エラリー・クイーン/石川年訳
エジプト十字架事件
目 次
まえがき
第一部 小学校長のはりつけ
一 アロヨのクリスマス
二 ウェアトンの正月
第二部  百万長者のはりつけ
三 ヤードレー教授
四 ブラッドウッド荘
五 内部事情
六 チェッカーとパイプ
七 フォックスと英国人
八 オイスター島
九 百ドルの手付金
十 テンプル医師の冒険
十一 それ征《ゆ》け!
十二 教授は語る
第三部  紳士のはりつけ
十三 ネプチューンの秘密
十四 象牙の鍵盤
十五 ラザロ
十六 特使たち
十七 山の老人
十八 フォックスの話
十九 T
二十 二つの三角関係
二十一 口げんか
二十二 外国通信
二十三 作戦会議
第四部  死者のはりつけ
二十四 またしても、T
二十五 びっこの男
二十六 エラリーは語る
二十七 つまずき
二十八 再度の死
読者への挑戦
二十九 地理の問題
三十 エラリーのたね明かし
あとがき
登場人物
エラリー・クイーン…特別捜査官
アンドリュー・ヴァン…小学校長
ハラーフト…太陽教教祖の薬売り
ヴェリヤ・クロサック…びっこの復讐鬼
ヤードレー教授…エラリーの旧師
トマス・ブラッド…敷物輸入業の富豪
マーガレット・ブラッド…ブラッドの美しい後妻
ヘレーネ・ブラッド…マーガレットの連れ娘
ヨナ・リンカン…ブラッドの番頭
ヘスター・リンカン…ヨナの妹
ポール・ロメーン…ハラーフトの弟子
ヴィクター・テンプル…へスターを愛する医師
スティブン・メガラ…ヨット乗り
リン夫婦…英人夫婦
フォックス…ブラッドの下男
まえがき
「エジプト十字架事件」の中には、いろいろ大きな謎《なぞ》が含まれているが、この物語の本節には大して関係のない小さな謎が、ここに一つある。それは「題名の謎」と呼んでもよさそうなもので、題名に関する謎である。著者――わが友エラリー・クイーン――が、それについて、注意してきた。エラリーを熱愛する私が電報で、急いで送るようにたのんだ原稿と一緒に、イタリアのささやかな著者の家から送って来たのである。
注意書きには、他のことと一緒に、次のことがあげてあった。「いいかげんにしてくれよ、J・J。こりゃ、エジプト学的犯罪をあつかった、ありふれた赤本ではないんだ。ピラミッドもないし、おぞましい博物館の夜の闇《やみ》にひかるコプト人の短剣もないし、フェラヒン〔エジプト農奴〕も出て来ないし、東洋風の大官どもも出て来ない……事実、エジプト学は出て来ない。では、なぜ『エジプト十字架事件』としたのかときかれるだろう。その疑問、ごもっとも。ところで、この題名は、ある意味でぐっとくるし、ひどくぼくをひきつけるのだ。とはいっても、この作品にまるっきりエジプト的な意味がないわけでもない。エジプト的な美しさはあるつもりなんだ。じっくり味わってみてほしいな」
ご覧のとおり、ずばりエラリー趣味。読者諸君もご存知のとおり、いつものように、興味津々にして神秘的な物語である。
この恐るべき殺人事件の捜査は、わが友エラリーの最後の仕事のうちの一つであり、エラリー・クイーンが物語として提供する五番目の事件である。特異な素材からなりたっている。古代宗教の狂信、裸体主義者の部落、船乗り、中央ヨーロッパの迷信と暴力の温床から生まれた復讐鬼《ふくしゅうき》、古代エジプトのパロの「生まれかわりの神」と称する奇妙な狂人等々の信じ難い特異なものが入りまじり……表面的には、幻想的で、およそこの世にありえないような素材を織りなしながら、事実は、現代警察史上、最も狡猾《こうかつ》、残忍な一連の犯罪の一つの背景をなすものである。
もしも諸君が、世にもまれな、あの老練|頑固《がんこ》な人間狩りの名手、リチャード・クイーン警視がこの作品で姿をあらわさないことに失望されるなら――私もつねにエラリーがその父君を半分も、正当に扱っていないと主張するのだが――諸君は安心していただこう。警視はまた近く姿をあらわすにちがいない。「エジプト十字架事件」では、とにかく、その地理的条件の特殊性のために、エラリーが一人で活躍することになった。私は読者の便宜のために地図を補うか、合衆国地図を口絵にするように、出版社に勧告したかった。物語はウェスト・ヴァージニアから始まる……
このくらいにしておこう。結局、エラリーの物語を、エラリーに語らせることにする。
一九三二年八月 ニューヨーク州ライにて
J・J・マック
第一部 小学校長のはりつけ
精神病理学の実地の知識が、余の犯罪学者としての職業に、無限の価値ある助けとなった。
ジャン・チュルコ
一 アロヨのクリスマス
事のおこりは、ウェスト・ヴァージニア州の、小さな村アロヨから半マイルほどはずれた二本の道の交差点で始まった。一本の道は、ニューカンバーランドからピュータウンに通じる主要道路であり、もう一本の道は、アロヨに行く分かれ道である。
その地形が重要なのに、エラリーはすぐ気がついた。それとともに、最初の一目で、その他にも多くの事柄を見てとったが、あまりにも矛盾にみちている証拠に、手もつけられない感じだった。てんでんばらばらなのだ。一応しりぞいて、考えてみなければならなかった。
コスモポリタン〔世界主義者。ここでは特別の郷土愛を持たぬ人〕のエラリー・クイーンが、十二月も末の、しかも午後二時だというのに、寒い、泥々《どろどろ》な、ウェスト・ヴァージニアのフライパンの柄のように突出した地方で、おんぼろ競走車、デューゼンバーグのそばに立って小首をかしげなければならないようになった事情には、少し説明がいる。非常に多くの原因が積み重なって、こんな珍現象を生む結果になったのだ。その一つの原因は――もとはといえば――エラリーの父、クイーン警視にすすめられて、休みがいもない休暇をとったからだった。老警視は警察官会議とも呼ぶべきものに、足をとられていた。シカゴの治安が例によってかんばしくないので、警察長官が、主要都市から優秀な警察官を招集して、管轄内の嘆かわしい無法状態を、ともに嘆こうという寸法なのだった。
珍しく元気な警視が、ホテルからシカゴ警察本部へ急ぐ途中、一緒に行ったエラリーは、初めて、アロヨ付近でおこった怪事件――UP通信社が、いみじくも『T殺人事件』とレッテルを貼った犯罪――の話を知ったのである。新聞の記事には、エラリーの興味をそそる要素が非常にたくさんあった――たとえば、アンドリュー・ヴァンが首を切られて、はりつけにされた、しかもクリスマスの朝だ――そんな事実があったので、エラリーはすぐに、たばこの煙が立ちこめるシカゴの会議場から父を引っぱり出して、デューゼンバーグに乗せて――信じられぬほどスピードの出る中古のおんぼろ車で――東部へ向かったのである。
警視は、息子《むすこ》の言いなりになる父親だったけれど、案の定、すぐに上機嫌を吹っとばした。シカゴから――トレドを通り、サンダスキイを通り、クリーヴランド、ラヴェンナ、リスボンを通り、イリノイ州と、オハイオ州の町々の客になり、ウェスト・ヴァージニアのチェスターに着くまで――途中、ずっと、老警視は、むっつりと黙りこんだままで、時々きこえるのは、ご機嫌をとるようなエラリーの、一人しゃべりと、デューゼンバーグの排気のうなりだけという有様だった。
二人はアロヨに着いたのも知らずに通り越していた。というのはアロヨは人口二百人ぐらいの小さい部落だからだ。そして……T字型の交差点に来た。
頂上に横木がついている道標は、車が道のつきあたりにすべり込む前に、はるか遠くから、がっちりしたその黒い形が見えていた。アロヨ道路は、そこで終り、ニューカンバーランド=ピュータウン街道と直角に交わっているからである。そこで、道標はアロヨ有料道路の出口に面していて、片腕は東北のピュータウンを、もう一方の腕は南西のニューカンバーランドをさしていた。
警視が、がみがみどなった。「勝手にしろ。ばかなまねをしおって。ばかばかしくて話にならんぞ。わしをこんなところまで連れ出しおって……つまらん殺し沙汰で……わしは知らんぞ――」
エラリーは車の点火キイを切って、車を降り大股で歩いて行った。道には人かげはなかった。鋼《はがね》のような空にくっきりとウェスト・ヴァージニアの山々がそびえていた。足もとのほこりっぽい道は、ひびわれて、こちこちだった。身を切る寒さで、刺すような風がエラリーの外套《がいとう》のすそをばたつかせた。そして前方に、アロヨの変り者の小学校長、アンドリュー・ヴァンが、はりつけにされた道標が立っていた。
この道標は以前には白い色だったが、今は汚れて灰色になり、こびりついた泥で、ぶちになっていた。高さは六フィートで――その頂上はエラリーの頭とほぼ水平だった――そしてその腕木は長くて頑丈だった。エラリーが数歩はなれて立ちどまって見ると、どうみても、大きなTという字に見えた。それで、UPの記者が、この犯罪を『T殺人事件』と名付けたわけがわかった。――まず、この道標の型《かたち》がTの字型だし、次に道標の立っている角が、T字型の交差点だし、その上、交差点から二、三百フィート離れていて、エラリーが車で前を通った被害者の家のドアには、不気味なTという字が血でべったりと書かれていた。
エラリーはため息をして、帽子を脱いだ。それは必ずしも弔意を示す動作ではなかった。エラリーは、寒さと風にもかかわらず、汗をかいていたのである。ハンカチで額《ひたい》をぬぐい、一体、どんな気違いが、こんな残忍な非論理的な、全く不可解な犯罪を犯したのだろうと、いぶかった。死体さえ……と、エラリーは死体発見の模様を報道した新聞記事の一つを、まざまざと思いおこした。その記事は、暴力記事に練達なシカゴの有名記者が書いた特報だった。
本年の最もいたましいクリスマス物語が、今日、明らかにされた。ウェスト・ヴァージニアの小部落、アロヨの小学校長、アンドリュー・ヴァン、四十八歳の首を切られた死体が、クリスマスの早朝、村近くの、淋しい道路交差点の道標に、はりつけになって発見された。
被害者の上向きにされた掌《たなごころ》に、四インチの鉄釘が打ち込まれて、風雨にさらされた道標の腕木の両端にとめられていた。さらに二本の鉄釘が、柱の根本の方できちんとそろえた死者の足のくるぶしを突き刺していた。両わきの下にもなお二本の鉄釘がぶち込まれて、こんなふうにして死者の重みが支えられ、首は切りとられていたので、死体は大文字のTそっくりの形だった。
道標がT字型であり、道路の交差がT字型であり、犯人は被害者の血で、交差点にほど近いヴァンの家のドアに、Tの字をなぐり書きしている。そして、道標は、この狂人の着想によるTの字だ……
なぜクリスマスをえらんだのか。なぜ、犯人は犠牲者を、家から三百フィートもある道標に運んで、そこに死体をはりつけにしたのか。Tの字は一体、何を意味するのか。
同地の警察はめんくらっている。ヴァンは変人であったが、もの静かで、悪気のない人物だった。敵もなく――友人もなかった。ヴァンのただの一人の親しい人物は、クリングという単純な人間で、召使をつとめていた。クリングも目下行方不明で、ハンコック郡地方検事クラミット氏は、未公表の証拠によって、クリングもまた、現代アメリカ犯罪史上、最も血に飢えた狂人の犠牲になったものと信じられると言明している……
同じような記事は、もっとたくさんあって、不幸な校長のアロヨでの牧歌的な生活の詳細や、ヴァンとクリングの最近の動静について、警察が洗い出した情報の、貧弱なきれっぱしや、地方検事のはでな声明などを含んでいた。
エラリーは鼻眼鏡をはずし、レンズをみがいてから、またかけて、鋭い目で、気味の悪い犯罪の遺物を、眺めまわした。
左右の腕木は両端のあたりに、警官が鉄釘をほじくり出したぎざぎざの穴が、あいていた。どちらの穴も、鉄さびのような茶色をしたきたない|しみ《ヽヽ》で、ぐるりが汚れていた。細い茶色の蔓《つる》が両方の釘穴からたれ下っているように見えたが、それはアンドリュー・ヴァンの傷つけられた手から|したたった《ヽヽヽヽヽ》血のあとである。腕木が中柱から突き出ているところに、まだ他にも二つの釘穴があり、それには血のしみがついていなかった。これらの釘穴から抜きとられた鉄釘が死体の両|わき《ヽヽ》を支えていたのだ。道標の柱は、そのてっぺんに被害者の首が当っていたので、首のつけ根に無残に口をあけていた傷口から、したたり落ちた血のりが乾いてこびりついて、上から下まで血まみれで、いく筋にも血の流れたあとが、縞《しま》になってついていた。中柱の根本近くに、四インチも離れないで二つの釘穴が並んでいた。その釘穴も茶色の血痕でふちどられていた。それらは両|くるぶし《ヽヽヽヽ》を木に釘づけにした跡で、ふき出した血は柱が生けられている根本の地面にまで流れていた。
エラリーはむっつりして車に戻った。車では警視が不機嫌にいらだった例の調子で、運転席のとなりの革ばりの席にふんぞり返っていた。老警視は、古風な毛糸のマフラで首をまき、とがった赤い鼻が、危険信号のようにつき出していた。「おい」と、とがった声で「行こう。こごえそうだぞ」と言った。
「ちっとも面白くないんですか」と、エラリーはきいて、運転席へすべり込んだ。
「うん」
「そうでもないでしょう」エラリーはエンジンをかけて、にやりと笑った。車はグレイハウンド犬のように前へとび出し、二つの輪を中心にして、地をけずって、とび上って円を描き、前に来た道を、アロヨに向かって突進した。
警視は生命の危険を感じて座席のはじに、しがみついた。
「妙な思いつきですね」と、エラリーはモーターの轟音《ごうおん》にもまけない声で「クリスマスに、はりつけとは」と、どなった。
「なんだって」と、警視が言った。
「どうやら」と、エラリーが叫んだ。「ぼくはこの事件が気に入りそうです」
「運転に気をつけろ、しようがないやつだ」と、老人が急にわめいた。車は立ち直った。「何も気に入るこたあない」と、渋い顔で言い足した。「わしと一緒にニューヨークへ帰るんだ」
車はアロヨに駈け込んだ。
「どうも」と、警視はエラリーがデューゼンバーグを小さな木造の建物の前で急停車したとき、つぶやいた。「この辺の連中がやっとることはひどいもんだな。あの道標を犯罪現場に放っとくとは」と、首をふり「次はどこへ行くつもりなんだ」ときいて、小鳥のような小さい白髪頭《しらがあたま》をかしげた。
「お父さんにはてんで興味がないんだと思っていましたよ」と、エラリーは言って、歩道にとび降りた。「おい君」と、エラリーは、青いデニムの仕事着を着て、マフラをし、おんぼろの古ぼうきで歩道を掃《は》いている田舎《いなか》おやじに大声をかけた。「ここがアロヨの警察かい」その男はばかみたいにぽかんと口をあけていた。「きくまでもねえさね。はっきり看板が出てるでねえか……そうら、とんまだなあ」
眠ったような小さな新開地には、ひとにぎりの建物がより集まっていた。デューゼンバーグが停った木造の建物は、昔、西部によくあった、正面だけを飾った一夜造りの安普請のようだった。その隣りは|よろず屋《ヽヽヽヽ》で、一本の古ぼけたガソリン・ポンプが、店の前に立ち、小さなガレージもついていた。その木造の建物には、これみよがしに、手書きの看板がかかっていた。
アロヨ町役場
二人が探していた紳士はその建物の奥の『巡査』と|しるし《ヽヽヽ》てあるドアの中で、机によりかかって居眠りしていた。太って赤ら顔の田舎おやじで、黄色い出っ歯だった。
警視が鼻を鳴らすと、巡査殿は眠む気で重いまぶたを開いた。そして頭を掻くと、太いしゃがれ声で言った。「町長のマット・ホリスに用があんなら、留守だよ」
エラリーは微笑した。「私たちは、アロヨのルーデン巡査殿に用事なんです」
「おお、そりゃ、おれだ。何の用かね」
「巡査殿」と、エラリーは、もったいぶって「ご紹介するが、こちらは、ニューヨーク警察本部殺人課長リチャード・クイーン警視――というお方です」
「だれだね」ルーデン巡査は目をむいて「ヌーヨークの?」
「まさにそのとおり」と、エラリーは言って、父親の靴の爪先をふみつけて「ところで、君、用というのは――」
「どうぞ」と、ルーデン巡査は、あわてて椅子《いす》を足で押して警視にすすめた。警視はまた鼻を、ふふんと鳴らして、少し気取って腰をおろした。「今度のヴァンの事件なんでがすね。ヌーヨークのお偉方が、興味を持っとるとは知らなんだ。何がお知りんなりたいんでがすね」
エラリーはシガレット・ケースを取り出して巡査にすすめたが、巡査は断わって、大きな噛みたばこの板を口いっぱいに、かじりとった。「すっかり聞かせてもらいたいんだよ、君」
「話すことは何もありませんだ。シカゴとピッツバーグの連中が、わんさと来て、町じゅうをかぎまわって行きましただ。もう、うんざりしましたよ、こっちゃあ」
警視が皮肉そうに言った。「そうだろうとも、君」
エラリーは胸のポケットから札入《さつい》れをとり出して、ぱたりと開き、内の緑色の札を、思わせぶりに眺めた。ルーデン巡査の眠そうな目が輝き出した。「そうだねえ」と、巡査は急いで言った。「うんざりにゃ、うんざりだが、もう一度ぐらいなら、話せないこともないだよ」
「死体を発見したのはだれだね」
「ピートおやじでさ。知っちゃいまいがね。あの山のどこかの小屋に住んどる変り者でさあ」
「うん、それは知ってる。百姓も一人、かかり合いになっていなかったかな」
「マイク・オーキンズでさあ。ピュータウン街道の先の方に、一、二エーカーの畠を持っとります。オーキンズは、自分のフォードを運転してアロヨに来る途中だったらしいので――たしか、今日は月曜日だで――そうだ、金曜日の朝で、そいつが……クリスマスの朝の早朝でがしたよ。ピートおやじも、やっぱし、アロヨに向かっとって――おやじは時々、山を降りて来るんでさ。オーキンズはピートを拾って車に乗せたんでさ。ところが、あんた、オーキンズが、アロヨに向かって曲がらにゃならん、あの交差点にさしかかったとき、あそこにあれがあったんでさあ。道標の上にね。冷凍の仔牛《こうし》みたいに、こちこちんになってぶらさがってね――アンドリュー・ヴァンの死体が」
「現場は見たよ」と、エラリーが、おだてるように言った。
「この二、三日中に、おそらく百人の市《まち》の人が自動車で見に来とるんでさ」と、ルーデン巡査は|こぼ《ヽヽ》した。「交通整理がひと仕事でがした。とにかく、オーキンズとピートおやじは、すっかりおびえちまって、二人とも気絶しちまうような始末でね……」
「ふーむ」と、警視が受けた。
「連中は、もちろん、死体には手を触れなかったでしょうね」と、エラリーが念を押した。
ルーデン巡査は白髪頭を力強く振って「それどころか、連中は悪魔に追っかけられとるようにアロヨにとび込んで来てさ、わしをベッドからたたき起したんでさ」
「その時は何時だったかね、君」
ルーデン巡査はまっ赤になった。「八時でがした。だがね、その前の晩に、マット・ホリスの家で大ごちそうになったでね、寝呆しちまったんでさ――」
「君とホリス君とは、すぐに交差点へ駈けつけたんでしょうね」
「もちろんでさ、マットは――この町の町長でさ――マットとわたしは、若い者を四人狩り出して、駈けつけました。ひどいもんでがしたよ、あの男は――ヴァンのことだがね」と、巡査は首を振った。「生れてからこの方、あんなひどいものを、何にも見たこたあねえでさあ。しかも、クリスマスだってえ日にね。神をないがしろにするってもんでさ。ところが、ヴァンも不信心者でがしたよ」
「えっ?」と、すぐ警視が言った。その赤い鼻が、マフラの折り目から、槍《やり》のようにとび出した。
「不信心者だって。どういう意味かね」
「さよう、正確には不信心者じゃないかもしれねえがね」と、不愉快そうに、巡査がつぶやいた。
「わし自身も、あまり教会へ行かん方でがすが、しかしヴァンときたら、一度も行きませんでしたね。牧師さんが――そう、そのことは、もう話さん方がええでがしょう」
「面白い」と、エラリーは父の方を向きながら「じつに面白いですね、お父さん。どうも、狂信者のしわざのように思えますね」
「さよう、みんな、そう言うとりますだ」と、ルーデン巡査が言った。「わしにゃ――わかりません。わしゃ、ただの田舎巡査でさあ。何も知っちゃいないやね。この三年間に、浮浪人を一人たたき込んだきりでさ。だが、言うときますがね、あんた方」と、声をひそめて「こいつあ、ただ宗教だけでかたづくもんじゃありませんぜ」
「町には怪しい者がいないんだろうね」と、エラリーが、眉《まゆ》をしかめて、念を押した。
「そんな気違いは一人もおらんでさあ。たしかに――ヴァンの過去に関係のあるやつのしわざでさ」
「最近、町に来た、よそ者はいないかね」
「一人もいませんや……そこで、マットと、わしと、若い者で、死体の体格、体《からだ》つき、着衣、持っとった書類なんかから、被害者の確認をして、それから死体を取り降ろしましただ。町へもどる途中で、ヴァンの家へ寄ってみましただ……」
「それで」と、エラリーはいきごんで「何か見つかったかね」
「いやはや、ひどいもんだったね」と、ルーデン巡査は、噛みたばこを、くちゃくちゃ噛みながら「恐ろしい乱闘のあとがあってね、椅子はみんなひっくり返っとるし、部屋じゅう血だらけだし、表のドアにゃ大きくTという字が血で書いてあるし、新聞がわんさと書き立てたとおりでさあ。かわいそうに、クリングの奴《やっこ》さんも、姿が見えねえって始末でさ」
「ああ」と、警視が「ヴァンの召使だね。ただ消えちまったのかね。身廻りのものを持って行ったかね」
「それがね」と、巡査は頭を掻きながら「はっきりはわからねえんでがすよ。検死官が、わしの手から、事件をとり上げちまっただからね。連中がクリングを探してるってこたあ知っとりますだが――たしかに」と、ゆっくり片目をつむって「たしかに、ほかにも探しとるやつがおるようでがすが、それについちゃ、何も言えませんだ」と、あわてて言い足した。
「クリングの足どりはまだ何もないのかね」と、エラリーがきいた。
「なんにも聞いてないでさ。全国手配が出とりますだ。死体はウェアトンの郡役所に運んで行きましただ――ここから十一、二マイルばかり先でさ。そこで検死官が死体を預っとりますだ。検死官はヴァンの家を封鎖しましただ。州警察が捜査に当っとります。それに、ハンコック郡の地方検事がね」
エラリーは考えこんだし、警視は椅子にすわってもぞもぞしていた。ルーデン巡査はエラリーの鼻眼鏡《はなめがね》を、ぼんやり見つめていた。
「そして、首が切り落されてたんだね」と、やがて、エラリーがつぶやいた。「じつに奇妙だ。きっと、斧《おの》でやったんだろうな」
「そうでさ。家の中で斧を見つけましただ。クリングのもんで。指紋は出なかったでさ」
「そして、首は?」
ルーデン巡査が頭を振った。「影も形もなしでさ。きっと、キ印の犯人が、記念のつもりかなんかで持ってったにちがいねえでさ。いやはや」
「じゃあ」と、エラリーは帽子をかぶり直しながら「そろそろ行きましょう、お父さん。ありがとう、君」エラリーが差し出した手を巡査はだらしなく握った。そして、手の平に何かが押しつけられるのを感じると、にやにやと顔をほころばせた。よほどうれしかったとみえて、昼寝をあきらめて、通りまで二人を送って出た。
二 ウェアトンの正月
エラリー・クイーンは理屈抜きに、はりつけになった小学校長の事件に、ひどく心をひかれた。ところがエラリーは当然ニューヨークに帰らなければならないはずだった。というのは、警視に指令が来て、休暇を切り上げてセンター・ストリートに戻らなければならなかったし、警視の行くところ、つねにエラリーも従うからだった。しかし、ウェスト・ヴァージニアの郡役所の所在地を包む、ものものしい雰囲気《ふんいき》と、ウェアトンの町すずめのさえずりにこもる、おし殺されたような昂奮《こうふん》の気配とが、エラリーをこの町にひきとめてしまった。警視は渋々あきらめて、ニューヨーク行きの列車に乗り込むことにし、エラリーがピッツバーグまで車で送って行った。
「一体お前は」と、老人はエラリーが父親をプルマンカーの座席に押し込もうとしているときに、口をとがらして「何をするつもりでいるんだ。さあ――言ってみろ。きっと、もう解決できてるつもりなんだろう。どうだ」
「まあ、まあ、お父さん」と、エラリーがなだめるように「血圧に障《さわ》りますよ。ぼくはただ興味があるだけなんです。今までに、こんな大胆な気違い沙汰《ざた》に出会ったことは一度もありませんからね。ぼくは検死裁判を待ってみるつもりなんです。そして、ルーデン巡査がほのめかした証拠をこの耳で聞いてみたいんですよ」
「尻尾《しっぽ》を股にはさんてニューヨークへ、すごすご戻ってくるのが落ちさ」と、警視が憂鬱《ゆううつ》そうに予言した。
「おお、たぶんそうでしょうよ」と、エラリーはくそまじめに「それはそれとして、ぼくはちょうど小説のネタがつきて新しく仕入れたいところですからね。この事件はかなりのものになりそうなんですよ……」
二人は話をそれで打ち切った。列車がすべり出し、エラリーは、のびのびしながらも、なんとなく不安を抱いて、駅のプラットホームに立ちつくした。そして、その日のうちに、ウェアトンに車で戻った。
火曜日だった。エラリーは、その週の土曜日、つまり一月二日までに、ハンコック郡の地方検事からできるだけの情報をきき出そうとして、いろいろ手をつくした。地方検事クラミットは、抜け目のない野心家で、自分の重要さについて大げさに考えている尊大な老人だった。エラリーは検事の控え室のドアまで行ったが、どんなにたのんでも、ご機嫌をとっても、それより中には入れてもらえなかった。地方検事は面会謝絶です。地方検事は目下多忙です。明日いらしって下さい。地方検事はどなたにもお目にかかれません。ニューヨークから――クイーン警視のご子息ですか。申し訳ありません……
エラリーは唇を噛み、町々をぶらつき、根気よくウェアトンの町すずめの、さえずりに耳を傾けた。ひいらぎと、飾りもので、ぴかぴかなクリスマス・ツリーを立てつらねたウェアトンの町は、被害者の恐怖を肩代りしたみたいな大さわぎを演じていた。目に見えて外出する女は減り、子供たちは一人もいなかった。男たちは、あわただしく会合をして、言葉ずくなに、善後策を講じていた。リンチのうわさもたったが――この名案もリンチにかける相手がいないのでお流れになった。ウェアトンの警官たちが不安そうに町々を見廻っていた。州警察の連中が町へとび込んで来たり出て行ったりしていた。時々、地方検事クラミットのとがった顔が、走り去る自動車の中で冷徹な復讐の決意をうかべているのがちらりと見えた。
まわりでもみ合う空《から》さわぎの中で、エラリーは、平静な探究の態度を保ちつづけた。水曜日に、郡検死官のステイプルトンに会いに行った。ステイプルトンはいつも汗をかいている太った青年だったが、これまた口が固くて、エラリーは、すでに知っていること以外には、何もきき出せなかった。
そこでエラリーは残りの三日間を、被害者アンドリュー・ヴァンについて、できるだけ調べ上げることに費した。ところが、その人物について、わかっていることといったらほとんど、信じられないくらい少なかった。直接本人に会った者はごくわずかだった。ヴァンは孤独癖のあるひきこもりがちな男で、めったにウェアトンに出て来ることもなかった。アロヨの村人たちのうわさでは、ヴァンを模範的な先生だと思っているらしかった。生徒たちに寛大ではなかったが、親切だったし、アロヨ町の町会の意見では、勤務ぶりも満足すべきものと見られていた。それに、ヴァンは教会へは行かなかったけれども、絶対に酒はのまない男だった。そして、このことが、神をおそれる堅気の田舎町では、ヴァンの地位を固めていたように思われる。
木曜日には、ウェアトンの有力新聞の編集者は、紙面を少し読みものふうにすることにした。次の日が元日だから、少しは実のあるものにしないともったいないチャンスだと思った。ウェアトンの精神的|糧《かて》を司《つかさ》どる六人の聖職にある紳士たちが、新聞の第一面をその説教で飾った。説くところによれば、アンドリュー・ヴァンは、神をおそれぬ男であった。神をおそれぬ生き方をする男が、神に見放されて死ぬのは当然である。しかしながら、暴力から生れる行為は……編集者は、それだけでやめておかなかった。十ポイント活字で、でかでかと組んだ社説があった。その社説は、フランスの青ひげランドリュー・デュッセルドルフの殺人鬼、アメリカの怪人、八つ裂きジャック、その他、虚実とりまぜた多くの怪物たちを賑々《にぎにぎ》しく引用していた――つまり、善良なウェアトンの人々に、元旦料理のデザートとして提供する気の利いた話題というわけだった。
土曜日の朝、検死裁判が開かれることになった郡裁判所は、定刻前から、入口に長い行列ができていた。エラリーは頭を働かせて先頭第一にのりこんで来た一人だったから、その席は第一列で、手すりのすぐ後ろだった。九時少し前に、検死官ステイプルトンが自らあらわれた時、エラリーは面会を求めて、ニューヨーク市警察長官のサインのある電報を見せた。この胡麻《ごま》〔アリババの「開けごま」〕のおかげで、アンドリュー・ヴァンの死体が安置してある控え室にはいる許可を得た。
「死体はひどいことになっていまよ」と、検死官が、せきこみながら言った。「まさか、クリスマス週間に裁判も開けませんでね、たっぷり八日も経っちまいましたよ……その間、死体は土地の葬儀屋の死体置場に保管しておいたんです」
エラリーは体を固くして、死体を覆っている布をはいだ。その胸の悪くなるような眺めに、急いで布をもとに戻した。死体は大男だった。頭のついているはずのところには、何もなく……ぽこんと穴があいていた。
そばのテーブルの上に、被害者の衣類がのせてあった。地味な濃いグレーの服、黒靴、シャツ、靴下、下着類――どれも血のりでこわばっていた。死者の衣類から取り出した品物は――鉛筆一本、万年筆一本、財布一個、鍵《かぎ》一束、くしゃくしゃになったシガレット一包み、小銭が少し、安ものの懐中時計一個、古手紙一通――エラリーの見るところでは、どれもほとんど興味のないものばかりだった。いくつかの品物にA・Vと頭文字がついているのと、手紙に――ピッツバーグの本屋からのもので――アンドリュー・ヴァン殿と宛名が書いてある事実を除いては、それらの中には検死裁判に重要そうなものは何もなかった。
ステイプルトンは、ちょうどそのとき部屋にはいって来たばかりでエラリーをいぶかしげに見つめている背の高い、気むずかしそうな老人の方を振り向いて紹介した。「こちらはクイーンさん、――こちらは地方検事クラミット氏です」
「どなたかね」と、クラミットが鋭い口調で言った。
エラリーは微笑しながら、会釈《えしゃく》して検死法廷に引き返した。
五分ほど経って、検死官ステイプルトンが槌《つち》をたたいたので、すし詰めの法廷が静かになった。型どおりの事前手続きが大急ぎでかたづけられると、検死官はマイクル・オーキンズを証人台へ呼び出した。
オーキンズは、ささやきと人々の注目のうちに、通路を足音高く歩いて出た。マホガニー色に日灼《ひや》けした、ごつごつの腰が曲がった老百姓だった。おどおどと腰を下ろすと、大きな手を組み合わせた。
「オーキンズさん」と、検事はぜいぜい声で「故人の死体を発見した模様を話して下さい」
百姓は唇をなめた。「へえ、旦那。先週の金曜日の朝、わしはフォードに乗って、アロヨに来る途中でがした。そいで、アロヨ街道にはいるちょっと手前で、ピートじいさんが山を降りて来て、街道をとぼとぼ歩いとるのを見つけたです。乗せてやりましただ。そいから、あの道路の曲がり角にさしかかっただ――すると、すると死体がありましただ。道標につるさがってやした。手と、足のとこで釘づけになってやした」オーキンズの声がかすれた。「わしらあ――わしらあ一目散に町へ逃げこんだんでがす」
傍聴席で忍び笑いした者がある。検死官は槌をたたいて、静粛にさせた。「死体に手を触れたかね」
「とんでもねえことで、旦那。わしらあ車からよう降りませんでしたわ」
「よろしい、オーキンズさん」
百姓はほっとため息をして、大きな赤いハンカチで額をふきながら、通路をよろよろと引き返した。
「えー、ピート老人は?」
ざわめきがおこり、法廷の後ろの方で、風変りな老人が立ち上った。もじゃもじゃの白髪まじりのひげと、眉毛のたれ下った、しゃんとした老人だった。その老人はとてつもないぼろぼろな服装で――破れて、あかだらけで、つぎはぎだらけの、古い布のよせ集めを着ていた。そして、よろよろと通路を歩き、気おくれしながら、頭を振って証人席にすわった。
検死官はじりじりしたようだった。「君の本名は?」
「へえー?」と、老人はわきを見つめて、何を見るでもなく、目を光らせた。
「君の名だ。なんと言うんだね――ピーター何?」
ピートじいさんは頭を振った。「名なしでさあ」と、はっきり言った。「ピートじじいっていうのが、わしでさ。死んだんでさ。わしは、二十年前に死んどるんでさあ」
法廷は不気味に静まりかえった。ステイプルトンは、当惑してあたりを見廻した。検死官の雛壇《ひなだん》のそばにすわっていた中年のはしっこそうな小男が立ち上った。
「それでいいんですよ、検死官さん」
「すると、ホリスさん」
「それでいいんです」と、その男は大声でくり返した。「頭が変なんですよ、ピートじいさんは。ずっとあんなふうなんですよ――山にこもっちゃってからね。アロヨの山のどこかに小屋を持っていて、二月に一度ぐらいずつ、町へ来るんです。罠《わな》でもかけて細々やってるんでしょうよ。アロヨでは、顔がうれてます。まっとうな人間ですよ、検死官さん」
「そうですか、ありがとう、ホリスさん」
検死官は太った顔をぬぐった。そして、アロヨの町長は、みんなが|うなずく《ヽヽヽヽ》ざわめきの中で腰を下ろした。ピートじいさんは顔を明るくしてマット・ホリスの方へ、あかだらけの手を振った。……検死官は、無愛想に質問を続けた。老人の答は|あいまい《ヽヽヽヽ》だったが、それでもマイクル・オーキンズの陳述を正式に裏書きするだけのことは聞き出せた。そうして、山男は放免された。老人は目をぱちくりさせながら、よろよろと自分の席に戻った。
ホリス町長とルーデン巡査が、銘々の陳述を行なった。――二人が、どういうふうに、オーキンズとピートじいさんによって、ベッドからたたき起されたか、二人が交差点に行き、死体を確認し、釘を抜き、死体を車にのせて運び去り、ヴァンの家に立ち寄り、そこの修羅場《しゅらば》と、ドアに血で書かれたTの字を見たか……
太った赤ら顔の老ドイツ人が呼ばれた。「ルーサー・バーンハイムさん」
ドイツ人は微笑して、金歯を見せながら、腹をゆすぶって着席した。
「君はアロヨで|よろず屋《ヽヽヽヽ》を経営しとるね」
「はい、そうです」
「アンドリュー・ヴァンを知っていましたか」
「はい。あの人はわたしの店で買いものをしとりました」
「知り合いになられてどのくらいになりますか」
「ああ、長いことです。いいおとくいでした。いつも現金払いでした」
「品物は自分で買いに来たんですか」
「時たまです。たいていは、召使のクリングでした。しかし、金を払いには、いつも自分で来ました」
「人好きのいい方でしたか」
バーンハイムは目をつり上げて「そうですね……よくもあり、悪くもある」
「というと、肚《はら》はわらないが、愛想だけはいい」
「そうです。そうです」
「ヴァンは変人だったといえますか」
「え? おお、そうですな。たとえば、いつもキャビアを注文していました」
「キャビアをね」
「はい。キャビアを買うおとくいはあの人だけでした。わたしはあの人のためにいつも特別に注文していました。あらゆる種類のを――ベルーガ〔カスピ海産最上のキャビア〕も、赤〔鮭のキャビア〕も、しかしたいていは、黒の上ものでした」
「バーンハイムさん、ホリス町長と、ルーデン巡査と一緒に、次の部屋へはいって、死体の正式確認をして下さい」
検死官は三人のアロヨ町民を連れて、席をはなれた。一同が戻ってくるまで、ざわざわさわぎが続いた。善良なよろず屋の亭主の赤ら顔は、灰色になり、目がおびえ上っていた。
エラリー・クイーンはため息をした。人口二百人の村の小学校長がキャビアをいつも注文していたとは! おそらく、ルーデン巡査は見かけより、抜け目のない男だろう。ヴァンは明白に、現在の職業や環境が示すより、はなやかな過去を持っていたにちがいない。
クラミット地方検事の、背が高くやせた姿が、ゆっくりと証人台にはこばれた。ちょっとした緊張が傍聴席をかすめ過ぎた。それまでに終ったことはつまらないことだった。そしてこれが意外な暴露の初めだった。
「地方検事さん」と、ステイプルトン検死官が、深く前にのり出してきいた。「故人の過去の調査をされましたか」
「はい」
エラリーは椅子に深く身を沈めていた。なんとなくその地方検事が気に入らなかった。それに、クラミットの氷のような目には、不吉なものがあった。
「どうか、発見されたことを陳述して下さい」
ハンコック郡の地方検事は、証人椅子の腕をつかんだ。「アンドリュー・ヴァンは、九年前に村の学校教師の募集広告に応じて、アロヨにやって来たのです。身元照会先も学歴も満足すべきものだったので、町会は雇い入れることにきめました。ヴァンは召使のクリングをつれて来て、アロヨ街道に家を借り、死ぬときまで、そこに住んでいました。教師としての任務は充分にはたしました。アロヨに住んでいた間の行状には、非難の余地はありません」クラミットは思わせぶりに言葉を切った。「部下の捜査官たちは、あの男がアロヨにあらわれる以前の経歴を洗い上げようとしました。そして、アロヨに来る前には、ピッツバーグで、公立小学校の教師をしていたことをつきとめました」
「すると、その前は?」
「不明です。しかしヴァンは帰化市民で、十三年前にピッツバーグで市民権を得ています。ピッツバーグに保存されている書類によれば帰化する前の国籍はアルメニアで、生れは一八八五年です」
アルメニア人か、と、エラリーは手すりの後で顎《あご》をなぜながら考えていた。キリストの聖地ガリラヤからそう遠くないな……奇妙な考えが頭の中へ次から次へと殺到してくるのを、エラリーは一生懸命に追い払いつづけた。
「あなたは、ヴァンの召使、クリングのことも調査されましたか、地方検事さん」
「しました。あの男はピッツバーグのセント・ヴィンセント孤児院で育てられた捨て子で、成年に達してからは、孤児院の雑役夫として雇われていたのです。そして、ずっとそこで生活していたのです。ところが、アンドリュー・ヴァンがピッツバーグの公立小学校を辞《や》めて、アロヨからの任命を受けたときに、孤児院を訪ねて、人を一人雇いたいと申し込んだのです。そしてクリングが注文にかなったらしく、ヴァンは綿密に調べて、気に入ったといって、その後二人はアロヨに来て、ヴァンの死ぬときまで、一緒にそこに住んでいたのです」
エラリーは、どんな動機で、ピッツバーグのような大都会で職を持っていた男が、それを辞めてアロヨのような片田舎に就職しなければならなかったのだろうと、ぼんやり考えていた。前科があって、警察の目からのがれたかったのではあるまいか。納得《なつとく》できない、隠れるなら大都会にやって来るはずで、わざわざ田舎へ来る|て《ヽ》はない。ちがうな。きっと、もっと深い、もっとこみ入ったわけがあるにちがいない。おそらく、死者の頭にこびりついて離れないものがあったのだろう。人は失敗の生活を重ねた後で、孤独を求めたがるものだが、キャビア好きのアロヨの小学校長、アンドリュー・ヴァンも、どうやらこのケースに当てはまるものかもしれないな。
「クリングはどんな性格の男でしたか」と、ステイプルトンがきいた。
地方検事は面倒臭そうに「孤児院の記録によると、かなり単純な男で――心理学的には精神薄弱の部類に入れていたようです。毒にも薬にもならん男です」
「クリングは、かつて、殺人を犯すような傾向を示したことがありますか、クラミットさん」
「いいえ。クリングは、セント・ヴィンセントでは、多少、ぐずで、ばかだが、おとなしい性質だと見られていました。孤児院の子供たちには親切でした。控え目で、不平も言わず、目上を尊敬していたそうです」
地方検事は、改めて唇をしめし、いよいよ、お待ちかねの新事実の提出に移ろうとする様子だったが、ステイプルトン検死官は、急に地方検事を放免して、アロヨの|よろず屋《ヽヽヽヽ》の亭主を再喚問した。
「あなたは、クリングを知っていましたか、バーンハイムさん」
「はい、知っていました」
「どんな種類の人間でしたか」
「もの静かな男でした。気がよくて、牡牛のような、黙りやでした」だれかが笑ったので、ステイプルトンがむっとした様子で、前かがみにのり出した。
「バーンハイムさん、クリングはアロヨでは力持ちで通っていたそうですが、本当ですか」
エラリーは肚の中で笑った。この検死官は単純な人間なのだなと思った。
バーンハイムは喉をならして「ああ、そうです。クリングは、とても力持ちでした。砂糖|樽《だる》を持ち上げられるほど! けれど、蝿《はえ》一匹殺せないでしたよ、検死官さん。こんなことがありましたっけ――」
「それで結構です」と、ステイプルトンはもどかしそうに「ホリス町長、もう一度、証人台へ、どうぞ」
マット・ホリスは顔を明るくした。舌のよくまわる小男だと、エラリーは見てとった。
「あなたは町会の議長ですね、ホリス町長さん」
「ええ」
「アンドリュー・ヴァンについて、知っておられることを、陪審の皆さんに話してあげて下さい」
「申し分のない人物でした。だれともことをかまえたことはありません。勤勉な人物でした。学校の時間以外は、いつも一人で、私の貸家にとじこもって、ちゃんとやっていました。人によっては偏屈者《へんくつもの》だとか、どうせ外来者《よそもの》だとか考えていたようですが、私は、そうは思いません」町長は宣言するように「じつにもの静かな人物というのみです。近所づきあいをしない? そりゃそうかもしれないが、あの男のかってです。私やルーデン巡査と一緒に魚釣りに行きたがらなかったといっても、それも、あの男のかってですよ」ホリスはにこにこと一人でうなずいた。「それにあの男は、われわれ同様、立派な英語をしゃべりましたよ、検死官さん」
「あなたの知られているかぎりでは、あの男を訪ねて来た者がいましたか」
「いいえ。しかしむろん、たしかなことは言えません。とにかく、変った男でした」と、町長は考えこみながら続けた。「二度ばかり、私が用事でピッツバーグへ出かけたとき、本を買って来てほしいとたのまれました――それが、妙な本で、えらく高尚なやつでした。哲学、歴史、星に関するようなものでした」
「なるほどねえ、大変面白いですよ、ホリスさん。ところで、あなたはアロヨの銀行家ではありませんでしたかね」
「ええ、そうです」ホリス町長は顔を赤らめて、恥ずかしそうに小さな足を見おろした。エラリーは、町長の顔色から、アロヨの町を何から何まで、牛耳《ぎゆうじ》っているなと読みとった。
「アンドリュー・ヴァンは、あなたの銀行に口座を持っていましたか」
「いませんでした。あの男はいつも給料を現金でもらっていましたが、どこの銀行にも預けていたとは思われません。というのは二度ほどきいてみたことがあるからです――これもまあ、商売は商売というわけでして――きいてみると金は家にしまっておくと言っていました」ホリスは肩をしゃくって「銀行を信用しないと言うのです。まあ、好き好きですがね。私のとやかく言う筋合いではないんで――」
「そのことは、アロヨでは知れ渡っていましたか」
ホリスはためらった。「そうですなあ。私は二、三の連中にはその話をしたようです。この町のほとんどの連中が、校長の風変りな片意地を知ってただろうと思います」
町長が証人台から降ろされて、ルーデン巡査が再喚問された。巡査は、こんなことの扱いには慣れて万事心得ているというふうに、ちょっと形をつけて進み出た。
「君は、アンドリュー・ヴァンの家を捜査したかね、十二月二十五日の金曜日の朝」
「しました」
「金が見つかったかね」
「いいえ」
はっと息をのむ気配が法廷にひろまった。なんだ物とりか! と、エラリーは眉をしかめた。そんな辻褄《つじつま》の合わない話ってない。第一、この犯罪は宗教的狂信者の犯行のしるしを完全にそなえている。それなのに金が盗まれているなんて、どうもこの二つはしっくり結びつかない。エラリーは身をのり出した。……一人の男が雛壇に何かを運んでいた。それはひしゃげた安っぽい緑色のブリキ箱だった。かけがねがひどくねじまげられて、小さな錠前がぶらんとぶらさがっていた。検死官は、それを係官から受けとると、ふたをあけて、さかさまにしてみた。中は空だった。
「君はこの緑色のブリキ箱に見おぼえがあるかね、ルーデン巡査」
ルーデンは鼻を鳴らした。「申し上げます」と、しわがれた太い声で「ヴァンの家で、それとそっくりなのを見つけました。あの男の金箱です。間違いないです」
検死官は、それを差し上げて、首をのばして見つめている陪審の村人たちに見せた。
「陪審員の皆さん、どうぞ、この証拠物件をよく見て下さい。……もう君は、よろしい。ルーデン巡査。アロヨの郵便局長さん、どうぞ、証人台へ」
しなびて小さな老人が証人席に、ぴょいっと、とび上った。
「アンドリュー・ヴァンのところへはどっさり郵便物が来ましたか」
「いいえ」と郵便局長が甲高い声で「本の広告ぐらいのもんでほとんど来んでしたよ」
「死ぬ前の一週間の間に、手紙か小包は来ませんでしたか」
「来んでしたな」
「時々、手紙を出しましたか」
「いいえ。ときたま、一、二通ぐらいのもんでして。この三、四か月は一通も出しとりません」
検死医、ストラング医師が呼ばれた。その名を呼び上げるのを聞くと、傍聴人たちは、急にざわめいた。不景気な顔をしたみすぼらしい男で、まるでこの世の暇があり余るといった調子で、ぐずぐずと通路を出て行った。
席につくと検死官がきいた。「ストラング先生。あなたが故人の死体を最初に検死されたのは、いつですか」
「見つかった二時間後です」
「陪審員たちに、大体の死亡時刻を言っていただけますか」
「ええ。交差点で発見された時には、死後六時間から八時間経過したものと言えましょう」
「すると、殺されたのは、クリスマス・イブの真夜中前後ということになりますね」
「そのとおりです」
「死体の状態について、この審問に適切と思われる点を、もっと詳しく、陪審員たちに話していただけますか」
エラリーは微笑した。ステイプルトン検死官は得々としていた。言葉は役人風で重々しかった。傍聴人たちが、口をぽかんとあけているところからみると、かなり感銘を受けているらしい。
ストラング医師は足を組んで、面倒臭そうに言った。「頭を切りとったあとの首の生々《なまなま》しい傷口と、両手両足の釘の穴のほかには死体には特にこれという痕跡はありません」
検死官は腰を浮かして、だぶだぶの腹を、机のふちに押しつけた。「ストラング先生」と、しゃがれ声できいた。「その事実からの、あなたの結論は?」
「故人はおそらく頭を殴られたか、撃たれたものでしょう。体にはほかに暴行を加えられた形跡がありませんから」
エラリーはうなずいて、このみじめったらしい田舎医者も、だてに頭を持っているわけではないと思った。
「私の意見では」と、検死医官は続けた。「頭を切断されたときには、被害者はすでに死んでいたと思います。首の根本に残っている傷口の性質から考えて、非常に鋭利な道具が使われたにちがいありません」
検死官は目の前の机の上に、注意深く置かれている品を取り上げて、かざした。柄の長い、どきどきするような斧で、刃の血のりのついていない部分は、ぎらぎら光っていた。「ストラング先生、この兇器だと、被害者の胴体から頭を切断できると言えましょうか」
「できますな」
検死官は陪審員の方を向いた。「この証拠物件は、アンドリュー・ヴァンの家の裏手の台所の床の上で発見されたものであり、殺人はそこで行なわれたのです。皆さんの注意を喚起しておきますが、この兇器には指紋はついていませんが、それは犯人が手袋をはめていたか、斧の使用後、指紋をきれいにふきとったかを示すものであります。この斧は故人の所有物であり、ふだんあの台所に置かれていて、行方不明のクリングが薪《まき》を割るのにいつも使っていたことが判明しています。……結構でした、ストラング先生。ピケット警視、証人台へどうぞ」
ウェスト・ヴァージニア州警察の長官が声に応じた――背の高い軍人風の男である。「ピケット警視、報告をうかがいます」
「アロヨ付近の徹底的な捜査では」と、警視は機関銃のような早口で言った。「殺された男の首は、ついに発見されませんでした。行方不明になった召使クリングの足どりも発見されていません。クリングの人相書は隣接の各州に送付され、目下探索中です」
「あなたは故人と失踪者《しっそうしゃ》、両方の最近の動静についての捜査を担当しておられたはずですね、警視。何か発見されましたか」
「アンドリュー・ヴァンが最後に姿を見せているのは、十二月二十四日木曜日の午後四時です。あの男は、アロヨ在住の、レベッカ・トローブ夫人を訪ねて、同人の学校の生徒である、夫人の息子ウィリアムの成績が落ちているのを警告しています。その後、同家を辞してからは、われわれの調べたかぎりでは、だれ一人生きているあの男を見かけた者はおりません」
「では、クリングは?」
「クリングを最後に見かけた者は、アロヨとピュータウンの中間の農夫、チモシイ・トレイナーです。同じ日の午後四時ちょっと過ぎに見かけています。そのときクリングはトレイナーから馬鈴薯を一ブッシェル買い、現金で払い、肩にかついで運び去っています」
「その一ブッシェルの馬鈴薯は、ヴァンの住居で発見されましたか。この点は、クリングがはたして家に戻ったかどうかを決定するに、重要だと思われます。警視」
「発見されました。手もつけずに置いてありました。トレイナーによって、あの日の午後、あの男がトレイナーから買ったものであることを確認されています」
「ほかに何か報告がありますか」
ピケット警視は答える前に、法廷を見まわした。「むろん、あります」と、おごそかに言ったときに、警視の口は、おとし穴のように見えた。
法廷は死のように静まりかえった。エラリーは弱々しくほほえんだ。とうとう新事実のあらわれるときが来た。ピケット警視は、のり出して、検死官の耳に何事かをささやいた。ステイプルトンは目をぱちくりし、微笑して、丸々と肥えた頬を拭き、それから大きくうなずいた。傍聴人たちも、来たるべき事態を感じて、各自の席でもぞもぞした。ピケットは法廷の後部にいる何者かに、ゆっくり合図した。
一人の背の高い機動隊員が、意外な人物の腕をつかんであらわれた。小柄な老人で、ぼさぼさの髪は長くて茶色だし、もじゃもじゃの茶色のひげを生やしていた。きらきら光る小さな目は狂気をおびていた。肌はよごれたブロンズ色で、皺がより、まるで一生、野外生活をして来たかのように、太陽と風にさらされていた。その男の着衣は――エラリーは目を細めた――どろまみれのカーキ色の半ズボンと、古ぼけた灰色の丸首のセーターだった。灰色の血管が浮いている茶色の素足には奇妙なサンダルをはいていた。そして手には目を見張らせるようなものを持っていた――頭に荒彫りの蛇がついている曲がりくねった杖で、明らかに、へたな職人の手作りだった。
とたんにざわめきがおこり、笑い声が爆発した。検死官は気違いのように槌をたたいて静粛を求めた。
機動隊員と珍妙な容疑者の後から、油のしみがついた仕事着をつけた色白の青年が足をひきずって来た。その青年が大部分の傍聴人たちと顔見知りなのは明白だった。青年が歩いて行くとき、こっそりと握手の手をのばしたり、元気づけるようにそっと肩をたたいたり、法廷じゅうの傍聴人がみんな、青年のおどおどしている姿を遠慮なく指さしたりしていた。
三人は手すりの入口をはいって席についた。茶色のひげむくじゃらの老人は、見るからに、激しい恐怖にとらえられていた。目がきょときょとし、やせた茶色の手で、持っている奇妙な杖を、けいれんするように握りしめたり、ゆるめたりしていた。
「キャスパー・クローカー、証人台へ」
油じみの仕事着をつけた色白の青年は、生つばを呑んで立ち上り、証人台についた。
「きみはウェアトンの本通りで、ガレージとガソリン・スタンドを経営しているね」と、検死官がきいた。
「むろん、そうですよ。知ってるじゃありませんか、あんたは――」
「きくことに答えて下さい」と、ステイプルトンがきびしい口調で「クリスマス・イブの夜十一時ごろにおこったことを、陪審員に説明して下さい」
クローカーは深く一息して、最後の味方の目でも探すようにあたりを見まわしてから、言った。
「ぼくはクリスマス・イブにはガレージをしめました――お祝いしたかったんです。ぼくはガレージの真裏の家に住んでいます。あの晩の十一時に、ぼくが家内と表の部屋にくつろいでいると、どこか外から、おそろしくどんどんたたく音やわめき声がきこえてきたんです。どうやら、うちのガレージからきこえるらしいので、とび出して行きました。なにしろまっ暗闇《くらやみ》でしたよ」また生つばを呑んで、すぐ続けた。「すると、そこに一人の男がいて、うちのガレージの戸をたたいてました。その男がぼくの姿を見かけると――」
「待って下さい、クローカーさん。その男はどんな身なりでしたか」
ガレージの男は肩をしゃくった。「暗くて、はっきりしませんでした。どっちみち、とくに注意してみる理由もなかったのでね」
「その男の顔をよく見ましたか」
「ええ、見ました。その男は、うちの軒灯《けんとう》の下に立っていたんです。顔はすっかりくるんでいましたよ。――あの晩はとても寒かったが――しかし、ぼくにはその男が顔を見られたくないらしいんだなと思えました。とにかく、見たところでは、きれいに顔を剃っていて、浅黒く、どうも外国人くさい男でした。言葉は立派なまともなアメリカ語をしゃべっていましたがね」
「いくつぐらいだったと思うかね」
「そう、三十代のなかばで、少し上か、少し下ってとこかな。はっきり言えないけど」
「用件はなんでしたか」
「アロヨに連れて行ってもらうために車を雇いたいと言うんです」
エラリーは、すぐ後の列で、がっちりした男が喘息《ぜんそく》のような息づかいをするのを聞くことができた。それほど法廷はしいんとしていた。一同は緊張し、椅子のふちにのめりそうに、体を前にのり出していた。
「それでどうしましたか」と、検死官がきいた。
「どうって」と、クローカーはややおちつきを取り戻して答えた。「ぼくは大して気がすすまなかった――なにしろ、クリスマス・イブの夜の十一時だし、家内を一人っきりにしようってんですからね。しかし、その男は財布を取り出して言うんですよ。『わしを連れて行ってくれたら十ドルやろう』ねえ、あんた、ぼくのような貧乏人には、とてつもない大金ですよ。で、ぼくは言ったんです。『オーケー、お客さん、乗んなさいよ』」
「その男を乗せて行ったんですね」
「ええ、そうですよ。行きました。ぼくは外套を取りに戻って、家内に三十分ぐらい留守にすると言ってから、引き返して、うちの古車を引き出して、男が乗り込むと、出かけたんです。ぼくはアロヨのどこに行きたいのかとききました。すると、あの男が『アロヨ街道と、ニューカンバーランド=ピュータウン道路が出会う場所がありゃしないか』ときくので、ええ、ありますよとぼくが答えました。その男が言うには『そうか、そこへ行きたいんだ』でぼくはそこまで乗せて行って、あの男は車から出ると十ドルくれたんで、ぼくは車を廻して、まっしぐらに家へ戻ったんです。とにかく、ぞっとして、おじけついちゃったんです」
「君が別れたとき、その男はどんなことをしていたか見たかね」
クローカーは力を入れてうなずき「ぼくは肩ごしに見ていました。危く、そばの溝《みぞ》に車を落すとこでしたよ。その男はアロヨの方へ曲がって歩いて行きました。とてもひどいびっこでしたよ」
機動隊員のとなりにすわっている、茶色のひげむくじゃらな怪人がぐっと喉を鳴らした。その目は逃げ道を探すように、きょろきょろとあたりを見まわしていた。
「びっこはどっちの足でしたか、クローカー君」
「そう、左足をかばっているようでした。全身の体重を右にかけていました」
「君がその男を見たのは、それが最後ですか」
「ええ、そうです。それに最初でしたよ。あの晩まで一度も見かけたことのない男でしたよ」
「結構でした」
うれしそうに、クローカーは証人席から下りて、通路を、ドアの方へ急いで行った。
「さて」と、検死官ステイプルトンは、茶色のひげむくじゃらの小男の方へ目を移した。その男は椅子にうずくまって、ガラス玉のような目を光らせていた。「さあ、君だ、証人台へ」
機動隊員は立って、茶色の|ひげむくじゃら《ヽヽヽヽヽヽヽ》を促して立たせて、前へ押しやった。その小男はさからわずに出て行ったが、その気違いじみた目には狼狽《ろうばい》の色があり、ともすれば尻ごみがちだった。機動隊員はその男を無造作に証人席に押し込み、自分の席にもどった。
「お前の名は?」と、検死官がきいた。
その男の珍妙きわまる風采容貌《ふうさいようぼう》が、一段高い証人席に上って、まる見えになると、傍聴人たちから爆笑がわき上った。それが静まるまでにかなり長くかかった。その間、証人は唇をなめ、体をあちこちとゆすぶり、一人でぶつぶつ言っていた。エラリーは、その男が何かを祈っているように感じて、はっとした。たしかに祈っているのだ――あきれたことには――杖の頭の木彫の蛇に向かって祈っているのだった。
ステイプルトンは神経質に同じ質問をくり返した。その男は杖を持った手を腕いっぱいにのばして、やせた肩をそびやかし、その姿勢から、あらんかぎりの力と威厳を呼びおこすかのようにして、まっすぐにステイプルトンの目をにらみながら、よくとおる甲高い声で言った。「わしは真昼の太陽の神、ハラーフトと言う者じゃ。隼《はやぶさ》の、ラ・ハラーフトじゃ。」
あっけにとられた沈黙があった。検死官ステイプルトンは目をぱちくりした。いきなり面と向かって、だれかから、わけのわからぬおどかしを、たたきつけられたかのように、たちすくんだ。傍聴人たちは、あいた口がふさがらなかったが、やがてヒステリーのようにげらげら笑い出した――さっきはあざけりをふくんだ笑いだったが、今は名状しがたい恐怖にかき立てられる笑いだった。この男の身辺には何か、おそろしい不気味なものがただよい、ただ見せかけとは言いきれない、あまりにも気違いじみた真剣さが発散していた。
「なんという名だって?」と、検死官が弱々しくきいた。
自らハラーフトと名乗る男は、両腕を骨ばった胸の前で重ね合わせ、少しはなして例の杖をしっかりと握りしめて、答えようともしなかった。
ステイプルトンは頬をなぜて言葉を続ける元気も失ったようだった。「えーと――お前の職業は何かね、君――ハラーフトさん」
エラリーは椅子にいっそう深く沈みこんで検死官の代りに恥ずかしくなり顔を赤らめた。場面は見るにたえなかった。
ハラーフトはこわばった唇で言った。「わしは弱者の救い主じゃ。病める者を癒《いや》し、強くする。わしはあけぼのの船『マンゼット』で海行く者じゃ。わしはたそがれの船『メゼンクテット』で海行くものじゃ。人々はわしを、天地《あめつち》のきわみの神、ホルス〔エジプトの太陽神〕とあがめる。わしは大空の女神であり、ケブの妻であり、イシスとオシリスの母であるヌートの息子じゃ。わしはメンフィス〔カイロの南方十二マイルに残る古代神殿〕の至高の神じゃ。わしはエトームと、ともに――」
「やめろ!」と検死官が叫んだ。「ピケット警視。一体、こりゃあ何事だね。あなたはこの狂人が、検死法廷に、何か重要な供述をすると言ったように思うがね、私は――」
州警察の長官があわてて立ち上った。ハラーフトと名乗る男は、おちついて待っていた。初めのうちの恐慌状態は完全に消え失せて、いまや自分がこの場の支配者であると、ゆがみ狂った頭の底で悟りきっているかのようだった。
「すまんです、検死官殿」と、警視はすぐ言った。「申し上げておくべきでした。この男は常人ではないのです。陪審員の皆さんに、この男が何をしているか、お話しておく方がいいでしょう、そうすればもっと、適切な質問ができるでしょうからね。この男は一種の|まじない《ヽヽヽヽ》の見世物をやっとるのです――くだらんもので、太陽や星や月や、妙なエジプトのファラオ〔王〕の絵をもじったものなのです。自分が太陽か何かだと思っとるらしいのです。無害な男です。ジプシーのように、古い箱車を馬にひかせて、町から町へ旅をしてまわっています。イリノイ、インディアナ、オハイオ、ウェスト・ヴァージニアを渡り歩いて、説教したり、髪まで生えるという万能薬を売り歩いとるんです――」
「それは不老長寿の霊薬じゃ」と、ハラーフトはおごそかに言った。「太陽の光りをびんにつめたのじゃ。わしは神託をうけて、太陽の福音《ふくいん》を説く者じゃ。わしはメンツー、アトムー、わしは――」
「わたしの知るかぎりでは、ただの生《なま》肝油です」と、ピケット警視がにやにやしながら説明した。
「この男の本名はだれも知りません。自分でも忘れとるんでしょうな」
「ありがとう、警視」と、検死官はやや威厳をとりもどした。……
エラリーは硬い座席の中で、ふと何かに気がつき、骨の髄まで、ぎょっとした。狂人の手にあるへたな木彫りの標章の意味に気づいたのだ。それは古代エジプトの蛇の紋章で、古代エジプト人の信仰の中心だった神と、神の子孫である諸王の象徴である蛇紋の笏《しやく》にちがいない。最初は蛇のデザインから見て、間に合わせの、二匹の蛇がまきついている例の薬売りの標識かとも思っていたが、考えてみれば、神の使者マーキュリーが持っている標識は、必ず二枚の翼が上についているのに、これには、目をこらして見ると、一匹か二匹の蛇がからみついている上の方に、不細工な日輪を示す円盤がついているのだ……古い神々の時代のエジプトを示すのだ。この愛嬌《あいきょう》たっぷりな小男の狂人の口からもれた神々のいくつかは、聞いたことがあるものだった。ホルス、ヌート、イシス、オシリス、その他の名も、耳なれないものではあったが、エジプト人にとっては霊験あらたかなものであろう……エラリーはまっすぐにすわり直した。
「えーと、――ハラーフト。なんと名乗ってもかまわんが」と、検死官が「お前は、キャスパー・クローカーが今がた、浅黒い、顔をきれいに剃ったびっこの男のことを証言したのを聞いとったかね」
ひげむくじゃらの目には、いくぶん理知的な色がもどってきたが、それとともに、前のように恐怖をひそめた表情も、もどっていた。「あのう――あのびっこのことかな」と、口ごもって「聞いとった」
「そういう人体《にんてい》の男をだれか知っとるかね」
ためらっていたが、やがて――「知っとる」
「ああ」と検死官は、ため息をついて言った。「ハラーフト、これでどうやら筋道がついたね」検死官は、明るく親しげに「それはだれかね。君はどうしてその男を知っとるのかね」
「その男は、わしの僧侶《そうりょ》じゃ」
「僧侶!」聴衆の中から、ひそひそ声がおこった。そしてエラリーには、すぐ後ろのずんぐりした男が「罰《ばち》当りめ」と言うのがきこえた。
「君はつまり、その男が、君の助手だと――言うんだね」
「わしの弟子《でし》じゃ。わしの僧侶じゃ。ホルスの高僧じゃ」
「そうか、そうか」と、ステイプルトンが、あわてて言った。「その男の名は?」
「ヴェリヤ・クロサックじゃ」
「ふーん」と、検死官は八の字をよせて「外国人名前だね。アルメニア人かね」と、茶色のひげ男をにらみつけた。
「エジプト以外に国はない」と、ハラーフトが静かに言った。
「ところで」と、ステイプルトンはにらみながら「その男の名はどう綴るのかね?」
ピケット警視が答えた。「すっかり調べてあります、ステイプルトンさん。Veija Krosac です。この男の箱車の中にあった書類から見つけたのです」
「その、ヴェル――ヴェリヤ・クロサックは、どこにいるかね」と、検死官がきいた。
ハラーフトは肩をすくめた。「行ってしもうた」しかし、エラリーは、その見開いた小さな目の中に、ちらっと緊張の色が光るのに気づいた。
「いつ出て行ったのかね」
男は、また、肩をすくめた。
ピケット警視が、もう一度、すくいの手をのばした。「ステイプルトンさん、わたしから話して、検死裁判の仕事を早くかたづけた方がいいでしょう。われわれの調べでは、クロサックはいつも身元をかくしていました。二年この方、その男は、これと一緒にいました。奇妙な男です。自分では、番頭や宣伝係のような仕事をして、いんちき薬売りの方は、このハラーフトに任せているんです。ハラーフトが、その男を、西部のどこかで拾い上げたのです。クロサックとハラーフトが最後に一緒にいたのはクリスマス・イブでした。二人はホリデイ・コーブの近くにキャンプを張ってたんです」――ウェアトンから二、三マイルの地点で、たしか、道標で見た地名だとエラリーは思い出した。「クロサックは十時ごろ出かけたきりで、それが、あの男を見た最後だと、この『名なしの権兵衛』が言っています。時刻も、よく合っています」
「あなたは、クロサックの足どりはつかんでいないんですな」
警視はいらだたしそうに「まだです」と、気短かに言った。「大地が吸いこんだように消えちまったんです。しかし、きっと見つけ出します。逃がしやしません。その男とクリングの人相書は配付してあります」
「ハラーフト」と、検死官が言った。「お前は、アロヨに行ったことがあるかね」
「アロヨ。ない」
「連中はウェスト・ヴァージニアをそんなに北まで行ったことはありません」と、警視が説明した。
「お前は、クロサックについて、どんなことを知っとるかね」
「あの男は真の信者じゃった」と、ハラーフトがおちついて断言した。「あれは、うやうやしく祭壇を礼拝しましたじゃ。戒律を守り、尊い教えを熱心に聴聞《ちようもん》しましたじゃ。わしの誇りであり、光栄じゃった……」
「おお、もういい」と、検死官は面倒臭そうに「君、連れて行きたまえ」
機動隊員はにやにやして立ち上り、ひげむくじゃらのやせた腕をつかんで、証人席から追い立てた。二人が聴衆の中に姿を消すのを見て、検死官はほっと胸をなぜおろした。
エラリーもつられてため息をした。父の言ったことが正しかった。尻に尻尾をはさまないまでも、少なくとも首をうなだれて、あたりに気をかねながら、すごすごとニューヨークに帰らなければならないらしかった。すべての出来事が、あまりにも気違いじみているし、事件はとても理解しがたいし、辻褄が合わなすぎて、茶番じみていた。しかも――残忍に切りきざまれた死体があり、はりつけにされて――
はりつけだ! エラリーは、はっとして、ほとんど人にきかれるほど、喉を鳴らした。十字架刑――古代エジプト。こんな奇怪な事実にぶつかろうとはまったく思いがけなかった。……
検死裁判はすらすら進んだ。ピケット警視は、ハラーフトの箱車で見つけ、クロサックのものだとハラーフトが証言する数々の証拠物件を提出した。それらのものは、くだらないもので、元来が値打ちもないし、その男の経歴や素姓を知る手がかりになりそうもなかった。検死官が陪審員たちに指摘したように、クロサックの写真は一枚もなかった――そのことはいっそう、その男の逮捕を困難にするものだった。さらに困難を加えたのは、その男の筆跡の見本も手にはいらなかったことだ。
他の証人が呼ばれた。些細な点が明らかにされた。クリスマス・イブにアンドリュー・ヴァンの家を注意して見ていた者も、ガレージのおやじクローカーが、交差点に置いて来てからあとのクロサックを見かけた者も、一人も出て来なかった。ヴァンの家は、交差点付近のただ一軒の住宅で、あの夜、その家のそばを通った者は一人もいなかった……ヴァンのはりつけになった死体に使われた釘は当人の家の台所の食料戸棚に、いつもしまってあった道具箱から持ち出したものだった。それは、ずっと前に、バーンハイムの経営する店で、クリングが買って来たもので、その大部分はまき小屋を建てるのに使われていたことが判明した。
エラリーは検死官ステイプルトンが立ち上ってしゃべりはじめようとするとき、はっとして、われにもどった。「陪審の諸君は」と、検死官は言いかけていた。「この検死裁判の経過を聞いておられたでしょう――」
エラリーがすっくと立った。ステイプルトンは言葉をとめて、あたりを見廻し、じゃまされたことに腹を立てた。「おい、クイーン君。君はこの裁判に干渉するつもりかね――」
「待って下さい、ステイプルトンさん」と、エラリーは早口に「あなたが検死陪審の皆さんに説明をなさる前に、あなたの検死裁判に重要だと思われる事実を、ぼくは持っているんです」
「それは何かね」と、地方検事クラミットが席から立ちかけて叫んだ。「新しい事実かね?」
「新事実ではありませんよ、地方検事さん」と、エラリーは微笑しながら答えた。「非常に古い事実です。キリスト教よりもずっと古い時代のものです」
「おいおい」と、ステイプルトン検死官が言った。――聴衆は首をのばして、ささやき合い、陪審員たちは各自の席から立ち上って、思いがけぬ証人を見守った――「君は何を思いついたんだね、クイーン君。裁判とキリスト教となんの関係があるのかね」
「何もないことを――望みますよ」と、エラリーは鼻眼鏡を持つ手を検死官の方へ突き出した。「この恐るべき犯罪の最もいちじるしい特徴について」と、きっぱりした口調で「あえて言わせていただけるなら、この検死裁判では、全然それに触れられておりません。私は、犯人が、たとえ何者であろうと、犯罪現場付近に、わざわざ、Tという文字か印《しるし》をつけまわっている事実を言いたいのです。交差点はT型であり、道標もT型であり、死体の形もT型であり、被害者の家のドアにはTの字が血で書かれてありました。これらの事実は、全部、新聞に報道されていました――まさにそのとおりでした」
「さよう、さよう」と、地方検事クラミットが苦笑しながら、さえぎった。「そのことなら、みんな知っとるよ。君が言わんとする事実は、どこにあるのかね」
「これから申し上げます」エラリーが、はげしくにらみつけたので、クラミットはまっ赤になって腰を下ろした。「私にはそのつながりがうまくつかめないし――じつは全く手を焼いているんですが――皆さんは、あのTの印が、もしかすると、アルファベットのTと全然関係がないかもしれないということに、気がついていますか」
「どういう意味ですか、クイーンさん」と、検死官ステイプルトンが不安そうにきいた。
「私は、あのTの印が宗教的な意味を持つものだと言いたいのです」
「宗教的な意味?」と、ステイプルトンがくり返して言ってみた。
牧師のカラーをつけた堂々たる老紳士が、聴衆のまん中から立ち上った。「博学な紳士のお話を途中でおじゃまするのは、はなはだ心苦しいのだが」と、するどい口調で「――私は福音の伝道師ですが、私はTという|しるし《ヽヽヽ》に宗教的な意味が含まれているなどということは、いまだかつて耳にしたことがありません」
だれかがどなった。「牧師さん、しっかり!」牧師は顔を赤らめて腰を下ろした。
エラリーは微笑した。「博学な聖職の方にさからうのもどうかと思いますが、その意味はこうなのです。たくさんの宗教的な標章の中で、Tの型を持つ十字架が一つあるのです。それはタウ〔ギリシア語T〕十字架とも、クルウス・コミッサとも呼ばれています」
伝道師が席から立ち上がった。「そう、そのとおりです」と、大声で「しかし、それはキリスト教本来の十字架ではありません。異教徒の|しるし《ヽヽヽ》です」
エラリーはくすりと笑った。「そのとおりです。そして、ギリシア十字架が、キリスト時代の前には、何世紀もの間、キリスト教以前の民に使われてはいませんでしたか。タウ十字架は、われわれになじみのあるギリシア十字架より、何百年も昔からあったのです。一説によると、その起源は男根崇拝の表象だと考えられています……しかし、私の言わんとする点は」
エラリーが中休みして、息をととのえたとき、一同はなりを鎮めて静かに待っていた。やがて、エラリーは、鼻眼鏡をふたたび検死官の方へつき出して、きっぱり言った。「タウ、またはT十字架というのだけがその呼び名ではなく、しばしば――」と言葉を切って、静かに結んだ。――「エジプト十字架と呼ばれていたのです」
第二部  百万長者のはりつけ
非常習犯によって犯罪が行なわれた場合こそ、警察官は警戒しなければならぬ時である。学んだ法則はどれ一つ当てはまらず、多年にわたる暗黒街の研究によって、集積した情報も朽木同然になる。
ダニロ・リーカ
三 ヤードレー教授
そして、それっきりだった。異常な、信じられないことだが――事件は立ち消えになってしまった。エラリー・クイーンがウェアトンの住民に指摘した神秘的なつながりは、事件の謎に光明を与えるどころか、むしろ神秘さを深めたのだ。エラリー自身にも、解決の道は見つからなかった。狂人の脱線ぶりにはだれだってほとんど論理を適用できるものではないと考えて自らなぐさめた。
問題がエラリーにとって荷がかちすぎるのだから、当然、検死官ステイプルトン、地方検事クラミット、ピケット警視、検死陪審員たち、アロヨとウェアトンの住民たち、検死裁判の当日、町に集まって来た何十人もの新聞記者たちにとっても荷がかちすぎたはずである。はっきりしてはいるが、裏づけがないので支持しがたいような判決に、とびこみたい誘惑を、厳重にいましめる検死官の指導で、陪審員たちは、寄せ集めた頭を掻きむしったあげく、「未知の一人、または数人の手による殺害」という評決に持ち込んだ。新聞記者たちも一日か二日はうろつきまわったが、ピケット警視とクラミット地方検事がしだいに捜査の手をゆるめるようになったので、ついに、事件は紙上から消えて――まったく迷宮入りしてしまった。
エラリーは悟りきった身ぶりであっさりあきらめてニューヨークに帰った。この問題は考えれば考えるほど、結局、簡単に説明できるような気がした。あれほど決定的な証拠が示しているものを、この上疑う理由はないではないかと思った。情況証拠にはちがいないが、その暗示するものは決定的だった。英語をしゃべる外国人で、どこか暗いかげのあるヴェリヤ・クロサックという名の男がいて、その男だけの内密な理由から、計画を立て、つけねらい、そしてついに、田舎の小学校長の命を奪ったのだ。その校長も外国生れの男だ。その方法は、犯罪学上の見地からすれば興味があるが、必ずしも重要ではない。それは怖ろしい方法だが、狂人の心理の奇怪な炎にゆがめられた精神の表現とみれば理解できないものでもない。その裏にひそむもの――空想上の非行か、宗教的狂信か、血に飢える復讐か、いかなる浅ましい物語がひそんでいるか――は、おそらく、けっして知りえないだろう。クロサックは、その陰惨な使命を完了したからには、当然、姿をくらまして、今では、はるか海上にあって、故国に向かっているかもしれない、クリング、あの召使はどうなっただろうか。疑いもなく、まきぞえをくった犠牲者で、二つの火にはさまれ、犯行を目撃したか、犯人の顔をちらっと見たか、の理由で、死刑執行人によって処分されてしまったのであろう。クリングはどう見ても橋がかりのようなもので、クロサックは後々のために、焼き払わざるをえないと考えたのだろう。要するに、死体を損傷して自分の復讐の|しるし《ヽヽヽ》を示すためだけの目的で、ためらわずに人間の首を切るような男は、自分の安全に思いがけない危険を与える男を殺す必要があるとなれば、消すのになんのためらいも感じなかっただろう。
そんなわけで、エラリーは警視のこっぴどい皮肉を浴びる覚悟でニューヨークに戻った。
「『だから言ったじゃないか』とはいまさら、言わんがね」と老人はエラリーが帰宅した夜の食事の席で、くすくす笑いながら「だが、教訓を一つ与えておきたいもんだな」
「どうぞ」と、エラリーはつぶやいて、料理の肉切れをかたづけにかかった。
「教訓というのはね。殺人は殺人であり、この地球の表面のどこかで行なわれる殺人の九九・九パーセントまで、要するにパイのようにたやすく説明できるものだ。青二才のばか者め。何も珍らしいものなんかありはしない。わかったな」警視はご機嫌で「あの神に見放された土地で、さしあたりお前が何をしようとしたのかはわからんが、どんなへぼな平巡査だって、お前に解答を与えることができたはずだよ」
エラリーはフォークを置いて「しかし、理論上――」
「ごめんだ」と、警視は鼻を鳴らして「さっさと食って、少し寝ろ」
六か月経った。その間にエラリーは、あのアロヨ殺人事件の奇怪な出来事を完全に忘れた。なすべき仕事がいろいろあった。ニューヨークは、その親類のペンシルベニアとちがって、たしかに友愛にみちた都市〔ペンシルベニアの別名〕ではなく、じつに殺人事件が多い。警視は捜査の歓喜にとりつかれたようにとびまわり、エラリーはついてまわりながら、興味をひく事件については、独自の能力で貢献していた。
ウェスト・ヴァージニアで、アンドリュー・ヴァンがはりつけになってから六か月経った六月の末に、エラリーはまた、あのアロヨ殺人事件を、いやおうなしに思い出す仕儀となった。
口火がつけられたのは六月二十二日の水曜日だった。エラリーとクイーン警視が朝食をとっていたとき、ドアのベルが鳴り、クイーン家の、雑役少年、ジューナが、ドアをあけに行くと、配達人がエラリー宛の電報を持っていた。
「変だな」と、エラリーは、黄色い封筒をあけながら「こんなに朝早くから、電報をよこすなんて、一体、だれだろう」
「だれから来たんだ」と、老人はトーストを口いっぱいに頬張りながら、もぐもぐ言った。
「こりゃあ――」エラリーは電文をひらいて、タイプされた署名をちらりと見ながら「ヤードレー教授からだ」と、おどろいて叫んだ。エラリーは父に笑いかけながら「ヤードレー教授を、おぼえているでしょうお父さん。大学のときの先生なんです」
「おぼえとるよ。古代史の先生だったな。週末でニューヨークに来たとき、一晩、泊って行ったじゃないか。あごひげを生やした醜男《ぶおとこ》だったと、覚えとる」
「じつに立派なひげです。もう、あんな立派なのは少ないですね」と、エラリーが言って「本当に久しぶりの便りだな。一体なんだろう――」
「まあ先に」と、老人はおだやかに言った。「便りを読んでみるんだな。なぜ便りをよこしたかを知るには、そうするのが普通だ。どうかすると、お前は、泥よりもくだらんやつだぞ」
エラリーの顔を見ているうちに、警視の目の輝きが消えた。エラリーのあごが目に見えて、下った。
「どうしたんだ?」と、警視が急にきいた。「だれか死んだのか?」電報はろくな報らせではないという、小市民的な迷信を持っていた。
エラリーは、テーブル越しに、黄色い電報用紙を父に放り出して、椅子からとび立ち、ナプキンをジューナに投げつけて、ガウンのすそをひるがえしながら、寝室にとび込んだ。
警視は電報を読んだ。
君は相変らず、仕事と趣味を一緒にするのが好きなのだろうと思う。のびのびになっているが、なぜ訪ねて来ないのだ。わしの住居の向かい側で、すばらしく面白い殺人事件がおきたんだよ。今朝早くおきたもので地方警察もまだ来ていない。とても興味がある。隣りの男が、首なしになってトーテム・ポストにはりつけにされているのが発見されたのだ。君が今日じゅうに来ることを期待している。
ヤードレー
四 ブラッドウッド荘
