エラリー・クイーン/石川年 訳
アメリカロデオ射殺事件
目 次
前口上――スペクトル
一 発端
二 ロデオのスター
三 弔辞
四 端緒
五 やくざ記者
六 たしかな事実
七 四十五丁の銃
八 弾道試験
九 手がかりなし
十 対の拳銃
十一 捜査無効
十二 内密の試写
十三 移動調査
十四 備忘録
十五 リングの王者
十六 仮借用書
十七 祝宴
十八 二度目の殺人
十九 歴史はくり返えす
二十 銭箱
二十一 カメラの目
二十二 失踪アメリカ人
二十三 奇跡
二十四 判定
読者への挑戦
二十五 解決直前
二十六 逮捕
二十七 犯人の泣きどころ
後口上――分析スペクトル
あとがき
登場人物
エラリー・クイーン……臨時探偵。クイーン警視の息子
バック・ホーン……もと西部劇映画スター。ロデオ・スター
キット・ホーン……バックの娘で、西部劇スター
あばれん坊ビル・グラント……ロデオ座長。もと保安官
まき毛グラント……ビルの息子で、名射手
片腕ウッディ……ロデオ・スター
トニー・マース……スポーツ競技場創設者
マラ・ゲイ……「ハリウッドの蘭」と呼ばれる女優
ジュリアン・ハンター……マラの夫、社交界人種
トミー・ブラック……ボクシングのヘビー級選手
テッド・ライヤンズ……赤新聞記者
カービー少佐……ニュース映画プロデューサー
前口上――スペクトル
「ぼくにとっては」と、エラリー・クイーンが話しはじめた。「車輪は、回転しないかぎり、車輪ではない」
「そりゃ、すこし功利的すぎる議論だね」と、私は言った。
「好きなように言うがいいさ」エラリーは鼻眼鏡をはずして、いつも、ものを考えるときのくせで、熱心にレンズを、みがき始めた。「ぼくが言うのは、車輪を、一個の物体そのものとして、認めないというのではない。つまり、車輪としての働きを始めるまでは、ぼくにとっては意味がないというだけさ。それと同じ理由で、ぼくはいつも犯罪を、動いている状態にして見ようとするのだ。ぼくは、ブラウン神父〔チェスタートンの作中の探偵僧〕のようではない。神父は直観的だ。神父さんに――幸いあれ――神父なら、車輪の輻《や》を、ちらっと横眼で見るだけで、すべてが分る……ぼくが、何を言おうとしているか、分るだろう、J・J」
「分らないな」と、私は考えこんだ。
「例をあげて説明させてもらおう。君が、この不合理な魅力ある人物、バック・ホーンの事件をとり上げるとする。いいとも、犯罪そのものの前に、何事かが起こっていたんだ。ぼくは後からそのことに気がついたんだ。しかし、ぼくのいわんとするところは、たとえぼくが――何んらかの奇跡的なチャンスで――その小さな前兆ともいうべき事件の姿なき目撃者であったとしても、それは、ぼくにとっては少しも重要性を持っていなかったろうということだ。推進力、つまり犯罪が欠けているからだ。車輪が停まっているのだ」
「まだ、あいまいだが」と、私がいった。「どうやら、少しは君の言うことが分りかけたよ」
エラリーは、まっすぐな眉をしかめた。それから眉を開いて笑い、細長い両足を、もっと火の方に伸ばした。そして、巻きたばこに火をつけて、天井に向かって、煙を吹いた。
「いつもの悪いくせを出して、すまないが、たとえ話をさせてもらうよ。……ここに事件、ホーン事件、われわれの車輪がある。その車輪は、輻《や》の間に、それぞれコップが置いてある。そして、それぞれのコップに、色をとかした水が入れてある。
さて、ここに黒い水がある――バック・ホーン自身だ。あっちの金色の水は、キット・ホーンだ。ああ、キット・ホーン!」と、ため息をして「青灰色の水が――あばれん坊ビル、あばれん坊ビル・グラントだ。明るい茶色の水が――せがれの、まき毛だ。毒々しい紫の水が――マラ・ゲイ。あの……レッテルはなんといったっけな。そう、ハリウッドの蘭《らん》。やれやれ。それから、ジュリアン・ハンター、マラの夫は、われわれ分光器では濃緑色だ。そしてトニー・マースは――白かな。それから、プロボクサーのトミー・ブラックは深紅色。そして、片腕ウッディ――には、からし色がいい。みんなこんなふうに、あてはめてみる」
エラリーは上を向いて、にやりとした。
「実に、はなやかなもんだろう! さて、それらの色の水を観察してみよう。どの一色も、元素であり、量であり、重さも、長さも測ることのできる分子だし、どの一色も色としての個性を持っている。どれも独立していて、不動なのだ――それだけのものであるなら、ぼくにとっては意味がない。全くの無意味なんだ」
「そこで車輪が廻りはじめるという寸法だろう」と、私が口をはさんだ。
「そういったところだな。小さな爆発音。整然としたガスのひと吹き――何ものかが動力を通じる、運動の最初のひと動き。そして車輪が廻り出す。速く、非常に速く。ところで、何がおこるかを観察しよう」といって、エラリーはゆっくりたばこをくゆらせる。いささか満足そうだ。「奇跡だ! あれらの色の水はどこへ行ってしまったんだ。それぞれが、量であり、元素であり、長さも重さも測れる分子であったものが――それぞれに自身の特徴をもって、それぞれが一つの固定した宇宙を持つ完全な恒星《こうせい》のように独立していたのに。みんなとけてしまった。それぞれの分光的な性質を失って、一つのきらきらするかたまりになってしまった。もう、特色もなく浮動している相似形の構図にしかすぎないのは、君の見るとおりだ。その構図が、ぼくに、ホーン事件の全貌《ぜんぼう》を語るのだ」
「すると、君が言おうとするのは」と、私は頭が痛くなるのを押えて「あの連中は、みんな殺人に、何か関係があるということかい――」
「ぼくの言うのは」と、答えて、ととのった顔をひきしめた。「主要でない色は消えたということさ。ぼくは時々、考えるんだがね」と、エラリーはつぶやいた。「もし、ブラウン神父やシャーロック・ホームズだったら、この事件を、どう扱っただろうかな、えっ? J・J」
一 発端
大きな地下室は、つんと馬のにおいがし、足ぶみをしたり、鼻をならす音がみちみちていた。
片すみにコンクリートむき出しの引込《ひきこ》み部屋があって、そこは鍛冶場《かじば》である。火床《ひどこ》は真赤にもえ上り、火花が散っていた。たくましく筋肉がもり上って、黒くあぶらぎっている半裸《はんら》の小男が、まるで雷神の弟分みたいに、調子をとりながら、赤くやけた鉄片を、打ち曲げていた。天井は低くて、のっぺりしているし、壁はむき出しで、この石造の部屋を囲んでいる……。
馬舎《うまや》の中では、生まれたてのようにつやつやして、弓形の首をしている雄馬が、天馬ペガサスのように歯がみしていた。ハレムの雌馬どもが、彼にいなないたり、うったえたりする。すると彼は時々、真赤な眼を輝やかして、祖先のアラビア馬のように気取って、わらをしいた床を前脚でかいた。
馬ばかりだ。何十頭も、何百頭もいる。ならした馬、曲馬用の馬、野生の馬、鞍《くら》をつけた馬、あばれ馬。馬ふんと汗と息《いき》の、はげしい匂《にお》いが、重苦しい空気の中をほの白い霧のようにただよっていた。
馬舎《うまや》の前には馬具が光っている。油じみた革にきらめく真鍮《しんちゅう》、ビロードのような茶色の革の鞍、プラチナのように輝く拍車《はくしゃ》、黒光りする手綱と、柵《さく》にかけてある投繩と、派手《はで》なインディアン毛布だ。
これは王の馬舎だった。その王の冠《かんむり》は、いきなステットソンで、王の印《しるし》はコルト銃で、王の領地は西部の荒れた大平原という奴だ。
王の護衛隊《ごえいたい》は半人半獣の怪物のように馬を乗りこなす、がに股《また》のカウボーイどもで、妙にやわらかい南部|なまり《ヽヽヽ》でしゃべり、器用に手巻きたばこをまき、茶色の目には、深い大空の星をみつめるような無限の静けさをたたえている。王の宮殿は、ここから何千マイルも離れている広大な牧場なのだ。
この妙な冠をつけ、変な印と、風変りな護衛隊を持つ王の馬舎は、砂風《すなかぜ》の吹く大平原にあれば文句なしだ。テキサスかアリゾナか、ニューメキシコ辺の、こういった王が支配している人里はなれた土地にあればふさわしいが、所もあろうに、きっすいのアメリカ建築の地下室にあった。山や丘や谷や森や、|にがよもぎ《ヽヽヽヽヽ》の生いしげる広野からはなれて、摩天楼や、地下鉄や、口紅の濃いコーラスガールや、ホテルや、劇場や、失業者の群や、ナイトクラブや、貧民街や、安酒場や、街頭放送屋や、文士くずれや、赤新聞にかこまれていた。
つまり、その本来の場所からは、まるで、ここと英国の山荘や日本の田ンぼ、ほども遠ざかっているのである。
すぐ近くにはブロードウェイという妙な土地が、ニューヨークのからさわぎをはこんでのびて来ている。地下馬舎の頭上三十フィートから東と南五十フィートのあたりがニューヨークのどまん中の狂噪地帯《きょうそうちたい》だ。
地下馬舎の頭上の大神殿の門をくぐる車は一分間に千台をこすそうだ。
この大神殿が、ニューヨークの最新最大のスポーツの殿堂、コロシアムなのである。
ここには勝馬の卵や人気馬の卵が、遠く、西部や東部のはてから、兎《うさぎ》のように箱詰《はこづ》めにして送られてくるのだ。
もし英国のような国であったら、こういうことはないだろう、というのは、英国では、その固有な国土に、伝統が根を生やし、のびて、枯れるまでつづいている。しかし、アメリカのような新しい土地では、聖なる地下の泉のような、古い文化の流れが、どこに、噴き出すかわからないのである。
昔、西部の土人たちは、ときどき、お祭り気分で、乗馬の腕前や、投繩や、雄牛を見せに、遠くから集まって来たものである。それは西部だけの、西部人の楽しみだった。ところが、今日では、その催しが、アルカリ性の土地から、ひっぺがされて、馬、投繩、雄牛、カウボーイぐるみ、東部の大都会に移されたのだ。名前だけは、昔ながらに、ロデオと呼ばれている。
しかし、ただ「楽しむ」というだけであった。その催しの目的は、堕落した。観客は、鉄柵の入口を通って、入場料を抜け目のない興行主に払うことになった。
これが、アメリカの西部から、東部へ移された、農園の祭典の古い習慣のなれのはて、あばれん坊ビル・グラント・ロデオなのである。
さて馬舎では、王子のような雄馬の柵のそばに二人の男が立っていた。
二人のうちの小さい方は右腕のたくましいおかしな男で、左腕はひじの上で切れて、縫いつけた派手な袖《そで》の中でゆれていた。
顔はやせて、表情はきびしい。もえあがる太陽の黒い|はけ《ヽヽ》で染められたのか、自分の性質に持っている、にえたぎる大釜《おおがま》のしずくを浴びたせいなのか、ちょっと分らない。
彼のものごしにはどこか雄馬に似た横柄《おうへい》さがあり、唇は薄くて馬のような冷たい笑いを浮べていた。
彼が気むずかし屋の、片腕ウッディだ。この道の第一人者としては妙なあだ名だが、仲間うちでのほら話では一座切っての名騎手だそうだ。つまり、ビル・グラント・ロデオの主役なのである。
こはく色の眼に、殺気をおびているウッディは、神話の不死身の人物のようである。
もう一人の方はまるで違う。その違い方が、けたはずれだ。背の高いカウボーイで、強い風にたわむ松のように、やせて、いつも少しこごんでいた。
彼はネバダの山のように年とって、がまん強そうである。もじゃもじゃの白髪頭《しらがあたま》で、肌《はだ》は濃い褐色で、全身に、山の清い空気と時の荒波にきたえられたつやをおびている。顔にはとりたてて言うほどの特徴はない。力強く老いた体にふさわしい顔立ちで、全体的には、時代ものの古い彫刻といった史詩的な姿をしていた。まぶたは厚く、褐色で、いつも細い切れ目をのこしてたれ下っていた。その切れ目から凍《こお》るような冷たい目で、じっと人を見つめるのだ。
この別世界から来たような人物は、不思議なことに、ごく普通の東部風の服装をしていた。
バック・ホーン老人だ。荒々しい大平原とハリウッドがつくり出した人物だ。さよう、ハリウッドは、いけにえをくらう鬼のように、あらゆるものをのみこむのだ。昔の青少年にとって伝説的なカウボーイだったバッファロー・ビルを現代のアメリカの青少年にもなつかしがらせるハリウッドだ。
この人物こそ昔の西部をよみがえらせたのである。フォードとトラクターと油井の西部ではなく、ずっしりした六連発拳銃や、ジェスゼームス一味や、ビリー・ザ・キッドや、馬泥棒や、酔っぱらいのインディアンや、牧場荒しや、酒場や、淫売屋や、板張りの歩道や、戦う保安官や、繩張り争いの、一八七〇年代の西部である。
バック・ホーンは映画によって、西部の復活という奇跡をなしとげた男である。彼自身、過去から出て来た本ものの人物だった。非常にロマンチックだったから、銀幕に過去の生命をよみがえらせることができたのだ。
バック・ホーンが、馬と繩と拳銃をひっさげて、アメリカ全国の何千ものスクリーンの上を、馳けまわる、フィルムの中での勇ましい活躍に、胸をおどらせた少年時代をもたない血気の青年は一人もいないであろう。
二つの色の水玉。片腕ウッディと、バック・ホーン老人。しかも、輪はまだとまっている。
片腕ウッディが、がにまたの足をずらして、とがった顔を少しばかり、ホーンの褐色の顔に近づけた。
「バック、てめえみてえな、ぐうたらなおいぼれは、のらくらどもをひきつれて、映画にもどっちまやアいいんだ」と、まのびのした調子でいった。
バック・ホーンは黙っていた。
「かわいそうになア、バックじいさん。ろくすっぽ、足もひきずれねえんだろう」と浴びせた。ウッディの、ちょんぎれた左腕が、少しばかり、前にとび出した。
すると、バックが冷やかにいった。「というと?」
片腕の男の目が光り、右手でベルトの真鍮《しんちゅう》のバックルをつかんだ。
「この野郎、何をほざきァがる」
一頭の馬がいなないたが、二人とも、ふりむかなかった。そのとき、背の高い年とった男の唇から、変にものしずかな言葉が流れ出した。ウッディの五本の指がひきしまり、口がひんまがった。たくましい右腕がさっとあがり、老人は、背をかがめた。
「バック!」
二人は、すぐ、あやつり人形みたいに、ぴょこっと、まっすぐに体をおこし、はっとしたように、ふりむいた。ウッディの腕は片わきに下ろされていた。
キット・ホーンが、馬舎の戸口に立って、おだやかな目で二人を見ていた。バックの娘だ。みなし児で、彼と血のつながりはないが、バックが育てたのだ。バックの妻が豊かな胸の乳房をふくませた娘なのだ。妻は死んでキットだけがのこったのである。
彼女は、ほとんどバックぐらいの背丈で、日にやけて、野生の牝馬のようにひきしまっていた。目は灰色がかって青く、小さな小鼻が、かすかにふるえていた。流行のみなりで、ガウンは、いきなニューヨーク風だし、気取ったターバンは五番街の流行の先端を行くものだった。
「お父さん、恥ずかしくないの。ウッディとけんかしたりして!」
ウッディは苦い顔をして、それから微笑し、もう一度苦い顔になって、ステットソンのふちをはじいた。そして、ひどく弓なりになっている足で大股《おおまた》に歩み去った。もぐもぐと口を動かしたが何も言わなかった。そして、鍛冶場の後ろに、姿をかくした。
「おれのことを、おいぼれだってさ」と、バック・ホーンが低くいった。
キットは父のかたい褐色の手をにぎりしめた。
「気にしない方がいいわ、お父さん」
「あいつに、あんなことを言わしちゃおかないぞ」
「気にしない方がいいわよ、お父さん」
バックは、ふとほほえんで、娘の腰に手をまわした。
キット・ホーンは、父のバックが十年か十五年前の若い世代によく知られていたように、今の若い世代に名が売れていた。牧場生まれで、馬の背で育ち、カウボーイたちを遊び友達にし、バウイー・ナイフをおしゃぶりにし、はてしもなく広い放牧地を遊び場として少女になったのだ。おまけに養父のバックは映画スターというのだから、材料には事かかないわけで、ハリウッドの宣伝係りがついて、派手な伝説をつくりあげてキットを飾っていた。
父親バックの映画監督は、バックがもう年をとってしまったから、男まさりで、しかもすごく色っぽいキットを、その代わりにしようともくろんで映画に引っぱり出したのだ。それは九年前のことで、彼女は十六歳の、ぴちぴちした、お転婆娘《てんばむすめ》だった。彼女の映画にはすぐに子供のファンがつき、熱狂した。
キットは馬にのり、ピストルを打ち、投繩を使い、たんかを切った。それに、いつも、映画にはキッスをしたり、抱擁できるヒーローがいたのだ。そんなわけで、キット・ホーンは、カウガールスターにのし上り、彼女の映画はプレミアムつきで売れていた。その間に、養父のバックは、いつの間にか世間から忘れられていったのである。
父娘《おやこ》は、馬舎を出て、通路の坂をのぼり、せまいコンクリートの廊下を通って、楽屋のある広い建物の一翼に出た。ドアの一つに金の星がついていた。バックは足でドアを開けた。
「スターか」と、はきすてるようにいって「おはいり、キット。はいって、ドアをしめておくれ。あの馬泥棒野郎の舌を抜いてやるぞ。さあ、こしかけてくれ」
バックは、すねたように、どすんと椅子にかけて、しかめっ面をして、日やけした手を握りしめたり、ほどいたりした。
キットは、父の白い髪をやさしくなぜながらほほえんでいたが、彼女の青灰色の眼の底は心配そうだった。
「駄目よ」と、やさしく言った。「虫のいどころが悪くて、かっとしたのね、お父さん! 短気は損気よ。ほんとに、癇癪《かんしゃく》もちなのね。こんなに、興奮しちゃ、からだに毒じゃないの?」
「ばかをいわんでくれ」
「そうかしら?」
「だまっててくれ! 平っちゃらだ」
「ロデオのお医者様にみてもらった? 本当に向こう見ずなんだから」
「今日みせた。どこも悪くないってさ」
キットは父の胸ポケットから、長いマッチを一本抜いて、椅子の背にこすって、器用に火をつけ、父がまき上げた細い巻きたばこの先に近づけた。「お父さんはもう六十五よ」
バックは、かおりの高い煙ごしに、ちらっと娘を見上げた。「もう駄目だというのかい。なア、キット、わしは映画をやめてから三年になるが――」
「九年よ」と、キットがやさしくいった。
「三年だよ。ナショナル映画でカンバックしたじゃないか。いいか、わしはもとどおりに元気なんだ。この腕をさわってみろ」と、太い左腕を曲げてみせた。
キットはおとなしく、もり上った力こぶを軽くたたいた。岩のように固かった。
「何のことはないさ、キット、お茶の子さ。ちょいとばかり馬に乗って、ちょいとばかりパンパンぶっぱなして、ちょいとばかり投繩を使うなンてな。なあ、この九年か十年、おれはこの一座でバリバリやって来たんだぜ。あばれん坊、ビル一座の仕事なんか、縛《しば》った牛に、焼印をおすのと同じくらいやさしいもんさ。ビルがおれをやめさせりゃあ、立派に映画の契約をとってみせるぜ」
キットは父のひたいにキスして「分ったわ、お父さん。ただね、くれぐれも気をつけてね。いいわね」と、念をおして、部屋を出がけにふり返った。バックは、化粧台に長い足をのせて、煙ごしに、鏡の中の自分の姿を、じっと、眉をしかめて、見つめていた。
キットはドアをしめて出ながら、女らしいため息をついた。それから、背の高いからだを、すっくとのばして、男のような足どりで廊下を抜けると、もう一つの通路を下りて行った。
かすかに、銃声が聞えて来た。彼女の美しい顔が生々《いきいき》として、音のする方へ、いそいそと歩きはじめた。
大勢の人間とすれちがった。みんな知った顔だ。革ズボンに、ステットソンのカウボーイたちや、バックスキンの上衣に、けばけばしいショートスカートの女たちだ。皮のにおいや、のびやかな南部なまりや、手巻きたばこの煙がたちこめていた。
「まき毛さん。とっても、すてきじゃあない?」
キットは銃器庫の入口に立って、ほほえみかけた。そこには、ずらっと並んだ銃架に、長いウィンチェスター銃や、青光りする拳銃や、標的《まと》がかかっていた。
あばれん坊ビル・グラントの息子のまき毛は、よごれたコールテンの服を着ていた。肩幅がひろく、腰が細い。彼は、まだ煙の出ている拳銃の銃口を下げて、キットを見つめて、うれしそうに声をかけた。
「キット。君だったのか。よく来てくれたなあ!」
キットは、また、とろけるように微笑した。まき毛は、キットと同じように、このコロシアムやブロードウェイには、なじめない人間だった。昔の彼は、と彼女は心の中で、いくどもたしかめてみたが、たしかに、明るくてすなおで、見ていても気持のよい青年だった。
まき毛は、とんで来て、キットの手をにぎり、笑いながら顔をのぞき込んだ。キットは、安酒と安ピカものばかりで、ろくでもない雰囲気《ふんいき》が、まき毛を堕落させはしまいかと案じていた。
彼にはわざとらしい英雄的ないやみはすこしもないし、顔立ちだってほめたものじゃあない。美男型としては少し、わし鼻すぎる。しかし、房々とかぶさっている茶色のまき毛がつやつやして人の目をひくし、目は落ちついて、誠実だった。
「見てくれよ」と、彼はもとの場処にかけもどった。
キットは、ほほえみながら見ていた。
まき毛は、右足を、ちょっと奇妙な機械のペタルにのせた。それはカタパルトだった。足の親指のふくらみで機械をためしてみながら、手では、銃身の長い拳銃を折りまげて、すばやく弾倉に、大きな、ずんぐりした弾を、詰めこんだ。
それからシリンダーを、パチッと旧《もと》にもどし、カタパルトの発射筒に、小さな丸いものをつめ、きっとなって、すばやくペタルをつづけざまにふんだ。
小さなガラス玉が空中にいっぱいとび出した。ところが、ガラス玉がとび出すとすぐ、まき毛は、しなやかな手首と、慣れたガンさばきで撃ちまくった。ひとかたまりの煙と、わずかな、ガラス屑《くず》を残して、ガラス玉は、見るまに、みんなけしとんでしまった。
キットは楽しそうに手を打った。まき毛は拳銃をホルスターに、さっと収めて、ステットソン帽をぬいで、おじぎをした。
「うまいもんだろう。こいつを演《や》る時には、いつも、バッファロー・ビルを思い出すんだ。おやじが、よくバッファロー・ビルの話をしてくれたからね。彼もワイルド・ウェスト・ショーにいたころは、いつもガラス玉を撃ったそうだ。ただ、あいつは、ずるい撃ち方でね、散弾を使ったから、撃ち損じがなかったのさ。これでまたバッファロー・ビルの伝説の一つがふっとんじゃった」
「あんたも、彼と負けずおとらずね」と、キットは微笑した。
まき毛はキットの手を握って、じっと目をのぞき込んだ。「キット、君が好きさ――」
「あたしバックのこと、かわいそうな父のことが心配なのよ」と、キットは赤らみながら、早口でいった。
まき毛は静かに手をはなして、「あのタフなじいさんかい?」と笑いながら「大したもンさ。心配ないよ、キット。あの古つわものときたら、生皮《なまがわ》と鋼鉄で、できてるようなもんさ。拳銃と同じさ。君が自分でうちのおやじに話せばいいや、バックも、今じゃあすっかりまちがったって」
「(まちがう)じゃなくて、(ちがう)でしょ?」
「そうか、ちがうか」と、まき毛はおとなしく言い直して「どっちみち、気に病むなよ、キット。ちょっと前に、バックが最後の総ざらいをするのを見ていたんだ」
「へまやった?」
「やるもんか。あのやくざじいさんが六十だなんて、とても見えないよ。インデアンのように乗りこなしたよ。今夜のショーはすてきだろう。それに宣伝もきいてるし」
「宣伝なんかどうでもいいわ」と、キットはやさしい声で「あの人、ウッディとけんかしてるんじゃないかしら」
まき毛は、目をまるくして「ウッディと、どうしてさ」
後で軽い足音がしたので、二人は振り向いた。一人の女性が、銃器庫の入口に立って、謎《なぞ》のように笑いかけていた。
鹿皮服を着た一座の女ではない。絹と毛皮と香水にくるまった女だ。山猫のような目、エナメルのようにすべすべ光る美しい肌、きりりと曲線をえがく胸と脚、美しいマラ・ゲイだった。
ハリウッドの人気女優で、数多くのセックス映画のスターで、離婚は三度、百万のショップ・ガールのあこがれのまと、百万の男性の甘くなやましい夢の女性なのだ。
マラ・ゲイは地理的な国境のない、欲望という王国で、あさましい欲望の奴隷たちに君臨していた。彼女は禁じられた夢がバラ色の化粧をして肉体化したものなのだ。その上、ちょっと見には下品でないから始末に悪い。
それは、レンズの焦点を調整するとき、おこりがちな美しくみえる幻想といったものかもしれない。
彼女は映画出演の合い間の休暇で、東部に来ていた。彼女はキャベルの小説の中の「湖上の美人」のような魅力と、あけすけな昔ばなしの中の女のような色欲とのかたまりみたいに、手のつけられぬ女だった。それが、今、圧倒的な男らしい男がほしい最中《さいちゅう》なのだ。彼女の後には、一点非の打ちどころのない服装で、入念にひげをあたった三人の男が控えていた。その一人は、きゃんきゃん吠《ほ》えるポメラニア犬を抱いていた。
マラ・ゲイが、石の床を歩みよって、まき毛の、がっしりした体や、ぺちゃんこの尻や、はばの広い肩や、房々としたまき毛や、ほこりだらけの服を、さも、好もしそうにながめたとき、みんな、しんとした。
キットは歯をくいしばり、微笑を消して、用心深く、静かに、あとずさりした。
「やあ、こりゃ、マラ!」と、まき毛は弱々しく笑って「ねえ、キット! マラを知ってるだろう? マラ・ゲイさ。やっぱり、ハリウッドに住んでんだ。なア、知ってるだろう」
マラの山猫のような目と、キットの無表情な青灰色の目がぶつかった。
「ええ、知ってるわよ」と、キットが、こわばった言い方で、「ハリウッドで二、三度、御一緒したことがあるわ。でもね、あんたが、ゲイさんを知っているとは思わなかったわ。じゃア、あたし失礼するわ」
それからキットはゆっくり銃器庫を出て行った。
ばつの悪い幕間《まくあい》だった。マラについて来た三人の気取屋さんたちは、見て見ぬふりをしながら、じっと立っていた。
馬舎から匂ってくる悪臭に、洗練された鼻を刺激されて、ポメラニア犬は、きゃんきゃん鳴きつづけた。
「いやらしい娘ね。あたしをみくびってさ。つまんない馬芝居でいい気んなってるのね」
そういってから、美しい顔を向けて、まき毛にうっとりとほほえんだ。
「かわいいまき毛さん。あんた素敵よ。何んてすばらしいまき毛なんでしょ!」
まき毛は、苦い顔で、キットの出て行った戸口の方を見つづけていた。するうちに、マラの言葉が、はっきりして来た。
「おねがいだよ、マラさん。からかわないでくれよ」と、ぶつぶついった。
まき毛は自分の髪にうんざりしていたのだ。ひどくまき上っていて、いくら骨を折っても直らないという代物《しろもの》なのだ。
マラはまき毛の腕にそっと体をすりよせた。あどけなく目を見張って「とってもスリルよ。どきどきするような拳銃なんかもって。あんた、撃てるの、まき毛ちゃん!」
まき毛は顔をかがやかして、すばやく、彼女からはなれた。
「撃てるかって? ≪三つ目のディック≫にきいてるようなもんだよ。冗談じゃない!」と、すばやく弾をこめて、拳銃をひとふりして、もう一度、カタパルトを操作した。ガラス玉をばんばんとぶっとばした。マラはきゃアきゃアよろこんで、からだをすりよせてきた。
外では、キットが立ちどまって、冷たい青い目で、じっと見ていた。銃声と、ガラス玉のくだける音と、マラの嬌笑《きょうしょう》がきこえて来た。キットは唇をかみしめて、すごい大股で、夢中になってかけ去った。
銃器庫の中では、マラが口説いていた。「ねえ、まき毛さん、そんなに、はにかむもんじゃないわよ」山猫のようなマラの目が情欲で光った。さっとふり向いて三人の男たちに言った「外で待っててよ」三人はおとなしく出て行った。彼女はまき毛の方に向き直って、ロマンチックなスクリーンいっぱいにひろがるような、有名な微笑《ほほえ》みをたたえて、ささやくように「キスして、まき毛ちゃん、ね、キスして」
まき毛は、キットがやったように、足音も立てずに、用心深く、あとずさりして、笑顔を消して目を細めた。
マラはじっと待っていた。
「ねえ、マラ。しっかりしておくれよ。ぼくは他人の女房には手を出さないんだ」
マラはいっそうすり寄った。ぴったりくっついたので、彼女の香水のにおいが、まき毛の鼻をくすぐった。
「ジュリアンのことをいってるのね」と、マラは甘い声で「あたしたち、こんなことは了解ずみなのよ。現代式の結婚なのよ。まき毛ちゃん、そんな顔するもんじゃないわ。あたしに、こんなふうに見つめられると、幸福な家庭なんか捨ててしまおうとする男が、五百万人もいるのよ」
「そうかな。でも、ぼくはそんなんじゃアないよ」と、まき毛は冷《ひや》やかに言った「旦那《だんな》はどこにいるのさ?」
「あの人、トニー・マースといっしょに、上のどこかにいるはずよ。まき毛ちゃん、おねがい」
コロシアムがスポーツ競技場の巨人とすれば、その創始者のトニー・マースはスポーツ興行界の巨人だった。バック・ホーンと同じように、トニー・マースも、生きている伝説的人物だが、二人の伝説は全くちがうのだ。トニー・マースは、懸賞つきのボクシングを、百万ドル級のもうけ仕事に仕立て上げたし、レスリングをみがき上げて――それも良いスポーツにするためではなく、大金もうけの仕事にするのが目的であったが――とにかく、スポーツ好きな連中が、よろこんで彼に資本を出し、彼を後援するようにさせた人物である。また、ボクシング史上、最大といわれた、ヘビーウェイト世界選手権試合を、ニューヨークから引き抜いて、ペンシルバニアで興行して、ボクシング協会の鼻をあかせた大人物なのだ。それからまた、アイスホッケーや、室内テニス競技や、六日間自転車競走を、大衆になじみ深いものにした人物なのである。
そして、このコロシアムこそは、彼が長い間の努力の末、世界最大のスポーツ殿堂をという彼の一生の夢を実現したものであった。
マースの事務所は、この大きな建物の最上階にあって、そこまで行くのに四台のエレベーターが設けてある。マースの事務所に顔を出すチャンスは、ブロードウェイの悪名高い寄生虫どもには、見のがすことの出来ないものだった。
マースは今、自分の城の奥の間に陣どっていた。浅黒く、かぎ鼻で、気むずかしいトニー・マース老人は、ニューヨークで生まれたちゃきちゃきのニューヨークっ子だ。もっとも良い意味での言葉どおりの「賭け師」で、ブロードウェイでは、一番肌ざわりのいい男だが、何かを押しつけようとすればこれ以上むずかしい男はないと、いわれていた。
ダービー帽を、長い鼻の方にずらしてかぶり、足をのばしてみがいてもない靴を、伝説的になっているくるみ材の机の化粧板の上にのせ、一本二ドルもする葉巻を、褐色のあごの間でくゆらしていた。
マースは、訪問客をじっと見つめていた。
訪問客もこのあたりでは、ちっとは売れた顔だった。そつのないみなりで、えり穴に花をさしている、マラ・ゲイの夫、ジュリアン・ハンターだ。ハンターは、彼の事業だけで、名が通っているのではないが、十二のナイトクラブを経営していた。もともと、ブロードウェイの道楽もので、一面、ポロとヨットの選手で、その上、百万長者だった。毛なみも悪くはないから社交界も彼を受けいれてはいるが、特にいい毛なみの男だとはだれも認めていない。
目がたるんで、よくマッサージした頬《ほほ》がピンク色で、いかにも遊びにあきたという感じがする。そこまでは社交界人種だ。ジュリアン・ハンターが持っているような特徴は、社会構造の下層部か、上層部からだけ出てくるもので、木彫りのインディアンのような無表情な顔である。それは骨のずいまで「とばく師」をあらわしている。その点では、ハンターと、机の向こうにいるマースとは血を分けた兄弟ともいえる。
トニー・マースが低いつぶれ声で「わたしはざっくばらんにいうがね、ハンター君、きいてくれよ。バックに関するかぎりは……」いいかけて、ぷつっとやめ、床にしいてある支那じゅうたんの上に、どすんと足を下ろし、警戒心をはぐらかすように笑って、唇をゆがめた。
ジュリアン・ハンターは、ものうそうに、ふり返った。
入口に一人の男が立っていた。厚い胸と、たくましい腕と、すんなりした脚が目立つ、とてつもなく、背の高い男だった。まだ若い。頬骨の高い顔だ。はけのような眉も、小さくてきらきら光る目も、念入りにあたった頬も、青黒い。その大男が笑って白い歯をみせた。
「はいりな、トミー、よく来たな」と、マースが、うれしそうに「一人かい? がめついマネジャーはどうしたい?」
拳闘界のヘビーウェートの新進花形、トミー・ブラックは静かにドアをしめて、微笑しながら、立っていた。その微笑のかげには、殺人者の野性がひそんでいた。丁度、ジャック・デンプシーが、トレドで、ジェス・ウィラードを、血をふくパイプのように、たたきのめしたときに浮かべていたような微笑だった。専門家たちは、拳闘で成功するためには、この人殺しの本能が必要だと考えているようだが、トミー・ブラックは、それを備えている上に、狂暴性まで持っていた。
彼は敷ものに足をとられてすべったが、すぐ猫のように立ち直った。そして微笑しながら、大きな図体を、そっと静かに、まるで鋼鉄を流しこむように椅子にのせた。「おい、トニー。景気はどうだい?」と、チャーミングな声で「町に出て来たばかりさ。医者がいうには、調子は上々さ。いつでもこいだ」
「トミー! こちらはジュリアン・ハンター君だよ。ハンター君! マナッサ・マーラー以来の大ボクサーと握手しろよ」
おしゃれのハンターと、人殺しのブラックが、握手した。ハンターは渋々だったが、ブラックは大蛇がしめつけるように強くにぎりしめた。ほんのしばらく、二人の目はふれ合った。が、トミー・ブラックは静かに椅子にもどった。トニー・マースは、黙って、葉巻の先にみとれているようだった。
「忙がしければ、退散するぜ、トニー」と、ボクサーが、おとなしくいった。
マースは微笑して「ゆっくりしてくれ。君。ハンター、君もいいぜ。おい! ミッキー!」と、呼んだ。太った、人相のよくない男が、丸い頭を部屋にのぞかせた。
「会議中だ。だれにも会わん。いいな」ドアがばたりとしまった。
ブラックとハンターは、身動きもせず、互に目をそらして、坐っていた。
「ところで、トミー、あいつとの試合の件だがね。それで、トレーニング・キャンプから、もしできれば、出て来てもらうように電報したんだ」
マースは考え込むように葉巻をふかしており、ハンターはたいくつそうだった。
「調子は、どうだい」
「だれ? おれかい?」と、ボクサーはにやりと笑って、厚い胸をふくらました。「絶好のコンディションさ。トニー、上々さ。あんなひょろひょろな奴なんか、一発でやってやるさ」
「あれも、手ごわいって話だぜ」と、マースはドライにいった。「トレーニングではどうだい?」
「上々さ。医者は絶好のコンディションに持っていけると、いってる」
「けっこう、けっこう」
「ただスパーリングの相手をみつけるのにちょいと困ってるんだ。先週、ビック・ジョー・ペダーセンのあごをくだいちゃってね。まるで赤ん坊みたいにふにゃふにゃだもんでね」ブラックはにやりとした。
「そうだってな。ジャーナル紙のボーチャードが話して行った」マースは、長く白い灰を見守り、ふと、前かがみになって、机の上の銀の灰皿に、注意深く、おとした。「トミー、君はこの試合には勝てると思うよ。がっちり構えていれば次のチャンピオンになれるぜ」
「ありがとう、トニーさんどうも」
マースはゆっくりといった。「おれがいうのは、君はこの試合に勝たねばならんということだよ、トミー」
ひやりとするような、嵐をふくんだ沈黙があった。ハンターはひっそりと坐っていた。マースはちょっと微笑していた。
やがてブラックは椅子からのり出して、毒々しくいった。「そりゃあ、一体、どういうことなんだね、トニーさん」
「おちつけよ、なア、おちついているもんだ」ブラックは緊張をやわらげた。マースはおだやかな声で、つづけた。「おれにはいろんなことが耳にはいってくるんだ。君だってこの社会がどんなものか知ってるだろう。やつらはいつも人に一杯くわせようとしてる。だから、老婆心で、おやじがむすこに話すように話すがね。君には大事なことさ。君のやくざなマネジャーは、今に、ろくでもない情報をもって来て、八百長《やおちょう》試合をしろと言い出しかねないぜ。なア、君は今大事なところだ。大きなチャンスに出くわす立派な青年はいくらでもいるが、賢明でないと、そのチャンスをものに出来ないんだ。分るね。君はおれのかたいという評判を知ってるだろう、トミー。おれのやり方は公明正大なんだ。君もおれみたいにやれば、二人でたんまりお宝をかせぐことが出来るんだ。君も、おれのやり方でいかないと――」と、文句のおわりになったというふうに、言葉を切った。彼の言葉には、支那じゅうたんや厚い壁かけが吸い込みきれないほどのりんとしたひびきがあった。
マースはのんびりと葉巻をすった。
「というと」と、ブラックがきいた。
「つまり、そういったわけさ、トミー。君を勝たせるために、どえらい金がかかるのさ。まっとうなおあしだ。いんちきなしの金だ。フォームといい、力量といい、若さといい、レコードといい、君は立派に次のチャンピオンだ。そうなることを考えるんだな。チャンスをうまくつかまえるこった。チャンピオンなんか、屁《へ》でもないと甘くなめないで、まんまと、そいつを手に入れたときのことを考えるんだな。分ったかい?」
ブラックは立ち上った。
「よせよ。あんたが何を考えてるか、おれには分らないよ、トニー」と、むっとして、「おれのことは心配するこたあないよ。おれだって、パンのどっち側にバタが塗ってあるかぐらいのこたあ分る。信じてくれよ。……じゃア、ハンターさん。会えてうれしいでした」ハンターは、挨拶代わりに、眉をあげた。「あばよ、トニーさん。二週間ほどして、また会おう」
「待ってるぜ」
ドアが、かすかにカチリと音をたてて閉った。
「君は、あいつをまっとうでないと思うのか、トニー」と、ハンターが、ゆっくりきいた。
「おれが考えるのはね、ハンター」と、マースは明るく「自分の仕事だけで、他人のことなんか知っちゃアいない。だが、一つだけ、はっきり言っとくよ。だれにもおれの金箱からは金を盗ませやアしないぜ」マースはハンターをじっと見つめた。ハンターは肩をしゃくった。
「ところで」と、興行主は全く声の調子をかえて、また、ぴかぴかのくるみ材の机に足をのせた。「バッコー・ザ・ホーンのロデオの話にもどろう。あれは子供たちへの神の贈りものだ。言っとくがね、ハンター。君はすごいチャンスをつかもうとしているんだよ」
「ぼくも口のかたい方だよ、トニー」と、だて男は、微笑しながらつぶやいた「ときに、グラントはこの話にどういう関係があるのかね?」
「あばれん坊ビルか?」と、マースは、葉巻を横目でみて「一体、何を望むのかね? ビルとバックは、シュー族のシッチング・ブル酋長が、カスター将軍を戦死させたころからの相棒だよ。ギリシア伝説のダーモンとピジアスみたいな仲よしなんだ」ハンターは、ふふんと鼻をならした。「あばれん坊ビルとバックの友情はかたいもんだ。おれなんかには水もさせないね」
あばれん坊ビル・グラントはトニー・マースが提供してくれた、こった事務室に坐っていた。この神殿から、ロデオの複雑な機構を動かすデルフォイの神のお告げが出るのである。ごちゃごちゃの机の上には、すっかり火が消えて冷たくなったたばこのすいがらや、葉巻ののみさしが、戦場に倒れた兵士のように、片がわにころがっていた。グラントが昔貧乏だった頃の、けちくさいくせが無意識に出るらしい。半ダースも置いてある灰皿は、まったくきれいだった。
グラントは馬にのるように、回転椅子にまたがっていた。おしりの左半分がはみ出して、左足をまっすぐにのばしているから、まるで片鞍乗りをしているようである。
グラントは、ずんぐり、むっくりで白髪まじりのがんこじじいだった。あざらしのようなひげをたくわえ、目はうすい灰色で、きめの荒いタフな顔は、赤レンガ色で、軽石のように、ひびわれて、小穴があいていた。体のがっちりしていることは、まくり上げた前腕の力のみなぎった筋肉や、ぜい肉が少しもない胴体をみても分る。はでな蝶ネクタイを結び、鉄灰色の頭のうしろの方に、おそろしく古いステットソンを、ずらしてかぶっている。これが、若いころ、インディアン地区でならした、合衆国保安官、あばれん坊ビル・グラントだ。トニー・マースの近代的な事務室の中では、エスキモー人を喫茶店に坐らせたように、不似合いである。
グラントの前には、書類の山がごちゃごちゃになっていた。契約書や、勘定書や、命令書だ。グラントは気短かに、いらだたしそうに、がさごそと書類をかきまわしてから、かみつぶした葉巻ののみさしをつまみ上げた。
ひとりの娘がはいって来た。きびきびして、小ぎれいで、化粧の上手な、いかにもニューヨークの女秘書だ。「グラントさん、男の方がお目にかかりたいといっておいでになっています」
「ワッシャーかい」
「はあ?」
「カウボーイかってんだ。仕事さがしだろう?」
「そうなんですの。ホーンさんの紹介状を持っているそうです」
「そうか。通してやってくれよ」
娘はほっそりしたおしりを、上品にゆすぶって出て行くと間もなく、ドアをあけてささえて、背の高い、とても貧相なみなりの西部男を通した。男はかかとの高いカウボーイ靴をひきずり、床をかたかた鳴らして、はいって来た。うらぶれたステットソンを手に持ち、つぎはぎだらけで、雨ざらしの、格子じまの上衣をき、ずり落ちそうにたるんだ長靴をはいていた。
「おはいり」と、グラントは愛想よくいって、品定めするような目で男をながめながら「バックからの手紙って、何だね」
男のきれいにそった顔には、何かおそろしい曰《いわ》くがついていた。顔の左側はすっかり紫がかった褐色になり、ひだができて、ひきつれていた。紫色のあざは、あごの下から左眉の半インチ上ぐらいまでひろがっていた。右の頬にも小さな紫のあざが、ほくろのようについていて、やけどか、酸にでもやられたらしい。歯ならびが悪く、黒砂糖のようによごれていた。あばれん坊ビル・グラントは、ちょっと肩をすくめて、目をそらした。
「そのこってすが」と、男は低いしゃがれ声で「バックとはもう古い仲間なんでさ、グラントさん。二十年前に、テキサスくんだりで、牛を追ってた仲でさ。バックは昔なじみを決して忘れない男でさあ」格子じまの上衣のポケットをさぐって、しわくちゃになった封筒をひっぱり出し、それをグラントに渡すと、くいいるように座長を見守った。
グラントは読みかけた。「親愛なるビル、昔なじみのベンジー・ミラーを紹介する。仕事がほしいというのだ……」もっと続いているのを終わりまで読んで、机の上にほうり出した。
「かけたまえ、ミラー」
「御親切にどうも、グラントさん」ミラーはおずおずと、皮張りの椅子の端に腰かけた。
「葉巻やるかね」グラントはあわれむように見つめた。男はいかにもあわれっぽい顔をしていた。髪は薄茶色で、白髪がまじり、たしかに、中年をよほど過ぎていた。
ミラーの口がほころび、口の中が褐色にみえた。「こりゃ、どうも、グラントさん。いただきます」
グラントは、机ごしに、葉巻を投げてやった。ミラーは、ちょいと匂いをかいでから、汚ない格子じまの胸のポケットに入れた。グラントは机のわきのボタンを押した。また女秘書が出て来た。
「ダヌル・ブーンを呼んでくれ。ハンク・ブーンだ」
娘はぽかんとして「どなたでしょう?」
「ブーンだよ、ブーンだ。のんだくれのでくの棒野郎さ。どこかそこいらで駄べってるはずだ、探してくれ」
娘がおしりをふって出ていくのを、グラントは、感心したように見送った。
グラントはぼろぼろになった葉巻をかみながら「ロデオで働いたことがあるかい、ミラー」
ミラーは肩をすぼめて「ないでさあ。ずっと牧場ぐらしでさあ。何にも風変りなことはしたことがないんでさあ」
「角《つの》をつかまえて牛を倒す奴は?」
「少しはやりますよ。若い頃は、鳴らしたもんでさあ、グラントさん」
あばれん坊ビルは、ふふんと鼻をならして、「馬に乗れるか?」
男は、はずかしそうに「それがねえ、グラントさん――」
「恥をかかせるつもりでいったんじゃない」と、グラントは、退屈そうに「よろしい。それで話はきまった。ミラー、うちは、いんちきロデオじゃない。牛飼いは要らないんだ」
ミラーは、がっかりして「すると、雇っちゃアいただけないんですか」
「そんなことはいわんよ」と、グラントはさえぎって「バック・ホーンの友達だ。何とか面倒みよう。今夜は、バックのとりまき連中といっしょに、ぶらぶらしていたらいいだろう。身のまわり品はあるのかい? ねぐらは?」
「なしでさ。わたしゃ、トゥースンで、みぐるみ質屋に入れちまったんでさ」
「ふうん」と、グラントは、ぼろぼろになった葉巻を、目を細めて見ていた。そのとき、ドアがあいて、しなびた小男のカウボーイが、ひょろひょろとはいって来た。がにまたでよろよろして、更紗《さらさ》のスカーフのむすび方が、やくざふうだ。
「やア、ダヌル。やぶにらみの、風来坊のキ印め、こっちへ来い!」
小柄なカウボーイはひどく酔っぱらっていた。顔をかくすようにステットソンを前にずらして、よろよろと机に近づいた「親分。ビル親分、何の用だね。一体、何をしてほしいってんだね、ビル」
「またずぶろくだな、ダヌル」と、グラントは、困ったやつだという目で「ダヌル。こっちはバックの友達の、ベンジー・ミラーだ。新入りだ。方々案内してやってくれ。繩とか、馬舎とか、ねぐらとか、競技場とか――」
ブーンはどろんとした目で、みすぼらしい男をながめて「バックの友達だって? 会えてうれしいよ、ミラー。多少は――多少は仲間がいるぜ、ここには。おれたちゃあ――」
二人はグラントの事務室を出て行った。グラントはふんと鼻をならして、しばらくすると、バック・ホーンの手紙を、ポケットの一つに入れた。
コロシアムの中央に通じる長い通路を、ぶらぶら歩きながら、千鳥足《ちどりあし》のブーンに、ミラーという男がきいた。「おまえさん、どうしてダヌルと呼ぶんだい。娘っ子にたしかハンクといってたようだぜ」
ブーンは、げらげら笑い出して「べっぴん――べっぴんだろう、あの娘っ子! 春先のかいばより、うぶいよ。ところでなア、ミラー、そのわけはだ。おれは――おれはもともとハンクってのさ。だが、あのおやじのいうのにゃ、≪なア、おめえの家のもんは、お前のお袋の二度目の亭主の兄きの名をとって、ハンクと呼ぶが、面白くねえ。おれはダヌルと呼ぶぜ。ブーン一族で、レッド・インディアン狩りにかけちゃ、一番、すご腕だった男の名をとってな≫そいからダヌルになっちゃったんだ。てなわけさ」
「言葉のなまりじゃ、どっか北西部の出らしいね」
小男のカウボーイは、まじめくさってうなずいて「わかるかい。実はな――おれはワイオミングで牛飼いをしてたんだ。サム・フッカーじいさんが、よくいってたもんだ≪ダヌル、てめえの生まれ故郷の土地の名をけがすようなことは、けっしてするなよ。さもねえと、おれも、おめえの仲間も、おめえにとっついてやるぜ≫そいからずっと幽霊にとっつかれてんだ――幽霊によ……さあ、ミラ公、ついたぜ。相当広いもんだろう、ええ?」
広い円形競技場は、何千という、ぎらぎらな裸電燈に照し出されていた。楕円形《だえんけい》に並んでいる二万の座席は、がらんとしていた。長めの楕円形をしている競技場は、長さが幅の約三倍で、座席との境はコンクリートの壁で仕切られ、壁の内側には幅十五フィートのおがくずをしいたトラックがはしっていた。この楕円形のトラックの内側が競技場の中心で、広々としている。そこで、馬を走らせながら、投繩で、雄牛をとらえたり、腕利きの馬乗りが、野性の馬をならしたり、その他のロデオのショーが行なわれるのである。競技場の西と東のはじに、それぞれ大きな出入口があって、競技場の舞台裏に通じている。いま、ミラーとブーンはその一つの口に立っていた。その他にも、コンクリートの壁には方々に、馬の競技用の、おとし扉のついている出入口が、いくつもあった。上をみると――上といっても、鉄骨のはりが組み合わさっている大屋根ほど上ではないが――はるかな観客席をはいまわっている職人の姿が小さく見えた。あばれん坊ビル・グラント・ロデオが今夜、ニューヨークで初日の幕あけをするために、スタジアムの化粧をしているのだ。
競技場の真中の土をかためたあたりに、西部風のいでたちの男たちが、ぶらぶらしながら、たばこをすったり、しゃべったりしていた。
ブーンは、よろよろと競技場にはいり、しょぼしょぼした目を相棒の方に向けて「本職のロデオ芸人かい、ミラー」
「ちがう」
「運だめしにやって来たってわけか」
「不景気でな、カウボーイも」
「まったくだ。じゃ、仲間にはいって、一と旗上げんだな。うちの連中は皆、リオくんだりから来たんだぜ」
ブーンとミラーは、集まっている皮ズボンとステットソンの男たちに、賑やかに迎えられた。ブーンはみんなの人気者らしい。すぐに、なれなれしい冗談や、野次のまとになった。
そのさわぎにまぎれて、ミラーは忘れられてしまった。ミラーは黙って待っていた。
「いけねえ、うっかり仁義を忘れるとこだったぜ」と、ブーンは、すぐ大声で「おう! みんな! バック・ホーンの古なじみだぜ。ベンジー・ミラーってんだ。おれたちの仲間入りしようってんだ」
みんなが、新入りをじっとみつめた。おしゃべりや笑い声が、ぴたりと消えた。ミラーのみすぼらしいみなりや、ひんまがった靴のかかとや、おそろしく痛めつけられた顔を、さぐるようにながめた。
「ジョック・ラムゼー」と、ブーンはしかつめらしくいって、背の高い気むずかしそうな、みつくちのカウボーイを紹介した。
「よろしくな」二人は握手した。
「テキサス・ジョー・ハリウェルだ」ハリウェルは、ちょっとえしゃくして、たばこをまきはじめた。「テックスは、ここの女たちにもてるんだぜ、ミラー。これは、横着ハウズだ」ハウズはずんぐりして陽気な顔つきのカウボーイで、にこりともしない目をしている。「これはレーフ・ブラウン。ちびのダウンズ」と、ブーンはつづけた。みんな、ロデオでは売れた名だった。すりきれた衣装をきて、この大一座について、ロデオからロデオへと旅をつづけ、賞金めあてに働き、諸入費自分持ちで、大部分のものは文なしで、危険な職業でうけたきずあとがあった。
しばらくみんな黙っていた。やがて、はでな衣装をつけて堂々としているレーフ・ブラウンが、微笑して、ポケットに手をつっこんだ。「一本まきなよ、ミラー」と、たばこの袋を差し出した。
ミラーは赤くなって「すまねえな」と、きざみを受けとって、ゆっくり、なれた手つきで、たばこをまいた。
すぐ、おしゃべりが始まった。ミラーは仲間入りが出来たのだ。一人が、ズボンのももでマッチをすって、ミラーのたばこに火をさし出した。ミラーは、すいつけて、ふーっと静かに煙をはいた。みんながミラーのまわりにあつまった。ミラーもみんなと、うちとけて、ひとかたまりになってしまった。
「なア、この山犬には気をつけるんだぜ」と、肩幅がひろくて、がっちりした、ちびのダウンズが、太い指を曲げて、ブーンを指さした。「こいつがうろつきまわったら、腹帯をしめてなよ。ふんどしも抜くって奴だよ、ダヌルは。こいつのおやじは馬泥棒だったんだからな」
ミラーはおどおどして笑った。みんなはミラーの気を楽にさせようとしていた。
「なあ、おい」と、横着ハウズが、もったいをつけて、「|はずな《ヽヽヽ》がいいか、|くつわ《ヽヽヽ》がいいかって大問題についちゃ、お前さんはどう考えるかね、ミラー。まず、そいつをきかしてもらおうぜ、なあ」
「あばれ馬をならすときゃ、おれはいつも、はづなにしてる」と、ミラーは、にやりとした。
「こいつあ、新米じゃないぜ」と、だれかが笑い出した。
「ガンも、下た手構えだぜ、きっと」
「にらんだ目に狂いはないさ」と、三番目の声がいいかけたとき、ダウンズが手をあげた。
「よせやい。ダヌルのやつ、なんだか変だぜ」と、改まって、「なんか気にしてやがるらしいな、ダヌル。吐いちゃえよ」
「おれがかい?」と、小男のカウボーイは、ちょっとしょげて、「無理もねえさ、ちび公。今朝、お守りの、インディアンの矢じりがこわれたんだ」ぴたっと黙りこんで、笑いが消え、みんな子供みたいに、目を丸くした。「ろくでなしの狸馬《たぬきうま》の畜生が、ふんづけたんだ。えんぎでもねえよ、みんな。いまに、何んか悪いことが起こるしらせだぜ」
「くわばら、くわばら」と、みんなの中の三人が同時にいった。ダウンズはすぐ思いついたように、シャツの下のお守りを手でさぐった。他の連中も、ズボンのポケットに手を入れた。めいめいが、迷信深そうに、お守りを指でさすった。大まじめなのだ。みんなは困ったようにブーンをながめた。
「弱ったな」と、ハリウェルがつぶやいた「まったく弱ったな。今夜は仮病《けびょう》を使った方がいいぜ、ダヌル。おれだったら、ズボンの中のお守りがこわれてんのに、サーカスのインディアンに近づくなんて、まっぴらだ!」
ラムゼーは尻のポケットから酒びんをとり出して、心から気の毒そうにブーンにすすめた。
ベンジー・ミラーの紫色の頬がひきつれた。彼は競技場ごしに、木組みの上につくられた張り出しをながめていた。そこでは、妙な道具類のちらかっている中で、月なみな、町着の男たちが忙しそうに働いていた。
その連中は、あきらかに、映画の撮影技師だった。三脚、カメラ、録音機、電気器具、いろんな大きさの箱が、競技場の地面から、ほぼ十フィートの高さの張り出しの上にちらばっていた。いく人かは、床においてある大きな複雑な機械から、のたくり出ている、太くて、すべすべなゴムの被覆線《ひふくせん》をほどいていた。道具のひとつひとつに、有名なニュース映画会社の名が、白いペンキで、太く書いてあった。
濃いグレイの服をきて、小柄な、やせた男が、競技場の土間に立って、作業を、さしずしていた。彼はよく手入れのとどいた、軍人風の、つやつやと黒い口ひげをつけていた。彼は競技場の中の、少しはなれたところにいる、けばけばしく着かざった西部男の群には、まるっきり無関心だった。
「遠距離撮影の支度が出来ました、カービー少佐!」と、張り出しの上から一人の男がどなった。
下の小柄な男が「録音の用意はどうだ? ジャック!」と、イヤホーンを頭にまきつけている男にきいた。
「まあまあです」と、男がしぶい顔して「おたのしみですよ、少佐。とてもひどい残響ですよ」
「うまくやってくれ。客がいっぱいになれば少しはよくなるだろう。……勇ましいところを、とりたいんだ、諸君、ロデオ・ショーのどんちゃん騒ぎを、そっくりとりたい。社長からもそういう注文が出てるんだ」
「オーケイ」
カービー少佐は、よく光る小さい目で、がらんとした客席と、はだかのコンクリートの仕切りを見まわしてから、葉巻をつけた。
「ざっとこんなところさ」と、エラリー・クイーンは考え深そうに、天井へたばこの煙を吹き上げながら「輪はとまっていた。さて、輪がまわりはじめると、どんなことがおこるか、見てみよう」
二 ロデオのスター
クイーン家《メナージュ》で、ちょっと目立つ存在は、家老《メジャードモ》である。家老とは、味のある言葉で、実は、われわれ北欧人が、スペイン文化をまねてとり入れたもので、言葉から来る感じに、王朝式の、はなやかさや、重々しさや、特に尊大さがふくまれている。元来、家老というものは、年寄りらしい威厳《いげん》をたもち、ほてい腹で、がんこで、なりあがりふうで、人を見くだして、歩き方も法王の行列みたいに重々しいかと思えば、ローマに凱旋《がいせん》するポンペイウスのように堂々としていなければならないはずである。その上、ミシシッピの賭博師《とばくし》のような、みがきのかかったずるさと、パリ商人のようながめつさと、猟犬のような誠実さを持っていなければならないはずである。
クイーン家の家老の特徴は、誠実ではあるが、他の点では、およそ家老らしくない家老というところであった。はなやかさや、重々しさや、尊大さなどを思いうかべるどころか、ニューヨークの裏町をほっつき歩く浮浪児どもの顔写真をよせ集めたようなのを思わせる。ほてい腹であるべきところが、ぺちゃんこで筋《すじ》ばっているし、小さい足は踊り娘《こ》のようにすばしっこそうだし、二つの眸《ひとみ》はきらきら光るし、歩き方ときたら、芝生をはねまわる小鬼みたいなのである。
年頃も、≪大人になりかかりの、青二才で、ずんぐり、むっくりの十六歳のちびすけ≫と言いたいところだが、実は、ずんぐりむっくりの|ちびすけ《ヽヽヽヽ》でなくて、中世の家老を諷刺《ふうし》した僧《ぼう》さん作家リチャード・バーハムさんにはお気の毒みたいなもんだ。それどころかこの家老、|くも《ヽヽ》のように足長で、シーザーを刺した裏切者カシュウスの若き日の姿をしのばせるほどやせていた。
