来ることになったのか、説明して下さらんか」
「たぶん」と、ワーディス医師はさりげなく「さっきも言ったと思いますがね。ぼくはロンドンの眼科医です。ただ休養のために、ニューヨークに来ていました。すると、ブレットさんが、ホテルに訪ねて来たのです――」
「またしてもブレット嬢か」と、警視は、ブレットをじろりと睨んで「どうして?――知り合いだったのかね」
「ええ。ブレットさんの元の雇い主、アーサー・ユーイン卿を通じてね。ぼくはアーサー卿の軽いトラホームを治療したので、そんなことでその若いご婦人と知り合ったのです」と、医者は言った。「それでぼくのニューヨーク到着を新聞でみたブレットさんが、ホテルに訪ねて来て旧交をあたため、ハルキスさんの目を診てもらえないかと、相談をもちかけられたのです」
「それは」と、ジョアンが、ややあわて気味に息をきらせながら言った。「ワーディス先生がいらっしゃったのを船客ニュースでみまして、ハルキスさまに先生のことをお話し、目を診ていただいたらと、おすすめしたんですの」
「むろん」と、ワーディス医師がつづけた。「ぼくは断わるつもりでしたよ――今でも神経が参っていますがね――それに、最初はせっかくの休暇に、仕事をしたくなかったもんですからね。ところが、ブレットさんに断わりにくかったもので、結局は承知してしまったんです。ハルキス氏は、とても親切で――アメリカ滞在中はお客として邸にいるように言い張られました。それでぼくは、あの人が亡くなるまで、二週間以上も患者としてあの人を診ていたんです」
「ハルキス氏の失明の性質については、フロスト先生や他の専門医の診断と同意見かね」
「ええ、そうです。一、二日前に、ここにいる立派な部長さんとペッパーさんにも、そう話したと思いますよ。実は、胃潰瘍や胃癌の出血によっておこる失明――完全失明――の現象については、医学的にまだ、ほとんどわかっていないのです。しかしながら、医学上の立場からは、きわめて興味ある問題なのです。何らかの刺激を与えれば、視力の自然回復をみることができるかもしれないと思って、私流の実験を一、二試みてみたのです。しかし、成功しませんでした――ぼくが最後の精密検査をしたのは七日前の木曜日でしたが、ハルキス氏の状態には何らの変化もみられませんでした」
「ところで、あのグリムショーという男を一度も見たことがないというのは、たしかだろうね――あの棺の中にあった二番目の死体の」
「ええ、警視。見たことはありませんよ」と、ワーディス医師はいらだたしそうに答えた。「そればかりか、ハルキス氏の私事も、お客も、その他あなたが捜査上重要と思われるような事は、ぼくは何にも知りません。さしあたってぼくに関心があるのは、イギリスに帰ることだけです」
「そうかね」と、警視がそっけなく言った。「先日は、そんなふうに思っておられなかったようだがな……そうたやすく帰国するわけにはいきませんぞ、先生。これは、殺人事件の捜査ですからな」
警視は、ひげっ面の医師が、つべこべ抗議しそうなのをぴしりとおさえつけて、アラン・シェニーの方を向いた。だが、シェニーの返事は簡単だった。いや、それまでにした証言に何もつけ加えるものはない。いや、今までグリムショーに会ったことは一度もない、そればかりか、グリムショー殺しの犯人が見つからないとしても、自分はちっともかまわない、とさえ毒づいた。
警視は少しユーモラスな眉をつりあげて、スローン夫人を訊問したが、結局は失望に終った――夫人も息子と同じように、何も知らなかったし、息子以上に無関心だった。夫人の唯一の関心は、せめて一日も早く、家庭に平和と繁栄の姿を取りもどしたいということだけだった。
ヴリーランド夫人も、その夫も、ネーシオ・スイザも、ウッドラフも同様に、情報のたしにはならなかった。連中のだれひとりとして、以前、グリムショーに会ったり、知っていたりする者はいないようだった。
警視はこの点で、特に執事のウィーキスを追及したが、ハルキス家に八年間も勤めているが、グリムショーが一週間前に訪ねて来るまで、その以前には一度もこの邸に現われたこともないし、その時でさえ自分は会っていないと、断言した。
小柄な警視は、まるでエルバ島のナポレオンのように絶望して部屋の真ん中に立っていた。その目は、ほとんど気違いじみてぎらぎらしていた。訊問はその半白の口ひげのあいだから、矢つぎ早にとび出した。葬式のあとで、怪しいと思われる行動をとった者は、邸内にいなかったか。いませんでした。葬式以来、墓地に行った者はいなかったか。いません。葬式のあとだれかが墓地へはいるのを見かけた者はいないか。またしても、口々にわめくのは否認ばかりだった。――いません。
やりきれないという身ぶりで、クイーン警視が指をまげると、ヴェリー部長が歩みよった。警視はすっかり短気になっていた。ヴェリーが静まりかえっている墓地に出て行って、寺男のハネーウェルやエルダー牧師や教会の職員どもを個別訊問することになった。目的は葬式以後、墓地で何か興味を惹《ひ》くことを目撃した者を見つけること、中庭の向いの牧師館と、中庭に裏口をならべている四軒の隣人たちと、その使用人たちを、個別訊問すること、特に、夜間の墓地に出入りした不審者を目撃した者がいたら、けっして見逃さないことだった。
ヴェリー部長は、おやじの雷にはなれていたので、冷たくにやにやしながら、勢いよく書斎を、とび出して行った。
警視は口ひげを噛んで「エラリー」と、おやじらしい、いらだたしさで「一体、お前は今、何をしとるんだ」
息子《むすこ》の方は、すぐには返事をしなかった。どうやら息子は、何かとても興味のあることを発見したらしい。つまり、息子はこれという理由もなく――しかも、きわめて不謹慎だと思われるが――ベートーヴェンの第五シンフォニーのテーマを口笛で吹きながら、しゃあしゃあとして、部屋のはずれの壁のくぼみに置いてある小卓の上のありふれた湯わかしをのぞき込んでいた。
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十 OMEN……前兆
さて、エラリー・クイーンは、風変りな青年だった。もう何時間も、ごくかすかな心のうずき――何かがおこりそうな胸さわぎ――漠《ばく》とした夢のような感情に悩まされていた。わかりやすく言えば、まさに何かすばらしい発見をしそうな勘がするのだった。それで、書斎をうろつきまわり、不作法なまねをし、家具をいじくりまわし、本をのぞき込み、要するに自分をもてあましていた。
エラリーは、湯わかしの載せてある小卓の前を、ちらちら見ながら、二度ほど行ったり来たりしたが、三度目には、ちょっと鼻をうごめかした――はっきりした匂いではなくて、かすかに入りまじっている何かの異臭に、鼻を刺激されたのだった。それで、眉《まゆ》をしかめて、しばらく見つめていたが、やがて湯わかしのふたをとって、中をのぞき込んだ。
何か見つかると思ったのかしれないが、少なくとも異様なものは何もなかった。見えるのはただの水だけだった。だが、顔を上げた時、その目は輝いていて、その考えをあらわすように口笛を吹きはじめたので、父警視は、ひどくいらだった。
警視の質問は、何の答えも得られないはめになったが、その代わり、エラリーはシムズ夫人に向かって、前のように、ていねいに声をかけた。
「先週土曜日の朝、あなたがハルキスさんの死体を発見された時、この茶道具の載った小卓はどこにありましたか」
「どこって? お机のそばでしたわ。今あるところではありませんでした。その前の晩に、ハルキスさまのおいいつけでお机のそばに私が置いたのです」
「じゃあ、だれが」と、エラリーはくるりと一同の方を振り向いて「だれが、この小卓を、土曜日の朝以後、壁のくぼみのあるところへ移したのですか」
またしても、答えたのはジョアン・ブレットで、またしても一同の濃い疑惑の目が、ジョアンのすらりとした姿に集まった。
「私が移しましたわ、クイーンさま」
警視は八の字をよせたが、エラリーは父に笑顔を向けていった。「あなたですか、ブレットさん。いつ、どうして移したのか話して下さい」
ブレットは少し心細げに笑って「ほとんどみんな私のしわざらしいわね……ご承知のように、お葬式のあと、あの午後は、みなさんが遺言状をさがしまわって、この書斎はとてもごたつきました。あの小卓が机のそばにあって邪魔だったので、邪魔にならないように、壁のくぼみとのところへ移しただけですわ。怪しいことは何もございませんのよ」
「なるほどそうですね」と、エラリーは軽くうけて、また家政婦の方を向き「シムズさん、先週の金曜日の晩に、お茶の支度をした時、茶袋はいくつ用意されましたか」
「ほんの少しですわ。たしか六個だったと思います」
警視が静かに前へのり出し、ペッパーもそうした。そして二人の男は、けげんそうな面持ちで小卓をじっと見た。小卓そのものは、小さくて古びていて――二人には、少しも特殊なものに見えなかった。その上には大きな銀の盆があり、盆の上には電気湯わかしのほかに三組の茶碗と受け皿と、さじと、銀の砂糖壺があり、もう一枚の皿にはしなびた、まだ使っていないレモンが三切れのっていたし、その次の皿には新しい茶袋が三袋、それにクリームが黄色くかたまっている銀のミルク壺が載っていた。どの茶碗も茶のかすが残っていたし、ふちの内側の近くに茶色の輪がついていた。銀のさじは三本とも、にぶい色のしみがついていた。三組の受け皿にも、黄色く茶のにじみ出した茶袋と、ひからびた使用ずみのレモンのきれがのっていた。警視とペッパーが見た限りでは、それだけのものだった。息子の風変りな気まぐれには慣れっこだったが、さすがの警視も、もうがまんができなかった。
「さっぱりわからんぞ――」
「まあ、オウィディウス〔ローマの詩人〕の言葉を信じなさいよ」と、エラリーがくすくす笑った。「耐え忍べ、今日の苦しみは明日のよろこびになるべし」
エラリーは、湯わかしのふたを、また取り上げて内をのぞき、いつも持ち歩いている捜査用品箱から、ガラスの小びんをとり出し、その中に、湯わかしの口から、腐った冷たい水を一、二滴たらしこんで、湯わかしのふたをし、小びんの栓をして、それをふくれているポケットに収めた。それから、ますますあっけにとられた一同の見つめる中で、小卓から盆をそっくり持ち上げて、机に移すと満足そうにひと息いれた。
ふと何事かを思いついて、ジョアン・ブレットに鋭い声をかけた。
「先週の火曜日に、この小卓を移した時、この盆の上のものに手を触れたり、何かを変えたりしませんでしたか」
「いいえ、クイーンさま」と、ジョアンが、すなおに答えた。
「結構です。まったく、申し分ありませんね」と、エラリーはちょっと手をこすり合わせて「さて、みなさん、どうも、今朝は、ひどく疲れたでしょうね。何か元気のつくお飲みものでもつくりますかな……」
「エラリー」と、警視が冷やかに「つまり、その、何事にも限度というものがある。そ――そんな悠長なことをしとる暇はない」
エラリーは情けなさそうな目付きで、父を見つめて黙らせた。「お父さん、あなたはコーリー・シッパーが名せりふでほめたたえたものをけとばしてしまうんですか。『お茶よ、なごやかに、おだやかに、徳高き聖なる飲みものよ。そなたは甘い女性のささやきのごとく、にこやかに心をやわらげ、心をひらかしめ、たちまちに心を酔わしめる飲みものよ』」
ジョアンが、くすくす笑ったので、エラリーはちょっとおじぎした。隅に立っているクイーン警視の部下のひとりが、ごつごつした手で口を覆って、仲間にささやいた。「こりゃとんでもない殺人捜査だぜ」
クイーン父子は湯わかしの上で目を見交わした。すると警視の不機嫌が直った。そして警視はまるでこういうかのように、静かに身を退《ひ》いた。「せがれよ、こりゃお前の領分だ。煮ても焼いてもかまわんよ」
エラリーの考えがきまったらしい。いきなりシムズ夫人に言った。「新しい茶袋を三つと、きれいな茶碗六個、受け皿六個にさじをつけて下さい。それに新しいレモンとクリーム。大至急《ヴィットマン》ですよ、家政婦《マダム・ラ・グーヴェルナント》さん。すぐかかって下さい」
家政婦は、あっけにとられて、ぶつぶつ言いながら、ゆっくり部屋を出て行った。エラリーは楽しそうに湯わかしのコードをつまみ、何かをさがしながら机のまわりを見まわし、見つけたので、机の横のソケットにコードを挿した。シムズ夫人が台所からもどって来た時には、湯わかしの上のガラス玉の中で、湯が煮えたぎっていた。
しんと静まりかえっている中で、エラリーは見るからに面白そうに、シムズ夫人の持ってきた茶袋を六つの茶碗に入れもせずに、湯わかしの口から煮え立つ湯を茶碗に注ぎ始めた。五つ目の茶碗がいっぱいになりかけた時に湯わかしはからになった。その時ペッパーが、いぶかしげにいった。
「クイーン君、その水はくさってるよ。一週間以上もそのまま放ってあったんだろ。まさか飲む気じゃあるまいね……」
エラリーは微笑して「こりゃばかだった。もちろん飲めないさ。ところでシムズさん」と低い声で「すみませんが、この湯わかしを持って行って、新しい水を入れて来て下さい。ついでにきれいな茶碗も六つたのみますよ」
シムズ夫人のこの青年に対する気持は、すっかり変っていた。エラリーのうつ向いた頭を見つめる家政婦の目には軽蔑《けいべつ》の色が浮かんでいた。エラリーは湯わかしをとり上げて家政婦に差し出した。家政婦が水を差しに行っている間に、エラリーはまじめくさって、使用ずみの黄ばんだ茶袋を、古い水をわかして注いだ三つの茶碗の中に浸した。
スローン夫人が、気持ち悪そうに、まあ! と言った。この不作法者が、飲むつもりでないとはわかっているが。
エラリーはそのあやしげな儀式をつづけた。使用ずみの三つの茶袋を古い水をわかした湯につけて、たっぷり浸してから、しみのついたさじでいちいち強く押して茶をしぼり出した。
シムズ夫人が、新しい盆に、きれいな茶碗とうけ皿を十二個と、湯わかしをのせて、ゆっくりと書斎にもどって来た。「これでお間に合わせていただきたいですわ。クイーンさま」と、噛んですてるように言った。「これでもう、お茶碗は全部出払いですからね」
「結構ですよ、シムズさん。あなたは最上等の宝石ですよ。うれしいせりふでしょう。ね?」
エラリーはゆっくり茶袋を押したり絞ったりするのをやめて、湯わかしのコードをソケットに挿しこんだ。それからまた茶袋をしぼる儀式にもどった。エラリーの大努力にもかかわらず、古い茶袋からは、茶のまぼろしみたいな液しか、とけて出なかった。
エラリーはにっこりと、うなずいた。どうやらこれで何かわかりそうだ。それから、湯わかしの新しい水がわくのを辛抱強く待っていた。やがて、シムズ夫人が用意したきれいな六つの茶碗に、わいた湯を注いだ。六番目の茶碗に注ぎ終ると湯わかしが空になった。エラリーはため息をついて、つぶやいた。「シムズさん、どうやら、もう一度、これに水をさして来てもらわなければならないようですよ――なにしろ大人数ですからね」
しかし、だれもこんな気まぐれなお茶につき合おうとする者はいなかった。――お茶好きのイギリス人、ジョアン・ブレットも、ワーディス医師も――。それで、エラリーは、茶碗のちらかっている机の上を眺めながら、ひとり、しょんぼりとお茶をのんでいた。その、エラリーのとりすました姿を見守る一同の視線は、ほとんどみんなが、突然エラリーの知能が低下して、デミーみたいになったのではあるまいかと、いぶかしく思っていることを、言葉よりも雄弁に物語っていた。
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十一 FORESIGHT……見とおし
エラリーはハンカチで、上品に口をふくと、飲みほした茶碗を下ろして、ほほえみながら、ハルキスの寝室に姿を消した。警視とペッパーが、うんざりした顔でついて行った。ハルキスの寝室は暗くて窓のない大きな部屋で――いかにも盲人の住む部屋らしかった。
エラリーはスイッチをひねって灯《ひ》をつけ、この新しく探険する場所を注意深く眺めた。部屋はひどく取りちらかされていた。ベッドは乱れたままで、こしらえてなかった。ベッドのそばの椅子《いす》に男の衣類がひとやま載せてあった。空気がにごって、むかつくような匂いがした。
「どうやら」と、エラリーは部屋の奥の古い脚付きの用箪笥《ようだんす》に歩みよりながら「防虫剤の匂いらしいな。この家は古くてがっちり建ててあるが、エドマンド・クリューの言うとおり、たしかに換気装置が不十分だ」
エラリーは用箪笥をじろりと見まわしたが、何ひとつ手を触れなかった。それから、ため息をしてから、引出しを調べ始めた。一番上の引出しから、何か興味あるものを見つけ出したらしい。というのはエラリーの手が二枚の紙をつかみ出して、その一枚を、むさぼるように読み始めたからである。警視がうなるように「何かあったか?」と言い、ペッパーと二人で、エラリーの肩ごしに首をのばした。
「なあに、例の予定表ですよ。あの白痴君が、従兄の着付けをさせるのに使った」と、エラリーがつぶやいた。見ると、その紙の一枚は外国文字で書いてあり、もう一枚は――そっくりの副本で――英語で書いてあった。「ぼくの語学知識で十分です」と、エラリーが言った。「このちんぷんかんぷんの方が、堕落した現代ギリシア文字で書いてあることぐらいわかりますよ。教育というものはありがたいもんですね」ペッパーも警視も、にこりともしなかった。それで、エラリーはひとつため息をして、英語の方の予定表を大きな声で読み始めた。次のように書いてあった。
[#ここから1字下げ]
月曜日――グレイのツィード服。黒のブローガン靴。グレイの靴下。襟つきの薄いグレイのワイシャツ。グレイの市松模様のネクタイ。
火曜日――濃い茶のダブル服。茶のコードヴァン靴。茶の靴下。白ワイシャツ。赤波形模様ネクタイ。翼カラー。薄茶の靴当て。
水曜日――黒い細縞入りの、薄いグレーのシングル服。先のとがった黒靴。黒の絹靴下。白ワイシャツ。黒のボータイ。グレーの靴当て。
木曜日――紺の荒織ウーステッドのシングル服。黒のブローガン靴。紺の絹靴下。紺細縞入りの白ワイシャツ。紺水玉模様ネクタイ。それに合う、ソフト・カラー
金曜日――薄茶ツィード、ひとつボタン服。茶スコッチ赤革靴。薄茶靴下。襟つき薄茶ワイシャツ。茶の濃淡の縞ネクタイ
土曜日――濃いグレーの三つボタン服。先のとがった黒靴。黒絹靴下。白ワイシャツ。みどり波形模様ネクタイ。グレーの靴当て。
日曜日――紺サージのダブル服。角形黒靴。黒絹靴下。濃紺のネクタイ。翼カラー。あまり固くない胸当てのついた白ワイシャツ。グレーの靴当て。
[#ここで字下げ終わり]
「そりゃ、一体何だ?」と、警視が訊いた。
「何だ?」と、エラリーがおうむ返しに言い「何でしょうね、本当に」と、ドアに歩みよって、青斎をのぞきこみ「トリッカーラ君。ちょっと来てくれませんか」と、呼んだ。
ギリシア語の通訳が、急いで寝室にはいって来た。
「トリッカーラ君」と、エラリーは、ギリシア語の書いてある紙片を差し出しながら「何が書いてあるんです。大声で読んで下さい」トリッカーラが大声で読んだ。それはエラリーが警視とペッパーに読んできかせたばかりの英語の予定表の逐語訳《ちくごやく》だった。
エラリーはトリッカーラを書斎に帰してから、脚つき用箪笥の他の引出しを片っばしから、忙しく捜し始めた。エラリーの興味をひくようなものは何ひとつなかったらしいが、ついに三番目の引出しで、封を切ってない細長い薄っぺらな紙包みを見つけ出した。宛名は、ニューヨーク市、東五十四番街十一、ゲオルグ・ハルキス様となっていた。左上の隅に、バレット洋品店と刷ってあり、左下の隅に一行、「速達便」と判がおしてあった。エラリーは紙包みを引き破った。中には、どれも同じ赤波形模様のネクタイが六本、はいっていた。エラリーは包みを用箪笥の上に放り出した。その他には、注意をひくものが、引出しの中からは何も出てこなかったので、エラリーは隣りのデミーの寝室にはいって行った。
その寝室は、裏の中庭を見下ろす窓がひとつついている小部屋で、飾りつけはじつに殺風景だった。――裸天井、病院のベッドのような高い粗末な寝台、化粧台、洋服戸棚、椅子が一脚。その部屋は住む人間の個性など、まるっきり持っていなかった。エラリーはちょっと身ぶるいした。しかし、そんな寒々とした雰囲気《ふんいき》も、念入りな指先でデミーの化粧台の引出しを調べあげるさまたげにはならなかった。エラリーの好奇心をかきたてた唯一のものは、ハルキスの用箪笥で見つけたのと、全く同じギリシア文字の予定表で――カーボンで複写したものであるのを、すぐ較べて確かめた。
エラリーはハルキスの寝室に引き返した。警視とペッパーはもう書斎に引き上げていた。エラリーは手早く仕事にかかった。衣類の積み上げてある椅子につかつかと歩みよって、衣類をひとつひとつ調べてみた。――濃いグレーの服、白ワイシャツ、赤いネクタイ、翼カラー。その椅子の下には、一対《いっつい》の靴当てと、一足の先のとがった黒靴に黒い絹靴下を丸めこんだのが置いてあった。
エラリーは何か考えながら、鼻眼鏡で軽く唇をたたいていたが、やがて部屋を横ぎって大きな衣装戸棚のところへ行き、ドアをあけて中をひっかきまわした。洋服架けには、普通の背広が十二着、その他にタキシードが三着、儀式用の燕尾服《えんびふく》が一着、かけてあった。ドアの裏のネクタイ架けに、何十本ものネクタイが、色とりどりにかかっていた。戸棚の底には靴型にはめてある靴が何足も置いてあり、そのわきには厚手のスリッパが二、三足ちらばっていた。エラリーは服架けの上の棚に置いてある帽子が、ばかに少ないのに気がついた――事実、帽子は三個だけで、フェルトとダービーとシルクハットだった。
エラリーが衣装戸棚のドアをしめ、用箪笥の上のネクタイの包みをとって書斎にもどってみると、ヴェリーと警視がひそひそと相談していた。警視がもの問いたげにエラリーの方を見た。エラリーは安心させるようにほほえみ、まっすぐに机の上の電話機に歩みよった。そして局の番号係を呼び出して、短かい会話を交わし、番号を復唱して、すぐダイヤルでその番号をまわした。線の向うの相手に、矢つぎ早に質問をあびせてから、エラリーは受話器をかけて、にやにや笑った。葬儀屋のスタージェスに訊いて、ハルキスの寝室の椅子の上にあった衣類は、スタージェスの助手が故人の着換えをさせたあと、そこに残しておいたものであることを、いちいちの品物について確かめた。それはハルキスが死んだ時に着ていたもので、防腐処理をするために脱がしたのである。葬儀のためにはハルキスの持っていた二着の燕尾服のうちの一着を着せたということだった。
エラリーは手にしている紙包みを振りながら快活そうに言った。「どなたか、これに見覚えはありませんか」二人の人間がそれに答えた――ウィーキスと、またしても、ジョアン・ブレットだった。エラリーは同情するようにジョアンに微笑したが、まず執事の方を向いた。
「ウィーキス君、これについて、どんなことを知っているのかね」
「それはバレットからの包みでしょう」
「そうだよ」
「それは先週土曜日の午後おそくにとどきましたもので、ハルキスさまが亡くなられてから五、六時間も経ってからでした」
「君が自分で受けとったのかね」
「はい、さようです」
「それで、どうしたね」
「私は――」と、ウィーキスは目をむいて「むろん、私はそれをたしか玄関のテーブルにのせておきました」
エラリーの微笑が消えた。「玄関のテーブルの上だね、ウィーキス君。たしかだね。そこから、あとで、どこか他の所へ持っていかなかったかね」
「いいえ。確かに、そんなことはいたしません」と、ウィーキスはおどおどして「実は、旦那さまの亡くなられたさわぎに、とりまぎれて、あなたがお持ちになっているのを今見るまで、その包みのことは、すっかり忘れておりました」
「不思議だな……それで、ブレットさん、あなたは? この出没自在な包みとの関係は?」
「先週土曜日の午後おそく、それが玄関のテーブルの上にあるのを見ましたわ、クイーンさま。私が知っているのは、本当にそれだけですの」
「さわりましたか」
「いいえ」
エラリーは急にまじめくさって「さあ、みなさん」と、集まっている一同に向かって静かな声で言った。「ここにいるだれかが、たしかにこの包みを玄関のテーブルから取って、ハルキス氏の寝室の用箪笥の三番目の引出しに入れたはずです。この包みはそこで見つけたのです。だれがやったんですか」だれも答えなかった。
「ブレットさんのほかにだれか、これが玄関のテーブルに置いてあるのを見た覚えがありませんか」答えはなかった。
「よろしい」と、エラリーがきっぱり言った。そして、部屋を横切って、紙包みを警視に渡した。「お父さん。このネクタイの包みは、バレットの店に持って行って調べる必要があります――注文主はだれか、配達はだれか、などをね」
警視は気軽くうなずくと、部下の刑事のひとりに指で合図した。「エラリーの言うことを聞いとったな、ピゴット。行って来い」
「このネクタイを調べるんですね、警視」と、ピゴット刑事は、あごをなでながら訊いた。ヴェリーがピゴットを睨みつけて、そのやせた胸に包みを押しつけたので、ピゴットは申しわけなさそうに咳払いして、一目散に部屋をとび出して行った。
警視が小声で「ほかに何か目ぼしいものがあったか、エル」エラリーは首を振った。その口許に苦いしわがきざまれていた。老警視がぴしゃりと手を拍《う》ったので、一同はぎくっとしてしゃんとすわり直した。
「今日はこれでやめる。諸君に了解してもらいたいことがひとつある。先週、諸君は盗まれた遺言状の捜査でいやな思いをされた――だが、いろいろな点からみて、あれは、それほど、重要なことではなかったから、諸君の自由を大して拘束しなかった。しかし今度は諸君も、殺人事件捜査の泥沼に首までつかっているわけだ。ざっくばらんに言うが、事件はまだわれわれにはてんでわかっていない。わかっていることは、殺された男が前科者であり、この邸に二度も奇怪な訪問をしていて、二度目の時は、自分の素性を極力隠そうとして――それに成功した男と一緒だったということだけだ」
警視は一同をじろりと見て「この犯罪は、殺された男が自然死した男の棺に詰められて発見されたという事実によって、ひどく複雑なものになっている。その上、棺はこの邸のすぐ隣りに埋められていたのである。このような情況のもとでは、諸君をみな有力な容疑者と見得る。何のために、どうやってという点は、神のみぞ知るだ。しかし率直に言うが――犯人の目星がつくまでは、君らはひとり残らず、わしの監視下におかれる。君らのうち、スローン君やヴリーランド君のように、しなくてはならない仕事をもっているひとは、平常どおりに仕事をされるがいい。だが君ら二人の紳士も、いつでも連絡がとれ、呼び出しに応じられるように、慎重に行動してもらいたい。スイザ君、あんたは家に帰ってよろしい――しかし、いつでも呼び出しに応じられるようにし給え。ウッドラフ君、君ももちろん釈放だ。他の諸君は、わしが通告するまで、この邸を離れる時は、行先をはっきり報告して、外出の許可を得てからにしてもらいたい」
実際、警視はひどく不機嫌になり、荒っぽく外套《がいとう》を着た。だれも口をきく者はいなかった。老人はてきぱきと部下に命令を下し、フリント刑事とジョンスン刑事の指揮のもとに、多くの部下を邸内に配置した。ペッパーはコーハランに、持ち場に残るように伝言した。――検事の権益を守る地方検事局代表というわけだ。ペッパーとヴェリーとエラリーは外套をつけた。そして、四人の男はドアの方へ歩いて行った。
警視は、ドアを出ようとする瞬間、振り向いて一同を見まわした。
「諸君に、はっきり言っておくが」と、じつにいやみな口ぶりで「諸君が気に入ろうと、ほえづらかこうと――わしにとっては、同じことだ。ご機嫌よう」
警視は足音高く出て行った。エラリーは一行の後から、くすくす笑いながら従《つ》いて行った。
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十二 FACTS……諸事実
その夜のクイーン家の食事は、ものういものだった。西八十七番街の褐色の石造りの三階のアパートは、当時は今よりも少しは新しかった。玄関も少しは気品があり、居間の木口もそれほど古びてはいなかった。それに、雑役ボーイのジューナ少年も、まだほんとに子供子供していたから、後年のジューナに見られるよりは、かなり自由奔放だった。だから当時のクイーン家のアパートは、こざっばりしていて、空気も明るかったと言っていいはずである。ところが、その夜はまるで、そうではなかった。警視の|Weltschmerz《ヴェルトシュメルツ》(感傷的な悲観)が葬式の幕のように部屋いっぱいにたれさがっていた。そして警視は休みなくむちゃくちゃにかぎたばこを吸いつづけ、エラリーの言葉にも荒っぽく|うん《ヽヽ》とか|すん《ヽヽ》とか答えるだけで、うろうろしているジューナにものをいいつけるのにも、とかく感情的だし、極度の不安にさいなまれるかのように居間と寝室のあいだを行ったり来たりしていた。
お客たちが来ても、老人の機嫌は直らなかった。エラリーがお客たちを夕食に招き、テーブルには、ペッパーの考え深そうな顔や、サンプスン検事の疲れてもの問いたげな目が、加わっているのだが、この部屋に覆いかぶさっている深い陰気な空気に化学的な変化をおこしそうになかった。
したがって、ジューナは黙々とご馳走の給仕をし、ご馳走は黙って受けとられ、黙って平らげられた。四人のうちのエラリーだけが冷静だった。いつものようにおいしそうに食べ、焼肉のできばえでジューナをほめ、プティングについてディケンズの言葉を、コーヒーについてヴォルテールの言葉を引用した。……
サンプスン検事はナプキンで口をふき終るとすぐ言った。「ところで、クイーン老。めんくらって、あわてて、参っとるな。またしてもろくでもない難事件だ。どんな様子かね」
警視は憔悴《しょうすい》した目を上げて「そこにいるせがれに訊いてくれ給え」と言い、しなびた鼻面をコーヒー茶碗に埋めた。「せがれは、事の成行きを楽しんどるらしいからね」
「お父さんは、まともに考えすぎてますよ」と、エラリーは楽しそうにたばこをふかしながら言った。「問題はなかなかむずかしい点がありますがね、ぼくは必ずしも」――と、胸いっぱいに煙を吸い込んで吐き出し――「必ずしも解決不能とは思っていません」
「何だって?」と、三人がいっせいにエラリーを見つめた。警視は驚いて目をむいた。
「せっつかないで下さいよ。お願いです」と、エラリーはつぶやくように「ぼくの言葉が古風な古典的なものになるのは、まさに、こんな時です。ところがサンプスンさんはそんな言葉遣いがきらいときてる。それにぼくは満腹のときに理屈をこねるのが好きじゃないんですよ。ジューナ、いい子だから、もっとコーヒーをおくれ」
サンプスンがきっぱり言った。「しかし、もし何か知っとるのなら、エラリー君、さあ白状し給え。何を知っとるんだね?」
エラリーはジューナから茶碗を受けとって「まだ早すぎますよ、サンプスンさん。今でない方がいいんだがな」
サンプスンは席からとび立って、荒々しく絨毯の上を歩きはじめた。「またいつもの手だな。聞きあきとるぞ。『まだ早すぎますよ』か」と、雄馬のように鼻を鳴らして「ペッパー、事件の模様を話してくれ。最新の情報は何かね」
「それがです、検事」と、ペッパーが「ヴェリー部長がいろんな事を見つけましたが、ぼくのみるところではひとつも役に立ちそうもないんです。たとえば、ハネーウエル――教会の寺男――ですが、墓地に錠を下ろしたことは今まで一度もないが、あの男も、あの男の助手たちも、葬式以来不審なものは何も見なかったと言っているんです」
「文句を言うことはないさ」と、警視がうなった。「墓地も中庭も見廻りがついていたわけじゃない。だれでも人目につかずに、自由に出入りできたはずだ。特に夜ならな。ばからしい」
「隣り近所はどうだ」
「さっぱり何もありません」と、ペッパーが答えた。「ヴェリーの報告は抜かりなしです。ご承知のとおり、五十五番街に面する家の南側と五十四番街に面する家の北側は、どの家も裏があの中庭に向いています。五十五番街に面する家を、東から西へ順に言うとマジソン・アベニューの角の十四番地は、スザン・モース夫人の所有で、あのもうろく婆《ばあ》さんは葬式に出ていました。次の十二番地はフロスト医師の家で――ハルキスを診《み》ていた医者です。十番地は教会の隣りの牧師館で、エルダー牧師の住居です。五十四番街に面している家を東から西へ言えば、いいですか、マジソン・アベニューの角の十五番地はルドルフ・ガンツ夫妻の家で……」
「肉問屋の隠居だな」
「そうです。そしてガンツの家と十一番地のハルキス邸の間が十三番地で――板を打ちつけた空家になっています」
「家主はだれかね」
「そういきり立たんでもいい。内輪の集まりじゃないか」と、警視がぶつぶつ言った。「あの家は有名な金持、ジェームス・J・ノックス氏のもので、ハルキスの例の紛失した遺言状の執行人に指名されとる男さ。あそこにはだれも住んどらん。――ノックスの古い固定資産のひとつさ。数年前にはノックスが住んどったが、かなり離れた上町に越してからは、あそこはずっと空家になっとる」
「ぼくは登記所を調べてみました」と、ペッパーが説明した。「むろん、担保にも抵当にもはいっていませんし、売りに出されてもいません。きっと感傷的な理由で持ちつづけているんでしょうね。あの家は時代もので――ハルキスの家と同じぐらいの古さで――同年代に建てられたものです。まあ、それはそれとして、これらの家に住んでいる連中はひとりとして――主人どもも、召使どもも、一軒には来客もいましたが――だれもヴェリーに情報を与えられなかったのです。いいですか、二つの通りに面しているあの家々は、どれも裏口が中庭に通じています。マジソン・アベニューから中庭に出入りするには、モースかガンツの家の地下室を通らなければなりませんし、あの地区で中庭に出られるのは、あの二軒だけです。それに、五十四番街、マジソン・アベニュー、五十五番街から中庭に通じる路地は一本もありません」
「ということは」と、サンプスンがいらいらして「教会か墓地か、その二軒の家を通り抜けなければ中庭には出入りできない――そう言うんだね」
「そうです。墓地について言えば、三つの通路があるだけです――教会を通り抜けるか、中庭の西のはずれの門を通るか、柵にたったひとつついている出入口をくぐるかです――柵の出入口というのはじつに高い門で――墓地の五十四番街側についているんです」
「そんなことは何も意味がない」と、警視が不服そうに言った。「重要な点じゃない。重要な点はヴェリーの訊問《じんもん》に対して、ハルキスの葬式以後、夜間にしろ、いつにしろ、あの墓地に出入りしなかったと、皆が否認していることだ」
「でも」と、エラリーが穏やかに口をはさんだ。「モース夫人だけは別ですよ。お父さんはあのひとを忘れています。あのひとが毎日午後、墓地の死人の頭の上を散歩するのをたのしみにしていると、ヴェリーに告げたのを覚えているでしょう」
「そうです」と、ペッパーが「でも夜は行ったことがないと否認していますね。とにかく、検事、あの隣り近所の者はみんなあの教会の教区民です。むろんノックスは別ですがね。あの男はもともと隣人じゃありません」
「あの男もカトリックだ」と、警視が、うなるように「ウェスト・サイドの、はいからな寺院に所属しとるんだ」
「ところで、ノックス氏はどこにいるね」と、地方検事が訊いた。
「それがね、今朝《けさ》、町を出たんだ。どこへ行ったのか正確には知らんがね」と、老警視が言った。「トマスに捜査状を請求させとる――ノックスがもどるまで待てん。わしはハルキスの邸の隣りのノックスの空家を調べてみる肚《はら》なんだ」
「つまり、検事」と、ペッパーが説明した。「警視は、あのノックスの空家が、グリムショーの死体を隠して置く場所に使われたと睨んでいるんですよ。ハルキスの葬式のあとで、あの棺に突っ込むことができるようになるまでの間のね」
「いい線だね、クイーン君」
「ともかく」と、ペッパーがつづけた。「ノックスの秘書は、御大の居場所を明かすのを拒絶していますから、われわれは令状を手に入れなくてはならないんです」
「重要ではないかもしれんが」と、警視が所見をのべた。「この際、何ひとつ見のがすわけにはいかんからね」
「立派な|Principio《プリンシピオ》 |operandi《オペランディ》(行動原則)ですね」と、エラリーがくすくす笑った。
父親は冷やかに、不満そうなしかめ面をエラリーに向けて「おい――お前は自分の頭がいいとでも思っとるのか」と、弱々しく言った。「ところで……諸君。空家の件に関する限り、なおひとつ問題がある。いつグリムショーが殺《や》られたのか、まだはっきりわかっていない――死後どのくらいたつかがね。それはそれでいい。解剖すればかなり正確にわかるだろうからね。それがわかるまで、さしあたり、われわれは、ひとつ、推理の足がかりを考えておかなければならんよ。グリムショーが殺される前にハルキスが死んだものとすれば――グリムショーの死体を発見した場所から考えて――死体をハルキスの棺に突っ込むことは、明らかに事前に計画されたものと見るべきだね。いいかね、その場合、あの空家は、ハルキスの葬式のあとで、あの棺が利用できるようになるまでの間、犯人がグリムショーの死体を隠しておくには絶好の場所だっただろうからな」
「なるほど、しかし別の見方もある、Q」と、サンプスンが異議をはさんだ。「解剖の結果が出ていないから、はっきりしないが、ハルキスの死がグリムショーの殺された後だったとも言えるだろう。すると、ハルキスの死は犯人には予期しなかったことで、犯人はグリムショーの死体をハルキスの棺に突っ込むチャンスが来るなんて夢にも思わなかったことになる。そう考えると、最初犯人は、グリムショーの死体を、その殺した場所に隠しておかなければならなかっただろうということになる。――ところが、殺人があの隣りの空家で行なわれたと推定する理由は何もないじゃないか。どっちにしろ、グリムショーがいつ仏になったかがわかるまで、その推理の線は役に立ちそうにないな」
「つまり」と、ペッパーが考えこみながら「グリムショーがハルキスの死ぬ前に絞められたとすれば、その死体は、どこか犯行現場に保存されていた。そして、ハルキスが死んでから、その棺にグリムショーの死体を突っ込むことを思いついて、犯人は、五十四番街側の柵の出入口を通って死体を墓地へ運び込んだ、と言われるのですね」
「そうだ」と、サンプスンが、きっぱり言った。「十中の八、九、ハルキスの隣りの空家は、この犯罪には無関係だろうよ。そんなことはどうも理屈にあわないような気がする」
「それほど理屈にあわなくもありませんよ」と、エラリーがおだやかに言った。「それはそれとして、どうも皆さんは材料も揃えずにシチューをつくろうとしているようですね。ぼくの弱い頭にもそう感じられます。なぜ、解剖の結果を、根気よく待っていられないんでしょうね」
「待て――待てと言うのか」と、警視がぷりぷりして「待ってたら年をとっちまう」
エラリーが笑った。「チョーサー〔十五世紀の英詩人〕の詩を信じれば、年をとるということは明らかに有利ですよ、お父さん。『百鳥の集《つど》い』の句を覚えているでしょう。『年季のはいった畠から、年々小麦かとれるとさ』」
「ほかに何か? ペッパー」と、サンプスンが、エラリーの言葉を無視して、訊いた。
「大したことはありません。ハルキス邸と墓地の通路との向いにあるデパートのドア・マンを――その男は店の五十四番街に向いている出入口に一日じゅう立っています――ヴェリーが訊問しました。それから勤務中の巡邏警官も調べたそうです。どちらも、葬式以後、日中は、不審な動きは見なかったと言っています。夜勤の巡邏警官も、不審なものは何も見なかったが、知らないうちに、死体を墓地にかつぎ込むことは、必ずしもできぬ相談ではないと認めています。それに、墓地の見張れる場所で、夜勤していたデパートの店員はひとりもいません。夜の守衛は店の奥にいるそうです。ざっと、そんなところですね」
「こんなふうに、じりじりしとると、気が狂いそうだ」と、警視はつぶやき、しゃっきりした小柄なからだを、暖炉の前の椅子に投げ出した。
「|La《ラ》 |patience《パシアンス》 |est《エ》 |amere《タメール》 |mais《メー》 |son《ソン》 |fruit《フリュイ》 |est《エ》 |doux《ドゥ》」と、エラリーが小さな声で「こんな文句が使ってみたい気分ですね」
「なんてこった!」と、警視がいまいましそうに「せっかく大学へまでやったのにな。わしに、偉ぶった口を利きおって。そりゃどういう意味だ」
「辛抱は苦いが、その実は甘い、ということですよ」と、エラリーはにやりとして「蛙の言った言葉です」
「え――何だって? 蛙?」
「まあ、まあ、冗談のつもりなんだよ」と、サンプスンが、うんざりして「フランス人の文句らしいが、ルソーじゃないか」
「ご存知なんですか、サンプスンさん」と、エラリーがお調子に乗って「時々あなたは、じつにおどろくべき知能のひらめきをお見せになりますね」
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十三 INQUIRIES……調査
そのあくる朝の土曜日――すばらしい十月の太陽の輝く日――クイーン警視の沮喪《そそう》した精神は、いちじるしく元気を取りもどした。その元気|恢復《かいふく》の直接の原因は、サムエル・プラウティ医師が、ハルキスと殺された男の解剖所見を自ら届けてくれたことだった。その日、地方検事サンプスンは、自分で処理しなければならない事件で、事務所にしばりつけられていたので、警察本部の警視の部屋には部下のペッパーを代理としてよこした。
プラウティ医師が、その日の最初の安葉巻をかみながら警視の部屋にはいってみると、警視と、ペッパーと、ヴェリー部長と、何かを期待しているらしいエラリーが、待ちかまえていた。
「よう、先生。どうだったね」と、警視が大声で「何か情報は?」
プラウティ医師はひょろ長いからだを、折りたたむようにして、一番いい椅子にすわり込み、皮肉なもったいぶった口ぶりで「君らはハルキスの死体について正確なことが知りたいんだろうな。その点については何も問題なしだ。フロスト医師の死亡証明書どおり、いんちきの徴候はひとつもない。ハルキスはひどい心臓病で、ポンプがきかなくなったんだ」
「毒の形跡はなかったかね、え?」
「針の先ほどもないね。すべてOK。ところで、二番目の死体だが」と、プラウティ医師は、歯をかちかち鳴らしながら「すべての徴候からみて、ハルキスより先に死んだものだな。話せば長くなる」と、にやりと笑った。
「いろいろな条件がたくさんあって、断定を下すのは危険だがね。この場合、体熱の喪失は大して参考にならない。だが、死体の筋肉の変化とあの完全な変色度から、多少の推定が下せる。表皮と腹部中央の緑色斑紋は細菌の化学的な作用によるもので、かなり進捗《しんちょく》している。死体の内外部にわたる灰色の腐敗斑紋の数と場所とは、昨夜までに約七日間経過していることを示すね。ガスの張力、口腔や鼻腔からふき出している粘液、気管の内部の腐敗情況、胃、腸、脾臓《ひぞう》に見られる二、三の徴候――すべていま言った期間に符合している。それから皮膚の緊張度や、これは大部分の膨脹個所で弛緩しはじめているが――腹部の状態、臭いガス、いちじるしい比重の低下など――さよう、ぼくに言わせると、アルバート・グリムショー君は、昨日の朝発掘される六日半前に殺されたらしいな」
「というと」と、警視が「グリムショーは、先週の金曜日の夜中から、土曜日の早朝にかけて――ほんのわずかな間の、何時かに絞殺されたことになる」
「そのとおり。あらゆる点からみて、腐敗の自然的な進行状態が、ほんの少しばかり遅れていることは、たしかだが。それも、ハルキスの棺に詰め込まれる前に、あの死体が風通しの悪い乾燥した場所に保管されていたとわかれば、別に大して不思議でもない」
エラリーがいやな顔をした。
「どうも、あまり愉快な話じゃないですね。ぼくらの聖なる不滅の魂が、じつに頼りがいのない肉体に宿っていることになるなんて」
「どうして? そんなに早く腐敗するからかね」と、プラウティ医師が面白そうな顔で「じゃ、ひとつ慰めてあげよう。女の子宮は、時には、死後七か月も、なんら変化しないことがある」
「それがあなたの考える慰めですかね――」
警視が急いで「ほかには別に訊くこともないが、先生、グリムショーは絞殺だね」
「そうだ。だれかが素手で絞めた。指の跡がはっきり出てる」
「先生」と、エラリーが椅子の背に深くよりかかりながら、のんびりとたばこをふかして「あなたにお願いしたあの沸きざましの見本から、何かわかりましたか」
「ああ、あれか」と、医務検査官補は、面倒くさそうに「あれには塩分がふくまれていた――おもにカルシューム塩でね――普通の硬水にはみんな含まれている。知ってのとおり、飲用水は大てい硬水だよ。ところで、熱を加えると塩分は凝結する。水の化学分析はやさしいもんだし、その凝結物の有無で、沸した水か、生水かは、すぐにわかる。君が湯わかしの中の水をとってぼくに渡したあの古水の見本は、一度沸かしたもので、しかも、あの沸きざましには、あとから生水を加えた形跡は全然なかった。それは断言できる」
「ありがとう。これも、あなたの科学的頭脳のおかげですよ。先生」と、エラリーがつぶやいた。
「よしてくれ。ほかに何か?」
「何もないな。いろいろどうも、先生」と、警視が言った。プラウティはコブラのように、とぐろをほどいて、安葉巻の煙を吐きながら警視の部屋を出て行った。
「さて、現在の情況を考えてみよう」と、老警視は手をこすりながら、すぐ言った。そして、メモを見ながら「このヴリーランドという奴《やつ》だが、奴のケベック旅行は、列車車掌、切符の紙片、宿帳、出発時間などで確認された。ふーん……デメトリオス・ハルキスか。奴は一日じゅう、ベローズ医師の診察室にいた。――先週の土曜日にはな。……ハルキス邸で検出された指紋の報告も――何の役にも立たん。グリムショーの指紋も、他の連中のとまじって、書斎の机の上でみつかっとる。おそらく、邸じゅうの連中はみんな、いつかあの机にさわっとるようだ。特に最初の遺言状さがしの時にな。棺についとった指紋も――ものにならん。はっきりしたのや、よごれたのがたくさんとれたが、あの棺が応接室に安置されとる時は、邸じゅうの連中がそのまわりにいたんだし、特に指紋があったからといって、その指紋の主《ぬし》を犯人ときめつけるわけにもいかん……トマス! バレットの店で、ピゴットが何かつかんだか」
「全部話が合ってます」と、ヴェリーが答えた。「ピゴットは、電話で注文を受けた店員をつかまえました。そいつが言うには、たしかにハルキスが自分で電話をかけてきたそうです――ハルキスに絶対間違いないそうです。それまでにもいく度も電話でハルキスと話しているそうです――そいつの話だと――先週土曜日の朝、赤い波形模様のネクタイを六本注文してきたそうです。その時間も、注文品の柄も合っています。バレットの配達人の受取りには、包みを受けとったウィーキスのサインもありました。全部、異状ありません」
「そうか、これでお前は満足だろう」と、警視が意地悪そうにエラリーに言った。「どんなふうにお前の役に立つか、わしにはわからんが」
「空家の方はどうですか、部長」と、ペッパーが「令状はうまく手にはいりましたか」
「全部ぺちゃんこさ」と、警視がぶつぶつ言った。
「令状はうまく手に入れたが、うちのリッターが空家を捜査した報告によれば、何ひとつ見つからなかったそうだ」と、ヴェリーが、がらがら声で「すっからかんだったそうだ――地下室に古いぶっこわれトランクがひとつころがっていたほかは、家具のかけらもないそうだ。リッターは何ひとつ見つからなかったと言ってる」
「リッターがね」と、エラリーは、たばこの煙に目をしょぼつかせながら、つぶやいた。
「じゃ、次に」と、警視はもう一枚の紙片を取り上げながら「ここにグリムショーの身上書がある」
「そう、あの男について、どんなことが掘り出されたか、特によく聞いて来いと、おやじが言っていました」
「どっさり掘り出した」と、老警視はまじめくさって「殺される前の火曜日にシンシン刑務所を釈放されとる――つまり九月二十八日だ。善行による刑期短縮なし。――知っとるとおり、偽造罪で禁固五年。犯行後三年目にぶち込まれた――見つからなかったんだ。前歴によると、十五年ほど前に守衛をしていたシカゴ美術館から、絵を盗み出そうとして未遂で二年間くさい飯を食ってる」
「それですよ、ぼくが言おうとしたのは」と、ペッパーが注意した。「偽造は奴の犯罪のうちのひとつにしかすぎないんですよ」
エラリーがきき耳を立てた。「美術館荒しか。そりゃかなり面白い暗合じゃありませんか。目下われわれが扱っているのは、大美術商と、美術館荒しですからね……」
「何かありそうだな」と、警視がつぶやいた。「それはそれとして、九月二十八日以後の奴の行動に関する限りでは、調べてみると、奴はシンシンを出て、この市の西五十九番街のホテルに来とる。――ベネディクト・ホテルという三流の安宿だ――そこで、本名のグリムショーで投宿しとる」
「偽名は使わなかったらしいですね」と、ペッパーが口をはさんだ。「あつかましい悪玉だ」
「ホテルの連中を訊問しましたか」と、エラリーが訊いた。
ヴェリーが答えて「日勤の番頭からも、支配人からも、何もつかめませんでした。しかし、夜勤の番頭に呼び出しをかけておきましたから――もうじきここに来るはずです。奴はきっと何か知っとるでしょうよ」
「グリムショーの行動について、ほかに何かありませんか、警視」と、ペッパーが訊いた。
「うん、大ありだ。西五十五番街の酒場に女といたのを目撃されとる――そこは奴のなじみの古巣だ――釈放になった次の日、先週の水曜日の夜だ。スキックはつれて来とるか、トマス」
「外にいます」ヴェリーが立って外に出た。
「スキックというのは、だれですか」と、エラリーが訊いた。
「酒場のおやじさ。古狸《ふるだぬき》だ」
ヴェリーが、太った赤ら顔の大男をつれてもどって来た――やあ、いらっしゃいと顔に書いてある。一目でわかる『バーテン上がり』だった。スキックはひどくおびえていた。
「お早うござんす、警視さん。いいお天気で」
「まあな」と、老警視は、無愛想に「腰かけろよバーニー。二、三訊きたいことがある」
スキックは汗ばんだ顔を拭いて「ここじゃ、わたしの個人的な問題は何もないんでしょうね、警視さん」
「何だと? 酒のことか(禁酒法時代)そんなことは、何も言わん」と、警視は机をたたいた。「ところで、わしの言うことをよく聞くんだ、バーニー。先週の水曜日の夜、刑務所を出たばかりのアルバート・グリムショーという前科者が、お前の店に行ったことがわかっとるんだが、そうかね」
「そのようです、警視さん」スキックはそわそわした。「殺された奴でしょう」
「なかなか話がよくわかる。ところで奴はあの晩女と一緒にいたそうだな。その点はどうだ」
「さようです、警視さん、正直のところ」と、スキックはいかにも秘密らしく小声で「全くばかな話ですがね。あの女は知らないんですよ。――一度も会ったことがないんです」
「どんな女だ?」
「どっしりしたブロンドの大女で、肉づきのいい、見たとこ三十五ぐらいの女でした。目じりにしわがよってました」
「それで、どうした?」
「それがね、奴《やっこ》さんたちは九時頃やって来たんです――宵《よい》の口でさ。店がたてこんでない時間でさ」――と、スキックは咳払いして――「奴さんたちは腰かけて、グリムショーが一杯注文しました。女の方は、何もとりませんでした。奴さんたちはじきに口げんかを始めて――それが本当に大げんかでした。何を言ってるのか、ききとれませんでしたがね、でも女の名前が耳にはいりましたよ――リリーって、呼んでました。どうやら女を口説《くど》いて何かをやらせようとしてるようでしたがね。女の方は剣もほろろでした。とにかく女はいきなり立って、あっけにとられているでくの棒を後に残して、出て行っちまったんです。奴さん、かんかんになって――ぶつぶつ言ってました。そして、五分か十分ぐらいすわってましたが、それから姿を消したんです。わたしの知ってるのは、それだけですよ、警視さん」
「ブロンドの大女のリリーなんだな」と、警視は小さなあごをつまんで、じっと考え込んだ。「よしわかった、バーニー。水曜日の夜以後、グリムショーはまた来たかね」
「いいえ来ません。誓いますよ、警視さん」と、スキックが、すぐ答えた。
「ご苦労だった。もう帰っていい」
スキックは元気よく立ち上がって、さっさと部屋を出て行った。
「ブロンドの大女を洗えと言われるんでしょう」と、ヴェリーが、がらがら声を出した。
「すぐかかれ、トマス。その女は、奴がくらい込む前に相棒だった情婦《いろ》にちがいない。けんかをする仲なんだから、奴がしゃばに出て一日やそこらで拾いあげた女でないのはたしかだ。奴の記録を調べてみろ」
ヴェリーが部屋を出て行った。そしてもどって来た時には、おびえて目をしょぼつかせている青白い青年を、送り込んで来た。
「ベネディクト・ホテルの夜勤の番頭、ベルです、警視。さあ、さあ、前に出ろ。だれもかみつきゃあせんぞ、頓馬《とんま》め」
ヴェリーはベルを椅子に押しこんで、のしかかるように立っていた。警視はヴェリーに退るように合図した。
「さあこれでいい、ベル」と、やさしい声で「君のまわりは友だちばかりだ。わしらは少しばかり情報がほしいんだよ。君はベネディクト・ホテルの夜勤を、どのくらいやっとるのかね」
「四年半です、警視さま」ベルはすわって、フェルト帽を手でねじっていた。
「九月二十八日から、ずっと休まずに勤めとるかね」
「はい、警視さま。ひと晩もかかさず――」
「アルバート・グリムショーという名の客を知っとるね」
「はい、知っています。五十四番街の教会の墓地で、殺されているのが、見つかったと、新聞に出ていたあの人ですね」
「そうだよ、ベル。君がしっかりしとるんでたのもしい。その男を受付けたのは君かね」
「いいえ、警視さま。日勤の番頭が受付けました」
「じゃあ君は、どうしてあの男を知っとるんだ」
「それがおかしな話なんです、警視さま」ベルは幾分びくびくしなくなった。「あのひとが泊っていたあの週のある晩、妙なこと――そう、変なことがあったので、覚えてるんです」
「いく日の夜だね」と、警視がのり出して「どんなことだね」
「あのひとが泊ってから二晩目のこと、一週間前の木曜日の夜ですが……」
「ほう」
「そう、あの晩、あのグリムショーさんに、五人のお客が会いに来たんです。それも、みんな三十分そこそこのあいだにですよ」
警視の態度は心にくいばかりだった。そり身になって、ペルの陳述などまるで歯牙《しが》にもかけないかのように、かぎたばこをひとつまみ喫った。
「それで? ベル君」
「あの木曜日の晩の十時頃、グリムショーさんがひとりの客をつれて、通りからロビーにはいって来るのが見えました。二人で――熱心に、早口で話し合っている様子でした。どんな話をしていたかは聞きとれませんでした」
「グリムショーの連れは、どんな風体だったね」と、ペッパーが訊いた。
「わかりかねます。顔をすっかりかくしていましたから――」
「ほう」と、警視がまた言った。
「――顔をかくしていました。どうやらひとに見られたくなかったようです。もう一度会えば見分けられるかもしれませんが、しかし自信はありません。ともかく、二人はエレヴェーターの所へ行きました。それが二人を見た最後です」
「ちょっと待て、ベル」警視は部長の方を向いて「トマス、夜のエレヴェーター係を連れて来い」
「もう、おさえてあります、警視」と、ヴェリーが言った。「もうじきヘッシーが、そいつにくっついて来るはずです」
「よし。それから? ベル」
「そう、お話したとおり、それは夜の十時頃のことでした。ところが、ほとんどすぐに――実際、グリムショーとお連れさんが、まだエレヴェーターの前に立って待っていたんですから――ひとりの紳士が受付けに来て、グリムショーさんに会いたいから部屋番号を教えてくれというのです。それで私は『あそこにいらっしゃいますよ』と言ったんです。その時ちょうど、二人がエレヴェーターにはいってしまいました。それで『お部屋番号は三一四番です』と教えました。それがグリムショーさんの部屋番号なんです。それはご存知でしょう。その紳士がちょいとおかしいんです――変にそわそわしていました。とにかく、その紳士はエレヴェーターの方へ行き、箱が下りてくるのを待っていました。私どもにはエレヴェーターが一台しかないので」と、ベルは規則違反をおそれるかのように言い足した。「なにしろベネディクト・ホテルは小さいんで」
「それから」
「それがです。それから一分も経たない頃、ひとりの婦人がロビーを歩きまわっているのに気がつきました。その婦人がまた、ひどくそわそわしていたんです。やがてその婦人も受付けに来て訊きました。『三一四番の隣りの部屋は空いていませんか』その婦人はさっきの紳士の訊いた言葉を聞いていたらしいんです。ちょいとおかしいなと思うと、何となくうさん臭くなりました。『その女』が何も荷物を持っていないんだから、なおさらです。間がよく、グリムショーさんの隣りの三一六号室が空いていました。私は鍵をとって、大声で呼びました。『おーい、ボーイ』ところがボーイの必要はなかったのです――その婦人は、お供はいらない、ひとりで上がって行くと、言いました。それで、私が鍵を渡すと、それを持ってエレヴェーターで昇りました。その時には、前の紳士はもう昇ってしまっていました」
「その女はどんな様子だったね」
「そう――会えば見分けられると思います。中年の小柄で太った婦人でした」
「宿帳には、名を何と書いたね」
「J・ストーン夫人です。たしかに筆跡をごまかそうとしていました。わざと曲りくねった字で書いたんです」
「金髪だったかね」
「いいえ、ちがいます。黒い髪で白髪まじりでした。ともかく、ひと晩の宿代を先払いしました。――浴室《バス》なしの部屋で――それで、『まあ仕方がない、今日日《きょうび》はこうでもしなけりゃ、不景気なんだから』と、私は、かんじょうしたんです……」
「おい、おい。そんなことより話の方をつづけるんだ。さっき客は全部で五人来たと言ったが、あとの二人の方はどうした?」
「それがです。それから十五分か二十分した頃、また二人の紳士が受付けに来て、アルバート・グリムショーという男が泊っているかどうかと訊《たず》ねました。そしてもし泊っているなら部屋は何番かと」
「二人一緒か」
「いいえ、ちがいます。二人は五分か十分ぐらいおいて別々に来ました」
「また会ったら、その二人が確認できると思うかね」
「できますとも。何しろ」と、ベルはひそひそ声で「連中はみんな、ひどくそわそわしていて、ひとに見られまいとしていたようです。それで、私はおかしいと思って注意してしたんですからね。最初、グリムショーさんと一緒に来た紳士でさえ、じつに妙なそぶりでした」
「その連中の中のだれかが、ホテルを出て行くのを見かけたかね」
ベルはにきび面を伏せた。「とんでもない失敗をやらかしちゃいましたよ。見張っていりゃよかったんですがね。あれから、とてもごたごたしたもんで――泊っていたショーの女たちが宿を引き払って発《た》ちましたんで――そのどさくさまぎれに、連中は引きあげちゃったらしいんです」
「女の方はどうした? 女はいつ宿を引き払った」
「それがまた、おかしいんです。そのあくる晩、私が出勤すると、日勤の男が、三一六号室のベッドには寝た跡がないと女中が報告して来たと言っていました。事実、部屋の鍵はドアにかけっ放しになっていました。あの婦人は部屋をとってから間もなく出て行ったらしいんです――気が変ったんでしょう。そりゃあどうということもないんですよ、宿賃は先にいただいてあったんですからね」
「木曜日の晩以外はどうだった?――水曜日の晩は? 金曜日の晩は? グリムショーに客があったかね」
「それはわかりかねます」と、申し訳けなさそうに夜勤番頭が言った。「私の知る限りでは、あのひとを訪ねて、受付けに来たひとは、ほかにはひとりもおりません。それから、金曜日の午後九時頃、あのひとは、行き先も告げずに宿を出て行きました。あのひとは、何も荷物を持っていませんでした。――それも、私がよくあのひとを覚えている理由のひとつなんです」
「その部屋を調べてみる必要があるな」と、警視がつぶやいて「グリムショーが引き払ってから、その三一四号室にだれかが泊ったか?」
「はい。あのひとが引き払ってから、三人もお客が泊りました」
「毎日|掃除《そうじ》するのか」
「はい、いたします」
ペッパーが残念そうに首を振って「何か残っていたとしても、もうなくなってますよ、警視。見つかりっこありませんよ」
「一週間も経っては、見つからんだろうな」
「えーと、ベル君」と、エラリーがゆっくり言った。「グリムショーの部屋は浴室《バス》付きかね」
「はい」
警視がそり身になって「どうやら忙しくなりそうだぞ」と、楽しそうに言った。「トマス、この事件に関係のある連中を、ひとり残らず、一時間以内に、東五十四番街十一番地に集合させるんだ」
ヴェリーが部屋を出る時、ペッパーが低い声で言った。「なんと! 警視。もしグリムショーを訪ねた五人の客の中に、すでにこの事件に関係していた者がいることがわかると、ちょっとごたつきますね。とにかく、グリムショーの死体を見た連中は、みんな前に会ったことはないと証言しているんですからね」
「ごたごたか、へっ!」と、警視は面白くもなさそうににやりとして「まあな。それが人世というもんだ」
「大したものです、お父さん」と、エラリーがうなった。ベルは困ったようにみんなの顔を見まわしていた。
ヴェリーが足音高くもどって来た。「手配しました。それから、ヘッシーが『黒さん』をつれて外で待っています――ベネディクト・ホテルの夜勤のエレヴェーター・ボーイです」
「つれて来い」
ベネディクト・ホテルの夜勤のエレヴェーター・ボーイは見たところ若いニグロで、恐怖で紫色になっていた。
「お前の名は?」
「ホワイトです。旦那、ホワイトで」
「お、そうか」と、警視が「ところで、ホワイト君、先週、ベネディクトに泊ったグリムショーという名の男を覚えとるかね」
「あの――絞め殺された方ですね」
「そうだ」
「はい、旦那、よく覚えています」と、ホワイトはさえずるような声で言った。「はっきり覚えてます」
「一週間前の木曜日の晩の十時頃――あの男が、もうひとりの連れの男と一緒に、エレヴェーターにのったのを覚えとるかね」
「はい、旦那、たしかに」
「その連れの男はどんな顔をしていた?」
「思い出せません、旦那。だめです。どんな顔だったか覚えてません」
「何か覚えとるだろう? そのほかに、グリムショーの階で降りた客をのせたかね」
「大ぜいのせましたよ、旦那。数えきれないほどで。いつも大ぜいのせるんですよ、旦那。たったひとつ覚えてることは、グリムショーさんとお連れのひとをのせて、あのひとたちは三階で降り、三一四号室にはいって、後手にドアをしめなさったことです。三一四号室はエレヴェーターのすぐわきですからね、旦那」
「エレヴェーターの中で何か話しとったかね」
ニグロはうめくように「わたしは頭を空っぽにしてましたのでね、旦那。何も覚えていません」
「もうひとりの男は、どんな声だった?」
「わ――わたしは覚えてません、旦那」
「よろしい、ホワイト、帰っていいぞ」
あっという間に、ホワイトは姿を消した。警視は立って外套を着けるとベルに言った。「君はここでわしを待っとってくれ。すぐもどって来る――できれば、二、三人、確認してもらいたいんだ」それから部屋を出て行った。
ペッパーは壁を見つめていた。「あのね、クイーン君」と、エラリーに向かって「ぼくはこの事件をすっかりかぶっちゃったよ。おやじは責任をぼくにしょわせているんだ。ぼくのねらいは遺言状だが、しかし、まるっきり、どうも見当がつかない――一体、遺言状はどうしちまったんだろうな」
「ペッパー君」と、エラリーが「どうやら、あの遺言状は、もう屑《くず》になっちまってるんじゃないかな。ぼくは自分の聡明なる――あえてそう言うが――聡明なる推理を、どうしても棄てる気にはなれないんだ。あの遺言状は、ハルキスと一緒に、棺にまぎれ込んで埋められたんだろうと思うな」
「君の説明をきいた時には、たしかにそうだと思ったがね」
「ぼくは確信している」と、エラリーは、もう一本たばこをつけて、深く喫った。「そして、ぼくの確信どおり、もし遺言状が今でも存在するものなら、だれが持っているか、ぴたりとわかる」
「本当か」と、ペッパーが信じかねる様子で「どうもよくわからないが――一体、だれだね」
「ペッパー君」と、エラリーが、ため息をして「それは、まるっきり子供にもわかるほど単純な問題さ。グリムショーを埋めた人間以外にはないじゃないか」
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十四 NOTE……書き置き
クイーン警視が、その明るい太陽の輝く十月の朝を覚えているのには、わけがあった。そしてまた、その日は、言ってみれば――野心家ではあるが――誇大|妄想《もうそう》家ではないホテルの若い番頭ベルにとっても、晴れの日だった。だが、スローン夫人にとっては、ただ心配事ばかりがおしよせた日だった。
その日が、ほかの連中にとってどんな日だったかは、ぼんやりと推《お》し測るしかない――ほかの連中というのは、つまり、ジョアン・ブレット嬢を除いたほかの連中のことだ。ジョアン・ブレット嬢は、何はともあれ、恐しい朝を経験した。憤慨し、憤慨のあまりついには真珠の涙にかきくれたのも、無理ではない。運命はつらく、そのいつもの無茶なやり方で、さらにいっそう辛く、ジョアンに当たることにしたらしい。かくして、はなはだ矛盾したことだが、たっぷり涙のおしめりを受けた大地は、そのためにかえって情熱の種が播《ま》けなくなってしまったというようなことになった。一口に言えば、さすがに雄々しいイギリス魂を持つ娘にも、とても耐えきれまいというほどの辛さだった。そして、こうしたことは、すべて、アラン・シェニー青年の失踪《しっそう》が、そのきっかけをなしたのである。
最初、警視が部下をひきつれて、ハルキス邸にのり込み、犠牲者どもを次々にひき立ててくるように命令した時には、アラン・シェニーのいないことなど、大して注意もしなかった。警視は、ひとりひとりの反応を観察するのに気をとられすぎていた。ベルは――いまや重要人物として目をかがやかせていた。――警視の椅子のそばに立ち、法の正義を絵にしたように、しゃちこばっていた。犠牲者どもは、ひとりずつ列をなして来た。――ギルバート・スローン、私設ハルキス画廊の有能理事ネーシオ・スイザ、スローン夫人、デミー、ヴリーランド夫妻、ワーディス医師、ジョアンというふうに。ウッドラフは少し遅れて来た。執事ウィーキスと家政婦シムズ夫人は、警視からできるだけはなれた壁ぎわに立っていた。……そして、ひとりはいって来るたびに、ベルは鋭い小さな目を細めたり、しきりに両手をもじもじさせたり、唇を烈しくふるわせたり、いくどもしかつめらしく首を振ったり、まるで復讐《ふくしゅう》の女神の息子のように気負い立った。だれひとり口をきかなかった。犠牲者どもは、みんたベルをじろりと見て――目をそらした。
警視がいまいましそうに舌打ちした。「さあ、みんな腰をおろして。さて、ベル君、君が見て、この室内に、九月三十日木曜日の夜、ベネディクト・ホテルに、アルバート・グリムショーを訪ねて行った者がいるかね」
だれかが、ぐっと、のどを鳴らした。警視は蛇《へび》のようにすばやく、音のした方を向いたが、のどを鳴らした者は、すぐ自分を取りもどしていた。ある者は無関心に、ある者はもの好きそうに、ある者は面倒くさそうにしていた。
ベルは絶好の機会とばかり、背にまわした手をかるくたたきながら、腰かけている連中の前を、ゆっくりと歩きまわり、念には念を入れて一同をじっくり見ていた。そして、最後に、意気揚々と、ギルバート・スローンの――にやけ面を指さした。
「ここにひとりいます」と、ベルがきっばり言った。
「そうか」と、警視は、かぎたばこを吸いこんだ。いまは、すっかり落付きをとりもどしていた。
「そんなことだろうと思ったよ。さて、ギルバート・スローン君、うそっぱちの尻尾《しっぽ》をおさえたぞ。君は昨日、アルバート・グリムショーの顔を、前には一度も見たことがないと言ったね。ところが、グリムショーが泊っていたホテルの夜勤番頭は、君が、殺される前日の夜、グリムショーを訪ねたひとだと証言しとる。それについて、何か言い分があるかね」
スローンは、土手の草むらに放り上げられた魚のように、弱々しく頭をうごかした。
「私は――」と、言いかけたが、声がのどにひっかかったので、ちょっと言葉を切り、非常に慎重に、咳払いした。「このひとが何を言っているのか、さっばりわかりませんよ、警視さん。きっと、何かの間違いで……」
「間違いかね、そうか」警視はちょっと考えていた。その目が皮肉そうに、ぱちぱちした。「まさか、君はブレットさんの真似をしようとするんじゃあるまいね、スローン君。ブレットさんも昨日同じように言ったのをおぼえとるだろう……」
スローンが、何か口ごもった時、ジョアンの頬が真赤にもえあがった。しかし、ジョアンは身動きもせずにすわったまま、前を見つめていた。
「ベル君、間違いかね、それともあの晩、このひとを見たのかね」
「たしかに見ましたよ、警視さん」と、ベルが「このひとです」
「どうかね、スローン君」
スローンは急に足を組み合わせて「そんなことって――いったい、ばかげてますよ。ぼくは、そんなこと何も知らないんだから」
クイーン警視が、にっこりとベルの方を向いた。「どっちの方だね、ベル君」
ベルは、とまどった顔で「このひとがどっちだったかはっきり覚えていません。でも、お客のうちのひとりなのは、たしかですよ。絶対たしかです」
「そらごらんなさい――」と、スローンが、言い募ろうとした。
「あとで聞くことにしよう、スローン君」警視が手でおしとどめた。
「次を、ベル君。ほかにだれか?」
ベルはまた狩り立てはじめた。そして、また胸をふくらませた。「そうですね」と言って「今度は誓ってもいいですよ」と、いきなり、かけ出して部屋を横ぎったので、ヴリーランド夫人が、小さな叫び声を立てた。「このひとです」と、ベルが大声で「この夫人でした」
ベルはデルフィーナ・スローン夫人を指さした。
「ふーん」警視が腕を組んだ。「さあ、スローンの奥さん。あんたも、われわれが何を言っとるのかわからん組でしょうね」夫人の白けた頬に、真赤な血が、ゆっくりひろがってきた。夫人は数回唇をなめた。「もちろん――そうですわ、警視さま。わかりませんわ」
「それに、あんたも、グリムショーを以前に一度も見たことはないと言ったんでしたな」
「見たことはございませんよ」と、荒々しく叫んだ。「見たことはございません」
警視は、ハルキス事件の証人たち全部のうそつきぶりに、哲学的解説でも加えるかのように、悲しそうに首を振った。「ほかにだれか? ベル」
「はい、警視」ベルは、ためらいも見せぬ足どりで部屋を横ぎり、ワーディス医師の肩をたたいた。「この紳士なら、どこででも見損いませんよ、警視。この茶色の濃いあごひげはたやすく忘れられるもんじゃないですからね」
警視は本当にびっくりしたらしい。そしてイギリス人の医者をまじまじと見つめた。すると医者の方でも警視を見つめた――その顔は全く無表情だった。
「どっちの方だった? ベル」
「一番最後に来たひとです」
「もちろん」と、ワーディス医師が冷たい声で「こんなことは、ばかげてると思うでしょうな、警視。まったくふざけてる。ぼくがアメリカの前科者などと関係があるはずはないじゃありませんか。それに、たとえ、その男を知っていたとしても、会いに行く理由があるとはおよそ考えられないでしょう」
「わしに訊かれるのかね、ワーディス先生」と、老警視がにやにやした。「わしの方が訊いとるんだよ。あんたは多くの人々に会う男――つまり職業柄、人の顔を覚えるように訓練されとる男から確認されたんですぞ。それに、ベルの言うとおり、あんたの顔は大して覚えにくい方じゃない。どうです? 先生」
ワーデイス医師はため息をした。「どうやら、警視、この顔が――そう、ぼくのこの毛深い顔の特異性が、有力な反駁《はんばく》の根拠になりそうですがね。いまいましいですよ、警視、ぼくのこのひげっ面のせいで、ひとがぼくに化けるのは、いともやさしいことだと、あなたも思われるでしょう」
「うまい」と、エラリーがつぶやいて、ペッパーに向かって「あの藪先生なかなか頭の回転が早いですね、ペッパーさん」
「少し早すぎるな」
「じつにうまいですな、先生、いや、まったくうまい」と、警視は感心したように言った。「しかも、おっしゃるとおりだ。よろしい、あんたの言葉を承認して、だれかがあんたに化けたのだということにしましょう。ところで、こうなったら、あんたにしてもらわねばならんことは、九月三十日の夜、あんたに化けた人間がいたと思われる時間の、あんたの行動を説明してもらうことだね。どうかね」
ワーディス医師は八の字をよせた。「先週の木曜日の晩は……そうだな」ちょっと考え込んでから、肩をすくめて「おお、こりゃ、警視、フェアープレイじゃないですね。一週間以上も前の日の、ある時間にぼくがどこにいたかを思い出させようなんて、無理じゃありませんか」
「そうかな、先週金曜日の夜どこにいたかを、あんたは覚えとった」と、警視がそっけなく浴せた。「そのことを、今、思い出したんだがね。だが、あんたの記憶が、ぼやけるということも、こりゃありうる……」
その時ジョアンが何か言ったので警視は、そっちを向き、みんなもジョアンを見つめた。ジョアンは椅子の端に腰かけたまま、何か思いつめたようにほほえんでいた。
「先生」と、ジョアンが言った。「あなたは本当に思いやりのある紳士でいらっしゃいますのね。それとも……そうそう、昨日は立派な騎士的な態度でヴリーランド夫人をおかばいになりましたわ。――そして今度は、あわれな私の色あせた体面を守ってやろうとしていらっしゃるんですのね。それとも、本当にお忘れになったんですか」
「おお、そうだ」と、ワーディス医師が、すぐに叫んで、茶色の目を輝かせ「ばかな――なんてばかなんだろうな、ぼくは、ジョアン。ねえ、警視――人間の頭なんて、じつに妙なもんですね、えっ?――そうだ、ぼくは先週木曜日の晩、その時間にはブレットさんと一緒にいたんですよ」