何かとてつもないことがおこっているということは、おんぼろデューゼンバーグが、目的地に着くずっと手前で、はっきりわかった。エラリーが例によって、無茶なスピードでとばしているロングアイランド街道には、機動警官がわんさと出ばっていたが、連中は時速五十五マイルでとばしている背の高い真剣な顔つきの青年になど、てんで目をくれる興味もないようだった。エラリーは、高速運転の特別許可を得ている強味で、だれかが停車を命じてくれればいいと、なかば望んでいた。そうすれば、オートバイに乗っている相手の鼻づらで『警察の特別認可』と、どなるチャンスがあるはずなのだ。なぜならエラリーは父警視をおだてて、犯罪現場に電話をかけてもらい、ナッソー郡警のヴォーン警視に、『わしの有名なせがれ』がそちらへ行くから、その若僧にあらゆる便宜を与えてやってほしいと、まあそんなようなことを言ってもらってあったからである。それにつけ加えて、この有名なせがれはヴォーンにも地方検事にもきっとひどく興味がある情報を持っていると老人は強調しておいたのだ。その上、ナッソー郡の地方検事アイシャムにも電話して、重ねて息子自慢と、その約束とをかさねておいた。アイシャムは、その朝はひどくへこたれていて「どんな情報でも役に立ちますよ、警視。すぐよこして下さい」と言うようなことを、ぼそぼそ言い、エラリーが到着するまで、犯罪現場からは何も動かさせないと約束した。
デューゼンバーグが、ロングアイランド街道の、白々とした私道にとび込んで、オートバイに乗っている機動隊員に停車を命じられたのは、昼ごろだった。
「ブラッドウッドはこの道ですか」と、エラリーが甲高い声できいた。
「そうだ。しかし行けんよ」と、隊員はおごそかな口ぶりで「車を廻すんだ。急いで」
「ヴォーン警視と、アイシャム地方検事が、ぼくを待ってるんです」と、エラリーはにやにやしながら言った。
「おお、クイーンさんですか。失礼いたしました。どうぞお通り下さい」
話がわかって、ほくほくしたエラリーは、猛スピードでとばし、五分もすると、二つの荘園の間の通路にすべり込んだ――一方は、その自動車道路に役所の車が立てこんでいるところをみると、明らかに殺人が行なわれた、ブラッドウッド荘であり、もう一方は、どうやら、道の筋向いだから、エラリーの友であり、昔の教師であったヤードレー教授の住居らしい。
背が高く、やせて、おどろくほどエブラハム・リンカンに似たあごひげを生やしている|ぶ男《ヽヽ》の教授が、自分からとび出して来て、デューゼンバーグをとび下りたばかりの、エラリーの手を振った。
「クイーン君、よく来てくれたな」
「どうも、先生。ずいぶん久しぶりでしたね。ロングアイランドで何をしておられるんですか。最後のお便りでは、まだ大学の構内に住まって、二年生を|しぼっている《ヽヽヽヽヽヽ》とのことでしたがね」
教授は黒くて短かいひげの中で微笑した。「私は道の向こうのタジマハール〔インドにある霊廟でペルシアふうの華麗な建物〕を借りとるんだよ」――ヤードレー教授の指さす方を、ふり向くと、森にそびえる尖塔と、ビザンチンふうのドームが見えた――「|こり屋《ヽヽヽ》の友達からね。そいつ、東洋趣味の虫にかみつかれて、あんな目茶なものを自分で建てたんだ。そいつは今、小アジアの辺をうろつきに行っとるんで、この夏はここで私が仕事をしているんだ。のびのびにしておいた『アトランティス伝説の起源』についての論文をまとめるために、ちょっと静かなところがほしかったのでね。プラトンが、そのことを書いているのを、憶えてるだろう」〔アトランティスは大西洋にあった伝説の島として古来有名。プラトンはその著書の中で、九千年前、アトランティスの住民が、アテナイに戦いをいどんだ神罰として海に沈められたといっている〕
「覚えていますよ」と、エラリーはほほえんで「ベーコンも『ニューアトランティス』を書いていますね。しかし当時のぼくは、そいつに、科学としてよりも文学として興味を持っていました」
ヤードレーは、ふふんと鼻をならした。「相変らずだな君は……ところで、とんだ静かなところだったよ。こんなことにぶつかっちまってね」
「一体、どうしてぼくのことを思いつかれたんですか」
二人はごたごたしているブラッドウッドの自動車路を、大きな植民地風の屋敷の方へ、ぶらぶら歩いて行った。屋敷の広大な柱廊が真昼の太陽に輝いていた。
「偶然の結果とでもいうやつかな」と、教授は無造作に言った。「私はずっと君の仕事に興味をもって見守っていたんだよ。そして、いつも君の業績に感心していたから、五、六か月前のあの異常なウェスト・ヴァージニアの殺人事件の記事も、むさぼるように読んだんだ」
エラリーは返事をする前に、あたりの景色を胸にたたみ込んだ。ブラッドウッドは、手入れのよくとどいた金持の屋敷だった。「何千もの古文書や碑文を調べられた先生の目は、何も見逃さないということを心得ておくべきでしたね。すると先生は、非常に物語ふうなぼくのつまらないアロヨ滞在記を読んで下さったんですね」
「読んだよ。そして、ひどく物語ふうな君の失敗談もね」と、教授はくすくす笑った。「それと同時に、私が君の頑固頭にたたき込もうとした原則を、君が適用しているので、うれしかった――つねに根源にさかのぼれという原則さ。エジプト十字架だって? 君の芝居っ気が純粋の科学的真理を扼殺《やくさつ》したんじゃないかと憂えている……さあ、ここだよ」
「そりゃ、どういうことですか」と、エラリーは不安そうに眉をしかめてきいた。「タウ十字架はたしかに古代エジプトの――」
「それはまた後で議論しよう。君はアイシャム君に会いたいんだろう。あの男は親切にも、私がぶらつきまわるのを許してくれているんだ」
ナッソー郡の地方検事アイシャムは、中年のがっちりした男で、うるおいのある青い目で、頭のまわりに馬蹄型《ばていけい》の半白の髪をのこしていた。長い植民地風のポーチの階段に立って、背広姿の背の高い力の強そうな男と夢中になって話し合っていた。
「あのう――アイシャムさん」と、ヤードレー教授が声をかけた。「これが、私の愛弟子《まなでし》、エラリー・クイーンです」
二人の男はすぐ振り向いた。「おお、そうですか」と、アイシャムは、まるで何かほかのことを考えているように言った。「よく来てくれましたね、クイーン君。どういう手伝いをしてもらえるか、わかりませんがね、しかし――」と、肩をしゃくって「ナッソー郡警察のヴォーン警視を紹介します」
エラリーは二人と握手した。「歩きまわるのを許して下さい。足手まといにならないことを約束しますよ」
ヴォーン警視は茶色の歯を見せて「足手まとい大いに結構ですよ。手も出せずに、ぼんやり突っ立っとるところですからね。まず証拠物件を見ていただきましょう」
「それが順序でしょうね。先生もいらっしゃい」
四人の男はポーチの段を降りて、邸の東の角を曲がって砂利道を歩きはじめた。エラリーはしみじみと、その荘園の広さを感じた。母屋《おもや》の配置は、デューゼンバーグをとめて来た私道と入江の岸の中間にあって、その入江のきらきらと陽にかがやく小波《さざなみ》が、母屋の高台から見えた。この水源は、アイシャム地方検事の説明だと、ロングアイランド湾の切れ込みの一つで、ケチャム入江と呼ばれるのだそうである。入江の水をへだてて、こんもりと木の繁った小島の姿が見える。オイスター島だと教授が説明した。住んでいるのは奇妙な連中の集まりで……
エラリーは、もの問いたげに教授を見たが、アイシャムが「それは後まわしだ」と、そっけなく言ったので、ヤードレーは肩をすくめて、それ以上の口出しは控えた。
砂利道はしだいに母屋から遠ざかり、植民地風の建物から三十フィートも行かないうちに、うっそうとした木立が一同を取り囲んでいた。なお百フィートほど行くと、急にからっとした空地に出、そのまん中に、グロテスクなものが立っていた。
それは高さ九フィートほどの一面に彫刻した柱で、残っている面影から判断すると、以前には、けばけばしい色彩がほどこしてあったらしいが、今は、色もはげ、すっかり汚れて、まるで何世紀も雨ざらしだったように、ぼろぼろになっていた。彫刻は、怪物の面や、空想の動物の姿をごちゃまぜにしたもので、その頂上の飾りには、両翼をひろげ、くちばしを下げた鷲《わし》の、荒けずりな姿がのっていた。両翼は、ほとんど水平だったので、エラリーは、すぐに、拡げた両翼を頂上に持つその柱が、大文字のTにきわめて似ている事実に、思い当った。
男の首なし死体が柱にぶらさがっていた。両手は両翼に太い縄でくくりつけられ、両足も同じように、地上約三フィートのところで、縦柱にくくりつけられていた。鋭い木彫りのくちばしが、男の首があったとおぼしい血だらけの穴の上約一インチのところに突き出していた。そのいたましい光景には、何か、怖ろしいと同時に、感動的なものがあった。その損傷された死体は、首を切られた布人形のような、無情なやるせないムードを発散していた。
「こりゃあ」と、エラリーは声のない笑いをもらして「大した見ものですね」
「ぞっとする」と、アイシャムがつぶやいて「かつてこんなものを見たことがない。血が凍るようだ」と、身ぶるいした。「さあ、これはかたづけさせることにしよう」
一同は柱に近づいた。エラリーは、五、六ヤード先の、空地の中に、小さな草ぶきの亭屋《あずまや》があり、その入口の内側に機動隊員が立っているのに気づいた。それから、エラリーは死体の方へ注意を向けた。どうやら中年の男らしい、ほてい腹で、両手は節くれ立ってしなびていた。死体は灰色のフランネルのズボンをはき、首のところでひらいている絹のシャツを着、白靴、白靴下をつけ、ビロードのスモーキング・ジャケツを着ていた。首から足先まで、まるで血の槽の中で洗われたように、死体は惨憺たるものだった。
「これは、トーテム・ポールでしょう」と、エラリーが、死体の下を通って行くとき、ヤードレー教授にきいた。
「トーテム・ポストだよ」と、ヤードレーが、きびしい口調で言った。「多くの場合、そう呼ばれる……そうだよ。私はトーテミズム〔動物を一族の祖として崇める古代の風習〕の専門家ではないが、この遺物は、きわめて原始的な北米土人のものか、精巧な模作か、のどちらかだろう。こんなにすばらしいのは一度も見たことがない。鷲は『鷲族』を示すのだろう」
「死体の素姓はわかっているんでしょうね」
「ええ」と、ヴォーン警視が言った。「あなたが見ているのは、つまり、ブラッドウッドの主《あるじ》、百万長者の絨毯《じゅうたん》輸入商、トマス・ブラッドの遺骸ですよ」
「しかし、死体はまだ取り下ろしてはいないんですよ」と、エラリーは、肚の虫をおさえて言った。「それなのに、どうして、たしかなことが言えるんですか」
地方検事アイシャムがおどろいた顔つきで「おお、ブラッドに間違いありませんよ。着衣も調べたし、あのお腹はなんとも、ごまかしようがないじゃありませんか」
「そうでしょうね。ところで死体の発見者は?」
ヴォーン警視がその話をした。「発見されたのは今朝の七時半で、ブラッドの召使の一人で、運転手兼庭師の、フォックスという名の男が発見者です。フォックスは母屋の反対側の森の中にある小屋に住んでいます。今朝、いつものようにヨナ・リンカンのために車を出しに母屋の方へやって来ると――ガレージは母屋の裏手にあるのです――ヨナ・リンカンは、ここに住んでいる人間の一人ですが、まだ外出の支度ができていなかったので、フォックスは花を見廻るために、こっちへ廻って来たのです。ところが、こいつにぶつかったというわけで、まったく、たまげたと言っています」
「そりゃそうだろうね」と、ヤードレー教授は、吐き気など感じるような神経はてんで持ち合わせていないという、おどろくべき正体を、うっかりあらわしながら言った。そして、トーテム・ポストと、不気味なお荷物とを、まるで珍らしい史料でも見るように、無感動に念入りに調べていた。
「そこで」と、ヴォーン警視は語をついで「フォックスは気をとり直して邸へ駈けもどったのです。あとは例のとおりで――家じゅうひっくり返るような大騒ぎ。だが、だれも何にも手を触れてはいません。リンカンは神経質だが分別のある男で、われわれが来るまで万事手配してくれたのです」
「そのリンカンというのは何者ですか」と、エラリーがさりげなくきいた。
「ブラッドの商売の総支配人です。ブラッド・アンド・メガラ商会のね」と、アイシャムが説明した。「敷物の大輸入商会ですよ。リンカンはここに住んでいます。ブラッドの大のお気に入りだったんでしょうな」
「敷物界の大御所の卵というところですね。して、メガラという人物も――ここに住んでいるのですか」
アイシャムは肩をすくめて「あの男は旅行していないときはここに住んでいるんです。今はどこかを航海しています。何か月も留守にしています。ブラッドが実務の方を引き受けている、協力者なんです」
「なるほど、すると、旅行家のメガラがトーテム・ポールを持ち込んだわけなんですね。――おっと、ポールじゃないポストでしたね先生。大したことじゃないですが」
貧相な小男が黒い鞄《かばん》を持って、小路《こみち》を一同の方へぶらぶらやって来た。
「ラムセン先生がやって来た」と、アイシャムが、ほっとして言った。「ナッソー郡の医務検査官です。おい、先生、ちょっとこれを見てくれ」
「見とるよ」と、ラムセン医師はしまりのない口のきき方で「こりゃなんだね――シカゴの屠殺場だな」
エラリーは死体を注視した。硬直しているらしい。ラムセン医師は、医者らしく死体を見上げていたが、ふんと鼻を鳴らして言った。「さあ、下ろしたり、下ろしたり。まさか柱にのぼって、上で診《み》ろというわけじゃないだろうね」
ヴォーン警視が二人の部下に手で合図すると、二人はナイフを開きながらとび出して来た。一人が亭屋《あずまや》に姿を消して、じきに田舎風の椅子を持って戻って来た。そして、トーテム・ポールのそばに置き、その上にのって、ナイフをふり上げた。
「切ってもいいですか、警視」と、右腕を縛っている縄に刃を当てる前にきいた。「縄は切らないで一本にしておいた方がよくありませんか。結び目は、ほどけそうですよ」
「切っていい」と、警視が一喝《いっかつ》した。「結び目を見たいんだ。手がかりになるかもしれん」
もう一人の方が進み寄って、死体取り下ろしのいやな作業は、沈黙のうちに行なわれた。
「ところで」と、エラリーは、一同が立って、作業をぼんやりと見守っていたときに、口を出した。「一体犯人はどうやって、あそこまで死体をかつぎ上げて、地上九フィートもある翼に両腕を結びつけることができたんでしょうか」
「今、刑事たちがやっているのと同じ方法でしょう」と、地方検事が、無造作に答えた。「あの男が使ってるのと同じような、血まみれの椅子が一脚、亭屋で見つかっています。おそらく二人がかりだったんでしょう。さもなければ、一人だとすると、この仕事をやったやつは、よほどの力持ちです。椅子を使っても、死体をあの位置までかつぎ上げるのは大仕事だったでしょうからね」
「どこでその椅子を見つけたんですか」と、エラリーが考えこみながら「亭屋の中ですか」
「ええ。犯人は仕事を終えてから、あそこにもどしておいたにちがいありません。亭屋には、ほかにも調べてみるねうちのあるものがたくさんありますよ、クイーン君」
「そのほかにも、あなたが興味を持たれそうなものがありますよ」と、ヴォーン警視が、やっと死体がいましめをとかれて草の上に取りおろされたときに、言った。「これです」
警視はポケットから小さな赤くて丸いものをとり出してエラリーに手渡した。それは、赤い、木のチェッカー〔将棋〕の駒《こま》だった。
「ふうん」と、エラリーは言って「普通の駒ですね。これをどこで見つけましたか警視」
「この空地の砂利の中でね」と、ヴォーンが答えた。「柱の右側から二、三フィートのところでです」
「どうしてこれが重要なものだと考えられるのですか」エラリーはその駒を手の中で裏返してみた。
ヴォーンが微笑して「そう思う理由はですね。まず、その状態から見てもわかるように、この駒は、そう長くここにころがっていたものじゃありません。それに、きれいな灰色の砂利の上にある赤いものは、指先のけがみたいに目立つじゃありませんか。この場所は、毎日フォックスが隅々まできれいに掃除するのです。だから、それが昼間からここにあったものとは考えられません――とにかく、フォックスはなかったと言っています。だから、そいつは昨夜の事件に何か関係があると言ってもいいと思うのです。暗闇では見えなかったでしょうからね」
「卓見です、警視」と、エラリーはほほえんだ。「まったく敬服しました」エラリーが駒を返したちょうどそのときに、ラムセン医師が、まったく職業がらにもなく、甲高い声で、毒々しい呪いの言葉をわめいた。
「どうしたんだね」ときいて、アイシャムがかけよった。「何か見つけたのかね」
「じつに妙だ、こんなのは見たことがない」と、医務検査官がすぐ言って「これを見てくれ」
トマス・ブラッドの死体は、トーテム・ポストから数フィートの草の上に、倒れた大理石像のように手足を伸ばして横たわっていた。ひどく不自然にぎこちないので、エラリーは、その悲しむべき、だが申し分のない経験からして、まだ死後硬直が去っていないのを知った。両腕を左右にひろげたまま、そこにのびているところは、ほてい腹と着衣を除いては、エラリーがわずか六か月前にウェアトンで見たばかりの、アンドリュー・ヴァンの死体と、おどろくほど、そっくりだった。しかも二つとも、T字型に切り刻まれた人間の姿なのを、エラリーは、納得できない気持で考えていた。……エラリーは頭をふって、他の連中と一緒に、ラムセン医師をそんなにもなやましたものを見ようと、かがみ込んだ。
医師は死者の右手を持ち上げて、死の色で青ざめた手の平を指さした。そのまん中に、はっきりと色で染めたように、丸い赤い|しみ《ヽヽ》があって、そのふちがかすかにくずれていた。
「こりゃ、一体、なんと言ったらいいのかね」と、ラムセン医師がうなった。「血ではない。ペンキか染料のようだ。だが、いまいましいが、わしにはどうしてこうなっとるのか、見当もつかんよ」
「どうも」と、エラリーがおだやかに「あなたがさっき話されたことが、事実になってきたようですね、警視。チェッカーですよ――柱の右側にあった――つまり故人の右手に当る……」
「おお、そうだ」と、ヴォーン警視が叫んだ。そして、また駒を取り出し、犯人の手の平のしみの上に置いてみた。ぴったりだった。警視は、得意そうに、だが訳がわからぬという顔つきで立ち上った。「こりゃ一体どういうんだ」
地方検事アイシャムが頭を振った。「重要とは思えんね。君はまだブラッドの書斎を見とらんのだろう、ヴォーン君。だからわからないんだ。書斎にはやりかけのチェッカーが残っている。邸へ行けば、もっといろいろなものが見つかるだろうよ。ブラッドは、なんかの理由で、殺されるときに駒を握っていたんだ。そして、犯人はそのことに気がつかなかった。きっと、柱にくくりつけられている間に、その駒が、手からころげ落ちたんだろう。それだけのことだよ」
「すると、殺しは家の中であったのですか」と、エラリーがきいた。
「おお、ちがいます。ここの亭屋の中でです。証拠がどっさりあります。いや、駒の説明は簡単だと思いますよ。どうやら安物らしいから、おそらく、ブラッドの手の熱と汗とで、色が出たのでしょう」
一同は、草の上でおよそ人間のものらしくない死体をいじくりまわしているラムセン医師と、だまってそれを取りまいている警官たちを後にして、亭屋へ向かった。それはトーテム・ポストから五、六歩のところにあった。低い入口をくぐる前に、エラリーは上下左右を見まわした。
「電気の引込み装置が、外にはないようですね。どうしてかな――」
「犯人は懐中電燈をつかったんでしょう。つまり、もしこの殺しが実際に」と、警視が言った。「暗闇でやられたとすればね。ラムセン先生がその点をはっきりしてくれるでしょうよ。ブラッドが死後どのくらい経過しているかを報告してくれればね」
入口に立っていた機動隊員が、敬礼して、道をあけた。一同は中に入った。
亭屋は小さい円形で、自然木の枝や幹を巧みに使って田舎風に建てられていた。とがった草ぶきの屋根で、腰高の壁がまわりをかこみ、壁の上半分はみどり色の格子作りになっていた。中には荒けずりのテーブルと二脚の椅子があり、その一脚が血まみれだった。
「疑う余地はほとんどないね」と、地方検事アイシャムが弱々しい声で言いながら床を指さした。
床の中央には赤ちゃけた大きな|しみ《ヽヽ》がついていた。
ヤードレー教授は、はじめて、神経質な様子を示した。「まさか――人間の血じゃないでしょ――その不気味な大きな|しみ《ヽヽ》は」
「たしかに人の血ですよ」と、ヴォーンが、重々しく答えた。「おびただしい血痕があるのは、まさに、この床でブラッドの首が切断されたことを説明しているにすぎません」
エラリーの鋭い目が、そまつなテーブルのすぐ前の木の床の部分に釘づけになった。そこには、血で、はっきりと、大文字のTが、なぐり書きされていた。
「まさにこいつだ」と、エラリーはつぶやき、その|しるし《ヽヽヽ》から視線をそらして、生つばをのみ込んだ。「アイシャムさん。床のTの字の説明がおできになるでしょうか」
地方検事が両手をひろげた。「ところで、君にきくがね、クイーン君。ぼくはこういったことには、もう時代遅れでね。聞くところでは、あなたは、こういう事件には練達の方だそうだが、常識ある人間なら、これは狂人の犯罪だと思っても、無理もないでしょうな」
「常識のある人間なら、そう思いますね」と、エラリーが言った。「そう思わざるをえないでしょうよ。まさにあなたのおっしゃるとおりです、アイシャムさん。この殺人の道具だてがトーテム・ポールとは、じつにうまくできていますね、先生」
「ポストだよ」と、ヤードレーが訂正した。「君はこの事件に、宗教的な意味でもありそうだと言うのかね」と、教授は肩をすくめた。「北米土人の物神崇拝の表象と、キリスト教と、原始的な男根崇拝とを、どうやって結びつけるかは、狂人の想像力をもってしても及びもつかんものだろうな」
ヴォーンとアイシャムは目を丸くした。ヤードレーの言葉も、エラリーの言葉も、二人にはちんぷんかんぷんなのだ。エラリーはかがんで、血のりのこびりついている床の近くにころがっているものを調べた。それは吸い口の長いブライヤーのパイプだった。
「それは調べました」と、ヴォーン警視が言った。「指紋がありました。ブラッドのです。あの男のパイプに間違いありません。ここで吸っていたのでしょう。あなたのために、最初発見したとおりに、置いておいたんです」
エラリーはうなずいた。それは一風変ったパイプで、特徴のある形をしていた。火皿には、ネプチューン〔海神〕の頭と、三叉《みつまた》の矛《ほこ》が巧妙に彫られていた。火の消えた灰色の吸いかすが半分ほどつまっていて、火皿の傍の床には、ヴォーンが指摘するように、同じ質と色のたばこの灰がこぼれていた。ちょうど、そのパイプが落されて、灰が少しこぼれたように。
エラリーは手を伸ばしてパイプをとろうしたが――やめた。そして、警視を見上げて「このパイプが被害者のものなのは、たしかなんでしょうね、警視。つまり――あなたは家の者にたしかめてみたんでしょうね」
「じつは、まだです」と、ヴォーンが、ぎこちなく答えた。「一体なぜ、そのことを疑ってかからなくてはならんか、わかりませんな。結局、あの男の指紋があり――」
「しかも、スモーキング・コートも着ているんだよ。」と、アイシャムが指摘した。「それに、それ以外にはたばこを持っていないんだ――シガレットもシガーもね。なぜ君は、そんなふうに考えるのか、わかりかねるよ、クイーン君――」
ヤードレー教授が、ひげのかげでこっそり笑ったが、エラリーはつまらなそうに言った。「何も、そんなふうに考えているんじゃありません。ただぼくのくせなんですよ、アイシャムさん。きっと……」
エラリーはパイプをつまみ上げて、注意深くこつこつやりながら、テーブルの上に、灰を出した。
灰が落ちつくすと、火皿をのぞき込んで、底に残っている半分もえかけのたばこを見つけ出した。それから、携帯用の捜査用具箱から半透明の封筒をとり出し、吸いかけのたばこを火皿の底からかき出して、封筒の中にあけた。他の連中は黙って見ていた。
「あのね」と、エラリーは立ちながら言った。「ぼくは何事も、そのまま素直には信じこまない方なんです。これがブラッドのパイプではないと言うつもりじゃありませんがね。しかしながら、この中のたばこが決定的な手がかりになるかもしれないとは、言えそうですよ。思うに、これはブラッドのパイプだが、中のたばこは犯人から借りたということもありえます。そんなことは、ごく普通にありがちですからね。ところで、あなたはこのたばこがキューブ・カットなのにお気づきでしょう。ご存知のように、それは普通の|きざみ方《ヽヽヽヽ》じゃありません。ブラッドのヒューミダー〔たばこ保湿器〕を調べてみましょう、キューブ・カットのたばこがはいっているかもしれませんよ。もしそうなら、そのときは、これはブラッドのたばこで、犯人からたばこを借りて吸ったのではなかったことになります。とにかく、調べてみても損にはなりませんからね、前のことが確認されますからね。しかし、もしキューブ・カットのたばこが見つからないと、このたばこが犯人のものなのだという明確な推定ができますから、有力な手がかりになるでしょうね……余計なおしゃべりをしてすみません」
「非常に有益だよ」と、アイシャムが言った。「たしかにね」
「犯罪捜査科学の|ひながた《ヽヽヽヽ》だね」と、ヤードレー教授が、くすくす笑った。
「ところで、これまでのところでは、どういう見込みですか」と、ヴォーンがきいた。
エラリーは考えながら、鼻眼鏡のレンズをみがいていた。その細面《ほそおもて》は、沈思黙考していた。「もちろん、目下のところ、これといって、まとまったことを言うのは、こっけいですがね。ブラッドが亭屋へ来たときに、犯人がブラッドと一緒だったか、一緒でなかったか、その点については今のところ何も言えません。いずれにせよ、ブラッドが庭に出て来て、亭屋へ向かったとき、手には赤いチェッカーの駒を持っていた、その駒はなんらかの理由で、家の中でひろっていたものにちがいない――どこにせよ、家の中で、チェッカーのやりかけが見つかっているんですからね。亭屋の中で襲われて殺された。たぶん、喫煙中に襲われたのでしょう、そして、パイプが口から床に落ちた。おそらく、ブラッドの片手は、ポケットの中で、ぼんやりと駒をもてあそんでいたんでしょう。死んだときも、まだ駒を握っていただろうし、首を切られ、トーテム・ポストにかつぎ上げられ、両翼にくくりつけられる間も、ずっと駒は手の中にあったのです。それから駒は手から落ちて、犯人の気がつかないうちに、砂利へころがり込んだ……なぜブラッドはチェッカーの駒を持っていたのか、要するにこの点をつきとめるのが、最も適切な線だと思いますね。それが事件に決定的な意味を持っているのかもしれません……あんまり明るい分析ではないようですがね、先生」
「光りの本質はだれにもわからんよ」と、ヤードレーがつぶやいた。
ラムセン医師が、せかせかと、亭屋にはいって来た。「仕事が終った」と、報告した。
「判定はどうかね、先生」と、アイシャムが熱心にきいた。
「からだは暴力を加えた痕はないです」と、ラムセン医師は、てきぱきと言った。「この点から、なんで殺したかわからんが、直接頭をやられたことは完全に証明されます」エラリーは、はっとした。それは数か月前にウェアトンの法廷でストラング医師がした証言の繰り返しといってもよかった。
「絞殺された可能性がありますか」と、エラリーがきいた。
「今のところ、なんともいえませんな。解剖すればわかるでしょう。肺の状態を調べればね。死体の硬直は、たんなる死後硬直で、あと十二時間から二十四時間は消えないでしょうよ」
「死後どのくらいですか」と、ヴォーン警視がきいた。
「正確に、約十四時間ですかな」
「すると、暗くなってからだな」と、アイシャムが大声で「兇行は昨夜の十時ごろだな」
ラムセン医師が肩をすくめた。「先に、私の話をきいてくれてもいいでしょう。家に帰りたいんだから。右ひざの七インチ上に、生れたときからの桃色のあざがあります。これで終りです」
一同が亭屋を後にしたとき、ヴォーン警視が急に言い出した。「そうだ、思い出したよ、クイーン君。お父さんからの電話だと、あなたは何か情報を持っておられるそうですが」
エラリーはヤードレー教授の顔を見、ヤードレー教授はエラリーの顔を見た。「ええ」と、エラリーが言った。「持っていますよ、警視。この犯罪に何か妙なものがあるのに気づかれるでしょう」
「ぴんからきりまで、まったく、変てこりんです」と、ヴォーンがにがりきって「あなたの言うのはどういうことですか」
エラリーは考えこみながら、道から小石を蹴とばした。一同は無言でトーテム・ポストのそばを過ぎた。今は、トマス・ブラッドの死体には覆いがかけられ、数人の男がそれを、|たんか《ヽヽヽ》で運んでいた。一同は屋敷の方へ道をとった。
「もしや、あなた方は」と、エラリーが続けた。「なぜ一人の男が首を切られて、トーテム・ポストにはりつけにされなければならなかったかを、考えてみませんでしたか」
「考えてみましたが、それがなんの役に立つでしょう」と、ヴォーンが多少皮肉に「ばかげているだけですよ」
「するとあなたは」と、エラリーが、さからうように言った。「まさか、Tが何度も出てくるのに気がつかないと言われるんじゃないでしょうね」
「Tが何度も出てくるって?」
「柱、そのものが――奇抜なT字型です。柱が縦で、水平に拡げた両翼が横木になっています」一同は目をぱちくりした。「死体は、頭を切りとり、両腕を左右にのばし、両足を一緒にしばってあります」一同はもう一度、目をぱちくりした。「Tの字が、犯行現場に、わざわざ、血で、なぐり書きしてあります」
「なるほど。もちろん」と、アイシャムが、いぶかしそうに「それは、われわれも見ましたがね。しかし……」
「しかも、ふざけた|落ち《ヽヽ》がついていますよ」と、エラリーはにこりともしないで「トーテムという字そのものもTで始まりますからね」
「おお、冗談ですか」と、地方検事が、すぐに言った。「まったくの偶然でしょう。柱も、死体の格好も――偶然に、Tの形になったにすぎないですよ」
「偶然ですって?」と、エラリーが、ため息をした。「もしぼくがあなたに、六か月前にウェスト・ヴァージニアで殺人が行なわれ、その被害者が、T字型の交差点のT字型の道標にはりつけにされ、頭を切りとられ、現場から百ヤードほどの被害者の家のドアにTの字が血で書かれていたと話しても、それでも偶然だと言われますか」
アイシャムとヴォーンは、ぴたりと立ちどまり、地方検事はまっ青になった。「冗談を言っとるんじゃないだろうね、クイーン君」
「あなた方にはじつにおどろいてしまうな」と、ヤードレー教授が、静かに言った。「要するに、そのようなことは君らの商売なんでしょう。このずぶの素人《しろうと》の私でさえ、その事件のことはよく知っていますよ。国じゅうのどの新聞にも報道されていましたからね」
「ああ思い出しましたよ」と、アイシャムがつぶやいた。「思い出せそうだ」
「しかし、まさか、クイーン君」と、ヴォーンが大声で「ありえないことだ! そんな――そんなとっぴなことって」
「とっぴなことですよ――まさにね」と、エラリーが低い声で「しかし、ありえないというのは――ちがいます。本当にあったことです。自ら、ラ・ハラーフトとか、ハラーフトと名乗る奇妙な人物がいたんです……」
「その男について、君に話したかったのだ」と、ヤードレー教授が言い出した。
「ハラーフトですって」と、ヴォーン警視が、どなった。「その名を名乗るやつが、入江の向うのオイスター島で、裸体主義者の部落を経営していますよ」
五 内部事情
たちまち、立場が逆転して、あっけにとられたのは、今度はエラリーの方だった。ブラッドウッドの近くにいるとは、あの茶色のひげ男の気違いが! あのヴェリヤ・クロサックと密接なつながりのあるやつが、最初とまるで引き写しのようなこの犯罪現場にあらわれるとは! どうも、うまくできすぎている。
「あの事件のときの他の関係者もここにいるかもしれませんね」と、一同がポーチの階段を上っていくときに、エラリーが言った。「最初の殺人事件と同じ素姓の登場人物が出る、継続事件を捜査するにすぎないかもしれませんよ。ハラーフトは……」
「君に話すチャンスがなかったんだが」と、ヤードレーが残念そうに「どうもぼくには、君がしきりにエジプトのことを気にしているところをみると、クイーン君、君はすでにぼくと同じ結論に達しているように思われるね」
「まさか、そんなに早く?」と、エラリーはゆっくり言った。「そして、先生の結論は?」
ヤードレーは愉快なほど醜い顔をほころばせた。「あのハラーフトには、――私はむやみに人を非難するのは大嫌いなんだがね……さよう、たしかに、|はりつけ《ヽヽヽヽ》とTの字が、よくついて廻ってるようじゃないかね、あの紳士には」
「クロサックのことをお忘れですよ」と、エラリーが注意した。
「ねえ、君」と、教授が気短かにやり返した。「今はもう、私のことがよくわかってるはずじゃないか……私は、そういうことは何ひとつ忘れやせんよ。クロサックのいるということで、今、私が控え目に持ち出した見解が、なぜだめになるのかね。要するに、犯罪には共犯者といったものが多々あるぐらいのことは心得とるよ。そして、原動力ともいうべき大物がいて――」
ヴォーン警視が二人をポーチへ迎えるために駆けもどって来たので、せっかく面白く発展しそうだった話が中断された。
「今、オイスター島を警戒するように手配して来ました」と、警視は息せき切って「万一ということがありますからね。ここが終ったらすぐ、あの連中を調べましょう」
地方検事は事件の急速な展開にあわてているようだった。「君が言うのは、あのハラーフトの番頭というのが犯罪の容疑者だったということなんですね。一体どんな人相の男ですか」検事はエラリーのアロヨ事件の話を、熱心に聞いていた。
「人相|風体《ふうてい》については、ほんの表面的なことがわかってるだけです。実際、捜査するには充分ではありません。ただその男が|びっこ《ヽヽヽ》だったという事実を除いてはね。そうですよ、アイシャムさん、問題は簡単ではないんです。ぼくの知っている限りでは、ハラーフトと名乗る男だけが、謎の人物クロサックを確認できるただ一人の男なんですからね。そして、もし太陽の神なる奴《やっこ》さんが強情を張るとなると……」
「はいりましょう」と、ヴォーン警視が、いきなり言った。「わしには荷が勝ちすぎてきましたよ。家の連中に会っていろいろきいてみたいですよ」
植民地風の屋敷の応接間には、悲しそうな顔をした連中が、一同を待ちうけていた。エラリーがはいると、三人の人間が椅子をきしませて立ち、他の連中は、目を赤くして、顔をゆがめ、とても神経質になっていたので、その動作はぎくしゃくしていた。
「おお――これは」と、その男は、かわいた、のどにひっかかる声で言った。「お待ちしていました」背の高い、ほっそりとして活気のある三十代もなかば近い男で、その線のはっきりした顔立ちや、かすかに鼻にかかる声から推して、ニューイングランド生れらしい。
「やあ」と、アイシャムが憂鬱《ゆううつ》そうに言って「ブラッド夫人、こちらは、エラリー・クイーンさんです。ニューヨークから応援に来てくれました」
エラリーは低い声で、世間並みのおくやみを述べたが、二人は握手しなかった。マーガレット・ブラッドは、まるで恐ろしい悪夢の中をすべっていくような身ぶりで近づいた。四十五歳だったが、ととのった体格で、成熟して、肉づきのよい美しい女だった。そして、こわばった唇で、やっと言った。「ようこそ――ありがとうございます、クイーン様、私は――」夫人は横を向き、まるで言おうとしたことを忘れてしまったかのように、みなまで言わずに腰を下ろした。
「それから、こちらが、その――ブラッド氏の養女の方で」と、地方検事は続けた。「ブラッド嬢――こちらはクイーンさん」
ヘレーネ・ブラッドは、悲しそうに、エラリーにほほえみかけ、ヤードレー教授に頭を下げて、一言も言わずに母親の横に腰を下ろした。利口そうな、かなり可愛い目で、誠実そうな顔立ちで、かすかに赤い髪の娘だった。
「それで?」と、背の高い男がきいた。その声はまだ、喉にひっかかっていた。
「まあまあです」と、ヴォーンがつぶやいて「こちらはクイーンさん――こちらはリンカンさん……クイーンさんにも、ひと通りのみ込んでおいていただきたいことがいろいろありますし、一時間ほど前に、ここで始めたわれわれの協議も、まだ充分とはいえないので」一同は、いっせいに重々しくうなずいた。まるで舞台の役者のようだった。「あなたにやっていただけますかな、クイーンさん。どうぞ」
「いや、そんなことは」と、エラリーが言った。「何か思いついたら口をはさませていただきましょう。私のことには全然、おかまいなく」
ヴォーン警視は、かるく後手を組んで、暖炉のわきに、すっくと立ち、じっとリンカンを見守っていた。アイシャムはすわって、頭の禿げたところを拭いていた。教授はため息をして、静かに窓へ歩みより、そこから、立って前庭と自動車道を眺めていた。屋敷の中はさわがしいパーティの後か、葬式の後のように|しん《ヽヽ》としていた。どたばたも、泣き声も、ヒステリーのわめきもなかった。ブラッド夫人と、その娘と、ヨナ・リンカンのほかは、他の家庭内の連中――召使どもは――一人も姿をあらわさなかった。
「では、最初に」と、アイシャムが、だるそうに口をきった。「昨夜の芝居の切符の件からかたづけようと思います。リンカンさん、その話をすっかりしていただこう」
「芝居の切符……おおそうですね」リンカンは、砲弾でショックを受けた兵士のように、ガラスのような目玉で、アイシャムの頭上の壁を眺めていた。「昨日、トム・ブラッドは事務所から奥さんに電話をかけてきて、奥さんと、ヘレーネと私のためにブロードウェイの芝居の切符を手に入れたと言って来ました。奥さんとヘレーネは、町で私と落ち合うことになっていました。そしてあの男、ブラッドは、家に帰ろうとしていたのです。それからすぐあとで、あの話をしたのです。あの男は、私にぜひ、夫人たちを連れて行ってほしいようすでした。それで、私も断わりかねたのです」
「なぜ断わりたかったのですか」と、警視が、すぐきいた。
リンカンの硬い表情は少しも変らなかった。「そのとき、そんな妙な注文を出されて、私にはちょっと意外だったのです。事務所でちょっといざこざがあったのです。経理のことでね。私は昨夜はおそくまで居残りをして、監査役と一緒に仕事をする予定でした。そのことをトムに言ったんですが、あの男は、心配するなと言いました」
「私にはさっぱりわかりませんわ」と、ブラッド夫人が平板な声で言った。「まるで私たちを追い払いたがっていたようでした」夫人は急に身ぶるいしたので、ヘレーネが肩をそっとたたいてやった。
「奥さんとヘレーネさんは、ロンシャンで私と落ち合って夕食をとりました」と、リンカンは相変らず、緊張した声で続けた。「夕食のあとで、お二人を芝居に案内したのです――」
「どこの劇場ですか」と、アイシャムがきいた。
「パーク劇場です。私はお二人をそこに残して――」
「おお」と、ヴォーン警視が「仕事をすることにして、出て行かれたんですね」
「そうです。お断わりを言って、芝居がはねたらお迎えに上る約束をして、事務所にもどりました」
「すると、君は監査役と一緒に仕事をしたんですね、リンカンさん」と、ヴォーンが、おだやかにきいた。
リンカンは目を丸くした。「ええ……ええ」リンカンは溺れかけている人間のように、頭を上向けて、あえいだ。だれも何も言わなかった。また口をきき出したときには、何事もなかったように、もの静かな様子だった。「私はおそくまでかかって仕事をかたづけてから、劇場にもどりました――」
「監査役はゆうべ、ずっとあなたと一緒だったんですね」と、警視は、同じように、もの静かな声できいた。
リンカンはぎょっとした。「むろん――」リンカンは目まいがするように首を振って「そりゃどういう意味なんですか。いいえ、監査役は八時ごろに引き上げました。あとは、一人で仕事をつづけたのです」
ヴォーン警視は、せき払いをした。その目が光った。「劇場でご夫人方に会われたのは何時でしたか」
「十一時四十五分でしたわ」と、ヘレーネ・ブラッドが、いきなり、とりすました声で言ったので、母親は、おどろいて娘をじろりと見た。「あの、ヴォーン警視様、あなたのなさり方は、フェアじゃありませんわ。あなたはヨナを疑っていらっしゃるようね。どういうことが存じませんが、あなたは、ヨナの揚げ足か――何かを、とろうとしていらっしゃるんでしょう」
「真実はだれも傷つけませんよ」と、ヴォーンは冷たく言った。「続けて下さい、リンカンさん」
リンカンは二度ほどまばたいた。「私は、奥さんとお嬢さんに、休憩室で会いました。それから、家へもどりました――」
「自動車でですか」と、アイシャムがきいた。
「いいえ、ロングアイランド線でです。列車を降りたときに、フォックスが車を持って来ていなかったので、私たちはタクシーを拾って家に帰ったのです」
「タクシーか」と、ヴォーンがつぶやいた。そして、立ったまま考えていたが、やがて何も言わずに部屋を出た。ブラッド家の婦人たちとリンカンは、こわそうな目で警視を見送っていた。
「続けて下さい」と、アイシャムがじりじりしながら「家に着いたときには、異状はありませんでしたか。何時ごろでしたか」
「はっきり覚えていませんが、一時ごろだったと思います」リンカンは肩をおとした。
「一時すぎよ」と、ヘレーネが「覚えていないの、ヨナ」
「ええ。何も変ったことはありませんでした。亭屋の方へ行く道に……」リンカンは身ぶるいした。「そっちを見ようとは思いもつきませんでした。とにかく何も見えませんでしたよ――真の闇でしたからね。私たちは寝に行きました」
ヴォーン警視が静かに戻って来た。
「奥さん、どうでしたか」と、アイシャムが「前におっしゃったように、朝までご主人の失踪をご存知じゃなかったのですか」
「寝《やす》みますのは――隣り合わせの部屋を使っておりますの」と、婦人は青ざめた唇で説明した。「それで、申し上げたとおり、少しも存じませんでした。ヘレーネと私は、それぞれ引きとりまして……私たちが初めてそのことを知りましたのは――トマスの変事を知りましたのは、今朝、フォックスに、たたき起こされた時でした」
ヴォーン警視が歩み寄って、アイシャムの耳に口を寄せて何事かをささやいた。地方検事は、軽くうなずいた。
「君はこの邸にどのくらい住んどるのかね、リンカン君」と、ヴォーンがきいた。
「長いことです。何年になるかな、ヘレーネさん」背の高いニューイングランド出の男は、ヘレーネを振り向いた。二人の目が会い、ちらりと暖かい思いやりの色を見せた。リンカンは肩をそらして、息を深く吸った。すると、目から、うつろな表情が消えた。
「八年よ、たぶん、ヨナ」ヘレーネの声がふるえ、はじめて目に泪《なみだ》がわき上った。「私――私はまだほんの子供でしたわ。あなたと、ヘスターが来たころは」
「ヘスター」と、ヴォーンとアイシャムが同時に口に出して「へスターとはどういう人ですか」
「私の妹です」と、リンカンが穏やかな声で答えた。「私と妹は、まだ幼いころ孤児になったのです。私は――それで、妹は当然、私の名前のように、私についてまわっているんです」
「どこにいますか。なぜ一寸も見かけなかったんですかね」
リンカンは静かに言った。「島にいるのです」
「オイスター島ですか」と、エラリーが、ゆっくりきいた。「こりゃ面白い。まさか、太陽崇拝者になったわけじゃないでしょうね、リンカン君」
「おや、どうしてご存知ですの」と、ヘレーネが高い声で「ヨナ、あなたはまさか――」
「妹は」と、リンカンがつらそうに説明した。「いわば初もの食いなんです。それで、あんなものにとび込むんです。自らハラーフトと名乗る気違いが、あの島をケチャムから借りて――ケチャムはあの島に住んでいる草分けで、事実、あの島の主なのです――そこで新しい宗教を始めたのです。太陽教と言うんですが――つまり、裸体主義なんです……」リンカンは何かで喉を絞めつけられるように「ヘスターは――つまり、ヘスターは、興味を持ちはじめたんです――あすこにいる連中に。それでそのことで喧嘩《けんか》しました。妹は強情で、あの宗教にはいるためにブラッドウッドを出て行きました。ひどい、いんちきどもですよ」と、荒々しい声で「今度の不気味な事件に、やつらが関係していたとしても、ちっともおどろきゃしませんよ」
「卓見ですな、リンカン君」と、ヤードレー教授がつぶやいた。
エラリーは静かに|せき《ヽヽ》払いして、固くなっているブラッド夫人に声をかけた。「二、三立ち入ったことをお訊《たず》ねしますが、答えていただけるでしょうか」夫人は目を上げて、それから、ひざの上に組んでいる手に目を伏せた。「ヘレーネさんは、あなたの娘さんで、ご主人には養女になっていると伺っていますが、二度目のご主人なのですか、奥さん」
美しい女は答えた「さようでございます」
「ご主人も前に結婚された事はあるのでしょうね」」
夫人は唇を噛んだ。「私たちは――十二年前に結婚いたしました。トムは――私は、あのひとの最初の|つれあい《ヽヽヽヽ》については――よく存じません。ヨーロッパで結婚したようです。そして、最初のつれあいは大変若くてなくなったのです」
「チチチ」と、エラリーは舌をならして、同情するように眉をよせた。「ヨーロッパのどの辺ですか、奥さん」
夫人はエラリーを見上げて、しだいに頬を赤らめた。「私はくわしくは存じません。トマスはルーマニア人なのです。ですから、たぶん――あちらの方で」
ヘレーネ・ブラッドが傲然《ごうぜん》と頭を上げて、腹立たしそうに言った。「本当に、あなた方って、ばかげていますわ。ひとがどこから来ようと、何年も前にだれと結婚しようと、そんなこと、ちっともかまわないじゃありませんか。なぜ、殺した犯人を見つけようとなさらないの」
「どうもぼくには」と、エラリーが、力なく微笑しながら「はっきりそんな気がするんですよ、お嬢さん。地理の問題が非常に重要になりそうにね……メガラさんもルーマニア人ですか」
ブラッド夫人はあっけにとられたようだった。リンカンがすぐ答えた。「ギリシア人です」
「これは、これは――」と、地方検事がやりきれなさを声に出した。ヴォーン警視が微笑して「ギリシア人ですか。あなた方は、みんなアメリカ生れなんでしょうな」
連中はうなずいた。ヘレーネの目が怒りにもえた。赤みがかった髪さえ、いっそう赤みをますようだった。そして、まるで当然抗議すべきだとでも言うように、ヨナ・リンカンの方を見やった。しかし、リンカンは何も言わずに、靴の爪先に目を落しただけだった。
「メガラさんはどこですか」と、アイシャムが続けた。「だれかが、あのひとは航海中のようなことを言われましたね。どんな航海ですか――世界一周ですか」
「いいえ」と、リンカンがゆっくり言った。「そんなんじゃありません。メガラさんは、いわば、世界観光旅行者で、素人探検家なのです。ご自分のヨットを持っていて、それで海をまわりつづけているのです。思いついて出かけられると、いっぺんに、三、四か月も留守になさるのです」
「今度の旅に出てからは、どのくらいになりますか」と、ヴォーンがきいた。
「おっつけ一年です」
「どこにいますか」
リンカンは肩をしゃくった。「わかりません。手紙一本書かない方だし――前ぶれなしに戻られるんです。今度は、どうして、こんなに長く留守にされているのかわかりません」
「私の考えでは」と、ヘレーネが、額に皺をよせて言った。「きっと南海へ出かけられたのよ」その目はきらきらと輝き、唇がふるえていた。エラリーは不思議そうにヘレーネを眺めて、その理由を考えていた。
「メガラさんのヨットの名は?」
ヘレーネが顔を赤らめて「ヘレーネ号よ」
「機動ヨットですか」と、エラリーがきいた。
「ええ」
「ラジオを持っていますか――無線発信用の」と、ヴォーンがきいた。
「ええ」
警視は手帳に何か書き込みながら、にこにこしていた。「自分で運航しているんでしょうね」と、書きながらきいた。
「むろん、そうじゃありませんわ。あのひとは、常雇いの船長と船員を持っています――スウィフト船長といって、何年もあのひとと一緒なのです」
エラリーは突然、腰を下ろして、長い足をのばした。「そうでしょうね……メガラさんの名は?」
「スティヴンです」
アイシャムが喉の奥で|うな《ヽヽ》った。「いいかげんに、根本問題にもどれんかね。ブラッド氏とメガラさんは、何年ぐらい、敷物輸入業の共同経営者なんですか」
「十六年になります」と、ヨナが答えた。「一緒に商売を始められたのです」
「ご繁昌なんでしょうな。財政上のいざこざはないんでしょうな」
リンカンが首を振った。「ブラッドさんも、メガラさんも大した財産を築き上げられました。しかし、お二人とも不況〔一九三二年ごろの不況〕の打撃はうけられました。皆さんも同じです。でも商売は傷つかずでした」リンカンは言葉を切って、その健康そうな細面に、妙な表情を浮かべた。「今度の事件の底に、金銭上のいざこざが、からんでいるとでもお考えでしたら見当ちがいですよ」
「そうかな」と、アイシャムが苦りきって「では、君は、底に何がからんでいると思うのかね」リンカンは、はっとして口をつぐんだ。
「ひょっとして、君は」と、エラリーがのろのろ言った。「宗教がからんでいると思うんじゃないかね、リンカン君」
リンカンは目をぱちくりさせて「なぜですか――そんなことは言いませんよ。しかし、犯罪自体が――はりつけですからね……」
エラリーは明るく微笑して「ところで、ブラッドさんの信仰はなんでしたか」
ブラッド夫人は、まだ豊かな背を曲げてすわっていたが、胸を張り、あごを上げて低い声で言った。「主人は、いつぞや、子供のころはギリシア正教の教会に通って育ったと申しておりました。けれど熱心な信者ではありませんでした。実際は、文字どおりの無信仰で、人によっては、主人を無神論者だと思っておりました」
「すると、メガラさんは?」
「おお、あの方は全然、何もお信じになりませんでした」その口調には、一同がはっとしていっせいに夫人を振り向くようなものがふくまれていた。だが夫人の顔は無表情だった。
「ギリシア正教か」と、ヤードレー教授は考え深そうに「それは、ルーマニアと充分合致するな――」
「あなたは合致しないものを探しておられるんですか」と、エラリーがささやいた。
ヴォーン警視がせき払いしたので、ブラッド夫人がじっと注視した。夫人は次に来るものを感じたらしい。「御主人には、体に何か特徴のある目印がおありでしょうか、奥さん」
ヘレーネが少しぐあい悪そうに、顔をそむけた。ブラッド夫人が小声で「右の股《もも》に、桃色の|あざ《ヽヽ》がございます」
警視はほっとした。「それで話が合います。さあ、皆さん、真相をきわめることにしましょう。敵はありましたか。だれかブラッドさんをかたづけたいと思っていたらしい人はいませんでしたか」
「この際、はりつけとか他のことは一切忘れることにして」と、地方検事が言い足した。「殺人の動機を持っていた人は?」
母娘《おやこ》は振り向いて目を見合わせた。ほとんど同時に、一同は目をそらした。リンカンは頑固に、敷物を見つめていた――それは『生命の木』の模様を美しく織り出した、すばらしい東洋絨毯なのに、エラリーは気づいた。その所有者の上に起きた事実を考えてみると、表象と現実とは、じつに不幸な食いちがいだなと、エラリーはひそかに考えていた。……
「いいえ」と、ブラッド夫人が言った。「トマスは幸福なひとで、敵もおりませんでした」
「あまりなじみのないお客を招待なさるような習慣はありませんでしたか」
「おお、ございません。私たちは世間から、はなれて暮しておりましたの、アイシャム様」ふたたび、一同を注目させるようなものを含んだ口調だった。
エラリーはため息をした。「どなたか、あなた方の中で、この家に――お客か他の用件で――足の悪い人が来たのを、覚えていませんか」一同はすぐに首を振った。「ブラッドさんには足の悪いお知合いはなかったですか」また一同は黙って否定した。
ブラッド夫人がもう一度言った。「トマスには敵はございませんでした」と、この事実を一同に印象づけるのが大事だと思うかのように、重々しく力をこめて言った。
「何かをお忘れですよ、マーガレット」と、ヨナ・リンカンがゆっくり言った。「ロメーンのことを」
リンカンはもえるような目で夫人を見つめた。ヘレーネはおびえるような非難をこめて、リンカンのくっきりした横顔をちらっとにらみ、それから唇をかんで、泪ぐんだ。四人の男たちは、しだいに興味を感じ、底に流れる小芝居を意識して見守っていた。ここには何か不健康なものがある、ブラッド家自体の傷口が。
「そう、ロメーンのことね」と、ブラッド夫人は言って、唇をなめた。夫人の姿勢は十分間も、少しも変らなかった。「忘れていましたわ。二人は喧嘩しましたわ」
「一体、ロメーンというのはだれですか」と、ヴォーンがきいた。
リンカンが低い声で早口に言った。「ポール・ロメーンです。オイスター島の気違い、ハラーフトが『高弟』と読んでいる男です」
「ああ」と、エラリーが言って、ヤードレー教授を見た。その醜男は意味ありげに肩を上げて、微笑した。
「連中はあの島に裸体主義の部落を作り上げているんです。裸体主義者たちのね!」と、リンカンはつらそうに叫んだ。「ハラーフトは狂人です――あの男はおそらく本気なんでしょうが、しかし、ロメーンはくわせ者です、最悪の謎の人物です。体を売りものにしてるんですよ、腐った魂の外套《がいとう》みたいな体を!」
「でもね」と、エラリーが低い声で「詩人ホームズは、その詩(朝の食卓の独裁者)の中で、勧告しているじゃありませんか『汝、より堂々たるすみかを築けよ、おお、わが魂よ』と」
「たしかにね」と、ヴォーン警視は、この風変りな証人をなだめるつもりで言った。「よくわかりました。しかし、その喧嘩について話して下さい、リンカン君」
細面はいたけだかになった。「ロメーンは島の『お客たち』の責任者で――運営も司どっているのです。やつは、自分を何かの神だと思い上ったり、すっかり感情を抑圧した結果、裸で走りまわることを考えついたような、あわれなばか者どもをくいものにして……」と、言いかけて急にやめた。「ごめんなさい、ヘレーネ――マーガレット。言うべきじゃなかった。ヘスターは……あの連中は、ここに住んでいるわれわれにはだれにも迷惑をかけなかったことは認めますよ。だが、トムもテンプル医師も、私が考えると同じように思っています」
「ふん」と、ヤードレー教授が言った。「この私にはだれも相談しなかったな」
「テンプル医師というと?」
「東隣りの人です。なにしろ連中は、まっ裸で、人間の姿の山羊《やぎ》みたいに、オイスター島をかけずりまわってる始末ですからね。そうしてその――われわれは、たしなみのある社会に住んでいるんじゃないですか」ああ、清教徒はかく語りぬだなと、エラリーは思った。「トムは入江に面したこの土地を全部持っているのですから、干渉するのが義務だと思っていたのです。そこで、ロメーンとハラーフトを相手にひともめしたのです。トムは連中を島から追い出すために法的手段をとるつもりで、そのことを連中に通告したようです」
ヴォーンとアイシャムは目を見交わし、それからエラリーを見た。ブラッド家の母娘は、身動きもしなかった。そして、リンカンは、今は、積りに積った|うっぷん《ヽヽヽヽ》を、すっかりぶちまけてしまったので、不安そうに、恥ずかしそうにしていた。
「なるほど、それはいずれ後から調べることにして」と、ヴォーンが気がるに「テンプル医師は、東隣りの地所を持っていると言いましたね」
「持ってはいませんよ。借りているだけです――トマスから借りたのです」ブラッド夫人の目がおちつきをとりもどした。「もう長いこと、ここに住んでいます。退役の軍医で、トマスとは仲よしでした」
「西側の土地にはだれが住んでいるのですか」
「おお、イギリス人のご夫婦で、リン――パーシーとエリザベスという方ですわ」と、ブラッド夫人が答えた。
ヘレーネが小声で言った。「私は去年の秋に、あの方たちとローマでお会いして、とてもご懇意になりましたの。あの方たちが合衆国を訪ねてみたいとおっしゃったので、それなら私と一緒にいらっしゃって、ご滞在中は、私のお客様におなりになったらと、お勧めしたのです」
「いつお帰りになったのですか、お嬢さん」とエラリーがきいた。
「感謝祭〔十一月最後の木曜日〕のころですわ。リンさんご夫婦は私と一緒の船でおいでになりましたが、ニューヨークでお別れして、あの方たちはしばらく国内見物をなさったのです。それから一月になって、こちらへいらっしゃいました。この土地がとてもお気に召して――」リンカンが、ふんと鼻を鳴らしたので、ヘレーネは、頬をそめた。「そうよ、ヨナ。とてもお気に召したので、いつまでも私たちの厚意に甘えてばかりはいられないと――もちろん、ばかげたことですけれど、でも、イギリスの方って、ときには、とても強情なんですものね――西隣りの家を、どうしても借りたいとおっしゃったのです。その家は父の――父の持ち家だったのです。それ以来、お二人はここに住んでいらっしゃるんです」
「なるほど、その人たちとも、話してみましょう」と、アイシャムが言った。「ところで、テンプル医師という人は、あなたのご主人と仲よしだったとおっしゃいましたね、奥さん。本当の意味での仲よしだったのですか、どうです?」
「それはお見込みちがいですわ」と、ブラッド夫人がぎこちなく言った。「もし、何か勘ぐっていらっしゃるならね、アイシャム様。私自身はテンプル先生をそれほど好いてはおりませんでしたけれど、まっすぐな方で、人の性質を見抜くのに妙を得ていたトマスは、あの方が大変好きでございました。二人は、夜分、よく一緒にチェッカーを楽しんでいましたわ」
ヤードレー教授がため息をした。自分ならもっと鋭利な分析をして見せるのに、隣人の悪徳、美徳についてこんなうわっ面のおしゃべりをするのが、少しうるさいと言わんばかりだった。
「チェッカーをね」と、ヴォーン警視が大声で「それはちょっと面白いな。ほかにブラッド氏とチェッカーをしたのはだれですか。テンプル先生だけがお相手だったんですか」
「いいえ、そんなことは。私たちはみんなトマスと、時々、遊びましたわ」
ヴォーンは目に見えてがっかりした。ヤードレー教授が、リンカンふうの黒いあごひげを撫ぜながら言った。「警視、その方面は、収穫がなさそうですよ。ブラッドはとてもじょうずな指し手でしてね、ここに来る者には、片っぱしから勝負をいどみましたよ。もし、チェッカーのやり方を知らない者がいると、無理やりに――じつに根気よく――教えたものです。きっと私だけが」と、くすくす笑いながら「あの男の甘言に最後まで乗らなかった、訪客のただ一人の例でしょうよ」それから、まじめな顔になって、黙り込んだ。
「主人はすばらしい指し手でしたわ」と、ブラッド夫人が、かすかに悲痛な誇り顔で言った。「全国チェッカー選手権を持っている方が、そうおっしゃっていましたわ」
「おお、すると、あなたご自身も、おじょうずなんですな」と、アイシャムがすぐきいた。
「いいえ、いいえ、アイシャム様。しかし、去年のクリスマス・イヴに選手をお招きしましたの。トマスはその方と、ぶっつづけにさしておりました。その選手の方は、トマスと、ほとんど互角だと申しておられました」
エラリーが、鋭い顔を引きしめて、いきなり、とび立った。「どうやら、この善良な方たちを、いたずらに疲れさせているようですよ。あと、二、三おききして、もうそれ以上、ご迷惑をかけないようにしましょう。奥さん、ヴェリヤ・クロサックという名を耳にされたことがありますか」
ブラッド夫人は本当にわからないようだった。「ヴェル――妙なお名前ね。いいえ、一度も聞いたことはございませんよ、クイーン様」
「あなたは、お嬢さん」
「ございません」
「君は、リンカン君」
「ありません」
「皆さんは、クリングという名を聞かれたことがありますか」
一同は、みんな頭を振った。
「アンドリュー・ヴァンという名は?」
もう一度、返事なし。
「アロヨは? ウェスト・ヴァージニアの」
リンカンが小声で「一体、これはなんのまねですか。ゲームですか」
「ある意味ではね」と、エラリーは微笑した。「あなた方は、どなたも知らないのですね」
「ええ」
「そうですか、じゃあ、ここに、あなた方がきっと答えられることがありますよ。自らハラーフトと名乗る狂人が、オイスター島にやって来たのは、正確にいつでしたか」
「おお、それなら」と、リンカンが言った。「三月でした」
「ポール・ロメーンという男も、一緒でしたか」
リンカンの顔が曇った。「そうです」
エラリーは鼻眼鏡をみがき、まっすぐな鼻柱の上にのせ、前かがみになって「Tという字で、あなた方に何か思い当ることはありませんか」
一同はエラリーを見つめた。「Tですって」と、ヘレーネが言ってみて「一体、何をおっしゃっているんでしょうか」
「明らかに、お心当りがないらしい」と、エラリーが言ったとき、ヤードレー教授がくすくす笑って、エラリーに何か耳うちした。「結構です。それでは、奥さん、ご主人は、ときには、ルーマニアの昔話をされましたか」
「いいえ、一度もいたしませんでした。私の知っておりますのは、主人が十八年前に、スティヴン・メガラと一緒に合衆国に来たのだということだけでございます。二人は故国でお友達か、共同経営者だったようですわ」
「そのことを、どうして知られましたか」
「むろん――むろん、トマスがそう申しましたからですわ」
エラリーの目が光った。「立入ったことをお訊ねしてすみませんが、重要かもしれませんので……ご主人は、移民されたときに、すでにお金持ちだったのでしょうか」
ブラッド夫人は顔を赤くして「存じませんわ。私たちが結婚しましたときは、お金持ちでした」
エラリーは考えこんでいるようだった。そして、五、六回も、『ふん、ふん』と言いながら、愉しそうに頭を振って、やがて地方検事の方を向いた。「ところで、アイシャムさん、地図を貸していただけたら、しばらく、あなた方のおじゃまをしないですむのですがね」
「地図ですか」と、地方検事は、あっけにとられ、ヤードレー教授でさえ訳がわからないようだった。ヴォーン警視がむっとした。
「書斎に一冊あります」と、リンカンが、面倒臭そうに言った。そして客間を出て行った。
エラリーは唇にぼんやりと微笑を浮かべて、ぶらぶらと行ったり来たりしていた。一同は、わけがわからずにその姿を目で追っていた。「奥さん」と、エラリーは休み休み言った。「あなたは、ギリシア語かルーマニア語がお話しになれますか」
夫人は当惑したように頭を振った。リンカンが、大きな青い表紙の本を持って帰って来た。「君、リンカン君」と、エラリーが言った。「君のやっている商売の取引き先は、大部分、ヨーロッパとアジアですね。君はギリシア語かルーマニア語が、わかって話せますか」
「いいえ。われわれには外国語を使う機会はありません。ヨーロッパやアジアの事務所とは英語で通信しますし、国内の販売店も同じことです」
「そうですか」と、言って、エラリーは考えこみながら、地図を持ち上げた。「私からおききしたいことは終りました。アイシャムさん」
地方検事は疲れたように手を振った。「結構でした、奥さん。われわれは全力をつくしますよ。しかしながら、正直に言って、とてもむずかしい事件のようです。ただ、お宅から離れんで下さい、リンカン君、それからあなた、お嬢さんも。いずれにせよ、しばらくは、お邸から出ないで下さい」
ブラッド母娘とヨナはもじもじして顔を見合わせ、やがて立って、何も言わずに部屋を出て行った。
皆が出て、ドアがしまるとすぐ、エラリーは肘掛椅子《ひじかけいす》に、どっかと腰を下ろして、青表紙の地図をひらいた。ヤードレー教授は、むずかしい顔をしていた。アイシャムとヴォーンは、やれやれという目で見合っていた。しかし、エラリーは、たっぷり五分間は夢中になって地図を見ていた。その間に、三つの異なった図面と索引とをひっくり返して、そのページを綿密に当ってみた。そして調べているうちに、その顔が明るくなった。
エラリーは地図を椅子の手に、注意深く置いて立ち上った。一同は期待するように、エラリーを見守った。
「てっきり、こんなことだろうと思った」と、言って、教授の方を向いた。「おどろくべき暗合ですよ、もし、それが暗合ならね。判断はあなたにお任せします……先生、われわれの登場人物の名前の奇妙な組合わせについて、何か、気がつかれませんでしたか」
「名前だって? クイーン君」ヤードレーは全く面くらっていた。
「そうですよ。ブラッド――メガラ。ブラッド――ルーマニアン。メガラ――ギリシア。こう組み合わせてみると、その応答音に、何か思い当ることがあるでしょう」
ヤードレーは首を振った。ヴォーンとアイシャムは肩をすくめた。
「ご承知のとおり」と、エラリーはシガレット・ケースをとり出し、一本火をつけて、ぱっぱと烟《けむり》を吹きながら言った。「こんなつまらないことが人生を愉しくするものですね。私には、一つのことに熱中している友達がいますが――それは地理という、たわいない、子供っぽいゲームに夢中なのです。なぜ、その男がそんなものに夢中なのかは、神のみがご存知ですよ。しかしその男は暇さえあれば、それにふけっているのです。ブラッドにとっては、それはチェッカーでしたし、それがゴルフの人も多いでしょう――ところで、私の友達にとっては、地理なのです。あげくのはてに、その男は何千という小さな地名を覚えこんでしまったのです。ついせんだってのこと、ついに……」
「君は、|こしゃく《ヽヽヽヽ》な男だな」と、ヤードレー教授がぴしりと言った。「その先は」
エラリーはにやにやして「トマス・ブラッドはルーマニア人でした――ルーマニアにはブラッドという市があります。何か思い当りませんか」
「まるっきり思い当らないね」と、ヴォーンが、うなった。
「スティヴン・メガラはギリシア人です。ギリシアにはメガラという名の市があります」
「なるほど」と、アイシャムがつぶやいた。「それがどうしたね」
エラリーはアイシャムの腕を、そっとたたいた。「じゃ、もしこう言ったら。われわれの百万長者の敷物輸入商とも、百万長者のヨット乗りとも一見全然無関係な、不幸なアロヨの小学校長、六か月前に殺された人物――つまり、あのアンドリュー・ヴァンも……」
「あなたの言われるのはまさか――」と、ヴォーンが勢いこんで言った。
「ヴァンの帰化証明書には生国はアルメニアになっていました。アルメニアにはヴァンという町があるのです――そういえば、同名の湖もあるのです」エラリーは、緊張を解いて、微笑した。「そして、もしこの三つの事件が、二つは表面的に関係があり、他の一つは殺しの方法で二つのうちの一つと結びつきがあり、しかも三つとも同じような現象があるとすれば……」と、肩をすくめた。「はたしてこれが、偶然の暗合だと言いきれるでしょうか。どうです、私もちょっとしたものでしょう」
「たしかに、妙だね」と、ヤードレー教授がつぶやいた。「表面的には、国籍を証明するためにわざわざそんなことをしたようだね」
「どの名前も、まるで地図から拾って来たようじゃありませんか」と、エラリーは烟を環に吹いた。「面白いでしょう、どうです? 三人の紳士は、明らかに外国生れで、本名をひた隠しにしたがっている。しかも、本当の生れ故郷まで隠そうと気を使っていながら、あなたの言われるとおり、国籍を証明するようなことをしているんですからね」
「おどろいたな」と、アイシャムが唸った。「で、その先は?」
「もっと重要な事実さえありますよ」と、エラリーが愉しそうに言った。「ヴァン、ブラッド、メガラが変名をしているのだから、悲劇の四番目の外国生れの役者、行方不明のクロサックもまた、その俗称をランド・マクナリー版の地図から拾い上げたと想像できるでしょう。ところが、ちがいます――少なくとも、ヨーロッパや近東には、クロサックという名の町は、どこにもありません。町も、湖も、山も、何もないのです。これをどう考えるべきでしょうか」
「三つは偽名で」と、教授がゆっくり言った。「一つは本名らしいな。その本名らしい名の持ち主が、偽名の一人の殺人に、疑いもなくまき込まれている。おそらく……たしかに、クイーン君、われわれは、象形文字を解く鍵をつかみかけたらしいよ」
「じゃあ、あなたは」と、エラリーが熱をこめて「この事件を包む空気に、エジプトの匂いがあることを認めて下さるんですね」
ヤードレーは、はっとして「おい、おい。そんなことって! おい君、教師かたぎというものはね、文字どおりに受けとらないような言葉は、どんな簡単な言葉でも使えないものなんだよ」
六 チェッカーとパイプ
一同は、それぞれに考えこみながら、応接室を出た。アイシャムが邸内の右手の建物の方へ案内した。そこには故トマス・ブラッドの書斎があった。一人の刑事が、しめきった書斎のドアの前のホールを巡回していた。一同がその前で立ちどまったとき、|かっぷく《ヽヽヽヽ》のいい、やさしそうな婦人が、黒いさらさらいう服をつけて、どこか裏手の方から出て来た。
「私はバクスターと申します」と、おどおどしながらあいさつした。「皆様にご昼食を差上げとうございます」
ヴォーン警視は目をかがやかした。「こりゃ天使様々だ。食事のことはすっかり忘れていましたよ。あなたは家政婦さんですね」
「さようでございます。ほかの方々も、お召し上りになるでしょうか」
ヤードレー教授は首を振った。「私には、そんなお世話になる権利がないな。うちがすぐ道路の向かいだからね。食事がおくれると、ナニーばあさんがかんかんになるんだ。ご馳走が、冷めると言ってね。私は失敬することにしよう……クイーン君、君は、私のお客なんだよ、忘れないでくれよ」
「どうしても帰られるんですか」と、エラリーが言った。「ゆっくりお話しするつもりだったんですが……」
「今夜、会おう」と、教授は手を振った。「君のぼろ車から荷物を出して、車は私の車庫に入れておくからね」
教授は二人の役人に微笑して歩み去った。
昼食はおごそかにとり行なわれた。明るい食堂で三人の男は|もてなし《ヽヽヽヽ》を受けた――家の者はだれも食事どころではないらしかった――三人はほとんど口もきかずに食べた。バクスター婦人が自分で給仕した。
エラリーはやたらにかっこんだ。脳は遊星のように回転して、とてつもない考えを放出した。しかし、それを一人の胸におさめておいた。アイシャムが一度、坐骨神経痛のことを、くどくどとこぼした。家の中はしんとしていた。
一同が食堂を出て、右手の棟にもどったのは二時だった。書斎はとても広くて、教養のある人間のものらしかった。正方形で、みがき上げられた堅木の床は、まわりの三フィートを残して、厚い支那|絨毯《じゅうたん》で覆われていた。二つの壁には、床から梁の見える天井まで作りつけた本のつまっている棚があった。二つの壁でできた角に、切り込みになっている凹所《へこみ》に、小型のグランド・ピアノが置いてあり、ふたがあけてあって、なめらかなキイが見えていた――明らかにトマス・ブラッドが、前の晩にあけたままらしかった。部屋の中央の低くて丸い読書テーブルには、雑誌類や、喫烟道具類が一面にのっかっていた。一つの壁の前に寝椅子があり、その前脚が敷物にかかっていた。その向かいの壁には書きもの机があり、たれ板が下ろしてあった。エラリーは、たれ板の上に、すぐ目につくように、赤と黒のインク|びん《ヽヽ》が二つ置いてあり、どちらも、ほとんどいっぱいなのを、見るともなしに見てとった。
「あの机は拡大鏡で、すっかり調べてみたが」と、アイシャムが、寝椅子に身をなげかけながら言った。「当然、まずやる手順だ。それがもしブラッドの私用の机なら、捜査上価値のある書類がはいっているかもしれないわけだからね」アイシャムは肩をすくめた。「処置なしさ。まるで尼さんの日記のように、清浄なものさ。この部屋のほかの部分については――まあ、自分で見られればわかるとおり。ここには、あやしげなものはほかに何もありませんよ。それに殺しは、亭屋《あずまや》であったんですからね。残るのは、そのチェッカーだけです」
「なにしろ」と、ヴォーン警視が言い足した。「トーテム・ポールの近くで、赤い駒を見つけたんですからね」
「家の他の部分は、全部、捜査ずみでしょうね」と、エラリーが歩きまわりながらきいた。
「おお、徹底的にやりましたよ。ブラッドの寝室を手始めに順々にね。興味のあるものは皆無でした」
エラリーは丸い読書テーブルに注意を向けた。そして、亭屋の床で見つけたパイプからの、たばこの吸いかすを入れた半透明の封筒を、ポケットから取り出し、テーブルの上の大きなヒューミダーのキャップをねじあけて、その中に手をさし入れた。そしてたばこをひとつまみ、つまみ出して色ときざみ方を確認すると――たばこは珍らしいキューブ・カットで――パイプにあったのと同じだった。
エラリーは笑って「なるほど、このたばこについては、とにかく、問題はありませんよ。また、手がかりが一つ煙になった。もしこのヒューミダーがブラッドのものなら、あのたばこはブラッドのです」
「ブラッドのものでした」と、アイシャムが言った。
ためしに、エラリーはテーブルの丸い台の下に、輪郭が見えている小引出しをあけてみた。みると、大したパイプの蒐集《しゅうしゅう》が、ごたごたにはいっていた。それらは全部極上品で、とてもよく使いこんであったが、どれも、ありふれた型のものばかりで――普通の火皿に、まっすぐな柄《え》や、曲がった柄がついているやつだ。海泡石《かいほうせき》のも、ブライヤーのも、ベークライトのもあった。二本だけ、細くて、ひときわ長いのは――古いイギリスの陶土製、チャーチワーデンだった。
「ふん」とエラリーは言った。「ブラッド氏は隠居だったんですね。チェッカーとパイプは――そんな連中には、つきものですよ。暖炉の前に犬がいないのが、型破りですがね。なるほど、ここには何もありませんね」
「こんなのはほかにありませんか」と、ヴォーンが言って、海神と三叉《みつまた》の矛《ほこ》のパイプを取り出した。
エラリーは首を振った。「あなたも、もう一本見つかるとは思っていないんでしょう。そんなのは二本は持たないものですよ。どっちにしたってな。そんな化けものは口にくわえているだけで、あごがはずれるでしょうからね。贈りものでもらったんでしょう」
エラリーは主要証拠物件に目を向けた――それは、室内の寝椅子の反対側の壁に寄せかけてある開いた書きもの机の左側で、同じ壁にとりつけてあった。
かなり巧妙な仕掛けだった。折畳みのチェッカー・テーブルで、畳むと、すぐ後の壁の浅いへこみに、はね返って収めることができるように、蝶番《ちょうつがい》でとりつけてあるのが見てわかった。すべり戸がついていて、今は上げたままだが、下ろせば、全体の装置が壁に隠れるようになっていた。その上、壁にとりつけた椅子が、テーブルの両側に一脚ずつあって、それも同じように壁に、はね返して収められるようになっていた。
「ブラッド氏はなかなか凝《こ》り屋だったらしいですね」と、エラリーが目をそばだてて言った。「切り込み家具を作りつけるなんて。ふふん……これはあの男が残したままなんでしょうね。全然、手は触れていないんでしょうね」
「とにかく、われわれは触りません」と、アイシャムが無造作に言った。「どう解釈しますかね」
テーブルの表面には、見事な細工で、白と黒の四角が六十四、交互にならぶ、普通のチェッカー盤の模様が、その線をすっかり、美しい真珠貝でふちとりをして、刻みこまれていた。遊び手のすわる側には、それぞれ広いふちがとってあって、使わない駒が置けるようになっていた。書きもの机に近い側のふちには、赤い駒が九個置いてあった――黒にとられた赤い駒なのだ。反対側のふちには、赤にとられた、黒い駒が三個あった。盤面の勝負の模様は、三つの黒の『キング』〔一つの黒い駒の上に他の駒を積んで作ったもの〕と、三個のただの黒い駒が置いてあり、また、二個のただの赤い駒が、その一個は、黒の側の第一列、つまり、スタートの四角い列に置かれていた。
エラリーは盤とふちを、考えながら調べていた。「駒の箱はどこにあるんでしょう」
アイシャムは書きもの机の方をあごでしゃくった。あいているたれ板の上には、厚紙でこしらえた安い角箱が置いてあり、中は空だった。
「赤い駒が十一個」と、エラリーは、壁を見つめながら言った。「むろん、十二個のはずです。これと同じ恰好の赤い駒が一個、トーテム・ポストの近くで見つかっている」
「そのとおり」と、アイシャムがため息をした。「家のものについて調べてみましたが、この家にはほかには一つもチェッカー道具はありません。だから、見つけた赤い駒は、ここから出たものにちがいありません」
「そうでしょうね」と、エラリーが言った。「面白い、じつに面白い」エラリーはもう一度、駒を見下ろした。
「そう思いますか」と、アイシャムは気むずかしげに「すぐ面白くなくなりますよ。あなたが考えついたことが私にはわかりますよ。そんなはずがないんです。ブラッドの執事を呼びよせるまで待って下さい」
アイシャムはドアへ行き、刑事に言いつけた。「もう一度、あのストーリングスという男をここへ連れて来い。執事だよ」
エラリーは口よりもものを言う眉をつり上げたが、一言も言わなかった。そして、書きもの机に行き、つまらなそうに、空の厚紙作りの駒の箱をつまみ上げた。アイシャムは少し皮肉な笑いをうかべて、エラリーを見守っていた。
「それも同じですよ」と、アイシャムが不意に言った。
エラリーは目を上げた。「そうです、私はここにはいるとすぐに、それを不思議に思っていたのです。こんな立派なチェッカーの設備をするのに、金と手数をかけた凝り屋の道楽者が、どうしてこんな安物の木の駒を使うんだろうとね」
「すぐにわかりますよ。おどろくほどのことじゃないんです。請け合いますよ」
刑事がホールの方からドアをあけると、頬のこけた、柔和な目をした背の高いやせた男が、はいって来た。黒のさっぱりした服装で、なんとなく追従するような物腰だった。
「ストーリングス」と、アイシャムが前置き抜きで「今朝君が私に話したことを、この紳士のために、もう一度、くり返してもらいたいんだ」
「かしこまりましてございます」と、執事が言った。穏やかな気持のいい声だった。
「第一に、ブラッド氏が、どうしてこんな安物の駒で遊んでいたのか、その事情を説明してほしい」