その名はジューナで、エラリー・クイーンが時々、大物ジューナと呼ぶ、これがクイーン家の若い家老なのである。ジューナは、早くから料理の才能をあらわし、新しい味覚への熱情をもやして、クイーン家の台所問題をいつも解決している。もとは、みなし子だったのを、エラリーが大学へ行っていて淋しかったころ、クイーン警視がひろいあげたのだ。ジューナは、名なしで、まっ黒で、ずるがしこいジプシーの血を持つ、みじめったらしい子供だった。
それが、いつの間にか、どうやらこうやら、クイーン家を牛耳《ぎゅうじ》るようになったのである。
さて、縁は異なもので、もし、ジューナがいなければ――エラリー・クイーンだけについていえば――この事件はおこらなかったかもしれない。
エラリーをコロシアムにつれ出したのは、無意識に駒を動かすようなジューナの、ジプシーゆずりの運命の手だった。そのわけを理解するには、青年一般の性質を考えてみる必要がある。十六歳のジューナは、まだ子供だ。エラリーの上手なみちびき方で、ジプシーの悪い遺伝を脳の奥の鍵のかかった押入れにしまいこんで、成長した。矛盾するようだが、いわゆる≪そだちのいい≫子にありがちな、わがまま坊主になっていた。クラブにはいって、野球や、ハンドボールや、バスケットをやり、映画に夢中になって、かなりもらうおこづかいも足りないぐらいだった。もう少し前に生まれていれば、ニック・カーターや、ホラチオ・アルガーや、アルトシェラーの冒険物語をむさぼり読んで、冒険心を満たしただろう。ところが、彼は現実の人間――映画の英雄たち――それも、特に、皮ズボンで、ステットソン帽で、馬に乗り、投繩を使い、ぬく手も見せぬガンさばきというやからを、あこがれのまととしていた。
いってみれば、分りきったことさ。あばれん坊ビル・グラント・ロデオの宣伝係りが、ニューヨークの新聞に、一座の来歴や、目的や、意図や、スターたちのゴシップを、じゃんじゃん書き立てて、目に見えないお客たちの群集心理に、直接うったえたのである。町にサーカスが来て、大きなテントを、金切り声と、ピーナッツのからをわる音で、ふくれあがる子供の夢でみたすときにだけあらわれる群集心理をかきたてたのだ。ジューナのもえるような目が、初日の広告に吸い付けられてから、クイーン家はそわそわし出した。ジューナは、このおとぎ話の国から来た人物、みんなの噂《うわさ》のまと、バック・ホーンを、どうしても自分の目で見たいと思った。カウボーイも、野生馬ならしも、スターたちも、何もかも、見なければならないと思った。
こんなわけで、どんなことがおこるか夢にも知らずに、リチャード・クイーン警視――思い出せぬほど長い年月、殺人課の|さいはい《ヽヽヽヽ》をふるって来た小柄な老練刑事――は、何でも言える仲の、トニー・マースに電話して、ジューナの知らないうちに、クイーン一家が、コロシアムのマースの桟敷《さじき》で、初日の夜の、ロデオを見られるように手配したのであった。
ジューナが、しびれをきらせて、やいやい言うのに引きずられて、クイーン警視とエラリーは≪早目に、出かけよう≫ということにした。その結果、マースの桟敷で見物する連中の中では、第一着だった。マースの桟敷は、競技場の南側で、東の曲り角近くだった。コロシアムは半分ほど客がつまり、後から後から、何百人もつめかけて来ていた。クイーン父子は、ビロード張りの椅子によりかかっていたが、ジューナは、|てすり《ヽヽヽ》から、とがったあごをつき出して、目の下にひろがる競技場を、夢中になって、こまごまとながめていた。まだ仕事師たちが、競技場の真中の土をかためていたし、カービー少佐の撮影台の上ではカメラマンたちが機械をいじりまわしていた。新しいダービー帽をかぶり、火のついていない葉巻を、やにだらけの歯でかみしめながら、トニー・マース御大《おんたい》がはいって来るのもジューナは気がつかなかった。
「やア、久しぶりですな、警視。おー、こりゃ、クイーン君」と、腰を下ろすと、すぐ、小さな目で、すみからすみまでながめて、万事手おちがないかを監督するように「ねえ、古いブロードウェイに、新しいスリルってもんですよ」
警視はかぎたばこをとり出して「わたしにいわせると」と、愛想よくやりかえした「ブルックリンや、ブロンクスや、ステーテン島や、ウェストチェスターならともかく、ここはブロードウェイだからね。ロデオが当たるかな」
「お客のがらが泥くさいから、いけそうですよ、マースさん」と、エラリーがにやにやした。売り娘《こ》のかれた呼び声と、ピーナッツのからをわる特徴のある音が、わんわんきこえていた。
「ブロードウェイのお歴々が、今夜は、わんさと押しかけますよ。わたしは客種を心得てます。ブロードウェイはドライな連中ばかり集まってるようですがね。みんな根は、甘ちゃんぞろいですよ。やって来て、豆をかじって、ちょいとした刺激に興奮して、田舎者《いなかもの》みたいに、ふるまうんですよ。ステート劇場が西部劇をかけると、朝っぱらからおしかける、まじめ面《づら》した連中を見たことがありますか。口笛をふいたり、床をふみならしたりってざまです。とりあげたら泣き出すほど、西部劇が好きなんですよ。バック・ホーンじいさんも今夜は大いに受けるでしょうよ」
バック・ホーンの名をきくと、ジューナは大きな耳をぴくりとそばだててふり向き、もえるような目で、トニー・マースを、じろじろ見た。
「バック・ホーンか」と、警視は夢みるような微笑をうかべて「大した時代ものだな。ずっと前に墓にはいったもんだと思ったが。あいつをひっぱり出したとは、おどろきだ、まったく」
「とっぴなことじゃなくて、計算ずみなんですよ、警視」
「というと?」
「考えてもごらんなさい」と、マースは、しんみりして「バックはこの十年ほど映画からはなれてるんです。三年前に一本とりましたが、うまく行かなかったんです。しかし、今は、トーキーが人気の絶頂でしょう……あの男と、あばれん坊ビル・グラントは、大の仲よしなんです。グラントは相当の仕事師ですからね。それで、今度のもくろみというのも、もしバックがこのニューヨークの顔見世で、うまく当て、パッと人気が出たら、――つまり、その、次のシーズンには、映画にカンバックする、噂もあるんですよ」
「君とグラントが、うしろだてしようってわけだね」
マースは、場内に目をうつして「まあね。わたしだって、その話に、興味がないってわけじゃないですよ」
警視は、ゆったりと、すわり直して「ボクシングの方は、どうかね」
「ボクシング? あ、今年の試合ですね。うまく行ってますよ警視。上々です。前売券は、予想以上の売行きですよ。思うに――」
桟敷の後の方がちょっとさわがしくなった。みんなが、ふり向いて、立ち上った。すばらしく美しい女が、黒いイブニングと白い|てん《ヽヽ》のケープをつけて、ほほえみながら立っていた。目のするどい、帽子のふちを、ちょいとあげて、あみだにかぶった記者たちが、彼女の後におしよせて、早口でしゃべっていた。中にはカメラを向けているのもいた。女が、桟敷にはいると、トニー・マースはいんぎんに手をとって、前の席に案内した。新米の客をちらっと見ただけで、また、競技場の方をくいいるようにながめていたジューナが、急に、びくっとした。
「ホーン嬢です――こちらは、クイーン警視と、エラリー・クイーン君……」
ジューナは、あわてて、椅子のわきをけってふり向いた。細っそりした顔に感動の色がうかんだ。
「あなたが」と、どもりながら、びっくりしている若い女に「キット・ホーンさんですか」
「ええ――ええ、そうですよ」
「へえー」と、ジューナは声をふるわせて、てすりに背中を押しつけるほど、あとずさりして「へえー」と、目をまるくした。それから、唇をしめして、かすれ声で「だって、どこに――あなたの六連発銃があるんですか。それに、あなたの――あの、あばれ馬は?」
「ジューナ」と、警視が低い声でたしなめたが、キット・ホーンは、ほほえんで、大まじめに「ごめんなさいね。みんなうちにおいて来ちゃったのよ。だって、もって来たら、ここに入れてくれないでしょ」
「ちえっ!」と、ジューナは舌打ちして、たっぷり五分間も、かがやくばかり美しいその女の横顔を、じっとみつめていた。ジューナにとっては、自分の偶像にこんなに近づくなんて、大事件だったんだ。あこがれのキット・ホーンが口をきいてくれたんだ。そのことは、大物ジューナにとっちゃ、バッファロー・ビルのひき合わせみたいなものだった。この美しい生霊が、魔女のように馬をのりまわし、男まさりのガンさばきで、ひきょうな悪漢どもを投繩でひっとらえるんだ。スクリーンの上で大活躍する女なんだ……やがて、ジューナは目ばたきして、ゆっくりと、なごりおしそうに、桟敷の後の方へふり向いた。
トミー・ブラックがあらわれた。二人の連れがいた。――あらゆる男性の目をひきつける、美しいまぼろしの女、マラ・ゲイと、伊達姿《だてすがた》のジュリアン・ハンターだったが――ジューナは、偉大なキット・ホーンも、何もかも忘れて、偶然に与えられた天下の霊薬をむさぼりのむように、ただ一人の人をみつめた。トミー・ブラックだ! ボクサーのトミー・ブラックだ! すごーい! ジューナは、はれがましさに圧倒されて立ちすくんだ。その瞬間から、自信ありげに、まわりの人たちと握手して、マラ・ゲイのとなりの席に腰をおろして、彼女にやさしく話しかける、毛虫眉毛の大男トミー・ブラックのほかは、桟敷の中のだれもジューナの目には入らなくなってしまった。
エラリーはひそかに面白がっていた。ざわめく新聞記者たち、ジューナのものもいえないほどの崇拝心、キット・ホーンの冷たいおすまし、マラ・ゲイのキットに対するこばかにしたようなへりくだり方、ジュリアン・ハンターの唇をかみしめたうすら笑い、すし詰めの桟敷を見まわすマースの神経質な目、ブラックのなめらかな身のこなしと蛇のような手ぶり――いろんな人間が集まっているとき、いつもするように、エラリーは、その人々の心の中の底流や交流を考えはじめた。なぜ、ハンターはあんなぎこちなく笑うのだろうか、なぜキット・ホーンは、急に黙りこんだのだろうか、と考える。しかし、一番気になったのは、どうしてマラ・ゲイがこんなふうなのかということだった。
マラ・ゲイは、ハリウッドの人気女優で、世界中で一番高い映画出演料をとっている一人だが、今夜は、いつものあのスクリーンにあらわれるような純粋な魅力的な美しさが、何かかけていた。なるほど、いつものように、美しく着かざっているし、いつも映画にあらわれるように、きわだって輝く目をしているが、その顔にはエラリーが今まで一度も気づかなかったようなものやつれの影がさしていた。そう思えば、大きな目も、それほど大きくは見えなかった。その上、ここでは、目を光らせている監督に、|ふり《ヽヽ》をつけられていないせいか、明らかに神経質になり、びりびりしていた。妙に気がさすので、エラリーは、それとなく、マラを見守ることにした。
社交的な会話がとりかわされていた。
そして、ジューナは、たまげきって、頭を右につき出し、左につき出し、まわりの桟敷に集まってくる有名人たちを見まわしていた。するうちに、もちろん、競技場の方では、そろそろ前座が始まった。その瞬間から、ジューナは、つまらない現実を何も感じなくなって、夢中になって、目の下のショーに見とれた。
お椀形《わんがた》の観覧席は、ばかさわぎする陽気な群衆でいっぱいだった。社交界は総出で、競技場の上の楕円形の手すりを、きらきらかがやく宝石で、ふちどっていた。競技場は目のさめるほどの活気だった。いくつもある小さい出入口から、騎手たちが、めいめい、色とりどりの斑点になって、渦《うず》をまいてあらわれた――赤いスカーフ、皮ズボン、はでなチョッキ、こげ茶色の|日よけ帽《ソンブレロ》、格子縞《こうしじま》のシャツ、銀の拍車《はくしゃ》。投繩あり、雷鳴のようにはためくひづめの音あり、たえまなくぶっぱなすピストルの銃声ありだ。カメラマンたちは撮影台の上で、てんてこまいだった。場内は、おがくずをしきつめたトラックを疾走するひずめのとどろきで、はちきれそうだった。……はでなカウボーイの服装で、美しくきかざった、背の高いすんなりした若い男が一人、競技場の真中に立っていた。頭の上の照明が彼のまき毛を照らしていた。小さな煙のかたまりが彼をとりまいている。片足でカタパルトを操作し、むぞうさな手つきで、銃身の長い回転銃をふりまわすごとに、空中の小さなガラス玉を消していた。大向こうから声がかかった。「よう! まき毛のグラント!」彼はおじぎして、ステットソンをぬぎ、栗毛の馬をつかまえると、ひらりととび乗って、マースの桟敷へ向かって、速歩で、競技場を横切りはじめた。
エラリーは、キット・ホーンの方へ、椅子をにじりよせた。マラ・ゲイはトミー・ブラックにまかせておいた。そのときハンターは、ひとりはなれて、桟敷の後の方に、ひっそりと坐っていた。マースの姿は、見えなかった。
「あなたはお父さんがお好きなんでしょう」キットの目が競技場の中の父の姿をさがしているのに気がついて、エラリーが、ささやいた。
「とてもいい人ですの――とても、口ではいえないほど」
キットは微笑して、ふと真直な眉をしかめるようにした。「あたしの父への愛情は――そうね、きっと、本当のお父さんじゃないから、いっそう強いのかもしれませんわね。あの人、みなし子のあたしを小さいときに引きとってくれたんです。あたしにとっては、何もかも文句なしの、世界中で一番いい父親でしたわ」
「おお、これは失礼しました。知らなかったもんですから――」
「どういたしまして、クイーンさん。ちっとも失礼じゃありませんわ。あたしは本当に、父をほこりにしていますのよ。でも」と、ほっとひと息ついて「あたしは、世界中で一番良い娘じゃなかったようですわ。近ごろは、ごくたまにしか会っていませんの。このロデオのおかげで、一年ぶり以上でやっといっしょになれたんですの――そばに来られたという意味でね」
「そうでしょうね。あなたはハリウッドだし、ホーンさんは牧場だし――」
「なまやさしいことじゃありませんわ。あたしはほとんど休みなしに、カルフォルニアのロケにつかまってますし、父はワイオミングにひっこんでいますし……いく月ぶりかで、一日か二日しか訪ねられないって始末ですわ。父はいつもひとりぼっちでしたわ」
「でも、なぜ」と、エラリーはたずねた「お父さんはカルフォルニアに移らないんですか」
キットは小さな日にやけた手をにぎりしめて「ええ、ずいぶんそうさせようとしたんですけど。三年前に、映画にカンバックしようとして――そう、結局は、映画もボクシングと同じように、カンバック出来ないものらしいですわ。それをひどく苦にして、仙人のように、牧場に引きこもるといって、きかなかったんですの」
「それに、あなたは」と、エラリーはやさしく「目にいれてもいたくないお嬢さんなのに、とても、牧場ぐらしは、お出来にならない」
「そうなんですの。あの人にはみよりも親戚《しんせき》も全然ないんです。とても、淋しい暮しをしているんですのよ。東洋人の料理番と、あの人の持っている少しばかりの家畜の世話をする二、三人の古くからいる牧童のほかには、ひとりぼっちなんです。あの人を訪ねていくのはあたしとグラントさんだけなのよ」
「ああ、あの元気者、あばれん坊ビルですね」と、エラリーはつぶやいた。
キットは少し変な顔でエラリーを見た。「ええ、あばれん坊ビルですわ。ロデオのあいまには、ときどき、一、二日、父の牧場に泊って行くんですの。あたしは親不孝をしちゃっているんです。父は、近頃、あまり丈夫じゃなくて――どこといって悪くはないんですけど、年のせいなんでしょうね。このごろ、どんどん体重もへっていくんですのよ――」
「おーい、キット!」
キットは赤くなって、熱心に、椅子からのり出した。エラリーは、目を細めて、マラ・ゲイが顔をこわばらせ、ほんの少し、声をひそめて、なりゆきをみているのに、気がついた。ガラス玉撃ちの、まき毛頭が、|てすり《ヽヽヽ》の下から微笑を送っていた。まき毛グラントは、みがるに、鞍からとび上って、てすりをつかみ、競技場の上に、つるさがった。その下で、馬は、おとなしく待っていた。
「まあ、まき毛さん、何よ。すぐ降りなさいよ」
「君だってやるじゃないか」と、まき毛は笑いながら「おりるもんか。話があるんだ――」
エラリーは気をきかして、目をそらした。
他にも見るものがあった。背の低い、カービー少佐の軍人らしい姿が、トニー・マースといっしょに、桟敷の入口にあらわれた。カービー少佐は、てすりから首だけつき出している、まき毛に、なつかしそうに笑いかけてから、靴の|かかと《ヽヽヽ》をかちっと合わせて、婦人連に挨拶して、ゆっくりと、男たちと握手した。
「まき毛グラントと知り合いかね」と、警視が少佐にきいた。丁度、まき毛の頭が|てすり《ヽヽヽ》から引込み、ぽっと赤らんだキットが腰を下ろしたときだった。
「ええ、よく知ってます」と、少佐が答えた。「だれとでも仲よしになれる幸運な男です。ぼくは外地で、あの男に会ったんです」
「すると軍隊でだね」
「ええ、ぼくの部下だったんです」カービー少佐は、ひと息いれて、きれいな爪で、黒い口ひげをなぜつけた。「戦争というものは、とても味のひどい料理みたいなもんですよ」と、つづけて「ところで、まき毛君は、あの最後の戦争といわれた、第一次大戦のときは、十六歳だったはずです。まちがって召集されて、フランスのサン=ミシェルの激戦では、ひとりで、機関銃座を爆破しようとして、あやうく、命を失うところだったんです。あの若者たちは――向こうみずでしたよ」
「だって、英雄だわ」と、キットがやさしく抗議した。
少佐は肩をすぼめ、警視は微笑を消した。少佐は戦功を立てて除隊したのだろうが、戦争の栄光や、怪しげな重要任務のために、砲火にさらされる土地を二ヤードばかりうばいとることで、命をなげ出す軍事行動などには、幻滅を感じているようだった。「ぼくにとっては今の方が激戦です」と、笑いながら「自分で、ニュース映画の特だねをつくろうとしてみなければ、この戦いのはげしさは分りませんよ。今夜は、ここのニュース映画をとってるんです。独占権をとったんです――」
「ぼくは――」と、エラリーが、熱をこめて言いかけた。
「そろそろ仕事にもどらなくっちゃ」と、カービー少佐は落ちついた調子で「じゃ、またあとで、トニー」と、えしゃくして、足ばやに、桟敷を出て行った。
「えらい奴ですよ」と、トニー・マースが小声で「見ただけじゃ信じないでしょうがね。あの男は、ピストルの腕前では、軍でも指折りだったんです。大戦中は、歩兵隊にいたんです。本当の特技というもんでしょうね。今度はその才能をニュース映画で生かしとる!」それから、ふふんと鼻をならして、神経質に競技場をながめ、時計をとり出した。そしてのんきそうな顔が、急にひきしまった。ふと、彼は獲物をねらう犬のように、腰をおろした。みんなは競技場の方へ注意を向けた。
競技場はからになろうとしていた。カウボーイもカウガールも、出口に向かって、馬を急がせていた。じきに、みんな見えなくなり、人かげのないトラックと、馬にふみあらされた競技場の中央と、ニュース映画の撮影台の上の技師たちだけがとり残された。カービー少佐のぴんとした小さな姿が、横扉の一つから小走りにあらわれた。扉は少佐が出るとすぐしめられた。少佐は、とぶように競技場を横切って、猿のように木のはしごをのぼり、撮影台の上の、カメラマンや、録音技師たちにまじって、仕事についた。
観衆はしんとした。
ジューナは妙な調子をとるように息をはずませた。
そのとき、大きな西側の門からかすかな音がきこえて、制服の男が大きな扉をさっとひらくと、馬に乗った男が、たった一人で、出て来た。がっちりした男で、着古したコールテンの服に、使い古したステットソンをかぶっていた。右の腰にはホルスターに収めた拳銃をぶらさげていた。荒々しく馬をかけさせて、ほこりだらけな競技場の中央に進み、土けむりを立てて馬をぴたりとひきとめると、あぶみに立ち上って、左手で帽子をぬいでひとふりしてからまたかぶって、微笑しながら立っていた。
大喝采と足ぶみの音! ジューナの足ぶみはひときわ高かった。
「あばれん坊ビル」と、つぶやいて、トニー・マースが緊張して青ざめた。
「何をそんなに心配してるんだ、トニー」と、トミー・ブラックが低く笑いながらたずねた。
「初日には、いつも、麻薬中毒みたいに、ふるえちまうんだ」と、興行主はうなった。「シッ、シー!」
馬上の男は、手綱《たづな》を左手にもちかえて、右手で、ホルスターからピストルを抜いた。長い、青みがかった銃身が、アーク燈の下で、ぶきみに光った。腕を上にふりあげると、ばあーんと、銃が鳴った。それから、もったいぶって口上をはじめた。「しょく――ん!」その狼のような声は、高い天井にこだましたので、観衆はおどろいて静まった。
「淑女! 紳――士諸君!」遠いすみずみまでよく通る声で「よくぞ、あばれん坊ビル・グラント・ロデオの幕あきに来て下さいました。(大拍手)世界第一、天下一品の、カウボーイ、カウガールの一座でございまあす。(大喝采)烈日《れつじつ》かがやくテキサス平原から、山また山のワイオミングの大牧場まで、また、アリゾナの砂漠から、雪山かがやくモンタナまで、ひとつぶよりのつわものどもが、みなさまの、ごきげんをとりむすびに、出かけてまいったのでございまあす!(はげしい足ぶみの音)いのちをかけ、からだを張っての、投繩、荒馬のり、牛おさえ、ガンさばき、妙技のかずかず――いずれおとらぬ、世界最大のスポーツのだいごみ、昔なつかしい本格ロデオを、ごひろういたすのでございまあす。さて、淑女ならびに紳士諸君! 今宵は特に、いつもの番組みに付け加えまして、大ニューヨークの皆様方に、超特別アトラクションを用意いたしたのでございまあす」
あばれん坊ビルは、ほこらしげに言葉を切った。その声は、重々しくひびきわたってから、大喝采の音にのみこまれた。
ビル・グラントは、肉づきの良い手をあげた。「さて、みなさん! それは、そんじょそこらにころがっているカウボーイではありません。(笑い声)みなさん! みなさまお待ちかねでございましょうから、手前は、そうそうに退散ときめまして。淑女ならびに紳士諸君! ここに、真に偉大なる世界一のカウボーイ! 昔なつかしい風ふきすさぶ西部を銀幕に再現した男! アメリカ映画界の名物男! 天上天下、ただ一人の、バック・ホーンその人を御紹介いたす次第でございまあす」
「幕だ! 幕あき!」
観衆は天井もわれるばかりに歓声を上げた。そしてもちろん、あのわめき、どなり、さけび、金切声のコーラスの先頭に立って、ジューナ・クイーンも、かわいい顔を、青くしてわめいていたのである。
エラリーは、キット・ホーンにほほえみかけた。キットは、少しかたくなって席からのり出し、やさしい日やけした顔で心配そうに、競技場の東の門へ、おびえるような青灰色の目を向けた。
はるかに、とても小さな虫のように見える制服の|おつき《ヽヽヽ》が、さっと扉をあけると、たくましい馬が、はなやかな円形劇場の中に、おどり出して来た。ひきしまったわき腹がつやつやとかがやき、ほこらしく首をもたげている美しい馬だった。その上に一人の男が、乗っていた。
「バック!」
「バック・ホーン!」
「うまくやれ! カウボーイ!」
ホーンは鞍の上で前かがみになり、手綱《たづな》さばきもあざやかな、いかにも粋《いき》な老カウボーイだ。観客席の一部をつなでかこったところで、楽隊が演奏しはじめた。大変な賑やかさだった。オハイオのカンカキーか、ウェスト・タンナービルみたいな田舎町のサーカスの初日の夜のようなさわぎだった。ジューナは気ちがいのように手をたたいた。キットは、ほほえんで、椅子によりかかった。
エラリーはのり出して、キットのひざをかるくつついた。キットはびっくりして、ふりむいた。
「いい馬にのっていますね!」と、エラリーが大声でいった。
キットは頭をそらして、うれしそうに笑った。「そりゃあそのはずですわ、クイーンさん。五千ドルもする馬ですもの」
「ほう! あれが?」
「ええ。あたしの大好きな、一番、かわいがっているローハイド号ですの。父が、今夜は是非、ローハイド号に乗りたいというんです。運がひらけるだろうって」
エラリーは、ぼんやり微笑して身をひいた。馬上のバックは、すばらしい黒のテンガロン・ハットをぬいで、左右に挨拶してから、ひざ乗りで馬をはしらせ、トラックをほとんどひとまわりして、楕円の東の曲り角の近くまで進み、マースの一党が坐っている桟敷の下の少し右よりのところに来た。神わざのように、らくらくと乗りこなしていた。明るい照明で、色どりの美しいカウボーイ姿の皮や金具や帽子のふちから首にたれさがっている白い髪がきらきらとかがやいていた。馬は黒光りする右脚を、上品に前へのばして、モデルのように気どってポーズした。
キットは立った。きれいに着かざった娘は、胸いっぱいに空気を吸いこんで、真赤な唇をあけたかと思うと、コヨテがなくような長いふるえる叫び声をあげた。エラリーはぎょっとして、とび上って目をぱちくりした。警視はひじかけをにぎりしめた。ジューナはとび上った。やがて、キットは静かに坐って、にこにこした。わきたつさわぎの中で、馬上のバックはだれかをさがすかのように、頭をふり向けた。
エラリーの後でだれかが毒々しく「おてんば!」とののしった。
エラリーは早口でキットに「広野の叫びですね」と言った。
キットの笑顔がきえた。愉快そうにうなずいたが、日やけした小さなあごをかみしめ、背中を兵士のようにしゃんとした。
エラリーは、ふと、振り向いた。巨漢トミー・ブラックは、ひじをひざにのせて、前かがみになって、小声でマラ・ゲイとしゃべっていた。ジュリアン・ハンターは、その後ろで、黙って葉巻をくゆらしていた。トニー・マースは、催眠術にかかったように、競技場に見入っていた。
あばれん坊ビルは、さわぎにまけまいと、夢中になって叫びつづけた。楽隊は、最高音で、≪たんたらたった≫を、くり返した。制服をつけた指揮者は、やっきになって棒をふっていた。やがてホーンは両手をあげて、静粛《せいしゅく》を求めた。すると、大波が甲板《かんぱん》からざあっと退くように、たちまちのうちに、さわぎがおさまっていった。
「淑女ならびに紳士諸君!」と、あばれん坊ビルが大声で「ごかっさいありがとうございまあす。バックをはじめ、皆のもの一同、すみからすみまで、ずーんと、厚くお礼申しあげまあす。さて、まっさきに御覧に供しまするは、競技場をかけまわる、はやて駆け! バックが四十人の乗り手をひきいての息もつかせぬ大追跡! 映画の中で、悪漢一味を追跡するそのままの実演! それを手はじめに、いよいよ、バックの本領を、ごらんにいれまあす。乗馬と、射撃の妙手のかずかず、ごゆるりと、御覧のほどを、ねがいあげまあす」
バック・ホーンは帽子のつばをひき下げた。あばれん坊ビルは、腰のピストルをひきぬいて、天井めがけて、引き金をひいた。それを合図に、東の扉がさっと開いて、たくましい西部馬に乗った男女の騎士の一団が、喚声《かんせい》をあげ、帽子を振りながら、わっとばかりにトラックになだれ込んだ。まき毛グラントがまっ先をかけていた。無帽で、髪の毛が、きらきら光っていた。二番手は片腕ウッディで、しばらくは満場の目が彼に注《そそ》がれた。片腕ながら堂々とあばれ馬を乗りこなす。手綱さばきは、大したものだった。やがて、のどもはりさけんばかりの喚声をあげながら、騎馬の一隊は、向こうの北側のトラックを疾走して、西へ向かおうとしていた。
エラリーは警視の方へ首をまげて「ぼくたちの友人、あばれん坊ビルは、広野ではたしかに天才かもしれませんが、算術の方は、もう一度やりなおさないといけませんね」と、いった。
「え?」
「グラントは、バック・ホーンが、何人の騎士をひきいて、競技場を勇ましく疾走すると言いましたか?」
「ああ。たしか四十人だった。おい、何だってそんなことを気にするんだね」
エラリーはため息をついて「別にどうってことじゃないんですが――グラントが、特に、はっきり言いましたからね――ぼくは自然に数えていたんでしょうよ」
「それで?」
「四十一人いますよ」
警視は鼻をならして、椅子の背によりかかり、苦々しく、半白の口ひげをふるわせた。「お前ときたらなあ。さあ、黙ってろ! 実際、お前はときどき、かんにさわるぞ。四十一人でも、百九十七人でも、ちっとも、かまわんじゃないか?」
エラリーはおだやかに「血圧にさわりますよ、お父さん。それにですねえ――」
ジューナがおこった。「うるさいなあ」
エラリーは口をつぐんだ。
トラックをまわっていったカウボーイたちは、楕円の南側の直線部にくると、いっせいに、ぴたりと、馬をとめた。場内はもう一度、しんとなった。騎士たちは長い糸のように、二列にならんでいた。先頭に立つ、まき毛グラントと、片腕ウッディの三十フィートぐらい先を、バック・ホーンが、ひとりで進んでいた。
競技場の真中で、馬に乗って、指揮官のように立っている、あばれん坊ビルが、あぶみ立ちになって、どなった。「用意! バック!」
後の撮影台の上では、カービー少佐がカメラマンを総動員していた。カメラマンたちは、緊張して、身動きもせずに、命令を待っていた。
トラックの上で、ひとりはなれて馬に乗っているバック・ホーンが、ちょっと身をひねって、右腰のホルスターから、古風な拳銃をひきぬき、銃口を天井に向けて引金をひいた。そしてバーンと鳴るといっしょに叫んだ。「う?」
すぐ、四十一本の手が、四十一のホルスターから、四十一丁の拳銃をぬくのがみえた……あばれん坊ビルが、指揮所から、ま上の空中めがけて、ぶっ放した。すると、バック・ホーンの幅のひろい肩がもり上り、前かがみになって、銃口を上に向けたまま、おがくずをしいたトラックへさっと馬を進めた。たちまち、全部の騎士たちが、発声映画のように、するどい、カウボーイの喚声をあげて、たぎりたった。あっという間に、騎士の一団は、マースの桟敷のほぼ真下のトラックをかけすぎた。それをみちびく、ローハイド号に乗っているバック・ホーンの粋《いき》な姿は、約四十フィート先にあって、南側のトラックをまさに東へ曲ろうとしていた。
騎士たちは、バックの後を追って行った。大きな拳銃を、いちように、高く振り上げて、天井めがけて、いっせいに撃った。その一斉射撃の硝煙が、馬も男も女も、おし包んだ。
観客二万の目が、先頭を駆けるバックにそそがれた。二万人の目が、それに続いて起こったことを見、見たことを信じなかった。
一斉射撃が終った瞬間、バック・ホーンは鞍の南側に、前のめりになって、うつぶした。右手は拳銃を高く振り上げ、左手は、鞍頭《くらがしら》の上で、手綱をつかんでいた。ローハイド号は勢いづいて、角を曲り、まさに、騎馬の一団やマースの桟敷と平行の位置にうつろうとしていた。
その瞬間、ローハイド号のたくましい背に乗っていたバックのからだが、はね上り、ぐったりとなり、鞍からすべって、おがくずをしいたトラックの上にたたきつけられた。……むごたらしくも、あとにつづく、四十一頭の荒馬のひづめに、あわや、ふみにじられそうになった。
三 弔辞
どこかに、その人にとっては時間が静止している男がいるとしよう。静止しないまでも、硬直しているとしてもいい。すると、普通の人にとって、まばたきしたり、心臓がひとうちしたり、指を鳴らしたりするぐらいの短い時の間《ま》も、その男にとっては、とても、まのびした長い時間になるだろう。これは、それほどばかげた空想ではない。事実、夜あけと日の出との間には、そんな時間がはさまれる。そういった状態は、現実世界の正常な活動が停止してしまうようなきわめてまれな大宇宙的瞬間にだけ、見いだすことが出来るだろう。たとえば、人間の集団のなかでは、そのような瞬間には、あらゆるつまらない現象が排除されて、集団全体は、凝縮《ぎょうしゅく》され、制圧される。瞬間が、無限の時間に感じられるような時――つまり、集団的感応と集団的恐慌の間のぽかんとした間《ま》が、それである。
バック・ホーンが、おがくずを敷きつめたトラックにころがり落ちて、鼻息も荒らく、ひしめきあって、迫ってくる馬どもの、ひづめの下に、のみこまれた瞬間、超満員のコロシアムは、そのような無限の時という現象の中に、はまり込んだようであった。その瞬間は一秒も続かなかったが、しかも何時間にも感じられた。だれひとり呼吸せず、身動きせず、ほんのかすかな物音ひとつ立てなかった。目の下の光景は、幻想世界の、すべてが石で造られたものででもあるように硬直してしまって、その上に、永遠というものが、かぶさりかかっているようだった。
もし、高い天井の|はり《ヽヽ》に登って、一瞬にして化石と化したような何万人もの人々を見下ろす観察者がいたら、おそらく、巨大な井戸の底と|わく《ヽヽ》に、はめこまれている組合せ大理石に彫りこまれた大群像を、大きな博物館で、ただ一人で見てでもいるような気がしたであろう。
そのとき、現実の世界は、いっさい押し退けられて、その瞬間が、いきなり永遠になってしまったかのようだった。はっきりとは聞きとれないものさわがしさ、あの世のざわめきにも似た、純粋の恐怖のうめき声が、どこか遠くから轟《とどろ》き始めて、かすかな、最低の音から、だんだんに音階を高めて来て、ついには、人の耳では、ただ感じるだけで、とても聞き取ることが出来ないほど高くなり、うすきみ悪い音の震動のように、たぎり立った。
それから後は、もみ合う騎士たちの、つんざくような叫び声がひびき、バック・ホーンが、ころがり落ちた地点の、はっきりとは見分けられない体をふみつけまいとする馬どもの、恐怖にたじろぐ、すさまじい、いななき声がおこった。
いっせいに、二万の観衆は、とび上って、大コロシアムを根太《ねだ》からゆすぶった。
夢の中でのように、悪夢がすぎた。
次には、当然、おこるべきことが続いた。観衆たちの、とてつもない叫び声や、金切声の押し問答や、出入口に殺到するあわただしい人波の動きだ――その動きは、全部の門や出入口に、降って湧《わ》いたようにあらわれた監視員たちの手で、すぐに食い止められた。競技場には、少しずつ秩序らしいものが戻り始めた。馬は別々に引きはなされた。東の門から、はげ頭の男が、黒い皮鞄《かわかばん》を持って、とび出して来た。大急ぎで、ひったくって来たインディアン毛布を小脇にかかえていた。同時に競技場の中央では、あばれん坊ビル・グラントが――馬も、帽子も、手も、目玉さえ動かさずにいたのが――はっと生気をとりもどして、馬に拍車をくれて、混乱のまっただ中に乗り込んでいった。
マースの桟敷にいた連中も、少人数ではあったが、大きな沈黙図の一部になった――一人のこらず、例外なくだ。しかし、中の四人だけは、重要な理由から、他の連中より一足さきに、自失状態から抜け出していた。彼らの神経は、当面の要請に応えて、いっそう鋭敏になっていた。まずクイーン父子《おやこ》だ――父の方は、どんな急場にも即応できるように訓練されている爪の先までの警察官だし、子のエラリーは、どんな驚きに出会っても、長くは麻痺《まひ》しない冷静な頭脳的機械みたいなもんだった。三人目は、この出来事で、一瞬、寺院に化したこのコロシアムの創設者で、敏腕家のトニー・マースだ。残る一人は、キット・ホーンで、当然、他のだれよりも悲痛なショックを受けていた。この四人は、二組みになって、桟敷の手すりをまたいで、ひどい衝撃をものともせずに、十フィート下のトラックへ、どさっと、とび下りた――あとの、桟敷に残った連中は、あっけにとられて動くことも出来なかった。ジュリアン・ハンターは葉巻をおとしたまま、ぽかんと口をあけていた。マラ・ゲイの細っそりした体はふるえて、頬からは血の気がひいていた。ジューナは、どぎもをぬかれて坐っていた。そして、トミー・ブラックは、パンチの雨を防ぐ、意識もうろうとしたボクサーのように、爪先で立って、からだをゆさぶっていた。
騎士たちは、今は、馬から下りていた。あるものは、一生懸命馬をなだめていた。
キットとエラリーは、警視とトニー・マースを十二フィートひきはなしてかけつけた。恐怖にかられたキットは、惨事の現場へとんで行く。そのすぐあとを、眉をしかめて、突然の悲劇に目をぱちくりしながら、エラリーが迫って行った。二人は、おがくずの上に、くずおれている死体をとりかこむ人々の中にとびこみ、ぴたりと止った。黒い鞄を持った男は、死体のわきに、ひざまずいていたが、キット・ホーンの姿を見ると、地面の上にあるものの上に、さっと毛布をかぶせた。
「ああ、ホーンさん」と、しわがれた声で「ホーンさん。どうも、大変、大変お気の毒です。お父様は――なくなりました」
「先生、そんなことって」
キットは冷静に言った。まるで、自分さえ正気でいれば医者の診断がかえられるとでも思っているようだった。ロデオの医者は、みすぼらしい、がっちりした老人で、キットの青白くなった顔をじっと見ながら、少し頭をふって、あとずさりした。
エラリーは思慮深く、キットによりそって、注意していた。
キットは、むせび泣きながら、ほこりの中にひざまずいて、毛布のはじに手をかけた。色を失った、まき毛グラントと呆然《ぼうぜん》としていたあばれん坊ビル・グラントが、本能的な動作で、それを押しとどめた。キットは、ほとんど目を向けずに、手をふって二人をさがらせた。二人は中途でやめた。それから、キットは、ほんの少し、毛布をめくった。ついさっきまで生きていた顔のそこここに、真青なところと、真赤なところが、気味悪くあらわれていた。死んで、引きつり、青ざめ、ゆがんでいる顔は、血と泥にまみれていたが、なお何ものにも屈しない、しかしあわれを催すような威厳《ヽヽ》をみせて、うつろな目でキットを見上げていた。キットは、悪いものでもみたかのように、毛布をはなして、黙ってひざまずいていた。
エラリーは、まき毛グラントの、かたい肋骨《ろっこつ》をこづいた。「しっかりするんだ! ぼんやりしてないで」と、やさしくいった「この人をあっちへ連れていくんだ」まき毛は、はっとして、赤くなって、キットのわきへ、ひざをついた。
エラリーがふり向くと、ぴたりと父と顔が合った。警視は、風の神のように、ふうふう息をしていた。
「何だ?――どうしたんだ。あの男は?」と、警視はとぎれとぎれにいった。
「殺人です」と、エラリーが答えた。
「殺人だと! そんな、ばかなことが――」と、老警視は目をむいた。
二人はちょっと、にらみ合った。やがてエラリーの目に、何か影のようなものが、ひろがった。エラリーはゆっくりあたりを見まわした。いつものくせで、唇にはりついているシガレットが、砂っぽく血のにじんだおがくずの方へ、たれさがった。エラリーは、シガレットを唇のあいだからとり、指でくしゃくしゃにすると、息をはずませながらいった。
「おお、なんて、ぼくは、馬鹿なんだろう! お父さん――」エラリーは、すいがらをポケットに入れた。「これが殺人であることには問題ありません。わき腹を撃ち抜かれたんです。心臓を貫通したにちがいありません。医者が毛布をかけるとき、ぼくは傷口を、たしかに見たんです。これは――」
警視の灰色の頬に血の気がもどった。小鳥のような目が、ぴかりと光ると、そこに集まっている人々の方へとび込んだ。
人々は途をあけて、警視を迎え入れた。
まき毛のいかつい肩が、うつむいているキット・ホーンの金髪の頭をかくしていた。
あばれん坊ビル・グラントは、見ても、見ても、見あきぬように、毛布を見つめていた。
エラリーは肩をはり、深くひと息吸って、競技場の西北の方へ、走り出した。
四 端緒
つきかためた競技場の地面を、全力で走っていると、まわりのあわただしい動きに、自分も参加しているのだという気分がした。エラリーの後ろでは、無言の男女が、まるで他国から来たもののように、すすり泣く少女と死者をとりまいて輪になっていた。競技場の上の観覧席は煮えくりかえるような騒ぎで、人々は発狂した蟻《あり》のように走りまわっていた。女たちの甲高《かんだか》い叫び、男たちの荒々しい声、上を下へとかけまわる足音が入りみだれた。はるかな仕切り壁に、点々とついている出入口から、ぴかぴかと光りを反射する金ボタンのついた青い服をきた小さな人影が、とび出して来た――とりでの守りに、建物の奥から、至急に召集された警官隊である。警官たちは人々を座席に押し返して、一人もこの円形劇場から出さなかった。上々の措置と、エラリーは考えて、走りながら、かすかにほほえんだ。
エラリーは、いっそう大股で走って、小柄なカービー少佐が立っている高い撮影台の足場まで来てとまった――少佐は、青ざめていたが、落ちついて、目を光らせてカメラにしがみついているカメラマンたちを、静かに指揮していた。
「少佐!」と、エラリーは、さわぎの音に、もみけされないように、声をはりあげて呼んだ。
「何かね?」と、少佐は撮影台のふちからのぞいて「おお、何かね、クイーン君?」
「台から、はなれてはいけませんよ!」
少佐はちょっと、笑いかけて「そのことなら心配しなさんな。とてもすごい特種だ! ところで、一体、何がおこったんだね! あの御老体、失心の発作《ほっさ》でもおこしたのかね?」
「御老体は」と、エラリーは沈んだ声で「銃弾の発作ってわけなんですよ。殺されたんですよ、少佐。――心臓をぶちぬかれて」
「本当か!」
エラリーは深刻な顔で上を見上げた。「もっと近づいて下さい、少佐!」
ニュース映画人はかがんで、小さい黒い目を光らせた。「カメラはいっさいの出来事を写していたでしょうね?」
黒い小さな目になにか光った。「こりゃ、おどろいた!」少佐のなめらかな頬が、興奮して赤くなった。「奇跡だよ、クイーン君、奇跡だ! うん、何もかもだ」
エラリーは早口に「よかった、少佐、全くよかった。探偵を守って下さる神様のおめぐみですよ。ところで、ねえ、撮影を続けて下さい。できるだけ写して下さい――この事件全部の写真記録がほしいのです。ぼくが、やめというまで、すぐ、写し続けて下さい。お願いしますよ」
「おお、いいとも」と、少佐は、ちょっと、言葉をとぎらせて「しかし、どのくらい写せるかな――」
「フィルムの心配ですね?」と、エラリーは微笑して「心配御無用ですよ少佐。あなたの会社は警察につくす絶好のチャンスをつかんだんです。しかも、映画会社が、どんなに無駄金を使うかを考えてみれば、この余分のフィルム代は有効に使った金といえますよ。有効です」
少佐は、ちょっと考えて、すぐに、小さな口ひげの先をひねり、うなずいて、立って、急に、部下たちに命令した。一台のカメラが、死体をとりかこむ群れに焦点を合わせた。他の一台は、機械仕掛けの一つ目小僧のように、ゆっくりと、観覧席を、レンズでなめまわした。三台目のカメラは、競技場の他の部分を、こまかくひろいあげて写した。録音室の技師たちは、気違いのように働いていた。
エラリーは、蝶ネクタイを直して、真白な胸のほこりのしみをはじきとばしてから、競技場をかけもどった。
すばらしい手腕家であるクイーン警視は、過去の業績の栄光にくるまれていた。警視はこのニューヨークで、悪い意味でなく、超詮索主義者の一人といえる。とるにもたらぬほど些細《ささい》な事から、犯人の手おちを見いだすのが、探偵という仕事の本質なのだ。警視は些細な事の分析家であり、微細な事に熱情をかたむける人物だった。しかも、警視の老練な鼻が、こんなにも地面に近づけられたことはない、そのために、広い視野が、たもてないほどだった。……この仕事は、たしかに、やりがいのあるものだった。二万の観客がつまっている広場でおこなわれた殺人だ。百の二百倍の人間、その中のどの一人でも、バック・ホーン殺害犯人であり得る! 警視は、白髪まじりの小さい頭を鋭くつき出し、指先で、古い茶色のかぎたばこ入れをさぐりつづけ、口では適切な命令を出しながら、小さく光る目だけは、それらのことからまるで切りはなしたように、場内をすみずみまで見まわし、自分が配置した部下どもの、細かい働きを監視していた。本庁の増援隊――警視直属の部下――を待つあいだに、ともかくも多くの警官を広い建物の要所要所に配置出来たのはとても運がよかった。案内人や、コロシアムの請願巡査連は狩り出されて任務についたし、殺人の当時、建物の中にいた警官たちももちろんだった。出入口には全部、厳重に見張りがついた。次々に来る報告によって、小人《こびと》ひとりさえ、非常線をくぐって出たものはないのが分った。決定的な調査がすむまでは、建物の中の二万の観客のだれ一人も、抜け出させないようにするのが、警視の明確な意図だった。
近くの分署の刑事たちが、すでに、非常警戒についていた。刑事たちは競技場をとり囲み、捜査現場を確保した。目を皿にした数千の頭が、観客席の手すりから、つき出していた。カウボーイやカウガールたちの一団は、競技場の向こうに集められ、隔離されていた。みんな馬から下りていたし、馬もいまはしずまって、たわいなく、前脚で土をかいたり、鼻を鳴らしていた。馬のはだは、短時間だったが精いっぱいのかけ足で、熱して、てらてら光っていた。競技場の東門と西門にそれぞれ駐在していた請願巡査は、刑事たちに助けられて、まだ任務についていた。競技場のすべての出入口は、かたく閉ざされて、見張りがついていた。だれも競技場への出入りは許されなかった。
エラリーが駆けつけてみると、警視が、ただれ目で、わに足の小柄なカウボーイをにらみつけていた。
「グラントの話では、君がいつも馬の世話をするそうだな」と、警視はぴしりといった。「君の名は?」
小柄なカウボーイは、かわいた唇をなめて「ダヌル――ハンク・ブーンでさあ。あっしは、このピストルさわぎにゃ、まるっきり関係ないんで。旦那、まったくでさあ」
「君は、馬の世話をしてるのか、してないのか?」
「へえ、旦那。やってます」
警視はさぐるように「今夜は、ホーンの後ろから馬に乗って、気ちがいさわぎで走っていた連中の仲間だったかい?」
「ちがいまさあ、旦那」
「ホーンが落馬したときは、どこにいた?」
「あっちの、西の落し戸の後ろでさあ」と、ブーンは口ごもった。「バックじいさんが、ころがり落ちるのを見たんで、請願巡査の、≪はげ≫に、門を通してもらってきたんでさあ」
「だれか一緒に通ったかい?」
「いいえ、旦那。≪はげ≫とあっしだけで――」
「よろしい、ブーン」と、警視は一人の刑事をあごでしゃくった。「この男を向こうへつれていって、馬を始末させろ。馬があばれ出すと困るからな」
ブーンは弱々しく笑って、刑事につきそわれて、馬の方へかけ出した。競技場の土間には臨時の水飼い場が設けられていた。ブーンはいそがしそうに、馬を水場へつれて行った。そのそばで、カウガールやカウボーイたちがだまって、見守っていた。
エラリーはまだ静かに立っていた。捜査のこの部分は、父の仕事なのだ。
エラリーはあたりを見まわした。キット・ホーンは、ひざを泥まみれにして、あけ方の月のように青白い顔で、おがくずの上で、けばけばしい、インディアン毛布に覆われている、ひしゃげた塚を、無表情に、硬くなって見つめていた。その両側には、一人ずつ保護者が立っていた――たよりない保護者といえるだろう――なぜなら、まき毛グラントは、急に耳に穴をあけられて、全く音のない世界に放りこまれた男のようにグロテスクな様子だったし、父親の方は、ずんぐりとした大理石のかたまりみたいで、まるで、突然におそいかかった麻痺の激しい痛みで、立っている場所に、そのままこおりついてしまったという様子だった。そんな二人も、けばけばしい毛布をながめていた。
エラリーも心動かされて毛布をながめていた――じっとみつめている女の目の外は、くまなく見た。
警視の声がきこえた。「おい、君――分署の人間か?――二人ばかりつれて、この場内にある、物騒な拳銃をみんな集めてくれ。いいか。一つのこらずだ! カードか何かを用意して、一つ一つに所持者か、携持者の名を書いといてくれ。ただ出させるだけじゃ駄目だ。この場内にいる男も女も、のこらず身体検査するんだ。この連中は、拳銃を持ち歩きつけてるからな、分ったな」
「分りました」
「それから」と、警視は慎重に、毛布に覆われている屍体をだまってみつめている三人の方へ、小さな黒く光る目を向けて「ここにいる三人から始めるんだ。じいさんと、まき毛の若いのと――もちろん、お嬢さんもだ」
ふと思いついて、エラリーは急にふり向いてある男をさがした。その男は、屍体《したい》をとりまく群の中にはいなかった。その男は、片腕で、堂々と馬をあやつった男だ――エラリーは、片腕の騎士が、競技場の、はるか向こうにのっそりと地面に腰を下ろして、バウイー・ナイフを、ほうり上げては、うけとっているのをみつけた。……エラリーが目をもとにもどしたとき、あばれん坊ビル・グラントが、両腕をぎこちなくあげて、身体検査をされていた。ビルの目は、まだ、悲痛な思いで、すわっていた。がっちりした腰につけていたホルスターはすでに空だった。一人の刑事が、拳銃に札をつけていた。まき毛が、突然正気にかえり、真赤になって、怒り出そうとした。やがて、肩をすくめて、細身の拳銃を渡した。グラントも、まき毛も、予備の拳銃を身につけていないのが、すぐに分った。次は、キット・ホーンだ――
「その人は、よしたまえ」と、エラリーがとめた。
老警視は、いぶかしそうに、エラリーを見た。エラリーは親指で、ちょいとキットを指さして、頭を振った。警視は目をむいて、肩をしゃくった。
「おい――君。ホーンさんは今のところそのままおいてよろしい。あとで、調べることにしよう」
二人の刑事は、うなずいて、競技場の向こうの方へ去って行った。キット・ホーンは、身動きもせず、まるで物音もきこえない様子で、ただ、じっと、だんだら模様の毛布を見つめていた。その顔は、無表情で、魂を吸いこまれているようで、おそろしかった。
警視は、ひと息入れて、はげしく手をもみ合わせた。「グラント」と声をかけた。老座長はきっぱり向き直った。「君と、君のむすこで――ホーンさんを向こうへ連れて行ってくれ。これからあまり愉快でないことが始まるからな」
グラントはむせぶように息をのんだ。目が真赤だった。キットの青ざめた裸の腕に手をかけて「キット」と、うめくように「キット」と促した。キットはびくっとグラントを見上げた。
「キット、しばらくこの場をはずそう、キット」
キットは、また、毛布を見下ろした。
グラントは、むすこをこづいた。まき毛は、ちょっと目をこすって、しょんぼりしていたが、やがて、二人はキットを、もちあげて、くるりと向きをかえた。恐怖の色がうかび、叫び出しそうにしたが、それもじきに消えて、キットはぐったりとなった。二人は、キットをなかばひきずって、競技場を横切っていった。
警視はため息をついた。「ひどく参ってるな、無理もない。さあ、エル、仕事にかかろう。じっくりと、屍体をしらべてみたい」
警視が五、六人の刑事に合図すると、みんなは進み出て、屍体のまわりに人垣をつくった。エラリーと、クイーン警視は人垣の中に立っていた。警視は、やせた小さな肩を引きしめて、かぎたばこを、たっぷりかいでから、おがくずの上に、しゃがみこんだ。そして、ものなれた手つきで毛布をめくった。
ついさっきまで、はなやかだった扮装《ふんそう》が、泥と血にまみれているのは、妙に皮肉な感じだった。死者は、ロマンチックな黒ずくめのぴかぴかする衣装をつけていた。
しかし、そのロマンチックなつやも、ホーンが落ちて死んだために、今は、すっかり、色あせて、きたない死の黒色にかわっていた。ねじれて、妙になげ出された脚のひざまでぴったりはいる、かかとの高い黒の長靴には、きれいにぬいとりがしてあった。銀色の拍車が、動かなくなった足の長靴のかかとから、つき出していた。たくしあげられたズボンは黒いコールテンだった。スカーフも黒だったが、シャツは純白のサテンで――すばらしい対照をなしていた。シャツの袖はひじまでたくしあげて、黒いガーターでしっかりとめられ、手首には、こまかい細工をほどこした黒皮のカフスをつけていた。それには白いぬいとりと、小さな銀の飾りがついていた。その飾りは、カウボーイがお祭り着につけたがるコンチャスというものである。腰には、ぴっちりと合う黒いバンドをしめ、尻にずらして、飾りのついたガン・ベルトをまいていた。かなり幅がひろくて、ぐるっと、薬包入れがついているガン・ベルトだ。みごとな黒皮の拳銃ホルスターが二つ、両方の腰から|もも《ヽヽ》にたれていたが、どちらにも、銃はなかった。
死体の外見はざっとこんなものだった。クイーン父子は、顔を見合わせてから、もっと興味のある細かい点をしらべようと、死体に注意を向けた。
はでで、りりしかったホーンの着衣は、馬の蹄鉄《ていてつ》で、ふみ破られ、泥まみれになっていた。ワイシャツのやぶれ目から、馬のひづめにふみにじられたきずが見えていた。右のわきに、銃弾の穴が、小さく、くっきりと、的《まと》のようにあいていた。きず口からみると、弾は明らかに心臓を貫通している。きず口にはほとんど血が出ていないし、サテンのシャツにあけられた穴のふちに、下の凝血が、ほんの少しついているだけだった。やつれた老顔には少し硬直が来ていた。白髪頭の耳の後が、妙にへこんでいるのは、あれくるう馬のひずめが、頭の片側を蹴とばしたのであろう、クイーン父子は、ぞっとした。その他は、血と泥にまみれているだけで、死体には異状がなかった。死体は不可能な姿勢をしていた――不可能というのは、つまり、生きている人間には出来ない姿勢で、あれくるう馬のふみつける力で、骨が折られた証拠であろう。
エラリーは少し青ざめて、からだをおこすと、あたりを見まわした。ふるえる指で、たばこをつけた。
「こりゃ、まったくひどい」と、警視がつぶやいた。
「目下のところ」と、エラリーもゆううつに「坊さんにまかすより仕方ありませんね」
「おい? なんだって?」
「ああ、気にしないで下さい」と、エラリーは大声で「ぼくはどうしても死体に弱いんです。……お父さんは、奇跡を信じますか?」
「くだらんことをいうな」
警視はホーンの死体から、ズボンのバンドをはずしはじめた。バンドは一つめの穴でとめて、ぴったりと腰にくいこんでいた。それから、重いガン・ベルトをやっとはずした。
エラリーは死体の顔を指さした。「第一の奇跡です。おそろしいひづめにふみつけられたのに、顔だけはそっくりそのままですね」
「それが何んだ?」
「こりゃ、おどろいた!」と、エラリーがうなった。「それが何んだと言うんだからな。何んでもありません。だから重要なんです。顔がどうかしていたら、奇跡でもなんでもないでしょ」
警視は、こんな分りきった冗談には、答えようともしなかった。
「第二の奇跡」と、エラリーは、ぷうっと煙をはいて「右手をごらんなさい」
老警視は、渋々、いわれるとおりにした。右腕は二か所で折れているらしかったが、手の方は健康に日やけして、かききずひとつなかった。少し前に、ホーンがふりまわしていた銃身の長い拳銃を、しっかりと、指でにぎりしめていた。
「それで?」
「奇跡どころじゃないですよ。明らかに神の摂理です。落馬したとき、地面にたたきつけられる前に死んでいたはずです。それから四十一頭の馬にふんづけられたのです――それなのに、あきれたことには、銃を手からはなさなかったんですからね」
警視は下唇をこすった。少しあわてて「うん。だがそれがどうした? 何か曰《いわ》くがあるとでも思うのかい?」
「ええ、そうですとも」と、エラリーはいらだって「こんな現象は、とても人間わざではおきっこありませんからね。目撃者は大勢います。だから、ぼくは、あえて奇跡だと言うんです。こんなことは神のお思召しというより仕方ないじゃありませんか。だから、困った問題なんで……あ、畜生、頭が重いな。ホーンのステットソンは、どこでしょうね」
エラリーは人垣を抜けて、見まわした。それから目を輝かせて、死体から八フィートほどはなれたところに、だらしなく転がっている、ほこりだらけな、つばの広いステットソンをとりに、足ばやに土間をよこぎって行った。しゃがんで、つまみあげると、父のところへもどった。
「その帽子に、まちがいない」と警視が言った。「落ちたときにころがって、馬がけとばしたんだろう」
父子で検《しら》べた。それは、王冠のように立派な帽子だったが、ホーンの頭と同じようにふみつぶされていた。ふちのはね上った広いつばのついているステットソンは、黒光りするやわらかいフェルト製だった。円頂のまわりには黒い皮であんだ、上等なベルトがついていて、内側には、金文字で、B・Hと頭文字がうってあった。
エラリーはおしつぶされた死体のそばに、それを、そっとおいた。
警視は死者の二本の皮帯を、じっと見ていた。エラリーは父を面白そうにながめた。ホルスターのついたガン・ベルトは非常に長くて重かった。着用者のからだを、ふたまきするようにつくられていたからだ。ホーンの他の舞台道具と同じく、これにも、銀のコンチャスや、金の鋲《びょう》が、あざやかに飾りつけてあって、薬包入れも光っていた。B・Hを組み合わせた銀の唐草模様《からくさもよう》がはいっている。そのベルトは、やわらかく、しなやかで、持主が非常に大事にして完全に保ったのは、明らかだったが、大変な時代ものだった。