「あんたたちが」警視は目をゆっくりと医師からジョアンに移して「そりゃ結構」
「ええ」と、すぐジョアンが言った。「あれは、グリムショーさんが女中に案内されて邸にはいるのを見てからでした。私が部屋に帰ると間もなく、ワーディス先生がドアをたたいて、町に出てどこかで遊ばないかとおっしゃったのです……」
「そのとおり」と、イギリス人がつぶやいた。「それでぼくたちはすぐに邸を出て、五十七番街のカフェーなどをぶらついて――店ははっきり思い出せないが――まったく楽しいひと晩でしたよ。邸にもどったのは真夜中だったと思うが、そうでしたね、ジョアンさん」
「そうでしたわ、先生」
老警視がにがりきって「結構、結構……どうかね、ベル、これでも、あそこに腰かけているひとを、最後にグリムショーを訪ねて来た人物だと思うかね」
ベルは頑固に言いはった。「あのひとだと思います」
ワーディス医師がくすくす笑った。警視はすっくと立ち上がった。それまでの上機嫌がすっかり消えていた。「ベル」と、どなりつけるように「それで三人の目星がついた――そういうのを『目星』というんだ――スローン、スローン夫人、ワーディス医師。その他の二人の方はどうだ? どっちかがここにいないか?」
ベルが頭を振った。「ここにすわっている紳士方の中には、たしかに、どっちのひともいませんよ、警視さん。その二人のうちのひとりはとても大きなひとで――巨人といってもいいほどでした。髪が白くなりかけで、よく日灼《ひや》けしたみたいな赤ら顔で、アイルランドなまりの話し方でした。今になっては、そのひとが、この夫人とあの紳士の間に来たのか」と、スローン夫人とワーディス医師を指さしながら――「それとも初めに来た二人の中のひとりだったか、よく思い出せません」
「大男のアイルランド人なのか」と、警視がつぶやくように「畜生、そいつは、一体、どこからまぎれ込んだんだ? 今までのところ、この事件ではそんな人相の奴にぶつかってはおらんがな。……じゃ、それまでだ、ベル。つまりこういうことになるな。グリムショーが男を――顔までかくした男をつれてはいって来た。それから次にスローン夫人が来た。次にまた他の男が、その次にワーディス先生が来た。残りの三人のうちの二人が、ここにいるスローンさんと大男のアイルランド人というわけだ。三人目の男はどんなだった? ここにいるだれかが、それに似ておらんか」
「何とも申せません」と、ベルは残念そうに「すっかりこんぐらかっちゃって。顔を包んでいたのはこのスローンさんかもしれませんし、もうひとりのひと――ここにいないひと――後から来たひとかもしれません。私――私は――……」
「ベル」と、警視がどなりつけた。ベルがとび上がった。「そんな言い方ではすまんぞ。はっきり言えんのか」
「私は――さよう、何とも、はっきりとは申せません」
警視はいまいましそうにあたりを見まわして、その老練な鋭い目で一同の顔色を読んでいた。ベルが思い出せないという人相の男に該当するだれかがこの部屋にいるはずだとさがしているのは明らかだった。やがて、警視の目に荒々しい光がとび込むと、いきなりどなり出した。
「畜生め! だれかが欠けとると思った。そんな気がしとった。シェニーだ。シェニーの若造はどこにおる?」一同はぽかんとして目を見張った。
「トマス、表のドアを見張っていたのはだれだ」
ヴェリーがしおしおと進み出て、ごく低い声で「フリントです、――クイーン警視殿」
エラリーは、急いで笑いをおさえた。この白髪まじりのベテラン刑事が、老人を正式な肩書きで呼ぶのをきくのは、これが初めてだった。ヴェリーはすっかり恐縮して、おどおどしていた。
「連れて来い」
ヴェリーがすぐとび出して行ったので、まだ細いのどの奥でうなっていた警視も、いくぶん態度をやわらげた。やがて、ヴェリーはちぢみ上がっているフリントを連れて来た。――フリント刑事は部長と同じぐらいたくましい男だが、その時は部長と同じように恐縮しきっていた。
「おい、フリント」と、警視はけわしい声で「さあはいれ、はいって来い」
フリントはおずおずと「はい警視、はい」
「フリント。アラン・シェニーが邸を出て行くのを見たか」
フリントはふるえ声をつまらせて「はい、警視、はい」
「いつだ」
「昨夜です、警視。十一時十五分でした、警視」
「どこへ行った?」
「クラブヘ行くとかなんとか言っとりました」
警視が静かに訊いた。「スローンさん。息子さんは、どこかのクラブにはいっとるのかね」
デルフィーナ・スローンは指を組み合わせていたが、悲しげな目で「それが――いいえ警視さま、いいえ。私には分かりませんわ――」
「何時に帰って来たんだ、フリント」
「あの男は――帰って来ませんでした、警視」
「帰って来なかった?」警視の声は非常に静かになった。「なぜそのことをヴェリー部長に報告しなかったんだ?」
フリントは目を白黒させた。「私は――ちょうど報告しようとしていたところでした。警視。私は昨夜十一時に来まして――あと一、二分で交代することになっていました。それから、報告に行くつもりでした、警視。あの男はどこかで遊びまわっていることだろうと思っていたのです。それに、警視、荷物も何も持っていかなかったものですから……」
「外で待っておれ。後からゆっくり訊く」と、老警視は相変らず、凄みをおびたおだやかな声で言った。フリントは死の宣告をうけた者のようにしおしおと出て行った。
ヴェリー部長の真青なあごがふるえた。そして低い声で言った。「フリントの手落ちではありません、クイーン警視殿。私の手落ちです。ひとり残らず狩り集めろというご命令でした。私が自分でやればよかったのです。――そうすればもっと早くに気がつくはずでした。……」
「黙っとれ、トマス。スローン夫人、息子さんは銀行に口座を持っとるかね」
夫人はふるえていた。「はい、ございますわ、警視さま。マーカンタイル・ナショナル銀行ですわ」
「トマス! マーカンタイル・ナショナルに電話をかけて、アラン・シェニーが今朝金を引き出したかどうか、訊いてみろ」
机のそばに行くには、ヴェリー部長は、どうしてもジョアン・ブレットのわきをすり抜けなければならなかった。部長は、ごめんと低く声をかけたが、ジョアンは動こうともしなかった。それに、自分の失策にしょげ返っているヴェリー部長でさえどきりとするほど、ジョアンの目には絶望と恐怖の色が溢れていた。ジョアンは両手をひざの上で握りしめて、ほとんど息もしていなかった。ヴェリーはしばらく大きなあごを掻いていたが、ジョアンの椅子をぐるっとまわって行った。そして、電話をとりあげながらも、じっとジョアンの様子を見つめていた――その目はいつもの険しさだった。
「心当たりがないかね」と、警視がスローンにぴしりと言った。「息子さんがどこにいるか?」
「存じません。私は――まさか、あなたは――」
「あんたはどうかね、奥さん。息子さんは、昨夜、出かける前に何か言わなかったかね」
「いいえ、ひと言も。私にはさっぱり――」
「どうだった? トマス」と、老警視が気短かに訊いた。「返答は?」
「今きいています」ヴェリーは手短かにだれかと話し、いくども重々しくうなずいてから、やがて受話器をもどした。そして、両手をポケットに突っ込んでおだやかに言った。「ずらかっちゃいました、警視。今朝九時に、預金を全部引き出してます」
「そいつは」と、警視が言った。デルフィーナ・スローンは椅子からとび出しかけて、ためらい、あたりをきょときょと見まわしていたが、夫のギルバート・スローンが腕に手をかけたので、また腰を下ろした。
「くわしいことがわかったか」
「預金は四千二百ドルありました。全部引き出して、金は小額紙幣で受けとってます。新しい小型のスーツケースに入れて行ったそうです。わけは何も言わなかったそうです」
警視はドアのところへ行き「ヘイグストローム」と呼んだ。スカンジナビア系の顔をしたひとりの刑事が急ぎ足で来た。――いかにも、きびきびと張り切っていた。
「アラン・シェニーが逃亡した。今朝九時に、マーカンタイル・ナショナル銀行から四千二百ドル引き出しとる。見つけ出せ。手始めに、奴が昨夜いたところを洗い出すんだ。令状をとって持って行け。足どりを洗うんだ。だれかに手伝わせろ。国外逃亡を企てるかもしれん。追っかけるんだ、ヘイグストローム」ヘイグストロームは姿を消した。ヴェリーもすばやくあとを追った。警視は、また一同の方に向き直った。今度は情け容赦のない目付きで、じろっとジョアン・ブレットを見据えた。
「あんたは今までのところ、ほとんどあらゆることに関係があったね、ブレットさん。シェニー青年の逃亡について、何か心当たりはないかね」
「何もございませんわ、警視さま」ジョアンの声は低かった。
「そうかね――だれかほかに知っとる人はおらんかね」と、老警視が毒々しく「どうして逃亡したか。何が背後にあるのか」
矢つぎ早の質問。錐《きり》のような言葉。内出血する隠れた傷……そして一刻一刻がきざまれていった。
デルフィーナ・スローンはすすり泣いていた。「たしかに――警視さま――まさか――そんなことはお考えじゃないでしょう……うちのアランは、まだ子供です、警視さま。おお、まさかあの子が。……間違いですわ、警視さま。何かの間違いです」
「もう言いたいだけ言ったでしょう、奥さん」と、警視が薄気味悪くにやりとした。そしてくるりと振り向いた。――戸口に、ヴェリー部長が、ネメシス〔復讐の女神〕のように立っていた。
「どうした。トマス」
ヴェリーが巨《おお》きな手をのばした。その手に小さなノート・ぺーパーが一枚あった。警視がそれをひったくるように取った。「何だ、これは」エラリーとペッパーが、すぐ歩みよって、三人でその紙に二、三行走り書きしてある字を読んだ。警視がヴェリーに目配せすると、ヴェリーがのっそりと歩き出して、四人は片隅に行った。老警視が何かひと言だけ訊き、ヴェリーが簡潔に答えた。それから四人は部屋の中央にもどって来た。
「君らに読んできかせたいものがある、諸君」
一同は緊張して、かたずをのんで、ひざをのり出した。
「ここに持っておる手紙をヴェリー部長がこの邸の中から今さがし出してきた。アラン・シェニーのサインがしてある」と、警視は言って、その紙片を持ち上げて、一字ずつ、はっきりと、ゆっくり読み始めた。
「文面はこうだ。『ぼくは出て行くつもりです。おそらくは永久に。目下の情況では――おお、何の役に立ちましょう。何もかもこんがらがっていて、言うべき言葉もありません……さよなら。こんなものは全然書くべきではなかったかもしれません。あなたにとって危険です。どうか――あなた自身のために――これを焼きすてて下さい。アラン』」
スローン夫人が椅子から立ちかけた。真青な顔で、ひと声叫び、失神した。くなくなと前にのめりかかる妻をスローンが抱きとめた。室内が騒然とした。――口々に叫び、口々にわめいた。警視は猫のように静かに、冷然としてその騒ぎを見守っていた。やがて、一同はやっと夫人を正気づかせた。すると警視は夫人に近づき、まことにさりげなく、その涙にくれた目の下に紙片をつきつけた。「これはあんたの息子さんの手跡かね、奥さん」
夫人の口は、いやらしいほどあんぐり開いていた。「そうです。かわいそうな、アラン。かわいそうに、アラン。そうです」
警視の声が、いやにはっきり聞こえた。「ヴェリー部長、これをどこで見つけた?」
ヴェリーがうなるような声で「二階の寝室のひとつからです。マットレスの下に突っこんでありました」
「そりゃ、だれの寝室だった?」
「ブレットさんのです」
もうたくさんだった。――だれにとっても、もうたくさんだった。
ジョアンは目をとじて、みんなのとがめるような視線や、口に出さない非難や、警視の得意げな無表情な顔を見ないようにした。「どうかね、ブレットさん」警視が言ったのは、それだけだった。
やがてジョアンが目をあけた。その目に涙があふれていた。「私が――今朝その手紙を見つけたのです。ドアの下にさし込んであったのです」
「なぜすぐに言わなかったのかね」ジョアンの返事はなかった。「なぜ、シェニーの失踪がわかった時に、その手紙のことをわしに告げなかったのかね」沈黙がつづいた。
「もっと重要な点は――アラン・シェニーがその手紙の中で『あなたにとって危険です』と書いておる点だ。どういう意味かね」
この時、女性のデリケートな肉体の解剖学的な属性である水門がさっとひらいて、ジョアン・ブレット嬢は、あっというまに、真珠の涙というやつに溶けこんでしまった。ジョアンはすわったまま、身をふるわせてすすり泣き、せぐりあげ、むせび泣いた――十月の朝日の輝くマンハッタンの雰囲気の中で、かぎりなくわびしい若い娘の姿だった。あまりにもいたましい光景だったので、ほかの者はみんな当惑してしまった。
家政婦のシムズ夫人は、思わずにじり出たが、しょんぼりと思いとどまった。ワーディス医師は、瞬間、かっとしたらしく、警視を睨みつけるその目に、どす黒い怒りの色がひらめいた。エラリーも賛成できないというふうに首を振った。しかし警視だけはそんなことには動かされなかった。
「どうかね、ブレットさん」
それに答えるかのように、ジョアンは椅子からとび出し、片手で目を覆って、一同を見ないようにしながら、無我夢中で部屋を駆け去った。どたどたと階段を走り上がる足音だけが聞こえた。
「ヴェリー部長」と、警視が冷たく言った。「今後、ブレット嬢の行動を逐一監視するんだ」
エラリーが父親の腕にさわった。老警視は息子の方をちらっと見た。エラリーが他に聞こえないように小さな声で言った。「お父さん、あなたは、尊敬と崇拝を受けていて、おそらく世界一、有能な警官でしょうが――しかし、心理学者とは言えませんね……」エラリーは、淋しそうに頭をふった。
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十五 MAZE……迷宮入り
さて、事の次第を眺めるに、十月九日までのエラリー・クイーン君は、ハルキス事件の外側をまわり歩いていた生霊にすぎなかったが、あの記念すべき土曜日の午後からは、持って生まれた楝金術的な心の化学作用によって、問題の核心にとびこんだ。――もはや傍観者ではなく、原動力になったのだ。
乗り出す時は熟していた。舞台は間然するところなくととのっていて、エラリーはスポット・ライトの中におどり出したい誘惑を抑えることができなかった。
ここで覚えておかなければならないのは、この時のエラリーは、今までのおなじみのエラリーよりも、ずっと若いエラリー――つまり大学生にありがちな、のほうずもない自我意識のまだ抜け切れないエラリーだったことである。人生は楽しく、解くべき難問があり、自信をもって分け入るむずかしい迷路があり、その上、劇的な味つけをするならば、鼻っ柱を折る相手として不足のない上玉《じょうだま》の地方検事殿がいるというわけなのだ。
その後じつに多くの驚くべき出来事の発端も同じ場所だったが、この出来事もその発端は、センター街の神聖なクイーン警視の部屋で、幕を切っておとした。サンプスン検事が疑い深い虎のようにたけり立っていたし、ペッパーがすっかり考え込んでいたし、警視がどっかと椅子にすわり込んで灰色の老眼をもえ上がらせ、巾着のように口をくいしばっていた。だれだってのり出して見たくなるのも無理はない。しかも、折も折とて、サンプスン検事が彼一流のやり方で、がむしゃらに事件の総まとめをしているところへ、クイーン警視の秘書が駆け込んで来て、興奮で息をはずませながら、ジェームス・J・ノックス、あのジェームス・J・ノックス氏――だれにとっても一財産以上の大財産の持ち主――銀行家ノックス、ウォール街の王者ノックス、大統領の友ノックス氏が、リチャード・クイーン警視に面会を求めて、外に来ておられると、取り次いだのだから、たまらない。それでもなお、エラリーの気持を抑えようとすることは、人間わざではできない相談だった。
ノックスは本当に伝説的人物で、その大財産と、それに付随する権力を使って、世間の目をそばだたしめるよりも、むしろ目につかないようにしていた。だから、世間で知っているのはその人物ではなくて、その名声だけだった。
したがって、その当のノックス氏が部屋に案内されて来た時、クイーン親子、サンプスン、ペッパーが、まるでひとりの人間ででもあるかのように、さっと立ち上がって、厳密な民主主義の慣例が要請する以上の敬意と狼狽《ろうばい》ぶりを示したのも、人情のしからしむるところだった。大人物は面倒くさそうに握手して、すすめられる前に腰を下ろした。当のノックス氏はひからびた巨人の抜けがらみたいだった――当時六十歳ぐらいで、見るからに、その伝説的な体力も干上がっていた。髪も眉も口ひげも真白で、口のしまりも少しゆるんでいたが、その冷たい灰色の目だけは若々しかった。
「会議中かね」と、ノックスが訊《き》いた。その声は思いもかけずやさしく――ゆっくりとしてためらうような、見かけによらないものだった。
「ええ――はい、そうです」と、サンプスンがあわてて言った。「ハルキス事件を打ち合わせていました。非常に悲しむべき事件でして、ノックスさん」
「そうだね」ノックスはまともに警視を見据えて「捜査情況は?」
「少しは進んでいます」と、クイーン警視はしょんぼりして「じつに錯綜《さくそう》していまして。ノックスさん。多くの糸口がまだとけておりません。まだ光明が見えたとは申しかねます」
絶好のチャンスだった。おそらくまだ若いエラリーがその白昼夢に描いていたであろうチャンス――つまり、途方にくれている法の代表者と、大権威者を前にしてものを言うチャンスとばかり、……「ご謙遜ですね、お父さん」と、エラリーが言った。さしあたりそれ以上は言わなかった。そして、ただ、やさしい不満そうな口ぶりと、少し不服そうな身ぶりと、はっきり意識しての薄笑いを示した。「ご謙遜ですね、お父さん」あたかもそれだけで何を言おうとしているのかが、警視にはわかってもらえると言わんばかりだった。
クイーン警視は、全くひっそりとすわっていたし、サンプスンははっとして口をあけた。大人物は鋭くもの問いたげな視線をエラリーから父親の方へ移した。ペッパーは驚いて口をあけて見守っていた。
「あのね、ノックスさん」と、エラリーは同じようないんぎんな調子で――おお、じつにうまいと、ひそかに考えながら「あのね、ノックスさん。全体からみれば、まだつまらない点が二、三整理されていませんが、父は事件の本体をすでにしっかりつかんでいることを言い忘れているのです」
「どうもよくわからんが」と、ノックスは元気づけるように言った。
「エラリー」と、警視が、ふるえ声で言いかけた。……
「明白だと思いますがね、ノックスさん」と、エラリーは妙にしょげた様子で、こりゃ、とんだはめになったと、ひそかに思った。「事件は解決です」
エゴイストどもは、こんな瞬間を、流れてやまぬ水車|溝《こう》のような時の流れの中から、つかみ出して、そのみごとな結果をみのらせるのである。エラリーはみごとだった――まるで、試験管の中でおこる予期していた目新しい反応を観察する科学者のように、警視、サンプスン、ペッパーの顔色が変るのをじっと見守っていた。
もちろん、ノックスには、そういう裏の芝居は読めなかった。ただ興味をひかれた。
「グリムショー殺害の犯人は――」と、地方検事が、言葉をとぎらせた。
「何者かね、クイーン君」と、ノックスがおだやかに訊いた。エラリーはため息をして、答える前にたばこに火をつけた。急いでけりをつけてはものにならない。最後の貴重な瞬間まで、大事にしておかなければならない。しばらくおいて、エラリーは、たばこの煙を通して、大事そうに言葉を洩らした。「ゲオルグ・ハルキスです」
ずっと後になってサンプスン地方検事が白状したが、もしこの劇的な瞬間にジェームス・J・ノックスがその場に居合わせなかったら、検事は警視の卓上電話をひっつかんでエラリーの頭にたたきつけたろうということだ。検事はエラリーの言葉を信じなかった。とうてい信じることができなかった。死んでいる男が――その上、死ぬまで盲目だった男が――殺人犯人だなんて! まるっきり信憑性《しんぴょうせい》の法則に反する。それどころか――道化者のひとりよがりの妄想だし、のぼせあがった頭から生まれたキマイラ〔頭が獅子で胴が羊、尾が竜の怪獣〕だ。しかも……サンプスンがてっきりそうだと思いこんだ理由を、おしらせしておく必要がある。
ともかく、『御前』をはばかって、サンプスンは椅子の中でもじもじし、苦い顔をしながら、すでに頭の中では、全くとほうもないこの言明を、何とか、とりつくろおうと、懸命にたたかっていた。
まずノックスが口を開いた。というのはノックスには感情を静める必要がなかったのだ。エラリーの言明には、さすがに目を白黒したが、すぐにおだやかな声で言った。「ハルキスがねえ……こりゃ、おどろいたな」
やがて警視も口がきけるようになった。
「私の考えでは……」と、言って、赤い唇をぺろっとなめて「私の考えでは、ひとつ、ノックス氏に説明していただこうじゃないか――え、エラリー」口と目とはちがっていた。目は怒りにもえていた。エラリーはすっと立ち上がって「たしかにそうですね」と、熱心に言った。「なにしろノックスさんはこの事件に個人的な関係をもっておられるのですから」
エラリーは警視の椅子のふちに腰かけて「本当にこの事件は一風変っています」と、言った。「じつに暗示的な二、三の点があります。ひとつ聞いて下さい。おもな手がかりは二つです。そのひとつは、ゲオルグ・ハルキスが心臓麻痺で倒れた朝、締めていたネクタイに関するものです。もうひとつは、ハルキスの書斎にあった湯わかしと茶碗に関するものです」
ノックスがちょっとあきれた顔をした。エラリーが言った。「失礼いたしました、ノックスさん。むろん、あなたは、これらの品についてご存知ないですね」それから捜査途上で判明した諸事実の概略をかいつまんで話した。すると、ノックスがわかったというふうに、うなずいたので、エラリーは話をつづけた。
「では、ハルキスのネクタイの件について、われわれが突き止めえたことを説明しましょう」
エラリーは気をつけて、われわれと言うようにした。意地の悪い人々からは疑問視されてはいたが、エラリーは一家意識の強い人間だった。
「一週間前の土曜日の朝、つまりハルキスが死んだ朝、ハルキスの白痴の側使《そばづかい》デミーが、その証言によれば、予定表とおり、従兄の衣類を揃えたそうです。したがってハルキスはいつもの土曜日の予定表できまっているとおりの衣類を身に着けていたものと想定されます。そこで土曜日の予定表を調べてみると、どんなことがわかるでしょうか。ほかの品はさておいて、当然、ハルキスはみどり色の波形模様のネクタイを締めていなければならないはずなのです。
そこまでは、まずよろしい。ところで、デミーは、従兄の朝の着換えを手伝い、つまり少なくとも予定表の衣類を揃えてから、九時に家を出ています。それから十五分経って、その間にハルキスは完全に着換えをすませて、書斎にひとりでいました。九時十五分に、ギルバート・スローンが、その日の仕事の予定を打ち合わせるために、書斎にはいって行きました。ここで、われわれにわかったものは何でしょう。われわれはスローンの証言によって――むろん重要視するものではありませんが、証言は証言ですからね――九時十五分にハルキスは赤いネクタイを締めていたということがわかったのです」
エラリーは一同の耳をひきつけていた。その得意ぶりは、したり気な笑い方でもわかった。
「面白い事態じゃありませんか。さて、もしデミーが真実をのべているのなら、われわれは説則を要する奇妙な食いちがいに当面するわけです。もし、デミーの言うことが本当なら――あの男の精神状態が勘ちがいを避けえたとすれば――デミーが家を出た九時にはハルキスは当然、予定表どおりに、みどり色のネクタイをしめていたはずです。
では、この食いちがいを、どう説明したらいいでしょうか。まず、無理のない説明は、こういうことになるでしょう。つまり、ハルキスはひとりでいた十五分の間に、おそらくわれわれには永遠につかめない何らかの理由で、寝室へ行ってネクタイを取り換えて、デミーがよこしたみどり色のネクタイをやめにして、寝室の衣裳|戸棚《とだな》のネクタイかけにかかっていた赤いのにしたのです。
ところが、われわれはまた、スローンの証言によって、あの朝の九時十五分がまわった頃、当人がハルキスと打ち合わせ中、ハルキスが締めているネクタイをいじりながら――赤いネクタイだったのを、スローンは部屋にはいってすぐ気がついていたそうです――その言葉どおりに言えば『出かける前に忘れないように注意してくれ、バレットの店に電話して、今しているのと同じネクタイの新しいのを注文したい』と言ったことがわかっています」
エラリーはきらきらと目を光らせた。
「語気を強めたところはぼくがかってにやったのです。もう少し観察してみましょう。そのずっと後で、ブレットさんがハルキスの書斎を出ようとした時、ハルキスが出入りの洋品屋、バレットの店の電話番号を申し込むのを耳にしています。バレットの店では、これはあとで調査確認されていることですが――ハルキスの電話を受けた番頭の証言によりますと――ハルキスの注文どおりの品を送っています。ところで、ハルキスが注文したのは何だったか。明らかに、店から配達された品物がそれです。では、配達された品は何だったか。まさに六本の赤いネクタイだったのです」
エラリーはのり出すようにして、どんと机をたたいた。
「今までのところをまとめてみると、ハルキスは自分が締めていたのと同じネクタイを注文すると言い、赤いネクタイを注文したのだから、自分が赤いネクタイを締めているのを知っていたにちがいないということになります。かんじんな点ですよ。つまりハルキスはスローンと打ち合わせしていた時に、自分の締めていたネクタイの色を知っていたことになるのです。
しかし、盲目であるハルキスに、土曜日に予定されていたのと違う色が、どうしてわかったのでしょう。だれかに色を教えられたのかもしれません。だが、だれに? あの朝、ハルキスがバレットの店に電話する前に会った人間は、たった三人です――予定表どおりに着付けを手伝ったデミーと、ネクタイの話はしたが色についてはひと言も言わなかったスローンと、あの朝の挨拶《あいさつ》でネクタイのことにはふれたが、これまた色のことは何も言わなかったブレット嬢です。
言いかえれば、ハルキスは取り換えたネクタイの色については、だれにも教わらなかったのです。してみると、ハルキスが自分の手で、予定されていたみどり色のネクタイを取り換えて、あとから赤いネクタイをつけたのは、単なる偶然だったのでしょうか。――ハルキスがネクタイかけから赤いネクタイを取りあげたのは単なる偶然だったのでしょうか。そうです、それもありうることです。――衣裳戸棚のネクタイかけにかかっていたネクタイは色の順にならべてはなかったのですからね――色はごちゃまぜにかけてあったのです。しかし、ハルキスが赤いネクタイをとりあげたのが偶然であろうとなかろうと――あとからの行動が証明しているように――ハルキスは、赤いネクタイを取りあげたことを自分で知っていたという事実を、どう説明したらいいでしょう」
エラリーは卓上の灰皿の底に、ゆっくりと吸いさしをこすりつけた。
「みなさん、ハルキスが赤いネクタイをつけていることを自分で知りうる方法はただひとつしかないのです。つまり――ハルキスは色を見分けることができた――目が見えていたのです。
だが盲目《めくら》だったと、あなた方は言われるでしょうね。そこにぼくの最初の一連の推理の要《かなめ》があるのです。というのは、フロスト先生が証言し、ワーディス先生が裏書きされるとおり、ゲオルグ・ハルキスの失明は、特種な型のもので、いつ、自然に視力がもどるものかもしれなかったのです。すると、どういうことになるでしょうか。つまり、少なくとも先週土曜日の朝は、ゲオルグ・ハルキスは、私たちと同様に、もはや、盲目ではなかったということになるのです」と、エラリーが微笑した。
「すると、すぐいろんな疑問がわきます。もしハルキスが、実際に失明していた期間のあとで、急に見えるようになったのなら、なぜ、大喜びで家族の者にそのことを報らせなかったのか。――妹のスローンや、デミーや、ジョアン・ブレットに。なぜ、医者に電話で報らせなかったのか――実際、そのとき邸に滞在していた眼科の専門医ワーディス先生に、なぜ報らせなかったのでしょう。それには心理的な理由がただひとつ考えられます。つまり、また見えるようになったことを、ひとに知られたくなかったのです。相変らず盲目だと思い込ませておく方が、ハルキス自身のなんらかの目的を達するのには都合がよかったのでしょう。すると、その目的は一体何だったのでしょう」
エラリーは言葉を切って、深く息を吸った。ノックスはひとひざのり出して、けわしい目をまばたきもせず、他の連中は神経を集中して硬くなっていた。
「その問題はしばらくおくとして」と、エラリーが落着いた口調で「次に湯わかしと茶碗の手がかりに移りましょう。
まず、外面的な証拠から見てみます。小卓の上で発見された茶道具は、明らかに三人の人物が、お茶を飲んだことを示していました。疑う余地はありません。三つの茶碗には、かわいた茶のかすと、ふちの内側のすぐ下についている丸い茶のしみという、普通にみられる使用後のしるしがついていました。また、三つのかわいた茶袋が証拠品としてあり、新しい湯につけてみると、ごく薄い茶しか出ませんでしたから、それらの茶袋が実際に茶を出すのに使われたものであることを証明しています。それに、しぼられてかわいたレモンが三切れあり、使ったことを示すくもりのかかった銀のさじも三本ありました。――というわけで、あらゆるものが、三人でお茶を飲んだことを示しています。
その上、この事実がたしかであることは、すでにわれわれが知っていたのです。つまり、ハルキスは金曜日の晩に、お客が二人あるはずだと、ジョアン・ブレット嬢に話していましたし、その二人の客は来て、書斎にはいったのを見られています。――すると、この二人とハルキスとで三人になるわけです。これまた――外面的の確証です。
しかしながら――そして、この『しかしながら』は、きわめて重要なものなんですよ、皆さん――」と、エラリーはにやりと笑って「というのは、以上の証拠がいかに外面的なものであったかは、われわれが湯わかしの中をのぞいてみた時、すぐに判明したからです。
一体、何を見たと思いますか。ずばりと言って、その湯わかしには水が多すぎたのです。われわれは水が多すぎるという推測を実験してみることにしました。その湯わかしから水を出してみると五杯の茶碗がいっぱいになりました。――正確には、五杯目の茶碗は口きりにはなりませんでした。それは、あとで化学分析をしてみるために、前もって残り水の見本を少し小びんにとり出しておいたからです。ともかく、残り水は五杯分ありました。次に、湯わかしに新しい水をいっぱい入れて、それをすっかり空になるまでついでみると、正確に茶碗六杯分ありました。つまり六人用の湯わかしだということです――しかも残り水は五杯分だったのです。
もしも、すべての外面的な証拠が示すとおりに、ハルキスと二人の客が三杯のお茶を入れたとすると、どうしてこんなことがありえましょうか。われわれの実験では、ただ一杯分だけが湯わかしから減っていて、減った水は三杯分ではなかったのです。このことは三人が、各自三分の一杯ずつの湯を使ったことを意味するのでしょうか。そんなことはありえません――三つの茶碗のふちの内側には輪になった茶のしみがついていて、どの茶碗もいっぱい注いだことを示していました。それでは、実際に湯わかしからは三杯分の湯がくみ出されたのに、あとからだれかが水を注ぎ足して、減った湯の二杯分だけを埋め合わせておいたか。しかし、そういうことはありえません。――というのは、小びん一杯の残り水を分析して、簡単な化学実験で、湯わかしの中には新しい水が加えられていないことが判明したのです。
すると結論はただひとつです。つまり、湯わかしの中の水は本ものだが、三つの茶碗に見られる証拠は本ものではないということです。だれかが、わざとお茶の道具――茶碗、さじ、レモン――を細工して、三人の人間がお茶をのんだように見せかけたのです。ところが、だれであれ、お茶の道具を細工した人間は、ただひとつの誤りを犯しました。――湯わかしから、それぞれの茶碗に三杯の湯を別々に注ぐかわりに、一杯分の湯を順々に使って済ませたのです。しかし、なぜ三人でお茶を飲んだようにみせかけるためにそんな手数をかけたのでしょうか。三人の人間がいたことは――二人の客と、ハルキスが客が来ると言ったことで、すでにみんなには三人だということがわかっていたのに。そんなことをした理由はただひとつ考えられます。――つまり、三人いたことを強調したかったのでしょう。しかし、もし三人の人間がいたのなら、なぜその事実を強調しなければならなかったのでしょうか。そのわけは、一見妙に思えるでしょうが、三人いなかったからにちがいありません」
エラリーは熱っぽくきらきらする勝利の目で一同を見守った。だれかが――エラリーはそれがサンプスンだったので痛快だったが――感心したようにため息をついた。ペッパーはエラリーの議論にひどく感動していたし、警視はもの悲しそうに、うなずいていた。ジェームス・ノックスがあごをなではじめた。
「いいですか」と、エラリーが口演口調で「もし三人いて、みんながお茶を飲んだとすれば、湯わかしからは、当然、三杯分のお湯が減っていなければならないはずです。さてここで、だれもお茶を飲まなかったと仮定してみましょう。――なにしろ、アメリカ禁酒法時代の今日ですから、そんな軽い飲物はごめんだと、お断わりになる方も、時々見受けますが、そりゃそれで結構、ちっともかまいませんよ。それなら、三人がみんなお茶を飲んだように見せかけるために、なぜ、こんな七面倒な手間をかけたのか。重ねて申しますが、その理由は、一週間前の金曜日の晩、書斎には三人の人間がいたということ、すでに承認されているその事実を、ハルキス自身が、さらに念を押しておきたかったからにすぎないのです。この点に留意して下さい。――つまり、その夜、グリムショーは殺されたのです」
エラリーはたたみ込むようにつづけた。
「ここで、われわれは興味ある問題にぶつかることになります。いたのが三人でなかったら、何人いたのか。さよう、三人以上いたかもしれません。四人、五人、六人、いくたりでも人に見られずに書斎にすべりこめたでしょうね。ジョアン・ブレットさんがお客を二人案内したあと、二階に上がってかわいいアランをベッドに押し込んでいたのですからね。しかし、いまわれわれがつくしうる手段をもってしては、その人数を定めることはできません。三人以上いたという理論をたててみてもどうにもなりません。ところが、もしいたのが三人以下だったという理論を検討してみると、非常に面白い線が出て来るのです。
書斎に二人の客がはいったのは実際に見た者がいるのだから、ひとりだったはずはありません。しかし、どっちみち、三人でなかったことは前に述べたとおりです。すると、第二の理論――三人以下だとする理論――に代わるべきものはただひとつということになります。――つまり、二人だったにちがいないということです。
もし二人だったとすれば、どんな困難がわれわれを待ちうけているでしょうか。そのひとりがアルバート・グリムショーであったことはわかっています――グリムショーは人目にかかっているし、後から、ブレット嬢に確認されています。二人のうちのもうひとりが、ハルキス自身だったことは、おそらく間違いのないところです。すると、もしこの考え方が正しいものとすれば、グリムショーと一緒に邸にはいった男――顔をすっかり隠していたとブレット嬢が言う男――はハルキス自身だったにちがいないということになるじゃありませんか。しかし、そんなことがありえましょうか」
エラリーはまたたばこに火をつけた。
「たしかにありうるんです。ひとつの妙な状況がそのことを裏書きしています。覚えておられるでしょうが、二人の客が書斎にはいった時、ブレット嬢は書斎の中がのぞけないような場所においやられたのです。事実、グリムショーの連れが、ブレット嬢を押しのけて、書斎の中に何があるか――何がないかを、ちらりとも見せないようにしたようです。
この行動についてはいろいろ説明できるでしょうが、そのことは、ハルキスが同伴者だったという理論に、ぴたり合う意味をもっているようです。なぜなら、ハルキスは、ブレット嬢が書斎をのぞき込んで、当然いるはずの自分がいないのに気づかれたくはなかったでしょうからね。……ほかにも何か裏付けがほしいとおっしゃる。よろしい。……では、グリムショーの連れの特長はどんなだったでしょうか。肉体的には、その男は体格、恰好《かっこう》ともにハルキスと非常によく似ていました。それがひとつ。いまひとつは、シムズ夫人の愛猫トウチーの一件でわかりますが、グリムショーの連れは、目が見えていたのです。なぜなら、あの猫はドアの前の敷物の上に、身動きもせずにじっと寝そべっていたのに、顔をかくしていた男は、片足を宙でとめてから、わざわざ猫をよけて通っていったのです。もし盲目なら、猫をふまざるをえなかったでしょう。これまた話の辻褄《つじつま》が合います。というのは、さっき、ネクタイの推理から、ハルキスがあの翌朝、目が見えるのに見えない振りをしていたことを証明しました。――それに、ワーディス医師が、ハルキスの目を最後に診察したのが、二人の客が来た前の日、あの木曜日だったという事実から――一週間前の、あの木曜日以後のいつか、ハルキスの視力が回復していたのかもしれないという理論を組み立てうる理由はいくらでもあります。
ところで、このことは、さっきぼくが提出した、なぜハルキスは視力が回復したことを黙っていたのかという疑問に、回答を与えるものなのです。というのは、グリムショーが殺されて発見され、もし、ハルキスに容疑がかかった場合、盲目ということをアリバイとして、自分の無実を主張できるからです。――盲目のハルキスが、グリムショーの殺人犯人であり、謎《なぞ》の人物であるはずがないということになるでしょうからね。ハルキスがそのごまかしの物的条件をどうやってととのえたか、その説明は簡単です。あの金曜日の夜、お茶の用意をいいつけ、シムズ夫人がひきさがってから、ハルキスは外套と帽子をつけて邸を抜け出し、おそらく前に打ち合わせておいたとおりに、グリムショーと会い、待たれている二人の客のひとりのような恰好でグリムショーと連れ立って邸にはいって来たにちがいありません」
この時、身じろぎもせずにすわっていたノックスが、何か言いたそうだったが、目をしばたたいただけで、黙りつづけていた。
「ハルキスの陰謀と、策略について、われわれは、どれほど確証を握っているでしょうか」と、エラリーが勢いよく言葉をついだ。「第一に、ブレット嬢に与えた指示によって、人数は三人と思いこませようとした。――故意に、来客は二人で、そのひとりは、素性をかくしたがっているなどと言っています。さらにまた、自分の視力の回復を、故意に隠していた。――わかると都合が悪かったのです。それに、われわれは、グリムショーの絞殺された時刻が、ハルキスの死ぬ六時間ないし十二時間前という点を押えています」
「とんだ|へま《ヽヽ》をやったもんだね」と、地方検事がつぶやいた。
「そりゃ、何のことですか」と、エラリーが、面白そうに訊いた。
「ハルキスが同じ湯を使って、三つの茶碗にお茶をいれたように見せかけた|へま《ヽヽ》さ。あとのことがじつに巧妙なのを考えると、全くばかげとるじゃないか」
ペッパーが子供っぽく、むきになって口をはさんだ。「どうも、検事」と、ペッパーが言った。「クイーン君の意見に一応の敬意ははらうとしても、やはり、失策ではなかったのかもしれませんよ」
「すると、君の考えは? ペッパー君」と、エラリーが興味深そうに訊いた。
「そう、ハルキスは湯わかしがいっぱいだったのを知らなかったものとも、湯が半分そこそこしかはいっていないと思いこんでいたものとも、あるいは、普通いっぱいにすれば、茶碗に六杯分の湯がはいる湯わかしだということを知らなかったものとも、考えられますよ。この三つの仮定のどれかに当てはまるとすると、ハルキスの一見、失策と解される行動も、うなずけるような気がしますがね」
「一理ありますね」と、エラリーが微笑して「大いに結構です。ところで、ぼくの解答には、二、三の未解決な問題が残り、それは、どれもはっきり結論を出すわけにはいきません。しかし、かなり筋の通る推論を下すことはできます。まず、もしハルキスがグリムショーを殺したものとすれば、その動機は何でしょうか。さて、われわれはグリムショーが、あの前の晩、ひとりでハルキスを訪ねたことを知っています。そして、その訪問の結果、ハルキスが顧問弁護士ウッドラフに、新しい遺言状を作るように指示しました。――事実、その夜更けに、ハルキスはウッドラフに電話をかけています。大急ぎで、しかも、あわただしく。その新しい遺言状は、莫大な遺産であるハルキス画廊の遺産相続人を変えるだけでほかには何の変更もなかったのです。しかも、その新しい遺産相続人がだれであるかを、ハルキスは、ひた隠しに隠しています。――顧問弁護士にさえも知られないようにしたのです。その新しい遺産相続人が、グリムショーか、おそらくグリムショーを代理人とする何者かであると言っても、あながち、こじつけではないだろうと思います。しかし、なぜ、ハルキスは、あんな大それたことをやらなければならなかったのでしょうか。
その回答は明白に脅迫であると言えます。グリムショーの人柄や前科をみればわかります。それに、グリムショーが、美術取引に関係があり、美術館の守衛だったし、絵画の窃盗《せっとう》未遂で、くさい飯を食っていることも、忘れてはいけません。グリムショーが脅迫したということは、美術商だったハルキスの弱味を何か握っていたことを意味します。おそらくそれが動機のように思われます。つまり、グリムショーは何かハルキスの弱味を握っていたか、美術品のいまわしい取引きに重要な関係をもっていたか、美術商売の暗黒面に関係していたかでしょう。
さて、これらの仮定的な動機を一応認め、それを基礎としてこの犯罪を組み立て直してみましょう。グリムショーはハルキスを、木曜日の夜訪ねた。――その訪問で、最後通牒か脅迫計画かが、あの前科者から持ち出されたと見ていいでしょう。それに対してハルキスは、グリムショーまたはその代理人のいずれかに、遺言状を書き直して要求の金を支払うことに同意した。――おそらくハルキスは手づまりで現金で支払うことができなかった。それは、調べればすぐわかるでしょう。そして弁護士に遺言状の書き換えを指示してから、ハルキスは遺言状を書き換えても、なお将来に脅迫の根を残すことを感じたか、すっかり考えが変わったかしたのです。どっちにしろ、金を払うよりも、グリムショーを殺そうと決意しました。――ついでに言えば、ハルキスの決意は、グリムショーが他の人間のためではなく、自分自身のために行動していた事実を示して余りあります。さもなければグリムショーの死はハルキスにとっては何の役にも立ちません。というのは、殺された男に代わって、脅迫の棍棒を振り上げる男が背後にまだ居ることになりますからね。とにかく、グリムショーは、そのあくる日、金曜日の夜、自分当てに書き直された新しい遺言状をたしかめに、またやって来て、前にも言ったとおり、うまうまとハルキスの罠《わな》におちて殺されたのです。ハルキスはその死骸《しがい》を、永久に片づけることができるまで、おそらく、どこか近所に隠しておいたのでしょう。しかし、ハルキスもついていなかったのです。重なる難事件の心労で、死骸を永久に片づけることができないうちに、次の朝、心臓麻痺で死んだのです」
「しかし、君――」と、サンプスン検事が言いかけた。
エラリーはにやりとして「わかってますよ。あなたはこう訊きたいのでしょう。ハルキスがグリムショーを殺害して、それから当人も死んだとすれば、ハルキスの葬儀のあとで、ハルキスの棺にグリムショーを埋めたのはだれかとね。明らかに、だれかがグリムショーの死骸を見つけて、その永遠の隠し場としてハルキスの墓を利用したにちがいありません。
そこですよ――その謎の墓掘人は、なぜ、死体をこっそり埋める代りに、持ち去らなかったのか、なぜ死体の発見を発表しなかったのか。察するに、その人間はだれが犯人であるかをかぎつけたか、あるいは嫌疑者を勘違いして、死体を隠し、事件を永久に葬るためにこの手段を択んだのか――それとも、死んだ人間の名誉か、生きている人間の命を守ろうとしたものでしょう。
真実の説明はどうあろうと、この理論にぴたりと合う容疑者が、少なくともひとりはいます。常に所在を明らかにしておくように厳重に言いわたされているのに、銀行からすっかり預金をひき出して姿を隠した人物。思いもよらず墓があばかれ、グリムショーの死体が発見されたので、おそらくは万事休したことをさとり、縮み上がって、あわてふためいて逃げ出した人物が、それです。むろん、ぼくが言うのは、ハルキスの甥《おい》、アラン・シェニーです。そこでぼくは思うんですよ、皆さん」と、エラリーは満足そうなほほえみで、気取った態度を包みながら結論した。「シェニーを見つければ、この事件は片がつくと思うんです」
ノックスが奇妙な表情をうかべた。エラリーのおしゃべりがはじまってから、はじめて、警視が口をひらいた。
警視は納得《なっとく》のいかない様子で「だが、ハルキスの壁金庫から、新しい遺言状を盗み出したのは何者なんだ? その時、ハルキスはすでに死んでおったから――ハルキスにはそいつはできん。それもシェニーのしわざか」
「おそらく、シェニーじゃないでしょうよ。そうですね、まず第一に遺言状を盗み出す最も有力な動機をもっているのはギルバート・スローンで、容疑者のうちではあの男だけが、新しい遺言状で影響をうける人物ですからね。スローンが遺言状を盗み出したということは、殺害の犯行そのものには、何の関係もなかったことを示します。――それは単に偶然的なつまらぬ出来事です。それに、われわれはスローンが盗み出したのだときめつける証拠は、むろん何ももっていないんです。ところが、シェニーを見つけ出せば、遺言状を破棄したのがシェニーだということが、きっとわかるでしょうよ。シェニーはグリムショーを埋める時に、新しい遺言状が棺の中に隠されているのを見つけたにちがいありません。――それはスローンが入れておいたのです――シェニーは、それを読んで、グリムショーが新しい遺産相続人になっているのを知り、手提金庫ごと取り出して破棄してしまったのでしょう。遺言状が破棄されれば、ハルキスは遺言しないで死んだことになり、ハルキスに最も血の近いシェニーの母親が、遺言検証判事の裁定によって、大部分の財産を相続することになるのです」
サンプスンが八の字をよせて「すると、殺人のあった前の晩、グリムショーのホテルの部屋を訪ねた三人の客というのは、どうなるのかね。どんな役割りになるのかね」
エラリーが手を振って「単なるあぶくですよ、サンプスンさん。取るにも足りません。おわかりになるでしょう――」
だれかが、ドアをどんどんたたいたので、警視はいら立って「はいれ!」と、どなった。ドアが開き、小柄な顔色のわるいジョンスンという名の刑事が、はいって来た。
「おい、何だ、ジョンスン」
ジョンスンは足早に部屋を横ぎり、警視の椅子にのしかかるようにして「ブレットという女が外に来てます、警視」と小声で言った。「どうしてもお会いしたいって」
「わしに会いたい?」
ジョンスンが恐縮して「エラリー・クイーン氏に会いたいと言っとります、警視……」
「入れてやれ」
ジョンスンがドアをあけてブレットを通した。男たちはいっせいに立って迎えた。ジョアンはグレーとブルーの服を着て、ひときわ美しかったが、その目は悲しそうで、戸口に立ちすくんだ。
「エラリーに会いたいそうだね」と、警視がぶっきらぼうに言った。「目下会議中なんだ、ブレットさん」
「それは――きっと大切な会議なんでしょうね、クイーン警視さま」
エラリーがすばやく「シェニーから便りがありましたか!」と言ったが、ブレットは首を振った。
エラリーが苦い顔で「こりゃ失礼、ブレットさん、ご紹介します、ノックス氏、サンプスン検事……」
地方検事はちょっと頭を下げた。ノックスが「よろしく」と言った。ちょっと気まずく座が白けた。エラリーはブレット嬢に椅子をすすめ、みんなも腰を下ろした。
「私――どこから、どうお話したらいいかよくわかりませんの」と、ジョアンが手袋をまさぐりながら「ばかだとお思いになるでしょうね。でも、本当に、とてもおかしいんですのよ。しかも、……」
エラリーが力づけるように「何か発見したんですね? ブレットさん。それとも、何か言い忘れていたんですね」
「はい。そのう――申し上げるのを忘れていましたの」ジョアンはひどく低い、ふだんの声の影みたいな声で「あのう――お茶碗のことなんですけれど」
「お茶碗のこと?」その言葉が鉄砲玉のようにエラリーの口からとび出した。
「ええ――そうですわ。最初にお訊きになった時には、私は本当に思い出せませんでしたのよ――やっと思い出したものですから。あれからずっと――私は、そのことを考えていたんですの」
「それで。その先をどうぞ」と、エラリーが声をとがらせた。
「あれは――お茶道具の載っている小卓を、机のところから壁のひっこみに移した日ですわ。じゃまにならないように移したので――」
「そのことは前にもおっしゃいましたよ、ブレットさん」
「でも、すっかりお話しませんでしたわ、クイーンさま。今思いついたんですけれど、あのお茶碗には変ったところがあったのです」
エラリーは父の机に腰かけて、山上の仏陀《ぶっだ》のように、奇怪な静けさを保っていた。……すっかり落ちつきを失って、ばかのようにジョアンを見つめていた。ジョアンは少しあわて気味に言いつづけた。
「あのう、書斎でお茶碗をお見つけになった時には、よごれたのが三つでしたわね――」エラリーの唇が音もなく動いた。「ところが、今思い出すんですけれど、私がお葬式の日の午後、じゃまにならないように小卓を移した時には、よごれたお茶碗はひとつだけでしたの……」
不意にエラリーが立ち上がった。その顔はすっかり不機嫌になり、とげとげしく、不愉快そうだった。
「注意して下さいよ、ブレットさん」と、エラリーはしわがれた声で「非常に重要な点です。あなたが今言ったのは、先週の火曜日、あなたが机のそばから壁のひっこみへ小卓を移した時、茶盆の上にはきれいな茶碗が二つあり――使ったあとのついているのはひとつだけだった、と言うんですね」
「そうなんですの。絶対にたしかですわ。実際、今になるとはっきり思い出しますが、ひとつのお茶碗は、さめた注ぎおきのお茶でほとんどいっぱいでした。それに受け皿には乾いたレモンがひと切れと、よごれたスプーンが一本、のっていましたわ。お盆の上のその他のものは、みんな全く清潔で――使ってありませんでした」
「レモン皿には、レモンがいく切れ残っていましたか」
「残念ですけれど、クイーンさま、それは思い出せませんの。なにしろ、私たちイギリス人はレモンを使いませんものね。レモンを使うのは下品なロシアふうですのよ。それに、茶袋なんぞ!」と、身ぶるいして「でも、お茶碗については、絶対にたしかですわ」
エラリーがせき込むように訊いた。「それはハルキスさんの死後のことですね」
「ええ、そうですわ」と、ジョアンがため息をして「亡くなられた後ばかりか、あの火曜日のお葬式の後も、そうだったんですよ」
エラリーは下唇を、ぎゅっと噛みしめた。その目は石のように冷たかった。
「どうも、まことにありがとう、ブレットさん」と、低い声で「おかげで、とんでもないはめに落ちるのを、すくわれましたよ……もう、お引き取りになって結構です」
ジョアンは、おずおずとほほえんで、何か暖かい感謝とおほめの言葉を求めるかのように、みんなを見まわした。だが、だれひとりとして、ジョアンに目もくれなかった。一同はもの問いたげにエラリーを見つめていた。ジョアンはつぎ穂もなく、部屋を出て行った。ジョンスンがその後から出て、静かに後手でドアをしめた。
最初に口をきったのはサンプスンだった。
「どうかね、君、大失敗だったな」検事がなぐさめるように「なあに、エラリー、そう気にすることもないさ。人間、失敗することもあるよ。それに、君の失敗は、なかなかみごとだった」
エラリーは弱々しく片手を振り、うなだれて、口ごもるような声で「失敗ですって? サンプスンさん。全く弁解のしようもありません。むちで打たれて、尻尾をまいて、家へ追い返されるべきですよ……」
ジェームス・ノックスが急に立ち上がった。この大立物は、上機嫌な明るい顔で、エラリーを鋭く見つめていた。
「クイーン君。君の説明は二つの主要な条件を土台としておったな――」
「たくさんです、ノックスさん、たくさんです」と、エラリーはうめくように「どうか、もう、いじめないで下さい」
「今にわかるよ、君」と、大立物は言った「失敗は成功のもとだ。……二つの主要な条件。そのひとつは茶碗だった。巧妙な、真に巧妙な説明だったよ、クイーン君。だが、ブレット嬢が、そいつをこっぱみじんにした。いまや、いたのは二人の人間だけだった、という君の論理も成立しないな。君は茶碗から推理して、この事件には、徹頭徹尾、ハルキスとグリムショーの二人しか関係していず、それをわざと三人いるように見せかけようとしたのであって、三人目の男はけっして実在しなかったし、しかもその二人目の男というのがハルキス当人だったと言った」
「そのとおりです」と、エラリーはしょげ込んで「しかし、今は――」
「間違っとるよ」と、ノックスが穏やかな声で「というのは、三人目の男がたしかにいたんだ。しかも、わしは推測ではなく、直接証明できるのだ」
「何ですって」と、エラリーの頭がばね仕掛けのように、ぴょこんと起きた。「なんですって! いたんですって! あなたに証明できるんですって。どうしておわかりになるんですか」
ノックスがくすくす笑った。「わかるさ」と言った。「実は、わしがその三人目の男だったのさ」
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十六 YEAST……パン種
後年、エラリーはこの時のことを思い出して沈痛な面持で語った。「ぼくはノックス氏の啓示にあった日から大人の目をひらかれたのだよ。その啓示が、自分自身と自分の能力に対する観念とをがらりと変えたんだ」
エラリーの巧妙な理論の組み立ても、あれほどみごとな説明も、一瞬にしてゆらぎ、粉々になって足もとに崩れ落ちたのである。しかし、事それ自体は、もし、ひどい屈辱感さえともなわなければ、エラリーの自我にとっては、それほど烈しい打撃ではなかったろう。ところが、エラリーは、あんなにも『これみよがし』だったのだ。頭脳の明敏さを見せつけようとしていたのだ……大立物ノックスの面前で――自分をひけらかせようときおい立ったばかりに――その気負い立った姿が、いまや、横目で意地悪くエラリーを見つめているようで、エラリーは羞《はずか》しさで頬を真赤《まっか》に染めた。エラリーの心は烈しくかけまわって、事実の覆《くつが》えったことをうけ入れようとし、自分が鼻もちならぬ青二才だったことを忘れようと努力していた。エラリーの頭脳に小さな恐慌の波が打ちよせて、明晰《めいせき》な思考を曇らせた。
しかし、ひとつのことがはっきりしていた――ノックスを究明しなければならん。ノックスの意外な陳述。ノックスが三人目の男だったこと。三人目の男があらわれたのだ。――茶碗を足がかりにしてのハルキスヘの嫌疑は――失敗だった。……とすると、ハルキスの盲目の点も、これまた同じく根拠の薄いものではなかったろうか。もう一度考え直して、ほかの説明を見つけなければならない……。
ありがたいことに、一同は椅子《いす》にうずくまっているエラリーには目もくれなかった。警視は鋭い訊問《じんもん》で大立物を、おびやかしていた。あの晩、何があったのか。どうして、ノックスがグリムショーの道連れなどになったのか。これらの事実は、一体、何を意味するのか……
ノックスは、鋭い灰色の目で警視とサンプスン検事を見くらべながら弁明した。ハルキスが、最良の顧客ノックスに近づいて、妙な話を持ち出したのは、三年ほど前だったらしい。ハルキスの話だと、ノックスがけっして公開しないと約束するなら、彼が所有するほとんど評価できないほど高価な絵を売りたいというのだった。妙な要請だ。ノックスは用心深かった。一体どんな絵だろう。それに、なぜそんなに秘密なのか。ハルキスは一見誠実そうだった。ハルキスの言によれば、その絵はロンドンのヴィクトリア美術館の所蔵品で、美術館では百万ドルと評価しているものだそうだ。
「百万ドルですか、ノックスさん」と、地方検事がおどろいて「私は美術品にはあまり明るくないんですが、それにしても、どえらい金額じゃありませんか、いくら傑作だとしてもね」
ノックスはちょっと微笑して「この傑作なら高いどころじゃないよ、サンプスン君。なにしろレオナルドの作品なのだ」
「レオナルド・ダ・ビンチ?」
「そうさ」
「しかし、あれの傑作なら、みんな――」
「これはヴィクトリア美術館が数年前に発見したものなんだ。レオナルドが、十六世紀初頭にフィレンツェのパラッツォ・ヴェキオの大広間を飾るつもりでかかったが未完成に終った壁画の油の部分絵なのだ。それには長い物語があるが、今はそんな話はしないことにする。この貴重な掘出し物を、ヴィクトリア美術館では『旗の戦いの部分絵』と呼んどる。わしの言葉どおりにとっていいが、新発見のレオナルドが百万ドルなら安いもんだ」
「つづけて下さい」
「当然わしは、ハルキスがどうしてそれを手に入れたかが知りたかった。その絵が売りに出ているなどということは聞いたこともない。ハルキスは言葉をにごして――ヴィクトリア美術館のアメリカの代理人をしているようにわしに信じこませようとした。美術館ではこの話がひろまらないようにしたがっていると言うのだ――この絵がイギリスを離れることが知れると、国じゅうの抗議が殺到するだろうと言うのだ。実にみごとな絵だった。ハルキスは強引にすすめた。わしは欲しくてたまらなかった。それで、ハルキスの言い値で買った。――七十五万ドルでね。いい買いものだった」
警視がうなずいた。「それから先はわかるような気がしますな」
「そうなんだ。一週間前の金曜日にアルバート・グリムショーと名乗る者がわしを訪ねて来た。――普通なら取次ぎもされんのだが――しかし、その男が『旗の戦い』と走り書きしたメモを取次がせたので、会ってやらなければならなかったのだ。色の黒い小男で、ねずみのような目をしていた。こすっからい――手ごわい奴だった。そいつが、おどろくべきことをわしに話した。要点は、ハルキスを信用してわしが買ったレオナルドの絵は、絶対に美術館から売りに出されたものではなくて――盗品だと言うのだ。五年前に美術館から盗まれたので、あの男、グリムショーが、その泥棒だと、抜け抜けと言うのだ」
地方検事サンプスンは、今は、すっかりその話に聞き入っていたし、警視とペッパーも、ひざをのり出していた。エラリーは身動きもしなかったが、まばたきもせずにノックスを見つめていた。
ノックスは、きわめて冷静に、ゆうゆうと語りつづけた。グリムショーは、ヴィクトリア美術館の雇員として、グラハムという偽名のもとに働きながら、レオナルドの絵を盗み出して、それを持ってアメリカ合衆国へ逃亡するまで、五年間も苦労した。その大胆な盗難事件は、グリムショーがイギリスを離れるまで発覚しなかった。グリムショーは、その絵を、こっそり売るために、ニューヨークのハルキスのところへ来た。ハルキスは誠実な男だったが、熱狂的な美術愛好家だったから、世界的な大傑作のひとつを所有したいという誘惑をしりぞけるわけにはいかなかったのだ。それを自分のものにしたかった。グリムショーは五十万ドルで手離した。その金の支払いがすまないうちに、グリムショーは昔の偽造罪でニューヨークで検挙され、五年の刑でシンシン刑務所に送られた。その間、グリムショーが収監されて二年たった頃、ハルキスは投資の失敗で、換金できる財産の大部分をすってしまったらしい。そして、せっぱつまった現金の必要にせまられて、その絵を七十五万ドルでノックスに売ったのは、前にも言ったとおりだ。ノックスはハルキスのでたらめを信じて、盗品であることを全然知らずに買ったのだ。
「グリムショーは一週前の火曜日にシンシンから出るとすぐ」と、ノックスが続けた。「ハルキスに貸してある五十万ドルを取り立てようと思いつき、木曜日の夜、ハルキスのところへ行って支払いを迫ったと言っておった。ところが、ハルキスは相変らず損な投資をしていたとみえて、金がないと言った。そこでグリムショーは絵を返せと要求した。ついにハルキスは、絵をわしに転売したことを吐かざるをえなかったのだ。グリムショーはハルキスをおどした――金を払わなければ殺してやると言った。そうしてハルキスの家を立ち去り、その次の日にわしの家へ来たのだ。それはさっき話したとおりだ。
ところで、グリムショーの目的は明白だった。奴はハルキスに貸してある五十万ドルをわしに払えと言うのだ。むろんわしは断わった。グリムショーは威丈高になって、金を払わなければ、わしが盗品のレオナルドを不法所持していることを公表すると、おどした。いきさつがわかると、わしも腹が立ってきた」
ノックスは四角いあごをかみしめて、その目に灰色の焔をもやした。
「わしをはめこんで、こんなひどい立場におとし入れたハルキスに対して腹が立った。それでハルキスを電話で呼び出し、わしとグリムショーに会うように手配させた。その晩すぐにだ――先週金曜日の夜だ。話し合いは秘密を要した。わしはその保証を要求した。ハルキスはあわてて、ひとはみんな遠ざけておく、秘書のブレット嬢はこの問題については何も知っていないし、口の固いことは信頼できるから、ブレットにグリムショーとわしを取次がせると、電話で約束した。わしは石橋をたたいて渡らねばならなかった。いまいましいことさ。あの夜、わしはグリムショーと一緒にハルキスの家へ行き、ブレット嬢が取次いだ。ハルキスは書斎にひとりでいた。わしらは腹を割って話し合った」
エラリーの頬や耳からは、はじらいの角ややけつくような屈辱感が消え去っていた。そして、今は他の連中と一緒に、ノックスの話に聞き入っていた。
ノックスが言うには、ノックスはその場でハルキスに、グリムショーを何とかなだめてほしい、少なくともハルキスのおかげでまきこまれたこの厄介な立場から自分を解放してほしいと、率直に要求したそうである。興奮して途方にくれたハルキスは、金は全然ないと言った。しかし、前の晩グリムショーが最初に訪ねて来たあと、いろいろ考えたあげく、自分の力でできる唯一の支払い方法をグリムショーに提案することに決めたと言ったそうだ。それから、ハルキスは、その朝書き上げて、署名をしておいたという新しい遺言状を取り出した。その新しい遺言状ではグリムショーがハルキス画廊とその施設の相続人になっていて、それはグリムショーから借りている五十万ドルをずっと上廻る価値のものだった。
「グリムショーもばかではなかった」と、ノックスが苦々しく言った。「一言のもとにはねつけた。遺言状では、親族から文句が出た場合、金は一文も手にはいらないだろうし――その上、ハルキスが『くたばる』まで待たなければならない。あの男はこの言葉どおり言った。だめだ。金は換金性のある証券か現金で――この場でほしいと言うのだ。あの男はこの取引きを『ひとりきり』でやってるのではないと言った。相棒がいて、そいつが世界じゅうでただひとり、盗品の絵をハルキスが買ったいきさつを知っていると言うのだ。それに、前の晩ハルキスに会ったあとで、あの男は相棒に会い、二人でベネディクト・ホテルの自分の部屋へ行き、ハルキスがレオナルドの絵をわしに転売したことを相棒にも話してあると言うのだ。奴らは遺言状とかなんとか、そんなたぐいの取引きはしたくないのだ。ハルキスがその場で支払えないなら、持参人払いの約束手形でなら受けとってもいいと言うのだ――」
「相棒を守るためだな」と、警視がつぶやいた。
「そうなんだ。それで持参人払いなんだ。一か月期限の五十万ドルの約手だ。ハルキスが金繰りのために店を売るなりなんなり勝手にしろというわけだ。グリムショーは薄気味悪く笑いながら、自分を殺しても、わしら二人には何の役にもたたない。奴の相棒が一切のことを知っとるから、もし奴の身の上に万一のことがあれば、わしら二人を追いまわすだろうと言いおった。そして、相棒が何者かは絶対に明かさないと言いながら、意味ありげに片目をつぶってみせたのだ。……あの男はじつに下劣な奴だった」
「たしかにそうです」と、サンプスンが苦い顔で「このお話で事件はいっそう複雑になりました。ノックスさん……。グリムショーか、その相棒かしらないが、じつに抜け目がないですな。おそらくその相棒が仕事の舵《かじ》をとっていたのでしょうね。相棒の素性を隠しておくことは、相棒と同時にグリムショーの身を守ることになりますからね」
「そのとおりだ、サンプスン」と、ノックスが言った。「そのあとは、盲人のくせにハルキスは持参人払いの約手を振り出して、署名してグリムショーに渡すと、奴はそれを受けとって、持っていたぼろぼろの古財布にしまいこんだ」
「その財布は見つけたが」と、警視がきびしい口調で口をはさんだ。「中は空だった」
「そのように新聞に出ていたね。それからわしは事件から手をひくとハルキスに言い渡した。自業自得だと言ってやった。わしらが出て行く時、ハルキスは、杖を失った盲老人というざまだった。ガラにもないことに手を出して失敗したのだ。いいざまだ。わしら、グリムショーとわしは一緒に邸から出たが、うまいことに、出るところをだれにも見られなかった。出口の石段のところで、わしに迷惑をかけないようにしている限りは、すべてを忘れてやるぞと、グリムショーに言っておいた。奴らはわしに一杯くわせる気だったのだ。こっちは、危くのがれたというところさ」
「グリムショーを最後に見たのはいつでしたか、ノックスさん」と、警視が訊いた。
「その時さ。やっと追っ払ってせいせいした。わしは五番街の角へ出て、タクシーを呼びとめて家へもどった」
「グリムショーは、その時、どこにいましたか」
「最後に見た時、奴は歩道に立ってわしを見送っていた。たしかに、薄気味悪いにやにや笑いをうかべていた」
「ハルキス邸のまん前でですか」
「そうだ。そのつづきがあるんだ。その次の日の午後、わしはすでにハルキスの死去を知っておった――つまり先週の土曜日だ――ハルキスから私信がとどいた。金曜日の夜、わしとグリムショーが邸を出たあとで、ハルキスが書いて、次の朝、投函したものにちがいない。ここに持って来とる」
ノックスはポケットのひとつに手を突っ込んで、一枚の封筒を取り出した。そして警視に渡すと、警視は中から一枚の便箋をひき出して、走り書きの文面を大声で読んだ。
[#ここから1字下げ]
親愛なるJ・J・ノックス殿。今夜の事で小生に悪い感情をおもちのことでしょう。しかし、どうしようもなかったのです。金はないし、いやおうなしでした。あなたをまき込むつもりはさらさらなかったし、あのグリムショーの奴が、あなたに近づいてゆすろうとするなどとは、思いもかけませんでした。今後、あなたに一切ご迷惑がかからないように保証します。小生は、たとえ店を売り、画廊の所蔵品を競売にし、必要とあれば保険金を担保に借金してでも、グリムショーと奴の相棒の口をふさぐつもりです。いずれにしてもあなたは安全でしょう。というのは、あなたが例の絵を持っていることを知っている人間は、われわれとグリムショーどもだけだし――むろん奴の相棒も入れて――しかも小生は奴らの要求を容れて、二人の口をふさぐつもりですから。小生はこのレオナルドの件はけっしてだれにも口外しません。小生の代理として働いているスローンにも……ハルキス
[#ここで字下げ終わり]
「この手紙なんだな」と、警視がうなるように「先週の土曜日の朝、ハルキスがブレット嬢に出すようにと渡したのは。ひどい走り書きだ。盲人が書いたものとしては読める字だ」
エラリーが静かに訊いた。「このことはだれにも話されませんでしたか、ノックスさん」
ノックスが鼻を鳴らして「全く話しておらん。先週の金曜日までは、むろん、わしはハルキスの結構ずくめな話を真にうけていた。――ロンドンの美術館の方で、この話が洩れるのをよろこばないとか、なんとかね。わしの家の個人コレクションは、始終、人が見に来る。――友人や、蒐集家や、鑑定人どもがね。だが、レオナルドの絵はいつも隠しておいて、だれにも話さんことにしている。先週の金曜日以後は、むろん、いっそう人に話すわけがない。わしの側の人間は、だれひとり、レオナルドの絵も、それをわしが持っていることも、知っている者はいないはずだ」
サンプスンが困ったように「もちろん、ノックスさん、あなたが微妙な立場に立っていらっしゃることはご存知でしょうな」
「え? そりゃどういうことかね」
「私が言うのは」と、サンプスンがおずおずと「あなたが盗品を所持しておられることは、本質的に――」
「サンプスンさんが言うのは、つまり」と、警視が注釈した。「あなたも、法律的には、重犯罪を幇助《ほうじょ》したことになるということです」
「ばからしい」と、ノックスが急に笑い出して「どんな証拠があるのかね」
「あなたはその絵を持っていることを自認された」
「ぷふっ。でも、わしの陳述を否認したらどうなるかね」
「今さら、そんなことはなさらんでしょう」と、警視がきっばり言った。「確信しますよ」
「その絵が陳述を裏書きしますな」と、サンプスンは言い、神経質に唇をかんでいた。
ノックスは相変らずの上機嫌で「君らに、その絵を見つけ出せるかね。レオナルドの絵が出てこなければ、土台、話にならない。松葉杖じゃだめだからね」
警視は目を細めて「ではお訊きするが、ノックスさん。あなたはなんとしてもその絵を隠しておくつもりなんですか――当局に引き渡すことを拒否し、所持していることを否認するつもりなんですか」
ノックスはあごをなでながら、サンプスンから警視へ視線を移した。「おいおい。君らは筋を間違えてやせんのか。こりゃ一体何事だね――君らが捜査しとるのは殺人事件なのか、それとも重犯罪なのかね」と、ノックスは微笑していた。
「私の考えでは、ノックスさん」と、警視は立ち上がりながら言った。「あなたはずいぶん妙な態度をとられておるようですな。われわれの任務は社会全般のあらゆる犯罪面を捜査することです。あなたがそんなお考えをおもちなら、なぜさっきのようなことを話されたんですか」
「それなら話がわかる、警視」と、ノックスは勢いよく言った。「理由が二つある。ひとつは、殺人事件の解決に協力したかったのだし、いまひとつは胸に一物があるからだ」
「と、おっしゃると?」
「つまり、わしが欺されたのだ。七十五万ドルも払ったレオナルドは、真赤なにせものだったのだ」
「そうですか」と、警視は鋭く相手を見つめて「そんなねらいがあったのですか。ところで、にせものだということが、いつわかったのですか」
「昨日さ。昨日の夜さ。出入りの専門家に、あの絵を鑑定させたのだ。その男の口のかたいのは保証する――けっして口外しない。わしがあの絵を持っているのを知っとるのはあの男だけだ。しかも、昨日の夜までは、あの男も、そのことを知らなかったのだ。あの男の意見では、その絵はレオナルドの弟子《でし》の作か、あるいは、レオナルドと同時代の画家、ロレンツォ・ディ・クレディの作かもしれんそうだ――レオナルドもロレンツォも、ベロッキオの弟子だったんだ。わしはあの男の言葉を受け売りしとるんだが、手法は完全にレオナルドだとあの男も言っとる――だが、レオナルドの作でないという意見には、二、三の内部的な根拠があるんだ。そのことには今は触れたくないがね。二、三千ドルしか値打のないがらくただそうだ。……わしは、はめられたんだ。わしが買わされたのは、そんなものだったんだ!」
「たとえそうでも、その絵はヴィクトリア美術館のものですよ、ノックスさん」と、地方検事がひかえ目に言った。「返さなければなりますまい――」
「ヴィクトリア美術館のものだということが、どうしてわしにわかるかね。わしの買ったのは、だれかがどこかで堀り出して来た模写かもしれないが、どうしてそのことがわかるかね。ヴィクトリア美術館のレオナルドは盗まれたのかもしれんが、それがわしに売りつけられたものだとは言いきれん。グリムショーは本物をつかんだのかもしれんし――本物だと信じていたのかもしれん。あるいはハルキスが、そう信じていたのかもしれん。それはだれにもわからんことだ。それなのに、君らは一体どうするつもりなんだね」
エラリーが言った。「その話はここだけのこととして、伏せて置く方がいいでしょうね」一同はそうするほかなかった。ノックスは、それみろと言わんばかりに構えていた。地方検事は一番立つ瀬がない立場で、熱心に警視に耳打ちしていたが、警視は肩をすぼめた。
「また無知をさらけ出すようで恐縮ですが」と、エラリーが、いつになくへりくだった態度で「ノックスさん。先週の金曜日の夜、遺言状の方は、実際にはどうなったんでしょうか」
「グリムショーがはねつけた時、ハルキスはむぞうさに壁金庫のところへ行き、遺言状を手提金庫に入れて鍵をかけ、壁金庫に納めたよ」
「それから、お茶道具の方は?」
ノックスがぶっきらぼうに言った。「グリムショーとわしが書斎にはいった時、机のそばの小卓の上に茶道具が置いてあった。ハルキスがお茶を飲むかと訊いたが――その時はすでに、湯わかしに水を入れてわかしていた。わしらは断わったが、話しているうちに、ハルキスは自分の茶碗に茶を注いでいた――」
「茶袋とレモンの切れを使いましたか」
「うん。茶袋はじきに引き上げていたがね。そのあと、話に夢中になって、茶は飲まなかったから、茶はさめてしまったようだ。わしらがいる間じゅう、ハルキスはお茶をのまなかったよ」
「盆の上には三組の茶碗と台皿があったんですね」
「そうだ。残りの二組はきれいなままだった。全然、湯を注がなかったからな」
エラリーがひどく辛そうな声で話した。
「誤認していた二、三の点を訂正しなければならなくなりました。正直に言って、ぼくは頭のいい敵のなぶりものになっていたようです。そのマキアヴェリのような手練手管で手玉にとられていたようです。道化もの扱いでした。ところで、われわれは、個人的な意見のために、より大きな問題を、あいまいにしておくことは許されません。