「たやすいことでございますよ、前にもお話し申しましたとおり、旦那様は――」ストーリングスはため息をして、天井を上目使いに見た――「いつも、一番上等のしかお使いになりませんでした。このテーブルも椅子もご注文で、作らせ、壁もそれに合わせて|へこ《ヽヽ》ませたのでございます。それと同時に、非常に高価な象牙のチェッカーの駒を一組おもとめになりました。そりゃア、すばらしい彫りがあるものでして、それを何年もお使いでした。それから、つい最近のことですが、テンプル先生が、その駒を大変おほめになったので、旦那様は、いつぞや私におっしゃいましたが――」と、ストーリングスはまた、ため息をした――「それと同じような駒を先生に差し上げて、驚かせるおつもりでした。ほんの二週間ほど前に、旦那様は、ご自分の駒を、ブルックリンのある道楽彫刻師へお送りになって、二十四の駒を模造させることになさったのですが、それがまだ戻って来ないのです。さしあたり、こんな安物しか手にはいりませんものですから、間に合わせに、これをお使いになっておられたのです」
「それから、ストーリングス」と、地方検事が言った。「昨日の夕方おこったことを話してくれんか」
「かしこまりました」と、ストーリングスは赤い舌の先で唇をなめまわし「旦那様のおいいつけで、昨夜、家を出ます直後に――」
「待ってくれ」と、エラリーが鋭く「君は昨夜、外出するように命令されたのかね」
「さようです。昨日、旦那様は町からお帰りになると、私と、フォックスと、バクスターさんを、このお部屋へ、お呼びつけになりました」ストーリングスは、何か、やさしい思い出に、喉をつまらせた。「奥様とお嬢様はお出ましでした――お芝居へお出かけと存じます。リンカン様はご夕食には全然お戻りになりませんでした……旦那様は大変、お疲れのようでした。十ドル札をお出しになって、それを私に下さりながら、フォックスとバクスターさんと私とに、夕食後、暇をやるからとおっしゃいました。一晩じゅう、一人でいたいとおっしゃって、フォックスに小型車を使っていいと言われたのです。そこで私たちは出かけたのでございます」
「そうか」と、エラリーがつぶやいた。
「チェッカーの話はどうしたかね、ストーリングス」と、アイシャムが促した。
ストーリングスは長い頭を振り立てて「お邸を出ますちょっと前でした――フォックスとバクスターさんは、外の車道で、もう車に乗り込んでいました――私は、出かけます前に、何か旦那様のご用があったらおうかがいしようと思って、この書斎へまいりました。おうかがいしましたら、何もない、みんなと一緒に出かけろとおっしゃいましたが、それが少しいらだっておられるように、私には思えました」
「なかなか気が利くね、君は」と、エラリーが微笑した。
ストーリングスは、うれしそうに「心がけておりますので。とにかく、今朝アイシャム様に申し上げましたように、昨夜、私がここに参りましたときは、旦那様はチェッカー・テーブルにおすわりになって、つまり、一人遊びをしておられました」
「すると相手はいなかったんだね」と、ヴォーン警視が低い声で「一体、なんだって、私に話してくれなかったんですか、アイシャムさん」
地方検事は両手をひろげた。すると、エラリーがきいた。「君の言うのはどういう意味なんだね、ストーリングス」
「さようでございます。旦那様は、赤も黒も、駒を全部おならべになって、お一人で二役をしておられたのです。ゲームは初手でございました。まず、ご自分のすわっていらっしゃる側の駒を動かし、それから、しばらくお考えになって、相手方の駒を動かされました。私はたった二手しか拝見しませんでした」
「そうか」と、エラリーは唇をすぼめて言った。「どっち側の椅子にすわっていたかね」
「そちらの、お机の近くでした。けれど、赤を動かすときには、立って行って反対側の椅子に腰かけて、いつもなさるように盤をじっとにらんでおいででした」ストーリングスは唇をしめした。「旦那様は、とてもおじょうずで、大変慎重な指し手でした。いつもよく、そんなふうにして練習しておられたのです」
「それでもういい」と、アイシャムがだるそうに言った。「チェッカーが災難のもとでもないだろう」アイシャムはため息をした。「そこで、君たちはどうなんだ、ストーリングス」
「はい」と、執事は答えた。「私たちは車で、みんな一緒に町へ参りました。フォックスは、バクスターさんと私を、ロキシー劇場の前で降ろして、映画がはねるころに私たちを迎えにもどって来ると言いました。それから、フォックスがどこへ行きましたか、私は存じません」
「して、君らを迎えにもどって来たかね」と、ヴォーン警視は急に、しゃんとしてきいた。
「いいえ、参りませんでした。私たちは、たっぷり三十分も待ちまして、きっと事故か何かがあったのだろうと思いました。それで、列車に乗って戻り、駅からタクシーを雇いました」
「タクシーを雇ったって」と、警視は、うきうきとして「駅の運転手どもは、昨夜は商売大繁昌というところだな。君たちが家に着いたのは何時だったかね」
「真夜中ごろで、少し過ぎていたかもしれませんです。はっきりいたしませんで」
「君たちが着いたとき、フォックスは帰っていたかね」
ストーリングスはこわばった顔つきをして「それは申し上げかねます。知りませんでしたので。フォックスは入江の近くの森の中の小屋に住んでおりまして、たとえ灯がついておりましても、木立のせいで見えませんので」
「そうか、それは後で調べよう。アイシャムさん、あなたはフォックスの話は、まだ大してお聞きになっていないようですね」
「チャンスがなかったのですね」
「ちょっと」と、エラリーが口を挟んだ。「ストーリングス。ブラッドさんは昨夜、客がありそうなことを何も言わなかったかね」
「おっしゃいませんでした。旦那様は、ただゆうべは、ずっと一人でいたいとおっしゃっただけでした」
「あの人は、君やフォックスやバクスターさんを、そんなふうにして、時々追いだしたかね」
「いいえ、初めてでございました」
「もう一つきくがね」エラリーは丸い読書テーブルに行って、指先で、ヒューミダーを軽くたたいた。「この壺に何がはいっているか、知ってるかね」
ストーリングスはびっくりしたらしい。「はい、存じておりますとも。旦那様のおたばこです」
「そのとおり。これが邸の中にある、ただ一つのパイプたばこかね」
「さようでございます。旦那様はたばこにはやかましい方でして、それは特別に作らせたブレンド〔葉のまぜ方〕で、イギリスから輸入されたものでございます。ほかのものはけっして召し上りませんでした。実際」と、ストーリングスは自信たっぷりに「旦那様は、アメリカのパイプたばこには風味のいいものはないと、よくおっしゃっていました」
まったくなんの理由もないのに、とっぴな考えが、エラリーの心中にひらめいた。アンドリュー・ヴァンと、キャビアだ。トマス・ブラッドと、輸入たばこだ……エラリーは頭を振った。「もう一つききたいがね、ストーリングス。すみませんが警視、例の海神と三叉《みつまた》の矛《ほこ》のパイプをストーリングスに見せてやって下さい」
ヴォーンは、また彫刻したパイプを取り出した。ストーリングスはしばらくそれを眺めてから、うなずいた。「はい。私はこのパイプを見かけたことがございます」
三人の男は同時にため息をした。運は、どうやら、罰する側より、むしろ罪を犯した側についているらしい。「そうか、やっぱりそうか……ブラッドのものなのか」と、アイシャムがぶつぶつ言った。
「おお、たしかにそうでございます」と、執事が言った。「旦那様は、どの一本のパイプでも、長くはお使いにならない方で、いつも言っておられました。パイプは人間みたいなもので、時々は、休暇が必要なものだと。抽き出しには上等のパイプがどっさり入れてございました。しかし、そのパイプには見覚えがございます。以前にはちょいちょい見かけましたが、そう申せば、最近は見受けませんでしたが」
「よし、よし」と、アイシャムが、いらいらして「もう、やめなさい」すると、ストーリングスは、しゃちこばって軽くおじぎをし、ふたたび執事らしくとりすまして、静々と書斎を出て行った。
「これでチェッカーの件と」と、警視が渋い顔で「パイプの件と、たばこの件がかたづいた。大した時間つぶしだったな。しかしどうやら、フォックスについて面白い手がかりができたらしいですな」と、両手をこすって「まあ、悪くない。それに、あのオイスター島の連中を調べるとなると、忙しい一日になりそうですな」
「いく日もかかるんじゃありませんか」と、エラリーは微笑した。「この事件は、全く、古代の事件のようですからね」
だれかが、そっとドアをたたいたので、ヴォーン警視が部屋を横切ってあけに行った。暗い顔をした男が立っていた。その男は、しばらくヴォーンに低い声で話し、ヴォーンは、つづけさまにうなずいた。最後に、警視はドアをしめて戻って来た。
「なんですか」と、アイシャムがきいた。
「大したことじゃありません。むだ足ばかりのようです。部下の報告では、邸内では、あのいまいましいものは見つからなかったそうです。影も形もないそうです。畜生め、信じられんな!」
「何を探しているんですか」と、エラリーがきいた。
「頭ですよ。被害者の頭です」
かなり長いこと、だれも口をきかなかった。そして肌寒い悲劇の風が室内に忍び込むようだった。
日当りのいい庭を眺めていると、この平和な、ゆたかな陽光のあふれている、美しい土地の主が、硬直した首なし死体になって、ロングアイランド湾からひろい上げた、名もない浮浪者どものように、郡の死体置場にころがっているなどとは、とても信じかねた。
「ほかに何か?」と、やがてアイシャムが言った。アイシャムは自分に腹を立てていた。
「部下は駅の連中を片っぱしから尋問したそうです」と、ヴォーンが静かに言った。「それに、五マイル以内の住民は全部。昨夜、ここを訪ねた者がいるかもしれないので捜しているのですよ、クイーンさん。リンカンとストーリングスの話から、昨夜、ブラッドがだれかを待っていたのは、かなりたしかですからね。何か変なことがあって内密にしたいと思わないかぎり、細君や、養女や、共同経営者や、召使たちまで追い払う者はいませんよ。しかも、前には一度もそんなことはなかったというんですからね」
「その点はじつにはっきりしています」と、エラリーが強調した。「そうです。あなたの推理は完全に正しいですよ、警視。昨夜、ブラッドが、だれかが来るのを待っていたのは、疑う余地もありません」
「ところで、われわれは、手がかりを与えてくれるような人物には、一人もぶつかっていない。乗務車掌も駅の連中も、昨夜、九時ごろに列車で来たよそ者を覚えていないのです。近所の連中はどうか?」警視は肩をすくめた。「まるっきり望みなしでしょうよ。だれにしても、こっそりやって来て、跡も残さずに立ち去れたでしょうからね」
「実際問題として」と、地方検事が言った。「君は不可能なことをしようとしているようだな、ヴォーン君。昨夜、犯罪の目的でここに来たような者が、一番近い鉄道の駅で降りるなんて、そんなばかげたことをするはずがないよ。そいつは、一駅か二駅、前か後で降りて、あとはずっと歩いただけだろうからね」
「訪問者が自動車で来るという可能性はどうでしょうか」と、エラリーがきいた。
ヴォーンが首を振った。「今朝早くその点は捜査しました。しかし邸内の道路は砂利道だから役には立たないし、ハイウェイは砕石舗道なのです。それに雨なんか降らなかったし――お手上げです、クイーンさん。むろん、車で来た可能性はありますがね」
エラリーは深く考えこんだ。「なお、もう一つの可能性がありますよ、警視、湾です」
警視は窓から眺めた。「それに気がつかなかったとでも思うんですか」と、警視は、ゆがんだ小さな笑い声をたてた。「まったく造作もないことですものね。ニューヨークか、コネチカットの岸で舟を借りる――モーターボートか何か……今、二人ばかりでその線を洗っているところですよ」
エラリーは、にやりと笑った。「『逃げる者は、どこまでも追いかける』――ですね、警視」
「なんと?」
アイシャムが立って「ここはさっさと引き揚げよう。いそがしいんだ」
七 フォックスと英国人
一同は、さらに深く霧の中にふみ込んだ。どこからも光りがさして来ないようだった。
たとえば家政婦のバクスターからも何も役に立つ重要なものは得られそうになかった。しかし、完全を期すためには、尋問する必要があった。一同は応接室へもどって、そのたいくつな仕事をかたづけた。家政婦のバクスターは、おろおろしながら、前の晩の外出についてストーリングスの話を裏書きしただけだった。いいえ、旦那様はお客様については何もおっしゃいませんでした。いいえ、旦那様お一人に、食堂でお給仕いたしましたが、べつに、とりみだしたり、神経質になっていらっしゃるようなところは、お見受けいたしませんでした。そう申せば、少しぼんやりしていらっしゃるようではございましたが。はい、フォックスは私たちをロキシーで降ろしました。はい、私とストーリングスは汽車とタクシーを使ってブラッドウッドに戻りまして、夜中ちょっと過ぎに着きました。いいえ、奥様やほかの方たちはまだお帰りにはなっていなかったと思いますが、はっきりとは存じません。家の中はまっ暗だったかね。はい。何か異状はなかったかね。いいえ。……
それでは、もうよろしい、バクスターさん……年配の家政婦は早々に引きとり、警視は、いまいましさをぶちまけた。
エラリーは、指の爪の根もとの星をたいくつそうに見ながら、傍観していた。アンドリュー・ヴァンという名が、頭の中をかけまわっていた。
「行こう」と、アイシャムが言った。「運転手のフォックスを尋問してみよう」
アイシャムはヴォーンと一緒に家の外に出て行った。エラリーはあとからぶらぶらついて行きながら、六月の|ばら《ヽヽ》の花に鼻をうごめかし、同僚たちがいつになったら自分の尻尾を追いまわすような、堂々めぐりをやめて、湾に浮かぶオイスター島の、きわめて興味のある小さな土地と林へ船出するのだろうと思っていた。
アイシャムは母屋《おもや》の左の棟をまわり、じきに手入れのとどいた自然林にはいって行くせまい砂利道を先に立って歩いて行った。少し歩くと、木立の下をくぐり抜けて空地に出た。そのまん中に、そいだ丸太で建てた、こざっぱりした小さな小屋が立っていた。郡の機動隊員が一人、小屋の前の日だまりに、いばりくさって屯《たむろ》していた。
アイシャムが頑丈なドアをたたくと、ずっしりした男の声が答えた。「おはいり」
一同がはいると、妙に青ざめた斑点《しみ》のある顔の男が、こぶしを握りしめて、樫《かし》の木のように、すっくと立っていた。背が高く、ぴんとして、やせてしなやかな若竹のようだった。はいって来た連中がだれだかわかると、こぶしをほどき、肩をたれて、立っていた後の手製の椅子の背を手さぐりした。
「フォックス」と、アイシャムが横柄に言った。「今朝は暇がなくて、君の話をよく聞いておれなかった」
「はい」と、フォックスが言った。顔の青いしみは一時的のものではないらしいのに、エラリーは気がついて少しおどろいた。それは生れつきの顔色らしかった。
「どうやって君が死体を発見したかは知っている」と、地方検事は言いながら、小屋にあるもう一つだけの椅子に腰かけた。
「はい」と、フォックスは低い声で「とても、おそろしいことで――」
「それで、今、知りたいのは」と、アイシャムは相手の感情を無視して「昨夜は、なぜ、ストーリングスとバクスターさんを置き去りにしたんだね。どこへ行き、何時に家へ戻ったね」
妙なことに、その男は顔色も変えず、縮み上りもせず、|しみ《ヽヽ》のある顔の表情も変らなかった。「私は町を乗りまわしていただけです。そうして、夜中のちょっと前に、ブラッドウッドに戻って来ました」と言った。
ヴォーン警視は、つかつかと進み出て、フォックスのたれ下がっている腕をつかんだ。そして「おい君」と快活に言った。「われわれは君を、いためつけたり、だましたりしとるんじゃない。わかるな。君が間違ったことをしておらんのなら、放免するつもりだよ」
「間違ったことはしていません」と、フォックスが答えた。エラリーは、フォックスの発音や抑揚に、どこか教養のあとがあるのを感じた。それで、興味を深めながら、フォックスを見守っていた。
「よろしい」と、ヴォーンが言った。「そりゃ結構だ。じゃあ、町を乗りまわしていたなんてでたらめはやめにしろ。まっすぐに答えるんだ。どこへ行った?」
「まっすぐお答えしているんです」と、フォックスは、声を殺して答えた。「私は五番街を乗りまわし、公園を抜けて、リヴァーサイド・ドライヴを長いこと走らせました。外は気分がよかったので、たのしく息抜きしたのです」
警視は握っていたフォックスの腕を急にはなして、アイシャムに、にやりと笑いかけた。「息抜きしたんですとさ。映画のはねたあとで、ストーリングスとバクスターさんを迎えに行かなかったのは、なぜだね」
フォックスの広い肩がちょっと、ひるむようにゆがんだ。「だれも、迎えに来てくれと言いませんでした」
アイシャムがヴォーンを見、ヴォーンがアイシャムを見た。しかし、エラリーは、フォックスを見つめていた。そしておどろいたことには、フォックスの目は――意外にも――泪がいっぱいだった。
「そうかね」と、やがてアイシャムが言った。「君の言い分が、それなら、頑張るがいい。あとでほかのことがわかっても、知らんぞ。君はここでどのくらい働いとるね」
「今年のはじめからです」
「身許の照会先はあるね」
「はい」黙って後を向き、古い食器棚の方へ行き、抽出しをかきまわして、きれいに大切に保存してある封筒をとり出した。
地方検事はそれを開いて中の手紙にざっと目を通すと、ヴォーンに手渡した。警視は、かなり注意深く読んでから、それをテーブルの上になげ出して、わからんという顔で大股に小屋から出て行った。
「まともなもののようだ」と、アイシャムは立ち上りながら言った。「ところで、君と、ストーリングスと、バクスターさんだけが、ここの雇人なんだろうね」
「はい」と、フォックスは目も上げずに言った。そして、身許証明書をつまみ上げ、封筒と書類とを指の間でもてあそんでいた。
「あのう――フォックス君」と、エラリーが「昨夜、君が家に戻ったとき、何か異常なものを、見るか、聞くかしなかったかね」
「いいえ」
「君は家にじっとしとるんだぞ」と、アイシャムが言って、小屋を出た。外では、ヴォーン警視が待っていた。エラリーは戸口で立ちどまった。小屋の中のフォックスは身動きもしなかった。
「やつは昨夜のことで、はっきり嘘を言っていますよ」と、ヴォーンが大声で言ったので、いやおうなしにフォックスにきこえた。「すぐ洗ってみましょう」
エラリーは立ちすくんだ。二人のやり方には、何かむちゃなものがあったし、エラリーにはフォックスの目の泪が忘れられなかった。
黙って一同は西の方へ近道をして行った。フォックスの小屋はケチャム入江の水辺からそう遠くなかった。木の根や草に足をとられながら歩いて行くうちに、木立を通して、日に輝く青い水の色が見えた。小屋にほど近いところで、一同は、狭い、垣のない小道にぶつかった。
「ブラッドの地所だな」と、アイシャムが、ぼそりと言った。「垣をしなかったんだな。リンという連中の借家は、この道のはずれにでもあるんだろう」
一同は道路を横切ると、すぐに|うっそう《ヽヽヽヽ》とした森にはいりこんだ。深い下草の中を、西に向かって通じている山道を見つけるのに、ヴォーンは五分もかかった。まもなく小道は広くなり、木立はまばらになり、目の前の林の中に、低い不恰好な石造の家が立っているのが見えた。女と男が、からっとしたポーチに腰かけていた。三人の客の姿が見えてくると、男は少しあわてたように立った。
「リンさんご夫婦ですか」と、地方検事が、ポーチの下で足をとめて言った。
「当人です」と、その男が「パーシー・リンです。家内です……あなた方は、ブラッドウッドから見えられたのですか」
リンは、背が高く浅黒くて、顔立ちが鋭い英国人で、短かく刈った、つやつやした髪で、はしっこそうな目をしていた。夫人のエリザベス・リンは、金髪で肉づきがよく、顔にはいつも微笑がはりついているようだった。
アイシャムは、うなずいた。すると、リンが言った。「ようこそ……お上りになりませんか」
「いや、結構です」と、ヴォーン警視が、快活に言った。「ちょっとおじゃまするだけですよ。事件は聞かれましたか?」
英国人は、重々しくうなずいた。しかし、細君の微笑は消えなかった。「本当に、びっくりしました」と、リンが言った。「私たちが、初めてそのことを知ったのは、道路の方へ散歩に出て、巡査にぶつかったときでした。その巡査が、惨劇のことを話してくれたのです」
「もちろん」と、リン夫人が甲高《かんだか》い声で「あのときは、出かけて行こうなどとは夢にも思わなかったんですわ」
「そう、もちろんそうでしたよ」と、夫も合槌《あいづち》を打った。
しばらく沈黙がつづいた。その間に、ヴォーンとアイシャムは目で話し合った。リン夫妻は身動きもしなかった。背の高い男の手にはパイプがあり、かすかに曲がり|くね《ヽヽ》る烟がひと筋、ゆらぎもせずに、その顔の方に立ちのぼっていた。
リンは突然、パイプをふりまわして「どうもこりゃあ」と言った。「まったく、とんでもない厄介なことになったと思いますよ。あなた方は、警察の方なんでしょう」
「そうですよ」と、アイシャムが言った。地方検事は、すべてリンの方から話を切り出させるつもりだった。ヴォーンは、後に退っていた。エラリーは、女の顔のぞっとするような微笑に、気をのまれているらしかった。やがて、エラリーはにやりとした。リン夫人の微笑があんなにぎこちないわけは、義歯をはめているからだとわかった。
「われわれの旅券を見たいんでしょうね」と、リンが重々しい声でつづけた。「隣り近所のものや、友人など、そういったものを全部、調べるんですね、そうでしょう」
旅券はちゃんとしていた。
「あなた方は、どうして私たちがここへ来たかをお知りになりたいのでしょう――私と家内とが――ここに住むようになったかを……」と、アイシャムが旅券を返したとき、リンがしゃべりはじめた。
「そのことは、ブラッド嬢《さん》から、すっかり聞きました」と、アイシャムが言った。そして、突然、階段を二段上ったので、リン夫妻は、緊張した。「昨夜、あなた方はどこにいましたか」
リンは、うるさく、喉で、せき払いして「ああ――そうですか。そのことなら。じつは、私たちは町にいました……」
「ニューヨークですか」
「そうです。町へ夕食をとりに出て、芝居を見ました――つまらない芝居でした」
「何時に戻られましたか」
リン夫人が、いきなり甲高い声で「おお、戻りませんでしたの。ホテルで一晩、過ごしましたの。あまりおそくなったものですから――」
「どのホテルですか」と、警視がきいた。
「ルーズベルト・ホテルですわ」
アイシャムがにやにやして「そうですか、それにしても、どのくらい、おそかったのですか」
「おお、夜中すぎでした」と、英国人が答えた。「芝居のあとで、一ぱいやったりしたので、そして――」
「結構です」と、警視が「このご近所の人を大ぜいご存知ですか」
夫妻は同時に頭を振った。「ほとんど、だれも知りません」と、リンが「ブラッド家の人たちと、あの、とても面白い人物、ヤードレー教授と、テンプル先生のほかはね。本当に、それだけです」
エラリーは、とり入るように微笑して「あなた方のどちらかが、もしかして、オイスター島へ行かれたことはありませんか」
英国人は、ちらっとほほえみ直して「とんでもない、君。裸体主義なんか、ちっとも珍らしくはないよ。ドイツでさんざっぱら見て来た」
「それにね」と、リン夫人が口をはさんだ。「あの島の人たちときたら」と、わざとらしく身ぶるいして「私は、お気の毒なブラッドさんに大賛成ですわ。あんな人たちは追放してやるとおっしゃってましたもの」
「ふふん」と、アイシャムが「この惨劇について、何かご意見はありませんかな」
「私たちは、本当に、見当がつかんのですよ。本当です。怖ろしいことだけじゃなく、野蛮だ」とリンは、舌打ちして、「あなた方のすばらしいお国に、|しみ《ヽヽ》をつけたようなものですよ、ヨーロッパから見てね」
「本当にそうですね」と、アイシャムが、冷たく言った。「いろいろどうも……じゃ失礼しましょう」
八 オイスター島
ケチャムの入江は、トマス・ブラッドの地所の海岸を、ほぼ半円形に切りとっていた。弓形の海岸の中央に、大きな桟橋《さんばし》が突き出ていて、いく隻かのモーターボートと、一隻のランチが、もやっていた。二人の連れと西に向かう道にもどり、それを海辺まで歩いてくると、エラリーは、大桟橋から数百ヤード離れた、別の小さな桟橋の上に出た。一マイルもない沖に、水をへだてて、オイスター島が横たわっていた。島の海岸線は、本土からねじり切ったときに、少しひきのばされたというような恰好をしていた。エラリーは、島の向こう側を見ることができなかったが、島の輪郭からオイスター〔牡蠣《かき》〕という名がついたのだろうと判断した。
オイスター島は、トルコ玉のような色のロングアイランド湾の海面に、はめこまれた緑色の宝石のようで、外から見たかぎりでは、鬱蒼とした原始林に覆われているように見えた。木々や生いしげる潅木《かんぼく》が、ほとんど水ぎわまでせまっていた。いや……小さな船着場があった。目をこらしてよく見ると、その灰色のおぼつかなそうな輪郭が見えた。しかし、そのほかには人の手で作った建物は何一つ見えなかった。
アイシャムが桟橋に出て、本土とオイスター島の間を、のんきそうに巡航している警察のランチに向かって『おーい』と叫んだ。西方の狭い水道の向こうに、もう一隻の警察ランチが船尾をこちらへ向けているのが、エラリーに見えた。その船は岸の近くを巡視しているらしく、やがて島かげに姿を消した。
さっきのランチが本土の岸に向かって突進して来て、桟橋にすべり込んだ。
「さあ、行きましょう」と、ヴォーンが、ランチに乗船しながら、やや緊張した声で言った。「いらっしゃい、クイーンさん。これでかたづくかもしれませんよ」
エラリーとアイシャムがとびのると、ランチはオイスター島の中央目ざして、まっすぐにつき進みながら、大きく弧をえがいた。
一同は入江を突っ切って行った。しだいに、島と本土の姿が、くっきりと見渡せるようになった。一同が乗り込んだ桟橋からほど遠くない西側に、同じような桟橋が、もう一つあるのが見えた――明らかにリン夫妻の使っているものだった。もやい柱の一体に、手こぎのボートが一艘つながれて、太陽にさらされていた。入江をはさんで、東側の対応する地点に、リンのとそっくり同じような桟橋が、もう一つあった。
「テンプル医師が、あそこに住んでいるんじゃありませんか」と、エラリーがきいた。
「ええ。あれは先生の船乗り場でしょう」東側の桟橋には船の影はなかった。
ランチは水を切って進んだ。オイスター島の小さな船着場に近づくにつれて、その細かいところが見えてきた。一同は黙って、それがだんだん大きくなるのを見守っていた。
突然、ヴォーン警視がとび上り、顔に興奮の色をみなぎらせて叫んだ。「あそこで、何かおこっとるぞ」
一同は船着場を見た。一人の男の姿が、もがいて、かすかに悲鳴を上げている女を腕にかかえて運びながら、しげみからとび出し、今の先、一同が見た船着場の西側につないであった小さな船外式モーターボートに、どんとばかりとびこみ、女を乱暴に船首の板張りの上に放り出し、エンジンをかけて、あわてて船着場から逃げ出し、警察ランチめがけて、まっしぐらに走って来た。女は気絶したように、静かに横たわっていた。男がすばやく島の方を振り向いたときに、その浅黒い顔が見えた。
その脱出から十秒もたたないうちに――じつは脱出かどうかわからないが――おどろくべき化物が森からとび出して来て、脱出者たちが逃げたその道を追って来た。
すっ裸の男だった。丈が高く、肩幅が広く、褐色の隆々たる筋肉をした男で、まっ黒なたてがみを、走るにつれて風になびかせていた。ターザンだと、エラリーは思った。そいつの後ろの森から、ターザンの象の鼻と、奇想天外な仲間たちが、あらわれてくるのではあるまいかと、エラリーは、もう少しで、それを見ようとしそうになるところだった。だが、皮のふんどしはどうしたのだろう……そいつが船着場でちょっと停り、出て行くボートをにらんで、絶望の呪いをあげるのが、かすかにきこえるようだった。そいつは、たくましい腕をだらりと下げ、まる裸であることなど全然意識せずに、しばらくそこに立っていた。そいつの目は、ただボートだけを見つめていた。ボートの男は緊張してその方を振り向いていたので、自分のボートの行手に何があるか、まるで気がつかないようだった。
やがて、エラリーが目をぱちくりさせたほど突然、裸のそいつは姿を消した。船着場のはしから、銛《もり》のように水をつんざいて、いきなり海中にとびこんだのである。ほとんどすぐに、また水面に姿を見せると、速い抜き手で、逃亡者めがけて泳ぎはじめた。
「大ばか者め」と、アイシャムが叫んだ。「やつはモーターボートに追いつく気だ!」
「あのモーターボートは停っていますよ」と、エラリーが、そっけなく注意した。
アイシャムは驚いて、モーターボートを、きっと見すえた。ボートは岸から百ヤードばかりの海上で、静止し、操縦士は言うことをきかないモーターを、狂気のようにいじりまわしていた。
「急いでやれ」と、ヴォーン警視が警察ランチの操縦士にどなった。「やつの目付きじゃ、人殺しもやりかねないぞ」
ランチはうなりを上げ、汽笛が島の奥に|こだま《ヽヽヽ》するような、あわれっぽい声でわめきたてた。まるで、初めてランチの存在に気づいたように、ボートの男と、水中の男は、立ちすくんで、警報の出どこを探していた。泳いでいた男は、水をかきながら、一瞬見つめていたが、すぐに、荒々しく髪から水しぶきを上げて、水中にもぐった。そいつは、じきにまた水面に姿を見せ、またもや速い抜き手で泳ぎはじめ、今度は島に向かって、まるで地獄の悪魔に総出で追われているかのような勢いで退却して行った。
ボートの船首にいた女は身を起こしてすわり、じっと宙を見つめていた。船尾の席に、ぐったりとすわり込んだ男は、ランチに向かって手を振っていた。
ちょうど、ランチがボートに横づけになったとき、裸の男は水からとび上って岸に上り、後も見ずに森のしげみに分け入って、姿を消した。
驚いたことに、警察のランチが、動けなくなったモーターボートに、かぎ縄をかけたときに、中の男は頭をのけぞらせて笑い出した――いかにもほっとした、喜びの心からの高笑いだった。
その男は、やせてがっちりした男で、年配はわからないが、髪は褐色をおび、顔は日にやけてほとんど茜色《あかねいろ》をしていた――その肌色は長いあいだ赤道直下で暮して、はじめて得られるものである。目も、日にさらされたようで、ほとんど無色といっていいほど、淡い灰色だった。口は肉でできた|ばね罠《ヽヽヽヽ》のようで、あごの筋肉が帯金《おびがね》のように、茜の頬をしめつけていた。逃げ出したとはいえ、なかなかどうして一筋縄ではいかない人物だと、エラリーは、船尾の席で、愉快で愉快でたまらないというふうに、ころげまわって笑っているその男を見て、そう思った。
この驚くべき男がかどわかした女性は、ヨナ・リンカンに似ているところをみると、どうやら、きかん気のヘスターらしい。美人ではないが体のいい娘だった。体格のよさは、とまどっている警察ランチの連中にも、一目で造作なくわかった。男の上衣を両肩に羽織っているけれど――笑いころげている男が上衣をつけていないのに、エラリーは気がついた――その上衣の下は、きたない麻布のきれで、かろうじて隠しているだけで、それも、まるでだれかが、手近にある布の切れっぱしで、さし当り、裸の女体を、むりに覆ったという姿だった。
娘は男たちの凝視を、困りきった青い目で見返したが、それから、顔を赤らめて、身ぶるいして、うなだれた。そして、思わず、手を、腿の方へ動かしていた。
「一体、何を笑っとるのかね」と、警視がきびしい口調で「それに、君は何者なんだ。どういう訳でこの女性をさらったんだね」
上衣なしの男は、笑い泪をこぼして「なんといわれても仕方がないな」と、息を切らせた。「じつに、なんともおかしい」男は黒ずんだ顔から、陽気さの最後の名残りをふり払って、立ち上った。「すみません。ぼくの名はテンプルです。このひとは、ヘスター・リンカンさんです。援けて下さって、ありがとう」
「こっちの船に乗りたまえ」と、ヴォーンが、どなった。
アイシャムとエラリーが、黙りこんでいる娘に手を貸して、ランチに乗せた。
「あの、ちょっと待って下さい」と、テンプル医師が口早に言った。その顔には、もう、ユーモアはなかった。深い疑惑の色が浮かんでいた。「一体、あなた方は、どなたですか、とにかく」
「警察です。さあ、さあ、早く」
「警察?」と、テンプル医師は目を細めて、ぐずぐずとランチに、よじ登って来た。一人の刑事が、モーターボートを、大きな方の船のもやい綱に結びつけた。テンプル医師は、ヴォーンからアイシャム、エラリーへと目を移した。娘はぐったりと席によりかかって、ただ床ばかり眺めていた。
「ところで、変だな。どうしたんだね」
地方検事アイシャムが、声をかけた。テンプル医師の顔は不気味なほど青くなり、ヘスター・リンカンは、恐怖にみちた目で見上げた。
「ブラッドさんが」と、テンプル医師はつぶやいた。「殺されたって……そんなこと、信じられないな。だって、昨日の朝、会ったばかりだもの、それに……」
「ヨナは」と、ヘスターが、声を出した。ふるえていた。「あの――兄は無事でしょうか」
だれも、ヘスターには答えなかった。テンプル医師は下唇を噛んでいた。その青ざめた目には、深く考え込むような表情が浮かんだ。
「あなた方はお会いでしたか――リン夫妻に」と、妙な声で医師がきいた。
「なぜですか」
テンプルは黙っていてから、微笑して肩をすくめた。「おお、なんでもありません。ただ、ちょっとおききしたまでです……トムも気の毒にな」
医師は突然腰を下ろして、海の上のオイスター島を見つめた。
「ブラッドの船着場へ戻してくれ」と、ヴォーンが命令した。ランチは水をかきまわして方向をかえ、本土へ向けて帰航しはじめた。
エラリーは、大桟橋の上に立っている、ヤードレー教授の背の高い、異様な姿を見つけて、手を振った。それに答えて、ヤードレーも、ひょろ長い手を振った。
「ところで、テンプル先生」と、地方検事アイシャムが真顔になって「あなたは、ばかさわぎをなすって、楽しまれたんだろうが。一体あの、大騒ぎな人さらいは、どうしたということですか。それに、あなた方を追いかけて来た、裸の気違いの神の名は、なんと言うのですか」
「気の毒だがね……どうやら真相をぶちまけた方がいいらしい。ヘスターさん――勘弁して下さい」
娘は何も答えず、トマス・ブラッド殺しの話に、きもをつぶしているらしかった。
「リンカンさんは」と、日に灼けた男が続けた。「ずっと――その、少し衝動的なところがありましてね。この人は若いし、若い人は、とかく、ちょっとしたことに夢中になるものです」
「おお、ヴィクター」と、ヘスターが、この上もない弱々しい声で言った。
「ヨナ・リンカンには」と、テンプル医師は、眉をしかめて続けた。「それがわからない――つまりそのう、なんと言うかな――私の見るところでは、妹さんに対して、当然のことをしていないんです」
「そのとおりよ」と、娘がつらそうに言った。
「そうだよ、ヘスター。そう思うんだ――」医師はまた唇を噛んだ。「とにかく、ヘスターがあの気違い島へ行ってから一週間経っても帰って来ない。そこでぼくは、だれかがヘスターの目を醒ましてやる潮時だと思ったのです。だれにもその役を引受けてやれそうにないので、ぼくがその役を買って出たのです。裸体主義なんて!」と、ふふんと鼻をならして「連中のやっとることは、倒錯狂ですよ。ぼくは伊達《だて》に医者をしているわけじゃないんですからね。連中は、まじめな人たちの抑圧感情を食いものにしている、いかさま師どもですよ」
娘があえいだ。「ヴィクター・テンプルさん。あなた本気でおっしゃってるの?」
「差出口をして失礼だが」と、警視が、穏やかに言った。「リンカンさんが、何も着ないではね廻りたがったとしても、それがあなたに、どんな関係があるんですか。この人も、成年らしいが」
テンプル医師は、ぐいっと顎《あご》を噛みしめた。「どうしてもお聞きになりたいなら」と、腹立たしそうに「ぼくには干渉する権利があると思うのです。感情的には、この女《ひと》はまるっきり子供で、肉体的には思春期なんです。立派な体格と、甘い言葉にのせられてしまったのです」
「その男が、ポール・ロメーンなんでしょうね」と、エラリーが、うすら笑いをしながら口を出した。
医師はうなずいた。「そうです、けしからん用心棒ですよ。あの気違いじみた太陽教の、生きている看板なんです。太陽はどこにでもあるのにね……ぼくは今朝、調べに行ったのです。ロメーンとちょっと、もめましたよ。穴居族め! とても滑稽なので、それで、さっき笑いがとまらなかったんですよ。しかし、あのときは真剣でした。やつはぼくより、ずっと強いですからね。ぼくはとてもかなわんと思って、リンカンさんを、かっさらって逃げたのです」と、にが笑いした。「もし、ロメーンが、つまずいて、岩に頭をぶつけなかったら、おそらく、ぼくはまんまとのされてしまったでしょうよ。これが、あの誘拐さわぎの、いきさつです」
ヘスターはぼんやりと医師を眺めてから、怖ろしさに、ふるえていた。
「しかし、どうものみこめませんね。なんの権利であなたは――」と、アイシャムが言いかけた。
テンプル医師は立ち上った。何か激しいものが目に浮かんだ。「そんなことは、まったくあんたの知ったことじゃない。たとえ、君が何者だろうとね。しかし、ぼくは、いつかこの娘さんを嫁にもらうつもりなんです。だから、ぼくには権利がある……このひとはぼくを愛しているのだが、自分では気がつかないんだ。それで、なんとかして、悟らせてやるつもりだったんです」
医師は、じっと娘を見守った。一瞬、娘の目は、それに答えるように、もえ上った。
「こりゃあ」と、エラリーがアイシャムに耳打ちした。「恋の恍惚境《こうこつきょう》ですよ」
「そうですかな」と、アイシャムが言った。
一人の機動警官が、本船のもやい綱をつかんだ。ヤードレー教授が「おーい、クイーン。君がどうしとるか、ぶらっと見に来たんだよ……やあ、テンプル君、どうしたんです?」
テンプル医師は、おじぎして「ぼくはヘスターを誘拐しただけなのに、この紳士連、ぼくを|つるす《ヽヽヽ》つもりなんですよ」
ヤードレーは微笑を消して「そりゃあ、どうも……」
「あのう――教授《せんせい》も一緒に来て下さいませんか」とエラリーが「島では先生を必要とするかもしれませんからね」
ヴォーン警視が、口を添えた。「うまい考えだ。テンプル先生、あなたは、昨日の朝、ブラッドに会ったと言われましたね」
「ほんのちょっとです。あのひとは町へ出かけようとしていました。月曜日の夜にも会いましたよ――おとといの夜です。まったく、いつもと変りはありませんでした。わからんな、さっぱりわかりませんよ。容疑者はいるんですか?」
「訊問中ですよ」と、ヴォーンが言った。「昨夜はどうしておられましたか、先生」
テンプルがにやりとして「ぼくが手始めってわけじゃないんでしょうね。ぼくは一晩じゅう、家にいました――ひとりものですからねえ。毎日女のひとが来て、掃除と炊事をやってくれるんです」
「ほんの形式だけのことなんですが」と、アイシャムが言った。「もう少しくわしく、あなたのことを知りたいんです」
テンプルはしかたがないというふうに手を振った。「なんでも、どうぞ」
「ここに何年、住んでおられます?」
「一九二一年以来です。ご存知のように、ぼくは退役軍人なんです――軍医です。大戦〔第一次〕が始まったときには、イタリアにいて、少し衝動的に、イタリアの軍医隊にとびこんだのです。当時は、医学校を出たばかりの、はなたらしだったんです。階級は少佐で、一、二度は銃もとりました――ぼくはバルカン戦線にいて、捕虜になったんです。大して面白くもなかったんですよ」と、ちょっと微笑した。「それでぼくの軍歴は終りです。ぼくは戦争中、オーストリア軍の手で、グラーツに抑留されていました」
「それから、合衆国に来られたのですね」
「数年間、方々をぶらつきまわりましたよ――戦争中にちょいとした遺産がころがり込みましたのでね――それから、ぶらりと国へ帰って来たんです。そう、あのころはわれわれみんな、いろんな目にあったもんですよ、ねえ。旧友は死ぬ、家族もない――ありふれたことですよ。ぼくはここに腰をおちつけて、それ以来、田舎紳士の役まわりをつとめて来たんですよ」
「ありがとうございました、先生」と、アイシャムは、いっそう丁寧に言った。「あなた方には、ここで降りていただいて――」アイシャムは何かを考えついたらしい。「あなたは、ブラッド邸へお帰りになった方がいいですよ、リンカンさん。島では花火さわぎがあるかもしれませんからね。あなたの持物は、あとから届けさせましょう」
ヘスター・リンカンは目を上げなかった。しかし、口をひらくと、|てこ《ヽヽ》でも動かぬ強情さがあった。「私はここに残るのはいやです。島に戻るつもりです」
テンプル医師が、笑顔を捨てて「帰るって!」と叫んだ。「気が狂ったのか、ヘスター。あんな目にあったのに――」
娘は、テンプルの上衣を肩から脱ぎすてた。太陽はその褐色の肩をじりじり灼きつけ、娘の目には太陽へのあこがれが、もえ上った。「テンプル先生、私は、あなたからだって、ほかのだれからだって、私のすることを、とやかく言わせませんよ。私が帰るつもりなんだから、あなたにもとめられませんよ。とめないで下さい」
ヴォーンは、へこたれたようにアイシャムを見た。アイシャムは、腹立たしそうにぶつぶつ言いながら、歩きはじめた。
エラリーは、のんびり言った。「おお、それもいいな。みんなで引き返しましょう。それも面白いかもしれませんからねえ」
そこで、ランチはもう一度、ケチャム入江の海を渡った。今度は無事に、小さな船着場に着いた。一同が船着場へ降りたとき、ヘスターは断乎《だんこ》として人手を借りることを断わった。一同は、ちょっと見ると幽霊みたいなものの出現に、どぎもを抜かれた。
それは小さな老人で、髪はくしけずらず、褐色のひげに覆われ、狂的な目をしていた。その男は、純白の衣をまとって、妙なサンダルをはき、右手には、頭に蛇の模様を不細工に彫りつけた、粗末な妙な杖を握っていた……潅木《かんぼく》のしげみから出てくると、骨と皮ばかりの胸をつき出して、見下《みくだ》すように一同を見つめた。
その男の後に、あの裸の泳ぎ手が、ぬっと立っていた――今度は、古いつぎの当ったズックのズボンと、アンダーシャツを着ていた。褐色の足は、はだしだった。
しばらく、両方とも、相手方とにらみあっていたが、やがて、エラリーが、感にたえかねたように言った。「やあ、君は、ハラーフトじゃないか」ヤードレー教授が|ひげ《ヽヽ》の中で微笑した。
小さな幽霊はびっくりして、きょろきょろとエラリーの方を見た。しかし、その目付きには、エラリーがわかったような、光りがなかった。
「それは、わしの名じゃが」と、甲高い、はっきりした声で言った。「そなたたちは、神殿の参詣者かの」
「お前さんの神殿に参詣するよ、この小僧め」と、ヴォーン警視が、つかつかと進み出て、ハラーフトの腕をつかみながら、一喝した。「お前が、この乱痴気騒ぎの張本人なんだろう。小屋はどこなんだ。お前に話がある」
ハラーフトは、とほうにくれたように見えた。そして仲間をふり向いて「ポール。どうした、ポール」
「あの名前が好きらしいな」と、ヤードレー教授が、つぶやいた。「大した名前の弟子だ」〔ポールはキリストの弟子パウロである〕
ポール・ロメーンは目も動かさずに、テンプル医師を見つめていた。テンプルも大いに関心をもってにらみ返していた。ヘスターが、森の下ばえに、すべり込んでしまっているのに、エラリーは気がついた。
ハラーフトが向き直った。「お前さん方は何者じゃ。なんの用で来たのじゃ。わしらはここで平和に暮しとる人間じゃ」
アイシャムは、ふふんと鼻を鳴らし、ヴォーンがどなりつけた。「モーゼ気取りのじいさん。おい、じいさん。われわれは警察だ。いいか、人殺しを捜しとるんだぞ」
小柄な老人は、まるでヴォーンに、なぐられでもしたかのように、ひるんだ。その薄い唇がふるえ、あえいだ。「またか。またしてもか。またか」
ポール・ロメーンが立ち直った。そして、ハラーフトを手荒く、かきのけると、つかつかと、警視の前に立ちはだかった。「あんたがだれかしらんが、話があるなら、わしが聞こう。この老人は少し頭が変なんだ。人殺しを捜しているんだって。さっさと行って捜すがいい。しかし、一体、なんで、おれたちに関係があるんだ」
エラリーは感心して、その男を見ていた。野獣のようにすばらしい肉体で、抑圧されたり感傷的な性質の女どもが、その男に手もなく魂をうばわれる理由がうなずけるほど、魅力のある男性的な美しさだ。
アイシャムが、穏やかにきいた。「君とこの狂人は、昨夜はどこにいたかね」
「この島にいましたさ。だれが殺されたんだね」
「知らんのか」
「知らんね。だれだね」
「トマス・ブラッドさんだ」
ロメーンは目をぱちくりした。「ブラッドが! そうか、そんなことになりそうなやつさ……それがどうしたんだ。おれたちは潔白さ。本土の泣きべそ婆さんどもには、なんの用もないよ。おれたちは、放っといてもらいたいだけさ」
ヴォーン警視が、そっとアイシャムを押しのけた。警視自身、気の弱い男ではなかった。その目は一歩もゆずらずに、ロメーンの目と、がっちりにらみ合っていた。「おい、こら」と、言って、指をその男の手首にめりこませながら「もっと丁寧にものを言うんだ。お前に話しとるのは、この郡の地方検事様と、警察の親玉なんだぞ。いい子になって、おとなしく答えるんだぞ、坊や、わかったな」
ロメーンは腕をふりはなそうとしたが、ヴォーンの指は鋼鉄のように、相手の太い手首を握りしめたままだった。「おお、わかったよ」と、ロメーンは口ごもりながら「あんたがそう言うなら、そうするよ。ただ、だれにもじゃまされたくないもんだからね。何が知りたいんだね」
「お前と、後にいる親玉の汚水《あか》じじいが、最近に島を出たのはいつだ?」
ハラーフトが甲高く言いかけた。「ポール。ついて来い。そいつらは不信心ものじゃ」
「静かに……この老人は、おれたちがここに来てからずっと、ここを離れたことはない。おれは、一週間前に、食料を仕入れに村へ行った」
「よしわかった」と、警視はロメーンの腕を放した。「案内しろ。お前たちの本拠か寺か、お前たちがなんと呼んどるか知らんが、とにかく、そこが見たいんだ」
一同は一列になって、ハラーフトの異様な姿について、海岸からまっすぐに、茂みの中を島の中心に向かっている小道を辿って行った。島は妙に静かだった。小鳥も虫もほとんど住んでいないらしく、人間の住んでいる気配はさらになかった。ロメーンは、無頓着にどんどん歩いて行き、すぐ後についてくるテンプル医師が、目も放さずに、その日灼けした背中をにらみつづけていることなど、てんで忘れてしまっているようだった。
明らかにロメーンは、捜査隊が到着する前に、警報を発していたらしく、一同が森を抜けて広い空地に出たとき――そこには、大ざっぱに板を打ちつけて、ぞんざいな建て方をした大きな木造建築の――問題の家が建っていて、ハラーフト教徒たちが、みんな服を着て、待ち受けていた。よほどあわてて警告されたものらしく、約二十人ほどの、まちまちの年配で、まちまちな風采の男女の新宗教の信者たちは、みんな衣類の一部をつけているだけだった。ロメーンが、何かわからないことを唸ると、連中は穴居族のように、建物の方々の区画に、こそこそと走り込んでしまった。
警視は一言も言わなかった。さしあたり、公共風紀取締法の違犯などには関心がなかった。
ハラーフトは、神がかりになって、ゆったりと進んで行った。手製の蛇頭の杖を高く捧げて、口では祈りらしい言葉をとなえていた。そして、明らかに神殿らしい中央の建物の段を登って、はいって行った――おどろくべき部屋で、だだっ広く、数々の天体図や、鷹《たか》の頭をしたエジプトの神、ホルスの石膏像や、牛の角や、シストラム〔古代のエジプトの楽器〕や、玉座を支えている象徴的な円盤や、少なくともエラリーには、その用途が見当もつかない、荒木で囲まれた妙な恰好の祭壇みたいなものなどが、ごてごてと飾り立ててあった。その部屋は屋根がないので、午後もおそい太陽が、壁に、長い影を投げていた。
ハラーフトは、まるでそこだけに安全さがあるかのように、まっすぐに祭壇に上り、訪問者どもには目もくれず、節くれだった骨と皮ばかりの腕を空に向けて差し上げ、妙な言葉をもぐもぐと唱え始めた。
エラリーは、すぐそばに立って、じっと耳を傾けている背が高く醜い、ヤードレー教授を、もの問いたげに見やった。「驚いたな」と、教授は低い声で「この男の時代錯誤もはなはだしい。二十世紀の人間の口から、古代エジプト語をしゃべるのを聞くとはね……」
エラリーはびっくりした。「この男は、自分のしゃべっていることを、本当に知っているんだと、言われるんですか」
ヤードレーは情なさそうに微笑して、ささやいた。「この男は気が狂っている。しかし、気違いになるのも無理はないようだな。しゃべっている言葉が本ものということになると……自分で、ラ・ハラーフトと名乗っているし、この男は、じつは――世界最高のエジプト学者の一人であるか――あったかだね」
祈りの言葉は朗々と続いた。エラリーは頭を振った。
「君に話したかったんだが」と、教授は低い声で「しかし君と二人きりになる暇がなかったのでね。私はあの男を一目見た瞬間に、すぐだれかわかったのだ――一、二週間前のことだが、私はただ好奇心を満たすためにボートを漕いで、この島に探険に来た……妙な話だがね。あの男の名はストライカーというのだ。以前、『王家の谷』〔アッパー・エジプトにあって、その中心に紀元前一六〇〇年ごろ栄えたテーベの都があった〕を発掘していたときに、ひどい日射病にやられてから、ずっと回復していないのだ。気の毒な男だよ」
「しかし――古代エジプト語をしゃべっているじゃありませんか」と、エラリーが反対した。
「あれはホルスに献げる神官の祈祷文を唱えているんだ――古代エジプト語でね。この男は」とヤードレーは、真顔で「本ものだよ。わかってほしいな。今は気が狂っとるから、当然、記憶も、めちゃめちゃなのだ。狂気のために、前に知っていたことが、みんな混合してしまったのだ。たとえば、エジプト学の知識からいえば、こんな部屋なんてありはしない。ひどい寄せ集めだ――このシストラムや牛の角はイシス〔エジプトの農業の女神〕にとって神聖なものだし、蛇頭の杖は主神の象徴なのだ。それにホルス〔イシスの子で天を支配する神〕の像がとりちらしてある。あの設備、つまり板囲いの壇だが、あれはたぶん、あの男がありがたい経文をあげている式の間、信者どもが、よりかかっているものだろうが……」教授は肩をすくめた。「すべてこれ、あの男の狂気と空想とが産み出したものを、ごっちゃまぜにしたものなんだ」
ハラーフトは両腕を下ろして、祭壇のくぼみから、妙な釣り香炉をとり出し、まぶたにふりかけてから、静かに祈祷台を降りて来た。微笑さえ浮かべて、よほど正気にもどったらしい。
エラリーは新しい目でその男を見直していた。狂気か否かは別として、この男が権威ある人物だとすれば、問題は全くちがってくる。ストライカーという名は、今、記憶をかみしめてみると、かすかな残り香が、思い出の中にあるようだった。何年も前に、まだ大学の予科にいたころのことだ……そうだ、エラリーが読んだものの中に、それと同じ名前があった。あのエジプト学者のストライカーか。とっくの昔に死んだ言葉を唱えているこの男が……
エラリーが振り向いてみると、短かいスカートとセーターを着けた、ヘスター・リンカンが、祭壇の部屋の向こう側の低い戸口から、一同の方を見ていた。そのみにくい顔は、青白くなっていたが、鉄のような決意を示していた。ヘスターはテンプル医師には目もくれず、部屋を横切って、大っぴらに、ポール・ロメーンのそばに立った。
テンプル医師がほほえみかけた。
ヴォーン警視は、そんな些事《さじ》には、みだされはしなかった。警視は静かに立って、審問者たちを眺めているストライカーに、つかつかと歩みよって言った。「二、三、簡単なことをきくから、答えてもらいたい」
狂人は頭をかしげた。「きくがよい」
「お前は、いつ、ウェスト・ヴァージニアのウェアトンを立ち去ったのか」
老人の目がきらりと光った。「クフィーの儀式のあと、月が五度満ちた以前のことじゃ」
「いつだと?」と、ヴォーンが、わめいた。
ヤードレー教授が咳払いした。「この男が言おうとしていることを説明してあげられると思いますよ、警視さん。クフィーの祭というのは、古代エジプトの神官が日没に行なったものなのです。それは大変手のこんだ儀式で、その式ではクフィーというもの、つまり、十六種ほどの原料でこしらえる糖剤ですが――蜂蜜、ぶどう酒、乾ぶどう、没薬《もつやく》などというものがはいるんです――そのクフィーを、青銅の香炉の中で、読経がつづいているあいだじゅう、まぜ合わせるものなのです。むろん、この男は月が五度満ちた前の日没に、それと同じような儀式を行なったことを言おうとしているのです――すると、正月ということになります」
ヴォーン警視が、うなずき、ストライカーが重々しく教授にほほえみかけたとき、いきなりエラリーが、とてつもない大声で叫んだので、一同は、とび上った。
「クロサック!」
太陽神とその番頭を見守るエラリーの目は輝いていた。
ストライカーの微笑が消え、喉のあたりの筋肉がひきつり始めた。老人は祭壇の方へ、すがりつくような目を送った。ロメーンは、動揺しなかったが、かなりびっくりしたらしいのが、その表情からわかった。
「失礼しました」と、エラリーは、くそおちつきにおちついて「時々、こんなことをやらかすんです。続けて下さい、警視」
「そうばかげてもいませんよ」と、ヴォーンは、にやにやしながら「ハラーフト、ヴェリヤ・クロサックはどこにいる?」
ストライカーは唇をしめして「クロサック……いや、いや。わしは知らん。あの男は神殿から逃亡しおった。見捨ておった」
「君はいつ、この狂人と結びついたのだね」と、アイシャムが、ロメーンに指をつきつけながらきいた。
「クロサックってのは一体なんのことだね」と、ロメーンが、唸るような調子で「おれの知っとるのは、このじいさんと二月に出会ったってことだけですぜ。なかなか、いい思いつきを持っとるように思えたのでね」
「どこで出会ったんだ?」
「ピッツバーグでさ。おれにとっちゃ、とても運がよかったようだよ」と、ロメーンは、幅の広い肩をすくめながら、続けた。「もちろん、じいさんの」――と、声を殺して――「このじいさんの太陽神なんてもなあ、でたらめさ……だが、世間の間抜けどもにとっちゃあ、うってつけだ。おれが興味を持つのは、連中に汗くさい服を脱がせて、日に当らせるってことだけさ。おれを見てみろよ」ロメーンが深く息を吸い込むと、たくましい胸が風船《ふうせん》のようにふくらんだ。「どうだ、丈夫そうだろう、えっ。それってのが、太陽のありがたい光りを肌に当て、肌の下にまでしみこませたおかげでさ……」
「そうか、わかった」と、警視が「筋はよめたぞ。ありふれた香具師《やし》の口上だな。わしは、ゆりかごからとび出して以来、服を着通しだが、お前なんか小指でひねれるぞ。どうしたわけで、ここへ来るようになったんだ、オイスター島に」
「ひねれるって、やるかい?」ロメーンが肩をいからせた。「よしきた、お巡《まわ》りだろうとなかろうと、いつでもやってもらおうじゃないか。おれは――」
「神のおきめじゃ」と、ストライカーが神経にさわるような甲高い声で宣言した。
「おきめだって?」と、アイシャムが、むずかしい顔で「だれがきめるんだね」
「神のおきめじゃ」と、ストライカーが、くり返した。
「ああ、そいつの言うことなんか、放っとけ」と、ロメーンが、あざけるように言った。「強情を張り出せば、筋の通った話なんかできやしないぜ。そいつと出会ったときも、同じことを言った。神のおきめじゃ――オイスター島へ来いとな」
「君が、その男の――そのう――相棒の神様になる前かね」と、エラリーがきいた。
「そうさ」
行きづまりまで来てしまったようだった。狂っているか、いないかは別として、日射病にやられたエジプト学者から、もはや、これ以上筋の通った話を引き出すことができないのは、明らかだった。ロメーンは六か月前の事件を何も知っていなかったし、あるいは知らないふりをしていた。
調査の結果、この島には二十三人の裸体主義者が住んでいて、その大部分はニューヨーク市から、この疑わしげなアルカディア〔古代ギリシアの理想郷〕へ、赤新聞の広告や、ロメーンの個人的伝導にひきつけられてやって来たものだとわかった。信者の輸送には、ローカル線の駅が使われ、タクシーでテンプル医師の土地のはずれにある公共船着場に送り、それから、島の持ち主、ケチャムが、わずかの心づけで、古ぼけた平底船で海を渡した。
ケチャム老人は、妻と一緒に、島の東のはずれに住んでいるらしかった。
ヴォーン警視は、裸体主義者と太陽崇拝の新宗教に帰依《きえ》した二十三人の、ちぢみ上っている太陽神の信者どもを狩り集めた。その多くの者は、ひどくおびえていた。そして、今や、禁じられていた裸体の喜びに足をふみはずしていたのが、官憲の取り調べを受けるはめになったことを、心から恥じているようだった。いく人かは、すっかり衣服をととのえ、荷物を持って現われた。しかし警視はおごそかに頭を振って、何人《なにびと》といえども許可を与えるまでは島を離れてはならんと言い渡した。そして、連中の名と、旧の住所を書きとめた。スミス、ジョーンズ、ブラウンなどという、ありふれた名が手帳のページを埋めていくのに、皮肉な微笑を浮かべていた。
「お前たちの中で、昨日、島を離れた者はいないかね」と、アイシャムがきいた。
みんなあわてて頭《かぶり》を振った。だれも、この数日間に、本土に足をふみ入れた者はいないようだった。
捜査隊は引き揚げかけた。ヘスター・リンカンは、まだロメーンのそばに立っていた。それまで一度も口をきかずにこらえていたテンプル医師が、やっと言った。「ヘスター、おいで」
娘は首を振った。
「強情を張ってるだけだろう」と、テンプルが「わかっているよ、ヘスター。ききわけがなくちゃいけない――こんなところで、いんちき師や、さぎ師や、ろくでもない阿呆どもと一緒にいるものじゃない」
ロメーンが前にとび出した。「何をぬかすか」と、うなった。「おれの悪口を言うのか」
「きこえたかい、まぬけなぺてん師め!」善良なテンプル医師の胸につかえていた怒りと毒舌が、ほとばしり出た。その右腕がのび、にぶい音をたてて、こぶしがロメーンのあごにめり込んだ。
ヘスターは凍りついたように、しばらく床に突っ立っていたが、やがてその唇がわなないた。くるりと背を向けると、わっと泣き出しながら、森へ走り込んだ。
ヴォーン警視がとび出した。ロメーンは、一瞬、ぽかんとしていたが、胸を張って、のけぞって笑い出した。「それが精いっぱいなのか、|小いたち《ヽヽヽヽ》め……」耳が火のようにまっ赤になった。「言っとくぞ、テンプル。ここへ近づくなよ。今度、この島でとっつかまえたら、きさまのちょろくさい体じゅうの骨を、ひきさいてくれるからな。さあ、行っちまえ」
エラリーは、ため息をした。
九 百ドルの手付金
霧は深く、ますます深まった。『重要な』出張調査が終った。
一同は暗い気持で島を離れた。狂人と、ありふれたぺてんと無茶な話のごっちゃまぜ、あとかたもなく消えた男……謎《なぞ》は前より深くなった。一同は、ブラッドウッドの近くに、ハラーフトと名乗る男がいることに、何かの意味があると、感じていた。それは、偶然の暗合ではないはずだ。しかし、数百マイルも距っている田舎の小学校長殺しと、今度の百万長者殺しの間に、どんな可能な関係があると言えるだろう。
警察ランチは、船着場から水をけたてて、浜辺のみどり色のリボンのふちをめぐりながら、オイスター島の海岸に沿って東へ進路をとった。島の東の突っ鼻の海中に、同じような船着きが見えた。
「あれが、ケチャムの私用桟橋にちがいない」と、ヴォーンが言った。「着けてみろ」
島のこの地点は、両側よりずっと無人の境だった。木の桟橋に下り立ってみると、そこからは、さえぎるものもなく湾が眺められ、はるか北方に、ニューヨークの海岸が見えた。
かなり気の静まったテンプル医師と、ヤードレー教授はランチに残った。地方検事アイシャムと、ヴォーンと、エラリーは、がたぴしの船着場を渡って曲がりくねる小道を辿って森へはいった。森の中はひえびえとしていて、小道の他は――その小道はインディアンが最後まで使っていたものにちがいない――まるで処女林にはいったようだった。しかし、百五十フィートほどのところで、一同は、粗末な文明の|しるし《ヽヽヽ》にぶつかった。年月にすさんだ、荒けずりの丸太小屋が建っていた。戸口にすわって、静かにコーン・パイプをふかしているのは、日灼けした大きな老人だった。老人は訪問者を見ると、すぐ立ち上った。白い房々とした眉毛を、すばらしく澄んだ目の上でよせた。
「お前さん方は、何をしに来なすっただ」と、不愛想に、ゆっくり言った。「この島全部が、私有地だということを、知っとらんのかな」
「警察だ」と、ヴォーン警視が、ぴしりと言った。「君が、ケチャム君だね」
老人がうなずいた。「警察なのかね。あの裸の連中をつかまえなさるかね。そうさ、わしと婆さんには用はあんなさるまい、旦那方。わしはただこのやせ地を持っとるだけでさ。借地人どもがひどい目にあったって、そいつあ、あの連中の運が悪いんでさあ。わしにゃ関係ないこった――」
「だれも、あんたを、とがめだてしちゃおらん」と、アイシャムがぴしりと言った。「本土で――ブラッドウッドで人殺しがあったのを知らんかね」
「かつぐんじゃあるまいね」ケチャムのあごが、だらりと下り、パイプが茶色の歯の間で、上ったり下ったりした。「きいたかい、婆さん」老人は小屋の中を振り向いた。老人の、のばした腕とドアのかまちの間から、年より婆さんのしわだらけな顔が、かすかに見分けられた。「ブラッドウッドで人殺しがあったとさ……そりゃあ、そりゃあ、ひでえこったな。だが、それが、わしらに何のかかわりがあるんだな」
「何もないと――いいな」と、アイシャムが暗い声で「殺されたのは、トマス・ブラッドだよ」
「まさか。ブラッドの旦那さんが?」と、小屋の中で、婆さんが叫んだ。そして、ケチャムのかみさんが頭をつき出した。「こわいねえー。やっぱり言ったとおりだねー」
「ひっこんどれ、婆さん」と、老人が言って、とりつくしまもない目をした。婆さんの頭が消えた。「なあ、皆の衆。わしは何を言いなさろうと、おどろかねえよ」
「そうかい」と、ヴォーンが「なぜだね?」
「それがね、いろんなことがあっただからね」
「どんなことなんだね。そのいろんなことっていうのは?」
ケチャムは片目をウィンクした。「それがね、ブラッドの旦那と、あの気違いがね……」――と、汚れてひびわれた親指をつき出して肩ごしに指さし――「あの連中が夏じゅう、わしからオイスター島を借りることんなってから、ずっともめてたんでさあ。この島はわしのもんでさ。わしらは、四代もここに住んどるんでさ。インディヤン時代からなんだからね」
「うん。それは知っとる」と、ヴォーンが気短かに言った。「すると、ブラッドさんは、ハラーフトの考えと、あの信者どもが、近くにいるのを、あまりよろこばなかったんだね。え、もしかして、あんたは――」
「待って下さい、警視」と、エラリーが言った。目が輝いていた。「ケチャムさん、あんたから島を借りたのはだれですか」
ケチャムのコーン・パイプが黄色い烟をもくもく噴いた。「あの気違いじゃないだ。なんてったけな。変な名の旦那だ。外人くさい名でね、そう、クロ・サク」と、むずかしそうに発音した。
三人は目を合わした。クロサックとは――、ついに、たどりついたぞ。アロヨの殺人事件の謎の|びっこ《ヽヽヽ》の男だ……
「足が悪かっただろう、その男は?」と、エラリーが、のり出してきいた。
「さあね」と、ケチャムが、ゆっくりのばして「わしは会っとらんので、言えんなあ。ちっと待ちな。お前さんがたの役に立ちそうなものを、持ってくるで」老人は背を見せて、小屋の闇《やみ》に姿を消した。
「なるほど、クイーンさん」と、地方検事が考えながら「どうも、君のねらいが当ったらしいですね。クロサック……と、ヴァンがアルメニア人、ブラッドがルーマニア人――ふーん。そうでないかもしれないが、いずれにしてもたしかに、中央ヨーロッパ人です――そして、クロサックは、最初の犯罪現場に姿を見せたきりで、それ以来、どこかを流れ歩いています……ホシは近いぞ、ヴォーン」
「そうらしいですね」と、警視は低い声で「すぐ何か手を打たなくちゃなりませんね……|じい《ヽヽ》さんが来ましたよ」
ケチャム老人が、また出て来た。顔は汗ばんで赤くなり、よごれた指あとだらけの紙を、得意そうにふりまわしていた。
「手紙を持って来ただよ」と言った。「クロ・サクから来たもんだ。自分で見なさるがええよ」
ヴォーンがひったくるように受けとり、エラリーとアイシャムが肩越しに見入った。ありふれた用箋にタイプした手紙で、日付は前の年の十月三十日になっていた。その手紙は、ニューヨークの新聞に出た、オイスター島を夏の間、貸すという広告に答えるものだと書いてあった。そして、次の年の三月一日になる予定だが、借受人が到着するまでの手付金として、郵便|為替《かわせ》で百ドルを同封すると述べてあった。その手紙にはサインがあった――タイプで――ヴェリヤ・クロサックと。
「為替ははいっていたかね、ケチャムさん」と、ヴォーンが、すぐきいた。
「たしかにあったよ」
「よかったな」と、アイシャムが手をもみ合わせながら言った。「それをたぐれば、クロサックが、どこの郵便局から為替を出したかがわかるだろうから、やつが作ったはずの伝票を手に入れよう。やつのサインがあるはずだ。それがあれば大助かりだ」
「おそらく」と、エラリーが、ゆっくり言った。「もし、ヴェリヤ・クロサックという、尊敬すべき、雲隠れ紳士が、今日までの行動が示すように狡猾《こうかつ》な人物だとすると、友人のハラーフトの名で為替を組んでいるかもしれませんよ。ヴァン事件の捜査のときにも、クロサックの筆跡の見本は、全然、発見されなかったんですからね」
「このクロサックという男は、三月一日に、自分でやって来たかね」と、地方検事がきいた。
「いいや。そんな名のやつは来やしなかっただ。だが、向こうの方にいる、あのばけものじじい――ハ――ハラーフトとかいう――あいつが来ただ。そいから、ロメーンという男が一緒に来て、地代の残りの金を現金で払って、腰をおちつけることになっただ」
ヴォーンとアイシャムは同意の上で、クロサックのことを尋問することをやめた。このじいさんが、その面でこれ以上なんの役にも立たないことは明白だった。警視は、その手紙をポケットに入れて、ブラッドとハラーフトのもめごとについてきき始めた。新宗教がじつは裸体主義者の部落とわかった最初のときから、ブラッドは自分で島に来て、本土に住む者の一致した意見を代表して抗議を申し込んでいたことがわかった。ハラーフトは、おどしてもすかしても、てんで受けつけなかったらしいし、ロメーンは歯をむいてかみつき出した。手を焼いたブラッドは何度もお金を払いもどしてやると申し入れ、しまいには賃貸料の弁償にとほうもない金額を出そうとした。
「ときに、賃貸契約にはだれが署名したのかね」と、アイシャムがきいた。
「あの、おいぼれ|いたち《ヽヽヽ》だよ」と、ケチャムが答えた。
ハラーフトとロメーンは、ブラッドの提案を拒否した。そこでブラッドは、二人を安寧妨害の理由で法律手続きをとるとおどした。ロメーンは、自分たちはだれにも害を与えていないし、島は公道から離れているから、公共の安寧をみだすことはないと主張し、賃貸契約の期間中は当然、自分たちで使う権利があると抗弁した。しかしブラッドはケチャムを説得して、前に述べたと同じ理由で訴訟をおこしてあくまでも連中を追い立てようとした。
「だが、あの連中は、わしにも婆さんにも、なんの迷惑もかけてこないでな」と、じいさんが言った。「わしが同意すれば、ブラッドの旦那は千ドルくれると言うだが、断わっただ。このケチャムのじじいは、裁判ざたはまっぴらだでね。このケチャムのじじいは」
最後の、一番激しい喧嘩が、ちょうど、三日前の日曜日にあったと――ケチャムが続けた。ブラッドは、まるでトロイに攻めよせるメネラオスのように入江を押し渡り、森の中でストライカーと出会い、はげしい口喧嘩をしているうちに、小柄な褐色ひげの老人は、すっかり狂乱してしまった。
「あいつが、ひきつけやしないかと思っただよ、まったく」と、ケチャムは、ひどく冷静に言った。
「ロメーンてやつが――獣みたいに強いやつさ、やつが――割ってはいってブラッドの旦那に、島から出て失せろと、どなっただ。わしかね、わしは森から見てただよ。知ったこっちゃないからね。そいでもブラッドの旦那が行こうとしないもんだから、ロメーンが旦那の首根っ子をひっつかんで、どなっただ。『さあ、行くんだ、ばかやろう。さもねえと、てめえのおふくろが見てもわかんないほどに、ぶんなぐって、日の目が見えなくしてやるぞ』ってな。そしたらば、ブラッドの旦那、財布の底をはたいても、きっと思いしらせてやるからなと、わめきながら帰りなすったよ」
アイシャムは、ふたたび、もみ手をした。「ケチャムさん、あんたは立派な人だ。この辺に、あんたのような人が、もっといるといいんだがなあ。ところで、教えてくれんかね――本土から来て、ハラーフトやロメーンと、いざこざをおこした人は、ほかにおらんかね」
「いたさ」ケチャムじいさんは、おだてに乗って、ずるそうににこにこした。「あの、ヨナ・リンカンって男さ――ブラッドウッドに住んどる。先週、島に来てロメーンと、なぐり合っただ」じいさんは、しなびた唇をなめた。「旦那、凄いなぐり合いだっただよ。本ものの選手権試合そっくりだっただ。リンカンは、島に来たばかりの妹のヘスターを連れもどしに来ただ」
「それで、どうしたね」
ケチャムじいさんは口が軽くなり、目が輝いた。「いい体をしとるだよ、あの娘っ子は。二人の男の目の前で、着とるものをすっかり引き裂こうとしただ。いんにゃ、ひっぺがしただ。兄貴にむかって、おせっかいは、もうたくさんと、わめきちらしただよ。子供のころから、いつもおせっかいばかり焼いて、おさえつけた。もう、自分のしたいことをしますからねって……いやはや、ちょっとした見ものだったぜ。わしは木蔭からのぞいとったがね」
「おじいさん、あんた助平だよ」と、小屋の中で、婆さんの黄色い声がした。「いいかげんに、恥ずかしかないのかねえ」
「うへっ」とケチャムは、真顔になって「とにかく、リンカンは妹が戻らんと言うし、目の前で、生れたままの素っ裸で立っとるのを見て、それも、ロメーンの前でだ――おさまるわけもあるまいさ――やっこさん、身構えると、ぽわんと一発、ロメーンにくれたのさ。そいから、二人はちょいとばかし、とっくみ合っただよ。リンカンはめちゃくちゃに殴られただが、よくやったぜ、やっこさん――男らしく受けて立っただ。しまいにゃ、ロメーンがやっこさんを入江に、なげ込んじまっただよ。いやはや、ロメーンというやつは、とてつもねえ、強さだよ」
このおしゃべりじいさんから聞き出せることは、もう何もなかった。一同はランチに戻った。ヤードレー教授は、静かにたばこをのんでいたし、テンプル医師は甲板を往ったり来たりしていた。日灼けした顔はひどく険悪だった。
「何かわかりましたか」と、ヤードレーが、穏やかにきいた。
「少しはね」
ランチが波を蹴ってぐるっと進路を変え、本土に向かって行くころ、一同はそれぞれ考え込んでいた。
十 テンプル医師の冒険
午後の日は傾き、地方検事アイシャムは帰って行った。ヴォーン警視は、ひっきりなしに指令を出したり、報告を受けたり――あまり思わしくない報告だった――のし通しだった。オイスター島も、おさまっていた。ブラッド夫人は寝室にとじこもっていた。病気だということで、娘のヘレーネが看護していた。ヨナ・リンカンは、たえず邸内を見廻り歩いていた。機動警官と刑事たちが、ブラッドウッド全体に配置され、あくびをしていた。新聞記者連が出入りし、写真のフラッシュをたく煙が日暮れの空気にたちこめていた。
かなり疲れたエラリーは、ヤードレー教授について、本道を横ぎり、門をくぐって、高い石塀をめぐらした砂利道を、ヤードレーの家へ歩いて行った。二人とも、ぐったりして物思いにふけっていた。
日暮れになり、星のない暗い夜がきた。夜の闇がくると、オイスター島は、湾に沈んで行くように見えた。
言い合わせたように、エラリーも、宿の主も、心にひっかかっている奇妙な問題については話し合わなかった。二人は、昔のなつかしいことなどを話した――大学時代のこと、こちこちの老総長のこと、エラリーが犯罪捜査に乗り出した最初の経験談、二人が別れてからのヤードレーの変りばえもしない生活の話。十一時に、エラリーは、青い|しま《ヽヽ》の麻のパジャマに着かえて、にこにこしながら、寝に行った。教授は、なお一時間ほど、静かに書斎でたばこを喫い、五、六通手紙を書いてから寝室に引きとった。
ほぼ真夜中ごろ、テンプル医師の石造りの家のポーチにかすかな物音がした。医師が、黒いズボン、黒いセーター、黒い革靴といういでだちで、パイプの火を消し、足音を忍ばせてポーチを下り、家と、ブラッド家の東境いの間にある暗い森に姿を消した。
あたりは、こおろぎのすだく啼《な》き音《ね》のほかは、草木も眠っているようだった。
暗い森と潅木の茂みを背景にして、医師の姿は見えなかった――忍び足で行く黒い姿は、その肌の色さえ、見分けられなかった。東側の道ばた、一、二フィートのところで、医師は木蔭に、息を殺して立ちどまった。だれかが、医師のいる方へ、足音荒く、道を歩いて来た。ぼんやりした人影で、明らかに巡回中の、制服の郡の機動警官なのが見分けられた。警官は、ケチャム湾の方へ、通りすぎて行った。
巡回の足音が、すっかりきこえなくなったとき、テンプル医師は、身軽に道を走り渡って、ブラッドウッドの森かげにはいり、足音も立てずに西へ向かって歩き始めた。時々あらわれる見まわりの黒い影に見とがめられずに、ブラッドウッドの邸内を横切るのに、三十分もかかった。亭屋《あずまや》と、トーテム・ポストを過ぎ、テニス・コートを区切る高い金網がこいを過ぎ、母家《おもや》とブラッドウッドの船着場へ行くまん中の道を過ぎ、フォックスの小屋を過ぎて、ブラッドウッドとリンの屋敷の境いになっている西側の道へ出た。
そこまで来ると、テンプル医師の針金のような体は緊張し、いっそう注意深くリンの家をとりまく森へ幽霊のようにすべり込んだ。目の前に、リンの家の建物が黒木の幹をすかして黒くぼやけていた。医師は正面から近づいて行ったが、やがて、木々が茂って、ほとんど家全体にせまっている北側へ、暗い道をさぐって行った。
すぐ近くの窓に灯《ひ》がともっていて、そこは医師が身をかがめている古い鈴懸《すずかけ》の木の幹のかげから五フィートもはなれていなかった。窓のブラインドはすっかり下ろしてあった。
部屋からは、かすかな足音がきこえた――寝室なのだ。一度、リン夫人の太った影が窓のシェードを横切った。テンプル医師は、四つんばいになって、目の前の地べたを一インチきざみに、はい寄り、窓のすぐ下に横になった。
ほとんど同時に、ドアをしめる音がきこえ、リン夫人の調子の高い声が、いつもより甲高くきこえた。『パーシー。あれは埋めたの』
テンプル医師は歯をくいしばった。額に汗が流れた。しかし、こそりとも音を立てなかった。
「うん、うん。ベス、たのむから、そんな高い声でしゃべらんでくれ」パーシー・リンの声は緊張していた。「いまいましいところだ。まわりには、おまわりが、うじゃうじゃしてるんだよ」
足音が窓に近づいた。テンプル医師は、壁の土台にはりついて、息をひそめた。シェードをあげて、リンが外をのぞいた。やがて、シェードを下げる音がした。
「どこへ?」と、エリザベス・リンがささやいた。
テンプル医師は全身の筋肉を引き緊め、体が震え出すほどの努力をしながら、耳をすました。しかし、全力をつくしても、リンが小声で答えるのをききとれなかった……
やがて――「けっして見つかりゃしないよ」と、リンが普通の声で言った。「そっとしていれば安全さ」
「でも、テンプル先生が――私、こわいわ、パーシー」
リンがいまいましそうに呪いの言葉を吐いた。「覚えとるとも、大丈夫だ、あれは、大戦後のブダペストだった。ブンデライン事件の……たしかにあいつの目だ。あの男だ。まちがいない」
「あのひとは何も言わないけど」と、リン夫人が小声で「きっと忘れているのね」
「忘れちゃいないよやつは。先週、ブラッドの家で……じっとぼくを見ていた。用心しろよ、ベス。ぼくたちはえらい沼にはまりこんでる――」
灯《あか》りが消えた。ベッドのスプリングが軋《きし》った。二人の声は、聞き分けられぬほどのささやきに変った。
テンプル医師はかなり長い間、うずくまっていた。しかし、もはやなんの物言もきこえなくなった。リン夫妻は寝てしまったらしい。
医師はのびのびと立ち上り、ちょっとの間、じっと耳をすまし、それから森へこっそり歩みもどった。人影が木から木へ滑って行った……ケチャム入江の半円をふちどる森を忍び足で抜けて行くとき、ブラッドウッドの船着場をなめる波の音がきこえた。
やがて、もう一度、医師は木蔭に立ちすくんだ。かすかな声が、船着場の見当からきこえてきた。精いっぱいの用心をしながら、こっそりと岸の方へ近づいた。いきなり、ほとんど足もとで黒い波が、ぴちゃぴちゃしていた。目をこらして見ると、岸から十フィートばかりの、暗い桟橋から程近いところに、一艘のボートが波にゆれていた。ボートのまん中に、ぼやけた二つの影がすわっているのが見えた。男と女だ。女の腕が男を抱き、一心にかきくどいていた。
「なぜ、そんなに冷たいの。島につれて行ってちょうだいよ。あそこなら安全よ――森のかげで……」
男の声は低く、用心していた。「あんたは、ばかみたいにふるまってるよ。危険じゃないか。とくに今夜は……気でも違ったのかい。だれかがあんたのいないのに気がついたら、いたい目にあうじゃないか。この騒ぎがおさまるまでは、別れてる方がいいと、言っといたじゃないか」
女は男の首から腕をほどいて、やけっぱちのソプラノで叫んだ「知ってるわよ。あんたはもう、私を愛していないのね。おお、そんなことって――」
男はぴたりと女の口を手でふさぎ、鋭い声でささやいた。「だまって! ぐるりには、おまわりが、いるんだよ」
女は男の腕の中でぐったりなった。やがて、両手で男を押しのけて、ゆっくり立ち上った。「いいえ。あんたをあの女になんか渡さないわ。見てらっしゃいよ」
男は黙っていた。そして、一本のオールをとると、ボートを岸に着けた。女が立った。男は手荒く女をボートから押し出した。急いで岸をはなれて、漕ぎ始めた――オイスター島に向かっていた。そのとき、月が登り、テンプル医師が見ると、漕ぎ去る男は、ポール・ロメーンだった。
そして、まっ青《さお》になって、震えながら岸に立っている女は、ブラッド夫人だった。
テンプル医師は顔をしかめて、木立の中に姿を消した。
十一 それ征《ゆ》け!