「長い間、使ってたんだね。かわいそうに」と、警視がつぶやいた。
「きっと、愛書家が貴重本をかわいがるようにしたんでしょうね。ぼくが、ファルコーナーの詩集の仔牛の皮表紙に、どのくらいの時間をかけて、脂《あぶら》をぬっているか、お父さんには察しもつかないでしょうね」
父子はズボンのバンドをしらべた。非常に古いが、完全な保存状態だった。昔の、とめ金のあとが――二つ。一つは二つ目の穴の上に、もう一つは三つ目の穴の上についていて――使い古したらしく、皮がすりへっていた。その古さは、実際、馬飛脚がしめていたといっても良いほどだ。そして、これにも、ガン・ベルトと同じように、銀の頭文字がついていた。
「この男は」と、エラリーはバンドを父に返して「西部の骨董屋《こっとうや》だったんですね。まちがいなしですよ! こりゃ、博物館ものですよ!」
むすこの突拍子もない気まぐれは毎度のことだといわんばかりに、エラリーにはとり合わず、警視は身近かの刑事に、おだやかに話しかけた。すると刑事はうなずいて、立ち去った。やがて刑事は、身をちぢめるようにしているグラントをつれてもどった。グラントは、まるで、もう一度ぶちのめされるのをたえようとするかのように、不自然に固くなったからだを引きずって来た。
「グラント君」と、警視は鋭く「さっそく、捜査をはじめるつもりだが――まず細かいことからだ。大きなことはあとまわしだ。この事件は手間が、かかりそうだよ」
グラントはしわがれ声で言った。「何でもおっしゃって下さい」
警視は、そっけなくうなずいて、もう一度、死体のそばに、しゃがみこんだ。すばやく、死体をさぐって、二、三分で着衣から、ひと山のこまごまとしたものをあつめた。
小さな財布には、札で三十ドルほど、はいっていた。警視は、それを、グラントに渡した。
「ホーンのだね?」
グラントは大きくうなずいて「そうです。そうです。わたしが――そのう――わたしが、やったんです。この前の――誕生日でした」
「そうか、そうか」と、警視は、すぐにいって、ロデオの座長がとり落しそうな、財布をとりもどした。ハンカチが一枚。バークレイ・ホテルと木札のついた鍵が一個。茶色のたばこを巻く紙が一たば。安たばこの小箱が一袋。五、六本の軸マッチ。小切手帳……
グラントはそれらの品に、だまって、うなずいた。警視は、慎重に、小切手帳をしらべた。「ニューヨークの、取引銀行の名は?」
「シーボード。シーボード・ナショナルです。口座をひらいたのは、つい一週間前です」
「どうして知ってる?」と、警視はたたみかけた。
「ニューヨークに来たときに、銀行を教えてくれというんで、わたしの取引銀行に行かせたんです」
老警視は小切手帳を下においた。空白の小切手には、はっきりと、シーボード・ナショナル信託銀行とあった。最後に振り出した小切手の控えをみると、五百ドル以上の残金があった。
「ここに何かないかな」と、警視がきいた「ここにあるはずで、ないものが? グラント君」
グラントは血ばしった目で、こまごました所持品の山を見まわした。「ありません」
「なくなってるものはないか?」
「分りませんなあ」
「ふうん。着衣はどうだな。いつも着ていたものかい? 異状はないかね?」
ずんぐりした男はにぎりこぶしをつくって「どうしても、も一度、見なければいけないんですか?」と、しめ殺されそうな声を出した。「どうして、あっしをこんなに苦しめるんです?」
グラントは、しんから悲しんでいるようだった。そこで、警視はやさしい声で「元気を出してくれよ。あらゆるものをしらべなくちゃならないんだ。往々にして、死体から手がかりがつかめる。君の友達を殺した犯人をみつける手伝いがしたくないのかい?」
「もちろん、しますとも!」
グラントは近づいて、いやいやながら、見下ろした。なげ出した長靴のつま先から、ひどくへこんでいるきずついた頭まで、すばやく目を走らせた。しばらく何もいわなかった。やがていかつい肩を引いて、ぶっきら棒に「みんなそろってます。何もなくなってません。映画のときのいでたちでさあ。映画に出ていたころは、このいでたちは、ここから、サンフランシスコまでの少年ファンのおなじみのやつでした」
「結構! みんなそろってるんだな――」
「ちょっときくが、グラント君」と、エラリーがいった。「何もなくなっていないといったようだね」
グラントは、不自然なほどゆっくりふり向いて、エラリーをまともに見た。その目には、何かしら戸惑《とまど》いしたような――そう、おそれるような――かげがさしていた。グラントは、まのびのした調子で「そのとおりですよ、クイーンさん」といった。
「そうか」と、エラリーが、ひと息ついたとき、父は、びくっとして、むすこを横目でみた。「多分、君のあやまりじゃないんだろう。多分、君はとりみだしていて、いつものように観察力が働かないんだろうな。しかしだね。なくなってるものがあるんだよ」
グラントは、あわててふり向いて、もう一度、死体を見直した。警視もあわてたようだった。グラントは頭をふって、少し困ったように肩をすくめた。
「よし、よし」と、警視がむすこに、きいた。「不審なのは何だね。なくなったのは何かね」
しかし、エラリーは目を光らせて、死体の上にかがみこんでいた。それから、実に注意深く死体の右手の指をほどいて、バック・ホーンが握っていた拳銃をとって、立った。
みごとな拳銃だった。一生の間、拳銃とはなじみ深く、切ってもきれない仲であった警視にとっては、エラリーが慎重にしらべているその拳銃は、旧式の鉄砲鍛冶の腕前を示す、すばらしい見本だった。ひと目で現代的な拳銃でないのが分った。少し型が古いだけでなく、手ずれた金属のつやで、相当、古いのが分った。
「コルト、四十五口径」と、警視はつぶやいた。「単発式だ。銃身で分る!」
銃身は八インチで、細身の死の筒だ。細かい唐草模様が、シリンダーにまでついていた。エラリーは、用心深く構えてみた。非常に重い銃だ。
あばれん坊ビルは、とても言いにくそうに、二度も唇をしめしてから、やっと口をひらいた。
「あの、そいつがいつもの銃《やつ》です」と、口ごもって「みごとな銃でしょ。バックのやつ――あいつ、つり工合には特にうるさかったんです」
「つり工合というと?」と、エラリーは、いぶかしげに眉をよせた。
「重い方が好きで、ほんものが好きでした。つまり、バランスの良いのが」
「ああ、そう。なるほど、この古物《こぶつ》は、たっぷり二ポンドはあるね。一体、どんな穴をぶちあけるかな?」
エラリーは銃を折って開けた。弾倉は、一つをのぞいて、他にはみんな薬包が、はいっていた。
「空弾ですか」と、父にきいた。
警視は弾を一つ抜き出してしらべてから、他のもみんな抜きとった。「空弾だ!」
エラリーは、注意ぶかく、弾を弾倉にもどして、ぱちっと、シリンダーを、もとどおりに閉じた。
「これは、ホーンの拳銃だろう」と、グラントにきいた「君のものじゃないね? つまり、ロデオの道具じゃないんだろ」
「バックんです」と、グラントがうめくように「バックの気に入りです。買ったんです――それと、ガン・ベルトと――二十年ほど前です」
「ふうん」と、エラリーは鼻先でうけた。銃身をしらべるのに気をとられていた。明らかに、ずいぶん、使い古した銃だ。銃身は、筒口も、照星のてっぺんも、すりへって、てらてらしていた。エラリーは握りをしらべた。握りには、めずらしい特徴があった。両側は象牙の象眼《ぞうがん》――雄牛の頭が彫ってある一枚板で、その中央は、両側ともに楕円形《ヽヽヽ》で精巧なHの飾り文字がはいっていた。象眼は、握りの右側の細い一部分をのぞいては、古びて黄色くなり、すりへっていた。エラリーが左手で構えてみると、象牙の色のうすい部分が、曲げた指と、手のひらのふくらみの間に来た。エラリーはかなり長く熱心にみていた。それから、銃をくるくるまわしてみて父に渡した。
「この旧式銃も、他のあやしい銃といっしょにしとくんですね、お父さん。念のために言うんですが、このパチンコから、何が分るかしれませんからね」
警視はしぶしぶ拳銃をとって、しばらく、気が重そうにながめてから、合図して、それを刑事に渡した。丁度そのとき、東の大門にざわめきがおこり、警備の刑事が扉をひらいて、何人かの人間を入れた。
その小さな行列の先頭をくるのは、私服の大男で、鋼鉄ばりのような顔をし、おがくずをしいたトラックを、のっしのっしと歩いてきた。この巨人こそ、クイーン警視お気に入りの助手、ヴェリー部長で、無口で、頭のにぶい方だが、実行力のある人物だ。
ヴェリー部長は、死体に職業的な目をはしらせ、数千人の人間が、手もちぶさたで、わんわんさわいでいる広い円形劇場を見上げてから、がっちりした四角い|あご《ヽヽ》をなぜた。
「大事件ですな、警視」と、われがねのような声で「出入口は?」
「ああ、トーマス」と、警視は、ほっとしたように微笑して「また、どさくさまぎれの殺人《ころし》だ。出入口の警官を放免して、うちの人間を配置してくれ。警官たちを、普段の持ち場や、仕事に、もどしてやれ」
「だれも出さないんですね?」
「わたしが命令するまでは、全員禁足だ!」
ヴェリー部長は、凄い勢いで出かけた。
「ヘーグストローム。フリント。リッター。ジョンソン。ピゴットはここにいろ!」ヴェリーについて来た五人の刑事たちは、うなずいた。刑事たちの目は、やりがいのある仕事とみて、職業的なよろこびをうかべていた。
「ロデオの医者は?」と、警視が、きびきびと言った。誠実そうな目をした、丈夫そうな老人が進み出た。「わたしが医者です」と、ゆっくりした口調で「ハンコックです」
「よろしい。こっちへ、先生!」
医者が死体に近よった。
「さあ、所見《しょけん》を全部いってくれたまえ」
「全部ですか」と、ハンコック医師は少しおそれをなしたようだった。
「つまり――ホーンが落ちたすぐ後で、君が診察したんだろう。診断はどうなのかね?」
ハンコック医師は、土間にうずくまっている死体を、まじまじと見つめた。「ほとんど、申し上げることはありません。わたしが、かけつけたときは、もう死んでいました――死んでました! 今朝、診《み》たばかりです。健康状態は申し分なしでした」
「即死か?」
「そういえます」
「地面にころがり落ちる前に死んでいたのか?」
「もちろん、そうです。そう思います」
「とすると、馬にふみにじられるのは感じなかったわけだ」と、警視はかぎたばこ入れを、さぐりながら「せめてもの慰めだ! 弾《たま》きずはいくつかね?」
ハンコック医師は目をぱちくりして「わたしのはざっと診《み》ただけなんですよ――銃創は一つ。左側から心臓を貫通しています」
「ふうん。君は、弾きずは見なれてるのか?」
「なれてるのは当り前です」と、ロデオの医者は、つらそうに「わたし自身、古い西部者です」
「そうか。傷口からみて、弾の直径は、どのくらいかね、先生」
医師はしばらく返事しなかった。そして、警視の目を、まっすぐに見つめて「ところで、それが妙なんですよ。実に妙です! はっきりはいえませんが――いずれは警察の検死官にしらべさせなさるでしょうが――たしかに、傷口からみると、二十二か二十五口径で撃たれたんです」
「二十二だって――」と、あばれん坊ビル・グラントが、はげしく言いかけてやめた。
警視の小さな光る目が医者から座長にすばやく移った。「それで」と、不審そうに「それが、どうして、そんなに不思議なんだ?」
「二十二と二十五口径はですね」と、ハンコック医師は少し唇をふるわせて「西部の拳銃にはないんです。よく御存知でしょう?」
「本当かね?」と、エラリーが不意に言った。
グラントの目が、うれしそうにかがやいた。「申し上げますが」と、大声で「うちの銃器庫にはそんな豆鉄砲は一丁もありませんよ、警視! うちのショーの男も女も、そんなのを持ってる者は一人もいませんよ」
「豆鉄砲か」と、警視は、面白そうに、あいづちを打った。
「そのとおりでさあ――豆鉄砲でさ」
「しかし」と、警視はドライな調子でつづけた。「一座の者が、いつもは、二十二口径を持ち歩かないにしても、今夜、二十二口径を持ち歩かなかったということにはならないな、グラント君。今夜はいつもと、ちがうんだ。そうだろ、君。それに、二十二の弾を使う大型のやつがいくらでもあるのは、ぼくも君も、よく知ってることだ」と、悲しげに頭をふった。「しかもだね、きょう日は、だれにだって、やさしく拳銃が買えるんだからな! いいかい、グラント君。ただ、それだけのことで、君の一座の連中を無罪放免することは出来そうもないね……それで全部かね、ハンコック先生」
「全部です」と、医師は低くいった。
「ごくろうでした。うちの、プラウティ医師が、そろそろつくころです。君は、もう必要ないと思う、ハンコック先生。君は向こうの、ジェロニモ酋長の部下か――一体ここはニューヨークかい――カウボーイといっしょにいてください」
ハンコック医師は、小さな鞄をひっさげて、誠実そうな目をして、おとなしく引きさがった。
死体は、冷えて、急速に硬直しながら、もとのままの場処に残され、二万人の、怒りのこもった目に、さらされていた。トニー・マースは、あきれて立っていた。ぐちゃぐちゃに葉巻をかんでいたから、葉がちぎれて、うすい唇に、茶色くべっとりついていた。警視が彼に情報をもとめた。
「腹をわって話し合えるところがあるかね、トニー? そろそろ君に、二、三、ききたいことがあるんだが、ブルックリンとマンハッタンの半分がおしかけて来てる前じゃあ、訊問《じんもん》したくないよ。近くに小部屋があるだろう?」
「案内しましょう」と、マースは、きっぱりいって歩き出した。
「待ちたまえ。トーマス! どこだ、トーマス!」
ヴェリー部長は、同時に二つの場処にいられるのかと思えるような不思議な才能でひょっこりと、警視のそばにあらわれた。
「ついて来い、トーマス。君たち猛者《もさ》は」と、警視は五人の屈強な刑事たちに大声で「ここでがんばれ。グラント君、いっしょに来てもらおう。ピゴット、あの天使みたいな髪の若いの――まき毛グラントだ――あれと、ホーン嬢を、あすこの連中の中からつれて来い」
マースは、競技場の南側の壁にある小さい出入口の一つへ案内した。警視が一言二言いうと、見張りの刑事が扉をあけた。一同は、小部屋がいくつもならんでいる広い地下室に出た。その一つの部屋に、マースが、一同をつれていった。小さな事務室で、多分、看守か、時間測定係の部屋らしかった。
「エラリー、ドアをしめてくれ」と、警視がどなった。「トーマス。だれも入れちゃならんぞ」
警視は二つある椅子の一つを占領して、腰をおろし、かぎたばこをすって、折り目のちゃんとしているグレーのズボンのしわをのばすと、椅子の背をつかんで立っているキット・ホーンを手招きした。キットは、もう、正気にもどっていた。まき毛グラントがのませた、気付薬で、ショックはすっかりおさまっていたが、今度は、静かになりすぎていて、なにか警戒しているように、エラリーには見えた。
「掛けなさい。かけなさい、ホーンさん」と、警視はやさしくいった。「さぞ、つかれたでしょう」キットは腰かけた。「さて、グラント君、君も、こっちへ寄りたまえ」と、警視はてきぱきとつづけた。「われわれきりだ。みんな友人だ。だから、君も本当のところを話せるだろう。何か意見はないかね?」
「ないですなあ」と、グラントがぼそっと答えた。
「君の友達を殺しそうな者の心当りは?」
「ありません。バックは――」と、声をふるわせて「あいつは子供みたいな奴でした、警視。あんな気立てのいい男はありませんでした。世界中に一人だって敵はありませんでしたよ。たしかなこってす。あいつを知ってる者は、みんなあいつが好きで――愛してました」
「ウッディはどうかしら?」と、キット・ホーンが、低い、けわしい口調でいった。キットの目は、こゆるぎもせずに、グラントのつやのいい顔をみつめていた。
座長の顔には当惑の色があらわれた。「ああ、ウッディね」といった「あいつは――」
「ウッディというのはだれかね?」と、警視がたずねた。
「うちの正式の一番騎手です。一座のスターでした――バックが仲間入りするまではね、旦那」
「嫉妬《しっと》かな」と、警視は目を光らせて、ちらっと、キットを見た。「くやしがり屋だろうな、ウッディは。さあ、何かいうことがあるだろう。わけがなければ、ホーンさんが、あんなことをいうはずがない」
「ウッディ」と、エラリーは考えて「ひょいとすると、あの片腕の男じゃないかな」
「そうです」と、グラントが「どうしてそれが?」
「理由はないんだ」と、エラリーがつぶやいた「ちょっと、そんな気がしたんでね」
「ねえ、もう言うことは何もありませんよ」と、グラントが、うんざり顔で「おっしゃるとおり、ウッディの方に、腹にすえかねることが、あったかもしれませんがね、旦那。バックとの間に、何か感情のもつれがあったかもしれません……ウッディは片腕しかないんだが、それをめしの種《たね》にしているんです。乗馬にも、射撃にも、少しもさしさわりがないし、むしろ、自慢にしてるぐらいです。バックがやってきたとき……ウッディには、バックが一座にくわわるのは臨時だといっといたんです。そりゃ、バックが割り込んできたのを、こころよくは思わなかったでしょうがね、旦那、人殺しなんて、そんなばかなまねをする男じゃ、断じて、ありませんよ」
「そいつはいまに分るだろう。だれか他に、いやしないかね? お前は?――まき毛君」
まき毛は、絶望的に「警視さん、ぼくは出来ることなら――何でもお手伝いしますよ。でもこいつあ――ひどい、畜生のしわざでさあ! うちの連中には、こんなことが出来る奴は、一人だって――」
「いてほしくないな」と、警視は、ただ相手の絶望をなだめるように、|ゆううつ《ヽヽヽヽ》そうにいった。「あなたは? ホーンさん」
「ウッディの他には」と、キットは無表情で「父の死をねがってるような人は一人も知りません」
「ウッディに、ばかに手きびしいね、キット」と、グラント老人が顔をしかめた。
「こんなにひどいことをしたやつには、だれにだって手きびしいわよ、ビル」と、キットが、冷たくいった。一同は、ちらりと、キットを見たが、彼女は床を見つめていた。気まずい空気がながれた。
「ところで」と、警視は、せきばらいして「ところで、バック・ホーンが、君のショーに参加した事情を話してくれんかね、グラントさん。どこかから手をつけなけりゃならないからね。バックは、サーカスでは何をやってたのかね」
「一座のこってすか?」と、グラントはききかえして「わたしは――おお。バックは、もう十年ちかく、世間から引っこんでたんです。多分、三、四年前にちょいと出て来て、映画をとって、カンバックしようとしたんですがね。その写真が失敗で、そいつが、ひどくこたえたんです。それからワイオミングの牧場へ、ひっこんじゃったんです」
「こたえたというと?」
グラントは指をぽきぽきならした。「ひどく失望したんでさあ! いつまでも、くよくよしてたんですが、がんこな野郎で、どうしても、横っ面を張られたのが、がまん出来なかったんです。やがて、トーキーが始まったので、また、みこしをあげたんです。わたしが牧場に泊ったとき、昔のとおりに元気だといって――もう一度、映画にカンバックしたいと、相談するんです。わたしが、思いきらせようと、いろいろくどいてみたんですが、あいつのいうに『ビル、ここにいると気が狂いそうなんだ、一人ぼっちでな。キットはハリウッドで忙しいし……』とこうなんで。で、わたしが『分ったよ、バック。片棒かつぐよ。出来るだけ手伝うよ』といったんでさ。だから手伝ったんだが――こんなことになっちまって」と、グラントは、つらそうに話した。
「すると、ここのロデオに出演したのは、宣伝のためだったんだね?」
「わたしとしても、何とかしてやらなくちゃならなかったんで」
「あまり見込みはなかったというわけかね?」
グラントは、またぽきぽき指をならした。「はじめは、とてもショーには出られないと思ってたんです。ところが、先週だった――と思いますがね。うまく当りかけたんです。新聞が書きたてましてね――映画の元老ってな|よた《ヽヽ》記事でした」
「話の途中で悪いけど」と、エラリーが「ホーンさんのカンバック計画は、だれか映画製作者と直接のコネがあってのことかい?」
「大ぶろしきだろうっていうんですね」と、グラントはつぶやいた「そりゃ――製作者とコネなしでさ――やつらは、バックには鼻汁《はな》もひっかけやしませんよ。でも――ね。私も賭けの割り前を出すつもりだったんでさ。共同に会社をつくるつもりで……」
「君たちだけでか?」と、警視がたずねた。
トニー・マースが落ちついていった「それは考慮中だったんです。それにハンター――ジュリアン・ハンターも」
「ああ、ハンターか。ナイト・クラブの男だね――あの、ゲイという女の夫なら、今夜、会った。そうか、そうか」と、警視の目が冷たく光った。「ところで、ホーンの親友のグラントと、君ら、トニーとハンターが、ホーンのためにひとはだぬごうというのに――しかもホーンの娘が、びた一文出さないというのは、一体どういうわけか、だれか説明してくれんかね」
グラントは生《なま》つばをのみこんで、よごれた煉瓦|塀《べい》のような顔を筋ばらせた。まき毛は、ちょっとやりきれないという身ぶりをした。キットはしゃんと坐っていた――かなり長くしゃんと、坐ったままだった。目に涙がいっぱいだった――大粒の涙で、純粋の怒りと悲しみの涙だった。
「ビル・グラントさん」と、息をつまらせて「あなた、ここではっきり、製作者とのコネはなかったというつもりなの? じゃなぜ、御自分の口から、私にコネがあるようにいったんです――」
クイーン父子はだまっていた。警視は、このような思いがけぬ小さなドラマを自然に展開させるという手を知っていたので、面白そうになりゆきをみていた。
グラントは口ごもった「キット、キット、本当にすまなかった。私のせいじゃないんだ。バックがそう言わせたんだ。バックは、あんたに損をさせたくなかったんだ。だから、製作者とコネがあるといえば、あんたが金を出そうと言い張らないだろうと言ってた。かけひきだったんだ。まったくのかけひきさ。カンバックするのに、れっきとした実業家の資本が引き出せなくても、何とかなると、言っていたんだ」
「ついでに言っとく方がいいよ、父っちゃん」と、まき毛が急に口を出した。「バックは、おやじが、|おあし《ヽヽヽ》を出してたことも、知っちゃいなかったんだ」
「ほ、ほう」と、警視はつぶやいた。「まるっきりおとぎ話だな。だんだん、こんぐらかってくるじゃないか。どうしたってことだ?」
グラントは、むすこを、ちょっと、にらんで「おい、まき毛! きかれもしないのに、ぺらぺらしゃべるな」まき毛は、はずかしそうに赤くなってぶつぶつ言った「分ったよ、父っちゃん」グラントは肉づきの良い右手をふって「ばれちゃったから、言いますがね。そうでさあ。私が金を出してやるのを、バックは知っちゃいなかったんです。とても、そんなこと、承知しやあしなかったでしょうよ。ただ、私に、マネジャーになってほしかったんでさあ。契約も結んだんです。だから、私は、当たってくだけろってつもりで――ここにいるマースに、一口のるように持ちかけてみたんです。しかし、マースには、こっそりと、仕事の全責任は私が持つと、耳打ちしといたんです。どっちみち、最初から、そのつもりでいたにゃいたんですよ」
「ホーンは、君の真意を知っとったんじゃないか?」
グラントはぼそぼそと「さあね。あいつはいつも、ごまかしにのるような男じゃなかった。そういえば、この二、三日、そぶりが変でしたが、気がついてたのかな。あいつは、一生、人から、めぐみを受けたり――そう、特に友達に迷惑をかけるのを、ひどくいやがってたんです」
不意に、キットは立ち上って、グラントに近より、ぴったりと、くっついて立った。二人はじっと目を見合わせていたが、キットが一言「ごめんなさい、ビル」といって、椅子にもどった。しばらく、だれも、何もいわなかった。
「お話をきいていると」と、エラリーが元気よく沈黙を破って「この犯人は、どんなに罵《ののし》っても、とても罵りたりない悪党ということになりますね。ホーンさん。どなたかに御養父の死亡通知を出す必要がありますか」
キットは低く「一人もありません」といった。
エラリーはぐるっと顔をまわして、グラントをみた。しかし、グラントは深く、うなだれるだけだった。
「あなたの他には、身寄りの方がいないわけなんですか」
「ええ、親類も、生きているのは一人もいませんのよ、クイーンさん」
エラリーは暗い顔をして「でも、あなたが知らないのかもしれませんね。どうなんですか、グラントさん。本当なんですか」
「本当のことでさ。娘のキットだけが、この世でたった一人の身寄りでさ。バックは六つで孤児になって――ワイオミングに住んでた私のおやじのとなりに牧場を持ってた叔父にそだてられたんです。うちのおやじと、バックの叔父は、同じ放牧地を使ってたんです」と、いかにもつらそうに「ところで――バックの叔父は、とうの昔に死んでるし、これですっかりおわりでさあ。バックは、ホーン家の最後の一人だったんです――北西部では一番古い家柄の一つでしたのにねえ」
この話のあいだ、エラリー・クイーンの顔は、カメレオンが色をかえるように、ぱっぱっと表情をかえていくのだった。グラントの話が、なぜ、エラリーの心を、そんなにかきみだすのかは分らなかった。しかし、心をかきみだされながらも、じきに、努力して、あらゆる感情を、顔から消し去った。警視は、やや不審そうに、エラリーの顔をみつめていたが、自分では冷静にして、エラリーの頭の中に、どんな難問がもちあがっているのかを、見れるものなら、見抜いてやろうとするだけで満足していた。ところがエラリーは肩をすくめて、ほんのかすかに、にやっと笑った。
「ホーンさんが死ぬことになったあの最後の行進に、何人の騎手が従うと、あなたはアナウンスしましたか、グラントさん?」
座長は、はっと夢からさめて「なんですって? 騎手? 四十人です」
「でも、四十一人いましたよ、そうでしょ」
「四十人です。たしかです。私が金を払うんだから」
このとき、警視は目を細めて「君が、少し前に、場内で、四十人といったときには、大ざっぱの人数だったんじゃないか? そうだろう」と、てきぱき、口をはさんだ。
グラントは真赤になった。「おおざっぱな人数ですって、とんでもない。一体どうしたんです? 私が四十人といったら、ぴったり四十人です――四十一人でもなけりゃ、三十九人でもないし、まして百六十人なんて、|よた《ヽヽ》はとばしませんよ」
クイーン父子は、目を光らせて、意味ありげに目くばせした。やがて警視が、叱りつけるようにいった。「エラリー――こら――お前が、数えちがえたんだろう。そうにちがいないぞ」
「まさか。ぼくは学生時代、数学は得意だったんですよ。それが、なんと、たった四十ばかりの数を数える問題で、数学的能力を、疑われるとは思いませんでしたよ」と、エラリーはあとをドイツ語で「≪自分は理性的に考えないから、理性的なまちがいはしない≫というドイツの言葉があるんですが、まさに、そのとおりですね。しかし、ぼくはいつも理性的な人間であると自認してるんです――ひとつこの小さな問題を実証してみようじゃありませんか」
エラリーは戸口に向かって歩き出した。
「どこへ行くつもりかね」と、警視がたずねた。一同は、びっくりして目をみはった。
「あらゆる殉教者《じゅんきょうしゃ》のように――闘技場へね」
「でも、何をしらべるんだ?」
「生き残りの、鼻づらを数えるんです」
一同は連れだって、地下の部屋にはいるときに通った小さな戸口を出て、ぎらぎらと照明されているコロシアムの中にもどった。大観衆のさわぎにも、今や、一種特別な疲れの色がみえていた。刑事たちはあくびをしていたし、競技場のカウボーイやカウガールの一団も、気落ちしたり、無関心な様子で、てんでんばらばらに、おがくずの上に腰を下ろしていた。
「じゃ、グラントさん」と、一同が、その一団に小走りで近づいたとき、エラリーは、早口にいった「自分で数えてごらんなさいよ。ぼくの頭が変なのかもしれません」
グラントは何かぶつぶつ言いながら、舞台衣裳をつけた使用人たちをながめまわしてから、中にはいって、声を出してひとりずつ数え上げた。ほとんどの者は、地面に腰をおろして、うなだれていた。座長は、ステットソンが、きのこの林のようにならんでいる中を数えて歩いた。
やがてもどってくると、その顔からは、バック・ホーンがトラックに落ちて死んだ瞬間から、苦痛と困惑と驚怖の表情が入りみだれていたのが、かき消されていた。かみしめた唇の下で、がっちりしたあごが、わなないた。
「クイーンさんが言ったとおりだ。たしかに四十一人いなかったひにゃ、わたしも馬乗り仲間のくずになっちまいまさあ!」と、グラントは警視に大きな声をかけた。
「君は、あのこぎたない小男、ブーンも数えたかい?」と、警視は、すぐに、きいた。
「ダヌルですか? いいえ。あいつはいませんでした。ダヌルをぬいて四十一人いました」みんなは日やけした顔をあげて、グラントを不思議そうに見つめていた。グラントはくるりとふりむいて、芝居気ぬきに、右手を右の尻にまわして上衣を後ろにずらしながら、|から《ヽヽ》のホルスターをちらつかせた。しかし、拳銃がないのに気づいたらしく、すぐに、いやな顔をして、手を、おろした。それから、どなった。「やい! やくざカウボーイども! 女《めす》どももだ! あと足立ちして、きたねえ面を、よく見せてみろ!」
一瞬、みんなは、おどろいて、しんとした。エラリーの顔から微笑が消えた。ワイオミングの、あばれん坊ビル・グラントとその仲間が、小型の暴動でもおこしそうな気配だった。一人のとても大男のカウボーイ――普段は陽気な、ちびダウンズが――のっそりと進み出て、どなった「もう一度いってみなよ、グラントさん。も一度きかしてもらわないと、分らねえよ」と、棍棒《こんぼう》のような、こぶしを握りしめた。
グラントはにらみつけた「ダウンズ、お前はおとなしく、ひっこんでろ! 他のやつは――みんな立つんだ! 余《よ》けいもんがいるんだ。おれは、きたねえ人殺しをみつけるまで、手をゆるめないからな」
みんなしゅんとなって、ぶつぶつこぼしながら、すぐに立ち上って、男も女も、互に、さりげなく、見合った。グラントはみんなの中にとびこんで、低い声で、たしかめながら「ハウズ。ハウエル。ジョーンズ。ラムゼー。ミラー。ブルーヂ。アニー。ストライカー。メンドーザ。ルウ……おや?」
一団の真中で、グラントは、嘔き出すような荒い息をはずませながらしばらく立ちどまっていた。それから、腕をのばすと、一人のカウボーイの肩を、わしづかみにした。
グラントは、綱をかけた仔牛をひきずるように、つかまえた男をひきずりながら、急いで、一団の中から出て来た。その男は、やせた顔を紫や茶色でぬりたくっていたが、青くなって、顔をゆがめていた――とても、大平原の男という、代物《しろもの》ではなかった。グラントのわしづかみで、ちぢみ上がっていたが、ぬけ目のなさそうな小さい目には、人をくったところがあった。
あばれん坊ビルは、ものもいわずに、その男を、警視の目の前の地面に突きころがし、足をひろげて、おいかぶさるように突っ立ち、怒った灰色熊のように、つばをはき、ふうふう怒っていた。
「ここにいるこいつだ!」やっと声が出るようになると、グラントが、わめいた。「警視、この迷い牛は、一座の人間じゃありません!」
五 やくざ記者
その曳《ひ》かれ者は、地面から起き上ると、きらびやかな衣裳から、泥の|はね《ヽヽ》を、ていねいにはらいおとして、あばれん坊ビルの胃袋の真上を、ぽかっと一発やった。あばれん坊ビルは、ウッ! と叫んで、痛そうにからだを折りまげた。まき毛は、ばねがはじけるように、とびかかって、硬い褐色の拳で、男の口になぐりかかった。男は身をかがめて、拳をよけ、にたりとずるく笑って、警視の背中にかくれた。とび入り勝手の大乱闘がまさに始まろうとするのを、ヴェリー部長が、とび出して引き分けた。部長は、むぞうさに、まき毛の腕をつかんで背の方へねじり上げ、もう一方の手で、苦もなく、曳かれ者の首をつかんだ。部長にひっつかまれた二人は部長の胸を中にはさんで、子供のけんかよろしくにらみあった。果たして、カウボーイどもは、三人の方へ殺到した。
警視がどなりつけた。「さがるんだ、みんな! さもないと、みんな、ぶち込むぞ!」みんなはたじろいだ。「おい、トーマス、あんまり締めつけるな。生かしておくんだ。殺さずにな」ヴェリー部長は、命令どおりに、二人をつかんでいる手を放した。二人は照れくさそうに身ぶるいした。考えがあって、じっとグラントを眺めていたエラリーは、茶色の革のような彼の顔色が殺気をおびてサフラン色に変わるのに気がついた。つかまった男は、たばこをまいて、落ちついて、火をつけた。「どうだい、ターザン君」と、かん高い、機関銃のような声で、だまり込んだ座長にいった「勤勉な新聞記者に、こぎたない君の手を出しちゃいけないってことが、分ったろう」
グラントは、のどの奥で、低くうなった。
「もういい!」と警視はするどく「さあ、お前。どたばたはすんだ。わけを話すんだ、簡単に!」
男はしばらくタバコをふかしていた。やせ型で、ブロンドで、年のほどは見当がつかなかった。疲れた目をしていた。
「どうした?」と、警視が、うながした。
「簡単な、いいわけはないものかと思ってね」と、男は、ゆっくり言った。
警視はにやりとして「あ、そうか。ブロードウェイの駄じゃれを言っとるつもりだな。君は、こんな場処へとび出してくる男とは、素性がちがうんだろう。さあ、話すんだ。さもないと、本庁へひっくくって行くぞ」
「こわいなあ、いやですよ」と、その男は、うす笑いをうかべて「話しますよ、先生――ただ、パチンコはごめんですよ――それとも、パチンコがこの事件のかぎですかね? ぼくは、千三《せんみつ》屋の申し子、ライヤンズ夫人のむすこ、テッド・ライヤンズです――醜聞《しゅうぶん》あさり、町の地まわり、世界一の赤新聞の読みもの記者、あんたたちなんかが、数え上げられないほど多くの、スキャンダルに、通じてる人間ですよ」
ヴェリー部長は、つむじをまげた野牛のようにうなった。何かとても、ひどい言葉が部長の唇をもれて、あたりの空気をかきみだした。
「テッド・ライヤンズか」と、警視は考えこむようにいって「そうか、そうか。それにしても、とんだ、ほかほかの殺人現場に、とびこんだもんだな、えー君? こうなった以上――」
「もちろん」と、ライヤンズは、大げさに、だぶだぶなズボンを勢いよくひきあげながら、愉快そうに言った。「うまいとこで出会ったというもんですよ、警視。ぼくは、退散させてもらいましょう。どうです、面白かったでしょう、親愛なる野牛、あばれん坊ビル・グラント君は一汗かいて、腹にパンチを一発くらったしね。そこで、テッディー坊やは、下町の薄情な新聞王のもとに馳せ参じて、今年最大のニュースを書かなくちゃならない段取り。というわけで、テッディー坊やは――」
「テッディー坊やには、二、三説明する義務があるよ。坊や、するだろう」と、警視は微笑したが、ふと気を変えて、するどくいった「いいかげんにしろ、ライヤンズ。一晩中、お前にかかりきってる暇はないんだ! ジェス・ジェームスみたいな|なり《ヽヽ》で、一体ここで何をしてたんだ?」
「おお」と、ライヤンズはいって「おう、小型警視さん、分らないことをいうなよ? なあ、小父ちゃん、ぼくをだれだと思うのさ。テッド・ライヤンズだぜ。君んとこの新撰組が、たばになってかかったって、ぼくが歩き出したら、とめられっこないよ」
警視は眉をつりあげて、ヴェリー部長に目くばせした。部長は、ひとあし、ライヤンズに近づいた。……ライヤンズは、油断なく目をくばった。二万の観衆の前で、まさに、活劇がはじまろうとした。
「わかったよ、旦那」と、ライヤンズは、うなだれて、渋々いった「話しますよ、旦那。すっかり、しゃべるよ。バック・ホーンを、小っちゃな空気銃でやったのは、ぼくさ。たしかさ。やつの後からつきつけて、こういってやったのさ、≪バック、お前は、みじめな山犬さ。おれが、皮をはいでやるぞ!≫ってね……」
このいやらしい男の、悪趣味な、いいのがれには、みんな、あきれて、ものもいえなかった。ただ、エラリーだけは、じっと、キット・ホーンの目の色をみてとって、つかつかと進み出て言った。
「君は、まったくけがらわしい、うじ虫野郎だな、ライヤンズ。話にもならん。だが自分じゃあ、どんな、しらみか気がついていないんだろう。バック・ホーンの娘さんが、君のいった悪口雑言を、のこらずきいているのが分らないのか?」
「これはこれは、ガラハッド卿! アーサー王の円卓の騎士殿!」と、ライヤンズは早口に言って、身構えた。目は殺気をおびて光った。「ふざけるな、おい。手前はだれだってんだ。おれはここを出て行くぜ、デカがとめようたって駄目だ――」
いい終らないうちに、怒った連中が殺到した。グラント父子と、ヴェリー部長と、トニー・マースと、近くにいた六人のカウボーイが、彼にとびかかった。ライヤンズは一歩退いて、狼のように白い歯をむき出して、手をふりあげた。その手には、みにくい、小さな武器が――鼻ぺちゃの、信じられないほど小さな、自動拳銃が光っていた。とびかかろうとした連中は、ぴたりと、とまった。
「骨なしの水ぶくれどもだな」と、ライヤンズは油断なく見まわしながら、まくし立てた。ヴェリー部長は、カタパルトのようにとびかかって、ライヤンズの手から、自動拳銃をたたき落した。「ふざけたまねをしやがって!」と、声の調子もかえずにいって、土間から、ひろいあげなから「こんなものでも、けが人がでる」
ライヤンズは真青になった。
「どっち道、役にはたたん」と、部長がいった。
一同がおどろいたことには、ライヤンズは笑い出した。「分りましたよ。分りました」と、笑い声をたてて「テッディー坊やは降参するよ。だが、ことわっとくが、新聞で――」
「そのパチンコを、よこしたまえ、トーマス」と、警視は、おだやかにいった。部長が手渡した。警視は弾倉を開いて、中をのぞきこんだ。弾は一発も使ってなかった。
「こりゃあ、二十五口径だな」と、つぶやいて、目を細めた。「しかし射ってないな。においもしない」と、ちょっと銃口をかいでみて「気の毒だがな、ライヤンズ。話してもらおう。それとも、警官に銃を向けたかどで、シンシン刑務所に送りこんだ方が、いいかもしれんな」
ライヤンズは仕方がないというふうに肩をすくめて、もう一本、たばこをつけた。「すみません。あやまります。一、二杯ひっかけてたんでね。ぼくをしぼっても何も出て来やしませんよ、警視。自己宣伝のためにやったんだから」ライヤンズは疲れたような目を、半分とじた。
「どうやって、ここへ、はいって来たんだね?」
「四十五番街の舞台衣裳屋で、カウボーイの服を借りたんです。ショーのはじまる三十分前にここに来ました。守衛が通してくれたんです――ショーに出る人間だと思ったんでしょうよ。そこらを見て歩いて、馬舎へ行き、ぼろ馬を一匹ひき出して、他の連中にまぎれて、あのベンハーまがいの大行進に、はいった――というわけなんです」
「君は、むろん、一番たちの悪い宣伝屋だ」と、エラリーが低い声で「だが、こんな無茶な、ばかげた行動をして、君自身には、どんな利益があるのか、分りかねるな。ただ、行進にくわわるだけなら――」
「ちがうさ」と、ライヤンズがいった。「ぼくには小学生時代のスリルがなつかしかったんだ。ぼくは、カメラマンを一人、観覧席に入れておいた。何とか口実をつくって、ホーンに近づいて、二人いっしょにいるところを撮らせるつもりだったんだ。うまく成功すれば、ぼくも新聞も大|特種《とくだね》ってわけだ。ところが、運わるくも、ぼくが、大スクープ記者、アリグゼンダー・ウールコットの二世! と、もてはやされる一歩手前で、だれかが、あのじいさんを、ばーんと、やっちまったのさ」
ちょっと、沈黙が続いた。
「なかなかすばらしい企画だ。もちろん」と、エラリーが、ひやかして「だが、バック・ホーンのどのくらい近くを、馬で走ってたのかね、ライアンズ」
「それほど近くじゃあないよ、君。そう近くじゃない」
「どれくらいかね?」
「騎馬の連中の、どん尻にいたんだ」
警視はヴェリー部長をそばに呼んで、しばらく相談していた。「君のいったカメラマンはどの桟敷《ヽヽ》にいるのかね。ライヤンズ」
その読みもの記者は、マースの連中が坐っていた桟敷の、すぐ近くの特別席を、無造作に指さした。ヴェリー部長は足音あらく立ち去ったが、やがて、小さなグラフレックス・カメラを持った、おじけづいて口をあけている若い男をつれて、もどった。うむをいわさず、その男は、カメラもなにも、すっかり、しらべられた。あやしいものが一つも出ないので、もとの席へ返された。
警視は、何か考えながら、記者をながめた。「ライヤンズ。どうも、何かくさいぞ。君は、何かがおこりそうだという情報を持っていたんじゃないかい?」
ライヤンズはうめいた「とんでもない。そんならよかったんです。そうあってほしかったよ」
「君は他の一座の連中と、話はしなかったのかい? みんなで馬を乗り出す前に?」
「しませんでしたよ。へたに目をつけられると、ことですからね」
「何をしていた?」
「ただ、ぶらぶらしてたんです」
「何か怪しいものに気がつかなかったか?――捜査の役に立ちそうなものに?」
「これってことはなかったね、おやじさん!」
「さっき、ふりまわした二十五口径自動拳銃は、どこで手に入れたのかね?」
「心配しなさんな、お役人。ぼくは携帯許可証がとってあるんだ」
「どこで手に入れたかを、きいてるんだ」
「サンタクロースの贈りものさ。もちろん、買ったのさ! 何んてこった――ぼくがこの殺しをやったと思ってるのか?」
「そのハジキに名札をつけとけ、トーマス」と、警視はおだやかにいった。「それから、他の金《かな》けのものも全部、とり上げてくれ。あきれたな、こいつは銃器庫が歩いてるようなもんだ!」
ライアンズの仮装舞踏会衣裳のはでなホルスターには、二丁の銃身の長い廻転拳銃がおさまっていた。部長はそれを静かにはずして、助手の一人に手渡してから、セオドア・ライヤンズ氏の着衣とからだを、くまなく、くそ力で検査したので、しらべられる方は、うめき声をあげた。
「他には、なにもありません、警視」と、ヴェリーがいった。
「こっちの銃はどこで手に入れた?」と、警視が、たずねた。
「下の銃器庫だよ。他の連中がみんな持ち出してたから、ぼくも、そうしたんだ……ねえ、親分、ぼくは全然、撃たなかったよ」
警視は拳銃をしらべた。「空弾《からだま》だ。この弾も、下で手に入れたんだろうな。よろしい、トーマス、この小悪党を、コロシアムから、送り出してやってくれ。だが、注意するんだ――途中で、だれかが、こいつに、何かを、こっそり渡すかもしれんからな」
「注意します」と、部長は、元気にいって、ライヤンズの腕に、自分の腕をからませて、このおしゃべりな≪内幕≫ものの代表記者――全国新聞の特約連載記者で悪名高い男――を、うむをいわさず、小さい出口の方へ引っ立てて行った。こうして二人の男は姿を消した。
六 たしかな事実
冷たい死体は、黙りこくった人々に持ち上げられて、円形劇場の地下の、数多くの小部屋の一つに、運びこまれた。クイーン父子と、キット・ホーンと、グラント父子は、ふたたび、時計係りの事務室にもどった。「プラウティ先生を待っとる間に」と、警視は不機嫌な顔で「先生、いつも、ぐずぐずしとる。しようがない先生だ! ところで、この事件をもう少し深く掘じくってみよう」
一時間の上も、キット・ホーンの顔にへばりついていた、きびしく強《こわ》ばった表情が、くずれて、もうがまんしてはいられないというふうに彼女は口を開いた。「もう潮時《しおどき》よ」と、熱をこめて「てきぱきやってよ。お願いですわ」
「お嬢さん」と、警視はやさしく「もう少しの辛抱です。われわれが、どんなに困難な壁にぶち当っとるか、あんたには分っとらん。ところで、君らはみんな、ホーンには敵がなかったと証言しとる――すると、その方面には手がかりがない――そして、手のうちには、二万人の容疑者がいる。一人もぬけ出したものはない。もう少し君たちに話してもらいたいんだ――」
「何でも、お話しますわ。このおそろしい――」
「うん、うん、お嬢さん、分ってる。君が何でも話してくれることを信じるよ。お父さんの、今日のそぶりはどうだったかね。何か心配したり、困ったりしている様子はなかったかね」
キットはつとめて冷静になろうと努力をして、まぶたをふせ、しっかりした声で、彼女が割ってはいった、ウッディとホーンとの一幕を話した。
「父は元気そうでしたわ、警視さん。でも、あたし、気になったんで、お医者様に診てもらったかどうか、きいてみたんです――」
「ああ、そう、あの人は、しばらく、病気していたと、いってましたね」と、エラリーが口をはさんだ。
「ええ、そうでしたわ――そう、ここ一、二年、からだの調子が悪かったんです」と、キットがものうそうに説明した。「お医者様は、ただ年のせいだといってました。六十五ですもの」と、声をとぎらせて「父は、はげしい生活を送ったんですから、あの年になったら、調子をおとす必要があるんですわ。私は父に仕事にかえってもらいたくなかったんです。でも、父はその方がからだに良いし、調子も良くなると言い張りました。今日も、ロデオのお医者様の診察を受けたかどうかとたずねましたら、けさ、みてもらって、どこもなんともないと、言っていました」
「だが、何か気にしている様子はなかったかね」と、警視がたずねた。
「いいえ。と申しましても……本当は、あたしにはよく分らなかったんです。何か気にはしていたようですが、そんなにとりみだしてはいなかったようです」
「何を気にしていたか分らなかったかね」
キットは警視をするどく見つめて「分ったらいいんですけど!」
警視は座長をふり向いて「君はどうかね。グラント君? ホーンが気にしていたらしいことに、何か心当りはないかね」
「いえ、ちっとも。例の映画の話で、何か臭いことでもかぎつければ別ですがね。キット、お前さんは勝手にいろんなことを想像してんだ――」
「もういい、もういい」と、警視が急いでとめた。「そんなことで、言いあらそっちゃいかん。ホーンさん、今日あったことを話してくれんかね?」
「私は――昨夜はおそくまで外にいたもんですから、今朝はかなりおそくおきたんです。父と私――私たちは――西四十四番街のバークレイ・ホテルの続き部屋に泊っているんです。一座の人たちも、そこに泊っています。私が父の部屋のドアをたたくと、父はドアをあけて、お早うのキスをしてくれました。ほんとうに、元気そうでした。四時から起きているといってました――父はいつも日の出とともにおきる人なんですわ。それから、セントラル公園を散歩して、朝御飯もすんだと言ってました……私は軽い食事を持ってこさせ、父もコーヒーを一杯、つき合ってくれました。午後二時頃、リハーサルをしに、コロシアムへ歩いて来たんです」
「ああ、すると、総ざらいをしたんだね、グラント君」
「ええ、小道具までつけてやりました。バックだけは――衣裳がえを面倒くさがって、そのまんまでしたがね。手落ちがないように、最後の総ざらいを、すっかりやったんでさ」
「私は、それをしばらく見てから、ぶらりと出かけたんです――」
「ちょっと」と、エラリーは考えながら「グラントさん、あなたも総ざらいに立ち合ったんですか?」
「もちろんでさ」
「全部、予定どおりに、うまく行きましたか?」
グラントは目をまるくして「もちろんでさ! バックは多少神経質になってる様子でした。お客の前で、また演技するのを考えると、うれしくて、そわそわすると、言っていました」
エラリーは唇をなめて「おさらいというのは、どんなことですか?」
「大したことじゃありません。競技場をまわって馬を走らせたり――今夜事件がおきたとき、ごらんになった、あれでさ。それからバックが、独演する簡単な曲乗りを二つ三つ――派手ですが、やさしいもんでさ。次には、模範射撃。それから、投繩を少しやって――」
「はげしい演技はしなかったんですね? たとえば、牛を投繩で捕えて倒すとか、あばれ馬を乗りこなすとかいうのを、バックはしなかったんですね」
警視は、少し気がかりな様子で、むすこをながめていた。しかし、エラリーは、こんぐらかって、矛盾するいろいろな考えを、なんとか整理しようと努力するらしく、興奮したり、つかみどころのない想念をまとめようと苦しむ時のいつものくせで、ぴかぴか光る鼻眼鏡をはずして、宙をみつめながら、レンズをみがき始めた。
「いいえ」と、グラントが言った「そんなのは一つもしません――わたしがやらせなかったんでさ。そうだ。おさらいで、雄牛に、一、二回、繩をかけたが、ほんものの、牛倒《うしたお》しじゃないから、全然、危ないことはないんでさ」
「すると、バックはやりたがったんですね?」と、エラリーが追及した。
「バックはいつも、なんでもやりたがるんでさ」と、グラントが、低い声で「あのがんこ頭には自分が年よりだってことが分らないんでさ。それに、あきれたことには、やれば、何んでも出来るんだからね! おさらいのときには、いつも、どなりつけてやめさせなければならないほどでしたよ」
「フーン」と、エラリーは鼻眼鏡をかけて言った「とても面白いな」。キットと、まき毛は、おどろいて、エラリーをみつめた。キットの目に希望の光りがうかび、日やけした頬に血のけがさし、息をはずませた。「グラントさん、ホーンが模範射撃をする予定だったと言いましたね」と、エラリーがきいた。
「ええ。やったんでさ。本当に射撃の名人でした、バックは」と、グラントはきっぱりと答えた。「西部のことわざにもありまさ――カウボーイとは、馬と勇気のある男ってね。でも、ホーンの射撃の能力はそのことわざの勘定《かんじょう》外のものでしたぜ。すばらしかった。今日日《きょうび》の若いもんは、ただの牛飼いでさあ。昔はね……」と、グラントは荒々しく、からだをゆすった。「わたしはいくども見ましたがね、バックは、旧式の銃身の長いコルトを構えて、百フィート先の、二インチの的《まと》の金星を、六発、みごとにうちぬいたもんでさ。しかも、ほんのちょっとねらっただけでね。銃をもたせたら、出来ないものは何もなかった。もちろん、今夜やろうとしていた曲撃ちは、まったく見ものでしたよ、クイーンさん。キットの自慢の、ひたいに星のあるあしげの駒にまたがって、全力疾走しながら、的の金星の真中をぶちぬいたり、空中にほうりなげた銀貨を、はじきとばしたり――」
「よく分りました」と、エラリーは微笑して「バック・ホーンは、射手として、どこかずばぬけた人だったんですね。結構です。ところで、今日の総ざらいで、何かいつもと変わったことは、おこりませんでしたか? 何か手ちがいとか? ちょっとした|へま《ヽヽ》とか?」
グラントは頭をふって「時計のように正確にいきましたよ」
「乗り手はみんな出ていましたか」
「一人のこらずでさ」
エラリーは、いまいましそうに頭をふった――まるで自分に腹を立てているようだった。それから「ありがとう」と言って、ひきさがると、ぼんやりと、かすかに光る目で、たばこの光を見つめた。「総ざらいのあとは、どうだったね」と、警視がたずねた。
「そうね」とキットが受けて「父とウッディが、馬舎で、けんかしているのを見たことは、お話しましたわね。それからは父を見てないんです――私が父の楽屋を出てからあと――つまり、この建物を出て行く、ちょっと前までは。そのとき、グラントさんの事務室に寄りました。まき毛さんと別れて、すぐあとのことでした」キットは少しいいにくそうだった。まき毛は、髪の根まで真赤にして、靴の先で床をけりはじめたが、警視が、ちらっとその方を見ると、やめた。
「父は、ビルといっしょにいました――グラントさんと」
「そのとおりかね」と、警視は無表情な目を座長に向けてきいた。
「そのとおりでさ、警視」
「それから? ホーンさん」
キットはなさけなそうに肩をすくめた。「でも、もうこれといってお話することはないんです。父は小切手を書いていました。私は、ハローと声をかけて、コロシアムを出たんです――」
「ちょっと」と、エラリーは明るくいった。また、興味がわいたのだ。「その小切手は何のためだったんです? グラントさん」
「大したことじゃないんでさ。バックが、二十五ドルの小切手を現金にしてくれないかというんでね、いいよ、といったんでさ。そいで、小切手を切ったんで、わたしが現金を渡したんでさ」
「なるほど」と、エラリーは、すなおに受けて「その小切手をどうしましたか? いま、ここに持っていますか、グラントさん」
「いや、持ってません」と、グラントはのろのろいった。「そのあとで、ちょっと外出したんでね、銀行によりました――シーボード・ナショナルでさ。それで、その小切手を預けましたよ」
「よく分りました」と、エラリーは、うなずいて、ひきさがった。
警視は、ちらっとエラリーをみてから、グラントの方へ向きなおった。「あの男をみたのは、それが最後かね?」
「いいえ。わたしが銀行から帰りがけに、丁度この建物の入口で、ひょっこり、バックにぶつかりました。帽子をかぶって、外套をきてました。どこへ行く? ときくと、ホテルだと、言ってました。晩の仕事のために休んどきたいって、それっきりでした。他には何もいいませんでした。今夜はおくれて来て、少し興奮してるようでしたが、わたしに手を振って、楽屋に急いではいりました。衣裳がえをして、競技場に出るのに、かすかすの時間だったんでさ」
クイーン父子は顔を見合わせた。「それが、重要な点かもしれんな」と、警視がつぶやいた。「おくれて来たんだね。バークレイ・ホテルに行くといったのは、何時だったね?」
「四時をまわってました」
「フーン。あんたは、建物を出てから、お父さんにあったかな、ホーンさん」
「ええ。わたしはここを出て、まっすぐに、ホテルへ帰ったんです。それから、三十分ほどおくれて父がもどって来て、ひるねをすると言っていましたわ。私は着がえをして――階下《した》におりて、それから――」
まき毛グラントが、はじめて口をきいた。「それからあとは」と、いどみかかるように「ホーンさんは、ぼくといたんです。ロビーで会って、いっしょに外出して、ずっと午後をすごしたんです」
「そのとおりです」と、キットが小声で言った。
「それで、帰ってきたのは、何時ごろかね」と、警視が、たずねた。
「父は、もう、出かけていました。私のナイト・テーブルの上に、伝言《ことづけ》がのこしてありました。それで、私はイブニングに着かえて、タクシーで、コロシアムへ行きました。それから、父に会わずじまいで」と、声をふるわせて「父が競技場に、馬で出て来るまで、見かけなかったんです」
「ああ。じゃあ、あんたも、おくれたわけだね」と、警視がゆっくりいった。
「といいますと?」
老警視は微笑して、なだめるように手を振った。「何んでもないんだよ、君、何んでもないんだ!」警視は、かぎたばこを、ひとつまみ、すって、せきこんだ。「ただね――グラント君が、(ハックション!)グラント君が、君の父上が、おくれて来たといってるから、あんたは、もっと、おくれていたにちがいないだろう。そうだろう。至極、簡単なことさ」
まき毛が一歩ふみ出した。「ねえ、あんた」と仏頂面《ぶっちょうづら》で「そんな言いぐさはまったく気にくわないな。ホーンさんは、ぼくといっしょだったと、言ったでしょう――」
「おお。じゃあ、君も、おくれたんだな、お若いの」
グラントは、こわばった目を、すばやく、キットから、むすこに移した。まき毛は、歯をくいしばった。「いや、ぼくはおくれなかった。コロシアムの前を通ったときに、キットさんと別れたんです。ホテルまで送らないで良いといったから――」
警視は立ち上った。「よく分った。もうよろしい。ホーンさんも、君も、グラント君も――」
扉をはげしくノックする音がした。
「なんだ?」と、クイーン警視が、どなった。ドアを蹴あけて、死にかかりのマキアベリみたいな男が、とびこんで来た。あごひげが黒く、こちこちの山高帽をかぶり、歯のあいだには、どこかの未熟な葉巻職人が巻いたような、安葉巻が、いやなにおいで、くすぶっていた。その男は黒い往診鞄をさげていた。
「さあ、来ましたぜ」と、いかにも、報告調で「こちこちの死体はどこかね?」
「さあ、これでおわりだ。ホーンさん、グラントさん、御苦労でした」と、警視はすぐグラント父子とキットを部屋から追い出した。ヴェリー部長が、外の壁のかげからあらわれて、静かに、その連中に加わった。「競技場へもどっとれ! トーマス」と、警視が、大声でいうと、ヴェリーは、うなずいた。