よく聞いて下さい――皆さん、ノックスさんも、お父さんも、サンプスンさんも、ペッパー君も。そして話が、わき道にそれそうだったら、ひきとめて下さい。ぼくはかなり頭のいい犯罪者のなぶりものでした。そいつはぼくの骨おしみしない性質を勘定に入れて、わざわざぼくの推理のためにあんなにせの手がかりを作りあげて、ぼくがそれにひっかかって『頭のいい』解答を組み立てるだろうと仕組んだのです――つまり、ハルキスを殺人犯人だと断定するような解答を出させるようにね。ところで、ハルキスの死後、五、六日の間、使い汚した茶碗はただ一個だけであったことがわかりましたから、三つの茶碗のからくりは犯人がわざわざ残しておいた『からくり』にちがいないのです。とすると、犯人は、わざとハルキスが一杯注いで、しかも飲まなかった茶碗の中の湯だけを使って、他の二つの茶碗を汚し、そのあと、その湯をどこかへ流して、湯わかしの中の古い水はそのままにしておいて、ぼくの推理の土台を誤まらせるように仕向けたのです。
ブレット嬢の話で、それら三つの茶碗が、もとのままの状態に置いてあったのを見た時間が証言されているので、汚れた三つの茶碗のにせ手がかりを残したのはハルキスではないことが明らかになりました。というのは、ブレット嬢が、茶碗が元のままなのを見た時には、ハルキスはすでに死んで埋葬されていたのです。こんなにせの手がかりを仕組む動機をもつ者はただひとりであり、そいつこそ殺人犯にほかならず――ぼくの目を自分からそらそうとして、奴のでっち上げの容疑者をぼくに提供した人物なのです」
「ところで」と、エラリーは同じ冷静な声でつづけた。「ハルキスが盲人ではなかったことを示そうとした手がかりですが……これは犯人が偶然のチャンスを利用したのにちがいありません。犯人はハルキスの服装の予定がどうなっているかを、知っていたか、発見したのでしょう、そうして、玄関のテーブルにのせてあったバレットの店からとどいたネクタイの紙包みを見つけて、おそらく奴が茶碗のからくりをやった時と同じ頃でしょうが、包みの中のネクタイの色がくいちがっているのをいいことに、その紙包みをハルキスの寝室の用箪笥《ようだんす》の抽出《ひきだ》しに入れておいて、きっとぼくがそれをそこで見つけ出して、推理の組み立ての一部として使うだろうと思い、わざとそう仕向けるようにしたのです。ここで問題になるのは、犯人の『からくり』はともかくとして、ハルキスははたして本当に目が見えたのか、それとも見えなかったのか、犯人はそのことを、どの程度知っていたのか、という点ですが、この答は、しばらくおいておくことにしましょう。
しかし、ここに重要な問題が、ひとつあります。それは、いかに犯人といえども、ハルキスが死んだ土曜日の朝、予定表と違う色のネクタイを締めさせるように服装の手配ができなかったという点です。ハルキスが視力を取りもどしたことを土台として組み立てたぼくの推理の筋道は、実はハルキスが盲目だったという新しい理論に立ってみれば、かなりくいちがって来ます。しかしハルキスが実は盲人ではなかったという可能性はまだありますけれどね……」
「可能性はあるが蓋然性《がいぜんせい》はないな」と、サンプスンが口をはさんだ。「君も指摘したとおり、もし急に視力がもどったのなら、なぜ黙っていたのかわからんよ」
「そのとおりです、サンプスンさん。どうもハルキスは目が見えなかったように思えます。だから、ぼくの論理は間違っていたのです。しかし、ハルキスが赤いネクタイをしめていることを自分で知っていた、しかも目は見えなかったという事実は、どう説明つくのでしょうか。デミーかスローンかブレット嬢がハルキスに赤いネクタイをしめていることを教えたということになるのでしょうか。それなら、その説明もつくでしょうが、ところが、その三人がみんな真実を述べているとすれば、その説明も、宙に浮いてくることになります。もしわれわれが、何か他の満足すべき説明を見出さない限り、三人の中のだれかが、いつわりの証言をしたものと断定せざるをえませんよ」
「あのブレットという娘は」と、警視がうなった。「どうも信頼できる証人とは思えんな」
「裏付けのない勘だけではどうにもなりませんよ、お父さん」と、エラリーが首を振った。「われわれは論理の誤りを白状するほかありませんね。じつにいやなことですけどね……ぼくはノックスさんのお話中、いろんな可能性を、すっかり考え直してみました。そして、ぼくの元の論理では、大事な可能性のひとつを見のがしていたことに気がついたのです。――これが真実なら、じつに意外な可能性です。というのは、ハルキスが赤いネクタイをしめているのを、ひとから教えてももらわず、色を見ることもできなかったのに、自ら知り得る方法がひとつあったのです。……当っているかいないかは、ぞうさなくわかりますよ。ちょっと失礼」と、エラリーは電話のところへ行き、ハルキス邸を呼び出した。一同は黙って、エラリーを見つめていた。何かテストをするんだなと思った。
「スローン夫人……スローンの奥さんですか。こちらはエラリー・クイーンです。デメトリオス・ハルキス君はいますか?……結構です。センター・ストリートの警察本部へ、すぐ来るように伝えて下さい――クイーン警視の部屋です。……そうです、わかっています。結構です。ウィーキスを同伴するように、それから……奥さん。従弟さんには、お兄さんのみどり色のネクタイを一本持って来るように、言って下さい。重要なことです……いいえ、ウィーキスには、デミーが持ってくるものを知らせないようにして下さい。たのみます」エラリーは受話器をがちゃがちゃいわせて、警察の交換手にいいつけた。「ギリシア語の通訳、トリッカーラをさがして、クイーン警視の部屋に来させてくれ給え」
「さっぱりわけがわからんよー」と、サンプスンが言いかけた。
「しばらく待って下さい」と、エラリーは、しっかりした手つきで、新しいたばこに火をつけた。
「先をつづけさせて下さい。どこまでだったかな。そうそう――ハルキスを犯人とする回答は、言わでものことですが、こっぱみじんになってしまいました。というのは、その回答は二つの点を根拠にしていたからです。そのひとつは、ハルキスが本当は盲人《めくら》ではなかったという点、あとのひとつは、先週金曜日の夜、ハルキスの書斎には二人の人間しかいなかったという点です。その第二の点は、ノックスさんとブレット嬢が、すでに粉砕しました。その第一の点は、自分の手ですぐにも粉砕できると信じる理由があるのです。言い換えれば、もしハルキスが、あの当夜、本当に目が見えなかったと主張しうるなら、もはやハルキスを他の連中以上に、グリムショー殺しの犯人と疑う理由がなくなるわけです。実際に、ハルキスを容疑者から除外することができます。いつわりの手がかりを残す理由があった唯一の人物こそ、殺人犯人です。しかもその手がかりはハルキスの死後に残されたものであり、その上、ハルキスを犯人とみせるために仕組まれたものですからね。だから、ハルキスは少なくともグリムショー殺しについては無実です。
さて、ノックス氏の話から、グリムショーが殺された動機は、盗まれたレオナルドの絵に関係のあることが判明しました。――それは、ぼくが前に推定したところと、そんなにかけはなれてはいません」と、エラリーが続けた。
「ここに盗まれた絵が動機であることを裏づけるような事実がひとつあります。それは、グリムショーが棺の中で発見された時、ハルキスが与えたとノックス氏が言われる約束手形が、グリムショーの財布からも着衣からも紛失していたことです――明らかに犯人がグリムショーを絞殺した時にうばいとったものでしょう。犯人は、その時はその約手を持っていれば、ハルキスの頭を押えつけることができると思っていたはずで、このことは、つまり、グリムショーがハルキスの死ぬ前に殺されたということになるのです。この点を覚えておいて下さい。ところが、思いもかけずにハルキスが死んでみると、その約手は犯人にとっては、全く無価値になってしまったのです。というのは、そのような書類をハルキス以外の人間に提示して支払いを求めれば、当然、疑惑を生じて捜査されることになり、それは犯人にとって必然的に危険を招くことになります。しかも当のハルキスは死んでしまっているのです。ですから犯人がグリムショーから約束手形を奪った時には、ハルキスがまだ生き続けるものと思っていたにちがいありません。ある意味では、ハルキスは死によって、正当な相続人のために恵みをほどこしたわけで、やせ細っていく財産から、五十万ドルという大金を救ったことになるのです。しかし、それよりも更に重大な事実が、そこから生じて来ます」と、エラリーは中休みして室内を見まわした。警視室のドアはしめきってあった。エラリーはドアに歩みよって、あけて、首を出して外を見まわし、再びしめて、席にもどった。
「じつに重大なことなので」と、エラリーはおごそかな口調で言いたした。「書記にも聞かれたくないのです。よく聴いて下さい。前にも言ったとおり、故人ハルキスに罪をなすりつけようとする理由をもつ、唯一の人物が、当然、殺人犯人というわけです。ということになると、犯人は必然的に二つの特徴をもつと見られます。
第一の特徴は、茶碗によるにせの手がかりをたくらみえたのだから、犯人は葬式のあと、つまりブレット嬢が二つの茶碗がきれいなのを見た火曜日の午後から、われわれが三つの茶碗が汚れているのを発見した金曜日までの間に、ハルキス邸に近づくことのできた者にちがいありません。
第二の特徴は、二人の人間しか関係がないように見せかけるための、汚れた茶碗のからくりのすべてを成功させるには、絶対に――この点に注意して下さい――絶対に、ノックス氏が三人目の男だったという事実と確かに三人目の人物がいたという事実とを沈黙していなければならないのです。
このあとの方の点を敷衍《ふえん》してみましょう。すでにわかっていることですが、あの夜、三人の男がいたのです。あとから、茶碗のからのからくりで二人しかいなかったようにつくろった人間がだれであっても、その場に三人いたこと、それがだれだれであるかを知っていたことは明らかです。しかし、よく考えて下さい。その男は警察には二人しかいなかったと信じさせたがったのです。したがって、その三人が三人とも絶対に沈黙を守っていなければ、そのからくりは成功しないはずです。さて、二人しかいなかったと思い込ませようとした人物は、火曜日と金曜日の間に、からくりを仕組む時には三人のうちの二人――殺されたグリムショーと、自然死したハルキス――の沈黙については安心することができたのです。しかし、三人目の男、ノックス氏だけは、有力な情報提供者として、二人いたというごまかしをばらすかもしれなかったのです。しかも、ノックス氏がぴんぴんとして生存しているにもかかわらず、いんちき師は、わざわざ、からくりを進行したのです。言い換えれば、奴はノックス氏が沈黙を守ることを当てにしていたことになります。ここまでは納得できるでしょうね」
一同は一語一語に耳をすませてうなずいた。ノックスは異常に神経を立ててエラリーの口もとを見つめていた。
「しかし、いんちき師は、どうして、ノックス氏の沈黙を当てにすることができたのでしょうか」と、エラリーは無造作に続けた。「いんちき師がレオナルドの絵のいきさつをよく知っていさえすればいい、つまりノックス氏が違法の状態でその絵を所有しているという事実を知っていさえすればよかったのです。その場合、そしてその場合だけ、ノックス氏が自己防衛上、先週金曜日の夜、ハルキス邸にいた三人目の男であったことについて、沈黙を守るにちがいないと確信しうるはずです」
「頭がいいな、君は」と、ノックスが言った。
「今度だけはね」と、エラリーはにこりともしないで「しかし、この分析の一番大事な点は、次のようになることです。つまり、盗まれたレオナルドの絵のいきさつと、その絵とあなたの関係を全部知ることができた者は、だれでしょうか、ノックスさん。ひとつ、この点を煮つめてみましょう。
ハルキスは、その手紙によれば、だれにも話さなかったと言い、当人は今は死んでいます。次にあなたですが、ノックスさん、あなたは、ひとりだけをのぞいては、だれにも話さなかった――そして理論上その男は除外できます。その男というのは、あなたが話された鑑定人で――その鑑定人は昨日あなたの絵の鑑定をして、それがレオナルド・ダ・ビンチ以外のだれかの作だと告げたのです。しかもあなたが絵の話をしたのはつい昨夜のことで――あのにせの手がかりを仕組むには手おくれですからね。にせの手がかりは昨夜以前に仕組まれたものです。ぼくがそれを発見したのが昨日の朝ですからね。これであなたの鑑定人、つまりあなたから聞いて、あなたがあの絵を持っているのを知っているただひとりの人物は除外されるわけですよ、ノックスさん。……こんな分析は不必要に思われるかもしれませんが、あなたの鑑定人は、この事件では考慮のほかですし、犯人であるなどということは論外です。しかも、ぼくは反駁の余地のない論理の上に立って、自説を推しすすめたいので、念には念を入れているのです」
エラリーはゆううつそうに壁を見つめた。
「残っているのはだれでしょうか。グリムショーだけですが、あの男は殺されています。しかし――あなたのお話によれば、ハルキス邸におけるあの夜のグリムショーの言葉として――グリムショーはただひとりの男に話してある――その男だけが『世界じゅうで』盗品の絵のことを話したただひとりの人物だと言ったそうですね、ノックスさん。あなたがグリムショーの言葉をそのまま伝えているものとぼくは信じています。そのただひとりの人物は、グリムショーが自ら認めているように、あの男の相棒です。すると、その唯一の人物が、盗品である絵のいきさつと、それをあなたが持っていることを、すべて知っていて、一方では三つの汚れた茶碗というにせの手がかりを仕組み、しかも、一方ではあなたの沈黙を当てにしうる唯一の部外者ではありませんか」
「まさにそのとおりだ」と、ノックスがつぶやいた。
「このことから引き出される結論はなんでしょうか」と、エラリーが感情のない声で続けた。「グリムショーの相棒は、にせの手がかりを仕組みうる唯一の人物である。そして、殺人犯人は、にせの手がかりを仕組む理由をもつ唯一の人物である――ゆえにグリムショーの相棒は、殺人犯人でなければならない。ということになります。それに、グリムショー自身の話によれば、グリムショーの相棒は、あの運命の出来事の前の晩、ベネディクト・ホテルのあの男の部屋に同行した人物であり――察するに、あなたとグリムショーが先週金曜日の夜ハルキス邸から出て来たあとで、グリムショーに会って、その時、新しい遺言状の提案や、約束手形や、あなた方がハルキスと会われていた時におこった一切のことを知りえた人物なのです」
「もちろん」と、警視が考えこみながら「一歩前進というわけだが。しかし目下のところ、それだけでは、まったくどうにもならんな。先週木曜日の夜、グリムショーと同行した男はだれでもいいわけのもんだ。そいつの人相風体は何もわかっとらんのだからな、エラリー」
「そのとおりです。しかし、少なくとも二、三の事実を明確にしました。捜査の方向がわかったわけです」エラリーはものうげに一同を見まわしながら、たばこをもみ消した。「ひとつの重要な点は、わざとはぶいて、論及しませんでした。それは、つまり、――犯人が裏をかかれた点です。ノックス氏が沈黙を守らなかったことです。さて、なぜあなたは沈黙を守らなかったのですか、ノックスさん」
「話したじゃないか」と、銀行家が言った。「わしのあのレオナルドは、全然本物のレオナルドではなかったのだ。実際三文の価値もない」
「そうですね。ノックスさんは絵が実際に三文の値打ちもないのを発見されたから、お話しになったのです。――ざっくばらんに言えば、自分が『一杯くわされた』ので、全部のいきさつをぶちまけてもさしつかえないと思われたわけです。しかし、われわれにだけ話されたのですよ、諸君。言い換えれば、犯人、つまりグリムショーの相棒は今でもわれわれが絵について何も知らないものと信じているし、もしわれわれが奴の仕組んだにせの手がかりにひっかかっていれば、ハルキスを犯人ときめこむ線に向かうだろうと信じているでしょう。いいですか――そこでわれわれは一方では奴の思う壺《つぼ》にはまったようにし、一方では奴の希望にそむいてやる手があります。われわれはもはや、ハルキスを犯人ときめつけることはとても承認できません――間違いだとわかっていますからね。むしろ、犯人を泳がせて、望みを与え、次の出方を見てやりたいのです。そうすれば、奴は、何とかしなければならなくなって――どう言ったらいいか――つまり策動せざるをえなくなって、きっと、罠にかかってくるでしょう。それには、ハルキス犯人説を発表しようじゃありませんか。それから、ブレット嬢の証言を公表してハルキス犯人説が間違いだったことをばらすのです。その間、ノックスさんが出頭して話されたことについては一切伏せておく――ひと言も洩らさないでおくのです。そうすれば、犯人はノックスさんが沈黙を守っていると信じ、その沈黙を当てにして、それまでどおりに、あの絵が本物のレオナルドで百万ドルの値打があることに、いささかの疑念も抱かないだろうと思います」
「犯人は否応なしに身を守らなくてはならなくなるだろう」と、地方検事がつぶやいた。「われわれが引続いて犯人を捜査していることが奴にわかるだろうからな。いい案だよ、エラリー」
「犯人をおびえ上がらせる危険はありませんよ」と、エラリーが続けた。「ブレット嬢の新しい証言をもとにしてハルキス犯人説が間違っていたと発表してもね。犯人はやむをえない事として受けとらざるをえないでしょうからね。なぜなら、結局犯人は最初から、だれかが、茶碗のみせかけのからくりを見抜くだろうと、覚悟してかかっていたでしょうからね。だれかが、からくりを見抜いたとしても、それはただ運が悪かっただけで、必ずしも致命的な状態ではないと見てとるでしょう」
「シェニーの失踪をどうみますか」と、ペッパーが訊いた。
エラリーはため息をして「むろん、アラン・シェニーがグリムショーの死体を埋めたという、ぼくのすばらしいあの推定は、伯父《おじ》のハルキスが犯人だとする仮定の上に成立したものでした。ところが今、われわれには新事実の出現によって、グリムショーを殺した犯人が死体を埋めたのだと信じる理由が出てきたのです。いずれにせよ、今までの資料からは、シェニーの失踪の理由を説明しえません。待つよりほかに手はありません」
内線電話のベルが鳴ったので、警視は立って、それに答えた。「こっちへよこしてくれ。もうひとりは外に待たせておけ」警視はエラリーを振り向いて「おい、注文の男が来たぞ、エラリー」と言った。「ウィーキスがつれて来た」
エラリーがうなずいた。刑事のひとりがドアをあけて、ひょろ長いデメトリオス・ハルキスを通した。小ざっぱりした服で、きちんとしていたが、薄気味悪く、うつろなにたにた笑いで唇をゆがめていて、いつもよりいっそう白痴に見えた。執事のウィーキスが、山高帽を老いた胸に抱いて、そわそわしながら、控え室に腰かけているのが見えた。外のドアがあいて、ギリシア語通訳、脂ぎったトリッカーラが、急いではいって来た。
「トリッカーラ君、こっちだ」と、エラリーが大声で呼んで、デミーの骨ばった手が握りしめている小さな包みに目を移した。トリッカーラはもの問いたげな顔付きで、せかせかとはいって来た。だれかが控え室の方から事務室のドアをしめた。
「トリッカーラ君」と、エラリーが口を開いた。「持って来るように言われたものを持って来たかどうか、この白痴に訊いてくれ給え」
トリッカーラがはいって来るのを見て、明るくなったデミーのにやにや顔に、トリッカーラは一連の言葉を浴びせかけた。デミーは元気よくうなずいて包みを差し出した。
「そりゃ結構」と、エラリーは、ほっとして、目を見張りながら「ところで、何を持って来いと言われたのか、訊いてみて下さい、トリッカーラ君」しばらく荒っぽい言葉のやりとりがあってから、トリッカーラが言った。「みどり色のネクタイを一本。従兄ゲオルグの家の衣裳戸棚の中のみどり色のネクタイを持って来るように言われたと、言っています」
「よろしい。そのみどり色のネクタイを出すように言ってくれ給え」
トリッカーラが、はげしい口調で何かを言うと、デミーはまたうなずいて、不器用な指先で包みの紐《ひも》を解きはじめた。かなり長くかかった――そのあいだ一同は黙って、デミーの不器用な太い指先を見つめていた。やっと、堅い結び目を解き終ると、丁寧に紐を巻いてポケットに入れ、それから包み紙をひらいた。紙をとりのけると――デミーは赤いネクタイを差し出した。……すぐにわき上がった一同のざわめきを、エラリーが鎮めた。二人の司法官はあっと声を上げ、警視はいまいましそうに呪いの言葉を吐きすてた。
デミーは一同を見守ってうつろなにやにや笑いをしながら、黙って、それでよいと言われるのを待っていた。エラリーはくるりと後を向き、父の机の一番上の抽出しをあけてかきまわしていたが、やがて、からだを起こすと、吸取紙をとり出した――みどり色の吸取紙だ。「トリッカーラ君」とエラリーがはっきり言った。「この吸取紙が何色か、デミーに訊いてくれ給え」
トリッカーラが訊いた。デミーがギリシア語できっぱり答えた。「デミーは」と、通訳が半信半疑で「赤だと言っています」
「それでいい。ご苦労、トリッカーラ君。この男を連れて行って、控え室に待っている男と一緒に家へ帰ってよろしいと言ってやってくれ給え」
トリッカーラは白痴の腕をつかんで部屋の外に連れ出した。エラリーが二人を送り出してドアをしめた。
「これで」と、エラリーが言った。「ぼくが自信をもっていた論理が、どうして間違ったかがわかると思います。まさかデミーが――色盲だとは、全然、勘定にいれていませんでしたからね」
一同がうなずいた。「おわかりのとおり」と、エラリーが続けた。「ハルキスが自分のしめているネクタイの色を人から教えられずに、しかもデミーが予定表どおりに身仕度をしてやったのに、そのネクタイの色を知っていたのは、つまり色が見えたからだろうとぼくは推定したのです。予定表自体が間違っていたのではないかなどとは、てんで考えもしませんでした。先週土曜日の朝、予定表どおりに、デミーはハルキスにみどり色のネクタイを手渡したのです。ところが、今わかったように、デミーにとっては『みどり』は赤を意味する――つまり、色盲だったのです。言いかえれば、デミーはごく普通の部分色盲にかかっていたので、いつも、みどりが赤、赤がみどりに見えるのです。ハルキスはデミーの色盲を知っていて、この二色に関する限りは、それを考えに入れて予定表を組んでいたのです。赤いネクタイが欲しい時には、みどり色のを持って来いとデミーにいいつけなければならないことを心得ていたのです。あの予定表は、そういう目的に叶うようにできていたのです。つまり――あの朝、ハルキスは土曜日の予定表に実際に書きこまれている色とは、ちがう色のネクタイをしめていたにもかかわらず、人から教えられもせず、自分では見えなくても、赤いネクタイをしめていたことを知っていたのです。ハルキスはネクタイを取り換えなかった――つまり、デミーが九時に邸を出た時には赤いネクタイをしめていたことになるのです」
「なるほど」と、ペッパーが言った。「すると、デミーもスローンもブレット嬢も真実を述べていることになる。これは、もうけものだったね」
「そうです。さてここで今までとっておいた問題、つまり、謀殺者がハルキスの目が見えなかったことを知っていたかどうか、また、ぼく自身がうっかりひっかかったような事実に犯人もひっかかって、ハルキスが盲目ではなかったと、実際に信じていたかどうかの問題について、論じなければなりません。今では、大して役に立たない憶測《おくそく》ですが、しかし、蓋然性から言って、後者の方に分があるようです。犯人はたぶんデミーが色盲であるのを知らず、ハルキスが死んだ時に目が見えていたと信じていたし、今も信じているようです。いずれにしても、それはどうでもいいことですがね」と、エラリーは父の方を向いて「火曜と金曜日の間にハルキス邸を訪ねた者、全部の名簿をだれかがとっていませんか」
サンプスンが答えた。「わたしの部下の、コーハランが邸を張っていた。リストがあるかね、ペッパー」ペッパーがタイプした紙を差し出した。
エラリーは、すばやく目を通して「最近のまで、控えてありますね」その名簿には、発掘の前の日の木曜日にクイーン父子が見たリストにあげられていた訪問客までふくまれていて、なお、その時から発掘直後の捜査に至るまでの訪問客全員の名前が追加されていた。追加分には、ハルキス家の全員と、ネーシオ・スイザ、マイルズ・ウッドラフ、ジェームス・J・ノックス、ダンカン・フロスト医師、ハネーウェル、エルダー牧師、スーザン・モース夫人、その他、すでに表にあげられているロバート・ペトリー、デューク夫人ばかりでなく、故人の古い顧客――ルーベン・ゴールドバーグ、チモシイ・ウォーカー夫人、ロバート・アクトンなど数名の名が挙げてあった。また、ハルキス画廊の使用人も数名邸を訪ねていて、シモン・ブレッケン、ジェニー・ボーム、パーカー・インサルの名も出ていた。リストには信頼できる新聞記者の名も五、六人出ていた。エラリーはリストをペッパーに返した。「まるで町じゅうの連中が邸を訪ねたようですね……ノックスさん、あなたは、レオナルドの絵の話と、それを持っておられることを、絶対秘密にして下さるでしょうね」
「絶対に口外せんよ」と、ノックスが言った。
「そして十分に用心して下さい――新事態が発生したらすぐ警視に報告して下さい」
「いいとも」と、ノックスが立ち上がった。ペッパーが急いで外套《がいとう》を着せる手伝いをした。
「ウッドラフにやってもらっとる」と、ノックスは外套に手を通しながら「財産の法律的な世話を見てもらっとるのだ。ハルキスが遺言なしで死んだことになっとるので、てんやわんやなんだ。新しい遺言状が、どこかから出て来んといいな――出て来ると面倒になると、ウッドラフが言っとるよ。近親者としてのスローン夫人から、遺産管理の委任状をとっといたよ。新しい遺言状が出て来ないものとしてね」
「盗まれた遺言状がじつに厄介だな」と、サンプスンが不機嫌に「脅迫を理由に反訴する根拠は十分にあると思うが無効にするには、おそらく、かなり手数がかかるだろうからね。ときに、グリムショーの身よりの者がいるんだろうか」
ノックスはふんといって手を振って出て行った。サンプスンとペッパーも立ち上がって、互いに顔を見合わせていた。
「あなたの考えていらっしゃることがわかりますよ、検事」と、ペッパーがおだやかに言った。「ノックスが、本もののレオナルドではないと言ったあの絵の話は――つくり話だと思っておられるんでしょう」
「そうさ。別におどろくことでもないだろう」と、サンプスンが白状した。
「わしもだ」と、警視がぴしりと言った。「大物かどうか知らんが、あの男は火遊びをしとる」
「そうらしいですね」と、エラリーが相槌《あいづち》を打って「ぼくに関するかぎり、大して重要ではありませんが、あのひとは熱烈な蒐集家として有名ですし、どんなことをしても、あの絵を持ち続けようとしていることは明白ですね」
「やれやれ」と、老警視はため息をして「とんだ厄介ごとだな」
サンプスンとペッパーはエラリーに会釈して部屋を出て行った。警視もついて出て、記者会見に向かった。みんなはエラリーをひとりきりにして行った。――エラリーは、これといって用もなさそうだったが、頭の中は忙しく活動していた。次から次へとたばこを吸いながら、何かの記憶を、いくどもくり返してたぐっていた。警視がもどって来てみると、エラリーはひとりぼっちで、ぼんやりと眉をしかめながら靴を見つめて考え込んでいた。
「ぶちまけてやったよ」と、老警視はどっかりと椅子に腰を下ろしながら、うなるように言った。
「記者どもには、まずハルキス犯人説を話してやり、それからジョアン・ブレットの証言で、がた馬車がひっくり返った次第を知らせてやった。たちまち町じゅうにひろがるだろう。それから、われわれの友、殺人犯人君が、むやみに忙しくなるという段取りだ」
警視が内線電話をとってどなると、しばらくして秘書が足早にはいって来た。警視はロンドンのヴィクトリア美術館宛てに、極秘電報の電文を口述した。秘書が出て行った。
「さて、これでわかるぞ」と、老警視は分別くさく言って、かぎたばこ入れをとり出した。「あの絵の一件はどうなのか、見つけださねばならんな。今も外で、サンプスンと打ち合わせて来た。ノックスの言い分を信じるわけにはいかんよ……」警視は黙り込んでいるエラリーをしげしげと見つめて「おい、エラリー、あきらめちまえよ。これでこの世の終りというわけじゃない。ハルキス犯人説がつぶれたからって、なんてこともないぞ。そんなこと忘れちまうんだ」
エラリーはゆっくり目を上げた。「忘れろって? 一生忘れられませんよ、お父さん」エラリーは片手をにぎりしめて、ぼんやりと見つめていた。「この失敗で何より薬になったのは、次の教訓を得たことですよ――もしぼくがこの誓いを破るようだったら、頭に一発ぶち込んで下さいね。今後は一切、ぼくが関係するどんな事件においても、犯罪のあらゆる素因を完全につなぎ合わせ、あらゆるあいまいな点の説明がつくまではけっして結論を持ち出しませんよ」
警視は心配そうに「おいおい、お前は――」
「ぼくが仕出かしたへまを考えると、われながらじつに阿呆で――何とも思いあがった手のつけられない、ひとりよがりの大頓馬というところですよ――」
「間違っちゃいたが、お前の解答はすばらしかったと思うよ」と警視がなぐさめるように言った。
エラリーは何も答えず、父の頭上の壁のあたりを、いまいましそうに見つめながら、鼻眼鏡のレンズをみがき始めた。
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十七 STIGMA……烙印
謎《なぞ》の腕が延びて来て、アラン・シェニー青年をひっつかみ、地獄の底から真昼の明るみへひきずり出した。正しく言えば、その腕は、十月十日日曜日の夜、シェニーがバッファロ空港でシカゴ行き旅客機のキャビンヘ、おっかなびっくり乗り込もうとしていた時、闇《やみ》から延びて、ふりおろされたのだ。その腕は、ヘイグストローム刑事のもので――何世紀もの間、脈々とその血に伝わるノルウェー人の冒険心をたぎらせているアメリカ紳士の腕だ――きわめてがっちりしている。そんなわけでアラン・シェニー青年は、たしかに飲みすぎて酔眼もうろうたるからだを、次のプルマン急行につめこまれて、州を横断してニューヨーク市に運ばれることになった。
クイーン父子が電報でその逮捕を知らされたのは、神をたたえる喜びどころか、憂鬱《ゆううつ》そのものといった日曜日の一日をおくったあとだった。それで月曜日は朝早くから、警視の部屋で手ぐすね引いて、帰郷する反逆者と、当然ほくほくものの逮捕者を待ち受けていた。地方検事サンプスンと地方検事補ペッパーも、接待委員に加わった。こんなわけでセンター街のその一隅の雰囲気はじつに浮々していた。
「よう、アラン・シェニー君」と、警視が愛想よく、酔いが醒め果て、すっかり気むずかしくなり、しょげ返ったアラン青年が、ぐったりと椅子に身をなげるのを待って、声をかけた。「何か弁解することがあるかね」
アランのひからびた唇から、しわがれた声が出た。「話すことは断わります」
サンプスンがぴしりと言った。「逃げ出したりして、それがどういうことになるかわかっとるんだろうな、シェニー」
「逃げたって」シェニーの目がくもった。
「おお、逃げたんじゃないのか。遠出かね――遊山《ゆさん》ってわけかね、君」と、警視が笑いながら「そうか、そうか」と言ったと思うと、急にがらりと態度をかえた。得意の巻だ。「冗談じゃないぞ、子供じゃないんだ。君は逃げた。なぜだ?」
アラン青年は胸に腕組みをして、むっとして床を睨《にら》んだ。
「逃げ出したのは」――警視は机の一番上の抽出しに手を突っ込みながら――「ここにいるのがこわかったからだろう。どうだ」警視は、ヴェリー部長がジョアン・ブレットの部屋で見つけた、アランの書き置きを抽出しからとり出して、ひらひらさせた。
それを見るとすぐアランは真青《まっさお》になって、まるで生きている仇にぶつかったように目をむいた。
「一体、どこで手に入れたんですか」と、つぶやいた。
「どうやら、正気づいたらしいな。聞きたければ言ってやるが、ブレット嬢の部屋の敷物の下で見つけたんだ」
「あのひと――焼かなかったのか……」
「焼きすてなかったのさ。さあ、芝居はもうやめるんだ。すっかり話すか、それとも少し絞めあげねばならんかな」
アランは、気ぜわしく目ばたきして「どんなことになっているんですか」
警視が一同を振り向いて「情報が欲しいそうだ。こいつめ」
「ブレットさんは……あのひとは――大丈夫ですか」
「今のところは、大丈夫だ」
「というと」と、アランは椅子からとび上がって「あんたは、まさか――」
「まさか、どうしたというんだ」
アランは頭を振って、再び椅子に腰を下ろし、元気なく手首で目を押えた。
「Q」と、サンプスンが頭で合図した。警視は青年の乱れた髪に妙な一瞥《いちべつ》をくれると、部屋の隅に行って地方検事とあごをつき合わせた。
「奴が陳述を拒むとなると」と、サンプスンは小声で「われわれとしてはあくまで頑張るわけにはいかんよ。なんとか名目をつけて拘置する手もあるが、大して役に立ちそうもないな。要するに、奴に対しては何も握ってないんだからな」
「まったくだ。だが、あいつを目こぼしにしてやる前に、わしが納得できるように、ひとつ打っておきたい手がある」と、老警視はドアの方へ行き「トマス」と呼んだ。
ヴェリー部長が、巨人のように敷居をまたいで姿をあらわした。「来とるか」
「はい。連れて来ましょう」と、ヴェリーが姿を消した。
やがて、ヴェリーは、ベネディクト・ホテルの夜勤番頭の、ほっそりしたベルを連れてもどって来た。アラン・シェニーは、頑固に黙りこんだ顔の下に不安をかくしながら、じっとすわっていた。シェニーの目は、不安がその実体を見きわめるかのように、ベルに向けられた。
警視がシェニーに親指をつきつけて「ベル、この男は、一週間前の木曜日の夜に、アルバート・グリムショーを訪ねた連中のひとりじゃないか」
ベルは、青年の沈痛そうな顔をじっくり見つめた。アランがむっとして迷惑そうにベルを見返した。やがて、ベルが勢いよく首を振った。「ちがいます、警視さん。あの時の仲間じゃありません。この紳士は一度も見たことがありません」
警視は不満そうに鼻をならした。アランにはこの面通しの意味はわからなかったがその結果が失敗だったのをさとって、ほっとして椅子にゆったりよりかかった。「ご苦労だった、ベル。外で待っていてくれ」ベルは急いで引きさがった。そしてヴェリー部長がドアによりかかった。
「どうだね、シェニー、逃げ出したわけを、まだ話さんつもりかね」
アランが唇をしめして「弁護士に会わせて下さい」
警視は両手を上げた。「おやおや、その文句には耳にたこができてる。弁護士はだれだね、シェニー」
「もちろんマイルズ・ウッドラフですよ」
「一家の代弁人ってわけだな」と、警視が吐き出すように言った。「ところで、その必要はないな」と、警視はどっかとばかり椅子にすわり込んで、かぎたばこ入れを手にとった。「君を釈放するつもりだからな」と、警視は、せっかくの捕虜《ほりょ》を釈放しなければならないのが、いかにも惜しいという顔で、古い茶色のたばこ入れを振りまわしながら言った。魔術をかけられたように、アランの顔がさっと明るくなった。
「家へ帰ってよろしい。だが」と、老警視はひとひざのり出して「よく言っておくぞ。今度また、土曜日にやったようなふざけた真似をすると、いいか、鉄格子《てつごうし》の中にぶちこんでやるからな。そのためにわしが長官に呼びつけられてもかまわん。わかったな」
「はい」と、アランは口の中で言った。
「それに」と、警視はつづけて「言うまでもないが、君には監視をつけるぞ。行動のいっさいを監視させる。だから、また逃げ出そうとなんかしてもだめだ。一歩ハルキスの邸を出たら、その瞬間から始終見張りがついとるからな。おい、ヘイグストローム」呼ばれた刑事がとび上がった。
「シェニー君を家へ連れて行ってやれ。そして一緒にハルキスの邸にいるんだ。じゃまはしなくてもいいが、こいつが邸から出る時には、いつも兄弟のようにくっついているんだぞ」
「承知しました。さあ行きましょう、シェニーさん」と、ヘイグストロームはにやりと笑って青年の腕をつかんだ。アランは元気よく立ち上がると、刑事の手を払いのけて、くやしそうに肩をそびやかせたが、ヘイグストロームに肘《ひじ》をつかまれて大股に部屋を出て行った。
さて、この場面のあいだ、ほとんどひと言もしゃべらなかったエラリーに注目していただきたい。エラリーはきれいな爪をしらべたり、まるでそれまで一度も見たことがないとでもいうように鼻眼鏡をあかりにすかしてみたり、いく度もため息をしたり、たばこを何本も喫ったり、まるで涙が出るほど退屈といわんばかりの態度でいた。ちらっと関心を示したのは、シェニーがベルと対決させられている時だけだった。しかし、その関心も、ベルが見覚えがないと言ったとたんに消え去った。シェニーとヘイグストロームの背後でドアがしまり、ペッパーが「検事、どうやら、奴は殺人罪をのがれたようですね」と言った時に、耳をぴくりとさせた。
サンプスンが静かに言った。「それじゃあ、君の|どたま《ヽヽヽ》では奴を押えられると思うのかね、ペッパー」
「でも、逃げたじゃありませんか」
「そりゃたしかだ。だが、奴がただ逃げ出したと言うだけで、犯人なんだということを陪審に納得させることができると思ってるのか」
「そんな例もありましたよ」と、ペッパーが言い張った。
「ばかげとる」と、警視がぴしりと言った。「証拠はひとっかけらもないんだ。そのくらいのことは知ってなくっちゃ、ペッパー。奴はするりと抜けちまうだろう。あの若造に何か臭いところがあれば、きっと見つけ出してやる……トマス、何を考えとる? 情報を持ってうずうずしとるらしいな」
事実、ヴェリー部長は会話に割り込むすきがみつからなくて、一座の連中をあれこれと見まわしながら、口をあけたり閉じたりしていた。声をかけられて、ヴェリーはブラッブディンネーグ(ガリバーの巨人国)人のように大息して「仲間の二人をとっつかまえました」
「どの二人だ?」
「バーニー・スキックの曖昧《あいまい》屋にグリムショーをくわえこんだ女と、その亭主です」
「本当かい」と、警視はすっくとからだを起こして「そりゃあ大した情報だ。トマス、どうやって女を見つけた」
「グリムショーの前歴から洗い出したんです」と、ヴェリーはがらがら声で「リリー・モリソンとかいう女で――以前はグリムショーとくっついていたんですが、グリムショーがくらい込んでいるあいだに、結婚したんです」
「バーニー・スキックを呼び出せ」
「奴も連れてきて来て待たせてあります」
「でかしたぞ。みんな、ここへ連れて来い」
ヴェリーがあたふたと出て行った。警視は手ぐすねひいて、廻転椅子にふんぞり返った。部長が間もなく、赤ら顔の飲み屋の亭主を連れて来た。何か言いかけるその男に、警視が黙っているように命じると、ヴェリーは、すぐに他のドアから出て行った。そして、男と女をつれて、すぐもどった。その男女はおずおずとはいって来た。女はブリュネヒルデ(ニーベルンゲン伝説の女王)そっくり、大柄のブロンドで男まさりだった。男の方も似合いのつれ合いで――四十がらみの白髪まじりの大男で、アイルランド人鼻で、鋭い黒目だった。ヴェリーが言った。「警視、ジェレミア・オデール夫婦です」
警視が椅子をすすめると、二人はぎこちなく腰を下ろした。老警視は机の上の書類をかきまわし始めた――効果をねらっての、単なる機械的なしぐさだった。たしかに効《き》き目があって、二人の目は室内をじろじろ眺めまわすのをやめ、老人のやせた手もとに注がれた。
「さて、オデールの奥さん」と、警視が口をひらいた。「何も怖がることはないよ。これはただ形式だけだからね。あんたは、アルバート・グリムショーを知っとるね」
夫婦は目を見合わせたが、女房の方が目をそらした。「とおっしゃると――あの棺の中で絞め殺されて見つかったひとですか」と、女がきいた。のどにかかる声で、その底にたえず何かがひっかかっているようなひびきがあった。エラリーは自分ののどが痛むような気がした。
「そうだ。知っとるかね」
「あたしは――いいえ、知りません。新聞でみただけですわ」
「そうかね」警視は部屋の向うに身動きもせずにすわっているバーニー・スキックの方を振り向いた。
「バーニー、この婦人を知っとるかね」
オデール夫婦は、ぎくりとして顔を向けた。女がのどの奥であっと言った。亭主の毛むくじゃらな手が女の腕をつかんだので、女は平静をよそおい、青白い顔を元にもどした。
「たしかに知ってますよ」と、スキックが言った。その顔に汗がにじんでいた。
「最後に見たのは、いつかね」
「四十五番街のあっしの店でさあ。一週前――いや、二週前ぐらいの、水曜日の夜でさあ」
「その時、どんなことがあった?」
「へっ? そう、絞め殺された男と一緒でしたよ――グリムショーと」
「オデールの奥さんは、死んだ男と口争いをしていたかね」
「そうでさあ」と、スキックが笑い出して「ただね、奴《やっこ》さんはあの時はまだ死んじゃいなかったよ、警視さん――少なくともね」
「ふざけるんじゃない、バーニー。グリムショーと一緒にいたのは、たしかにこの婦人なんだな」
「そりゃあもう、たしかでさ」
警視は女の方を向いて「ところで、あんたはグリムショーに会ったことはない、そんな男は知らないと言うんだね」
女のうれきった唇がふるえ始めた。オデールが、前にのり出して苦い顔で「女房が知らないと言えば」と、どなった。「知らないんだ――わかったかね」
警視はその言葉を考えていた。「ふーん」と、つぶやいた。「いわくがありそうだな……バーニー君はこの威勢のいい兄ちゃんに、会ったことがあるかね」と、警視は、大男のアイルランド人に親指をつきつけた。
「いや、会ったことはないらしいでさあ」
「ご苦労、バーニー。店へ帰っていいよ」
スキックは靴をきしませながら出て行った。
「オデールの奥さん、あんたの結婚前の名前は?」
唇のふるえがいっそう激しくなった。「モリソンです」
「リリー・モリソンだね」
「そうよ」
「オデールと結婚してどのくらいになるね」
「二年半よ」
「そうかね」と、警視はまたしても架空の書類に目を通すようなふりをして「さて、わしの言うことをよくきくんだ、リリー・モリソン・オデールさん。ここに、すっかり調べあげた記録がある。アルバート・グリムショーが、つかまって、シンシンに送られたのは五年前だ。あの男が逮捕された当時の、あんたとあの男の関係の記録はない――それは事実だ。しかし数年前、あんたはあの男と同棲していた。――住所はどこだった? ヴェリー部長」
「十番街一〇四五です」と、ヴェリーが答えた。
オデールがとび上った。その顔は紫色になっていた。「奴と同棲していたって、こいつが」と、わめいた。「小汚ない野郎に、女房のことをつべこべ言わせてたまるか。よせよ。さあ、立て、このしなび風船め! 一発くらわせてやる――」と、大きなげんこつをかためて、宙に振りまわしながら、背を丸めてにじり寄った。すると、がくんと頭が背骨にめり込むような勢いで、のけぞった。ヴェリー部長の鋼鉄のような手が男のえり首をひっつかんで、ひきもどしたのだ。ヴェリーは、赤ん坊ががらがらを振りまわすように、二度ほどオデールをゆすぶった。オデールは口をあけたまま、たたきつけられるように椅子にもどされていた。
「いい子にしとるんだ、坊や」と、ヴェリーがおだやかに言った。「お前はお役人様をおどしとるんだぞ。それがわからんのか」部長はオデールのえり首をつかんでいる手をゆるめなかったので、オデールは息もたえだえになってすわっていた。
「おお、おとなしくしとるだろうよ、トマス」と、警視が、何事もなかったように言った。「ところで、オデールの奥さん、わしが言ったとおり――」
大男の亭主が手玉にとられるのを、たまげて見ていた女は、ごっくりと生《なま》つばを飲んだ。「あたしは何も知りませんよ。何をおっしゃってるのかわかりません。グリムショーなんて名のひとはまるっきり知りませんわ。会ったこともありませんわ――」
「みんな『知りません』だね、オデールの奥さん。グリムショーが二週間前に、刑務所を出るとすぐあんたに会ったのはなぜだね」
「返事するなよ」と、大男がしわがれ声で言った。
警視が男の方へ鋭い目を向けた。「殺人事件捜査に当たって警察に協力するのを拒否したかどで、お前を逮捕できるんだぞ。それを知っとるのか」
「できるものならやってみろよ」と、オデールが低い声で言った。「おれにゃ|ひき《ヽヽ》があるんだぜおれにゃ。お前なんざ平っちゃらさ。おれは市庁のオリヴァントをよく知ってるんだ」
「きいたかね、地方検事殿。市庁のオリヴァントを知っとるそうだ」と、警視がため息をつくように言った。「この男は、けしからん勢力をかさにきようとしてるらしい……オデール、お前たちの一味は何をやっとるんだね」
「一味なんかないよ」
「おお。まともに暮しとるんだな。商売は何をやってるんだ」
「鉛管工事の請負《うけおい》さ」
「どうりで力《りき》がある……どこに住んどる、アイルランド人」
「ブルックリンさ――フラットブッシュ地区だ」
「こいつに何かあるか、トマス」
ヴェリー部長はオデールのえり首をゆるめた。「前はありません、警視」と、残念そうに言った。
「女の方は、どうかね」
「まともにやって来たらしいです」
「そらね」と、オデールの細君が勝ち誇ったように胸を張った。
「おお、するとまともにならなきゃならんようなことが、何か以前にあったことを認めるんだね」
牝牛のように大きな目を、いっそうむいたが、女は頑固に黙りこくっていた。
「どうですか」と、エラリーが椅子に沈み込んだまま、ものうげに言った。「もの知りのベル君を呼んでみたら」
警視がうなずくとヴェリーがすぐ外に出てホテルの夜勤番頭を連れてもどって来た。「このひとを見てくれ、ベル」と、警視が言った。ベルの、のど仏がぐりぐり上がったり下がったりした。そして、ふるえる指を、ジェレミア・オデールのけげんそうに睨みつけている顔に突きつけて「この男です。こいつです」と、叫んだ。
「は、はあ」と、警視は立ち上がって「どっちの男だったね、ベル」
ベルはちょっとぽかんとしていた。「ちえっ」と、つぶやいて「はっきり覚えてないな――そうだ、思い出したぞ。このひとは、しまいから二番目に来たひとだ、ひげを生やしてるお医者さんの前にね」ベルは自信を深めたらしい大声で「あの時のアイルランド人ですよ――私がお話した大男ですよ、警視さん。はっきり思い出しました」
「間違いないね」
「誓いますよ」
「ご苦労だった、ベル君。引き取っていいよ」
ベルが出て行った。オデールの巨大なあごが、がっくりうなだれて、その黒い目に絶望の色が浮かんだ。
「さあ、どうだね、オデール」
オデールはふらふらになった拳闘選手のように頭を振った。「何がだね」
「今出て行った男に会ったことがあるだろう」
「ないね」
「あの男がだれか知っとるだろう」
「知らないね」
「ベネディクト・ホテルの夜勤番頭さ」と、警視が楽しそうに言った。「あのホテルに行ったろう」
「いいや」
「あの男は、お前が九月三十日木曜日の夜十時から十時半の間に、受付に来たと言っとる」
「嘘っぱちだ」
「お前は受付で、アルバート・グリムショーが泊っているかどうかを訊いた」
「そんなことしないさ」
「グリムショーの部屋の番号をベルに訊いてから上がって行った。三一四号室だ、オデール、おぼえているだろう。覚えやすい番号だ……どうだね」
オデールはいきなり立ち上がった。「いいかね。おれは納税者で、まともな市民なんだ。お前さんたちが、ほざいとることは、おれにはわからんよ。ここはロシアじゃないぜ」と、どなり出した。「おれにだって権利がある。さあ、リリー、行こう――おれたちをここに引きとめておく権利はないさ」
女はおとなしく立ち上がった。ヴェリーがオデールの後ろに、にじり寄って、一瞬、二人の男はいまにもぶつかり合いそうだったが、警視はヴェリーに合図して、道をあけさせ、オデール夫婦が、最初はゆっくりと、やがてあわてふためいて出口の方へ急ぐのを、じっと見守っていた。夫婦はあたふたとドアを出て消え失せた。
「だれかに尾行《つけ》させろ」と、警視が、ひどくむっつりして言った。ヴェリーがオデール夫婦の後から出て行った。
「あんな頑固いってんばりの証人どもにぶつかったことはない」と、サンプスンがつぶやいた。「裏に何かあるんだな」
エラリーが小声で「ジェレミア・オデール先生の言い分を聞きましたか、サンプスンさん。ソヴィエト・ロシアときましたね。おなじみの赤の宣伝ってやつですよ。ロシア様々。それなくて、貴重なるわが市民生活、なにするものぞですね」だれもエラリーの言葉に注意を払う者はいなかった。
「くさいですね。どうも」と、ペッパーが「グリムショーという奴は、わんさと後ろ暗い仕事に関係していたらしいですね」
警視が仕方なさそうに両手をひろげた。一同はかなり長く黙り込んでいた。しかし、ペッパーと地方検事が立って帰りかけた時、エラリーが明るい声で行った。「テレンティウス〔ローマの劇詩人〕曰く『いかなる運命に遭《あ》おうとも、心静かに耐えるべし』と」
月曜日の午後おそくまで、ハルキス事件は全くの現状維持の状態で、何の変化もおこらなかった。警視は日課の雑用にかかっていたし、エラリーはエラリーで自由にしていた――と言っても、それは主として、むやみやたらにたばこをふかしたり、ポケットからサッフォー〔ギリシア女流詩人〕流の甘い恋愛詩集の小冊子をとり出して、あちらこちらひろいよみしたり、その合い間には、父の事務室の革椅子で、うつらうつらしながらしきりに瞑想《めいそう》していた。どうやら、テレンティウスの忠言に従うよりも、それを引用する方がやさしいらしかった。
クイーン警視が日課の仕事にきりをつけて、息子を促して少なくともここより楽しい、クイーン家へ向かってまさに帰ろうとしている時、いきなりどかんときた。ペッパーが興奮で真赤になり、妙に意気揚々と部屋にとび込んで来たのだ。ペッパーは一枚の封筒を頭の上でひらひらさせながら「警視さん、クイーン君、これを見給え」と、その封筒を机の上に放りだして、気ぜわしく歩きまわった。
「今、郵送されて来たばかりです。ご覧のとおり、宛名はサンプスン。検事が留守なので――秘書が開封して私にまわして来たんです。そのまましまっておくのはもったいない。読んでごらんなさい」
エラリーはすぐ立って父のそばに行った。そして一緒にその封筒を見つめた。安手のもので、宛名はタイプしてあり、消印はその朝グランド・セントラル駅の郵便局でおされたものだった。
「おや、おや、これはなんだね」と、警視がつぶやいた。用心しながら、封筒から、これもまた安手な便箋を一枚引き出した。そして、指ではじいて便箋をひろげた。ほんの数行、文句がタイプされていた。――日付けも、前文も、サインもなかった。老人がゆっくりと、声を出して読んだ。
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筆者は(差出人のこと)グリムショー事件に関して、耳よりな――有益で耳よりな――情報をつかんだ。地方検事にも興味があるはずだ。それをお報せする。アルバート・グリムショーの家系を洗ってみなさい。そうすれば、あの男に兄弟があったことがわかる。
しかし、その兄弟が、現に捜査線内にいることは、君たちには、とうてい、見つかりそうにない。事実、その兄弟は現在、ギルバート・スローンと名乗っている。
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「どうですか」と、ペッパーが大声で「これを、どう思いますか」
クイーン親子は顔を見合わせてから、ペッパーを見た。「事実なら面白いな」と、警視が言った。
「だが、面白半分の投書かもしれんぞ」
エラリーがおだやかに「本当としても、大して重要とは思えませんね」
ペッパーはむっとして「えっ! そんなばかな」と、言った。「スローンはグリムショーに会ったことがないと言ったじゃありませんか。それが、兄弟だとしたら重大じゃありませんか」
エラリーが頭を振って「何が重大なんですか、ペッパーさん。スローンが、前科者を兄弟として認めるのをはずかしがったという事実がですか。特にその兄弟が殺されたのを目の前においてね。ちがいますね。おそらくスローンさんは社会的地位を失うのをおそれて黙っていたので、それ以外には後ろ暗いものは何もないと思いますよ」
「そうさ、ぼくだって確信をもってるわけじゃない」と、ペッパーが言い張った。「だが、うちのおやじもぼくの見方が正しいと言うだろうよ。警視、あなたはこいつをどうするつもりですか」
「まずお前たちが、らちもないいがみ合いをやめたら」と、警視がむぞうさに言った。「この手紙の裏に何か重要な点があるかどうか検討してみよう」
警視は内線電話をかけた。「ランバートさんかね。クイーン警視だが、わしの部屋まですぐ来てくれんかね」警視は席にもどって「専門家の意見をきいてみよう」
ユナ・ランバート嬢が、黒みがかった髪に、つややかな灰色の線がまじり、目鼻立ちのはっきりしたその若々しい顔をあらわした。
「何かご用でしょうか、警視さま」
老人は例の手紙を机ごしに放り出した。「これを鑑定してくれんか」
残念ながら、ランバートには大して鑑定できなかった。わかったことは、その手紙が、よく使い込んだ最新型のアンダーウッドのタイプライターで打たれたもので、顕微鏡で調べれば活字のくせがすぐはっきりするだろうということぐらいで、それ以上たいして役に立つ意見は述べられなかった。しかしながら、同じ機械で打った他の書類があればきっと識別できると思うと言った。
「さて」と、警視はユナ・ランバートを放免すると、いまいましそうに「どうも、専門家からも奇蹟を期待できんらしいな」警視はヴェリー部長に手紙を持たせて警察の実験室にやり、写真をとらせ、指紋を調べることにした。
「地方検事の行き先をつきとめて」と、ペッパーが、うかぬ顔で「この手紙の件を報告しなくっちゃ」
「そうしなさい」と、エラリーが言った。「それと一緒に、おやじとぼくが、すぐに、東五十四番街十三番地の空家へ行くと言っといて下さい――ぼくたち二人で」
警視は、ペッパーと同じぐらい驚いた。「どうするつもりなんだ、ばかめ。リッターがノックスの空家を調べたのは――お前も知っとるじゃないか。何を考えとるんだ」
「考えは」と、エラリーが答えた。「まとまってはいませんが、目的は、はっきりしてますよ。言ってみれば、ぼくはあなたの大切な部下リッター君の誠実さをひそかに信頼してはいますが、あの男の観察力にはいささか不安を感じているんです」
「いい勘かもしれませんよ」と、ペッパーが言った。「つまり、リッターにも何かの見落しがあるかもしれませんからね」
「ばかな」と、警視が声をとがらせた。「リッターは一番信頼できる部下のひとりだぞ」
「ぼくは今日の午後ずっとここにすわっていて」と、エラリーは、いまいましそうにため息をした。「ぼくの悪いくせで、この複雑怪奇な問題をつらつら考えてみたんです。たしかに、あなたの言うとおり、閣下、リッターは、あなたの最も信頼する部下のひとりにちがいないと思いますよ。だからこそ、ぼくは自分で現場を調べてみることにしたんです」
「まさかわしの目の前で言うつもりじゃないだろうな。リッターが――」警視は目をむいた。
「ぼくの信仰にかけて、クリスチャンの口ぐせですがね――そんなことは言いません」と、エラリーが答えた。「リッターは誠実で、信頼できるし、勇敢で良心的で、あの仲間では上々です。ただね――今後、ぼくは自分の二つの目玉と、あさはかな脳味噌、つまり『内在の意志』が、自動的に、無目的に、不滅の英知をもってぼくに与えることにしたもの、以外は何も信じないことにきめたのです」
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十八 TESTAMENT……遺言
警視とエラリーとヴェリー部長が、十三番地の空家の陰気な玄関の前に立ったのは夕方だった。ノックスの空家は、隣りのハルキス邸と同じ形だった。ぼろぼろになった褐石には年月のひびわれがはいり、大きな旧式の窓の部分は灰色の板で目かくしされて――立ち入り禁止の建物だった。そのわきのハルキス邸には燈《あかり》がともり、たえず見まわる刑事たちの姿が見えた。――くらべてみると、むろん、ハルキス邸の方が陽気だった。
「鍵《かぎ》を持っとるか、トマス」さすがの警視さえ、のしかかるような陰気さに気押されて、声をひそめた。ヴェリーが黙って鍵を出した。
「前進」と、エラリーが低く言い、三人は歩道の門扉《もんぴ》を軋《きし》ませながら押して通った。
「二階が先ですか」と、部長が訊いた。
「そうしよう」三人は切石の階段を登った。ヴェリーが大きな懐中電燈をとり出し、わきの下にはさみ、玄関のドアの錠をはずした。そして三人は、あなぐらのような玄関の土間にはいった。ヴェリーが懐中電燈をふりまわして、内扉《なかとびら》の錠前を見つけ、ドアをあけた。三人はより添って進み、真暗なあなぐらみたいな部屋にはいった。部長の懐中電燈のゆらめく光で照らし出されたところでは、そこは隣りのハルキス邸の玄関の間と全く同じ広さと形なのがわかった。
「さあ、始めよう」と、警視が言った。「お前の考えなのだぞ、エラリー。先に立って行け」
エラリーの目は、ゆらめく灯《ひ》の中で、妙にきらきら光っていた。エラリーはちょっとためらって見まわしていたが、やがて広間の先に黒い口をひらいているドアの方へ歩いていった。警視とヴェリーが、おとなしくついて来て、部長が懐中電燈を高くかかげた。
部屋はどれも全くがらんとしていた。――明らかに持ち主がこの建物を引き揚げる時に造作をはずしたのだ。少なくとも、階下の部屋には何ひとつ――文字どおりちりっぱひとつ――見当たらなかった。ほこりの積もったがらんとした部屋部屋には、リッター刑事とその同僚たちが最初に捜査した時に歩きまわった足跡が、あちこちに残っていた。壁は黄ばみ、天井はひびわれ、床はそりかえって、歩くとがたぴし音がした。
「気がすんだろう」と、階下の部屋部屋を全部見まわった時、老人が、うなるように言った。老人はほこりを吸いこんで、激しく咳をし――息をつまらせ、あえぎながら、ぶつぶつ不平を言った。
「まだまだ」と、エラリーが言った。そして、かざりっけのない木の階段を上がって行った。一同の足音が、がらんとした家の中に、どかどかとひびいた。しかし――二階でも、何ひとつ見つからなかった。ハルキス邸と同様に、二階は寝室と浴室だけだった。だが寝室にはベッドも敷物もなく、とても人が住まえそうなものではなかった。老人はだんだんいらだってきた。エラリーは古い衣裳戸棚をのぞいてまわった。熱心にさがしまわったが、何ひとつ、紙屑さえ見つからなかった。
「まだ満足せんのか」
「ええ」
三人は、がたぴしの階段を屋根裏にのぼった。そこにも、何ひとつなかった。
「まあ、こんなもんだな」と、警視が言って、一同は階段の間に降りた。「さて、むだ骨折りが終わったぞ。家へもどって何かたべよう」
エラリーは返事もせずに考えてみながら、鼻眼鏡をくるくるとまわしていた。やがて、ヴェリー部長を見つめると「地下室にこわれたトランクがあるとかなんとか、言っていなかったかな。ヴェリー君」
「そう。リッターがそんなことを報告していましたよ、クイーンさん」
エラリーは玄関の間の奥の方へ歩いて行った。階上に向かう階段の裏に、ドアがひとつあった。エラリーはそれをあけて、ヴェリーの懐中電燈を借り、下の方を照らした。かしいだ階段のふみ板が目の前に浮かび上がって見えた。
「地下室だ」と、エラリーは言った。「降りてみよう」三人は危げな階段を降りて、家全体の間口と奥行がある広い部屋にはいった。幽霊でも住みそうな場所で、懐中電燈の光で多くの影が生き物のようにうごめき、階上《うえ》の部屋よりも、いっそうほこりだらけだった。エラリーは階段から十二フィートばかり離れた場所へ、先に立ってすたすた歩いて行った。そして、ヴェリーから借りた懐中電燈の光をさし向けた。大きな古いぼろトランクが、そこにころがっていた。――鉄の|たが《ヽヽ》をはめた四角いぼろトランクで、ふたがしまり、こわれた錠前が不気味に突き出ていた。
「そいつの中からは何も見つかりゃせん」と、警視が「リッターがのぞいてみたと報告しとるよ、エラリー」
「むろんのぞいてみたでしょうよ」と、エラリーが、つぶやいて、手袋をはめた手でふたを押し上げた。そして、ぼろぼろになったトランクの内側を、あちこち照らしてみた。空だった。しかし、まさにふたを下ろそうとした時、エラリーの小鼻がひきつり、ふるえ出した。エラリーはすぐ前かがみになって、くんくん匂いをかいだ。
「見つけたぞ」と、エラリーはおだやかに「お父さん、ヴェリー君、ちょっとこの匂いをかいでごらんなさい」
二人の男はくんくん鼻をならした。からだを伸ばすと、警視が低い声で「畜生、棺をあけた時のと同じ匂いだ。ただ、もっとかすかで、ずっと淡いが」
「たしかにそうです」と、ヴェリーが深い低音をひびかせた。
「そうですよ」と、エラリーが手をはなすと、ふたは、ばたりとしまった。「そうですよ。いわば、アルバート・グリムショー氏の最初の憩《いこい》の場所が見つかったわけです」
「こいつは、めっけものだ」と、警視が感じ入ったように言った。「だが、リッターのたわけが――」
エラリーが警視や部長に言うより、自分に言いきかせるように続けた。「グリムショーは、ここか、この近所で絞め殺されたんだろう。金曜日の夜更けだ――十月一日の。死体はこのトランクに詰め込んで、ここに置いてあったのだ。死体を他に移すという計画が犯人には最初からなかったと知っても別に驚くことはないな。この古い空家は死体を隠すにはもって来いの場所だからな」
「それから、ハルキスが死んだのだな」と、老人も考え込みながら言った。
「そうです。次にハルキスが死んだのです――その次の日、二日の土曜日に。そこで犯人は、永久に見つからない被害者の死体の隠し場所をつかむ、絶好のチャンスを見つけたのです。ハルキスの葬式のすむのを待ち、火曜日か水曜日の夜、ここに忍び込んで、死体をかつぎ出したのです」――エラリーは言葉をきって、すばやく、真暗な地下室の奥へ歩いて行き、雨ざらしのドアを見てうなずいた。――「このドアを通って中庭にはいり、それから門をくぐって墓地にはいったのです。そして納骨堂まで三フィート掘り下げて……闇にまぎれての仕事です。墓や、死体や、墓地の匂いや、おそろしい幽霊なんかを全く気にしなければ、至極やさしいものです。犯人先生は現実的な想像力しか持ち合わせない紳士でしょうよ。そうだとすれば、グリムショーの腐りかけた死体は、ここに四、五日置いてあったことになりますね。これで話が合うでしょう」と、エラリーは顔をしかめて「死臭の説明がつきます」
エラリーは懐中電燈の光であたりを照らしまわした。地下室の床は、一部分はコンクリートで一部分は木だったが、ほこりとトランクがあるほかは、全くがらんとしていた。しかし、すぐそばに、天井に向かって伸び上がっている、あやしげな形の、薄気味のわるいずんぐりしたものが、ぼんやりと照らし出された。……懐中電燈で照らしまわしてみると、その怪物は大きな暖炉で――家の中央暖房装置なのがわかった。エラリーはつかつかと歩みより、さびついた火口のハンドルをつかみ、ひきあけて手を突っ込み、懐中電燈で中を照らした。そして、すぐに大声をあげた。
「何かある。お父さん、ヴェリー、早く」
三人はうつむき込んで、錆《さび》ついたとじぶた越しに、暖炉の中をのぞいた。火床の隅に新しい灰が少し積もっていた。その灰の中から小さな――ごく小さな――厚みのある白い紙のはしがのぞいていた。エラリーはポケットの底から拡大鏡をとり出して、懐中電燈の光をその紙に当てて、熱心にのぞいていた。
「どうやら」と、エラリーは、からだを起こして拡大鏡を持つ手を下ろしながら、ゆっくり言った。「とうとう、ハルキスの最後の遺言状を見つけたようですよ」
そのもえ残りの紙を、どうやって、手のとどかない隠し場所から取り出すかという問題をとくのに、善良なる部長は、たっぷり十分もかかった。部長は大きすぎて、とても灰取口にもぐり込めないし、警視もエラリーも、そのきゃしゃな身で何年も積もり積もった灰ほこりをかきわけてはいる気にはならなかった。こんな問題の解決にはエラリーはものの役に立たなかった。もっと職人的に気が働く部長の方が、どうしたらその紙切れを取り出せるかの方法を考え出すのには役だった。部長は、エラリーの携帯用捜査用具箱から針を一本取り出して、エラリーのステッキの先の金具に刺し込み、即製のやりをつくり、四つんばいになって、大して骨も折らずに、どうやらもえ残りの紙切れを突きさして、取り出すことができた。部長は灰もかきまわしてみたが、手の下しようもない――すっかりこげていて、検査する見込みがなかった。
もえ残りの紙片は、エラリーが予見したように、ハルキスの最後の遺言状の一部なのは明白だった。さいわい、火をかぶっていない部分に、ハルキス画廊の相続者の名があった。ひどく乱暴な字だが、警視はすぐに、それがゲオルグ・ハルキスの筆跡であることを認めた。その名はアルバート・グリムショーだった。
「これはまさにノックスの話とぴったりだ」と、警視が言った。「そして、新しい遺言状で削除された男が、スローンなのが明白になった」
「そうらしいですね」と、エラリーがつぶやいた。「それに、この遺言状をもやした男は、大したへまをやったもんですね。……困ったなあ、じつに困ったなあ」エラリーは焼けこげのついた紙片をじっと見ながら、鼻眼鏡でかちかちと歯をたたいたが、何を悩んでいるのか、なぜそんなに困るのかは説明しなかった。
「明白になったことがひとつある」と、警視が満足そうに言った。「スローン君には、グリムショーと兄弟なのを報《し》らせてきた匿名の手紙と、この遺言状について、たっぷり説明してもらわねばならんな。もうすんだか、エラリー」
エラリーはうなずいて、もう一度、地下室を見まわした。「ええ、これですっかり終ったようですね」
「じゃあ、行こう」
警視はもえ残りの紙片を札入れの中にていねいに納めて、先に立って地下室の出口のドアへ向かった。エラリーがもの思いに沈みながら、それにつづき、ヴェリーが殿《しんが》りをつとめたが、どう見ても、その足どりは悠然というわけにはいかなかった。ヴェリーのがっちり盛り上がった肩でさえ、のしかかる死の闇の重さを感じないではいられなかったのだ。
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十九 EXPOSE……解明
クイーン父子とヴェリー部長がハルキス邸の玄関に立った時に、ウィーキスが、ハルキス家の者はみんな在宅ですと、すぐ告げた。警視がかみつくように、ギルバート・スローンを連れて来いと命じると、ウィーキスが急いでホールの奥の階段の方へ行ったので、三人はハルキスの書斎へ通った。
警視はすぐに卓上の電話機のひとつに近づき、地方検事の事務所を呼び出して、手短かにペッパーと話して、紛失したハルキスの遺言状らしいものを発見した次第を説明した。ペッパーはすぐ出向くと大声で返事してきた。それから、老人は警察本部を呼び出して、大声で二、三の質問をし、二、三の答えを聞き、ぷんぷんしながら受話器をかけた。
「匿名の手紙は何も手懸りなしだ。全然指紋もない。ジミーの意見では、あの手紙を書いた奴は、おそろしく用心深いらしい。――おはいり、スローン君、こっちへ。訊きたいことがある」
スローンは戸口でもじもじしていた。「何か新しい情報ですか、警視さん」
「はいるんだよ、君。くいつきゃせんよ」
スローンは、はいって来て椅子のはしに腰かけ、きゃしゃな白い両手を、しっかりひざの間で握りしめていた。ヴェリーはのしのしと部屋の隅へ行って、椅子の背に外套をぬぎすてた。エラリーはたばこに火をつけて、まき上がる煙ごしにスローンの横顔をじろじろ見つめた。
「スローン君」と、警視がぶっきらぼうに「君がいいかげんな嘘をついとる尻尾をとらえたぞ」スローンは真青になった。「それはまた、どういうことですか。私はたしかに、私は――」
「君は初めから、アルバート・グリムショーを見たのは、ハルキスの棺を墓地から掘り出した時が最初だと言い張っていたな」と、警視が言った。「それに、ベネディクト・ホテルの夜勤番頭ベルが、九月三十日の夜グリムショーを訪ねた人物のひとりは君だったと確認したあとも、君は明らかに嘘を言い通した」
スローンがつぶやくように「もちろん、もちろん。あれは事実じゃありませんもの」
「あれは事実じゃないって?」と、警視は、のり出してスローンのひざをぽんとたたいた。「そうかね、ギルバート・グリムショー君、君がアルバート・グリムショーの兄弟なのを発見したと言っとく方がいいらしいな」スローンはがっくりとなった。だらんとあごを下げ、目をむき出し、ぺろぺろと唇をなめ、額には汗の玉がにじみ、無意識に両手をひんまげていた。二度ほど何か言おうとしたが、そのたびに意味もないぶつぶつ声が出たにすぎなかった。
「あの時は酔っぱらっとったのかね、スローン。さあ、すっかり吐いちまうんだ」と、警視が、にらみつけた。「一体、これはどうしたことかね」
やがてスローンは、やっと言葉をみつけたらしい。「どうして――いったい、どうしてそれがわかったんですか」
「どうしてだっていい。ありゃ本当なんだろうな」
「そうです」スローンは額をなでて、その脂じみた手を下ろした。「そうです。でも、どうしてわかったのか、さっぱり――」
「話すんだ、スローン」
「アルバートは――おっしゃるとおり、私の兄弟でした。ずっと以前に、父母が死んだ時、私たち二人だけが残されたのです。アルバートは――いつも面倒をひき起こすんです。それで私たちは喧嘩して別れてしまったのです」
「それで君は、改名したんだな」
「そうです。もちろん、私の名はギルバート・グリムショーでした」と、スローンは生つばをのみ、涙ぐんだ。「アルバートは――何かつまらない罪で――刑務所に送られました。私は――つまり、恥と世間の取り沙汰《ざた》に耐えられなかったのです。それで、母の旧姓のスローンを名乗って、もう一度、すっかり出直すことにしたのです。その時、今後は一切縁を切るとアルバートに言ってやりました……」
スローンは身もだえした。言葉はゆっくりと、何か必要にせまられた内部のピストンに送られるように出て来た。
「あれは知らなかったのです。――私が名を変えたことは話してやりませんでしたからね。私はできるだけ、あれから遠くはなれて暮しました。私の仕事があれにわかって、この上面倒をかけられたり、金をしぼられたり、兄弟であることを公表されたりしたら叶いませんからね。……あれは兄弟ですが、手のつけられない悪人でした。父は学校教師で――絵を教え、自分でも描いていました。私たちは、上品な文化的な環境で育ったのです。どうしてグリムショーが、あんなに悪くなったのか、てんで見当がつきません――」
「昔話は結構だ。目の前の事実が知りたい。木曜日の夜、ホテルにグリムショーを訪ねたんだろう」
スローンはため息をした。「今となっては、否認しても何の役にもたたないでしょうね……そうです。私はあれの腐れきった生活を、いつもずっと目を離さずにいて、あれがだんだん悪くなっていくのを見ていました――けれど、あれは私が見張っていることに気がつかなかったのです。私は、あれがシンシンにはいっているのを知って、釈放されるのを待っていたのです。あの火曜日に出て来た時、どこに泊っているかをつきとめて、木曜日の夜、ベネディクトへ話しに行ったのです。あれにニューヨークにいてもらいたくなかったのです。私はあれに――そうです、どこか遠くへ行ってくれと……」
「行っちまったじゃないか。うまく」
「ちょっと、スローンさん」と、エラリーが口を出した。スローンは、ふくろうのようにびっくりして、目玉をむき、首を振り向けた。「木曜日の夜、ホテルの部屋を訪ねる前に、ご兄弟に最後に会われたのは、いつですか」
「顔を会わせたということですか」
「そうです」
「私がスローンと名乗ってからは、ずっと、会ったり話したりしたことは全くありません」
「感心だな」と、エラリーはつぶやいて、たばこを喫いはじめた。
「その晩、君らのあいだにどんなことがあったね」と、警視が訊いた。
「何にもありませんでした。誓いますよ。私はあれに町を出るようにたのみ、説き伏せようとしました。金を出そうと言ったのです……あれはびっくりしていました。そして、私に会おうとは夢にも思っていなかったらしく、薄気味悪いほど喜んでいましたが、やはりそれほど不愉快でもなさそうでした。……私はすぐに、会いに来たのが間違いだった、寝ている犬は寝かせておく方がよかったのだと悟りました。というのは、もう何年も私のことなど思い出したこともないとはっきり言ったからです。――兄弟があるなんてほとんど忘れていた。――そんな口ぶりだったんですからね。だが後悔先にたたずでした。私は、あれが町から出て、もどって来ないなら五千ドル出そうと言ってしまったんですからね。お金は小額紙幣で持って行ったのです。あれはその約束をして、ひったくるように金を受け取りました。それで私は帰ったのです」
「その後、生きているあの男に会ったのは、いつかね」
「いいえ、いいえ、あれは町を出て行ったものとばかり思っていました。棺が開かれて、あれが中にいるのを見た時……」
エラリーがゆっくり言った。「ところで、出没自在のアルバート君と話しているあいだに、あなたは今使っている名前を教えましたか」
スローンはおびえ上がったようだった。「いいえ、とんでもない。もちろん教えませんとも。私はそれを一種の――そう、自衛手段にしていたんです。あれは、私が今はギルバート・グリムショーと名乗っていないかもしれないなどということは、疑ってもみなかったと思います。それで、私は、さっき、あんなにびっくりしたのです――警視が私たちが兄弟なのを発見したと言われたので――一体どしてわかったのか、さっぱり見当も……」
「つまり」と、エラリーがすぐに「ギルバート・スローンがアルバート・グリムショーの兄弟だということは、だれも知らないと言うんですか」