その次の朝、エラリーがブラッドウッド邸の砂利道を歩いていると、地方検事アイシャムの車が、ドライブ・ウェイに停っているのが見えた。あたりに立っている刑事たちの顔にはしんけんな期待の色が見えた。何か重大な事態がおこったのではないかと思いながら、エラリーは足早に植民地風のポーチを登り、家へはいった。
エラリーはまっ青になっているストーリングスのそばをすり抜けて、応接室へ通った。そこには、威丈高《いたけだか》になっているアイシャムと、もの凄いけんまくのヴォーン警視が、園丁兼運転手のフォックスを、前にひきすえていた。フォックスはアイシャムの前に立って、黙って、かたく、拳《こぶし》を握りしめていた。目だけが、心の動揺で、きょろきょろしていた。ブラッド夫人と、ヘレーネと、ヨナ・リンカンが『三人の運命の神』のように、片側にひとかたまりになっていた。
「はいりたまえ、クイーン君」と、アイシャムが快活に言った。「ちょうど、間に合いました。フォックス、お前は現行犯でつかまったも同じだ。なぜ、泥を吐かん?」
エラリーは、そっと部屋にはいって行った。フォックスは、たじろがなかった。口ぶりまでしっかりしていた。「私にはなんのことかわかりません」と言ったが、わかっていて、痛い一撃に耐えようとしているのが明白だった。
ヴォーンが歯をむき出した。「とぼけるな。お前がパッツィ・マローンを訪ねたのは、火曜日の夜――ブラッドが殺された夜だ」
「その夜」と、アイシャムが意味ありげに言い足した。「お前は、ストーリングスとバクスターさんを、ロキシー劇場の前で降ろした。八時だったな、フォックス」
フォックスは石のように立っていた。唇が白くなった。
「どうだ」と、警視が、あざけるように「申しひらきがあるなら、言ってみろ、間抜けめ。潔白な運転手が、ニューヨークのギャングの親分の本拠を訪ねなければならなかったのは、なぜだ?」
フォックスは、一度、目をぱちくりしたが、答えようとしなかった。
「言いたくないのか」警視はドアのところへ行き「マイク、スタンプ台を持って来い」
すぐに私服が、スタンプ台と紙を持ってあらわれた。フォックスは、絞めつけられるような叫びをあげて、ドアの方へとび出そうとした。私服はスタンプ台と紙を落として、フォックスの腕をひっつかみ、警視は相手の足を、がっちり抱えこんで、はげしくもみ合いながら、床にねじふせた。組み伏せられると、フォックスは暴れるのをやめて、手むかいもせず、ヴォーンに引っ立てられるままに立った。
ヘレーネ・ブラッドが、おびえた目で、見ていた。ブラッド夫人は無感動だった。リンカンは立って背を向けた。
「こいつの指紋をとれ」と、警視がきびしく言った。私服はフォックスの右手をとり、指をスタンプに押しつけてから、じょうずに紙に押した。左手にも同じ操作をくり返した。フォックスは沈痛な顔をしていた。
「その指紋をすぐ調べろ」指紋係は急いで出て行った。「さあ、フォックス、いい子だ――こいつは本名じゃあるまい、よくわかっとるぞ――少しは正気がついたろう、訊問に答えるんだ。なぜ、マローンを訪ねたのだ」
返答なし。
「お前の本職はなんだ? どこから来た?」
返答なし。警視はまたドアへ行き、ホールに立っている二人の刑事を手招きした。「こいつを小屋に連れてって、とじ込めとけ。あとで始末する」
二人の刑事に両側から引き立てられてよろよろと出て行くとき、フォックスの目は、もえるようだった。フォックスは、ブラッド夫人とヘレーネの目を避けていた。
「ところで」と、警視は顔を拭った。「奥さん、お宅の応接室の床で、こんな騒ぎを演じて、失礼しました。しかし、あの男は、ひどい大根役者ですね」
ブラッド夫人は頭を振った。「私には、さっぱりわかりませんわ。あのひとは、いつも、気の利くいい青年でしたもの、とても丁寧で。とてもよく働くし、まさか、あなたは、あれが今度のことの――」
「あいつが犯人なら、ただじゃすまん」
「絶対に、あれじゃありません」と、ヘレーネが荒々しく言った。目にはあわれみの色があふれていた。「フォックスは、人殺しでも、ギャングでもあるはずがありません。確信していますわ。あのひとはいつも、一人ぼっちでいました。それは本当です。でも、一度も、お酒に酔ったり、ふしだらだったり、どんな意味でも、文句を言われるようなことをしたことはありませんでした。それに、教養もあるひとです。いい本や、詩を読んでいるのを、いく度も見かけましたわ」
「ああいう男は、ときには、なかなか抜け目がないものですよ、お嬢さん」と、アイシャムが言った。「われわれにわかっておるところでは、あの男は、こちらへ勤めてからずっと、何かの役割りを演じていたということです。あの男の身許保証書も調べてみましたが、本ものでした――しかし、その保証人のためには、わずか、一、二か月しか働いていないのですよ」
「おそらく、保証書をつくるために働いただけだろう」と、ヴォーンが言った。「あいつらは、どんなことでもやるもんですよ」警視はエラリーの方を向いた。「これは、あなたのお父さんのおかげなんですよ、クイーンさん。お父さんから情報をもらったんです。クイーン警視ときたら、ニューヨーク中のどの警察官よりも情報屋やスパイを握っておられますからね」
「父は黙って見ておれない性分なんですよ」と、エラリーはつぶやいた。「その情報というのは、そんなに特別なものだったんですか」
「フォックスがマローンの本拠にはいるのを、スパイが見ただけです。それで充分ですよ」
エラリーが肩をすくめた。ヘレーネが言った。「あなた方の困るところは、いつも人を悪くとろうとばかりなさることよ」
リンカンが腰を下ろして、たばこをつけた。「ヘレーネさん。私たちは、口出ししない方が、きっと、いいでしょうよ」
「そうかもしれないわ、ヨナ。あなたも自分のことだけ考える方がよさそうね」
「あなたたちは!」と、ブラッド夫人が弱々しく言いかけた。
エラリーはため息をして「何か情報は? アイシャムさん。私は情報に飢えてるんですよ」
警視がにやにやした。「じゃあ、これでもおあがんなさい」ポケットから、タイプした一枚の紙をとり出して、エラリーに手渡した。「この中から、何かつかみ出したら天才ものですよ。しかし……」と、鋭く言って、立って部屋を出ようとするリンカンの方を向いた。「まだ行かんで下さい、リンカンさん。ちょいと――私たちから――お訊ねしたいことがあるんです」
じつにタイミングがよかった。エラリーは警視の巧妙な、読みのいい戦術に感心した。リンカンは、赤くなって、すぐ立ちどまった。二人の女性は、椅子の中で身を固くした。たちまち室内の空気は、だれた雰囲気から、がらっと緊張したものに変った。
「なんでしょうか」と、リンカンが、渋々きいた。
「なぜあなたは」と、ヴォーンが楽しそうに言った。「昨日、嘘を言ったんですか。あのとき、月曜日の夜は、お嬢さんと、奥さんと三人で一緒に帰宅したと言われましたね」
「私が嘘を――それはまたどういう意味ですか」
アイシャムが言った。「どうも、あなた方はみんなして、あなたのご主人を殺した犯人を捜査しようとしているわれわれを、助けようともせず、むしろじゃましようとして、あらゆる努力をしておられるようですな。警視の部下が、月曜日の夜、駅からブラッドウッドへ、あなた方のうちのお二人を送ったタクシーの運転手を見つけたんですよ――」
「二人ですって?」とエラリーが、わざとゆっくり口をはさんだ。
「――リンカンさんと、お嬢さんだけが車に乗っていたそうじゃありませんか、奥さん」
ヘレーネはとび上った。ブラッド夫人はおどろいて口もきけなかった。「黙っていらっしゃい、お母さま。なんてひどいことを。アイシャム様、あなたは私たちの一人が、この殺人に関係があるとでもおっしゃるんですか」
リンカンが低い声で「まあ、まあ、ヘレーネ、私たちは、いっそのこと――」
「ヨナ」ヘレーネは、ふるえながら、ヨナの顔をにらんだ。「あなたが余計な口を開いたら――私は――私はもう二度と、あなたとは口をききませんよ」
ヨナは口をとざし、ヘレーネの目をさけて、部屋を出て行った。
「どうです」と、アイシャムは両手を差し上げながら「ごらんのとおりですよ、クイーン君。正規の捜査官が取り組まなくちゃならんのは、いつもこれなんだ。よろしい、お嬢さん。だが、知っといてもらいたいのは、この瞬間から君たちみんなは――一人残らずですよ――トマス・ブラッド殺害事件の容疑のもとに置かれます」
十二 教授は語る
骨をくわえていく犬のように意気込んで、やや狼狽気味のお手伝い探偵、クイーン氏は捜査中の事件の情報を持って、いそいそと、宿の主の家に戻った。真昼の陽《ひ》は暑かった。とてもきちんと服を着ていられないほど暑かったので、エラリーは涼しい家の中にはいり、ほっとして、ひと息ついた。見ると、ヤードレー教授は、アラビアンナイト物語から、そっくり抜いて来たような、大理石を刻んでトルコふうな唐草《からくさ》模様をつけたパチオ式の部屋にいた。ちょうど、インドの婦人部屋の内庭のようで、うれしいことには、モザイク模様に作り上げたプールに、ひたひたと水がたたえられていた。教授は、体にぴったりつく海水パンツをはき、水中で長い足をぶらぶらさせながら、ゆっくりパイプをふかしていた。
「こりゃあ」とエラリーは目を丸くして「すばらしいハレムというところですね。先生」
「どうも君の」と、教授がたしなめるように「言葉のえらび方はでたらめだな。男の部屋は、シラムリックと呼ぶのを知らんのかね……クイーン君、服を脱いで、ここに来たまえ。何を持ちまわっとるんだね」
「ガルシアからの手紙です。水から出ないで下さい。一緒に読んでみましょう。すぐもどって来ます」
エラリーは、パンツ姿になって、すぐにもどって来た。上半身は汗で、ぬらぬらに光っていた。プールにばしゃんと、とびこんだので、波が立ち、教授は濡れて、パイプが消えた。エラリーは力いっぱいにばちゃばちゃやり出した。
「大した腕前だな」と、ヤードレーが、うなった。「いつまでたっても、いまいましいほど、泳ぎがへたなんだな。わたしを溺死させないうちに水から出てくれたまえ」
エラリーはにやにやして、はい上り、大理石の上に長々と寝そべり、ヴォーン警視がよこした報告書に手をのばした。
「一体、なんだろう」エラリーは最初の一枚に眼を通した。「ふーん。たいしたことでもなさそうだ。あの警視も怠けてばかりいたわけじゃないらしい。ハンコック郡役所に、照会したんですよ」
「ほう」と、教授は、パイプにまた火をつけようと苦労しながら「すると、やっぱりそうしたんだね。向こうは、どうなってる?」
エラリーは、ため息をして「まず、アンドリュー・ヴァンの死体解剖の結果ですが、興味のある点は全然なし。先生もぼくみたいに、死体解剖報告書をたくさん読まれれば、おわかりになるでしょうが……これは最初の調査の完全な抜き書きですよ。ぼくがすでに知っているか、当時の新聞で読んだかしないものは、一つもありません……おや、これはなんだ。『よって按《あん》ずるに』――よく聞いて下さいよ。まるでクラミットという男と、そっくり同じ言い方ですよ――『よって按ずるに、アロヨ小学校長アンドリュー・ヴァンと、最近殺害されたロングアイランドの百万長者ブラッドとの間に、なんらの関係が存在しうるやとの、アイシャム地方検事の照会に対し、遺憾ながら、なんらの関係なきものと答申せざるをえず、少なくとも、故人ヴァンの古き通信物など慎重調査の結果、断定しうる限りにおいては、云々《うんぬん》』うまいもんでしょ」
「模範文だな」と、教授が笑った。
「しかし、それだけのものですね。そこで、アロヨはさておき、ケチャム入江に話をもどしましょう」エラリーは、四枚目の紙片をちらりと見た。「トマス・ブラッドの死体解剖報告書です、ラムセン医師の。知らないことは、一つもありませんね。体には暴行のあとなし、内臓器官には毒物の徴候なし、等、等、うんざりです。例のくどさでね」
「君が先日、ラムセン先生に、ブラッドは絞殺されたのではないかときいていたのを覚えとるが。それについては何も報告がないかね」
「ありますよ。肺臓に窒息の徴候なし。したがって、絞殺ではありませんね」
「しかし、君は、なぜ、最初にそのことをきいたのかね」
エラリーは水の滴《したた》る腕を振った。「何もこと新しいことじゃないんです。けれど、体じゅうに暴行のあとがないとすれば、どうやって殺されたかを正確に知ることが重要にちがいないですからね。当然、致命的なあとは頭部にあるにちがいないでしょう。すると絞殺とも考えられます。しかし、ラムセンはこの報告で、鈍器による頭蓋骨《ずがいこつ》の殴打《おうだ》か、もしかすれば、拳銃で頭をぶち抜いたものとしか考えられないと言っています。ぼくは、いろいろ考えてみてどうも前の方だと思いますよ」
教授は水を蹴上げて「私もそう思うね。ほかに何か?」
「犯人のとった道の足どり調査があります。むだ骨、全然、むだ骨です」エラリーは頭を振った。「犯行のあった時間に、入江の近くの駅で列車から降りたり乗ったりした連中のリストを作るなどということは不可能だと言っています。
ハイウェイを巡回した警官や、近所の人や、道路沿いの住民たちからも、情報なし。火曜日の夜、ケチャム入江、またはその付近にいた人物を見つけ出す試みも不成功だったそうです……火曜日の午後から夜にかけて、湾内を航行していたヨットや他の船の連中には、謎めいた、怪しげな行動をした者は一人もいないし、水路入江に犯人を上陸させたらしい怪しい船もなかった」
「君の言うとおり、むだ骨折りらしいね」と、教授はため息して「犯人は列車か、自動車か、船で来たのだろうが、正確にはわからないだろうな。ばかげた想像をすれば、水上機で来たのかもしれんね」
「そりゃ、面白い考えですね」と、エラリーが微笑した。「ありえそうもないことは、ばからしいことだときめてしまう謬《あやま》ちに陥《おちい》っちゃあいけませんよ、先生。ぼくはとても考えられないような奇妙なことがおきたのをいろいろ見て来ていますからね……それはそうとこの方をかたづけちまいましょう」エラリーは次の一枚にすばやく目を通した。「いっそう何もありません。ブラッドの手足をトーテム・ポールにくくりつけたのに使った綱は……」
「それも、むだ骨だろうね」と、ヤードレーがぶつぶつ言った。「君に、トーテム・ポストと言わせようとするようなものだね」
「トーテム・ポストに」と、エラリーは、すなおに言って、つづけた。「くくりつけた縄は、ごく普通の安ものの洗濯用《せんたくよう》の縄で、どこの雑貨屋でも、荒物屋でも買えるものでした。ブラッドウッドの周囲十マイル以内の店には、どこにも、目ぼしい手がかりになるようなものは、なかったそうです。しかし、アイシャムは、ヴォーンの部下を使って、広範囲にわたって聞き込みをやらせると報告しています」
「連中は、景気がいいね」と、教授が言った。
「それを認めるのは気がすすまないのですがね」と、エラリーが苦笑して「そのような根気のいい方法が、結局は大ていの犯罪を解決するんですよ……縄の結び目、これはヴォーンの得意な思いつきですがね。結果――ゼロ。ヴォーンの専門的な目で見ると、素人の無器用な仕事だが、充分効果的だったそうです。ちょうど、あなたやぼくの結ぶような結び目なんですがね」
「私はちがうよ」と、ヤードレーが言った。「私は、もとは船乗りなんだからね。はらみ綱、半結び、なんでもできないものはないよ」
「先生は今でも昔のように水の近くにいらっしゃいますよ――船乗りの能力という点でですがね……ああ、ポール・ロメーンのことがあります。面白い男ですね。善良、健康、実用性を身につけた強情男となっています」
「君の言葉の誤用癖は」と、教授が言った「どうにも手がつけられんね」
「前歴は不明と、ヴォーン警視が書いています。二月にピッツバーグで、あのエジプト学の権化《ごんげ》と一緒になったと自供している事実以上のことは何も発見されなかったそうです。それ以前の経歴は全くわからんそうです」
「リン夫妻のことは?」
エラリーは、ちょっと書類を下ろして「そうだ、リン夫妻」とつぶやいた。「先生何か知っていらっしゃいますか」
教授は、ひげをしごいた。「怪しいかね? 君の目をのがれることはできんだろうと思っていたよ。あの夫婦にはちょっと怪しい節があるんだ。二人とも全く申し分のない人物だがね。私の知る限りでは、非の打ちどころがない」
エラリーは書類をとりあげた。「ところが、スコットランド・ヤードは、リンのことに関してあまりくわしく報告して来ていません。だがわれわれとは別の見方をしているようですよ。ぼくがアイシャムに忠告したので、アイシャムがヤードに電報を打ち、ヤードから返電が来たのです。その報告によると、こちらから言ってやったような点では、パーシー及びエリザベス・リンと名乗る夫婦にはなんの資料もないそうです。二人の旅券も調べたそうですが、予想どおりに、ちゃんとしていたそうです。ぼくたちは、あの人に不親切だったかもしれませんよ。……スコットランド・ヤードは、引きつづき、二人の身許――前科なども――調査して、二人が英国民を主張する以上、英国内でのリン夫婦の行動について、しかるべき情報を見つけしだい、それを報らせると言って来ているんです」
「こりゃ、厄介なことになったね」
エラリーが顔をしかめた。「今、気がつかれたのですか。ぼくはずいぶん複雑な事件を手がけて来てまだ日も浅いですが、多少は成功もしました。だが今度のように全くの難物にぶつかったのは、初めてですよ……先生は、運転手フォックスとブラッド夫人の、その後の情報は、もちろん、まだ、聞いておられないでしょうね」教授は眉をつり上げた。エラリーは一時間ほど前に、ブラッド邸の応接室でおこったことを話した。「はっきりしているでしょう。どうです?」
「ガンジスの流れのごとしだ」と、ヤードレーはつぶやき「そういえば気がついたことがあるが」
「なんですか」
教授は肩をすくめた。「結論に突っ走りたくないな。君の持っとる、その百科事典には、もっとほかのことが出とるかね」
「ヴォーンの方も仕事は手っとり速いですよ。パーク劇場のドア・マンが、ブラッド夫人とそっくりな人体《にんてい》の女が、火曜日の夜、第一幕の中ごろ――九時ごろ――に劇場を出たと証言していますよ」
「一人でかね」
「ええ……もう一つ、ヴォーンの線で、オイスター島の賃貸料の手付けとして、ケチャムに送られた百ドルの郵便為替の原簿をつきとめましたよ。イリノイ州ぺオリア郵便局で、ヴェリヤ・クロサックの名で振り出してあったそうです」
「本当かね」と、教授は目を丸くして「すると、やつの筆跡見本が手にはいったね」
エラリーはため息して「お先走りですか? 先生は、その点、慎重だと思っていましたがね。名前は活字体、所書きもペオリアとなっているだけ――きっと、ストライカーの御利益《ごりやく》宣伝員が、あの土地で一商売しようと立ち寄って、出したものでしょう。……いま一つこちら関係の情報があります。経理士連が、ブラッド・アンド・メガラ商会の帳簿を調査中です。もちろん、捜査の本筋ですがね。しかし、わかった限りでは、公明正大らしいです。商会は有名だし、非常に繁昌していて、財政的には全く順調です。……同時に、例の旅行好きのスティヴン・メガラは、今ごろは洋上はるかにさまよっているでしょうが、商売には熱がないようです――五年も留守してるんですからね。ブラッドが監督の目を光らせていたのですが、あの若いヨナ・リンカンがほとんど一手で店を仕切っていたようです。ぼくは、ヨナが、何をくよくよしているのかと気になるんですよ」
「未来の花嫁の母親とのいざこざにきまっとる」と、教授が冷たく言った。
エラリーは、書類を、ヤードレーの言うシラムリックの大理石の床になげ出してから、また、かがんで急いで拾い上げた。一枚の追加書類が、束の一番後から落ちたからだ。「こりゃ、なんだ?」と、エラリーは、むさぼるような目で、すばやく目を通した。「しめた、こりゃ面白い」
ヤードレーのパイプが宙でとまったままになった。「なんだね」
エラリーは興奮した。「クロサックについての具体的な情報です。日付けからみると最近のものです。明らかに、クラミット地方検事は、最初の回答では保留しておいたのを、あとになってこの事件からすっかり手を洗うことにきめて、気の毒なアイシャムに押しつけて来たらしいですね……六か月の調査で資料は豊富です……ヴェリヤ・クロサックは、モンテネグロ人ですよ」
「モンテネグロか。生れがね。現在、モンテネグロなんて国はないからね」と、ヤードレーが面白そうに「今日のユーゴスラビアの行政区の一つになっとる――セルビア、クロアチア、スロヴェニアが一九二二年に正式に統合されてね」
「ほう、クラミットの調査では、クロサックは一九一八年の平和宣言以後、モンテネグロからの最初の移民の一人になっています。合衆国に入国したときの旅券には、モンテネグロで生れたということ以外、何も役に立つことは書いてないそうです。あの男は、ツトの石棺〔ツタンカーメンの墓〕から、降ってわいたようなものなんですよ」
「クラミットは、あの男のアメリカでの経歴は何も見つけなかったのかね」
「ざつなもんですが、充分ありますよ。やつは町から町へと旅をして、自分の択んだ国になじみ、言葉をおぼえたらしいです。数年間は小さな行商に従事しました。当然、正業です。小粋《こいき》な袋ものや、小さな敷物などというものを売っていたのです」
「移民たちは、みんなそうするね」と、教授が言った。
エラリーはその先を、かいつまんで話した。「四年前に、テネシー州チャタヌーガで、ハラーフト、またはストライカーなる友人に出会い、以後二人は協力した。当時、ストライカーは『太陽薬』――鱈《たら》の肝油にかってなレッテルをつけたもの――を売っていた。クロサックは、その番頭になり、『弟子』と世間体をつくろって、あの気の毒な気違いじいさんを助けて、太陽教と、健康の宗教をつくりあげて、説教しながら、方々を渡り歩いていたのです」
「アロヨ殺人事件以後のクロサックについて何かあるかね」
エラリーは顔を伏せた。「いいえ。あっさり消えちゃったのです。すばらしく巧妙にやってのけたんです」
「それから、ヴァンの下男のクリングは?」
「全然手がかりなしです。まるで二人とも、大地に呑み込まれちまったようなもんです。このクリングが、一枚からんでいるのが気になるんです。一体、やつはどこにいるんでしょう。クロサックがやつの魂を天国に送りとどけたとしたら、クリングの体の方はどうしちまったんでしょう――クロサックはどこへ埋めたんでしょう。ねえ、先生、クリングの実際の運命がわかるまでは、この事件は解けそうもない気がしますよ……クラミットはクリングとクロサックの間の関係を見つけようと、大した努力をしています。おそらく二人の共犯を推定したんでしょうね。だが何も見つからなかった」
「だからと言ってなんの関係もないときめつける必要はないね」と、教授が指摘した。
「もちろんそんなことはありません。それに、クロサックに関する限り、あの男がストライカーと、ずっと連絡を取っていたかどうかを決める手は、てんでないんですからね」
「ストライカー……あれは君に神の怒りをさとらせる一例だな」と、ヤードレーがつぶやいた。「かわいそうなやつだよ」
エラリーはにやにやして「しっかりして下さいよ、先生。こりゃ殺人事件なんですよ。それはそれとして、この最後の報告によると、ウェスト・ヴァージニアの連中は、ハラーフトの正体をつきとめていますよ。つまり、クラミットによればあの男は、有名なエジプト学者のアルヴァ・ストライカーという者で、日射病で気が狂った。これはあなたのおっしゃるとおりですね。ずっと以前に『王家の谷』へ行ったときにね。調べた限りでは、血縁の者はいないし、いつも全く無害な狂人と見られていた。読みますよ――クラミットの但し書です。『ハンコック郡地方検事は、ハラーフト、あるいは、ラ・ハラーフトと自称するアルヴァ・ストライカーなる男は、アンドリュー・ヴァン殺害事件には罪なきも、多年にわたり、その異様なる風采《ふうさい》、その軽度の精神異状、そのゆがめられたる信仰に対する狂信ぶりなどを、異常悪質なる詐欺行為に利用せんとする破廉恥《はれんち》なる便乗者どもの食いものにされ来たりしものと信ず。なお、当局にては、ヴァン殺害に対するなんらかの動機を持つ、この種の人物が、被害者の死に責任あるものと思考す。あらゆる事実は、その人物として、ヴェリヤ・クロサックを指摘しおれり』どうです名文でしょう」
「クロサックに対しては、なんだか、情況証拠ばかりみたいじゃないか」と、教授が言った。
エラリーは頭を振って、「情況証拠であろうとなかろうと、クロサックをヴァン殺害犯人としているところ、クラミットも的を射ていますよ」
「どうして、そう思うかね」
「いろいろな事実からです。しかし、クロサックがアンドリュー・ヴァンを殺したということは、われわれが解明しようとしている事件の要《かなめ》じゃないんです。本当に根本的な問題は」――とエラリーは前にのり出して――「クロサックとは何者かということです」
「それはどういう意味かね」と、ヤードレー教授がきいた。
「ぼくは、この事件で、ヴェリヤ・クロサックが、ただ一人の人間にしか、その真の顔容《かおかたち》を知られていないということを言いたいんです」と、エラリーが熱っぽく答えた。「そのただ一人という人間が、ストライカーですが、やつからは信頼できる証言は得られないときているんですからね。だから、いく度でもくり返しますが、クロサックは何者か、現在クロサックは何者に化けているのか、われわれの身近にいるだれかかもしれない、とね」
「ばかな」と、教授は不愉快そうに「モンテネグロ人で、たぶん、クロアチア訛《なま》りがあって、しかも左足が悪いんだよ……」
「いや、本当にばかげたことじゃないですよ、先生。この国では国籍なんか造作なく溶け合ってしまいますし、事実、クロサックは、ウェアトンのガレージ屋のクローカーと、訛りのない流暢《りゅうちょう》な英語で話しているんです。クロサックがわれわれの中にいるかもしれないという事実に関しては――先生はまだ、ブラッド殺害事件の本質を、完全に分析しておられないようですね」
「おや、そうかな」と、ヤードレーが、やり返した。「そうかもしれないが、これだけは忠告しておくよ――君は、少し先走りしとるよ」
「前にはよくそんなことがありました」エラリーは立って、またプールにとび込んだ。そして、水からぬれた頭をつき出し、教授の顔を、意味ありげに、にやにや見ながら、「事実を指摘するまでもないことですがね」と言い出した。「ブラッドウッドに太陽教まがいのものを組織したのはクロサックでした。それも、ヴァンが殺される前にですよ。意味深長でしょう。だから、やつはこの辺のどこかにいるはずですよ……よしきた!」と、言って、いきなりプールから、はい上り、横になって頭の後に両手を組んだ。「一緒にこの点を考えてみましょうよ。クロサックから始めましょう。モンテネグロ人です。そこでだれか、ルーマニア生れを装っている中央ヨーロッパ人と、アルメニア生れを装っている中央ヨーロッパ人を殺した者がいるとしてみましょう。つまり三人の中央ヨーロッパ人がいることになる。するとみんな同国人ということも考えられる。というのは、ぼくは現在の情況からみて、ヴァンとブラッドは、アルメニアやルーマニアから来たものではないと確信しているのです」
教授はぶつぶつ言いながら、パイプをつけるのに、二本のマッチをいっぺんにすった。エラリーは熱い大理石の上にねそべって、シガレットに火をつけ、目をつむった。「さて、この情況を動機の点から考えてみましょう。中央ヨーロッパ。バルカン。迷信と暴力の中心地。あの辺では迷信と暴力がほとんど日常茶飯事です。これで何か思いつきませんか」
「私はバルカンについてはてんで知らないんだ」と、教授が関心もなさそうに言った。「君の言葉を聞いて思いつく連想は、何世紀もの間、世界のあの地方は、不気味な空想的な民話の発生地だったということぐらいだよ。思うに、一般の知的水準が低いのと、荒々しい山岳地帯のせいだろうね」
「は、は、そりゃ思いつきですよ」と、エラリーが笑った。「吸血鬼伝説ね。ドラキュラを覚えていますか、あれはブラム・ストーカーが、無邪気な市民に悪夢を与えた不朽の傑作です。中央ヨーロッパに住んでいた人間吸血鬼の物語です。しかも、あの話でも、首が切りとられている」
「子供のたわごとだ」と、ヤードレーが不安そうな目付きで言った。
「そのとおり」と、エラリーがすぐ言って「子供のたわごとですよ。なにしろヴァンやブラッドの心臓に杙《くい》が打ちこんでなかったという事実からみればね。自尊心のある吸血鬼だったら、あの愉快な小儀式を省略はしないでしょうからね。もし杙が打ち込んであるのを発見したら、われわれが相手にしているのは、迷信に狂った人間で、自分で人間吸血鬼だと思い込んでいるやつをやっつけようとしているのだと、思い込むところでしたよ」〔吸血鬼を始末するのにはさんざしの杖で突き刺すのがよいといわれている〕
「ふざけとるね」と、ヤードレーがたしなめた。
エラリーは、しばらく、たばこをふかしていた。「ぼくがふざけているかどうかはさておいて。ねえ、先生、われわれは、吸血鬼などという子供だましのお化け話なんかに鼻もひっかけないほど神聖な文明開化の世の中にいるのですが、しかし、結局クロサックが吸血鬼を信じて人の首を切りまわっているとすれば、あなただって、やつの信仰の実体に目をつむっているわけにはいかないでしょう。それはまさに、実践哲学の宣言のようなものですからね。もしあの男に吸血鬼というものが存在するとなれば……」
「ときに、君のエジプト十字架の話は、どうなんだね」と、教授が真面目にきいた。教授は体を起こして、長談義を予期するかのように、姿勢を楽にした。
エラリーは起き上って日灼けしたひざをかかえた。「ところで、先生はどうなんですか。何か、考えがおありなんでしょう。昨日もそんなふうにほのめかしておられましたね。学問的に言って、ぼくの考えは、思い違いなんでしょうか」
教授は丁寧にパイプの灰をたたきおとして、プールのへりにのせ、黒いひげをさすり、いかにも大学教授風にかまえて「君は」と、重々しく口をひらいた。「ひどい見当ちがいをしとる」
エラリーは眉をよせて「すると、先生は、タウ十字架は、エジプト十字架ではないと、おっしゃるんですか」
「まさにそのとおりだよ」
エラリーはゆっくり体をゆすって「大先生のお言葉ですがね……ふーん。では、ひとつ、少しばかり賭けをなさいませんか、どうですか、先生」
「私は賭けごとはしないんだ。そんな余分な収入もないからね。……君はクルウス・コミイッサ〔T字型十字架〕をエジプト十字架と呼ぶなどという考えを、どこから引っぱって来たんだね」
「ブリタニカ百科事典です。一年ほど前ですが、当時、ぼくは十字架というものについて、少し調べていました。その時小説を書いていたものですからね。今でも思い出せますが、タウもしくはT形十字架は、エジプトでは普通に使われたもので、しばしばエジプト十字架と呼ばれたり、それと同じ意味に使われると出ていたと思います。とにかく、ぼくの記憶では、その記事では十字架に関して、タウとエジプト十字架とは、はっきり結びつけて使われていました。調べてごらんになりたいですか」
教授は笑い出した。「君の言うとおりにしておこう。その記事をだれが書いたか知らんが――おそらく博学な人にちがいあるまい。しかし、ブリタニカ百科事典といえども人間のつくったものであるからには、やはりそれなりの誤りもありうるし、必ずしも最終の権威ときまっているわけでもない。私自身はエジプト芸術の権威ではない、それは了解してほしい、しかしそいつは私の研究の一部だが、私はかつて、『エジプト十字架』という文句にぶつかったことはない。たしかに誤った呼び方なのだ。なるほど、エジプトにはT字形のものは、あるにはあるが……」
エラリーは、わけがわからぬという顔で「すると、もちろん先生は、タウがエジプト十字架ではないといわれる――」
「そうでないからだ」と、ヤードレーは微笑して「古代エジプト人に使われたある種の祭器はギリシア文字のTのような形をしていた。それは、しばしば、象形碑文の中に出て来る。しかし、それを、古代キリスト教の表象である、タウと解釈するわけにはいかない。それに類するような偶然の一致はたくさんある。たとえば、聖アンソニー十字架にも、タウ十字架という名が与えられているが、それはたんに、絵や彫刻の聖アンソニーが普通持っている杖がタウ十字架に似ているからにすぎない。タウ十字架と聖アンソニー十字架のちがいは、厳密に言えば、今、君や私が持っている十字架と聖アンソニー十字架が違うようなものなのだ」
「すると、十字架は正しくいって全然エジプト十字架ではないんだな」と、エラリーがつぶやいた。「こりゃ、ひどい間違いをやっちゃった」
「君がそう呼びたいなら」と、教授が言った「とめるわけにはいかない。十字架というものが、長い間、ごく普通に使われていた表象だったのは事実らしいし――その変形も全世界にわたって太古から使われていた。十字形の表象を変形したものなら、無数の例をあげることができる――たとえば、スペイン人が侵入する以前の西半球のインディアンも使っていた。しかし、それはこの際、適切な例ではない。重要な点はつまり」と、教授は目をぎょろりと釣り上げて「こじつけてエジプト十字架と呼べば呼べるような、十字架の表象が一つあることだ。それは、アンクというものだ」
「アンクですって」と、エラリーは考えこみながら「たぶん、ぼくは本当はそいつのことを考えていたのかもしれませんよ。T十字架の頭に輪がついているのでしょう」
ヤードレーは頭を振った。「輪じゃないよ、君、雨だれか、梨の形をしている小さなものだ。アンクそのものは、どこか鍵《かぎ》に似ている。クルウス・アンサータと呼ばれて、エジプトの古文書には、とても多く出て来る。それは神とか王位を表わすもので、変っているのは、それを持つ者を生命の創造者の特徴としていることだ」
「生命の創造者ですって」何かが、エラリーの目の中でかもし出された。「そうか」と叫んだ。「まちがいない。やっぱりエジプト十字架だ。やっぱり本筋をつかんでいたんだ」
「説明したまえ、君」
「おわかりにならないんですか。そのわけは、ヘロドトス〔ギリシア歴史家〕のようにはっきりしていますよ」と、エラリーが大声で「アンク――生命の表象。Tの横木は――腕。縦の柱が――体。てっぺんの梨の実形のものは――頭。そして頭がちょんぎれている。何か意味があるんです。たしかに――クロサックは、わざわざ生命の表象を死の表象に変えたのですよ」
教授はしばらくエラリーをまじまじと見つめてから、吹き出し、笑いが止まらなかった。「卓見だよ、君、悪魔のような卓見だ。しかし、真実からは百万パラサング〔ペルシアの里程五キロメートルくらい〕もはなれとるよ」
エラリーの興奮はぺしゃんこになった。「どこがちがってるんですか」
「クロサックが被害者の首を切った動機についての君の霊感的な解釈は、もし、アンクもしくはクルウス・アンサータが、人間の姿の表象なら通じるかもしれない。しかし、ちがうんだクイーン君。その起源は、ずっとつまらんものなんだ」と教授はひと息ついて「ストライカーがはいとったサンダルを覚えとるかね。あれは典型的な古代エジプト人のはきものの模造品なのだ……ところで、こんなことでとやかく言われたくはないがね――なにしろ、私はエジプト学者でないと同様に人類学者でもないんだから――しかし、アンクは普通、専門家たちには、ストライカーが使っていたようなサンダルのひもを表わすものと考えられているんだよ――てっぺんの輪はかかとのまわりをしめる部分。輪の下の垂直な部分が、足の甲の上を通って足先に行き、親指と他の指の間で、サンダルの底につながるひもなのだ。横の短かいひもが足の甲の両側を下がって、サンダルの底につながるものなのだ」
エラリーはしょんぼりした。「しかし、ぼくには、どうしてそれが生命の創造を示す表象なのかさっぱりのみこめませんね、起源はサンダルだというのにね。たとえ比喩的な意味があるとしても」
教授が肩をしゃくった。「言語、観念というものの起源は、近代精神では理解しにくいことが多いものだよ。科学的見地から明らかにしえないものが多い。しかし、アンクの|しるし《ヽヽヽ》が、しばしば『生きる』という意味の語幹から出たいろいろな言葉に使われているから、いつのまにか生活、または生命の|しるし《ヽヽヽ》とみなされるようになったのだろう。するうちに、アンクの真の起源をなす材料は形の変わりやすいものだったにもかかわらず――つまり、当時のサンダルは普通パピルス〔エジプトの芦〕を加工して作られたものだが――しだいにエジプト人は、アンクの|しるし《ヽヽヽ》を形の変りにくいものにするようになって――つまり、木や陶器などの|お守り《ヽヽヽ》をつくるようになったのさ。しかし、その表象自体が人間の姿を表わすものではないことはたしかだよ」
エラリーは、しばらく陽《ひ》がきらめく水面をにらんだまま、考えこみ、鼻眼鏡の曇ったレンズを拭いていた。「そうですか」と、がっかりしたように言った。「じゃあ、アンクの話はこれで打ち切りましょう……ねえ、先生、古代エジプト人は|はりつけ《ヽヽヽヽ》を行ないましたか」
教授は微笑して「君はまだ、冑《かぶと》をぬがんつもりだな……しないね、私の知る限りでは」
エラリーは鼻にきちんと眼鏡をかけた。「すると、エジプト学的な理論は、全敗というわけですね。少なくとも、ぼくはそうします。どうもはやとちりしちゃって――近ごろの悪い傾向ですよ。どうやら、ぼくも焼きがまわったらしい」
「生兵法《なまびょうほう》は、君」と、教授がさとした。
「大けがのもとと、ポープ〔アレキサンダー・ポープ。イギリス詩人〕も言っとるよ」「古人|曰《いわ》く」と、エラリーもやり返した「|faciunt nae intelligendo, ut nihil intelligent《ファシウントネインテリジェンドウトニヒルインテリガント》――ものを知りすぎるのは、何も知らないのと同じだ。こりゃあ、むろん、個人的な当てつけじゃありませんよ……」
「むろんそうさ」と、ヤードレーが、わざとまじめくさって「テレンティウス〔ローマの喜劇作者〕も、そんなつもりで言ったのではあるまいよ。……とにかく、君は事実をエジプト学的に解釈しようと努力した結果、わき路へそれちまったらしいな。君はいつも、ロマンチックに考えがちだったのを、覚えとるよ、教室でもね。一度、プラトン、ヘロドトスが伝えているアトランティス伝説の起源を論じているときに、こんなことがあったが……」
「もの知り博士のおじゃまをしてすみませんが」と、エラリーが少しいらだって「ぼくは今、泥沼からはい出そうともがいているのに、先生と来たら、いりもしない古典趣味でまぜ返すんだからなあ……あ、失礼しました。ところで、もしクロサックが被害者の首を切り、その犯行現場にTの|しるし《ヽヽヽ》をまき散らすことで、十字架の表象を残すつもりだったとすれば、それはたしかにアンクではなく、タウ十字架だったとしか考えられません。そして、ファラオ時代のエジプトにはタウ十字架は存在しなかったらしいし、存在していたとしても大した意義はないらしいから、クロサックの心中には、そんな考えはほとんどなかったと考えた方がよそさそうですね。たとえ、クロサックがエジプト学的な意味を持つ信仰に憑《つ》かれている狂人の仲間だという事実があるとしてもね。……裏づけは? こうです。トマス・ブラッドはトーテム・ポール――いや、ポストに、ぶら下げられました。それは古代エジプト学とはちがう種類の宗教的表象の世界です。もう一段掘りこめば――もしクロサックがアンク十字架のつもりなら首を持ち去らずに残して行ったでしょうからね。……そこでエジプト説には疑問があり、といって、アメリカのトーテム説には、たまたまブラッドが|はりつけ《ヽヽヽヽ》になったという一例以外にはなんの根拠もないとすれば、それが択ばれたのは、宗教的な意味からではなく、むしろその形がT型だったからと見なされます――するとはりつけに対して全然十字架説を主張するわけにはいきません。……キリスト教のタウ十字架の形だなどと言ってね――それにぼくの知る限りでは、キリスト教では殉教者を殺すのに首切りはしていませんものね。……|よって《エルゴ》、宗教的理論は全部取り消します――」
「君の信条は」と、教授がくすくす笑いながら「ラブレーの宗教観に似とるね――偉大なる『仮定主義だ』」
「――そして最初から鼻先にぶらさがっていたものに逆もどりというわけですよ」と、エラリーが、残念そうに言い切った。
「それはなんだね」
「おそらく、TはTだけの意味で、他に面倒な意味はないということです。アルファベットとしてのTとすると、T、T……」エラリーは急に黙り込んだので、教授はいぶかしげに見つめていた。エラリーは、ただ青い水と日光とを無心にながめているような目で、プールを見つめていた。
「どうしたんだね」と、ヤードレーがきいた。
「そんなことがありうるかな」と、エラリーがつぶやいた。「いや――とっぴすぎる。しかも裏づけは何もない。前にも一度、こんなことがあった――」エラリーの声は立ち消えになった。ヤードレーの質問もきこえなかったらしい。教授はため息をして、また、パイプをとり上げた。かなり長いあいだ、二人は、どちらも黙っていた。
そんなふうにして二人は、もの静かなパチオの中に、ほとんど裸のままですわっていた。そのとき、黒人女が、光るような黒い顔に不愉快な表情をうかべて、あたふたとはいって来た。
「ヤードレーの旦那様」と、やわらかい声で不平らしく「だれかが、ドアを押し入って、ここに来ようとしていますだ」
「えっ?」教授はおどろいて夢見心地を、ふりすてた。「だれだね」
「あの警察の旦那です。えらい勢いで、そりゃ――」
「いいんだ、ナニー、通しなさい」
やがて、ヴォーンが、小さな紙片をひらひらさせながら、とび込んで来た。その顔は、まっ赤に昂奮していた。「クイーンさん」と、わめいた。「大ニュースですよ」
エラリーは、うつろな目をあげて「え? おお、やあ、警視ですか。どんなニュースです」
「読みたまえ」警視は紙片を大理石の床に放り出して、プールのふちに腰を下ろし、下心あってセラグリオ〔回教の後宮〕に押し入った男のように、息を切らしていた。
エラリーと教授は目を見合わせて、一緒に紙片をのぞき込んだ。それは、ジャマイカ島からの無線通信だった。
キヨウ トウチニ ニユウコウス」ブラツドノ シボウオ キク」スグ ニューヨークヘムカイ シユツコウスル」
発信者のサインは、スティヴン・メガラだった。
第三部  紳士のはりつけ
余はブラッセル検事局主任検察官として、犯罪者の頭脳の作用は、法を遵奉する市民には理解し難き動機によりて支配されるものなることを発見せり。
フェリイクス・ブルーヴァジュ
十三 ネプチューンの秘密
スティヴン・メガラのヨット、ヘレーネ号は、ジャマイカから北へバハマ諸島を抜けて記録的な快走をつづけたが、ニュー・プロヴィデンス島の近くで機関に重大な故障がおこり、責任者のスウィフト船長は、よぎなくナッソーの港に修理のために入港した。ヨットがふたたび海に出られるようになるのに数日を要した。
それで、ヘレーネ号がロングアイランド沖に姿を見せたのは、ヴォーン警視が無電通信を受けてから八日後の七月一日になった。港湾局を通じてメガラのニューヨーク港通関手続きは前もって手配されていたので、ヘレーネ号は、少し遅れただけで、警察艇や、ヘレーネ号のみがき上げられた甲板に上るのをかろうじて食いとめられている事件記者が雇った小艇の群れに付き添われながら、ロングアイランド湾にはいって来た。
八日間……この平穏無事なだけの八日間。この間に葬式があっただけで、それも静かなものだった。ブラッドは、はでな行事も、やっかいな出来事もなくロングアイランドの墓地に葬られた。そしてブラッド夫人は、新聞記者連の見るところ、見事な堅忍さでこの試練に耐えた。むしろ、故人と血のつながりのない娘の方が、未亡人よりもこの葬式に取り乱した。
ヴェリヤ・クロサックの捜査は全国的な規模の人間狩りになった。その手配書は全合衆国の警察署、保安官事務所、港湾係官に送達され、四十八州、カナダ、メキシコの警察がクロサックを監視していた。しかしながら、網がひろげられたにもかかわらず、モンテネグロの魚は一匹もかからなかった。クロサックは、まるで地球から空間にとび去ってしまったかのように、完全に姿を消してしまっていた。クリングについても、全く足跡なしだった。
運転手のフォックスは、まだ、その小屋で監視されていた。形式的には逮捕されてはいないが、実質的には、たしかに、シン・シンの刑務所の鉄格子の中に閉じこめられた囚人と同じようだった。着々と捜査の手はフォックスの身辺にひろげられていたが、メガラが到着したときまでには、フォックスの指紋は、東部のどこの前科者記録保管所でも確認されなかった。警視は、やっきになって、はるか西部の方へまで指紋の写しを送った。フォックス自身は、鉄のような沈黙を守っていた。そして非公式の監禁に不平もこぼさなかったが、その目には絶望的な光りをたたえていたので、警視は慎重を期して警戒を厳重にした。この男を、完全に無視して、ただ沈黙の監視をしていたのは、ヴォーンの捜査法の一つだった。フォックスは調べられもせず、痛い目にもあわなかった。ただ完全に孤立させられていた。しかし、この神経の抑圧にもかかわらず、フォックスは口を割らなかった。来る日も来る日も、小屋の中にじっとすわりっきりで、台所から、バクスター夫人の運ぶ食事にもほとんど手をつけず、身動きもほとんどせず、息さえ、ほとんどしないかのようだった。
七月一日金曜日には、すっかり手順ができていた。その日、『ヘレーネ』号はロングアイランド港を遡航して、ケチャム入江の西側の狭い水道を通り、オイスター島と本土との間の深所《ふかんど》に錨《いかり》を下ろした。ブラッドウッドの船着場はまっ黒な人の山だった――刑事、警官、機動警官たちだ。一同はゆっくりとしたヨットの動きを見守っていた。輝くばかりの白さで、舷側の低い、軽快な船だった。すばらしい朝の空気に、みがかれた真鍮《しんちゅう》の金具がきらきらと光り、甲板に動く人かげが、はっきり見えた。ヨットの狭い船腹には、小型のボートがいく艘かゆれていた。
ヴォーン警視、アイシャム地方検事、エラリー・クイーン、ヤードレー教授は、船着場に立って、黙って待っていた。ヨットの舷側から、一隻のランチが下ろされ、入江の水を、ぱしゃっと打った。鉄の梯子《はしご》を下りてランチに乗り込む数人の姿が見えた。すぐに警察艇が水先になり、ランチはおとなしくついて来た。それらは船着場に向かって来た。群集がざわめいた。……
スティヴン・メガラは背が高く、日灼けしたたくましい体格で、黒い口ひげをはやし、見たところ、格闘でなぐりつぶされたような鼻をしていた。まったく精力的であると同時に、何か不気味な人物だった。ランチから桟橋へとび上る動作は、すばやく、正確で、敏捷《びんしょう》だった。すべての動作がきびきびしていた。エラリーは鋭い興味を持って見守っていたが、活動的な人物だと思った。トマス・ブラッドは、老人じみた、栄養過多な、でっぷりした男らしかったが、それとはおよそ違ったタイプだった。
「スティヴン・メガラです」と、少しイートン〔イギリスの学校〕なまりのある英語で、てきぱき言った。「すばらしい、歓迎ですね、ヘレーネ」メガラは群集の中に、ヘレーネを見つけ出して声をかけた――主役の連中は、後の方に遠慮して立っていた――ヘレーネ、母親、ヨナ、テンプル医師……メガラは、他の連中には目もくれず、ヘレーネの手をとって、激しい愛情をこめてじっと目を見た。ヘレーネは赤くなって、そっと手を退いた。メガラは、ちらっと微笑した。口ひげを持ち上げただけの微笑で、ブラッド夫人の凍ったような耳に何かささやき、テンプル医師にちょっと会釈《えしゃく》してから、振り向いた。「トムが殺されたんだそうですな。どなたでも名乗っていただけば、なんでもしますよ」
地方検事が鼻をならした。「なるほど」と言った。「私は、この郡の地方検事です。こちらは、ナッソー郡刑事局のヴォーン警視。特別捜査官エラリー・クイーンさん。お隣りのヤードレー教授です」
メガラは、お座なりの握手をした。そして、振りかえると、日に灼けた指を曲げて、ランチからついて来た青い制服の、強い顔をした半白の老人を呼んだ。「ヨットの、スウィフト船長です」と、メガラが言った。スウィフトは、あごが張り、目は望遠鏡のレンズのようだった――『さまよえるユダヤ人』のような雨風にさらされた顔の中で、その目は水晶のように澄んでいた。
「よろしく」と、スウィフト船長は、だれにともなく言って、左手を帽子にかけた。指が三本ないのを、エラリーは見てとった。一同が、言い合わしたように、動き出して、船着場から邸へ向かう道を歩きはじめたときに、エラリーは、船長が大洋を航海する船乗りらしく身を左右にゆすぶって歩くのに気がついた。
「今度のことをもっと早く知ることができなくて残念でした」と、メガラは早口に、歩きながら、アイシャムに言った。ブラッド母娘《おやこ》、リンカン、テンプル医師は無表情な顔で、二人の後を歩いていた。「私は数か月間、海上をぶらついていたのです。ニュースを得ようがありません。トムのことを聞いて、驚きました」口ではそう言うが、打撃を受けたらしくもなかった。メガラは共同経営者の殺人の話を、まるで絨毯《じゅうたん》の新しい買付けの相談でもしているように、淡々と話していた。
「あなたを待っていたんですよ、メガラさん」と、ヴォーン警視が言った。「だれがブラッドさんを殺す動機を持っていると考えられますか」
「ふーん」と、メガラが言い、頭をねじ向けて、ブラッド夫人とヘレーネを、ちらっと見た。
「今は言わん方がいいでしょう。出来事を、正確に話して下さい」
アイシャムが答えかけたとき、エラリーが静かな声できいた。「アンドリュー・ヴァンという男のことを、お聞きになったことがありますか」
ちょっと、メガラの歩調が乱れたが、その顔は動きもせず、力強く歩きつづけていた。「アンドリュー・ヴァンね。その男が、この事件と、どんな関係があるのですか」
「すると、知っとられるんですな」と、アイシャムが大声を出した。
「その男は、あなたの共同経営者がなくなられたのと、そっくり同じような情況のもとに、殺されたのですよ、メガラさん」と、エラリーが言った。
「ヴァンも、殺されたのか」ヨットマンの気取った態度が何か崩れて、その大胆な目に不安のかげがさした。
「首を切りとられて、体はT字型に|はりつけ《ヽヽヽヽ》られましたよ」と、エラリーは事務的な口調で説明した。
メガラが、そのときちょっと立ち止まったので、後から来る一行も、同時に止まった。メガラの日灼けした顔が青ざめた。「Tか」と、つぶやいて「そうか――とにかく、家へはいりましょう」
そう言ったとき、身ぶるいして、肩がしょんぼりとなった。マホガニー色の顔が、幽霊でも見るようだった。急に、|ふけた《ヽヽヽ》ように見えた。
「T字型の説明をしていただけますか」と、エラリーが熱心にきいた。
「思い当ることがありますがね……」メガラは、かちっと歯をかみ合わせて、大股に歩き出した。
一同は邸までの残りの道を、黙って歩いた。
ストーリングスが表のドアをあけたが、すぐその無表情な顔が歓迎への微笑にかわった。「メガラ様。ようこそ――」
メガラは目もくれずに、足早にはいった。そして、他の連中の先に立って、応接室に入りそれから大股に床を往ったり来たりし始めた。何事かを心の中で思いめぐらしているらしかった。ブラッド夫人が、そのそばへ寄って、ぽってりした手を肩にかけた。
「スティヴン……この恐ろしいことがあなたにかたづけられるものなら――」
「スティヴン、あなたにはわかってるんでしょう」と、ヘレーネが叫んだ。
「わかってるなら、メガラさん、おねがいですから、話して下さい。そうして、このいまわしい怖ろしさをおしまいにして下さい」と、リンカンも声をつまらせながら言った。「私たちはみんな、悪夢にうなされているようなのです」
メガラはため息をして、両手をポケットに突っ込んだ。「おちついて。腰かけたまえ、船長。君をこんなあさましいことに捲き込んですまないな」スウィフト船長は目《ま》ばたきしたが、腰を下ろさなかった。居心地が悪そうにドアの近くに引きさがった。
「諸君」と、いきなりメガラが言った。「私はだれが殺したかを――ブラッドを殺したかを、知っているつもりです」
「ご存知なんですか」と、ヴォーンが冷静に言った。
「だれですか」と、アイシャムが大声を出した。
メガラは幅の広い肩を後にそらした。「ヴェリヤ・クロサックという名の男です。クロサック……たしかに、疑いなしです。あなたは、Tといわれましたね。その意味が、私の考えるとおりだとすれば、世界じゅうでその男だけが、Tを書き残せるのです。Tですね。ある意味では、それは生きている証拠で……どんなことがあったのかすっかり聞かせて下さい。ブラッドの殺された事情と一緒にヴァンのも」
ヴォーンがアイシャムを見やった。アイシャムがうなずいた。そこで、警視は二つの犯罪のいきさつを、手ぎわよくまとめて話し始めた。まずアロヨ道路とニューカンバーランド街道の交差点で、ピートじいさんとマイケル・オーキンズが見つけた小学校長の死体のこと。そしてヴォーンが、|びっこ《ヽヽヽ》の男に雇われて、あの交差点まで送ったと言うガレージ屋のクローカーの証言を話すと、メガラはゆっくりうなずいて言った。「そいつです、そいつです」と、最後の疑念も晴れたようだった。ヴォーンの話が終るとメガラは深刻そうに微笑した。
「はっきりわかりましたよ」メガラはもとの冷静さをとりもどし、その態度は決意と勇気にあふれていた。「ところで、亭屋《あずまや》で何が発見されたのか教えて下さい。少し変な点があるんで……」
「しかし、メガラさん」と、アイシャムが反対した。「わたしにはわからんが――」
「すぐ、亭屋へ連れて行って下さい」と、メガラが手短かに言って、ドアの方へ歩みよった。アイシャムは腑に落ちない顔をしたが、エラリーが目くばせして、うなずいた。一同はヨットマンの後から、ぞろぞろとついて出た。
一同が小道をトーテム・ポストから亭屋の方へ行くとき、ヤードレー教授が低い声で「おい、クイーン君、どうやら幕が降りるらしいじゃないか」
エラリーは肩をすくめて「どうしてですか。ぼくがクロサックについて言ったことは、まだ少しも解決されていませんよ。やつは一体どこにいるんでしょう。メガラが目の前で、はっきり確認するまではね――」
「そりゃ虫がよすぎるね」と、教授が言った。「君には、どうしてあの男がこの辺にいるとわかるのかね」
「わかりゃしません。しかし、たしかにその可能性はあります」
亭屋はキャンバスで囲ってあり、機動警官が見張りについていた。ヴォーンがキャンバスをはねのけると、メガラは、たじろぎもせずに、はいって行った。亭屋の内部は、犯罪のあった次の朝、警官たちが捜査したときと、そっくり同じようだった――警視の少しばかりの見通しのよさが、実を結んだように思えた。
メガラはただ一つのものにだけ目をとめていた――Tの字や、血痕や、格闘や、兇行のあとになど目もくれないで――ネプチューンの頭と三叉の槍が火皿に彫ってあるパイプだけを見つめていた。
「こんなことだと思った」と、メガラはおちついて言い、かがんで、そのパイプだけをひろい上げた。「あなたが、ネプチューンの頭のパイプの話をされたとき、何か変だと思いましたよ、ヴォーン警視」
「変って?」と、ヴォーンはわかりかねていたが、エラリーの目は明るくなって、もの問いたげだった。「何が変なのです、メガラさん」
「何から何までですよ」メガラは沈痛な顔でパイプを眺めていた。「これを、トムのパイプだと思ったのでしょう。ところが、ちがいます」
「まさか君は」と、警視が大声で「それが、クロサックのパイプだと言うつもりじゃないでしょうね」
「そう言いたいですがね」と、メガラが力強く答えた。「ちがいます。これはぼくのです」
しばらくの間、一同はこの新事実をかみしめ、まるでその中から養分でもとるかのように考えめぐらしてみるのだった。ヴォーンは、明らかにとまどっていた。「結局」と、言った。「たとえ、それが――」
「待ちたまえ、ヴォーン君」と、地方検事が、すばやく言った。「どうやら、これには、見かけ以上のことがありそうだ。メガラさん、われわれはこのパイプはブラッドのものだとばかり思っていたのです。ストーリングスが、そう思いこませるようにしたし、それに、考えてみれば、そんな間違いをするのも無理はありません。それにはブラッドの指紋がついていたし、殺人の夜、ブラッド好みのたばこを詰めて、喫《す》ってあるんですからね。今、あなたは自分のものだと言われるが、どうも納得しえないのは――」
メガラは目を細めて、頑固な口調で「そこが変なのです。アイシャムさん。これはぼくのパイプです。もしストーリングスが、トムのものだったと言ったのなら、嘘を言ったのか、勘違いしているんです。というのはぼくが去年家を出る前に、ストーリングスは知っていたはずですもの。ぼくは去年航海に出るとき、うっかりして忘れて行ったのです」
「あなたに納得のいかないのは」と、エラリーが、穏やかにアイシャムに言った。「他人のパイプをどうして、ひとが使ったかでしょう」
「そうだよ」
「おかしいな」と、メガラが吐きすてるように「トムがぼくのパイプや、ひとのパイプをふかすはずがない。自分のを、どっさり持っているんですからね。書斎の抽出《ひきだ》しをあけてみればわかりますよ。それに、トムの口にひとのパイプをまかせるなんてことは、だれにもできっこないですよ。とくにトムは、なにしろ潔癖も、ひどいもんでした」メガラは、ネプチューンの頭を、いかにもお気に入りという調子で、指でひねくりまわしていた。「ぼくは古なじみのネプチューンがなくて残念でした。……十五年も持っていたんですからね。トムは、ぼくがこれをどんなに好いていたかを知っていました」と、ちょっと黙り込んで「トムがこのパイプで喫わなかったことは、ストーリングスの入れ歯をけっして自分の口に入れないのと同じこってすよ」
だれも笑わなかった。エラリーが、すぐきいた。「とても面白い情況に直面しましたね、皆さん。最初の光明です。このパイプが、メガラさんのものだと確認されたことの意味がわかりませんかね」
「そんな意味なんかどうでもいい」と、ヴォーンが、ぴしゃりと言った。「きまっとるじゃないですか――クロサックが、メガラさんを罠《わな》にかけようとしとるんだ」
「とんでもない、警視」と、エラリーが明るく言った。「そんなことじゃありませんよ。クロサックが、われわれに、ブラッド殺しはメガラさんだと信じさせようとするはずがありませんよ。メガラさんが例の船旅に出てどこか数千マイルもはなれたところで船足をのばしていたことは、みんなが知っているんですからね。それに――例のTの字と、ヴァン殺しとの結びつきと……署名してるみたいなものです。いや」エラリーは、眉をしかめて、まだパイプをいじりまわしているヨットマンの方を向いた。「あなたは、どこに、おられましたか――ヨットと、あなたと、乗組員たちは――六月二十二日には?」
メガラは微笑している船長の方を向いた。「そうくると思ってたよ、なあ、船長」船長はにやりとして口ひげを揚げた。「どこにいたっけ」
スウィフト船長は顔を赤らめ、ふくらんだ青制服のポケットから一枚の紙をとり出した。「航海日誌です」と言った。「これでわかりますよ」
一同は航海日誌を調べた。六月二十二日には、『ヘレーネ号』はガタン閘門《こうもん》を通過してパナマ運河に入り、西インド諸島に向かっていたことが記されていた。日誌にはパナマ運河の通航料の支払を証明する運河当局の役所式の受取りが付けてあった。
「全員、乗船中でした」と、スウィフト船長が、しわがれ声で、「航海日誌はいつでも調べてください。わしらは太平洋を東へ航海しとったです。西への航海ではオーストラリヤまで行きました」
ヴォーンがうなずいて「君らをだれも疑っていませんが、どっちみち、航海日誌は調べさせてもらいます」
メガラは両足をひらいて立ち、体を前後にゆすぶった。大洋を行く船の船橋に立って、波の上下に合わせて体をゆすっているようだった。「だれも私たちを疑わん。当然ですよ。疑っているとしても平気ですよ。いいですね……今度の全航海で、死が切迫したのは、スバ〔フィジー群島〕の沖合にさしかかって、ひどく|しけ《ヽヽ》たときぐらいですからね」
アイシャムが不愉快そうな顔をした。ヴォーンがエラリーを振り向いて「ところで、クイーンさん。何か頭の中でこねまわしていますね。何か考えつかれたでしょう、見ればわかりますよ」
「どうも、警視、この物的証拠からすれば」とエラリーは航海日誌と受取りを指さして「クロサックは、メガラさんを協力者殺しと思い込ませようとしているとは信じられませんね」エラリーはたばこをひと喫いして、つづけた。「このパイプは……」と、エラリーは、たばこの灰を、メガラの持っている風変りなパイプの方へはじいた。「クロサックは、メガラさんが殺人の当時、疑う余地のないアリバイを持っていることを知っていたはずです。それゆえ、その方面の推理は除外しましょう。しかし、このパイプがメガラさんのものであり、ブラッドがそれを喫うはずがないという事実からして、新しい筋の通った仮説をたてることができます」
「うまいな」と、ヤードレー教授が「本当ならね。どういう仮説かね」
「ブラッドは、その協力者のものであるこのネプチューンのパイプを喫ったはずがない。しかも明らかに喫われている――被害者自身が、いじったことは明白だ。しかし、もし、ブラッドがこのパイプを喫わず、しかもパイプには喫った証拠があるとしたら、どうなるでしょう」
「卓見だ」と、教授が低い声で「そのパイプは、ブラッドが喫ったように見せかけたのだね。その柄に故人の指紋をつけることは児戯に類することだよ」
「そのとおりです」と、エラリーは叫んだ。「それに、そのパイプを使ったように見せかけるなんてことは単純ですよ。おそらく、犯人は自分で実際に粉をつめ、火をつけて、一ぷくやったのでしょう。残念ながら、ベルティヨン測定法〔フランスのベルティヨン刑事が発見した人体測定法〕では、各個人の持つバクテリヤの差異を考慮に入れていないですがね。そうだ、いいことがある……いいですか、このパイプをブラッド氏が喫ったように見せかけたいのはだれでしょうか。それはたしかに、犯人だけです。なぜか。ブラッド氏が家から散歩に出たという印象を強めたいからでしょう――スモーキング・ジャケツで――パイプを喫いながら亭屋へ行き、そこで襲われて殺されたという印象を」
「そうらしいな」と、アイシャムが合槌を打った。「しかし、なぜ、クロサックは、メガラさんのパイプで、そんなことをしたのだろう。なぜ、ブラッド氏のどれかを使わなかったのだろう」
エラリーは肩をすくめた。「その答えは、ちょっと考えてみれば、すぐわかります。クロサックがパイプを手に入れた――場所は? 書斎の読書机の抽出しの中です。そうでしょう、メガラさん」
「たぶんね」と、メガラが言った。「トムはパイプを全部そこに入れている。ぼくがこれを忘れて出かけたあとで見つけて、ぼくが帰ってくるまで、その抽出しに入れておいたにちがいないな」
「結構です。さて、クロサックは抽出しへ行って、たくさんのパイプを見つけた。当然、全部ブラッド氏のものだと思った。ブラッド氏が、亭屋で喫烟中だったと見せかけるのに、パイプを一本残しておきたかった。そこで、外見上、一番特徴のあるパイプを択んだ。一番特徴のあるパイプは一番素姓のわかりやすいパイプだというもっとも至極の道理からです。ゆえに――ネプチューンを択んだ。しかしながら、われわれにとって運がよかったのは、このネプチューンのパイプが、メガラさんのもので、ブラッド氏のものではなかった」
「そうだ」と、エラリーは鋭い声で「ここで、興味ある推定に到達します。クロサック君はブラッド氏が亭屋で喫烟中を襲って殺されたと見せかけるために、大変な手数をかけました、そうでしょう? なぜなら、パイプもなく、たばこを喫った形跡もなかったとすれば、ブラッド氏が亭屋にいたことに、疑いを持たれたでしょうからね、とくにスモーキング・ジャケツを着ていたんですから。ブラッドはここへ曳きずって来られたのかもしれないとね。しかし、ある男がある場処でたばこを喫っていたことがわかれば、少なくとも、ある程度までは、その男が自由意志でそこにいたものと考えるでしょう……ところが、今や、その男がそこでたばこを喫っていなかったことと、犯人はわれわれに、その男が喫っていたように思いこませようとしていることがわかりました。そこで唯一の妥当な推測は、亭屋は犯行現場ではなかったということと、犯人はそこが現場だったとわれわれに信じ込ませたがっているということです」
メガラは、ちょっと皮肉な、いぶかしそうな目の光りをたたえて、エラリーを見つめていた。他の連中は黙り込んでいた。
エラリーはたばこを戸口から外へはじきとばした。「その先はたしかにはっきりしています。ここが犯罪現場でないのだから、ほかに場所があるはずです。その場所を見つけて調べなければなりません。現場を探すのはわけもないと思います。もちろん、書斎です。ブラッドが生きて最後に見られたのはそこで、チェッカーの独り遊びに夢中になっていたのです。ブラッドはだれかを待っていました。というのは、目撃者になったりじゃまになりそうな者は、用心してすっかり家から追い払っていたからです」
「ちょっと、君」と、メガラがこわばった口調で、「ご説だがね、クイーンさん。しかし、全然、間違ってるようですよ」
エラリーの微笑が消えた。「え? わかりませんね。どこで、この分析は間違ったのでしょう」
「クロサックが、そのパイプがぼくのものなのを知らなかったという推理が違うのです」
エラリーは鼻眼鏡をはずして、ハンカチでレンズをみがき始めた――困惑、満足、興奮のおりに必ずやる、しぐさだった。「本当なら、驚くべき発言ですよ、メガラさん。どうして、クロサックは、そのパイプがあなたのものだと知っていたんですか」
「パイプはケースにはいっていたからですよ。抽出しの中にケースがあったでしょう」
「いいえ」エラリーは目を光らせた。「ケースには、あなたの頭文字がついていたとでも言われるんですか」
「それどころか」と、メガラが断言した。「モロッコ革の表面に金文字でぼくの名が、すっかりはいっていたのです。最後に見たときに、パイプはそのケースにはいっていました。当然ケースはパイプと同じように妙な型をしていますから、絶対にほかのパイプには使えませんよ、このパイプの模造品でない限りはね」
「おお、そりゃ、すばらしい」と、エラリーは叫んで、顔をほころばせた。「今までの話はご破算にします。メガラさん。あなたは新生面を開いてくれましたよ。それで問題はすっかり変った様相を呈して来ました……するとクロサックはあなたのパイプだということを知っていた。にもかかわらず、わざと、あなたのパイプを択えんで、亭屋に残しておいたことになる。なくなっているのだからケースをとって行ったことは明白だ。なぜとって行ったか。もし残して行けば、われわれがそれを発見し、スティヴン・メガラのケースと、パイプの形の類似を見てとり、すぐに、ブラッドのパイプでないことが判明するからだ。ケースを持ち去ることで、クロサックは一時的にも、そのパイプがブラッドのものだと信じ込ませようとしたのだ。この説明で納得が行きますか」
「なぜ一時的になのですか」と、ヴォーンがきいた。
「それは」と、エラリーは得々として「メガラさんが必ず帰国して、パイプを確認し、ケースがなくなっていることをわれわれに言うだろうと思っていたからでしょうよ。そうだ、クロサックは必ずメガラさんが、そうするだろうと予期していたのだ。結論として――メガラさんが戻るまで、クロサックはパイプはブラッドのものであり、したがって犯罪現場は亭屋だと信じ込ませておきたかった。メガラさんが戻ったあとで、クロサックは、亭屋が犯罪現場でないことを知ってほしかったのだ。その上で、どうせまぬかれないのだから、真の犯罪現場を捜査させたかったのだろう。なぜ、そう望んでいるかといえば、クロサックが、亭屋を犯罪現場だと見せかけるだけなら、こんな手数をかけないでも、他の方法を択ぶことができたはずだ。事実、ブラッドのパイプを択ぶだけでよかったんですからね」
「ちょっと、君」と、教授がゆっくり言った。「犯人は故意に、われわれを真の犯罪現場に立ちもどらせようとしていると言うんだね。どうもその理由がわからんね」
「てんでおかしいよ」と、アイシャムが頭を振った。
「いやになるほどはっきりしてますよ」と、エラリーが笑いながら「ねえ皆さん――クロサックは、今、犯罪現場を見てほしいんですよ――一週間前にでなく、いいですか、今です」
「だが君、なぜだね」と、メガラがじりじりして「意味をなさんじゃないか」
エラリーは肩をすくめた。「とりたててどうと言えませんがね、しかし、かなり重要な意味があるんだと確信しますよ、メガラさん。クロサックは、今こそ何かを発見してほしいんです――あなたがブラッドウッドにいる間にね――あなたが太平洋のどこかにいる間には、それを、発見されたくなかったんです」
「くだらない」と、ヴォーン警視がかみついた。
「それがなんであろうと」と、アイシャムが言った。「どうも眉つばものだな」
「どうでしょう」と、エラリーが「クロサック先生の指示に従ってみましょうよ。それを見つけてほしいなら、見つけてみましょう。さあ、書斎に行ってみましょう」
十四 象牙の鍵盤
書斎は、ブラッドの首なし死体が発見された朝から閉鎖されていた。アイシャム、ヴォーン、メガラ、ヤードレー教授とエラリーは部屋にはいった。スウィフト船長は船着場に戻り、ブラッド母娘とリンカンは自分たちの部屋にいた。テンプル医師はずっと前に姿を消していた。
捜査が続いている間、メガラは片隅に立っていた――今度は、通りいっぺんの調べではなく、しらみつぶしの捜査で、一っかけのごみも見逃さないほどのやつだった。アイシャムは机をひっくり返して、目もあてられないほどかきまわし、あたり一面にしわくちゃにした紙片をまきちらした。ヴォーンは、片っぱしから家具を洗うことにした。ヤードレー教授は、自ら進んで一役買い、グランド・ピアノの置いてある壁仕切りにはいり込んで、面白がって楽譜箱をいじりまわしていた。
ほとんどすぐに新発見があった――それが、ヴェリヤ・クロサックが予想していたものか、どうか、あるいは、さしあたっては無視できないというだけのものかわからないが、とにかく新発見だった。しかもかなり重要な発見だった――警視のそばをうろうろしていたエラリーが見つけたのだ。全くの偶然か、徹底的にやろうとしたからかわからないが、エラリーが長椅子の角をつかんで、本のつまっている壁ぎわから引きはなして、むき出しの床にのっている長椅子の後脚を、すっかり支那絨毯の上にのせてみた。そしてすぐに、大声をあげ、しゃがみこんで、長椅子の下にかくれていた絨毯の部分を、しらべはじめた。アイシャムと、ヴォーンと、ヤードレーが、走り寄った。メガラは首をのばしただけで、身動きしなかった。
「なんだろう」
「なんだ」と、警視がつぶやいた「はっきりしてるじゃないか。|しみ《ヽヽ》だよ」
「血痕です」と、エラリーが穏やかに言った。「経験というものが実力のない先生でないならばね。ここにおられるわが師のごとくね」
それは干いた血痕で、金色の絨毯のうえに、封蝋《ふうろう》をたらしたように、くっきりついていた。そばに――一、二インチも離れず――絨毯の上に、椅子か卓子の足が同じところに長く立っていて、その重みで押えつけていたような、四角い|くぼみ《ヽヽヽ》ができていた。その|くぼみ《ヽヽヽ》の形は、長椅子の足でついたものではない。長椅子の足は円形だった。
エラリーはひざをついてながめまわした。そして、しばらく目測していてから、向こう側の壁ぎわに立っている机の方へ行った。
「あれだろう――」とエラリーは言いかけて、長椅子を部屋の中央に押し出した。そして、すぐうなずいた。三フィートほど離れたところに、相棒のくぼみが、ぺちゃんこになって、ついていた。
「しかし、その血痕は」と、アイシャムが眉をしかめて「一体どうして、長椅子の下についたんだろう。最初に訊問したときに、ストーリングスは、この部屋は少しも手をふれてないと言ったのに」
「それは説明するまでもないことじゃありませんかね」と、エラリーは立ち上って、無造作に言った。「何も動かさなかった――絨毯そのもの以外はね。ストーリングスにそれまで気が廻ると思う方が無理でしょう」
書斎を見まわしているエラリーの目が光った。事務机はぴたりだった。その足が、長椅子の下の二つのくぼみと、形も大きさも正確に一致するものをつくりうる唯一の家具だった。エラリーは部屋を横切って行き、事務机の先の四角い脚の一つを持ち上げてみた。脚のすぐ下の絨毯の上に、はっきりと、部屋の向こう側についているのと同じような二つのくぼみがついていたが、ただ、それほど、深く、くっきりとはしていなかった。
「ちょっとした実験をしてみなければならんようですよ」と、エラリーは言って、立った。「この絨毯をまわしてみましょう」
「向きを変えるのかね」と、アイシャムがきいた。「なぜだね」
「火曜日の夜に敷いてあったようにするのです。クロサックが位置を変える前のようにね」
ヴォーン警視の顔が、ぱっと明るくなった。「なるほど」と大声で「わかったぞ。やつはわれわれに血痕を発見されたくなかったし、始末することもできなかったんだな」
「それじゃあ、まだ謎の半分ですよ、警視」と、ヤードレーが口を出した。「クイーン君の予想では、どうやら」
「おわかりですか」と、静かにエラリーが言った。「ただこのテーブルを始末するだけです。あとは楽になります」スティヴン・メガラはまだ隅に立って、黙って聞いていた。四人の男に手伝おうとはしなかった。ヴォーンは丸テーブルを苦もなく持ち上げてホールに運び出した。四人が絨毯の四隅に陣取り、小さな家具類の下から絨毯をはずし、たちまちのうちに、ぐるりと回して、長椅子の下に隠れていた部分が、ブラッドの殺された夜あったに違いない位置――部屋の反対側に来るようにした。二つのくぼみは、目の前で、事務机の二本の前脚の下に、ぴたりと適《あ》った。そして、干いた血痕は――……
アイシャムが目をむいて「チェッカーの椅子の後だ!」
「ふーん。情景がはっきりしてきた」と、エラリーが、のんびり言った。血痕は事務机のすぐ傍にあるチェッカー・テーブルの、折畳み式椅子のうしろ二フィートのところにあった。
「後から殴られたな」と、ヤードレー教授が「くだらんチェッカーなどに夢中になっているときにね。あんなものに|こっ《ヽヽ》ていると、いつかは、ばかな目に会うことぐらい知っておくべきだったね」
「何を考えているんですか、メガラさん」と、急にエラリーがきいて、黙り込んでいるヨットマンの方を振り向いた。
メガラは肩をすくめて「ぼくの知ったことじゃありませんよ」
「それじゃあ」と、エラリーは、クラブチェアに腰を下ろしてシガレットに火をつけ「ちょっとばかり、手っ取り早い分析をやって、時間を節約しましょう。ご意見は? 警視さん」
「まだつかめんな」と、ヴォーンが口をとがらした。「なぜ絨毯をずらしたのかな。そのことでだれをごまかそうとしているのかな。あなたが指摘されたように、メガラさんのパイプでもって、この部屋に戻ってくるような手がかりを、わざと残しておいてくれなかったら、われわれは全然この発見はできなかったはずですからね」
「お静かに、警視、ちょっと考えさせて下さい……今やはっきりしたことは――この点に関しては反対はないはずです――クロサックは、この部屋が犯罪現場だった事実を|永久に《ヽヽヽ》隠しておくつもりではなかった。この事実を永久に隠そうとしなかったばかりではなく、まことに手ぎわよい方法で、やつの都合のいいときに、われわれをこの部屋に呼びもどし、部屋の慎重な捜査で血痕を見つけさせるようにお膳立てさえしているのです。この事実を永遠に隠すつもりなら、最初から、書斎に立ちもどらせるようなパイプの手がかりを残さなかったろうし、まして、血痕など残すはずがない。なぜなら、ご覧なさい」と、エラリーは事務机の、開いた袖板を指さした。「右手の、ほとんど血痕の上あたりに、インキびんが二つあります。クロサックが絨毯をもとのままにしておき、その一つを、偶然のように、わざとひっくり返しておけば、警察は、びんと|しみ《ヽヽ》を見つけて、上《うわ》べだけの事実で推定し――ブラッドかだれかがインキをこぼしたものとして――インキの下の血痕を捜そうなどと、考えつかなかったでしょうよ。……この至極簡単な工作を採用しないで、その代りに絨毯の位置をかえるなどという大変な手間をかけ、最初の捜査では血痕を見落すようにしくみ、メガラさんがご自分のパイプと確認してから、部屋にもどって来て再捜査の上、血痕を発見させるようにしているのです。肝心な点は、この複雑な工作によって、クロサックが得るものは、時間以外には――何もないということです」
「まず、いいようだね」と、教授がいらいらして言った。「しかし、結局はなぜわれわれにそれを発見させたかったのかがわかれば、いらだたなくてもすむんだがなあ」
「先生」と、エラリーが「先走りをしないで下さいよ。私の講義の番です。あなたは古代史では大したものですが、私の得意は論理学だし、その分野ではだれにもひけをとりませんよ。ははは、では、つづけます」
エラリーは笑いやめて「クロサックは、犯罪現場を永遠に隠そうとせず、その発見をおくらせたがった。なぜか、三つの可能な理由が考えられる。よく聞いて下さい――とくにメガラさんには、ここでわれわれを助けてくれられそうですからね」
メガラは、うなずいて、壁の前の元の位置に置き直された長椅子にどしんと腰を下ろした。
「第一は、この部屋には、クロサックにとって何か危険なものがあり、特殊な理由で殺害した夜には持ち去れなかったから、後日、持ち去りたいと思っているということです。……第二は、クロサックがこの部屋に、後からつけ加えておくか、もどしておきたいものがあって、殺人の夜に、つけ加えたり、もどすことができなかったということです――」
「ちょっと馬を停めてくれたまえ」と、地方検事が、そのときひどく渋面をつくりながら言った。「君の言う、どちらの話ももっともらしい。どちらの場合にも、亭屋を犯罪現場と見せかけることで、書斎から人々の注意をそらし、その間、犯人が自由に出入りできただろうからね」
「それは矛盾しています。ちがいますよ、アイシャムさん」とエラリーは、わざとゆっくり「クロサックは当然予想していたでしょうよ、たとえ最初の捜査で血痕が見落されたとしても――やつの計画どおりにね――そして、亭屋が犯罪現場と見なされたとしても……くどいようですが、クロサックは当然予想していたでしょうよ。邸は見張られるから、後から何か持ち去ったり、持ち込んだりすることは、警察のたんなる警戒措置によって妨げられるだろうということをね。しかし、最初の二つの可能性には、さらに重大な異議があるのです、皆さん。
もしクロサックがここに引き返したくて、そのために、わざと亭屋を犯罪現場に見せかけたのなら、永遠に亭屋を犯罪現場に見せかけておく方が、たしかに有利なはずです。そうすれば書斎に立ち入るチャンスと時間は無限にあったはずです。しかし、やつはそうしなかった――やつはわざとこの部屋にまいもどらせるような手がかりを残しておいた。もしも私が今のべた推理が正しければ、そんなことは、けっしてするはずがない。それゆえ、最初の二つの仮説はどちらも信憑性《しんぴょうせい》がないと言うのです」
「私の頭では」と、ヴォーンがにがにがしく「ついていけないほど、奇抜だ」
「いい子だ、静かに」と、アイシャムが、抑えた。「こりゃ、警察式の、ほこりのたたき出し方じゃないよ、ヴォーン。正統的な犯罪解決法とは思わないが、どうやら本筋らしくきこえるね。さあ、クイーン君。先を。謹聴しとるよ」
「警視、あなたは公式に譴責《けんせき》を食ったかたちですよ」と、エラリーが鹿爪らしく言った。「第三の可能性は、今も、この書斎に何かがあるということです。それは殺人の当夜にもここにあったし、それは――それはくどいですが――犯人にとって危険なものではないし、それは事後に持ち去るつもりではなかったし、それは警察に見つけてもらいたいものだが、しかしそれはメガラさんが帰ってくるまでは警察に見つけられたくないものなのです」
「ひゅうっ」と、ヴォーンは唇をならし、両手を上にあげて「外に行かしてもらいますよ」
「かまわんよ、あれは、クイーン君」と、アイシャムが言った。
メガラはじっと、エラリーを見つめて「それから、クイーン君」
「われわれは素直な心の持ち主ですからね」と、エラリーが続けた。「クロサックが仕組んだとおり、メガラさんが現場にいるときにだけ、そのものを捜して見つけ出してやらなければなりませんよ……そうでしょう」と、考えながら言い添えた。「私はいつも気がつくんですが――あなたもきっと支持されると思いますがね、警視――殺人犯人というものは小細工をすればするほど過《あやま》ちをおかしやすいものですね。さて、ここでちょっと、ストーリングスに来てもらいましょう」
戸口で刑事がどなった。「ストーリングス!」すると執事がかしこまって急ぎ足でやって来た。
「ストーリングス」と、エラリーがいきなり「君はこの部屋を、くわしく知ってるだろうね」
ストーリングスは咳払いして「そう申してはなんですが、旦那様と同じぐらいよく存じております」
「そう聞いてありがたい。よく見てくれたまえ」ストーリングスは忠実に見まわした。「変ったところはないかね。何か持ち込まれていないかね。ここになかったものが何かありゃしないかね」
ストーリングスはちょっと微笑して、とりすまして書斎の中を歩き始めた。隅々をのぞきこみ、抽出しをあけ、机の中を探した……十分ほどかけて、調べ上げたあとで言った。「この部屋は最後に見ましたときのとおりでございます――つまり、旦那様が殺されなさったときと……ただ、テーブルが一つなくなっているだけでございます」一同は、これだけ聞けばもうたくさんと思った。
しかし、エラリーはねつっこく「ほかには何も持ち去られたり、動かされたものはないね」
執事は、はっきり頭を振った。「ござりません。たった一つ、全く違っておりますのは、あの、|しみ《ヽヽ》でございます」と、絨毯を指さしながら「火曜日の夜、私がお邸を出ますときには、ございませんでした。そして、チェッカー・テーブルが……」
「チェッカー・テーブルがどうした」と、エラリーがたたみ込んだ。
ストーリングスは上品に肩をすぼめて「駒でございます。むろん、駒の位置が変っております。旦那様は私が出かけましてから、チェッカーをなさったのでございましょうからね」
「おお」と、エラリーはほっとして「それでいいよ、ストーリングス。君には、シャーロックの素質があるんだね、カメラのような目が……ご苦労だった」
ストーリングスは、むずかしい顔で壁を見ながら西インド諸島産の安葉巻をぷかぷかやっているスティヴン・メガラを、非難するようにちらっと見て出て行った。
「さて」と、エラリーが、ぶっきら棒に言った。「かきまわしましょう」
「しかし、一体、何を探すのかね」とヴォーンが、口をとがらした。
「どうもね、警視、わかっていれば、探す必要はないでしょう」
続いておこった光景は、スティヴン・メガラ以外の人ならだれが見ても滑稽だっただろう。メガラはどうやら笑う能力を欠いているようだった。四人の大の男が四つんばいで部屋じゅうをはいまわり、壁によじのぼろうと全力をつくし、漆喰《しっくい》や板張りをたたきまわり、長椅子のクッションの詰めものをひっかきまわし、椅子、長椅子、机、チェッカー・テーブルの腕や脚を引き抜こうとする光景は……まるで、『不思議の国のアリス』そのままの騒ぎだった。十五分ばかり空しい捜査をつづけたあとで、エラリーは、ぐったりして、汗びっしょりになり、むっとして立つと、メガラのわきへ行って、腰を下ろし、すぐに夢中になって考えはじめた。その顔つきからみると、エラリーの白昼夢はどうやら悪夢だったらしい。何物にも負けぬ教授は、探し続けていた。はいまわることを大いに楽しみ、不恰好な長身を、絨毯の上で折り曲げていた。やがて、体を伸ばし、旧式なシャンデリアを見上げた。