「おい、アフリカのまじない医者の小せがれ奴《め》!」と、老警視が、黒いあごひげの新米者に、かみついた。「殺人現場に、二時間も、われわれを待たせておくなんて、君は、時間厳守ということを、何んだと思っとるんだ。それに――」
「分ったよ」と、マキアベリみたいな男は、薄笑いをうかべて「おきまり文句だな。そいで、こちこちの死体は、どこなんですかい。おいぼれの海賊さん?」
「分ったよ、サム、もういい。となりの部屋だ。いっそう、こちこちになってるぞ」
「ちょっと、プラウティ先生」と、エラリーが、出て行きかけた医師を呼びとめた。ニューヨーク市で殺された人口の半分の検死を受け持っている「時の死神」は、立ちどまった。エラリーは、プラウティ医師の肩に手をかけて、非常に熱心になにか話しこんだ。警察医は、うなずいて、ひどく、くすぶる葉巻を、いっそうかたく、かみしめながら、急いで、出ていった。
あとは、クイーン父子だけになった。
父と子は、ゆううつそうに顔を見合わせた。
「どうかね」と、警視がさぐりを入れた。
「どうも、むずかしいですね。そんな気がしますよ」と、エラリーが、ため息をついた。「最もクイーンごのみの犯罪に、またぶつかったわけですよ――貨車に積んですてるほど容疑者がいます。あの手こずったフィールド事件をおぼえていますか? あのときは劇場いっぱいの潜在的殺人犯人がいました〔ローマ劇場毒殺事件〕。フレンチ殺人は? お客で満員のデパートでした〔フランス・デパート殺人事件〕。ドールン老夫人の怪死は? 医者と看護婦と気違いで、いっぱいの病院でした。そして今度は、スポーツ競技場です。次の殺人犯人は」と、夢みるように「きっと、ヤンキースタジアムで殺しをやるでしょうよ。そうなれば、七万人の大群衆を捜査しなければならないから、おとなりのジャーシー市からも、応援の予備警官隊を呼ばなければならないでしょうね」
「べらべらしゃべらんでくれ」と、警視はいらいらしながらいった。「わしが気にしているのも、その点だ。お手上げだ。二万人の人間を、いつまでも、引きとめておくことは出来ない。さいわい、長官が町を出ているからいいようなものの、こんなふうに、ニューヨークの半分の人間をとじこめておいたら、長官はわしの首をしめあげるだろうよ。ヘンリー・サンプソンが留守なのも、わしにはうれしいぐらいだ」
「だって、長官や地方検事が、いようといまいと」エラリーはきっぱりいった。「そうすべきですよ」
「プラウティに何をいったのかね」
「あなたの大事な検死官に、ホーンの死体から、弾をぬき出すようにたのんだんです」
「なんだ、そんなことは、急がんでも良いじゃないか! あの、ロデオの医者が――何とかいう名の――二十二か二十五口径だといったじゃないか?」
「もう少し科学的にしましょうよ、お父さん。ぼくは、その小さな死神の使者に、ひどく興味があるんです。弾の話が、はっきりするまでは、観衆のだれ一人も――ほかのだれだって――この建物から出るのを許可するわけにはいきませんよ」
「出すつもりはないよ」と、警視は短かくいった。それから二人は黙りこんだ。
エラリーは、暗い曲を口ずさみはじめた。
「エル……おまえはどう考える?」
鼻唄《はなうた》がやんだ。「かわいそうなジューナはどうしているかな。まだ、あの桟敷で、おそろしいハリウッド女や、トミー・ブラックと、坐ってるでしょうね」
「しまった!」と、警視が叫んだ。「ジューナのことをすっかり忘れてたぞ!」
「心配いりませんよ」と、エラリーはドライな調子で「あいつは一生一度のお楽しみ最中です。今晩は、あいつの崇拝する神々が、たっぷりほほえみかけてくれるんですからね。肝心なのは、今、あなたが言いかけてたことです。何ですか?」
「この事件を、どう思うかね?」
エラリーは、考えこむように、低い白壁の天井へたばこの煙をふき上げた。「妙ですね、いろいろなことが考えられますよ」
警視は急に口をひらいた。しかし、ひらいた口から言葉の洪水《こうずい》が、ほとばしり出そうになったとき、ドアがひらいて、プラウティ医師が姿をあらわした。上衣も、帽子もぬいで、ひじまで袖をまくり上げ、右手には、不吉な戦利品のように、ひどく血のにじんでいるガーゼにくるんだ小さなものをのせていた。
警視は、ものもいわずに、プラウティ医師の手から、その赤い小さいものを、とりあげた。血のりが、指についた。エラリーはすばやく前に出た。
「ほう!」と、老警視は、それを熱心にしらべながら「二十五口径――自動拳銃。たしかだ。ロデオの医者の言ったとおりだ。いい塩梅《あんばい》に、そっくりしとる」
円錐形《えんすいけい》の弾は、ほとんど原形のままだった。その小さな弾は、みたところほとんど無害の代物のようだったし、べっとりついている血も、赤ペンキぐらいにしか感じられなかった。
「すっぽりはいってた」と、プラウティ医師は、ぼっそりと言って、葉巻を、むしゃむしゃとかんだ。「心臓をぶちぬいてた。穴もきれいにあいてた。途中で、肋骨ひとつ、かすめていない。うまく、よけて通ったもんだ」
エラリーは指先で弾をいじりながら、宙をみつめていた。
「他に、なにか、変わったことは?」と、警視が気むずかしい顔で、たずねた。
「大してないな。肋骨が四本折れてる。胸骨がくだけてる。腕と脚の骨折が数か所、頭蓋骨《ずがいこつ》がへこまされてる――みんな見て知ってるだろう――馬にふみにじられたと考えるより、説明のしようがないな。ここへ来る途中で、君んとこの部長から大体の話はきいた」
「他に、何か傷はなかったかね――ナイフか、銃の」
「一つもないな」
「即死かな?」
「地面に落ちる前に、冷凍鯖《れいとうさば》みたいに死んでたさ」
「先生」と、エラリーがゆっくりきいた。「弾の穴はきれいにあいていたと言いましたね、先生。弾道の角度がはっきり分るほどきれいですか」
「いま、話そうとしてたんだ」と、プラウティ医師は、ちょっと間をおいて「いいかね。この鉛弾は、からだの右からはいった――つまり、右から左へぬけたんだ――下降線をなして、床と三十度の角度をしてる」
「下降線か!」と警視は叫んで、目をむいて、片足でぴょんぴょんはねた。「うまい! でかしたぞ! サム。うまい。いのちの恩人だ! ポーカー仲間の古狸《ふるだぬき》め! 下降線とはな? 三十度とはな? しめたぞエル、観衆をあそこに引きとめておく口実が出来たというもんだ。一番下の手すりは、ホーンが撃たれたときにいた競技場の床から、少なくとも十フィートの高さだ。そして、犯人が腰かけていたにしろ、しゃがんでいたにしろ、てすりより、三、四フィートは高くなるはずだ――すると、犯人は、下から十三、四フィートのところの、観客の中にいる。なんと、すばらしい!」
プラウティ医師は、こんな職業的なおせじになど、とりあわないで、坐って、印刷した用紙に、すごく下手な字で、何かを書きこんで、警視に手渡した。「公安局の連中にだ。もうじき死体を運びに来るだろう。解剖が必要かね?」
「必要だと思うかい?」
「いや」
「じゃあ、やってくれ」と、警視は重みをつけていった。「わしは、偶然を当てにしないんだ」
「分ったよ、分ったよ、やかましいおやじだなあ」と、プラウティ医師は冗談半分に言った。
「それから」と、エラリーが「先生、胃の中のものには特に注意して下さい」
「胃?」と、警視が、ぽかんとして、きいた。
「胃袋ですよ」と、エラリーが念をおした。
「承知した」と、プラウティ医師は、ふふんと鼻を鳴らして出て行った。
警視がふり向いてみると、エラリーは、まだ夢中になって、血まみれの弾に、見入っていた。
「おい、どうしたんだ?」と、老警視がきいた。
エラリーはゆううつそうに父をながめた。「お父さんが最後に映画を見たのはいつですか? がんこなリアリストだからな、お父さんは」
警視はむっとして「その弾と、何の関係がある?」
「二、三か月前に、ジューナにせがまれて、近所の映画館へ行って、館主が、大サービス二本立て、といってるやつを見たのを、おぼえてますか」
「それで?」
「あれは、つまり――その――つまらない映画二本でしたね」
「ちゃちな西部劇で――そうだ! キット・ホーンが出てたぞ、エル!」
「たしかに出ていました」と、エラリーは、弾を、じっと見ながら「すると、あの映画のクライマックスで、美しいヒロインが、岡を馬で一散に馳け下りたのをおぼえてるでしょう――そうだ、あの馬はキットの愛馬、ローハイド号でした。たしかに、同じ馬だ!――ホルスターから六連発を抜きましたっけね。それから――」
「それから、悪漢がヒーローの首つりをしようとしていた綱の、どまん中をぶち抜いたな」と、警視は声をはずませた。
「まさにそのとおり」
警視はつまらなさそうに「ありゃ映画のトリックだろう。あんなことはやさしいんだ。映画では、みんなあの手なんだ」
「そうでしょうね。でも、覚えてるでしょう。カメラはホーン嬢の後から映してました。あの女と、拳銃を持った手と、あの女が撃った綱とは、始終、はっきり見えてたんです。あれでもやっぱり、トリックを使う可能性は、充分ありますね――」
「めずらしくすなおだな。そりゃとにかく、あれがどうだと言うんだい?」
「ちょっと思いついたんですが……キット・ホーンが育った土地は――子供のころから――変な言い方ですが――大平原の、天地のさかいみたいな所にある牧場だったんです。そして、彼女の保護者、あの恐るべきバックは、名射手だったんです。そんな環境だから、バックはあの娘に、きっと射撃術も教えたでしょうね。他の荒らっぽい芸といっしょに仕込まなかったとは、ちょっと考えられませんよ。そうだ――それに、あのバカ殿様の――まき毛も、勇敢で、はつらつとした、西部男なんです。あの男が、愛用の銃で、小さなガラス玉をこの世から射ち消した腕前には、気がついたでしょう。そう、そう。それに、まき毛のおやじときたら、ロデオの大興行主ですし――インディアン保護地で、無法者や、レッド・インディアンと戦った、前世紀の最も有名な合衆国保安官の一人だったと、どこかできいたおぼえがあります」
「おまえは、何を掘りだそうとしているんだ?」と、警視がうなったが、じきに、目を丸くして「こりゃ、おどろいたぞ、エル! やっと気がついた――わしらのいた|ます《ヽヽ》、マースの桟敷が――火線にぴったりじゃないか! 下降線三十度だ。サムにしらべさせよう……しめたぞ! 観覧席のどこかといえば、丁度あの場処あたりだ。わしは算数には弱いがな。あの男の馬が角を曲ろうとするとき、右側から、左へ心臓をぶちぬく――そうだよ、お前、それにちがいない」警視はぷつりと言葉をきって、ひどく考えこんだ。
エラリーは目を細めて、小さな血まみれの弾をもてあそびながら、父を観察していた。「何んてみごとな犯罪だろう」と、エラリーはつぶやいた「すばらしく洗練された凄く大胆で冷静きわまる犯行……」
「だが、わしにわからんのは」と、警視は、エラリーにかまわずに、口ひげのはじをかみはじめながら、つぶやいた。「だれが、どうやって、あんな近くから撃つことができたろう。われわれには銃声が聞こえなかった――」
「何が必要だったか? 一つの死。何が使われたか? 一発の弾。簡単で、明瞭で、機械的で――実に巧妙だ。全く、おどろく」
エラリーは父が、ひどく興味を示しはじめるのをみて、冷淡に微笑した。「ああ、しかしなかなか複雑です。的《まと》は、全力で走る馬の背の上で、ゆれている人間なんです。一瞬も静止しないんです。速く動いている的を撃つのが、いかにむずかしいかを考えたことがありますか? しかも犯人は、たった一発しか撃っていないんです。その一発で、完全に仕事をやってるんです。全く完全にね」エラリーは立ってぐるぐる歩きはじめた。「この事実だけはたしかです。お父さん。ぼくのとりとめのない考えが、堂々めぐりの結果、たどりついたのは――だれがバック・ホーンを殺したにせよ――その男は、よほど運にめぐまれたやつか――全く、けたはずれの名射手だ、ということ、この事実はたしかです」
七 四十五丁の銃
ジュリアン・ハンターが、マースの桟敷《さじき》から、突然呼び出され、ヴェリー部長のみかげ石のような顔につきそわれて戸口にあらわれた。目の下のたるみは、前よりいっそう蛙《かえる》みたいにふくらみ、桃色の頬はいっそう赤くなり、表情は前よりもかたく、木の面のようになり、これ以上はかたく出来ないというふうだった。
「はいりたまえ、ハンター君」と、警視はさりげなくいった。「かけたまえ」
目のたるみが引っこむと、するどいひとみが、ちらっと光った。
「いや、たくさんです」と、ハンターがいった。「立ってます」
「好きにしたまえ。ホーンとはどのくらいの知り合いかね」
「それは」とハンターがきいた。「訊問ですか、警視さん。少し無茶じゃありませんか?」
「なに、何んだと!」
ナイトクラブの経営者は、マニキュアをした手を振った。「私を、この殺人事件の有力な容疑者と考えているようですね――えっ――あすこで、ころがり落ちて死んだ、勇敢な老紳士の。ばからしくて、話にもなりませんよ!」
「よせ。答えるんだ、ハンター。ごまかそうったって駄目だぞ」と、警視はするどくいった。「さあ、さっさと質問に答えてくれたまえ、時間がむだになるからね――われわれは大仕事をかかえているんだから、ここで君と議論してはいられないんだ。いいか、分ったかね」
ハンターは肩をすくめた。「正直のところあの男を、よく知っちゃいなかったんです」
「それじゃ答えにならんよ。いつごろから知ってたんだね」
「きっかり一週間前からです」
「フーン。すると、ホーンがロデオの仕事で町に出て来たときに、初めて会ったんだね」
「そうですよ、警視」
「だれを通じて?」
「トニーです、トニー・マースです」
「どういう事情で?」
「トニーが、あの男を、ぼくのナイトクラブにつれて来たんです」
「クラブ・マラだね」
「そうです」
「そのとき一度、あったきりかね。今夜までにだよ」
ハンターは、しっかりした手つきで、たばこに火をつけた。「うーん。それはなんとも言えませんね、まったく」と、のんびり煙をはいて「あれから、あの男が、クラブ・マラに来たかもしれませんしね。そこは、はっきりしません」
警視がにらみつけた。「うそをついてるな」
桃色の頬が次第に赤くなって来た。「一体、何を言わせようとしてるんです?」
警視は舌打ちした。「チェッ! 失敗したな、ハンター君。おこらせるつもりじゃなかったんだ。あてずっぽうに言ってみたまでさ」エラリーは部屋のすみで、皮肉そうに微笑していた。「ねえ、君。わしは君がトニーと取引してるのを知ってるんだ――取引をしていたのをね。はっきり言おう、ホーンが映画にカンバックする資本を君が出そうとしていたろ。してみれば、二度や三度は、あの男と会っているはずじゃないかな――」
「そうか」と、ハンターは、静かに深くひと息すって「そうです。そのとおりです。無理のない考え方ですね。ところが、ちがう。ぼくは事実を言ってるんですよ、警視。しかも、あなたが言うように、ぼくがホーンの計画を財政的に援助するために取引しているなんて、事実じゃありません。マースとグラント――二人が、ぼくにその話を持ちこみました。ぼくはただその申し込みを考慮中だっただけです。少しばかり、ぼくの仕事の筋からはずれてますからね」
警視は、わざとていねいに、かぎたばこを、ひとつまみ、吸った。「すると君は、ホーンがこのロデオに出演して、どれだけの人気を博すかを、見ようとしていたわけだね」
「ええ、そうですよ! そのとおりです」
「そうか。なにも怪しむべき点はないというしだいだね、ハンター君」警視は微笑して、古い茶色のかぎたばこ入れをポケットにしまい込んだ。
室内は妙にしんとしていた。ハンターの、喉のかすかな脈搏《みゃくはく》が、急にはげしくなって、左のこめかみに青筋が立った。ハンターが、だみ声でわめいた。「警視。あんたは本気で考えてるのか――ばからしい。ぼくは今晩、ずっと、あんたと同じ桟敷にいたんだよ! どうして、ぼくに、出来る?」
「もちろんだ」と警視はなだめるように「もちろんだ、ハンター君。落ちついてくれたまえ。ちょっときいたまでだ――形式だけのことだ。じゃ、マースの桟敷に戻って、待っててくれたまえ」
「まだ待つんですか。そりゃ――駄目ですよ――」
警視は、おしとどめるように、細い両手をひろげた。「われわれは法律の召使いでね。君にも分ってるだろう。ハンター君。気の毒だが、待っててもらわなければならないな」
ハンターはため息をついて、「フーン。ええ、分ってますよ」と言って、たばこをすいながら、まわれ右して出て行こうとした。
「ちょっと聞きたいんですが」と、エラリーが部屋のすみから、ゆっくり声をかけた。「ホーン嬢を、よく知ってるんですか、ハンターさん――キット・ホーンです」
「ああ、ホーン嬢ですか。いいえ、よく知ってるとはいえません。一、二回会ったことはあります――一度はハリウッドで、ハンター夫人の紹介だったと思います――ハンター夫人というより、ゲイ嬢、つまり女房です――でも、それっきりですよ」
ハンターは、次の質問を期待するかのように、待っていた。しかし、何もきかれないので、やがて、ちょっと|えしゃく《ヽヽヽヽ》して部屋を出て行った。
クイーン父子は顔を見合わせて、意味ありげに微笑した。
「どうして絹手袋をはめて扱ったんです、お父さん?」と、エラリーが、たずねた。「今までに、あなたが、証人を、こんなにやさしく扱ったのは一度も見たことがありませんよ」
「わしにも分らん」と、老人がつぶやいた。「虫のしらせだろうよ。あいつは何か知っている。あいつをのがしてやる前に、それが何か、みつけてやる」警視はドアから首をつき出して「トーマス! あの女優をつれて来い――あのミーハー面のゲイという女だ!」警視はもどって来て、にこにこしながら「これでよし。ところで、お前が、キット・ホーンのことをきいたのは、なぜだい? え?」
「ぼくにも分らないんですよ、お父さん。虫のしらせでしょうよ」そして、エラリーは、マラ・ゲイのはでに着かざって、香水をにおわせた柳腰の姿が、殺風景な戸口を、がくぶちにしてあらわれるまで、にやにやしていた。
マラ・ゲイは、ポーシャ〔シーザーの暗殺者ブルータスの妻〕を縦にのばしたような姿で、しなをつくって部屋にはいり、処女女王〔イギリスのエリザベス一世〕のような、人を人とも思わぬ、崇高な威厳をつくろって、椅子に腰かけ、メデューサ〔髪の毛が蛇だったというギリシア神話の女性〕のような毒々しさで、警視をみつめていた。
「何んでしょう」と、鼻にかかった声で、髪をちぢらせた頭をふり立てた。「ひどすぎてよ。本当に、とても、とても、ひどすぎるわよ」
「なにが、そんなに、ひどすぎるのかね」と、警視が、口先だけで言った。「ああ、ゲイさん。そうがみがみやらんでほしいな。たのむ。わしはただ――」
「用があるから呼んだんでしょ」と、ハリウッドの蘭《らん》はとげとげしく「それに、(どうぞ)なんて、変に丁寧にやらないで頂戴よ。名は何んだって調子で結構よ。私は、私で、――私流の口のきき方をしましてよ、お分りになって! それで」――と、女は息もつかずにまくしたてるので警視はいささかあきれて、抗議をしようとした口をつくんだ。「どうしてこんなひどいことをするのか? こんな侮辱した扱いをするのか説明して頂戴! 何時間も、あんなおそろしい場処に、私を押しこめといて、その上――おトイレにも行かせないなんて! いいえ、いわせてもらうわ。これが、私にとっては、どんな悪宣伝の材料になるか分らないんですか。私は宣伝をばかにしているわけじゃないのよ――宣伝には、宣伝の効用ってものがあるわ、それなのに――」
「甘美な効用かね」と、エラリーは、シェークスピア気どりで、つぶやいた。
「何ですって? 効用があるわよ。でも、これは――これはあんまりひどいわ! 新聞記者たちは、事件がおこってから、ずっと、社に連絡電話をかけっぱなしよ。明日になると、私は国中のさらしものになってるわ――あのう――とんでもない――人殺しのひき合いに出されてね。私の宣伝係は、こんなのが好きだけど、あの人は野蛮人ですものね。すぐここを出して下さい――すぐにですよ、分ってて? さもないと――言っときますけど、弁護士に電話をかけて――そして――」
女はひと息入れて、言葉をきった。
「そりゃ、くだらんことですね」と、警視は、ぴしりといった。「さあ、よくきくんだ。あなたは、この突発事件について、どんなことを知っとるのかね」
たじろいだ映画界の大スターは、目をむいて、石綿でできているような警視の面の皮をにらんだが、大して利き目はなかった。そこで、イブニング・バックから、ダイヤをちりばめた紅棒をとり出して、かなり挑戦的な態度で唇をすぼめて「何にも知りませんよ」と、つぶやいた「ねえ、警視さん」
エラリーはにやにやした。すると、警視は真赤になって怒った。
「そんな言い方をするな!」と、大声で「バック・ホーンに会ったのは、いつだ!」
「あの馬芝居のひと? そうねえ」と、女は考えて「先週だわ」
「ハリウッドじゃないね」
「クイーンさん! 十年も前に、映画から消えた人よ!」
「ああ、そのころは、あなたは、抱かれた赤ちゃんだったわけだね」と、警視は、いやみたっぷりにいった。「ところで、どこでホーンと会ったかね」
「クラブ・マラですわ、主人がやってる小さいお店です。御存知でしょう」
主人のやってる小さいお店というのは、コロシアムの六分の一もある広さで、ブロードウェイの一番ごうせいな映画殿堂よりも、もっとたくさんの大理石や金ぴかものが使ってあった。
「あの男と会ったとき、他にだれかがいっしょにいたかね」
「ジュリアン――夫《おっと》と、グラントという人、まき毛のお父さんの。それに、トニー・マースがいましたわ」
「ホーン嬢とは長い知りあいかね」
「あの、かわいい、馬乗りのおてんばさんね」と、さげすむように鼻をならした。「あの人には、コースト〔太平洋岸〕で紹介されたわ」
「紹介されたのかね。へえー」と、警視はつぶやいた。「あの女は――あなたと同じに――。よろしい、ゲイさん。おしまいです。わしは忙しいんだよ」
女は、この兇悪な犯罪のかかり合いになるのをおそれて息をのんだ。「まさか、あなたは――」
ヴェリー部長が、女の腕を、そっとつまんで、椅子から立たせて部屋の外につれ出した。
エラリーがとび立った。「お父さんのむだ話は、すっかりすんだんですか?」
「いや、まだだ。わしはこれから――」
「カービー少佐に会うんでしょう、あのニュース映画の神様に」
「カービー? なんのためにだ?」
「さしあたり、一番必要なのは、銃にくわしい人物をみつけることだと思いますよ――そりゃ、お父さんの判断にまかせますがね」
警視はにがい顔で「お前は銃の専門家として、あの映画屋をえらぶのか、え? お前らしい理屈だな」
「あの少佐は、ピストルの名人であるばかりでなく、その方面のいろんなことの権威だときいています――銃にもくわしいでしょうよ。トニー・マースの話だからあてにはなりませんがね――騒ぎが始まる前に、カービーが桟敷に来たときいってたじゃありませんか。だから、少佐を呼んで来させれば、マースの話が、どのくらい信用できるか、すぐ分りますよ」
ヴェリー部長が、すぐ少佐を呼びに行った。
「しかし、専門家に何をきくつもりなんだね」と、警視は、むずかしい顔をした。
エラリーは、ため息をついて「ねえ、お父さん、今夜は、頭がどうかしたんですか? 弾を手にいれたんですよ、弾を」
警視は、あきらかにむっとして「時には、どうかするさ――お前は、わしが専門家に弾をしらべさせて、ほかのやつとくらべてみるぐらいの捜査手順を知らないとでも思ってるのか? しかし、どうして、そんなに急ぐんだ? 一体、なぜなんだ――」
「そこですよ。あの四十五丁の銃を、しらべなければならないんですよ――ぐずぐずしちゃいられないんです。すぐです、お父さん」
「どの四十五丁の銃だ?」
「たしかに、四十五丁あると思うんです」と、エラリーはじりじりして「ホーンについて行った騎手の一団は、ホルスターを各人一つずつ、つけていましたから、一人がピストルを一丁ずつ持っていたわけです。たしかです。みんなで四十丁です。それから、テッド・ライヤンズが三丁――二十五口径、自動拳銃が一丁と、ロデオの銃器庫から持ち出した四十五口径のが二丁。これで四十三丁。あばれん坊ビル・グラントの一丁と、ホーン自身の一丁とで――しめて四十五丁になります。議論の余地はありませんよ。すぐ調べなければならないでしょう、お父さん」
警視のいらだった表情が消えた。「お前の言うとおりだ。しかも、早ければ早いほど良い――なんだ! ヘッス!」
部下の一人でまじめなスカンジナビヤ人が、小さな赤い目を、興奮させて、とびこんで来た。「隊長、上で騒いでます。みんなして、連中をなだめようと、一生懸命やってるところです。連中は家へ帰りたがってるんです」
「わしも帰りたいよ」と、警視は大声で「君は、制服の連中にふれをまわせ、ヘッス。どうしても、やむを得なければ、棍棒を使えとな。骨の|ずい《ヽヽ》まで調べ上げるまでは、だれひとり、ここから出すわけにはいかん」
ヘッスは目をむいて「二万人も調べるんですか」と、息をつめた。
「大変な仕事だろうよ」と、警視も不機嫌に言った。「しかし、せにゃならんだろうな。さあ、ヘッス! リッターにそういって……」
警視は、ヘッスと廊下に出て行きながら、小都市の人口に|ひってき《ヽヽヽヽ》するほどの人間を、徹底的に身体検査するには、どのくらいの人手が必要か、胸算用していた。しかしこの仕事は、警視にはこっそりたのしめるごちそうみたいなものだった。警視は楽しくてたまらないという顔つきをした。
「一晩中かかるな」と、警視は戻って来て言った。「そして、明日は、わしがしかられるんだ。いまいましいな。なるようになれだ……おお、少佐、はいりたまえ」
カービー少佐は、かなり疲れているようだった。それでも好奇心をそそられずにはいられないらしかった。少佐はエラリーをちらっとみた。
「まだ、フィルムをまわしてるんですか」
カービーは頭をふって「ずっと前にやめた。弱ったよ。社に帰って、どれだけのフィルムを使ったかが知れたら、ひと悶着《もんちゃく》だ! 運よく、フィルムのストックをどっさり持っててよかった。ところで、警視、何の用かね。この部長が言うには、ぼくに何か特別の用があるそうだね」
「わしじゃないよ。君を呼んだのは、せがれだ。話すがいい、エル」
「話というのは」と、エラリーが、いきなり切り出した「すべてあなた次第なんです、少佐。あなたが、戦争中、ピストル射撃の名手だったということを、今晩、はじめてきいたんですが、本当ですか?」
少佐の小さな黒い目が、黒い小石のように動かなくなった。「というのは」と、少佐はてきぱきと「どういう意味かね」
エラリーは、じっと少佐をみていたが、やがて、笑い出した。「こりゃどうも、ぼくは、あなたを、殺人容疑者として、かまをかけてるんじゃありません。まったく別の理由で、興味をもってるんです。名射手だったのは、本当ですか、うそですか?」
カービーの表情がゆるんで、かすかに、微笑んだ。「名手の方だったろうな。メダルも二つ三つとってる」
「すると、あなたが、銃の専門家だとか、きいたのも、本当でしょうね」
「ぼくは弾道学の研究もしたんだ、クイーン君。職業というより道楽だがね。その方の専門家と言われても、かまわないよ」
「能《のう》ある鷹《たか》は爪をかくす、ですね」と、エラリーが笑った。「ぼくのために、少しばかり、その御専門を生かして、くれませんか」
少佐は、神経質に、口ひげをなぜた。「もちろん、よろこんでお役に立ちたいが」と、低い声で「御承知のとおり、ぼくには会社に対する責任がある。われわれが撮影したあのフィルムは――」
「心配いりませんよ。われわれの方で手配しますよ。あなたの部下の中に、副官みたいなのがいるんでしょう。どうです?」
「いるよ。主任カメラマンがいいだろう。ホールって名だ」
「そりゃ、うまい! それじゃ――」
「まずホールに話さねばならんだろう。今夜、ここでどうやら特種をとったんだ、クイーン君。あの写真だ。そして速報性が、ニュース映画の生命なんだ」少佐は考えながら「ものは相談だがね。君が、ぼくの部下をすぐ帰らしてくれれば、ぼくも万事を放り出して、君の御用をつとめよう。われわれがとったフィルムは、現像して、焼きつけて、編集して、音を整理して、朝までには、ブロードウェイの劇場に配給しなくてはならない。ここから持ち出すことが絶対に必要なんだ。これで話がつくかな?」
「つけよう」と、警視が思いもよらずいった。「だが、君も君の部下も、出て行く前に、身体検査の手順は、ふんでもらわなければならんよ、少佐」
少佐はむっとして「必要かね?」
「必要といわざるを得んようだな」
カービーは肩をすくめて「よく分った。それで動けるんなら、何でもしてくれ。よろしい、クイーン君、君を手伝おう」
警視はヴェリー部長に、あいそうよくいった。「トーマス。君に特別任務だ。上へ行って、カービー少佐と、部下の連中の身体検査をしてくれ。道具のすみずみまで調べるんだぞ」
少佐はびっくりして「だって、そんな――」
「形式だけだよ、少佐、形式だけだ」と、警視が気がるにいった。「さあ、行きたまえ。二人ともな、わしには、わしの仕事がある」
二十分で仕事は片づいた。ニューヨークの警官の中で、これほど他人の人格をみとめないのもいないというヴェリー部長手ずからだから、その検査たるや、カービー少佐のほっそりした体から、カービー少佐の小ざっぱりした着衣から、カービー少佐の、不平たらたらで文句をいってる部下のカメラマンから、録音係りから、カービー少佐のカメラから、カービー少佐の、オームとワットとリオスタートから(話のゆきがかり上こんなことになるんだが)――つまり、カービー少佐とその一党に関係あるものはすべて、電線の最後のひとまきまで、しらみつぶしに、つまみ上げられ、吟味《ぎんみ》され、さわってみられ、つねってみられ、おしてみられ、ほどいてみられ、分解され、解体され、ひっくりかえされるという、すさまじい次第だった。
しかしその結果は、何ひとつ、発見されなかった。撮影台の上からも、撮影台の上の連中からも、撮影台の上の機械類からも、何ひとつ、少しでも拳銃に似たものは、見つからなかった。
そこで、ニュース映画班の連中は、特別護衛つきでカービー少佐が、ニュース映画会社の編集長にあてて、なぐり書きした添え書を持って、この建物から追い立てられていった。
少佐は最後に、からだをなでまわされた。白だと分ると、すぐに、横出口から、建物を出されて、エラリーの手に渡された。エラリーは、四十五丁の命取りの金物と、数百発の薬包を、ひとまとめにして詰めこんだ大きな警察鞄を足もとにおいて、歩道で待っていた。
警視が見送りに出た。
「何かみつかったら、どんと一発、本庁のわれわれのところへ、ぶちこんで下さい」と、エラリーが、真顔でたのんだ。
「まかしとけ!」
老人は立ったまま、走り去る二人の車を、考え深そうに見送っていた。それから、少し憂鬱《ゆううつ》そうに二万人の身体検査を監督するために、コロシアムに引きかえして行った。
八 弾道試験
タクシーは下町を、うなりをあげて疾走していた。例の鞄は、エラリーの足もとで、気持よさそうにうずくまっていた。エラリーは、時々、そこにあるのをたしかめるように、足の爪先で、そっとつついてみた。
エラリーが、何を考えているのかは、車内の暗やみにつつまれて、見てとれなかったが、たばこの火が、オレンジ色のピリオドになって、ときどき、エラリーの考えに、区切りをつけているようだった。しかし、少佐の考えは、くらやみの中でも、はっきりとかがやいていた。
というのは、車が下町に向かって、八番街にとびこむと、すぐに、少佐はうきうきして言った。「考えてみると、ぼくは、今夜は実に運がよかった」
エラリーはあいづちをうった。少佐の軽い笑い声を、車のひびきが、ふき消した。
「ぼくはいつも拳銃を持ってるんだ――戦争以来、どうしても直せぬ悪癖《あくへき》でね」
「でも、今夜は持っていませんでしたね」
「今夜は持っていなかった。よかったよ」と、カービーはしばらく黙りこんでから「どうして家に置いて来たか分らない。予感かな?」
「あなたは、エマーソンが『ペルシャ詩集』の中で、直感について、言っている文句を、おぼえていますか?」
「え? いや、知らんね」
エラリーは、ため息して「なんでもないんですよ、ほんとうに」
あとは二人とも、車が、本庁のあるセンター街の、まっくらないかめしい建物の前でとまるまで黙りこんでいた。
すばらしく手まわしの良い、エラリーが、二人の行くことを、前もって電話しておいたので、いかにも警察官らしい、背が高くて、べっこうぶちの眼鏡をかけた男が、階下《した》のロビーで待っていた。その男は、色あせた茶の服を着て、頭の二倍もありそうなぶかぶかの、変てこな帽子をかぶり、しわのよった、かさかさの顔で、頬がこけてやせ細ったあごをしていた。ちょっと「禁酒法の生みの親」という様子だった。
このおどろくべき人物は、エラリーに愛想よく挨拶して、蛇のように細長い体を、ベンチからやおらおこした。「ようこそ」と、どうま声で「こんな真夜中に、ここで、何をするつもりなんですか? クイーン家は、早寝だと聞いてましたよ」
「まだ何も聞いてないの?」
「何をですか?」
「今夜、コロシアムで、ちょっとした殺しがあってね。それで、君を呼んだんです。午前一時だってのに、ベッドから引っぱり出してすみません、警部補。でも――」
「ポーカーをしてたんです」と、背の高い男は無造作にいった。
「じゃ、それほど迷惑でもなかったんですね。実は、弾道学のお仲間を紹介したいんです――こちら、カービー少佐。少佐、これは、本庁の弾道課のケニス・ノールズ警部補です」
二人の専門家は、目を見合って、握手した。
「早く、あなたの部屋へ行きましょう」と、エラリーが、あせって言った。「えーくそ。この鞄は何トンもありそうだ! 早く、片づけなくちゃ」
三人は、ドアに「弾道課」と書いてある、一一四号室へ行った。ノールズ警部補は、書類棚が並んでいるきちんとした室を通り抜けて、二人を、実験室に案内した。
「さあ、始めましょう」すぐに、エラリーは下におろした鞄をあけながら「問題は、ごく簡単です。ぼくが、カービー少佐に立ち合いをたのんだのは、少佐は弾道学の鬼だし、二人の権威者がいる方が、一人の権威者よりも良いにきまってますからね、警部補」
鞄の中に、拳銃が、うず高く、もり上っているのをみると、警部補の目が、職業的な興味でかがやいた。「少佐に来てもらって、もちろんうれしいが。しかし、何を――」
「そりゃ」とエラリーが「ぼくは、銃のことはまったく知らないんです。ルガーと。ホイッツェルの区別も――つかないぐらいです。ぼくは科学的な情報がほしいんです。まず、この弾をみて下さい」エラリーは、プラウティ医師が死体の胸から抜き出した、血まみれの弾頭を差し出した。
「警視は二十五口径の弾だと言いましたが、たしかめてみたいんです」
小柄な少佐と、のっぽの警部補は、ちっぽけな弾の上にかがみこんだ。
「警視のいうとおり」と、ノールズがすぐ言った。「二十五口径自動拳銃で撃ったものでしょう。ねえ、少佐?」
「まちがいないな。レミントン製の薬包らしい」と、カービー少佐がつぶやいた。「フーン。ホーンをやったのは、これなのか」
「そう推定するんです。すくなくとも、これは、医務検査官補が、死体の心臓から掘り出したんですからね」と、エラリーが、真顔になって「この弾についての意見をいって下さい」
二人の男は笑った。「おいおい」と、ノールズは笑いながら「われわれは手品師じゃないぜ。顕微鏡で見もしないで、こんなちっぽけな弾から、どんなことがわかと思うんだ。運がよかったぜ、クイーン君――ねえ、御意見は、少佐? こんなに原形のままで、抜き出された弾を、顕微鏡にかけたことはないな」
「大して、ひしゃげていないな。まったく」と、カービーは指先で注意深くまわしてみながらいった。
「ところで」と、警部補が、精いっぱいに重々しくした教師口調で「抜き出した弾からでも指紋がとれると、専門家はいいますが、それは必ずしも正しくはないんです。私がいうのは、その弾の状態によって、指紋の特徴をはっきりさせる写真が、つねにとれるとは限らないということです。私は、ぺちゃんこに、ぶっつぶれた弾から、指紋をとったこともあります――」
「よく、分りました」と、エラリーはすぐ言って「ところで、この弾の説明をして下さい――もとの形の説明ですよ。発射される前は、どんな形をしているんですか?」
「そんなことが役に立つとも思えないな」と、警部補が、おどろいていった。
「きっと、クイーン君には、その答えが役に立つか、立たないかがわからないんだろう」と、カービー少佐が、微笑しながらいった。「もちろん、二十五口径の自動拳銃の正式な弾薬は――たとえば、この弾だが――火薬五十グレーンをつめて、金属のケースに入れられている。もちろん、内部は鉛で、白銅の外被がかぶせてある。初速は、まず、二十五フィートぐらいだろう――ということは――毎秒、七百五十フィートということになる。エネルギーは六十二フィート・パウンドだ……」
「結構です」とエラリーは、もてあましぎみに「きき方が悪かったようです。別の角度からうかがいましょう。この弾――この二十五口径の弾は、いいですか――二十五口径自動拳銃以外の銃でも、使えるでしょうか?」
「そんなことはない」と、二人は同時にいった。
「すると――二十二口径の回転ピストルでは、どうでしょう?」と、エラリーは、自信なさそうにきいた。「もちろん、小さすぎるでしょうがね。駄目でしょうか。二十五口径でないと」
ノールズ警部補は出て行った。もどって来たときには三発の薬包を持っていた。「すぐ、はっきりさせた方がいい」といって「非常に小さな二十二口径の拳銃があるとする、いいかね、それには二十二口径の弾を使う、その場合、その弾は、普通、二十二ショートと呼ばれる。これが、その一つだ」警部補は、信じられないほど、小さな薬包を示した――長さは半インチ以下で、とても細っそりしていた。「この小さな弾は二十五口径自動拳銃では撃てない。次に、こっちのをみたまえ」と、別の薬包を一つ持ち出した。それは、太さは、前の小さいのと、ほとんど同じぐらいだが、長さは二倍あるようだった。「これは、二十二ロング・ライフルと呼ばれてるものです」と、ノールズは説明をつづけて「これも、たしかに、二十二口径だが、二十二より大きい銃に合うように作られている。なぜこんなものが作られるかというと、二十二口径の弾を使って、三十八口径銃と同じような感じを味わいたがる人間が多いからだ。この二十二ロング・ライフルが合う拳銃は、大型だ――三十八口径か、それより大きい。ところで、次にはこれを見たまえ」と、三つ目の薬包を見せた。それは二十二ショートより太くて、二十二ロングより短かかった。「これは、このちっぽけな弾の兄弟分だ。医務官が抜き出したやつのね。これが二十五口径自動拳銃の弾だ。私の知るかぎりでは、二十五口径自動拳銃に合う弾はこれだけだ。そうでしょう、少佐?」
「ぼくもそう思うな」
「お話をきいてみると」と、エラリーはがっかりして「全くのくたびれもうけをしちゃったわけですね」エラリーはいまいましそうに、銃のつまった警察鞄を蹴とばした。「つまり、ホーンをやった弾は、二十五口径自動拳銃から発射されたにちがいない――たしかにそうなんですね? 他のどの型の銃からも、どの大きさの銃からも射てなかったんですね?」
「やっと分ったね」と、警部補はにやにやして、上着の内側に右手を入れた。そして、トミー・ブラックの尻のように平べったくて青光りしている小型拳銃をひき出した。とても小さいやつで、ノールズの大きな手のひらに、すっぽりと、気持よさそうにはいっちゃうぐらいだった。「長さは四インチ半しかない」と、舌打ちして「銃身は二インチ、重さ十三オンス、弾倉には、がっちりした薬包が六発はいる――スライド式の安全装置がついて、握りもしっかりしてる――どうだね、この小型コルトはすばらしいだろ! ぼくは常に携帯してる。手にとってみたいだろう? きみの殺人犯は、これと、そっくりのやつを持ってたにちがいない、クイーン君」
エラリーは、夢中で手をのばした。「おっと」と、警部補は、にやりとしていった。「待ってくれ、大事なむすこの歯をぬいとくからね。君のような|しろと《ヽヽヽ》は、ズドンと一発、やりかねないからな」ノールズは弾倉を引き出して、六発の薬包を手の上にあけて、七発目の薬包を、火房からとり出した。それから、空《から》の弾倉をはめて、そのコルトをエラリーに渡した。
「いいなあ」と、エラリーは、そのピストルを注意深く、手に持った。それは、エラリーが思ったより少し重かったが、時々持ってみたり、見なれている警察用の拳銃をくらべてみると、羽根のように軽いものだった。そして、楽々と手のひらにかくれてしまう。「不思議だな。なぜ犯人はもっと大型で強力な武器の代わりに、こんなのを使ったんだろう」と、エラリーが、つぶやいた。
不意に、少佐がくすくす笑った。「もっと強力だって? ねえ、クイーン君、君の持っているその小さい奴が、どのくらいの威力を持っているか分らんのだろう。相当な距離を置いて、二インチの板を、ぶち抜くことが出来るんだ」
「いわんや軟らかい人間の肉においてをやか」と、エラリーはつぶやいた。「なるほどなあ。威力の問題じゃない。すると、便利という点だな。小さいし……」エラリーはピストルをノールズに返して、じっと、手にした鼻眼鏡を見つめた。「そうか」と、眼鏡をかけ直して「この鞄にかかる前に、もう一つ、ききますが、最高スピードで発射しながら、弾倉を空《から》にするのに、どのくらい時間がかかるでしょう?」
「二秒半で片づけたことがあります。あの、古いストップウォッチで――」と、ノールズが胸を張った。
「二秒半!」エラリーはヒューッと唇をならして、また、しばらく考えこんだ。「すると、また、犯人は、射撃の名人というもとの線がうかんで来ますね。一発でしとめてる……まあ、そりゃあ、いいとして。さて、サンタクロースがもってきた大袋を、みるとしましょう」
エラリーは床にしゃがんで、鞄から、ピストルを、ほうり出した。警部補と少佐はだまって見ていた。鞄が空になったとき、エラリーは二人を見上げた。二人は見下ろしていた。三人とも、だれも、しばらくのあいだ、一言もいわなかった。
やがて、三人は、ほとんど同時に、床をながめた。エラリーは自動拳銃と廻転拳銃を分けておいた。廻転拳銃の方には、銃身の長いのが、四十四丁、うずたかくなっているのに、自動拳銃の方は、淋しいもので、たった一丁がころがっているだけ――とても貧弱なながめだった。エラリーは引金の外輪につけてある名札をしらべた。テッド・ライヤンズと書いてあった。
だまったままで、薬包の山をひっかきまわしたが、二十五口径自動拳銃の弾は全然みつからなかった。
「おや、おや」と、エラリーは、おだやかにいって、立ち上った。「大した収穫はないですね。みたところ、競技場のあの場にいた連中の中で、ホーンを殺した弾を、撃つことの出来る武器を持っていたのは、あの三文記者、ただ一人ってことになります。ライヤンズの自動拳銃をテストしてみるより他には、することは何もないらしいですね」
エラリーは、淋しい曲を口ずさみながら、歩きまわっていた。そのあいだに、ノールズ警部補は、カービー少佐に手伝ってもらって、ただ一丁の、うたがわしい武器をテストする準備をしていた。警部補は、射的場に、どんな材料で出来ているか見当のつかない、奇妙な恰好《かっこう》の的《まと》を、すえつけるのに忙しかった。それから、少佐と二人でその部屋の遠い隅に下がった。ノールズは、テッド・ライヤンズのピストルの七発の薬包をしらべながら、熱心に打ち合わせしていた。
「空弾は一発もない」と、ノールズがいった「ぼくは、からっ下手です。少佐、あなたが、的を撃ってくれませんか」
「いいとも」と、カービーは答えて、的から約二十フィートはなれた位置で、小さな武器をかまえて、ほとんど無造作に、引き金をひいた。小さな実験室に反響する、ぶっつづけの、耳のつぶれそうな音で、エラリーは、とび上った。そのとき、エラリーは、小柄なカービーが、うすら笑いをうかべているのに、はっきり気づいた。鼻を刺激する硝煙がながれ去って、的は、スイス・チーズのように穴だらけになっていた。
「たいした腕ですな、少佐」と、ノールズがほめた。「輪形に撃ちましたね。これで標本が、たくさんできましたよ。さあ、忙しいぞ」
ノールズは、油じみて、黒ずんでいる六発の弾頭を、手のひらでじゃらじゃらさせながら、的から大股で、もどって来た。そして、テーブルまでくると、その弾頭を、じっとながめた。「さあ、こいつらをしらべてみましょう」
上衣をぬいで、エラリーを椅子にまねきよせると、いつもの、きまりきった仕事にとりかかった。何か変に見なれない恰好の仕事机の上には、ごく普通の道具がおいてあった。しかし、それは、特別型の顕微鏡らしい。
「比較顕微鏡だよ」と、警部補が説明した「ごらんのとおり、二つの接眼鏡がついていて、比較できるんです。あなたは、この仕かけを、ごぞんじでしょう、少佐?」
カービーは、うなずいた。「よく知ってる。軍にいたときにも時々使ったし、家にも一台もってる。道楽でね」
エラリーは不安そうに二人をみていた。血まみれの弾を、ノールズは、ある溶液につけて、それから、静かに、ふいて、かわかした。すっかりきれいになると、弾は鉛色をしていた。警部補は、それを顕微鏡の下に入れて、しばらく、しらべていた。やがて、頭をあげて、カービー少佐に、のぞいてみろと、合図した。
「はっきりした条紋《じょうもん》だ!」と、少佐が叫んで、目を上げた。「この条紋なら、標本のものと、くらべるのに何の面倒もないだろうな。警部補」
「多分そうでしょうな。では、あなたが今しがた撃った弾についている条紋を見ましょう」と、気軽くいって、ノールズは、また、いそがしく、顕微鏡をいじりまわした。人を殺した弾はそのままにしておいて、ちょっと前に、的へ撃ちこまれた六発の弾を、次々に、ゆっくりと、顕微鏡の下においていった。新しい標本の弾を、慎重に回転させたり、ねじをしめたりで、なかなか忙しかった。二人の男はたえず相談しながら、少佐は、警部補の発見したことを一々、書きとめた。そうして、最後に、二人は慎重にたしかめ合って、うなずいた。それから、ノールズが、決定を下すという態度で、エラリーの方を向いた。
「世の中には、死と税金以外には確実なものは何もないけどね。いいかね、ただ一つたしかなことがあるよ、クイーン君――それは、君の被害者を殺した弾は、ライヤンズという奴の自動拳銃から撃たれたものじゃない。一般分子論のやっかいになることすらない。弾の条紋には共通点は何もないんだ」
エラリーはしばらく、言われたことを反芻《はんすう》した。やがて立って床を歩きはじめた。「フーン。あらゆるものがつねに動揺しているこの世界で、固定したものの、ひとつの例をみつけるということは、すばらしいことだな。とはいっても、あなた方は、二人とも絶対確信があるんでしょうね?」
「その点なら問題なしだ。クイーン君」と、カービー少佐が力をこめて「われわれが一つの結論に到達することが出来たんだ。君はそれを正しいものと信じていい。発射された銃弾を調べ上げる仕事は、今では、ほとんど精密科学の域に達している。君も知っているとおり、今日の火器には、すべて、旋条《せんじょう》がついている――ぼくのいう意味が分るだろうね。銃身の内側は――そうだな、螺旋《らせん》形にほられているといってもいいな。二十五口径自動拳銃の銃身の内側は、六つの山と、六つの谷を持つ、左巻の螺旋状《ヽヽヽ》なんだ――複雑そうだが、きわめて簡単《ヽヽ》なんだ。その螺旋《ヽヽ》または渦巻《ヽヽ》は、銃身の内側を、はじからはじまで走って、銃身の金属にきりこまれている。切りこむときに出来る、へこみを谷《グローブ》といい、谷を切りこんだときに螺旋状に残されるもとの部分を山《ランド》というのだ。さっきいったように、山も谷も六本だ。ところで、山には、顕微鏡でみるとはっきり分るほどの、わずかな誤差が必ずある。したがって、発射された弾が銃身を通ると、谷について旋回するから、山の条紋が、弾につくわけなんだ……」
「なるほど、だから、二つの弾を顕微鏡の下におけば、条紋が同じか、同じでないかが分るんですね」
「そのとおり」と、警部補がいった。「見本の二つの弾の条紋が一つにかさなるまで、――または、かさなったと思えるまで、焦点をあわせる。そして、それぞれの弾の左側面を、一方に重ねるようにする。すると、簡単に、条紋が合致するか、しないかが分るわけだ」
「すると、この二つの弾の条紋は合致しないんですね」
「合致しない」
がっかりしたエラリーが、そのとき、何かを言おうとしたが、不意にじゃまがはいって、言いそびれてしまった。背の高い、たくましい一人の男が、小さな鞄を持って、実験室にいそいで、はいって来たのだ。
「おお、リッター君」と、エラリーは興奮して「また銃か?」
その刑事は、鞄を仕事机に投げ出した。「警視からです。クイーンさん。私に持っていけといわれました――大至急。観客の中から見つけたものだと、言ってくれとのことでした」
そういって、刑事は帰って行った。
エラリーは、ふるえる指で鞄をあけた。「こりゃ、大当りだ!」と、叫んで武器をとり出した「ごらんなさい――少なくとも一ダースはあります」
正確には、自動拳銃が十四個あった。その銃は――一丁ずつ、持ち主の住所姓名がつけてある――四丁が、いま問題にしている二十五口径の小型で、長さ四インチ半というやつだった。その他、回転拳銃が三丁はいっていたが、みんなは、それらには目もくれなかった。
カービー少佐とノールズ警部補は、また射的場にもどった。しばらくのあいだ、的を撃つはげしい銃声が、室内にひびきわたった。二人は名札をつけた弾頭を四個もって、もどって来た。その弾は、どれも、リッターがコロシアムから持って来た中の、二十五口径自動拳銃で撃ったものだった。それらの弾は、比較顕微鏡のレンズの下に、順々におかれた。そして、しばらくのあいだ、実験室の中は、しんとなって、呼吸の音のほかは、物音一つ、たたなかった。
テストが終わったとき、エラリーは、その結論をきく必要すらなかった。四つの弾のうちの、どの一つも、バック・ホーンを殺した弾と合致するものがないのは、二人の専門家のしかめっ面をみただけで、はっきり分った。
鞄の底に、覚え書きがあった。それには、
「エル。観客の中で、パチンコが、少しみつかった。われわれが手に入れたいのは二十五口径だけだが、とにかく全部持たせてやる。まだ、観客の半分もすんでいない。どれだけの奴が、今夜、ここに、銃を持って来ているか、想像もつかないだろう? もっと、あとからとどける――もしみつけたらな」
クイーン警視、と署名してあった。
「警部補さん、もう少しいてもらえますか」と、エラリーは、あきらめたような口ぶりできいて、ちらばっている銃をながめた。
「もっと銃がでるつもりなんだね。いいとも。そのあいだに、仲間の連中と、ポーカーでもやってますよ。おやすみ、少佐。面白かったですね。近いうちに電話でもして下さい。ぼくは銃のコレクションを持ってるから、そのうちに、お目にかけたいもんです」
「そうですか」と、カービーが大声で「実はぼくも少しばかり集めてあるんだ。あんたのとこの一番古い銃はなにかね?」
「一八四〇年の――」
エラリーは少佐のひじをつかんだ。
「さあ、もう行きましょうよ、少佐」と、なだめるようにいった。「警部補と遊ぶのは、またいつかにして下さい。とにかく、急ぎの用件で、コロシアムへ帰らなければならないんですよ」
九 手がかりなし
エラリーと少佐が、コロシアムにもどったのは午前三時すぎだった――今までにエラリーの経験した、最も、みじめな一夜の、三時すぎだった。
「月が出ていないから、≪赤い血潮は月の上≫という、大昔の出陣の合言葉をかけるわけにはいかないね」と、エラリーは、顔見知りの刑事に言いながら、場内に入れてもらった。「しかし、殺し場の舞台装置としては、つきなみだが、やはり、昔なじみの闇の夜というのが、うってつけだね」
「場内はとても明るい」と、カービー少佐が、つまらなそうに言った。
たしかに明かるくて、非常に奇妙な光景がてらし出されていた。統制のない群集の怒り狂う光景もすさまじいが、権力によって押えられた群衆のおしころされた怒りを見るほど、いんうつなものはない。コロシアムの観客席は、おしころした怒りで、なんとなくどよめいていた。仏頂面《ぶっちょうづら》をして目をむいている顔は、ほとんど見当らなかったがみんなおとなしくしているように見えるのは、疲れはてているからだ。これは、近代警察史の中で一番大がかりな捜査であるとしても、同時に、一番、賛成しがたい捜査だった。もし、人をにらみ殺すことが出来るなら、すでに二千人の警官と私服刑事が、方々の床に、死んで、つめたく、のびていただろう。それほど二万の観衆は殺してやりたいという目付きだった。
こんなけわしい状態で、二万人の身体検査が、静かに、手ばやく行なわれていた――しかし、むだ骨折りだった。
エラリーとカービー少佐は、クイーン警視が――疲れているが辛抱づよく――競技場の中央に、玉座のようにおかれた小さなテーブルについて、ナポレオンのように、捜査陣を指揮しているのを見かけた。ひっきりなしに報告が彼のもとに来る。数えきれぬほど多くの出入口の刑事たちは、観客を手から手へと送り渡すので、疲れきっていたし、せきたてられる市民たちは、呆然自失《ぼうぜんじしつ》の体で、建物の外の歩道に出されると、やっと自分をとりもどすのだった。近隣の分署から、かり出された婦人警官たちが、婦人客をしらべた。時々、列からつまみ出された男が、もっと慎重にしらべられてから、護衛つきで競技場に連れもどされた。一度など、このような特別注意の対象になったのは、一人の女性だった。それらの、一時的有名人たちは、すぐに、警視のところへつれてこられると、警視がすぐ訊問して、もっと徹底的に検査するのだった。リッター刑事が下町の本庁へとどけて来た銃は、少数だが折紙つきのこういう連中のものだった。彼らは、注意人物として、暗黒街では顔の利く連中だから、全部の刑事や警官たちに、よく顔を知られているのだ。
「おどろいたな」と、少佐は、ねむそうな目をした褐色の男に訊問をすます警視を待ちながら、いった。「こんなに各方面の代表みたいな連中が集まると、どのくらいの種類の人間が出てくるもんかね」
「悪党の種類はどのくらいかな」と、エラリーが、つぶやいた。「どのくらいの人殺しが出るか、神のみぞ知るだな……ああ、お父さん! ただいま!」
警視はすっくと立った。「どうだね」と、少し熱をいれて「何かみつかったかい?」
「あなたの方は?」
老人は肩をすくめて「何もない。今夜は、よたものが大勢来てる。町中の奴だが、いまいましい。だが」――駄目駄目と手をふって「しらべてもらう銃が、まだ一山ある。ノールズは、あっちで、待っとるかい?」
「ええ。その中に、二十五口径がありますか?」
「一、二丁ある」
「ノールズに送ってやって下さい。弾は用意してあります。ノールズには、徹夜で仕事をするように準備してもらっています」
「わしは、この連中がみんな片づくまで、待っとるよ。おい、エル、おい。何か見つけたかときいとるんだ!」
「ちょっと、はずして下さい、少佐」と、エラリーは、黙りこんでいる伴れの方を向いて、ていねいに言った。
「いいとも」
「待っていてくれるとありがたいんですが。あなたを必要としそうですから――」
「喜んで手伝うよ」と、カービーは、まわれ右して歩み去った。
「お手上げです、お父さん」と、エラリーは低く、早口で「あの弾が二十五口径自動拳銃で発射されたことだけは、ノールズとカービーが確証してくれました。しかし、カウボーイたちは、一人も、二十五口径を持っていません。四十五丁のうち、四十四丁までが、四十四口径、四十五口径、三十八口径でした。四十五丁目のは、ヴェリー部長が、テッド・ライヤンズから、とりあげた自動拳銃でした。しかし、比較テストで、あの兇弾を撃った銃でないのが、分りました」
「そうか」と、老人が、うめくようにいった。
「ぼくが本庁を出てくる前に、ノールズが、もう一つの興味ある事実を掘り出しました。あばれん坊ビルの拳銃と、ライヤンズが持っていた三丁をのぞいて、ロデオの連中からとりあげた銃は、みんな、一発しか射ってなかったそうです――おそらく、ホーンが、鞍からころがり落ちたときの一斉射撃で撃ったものでしょう」
「みんな空弾《からだま》だったのかい?」