「そうですとも」と、スローンはまた額を拭いて「まず第一に、私は兄弟があるなんてことをだれにも妻にさえ言ったことはありません。それに、アルバートがだれかに言うこともありませんよ。兄弟がどこかにいることは知っていても、私がギルバート・スローンと名乗っていることは知っていなかったのですからね。事実、あの晩、あれの部屋に行ったあとでさえ、あれはそのことを知らなかったのです」
「おかしいな」と、警視がつぶやいた。
「たしかにね」と、エラリーが言った。「スローンさん。あなたのご兄弟は、あなたがゲオルグ・ハルキスさんと関係のあることを知っていましたか」
「おお、いいえ。たしかに、知ってはいません。実は、面白半分に、あれは私の仕事を訊きました。私はさりげなくはぐらかしてしまったのです。あれには一切詮索されなかったのです」
「もうひとつ訊きます。あの木曜日の晩は、どこかでご兄弟と落ち合ってから、一緒にホテルに行ったんですか」
「いいえ、私はひとりで行きました。私はアルバートと、顔を隠したもうひとりの男との、すぐあとから、ロビーにはいったのです……」警視が、かすかにあっと言った。「……顔を隠していましたので、その男の顔は見えませんでした。私はひと晩じゅうアルバートをつけていたわけじゃないので、あれがどこから来たのかは知りません。だが、姿を見かけたので、帳場であれの部屋の番号をきき、わかったので、アルバートとその連れのあとから上がったのです。そして三階の鉤《かぎ》の手の廊下で、あの連れの男が出て行ったら部屋にはいり、アルバートと話をつけて、あの場を去ろうと考えながら待っていました。……」
「すると三一四号室のドアを見張っていたことになりますね」と、エラリーがたたみ込んだ。
「そうですね。でも見張っていたような、いないようなものです。しかし、アルバートの連れは、私が見ていないあいだに、こっそり出て行ったらしいのです。私はかなりしばらく待ってから、三一四号室へ行きドアをノックしました。すると間もなく、アルバートがドアをあけて私を迎え入れました――」
「すると部屋にはだれもいなかったのですね」
「ええ、アルバートは先客のことは何も言いませんでしたので、私がはいる前、私が待っているあいだに、帰ってしまったあの男はきっとホテルでの知り合いだろうと思いました」と、スローンはため息をして「私はいやな仕事を早く片づけて出て行きたくてたまらなかったので、訊いてもみませんでした。それから、さっきお話ししたような話をして、出て来たんです。私はとてもほっとしたんです」
警視がいきなり言った。「それで結構」
スローンはとび立って「ありがとうございます、警視さん、ご配慮に感謝します。あなたにも、クイーンさん。てっきり――拷問《ごうもん》でも――されると思っていたんですが、そんなことがなくて……」スローンはネクタイを直した。ヴェリーの肩は噴火中のヴェスヴィアス火山の斜面みたいにふるえていた。「私はこれで――私は失礼してよろしいでしょうか」と、スローンは細い声で「画廊の仕事を片づけますので。では……」
一同は黙ってスローンを見つめていた。スローンは何かつぶやき、まるでくすくす笑い出すような声を出して、こそこそと書斎を出て行った。しばらくすると、表のドアがぱたりとしまる音が聞こえた。
「トマス」と、クイーン警視が「ベネディクトの宿泊人名簿の完全な写しを手に入れてほしい。木曜日と金曜日、つまり三十日と一日に宿泊した連中の、のってるやつだ」
「すると、お父さんの考えでは」と、ヴェリーが書斎を出て行くと、エラリーが面白そうに訊いた。「グリムショーの連れの男は、スローンが言ったとおりに、ホテルの宿泊人だったかもしれないなどと思われるんですか」
警視の白い顔が赤くなった。「そう思っちゃいかんか。そう思わんのか」エラリーがため息をついた。
ちょうどこの時、ペッパーが外套のすそをはためかせながら、二人の目の前に、とび込んで来た。風に吹かれていっそう赤くなった赤ら顔に、目玉を光らせて、隣りの家の暖炉から拾いあげた遺言状の断片を見せてくれと言った。エラリーは、ペッパーと警視とが机の上の、明るい灯の下で、その紙片の断片を調べているあいだ、そばにすわって考えこんでいた。
「断定しにくいですね」と、ペッパーが言った。「さし当たり、これが正式の遺言状の断片でないという理由は持ち合わせませんがね。筆跡は同じもののようですね」
「それは調べてみよう」
「むろんです」と、ペッパーは外套を脱ぎ「もし、これがハルキスの最後の遺言状の断片だと確認されて」と、考えこみながらつづけた。「ノックス氏の話とも合うとなると、おそらくわれわれは、遺言検認判事が世の中というものはじつに面白いものだと思うような、ひどくこんがらかった遺産相続の争いにまき込まれそうですよ」
「それはどういうことかね」
「それはですね。この遺言状が、遺言人によって、脅迫のもとに署名されたものであることを証明できない限り、ハルキス画廊は故アルバート・グリムショーの財産になるからですよ」
一同は顔を見合わせた。警視がゆっくり言った。「なるほど。すると、グリムショーに一番近い血縁として、おそらくスローンが……」
「疑わしい情況のもとにね」と、エラリーがつぶやいた。
「つまり、スローンは細君を通して相続した方がいっそう安全だと考えた、そう思うんでしょう」と、ペッパーが訊いた。
「そうじゃないかな、ペッパー君、君だってスローンの立場だったら、そう考えるだろう」
「何かくさいな」と、警視がつぶやいた。そして肩をすぼめ、さっきのスローンの証言の内容をペッパーに話した。すると、ペッパーが、うなずいた。三人はもう一度、途方にくれたように、こげた紙片を見つめた。ペッパーが「まず第一に、ウッドラフに会ってこの紙片を、あの男の事務所にある写しとくらべてみることですね。筆蹟をくらべて確認しなければ……」
その時書斎のドアの外のホールに軽い足音がしたので、一同はさっと振り向いた。ヴリーランド夫人が、きらきら光る黒いガウンを着て、気取った恰好《かっこう》で戸口に立っていた。ペッパーがあわてて、紙片をポケットにしまい込むと、警視が気やすく言った。「おはいり、ヴリーランドの奥さん。わしに何か用かね」夫人はほとんどささやくような声で答えた。「ええ」そして、外の廊下の左右の様子を盗み見た。それから、すばやくはいって、後ろのドアをしめた。ひどくおどおどしていて――男たちにははかりかねたが、何か感情をおさえているらしく、そのために頬が赤らみ、大きな目がきらきら輝き、息を深く吸ったり吐いたりするたびに胸が起伏するのだった。その美しい顔には、どこか凄味《すごみ》があり――大きな目には、かすかに、短剣のきっ先がちらついているようだった。
警視が椅子をすすめたが、夫人はことわって、しめたドアに寄りそってまっすぐに立ったまま、いかにも用心深くしていた。――夫人は外のホールの物音にきき耳を立てているらしかった。警視は目を細くし、ペッパーは八の字をよせ、エラリーさえ興味深げに夫人を見つめた。
「ところで、何のご用かな、ヴリーランド夫人」
「それが、クイーン警視さま」と、夫人は小声で「隠していたことがございますの……」
「それで?」
「お話ししたいことがございますのよ――きっと、あなた方が興味をおもちになるようなお話」夫人のしっとり黒いまつ毛が、目の上にさっと下りて目をかくしてしまった。それからまたさっと上がった時、夫人の目は黒檀《こくたん》のようにこわばっていた。「一週間前の、水曜日の晩に――」
「葬式の次の日だね」と、警視が、すぐ訊いた。
「そうです。先週の水曜日の夜、真夜中に、私は眠れなくって」と、夫人はつぶやくように「不眠症で――時々、不眠症で苦しんでいますのよ。それで、私はベッドを出て窓ぎわにまいりました。寝室の窓からは邸の裏手の中庭が見おろせますの。すると、ひとりの男が、こっそりと中庭を通って墓地の門の方へ行くのが見えたんです。その男は墓地にはいって行きましたわ。クイーン警視さま」
「ほう」と、警視がおだやかに「こりゃ、まったく興味がありますな。奥さん。その男はだれでした?」
「ギルバート・スローンさんですわ」その言葉には力がこもっていて――疑いもなく――毒をふくんでいた。夫人は黒い目で一同を見すえ、ひどく色っぽい流し目をするように唇をゆがめた。一瞬、夫人は真剣な――まじめな顔をした。
警視は目《ま》ばたきし、ペッパーはしめたとばかり拳をにぎりしめたが、エラリーだけは無感動で――まるで顕微鏡下のバクテリアででもあるかのように夫人をまじまじと見つめていた。
「ギルバート・スローン。たしかかね、奥さん」
「たしかですわ」その言葉は、鞭《むち》のようにぴしりと、口をついて出た。
警視が、ほっそりした肩をそびやかして「こりゃ、おっしゃるとおり、きわめて重大問題ですぞ、奥さん。注意して正確に話していただかねばならん。見たとおり話してもらいたい――そっくりそのままにね。窓から見た時、スローン君はどっちから来るところだったかね」
「あのひとは、窓の下のもの陰から出て来ました。この家のもの陰から歩いて来たのかどうかは、はっきりしませんが、どうやら、ハルキス邸の地下室から出て来たようでしたわ。少なくとも、私はそう感じました」
「どんな服装《なり》をしていたかね」
「フェルト帽子をかぶって、外套を着ていましたわ」
「ヴリーランドさん」と、エラリーが声をかけたので、夫人は首をふり向けた。「夜更けだったんですね」
「はい。正確に何時《なんじ》かはわかりませんけれど、でも、たしかに真夜中をかなり過ぎていたはずです」
「中庭はまっ暗だったでしょう」と、エラリーがおだやかに「そんな夜更けですと」
夫人の、のどの筋が二本、ぴくぴく動いた。「ああ、こうおっしゃろうとなさるのね。あのひとがはっきり見えなかったろうと、考えていらっしゃるのね。でも、たしかに、あのひとでしたわ」
「実際にあのひとの顔をちらっとでも見たんですか、奥さん」
「いいえ、見ませんでした。でも、ギルバートさんでしたわ――どこでも、いつでも、どんな状況のもとでも、私には、あの人が見分けられますの……」と、夫人は唇をかんだ。ペッパーはおとなしくうなずき、警視は苦い顔をした。
「すると、必要とあれば、誓えるね」と、老人が言った。「あんたは、あの晩、ギルバート・スローンが、中庭にいて、墓地にはいるのを見たと」
「ええ、誓いますわ」夫人は横目でエラリーをにらんだ。
「あの男が墓地に消えてからも、あなたは窓ぎわにいたのですか」と、ペッパーが訊いた。
「はい。あのひとは二十分ぐらいして、また出てきました。あのひとは急ぎ足で、まるで人目につきたくないかのように、きょろきょろとあたりを見まわしながら、私の立っている窓の真下のもの陰にとび込みましたわ。たしかに、あのひとはこの邸にはいりました」
「そのほかには何も見ませんでしたか」と、ペッパーが追及した。
「まあ」と、夫人がいまいましそうに「それで十分じゃありませんか」
警視はきっとなって、とがった鼻を、まともに、夫人の胸に向けた。「最初に、あの男が墓地へはいるのを見た時、奥さん――あの男は何か持っていたかね」
「いいえ」
警視は失望をかくすために顔をそむけた。
エラリーが、ゆっくり言った。「こんないい話を、なぜもっと前にしに来て下さらなかったのですか、奥さん」
夫人は、また、エラリーを見つめて、その白々しく、分別くさく、少しとげとげしい態度に、疑惑のかげがひそんでいるのをかぎつけた。
「そんなに重要だとも思いませんもの」
「ああ、しかし重要なんですよ、奥さん」
「そう――でも、ついさっきまで思い出しませんでしたのよ」
「ふーん」と、警視が「それだけですか、奥さん」
「はい」
「じゃあ、その話はだれにもしないどいて下さいよ、だれにも。では、お引き取り下さい」
その瞬間、夫人の内部の、鉄骨みたいなものが、急にぐらついて崩れた――緊張がほぐれると急にふけて見えた。夫人はゆっくりとドアの方へ行きながら低い声で「でも、あなた方はこのことで、何もしようとなさらないんですか」
「どうぞ、もう、お引き取り下さい。奥さん」
夫人は疲れたように、ドアのノブをまわして、後も見ずに出て行った。警視が、その後からドアをしめて、変に、手を洗うように、両手をこすり合わせた。「なんと」と、快活に「毛色のちがう馬がとび出したな。どうも、あの女は本当のことをいっとるらしいぞ。これでどうやら目鼻がつきそうだな――」
「お父さんも気がついたでしょう」と、エラリーが「あのひとは、実際には、その紳士の顔を見ていないんですよ」
「嘘だと思うのですか」と、ペッパーが訊いた。
「あのひとは自分では本当だと思ったことを話してるんでしょうがね。女性の心理はつかみにくいもんですよ」と、エラリーが言った。
「だが、認めるだろうな」と、警視が「スローンだったという可能性は十分ある」
「そりゃ、むろんです」と、エラリーは、面倒くさそうに手を振って言った。
「今すぐやってみることが、ひとつありますよ」と、ペッパーがあごをかみ鳴らしながら「二階のスローンの部屋を全部洗ってみることですね」
「そりゃ賛成だ」と、警視が重々しく答えた。「行こう、エル」
エラリーは、ため息をついて、警視とペッパーについて部屋を出たが、あまり期待のもてない顔付きだった。廊下に出ると、デルフィーナ・スローンのすんなりした姿が、ホールの入口のあたりを急いで通りすぎるのが見えた。デルフィーナは上気した顔で、熱っぽい目で振り返りながら、応接室に通じるドアを通って姿をかくした。
警視が歩みをとめて「立ち聞きしたんでなければいいがな」と、あわてて言った。それから、頭を振り、先に立って廊下を階段まで行き、一同は二階へ上がった。階段のてっぺんで、老人は立ちどまり、あたりの様子をうかがってから、階段口をぐるりとまわって、左手の方へ行った。そして、ドアをノックすると、すぐヴリーランド夫人があらわれた。
「すみませんがね、奥さん」と、警視が小声で「下の応接室へ行って、わしらがもどるまで、スローン夫人をひきとめておいて下さらんか」
警視が片目をつぶると、夫人は息を殺してうなずいた。夫人は自分の部屋のドアをしめて、階段をかけるように下りた。
「こうしておけば」と、老人は満足そうに「じゃまされんですむ。さあ行こう」
二階のスローンの私室は二部屋に分かれていて――寝室と居間だった。エラリーは捜査に加わるのを断わって、警視とペッパーが寝室を――抽出し、洋服箪笥、押入れと――調べるのを、ぼんやりとそばに立って見ていた。警視はじつに綿密だった。何ものも見逃さなかった。老いたひざをおろして、敷物の下を調べ、壁をたたき、戸棚のすみずみまでかきまわした。だが全く得るところはなかった。警視かペッパーかが、二度と振り向いてみる値打ちのあるものは、ちりっぱひとつなかった。そこで、三人は居間に立ちもどって、またすっかり同じことをくり返した。エラリーは壁によりかかって眺めていた。そして、ケースからたばこをとり出し、唇のあいだにさしこみ、マッチをすった。――だが、たばこを吸いつけないで、手を振って火を消した。ここでたばこを喫ってはまずいと思ったのだ。たばこをケースにもどし、マッチのもえさしを気をつけてポケットにしまいこんだ。
失敗がようやくはっきりしかけた頃になって、発見があった。部屋の隅の古ぼけた彫りのある机を、ていねいにかきまわしていたペッパーが発見したのだ。ペッパーは抽出しをひとつ残らずかきまわしてみたが、何も目ぼしいものは見つからなかった。しかし、机にかぶさりついて、まるで催眠術にでもかかったようにじっと見おろしていると、机の上の大きな刻みたばこ壺が、ふと、目についた。そこで、壺のふたをあけてみた。壺にはパイプたばこがつまっていた。
「もってこいの場所だな」と、ペッパーはひとりごとを言いながら……しめり気のあるたばこに指を差しこんでかきまわしていたが、その手がふと止まった。何かひやりとする金物にさわったのだ。「おやっ!」と、ペッパーは軽く叫んだ。
暖炉をかきまわしていた警視が、その声に、むっくりと頭をもたげ、頬のすすを払いおとして机に走りよった。
エラリーも無関心な態度をすて、警視のうしろからかけつけた。刻みたばこが二、三本くっついているペッパーのふるえる手の平に鍵が一個、のっていた。
警視はそれを地方検事補から、ひったくるようにとって「これは、どうやら――」と、言いかけたが、急に口をつぐんで、その鍵を胸ポケットにしまい込んだ。
「これで、もう十分だと思うな、ペッパー。ここを出よう。この鍵がわしの考えとる場所に、ぴたりと合えば、じつに欣喜雀躍《きんきじゃくやく》というところだ」
三人は急いで、しかし用心しながら居間を出た。階下に降りてみると、ヴェリー部長がもどっていた。
「ベネディクト・ホテルの宿帳をとりにやりました」と、がらがら声で「おっつけ届くでしょう――」
「今はそれどころじゃないぞ、トマス」と、警視はヴェリーの肘をつかんで言った。老人はあたりをうかがったが、廊下には人かげもなかった。そこでチョッキのポケットから、例の鍵をとり出し、ヴェリーの手に押しつけて何か耳打ちした。ヴェリーは大きくうなずいて、すたすたと玄関の方へホールを渡って行った。やがて、ヴェリーが邸を出て行く音が聞こえた。
「さて、みんな」と、警視は愉快そうに言って、かぎたばこを勢いよく吸った。「さて、みんな」――ふんふん吸いこんで、くしゃん――「どうやら、本物様々らしいぞ。さあ、書斎にはいって、そっと待とう」
警視はペッパーとエラリーを追い立てて書斎にはいり、自分は、少しすき間をあけたままにしておいたドアのそばに立っていた。三人は黙って待っていた。エラリーの細面《ほそおもて》には、待ちくたびれるような色がうかんだ。
突然、老人がドアをあけて、曳きずりこんだ。警視の腕につかまれて、ヴェリー部長が現われた。警視はすぐドアをしめた。ヴェリーの皮肉たっぷりなご面相に、はっきり興奮の色があらわれていた。
「どうだ、トマス――え、どうだ」
「ずばりそのもの、まちがいなし!」
「しめた!」と、警視が叫んだ。「スローンのたばこ壺から出た鍵は、ノックスの空家の地下室のドアとぴったり合うんだぞ」
老人はおいぼれ駒鳥みたいに、さえずりつづけた。しめたドアの前に突っ立って、警戒に当たるヴェリーが、目を光らせる禿鷹《はげたか》なら、ペッパーはぴょんぴょんはねまわる子雀だし、エラリーは、はたせるかな、不吉な啼《な》き声を胸に秘めて、じっと身動きもしない、黒い翼の沈鬱《ちんうつ》な大鴉《おおがらす》のようだった。
「この鍵については、二つの意味がある」と、警視はにやりとして口をつぐんだ。口と目との表情が、まるでちぐはぐだった。「いいか、よく覚えておくんだぞ、エラリー。この鍵は、どうしても遺言状を盗もうとする一番強い動機をもっているギルバート・スローンが、遺言状の断片が見つかったあの地下室の合鍵を持っていたことを示すのだ。このことは、奴があの暖炉の中で遺言状を破棄しようとした当人にちがいないということを意味する。いいか、奴は最初、葬式の日にこの部屋の壁金庫から遺言状を盗み出して、それを棺にすべり込ませた。――おそらく、まだあけなかった手提金庫ごとだ――そして、水曜日か木曜日の夜、そいつを棺からとり出したのだ。この鍵がいい証拠だ。あのいやな匂いのする古トランクと、地下室の鍵は――グリムショーの死体がハルキスの棺に埋められるまで、あそこに置いてあったことを裏書きする。隣りの空家の地下室は安全至極な場所だったろう……畜生、こらしめのためにリッターをひどい目にあわせてやるぞ、暖炉の中の紙屑を見落としおって!」
「面白くなりそうですね」と、ペッパーがあごをさすりながら「とても面白い。仕事の目当てがつきましたよ――すぐウッドラフに会って、あの男の事務所にある遺言状の写しと、このもえ残りをくらべてみなければなりませんね。もえ残りが原本のものだということを確認しなければなりませんから」
ペッパーは机に近より、電話機のダイヤルをまわした。「話し中だ」と、しばらくして言い、受話器をかけた。「警視、ぼくには、だれかが、食いきれもしないのに、無理して頬ばっているように思えますね。確認さえできれば……」ペッパーは、また、ダイヤルをまわして、うまくウッドラフの家を呼び出すのに成功した。ウッドラフの給仕は、あいにく弁護士は留守ですが、三十分ほどでもどりますと、言ったらしかった。ペッパーは給仕に、ウッドラフに自分を待っているようにと言伝《ことづ》けて、ろくでもない機械を、がちゃんと放り出した。
「すばやくやった方がいいぞ」と、警視が目くばせして「さもないと玉を逃がしちまうぞ。とにかく、このもえ残りが原本のものなのかを確かめる必要がある。ここでしばらく待ってる。それから――わかり次第報らせてくれよ、ペッパー」
「承知しました。おそらく、ウッドラフの事務所に行って副本をひっぱり出す必要があると思いますが、できるだけ早く、ここへもどって来ます」ペッパーは外套と帽子をひっつかんで、とび出して行った。
「どうもひとり合点くさいですよ、警視」と、エラリーが注意した。その顔からはユーモアが消えて、心配そうだった。
「それが、なぜいかんのだ」と、老人はハルキスの廻転椅子に腰を下ろして、得意そうにひと息ついた。「どうやら追跡も終りくさい――わしらにとっても、ギルバート・スローン氏にとってもな」
エラリーは、ふんと鼻を鳴らした。
「この事件では」と、警視が笑いながら「お前の高遠なる推理方式とやらも、三文の値打ちもなかったな。まともな、旧式な、まっすぐな考え方の勝ちだ――気まぐれな道楽が、はいり込む余地はないよ、エラリー」
エラリーはもう一度、ふんと鼻を鳴らした。
「お前の困るところは」と、警視が茶化すようにつづけた。「お前は、どんな事件でも頭脳のレスリング試合のように考えとることだ。老人の常識というものをほとんど信用しておらん。ところが、探偵に必要なのはそれだけなんだ、ともかく――常識だ。お前にはそれがわからんのだ」
エラリーは何も言わなかった。
「さて、今度のギルバート・スローンの件を考えてみろ」と、老人がつづけた。「一目|瞭然《りょうぜん》だ。動機は? 山ほどある。スローンがグリムショーをやった理由は二つだ。一つは、グリムショーは、奴にとって危険だった。おそらく、わしらが知っとるところから判断しても、グリムショーは奴を脅迫したかもしれん。だが、それは、たいして重要な動機ではあるまい。また、グリムショーは、ハルキスの新しい遺言状によってハルキス画廊の相続人になり、当然スローンの相続すべきものを横取りしようとしていた。それで、奴はグリムショーを消し、遺言状をお前の指摘した理由から破棄した――つまり、スローンは自分がグリムショーの兄弟であるのを知られたくなかったろうし、危険な方法で遺産相続をしたくなかったろうからな――ところで、遺言状が破棄されることによって、ハルキスは遺言せずに死んだとみなされ、どっちみち、スローンは奴の女房を通して自分の分け前を手に入れることができるわけだ。抜け目がない奴だ」
「おお、まさにね」
警視がほほえんで「まあ、そうくさることもあるまい、若さま……スローンの身辺を洗えば、きっと奴が金に困っていたことが出てくるだろうよ。奴にはおーたーかーらが必要だった。いいかね。これで動機の説明がつく。ところで、もうひとつ、きめ手がある。お前が前にハルキスを犯人と決めつけて分析した時に指摘したことだが、グリムショーを絞めた奴はだれかわからんが、そいつがあとからハルキスに罪をなすりつけるにせの手がかりを仕組んだのは絶対たしかだ。したがって、自分さえ黙っていれば、ノックスがあの絵を持っていられるということを知っとったはずだ。いいかね。すると、これもお前が証明したとおりだが、にせの手がかりを仕組み、ノックスがレオナルドの絵を持っていることを知っていた唯一の局外者が、グリムショーの言う謎の『相棒』ということになる。そうだろう?」
「たしかに」
「と、すると」老人は両手の指先を合わせながら、分別くさい八の字をよせて続けた。「――トマス、もぞもぞするなよ――と、するとだ、情況からみて、スローンは、グリムショーの謎の相棒であると同時に殺人犯人だったにちがいない。――奴らが兄弟だったという事実にてらしてみて、容易に合点が行きそうな気がする」
エラリーがうなるような声を出した。
「そうだ、わかったぞ」と、父親は、エラリーにかまわず言いつづけた。「それは、つまり、スローンがさっきしゃべった時、二つの重要な点をごまかしたということになる。第一に、奴がグリムショーの相棒だったとすれば、グリムショーは、他人面《たにんづら》しているスローンが自分の兄弟であること、したがってハルキス画廊でのスローンの地位、を知っていたにちがいない。第二に、スローンはベネディクト・ホテルにグリムショーと一緒にはいって来た男で、さっき奴が言い張ったように、すぐあとから訪ねて行った男ではないはずだ。つまり、スローンこそ、グリムショーの正体不明の連れであり、いまだに素性のつかめぬただひとりの客であり、二番目の客だったにちがいないことになる。――奴が、そのどれに当てはまるかはわからぬが、そうにちがいない」
「あらゆる点が当てはまらなければいけませんからね」
「そうか。お前にも、それがわかっとるのか、え?」と、警視はにやにやして「だが、わしはこれで満足しとるよ、エラリー。いずれにせよ、もしスローンが犯人であり、グリムショーの相棒だったとすれば、遺言状の動機が一番肝心だ。わが身の危険としてグリムショーを消したのは第二の動機だし、レオナルドの絵を不法所有しているノックスを脅迫するために邪魔を取りのぞいておくことは、これまた第三の動機になる」
「肝心な点がひとつあります」と、エラリーが注意した。「われわれはその点を、特に究明しなければなりませんよ。ところで、あなたはご自分が満足するようにあらゆるものを整理されましたが、是非、犯罪をもう一度組み立ててみせていただきたいものですね。それにぼくにとっては何よりの実地教育になると思いますし、ぼくはもっともっと勉強したくてたまらないのです」
「いいとも。ABCみたいなもんだ。スローンは先週水曜日の夜、グリムショーをハルキスの棺に埋めた。――その夜、奴が中庭をうろついていたのをヴリーランド夫人が見ている。その時は、おそらく、奴が二番目に墓地へ行ったところだったのだろう。夫人は、奴が死体を運ぶのは見なかったと言っているが、そのことで二番目だったのがわかる。死体は、すでに墓地へ運び込んであったのだ」
エラリーが首を振った。「さしあたり、ぼくはお説に反対する論拠を何も持ち合わせていませんがね、お父さん、しかし――どうも、つじつまが合いませんね」
「間抜けめ。時々お前はロバみたいにわからずやになるな。わしにはつじつまが合っとる。むろん、スローンがグリムショーを埋めた時には、あとから、お上《かみ》の手で、あの棺があばかれるかもしれないと心配する理由は何もなかった。奴は死体を埋めるので、墓をあばいたついでに、確実に破棄する目的で遺言状も取り出したんだ。そうしても別に危険が増えるわけじゃない――棺は開いていたんだからな。――わかったかい。それに奴はグリムショーを殺した時、死体から例の約束手形を奪い、自分の財産を守るために、あとで破棄したにちがいない。いずれは、間接的に相続するつもりだった財産に対して、あとから手形が出て、だれかが支払いを求めるようなことがないようにな。どうだ、手袋みたいにぴたりと合うじゃないか」
「そう思いますか」
「そうさ。図星さ。むろん、スローンのたばこ壺の中にあった地下室の合鍵――あいつが、きめ手だ。空家の暖炉の中にあった遺言状の焼けのこり――あいつも、きめ手だ。それに、何よりも――グリムショーとスローンが兄弟だったことだ……、いいか、しっかりしろよ。お前もこんな切り札に目をつむるわけにはいかんぞ」
「残念ながら、そのとおりです」と、エラリーはため息をして「だが、ぼくをそっとしといて下さいよ、お父さん。解決の功名はみんなあなたのものにして下さい。ぼくはちっとも欲しくありません。なにしろ、わざと仕組んだものと判明した手がかりで、指にやけどしたんですからね」
「仕組んだ手がかりか」と、警視は、あざ笑うように鼻をならした。「すると、あの合鍵は、だれかがスローンをはめこむために、奴のたばこ壺に入れておいたものとでも思うのか」
「謎みたいな答えですみませんが、ともかく、ぼくの目は自然が許すかぎりぱっちりと開いているということを、心得といて下さいね」と、言って、エラリーは立ち上がった。「それに、この先どうなるか、ぼくには、はっきりわかりませんが、神様《ル・ボン・デイヴ》がぼくに『二重の喜び』を与え給わんことを祈りますよ。ラ・フォンテーヌが、上手に物語っている、『二重の喜び』だます者をだます喜びをね」
「愚にもつかんたわごとだ」と、警視は叫んでハルキスの廻転椅子からとび上がった。「トマス、帽子と外套をつけて、部下を集めろ。これからちょっとハルキス画廊へ行ってみる」
「すると、見つけたものをスローンにつきつけるつもりなんですか」と、エラリーが、おそるおそる訊いた。
「おおせのとおりさ」と、警視が言った。「そして、もしペッパーが、あのもえ残りの遺言状の鑑定をすませてくれば、スローン氏は今夜、市刑務所の銀ぴかの檻《おり》にぶちこまれることになる寸法だ。殺人容疑だ!」
「ただね」と、ヴェリー部長が、がらがら声を出した。「それほど銀ぴかじゃありませんよ」
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二十 RECKONING……報い
その夕がたおそく、クイーン警視、エラリー・クイーン、ヴェリー部長と多くの刑事たちが、いろんな方向から乗りつけて来た時、マジソン・アベニューのハルキス画廊の付近は暗く静まりかえっていた。一同は静かに行動した。画廊の建物は正面の広いガラスをすかして見ると、中はまっ暗だった。そして、画廊の入口には、例の盗難防止電線を張りめぐらした格子作りの柵がしめてあった。しかし、見ると、画廊の入口のドアの片側に、別の出入口がついていた。警視とヴェリーは、小声でしばらく打ち合わせた。それから、部長が夜間ベルと書いてある文字の上方のボタンを、太い親指で押し、一同は黙って待っていた。返事がないので、ヴェリーはもう一度、ベルをならした。
五分たったが、内部からは物音もせず、光も、もれなかった。ヴェリーはぶつぶつ言って、五、六人の部下を招きよせ、力をあわせてドアを押し破った。ドアは、めりめりと音を立て、板や鉄の蝶番《ちょうつがい》をきしませてくだけた。一同はひとかたまりになって、ドアの向うの暗いホールになだれこんだ。そして、群がって階段を上がると、もうひとつのドアにぶつかった。懐中電燈で照らしてみると、そのドアにも盗難警報装置がつけてあった。あたりかまわず物音をたて、警報が鳴って盗難予防会社の本部をびっくりさせることなどまるで気にもかけずに、そのドアのとりこわしにかかり、ぶち破って通った。
一同は、その階全体を占めているまっ暗な長方形の画廊に出た。みんなの懐中電燈の光が、壁にかかっている無数の絵の、じっと動かない顔や、美術|骨董《こっとう》品を収めて床に並べてあるぴかぴか光るケースや、白い彫像の数々を、ちらちらと浮かび上がらせた。すべてが整然としていて、一同の侵入をこばむ者は、だれひとりあらわれなかった。画廊のほとんど突き当りの左手に、一条の光が、開け放しのドアから流れて、くっきりと床に切れ込んでいた。
警視が大声で「スローン、スローン君」と呼んだが、返事がなかった。一同がひとかたまりになって、その光を目ざして殺到した。みると、戸口の鉄のドアが開いたままで、ドアには「ギルバート・スローン氏、私室」と、標札がかかっていた。
しかし一同は、そんなつまらないものなどに、いつまでも目をくれてはいなかった。次の瞬間、一同はまるでひとりの人間になったかのように、戸口によりかたまって、息をつめ、一瞬死んだようにぴたりと静まった。……事実、部屋の中央の机に、うつぶせになっている死の姿が一同に乗り移ったかのように静まっていた。卓上ランプの灯《あか》りが、ギルバート・スローンのこわばった死体を、無残に照らし出していたからである。
想像を働かせる余地はほとんどなかった。一同は部屋のあちこちにあきれて立っていた。――だれかが電燈のスイッチをひねった。――みんな、それまでギルバート・スローンだった人間の、血だらけにひしゃげた頭を、ぽかんと見つめていた。私室の中央の机にすわり、頭を緑色の卓上ブロッター〔卓上敷のインキ吸取り〕の左端にうつぶせにのせていた。机の片側が入口と直角になっていたので外の画廊の方からは、スローンの死体の側面が見えるだけだった。革椅子に腰かけて、前のめりになり、左腕を卓上ブロッターの上の端まで伸ばし、右腕を椅子の片側に添って床までたらしていた。そして、右手のすぐ下の床に、だらんとたれた指先のほんの一、二インチのところに、拳銃が一丁、手からすべり落ちたかのようにころがっていた。
警視はかぶさりかかるようにして、死体には手をふれずに、室内照明燈のぎらぎらする光にさらされている死体の右のこめかみを調べた。こめかみには、血まみれの、深く引きさいたような穴があいていて、黒ずんだ火薬の痕跡が隈取っていた。――弾がはいった穴なのは明らかだ。老人はしゃがんで、用心深く拳銃をひろい、弾倉を開いた。一発をのぞいて、全部に弾がこめてあった。老警視は銃口の匂いをかいで、うなずいた。「これが自殺でなかったら」と、立ち上がりながら言った。「わしは、猿の親類だ」
エラリーは室内を見まわした。小ぢんまりした、きれいな部屋で、あらゆるものが、いかにもきちんと、きまりの場所にととのっているようだった。どこにも、乱れた形跡は見えない。
そのあいだに、警視は布で包んだ拳銃をひとりの刑事に持たせて、所有者を調べに行かせた。その刑事が出て行くと、エラリーの方を振り向いて「どうだ、これでも納得せんかね。まだ、罠《わな》だと思うのか」
エラリーの目は、間仕切りをこえて、どこか遠くの場所を、うろついていた。そして、ささやくように言った。「いいえ、まぎれもないようですね。でも、なぜこんなに急に自殺しなければならなかったかが、納得できないんです。要するに、今日の午後われわれがスローンと話した時には、この事件で、あなたがあの男を疑っているのを、気どらせるようなことは全然なかったんですからね。あの時には、遺言状のことには何もふれなかったし、合鍵もこの男の部屋でみつかってはいなかったし、ヴリーランド夫人もまだ話してはいなかったんですよ。どうもくさいな……」
二人は互いに目を見合わせた。「スローン夫人だ!」と、二人は同時に叫び、エラリーが、スローンの机の上の電話機にとびついた。そして気ぜわしく交換手に質問をあびせて、中央局につながせた。……
警視の注意はほかにそれていた。かすかなサイレンの響きがマジソン・アベニューから聞こえてきて、表の通りでブレーキのきしる音がし、階段をかけ上がる足音がどかどかと聞こえた。警視は画廊の方をのぞいてみた。ヴェリー部長が荒っぽく警報機をぶちこわした報いだった。拳銃を手に手に、いかめしい男の一団がなだれ込んできた。その連中に、警視が本ものの有名な本部のクイーン警視であること、そこらにいる男たちが盗人《ぬすっと》ではなく刑事であること、ハルキス画廊からは、明らかに何も盗まれていないことを、のみ込ませるのに六、七分かかる始末だった。やがて警視が連中をなだめ、ひとまとめにして送り出してから、事務室にもどってみると、エラリーは椅子にすわってたばこをのみながら、さっきよりもずっと思案にくれているようだった。
「何か見つかったか」
「どうも腑におちませんね……少しひまどりましたが、やっと情報が手にはいりました。今夜、この電話は一度外からかかってきたそうです」と、エラリーが不機嫌に「一時間ほど前です。かかってきた電話を洗いました。ハルキス邸からでした」
「思ったとおりだ。それでこいつが運のつきだと知ったんだな。わしらが書斎で事件の話をしているのを、だれかが盗み聞きして、家から電話でスローンに耳打ちしたんだな」
「ところが」と、エラリーがゆううつそうに「だれがこの事務所に電話をかけたか、どんな話をしたか、てんで突きとめようがないんです。だから目の前の事実だけで満足しなければならないでしょうよ」
「うんざりするほど事実があるじゃないか、まかせとけ! トマス!」ヴェリーが戸口に顔を出した。「ハルキス邸にまいもどって、ひとり残らず訊問《じんもん》するんだ。今夕、わしらがスローンの部屋を洗ったり、ヴリーランド夫人とスローンを訊問したり、階下の書斎でスローンの件を相談していた間、邸内にいた全員を調べ上げるんだ。できれば、今夜、あの邸の電話を使った奴を見つけ出せ。――忘れずに、スローン夫人をしぼり上げるんだぞ。わかったな」
「ハルキスの家の者に、この出来事をしゃべるんですか」と、ヴェリーが、うなった。
「むろんだ。二、三人連れて行け。命令があるまで、だれも、あそこから一足も出しちゃならん」
ヴェリーが出て行った。電話が鳴り、警視が受けた。拳銃を持って行かせた刑事からの電話だった。武器の素性をつきとめることに成功した。正式な許可証があり、ギルバート・スローンの名義で登録されていたというのだった。老人はくすくす笑いながら、本部に電話して、医務検査官補サミュエル・プラウティ医師を呼び出した。
電話を終えてふり返ると、エラリーが、スローンの机の後の壁にはめこんである小さい金庫をしらべ、その丸い鋼鉄の戸がひろく開いていた。
「何かあるか」
「まだ、わかりません……おや!」エラリーは鼻眼鏡をしっかりと鼻にかけ直して、うつ向きこんだ。小さな金庫の底にちらかっているいろいろな書類の下に、金属製の物があった。警視は、すぐにそれをエラリーの手からとり上げた。それは、重くて旧式な金時計で、古くてすりへっていた。もはや時をきざむ力もなかった。老人はそれをひっくり返してみた。
「こいつが、きめ手にならないなんてこたあないぞ――」と、その時計を振りあげ、思わずこおどりしてはねまわった。「エラリー」と大声で「これで筋が合う。誓って、この難事件もこれで|けり《ヽヽ》がつく」
エラリーは時計をこまかく調べた。文字盤と反対の裏ぶたの金側の上に、小さな字が彫り込んであり、ほとんどすり減っている『アルバート・グリムショー』という字が見えた。彫りは本当に古いものだった。エラリーはいっそう不満そうだった。警視がその時計をチョッキのポケットにねじ込んで、「問題ない。こいつが裏付けになる。スローンがグリムショーの死体から、約束手形を抜いた時に、この時計もとったことは明白だ。スローンの自殺と考え合わせると、こいつが犯人である証拠は十分、だれでもこれ以上は望めないほどだ」と言ったので、エラリーは、ますますみじめな気持になった。
「その点は」と、エラリーは情けなさそうに「まったく同情しますよ」
マイルズ・ウッドラフと地方検事補ペッパーが、自殺現場に姿をあらわしたのは、かなり経ってからだった。二人は憮然《ぶぜん》として、ギルバート・スローンの遺骸《いがい》を見下ろしていた。
「すると、何もかもスローンの仕わざだったんだな」と、ウッドラフが言った。いつもの赤ら顔に青ざめた筋肉がうねっていた。
「遺言状を盗んだのは、この男じゃないかと、最初から思っていましたよ……やれやれ、これで|けり《ヽヽ》がつきますね、警視」
「ありがたいことにね。そうなる」
「きたない死に方をしたもんだ」と、ペッパーが言った。「卑劣な手だ。だが、ぼくが聞いているところでは、スローンはまったく弱虫だったそうですよ……ぼくとウッドラフはハルキス邸へ帰る途中で、ヴェリー部長とぶつかったんです。事件の話をきいて、かけつけて来ました。ウッドラフさん、遺言状の話をしたら」
ウッドラフは部屋の隅のモダーンな長椅子に、どっかりと腰をおろして、顔をふいた。
「大して話すこともありませんがね。あのもえ残りは本ものですよ。この点はペッパー君も確認すると思いますが、私の事務所にある副本の、あれに相当する部分と正確に合致します――ぴったりです。それに筆跡も――グリムショーと書いてある字も――ハルキスの手です。全く、間違いありません」
「うまいね。だがわしらもたしかめといた方がいいな。もえ残りの紙片と、副本を、そこに持って来とるかね」
「もちろんです」と、ウッドラフは大きなマニラ紙の封筒を警視に手渡した。「ハルキスの筆跡の見本をほかにもいくつか入れておきました。ご覧になればわかりますよ」
老人は封筒をのぞきこんで、うなずき、まわりに立っている連中に手で合図した。「ジョンスン、筆跡鑑定のユナ・ランバートさんをさがしに行け。私宅の住所は本部でわかる。この封筒の中の筆跡の見本を全部鑑定してくれと言うんだ。それと一緒に、もえ残りの紙片のタイプライターの文字もたのむ。すぐ結果が知りたい」
ジョンスンと入れちがいに、背の高いプラウティ医師が、例によって例のごとく、葉巻をくわえて、のっそりとひょろ長い姿をあらわした。
「やあ、先生」と、警視は上機嫌に「また仏をとっといたよ。これでお終いらしいぞ」
「この事件ではね」と、プラウティ医師も元気よく言って、例の黒鞄《くろかばん》をおろして、死人のひしゃげた頭を眺めた。
「ふーん。君だったのかい。こんな情況のもとで再会するとは思わなかったな。スローン君」と、プラウティは帽子と外套を脱ぎすてると、仕事にかかった。五分ぐらいして、腰をあげて「明瞭に自殺だな。ここにいるだれかが別のことを知っているなら話はちがうが、ぼくの判定はそうなる」と、太い声で「ハジキはどこかね」
「持たしてやったんだ」と、警視が「拳銃検査に」
「三八口径でしょう」
「そうだ」
「訊いたわけは」と、医務検査官補は、安葉巻をにちゃにちゃ噛みながら続けた。「弾がここにないからね」
「何だって?」と、エラリーがすぐ言った。
「しっかりしてくれよ、クイーン君、来てみたまえ」エラリーと他の連中とは、プラウティ医師が死人にかぶさりついて、薄い乱れ髪をつかみ、その頭をひきおこしている机のまわりに、寄り集まった。みどり色の卓上ブロッターにうつぶせになっていた頭の左側に、かわいた血のりがこびりつき、はっきりと穴が見えていた。頭の載っていた卓上ブロッターにはべっとりと血がついていた。
「弾は頭蓋骨をきれいに貫通してる。どこかこの辺にあるはずだ」
プラウティは、ぬれている袋でも扱うように、静かに死体を押しもどして、椅子に腰かけている姿勢にした。それから、すべる髪をつかんで、頭をまっすぐにし、スローンが椅子にすわって、自分を撃ったら、当然その弾がとぶはずの方向を見やった。
「開いたドアをまっすぐに抜けたらしいな」と、警視が「大体の方向と身体の位置からすぐわかる。われわれが見つけた時、ドアはあいていたから、弾はそこの画廊へ出たにちがいない」
警視は戸口を走り抜けて、今は明々《あかあか》と照明されている画廊にとび出した。そして、およその弾道を目測して、うなずき、戸口の向い側の壁の方へすたすた歩いて行った。壁には厚い古代のペルシア絨毯《じゅうたん》がかかっていた。しばらく注意深くさがしまわり、ポケットナイフの先で、ちょっとほじくっていたが、すぐに、少しつぶれて、頭のぺちゃんこになった弾を持って意気揚々と、もどって来た。プラウティ医師は、満足そうに鼻を鳴らして、死体を元の位置にもどした。
警視は、不気味な銃弾を指先でひねくりまわして「疑問の余地なしだ。ピストル自殺だ。弾は頭をきれいに貫通して、頭蓋骨の左側に抜け、戸口をとび越し、力の大部分を使いはたして、外の向いの壁の絨毯でとまった。深からず浅からずだ。すべてが、ぴたりと合っとる」
エラリーは弾を調べてから、がっかりというふうに肩をすぼめて父親に返した。その身ぶりが、妙にこびりついてはなれない不審の念を雄弁に語っていた。エラリーは隅にさがって、ウッドラフとペッパーのそばにすわった。その時、警視とプラウティ医師は、死体を運び出して解剖にまわす指図をしていた。――念のために解剖する、と老人が言い張ったのだ。
死体が細長い画廊の中を運搬車で運び出されていく時、ヴェリー部長が息を弾ませながら階段をのぼって来て、大股で担架のそばを通りかかり、じろりとひと目くれただけで、分列行進の擲弾兵《てきだんへい》のようにしゃちほこばって事務室にはいって来た。そして、バズビー〔イギリス騎兵の礼式用の毛高帽〕のように頭にそびえている大きなフェルト帽を、あえて脱ごうともせずに、太い声で警視に言った。「うまくないです」
「そうか。大したことじゃない。ところで、何かわかったか」
「今夜はだれも電話をかけていません。――少くとも、連中はそう言ってます」
「むろん、かけた奴がいても白状せんだろうな。その点は、おそらくわからずじまいだろう」と、警視はたばこ入れを手さぐりしながら言った。「スローンに耳打ちしたのは細君にちがいない、ドーナットにドルを賭けてもいい。おそらく、われわれが書斎で話しとるのを立ち聞きして、ヴリーランド夫人をうまくまいてから、大急ぎでスローンを呼び出したのだ。あの女はスローンの共犯者だったか、あるいは、潔白だが、われわれの話を聞いて、だれが犯人かを勘づき、亭主から真実をきき出そうとして電話をかけたのだろう。……その点はよくわからん。スローンの言葉と、あの女の言葉が問題だが、少なくとも、その電話で、スローンが運のつきだと悟ったのは明白だ。そこで、唯一の逃げ道として、奴は自殺したのだ」
「どうもあの女には」と、ヴェリーが、がらがら声で「罪はないようですよ。自殺したと聞いて、あの女、とたんに気絶しました。――たしかに、警視、あれはつくりごとじゃありませんでしたよ。本当に気絶したんです」
エラリーは、それを聞こうともせず、せかせかと立ち上がると、部屋の中を、またうろつきはじめた。そして、もう一度金庫を調べたが――エラリーの興味を惹くものは何ひとつないらしかった。書類のちらばっている机にぶらりと近づいて、スローンの頭からたれた血がこびりついているブロッターの上の黒い|しみ《ヽヽ》から、つとめて目をそらすようにしながら、机の上をかきまわした。書類をいじっているうちに、ふと、一冊の本のようなものが、エラリーの目についた。モロッコ革表紙の日記帳で、見ると『日記――一九二―年』と表紙に金文字がはいっていた。書類の下に半分かくれていたのを、エラリーは、ひったくるようなすばやさで、机からつまみあげた。
警視がそばにより、エラリーの肩ごしにもの問いたげにのぞき込んだ。エラリーは日記帳をぱらぱらめくってみた。――どのページも、どのページも、きれいな正確な字がぎっちり書き込んであった。エラリーはスローンの筆跡見本になる五、六枚の紙を机からとりあげて、日記帳の筆跡とくらべてみた。すべてが正確に一致していた。日記帳を拾い読みして、腹立たしそうに首を振り、ぱたりととじて――上着の片側のポケットにそっと入れた。
「何かあったか」と、警視が訊いた。
「あったとしても」と、エラリーが「お父さんの興味は惹かないでしょうよ。事件はもう解決したと言ってるんですものね」
老人はにやりとして、そばを離れた。
人々のさわがしい声が、部屋の外の大画廊から、どよめいてきた。口々にわめいている新聞記者連の中から、ヴェリー部長が姿をあらわした。カメラの連中が、どうにかしてもぐり込んだらしく、間もなく部屋の中はフラッシュの煙でいっぱいになった。
警視がいい気持で、事件の説明をはじめ、記者たちは忙しくペンをはしらせ、ヴェリー部長は問いつめられて自分の捜査物語をし、地方検事補ペッパーは、ひやかし半分の記者連にとりまかれておだてられ、マイルズ・ウッドラフは胸をふくらませて早口に意見をしゃべり始めた。その意見の要点は、自分、弁護士ウッドラフは最初から犯人の目星がついていたが――つまりそのう、諸君もご存知のとおり、役人の捜査というものは、警察にしろ、刑事課にしろ、なんとも、まどろっこしいものでね……
このさわぎの最中、エラリーはだれにも気づかれぬように、やっと事務所を抜け出すことができた。画廊の彫像のそばを抜け、壁にかかっている多くの油絵の下を通り、足も軽く階段を下り、ぶちこわした表ドアをくぐって、マジソン・アベニューの、暗く冷たい夜気の中に出て、ほっとひと息ついたのだった。
十五分ほどして警視が出て来て見ると、エラリーは暗い陳列窓によりかかって、その痛む頭の中を、互いにぶつかりながら駆けまわる多くの暗い思いと取り組んでいた。
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二十一 YEARBOOK……日記帳
ふさぎの虫はいつまでも――ずっと――明け方の日の出どきまで続いていた。警視の努力も無駄だった。知っているだけの父親ぶりを発揮して、ふさぎ込んだせがれのもの思いを捨てさせ、ベッドに追いこんで休ませようと口をすっぱくしてすすめてみたがだめだった。
エラリーは、部屋着にスリッパという姿で、居間のか細い火の前の肘掛椅子にうずくまり、スローンの机の上からくすねてきた革表紙の日記帳に読みふけって、老人のご機嫌とりなどにはてんで返事をする気色もなかった。
ついに警視も諦めて、のそのそと台所にはいって、コーヒーを沸かし――若いジューナは自分の小部屋でぐっすり寝こんでいた――黙りこんで、ひとりわびしくトーストをかじった。ちょうど日記の調べが終わった時、コーヒーの匂いがエラリーの鼻をくすぐった。エラリーは眠そうに目をこすって台所へはいり、自分でコップにコーヒーをつぎ、二人は相変わらず耳にしみ入るような沈黙を守ったままで、コーヒーを飲んでいた。
老人がコーヒー茶碗をかちんと置いて「パパに言うんだ。一体、何を考えこんどるんだ」
「そうですね」と、エラリーが「おたずねなら答えますが、ぼくは実に、マクベス夫人のように辛抱強く、その質問を待っていたんですよ。お父さんは、ギルバート・スローンが、その兄アルバート・グリムショー殺しの犯人ときめつけていて――その結果があの自白的な情況になったものと認め、それを争う余地のない明白な事実と見ているようですね。そこで、お訊ねしますが、スローンとグリムショーが兄弟だとあばいた、あの匿名の手紙を出した奴は、だれなんでしょうか」
老人は鼻を鳴らして「つづけてみろ」と、言った。「胸の中をからっとさせるんだ。こっちには、どんなことでも、説明はついとるぞ」
「へえ、そうですかね」と、エラリーが、やり返した。「そりゃ結構です。――じゃあ、こまかくいきますよ。匿名の手紙を出したのが、スローンでないことは明白です。――なぜなら、もし奴が犯人だとすれば、自分にとって致命的な情報の材料を警察に与えるはずはないですからね。もちろんちがいます。ではだれがあの手紙を書いたのでしょう。スローンは、世界じゅうで自分以外だれひとりとして――自分の兄弟のグリムショーでさえ、――ギルバート・スローンを名乗っている、この自分を、殺された男の兄弟だと知っている者はたしかにいない、と言っていました。それは覚えているでしょう。だから、もう一度繰り返して訊ねますが、一体だれがあの手紙を書いたのですか。つまりだれがあの手紙を書いたにしても、そいつはあの事実をたしかに知っていたのだし、しかも、あの手紙を書くはずがないただひとりの人物を除いては、あの手紙は書けなかったということになります。ぼくの言うことがわかりますか」
「うん、エラリー。そんな答えやすいことを訊くんならな」と、警視はにやにやして「むろん、スローンはあんな手紙など書かんさ。それに、書いた奴など問題じゃない。あれは重要なもんじゃない。なぜなら」――と、警視は細い人差指を、いとしげに動かしながら――「それについての手がかりは、自分しか知らないと言った奴の言葉しかないのだ。いいか。もしスローンが真実を述べているものとすれば、問題はたしかにむずかしくなる。だが、スローンが犯人だったとすれば、何を言おうと奴の言葉は当然疑ってみるべきだ。ことにそんな言いぐさはな――たしかにそう言ったが――しかも、それを言ったときには、奴は自分の身を安全だと思っていたし、うそをついて警察の追及をはぐらかせると思っていたのだ。しかし――スローンと名乗っているが、実はグリムショーの兄弟だということを知っている奴が、ほかにもいたと考えられる。スローン自身がだれかに洩らしたのかもしれない。もらす可能性が最も濃いのはスローンの細君だが、実は、なぜ亭主に不利な情報を流したのか、その理由がさっぱりつかめんのだがな――」
「鋭い解釈ですね」と、エラリーが口ごもりながら「というのは、お父さんのスローン有罪説によれば、電話でスローンに警告したのはスローンの細君だときめつけているんですからね。だが、あの匿名の手紙を書いた奴の独特な悪意と、細君の警告した心理とは、どうも両立しないようですね」
「よろしい」と、警視がすぐに「こんなふうに考えてみろ。スローンには敵がいなかったか。まさにあった。――たとえば、奴に不利な証言をした人物、ヴリーランド夫人だ。すると、あの女が手紙を書いた人物かもしれんぞ。あの女が、どうして奴らが兄弟であるかをかぎつけたかは、むろん憶測の域を出ないが。たしかだ。賭けてもいい――」
「お金を損しますよ。ああ、何か、とんでもないいやなことがおこりそうで、ぼくは頭が痛いですよ。デンマーク語で言う――そう、疾風、突風という奴がね。ぼくがつるし首になるのはかまわないけれど、もし、万一……」と、エラリーは言いも終えず、信じられないほど長く首を伸ばして、消えかかった炉の火に、思いっきり力をこめて、マッチの軸を投げこんだ。その時、けたたましい電話の呼鈴が二人をぎょっとさせた。
「こんな時間にかけてくる奴は、一体何者だ」と、老人は叫んだ。
「もし、もし……おお、お早う……かまわんよ。何か見つかったかね……わかった。そりゃいい。じゃ、急いでおやすみ――夜ふかしは、きれいなお嬢さんの顔色によくないよ。はっはっは……大丈夫だ。おやすみ」と、警視はにこにこしながら受話器をかけた。エラリーが目で訊いた。
「ユナ・ランバートからさ。例のもえ残りの遺言状に書いてある姓名が、本物であることには疑問の余地なしだそうだ。間違いなく、ハルキスの手跡だそうだ。それに、あの紙片は、あらゆる点からみて、元の書類の一部だそうだ」
「本当ですか」その情報は、警視には見当もつかない理由で、エラリーをがっかりさせた。それで、老人は不機嫌になり、ちょっとかんしゃくをおこしたらしい。「おやおや、お前はこの厄介な事件の解決を望んでいないらしいな」
エラリーはおだやかに首を振った。「おこらないで下さいよ、お父さん。ぼくだって、なんとかして、解決したいとねがっているんですよ。しかし、その解決は、自分で納得のいくものでなくちゃなりませんからね」
「そうか、わしには納得がいく。スローンの有罪はたしかだ。それにスローンが死んだから、グリムショーの相棒は地上から消えたことになり、万事解決というわけだ。というのは、お前の言うとおり、グリムショーの相棒は、ノックスがあやしげなレオナルドの絵を持っとることを知っている、ただひとりの局外者だ。そいつがいまや仏になった――もっとも、絵の件は、最初からスローンの計画の二次的な動機のひとつだったかもしれんがな――そういったすべてのことは、今は警察だけの秘密になったわけだ。つまり」と、警視はちょっと舌打ちしてつづけた。「ジェームス・J・ノックス氏に手を打つことができるわけだ。あの絵が、本当に、ヴィクトリア美術館からグリムショーが盗んだものなら、とりもどしてやらなければならん」
「電報の返事は来たんですか」
「何も言ってこん」と、警視が苦い顔で「なぜ美術館から返事が来んのかわからん。いずれにせよ、イギリス側であの絵をノックスから取りもどそうとすれば、ひとさわぎおこるな。この問題は、わしとサンプスンとで、ゆっくり手がけた方がいいな――あの金持の鳥をおびえさせて、逆毛を立てさせたくないからな」
「あの事件を解決するチャンスは十分ありますよ。おそらく、美術館の方でも、専門家が本物と鑑定して公開していたレオナルドの絵が、実はほとんど価値のない模写だったなどという話が世間にひろまるのを望まないでしょうからね。むろん、あの絵が模写だとしての話ですが、それもノックスの言葉だけできめているんですからね」
警視は考えこみながら火の中につばをはいた。「ますますこみ入ってくるな。それはともかく、スローンの話にもどろう。トマスが、グリムショーが泊っていた木曜日と金曜日の、ベネディクト・ホテルの宿泊人名簿を手に入れて来た。ところが、事件関係の人物に該当したり、関係がある名はひとつものっていない。そんなことだろうとは思っていたがね。スローンは、例の奴はグリムショーがホテルで知り合いになった男だろうと言っていたが――嘘をついたんだろう。あの謎の人物は、おそらく事件には全然関係がない奴かもしれんよ。そいつはスローンのあとから来て――……」
警視は、調子づいて浮々としてしゃべりつづけた。エラリーは、そんなのんびりした言葉の上の散歩などにはひと言も答えず、長い手をのばし、スローンの日記帳を手にとって、ぱらぱらとページをめくりながら、ゆううつそうな顔つきで、また調べはじめた。
「ねえ、お父さん」と、やがてエラリーは目も上げずに言った。「たしかに、スローンをこの事件の狂言まわしとしてみると、表面上は、あらゆる点が、うまく合いますが、しかし、だからいっそう困るんですよ。すべてのことが、あまりにも都合よくおこりすぎているので、ぼくのへそ曲りな感受性がすなおに納得してくれないのです。どうか忘れないで下さいよ、われわれは――ぼくは――前にも一度、まんまとだまされて、もっともらしい解答を受けいれようとしました――その解答は受け入れられて公表され、今頃はもう忘れられていたかもしれないんですよ、もし、あんな全く偶然な出来事でご破算になっていなかったらね。今度の解答は、いわば、隙間がないようです……」と、エラリーは頭を振って「ぼくには文句のつけようがありません。だが、何か間違っているような気がするんです」
「だが、石の壁に頭をぶつけてみたって、何の役にも立たんじゃないか、エラリー」
エラリーはかすかに笑った。「そんなことでもすれば、霊感がわくかもしれませんね」と、言って唇をかんだ。「しばらくの間、ぼくの言うことをきいて下さい」
エラリーは日記帳をとり上げ、警視は厚いスリッパの足をばたつかせて、それをのぞき込んだ。
エラリーは書き入れのある最後のページをひらいた――『十月十日、日曜日』と、日付の刷ってある下に、こまかな、きれいな字で、びっしりと書き込んであった。その反対のページは『十月十一日、月曜日』で、そのページは白紙のままだった。
「さて、いいですか」と、エラリーは、ため息をして言った。「ぼくはこの個人的な、したがって興味深い日記を熟読してみました。そうして、スローンが今晩――あなたの言う、自殺した晩――何も書き入れていない事実を見のがせないのです。しばらく、この日記の精神内容をかいつまんで話しましょう。どのページにもグリムショーの絞殺をめぐる出来事については何も書かれていないという事実と、ハルキスの死に対してはただお座なりの言葉しか述べていないという事実とは、この際、問題にしないことにしましょう。もちろん、スローンは自分が殺人犯だったとしても、自分を罪におとし入れるような文句を書くことはさけるはずですからね。ところが、一見してすぐ気づく点がいくつかあります。たとえば、スローンはこの日記を、毎晩、こまめに、ほとんど同じ時刻につけています。その日の記入をする前に、書いた時間をつけています。見ればわかりますが、その時刻は何か月にもわたって、大てい午後十一時前後です。それからまた、これを見ると、スローンが、ひどくうぬぼれの強い人間で、自分自身に最大の関心をもっている男なのがわかります。色模様も出て来ますよ。たとえば――切実な色模様で――ある女とのセックス関係ですが、用心して相手の名は伏せてあります」
エラリーは日記をぱたりととじて、机に放り出し、すっくと立って、額にいっそう小皺《こじわ》をよせながら、炉の前の敷物の上を往ったり来たりした。老人は、みじめな気分で、エラリーを眺めていた。
「近代心理学の全知識の名において、おたずねしますが」と、エラリーが声を張り上げた。「こんな人間――この日記が明示するように、自分のことを何でも劇的に考える人間、このタイプの人間の特徴である、自我の表現に病的な満足を持つ人間――こんな人間が、自分の生涯で最大の出来事、死のうとしていることについて、劇的に書くことができる唯一、無二、絶対のチャンスを見のがすことがありうるでしょうか」
「その死の考えで、ほかのことは、いっさい心から追っ払われたのかもしれんよ」と、警視が意見をもち出した。
「あやしいもんですね」と、エラリーが苦々しい顔で「スローンが、怪しい電話で警察の嫌疑がかかっていることを報らされ、自分の罪に対する罰をもはやのがれられぬと悟り、なお、邪魔されずに仕事のできそうな、ごくわずかな暇があることを知れば、当然、その性格の全機能をあげて、最後の英雄的な文句を、日記に書かずにはいられなかったはずです。――しかも、この論拠には裏づけがあるのです。というのは、あの自殺が行なわれたのは――午後十一時で――その時刻は、習慣的にきまっていた時刻、あの男がいつもこの小さな日記帳に打明け話を記入する時刻なんですからね。その上……」と、エラリーは声をはり上げて「択《よ》りに択って、今夜こそという夜に、全然、何も記入していないんですからね」
エラリーは熱っぽい目をしていた。警視は立って、その細くやさしい手をエラリーの腕にかけて、ほとんど女のようないたわり方でそっとゆすりながら「さあ、そんなにむきになるもんじゃない。筋は通っているようだが、何ひとつ証明はしないよ、エラリー……さあ寝よう」
「ええ」と、エラリーは言った。「何も証明はしません」そして、三十分も経った頃、暗闇の中で、父親のおだやかな寝息に向かって言った。「だが、ぼくは、こんな心理学的な徴候に照らし合わせて、はたしてギルバート・スローンが自殺したのかどうかを疑うのです」
寝室の、うすら寒い暗さは、少しのなぐさめも与えてくれず、むろん返事もなかったので、エラリーは自分を孤独の人と思いあきらめて眠ることにした。ひと晩じゅう、日記がのこのこと動き出して奇妙にも人間の棺にまたがり、拳銃をふりまわして月の中の人間を撃ちまくる夢を見ていた。――月の中の顔は、まごうかたなく、アルバート・グリムショーの人相だった。
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第二部
「近代科学のすばらしい発見の多くは、基本的には、その発見者たちが、一連の作用、反作用に対して、根気よく、冷静な論理を適用したことによって、可能になったものである……
ラヴォアジェの簡単な説明――純粋鉛を燃焼した時の現象――は、今日ではじつに簡単なものに見えるが――それでも、何世紀も信じられていた、おそるべき中世精神の所産であるプロジストン(燃素)という観念の、あやまちを暴露したもので――近代科学の見地からすれば、ばからしいほど基本的な原理と思われるものが土台になっているし、事実ばからしいほど基本的な原理なのである。つまり、空気中で燃焼する前に一オンスの物質が、燃焼後一・〇七オンスになったとすれば、その加わった目方というものは、空気中のある物質が元の金属に加わったためだという原理なのである……この原理を理解し、その新しくできた物質を酸化鉛と名づけるのに、なんと、人類は一六〇〇年ほどもかかったのである。
犯罪のいかなる現象も説明できないものはない。根気と簡単な論理が捜査にとって基本的な必要条件なのである。考えない者にとって謎であるものも、計量する者にとっては自明の理である。……犯罪捜査というものは、もはや中世的な占いごとではなく、最も正確な近代科学の一分野なのである。そして、その基本は論理にある。(――ジョージ・ヒンチクリフ博士著「近代科学の脇路」〈一四七〜八ページ〉より)
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二十二 BOTTOM……どん底
エラリーは、英知の源とたのむ無数の先哲のなかのひとり、ミチレーネのピタクス〔ギリシア七賢人の一人。紀元前六五〇〜五六九〕も、人間のはかなさの限界について何の規定をも設けていないのを発見して、いっそう空虚感を深くした。時は、前髪をつかんでひきとめることができないのを、エラリーは悟った。日々は過ぎ行き、エラリーの力をもってしてはとどめる|すべ《ヽヽ》もない。
一週間がすぎて、エラリーはその時の流れの中から、わずかに数滴の苦い雫《しずく》しか、しぼりとれなかった――それとて、精神の糧《かて》となるものではさらになく――どう考えてみても、ビーカーは空っぽで、そのひからびた底を見つめていると、ますます不幸になるのだった。しかし、他の連中にとっては、水がふちから溢れるほど充実した一週間だった。
スローンの自殺と葬式とが、洪水のせきを切っておとした。新聞は読み物記事でいっぱいだった。ギルバート・スローンの過去の個人的な経歴まで洗い上げて、泥水をはねとばした。故人に陰険な毒舌を浴びせかけ、やさしくいたわるなどという手かげんもなく故人の生活の表皮をひんむき、ゆがめ、たたきこわして、その名誉を傷つけ、悪評をひろめた。生き残った連中は、とばっちりをくった。中でも細君のデルフィーナ・スローンは、マスコミの冷酷無残な必要から、有名人にされてしまった。悪口雑言の波が、デルフィーナの悲しみの岸におしよせた。また、ハルキス邸は難攻不落な燈台に変わり、ひるむことを知らない記者どもが、その標識灯を目ざして、船をこぎよせるのだった。
エンタープライズ〔企業〕という名がふさわしかろうに――その名でない――タブロイド新聞などは、未亡人にインドの王《ラジャ》の身代金《みのしろきん》ほどの大金を積んで、その代り、彼女のサインをライン・カットにして、その下に『殺人者と生涯をともにしたデルフィーナ・スローンの手記』という控え目な題名をつけて、続きものを載せる許可を与えてほしいと申し込んだ。そして、この太っ腹な提案が、不届きにも黙殺されると、このジャーナリズムの不遜さの代表選手は、スローン夫人の最初の結婚生活から、貴重な個人的資料を掘じくり出すのに成功して、その考古学的な掘り出しものを、得々として熱情的に、読者に披露《ひろう》した。アラン・シェニー青年が、その赤新聞の記者を殴りつけ、目にくまをつけ、赤っ鼻にして社会部長のもとに送り返したので、暴行罪でアランを逮捕させないためには、その新聞と長いあいだ押し問答しなければならなかった。
腐肉|漁《あさ》りどもが死肉に群がり騒いでいるあいだ、警察本部はじつに平穏な日を送っていた。警視は日常のもっと気骨の折れない仕事にもどり、新聞が華々しく命名したハルキス=グリムショー=スローン事件の公式記録を整備するために、そこここに点在する、あいまいな点を正すだけで満足していた。プラウティ医師の、ギルバート・スローンの死体解剖は、形式的なものだったが、徹底的に行なわれた。だが、ごまかしの狂言を思わせる徴候は何ひとつ出てこなかった。毒薬も見つからなかったし、暴力を加えられた形跡もなかったし、銃創も、こめかみを撃って自殺した人間に生じるような傷だった。そしてスローンの遺骸は指示どおりに、医務検査局から下げ渡されて、郊外の墓地の花でかざられた墓に送りとどけられた。
解剖の報告について、エラリー・クイーンが、わずかに納得できそうな唯一の情報のかけらは、ギルバート・スローンが即死だったという点だけである。しかし、この事実が何のたしになるのか、エラリーは、深まる霧の中で、見当もつかないことを、自らに告白せねばならなかった。その霧は、当時いまだに暗黒の中にあったエラリーには、それとさとれなかったが、まもなく晴れ上がる運命にあった。そして、ギルバート・スローンが即死だったという事実が、じつに明々《あかあか》と輝く標識になる運命にあった。
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二十三 YARNS……作り話
それは、不意に、十月十九日火曜日の正午少し前に始まった。
スローン夫人が、どうやって加虐者たちの鵜《う》の目|鷹《たか》の目をくらましたかは語らなかったが、付添いもなく、追跡もされずに、警察本部に姿をあらわしたのはまぎれもない事実だった。――むろん、地味な喪服をつけ、薄いヴェールをかぶり――おどおどした声で、リチャード・クイーン警視に、重要な用件でお目にかかりたいと言った。
リチャード・クイーン警視は、夫人を悲しみの孤島に、そっとしておきたかったらしいが、根が紳士だし、女性に関しては多少宿命論者なので、仕方がないとあきらめて、会うことにしたのである。夫人が案内されて来たとき警視はひとりきりだった。――すらりとして、弱々しい中年婦人で薄いヴェールを通して、はげしく燃えるような目が見えた。警視は手をかして夫人を椅子に掛けさせ、月なみのおくやみをぼそぼそ言って、机のそばに立ったまま待っていた。――立っていることで、刑事部の警視の仕事はじつに多忙だから、すぐ用件にはいればそれだけ市のためになるのだということを、それとなく夫人にわからせようとするかのようだった。夫人は、ためらうことなく用件を切り出した。かすかにヒステリーじみた声で言い出した。
「宅は人殺しじゃございませんわ、警視さま」
警視はため息をして「しかし、事実というものが、奥さん」
夫人は貴重なる事実というものを無視するつもりらしかった。「この一週間、記者さんたちに言いつづけてまいりました」と、声を高めて「ギルバートは無実ですと。正しい裁きをしていただきたいんですのよ、警視さま。このままでは悪名が私や――私たちみんな――私の息子にまで――死後までついてまいりますわ」
「だが、奥さん。ご主人はご自分の手で自ら裁かれたんですよ。自殺されたのは実際に罪を告白されたことになるのを、忘れんで下さい」
「自殺ですって」と、夫人は、なじるように言い、たまりかねたようにヴェールをかなぐりすてて、燃えるような目で警視をにらんだ。「みなさんは盲目ですの? 自殺ですって」涙で声がうるんだ。「かわいそうに、ギルバートは殺されたのに、だれも――だれも……」と、すすり泣きはじめた。
ひどく気まずい空気だった。警視は気まずそうに窓の外を眺めながら「奥さん、そう言われるからには証拠が必要です。証拠があるんですか」
夫人は椅子からとび上がって「女には証拠はいりません」と、叫んだ。「証拠ですって。むろん、何にもありませんわ。でも、それが何でしょう。私にはわかるんです」
「スローンの奥さん」と、警視が、そっけなく「そこが法律と、ご婦人方のちがうところですな。お気の毒だが、アルバート・グリムショー殺しの犯人として、だれか別の人物を直接に指摘するような新しい証拠がない限り、わしは手出しはできんよ。わしらの記録では、この事件はもう解決しとるのです」
夫人は言葉もなく去っていった。
さて、この短く、不幸な、実りのない出来事は、たしかに表面上は、とるに足りないものだった。しかも、これが一連の全く新しい事態をひきおこす契機になったのだ。もしも、警視が、その日の夕食の席で、息子の浮かぬ顔を見て、茶のみ話にスローン夫人が訪ねて来たことを持ち出さなかったら――息子の苦り切っている顔を少しでもやわらげさせようと思う、はかない親心からの話題で、他のニュースでもよかったのだ――この事件は、おそらく――エラリーは長いこと、そう信じつづけていた――「解決ずみ」として、警察の文書保管倉庫に放り込まれたままになったろう。
おどろいたことには――というのは、警視も結局は、はかないのぞみだと思っていたのに――策略はまんまと図に当たった。エラリーはすぐに、その話に興味を示した。いらいらした表情が消えて、別のいかにも考え深い表情がとって代わった。
「すると、夫人もスローンが殺されたのだと思っているんですね」と、ちょっと驚いたように言った。「面白い!」
「面白いだろう」と、警視は、細い両手で自分のコーヒー茶碗をつかみ、そのふち越しに、大きな黒いジプシーの目でエラリーを見守っている皮ばかりのジューナに片目をつむって見せた。「女の勘というものは面白いな。どうしても、自殺を納得せんのだ。お前のようだよ、まったく」警視はくすくす笑ったが、その目は、エラリーのお返しの笑顔を心待ちにしていた。
だが、エラリーの笑顔はついにあらわれなかった。エラリーが静かに言った。「どうも、お父さんは、この事件を、少し軽く見すぎているようですね。ぼくも、子供みたいに指をなめたり、すねたりしながら、少し、のん気に放っておきましたがね。これから、忙しく、ひと働きしてみますよ」
警視があわてて「一体、何を、ひと働きしようというんだね――|おき《ヽヽ》をかきまわして火を見つけようというのかい、エル。そっと、放っときゃいいじゃないか」
「そっと放っとく、つまり自由放任というやつは」と、エラリーが、ちょっと改まって「フランスの重農主義経済学から出たもんですがね。フランス人よりも他国の連中に、経済学の分野よりも、他の分野に、大きな害毒を流しましたよ。ちょっと説教じみて恐縮ですが。ぼくが心配するのは、多くのあわれな人間が、お父さんかぼくみたいに、後世の人々に|人殺し《ヽヽヽ》と認められる権利を失ったまま、人殺しの不浄な墓地に、むなしく葬り去られはしないかということなんです」
「しっかりしろよ、エラリー」と老人は不安そうに「お前は、あらゆる理性に反して、まだ、スローンの無実を信じとるんだな」
「必ずしもそうじゃありません。くどく言うつもりじゃないんです」と、エラリーは指の爪先でシガレットをぽんぽんやりながら「これだけは断言しておきますよ。今度の事件のいろいろな要因で、たとえ、あなたやサンプスンやペッパーや長官や、神様が知っているものでも、別の人間が考えれば、不合理だったり、必然性がないと思われるようなものが、どれほど、説明されないままで、残っているかしれません。つまり、今のところ、はっきりした自信はありませんが、ほんの少しでも希望のある限り、自分を満足させるために、それらのものを追及してみるつもりなんですよ」
「何か考えでもあるのか」と、警視が、抜け目なくたずねた。「スローンがやったのじゃないと、にらんでいるからには、だれがやったのか、目星があるのか」
「このちょいとした捜査活動ぐらいでは、だれが犯罪の背後にひそんでいる人物なのか、てんで見当もつきません」と、エラリーは、ゆううつそうに胸いっぱいに吸いこんだたばこの煙をはき出した。「だが、みんなが間違って強く信じ込んでいるのと同様に、ぼくも絶対たしかだと信じていることがひとつあります。それは、ギルバート・スローンはアルバート・グリムショーを殺さなかったし――自殺もしなかったということです」