「あれは意外な隠し場かもしれないぞ」と、つぶやき、椅子に上って手をとどかせ、シャンデリアの切子《きりこ》ガラスの飾りをいじくり始めたが線が弱ってむき出しになっていたところがあるらしく、急にあっといって床にころげ落ちた。ヴォーンはぶつぶつ言いながら、次々に紙片を光りにすかしていた。警視は明らかに、隠しインキの通信文があるかもしれないと思ってやっていた。アイシャムは、窓かけ類を振ってみた。窓のシェードをほどいて調べ終り、電灯の傘の内側のくぼみを調べていた。すべて、愉快で、現実ばなれがし、無益だった。
みんなは、いく度か、作りつけの本棚に背を光らせている本を、うたがわしげに見やってはいたが、だれも本を動かして調べようとはしなかった。この大部の本を一冊ずつ調べる大仕事を考えると、だれも手を出す元気が出ないらしかった。
エラリーが急に胸をそらして、ゆっくり言った。「なんて間抜けな集まりだろう。子犬みたいに自分の尻尾を追いかけまわして……クロサックは、われわれがこの部屋にまいもどって、何かを探すことを望んでいるんだ。だから、見つけてほしいんだ。それなら、フージニ〔アメリカの天才的奇術師〕の才と、警察犬の能力とを一緒にしなければ探し出せないようなところに、隠すはずはない。それどころか、上っ面の捜査で発見されるほどわかりやすくはないが、徹底的な捜査でも発見されないようなところに、隠すはずはない。いいですか、先生、もう一度シャンデリアを探そうとなさるなら、クロサックは、おそらく、どの家具の脚にくぼみがあり、どの電灯に隠し場所があるかなどと知っているほど、この部屋にくわしくはなかったということを覚えといて下さいよ……いや、隠し場所は巧妙だが、手近なところですよ」
「ご立派だよ」と、ヴォーンがいや味に「だが、どこだね」警視は疲れて汗をたらしていた。「どこか隠し場所を知りませんか、メガラさん」
ヤードレー教授のあごひげが、エジプト王のつけひげのように、突き出したときにメガラが首を振った。
エラリーが言った。「思い出しましたが、父と、地方検事補クローニンとぼくとで、これとそっくりの捜査をやったことがありました。それほど前ではありません。毒殺された悪徳弁護士モンティ・フィールド殺人事件の捜査中で――覚えとるでしょうね――あのローマ劇場で『拳銃稼業』上演中のことでした。あのときは見つけた場所は――」〔クイーン氏がここで言っているのは後日「ローマ劇場毒殺事件」としてまとめた捜査のことである〕
教授は目を光らせて部屋を横切り、グランド・ピアノが押しこんである仕切り壁のところへ急いだ。ちょっと前にアイシャムが捜査し終ったところだ。しかし、ヤードレーは楽器の胴体や、ピアノ椅子や、楽譜箱には目もくれなかった。ただ椅子に腰を下ろすと、エラリーに大学での教授の講義を思い出させるような重々しさで、鍵盤の低音部から始めて、一度にキイを一つずつ、ゆっくりとたたきながら、だんだんに指を高音部にすすめて行った。
「うまい分析だったよ、クイーン」と、次々に音を出しながら「わたしの霊感をゆすぶらせたよ……もし、私がクロサックならどうするだろう。何かをかくしたり――小さいもので、平らべったいものだとする。限られた時間しかないし、場所の知識も少ない。私ならどうするだろう。どこにしようか――」教授はちょっと手をとめた。たたいたキイの調子が狂っていた。そこで数回たたいてみた。しかし、そのキイはただ調子がはずれているだけなのがはっきりしたので、教授はまた、最高音の方へ探索を続けて行った。「クロサックは、自分に都合のいいときまで発見されないような隠し場所がほしかった――偶然に発見されてもいけないのだ。見廻すと――ピアノがある。ここが肝心なところだ。ブラッドは死んでいるし、ここはブラッドの部屋だ。きっと、こう考えただろう、死んだ者の私室でピアノを弾く者はあるまい――とにかく、当分の間はね。そこで……」
「先生、知性の積極的な勝利ですよ」と、エラリーが叫んだ。「とても、ぼくには及びもつきません」
そして、このエラリーの控え目な曲目の紹介が終り、すぐに予定どおりの演奏が、まさに始まろうとしたときに、教授が発見した。なめらかな旋律がとぎれた。どうしてもうまく押せないキイにぶつかったのだ。
「見つけたぞ」と、ヤードレーが醜い顔に、とても信じられないという表情をうかべた。手品のトリックを教えられて、最初の腕試しで、トリックが成功したのに、驚いている人間のようだった。
一同は教授をとり囲んだ。メガラも他の連中と同じように熱心だった。そのキイは、教授がどうやっても、四分の一インチ以上、さがらなかった。そして急に、完全にさがりきって、もう、元にもどろうとさえしなかった。
エラリーが鋭い声で「ちょっと」と言い、いつも父にひやかされるのもかまわず持ち歩いている捜査用具の小箱をポケットからとり出した。そして長めの針を択び出し、動かないキイの両側のすき間を、さぐり始めた。ちょっとやっただけで、二つの象牙の鍵の間に詰められた小さな紙片の耳があらわれた。
一同は体をおこして、ため息をした。エラリーは、静かに、詰めものをとり出した。一同は黙ってエラリーをとり囲んで書斎にもどって来た。その紙は、しわくちゃでぺちゃんこになっていた。エラリーは慎重にほぐして、テーブルの上に拡げた。
メガラの顔はゆがんでいた。エラリーをふくめて、他の連中のうちだれ一人も、その紙片に黒々と書きつけてある驚くべき文面を、予言しうる者はなかった。
警察へ
もし私が殺されたら――私は生命《いのち》をねらわれる企てがあると信ずる理由を持っている――ただちに、去年のクリスマスの日に、首を切られて、はりつけにされた、アロヨ(ウェスト・ヴァージニアの)小学校長、アンドリュー・ヴァンの殺害事件を調査せよ。
同時に、スティヴン・メガラに、どこにいようとも、大至急、ブラッドウッドに帰ってくるように通知されたい。
そして、アンドリュー・ヴァンが死んでると信じないように告げられたい。
もし罪のない人々の命を尊重されるなら、どうぞこのことは絶対秘密にして下さい。メガラが指示するまでは、いかなる行動もしないように。ヴァンもメガラ同様、あらゆる保護が要るのです。
この点は非常に大事なのでくり返さなければなりませんが、あくまでメガラの指示に従うことです。あなた方は何ものもくいとめることができない、偏執狂とやり合っているのです。
その覚え書はサインしてあった――それはまぎれもない本物で、すぐに、事務机にあったその男の手跡見本と比較証明された――『トマス・ブラッド』のサインだった。
十五 ラザロ
スティヴン・メガラの顔は、激動する表情の手本だった。その精力的な自信たっぷりな男の変貌《へんぼう》は驚くべきものだった。未知の圧迫が、ついに、この男の顔から、意志の仮面をはぎとった。目は凍るような不安できらきらした。そわそわと室内を見まわした――窓から窓へ、まるで、ヴェリヤ・クロサックの亡霊が、今にもとびかかってくるのがわかってでもいるように。それから、ドアの方へ、そこには刑事がぼんやりとよりかかっているのに。そして、尻ポケットから、ずんぐりした自動拳銃をとり出すと、すばやい指先で、機械の調子を験《しら》べた。次に、身をかたくしてドアに大股で近づき、刑事の鼻先で、ぴしゃりとしめた。窓を廻って、けわしい目で外を眺めた。しばらく、静かに立っていたが、いきなり短かく笑い、拳銃を上衣のポケットに滑りこませた。
アイシャムがにがにがしく言った。「メガラさん」
ヨットマンはくるりと振り向き、こわい顔で「トムは弱虫だった」と、言い切り「やつは、私にはできっこないさ――そんなこと」
「ヴァンはどこにいる? やつが生きているなんて? この覚え書の意味は? なぜ――」
「待って下さい」と、エラリーがゆっくり言った。「そんなにせっつかないで下さい、アイシャムさん。次の段取りにかかる前に、じっくり噛みしめておかなければならないものがありますよ……ブラッドがこの覚え書を、すぐわかるところに置いたことは明白です――事務机か円テーブルの抽出しかに――もし殺されたらすぐ見つけてもらうつもりでね。しかし、クロサックの慎重さには気がつかなかったのです。それについては、捜査の段階が進むごとに、私も驚嘆しているのです。
ブラッドを殺したあとで、クロサックは抜け目なくこの室内を捜しています。おそらく、この覚え書か警告のようなものがあるのを知っていたのでしょう。とにかく、この覚え書を見つけ、それが自分にとって、なんら危険でないのを知って――」
「どうしてそう思うんですか」と、ヴォーンがきいた。「私には殺人犯人がまさかそんなことをするとは思えませんよ――殺された男の覚え書を、見つかるように残しておくなんて――」
「そんなことは大して考えるまでもないことですよ、警視」と、エラリーが無造作に言った。「この恐るべき男の明らかにばかげた行動の動機を理解するのにはね。もしクロサックが、この覚え書が自分の安全をおびやかすと思えば、きっと破棄してしまったでしょうからね。まれには、持ち去るということもあります。しかし破棄しなかったばかりか、実際には――あなたが指摘するように、はっきりした理由があるにもかかわらず――それを犯罪現場にのこして、被害者の遺志を尊重したのです」
「どうして?」と、アイシャムがきいた。
「わけは」と、エラリーは薄い小鼻を、はげしくうごめかして「警察が覚え書を見つけても、自分の危険をおびやかすどころか、実際には自分に有利だとさえ思っていたからでしょう。ああ、ここで、われわれは問題の要《かなめ》に指をふれるわけです。覚え書はなんと言っていますか」メガラは急に肩をそびやかして、その精力的な顔に、不気味な決意を示した。「書置きには、アンドリュー・ヴァンはまだ生きているし、スティヴン・メガラだけが、その所在を知っている、とあります」
ヤードレー教授が目をむいた。「おそろしくずるがしこいやつだ。クロサックはヴァンの所在を知らないのだね」
「まさにそのとおり。クロサックは、今、それが判明しましたが、アロヨでは、だれか別の男を殺してしまったのです。やつは、アンドリュー・ヴァンを殺したつもりだった。次がトマス・ブラッドだった。そしてブラッドを探し出して殺してからこの書置きを見つけたのです。それで、ヴァンがまだ生きていることがわかったのです。しかし、もしやつが六か月前にヴァンの命をねらう動機を持っていたのなら――今でも――たしかに、その動機と欲望を持っているでしょう。もしヴァンが生きているなら――クロサックは、間違えて殺した気の毒な男のことなど、くよくよ考えることなど放っといて――」エラリーは、にがにがしく註釈した。「ヴァンを探し出して、始末せずにはおかないでしょう。ところが、ヴァンはどこにいるか。ヴァンは姿をかくした――クロサックが自分を追いかけて、実際に何かの間違いで他の男を殺したことを知って、逃げ出してしまった――そのことは明白です」
エラリーは人差指をつき出した。「さて、頭のいいクロサックがぶつかった問題を考えてみましょう。書置きはヴァンの所在を示さないで、メガラだけが、ヴァンの所在を知っている唯一の人間だとしています……」
「待った」と、アイシャムが「君が言おうとするところはわかるよ。しかし、一体なぜクロサックは書置きを破棄しないで、メガラの戻るのを待ったのかね。メガラが戻れば、ヴァンの所在をわれわれにうちあけるだろう、すると、クロサックも、君はそう言うつもりなんだろうが、どうにかしてわれわれからヴァンの所在をかぎ出すだろうとね」
「いい質問ですよ、表面的にはね。しかし、実際には不必要な質問です」と、エラリーは、少しふるえる指でたばこをつけた。「もし、書置きがなくてメガラが帰った場合を考えないんですか、メガラはヴァンが殺されたことを疑う理由を持っているはずはないんですよ。疑いますか、メガラさん」
「疑います。しかし、クロサックには、それがわかるはずがない」メガラの堅忍な性格、鉄の意志が、声の調子まで支配していた。
エラリーはたじろいだ。「わかりませんね……クロサックにわかるはずがないかどうか。しかしそのことが少なくとも私のねらいを証明しますよ。ヴァンを警察に見つけさせるために、ここに書置きを残して行くことで――つまり、警察が死体を発見してすぐにこの書斎を犯行現場と知ったとしての話ですが――警察はただちにヴァンの捜査に乗り出すでしょう。しかし、クロサック自身もヴァンを捜したいのです。そこで警察の捜査が、クロサック自身の目的のじゃまになるでしょう――むろん。書置きの発見をおくらせることで、クロサックは二つの目的を達することができるのです。――一つは、ブラッド殺害とメガラの帰郷との間に、警察に妨げられずに自分でヴァンを捜すことができます。警察は書置きを見つけないでしょうから、ヴァンが、まだ生きていることを知らないはずですからね。もう一つには、その間に、クロサックはヴァンが見つからなくても少しも損はないのです。なぜなら、メガラさんが現場に戻って来て、パイプを確認すれば、パイプから新しい捜査線が出て来ます――事実そのとおりでした――そして結局は書斎が、本当の犯行現場だということが判明し、書斎が徹底的に捜査されて、そのときに書置きが発見され、メガラはヴァンの生存を知って、その所在を警察に知らせるでしょう……そうすれば、ヴァンの正確なかくれ場所をつきとめるには、クロサックはただわれわれのあとをつけるだけでいいのです」
メガラが荒々しくつぶやいた。「おそらく、もう手おくれだろう」
エラリーはくるりと振り向いた。「もう、クロサックがヴァンをつきとめたと言うのですか」
メガラは両手をひろげて肩をすくめた――どこから見てもアメリカ人らしい、この精力的な男には不似合な、ヨーロッパ風な身ぶりだった。「ありえます。あの悪魔にとっては、なんでも可能です」
「聞きたまえ」と、警視がぴしゃりと言った。「大事な情報を手に入れなければならないというときに、くだらんおしゃべりで、貴重な時間をむだにしているんだ。待ちたまえ、クイーン君、こりゃ、茶のみ話じゃないんだ、君はくだくだとやりすぎるよ。……メガラさん、答えて下さい。ヴァンと、あなたの協力者ブラッドと、あなたの間には、どんな関係があるんですか」
ヨットマンは言いよどんだ「ぼくらは――ぼくらは――」本能的に、手を、拳銃のはいっているポケットに突っこんだ。
「それで」と、地方検事が叫んだ。
「兄弟なんです」
「兄弟!」
エラリーは、のっぽの唇をじっと見つめた。アイシャムが昂奮して「君が正しかったよ、クイーン君。みんな実名ではなかったんだ。ブラッド、メガラ、ヴァンなんて。実名は――」
メガラがくたくたと腰を下ろした。「そうです。どれも実名ではないんです。お話すれば――」メガラは目をくもらせて、書斎の外のはるか遠くを見つめていた。
「本当の名は?」と、警視がゆっくりきいた。
「お話すれば、おそらく今、あなた方にとって深い謎になっていることも、おわかりになるでしょうよ。あなた方が、私にTの字について話されたとき、すぐに――あの気違い沙汰のT字形――首なし死体と、手足をしばりつけていたこと、亭屋《あずまや》の戸口のTの血文字、十字形の交差点と、トーテム・ポール――」
「わかりました」と、エラリーがいきごんで「あなた方の実名は、Tで始まるんでしょう」
メガラは、まるで頭の重さが一トンもあるようなふうに、うなずいた。「そうです」と、低い声で「ぼくらの名は、ツヴァル、T・v・a・r……です。ねえ、Tでしょう」
一同はしばらく黙りこんだ。やがて、教授が言った。「君が正しかったよ、クイーン君。いつものようにね。文字どおりの意味だけだったのだ。ただのTさ――十字架でも、エジプト学でも、ひねくった宗教的なふくみもなかったのだ……妙だね。本当に、信じられないね」
エラリーの顔に失望の色が浮かんだ。そして、あきれたようにメガラを見つめていた。
「信じられんな」と、ヴォーンが、いかにも不快そうに「こんなことは聞いたためしがない」
「名前の頭文字に人間をきざむなんて」と、アイシャムがつぶやいた。「もちろん、こいつを発表すれば、東部じゅうの笑いものになるよ、ヴォーン」
メガラがとび立って、全身を怒りでふるわせた。「あなた方には中央ヨーロッパのことがわからないのだ」と、わめいた。「ばかな。やつは、Tの字をたたきつけてるんです――私たちの嫌いな名前のしるしを――私たちの面前に。あの男は気違いです。ちかって、はっきり言います……」怒りが少ししずまると、椅子《いす》にぐったり腰かけた。「信じられないでしょう」と、低い声で「そうだ。しかし、あなた方が頭をなやましていることとは違います。やつがこんなにも長年の間、私たちを追いまわしてきたことが信じられないのです。映画のようだ。しかし、やつは死体をきりきざんだんだ――」メガラの声がまたとがった。「アンドレヤは知っていたんだな」
「ツヴァルさん」と、エラリーが穏やかにきいた。「三人とも長年、偽名だったのですね。きっと重大な理由があるのでしょう。そして、中央ヨーロッパといえば……復讐じゃありませんか、メガラさん」
メガラはうなずいて、だるそうな声で「ええ、そうです。しかし、やつに、どうして私たちが見つかったのでしょう。わかりません。アンドレヤと、トミスラフと私が相談して――じつに昔のことです――素姓をかくすことにしたとき、だれにも――何人《なにびと》にもですよ――われわれの本名はけっして知らさぬことも定めたのです。全くの秘密でしたし、秘密が保たれていました。トムの妻――マーガレットさえ――娘のヘレーネさえ、私たちの本名、ツヴァルを知らないはずです」
「すると」と、エラリーがきいた。「知っているのはクロサックだけなんですか」
「ええ、あの男でさえ、どうやって私たちをつきとめたのか、その理由が想像できません。私たちが、偽名として択んだ名は……」
「どうぞ」と、ヴォーンが、うなった。「つづけて下さい。情報がほしいんですよ。まず――一体クロサックは何者ですか。なんであなた方にうらみがあるんですか。次には――」
「中途半端で捨てるもんじゃないよ、ヴォーン君」と、アイシャムが、いらいらして「私は、しばらくの間、このTの問題を研究したいんだ。さっぱりわからないからね。なぜ、やつは、三人の姓の頭文字を使わなければならないのかね」
「告知ですよ」と、メガラが、うつろな声で「ツヴァル一族は亡びなければならないという。じつに、ばかげてますよ」メガラの吠えるような笑い声が、一同の耳をかきむしった。
「クロサックを見ればわかりますか」と、エラリーが考えながらきいた。
ヨットマンは唇をかみしめた。「それがじつに厄介なことなんです。私たちはみんな、二十年以上もクロサックを見ていないのですからね。それに、当時はあれもとても若かったので、今になって確認したり認知するのは、ほとんど不可能です。どんな男かしれません。私たちを恨んでいる者は――身近にいて、しかも姿の見分けられない者かもしれません」
「むろん、左足が悪いんでしょうね」
「子供のときには、ちょっと悪かっただけです」
「必ずしもいつまでも悪いとは限らない」と、ヤードレー教授がつぶやいた。「ごまかしかもしれない。肉体的な欠陥をわざと装っているのかもしれないな、痕跡をくらますためにね。クロサックの悪がしこさを考え合わせると、そんなとこかもしれない」
ヴォーンが急に大股に進み出て、大げさに歯をむき出した。「あなた方は一日じゅうおしゃべりしていてもかまいませんが、しかし私は真相を知りたいんですよ。ねえ、メガラさん――ツヴァルさん、どっちでもいいが――なぜ、クロサックはひっこんでおとなしくしていないんですか。一体なんだってあなた方を殺そうとするんですか、話して下さい」
「それは後まわしにできますよ」と、エラリーがきっぱり言った。「目下のところ、ほかの何ものよりも大事なことがあります。ツヴァルさん、お兄さんが残された書置きによると、ヴァンの所在をあなたが知っていることになっていますね。どうして知っているんですか。あなたは一年間も世間から離れていたのですよ。しかも、アロヨ殺人事件がおこったのはわずか六ヶ月前のことですよ――去年のクリスマスです」
「準備されていたんです、すっかり準備されて」と、メガラが小声で「長くかかって、長い年月をかけて……さっき、書置きがなくても、アンドレヤがまだ生きているのを知っていると言いました。そのわけは――アロヨ事件の話を、あなたが聞かせて下さった中に、心当りがあったからです」一同は目を見張った。「それは」と、暗い調子で「交差点で死体を見つけた二人の男の名を、あなた方が言ったからです……」
エラリーは目を細めて「すると?」
メガラはふたたび室内を見まわし、まるで、姿のないクロサックの耳にはいるのをおそれるかのようにした。「私にわかったのは。もし、ピートじいさん――あなたが山男と言った――あの男が生きているなら、兄弟のアンドレヤ・ツヴァルも生きているから、なのです」
「私にはどうも――」と、地方検事が、あきれ顔で言った。
「ああ、そうか」と、エラリーが叫んで、ヤードレー教授をふり向いた。「わかりませんか。アンドリュー・ヴァンは、ピートじいさんなんですよ」
一同が、驚きからさめる前に、メガラが、うなずきながら続けた。「そのとおりです。アンドレヤは、今度のような事件にそなえて、何年も前から、身代りのために山男になりすましていたのです。今は、きっと、ウェスト・ヴァージニアの山地にいるでしょう――もし、クロサックがまだ見つけていなければね――命がけで隠れて、クロサックがその人違いに気がつかないように祈っていることでしょう。クロサックも、この二十年間、私たちを、だれも見たことはないのですからね。少なくとも、私はそう信じています」
「すると、クロサックが最初の殺人で人違いをしたのは、そのためだな」と、エラリーが言った。「被害者を長いこと見ていなければ、間違いもおこしやすいわけだ」
「クリングのことかね」と、アイシャムが、考えながらきいた。
「ほかのだれですか」と、エラリーが微笑した。「行動をおこしたいでしょう、警視。おこす潮時のようですよ」と、ちょっと、手をもみ合わせて「一つだけ確かなことがあります。われわれはクロサックの先手を打って、鼻をあかせてやらなければなりませんよ。まだ、クロサックが、アンドレヤを見つけたとは思えません。ピートじいさんの扮装は完璧でした。私は。ウェアトンの裁判所で見ていて、あの男の、風采に少しも変なところはなかったですものね。われわれはすぐあなたの兄弟をつかまえなければなりませんよ、メガラさん。しかし、極秘にして、クロサックに――やつが何者であろうと、どんな仮面で素姓を隠していようと――山男の変装を知らせないようにしましょう」
「よしきた」と、ヴォーンが自信ありげに微笑した。
メガラが立った。その目付は細められエナメルのように光った。「ぼくはなんでも命令どおりにしますよ、皆さん――アンドレヤのためにね。自分のことなんか」と、ポケットの拳銃を不気味にたたいて「あのクロサックめ、手なんぞ出したら、ただじゃおきませんよ。思いきり、ぶっ放してやりますよ」
十六 特使たち
いくら、ブラッド夫人や――その娘がすすめても、その夜、スティヴン・メガラを terrefirma〔陸地〕に居させることはできなかった。メガラは、いつものおちつきをとりもどして、ブラッド母娘やリンカンと一緒に、その日の残りを静かに過ごした。しかし、夕方が迫るころにはおちつかなくなり、夜にはいるころには沖に停泊しているヨットにもどって行った。ヨットの停泊灯が、オイスター島の闇に、ちかちかと輝いていた。ブラッド夫人にとっては、夫の協力者の帰還は、うれしかったし安心でもあったので、ヨットマンについて船着場の暗い夜道を歩きながら、邸に泊まるようにとすすめていた。
「いや」と、メガラが言った。「今夜は、ヘレーネ号で寝ますよ、マーガレット。ヨットに永く生活したので、本当に自分の家みたいなのです……すすめてくれるのはうれしいが、しかし、リンカンが一緒にいるし、それに」と、こわばった口調で「ぼくがいても、あなた方にとって、それほど家が安全にもならないしね。おやすみ、マーガレット。心配しない方がいいよ」
二人について入江へ行った二人の刑事は、もの珍らしそうに目を見張った。ブラッド夫人は目に涙をためて空を見上げ、また道をもどって行った。悲劇が、ほとんど夫人の神経を弱らせていないことははっきりしていた。夫人は、血まみれになった木の鷲のついているトーテム・ポストのそばのしんとした辺りを、ほとんど無関心で通りすぎた。
ツヴァル兄弟の話を他人に秘密にしておくことは、陰謀家たちのあいだで、すぐに相談がまとまった。
スティヴン・メガラは、スウィフト船長や、給仕たちの、もの問いたげな目で見られ、見張られてその夜は眠った。刑事たちが甲板を巡回した。メガラは船室のドアに錠を下ろした。そしてドアの外の警備員は、酒をのむ音と、グラスの音とを、二時間ばかり聞いた。やがて、消灯になった。自信満々のメガラも酒で元気をつけたかったらしい。しかし、ぐっすり寝込んだらしく、刑事たちも一晩じゅうなんの物音もきかなかった。
次の朝、土曜日、ブラッドウッドは、ごったがえしていた。早朝、警察車が二台――セダンの車が――植民地風の家の前のドライブウェイにとびこんで来て、エンジンをかけたまま待機していた。征服者シーザーのような、ヴォーン警視が、車から下り、制服警官たちにかこまれて、船着場に向かって大股で歩いて行った。船着場では、警察ランチのエンジンが、うなっていた。警視は、気むずかしい顔をまっ赤にして、ランチにとび乗り、ヨットに向けて疾走した。
行動はすべて公然と行なわれ、少しも隠そうとする気配はなかった。オイスター島には数人の小さな人かげが、みどりの木の間にあらわれて、ランチの進行を首をのばして見ているのが見分けられた。テンプル医師は、パイプをくわえて、自分の船乗り場に立って眺めていた。リン夫婦は、入江をこぎまわるふりをして、くまなく見守っていた。
警視がヘレーネ号の梯子に消えて行った。
五分後には、また姿を現わし、背広に着かえたスティヴン・メガラがついて来た。メガラの顔はたるみ、アルコールの匂いがしていたが、船長に言葉もかけず、ヴォーンについて、おどろくほどしっかりした足どりで、梯子を下りた。二人がランチに乗り込むと、ランチはすぐに岸に向かって引きかえした。
ブラッドウッドの船着場で、一同は低い声でしばらく話していた。警備員たちが待っていた。やがて、制服警官がつめかけて来、二人の男は完全に警官にとりまかれて、邸の方へ道を急いで上った。行列のようだった。
邸の前では、一人の私服が待ちうけていて、先頭の警察車の座席からとび下り、敬礼して立っていた。すぐに、ヴォーンとメガラが先頭の車に乗り込んだ。次の車は警官でいっぱいだった。それから二台の車は、けたたましい警笛をたてて、道をあけさせ、物凄い勢で、ドライブウェイをまわり、ブラッドウッドをよぎるハイウェイにとび出して行った。
門のところでは、四人の機動警官が命がけでオートバイにとび乗った。二台は先頭の車の先導をし、二台はその左右につき添い、警官のつまった車が殿《しんがり》をつとめた。……おどろくべきことだった。しかし、二台の車が出て行ったあとには、一人の機動警官も、制服も刑事も、ブラッドウッドの見張りに残らなかったし、邸の近くにはどこにもいなくなった。
その行列は、主要街道をまっしぐらに、あらゆる車に道をあけさせ、爆音をとどろかせながら、一路、ニューヨーク市へ向かう意図を明らかにした……
一方、警視とメガラが出て行ったあとの、ブラッドウッドは、あらゆるものが静まりかえって、穏やかだった。リン夫婦は家に漕ぎ戻り、テンプル医師は、たばこを喫いながら森にはいって行った。オイスター島の岸に見えていた人影も消えた。ケチャム老人は、ぼろぼろの平底船で入江を渡り、本土に向かっていた。ヨナ・リンカンは、ブラッド家の車の一台を、静かにバックして車庫から出し、ドライブに出かけた。
道路からひっこんでいるヤードレー教授の家は、どこから見ても、人気《ひとけ》がないようだった。
しかし、ヴォーンが常軌を逸していないことは、ブラッドの家を、ヤードレーの地所からへだてているハイウェイの両はしを調べたものには、明らかにわかるはずだった……両方の道の交差点には――その道のつき当りに、陸路ブラッドウッドを離れるためには、車でも人でも必ず通らなければならないところがあり――そこには刑事を満載した馬力の強い車が、こっそりと待機していた。
そして湾内には、オイスター島の後ろの、本土から見えない場所に大きなランチが浮かんでいて、ゆっくりモーターをかけたままだった。その甲板では幾人かが釣りをしながら……たえず鋭い監視の目を配り、ケチャム入江の二つの岬の間から、水路ブラッドウッドのあたりから離れようとするどんな船でも出て来るのを見のがすまいとしていた。
十七 山の老人
土曜日の朝、ヤードレー教授の家に、まるで人気がなかったのには、ちゃんとした理由があった。
教授は他の警官たちと同じように、任務を与えられていた。黒人のナニー婆さんも同様だった。ヴォーン警視とスティヴン・メガラが、大騒ぎをして出かける間、公然と姿を人前にあらわすことは差しとめられていたのだ。教授がお客をもてなしていることはみんなに知れ渡っていた――お客は、ニューヨーク市、特別捜査官、エラリー・クイーン氏だ。その教授が一人で出歩いたら、警戒の目を光らせる必要がある人物に、疑いの心をおこさせるかもしれないのだ。それに、あいにく、教授は客と二人で姿を見せるわけにもいかなかった。というのは、客のエラリーは、正確に言えば、メガラが警察車に乗り込んだときには、ロングアイランドから百マイルも離れたところにいたのだ。
抜け目のない策略だった。金曜日の夜おそく、ブラッドウッドの闇にまぎれて、エラリーは、愛車デューゼンバーグで、こっそりと、ヤードレーの邸を抜け出していた。本街道に達するまで、エラリーは、車を幽霊のようにこっそりと操作した。それから、ミネオラまでぶっとばした。そこで地方検事アイシャムをひろって、ニューヨークへ突進した。
土曜日の朝の四時には、デューゼンバーグはペンシルベニアの首都にいた。ハリスバーグはまだ眠っていた。二人はくたくたになり、口もきかずにセネート・ホテルに宿をとり、各自の部屋へもぐり込んだ。九時に起こしてくれるように、エラリーは頼んでおいた。二人とも、ぶんなぐられた男のように、ベッドにぶったおれた。
土曜日の朝九時半には、二人は、ピッツバーグへ向かって、ハリスバーグを何マイルも離れていた。昼飯にも停まらなかった。競走車は、ほこりをかぶり、エラリーとアイシャムは、退屈なドライブのストレスで疲れていた。……デューゼンバーグは、古物とはいえ、男々しく務を果していた。二度、二人は交通巡査に追跡されたが、そのときエラリーは時速七十マイルで古車をぶっとばしていたのだ。しかしアイシャムが身分証明書を見せて、二人は走りつづけた。……午後の三時には、ピッツバーグの雑踏を縫っていた。
アイシャムが弱音をはいた。「こりゃあたまらんよ。やつも待ってくれるだろう。君はよくつづくね。私はもうぺこぺこだよ。何か食べようじゃないか」
地方検事が満腹するまで、二人は貴重な時間を無駄にした。エラリーは妙に張り切っていた。食欲もあまりないらしかった。顔には疲労の色が出ていたが、目は生々として、心のうちの思いを光らせていた。
五時二、三分前には、デューゼンバーグは、アロヨの町の運命を担うお偉方のいる木造建物の前で停った。
車を降りる二人の骨がみしみし鳴った。アイシャムは、太った老ドイツ人が好奇の目をそばだてるのもかまわず、大げさに腕をのばして、のびをした――エラリーはその老人が、アロヨの|よろず屋《ヽヽヽヽ》の亭主、金持のバーンハイムなのを知っていた――それに、いつも役場の前の歩道を掃除《そうじ》しているらしい、青い仕事着の田舎者《いなかもの》もいた。アイシャムがあくびをして「さて、すぐにかたづけた方がよかろうね。地方巡査はどこかね、クイーン君」
エラリーは巡査詰所のある、建物の裏手へ案内した。ドアをノックすると例のしわがれた低い声がきこえた。「はいんな、あんた」
二人がはいった。ルーデン巡査の巨体が例のごとく汗ばんですわっていた。まるで、六か月前にエラリーがアロヨを訪ねて以来、身うごきもなかったようだ。丸々とした赤ら顔から、口をあけると、そっ歯がとび出した。
「こりゃどうも、たまげた」ルーデンは叫んで、大足で床をふみならした。「クイーンさんじゃないかね。どうぞ、どうぞ。まだ追っかけまわしとるんですかい、校長の首を切ったやつを!」
「まだ、かぎまわってるよ、君」と、エラリーは微笑して「法律の守り手仲間を、ご紹介しよう。こちらはニューヨーク州、ナッソー郡地方検事アイシャムさん。ルーデン地方巡査です――アイシャムさん」
アイシャムは鼻をならして、握手をしようとしなかった。ルーデンはにやにやしながら「町の方じゃ、去年は、でかい事件がいくつかござんしたね、あんた。まあ、そう固くなさらんで下さいよ」アイシャムはあきれた。「そうでしょう……なんのご用ですかい、クイーンさん」
エラリーはすぐ言った。「腰かけてもいいでしょう。二、三百年分も、ぶっとばして来たんですよ」
「どうぞ」
一同は腰を下ろした。エラリーがきいた。「君、最近、あの薄のろの山男、ピートじいさんを見かけたかね」
「ピートじいさんね。さて、変だね」と、ルーデンがアイシャムを盗み見るようにして「何週間も、あのじいさんを見かけないね。ピートじいさんは、めったに町に出て来ないんだよ、めったにね。だが今度は――なんと二か月も見かけないからね。きっと、この前、山から下りたときに、食料をしこたま買いこんだんでがしょう。バーンハイムにきくとようがす」
「あの男の小屋の在りかを知っとるかね」と、アイシャムがきいた。
「知っとるがね……そんなにピートじいさんを追いまわして、一体、どうしたんですね。今さら、じいさんを逮捕するんじゃないでしょうな。無実な気違いじじいでさ……いや」アイシャムが苦い顔をしたので、巡査は、あわてて言い足した。「わたしの知ったことじゃないがね……ピートじいさんの小屋に行ったこたあないが……この辺の連中も、ほとんど行ったこたあないでさ。あの山の上は洞窟ばかりでさ――みんな古いもんで、何千年も前からのもんでさ――みんなひどくおっかながってまさあ。ピートじじいの小屋は山奥の、人っ子一人いない場所にあるってこってさ。とても見つかりますまいよ」
「案内してくれませんかね、君」と、エラリーがたのんだ。
「ようがす。なんとか見つけてみましょう」ルーデンは立ち上って、太ったおいぼれマスチフ犬のように身ぶるいした。「うわさが立つと困るんでしょうな、ねえ、そうでしょう」と、さりげなく言った。
「そうだよ」と、アイシャムが「君の細君にも話さんでほしいね」
巡査は鼻をならして「その心配はご無用。わたしは一人もんでさ。うまいことにね……出かけやしょう」
ルーデンは、エラリーの車が停めてある戸口の本通りに面した正面の入口をさけて、裏口から人かげもない横丁へ二人を連れ出した。ルーデンとアイシャムはそこで待ち、エラリーが役場をまわって、すばやく、デューゼンバーグにとび乗った。二分後には、車は横町にはいり、三人は砂ぼこりをまき上げて出発した。ルーデンは、ふりとばされないようにしがみついていた。
ルーデン巡査は、近くの山中に向かうらしいほこりっぽい抜け道へ一同を案内した。「裏道でがす」と説明した。「ここで、車をとめて、歩いてのぼりましょう」
「歩くのか」と、アイシャムが、けわしい坂道を見ながら、心細い声を出した。
「そうでさあ」と、ルーデンが元気のいい声で「かつぎ上げてあげまさあ。アイシャムさん」
一同は車をやぶかげにかくした。地方検事は、あたりを見まわしてから、しゃがみ込んで、デューゼンバーグの床から何かをつかみ上げた。それは丸くふくらんだ包みだった。ルーデンは好奇心をむき出しにして見ていたが、エラリーも、アイシャムも口をつぐんで何も説明しなかった。
巡査は大きな頭をうつむけて、しげみをかきわけながら――見つかろうと見つかるまいといっこう気にならんというふうに――何かを探して、やがてかすかな山路を指さした。エラリーとアイシャムは、黙って、苦労しながらついて行った。ほとんど処女林のような荒れはてた、かなり急な登り坂の道だった。木々が|うっそう《ヽヽヽヽ》と茂って空も見えなかった。空気はむし暑く、五十フィートも登らぬうちに、三人とも汗まみれになった。アイシャムがぶつぶつ言い始めた。
背骨がおれそうな登りを十五分、森のしげみは深まり、山道はいよいよおぼつかなくなった。そのとき、巡査が急に立ち停った。
「マット・ホリスが話しとったが」と、つぶやいて、指さした。「しめた。あれでさあ」
一同は、さらに近くまではい上った。ルーデンが注意深く道案内した。するとそこに、人の好い巡査が言ったように、小屋があった。……山腹の大きながけの下の、ちょっとした空地に、汚い小屋があった。小屋の前と横は三十フィートばかり、森が後退していて、後ろはむき出した花崗岩に守られていた。そして――エラリーが見ると――前と横の三十フィートほどの空地は、丈の高い、さびつき、こんぐらがり、みるからにけんのんそうな有刺鉄線で、柵が結ってあった。
「見たかね」と、アイシャムが小声で「出入口もないぞ」
鉄条網の柵にはどこにも口がなかった。その中の小屋は、ひえびえと陰気そうで――まるで|とりで《ヽヽヽ》だった。煙突から立ちのぼる煙の流れさえ、人を近づけぬ気配だった。
「なんと」と、ルーデンがつぶやいた。「なんだってこんなに用心堅固に身をかためとるんだろう。言ったとおり、気違いでさあ」
「暗かったひにゃ、手もつけられない場所だな」と、エラリーが低い声で「君、地方検事アイシャムとぼくは、とんでもないことを君にたのんでしてもらいたいんだがね」
ルーデン巡査は、この前エラリーに会ったときのエラリーの気前のよさを思い出したらしく、すぐ、関心を示した。「さて、つまりですな」と、ガラガラ声で「わたしは、ひとのことには差出口をせんように心がけとる男でさ。この辺では、そうせにゃならんのでさ。この辺の山中では密醸が盛んですがね。だが、わたしゃ、爪のあかほども、かかわっちゃいませんぜ。とんでもないこってさ――たのみってのはなんですかい」
「この事を全部、忘れてくれたまえ」と、検事がぴしりと言った。「われわれはここへ来なかったんだよ。いいね。君は、このことをアロヨの役所にも、ハンコック郡の役所にも報告しちゃいかんよ。君は、ピートじいさんのことは何も知らんことにしてくれたまえ」
ルーデン巡査の大きな手が、エラリーが札入れから取り出したものをつかみとった。「アイシャムさん」と、熱心に言った。「わたしは、|おし《ヽヽ》で|つんぼ《ヽヽヽ》で盲人《めくら》でさあ……帰り道は大丈夫わかりますな」
「わかるよ」
「じゃあ、うまくおやんなさい――お心づけをたくさんいただいちゃって、どうも、クイーンさん」
無関心むき出しの形で、ルーデンはくるりと背を見せ、こっそりと森へ忍び込んで去った。一度も振り返らなかった。
アイシャムとエラリーは、ちょっと目を見合わせた。それから二人とも肩をそらして、鉄条網の柵の前へ進み出た。
二人が柵の前の地面に足を下ろしたとたん――事実、アイシャムが持って来た包みを鉄柵の一番高いてっぺんから、向こう側へ落とそうと持ち上げたときに――小屋の中から、しわがれた荒々しい声が叫んだ。「停れ! 引き返せ!」
二人は、ぴたりと停った。包みは地面にころがり落ちた。なぜなら、やはり鉄条網をはりめぐらして守っているたった一つの小屋の窓から、ショット・ガンの銃口がのぞき、二人の胸もとをねらっているのに、気がついたからだ。そのみにくい武器は、こゆるぎもしなかった。本気だった。いつでも火を吐くかまえだった。
エラリーは生つばをのみ、地方検事は根が生えたように棒立ちになった。「ピートじいさんですよ」と、エラリーは小声で「例のつくり声だな、とにかく」エラリーは頭をあげて、どなった。「待ってくれ。引金から指をはなしてくれ。味方なんだよ」
無言だった。その間に、二人はショット・ガンの持ち主から、ゆっくりと見きわめられていたのだ。二人はじっと立っていた。
やがて荒々しい声が、また、ひびいて来た。「信じられん。出て行け。五つ数える間に、立ち去らんと、ぶっ放すぞ」
アイシャムが大声で「警察だぞ、間抜け! 君に手紙を持って来た――メガラのだ。早くしろ。君のために、われわれはここにいるのを、人に見られたくない」
銃口は動かなかった。だが、老山男のもじゃもじゃ頭が、鉄条網の後に、ぼんやりあらわれて、きらきら光る二つの目が疑い深そうに、のぞいていた。相手が迷っているのがわかった。
頭が消え、銃も引っこんだ。しばらくすると、重い釘づけのドアが内側に、軋りながら開いて、ピートじいさんが立ちあらわれた――半白のひげ、のばしっぱなしの髪、ぼろぼろの服。銃は下に下げているが、銃口は二人をねらっていた。
「柵をよじのぼれ。他に入口はないだ」声は同じだったが、調子は少し改まっていた。
二人は途方にくれて、柵を見上げた。やがてエラリーはため息をして、慎重に片足を上げて、鉄条網の一番下の段にかけた。そして、気をつけて安全な手がかりを探した。
「早く来い」と、ピートじいさんが、じりじりして言った。「ごまかしをしなさんなよ、二人とも」
アイシャムは地面を探しまわって、棒を一本、見つけ、低い方の二段の間にさしこんで、つっかい棒にした。エラリーが、その間をくぐり抜けたが、やはり、肩をかぎざきにしなければならなかった。地方検事が、もぞもぞ続いた。二人とも、ものも言えなかった。銃はぴたりと二人をねらったまま動かなかった。
すばやく、二人は老人の方に駆けより、老人は小屋に引込んだ。中にはいると、アイシャムは重いドアをどしんとしめて、かけ金をかけた。とても、ひどい住み家だったが、手入れはよくゆきとどいていた。床は石で、よく掃除され、方々にマットが敷いてあった。片すみにぎっちり詰った食料戸棚があり、暖炉のわきには、まきがきちんと積み上げてあった。ただ一つの戸口の反対側の後方の壁には洗面台のような設備があり、それが山男の手洗いにちがいなかった。その上のつり棚には薬品類が|しまっ《ヽヽヽ》てあった。流し台の上に小さな手押しポンプがあった。明らかに井戸は家の下なのだ。
「手紙は」と、ピートじいさんが、しわがれ声できいた。
アイシャムが手紙を渡した。山男は武器を下げようとはしなかった。そして、ちらっと手紙に目を通し、一瞬の油断もなく、相手から目を放さなかった。しかしながら、読んでいるうちに態度が変ってきた。ひげ面も、ぼろ服姿も、風采もピートじいさんそのままだったが、人物そのものが別ものになっていた。ショット・ガンを、ゆっくりテーブルに立てかけて腰をおろし、手紙をいじりまわしになった。
「すると、トミスラフは死んだんだな」と、言った。その声に、ぞっとさせられた。もはや、ピートおやじの、かすれ声ではなかった。低くて、知性のある、教育を受けた壮年の声だった。
「そう、殺されたのだよ」と、アイシャムが答えた。「書置きを残して行った――読んでみるかね」
「ぜひ」と、男はアイシャムから、ブラッドの書置きを受けとって、すばやく読んだが、無感動だった。男はうなずいて「そうか……さて、君たち、わたしだよ。アンドリュー・ヴァンさ――もとの名、アンドレヤ・ツヴァルさ。まだ生きとる。それなのにトムは、しようがないやつだ――」
目を光らせて、少しあわて気味に立って、金《かな》|だらい《ヽヽヽ》の方へ行った。エラリーとアイシャムは目配せした。変ったやつだ、こいつは! ヴァンは、もじゃもじゃのあごひげをはぎとり、一握りの白髪のかつらを脱ぎ、頭を洗って、油絵具をふきとった……そして、ふり向くと、さっき窓から二人に挑戦《ちょうせん》して来た男とは、がらっと変る人物になっていた。背が高く、姿勢がよく、きれいに刈り込んだ髪が黒く、苦労のためにひきしまった苦行者のような鋭い顔立ちだった。がっしりした体にぼろをまとっているのを見て、エラリーは『度はずれで、調子っぱずれで、たががゆるんでいる』という、ラブレーの文句そっくりだと思った。
「皆さんに椅子もおすすめできないで、恐縮です。あなたは地方検事アイシャムさんですね。存じております。そしてあなたは……たぶん、ウェアトンの法廷で、最前列にすわっておられたのを、お見かけした、クイーンさんでしょう」
「そうです」と、エラリーが答えた。
おどろくべき男だった。たしかに、風変りだ。椅子が一つしかないのを言いわけしながら、二人の客を立たせたままで、自分一人腰かけた。「かくれ家です。いいところでしょう」と、苦々しい口調で「クロサックのしわざだと思いますよ」
「そうらしいですね」と、アイシャムが低い声で言った。検事もエラリーも、その男がメガラそっくりなのにおどろいていた。著しい家族的相似点があった。「スティヴンの手紙だと」――ヴァンは身震いして――「Tの字を使っているようですね」
「ええ。首を切りとって。まったく怖ろしいことです。すると、あなたは、アンドリュー・ツヴァルさんですね」
小学校長は、淋しそうに微笑した。「故国ではアンドレヤでした。兄弟は、ステファンとトミスラフです。この国へ渡って来たのは、のぞみをもって――」ヴァンは肩をすくめて、不細工な椅子の座席をしっかり握りしめて、体を固くしてすわり直した。その目は、おびえる馬の目のように、重いドアと、鉄条網をはりめぐらした窓を、きょろきょろ見まわした。「たしかでしょうね」と、かすれ声で「あとをつけられていないでしょうね」
アイシャムは安心させようとつとめた。「絶対です。万全の注意をしましたよ、ツヴァルさん。ご兄弟のスティヴン君は、ナッソー郡警察のヴォーン警視が堂々とロングアイランド本街道を護衛して、ニューヨーク市に向かいました」小学校長はゆっくり、うなずいた。「何者でも――たとえクロサックがどんな変装をしようと――尾行しようものなら、そいつを、突きとめるために、大勢の警官がいたるところに、待機しています。クイーン君と私は、昨夜、秘密裡に発って来たのです」
アンドレヤ・ツヴァルは、薄い上唇を噛んだ。「とうとう来たな。とうとう……それが――どんなにおそろしいことか、とてもお話しできません。何年もの疑心暗鬼のあとで、あの化けものが、現実に姿を見せるんですからね。……話をききたいですか」
「この情況では」と、エラリーが無造作に言った。「とても、話せという権利はないですからね」
「そうですね」と、小学校長は重々しく答えた。「スティヴンと私には、あらゆる保護がいるのです……スティヴンはどんな話をしましたか」
「あなたと、ブラッドさんと、あの人とが兄弟だということだけでした」と、アイシャムが「ところで、私たちの知りたいのは――」
アンドリュー・ヴァンは立ち上って、こわい目をした。「今は何も言えません。スティヴンに会うまでは」
その態度や物腰の急な豹変《ひょうへん》ぶりに、二人は、目をむいた。「しかし、なぜですね」と、アイシャムがおどろいて「わざわざ何百マイルもここまでやって来たんですよ――」
男はいきなり、ショット・ガンを手にとったので、アイシャムは一歩後退した。「君らが言うとおりの人物かどうか、はっきりわかりかねる。手紙はたしかにスティヴンの筆跡だし、もう一方のはトムのものだ。しかし、そんなものはこしらえものかもしれない。長い間の用心が、最後にちょっとしたごまかしにひっかかるなんてのはごめんだ。スティヴンは今、どこに住んでいる?」
「ブラッドウッドです」と、エラリーがゆっくり「子供みたいなまねはよしたまえ。銃を置きたまえ。兄弟に会うまでは一言も話さんということだが――むろん、メガラさんもそれは予想していたし、私たちもその支度はして来た。君が疑うのも、もっともだし、正当な疑問があるなら、それを甘受しますよ。どうですか、アイシャムさん」
「そうだね」と、地方検事がうなった。そして、はるばる山道を運んで来た包みを、とり上げた。「その方法はこれだよ。ツヴァルさん。どうかね」
男は包みを不安そうに見た。その様子から、そうしたいのだが、きめかねているというのが見てとられた。やがて言った。「あけたまえ」
アイシャムが茶色の包紙をひき裂いた。包の中にはナッソー郡|巡邏《じゅんら》の制服が、靴から拳銃まで、すっかり揃っていた。
「疑う余地はないでしょう」と、エラリーが言った。「ブラッドウッドに着いたら、あなたは警官ということになる。向こうには警官がうじゃうじゃいますからね。制服を着ると、人間は制服だけのものになるもんですよ、ツヴァルさん」
小学校長は石の床を往ったり来たりしていた。「小屋から出るのか……」と、つぶやいた。「何か月も安全でいたのになあ。私は――」
「拳銃は装填《そうてん》してあります」と、アイシャムが冷たく言った。「そして、弾はどっさりベルトにはいっています。弾をこめた拳銃を持ち、その上われわれ二人の有能なボデーガードがついているのに、何がおこりうるでしょう」
ヴァンは赤面した。「きっと、臆病《おくびょう》に見えるでしょうね……承知しました」
ヴァンはぼろをかなぐり捨てた。その下には、清潔な上品な下着をつけているのがわかった――これまた、そぐわない感じだった。ややこわごわと、警官の制服を着けはじめた。
「似合う」とエラリーが言った。「メガラさんの言うとおりのサイズでした」
小学校長は無言だった……すっかり着終って、脇腹の重々しい革のホルスターに拳銃を納めると、なかなか立派な姿だった――背が高く、強そうで、たしかにハンサムだった。手を武器にのばしてなぜていた。それをたよりに勇気づけているようだった。
「これでいい」と、しっかりした声で言った。
「立派だ」アイシャムがドアに行き、エラリーが針金をめぐらした窓からのぞいた。「異常ないかねクイーン君」
「よさそうです」アイシャムがドアのかけ金をはずして、一同はすばやく外に出た……。空地には人かげはなかった。日は沈みかけ、森には、すでに夕闇がせまっていた。エラリーが柵の下の鉄線をくぐり抜け、アイシャムがそれにつづき、二人は制服を着た被保護者が鉄線をよじのぼるのを立って見守っていた――エラリーがうらやましがるほどの身軽さでのりこえて――二人につづいた。
小屋の戸口は――アンドリュー・ツヴァルが見まわって――しめた。まだ煙突から煙がまき上っていた。森のはずれをうろつきまわる人間には、小屋にはまだ人がいて押し入れないように思えたであろう。
三人は森をくぐり抜けた。木々は頭から生いかぶさっていた。一同はこの上もなく注意深く、森の細道を、忠実な老僕のように、デューゼンバーグが待っているやぶ蔭まで下りて行った。山中でも道路でも、だれも見かけなかった。
十八 フォックスの話
エラリーとアイシャムが金曜日の夜、こっそり出発して、土曜日は一日じゅう、二人ともいなかったが、ブラッドウッドは平穏にすむわけにはいかなかった。ヴォーン警視とスティヴン・メガラの謎の旅行は、その界隈《かいわい》の連中が、みんな見ていたらしく、すっかり噂《うわさ》になっていた。オイスター島にまでその余波が及んでいた。ヘスター・リンカンは、ハラーフト『寺院』から、森のしげみをかきわけて、はるばると東のはずれの岬まで、ケチャム老人に、何がおこったのかをききに行った。
ヴォーンとメガラが帰るまでは、とにかく、ブラッドウッドも、まあ平和に日向《ひなた》ぼっこしていた。ヤードレー教授は、約束を守って、その奇妙な邸宅の聖域に立てこもっていた。
昼ごろ――エラリーとアイシャムが、ハリスバーグとピッツバーグの間の南ペンシルベニアをアロヨに向かって疾走しているころ――印象的な行列がブラッドウッドに帰って来た。オートバイの機動警官が前と両横をかため、警察車が殿りをつとめ、邸内のドライブウェイに走りこんで、けたたましく停った。セダンの車のドアが開き、ヴォーン警視がとび出した。つづいて、ゆっくりとスティヴン・メガラが下り、不機嫌に黙り込んで、水銀玉をころがすように、きょろきょろとあたりを見まわした。メガラは、絶えず護衛に囲まれて、邸のまわりを入江の船着場の方へ進んで行った。メガラのランチが待っていた。警察艇にわかれて、ヘレーネ号にもどり、舷梯《げんてい》をのぼって姿を隠した。警察艇はヨットのまわりを廻りつづけた。
植民地風の邸のポーチでは、一人で船をこいでいた刑事が、すっくと立って、部厚い封筒を警視に手渡した。その朝はとくに心細がっていたヴォーンは、まるで命のつなでもつかむように、封筒をひったくった。心細そうな表情が消えた。読んでいるうちに、顔がひきしまった。
「三十分ほど前に、特別の使が持って来たばかりです」と、刑事が説明した。
ヘレーネ・ブラッドが戸口に出て来たので、警視は急いで封筒をポケットにしまった。
「どうなるんですの」と、ヘレーネがきいた。「スティヴン様はどこですの。ちっともわけがわからないの、説明して下さるべきですわ、警視様」
「メガラさんはヨットに乗られました」と、ヴォーンが答えた。「いや、お嬢さん。説明することはできません。すみませんが――」
「お許しできませんわ」と、ヘレーネが腹立たしそうに、目を光らせた。「あなた方は本当にひどいことをなさるようね。あなたと、メガラさまは、今朝、どこへいらっしゃったの」
「すみません」と、ヴォーンが言った。「お話しできません。どうぞ、お嬢さん――」
「でも、メガラ様はご気分が悪そうでしたわ。まさか、あの方を、サード・ディグリー〔拷問〕にかけるような、ひどいまねをなさったんじゃないでしょうね」
ヴォーンは、苦笑した。「おお、まさか――あれは新聞の|よた《ヽヽ》ですよ。絶対にそんなことはありません。あの人が、気分が悪そうですって? そりゃ、気持がよくはないでしょう。何か、股のつけ根がひどく痛むようなことを言ってましたからね」
ヘレーネはじだんだ踏んで「不人情ね、あなた方はみんな。テンプル先生におねがいして、すぐにヨットに行って診ていただきますわ」
「すぐ行ってたのんでいらっしゃい」と、警視が熱心にすすめた。「私にとってもその方がいいですよ」そして、ヘレーネがポーチを出て行き、トーテム・ポストの方へつづく道へはいるのを見て、ほっとした。ヴォーンはすぐにどなった。「おい、ジョニー、来い。任務につけ」
刑事をつれて、警視はポーチを降り、森を抜けて西方に通じる道を、さっさと歩いて行った。運転手兼庭番のフォックスがいる小さな小屋が、林の間から見えてきた。戸口の段に私服が一人腰かけていた。
「異常ないか」と、ヴォーンがきいた。
「ちらりとも見えません」
ヴォーンは手荒くドアをあけて小屋にはいった。部下が続いた。やせて、血色が悪く、黒いしみがつき、目のくまの青ずんだフォックスの顔が、すぐに、くい入るように警視を振り向いた。フォックスは独房でおちつかない囚人のように、床を歩きまわっていたのだ。しかし、はいって来た訪問者を見るとすぐ、唇をかみしめて、また歩きつづけた。
「最後のチャンスを与える」と、警視は頭ごなしに「白状するか」
フォックスは動ずる気配もなく同じ足音で歩きつづけた。「まだ白状せんのだな、なんでパッツイ・マローンに会いに行った? え?」
返答なし。
「よし」と、ヴォーンは、だるそうに腰を下ろして「これで一巻のおわりだな――ペンドルトン!」
男の歩調が一瞬乱れたが、やがて元にもどった。全く無表情な顔だった。
「立派だよ」と、ヴォーンが皮肉った。「神経は太いし、肝っ玉もある。しかし、そんなものはなんにもならんよ、ペンドルトン。お前のことは、すっかりわかっとるんだからな」
フォックスがつぶやいた。「何を言っとるのか、さっぱりわかりませんよ」
「お前は、くらいこんだことがあるだろう」
「なんのお話か、わかりません」
「刑務所にはいったことがあるのに、くらいこむという言葉も知らんのかい。いいとも、いいとも」と、警視は皮肉に笑いながら「しかし、はっきり言っとくぞ、ペンドルトン、お前はとんでもないばかな真似をしているんだぞ。お前が鉄格子をカーテン代りにしていたことに、こだわっとるわけじゃないよ……」笑いが消えた。「いいか、ペンドルトン。しらを切っても役に立たんぞ。お前は泥沼に足を突っ込んどるんだ――わかるか。お前は前科があるんだ、今の情況では、泥を吐くのが一番だぞ」
男はつらそうな目をした。「何も申し上げることはございません」
「ないのか。よろしい、じゃあ、話してやろう。いいか、おれがニューヨークで、くらがり商売のやくざを一人つかまえたと思えよ。おりから、宝石商の金庫がこじあけられた……やつが何か白状しなかったと思うか。どうだもう一度考え直してみろ」
背の高い男は立ちどまると、手を握りしめてテーブルの上に体をかがめた。拳が黒いテーブルにおしつけられて白っぽく見えた。「おねがいです、旦那」と、口を開いた。「息を入れさせて下さいよ。いかにも、私はペンドルトンです。だがこの事件には、ちかって、関係ないんです。私はまともな人間になりたいんで――」
「ふん」と、警視が言った。「そうこなくっちゃ、これで五分の話ができるってもんだ。お前は、フィル・ペンドルトンで、イリノイ州のヴァンダリアの州刑務所で、強盗罪で五年服役した。去年、あそこの刑務所で暴動があったとき、目ざましい働きをして、所長の命を救った。それで州知事の恩典で減刑になった。お前の前科は――カリフォルニア州で暴行殴打罪、ミシガン州で家宅侵入罪。両方とも務所入りしとる。……ところで、もしお前にうしろめたいことがないなら、こっちはお前をいじめようとは思わんよ。もしあるなら、さっぱりしろよ。そうすればできるだけ楽にしてやろうじゃないか。お前が、トマス・ブラッドをやったのか」
ブラッドウッドではフォックスで通っている男は、よろめいて椅子にすわった。「ちがいます」と、低い声で「ちがいますよ、旦那」
「前の仕事はどうやって見つけたんだね――その男からお前は証明書をもらっとるが」
男は目を上げずに言った。「私は更生したいと思ったんです。その人は――前歴は何もききませんでした。商売がうまくいかないので、私をくびにしたんです。それだけですよ」
「ここで、運転手兼庭番の一人二役をやっているのには、なんにも下心はなかったのか。え?」
「ええ。外仕事だし、給金もいいし……」
「わかった。もし手心してもらいたいなら、マローンの所へ行ったわけをすっかり吐いちまった方がいいぞ。やましいことがないんなら、なぜマローンのようなやつと会ったんだ」
フォックスはかなり長く黙っていた。それから、けわしい顔つきで立ち上った。「私だって好きに生活する権利はありますよ……」
「あるとも、ペンドルトン」と警視は穏やかに言った。「当然のことだよ。手伝ってやるよ」
フォックスは戸口に立っている刑事を見るともなく眺めながら、早口で言った。「どうやら、私の昔の――昔の同囚のやつが、ここへ押しかけて来たんです。火曜日の朝、初めて気がついたんです。どうしても会って話したいというのを、私は断わった――足を洗ったと言ったんです。するとやつは『お前の旦那に昔のことをばらしてもらいたくないだろう』とおどすので、それで、マローンにたのみに行ったんです」
ヴォーンは大きくうなずき、じっと耳を傾けていた。「それから、おい、どうした」
「やつは私の行先だけ指定して――名は言わんのです。ニューヨークの所番地だけで。火曜日の夜、ストーリングスとバクスターさんをロキシー劇場の前で降ろしてから、そこへ行き、車を次のブロックに停めておいたんです。だれかが中に入れてくれました。会ったんです――やつに。やつは提案を――強いました。私は断わって――昔の生活から足を洗ったと言いました。やくざ暮しはもういやだと言ったんです。やつは次の日まで待ってやるから考えろ、承知しなければ、お前の前歴をブラッドさんにばらしてやると言うんです。それで、私は帰って来たんです――あとはご存知のとおりです」
「殺人事件を聞いたので、そのままになったんだな」と、ヴォーンがつぶやいた。「そいつは、パッツィ・マローンだろう」
「私は――その、それは言えません」
ヴォーンは鋭く見すえた。「密告はしたくないというのか、え? どんな提案だったんだ」
フォックスは頭を振った。「これ以上話しませんよ、旦那。あんたは私を助けてやるとかなんとか言いましたがね。こいつをしゃべると、命とりになりますからね」
警視は立ち上った。「わかった。ここだけの話だが、お前を責めるわけにはいかんようだ。話の筋は通ってるようだな……だがな、フォックス……」男はぎくっとして顔を上げ、驚きと感謝のまじった表情で、ヴォーンの目を見詰めた。「お前は、去年のクリスマスにはどこにいた?」
「ニューヨークですよ、旦那。仕事を探してました。ブラッドさんの広告に応募して、元日の次の日に採用されたんです」
「調べるぞ」と、警視はため息をついた。「そうか、フォックス、お前の言ったとおりだといいがな。目下のところ、手いっぱいだ。このままにしていてもらうぞ。見張りもつけんし、逮捕もしない、いいな。だが、要監視人だぞ、ずらかろうなんて量見をおこすなよ」
「そんなことはしませんよ、旦那」と、フォックスが大声で言った。新しい希望で顔が生々とした。
「何事もなかったようにふるまうんだ。お前が白なら、このことはブラッド夫人にも話さんし、お前の前歴も伏せといてやるよ」
この寛大なはからいに、フォックスは言葉もなく立ちつくした。警視は部下を手招いて、出て行った。
フォックスはゆっくり送り出し、戸口に立って、警視と二人の刑事が、大股で森に歩み去るのを見守っていた。それから、胸を張り、暖かい空気を深く吸い込んだ。
ヴォーンは、母屋のポーチで、ヘレーネ・ブラッドとぶつかった。
「また、かわいそうなフォックスをいじめたのね」と、ヘレーネが、ふんというように言った。
「フォックスは大丈夫ですよ」と、警視は、うるさそうに言った。その顔は疲れていたし、自分でもたよりなげだった。「テンプル先生に会いましたか」
「テンプル先生はお留守でしたわ。モーターボートで、どこかへお出かけになったのよ。お帰りになったら、スティヴンさんを診て下さるように、置き手紙をして来ましたわ」
「留守ですか、へえー」
ヴォーンは漫然とオイスター島の方を見て、だるそうに、うなずいた。
十九 T
ブラッドウッドで夜を過ごしたヴォーン警視は、日曜日の午前九時十五分に、ストーリングスに起こされて、電話に出た。電話がかかるのを予期していたようだった。それなのに一瞬ぽかんとして、きこえよがしに「だれからだろう」とつぶやいた。ストーリングスがそれで欺されたかどうかわからないが、警視が、この早朝の電話に、うんとか、ああとか答えるのからは、何もつかめなかった。「ふん……そうか……いや、わかった」警視は受話機をかけると、目を光らせて、邸をとび出した。
九時四十五分に、地方検事アイシャムが、華々しいブラッドウッド入りをした。郡の公用車で三人の巡査と一緒に乗りつけたのだ。一同が植民地風の邸の前で降りると、ヴォーン警視がとび出してアイシャムの手を握り、低い声で熱心に話しはじめた。
この欺装作戦にかくれて、間もなくエラリーはこっそりとデューゼンバーグを、ヤードレー邸にすべりこませた。
地方検事が連れて来た三人の巡査の中の一人が、仲間たちのように楽々と、軍隊式な態度をやってのけられないのには、さいわいだれも気がつかなかったらしい。その男は、居合わせた大勢の巡査たちにまじり、やがて、ちりじりになって方々へ歩み去った。
細ズボンとセーター姿のヤードレー教授は、いつも手ばなさぬパイプをふかしながら、邸内のセラムリック〔トルコふう男子室〕でエラリーを迎え、喜びの声をあげた。
「主賓のおもどりだね」と、大声で「君は、もう、帰って来ないかと思ったよ、君」
「あなたに引用癖がおありなら」と、エラリーは微笑して、上衣をぬぎ、モザイク模様の大理石の床に体をなげ出しながら「|hospes nullus《ホスペス ヌルス》 |tam in amici hospitium diverti《タム イン アミチ ホスピティウム ディヴェルティ》……|odiosus siet《オディオサス シエト》〔いかに歓待しようとも客は去る――気に入らねば〕という言葉を考えるべきですよ」
「なぜまたプラウタス〔紀元前二五四年生、ローマの喜劇作者タイタス・マクシアス〕など持ち出すのかね。たった三日しか留守にしないのに」教授は目を輝かせて「どうだった?」
「まあね」と、エラリーが「連れて来ました」
「本当かね」と、ヤードレーは用心深く「制服だね。まるでお芝居だね」
「今朝、ミネオラでもう一度、細部の手配を仕直しました。アイシャムがヴォーンに電話して、公用車と二人の巡査を呼び寄せて、それから、ブラッドウッドに向かったんです」エラリーはため息した。目のくまが黒かった。「大変な旅でしたよ。ヴァンときたら、まるっきりだんまり|はまぐり《ヽヽヽヽ》で手もつきませんしね。手を焼きました。しかも、疲れた者に休みなしときてる。先生は大除幕式を参観したいですか」
教授はあわてて立ち上った。「きまっとるよ。殉教者の役が長すぎたよ。朝飯は?」
「ミネオラで腹いっぱいつめこみましたよ。行きましょう」
二人は邸を出て、ぶらぶらとブラッドウッドへ向かって行った。着いてみると、ヴォーンとアイシャムが、まだ、ポーチで話していた。「今、検事に話しているところですよ」と、ヴォーンは、まるでエラリーの留守だったことに気がつかなかったかのように言葉をかけた。「フォックスを調べた件をね」
「フォックス?」
警視はフォックスの前歴について調べたところを、もう一度、話した。
エラリーは肩をすぼめた。「気の毒にな……メガラはどこですか」
「ヨットです」と、ヴォーンは声を低くして「船着場へ下りて行ったきりです……昨日、股がひどく痛んだようです。ブラッド嬢がテンプルを捜したんですが、一日じゅう留守でした。今朝、テンプルはヘレーネ号に行ってるでしょうよ」
「昨日の一芝居で何か出ましたか」
「何もなしです。鴨め、おとりにひっかかりませんでしたよ。さあ、みんなが起き出さないうちに出かけましょう。みんな、まだ、ぐっすりです――だれも出て来ません」
一同は邸をまわって、入江の方へ道をとった。船着場には三人の巡査が立っていて、警察艇が出帆の用意をして待っていた。
だれ一人、三人目の巡査に、目もくれなかった。アイシャム、ヴォーン、エラリー、ヤードレーが、ランチに乗り込み、三人の巡査が続いて乗った。艇は波をけたてて半マイル沖のヨットへ向かった。
ヘレーネ号に乗り移るにも同じような行動がとられた。四人が舷梯をよじ登り、あとから三人の巡査が続いた。ヘレーネ号の船員たちは、純白の服をつけ、甲板に立って、ヴォーン警視だけを見つめていた。ヴォーンは、まるでだれかを逮捕しに来たように大股で歩きまわっていた。
一同が通りすぎると、スウィフト船長がキャビンのドアをあけた。「どのくらいの時間――?」と、声をかけた。
ヴォーンはつんぼのように知らん顔で、どかどかと歩いて行き、続く一同もおとなしく、ついて行った。船長は後からにらみつけて、ふくれっ面をした。それから、役にも立たない呪いをあびせて、キャビンへ引っこみ、ばたんとドアをしめた。
警視は大船室のドアの鏡板をノックした。ドアが内側に引かれ、テンプル医師のがっちりした浅黒い顔があらわれた。
「やあ」と言った。「おそろいですな。ぼくは今、メガラさんを診たところですよ」
「はいっていいですか」と、アイシャムがきいた。
「どうぞ」と、メガラが船室の中から、緊張した声をかけた。一同は黙ってぞろぞろはいった。スティヴン・メガラが簡単なベッドに横たわり、シーツのかかっていない部分が裸だった。ヨットマンの顔は青ざめてひきつっていた。眉毛のはじに汗の玉が浮いていた。体を折りまげて、ももの付け根を押さえていた。そして、巡査を見ずに、苦しそうにテンプルを見ていた。
「どんなふうです、先生」と、エラリーが真顔できいた。
「脱腸ですよ」と、テンプル医師が「悪性じゃありません。目下、心配はいりませんね。鎮静剤を与えておきました。じきに利いてくるでしょう」
「今度の航海でやられたんです」と、メガラが、あえぎながら「大丈夫、先生、大丈夫。お引きとり下さい。この連中が何か話したいそうで」
テンプルは目を丸くし、肩をすくめて、診察鞄を取り上げた。「そんなら……お大事に、メガラさん。手術するように言ったんです。必ずしも急を要するわけじゃありませんがね」
テンプルは軍隊式の固苦しさで一同に会釈し、急いで船室を出て行った。警視が送って行き、テンプル医師が自分のモーターボートに乗り込んで本土に向かって走り出すまで、戻って来なかった。
ヴォーンが、船室のドアをぴたりと締めた。甲板の上に二人の巡査が立って、ドアによりかかっていた。
三人目の巡査は一歩前へ出て、唇をなめていた。ベッドの男はシーツをつかんでいた。
二人は黙って、見合った。握手はしなかった。
「ステファン」と、小学校長が言った。
「アンドレヤ」エラリーは危くふき出しそうになるのを抑えた。事情は全体としては悲劇的なのに、なんとも滑稽なものがあった。外国名前を持つ大まじめな、かっぷくのいい二人の男たち――ヨット、病の床、不恰好な制服……エラリーの過去にも、こんなことにぶつかったことがない。
「クロサックだよ。クロサックだよ、アンドレヤ」と、病人が言った。「やつは、いつも君が言っとったように、ぼくらを見つけたんだ」
アンドレヤ・ツヴァルはかすれ声で「トムも私の忠告をきいていればなあ……去年の十二月に、手紙で警告しといたんだ。あんたには連絡しなかったかい」
ステファンはゆっくりと頭を振った。「いや。ぼくに連絡しようがなかったんだ。ぼくは太平洋を航海してたからね。……今までどうしてたね、アンドル」
「うまくやってたよ。何年になるかな」
「だいぶなるな――五年か、六年」
二人は黙り込んだ。警視はじっと二人を見つめていたし、アイシャムは息をつめていた。ヤードレーがエラリーを見た。エラリーがすぐ口を開いた。「さあ、どうぞ、話して下さい。ヴァン――さんは……」と、小学校長を指さした。「できるだけ早くブラッドウッドを逃げ出さなければならないんです。この辺でぶらぶらしていると、刻々に危険が迫ります。どんなやつかしらんが、クロサックは抜け目のないやつです。やつはこんな小細工なんか、すぐに見抜くでしょうし、ヴァンさんがウェスト・ヴァージニアに帰るのを絶対に尾行させたくないんです」
「そうだ」と、ヴァンが重々しく言った。「そのとおりだよ、ステファン。話してあげてくれ」
ヨットマンはベッドの上で体を起こした――痛みが去ったのか、昂奮して忘れたのか、どっちかだった――船室の低い天井を見つめた。「どう切り出したらいいかな。とても大昔におこったことなんです。トミスラフと、アンドレヤとぼくは、ツヴァル家の最後の家族なのです。モンテネグロ山地の富裕な誇り高い家柄なのです」
「今は滅びてしまいました」と、小学校長が冷たい声で言った。
病人は、そんなことは問題じゃないというふうに手を振った。「われわれが熱しやすいバルカンの血統だということを理解して下さい。熱い血だって――にえたぎってる熱さですよ」と、メガラは、くすっと笑った。「ツヴァル家には宿敵があったのです――クロサック家という一族です。何代もつづいての仇敵です――」
「ヴェンデッタ〔仇の討ち合い〕」と、教授が叫んだ。「もちろん、イタリアにありがちなヴェンデッタじゃなくて、たしかにわが国のケンタッキーの山地人に見るフェード〔家族ぐるみの宿恨〕のような血族間の宿敵なのでしょう。私はもっと早く思いつくべきだったよ」
「そうです」と、メガラが、きっぱり言った。「今では、どうしてそんなフェードが生じたのかわかりません――ことのおこりは、すっかり血にまみれてしまって、われわれの世代には理由がわからないのです。しかし、子供のころから、頭にたたき込まれたのです――」
「クロサック家のやつは殺せ」と、小学校長が、喉にひっかかる声で言った。
「われわれの方が攻撃側でした」と、メガラは顔をしかめて「そして二十年ほど前に、われわれの祖父と父の兇暴残忍のために、クロサック家の男種《おとこだね》はたった一人になってしまったのです――あなた方が追っているヴェリヤです……当時は子供でした。ヴェリヤとその母親だけがクロサック家の生き残りなのです」
「とてもとても昔のことのようだ」と、ヴァンが、つぶやいた。「むごいことだ。君と、トミスラフと私とで、父の仇討ちを手伝って、クロサックの父親と二人の叔父《おじ》を殺したのだ。待伏せでね……」
「とても信じられませんね」と、エラリーが低い声で教授に言った。「とても文明人を相手にしているとは信じられませんね」
「でどうしたね、クロサックの子供は?」
「母親が連れて、モンテネグロから逃げ出しました。二人はイタリアへ行って、隠れ住み、その後間もなく母親が死にました」
「それで、残されたクロサックの忘れ形見があなた方に対して、フェードしているんですね」と、ヴォーンが頭が痛そうに「きっと、死ぬ前に、老夫人が、精いっぱいの恨みを、息子《むすこ》に吹きこんだんでしょうね。あなた方はその子供を突きとめていたんですか」
「ええ。自衛のために、そうせざるをえなかったのです。大人になればわれわれを殺そうとするに違いないのがわかっていましたからね。われわれの雇った私立探偵が、ヨーロッパじゅう、つけまわしていました。しかし、十七歳になる前に姿をくらまし、それ以来ずっとなんの手がかりもなかったのです――今日に至るまで」
「あなた方は、クロサックをじかに見たことはないのですか」
「ええ。十一、二歳のとき、山を出てしまって、それきりですからね」
「ちょっと待って下さい」と、エラリーは眉をしかめながら「なぜあなた方は、クロサックがあなた方を殺したがっていると、そんなに確信しているんですか。要するに、まだ子供で――」
「なぜって」と、アンドリュー・ヴァンが苦笑して「雇った探偵の一人が、苦労してやっと少年の信用を得たことがあります。まだその少年が監視下にあったときですがね。そうして、その少年が、たとえ地の果てまでも突きとめて、われわれの血をぶちまけ、われわれみんなを抹殺してやると、ちかうのを聞いたのです」
「まさか、あなた方は」と、アイシャムがきいた。「そんな子供のたわごとのために、実際に母国を逃げ出し、名前を変えたわけじゃないでしょうね」
二人は赤面した。「あなたは、クロアチア人のフェードを知らないのです」と、ヨットマンがつぶやいた。そして恥ずかしそうに目をそらした。「クロサック家の男の一人などは、ツヴァル家の者を追って、南アラビアの奥地まではいり込んだことがあるんですよ――何代も前のことですが……」
「すると、もしクロサックと面と向かっても、見分けられないんでしょうね」と、エラリーが、だしぬけにきいた。
「とてもだめです……われわれだけが生き残ったのです――われわれ三人だけがね。父も母も――死にました。われわれはモンテネグロを去ってアメリカへ行くことにしたのです。われわれを引きとめる系累は一人もいませんでした――このアンドリューとぼくは結婚していなかったし、トムは結婚していたが妻は死にましたし、子供もありませんでした。
我々一族は金持ちでしたし、土地家屋も高価なものでした。われわれは固定資産を全部売り払って、名前を変え、ばらばらになり、ニューヨークで落ち合う手筈《てはず》をととのえてアメリカへ来たのです。われわれは変名するに当って」――エラリーは、はっとし、やがて微笑した――「違う国々から名をとることにしました。地図を参考にして、一人ずつ違う国籍を借用することにしたのです――ぼくはギリシア、トムがルーマニア、アンドリューがアルメニアです。というのは、当時の私たちは容貌も言葉も、まぎれもなく南ヨーロッパ人でしたから、アメリカ生れとしては通らなかったからです」
「君にクロサックのことを警告したよ」と、小学校長が、暗い調子で言った。
「トムとぼくは――私たちはみんなちゃんとした教育を受けています――現在の商売を始めました。このアンドリューはいつも不安にさいなまれて、一人で働く方がいいと言い、英語を独学して、最後に小学校長になったのです。私たちはみんな、もちろん、アメリカ市民になりました。そして、年月が経つうちに、クロサックの消息も噂も聞かないまま、だんだん、忘れてしまうようになったのです。あの男の存在は――少なくともトムとぼくにとっては――伝説になり、神話になっていました。死んでしまったのか、私たちを追いまわすのをあきらめてしまったものと思っていました」ヨットマンはあごをひきしめた。「こんなことになろうとはね――とにかく、トムは結婚しました。商売もうまくいっていました。そして、アンドリューは、アロヨに身を隠していました」
「私の忠告をきいていれば」と、ヴァンが、いまいましそうに「こんなことにはならなかったんだ。そして、トムも今、生きていたろうに。いく度も言っといたじゃないか、クロサックはきっと復讐にやってくるぞと」
「たのむ、アンドル」と、メガラは強わばった声で言ったが、兄弟を見る目には、あわれみの色があった。「知ってるよ。しかし君はほとんど会いにも来なかった。君の手落ちだということも悟ってもらわなくちゃ。おそらく、もし君がもっと兄弟の情があったら……」
「君やトムと一緒にいたら、クロサックが一度にやっつけただろうよ」と、アロヨから来た男が叫んだ。「私がなぜあんな穴ごもりをしているか考えないのかい。私だって楽しい生活がしたいさステファン。しかし私は利口だったんだ。それを君は――」
「そう利口でもないな、アンドル」と、ヨットマンが言った。「結局、クロサックは、最初に君を見つけたじゃないか。それで――」
「そうですよ」と、警視が言った。「だからやつが襲ったんです。ここで、アロヨ殺人事件のことを、ちょいとばかり、はっきりさせたいんですがね、ヴァンさん、かまいませんか」
小学校長は、いやな思い出に、身をかたくした。「アロヨは」と、かすれ声で言った。「おそろしい場所です。私が数年前に、ピートじじいという人物になりすましたのも、こわかったからです。二重の生き方をしていれば、もしクロサックに見つかったときには役に立つだろうと」――ヴァンは自嘲するように――「そんな気がしていたのです。クロサックは、やはり見つけました」と、言葉を区切り、やがて早口になって「私は何年もあの小屋を使っていました。あれた、山の古い洞窟を探険に行ったとき、偶然に見つけたもので、荒れはてていました。私は鉄条網の囲いをつくりました。私の変装道具はピッツバーグで買ったのです。そして、たまに、校長の仕事をしなくてもいいようなときには、こっそりと山にはいりピートじいさんのこしらえをして、アロヨの人たちに、ピートじいさんという人物の存在をしっかり印象づけるために、しばしば町に姿をあらわしたものです。トムとスティヴンは――私のこの詭計《きけい》をいつも笑っていました。子供っぽいというのです。子供っぽかったかね、スティヴン? 今でもそう思うかね? トムも墓の中で、私のようにすればよかったと、悔んでるとは思わないかね?」
「そうだ、そうだ」と、メガラが急いで言った。「それから話は? アンドル」
風変りな小学校長は、キャビンをひとまわりした。手を借りものの制服の背で組み、気違いじみた目付きをしていた……一同はこのおどろくべき話に聞き入った。
クリスマスが近づいたころ――と、ヴァンはその言葉づかいの特徴である、張りのある声で――もう二か月も、山男姿で、アロヨの町に姿を見せていないのに気がついた。こんなにも長い間姿を見せないと、町のだれかが――きっと、ルーデン巡査が――山男の老人を探しに出かけて、小屋を捜査するかもしれないし……ひょっとして、慎重にごまかしつづけて来たことが水の泡になるかもしれないんだと、ヴァンは説明した。おりから、クリスマスから新年にかけて一週間以上も、ヴァンの小さな学校が休みになるのだった。そこで、少なくともその数日は、だれにも怪しまれずに、世捨人のピートとしてふるまえると考えたのだ。それまでも、ヴァンがぼろ着の老人に化けていたときは、校長が休暇か週末旅行で、どこかへ出かけたと町の人に思われていたのだ。
「留守にするとき、クリングには、どう説明しておいたのですか」と、エラリーがきいた。「それとも、あなたの召使は、秘密を知っていたのですか」
「いいえ」と、ヴァンは大声で「あれはばかでうすのろです。私はただ、休暇でウィーリングかピッツバーグに行くと言っておいたのです」
それで、クリスマス・イヴには、ピッツバーグに行って、降誕祭を祝ってくるとクリングに言っておいた。そして、その夕方、山小屋へ出かけた――山男の変装用具は全部小屋に置いてあった。そこで、また、ピートじいさんに変装した。次の朝、早く起きて――クリスマスの朝――町へ向かって歩いていった。食料品が欲しかったし、クリスマスでどこの店もしめているが、よろず屋の亭主、バーンハイムのところへ行けば買えるのを知っていたからだった。ヴァンが、アロヨ道路と本街道との交差点に、たった一人でさしかかったのは朝の六時半で、あのおそろしい、はりつけ死体を発見したのだった。いろいろな形のTの字の意味が、すぐ頭にぴんときた。急いで、百ヤードほどアロヨ寄りの自分の家へ行ってみた。他の者があとで見た惨状は、ヴァンにはいたましい意味を持っていた。ヴァンはすぐに、ほんのすれちがいで、昨夜、クロサックが襲って来、気の毒なクリングじじいを殺し(アンドレヤ・ツヴァルと思い込んで)その首を切りとり、死体を、道標にはりつけたのを、さとった。
ヴァンは、てきぱき考えなければならかった。どうしたらいいのか。思いがけぬ運命のはからいで、クロサックは今では、アンドレヤ・ツヴァルに対する復讐はとげたと思い込んでいる。そう信じ込ませておけばいいではないか。永遠にピートじいさんになりすましていれば、クロサックをだましておけるばかりか、ヴァンが住んでいたウェスト・ヴァージニアのせまい世間の目もくらましておける……幸いなことに、殺されたときにクリングが着ていた服は、ヴァンが数日前にやった自分のもので、古い、すり切れた服だった。アロヨの町の連中が、その着衣を校長アンドリュー・ヴァンのものだと認めるのはわかっていた。それに、もしそのポケットにアンドリュー・ヴァンであることを証明する書類を入れておけば、問題なくヴァンの死体だと確認されるはずなのだ。
そこでヴァンは自分の古い服から手紙と鍵をとり出して、こっそりと交差点に引き返し、クリングのきざまれた死体から、クリングを証明しそうなものを、すっかりはぎとり、――不気味な仕事を思い出して、借制服の男は身ぶるいした――死体にヴァンの持ち物を持たせると、すぐに急いで本街道をはなれて森へはいった。そこで用心してたき火をおこし、クリングの持ち物を燃して、だれかが通りかかるのを待っていた。
「なぜです?」と、ヴォーンがきいた。「なぜ小屋に立ちもどって、かくれていなかったのです」
「それは」と、ヴァンはあっさり言った。「私にとっては、すぐに町に下りて、なんとかして兄弟に、クロサックがあらわれたことを知らせる必要があったからです。もし町へ行って、交差点の死体のことを何も話さずにいたら、私はきっと疑われたでしょうからね。というのは町へ出るにはどうしても交差点を通らなければならないんです。それに、もし町へ行って死体を発見した話をすれば――私、一人ですよ――必ず疑われるにきまっています。しかし、もしだれかが通りかかるのを待っていれば、だれか近所のまともな人間がね。私の死体『発見』には仲間があることになるし、と同時に町へ行って食料も仕入れられるし、兄弟たちにも報らせることができるはずですからね」
一時間ほどすると、百姓のマイケル・オーキンズが通りかかった。ヴァンはピートじいさんになりすまして、交差点の方へ、ぶらぶら歩いている寸法だった。オーキンズに声をかける、百姓が車に乗れと言う、二人で死体を発見する……という寸法でと、ヴァンが切口上で言った。「検死法廷に立ち会われたクイーンさんがご存知ですよ」
「すると、あなたはご兄弟に報らせたのですね」と、アイシャムがきいた。