「ええ。もちろん、理論的には、各銃に失われている一個の薬包が、空弾ではなくて、命とりの実弾だったかもしれないという、可能性もなりたちますが、そんなことはわれわれにとって何の役にも立ちません。というのはどの銃も二十五口径は一つもないんですからね。グラントの回転銃からは、三発の薬包がなくなっていますが、それは、殺人事件の前に、競技場の中央で一発ずつ発射した合図の回数と、数が合っています。ぼくはその回数をよくおぼえています。それに、グラントの銃があの弾を撃つ可能性もないんです。というのは、グラントのは四十五口径なのです。ライヤンズのは、あの男の自動拳銃も、銃器庫から持ち出した二丁の大口径の銃も、全然、射ってなかったんです。――銃器庫はしらべましたか」
「うん」と、警視は、ゆううつそうに「何もなかった」
「二十五口径自動拳銃は、一丁もないんですか」
「ない」
「そうですか。しかし、あ、そうか」と、エラリーが、ひどくいきごんで「おかしいぞ。問題の自動拳銃はどこかにあるはずです。持ち去られるはずはありません。事件発生直後から、ここは、太鼓の皮のように、かたく、しめあげられてるんですからね」
「観客の全部を終わるまでには出てくるかもしれんな」
エラリーは爪をかんでから、元気なく、額をこすった。「いいえ。そんなことがあるとは思えませんね。それじゃ、簡単すぎます。この犯罪には、何か、とても変なところがあります――そして、そうだ、とても巧妙なところもですよ、お父さん。ぼくには、はっきりそんな感じがします……」
エラリーは、ふと、目をとじて、やがて、鼻眼鏡をはずしてレンズをみがき始めた。「うん。考えが浮かんだぞ……お父さんは、もちろん、まだここにいるでしょう?」と、急に言った。
「いるよ。なぜだ?」
「ぼくは行ってきます。いま思い出しました。しなくてはならないことがあるんです」
「何をしなくてはならんのだ?」
「何をって。バークレイ・ホテルの、バック・ホーンの部屋をのぞいてみなくてはならないんです」
「なんだ」と、老人は、がっかりして「あとまわしにしといたんだ。もちろん調べなくちゃならん。ジョンソンをやって、見張らしてある。しかし、大したことは、何もないだろ?」
「ところが、きわめて特別なことが、向こうにあります」と、エラリーは、まじめに「だから、手おくれにならないうちに、見ておきたいんです」
警視は、しばらく、エラリーの考えをさぐっていたが、肩をしゃくった。
「よろしい。だが早くしろよ。もどってくるまでには観衆の方は片づけとこう。トーマスを連れて行くかね」
「そうですね――そう、やはり、来てもらいましょう――それから……出かける前に、お父さん、キット・ホーンも連れて行きたいんです」
「あの娘か。まだ検査がすんどらん」
「じゃ、すませて下さい」
「ついでに、マースの桟敷の連中もすまそう。とくに、マースをな」と、警視は言った。そして、二人は楕円形の競技場の東南の方へ、急いで行った。数時間前の、からっとした陽気さは、まったく消え失せていた。マースの桟敷の連中は、大部分、疲れきったようで、しんみりと坐っていた。ただひとり、平気でいるのは、張りきりボーイのジューナだった。というのは、椅子で、ぐっすり寝こんでいたからである。
警視が下からどなった。「諸君、すまないが、まだ、お帰しできん。ホーンさん、ちょっと――」
キットの目の下には、くまができていた。「はい」と、ものうそうに答えた。
「こちらへ、おりて来てくれんか」
その声で、みんながはっと、からだを起した。マラ・ゲイの目は、今にももえ上りそうに見えた。
「それから、グラントさんも――君! まき毛君も」と、エラリーはたのしそうにいった。
あばれん坊ビルと、むすこは、桟敷の中で、目を見はり、たすかったという顔で、エラリーをながめた。やがて、まき毛がとび立って、手すりをとびこえて、キットに手を、さしのべた。キットも、まき毛につづいて、楽々と手すりをとびこえた。そして、おがくずをしいたトラックに、とび下りるとき、スカートが、美しい放物線をえがいて、ぱさっと音を立てて、まき毛の腕に、だきとめられた。そして、ちょっとの間、二人はそのままにしていた。まき毛は、スコットの、詩劇マーミオンの中の騎士、ロッキンバー気どりで、腕に抱きとめた花の乙女を、手放したくないようだった。キットの髪の毛が、彼の|こばな《ヽヽヽ》をくすぐった。それはそよ風になぶられる|つたかずら《ヽヽヽヽヽ》のように、かぐわしかった。まき毛はこばなをぴくぴく動かした。しかし、キットはやさしくからだをひきはなしてから、警視にいった。「何でもいたしますわ――心がまえが出来ています」
「大したことじゃない、ホーンさん。あんたを、ホテルに帰してあげようとしてるんだ。しかし、行く前に――記録をととのえておくために、お分りだろうが――だれかが、あんたの気がつかないうちに、なにかをすべりこませないともかぎらないからね――あんたも、他の連中のように身体検査をさせてもらわねばならんよ」
キットは、急に、かっとなって「まさか、私が――」それから、微笑して、うなずいた。「もちろん、なんなりと」
一同は、かたまって、小さな出口のひとつへ向かって行った。警視の合図で、ヴェリー部長と、からだつきからみて、警官隊の二百ポンド級の警官全体の母親《おふくろ》といってもいいような、偉大な女丈夫の婦人警官が一人、一同の後につきそった。
地下の小部屋で、婦人警官は――徹底的に、だがやさしくやれと命令されて――キットをしらべた。おとなりの部屋では、ヴェリー部長が、まき毛を同じ調子で、しらべあげた。
若い二人は、ほんの数分間で、部屋から出て来た。形式は完了だ。怪しいものは――どこかに姿をくらましている二十五口径自動拳銃は、むろんのこと――なにひとつ、二人からは発見できなかった。
警視は一同を中央出口まで送っていった。そこで一同は少し立ちどまった。エラリーが小声で言った。「あの連中も、もうじき出してやるつもりですか」
「うん。すぐに身体検査をさせるつもりだ」
「どうか気をつけてやって下さい、お父さん、そうして――いいかげんに、ジューナを家へ帰すべきですよ。あの小僧も、今夜は興奮しすぎましたからね。明日は病気になるでしょうよ」
「ピゴットか、だれかをつけて家へ帰すよ」
「それから――ぼくが戻るまで、グラントを、おいといて下さい」
「グラントか?」と、警視は、うなずいて「ああいいよ」
父子の目が合った。「じゃあ――うまくやれ」と、警視が言った。
「うまくやるつもりですよ」と、エラリーがつぶやいた。「あ――ところで、カービー少佐をもう一度しらべてから、放免していいですよ。白ですからね。今夜はもう、あの男に用があるとは思えないんです。それに、ノールズが、本庁でがんばっていますからね」
「よし、よし」と、老人は、気のない返事をした。そして、いかにも、ひどく疲れたというみぶりで、かぎたばこを吸った。「あのなあ、今夜、ずっと気になってしようがないことがあったんだがな、エル。宵の口に、お前が、グラントに、ホーンのからだから、何かなくなっているものがあるだろうといった。あれは一体、どういう意味なんだ?」
エラリーは頭をそらして、うれしくてたまらないという恰好《かっこう》をした。「まったく、お父さんときたら、なんて|とんま《ヽヽヽ》なんだろうな、おどろいちゃう!≪きいとくものは、そのときにきくもんだ≫ってことを覚えといて下さいよ」
「ごまかすんじゃない」と、警視はおこって「あれは、どういうことだ?」
エラリーは笑いやめて、いかにも、のびのびと、落ちついた様子で、たばこを親指の爪でゆっくり、ポンポンいわせながら「分りきってたことですよ。ホーンがつけていたガン・ベルトに気がつきませんでしたか?」
「それで」
「ホルスターが、いくつ、釣ってありましたか」
「もちろん、一つだ――いや、そうだ、二つだった」
「そうですよ。しかも拳銃は一丁しか身につけていませんでした。あの時、片方のホルスターは空《から》でした。おかしいでしょう。昔から気に入りの、二丁拳銃用のガン・ベルトをつける男が、どうして一丁しか拳銃を持っていなかったんでしょう。どこかに、きっと、もう一丁の拳銃がおいてあるはずじゃないでしょうか」
「なるほど、たしかにもう一丁あるはずだな」と警視はおどろいた顔で「そうだな。間違いない! その一丁が、あの男の手に握っていたみごとな象牙の握りのついたパチンコと対《つい》だろうな。ちがったら、おどろきものだ」
「きっと対だろうと思いますよ」と、エラリーはつぶやいて、いきなり歩き出して、外の歩道にいるキットと、まき毛と、ヴェリー部長といっしょになった。
夜の空気は骨にしみるほどつめたかった。警視は一同が角まで歩いていくのを見とどけた。タクシーがさっと横づけになって、四人が乗り込むのを見とどけた。エラリーの唇を見守り、車が第八アベニューへ疾走していくのを見とどけた。事実、何も見とどけるものがなくなってからも、かなり長いこと、そこに立って、見守っていた。
十 対の拳銃
バークレイ・ホテルの、バック・ホーンの部屋の見張りとして、クイーン警視から派遣《はけん》されたジョンソン刑事は――小柄で、黄色の目で、実直な商人風だが、いかにもデカの目つきをしている白髪まじりの男だった――エラリーのノックで、あわてて、ドアをひろくあけた。エラリーの姿をみると、緊張した表情をゆるめて、にっこりして、後へさがった。一同は、そろって室内へはいった。ヴェリー部長がドアをしめた。
「何か、変わったことは? ジョンソン」と、部長が、がらがら声できいた。
「何もありません。丁度、靴でもぬいで、ひとねいりしようと思ってるところを、クイーンさんに、たたきおこされたってとこです」
キットは、ふらふらと、更紗《さらさ》木綿のカバーをかけた椅子に、歩みよって、腰をおろした。手袋も外套もつけたままだった。カウボーイ服の上に外套をきている、まき毛は、ベッドに、ずしんと腰をおとした。だれも一言もいわなかった。
かなり広い部屋は、典型的なホテル風の、特徴のないやつで、ベッド一台、椅子二脚、化粧台と洋服|箪笥《だんす》と、ナイト・テーブルがおいてあった。
エラリーは、ヴェリー部長に、微笑してから、いった。「ホーンさん、くつろいで下さい」それから合外套をぬぎ、帽子をベッドに、ほおり出して、仕事にかかった。
ジョンソンとヴェリーは、退屈そうにエラリーをながめていた。
ほんの数分の手間で、エラリーは、手ばやく捜査をすませた。箪笥《ヽヽ》の中には、ホーンの服が、きちんとかかっていた――背広と、予備の外套と、ステットソン帽子が二つ。化粧台の引き出しには、つまらないものが二つ三つ。ナイト・テーブルの引き出しには……。エラリーは、なにか考えながら、身をおこして、すまなそうに、ほほえみながら、キットにきいた。
「あなたのお部屋を捜しても良いでしょうか、ホーンさん」
まき毛が、けんかごしで「おい、君、ぼくは好かんね、そんな――」
「あんた!」と、キットが、たしなめた。「かまいませんよ、クイーンさん。さっそくやっていただくわ。おさがしになっているものを言って下されば、私が――」
「なあに、大したものじゃありません」と、すぐ、エラリーは言って、共同の浴室のドアのところへ行って、あけた。何かぶつぶつ言っていたが、ドアをしめたので、聞きとれなかった。それから、エラリーは、キットの寝室へはいった。エラリーは、けげんそうに眉をよせて、三分後にはもどって来た。
「たしかにあるはずだがなあ……そうだ、きっと、ベッドだ」と、ひとりごとをいいながら、まき毛が、おどろいてずらした脚のそばに、ひざを下ろして、ベッドの下をのぞきこんだ。それから奥の方へ手をのばして、さぐっていた。しばらく探していたが、顔を真赤にして、うれしそうに、平べったい小さな楽屋用のトランクを、ひきずり出した。
そのトランクを部屋の真中にはこぶと、無造作に、ふたをあけた。ちょっと、中をかきまわしていたが、荒々しく目をかがやかせて、からだを起した。右手に一丁の回転拳銃を握っていた。
「まあ、それですの」と、キットが叫んだ「なぜ、もう一丁の銃を探しているとおっしゃらなかったの、クイーンさん。私が知っていれば――」
「すると、あなたは気がつかなかったんですね」と、エラリーは銃を見ながら、ゆっくりいった。
キットの無邪気な眉のあいだに、かすかなたてじわがよった。「もちろんよ、ええ、知らなかったわ。ちっとも気がつかなかったの――夢中だったんですもの。私は、二丁とも、父が身につけているとばかり、思いこんでたんです。でも――」
「お父さんはいつも銃を二丁もって行く習慣でしたか、ホーンさん」と、エラリーがさりげなくきいた。
「父は、そんなに、はっきりときめていなかったようです」と、ちょっと言葉を切ってから「父は、ほんとに、無頓着な人でしたの。時には二丁もっていきましたし、時には一丁でした。私は、二、三日前に、トランクのひき出しに二丁あるのを見た、おぼえがあります。今夜は――いいえ昨夜は、一丁だけ持って行ったにちがいありませんわ。ああ、私、すっかりつかれて、こんぐらがっちゃって――」
「無理もありませんよ」と、エラリーは、あいづちを打って「楽になさいよ、ホーンさん。二、三時間、とてもつらかったでしょうからね……対《つい》になっている拳銃の片方だけを持っていって、しかも、ホルスターは二つ吊っていたなんて、あなたは変だと思いませんか?」
キットはびっくりした顔でエラリーを見つめた。しかし、おどろいたことには、すぐ、笑い出した。「クイーンさん」と、あえぐようにいった。キットの笑い声は、ヒステリーじみていた。「あなたは西部の|こしらえ《ヽヽヽヽ》を、よく御存じじゃないようね。それに、あのガン・ベルトをよくおしらべにならなかったのね。大抵のガン・ベルトは、全部じゃないけど、ホルスターがとりはずし自由になっているものですわ。でも、あれは――父のは特製なんですよ。ホルスターは二つつけたままにしておくよりしようがないんですのよ。さもなければ、あのベルトを使わずにおくだけですわ」
「そうか」といって、エラリーはちょっと赤くなった。それから、うつ向いて、見つけ出した回転拳銃をしらべていた。
象牙の握りのついた、四十五口径の単発式コルトで、死んだ男が握っていた拳銃と対《つい》なのは、あきらかに問題ない。長い銃身には、こまかい模様の|ほり《ヽヽ》がいれてあるし、シリンダーも同じように対《つい》になっている。握りの両側には、精巧な、小さな象牙の象眼《ぞうがん》がしてあり、同じような雄牛の頭の図が彫ってある。両側の楕円形《だえんけい》の中央には、Hの組合せ文字が、きざまれている。象牙の象眼は、すりへって、黄ばんで、対の一方のものと同じように、大変な時代ものなのが分る。ただ、握りの左側の一部分だけは変色していない。エラリーが右手で銃を握ってみると、象牙の色のやけていない部分が、曲げた指の先と、手のひらのふくらみとの間に来た。銃身の先と、照星《しょうせい》の先端が、ともに、すれてなめらかになっているのは、最初の拳銃と同様だった。
「これは、もう一丁のと同じように時代もので、よく使いこんである」と、エラリーは、ぼんやり、つぶやいて、きらりと目を光らせたが、そのとき、ヴェリー部長が、ずかずかと近づき、ベッドにねそべっていた、まき毛が、とび上ったので、その光りはふっと消えてしまった。
やがて、はげしいすすり泣きが聞こえた。キットだった――大平原一のカウガール、無数の活劇メロドラマのヒロイン、西部きっての命しらずの娘――そのキットが、恥も外聞もなく、身をなげ出して泣いていた。涙にぬれた両手に顔を埋めて、すすりあげるたびに、背中が発作的に波打った。
「もし、もし、ぼくたちは、なにも、あなたを――」とエラリーは叫んで、拳銃をベッドにほおり出して、かけよった。しかし、まき毛のがっちりした肩からのびた、長い、たくましい腕で、引きもどされた。腕自慢のヴェリー部長さえ、無駄骨折りとばかり、後ろへ下がっていた。まき毛は、キットの涙にぬれたかわいい日やけした手を、涙にぬれたかわいい日やけした顔から、ひきはなして、キットの耳に、なにかおまじないみたいな言葉を、ささやいたにちがいない。というのは、おどろくべき短時間に、背の波打ちは、だんだん少なくなり、すすりなきはだんだんおだやかになり、やがて、まったく、やんでしまった。まき毛は、うれしさをかくそうと、しかめ面をして、ベッドの上の古巣にまいもどった。
キットは、ハンカチで、三度鼻をかみ、目を軽くたたいた。「どうも――どうもすみません。なんて私、ば、ばかなんでしょう。赤ちゃんみたいに泣いたりして、私には、分らなかったんです、どんなにか私――」キットはハンカチをしまって、エラリーの気ずかわしそうな目を見た。「もう、すっかり大丈夫ですわ。クイーンさん、とりみだしたりしてごめんなさいね」
「ぼくは――なあに――」と、エラリーは気軽くいって、赤くなった。それから、拳銃をひろいあげた。「まちがいないですね」と、きびしい口調で「これはバック・ホーンの拳銃ですね」
キットはゆっくり頭をふった。「まちがいありませんわ」
「すると、もちろん、これは、われわれが競技場でみつけたのと、対《つい》の一丁ですね」
キットはしめりがちに「私――父がどっちを持って行ったか知りませんが、それはきっともう――一丁の方だと思いますわ」
「お父さんは二丁以上持っていたんですか」と、エラリーが、すぐきいた。
「まあ、いいえ、私がいうのは――」
「あなたは、とまどいしてるんですよ」と、エラリーがやさしくいった「君は知ってるか、グラント君」
「知ってますよ」と、まき毛が、中《ちゅう》っ腹でいった。「どうして君は、かわいそうな娘《こ》を、ほっといてやらないんだい。それは、バックの模範《もはん》射撃用の拳銃の一丁だよ。バックは、そいつを二十年の上も、持ってたんだ。おやじが、時々、話してくれたんだが、そいつは、昔のインディアンの勇士がバックに贈ったもんで――バックのために特別にこしらえて、頭文字もかざりもつけたもんだってさ。大した拳銃さ」声に熱がはいった。そして、エラリーから拳銃をかりて、いかにも値打ちをはかるように、手で重みをはかりながら「この重みときたら、クイーンさん、申し分なしだ。いいなあ。バックが、こいつを手ばなさなかったのも無理ないよ――いつも使ってさ。バックは射撃の名人でね――あんたも聞いたとおりさ――そいで、アニー・オークレーのように、銃の手ごたえに、|こり《ヽヽ》屋だったんだ。だから、こいつが、とても気に入ってたのさ。バックにはこのバランスがぴったりだったのさ」
部屋のすみにいるジョンソン刑事は、何かいいたげな目をぱちくりして、あくびをかみしめながら、顔をそらした。ヴェリー部長はしびれた足を動かしていた。キットさえ、まき毛のおしゃべりには、うんざりしているようだった。だが、エラリーは、非常に興味をひかれていた。
「それから」と、エラリーは、低い声で「とても面白いぜ」
「それからって!」と、まき毛は、びっくりして「他には、もう、言うことがないんだ――」
「そうよねえ!」と、キットが、反射的にいって、二人とも顔をあからめた。エラリーは、おどけた恰好で、背なかを二人に向けて、また、銃にうつむきこんだ。
前に役に立った方法を思い出して――絹ハンカチでくるんだ鉛筆で――エラリーは、八インチの銃身の内側を、ていねいに掃除した。ハンカチには、ほこりのしみよりほか怪しいものはついていず、それも、非常にわずかだった。しかし、脂のしみは、ふんだんについた。
「最近、掃除したんだな」と、だれにともなくいった。
キットがまじめにうなずいた。「少しも不思議じゃありませんわ。クイーンさん。父は、その拳銃を、まるでなくなった母親の片身のように、愛していたんですもの。ほとんど毎日、二丁とも掃除していましたわ」
エラリーはシリンダーを、折って開き、弾倉をのぞいた。その拳銃には装填《そうてん》してなかった。エラリーは、もう一度、トランクの引き出しをかきまわして、薬包の箱を一つ、みつけた。四十五口径の弾だった――長さが、約二インチもあるやつだった。エラリーは、ちょっとためらってから、弾の箱を、引き出しにもどして、拳銃をポケットにしまった。
「ここには何もないらしい」と、元気な声でいった。「部長、ぼくが重要な書類なんかを見落としているといけないから、もういちど、しらべてみて下さい。だが、ここを出て行く前に、もうひとつ、どうしても、やることがあるんです。すぐにやるつもりです」
エラリーは微笑しながら、ナイト・テーブルの電話をとりあげた。「ホテルの交換かね? 受付につないでくれたまえ……夜勤の番頭さん? 昨日の夜、勤務してましたか……結構。八四一号室へ来てくれませんか。こちらは――そう、警察のものです」
ヴェリー部長が、部屋の捜査の結果、何も出てこなかったと報告しおえたとき、ドアをノックする音がきこえた。ジョンソン刑事がドアをあけると、えりのボタン穴に、おきまりの、番頭のしるし、カーネーションの花をさした若い男が、ひどく恐縮しながら、あらわれた。
「おはいり」と、エラリーはやさしくいった。「昨日の夜、勤務してたのは君だね。何時に、勤務についたの?」
「はあ――七時でございました」
「ああ、七時ね! そりゃ丁度、よかった。ニュースは聞いたろうね。むろん」
若い男は目にみえて、恐縮した「は、はい。あの、ホーン様のことでして。おそろしいことでございます」と、目のすみで、遠慮がちに、キットを、ちらっと見た。
「ところで、ねえ」と、エラリーは、愛想よく「この二、三日中に、ホーンさんの部屋を訪ねた客があったかどうかが、当然、問題になるんだがね。君にきいたら分るかもしれないと思うんだ。客があったかね?」
名ざしできかれたのに気をよくした、その気取屋さんはいかにも番頭らしいものごしになった。ちょっとこまったように眉をよせて、女みたいな爪でもったいぶって額をかき、やがて、頬をはればれと明かるくした。
大声で「はあ、ございました。さよう、多分――おとといの晩に、どなたかがいらっしゃいましたです」
「何時に?」と、エラリーはおだやかにきいた。キットは非常に静かに、手をひざにはさんでたし、まき毛は、ベッドの上で、身じろぎもしなかった。
「さよう、十時ごろでございましたでしょうか、午前は――」
「ちょっと、待って下さい」エラリーはキットに向かって「おとといの晩、バークレイ・ホテルに帰ったのは、何時といいましたかね? ホーンさん」
「時間をいいましたかしら? おぼえてないわ――あたし、おそく帰ったら、父はもう寝ていたと申しましたけど。ほんとうよ。クイーンさん。帰ったのは真夜中すぎでしたわ。グラントさんと、外出してたんです」
「まき毛グラント君とですね」
「そうよ」
まき毛グラントは、のどになにかひっかかったように、かるいせきばらいをした。
「では、つづけて、どうぞ」と、エラリーが番頭にいった。「十時半に客があって、それから?」
「ホーンさんは九時頃、ロビーにはいって来られて、受付で鍵をおとりになりました――私が存じていますのはそこまでですが――それから、上へ行かれたと思います。十時半に、男の方が一人、受付に来られて、ホーン様のお部屋の番号を、たずねられました。男の方で――たしかに、男の方と思いました」
「どういう意味だ――君が、男だと思ったというのは?」と、ヴェリー部長が、はじめて口をはさんだ「君は世間の常識をしらんのかね。男と女の区別もつかんのか、それとも、その人物には、何か妙なところがあったのか」
番頭は、また、ちぢみ上って「い、いいえ。どうも、よく思い出せませんので――なにしろ、ぼんやりした記憶ですんで。手前どもは、忙しいものでございますから……」
「その男の様子を、何か思い出せないかね」と、エラリーが、すぐきいた。
「さようです。背はお高い方と存じます、そして、大きな方で、そして――」
「それから」
番頭は、ドアまで、あとずさりして「思い出せませんです」と、弱々しくいった。
「ああ、困った先生だな」と、エラリーは、つぶやいた。「よろしい。しようがあるまい」それから、また、もしやという表情で「受付に君といっしょにいた仲間がいないかな。その人が、その男に注意してたかもしれないね」
「いいえ、おりませんです。あのときに、受付におりましたのは、手前、ひとりでした」
ヴェリー部長は、いまいましそうにうなった。エラリーは肩をすぼめた。「他に、何か?」
「もちろん、お教えしました。『ホーン様は八四一号室でございます』すると、その方は、内線電話を、とって、話しておられました。その方が、ホーン様を親しそうに呼びすてになさるのが、小耳にはいりました。しばらくして『すぐ上っていくよ、バック』と、いわれたようです。それから、行ってしまわれました」
「名を呼びすてにね。フーン。面白いな。上へ行くって? この部屋へ来たんだね」エラリーは上唇《うわくちびる》をかんだ。「だが、無論、それは君には分らないはずだね。ありがとう。それから、このことは、決してだれにも話さないでくれたまえ。命令だよ」
番頭は、そそくさと帰って行った。
エラリーはヴェリー部長と、ジョンソンにうなずいてみせた。「ああ――ホーンさん、これであなたをお一人にしてあげますよ。つらい思いをさせたんじゃないかと思います。しかし、おかげで大助かりでした。さあ、行こう、諸君!」
「ぼくはのこるよ」と、まき毛が、ぱきっといった。
「そうしてよ、まき毛さん」と、キットがささやいた。「あの――ひとりぼっちじゃたまらないの。ねむれそうもないし……」
「分ってるよ」と、まき毛が、キットの手をとって、かるくたたいた。
エラリーと二人の刑事は、そっと部屋を出た。
「さて、ジョンソン君」と、エラリーがぱちりと指をならして、いった「あの恋人たちの邪魔をしないようにして、注意して、二つのドアを見張るんだ。廊下で一晩中、見張ってなくちゃならないだろうよ。もし、変わったことがあったら、コロシアムの警視に電話をかけたまえ。すぐに応援をよこすだろうからね」
それから、エラリーは、部長の雄牛のような胴と、棍棒のような腕の間に、自分の腕をさし込み、二人は、四銃士の中の二人みたいな気分で、立ち去った。
十一 捜査無効
たのしい一夜に胸はずませて、エラリーが、ジューナと警視といっしょに、トニー・マースの桟敷に、うきうきと坐ってから、もう、数年が経ったような気がした。部長といっしょに、コロシアムに、また、もどって来たとき、エラリーは立ちどまって、懐中時計をみた。午前四時十分過ぎだった。
「一体、アインシュタイン博士がいなかったら」と、エラリーは、黙りこんでいる連れにいった。「どういうことになるだろう。とらえがたい≪時間≫とはどういうものかを、われわれに教えてくれたのが、あの偉大なチュートン人なのさ――万物の機構の中で、時間が占める位置は、なんて不安定なんだろう。(私が今、しゃべっているこの瞬間は、すでに、私から、はるかに離れているんだ……)君はボアローのことはよく知らないだろうね。十七世紀の風刺詩人で、こう、うたっている。≪時は逃げ去り、われらを、ともに、いざない行く――≫」
「なかなか学がありますな」と、急に部長がくすくす笑い出した。
エラリーは、ぴたっと、黙った。
二人がはいって行くと――これはまた、がらりと変わっていた――二、三時間前には二万人の観客で、ぎっしりつまっていた広い、円形の座席は、すっかり人かげがなくなっていた。通路にちらばる紙くず以外には、人がいた気配を示すものはなかった。この砦《とりで》は――飾りつけもろともに――何か、レコード破りの短かい時間のうちに、空《から》にされてしまっていた。
警官と刑事と、二、三人の疲れきった市民と、ロデオ一座の連中をのぞいては、コロシアムは、まったく空《から》だった。
「何かみつけたかね」と、疲れて灰色大理石のような顔色の警視が、エラリーと、部長が競技場にはいるのをみて、しゃがれ声できいた。それでも、まだ、熱のこもった調子だった。
「これ以外は何も」といって、エラリーは、ホーンの対《つい》の回転拳銃の、もう一丁を、差し出した。警視はそれをつかんだ。
「弾ははいってないな」とつぶやいた。「これは対《つい》のやつだな、よろしい。しかし、なぜこいつを部屋に残して来たんだろう?」エラリーが苦労しながら説明した。「おお、するとこれもペケか。他に何か?」
「書類も手紙もないようでした」と、部長が報告した。
「訪問者が一人いたそうです」と、エラリーが報告した。そして、バークレイ・ホテルの夜勤の番頭の証言をくり返した。案の定、警視は番頭の悲しむべき観察力の不足に、癇癪《かんしゃく》を起こした。
「もちろん、その客がホーンを殺した奴かもしれんな」と、警視は、かんかんになって叫んだ。「しかも、間抜けが――そいつのことを、何一つ、おぼえとらんとはなあ」
「背が高くて大きい男だそうで」と部長がいった。
「ふうん」
「ところで、ねえ」と、エラリーは、珍しく、せきこんで「こちらは、どんな具合いだったか、話して下さい」
警視は、にが笑いして「何もないようなもんだ。見て分かるとおり、観客は全部、かたづけた――最後のひとりを五分前に町へ、ほうり出したばかりだ。しかも、兇器の二十五口径自動拳銃はついにみつからんのだ」
「二十五口径は全然みつからなかったんですか」と、エラリーが、あきれたようにきいた。
「半ダース近くあった。大部分は一時間ほど前に出て来た。本庁のノールズに送ってやったら、二、三分ほど前に、ノールズから電話があったがね」
「それで、どうでしたか」
「われわれが今夜、観客の中からみつけた二十五口径は、どの一丁も、ホーンを殺した弾を発射したものではあり得ない、というんだ」
「おや、おや」と、エラリーは、つぶやいて、そわそわ歩きまわった。「ひどい事態になりましたね。こんなことだろうと、思っちゃいたんですがね」
「わしが、これからやることが分るかい」と、警視は、今では、情けなそうな声になっていた。
「分かりますよ」
「ここを、上から下まで大掃除するんだ!」
エラリーは、ぴくぴくするこめかみを押えていた。「たっぷりおたのしみ下さい。この――この、大寺院のばかでかいお墓をね。おやんなさい。大捜査を。ぼくは、市の財産対ジューナのドーナツ一個の賭けで、お父さんに、例の銃が見つからない方へ、賭けましょう」
「くだらんことをいうな」と、警視は、ぴしゃりといった「銃はこの建物から持ち出されてない。われわれは見張ってたんだ。銃がひとりで歩いて出るわけにはいかんじゃないか。だから、きっと、ここの、どこかにあるにちがいない」
エラリーは、だるそうに手を振った。「おっしゃる理論は認めます。しかし、銃はみつからないでしょうよ」
精力的で小柄な警視が、雄々しい、むしろ英雄的な努力をしなかったとは、とてもいえない。警視は、わずかな捜査隊を、班別《はんべつ》にして、直ちに行動をおこした。ヴェリー部長は、競技場そのものを捜査する班長に任命された。ピゴット刑事は、お椀形の観覧席を捜査するための団長になった。ヘッシー刑事は五人の助手をつれて、楽屋、馬舎、控え室、事務所を洗うことになった。リッター刑事は、廊下、道路、建物の間の空地、あなぐら、倉庫、ごみ箱、その他、残っている場所全部をあさる任務を受け持った。それは、訓練された部隊を、最も能率的に、完全に配置したものだった。捜査班は、直ちに、定められた任務につくために、出て行った。エラリーはぼんやりと立って、ずきずきする頭をたたいていた。
警視は、部下を動かす巨大な仕事に、多くの時間をくわれて、ぶりぶりしていたが、やっと、それまで注意を向けることが出来なかった、二、三のこまかい仕事を、思いつくままに、片づけはじめた。まず、競技場の門番を二人呼びつけた。競技場の東と西の大門についていた二人である。二人の証言は、簡単で、まるっきり手がかりは得られなかった。二人とも――ロデオの古い座員で、あばれん坊ビル・グラントが、正直なのを保証している――彼らの目をかすめて、競技場にはいった者は、だれひとりいないと証言した。しかも、ロデオの医者、ハンコック先生と、ダヌル・ブーンの他は、カウボーイの服装をしていない者は、だれひとり、競技場には、入れなかったといった。テッド・ライヤンズは、馬に乗って、カウボーイの一団にまじっていたので、気がつかなかったといった。とりわけ、最も重要な証言だったのは、射殺事件がおこってから後、だれ一人として、二人が番をしている門を通って、出て行ったものはいないと、いうことだった。
そこで、次にたしかめるべきことは、もし出来るなら、楕円形の競技場の北側と南側のコンクリート壁についている数多くの小さな出入口の一つを通って、こっそり出て行った者がいるかどうかという点だった。これは簡単に解決できない問題だったが、エラリーの発言で、あっさり、けりがついた。つまり、競技場は競技場としてきりはなしてみれば、あばれん坊ビル・グラントが入場してから殺人が行なわれた時まで、どれだけの人数がはいっていたかが、はっきり分っているし、しかも、その連中は、現にみんないるし、数も合っているから、だれ一人、抜け出した者はいないというのである。
捜査はつづけられた。ショックで、ぼんやりしているカウボーイや、カウガールの一団は、まだ競技場に足どめされて、静かに列をつくって坐っていた。警視は彼らを、集団尋問したり、個人尋問した。それは、石筍《せきじゅん》の群れから、必要とする情報を引き出そうとするものだった。連中はみんな、かたくなって、自分を守っていた。警視の疑惑《ぎわく》の目を感じて、まるで|かき《ヽヽ》のようにかたく貝殻《かいがら》をとじて――じっと、身うごきもせずに、どことなく殺気立っていた。
「おい、わしが君らからききたいのはだな」と警視が、どなった「射殺事件がおこる直前に、君らが馬に乗って、喚声をあげながらトラックを走りまわっていたとき、何かうたがわしい行動をした者がいるのに気づかなかったかということなんだ」
答える者はいなかった。みんな頭をふり向けようともしなかった。筋骨たくましく、皮膚のひきしまった怪人、ちびダウンズが、警視にかからないように注意して、痰《たん》をとばした。茶色の痰が、警視から十二インチぐらいのところをかすめて、ぱっとかすかな音をたててトラックの地面に落ちた。それが挑戦《ちょうせん》の合図らしかった。ちょっとしたざわめきがおこり、皆の目が、さらに暗らく、鋭くなった。
「口をきかんというのか? え? グラント君、ちょっとここへ来てくれ」座長は、一方にかたまっている小さな群れからはなれて、仕方なしに、警視の方へ進み出た。エラリーはその群れの中にカービー少佐がいるのに気がついて、ちょっと、おどろいた。まだいたのだ。少佐は、思ったより好奇心の強い人なんだなと、エラリーは思った。
「何ですかい?」と、グラントが、ため息まじりにいった。
「何ですかいとは何だ!」と、警視がやりこめた。
「さあね」
警視は血管の浮いている細い手を、連中の頭の上で振った。「この連中を、どの程度、知っとるのかね」
グラントの表情は、泥のようにこわばり、冷たいものが、ひろがった。「さあね、よく知ってまさあ。こいつらの中には、バックおやじに一発くらわすような奴はいませんぜ」
「それじゃ、わしの質問の答えにならん」
「みんな古い座員でさ――」と、グラントは、冷やかにいった。やがて、その氷のような冷やかさがとけて、鋼鉄のような片意地なものになった。なにか不安の色が、強わばった目に流れた。「みんな古い座員でさ」と、くりかえした。
「おい、おい、グラント君、この年寄りをからかうつもりじゃないだろうな」と、警視がつぶやいた。「君は、みんな古い座員だといいかけて、やめた。なぜだ? そのわけは、みんなが必ずしも古い座員でないのに気がついたからだろう、お天道さまもお見通しだ。話しちまえ!」と、きびしく「だれと、だれが、新顔なんだ!」
かすかな、ため息が、連中の中におこり、いくつかの陰険な目がはっきり警視に向けられた。グラントは、しばらく身動きもせずに立っていたが、やがてむっくりした肩をすぼめた。
「思い出したよ」と、低い声で「何でもないことでさ。警視さん。今日、新顔を一人、とったんでさ――」
前列に腰を下していた、横着ハウズという男が、何かあざけり、毒づきながら、つばをはいた。グラントは、はずかしそうに顔を赤らめた。
「だれだね」と、警視が、たずねた。
グラントは連中に近づいて「おい、ミラー」と、ぶっきら棒に呼んだ。「こっちへ出てこい」
片頬に紫色のあざのある男が、群れから立って、ためらいながら、列をかき分けて、前によろめき出た。警視はしばらく、その男を見ていたが、目をそらした。ひどくいためつけられた左の頬は、見るにたえなかった。その男は、明らかに神経質な恐怖の発作《ほっさ》にかかっていた。唇がふるえて、糖蜜のような茶色の歯が見え、前に進み出る途中、三度も、つばをはいた――かみたばこの汁の長い矢のようなつばだ……きっとブーンがこの男の|こしらえ《ヽヽヽヽ》をしてやったのだろう。その男は、みすぼらしい服をぬいで、はでな舞台衣裳をつけていた。
「来ましたぜ」と、グラントの目をさけながら口の中でいった。
座長は、くちびるをしめした。「警視。ベンジー・ミラーでさ。今日の日暮れ前に、雇い入れたんでさ。しかし、いっときますがね――」
「委《まか》せといてくれ。おい、ミラー、何か、君自身のために、申し立てることがあるかい」
その男は、目をぱちぱちさせた。
「おいら? おいらのためにだって? もちろん、何んにもないでさ。おいらは、気の毒な、バックおやじの死んだことについちゃ、何んにも知りませんぜ。旦那。かわいそうなバックを、馬どもが、ふみつぶすのを見ちゃ、身の毛がよだちましたよ、旦那。それに、おいらは、バックとは昔なじみの仲間なんで――」
「フーン。すると、君も、バックを知ってたんだね。グラント君、君はどうして、この男を、そんなに差し迫まってから雇ったんだね」
「この男は、バックの紹介でやって来たんでさ、警視」と、グラントは、ぶっきら棒にいった。「バックが、その男に何か仕事をやってくれとたのんできたんで、入れてやったんでさ」
「すっかりあぶれちゃってたんですよ、旦那」と、ミラーが熱心に口をはさんだ。「ひどいもんでしたよ。いく日も、仕事がなくってね。やっとニューヨークへたどりついたんでさ――グラントさんのロデオがあるときいて――仕事口をもらおうと思ってね。するてえと、バックおやじが、ショーに出てるのが分ったんで、会ったんでさ。もと、おいらはバックと二人で、牛飼いをやったことがある仲でさ。あの男は――めぐんでくれたんでさ、バックが、二ドルばかりね。そいで、グラントさんに会えって、ここによこしたんでさ。そいだけでさ、旦那。てんで、見当がつきませんぜ、旦那。こいつあ――」
警視は、その男の、少しよだれのたれている口もとを、しばらく見て、何か考えていたが、やがて、いった。「よろしい、ミラー。もどっていい」
並んでいる連中の中に、ほっとした空気が目に見えてひろがった。ミラーはそそくさと、もとの場処によろめきもどって、腰を下ろした。
やがて、警視がいった。「おい、ウッディ、こっちへ来い」
片腕の男は、ちょっと、しゅんとして坐っていたが、やがて立って、つかつかと進み出た。高い靴のかかとで、トラックをふみつける音がひびいた。短かくなったたばこが、うすいくちびるからころげ落ちて、黒いマホガニー色の顔が、嘲笑するようにゆがんでいた。
「おれの番かい、うふっ……」と、ふざけて「へえ、何でがす! するてえと、片腕ウッディが、お繩をいただいて、焼印をおされて、四足をふんじばられるって寸法ですかい。旦那、あっしをたたいたって、何んにも出っこありませんぜ」
老人は微笑した。「大した演説だな、ウッディ。わしはお前に、まだ、何んにも、ききもせんのにな。どうやら、お前の方で、わしがお前をしぼるだろうと思っとるらしいから、わしの方でも一つ、手ごわい訊問を、こっぴどくやらずばなるまいよ。お前とホーンが、今日の午後、けんかしたのは事実かな――わしのいうのは、正確には昨日の午後の、総ざらいの後だ」
「たしかに事実でさ」と、ウッディは、ずけずけいった。「おれが、あいつを、張りとばしたってんだろう」
「そんなことじゃない。だが、お前が、そんなことをしなかったというつもりでもないんだ。お前はホーンが、少しばかりお前の御馳走をなめたんで、おこってたんだろう、ちがうかな」
「やぶにらみの野馬ができものを出したように怒ってたさ」と、ウッディがみとめた。「畜生め。もう少しで、あいつをへたばらしてやれたんだ、そいつを考えると」
「なかなかしゃれっ気あるんだな、君は」と、警視はつぶやいて「ホーンをどの程度、知ってるんだね」
「ずんと昔から知ってまさ」
「君は、ホーンの後から行った騎手連中の、どこら辺にいたかね、ウッディ」
「先頭さ。まき毛グラントとならんで内側を走ってたさ。ところで、よく聞いてくんなよ、旦那」と、ウッディは、みにくい笑顔をつくって「あっしがバック・ホーンのどてっぱらをぶちぬいたと思ってるなら、とんでもねえ、見当ちがいってもんですぜ。ホーンが、ころがり落ちた時にゃ、何千人てえ人の目が、あっしを見てたにちがいないんだ。おいらは他の連中といっしょに撃ってたんでさ、そうだろう? おいらは右手を上にあげてたんですぜ。しかも、左手はないんでさあ。それでさ、ぶっぱなすときは、ひざで舵をとって馬に乗ってるんだ――ねえ、そうだろう。ホーンは二十五口径でやられたってえが、あっしゃ四十五口径を持ってたんだ――そうじゃねえか? ホーンを撃てっこないやね。逆もどりするんだね、旦那。あんたあ、どんづまり道を、突っ走ってなさるんだよ」
しだいに、競技場はからっぽになって行った。カウボーイ連中は、男と女に分けられて、女たちは階下に連れていって身体検査を受け、男たちは、その場で検査された。男からも女からも、二十五口径の自動拳銃は発見されなかった。そこで、厳重に護衛されて建物を出て、みんなホテルに送り返えされた。
コロシアムの従業員たちも身体検査をされた。しかし二十五口径自動拳銃は、全然出て来なかったので、家へ帰された。
グラントのロデオの他の使用人たちも――その中には千鳥足のがに股男《またおとこ》、ブーンもいる――馬や、他の動物たちを始末したあとで、検査された。二十五口径自動拳銃は、全然発見されなかった。彼らも、他の連中のあとから、送り出された。
他のドアはみんな閉鎖《へいさ》された。マースと、グラントと、カービー少佐の他は、警官だけが、コロシアムに残っていた。
エラリーは、行方《ゆくえ》の分らぬ自動拳銃を見つける捜査が、次々に失敗していく度に、いまいましそうに頭をふりながらも、手をこまねいて、何もしようとはしなかった。
マースのすすめで、一同は黙って階上にのぼった。興行主の事務室にはいってからも、みんな黙って坐っていた。マースは出て行って売店にはいって、サンドウィッチとコーヒーわかしを持って来た。一同は感謝して食べたり、飲んだりしたが――ひと言も口をきかなかった。言うべきことがなかったのだ。
しばらくすると、報告がとどきはじめた。最初の報告は、やせて、はにかみ屋のピゴットという刑事が、とどけて来た。
ピゴットは、申しわけなさそうに、せきばらいした。「観覧席は、全部洗いました、警視」
「紙くずなんかも全部調べたのか」
「はい、警視」
「なにもでなかったか」
「何もでません」
「部下を連れて、帰宅したまえ」
ピゴットは黙って出て行った。
五分たって、第二の報告が来た。今度は、警視配下の猛者《もさ》、リッター刑事だった。
「廊下、穴倉、倉庫、電話室、売店、通路」と、胴間声《どうまごえ》で「お手あげです、警視」
警視は、ものうげに手を振って、去らせた。
リッターのかかとを追っかけるように、例の鈍感男、ブロンドのヘッシー刑事がやって来た――いつもよりいっそう感のにぶい顔つきだ。
「楽屋をしらみつぶしに調べました、警視」と、のんびりいった。「ひき出しから部屋のすみずみまで。それから、馬舎、馬具、まぐさおけ、部屋という部屋、控え室、事務室、みんなしらべましたが……ペケでした」
「この部屋は調べたかね、ヘッシー」
「ええ。警視、他の部屋と同じように」
警視はうなった。みがき上げた机に足をのせているトニー・マースは、まばたきもしなかった。
「御苦労、ヘッシー……、おお、トーマス」
大男のヴェリー部長が足音あらくはいってくると、部屋がゆれた。意志の強い顔の輪郭が、まるで熱でゆがめられた鉄のように、少したるんでいた。ヴェリーは、どっかと椅子に腰を下ろすと、気がぬけたように、上官を見つめた。
「どうした、トーマス、どうだった」
「競技場をすっかりさらったんですがね。一寸きざみにね、しんどかった。熊手まで使ったんです。いまいましい。かなり深く掘ったんです。念を入れてね……でも、ハジキは出て来ませんでしたよ、警視」
「ふーむ」と、警視は力なくいった。
「しかし、こんなものを見つけました」と、ヴェリー部長はいいながら、太い人差指を胸ポケットに入れて、小さな、ぺちゃんこになった金属を一個、つまみ出した。
一同は思わず立ち上って、机のまわりに集まった。
「薬莢《やっきょう》だ!」と警視が叫んだ。「しめた、こいつは一件の代物《しろもの》だ――薬莢が見つかって銃が見つからんとはなあ」警視は部長の指から、ひったくるようにとって、むさぼるように調べはじめた。それは、真鍮《しんちゅう》のような金属片で、ほとんどぺちゃんこにつぶれていて、まるで蹴られるか踏みつけられたように、きずがつき、くしゃくしゃになっていた。ほんの少し、黒いごみのしみが――競技場の土間のごみらしいのが――こびりついていた。「どこで、これを見つけたかね、トーマス――」
「競技場です。一インチばかり土にうずまってました。だれかがふみつけたんでしょう。トラックから、約五ヤードの所で――さよう――マースの桟敷の近く――つまり、競技場の東南のあたりです」
「そうか。少佐、これは二十五口径の薬莢じゃないかね?」
カービー少佐は、その金属片をちょいと見て「まず間違いないね」と、うなずいた。
「東南のすみの近くだな」と、警視はつぶやいた。「しかしだ。こいつが見つかったところでどうなるっていうんだ。何んにもならん」
「わたしには」と、グラントが目をぱちつかせながら「とても重要に思えますぜ、どこで薬莢がみつかったかってことは。警視さん」
「そうかね。そりゃ重要かもしれんが、決定的な意味は持っとらんな。ヴェリー部長がこれを見つけた場所が、殺人犯人が射撃した場所だと確認する方法がないじゃないか」と、警視は頭を振った。「見てみたまえ――つぶれて、けとばされとる。たしかに、だれか競技場に立っていた人間がおとしたのかも知れん。だが、それと同時に、一番下の桟敷からすてられたか、上の観覧席から投げられたかもしれんのだ。どうにもならんね、グラント。大して役にたたんな」
「そうです」と、エラリーが、のどを少しつまらせながらいった「お父さんの意見には、全然同感です……まったく、信じられないことだ!」一同はふりむいてエラリーを見つめた。「重さ十三オンス、長さ四インチ半のものが、空中に消えてしまうはずはないじゃないか。きっと、ここにあるはずだ!」
しかし、あらゆる隠し場所らしい場所も、隠し場所らしくない場所も、全部を、くまなく捜査し、しかも捜査にあたっては、特別に訓練された何十人もの警官が、徹底的に、注意深く、全力をつくして実施したにもかかわらず、バック・ホーンを殺した二十五口径自動拳銃が、どうしても発見できなかったという事実だけは、依然として残っていたのである。
そして、その沈痛な事実は、今や、ますます重みをまして、くっきりと、捜査陣の目の前に立ちはだかっていた。
あらゆるものが洗い上げられた――文字どおりあらゆるものがである。
表面的な場所ばかりではなく、おがくずを敷いたトラックの土から、お椀形の観覧席の椅子のすみずみから、取りはずしの出来る張り出し床の全部から、全部の事務室と書類戸棚から、全部の金庫と机から、すべての廊下から、馬具から、馬舎から、水槽から、銃器庫から、鍛冶場から、ふいごから、すべての売店から、倉庫室から、荷物から、トランクから、あらゆるくぼみから、割れ目から、路地から、連絡通路から……捜査されないところは一つもなかった。まったく、徹底的に調べられたといってもいいのだ。例の拳銃が窓から落とされたかもしれないというはかない希望をもって、建物の外側にそっている歩道までも洗いあげられた。
「答えは一つしかないな」トニー・マースが眉をしかめていった。「拳銃は昨夜、ここにいた、だれかのからだについて外へ出て行ったんだ」
「冗談言うな」と、警視が自信をもっていった。「わしは断言する。ポケットというポケット、包みという包み、鞄という鞄、ここにいた、ものすごい数の人間という人間のはしっくれまで、全部、調べたんだ。君の答えは問題にならんよ、マース君。きっと、拳銃はまだこの建物のどこかにある。……マース――たのむから笑っちゃいかんよ――ここは君が建てたんだろうな」
「なんだと、そりゃもちろんだ」
「君――君は、まさか秘密の抜け道などというばからしいものは、つくらせなかったろうな」さすがに警視は、てれて顔をあからめた。
マースはにが笑いした。「もし君が、このかたいコンクリートに、抜け道のひとつでも見つけたら、ぼくはもぐりこんで、君に毒ガス弾をなげこませてやるよ。なんなら設計図を見せようか」
「いや結構だ」と、警視は、あわててとり消した。「苦しまぎれの思いつきさ――」
「それはともかくとして、青写真をもってくることにしよう」マースは壁の金庫へ行き――そこも、すでに開けて捜査がすんでいた――建築設計図をいく巻きもいく巻きも、とり出した。
警視は行きがかり上、それを調べないわけにもいかなかった。他の連中は、まんぜんと坐って、見ているだけだった。
三十分ほどして、散々考えたすえ、もしかすればものが隠せるかもしれないという場所へ、ヴェリー部長が最後の捜査に出かけて、空手で帰って来た時、警視は設計図を片づけて、ふるえる手で、まぶたをこすっていた。
「今夜はもう沢山《たくさん》だ。ああ、頭ががんがんする。何時かな、だれか――」と警視がいった。マースが暗青色のシェードをあげると、さっと明るい朝の光りが窓からさし込んで来た。「さあ、みんな少し寝た方がいいな。わしは――」
「お父さんは気がつかないんですか」と、エラリーが、濃いたばこの煙の輪のかげから、つぶやくようにいった。「コロシアムには、まだ調べてない二つの孤立点がありますよ」
警視はおどろいて「というと?」
エラリーは、トニー・マースと、あばれん坊ビル・グラントを、手でおしとどめて「気を悪くしないで下さい、お二人とも……」
「マースとグラントのことか」と、警視はくすりと笑って「ずっと前に調べたよ、わしが自分でやった」
「もう一度、調べてもいいですぜ」と、グラントが皮肉った。
「そりゃあいい考えかもしれないよ、君。トーマス君にまかせよう。悪気があるわけじゃないですよ、トニーさん」ヴェリー部長は、無言でグラントを調べた。それから、同じ儀式を、トニー・マースにも、くりかえした。結果は、みんなが思ったとおり、白だった。
「おやすみ」と、マースが疲れた声で「コロシアムは閉鎖だろうね、警視」
「兇器を発見するまではね」
「じゃ――また会おう」
マースは、ゆっくりドアをしめながら出て行った。
少佐も立ち上った。「ぼくも失敬しよう。もう、なにも用事がないかね、諸君」
「何にもないよ、少佐、大変、ありがたかった」と、警視がいった。
「あのね」と、エラリーは微笑した。「とうとう最後までいることにしたんですね、少佐。この状況では残ってみたくなるのも無理はないと思いますよ。ときに、二人きりで、しばらくお話したいんですがね」
カービーは目を丸くして「いいとも」
エラリーは少佐と、廊下へ出た。「ところで、少佐、いろいろと、どうも手伝っていただいて、この上、おねがいするのもあつかましいんですがね」と、エラリーは熱心な口調で「あなたの会社は、捜査に手を貸してくれることをいやがるでしょうか」
「むろん、そんなことはない――ニュースになるならね」
「ニュースになるか、ならないか分りませんが」と、エラリーは肩をしゃくって、「とにかく、昨夜、あなたの部下がとったニュース映画の、競技場と観覧席のところを、ぼくに映して見せるように、とりはからって下さいませんか」
「ああ、もちろんいいよ。いつがいい?」
「そう――今朝の十時では。ぼくは一、二時間ねむりたいんです。あなたも、おやすみになりたいでしょうからね」
小柄の少佐は微笑して「ああ、ぼくはよいっぱりなんだ。十時に映すことにしとこう。クイーン君」と、にっこりして、エラリーと親しげに握手すると、しっかりした足どりで、階段を下りて行った。
エラリーは事務室にもどった。ドアのところで、出て来るグラントとぶつかった。ロデオの座長は、別れの挨拶らしいものをつぶやきながら、足をひきずって階段を下りて行った。
エラリーはマースの事務室にとびこんで、外套のボタンをかけている父をおどろかせた。「お父さん、早く! グラントに尾行をつけて下さい」と叫んだ。
「グラントに? グラントを、つけるのか」と老人は目をぱちくりして「一体、何のためだ?」
「そんなこときかないで、お父さん、本当に重要なんです!」
警視がヴェリー部長に合図すると、部長はすぐ出て行った。だが、すぐ呼びもどした。「ちょっと待て、トーマス。監視は、どの程度だい、エル」
「一切合財です。グラントの行動を細大もらさず――電話はテープにとる、通信物は検閲して内容をメモする、彼に会った人物は全部報告する」
「分ったか、トーマス。やさしいもんだ。しかし、グラントに、そのことを気づかれんようにするんだぞ」
「分りました」といって、ヴェリーは、あっという間に姿を消した。
クイーン父子だけが、巨大なビルの中に残っていた。捜査隊の居残り組が、コロシアムの前の歩道で、二人を待っていた。
「おい」と、警視は不服そうに「お前には自分のしていることが分っとるんだろうな。わしには、てんで分らんよ。どういう考えなんだ」
「効果のほどは、はっきり分りませんがね。お父さんはキット・ホーンにも、同じようにしといたでしょうね」
「お前が、たのんだからな。しかし、監視する理由は、わしには、さっぱり分らんのだ」
エラリーは、急いで外套を着た。「どうにかなりますさ」エラリーは、鼻眼鏡をしっかり直して、父親と腕を組んだ。「行きましょう、プロスペロさん〔シェイクスピア作「テンペスト」の中の魔法使いの公爵〕いっときますがね、この事件の解決の成否は、あばれん坊ビルこと、偉人グラントと、キット・ホーンに、影みたいにぴったり、くっついてることにかかっている、といってもいいんですよ」
警視はふふんと鼻をならした。むすこの神秘主義的なものの言い方には、なれっこになっているのだ。
十二 内密の試写
「伝道の書」には、労する者の眠りは快《こころよ》しと、ある。おそらく、これは筋肉を労する者よりも頭脳を労する者にとっての、おごそかな訓《おしえ》であろう。というのは、前夜の脳細胞の絶大な労働のせいで、エラリー・クイーン君が、ベッドから、はい出したときには、筋肉のいたみはなお癒《い》えず、骨はずきずきし、からだは革ひもでしばりあげられたようだったのだから、たしかだ。しかも、カービー少佐との約束の時間を、すでに十五分もおくれていた。
エラリーは生卵を二つと、湯気のたつコーヒー一杯と、ジューナのおしゃべりの口からほとばしり出る昨夜の出来事のむし返えしとを、鵜《う》のみにして、下町のタイムズ広場へ、とんで行った。
大映画製作会社付属の、ニュース映画事務所は、とある蜂の巣ビルディングの十二階にあるのだった。エラリーが息せき切って、エレベーターからとび出し、受付にかけつけたときは、ぴったり四十五分の遅刻だった。
カービー少佐が、すぐ出て来た。「あ、クイーン君、どうしたのかと思っていたよ。準備は出来ている」少佐は、すばらしくタフな人らしく徹夜の疲れなど、みじんもみせず、服もこざっぱり、全身|溌剌《はつらつ》、なめらかに剃《そ》ってある頬も健康そうに桃色にかがやいていた。
「寝坊しちゃって」と、エラリーは、口ごもって「あなたはどうでしたか。そりゃそうと、フィルムの使いすぎで、編集長と、やり合わなかったですか、少佐」
カービーは、くすくす笑って「いや、少しも。編集長は死ぬほど喜こんでるよ。町中の映画館をさらえたんでね。こっちだよ、クイーン君」
少佐はエラリーを案内して、ぶらぶらしてる人間がいっぱいいる、大きな、うるさい部屋を通りぬけた。そこはたばこの煙がうずまき、支那の爆竹のようにタイプライターがうなり、大きな、妙な恰好《かっこう》の受信機みたいな機械を、テストしているグループがあり、ボーイがかけ足で出たり入ったりしていた。
「まるで新聞社のようですね」と、通り抜けながら、エラリーがいった。
「もっと悪いよ」と、少佐は、にべもなく「ここはニュース・フィルムの事務所だからね。ニュースカメラマンは、新聞記者より、千パーセント以上、ハード・ボイルドだ。タフな連中だよ。だが、女には、とても甘っちょろいんだ」