それは虚勢だったが、強い意志をもつ虚勢だった。次の朝、落ち着かぬ一夜をすごしたエラリーは、朝食後すぐに東五十四番街へ出かけた。ハルキス邸はしめきられていた。――外まわりは見張りもついていなかったが、墓場のようにしんかんとしていた。エラリーは石段を上がってベルを鳴らした。玄関のドアはあかなかった。その代り、不機嫌そうな、およそ執事らしくないどなり声が聞こえてきた。
「だれかね」
そんな声の主にドアをあけさせるには、かなり我慢強く説得しなければならなかった。それでもドアは、ほんの少しずらしたぐらいしかあかなかった。そのすき間ごしに、エラリーにはウィーキスのおどおどした目と、薄赤い脳天が見えた。あとは、大して苦労もなかった。ウィーキスがすぐドアを押しあけて、ばら色の頭をつき出し、急いで五十四番街を見まわしてから、あわててエラリーを入れて、ドアをしめ、かけがねをかけ、それから応接室へ案内したが、エラリーはにこりともしなかった。
スローン夫人は二階の部屋にたてこもっているらしかった。ウィーキスが、しばらくして報告したところによれば、クイーンの名をきくと、夫人はさっと顔色をかえ、目を光らせて、苦々しげに毒づいたということだった。ウィーキスは申し訳なさそうに、でもスローンの奥さまは――と、からぜきをして――お会いできないし、お会いしたくない、お会いすべきではないとおっしゃいました。
だが、クイーン氏は、おめおめひきさがらなかった。エラリーはまじめくさってウィーキスに礼をのべると、廊下を南へ、出口に向かって曲がるかわりに、北へ、二階へ通じる階段の方へ向かって曲がった。ウィーキスはあきれて、手に汗をにぎった。
面会の許可を得るための、エラリーの手はじつに簡単だった。エラリーはスローンの部屋のドアをノックし、未亡人の荒々しい声が「どなたなの、今度は?」と、耳をひっかいたとたんに言った。「ギルバート・スローンが人殺しではないと信じている男なんですが」
効果はてきめんだった。さっとドアが開き、スローン夫人が立ちはだかって、息をはずませ、デルフォイの神託をもたらした男の顔を、むさぼるような目付きで見つめていた。しかし、お客がだれなのかがわかると、食い入るような目付きが、憎悪の色にかわった。
「だましたのね」と、夫人は腹を立てて「あなた方みたいな、おばかさんには、お会いしたくありませんわ」
「奥さん」と、エラリーはおだやかに「ずいぶんひどい扱いをなさいますね。ごまかしじゃありません、ぼくは自分の言葉を信じているんですよ」
夫人の顔から憎しみの色が消えて、みるみる冷たくさぐる様子にとってかわった。夫人は黙ってエラリーの様子をさぐっていた。やがて、冷やかな態度が消え、ため息をして、ドアを広くあけて手でおさえながら言った。
「すみませんでした、クイーンさま。私は少し――少しとりみだしておりましたの。どうぞおはいり下さいませ」
エラリーは腰をおろさずに、帽子とステッキを机の上に置いて――机の上には、スローンの運命の刻みたばこ入れがそのままにしてあった――言った。
「奥さん。すぐ用件にはいりましょう。むろん、だれかの助けを求めていらっしゃると思いますが。さぞ、ご主人の汚名をすすぎたいという熱烈な希望をおもちなんでしょうね」
「なんとしてでも。そうしたいですわ、クイーンさま」
「それなら結構です。ごまかしを言ってみても、何の役にも立ちません。ぼくはこの事件を、隅から隅まで調べあげて、まだ手の着けられていない暗い隅っこに、何が秘んでいるか、あばいてやるつもりなんです。それで、あなたに信頼していただきたいんですよ、奥さん」
「と、おっしゃると……」
「つまり」と、エラリーはきっぱり言った。「数週間前に、あなたがベネディクト・ホテルへアルバート・グリムショーを訪ねて行かれたわけを、話していただきたいんです」
すると夫人は、しばらく、胸の思いを抱きしめていた。エラリーは大して期待せずに答を待った。しかし、夫人が目を上げた時に、エラリーは最初のつばぜり合いに勝ったと思った。
「すっかり申し上げますわ」と、夫人はあっさり言った。「あなたのご参考になるといいんですけれど。……クイーンさま。あの当時、アルバート・グリムショーに会いに、ベネディクトに行かなかったと申しましたのは、ある意味では真実を申し上げていたんですの」
エラリーが勇気づけるように、うなずいた。
「私は実はどこへ行ったのか、自分ではわからなかったのです。というのはね」と、言葉を切って、床を見つめた。「あの晩は、ずっと、主人のあとをつけていたのです」とぎれとぎれに話が続いた。
兄のゲオルグが死ぬ何か月も前から、スローン夫人は夫がヴリーランド夫人と内密の関係をもっていると疑っていた。ヴリーランド夫人のすばらしい美しさや、同じ邸内にいて誘えばなびきそうな身近さや、その上、夫のジャン・ヴリーランドが長く留守にしていることや、スローンの自己中心的なものの感じ方などから考え合わせてみると、ヴリーランド夫人とスローンとの間に恋愛関係がおこるのは、まず避けられないことだった。嫉妬の虫を胸中に飼いながらも、スローン夫人は、それを養う餌は、何もつかまえることができなかった。疑惑をたしかめる手がないので、夫人は沈黙を守って、何がおこっているかを感じながらも、ことさら、知らないふりをしていた。しかし、目は徴候を求めて大きく見ひらき、耳は密会の約束でも聞こえはせぬかと、いつもきき耳を立てていた。何週間も、スローンはハルキス邸に夜おそく帰るのが習慣になっていた。いろいろな口実をつくった。――それは嫉妬の虫にとっては滋養たっぷりの餌だった。うずく苦悩に耐えかねたスローン夫人は、事実をたしかめたいという癌腫《がんしゅ》に、ついに負けてしまった。九月三十日木曜日の夜、夫人は夫を尾行《つけ》た。スローンは、夕食後、ハルキス邸を出かける口実として、明らかにあやしい『会議がある』などと言い出した。
スローンの行動は、見たところ、あてどもない様子だった。たしかに会議などなかった。その晩、十時までは、ずっとだれとも連絡をとらなかった。それからブロードウェイから横にそれて、みすぼらしいベネディクト・ホテルヘ向かった。夫人は夫をつけてロビーにはいった。嫉妬の虫は、ここが自分の結婚生活を裏切られる場所になるのだ、妙にそわそわしている夫スローンが、ベネディクト・ホテルのうすぎたない部屋でヴリーランド夫人と密会しようとしているのだと、ささやくのだった。二人が会う目的については、スローン夫人は、おじけをふるって考えないことにした。夫が受付に行って番頭に話しかけてから、相変わらずそわそわしながらエレヴェーターに乗るのを夫人は見ていた。スローンが番頭と話している時に、『三一四号室』という言葉を、かろうじて小耳にはさむことができた。それで、三一四号室が密会の場所だと確信して、夫人は受付に近づき、その隣室を借りることにした。この行動は衝動的なもので、ただ罪深い二人の話を盗み聞きして、二人がみだらな腕の中にからみ合った瞬間とび込んでやろうという気違いじみた考えがあったかもしれないという程度で、それ以上、どうしようという具体的な考えは何もなかった。
夫人の目は、その狂おしい瞬間の思い出に燃え上がったので、エラリーは静かに、再び夫人の熱情に油をそそいだ。あなたはどうしましたかと。夫人の顔はめらめらと燃え上がった。夫人は金を払って借りた三一六号室にまっすぐ行って、壁に耳を押し当てた……だが、何も聞こえなかった。ベネディクト・ホテルの建物は、ほかには何もとりえはなかったが、頑丈にできていた。もだえ、ふるえながら、何も聞こえぬ壁によりかかり、もう少しで泣き出しそうになった。その時、隣室のドアが急に開くのが聞こえた。夫人は自分の部屋のドアにとんで行って、用心してそれをあけた。ちょうどうまく、夫人には疑惑の対象である夫が、三一四号室を出て大股にエレヴェーターの方へ廊下を歩いて行くのが見えた。……
どう考えてよいか夫人にはわからなかった。夫人は足音をしのばせて部屋を出ると、非常階段を三つ駆け下りてロビーへ行った。夫のスローンが急ぎ足で出て行くのをちらりと見た。そのあとをつけた。おどろいたことに、夫はハルキス邸へ向かっていた。夫人は自分が邸につくとすぐ、家政婦のシムズ夫人に巧みにかまをかけて、ヴリーランド夫人がその晩ずっと家にいたことを聞き出した。少なくとも、その夜に関しては、スローンが不義を働かなかったことがわかった。まずいことに――夫人はスローンが三一四号室から出たのは何時だったか覚えていなかった。時間のことは何ひとつ覚えていなかった。
どうやら話はそれだけらしい。夫人はくい入るようにエラリーを見つめて、この話が、手がかりに、何かの手がかりになるかどうかを訊ねるような目付きをした。
エラリーは考えこんでいた。
「奥さん、あなたが三一六号室におられたあいだに、だれかが三一四号室にはいる音をききませんでしたか」
「いいえ。私はギルバートがはいって、それから出て行くのを見て、すぐにあとをつけたのです。私が隣りにいるあいだに、もしだれか他の人がドアをあけたりしめたりすれば、きっとその音がきこえたはずですわ」
「なるほど。大いに役に立ちますよ、奥さん。ところで、こんたにも包みかくさず話して下さったのだから、ついでにもうひとつうかがいたいんですがね。あなたは先週の月曜日の夜、つまりご主人のなくなられた晩、ここから、ご主人に電話をかけられましたか」
「かけませんわ。あの晩、ヴェリー部長さんが訊ねられたのでお答えしたとおりよ。私が夫に警告したと疑われているのは知っていますが、でも、私はそんなことをしませんわ、クイーンさま。私はいたしませんよ。――警察が、あのひとを逮捕しようとしていたことなど、てんで思いがけませんでしたものね」
エラリーが夫人の顔をじっと見つめたが、夫人は全く真剣らしかった。「あの晩、父とペッパーと私とが階下の書斎を出る時、あなたが廊下を急いで応接室の方へ立ち去るのを見かけましたが、そのことを覚えていますか。失礼な質問ですが、奥さん、ぼくは知っておかなければならないんです――われわれが出て来る前に、あなたは書斎のドアで立ち聞きしていたのではありませんか」
夫人は急に真赤になった。「たぶん私は――おお、ほかにもいろんなはしたないことをしていますし、クイーンさま、それに夫に対する私の行動からみて、とても信じてはいただけないかもしれませんけれど……私は誓って、あの時、盗み聞きはしませんでしたわ」
「じゃあ、だれか盗み聞きしそうなひとの心当りはありませんか」
夫人の声に憎しみがこもった。「はい、ありますわ。ヴリーランド夫人よ。あのひとは――あのひとは、とてもギルバートと親密で、それはとても……」
「だが、それは、あの晩、スローンさんが墓地にはいるのを見たと話しに来た、あのひとの行動からみて納得いきませんね」と、エラリーがおだやかに「あのひとの行動は愛人を守るというより、むしろ悪意の方がまさっていたようですものね」
夫人は自信がなさそうにため息をついた。「きっと私の思いちがいでしょう……あの晩ヴリーランド夫人があなた方に、何を話されたかは、まるで知らなかったんですものねえ。そのことは主人が死んでから、新聞で知ったくらいです」
「最後にもうひとつ、奥さん。スローンさんは兄弟があるような話をされませんでしたか」
夫人は頭を振った。「そんなこと、おくびにも出しませんでしたわ。事実、家族のことになると、あのひとはいつも口が固かったのです。父と母のことは私に話したことがあります。――お二人とも、ごく善良な中流階級の方だったらしいんです。――けれど、兄弟のことは一度だって口にしたことはありません。私はいつも、あのひとはひとりっ子で、家族のたったひとりの生き残りだと思っていましたわ」
エラリーは帽子とステッキをとりあげて「辛抱していらっしゃいよ、奥さん。そして、何よりも肝心なのは、今ここで話し合ったことを、だれにもおっしゃらないことです」と、言い、微笑してすばやく部屋を出て行った。
階下で、エラリーは、ちょっとした情報を、ウィーキスから聞き込み、はっと、むねをつかれた。ワーディス医師が姿を消したのだった。エラリーは心の手綱をひきしめた。何かいわくがありそうだぞ。しかし、ウィーキスは情報源としてはあまり役に立たない。ワーディス医師は、グリムショー事件の解決につづくマスコミの宣伝で、すっかりまたこちこちのイギリス流の殻にとじこもって、この輝かしく照らし出されている家庭から逃げ出そうと考えはじめたらしかった。スローンの自殺で、警察の足どめが解除になると、すぐに荷作りさせて、急いで邸の女主人に暇乞いした。――女主人も礼儀作法どころのさわぎではなく、ひきとめる気持の余裕などなかったらしい。――医師はおくやみをのべると、どことも知れず大急ぎで出発《た》っていった。出て行ったのは先週の金曜日で、どこへ行ったかを知っている者は家じゅうにひとりもいないと、ウィーキスが言う。それが真相らしい。
「それに、ジョアン・ブレットさんも――」と、ウィーキスがつけ加えた。
エラリーは青くなって「ジョアン・ブレット嬢がどうしたって? あのひとも行ってしまったのか。おいおい君、何とか返事してくれよ」
ウィーキスがへどもどして言葉を見つけた。「いいえ。そうじゃありません。あの方はまだお出かけじゃないんですが、どうもお出かけになりそうなんですよ。私の言うことがおわかりになりますかね、あの方は――」
「ウィーキス」と、エラリーは声をはげまして「はっきりわかるように言うんだ。どうしたというんだ」
「ブレットさまはお出かけの支度をしていらっしゃるんですよ」と、ウィーキスはちょっとからぜきして、もったいぶり「あの方のお仕事が、つまり、なくなりましたのでね。それでスローンの奥さまが」――と、困ったような顔をして――「スローンの奥さまが、もうおつとめの必要がないとブレットさんにおっしゃったのです。それで――」
「あのひとは、今、どこにいるかね」
「お二階のご自分のお部屋です。荷作りをしていらっしゃると思います。階段の上の右側の最初のドアです……」
みなまで聞かずに、エラリーは外套のすそをひるがえして風のようにかけ出し、一足で三段ずつ階段をとび上がった。しかし、階段の頂上の踊り場まで来ると、ぴたりと足をとめた。人声が聞こえた。その声の片方は、まぎれもなく、ジョアン・ブレット嬢ののどから出る声だった。そこであつかましくもエラリーは、じっと立って、ステッキを握りしめ、頭を少し右の方へ突き出した。すると、そのおかげで、俗にいう熱情的な、せまるような男の声が叫ぶのが聞こえた。
「ジョアン。いとしいジョアン。ぼくはあなたを愛してるんだ」
「酔ってるのね」と、ジョアンの声が冷やかに聞こえた。――若い女が紳士の不滅の愛のちかいを聞いている声ではなかった。
「いや、ジョアン、たのむから、茶化さないでおくれ。ぼくは大真面目なんだよ。ぼくはあなたを愛してるんだ、愛してるんだよ、ねえ。本当だ、ぼくは」つかみ合いをするような物音がした。どうやら、男性の声の持ち主が、からだで求愛をせまったらしい。はっきりそれとわかる、あえぎ声がちょっと聞こえてから、ぴしゃりと鋭く一発。ブレット嬢のたくましい腕のとどかない所にいるエラリーでさえ、たじろぐ音だった。しんとなった。二人の戦士は、いま敵意をこめてにらみ合っているにちがいない、おそらく人類がかんしゃく玉を破裂させた時にとる、猫族のような身構えで、お互いにぐるぐるまわりをしているだろうと、エラリーは想像した。エラリーは冷静に耳を傾け、男の方が「そんなことをしないでもさ、ジョアン。君をこわがらせるつもりじゃないんだ」と、ささやくのを聞いて、にやりと笑った。
「私をこわがらせるですって。とんでもない。私はちっともこわがっちゃいませんよ、本当よ」と、相手を小ばかにしてからかうようなジョアンの声がした。
「そうか、畜生」と、男が絶望的に叫んだ。「それが求婚者に対しての態度なのか」
またもやあえぎ声。「よくも、そんなげすな言葉を私にあびせたわね。あなたってば――あなたってば、おお」と、ジョアンが大声で「むちでぶってやりたいわ。こんなに侮辱されたことは、はじめてよ。すぐ、部屋を出てって!」
エラリーは壁にはりついた。のどにつまるような激しい怒声と、荒っぽくドアを突きあけるひどい音、ぴしゃりとしめる音が、家じゅうにひびいた。――エラリーが曲り角からのぞいてみると、ちょうど、アラン・シェニー君が、こぶしを握りしめ、頭を前後にふり立てて、狂ったような身ぶりをしながら、どたどたと廊下を走り去るところだった。……アラン・シェニー君が自分の部屋に姿を消し、またしても乱暴にドアをしめて、古い家をゆるがすと、エラリー・クイーン氏は満足そうにネクタイを直し、ためらうこともなくジョアン・ブレット嬢の部屋のドアに近づいた。そして、ステッキを上げて、静かにノックした。中はしんとしていた。もう一度、ノックした。すると、手ばなしですすり泣く声がして、ジョアンが「また、来たのね、あつかましいひとね、あなたって――本当に、あなたってひとは」
エラリーが「ブレットさん、ぼくです。エラリー・クイーンです」と、世にも落ちつき払って、当然泣き声が、お客のノックに答えるのを心得ているもののように言った。すると、鼻をすする音がすぐ止んだ。エラリーは辛抱強く待っていた。やがてひどく小声で「おはいり下さい、クイーンさま。その――ドアはあいていますわ」と言ったので、エラリーはドアを押して、はいった。
見ると、ジョアン・ブレット嬢は、ベッドのそばに立ち、涙でぬれたハンケチを小さな指の関節が白くなるほど握りしめ、頬にはコンパスで描いたようなまん丸い二つの斑点が浮かんでいた。居心地のよさそうな部屋の、床や椅子やベッドに、いろいろな形の女の着物がちらばっていた。椅子の上には二つの旅行鞄が口をあけておかれ、床には小さな海上旅行用トランクがあくびしていた。見るともなく見ると、化粧台の上に、額縁入りの写真があり、急いで裏返したものらしく、表を下に向けていた。
さて、エラリーは――いつでもなろうと思えばなれる変身――この上なく如才ない青年になりすましていた。この場合はそんな技巧と、とぼけた話しぶりが必要だったらしい。そこで、エラリーは、わざと、とぼけて微笑しながら言った。
「ブレットさん。ぼくが最初にノックした時に何とおっしゃったんですか。どうも、よくききとれなかったもので……」
「おお」――これまた、きわめて小声のおおだった。ジョアンはエラリーに椅子をすすめて、自分も別の椅子に腰かけた。「あれは――私は時々ひとりごとを言うんですの。悪いくせですわねえ」
「いや、どういたしまして」と、エラリーは腰をおろしながら、愛想よく言った。「いや、どういたしまして。きわめて立派な人々にも、その癖のある人がいますよ。ひとりごとを言うひとは銀行にお金を持っているそうですよ。あなたも銀行にお金を持っているんでしょう、ブレットさん」
ジョアンはそれをきいてかすかに微笑んだ。「いくらでもありませんわよ。それに銀行をかえようとしていますの。ご存知のように……」ジョアンの頬の赤みが消えて、ちょっと、ため息をした。
「私は、アメリカを離れようとしておりますのよ、クイーンさま……」
「ウィーキスがそんなことを言っていました。お名残り惜しいですね、ブレットさん」
「おや」と、ジョアンは大声で笑って「フランスの方みたいにおせじ上手ね、クイーンさま」そして、ベッドに近づき、ハンドバッグをとり上げた。「このトランクを見て――荷物よ。……海の旅って本当にしんどいわ」
ジョアンはハンドバッグから乗船切符のつづりをとり出して見せながら「お仕事でおいでになりましたの。私は本当に出て行こうとしているんですのよ、クイーンさま。これが船に乗ろうとしている明らかな証拠ですわ。まさか、出発してはいけないとおっしゃるつもりじゃないでしょうね」
「ぼくが。いいえ、とんでもない。でも、あなたは、本当に出発されたいのですか、ブレットさん」
「すぐにね」と、ジョアンは小粒の歯をきりっとかみしめて「本当に出発したいんですの」
エラリーはけろりとして「そうですか。今度の殺人事件と自殺事件は全くやりきれませんでしたからね。……もちろん、ぼくはあなたをそんなに長くお引きとめしませんよ。ぼくがお訪ねした目的は、そんないやな話とはまるで逆な用件なのです」と、まじめな顔で、ジョアンを見つめて。「ご存知のとおり、事件は片がつきました。しかしながら、二、三あいまいな、さして重要でもない点があるんですが、それが気にかかって、忘れられないものですからね。……ブレットさん、あなたが階下の書斎を歩きまわっているのをペッパーが見かけたんですが、あの晩の、あなたの目的は何だったんですか」
ジョアンは冷たい青い目で静かにエラリーの心を測っていた。「じゃあ、あなたは私の説明では納得していらっしゃらなかったのね。……おたばこは、クイーンさま」
エラリーが断わると、ジョアンはしっかりした手つきで、マッチをすって自分のを吸いつけた。「じゃあ、よござんす――『逃亡せんとする秘書の告白』ね。お国の赤新聞ならそう書くところ。私、白状しましょう。あなたはきっとびっくり仰天なさいましてよ、クイーンさま」
「さぞびっくり仰天するだろうと思いますよ」
「覚悟がおできになって?」と、ジョアンは深く息を吸いこんだ。ものを言うたびに、かわいい口もとから、句読点のように煙が、ぱっぱっと出た。「あなたの前に立っているのは、クイーンさま。女探偵なんですよ」
「まさか」
「ところが、本当。私はロンドンのヴィクトリア美術館に雇われているんです。――ヤード(ロンドン警視庁)の人間ではありませんわ。ヤードとは関係もありません。それは荷がかちすぎますものね。美術館だけの関係ですのよ、クイーンさま」
「へえー。ぼくは、のされて、八つざきにされて、はらわたをひきちぎられて、油ぜめにあってるようだ」と、エラリーがつぶやいた。「あなたの言葉はまるで謎みたいですよ。ヴィクトリア美術館ですって? こりゃ、探偵にとってとびつきたいニュースですよ、お嬢さん。説明して下さい」
ジョアンは、たばこの灰をおとして言った。
「話はとても芝居がかっているんです。私がゲオルグ・ハルキスに雇ってくれるように申し込んだ時、実は、ヴィクトリア美術館のお雇い探偵だったのです。ある事件を追及していて、ハルキスに行き当ったのです。――漠然とした情報では、ハルキスが、美術館から盗まれた絵の受取人らしい人物として浮かび上がってくる節があったのです――」
エラリーの唇から微笑が消えた。「その絵の作者はだれですか、ブレットさん」
ジョアンは肩をしゃくって「部分絵なんですが、大変値打ちのあるもので――レオナルド・ダ・ビンチの本物です。――かなり前に、美術館の外交員が見つけてきた傑作ですわ。十六世紀の初め頃、レオナルドがフィレンツェで描いていた壁画かなにかの部分絵なのです。最初の壁画の計画が中止されたあとで、レオナルドが原画をもとにして油絵に描いたものらしいのです。『旗の戦いの部分絵』と、目録にはのっていました……」
「運がいい」と、エラリーはつぶやいて「それから? ブレットさん。ぼくをすっかり夢中にさせますね。そこでハルキスは、どんなふうに、かかわり合っていたんですか」
ジョアンはため息をして「さっき申しましたとおり、ハルキスが受取人だろうと見当をつけただけで、どうもはっきりしないのです。正確な情報から割り出したものというより、あなた方アメリカ人が、よくおっしゃる『勘』と言った方がいいくらいのものですけれど。でも、順序だててお話しすることにしましょう。
ハルキスヘの私の紹介状は、全く本物だったのです。――私に推薦状をくださった、アーサー・ユーイン卿は申し分のない立派な紳士で――ヴィクトリア美術館の理事のひとりで、同時に、ロンドンの有名な美術商なのです。むろん、この絵の秘密は知っておられましたが、推薦状には、そのことはちっとも触れていませんでした。私はそれまでにも、美術館のために、こんな性質の仕事の調査をしていましたが、おもにヨーロッパでしていて、アメリカに渡ったことは一度もありませんでした。理事さんたちは絶対秘密を要求されましたので――ご存知のとおり、私は身分をかくして、盗まれた絵を追って、そのありかをつきとめるために、働かなければなりませんでした。その間、絵の盗難が一般に知れ渡らないように『修理中』という発表を重ねていたのです」
「わけがわかってきましたよ」
「すると慧眼《けいがん》でいらっしゃるのね、クイーンさま」と、ジョアンがこわばった口調で「私の話をつづけさせて下さるの、それとも、おいや?……
この邸でハルキスさまの秘書をつとめているあいだじゅう、私はどうにかしてレオナルドの絵のありかの手がかりをつかもうと努力しましたわ。でも、ハルキスの書類からも口裏からも、ちっとも手がかりは見つからなかったのです。それで、私たちのもっている情報は確実らしいにもかかわらず、私は本当に絶望しかけていました。
そこへ現れたのが、アルバート・グリムショーでした。ところで、その絵を最初に盗んだのは美術館の係員のひとりで、その男は自分ではグレイアムと名乗っていましたが、あとでわかった本名はアルバート・グリムショーなのです。そのグリムショーという男が、九月三十日の夕方、玄関に姿をあらわした時に、私は初めてねらっていた具体的な証拠をつかみ、はじめて希望が持てたのです。渡されていた人相書によって、この男が泥棒グレイアムで、盗難のあとイギリスからあとかたもなく消え去り、その後五年間、一度も姿を見せなかった人物だと、すぐ気づきました」
「おお、そりゃ大したもんだ」
「そうでしょ。それで、私は書斎のドアで一生懸命、きき耳を立てましたが、あの男とハルキスさまの会話はひと言も聞き取れませんでした。それに、その日の夕方、グリムショーがえたいの知れぬ男と――その男の顔は見ることはできませんでした――一緒に現れた時にも、私は何も知ることができなかったのです。その上、厄介なことに」――と、ジョアンは顔をくもらせて――「アラン・シェニーさんが、よりによって、そんな時に、泥酔して邸にころがり込んで来たんですものね。私がその世話をしているあいだ二人の男は帰って行ってしまったんです。でも、ひとつだけたしかなことは――グリムショーとハルキスとの間のどこかに、レオナルドの隠し場所の秘密が横たわっているということがわかったのです」
「なるほど、すると、あなたが書斎をさがしまわったのは、ハルキスの持ち物の中に何か新しい記録が――あの絵のありかの新しい手がかりがあるかもしれないと期待したためだったんですね」
「そうですわ。でも、あの時も、それまでの何回もの捜査と同じように失敗に終わりました。お察しのとおり、おりにふれて邸内や、店や、画廊をこっそり調べてみましたから、レオナルドの絵が、ハルキスの建物の中に隠してないことは確かだと思いますわ。一方、グリムショーと同伴した謎の人物は、どうもこの問題に関係がありそうです。――うろんくさいし、ハルキスさまの神経質な様子からみて――きっと、絵に関係があるんです。あの謎の人物がレオナルドの絵の運命についての、ひとつの重要な鍵だと確信しますわ」
「すると、あなたはその人物の正体を発見できなかったのですね」
ジョアンは、たばこを灰皿にこすりつけて「ええ」と、言ってから、エラリーをいぶかし気に見つめた。
「おや――あなたは、あの人物を知っていらっしゃるのね」
エラリーは返事をしなかった。その目は他のことを考えているようだった。
「ところで、つまらない質問をもうひとつしますよ、ブレットさん……事態が山にかかって来たのに、なぜあなたは所領地へ引きあげようとなさるんですか」
「それにはちゃんとした理由があるんですのよ。この事件はもう私の手にはおえなくなったんです」と、ジョアンはハンドバッグをかきまわして、ロンドンの消印のある手紙を取り出した。それをエラリーに渡すと、エラリーは断わりもせずに読んだ。ヴィクトリア美術館の用箋を使って、館長のサインがしてあった。
「私は調査のはかどり具合を、始終ロンドンに報告していたのです。――というより、はかどらなさをね。この手紙は謎の人物についての私の最後の報告に対する返事なのです。私たちが全くお手上げなのを、ご自分でご覧になるといいわ。この美術館の手紙に出ていますけれど。以前、クイーン警視から電報で問い合わせがあってから、ロンドンとニューヨーク警察の間にかなり頻繁な通信が始まっていたのです。――ご存知でしょうけれどね。むろん最初は、ロンドン側は照会に返事を出したものかどうか、わからなかったのです。というのは、絵の紛失のいきさつを全部知らせなければならないことになりますものね。この手紙は、ご覧のように、私がニューヨーク警察に一切ぶちまけて将来の行動については私の自由裁量にまかせることを許可したものですわ」と、ジョアンはため息をついて「私の自由裁量では、事件はもう私の微力ではどうにもならないと確信します。それで、私は警視をお訪ねして、事情を全部打ちあけてから、ロンドンヘ帰るつもりなのです」
エラリーが手紙を返すと、ジョアンは大事そうにハンドバッグに納めた。
「そうですね」と、エラリーが「絵の追及は、とても面倒になってきていますから、ひとりの――アマチュアの――探偵の手には負えませんよ。専門家の仕事にまわすという考え方にはぼくも賛成したいな。だが一方……」と、ひと息入れて、考えこみながら「あなたの、一見望みなさそうな調査に、ぼくが間もなく、手をお貸しすることができそうな気がしますね」
「クイーンさま。本当」と、ジョアンが目を光らせた。
「レオナルドの絵をこっそり取りもどすチャンスがあるとすれば、美術館の方ではあなたのニューヨーク滞在に同意するでしょうか」
「ええ、むろん。間違いなしよ、クイーンさま。すぐ館長に電報を打ちますわ」
「そうなさい。それに、ブレットさん」――と、エラリーは微笑して――ぼくがあなたなら、いましばらく警察には行かないでしょうね。悪いけれど、ぼくの父のところへもね。あなたはまだ容疑者でいる方が――うまく振舞えば――もっと役に立つでしょうからね」
ジョアンは、さっと起立して「はいっ! 喜んで。ほかにご命令は? 隊長」と、気をつけをし、ぎこちなく右手をあげ、ふざけて敬礼した。
エラリーはにやにやしながら「どうやらあなたは大した女スパイになれそうですよ。結構、ジョアン・ブレットさん。以後いつまでもぼくらは二人組になりましょう――密約ですよ」
「盟約ですわね」と、ジョアンはうれしそうに息をはずませて「スリル満点ね!」
「それに、危険も伴いますよ」と、エラリーが「たしかに、秘密の了解は成立しましたがね、ブレット副官、あたたの身の安全のために隠しておいた方がいいことが二、三あるんです」ジョアンが顔を伏せたので、エラリーはジョアンの手を軽くたたきながら「あなたを疑うわけじゃない――それは誓います――。だが、さしあたりこのままでぼくを信頼してもらわねばなりませんよ」
「はい、クイーンさま」と、ジョアンがしょんぼり言った。「私は、あなたの思うままになりますわ」
「いや」と、エラリーが急いで言った。「それじゃ、誘惑が強すぎますよ。なにしろあなたは素敵な美人なんだから……そら、そら」と、エラリーはあわててジョアンの面白そうな視線をさけて顔をそむけ、声を高めて考えを述べはじめた。
「今後どんな道がひらけるか考えてみましょう。ふん、ふん……まず、あなたが滞在するいい口実をさがさなければならない。――あなたがここにいるための仕事がなくなったことは、みんなが知っているはずだ……仕事がなくてはニューヨークにとどまるわけにはいかない――そんなことをすれば疑われるだろうし……ハルキス邸にはとどまれないし……そうだ!」と、昂奮して、ジョアンの手をとり「あなたがとどまれる――しかも合法的だから、だれも疑いをさしはさまない場所がひとつある」
「それはどこですの」
エラリーはジョアンをベッドヘ引いて行って、ならんで腰かけ、頭をよせ合った。「むろんあなたはハルキスの個人的な仕事にも、商売にも通じていますね。ところが、自らすすんでこの厄介な事件にまきこまれている紳士がひとりいますよ。それがジェームス・ノックスです」
「まあ、すてきね」と、ジョアンがささやいた。
「ところでね」と、エラリーがすぐ続けて「ノックスは頭の痛い仕事に足を突っ込んでいるので、有能な助手を歓迎するはずです。昨夕、ウッドラフから聞いたばかりですが、ノックスの秘書が病気になったそうです。何の疑いももたせないようにして、ノックスの方から申し出るように事を運んでみましょう。むろん、あなたは、この事には、知らんふりしているんですよ――わかりますね。あなたは忠実に働いて、本当に気に入った仕事をしているふりをしなければなりません。――見かけとはちがう人間だということをだれにも気づかれてはいけないんです」
「その点についてはご心配はいりませんわ」と、ジョアンが真剣になって言った。
「きっと心配いらないと思いますよ」と、エラリーは立って、帽子とステッキをとった。「モーゼに栄光あれ。いよいよ仕事です……さようなら、副官女史。ノックス旦那から言葉がかかるまで、この邸にいて下さい」
エラリーは、息をはずませて感謝するジョアンの言葉を聞き流して、その部屋をとび出した。その後ろでドアがゆっくりしまった。ホールに出ると足をとめて、じっくり考えはじめた。やがて、にっこりと薄気味悪く笑うと、急ぎ足で廊下を渡って、アラン・シェニーの部屋のドアをノックした。
アラン・シェニーの寝室は、カンザス州のあの竜巻の中心でいためつけられた部屋の残骸のようだった。シェニーが自分の影と競争で投げたかのように、いろんなものが投げちらされていた。たばこの吸いがらが、投げとばされたところにちらばって、まるで戦場にちらばる戦死した小さな兵士たちのようだった。シェニー君の髪の毛は、脱穀機にでもかけたように乱れているし、その目は怒りで、ピンク色の水たまりみたいにぎらついていた。そして床をのしのしと歩きまわり――せかせかと大股に歩いてみたり、くりかえし、くりかえし、ゆっくり歩いてみたりしていた。
すっかり落ちつきを失ったアランが「はいれ、畜生。だれでもかまわん」と、つぶやいたので、エラリーは戸口に立ちどまり、目をむいて、足のふみ場もないほど、とっちらかされた古戦場を、じろじろ見まわした。
「それで、用は何だい」と、客の顔を見ると、アランは、ふと立ちどまって、うなるように訊いた。
「ちょっと話がある」と、エラリーはドアをしめて「どうやら君は」と、にやにや笑いながら「多少、荒れてるようだね。しかし、たいして手間はとらんよ。貴重な時間だろうからね。すわっていいかね。それとも、決闘の申し込みのように四角ばって話そうかね」
若いアランにも礼儀のはしくれぐらいは残っていたと見えて、口ごもりながら「どうぞ。腰かけて下さい。失敬しました。どうぞ、この椅子へ」と言いながら、椅子の上にちらばっているたばこの吸殻を、灰だらけの床に払い落した。
エラリーは腰をおろして、すぐに鼻眼鏡のレンズをみがきはじめた。アランはその様子を、なんとなくいらだちながら見守っていた。
「さて、アラン・シェニー君」と、エラリーが、よく通った鼻筋にきちんと眼鏡をかけながら口を切った。「用件にはいろう。ぼくはグリムショー殺しと、君の義父さんの自殺という、悲しい事件について、何とか辻棲の合わない所を明らかにしてみようと骨を折っているんだがね」
「自殺だなんて、ちゃんちゃらおかしい」と、アランが、ぷんぷんして「そんなことがあるもんか」
「本当かね。君のお母さんも、さっき、そう言っていたが、君がそう信じるには、何か具体的な理由があるのかね」
「いや。何もないさ。でも、そんなことは問題じゃない。おやじは死んで地下六尺ってわけさ。いまさら、取りかえしがつかないことさ」と、アランはベッドに身を投げ出して「あんたは、何を考えてるのさ、クイーン君」
エラリーは微笑した。「つまらない質問で、君もいまさら答をひきのばす理由もないはずのものさ……十日ばかり前に、君はなぜ逃げ出したんだね」
アランはたばこをくわえて、身動きもせずベッドにころがったまま、壁にかかっている古ぼけてゆがんでいるエセガイ(アフリカ原住民の槍)を見つめていた。「おやじのさ」と言った。「アフリカはおやじの天国でね」それから、たばこをなげ捨てると、ベッドからとび下りて、また狂おしく歩きまわりながら、怒りをこめた目を、ちらちらと北の方へ向けた――どうやらジョアンの寝室の方らしい。「よかろう」と、いきなり言った。「話そう。まず、あんなことをするなんて、とんでもない馬鹿だったよ。移り気な色っぽい奴さ、あの女は。かわいい顔がくわせもんさ」
「シェニー君」と、エラリーが小声で「いったい、何の話なんだね」
「ぼくが、おめでたいうすのろだったって話さ、いいかい。聞いてくれよ、クイーン君。世にも珍しい青春騎士物語って寸法さ」と、アランは若々しい歯をかみならしながら語り出した。「ぼくはほれてたんですよ――ほれてねえ、いいかい――あいつに――つまり、ジョアン・ブレットにさ。それで、あいつが、この何か月も何かをさがし求めて、邸の中をかぎまわっているのを知っていたんだ。何をさがしてるのかは知らないがね。ともかく、そのことは、あの女にも、ほかのだれにも――ひと言ももらさなかった。じつに献身的な恋人ってわけさ。まったくもってお笑いぐさだ。伯父の葬式のあった日の晩、ジョアンが金庫のそばをうろついていたという、あのペッパーって男の話で、警視がジョアンを緊めあげた時――畜生め、ぼくはどう考えていいかわからなかったんだ。――二たす二さ――遺言状と人殺し、はっきりしてる。とても恐しかった。……ぼくはあの女が、この恐ろしい事件に、どうやら捲き込まれているなと思った。そこで――」と、アランはききとれぬほど小声で何かつぶやきかけた。
エラリーはため息をついて「ああ、熱き恋か。もってこいの名句が浮かぶが、言わぬが花だね。……そこで、アラン大人《たいじん》は、気高きペレアス卿となり、あざ笑うレディ・エタールに肘鉄をくい、すばらしい白馬の背に打ちまたがり、ひたすら騎士道精神にかられて……」(ペレアスとエタールの伝説はアーサー王物語にある)
「そうさ。お笑いぐさにするならするさ」と、アランがにがり切って「そうだよ――そうしたんだよ、ぼくは。騎士道精神にかられるなんて、ばかなことだったよ。君の言うとおりさ。――わざと臭いと思わせるように逃げ出したのさ――ぼくに嫌疑を向けさせようと思ってね。フ……」と、アランはみじめそうに肩をすぼめて「それなのに、あの女にはそんな値打ちがあっただろうか。どうかね。ぼくは大喜びで、このくだらない話を全部ぶちまけて、すんだことは忘れちまうよ――あの女もね」
「ところでね」と、エラリーは立ち上がって「ところでぼくは殺人事件の捜査をやってるんだよ。ああ、そうさ、精神病学が人間の動機の気まぐれさを全部説明しうるようになるまでは、いつまでたっても犯罪捜査は結局、幼稚な科学にとどまるだろうな。……ありがとう、アラン卿、どうもいろいろ。絶望しないようにたのむよ。じゃあ、さよなら」
それから一時間くらい経って、エラリー・クイーン氏は、ブロードウェイの下町のビルの谷間にある、マイルズ・ウッドラフ弁護士のつつましいアパートの一室で、その紳士と向かい合って椅子に腰かけて、ウッドラフ弁護士の葉巻をよばれて――エラリーが葉巻を吸うのは異例なことだ――さして重要でもないおしゃべりをしていた。
弁護士ウッドラフは、せいいっぱいの虚栄を張って、どうやら精神的便秘とでもいうものを味わっているらしかった。ぐちっぽく、不機嫌で、黄色い目をし、机のそばの丸いゴムの敷物の上にきちんとのせてある銀のたん壼に、時々、無遠慮につばを吐いていた。そのぐちのあらましの内容は、これまでの弁護士としての経験上、かつて、こんなにも複雑で頭の痛いゲオルグ・ハルキスの遺産問題みたいな、相続事務にぶつかったことがないというのだった。
「だって、クイーン君」と、弁護士は大声で「君には、われわれが直面してる事態がさっばりわかっておらんのだ。――さっぱり。いいかね、新しい遺言状の焼けのこりが見つかった。それが脅迫にもとづくものだということを立証せねばならんのだよ。さもないと、グリムショーの遺族がみんな甘い汁を吸っちまう……そうだとも、気の毒にノックス氏は、遺言執行人になることを同意したのを、きっと、大いに後悔しとるだろうよ」
「ノックスさん。そうでしょうね。ノックスさんはさぞ忙しくて大変でしょうね」
「大変なものさ。つまり、財産のはっきりした法的な処理を決定する前に、準備しなければならんことがじつにたくさんある。財産の全部を項目別に分けなければならんのだ。――それにハルキスは、こまぎれ財産を山ほど残しておるんでね。どうも、その仕事を全部ぼくにかぶせるつもりらしいよ、あの男は――つまり、ノックス氏だがね――ノックス氏みたいな地位の男が遺言執行人になると、とかくそんなことになるもんだ」
「そうすると」と、エラリーはさりげなくもち出した。「ノックス氏の秘書はいま病気でしょう。うまいことにブレット嬢は、さしあたり失業しているんですよ……もし」
ウッドラフの葉巻がぴくりと動いた。
「ブレット嬢ね。おい、クイーン君。そりゃうまい考えだな。もちろんいくな。あの娘なら、ハルキスの事業はみんな知っとる。さっそくひとつ、ノックス氏に当たってみよう。うまくいきそうだ……」
種をまきおわると、エラリーはすぐ席を立って、ブロードウェイを足どりも軽く歩きながら、いかにも満足そうににこにこしていた。そう言ったわけで、ウッドラフ弁護士は、エラリーの広い背中のうしろにドアがしまると、二分もたたないうちに、ジェームス・J・ノックス氏と電話で交渉し始めた次第である。「ジョアン・ブレット嬢は、これ以上ハルキス邸では仕事がないことになったと思いますから――」
「ウッドラフ、そりゃうまい考えだね……」
というわけで、ジェームス・J・ノックス氏は、大いに、ほっとし、ウッドラフ弁護士のすばらしい考えに礼をのべて、受話器をかけるとすぐに、ハルキス邸の番号を呼び出した。そして、ジョアン・ブレット嬢を呼び出すことに成功すると、まるで自分が考え出したことかのように、その次の日から働きに来てくれるようにと頼み込んだ――勤務期間は財産の処理がつくまでということだった。なお、ブレット嬢がイギリス人でニューヨーク市に家のない点を考えて、自分のもとで仕事をする期間中、ノックスの家に来て住むようにとすすめた。
ブレット嬢は、落付き払って、その申し入れを承諾した――給料も、言っておかなくてはなるまいが、今は代々の納骨堂にやすらかに骨を横たえている故ギリシア系アメリカ人氏からもらっていたより、ずっと高給だった。ジョアンはエラリー・クイーン氏がどうやってこんなにうまく事を運んだのかと、不思議に思ったものである。
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二十四 EXHIBIT……展示
十月二十二日金曜日に、エラリー・クイーン氏は――むろん非公式だったが――黄金貴族を訪問した。つまり、ジェームス・J・ノックス氏からの電話で、すぐにノックス邸に来るように、役に立つかもしれない情報を伝えるとクイーン氏に言って来たのである。
クイーン氏は、上流社交界を讃美していたばかりではなく、もっと俗っぽい理由もあって、この招待を喜び、大急ぎで小ぎれいなタクシーでリバーサイド・ドライブ〔ハドソン川岸の高級住宅地〕に駆けつけ、おそろしくいかめしい大邸宅の前で車を降り、とってつけたように愛嬌をふりまく運転手に金を払い、地価の高いことにかけては法外な市の中でも、これは相当な財産だと思えるような広大な屋敷内に、威儀を正して大股ではいって行った。
エラリーは、背の高い老人の玄関番に、大して儀式張らずに取り次がれ、メディチの御殿からすっぽりと引き抜いて来たような待合室で、しばらく待たされてから、御前《ごぜん》に案内された。
御前は、けばけばしい調度に囲まれた室内で、非常にモダンな机に向かってお仕事中ですと――エラリーは、しゃちこばった執事から、うやうやしくそう告げられた。室内は机と同様にきわめてモダンだった。壁は黒いエナメル革を張りめぐらし、四角い家具類、いろいろの型のランプ、すべて好事家《こうずか》の夢から生まれたもので……近代的な家庭調度の粋がこらしてあった。
そして、御前のそばには、ジョアン・ブレット嬢が、すんなりとしたひざの上にノートブックをのせて、まじめな顔で控えていた。ノックスの御前は、エラリーを愛想よく迎えて、六インチも長さのある白っぽい上等なたばこのはいっているサーカシアふうの木箱を差し出しながら、感銘を受けているらしい客を手招いて、すわり心地が悪そうだが実は大変いい椅子につかせた。それから、意外にやわらかい声で、ためらいがちに言った。
「ようこそ、クイーン君。よくこんなに早く来てくれたね。ブレット嬢がここにいるのでおどろいたかね」
「おどろきました」と、エラリーが生まじめに言ったので、ブレット嬢は、目をぱちぱちさせて、さりげなくスカートの居ずまいを直した。「ブレットさんも運がよかったですよ」
「いや、いや。わしの運がよかったのさ。ブレットさんは、大したもんだよ。わしの秘書が、風邪《かぜ》か腹痛《はらいた》か何かで寝込んでしまってね。当てにできなくなった――全然。そこで、ブレットさんがわしの私用と、ハルキスの件を手伝ってくれとるんだ。ハルキスの件は厄介な仕事だ。そんなわけでね、君、実を言うと、一日じゅう、若い美人を眺めとるのは、楽しくて気が休まるよ。本当だ。わしの秘書は、ちょうちん面のスコットランド人で、おふくろの骨ばったひざの上で笑って以来、笑ったことのないという代物《しろもの》だったんでね。ちょっと失敬、クイーン君。ブレットさんに、もう少し片づけてもらうと、あとは手が切れるから……ブレットさん、この期日の来ている請求書に小切手を切ってくれたまえ――」
「この請求書ですね」と、ブレット嬢がおとなしくうなずいた。
「――それから、あんたが取りよせた文房具屋にもね。新しいタイプライターの代金だが、キイを一本取りかえた手数料も忘れずに加える――それから古い機械は慈善院に送る――古ものは役に立たんからね……」
「慈善院ですね」
「それから、ひまをみつけて、あんたが言っとった新しい鋼鉄の書類箱を注文し給え。さしあたりそれだけだね」
ジョアンは立って部屋の向う側へ行き、気の利く秘書らしい態度で、小さな流行型の机に腰を下ろして、タイプを打ちはじめた。
「さて、クイーン君、お待たせしたね……今度のごたごたにはじつに閉口した。いつもの秘書が病気で、なんとも不便しとるよ」
「そうでしょうね」と、エラリーがつぶやいた。エラリーには、なぜジェームス・J・ノックス氏がこんな個人的な困った事情を、どちらかといえば縁のない自分に話すのか、いつ、ジェームス・J・ノックス氏が話の要点にはいるのか、さっぱりわからなかった。それでジェームス・J・ノックス氏は、こんなことをしゃべりながら、実は何か重要な不安を隠そうとしているのではなかろうかと思った。ノックス氏は金軸の鉛筆をいじっていた。
「今日、ちょっとしたことを思い出してね、クイーン君――わしもあわてたんだな。もっと前に思い出すべきだったよ。本部のクイーン警視の部屋で最初に説明した時には、その話をするのをすっかり忘れとったのだ」
エラリー・クイーン、運のいい奴だ、とエラリーは心ひそかに思った。辛抱強く犬のようにかぎまわった結果なんだ。運のいい耳を突っ立てて聞けよ……と。
「どんなことでしょうか」と、全く問題にもしないように、訊いた。
話しはじめは、ノックスは妙に神経質になっていたが、話が本筋にすすむにつれて、だんだん神経質ではなくなってきた。どうやら、ノックスがグリムショーと一緒にハルキスを訪ねた晩に、妙な出来事があったらしい。それは、ハルキスが、グリムショーに要求された約束手形を作成して、サインをし、グリムショーに手渡した直後におこったらしい。約束手形を財布に入れていたグリムショーは、もうひと押しして、さらに、ひとかせぎしてもいい潮時とみたのであろう。ハルキスの『好意』につけ込んで、金をくれと言い出し、冷やかに、千ドル要求した。――グリムショーの言い分では、財布の中にある約束手形の支払われるまでに、すぐにも金がいるというのだった。
「その千ドルがなかったんでしょう、ノックスさん」と、エラリーが勢いこんで言った。
「まあ、わしの話をつづけさせてくれ給え、君」と、ノックスが「邸の中には金はないと、ハルキスがすぐ言った。そして振り向いて、グリムショーに貸してやってくれと、わしにたのんだ。――明日返すと約束した。ところが、くしゃん!……」と、咳をし、ノックスはいまいましそうにたばこの灰を払って「ハルキスは得をしたよ。わしはその朝早く銀行から小遣いとして、千ドル札を五枚引き出して持っておったから、その一枚を財布からとり出して、ハルキスに渡すと、ハルキスはそれをグリムショーにやったのだ」
「へえ!」と、エラリーが「それで、グリムショーは、その札をどこに入れましたか」
「グリムショーは、札をハルキスの手からひったくると、チョッキのポケットから、ずっしりした古い金時計をとり出して――たしかにスローンの金庫から出たあいつらしい――札を裏ぶたの中に入れて、パチリとふたをし、時計をチョッキのポケットにもどした……」
エラリーは指の爪を噛みながら「ずっしりした古い金時計ですね。たしかにあれと同じものだと思うんですね」
「絶対にたしかだ。今週の初め頃、スローンの金庫にあった時計の写真を、新聞で見たが、たしかに、あの時計だった」
「イーデン・ホール〔イギリスのカンバーランドにある邸で、邸内の「聖カスバートの泉」は万病に効き幸運をもたらす〕の幸運ですよ」と、エラリーが息をはずました。
「もし札がなくなっていたら……ノックスさん、あの日銀行から引き出された札の番号を覚えておられますか。すぐに時計の裏ぶたの中を調べてみることが、肝心ですね。もし、札がなくなっていれば、その番号を追求して殺人犯人をつきとめられるかもしれませんよ」
「わしも、まさにそう考えた。番号はすぐわかる。ブレットさん、銀行の出納主任ボーマンを電話に呼び出してくれ給え」
ブレット嬢は、すなおに命令にしたがい、受話器をノックスに渡して、静かに秘書の仕事にもどった。
「ボーマンかね。ノックスだ。わしが十月一日に引き出した千ドル札五枚の、番号を報らせてほしい。……そうか。わかった」
ノックスはちょっと待ってから、メモ用紙をひきよせて、電話の声を、金軸の鉛筆で書きとめた。そして、にやりと笑うと、受話器をもどして、その紙片をエラリーに手渡した。「これだよ、クイーン君」
エラリーは気もなさそうに紙片をつまんで「そう――恐れいりますが、ノックスさん、本部までおいで願って、時計の中を調べるのに立会って下さいませんか」
「いいとも。捜査というものはなかなか面白いもんだね」ノックスの机の上の電話のベルが鳴った。ジョアンが立って受けた。「シュアティ証券からです。私が――」
「わしが出よう。ちょっと失礼、クイーン君」
ノックスが無意味でとりとめのない――エラリーが見るかぎりでは――じつにたいくつな仕事の話をしているあいだに、エラリーは立って、ジョアンのすわっている椅子に歩みよった。
エラリーはジョアンに意味ありげな目配せをして「あのう――ブレットさん。この札の番号をタイプライターで打ってくれませんか」と言うのを――きっかけにして、ジョアンの椅子にかがみかかって、その耳にささやいた。
ブレット嬢は鉛筆書きの紙片を、まじめくさって受けとると、タイプライターの軸に用紙を一枚はさみ、タイプを打ちはじめた。そうしながら、小声で言った。
「あの晩、グリムショーと一緒に来た謎の男がノックスさんだったことを、なぜ私に言って下さらなかったの」責めるようだった。
エラリーはだめというように頭を振ったが、ノックスは自分の話に気をとられていた。
ジョアンはすばやく、タイプライターから用紙を破りとると、大声で「ああ、面倒だわ。数字は清書しなければならないわ」と言い、新しい用紙を軸にはさんで、早いスピードでタイプしはじめた。
エラリーが小声で「ロンドンから何か連絡は?」
ジョアンは首を振り、とぶような指先を、ちょっととめて、声を高めて「私はノックスさんの私用タイプライターに、まだなれていないんですの――レミントンですもの、私はいつもアンダーウッドの機械を使っていたものですからね。それに、ここのお家にはこの他には機械がないんですのよ……」と言いながら、タイプを打ち終えて、用紙をはずし、それをエラリーに手渡しながら、小声で「あのひとが、レオナルドを持っていそうですか」
エラリーがジョアンの肩をぎゅっとつかんだので、ジョアンは、顔をしかめて青ざめた。エラリーは微笑しながら、楽しそうに言った。
「これで結構です、ブレットさん。ありがとう」と、エラリーは用紙をチョッキのポケットに入れながら小声で「気をつけなさい。やりすぎないようにね。かぎまわっているところを見つからないように。ぼくを信じていなさい。あなたの役目は秘書だけなんですよ。それから、千ドル札の件はだれにも言わないで下さい……」
「それでいいんでしょう、間違いないでしょ、クイーンさま」と、ジョアンは、わざとはっきり聞こえるように言って、ハーピー〔ギリシア神話の鳥身女面の怪物〕のように意地悪そうなウィンクをした。
エラリーはジェームス・J・ノックス氏の自家用車に乗りこみ、お偉方と席を同じくして、しゃちこばったお仕着せで首をつっぱらしているシャロン〔三途の川の渡し守〕の運転で下町まで車を走らせる光栄に浴した。
センター街の警察本部の前に着くと、二人は降りて車よせの広い階段をのぼり、建物の中に姿を消した。エラリーは警官や刑事連中や廊下とんびどもが、クイーン警視二世たる自分に愛想よく会釈するのを見て、億万長者がひどくおどろくのに気づくとおかしかった。そして先に立って保管室のひとつにはいって行った。そこでエラリーはさも偉そうにとりつくろいながら、グリムショー=スローン事件の証拠物件が納めてある保管箱を持ってくるように命令した。エラリーは旧式の金時計以外には手もつけず、鉄箱からそれをとり出すと、ノックスと二人で、人気《ひとけ》のない部屋で、しばらくは物も言わずに調べた。
エラリーはその瞬間、思いがけぬ事態が起こりそうな気がした。ノックスはただ好奇心にかられているようだった。やがて、エラリーが時計の裏ぶたをぱちりとあけた。すると、小さく折りたたまれたものがあり、開いてみると千ドル札だった。エラリーは明らかに失望した。ノックスの仕事部屋で胸に抱いた可能性が、この札の出現で消しとんだのだった。しかしながら、エラリーは丹念な男だから、ポケットからさっきの番号表を出して、時計から出た札の番号とひき合わせてみると、それはノックスの書きとめた五枚の札のうちの一枚に間違いないことがわかった。エラリーは時計のふたをぱちりとしめて、それを保管箱にもどした。
「どう思うかね、クイーン君」
「別に大しておどろきませんね。この新事実が、今までのスローン犯人説を変えるものとも思えません」と、エラリーは悲観的に「もし、スローンがグリムショーを殺した男であり、グリムショーの得体の知れぬ相棒だったとすれば、われわれが時計のふたの中にまだはいっていた札を見つけたことは、つまり、スローンがこの札のあることに全然気づかなかったというにすぎませんからね。それにまた、グリムショーは相棒にかくしておいて、ハルキスからかすめとった千ドル札のことは絶対におくびにも出さず、スローンと分けるつもりもなかったことを意味します――その証拠に、こんな妙な場所に札をかくしたのです。さてスローンは、グリムショーを殺してから、自分用にこの時計をうばったが、ふたまであけてみようとはしなかった。ふたの裏に何か隠してあろうなどとは疑ってみるわけもないですからね。そんなわけで、札はグリムショーが入れたままになっていたんですよ。Q・E・D〔証明終り〕――くだらん」
「君はスローン犯人説に、特に感服しておらんようだね」と、ノックスがすかさず訊いた。
「ノックスさん。ぼくにはどう考えていいか、ほとんどわからないんですよ」二人は廊下を歩いていた。「しかしながら、ここでひとつおたのみしたいんですが……」
「何でも言ってみ給え、クイーン君」
「千ドル札のことはだれにも洩らさないでいただきたいんです。――原則としてね。おたのみします」
「いいとも。だがブレットさんが知っとる――君に話しとるのを、小耳にはさんだにちがいない」
エラリーがうなずいて「あのひとに黙っているようにと、あなたから注意して下さい」
二人は握手した。エラリーはノックスが大股で去るのを見つめていた。それから、しばらく廊下をせかせかと歩きまわり、やがて父の部屋へ向かった。部屋にはだれもいなかった。エラリーは首を振って、センター街に降りて行き、あたりを見わたして大声でタクシーを呼んだ。五分後には、ジェームス・J・ノックス氏の取引き銀行にあらわれて、出納主任ボーマン氏に面会を求めた。そして出納主任ボーマン氏に会った。強引に手に入れた警察手帳をちらつかせながら、ボーマン氏に命じて、十月一日にノックス氏が引き出した五枚の千ドル札の番号のリストをすぐ作らせた。グリムショーの時計から出て来た札の番号は、銀行員が提示した五つの番号のひとつと合致した。
エラリーは銀行を出ると、心祝いすべき時でもないと感じたらしく、金のかかる自動車などに乗らないで、地下鉄で家へ帰った。
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二十五 LEFTOVER……食べかす
ブルックリンの土曜日の午後――その上悪いことに、と、エラリーは葉の落ちたブルックリンの住宅地区の長い並木道を歩きながら、うらめしそうに思い沈んだ――土曜日の午後の荒野――なんて、寄席《よせ》芸人もなかなかうまいことを言うものだと、エラリーはそんな言葉を考えながら、立ちどまって家の番地を調べた。この辺には、何となく平和と落ちつきがあった。――いかにも平和らしい平和と、落ちつきらしい落ちつきが。……
エラリーは、こんな牧歌的な環境の中でのジェレミア・オデール夫人の色っぽいブロードウェイ姿を想像して、くすくす笑い出した。エラリーが、ちょっとした敷石の小道に曲り、突き当りの五段の木の階段をのぼり、白ペンキ塗りの木造の家の玄関に立った時、ジェレミア・オデール夫人は家の中にいるらしかった。そして、エラリーの押したベルの音に答えてドアをあけた時、夫人は金色の眉《まゆ》を釣り上げた。たしかにエラリーを押し売りと思ったらしい、世なれた主婦らしく急にきつい態度になりながら、エラリーの鼻面でぴしゃりとドアをしめかけた。エラリーは微笑しながら、敷居に片足をのせた。エラリーが名刺を出す前に、夫人の大きな美しい顔から、きびしい敵意の色が消えて、何かおどおどしたものにかわった。
「おはいりになって、クイーンさま。どうぞ――最初は、お見それいたしまして」と、夫人は神経質にエプロンで両手をぬぐい――こわばった布地《きじ》の花模様の家庭着を着ていた――そして、そわそわしながら、ひんやりと暗い控えの間にエラリーを招じ入れた。左手に観音開きのドアがあいていて、夫人は先に立って、その奥の部屋に案内した。
「あのう――ジェリーにお会いになりたいんでしょう――宅のオデールに――ね」
「ちょっと失礼して――」と、夫人は急いで出て行った。
エラリーはにやにやしながら、あたりを見廻した。結婚して、リリー・モリソンは、ただ苗字が変っただけではないらしい。夫婦生活が、たしかにリリーの豊かにふくらんだ胸の中の家庭愛の泉をめざめさせたのであろう。エラリーは、きわめて居心地のいい、平凡な小ざっぱりした部屋に立っていた――むろん、そこがオデール家の『表の間』にちがいない。愛情のこもった、そしてもの慣れない女の指が、これらの、はでなクッションを工夫したのだろうし、新しく生まれた自尊心が、このけばけばしい壁プリントを択んで注文したのだろう――ヴィクトリアふうまがいのランプが壁のそこここにとりつけてあった。どっしりした家具は、綿びろうど張りだったり、彫りがはいったりしていた。エラリーは目を閉じると、かつてアルバート・グリムショーの女だったリリーが、がっしりしたジェレミア・オデールによりそって、頬を赤らめながら、安物家具店で、一番重々しく、ぜいたくそうで、見たところ一番飾りのついている品を択んでいる姿を思いうかべることができた。……
エラリーのおかしな瞑想《めいそう》も、この家の主人公――当のジェレミア・オデール氏――の御入来で、たちまち打ち破られた。手先が油だらけになっているところをみると、どうやら、裏の私設車庫で、|ぽんこつ《ヽヽヽヽ》の手入れでもしていたらしい。このアイルランドの大男は、手の汚れていることも、カラーなしであることも、ぼろ靴姿であることも、ひと言も詫びる様子はなく、手を振ってエラリーに椅子をすすめ、こちこちになっている女房をそばに立たせたまま、自分も腰を下ろして、うなるように言った。
「どうしたんだね。いやらしいかぎまわりはもうすんだと思ったのに。今度は、あんたたちは、何を考えているんだい」
細君が腰かける様子もないので、エラリーも立ったままでいた。オデールの苦り切った顔から、いまにも雷が落ちそうだった。
「ちょいと話したいのでね。公式の話じゃないがね」と、エラリーは小声で「ただ、たしかめておきたいだけなんだ――」
「事件はけりがついたんだろう」
「そりゃそうだ」と、エラリーはため息をして「ほんの一、二分以上は手間をとらせないよ……ぼくが納得するために、大したことじゃないがまだ説明のつかない二、三の点をはっきりさせようと思うんだ。それで是非とも知りたいのは――」
「何も話すことはないよ」
「まあ、まあ」と、エラリーは微笑して「オデールさん。たしかに、何も話してもらうことはないよ、事件に重要な関係のありそうなことはね。重要なことはすっかりわれわれにわかっているからね……」
「すると、こいつは警察のぺてんかね、それとも何か」
「オデールさん」と、エラリーはおどろいた顔で「新聞を読んでないのかい。なぜ君をぺてんにかける必要があるんだね。君がクイーン警視に訊かれた時に、あいまいな返事をしたからだよ。いいかい、あの時からじゃあ情況がすっかり変わっているんだ。もう嫌疑をかけるなんていう問題じゃないんだよ。オデールさん」
「わかった。わかった。どうしろと言うんだね」
「君はなぜ、木曜日の夜に、ベネディクト・ホテルにグリムショーを訪ねたことについて嘘をついたのかね」
「そりゃあー」と、オデールは情けなさそうな声で言いかけたが、細君の手が肩をおさえたのでやめてしまった。「お前はひっこんどれ、リリー」
「いいえ」と、細君が声をふるわせて「だめよ、ジェリー。私たち、このことじゃ、出方がまちがっているわよ。あんたはデカを――サツってものを知らないのよ。かぎ出すまで、あたしたちを追いつめるわ……クイーンさまに、本当のことを話しなさいよ、あんた」
「それがいつでも一番賢い道ですよ、オデールさん」と、エラリーが暖かく言った。「良心にやましいことが何もないなら、なぜがんこに口をつぐんでいる必要があるんですか」
夫婦の目がかち合った。やがて、オデールはうなだれて、大きな黒いあごを掻き、ゆっくり考え込んで、時をかせいだ。エラリーは待っていた。
「よし、わかった」と、やっとアイルランド人は「しゃべるよ。だが、兄弟、手っ取り早い話を聞こうってのなら、見当違いだぜ。おいすわんな、リリー、立っていられちゃ、いらいらする」細君はおとなしくソファに腰をおろした。
「おれは、警視が責めつけたとおり、たしかにあそこへ行ったよ。そして、女のすぐあとから、受付に行った――」
「すると、君はグリムショーを四番目に訪ねた男だったわけだ」と、エラリーが考え込みながら「疑う余地もないな。なぜ行ったのかね。オデール君」
「あのグリムショーめ、河上〔シンシン刑務所〕から出るとすぐ、リリーをさがしはじめたんだ。おれは何も知らないんだ――結婚する前のリリーの生活をね。おれは、そんなことはまるっきり気にしちゃいないのさ。わかるだろう。こいつはおれが気にするかと思って、ばかみたいに、おれたちが出会う前に、どんなふうに暮らしてたか、てんで話そうとしなかったのさ……」
「うまくないですよ、奥さん」と、エラリーがまじめに言った。「常に愛するひとを信頼すべきですよ、常に。それが完全な結婚生活の根本ですよ、さもないと、どうも」
オデールがちょっとにやりとして「この若造の言うことをよく聞いとけよ……おれが、お前をたたき出すとでも思ったのか、おい、リリー」細君は何も言わずに、ひざをみつめて、エプロンのひだをいじっていた。
「とにかく、グリムショーはこいつをさがし出した――どうやってつきとめたかわからんが、奴はつきとめおった、いたち野郎め――それで奴は、あのスキックの野郎の店で、無理やり会うように仕向けたんだ。それでリリーが出かけた。へたすると奴がおれに内証ごとをぶちまけると思ったからだ」
「なるほど」
「奴はリリーが何か新しい、いんちき仕事をやってると思い込んでいたらしい。――今は地道になっているから、奴みたいなやくざ仕事はしたくないと、リリーが言っても信じなかった。奴は怒って――ベネディクトの奴の部屋に会いに来いと言ったんだ。じつにひどい奴だ。――それでリリーは、そんな話はけとばして、家へ帰って来て、おれにすっかり話した……あまりにもひどい話だと思ってね」
「それで、あの男と片をつけるために、ベネディクトへ行ったんだね」
「図星さ」と、オデールは、きずあとだらけの大きな手を、気むずかしそうに見つめた。「ざっくばらんに話してやった。おれの女房から小汚い手を引くんだ、さもないと息の根を止めてくれるぞと、おどしあげてやった。それだけさ。ちょいとおどかして引きあげたんだよ」
「グリムショーはどうしたね」
オデールは困ったような顔で「すっかりどぎもを抜かれたらしかったな。おれが奴の首っ玉をひっつかむと、おびえ上がって真青な面をしやがった――」
「おお、奴をいためつけたのかね」
オデールは笑い出して大声で「いためつけるなんてもんじゃないよ、クイーンさん――首っ玉をひっつかんだだけさ。ねえ、おれたちの商売じゃ、鉛管職人どもが、でけえ面してごたくをならべたりしたひにゃあ、どんな痛い目に会うか、見せてやりたいよ……なあに、おれは奴をちょいと、ゆすぶってやっただけだよ。奴なんか、まるで青二才で、ろくに、パチンコも抜けやしないさ」
「拳銃を持っていたのかね」
「さあね、持ってなかったろうよ。見かけなかったぜ。だけどあいつらは大てい持ってるぜ」
エラリーは考え込んでいるようだった。オデールの細君がおずおずと言った。「おわかりになったでしょう、クイーンさま。ジェリーは本当に何も悪いことはしていないんですよ」
「それにしても、奥さん。あんた方が最初に訊問された時に、今みたいな態度をとってくれたら、どんなに手間がはぶけたかしれませんよ」
「罠《わな》に首を突っこみたくなかったし」と、オデールが太い声で「あの阿呆を殺したなんて思われて、しばり首になりたくなかったしね」
「オデール君、グリムショーがあんたを部屋に入れた時にほかにだれかいたかね」
「だれもいなかったね、奴ひとりだった」
「その部屋だがね――ウィスキー・グラスや汚れものなんか見当たらなかったかね――つまり、ほかにだれかがいたような形跡を示すものが」
「あったとしても気がつかなかったろうな、おれもかなりいきり立っていたからね」
「あの晩以後、君たちのどちらかが、グリムショーと会やあしなかったかね」夫婦は、すぐに頭を振った。
「結構だ。もう二度と君たちには迷惑をかけないと保証するよ」
エラリーはニューヨークまでの地下鉄で退屈しきった。これといって考えることもないし、買い込んだ新聞も、まるっきり面白くなかった。そして、西八十七番街の褐色石造建物の三階にあるクイーン家の玄関のベルを鳴らした時にも浮かぬ顔をしていた。ジューナのジプシー面が戸口からのぞいても、エラリーの八の字は消えなかった――ジューナはエラリーの精神刺激剤だったのだが。
ジューナの小利口な頭はエラリーの苦悩を見てとって、持ち前の巧妙なやり方で、それをしずめようとかかった。エラリーの帽子と外套とステッキを元気よく受けとり、いつもの相手を笑わせるような顔をつくってみせた――だがエラリーがくすりともしないので――また寝室から居間に駆け込んで、エラリーの口にたばこをくわえさせ、うやうやしくマッチをすった。……「どうかなさったのですか、エラリーさま」と、ジューナは、どうしてもだめなのにたまりかねて、祈るように訊いてみた。
エラリーはため息をして「ジューナ、なあおい、何から何までだめなんだ。そうなると、かえって、ふるい立つはずなんだがなあ。『何から何までまずい時には、歌もちがってくる』と、ロバート・W・サービス〔カナダの詩人〕も戯《ざ》れ唄《うた》を唄ってるからね。ところが、ぼくはサービスの徒とちがって、ふるい立って、胸を張って笑いながら唄うってことができそうもないんだ。ぼくはきわめて音痴な動物だからね」
ジューナにとっては、そんな言葉は、とほうもないたわ言だったが、エラリーの引用癖は、いわば生まれつきのものなので、おかしくもないのに努力して、にやにやした。
「ジューナ」と、エラリーは背骨をそらしてのびをしながら、つづけた。「聞いてくれよ。グリムショー旦那は、あのいまわしい晩に、お客を五人迎えた。その五人中の三人までは今までに説明がついた。死んだギルバート・スローンと、あの男のご立派な細君と、臆病《おくびょう》なジェレミア・オデールだ。あとの二人についてだが、ワーディス医師がそのひとりとみて、まず間違いなさそうだ。当人は否定しているがね。ワーディス医師の立場をはっきりさせることができれば、あの男の潔白が十分に説明されるかもしれない。そうすればあとに残る男は、あの素性のわからない、謎の訪問者だけということになる。なんとしてもそいつに興味があるな。もしスローンが犯人だとすれば、つまり、そいつは次々に五人来た客の中で、二番目に来た奴だ」
「そういうことになりますね」と、ジューナが言った。
「ところがね、ジューナ」と、エラリーがつづけて「実はお手あげなんだ。結局むだ話さ。スローン犯人説の正当さにけちをつけるだけの証拠は、まだ何もつかんではいないんだからな」
「そうですか」と、ジューナが「台所にコーヒーが|います《ヽヽヽ》よ――」
「台所にコーヒーが|あります《ヽヽヽヽ》と言うんだ。無茶いう奴だな」と、エラリーが、口うるさくたしなめた。つまり、何からなにまで、ひどく気に入らない日だったのである。
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二十六 LIGHT……光明
ところが、その悪日が、それでまだ終りではなかったのを、間もなくエラリーは知った。つまり、一時間ほどして、父親から電話がかかり、数日前にスローン夫人が訪ねて来た時には、大して得るものもなかったが、その時夫人が植えて行った苗に花が咲き、思いがけなくも、驚くほど園芸的に見事な実がついたと知らされたのである。
「事件がもちあがった」と、警視がぶっきらぼうに電話で「じつに妙な話だ。お前も聞きたいだろうと思ってな」
エラリーは気乗りがせず「失望もたび重なりましたからね――」
「なるほど、しかしわしに関する限り、こんなことでは、スローン犯人説はくつがえらんぞ」と、老人は無愛想になって「おい――お前は聞きたいのか、聞きたくないのか」
「聞きたいですね。何があったんですか」
父親が、鼻をならし、せきをし、のどをならすのがエラリーに聞こえた――すべて不機嫌の徴候なのだ。
「こちらへ来た方がいいな。長い話だ」
「承知しました」
エラリーは大して気乗りもしないが、ともかく下町へ行った。地下鉄はふるふるいやだったし、少し頭痛がして、世の中が味けなかった。その上、行ってみると父親は次席警視と会議中で、四十五分も外で待たなければならなかった。それで、老人の部屋にのっそりとはいる頃のエラリーは、不平たらたらだった。「驚天動地のニュースというのは何ですか」
警視は椅子を足で押してよこした。
「まあ足でも休めろ。話というのは、こういうわけだ。お前の友だちの――何とかいったな――そう。スイザが、今日の午後、ちょいとご機嫌伺いにやって来た」
「ぼくの友だち? ネーシオ・スイザが。それで?」
「それでその男が言うには、スローンが自殺した夜、ハルキス画廊にいたんだそうだ」
疲れがすっとんだ。エラリーはとび上がって「本当ですか」
「落ちついとれ」と、警視がうなって「何もそんなに興奮することはない。スイザはハルキス画廊の所蔵品の説明書を作らねばならぬ仕事があったらしい――手間のかかるうるさい仕事だと言っておった。それであの晩を皮切りに、その仕事にかかろうと思ったんだそうだ」
「スローンの自殺した晩ですね」
「うん。だまって聞けよ、坊主。ところであの男は、画廊に行き、合鍵を使って中にはいり、二階へあがってあの長い大画廊へはいって行った――」
「合鍵ではいったんですね。警報器が生きているのに、どうやってはいれたのかな」
「生きていなかったのだ。だれかが、まだ画廊の中にいたわけだ――普通、画廊を最後に出る者が警報器に異常がないのをたしかめて、盗難予防本部に通告することになっているそうだ。とにかく、スイザは二階にあがり、スローンの事務室に灯《ひ》がついているのを見た。スイザはスローンに、説明書のことで聞きたいことがあったし――スローンがまだ仕事しているのだろうと思ったそうだ。そこで、スローンの部屋にはいって行くと、むろん、スローンの死体にぶつかったわけだ。あとでわれわれが見つけた時と、そっくりの恰好でな」
エラリーは妙に興奮していた。その目は催眠術にかかったように警視を見守り、いつものくせで、たばこをくわえたまま「たしかに、そっくりの恰好だったんですか」
「そうだ。そうだよ」と、警視が言った。「頭を机にのせ、たれ下がった右手の下の床に拳銃――すべて、そっくりだ。偶然にも、それはわれわれが現場に着く数分前のことだったのだ。もちろんスイザはすっかりあわてた――無理もないがね――のっぴきならぬはめに陥ったのだからな。スイザは何も手を触れないように用心して、もし現場にいるのを人に見られると弁明がこと面倒になると気づいて、あわてて逃げ出したんだ」
「ナポレオンに髭《ひげ》がなかったというほどわかりきったことだが」と、エラリーが目を光らせてつぶやいた。「もしかして」