「ええ。交差点でクリングの死体を発見したあと、自分の家に行っていたときに、大急ぎでトミイに手紙を書きました――つまり、トマス・ブラッドにです。私たちが町について大騒ぎになったのにまぎれて、その手紙を郵便局のドアの差入口にかろうじてすべりこませることができました――郵便局はしまっていたのです。私はトムに出来事を手短かに報らせ、おそらくクロサックが復讐に向かうだろうと警告しておきました。それに、今後は私は、ピートじいさんになりすましているから、トミイもステファンも、このことはけっして人に言わないようにとも書いておきました。少なくとも、私は、クロサックからは安全のはずでした。私は死んだんですからね」
「運がよかったな」と、メガラがいまいましそうに言った。「トムはあんたの手紙を受けとってから、ぼくに連絡がつかないので、われわれが見つけた、あの警察宛ての手紙を書いたにちがいない――ぼくがブラッドウッドに帰りつかないうちに、あれの身の上に何事かがおこった場合、ぼくに最後の警告をするつもりでね」
兄弟は青ざめて深刻な顔をした。二人とも今経験している神経の緊張を、はっきり示していた。メガラまでがその呪いに負けていた。外の甲板から、荒々しい男の高笑いがきこえた。二人はぎょっとしたが、やがて、ヘレーネ号の船員の一人が、警官にふざけているのだとわかって、ほっとした。
「ところで」と、アイシャムが、かなり心細げに「お話はよくわかりましたがね。結局どういうことになるんですか、一体。クロサックをとっつかまえることに関しては、お手上げじゃありませんか」
「悲観説が」と、エラリーが「公認されましたね。皆さん、ところでツヴァル家とクロサック家のフェードを知っているか、知っていた人がだれかいますか。この線を少し洗って行けば、容疑者の範囲をしぼれるかもしれませんよ」
「われわれのほかにはだれもいません」と、校長がゆううつそうに言った。「当然、私は誰にも話しませんでしたからね」
「フェードのことを書き残したものはないのですか」
「ありません」
「そうですか」と、エラリーは考えながら「すると、この話をばらまいて歩きそうな者は、クロサック一人と見ていいですね。あの男がだれかに話したかもしれないということも考えられるが、まずないでしょうね。しゃべる必要ないですからね。クロサックも今は大人で――復讐《ふくしゅう》の固定観念にとらわれた狂人です。その復讐は自らの手で遂行しなければならないと考えているはずです。こういう仕事は手先や、共犯者に任せないのが普通でしょうね、どうですか、メガラさん」
「モンテネグロでは、絶対にありません」と、メガラが、重々しく答えた。
「もちろん、フェードの心理を知っている者にとっては公理だよ」と、ヤードレー教授が言った。「それに、古代バルカンのフェードは、アメリカ山地民のフェードよりずっと陰惨なもので、家族の者だけが仇を討つことになっているのだ」
エラリーが、うなずいた。「クロサックが、フェードのことをアメリカで、だれかに話すことがあったでしょうかね。まずないでしょう。そんなことをすれば自ら他人に弱みを握られることになるし、自分自身の手がかりを残すことになりますからね。それにクロサックは、その行動の抜け目なさからみて、偏執狂とはいえ、油断のならぬ悪党です。共犯者を持つとすれば――まずいないでしょうが――そんなやつに何を提供しなければならないでしょうか」
「いい着眼点だ」と、アイシャムが賛成した。
「やつがヴァンさんの家の銭箱にあった現金をさらって行ったという事実は――」
「あの箱には百四十ドルはいっていた」と、ヴァンがつぶやいた。
「つまり、クロサックが金に困っていて、見つかったものをさらったということになります。しかし、ご兄弟のトミスラフの家では、盗みをしていません。してみると、たしかに共犯者はいないのです。もし一人でもいたとすれば、盗むことができるチャンスを見のがすはずはないですからね。だから、復讐が目的で、金目当ての殺しではないことになります。……と同時に、共犯者がいないという、証拠がほかにも何かあるでしょうか。ありますよ。クリング殺しでは、交差点付近で、ただ一人の人物が見かけられていますが、その男が、ヴェリヤ・クロサックなのです」
「なんだってそんなことを洗い立てようとするんです」と、ヴォーンが、苦々しくきいた。
「クロサックがまったく一人で行動し、何人《なにびと》にも犯罪の計画を話していないと考えるのが、ほぼ確定的だということを証明しようとしているだけです――個人的な動機、怖ろしい方法、ある程度まで隠そうとしない単独犯行の証拠などから考えてみて、まず当っているでしょう。クロサックが実際に、二か所の犯罪現場にTの字を書いて、その犯罪に署名をしている点を考えてみて下さい。狂人かどうかは別にして、やつはこのことを意識していたにちがいないのです。だから、共犯者がいたとしても――とくに最初の犯行以後――あんな下品な凶暴な狂人と、いつまでも相棒でいるとは信じられませんね」
「で結局は、それがどうだというんですか」と、警視がきめつけた。「いるかいないかわかりもしない共犯者なんかに、なぜこだわるんですか。本筋の発見に対して、まるっきり足ぶみじゃありませんか、クイーンさん」
エラリーは肩をすぼめた。その心中では、クロサックの秘密を知っている者か、共犯者がいる可能性を除去することが、第一の必要かくべからざることなのは、明白だった。
地方検事アイシャムが、いらだたしそうに、兄弟の間を歩きまわっていた。「ところで」と、やがて言った。「要するに、こんなことぐらいでへこたれちゃならんよ。一人の人間が、こんなに完全に、足跡ものこさずに消えちまうなんてことは、とても考えられないな。われわれは、クロサックの人体《にんてい》も、もっとくわしく知らねばならんよ。どうですか、クロサックが今はどんな様子をしているかわからないというのはともかくとして。もう少しくわしく教えてくれませんか――子供時代からの特徴で、大人になっても変らないような点を」
兄弟は顔を見合わせた。「びっこです」と、ヴァンが肩をすぼめた。
「前にも言いましたが」と、メガラが「子供のころ、クロサックは腰に軽い病気をして――不具になるほどではないけれど、左足が、びっこをひくようになったのです」
「不治のびっこですか」と、エラリーがきいた。
ツヴァル兄弟にはわからないらしかった。
「それから二十年も経っているのだから、びっこも癒っているかもしれませんね。とすると、ウェアトンのガレージマンのクローカーの証言は、クロサックの抜け目のなさを示す、いま一つの証拠かもしれませんね。やつは、子供のころびっこだったことをあなた方が、覚えているだろうと思って、びっこのまねをしていたのかもしれない。前にヤードレー教授が指摘したとおりにね……もちろん、この年月の間に、やつが癒ったと仮定してのことだが」
「一方また」と、警視が、きめつけた。「本もののびっこかもしれませんよ。なんでまた、われわれが手に入れた証拠に、いちいちけちをつけるんですか、クイーンさん――」
「おお、そうですね」と、エラリーは無造作に「クロサックはびっこです。これで満足ですか警視さん」と、微笑しながら「そういうことにしても、これだけはたしかです。やつが本当にびっこであろうと、なかろうと、やつがたまに人前に出るときは、いつもびっこをひきつづけるでしょうよ」
「とんだ暇つぶしをしてしまいました」と、ヴォーンが苦りきって「これだけはたしかです。あんた方は今後は充分の保護をうけることになります。ヴァンさん、あなたはすぐにアロヨに戻って、姿をかくしている方がいいでしょう。護衛を六人つけて、ウェスト・ヴァージニアまで送り、そのまま、つけておきます」
「おお、こりゃあ」と、エラリーがうめいた。「警視、あなたは何を言っているのかわかってるんですか。それじゃあ、うまうまと、クロサックの思う壺にはまりますよ。かりにわれわれの策略が成功して、クロサックがアンドレヤ・ツヴァルの生存は知っているが、所在がわからないでいるとしましょう。それなのに、われわれが少しでもアンドレヤ・ツヴァルに注意を集めれば、必ずクロサックの注意をひくことになりますよ。もしやつが見張っていればね。必ず見張っているにちがいないですよ」
「なるほど、じゃあ、どうしますか」と、ヴォーンがいどみかかった。
「ヴァンさんは、できるだけ目立たないように、山に送り帰すべきですよ――六人だなんて大仰なやり方でなく、一人が護衛についてね、警視。まさか軍隊を送るつもりじゃないんでしょう。それから、ヴァンさんは一人きりにしておくべきです。ピートじいさんになっていれば安全ですよ。われわれが騒ぎ立てない方が、かえって好都合なんですからね」
「すると、メガラさんは――え――メガラさんは?」と、アイシャムがきいた。検事は二つの名前を持つ兄弟を、適当な名で呼びにくかったらしい。「この人も一人でおくのかね」
「むろん、そりゃだめです」と、エラリーが大声で「クロサックはメガラさんが護衛されていると思うでしょうから、護衛しなくっちゃ。派手に、できるだけ派手にね」
自分たちの運命を部外者たちに論じられている間、この兄弟は何も言わずにいた。二人は顔を見合わせた。メガラのきびしい顔がいっそうきびしくなるのに、校長の方は、目ばたきしながら、そわそわと動きまわっていた。
「お別れになる前に、二人で話されたいことは何かありますか」と、アイシャムがきいた。「どうぞ、早くかたづけて下さい」
「私はよく考えてみましたが」と、ヴァンがつぶやいた。「つまり私は――どうもウェスト・ヴァージニアへ帰るのは賢明じゃないようです。どうもクロサックが感づいて――」と、声をふるわせて……「私はこの呪われた国から、できるだけ遠くへ離れようと思います。クロサックから離れられるだけ――」
「いけません」と、エラリーがきっぱり言った。「もしクロサックが少しでも、あなたがピートじいさんだと感づけば、せっかくのあなたの変装も逃亡も、やつに公然とあとをつける手がかりを与えることになってしまいますよ。われわれがやつを逮捕するか、少なくともクロサックがあなたの変装に全く気がついていないという証拠があがるまでは、ピートじいさんになっていなくてはいけません」
「じつは――」と、ヴァンは口をしめして「私は大して金持ちじゃないんです、クイーンさん。あなたは、私を卑怯者だと思うでしょうが、しかし私は長年、あの悪魔におびえて生きて来たのです……」その目が異様に燃え上った。「兄トミスラフの遺言で金がもらえるでしょう。私はそれも放棄します。逃げ出したいだけなんです……」その気まぐれで、つじつまがあわない言葉で、みんな不愉快になった。
「いけないよ、アンドル」と、メガラが重々しい口調で「逃げたいなら――それも、まあいいがね。しかし、遺産は……私が先払いしてやろう。どこへ行こうといるにきまってるよ」
「どのくらいですか」と、ヴォーンが疑わしげにきいた。
「ほんの少しです」と、メガラは、鋭い目をさらに鋭くして「五千ドルです。トムはもっと出せば出せるでしょうが……しかし、アンドレヤは末弟ですし、私たちの古い国では、遺産の問題の考え方は、きわめて厳格なのです。私自身――」
「トムさんが長兄だったのですか」と、エラリーがきいた。
メガラは顔を赤らめて「いいえ、ぼくです。しかし、私が何とかしよう、アンドルの分は――」
「そうですか、じゃあいいようにして下さい」と、ヴォーンが「ところで、ヴァンさんに忠告しておきますが、逃亡はいけません。その点に関する限り、クイーンさんの意見が正しいのです」
校長はまっ青になった。「あの男が感づかないと思うんなら――」
「感づくものですか」と、ヴォーンがいらいらして「どうしてもその方がいいと思うのなら、メガラさんがあなたにあげるお金の用意ができたら、それを持って戻られてもいいですよ。そうしておけば、前ぶれなしに逃げ出さなければならないときにも文なしで行かずにすみます。しかし、私たちがしてあげられる最善の方法は、そこまでですよ」
「小屋にある私の貯金と一緒にすると」と、ヴァンがつぶやいた。「相当の額になります。どこへ行こうと、たっぷりあります……よろしい。私はアロヨへ戻ります。それから、ステファン――どうも、ありがとう――」
「きっと」と、ヨットマンは渋々言った。「もっといるだろうね。五千でなく一万上げることにしよう……」
「結構です」と、校長は肩をいからして「私は、当然私のもらう分だけもらいます。私はいつも独立独歩で来たよ、ステファン、君も知ってるとおり」
メガラはうめきながら、ベッドをはい出して机に行った。腰かけて書き始めた。アンドレヤ・ツヴァルは行ったり来たりしていた。差し当りの身の振り方がきまったからには、一刻も早く出て行きたいようだった。ヨットマンは、小切手をひらひらさせながら立ち上った。
「明日の朝まで待たなければならないよ、アンドル」と、メガラが「私が自分でこれを現金にしてやるから、君はウェスト・ヴァージニアへ帰る途中で金を受け取って行くといいよ」
ヴァンはすばやく見まわした。「すぐ発たなければなりません。どこに泊るんですか、警視さん」
「警官に徹夜で護らせましょう」
兄弟はじっと見合った。「体に気をつけろよアンドル」
「あなたもね」しばらく見合っているうちに、二人をさえぎる目に見えない壁がふるえて崩れかけた。だが崩れなかった。メガラが顔をそむけた。校長は肩をおとして、ドアの方へ歩みよった。
一同が本土へ戻り、アンドレヤ・ツヴァルが警官たちにとりまかれて歩いているときに、エラリーがゆっくりきいた。「何か気がつきましたか――いや、気がついたでしょ、きくまでもないですね。アイシャムさん、あなたは、ツヴァル兄弟がモンテネグロから立ちのいた話をメガラから聞いて、なぜあんなけげんそうな様子をしたんですか」
「そりゃ」と、地方検事が「筋が通らないからさ。宿怨かどうか知らんがね。三人の大の男が、たかが小せがれが殺してやると言ったことぐらいで、母国と家を捨てて姓名を変えるなんてことは、納得いかんじゃないか」
「まったくです」と、エラリーは、暖かい松風を吸いながら言った。「本当に、ヴォーン警視があの場で二人を偽証罪で逮捕しなかったのが、不思議ですね」ヴォーン警視が、鼻をならした。「クロサックの話は疑う余地もない事実でしょうが、あの二人が国を捨てるには、十一歳の子供の仇討ちを恐れたなんてことじゃない理由が、きっと何かあるとにらんでいるんです」
「どういう意味だね、クイーン君」と、ヤードレー教授がきいた。「私にはわからないな――」
「たしかに、よくわかりませんよ。なぜ、三人の大の大人が、アイシャムさんの言われるとおり、母国を捨てて、偽名で外国に逃げ出したかね。そうでしょ」
「警察の目かな」と、ヴォーンがつぶやいた。
「きっとそうです。もっとさしせまった危険から逃れるために、逃げなければならなくて母国を捨てたんでしょう、断然クロサック少年の復讐なんかじゃ、ないですよ。私だったら、海外調査をしますよ、警視」
「ユーゴスラビアに、電報を打つか」と、警視が「いい考えだ。今夜、打とう」
「ねえ先生」と、エラリーがヤードレー教授に言った。「人生は、例のごとく、いたずら好きなもんですね。あの連中は目の前の危険から逃げ出したのに、二十年後になって、得態の知れない危険に追いまわされているんですよ」
二十 二つの三角関係
エラリーとアイシャムとヴォーンが、邸の東の翼をまわって行くと、だれかが後から大声で呼んだ。一同が急いで振り向くと、テンプル医師だった。
「大評定は完了ですか」と、テンプルがきいた。診察鞄はどこかへ置いて、たばこを喫いながら、徒手《からて》で道をぶらぶら歩いていた。
「ああ――すみました」と、アイシャムが言った。
そのとき、ヨナ・リンカンの背の高い姿が、道の角を曲がってとび出して来た。エラリーとぶつかり、ヨナは、ぶつぶつ謝りながら、後ろに身を退《ひ》いた。
「テンプル君」と、他の連中には目もくれずに大声で「メガラさんはどうでしたか」
「おちつきたまえ、リンカン君」と、警視が無造作に言った。「メガラさんは大丈夫、脱腸ですよ。何をいらいらしてるんですか」
ヨナは額を拭いた。息をはずませていた。「おお、ここでは何もかも不思議だらけですよ。いやになっちゃうな。私たちには何も教えてもらう権利がないんですか。あなた方の一隊が、テンプルさんの後から、ヨットに行ったそうですね。だから、私はてっきり――」
「メガラさんがやられたとでも?」と、アイシャムがきいた。「いや、ヴォーン警視の言うとおりですよ」
「そうですか」リンカンのとがった顔付きから赤味が引き、少しおちついてきた。テンプル医師は、のんきにたばこを喫いながら、屈託なさそうに眺めていた。「とにかく、ここはまるで監獄ですよ」と、ヨナがこぼした「妹はブラッドウッドにはいるのに一騒ぎでしたからね。オイスター島から戻ったばかりで、桟橋にいる連中が――」
「リンカン嬢が戻った?」と、警視がすぐにきいた。
テンプル医師はパイプを口から放した。目に真剣な光りがあふれた。「いつですか」と、きいた。
「二、三分前です。刑事さんが、どうしても――」
「一人で?」
「ええ。刑事さんたちは――」気の毒にリンカンの憤慨は、口に出すひまもなかった。ぽかんと口をあいたきりだった。他の一同はぎょっとした。
邸内のどこかから、荒くけたたましい笑い声がきこえてきた。
「ヘスター」と、テンプル医師が叫んで、とび出し、リンカンを片わきにつきのけて、角を曲がって姿を消した。
「おやおや」と、アイシャムがかすれ声で「一体何事だろう」
リンカンはよろめきながら、医者の後を追い、エラリーがそれにつづき、他の連中も、どっとかけ出した。
叫び声は二階の方からだった。一同が応接室の前のホールになだれこむと、階段の近くに、執事のストーリングスが、血の気のない顔で立っていた。家政婦のバクスター夫人が、後ろのドアから、こわごわと首をつき出していた。
二階には寝室がいくつもあった。ちょうど、一同が踊り場に馳けつけたときに、テンプル医師のがっちりした姿が一室のドアから、とび込むのが見えた。……叫び声がつづいた。女のヒステリックにふるえる甲高い声がつづいた。
一同は、テンプル医師がヘスター・リンカンを抱いて、乱れた髪をなぜながら、おちつかせようとしているのを見つけた。若い女の顔はまっ赤になり、目はぎらぎらしてつつしみを失い、口はひきつってあいたままだった。そして、まるで声帯のコントロールを失ったように叫び声が、噴き出していた。
「ヒステリーの発作です」と、医師は、肩ごしに言った。「手伝ってベッドにのせて下さい」
ヴォーンとヨナが、とび出した。若い女の甲高い笑い声はいっそう高くなり、はげしく、あばれ始めた。ちょうどこの時、エラリーが廊下を急ぐ足音をききつけて、振り向くと、ネグリジェ姿のブラッド夫人が見え、ヘレーネが、戸口に姿をあらわした。
「どういたしましたの」と、ブラッド夫人は、おろおろしながら「何がおこったのですか」
ヘレーネが小走りで来た。テンプル医師は足で蹴りつづける若い女を、力まかせにベッドに押し倒し、ぱしりとその顔に平手打ちをくれた。叫び声がふるえて、やがてとまった。ヘスターはベッドの上に半身を起こして、ブラッド夫人の青ざめた、肥満した顔をにらんだ。理性の光りが目にともり、残忍な憎しみがあふれた。
「出て行って、あなたは――あなたは――見えないところへ出て行って」と、ヘスターが叫んだ。「きらいよ、あなたは大きらいよ、あなたのものはみんなきらいよ。出て行って。出て行ってと言うのよ」
ブラッド夫人は、かっとなった。唇がぶるぶる震えた。夫人の肩が、息のはずみにつれてゆれた。それから低い叫び声をあげると、くるっと身をひるがえして、姿を消した。
「お黙り、ヘスター」と、ヘレーネがきびしく、言った。「本気じゃないんでしょう。さあ、いい子だから、おとなしく寝てなさいね。本当に人騒がせね」
ヘスターの目が眼窩《がんか》の中でひっくり返ったように見えた。頭が、がっくりと垂れて、もみくちゃの袋のようにベッドに倒れかかった。
「出て下さい」と、テンプル医師が尊大に言った。「皆さん全部」
一同がのろのろと部屋を出るとき、医師は失神した若い女を仰向けに、長々と寝かせた。ヨナは昂奮して赤くなっていたが、なんとなくほっとした様子で、静かにドアをしめた。
「どうして発作を起こしたのかな」と、アイシャムが顔をしかめて言った。
「列しい感情的な経験の反動ですよ」と、エラリーがのんびり言った。「心理状態は正常かな」
「ニューイングランドの良心が」と、ヤードレー教授がつぶやいた。「大噴火したのさ」
「どうして島を離れたのでしょう」と、ヴォーンが言った。
ヨナが弱々しく微笑して「これですっかりかたづきましたよ、警視さん。だから、お話してもいいでしょうね。少しも不思議はないのです。ヘスターは、ロメーンというならず者に夢中になっていたのです。しかし、今度こそ、あわをくって帰って来たんです。どうやら、やつが――そう、振ったんでしょうよ」ヨナは暗い顔をして「もう一度、やつと片をつけなければなりませんよ、あの根性まがりめと。しかし、ある意味では、やつに感謝したいですよ。やつは妹の目を覚まして、正気にもどしてくれたんですからね」
警視が、つまらなそうに言った。「もちろん私の知ったことじゃないが、妹さんはやつが、詩を読んでくれるとでも思ったんですかね」
ドアが開き、テンプル医師があらわれた。「もう静まりました。そっとしといて下さい」と、うなるように「お嬢さん、引きとられた方がいいですよ」ヘレーネは、うなずいて、部屋にもどり、すばやく後ろ手にドアをしめた。「大てい、大丈夫でしょう。鎮静剤を与えましょう――鞄をとって来て……」と、急いで階段を降りた。
ヨナは、その後ろ姿をにらんだ。「妹は、戻って来たとき、ロメーンや、あのくだらない裸体主義者どもとは、すっかり手を切ったと言いました。ここを離れて、どこかへ行きたいというのです――ニューヨークにでもね。独りになりたいそうです。いいことですよ」
「ふーん」と、アイシャムが「ロメーンは今、どこにいるかな」
「島でしょう。この辺には顔を見せませんよ、あのいやらしいやつ――」ヨナは唇を噛んで肩をしゃくった。「ヘスターがブラッドウッドを出てもいいでしょうか、アイシャムさん」
「そうだな……どうだね、ヴォーン君」
警視はあごをなぜた。「われわれが用があるときに、居所がわかっていれば、さしつかえないと思いますがね」
「君が妹さんの責任を持つでしょうね、リンカンさん」と、アイシャムがきいた。
ヨナは熱心にうなずいた。「絶対誓います――」
「ところで」と、エラリーが低い声で「なんで妹さんが、ブラッド夫人といがみ合うのか、正確に知りたいですね、リンカンさん」
ヨナの微笑が消えた。目の中におびえる色が見えた。「まるっきり思いつかないんですよ」と、抑揚のない声で「妹の言葉を気にしないで下さい。あれは何を言ったのかわかってはいないんです」
「そりゃおかしい」と、エラリーが「とても、はっきりしゃべったように私には見えましたがね。警視、私たちは、ブラッド夫人と話し合ってみるのも、手でしょうよ」
「そんなことしたって――」と、すぐリンカンが言った。そして立ちどまった。一同は下の階段を振り向いた。
ヴォーンの部下の一人が、そこに立っていた。
「ロメーンという男と、あのじいさんが」と、その刑事が言った。「船着場へ下りました。あなたと話がしたいそうです、警視」
警視は両手をこすり合わせた。「ほう、そりゃうまいな。いいとも、ビル。すぐ行く。ブラッド夫人との話はのばしましょう、クイーンさん。あとにとっときましょう」
「私も一緒に行ってもさしつかえないでしょう」と、ヨナが、穏やかにきいた。もう、右手のこぶしをにぎりしめていた。
「ふん」と、警視が言って、にやにやと、その握りこぶしを見た。「文句はないですよ。おいでなさい」
一同は小道を大股に歩いて行った。テニス・コートの近くで、黒い鞄を持って急ぐテンプル医師に行き合った。テンプルはにたっと笑った。何か他のことを考えているらしかった。明らかに東側の自分の邸から、ブラッドウッドへ近道をして来たので、オイスター島から来た二人の客人に気づかなかったらしい。
ヨナは苦い顔で歩いていた。
ポール・ロメーンの陽にやけた巨体が、船着場に、にょっきり立っていた。しなびて小さい気違いのエジプト学者ストライカーが桟橋につないだモーターボートに、ふるえながらすわっていた。二人とも服を着ていた。不老不死のラ・ハラーフトは、この訪問に当って、神としてよりも人間としてふるまう方が有利だと、薄々感じたらしく、いんちきな神性を示す純白の衣や呪棒を持って来なかった。警察艇が近くを漂い、数人の刑事がロメーンのわきに立っていた。
ロメーンの足は、板張りの桟橋の上に、仁王立ちになっていた。その背景をなして、オイスター島のおもちゃのような木立のふちや、ヘレーネ号のゆるやかにゆれる白い船体が、いかにも似つかわしかった。この男はなんになろうが、結局は、自然児だった。しかし、その顔は不安の色をうかべ、それをまぎらせるために薄笑いをうかべたいような心境らしかった。
ロメーンはすぐに言った。「お手数をかけて申し訳ありませんがね、警視さん。少しご相談したいことがありますんで」と、口調はものやわらかで、目はじっとヴォーンを見つめ、ヨナ・リンカンには目もくれなかった。ヨナは呼吸を静めて、もの珍しそうに、ロメーンをじろじろ見ていた。
「それで」と、警視が、太い声で「なんの用かね」
ロメーンは、ちらっと後ろを振り向いて、縮み上っているストライカーの姿を見た。「あなたは、教祖と私の仕事をぶちこわしそうにしているんですよ。私たちのお客を島におし込めてるんですよ」
「そうか。そりゃ君らに好都合じゃないのか」
「そりゃそうですが」と、ロメーンは腹の虫を押えて「しかしそれじゃ困るんです。連中はみんな子供みたいに、おびえちまってるんです。出て行きたいのに、あなたが出させないんですからね。しかし、私が心配してるのはあの連中のことじゃない。ほかの連中のことですよ。もうほかの客たちが来ないでしょうからね」
「それで」
「島を離れる許可をいただきたいんです」
いきなり、モーターボートのストライカー老人が立ち上って「これは迫害じゃ」と叫んだ。「予言者はおのが郷《さと》のほかにて尊ばれざることなし〔マタイ伝十三、五十七〕! ハラーフトは福音を説く権利を要求する――」
「静かにしなさい」と、ロメーンが荒々しくどなったので、狂人は、口をあけたまま腰を下ろした。
「ちんぷんかんぷんだ」と、ヤードレー教授がつぶやいた。顔を青くしていた。「全くのちんぷんかんぷんだ。あの男は本ものの気違いだ。マタイ伝を引用しながら、エジプトやキリスト教の神学をしゃべりちらしている……」
「ところが、許可できんな」と、ヴォーンがはっきり言った。
ロメーンのととのった顔がすぐに強わばった。こぶしをかためて、一歩ふみ出した。それを取りまいている刑事たちも、自然に、にじり寄った。しかし、おだやかにすませたいらしく、いきり立つ気分を静めて、態度をやわらげた。
「なぜですか」と、かろうじて虫をおさえてきいた。「私たちに文句をつけることは何もないでしょう、警視さん。私たちはおとなしくしていましたよ、そうでしょう」
「よく聞け。お前と、あのおいぼれ山羊《やぎ》は、出してやるわけにはいかん――だれがなんと言っても。なるほど、お前たちはおとなしくしていた。しかし、私に関する限り、お前たちは二人とも黒か白かのせとぎわなんだぞ、ロメーン。トマス・ブラッドが殺された晩、お前たちはどこにいた?」
「言ったじゃありませんか。島ですよ」
「ああ、そうか」と、警視は楽しそうに言った。
またロメーンが怒り出すかと思ったのに、考え込んだので、エラリーは、びっくりした。警視の小鼻がふるえた。全く偶然に、警視は何かを思いついたらしかった。アイシャムが口を開きかけたが、ヴォーンが肘でついたので、口をつぐんだ。
「どうだ」と、ヴォーンがどなった。「こんなことで一日かけちゃおられん。泥を吐け」
「もし」と、ロメーンがゆっくり言った。「もしあの晩どこにいたかを、ちゃんと証明できたら――信用できる証人を立てたら、私を放免してくれますか」
「ああ」と、アイシャムが「もちろんだよ、ロメーン」
そのとき、一同の背後で、かすかなざわめきがおこったが、エラリーの他、だれも気づかなかった。ヨナ・リンカンが平静を失ったのだ。のどでうなりながら人垣に割り込もうとした。エラリーは手で、リンカンの二の腕をにぎりしめた。つかれまた腕は、ふくれて硬くなっていたが、リンカンは、ぴたりと立ちどまった。
「よろしい」と、ロメーンがいきなり言った。小鼻のあたりがやや白けていた。「これだけは言うまいと思っていたんだが、というのは、ひとに迷惑をかけるから――そう、誤解する者があるかもしれないんでね。しかし、私たちはどうしてもここから出なければならない……私はあの晩――」
「ロメーン」と、ヨナの声が、はっきりきこえた。「それ以上、ひとことでもしゃべってみろ、きっと殺してやるぞ」
ヴォーンが、くるりと振り向いた。「おい、静かにせんか」と、どなりつけた。「何をしゃべろうと、君は引っ込んでろ、リンカン」
「おぼえとけよ、ロメーン」と、ヨナが言った。
ロメーンは大きな頭をゆすって笑い出した――エラリーのえりもとの毛がさか立つような、吠えるような笑声だった。「しゃらくさい」と、ロメーンは、吐いてすてるように「前にも入江にたたきこんだのに、もう一度、やられたいのか。お前にしろだれにしろ、このきたならしい場所に住んどるやつなんか、屁とも思っちゃいないぜ。その話ってのは、警視さん。あの晩の十時半から十一時半までの間は――」
無言で、ヨナが腕を振りまわしながら、とび出した。エラリーが叱り声もろとも、さっと片腕を首にかけて、ひきもどした。一人の刑事が、この騒ぎにとび込んで、ヨナのカラーをひっつかみ、締め上げた。ちょっともがいたが、ヨナは鎮まった。ヨナは、はあはあ喘ぎながら、燃えるような目に殺意をこめて、ロメーンをにらみつけた。
ロメーンは早口に言った。「私は、ブラッドの奥さんと、オイスター島にいたんでさ」
ヨナが、エラリーの腕を振り切った。「わかりましたよ、クイーンさん」と、冷たく言った。「もう大丈夫ですよ。やつはしゃべっちまったんだ。しゃべりたいだけしゃべらせたらいいんだ」
「なんだって――オイスター島に、ブラッド夫人と?」と、警視がたたみ込んだ。目を細めて「二人きりですか」
「おお、あんたも、いい年をしてさ」と、ロメーンがやり返した。「言ったとおりでさ。岸の、木蔭で一緒に一時間、過ごしたんでさ」
「その晩、ブラッド夫人はどうやって島へ行ったんだ」
「デートしたんでさ。私がブラッドウッドの船着場で、ボートで待ってたんです。行くとすぐ、出て来ました。十時半のちょっと前でした」
ヴォーン警視は、みじめにほぐれた葉巻を片方のポケットからとり出して口にくわえた。「お前は島へもどっとれ」と言った。「いずれお前の話は調べてみる。あのおいぼれも連れて行け……ところでリンカン君」と、ロメーンに背を向けて、考えながら言った。「もし、このハイエナみたいな血のくさった小ぎたないやつに、一、二発お見舞いしたいなら、やってもいいですよ――私は――そう――邸へもどりますよ」
ロメーンは、あっけにとられて桟橋の上に立っていた。刑事たちが囲みを解いた。ヨナは上衣を脱ぎすて、腕をまくって、前進した。
「一つ目は」と、ヨナが「妹に変なまねをしたお返しだ。二つ目は」と、重ねて「愚かな女性の頭を狂わせたお返しだ……これでも、くらえ、ロメーン」
老狂人は、ボートの船べりにしがみついて、金切り声をあげた。「ポール、戻って来い!」
ロメーンは、すばやく、まわりの敵意にみちた顔を見まわした。「まず、貴様のおむつをはずして、かかって来い」と言い、大きな肩をしゃくって、半分背をみせて歩きかけた。
ヨナの鉄拳が、男のあごに炸裂《さくれつ》した。ヨナが数週間もはぐくんで来た悲痛な思いをこめ、よくねらい定めた凄い一発だった。普通の力の男なら失神するほどの一撃だった。しかしロメーンは雄牛のようなやつで、わずかによろめいただけだった。ロメーンは、目をぱちぱちさせて、そのハンサムな顔をがらりと変え、山猫のようなうなり声とともに、棍棒のような巨大な右手の拳を、さっとひらめかした。ものすごいアッパーカットで、ヨナは板張りの桟橋の上で一インチもはね上り、気を失って、板の上にどさりと崩れた。
ヴォーン警視のご機嫌がふっとんだ。警視が大声で「さがれ」と部下たちに叫ぶと、矢のようにとび出した。ロメーンは、巨体にも似合わず、おどろくべきす速さで身をひるがえし、桟橋から、ストライカーが縮こまっているモーターボートにとび移り、あおりをくらって沈みそうなボートを、ガルガンチュア〔ラブレーの巨人伝〕のような腕のひと押しで、岸をはなれた。モーターがうなり出し、ボートはオイスター島へ向かって、矢のように走り出した。
「おれはランチに乗る」と、警視がおちつきはらって言った。「お前たちは、この気の毒な男を連れてもどれ――すぐにもどって来る。やつには、みせしめが必要だ」
ランチがモーターボートを追って、桟橋をはなれたとき、エラリーは、倒れた戦士のかたわらにひざまずき、血の気を失った頬をそっと平手でたたいた。ヤードレー教授が、桟橋にはらばいになって、湾の水を、手の平にすくい上げた。
刑事たちは、上衣を脱いで、エイハブ船長〔メルヴィル「白鯨」〕のように、ランチのへさきに立っている警視に、わいわいと声援を送った。
エラリーはヨナの顔に水をふりかけた。「すばらしい見本ですよ」と、教授の顔を憮然《ぶぜん》としてみながら「正義の勝利のね。しっかりしなさい、戦いは終ったよ、リンカンさん」
十五分後に、ヴォーンが邸の角を曲がって来たときには、一同は植民地風の邸のポーチにすわっていた。リンカンはゆり椅子に腰をかけて、両手であごをおさえ、まだ顔についているのが不思議だというようすだった。エラリー、アイシャム、ヤードレーは、そ知らぬ顔で、ヨナに背を向け、のんびりとたばこを喫っていた。
警視の顔は、たしかに天使のようだとはいえなかった。鼻のあたりに血がこびりつき、片方の目の下が切れていたからだが、それにもかかわらず、警視は騎士的な試合に満足しているらしかった。
「やあ」と、愉快そうに声をかけて、ポーチの柱の間をどすどすと上って来た。「やあ、リンカンさん、あなたの代理がやつをのして来ましたよ。堂々たる戦いでしたが、ひと月は鏡をのぞきたくない女たらしが一人できましたよ」
ヨナがうめいた。「私は――なんとしても、かないませんでしたよ。私は卑怯者じゃないが、しかし、あの男は――ゴリアテ〔バイブルの中の巨人〕みたいだ」
「すると、私は小さなダビデというわけだ」ヴォーンは、すりむけたこぶしを舐めた。「あの気違いじいさんが目をまわすかと思いましたよ。なにしろ、一番弟子を、こてんこてんにのばしちゃいましたからね。どうです、え、教授? リンカンさん、顔を洗った方がいいですよ」警視は、微笑を消した。「さて、仕事にもどりましょう。ブラッド夫人に会いましたか」
突然、ヨナが立って、家にはいった。
「まだ二階にいるだろうよ」と、アイシャムが言った。
「そうですか」と、警視が言い、リンカンの後から急ぎながら「リンカンが会う前に、つかまえましょう。リンカンはなかなか紳士的にふるまっていますし、それはそれでいいが、今度は公式の調査ですからね、それに、だれかから真相を聞き出してもいいころですよ」
ヘレーネはまだヘスター・リンカンの部屋にいるらしかった。テンプル医師も二階にいるようだとストーリングスが言った。医師はかなり前に診察鞄を持って二階に上ったきり出て来ないとのことだった。
一同が寝室のならんでいる二階に着いたとき、ちょうどリンカンが自分の寝室にはいるのが見えた。ストーリングスに案内されて一同は邸の裏向きのドアに行き、警視がノックした。
ブラッド夫人のふるえ声が「どなたですか」
「ヴォーン警視です。はいってもいいですか」
「どなた? おお、ちょっとお待ち下さい」夫人の声はひどくおびえていた。待っていると、ドアが少し開いた。ブラッド夫人のかなり美しい顔があらわれた。目は泪《なみだ》ぐんで、不安そうだった。「なんのご用でしょうか、警視様。私は――気分がすぐれませんの」
ヴォーンが、静かにドアを押した。「知っています。しかし、大事な用なのです」
夫人が身を退《ひ》いたので、一同ははいった。ひどく女らしい部屋だった。香水の匂いがたちこめ、けばけばしく、方々に鏡があって、化粧台は化粧品でいっぱいだった。夫人は、ネグリジェをかき合わせながら、じりじりと後ろに退がった。
「奥さん」と、アイシャムが言った。「ご主人が殺された夜の十時半から十一時半の間、どこに居られましたか」
夫人はネグリジェをかき合わす手をとめ、後ずさりするのをやめた。危く息がとまりそうだった。「どういうことでございますの」と、やがて、ききとれぬような声できいた。「私は、劇場におりました娘と、それから――」
「ポール・ロメーンが」と、ヴォーン警視が穏やかに「オイスター島で、あなたと一緒だったと言うんですよ」
夫人はたじろいだ。「ポールが……」黒い大きな目がおちつきを失った。「あのひとが――あのひとが言ったのですか」
「そうです、奥さん」と、アイシャムが重々しく答えた。「あなたが、どんなにおつらいかはわかりますがね。ただそれだけで、ほかに何もないのなら、われわれが口出しすべきことじゃありません。包みかくさず話して下されば、今後二度と、このことにはふれないつもりですよ」
「嘘ですわ」と、夫人は叫んだ。そして、急に更紗《さらさ》張りの椅子に腰を下ろした。
「いいえ、奥さん。本当です。あの晩、あなたとお嬢さんがパーク劇場に行かれたのに、リンカンさんとお嬢さんだけが、タクシーで邸に戻られた事実と符合しています。それに、あの晩の九時ごろ、第一幕の途中で、劇場のドアマンがあなたとそっくりな婦人が出て行くのを見たという事実とも符合します。……ロメーンは、あなたと約束があって、桟橋の近くであなたと会ったと言っていますよ」
夫人は耳をふさいだ。「やめて下さい」と、うめいた。「気が狂っていたのです。どうしてあんなことになったかわかりません。私はばかでした。……」一同は目を見合わせた。「ヘスターは私を憎んでいました。あれも、あのひとが好きだったのです。あの娘は――あの娘は、あのひとがまともな人間だと思っていたのです……」夫人の顔には、まるで新しくきざみこまれたように、年のしわが、くっきりとあらわれた。「けれど、あのひとは、一番ひどいけだものです」
「あいつに、いつまでもそんな真似はさせておきませんよ、奥さん」と、ヴォーン警視が苦々しく言った。「だれもあなたを裁いたり、裁こうなどとはしていませんよ。あなたの生活は、あなた個人のものですからね。そして、もしあなたが、あんなごろつきにまきこまれるような、ばかな真似をなさったのなら、もう充分に苦しまれたことでしょう。われわれが今関心を持っているのは、あの晩、あなたがどうやって帰宅されたか、どんなことがあったかを、正確に知りたいだけなんですよ」
夫人はひざのうえで指をもみ合わせていた。|おえつ《ヽヽヽ》していた。「私は――私は芝居が始まるとじきに劇場を抜け出しました。ヘレーネには、気分が悪いと言って、あなたは残ってヨナを待つようにと説得しました。……それから、ペンシルベニア駅に行って、最初に来た列車で戻りました――運よくほとんどすぐに列車が来ました。私は――私は一駅先で列車を降り、ブラッドウッドのすぐ近くまでタクシーに乗りました。あとはずっと歩きましたけれど、だれにも会わなかったようでしたわ。それで――それで……」
「もちろんあなたは」と、アイシャムが「戻られたことをご主人には知られたくなかったのですね。そうでしょう」
「はい」と、夫人は低い声で言い、その顔には、にぶい不健康な赤みがさしていた。「私は船着場で――あのひとと会いました」
「何時でしたか」
「十時半、ちょっと前でした」
「何も、見ず、何も聞かなかったのはたしかですね。だれにも会わなかったのですね」
「ええ」夫人はつらそうな目で見上げた。「おお、わかっていただけませんの――すっかりお話しましたのに――何か見たり、だれかに会ったりしたのでしたらすっかり申し上げますわ。それから――家に帰りましたときは、そっとはいって、まっすぐに自分の部屋にまいりました」
アイシャムが次の質問をしようとしたとき、静かにドアが開いて、ヘレーネ・ブラッドが姿を見せた。ヘレーネはじっと立って、母のゆがんだ顔と、一同の顔を見まわしていた。「どうなさったの、お母さま」と、言って、きびしい目付きになった。
ブラッド夫人は顔を手で覆うて、忍び泣きを始めた。
「そう、とうとう知れたのね」と、ヘレーネはつぶやいた。そして、ゆっくりドアをしめた。「気が弱くて隠しきれなかったのね」さげすむような目を、ヴォーンから、アイシャムに移し、すすり泣いている女の方へ行った。「泣かないで、お母さま。知れてしまったら仕方がないわ。もう一度ロマンスをつかもうとして失敗した女が一人いただけのことよ。どうってこともないわ……」
「かたづけてしまいましょう」と、ヴォーンが「われわれにとっても、あなた方と同様、いやな仕事なのです。あなたと、リンカンさんには、あの晩のあなたのお母さまの居所が、どうしてわかったのですか、お嬢さん」
ヘレーネは母親のそばに腰かけて、そのゆれている背中をやさしくたたいていた。「さあさ、お母さま……あの晩、母が出て行ったとき――そう、気がつきました。でも、母は私が気がついてるのは知りませんでした。私も気が弱かったのです」と、床を見つめて「私は、ヨナを待つことにしました。私たちは二人とも気がついていたのです――そう、以前から、あることをね。ヨナが来たとき、私は母のことを話して、二人で帰宅しました。そして私がこの部屋をのぞいて見ると、お母さまはベッドで、ぐっすり寝ていました。……でも、次の朝、あなた方があの――死体を見つけられたときに……」
「あなたに告白されたのですね」
「ええ」
「二つだけおききしたいのですが」と、エラリーが真面目に言った。母親そっくりの大きな目を、ヘレーネがエラリーに向けた。「最初にそのいきさつに気づかれたのはいつでしたか、お嬢さん」
「おお」と、ヘレーネは苦しそうに頭を振った。「何週間も前のことですわ」
「あなたの義理のお父さんは、気がついていたと思いましたか」
ブラッド夫人は不意に頭をもたげた。その顔は泪と頬紅とでまだらになっていた。「いいえ」と叫んだ。「いいえ」
ヘレーネがささやいた。「知らなかったのは、たしかですわ」
地方検事アイシャムが言った。「これで結構だと思います」と短かく、それからドアへ歩みよった。「行こう」と、廊下へ歩み出た。
ヴォーン警視、ヤードレー教授、エラリーが、おとなしくその後に続いた。
二十一 口げんか
「骨折り損ばかりですね」と、次の晩、エラリーは、ヤードレー教授の邸の芝生にすわって、ロングアイランドの星空を眺めながら言った。
「ふーん」と、教授が言った。そしてため息をついたとき、たばこの火が、パイプからこぼれた。「実を言うと、私は、いつ花火の打ち上げが始まるかと心待ちにしているのだよ、クイーン君」
「そうせっかちにならないで。いずれ、花火がぱんぱん上るでしょうからね。今夜は独立記念祭〔七月四日〕ですもの……そら、星玉が上った!」
二人は黙って、輝く光りの矢が、暗い空にするすると上り、炸裂してぱっと、びろうど色の雫《しずく》になるのを眺めていた。その花火が合図だったらしく、すぐに、ロングアイランドの全海岸が火を噴き出して、二人がすわって見上げている空一面に、ノース・ショアの祝典がくりひろげられた。やがて、はるかニューヨーク海岸の上空にも、それに答えて、螢火のような火が上るのが、湾を距てて見えた。
教授が不平そうに「私は君の探偵としての花々しい手腕については、いやになるほど聞いていたのに、現実になると――失敬な言い方ですまんが――がっかりだね。いつ、始めるんだね、クイーン君、私の言うのは――いつ、ホームズが乗り出して、卑劣な殺人犯人の手首に、手錠をかませるかということなんだがね」
エラリーは北斗七星を背にして、とびまわり渦まく、気違いじみた光模様を、ゆううつそうに眺めていた。「ぼくはこの事件にはそういう始りとか結着というものは、ないのじゃないかという気がしかけているんです……」
「そうは思えんね」と、ヤードレーはパイプを口から離した。「警官隊を引き上げさせたのは、まずかったと思わんかね。今朝、テンプルから聞いたのだが、郡警察の警視が、引上げ命令を出したそうだ。私には、わけがわからんよ」
エラリーは肩をすぼめて「なぜですか。明らかに、クロサックは二人の人間だけを追っているんです――スティヴン・メガラと、アンドリュー・ヴァン、ツヴァル兄弟と呼ばれてもいいですがね。メガラは水上に切り離されているし、ヴォーンの部下が充分に護っていますし、ヴァンの方は、あの変装でまず安全です。
今度の二度目の犯罪には多くの要素がふくまれていて、議論の余地もありますし、それらはある意味では非常に啓発的ですよ、先生。しかし、それだけではどうにもならないような気がします」
「私にも手がつかんね」
「本当ですか」エラリーは言いかけて、ローマ花火の噴き上るのを眺めていた。「先生には読みとれないとおっしゃるんですか――あの、すばらしく興味のあるチェッカーの問題が」
「チェッカー、ね」ヤードレーの短かい口ひげが、パイプの火ざらの火照《ほで》りにぼんやり浮いた。「白状するがね。いわば、ブラッドの最後の晩餐については、とくに思いつくことが何もないのだよ」
「すると、ぼくは失った自信をとりもどすな」とエラリーがつぶやいた。「あの問題は非常にはっきりしています。だが、待てよ、あれは、ヴォーンやアイシャムが、思いこんでいるよりは、ずっと明白なのに……」エラリーは立って、ポケットに手をさし込んだ。「先生、すみませんが許して下さい。ぼくは考えをはっきりさせるために散歩したいんですが」
「いいとも」教授は後ろによりかかって、パイプをくわえ、深い興味をもって、エラリーを見送った。
エラリーは星と花火の下をぶらぶら歩いた。時々、ぱっと明るくなるほかは、あたりは暗く、田舎《いなか》の闇夜《やみよ》だった。ヤードレーの邸とブラッドウッドの間の道を、手さぐりで歩きながら、夜の匂いをかぎ、海上の祭の船のざわめきをきき、気落ちしたテリア犬のように、自分の間抜けさにがっかりしていた。
ブラッドウッドは、ポーチについている常夜灯のほかは――ドライブウェイを歩いているエラリーには、灯の下でたばこを喫っている二人の刑事が見分けられたが――ひっそり閑としていた。右手の木立は、ぼわっとかぶさりかかり、左手の森はやや遠くに続いていた。邸の前にさしかかると一人の刑事が立って叫んだ「だれだ」
エラリーはまぶしい懐中電灯の光りをさえぎるために片手を上げた。
「おお」と、刑事が「失礼しました、クイーンさん」電光が消えた。
「耳ざといな」と、エラリーは、つぶやき、邸をまわって行った。
どうしてこっちの方に足が曲がったか理由はわからなかった。なんとなく、不気味なトーテム・ポストと亭屋《あずまや》の方へ、小路をとっていた。小路とその突き当りから発散する恐怖の磁力が――おそらく潜在意識にある犯罪現場の恐ろしさが――エラリーをとらえたので、急いで通り過ぎた。行く手の本道はまっ暗だった。
ふと足をとめた。すぐ右手のテニス・コートのあるあたりで、言い争う声がきこえた。
さて、エラリー・クイーンは紳士だし、紳士としてふるまっているが、犯罪と皮肉なつき合いのあるほかは、あらゆることに心やさしい父の名警視から、教えられたことが一つあった。それはすなわち「常に人の話にきき耳を立てろ」ということだった。老人はいつも言っていた。「銭のかからん唯一の証拠は、盗聴されていないと思っとる人々の会話だよ。そんなときには、よく聴き耳を立てるんだ。そうすれば証人をならべて百の訊問をするより効果があるもんだ」
そこで、柔順な息子のエラリーは、そのまま立って、耳を立てることにした。
男と女の声だった。ききなれた声だが、言葉はききとれなかった。低くしゃがみこんでいたので、それ以上かがめないほどだった。インディアンのようにこっそりととんで、音のたちやすい砂利道から、草のしげっている道ばたへ移り、声のする方へ、用心しながら進んで行った。
声の主たちの素姓が、はっきりとわかって来た。ヨナ・リンカンと、ヘレーネ・ブラッドだった。
二人はテニス・コートの西側のガーデン・テーブルに腰かけているらしかった。エラリーは、その場所の配置を、ぼんやりと思い出した。そして、二人から五フィートばかりのところに、忍び寄り、一本の木のかげに、はりついた。
「そんなこと否定してもむだよ、ヨナ・リンカン」と、ヘレーネが冷たい声で言うのがきこえた。
「でも、ヘレーネ」と、ヨナが「ぼくがくどいほど言っといたじゃありませんか、ロメーンは――」
「ばかばかしい。あのひとはあんな無茶なことはしないはずよ。ただ――ただあなたが、妙な考え方をしているだけで、あなたは――あなたは、本当に卑怯よ……」
「ヘレーネ」ヨナはひどくきずつけられた。「どうしてそんなことが言えるの。そりゃ、ガラハット卿〔アーサー王物語の騎士〕みたいに、二度ほど、あいつをなぐりつけようとして、逆にのめされたのは事実だが、しかしぼくは――」
「そうね」と、ヘレーネが「きっと、それがいけなかったのよ、ヨナ」言葉がとぎれた。エラリーはヘレーネが泣き出すまいとこらえているのだと思った。「もちろん、あなたが手をこまぬいていたとは言えないわ。でも、いつも、あなたは――そう、お節介なのよ」
エラリーは目に見るようにその情景を思い描いた。青年は、体をかたくした。きっとそうだった。「そうですかね」と、ヨナは苦々しげに言った。「わかりましたよ。それが聞きたかったんですよ。お節介ですって、へっ? 傍観してろと言うんですか。なんの権利もないと言うんですか。わかりましたよ、ヘレーネ。もうお節介はやきませんよ。じゃあ行きます――」
「ヨナ」今度はヘレーネの声があわてていた。「どういう意味なの。私はなにも――」
「言ったとおりさ」と、ヨナがどなった。「この五年間ぼくは、いい子になって、いつも海にとりつかれている男と、いつも家の中でチェッカーばかりしている男に、犬みたいに仕えて来たんですよ。それももう、おしまいさ。月給だって大したことはないさ。ぼくはヘスターをつれて出て行きますよ、本当に。あなたの大事なメガラさんには、そう話しときましたよ。今日の午後、ヨットでね。その代り、あのひとの商売は自分でやったらいい。ぼくはあのひとのために働くのが、いやになったんです」
相対する二人が口を開くまでには、ちょっと緊張した間があった。木かげにかくれていたエラリーは、そっとため息をついた。先がどうなるかわかっていた。
ヘレーネが、そっと吐息をもらすのがきこえ、ヨナが体を固くするのが感じられた。「だって、ジョー」と、ヘレーネが低い声で「それじゃまるで――まるで、お父さまの恩を着ていないようじゃない。お父さまは――ずいぶん、あなたにはよくしてらしたわ、ねえ、どうなの」リンカンの答えはなかった。「それに、スティヴンのことだけれど……おお、あなたは今度は何も言わなかったけれど、私は前に何度も言ったわ。私たちの間には何もないのよ。あなたはなぜそんなに――そんなにあの人に意地悪をしなくちゃならないの」
「意地悪なんかしてませんよ」と、ヨナが威厳をつくった。
「してるわ。おお、ヨナ……」また言葉がなくなった。その間に、エラリーは、若い女性が、カリプソ〔オデッセイを魅した海の妖女〕のように、そのいけにえに向かって、かがみこむか椅子をずり寄せるかする図を想像した。「今まで、一度もお話しなかったことを聞かせてあげるわ」
「えっ」ヨナがおどろいて、すぐに言った。「たくさんですよ、ヘレーネ。少しも興味がないからね――もし、メガラのことならね」
「ばかね、ジョー。スティヴンが今度の航海で、丸一年も留守にしたのは、なぜだかわかる?」
「さっぱりわかりませんよ。きっと、お好みに合うフラ・フラ娘でもハワイで見つけたんでしょう」
「ヨナ。ひどいわよ。スティヴンはそんな人じゃないの、知ってるじゃないの……いいこと。あの人、私に結婚を申し込んだのよ。ねえ。それだからなのよ」ヘレーネは勝ち誇るように言い切った。
「へえー、そう。そりゃよかった」と、ヨナがどなった。「でも、未来の花嫁にひどい扱い方をしたもんだなあ。一年も放っとくなんて。お二人の幸せを祈りますよ」
「でも私――断わったのよ」
エラリーは、もう一度ため息をして、こっそりと道にもどった。エラリーにとって、夜は相変らず荒涼としていたが、リンカン氏とブラッド嬢にとっては……言わぬが花だ。エラリーはどんなことになるか、およそ、見当がついた。
二十二 外国通信
「あらゆる徴候からみて」と、エラリーは二日後の水曜日に、ヤードレー教授に言った。「正義は尻尾をまいて、古巣にまいもどっているようですよ」
「というと?」
「失敗した警官には、ある種の一般的な兆候が見られるものです。なにしろ、私はずっと警官と一緒に過して来たのですからね……ヴォーン警視は、新聞の最もお手やわらかな言葉で言うと、どうも迷宮入りになりかけていますよ。何ひとつ、具体的なものは握っていません。そこで、むやみに法の番人になり、見さかいもなく人々を追いまわし、気違いのように部下の尻をたたいて無駄な努力をさせ、友人にかみつき、同僚をないがしろにし、すべてこれ、機嫌をそこねたばか殿様のまねをしています」
教授がくすくす笑った。「私が君なら、この事件をすっかり忘れてしまうよ。休養してイリアド〔ギリシア伝説〕でも読むよ。それとも、何か美しい文学作品か英雄物語をね。君もヴォーンと同じカヌーを漕いでいる。ただ沈みっぷりは君の方がうまいようだが」
エラリーはふんと鼻を鳴らしてシガレットの吸いさしを草の中に、はじきとばした。
エラリーはしょげていた。それ以上に心配していた。事件の論理的解決が思い浮かばないことよりも、その進展の惰性が失われはしまいかということの方が、倍も気になった。クロサックはどこにいるのか。何を待っているのか。
ブラッド夫人は寝室にとじこもって、犯した罪を悔いなげいていた。ヨナ・リンカンは、やめるとは言ったものの、ブラッド・アンド・メガラ商会の事務室に戻って、絨毯《じゅうたん》好きのアメリカ人に絨毯を売っていた。ヘレーネ・ブラッドは気もそぞろに、ふわふわしていた。ヘスター・リンカンは、テンプル医師と激しくやり合ったあと、荷物をまとめて、ニューヨークへ行ってしまった。したがって、テンプル医師は、パイプをくわえて、ブラッドウッドをうろつきまわり、浅黒い顔をいっそう陽にやいていた。オイスター島はひっそりしていて、時々、ケチャム老人が姿を見せたが、平底船を漕いで食料や郵便物を運ぶ本来の仕事で往復するだけだった。フォックスは静かに芝生を手入れしたり、ブラッド家の自動車を運転していた。
アンドリュー・ヴァンは、ウェスト・ヴァージニアの山に雲がくれしていた。スティヴン・メガラはヨットにこもっていた。スウィフト船長の他の乗組員たちは、解雇され、ヴォーン警視の許可を得て退散した。メガラの護衛についている二人の刑事は、ヘレーネ号のデッキでごろごろしていた――酒を飲んだり、たばこを喫ったり、カジノ〔トランプ遊び〕をしたりしていた――メガラはその解任を主張した。自分の世話は完全に自分でできる、と言いきるのだ。しかし、水上警察は湾内のパトロールを続けていた。
スコットランド・ヤード〔イギリス警視庁〕からの電報もこの単調さを破る力は、ほとんどなかった。その電報は
パーシー オヨビ エリザベス リン ニカンスル ソノゴノ コクナイチヨウサハシツパイ
タイリク ケイサツニ シヨウカイ アリタシ
〔パーシー及びエリザベス・リンに関する、その後の国内調査は失敗、大陸警察に紹介ありたし〕
そんなわけで、ヴォーン警視は、エラリーの言うとおり、機嫌を害ねたばか殿様然と振舞い、アイシャム地方検事は自分の事務室にとじこもるという口実で、抜け目なく事件から息抜きをし、エラリーはヤードレー教授のプールで熱をさましたり、教授の秘蔵本を読んだりして、心身ともにめぐまれた休暇を――くさぐさの神に感謝していた。と同時に、道を距てる大邸宅に心配そうな片目を注いでいた。
木曜日の朝、エラリーが、ブラッドウッドへ、ぶらりと出かけてみると、ヴォーン警視がポーチに腰かけて、陽にやけた首と濡れたカラーの間に、ハンカチをはさみ、扇を使いながら、暑さと、警官たちと、ブラッドウッドと、今度の事件と、自分自身とを、ごっちゃまぜにして呪っていた。
「何もありませんか、警視」
「何ひとつないですよ」
ヘレーネ・ブラッドが、白いオーガンディの服で春の雪のように涼しげに、邸から出て来た。お早うとつぶやき、階段を降りて、西側の小道へ曲がって行った。
「ちょうど今、記者どもに出しがらをくれてやったところです」と、ヴォーンが苦々しげに「経過、発展。この事件は結論が出ないまま、発展中に消えるんじゃないでしょうかね、クイーンさん。一体、クロサックのやつはどこでしょう」
「反語ですね」エラリーは眉をしかめてシガレットを見つめた。「正直、私にもわかりません。あきらめたんでしょうかね。そんなことはありそうもない。狂人はあきらめないものですよ。すると、なぜ、時間をかけているんだろう。われわれが、この事件を難物とあきらめて、手をひくのを待っているのかもしれませんね」
「まさかね」と、ヴォーンはひとりごとを言って、はっきりと「私は、必ず、『最後の審判の日』まで頑張りますよ」
自然に二人はだまり込んだ。ドライブウェイにとりまかれた庭園で、仕事服をつけたフォックスの背の高い姿が、芝刈機をからからならしながら、働いていた。
突然警視が居ずまいを正したので、目をなかばとじてたばこを喫っていたエラリーは、はっとした。芝刈機の音がとまった。フォックスが、じっと立って、斥候兵のように、頭を西の方へ向けていた。やがて、芝刈機を放り出すと、花壇をとびこえて、一目散に駈け出した。西へ向かって走っていた。二人はとび上った。警視が叫んだ。「フォックス、どうしたんだ!」
フォックスは停らずに、はねつづけた。そして森の方を指さし、何かわめいていたが、二人には聞き分けられなかった。
やがて二人にきこえてきた。かすかな悲鳴。リンの家の方かららしい。
「ヘレーネ・ブラッドだ」と、ヴォーンが大声で「行きましょう」
二人がリンの家の前の空地にかけつけたとき、目の前にフォックスが草にひざをつき、ぐったりした男の頭を支えているのを見つけた。ヘレーネが、着ている服のように白い顔をして、胸をつかみながら立って、のぞき込んでいた。
「どうしました」と、ヴォーンは息を切らした。「こりゃ、テンプルさんだ」
「この方――死んでいると思いましたの」と、ヘレーネが、ふるえた。
テンプル医師は、目をとじ、浅黒い顔が青ざめて、ぐったりと横たわっていた。額に深い掻ききずがあった。
「ひどく殴られてます、警視さん」と、フォックスが重大そうに言った。「正気にもどせません」
「家に運びこもう」と、警視がぴしりと言った。「フォックス、医者に電話してくれ。さあ、クイーンさん、手を貸して下さい」
フォックスは、とび立つとリンの家の石段へかけて行った。エラリーとヴォーンは、動かぬ体を持ち上げて、静かに、続いた。
一同は、気持のいい部屋にはいった――もとは気持のいい部屋だったらしいが、今は、蛮人が荒したあとのようだった。二脚の椅子がひっくり返り、机の抽出しが穴からとび出し、置時計が倒れて、ガラスが粉々になっていた。……失神している男を長椅子にのせていると、ヘレーネが急いで出て行き、すぐ洗面器に水を汲んで戻って来た。
フォックスは火がついたように電話をかけていた。「かかりません、マーシュ先生に。一番近いんです」と言い「じゃあ、次に――」
「ちょっと待て」と、ヴォーンが「どうやら気がつきそうだぞ」
ヘレーネが、テンプル医師の額に水をかけ、唇の間に水をしたたらせた。医師は、うめき、目をぴくぴくさせ、もう一度うめき、腕がふるえ、おき上ろうと弱々しくもがいた。
あえぎながら「ぼくは――」
「まだ口をきいてはだめよ」と、ヘレーネがやさしく言った。「しばらく、そのままお休みなさい」テンプル医師は、仰向けにのび、目をとじて、深く息をすった。
「ところで」と、警視が言った。「これは気が利いたご挨拶だったな。リン夫婦は一体どこだ?」
「この部屋の様子では」と、エラリーが無造作に言った。「逃げ出したようですね」
ヴォーンが大股に隣室の戸口へ入った。エラリーは立って、ヘレーネがテンプル医師の頬をかるくたたくのを見ていた。警視が家じゅうの部屋を歩きまわる足音がきこえた。フォックスは正面のドアのところで、もじもじしていた。
ヴォーンが戻って来た。つかつかと電話に近づき、ブラッド邸を呼び出した。「ストーリングスか。ヴォーン警視だ。すぐ部下を電話に呼んでくれ。……ビルか。聞けよ。リン夫婦が高飛びした。あいつらの人相は知っとるな。罪名――暴行殴打だ。急げよ。あとからもっとくわしく知らせる」
それから掛け金をがちゃがちゃ鳴らした。「ミネオラの地方検事アイシャムの事務所へかけてくれ……アイシャムさん? ヴォーンです。すぐ出かけて下さい。リン夫婦がずらかりました」
警視は受話器をかけて、長椅子に歩みよった。テンプル医師は目をあけて弱々しく笑っていた。「大丈夫かね、テンプル先生」
「いや、ひどい目に会った。頭をぶち割られないで運がよかった」
ヘレーネが言った。「私、リンさんたちに、お早うを言いにここへ来たのです」と、声がふるえた。「さっぱりわかりませんわ。ここへ来てみると、テンプル先生が地面へ倒れていらっしゃったのです」
「何時ですか」と、医者が、はっとして起き上りながらきいた。
「十時半です」
医者はまた横になった。「二時間半も失神していたのか。とても信じられん。ずっと前に気がついたのを覚えています。そして家の方へ匍《は》って行きました――ともかく、そうしようとしたようです。だが、また失神したらしい」
ヴォーン警視が、また電話へ行き、この事実を部下にかけているとき、エラリーがきいた。「匍ったんですか。すると、あなたを見つけたあの場所で、殴られたのじゃないんですね」
「どこで私を見つけたのかわかりませんが」と、テンプルがうめいた。「そうきかれてみると――ちがいますね。これには長い訳があるのです」医師は、ヴォーンの電話が終るのを待っていた。「ある理由から、私は、リン夫婦が見せかけとはちがうと疑っていました。連中に会ったとたんに疑いを持ったのです。二週間前の水曜日の夜、私は闇にまぎれてここに来て、連中の話しているのを聞いたんです。その言葉で、私の疑いが正しかったことがわかりました。リンは何かを埋めて戻って来たところでした……」
「何か埋めた?」と、ヴォーンが金切り声を出した。エラリーが眉をひそめた。そして警視を見た。二人の目には同じ考えが宿っていた。「なんと、テンプルさん。なぜ、そのとき、私たちに話さなかったのですか。埋めたものが何かわかりますか」
「わかるかって?」テンプルが目を丸くし、それから、傷ついたひたいが痛んだらしく、また、うめいた。「そりゃ、もちろん。あなたにもわかってるんですか」
「わかるかって! 首ですよ、ブラッドの首」
テンプル医師の目は、驚きを絵に描いたようだった。「首か」と、ゆっくり、くり返して「思いもつかなかったな……いや、何かほかのものだろうと思いますよ」
エラリーが、すぐきいた。「なんですか」
「大戦後間もなくでした。私はオーストリアの捕虜収容所から釈放されて、足ならしをするために、ヨーロッパの各地を、ほっつき歩きました。ブダペストで……そう、ある夫婦と知合いになったのです。同じホテルに泊っていました。お客の一人の、ブンデラインというドイツ人の宝石商が、部屋で手足を縛り上げられ、ベルリンへ持ち帰ろうとしていた莫大な委託宝石が紛失したのです。その男は、その夫婦を訴えましたが、二人は、すでに姿を消していました。……ここでリン夫婦を見たとき、あのときの二人だと、はっきり知ったのです。あの当時二人の名前は、トラクストンでした――パーシー・トラクストン夫妻……畜生、頭がいたむ。リンは姿が変ってはいましたが、私は天体望遠鏡で十五等星を見分けるぐらい、はっきりと識別できましたよ」
「信じられませんわ」と、ヘレーネが、つぶやいた。「あんな立派な方が、まさか。ローマでは私によくして下さいましたわ。教養もおありですし、明らかに、お金持ちで、気持のいい方で……」
「事実なら」と、エラリーが考えながら「リン夫妻は、テンプル先生が疑われるような人物なら、お嬢さんによくする理由が充分にありますね。ちょっと見てあなたがアメリカの富豪の令嬢だと見抜くぐらいのことは、連中にとっては朝飯前だったでしょうよ。それに、ヨーロッパで一仕事したあとだとすれば……」
「商売と趣味を兼ねとる」と、警視が吐き出すように言って「きっとあなたの言うとおりでしょうよ、先生。何か盗品を埋めたんでしょう。ところで、今朝は何事があったんですか」
テンプル医師は薄笑いして「今朝ですか。私は二週間この方、時々、この辺をうろつきまわっていたのです。……今朝もやって来たのはとうとうどうやら物を埋めた場所をつきとめたと思ったからです。ずっと探していたんですからね。私はその場所へ直行して、掘り始めました。そして、ふと目を上げると目の前にあの男が立っていたのです。とたんに、全世界が私の頭に落ちて来て、それっきり、何もわからなくなってしまいました。きっと、リンか、トラクストンか名はなんでもいいが、あの男は私をスパイしてたのでしょう。そして、運のつきだと考え、私をなぐり倒し、盗品を掘り起こして細君と一緒に、それを持って逃げたのでしょうよ」
テンプル医師は歩けると言い張った。フォックスの肩を借りて、家からよろめき出て森にはいった。一同はそれに続いた。そして、森の中へ三十フィートほどはいったところで、草のしげみに口をあけている穴を見つけた。ほぼ一フィート四方の穴だった。
「スコットランド・ヤードにつきとめられなかったのも、無理がない」と、ヴォーンが、ブラッドウッドへ戻る途中で言った……「偽名だもの……テンプルさん、あなたには大いに文句を言いたいな。一体、なぜその話を私にしなかったのですか」
「私がばかでした」と、医師はゆううつそうに「発見の名誉を独占したかったのです。それに、確信はなかったし――罪がないかもしれない人を訴えたくもなかったのです。連中が逃げたのが、残念ですよ」
「その心配はいりません。今夜までには、とっつかまえて、ぶち込みますよ」
しかし、あとになってみると、ヴォーン警視は楽観しすぎていた。夜になっても、リン夫婦はまだつかまらなかった。足取りも見つからなかったし、その人相に該当する夫婦も見つからなかった。
「別々になって、変装したにちがいない」と、ヴォーンは、うなった。そして、パリ、ベルリン、ブダペスト、ウィーンの警察へ電報を打った。
金曜日になり、空しく過ぎたが、逃亡した英国人夫婦を追って張りめぐらされた捜査網からは、まだ、なんの情報もはいって来なかった。二人の人相書は、旅券の写真からの焼きましとともに、全国何千という警察署や保安官事務所の掲示板に貼り出された。カナダとメキシコの国境は厳重に監視されていた。しかし、リン夫婦を捕えるのは、またもや、アメリカ本土という巨大な巣から、二匹の蟻《あり》をつまみ出すほど、むずかしい仕事となった。
「こういう急場に備えて、かくれがの手筈はできていたんだな」と、ヴォーン警視は、うらめしそうに言った。「だが、間もなく捕えてやるぞ。いつまでも、隠れとることはできんさ」
土曜日の朝、外国から三通の電報が届いた。一通はパリ警視庁からだった。
ゴシヨウカイノ フタリハ 一九二五ネンボウコウ ゴウトウザイニヨリ パリケイサツニテテハイチュウ トウチニテハ パーシー ストラング フサイトナノレリ
〔ご照会の二人は一九二五年暴行強盗罪によりパリ警察にて手配中。当地にては、パーシー・ストラング夫妻と名乗れり〕
他の一通はブダペストからだった。
一九二〇ネンイライ ホウセキ セットウザイニヨリ ブダペスト ケイサツニテ テハイチュウノ パーシー トラクストンオヨビ ドウニンツマガ ゴシジノ ジンブツニ ガイトウス
〔一九二〇年以来宝石窃盗罪によりブダペスト警察にて手配中のパーシー・トラクストン及び同人妻が、ご指示の人物に該当す〕
三通目のものが最も参考になり、それはウィーンから来た。
ゴシジノジンブツニ ガイトウスルフウフハ トウチニテハ パーシー オヨビ ベス・アニクスタートナノリ サクネンハル フランスジン リヨコウシヤヨリ 五マンフランヲ サシユシマタ コウカナル ホウセキヲヌスミテ テハイチユウナリ モシ アメリカ ケイサツニテ カカル ダンジヨヲ コウチセルオリハ タダチニ ヒキワタシヲ コウ トウヒンハ ミカイシユウナリ
〔ご指示の人物に該当する夫婦は、当地にてはパーシー及びベス・アニクスターと名乗り、昨年春フランス人旅行者より五万フランを詐取し、また、高価なる宝石を盗みて、手配中なり。もしアメリカ警察にて、かかる男女を拘置せるおりは、ただちに引渡しを請う。盗品は未回収なり〕
盗まれた宝石類の品ぶれがついていた。
「やつらを逮捕すると、ちょっと面白い国際的な紛争がおこりそうですね」と、警視が、エラリー、ヤードレー教授と三人でブラッドウッド邸のポーチに腰かけたときに言った。「フランスとハンガリーとオーストリアのお尋ね者です」
「きっと国際法廷で特別集会が開かれるでしょう」と、エラリーが受けた。
教授はしかめ面をした。「時々君は気にさわることを言うな。なぜ、正確に言えんのかね。常設国際司法裁判所と言うのだ。そしてそんなときの会合は特別ではなく『臨時』というのだ」
「こりゃ、どうも」と、エラリーは目玉をくるくるまわした。
「ブダペストが最初にやられたらしいですね」と、ヴォーンが「一九二〇年です」
「当然なことだね」と、教授が「スコットランド・ヤードもあの二人を探しているとしても」
「それはどうかな。連中は抜け目がありませんよ。こちらの照会に該当する人物がないと言うからには、ロンドンではやつらに対する犯罪記録がないことは確実ですからね」
「もし、二人が本当にイギリス人なら」と、エラリーが「二人はイギリスから離れているでしょうよ。あの男はどうも中央ヨーロッパ生れかもしれないですよ。オックスフォードなまりは、上品ぶるには、一番手軽くまねられるものです」
「たしかなことは」と、警視が「やつらが埋めた蔵品はウィーンの仕事でせしめた宝石と金でしょうよ。宝石商組合と関係方面へ警告を発しておきましょう。だが、時間の無駄です。どうもやつらはアメリカの故買商にはあまりいい知り合いがないらしいし、よほど金に困りでもしなければ正規の商人に近づこうとはしないでしょうからね」
「どうも気になる」と、エラリーがはるか遠くを思い見るような目で「ユーゴスラビアに君が出した照会の返事が、なぜ来ないんだろう」
ヴォーン警視のユーゴスラビアの友人の返事がおくれたのは、相当の理由があったことが、その日もおそくなってからわかった。連中は電報や電話でひっきりなしにはいってくるリン夫婦の捜査状況報告書を検討していたのだ。
一人の刑事が封筒をひらひらさせながら、駈けて来た。「電報です、警視」
「ああ」と、ヴォーンは、電報をひったくるようにして「いよいよわかるぞ」と言った。
しかし、ユーゴスラビアの首府、ベルグラードの警視総監からの電報には、ただ次のことしかなかった。
ツヴアル キョウダイ オヨビ ヴエリヤ クロサツクニカンスル カイトウノチエンヲ シヤス」ドクリツコクトシテノ モンテネグロノ シヨウメツノタメ モンテネグロジンノキロク ナニブン二〇ネンイゼンノモノナレバ ハツケンコンナンナリシケツカナリ」シカレドモ リヨウケガ ソンザイシタルハ マチガイナシ」シユクエンカンケイノウムニツキテハ トウホウニテ モツカ チヨウサチユウナレバ ニシユウカンイナイニ、ソノセイヒヲ ダデンシウルモノトミトム」
〔ツヴァル兄弟及びヴェリヤ・クロサックに関する回答の遅延を謝す。独立国としてのモンテネグロの消滅のため、モンテネグロ人の記録、なにぶん二十年以前のものなれば発見困難なりし結果なり。しかれども両家が存在したるは間違いなし。宿怨関係の有無につきては、当方にて、目下調査中なれば二週間以内に、その成否を打電し得るものとみとむ〕
二十三 作戦会議
日曜日、月曜日……いかに成果が少なかったか、いかに、二つの殺人事件の残骸から得られた真正の手掛りの量が貧弱であったか、じつにおどろくべきものだった。変幻自在な、英国の法律破りが、いつまでも捕まらないとなると、警視は卒中をおこしかねないと、エラリーは確信した。そして、捜査方法や手段に関する絶望的な討論や退屈な会議は、いつも同じ問題で苦しめられた。クロサックはどこにいるのか、もしくは、やつがおどろくべき方法で、ドラマの主役の一人を演じているのなら、やつは一体何者なのか、なぜぐずついているのか。やつの復讐はまだ残っている。やつの犯罪の性質から考えて、逮捕を怖れるか、不断に警官が頑張っているために、残っている二人のツヴァル兄弟の命をねらうのを諦めたとは信じられない。
「われわれのアンドレヤの保護の仕方は」と、月曜日の夕方、エラリーは、情なさそうに、教授に言った。「どうも完全すぎましたね。クロサックがいつまでも行動をおこさないことに対する、唯一の説明は、ヴァンがどこにいるか――どんな変装をしているか――やつが、まだ知らないということです。われわれがやつの裏をかいて――」
「そして、われわれも裏をかかれてね」と、ヤードレーが言った。「私は少々退屈してきたよクイーン君。これが人間狩りの昂奮にみちる生活だと言うのなら、私は歴史的事実の源をさぐって、余生を送ることで満足するね。君にも参加するようにすすめるな。その方がずっと、波瀾万丈なことがわかるよ。いつか君に話したろう、フランス陸軍士官のブーサールが、どうやって、エジプト学に、非常に価値のある有名な玄武岩の石碑を、低地エジプトで発見したかをね――それがロゼッタ・ストーンだ。それから、三十二年間、シャンポリオンがあらわれて、プトレマイオス五世の治世の三つの言葉で書かれた布告を解読するまで、それはずっと――」
「それはずっと」と、エラリーが不満そうに「小さな問題のままですよ、クロサックの大問題とくらべればね。ウェルズ〔H・G・ウェルズ、イギリスの作家、文明批評家〕は『透明人間』を書くときに、クロサックのことを頭においたのかもしれませんね」
その夕方、スティヴン・メガラは張り切っていた。
メガラは殺された兄の植民地風の邸の応接室の中央に立って、話をききに集まった連中をにらむように見廻していた。ヴォーン警視も、そこにいて、シェラトン〔トマス・シェラトン、有名なイギリスの家具デザイナー〕ふうな椅子に腰かけて、ぷりぷりしながら、いまいましそうに爪を噛んでいた。エラリーもヤードレー教授と一緒に、メガラの非難するような視線をあびて、ばかばかしいと思っていた。ヘレーネ・ブラッドとヨナ・リンカンは、ソファに並んですわって、手を握り合っていた。地方検事アイシャムは、このヨットマンにわざわざミネオラから呼び出されて、たいくつそうに親指をいじりながら、戸口で、|せき《ヽヽ》ばかりしていた。スウィフト船長は、帽子をいじりながら、雇主の後に立ち、固いカラーで痛むらしく、骨張った首をしきりに左右に動かしていた。テンプル医師は、呼ばれたわけではないが、同席するようにたのまれて、火の消えた暖炉の前に立っていた。
「さあ、よく聞いて下さい」と、メガラが声をはげまして「とくにあなた方――ヴォーン警視とアイシャムさん。もう三週間になるんですよ、ぼくの――兄のブラッドが死んでから。ぼくが帰ってから十日になります。あなた方が、どれだけのことをされたか、話して下さい」
ヴォーン警視がシェラトン椅子でもぞもぞしていたが、苦い顔でくってかかった。「君の言い方は気にくわんね。私たちが全力をつくしとることは、よくわかってるはずでしょう」
「充分とは言えませんよ」と、メガラがやり返した。「半分でもないですよ、警視。あなた方には犯人がだれかわかっている。人相の一部も手に入れている。ぼくから見ると、あなた方の指揮下にあって使える全力をもってすれば、犯人を捕えることなどじつに簡単だと思いますがね」
「まあ――それは時間の問題ですよ、メガラさん」と、アイシャムが、なだめるような声で言った。白髪まじりのまん中の|はげ《ヽヽ》が、じっとり赤くなっていた。「本当はそう簡単ではないんですよ」
ヴォーンが皮肉たっぷりに「いいですか、メガラさん、ここではあらゆることが、神の目から見て、つつみかくしがなかったわけじゃありませんよ。むしろ、あなた方が、われわれの時間を大いに無駄にさせたのです。あなた方のだれ一人として、はっきりいえば、ざっくばらんじゃなかったでしょう」
「冗談じゃない」
ヴォーンは立ち上った。「それは」と狼《おおかみ》のような微笑をうかべながら「あなたにも当てはまるんだ、メガラさん」
ヨットマンのけわしい顔は表情も変えなかった。その後で、スウィフト船長は青い服の袖で口をぬぐい、片輪の手を、ふくらんだポケットに入れた。「そりゃ、どういう意味です?」
「まあ、ヴォーン君」と、地方検事が心配そうに声をかけた。
「とめないで下さい。ここは私にまかせて下さい、アイシャムさん」警視は肩をいからして、のっしとばかり歩みより、胸がふれるほど近くメガラの前に立ちふさがった。「あんたは何もかも、ぶちまけてほしいんだね。いいとも、私はかまわんよ。ブラッドの奥さんは、私たちにまわり道させたんだ。その|つくり《ヽヽヽ》話に、娘さんとリンカンが口裏を合わせた。フォックスは、私たちにとんでもないむだ足をさせて、貴重な時間と多くの労力を無駄にさせたし、ここにいるテンプル先生も――」医者はびっくりして、パイプをつめながら、ヴォーンのけわしい横顔をじっくりながめていた――「大事な情報を持っていながら、つまらんヒーローになろうなどと思って、二人の泥棒を逃がしちまったのだ――もっと悪いやつだったかもしれないやつを――一人でいい子になろうと思ってね。その結果は――泥棒はまんまと逃げ出してしまうし、ご本人は頭をがんとくらわされた。罰があたったのさ、まさに」
「君はぼくのことを」と、メガラはじっと警視を見つめておだやかに言った。「なんとか言ったじゃないか。ぼくがどういうふうに捜査のじゃまをしたのかね」
「ヴォーン警視」と、エラリーがとがめるように「あなたのしていることは、少し――その――感情的じゃありませんか」
「あなたにも口出ししてもらいたくないな」と、ヴォーンは、振り向かずに、どなった。かんかんになって、目をむき出し、首の筋がこわばっていた。「よろしい、メガラさん。あなたは、先日、われわれにある話をしましたね……」
メガラの長身はびくともしなかった。「それで?」
ヴォーンがふてぶてしくにやりとした。「さあ、よく考えてみなさい」
「わかりませんね」と、メガラが冷ややかに答えた。「はっきり言ったらどうです」
「ヴォーン君」と、アイシャムが哀願するように言った。
「思っとることは言わせてもらいますよ。メガラさん、私が何を言おうとしているかわかるでしょう。三人の男が、かなり昔に、急いで、ある場所を逃げ出した。その理由は?」
メガラはちょっと目を落した。しかし、口を開いたときには、けげんそうな調子だった。「わけを話したでしょう」
「たしかにね。たしかに話した。私がきいているのは君が話したことじゃない、話さなかったことなんだ」
メガラは後にさがり、肩をすぼめて、微笑した。「ぼくはたしかに、この捜査があなたの頭にのぼったと思うね、警視。ぼくは真実を語ったんです。むろん、一日きざみに、細かく経歴を話せるもんじゃない。何か言い落したとすれば――」
「それは重要ではないと思ったからでしょうね」と、ヴォーンが、ちょっと笑った。「よく聞かされる言葉だ」警視はくるりと体をまわして、ふた足で椅子にもどり、またヨットマンの方をふり向いた。「だが、覚えといてもらおう――われわれに説明を求めるときには――われわれの仕事はたんに人殺しを探し出すだけじゃないんだということをね。多くのこみ入った動機や、隠された事実や、まっ赤な嘘を洗い上げるのも、われわれの仕事ですよ。よく覚えといて下さい」警視は、ぺちゃんこの頬をふくらませて息をはき、腰を下ろした。
メガラは広い肩をゆすぶった。「どうも要点をはずれたようですね。ぼくは議論や口論をはじめるために、この作戦会議をしようとしたんじゃないんです。もし、そんな印象を与えたのなら、あやまりますよ、警視さん」ヴォーンは、ふんと鼻を鳴らした。「ぼくにいい考えがあるんです」
「それは結構です」と、アイシャムが、前へのり出して、愛想よく言った。「すてきです、メガラさん。その意気です。建設的な意見は大いに採用しますよ」
「建設的かどうかわかりませんがね」と、メガラは足をふんばった。「われわれはクロサックの攻撃をずっと待っていたんです。ところが、やつは攻撃して来ない。だが、必ず攻撃して来ますよ」
「どうしようと言うんですか」と、警視が辛辣《しんらつ》な口調で「招待状でも送りますかな」
「そのとおり」と、メガラはヴォーンの目を、突きさすように見つめて「なぜやつに罠《わな》がかけられないんですか」
ヴォーンが黙り込んだ。やがて「罠ですか。いい考えがありますか」
ヨットマンの白い歯が光った。「これといってありません、警視。結局、こういう問題には、あなたの経験が、ぼくの考えより、ものをいうでしょう……だが、いずれはクロサックがやって来るんだから、やってみても損はないでしょう。やつはぼくをねらっているんですよ。よろしい、ねらわせましょうよ……あなたがいつまでもここにいるので、やつは身をひそめているのです。あなたが、もう一か月ここにいれば、やつも、あと一か月は身をひそめているでしょう。しかし、もし、あなたが引きあげて、たとえば、さじを投げたとかなんとか公表されれば――」
「すばらしい思いつきです」と、地方検事が大声で「メガラさん、あなたに感謝します。われわれが、もっと早くそこに気がつかなかったのは残念です。もちろん、クロサックは警察がここに頑張っているかぎり、襲って来ないでしょう――」
「それに、やつは非常に用心深いから、われわれが急に、ここから引き揚げても、うかつに手出しはしないでしょうよ」と、ヴォーンがいまいましそうに言った。しかしながら、ふと、考え込む目付きになった。「やつは頭がいい悪党だから、きっと|かぎ《ヽヽ》つけるにちがいない……しかし、あなたの言うことにも一理あります」と、警視はしぶしぶ「考える価値がありますね」
エラリーは目を光らせて、ひとひざのり出した。「大した勇気ですよ。メガラさん、もちろん、失敗したらどういうことになるかもお考えでしょうね」
メガラはにこりともせずに「ぼくは危い目にあわずに世界じゅうを、ほっつき歩いていたわけじゃない」と、重々しく言った。「ぼくは、やつのずるがしこさを甘く見ちゃいませんよ。しかし実際は、運賦天賦というものじゃないですよ。もし、うまく運べば、やつはぼくをやっつけようとするにきまってるんです。それに、ぼくはやつを待ち据えている――船長とぼくとで――そうだな、船長」
老船乗りが、ぶっきら棒に言った。「あんたが、水夫針でやっつけられないような、手強いやつに出会ったのを見たことがない。しかもそいつは昔の話で、今日《きょう》びじゃ立派な、ぴかぴかの拳銃ってものがあるし、あんたも持っとるんだ。こぎたない間抜けをやっつけるなんか手軽いもんですよ」
「スティヴン」と、ヘレーネが言って、リンカンから手をはなし、じっとヨットマンを見つめた。「まさか、あなたは、おそろしい気違いにねらわれているのに、護衛を全部解くつもりじゃないでしょうね。いけませんわ――」
「自分ぐらい護れるよ、ヘレーネ……どうですか、警視」
ヴォーンが立ち上った。「確信はないです。引受けるには責任が重すぎますね。私にできる唯一の手は、湾や入江から部下を引き揚げたように見せかけて、あなたのヨットに人を伏せておくぐらいのものでしょうよ……」
メガラが顔をしかめて「まずいですよ、警視。やつはきっと|かぎ《ヽヽ》つけるでしょうよ」
「だがね」と、警視は強情に「もう少し考えさせてもらいたいですね。やつを、もうしばらく泳がせときましょう。とにかく、明朝ご返事しますよ」