二人はドアを出て、部屋のならんでいる、少し|いんき《ヽヽヽ》な廊下を歩いた。どこからか、機械の重い|うなり《ヽヽヽ》がきこえた。上衣をぬいだ男たちが、急ぎ足ですれちがった。
「ここだよ」と、少佐がいった「映写室の一つさ。緊急用だ。はいりたまえ、クイーン君。においがするが、いいかな。フィルムのにおいだよ」
そこは裸壁《はだかかべ》の小さな部屋で、移動できる椅子が二列にならんでいた。後ろの壁には、映写機の鼻面のために、いくつかの四角い|きりぬき《ヽヽヽヽ》が出来ていた。前の壁は、大部分、純白の幕でおおわれていた。
「掛けたまえ」と、少佐は打ちとけた口調で「君がよければ、すぐはじめられる……」
「少し待ってもらえますか。父は、ぼくが起きる前に、本庁へ行ったんですが、抜け出せたら、ここへ寄ると、言いおいて行ったんです」
「いいとも」少佐は、壁によりかかって強い光りの小さな電燈で照らされ、スイッチがいくつもついている小机の前に坐った。「何か情報があったかね」
エラリーは痛む足をのばした。「残念ながらないんです」と、元気のない声で答えた。「ねえ少佐、ぼくたちは、非常に形而上的《けいじじょうてき》な謎《なぞ》にぶつかっているんです。現代の魔法です。問題は、バック・ホーンを殺した弾を発射した自動銃はどうなったかです。コロシアムから持ち出されたはずがない、しかもあそこにはないんです。明白なことです。まず、これを解明しなければならないんです」
「アラビアンナイトの話みたいだね」と、少佐は、微笑して「たしかに難問だな。ぼくはマースと同意見だ――ねえ、君、あれが一番筋の通った理論だぜ――どうやったか分らんが、なんらかの方法で、犯人は、あの建物から、こっそり、その銃を持ち出したんだ。自分で持って出たか、共犯者があったかだ」
エラリーは首をふった。「ぼくたちは、議論の余地のない証言によって、事件の起きた瞬間から、あの場処を抜け出したものは、人っ子ひとりいないことを確信しているんです。しかも、そのあと、一人のこらず――失礼だがあなたも――徹底的に身体検査されたんです。いいえ、少佐、この答えは、もっとずっと、神秘的なものですよ。実は」と、エラリーは考えこみながら「ぼくも、あなたのいうように、簡単だといいなあと思います。白状しますがね、あの武器が、本当にどうしたのか、ぼくにはさっぱり見当がつかないんです――ああ、お父さん、おはよう」
前より、からだがちぢみ、やせ細り、めっきり白髪がふえたように見える警視が、ヴェリー部長とヘッシー刑事を両わきに従えて、試写室の戸口にあらわれた。「おはよう、少佐。お前も、やっとベッドから出て来たんだな」警視は、ぐったりと椅子にかけて、手を振って部下たちも坐らせた。「今朝がたは、ねがえり打ったり、うなったりしてたから、お前は、いやな夢でもみてたんだろうな……よろしい、少佐。よければ、いつでも」
カービー少佐は、首をねじって、後ろの壁の一番大きな穴に向かって、どなった。「ジョー!」
眼鏡をかけた顔が四角い窓から覗《のぞ》いて「いいんですか、少佐?」
「すぐいいぞ、ジョー。映し始めろ」
すぐに灯がきえて、ビロードのような暗闇《くらやみ》が、一同を、おし包んだ。後の技師室から、カチカチいう機械の音と、うなりがきこえた。不意に、タイトルがスクリーンに映り、聞きなれた送葬曲のような伴奏音楽がきこえた。タイトルの文句は、
バック・ホーン殺害さる
********
ニューヨークの新運動競技場コロシアムにおける戦慄すべき殺人事件
タイトルが消えて、次に映ったのは――長い文句。
編集者の挨拶
――ここに上映いたしますのはホーン射殺事件の第一報であります。ハリウッドで最も人気のあった西部劇スターの恐るべき殺害事件の前後の模様を伝えるこの比類なき場景の紹介を可能にしたのは○○ニュース社の企画と、ニューヨーク警察本庁の御好意によるものであります。
タイトルが消えると、最初の画面に、昨夜のコロシアムがとび出して来た。ニュースアナウンサーの声がきこえはじめた。
「ごらんのとおり、コロシアムは大群衆で|すし《ヽヽ》詰めになっていました」と、声がなりひびき、画面は、円形劇場の観覧席から観覧席へ、ゆっくり移動して行った。「運命の一発が発射される直前であります。あばれん坊ビル・グラント・ロデオが、世界に名だたるニューヨーク市のスポーツ殿堂で、初日のふたをあける当夜の出来事であります。……二万をこえる観客が、このすばらしい光景に酔いしれていたのであります。とびはねる馬、カウボーイのさけび声――」説明の声が消えて、われるようなさわぎの音が、拡声機からひびきわたると、カメラは競技場の一部から、他の一部へと急転回して、クイーン父子が前の晩に見ていた幕あきの番組の光景と音響をとらえていた。まき毛グラントが笑って、歯を見せながら、小さなガラス玉を、銃身の長い回転拳銃で、無造作に、ばんばんと、空中で消していくのも、ちょっと映った。突然、ぴたりと静かになり、競技場は空になった。カメラは急に移動して、西の大門を映していた。馬上のあばれん坊ビル・グラントがとび出して来た。カメラはグラントを追って、楕円競技場の中央に来た。グラントの馬の疾走。土ぼこりのまいあがる中で馬をぴたりと停める。カウボーイ帽を打ちふる。微笑する。観客の拍手と、床をふみならす音。グラントが天井に向けてぶっぱなす合図の一発。観客を静かにしようと、グラントがあげる血も凍るようなカウボーイの叫び。それから、グラントの前口上「紳士――淑女諸君。あばれん坊ビル・グラントのロデオの――大幕あけに――みなさん――ようこそ――おいで下さいました。世界最大の――」大音声がつづく。やがて、堂々たるローハイド号に打ちまたがったバック・ホーンの劇的な登場。四十一人のカウボーイたちの入場の喚声。合図の射撃につづいて、おがくずをしいたトラックをまわっての大疾駆の開始……
一同は前に乗り出して、前夜の出来事を、生々しく再現する映画に、感心していた……雷鳴のような一斉射撃のとどろき――かなり長く、一発ずつの区別のつかない一斉射撃――その瞬間に、バック・ホーンが鞍からずりまがって、落ちる。いきり立つ馬どもがホーンをふみにじる。観客たちの悲鳴が、ぱっぱっと映し出されたとき、だれかが、ふるえるようなため息をした。……一同は無言で坐っていた。カメラは、遠距離撮影で、次から次へと観客中の知名人、マースの桟敷、馬から下りたカウボーイたち、ロデオの医者、毛布でくるまれた死体、をとらえて行った……
ふたたび灯がついても、しばらくはだれも身動きしなかった。やがて、少佐が、低い声でどなった「もういい。ジョー。終了だ!」その声が、しびれるような沈黙をやぶった。
「すばらしくやっただろう、え」と、少佐が、得意そうに微笑して「このフィルムは、今、ステート劇場でやってるよ」
「すばらしい出来ばえだ」と、エラリーは思わずつぶやいて「ところで、映写は何分ぐらいですか。普通のニュース映画より長くかかったようでしたが」
「たしかにそうさ。当然、これは特集だからね。地震や戦争と同じ価値をもたせるのさ」と少佐は笑いながら「丁度、まるまる一巻だ。十五分ぐらいさ」
警視が口をはさんだ。「われわれがしらべたこと以外は何もないな。わしには分らんが、エラリー、お前はなぜ――」
エラリーは深く考えこんで、返事もしなかった。
「おい、何かあったか」
「え。ああ、いや、いや、おっしゃるとおりです」と、エラリーはうなずいて、カービーの方を向いた。「どうもありがとう少佐。ところで、あつかましいおねがいですがもう少し会社の金を使ってもらうわけにはいかないでしょうか。うまく細工して、スチール写真を手に入れるわけにはいかないでしょうかね――大写しの――バック・ホーンのからだに弾がはいった瞬間のやつですが」
カービーは眉をよせて「そうだな……むずかしいがな。とても、ぼやけたものになるぜ。フィルムから拡大するといつもそうだ……」
「それでも、是非ほしいんですよ。たのみます」
「おのぞみどおりにしよう」と、カービー少佐は立ち上って、静かに、映写室を出て行った。
「この連中は、早いとこやりますね」と、ヴェリー部長が、がらがら声で感心した。
「エラリー」と、警視が「この手品は一体、何んのためなんだ。わしは忙しいんだぞ。いまいましい――」
「とても重要なことなんですよ」
そこで、一同は焼きまし写真のできるまで待つことになった。いくたりかの男が、部屋に頭を突込んでのぞいた。一度などは、尊大な、太って大きな紳士がはいって来て、ニュース映画会社の編集長だと、自己紹介した。そして、クイーン警視に、この射撃事件について、≪簡単な挨拶≫を録音してもらえまいかと、たのんだ――廊下のすぐ先にスタジオがあるという。……だが、警視は、頭を振ってことわった。
「残念だが、長官の許可を得なければならんのでね。あいにく長官は町を出ているし、長官は部下が宣伝めいたことをするのを好まんのだ」
「へえ、そうですか」と、肥大紳士は、ぶあいそうに「その規則は御当人には、あてはまらんようですな。ねえ、あの男が宣伝屋なのはよく知ってますよ。失礼しました警視。では、またいずれ別の機会にでも、親玉閣下の御機嫌がいいときに。じゃ、また」といって、白うさぎのように、すばやく部屋からとび出して行った。
一同は待ちつづけた。エラリーは、ひとり、沈思黙考していた。ヘッシー刑事は、目を閉じ、椅子の背に頭をのせ、腕を組んで、すぐにねむり込んだ。ひどいいびきをたてた。ヴェリー部長は、上官をちらりと見て、このチャンスとばかり、しばしのうたたねをむさぼりにかかった。
部屋の外は、そうぞうしかった。室内は静まりかえっていた。
カービー少佐が、八インチに十インチの、まだぬれている写真を一組、得意そうに振りまわしながら、もどって来た。そのとき、ヴェリー部長は、はっとして目をあけた。ヘッシー刑事はいびきをつづけていた。
クイーン父子は、ぬれている写真の上に、うつむきこんで、とても、熱心に見入った。
「最善をつくしたんだ」と、少佐は、弁解するように「ピンボケだ、と言っといたろう。だが、明瞭度《めいりょうど》を失なわずには、これ以上の引きのばしは出来ないんだ。それでも上出来なんだ」
十枚で一組みになっている写真は、無限大でとった対照の位置が、連続的に少しずつ動いていた。フィルムのわくが画面のまわりに出ているから、映画フィルムから拡大したものなのが、はっきり分った。写真は全体にぼやけていて、焦点が合っていないために生じた、うすいねずみ色の|もや《ヽヽ》が、かかっていた。しかしながら、細部は見分けられた。
写真は死の直前の、ローハイド号に乗っているバック・ホーンを写したもので、ホーンはカメラの真正面で、完全に前を向いている。――だから、第一枚目の写真では、馬のすばらしい頭が、まともに、レンズにとび込んでいて、乗手の、からだがその後でぼやけて、それもカメラの真正面を向いていた。どの写真も、ミドル・フォーカスで、とってあるので、馬の全身がよく見えた。写真からはっきり分るのは、ローハイド号の胴の長い馬身は、殺人が行なわれた時間中、ずっと、おがくずをしいたトラックと平行を保っていたことである。
ホーンの死の直前に関係のある写真は五枚あった。その一連の写真で、事件の動きがはっきり分る。第一枚目では、被害者は真直ぐに鞍に乗っている。二枚目では、鞍から左側にすべって、うつむきかけている。三枚目では、うつむき方が、ひどくなる。というふうにして、五枚目では、胴体だけが、カメラに向きながら、垂直線から左へ三十度ほど、かたむいていた。それにくらべて、ローハイド号の方は、一枚目の写真と、ほぼ同じ姿勢で、少し左にかたむいているといっても、それは顕微鏡的なものだった。三枚の写真が、ホーンの死の瞬間をとらえていて、その中の二枚は、鞍の上でがっくりなって、地面に落ちかけるところだった。どの写真でも、帽子をかぶり、左腕をあげて手綱をつかみ、右腕は頭上たかく拳銃を、ふりかざしていた。
「あのときの光景をおぼえているでしょう」と、エラリーは、ぬれた写真に見入りながらつぶやいた。「あの男は、ローハイド号が、トラックの東北の曲がり角を、まわったときに、鞍からかたむき始めたのです。そのことは、これらの写真で、あの男が、ひどく右に――つまりあの男からいえば左に――かしいでいることの説明がつきます。これは、遠心力による平衡運動じゃないでしょうか、少佐。それとも、またぼくが、こっけいなほど非科学的なのかな」
一同は、ホーンの死の瞬間を写した三枚の写真に注意を集めた。被害者が白いサテンのワイシャツを愛用していたおかげで、射たれたあとを、くわしく研究することが出来た。三枚の写真の最初の一枚には、乗り手が、弓なりにふりあげた左腕の下に、小さな黒いしみが現われていた。心臓の高さで少し前よりである。二枚目のでは、同じ場所で、そのしみは、少し大きくなり、三枚目で、一番大きくなっているが――そのちがいは、ほんのわずかだった。疑いもなく、この黒いしみは、弾のあたった穴が写ったものにちがいない。
最後の五枚の写真は、顔の表情が、衝動《ショック》、緊張、歪曲《わいきょく》、激痛を示していた。ホーンは、まるでレンズが死をみつめるひとみでも思ったかのように、まっすぐにカメラをにらみつけて、レンズの前で死んで行ったのだ。
エラリーはとろんとした目をあげた。「ぼくは、なんてあき目くらだったんだろう」と、考えこみながら「こいつあ、実に、簡単な問題だ」
おどろいた一同は、しんとした。カービー少佐のあごが一インチほど、うなだれた。
「分ったのか」と、警視が叫んだ。
エラリーは肩をすぼめた。「まだ分らないことが二つあります」と、悲しそうに、微笑して「その二つのことは非常に重大で、どうしても、事件を解決するまえに、説明をつけなければならないんです。でも一つだけ、ぼくに分ることがあります。たしかに、一つは分ってるんです。しかも、それが真実であることには一点の疑いもないんです……」
警視は、くちびるをかみしめて、うなった。しかし、カービー少佐は、せつくようにいった。「何かね。え、何なんだ、クイーン君」
エラリーは、最後の写真の、落馬しかけている姿を、無心に指先で軽くたたきながらいった。「この気の毒な、自己宣伝屋のじいさんを、だれが殺したか分ったんです」
十三 移動調査
「ホーンを殺した奴が分ったって」と、警視はいきごんだ。「そりゃ、うまい。逮捕に行こう」
「でも、ぼくは知らないんです」と、エラリーが、残念そうにいった。
少佐と警視が、おどろいて、エラリーをみつめた。「ふざけるんじゃない」と警視がどなった。「また、ごまかそうとするのか。一体、どういうことだ――知らんとは。今、知ってるといったばかりじゃないか」
「ちがいますがね」と、エラリーはつぶやいた。「お父さんをぺてんにかけるような真似はしませんよ。正確に、ぼくのいうとおりなんです。分ってはいるが、知ってはいないんです。そういうこともあるでしょう。逮捕に行こうとおっしゃるが、今すぐ、この建物を出て行っても、ぼくには、お父さんを殺人犯人の所へ案内出来っこないんです。しかし、だれがこの気の毒な男を殺したかが、たしかに分ってるんです――殺人鬼ジム・ブルーゾ老人が、百発百中の人殺しをしたようにね」
警視は両手をふりあげて「ごらんのとおりさ、少佐。わしは一生をかけて育てて来たあげくのはてに、このざまだ。こんな――こんな」
「詭弁家《きべんか》といいたいのでしょう」と、エラリーが、ものうくいった。
老人はにらみつけて「謎々《なぞなぞ》遊びがすんだら下町の本庁にわしをたずねて来い。失敬する少佐。いろいろありがとう」と、ぷりぷりして出て行った。ヴェリー部長と、まだあくびをしているヘッシー刑事が、おとなしく従《つ》いて行った。
「かわいそうになあ」と、エラリーはため息をついて「おやじは、いつも、ぼくのまわりくどい言い方に、じりじりしてるんです。しかしね、少佐。ぼくは、どうしても、まわりくどい言い方を直せないんですよ。今度は、ぼくだって真剣なんだがなあ」
「しかし、知ってるといったじゃないか」と、カービーが、うたがわし気な顔をした。
「ねえ少佐。ぼくに分ってる事実というのは、上《うわ》っ面《つら》の事実で――たしかに――このむずかしい事件では、ほとんど価値のないことなんです。ぼくは、まだ分ってない二つの点を、分りたいんです。それがむずかしいのです。いつかは分るでしょうが、いつのことか、神様だけが御存知という奴ですよ」
少佐は声を立てて笑った。「なるほど、そりゃ、ぼくには荷がかちすぎる。さて、ぼくは仕事にもどらにゃならん。いいかね――ぼくはいつでも手伝うよ、クイーン君。特に君が、二つの謎を解いたときにはね」
「いつもニュースあさりなんですね。この写真をもらってもいいですか」
「ああいいとも」
エラリーは、封筒に入れた写真を、こわきに抱えて、ブロードウェイを歩いて行った。眉は旧式の洗濯板のようだった。火をつけ忘れたたばこをくわえていた。
エラリーは、はっとわれに返えると、道標をみつけ、いつもの調子にもどって、立ちどまってたばこの火をつけてから横丁を曲がって、八番通りの方へ足ばやに歩き出した。角から百フィートぐらいのところにある、正面が大理石張りで、深く文字を彫りこみ鉄柵《てつさく》をめぐらした、一見それとわかる、小さなビルの前で立ちどまった。その文字は、シーボルト・ナショナル信託銀行としてあった。エラリーは回転ドアをはいって、支配人に会った。
「ぼくはホーン殺害事件を捜査中の者だが」と、特別警官証明票を見せながら、快活にいった。
支配人は神経質に、まばたきして「はあ、さようですか。どなたか見えるだろうと思っていました。実は、ホーンさんのことは、ほとんど存じておりませんので――」
「それはそれでいいんです」と、エラリーは微笑して「ぼくは、今、ぴんぴんしている、もう一人のお客の方に、興味があるんですよ」
「とおっしゃいますと」と、支配人は、きっぱりときき返えした。
「ウィリアム・グラント――口座には、そうサインしていると思うんですがね」
「グラントというと、ロデオの方ですね。あばれん坊ビル・グラントさん」
「そうですよ」
「ふーん」と、支配人は、あごをなぜて「グラントさんについて、何をお知りになりたいんですか」
「ホーンは二十五ドルの小切手を切っているんです」と、エラリーは、ねばりづよくきいた。「殺される日の午後です。グラント宛に切ったんです。その小切手が見たいんです」
「ああ」と、支配人はもう一度いって「しかし――グラントさんはそれを預け入れたんですか」
「ええ」
「ちょっとお待ち下さい」支配人は立って、鉄格子をはめたドアを通って出納係のところへ行き、五分もすると、細長い紙を持って戻って来た。「ございました。ホーンさんもグラントさんも、うちのお客様でした。あの小切手は出納係が、決済ずみにしたものですが、写真にとってありました――当行では、小切手は全部写真にとることにしております――これは、ホーンさんの月末報告書のために、とってあったのです」
「ああ、そうですか。分りました」と、エラリーは、勢いよくいって「見せて下さい」
決済ずみの小切手を支配人から受けとって、しらべてみた。ほんのしばらく、よく見てから、その小切手を机においた。
「結構です。ところで、ホーンの勘定原簿をみせてくれませんか」
支配人はちょっと渋って「さて、それは秘密になっておりますのですがなあ――」
「警察ですよ」と、エラリーが、きびしくいったので、支配人は弱々しくおじぎして、また出て行って、大きなカード箱を持って戻った。
「御存知のように、ホーンさんは、当行のお客様になられて、ほんの一、二日でしたので」と、神経質にいった。「御預金は、ほんのわずかです――」
エラリーは勘定カードをしらべた。五回の引き出しが記録されていた。そのうちの四回は金額が小さく――個人宛てで、明らかに、こまかい支出のためだった。しかし、五回目のをみて、エラリーは、おどろいて口笛を吹いた。すると、支配人はいっそう神経質になった。
「三千ドルだ」と、エラリーが大声で「口座を開くのに全部でたった五千ドル預金したのに。こりゃあ、面白いな。その小切手を見たいな、渡した出納係の人も」
すぐに、小切手も出納係もあらわれた。その小切手は現金にするために切られたもので、はっきり、間違いなくホーンのサインがしてあった――ホーンは自分の正しい名を、ずっと昔にやめてしまって、いつも、姓の前に、バックを書いていた――そして、型どおりに、ホーンと受取り人のサインがあった。
「ホーンが自分でとりに来たのですか」と、エラリーは出納係にきいた。
「ええ、そうです。たしかに私がお渡ししました」
「応対中、あの男はどんな様子だったか、おぼえていますか。心配そうだとか、愉快そうだとか、いらいらしていたとか――どんなでした」
出納係は考えながら「気のせいかもしれませんが、何かを心配しているように、感じられました。少し、上の空のように見うけました――私のいうことも、耳にはいらないようで、ただ、私が札をそろえるのを、なんとなくがっかりしたように見ていました」
「ふーん。支払いについて、何か特別の注文はつけませんでしたか」
「はい、つけました。三千ドルを小額紙幣でほしいといいました。二十ドル札以下で」
「二日前のことですね――殺される前日」
「はい、その日の朝でした」
「そう。どうもありがとう。じゃあ、失敬」
エラリーは、眉をよせながら銀行を出た。ホーンのからだからは、たった三十ドルしかみつからなかったし、バークレイ・ホテルのホーンの部屋にも、全然、金がなかったことを思い出した。エラリーは、ちょっとためらってから、たばこ屋に寄って電話室にはいった。
本庁を呼び出して、クイーン警視につないでくれるようにたのんだが、留守だった。明らかに、ニュース映画会社の事務所から、本庁に、まだ帰りつかないらしい。
エラリーは外へ出て、あたりを見まわしてから、ブロードウェイを横切った。電報局をみつけてはいった。カリフォルニア州、ハリウッド宛ての長い電文を書くのに、十分は、かかった。電報料を払ってから、局内の電話室をみつけて、もう一度、スプリング三一〇〇にかけてみた。今度はうまくかかった。
「お父さん? エラリーです。コロシアムのバック・ホーンの楽屋の捜査報告書は、そろっていますか……このまま待ってます……ありましたか?……それで、ホーンの楽屋から現金がみつかりましたか。……全然ないんですって? ふーん……いえ、大したことじゃないんです。ぼくは、歩きまわってました……真直ぐ、そちらへ行きます」
エラリーは受話器をかけて、外に出て、地下鉄の方へ向かった。
二十分後には、エラリーは父の事務所の椅子にかけて、銀行で調べあげたことを、ゆっくり話していた。
警視は非常に興味をもった。「二日前に、三千ドル引き出したんだな。そうか、そうか。そいつはとても重要だ」と、にこにこして「それは、ホーンに怪しい客が訪ねて来たのと、同じ日だと思うかね」
「まさにそうです。経過は――経過といっていいなら――次のようになりそうです。ホーンは、たった一、二日前に五千ドルの預金をして、そのうちの三千ドルを小額紙幣で引き出したのです。その夜、怪しい客があったわけです。そして、そのあくる日に殺されたのです……」と、ちょっとむずかしい顔で「どうも、まだ、ぴったりしない部分があるようですね」
「殺しの部分が不充分だが、そこまでは分るまい」と、警視は考えこんで「もしもだ――もしもだよ――もしも、三千ドルの引き出しと、怪しい訪問客を結びつけるとすれば、十中の八九、恐喝《きょうかつ》の線が出て来るようだな。しかし、そうだとすれば、なぜ射殺したかだ。恐喝者が、その被害者を殺すかな。そういうことも間々《まま》ある。が、大抵の場合、そうじゃない――被害者をしぼりつくさない限りはな……」と、いまいましそうに首を振って「これは、もっと調査してみなくてはならん。わしは訪問客を洗い出してみるつもりだが、どうも、不可能な仕事らしいな。ところで、今朝、サム・プラウティから、解剖結果がとどいたよ」
エラリーはびっくりして「ぼくは、それをすっかり忘れてました。どう言ってきましたか」
「何もない。全くペケだ」と、警視は、にがりきって「現場でした報告どおりで、何一つ新事実はない」
「ああ、そのこと」と、エラリーは手をふりまわして「そのことじゃあ、ないんです。胃ですよ、お父さん、胃袋の中です――それに興味があるんです。プラウティは、何にも報告してないんですか」
「報告しとる」と、警視は、気がめいりそうに「たしかにしとる。報告によると、ホーンは死ぬ前の、たっぷり六時間は、何も食べておらんそうだ――六時間以上かもしれん」
エラリーは目をぱちくりして、すぐ、指の先きを見つめながら「そうなんですか」と、つぶやいた「なるほどね。そうなのか……」
「そうなのかとは、何だね」
「え? いや、何でもありません。何か新しい事実はありませんか?」
「これを見ろ」警視は机をかきまわして、ひらいたまま折りたたんだタブロイド版の新聞をとり出した。開かれたページに、赤鉛筆で、太く、丸がつけてあった。「これを見せる前にいっておくが。プラウティ先生、ホーンの体内には毒物の痕跡《こんせき》はないと報告しとる」
「毒物ね。毒物か。先生、律義《りちぎ》だなあ!――何が手にはいったんですか」
「今朝サンタクロースがとどけて来たのを読んでみろ」
「ライヤンズですね」と、エラリーは、あまり気のりもせずに、長い手をのばした。
「そうだ」と、警視は、むっとして「このライヤンズという奴は、殺人課よりもよく知っとる。何んでも見、何んでも聞き、何んでも知っとる。あのろくでなしの首根っこを、しめあげてやりたいもんだよ」
ライヤンズのゴシップと、ブロードウェイの内幕記事の欄は、予想したとおり、ホーン殺人事件の小さなこぼれ話でいっぱいだった。警視の他は、だれひとり槍玉《やりだま》にあげてはいなかった。記事の中には関係者の名が大きく書かれていた――キット・ホーン、あばれん坊ビル・グラント、トミー・ブラック、ジュリアン・ハンター、トニー・マース、マラ・ゲイ……中の一つはかなり面白い話だった。「デカの親玉、クイーン警視は、筆者――この小僧っ子ですよ――それをつかまえて、おぽんぽんに、小っちゃなパチンコを持ってたからって、バック大将を、ぶっとばしたんだろうといったもんです。引退するんですな、おじいちゃん、隠居しなよ。そいつが必要だぜ」
「あはは」と、エラリーは笑って「得意のブロンクス張りですね。おや、こりゃあ、何んだ」と目を細めた。欄の終わりの方に、一見、何の意味もないような文章があったが、よく読むと、とても皮肉たっぷりだった。
「さて、その名も知れぬ剣客どのが、天下に名だたるバック・ホーン殿を、きのうの午後、コロシアムで、ばっさりやったその時に、御臨席の面々いかにとみてあれば」と、テッド・ライヤンズは、あざけるように「いずれ劣らぬ、女臭いクラブおなじみの大立者《おおだてもの》――まさに消え消えの人気スターを、白痴《はくち》映画に復活させんものと、御投資なさるお歴々から、次の選手権試合のダークホース、うどの大木殿の|うしろだて《ヽヽヽヽヽ》なる方々が、おしのびで、ずらりとならんでござったのさ」
「不思議でならんのは」と、警視が、ぼそっといった。「あのライヤンズの奴、どうして、皆のことを、こうくわしくかぎつけおったのかな」
「こりゃ、おどろいたな。トニー・マースさえ、これだけ知ってたかどうか、あやしいな。ハンターは、ブラックの尻押しをしてたんでしょう? まだあやふやだけど、ぼくには、どうやら分ってきましたよ……そうだ、お父さん……」と、エラリーは、とび立って「ぐずぐずしちゃいられない。ノールズさんに会って来ます」と、ドアをあけた。
「そう急がんて、ちょっと待て。今朝、だれかわかってるといったのは、どういうことなんだね――」
「ごめんなさい、お父さん」と、エラリーは、せかせかして「よけいな口をすべらしちゃったんです。いまに分りますよ。いまこれ以上しゃべると、気ちがいだと思うでしょうからね。またあとで――」と、急いで、部屋を出た。
エラリーは一一四号室へ向かった。そこではノールズ警部補が、着色カードを、いそがしく整理していた。
「しんどいな。この書類整理法は」と、弾道専門家は、顔も上げずに、こぼしていた。「しかし、法廷では、時々役に立つからな。これは、クイーンさん、何か景気のいい話でも? また銃が出ましたか」
「戦争には息ぬきなしさ」と、エラリーは笑って、その朝早く、ホテルのバック・ホーンの部屋でみつけた、象眼の握りがついている四十五口径回転拳銃を、ポケットから出した。
「ほう、この銃は、前に見なかったかな」と、ノールズは、するどくいって、武器を、とりあげた。エラリーはちがうと首をふった。「じゃあ、対《つい》の奴にちがいない。コロシアムから送ってきた束《たば》の中に、丁度、これと同じようなのが一丁あったよ」
「たしかにあるでしょう。対《つい》の片われですよ。二つともホーンのものですが、こいつは衣裳箱に、残してあった方です」
「こりゃ、なかなかの代物だ」と、ノールズはほめながら「こういう古い小型の奴が、時々みつかるよ。型やデザインが、ちょっと古風ですが、古切手みたいなもんでね。ぼくは、御存知のように、アマチュアの切手収集家だ。古いほどいいもんだ。ぼくは集めて――」
「分った、分った」と、エラリーは、閉口しながら「ぼくは前にも、切手収集家にはいくたりも会ってますよ。ぼくが今、知りたいのは――」
「こいつで、ホーンを殺した弾が撃てたか、どうかだろう?」と、ノールズは首をふりながら「二十五口径自動拳銃でなければ駄目だと、いっておいただろう」
「ええ、そりゃ、知ってます」エラリーは専門家の実験室の机に腰をおろした。「これの相棒が手もとにあるでしょう」
「整理箱に、木札をつけてあるよ」警部補は大きな戸棚へ行って、引き出しをあけ、ホーンの、前の回転拳銃を、持って来た。「さあ、何が知りたいんだね」
「両方の武器をもってみたまえ」と、エラリーは、妙ないい方で「両手に一丁ずつだよ、君」
少しあやしみながら、専門家はいわれたとおりにして「さあ、これで?」
「ぼくの想像かもしれないし、あるいは信じていることが正しいか分らないが、その銃の一方が、片方より重いような気がするんですよ」
「このノールズめ、いつも、君から、気ちがいじみた質問をかけられてるんだ、だらしがないよ、ぼくは」と、警部補は、ふき出した。「やれやれ、クイーン君。知りたいのは、それだけかい。なぜ、そのことが重要なんだね。すぐしらべてあげよう。実のところ、一方の方が片方より、ほんの少し重い感じだ。たしかめてみよう」
ノールズは、一度に一丁ずつ、はかりにのせた。そして、うなずきながら「こりゃ、おどろいた。この札のついてる方が、まるまる二オンスばかり、もう一方のより重いや」
「そうか」と、エラリーは満足そうに「そりゃ、すばらしい」
専門家は、エラリーを横目でみて「この二丁の拳銃の本当の持主には、疑問がないんだろうね。つまり――二丁とも、本当に、ホーンの所有物だったんだろうね」
「まちがいありませんよ」と、エラリーが「全然、うたがう余地はありません。もし、はかりで測ってもらわずに、ただぼくが、重さがちがうといったら、きっと君はおどろくでしょうね」と、いってから、手のひらをこすり合わせた。「なんてうまく仕組んだんだ!」と、ため息をつき、にやりと笑った。「警部補、その二番目のにも札をつけて、いつでも出せるように保管しといてください。多分、じきにみんな返さなければならないでしょうからね。とにかく、それまでは、しっかり保管をたのみます。ところでね」と、エラリーは、まじめな顔で「君は、その札をつけてある方の拳銃は、今、持って来たのより、わざわざ、重くつくらせたものだと思いますか。二丁とも同じ時につくられたものだし――ホーンのために特別につくったものなんだが」
「どうもそうらしいな」と、ノールズ警部補がいった「もし、ホーンが二丁拳銃なら――あの男はいつも二丁持ち歩いていたから、両手使いだろう――そんなら、多分、両手のそれぞれにぴったり感じの合うように作らせたかもしれない。必ずしもそうとばかりはいえないが」と、ノールズは急いで言いたした。「作るときの偶然だったかもしれないな。古い銃には、たいして、ていねいにつくられていないのがあるからね」
「この拳銃は、ていねいに作ってあると思いますよ。じゃ、警部補さん、どうもありがとう、大いに役にたちましたよ。いずれまた」
エラリーは急いで弾道課の部屋を出た。外の廊下で、立ち停って、にこにこしながら、しばらく、鼻眼鏡のレンズを、ていねいに、拭いていた。
十四 備忘録
犯罪調査官と犯罪捜査官の、見通しのつきがたい協力会議なるものが、五次元の首都といわれるニューヨークで、とあるあわただしい日の午後に召集されたが、その組織の標語は、結局のところ、かの伝説の国、ヴレープロージア〔真相探究国〕の国家の紋章に書かれていたという、永遠の金言、つまり「なにかが出てくるだろう」というのを採用するより仕方がなかった。このとりとめのない金言も、古代英語の戦の|ときの声《ヽヽヽヽ》としてみるか、象徴主義の緋文字《ひもんじ》としてみれば、いっそう、ぴったりするだろう。統計上、はっきりしないが、世界中の刑事たちの半分は、何かが出てくるのを待っているし、他の半分は、すでに出て来たものを、目の色かえて追いかけまわしているのだといってもいいらしい。まあ、どちらにしても、金言の精神は生きているわけである。
しかしながら、何かが出てくるのを待っている期間というものは、必ずしも、何もしないでいる期間ではない。それどころか、「待っている」というのは、何ひとつ達成せず、何にも結果が出ないというだけのことで、実は「待っている」という熱狂的な活動期なのである。だから、その活動は目立たないものだ。その期間中、やがて出てくるはずのものは時が――おそらく心理的な契機《けいき》が熟すのを待っているのである。この狂気じみた、むだ骨折りの最中《さいちゅう》でも、大部分の探偵が冷静な達観《たっかん》を持ちつづけられるのは、探偵としての天分によるのである。それは運命論的達観である。その活動は、習慣的に義務を果たそうとする気持を満足させるために使われる動物的なエネルギーにすぎない。
エラリー・クイーンは、はるかに、ある徴候を見きわめると、腰を落ちつけて、ストイックな冷静さで待っていた――エラリーには、義務をはたして満足するという習慣的な要請がないからだ。ところが、市の財務局から年俸五千九百ドルもらって、治安の維持に当たっている高給警視は、いやが応でも、活動をつづけなければならないのだ。その動因力の一つは、老警官たちの、畏怖《いふ》の的である、長官だった。その長官は、フロリダの砂遊びから、ホーン殺人事件のために引きもどされたので、警視に八つ当たりするのであった――明らかに休暇をふいにされたためなのだ。そこで、警視は長官の前では、黙って青くなり、殺人課にもどってくると、どなりちらして赤くなった。関係者一同にとっては辛《つら》い時期だった。
おきまりの捜査は全部手配ずみだった。バック・ホーンの行動は、殺される何週間も前からのが、いく度もいく度も洗い上げられていたから、係りの者は、報告を書くのに、少し、うんざり気味だった。「一つの報告を十二通、複写しといても間に合うだろう」と、リッター刑事はこぼした。リッターは有名なこぼし屋だが、十二回調査しても、最初の調査以上の新事実が出ないのだから、むりもない。被害者は地上最後の一、二週間を、デンマークのマチルダ女王のように、清浄潔白《せいじょうけっぱく》に過ごしていた。通信物も全部調べたが、数も少ないし、怪しいものもないし、レモンのしぼりかすみたいに素気《そっけ》なかった。東部の知人、友人連も尋問されたが、重要な話はひとつも出なかった。ワイオミング、ニューヨーク間、ハリウッド、ニューヨーク間の電話線は、これらの質問と回答とで、多忙をきわめたが、その結果は、まるっきり、ゼロのn乗というわけであった。
バック・ホーンのいのちをねらう動機らしい動機をもっているものは、天地の間に、ひとりもいないといってもいいらしかった――片腕ウッディだけは別だが、それも肉体的なハンディキャップで除外された。
ホーンが殺される前の晩、バークレイ・ホテルの彼の部屋を訪ねた人物の素性は、謎のままだった。
そしてコロシアムは閉鎖されたきりだった。クイーン警視の弱気な抵抗と、ウェルゴ長官のますます募る焦燥《しょうそう》のために閉鎖がつづいていたのである。バック・ホーンの心臓をとめた弾を発射した拳銃は、ほとんど毎日コロシアムを捜査したのに、まだ発見されなかった。そして、あばれん坊ビル・グラントは、新聞記者たちのために髪をかきむしり、どなりちらし、わめきちらして、もう二度と、ニューヨークには、ロデオを持ってこないと、呪っていた。警視にはその気持が身にしみて分ったが、長官は、それをきいて、骨がはずれるほど、肩をすくめるばかりだった。捜査は尋問一本やりで――ホーン事件の調査にまきこまれて迷惑している市民たちを、尋問、再尋問、反対尋問と、むだな努力をくり返していたが――少しはものになりそうだった。それは、バック・ホーンの経済状態についてのことで、この点は、新聞記者連が訊いても、警視はかたく口を閉じていた。いいたくなかったのだし、いえないのかもしれなかった。しかし、リッター、ジョンソン、フリント、ヘッシー、ピゴットの面々は、秘密捜査をつづけていた。捜査目標は、ホーンが殺される二日前に、小型紙幣で、銀行から引き出された三千ドルの金が、どうなったかということだけだった。その金の行方はさっぱり分らなかった。
それはいい捜査目標だが、≪おそらく≫回答を得るのは非常にむずかしいものだった。
エラリーの待ち方は、社交的な遊びというかたちをとった。大学卒業以来、はじめてといっていい、陽気な生活をはじめたのである。燕尾服が防虫玉《モスビーズ》の下からとり出されて、みがきあげられたダンス場で、のんきに踊りまわった。ワイシャツの堅い胸あてや、ウィング・カラーのために、洗濯代がぐんとふえた。真夜中に、千鳥足で、西八十七番地街のアパートに帰ってくるときは、服も着くずれ、ハイボールのにおいが、ぷんぷんした。その頃のエラリーは、毎夜、アルコールの催眠《さいみん》効果のせいでなく、肉体的な疲労で、深い昏睡《こんすい》状態におちいった。そして毎朝、ざらざらの舌を直《なお》すために、コーヒーを砂糖ぬきで、一パイントもがぶのみするのだが、さっぱりきき目はなかった。きわめて道徳的な、ジューナが文句をいうが、さっぱり駄目だった。
「すべて学問のためなんだ」と、エラリーは、うなった。「時には、われわれだって、すごい殉教者《じゅんきょうしゃ》になるもんさ」
丁度、卵を平らげていた警視は、不機嫌に鼻をならして、父親らしい不安の色をうかべて、むすこを見ていた。
「毎晩毎晩出かけて、どうするつもりなんだ?」と、警視がきいた。「道楽者になってみせる気か」
「あとの方の質問の答えは、イエスでもあり、ノーでもあるんです」と、エラリーは答えた。「はじめの方のは――いろいろ答え方がありますよ。とにかく、ぼくには、今度の事件の主役たちが分って来たんです。すばらしいドラマですよ、お父さん。たとえば、ハンター夫婦ですがね――」
「あいつらかい」と、警視は、むっとして「わしには用がないな」
とにかく、エラリーが、マースの桟敷にいた連中と、つき合いはじめたのは事実だった。キット・ホーンとも多くの時間をともにした。キットは、機械的な微笑をうかべて、あらゆる社交界の集まりに出て行くが、おだやかな眼の底には、思いはるかな、ものおもわしげな光りが、ただよっていた。エラリーはキットといっしょに、ナイト・クラブまわりをしたが、グラント父子といっしょでない時が多く、クラブ・マラへ行かない方が多かった。クラブ・マラでは、派手に憔悴《しょうすい》しているマラ・ゲイ――ハリウッドの蘭――と、その夫、ハンターを観察する特典を与えられていた。トニー・マースとさえ数回会ったし、二度ばかりは、ロデオ連中の顔どころが集まって、ジュリアン・ハンターの店の給仕がてんてこまいするほど、はでに、がぶのみしているところにぶつかった。その頃は昼も夜も何か、ぎらぎらしていた。なにか辛い、非現実的なものを、覆っているわざとらしい輝きだった。エラリーは夢の中の人間のように、生き、呼吸し、笑い、しゃべり、動きまわった。
しかし、エラリーは決して、現実を心の底から離そうとはしなかった。エラリーにとっては、時間のすべてを、新しい友達といっしょに過すことは出来なかった。毎朝、本庁へ行って、キット・ホーンと、あばれん坊ビル・グラントの行動を監視する刑事たちの、くわしい報告書を読んで――その監視は、自分が命令したのを思い出した。グラントの場合は、この老西部人が、どこからみても公明正大に行動しているのを発見して、エラリーはじりじりした。グラントにスパイをつけて、その行動、交際、電話の会話などから、なにかを発見したいと、もくろんだのだが、まったくのぞみがなさそうだった。グラントは大酒をのみ、一座をしっかりとおさえ――それは並大抵の仕事ではない――キットとせがれを注意深く監視し、その上、警視と、ウェルズ長官に、ロデオの再開をせがんでやまないのである。
キットの報告の方は、少し脈がありそうだった。キットの、はるかなもの思いといった目は、その底に冷静な目的がひそんでいることが、分ってきた。ある朝、キットの見張りを命じられている刑事からの報告に面白い事件が書かれていた。
殺人事件の数日後のある夜、その刑事はキットを尾行して、バークレイ・ホテルから、クラブ・マラへ行った。すんなりとした、日にやけた褐色のからだを、白のイヴニングに包んだキットは、給仕頭に冷やかにいった。
「ハンターさんはいらっしゃる?」
「はい、ホーンさま。事務室です。ご案内?」
「いいえ、結構。自分で行くわ」
キットは個室がならんでいる前を通って、奥へ行った。そこに、ハンターの豪奢《ごうしゃ》な部屋がある。刑事は帽子と外套を預けて、奥に近いテーブルを無理にとって、ハイボールを注文した。まだ宵の口なのに、クラブはすでに満員だった。ハンターの店の有名なジャズバンドは、例によって、アフリカのテンポと野性味をもつ、カロウェー作曲の新しいものを、がなり立てていた。ほの暗いダンス・フロアでは、いく組もぴったりくっつき合って踊っている。そのやかましさと暗さのおかげで、刑事の行動は人目につかなかった。
刑事は、そっとテーブルを立って、キット・ホーンを尾行した。
キットが、「ハンター私室」と書いてあるドアをノックするのが見えた。やがて、ドアが開いて、礼装したハンターの姿が、後ろの事務室の灯りで、浮き上ってみえた。
「ああ、ホーンさん」と、ハンターが愛想よく迎えるのがきこえた。「さあ、どうぞ、どうぞ。よく来てくれましたね。私は――」ドアがしまって、あとは聞えなかった。
刑事はあたりを見まわした。一番近くにいる給仕も暗闇の中だ。だれにも見られていないので、ドアに耳を当てた。
声だけで言葉は聞きとれなかった。ところで、この刑事は、よく訓練された、盗聴の名人だった。そして、言葉がはっきり聞きとれず、ぼやけて、判断出来なくても、話している人間の感情を、うつしとれるというのが、彼の自慢だった。そこで、彼の報告はいささか自家製心理学の論文じみることになる。
「話は社交的に始まった」と、報告はつづく「ホーン嬢は、冷静な声から判断して、何か心構えがあり、何かを決心している。ハンターの声は威勢がいい。親しげにしているが、妙な、わざとらしいものが感じられる――いや味にきこえるほど調子がいい。二人は、何かを開始する小手しらべという感じである。やがて、ホーンがおこり出した。声が高くなり、こわばって来た。言葉は、煉瓦《れんが》をなげつけるようだ。何事かを、きびしく、ハンターにいい渡した。ハンターは親しくしようとしていたのを忘れた。声が氷より冷たくなり、あざけりがまじり、言葉が早口になり、やがておそくなり、次にまた早口になって、不安をごまかすために、あざけっているようだ。ホーン嬢はそれに気がつかないらしい。というのはますます、おこり出したからだ。しばらくは、本当の|けんか《ヽヽヽ》が始まるかと思えた。もう少しで止めにはいろうと思ったとき、二人のいがみ合いがとまった。そこで私は急いで、立ち去った。一秒もしないうちに、手荒らくドアをあけて、ホーン嬢が走り出して来た。顔がはっきり見えた。真青で、目が怒りにもえ、くちびるをきゅっと噛みしめていた。息がはずんでいた。すぐそばを通ったのに、私には気づかなかった。ハンターはドアの入口に、一、二分立っていた。暗い中で、ホーン嬢を見送っていたが、姿は見えなかったろう。ハンターの顔は見えなかったが、ドアにかけた手は、かたく握りしめられ、関節が白くなるほど力をいれていた。やがて事務室にもどった。ホーン嬢はタクシーで、バークレイ・ホテルに帰り、昨夜は、二度と外に出なかった」
警視は受話器をとりあげて「ついに、出て来たぞ」と、早口でいった。「この手品の種を、きっと、みつけてやるぞ。お前のかわいい西部娘を電話によび出してやろう」
エラリーは、はっと夢からさめて、手で電話をおさえた。「お父さん、よしなさい」
警視もおどろいて「なんだ? どうしたんだ」
「やめて下さいよ」と、エラリーが急いで「みんな駄目にしちゃいますよ。おねがいだから、やめて下さい。待つんですよ。ぼくたちはまだ――」
クイーン警視は、むっとして、椅子の背によりかかった。「じゃ、一体、大の男に尾行させて、何の役に立つんだ」と、いきまいた。「しかも、その男が、何かをかぎつけたのに、それに対して何の手も打たんというのは」
「少し見当ちがいですが」エラリーは、勝利を胸にひめて――にやりとした。「筋道のたった質問ですね。それに対する答えは、ぼくがキットに尾行をつけるようにたのんだときには、ハンターとキットの間に、まさか関係があろうとは思っていなかったのです」
「そりゃそうだろう」と、警視は皮肉たっぷりに「結局、お前だって、何から何まで予見はできないさ。いいか、今、ハンターとキットの間になにかがあるのが分ったんだ。なぜ、ぐずぐずして、新しい手がかりになるかもしれんチャンスを、つかまえようとしないんだ」
「わけをいいましょう。ぼくも、この思いがけなかったキットとハンターの関係が、持つかもしれない重要性を過小評価《かしょうひょうか》しているわけではありません。しかし、二つの理由があるんです。その一つは、二人からは、恐らく、一言も聞き出せないだろうということ。もう一つの理由は――これはもっと深慮遠謀《しんりょえんぼう》というところですが――われわれの切り札をさらけ出すことになるんです」
「どんな切り札だ?」
「キット・ホーンが尾行されているという事実です。分るでしょう」と、エラリーは辛抱《しんぼう》づよく「あの女が、絶えず監視されていると知ったら最後、われわれは手のうちを――」
「どんな手のうちだ?」
エラリーは肩をすくめて「そこまで話す必要もないでしょう。ぼくは、どんなものからも、チャンスが出て来ると思うんです。しかし、チャンスが通っていく道だけは、あらゆるものを犠牲にしても、あけておかなければいけないんです――というのは、チャンスは、通りすぎて行く時にだけ、われわれに分るんですからね」
「大学を出た男のくせになあ」と、警視がぶつくさいった。「まるで、おたふくかぜにかかった、ケンタッキーの山男みたいなことをいう」
もっと警視をいらだたせたのは、ある朝、食事の時に、一通の電報が、エラリーにとどいたことだった。その電報は、現在の状況のもとでは、老人がすでに知っている諸事実を解明するような、すばらしい情報を持っているかもしれなかった。それなのに、エラリーはすばやく読むと、顔色も変えずに、赤々ともえている居間の暖炉に、ほおり込んでしまったのである。
プライドをきずつけられた警視は、何も訊かなかった。しかも父の不興に気づくことができなかったわけでもないのに、エラリーは、なんの説明もしなかった。もしも、その電報の発信地が、カリフォルニア州ハリウッドだと分ったら、老人はプライドをおさえても、結局、説明を求めたろう。事情は以上のとおりで、老人は電報の内容を、事件の結末が来るまで知らなかったのである。
テッド・ライヤンズは、ホーンの事件にまきこまれた有名人たちについて、気のきいた小話を書きつづけていた。
丁度この頃、別のいざこざがおきて、トニー・マースの白髪をふやし、あばれん坊ビル・グラントのあくたれ口の種をふやし、警視の顔に新しい|しわ《ヽヽ》をふやした。グラントとマースとの契約では、コロシアムを四週間グラントに貸すことになっていた。そこで契約の条件では、グラントは、まだ四週間、ただし一日――例の運命的な幕あけの日――を除いて、コロシアムを使う権利があった。しかし、すでに三週間はすぎても、コロシアムは警察の手で閉鎖されたままだった。もし、トニー・マースの別の企画が介入しなかったら、面倒なことにならなかったろう。ところが、まずいことにトミー・ブラックを挑戦者とするヘビーウェイト選手権試合に支障をきたすのだ。契約は数か月前に調印されて、試合の日取りも決定していた。その日取りは、あばれん坊ビル・グラント・ロデオが幕を下ろしたあとの金曜日の夜、コロシアムで試合を行なう取りきめだった。試合を一週間後に控えて、マースは苦境におちいったわけだ。入場券はずっと前に刷り上がったし、チャンピオンのマネージャーや、その一党は、頑として譲歩しないし、グラントはグラントで、議論無用とばかり、警察の閉鎖命令が解除されたら、すぐにロデオ興行を再開すると強硬に主張した。かくして、強力な圧力がセンター街に加わり始めた。
新聞界は戦争のようなさわぎだった。その総大将はテッド・ライヤンズだった。マース対グラントのセンター街での対決などと、ゴシップの最後の一滴までしぼりつくすと、次に、トミー・ブラックの方へ筆先を向けた。
爆弾を仕掛けたような記事が、ある朝、警告もなく、ライヤンズの欄にあらわれた。
「紳士ジムと、マナッサ・マウラーの幽霊どもよ! なんたる時の移りかわりぞや……いかに、優秀卓抜な挑戦者が、マストドン級、ぽかりぴしゃりのタイトルの奪取をめざして、ジャズと、オレンジの花と、蘭の花とで、トレイニングに余念のないことよ。しかも、蘭の花の御亭主《ベターハーフ》は、いかがめされた――おや、|お笑いもの《ベターラフ》か――メーン・ステム〔ブロードウェイ〕の気のきいた者なら皆様御存知、かの仁は、図体たくましいのらくら男のおかげで、ねとられ殿となりめされたか。御用心、御用心、ロロ殿〔宿六〕そなたのお家に火がついた」
爆発の最初のこだまは、下町の谷間のがけに、とどろき渡って、三十分後には警察本庁に達した。ジュリアン・ハンターは、集まってがやがやはやしたてる記者連中をよろこばせながら、ライヤンズのタブロイド新聞の編集室に乗り込み、ダービー帽とステッキを、あいているタイプライターの上に、うやうやしく置くと、ライヤンズの神聖な私室のドアを蹴りあけて、上衣をぬぎ、まるまる太った腕をかまえて、読みもの記者に、一戦をいどんだ。ライヤンズは、自ら名人をもって任ずる彼独特の、とてつもない奇声を発しながら、こんな危急に備えてある手もとのベルのボタンを押した。まもなく、ハンター氏は、ライヤンズのかけ声でおどりかかった筋骨たくましい紳士どもに、ふりまわされ、つまみ出され、部屋の外の床にのばされていたのである。ハンター氏は、身のまわり品を取りもどすと、殺気だって帰って行った。そして、次の朝も、ライヤンズの欄は、見えすいた、いやがらせ記事を書きつづけたのである。
第二のこだまは、記事があらわれた最初の夜、ひびき渡った。爆発は、クラブ・マラの神聖おかすべからざる、どまん中でおこったのである。
警視は急にふけ込むようだった。事件は、だんだん薄れて、顕微鏡ででも見なければならないほど、小さな点になろうとしていた。エラリーはますますいら立って、無口になった。新聞は犯人逮捕を求めてがなり立てた。センター街では「人事異動があるぜ、大移動が」というひそひそ声が、流れた。少しやけぎみになった老人は、ライヤンズが書き立てる甘ったるい土《つち》ぼこりに、癇癪玉《かんしゃくだま》を破裂させたジュリアン・ハンターの動静に注意していた。
「わしがずっといって来たようにな」と、その夜、つぶやくようにエラリーにいった。「ハンターはホーン事件についてわしら以上に何か知っとるぞ。エラリー、わしらは、ちょっと動くだけでいいんだ」
エラリーの目には――遠慮がちな――同情の色が浮かんだ。「待ちましょうよ。どうしようもないんです。時がね、お父さん、時だけが、トリックをひっくり返してくれますよ」
「わしは今夜、あいつのクラブへ行くつもりだ」と、警視は怒りっぽく「お前もつれていくぞ」
「でも、何んのためですか」
「ハンターのことはいろいろしらべてある。そのためだ」
真夜中の一時間ほど前に、クイーン父子はクラブ・マラの入口に立った。ヴェリー部長の大きな姿が、通りをへだてた向かいの歩道の上で、ぼわっと浮かんでいた。老人は冷静だった。胃の調子の悪いエラリーより、ずっと冷静だった。二人は、はいった。警視がハンターに面会を求めた。最初はちょっとむずかしかった。警視が、夜会服でなかったかららしい。しかし、警視が、光る警官章を出したので、あとは面倒がなかった。(エラリーはきちんとした服装だった)
ハンターは、ダンス・フロアのそばの大きなテーブルで、黙りこんで、一本のライウィスキーをのんでいるところだった。山羊のように青白くて、肩をいからせ、目の下のたるみも、ちぢんで、ぴんとしているようだった。グラスをじっとにらんだままで、のみつづけ、給仕が機械的に、酌《つ》ぎ足《た》していた。
ハンターは同席の連中が、自分に払っている気づかいなどからは、数千マイルもはなれているようだった。いっしょに坐って、笑いながら、大っぴらにひざをくっつけ合っているのは蘭のようなマラと、毛虫眉の大男、トミー・ブラックだった。拳闘家の手のひらは毛皮の下で、女の、しなやかな手に、そっとおしつけられていた。二人は、ハンターの目の前で、大っぴらにいちゃつき、事実、二人とも、ハンターの存在などは眼中にないようだった。この異様な一団の四人目の男は、トニー・マースで、からだに合っていない夜会の服を着、まるで拳闘コミッショナーの助手のようにはらはらしながら、葉巻をかみくだいていた。
警視は、落ちつきをなくして、うろうろしているエラリーをつれて、そのテーブルに近づいて、親しげに声をかけた。「やあ、今晩は、諸君」
マースは、びくっと立ちかけて、また坐った。マラ・ゲイは、甲高《かんだか》い笑い声をとぎらせて、びっくりして警視を見上げた。「あらまあ、どなたかと思ってよ」と、黄色い声をあげた。かなり酔って、目がぎらぎらしていた。思いきったデコルテ姿で、細っそりした上半身の曲線が、まる見えだった。「おまけに、シャーロック・ホームズさんもご一緒ね。さあ、こちらへどうぞ、シャーロックさん――さあ、あなたも、どうぞ。おじいちゃま。ういっ!」
ジュリアン・ハンターはグラスを置いて、静かに、たしなめた。「おだまりよ、マラ」
ブラックは、こぶしをまるめて、自分の前のテーブル・クロスの上においた。とてつもなくがっちりした肩が少しぴくぴく動いた。
「やあ、警視さん」と、マースは重みをつけて「こりゃ、会えてよかった。一日中、あんたに電話をかけつづけたんですよ。わたしの所を閉鎖しっぱなしで、一体、どうしたんです……」
「その話はいずれまた、トニー君」と、警視は微笑して「あ、ハンター君――君と一、二分、話したいんだ」
ハンターは、ちらっと見上げて、目をふせると「明日にしてくれないか」
「明日は忙しくて駄目なんだ」と、警視は穏かにいった。
「頑固だな」
「いつもそういわれて来たよ、ハンター君。二人きりで話せるところへ連れて行ってくれるかね。それとも、ここで話してもいいかね」
ハンターは冷ややかにいった「好きなようにしてくれよ」
エラリーは、あわてて一足《ひとあし》ふみだしたが、警視が細い腕を出したので停《とま》った。「よろしい、じゃあ、みんなのいる前で話そう。わしは、君を調べていたんだ、ハンター君。そして、大変興味のあることを発見したんだ」
ハンターは、ほんのかすかに首を動かした。「君はまだ、人殺しの木に吠えついているのかい」と、あざけって「なぜ、ホーン殺しで、ぼくを逮捕して、けりをつけないんだ」
「ホーン殺しで逮捕するって? どうしてそんなことを考えるんだね。ちがう、そのことじゃない」と、警視は夢みるようにいった。「今度は、また別の事なんだ。賭場商売のことさ」
「何んだって?」
警視は、かぎたばこを、ひとつまみ吸った。「君は階上で賭場を開いているだろう、ハンター」