「何がもしかしてだ。まあ腰かけろ……お前はまた早合点しようとしているな」と、警視がぴしりと言った。「勘ちがいしちゃいかんぞ、エラリー。わしはスイザを一時間もしぼったんだぞ。立てつづけにあの部屋の模様がどんなだったか問い詰めた。ところで答は百点満点だった。自殺の記事が新聞に出た時、あの男は少しほっとしたが、それでも気になったそうだ。この先どんなことになるか見ていようと思ったそうだ。何もおこりそうもないので、話しても害はないと見きわめたし、とにかく良心もとがめるので、それでわしのもとに話しに来たというわけだ。まあ、ざっとそんな話さ」
エラリーはぷかぷかとたばこをふかしながら、心ここにないという様子だった。
「どっちみち」と、警視は少し不安になりながら「本筋からはずれた話さ。スローン自殺説にいささかなりとも影響を与えない、面白いこぼれ話にすぎん」
「そりゃ、そうです。その点はぼくも同意します。スイザは、かかわり合いがあると疑われていたわけじゃないし、自分が潔白でなかったら、わざわざ――自殺の現場に行き合わせた話なんかもって、のこのこ出てくるはずはないでしょうからね。ぼくが考えているのは、そんなことじゃないんですよ……お父さん」
「すると?」
「スローン自殺説の確証がほしいでしょう」
「なんだって? 確証だって?」と、警視がふふんと鼻をならして「そいつは説なんてものじゃないぞ――事実なんだ。だが、もう少しばかり証拠があっても悪くないな。どうするつもりだ」
エラリーは鳴りひびくような興奮で張り切っていた。「まったくそのとおりですよ」と、エラリーは大声で「お父さんが、いま話したスイザの言葉からは、スローン犯人説をくつがえすようなものは、何ひとつ出て来ませんね。だが、ネーシオ・スイザにちょっとしたことを訊けば、自殺説をもっと完全に証明できることになるんです……ねえ、お父さん、スイザがあの事務室に行ったことで事実は少しも変わらないと確信しているようですがね。それには小さな穴があいているようですよ、ほんのわずかな可能性が……ところで、あの晩スイザはあの建物を出て行く時に警報器を働くようにしていったんでしょうか」
「うん。無意識にそうしたと言っとった」
「なるほど」と、エラリーはすぐ立ち上がって「今からスイザのところへ行ってみましょう。その点をたしかめないと、ぼくは今夜、眠れそうにもありませんから」
警視は下唇をなめて「やれやれ」と、ぶつくさ言うように「例によって、お前の言うとおりらしいな。鼻の利く犬め。自分でその訊問をしようと思いつかなかったなんて。わしもうっかりしておったな」
警視はとび立って外套に手をのばした。
「奴は画廊にもどると言っとったぞ。さあ出かけよう」
マジソン・アベニューの人気のないハルキス画廊に着いてみると、スイザは妙にそわそわしていた。スイザの身なりはいつになく乱れていたし、いつもきれいになでつけている髪も珍しくそそ毛立っていた。スイザは|かけがね《ヽヽヽヽ》をかけてしめきったギルバート・スローンの私室のドアを背にして、警視父子に会い、スローンが死んでからは、ずっとこの部屋は使われていないと平静をよそおって説明した。それは心のうちの当惑を隠すための上っ面のおしゃべりにすぎなかった。スイザは二人を、骨董品《こっとうひん》があちこちに置いてある私室の椅子に案内して、いきなり話しかけた。
「どうかしたんですか、警視さん。まだ何か……」
「心配せんでもいいよ」と、警視がおだやかに「エラリーが、二、三訊きたいことがあるそうだ」
「何でしょうか」
「たしか、君は」と、エラリーが「スローンが自殺したあの晩、となりのスローンの部屋に灯がついていたので、はいったそうですが、それに間違いありませんね」
「正確に言えばちょっとちがいます」と、スイザが両手を固く握りしめて「ぼくはただ、スローンに少し相談したいことがあったんです。ぼくが画廊にはいって行くと、灯がドアの上の明りとりからもれているので、まだスローンがいると思ったものですから……」
クイーン父子は、電気椅子にでもすわったかのように、ぱっととびあがった。
「ああ、明りとりからね」と、エラリーが妙に力を入れて「そうすると、スローンの私室のドアは、あなたがはいる前からしまっていたんですね」
スイザがけげんそうに「もちろん、そうですよ。それが重要なことなのですか。そのことはたしかお話したと思いますよ、警視さん」
「話さなかったぞ」と、警視がどなった。年寄りくさい鼻が、みるみる口の方へ垂れ下がった。「すると、君が逃げ出す時に、ドアをあけ放しにしたんだな」
スイザが口ごもって「ええ、すっかりあわを食いましたからね、何も考えずに……それで、お訊きになりたいのは何ですか、クイーンさん」
「もう答えてもらったよ」と、エラリーが冷やかに言った。
形勢が逆転していた。三十分後にクイーン父子は自分のアパートの居間にいて、警視はひどく不機嫌になり、ぶつぶつひとりごとを言っていた。ところがエラリーは最上のご機嫌で、鼻唄を唄いながら、ジューナがへどもどしながら大急ぎで燃しつけた暖炉の火の前を、行ったり来たりしていた。
警視が電話を二回かけたあとは、二人とも黙り込んでいた。エラリーは落ちつきを取りもどし、お気に入りの椅子にどっかと腰をおろすと、薪台《まきだい》に足をかけて、ゆれ動く焔をじっと見つめた。その目がきらきらと光り出した。
ジューナがけたたましいベルの音に応じて、二人の赤ら顔の紳士を案内して来た。――サンプスン地方検事と、ペッパー地方検事補だった。ジューナはますますとまどいながら、お客たちの外套を受けとった。二人ともいらだって、わめくように挨拶《あいさつ》しながら、椅子について、たちまち部屋の中に立ちこめた不気味ないらだたしさの仲間入りをした。
「大変なことになったな」と、サンプスンが、やっと言った。「最悪の事態だな。電話では、ひどく確信があるようだったが、君は――」
老人はエラリーの方へ頭を向けて「これに訊いてくれ。最初から、これの考えだったんだ。いまいましいが」
「そうかね、エラリー君、どういうことかね」と、一同は黙ってエラリーを見つめた。エラリーはたばこを火にはじき込んで、振り向きもしないで、ゆっくり話しはじめた。
「これからは皆さんも、ぼくの第六感の警告を信用するんですね。ぼくのひねくれた予感だと、ペッパー君は言いますがね、そいつが事実によって証明されたんですよ。だが、こんなことはみんな余計な話です。本筋はざっとこんなふうです。
スローンを殺した弾は頭にとび込んでから、とび出して、弾道通りに、あの事務室のドアを抜け出したのです。われわれはその弾が、事務室の外の、向いの壁にかかっている壁掛けにもぐり込んでいたのを発見しました。すると、明らかに、あの弾が発射された時ドアはあいていたことになります。スローンが死んだ晩、われわれがあの画廊に押し入った時、スローンの事務室のドアはあけ放ちでした。そのことは弾の所在と全く道理が合うわけです。ところが、今になって、ネーシオ・スイザが持ち出した話というのは、スローンの死後あの画廊に最初にはいったのはわれわれではなくて、あの男、スイザがわれわれより先にはいったということなのです。言いかえれば、あの晩、われわれが着いた時のスローンの事務室のドアに関する状態が、どんな状態にあったにしろ、先客があったという事実に照らし合わせて、もう一度たしかめて、修正しなければならないことになったのです。そこで問題になるのは、ドアの状態はスイザがあそこにいた時と同じだったか、ということで、もしドアがあけ放ちのままであったのなら、われわれは今まで以上には一歩も出られないことになります」
エラリーはくすくす笑った。「しかし、スイザはドアがしまっていたと言っています。そうなると、事情はどう変わってくるか。ところで、弾が発射された時には、ドアはたしかにあいていたのです。さもなければ弾はドアをぶち抜くはずで、室外の向いの壁掛けに当たるはずはありません。すると、ドアは弾を発射したあとからしめられたにちがいありません。これはどういう意味なのか――つまり、スローンは自分の頭に弾をぶちこんでから、神の摂理にそむいて、ドアまで行き、ドアをしめて机にもどり、銃の引金をひいた時と全く同じ姿勢で椅子にすわったということになります。妙なことです。妙なことであるばかりか、ありえないことです。なぜなら、スローンは即死したので、その点はプラウティ医師の解剖報告が明示しています。このことはまた、スローンが画廊で弾を撃ち込み、それからよろよろと自分の部屋にもどる途中でドアをしめたかもしれないという可能性をも消し去ります。そんなことはありえません。拳銃が発射された時に、スローンは即死したし、その上ドアはあけ放されていたのです。だが、スイザはドアがしまっていたと言うのです。……言い変えれば、スローンの即死のあとで、ドアはしまっていたとスイザが言うし、しまっていたなら、弾はドアをぶち抜けなかったはずです。われわれの最初の検査でドアが鋼鉄製なのが判明していますからね――こういう状況から論理的にひき出しうる唯一の結論は、『だれかが、スローンの死後、スイザが来るまでの間に、ドアをしめた』ということになります」
「だが、クイーン君」と、ペッパーが抗議した。「スイザがあそこにはいったただひとりの訪問者でなかったという可能性もありうるでしょう――つまり、何者かがあそこにはいって、スイザが来る前に出て行ったということも」
「すばらしい考えですよ、ペッパー君。しかも、まさにぼくの言わんとしているところです。つまり、スイザの前に来ていた者がいる――そしてそいつがスローン殺しの犯人です」
サンプスンがいらいらしながら骨ばった頬をこすった。「なんたることだ。おいおい、エラリー、いいか、スローンは自殺したという可能性はまだある。しかもペッパーがもち出した訪問者はスイザのように無実の男で、あそこにいたのをひとに知られるのがこわくて、黙っているのかもしれんのだよ」
エラリーは、はげしく手を振って「そうかもしれませんが、限られた時間に二人の無関係な訪問者があらわれるなんて、少し話がうますぎますよ。そんなことはありませんよ、サンプスンさん。いまや、あなた方のだれもが、自殺説に大きな疑問をもち、殺人説を支持せざるをえない十分な根拠をもったことを否定できないと思いますがね」
「そうだな」と、警視が、がっかりして言った「そのとおりだ」
しかし、サンプスンはしつっこく「よろしい。スローンが殺されたものとしよう、すると犯人が立ち去る時にドアをしめたことになる。わたしには犯人がそんなばかげたことをするとは思えんがね。弾がスローンの頭をすっぽりとぶち抜いて、あいていたドアから外に出たのを奴は気はつかなかったんだろうか」
「サンプスンさん、サンプスンさん」と、エラリーがうんざりして「ちょっと考えてみて下さい。どんなのろのろした弾でも、人間の目で弾道を追うことができるでしょうか。もちろん、弾がスローンの頭蓋骨を貫通したことを知っていれば、犯人はドアをしめなかったでしょうよ。だから、犯人がドアをしめたのは、それに気がつかなかった証拠です。スローンの頭が左側を下にして椅子の上に前のめりになっていたのを思い出していただきたい。その左側から弾は抜けていったのだし、しかも左側はブロッターの上に乗っていたのです。あの姿勢だと、弾の出口はすっかり隠れていたでしょうし、しかも多量の血が流れていたのです。その上犯人は、おそらく非常に急いでいたはずでしょうから、死人の頭を持ち上げて、調べてみるなんてことをするわけがない。要するに、犯人は弾が貫通するなんて思いもかけなかったんでしょうよ。弾が貫通するなんて、普通にはまずないことですからね」
一同はかなりの間、黙り込んでいたが、しばらくして老人が弱々しく笑いながら、二人の客に言った。「間一髪でしてやられたんだよ。どう見ても一目瞭然だな。スローンは殺されたのだ」
一同はゆううつそうに、うなずいた。エラリーは、楽しそうにまたしゃべり始めたが、今度は前にハルキス犯人説を説明して間違えた時のように、得々とした色をうかべてはいなかった。
「よろしい。ではもう一度分析してみましょう。もしスローンが殺されたのなら、われわれは今ではそう信ずべき立派な理由をもっているのですが、スローンはグリムショーを殺さなかったことになります。つまり、グリムショー殺しの真犯人はスローンを殺して自殺と見せかけることで、あたかもスローンがグリムショー殺しの真犯人であることを暗黙のうちに告白するために拳銃自殺をしたものと思わせるつもりだったのでしょう。ここで最初の仮説にもどってみましょう。われわれは以前の推理で、グリムショー殺しの犯人は、ノックスが盗品の絵を持っていることを知っていたにちがいないということがわかったのです。なにしろ犯人は、ハルキスをおとし入れる|にせ《ヽヽ》の手がかりをたくらむことができたのですからね。そのことはずっと前にぼくが立証しましたが、あの時のハルキス犯人説の全部は、ノックスがけっして名乗り出ないだろうという犯人の確信を前提としていたのです。ところが、ノックスが盗品の絵を持っていることを知っている唯一の局外者がグリムショーの相棒だったということもまた、あの時にぼくが証明したとおりです。Q・E・D(故に)グリムショーの相棒が犯人ということになり、スローンは自らが殺されたのだから、グリムショーの相棒ではありえなかったということになります。したがって、犯人はいまだに大手を振って歩きまわり、活発にその悪だくみをつづけているということになります。特に指摘しておきますが、犯人はいまだに大手を振って歩きまわり、しかもノックスの話を心得ているという点です。では次に」と、エラリーがつづけた。
「スローンに不利な手がかりを再検討してみましょう。――その手がかりは、スローンが殺されたし潔白だったのだから、すべて真犯人が作りあげて残していった、でっち上げの手がかりにしかすぎません。第一に、スローンは潔白だったのだから、ベネディクト・ホテルにグリムショーを訪ねた晩の出来事についての、あの男の陳述の真実性については、もはや疑う余地はありません。容疑者としてのあの男の証言は大いに疑えますが、潔白な男としてのスローンの証言は信ぜざるをえないからです。したがって、あの晩、二番目の訪問者だったというあの男の陳述は、おそらく真実でしょう。スローンが言うとおり、あの男の前に謎の人物がたしかにいたのです。つまり、その謎の人物こそ、グリムショーの相棒だし、グリムショーと肩をならべてロビーにはいって来た人物だし、エレヴェーター・ボーイが証言するように、三一四号室にグリムショーとつれだってはいった男にちがいありません。すると、訪問者の順序は、こうなります。謎の人物――顔をかくしていた男、次がスローン、それからスローン夫人、それからジェレミア・オデール、最後にワーディス医師」
エラリーは細い人差指を振りまわした。
「論理と頭脳の活動が、いかに興味ある推理を提供するかを、ご覧にいれてみましょう。スローンが、ギルバート・スローンを名乗っているが、実はグリムショーの兄弟であることを知っている者は世界じゅうに自分だけだと言っていたのを覚えているでしょう。グリムショーでさえ兄弟の変名を知らなかったのです。しかも、だれかわからないが、あの匿名の手紙を書いた男は、その事実を知っていました――スローンが、スローンを名乗っているが、グリムショーの兄弟であることをね。その手紙を書いたのは何者か。グリムショーは兄弟の変名を知らなかったのだから他の者にそのことを話せるはずがありませんし、スローンも自分からはだれにも話さなかったという、その証言は信頼できます。したがって、この事実を発見しえた唯一の人物は、兄弟二人が一緒にいる所を見て、二人が兄弟だということを聞いたか、その時すでに知っていたか、あるいは後でスローンに会って、その声や顔を覚えていてギルバート・スローンがグリムショーの兄弟なのを発見しただれかだということになります。しかし、ここにおどろくべき事実があるのです。スローンの陳述によれば、ベネディクト・ホテルのグリムショーの部屋に行ったあの晩は、スローンが変名してから――何年ぶりかで――二人の兄弟が顔を合わせた、ただ一度の時だったということです。言いかえれば、ギルバート・スローンがアルバート・グリムショーの兄弟だということを発見した者は、だれであろうと、あの晩、スローンがグリムショーの部屋を訪ねた時、その場に居合わせていなければならないはずです。ところが、スローンは、兄弟で話し合っていた時、グリムショーはひとりきりだったと、はっきり言明しています。すると、どうして、だれかがあの場に居合わせることができたでしょうか。至極、簡単です。スローンはその人物を見ず、しかもなお、その人物が居合わせたとするなら、それはただスローンには見えなかったのだというにすぎません。つまり、その人物は、部屋のどこか、衣裳戸棚か浴室に隠れていたのです。グリムショーの連れがグリムショーと一緒に、その数分前に部屋にはいったという事実があるにもかかわらず、スローンはその三一四号室からだれも出て来るのを見かけなかったと言っているのを思い出して下さい。また、スローンは、ドアをノックしたら、一《ヽ》、二分《ヽヽ》たってから弟があけたと言っている――スローン自身の言葉も、思い出して下さい。このことから察して、スローンがノックした時、グリムショーの連れはまだ三一四号室にいたが、人に見られるのをおそれて、グリムショーの許可を得て、衣裳戸棚か浴室にもぐり込んだものとみていいでしょう。さてここで」と、エラリーはつづけた。
「その場の情景を想像して下さい。スローンとグリムショーが話し合っているのを、謎の怪人物が、隠れ場所から、全身を耳にして聞いている。会話の中で、グリムショーがいやみたっぷりに、|兄弟があるなんてほとんど忘れていた《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、と言うのを聞いたのです。そこで、隠れていた人物は、グリムショーとその客とが兄弟だと知ったのです。スローンの声に聞きおぼえがあって、話しているのがギルバート・スローンだとわかったかもしれない。おそらく見ることもできて――スローンの顔がわかったかもしれない。あるいは、後日スローンに会ってその声に聞きおぼえがあり、考え合わせてみて、スローンが自分だけで思い込んでいる世界じゅうにだれも知らないという事実を推察したのかもしれません。その点は説明しえませんが、ただひとつたしかなことは、謎の人物はあの晩グリムショーの部屋にいたはずだし、兄弟の会話を盗み聞きしたはずだし、推理によってギルバート・スローンとアルバート・グリムショーが骨肉の兄弟なのを知ったはずです。なぜなら、これが、明らかにだれも知らないはずの事実をだれかが発見した方法を説明する唯一の論理的筋道ですからね」
「なるほど、少しは目鼻がついた」と、サンプスンが言った。「それから? エラリー君。そのほかに、君の魔術的頭がつきとめたものは何かね」
「魔術ではなくて論理ですよ、サンプスンさん。なるほどぼくは死人と相談するみたいにして、未来の出来事を予言しているようですがね。……ぼくに、はっきりわかることは、スローンがはいるすぐ前に、グリムショーと一緒に部屋にはいって、隠れていた男こそ、謎の人物であり、グリムショーの相棒だったということです――つまり、そのあくる晩ハルキスの書斎で、グリムショーがはっきり『相棒』という言葉を使っています。そして、この謎の人物、つまりグリムショーの相棒が殺人犯人であり――前に証明したとおり――スローンとグリムショーの兄弟関係を警察にばらすために匿名の手紙が書けた唯一の人物なのです」
「その見当らしいな」と、警視がつぶやいた。
「そりゃそうですとも」と、エラリーが両手を首の後ろで組んだ。
「どこまで話しましたっけ。したがって、例の匿名の手紙は、スローンを殺人犯人におとし入れるために企てられた手がかりの一つで、それ以前の手がかりと違っている点は――つまり、作りもののにせ手がかりでなく、内容が真実だったということです。むろん手紙だけでは、直接に有罪とする材料にはなりえませんが、他のもっと直接的な証拠と結びつくと、警察にとっては耳よりな情報になるわけです。さて、こうして二人が兄弟だったという点に関する手がかりが企てられたものとわかってみれば、スローンのたばこ壺《つぼ》の底から発見した地下室の鍵も、また、スローンの金庫にあったグリムショーの金時計も、やはり企てられたものだと推理してもさしつかえないでしょう。グリムショー殺害犯人だけが、あの時計を手に入れえたのです。そしてスローンが無実だとすれば、グリムショー殺害犯人が、スローンの見せかけの自殺のあとで、すぐ発見されるような場所にあの時計を置いたものとみていいでしょう。ハルキスの遺言状のもえ残りもまた、スローンを罪にはめこむ企てだったにちがいありません。というのは、最初に遺言状を盗み出し、永久に厄介払いしようと考えて、それを棺に入れたのはスローンかもしれないが、グリムショーを埋める時に棺の中にそれを見つけ、あとで使えるだろうという、抜け目ない見込みからそれを持ち去ったのは犯人にちがいないからです――そして犯人はまさにそうしたのです。ハルキス犯人説がくつがえったあとで、スローンを犯人に仕立てる陰謀をやるのに遺言状を使っている点に注目して下さい」
ペッパーとサンプスンがうなずいた。
「ところで、その動機ですが」と、エラリーがつづけた。「なぜスローンが択ばれて、グリムショー殺しの犯人に仕立てられたのか、それにはいろいろ面白い点があります。もちろん、スローンがグリムショーの兄弟であったこと、グリムショーの前科によってもたらされた家族の汚名からのがれるために名を変えていたこと、遺言状を盗んでハルキスの棺に隠したこと、ハルキス家の一員で、ハルキスを犯人とするにせ手がかりを企てるのに都合のいい物理的な可能性を全部持っていたこと――こうした諸条件が、犯人に、警察が『犯人と思い込みそうな』人間として、スローンを択ばせる絶好な理由を与えたものと思われます。しかも、ヴリーランドの細君の話が本当とすれば、スローンはあの水曜日の夜、グリムショーの死体がハルキスの棺に埋められたにちがいない晩に、墓地にいたのです。スローンは死体の埋葬とは関係のない、何か他の理由であそこにいたにちがいありませんがね。というのは、第一にスローンはグリムショーを殺してはいないのですからね。ヴリーランド夫人はスローンが何も持っていなかったと言っているのを忘れないで下さい。……いいですか。では、なぜスローンはあの水曜日の晩、中庭や墓地をうろついたのでしょう」
エラリーは考え込むように、炉の火をじっと見つめた。
「ぼくは目先のかわった考えをもっているんです。あの晩、もしスローンが何か怪しい行動に気がつき、こっそりと犯人のあとをつけて墓地にはいり、犯人が死体を埋めて、遺言状のはいっている手提金庫を取り出すのを目撃したものとしたらどうでしょう……どうなるでしょうか。以上のことを土台にして考えれば、大して空想的な推理をせずとも、あとでスローンがどうするかがわかるというものです。スローンは犯人を知っていたし、グリムショーを埋めるのを見たのです。それなのに、なぜその情報を警察に届け出なかったか、理由は明解です――犯人が、スローンの相続権を廃棄する遺言状を、持っていたからです。スローンが後で犯人に連絡して提案を出した。つまり、犯人の素性を黙っているかわりに、厄介な新しい遺言状を、スローンに引き渡すか、その場で破棄してほしいと申し込んだとしても、あながちこじつけではないでしょう。このことは犯人に更に動機を加えるものです。犯人はスローンを『警察が犯人と思い込みそうな』人間として択び、殺しておいて自殺とみせかけ、そうすることで真犯人の素性を知っているただひとりの生存者を取り除くために、更に都合のいい理由が生じたというものですからね」
「しかし、どうも、わたしには」と、サンプスンが異議をとなえた。「この場合、スローンの連絡を受けた犯人は、遺言状を渡さざるをえなかったように思えるな。すると事実と合致しない。というのは、あの遺言状は隣りの地下室で焼かれたのを、われわれが発見している。しかるに、君は、犯人がわざわざわれわれに見つけさせるためにもえ残りを、残しておいたのだと主張するんだからな」
エラリーはあくびした。
「サンプスンさん、サンプスンさん。いつになったら、おつむの中の灰色の物質の使い方をおぼえるんでしょうね。われわれの殺人狂氏をばかだとでも思うんですか。奴はただスローンを脅迫すればよかったんですよ。奴はきっと言ったでしょうよ。『もしおれがグリムショーを殺したことを警察にしゃべったら、おれはこの遺言状を警察に渡すぞ、だめだ、スローン君、おれは君が口をしめている保証として、この遺言状を自分で持っているぞ』とね。それでスローンは、その妥協案を受け入れるよりしようがなかったでしょうね。いわば、スローンは犯人君に会いに行った瞬間に自分の運命を封じてしまったわけですよ。かわいそうに、スローンはどうも頭がいい方じゃなかったようですね」
それからあとは、目まぐるしく、苦々しく、腹立たしいことばかりだった。警視は自分の意志にそむくことではあったが、スイザの証言と、その意味するところを、記者連中に発表せざるをえなかった。日曜版では、それにちょっとふれただけだったが、月曜日の朝刊は、そのニュースを大々的に取り上げた――ことにその月曜日は新聞にとってはニュース枯れだったので――新聞が出るとすぐ、今までこっぴどくたたかれていたギルバート・スローンは、実は自殺した真犯人ではなく、狡《ずる》がしこい犯人に、ぬれ衣《きぬ》をきせられたものと警察ではみているということが、全ニューヨーク市に知れわたった。――タブロイド新聞は犯人をさして悪魔的な奴とさえ言った。なお警察は真犯人の捜査に当たっており、犯人はそれまでひとりしか殺していないと思われていたが、今ではその血まみれの良心に、二つの殺人罪を積み重ねたものであると読者に告げた。
スローン夫人は、特筆しておくが、これで、おそまきながらも名誉をとりもどした。夫人の大切な家族の名誉は、またみがき直されて、今では新聞、警察、地方検事の出した弁明報告のおかげで、遅ればせながらも、社会の暖かい日の光の中で、きらきら輝いていた。スローン夫人は忘恩の女ではなかったし、ネーシオ・スイザの話の底にはエラリー・クイーンの巧みな知的な手がのばされていることをさとっていたので、面白がっている記者連中の前で、臆面もなく、エラリーを抱いて接吻した。
サンプスン、ペッパー、クイーン警視については……何も言わぬが花だろう。サンプスンは、その公的生涯のこの時期に、白髪がふえたとこぼしているし、クイーン警視は、エラリーがその『論理』とねばりで危くわしを墓場に追い込みそうだったと、こぼしている。
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二十七 EXCHANGE……交換
十月二十六日火曜日、スローン夫人が、スローン犯人説をぶちこわす一連の出来事の口火を切ってからきっちり一週間目に、エラリー・クイーン君は朝の十時に、わめき立てる電話のベルにたたき起こされた。かけてきたのは父親からで、どうやら、その朝のニューヨークとロンドンとの電報の交換で、緊迫した事態が発生したらしかった。ヴィクトリア美術館の態度が険悪になりかけていたのだ。
「一時間以内に、ヘンリー・サンプスンの事務所で会議をひらくぞ、エル」その朝、老人は疲れて気むずかしくなっているらしかった。「お前も出たいだろうと思ってな」
「行きますよ、お父さん」と、エラリーは答えて、やさしく言い添えた。「いつものこらえ性がないようですね、警視さん」
一時間後に、エラリーが地方検事サンプスンの私室に行ってみると、ものものしい顔をした連中が集まっていた。警視は腹を立てて不機嫌だし、サンプスンはいらだっているし、ペッパーはむっつり黙りこんでいるし――それに、むっとした老顔をいやに強ばらせて、玉座についているのは、有名人、ジェームス・J・ノックス氏だった。
一同はエラリーの挨拶などに目もくれなかった。サンプスンが手で席を示したので、エラリーは、そっと椅子に腰を下ろし、期待で目をかがやかせた。
「ノックスさん」と、サンプスンが玉座の前を行ったり来たりしながら「今朝《けさ》、あなたにここに来ていただいた理由はですね――」
「何かね」と、ノックスがおだやかなつくり声で訊いた。
「実は、ノックスさん」と、サンプスンが、もう一足歩いて「今度の事件の捜査に当たっては、わたしは直接に関与してきませんでした。おそらくあなたもご承知でしょうが――他の事件で忙しかったものですからね。助手のペッパー君が、わたしの代りに処理してくれたのです。ところが、ペッパー君の手腕は尊敬していますが、事件はわたしが自ら正式に審理せねばならぬ事態に達したのです」
「なるほど」ノックスの声にはいつもの皮肉や非難の調子はなかった。はやる心を押えて、何かを待っているようだった。
「いいですか」と、サンプスンは、ほとんど、どなりつけるような調子で「本当に、あなたは、なぜわたしがペッパー君の手から事件を取り上げるか、その理由を知りたいですか」と、ノックスの椅子の前で立ちどまり、相手をじっと見つめた。「それは、ノックスさん、あなたの態度が重大な国際紛争をひきおこしそうだからなのです。それが理由です」
「わしの態度が?」と、ノックスが面白がるように言った。
サンプスンは、すぐには答えなかった。自分の机のそばに行き、白い小判の紙をとじた束をとり上げた。――それはウェスターン・ユニオン〔電信会社〕の頼信《らいしん》紙で、薄い黄色い紙テープの電文が貼りつけてあった。
「さて、ノックスさん」と、サンプスンが息づまるような声でつづけた。――舌とかんしゃくを押えるために、喜歌劇役者のような努力をしていたのだ。「これから、この電報を順々に読みましょう。このひとまとめの電報は、ここにいるクイーン警視と、ロンドンのヴィクトリア美術館長との間に取り交わされた通信です。最後に、この二人の紳士のどちらにも関係のない電報が二通あって、それが、わたしが指摘したとおり、国際紛争をひきおこしそうなしろものなのです」
「実を言うとね、君」と、ノックスが、かすかに微笑しながらつぶやいた。「なぜそんなものにわしが関心をもっとると、君が思うのか、よくわからんがね。わしも市民としての公共心はもっておる。先を聞こう」
クイーン警視の顔がけいれんしたが、警視は自分を押えて、椅子に身を沈めた。その青白い顔は、ノックスの首すじのように真赤になった。
「最初のは」と、地方検事が鋭い会話調でつづけた。「クイーン警視が、あなたのお話をきいたあとで、――ハルキス犯人説がふっとんだ時に――はじめて美術館宛てに打ったものです。警視の打ったのはこうです」サンプスンが一番上の電報を、大声で、はっきりと読んだ。
ゴネンマエニ〔電文はつづく〕キカノビジユツカンカラ、キチヨウナル、レオナルド・ダ・ヴインチノエガ、ヌスマレシコトアリヤ
(五年前に貴下の美術館から貴重なるレオナルド・ダ・ヴィンチの絵が盗まれしことありや)
ノックスがため息をした。サンプスンはちょっとためらってからつづけた。
「これは、しばらくたってから来た、美術館からの返電です」
二番目の電文はこうだった。
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ソノエハ、ゴネンマエニ、ヌスマレタ。セツトウヨウギシヤハ、モトシヨクイン、トウチニテハ、グレイアム、ホンメイ、グリムシヨーナラン。イライ、エノユクエハ、フメイナリ。セツメイヲヨウセザルリユウニヨリ、トウナンハ、フセラレテイル。ゴシヨウカイニヨリ、レオナルドノシヨザイ、ハンメイセルモノトシンズ。タダチニ、レンラクコウ。ゴクヒ
(その絵は五年前に盗まれた。窃盗容疑者は元職員、当地にてはグレイアム、本名グリムショーならん。以来、絵の行方は不明なり。説明を要せざる理由により、盗難は伏せられている。ご照会により、レオナルドの所在判明せるものと信ず。ただちに連絡請う。極秘)
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「大ちがいだ。大ちがいだ」と、ノックスが、愛想よく言った。
「そうですかな、ノックスさん」と、サンプスンが、唇を紫色にして、二番目の電報をさっとめくって、三番目のを読んだ。それはクイーン警視の返電だった。
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ヌスマレタエハ、レオナルドサクデナク、デシマタハドウジダイジンノサクニシテ、ソノタメニ、モクロクシヨサイノカチノ、イチブノネウチシカナキモノナル、カノウセイアリヤ
(盗まれた絵は、レオナルド作でなく、弟子または同時代人の作にして、そのために、目録所載の価値の一部の値打ちしかなきものなる可能性ありや)
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ヴィクトリア美術館長からの返電
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ゼンデンノ、カイトウコウ。エハドコナルカ。タダチニ、エノヘンカンナキトキハ、ジユウダイナルシヨチヲ、トルコトニナルベシ。レオナルドノホンモノナルコト、イギリスノサイコウカンテイニンモミトム。ハツケントウジノカカク、二〇マンポンドト、ミツモラレタ。
(前電の回答請う。絵はどこなるか。ただちに絵の返還なきときは、重大なる処置をとることになるべし。レオナルドの本物なることイギリスの最高鑑定人も認む。発見当時の価格、二十万ポンドと見つもられた)
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クイーン警視の返電
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トキヲカサレタシ。コンキヨハクジヤクナリ。トウホウトドウジニキホウノタメ、オメイトフンソウヲサケント、ドリヨクチユウナリ。イケンノソウイヨリミレバ、ソウサチユウノエハ、レオナルドノホンモノニアラザルベシ。
(時を貸されたし。根拠薄弱なり。当方と同時に貴方のため、汚名と紛争を避けんと、努力中なり。意見の相違よりみれば、捜査中の絵はレオナルドの本物にはあらざるべし)
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美術館の返電
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ジジヨウノリヨウカイニクルシム。クダンノエガ「ハタノタタカイノブブンエ」トイワレ、一五〇五ネンニ、パラツツオ・ベツキオノヘキガケイカクガ、ハイシサレタアトデ、レオナルドガ、アブラデカイタモノデアルナラ、ソレハ、トウホウノモノデアル。アメリカノカンテイニンノイケンヲ、トエルトコロヲミルト、キホウニハ、エノシヨザイガ、ハンメイシオルモノトオモワル。ソノカチニツイテノ、アメリカガワノケンカイイカンニカカワラズ、ヘンカンサレンコトヲコウ。クダンノサクヒンハ、ハツケンノケンリニヨリテ、ヴイクトリア・ビジユツカンニキゾクスベキモノニテ、ガツシユウコクニアルハ、トウナンノケツカナリ。
(事情の了解に苦しむ。件の絵が「旗の戦の部分絵」といわれ、一五〇五年に、パラッツオ・ベッキオの壁画計画が廃止された後で、レオナルドが油で描いたものであるなら、それは当方のものである。アメリカの鑑定人の意見を問えるところをみると、貴方には絵の所在が、判明しおるものと思わる。その価値についての、アメリカ側の見解いかんにかかわらず返還されんことを願う。件の作品は発見の権利によりて、ヴィクトリア美術館に帰属すべきものにて合衆国にあるは盗難の結果なり)
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クイーン警視の返電
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トウホウノタチバハ、サラニジカンヲヨウス。シンライサレタシ。
(当方の立場は、更に時間を要す。信頼されたし)
[#ここで字下げ終わり]
地方検事サンプスンは意味ありげに中休みした。「さて、ノックスさん。いよいよわれわれの頭痛のたねになりそうな二通の電報のうちの、最初の一通の番です。わたしがいま読んだのの返事で、スコットランド・ヤードのブルーム警視のサインがあるんです」
「非常に面白いな」と、ノックスが無雑作に言った。
「まさにそのとおりですよ、ノックスさん」と、サンプスンが睨みつけて、ふるえ声で再び読みはじめた。スコットランド・ヤードからの電報は、
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ヴイクトリア・ビジユツカンノケン、トウホウニ、ウツサレタ。ニユーヨーク・ケイサツノタチバヲ、アキラカニサレタシ
(ヴィクトリア美術館の件当方に移された。ニューヨーク警察の立場を明らかにされたし)
[#ここで字下げ終わり]
「どうぞ」と、サンプスンは白い小判の紙をはじくようにめくりながら息をつまらせて「どうぞ、ノックスさん、われわれが何に直面しているか、わかっていただきたいのです。これは、それに対するクイーン警視の返電です」
電文は次のようなものだった。
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レオナルドハ、シユチユウニナシ。コノサイノ、コクサイテキアツリヨクハ、クダンノエノ、カンゼンソウシツヲ、マネクヤモシレズ。トウホウハ、ゼンリヨクヲアゲテ、ビジユツカンノリエキヲマモル。二シユウカンノユウヨヲコウ。
(レオナルドは手中になし。この際の国際的圧力は、件の絵の完全喪失を招くやも知れず。当方は全力をあげて美術館の利益を守る。二週間の猶予を請う)
[#ここで字下げ終わり]
ジェームス・ノックスはうなずいて、椅子の端をつかんでいる警視の方へ頭をふり向け、いかにも満足そうに言った。「立派な回答だね、警視。大変抜け目がない。たいしたかけひきだ。たいしたものだ」
それに対する返事はなかった。エラリーはいよいよ興味深く、その様子を見つめていたが、さすがに良識があるので顔色など変えなかった。警視は苦虫をかみつぶしたような顔をしていたし、サンプスンとペッパーは苦り切った目を見交わしたが、もちろんそれはお互いに対するものではなかった。サンプスンが、やっとききとれるほどこわばった声でつづけた。
「ここに最後の電報があります。今朝、ブルーム警視からとどいたばかりです」
その電文は。
[#ここから1字下げ]
二シユウカンノユウヨ、ビジユツカンハ、シヨウダクセリ。ソレマデ、コウドウハ、ヒカエル。コウウンヲイノル
(二週間の猶予、美術館は承諾せり。それまで行動は控える。幸運を祈る)
[#ここで字下げ終わり]
サンプスンが電報の束を机に投げもどして、両手を腰に当ててそり身になり、ノックスに向かって立った時、しばらくの沈黙があった。
「さあ、ノックスさん。あなたの番です。われわれは手のうちを開いてお目にかけました。おねがいですから、ここの道理をかみしめていただきたい。譲歩して下さい――少なくとも、あなたの持っている絵を見せて下さるか、公平な鑑定人に鑑定させて下さい……」
「そんなばかなことをするつもりはないよ」と、お偉方があっさり答えた。「そんな必要はない。わしの鑑定家があれはレオナルドではないと言っとるし、その男には当然それがわかっとるはずだ――わしから、うんと鑑定料を取ったのだからな。ヴィクトリア美術館など、くそくらえだ。サンプスン君。あんな機関など、どれもこれも同じようなもんだ」
警視がすっくと立ち上がった。自分を押えられなかったのだ。
「大物だろうと小物だろうと」と、叫んだ。「こんないまいましいことってあるか、ヘンリー。こいつを見のがしたら――こいつを……」と、のどをつまらせた。サンプスンは警視の腕をつかんで部屋の隅に引っ張って行き、老人に早口で耳打ちした。すると警視の顔色が少し変わって、狡《ずる》さがにじみ出た。「失礼しました、ノックスさん」と、警視は、すまなそうに言いながら、サンプスンともどって来た。
「かんしゃくをおこしてしまって。しかし、あなたはなぜその絵を美術館に返して、まともな蒐集家になろうとなさらんのですか。立派なスポーツマンらしく、いさぎよく負けたらどうです。あなたは前に二度も株式市場で失敗されて、まつ毛一本動かさなかったじゃありませんか」
ノックスの顔から微笑が、ふと消えた。「立派なスポーツマンらしくだって」と、重々しく立ち上がった。「わしが百万ドルの四分の三も払ったものを、むざむざ返さねばならんという明白な理由でもあるのかね。あるなら言ってみ給え、クイーン君、答えてみ給え」
「要するに」と、ペッパーがすばやく言って、警視がやりかえそうとする先手を打った。「要するに、あなたの蒐集家としてのご執心が問題になってるんじゃないんですよ。なにしろ、あなたの鑑定人が、ご所蔵のあの絵は事実上、美術品としては無価値だと言っているのですから」
「それに、あなたは金を払って重罪を見のがしておられる」と、サンプスンが口をはさんだ。
「証明してみ給え。そのことを立証してみ給え」ノックスも今は腹を立てて、あごの筋をひきつらせ、もり上がらせた。「言っておくが、わしの買った絵は美術館から盗まれたものじゃない。盗まれたものだと言うなら、それを立証してみるがいい。もし、諸君が無理押しすれば、結局は、きれっぱしが君らの手にはいることになるだろうよ」
「まあ、まあ」と、サンプスンが仕方なく言いかけた時、エラリーが、およそもの静かな声で訊いた。「ところで、ノックスさん。鑑定人はだれですか」
ノックスはくるりと振り向いて、ちょっと目をぱちくりしてから、声を立てて短く笑った。
「それは君らの知ったことじゃないよ、クイーン君。必要だと思えば、わしの方からもち出す。それに、君らが、あんまりうるさくすると、わしはあのろくでもないしろものを持っていることまで否認するよ」
「そりゃいけません」と、警視が「だめですよ、そりゃいけません。あなたを偽証罪で告発しますからね。もちろん」
サンプスンがどんと机をたたいた。「ノックスさん、あなたの態度は、私や警察をひどい苦境におとし入れるものです。そんな子供だましの態度をあくまでつづけられるなら、私としては事件を連邦当局の手に移さざるをえません。スコットランド・ヤードも、合衆国連邦検事も、ごまかしや冗談では承知しませんよ」
ノックスは帽子を取りあげて、戸口の方へ歩き出した。その幅広い背中には、断固とした決意がみなぎっていた。
エラリーが、ものうそうに言った。「ノックスさん、すると、あなたは合衆国政府と、英国政府を相手に、戦うつもりなんですか」
ノックスはくるりと振り向き、帽子を目深に引きおろして「お若いの」と、重々しい声で「君にはわかるまいが、百万ドルの四分の三のものともなれば、わしはだれとでも戦うよ。ジム・ノックスにとっても、それだけの金目となると、にわとりのえさとはわけがちがう。わしは前にも政府を相手に戦ったことがあって――勝ったんだぞ」そして、ドアがばたりとしまった。
「ノックスさん、もっとたびたび、聖書を読むべきですね」と、エラリーが、ゆれているドアを見ながら、おだやかな声で「神は強き者をはずかしめんとして、世の弱き者を択びたまえり……〔コリント前書一―二七〕」
しかしだれも気にもとめなかった。地方検事がうめくように「いよいよもって、前より厄介なことになったぞ。一体、これからどうしたらよかろう」
警視が口ひげを荒々しくひねり上げた。
「もはや、ぐずぐずしとるわけにはいかんと思うな。わしらは、甘くしすぎとった。ここ二、三日うちにノックスが、あのがらくた絵を引き渡さないなら、事件を連邦検事局の手に移すべきだ。あいつを、スコットランド・ヤードとかみ合わせてやるといい」
「強権でもって、あの絵を取り上げなければなるまいな」と、サンプスンが、むっつりと言った。
「そして、皆さん」と、エラリーが口を出した。「もし、ジェームス・ノックス氏が都合よくも、絵が見つからなかったとしたら、どうしますか」
一同はその言葉をかみしめていたが、その顔つきから判断すると、どうやら苦い丸薬だったらしい。サンプスンが肩をすぼめて「ところで、君は大てい、あらゆることに解答をもっているらしいが、こんな特に厄介な問題にはどんな手を打つかね」
エラリーは白い天井を見上げていた。「ぼくならば――何もしませんね。これは|Laisser《レッセ》-|faire《フェール》(放任)政策が当てはまるひとつの場合ですよ。いまノックスに圧力をかけることは、あれを怒らせるだけです。あの男は根っから頑固な商人です。だからあの男に時間を与えてやれば……どんなことになるか」と、エラリーは微笑して立った。「あなた方が美術館から許可された二週間の猶予を少なくともあの男にも与えてやるんですね。まちがいなく次にはノックスの方から動いてくるでしょうよ」
一同はなさけなさそうに、渋々うなずいた。しかし、エラリーの見込みは、またしても、こんなに矛盾にみちたこの事件で、がらりとはずれた。というのは、次の動きがおこった時、それは全く別の方面からだったし……その上、その動きは事件を解決するどころか、更にいっそう紛糾《ふんきゅう》させるもののようだった。
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二十八 REQUISITION……強請
ジェームス・J・ノックスが米英両国を相手に喜んでつかみ合いをやると意思表示した二日後の、木曜日に痛打がやってきた。そのために、ノックス大人の大言壮語が根のあるものか、ないものかは、ついに法廷のるつぼの中で試されないことになった。というのは、その木曜日の朝、エラリーが警察本部の父の部屋でぶらぶらしながら、不景気な顔で窓から空を眺めているところへ、しなびたマーキュリー〔ローマ神話の神の使者〕そっくりな電報配達夫が、あの闘志満々な男と法と秩序とを、がっちりと結びつけるような電報をとどけて来たからである。電報にはノックスのサインがあり、謎めいた情報を伝えていた。
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シフクケイジヲダシ、三三バンガイ、ウエスターンユニオンキヨクドメノ、シヨウセイヨリノコヅツミヲ、ウケトラレタシ。チヨクセツノレンラクヲトリエザルワケアリ。
(私服刑事を出し、三十三番街ウェスターンユニオン局留の小生よりの小包を受取られたし。直接の連絡を取り得ざるわけあり)
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二人は顔を見合わせた。「おかしな話があるものだな」と、警視がつぶやいた。「レオナルドを返すのにまさかこんな手を使うとは考えられんだろう。どうだい、エル」
エラリーは眉をよせていた。「いや、いや」とはがゆそうに言った。「そんなことじゃないですよ。レオナルドは、はっきり覚えていますが、四フィートに六フィートぐらいの大きさですからね。カンバスを切りとってまるめたとしても、とても『小包』にはならないでしょうよ。ちがいますね、何か別のものです。すぐ指令どおりにした方がいいですよ、お父さん。このノックスの連絡は意外ですね――うん、じつに意外です」
ひとりの刑事が電報指定局へ出かけているあいだ、二人はひどくそわそわしながら待っていた。刑事は一時間ほどして、隅にノックスの名が書いてある、宛名のない小さな小包を持って帰って来た。老人は包みを裂いてあけた。中には手紙のはいった封筒と、別に一枚の紙片があり、それはノックスから警視に宛てた通信だとわかった。――小包の中味を偽装するかのように全部が、ボール紙にくるんであった。二人は、まずノックスの手紙を読んだ――短く簡単で事務的なものだった。文面は――。
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クイーン警視殿。同封のものは小生が今朝、普通便で受けとった匿名の手紙である。むろん、小生は差出し人が見張っているかもしれぬのを懸念して、このようなまわりくどい方法で、その手紙を貴下に送付した。どうしたらよかろう。おそらく、慎重にやれば差出し人を捕えることができるだろう。明らかにその男は、数週間前に小生が絵のことをすっかり貴下に話したのを知っていないようだ。J・J・K
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ノックスの手紙は苦労して書いたらしい直筆だった。ノックスが同封した封筒の中の手紙は白い小さな紙片だった。封筒は近所の文房具屋で、どこででも一セントで買えるような、ありふれた物だった。そしてノックスの宛名がタイプしてあった。手紙は市中の郵便局で出されたもので、消印をみるとその前の晩に投函されたものらしかった。封筒の中のノックス宛の通信文がタイプされている紙が、ちょっと変っていた。紙の一方の端がすっかりぎざぎざになっていて――まるで、元の紙はその倍ほどの大きさなのを、何かの理由で真中から無雑作にひき裂いたもののようであった。
しかし警視は紙そのものの検査には手間をかけず、タイプされている文面にその老眼をはしらせていた。
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ジェームス・J・ノックス殿。この書面の差出し人は貴殿からもらいたいものがある。文句なく渡してほしい。貴殿の相手が何者であるかは、この紙の裏を見られるがよい――そうすれば小生がこの書面を、数週間前のあの夜、貴殿の目の前でハルキスがグリムショーに渡した約束手形の半分の裏に書いていることがおわかりになる……
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エラリーがあっと叫んだので、警視は音読をやめて、震える指先で紙を裏返してみた。信じがたいことだったが……紛れもなく――そこにゲオルグ・ハルキスの大きなたどたどしい筆跡があった。
「あの約束手形の半分だ、間違いない」と、警視が叫んだ。「お前の鼻づらみたいに、はっきりしとる。何かの理由で真中から引き裂いた――その半分がこれだが、これはハルキスのサインのある部分だ。あきれた話だ――」
「妙ですね」と、エラリーがつぶやいた。「その先は、お父さん。あとはどんなことが書いてありますか」
警視は乾いた唇をなめて、紙を裏返して、読み始めた。
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貴殿はこの手紙を持って警察へ行くほどばかではあるまい。貴殿は盗品のレオナルドの絵を所有しており、もし警察へ行けば、イギリスの美術館から盗まれた百万ドルもする美術品を、有名なるジェームス・J・ノックス氏が所有していることのいきさつを、一切告白しなければならないからである。そんなふざけたまねはできやせんさ。小生は適当に貴殿をしぼるつもりだ。ノックス殿。第一回の、いわゆる、ゆすりの具体的方法については、すぐに特別指示を与える。抗《さから》うといっそう悪くなるだけだ。小生は、貴殿が盗品を所有していることを、警察に知らせる手段を講じておくつもりだからな。
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この手紙には差出し人のサインがなかった。
「へらず口をたたく奴だな」と、エラリーがつぶやいた。
「これで、いよいよ火事場に駆けつける支度をせねばなるまい」と、警視が首を振りながら言った。「ずうずうしい奴だな。これを出した奴はだれかしらんが、ノックスが盗品の絵を持っているのを種に、ゆすろうというんだからな」
警視は、そっと手紙を机にのせて、さも楽しそうに両手をすり合わせた。
「これで、やっと悪党に手が届きそうだぞ、エル。豚みたいに手足をふん縛ってやる。奴は、わしらが、いやらしい絵の一件を何も知らんと思っとるらしい。それで、ノックスがそのことを届けては出まいとのみ込んどるんだ。それで――」
エラリーはうわの空で、うなずいた。「そうらしいですね」そして、いぶかしげに、手紙を眺めていた。「ともかく、ハルキスの筆跡は確かめておいた方がいいですね。この手紙は――どんなに重要かわからないくらいですよ、お父さん」
「重要だって!」と、老人がくすくす笑って「ちと大げさじゃないのか、え、おい。トマスはどこだ!」と、ドアに駆けよって、指を曲げて控え室にいるだれかを呼んだ。ヴェリー部長がどたばたとはいって来た。
「トマス、保管箱から、あの匿名の手紙を持って来い――スローンとグリムショーが兄弟だと密告して来たやつだ。それから、ランバート嬢を同行しろ。ハルキスの筆跡見本を持って来るように言うんだ――たぶん、二つ三つ持っとるはずだ」
ヴェリーは出て行ったが、やがて黒髪に灰色の線がまじっている鋭い顔付きの若い女性と一緒にもどって来て、警視に小さな包みを渡した。
「やあ、ランバートさん、おはいり」と、警視が「ちょっとしてもらいたいことがある。この手紙を見て、せんだってあんたに調べてもらったやつとくらべてほしい」
ユナ・ランバートは黙って仕事にとりかかった。紙の裏に書いてあるハルキスの筆跡と、自分が持って来た筆跡見本とをくらべた。それから、度の強い拡大鏡で脅迫状をしらべ、ヴェリー部長が持って来た匿名の手紙といくども見くらべていた。一同はじりじりしながら、鑑定の結果を待っていた。
やがて、ランバートは二つの手紙を下においた。「この新しい方の手紙の筆跡はハルキスのものです。このタイプした文字ですが、警視さん、両方とも同じタイプライターで打たれたのは疑う余地もありませんし、おそらく同一の人物が打ったのでしょう」
警視とエラリーがうなずいた。「ともかく、裏書きできたわけです」と、エラリーが「兄弟であることを報らせてきた匿名の手紙を書いた奴が星にちがいありませんね」
「ほかに何か気づいたことは? ランバートさん」と、警視が訊いた。
「そうですね。匿名の手紙と同じく、大型のアンダーウッドを使っていますわ――しかも同じタイプライターです。でも、打ち方にはまるっきり特徴がありませんわ。この二本の手紙を打った人は、非常に用心して、個性のくせを消すようにしています。
「頭のいい犯人を相手にしているわけですね、ランバートさん」と、エラリーが無造作に言った。
「そうにちがいありませんわ。ご存知のように、私たちはいくつかの点に目をつけて、こういうものを調べるのです――文字の間隔とか、余白とか、区切りとか、ある種の文字が強く打たれているとか、いうようなことでね。この手紙には、個性の特徴を消す努力が適当に払われて、しかも成功しています。しかし、打った人がごまかせなかったことがひとつありますわ。それは活字そのものの物的特徴です。どの機械の活字も、いわば、それ自体の個性をもっていて、それは実際に指紋と同じようにはっきりしているものなのです。この二つの手紙が同じ機械で打たれたものであることに疑問の余地はありませんし、たしかに――責任をもって保証はできませんけれど――どちらも同じ手で打ったものですわ」
「あんたの意見は尊重するよ」と、警視がにっこりして「適当にね。ありがとう、ランバートさん……トマス、この脅迫状を試験室に持って行って、ジミーにすっかり指紋を調べさせるんだ。おそらく、指紋を残すほど間抜けじゃあるまいがな」
ヴェリーは、間もなく、手紙と試験の報告を持ってもどって来た。紙片の新たにタイプされた側には指紋は全然なかった。しかし、裏側のゲオルグ・ハルキスがグリムショーあての約束手形を、書きつけた面には、ハルキスの指紋のひとつがはっきりついていると、指紋係が報告していた。
「それで、この約束手形が、筆跡と指紋の二点で確認されたわけだ」と、警視が満足そうに言った。「たしかに、エル、この手形の裏にこの文句をタイプした奴が、星だ――グリムショーを殺して、その死体から手形をうばった奴だ」
「少なくとも、これで」と、エラリーがつぶやいた。「ギルバート・スローンは殺されたという、ぼくの推理は確認されたわけです」
「そうらしいな。この手紙を持ってサンプスンの事務所へ行こう」
クイーン父子が行ってみると、サンプスンとペッパーは地方検事の私室にとじこもっていた。警視は得々として、新しい匿名の手紙を見せ、専門家の見解をとりついだ。司法官たちはすぐに明るい顔になった。早期の――正しい――事件解決の見通しで、部屋の中はなごやかになった。
「ひとつたしかなことがある」と、サンプスンが「君は部下の刑事連にこの件を伏せておくんだね、Q。見ていたまえ、この手紙を出した奴から、きっと別のこんな手紙か便りが来るだろうよ。その時のためにだれかを現場に張っておきたいな。しかし君の十二使徒どもが、ノックスの巣をうろついていると、鳥がおじけづいて逃げてしまうかもしれないよ」
「そりゃ一理あるな、ヘンリー」と、警視が白状した。
「ぼくではどうでしょう、検事」と、ペッパーが熱心に訊いた。
「いいね。適任だ。向うへ行って、事態の発展を待ってるんだね」と、地方検事は、ひどく不気味に微笑して「こうしておけば、一石二鳥だろうよ、Q。手紙を書いた奴を召し捕ると同時に――ノックスの家にこちらの人間を置いておけば、あの厄介な絵の監視もできるというもんだ」
エラリーがくすくす笑って「サンプスンさん、握手しましょう。自己防衛のために、ぼくはバプチスタの抜け目ない哲学を学ばなければならないようですね。『狡い男どもに対しては、きわめて親切にする』と、バプチスタは言っていますからね」
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二十九 YIELD……収穫
しかし、地方検事サンプスンが抜け目がなかったとしても、その抜け目のなさを向けられている相手の、ちゃちな犯罪者もまた、抜け目のない奴らしかった。というのは、それからまる一週間、何事もおこらなかったからである。匿名の手紙を書いた男は、何か未知の天変地異に呑みこまれでもしたかのようだった。
毎日、地方検事補ペッパーは、ドライヴ〔リバーサイド〕のノックスのパラッツォ〔宮殿〕から、殺人犯兼ゆすりから何の便りもなく――便りどころか生きている形跡もないと、報告してきた。おそらくは、とサンプスンはそう考えて――ペッパーを元気づけるためにそう言っていた――おそらくは犯人は用心深く、わなをかぎつけて、疑り深い目で現場を見張っているのだろうと。そこでペッパーはできるだけ監視をつづけることにした。ペッパーはノックスと相談の上――ノックスは事態の発展がとまっているので、妙に落ちついていた――石橋をたたいて渡る決意をして、数日間、邸内に頑張り通して、夜でさえ一歩も戸外に出なかった。そして、ある日の午後ペッパーは検事に電話で、ジェームス・J・ノックス氏はレオナルドの絵――もしくはレオナルドと推定されるもの――については、相変わらず狡《ずる》く黙り込んでいると報告した。ノックスは絵について口をすべらせたり、聞き出されることを拒否しつづけています。それに、ノックスは、とても厳重にジョアン・ブレットを監視していますよ――とても厳重なんです、検事、とペッパーは言った。そんな報告をサンプスンは鼻であしらった。というのは、ノックス邸に張り込む任務が、ペッパー君にとって、必ずしも不愉快な場面ばかりではなかろうと察していたからである。
しかしながら、十一月五日、金曜日の朝、こんな休戦状態は、けしとんで、いよいよ火の手が上がった。その朝の郵便の第一便が届くとともに、ノックス邸は上を下への大さわぎになった。権謀術策が実を結んだのだ。ノックスとペッパーは、黒のエナメル革を張りめぐらしたノックスの仕事部屋に立って、郵便配達に届けられたばかりの手紙を、ほくほくしながら調べていた。急いで打ち合わせをすませると、ペッパーは帽子を目深にかぶり、大事な書面を内ポケットに忍ばせて、横手の使用人出入口からとび出した。そして、前もって電話で呼び寄せておいたタクシーにとびのり、一目散にセンター街へ車を走らせ、喚声をあげて、地方検事の部屋へ、とび込んだ……。
サンプスンは、ペッパーの持って来た手紙をいじっているうちに、その司直の目をらんらんと輝かせた。そして、ものも言わずに、手紙と外套をひっつかみ、二人は建物をとび出して、警察本部へかけつけた。
エラリーは侍僧のように徹夜のおつとめをしていた――もっとも、この侍僧、もっと滋養分のあるものの代りに、爪を噛む癖がある奴だ。警視は、郵便物をいじりまわしていた……ペッパーとサンプスンが部屋にとび込んで来た時、何も言う必要がなかった。話はわかりきっていたのだ。クイーン父子はすっくと立ち上がった。
「二度目の脅迫状だ」と、サンプスンはあえぎながら「今朝の郵便でついたばかりだ」
「約束手形の残りの半分の裏にタイプしてありますよ、警視」と、ペッパーが叫んだ。
クイーン父子は、一緒にその手紙を調べた。地方検事補が言うとおり、文面は、元ハルキスの支払手形だったものの残りの半分の紙にタイプでうたれていた。警視は最初の半分をとり出して、二つの、ぎざぎざになった端をつなぎ合わせてみた――完全にぴったりだった。二番目の脅迫状も、最初のと同じく、署名がなく、その文面は。
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最初の支払いは、ノックス殿、きっかり三万ドルだ。現金で、百ドル以上の札《さつ》はだめ。支払いは、きちんとした小包にして、今夜十時以後、タイムズ・スクエアのタイムズ・ビルディングの携帯品一時預り所に預けておくこと。宛名はレオナルド・D・ヴィンシー殿とし、宛名を名乗って来る者に包みを渡すように指示しておくこと。忘れてはならない。警察に届け出てはいかん。それに小生も罠にかからぬように警戒している。ノックス殿
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「星はしゃれ気のある奴らしいですね」と、エラリーが「ふざけてる。手紙の調子といい、レオナルド・ダ・ビンチの名前を英語化した思いつきといい。とても愉快な奴だ!」
「奴に泣きべそをかかしてやる」と、サンプスンがどなった。「夜が明けるまでにな」
「おい、おい」と、警視がくすくす笑って「へらず口をたたいとるひまはない」
警視が部内通話器に向かって吠えたてると、まもなく、おなじみの筆跡鑑定家ユナ・ランバート嬢が姿をあらわし、やせた本部指紋係主任と二人で、警視の机の上の手紙にかぶさりついて、この通信が意図せずにして、何を物語っているかをあばこうと調べはじめた。
ランバート嬢は慎重だった。「これは、最初の脅迫状を書く時に使ったのとは別のタイプライターで打ってありますわ、警視さま。今度は大型のレミントンの新品を使っています。活字の状態からみて、たしかです。これを書いた人間のこととなると――」と、肩をすくめて「絶対にたしかだとは言えませんが、でも、表面に出ている特徴からみて、おそらく前の二通の手紙を書いたのと同一人物がタイプしたものでしょうね。……ちょっと面白い点がありますわ。三万ドルという数字を打つのに間違えています。これをタイプした人は、ぬかりないくせに、たぶんかなり神経質になっていたと見えます」
「そうですか」と、エラリーがつぶやいた。そして手を振って「その問題はしばらくおいておきましょう。犯人の素性をつきとめるのに、タイプライターの活字そのものから、書き手が同一人であることを立証する必要はありませんよ。お父さん、最初の脅迫状がハルキスの約束手形の半分であり、二度目のものが残りの半分だという事実が、十分にそのことを立証しますからね」
「指紋はないか、ジミー」と、警視が、大して期待せずに訊いた。
「ひとつもありません」と、指紋係が答えた。
「よし、ご苦労だった、ジミー。ありがとう、ランバートさん」
「すわって下さい、皆さん、すわって下さい」と、エラリーが、まずみずから腰を下ろしながら、愉快そうに言った。「急ぐことはありません。まだ、たっぷり一日ありますよ」 サンプスンと、子供っぽくもじもじしていたペッパーが、おとなしくエラリーの言葉にしたがった。「この新しい手紙にはたしかに妙な点がありますよ」
「何だって? わしには文句のつけようがないぞ、本物に見える」と、警視がはっとして叫んだ。
「ぼくはけっして本物であるなしを言っているんじゃないんです。でもごらんなさい。殺人兼ゆすり先生、数字についてなかなかいい趣味をもっていますよ。三万ドル要求するなんて、妙だと思いませんか。こんな数字の金額を要求するゆすり事件にぶつかったことがありますか。大ていは一万か二万五千か五万か十万です」
「ふふん」と、サンプスンが「屁理屈だよ。ちっとも変なことはないじゃないか」
「議論はよしましょう。それだけじゃないんですからね。ランバートさんが面白い点を指摘していますよ」と、エラリーは二番目の脅迫状をとりあげて、三万ドルという数字を爪ではじいた。
「よく見て下さい」と、エラリーは他の連中がまわりに集まって来た時に「このタイプされている数字を打った人間は、タイピストが普通によくやる間違いを犯しています。ランバートさんの意見では、書き手が神経質になっていたのだろうということです。表面的には一応妥当な説明に思えます」
「もちろんだ」と、警視が「それがどうかしたか」
「この間違いがおこったのは」と、エラリーが平然として「ドルの記号を打つためにシフト・キイを押し終わって、次に3の数字を打つためにはシフト・キイから手をはなさなければならないんです。数字は大ていタイプ活字の下の段についていますからね。ところが、目の前にあるこの証拠からみると、この書き手は3を打つ時に、シフト・キイから手を、すっかり離していなかったらしいですね。そのために、最初の印字は不明瞭でした。そこで一字もどして、3を打ち直さなければならなかったようですね。とても面白い――とても面白い点です」
「それが、どう面白いのかね」と、サンプスンが訊いた。「わたしがにぶいのかもわからんが、君がいま説明したこと以外は、これが何を示しているか、さっぱりわからんな――タイピストが打ち間違えて、消さずに打ち直しただけじゃないか。ランバート君が言うとおり、あわてたか神経質になっていたので間違えたというのが、事実を伝えているんじゃないかな」
エラリーは微笑して肩をしゃくった。「サンプスンさん、面白い点というのは、この打ちそこないにあるんじゃないのです。――その点も無論、ぼくの脳味噌を少しはくすぐりますがね。面白い点は、この脅迫状を打ったレミントンのタイプライターのキイ盤が、標準型のものではないということなのです。これは比較的に重要ではないかもしれませんがね」
「標準型のキイ盤ではなかったって?」と、サンプスンがいぶかしそうに訊き返して「ほほう、どうしてそれがわかるのかね」
エラリーがもう一度、肩をすぼめた。
「ともかく」と、警視が割り込んで、「この悪党に警戒心を起こさせちゃあまずい。今夜、奴がタイムズ・ビルディングに金をとりに現われたところを、しょっ引こう」
エラリーを不安そうに見つめていたサンプスンが、びくりと肩をゆすぶった――まるで目に見えない重荷を払いのけようとするかのようだった――そして警視の言葉にうなずいた。
「足許に気をつけてくれよ、Q。ノックスは命じられたとおりに金を置くふりをしなくてはならないな。手配万端やってもらえるな?」
「まかせといてもらおう」と、老人がにやりとして「さて、その点についてノックスと打ち合わせしなくてはならんが、どうやってあの邸にはいるか、慎重を要するな。犯人が監視しとるかもしれんしな」
一同は警視の部屋を出て、目立たない警察自動車を命じ、上町のノックス邸の横町にある使用人出入口に乗りつけた。警察の運転手は用心深く、横町の入口に車を停める前に、あたりをぐるっとひとまわりした。不審な人物も見当たらないのでクイーン父子、サンプスン、ペッパーは急いで高い柵門をくぐり、使用人部屋にはいった。
一同が行ってみると、ノックスは、ぴかぴかの仕事部屋で、悪びれた様子もなく、悠然と、ジョアン・ブレットに口述筆記をさせていた。ジョアンは、とりすましていた。特にペッパーに対してそうだった。ノックスがジョアンに何か言い、ジョアンが部屋の隅の自分の机に引き下がると、地方検事サンプスン、クイーン警視、ペッパーが、ノックスとその夜の攻撃プランの打ち合わせをした。
エラリーは陰謀家たちの小声の相談に加わらずに、部屋の中をぶらぶら歩きまわって、口笛を吹きながら、さりげなくジョアンの机に近づいて行った。ジョアンは静かにすわって、さして目的もなさそうにタイプを打っていた。エラリーは、ジョアンが何をしているかを調べるような恰好で肩ごしにのぞき込みながら、その耳にささやいた。
「何も知らない女学生みたいな顔つきでいなさいよ、ジョアン。今までのところ、すばらしく上出来です。どうやらものになりそうになってきましたよ」
「本当?」と、ジョアンは頭を動かさずに、ささやいた。そこで、エラリーは微笑しながら、身を起こして歩き出し、他の連中と一緒になった。
サンプスンは抜かりなくノックスに向かって「ノックスさん、無論あなたにも、情勢が一変したことはおわかりでしょうな。今夜以後あなたはわれわれに対して重い義務を負われるわけです。われわれは、あなたを一市民として保護する位置におかれているのです。しかるに、あなたは、われわれにあの絵を引き渡すのを拒否する態度に出られるとは……」
ノックスが不意に両手を振り上げて「よろしい、諸君。負けた。とにかく、これで厄介払いだ。あんないまいましい絵なんか、もうたくさんだ。こんな脅迫状騒ぎも……あのいわくつきの絵を持って行って、どうにでも気のすむようにしてくれ」
「しかし、あれはヴィクトリア美術館から盗まれた絵ではないと言われたようでしたな」と、クイーン警視がおだやかに言った。心中ほっとしたが、それを顔色には出さなかった。
「そりゃ、今でもそうさ。あの絵はわしのものだ。だが、君らはあれを専門家に調べさせていい――好きにするさ。しかし、わしの言ったことが正しいと判明したら、どうぞ返してくれ給え」
「ええ、必ずお返しします」と、サンプスンが言った。
「あのね」と、ペッパーが心配そうに口を出した。「まず、このゆすりの件を何とかしなくちゃなりますまい、検事。奴はきっと――」
「そりゃそうだな、ペッパー」と、警視がすっかり上機嫌になって「むろん、まずとっつかまえにかかるんだな。もし、もし、ブレットさん――」
老人は部屋を横切ってジョアンの方へ行った。ジョアンがもの問いたげに顔を上げた。
「お嬢さんに、ひとつおねがいがあるんだが、電報を打って下さらんか。さてと――ちょいと待った。鉛筆があるかな」
ジョアンは、言われたとおりに紙を鉛筆を差し出した。警視は、しばらく急いで走り書きしていた。
「お嬢さん、これを――すぐ、この文面をタイプしてくれんか。重要な用件なんだ」
ジョアンのタイプライターが音を立てはじめた。タイプしている文面が、ジョアンの胸をおどらせたが、そしらぬ顔をしていた。ジョアンの指先からおどり出す文面は次のようなものだった。
[#ここから1字下げ]
ブルームケイシドノ、
ロンドン、スコツトランド・ヤード、ゴクヒ。アメリカノ、ユウメイナ、シユウシユウカガ、レオナルドヲ、シヨユウス。トウニンハ、トウヒンナルヲ、マツタクシラズニ、十五マンポンドヲ、シハラエリ。モンダイノエガ、ヴイクトリアビジユツカンノ、シヨゾウヒンナルカ、イナカニツイテハ、タシヨウノギモンガアルモ、スクナクトモ、ケントウノタメ、ビジユツカンヘ、ヘンカンスルコトヲ、ホシヨウス。トウホウニテ、キユウメイスベキ二、三ノテンアリ。二四ジカンイナイニ、セイカクナル、ヒキワタシニチジヲ、ツウチス。リチヤード・クイーン、ケイシ
(ブルーム警視殿。ロンドン、スコットランド・ヤード。極秘。アメリカの有名な蒐集家がレオナルドを所有す。当人は盗品なるを全く知らずに、十五万ポンドを支払えり。問題の絵が、ヴィクトリア美術館の所蔵品なるか否かについては、多少の疑問あるも、少なくとも検討のため美術館へ返還することを保証す。当方にて究明すべき二、三の点あり。二十四時間以内に、正確なる引渡し日時を通知す。リチャード・クイーン警視)
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電文が回覧されて承認を得ると――ノックスはただちらりと見ただけだった――警視はその紙をジョアンに渡し、ジョアンはすぐ電報局を呼び出して、電話で通信文を送った。
警視はもう一度、その夜の正確な行動プランの概略を説明した。ノックスは渋々承知というようにうなずいたので、訪問者たちは外套を着こんだ。しかし、エラリーは外套の方へ手をのばそうともしなかった。
「一緒に来ないのか、エル」
「ぼくは、迷惑でしょうが、ノックスさんの好意にあまえて、もう少しここに残ります。お父さんは、サンプスンさんとペッパー君と一緒に走りまわって下さい。ぼくはじきに家へ帰ります」
「家へって? わしは役所へもどるつもりだ」
「よろしい、じゃあぼくも役所へ行きましょう」
一同はエラリーを不思議そうに見守ったが、エラリーは全く落ちつきはらってにこにこしていた。そして、おだやかに手をのばして一同が出て行くようにドアをさし示したので、一同はだまって出て行った。
「おい、君」と、ノックスが、ドアがしまった時に「これから君がどんなことをやろうとしとるのかはわからんが、ここにいたければいていい。計画では、わしは自分で銀行へ行って三万ドル引き出すふりをするらしいな。サンプスンは犯人が見張っているだろうと考えとるようだ」
「サンプスンさんは何からかにまで考えるひとでしてね」と、エラリーがにこにこしながら「ここにいることを許していただいて、どうも」
「いや、ちっとも」と、ノックスが、ぶっきらぼうに言い、するどいまなざしをジョアンに向けた。ジョアンは完全な秘書らしい、見ざる聞かざるの様子でタイプライターの前にすわっていた。
「ただブレット嬢を誘惑しないでほしいな。わしの責任になる」と、ノックスは肩をすくめて言い、部屋を出て行った。
エラリーは十分ほど待っていた。ジョアンに話しかけなかったし、ジョアンの方でも、手を休めずに、忙しくキイを打ちつづけていた。エラリーはのんびりと時をつぶしていた――事実窓から眺めてばかりいた。やがて、ノックスの背の高いやせた姿が、大股に車寄せに出て行くのが見えた。――エラリーがながめていた窓は母屋《おもや》と直角になっているので、玄関前のあたりは事こまかに、ひと目で見えるのだ――ノックスは自家用車に乗り込み、車がドライヴの方へ走り去った。すぐに、エラリーは活気をとりもどした。ジョアン・ブレットも、その点は同じだった。ジョアンの指はキイからはなれ、ちょっといたずらっぽく微笑しながら、もの問いたげにエラリーを見上げた。エラリーはつかつかとジョアンの机に歩みよった。