「結構です」メガラは航海服の上衣のポケットを軽くたたいた。「それまでに、ぼくの方は準備します。ぼくは、はらわたのくさった鰊《にしん》のように、ヘレーネ号に、へばりついて余生を送るわけにはいきませんからね。クロサックが早く襲いかかってくるほど、ぼくにとっては好都合ですよ」
「どう思うかね」と、しばらくして、ヤードレー教授がきいた。教授はエラリーと、ブラッド邸の東の棟に立って、メガラとスウィフト船長が、ぼんやり光る邸の灯の中を、入江に向かって、すたすたと小路を歩いて行くのを眺めていた。
「どうも」と、エラリーが顔をしかめて言った。「スティヴン・メガラは、ばかですね」
スティヴン・メガラがその勇気というか――ばかさかげんというか――それを示すひまは、ほとんどなかった。
そのあくる日、火曜日の朝、エラリーと教授が朝食についていると、一人の男が、ナニーばあさんが口うるさくとめるのもかまわず、ヴォーンの手紙を持って、とび込んで来た。
ヘレーネ号の船室で、少し前に、スウィフト船長が後頭部を強くなぐられて気絶したまましばり上げられているのが見つかったのだった。
スティヴン・メガラの首なし死体が、甲板のアンテナ・マストにつるさがって、無残にもこちこちになっているのが見つかったのだ。
第四部  死者のはりつけ
多くの犯罪捜査の成否は、刑事が些細な矛盾を観取しうるか否かにかかっている。プラハ警察の記録の中で、最も難解な事件の一つは、六週間にわたる暗中模索の結果、一人の青年巡査部長が、死者のズボンの折り返しに、四粒の米が発見されたという、一見とるにもたらぬ些細な事を思い出したことによって解決された。
ヴィットリオ・マレンギ
二十四 またしても、T
その朝、本土からヘレーネ号へ渡った連中は黙りこくっていた。しばらくの小康状態のあとでおとずれた、この敏速、残忍な行為の怖ろしさによって、沈黙は深められた。茫然自失の沈黙だった。エラリーは、その麻服のように顔面|蒼白《そうはく》になり、大きな警察艇の舷に立って、神経質にヨットを見つめていた。胃弱の陸上人でなくとも、胸がむかついた。エラリーの胃の神経は、ちくちくどきどきして、口がかわき、烈しい吐気がした。そばに、しゅんとして立っている教授は、いく度もくり返してつぶやいていた。「信じられん。怖ろしいことだ」一行について来た刑事たちも、鳴りをしずめていた。みんな今さらのように、ヨットのすっきりした姿を、まじまじと眺めるだけだった。
甲板の上では、人かげがあわただしく動きまわっていた。動きの中心は、艦橋の中央あたりらしかった。一握りの人かげがそこに立っていて、その渦が刻々に増していくときに、警察艇が舷側に着き、乗組みの警官や刑事が甲板によじのぼった。
すると、澄み切った朝の空にくっきりと、血まみれのパジャマを着た、例の不気味な姿が、見えた。それは、二本あるアンテナ・マストの一本目の方に、しっかりと結びつけてあった。それは、わずか十二時間前にみんなと話していた、あの精力的な、血気さかんな男とはどうしても思えないほど、人間らしい面影はどこにもなかった。高いアンテナの上から一同をあざ笑っていた。その二本の足は、マストにくくりつけられ、人間の形としては不釣合いに伸びていた。そして、おそろしい人体の姿が、とほうもなく大きく見えるのだった。
「ゴルゴダのキリストだ」と、ヤードレー教授が、うめいた。「じつに、なんとも信じられん。信じがたい」その唇はまっ青になっていた。
「私は宗教的な人間ではないですから」と、エラリーが、ゆっくり言った。「神様のために言うのじゃありませんが、先生、キリストになぞらえるような冒涜《ぼうとく》はしないで下さい。なるほど、たしかに信じられませんがね。先生も、残忍な昔話や歴史を読まれたでしょう――ローマを血の海にした暴君、カリギュラや、カルタゴを建国した剽悍残虐《ひょうかんざんぎゃく》なヴァンダル族や、子供を火あぶりのいけにえにするセム族の神モロクや、麻薬に酔って殺人暴行のかぎりをつくした回教徒エセシンや、女を焼き殺した宗教裁判の話などを。手足を切り放ち、くしざしにし、皮をはぎとる……血なまぐさい、血でつづった物語です……読まれたでしょ……しかし、読んだだけでは、まざまざと、その熱い、いぶるような怖ろしさが、とうていわかるものではありません。人間の死体を、切り刻もうとする狂人の怖ろしい種々相は、常人には、測り知れないものです。……ところで、現にこの二十世紀でも、ギャング戦があり、世界大戦があり、ヨーロッパではユダヤ人迫害が横行していますけれど、われわれには人間の残虐性の怖ろしさの実体が、まだ、はっきりとはわかっていないのです」
「口だけの話さ」と、教授は強ばった口で「君にも、私にもわからんのだよ。しかし、帰還兵士の話を聞いたことがあるが……」
「ちがいますよ」と、エラリーがつぶやいた。「個性がありません。集団的な狂気沙汰は、個人的な狂人の悪鬼のような残虐さほど、直接に吐き気を与えうるものじゃありません。おお、もう、話すのはやめましょう。ひどくむかむかします」
ランチがヘレーネ号の舷側に横づけになり、舟梯《せんてい》をのぼって甲板へ出るまで、二人は口をきかなかった。
その朝、ヘレーネ号の甲板を占領していた忙しい人たちの中で、ヴォーン警視だけが、その犯罪の幻想的な雰囲気に少しもひきこまれないようだった。警視にとっては、これは仕事であり――いやな仕事、異様な血なまぐさい仕事であったのはたしかだが、また、まさにその任務上のものだった。目をぎょろつかせて、叱りとばしているのも、スティヴン・メガラのせいではない。――前の晩に生きているメガラの目をにらみつけてやったが――そのメガラも今は、ぶっこわれた赤い蝋人形のような姿で、アンテナ・マストに吊るさがっている。そのためにおこっているのではなく、かねて思っていたとおり、あまりにも不がいない部下たちの無能ぶりを肚にすえかねていたのだ。
警視は水上署の一部長をどなりつけた。「昨夜は、だれ一人見のがさなかったと言うのか」
「はい、警視、誓います」
「言いのがれはよせ。だれかがうまうまと警戒線をくぐり抜けたのだ」
「一晩じゅう見張っていました、警視。もちろん船はたった四はいですから、くぐり抜けるのは物理的には可能ですが――」
「物理的に可能だと?」と、警視が、かみついた。「ばかを言うな。くぐり抜けとるじゃないか」
若い部長はまっ赤になって「私の考えでは、警視、やつは本土から来たのでしょう。結局、私たちは、北の方しか、つまりヨットに対して湾の側しか警戒できなかったのです。当然、やつは、ブラッドウッドか、そのあたりからしか出て来れなかったはずじゃないでしょうか」
「君の意見をきくときには、こちらからきく」と、警視は声をあらげて「ビル!」
しゅんとしている刑事の一団から、一人の私服が進み出た。
「何か言うことがあるか」
ビルは不精ひげの生えたあごをこすって、恐縮していた。「われわれの監視地域は、とても広いんですよ、警視。やつがその道を通って来なかったとは断言できません。しかし、もしそうだとしても、われわれを責められる筋は全くありません。ご存知のように、森をくぐり抜けるのは、楽なことですからね」
「みんな、よく聞け」と、警視は一歩退って、右手をにぎりしめた。連中はしんとした。「言いわけや、言いのがれはいらん。いいか。事実が聞きたい。やつがどうやってヨットにたどりついたかを、知らなくちゃならん。ニューヨーク海岸から湾を渡って来たのか、ロングアイランドの本土から渡ったのかが、重要なんだ。ブラッドウッドを抜けてくるチャンスはまずあるまい。巡視されているのを知っとるはずだからな。ビル、君にやってもらいたいのは――」
一隻のランチが矢のように走って来て、ヨットに横づけになった。エラリーはまぶしい目で、ぼんやりと、見おぼえのあるボートを曳いているのを見た。一人の警官がランチに立って叫んでいた。「めっかりました」
一同は手すりにかけよった。「そりゃなんだ」と、ヴォーンが叫んだ。
「このボートが湾内をただよっていました」と警官が大声で「しるしから見ると、ブラッドウッドの隣り邸のものです」
ヴォーンの目が光った。「リンのボートだな。きっと、まちがいない。中に何かあるか?」
「オールだけです」
警視が早口に、ビルという男に言った。「二、三人連れて、リンの邸に行ってみろ。とくに、桟橋を調べろ。それから付近の足跡だ。徹底的に調べるんだぞ。やつがあそこにたどりついた足取りをしらべてみろ」
エラリーは、ため息をした。まわりの警官の群がざわめいた。命令が叫ばれ、刑事達は舷にかけ集まった。ヴォーンがのしのしと歩きまわり、ヤードレー教授は無電技師室のドアによりかかっていた――その上に、アンテナ・マストが立ち、スティヴン・メガラの死体がくっきり浮かび上っていた。地方検事アイシャムは、青ざめて、手すりにもたれかかっていた。小さなモーターボートで、テンプル医師が、びっくりした顔付きで、駆けつけて来た。ブラッドウッドの船着場には、小さな人数が群れていた――女たちの白いスカートも見分けられた。
しばらく、あたりがしんとした。警視は、エラリーと教授が立っているところに歩みより、両肘でドアによりかかり、葉巻を口にくわえて、こちこちになっている死体を、瞑想《めいそう》するように見上げた。
「やあ、どうです」と、言った。「気に入りましたか」
「怖ろしい」と、教授が低い声で「まるで気違いの悪夢だ。またしても、T字型だ」
エラリーは思わずぎょっとした。なるほどそうだ。感情の動揺をおさめかねていたので、はりつけ道具としてのアンテナ・マストの意味を見落していたのだ。マストの縦の柱と、頂上の横木とが――そこから反対側の船室の屋根に立つ通信柱にアンテナ線が張られていた――まぎれもなく細い鉄製のTの大文字にそっくりなのだ。……エラリーは今、はじめて、はりつけされた死体の後に、二人の男がいるのに気づいた。一人は検死官のラムセン医師なのがわかったが、もう一人の方は見おぼえのない――黒く日やけして、いかにも船乗りらしい、やせた人だった。
「あの連中が、もうじき死体を取り下ろしますよ」と、警視が説明した。「あの上にいる男は、船乗りですよ――縄の結び目のくわしい男です。死体を取り下ろす前に、結び目を見てもらいたいのです。……どうだ、ロリンズ」と、老人に向かって叫んだ。
結び目にくわしい男は、頭を振って、体をぴんと張った。「船乗りでこんな結び方をするやつあ、ないね。旦那。まるっきり、新米の仕事みたいにへたですぜ。それにね。こりゃ、旦那が三週間前に見せてくれた、洗濯綱の結び目と同じようでさ」
「ごくろう」と、警視は愉快そうに言った。「取り下ろしてくれ、先生」警視はくるっと振り向いた。「また洗濯綱を使っている――甲板で綱を探すひまもむだにしたくなかったらしい。このヨットは旧式の帆船とはちがいますからね。ブラッドをトーテム・ポールに結びつけたのと同じような縄の結び目ですよ。同じ結び目、同じ犯人というわけですね」
「必ずしも同一人とはいえないが」と、エラリーが「しかし、他の点では、あなたの言われるとおりですね。正確な話は、どうなのですか、警視。スウィフト船長もやられたそうですが」
「ええ、気の毒に、あの年寄りはまだ気絶しています。あれから何かきけるかもしれませんよ……上っていらっしゃい、先生」ヴォーンがテンプル医師に声をかけた。テンプルは横づけになったモーターボートに立ったまま、ヨットに上っていいかどうかを、ためらっていた。「手伝って下さい」テンプルは、うなずいて、舟梯を登った。
「こりゃあ、ひどい」と、言いながら、じっと死体を見上げて、テンプルは無電技師室に近づいた。ヴォーンが壁を指さすと、テンプル医師は船室の横の鉄梯子に気づいて、それをよじ登った。
エラリーが舌打ちした。惨劇のショックがとてもひどかったので、うっかりして、甲板に尾を引いているぼんやりした血の跡に気がつかなかったのだ。血痕は、かたまりやしぶきになって、メガラの船室からずっと、無電技師室の屋根にのぼる梯子《はしご》まで続いていた。……屋根の上で、テンプル医師は、ラムセン医師に自己紹介して挨拶《あいさつ》を交し、二人は老船乗りに手伝ってもらって、綱を切って死体を取り下ろす、いやな仕事にとりかかった。
「話はこうなんです」と、ヴォーンが早口に「死体はごらんのような状態で、今朝、ブラッドウッドの船着場にいた部下の一人が発見したのです。すぐ、ここに駈けつけてみると、船室で、スウィフト船長が、婆《ばば》っ鶏《とり》みたいに縛りつけられて、後頭部を血まみれにし、灯の消えたように、失心していました。応急処置をほどこしておきましたが、今は休んでいます。先生、スウィフト船長を診てやって下さい」と、テンプル医師にどなった。「そこが済みしだいたのみます」テンプルがうなずいたので、警視は話を続けた。「ラムセン医師が来るとすぐ、年寄りの手当をしてやりました。私の見た限りでは――まるっきり手がかりはありません――簡単な話なんですよ。昨夜はメガラと船長しか乗っていませんでした。クロサックはどうにかしてリンの家にたどりつき、桟橋につないであったボートを手に入れ、ヨットに漕ぎつけたのです。昨夜はまっ暗でしたし、ヨットについていた灯は、正規の停泊灯だけでした。ヨットに乗り込み、船長の頭を殴りつけて、縛り上げてから、メガラの船室に忍び込み、おそいかかったのでしょう。船室はめちゃめちゃです――ブラッド殺しのときの亭屋《あずまや》と全く同じ状態です」
「もちろん、どこかに血でTと書いてあるでしょうね」と、エラリーがきいた。
「メガラの船室のドアにあります」ヴォーンは青ざめたあごを掻いた。「どう考えてみても、まったく信じられませんよ。私も今まで、ずいぶん、殺しを見ていますがね。こんな血の凍るようなのには、一度も出あっていませんよ。忘れられませんね。たとえば、死体に妙な切り傷をつけるカモラ党〔一八二〇年ナポリの監獄の暴動に端を発する秘密結社として今日も残るという〕の殺人事件を捜査してるようですよ。船室へ行ってごらんなさい。行かない方がいいかもしれませんよ。まるで肉屋の店の中みたいです。やつは、あの床でじかにメガラの首を斬ったんです。ヨットをまっ赤に塗ったように、すごい血しぶきですよ」警視は考えながら言い足した。「メガラの死体を船室から運び出して、無電技師室の屋根の上まで梯子を登って行くのは、なみたいていの仕事じゃありませんが、ブラッドをトーテム・ポールの上に結びつけるほど、骨は折れなかったでしょうな。とにかく、クロサックは大力のやつにちがいありません」
「どうやら、私には」と、ヤードレー教授が言った。「犯人が被害者の血しぶきを浴びるのをさけられなかったと思えますね、警視。着衣に血痕のついた男が、つきとめられやしませんか」
「だめです」と、エラリーがヴォーンより先に口を出した。「この犯罪は、クリング殺し、ブラッド殺しのように、前もって計画されていますからね。クロサックは、血痕から足がつくことを知っていて、前の二度の犯行の場合も、着がえを用意していたでしょう。……全く初歩的なことですよ、先生。私はね、警視、あなたが、包みか、安っぽい鞄を持った、びっこの男を追いかけることを、すすめますよ。血まみれになるとわかっている服の下に、着がえをつけている、ことはないでしょうからね」
「そこに気がつかなかった」と、ヴォーンは正直に言った。「いい着眼点です。しかし、そのどちらも手配しましょう――その線に沿って、クロサックの立ちまわりそうなところに、すっかり部下を配置します」警視は舷《ふなばた》にのり出して、ランチにいる刑事に大声で命令した。ランチはすぐに出て行った。
このときまでに、死体は下ろされていた。ラムセン医師が、身軽になったアンテナ・マストの、下の小屋の屋根の上で、しゃがみ込んで死体を調べていた。テンプル医師は、少し前に降りて、手すりのところでアイシャムに何か話してから船尾の方へ行った。すぐに、一同は医師の後から、スウィフト船長の船室に向かった。
テンプル医師は、ぐったりした老船長の上に、かがみこんでいた。スウィフト船長は寝棚に寝かされて、目をとじていた。年寄りの頭のてっぺんは、髪が乱れて、干いた血がこびりついていた。
「正気になりかけています」と、医師が言った。「ひどい傷です。私がやられたのよりもひどい。頑丈な老人だったので運がよかった。さもないと脳震盪《のうしんとう》をおこしてたでしょうよ」
船長室は、少しも乱されてはいなかった。とにかく、ここでは犯人は少しも抵抗にあわなかったのだ。エラリーは、寸づまりの拳銃が、寝棚から手のとどくテーブルの上に置いてあるのに気がついた。
「射ってない」と、ヴォーンが、エラリーの視線に気がついて言った。「スウィフトは、そいつを手にするひまもなかったようです」
老人がうつろな、むかつくような、うめき声を出して、けいれんするまぶたを開き、ガラスのような、かすんだ目をあけた。しばらく、テンプル医師を見上げてから、ゆっくりと他の連中を見まわすために、頭をまわした。急に苦痛の発作がその体をひきつらせた。蛇のように頭から足までくねらせた。そして目を閉じた。ふたたび目を開いたときには、目の光りが失せていた。
「大丈夫だよ、船長」と、医者が言った。「頭を動かさないで。ちょっと手当しといたからね」傷は手当をほどこされていた。テンプル医師は薬品箱をかきまわして、繃帯をとり出し、だれもひとことも口をきかないうちに、負傷した頭にぐるぐる巻きつけて、この海の老犬をまるで戦傷者のようにしてしまった。
「気分はどうかね、船長」と、地方検事アイシャムが熱心にきいた。一刻も早く、老人と話したくて、あえぐような息づかいだった。
スウィフト船長がぶつぶつ言った。「だいぶよくなった。一体、どうしたんだね」
ヴォーンが「メガラが殺されたよ」
船長は目ばたきして、干いた唇をぬらした。「やられたって、本当かね」
「そうだよ。君の話をききたいんだ、船長」
「今日は、あの次の日かね」
だれも笑わなかった。船長の言葉の意味がわかっていたからだ。「そうだよ、船長」
スウィフト船長は船室の天井を眺めていた。「メガラの旦那と、わしは、昨夜、邸を出て、ヘレーネ号へ漕ぎ戻った。わしに言えることは、全部、異常なしだった。わしらは、しばらくしゃべった――メガラの旦那は、すっかり片がついたら、アフリカへ航海するつもりで、そのことを話しとられた。それから、わしらは部屋へはいった――旦那は自分のキャビンへ、わしはここへさ。だが、その前に、わしは、いつものように、甲板を見廻った。見張りは一人も乗ってないから、わしは用心のためと思ったんだ」
「船中に人が隠れている形跡はなかったかね」と、エラリーがきいた。
「ないでさ」と、船長が、しゃがれ声で「だが、たしかなことは言えません。キャビンか、底の方に、だれかが隠れていたかもしれんでね」
「それから、キャビンにはいったんだね」と、アイシャムが元気づけるように言った。「何時だったかね、船長」
「七点鐘だった」
「十一時半か」と、エラリーが、つぶやいた。
「そうだ。わしはぐっすり寝込む方だ。何時ごろかわからんが、気がつくと、わしは寝棚におき上って、耳をすましとった。何か異常なものを感じた。そのとき、寝棚のそばで人が荒い息づかいをしとるようだった。わしは、すばやくテーブルの拳銃を、ひっつかもうとしたが、それには手もふれられなかった。ぱっと目から火が出るような気がして、頭を何かで、がんとやられた。それっきり、今まで、何もわからなかったんだ」
「まるっきりだめだ」と、アイシャムが、つぶやいた。「君を殴った男がだれか、てんで見なかったのかね」
船長はくやしそうに頭を振って「てんで見なかった。部屋はまっ暗だったし、がんとやられたとたん目が見えなくなっちまったから」
一同はスウィフト船長の世話をテンプル医師に任せて、甲板にもどった。エラリーは、ひどく考え込んでいた。というより悩んでいた。逃げまわって、どうしてもつかまらない、一つの考えを、頭の中で追いまわしているようだった。やがて、苦々しく頭を振って、その努力をあきらめた。
ラムセン医師が甲板のアンテナ・マストの下で一同を待っていた。結び目にくわしい男の姿はなかった。
「どうかね、先生」と、ヴォーンがきいた。
検死医は肩をすくめて「ひどく変ったことはないですね。三週間前にブラッドの死体について私の言ったことを覚えていれば、それにつけ足すことは何もないですね」
「暴行のあとなしかね」
「首から下にはありません。首から上は――」と、もう一度肩をすくめて「身元確認という点では、疑問の余地なしです。さっき上に揚っていたとき、テンプル氏が話していましたが、メガラは最近、睾丸《こうがん》脱腸で苦しんでいたそうです。そうでしたか」
「メガラも自分で言っていました。そうです。そのとおりです」
「すると、この死体は間違いなく、あの男です。脱腸の形跡がありますからね。解剖の必要もありません。それにテンプル氏は、死体を取り下ろした直後、立ち去る前に、自分でそれを調べました。この死体はメガラだと言いました――裸にしてすっかり診察したことがあるそうです」
「結構でした。メガラの殺された推定時間は?」
ラムセン医師は目を細くして宙をにらんで考えていた。「あらゆる点からみて、たしかに、今朝の一時から一時半の間です」
「よろしい、先生。死体の始末は、われわれがやります。ご苦労でした」
「どういたしまして」と、医者は鼻先で言い、下で待っているランチへ、船梯を下りて行った。ランチは、すぐ本土に向けて出て行った。
「何か盗まれたものはありませんか、警視」と、エラリーが眉をしかめた。
「いや。船室のメガラの財布に少しばかり現金がはいっていましたがね。とられていません。壁金庫にも手を触れていません」
「あと一つききたいんですが――」と、エラリーが言いかけたときに、一隻のランチが横づけになり、汗まみれの一団の男たちを下ろした。
「どうだ」と、ヴォーンが言った。「何か形跡があったか」
一団の指揮者が頭を振った。「いいえ、警視。地内一マイル四方を、くまなく捜しました」
「湾内に沈めたんだろう」と、ヴォーンがつぶやいた。
「何かね」と、アイシャムがきいた。
「メガラの首です。見つからなくても、いっこうさしつかえありませんがね。湾内をさらうこともないと思いますよ」
「私ならやってみますね」と、エラリーが言った。「あなたが首を捜したかどうか、きこうとしていたところですよ」
「なるほど、あなたの言うとおりかもしれないな……おい、浚渫部《しゅんせつぶ》に電話してくれ」
「重要なことと思うかね」と、ヤードレー教授が低い声できいた。
エラリーは、へたくそに、しようがないという身振りで、両手を振り上げた。「何が重要で、何が重要でないかわかるもんですか。頭の中で何かが、うずいているんですがね、そいつがしっかり掴めないんです……掴まなければならないことなんですよ――たしかにそう思うし、それはわかってるんです」エラリーは、ぷつりと言いやめて、シガレットを口へねじこんだ。「たしかに」と、しばらくして吐きすてるように言った。「探偵仲間の一員として、ぼくは最も哀れむべき、屑《くず》というわけですよ。なってないな」
「汝みずからを知るか」と、教授が、そっけなく言った。
二十五 びっこの男
一人の刑事が見なれた封筒を持って、船に乗り込んで来た。
「それはなんだ」と、ヴォーンがきいた。
「電報です。今つきました」
「電報」と、エラリーが、ゆっくりくり返して「ベルグラードからですか、警視」
ヴォーンは封筒をひらいた。「そうです……」電文に目をはしらせて、ゆううつそうにうなずいた。
「手おくれだね」と、アイシャムが「役には立つまい。なんと言って来たかね」
警視は電報を地方検事に渡すと、アイシャムが大声で読んだ。
チヨウサイン ツヴアル クロサツク リヨウケノシユクエンカンケイニカンスル コキロクヲハツケンセリ」ステフアン アンドレヤ トミスラフ・ツヴアルノ サンメイハヴエリヤ・クロサツクノチチト フタリノオジヲ マチブセシテ サツガイシ クロサツクケヨリ キヨガクノカネヲ ヌスミイライ モンテネグロヲ トウボウセリ」クロサツク ミボウジンヨリ ウツタエアリシモ テオクレニテ ツヴアルキヨウダイヲ タイホシエズ」イライ ツヴアルキヨウダイモ クロサツクミボウジン オヨビ ソノコ ヴエリヤモ マツタク テガカリナシ」ダイダイニワタル シユクエンカンケイノ シヨウホウ ヒツヨウナラバ ソウフスベシ」
〔調査員、ツヴァル、クロサック両家の宿怨関係に関する古記録を発見せり。ステファン、アンドレヤ、トミスラフ・ツヴァルの三名はヴェリヤ・クロサックの父と、二人の叔父を待ち伏せして殺害し、クロサック家より巨額の金を盗み、以来モンテネグロを逃亡せり。クロサック未亡人より訴えありしも、手おくれにてツヴァル兄弟を逮捕しえず。以来ツヴァル兄弟も、クロサック未亡人及びその子ヴェリヤも、全く手がかりなし。代々にわたる宿怨関係の詳報、必要ならば送付すべし〕
ユーゴスラビアの、ベルグラード警視総監の署名があった。
「そうか」と、ヤードレー教授が「やはり君が正しかったよ、クイーン君、連中はたんなる泥棒にすぎなかった」
エラリーはため息をした。「空しき勝利ですね。この電報は、ただ、ヴェリヤ・クロサックが、ツヴァル兄弟を殺す動機が他にもあったことを示すだけです。家族が消され、金が盗まれた。これだけでは結局、些細な点が明らかにされたというだけで、ぼくには納得いきませんね……若いクロサック少年の足跡をつけていたというメガラの話は――おそらく真実でしょう。ただ、モンテネグロから調査員を送るかわりに、連中がこの国に来てから、郵便で、人を雇ったのでしょうよ」
「かわいそうに。心の中では、むしろあわれんでやりたいぐらいだね」
「この犯罪の血と残忍さは、ぬぐい去れませんよ、先生」と、ヴォーンが、きびしい口調で「やつにはたしかに動機はあるでしょう。人殺しにはみんな動機があるんです。だが、人殺しに、どんな理由があろうとも、それで罪が帳消しになるとは、あなたも考えないでしょう。……おや、なんだね?」
刑事がもう一人、官庁用らしい書類と電報を持って、甲板に上って来た。「部長がこれをおとどけするようにと、警視。昨夜の報告書です」
「ふん」と、ヴォーンは、すばやく書類に目を通した。「リン夫婦のことだな」
「何か情報は?」と、アイシャムがきいた。
「重要なことは何もありません。国じゅうの人々が、やつらを見つけたと思いこんでるらしいですよ。これは、はるばるアリゾナから来ています――向こうでも探しているようですね。こっちの方はフロリダからです――手配中らしい男女が、車で、タンパ方面に向かうのを見たとあります。たぶん、らしい、ばかりですよ」警視は報告書をポケットにねじ込んだ。「やつらは、きっと、ニューヨークにもぐり込んでいますよ。地方に高飛びするなんて、ばかなまねはしませんよ。カナダと、メキシコの国境は大丈夫でしょうから、国を抜け出したなんて考えられませんね……おーい、ここだ。ビルが何か見つけたらしいですよ」
その刑事は、外側エンジンのモーターボートに立ち上って、帽子を振りながら、何かわからないことを叫んでいた。そして、目を輝かしながら、猿のようによじ登って来た。
「上首尾でした、警視」と、甲板に上るとすぐに大声で「ずばりでしたよ。どっさり獲物がありましたよ」
「なんだと?」
「最初にボートを調べました。たしかに、あの船着場にあったものです。もやい綱が鋭いナイフで切られていました。綱の結び目は、船つなぎの鉄鐶《てつわ》にぶらさがっていましたし、ボートについている綱の切り口は、その切り残りの綱の切り口とぴたりです」
「わかった。わかった」と、ヴォーンは、じりじりしながら「やつはあのボートを使ったのだ。わかっとる。あそこの船着場の辺で、何か見つかったか」
「それが、足跡を見つけました」
一同は、その言葉のこだまのように前にのり出した。
ビルは、頭をふりながら「船着場のすぐ後がやわらかい土になっています。そこで足跡を五つ見つけました――左足のが三つ、右足のが二つ、靴のサイズは同じです――男の足です。たしかに八半ぐらいです。そして、あの足跡をつけたやつは、びっこです」
「びっこ?」と、ヤードレー教授は、きき返した。「一体、どうしてそれがわかるのかね」
ビルは振り向いて、背の高い醜男《ぶおとこ》の学者を、憐むように見ながら「どうしてって――ねえ、そんなふうに質問されたのは初めてですよ。あなたは三文雑誌を読んだことがないんですか。右の靴跡が、左より深いからです。運のつきですよ。右のかかとがくいこんでるんです。左の足が、ひどいびっこなんでしょうね。左のかかとは、ほとんど跡が見えないぐらいです」
「よくやった、ビル」と、ヴォーンが言って、アンテナ・マストを見上げた。「メガラさん」と、にがにがしい口調で「今度――もし、あの世というものがあって、あんたと一緒になったら――とっくり言いきかせますよ。護衛はいらんなんて言っといてさ。護衛があったら、どうだったか、今、わかったでしょうな……ほかに何か? ビル」
「何もありません。リン夫婦の住居と、ブラッドウッドの間の本道からの小道は砂利ですし、本道は砕石舗装です。それで足跡はとれません。とにかく、みんなで、びっこの男の足どりを洗っています。足跡はなくても、なんとかなるでしょう」
部下たちの働きも収穫がなかったわけではないらしい。
新しい一隊が、ケチャム入江の青い水を蹴立てて、ヨットに乗りつけて来た。数人の刑事が、ひどくおびえ上った中年の男をとりかこんで乗っていた。男はボートの横木に腰かけて、両手で舟べりをつかんでいた。
「一体、何者を引っ立てて来たんだ?」と、ヴォーンが、うなった。「上れ。何者なんだ」と、しだいにせばまる水をへだてて、どなった。
「大ニュースですよ、警視」と、私服の一人がわめくのが、かすかにきこえた。「大した聞きこみです」
私服は、連行した中年男のズボンのちりを浴びながら、舷梯をのぼるのを、下から押し上げた。男はこわばった作り笑いをしながら、甲板によじのぼると、まるで王様の前に出たかのように、硬くなって中折帽子をぬいだ。一同はじろじろとその男を見つめた。男は、金歯をいれていて、田舎紳士風で、これという特徴のない人物だった。
「この人は? ピカード」と、警視がきいた。
「あなたの話をどうぞ、ダーリングさん」と、刑事が言った。「こちらは、うちの親玉だよ」
ダーリング氏は恐縮していた。「お目にかかれてうれしいですよ、警部さん。いや、大したことじゃありません。私はハンチントンのエリアス・ダーリングです、警部さん。私は、あそこの本通りで、たばこと文房具の店をやっとります。昨夜、真夜中ごろ店をしめかけておりますとき、ふと、表通りで見かけたのです。一、二分前から、店の前に自動車が一台、停っていました――ビュイックだったと思います――ビュイックのセダンでした。偶然気がついたんですが、その車を駐《と》めた男は――小柄で、若い女と一緒でした。ちょうど店をしめかけているとき、背の高い男が、車に歩みよって、中をのぞいているのが見えました――車のフロントがあいていて、鍵がかかっていないようでした。すると、その男が、ドアをあけて、エンジンをかけて、センター・ポートの方へ走らせて行きました」
「それで、どうなのかね」と、ヴォーンが、あざけるように言った。「小柄な男の、おやじか、兄弟か、友人か何かかもしれんね。それとも金融会社の男で、小柄なやつが金を払わんので、車を取り上げに来たのかもしれんぞ」
エリアス・ダーリングは、ちぢみ上ったようだった。「そうか」と、つぶやいた。「それには気がつきませんでしたよ。とんでもないことを訴え出まして――なにぶん、警部さん……」
「警視だよ」と、ヴォーンが大声で言った。
「なにぶん、警視さん。その男の人相が気にくわんのでして。町の署長にとどけようと思っとったのですが、私の口出すことじゃないと思い直したのです。しかし、その男は左足が、びっこでしたので――」
「待った!」と、ヴォーンが、どなった。「待ってくれ。そいつは、びっこだったのか。どんな様子をしていたかね」
一同は、ダーリングの言葉にしがみついた。それぞれ胸のうちで、ついに捜査の転機が来たと、思っていた――クロサックと名乗る男の実際の人相がわかると思った。……ところが、ピカード刑事が残念そうに頭を振るので、エラリーは、ダーリングの供述も、ウェアトンのガレージ屋クローカーと同じように大して役に立つまいと、思った。
「この刑事さんにお話したんですが」と、ハンチントンの商人が言った。「顔を見なかったんです。しかし、背の高い、肩幅の広い男でして、小さな鞄を持っとりました――私の家内が、オーバー・ナイト・バッグ〔一泊旅行用の鞄〕と言っとるやつです」
アイシャムと、ヴォーンは、がっかりしたが、ヤードレー教授は頭を振った。「よろしい、ダーリングさん」と、ヴォーンが言った。「どうも、ご苦労かけました。おい、ダーリングさんを、署の車でハンチントンへお送りするようにしろ、ピカード」ピカードは、商店主を舷梯から助け下ろして、ランチが本土の方へ滑り出したときに、戻って来た。
「盗難車の件は? ピカード」と、アイシャムがきいた。
「それがです」と、刑事は間がわるそうに「大して役に立ちませんでした。ダーリングの話したような人体《にんてい》の男女が、午前二時に、車を盗まれたと、ハンチントンの警察に届け出て来ました。二人がどこにいたのかわかりませんよ――私も知りません。ダーリングの言う、セダンのビュイックでした。そのちびは、連れの女に夢中になっていて、イグニッション・キイを、錠から抜いておくのを忘れちまったのでしょうよ」
「車の手配書は出したろうな」と、ヴォーンがきいた。
「はい、警視、番号からなにからみんな」
「大きな収穫があるかもしれんぞ」と、アイシャムがぶつぶつ言った。「当然、クロサックは昨夜、逃亡のために車が欲しかったのだろう――午前二時の列車に乗るのは、危険が多すぎるし、だれかに見おぼえられるチャンスもあるしな」
「言いかえれば」と、エラリーが小声で「あなたは、クロサックが車を盗み、夜通し運転し、どこかへ乗り捨てたと信じているんですか」
「やつはその車を運転しつづけるほどばかじゃないでしょうよ」と、警視が言いきった。「たしかにそのとおりです。それじゃあ間違っていますか、クイーンさん」
エラリーが肩をすくめた。「ちょいときいただけで、頭ごなしにやっつけられるんじゃかないませんよ、警視。間違っちゃいません、ぼくの考えるところでは」
「私の考えでは」と、教授が考えながら「クロサックが、計画した犯罪現場の近くで、しかもちょうどいい時間に、車が盗めるだろうと、予想するなんて、かなり危い橋を渡ったことになりますね」
「危い橋だなんて、とんでもない」と、ヴォーンが気短かに「世間の連中がどうもみんな正直すぎるから困るんですよ。その気になれば、一時間のうちに、車の一ダースぐらいは、わけなく盗めますよ――とくにロングアイランドのこの辺では」
「いい着眼ですよ、先生」と、エラリーが、ゆっくり言った。「しかし、警視の言う方が正しいでしょうね」と言いかけて、頭の上でどたばたする足音がするので、やめた。一同は見上げた。シートでくるんだスティヴン・メガラの死体が、無電室の屋根から甲板へ降ろされるところだった。すぐそばの手すりのところに、色のあせた古い雨帽子をかぶりパジャマをひっかけているスウィフト船長が立って、石のような目で、その作業を見守っていた。テンプル医師は、そのそばで、黙って、火の消えたパイプをくわえていた。
エラリー、ヴォーン、アイシャム、教授は、一人ずつ、下で待っている大きな警察艇に降りた。一同がはなれて行くとき、ヘレーネ号は、静かにケチャム入江の水面に浮かんでいた。死体は舷ごしに、もう一隻のボートに移されるところだった。はるかな岸には、ヨナ・リンカンの背の高い姿が待っているのが見えた。女たちの姿は消えていた。
「どう思いますか、クイーンさん」と、かなり長い沈黙のあとで、アイシャムが、ひどく熱心にきいた。
エラリーは体をねじ向けて、ヨットを振り返った。「この犯罪の解決は、三週間前と同じように、まだ遠いようですね。私に関するかぎりでは、完全に負けだと告白しますよ。犯人はヴェリヤ・クロサックです――ほとんど何者にでもなれる、とらえどころのない人間です。この問題が相変らず、われわれの前に立ちはだかっているんです。現実に、やつは何者なのか」エラリーは鼻眼鏡をはずして、いまいましそうに目をこすった。「やつは手がかりを残している――実際に、これみよがしなんですからね……」と、顔をこわばらせて、黙りこんでしまった。
「どうしたんだね」と、ヤードレー教授が愛弟子《プロテージェ》のしょんぼりしたのを見て、心配そうにきいた。
エラリーは拳をにぎりしめて「うまい考えが――何かあるはずだ。ペルーの六つの悪魔の名にかけて、それは、一体、どんな考えだろうか」
二十六 エラリーは語る
一同は、邸内をうろうろ歩きまわっている当惑と嘔吐感の犠牲者たちを避けるつもりで、急いでブラッドウッドを通り抜けた。ヨナ・リンカンは一言もしゃべらなかった。あまりの打撃にものも言えない様子で、そうするのが一番分別のある行動とで思っているかのように、ただ一同について小道を上って行った。じつに奇怪なメガラの死は、邸の主の死よりも、ブラッドウッドを、はるかに深い悲しみでつつんでいた。まっ青になったフォックスが、両手で頭をかかえて、ポーチの階段に腰かけていた。ヘレーネはゆり椅子に腰かけて、くっきりとまき上る雷雲も目にはいらぬ様子で、じっと遠い空を見上げていた。ブラッド夫人は卒倒した。ストーリングスが、おどおどしてテンプル医師に診察をたのんだ。夫人は自分の部屋でヒステリックに泣いていて、だれも、娘でさえも、手がつかないらしかった。邸の裏手を通るとき、家政婦のバクスターのなげき悲しむ声がきこえた。
一同は自動車道で、ちょっととまどっていたが、やがて、暗黙の合図で、そのまま歩きつづけた。リンカンは黙々として、外に出る門までついて来た。そして、石の門柱によりかかって立っていた。警視とアイシャムはどこかへ行った。各自の仕事で手いっぱいだったのだ。
ナニー婆さんのしわのよった黒い顔は、恐怖でひきつっていた。そして、表のドアをあけてエラリーたちを迎え入れながら、つぶやいた。「ヤードレーの旦那様、これはたしかに、何かのたたりでございますよ」
教授は答えなかった。そして、まるで避難でもするように、まっすぐに書斎へはいった。エラリーもついて行った。
二人とも同じようにものも言えない気分で、腰を下ろした。教授のごつごつした顔には、ショックと不快感の下に、負けん気がひそんでいた。エラリーは椅子に深く腰を下ろして、無意識にポケットのシガレットをさぐっていた。ヤードレーが、大きな象牙の箱を、テーブルごしにエラリーの方へ押しやった。
「何を悩んでいるのかね」と、静かにきいた。「きっと、例の考えが、まだ、すっかり消えてしまわんのだね」
「そんなものは、まるでなかったようなもんです。ただ、とても妙な感じがするだけです」と、エラリーは激しくたばこをふかした。「このなんともつかみどころのない感じって、先生にもわかるでしょう。脳の奥の暗い路地裏で、何かを追いかけまわさせられている。そいつはちらりちらりと見えるだけで、けっしてつかまらないんです。ぼくはそんなふうな気分なんですよ。そいつがつかまればいいんだが……そいつは重要なことなんです。ぼくには、どうも重要なことと思えてならないんです」
教授はパイプの火皿にたばこをつめた。「珍らしい現象じゃないね。そういう考えをつかまえるには精神を集中してもだめなものなんだ。いい方法は、その考えをきれいさっぱり吹きとばしちゃって、何かほかのことでもしゃべっていることだね。ときとしては、その方法が、すばらしく利きめがあるものだ。それはまるで、君が無視していれば、向こうの方がじれて、ひょいと、君の目の前にとび出してくるというようなものだよ。どこからともなく、君が思い出そうとしていたものの姿が、はっきりとあらわれてくるものだよ。まるで無から有が生み出されるようにね」
エラリーはぶつぶつ言った。雷鳴が家の四壁をゆすぶった。
「少し前に――十五分前だが」と、教授は淋しげに笑いながら続けた。「君は三週間前と同じように、現在も解決から遠いと言ったね。よろしい。君は失敗に直面しているわけだ。と同時に、君は今までにいく度も、表面上ははっきりしないし、明らかにアイシャムやヴォーンや私にはわからないが、君だけが到達したいろいろな結論をほのめかした。今、それを追及しないのは、なぜかね。おそらく君が分析に集中しすぎているうちについ見のがしたことで、それについての考えをもう一度口で言ってみているうちにはっきりしてくるようなものがあるかもしれないよ。わたしの言葉を信じるがいい――わたしの全生涯は、いつもそういう経験を味わされ通しだったんだよ。――冷たく一人で考えにとじこもっているのと、温かく膝つき合わせて話し合うことの本質には、根本的な相違があるのだよ。
たとえば、君はチェッカーのことを話していたね。ブラッドの書斎、チェッカー・テーブル、駒の配置など、明らかに、君には、われわれの全然気がつかない意味があったようだ。その問題を、はっきり声に出して検討してみようじゃないか」
ヤードレー教授の、しっとりして、なめらかな声の流れを聞いているうちに、エラリーの、むすぼれた神経が、ほぐれていった。エラリーのたばこの喫い方が、ずっと静かになり、ひきしまった顔の筋が、やわらかになった。「悪い考え方じゃないですね、先生」エラリーはもっと楽な姿勢にすわり直して、目をなかば閉じた。「こんなふうに、とり上げてみましょう。先生は、ストーリングスの供述と、チェッカー・テーブルの模様を結びつけて、どんなふうに、筋立てをなさいますか」
教授は考え深そうに、暖炉にたばこの烟を吹きつけた。室内はかなり暗くなっていた。大洋は黒い雲のとばりに隠れていた。「具体的な証拠の裏付けがない仮設ならいくらでも立てられるが、与えられたデータの表面的情況を疑う、論理的な理由は、私には見つからんね」
「と、言うと?」
「ストーリングスがブラッドを最後に見たとき――犯人以外にブラッドを最後に見た人物と推定していい――ブラッドはチェッカー・テーブルにすわって、一人遊びをしていた。これには何も異常なことも不合理なこともない。ストーリングスは、ブラッドがしばしばそうしていたし、一人で敵味方の駒を動かしていたと証言している――熱心な専門家だけがよくやるようにね――この点は私も確信できるよ。それから、ストーリングスが出かけたあとで、ブラッドが一人遊びを続けている間に、クロサックが書斎に侵入してブラッドを殺したり、他のことなどをしたのは、たしかだろうよ。ブラッドは殺されたとき、赤い駒を握っていた。われわれがトーテム・ポストのそばでそれを見つけたことの説明がつく」
エラリーは、弱々しく頭をもみながら「その――『書斎に侵入した』というのは、どういう意味ですか」
ヤードレーはにやりとして「それを言おうとしていたところさ。さっき、証拠に裏付けされない仮説ならいくらでも立てられると言ったのを、覚えているだろうね。その一つは、クロサックが――君がいく度も指摘したように、われわれの身近な人間かもしれないが――あの晩、ブラッドが待っていた客だったとすると、どうやって家にはいったか説明がつく。もちろん、ブラッドは、自分が友達か親しい知合いだと思っていた男が、実際は仇敵だったという事実はまるで知らなかったのだ」
「裏付けがありませんよ」と、エラリーは、ため息をついた。「ねえ先生、ぼくは今この場で、論理的に打破できない一つの仮説を提出できますよ。藪《やぶ》から棒の説でもなく、当て推量でもなく、明確な論理的な段階を経て到達した結論ですよ、先生。だが、その結論のただ一つの難点は――それが、もやを少しも薄くしてくれないことです」
教授は考え深そうにパイプを吸っていた。「待ちたまえ。私の言うことはまだ終っていないよ。もう一つ仮説が出せる――それも、裏付けの証拠はないが、私の考えでは、前の仮説と同じように、真実らしく思える。それはこうだ。つまり、あの晩、ブラッドには客が二人あったということだ。一人は、ブラッドが待っていた人物で、その客のために、妻と養女と召使どもを家から追い出したのだ。そして、もう一人は、敵のクロサックだった。この場合、正式の客は、クロサックより前に来たにしろ後に来たにしろ――つまり、ブラッドがまだ生きているうちに来たにしろ、すでに死んでから来たにしろ――当然、自分が訪ねたことは黙っているだろうよ。なんとしても、まき込まれたくないからね。今までだれもこのことに気がつかないのにおどろいているんだ。君が今にもそれを持ち出すだろうと、この三週間、待っていたんだがね」
「そうですか」と、エラリーは鼻眼鏡をはずして、テーブルの上に置いた。その目は充血してまっ赤だった。いなずまが、さっと室内を照し出して、二人の顔を不気味な青白さにそめた。「大変なご期待でしたね」
「まさか、君がそれに考えつかなかったとは言わせないよ」
「だが、考えつきませんでした。ぼくは思ってもみませんでしたね。真実じゃないからです」
「ほう」と、教授が言った。「さあ、説明してもらおう。君はこの場で、あの殺しのあった晩、訪ねて来た者は、たった一人だったということが、証明できるのかね」
エラリーは薄笑いした。「ぼくをぎゅうの目にあわせますね。結局、証明というものは、それを証明するものより、それを肯定するものによって価値がきまるものですからね……ちょっとややっこしくなりますがね。先生は、リュク・ド・クラピエ・ド・ヴォーヴェナルグ〔十八世紀のフランス文人「格言集」あり〕という、とてつもない名前の、フランスのモラリストの言葉をご存知でしょう。『簡単な言葉で言いあらわせないほど薄弱な思想は、捨て去ってよいという証拠である』と言っています。だがぼくは、いずれ説明してみせます」
教授は期待しながらひとひざのり出し、エラリーは鼻眼鏡を鼻柱にのせながら語り続けた。「ぼくの見解は二つの要素にもとづくのです。ブラッドのチェッカー・テーブルの駒の配置と、チェッカーの専門家の心理とです。先生は、チェッカーをご存知ですか。あなたは、たしか、ブラッドとは一度も手合わせしたことがないというようなことを、おっしゃいましたね」
「そうなんだ、私もできるんだがね。とてもへたくそでね。それにもう長い間|さし《ヽヽ》ていない」
「|さし《ヽヽ》方をご存知なら、ぼくの解析もおわかりになるでしょうよ。ストーリングスが邸を出る前に書斎にはいってみたら、ブラッドは一人遊びを始めていて、事実、最初の、二駒を動かしていたのを見ています。この証言のために、われわれ一同は迷わされたのです。ストーリングスが最後に見たとき、ブラッドは一人でチェスを|さし《ヽヽ》ていたのだから、殺されたときも、まだ|さし《ヽヽ》つづけていただろうと、みんなは推理したのです。あなたも、その同じ誤りにおちたのです。
だがテーブルの上の駒は、まったく違ったことを語っているのです。盤の上に並べられた駒の配置ばかりでなく、『取られて』盤から取りのぞかれた駒は、どうなっていたでしょうか。黒は赤を九つとり、その赤い駒は盤とテーブルのふちとの間の、あいている場所に置いてあったのをおぼえていらっしゃるでしょう。それに、赤は黒を、たった三つ取り、その黒駒は反対側の、あいている場所に置いてありました。してみると、まず言えることは、黒の方が、赤よりもずっと優勢だった、これは明らかです。
盤自体には、おぼえておいででしょうが、三つのキング、つまり重ねた駒が黒の側にあり、それにただの三つの黒の駒がありました。そして赤の方にはたった二つのただの駒があっただけです」
「それがどうしたんだね」と、教授が言った。「私にはブラッドが一人遊びをしていて、敵側の赤の駒を、いくつか、ひどくへたに|さし《ヽヽ》ただけだとしか受けとれないがね」
「お話にならない結論ですね」と、エラリーがやりかえした。「練習をする場合には、専門の|さし手《ヽヽヽ》は、|さし《ヽヽ》はじめと、|詰め《ヽヽ》の手にしか興味を持たないものですよ。チェッカーでも、チェスでも、その他の知恵を働かせて最後の勝負が個々の遊び手の腕前にだけかかっているゲームでは、みな同じことです。ブラッドは全く練習のために、一人遊びをしていたのに、なぜ、一方の側を圧倒的に優勢にし、三組のキングとただの駒一つという差をつけるようなことをしたのでしょう。練習のゲームをこんな盤面になるまで、|さす《ヽヽ》ことはけっしてないはずです。専門家だったら盤を一目見ただけで、これほど勝敗がはっきりしないときでも――一駒の差とか、駒は同じでも布陣の優劣とかで――もし双方に|さし《ヽヽ》違いがなければ、その勝敗を言うことができるでしょう。ブラッドが本気でこんな片よったゲームを一人遊びしたとすれば、まるでロシア生れのチェスの大家アレーキンが、チェスの練習に、片方をクイーン一つと、ビショップ二つと、ナイト一つだけ優勢にして、一人遊びをしているようなものです。
そこでこういうことになります。ストーリングスが見たとき、ブラッドは練習ゲームをやっていたが、夜おそくなってから、本式に相手のあるゲームをしたにちがいないのです。なぜなら、専門家ならあんなに一方的に優勢なゲームの練習をするはずがないが、考え方を変えて、だれかを相手に|さし《ヽヽ》たものとすれば、あの一方的な盤面も理解できるのです」
戸外は豪雨になっていて――灰色の雨足が窓にはげしく音を立てていた。
ヤードレー教授の歯が、黒いひげの上に白くあらわれて、にやにや笑っていた。「なるほど、なるほど、そこまではわかった。しかし、君はまだ、ブラッドがあの晩、正当な客とチェッカーをやって、われわれが見つけた盤面でゲームをやめ、その後、おそらくその客が帰った後で、クロサックに殺されたかもしれないという、もっともらしい仮説を排除していないよ」
「じつにうまいな」と、エラリーはくすくす笑って「先生は不死身だ。では、ぼくも二連発を撃たなければなりませんね――論理と常識との。
こんなふうにとりあげてみましょう。われわれは、ゲームをしていた間の時間との関連の上で、殺人の時間を決定することができるでしょうか。
ぼくはできるだけ論理的にすすめます。盤面はどうなっていたでしょうか。黒の側の第一列には二つあった赤駒の一つが、まだゲームの中途でした。しかし、チェッカーでは、駒が相手の第一列に達すると、成り駒になって、その駒は王またはキングになる権利があります。その方法はご存知のように、第一列に達した駒の上に他の駒をのせるのです。すると、この試合では、どうして、赤の駒がキングになれる列に達していながら、成り駒になっていないのでしょうか」
「やっとわかって来たよ」と、ヤードレーがつぶやいた。
「理由は簡単で、ゲームがその段階で中止されたからです。なぜなら、赤の駒がキングにならないとゲームは続けられなかったはずですからね」と、エラリーは早口になって「ゲームがそこで中止された確証があるでしょうか。あります、その前にまずかたづけておかなければならない疑問は、このゲームで、ブラッドは、赤だったか、黒だったかです。ブラッドがチェッカーの玄人《くろうと》だったという点には、あらゆる種類の証拠があります。事実、全国チェッカー選手権保持者を招いて、勝るとも劣らぬ試合をしています。してみると、明白に赤がへたなプレーヤーだったこのゲームで、ブラッドが赤の手だったとは考えられませんよ――へたもへた、相手にキング三つと平駒一つも差をつけられているんですもの。いや、たしかに考えられませんし、ブラッドが黒の手だったことが、ただちに断言できます……ついでに、記録を正確にしておくために、ここで訂正させてもらいます。今までの話で、黒の手が赤の手より優勢だったのはキング三つと、平駒一つではなくて、キング二つと、平駒二つだったことがわかります。赤の平駒の一つはキングになれるはずで、なっていなかったからです。
しかしそれでも、大変な優勢です。
ところで、もしブラッドが黒の手だったとすれば、ゲームの間、事務机から遠い、テーブルの反対側でなく、事務机のそばの椅子に腰かけていたにちがいありません。たしかにそうだと言うのは、取られた赤の駒は全部、事務机に近い方の側にあり、むろん赤を取ったのは黒だからです。
そこまではそれでいいのです。ブラッドは黒の手であり、事務机に近い椅子にすわっていたのです。すると、お客であるチェッカーの相手は、その反対側にすわっていたことになるから、事務机に面していたので、ブラッドは当然、事務机に背を向けていたはずです」
「だが、そうだとすると――」
エラリーは目を閉じた。「もし天才になる希望をお持ちなら、先生、ジスレリー〔一八〇四〜八一。イギリスの作家・政治家〕の忠告に耳をかたむけて、忍耐心を養われるべきですよ。先生、ぼくは大仕事にかかっているんです。ぼくは教室で、先生が、一万人部隊〔クセノフォンの「ペルシア遠征記」〕やフィリップ〔キリスト十二使徒の一人。ギリシアに布教し、ドミティアンで十字架にかかる〕や、キリストについてゆっくり講義されるのを、空しい期待にもえて、じりじりしながら机にかじりついていたものですよ……
話はどこまででしたっけ。そうそう。赤いチェッカーの駒が一つなくなっていたのを、外の、ブラッドがはりつけにされた現場近くで見つけましたね。あの男の手の平には、丸い赤いしみがついていました。してみると、殺されたときに、あの駒を握っていたことになります。なぜ、あの男はあの赤い駒を取り上げて、持っていたのでしょう。理論的には多くの説明が可能です。しかし、その事実の裏付けになる説明はただ一つきりです」
「どういう説明かね」と、教授がきいた。
「その赤い駒は、黒のキングの列にあって、まだ成り駒になっていなかったという事実です。ブラッドの手には――黒の側で|さす《ヽヽ》手の、いいですか――赤い駒、なくなっていたただ一個の駒があったのです。すると」と、エラリーはきびきびした調子で「こう結論せざるをえません。つまり黒の相手である赤は、やっと一つの駒を黒側のキングの列に進めることができた。そこで、黒側、つまりブラッドは、取った赤い駒をつまみ上げて、自分の側のキングの列にとどいたばかりの赤の駒の上に重ねようとした。|ところが《ヽヽヽヽ》、つまみ上げたその赤い|駒を重ねないうちに《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|ぴたりと《ヽヽヽヽ》、|ゲームを中止するような何事かがおこった《・・・・・・・・・・・・・・・・・・・》。言いかえれば、ブラッドが相手方の駒を|なら《ヽヽ》せるという特別な目的で赤い駒をつまみ上げ、しかもその動作をついに完了しなかったという事実は、そこからただちに推理して、いつゲームが中止されたかということだけでなく、なぜ中止されたかを示すものなのです」
ヤードレーは黙って耳を傾けていた。
「推理とは言いましたが、ブラッドがその動作を完了しなかったのは、ただできなかっただけなのです」と、エラリーは一息入れて、ため息をした。「ブラッドはその瞬間に襲われたのです。そして、おだやかな言い方をすれば、赤のキングに王冠をかぶせられなくされたのです」
「そこで血痕というわけだね」と、教授がつぶやいた。
「そのとおりです」と、エラリーが「それには確証があります――敷物の上の血痕の位置です。血痕は黒の側の椅子の後方二フィートに――つまりブラッドのいた後に――ついていました。われわれは、殺人が書斎で行なわれたことを、かなり前に証明しました。そして血痕はただ一つだけ書斎にあったのです。もしも、ブラッドが、テーブルに向かってすわっていて、赤い駒を|なら《ヽヽ》せようとしているときに、前から頭を殴られたのなら、後の、椅子と事務机の間に倒れたにちがいありません。そしてわれわれが血痕を見つけた場所は、まさにそこです……ラムセン医師が、ブラッドは、最初に頭を殴られたにちがいない、体には暴行を受けたあとがないからと、言っていました。すると、ブラッドが倒れた場所の敷物を汚したのは、犯人が死体を持ち上げて、亭屋へ移す前に、血が流れるままにしておいた|きず《ヽヽ》のせいなのです。これで、すべての細かい点がぴったり合います。このことから、きわめて肝心な事実がはっきりしてきます。つまり、|ブラッドは《ヽヽヽヽヽ》、|自分の殺人者とチェッカーをしていて襲われた《・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・》。|言いかえればブラッド殺しの犯人は《・・・・・・・・・・・・・・・・》、|チェッカーの相手だったということです《・・・・・・・・・・・・・・・・・・》……ああ、異議があるんですね」
「むろんあるよ」と、ヤードレーが、やり返した。そして、パイプに火をつけ直して、すぱすぱ喫った。「君の立論の中には、次のことを否定しうるものがあるかね。つまり、ブラッドのチェッカーの相手は、まったく罪のない者か、クロサックの相棒ではなかったかという点さ。その罪のない相手がブラッドとチェッカーをしていたとき、あるいは、相棒がブラッドの注意をそらすために、勝負をしていたときに、クロサックが書斎に忍び込んで、背後からブラッドを殴りつけたのではないかという点さ。このことは血痕を発見した日に、私が言ったがね」
「なんですって。いくらでも否定できますよ先生」と、エラリーは目をしばだたいて「クロサックには共犯者がなかったろうということは、ずっと前に証明しました。要するに、こんどの犯罪はみんな復讐です。こういう犯罪には金銭上の立場から、共犯を誘うような要素は何もないんです。
もともと二人の人物がいて、その一人がクロサックであり、もう一人はブラッドとチェッカーをやった無実の訪問者だった可能性があると言われるんですね……すると、それはどういうことになるか考えてみて下さい。クロサックは、わざわざ、無実の目撃者の目の前でブラッドを襲ったことになりますよ。不合理ですよ。きっと、目撃者が立ち去るまで待ったはずです。一歩ゆずって、目撃者の目の前で襲ったとしましょう。クロサックはその目撃者の口を封じようと、全力を尽さないはずはないでしょう。クロサックのような良心の血まみれな人間は、もう一人の人間の命をとる必要があるとなれば、いささかもためらうはずはありません。しかも目撃者は無事に立ち去っているのです……ちがいます、先生、おそらく、目撃者はいなかったのです」
「だが目撃者がクロサックの来る前に来て、立ち去ったとしたら、どうなるね――ブラッドとチェッカーをした目撃者がね」と、教授がくいさがった。
エラリーは困ったもんだというように舌打ちした。「おや、おや、先生は、グロッキーになられましたね。もし、その男が、クロサックの前か、後に来たとすれば、目撃者にはなれないはずじゃありませんか。そうでしょう」と、笑い出して「いや、肝心な点は、われわれが見つけたあのゲームの盤面は、ブラッド対クロサックの勝負だったことです。そして、もしその前後に訪問者があったとしても、そのことはクロサック――殺害犯人――が、ブラッドと試合をしたという事実は打ち消せないはずです」
「とすると、君の長談義の結論は、どうなるかね」と、ヤードレーがつぶやいた。
「前にも言ったとおり、ブラッド殺しの犯人は、ブラッドとチェッカーをしていた。すると、クロサックは、もちろんクロサックとしてではなく、だれか他の人間として、ブラッドによく知られていた人物ということになります」
「そうか」と、教授は、やせたすねをぴしゃりとたたいて叫んだ。「君そりゃあだめだ。なぜよく知っていた人物なのかね。え? 君はそれが論理的だと言うのかね。ブラッドのような男がだれかとチェッカーをするからには、当然、あの男の友達だったと言うのかね。ばからしい。なぜって、ブラッドは汲み取り人夫とでもチェッカーをやる男なんだ。チェッカーのできる男なら、どんなに知らない男でも餌じきにしたのだ。私がチェッカーに本当に興味がないことをわからせるのに三週間もかかったのだからね」
「弱ったなあ、先生。もしチェッカーの話から、ぼくがブラッドの相手を、友達だったと推定したような印象を先生に与えたのなら、残念です。そんなつもりではなかったのです。もっと有力な理由があるんです。ブラッドは、ツヴァル家の仇敵であるクロサックが、家柄の古いツヴァル家の血に飢えて国外に去ったのを知っていたでしょうか」
「そりゃ、もちろんだよ。クロサックの置手紙でもわかるし、ヴァンもそのことを書いて、ブラッドに警告している」
「たしかにそのとおりです。ブラッドは、クロサックが仇を求めて国外に出たことを知っていながら、見知らぬ人物と会う約束をして、わざわざ身辺の護衛になりそうな者を、みんな家から追い出したりするでしょうかね、あんなふうに」
「ふうん。しないだろうね」
「ですから先生」と、エラリーは疲れたように吐息して「データを充分に集めれば、なんでも証明できるんですよ。ところで――最も極端な場合を取ってみましょう。あの晩にブラッドの待っていた客が来て、ブラッドと取引上の話をすませて立ち去ったとしてみましょう。その後、クロサックがあらわれた。いいですか、全然、見知らぬ人物としてですよ。ところが、ブラッドを殺したクロサックは、ブラッドとチェッカーをやっていることは、証明ずみです。このことは、ブラッドが、わざわざ、全く見知らぬ人間を、無防備の家に招き入れたということになるのです……もちろん、見当ちがいで、ですね。してみると、クロサックは、偶然にその夜訪れた客としても、来ることがわかっていた客としても、ブラッドがよく知っていた人物にちがいないのです。じつは、ぼくにはそんなことはどうでもいいんです。ぼくはあの夜、書斎にいたのはブラッドのほかには、ただ一人だと信じているのです――クロサックだけです。だが、もし二人いようと、三人いようと、十二人いようと、クロサックが、たとえどんな変装をしていたにしても、ブラッドがクロサックをよく知っていたのだという結論は、くつがえせないのです。そして、ブラッドは、クロサックと、チェッカーをやり、ゲーム中に殺されたのです」
「そうすると、どうなるのかね」
「どうにもなりません」と、エラリーはくやしそうに言った。「だからぼくはさっき、三週間前から少しも好転していないと言ったのですよ……そうだ、もう一つ確実な事実があります。今、気がついたのですが、このこみ入ったごたごたの中から拾いあげることができる事実です。もっと前に思いつかないなんて、ぼくも、とんだばかでした」
教授は立ち上って、暖炉のところでパイプの灰を落した。「君は今夜は案外なことばかり言うじゃないか」と、振り向かずに「一体、どういうことだね」
「クロサックがびっこでないことを、絶対に確信していいですよ」
「それは前にも話したじゃないか」と、ヤードレーがたしなめた。「いや、君の言うとおりだ。だが、確かめようがないということだった。しかし、どうして――」
エラリーは立って、両手を伸ばして伸びをし、行ったり来たり、歩きはじめた。書斎の中は湿気をおびていた。外の雨のしぶきは、いっそう激しい音をたてていた。「クロサックは、どんな人間に化けていたかしれないが、ブラッドがよく知っている者でした。ブラッドがよく知っている人間には、びっこは一人もいませんでした。とすると、クロサックは実際はびっこではなかったことになります。だが、警察の目をごまかすために、若いころの不具を、不断の肉体的な特徴として利用していたのに過ぎないのです」
「それでだね」と、ヤードレーがつぶやいた。「あの男が、びっこの男に注意を向けさせるような手がかりをわざとはっきり残したのは」
「そのとおりです。やつは危険をかぎつけるとすぐ、びっこをやめてしまうのです。足どりがつかめないのも不思議はありません。ぼくは、もっと前に、それに気づくべきでしたよ」
ヤードレーは火の消えたパイプを口からつき出したまま、仁王立ちになった。「さあ、そこでだ」と、エラリーを鋭く見つめて「君の逃げまわる考えは、まだ正体をあらわさんかね」
エラリーは頭を振った。「まだどこかの、渦巻きのかげに隠れています……考え直してみましょう。最初の被害者、クリング殺しは、充分に説明がついています。クロサックと、にせびっこが、犯罪現場のすぐ近くにいたし、動機も、つながりも、犯罪の特殊性も――みんなぴったり合っています。宿怨があったのです。クロサックはツヴァル兄弟の一人、アンドレヤを殺したものと思っていた。ツヴァル三人兄弟の中で一番見つかりそうもなかったヴァンの足どりを、ついに見つけたのは、どうやってでしょう。この疑問には答えられません。いずれ、時がくれば、おのずと解けるでしょうがね……クロサックはふたたび襲撃しました。今度はブラッドです。これも同じ疑問が生じて、やはり答えられません。計画はいっそう精巧になりました。クロサックはブラッドの置手紙を見つけて、最初の殺しで誤りをおかし、ヴァンがまだ生きていることを、はじめて知ります。だが、ヴァンはどこにいるのか。見つけなければならぬ、さもないと復讐は完了しないと、クロサックは自問自答したことでしょう。そこで第二幕目は幕です――きわめて、メロドラマ的です……やがてメガラが帰ってくる。クロサックは、ブラッドの書置きによって、メガラこそ、ヴァンの新しい身分と、現住所を知っている唯一の人物だということを知っていたでしょう……短い中休み。足ぶみ。それから……そうだ」と、エラリーが声を立てた。
ヤードレー教授は緊張して息を殺していた。エラリーのとらえどころのない考えが、はっきりつかまった様子だった。エラリーは床に棒立ちになり、ついに見つけた考えで、目をきらきら光らせながら、この家の主を見つめていた。「ぼくはなんてばかだったんだ。なんというばかで、うすのろで、間抜けで、精薄だったんだ。やっとわかりましたよ!」
「利き目があったね」と、教授はほっとして、にやにや笑った。「なんだね――さあ、君、どうしたんだね」
教授ははっとして言葉を切った。エラリーの興奮した顔に驚くべき変化があらわれていた。あごが下がり、目が曇り、人が純粋に想像だけの仮空のショックを受けたときによくあるように、打ちひしがれていた。
そんな表情はあらわれたかと思うと、じきに消えた。エラリーのあごが、なめらかな褐色の頬にくっきりと浮き出た。「聞いて下さい」と、早口で「暇がありませんから、あら筋だけにします。われわれが待っていたのはなんですか。クロサックが待っていたのはなんですか。われわれはクロサックが、唯一の情報源であるメガラを通してヴァンの居所をさぐり出そうと動き出すのを待っていたのです。クロサックは、それを見つけるまで待っていたのです。そしてメガラを殺しました。その意味は、ただ一つのことしかありません」
「クロサックは見つけたんだ」と、ヤードレーが叫んだ。その考えの重大さで、深い声が、上ずった。「おお、クイーン君、なんてばかだったんだ、われわれは、まるでばかだった。もう、手おくれかもしれんよ」
エラリーは答える手間もかけずに、電話にとびついた。「ウェスタン・ユニオンを……電報をたのむ。至急だ、宛名、ルーデン巡査殿、ウェスト・ヴァージニア州、アロヨ……そう。電文。『ただちに自警隊を組織し、ピート老人の小屋へ行き、小生が到着するまでピート老人を保護せよ。クラミットにクロサックが立ちもどったことを通報せよ。貴官が小屋に到着するまでに変事あらば、クロサックの足どりを捜査し、兇行現場は手を触れずに残されたし』エラリー・クイーンとサインしといてくれ。読み返してくれたまえ……クロサックは――K・r・o・s・a・c。そう……たのみます」
エラリーは受話器をなげもどしたが、すぐ気を変えて、ふたたび取り上げた。そして、道の向こうのブラッドウッドにかけて、ヴォーン警視を呼び出した。ヴォーンは、少し前に、急いでブラッドウッドを出て行ったというストーリングスの返事だった。エラリーは、横柄にストーリングスを引っこませて、ヴォーンの部下の刑事を呼びにやった。ヴォーン警視はどこかね? 電話を受けた刑事は恐縮して、心当りがないと言う。警視は通報を受けて、地方検事アイシャムと共に、ただちに車を命じてとび出したという。
「しようがないな」と、エラリーは、受話器をかけて、うなった。「さて、どうしましょうか。ぐずぐずしている暇はありません」と、窓にかけ寄って外を眺めた。雨はますます激しさをまして、どしゃぶりになっていた。いなずまが空を引き裂いていた。雷鳴は絶え間なくとどろいていた。「ねえ」と、エラリーは振り向いて「先生は、後に残っていただかねばなりませんよ」
「どうも、君を一人で行かせる気がせんよ」と、ヤードレーがためらいがちに言った。「とにかくこの嵐だからね。どうやって向こうまで行くつもりかね」
「心配いりませんよ。先生はここに残って、極力、ヴォーンとアイシャムに連絡をとって下さい」エラリーは、また電話にとびついた。「ミネオラ空港を、早く」
教授は、エラリーが待っているあいだ、そわそわとひげをこすっていた。「おい、おい、クイーン君。こんな天候に飛ぶなんて考えちゃいかんよ」
エラリーは手を振ってさえぎり「もし、もし、ミネオラ? 西南行きの速い飛行機を、すぐに出してもらいたいんだが……なんだって」と、エラリーはうなだれて、しばらくすると受話器を置いた。「天候まで、われわれについていない。嵐は大西洋方面から来て、西南に向かっているそうです。ミネオラ空港の話では、アレガニー山脈は大荒れだそうです。飛行機は出せないと言うのです。一体どうしたらいいでしょう」
「汽車では」と、ヤードレーが提案した。
「だめです。古なじみのデューゼンバーグにたよるとしよう。先生、レインコートか、防水着を貸していただけませんか」
二人は教授の家のホールに走り込み、ヤードレーが戸棚をあけて、長目の防水着を引っぱり出した。そして、エラリーが着込むのに手を貸した。「なあ、クイーン君」と、教授はせきこんで「早まったまねをしてはいかんよ。車はオープン・カーだし、道は悪いし、しかも、おそろしい道程《みちのり》だからね――」
「不必要な危ないまねはしませんよ」と、エラリーが言った。「いずれにしても、ルーデンがしかるべくやってくれるでしょう」エラリーは駆け出して行って、ドアを開いた。教授は玄関について出た。エラリーは黙ったまま、手を差し出した。「先生、ぼくの幸運を祈って下さい。いや、むしろ、ヴァンの幸運を」
「行きたまえ」と、教授は、エラリーの手を上下に振りながら、うなるように言った。「全力をつくしてヴォーンとアイシャムを見つけるよ。気をつけるんだよ。君は確信があるかね。むだな旅行じゃないかね」
エラリーは沈痛な声で「クロサックがこの二週間、メガラを殺さないでいたのには、ただ一つの理由があったのです。つまり――ヴァンの居所を知らなかったからです。やつがメガラを殺したからには、きっと、ピート老人のからくりと山の隠れ家を見つけ出したにちがいありません。おそらく、メガラを殺す前に、おどして情報を聞き出したのでしょう。四番目の殺しを食いとめるのはぼくの仕事です。今、この瞬間にも、クロサックは、きっとウェスト・ヴァージニアへ行く途中でしょう。昨夜、どこかへ泊って時間をつぶしてくれているといいんですがね。さもないと――」エラリーは肩をすくめて、名残りおしげに見送っているヤードレーにほほえみかけた。そして階段をかけ下り|しの《ヽヽ》つく雨と|いなずま《ヽヽヽヽ》のきらめく中を、車庫と、古ぼけたスポーツ・カーがある方へ、自動車道を駆けて行った。
ヤードレー教授は、ふと、懐中時計を見た。ちょうど、午後一時だった。
二十七 つまずき
デューゼンバーグは、ニューヨーク市を、のろのろと走り、下町の|ざっとう《ヽヽヽヽ》にもまれ、ホーランド・トンネルを駆け抜け、ジャージー・シティの車の波をかきわけて通り、ニュージャージーの町々の迷路をくぐり抜けて、やがてハリスバーグへ向かう道に直進すると、矢のように疾走した。交通量はあまりなかった。嵐はまだおさまっていなかった。エラリーはときに応じて、幸運を祈りながら、スピード違反をやってのけた。運がついていた。交通巡査の白バイに追いかけられずに、ペンシルベニアの町々を駆け抜けることができた。
雨よけの設備がない古車の中は、洪水だった。靴はびしょぬれだし、帽子からは雨だれがしたたった。エラリーは車の中のどこかからレース用の風防眼鏡をとり出してかけた。麻服の上に防水着をまとい、軽いフェルト帽を耳まで引き下げ、鼻眼鏡の上に琥珀色《こはくいろ》の風防眼鏡をかけ、いかめしい顔をして大きなハンドルにしがみついて、嵐の吹きすさぶペンシルベニアの田舎道を驀進する姿は、いかにもグロテスクだった。
その日の午後七時二、三分前に、雨はまだどしゃ降りだったが――雨足を追って走っているみたいにして――車はハリスバーグへすべり込んだ。
エラリーは昼飯抜きだったので、胃袋が背中にくっつくほど空腹になっていた。デューゼンバーグを、とあるガレージに駐めて、職工にいろいろ指示を与えてから、車を出て、レストランを探しに歩き出した。一時間ほどして、ガレージにもどり、オイル、ガソリン、タイヤを調べてから町をとび出した。道はよくおぼえていた。ハンドルの前にすわっていると、体が冷えて、べたべたして気持が悪かった。六マイルほどでロックヴィルを通過し、一路疾走をつづけた。サスケハナ河を渡って突っ走り、二時間後にはリンカン・ハイウェイを取りすぎて、意地になって道路にしがみついて走りに走った。雨は降りつづいていた。
真夜中、寒気がして、疲れはて、目ぶたが言うことをきかなくなったころ、ホリディスバーグにはいった。またもや、まずガレージに駐まり、にこにこ顔の職工と元気よく話し合ってから、ホテルへ歩いて行った。雨が濡れた足にふりかかった。
「三つのことがたのみたいんだがね」と、小さなホテルで、こわばった唇で言った。「部屋と、服を干してもらうこと、明日は七時に起こしてもらうこと。やってもらえるかね」
「クイーンさん」と、番頭は宿帳のエラリーのサインを見ながら「まかせていただきましょう」
あくる朝、すっかり元気になり、干いた服をつけ、ベーコンと卵で胃袋をふくらまし、デューゼンバーグのごきげんもよく、エラリーは旅の最後のひと走りにかかった。嵐の足あとが、走りすぎる車から見えた――根こそぎにされた木々、ふくれ上った小川、道ばたに置き捨てられた故障車。一晩じゅう荒れた嵐は、あけがたには急に鎮まったが、空はまだ低く鉛色だった。
十時十五分には、エラリーはデューゼンバーグを操ってピッツバーグを通過した。十一時三十分、空はすっかり明るくなり、太陽が精いっぱいにアレガニーの山脈《やまなみ》を照し出そうとしていたころ、エラリーはウェスト・ヴァージニアのアロヨ町役場の前で、デューゼンバーグを、急停車した。
見おぼえのある青いデニムの服を着た男が、町役場の入口の前の歩道を掃いていた。
「もし、もし、あんた」と、その旦那は、箒《ほうき》をなげ出して、走り抜けようとするエラリーの腕をつかみ「どこへ行きなさるね。だれに会いなさるね」
エラリーは返事をしなかった。そして、うすぎたないホールをかけ抜けて、後ろの方のルーデン巡査の詰所へ行った。巡査詰所のドアはしまっていた。見たところ、アロヨの民警部には人気《ひとけ》がなかった。エラリーはドアを押してみた。鍵がかけてなかった。
仕事着の男は、無骨な顔に頑固な表情をうかべて、あとからついて来た。
ルーデン巡査詰所は空だった。
「巡査はどこかね」と、エラリーがきいた。
「そいつを言うところだったよ」と、男は|いこじ《ヽヽヽ》に「ここにはいねえだ」
「ああ」と、エラリーは、わかったというように、うなずいた。すると、ルーデンは山に行っているんだな。「巡査は、いつ出かけたかね」
「月曜日の朝でさ」
「えっ?」エラリーの声には、おどろきと、苦悩と、さては惨事があったなという、ひびきがあった。「しまった、間に合わなかったんだな、ぼくの――」エラリーは、ルーデンの机にとびついた。ごちゃごちゃの書類の山だった。エラリーが巡査宛の公文書の山をかき分け出すと、青い仕事着の男は、あきれて、とめようとして手を出した。すると、エラリーが心配していたように、そこに、それがあった。黄色い封筒の電報が。
エラリーは封を切って読んだ。
ルーデンジユンサドノ」アロヨ ウエスト ヴアージニア」
タダチニ ジケイタイヲ ソシキシ ピートロージンノ ヤマゴヤニユケ」シヨウセイノ トウチヤクマデ ホゴセヨ」クラミツトニ クロサツクノ タチモドリシコトヲ ツウホウセヨ」キカンガ ヤマゴヤニ トウチヤクスルマエニ モシ ヘンジアラバ クロサツクノ アシドリヲソウサセラレタク」ハンザイゲンバハ テヲフレズニ ノコサレタシ」
エラリー・クイーン
エラリーの目に、パノラマのような数々の場面が浮かんだ。おそろしい、とてつもない失敗、運命の歯車のかみ合わせ、結果からみてなんの役にも立たなかったルーデン宛の電報。仕事着の男のくどくどしい説明によると、巡査と町長マット・ホリスは、二日前の朝、例年の釣旅行に出て、たいてい一週間は留守にし、キャンプしながら、オハイオ河とその支流を釣って歩くというのだった。日曜日までは戻るまい。電報は昨日の午後三時ちょっと過ぎに着き、仕事着の男――自ら管理人、番人、小使と名乗った――男が、それを受けとり、サインして、ルーデンとホリスが留守なので巡査の机に置いたのだという。もし、たまたまエラリーが来なかったら、電報は一週間も置きっぱなしだったろう。管理人も、さすがに気にかかったとみえて、何かいいわけしかけたが、エラリーはつきのけるようにして、とび出し、目にかすかな恐怖の色をたたえて、急いでアロヨの本通りへ走りもどり、デューゼンバーグにとび乗った。
うなりをたてて角を曲がり、前にアイシャムとルーデン巡査を乗せて走った道を思い出しながら驀進《ばくしん》した。ハンコック郡のクラミット地方検事や、郡警察のピケット警視に連絡するひまもなかった。エラリーが恐れている事態がまだおこっていなければいいが、どんなことがおころうとも適当に対処できる自信があった。デューゼンバーグの物入れには弾をこめた自動拳銃があった。「何事もなければいいが……」
エラリーは見おぼえのある茂みで車を降りた――草と潅木のしげっている地面には、あの雨にもかかわらずこの前来たときの車のあとが、かすかに残っていた――そして、拳銃を持って、ルーデン巡査が辿ったかすかな足あとをひろいながら、けわしい山道を登り始めた。エラリーは注意しながらすばやく登った。どんなことにぶつかるかてんでわからなかった。何事にも、何者にもけっして不意をつかれてはならないと用心した。青々と深くしげった森はしんとしていた。頭の中で、手おくれだという警鐘が、遠くなりひびくのを感じ、間に合ってくれと祈りながら、森を抜けて行った。
やがて木の後ろにしゃがんで、例の空地を、うかがった。柵はもとのままだった。表のドアはしまっていたが、エラリーは勇気をふるいおこすと同時に油断なく構えた。自動拳銃の安全装置をはずして、音もなく木の後ろから忍び出た。有刺鉄線を張った窓に見えたのは、ピート老人のなじみのひげ面だったろうか。いや、見えたような気がしただけだ。拳銃を握りしめたまま、こわごわ柵を乗りこえた。すると、足あとがあるのに気がついた。
エラリーは、たっぷり三分間も立ちどまって、湿った地にきざまれている足跡が、はっきり物語る意味を検討していた。それから、何かを物語っているその足跡をさけて、迂回し、足もとに気をつけながらやっと戸口に達した。
ドアは、気がつくと、最初見たときとはちがって、ぴったりしまっていなかった。細い隙間が見えた。
銃を右手に構えて、及び腰に、その隙間に耳を当ててみた。小屋の中からはなんの物音もきこえなかった。エラリーは身構えて、左手で、どかんとドアをなぐった。すると勢いよくさっとひらいて、内部が見えた……
一呼吸、二呼吸しながら、左手を宙にかまえ、右手で小屋の中に銃を向けて、立ったまま、目の前のおそろしい光景を見つめていた。
それから、入口をとびこみ、重いドアをぴたりと後ろ手にしめきって、かんぬきをかけた。
十二時五十分に、デューゼンバーグが、また町役場の前で、きしって停り、エラリーが歩道に降り立った。妙な青年だと、管理人は思っただろう。エラリーの髪は乱れ、目は狂的な光りをたたえ、かみつかんばかりの勢いでつめよったのだ。
「よう」と、仕事着の男は不安そうに言った。また、日ざかりの歩道を掃いていたのだ。「あんた、帰って来なさったんだね。あんたに話すことがあったのによ、口もきかせなかったでね。あんたの名は、もしや――」
「たくさんだ!」と、エラリーが頭ごなしに「この活動的な保安管区を留守番しとるお役人様は、あんた一人らしいね。たのみたいことがあるんだがね、管理人さん。まもなく、ニューヨークから二、三人かけつけてくるはずなんだ――いつかわからんがね。だが、何時間かかろうと、ここで待ち受けていてもらいたいんだ。いいかね?」
「そうかね」と、管理人は箒にもたれかかって「どういうことが、よくわからんがな。なあ、あんた、とにかく、クイーンと言いなさるんじゃないかね」
エラリーは目をむいて「そうだよ。なぜ?」
管理人はふくらんだ仕事服のポケットの底をさぐり、手をとめて、かみたばこの茶色のつばをはいた。それから、折りたたんだ紙片をとり出した。「あんたが見えたとき、すぐ言おうと思ったんだがね、クイーンさん。あんたは口もきかせてくれなかったでな。あんたにこれを置いてった人があるだよ――のっぽのぶおとこでね。エイブ・リンカンみたいな顔だったよ」
「ヤードレーだ」と、エラリーは叫んで、置手紙をひったくった。「おいおい君、一体なんだって、さっき言ってくれなかったんだい」あまりせいたので紙をのばすとき、危く破りそうだった。
置手紙は教授のサインのある鉛筆のなぐり書きだった。
クイーン君
説明するまでもない。現代の魔術で私の方が先になった。君が発ってから心配になり、ヴォーンとアイシャムの行方を探したがだめ。連中はマサチューセッツから、リン夫婦の足どりの有力なききこみを得たと言うことがわかった。君の伝言はヴォーンの部下に託した。クロサックのような血に飢えた野蛮人を、君一人に追わせるのは、なんとしても心がかりだ。ブラッドウッドは平静だ――テンプル医師はニューヨークへ出かけた。おそらく、ヘスターのもとだろう。ロマンスだろう。
嵐の夜通し起きていた――眠れなかった。嵐がやんで、朝六時にミネオラに行った。航空条件は良好。専用機を雇って西南にとんだ。今朝十時にアロヨ近傍に着陸(ここまでは機中で書いた)
追記。だれも道を知らぬので小屋は見つからなかった。ルーデン不在、町は死んだようだ。君の電報は未開封らしい。どうやら、最悪の事態らしい。とくに私がこの付近でびっこの男の足どりをつかんだからね。〔重視せよ〕
びっこの男は小さな鞄を持っている(クロサックに相違ないが、人相は不明、顔をマフラで包んでいる)昨夜、十一時三十分に、アロヨからオハイオ河を渡ったところの、イエロー・クリークで自家用車を雇った。車の主と話した。クロサックを、オハイオ州スチューベンヴィルまで送り、ホテルに降ろしたそうだ……ただちに、私はクロサックを追跡するつもりだ。この手紙を、アロヨ町役場の超有能管理人に、君宛に託す。スチューベンヴィルにすぐ来たまえ。もし次の足どりが判明したら、フォート・スチューベン・ホテルに置手紙を残して行く。とり急ぎ。
ヤードレー
エラリーは荒っぽい目付きで「その、アブラハム・リンカン君は、いつ、この手紙を書いたかね、管理人さん」
「十一時ごろだったよ」と、管理人が、のんびり言った。「あんたが来なさるちょいと前でさあ」
「わかったぞ」と、エラリーが、うめいた。「人殺しをする人間の気持が……昨夜は何時に雨があがったかね」と、ふとあることを思いついて、急にきいた。
「夜中の一時間ぐらい前でさあ。こっちは雨がやんだが、川向こうじゃ、ひと晩じゅう、どしゃぶりだったよ。クイーンさん、あんたの考えじゃ――」
「いや」と、エラリーは、きっぱり言った。「この手紙を、ニューヨークから来る連中が着いたら渡してほしい」エラリーは置手紙の余白に書き足して、紙を折り、管理人の手に押しつけた。「ここにいてくれよ――掃除しようと、かみたばこを噛んでいようと、なんでも好きなことをしていいから――連中が着くまで、この歩道にへばりついていてくれよ。アイシャムとヴォーンだ。警察だ。わかったね。アイシャムとヴォーンだよ。この手紙を渡してくれ。少しばかりだが手間賃だ」