ハンターはテーブルの端をつかんで、両足をふんばった。「よくきこえなかったぜ」と、しめつけられるような低い声でいった。
「君はここの階上に、市内指折りの高級な賭場を持ってる。そして、すばらしい欲ばり連中の保護を受けとる点でも指折りだ」と、警視は楽しそうにいった「こんなことをいうと、わしの首が危いのも知っとる。しかし、君のたまり場が――あえてたまり場といっとくがね――市庁の悪党どもに保護されとるのは事実だ」
「こりゃあ、おどろいた、間抜けじいさんだな」と、ハンターが重々しくいった。目が怒りにもえて赤くなっていた。
「そればかりか、君はインチキ拳闘の背後の大資本家の一人だな、ハンター。君は、マーフィ対タマラの八百長試合を策動したし、プリエジと組んで、いんちきレスリングもくわだててるし、トニー・マースを指先であやつってるという、噂《うわさ》さえあるんだ。わしはそれは信じないよ。マースは正直者だからな。それから、君が手をまわして、ハーカー対ブラックの拳闘試合で、大仕事をたくらんでいるというのは世間の通り相場だ。トニーには、そこまではやれん……静かに坐ってるんだ、ブラック。君のパンチも、ここじゃ君の役に立たんぞ」
拳闘家は、小さな黒い目を警視の顔から、はなさなかった。マースは、ひどく静かにしていた。
「おどろいた、おせっかいな小ねずみだ!」と、ハンターが、どなって、指をまげて、乗り出して来た。マースが、すばやく立ち上っておしもどした。マラ・ゲイは、真青になって、からだをかたくしていた。酔いがさめてしまったのだ。トミー・ブラックは、まばたきさえしなかった。「ようし、お前を警察本庁から、たたき出してやる……この、干《ひ》ものじじい奴《め》……しめ殺してやるからな……」
エラリーは、微笑している父に押し戻されながら、冷ややかにいった。「ハンター。酔ってるのかと思ったが、君は気ちがいなんだな。今の言いぐさを取り消すんだ。さもないと、のすことになるぜ」
事態は非常にこみいって、面倒になって来た。給仕たちがテーブルに走りよって来る。バンドは、気狂いじみた、高音の曲を、がなりだした。人々は物見だかく首をのばした。さわぎは大きくなった。ブラックは立って、静かに人ごみの中へ歩み去った。たちまち、ハンターの注意がそっちへ向いた。一筋のよだれが、あごにたれ、目がとび出るほど見つめると、ブラックの後から、叫んだ。「きさまもだ。この野郎! きさまも……」マースが手でハンターの口を押えて椅子にひきもどした。……
やがて、父とならんで、歩道をブロードウェイの方へ歩いていたエラリーは、自分自身と世間と世間のすべてのものとに対して、ひどい嫌悪感にみたされているのに気がついた。不思議なことに、警視はまだ微笑していた。ヴェリー部長が黙って、二人といっしょになった。
「あの騒ぎをきいたかい、トーマス」と、老人が、くすくす笑った。
「騒ぎですって」
「そんなとこだな。社交界か」と、老人は、あざけるように鼻をならした。「上流社会だとさ。一皮はげば、どいつもこいつも悪党どもさ、中身は、まるっきり、悪臭ふんぷんたるもんさ。何が――ハンターだ」
「何かみつかりましたか」と、部長が、にがにがしくきいた。
「いや。だが、あいつは、どこかで、今度の事件に結びついてる、首をかけてもいい」
エラリーは重い気分で「あの男から、何かをひき出そうとしたんなら、全く、見当ちがいですよ」
「そうかな」と、警視は冷やかすようにいった。「お前はこういうことにかけては、なかなかの物知りだよ。いっとくがな、あいつの化けの皮をはぎとってやったんだ。たしかに、あいつは酔っぱらってた。だが、わしのいうことを覚えとけよ。あいつは、じきに、用心なんて言葉があったということを、忘れちまうからな。間もなく事件の全貌《ぜんぼう》が分ってくるさ、エル。わしの言葉をおぼえとくんだ。いいかな」
警視が幸運な予言者だったか、鋭い心理学者だったかは分らないが、とにかく、事件解決の胎動期《たいどうき》が終わりかかっていたことは事実である。
おそらく、敵意にかられたのであろうが、ハンターは、やっきになって否認するための手を打ちはじめた。そして、ことがおこりはじめた。
次におこった二つのことが、互にからみあって、一事件になった。その第一は、ウェルズ長官が、そのあくる朝、コロシアムの閉鎖解除を命じたのである。
いまひとつは、夕刊紙が、次のような発表をしたのである。来る金曜日の夜、ヘビーウェイト選手権保持者ジャック・ハーカー対トミー・ブラックのタイトルマッチは、予定どおり、コロシアムで挙行される。そして、マースの新聞発表によれば「間髪《かんぱつ》をいれず」拳闘試合のリングや、リングサイドの座席や、いっさいの設備を取り片づけて――試合の翌日の土曜日の夜から、三週間前に悲劇的な幕あけをした、あばれん坊ビル・グラント・ロデオの大西部ショーを再開して、賑々しく子供衆のごきげんをとりむすび、物好きな連中を満足させるというのだった。
〔解明〕クイーン氏は、父の警視と共に、腕を組んで捜査に当たるべき事件で、一見その協力に冷淡な態度をとると、しばしば読者から非難されている。しかし、精神分析家ならば、簡単に、その真相を解明できるであろう。この件に関心を持つ読者には「ギリシア棺謀殺事件」を、参考にされれば、すぐに、そのわけが分ることをお知らせする。あの捜査は、クイーン氏が手がけた事件としては初期のものであるが、ずばぬけて頭のよい犯人のために、いくども裏をかかれた。クイーン氏は、自ら正しい解決策と思うのに、実は完全な間違いだったというにがい経験を重ねて、ついに、自分の推理が、完全に正しく、疑う余地が一点もないと確信するまでは、決して推理の理由を口外すまいと、自らに誓ったのである。J・J・マック。
十五 リングの王者
「ラジオをお聞きの皆さん、こちらはニューヨーク市の近代スポーツ競技場、トニー・マース・コロシアムのリングサイドでございます。只今より、今宵行なわれます大試合、いや、世紀の一戦を――は――は――この番組は、○○放送局の御好意で、皆様よく御存知のように全国ネットならびに英、仏、独三か国へも、お送りすることになっております――」
「まもなく、試合開始の時刻です。さよう、あときっちり十二分、どうぞ、いましばらく――は――は――このさわぎが、そちらドイツでもおききになれますか。ニューヨーク全市と、シカゴの大部分の人口が、拳闘史上最大のイベントを見に集まって来ているのです。……収容力二万のこのコロシアムも、死にものぐるいのボクシングファンで、すし詰《づ》めになっています。――いやはや、あきれましたな。入場券を手に入れるために、今日は大乱闘が演じられたとか、私の後の列のある方は、このなぐり合いを見る特権を得るために、なんと、アメリカのお国で、まさに百ドル払った、いや、ひどい世の中になったもんだと、こぼしていました」
「この紳士の払ったお金に、値打ちがあるといいんですがね。いやいや、まじめにお聞きの皆さんに、おことわりしますが、これから、試合開始までの八分間だけでも、すばらしい見ものというわけで、御損はないでしょう。おくれてダイヤルを、お廻しの皆さんに申し上げます。この放送は、ヘビー級チャンピオン、ジャック・ハーカーと、挑戦者トミー・ブラックのタイトルマッチの実況を――この番組は○○放送局の好意により、国際中継で、何が何んだか分らないこの大さわぎと、興奮の模様をお送りするのです――は――は――只今、二人の若者が大いに愛し合っています。これは冗談。メイン・イベントの前試合が行なわれているのです。ゴングです。只今のは、ジョージアのブラック・ボーイ、ジョージ・ディケンズ対ボストンの≪向こう見ず≫ベン・ライレーの十五ラウンド戦の十三ラウンドのベルでした。なかなかいい試合です。とりあえずお伝えします。終始、ライレーが優勢を保っております。ちょっと失礼。何かおこっているようですが、さっぱり見えません。まるっきり声もききとれません。何というさわぎ方でしょう。まるで、民主党の全国大会そっくり、いかがですか皆さん」
「今宵のリングサイドは、お歴々で、や失礼。上流階級の方々で、きら星のいならぶばかり、まるで、メトロポリタン・オペラのこけら落しよろしく、御婦人方は、いずれも花の粧い、パリ風に気取っていえば、ラバリエール、つまり全身これネックレスといったお姿……おや、どなたかな。いや、分りました。リングサイドには、美しいマラ・ゲイさん――有名な映画スター、ハリウッドの蘭、今宵はまた一段のあで姿。そのおとなりは、ブロードウェイのナイトクラブの主人公、社交界にその人ありという、マラ・ゲイの旦那さん、ジュリアン・ハンターさんです――すばらしいマラは、トミー・ブラックを声援しています。トミーは、たしか、カリフォルニア生まれでした――ハンターさんのおとなりは、トニー・マースその人で。トニー・マースは、この小っぽけな旧世界では有名なスポーツ興行主で、この大殿堂を建てたのは皆さんも御承知でしょう――それから、そうです、なつかしの西部で名高い保安官、あばれん坊ビル・グラントさんが、むすこの≪まき毛≫さんと、そのそばに、西部劇スターでおなじみのキット・ホーン嬢――あ、ちょっと失礼『ビル、キット・ホーンのとなりにいる、背が高くて、鋭い顔に鼻眼鏡をかけているのはだれだい。ありがとう』それから、エラリー・クイーンさんも見えます。センター街のクイーン警視のお子さんです。どうやら今夜は警視庁のお歴々もおそろいのもようで、おなじみのウェルズ長官も、リングの向こう側で、クイーン警視と、何か話しているようです――」
「正式発表によれば、今日午後の重量調べの結果、ブラックは百八十二ポンド、チャンピオンは……」
「両人ともリングに上ります。大歓声をお聞き下さい。チャンピオンです。おなじみのチャンピオン、ジャック・ハーカーがリングにはいります。御存知、縞《しま》のバスローブを着ています。マネジャーのジョニー。オードリックと、トレーナーがつきそっています。ジャックは、好調のようで、顔はよく日にやけて、いささか緊張のかたちで、完璧《かんぺき》のトレイニングと見うけられます。ひげは剃りたてで、ぴかぴかしています。試合前にひげを剃るのが、皆さんは御存知の、ジャックのジンクスです。それから、そう、トミー・ブラックが来ました。トミー・ブラックです。大拍手に迎えられています。ラジオをお聞きのみなさん、何んという拍手でしょう……この万雷の拍手が、おききになれますか。トミーを声援する叫び声です……トミーは人気もので、絶好調です。新調の黒いサテンのローブをつけて、バンデージをまいた両手は、二つの鋼鉄のかたまりのようです。御存知のように、賭けは、ちょっとおかしいことになっています。最後になって、挑戦者を勝ちとする賭けが下《さが》り目になりましたが、目下は五分五分になったそうです。……お待ち下さい。只今ジム・スタンキー老が発表をするところです……」
「さあみなさん、準備完了。両人はリングの中央で、レフリー、ヘンリ・サンプターから、最後の訓示をうけています。ヘンリー老は、鷲目《イーグルアイ》のヘンリーでおなじみでしょう。いま、両人はグローブを触れ合いました――両人とも自信満々――トミーの方が、緊張していますが、自信はありそうです。日一日と、なつかしいマウラーに似て来るようです。デンプシーの型にも似ているということです。そのパンチの、ものすごさは、話によりますと、とてもかたくて――」
「ゴング、セコンドがリングを出ました。トミー、いきます、最初の一発。チャンピオン、ガード、左であご、右で心臓――大したことはありません。ジャック笑ってます。両人あざやかなフットワーク。ジャックはまだ手を出しません。たがいに様子をみています。トミー、出ます――電撃の一閃《いっせん》――レフト、あごに二発、ハンマーのような奴。ジャックの顔に炸裂《さくれつ》、きずつきました。まだ大丈夫です……おう。すばらしいファイターです。トミー・ブラックは。ジャックは、まだ一発も出しません……いった、すごい、一発、頭へ。当たったら、トミーは、のびたでしょう。……トミー、うまく、かわしました」
「うー! 待って、待って――うー! 皆さん、トミー・ブラックが、ラッシュしました。レフトのストレート八本、たてつづけに、あごにくらわせました。そして、とどめの一発、右フック、すごい早さで、つづけざまに、あごです、ジャックのあごです。ジャック、グロッキー、ひざがふらつきました……防ぎながら、クリンチ――レフリー、分けようとしています。トミー、離れようとしています。殺気立っています。ジャック、はなしません。|ひる《ヽヽ》みたいにクリンチ。――離れました。スパーリングです。トミーは不敵な歯をみせています。あざけっています。休みなく、冷静に、必殺のパンチで、ラッシュ、ラッシュ――そこだ! 右、左、右、左、右、左……」
「ジャック、ダウン、ダウン……ツー、スリー、フォー、ファイブ、シックス、セブン、起き上がろうともがいています。エイト、ナイン! ひざをついて立ち上りました。とびのきました。トミー、追います。レフリー、ヘンリー・サンプターが近よります。……」
「おーっ! チャンピオン、ダウン。ものすごいさわぎをお聞き下さい。満場総立ち。狂喜乱舞――ファイブ、シイックス、セブン、エイト、ナイン――テーン! 新しいヘビー級世界チャンピオンが生まれました。放送をお聞きの皆さん、新しいヘビー級チャンピオンは、リング史上空前の、ワンラウンド・ノック・アウトの偉業をなしとげました」
「トミー、トミー、ここへ来てくれ、マイクに一言いってくれ! トミー!」
これはいろいろな出来事の新しいラウンドが始まるよいきっかけだった。次から次へと、出来事が起こるにつれて、ますます幸先《さいさき》がよくなった。拳闘試合の残忍性などは、いやらしい野性のみせものにしかすぎないと思っているエラリーは、リング上の選手よりも、自分のまわりの連中に気を配っていた。だから、リングサイドで、ひしめきあっている何百という人間の中で、ジュリアン・ハンターのにがにがしいしかめっ面や、トニー・マースの冷たい計算ずくの目の色や、チャンピオンがカンバスの上に崩れ去ったとき、マラ・ゲイの美しい顔にうっとりとした、やんちゃ娘のような熱狂ぶりがあらわれるのを見ていたのは、エラリーただ一人だった。トミー・マースは、実際、殺気立って、しかも冷静だった――アナウンサーが、がなり立ててトミーの名を放送したとき――ニュートラル・コーナーで、からだを上下に踊らせながら、相手の、ダウンしたからだから虎のような残忍な目を放さなかった。
トミーは何かを期待して、わざとぐずぐずしていた。そうしている理由があったのだ。つねに、利を見るにさといトニー・マースは、最初の叫喚《きょうかん》が静まるとすぐに、今夜これから、新しいチャンピオンのために、クラブ・マラで、「祝賀会を開く」と、発表した。多分、トミー・ブラックが、ばくち打ちにおどかされて、勝負をなげ、チャンピオンに勝をゆずって、ばくち打ちの利益を守るかもしれないという噂の立った八百長試合がひっくり返えったので、マースは、そんな散財をする気になったのであろう。というのも、マースは時には衝動的《しょうどうてき》に気前がよくなる方で、いつもは金の話には非常に慎重なので有名だったからである。とにかく、その祝賀会は、千客万来だった。新聞協会の代表、知名なスポーツ記者、プロモーター、グラント父子、キット・ホーン、ロデオ一座の全員(みんな熱狂して試合をみていた)――みんな招待された。
その夜の真夜中、クラブ・マラは、妙な恍惚《こうこつ》状態になっていた。客止めでドアは閉められていた。大きな部屋は、花や、試合のトロフィーで飾りたてられていた。例によって、冷静で愛想のいいマースの司会だ。酒はおしげもなく出された。中央のテーブルには、たくましいバッカスのおやじのように、トミー・ブラックが、その大きな図体に糊ではりつけたような夜会服を着て、微笑しながら、身動きもせず、人目をひくこともなく坐っていた。
エラリーは静かに歩きまわった。あばれん坊ビル・グラントを探したが、みつからなかった。マースに近づいてきくと、グラントは、ていねいに出席を断ったということだった。疲れたし、明日の晩にロデオのふたあけを考えなければならないといったそうだ。しかしまき毛は出ていた。それと、キット・ホーン――その夜の客の中で一番冷静で輝かしい目をした女性で、微笑《ほほえ》みかけられればほほえみ、話しかけられれば話しながら、ほとんど、ジュリアン・ハンターを、じっと見ていた。彼女にとってはまるで、ハンターが、大嫌いだが、ひきつけられずにはいられない奇妙な怪物ででもあるようだった。
部屋は、われかえるようなさわぎだった――栓《せん》をぬく音、グラスのふれ合う音、お客のわめき声でいっぱいだった。賑かさの中心は、ブラックで、その先頭に立つマラ・ゲイは、ほとんど肌のすける夜会服をつけて、この世ならぬ美しさだ。マラは、ひどく酔っていた――ブラックへの賛美、その成功、その肉体、その肉体的磁力に――酒よりも酔っているらしい。グラント一座の四十人は、ぶどう酒とウィスキーのある、この無礼講《ぶれいこう》に目をむき、はでに酔っぱらって、このおごりに感激していた。そして、人間の胃袋では、とても耐えられないというまで呑んだ。しかし、マホガニー色の顔色が少し艶《つや》をまし、舌がかすかにもつれるというぐらいのことをのぞけば、ほとんど、酔った気色を見せなかった。片腕で有名な、ウッディが椅子に上って叫んだ。「≪カウボーイのなげき≫を聞かせてやろうぜ」それからあとは、歌にこもる、もの悲しい情緒を伝えようとする、荒々しいしわがれ声が、一晩中つづいた。ダヌル・ブーンは歌の悲しみに打ちひしがれて、床にくず折れて、はげしく泣いていた。新聞記者連中は、ほとんど、静かにのんでいた。
エラリーは、なおも、まわり歩いていた。
真夜中すぎには、一同はいくつかの小グループに分かれていた。エラリーは、酔っていないキットが、もうたまらないという身ぶりで立って、まき毛に一言《ひとこと》二言いうと、携帯品預り所の方へ行くのを見た。まき毛は気が進まぬ様子でついて行った。それきり、もう二人の姿は見えなくなった。
ブラックは、強制的なトレイニングから解放されて、小柄な汗っかきのマネジャーがとめるのもかまわず、上等のシャンパンをがぶ飲みしていた。ほんの少しの酒が、このスポーツマンの頭にいかに早くのぼるかは、おどろくべきものだった。十分もたたぬ間に、トミーはぐでんぐでんに酔っていた。ここまでくれば、もう、宵の口のように、ライオンである必要はなかった。というのは、賛美者たちのだれ一人として、三十分も前のことは何ひとつ覚えていないというすばらしい理由があったからだ。トミー・ブラックのマネジャーは、チャンピオンを正気でいさせるのを、はっきりあきらめて、小さな黒い酒びんを小わきにかかえると、ひとりで静かに飲むために、部屋のすみに引込んだ。
そこで、エラリーはブラックのテーブルへ行って腰かけた。マースもそこで、したたか呑んでいた。あたりは狂気じみたさわがしさだった。
「やあ、来たな」と、ブラックはうなって、ふらつく、けわしい目付でエラリーをにらんだ。「警察小僧か。おやじにいっとけよ。むだ口たたくんじゃないってな。口をつつしめって。だが、トミー・ブラックは、悪く思っちゃいないぜ。飲めや、坊や、飲めよ」
エラリーは微笑して「もう充分いただきましたよ。ありがとう。ところで、世界チャンピオンになった気分は、どうですか」
「いいさ」と、ブラックは上気して「とても、すばらしいさ、坊や」それから急に「おーう」と、叫んだ。その叫び声は、はじけるような賑やかさにもみ消されてしまった。「こん畜生。ここじゃ、話も出来ない。どこかへ行こう、おれの生い立ちを話してやるぜ」
「そりゃいいな」と、エラリーはうれしそうにいった。見まわすと、ハンターとマラ・ゲイはどこかへ消えていた。二人のいる所がほぼ見当がついていた。「あそこの小部屋へ引っこそうよ、トミー。あそこなら、君が栄光への道を登りつくすまでの、苦労や浮き沈みをきかせてもらえるぜ。来ませんか、マースさんも」
「行くよ」と、マースはだるそうにいった。声が少しのどにひっかかる以外は、ほとんど正気らしかった。
三人は客たちがこみ合っている中を、おし分けて左側の壁の方へ行った。そこには、個人パーテー用の小部屋が並んでいた。エラリーは、上手に、仲間をそのひとつにみちびいた。そして腰を下ろしたとき、うまくいったと思った。となりの小部屋から、聞きおぼえのある声が、きこえて来たのだ。
ブラックが始めた。「おやじはパサデナで、ブリキ屋だったんだぜ。で、おっかさんは――」
いいかけて、ぷつりとやめた。となりの小部屋から自分の名がきこえたのだ。「一体だれだ――」と、大声でやりかけて、またやめた。今度は、目を細めて、鳴りをしずめて坐り、頬からは酔いがさめかけていた。
マースは緊張して坐っていた。エラリーは全身の筋一つ動かさなかった。実験中の科学者は平静を保たなければならない。
「そうとも、何度でもいってやる。怪しからん奴だ」ジュリアン・ハンターの低い声がきこえる。「お前と、あのブラックのゴリラは、おれを笑いものにしてやがる。お前と結婚したときは、お前はつまらんあばずれ娘だったのを、玉の輿《こし》に乗せてやったんだ――それが分ってるのか? お前が、ゴリラの肉にあこがれるなんてことで、赤新聞の泥んこの中に、おれの名をひきずり込まれちゃあ、たまらないんだ――わかったか。ライヤンズは、お前がブラックと関係してると当てこすってる。畜生、おれは、あのこぎたない奴のいうことを信じてるんだ」
「嘘よ!」と、マラ・ゲイが叫んだ「ジュリアン私、ちかうわ――はっきり言うわ。そんなことしないわ。あのひとが、私に親切にしてくれるだけなのよ……」
「≪親切に≫とは、うまいこというな」と、ハンターは、冷たくいった。
「ジュリアン、そんなふうに見ないでよ。もちろん、私はけっして……私は夢にも……」
「嘘《うそ》をついてるな、マラ」と、ハンターは無感動にいった「ブラックのことで、嘘をついてるな。今までに何度も、他の奴のことでも、嘘をついてたからな。お前といったら、どこまでもけがらわしい、つまらない女――」
ブラックの大きな拳が、目の前の、テーブル・クロスの上でふくれ上り、黒い顔の皮膚が、激情で石のようにこわばった。
エラリーは身を引きしめた。もちろん、胸の中で計算も立てていた。ジュリアン・ハンターの、わざとゆっくりするような、平板な声がつづき、女優の訴えをぶったぎり、つのるヒステリーを無視し、かげろうの中でもえ上るような言葉で、マラの面皮をはぎ、罵倒《ばとう》していた。
「お前のことはもっと知ってるんだ、マラ。胸毛を生やしたけだものどもと、おれに不貞を働いているぐらいのことはな」と、ハンターはいやに静かな調子で「もっと、どっさり知ってるぞ。そりゃ、おれだって、お前が、大して害もない男狂いを、自己宣伝に利用してるのは、みとめるさ。そういう評判が立つのは、かえって宣伝になるだろうさ。お前さんのご結構な芸術家としての≪地位≫とやらに……」
「よしてよ」と、マラが叫んだ。
「――だがな、お前にはその他にも問題があるんだ。なあ、そいつは、お前のくだらん映画界の人気をもってしても消すことは出来ないんだぜ。もしおれが……そうさ、今すぐに、広間の真中に出て行って、あすこにいる新聞記者に発表したらどうなる。マラ・ゲイ、ハリウッドの蘭の正体は、ただの……」
「おねがい、やめて!」と、マラが金切り声をあげた。すると、何かするために、特に筋肉をひきしめるというふうもなくトミー・ブラックが、椅子からとび出して、となりの部屋へ突進した。
エラリーとマースは、よろめきながら追いかけてブラックの固い腕に手をかけてひきとめた。ブラックはふり向きもしないで二人をはねとばした。とてもすごい力なので、マースは後によろめき、倒れて頭をぶつけたし、エラリーは、はねとんで、柱にぶつけられたまま、気が遠くなりかけた。
ぼやけてはいたが、エラリーは、拳闘家が、リングに上ったように上半身をかがめて、黒い夜会服の背を、幅の広い甲《よろい》のようにひきつらせて、ハンターの首をつかみ、椅子からぐいと引きあげ、まるで子供をふるようにふりとばし、それからゆっくり椅子に下ろすのが見えた。マラ・ゲイは、真青になり、ぽかんと口をあけて、麻痺して、叫び声も出せなかった。ハンターは目をまわしたようだった。
それから、ブラックの大きな右の拳が、さっと上って、ハンターのあご先をなぐりつけた。ハンターは音もたてずに床にのびた。
おそらく、それは口火をつけるのに必要な火花だったのだろう。次にエラリーが知ったのは、クラブ・マラが、阿鼻叫喚《あびきょうかん》の大混乱で、うずまき、よろめき、なぐり合い、瀬戸ものがとびちり、椅子がぶつかり合う。という悪夢の場になっていたことである。
エラリーは、かろうじてこの乱闘から抜け出し、ちぢみ上っている|預り所《クローク》の少女から外套をうばうようにして、外のおいしく胸にしみる空気の中にのがれ出た。
エラリーの鼻は、まだ厭なにおいが残っているかのように、しわがよせられていた。目は、ひどく、もの思いに沈んでいた。
十六 仮借用書
「……そしてその晩、二度目のノック・アウトを記録した。こんどのすばらしい相手は、なんと、偉大なる|らっぱ《ヽヽヽ》吹き、ジュリアン・ハンター、その人だから、おそれいる。まさに奇想天外だ。シャンパンの大盤《おおばん》ぶるまいあり……」
エラリー・クイーン氏は、その翌朝の食卓で、だまって、テッド・ライヤンズの記事を読んでいた。
前の晩、クラブ・マラで、そのタブロイド版の記者を見かけた覚えは、エラリーにはなかったが、≪内幕≫にのっている、ライヤンズの、すっぱぬきの記事をみると、彼が、その場にいた証拠としか思えなかった。ライヤンズは、軽妙な筆で、その夜の宴会の陽気さや、登場人物の役割や、劇的なハイライトを書いていた。スターたちには、それ相当の役を与え、文章の意味のとりにくいところには説明を加えることもぬかりなかった。エラリー自身も「新しいチャンピオンの乱暴狼藉《らんぼうろうぜき》の被害者の一人」と書かれていた。ふと、エラリーは目を細めた。文章の終わりの方に、驚くべき当てこすりが出ていた――その震源を考えてみるとさらに驚くべきものだった。
ハンターは、その有名な細君マラ・ゲイのいかなる弱味を握っているのか――単に夫婦間の秘密だけとは考えられない弱味とは何か、とライヤンズは短い言葉で注意をひいている。「噂《うわさ》によれば(みなさんすでに御存知でしょうが)この貴重なご夫婦は犬と猫の生活を送っておられるとのこと、旦那は犬を気取り、かあちゃんは、ぶち猫の女王よろしく、にゃあにゃあやっておられるそうである」このようにマラを神経質にし、疳《かん》をたかぶらせ、彼女の目を、輝かせたり、くもらせたり、全く落ちつきのないものにさせているのは、単に、家族的な不運のせいだろうか、とライヤンズはつづける。「あの愛の巣には爆薬がしかけられてあるんですぞ、皆さん。旦那はそれに気がついているのだろうか。そして、かあちゃんは、そいつが爆発したら、自分の地位がどうなるのかを、御存知だろうか。しかし、旦那も、かあちゃんも、しかと心得ておいでだ」
エラリーは新聞を投げ出して、コーヒーを、もう一杯ついだ。
「おい。それをどう思うかね」と、警視がきいた。
「ぼくは、ばかでしたよ」と、エラリーが「ライヤンズも、もちろん、ああいう、ねずみ族と同じように、千里眼ですね。あの女は麻薬中毒です」
「気がつかなかったな」と、老人はぶつぶついった「そういえば、あの女はいつも変だと思ってたが。ぞっとするような所があった。麻薬中毒とはな。だから、ハンターが昨夜は、それで、おどしたんだな――何をにやにやしてるんだ?」
「にやにやじゃなくて、にがにがしいんです。可能性がないんでね」
「何の可能性だ? ああ、あの女が高飛びしそうだというんだろう。ところで、お前にニュースをとっといてやったぞ」
「ニュースですって」
「朝刊のおそ版に出るだろう。今朝、トニーが、電話でしらせて来た。どんなニュースだと思うね」
「さっぱり見当がつきません。おねがいです。どんなニュースですか」
警視は、わざとゆっくり、おきまりの、朝の一服というふうに、かぎたばこをとって、吸った。いつものように三度くしゃみして、小さい鼻を、元気にかんだ。「最終決定だそうだ。あばれん坊ビル・グラント・ロデオに新人がはいる」
「今夜の再開からですか」
「そうだ……だれだと思う」
「とても分りませんね」
「キット・ホーンだ」
「まさか。キット・ホーンがロデオにはいるなんて」と、エラリーは目をむいた。
「トミーが、電話でいって来たんだ。新しい企画だってさ――殺人事件で宣伝がきいとるから、金になるつもりだろうが、そうは行かんと思うよ」
「ぼくもそう思います」と、エラリーは眉をしかめた。
「わしは、あのかわいそうな娘が」と、警視は微笑して「何というかな――復讐《ふくしゅう》の鬼になったんだと思うよ。さもなければ、現に、れっきとした映画スターが、なんで、ロデオ一座になんか入るもんか。こりゃ、分りきったことだろう。きっと、映画の契約のことで、トラブルがおこるにきまっとる」
「あの若い女を見るぼくの目に狂いがないなら、たかが契約なんてもので、くいとめることは出来ない気持でしょうよ。だから――」
「それに、また、グラントのせがれのせいでもあろうさ」と、老人はいった「二人の仲というものは、職業なんかで割り切れないものがあるにちがいないしな。というのは……」
呼び鈴《りん》が鳴った。ジューナが、玄関へとんで行った。引き返して、噂の主、キット・ホーン、その人を、クイーン家の居間《いま》に案内して来た。
エラリーは椅子からとび立った。「こりゃ、ホーンさん」と叫んだ。「おどろきましたねえ。どうぞ、入って、コーヒーでも上って下さい」
「いいえ結構ですわ」と、キットは低い声で「お早うございます、警視さん。ちょっとお寄りしたんですの。あたし――ちょっとお話が……それで、あなたに」
「ほう、そりゃようこそ」と、警視はやさしくいって、椅子をすすめた。キットは、ぐったりと腰かけた。エラリーが、たばこをすすめたが、キットは、ことわった。エラリーはたばこをつけて、窓のそばで吸いはじめた。下の通りをちらっと見て尾行役の刑事が立っているのをたしかめた。刑事は通りの向かい側の柵によりかかっていた。
「何の話かね」
「妙なお話ですの」キットは手袋をまるめていた。神経質になって、目のまわりに紫色の大きな|くま《ヽヽ》が出来、何んとなく緊張していた。
「父に関係があるにちがいないんです」
「ホーンさんにかね」と、警視は、いたわるように「それは、それは、われわれには、どんな小さな情報でも、きっと、役に立つよ、ホーンさん。どういうことかな?」といって、小さいよく光る目で、じっと、キットをしらべていた。エラリーは窓のそばで、静かにたばこをのんでいた。身分をわきまえているジューナは――最初は崇拝するような目付きをしたが――台所へ姿を消していた。
「正直に申しますと」と、キットは手袋を、つまぐりながら「私――どうお話したらいいかしら。とても、むずかしいんですの」それから、指先をとめると、大胆に、警視を見上げた。「私、つまらないさわぎを起こそうとしてるんですわ。でも、私にとっては――そう、大した事ではないけど、大切なことのようですの」
「なるほど、ホーンさん」
「ジュリアン・ハンターさんの――ことなんです」といって、しばらく黙った。
「ほう!」
「しばらく前に、あの人に会いに行きました――ひとりで、クラブ・マラへ」
「ほう、それから」
「あの人が用があるというので、私――」
「電話をかけて来たのかね。それとも手紙?」と、警視は職業的なさりげなさで、ぬかりなくきいた。
「いいえ」と、キットは、聞かれたことの意味が分らないでめんくらったようだった。「あの人、ある晩、私だけをうまくみんなからはなして、次の日の夜、ひとりで訪ねて来てほしいと、たのんだんです。何んのためかはいいませんでした。もちろん、私、行ったんです」
「それから?」
「あの人の専用事務室で会いました。初めは、とてもていねいでした。ところが、やがて仮面をぬぎすてました。そして、おそろしい事を言うのです。あの人が、賭場《とば》をやっているのは御承知でしょう、警視さん」
「知っとるよ」と警視が「それが、この話と、どんな関係があるんだね」
「それが、父が死ぬ一週間ほど前のことらしいんですの――私たちが東部へ来て、まもなく、トニー・マースさんが、ハンターさんを紹介してくれたんです。父は、ハンターさんの賭場へ行きました――クラブ・マラの階上です。父は賭けたんです」
「ポーカーかね。クラップかね」
「ファーロです。そして、とても負けたんです」
「それで分った」と、警視が、力なくいった「知っとるだろうが、われわれは、君の養父の財産を調べ上げたんだよ。ここのじゃなくて、ワイオミングのをね。そうしたら、びた一文のこさずに引き出しているのが分ったんだ――ニューヨークへ出て来る前にね」
「初耳ですね」と、エラリーが窓のところから、とがめるようにいった。
「たずねなかったじゃないか、君。それでお父さんは、どのくらい損をしたのかね」
「四万二千ドルです」
警視とエラリーは、おどろいて口笛を吹いた。「すごい大金だ」と、警視がつぶやいた。「実際、大金すぎる」
「と、おっしゃると?」と、エラリーがきいた。
「あの男は、ワイオミングのシャイエンの銀行に、総計一万一千ドル余りしか持っていなかったんだよ、エラリー」
「それを全部、引き出したんですか」
「一文のこらずだ。この世にのこったのは農園の財産だけだ。大したものじゃあるまいよ。……それで、四万ドルの上も負けて、どうなったかね。ほぼ見当はつくがね」
「ええ」と、キットは声を低くして「ひと晩の勝負で負けたんじゃないんです。四日間に負けたんだと、ハンターさんがいうんです。それで、父はハンターさんに借用書を渡したんです」
「ハンターには一文も現金で払わなかったのかな」と、警視が、考えるように眉をしかめた。
「ハンターさんは受けとらないといってましたわ」
「そりゃ、おかしい。チップスは買ったにちがいないもの」
キットは肩をしゃくって「ほんの一、二百ドルぐらいのものだとハンターさんがいってましたわ。あとは貸したんですって。一時手もとが苦しいからと、父がたのんだそうです」
「ふーん。どうも、辻つまが合わんな」と、警視がつぶやいた。「ホーンさんは、一万一千ドル持ってニューヨークに来て、五千ドル銀行に預けて、一、二日のうちに三千ドル引き出した――すると、もしハンターに一文も現金を渡していないなら、その金は一体どうしちまったんだ。例の訪問客に渡したのかな、エラリー」
エラリーは、黙って、たばこをみつめていた。キットは身じろぎもしなかった。警視は、部屋を、ひとまわりした。
「して、ハンターは、何を、あんたに求めたのかね」と、不意に、老人が、たずねた。
「ハンターさんがいうには、バックが死んで借金の回収が出来なくなったから、私が、その借金をすぐ返すべきだって?」
「何んて、汚い奴だ」と、警視がつぶやいた。「勝手にしろといってやったんだろうね」
「もちろんですわ」キットは頭をあげた。目に青灰色の光りが、さっと走った。「もう少しで疳癪玉《かんしゃくだま》を破裂させるところでしたわ。あの人なんか信じちゃいませんから、父の借用書を見せてくれと申しました。すると、金庫から、いく枚も出して来て見せました。たしかに、父の字にまちがいないんです。それから、賭けに、ごまかしがあったんでしょうといってやったんです。正しい勝負なら、父が、昔からやりなれていて上手な、ファーロで、あんなに負けるはずはないんですもの。そうしたら、あの人怒って、私をおどかし始めたんですの」
「君をおどかした? どんなふうにかね」
「どんなことをしても払わせるというの」
「どんなことをするつもりなんだろうな」
「分りませんわ」と、キットは肩をすぼめた。
「それで、あの男と別れたんだね」
キットは元気よく「いいたいだけのことはいってやりましたわ。それから、父の借金を払う約束をして出て来たんですの」
「約束した?」と、警視はおどろいて「しかしね。あんた、そんなことはしないで――」
「借りは借りですわ」と、キットがいった「それに、私もポーカーをやるんですの、警視さん。袖に小さなカードをかくすって技《て》ですわ。私、いってやりましたの。『ハンターさん、私、養父の借金は責任をもってお払いいたしますわ』。すぐにあの人、愛想よくなったのよ。だから私、『でもね。父の殺人事件が解決して、あなたには全然関係のないことが証明されるまでは、払いませんわよ』って。そういってとび出しちゃったんです」
警視は、せき払いして「大仕事だな、ホーンさん。その約束を守って金が払えるのかね。とても生やさしい金じゃないよ」
キットは、ため息をついて「大金ですわ。父の保険金がなければとても――払えやしませんわ。父は、長いこと、大口《おおぐち》に、はいっていたんです――十万ドルなんです。それに、私がたった一人の受取人ですの……」
「ハンターがそれを知ってただろうか――」と、警視が、つぶやきはじめた。
「あなた方がニューヨークに来てから――賭けの他に――お父さんは、何か特別にお金を使いませんでしたか」と、エラリーがきいた。
「そんなことたしかになかったと思いますわ」
「ふーん」と、エラリーは考えこんでいたが、急に胸をはって「うん、そうか」と、楽しそうに「そういうことは、真相が分れば、自然にみんな分ってくるにきまってますよ。一つ話題をかえましょう。あなた、グラントの一座に、はいるんですって、ホーンさん。話がまた急ですね」
「ああ、そのこと」と、キットは小麦色のかわいいあごをひきしめた。「急でもないんですの。父が撃たれた晩から心の底できめていたんです。でも、とても父の役は、私では、うめられませんわ、クイーンさん、私は、このことを全然発表してもらいたくなかったんですけど、グラントさんが、なぜか、発表するといってききませんし、マースさんもそれに賛成なんです。それで、私、一座にはいったばかりなんですの」
「何をなさりたいんでしょうね、もしよろしければ」と、エラリーは、ていねいに、たずねた。キットは立って、手袋をひっぱりはじめた。「クイーンさん」と、強い調子で「私、あくまでも、父を殺した人間を探しつづけます。ちょっと、メロドラマじみていますが、そうしないじゃいられない気持なんです」
「ああ、すると、ホーンさんを殺した人間が、ロデオのまわりか、コロシアムに集まる人の中を、うろつき廻っていると思っているんですね」
「そんな気がしますわ。ちがいましょうか」と、キットは、微笑をふくんで「もう、おいとましなけりゃなりませんわ」と、玄関の方へ歩き出した。「あ、そうそ」と、不意にいって、部屋の入口のところで立ちどまった。「忘れるところでしたわ。一座のものが、今日の午後、夜の開演のすぐ前に、ちょっとしたお祝いをするんですって。あなたにも、是非きていただきたいわ、クイーンさん」
「お祝いですか」エラリーは本当に驚いた。「そりゃ――その――ちょっと悪趣味ですね」
「あのね」と、キットはため息をついて「特別のことなんですのよ。今日はまき毛さんの三十回目の誕生日ですの。お母さんの遺産で、あのひと、今日から金持ちになれるんですのよ。まき毛さんは、こんな状態だから、何んにも催しはしたくないというんですけど、あばれん坊ビルさんが、私に、もしやってもよければやりたいと、たのみましたから、私、承知したんです。私、楽しみをぶちこわすような役はしたくありませんし、それに――まき毛さんのことですものね」
エラリーはせきばらいして「そういうわけでしたら、よろこんで伺います。会場はコロシアムですね」
「そうですの。競技場に、テーブルなんかを持ち出すつもりなんですよ。じゃ、いらしてね」
キットは、男みたいに手を差し出した。エラリーは、きっと行きますと念をおすような微笑を浮かべて、その手をとった。それから、キットは警視と握手して、にこにこしながらアパートを出て行った。二人は、身軽く階段をかけ下りるキットを見送った。
「いい娘だな」と、警視はいってドアをしめた。
警視が外套を着て、まさに、センター街へ向かおうとしていると、また、ベルが鳴った。ジューナが、迎えに出た。
「今度は、一体、だれかな」と、警視が、ぶつくさいった。窓に立って、ブロードウェイの方へ行くキットを、尾行役の刑事が、すぐに|つけ《ヽヽ》はじめるのを眺めていたエラリーは、急いで、ふり向いた。
部屋の入口に、カービー少佐が立って、微笑していた。
「あ、お入りなさい、少佐」と、エラリーがいった。
「どうも、悪い時にばかり、人を訪ねるくせがあるらしい」と、少佐がいいわけした。少佐は新しくプレスした服を、きちんと着て、しゃれたステッキを持ち、ベロア帽子もちゃんと刷毛《ブラシ》がかかっているし、えりボタンには、くちなしの花をさしていた。「失敬、警視――出かけるところだね。ちょっとお邪魔するよ」
「そりゃ、かまわんよ」と、警視が「葉巻でも?」
「いや、ありがとう」と、いって、少佐は、ズボンを崩さないように注意しながら、椅子に坐った。「上ってくるとき、階段で、ホーン嬢とすれちがったが、社交的な訪問かな。……ちょっとお寄りしたのは、もっとぼくに手伝うことがあるか見に来たんだ。ぼくは、どうやら警察と協力する|くせ《ヽヽ》みたいなものがついたらしい。しかも、そいつが楽しみなんだからな」
「ミルクで育った良心を持ってる人々にはね」と、エラリーがにやにやした。
「ぼくは今夜またコロシアムで仕事することになってる」と、カービーが「例によってニュース・カメラを指揮するんだ。警視や、クイーン君が、何か特別な仕事を、ぼくにやらせようと思っていやしないか、それをききに来たんだ」
「特別の仕事というと」と、警視は眉をしかめて「どういうことかな」
「いや、ぼくには分らんが。おかしな話だがね――一月前と、丁度、同じような仕事をすることになるかもしれないよ」
「何かおこると思っとるのかね」と、警視が、鋭く「あそこには、すっかり部下を配置するつもりだ。だが――」
「あ、いや、いやけっして。そんなことは夢にも思わんが。ぼくには、特別のものが写せるからね。万一のときは――」
警視は解釈にくるしむようだった。エラリーは微笑してつぶやいた。「どうも御親切に、少佐。だが、今度は大丈夫、何ごともなく、楽しいと思いますよ。とにかく、今夜、競技場でお目にかかりましょう」
「もちろん」少佐は立って、ネクタイを直し、くちなしの匂いをかいでから握手した。出しなに、ジューナの頭をなぜた。ドアが閉って、その小柄なきちんとした姿をかくすまで、ほほえんでいた。
「さて、何んということだ」と、警視は、うなった「どういうことなんだろうな」
エラリーは、くすくす笑って、たきつけたばかりの暖炉の前の、ひじかけ椅子に坐りこんだ。
「苦役《ガレー》船の中で、悪魔がなにをたくらみおるのか」と、フランス語でいった。警視は、フフンと鼻をならした。
「本当に疑い深いおじいちゃんだな。いつも、イギリス人の血をかぎまわって、ぎゃんぎゃん吠えたてるんだから。早く、あなたのバスチーユ〔フランスの昔の牢獄〕へ行きなさいよ。あの男は、ただ、親しくしようとしてるだけなんですよ」
「うるさいな、よせ」と、警視は一喝《いっかつ》して、あごをなぜると、どしんとドアを閉めて出て行った。
十七 祝宴
その日の午後おそく、エラリー氏はコロシアムの楕円形の競技場を縁《ふち》どるコンクリートの壁によりかかって、人間の悲しみの、おそまつさについて、冥想にふけっていた。苦悶《くもん》はうすれ、思い出はかすむ。ただ、その舞台だけが、つねにかわらずに残っていくのだ。それは過去に何があろうと、現在どうあろうと、将来何がおこるかもしれなくても、まったく無言で、考えてみれば、あまり愉快ではない残存物なのだ。二十フィートもへだてぬトラックの一点、そここそ、ほんの数週間前に、四肢のひんまげられた男が、地上最後のお目見栄《めみえ》をしながら、のたうちまわった場所なのだ。今、その場所を、給仕服の男たちが、食べものの皿を運んで、ふみあらしているのだ。
「よせばいいのに。場所もあろうに」と、エラリーは、ため息をついて、集まっている連中の方へ歩みよった。
楕円競技場の真中の土の上に長いテーブルが、木の脚立《きゃたつ》と、白い布をかけた板で組み立てられてあった。テーブルの上は、銀器やガラス器できらきらしていた。サラダと、オードブルと、クリスタリン・ハムが、どっさり並んでいた……。エラリーは、辺《あた》りを見まわした。昨夜の名残りをとどめるものは何もなかった。リングも、リングサイド席も片づけられていた。低く下げられたアーク燈も、新聞記者や放送関係の連中の電気器具も、あとかたもなかった。
賄《まかな》い方の準備がすんだ。あばれん坊ビル・グラントが、むすこの幅広い肩を抱いてあらわれた。
「集まってくれ」と、グラントが、どなった。
すでに夜のショーのために、きらびやかなカウボーイ服をつけている一座の連中は、われるように拍手した。
「じゃあ、始めることにしよう」と、グラントは、大声で「食糧車が一台ひかえてるから、いくらでも、たらふくやってくれよ」と、わめいて、自からの言葉に従うように、長いテーブルの上座の椅子に、どっかりと腰かけて、こんがりこげた骨付き肉を攻撃しはじめた。
まき毛が父の右に、キットが左に坐っていた。エラリーの席は、キットの側で、二、三人だけはなれていた。トニー・マースはエラリーの向かいに坐っていた。まき毛のとなりには、ステットソン帽と弁護士用の書類鞄を椅子の上においている、背の高い、赤ら顔の老人がいた。
一座のものは、さしずされたとおりに席についていた。東部育ちのせいで、エラリーはみんなの食欲におどろいていた。料理は、おどろくべき速さで消えはじめた。おしゃべりや、冗談をとばす声や、口いっぱいほおばる音や、力強くかみしめる音で大変だった。ただ、上座の方だけはしんとしていた。
そして、次第に、食い疲れて静かになり、座員たちのさわぎもおさまって来た。一つには、あばれん坊ビルが、元気なく、ふさぎこんでいるし、キットが、とても愛想よくしようと努めながらも、やはり、沈みこんで、ひっそりしているせいかもしれなかった。それに、食べるものがなくなると、静かになるという奴かもしれない。最後の肉の一切れがなくなると、まるで、死んだホーンが、出て来て司会の席についてでもいるかのように、一同は|しゅん《ヽヽヽ》となってしまった。
グラントがナプキンを置いて立った。がに股の脚が少しふらつき、がっちりした顔が、どす黒く赤らんでいた。「みんな!」と、精いっぱい、愛嬌《あいきょう》よく叫んだ。「みんな、今日のバーベキュー・パーテーの理由は知っとるだろう。今日、せがれのまき毛が三十歳になった」みんなが少し拍手した。「いまや、せがれも男一匹だ(笑い声)ひとり立ちすることんなった。あれのおふくろは、いいおふくろで、死んで墓にうめてから十九年たつが、死ぬとき遺言状をつくっていった。その遺言状の中で、せがれに遺産を残したんだ。おふくろの遺言では、せがれが三十になったら一万ドル受けとることになってる。せがれも、今日が満三十だから、それがもらえるんだ。ここにおられるコマーフォードさんは、どうやら、フランス人とインディアンが戦っていたころからの、うちの弁護士さんだったらしい。はるばる、シャイエンから来てくれて、遺言状を執行してくださるんだ。敬意を表しますぞ。だが、コマーフォードさんは、西部から、びた一文盗んで来たんじゃない。ギャングなんかじゃあない。――まあ、こんなわけだ。最後にもう一言いわせてもらいたい」グラントは言葉を切って、思わせぶりに微笑み、場の空気を明るくしようとしていた。何となく、緊張して、みんなは次の言葉に期待しているようでもあった。一瞬、なにか目に見えないが、見えないからいっそうこわいというような動揺が、さざなみのようにテーブルの上を渡っていった。あとには、ぎょっとして見張る人々の目だけが残っていた。「最後にもう一言いいたいが」と、グラントは、ふるえ声でくりかえした「わしは、古い相棒、バック・ホーンの冥福を祈りたいんだ――あいつにも、ここにいてほしかった」
グラントは腰を下ろして、テーブル・クロスに、うつぶした。
キットは、かたくなって、向かいのまき毛を、じっと見つめていた。
背の高い西部の老人は立って、書類鞄に、うつむき込み、それから身を起こした。留《と》め金をあけた。「わしはここに持って来ましたぞ」と、報告するように「たしかに一万ドルの現金を、千ドル札で十枚ですぞ」鞄をあけて、手を入れると、ゴムバンドをかけた、まあたらしい黄色い革の袋をとり出した。「まき毛君、わしは、君の母さんの最後のねがいを実行する役目を、大きな特典だと思うとるよ。この金は、君の母さんがねがったように、立派に、賢明に使わにゃならんよ」
まき毛は立って、少し不細工に、札束を受けとった。「コマーフォードさん、ありがとう。父さん、ありがとう。ぼくは――畜生、何んていっていいか分らない」と、急に坐ってしまった。
みんなは笑ったり、おかしがったりしたので、また明るさをとりもどした。
しかし、それもほんのしばらくで、あばれん坊ビル・グラントがいった「おい、皆んな、最後にもう一度、支度をしらべといた方がいいぞ。今夜は、とちっちゃ、いかんからな」そうして、賄頭《まかないがしら》に、あごでさしずした。すぐに椅子は運び去られ、カウボーイどもは歩み去り、給仕係りの男たちが、皿の始末にかかった……
すべては、このようにおだやかで、さっぱりしたものだった。しかも、エラリーは、まわりの皆の正直そうな茶色の顔に、いい合わしたように、まるで亡霊があらわれたとでもいうような、何か手でとらえがたいこの世ならぬ感情が、反映しているのを見てとり、これが単なる群集心理のあらわれなのかと感じた。迷信深く、感じやすい、風変わりなこの男女の一団は、むっつりした片腕ウッディを先頭にして、空中にただよう、うす気みわるい予感などをささやきながら、楽屋へ引き上げていった。多くの者は馬舎に引込んで、自分の馬になぐさめを求めたり、馬具をいじって気をまぎらせたりした。その他の連中は、お守りを、こっそりさわっていた。
テーブルは片づけられ、お祝いのかざりは持ち去られたので、たちまち、競技場にはパンくずひとかけなくなった。仕事師の一団が、階上の方々の出入口から、円形の観覧席にあらわれて、今夜の興行のために、最後の手入れを始めた。
エラリーは、ひとりはなれて、片側に立って、静かにながめていた。
すぐ十フィートばかり目の前で、グラントが、むすことキットに、楽しそうに話しかけていた。しかし、キットは、ほほえみながらも黙っていた。まき毛は、いかにも不自然に、沈黙を守っていた。老弁護士は、そばでにこにこしていた。グラントは、はしゃいでいた……それから、話の途中で、この有名なインディアン征伐者、合衆国保安官の老人は、ぷつりと口をとざし、青くなり、はげしく音をたててあえぎ、何かぶつぶついいながら、自分の部屋へ行く一番近い出口へ向かって、小走りに、競技場を横切った。
まき毛と、キットは、その場に立ちすくみ、コマーフォードは、ばかみたいに顔をなぜていた。エラリーは、獲物をねらう犬のように、きっとなった。何かが起った。何んだろう。
エラリーは骨折って思い出そうとした――不用意だったし、ぼんやりみていたから、正確ではなかったが――グラントが急に語りやめた時に立っていた場処はたしかこの辺《あた》りだ。やっと思い出せるのは、グラントが、妙なときに、まき毛の肩ごしにじっと見ていたこと、それは、競技場からの東の大門の方であったこと、その門の道を通って少し前に座員たちが引き上げていったこと、ぐらいだった。
それからすぐあとで、エラリーは忙しく働いているトニー・マースの使用人たちの中に、たった一人で立ち、ひょろ長いからだで考えあぐんでいたときふと思い出した。そうだ、グラントはまるであの暗い門の中に、不思議な顔でもみつけたようだったのだ。
十八 二度目の殺人
バイロンはどこかに書いている。「歴史は、その膨大《ぼうだい》な巻数《かんすう》にもかかわらず、ただ一ページしか持っていない」それは、歴史はくり返しがちであるということを、上手にいったまでだ。おそらく昔の人は、このようなことを心得て、歴史の神を、女性の像《すがた》にかたどったのであろう。
エラリー・クイーンが、その土曜の夜、父の警視と、まったく同じ桟敷で、まったく同じ連中と――ひとりをのぞいては――まったく同じショーを見ていたとき、歴史は、しつこい女どころか、くびにしたいほど性悪る女なのが分った。人なみな人情を心得ている人は、次の世代に伝える人間の業績の記録には、歴史がこんな性質を持っているものだということを、多少とも、示しておくべきだとねがうだろう。とにかく、パリ土産《みやげ》の石膏像のような形のかわらぬ誠実さなどを歴史の中に期待すべきではない。
とにかく、あばれん坊ビル・グラント・ロデオ――いつもより少し改良した――再開のその夜、歴史とはどんなものかということが、はっきりしたようだった。
舞台が同じだったという事実も、重要な付帯《ふたい》状況だった。コロシアムは、わがまま勝手な群集でいっぱいだった。キット・ホーンを除いては、マースの桟敷を占めている連中が、一か月前のときと同じだという事実も、少なからず、錯覚をおこさせるもとだった。カービー少佐が、正確に前と同じ場所に組み立てた張り床の上で、撮影班の連中といっしょに立って正確に前と同じ準備をしていたという事実も、たしかにとりたてていうことでもないが、記憶しておく価値はあった。グラントの大口上の前で、同じように叫びながら、同じように馬を乗りまわす、同じような男女の乗り手たちが、数万の観衆をよろこばせた事実も、まき毛が、カタパルトと小さなガラス玉とで名射手ぶりを披露した事実も同じように、プログラムどおりのことにすぎない。カウボーイの一団が消えてビル・グラントが馬を乗り入れ、競技場の中央に進み出て、合図の拳銃を天井向けてぶっ放し、声たからかに口上をのべた事実は――これは雰囲気《ふんいき》をもりあげて、緊張した神経に、働きかける発端だった。
しかし、最大の事実は、何事かが起ころうとしているのに、なんの警告も、いささかの徴候もなかったことである。そして、ここでまた歴史は、くり返された。
警察までが、この悲劇を完全に反復するのをたすけた。バック・ホーンが殺されたあと、押収されていた武器は、やむを得ず、返還されていた。だから、前のと同じ拳銃が、二度目の上演に当たって、前と同じ助演者たちの手に渡っていた。バック・ホーンの象牙の握りのついた対《つい》の四十五口径拳銃だけが、その場に登場しなかっただけだ。なぜなら、その拳銃はキット・ホーンのねがいによって返還され、バークレイ・ホテルの彼女のトランクに、しまいこまれていたからである。テッド・ライヤンズの拳銃もなかった。というのはテッド・ライヤンズは来ていなくて、どこにでもいるといわれるこの記者の評判も今度だけは破られた。警察も、あばれん坊ビル・グラントも、それをたしかめた。
感情が一番高ぶっていたのはマースの桟敷だった。マースは一月前のときより、ずっとこたえたとみえて、火の消えた葉巻を、前よりもいっそう乱暴にかんでいた。マラ・ゲイはいつものように、花々しく、きらびやかで、お天気屋だった。目は何かをねらうようだった。そして、また、かたわらの今はヘビー級世界チャンピオンになった大男の運動選手と、ささやき合っていた。そして奇妙なことには、ジュリアン・ハンターも、前と同じ後の方の席に坐り、ひとりぼっちで、皮肉な顔で、トミー・ブラックと細君を見ていた……あのこらしめの鉄拳で、気絶するほど殴られたことなど、全く一度もなかったように、あるいはまた、吸い玉のような目の前で、マラにささやきかけている|けだもの《ヽヽヽヽ》と、マラとが、不貞を働いていると、責め立てたことなどまるでなかったように、そしらぬ顔をしていた。