「まあ、あきれたわ」と、ジョアンはわざとこわそうに、身を引いて叫んだ。「まさか、ノックスさまの適切な暗示をすぐ実行なさろうというんじゃないでしょうね、クイーンさま」
「そんな考えはすてて下さい」と、エラリーが「ところで、二、三質問があります。二人きりのところで」
「わたしそう言われると、もう胸がわくわくしますわ」と、ジョアンがささやいた。
「あなたは女だからね……ところで、お嬢さん。この大邸宅には雇人は何人いるんですか」
ジョアンは、がっかりした顔付きで、口をとがらせた。
「変な方ね、あなたって、美徳のよろめきをねがっている女性に、そんなことをお訊きになるなんて。まったく変な方よ。そうですわねえ」と、ジョアンは胸のうちで数えながら「八人。そう、八人ですわ。ノックスさまは静かに暮していらっしゃるのよ。お客さまも、ほとんどなさらないようよ」
「その召使どものことを何か知っていませんか」
「まあ、女って何でも知ってるものよ……聞いてごらんなさい、クイーンさま」
「最近、雇われた者がいますか」
「いいえ、とんでもない。ここは、古きよき時代風に、大変格式ばっているのよ。どの召使もノックスさまにおつかえして、少なくとも五、六年、長い人は十五年にもなるときいていますわ」
「ノックスさんはみんなを信用していますか」
「口には出しませんけれどね」
「結構《セビアン》」と、エラリーはきっぱりした口調で「|ところで《メントナン》、|お 嬢 さ ん《マドモアゼル》、|よ く 聞いて下さい《アタンテ》。|召使どもを調べなければなりません《イルフォー・コンフェ・レギザマン・セルヴィタール》――|女中も《デ・ボンヌ》、|下 男 も《デ・ドメスティック》、|雇人たちも《デ・サンプロワイエ》、|すぐに《トード・シュイ》」
ジョアンは立って会釈《えしゃく》した。「|かしこまりました《メー・ウィ・ムッシュー》。|ほかに何か《ヴォー・ズキルドル》?」
「ぼくはとなりの部屋にはいってドアをしめておきます――つまり」と、エラリーが早口で「連中がはいって来た時に観察できるように細い隙間をあけておきます。あなたは呼鈴をならして、何か口実をもうけてひとりずつ呼びよせ、ぼくが連中の顔を完全に調べられるように、ぼくの視線が十分とどくところに引きとめて下さい。……ところで、運転手はいないわけですが、顔は見て知っています。名は何と言うんですか」
「シュルツよ」
「運転手はあれひとりですか」
「ええ」
「よろしい。|じゃはじめて下さい《コンマンセ》」と、エラリーは、すばやく隣室にはいり、あけたままにした細い隙間の前に陣取った。ジョアンが呼鈴を押すのが見えた。
エラリーが前に一度も見かけなかった黒いタフタを着た中年の女が仕事部屋にはいって来た。ジョアンが二言三言何か訊き、女が答えてから、出て行った。
ジョアンがまた呼鈴をならした。しとやかな黒い女中着の三人の若い女がはいって来た。そのすぐ後に背の高いやせた老執事がつづき、それから、のっぺりした顔の小柄のずんぐり男が、きちんとした身なりであらわれ、次には大柄で汗かきのゴール系の紳士が、しみひとつないぱりっとした、ありきたりの料理頭の服装で乗り込んで来た。この男を最後に、ドアがしまった時、エラリーはその隠れ場から出て来た。
「上出来でしたよ。あの中年の女はだれですか」
「家政婦のヒーリーさんよ」
「女中たちは?」
「グラント、バローズ、ホッチキスですわ」
「執事は?」
「クラフトさん」
「大まじめな顔の小男は?」
「ノックスさんの部屋係のハリスです」
「それから、あのコック頭は?」
「ブウサンさんはパリ生まれの移民で――アレクサンドル・ブウサン」
「あれでみんなですね。たしかですね」
「シュルツさんをのぞけばね。たしかよ」
エラリーがうなずいた。「みんなぼくの知らない顔です。ところで……最初の脅迫状を受けとった朝のことを覚えていますか」
「よくおぼえていますわ」
「あの朝以来、この邸に出入りした者は? ぼくの言うのは外部の者です」
「それなら、大ぜい来ましたわ。でも、ほとんど階下の客間まででそれより奥へ通ったひとはいませんのよ。あれから、ノックスさまは、まるでひとにお会いになろうとなさいませんの――大ていの方は、クラフトさんが『お留守でございます』と、ていねいにあいさつして、玄関で追っ払ってしまいましたわ」
「なぜでしょう」
ジョアンは肩をすぼめた。
「ノックスさまは無頓着で、表面は大様《おおよう》ですけれど、最初の脅迫状が来てから、とてもびくびくしていらっしゃるようですわ。なぜ私立探偵をお雇いにならないのかと時々思いますわ」
「それにはそれだけの理由があるんでしょうよ」と、エラリーがにやにやしながら「あのひとは、たとえだれでも、いわゆる警察のタール刷毛《はけ》を持っている人間がこの邸にふみ込んで、そこらを汚されたくないし――汚されたくなかったのでしょうね。あのレオナルドか、レオナルドの模写がころがっている限りはね」
「あの方はだれも信用していませんのよ。旧いお友達もお知合いも、お仕事の方のたくさんのお顧客《とくい》さまもね」
「マイルズ・ウッドラフはどうですか」と、エラリーが訊いた。「ノックスさんはあの男をハルキスの遺産の法律関係を処理させるために雇ったのだと思いますがね」
「そのとおりですわ。でも、ウッドラフさんはここに姿をあらわしたことはありませんわ。毎日電話でお話はしていらっしゃるけど」
「本当ですか」と、エラリーが小声で「こりゃ運がいい――じつに奇跡的な、驚異的な幸福だ」と、ジョアンの手をきつく握りしめたので、ジョアンは小さな叫び声をあげた。しかし、エラリーには純粋に無邪気な意図しかなかったらしい。エラリーはほとんど失礼に当たるほどの無頓着さでジョアンのかわいらしい手をしめあげて言った。「収穫のある朝でしたよ、ジョアン・ブレットさん、収穫のある朝でした」
そして『すぐに』警視の部屋に行くと、父と約束したにもかかわらず、エラリーが警察本部にぶらりと姿をあらわしたのは午後もおそくなってからで、万事好調といった胸のうちの喜びでにこにこしていた。
運よく、警視は仕事に追われて、エラリーに、ものを訊くひまもなかった。エラリーは、かなりの時間、うつらうつらとしながら、例の白日夢にふけっていた。そして老人が、その晩、タイムズ・ビルディングの地下室で刑事たちの落ち合う手筈について、特に、ヴェリー部長に指示を与えている声がきこえた時、はっと我にかえった。
「おそらく」と、エラリーが言ったので――老人はエラリーがいたのに気がついておどろいたようだった――「おそらく、今夜九時に、ドライヴのノックス邸で落ち合った方が、もっと役に立ちそうですね」
「ノックスの邸だって? 何のために?」
「いろいろの理由はありますがね。ともかく、部下の猟犬たちには犯人の立ちまわりそうな現場をかぎまわらせなさいよ。しかし、公式の落ち合う場所はノックス邸にした方がきっといいですよ。どうせ、タイムズ・ビルには十時まで行く必要がないんですからね」
警視はエラリーの目の中に確固たるものがあるのを読みとると、胸さわぎがし出し、目ばたきしながら言った。「ああ、いいとも」それからくるりと電話の方を向いてサンプスン事務所を呼び出した。
ヴェリー部長がのしのしと出て行った。エラリーは不意に精力を爆発させるような勢いで立って、巨人山のあとを追った。そして外の廊下でヴェリーをつかまえると、ひどく熱心にしゃべりはじめた――ほとんど、否応なしに説き伏せるような調子だった。みるみるヴェリー部長の、例のがっちりした躯に、急に精気がみなぎってきた――その精気は、エラリーがせき込んで小声でしゃべるにつれて、いよいよ動揺の色を深めた。善良な部長は足をもじもじさせて、体重を片足から、別の足に移した。決断をつけかねてもがいていた。首を振り、大きな唇を噛み、四角いあごを掻き、いくつものくいちがう感動に悩み、去就に迷っているらしかった。
ついに、エラリーの甘言に抗しかねて、情けなさそうにため息をして、うなった。「わかりましたよ、クイーンさん。だが、これがもれたとなると、わたしの命取りですよ」
そういって、自分の責任の衣にたかる、くどいしらみから逃げ出すのが、いかにもうれしいという恰好で、あたふたと歩み去った。
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三十 QUIZ……クイズ
用心深く、こっそりと、二人ひと組になり、月のない夜のやみにまぎれて、一同はノックス邸に集まった。九時がなった時に――横町の使用人出入口から忍びこみ――ノックスの仕事部屋に集まった。クイーン父子、地方検事サンプスンとペッパー、ジョアン・ブレットとノックスという顔ぶれだった。窓には黒いシェードがおろされて、邸の外からはちらりとも灯《ひ》が見えなかった。みんな、鳴りをしずめ、興奮し、自分を押えていた。だが、みんなとは言ったが、エラリーだけは別で、その場にふさわしい礼儀正しさと重々しさで行動していた。自分では、この不吉な夜のなりゆきなどを、少しも苦にしていない――全く苦にしていないという印象を他の連中に与えようと努力していた。みんな神経質になって話していた。
「包みはできとりますか、ノックスさん」
警視の口ひげはぼさぼさにみだれて、たれ下がっていた。
ノックスは机の抽出《ひきだ》しから、ハトロン紙に包んだ小さな札束をとり出した。
「にせものだよ。札の形に切った紙さ」ノックスの声は平静だったが、そのひきしまった表情の下に緊張の色があった。
「どうしたっていうんだね」と、地方検事が、もやもやした沈黙のあとで、たまりかねて叫ぶように「みんな何をぐずぐずしとるんだね。ノックスさんは、そろそろ出かけた方がいい。わたしらはあなたをつけて行く。現場はもう包囲してあるし、奴はとうてい――」
「ぼくに言わせると」と、エラリーが間のびした声で「今夜、タイムズ・ビルの携帯品預り所に行く必要は、もうないですよ」
二度目の劇的瞬間だった――ちょうど、エラリーが、数週間前に、得々としてハルキス犯人説をもち出した時のようだった。しかし、またしても、へまをやらかすかもしれないと心の中では思っていたかもしれないが、そしらぬ顔で、にやにやしていた。心からたのしそうに微笑しながら、タイムズ・スクエアのあたりに警察自動車がたむろしたり、捕りもの陣がしかれたりしている大げさな手配が、まるで面白半分の仕事だったかのような顔をしていた。
警視が、その小柄なからだを六インチも余計にひきのばすかのような勢いで突っ立った。
「おい、いったい何を言っとるんだ。エル。わしらは時間をむだにしとるんだぞ。それとも、またしてもお前の気まぐれないたずらか」
エラリーの顔から微笑が消えた。そして、ぼんやりと立ったまま、あきれたという目付きでエラリーの言葉を測っている一同を見まわした。微笑の消えた顔に、きびしさがとってかわった。
「よろしい」と、エラリーは改まって「説明しましょう。なぜ下町へ行くのがむだなのか――事実、こっけいなのか――おわかりですか」
「こっけいだって?」と、地方検事がかみついた。「なぜかね」
「サンプスンさん、それは無駄骨折りだからですよ。星はあそこにはいないからですよ。われわれはみごとに一杯くわされていたからですよ」
ジョアン・ブレットが、ごくりとのどをならした。他の連中も息をのんだ。
「ノックスさん」と、エラリーが銀行家の方を向いて「執事を呼んで下さいませんか」
ノックスは言われたとおりにした。そのひたいに、石のようなしわがきざみこまれた。背の高い老人がすぐに姿をあらわした。「お呼びでございますか、ノックスさま」
それに答えたのはエラリーだった。鋭い声で「クラフト君、君はこの邸の盗難防止装置にくわしいだろうね」
「はい……」
「すぐしらべてみてくれたまえ」
執事のクラフトはもじもじしていたが、ノックスが早くしろと合図したので、出て行った。執事が再び急ぎ足でもどって来るまで、だれも何も言わなかった。執事の、とりすました態度が消え、目をむいて「いたずらされています――こわれています。でも、昨日は、ちゃんとしていました」
「なんだって?」と、ノックスが叫んだ。
エラリーが落ちつき払って「ぼくの思ったとおりですよ。ご苦労だった、クラフト君……ノックスさん、ぼくはおどろいているあなたや、おかしいと思っている同僚たちに、われわれが一杯くわされていたことを、はっきり証明できると思います。ノックスさん、例の絵をちょっと見た方がいいでしょうよ」
ノックスはかき立てられるようにそわそわし出した。そのきびしい灰色の目に火花が散った。顔に恐怖の色をうかべると、すぐに決断がついたらしい。ものも言わずに、とび上がって、部屋から駆け出した。エラリーがすばやく後を追い、一同がなだれを打ってそれに続いた。ノックスは上の階の細長くて広く静かな部屋にはいった――古い豪華な絵が黒いビロードのおおいをかけて、ならべてある画廊だった。……
この際、審美的なものには、だれも目をくれなかった。エラリー自身、画廊の奥の方へ急ぎ足で行くノックスにぴたりとついていた。ノックスはつきあたりの壁の羽目板の前で、ぴたりと立ちどまり、木彫りの渦まき模様をいじっていた。……硬い壁に見えた部分が、音もなく一方に滑って、大きな黒い口をあけた。ノックスは手をさし込んで、ぶつぶつ言いながら、内部のくらがりを、あわててのぞき込んだ。……
「なくなっとる」と、叫んで真青《まっさお》になった。「盗まれたんだ」
「そうですね」と、エラリーは当たりまえだという声で言った。「頭のいい奴だ。まさに、グリムショーの変幻自在な相棒にふさわしい天才だけのことはある」
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読者への挑戦
「ギリシア棺謀殺事件」の物語のこの段階において、例によって読者の才知に対する挑戦状《ちょうせんじょう》を挿入《そうにゅう》することは、なんとも言えない私の楽しみです。
たのしみ、というのを説明すると、この事件に含まれている問題は、おそらく今まで私が手がけた謎《なぞ》ときの中で、最もこみ入ったものだからです。本を買ってくれるお客の嘲笑《ちょうしょう》に、いつも悩まされている作者にとっては、これはじつに大きなよろこび――本当に大きなよろこびなのです。「こんなのがこみ入った謎だって?」と、諸君は反駁《はんばく》する。「くそ! こんなものはすぐ解いてみせる」――というような人々に向かって「さあさあ、先生方、とっくり解いてごろうじろ。きっと、まんまと一杯くわされますぞ」と言うのは、ぞくぞくするほどのたのしさです。
どうも私は楽観しすぎているかもしれませんね。とにかく事件は一応のけりがついているんですよ、無情な読者諸君、諸君はいまや、三位一体の問題――アルバート・グリムショーを絞殺し、ギルバート・スローンを射殺し、ジェームス・ノックスの絵を盗んだ犯人の正体を割り出す問題に、唯一の正解を下すのに必要な、すべての事実を手に入れているわけなのです。
すべての善意と、いとも謙虚な心をこめて申し上げる。Garde a vous(御用心)、頭がいたみますぞ。
エラリー・クイーン
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三十一 UPSHOT……終演
すると、エラリーが言った。「本当ですか、ノックスさん、絵が盗まれていますか。この羽目板の中に、ご自分で入れられたのですか」
銀行家の顔にはまた赤味がさしてきた。そして努力してうなずきながら「最後に絵を見たのは一週間前だった。たしかにここに在った。ほかにはだれも知っておらん。だれもだ。この羽目板をこしらえたのは、ずっと昔だからな」
「わしが知りたいのは」と、警視が「どうしてこんなことになったかだ。絵はいつ盗まれたかだ。ノックスさんの言葉が本当なら、盗人は、どうやってはいり、絵の在りかをどうやって知ったのかだ」
「あの絵が盗まれたのは今夜ではない――それはたしかだ」と、地方検事がおだやかな声で「すると、なぜ、盗難防止装置が利かなかったのかな」
「しかも、昨日は利いていたと、クラフトが言っています。おそらく一昨日も利いていたでしょうね」と、ペッパーが口を出した。
ノックスが肩をすぼめた。エラリーが言った。「全部説明がつくでしょうよ。みなさん、ぼくと一緒に、ノックスさんの部屋にもどって下さい」エラリーはひどく自信ありげだったので、一同はしょんぼりして従《つ》いて行った。
エナメル革で張った部屋へもどると、エラリーは、とても楽しそうにいそいそとして仕事にかかった。まずドアをしめて、邪魔がはいらないように見張りに立ってくれと、ペッパーにたのみ、それから、ためらうことなく、部屋の一方の壁の床に近い高さで、作りつけてある大きな鉄格子のところへ歩みよった。しばらくかちかちいわせていたが、うまく鉄格子をはずして床に置き、ずっと奥の方へ手を差しこんだ。
一同は首をのばして見ていた。穴の中には大型のコイルのついた電熱器があった。エラリーはハーピストが弦を鳴らすように、すばやく、コイルの一本一本を指でさぐって調べた。
「よく見て下さい」と、エラリーは微笑しながら言ったが、明らかにみんなが見るようなものは何もなかった。「八本のコイルのうちの七本は熱くなっていますが、こいつだけは――」と、八本目のコイルの上に指をのせたままで「こいつだけは石のように冷えています」
エラリーは、再びかがみ込んで、冷たいコイルの底をあれこれといじりまわしていた。やがて、隠れていたキャップをはずし、長くて重いコイルをつかんで立ち上がった。
「とれましたよ、ごらんのとおり」と、エラリーは浮き浮きと説明した。「うまい細工ですね、ノックスさん」そう言ってコイルをさかさにしてみせた。コイルの底部には、かろうじて見えるほどの細い針金がはいっていた。エラリーが力をこめてひねると、底部が動き始め、おどろいたことには、すっかりはずれて、アスベストを張ったコイルの内部がちらっと見えた。エラリーはキャップを椅子に置いて、コイルを持ち上げ、力いっぱい振った。かまえている片手の上に――古く汚れたカンバスを捲いたものが、コイルの管から、すべりおちた。
「そりゃ何だ?」と、警視が小声で言った。エラリーは手首をひねって、巻きものをさっとふった。巻きものはぱっとひらいた。絵だった――傑作だ。豪華な油で描かれた大絵巻で、中央に中世の雄々しい一団の戦士たちが、誇り高い見事な旗を奪い合って、激闘している戦場の絵だった。
「信じようと信じまいと」と、エラリーはそのカンバスをノックスの机にひろげて「みなさんは今、百万ドルの値打ちのある絵のカンバスと天才とを見ているんですよ。つまり、これが失われたレオナルドですよ」
「ばかな」と、だれかが鋭く言った。するとエラリーはくるりとふり向いてジェームス・ノックスと向かい合った。ノックスはすぐ目の前に、凍りついたように立って、唇の色を失ったまま絵を見つめていた。
「本当ですか、ノックスさん、ぼくは今日《きょう》の午後、お断りもしないでかってにこのお邸をさがしまわって、この傑作を見つけたのです。これが盗まれたと言われましたね。とすると、泥棒の手にあると思われるこの絵が、どうしてあなたの部屋に隠されていたのか、この事実を、どう説明なさいますか」
「わしは『ばからしい』と言ったが、そのとおり、『ばからしい』ことさ」と、ノックスが短く笑って「わしは、どうも君の知能を見くびっていたらしいな、クイーン君。しかし、まだ君は間違っている。わしの言ったことは正しいのだ。レオナルドは盗まれたんだ。わしがレオナルドを二枚持っていることを隠しおおせると思っていたのだ――」
「二枚?」と、地方検事が息をのんだ。
「そうだ」と、ノックスがため息をして「わしは何とかごまかせると思っておった。君らが今見ているのは二枚目の方だ――ずっと昔から持っていたものだ。それはロレンツォ・ディ・クレディかその弟子《でし》の作で、わしの鑑定家もその点は、はっきりしないのだが――とにかく、レオナルドの作ではない。ロレンツォはそっくりレオナルドをまねしたし、その弟子どもは、師匠のスタイルをまねしたと見てよかろう。この絵は一五〇三年、フィレンツェのパラッツォ・ヴェッキオの広間の壁画計画が中止されたあとで、レオナルドの原画から模写されたものにちがいない。この絵は――」
「美術の講義はもうたくさんだ。ノックスさん」と、警視がうなるように「われわれが知りたいのは――」
「すると、あなたの鑑定家の考えではこの油絵は」と、エラリーがすらすら言った。「レオナルドが壁画計画を放棄してから――ぼくの美術史の知識だと、この中心になっている群像は描き上がっていたけれど、熱を加えられて色がながれ、油絵具がはげ落ちたということです――その後に、同時代人のだれかがレオナルド自筆の中央群像の絵を模写した作だと言うんですね」
「そうさ。とにかく、この二枚目の絵はレオナルドの原絵の切れっぱしの値打ちもない。当り前さ。わしがハルキスから本物のレオナルドを買った時には――そうさ、わしはたしかに本物を買っていたのだ。そのことについて口をつぐんでいたのは、わしの考えでは……そのう、もしもレオナルドをヴィクトリア美術館に返さねばならぬはめになったら、わしがハルキスから買ったのはこれだと説明して、この価値のない模写を返すつもりだったのだ――」
サンプスンの目が光った。「今度は証人がたくさんいるんですぞ、ノックスさん。原絵はどうなさったのですか」
ノックスが頑強に言い張った。「盗まれたんだ。わしはあの絵を画廊の羽目板の後の金庫に隠しておいたのだ。たのむから、考えちがいをしないでくれ――泥棒がこの模写のことを何にも知っていないのは明白だ。こいつはずっとこのにせの電熱器コイルに隠しといたのだからな。奴は原画を盗みおったぞ。どうやって盗んだかわからんが、盗んだんだ。美術館に模写をおっつけて、こっそり本物を持っていようとしたのは、たしかに、わしが狡かった。しかし――」
地方検事はエラリーと警視とペッパーを片隅に引っぱっていって小声で打ち合わせた。エラリーが緊張して耳をかたむけ、何か念をおしてから、三人は、けばけばしい画布がひろがっている机のそばにしょんぼりと立っているノックスのところへもどった。
ジョアン・ブレットはとみると、エナメル革の壁にぴったりとよりかかって、目を丸くし、身動きもせずに、胸をかきたてる思いで、息をはずませていた。
「さて、ノックスさん」と、エラリーが「少し意見の相違があります。地方検事とクイーン警視の考えでは――おわかりでしょうが、こんな情況のもとですからね――これがレオナルドの模写で、本物ではないと言われる言葉には、どうも根拠が薄弱なので、そのまま受け入れられないそうです。ここにいる連中はだれも鑑定人の資格がないので、ちゃんとした鑑定人の意見を訊くべきだと思います。なんならぼくが――」
エラリーはノックスが渋々うなずくのも待たずに、電話に近づき、番号をまわして、だれかと二言三言話すと、受話器をかけた。
「トビー・ジョーンズを呼びましたよ。おそらく東部随一の美術批評家です。ノックスさん、あのひとをご存知ですか」
「会ったことがある」と、ノックスが、ぽつんと言った。
「すぐここに来ますよ、ノックスさん。それまで辛抱して心構えしておく必要がありますよ」
トビー・ジョーンズは小柄のでっぷりした老人で、明るい目をし、みなりもととのい、自信のある落ちつきを見せていた。案内をして来たクラフトはすぐ追っ払われた。エラリーは知合いらしいあいさつをしてから、ジョーンズを一同に紹介した。ジョーンズはノックスに対して特に愛想がよかった。それから、だれかが事情を説明してくれるのを待ちながら、机の上の絵を、じっと見つめていた。
エラリーは、すぐ当面の問題にはいった。
「非常に重要な問題なんですよ、ジョーンズさん」と、エラリーが静かに口をきった。「それで、失礼な申し分ですが、今夜この部屋での話はいっさい他に洩らしていただきたくないんですがね」
ジョーンズは、前にもそんな問題にぶつかったことがあるとみえて、深くうなずいた。「承知しました」
エラリーは絵の方に顔を向けて「この絵の作者を鑑定していただけますか、ジョーンズさん」
一同がひっそりと黙りこんで待っているなかを、専門家は顔をかがやかせ、リボンつきの片眼鏡をかけて、机に歩みよった。そして、画布をていねいに床に平らにひろげて調べてから、エラリーとペッパーに、絵をしっかりと宙に支えているように指示し、数個の電燈のやわらかい光線を当てた。だれも口をきかなかったし、ジョーンズも何も言わずに調べていた。その小ぶとりの顔の表情も変わらなかった。ジョーンズは根気よく絵の隅々まで調べていたが、旗に最も近い一団の戦士たちの顔に、特に興味をひかれているらしかった。……
三十分ほど調べてから、ジョーンズは愉快そうにうなずき、エラリーとペッパーは画布をまた机にもどした。ノックスは、うらめしそうなため息をもらした。そして、鑑定家の顔をじっと見つめた。
「この作品には奇妙な物語がまつわっています」と、ジョーンズが、やっと口をひらいた。「それは私がこれから話そうとしていることに大切な関係があります」
一同はジョーンズの一語一語に耳を傾けた。
「ずっと前からわかっていることですが」と、ジョーンズは続けた。「事実、いく世紀も前からですが、この特殊な画題の絵は二枚あって、あらゆる点で同じですが、ただ一か所だけ……」
だれかが口の中で何か言った。
「どこからどこまで同じですが一点だけちがうのです。一枚の方はレオナルドの自筆とされています。ピエロ・ソデリーニが、あの巨匠を説いてフィレンツェに招き、領主の宮殿の新しい会議室の壁を飾る戦争画を描かせようとした時、レオナルドはその画題として、一四四〇年にフィレンツェ共和国の将軍連が、アンギアリの橋の近くでニッコロ・ピッキニーノ軍を打ち破って勝利をおさめたエピソードを択びました。そのカーツーンそのものは――専門語で実物大の下絵ということですが――元々レオナルドの自筆で、実は、よく『アンギアリの戦い』と呼ばれているものです。これは壁画の大競技会で、たまたまミケランジェロも参加して、ピッサを画題にした絵を描いています。ところで、ノックス氏もご存知でしょうが、レオナルドはその壁画を完成しませんでした。旗の戦いの部分を描いたところで、壁画計画が中止されたのです。というのは、壁面に焼きを入れる処理がすんだあとで、絵具がくずれて、はげ落ち、事実上その絵はだめになってしまったのです。
レオナルドはフィレンツェを離れました。その後、労作の失敗に失望して、自分の元のカーツーンを油絵に描き、芸術家としての自己弁護をしたものと推定されています。とにかく、この油絵は評判にはなっていましたが、ごく最近になって、ロンドンのヴィクトリア美術館の外交員がイタリアのどこかで発見するまで『行方不明』になっていたのです」
一同はおそろしく静まりかえっていたが、ジョーンズはそれに少しも気がつかぬらしかった。「ところで」と、声に力をこめて、「そのカーツーンの模写は、レオナルドの同時代作家によって多くつくられ、中でも有名なのは、若き日のラファエロやフラ・バルトロメオや、そのほかにも大ぜいいますが、カーツーンそのものは模写の手本としての役目を終えると切断されてしまったらしいのです。こうして、カーツーンは姿を消し、領主の大広間の元の壁画は、一五六〇年にヴァザリの新しい壁画で塗りつぶされてしまったのです。したがって、この絵の発見――つまり――レオナルド自筆の元のカーツーンの写しの発見は、美術界ではじつに大きな掘り出しものだったのです。これから話は奇妙な部分にはいります。
私は先ほど、この画題の絵は二枚あって、一か所を除いては、あらゆる点で全く同じだと言いました。その最初の一枚は、ずっと以前に発見されて展示されてたのですが、六年ほど前にヴィクトリアの発見があるまで、その作者が最終的に決定されなかったのです。いろいろ議論がありました。専門家たちは最初に発見されたものがレオナルドのものかどうか、決めかねていました。事実、一般的にはロレンツォ・ディ・クレディか、その弟子の作と信じられていたのです。美術界のあらゆる論争と同じように、悪口の言い合いや、いがみ合いや、かみつき合いが、ずいぶんありました。しかし、六年前のヴィクトリアの発見で問題が片づいてしまったのです。古い記録が出たからです。記録によれば、この同じ画題の油絵は二枚あり、一枚はレオナルドの自筆で、一枚は複写なのです。――模写の作者は記録では漠然としていました。言い伝えによれば、二枚の絵は両方とも、一点を除いては、全く同一で、旗のすぐそばを取りまいている人々の皮膚の色が少しちがうだけだと言います。言い伝えでは、レオナルドの作品の方が皮膚の色が少し濃いそうですが――じつに微妙な相違で、二枚の絵をならべてみるよりほかには、はっきりとレオナルドのものときめられないと、その記録にも強調されているほどなのです。それですから――」
「面白い」と、エラリーがつぶやいた。「ノックスさん、この話をご存知でしたか」
「もちろんさ。ハルキスも知っておった」と、ノックスは、爪先とかかとで、からだを前後にゆすぶっていた。「言ったとおり、わしはこの絵を持っていたから、ハルキスがもう一枚の方をわしに売りつけた時、二枚をならべてみて、どちらがレオナルドかを知るのは、いとも簡単なことだったのだ。ところがいまや」――と、ノックスはどなった――「レオナルドの絵がなくなったのだ」
「えっ?」と、ジョーンズはとまどったらしいが、やがてまた、微笑して「そう、そりゃあ私の知ったことではなさそうですね。とにかく、その二枚の絵は、美術館に一緒に所蔵されていて、外交員のひとりが見つけた方の絵がレオナルドの本物だと十分断言しえたものと、世間では信じられていました。その後、模写の方の絵が消えてなくなりました。噂《うわさ》では、金持のアメリカの蒐集家に売られたとのことで、そのアメリカ人は模写であることが確認されたにもかかわらず莫大な金を払ったそうです」
ジョーンズはノックスに探るような目をちらりと向けたが、だれも何も言わなかった。それから、小柄な小さな肩を張って「したがって、美術館のレオナルドが、ここしばらく姿を消しているかぎり、一方だけを調べて、そのどちらかが本物であるかを決定するのは、きわめてむずかしく――不可能と言うべきでしょうな。一方だけ見て決めるのでは、とうてい確かなことは……」
「それで、この絵は? ジョーンズさん」と、エラリーが訊いた。
「これは」と、ジョーンズが肩をすくめて「たしかに、二つのうちのどちらかですが、較べてみる絵がないことには……」と、言いかけて、ひたいをたたいた。「こりゃどうも、うっかりしていましたよ。これは模写にちがいありません。本物は海の向うのヴィクトリア美術館にあるはずですものね」
「ええ、そうです。そのとおりです」と、エラリーがあわてて言った。「ジョーンズさん、その二枚の絵が、そんなにそっくりなのなら、なぜ一方は百万ドルもし、片方はわずか一、二千ドルしかしないのですか」
「それはあなた」と、専門家が大声で「まったくどうも――何というか――きわめて子供っぽい質問ですな。本物のシェラトン〔イギリスの家具デザイナー。一七五一〜一八〇六〕と最近の模造品とのちがいですよ。レオナルドは巨匠ですし、模写の作者は、おそらくロレンツォの弟子でしょうが、言い伝えのとおり、レオナルドの完成した傑作をただひき写したにすぎませんからね。価値のちがいは、天才の傑作と、初心者の完全な模写との差ですよ。レオナルドの筆勢を正確にまねていたらどうですって? クイーン君、まさか君だって、君の署名を写真版で偽造したものが、本物の署名そのものと同じく真正だとは、言わんでしょう」
ジョーンズは老いた小柄なからだを、しきりにゆり動かして、少し上気しているようだった。エラリーは頃あいの謙虚さを示しながら、礼をのべて、ドアの方へ送り出した。専門家がいくぶん冷静さをとりもどしてドアから出て行くまで、一同は気をのまれたままだった。
「美術。レオナルド」と、警視がにがりきって「こりゃ、ますます面倒になったぞ。探偵商売もあがったりだな」と言い、両手を上げた。
「そう悲観したものでもないさ」と、地方検事が、何か考えながら「少なくとも、ジョーンズの話がノックスさんの説明を裏づけたよ。たとえ、どっちがどっちかだれにもわからないとしてもね。ところで、われわれには、少なくとも、今まで考えてきたように、絵は一枚ではなく、実際に同じものが二枚あることがわかった。そこで――もう一枚の方を盗んだ奴をさがさなければならないわけだ」
「何とも腑におちないのは」と、ペッパーが「なぜ美術館は、この二枚目の絵のことについて、何も言わないんでしょうね。結局――」
「ペッパー君」と、エラリーが大儀そうに「本物が美術館にあるからだよ。模写なんかに気をもむ必要はないじゃないか。模写なんかに興味はないんだ。……そうです、サンプスンさん、まったく、あなたの言うとおりですよ。われわれがさがしている奴は、もう一枚の絵を盗んだ奴だし、約束手形を便箋に使ってノックス氏に脅迫状を書いた奴、つまり、そいつが、スローンにぬれ衣をきせて殺し、グリムショーの相棒面をしてグリムショーを殺し、ハルキスにその罪をなすりつけた奴にちがいないんです」
「立派な最終論告だな」と、サンプスンが皮肉って「ところで、君はわしらが知っとることは全部まとめたが、わしらの知らないことも教えてくれるんだろうな――つまり、その男の正体をさ」
エラリーがため息をして「まあまあ、サンプスンさん、あなたはいつもぼくを追いまわして、ぼくの信用を落とそうとし、ぼくの弱点を世間にさらそうとするんですね……本当にその男の名が知りたいんですか」
サンプスンが目をむき、警視が興味を示しはじめた。
「本当にわしが知りたいかってさ」と、地方検事が大声で「おい、じつに気の利いた質問じゃないか、えっ……もちろん、わしは知りたいよ」と、目を光らせて、言葉をとぎらせ「はっきり言うが、エラリー君」と、静かに「君は本当はその男の名を知らんのだろう。どうだ?」
「そうさ」と、ノックスが「その悪党は何者かね、クイーン君」
エラリーが微笑した。
「あなたが訊いて下さって、うれしいですよ、ノックスさん。この文句には、あなたも本の中でぶつかられたにちがいないと思いますが、なにしろ多くの有名な紳士方が、その文句をいろいろなかたちで、くり返していますからね――ラ・フォンテーヌも、テレンティウスも、コールリッジも、キケロも、ジュヴナールも、ディオゲネスもね。その文句は、デルフォイのアポロの神殿の碑文で、スパルタのキロンか、ピタゴラスか、ソロンの言葉と言われています。ラテン語では、|Ne《ネ》 |quis《キス》 |nimis《ニミス》、英語にすれば、身のほどを知れ、という文句ですよ。ジェームス・J・ノックスさん」と、エラリーは、世にもやさしい声で言った。「あなたを逮捕します」〔Ne quis nimisはNe guid nimisらしい〕
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三十二 ELLERYANA……エラリー式
こりゃ意外? サンプスン地方検事は、意外ではなかったと言っている。検事は、その大波瀾《だいはらん》のおきた夜、最初からノックスにひそかな疑いをかけていたと主張するのだ。ところが一方では、すぐに解明してほしい気持も、きわめて強く働いていた。なぜ? どうして? 検事は面くらってるようだった。証拠――証拠は一体どこにあるのか。検事は忙しく頭の中で、検察側の告発論旨を整理していた――そして、何とも割りにくい硬い|くるみ《ヽヽヽ》みたいなものが、はさまっているという考えに悩まされていた。
警視はひと言も言わなかった。ほっと胸をなでおろしたが、何を考えているのかつかまえどころのないエラリーの横顔を、そっとうかがっていた。暴露のショックで、ノックスの肉体は瞬間的にくなくなになったが、やがて奇跡的に立ち直ったし、ジョアン・ブレットは信じがたい恐怖におそわれてあえいだ……
エラリーは格別に興奮もせずに、この場面に君臨していた。そして、クイーン警視が本部からの加勢を求め、ジェームス・J・ノックスが静かに曳かれて行くあいだ、エラリーはがんこに首を振るばかりで説明をこばんでいた。ひと言も、その夜は語るつもりがなかったのだ。明朝――そう、たぶん明朝になれば……
土曜日の朝、つまり十一月六日に、このこみいったドラマの主役たちが集まった。エラリーの主張で、この集まりでは、役所関係者だけではなく、ハルキス事件で迷惑をこうむった人々――そして、むろん、わき立っている新聞記者連にも説明を行なうことになっていた。土曜日の各社の朝刊は大見出しで巨頭の逮捕をはやし立てた。大統領側近の権威筋からニューヨーク市長に、個人的な照会があったという噂も――おそらく本当だろう、市長は午前中ずっと電話をかけつづけて、自分よりも事情にうとい警察長官や、ますます逆上気味の地方検事サンプスンや、老いの頭を力なく振ってすべての役所の照会に『待ってくれ』と答えるだけのクイーン警視に、説明を求めていたからである。
ノックス邸の電熱器のコイルから出た絵は、地方検事局のはからいで公判まで、ペッパーが責任をもって保管することになり、スコットランド・ヤードに対しては、絵は法廷闘争の証拠品として必要の見込みがあるが、陪審のお歴々がジェームス・J・ノックス氏の運命に判決を下し次第、適当な保護のもとに返還される旨が通告された。
クイーン警視の小さな部屋は、エラリーの説明をぜひとも聞きたいと頑張る、自称有力者たちがどんどんつめかけて、とても収容できなかった。そこで、択ばれた記者の一団と、クイーン父子、サンプスン、ペッパー、クローニン、スローン夫人、ジョアン・ブレット、アラン・シェニー、ヴリーランド夫妻、ネーシオ・スイザ、ウッドラフ――それに、この上なく遠慮がちな物腰ではいって来た警察長官、次席地方検事、それから、しきりに指をカラーにかけて落ちつかない紳士は市長側近の政治家とよめた――そんな人々が集会用に特にとってある警察本部の大部屋に集まった。エラリーが司会をするらしかったが、それはひどく型破りのことで、それに対してサンプスンはむくれ、市長代理はあきれかえり、警察長官はぷんぷんしていた。しかし、エラリーはびくともしなかった。部屋にある演壇の上に立って――目を見張っている一クラスの子供たちに訓示しようとしている校長先生よろしく、黒板を背にしていた。――エラリーは威厳をもって、ぴんと立ち、時々鼻眼鏡のレンズをみがいていた。
部屋の後方では地方検事補クローニンが、サンプスンに小声で「ヘンリーさん。こりゃとてつもないことになります。ノックスは弁護にスプリンガーンの一党を雇いました。奴らが裁判でどんなひどい手を使うか、考えただけで身ぶるいが出ます」サンプスンは何も言わなかった。言うことは何もなかった。
エラリーが静かに話しはじめて、事件のこれまでの内部事情に通じていない連中のために、今までの分析や推理のあらゆる事実を、簡潔な言葉であらまし説明した。脅迫状がとどいた前後の出来事の説明をすますと、中休みしてかわいた唇をしめらし、深くひと息して新しい論旨の核心にとび込んでいった。
「脅迫状を送り得た唯一の人物は」と、エラリーは「さきほど指摘したとおり、ジェームス・ノックスが盗品の絵を所有していることを知っていた者であります。倖《しあわせ》なことに、ジェームス・ノックスが盗品の絵を所有している事実は、秘密にされていました。さて、捜査関係者――つまりわれわれ自身――のほかに、このことを知っていたのは、だれでしょうか。二人います。しかも二人きりです。ひとりは、グリムショーの相棒で、前の分析から、グリムショーとスローンの殺害者であることが立証されていますし、さらに、グリムショーの相棒であった事実と、グリムショー自身が、この相棒は、この相棒だけが、全部のいきさつを知っていたと認めた事実によって、ノックスがその絵を持っているのを知っていました。そして、第二の人物は、もちろん、ノックス自身で、当時われわれは、ひとりもこの点に思い及ばなかったのです。
いいですね。ところで、脅迫状が約束手形の片ぺらにタイプされていた事実から、それを送った男が、グリムショーとスローンの殺害者――つまり、グリムショーの相棒――だということは、決定的に証明されます。というのは、グリムショーの死体から奪った約束手形を持っていた者だけが犯人になりうるからです。この点を覚えていて下さい。これは論理の組み立ての重要な基礎のひとつです。次に、脅迫状自体のタイプの状態を調べてみて何がわかったかという点です。
さよう、最初の脅迫状はアンダーウッドのタイプライターで打たれていて、それは偶然にも、犯人がスローンとグリムショーの兄弟関係をあばいた匿名の投書を送るのに使ったのと同じ機械でした。ところが、二番目の脅迫状はレミントンのタイプライターで打ってありました。この二番目の脅迫状のタイプには、のっぴきならぬ手がかりがありました。というのは、このタイプを打った人間は、30,000 ドルという一連の数字の、3という字を打つのにへまをしたからです。そのへまからわかることですが、3のキイの上部の数字は普通の標準型の数字でなかったことが明白です。脅迫状自体に示されている30,000 ドルという数字を図形であらわしてみましょう。そうすれば、ぼくが言おうとする点を理解していただく助けになるでしょうから」
エラリーは向きをかえて、黒板に図形を、すばやく書いた。
「さて、よく見て下さい」と、エラリーは向き直って「タイプした人間の|へま《ヽヽ》は、ドルの記号を打ったあとでシフト・キイから完全に指を離さなかったことにあります。その結果、次に押したキイは――それに3があるんですが――欠けて、かすれて紙に写りました。したがって、タイピストは紙をもどして3を打ち直しました。しかし、その点は大して重要ではありません。重要なのは、欠けた3という字を残したキイにあるのです。さて、このような普通におこる打ち損じ――つまり、下段の文字を打とうと思いながら、シフト・キイまたは大文字のキイを完全にはなさない時におこる|へま《ヽヽ》は、どうでしょうか。これは簡単なことで、下段の文字が写るべき場所が空白になり、この空白の少し上に上段の文字の下の部分が印刷されるし、この空白の少し下に下段の文字の上の部分が印刷されます。その状態は、ぼくが黒板にざっと書いた図形でおわかりになるでしょう。ここまでは、はっきりなさったでしょうね」
みんながいっせいにうなずいた。
「結構です。では普通標準キイのタイプライターの3の字のあるキイはどうなっているか、ちょっと考えてみましょう」と、エラリーがつづけた。
「もちろん、アメリカ製タイプライターのことですが、どうなっているか。数字の3は下段に、『ナンバー』の記号は上段に、ついています。説明しましょう」と、エラリーは、また黒板に向いて次の記号をチョークで書いた。♯。
「簡単でしょう」と言って、向き直った。「だが、注意していただきたいのは、二番目の脅迫状にある打ち損じは、標準キイボードのものではなかったということです。少なくとも、数字の3に関する限りはそう言えます。なぜなら、紙をもどして打った3の上の頭のかけた記号は、さっき言った『ナンバー』記号の下半分のはずなのに、それはまるでちがっています。それどころか、じつに妙な記号で――左端に小さな輪形があり、そこから曲線が右にのびています」
エラリーは鎖で結びつけるように、しっかり聴衆を握っていた。エラリーは乗り出すようにして「してみると、前に言ったとおり、この二番目の脅迫状を打ったレミントン・タイプライターは、普通『ナンバー』記号のあるべきはずの3の字の上に妙な記号をもっていた」――エラリーは黒板の上の♯しるしの方へ頭をしゃくってみせて――「これは明白です。また、この輪と曲線のしるしも、何か完全な記号の頭の欠けた下半分にすぎないことも明白です。その上の欠けた半分は何でしょうか。全体としての形はどんなものでしょうか」と、エラリーは静かに身を起こして「しばらく考えてみて下さい。黒板に書いた3の上の白墨のしるしを見て下さい」
エラリーは返答を待っていた。一同は目をこらして見た。しかし、だれも答えなかった。
「じつに簡単なものです」と、やがてエラリーが言った。「だれにも――ことに記者諸君に――わからないとは、驚きましたね。ぼくは確信をもって言いますし、あえてだれもぼくの言葉を否定しないでしょうが――この輪と曲線は、タイプライターに付いているものと思われる世界で唯一の記号の下半分にちがいありません。――そして、それは筆記体の大文字の|L《エル》に似て、縦の線をよぎって水平の横棒のある記号――言いかえれば、イギリスのポンド価を示す記号£なのです」
驚きと嘆声がざわめいた。
「そこで、いいですか、われわれは3の数字のキイの上にイギリスのポンド記号をもつレミントン・タイプライターを――むろんアメリカ製の機械ですが――さがし出せばいいことになります。アメリカのレミントン・タイプライターで、そんな外国の記号を特定のキイの上にもっているものの、数学的可能性を考えてごらんなさい――何百万分の一だろうと思います。言いかえれば、そんなキイの上のそんな記号をもっているタイプライターを見つけることができれば、二番目の脅迫状を打つのに使ったタイプライターと主張しうる、あらゆる数学的・論理的正確さをもつものと言えましょう」
エラリーは大げさな身ぶりをした。
「この前おきのような説明は、これからお話することを理解していただくための土台なのです。よく注意して聞いてください。最初の脅迫状が来る前、スローンが自殺したものと思われていた頃、ジェームス・ノックス氏と話していて、ノックス氏が、キイをひとつ直させた新品のタイプライターを持っているのを発見しました。これは偶然に知ったので、ぼくがノックス氏を訪ねている時、ノックス氏はブレットさんに命じて、新しいタイプライターに支払う小切手をつくらせていました。そして、とり代えさせたキイの、わずかばかりの代金を忘れずに加えるようにと、注意していたのです。さらに、そのころのブレットさんの話で、その機械がレミントンなのを知りました。――ブレットさんが特に話してくれたのです。しかも、それがノックス邸にある唯一のタイプライターであるのがわかりました。古い機械はぼくのいる前でノックス氏がブレットさんに命じて慈善団体に寄付させたのです。また、ブレットさんはぼくのために一連の数字のメモを打ちはじめた時、途中で打ちやめて紙を抜き出して『ナンバー』という語を書き入れなくてはならないわ、と言いました。むろん、この語勢をことさら強めたのはぼくです。それに当時、この言葉は何を意味するかぼくにはわからなかったのですが、やがて、ノックス邸にある唯一のタイプライター、レミントンには『ナンバー』の記号がないことを知る根拠になったのです。――さもなければ、どうして、ブレットさんが『ナンバー』という語を手で書き入れなければならないでしょうか――また、その言葉で、そのタイプライターの、一本のキイが取り換えられているのがわかりました。さて、この新しいタイプライターは一本のキイが取り換えられており、ナンバー記号がないとすれば、論理の必然として、その取り換えられたキイは、下段に3の数字をもつナンバー記号のあるキイでなければならないはずです。これはごく初歩的な論理です。ところで、ぼくの論拠を完全にするためには、さらにひとつだけ、事実を見つけねばなりませんでした。つまり、このとりかえられたキイが、普通『ナンバー』記号のあるはずの3の数字の上にイギリスのポンド記号があるのを見つければ、ぼくは完全な正当さをもって、このレミントンこそ、おそらく二番目の脅迫状を打つのに使われた機械だと言い得るのです。むろん、この点をたしかめるには、二番目の脅迫状を受けとったあとで、その機械のキイ盤を、ちょっと見れば事はすむのでした。まさに、ポンド記号がありました。事実、サンプスン地方検事も、ペッパー地方検事補も、クイーン警視も覚えているでしょうが、見る目さえあれば、わざわざタイプライターそのものを調べなくとも、このことがわかったはずです。なぜなら、あの時、クイーン警視はノックス氏の仕事部屋からスコットランド・ヤードに電報を出し、その電文には『十五万ポンド』という言葉があり、ブレットさんは警視の鉛筆書きの文句をタイプライターで打つ時、よく注意して見れば、『ポンド』という語は使わずに、筆記体の大文字の|L《エル》に水平の横棒がついている£記号を使っていたのです。たとえ、その機械そのものを見なくとも、ブレットさんが電文にポンド記号をタイプすることができたという事実だけで、ぼくの知っていた諸事実と照らし合わせれば、この推理が出て来るのは当然だったのです。……この証拠は、推理の根底となる証拠としては、この上の数学的確実性を望むことはできないものとして、ぼくの目に映ったのです。ゆえに、二番目の脅迫状を打つのに使われたのは、ジェームス・ノックス氏のタイプライターなのです」
新聞記者たちは最前列に陣取り、そのノートは『不思議の国のアリス』のノートのように意外なことでいっぱいだった。聞こえるのは、深い息と、鉛筆の走る音ばかりだった。エラリーは警察本部の規定と普通の作法を無視して、床にすてたたばこを足でふみにじった。
「|さて《エ》、|これで《ビアン》」と、エラリーが楽しそうに「|大分はかどりますよ《ヌ・フエゾン・デ・プログレ》。というのは、最初の脅迫状が届いた時から、ノックス氏は、いかなる種類の訪問客も、臨時雇いの弁護士ウッドラフ氏さえ、邸に出入りさせなかったことが、われわれにわかったからです。このことは、つまり、二度目の脅迫状をタイプするのに、ノックスのタイプライターを使いえた人間は、ノックス氏本人、ブレット嬢、少数のノックス邸の雇人だけだったということを意味します。さて、脅迫状は二通とも約束手形の半ぺらに書かれていたし――その手形は殺人犯人だけが持っていたはずだからして――結局、いま言ったグループの中のひとりが犯人だったということになります」
エラリーはてきぱきと論旨をすすめていったので、後部座席のあたりでおこったかすかなざわめきは――それは、実は、クイーン警視のうずくまっている席からおこったものであるのを明記しておく――みんなに気づかれずにすんだ。エラリーは自分の論旨に対する批判がましい、たまりかねたような警視の身ぶりにも、冷たい微笑を唇にうかべただけだった。
「では、関係のない者を除外してみましょう」と、エラリーはすばやく言った。「まず最初に、最後の部類の人々をとりあげます。脅迫状を書いたのはノックスの使用人のひとりであるという可能性があるでしょうか。ありません。なぜなら最初の捜査の当時、ハルキス邸にいたノックスの使用人はひとりもないからです――この正確なリストを地方検事の部下のひとりが持っています――それゆえ、ノックスの使用人たちのだれひとりとして、最初にハルキスに対し、次にスローンに対して、にせの手がかりをたくらむことはできなかったのです。このたくらみこそ、犯人の重要な特性をなすものです」
またしても後部座席から、いらだたしいざわめきがおこったが、エラリーは即座に言葉をついで、論旨をすすめた。
「ブレット嬢でありえたでしょうか――ブレットさん、ごめんなさい」と、エラリーは詫びるようにほほえんで「こんないやな話に、あなたを引き合いに出したりして。だが論理には騎士道精神のはいる余地がありませんからね。……いや、ブレットさんではありえません。なぜなら、なるほどブレットさんにはにせの手がかりがたくらまれている頃、ハルキス邸にいましたが、一方犯人たるに必要なもうひとつの条件、グリムショーの相棒にはなりえなかったからです。こんなことを考えるのが第一奇怪だと言われるでしょうが、それはさておき、われわれはどうしてブレットさんがグリムショーの相棒ではあり得ないということを知っているのか、きわめて簡単なことです」と、エラリーは中休みして、ジョアンの目に、ほっとしたらしいものを見ると、急いでつづけた。「ブレットさんは、かなり前から、そして今も、ヴィクトリア美術館の捜査係であることを、ぼくに告白しています」
エラリーがつづけようとした言葉は、思わず湧きおこった喊声《かんせい》の波に沈められた。しばらくの間、集会は、はちきれそうなさわぎに見えたが、エラリーが学校の先生のように黒板をぱんぱんたたくと、そのさわぎが鎮まった。エラリーは、非難と怒りをこめて睨みつけているサンプスンやペッパーや父親には目もくれずに、先をつづけた。
「今ぼくが話しかけたとおり、ブレットさんは、ヴィクトリア美術館に雇われている秘密捜査係であり、もともと、盗まれたレオナルドを追う目的で、ハルキス邸に住み込んだのだと、ぼくに告白しました。さて、ブレットさんが告白したのは、最初の脅迫状が届く前で、スローンの見せかけの自殺があったあとです。その時、ブレットさんはぼくに船の切符を見せました――イギリスに帰る切符を買っていたのです。帰国の理由は? 絵の行方の痕跡を見失ったと思い、自分には重荷になりすぎた捜査を、もはや打ち切ろうと考えていたからです。アメリカを去るために帰り切符を買ったことは何を意味するでしょうか。明らかに、ブレットさんは、その頃絵がどこにあるかを知らなかったということです――さもなければ、ニューヨークにとどまっていたでしょう。ブレットさんがロンドンに帰ろうとした意図こそ、絵の所在を何も知らなかった証拠です。しかも、犯人の第一の特徴は何かといえば、犯人が絵の所在を知っていたことです。――ノックス氏の所有するものであることをたしかに知っていたことです。言い換えれば、ブレットさんは犯人ではありえないし、もちろん、二番目の脅迫状の書き手でもありえません。――その点では、最初の脅迫状でも同じことです。というのは二通とも同一人によって書かれたものですからね。いいですか。ブレットさんと、使用人たちの容疑を除外すると、残るのはノックス氏だけが二番目の脅迫状を書いた者ということになり、したがってグリムショーの相棒であり、犯人だということになります。
これは条件に合うでしょうか。ノックスは犯人の特徴を満たすものです。第一に、ハルキスに対してにせの手がかりがしくまれた当時、ハルキス邸にいました。それにまた、ちょっと話がそれますが、なぜノックスは自らすすんで、自分が第三の男だったと告白して、自分の仕組んだにせの手がかりを粉砕したのでしょう――それまでは第三の男が存在しなかったと見せかけるためにあらゆる苦心を重ねてきていたのですからね。それにはそれ相当の立派な理由があるのです。ブレットさんがノックスの面前で、茶碗の話をして、第三の男が存在しないという説を、粉砕してしまったのです……そうなれば、ノックスは捜査を助けるふりをしても、失うものは何もなく、あらゆる点で利益を得ると見きわめて――つまり、その大胆な自白も、自分のみせかけの潔白を裏づけることになると思ったのです。それにノックスは、スローン事件の鋳型にもぴったりはまります。ノックスは、グリムショーと一緒にベネディクト・ホテルにはいって行くことができたし、そうすることでスローンとグリムショーが兄弟なのを知り、そこでスローンをおとし入れるきっかけになったあの匿名の手紙を、われわれに書きうる立場にいました。その上、殺人犯人だから、当然ハルキスの棺から奪った遺言状を持っていたろうし、隣りの自分の持家である空家の地下室に遺言状を残しておくこともできたろうし、スローンのたばこ壺に合鍵を入れておくこともできたでしょう。最後に、殺人犯人であるからにはグリムショーの金時計を奪って、ハルキス画廊で第二の被害者スローンを殺したあとで、スローンの背後の金庫に入れておくこともできたはずです。しかしながら、ノックスが自分宛てに手紙を書いて、絵を盗んだ者がいるかのように仕組んだのはなぜでしょうか。それにも立派な理由があるのです。ノックスは、スローン自殺説が公然と否認されて、警察がまだ犯人を追っているのを知りました。それにノックスはレオナルドを返還するように当局から圧力を加えられていました――そこで自分宛の脅迫状を書くことで、犯人がまだ大手を振って歩いてい、そいつがだれであろうと、少なくともノックスではない、つまり、だれか外部の奴が手紙を書いたと、みせかけようとしたのです。――もちろん、手紙をたぐって自分のタイプライターを突きとめられると思えば、そんな手紙は全然書かなかったでしょう。
さて、ノックスは自分から自分の絵を盗むのに、空想をおしすすめて、その架空の部外者が絵を盗むためにわざわざ警察官を邸からおびき出したように見せかけようとしたのです。前もって防犯ベルをこわしておいて、われわれがから手でタイムズ・ビルから引き上げて来た時に、そのこわれた防犯ベルによって、徒労に終わった犯人逮捕に向かっている間に絵が盗まれたことを証明しようと思ったのにちがいありません。抜け目のない計画です。なぜなら、絵が盗まれれば、当然、美術館に返還する義務は消滅しますし、今後はあらゆる点で安全に、こっそりと絵を所有していられるわけですからね」
エラリーは後部座席の方へ微笑を投げた。
「お見受けするところ、地方検事殿が、当惑と心配とで唇をかみしめておられるようですが、サンプスンさん、どうやらあなたは、ノックスの弁護士たちの弁論を気に病んでいるようですね。疑いもなく、ノックスを弁護する法曹界の大家たちの砲列は、ノックス自身の習慣的なタイプの|くせ《ヽヽ》を示す見本を持ち出して、あなたが、ノックスが自分で自分宛てに書いたものだと告発しようとしている二通の脅迫状にあらわれている|くせ《ヽヽ》のちがいを証明しようと試みるでしょう。ご心配には及びません。どんな陪審員でも、ノックスがわざわざ自分のタイプのくせ――行間のとり方、句読《くとう》、いくつかの文字をたたく時の強さなど――を変えて、この脅迫状は自分ではなく、だれか他の人間が打ったものだという架空性を強めようとしたものだと判断するにちがいありませんからね……
さて、例の二枚の絵については、二つの可能性が考えられます。ノックスが言うように、最初から持っていたのは二枚か、一枚か――ハルキスから買った一枚だけを持っていたのか、という点です。もし一枚だけ持っていたのなら、それが盗まれたというのは嘘です。というのは、ノックスが盗まれたと主張した後からぼくはあの男の邸で見つけ出したのですからね。そして、ぼくが見つけたのを見た時、ノックスはあわてて、二枚の絵の物語を持ち出して、自分が二枚ともずっと持っていたのだし、われわれが見つけたのは模写で、原画の方は謎《なぞ》の泥棒に盗み去られたと信じ込ませようとしました。これはつまり、絵を犠牲にすることで自分の罪をまぬがれようとしたのですし――まぬがれうると考えたものでしょう。一方、もし最初から二枚の絵を本当に持っていたのなら、ぼくが見つけたのが本もののレオナルドか模写かは、ノックスがどこかに隠したにちがいないもう一枚の絵を見つけ出すまでは、判定する方法がないのです。だが、現在、地方検事の手もとにある絵が、そのどちらにしても、なお、ノックスの手もとにもう一枚あるはずです――ずっと二枚持っていたものとすれば――しかし、ノックスは、その別の絵を提出するわけにはいきません。なぜなら、すでに外部の者に盗まれたと言質をとられているのですからね。サンプスンさん、もしあなたが、そのもう一枚の絵を、ノックスの邸のどこかか、または他の場所で見つけ、ノックスがそこに置いたことを立証できれば、ノックスに対する訴因は、今よりさらに、水も洩らさぬものになるでしょう」
サンプスンは、そのけわしい顔色から判断すると、エラリーの言明に対して意義をとなえたいらしかった。どうやら、訴因は水も洩らさぬどころか、ざるみたいなものだと思っているらしかった。しかし、エラリーはサンプスンが思っていることを口に出すひまも与えず、息もつかずに先をつづけた。
「これを要するに」と、エラリーは「犯人は三つのおもな条件をもっていなければなりません。第一に、ハルキスとスローンに対して不利な手がかりを仕組みうる者。第二に、脅迫状の筆者であること。第三に、二番目の脅迫状を打ちうるためにノックス邸にいなければならなかったこと。この第三の条件に含まれるのは、使用人たちと、ブレットさんと、ノックスだけです。しかし、使用人たちは前にも言ったように、第一の条件で除外されますし、ブレットさんは第二の条件で除外される、これも前に説明しました。すると、残るのはノックスひとりであり、ノックスはこの三つの条件の全部に完全に合致しますから、ノックスこそ真犯人でなければなりません」
クイーン警視が息子の堂々たる勝利の栄光に浴しているとは、どうも言い得なかった。当然おこる質問、讃辞、議論、記者連のがやがやがおさまって――記者たちの中に頭をかしげる者が、五、六人いたのは留意すべきである――やがて、クイーン父子が警視の部屋にひき上げ、神聖な四つの壁に、二人だけでとり囲まれた時、老人はそれまでじっと抑えていた胸中の感情のはけ口をみつけ、エラリーは、その不機嫌な爆風をまともにぶつけられた。ここで特筆しておくべきことは、エラリー自身は得々として栄光に包まれている若いライオンの面影を示していなかったことだ。それどころか、エラリーのほっそりした頬は長い緊張した|しわ《ヽヽ》でこわばり、目は疲れて熱っぽくなっていた。エラリーは苦そうに、次から次へとたばこを喫って、父の目を避けていた。
老人は、はっきりした強い言葉で不満をぶちまけた。
「なんたることだ」と、警視は「お前がわしの息子でなければ、ここから蹴り出してやるところだ。お前が階下の会議室でやった議論は、ばからしくって、くだらなくって、こっけいきわまる。あんなものは聞いたこともないぞ――」と、身をふるわせて「エラリー、わしの言葉をよく覚えておけよ。きっと面倒がおこるぞ。お前に対するわしの信用は――そうだ、わしの信用までひきずり下ろして。いまいましいこった。それに、サンプスンも――もちろん、ヘンリーは、ばかじゃないぞ。部屋を出て行く時、はっきり見たが――ヘンリーは今までの検事生活で一番辛い法廷闘争に直面する覚悟らしいぞ。お前の論拠は法廷では成立せんぞ、エラリー、絶対に成立せんぞ。証拠がない。動機もだ。動機がないなんて、なんたることだ。動機については何も言わなかったじゃないか。一体、なぜノックスはグリムショーを殺したのだ。たしかに、お得意の論理を吹きとばして、数学的とかなんとかこじつけてノックスを犯人に仕立てたのはお見事だった――だが、動機だ、陪審の求めるのは動機で、論理なんかじゃない」
警視は服につばをとばしながら「今にひどい目に会うだろう。刑務所にいるノックスは東部の有力な弁護士どもが弁護に当たっとる――お前のちゃちな論告なんか、スイス・チーズみたいに穴だらけにしちまうだろうよ、エラリー。すっかり穴だらけになって、まるで――」
ちょうどこの時エラリーは、きっと、からだを起こした。それまでは、警視の悪口雑言を、すわったままじっと聞いて、うなずいてさえいた。まるで、警視の言葉をかねて予期していたかのようで、歓迎するとはいえないまでも、押えることはできないと思っているようだった。ところが、今、エラリーは、きっとすわり直して、その顔にちらりとけわしい色をうかべた。
「穴だらけになるんですって? それはどういう意味ですか」
「は?」と、警視が大声で「どうやら、お前も正気づいたらしいな。このおやじをばかとでも思うのか。ヘンリー・サンプスンにはわからんかもしれんが、わしにはわかる、あいにくとな。お前にそれがわからんとすれば、よほどのばかものだぞ」と、警視はエラリーのひざをぽんとたたいて「いいか、エラリー。シャーロック・ホームズ・クイーン君。お前は使用人どもを除外する理由として、連中のだれひとりとして、にせの手がかりが仕組まれた時に、ハルキス邸にいなかったのだから、殺人犯人であるはずはないと言ったな」
「言いました」と、エラリーがゆっくり答えた。
「そうさ。結構だよ。大したもんだ。まったくわしも同意するよ。だが、わしの大事な、甚六め」と、警視は情けなさそうに「寸たらずだったよ。いいか。お前は使用人どもを片っぱしから殺人犯人から除外したが、奴らのうちのひとりが、外部の殺人犯人の共犯者だったかもしれんじゃないか。そのことをパイプにつめて、じっくり味わってみろ」
エラリーは何も言わず、ため息をして、そのままにしておいた。警視は回転椅子にどっかと腰をおろして、にがにがしげに鼻をならした。
「とんでもないばかげた手抜かりだぞ……お前ときたらなあ。お前にはほとほとあきれかえった。エル。この事件では、お前の脳味噌もくさってしまったらしい。だって、使用人のひとりが、犯人に雇われてノックスのタイプライターで二度目の脅迫状を書くこともありうる、外部の犯人は、どこかでのうのうとしとるのにな。これが正しいとはわしも言わん。だが、ノックスの弁護士どもがその点をついてくるのは必定だ。ドルとドーナッツとの賭けをしてもいい。そうなると、ノックスだけを残すまで、皆を除外していったお前の議論はどうなる。ばからしい。お前の論理なんかなっちゃないぞ」
エラリーはおとなしく同意するようにうなずいた。
「大したもんです。お父さん。本当に大したもんです。願わくば――今それに気がついているひとはだれもいないと思いたいですね」
「まあな」と、警視は気むずかしげに「ヘンリーも気づいちゃいまい。さもなければ、さっそく乗りこんで来て、思いきり、がなり立てるだろうからな。いずれにせよ、そいつは気休めにすぎん……おい、エル。お前には、わしの指摘したすき間ぐらい、ずっと前からわかりきっていたはずだぞ。なぜ、すぐ埋めようとせんのだ――手遅れになって、わしの首やヘンリーの首がとぶ前に」
「なぜ埋めないのかと訊くんですね」と、エラリーは肩をすぼめ、両手を頭上にのばした。
「あああ、くたくたですよ……そのわけを言いましょうか、くよくよしてるお先祖さま。じつに簡単な理由なんですよ――つまり、あえて埋めたくないからですよ」
警視が首を振った。「気がふれかけとるんじゃないのか」と、つぶやいた。「一体どういう料簡なんだ――あえて埋めたくないというのは? そんな理由が成り立つのか。よろしい――ノックスが犯人としよう。しかし、論拠だ、エル、論拠だよ。何かもっと決定的にたよれるやつがほしいな。いいか、わしは、お前が正しいと確信をもっている限り、お前を支持するつもりだよ」
「そりゃわかりすぎるほどわかっていますよ」と、エラリーがにこにこして「父性愛というものは格別ですね。それを越すものがひとつだけありますよ。それは父性愛です……お父さん。ぼくはさしあたり、別に改まって言うこともありませんね。でも、これだけは、はっきり言っておきますから、あまり当てにならないこととして、それ相当に値ぶみしといて下さい……このいやらしく厄介な事件の最大の山は、まだ来ていないんです」
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三十三 EYE・OPENER……大椿事
父子《おやこ》のあいだに大きなへだたりができたのは、この当時だった。警視の心理はよくわかる。心の重荷で胸の船ばたまで苦い水につかり、感情の波に洗われて、その本性がむき出しになり、ほとんど黙りこくっているエラリーの顔色のちょっとした動きにも、かっとして、いく時間も歯をむき出してかみつかずにはいられないのだった。
老人は何かがうまくいっていない感じと、その正確な指で、具体的なものを何ひとつおさえることができてない感じで、本性をまる出しにして当たりちらしていた。どなりちらし、がなり立てて部下たちの生活を耐えがたいものにしながらも、いつも、そのにくしみは、うなだれている息子の頭上にひそかに向けられていた。
その日、警視はいく度か部屋を出て行こうとした。その時だけ、エラリーは我に返って、二人のあいだに、いらだたしい、いがみ合いがおこりそうになった。
「お父さん。部屋を離れちゃいけません。ここにいなくちゃ。たのみますよ」
一度は、警視もたのみをきかずに出て行った。すると、電話にしがみついて、獲物《えもの》をねらう猟犬のように腰かけているエラリーが、緊張して、神経質になり、血が出るほど強く、唇をかみしめるのだった。
しかし出ては行ったものの、警視の決意も弱かった。それで、顔を赤くし、ぶつぶつ言いながらもどって来て、何のためかわからぬ息子の徹夜のおつき合いをするのだった。すると、すぐにエラリーの顔は明るみ、また電話のそばに陣取って、前のように緊張しながら、満足そうに、全能力を傾けて、明らかにヘラクレス的事業、待って、待って、待つ事業に打ち込むのだった……電話は単調なほど一定の時間をおいてかかってきた。だれからか、どんな電話か警視にはわからなかったが、ベルが鳴るたびに、エラリーはまるで死刑を宣告された男が、その電話で助命されでもするかのように、電話にとびついた。そして、そのたびに失望し、深刻な顔つきで聞き、うなずき、二言三言要領を得ないことを言って、受話器をかけた。
一度、警視はヴェリー部長を呼びつけた。そして、いつも頼りになる部長が、その前の晩から警察本部に何の連絡もなく、どこにいるのかだれも知らないし、細君すら部長の不在を説明できないのを知った。ただごとではない。部長の身の不吉を思って、老人の鼻がのび、あごがひきつった。しかし、警視は今までにも経験があることなので、黙っていた。それにエラリーは、自分が疑われていることにひそかな不満を抱いているらしく、父には何も説明しようとしなかった。午後のあいだグリムショー事件に関係のない問題で部下のうち何人かを呼びつける必要があったが、ひどく驚いたことには、その連中のなかのいく人か、警視が最も信頼している数人――ヘーグストローム、ピゴット、ジョンスン――らもまた、説明のつかない失踪《しっそう》をしていた。
エラリーが落ちつき払って説明した。「ヴェリーと、その連中は重要使命に就いています。ぼくの命令です」エラリーはこれ以上老人の苦悩を見ていられなかったのだ。
「お前の命令?」警視は、その言葉をほとんど大声で言うこともできなかった。むらむらと激しい怒りの雲がわき上がった。「だれかを追っとるのか」と、かろうじて言った。エラリーはうなずいたが、その目は電話に注がれていた。一時間ごと、三十分ごとに、謎の電話連絡がエラリーにはいった。警視はどうやら爆発しそうな怒りをしっかりと押さえつけていた――やがて爆発の危険もすぎて――日常の仕事に没頭していた。時が移り、エラリーは中食を仕度させ、二人は黙々と食べたが、その間も、エラリーは手を電話から離そうとしなかった。
夕食もまた警視の部屋でとった――食欲がなく、機械的で、おそろしく陰気な食事だった。二人ともスイッチをひねって灯《ひ》をつけようとも思わぬらしく、夕闇《ゆうやみ》が濃くなり、警視は腹をたてて仕事を放り出した。二人はただそこにすわりこんでいた。やがて、しめ切ったドアの中で、エラリーは以前の父親への愛情を見いだした。すると、二人のあいだに何か火花がちって、エラリーがしゃべりはじめた。エラリーは、確信をもって、早口に、まるで数時間も冷静に考えつくした心の中の結晶をさらけ出すようにしゃべった。話すにつれて警視の不機嫌な顔のくもりが消えてゆき、事件ずれのした顔に、めったにあらわれない驚きの色が、深く刻まれた|しわ《ヽヽ》のあいだから浮かんできた。警視は低い声で「信じられん。まさかそんな。そんなことが、どうして?」と、いく度もつぶやいた。
そして、エラリーが語り終わると、すぐに警視の目に、詫びるような表情が浮かんだ。それも束《つか》の間、その目がぎらつき、次の瞬間から、警視も一緒になって、それが、まるで生物ででもあるかのように、じっと電話を見守っていた。いつもの退庁時刻になると、警視は秘書を呼んで妙な指令を出した。秘書が出て行った。それから十五分も経たぬ間に、警察本部の廊下から廊下へ、クイーン警視は退庁した――本当に帰宅して、差し迫ったジェームス・J・ノックスの弁護士どもとの法廷戦に備えて英気を養っている、という噂がたちまちひろがった。
しかし、クイーン警視はまだ暗くなった部屋にエラリーと一緒にすわり込んで、警察の中央交換台に連結されている私用電話の前で待機していた。署の外では、歩道に、二人の刑事が乗り込んだ警察自動車が、エンジンをかけっぱなしにして、昼から夕方まで待機していた。同じような鉄の忍耐力で待機するよりほかに、このがらんとした灰色の石の建物の錠をおろした暗い一室にいる二人にとっては、何もすることがないようだった。
待ちに待った電話がかかってきたのは、真夜中すぎだった。クイーン父子は、腕によりをかけて、さっとばかりに行動に移った。電話はけたたましく鳴った。エラリーが受話器をひったくるようにとって、送話器に大声で「どうした?」男のがらがら声がもどってきた。
「すぐ行く」と、エラリーはどなって、受話器を置いた。「ノックスの家です、お父さん」
二人は警視の部屋をとび出し、走りながら外套《がいとう》を着た。階下に駆けおりて待機している車へ、エラリーが大声で命令すると、車も、ぱっととび出した。……黒い鼻面を北へ向けて、けたたましくサイレンを鳴らしながら、上町へ疾走した。だが、エラリーの命令で、車はリバーサイド・ドライヴのジェームス・ノックス邸へは行かずに、五十四番街――ハルキス邸と教会のある通りに、曲がって行った。サイレンは数ブロック前で鳴りをしずめた。車はタイヤの音を忍ばせて暗い通りをすすみ、音もなく歩道に停った。エラリーと警視が、すばやく、とび下りた。二人は傍目《わきめ》もふらずに、ハルキス邸の隣りのノックスの持ち家である空家の地下室の入口を包む暗闇の中にはいって行った。
二人は幽霊のように音もなく動いた。ヴェリー部長の巨大な肩が、くちた階段の下の暗がりから、ぬっと出て来た。ぱっと、懐中電灯がクイーン父子を照らすと、すぐに消えて、部長の低い声が「中です。手っとり早くやらなくっちゃ。すっかり取り囲んでいます。逃がしっこありません。早く、警視」
警視は、すっかり落ちついて、自信ありげに、うなずいた。すると、ヴェリーが、静かに地下室のドアを押しあけた。地下室の入口でちょっと立ちどまると、どこからともなく、もうひとりの男が浮かび出て来た。黙ってクイーン父子は懐中電灯を、その男から受けとり、警視がひと言いうと、ヴェリーとエラリーはハンケチで口をおさえて、三人は人気のない地下室にもぐり込んだ。