エラリーは管理人に札を投げ渡して、デューゼンバーグにとび乗り、砂ほこりをまき上げて、アロヨの本通りを突進した。
二十八 再度の死
ヴォーン警視と地方検事アイシャムが、ブラッドウッドに車を乗りつけたのは水曜日の朝八時で、二人とも疲れていたが満足そうだった。連邦検事局の男が一人同乗していた。それに、後部座席にはふてくされてむっとしている、パーシーとエリザベス・リンが乗っていた。
英国人のどろぼう夫婦が護衛つきでミネオラへ送り出されたあと、警視がのびのびと両腕をのばして一息ついたところへ、部下の警部補ビルが腕を振りながら駆けつけて、早口に何かしゃべった。ヴォーンの顔から満足そうな色が消えて、不安な表情と入れ変った。アイシャムはヤードレー教授の伝言を聞くと、いまいましそうにこぼした。
「一体、どうすればいいんだね」
ヴォーンが、ぴしりと言った。「むろん。追跡ですよ」そしてまた警察車に乗り込んだ。地方検事は禿をなぜながら、しぶしぶあきらめたように、続いて乗った。
ミネオラの空港でヤードレーの消息をつかまえた。教授は朝六時に飛行機を雇って、行先も告げずに西南へ向かったという。十分後に二人は空中にあって、強力な三発機のキャビンに乗込み、同じ目的地めがけて飛んでいった。
二人がアロヨの町にたどりついたのは、午後一時半だった。飛行機は町から四分の一マイルも離れた牧場に二人をおろした。二人は町役場に向かった。青い仕事着の男は建物の階段に腰かけて、古ぼけた箒を足許におき、天下太平にねむりこけていた。警視のがなり立てる声でよろよろと立ち上った。
「あんたがたは、ニーヨークから来たのかね」
「そうだ」
「ヴォーンとイシャムさんとかかね」
「そうだ」
「書置きがあるだよ」管理人が大きな手の平をひらくと、そこに、よごれてくしゃくしゃになり汗ばんでいたが、どうやら無事に、ヤードレー教授の置手紙があった。
二人は黙って教授の書置きを読むと、紙をひっくり返した。エラリーの添書きがついていた。
ヤードレーの置手紙ですべてはっきりしています。小屋に行って見ました。大混乱です。すぐ行って下さい。小屋の前に円をえがいている足跡はぼくのです――他の二組は……ご自分で判断して下さい。獲物を仕止めるのに間にあいたいなら、迅速にすることです。
「やられたな」と、アイシャムが、うなった。
「クイーンさんは、いつここを発ったかね」と、ヴォーンがどなった。
「一時ごろでしたよ」と管理人が答えた。「ねえ、旦那、どうしたんかね。みんなして、かけずりまわってなさるようだが」
「行きましょう、アイシャムさん」と、警視が低い声で「かたづけましょう。まず小屋を見なくちゃなりませんよ」
二人は、頭をふりながら見つめている管理人をあとにして、町角を曲がって駆け去った。
小屋のドアはしまっていた。
アイシャムとヴォーンは、大骨を折って、鉄条網の柵を乗りこえた。「この足跡を踏まないように」と、警視が短く注意した。「なるほど……これは、クイーンが、廻り道したやつらしいな。そっちの方のは――」
二人はじっと立って、エラリーが一時間ほど前に観察した足跡の列を、目で追った。同じ一足の靴がつけた、全く完全な二列の足跡があった。そして、エラリーの足跡をのぞけば、他の足跡は一つもなかった。その二列の足跡は、くっきりしていた。一列は柵から小屋のドアにつづき、もう一列は少しみだれ足になって小屋から戻っていた。柵の外は土質が岩だらけなのではっきりした足跡はとれなかった。小屋の近くの足跡は、残っている中でも、はっきりと深くついていた。足跡の形からみて、どれも右足の方が、それに対応する左足より重いようだった。
「たしかに、びっこの足跡だ」と、ヴォーンがつぶやいた。「それにしても、初めの足跡は――妙だな」警視は二列の足跡をよけて歩き、ドアを開いた。アイシャムが後に続いた。
二人とも、一目見て、ふるえ上った。
ドアのつき突りの壁の荒削りの丸太に、トロフィーのようにかけてあるのは男の死体だった。首がない。両脚も一緒にして釘づけされていた。それが着ている血まみれのぼろ着から――にせ山男のぼろ着から――不幸な小学校長の死体だとわかった。
血は石の床に流れていた。壁にもとび散っていた。前にアイシャムが訪ねたときには、きれいで気が利いていた小屋も、いまではまるで屠殺場の内陣のようだった。草で編んだ敷物には深紅《しんく》の|しみ《ヽヽ》がついていた。床は血まみれ血だらけだった。頑丈な古いテーブルの上には、いつも置いてあるものがきれいにかたづけられて、石板がわりに使われていた。石板の上には、大きな血文字、例のクロサックの復讐《ふくしゅう》のしるしが書かれていた――大文字のTだ。
「こいつあ」とヴォーンがつぶやいた。「胃袋がひっくりかえる。とっつかまえたら、良かろうと悪かろうと、この素手で、けだものめをしめころしてやりたいな」
「外へ出るよ」と、アイシャムが、あわれな声で「どうも――吐きそうだ」地方検事は、よろよろと戸口を出て、外の壁にもたれかかって、げえげえやっていた。
ヴォーン警視は目をしばたたいて、肩をそびやかせ、部屋を横切って行った。血のりのたまりをよけて行った。死体を触ってみた。硬直していた。手の平と足に打ち込んだ釘の頭から血がしたたっていた。
「死後十五時間かな」と、ヴォーンは、拳をにぎりしめながら考えた。はりつけの死体を見上げた、警視の顔はまっ青だった。頭があったあとの生々しいまっ赤な穴、こちこちにのびている両腕、くくりつけられた両脚、それはグロテスクで狂気じみて、悪魔ごのみの戯画だった……死人で形どった奇怪な大文字のT。
ヴォーンは目まいをふり払って後へ戻った。格闘した跡があるにちがいないと、ぼんやり考えた。テーブルのそばの床には、悲惨な出来事を語るようなものが、いくつかちらばっていた。第一に、刃と柄に血のりがこびりついている重い斧《おの》があった。明らかに、アンドレヤ・ツヴァルの首を斬った武器だ。次に、ドーナッツの二倍もありそうな、繃帯の輪があり、その片はしが赤褐色の液体を吸いこんでいた。それも今は干いていた。警視は腰をかがめて、慎重にその輪を拾い上げた。持ち上げるとほぐれて、おどろいたことには、鋭い刃物で切りはなされていることがわかった。鋏《はさみ》をつかったなと、警視は判断して、あたりを見まわした。思ったとおり、一、二フィートはなれた床の上に、大急ぎで投げ出したように、重い鋏がころがっていた。
ヴォーンは戸口に出た。青白い顔で覗いていたアイシャムも、少しは気分が直っていた。「これを、どう思いますか」と、ヴォーンが、ばらばらになった繃帯を差し出してきいた。「なるほど、うまい吐き場を見つけましたね、アイシャムさん」
地方検事は鼻に小じわをよせた。情なさそうな顔をした。「手首を巻いた繃帯かな」と、口ごもりながら「しみついている血とヨジームからみると、相当のきずらしいね」
「そうですよ」と、ヴォーンが、吐きすてるように「輪の状態からみて、手首でしょうね。人間の体で、こんな小さな丸みのところは、ほかにはありませんからね。足首でもないですよ。おそらく、クロサック氏は手首に、ちょっとけがをしたらしいですね」
「格闘中か、死体をきざんでいるときに――けがをしたんだろうよ」と、アイシャムが、ふるえながら言った。「だが、なぜ、われわれに見つけさせるために、繃帯を残して行ったのだろう」
「そりゃあ簡単ですよ。こんなに血がついてますからね。このきずは、格闘の初めに、ついたもんでしょうよ。どんなきずかわからないが。そこでやつは初めの繃帯を切って新しいのと、取りかえたのでしょう……なぜ、古いのを残して行ったか――きっとやつは、この小屋の付近から一刻も早く立ち去ろうと急いでいたんでしょうね、アイシャムさん。そして実際はそれほど危険ではなかったでしょう。やつが繃帯を残していったところをみると、きずは、隠しておける場所にちがいありません。そで口で隠せるのでしょう。さあ、中にもどって見ましょう」
アイシャムは生つばを飲んで、けなげにも警視について小屋へもどった。ヴォーンは、斧と鋏を指さした。それから、さっき繃帯を見つけた場所の近くに転がっている大きな半透明のびんを指さした。それは、濃い青色のびんで、ラベルは貼ってなかった。ほとんど空で、中身の大部分は、転がっているまわりの床に茶色にしみついていて、コルクの栓《せん》は数フィートも、はねとんでいた。そばに、ほぐしかけた繃帯がひとまき転がっていた。
「ヨジームです」と、ヴォーンが言った。「これがすっかり説明しています。やつは、けがをしたとき、あそこの薬棚からこれをとり出したんです。びんをテーブルに置きっぱなしにして、あとで偶然ひっくり返したのか、床にびんを放り出したのでしょう――きっと、むしゃくしゃしてたんでしょうよ。びんのガラスが厚かったので破れなかったんです」
二人は死体のつるさがっている壁に近よった。数フィートはなれた|すみ《ヽヽ》の洗面所のような設備とポンプの柄の上に棚があるのを、アイシャムはこの前小屋に来たときに見ておいた。棚は二か所空いているだけでいっぱいだった。そこには大きな青い脱脂綿の包みや、歯みがきのチューブや、絆創膏《ばんそうこう》の巻いたのや、巻いた繃帯や、ガーゼや、ヨードチンキとラベルの貼ってある小びんや、マーキュロクロームとラベルのついている同じようなびんや、いくつかの小びんや|つぼ《ヽヽ》が並んでいた――下剤、アスピリン、亜鉛華軟膏、ワセリンのようなものだった。
「まちがいないな」と、ヴォーンは重々しく言った。「ヴァンの品物を使ったんだな。繃帯もヨードチンキも、この棚から取り出して、返すのがめんどうだったんだな」
「待ってくれたまえ」と、アイシャムがむずかしい顔をして「君は、けがしたのはクロサックだと頭からきめこんでいるようだね。この壁につるされている気の毒な男かもしれんじゃないか。そうは思わんかね、ヴォーン君。けがをしたのがクロサックでなくてヴァンだったら、もし手首をけがしている男をクロサックだと思い込んで探したら、とんだ見当ちがいになるというもんだよ」
「あなたも、まんざら盲目じゃないですね」と、ヴォーンが叫んだ。「こりゃあ、おどろきました。なるほど」と、がっちりした肩をそらして「たった一目ではっきりますよ――死体をごらんなさい」警視は、唇をかみしめて壁に近づいた。
「ああ、そりゃ」と、アイシャムは、しりごみしながら、うめいた。「ぼ――ぼくは、ごめんだよ、ヴォーン君」
「なんです」と、ヴォーンが、かみついた。「私もご同様に、こんな仕事はいやですよ。しかし、しなければならんのですよ。さあ」
十分後には、首なし死体は床に降ろされた。二人は手と足の釘を抜いた。ヴォーンが死体から、ぼろ服をはぎとると、裸で青白い神の姿まがいのものが、床に横たわった。アイシャムは両手で胃袋をおさえて、壁によりかかった。むき出しの死体のきずあとを、骨を折って調べまわしたのはヴォーンだった。醜悪なしろものをひっくり返し、とっくり返して、背中まで調べ上げた。
「ない」と、言って立ち上った。「手の平と足の釘の穴の他はどこにもきずはありません。手首を切ったのはクロサックです。たしかです」
「外へ出ようじゃないか、ヴォーン君、たのむ」
二人は全く黙り込んでアロヨにもどり、澄んだ空気を胸いっぱいに吸いこんだ。町で、ヴォーン警視は電話をみつけ、ウェアトンの郡役所を呼び出した。地方検事クラミットと五分ほどしゃべり、受話器をもどして、アイシャムのところへ戻って来た。
「クラミットには事件を伏せておくようにたのみました」と、沈痛な声で「ひどく驚いていました。だが、事件は洩れないでしょうよ。そのことだけが気になるんですよ。ピケット署長と検死官を、よこすそうです。ハンコック郡のこの新事件に関して、われわれが多少自由行動をとる旨を話しておきました」警視は、アロヨの本通りに出て、急いで小さな車庫に向かうとき、いかにもつまらなそうに笑った。「連中は、アンドリュー・ヴァンの二度目の検死法廷を開かなくちゃなりますまいね」
アイシャムは黙っていた。まだ吐き気をもよおしていたのだ。二人は高速車を雇って――エラリーから一時間半おくれて――おなじような砂塵《さじん》をまき上げて出発した。オハイオ河と、橋と、スチューベンヴィルへ向かってとんだ。
読者への挑戦
殺人犯人はだれか
小説のこの部分、つまり読者が犯人または犯罪を正しく解決するに必要な全部の手がかりを手にした段階で、私は読者の英知に挑戦することにしてきました。この、エジプト十字架事件も、その例外ではありません。厳正な論理と、与えられたデータを帰納することで、今や、あなた方は、たんなる臆測《おくそく》でなく、犯人の正体を証明しうるはずです。
説明の章を読まれればわかるとおり、唯一の正解には、「もしも」も「しかし」もありません。そして論理は運の助けをかりるものではありませんが――立派な推理と成功を祈ります。
エラリー・クイーン
二十九 地理の問題
それは歴史的な水曜日で、四つの州の記録に残るような、妙な、血わき肉おどる人間狩りが始まった日である。その捜査地域は、でこぼこに入りくむ地方、五百五十マイルに及んだ。現代のあらゆる種類の高速交通機関――自動車、特急、飛行機が使われた。五人の男がこれに参加し――六人目の参加者は、じつに意外な人物だった。そして、エラリーがオハイオ州のスチューベンヴィルに足をふみ入れてから、九時間もかかり、指揮者の他の連中にとっては九百年もかかったかと思われるほどの悪戦苦闘だった。
三重の追跡……追いつ追われつの激しい追跡で――伸びに伸びた捜査線上、獲物はいつも、一足ちがいで逃げられる始末で、休む間も、食事の間も、相談する間もないほど、激しいものだった。
水曜日午後一時三十分――ちょうど、地方検事アイシャムとヴォーン警視がアロヨ町役場にたどりついたとき――エラリー・クイーンは、スチューベンヴィルの繁華街に、デューゼンバーグを乗りつけ、交通巡査に道をきく間だけ手間どって、フォート・スチューベン・ホテルの前に車をつけた。鼻眼鏡はずり落ちそうになり、帽子をあみだにかぶっていた。エラリーの様子は、映画に出る新聞記者そっくりで、デスクの番頭も、おそらくそう見てとったらしく、にやにやしただけで、宿帳を差し出そうともしなかった。
「エラリー・クイーン様でしょうか」と、エラリーが息つくひまもなく、番頭がきいた。
「そうだよ。どうしてわかるかね」
「ヤードレー様から、おことづけです」と、番頭は言って「午後に見えるだろうとのお話でした。このお手紙を残して行かれました」
「ありがとう」と、エラリーが大声で「こっちへくれ」
大急ぎで書いた手紙を、先生らしくもないなぐり書きだった。
クイーン君。番頭に質問するために、ひまをかけるな。必要な情報を全部書く。Kと似た男が昨夜、十二時ごろこのホテルに着いて、宿泊した。今朝、七時半に、雇い車で出発。ホテルを出るときは、びっこをひいていなかったそうだが、わざとらしく手首に繃帯していたそうで、それが小生にはのみこめぬ。足どりをかくそうともしていないから、追跡をおそれていないらしい。事実、ゼーンスヴィルに行くと言っていたそうだ。自動車で追跡する。大体の人相は番頭からきけ。追っての指示は、ゼーンスヴィルの、クラレンドン・ホテルの番頭に残しておく。
手紙をポケットにねじこんだエラリーの目付きが光った。「ヤードレーさんが、スチューベンヴィルを発ったのは何時かね」
「正午でした。ハイヤーで」
「ゼーンスヴィルだね」エラリーはちょっと考えてから、電話器をとりあげて「ゼーンスヴィルの警察署長をたのむ……もしもし警察? 署長につないでくれ……急いでくれ。こっちの名前なんか、どうでもいい。……もしもし、こちらは、ニューヨーク市の、エラリー・クイーンです。ニューヨーク警察殺人課のリチャード・クイーン警視のせがれです……そうです。今、スチューベンヴィルにいます、署長。ハイヤーに乗った背の高い浅黒くて手首に繃帯をまいた男を、やはりハイヤーで、背の高いひげ面の男が追っていますが、ぼくはその二人を追跡中です。……先を行くのが殺人犯人です……そうですか。犯人は今朝七時半にスチューベンヴィルを発ちました。……ふうん。おっしゃるとおりでしょう。犯人はずっと前に、そちらを通過したかもしれませんね。少しでも足どりをつかんで下さい、願います。あとから追っている男は、まだゼーンスヴィルに着かないでしょう……クラレンドン・ホテルの番頭に連絡ねがいます。ぼくもできるだけ早く、お寄りします」
エラリーは受話器をかけて、フォート・スチューベン・ホテルをとび出した。デューゼンバーグは、早馬便のように、西へ向かって、がたがた走り出した。
ゼーンスヴィルで、エラリーは、すぐ、クラレンドン・ホテルを見つけた。ホテルの番頭と、背の低いたるのような、制服の警官が、ロータリー・クラブ員のような笑顔を見せて、手をのばして、迎えてくれた。
「どうですか」と、エラリーがきいた。
「私が、署長のハーディです」と、肥えた男が言った。「あごひげを生やした、あなたの部下が、ついさっき、この番頭に電話で伝言して来たそうです。とにかく、自分で、あごひげだと名乗ったそうです。先を行く男が、道を変えて、ゼーンスヴィルに来る代りに、コロンバスへ行く道をとったらしいです」
「しまった」と、エラリーが叫んだ。「ヤードレーがへまをするかもしれないことぐらい、考えとくべきだった。あわれな本の虫だもの。コロンバスへ通報してくれましたか」
「しましたとも。重大犯人ですか、クイーンさん」
「とても大ものです」と、エラリーは急いで言った。「いろいろ、どうも、署長さん。では、ぼくは――」
「あのう」と、番頭が、おずおずと「電話をかけられた方が、コロンバスのセネカ・ホテルにあなた様へ手紙を残して行かれると、おっしゃいました。あそこの番頭は手前の友達でございます」
エラリーは背の低い制服の紳士が、いささかあきれ顔でいるのをしり目に、そそくさと退散した。
午後七時――ヴォーンとアイシャムが、コロンバスとスチューベンヴィルの間で、足どりをつかみそこねて、まごついているころ――エラリーは、セネカ・ホテルを探しながら、コロンバスのイースト・ブロード街を縫って車を走らせていた。ゼーンスヴィルからは、身の毛もよだつスピードで、とばしたのだ。
今度は、何の障りもなかった。デスクの向こうの番頭から、ヤードレーの走り書きの手紙を受けとった。
クイーン君、あのときは、してやられたがすぐにまた足どりをかぎつけた。向こうが故意にしたとも思えない――ただ、気を変えて、コロンバスへ行ったのだろう。少し時間を無駄にしたが、Kが一時の列車でインディアナポリスへ発ったのを発見した。失った時間をとりもどすために飛行機に乗る。じつに面白い。君も、すぐかけつけよ。狐はインディアナポリスでつかまるかもしれない。そうすると君の顔が赤くなるだろうな。
「あの人の口が軽くなると」と、エラリーは、ひとりごとを言った。「とてもやりきれない……この紳士がこれを書いたのは何時だね」と、心配そうな額の汗をぬぐった。
「五時半でした」
エラリーは電話にとびついて、インディアナポリスを呼び出した。すぐに、警察本部と話していた。自己紹介をすると、すでに、コロンバス署からの通知があったことがわかった。インディアナポリスでは、ひどく残念がって、人相書が不完全なので犯人のきめ出しがむずかしく、追われている男の足どりもつかめなかったというのだ。
エラリーは電話をきって、頭をふった。「何かほかに、伝言はなかったかね、ヤードレーさんから」
「はい。インディアナポリスの空港に伝言を残しておくと言われました」
エラリーは財布を出して「君、早いとこ手配してくれたらお礼は、はずむよ。すぐに、飛行機を見つけてくれないか」
番頭は微笑して「ヤードレー様が、あなたも一機おいりだろうと言われましたので、一存ではございましたが、チャーターしておきましてです。飛行場で待っております」
「いまいましい、ヤードレーだ」と、エラリーはつぶやいて、紙幣を一枚投げ出した。「ぼくのお株をすっかりとっちまった。こりゃ、一体、だれの追跡なんだ」やがてにやにやしながら「大出来だ。こんな片田舎《かたいなか》でこんな気の利いた人に出会うとはね。ぼくの車を外に置いて行く――古いデューゼンバーグだよ。面倒みてくれないかね、たのむよ。いずれ戻ってくるから――いつかわからんがね」
それから、タクシーを呼びに町へとび出し「飛行場だ」と叫んだ。「大急ぎ」
八時少し過ぎだった――エラリーが雇った飛行機でコロンバスを発ってから一時間ほどして、つまりヤードレーからは三時間ほどおくれ、犯人がコロンバスを列車で去ってからは七時間も経っていたころ――ヴォーンとアイシャムは、二人ともくたくたに疲れて、コロンバスに乗り込んで来た。ヴォーンの公職の地位のおかげで、二人は飛行機が使えることになった。ゼーンスヴィルからの通知が先行していたので、コロンバス空港には飛行機が二人を待っていた。地方検事アイシャムが三度、うなる間もなく、二人は、インディアナポリスに向かう、空の旅についていた。
こんな暗い目的がなかったら、この追跡はユーモラスだったろう。エラリーは機の中でくつろぎ、いろいろなことを考えた。目は宙を見ていた。七か月間あんなにも不明瞭、不確実だったものが、いまやはっきりしようとしているのだ。事件全体を心の中でくり返してみた。そしてアンドリュー・ヴァン殺しまで来たときに、自分の思考活動の結果を検討して、これでよしと思った。
機はまるで雲のちらばる空に浮いているように静かに飛んでいた。はるか下界に点々としている町が、ゆるやかに動いていくのだけが、体が静止しているという幻覚を破るのだった。インディアナポリス……そこでヤードレーは狐にとびかかれるだろうか。エラリーは、すばやく計算してみて、時間的には可能なのがわかった。クロサックになりすましている男は、コロンバスを汽車で発ったから、どんなに早くみても、午後六時か、おそらくその少し過ぎより早くはインディアナポリスにつけない――汽車では五時間はかかるのだ。しかるに、ヤードレーは五時半にコロンバスを飛び立ったから、比較的短い飛行距離で七時には着くはずだ。飛行条件が上々なのはエラリーが現に感じて、わかっている。もしクロサックの列車が少しでもおくれたり、クロサックがその行き先の次の駅へ向かってインディアナポリスを出発するに手間どれば、教授が追いつく可能性は大ありだった。エラリーはため息をして、クロサックが、教授の素人《しろうと》くさい手につかまらないようにと、なかばねがうのだった。ヤードレーは今までのところ、素人としては、まずい手ぎわではない。
機は、ばら色の夕映えの中を、落葉のように、インディアナポリス空港にまい降りた。エラリーは時計を見た。八時半だった。
三人の警備員が機の翼をつかみ、車輪の下にくさびをかませたとき、制服をつけた青年がキャビンの出口にかけつけて来た。エラリーは降りて、あたりを見廻した。
「クイーンさんですか」
エラリーは、うなずいた。「ことづけかね」と、勢い込んできいた。
「そうです。ヤードレーと言われる方が、一時間半ほど前に、これを、あなたに残して行かれました。重要な用件だと言われました」
「それどころじゃない」と、エラリーはつぶやき、置手紙をひっつかんだ。封を切りながら、こいつは、とほうもない乗りまわしと、いたちごっこの伝言《ことづ》けの語り草になるぞと思った。
ヤードレーの走り書きは簡単だった。
Q君。どうやら大詰めらしい。やっと追いつけると思ったのに、紙一重で取り逃した。Kと人相の合致する男が、飛行機でシカゴに発ったすぐあとで、ここに着いた。七時だった。七時十五分まで飛行機がつかまらない。Kの乗った機は八時四十五分から九時の間に、「シ」に着く。君が八時四十五分より前に着いたら「シ」の警察に連絡して、向こうの飛行機で、高飛び紳士をおさえるように手配することをすすめる。私は発つ。
「ヤードレーさんは、七時十五分の機に乗られたんだね」と、エラリーがきいた。
「そうです」
「すると、シカゴ着は、九時か、九時十五分だね」
「はい、そうです」
エラリーは青年の手にチップを握らせた。「電話をかしてくれないか、一生のたのみだ」
青年は笑って、いきなり走り出した。エラリーは後を追った。
空港のターミナル・ビルでエラリーは気違いのようにシカゴを呼び出した。「警察本部?長官をたのみます。……そう、警察長官……大至急。ばか、生死の問題だ……長官ですか。なんだって……おい、こっちはニューヨーク市のエラリー・クイーンだ。長官に直接話があるんだ。重大事件だ」
線の向こうの相手が、ひそひそ声で変に用心深くいろいろなことをきくので、エラリーはじりじりして足ぶみをしていた。たっぷり五分ほど、おどしたりすかしたりしたあとで、シカゴの警察事務を支配している高官の声が、受話器にひびいてきた。「長官ですか。ご記憶でしょうか――私は、リチャード・クイーン警視のせがれです……ロングアイランド殺人事件の始末をつけかけているところです。そうです……背の高い浅黒い男が、手首に繃帯をして、今夜八時四十五分から九時の間に、インディアナポリス発の飛行機でシカゴに着きます。……いえ、飛行場でおさえないで下さい……個人的なお願いです。行くところを尾行させて、行き先を包囲して下さいませんか。……そうです。シカゴを逃げ出そうとしたときだけ逮捕して下さい。カナダへ向かう可能性もあります……太平洋岸へ向かうかもしれません。そうです……つけられているのを知りません……ついでに、同じ飛行場へインディアナポリスから飛んで行ったアブラハム・リンカンそっくりのひげを生やしている背の高い男をさがして下さい――ヤードレー教授です。教授にあらゆる便宜を与えるよう、部下に指令して下さい……ありがとうございました。失礼しました」
「さあ、次は」と、エラリーが、電話室の外でにこにこしながら立っている青年に叫んだ。「飛行機に案内してくれ」
「どちらへ行かれますか」と、青年がきいた。
「シカゴだ」
十時二十五分、単葉機は、すみずみまで煌々《こうこう》と照し出されたシカゴ空港の上を旋回していた。エラリーは、ガラス窓へ首をのばして、広い建物、格納庫、着陸場、飛行機の列、うごめく人々の姿を、はっきり見分けることができた。それらの細かい景色は、機が着陸の急降下にはいると、ぼやけた――操縦士は早く着けば、プレミアムを出すといわれて張り切っていた――そして、エラリーが呼吸と適当な胃の調子をとりもどしたときには、地上近く、着陸線に向かって疾走していた。エラリーは目をとじて、機の車輪が地面にバウンドするのを感じた。感覚の性質が変った。目をあけてみると、滑走路のセメント道の上をすばらしい速さで、滑走していた。
エラリーは、ややおぼつかない気分で居ずまいを直し、ネクタイをいじった。着いたのだ。……エンジンが最後の勝利をつげるようにうなり、機がとまった。操縦士が頭をねじ向けて、わめいた。「着きましたよ、クイーンさん。精いっぱいやりましたよ」
「上々だ」と、エラリーは顔をしかめて、よろめきながら、ドアの方へ行った。命令に従うにも、ほどほどということがある。……だれかが外からドアをあけたので、エラリーは飛行場へ降り立った。しばらくのあいだ、強い照明で、目をぱちぱちやりながら、十フィートほど先で自分を見つめている一団の人々を眺めていた。
エラリーは、もう一度目をしばたたいた。背の高い、一見不景気そうなヤードレー教授の姿が見えた。ひげが平らになるほどにこにこしていた。シカゴ警察長官の太ってがっちりした姿も見え、七か月前に、父とともに、この(風の多い町)に初めて来たときに会ったのを思い出した。その旅がアロヨ殺人事件の捜査に発展したのである。そのほかに、どうも刑事らしい数人の男たちがいた。そして……あれはだれだっけ。きちんとした灰色の服を着、きちんとした灰色の中折れをかぶり、きちんとした灰色の手袋をはめている小柄な人物は――老人くさい顔で、頭をぴんと立てている小男は……
「お父さん」と、叫んで、走り寄り、リチャード・クイーン警視の手袋をはめた手を振った。「一体全体、どうしてここにいらっしゃったんですか」
「おい、おい」と、クイーン警視は、無造作に言って、にやにやしながら「こんなことがわからんようでは、お前もへぼ刑事だぞ。お前の友人、ゼーンスヴィル警察のハーディ君が、お前が電話をかけたあとでニューヨークのわしに問い合わせてきたから、たしかにわしのせがれだと言っといたよ。お前のことをたしかめたかっただけさ。わしはあれこれ考え合わせて、事件も大詰めだなと判断した。犯人はシカゴかセントルイスに向かうだろうと思って、二時にニューヨークを飛び出して、十五分前に着陸して、待っとったのだ」
エラリーは父親の貧弱な肩を抱いて「こりゃ、おどろきだな。お父さんはロードス島の巨人像の現代版というところですね。大助かりですよ、お父さん。会えてうれしいな。お父さんがいれば、いろいろ注意してもらえますからね……やあ、先生」
ヤードレーは握手しながら、目をぱちぱちやった。「私も七十台の老人あつかいだろうね。君の父上とはたっぷり君のうわさをしたよ。何かひた隠しにしていると言っとられたぞ」
「へえ」と、エラリーは真顔で「そんなことを言いましたか、おやじが。長官、どうもこのたびは。失礼な電話をしましたのに、すぐお取上げいただいて、本当にありがとうございました。非常に急いでいたものですから……ところで、情況はいかがでしょうか」
一同は飛行場を横切ってターミナルの方へゆっくり歩いた。長官が言った。「上首尾だよ、クイーン君。君の相手は九時五分前に着陸した――うちの刑事連が、かろうじて間に合ったよ。やつは何も気づいていない」
「私はちょうど、二十分おくれたよ」と、教授がため息をした。「老骨をきしらせてキャビンをころがり出たところを、いきなり刑事に腕をとられて、あんなにきもを冷やしたことは、生れてからはじめてだよ。『ヤードレーか』と、いかめしく一喝されてね。いやはや、君、わたしは――」
「ふーん、そうですか」とエラリーが受け「ところで、今――クロサックは――どこですか、長官」
「飛行場を出るのにたっぷり手間どってね、九時五分過ぎにタクシーで、ループ〔シカゴの下町〕の三流ホテルに乗りつけた――ロックフォード・ホテルだ。やつはなんにも気づいとらんよ」と、長官はおごそかに「だが、ずっと四台の警察車が護衛しとる。今、ホテルの自分の室にいる」
「逃げられないでしょうね」と、エラリーが心配そうにきいた。
「クイーン君」と、長官が声をとがらした。
警視が笑い出した。「ときに、ナッソー郡のヴォーンと、アイシャムが、お前を追尾しとるようだがな。連中を待たずに行くつもりかな」
エラリーはぴたりと立ちどまった。「そうだ。すっかり忘れてた。長官、すみませんが、ヴォーン警視と地方検事アイシャムが着いたら、すぐに連れてくるように、だれかに手配していただきたいのですが。あと一時間ぐらい、おくれて来るはずです。ロックフォード・ホテルへ案内させて下さい。大詰めで二人をのけものにしては、悪いですからね」
しかし、地方検事アイシャムとヴォーン警視はエラリーから一時間もおくれてはいなかった。二人はちょうど十一時に暗い空からシカゴ空港にまい降り、数人の刑事に迎えられて、警察車で『ループ』へ運ばれた。巡礼たちの再会は、なんとなく陽気だった。一同は刑事連の詰めているホテルの特別室で落ち合った。エラリーは上衣を脱いで、ベッドに手足をのばし、満足そうに休息をとっていた。クイーン警視と長官は部屋の隅で話していた。ヤードレー教授は、洗面所で、顔や手についた数州にわたる汚れを洗い流していた。……二人の旅づかれの紳士が血ばしった目で部屋の中を見まわした。
「すると」と、ヴォーンがうなった。「これで終点ですか。それともアラスカまで追って行くんですか。なんて野郎でしょうね――マラソン選手みたいな」
「警視」と、エラリーが笑い出して「これで終りですよ。おかけなさいよ、アイシャムさんも。骨やすめをなさいよ。一晩、ゆっくりできますよ。クロサックは逃げられません。何かあがったらどうですか」
紹介し合ったり、湯気の立つ食べものが出たり、ぐらぐらの熱いコーヒーがつがれたりで、笑い声がおこり、臆測が行なわれた。その間じゅう、エラリーは静かに、何事か、はるかな思いをはせていた。時々、刑事が報告に来た。一度は、六四三号室の紳士の言葉も報告された――インディアナポリスのジョン・チェーズと宿帳につけていること――帳場に電話で、翌朝サンフランシスコ行きの大陸横断鉄道の席をとるようにたのんだこと。この件は慎重に協議された。チェーズ、またはクロサックが、アメリカの岸を離れて東洋方面へ行こうとしていることは明白と見られた。サンフランシスコにとどまる理由は見当らないからだ。
「ところで」と、エラリーが、真夜中ちょっと過ぎに、さりげなくきいた。「先生、六四三号室にふみこんで、ジョン・チェーズ氏の仮面をひんめくったら、どんな人物があらわれると思われますか」
老警視はむすこの顔をいぶかしげに眺めた。ヤードレーはおどろいて「もちろん、そりゃ、ヴェリヤ・クロサックだろう」
「そうかなあ」と、エラリーは言い、たばこの烟を輪に吹いた。
教授は、はっとして「どういう意味かね。わしが、クロサックと言うのは、もちろん、生れつきその名の男のことだが、おそらく、われわれが別の名で知っている男かもしれん」
「そうですかね」と、もう一度、エラリーが言った。そして起き直って、のびをした。「皆さん、そろそろ、クロサック氏を――そう呼んでおきますがね――地上へ引きずりおろす頃合《ころあい》ですよ。準備はいいでしょうか、長官」
「命令一下だよ、クイーン君」
「ちょっと」と、ヴォーン警視が、エラリーをいまいましそうににらんで「あなたは、六四三号室の男の正体を本当に知っているんですか」
「もちろんですよ。こりゃあ、おどろいたな、警視、まさか、あなたにわからないとはね。至極、はっきりしてるじゃありませんか」
「はっきりしてるって、何がですか」
エラリーはため息をした。「まあ、いいでしょう。だが、言っときますが、あけてびっくりですよ。行きましょう。|いざ進め《アンナアヴアン》!」
五分後、ロックフォード・ホテルの六階の廊下は兵営の練兵場のようになった。いたるところに、警官と私服がたむろしていた。上下の階は通行止めだった。エレベーターは、みんな閉鎖されて、ひっそりしてしまった。六四三号室は出口は一つで――廊下口だけだった。
小さな、おびえている少年給仕が、否応なしに任務につけられた。少年は一団の連中――エラリーとその父親、ヴォーン、アイシャム、長官、ヤードレー――にとりかこまれて、ドアの前に立って、命令を待った。エラリーがあたりを見まわした。きこえるのは人々の呼吸だけだった。やがて、エラリーは少年に向かって、おごそかに頭を振って合図した。
少年は生つばをのんで、ドアに進んだ。二人の刑事が拳銃を抜いて、羽目板にぴったりと体をつけて立った。その一人が威勢よくノックした。返事がない。部屋は欄間窓《らんままど》から見たところでは、まっ暗で、部屋の主はぐっすり寝込んでいるらしい。
刑事はもう一度ノックした。今度は、ドアの後ろから、かすかな物音と、ベッドのスプリングのきしみがきこえた。重々しい男の声が、鋭く言った。「だれかね」
給仕は、もう一度生つばをのんで、大声で「ご用はございませんか、チェーズ様」
「なんだ――」男が鼻をならし、またベッドがきしんだ。「呼びやしないぞ。どういうつもりだ、一体」ドアが開き、男のもじゃもじゃ頭が、突き出した……
それに続いておこったごたごたのすべて――二人の制服が間髪もいれずにとびこみ、給仕がころげて身をかわし、入口をはいったところの床で、格闘がはじまった――の中で、エラリーが覚えてるのは、たった一つの光景だけだった。それはほんの一瞬のことで、だれも身動きせず、相手の男が廊下の光景を見た瞬間だ――待ち構えている役人、刑事、制服、エラリー・クイーンと地方検事アイシャムとヴォーン警視の顔を見たのだ。男の蒼白な顔には、心の底から、あきれ返ったという表情があった。小鼻がふくれ、目玉はとび出さんばかりだった。ドアの|かまち《ヽヽヽ》をつかんだ手首の繃帯……
「なるほど、こりゃあ――こりゃあ――」と、ヤードレー教授は二度も唇をしめして、ものも言えぬ様子だった。
「まさに、思ったとおりでしたよ」と、エラリーが、床ではげしくもみ合っているのを見ながら、ゆっくり言った。「山の小屋を調べたときに、すぐわかったんです」
一同は、やっと、六四三号室の客、ジョン・チェーズ氏を、取りおさえることができた。口のはたから、細いよだれが一筋たれていた。今は、まったく狂人の目付きになっていた。
その目は、アロヨの小学校長――アンドリュー・ヴァンの目だった。
三十 エラリーのたね明かし
「参ったな。全く参りましたよ」と、ヴォーン警視がいまいましそうに「私の頭では、あれだけの手がかりで、どうして解決できるのか、てんでわかりませんよ。参りましたよ、クイーンさん。そこで、たんなる当てずっぽうじゃなかったことを、ぜひ説明して下さい」
「クイーン家の人間は」と、エラリーが、きびしい口調で「当てずっぽうはやりません」
木曜日の朝、一同はニューヨークへ向かう超特急『二十世紀』の展望車におさまっていた。ヤードレー、エラリー、クイーン警視、アイシャム、ヴォーンの面々だった。疲れてはいたが、満更でもない一行だった。一同の顔には、神経をすりへらすような経験を経て来た皺がきざまれていた――もちろん、クイーン警視だけは、のけもので、それはそれなりに、もの静かに、一人楽しんでいるようだった。
「君が最初じゃないよ」と、老人はヴォーンに笑いかけて「必ずといってもいいな。せがれが難事件を解決するたびに、いつもだれかが、どうやって割り出したかと聞きたがり、あてずっぽうだろうと言いたがるよ。わしでも、説明をきいたあとでも、たいていは、どうしてそういうことになったのか、わからんぐらいだよ」
「私にはてんで謎《なぞ》です」と、アイシャムが白状した。
ヤードレー教授は知性に挑戦されて、むっとしているようだった。「私もまんざら無知な人間ではないがね」と、にやにやするエラリーに、かみついた。「もし今度の事件に、どういうふうに論理が適用されたかがわかるなら、高い絞首台にのぼるのも悔いないね。最初から最後まで、矛盾と撞着《どうちゃく》のかたまりだったんだから」
「ちがいますよ」と、エラリーが気取って「最初から四番目の殺人までは、たしかに、矛盾と撞着のかたまりでしたが、そこに至って水晶のようにはっきりし、あらゆる泥が洗いながされたのです。ぼくはいつも」と、エラリーは眉をよせながら「どんな小さなかけらでもいいから、つかんで、謎を解くかぎ穴にはめこむことができればいいなあと思っていたんです。そうすれば他のあらゆるかけらが――いかに非論理的でくだらないものに見えようとも――まとまって理解しうる形になるだろうとね。そのかけらが、ウェスト・ヴァージニアの山小屋で手にはいったのです」
「昨夜もそう言っていたね」と、教授が不満そうに「しかし、私にはまだわからんのだよ。どうやって――」
「そりゃ当然ですよ。先生は小屋を調べなかったんですから」
「私は調べたよ」と、ヴォーンがいまいましそうに「一体、あそこにあった何が、このいまいましい事件を解く手がかりになったんです――」
「ああ、挑戦ですね。いいですとも」と、エラリーは低い車室の天井に烟を吹き上げた。「少しばかり、さかのぼってみましょう。火曜日の夜のアロヨの殺人までは、ぼくにはほとんど何もわかっていませんでした。アロヨでの最初の殺人も、アンドリュー・ヴァンが自ら姿をあらわすまで、全く謎でした。ヴァンは、あのとき、下男のクリングは誤って殺されたので、ヴェリヤ・クロサックという男が宿怨の動機から、クリングを殺したのだと言いました。次にはヴァンの兄のトマス・ブラッドが殺されました。それから、ヴァンの兄のスティヴン・メガラが殺されました。メガラはクロサックの話を確認し、ユーゴスラヴィアの捜査当局も認めています。事件の概要は明瞭《めいりょう》のようでした――つまり、一生をかけて遂げえない復讐の念にもえて頭の狂った偏執狂が、その父と叔父を殺した人間たちの間を暴れまわっているということです。その上、ツヴァル兄弟がクロサックの遺産を盗んだことがわかってからは、その論理には、いっそう有力な動機が加えられたのです。
ぼくはいつか、ヤードレー教授に言ったのですが、ブラッドの死をめぐる情況から、二つの決定的な結論が引き出せるのです。一つは、ブラッドの殺害者は、ブラッドのよく知っている人物であること、もう一つは、ブラッド殺害犯人はちんばではないことです。そうでしたね、先生」ヤードレーが、うなずいた。エラリーは、チェッカーの駒の配置や、ヴォーンとアイシャムが知っている他の事実から推理したことを、手短かに話した。
「しかし、これらの結論から解決への進展はなかったのです。どちらの結論も、可能性はあるが、決定的な推理とは言いかねるものでした。したがって、ぼくの証明した事実は、ほとんど価値がないものだったのです。それで、山小屋の死体を発見するまでは、初めの三つの殺人事件に対するぼくの唯一の説明は、クロサックが気違いで、奇妙なTの形の執着症を持っているということだけでした――首を切ったり、Tの字を書きちらしたりする、あの妙なTの印は三人の殺害につきまとっていたのです」
エラリーは感慨深げに微笑して、たのしそうにたばこを見つめていた。「この捜査の当初に――じつは七か月前に初めて、あの怖ろしい死体をウェアトンの法廷で見たとき――ふと、ある考えが湧いたのですが、もしその考えを押しすすめていれば、この事件を、あの時、あの場で解決していたかもしれないと思うと、じつにおどろくほかはありません。その考えというのは、書きちらされていたTに、別の解釈を下すことでした。しかしそれはたんに思いつき程度のもので、ぼくの論理癖の結果ともいえるものでした。しかもそれには可能性がとぼしいように思えたので捨ててしまったのです。そしてその後も、その考えを裏づける事実が少しも出て来ないので、ずっと除外しつづけていたのです。だがどうも捨てきれないような気がしていました……」
「どんな考えかね」と、ヤードレーが興味深そうにきいた。「君は思い出すだろうが、二人でエジプト十字架の話をしたとき――」
「ああ、それはそれとして」と、エラリーが急に「もうじき、その話が出ます。まず、四番目の殺人を詳細に検討してみましょう」と、エラリーは早口に、その前の日、鉄条網をめぐらした山小屋の入口にふみ込んだときに目撃した具体的な光景を目でみるように説明した。ヤードレーと、クイーン警視は眉をしかめて、精神を集中して聞いていたが、エラリーの話がすむと、きょとんとして互に顔を見合わせるばかりだった。
「私にとっては、さっぱりわからないね」と、教授が白状した。
「わしも降参だな」と、クイーン警視が言った。
ヴォーンとアイシャムも、けげんそうに、エラリーを見つめていた。
「いや、はや」と、エラリーは窓から吸いさしをはじきとばしながら叫んだ。「はっきりしているじゃありませんか。あの小屋には、そこらじゅうに、英雄伝が書きこまれていたんですよ、諸君。お父さん、パリの高等法院の警察科学学校の教室にかかげられている標語はなんでしたっけね。『目は心の求むるもののみを見、心中にあるもののみを捜す』われわれアメリカの警官も、これを心に銘記すべきですよ、ヴォーン警視。小屋の外の足跡を、慎重に調べましたか」
ヴォーンとアイシャムは、うなずいた。
「では、あなた方は、あの殺人には二人の人間しか関係していない、れっきとした事実に、すぐ気がついたはずです。あそこには、二組の足跡がありました――一組ははいって来たもの、他の一組は立ち去ったものです。足跡の大きさと形からみて、二組とも同じ靴でつくられたものなのがわかります。足跡のつけられた時間も、ほぼ決めることができます。あの前の晩、十一時ごろに、アロヨでは雨がやみました。大降りでした。もし足跡が雨のあがる前につけられたのなら、あの雨ざらしの場所では完全に洗い流されて消えてしまったでしょう。ゆえに、足跡が、十一時か、その後につけられたのは明白です。小屋の壁にはりつけられた死体をぼくが見たときの状態は、被害者が十四時間ほど前に殺されたことを示していました――言いかえれば、前夜の十一時ごろ死んだのです。足跡――偶然に残された唯一の足跡は――殺人とほぼ同時刻につけられたことになります」
エラリーは新しいシガレットをくわえた。「足跡から何がわかるかといえば。殺人の行なわれたとおぼしい時間に、小屋にはいって来て出て行ったのは、ただ一人の人物だったということです。あそこには出入口――ドアは、ただ一つですし、たった一つの窓も、鉄条網で、しっかりふさがれています」
エラリーはマッチをすってたばこをつけ、考えながら、ふかした。「すると、事は簡単です。被害者と加害者が、あそこにいた。われわれは被害者を発見した。すると、小屋の前の湿った地面に足跡をつけたのは加害者だ。足跡はびっこなのを示していた――これまでは、上出来です。
さて、小屋の石の床には、すばらしいものがいくつかありました。証拠物件一号は、血と、ヨードチンキのしみついた繃帯で、その形や状態からみて、明らかに手首にまかれたものでした。そばには使いかけの繃帯の巻いたものがありました」
アイシャムと、ヴォーンが、またうなずいた。ヤードレー教授が言った。「そうか、そうか。手首のことが腑におちなかったがね」
「証拠物件二号。ヨードチンキの大きな青いガラスびんで、コルクの栓は数フィートはなれて床にころがっていました。びんは半透明でラベルはついていなかった。
すぐに疑問がわいたのです。繃帯をまかれたのはだれの手首か。関係者は二人います、被害者と加害者です。当然、そのどちらかです。もし、被害者が繃帯をしていたのなら、その片方の手首はけがをしてるはずです。死体の両手首を調べてみたが――どちらにもけがはありませんでした。結論として、犯人が自分の手首を切ったことになる。犯人が被害者の体に斧をふるったときか、被害者が殺される前に格闘している間に、けがをしたとも考えられます。
もし犯人が手首を切ったのなら、ヨードチンキと繃帯を使ったのは犯人のはずです。後で繃帯を切って捨てた事実がよくわかりませんが――繃帯が示すように、かなり出血がひどかったらしいし、小屋を去る前に繃帯を換えていったにしかすぎないのでしょう」
エラリーは烟の出ているたばこを振りまわした。「さて、このことから、どんなに重大な事実がとり出せるか考えてみて下さい。もし、ヨードチンキを使ったのが犯人なら、何がわかるでしょうか。もう、赤ん坊の手をねじるようなもんですよ。どなたにも、まだわかりませんかね」
一同は、顔をしかめたり、爪をかんだり、深く考え込んだりして、努力しているらしかったが、ついに頭を振った。
エラリーは椅子に深くよりかかって「それらの品物のうちの一つなんですがね。ぼくには、とてもはっきりしているように思えますよ。ヨードチンキのびんに二つの特長がありました。犯人が床に残して行った、あのびん自体に。第一に、半透明の青いガラスでした。第二にラベルがついていませんでした。
してみると、犯人には、あのびんの中にヨードチンキがはいっていることが、どうしてわかったのでしょう」
ヤードレー教授は、あっとばかりあきれて、ぽんと額をたたいた。その様子は、エラリーやクイーン警視とともに、ニューヨークで多くの事件を手がけた、あっぱれな検察官、サンプスン地方検事そっくりなので、おかしかった。「おお、私はとんでもないばかだったよ」と、教授は、うなって「いかにも、いかにも」
ヴォーンは肚の底から驚いた顔で「そんな簡単なことだったのか」と、どうしてそんなことを見のがしたのかわからないという調子で言った。
エラリーは肩をすぼめた。「よくあることですよ。そこで、推理の筋道がわかったでしょう。犯人はびんを見ただけでは中味がヨードチンキだとはわからなかったはずです。というのは、ラベルはなかったし、ガラスが青くて半透明だから、中味の色は見分けられなかったでしょうからね。すると犯人が中身を知るためには、二つの方法の中の一つしかないはずです。前に使ったことがあるのでびんの中味をよく知っていたか、栓をあけて、調べてみるかの二つです。
さて、ピート老人のそまつな洗面所の上の薬品棚に二か所、すきまがありました。ねえこの二か所のすき間は床の上にあった二つの品をとり出したものだということは、見てすぐわかりました――つまり、ヨードチンキのびんと、繃帯の束です――この二つのものは普通、薬品棚に置いてあるものです。言いかえれば、犯人はけがをしたので、薬品棚から繃帯と、ヨードチンキをとり出さざるをえなかったのです」
エラリーはにやりとして「しかし、おかしい。棚の上にはほかに何があったでしょうか。はっきりおぼえているでしょうが、ごたごたしたつまらない物の中に、犯人が、とっさの場合使うために、当然取りおろしそうなびんが二つありましたね――一つはヨードチンキのびんで、もう一つはマーキュロクロームのびんです。どちらも、はっきりとラベルがはってありました。すると、なぜ犯人は、ラベルのない半透明のびんの栓をあけて、消毒薬を探さなければならなかったのでしょうか。ちゃんと目の前に、はっきりと印をつけた消毒薬のびんが置いてあったのにね。小屋の事情に通じない人間だったら、だれだって、火急の場合自分のほしいものが、すぐ目の前にあるのに、中味が何かわからないびんをあけてみる者なんかいないでしょう。
そこで、さっき言った二つの可能性のうちの最初の方が、あてはまるのです。つまり、犯人はラベルのない大きな半透明の青いびんをよく知っており、中味がヨードチンキなのを前々から心得ていたにちがいない。しかし、そんなことを知っているのは何者でしょうか」エラリーは、ため息をした。「たしかに、それを知っていた者がいたのです。諸種の事情を考え合わせてみれば、ヴァンが隠れ家に人を寄せつけないようにしていたことを、自ら話していたことなどから、結局ただ一人の人間だけが、そんな知識を持つことができたということがわかります、――その人間は小屋の主《ぬし》以外にはないということになります」
「そら言ったとおりだろう」と、クイーン警視が胸をはって言い、時代ものの茶色のかぎたばこ容れをとり出した。
「関係のあるのは二人だけ――加害者と被害者で――しかも、手首をけがしてヨードチンキを使ったのは加害者だということがわかりました。そこで、小屋の主、アンドレヤ・ツヴァル別名アンドリュー・ヴァン、別名ピート老人だけが、あの謎のびんにヨードチンキのはいっているのを前もって知っていたにちがいないただ一人の人物ということにすると、手首をけがしたのはアンドリュー・ヴァンであり、壁にはりつけられた不幸な男はアンドリュー・ヴァンではなくて、アンドリュー・ヴァンに殺された人物ということになります」
エラリーは、そこで口をつぐんだ。ヴォーン警視はじりじりした。地方検事アイシャムが言った。「なるほど、しかし前の殺しはどういうことになるのかね。昨夜、ヴァンを取りおさえたあとで、君は四番目の殺しを捜査して、すぐ、事件の全貌が、ぴんからきりまではっきりわかったと言っておったね。たとえ、ヴァンを最後の殺しの犯人だとする議論を認めるとしても、君にはどうやってヴァンが、以前の殺人犯人だったことを論理的に証明できるかね」
「親愛なるアイシャムさん」と、エラリーは眉をつりあげて「ここまでくれば、もう明々白々な事件ですよ。ただ、分析と常識の問題です。その点に対してのぼくの見解ですがね。ぼくは行方をくらました大男、びっこの足跡を残した男が犯人で、それはアンドリュー・ヴァン自身だと思うのです。しかし、ただ殺人犯というだけでは不充分です。たとえば、ヴァンはつけねらうクロサックを、純粋に正当防衛のために殺したのかもしれないという場合も、想像できます。その場合には、どう考えても、他の三人を殺した犯人とは解されません。しかし、注目すべき一つの事実があります。アンドリュー・ヴァンは何者かを殺して、その死体に、ピート老人のぼろ服を着せて、自分の小屋に残して行ったのです。つまり自分のように見せかけたのです。すると、ごまかしがあるわけです。そこで、問題は比較的簡単なのがわかりました。この最後の殺人事件で殺されたのはだれだったのでしょう。
死体は、すでにお話したとおり、ヴァンのではない。ブラッドの死体ではないかと一応は考えてみましたが、筋が通りそうもない可能性なので捨て去りました。ブラッドの死体は、腿にある赤いあざで、未亡人に確認されていますからね。純粋に論理的な立場から、この最後の死体がメガラのものではないかと言うことを、結果は無駄とわかっていながら、それも考慮してみました。やはり、そんなことはありえません。テンプル医師がメガラの病気を診察して、特別な症状の脱腸だと言っていますし、ラムセン医師がヘレーネ号のアンテナ・マストにくくりつけられた死体に、同じ症状の脱腸を発見しているのです。すると、ブラッドとメガラの死体と見られたものは、間違いなく二人の死体だったのです。すると、この事件に関係のある人物は、あと二人だけです――全く無関係な人間が、まき込まれていたかもしれないということはほとんど可能性のないものとみて――ヴェリヤ・クロサックと、ヴァンの下男のクリングということになります」
エラリーは息つぎをして語り続けた。「死体はクロサックのものだったでしょうか。そう考えるのは皮相な結論です。しかも、もしクロサックの死体であり、ヴァンが殺したものとすれば、ヴァンは完全に正当防衛の主張ができたはずです。警察を呼び、死体を示し、すでに判明し承認されている事件の背景を説明するだけで、ヴァンは無罪放免になったでしょう。ヴァンの立場からすれば、もし無実のものなら、こう手続きをとるのが当然です。それをしなかったということは、できなかった理由があるのを示すのです。その理由は? その死体がクロサックではなかったからです。
もしクロサックでないとすれば、ただ一つ残っている可能性であるクリングにちがいありません。しかしクリングは最初の犯罪で、七か月前のアロヨの交差点で、殺されたと推定されています。しかし、最初の死体がクリングだったということが、どうしてわれわれにわかったのでしょうか。それはただ、ヴァンの申し立てを通してだけの話です。ところが、ヴァンは今や、殺人犯であり、詐欺師だということが判明したのです。だから、ヴァンが申し立てた裏付けのない証言は全く疑問のあるものであり、目下のところ、あらゆる事実が残された唯一の可能性として、最後の死体はクリングに違いないと指摘する点を、当然主張していいわけです」
エラリーは早口で「あらゆることが、ぴたりとつじつまが合うではありませんか。最後の死体をクリングとすると、一体、クロサックはどこにいるか、ブラッドとメガラの死体は、それぞれ殺されたときに確認されている。すると七か月前にアロヨで殺されたのは、論理的にはクロサック自身でなければならないことになります。過去七か月、四十八州と三か国の警察に追いまわされた『悪党』……やつの足どりが全然見つからなかったのも当然です。やつは、ずっと死んでいたんですからね」
「驚いたよ。信じられないな」と教授が言った。
「おお、まあ聞いてごらんなさい」と、クイーン警視がくすくす笑った。「こいつはおどろくような話をたっぷり持っとるやつです」
黒人の給仕が冷たい飲みものの盆を持って来た。一同は黙って飲みながら、次から次へ変る窓外の景色を眺めていた。給仕が去ると、エラリーが話し出した。「アロヨでクロサックを殺したのはだれでしょうか。われわれは、最初の殺人を犯した者が、だれであったにしろ、すぐに、ツヴァル家の経歴を知ってそれを利用した者だという基本的な犯人の素質を定めることができます。Tの|しるし《ヽヽヽ》を残しているからです。では、ツヴァル家の経歴を知っていたのはだれか。ヴァン、メガラ、ブラッド、クロサックです。なぜなら、ヴァンとメガラの話だと、この昔話を知っているのはツヴァル兄弟とクロサックだけだと言っています。では、メガラはアロヨでクロサックを殺して、Tのしるしを残せたでしょうか。いや、メガラは純粋に地理的な理由によって除外されます――地球の向こう側にいたのですからね。では、ブラッドか。不可能です。ブラッド夫人が、嘘ならすぐ否定できる人々の前で、あのクリスマス・イヴには、ブラッドは全国のチェッカー選手権保持者を迎えて、一晩じゅう、試合をしていたと、証言しています。被害者のクロサックは、むろん、除外されます。残りのクリングが、ただ一人、物理的可能性を持っているのだが、これもだめです。というのは、クリングは、宿命的なTの字の意味を知っていなかったばかりでなく、いく度も言うように、精薄で、白痴で、とてもあんな知能的犯罪をやる精神能力がなかったはずです。してみると、クロサックは、クロサック殺しの資格をすべてそなえているただ一人の人物、ヴァンに殺されたにちがいありません。
そして事実そうだったのです。ヴァンがクロサックを殺したのです。どうやって、どんな情況のもとで? 話は筋道を通すことができます。ヴァンは、クロサックが自分と兄弟たちをねらっているのを知っていました。なんらかの方法でクロサックの居所をつきとめました――老狂人ストライカーと一緒に旅をしていることを。そこで、自分の方から、無名の手紙で、クロサックをアロヨに来るようにそそのかしたのでしょう。復讐の夢が現実にかなえられそうだと思いこんだクロサックは、その餌にくいつきました――夢中になっていて、その情報の出所など疑ってもみなかったのでしょう――そこで、自分が操っているストライカーの一行が、アロヨの近くに立ちまわるように工作したのです。それから、クロサックは――自ら、この事件の立役として実際に、最初で最後の登場をしたのです――つまり、ウェアトンのガレージ屋、クローカーから車を借りて、交差点に乗りつけたのです。ウェアトンではクロサックが鞄を持っていなかったのを思い出すでしょうね。――あれ以後の犯罪では犯人がいつも鞄を持ち歩いていたのと考え合わせると意味深長ですよ。なぜ、クロサックは最初、鞄を持っていなかったか――クロサックにとっては、ただ一回の登場なのに。その理由は、クロサックが被害者を切り刻むつもりがなかったからです。おそらくクロサックは正常な精神の持ち主で、敵に対しては強い決意を持っていたとしても、ただ殺すだけで満足する復讐者だったでしょう。もしクロサックの計画が成功していれば、われわれは、おそらくアロヨの小学校長が射殺されるだけで、切り刻まれていないその死体を発見したでしょう。
しかし、この連続殺人事件の張本人であるヴァンは、なんの疑いもなくやって来た復讐者を待ち伏せて殺してしまったのです。そのときにはすでに、不幸なクリングをとらえて隠しておき、クロサックの死体に自分の着衣をつけ、それから首をきり、次々と工作したのです。
これは最初からヴァン、またはアンドレヤ・ツヴァルの陰謀だったことは明白です。何年もかかってやった犯罪です。ヴァンはこの一連の殺人事件を、長い年月の復讐心で当然気が狂っているだろうと思われるクロサックの復讐と見えるようにたくらんだのです。そして、最後に、自分の死体に見せかけるという特別の目的のために、クリングを使うつもりで、隠していたのです。そして、最初に罪のない男を殺したクロサックが、ツヴァル兄弟の二人を殺し、そして最後に三人目を――七か月前の明らかな誤殺を訂正するために殺したと見せかけるようにたくらんだように思えます。ヴァンにとっては、この最後の偽装殺人で、自分もまた復讐鬼の犠牲になったように見せかけて、その実は、一生かかって貯めた金と、兄のメガラから巧みにまき上げた相当巨額な金を持って、逃亡するつもりだったのです。一方警察では、ずっと前に死んでいる幽霊人物クロサックを永久に捜しつづけるでしょうからね……死体のごまかしは、安々とできたでしょう。ヴァンがピッツバーグの孤児院で、自分でクリングを雇ったのを、覚えているでしょう、だから、体格が見たところ自分とそっくりな召使をえらぶことができたのです。最初のすりかえで――クロサックの死体を自分の死体に見せかけたのは――おそらくクロサックとヴァンの体格が似ていたのでしょう――匿名の手紙を送る前に、あのモンテネグロ人をつきとめて、まず似ていることを発見し――それから全部の計画を思いついたのかもしれません」
「さっき、お前が何か言っとったな」と、クイーン警視が、かぎたばこ入れに、また指を突っこみながら、考えこむようにきいた。「事件の当初は正しい線をつかまえながら、それを捨て去ったとかなんとか。あれはどういう意味なんだ」
「しかも、当初だけじゃなくて」と、エラリーは口惜しそうに「事件中、ずっといつも頭にこびりついていたのに、払いのけてばかりいたんです。どうも確実性が足りないような気がしたのです……というのは、考えてもごらんなさい。最初の殺人のときから、特異な点が一つありました。死体の頭が斬って持ち去られていたことです。なぜでしょうか。犯人の偏執の一つと考えるより解答がないように思われたのです。後になって、ツヴァル家の事情と、Tがクロサックの復讐のしるしだという正面的な意味がわかってきました。そこで、もちろん、頭を切り去ったのは死体に大文字のTの形を与えるためだと思い込みました。しかし、まだ初めの疑問が……
結局、頭を切ったことに関しては、他の説明もなりたつんですからね――立派な仮説がね。死体がTに似せてあったこと、他にもTの要素があったこと――たとえば最初の殺しでは、T字路、T字の道標、血でなぐり書きしたT、次の殺しではT字型のトーテム・ポスト、三番目にはT字型のアンテナ・マスト(いずれの場合にもTのなぐり書きはくり返されていて――これは四番目の犯罪でも同様でした)――これらのTの要素をひとかためにして、犯罪現場にまきちらしてあったことには、一つの目的があるのです。つまり、|首を切り取った事実をごまかすためだったのです《・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・》。他に確認の方法がないときには、頭つまり顔が、死体を確認する最も有力な方法です。そこで、ぼくは、これはTの妄執にとらわれている偏執狂の犯罪ではなく、むしろ、首を切りとることで確認をあやまらせる目的で、完全に正気な人間が(多少のアンバランスだが)計画的にやったものだという論理的な可能性もなりたつと、さとったのです。これには裏付けがあるように思えました。つまり、切りとられた首が一つも発見されなかったからです。なぜ犯人は、犯罪現場かその近くに頭を残して、できるだけ早く厄介払いしなかったのか――そうするのが気違いであれ正気であれ、人殺しの自然の衝動ではないでしょうか。死体はTの形であることにはかわりはなく、犯人のTのコンプレックスがみたされるのにもかわりはありません。しかし、首はどうしても見つからなかった。万事が当然そうあるべき姿のとおりではないように思われたのです。しかも、これは結局、仮説にすぎないのだし、他のあらゆる事実が、犯人を狂気の復讐鬼だと、明確に指示しているので、ぼくは実際には真実だったことを、重視しつづけていたのです。
しかし、四番目の殺しを捜査したとき、アンドレヤ・ツヴァルが |deus ex machina《デウスエクスマキナ》〔時の氏神〕であることを知ったので、全体のモチーフがはっきりしたのです。最初の殺人では――クロサック殺し――死体の確認を妨げて、ヴァンの死体だと思わせるためにクロサックの首を切りとらざるをえなかったのですが、それに成功したので、最後には四番目のクリングの死体を、ヴァンの死体だと思わせるために首を切りとったのです。しかも、ただ首を切りとるだけでは、疑惑をおこさせ、破滅を招くかもしれないのです。というのは、正しい筋を追いつめてくる探偵がいるかもしれないからです。そこでヴァンは、いかにも狂人の考えつきそうなT――あらゆる種類の、互になんの関係も考えられないTの形という、まことに巧妙な、だれが見ても理屈にあわない思いつきを考案したのです。このために事件の本筋がひどく混乱したので、ヴァンはだれも首がなくなっていることの本当の意味に気づくものはあるまいと確信したのです。つまり、最初と最後の死体は、むろん誤認されるものと思ったのです。
一度始めたら、次々と、悪夢のようなTの気まぐれを続けなければならなくなったのです。クロサックのT恐怖症がつづいているものと思わせるように、メガラの首も、ブラッドの首も切らなければならなかったのです。最後の殺しのときも、もちろん、全くその目的のために、また、首切りをやったのです。心理的にみても、手段としても、じつに巧妙な計画だったのです」
「最後の殺人だがね」と、アイシャムが生つばをのみこみながら「そのう――私だけの気のせいかもしれないが、小屋にはいって行く足跡が出て来る足跡より深かったようだがね」
「慧眼《けいがん》ですよ、アイシャムさん」と、エラリーが叫んだ。「それを持ち出してくれてよかったですよ――いい着眼点です。それが事件全体の再確認にあたって最も大きな裏付けになったのです。おっしゃるとおり、ぼくも、小屋に近づく犯人の足跡が、出て行く足跡より深いのに気がつきました。その説明ですがね。簡単な論理の三段論法です。同じ地面につけられた、同じ足跡が、なぜ一方が片方よりも深いのか。その理由は、一方の場合、犯人が何か重いものを運んでおり、いま一方の場合はそうでなかった。――同一人物が、ほぼ同じ時刻に、妙に重さが違っていることを論理的に説明する唯一の考え方はこれでしょう。この場合、これがぴったりです。ぼくは最後に発見された死体はクリングのものだと思います。ヴァンはクリングを、どこに隠していたのでしょう。ルーデン巡査が言っていましたが、ウェスト・ヴァージニアの山には天然の洞窟がたくさんあるそうです。ヴァン自身も、ちょっとした洞窟探険をやっていて、その空き小屋を見つけたと言っていました。(おそらく初めから勘定にいれていたのでしょうよ)そこでヴァンは、何か月もクリングをとじこめておいた洞窟へ行き、ひきずり出して、小屋へ運びこんだのです。ヴァンがクリングを連れ出しに小屋を出たあとで雨は上ったにちがいありません。しかし、そのときはヴァンがクリングを運んでもどる前だったのでしょう。だから、出て行く足跡を洗い流しましたが、帰って来た足跡をはっきりつけたのです。そこで、クリングを小屋へかつぎ込んだときに深い足跡がつき、殺しをやってからこれを最後に小屋を出て行ったときに浅い足跡がついたのです」
「なぜ、クリングを歩いて小屋にはいらせなかったのかね」と、アイシャムがきいた。
「明らかに、ヴァンは最初からびっこのクロサックの足跡を残すつもりだったからでしょう。クリングをかついでびっこをひくことで、被害者を家に入れるのと、家にはいったのはクロサック一人だということをはっきりさせる――二つの目的を達したのです。びっこをひいて出て行くことによって、クロサックが逃亡したという錯覚を与えようとしたのです。ヴァンは、たった一つの間違いをしました。重みを加えれば、軟かい土にはさらに深い跡が残ることをうっかりしたのです」
「私の硬くなった頭ではとても考えられんね」と、教授がつぶやいた。「あの男はきっと天才だった――天才なのにちがいない。変質者にすぎないかもしれないが、しかし、そこまで計画をたてるには、すばらしい頭脳がいる」
「むりもありませんよ」と、エラリーが無造作に言った。「教育のある男が長年かかって計画したんですからね。しかし、とにかくすばらしいですよ。たとえば、ヴァンは自身でやらなければならないことを、クロサックがやったと思えるようなもっともらしい理由がいつも示されるように、あらゆる物事を按配するという問題に、つねに直面していたわけですからね。また、たとえばパイプの件や、血の|しみ《ヽヽ》のついた絨毯《じゅうたん》を裏返しておいたことや、わざと、ブラッドの置手紙を残したことも、その例にもれません。ぼくは前に、クロサックが真の犯罪現場の発見がおくれることを望むその理由について、お話したことがあったでしょう――つまり、メガラが現場に着いたときになって、はじめて真の現場が発見されるようにすれば、メガラがクロサックにヴァンの居所を教えたという恰好にできたわけだったのです。クロサックがブラッドの置手紙を見てヴァンがまだ生きているのを知ったということになりますからね。
しかしヴァンは、一方ではわれわれにこの巧みなクロサックに目をむけさせるような理由を提供しながら、じつは真犯人として、現場の発見をおくらせたい理由が大いにあったのです。もし、当局がただちに書斎を捜査すればブラッドの置手紙は――おそらくヴァンが自らブラッドに命じて書かせたに相違ありません――メガラが帰ってくるずっと前に発見されたでしょう。すると、すぐにヴァンが、まだ生きていることが知れてしまいます。そして、もし、ヴァンの行動に、少しでも手違いがあれば、警察はピートじいさんがヴァンではあるまいかと疑いを持ち、ヴァンの立場は危くなります。また、もし、メガラがどこか海上で死んで帰って来ないことになれば、ブラッドやメガラの兄弟であるヴァンが、じつはピートじいさんなのだと、警察に報らせる人間は一人も生存しないことになります。現場の発見をおくらせることで、ヴァンは、メガラが帰って来たちょうどその時に、自分たちが兄弟であることを、メガラの口から確認させる保証ができたわけです。裏付けのないヴァンの言葉だけでは疑いをかけられたでしょうが、メガラがヴァンの言うことにいちいち口裏を合わせてくれたので、ヴァンはなんの罪もない人間に見えたのです。
しかし、なぜまたヴァンは犯罪現場に、ふたたび姿をあらわす必要があったのでしょうか。おお、そこに、メガラが帰るまで現場の発見をおくらせるように手のこんだお膳立てをしても達成しようとした真の目的があったのです。前もって手を打っておいて、ブラッドの書置きでアンドリュー・ヴァンがツヴァル家の正統の兄弟として現場にもどってくることで、すべてが終るように、いろいろなものごとを指示させておけば、|ヴァンは相続権を確立できるのです《・・・・・・・・・・・・・・・・》。ぼくが言わんとするところは、ヴァンは、最初の殺人で実際に殺されたものと警察に信じさせておけば、それ以後は法的に死んだ人間になっていられて、その間にクロサックの仮面にかくれて兄弟たちを殺す計画が続けられたのです。しかし、もし法律的に死んだものである以上、ブラッドが遺言で残した金を手に入れる方法はなかったでしょう。そこで生き返らなければならなかった――生身《なまみ》にね。そして、そのときはメガラが、ヴァンを兄弟だと証言できるときでなければならなかったのです。こうして、自分に贈られた五千ドルを全く安全に手に入れることができるのでした。ついでですが、あの男の遠慮深いのには感心しましたね。メガラが『おびえている』弟の苦境と、自分の良心に感動して、現に五千ドル追加しようと申し出たのに――ヴァンが断わったのを、覚えているでしょう。ヴァンは自分の分け前だけもらえばいいと、言いました。……いかにも、ずるがしこいやつですよ。やつは断わることによって、慎重に築きあげた、世捨人だという幻覚がいっそうかためられるのを心得ていたのです。
結局、ブラッドの置手紙と、自分が現場に戻って来たときの話で、自分がふたたび殺されるかもしれないということを警察に納得させる下ごしらえをしたのです。なにしろ警察では、復讐鬼がツヴァル兄弟をつけまわしていて、最初の殺人で謝りを犯したことに気がついたと、見ていたのですからね。悪魔みたいなやつですよ、まったく」
「私にはむずかしすぎます」と、ヴォーンが、頭を振った。
「わしは父親になって以来ずっと、こんな目にあわされどうしですよ」と、クイーン警視が、つぶやき、ため息をして、楽しそうに窓の外を眺めた。
しかし、ヤードレー教授は自己満足を味わうような父性愛を持ち合わせていないから、楽にしたくも幸福そうではなかった。短いあごひげを無心な指先で、やたらにしごいていた。「そこまではいいとして」と、言った。「私は謎ときにはかなり古武者《ふるつわもの》でね――まあ、大昔の謎が主だが――だから、人間が賢明だという実例を、さらに一つあげられても、今さら驚きはしないよ。だが一つだけ驚いたことがある……君は、ステファンとトミスラフの実の兄弟で、家族の一員として、また個人として、罪を分かち合っているアンドレヤ・ツヴァルが、長い年月をかけて、その兄弟を皆殺しにする計画をたてたと言ったね。なぜだね。無慈悲な神の名にかけて、一体、なぜだね」
「先生が思いなやむのもわかりますよ」と、エラリーが考えこみながら「それがこの犯罪の怖しい様相なのです。動機は別にしても、それに対する説明があります。先生も二つのことは認めるでしょう。全体の計画を成功させるために、アンドレヤ・ツヴァルはいろいろ不愉快な仕事をやることが必要でした――まず人間の首を切りとった(兄弟も含めて)、死人の手足をあり合わせの十字架に釘付けにした、異常に多量な血を流した。……次には、アンドレヤ・ツヴァルは狂人です。狂人だったに違いありません。このグロテスクな計画を思いついたときには正常だったとしても、実行し始めたときには異常になっていたはずです。こうみると、すべてがはっきりします――気違いが神の霊液を流して血の海をつくった、その一部は自分の兄弟の体から流れたものだったのです」と、エラリーは、ヤードレーを見つめて「本質的には、どこに違いがありますか。先生はすぐクロサックを狂人と認めたのに――なぜヴァンが狂人であってはならないのですか。その差は、他人をきざんだか、兄弟をきざんだか、だけじゃありませんか。たとえ先生が犯罪の知識に関しては|しろうと《ヽヽヽヽ》だとしても、夫が妻の死体を焼き捨てたり、姉が妹をこまぎれにしたり、息子が母親の脳みそをたたきつぶしたりするような近親間の犯罪の不徳、頽廃の種々相を示すいやな話をたしかに知っておられるはずですよ。正常な人間には考えられないことですが、父やヴォーン警視にきいてごらんなさい――先生のひげが恐怖で縮み上るような残虐行為の実談をいくらでもお聞きになれるでしょうよ」
「そりゃそうだ」と、ヤードレーが言った。「そりゃ、抑圧されたサディズムによる犯罪として理解できる。しかし、君、動機はどうなんだ。一体君はどうしてヴァンの動機をかぎつけたんだね。君だって四番目の殺人までは、てっきり、ヴェリヤ・クロサックを、犯人とにらんでいたんじゃないか」
「それについては」と、エラリーは微笑して「ヴァンの動機は、わかりませんでした。じつは今でもわからないのです。しかし、実際問題としては、わからなくても大したことはないんじゃありませんか。狂人の動機は――空気のように、はかなく、変質者の動機のように晶化しがたいものです。ぼくが狂人と言うのは、もちろん、必ずしも暴れまわる偏執狂だけではありませんよ。ヴァンは、先生の見られるとおり、一見、完全な正常人です。あの男の狂気は、脳みその気まぐれであり、ひずみで――その点の他はすべて正常です。父やヴォーン警視にきけば、一見われわれと同じような正常な殺人者が、実際には最も残忍な精神病者であった例を、いくらでもあげてくれるでしょう」
「ヴァンの動機をお教えしましょう」と、クイーン警視が言って、ため息をしながら「昨夜、先生とお前がいなかったのは残念だったな。長官と、ここにいるヴォーン君とで、ヴァンをしめ上げたんだ。わしが今まで立ち合った取調べの中で一番面白いやつだったよ。ヴァンは危く|てんかん《ヽヽヽヽ》の発作をおこしそうだったが、結局、おちついて白状した――二人の兄弟に呪いを浴びせながらね」
「ついでだが、二人の首は、おもりをつけて入江に沈めたそうだ」と、アイシャムが説明した。「あとの二つの首は山に埋めたんだ」
「兄のトミイス――トミスだったか――トムだったかに対する動機は」と、老警視が続けた。「ありふれたものだ――女のことだよ。ヴァンは国にいるころ、一人の娘を愛していたが、兄のトムがその娘を奪ってしまった――古くさい話さ。その娘がブラッドの最初の細君で、ヴァンが言うには、ブラッドの虐待で死んだんだそうだ。それが事実かどうかは、わからんだろうが、とにかく、あの男はそう言った」
「メガラに対しては?」と、エラリーがきいた。「あの男は、少し気むずかしいが、まともな男のようでしたよ」
「うん。それが少しあいまいなんです」と、ヴォーンが眉をしかめて、葉巻きの先を見つめながら「ヴァンは三人兄弟の末で、父親の残したツヴァル家の財産を受ける権利がなかったらしいのです。メガラとブラッドは、ヴァンに金を分けようとしなかったらしいんです。メガラは長兄で家の金を管理していたのです。その上、クロサックから盗んだ金も、びた一文ヴァンにはくれなかった――お前はまだ子供だからとかなんとか言ってね。そこでヴァンが目にもの見せたってわけです」ヴォーンは、うすら笑いを浮かべて「仕事に加わっていたのだから、むろん、密告するわけにはいかないしね。このことで、三人の兄弟がこの国に来てから、ヴァンだけが二人の兄と別れて、一人でやっていた理由がはっきりします。ブラッドも少しは良心にとがめたのでしょう、ヴァンに五千ドルも残したのだから。それがもっと役に立てばよかったのにね」
一同はかなり長い間、口をきかなかった。『二十世紀号』はニューヨーク州を驀進していた。
しかし、ヤードレー教授は、ブルドックのように、かみついたら放さなかった。納得がゆかないことは、つかんだら放そうとはしなかった。頭の中で何か考えながら、ややしばらく、パイプをいじっていた。それからエラリーにきいた。「君にきくがね、全知全能君。君は偶然を信じるかね」
エラリーは、|のび《ヽヽ》をして、烟の輪を吐いた。「先生困惑の図ですね……いや、信じません――殺人に関してはね」
「では、君はこの不可解な事実を、どう説明するね」と、ヤードレーは、パイプで拍子をとりながらきいた。「あのストライカーという――もう一人の狂人さ。どうだね。偶然があるじゃないか。――アロヨ事件の現場にも、遠く離れた次の犯罪現場にも、ストライカーが姿を見せているのは、どういうことかね。ヴァンが真犯人となったからには、あのあわれな太陽神ハラーフトは罪のない男だろう……それが二度目の殺人現場に居あわせたのは、おどろくべき偶然じゃないか」
「先生は得がたい仲間だな。いい問題をとりあげてくれましたよ」と、エラリーが、すわり直して、あっさり言った。「もちろん、偶然じゃありませんよ。あなたのセラミイックで最初にお話した日に、ぼくが推測的に説明したとおりです。――セラミイックとは好きな言葉です。事実から論理的に推測すれば、あなたにもわかるはずですよ。クロサックは神話的な人物でなく、実在の人物でした。クロサックはツヴァル兄弟の一人が、ウェスト・ヴァージニアのアロヨにいることを知りました。そこで、あながち空想ではないと思いますが、ヴァンが書いた無名の手紙と同じものが、他のツヴァル兄弟の居所――ロングアイランドに、ブラッドとメガラが一緒に住んでいることを、クロサックに教えたかもしれません。ヴァンの計画にはすきまがないはずです。ヴァンはクロサックがストライカーと一緒にイリノイ州よりもっと西の方まで旅まわりをしていることを知っており、東へ向かう途中でいやでもウェスト・ヴァージニアを通りかかるから、まず小学校長を襲うだろうと思ったのです。
図星ですよ。ところが、クロサックだって、けっしてばかじゃない、これは信じていいですよ。クロサックはまず、アンドリュー・ヴァンと名乗るツヴァル兄弟の一人をやっつけてから、ブラッド、メガラと名乗る連中を殺《や》ろうとしていたのでしょう。だが、気の毒な『何もやましいところがない』小学校長であるヴァンを殺《や》れば大騒ぎになって、身をかくす必要が生じるのを知っていたのです。そこで、第二第三の犠牲者が住んでいる近くに、隠れ家をもとめる理由が生じたのでしょう。ニューヨークの新聞をみて、ケチャム老人がオイスター島を貸しに出す広告をみつけ、気の毒なストライカーに、そこへ行って太陽教を始めることを賛成させ、ずっと前に郵便で金を送って、あの島を借りたのです……その後のことはご存知でしょう。クロサックは逆に殺される。知らぬが仏のストライカーは、このいきさつは何も知らずに、これも何も知らぬロメーンと相棒になり、オイスター島を借りたことを話して、出かけて行ったわけです。これが、オイスター島に裸体主義者と太陽教があらわれたわけですよ」
「なるほどな」と、警視が大声で「ストライカーを容疑者に仕立てれば万事うまくいっただろうにな」
「それで思い出したが」と、教授が考えこみながら「エジプト学のことさ、クイーン君。君はまさか、ヴァンがストライカー老人のエジプト学を、殺人事件に結びつけようと、最初から思っていたと言うんじゃあるまいね」
「ありがたいですね、先生」と、エラリーは笑いながら「私はそんなことは何も言いませんでしたよ。そういえば、ぼくの『エジプト十字架』論は、とんでもないお笑いぐさでしたね、そうでしょう先生」と言い、居ずまいを直して、ぽんとひざを打った。「お父さん。こりゃ一大事ですよ」
「そうだな」と、警視は吐きすてるように言った。ご機嫌ななめになっていた。「わしもそのことを思い出しとったところだ。飛行機を雇ったり、ご入用おかまいなしで、むちゃくちゃな追跡をしおって、国じゅうをとびまわったから、クイーン家の貯金の半分は使っちまったぞ。わしに尻ぬぐいさせる気なのか」
エラリーがくすくす笑って「それも論理的にかたづけましょうよ。遠慮のいらない方法が三つありますから、その一つでいきましょう。第一の手は、費用をナッソー郡に出してもらうこと」エラリーは地方検事アイシャムの顔を見た。アイシャムは、目を丸くして、ぶつぶつ言い、やがて、そのいかつい顔に、ばつの悪そうな、弱々しい笑いを浮かべながら、椅子に深く腰かけこんだ。「だめらしいですね――どうも実現できそうもないですね。こうなれば第二の手で、ぼくの負担です」と、エラリーは頭を振って、唇をかみしめた。「いや、それじゃあ、あまりお人好しすぎるな。……だから、一大事だと言ったんですよ」
「よろしい」と、ヴォーン警視が、重い口で「あなたは水ましの請求書も出せないし、一人で背負うわけにもいかないとなったら、私がなんとか心配しましょう――」
「いや、警視さん」と、エラリーがゆっくり言った。「ぼくが本を出しますよ。ときにはぼくにも学があったという思い出に『エジプト十字架事件』と題しましてね。費用は読者に持ってもらいましょう」
Si finis bonus est
Totum bonum erit
――GESTA ROMANORUM
終りよければ、すべてよし――ローマ人行状記
(完)
あとがき
この作品は一九三二年十月に初版が出た The Egyptian Cross Mystery で、エラリー・クイーンの国名シリーズとしては、秀作の世評が、すでに高い。
まえがきでも述べているとおり、エジプト趣味で色づけするために、いかにも、物語風なこしらえで、首なし死体が四回も出て来たり、太陽教などという新興宗教の気違い教祖が出たり、裸体主義者をちらつかせたり、泥絵具で描いた地獄絵みたいな、どぎつさと、大ざっぱな構図が目に浮かぶ。だが、謎とき推理ものの名手エラリー・クイーンの謎の組み立て方はさすがに巧妙で、その解決もあざやかなものである。
十字架の|せんさく《ヽヽヽヽ》やら、チェッカー遊びの話やら、ユーゴスラビアの仇討風習等々、小道具が小道具なりに面白く、これも、通の読者にとっては、楽しみを加えることであろう。
例によって、犯人探しの挑戦がなされている。トリックは、「顔のない死体」という手《ヽ》だが、ごくありふれたトリックほど、逆に言えば、自信をもって、推理して結論を出すのが、むずかしいともいえる。
読者のみなさんが、エラリーの挑戦に立ち向かって、正面から堂々の勝利を、おさめられることを、ねがうものである。(訳者)
訳者略歴
石川年《いしかわねん》一九〇七年東京生まれ。国学院大学史学科卒。NHK勤務のあと日本放送作家協会理事を務めた。クイーンの「国名シリーズ」のほか、H・G・ウェルズの作品など多数の翻訳書がある。