部長は明らかにこの地下室を猫のようによく知っているらしく、先に立って案内した。懐中電灯のにごった光が、かすかに闇を照らした。略奪に出かけるインディアンのように、一行は床を忍び足で横ぎり、不気味な暖炉のそばを通って、地下室から上へ出る階段をのぼった。階段のてっぺんで、部長は、また、足をとめた。そこに陣取っていたもうひとりの男と二言三言ささやき、それから黙って手招きして、先に立って階段から一階の広間の闇にはいって行った。
一行は爪先立って廊下を進み、ぴたりと、音も立てずに停った。どこか行く手の、明らかにドアと思われるものの、上下のすき間から、かすかな灯がもれていた。エラリーがヴェリー部長の腕をそっと触った。ヴェリーが大きな頭を振り向けた。エラリーが何かささやいた。するとはっきりとは見えなかったが、ヴェリーは闇の中でにやりと不敵な笑いをもらし、外套のポケットに手を突っ込み、その手は拳銃を握ってあらわれた。そして、懐中電灯でほんの足許を照らした――すると、すぐに別の黒い人影が浮かび上がり、用心しながら近づいた。その男とヴェリーが押し殺した声で話し合った。声でピゴット刑事だとわかった。出入口はみんな張り込んでいるようだった……
一行は部長の合図で、かすかな光を目がけてにじり寄った。じっと立ちどまった。ヴェリーが深く息をして、ピゴットともうひとりの刑事――ほっとりした姿で、ジョンスンとわかる――に合図して、そばに来させた。そして「行くぞ!」と、どなると、三人はヴェリーの鉄のような肩をまん中にしてドアにぶつかり、それをマッチ箱のようにはねとばし、なだれを打ってその先の部屋へとび込んだ。
エラリーと警視も、すばやくとび込んだ。一同は散開して、めいめいの懐中電灯で部屋のあちこちを照らしていたが、そのこうこうたる光は、何ものかをとらえ、その瞬間に凝固した人影に集中した――それは目指す犯人の姿で――ほこりだらけのがらんとした部屋の中央で――小さな懐中電灯の光で床にひろげた、全く同じような二枚の画布を調べているのだった。……
その同じ瞬間、あたりがしんと静まりかえった。それもつかの間、まるで嘘のように、いきなり魔の瞬間がやぶれた。覆面した人物の胸から、野獣のような、うなり、うめき、おしつぶした声がほとばしった。豹《ひょう》のようにすばやく振り向くと、白い手がさっと外套のポケットにのび、いきなり青味をおびた自動拳銃をとり出した。そして、最悪の事態がおこった。その最悪の事態は、その黒い人影が、戸口にひしめき合っている連中の中から、エラリー・クイーンの背の高い姿を、魔法のような的確さで見つけ出し、じっと猫のように睨みつけた時におこった。あっという間に拳銃の引き金を握りしめていた指をひきしめた。と同時に警官たちの拳銃も、しわぶくように火を吐いた。ヴェリー部長が、怒りで蒼白《そうはく》になった顔で急行列車のような速さで、黒い人影に突進した。……人影は紙人形のように妙な姿でくしゃくしゃと床にくずれた。
エラリー・クイーンは、かすかな驚きのうめきをあげて、目をむいたまま、父親の立ちすくんだ足もとに倒れた。
十分後には、懐中電灯の光が、さっきのさわぎとは打ってかわって、静かにその場を照らし出していた。ダンカン・フロスト医師のがっちりした姿が、ぐったりしたエラリーの上にかがみこんでいた。エラリーはほこりだらけの床にのべられた刑事たちの外套の上に横たわっていた。クイーン警視は、白い流れ雲のような顔色で、こわれやすい瀬戸もののように冷たく、気むずかしく、血の気の失せたエラリーの顔を、目ばたきもせずに医師の後から、のぞき込んでいた。だれひとりとして、部屋の中央の床にぶざまにのびているエラリーの加害者をとりまいている者さえも、ひと言も口をきかなかった。フロスト医師が首をねじ向けて言った。「へたな撃ち方だ。すぐよくなるよ。肩にちょっとかすり傷があるだけさ。そら、もう正気づいた」
警視がふーっと吐息した。エラリーがぱちぱちと目を開き、急にいたみを感じたらしく、左肩を手さぐりした。包帯がしてあった。警視が、しゃがみこんで「おい、エラリー――大丈夫か、気分はいいか」エラリーはしいて微笑した。元気をふるいおこして、いたわりのこもった手にたすけられながら、やっと立ち上がった。「ぴゅーっ」と口笛を吹き、顔をしかめて「やあ、先生。いつ来たんです?」
見まわすと、黙ってかたまり合っている刑事たちが目についた。エラリーがよろめきながら近づくと、ヴェリー部長が子供っぽく、ぶつぶつあやまりながら道をあけた。エラリーは右手でヴェリーの肩にすがり、ぐいっとかがみこんで、床にのびている死体を見下ろした。その目には勝利の色はなかった。その目は懐中電灯の光と、ほこりと、沈痛な顔色の人々と、灰黒色の影とにすっかり溶け合って、はてしない憂鬱《ゆううつ》さをたたえていた。「死んだのか」と、唇をなめながら言った。
「どてっ腹に四発くらってます」と、ヴェリーがうなるように「すっかり仏になっています」
エラリーがうなずいた。そして目を上げて、だれかが放り出したまま、ほこりだらけの床に、みすぼらしくころがっている、古く汚れた二枚の画布を見つめた。
「これで」と、にべもなくにやりとして「やっと、絵が手にはいった」と言い、ふたたび死体を見下ろして「運が悪かったな。じつに運が悪かったよ、君。常勝ナポレオンみたいに、最後のどたん場に来て負けたね」
エラリーはしばらく死人の目を見つめてから、ちょっと身ぶるいして振り向くと警視がそばに立っていた。小柄な老人はやつれた目で息子を見守っていた。
エラリーが弱々しく微笑して「ところで、お父さん、気の毒なノックス老をもう釈放していいですよ。あのひとはすすんで犠牲者になって、目的を達したんです。……あなたの星は、ほこりまみれになって、ノックスの空家の床にのびています。この事件全体を通じての|ひとり《ヽヽヽ》狼でした――ゆすりで、たたきで、殺しで。……」
みんなが死人を見下ろした。まるで目が見えるかのように一同を見返している床の上の死人は――実際、そのもの凄い顔には、兇悪なふてぶてしい冷笑が浮かんでいた――地方検事補ペッパーだった。
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三十四 NUCLEUS……核心
「いっこうかまわないよ、シェニー君」と、エラリーが「君だって適当な説明を聞く権利があるさ――君は、もちろん、また――」言いかけたが、その時ベルがなったので、エラリーはやめ、ジューナがドアへ走って行った。居間の戸口にジョアン・ブレットが姿を現わした。アラン・シェニーは思いがけずブレットが現われたのを見ておどろいたが、ジョアンの方でもシェニーを見て驚いているようだった。アランは立ち上がると、クイーン家のすばらしい|くるみ《ヽヽヽ》材のウィンザー型椅子の曲がった背をつかみ、ジョアンの方は急に何かよりかかりがいるかのように戸口の柱につかまった。これでいいと、エラリー・クイーンは左肩を包帯でくるみ、ねそべっていたソファから立ち上がりながら思った――これでうまく片づいたと。……少し青ざめてはいたが、何週間ぶりかで、明るい顔色をしていた。エラリーと一緒に立ち上がった三人は――妙にきまりの悪そうな父親と、その前の晩のひどい驚きがまださめやらぬ地方検事と、ちょっとばかりぶち込まれたことなど屁でもないと言いたげな、青白い顔の不敵な殿様、ジェームス・J・ノックス氏で――この三人の紳士はていねいにおじぎしたが、戸口の若い女性はにこりともしなかった。彼女と同じようにうっとりと椅子によりかかって立ったまま身動きもしない青年によって、催眠術をかけられたかのように、ジョアンもシェニーもしびれていた。
やがてジョアンの青い目がゆらぎ、エラリーの目のほほえみを探り当てた。「思いちがいでしたでしょうか……あなたのお言葉で――」
エラリーはジョアンのそばへ行き、しっかりと腕をとって、深い椅子に案内した。ジョアンはひどく困ったように腰を下ろした。
「思いちがい――ぼくの言葉で……何でしょうか、ブレットさん」
ジョアンはエラリーの左肩をちらっと見て「まあ、おけがなさったのね」と、叫んだ。
「それに対しては」と、エラリーが「輝かしい英雄の受け言葉でお答えしますよ。『こんなもの、かすり傷です』すわり給え、シェニー君」シェニー君が腰を下ろした。
「さあ」と、サンプスンが待ちきれずに「ほかの連中のことは知らんが、君はたしかに、わしに説明する義務があるよ。エラリー君」
エラリーはまたソファにねそべり、毛布にくるまって、片手でやっとたばこに火をつけた。「さあ、みんな楽にしましょう」と言って、ジェームス・ノックス氏と目を見合わせ、いたずらっぽく、こっそりとほほえみ合った。「説明――むろんしますよ」
エラリーが話し始めた。それから三十分ほど、ポップコーンのようにエラリーの言葉が、はじけつづけるあいだ、アランとジョアンは手を握り合ってすわっていて、互いに一度も顔を見合わせなかった。
「四番目の解答――四つの解答がありましたね」と、エラリーが始めた。「ハルキス犯人説では、ペッパーがぼくの鼻面をつかんでひきまわしましたよ。スローン犯人説では、ペッパーとぼくとで、両方お手上げになったと言えますね。その説を一度も信じてはいなかったが、スイザがあの話をもってくるまで、その不信を証明する手がなかったのです。ノックス犯人説では、ペッパーの鼻面をつかんでひきまわしてやりました――そこまでは対《たい》だったのはわかるでしょう。それからペッパー犯人説――これが本筋で――四番目に来るやつで、あなた方がびっくり仰天している最終解決なんですが、実は、あの気の毒なペッパー君にはふたたび見ることができない、かくかくたる日光のように、はっきりしたことなんですよ。……」と、エラリーは、しばらく口をつぐんだ。
「見たところ信望の厚い青年地方検事補が、この一連の犯罪の主犯として、豊かな想像力とこの上もない無頓着さで、犯行を重ねたことの意外さには、どうやって、なぜ、そんなことやったのかということがわからなければ、たしかに面食わざるをえないでしょう。しかし、ペッパー君も、ぼくのおなじみの情け容赦のない仲間である論理、つまり、ギリシア語でいうロゴスというやつにひっかかったのであり、多くの陰謀家たちと同じような破滅が来たのだと、ぼくは信じます」
エラリーは若いジューナがきれいに掃除《そうじ》しておく敷物に、たばこの灰をまきちらした。
「さて、白状しますが、事件の中心がドライヴにある広大なノックス邸に移るまで――脅迫状や絵の盗難ですが――そういった出来事がおこるまでは、犯人がどこにいるか、てんで見当がつきませんでした。言葉を換えて言えば、もしペッパーがスローンを殺しただけで手をひけば、うまく逃げられたはずです。だが、この犯罪においても、他のもっとつまらない犯罪と同じように、犯人は自分の食欲の犠牲になってしまったのです。そして、ペッパーは自分の手で結局は自分を捕りこにする網をあんだのです。
こんなわけで、ドライヴのノックス邸での一連の出来事が重要なのですから、そこから話しましょう。みなさんは、昨日の朝、ぼくが犯人たる者の主要な資格を数え上げたのを覚えているでしょうね。必要な点ですから、もう一度、その資格を繰り返してみます。第一に、犯人はハルキスとスローンに対して不利な手がかりを仕組みうるものでなければならない。第二に、犯人は脅迫状の筆者でなければならない。第三に、犯人は二度目の脅迫状をタイプするために、ノックス邸にいなくてはならない」と、エラリーは微笑した。
「ところで、この最後の条件は、ぼくが昨日の朝、大まかに説明した限りでは誤解を招くものでしたが――あとで理由を明らかにするつもりで、わざとああしたのです。ぼくが警察本部で、あの愉快なちょっと間違っている説明をしたあとで、俊敏な父は、個人的にぼくの『間違い』の点を指摘しました。ぼくがノックス邸の一員という意味で『ノックス邸にいる』という文句を使ったのは、わざとそれを択んだので、『ノックス邸にいる』という文句は明らかに、もっと広く解釈される言葉なのです。なぜなら、『ノックス邸にいる』というのは、ノックスの家族であろうとなかろうと、だれにでも言えることなので、言いかえれば、二番目の脅迫状をたたいた人物は必ずしもノックス邸に住み込んでいる者のひとりでなければならないと言うわけではなく、ノックス邸に近づくことのできた部外者でもよかったわけです。このことを覚えておいて下さい。
したがって、まずこの問題から始めてみましょう。つまり、二番目の脅迫状は諸般の情況からみて、それを書いた時にノックス邸にいた何者かにちがいなく、その何者かが犯人だという命題です。しかし、わが聡明な父は、これまた必ずしも真実ではないと指摘しました。父が言うには、脅迫状の筆者が犯人の共犯者であり、おそらく犯人に雇われて手紙を書き、その間犯人自身はノックス邸に近づかずにいたのではあるまいかというのです。むろん、これは、犯人が堂々とノックス邸に近づけなかったことを意味するもので、さもなければ犯人は自分の手で手紙をタイプしたでしょう。……父の質問は、鋭敏、適切なものですが――昨日の朝、僕がわざとそれを取り上げなかったのは、取り上げるとペッパーをひっかけるという目的にそむくからでした。よろしいですか。
ところで、もし犯人がノックス邸の中に共犯者を持ち得なかったということが証明できれば、犯人は二番目の脅迫状をみずからタイプしたことになり、タイプした時に、ノックス氏の仕事部屋にいたことになります。しかしながら、この事件に共犯者がなかったことを証明するには、まず、ノックス氏自身の潔白を証明しなければなりません。さもないと、論理的課題が解決できません」
エラリーはのんびりとたばこの煙を吐いた。
「ノックス氏の潔白は至極簡単に立証できます。あなた方には意外でしょうがね。しかし、こっけいなほど明白なのです。世界じゅうで、たった三人、ノックス氏と、ブレット嬢とぼくと、だけが知っているひとつの事実によって立証されるのです。したがって、ペッパーは――いずれわかるでしょうが――この大事な事実を知らなかったので、あの男の再三の計画に、最初の誤算をおかしたのです。
その事実というのは、ギルバート・スローンが一般から犯人と見られていた頃、ノックス氏は自らすすんで――この点に注意して下さい――ブレットさんのいる前で、グリムショーと一緒にハルキスを訪ねた晩、ハルキスがこのひと――ノックス氏――から千ドルを借りて、ゆすりの前払いとしてグリムショーに払ったと、言いました。このひと、ノックスさんは、グリムショーがその札をひったくるようにとって、折りたたんで自分の懐中時計のふたの裏に入れるのを見たし、その札を時計のふたの裏に入れたままで、グリムショーがハルキスの家を出て行ったのを見たと言いました。
ノックス氏とぼくがすぐ警察本部へ行ってみると、その札は時計の裏にそっくりしていて――まさに同じ札でした。というのは、ぼくはすぐに調べてみて、その札はノックス氏の言うとおり、ハルキスの家に行った当日銀行からひき出されたものであるのがわかりました。
さて、この千ドル札を辿ればノックス氏に行きつくという事実は、ノックス氏には他のだれよりもよくわかることですから、もし、ノックス氏がグリムショーを殺《や》ったとすれば、あらゆる手を使ってその札が警察の手におちないようにしたはずだということになります。実際そうすることはやさしいことで、もし、この人がグリムショーを絞めたのなら、グリムショーが札を持っていることも、その札の在処《ありか》も、はっきりわかっていたのだから、その時その場で、懐中時計から札を奪ったでしょう。もしまた、少しでも犯人と関係がある――共犯者――とするなら、その懐中時計がしばらく犯人の手中にあったのだから、何とかして札を抜き出そうと工夫したはずです。ところが、問題の札は、警察本部で見た時、まだちゃんと時計のふたの中にあったのです。
さて、もしノックス氏が犯人なら、今、言ったとおり、札を抜きとらなかったのは、なぜでしょうか。事実、札を抜きとらなかったことは、しばらくおいておくとしても、なぜノックス氏は自分の自由意志で札の在処《ありか》をぼくに告げたのでしょう――当時のぼくは、他の法の代表者どもと同じく、その札の存在すらまるっきり知らなかったのですからね。わかるでしょうが、ノックス氏の行動は、もし犯人か共犯者としたら当然そうするだろうと思われることと、まるで矛盾するので、あの時、ぼくは『そうだ。たとえ犯人がどこにいるとしても、たしかに、ジェームス・ノックスの線ではない』と思わざるをえなかったのです」
「そりゃ、運がよかった」と、ノックスが、しわがれ声で言った。
「しかし」と、エラリーがつづけた。「当時のぼくにとっては、それは消極的な発見であって、大した意味もないと思っていましたから、そこから、どんなふうに結論がひき出されたかを見ていただきましょう。というのは、あの脅迫状を書き得たのは、犯人か、もしいるとすればその共犯者だけなのですからね――というのは脅迫状は約束手形の半分にタイプしてあったのですからね。もしノックス氏が犯人でも共犯者でもないとすると、昨日ぼくがポンド記号の推理によって指摘したように、ノックス氏のものである特徴のあるタイプライターで打ってあるという事実があるとしても、氏があの脅迫状を書くはずがありません。したがって――おどろくべきことですが――二番目の脅迫状をたたいた男は、わざわざノックス氏の機械を使ったということになるじゃありませんか。とするとその目的は? つまり、3の字の打ち損じとポンド記号の暗示を残すことによって――今になってみれば、むろんその目的のために残されたものなのは明らかですが――そうすることで、ノックス氏のタイプライターが割り出され、したがってノックス氏が脅迫状を書いた人物であり、真犯人であるかのように見せかけるつもりだったにちがいありません。これまたひとつの陰謀――つまり三度目の陰謀です。初めの二つ、ゲオルグ・ハルキスとギルバート・スローンに対する陰謀は失敗しました」
エラリーは八の字をよせて考え込んだ。
「ここでわれわれはいっそう尖鋭な推理にはいりますよ。いいですか。真犯人がジェームス・ノックス氏を殺しと盗みの容疑者におとし入れようとしたからには、ジェームス・ノックス氏を警察が容疑者とする可能性があるものと考えたにちがいないことは明らかです。警察がジェームス・ノックス氏を犯人として受けとらないのを知っていれば、氏を犯人に仕立てようとすることは、真犯人にとってはばかげきったことですからね。したがって、真犯人は千ドル札のいきさつを知らなかったにちがいない、というのは、もし知っていればノックス氏をおとし入れようとはしなかったでしょう。
さて、ここで、いまひとりの人物を数学的な可能性として容疑者から確実に除外することができました。主として、その女性がヴィクトリア美術館に信任されている捜査員だという事実によるのですが――むろん、この事実が必ずしも容疑を解くものではありません。けれど、潔白を信じていい材料にはなります。それはここにいる美しいお嬢さんで、ますます頬を赤くしておられるようにお見受けする――ブレットさんですが、ブレットさんはノックス氏がぼくに千ドル札の話をしている時に、その場にいたのですから、もし犯人か、その共犯者だとしたら、ノックス氏をおとし入れたり、犯人にノックス氏をおとし入れさせるようなまねはしないはずです」
ジョアンはこれを聞いて胸を張ってから、弱々しく微笑して、また腰を沈めた。アラン・シェニーがウィンクした。そして足許の敷物に目をおとして、若い骨董商人が厳密に吟味する値打があるものであるかのように、じっと見つめていた。
「したがって――結局のところ」と、エラリーがつづけた。「二番目の脅迫状をタイプしえた人物の中から、ノックス氏とブレットさんの二人を除外しました。同時にこれは犯人からも共犯者からも除外したことになります。さて、こうしてみると、あとに残る、ノックスさんの家庭の正規の構成員――使用人たち――の中に、犯人自身がふくまれているでしょうか。いません。というのは、ノックス家の使用人たちのどのひとりも、ハルキス邸で、ハルキスやスローンに不利なにせの手がかりを仕組むことは物理的にできなかったからです。――ハルキスの家を訪ねた者のリストが克明にとってありますが、どこにも、ノックス氏の使用人たちは、だれひとり出て来ません。一方、ノックス氏の使用人のひとりが、ただノックス氏のタイプライターに近づけるというだけのことで、外部の犯人の共犯者に使われた可能性があるでしょうか」
エラリーは微笑した。
「ありません、それは証明できます。ノックス氏のタイプライターが氏をおとし入れるために使われたという事実が、そのタイプライターを使うことは犯人の最初からのもくろみだったことを示しています。つまり、ノックス氏に不利なただ一つの具体的な証拠を残そうと思った犯人のもくろみは、二番目の脅迫状がノックス氏のタイプライターでたたいたものとして発見されることにあったのです。この点が陰謀計画の要《かなめ》だったのです。(注意していただきたいのは、犯人がノックス氏をおとし入れる方法を前もってはっきり考えていなかったとしても、少なくともあのタイプライターの特殊性を利用しようとしていたという点です)さて、そこで、タイプライターを使ってノックス氏をおとし入れるからには、脅迫状は二通ともあのタイプライターで打った方が、犯人にとっては明らかに有利になるはずです。しかし、二番目の脅迫状だけがあの機械でタイプされた――最初のはノックス邸の外で、アンダーウッドの機械でタイプされたというのは、ノックス邸にはレミントンの機械がただ一台しかなかったからです。……したがって、犯人が最初の脅迫状をたたくのにノックス氏のレミントンが使えなかったということは、明らかに、犯人は最初の脅迫状をたたくために、ノックス氏の機械に近づけなかったことを示します。しかし、使用人はみんなノックス氏の機械に近づいて、最初の脅迫状をたたくことができた――実際、みんなは少なくとも五年以上、ノックス氏と一緒に暮していたのです。したがって、使用人のひとりが犯人の共犯者であったはずはないので、さもなければ犯人はその男を使ってノックス氏の機械で最初の脅迫状もタイプさせたでしょうからね。しかし、これだけのことで、ノックス氏、ブレットさん、使用人全員を犯人または共犯者から除外できるでしょうか。しかも、二番目の脅迫状はノックス氏の邸でたたかれたのだから、とても、そんなことのできるわけがありません」
エラリーはたばこを火に投げ込んだ。
「われわれはいまや、脅迫状を書いた男が、どうやって二番目のをノックスの仕事部屋で書きえたかは別として――最初のを書いたときにはノックス氏の仕事部屋――もしくは邸――にいなかったことを知りました。――さもなければ最初の脅迫状にも、レミントン・タイプライターを使ったでしょうからね。それに、最初の脅迫状を受けとってから以後、ノックス邸に外部の者はだれも近づけなかったことはわかっています――つまり、ただひとりの外部の人物以外はね。
さて、最初の脅迫状は邸の外からで、だれにでも書くことができたのは事実ですが、二番目の脅迫状を書けたのはただひとりの人物――つまり、二番目の脅迫状を受取る前に、あの邸に近づきえたただひとりの人物です。さあこれで、さらに別の点がひとつはっきりしたことになります。ぼくはずっと疑問にしていたのですが、一体、あの最初の脅迫状は、やはり必要だったんでしょうか。あの文句はあまりにも饒舌《じょうぜつ》であり、全然、役に立たないように思えます。脅迫者というものは、普通、最初の手紙で、痛撃を加えるものです――奴らは、まわりくどく、冗談まじりの文句など書きならべる手間ひまはかけません。最初の手紙で|ゆすり《ヽヽヽ》だという自分の立場を説明してから、二度目の手紙で金を要求するなどというまねはしません。そこで、犯人の行動を心理的にずばりと解いてみましょう。あの最初の脅迫状は犯人にとっては是非とも必要なものだったのだし、たしかにある目的の役に立ったのです。何の目的か? もちろん、ノックス邸に近づくためだったのです。なぜノックス邸に近づきたがったのか? ノックス氏の機械で二番目の脅迫状をたたけるようになりたかったからです。これで、筋が通ります。……
ところで、最初の脅迫状と二度目のを受取る間に、ノックス邸にはいり込めたただひとりの人物はだれでしょうか。それがわかった時、いかにも不思議に見え、信じがたく、異常なことのようでしたが、その訪問者がわれわれの同僚であり、われわれの捜査仲間――手っとり早く言えば、地方検事補ペッパーだった事実に、ぼくは目を覆うことができなかったのです。ペッパーは(みなさんもすぐ思い出されるでしょうが、自分から言い出して)二番目の脅迫状を待つという表向きの目的でノックス邸に数日間いたのです。
頭がいい。じつに巧妙なやり口です。ぼくが最初、それに反発したのは当然です――どうしても信じられなかったのです。そんなことはありえないように思われました。しかし、この発見は、ぼくにとっては予想外のことであり、ことにペッパーを容疑者として考えたのは初めてだったので、とても驚きました」と、エラリーがつづけた。
「筋道は、はっきりしていました。ぼくには、ただ理性の結果を感情的に信じられないという理由だけでは――もはや単なる容疑者ではなく、論理的には犯人となっている――容疑者を捨て去ることはできませんでした。ぼくはやむを得ず調べました。事件全体を発端から調べてみて、どんなふうに、ペッパーが事実に合致するかを検討したのです。ところが、ペッパーは、五年前にグリムショーを弁護した男だと、すすんで確認しています。むろん、ペッパーを犯人としてみれば、うまく先手を打つためにもそうしたもので、あの男が犠牲者を確認する機会がありながら、確認しなかったとなると、あとで万一、あの男と犠牲者との関係がわかった時にうまくないからです。これは、小さな点で、決定的なものではありませんが、ともかく意味深長です。おそらく二人の結びつきは少なくとも五年前、弁護士と依頼人の関係で始まったのでしょう。グリムショーはヴィクトリア美術館からあの絵を盗み出してからペッパーのもとに来て、おそらく自分、グリムショーが刑務所に行っているあいだ、絵を見張っていてくれと頼み込んだのでしょう。その間、絵は代金未払いのままで、ハルキスのものになっていたのです。グリムショーは出所するとすぐ、むろん、ハルキスのところへ集金に行ったはずです。その黒幕がペッパーだったことは疑う余地もありませんし、その後につづくすべての事件の黒幕として、自分はいつも正体をかくして舞台裏にいたのです。グリムショーとペッパーの関係については、ペッパーの以前の法律事務の協力者、ジョーダンを調べれば明らかになるかもしれませんよ。おそらくジョーダンは全く潔白な男でしょうがね」
「その男ならもう調べてある」と、サンプスンが「あれは評判のいい弁護士だ」
「そうでしょうね」と、エラリーがむぞうさに「ペッパーは、公然と悪党と手を組むようなまねはしないでしょうからね――ペッパーはそんな男じゃない……しかし、われわれは確証をつかまねばなりません。ペッパーがグリムショーを絞殺した犯人と考えた場合、動機の問題はどうなるでしょうか。……
あの金曜日の夜、ノックス氏とハルキスとグリムショーが会った後、グリムショーが持参人払いの約束手形を受けとってから、ノックス氏はグリムショーと一緒に外へ出て、別れて家へ帰られましたが、一方、グリムショーは居残って家の前に立って待っていました。なぜか? おそらく奴の同類と会うためだった――これはグリムショーが『ただひとりの相棒』について自供していることから考えても、とっぴな結論ではないでしょう。その時、ペッパーは付近で、グリムショーを待っていたはずです。二人はものかげにはいって、グリムショーがハルキスの家の中での一部始終をペッパーに話したにちがいありません。ペッパーは、もはやグリムショーを必要としないばかりでなく、自分にとって危険にさえなったことをさとり、グリムショーを片づければノックス氏からまき上げる分取り金を分けないでもすむと思い――その時、相棒を消す気になったにちがいありません。その上、約束手形が動機を加えたでしょう。持参人払いだったし、当時はご存知のようにハルキスがまだ生存中だったから、あの約束手形を持っている者は、五十万ドルの現金を持っているのと同じだったわけです。更に、ハルキスの後ろにいるジェームス・J・ノックス氏も後日のゆすりの種にできるわけです。おそらく、ペッパーは、ハルキス邸のとなりの空家の地下室の入口のものかげか、地下室の中でグリムショーを殺したもので、そのために前もって合鍵を用意していたにちがいありません。
とにかく、グリムショーの死体を地下室に持ちこんで、死体を隠し、あの約束手形とグリムショーの懐中時計を奪い取った(その金時計は後で、どこかで、にせの手がかりとして使うつもりだったのでしょう)それに、あの前の晩、スローンが、町を出て行くようにとグリムショーに与えた五千ドルも奪ったでしょう。
グリムショーを絞殺した時、ペッパーは死体の処置については、何かの計画を考えていたにちがいありません。あるいは、地下室に永久に置きっぱなしにするつもりだったかもしれません。ところが、その翌朝、ハルキスが急死したので、ペッパーは、すぐに、ハルキスの棺にグリムショーの死体を埋める絶好のチャンスと思ったにちがいないのです。そこへ、運よくも、ハルキスの埋葬の日、ウッドラフが自分で地方検事局を呼び出して援助を求めてきたので、ペッパーはすすんで――サンプスンさん、あなたがいつかペッパーがブレットさんに関心をもちすぎるとたしなめられた時に、ご自分でそのことを言っていたんですよ――遺言状をさがす役目を買って出たのです。これまた、ペッパー君の心理の動きを示す、もうひとつの証拠です。
さて、ハルキスの家に堂々と出入りできるようになると、ペッパーにとって事は至極簡単だったでしょう。葬式のすんだ水曜日の夜、ペッパーは、ノックスの空家の地下室の古トランクに詰めこんでおいたグリムショーの死体をひっぱり出して、暗い中庭を通り、真暗な墓地に運び入れ、納骨堂の上の地を掘り、納骨堂の上ぶたをあげて、中にとび下りてハルキスの棺をひらいた――そしてすぐに鉄の手提金庫にはいっている遺言状を見つけました。それまでは、おそらくペッパー自身も遺言状の在処《ありか》を知らなかったでしょう。
ペッパーはその遺言状が、後日、今回の悲劇のもうひとりの人物スローンをゆする種として役に立つかもしれないと考えた――スローンは、遺言状を盗んで、葬式の前に棺に入れておくという動機をまず第一にもつ唯一の人物と見えましたからね――そこで、ペッパーは、もうひとつの有力なゆすりの武器だと思って、遺言状を着服したにちがいありません。それから、グリムショーの死体をハルキスの棺に詰込み、棺のふたをして、納骨堂からはい出し、納骨堂のふたをおろし、穴を埋めもどし、使った道具と遺言状と手提金庫を持って、墓地を去ったのです。
偶然にも、ペッパー犯人説には、もうひとつ、ちょっとした裏付けがあります。というのは、ペッパーが自分でわれわれに言ったのですが、あの晩――水曜日の深夜――ブレットさんがハルキスの書斎に忍びこんでうろつきまわっているのを見たというのです。すると、ペッパーはあの晩、おそくまで起きていたことを自認したわけで、ブレットさんが書斎を出て行ったあと、あのいまわしい埋葬工事をやりに行ったものと推察してもあながちこじつけではないでしょう。
そこで、あの晩、スローンが墓地にはいるのを見たというヴリーランド夫人の話も、筋が通るわけです。スローンはペッパーの家の中での行動が疑わしいのに気づいて、あとをつけて、ペッパーのしたことを全部見た――死体の埋葬から遺言状の着服まで――そして、ペッパーが殺人犯人だと知った……しかしながら、殺された人間については、暗かったので、スローンにはわからなかったでしょうね」
ジョアンが身ぶるいして「あの――あの立派な方が。そんなこととても信じられませんわ」
エラリーが真面目な口調で「これは、あなたにとって大事な教訓ですよ。あなたが確実だと信じるものを、しっかり掴んで放さないようになさいよ……。どこまで話しましたっけ。そう、そう。さて、ペッパーは自分は絶対に安全だと思いました。死体は埋めてしまったし、だれも棺を調べてみる理由をもっているはずがないと。ところが、その次の日、遺言状がハルキスの死体にまぎれ込んだかもしれないから墓を掘り起こしてみるようにぼくが提案したので、ペッパーはきわめて迅速に頭を働かせたにちがいありません。今度は墓地へ行って再び死体を取り出さない限り、殺人のばれるのを防ぐ方法がないし、その場合はもう一度改めて死体を始末する問題を考えなければならなくなって、どちらにしても危険な仕事です。
一方、殺人の発見をうまく利用できないでもありません。そこでペッパーはハルキスの家に駆けつけて、故人――ハルキス――が殺人犯人であると思わせるような手がかりをわざと残しました。ペッパーはぼく特有の推理法の型を知っていて、わざわざぼくを手玉にとろうとした――ぼくにはきっと気がつくだろうが、他の連中には、はっきりしない巧妙な手がかりを残したのです。
ペッパーが、なぜハルキスを『殺人犯人』に択んだかについては、おそらく二つの理由があります。第一は、それがぼくの想像力に訴えるにちがいない解答だと考えたことです。第二は、ハルキスは死人だから、ペッパーの仕組む|にせ《ヽヽ》手がかりが暗示するものを、何ひとつ否定できないこと、にあったのです。その上、更にうまいことには――もしハルキス犯人説が受け入れられれば、生きている者は、だれひとりぬれぎぬをこうむらないわけです。ペッパーが殺人に無感覚になっている常習殺人犯人でないからこんなことを考えたという点に留意して下さい。
さて、初めに指摘したように、ペッパーはノックス氏が盗品の絵を持っているので、沈黙を守らざるをえないこと、あの夜の三人目の人物であったことを認めるわけにいかない立場にあること、を知らない限り、ハルキスをおとし入れるにせ手がかりを仕組むわけにはいかなかった――というのは、ペッパーのハルキスを不利にするにせ手がかりは、あの晩、ハルキスの家での交渉に立ち合った人間は二人きりだったと思わせることを土台にしていたからです。
ところで、ノックス氏が絵を所有しているのを知っていたからには、前にいく度も言ったとおり、ペッパーはグリムショーの相棒だったにちがいないし、したがって、大ぜいの訪問客があったあの夜、グリムショーについてホテルの部屋にはいった謎の人物だったにちがいないのです。
ブレットさんが、お茶碗のくいちがいの点を思い出して指摘して、はからずもハルキス犯人説があぶくみたいにけしとんだ時、ペッパーは、ひどくがっかりしたことでしょう。しかし、それと同時に、自分の計画のあやまちではないと自らなぐさめたことでしょう――ペッパーが、茶碗に細工するチャンスをつかむ前に、だれかが茶碗の元の状態に気づいていたかもしれないという、万一の可能性は、常に存在していたわけですからね。
ところが、思いもかけず、ノックス氏が、自分がハルキスと交渉した夜の三人目の人物だったと、すすんで告白した時、ペッパーは自分の企てが全部こわされ、その上、すべての手がかりが、わざと見つかるように残したにせものであるのに、ぼくが気づいたと悟ったでしょう。
そこでペッパーは、それまでぼくが知っていることは何でも、いつも前もって知っていたという優位に立っていたのだから、――ぼくが得意になって、しゃべりまくり、要するに、自分の愚かさをさらけ出している時、ペッパーはさぞ肚《はら》の底でせせら笑っていたことでしょう。――その時ペッパーは、すぐに自分の独特な優位を利用して、ぼくが開陳した理論を次々に展開するような出来事をでっち上げようと決心したにちがいありません。ハルキスが死んだので、自分の持っている約束手形が無効になったのを、ペッパーはさとりました。ではほかに、どんな収入源が残っていたでしょうか。ペッパーには盗品の絵を所有していることを種にノックスをゆすることもできなくなった。というのは、ノックス氏が思いもかけず警察に絵の話をしたので、ペッパーの思わくはすっかりはずれてしまったからです。事実、ノックス氏はあの絵が模写で大して値打がないと言いましたが、ペッパーはあえてその言葉を信じようとせず、ノックス氏がうまく自分を守ろうとしているだけだと思い込んだのです――事実、あなたもそうだったようですね。そこで抜け目なく、ペッパーはてっきりあなたが嘘をついているものとみたのです」
ノックスがうなった。口もきけないほど心苦しそうだった。
「ともかく」と、エラリーはものやわらかにつづけた。「ペッパーに残された唯一の収入源は、結局、ノックス氏からレオナルドを盗むことだけでした。ペッパーは、ノックス氏がレオナルドを持っていて、それが模写でないと確信していました。ところが、絵を盗み出すには、まず邪魔者を取り除いておく必要があった。当時、警官がいたるところで、殺人犯人をさがしまわっていたのです。
そこでおこったのがスローン事件です。なぜ、ペッパーは二番目の案山子《かかし》としてスローンを択んだのでしょうか。今ではこの質問に十分答えうる事実と参考資料があります。事実、前に一度、その問題にふれたことがありますよ、お父さん――あの晩のことを覚えていますか」
老人はだまって、うなずいた。
「もしスローンが、墓地でペッパーを見かけて、グリムショー殺しの犯人だとさとったとしたら、スローンはペッパーの犯罪を知っていたわけです。しかし、スローンがそれに気づいたことが、どうしてペッパーにわかったのでしょう。それはです。スローンはペッパーが棺から遺言状を取り出すのを見たのです。よしんば実際には見なかったとしても、あとで、墓があばかれて棺が開かれた時、手提金庫もろとも遺言状がなくなっていた事実から、そのことを推測できたのです。スローンは遺言状の廃棄を望んでいましたから、ペッパーに会いに行き、人殺しの罪を責めて、黙っている代りに遺言状をよこせと要求しました。身の安全をひどくおびやかされたペッパーは、スローンと取引きしたにちがいありません。つまり、スローンの口を封じておく武器として遺言状は自分で管理することにしたのです。しかし、心中ひそかに、自分の犯罪の唯一の生きている目撃者であるスローンを、取り除こうと考えたにちがいありません。
そこでペッパーはスローンの『自殺』の細工をして、スローンがグリムショー殺しの犯人だったように見せかけました。スローンはどこから見ても、すべての動機にぴたりと合います。そこで、もえ残りの遺言状を地下室に置き、地下室の鍵をスローンの部屋に持ち込み、グリムショーの懐中時計をスローンの壁金庫に入れて、ペッパーは犠牲者に不利な見事な証跡をでっち上げたのです。ついでですが、お父さん、あなたの部下のリッター刑事が、ノックス氏の空家の暖炉の中にあった遺言状のもえ残りを『見落した』のは、あの男の手落ちではありませんよ。というのは、リッターが調べた時には、あのもえ残りの紙片はあそこにはなかったのですからね。あのあとでペッパーが遺言状をもやし、ハルキス自筆のアルバート・グリムショーの名前をわざと焼かないで残すようにして、リッターが捜査したしばらくあとで、その灰ともえ残りを暖炉に入れておいたのです。……
スローンを殺すのに使ったスローンの拳銃は、疑いもなくペッパーが、ハルキスの家のスローンの部屋から持ち出したもので、その時、地下室の鍵をスローンのたばこ壺の中に突っ込んだのでしょう。こんなわけで、ペッパーはスローンの口を封じるために殺さなければならなかったのです。と同時に、『なぜスローンは自殺したのか?』と、警察が疑うことを知っていました。それには、スローンが、地下室で発見された手がかりによって逮捕されそうだということを知った、とするのが、一番もっともらしい理由になるわけです。そこで、ペッパーは考えたのです。スローンは自分が逮捕されるのをどうして知ったかを、警察では、おそらく追及するだろう。そうだ、スローンが警告されたことにすればいい。おそらくペッパーはそんなふうに考えただろうとは、みなさんにもわかるでしょう。スローンが警告されたと推測される証跡を残すのにはどうしたらいいか。じつに簡単です。ここで、スローンが自殺した夜、ハルキス邸からかかってきたことが判明した謎の電話にぶつかるのです。
皆さんもおぼえているでしょうね――スローンがわれわれの意図を耳打ちされたものと信じる根拠になったあの電話を。それに、あの時ペッパーが、われわれの目の前で、ウッドラフに電話をかけて、もえ残りの遺言状の真偽をたしかめるために会いたいと申し込みかけたのを、覚えていますか。ペッパーは、しばらくしてから受話器をかけて、話し中だと言い、やがて再びダイヤルをまわし、今度は、実際にウッドラフの召使と話しました。いいですか、ペッパーは第一回目には、ただハルキス画廊の番号をまわしたのです。あとで電話がどこからかかったかをつきとめられるのを知っていてやった仕事で、ペッパーの計画はじつに抜かりなかったのです。だからスローンが電話を受けると、ペッパーはひと言も言わずに受話器をもどして、電話を切るだけでよかったのです。スローンは狐《きつね》につままれたようだったでしょう。だが、ハルキス邸から画廊へ電話がかかったという事実をつくりあげるには、それで十分だったのです。われわれの見ている前でやってのけたのだから、何とも頭のいい男ですよ。ダイヤル式なので、電話番号を大きな声で言わなくとも、電話をかけることができたわけです。すると、これもまたペッパーの犯行を裏づける小さな心理的証拠です。というのは、だれもが、特にスローンに最も警告しそうな連中のだれもが、電話をかけた覚えがないと否認しているのですからね。
ペッパーはウッドラフにもえ残りの遺言状の真偽をたしかめるという口実で、すぐにハルキス邸をとび出しました。だが、ウッドラフのもとに行く前に、画廊に寄って――スローンはおそらく自分で迎え入れたでしょう――スローンを殺し、あとはただ自殺に見せかけるように少し細工しただけなのです。スローンを自殺と見せかける計画をぶちこわした、あの閉じていたドアの手抜かりは、ペッパーの過失ではありませんでした。弾がスローンの頭を貫通して、開いていたドアからとび出したのに、ペッパーは気がつかなかったのです。スローンの頭は弾の抜け出た方の側を下にして、うつぶせになっていましたし、むろんペッパーは、もしいじったとしても、必要以上にはスローンの死体に手をかけなかったのです。とび出した弾は、厚い壁掛けに当たったので、部屋の外の大広間からは、たぶん、なんの音も聞こえてこなかったのでしょう。そこで、情況の犠牲者となったペッパーは、出て行くときに当然のことをやったのです――殺人犯人がほとんど本能的にすること、つまり、ドアをしめたのです。そして、はからずも、自分の計画を自分でひっくり返してしまったのです。
というのも、スローン犯人説はほとんど二週間近くも認められていたのですからね――つまり、殺人犯人は万策つきて自殺したものと思われていたのです。そこで、ペッパーはノックス氏から絵を盗むための邪魔者を取り除いたと思いました。つぎに、あの男の計画は、いまや警察が見事に殺人犯人を片づけたと思っているのだから、もはやノックス氏を殺人犯人に仕立てる必要はない、あとはただ、ノックス氏から絵を盗んで、しかも、ノックス氏が美術館に返さずにすまそうとして、自分で自分のレオナルドを盗んだように見せかけること、にあったでしょう。
ところが、スイザが名乗り出て、スローン自殺説をくつがえす証拠が上がり、その事実が公表された時、ペッパーは、警察が更に殺人犯人を捜していることを知ったのです。こうなると、ノックス氏を、自分で自分の絵を盗んだ泥棒とするばかりでなく、グリムショーとスローンの殺人犯人に仕立てたって、少しもかまわないわけになるじゃありませんか。そのペッパーの計画は失敗に終わりましたが――それもけっしてあの男の失策によるものではなく――あの男には、ノックス氏を理論的に殺人犯人とみなしうる確信があったのです。その計画は――動機の問題をひとに納得させるのがむずかしいが――もし、ノックス氏があの千ドル札の話をぼくのところへ持って来なかったら、まんまと成功していたかもしれないのです。ぼくはしばらくその話を伏せておいて父にも聞かせる理由はないと思っていました――というのも、当時はスローン犯人説が受け入れられていたんですからね。
そういったわけで、ペッパーは、ぼくがついにあの男を追いつめたとも気づかずに、喜び勇んでノックス氏を殺人犯兼泥棒に仕立てにかかったのです。――しかし、当時はぼくも、ペッパーが真犯人だとは気がつかなかったのです。ところが、ノックス氏が二番目の脅迫状を書いた濡《ぬ》れ衣《ぎぬ》をきせられた時、ノックス氏の潔白を知っていたので、それが陰謀であることをすぐにさとり、それから推理して、すでに述べたように、ペッパー自身が真犯人だったことをつきとめたのです」
「おい、エラリー」と、警視が、はじめて口を開いて、声をかけた。「何か飲め。のどが乾いたろう。肩の工合はどうだ」
「まあ、まあ、ですよ……さて、これで、なぜ、最初の脅迫状がノックス邸以外の場所で書かれなければならなかったかということと、この問いに対する回答がこれまたペッパーを指し示すものであることが、みなさんにもおわかりになったでしょう。ペッパーは、絵の隠し場所を見つけ、二番目の脅迫状を書くだけの余裕があるほど、長い期間、ノックス邸に出入りする正当な理由を持ち合わせなかったのですが、最初の脅迫状を送ることによって、自分を捜査官として邸内に配置させるようにすることができたのです。
サンプスンさん、これはあの男があなたに提案したものだったのを、思い出して下さい。これもまたペッパー殺人説に少しばかり重みを加えるものです。
ノックス氏のタイプライターでたたいた二番目の脅迫状を送ることは、ペッパーの陰謀の第二段階であり、最終段階は、もちろん、絵を盗むことにあったのです。当時ペッパーはノックス邸に配置されていて、ゆっくり絵をさがしました。言うまでもなく二枚の絵があることは少しも知らなかったのです。ペッパーは画廊の壁の滑り戸を見つけ、絵を盗み、邸の外に持ち出して、五十四番街のノックスさんの空家に隠しました。――すばらしい隠し場所じゃありませんか。それから、二番目の脅迫状を送ることにしたのです。ペッパーの立場からすれば、この計画は完全でした――いまやあの男の仕事は、サンプスンさんの部下の敏腕な司法官のひとりとして、厳然とかまえて、もしぼくがあのポンド記号の意味に気づかなかったら、ノックス氏を脅迫状の筆者として摘発し、罪におとす手助けをするだけでよかったのです。そして、やがて一切が片づいてから、あまりやかましくない蒐集家か『けいず買い』を通して、あの絵を金に換えればよかったのです」
「あの盗難防止装置の件はどうなるね」と、ジェームス・ノックスが「なんのつもりだったのかね」
「ああ、あれですか。あれはペッパーが絵を盗んで」と、エラリーが答えた。「それから脅迫状を書き、盗難防止装置をいたずらしておいたのです。ペッパーはわれわれがタイムズ・ビルの捕りものに出かけて、から手で帰ってくるのを期待していたのです。その時、われわれをぺてんにかけた、あの脅迫状は、泥棒が絵を盗み出すあいだわれわれを邸からさそい出しておくための、細工だったと思わせようとした奴の計画だったのです。さて、これで盗難防止装置にいたずらしたわけがはっきりしますが、もし、われわれがあなたを犯人ときめつけたらどうなるか。『そらね、ノックスは自分で盗難よけにいたずらして、今夜外部の者に絵が盗まれたと思わせようとしている。実際に絵は盗まれてなんかいないのだ』と、われわれに言わせるつもりだったのです。手のこんだ計画で、完全に理解するには、よほど精神力を集中しなければなりません。しかし、これでもわかるように、ペッパーの頭の働きはじつに巧妙をきわめたものです」
「これですっかりわかったようだ」と、地方検事が突然言った。検事はエラリーの説明の筋道をテリヤのように追っていたのである。「しかし、わしが知りたいのは二枚の絵の一件だ――それと君が、このノックス氏を逮捕した理由だ――なにはさておき、是非とも知りたい」
ノックスのきびしい顔に、はじめて微笑が浮かび、エラリーが声高く笑った。「われわれはたえずノックス氏に『男らしく』するように注文をつけていましたが、ノックス氏がいかに男らしくふるまったかを説明すれば、それがあなたへの答えになると思いますよ、サンプスンさん。ぼくはみなさんに話すべきだったでしょうが、二つの正真正銘の古い絵があり、肌の色のわずかな違いだけでかろうじて判別できるという、あの全くくだらない『伝説』は――あれはすべて純粋にうそであり、お芝居だったのです。二番目の脅迫状が届いた午後、ぼくはすべてのことを推理して知ったのです――ペッパーの計画も、犯罪も、たくらみも。しかしぼくは妙な立場に立っていました。もしペッパーをただちに起訴して逮捕しても、奴を有罪にできる証拠のかけらさえもっていませんでした。その上、貴重な絵は奴の手中にあって、どこかに隠されていたのです。もし奴の仮面をはげば、絵はおそらく見つからないことになる。それに、あのレオナルドを見つけて、正当な所有者であるヴィクトリア美術館に返還されるようにするのがぼくの義務でした。ところで、もしペッパーを罠《わな》にかけて、盗んだレオナルドに手をかけている現場を抑えることができれば、絵を持っているということだけで有罪の証拠になるし、その上、絵も取りもどせると思ったのです」
「肌の色がちがうとかなんとかいう、あの一件は、すべてつくりごとだったのか」と、サンプスンが口をとがらせた。
「そうですよ、サンプスンさん――ぼくのちょっとした陰謀だったのです。ペッパーがぼくをひっかけたように、ぼくがペッパーをひっかけてやったのです。ぼくはノックス氏を信じて、一切を打ち明けたのです。――ノックス氏が、だれに、どういうふうにおとし入れられているかということをね。その時、ノックス氏は、ハルキスから本物のレオナルドを買った後で、その模写をつくらせたと言い、もし警察の圧力がひどく強くなったら、これがハルキスから買ったものだと言って、その模写を美術館に返すつもりだったと告白しました。その場合は、むろん、専門家によって、すぐに愚にもつかぬ模写なのを見破られるでしょう――しかし、ノックス氏の話には文句のつけようがなく、おそらく大手を振って罪をまぬかれたでしょう。言いかえれば、ノックス氏はその模写を、にせの暖房コイルの中に置き、本物を羽目板戸棚に収っておいたのですが、ペッパーは本物の方を盗んだのです。しかし、この話からぼくはひとつの計画を思いつきました――つまり、わずかな真実と、大量の作り話を利用する計画です」
エラリーの目がその思い出で浮き浮きしていた。
「あの時、ぼくはノックス氏に、あなたを逮捕するつもりだ――あくまでペッパーにうまくいったと思わせるように――それには、ノックス氏を告発し、不利な証拠を列挙し、ペッパーのノックス氏をおとし入れようとした陰謀が完全に成功したと、信じ込ませるに必要なあらゆることをするつもりだと言いました。ところで、それに対するノックス氏の反応は、言うならば、じつに立派なものでした。ともかく、ノックス氏は、自分を事件にまき込もうとしたペッパーに少しばかり復讐《ふくしゅう》しようと望んでいたし、美術館に模写を返還しようと企てた最初の不正な考えに対して償いをしようと望んでいたので、よろこんでぼくのために犠牲者の役を演じてくれることになったのです。そこで、われわれはトビー・ジョーンズを招いて――すべて金曜日の午後のことですが――ペッパーが必ずひっかかるだろうと思える話を、一緒にでっち上げたのです。ついでに言いますが、その時の会話は全部ディクタホーンでレコードにとってありますから、それをきけば、作り話の詳細がすべてあけすけに論議されているのがわかります。ペッパーを餌にひっかけそこなった時にそなえて作ったのです。……ノックス氏の逮捕は、真実そうするつもりでやったものではなく、真犯人を罠にかけるための大きな策略の一部だったことを証拠だてるためだったのです。
さて、専門家が美辞麗句をならべたてて、それらしい歴史的な事実の引用や、イタリアの同時代画家の名などをとりまぜながら、二枚の絵の『かすかな差違』の『伝説』を述べるのを聞いたときのペッパーの心中を考えてごらんなさい。――しかも、あの話はみんな、むろん全くのでたらめだったのですからね。この貴重な古い油絵は絶対に一枚しかなかった。――そして、それは本物のレオナルドなのです。あんな伝説なんかないし、『同時代』の模写などけっしてないのです。――ノックス氏が作らした模写はニューヨーク製の現代のがらくた画で、少しでも美術に明るいひとにならだれにでもすぐ見破られるようなものです。あれはすべて、相手の裏をかく、ちょっと面白い計略にぼくが力を貸したものにすぎなかったのです。……
さて、ペッパーはジョーンズの権威ある口ぶりから、どちらかがレオナルドで、どちらかが『同時代作家の模写』であるかを決める唯一の方法は、実際に二枚の絵をならべてみるしかないことを知りました。ペッパーはさぞ、ぼくが言ってやりたかったことを胸のうちで自分に言いきかせたことでしょうよ。『そうか、するとおれの持っているのが、本物か模写かを知る方法がないわけなんだな。ノックスの言葉は何も信用できない。すると、二枚の絵をつき合わせて見なければならない――それも大急ぎでだ。ここにあるこの一枚は、おそらくD・A(地方検事)に保管されるだろうから、長くはここにないだろう』とね。ペッパーはまた、もし二枚をつき合わせて、どちらかが本物のレオナルドかがわかったら、模写の方を保管庫に返して自分には何の危険もないと考えたにちがいありません。――専門家すら、二枚をつき合わせて見なければどっちがどっちか言えないと、認めているのですからね。じつに我ながら天才的な手ぎわでしたよ」とエラリーはつぶやいて「われながら祝福したいな。なんと――だれも喝采《かっさい》してくれないんですか。……
むろん、われわれの相手が美術家とか美学者とか絵描きとか、あるいは単に好事家《こうずか》だったとしても、ぼくはジョーンズにこんなばかげた話をさせるような危険はけっして冒さなかったでしょうね。しかし、ペッパーがずぶの素人《しろうと》で、あの話をすっかり鵜呑《うの》みにするより仕方なく、疑ってみる理由が何もないことを、ぼくは知っていました。ことに他の手はすべて完璧に打たれていましたからね――ノックス氏の逮捕、収監、大げさな新聞記事、スコットランド・ヤードの通告――おお、申し分なしです。
サンプスンさんもお父さんも、あのでたらめな話が見抜けなかったでしょうね。ぼくはあなた方の人間狩りの力には敬意を表しますが、美術のことときたら、ここにいるジューナみたいに、ほとんど何もご存知ないですからね。ぼくがおそれていたのはブレットさんだけでした――そこで、あの日の午後、ぼくの策略について十分話しておいたので、ノックス氏が『逮捕』された時に、ブレットさんは適当に驚いたり、こわがったりしてくれたのです。ついでですが、ぼくは我ながらうまくいったと祝福したい点があるんですよ――それはぼくの演技です。ぼくは、ちょっとしたごまかしの天才でしょう?」 と、エラリーはにやにやして
「どうやらぼくの才能は買ってもらえないようですね。……ともかく、ペッパーは、明らかにもっけの幸いと思い込んだのでしょう、是が非でも二枚の絵を並べて、五分間でもいいから較べてみたいという欲望に打ち勝てなくなったのです……まさに、ぼくが予想したとおりです。
ぼくがノックス氏をその邸で告発した時、ぼくはすでにヴェリー部長をして――正直のところ、ヴェリー部長はじつに慎重な役人で、しかもぼくの父を裏切ると考えただけでも、あの大きな図体が震え出すほど父に忠実な男です――ペッパーの事務所とアパートを捜査させていたんですよ。もしかしたら、そのどちらかに絵を隠しているのではないかと、はかない望みをかけていたんです。むろん、そのどちらからも絵は出てきませんでしたが、ぼくとしてはたしかめなければならなかったのです。
金曜日の夜、ペッパーがD・Aの事務所へ絵を持って来るように命じられたのをぼくは知っていました。ペッパーとしてはいつでも好きな時に、事務所から絵が持ち出せるチャンスが来たわけです。ペッパーは、むろん、あの晩と昨日まる一日、じっと動きませんでした。しかし、ご存知のとおり、昨夜、ペッパーは事務所の保管庫から絵を持ち出して、ノックス氏の空家の隠し場所へ向かいました。そこでわれわれは奴の二枚の絵――原画と、値打ちのない模写――もろとも、召し捕ったというわけです。もちろん、ヴェリー部長と部下の刑事たちが、一日じゅう、ペッパーを猟犬のようにつけまわしていましたし、ぼくはペッパーの動きを時々刻々に報告されていたのです。奴がどこにレオナルドを隠したのかわかりませんでしたからね。ペッパーは、ぼくの心臓をねらってぶっ放しましたが」――と、エラリーは軽く肩をたたいて――「後世のために運よくも、単なるかすり傷ですみました。これは、あの発見された瞬間の苦悶《くもん》の中で、ペッパーがついに、ぼくの逆転勝を悟った証拠になるものではないかと思います。
かくて、呪縛は解かれたり、というところでしょうね」
一同は、ほっとため息をつき、ざわめいた。まるで事前に打ち合わせてあったかのように、ジューナがお茶を持って出て来た。ややしばらく、事件についてのおしゃべりは忘れられていた――そのおしゃべりに、ジョアン・ブレット嬢もアラン・シェニー君も加わらなかったことは銘記すべきだ――やがて、サンプスンが口を切った。
「二、三はっきりさせてもらいたいことがあるがね、エラリー君。君は、ずいぶん骨を折って脅迫状をとりまく出来事を分析して、共犯者の有無の説明をしてくれた。すばらしい分析だった。しかし」――と、例の検事の身ぶりよろしく、人差し指を誇らかに宙に突き出して――「君の最初の分析ではどうだったね。君がこう言ったのを覚えとるよ。脅迫状の筆者の第一の条件は、ハルキス邸にいて、ハルキスに不利なにせ手がかりを仕組める者でなければならず、そいつが殺人犯人でなくてはならない」
「そうです」と、エラリーは目ばたきしながら考えこんだ。
「それなのに君は、あの手がかりを仕組んだ者が殺人犯人の共犯者だったかもしれないという点については、何も言わなかった。どうして君は、あの手がかりを仕組んだ者が殺人犯人だと推定して、共犯者の可能性はないものとしたのかね」
「そう、むきにならないで下さいよ、サンプスンさん。その説明はじつにわかりきったことです。グリムショーは自分で、たったひとり相棒がいると言いました――いいですね。われわれは他のいろいろな点から、その相棒がグリムショーを殺したことを証明しました。――いいですね。そこでぼくは、その相棒はグリムショーを殺して、その罪をだれか他の人間になすりつけようとする大きな動機をもっていると、言ったのです。――はたして、最初にハルキスになすりつけた――そこで、あのにせ手がかりを仕組んだのは殺人犯人だと、ぼくが言ったんです。ところが、あなたは、あれを仕組んだのは共犯者かもしれない、なぜその可能性がないのかと訊かれる。その理由はじつに簡単ですよ。犯人はグリムショーを殺すことで、やっと共犯者を消したんです。せっかくひとりの共犯者を片づけたのに、すぐにまた、にせの手がかりを仕組むために、別の共犯者をつくるなんてことがあるでしょうか。その上、ハルキスに不利な手がかりを仕組むのは、計画者にとっては、まったく自発的な行動だったのです。言いかえれば、殺人犯人として『受け入れられる人間』を択び出すには、全く事かかなかったんです。そこで、最も都合のいい人間を択ぶのが当然でしょう。せっかくひとりの共犯者を消しておいて、また共犯者をつくるなんて、じつに気の利かない、不都合きわまる話じゃありませんか。そこで、頭のいい犯人の頭のよさを信用して、ぼくは、あのにせ手がかりを仕組んだのは犯人自身だと、主張したのです」
「わかった。わかった」と、言って、サンプスンは両手を上げた。
「ヴリーランド夫人の件はどうなんだ、エラリー」と、警視が妙な顔して「わしは夫人とスローンが愛し合っとるとにらんでいた。ところが、あの晩、夫人は、スローンが墓地を歩いとるのを見たという話をもって来た。その辺が、どうものみ込めんな」
エラリーはまた、たばこを火になげ入れた。
「つまらないことですよ。スローン夫人がスローンのあとをつけてベネディクト・ホテルへ行った時の話で、スローンとヴリーランド夫人が恋愛関係にあったことは明らかです。しかし、お父さんも気がついただろうと思いますが、ハルキス画廊を相続しようとするなら、細君を通すよりほかに道がないと悟ったスローンは、すぐに今までの愛人を振り捨てて、今後は細君のご機嫌をとりむすぶことに専念しようと決意したはずです。むろん、ヴリーランド夫人は、あのような気性ですし――袖《そで》にされたとなると――定石どおりの反応を示して、できるだけスローンをいためつけてやろうとしたんですよ」
アラン・シェニーが急に目をさました。そして晴天の雷のようにいきなり――相変わらずジョアンと目の合うのを避けながら――訊いた。
「あのワーディス先生はどうなんですか、クイーンさん。一体あいつはどこにいるんですか。なぜ逃げ出したんですか。もしこの事件に関係があるとすれば、どこのところに当てはまるんですか」
ジョアン・ブレットが興味深そうに自分の手を見つめていた。
「そうね」と、エラリーが肩をすくめて「ブレットさんにその答をしてもらいましょう。ぼくは最初からずっと疑いをもっていたんですよ……どうです? ブレットさん」
ジョアンは目をあげて、たいへんやさしく微笑したが――アランの方へは目を向けなかった。
「ワーディス先生は私の協力者だったのです。本当よ。それに、スコットランド・ヤードの最も敏腕な捜査官のひとりでしたの」
これは、アラン・シェニー君にとっては、じつにすばらしいニュースだったらしい。シェニーはびっくりして咳払いして、それまでよりいっそう丹念に敷物を見つめていた。
「ご存知でしょうが」と、ジョアンは、やさしくほほえみながら、つづけた。「あの方のことをあなたには何も申しませんでしたのは、クイーンさま、あの方が口どめなさったからですの。あの方はお役所筋の目と干渉をのがれてレオナルドの絵をさがすために、姿をかくされたのです――事がこんなふうになったのですっかりいや気がさしてしまわれたのでしょうよ」
「すると、もちろん、計画ずくであのひとをハルキスの家に連れ込んだんですね」と、エラリーが訊いた。
「はい。私にはとても手に負えないとわかった時に、私は自分の無力なことを美術館に知らせました。すると美術館の方でスコットランド・ヤードに行ったのです。それまで、ヤードの方では絵の盗難を知らなかったのです――美術館の理事たちが、盗難のことを厳秘に付していたのですからね。ワーディス先生は、実際に医師の免状を持っていて、以前にもいく度か医師として事件の捜査に当たったことがおありなのです」
「あの晩、あのひとはベネディクト・ホテルにグリムショーを訪ねて行ったでしょう」と、地方検事が訊いた。
「たしかに行きました。あの晩、私はグリムショーをつけられなかったので、ワーディス先生にことづけしました。それで先生がグリムショーのあとをつけて、謎の男と落ち合うのを見とどけたのですわ……」
「むろん、そいつがペッパーだ」と、エラリーがつぶやいた。
「……そうして、グリムショーとペッパーというひとがエレベーターに乗った時、先生はホテルのロビーをぶらついていたのです。先生はスローンさんが上がって行くのも、スローン夫人も、オデールも見てから――最後にご自分も上がって行かれたのですが、グリムショーの部屋にははいらず、ただぶらぶらしていたのです。それから、最初のひとを除いて、みんな出て行くのを見とどけたそうです。もちろん、ご自分の身分を明かさずには、そうしたことを、あなたにお話しできなかったのですわ。それにあの方は、身分を明かしたくなかったのです……それで、ワーディス先生は、何も発見できず、手ぶらでハルキス邸に帰って来ました。その次の夜、グリムショーとノックス様が訪ねて来られた時――その時はまだノックス様とは存じませんでしたけれど――あいにくワーディス先生はヴリーランド夫人と一緒にお出かけでした。先生が夫人と親しくなさろうとしていらっしゃったのは――そのう――なんと申しましょう――勘のよさだったのですわ」
「今はどこにいるんでしょうね」と、アラン・シェニーが、敷物の模様を見つめたまま、さりげなく訊いた。
「ワーディス先生は、きっと」と、ジョアンは煙のこもった空気に向かって「今頃は海のまん中で、国へお帰りになる途中だと思いますわ」
「ああ」と、まさに意に満ちた答を得たかのように、シェニーが言った。
ノックスとサンプスンが帰ったあと、警視はため息をついて、父親らしいやさしさでジョアンの手をとり、アランの肩を軽くたたいてから、何か自分の用向きがあるように、出て行った。――おそらく、記事を欲しがっている新聞記者どもと会見するか、もっと愉快なのは、グリムショー=スローン=ペッパー事件の電光石火の場面転換で、いちじるしく精神消耗の苦痛をなめた上司中の上司に会うためだったろう。
残ったのが自分の客だけになると、エラリーは、けがした肩の包帯にばかり気をとられはじめた。およそ紳士的でない気の利かない主人役だった。事実、ジョアンとアランは、おずおずと立ち上がって、帰りのあいさつを言いかけた。
「おや、まだ帰るんじゃないでしょうね」と、エラリーが、やっと、愛想よく大声で言った。そして、ソファからはい出すと、にやにやと二人に笑いかけた。ジョアンの象牙色の小鼻がほんのかすかにふるえていたし、アランはスリッパをつっかけた片足で、一時間近くも、ずっと見つめていた敷物の上の複雑な模様を目でなぞっていた。
「まあ、まだ立たないで下さい。待って下さい。ぼくはあなたが特に興味をもたれるものを持っていますよ、ブレットさん」
エラリーは謎めかして、居間から急いで出て行った。エラリーのいない間、二人はひと言も口をきかずに、仇どうしの赤ん坊みたいに突っ立って、そっと相手を見つめていた。そして、エラリーがまるめた大きな画布を右手にかかえこんで寝室から出て来ると、互いにほっとため息をついた。
「これは」と、エラリーがジョアンにもったいぶって「今度のいざこざの原因になった代物《しろもの》ですよ。こんな悲しみのとっついたレオナルドなど、もういりません――ペッパーが死にましたから、もう裁判もないはずです……」
「あなたは、まさか――まさかそれを、私に下さるおつもり――」と、ジョアンがゆっくり言った。アラン・シェニーが目を見張った。
「そうですとも。あなたはロンドンへ帰るおつもりでしょうね。それなら、当然あなたのものである名誉をぼくから差し上げたいんですよ、ブレット副官――つまり、このレオナルドを持って行って、あなたの手から美術館に返す特権をね」
「おお」ジョアンのばら色の唇が、かすかにふるえながら、ほころびた。しかし、それほど感激しているとも見えなかった。そして、巻いた画布を受けとると、右手から左手へ持ちかえ、また右手へもどして、まるで、どうしていいかわからないという様子だった――なにしろ、この古ぼけた灰色の画布のために、命をおとした者が三人もいるのだ。
エラリーは食器棚へ行って、酒びんをとり出した。茶色の古ぼけたびんで上品なつやがきらめいていた。エラリーが低い声でジューナに何か言うと、この重宝至極な少年は、あたふたと台所へ駆け込み、すぐに、サイフォンと、ソーダ水など酒のみ道具を持って、まいもどって来た。
「ハイボールですか、ブレットさん」と、エラリーが明るく訊いた。
「おお。いただけませんの」
「じゃあ、カクテルでも」
「ありがとうございますけれど、私、いただけないんですのよ。クイーンさま」
やりとりがおさまると、ブレット嬢はいつもの冷静さをとりもどしたようだったが、それは男の大ざっぱな目にそう映るだけで、本当はどういうわけでそうなったのかよくわからなかった。
アラン・シェニーは、飲みたそうに|びん《ヽヽ》を見つめていた。エラリーはグラスや道具類をかちかちいわせていた。やがて、背の高いグラスに、こはく色に泡立つ液体をなみなみと満たし、いかにも社交界の男同士のように、アランに酒をすすめた。
「本当にすばらしい」と、エラリーは小声で「君はこの方の通人だろう……おや、君は――?」と、エラリーはわざと大げさに驚いてみせた。
というのは、アラン・シェニー君が、ジョアン・ブレット嬢の分別くさい目に見すえられて――名うての、のんだくれ、アラン・シェニー君が――本気でこの香り高い飲みものをことわろうというのだ。
「結構です」と、アランはしどろもどろに「たくさんですよ、クイーンさん。禁酒したんです。誘惑してもだめですよ」
ジョアン・ブレット嬢の顔に、暖かい光がさしたようだった。語感のとぼしい者なら、ジョアンがつやつやしたとでも言うところだろう。真相は、ジョアンの冷静さが、かき消すようにとけ去り、またわけもなく頬を赤らめて足もとに目をおとし、爪先をもじもじと動かしはじめたのである。そして、百万ドルと評価されるレオナルドの絵も、ジョアンの腕からすべりおちかけて、まるで安物のカレンダーのように、全く無視されていた。
「おやおや」と、エラリーが「すると、やっぱりね――まあ、いいさ」と、ちょっと不満そうに肩をすぼめた。
「ブレットさん、こりゃあどうも」と、エラリーが「まるで、田舎《いなか》まわりの勧善懲悪芝居みたいですね。主人役が急に酒をやめて――三幕目で心機一転、性根を入れかえるみたいなことになっちゃってさ。実は、聞くところによると、シェニー君は、大金持になられた母君の実務の面を管理することになったそうですね――そうでしょ、シェニー君」
アランがしどろもどろにうなずいた。
「それに、法律上のいざこざがすむと、たぶん、ハルキス画廊の管理もすることになるだろうね、シェニー君」
エラリーはぺらぺらしゃべっていたが、ふとやめた。お客たちが、てんで聞いていないからだった。ジョアンは、はっと衝動的にアランの方を向いた。暗号――どう呼んでもいいが――みたいなものが、二人の目と目に橋をかけた。すると、ジョアンは、また赤くなって、エラリーの方に向き直り、情けなさそうに二人を眺めているエラリーに「やめますわ」と言った。「やっぱりロンドンへは帰らないことになりそうですわ。本当に――あなたにはよくしていただいて……」
かくして、二人の姿をドアがとざした時、エラリーは床にころがっている画布をしげしげと見つめる仕儀に相成った――その画布はジョアン・ブレット嬢のやわらかい腕からすべり落ちたものである――エラリーはため息をして、少しあきれたようにジューナ少年を見つめた。ところがジューナ少年は、子供のくせに厳格な絶対禁酒主義の徴候を見せるどころか、ハイボールを全部ひとりで片づけてしまい……しかもそのほっそりした顔にひろがっている牡牛みたいな満足げな様子からみると、まんざらいやな儀式でもなかったらしいという次第だった。 (完)
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あとがき
ニューヨークの美術商ゲオルグ・ハルキスの急死と、その遺言状の紛失にまつわるこの事件の物語は、エラリー・クイーンの国名シリーズの中でも、エラリーが大学を出て、父リチャード警視の手伝いを始めた頃のものという、特徴のある設定のもとに展開される。
特徴のある設定というのは、物語の中で、エラリーが自ら述べているように、青年の客気にかられて、その精密な推理、分析をあせり、いく度か失敗を重ね、解決に至るまで、二転三転の経過を辿る、その面白味が、きわめて特徴的なのである。いわでものことだが、論理はその前提の立て方で、その結論が、甚しく異なってくる――これは、論理学的論法を基礎とする推理分析においても同じことが言える。
この物語の中でのエラリーの失敗は、エラリー式推理法とでも言うべきものの組み立て方と、その展開を、わかりやすく、私たちに示してくれる。
ところで、エラリーは、いく度か犯人の仕掛けた罠にひっかかって、ほんろうされるが、最後には逆転して、犯人を罠にひっかけることになっている。その犯人を罠にひっかける方法が、これまた、なかなか複雑で、道具立てもご立派だ。なにしろ、世界的傑作レオナルド・ダ・ビンチの絵の|にせ《ヽヽ》ものが、とび出してくる始末なのだから。ともかく、犯人の仕掛けたにせ手がかりを、論理的に追及して失敗したエラリーが、最後には逆に犯人を、心理的・論理的に、罠に追い込んで行くという筋立ては、この作品を徹頭徹尾、推理の遊び、推理の楽しみにしていると言えるだろう。
とはいっても、この作品は、挑戦謎解き小説だから、犯人を最後まで隠しておくために、エラリーの推理には、当然、論理的な穴があいている部分がある。挑戦される読者諸君には、その穴を見つける楽しみを味わっていただきたい。いわゆる、アクションものとちがって、非論理的な偶然性は、きわめて少ないから、注意深い読者には、巻なかばにして、真犯人をとらえることができるはずである。
一九三二年に刊行されたこの小説は、国名シリーズの中ではとくに長編であり、最もこみ入った冒険談といわれている。原名は The Greek coffin mystery  であるが、訳名は「ギリシア棺謀殺事件」とした。同年には、バーナビー・ロスの別名で「Xの悲劇」も発表している作者の油の乗り切ったころで、この作品にも、エネルギッシュな、一種の艶《つや》がみなぎっているし、事実、作者自身が大いに楽しみ、面白がって書いている面が、うかがえる。それが、得意な引用癖になって、テレンティウス、ヴォルテール、ラ・フォンテーヌ等々の文句を引用したり、レオナルド・ダ・ビンチを引き合いに出して、美術通らしいゴシップもならべる。読者にとって、それが、鼻もちならなかったり、うるさいかもしれないが、見方をかえれば、それがまた作者の味であり、こり方として、面白いとも言える。目次を原語で出したのも、見出しの頭文字を連ねると THE GREEK COFFIN MYSTERY BY ELLERY QUEEN と書名そのままになるように工夫などして、読者にサービスしている点を、お目にかけるためである。
推理小説は頭の遊戯だし、読者と作者の頭の競走でもある。
どうぞ、諸君が、勝者でありますように。good luck ! (訳者)