そこで開幕だ。グラントの合図の一発、老人の請願巡査の手で、東の大門が、さっと開らく――今度は、バック・ホーンではなく、ロデオ芸人の片腕ウッディが、まだら馬に乗っておどり出た……遠くからも、得意満面なのがよく分る。あとにつづいて、まき毛と、キット・ホーンが――キットは、悲劇の馬、ローハイド号に乗って――それから一団の騎手たちの、とどろくような、ひづめの音だった。騎手たちが、おがくずをしいたトラックを、高らかな音楽にのり、はげしい銃声のようなひづめの音をひびかせて、風のように駆けまわると、大観衆は、雄《お》たけびの声をあげた。やがて、騎手たちは楕円競技場の南側でとまる。ウッディだけがマースの桟敷の一二ヤード前で立ち、あとの連中は二列になって、いきり立つ馬をしずめながら、はるか西の方の曲り角にならんでいた。あばれん坊ビル・グラントの二度目の口上。傷ついた戦士のように馬にまたがっているウッディの、少しあざけるような叫び声。それから、グラントの銃身の長い回転拳銃の最後の合図の鋭い銃声。すると、ウッディのたくましい右腕が、さっと下がって、拳銃をひきぬき、天井に向けてバンと一発やると、すぐまた、ホルスターの方へ下げた――ウッディと、かなり後にひかえている四十人――つまり四十一人の騎士が、いっせいに会釈する、うねるような動作が、さざなみのように起こった。それから、ウッディが、胸の底から、よほう――と長くひびかせて叫ぶのを合図に、彼の馬がとび出し、次の瞬間、騎馬隊は、すごい勢いで突進した。ウッディは、疾風のように、楕円の東の曲り角を、かけすぎた。
騎馬隊は、マースの桟敷の下の、トラックに突進して来た。
カメラがまわり、
観衆は歓呼《かんこ》した。
クイーン父子は、不吉な予感におそわれて、息もつかずに坐っていた。何の根拠もなかったが、根拠がないことが絶対の根拠だった。のぞむべきではないが、避けられないものなのだ。
お椀形の観覧席の二万の観衆が、一人のこらず肉体が石になり、心臓がとまり、目をガラス玉のようにひらいたまま、まったく、麻痺《まひ》してしまったのは――マースの桟敷の下を、どっと駆け抜けながら、拳銃をふりあげた騎馬隊が、ウッディの合図に答えて一斉射撃をしている最中、ウッディが――競技場の丁度真向かいにいた――発作《ほっさ》をおこしたように、はね上り、鞍にうつぶし、おがくずをつめた人形のように、トラックにころがり落ち、一か月前に、バック・ホーンが落ちて死んだぴたりと同じ場所で、馬のひづめにふみにじられたのを見たからだった。
十九 歴史はくり返えす
ずっと後になって、すべてが片づき、精神的吐き気のむかつきが、やや、おさまってから、エラリー・クイーンは、すべてのことを考えてみても、あの時が、彼の犯罪捜査生活の中で、一番つらい時だったと、告白している。数週間前に、エラリーは、あのおどろくべき犯罪の最初の犠牲者《ぎせいしゃ》を殺したのはだれか、魔法のように消えうせた兇器はだれのものか、かくれみのを着ているような真犯人はだれかを知っていると公言した事実があるので、そのつらさは二倍にもなっていた。もっとも、公言するといっても、それは、あるささいな必要から、ぼかしておいたのだが。
ショックを受けた人々の心は、自然に、エラリーの責任を問う気になる。たとえば、カービー少佐の胸には、たしかにそれがあった。そして、かんかんに怒ったクイーン警視の胸の中には、たしかに、一番はげしく責任を問う気持があった。クイーン父子が、呆然として、駆けまわっている馬の群れから目を離して、お互を見合ったとき「もし分っていたのなら、なぜあの時にぶちまけて、この二度目の殺人をくいとめなかったのか」と、警視の目は、いっているようだった。
エラリーはその瞬間、口でいえると思うような弁解は、何も出来なかった。しかも、心の底では、ウッディ殺しは、予知できないものであったが、なぜか避けられないものだったのが自分には分っていたような気がした。しかもこの余分な流血を防ぐことは、何にも出来なかったのだ。しかし、どんなことがあっても沈黙を守らなければならない理由があった……今こそ以前にもまして、その必要があった。
そんな考えが、頭の中をかけまわっていて、エラリーは自ら課した殉教者の苦しみを、味わった。しかし、敏感な脳の中に宿っている冷静な住人――そいつは、錯綜《さくそう》する灰色の細胞の奥底に、仏陀《ぶっだ》のように鎮座している没我的《ぼつがてき》観察者である――つまり理性が、はっきりと、エラリーに告げる「待つんだ。この男の死はお前の責任ではない。待つんだ」
一時間後には、丁度一月前にバック・ホーンの死体を取り囲んだその同じ連中が、片腕の騎手の死体を取り囲んでいた――おしつぶされ、ふみにじられ、血まみれになって、手足がすっかりひんまがって、ていねいに毛布にくるまれている死体だった。
警官と刑事たちが群衆をひきとめていた。
競技場は厳重に警戒されていた。
カービー少佐の部下たちは、少佐の指揮のもとで、狂気のように、その光景を撮影していた。
座員たちは落ちつきもなく動きまわっていた。みんなの馬は、ブーンの世話で、何事もなかったように、水飼い場で水を飲んでいた。
だれも何もいわなかった。キット・ホーンは、途方にくれて立っていた。グラント父子は真青になって身動きもしなかった。トニー・マースは、もう少しでヒステリーをおこしそうだった。マースの桟敷では、ハンターと、チャンピオンのブラックが、手すりごしに、じっと競技場を見つめていた。
ニューヨーク州医務検査官補サミエル・プラウティ医師は、ひざまずいていたのを立って、死体に毛布を、さっとかけていった「心臓を撃たれてるよ、警視」
「同じ場所か」と、警視はしわがれ声できき返えした。まるで、とほうもない悪夢の、おそろしい夢の瞬間を生きているかのようだった。
「この前のとかい。ほとんど同じだな」と、プラウティ医師は鞄をとじて「弾は左腕のつけねの肉づきのいい部分を貫通して、心臓でとまってる。もし腕が全部あったら、今、生きていられたろう。おそらく命びろいしただろう。もう一インチ上だったら、弾は腕のつけねでとまったろうよ」
「一発か」と、老警視は震える声できいた。急に、エラリーが、犯人は名射手だと断言したのを思い出したらしい。
「一発だ」と、プラウティ医師が答えた。
おきまりの捜査は終わった。前の失敗にかんがみて、クイーン警視は、考えられる犯人の逃亡と兇器の消失とに対して、あらゆる予防措置を講じた。
「また、二十五口径のようだな」
プラウティ医師は弾をさがした。そして、ほとんどすぐに、とり出した――弾頭は原形のままで血まみれだった。うたがう余地もなく、二十五口径自動拳銃の弾だった。
「弾のはいった角度は」と、警視がつぶやいた。
プラウティ医師は無情な笑いを浮かべて「まったくおどろきだな。ホーンをやった弾と、ぴったり同じ角度なんだ」
騎手たちは隔離され、銃は集められた。みんな身体検査された。ひとり残らず身体検査された。ヴェリー部長が、また競技場を捜査して、ふたたび薬包を見つけた――ぺしゃんこになった薬包は、またしても、明らかに人と馬の足でふみつけられたもので、ホーンのときに発見された場所からほんの数ヤードの所から出たのだ。
しかし、兇器の二十五口径は、ただ推定されるだけに、とどまった。
警察の弾道専門家、ノールズ警部補は、今度は、現場にいた。またしても、二万の観衆を身体検査するという、とほうもなく厄介な仕事が始まった。二十五口径が――まったく前の事件のくり返しだ――いく丁か見つかった。競技場からはなれた細長い部屋に、ノールズは臨時の実験所をこしらえた。そしてカービー少佐を否応なしに手伝わせて、二人は、脱脂綿をゆるく巻いて作った即席の的に、長いことかかって、弾をうちこんだ。警部補が持って来た顕微鏡の助けをかりて、発見された二十五口径自動拳銃の弾と、死体からとり出した弾との比較が行なわれた。……捜査はつづけられた。クイーン警視は、すっかりいきり立って、縦横無尽にかけまわった。警察長官も自ら出馬し、市長の側近も一人出て来た。
あらゆる処置がとられたが、何ひとつ得られなかった。すべてが終わったとき、ただ一つの事実だけが確実に残ったようだ、殺人が行なわれたという事実だけが。
ノールズ警部補が、疲れて、だるそうに、報告しにきた。カービー少佐も、黙ってついて来た。
「全部の拳銃をしらべたか」と、警視が尋ねた。
「はい、警視。被害者を撃った自動拳銃は、発見されませんでした」
警視は無言だった。不必要な言葉だといいたいぐらい、信じがたかった。
「しかし、はっきり言えることが一つあるんです。いずれ実験室に戻って分子顕微鏡でしらべてみてからです」と、ノールズ警部補はつづけた「カービー少佐も同意してます。ウッディを殺した弾には、ホーンを殺した弾と、まったく同じの条痕《じょうこん》がついています」
「すると、二つの弾は、同じ拳銃から発射されたというのかね」と、長官が、たずねた。
「はい、そうです。疑う余地は全くありません」
その間、エラリー・クイーンは、そばに立って、右の人差指の爪をかみながら、考え込み、ひそかに恥じ入っていた。誰もエラリーなど気にもとめなかった。
奇怪な喜劇は、なおもつづいた。次第に群衆は片づけられ、送りかえされた。競技場はくまなく洗われた。観覧席、事務室、馬舎、コロシアムの全体の通路が、役人の厳《きび》しい検閲《けんえつ》の目と手でしらべ上げられた。
しかし、兇器の拳銃は行方不明だった。もう打つ手は何もないようだった。まったく不可解であり、捜査は失敗だというよりなかった。……
それから、長官や、市長代理や、警視や、ノールズ警部補や、カービー少佐らが、不快な真実に直面するのを怖れる男たちのように、妙に緊張した様子で、互いに目を見合わせていたときに、まき毛グラントが、その空気を破った――ばりっと破ったのだ。これだけが、ウッディ殺人事件中のただ一つの注目すべき出来事で、これがないと、ホーン殺人事件と全く類似した事件のむしかえしだった。
まき毛が東の門から出て来て、目をむき、髪をぼさぼさに乱して、野馬のように、トラックを横ぎって、たったひとりで競技場に立って、足もとを見ながらぶつくさいっている父親の方へかけよった。
一同はさっとふり向いた。何事かおこったと、思ったのだ。まき毛グラントの声が、はっきり聞こえた。困惑と無念と怒りとで、少しどもる声だった。
「父ちゃん、金がなくなった」
あばれん坊ビル・グラントは、ゆっくり、目をあげて「何んだって? 何んてったんだい。何が――」
「金だよ。一万ドルだよ。おれは、午後、楽屋の銭箱に入れといたんだ。それがなくなってるんだ」
二十 銭箱
まき毛グラントの楽屋は、押入れといった方がいいぐらいの広さだった。テーブルと、衣裳|箪笥《だんす》と、鏡と椅子があった。テーブルの上に、ごくありふれた緑色の金属の小箱があった。その箱はこじあけられ、中は空になっていた。
警視はおそらく、いつもよりびりびりしていた。競技場を出る前に、長官と市長代理に呼びつけられて来たのだった。三人はしばらく「打ち合せ」をした。それから、二人の役人は引き上げて行き、この事件は、むしゃくしゃしている警視の仕事として残されたのだ。
「金はこの箱に入れたのかね」と、警視がどなった。
まき毛はすぐ、うなずいた。「あの銭は、今日の午後、競技場の宴会で、おやじの弁護士、コマーフォードさんから渡されたんでさ。あんたも聞いてるでしょう。そのあとで、ここに来て、金をこの箱に入れて、鍵《かぎ》をかけといたんでさ。この箱は引き出しに入れといたんでさ。ここへはいってみたら、引き出しがあいてて、箱がこんなことになってたんで」
「君が、最後に、箱の中にたしかに金がはいっているのを見たのは、いつかね、グラント」と、老人が、せきこんできいた。
「午後、しまいこんだ時でさ」
「今夜、舞台に出る前にここにはいったか」
「いいえ。はいる必要がなかったんでさ。午後、早くに衣裳がえをしてたからね」
「ドアの鍵はかけなかったのか」
まき毛はくやしそうに「いや、てんで、かけたことなんかないでさ。みんなよく知ってるし、仲間なんですぜ。そんな汚ないまねは決してしやしないからね」
「君は今、ニューヨークにいるんだぞ」と、警視は無造作にいった「この部屋のあたりをうろつく者が、みんな君の友達とは限りやせん。だれだって、ドアに鍵もかけないで、一万ドルも放っぽり出しとけば、盗まれるのが当たり前だというもんだぞ」警視はその箱をテーブルからとりあげて、こまかく検べた。
ところで、エラリー・クイーン氏は、この時までずっと、少しおどかされた鱈《たら》みたいな間抜け面をしていた。殺人、自動拳銃捜査の失敗、そして今度は、まき毛グラントの遺贈金の盗難――よりによって、まき毛グラントの遺贈金泥棒とは――まったく、呆れて、ものもいえない次第、エラリーは口をばかみたいにあけていた。まるで、脳に、もの凄いショックを受けたようだった。事実、エラリーの大事にしまっておいた理論が、全く予期しない出来事のために、そのすばらしい精密度を狂わされてしまったようだった。
しかし、習慣と、ある種の弾力性が、すくいの手をのばしてくれたので、やがてエラリーの目に、多少理知的な輝きがもどって来た。エラリーは進み出て、父の肩ごしに、こわされた箱をちらっと見た。
それは実際、ごくありふれた小さな銭箱にすぎなかった。ふたは上にあけられ、後側に蝶番《ちょうつがい》が二つ付いていた。しかし、普通は前面に鍵穴と鍵ぶたが一つ付いているのに、この箱には、鍵穴と鍵ぶたとが、それぞれ一つずつ、箱の短い方の側についていた。箱のふたをしめると、鍵ぶたが箱の身についている鍵穴にぴったり合って、その鍵穴を通して鍵をしめることが出来るから、二重に保護されるわけだ――つまり、両側に一つずつ鍵がかかるのだ。
ところで、まき毛グラントの銭箱の二つの鍵穴には、鍵ぶたがついていて、鍵はどちらもかかったままだし、手もつけてなかった。その箱は錠をはずさずに、もっと荒っぽくこじあけられたものだ。泥棒は錠前をつかんで、ねじりあげ、金属の鍵穴がばかになってしまうまで力を加えたらしい。鍵穴はテーブルの上においてあり、ねじれた鍵ぶたが、まだかかっている錠に、からまっていた。左右どちらの鍵穴もねじまげられた金属の曲り方からみて、箱の背の方に向けて曲げられたのが明白だった。
警視は箱を下ろして、ヴェリー部長に、にがい顔を向けた。「この部屋は、前に拳銃をさがしたときにしらべたんだろう、トーマス、そうじゃないか」
「捜しました、警視」
「じゃ、もう一度捜させるんだ――今度は、パチンコじゃなくて、盗品だ。今夜、身体検査した連中には、一万ドル持っているのはいなかったか。どうだ」
ヴェリーは仏頂面して「べつに」
「そうか。いいか、その金が二十五口径みたいに、消えてなくなるはずはないんだ、トーマス。楽屋を片っぱしから洗え!」
ヴェリー部長は黙って出て行った。エラリーは衣裳戸だなによりかかって、じっと考えこんでいた。たしかに、今までの困惑と昏迷とが消えて新しく、湧いてきた考えが元気をとりもどしていた。
「時間の無駄だよ」と、まき毛がくってかかった「この部屋で、おれの一万ドルが見つかりっこないよ、絶対ない」
警視はてんで相手にしなかった。しばらくの間一同は手もちぶさたになった。キットは、部屋に一つきりの椅子に腰かけ、ひざの上で頬杖をついて、つまらなそうに床を見つめていた。
やがて、あらわれたのはヴェリー部長、意気高らかに部屋にふみこみ、大きな体で出口をふさぐようにしながら遠くから、何かをテーブルの上になげてよこした。それは、バサッと音をたてた。
一同は見て、おどろいた。ゴムバンドでまとめられた、裏の黄色い札束だった。
「ほう」と、警視は満足そうに叫んだ「これで一つ解決した。よかった。どこで見つけたいトーマス」
「このならびの楽屋です」
「ついて来い」と警視がいった。一同は黙ってついていった。みんなは驚いた目をしていたが、エラリーだけは別だった。
ヴェリー部長が、開いているドアの前でとまった。
「ここにあったんです。この部屋です」といって、部長は小さいテーブルを指さした。引き出しはあけられて、中には男ものの、つまらないがらくたがはいっていた。「あの鍵のかけてない引き出しから見つけたんです。上にのってました。とんでもない奴で、盗品をかくそうともしてなかったんです」と、部長がうなった。
「フーン」と警視が「ここはだれの楽屋だね、グラント」
クイーン父子がおどろいたことには、まき毛が、げらげら笑い出し、あばれん坊ビルまでが、短かく、ききづらい笑い声を立てた。キットは、何んとも仕方なさそうに首をふっていた。
「悪党は結局みつかりっこありませんや」と、まき毛が、西部なまりで「とり逃がしたんでさ」
「とり逃がした? 一体どういうことなんだ」
「ここは、片腕ウッディの部屋でさ」
「ウッディ」と、警視が叫んだ「そうか、それで分った。片腕の奴が金を盗んで、持ち出す前に、やられたのかもしれんな。まてよ、ちょいとおかしいじゃないか。よく分らんな。……殺人と盗難とは互いに関係があるとも思えんな。畜生、何んてこった!」と、うなって、頭をふった。「おい、グラント、この札は、たしかに、今日の午後、君の弁護士が、せがれに渡したのと同じ札か」
老座長は、札束をとりあげて数を数えた。十枚あった。「同じようでさ。確かじゃないがね。この金は、コマーフォードが自分で、シャイエンから持って来たんじゃないんでさ。わしは手形でもらって、マースが|現なま《ヽヽヽ》にしてくれたんでさ――銀行へ行く手間をはぶいてくれたんで、わしは取引銀行の小切手を切ってマースに渡したんでさ」
「トーマス。トニー・マースをつれて来い」
ヴェリー部長は、まもなく、面やつれした興行主をつれて来た。マースは札をしらべて、「すぐ分るんですよ」と、つぶやいた。「私はいつも階上の金庫に、どっさり現金をいれてあるんです。そして、札の通し番号を写しとくんです、どこかにあるはずだが――」マースは自分の財布をさがして「ここに書いてある。しらべてみろ、ビル」と、大声でゆっくりと番号を読んだ。すると、ビル・グラントが一字ごとに、うなずいた。
「結構」と、警視がいった。「しかし――弱ったな。ますます厄介なことになったぞ。さあ、まき毛グラント君、君の金だ。たのむから、しっかりしがみついててくれよ、いいか」
もうじき夜あけで、空が白みかけたころ、クイーン父子は――いつも愛情こまやかなこの父と子は――八十七番街のアパートに帰って来た。ジューナはぐっすり寝込んでいるので、目をさまさせないようにした。老人はそっと台所にはいって、コーヒーをいれた。二人は黙って飲んだ。それから、エラリーは敷物の上を歩きまわり、警視は白っぽい顔で火の前にすわり込んだ。かなり長い間、二人はそのままの状態をつづけた――そのうちに日が出て、やや高くなり、下の通りから朝の往来のざわめきがきこえて来た。
暗い小道のつき当たりの、手がかりのない壁にぶつかったような気持だった。コロシアム中の人間はひとりのこらず身体検査したし、建物はすみからすみまで荒いつくした。しかも、何も手がかりはなかった。兇器の自動拳銃は見つからなかった。ウッディの体に弾をぶち込むために薬包を爆発させてから、その兇器の使用者が、まるで、魔法使いのマーリンのように、「消えろ」と念じただけで、その兇器を消してしまったかのようだった。
そんなわけで、警視は坐ったきり、エラリーは歩きまわるだけで、何もいうべきことはないようだった。
しかし、だんだんに、エラリーの引きしまった顔には、ショックから立ち直った、いつもの知性が、明るくひろがりはじめた。そして、一度などは、なにか分らぬ文句を口の中でつぶやき、ひとりで、くすりと笑いさえした。
やがて、ジューナが起きて来て、二人を寝室へ追いやった。
二十一 カメラの目
エラリーは烈《はげ》しくゆすぶられて、目をさました。
「起きなよ」と、ジューナが耳もとでどなった「人が来てるよ」
エラリーは目ばたきしてねむ気をさまし、手さぐりで部屋着をさがした。
客は大きなハトロン封筒を持った生きのいい青年だった。「クイーンさん。カービー少佐の使いです」といった。「プリントしたばかりだと、お伝えしろとのことでした」
青年はテーブルの上に封筒をなげ出すと、口笛を吹きながら帰って行った。
エラリーはその茶色の封筒を破いて開けた。中には、まだしめってまるみのついている写真が十二枚はいっていた。それは、悲しむものもいない片腕ウッディの最後の模様を写したものだった。
「おお」と、エラリーは満足そうに「あの少佐はいい男だよ、ジューナ。申し分なしだ。ちゃんと人の望みの先まわりをしてさ。気がきく」
エラリーは、少しずつちがう連続写真を、非常に注意深く調べた――それらの写真は、前にバック・ホーンの死んだときの写真と、おどろくほどよく似ているのだった。左腕が根もとしかないという、きわだった特徴のあるウッディの姿を除けば、一月前にクイーン父子が、少佐の試写室で調べた写真と、まったく同じようだった。
今度も、カメラは、馬と乗り手との、弾が当たった瞬間をとらえていた。今度も、たくましい馬の胴体がトラックと平行していたし、馬上のウッディが、楕円競技場の東北の曲り角をまわりながら、顕微鏡的な小さい角度で左にかしいで行くのがつづいて写っていた。
「おどろくことは何もないな」と、エラリーはひとりで、つぶやいた。「正確に同じ条件がくりかえされている。だから当然、同じ現象がくりかえされたのだ。乗り手は自然の法則にしたがっている――と思えるな」エラリーは、しばらくの間、その中の基本になる写真――ウッディが死ぬところがはっきり写っている写真を、調べていた。真正面から撮った写真は、片腕の騎手の体が、垂直に対してはっきり三十度の角度で、競技場の南側に向かって傾いていた。バック・ホーンが傾いたのと、まったく同じだ。ウッディの仔馬の革のチョッキが、ぶちなのと、左胸の付け根が邪魔になって、弾の当たった穴をみつけることはむずかしかった。しかし、顔の表情から、死んだときの写真が、どれかは、はっきり分った。
エラリーは考えこみながら、その写真を、書きもの机にしまって、ジューナの支度した朝食を機械的に平らげはじめた。
「お父さんは、いつごろ出かけた?」と、かき立て卵を、ほおばったまま、もぐもぐきいた。
「ずっと前さ」と、ジューナがはっきり答えた。「ねえ、いつ、とっつかまえるつもりなのさ」
「だれを、とっつかまえるんだい」
「人殺しをさ――人を殺しまわってる」と、いまいましそうに「ぼくだったら、フライにしてやるがなあ」
「フライ?」
「電気椅子さ。逃がしちゃうつもりじゃないでしょ」
「ぼくは神様じゃないよ」と、エラリーがいった。「ジューナ、ぼくのやせ肩に、そんな重い責任を負わせないでくれよ。だがね、ぼくの考えでは――いや、ぼくには分ってるよ――勝負はこっちのものさ。さあ、コーヒーをくれよ。おやじは今日の午後、試写室をのぞくといってたかい」
その日の午後早く、エラリーは、カービー少佐のニュース映画の試写室で、がっくりと肩をおとし、目にくまをつくり、少なくとも六本以上の新しい|しわ《ヽヽ》がふえた警視とならんで、坐っていた。カービー少佐は、ちょっと、引込んで行った。
「多分、昨夜とったニュース映画の中で、何かがみつかるだろう」と、警視は、意気消沈のていで、ぶつぶついった。
「例の二十五口径はまだみつかりませんか」
老人は白いスクリーンを見つめて「あり得ないことなんだがな――みつからん」
「ぼくも、今は、それが先決問題だと思いますね」と、エラリーがささやいた「この事件は簡単に分ることでしょうがね。ぼくはそう思うな。明らかに、人間にできるだけのことは、全部したんです、それなのに、まだ……プラウティ先生は、死体をざっと診たときの、ウッディに当たった弾の角度のこと、確認しましたか」
「今朝報告が来た。下向きの角度でな。ホーンのときの弾と、まったく同じだそうだ」
カービー少佐が微笑しながらはいって来た。「用意はいいかな、諸君」
警視は気むずかしげに、うなずいた。
「ジョー、映《うつ》してくれ」といって、少佐は、エラリーのきわに腰かけた。
すぐに部屋は暗くなって、スクリーンのそばの拡声器から音がきこえて来た。スクリーンには少佐のニュース映画社のマークがぱっと映り、やがて、四週間前に殺人のあったコロシアムで、ふたたび「まったく同じ状況のもとに、二度目の殺人が行なわれたのであります」と、頭のタイトル・アナウンスがきこえた。
一同は黙ってみていた。音とシーンがどんどん流れた。グラントが出て来た。大口上《だいこうじょう》がきこえた。東の門がひらいた。ウッディとカウボーイの登場だ。短時間のトラックの突進。騎馬隊の急停止。もう一度、グラントの口上と合図の射撃がきこえた。ウッディの応射。大突撃の開始が見えた……すべてが、きわめてはっきりしていて、とても退屈《ヽヽ》だった。ウッディがトラックにころがり落ちるのを見ても、その体をふみにじって、とびはねて、あばれまわる馬どもの混乱を見ても、それにつづいておこった凄まじい光景を見ても、一同は、退屈さを払いのけることが出来なかった。
そして映画がすっかり終わり、ふたたび灯がついてからも、一同はぐったりと坐って、何も映っていないスクリーンを、ぼんやり眺めていた。
「さてと」警視はうなるように「むだ骨折りだった。分ってたのにな。気の毒した少佐。面倒かけたね。われわれは辞職しなくちゃなるまいな……」
しかし、エラリーの目には、ふと、非常にはげしい興奮の色が浮かんだ。エラリーは、くるっとカービーの方を向いた。「気のせいかもしれませんが、このフィルムは、ホーン事件のあとで、見せてくれたのより、長いようですね、少佐」
「えっ!」と、少佐は目をむいて「ああ、ずっと長いよ、クイーン君。少なくとも二倍あるだろ」
「どうしてですか」
「そのわけは、一か月前に君らがここに坐って見たホーンの映画は、完全に劇場用ニュース映画として編集したのを見たんだ。あれは、すっかりカットし、編集し、タイトルをつけ、整理なんかをしたものだ。しかし、今度のは、撮影したままのプリントだ。カットしてない」
エラリーは座り直して「説明してください。ぼくには、そのちがいの良さが、全然、分らないんです」
「そんなことが一体何の役に立つのかね」と、警視が、不服そうにきいた「たとえ、われわれが――」
「お父さん、そういわないで。さあ、少佐!」
「つまり」と、少佐が「撮影中は、実際に起っていることを一つ残らずフィルムにおさめるんだ。とても多量のフィルムを使う――一本のニュース映画にまとめることが出来ないぐらいだ。ニュース映画は一本に、六つから八つの、ちがう話題をとりあげるのが普通だからね。だから、フィルムを現像して、かわかしてから、編集屋《カッター》がとても忙しくなるんだ。編集屋は、フィルムをひとこまひとこま調べて、不必要か、それほど必要でもないと思えるこまを切りすてて、必要な部分だけを残すのだ。フィルムの余分の長さも切る。それから、その残った部分――つまり正味のフィルム――をとりあげて、そいつを、短くて、気のきいた、事件物語にまとめあげるんだ」
エラリーはスクリーンの方をちらっと見て、「そうするとですね」と、妙に落ちつかない声で「ぼくたちがこの部屋で見たホーンの映画は、撮影の連中が、ホーン殺人事件のおこったあの夜、写したままのものを、映写したわけではなかったんですね」
「むろん、そうじゃないよ」といって、少佐はけげんな顔をした。
「ああ、なんてことだ!」と、うなって、エラリーは頭をかかえた。「これだから、科学に弱い奴はだめなんだな。ほんとに、ぼくは技術屋の世界に宗旨がえしたくなった。そうすりゃ、フィルム編集の方法とか役目なんてことは、ごく常識的な、基礎技術の知識なんでしょうからね。……分りますか、お父さん――。少佐、それじゃ、編集屋が、もとのフィルムから切りすてた余分のやつは、一体、どうなるんですか?」
「さてな」と、カービー少佐は、困った顔で「よく分らんが――くずフィルムは、編集室の床にすててあるのが普通なんだが、実際は、うちでは、とってあるんだ。うちのフィルム保管室には、何マイルにも及ぶ、カットしたフィルムがしまい込んであるんだ。うちじゃ……」
「よかった、よかった」と、エラリーは叫んで、すっくと立った。「何んてばかだったんだろう……少佐、そのカットされたフィルムを見たいんですがね」
「いいとも」と、少佐がいった「だが、少し暇がかかるよ。場面をつなぎ合さないと、ばらばらだからね……」
「必要なら一晩中でも待っていますよ」と、エラリーがまじめにいった。
しかし、試写室で、一時間の上も待たねばならなかった。本庁に、他の仕事をたくさん残して来ていた警視は、その間、電話をかけつづけていた。エラリーは、もっぱらたばこを吸い、おどる胸を押える努力で、時間をつぶした。やがて少佐が戻り、映写技師に合図し、小さな試写室は、ふたたび暗くなった。
今度は、音がつけてなかった。少佐がいっていたように、シーンはとびとびで、つながりがなかった。しかし、クイーン父子は、この特別のフィルムが、まるで映画技術の最高水準を示すものかのように、じっと見ていた。
最初は、どこかの気違いがあつめたシーンのように、めちゃくちゃだった。画面につながりがないのは、丁度、狂った頭の反映のようだ。
ちらっと映る、お椀型競技場内の大混乱の場面が、一、二回――同じ場面が何度もくり返して映る。観覧席にひしめく何千という観衆、秩序を保たせようと努力する警官隊の望遠撮影。のばした首、みひらいた目、とほうもなく多人数のエキストラを使って、悪夢のような混乱を、えがき出そうとする気違い監督によって、かき立てられたような、大観衆の、めちゃくちゃな集団的動き、などが、何度も出て来た。切ったフィルムの中には、まき毛グラントの拳銃の名手ぶりをこまかく映した長いシーンもあった。やがて、思いがけず、マースの桟敷の遠距離撮影が出た――あきらかに望遠レンズでとったもので、一同の姿がはっきり分った。エラリーと警視が静かに坐っているのが映った。ジューナ、キット・ホーン、マラ・ゲイ、トミー・ブラック、トニー・マース、その後にジュリアン・ハンターも映った。ホーンが死ぬ前だ、場面は静かだ……少したつと、またこの場面が出た。明らかに運命の一発の直前の光景が映って見えた。トニー・マースが、おそらく興奮して、まさに立ち上ったところだ。そして、ほんの一、二秒、ジュリアン・ハンターの坐っている姿が消えた。それから、マースが動き、ハンターは、もとのままで静かに坐っていた……いくつかのシーンは「雰囲気を出す」ためのものだった――編集屋が、比較的重要でないものとして切りすてたのが、はっきり分る。その一つに、生《き》っすいの平原児、ハンク・ブーンの|がに《ヽヽ》股姿があった。殺人の直後、あばれ馬を追っていくところで、馬を一頭ずつ水飼い場につれていくと、水の魔力で、馬は魅《み》せられたようにしずまるのだった。一頭の馬が立ちどまって、水をのむまいとした。あと足で立ち上り、はねまわって、頑として言うことをきかず、ちょっとした見ものだった。すばらしい老雄馬で、利口そうな目をしていた。ブーンは、馬の横腹を|むち《ヽヽ》で荒っぽくたたいた。すると一人のカウボーイが、カメラの中にとび込んで来て、ブーンの手から、|むち《ヽヽ》をひったくると、手で馬の首をやさしくたたいて、たちまちのうちに、なだめた。その場面に、一人の刑事が割り込んで来てカウボーイに、何か命令した――刑事の身振りで分る――カウボーイは仲間の方へ戻った。ブーンは少しよろけながら仕事をつづけていた。あばれん坊ビル・グラントのすばらしいショットもあって、殺人のあったとき、カメラが彼の半身をとらえていた。多分、殺人の瞬間か直後だろう、グラントは、競技場の中央から土間を横切って、落ちた男の体をふみにじろうと、後足立ちで、いきり立っている馬どものいるトラックの方へ、狂気のように馬を急がせていた。――「有名人」たちのショットもいくつかあったが、この連中は、「不当・無断・映写」だと会社に申し入れて、この部分を切らせたのだろう。その顔が、今、くり返して映し出されたのだ。それから、そのあとの捜査状況の場面もたくさんあった。
クイーン父子は、試写室に、ほとんど四十五分も坐っていた。そして、急に灯がついて、試写が終わったときには、クイーン父子も少佐も、うんざりしてものも言えないほどだった。エラリーの霊感も、どうやら、ものにならなかったらしい。貴重な時間を、一時間も、むざむざ空費してしまったと思った警視は、立って、いきなり、いつもより多くの、かぎたばこを、鼻の穴につめこんだので、くしゃみの発作にとりつかれ、顔を真赤にして、涙をこぼした。
「くしゅん」と、最後のひとつをやって、音高く鼻をかんだ。それから、エラリーを睨《にら》んだ。「まあ、こんなこったな。エラリー、わしゃ行くぞ」
エラリーは目を閉じ、前の席の下に、長々と足をのばしていた。
「わしは行くといっとるんだ」と、警視は、むかついて、もう一度いった。
「さっきから聞こえてますよ、御先祖さん」と、エラリーは、ほがらかにいって目を開いた。それから、ゆっくり立ち上って、まるで夢をさますように、身ぶるいした。警視と少佐が、あきれて見ていた。
エラリーは、カービーに握手の手をのばして、ほほえみながらいった。「あなたは、今日、何をしたか、知っていますか、少佐」
カービーは握手しかけて、ちょっと迷うように「何かしたかな」
「ぼくの映画に対する信頼をとりもどしたんですよ。今日は何んてすばらしい日だろう。日曜日でしょ。信仰のよみがえった日です。もう少しで、モーゼの神、昔のエホバを信じさせられるところでした。いや、五旬節とでもいうところでしょうかね。こりゃぼくは、すっかり、混乱しちゃって! ちょっとおどろきだ」と、エラリーはにこにこして、おどろいている少佐の手を、にぎってまるでポンプをくむように上下した。「少佐、さよなら。映画を発明した人の上に神の祝福あらんことをだ。三倍の御加護があってもいい……お父さん、ぼんやり立ってないで。する仕事があります。しかもすてきな仕事ですよ」
二十二 失踪アメリカ人
「どこへ行くつもりだ」と、警視はエラリーにせき立てられて、ブロードウェイを西に横切りながら、息をきらせた。
「コロシアムです……いや、まったく、お伽噺《とぎばなし》のようだ。……今度こそ分りましたよ」
しかし、大股で急ぐエラリーに、ちょこちょこ歩きで、ついて行くのが精いっぱいの警視には、何が分ったかをきく余裕《よゆう》がなかった。
コロシアムは二つの理由で閉まっていた――日曜日と警察の閉鎖命令だ――その不利な条件にもかかわらず、活気があるようだった。
厳命をうけた刑事たちに警備されてはいたが、出入り禁止の命令は出されていなかった。クイーン父子は、ほとんどの座員たちが、この建物のどこかにいて、グラントも、来てからまだ一時間にもなっていないのを、すぐ刑事たちの報告で知った。エラリーは警視を地下室の方へつれていった。
それから、大円形劇場の方へも行ってみた。まるで人気《ひとけ》がなかった。
二人は楽屋も廻ってみた。一座の頭株《あたまかぶ》の連中が、ひまをもて余していて、ほとんどのものは、ぶらついたり、たばこをすったり、おしゃべりをしていた。
エラリー・クイーンは、ハンク《ダヌル》・ブーンが、たばこの煙が立ちこめる楽屋で、ウィスキーのにおいをぷんぷんさせているのをみつけた。
「ブーン」と、エラリーは戸口から「君に話があるんだ」
「だれだい」と、小柄なカウボーイは、しわがれ声できき、けむたそうに振り向いた「おお、こりゃ――サツの旦那で。へえー。旦那、おはいりなせえよ。一杯いきやしょう」
「行ってきな、ダヌル」と、一人のカウボーイが太い声で「そいから、酔っぱらってるから、気をつけろ――」
すると、ブーンは、おとなしく、やっこらさと立って、よろよろと戸口へ出て来た。「旦那、何んの御用でしょう」と、まじめくさって「大事なこってすかい」
「まあいい」と、エラリーは、微笑して「ついて来なさい、ブーン。すばらしくいい話を、一つ二つしたいんだ」
ブーンは首をふりながら、エラリーとならんで、よろよろと歩いた。警視は、通路の角に立って、二人を待っていた。
「どうだい」と、エラリーはおだやかにきいた。「バック・ホーンが撃たれた夜のことを、よくおぼえてるかい」
「かんべんして下さいよ」と、ブーンが、ぎょっとして「あのことを、もう一度調べるんですかい。旦那、あっしゃ、死ぬまで忘れやしませんぜ」
「いや、一か月だけ、よく覚えていてくれればいいんだよ。ところで、ホーンが撃たれたあとで、クイーン警視が君に馬の世話をしろといったね、あれをおぼえてるかい――競技場でだよ」
「おぼえてまさあ」ブーンは用心深く、血ばしった小さな目を、エラリーから警視に向けて、またエラリーにもどした。妙に不安そうだった。
「どんなことがあったか、正確に思い出せるかい」
ブーンは、そわそわして、何んとなくあごをなぜながら「思い出せるはずでさあ」と、低い声でいった「馬を水場へつれてって、そいから――そいから――」
「どうしたんだい」
「きまってまさあ。馬を水場へつれてっただけでさあ」
「おい、ちがうだろう」と、エラリーが微笑して「何か、そのほかのことがあったろう」
「そうだった」と、ブーンはあごをかいて「するてえと――えー。そう、そう。一匹の馬がね――まだらの雄馬さ。ごねやがってね、そん畜生。水槽につかねえんだ。あっしゃ、そいつの、どてっぱらを、一発くわせましたぜ」
「ほう。すると、どんなことがおこったい」
「カウボーイが一人とび出して来て、あっしから、|むち《ヽヽ》をひったくりやがった」
「どうして?」
「あっしの目が節穴だったんでさあ」と、ブーンは口ごもりながら「馬って奴あ、決して、ひっぱたくもんじゃねえんでさ、旦那。しかも、あいつあ、とてつもねえ、いい馬でしたよ――インジャン号なんでさ。バック・ホーンが、昔、映画で使ったやつでさ。ミラーの奴が――」
「ああ、君から、むちをとりあげた男は、ミラーだったのか」
「へえ、ベンジー・ミラーでさあ。新入りで――ほっぺたに、すごい|やけど《ヽヽヽ》のあとがある奴でさ。あの晩、インジャンに乗ってたなあ奴です。バックは、キット・ホーンのローハイドに乗ってました。あっしゃ、牧場で、二枚のクロバー畠の前で、どっちの方がうまいか分らねえで、迷ってる片目の牛みたいに、どぎまぎしてたんでさ。旦那」と、ブーンはしょげて「あっしゃ、あんなこたあ一度もしたことがねえでさ、いい馬をなぐるなんて……」
「分った、分った」と、エラリーは、上の空で「あわてていたんだろう。生物は可愛がってやるんだな。それだけのことさ。ところで、ロデオの馬はいつも、ここの馬舎《うまや》につないどくんだろう」
「とんでもない。ちがいまさあ。ここの馬舎は、ショーの時だけ使うんでさ。蹄鉄を打ったり、もんでやるんで、ショーの前につれて来て、ショーが終わるまで、ここにおくんでさあ」と、ブーンがいった「ショーがすむと、十番通りの、大きな、風通しのいい馬舎へ連れてって、休ませるんでさ」
「分った。ところで、ミラーはどこかな? 今日、見かけたかい」
「どっかそこら辺んにいますぜ。一、二時間前に会ったからね。あっしが――」
「結構、結構。いろいろありがとう。行きましょう、お父さん」と、エラリーは、警視をせき立てて去った。ダヌル・ブーンは、おどろいてものもいえずに二人を見送っていた。
座員の中には、今日ミラーを見かけたというものや、話をしたという者が大勢いたが、ミラーの姿が見あたらないことが分った。ミラーが他の連中といっしょに、コロシアムにやって来たのは事実だが、しばらくすると姿をかくしたらしい。
クイーン父子は、あばれん坊ビル・グラントの事務所へ上ってみた。するとこの座長は、机に足をのせて、ぶつぶつ小言をいっていた。二人がはいると、仏頂面を向けた。
「こりゃア」と、大声で「今度は、一体何をかぎまわってんですね」
「ちょっとした情報がほしいのでね。グラントさん」と、エラリーが愛嬌よく「今がた、ミラーという男に会ったでしょう」
グラントは、おどろいた顔で、椅子に深くよりかかって、葉巻をかんだ。「だれだって?」
「ミラー。ベンジー・ミラーさ。顔に大あざのある男さ」
「ああ、あれか」と、グラントは太い腕をゆっくりのばした。「今日、みかけたぜ」と、さりげなくいった「何んだね」
「あの男はどこにいるだろうか」と、エラリーは、たずねた。
グラントは無関心の態度をすてた。勢いよく、足を床に下ろして、にがにがしい顔をした。「何を考えてるんだね。なぜ、急にうちの連中に興味を持ち出したんですね、クイーンさん」
「ミラーだけだよ。約束するよ」と、エラリーは微笑して「さあ、さあ、どこにいるかな」
グラントは渋って、上目をつかった。「知りませんね」と、やっといった。
エラリーは、ようやく興味を持ちはじめたらしい父に目を向けた。「知ってるだろう」と、エラリーは、椅子に深く坐りこんで、気持よさそうに足を組んだ。「長い間、あなたにききたいと思っていたことを、これからたずねますよ、一、二分前まで、すっかり忘れてたんです。グラントさん、ミラーはバック・ホーンを、どのくらい、よく知ってたんですか」
「そうか、そうか」と、グラントは大声で「わしがなんであんな馬引き野郎を知るもんか。あんな奴にゃ今まで一度も会ったこたあないんですぜ。バックが紹介して来たんでさ。それだけのこってさ」
「どうして、バックの紹介だということが分ったんですか。ミラーがそういったからですか」
グラントはげらげら笑って「とんでもない。わしは、そんな甘ちゃんじゃないさ。あいつが、バックの手紙を持って来たから、知ったのさ」
警視がおどろいて「ホーンからの手紙!」と甲高《かんだか》い声で「一体全体なんだって一月前にそのことを話さなかったのだ。もちろん、君は――」
「話さなかったって」グラントは毛虫眉をつりあげて「きかなかったからさ。あの男はバックの紹介だっていいましたぜ、嘘じゃない。紹介状のことはききましたかい、ええ? わしは――」
「もういい、もういい」と、エラリーは急いでなだめた。「いい合いはよそう。その手紙は、どこかにしまってありませんか、グラントさん」
「どこへ、しまっといたかな」と、グラントはポケットをひっかきまわした。「たしかに、わしは――ああ、あった。さあ。読んでごらん」と、いって、しわくちゃにまるめた紙を、机ごしになげてよこした。「わしが、かくしだてしてるかどうか分るさ」
二人は手紙を読んだ。それは、バークレイ・ホテルの便箋に、ひどくなぐり書きしたもので、インクもにじんでいた。文面は――
親愛なるビル
旧友、ベンジー・ミラーを紹介する。非常に仕事を欲しがっている――どこか南西部で御難にあったらしい。町に流れついて、ぼくを訪ねて来た。だから、仕事をやってくれないか。たのむよ。投繩は上手に使うし、本ものだし、馬も上手だ。
ぼくも、いくらか小遣いをやるつもりだが、この男に、本当に必要なのは仕事だ。馬を持ってないから、ぼくのを一頭、使わせてやってくれ。ぼくの昔の、ハリウッドの相棒、インジャン号がいい。ぼくは、縁起をかついでキットの馬を使うつもりだ。よろしくたのむ――
バック
「これはホーンの手かね、グラント」と、警視が、うたがわしげに、たずねた。
「たしかでさ」
「断言できるかね」
「あんたに断言させて上げよう」と、グラントは冷たくいって、立って、書類戸棚へ行き、契約書を一通もって、もどって来た。グラントとホーンの契約書で、最後のページの下に、二人のサインがあった。警視は、なぐり書きの「バック・ホーン」という契約書の字を、手紙の字とくらべてみた。そして、黙って、契約書を返した。
「同一ですか」と、エラリーがきいた。
警視が、うなずいた。
「じゃあ、ミラーが、今、どこにいるか知らないんですね、グラントさん」と、エラリーが快活にきいた。
グラントは立って、椅子をけとばした。「なんてこった!」と叫んだ「一体、使用人に対して、わしを何んだと思ってるんだね。――子守っ娘じゃないぜ。あいつが、どこにいるか、知ってるはずはないじゃないか!」
「チ、チ」と、エラリーは舌打ちして「怒りっぽいんだな」といい、立って部屋を大股で出た。警視はしばらく残って、あばれん坊ビル・グラントと話していた。グラントが何を話したか分らないが、とにかくそれに満足したらしい。出てくると――この数日間に初めて――心からにこにこしていた。部屋からは、あばれん坊ビル・グラント氏が、トニー・マースそなえつけの家具をけとばしている音が、エラリーにきこえて来た。
二人は勤務中の刑事たちにきいてみた。ひどいやけどのあざのあるカウボーイがコロシアムを出て行くのを見なかったかと。一人が見たような気がするといった。二時間ほど前に、ミラーはここを出たらしい。どっちへ行ったかその刑事は気をつけていなかったのだ。
クイーン父子は大急ぎで、一座の本部、バークレイ・ホテルへ向かった。
そこにもミラーはいなかった。その日の午後、ミラーがホテルにはいるのを見た者は、一人もいなかった。
こうなると、警視はあわて出すし、エラリーも、不安になった。
「どうやらこれは」と、警視がいった。二人はロビーで、手の下しようもなく立っていた。「まるで……」
エラリーはいらいらして口笛を吹いていた。「ええ、そうですね。まるで、ミラーに逃げられたくさいですね。変だな。とても変だ。もしかしたら――何といおうか。これから、どうします、お父さん」
「わたしは本庁へ戻るつもりだ」と、警視は沈みこんで「そして捜査にかかるよ。ミラーを逮捕して、一汗かかせてやる。それしかないな。あいつがただ座員の一人というだけなら、一体なぜ、ずらからなくちゃならないんだ?」
「そうせっかちになっちゃいけませんよ。一人の男が三時間ぐらい姿を見せなくなったからって、狩り出しをかける理由はないですよ。居酒屋か、映画館にもぐりこんでるかもしれないでしょ。とにかく、お父さんは考えどおりになさい。ぼくはここにいてみましょう……いや、コロシアムに戻るつもりです」
日ぐれどきの六時に、クイーン父子は、ふたたび、コロシアムで会った。
「お父さんは、ここで何をするつもりですか」と、エラリーがきいた。
「お前がやろうとしている事さ」
「でも、ぼくは、ぶらつくだけですよ……何かうまいことがあるんですか」
「うん」と、警視は用心して「どうやら、何かをつきとめたようだな」
「ちがいますよ」
「ミラーは逃げた」
「たしかですか」
「どうも、そうらしいな。あいつが町へ来てからの、分ってる穴は全部、こまかく調べさせた――穴はいくつでもない。ミラー以外の全座員はそろっている。しかも、だれひとり、ミラーの居所を知らんのだ。最後に見かけたのは、二時か三時ごろだ。ここを出て行く時だ。その後、全く姿をかくしてしまったんだ」
「何か持って出ましたか」
「持って行ったものは、着るものぐらいだろう。通達した。手配中だ。非常警戒もしいた。なに、きっとつかまえるさ」
エラリーは何かいいかけて口をあけたが、黙って閉じた。
「ミラーの過去を少し調べてみた。何がみつかったと思うね」
「何んですか」と、エラリーは、驚いた。
「まさに何ひとつないんだ。あとかたなしだ。あの男についちゃあ、まったく五里夢中《ごりむちゅう》なんだ。不思議な男だ。だが、そう長くもかかるまい。今度こそ、本筋をつかんだようだな」と笑って、「ミラーと、グラントは、どこかでこの事件に関係がある。わしの言葉をおぼえておけよ」
「ぼくは、自分のいった言葉を、おぼえとくのに精いっぱいなんですよ」と、いって、エラリーは、謎《なぞ》のように笑った「あの二人を殺した弾が下向きなのは、どういうことになるんですかね」
警視は笑いやめて、またみじめな顔をした。「うん、あれは。あれが気にくわんのだ。白状すると……」と、警視は、お手上げの恰好をした。「ここまで来たからにゃ、橋を渡るより手がない。わしは、センター街に戻るよ」
二十三 奇跡
エラリーは、コロシアムを歩きまわっていた。さしあたっての目当のないぶらぶら歩き――頭の中では、ブラブディングナッグ〔ガリバーの巨人国〕風の精神的な|はめ《ヽヽ》絵遊びに夢中になっていたが、肉体的には、もっぱら、動物的エネルギーの発散につとめていた――たまたま、クイーン警視の片腕の、寡黙《かもく》な金仏巨大漢《かなぶつきょだいかん》に行き合った。ヴェリー部長は頑固一点張りの彼流の方法で、鉱脈掘りをつづけていた。はっきり廃坑と分っている鉱山《やま》から、金塊を掘り出そうとしているのだった。だが部長が掘り出した事実なるものは事実ではなく、空想にすぎなかった。もし地下に事実があるとすれば特別に深く掘り下げなければならないほどうまくかくされていた。
あばれん坊ビル・グラント一座の芸人たちは、まじめな顔で坐りこみ、一語一語に、おとなしくうなずくのだった。
「芸をしこまれたあざらしどもだ!」と、最後にはヴェリーも、甲をぬいで表情もかえずに、ぽつりといった。「お前ら自分の精神を持たんのか。ボスのオーケーをもらってからでないと、一言も喋《しゃべ》れんのか。ミラーという奴はどこだ。西部の大ぼら吹きのがに股野郎ども!」
みんなの目が光り始めた。エラリーは、どうなることかと、立ちどまって、この幕を見ていた。
まさに噴火しようとする火山の陣痛のかすかな鳴動にも似た、前ぶれのため息がきこえるようだった。ヴェリー部長はせせら笑いながら、訊問をつづけていた。
部長は連中の隠語《いんご》をあざ笑った。連中の出生の合理性をきき、その親たちの純潔さをうたがうようなことをほのめかした。連中の仁義を罵倒した。連中の馬を頭から笑いのめした。連中にとってこれ以上ひどい悪口はない「鼻持ちならん羊飼い奴」とさえいった。連中の道徳通念をくそみそにやっつけた。男には男としての資格を、女には女としての資格を疑っているような当てこすりさえいった。
部長にやり返す彼らの悪口雑言をきいて、エラリーは――なによりもまず――ヴェリー部長こそ、特別にいやなにおいのする山犬なのを発見した。がらがら蛇の毒汁をたっぷり持ち合わせた人間だし、しらみだらけの黒白《くろしろ》混血児と、雌《めす》山羊の間に生まれた大雑種《おおざっしゅ》の小せがれだし、井戸に毒薬をなげ入れるたぐいの人間だし、心臓にはサボテンのとげが一面に生えているし、口はアルカリ土壌の沙漠のように乾きあがっているし、牛のよだれよりもねばっこく、蛇の腹よりも下等で、結局は、≪ビフテキにされる≫のがおちという有為転変《ういてんぺん》の運命をたどるより仕方があるまいと彼らはあびせかけた。――≪ビフテキにする≫というのは西部独特のお楽しみの一種で、その特徴は、まず犠牲者の|まつ毛《ヽヽヽ》を抜き、手首と足首を地面に杭でしばりつけ、あとの残骸は、顔を焼けつくような太陽の方に向けて、大きな蟻塚の上にのせておくのである。
エラリーは彼らの悪口を面白がってにやにやしながらきいていた。
それと同時に、ヴェリー部長の頑固頭に浴びせかける、悪口雑言の中で、みんながベンジー・ミラーをよくは知らないこと、ベンジーが、≪人当たりのいい人間≫だったこと、ベンジーなどてんで問題にしていないこと、ヴェリー部長と、ベンジー・ミラーとが、ひとりずつ別々でもいいし、アベックでもいいから、地獄へ行っちまえばいいということが分った。
エラリーはため息をついて、廊下をのぼって行った。
エラリーは静かに歩きまわりながら、うまく聞きまわって、姿をかくしたミラーの楽屋を、たずねあてた。その部屋も、他の楽屋と、ほぼ同じように、壁に切り込んだ|くぼみ《ヽヽヽ》にすぎず、テーブルと、鏡と、椅子と、衣裳戸棚が置いてあった。エラリーは椅子に坐って、シガレットケースをテーブルの上の手近かなところにおき、一本火をつけて、冥想にふけった。
六本もすったころ、やっとつぶやいた。「ようやく分ってきた。そうだ……この場合は、特殊な心理にぴったりしそうだな……」と、唇をなめて「しかしあんなに捜したのに……」
エラリーは、とび立って、たばこをふみ消して、戸口へ行った。見まわすと、十フィートばかり向こうを、一人のカウボーイが、何か怒って低い声で、ぼやきながら、のそのそ歩いていた。
「おい、君」と、エラリーが呼んだ。
そのカウボーイは頭をまわして、不機嫌そうに、じろりとにらんだ。ダウンズという名の男だった。
「なんだい」
「ねえ、君。ミラーという男は、楽屋を一人で使ってたのかい」
ダウンズは、面倒くさそうに「とんでもねえや。あいつを、何様だと思ってるんだい――ボスじゃあるまいしさ。ダヌル・ボーイが、あいつと二人で、ここを使ってたのさ」
エラリーは片目をぱちくりさせた。「ああ、ブーンか。あの小男は、かつぎやらしいね。すまないが、あの男をつれて来てくれないかな、たのむよ」
「自分で行ったらいいだろう」と、ダウンズはいいすてて行ってしまった。
「やくざもんだな」と、エラリーはつぶやいて、ブーンを探しに出かけた。エラリーはその小男が、だれもいない部屋の床に、悲しそうに坐り、インディアンの酋長みたいにあぐらをかいて、死者の霊をとむらう壁に祈っている白髪の老人のように、神がかりの状態で体をゆっくり前後にゆり動かしながら、もの思いにふけっているのをみつけた。矢の根のような石片を握っていた。
「アラスのおつげだ」と、ブーンはひとりで大声を出した「あの黄色い駄馬が、おいらのインディアンの矢の根をふみやがったから、こんなさわぎが、おっぱじまったんだ……何かね」と、ひるまの梟《ふくろう》みたいに、エラリーを見上げた。
エラリーは、たった一つの椅子にブーンをむりに腰かけさせて、ちぢみ上っている顔に、細長い人さし指を、つきつけた。「ミラーと同室だったんだろう、そうだな」
「だれだって? そう、そうだよ、クイーンさん」
「今日、ミラーに会ったろ。そうだろ、ブーン」
「なんだって? あったよ。あんたにそういったろ――」ブーンの目はサボテンの芽のようにまん丸で、口は金魚のようにぱくぱく動いていた。
エラリーは満足そうに唇を鳴らして「ミラーは、今日、この部屋にはいったかい」
「はいったさ、クイーンさん」
「一人でか」
「そうでさ」
エラリーは、ラクメのむずかしい曲を口笛で吹きはじめ、その節まわしのむずかしさに、しばらくの間、注意をうばわれていた。そうしながら、ちらりちらりと、部屋を眺めまわした。口笛をつづけながら、テーブルに近づいてひき出しをあけた。引き出しの中には、がらくたがいっぱいはいっていて、ちょっと、かきまわしただけでも、エラリーの興味をひくものは、何ひとつないようだった。ブーンは困ったように見ていた。
次には衣裳戸棚へ行って、戸をあけた。中には、はでな衣裳が、かかっていたが、どれもサイズが小さいから、ブーンのものらしい。エラリーは片っぱしから衣裳をしらべて、サイズの大きさから推して、姿をかくしたミラーがロデオ・ショーに着たらしい一着をみつけ出した。「自分の衣類も持ち出していない」と、エラリーはつぶやき、ズボンのポケットに手を突っこんで探した。
「あいつんじゃねんでさ」と、ブーンは大まじめに「座つきのもんでさ」
エラリーは、きっとなった。ポケットの一つに、何か固《かた》いものがあるのが手にふれた。非常に知的な表情が顔に出たが、じきに消えた。そして、急にくるりとふり向いて、ブーンにそのままいるように命じると、戸口へ走って行った。
「部長!」と叫んだ「ヴェリー部長!」その声は廊下にひびき渡った。
善良な部長は、楽屋の一つからとび出して、真剣におどろいた顔をした。
「何ですか」と叫んだ。「何んですか、クイーンさん」そして廊下をかけつけて来た。方々の部屋から、首がつき出していた。エラリーは部長を、ブーンとミラーが共用していた小部屋に引き入れて、ドアを閉めた。
ヴェリーは、しおれているブーンの姿から、衣裳戸棚の方へ目を移した。「どうしたんです」
「君は、昨夜、この部屋を捜査したかね、部長」と、エラリーが、おだやかにきいた。
「しました」
「今日の午後も、再検査したかね」
ヴェリーの目の間にたてじわが一本きざまれた。「いいえ。あとまわしになってました。まだ、手がまわらなかったんです」
エラリーは黙って衣裳戸棚から、いましがた、しらべていたズボンを取り出し、それをさし上げて「昨夜、これを調べたかね、部長」
ヴェリーは目をしばたたいて「いいえ。それは昨夜、ここにありませんでした」
「昨夜、ミラーが、そいつをはいていたんでさ」と、ブーンが、いきなり、どなった。
「そうか」と、エラリーは腕を下げて「それで、はっきり説明がつく。ミラーの身体検査をしたのはだれだね、部長」
「私です。それから、他の刑事連も、みんなで調べました」部長は蛇のような目を細めて「どうしてですか」
「ミラーからは何も見つからなかったんだね」と、エラリーが、おだやかに反問した。
「ええ。それがどうかしたんですか」
「そんなに、けんか腰になるもんじゃないよ、部長」と、エラリーが、つぶやいて「君が捜査にかけてはすばらしい腕なので、ぼくも、本当に満足してるんだ。もし昨夜、ミラーから何も見つからなかったのなら、見つけるようなものを持っていなかったからだよ。すばらしい! すると、今日、この部屋に持ちこんで、ミラーの不用になったズボンに入れたもんだな」
「何を、ミラーのズボンに入れたんですか」と、ヴェリーが、うなった。
落ちついて、全知全能の確信をもって、エラリーは右手にハンカチをまき、ミラーのズボンのポケットに手をすべり込ませた。しかし、すぐには手をひき出さなかった。鋭い声でいった。「今日、コロシアムの中には、だれがいたかね、部長、下っ端連中とグラントの他には」
ヴェリーは唇をなめて「グラントのせがれと、キット・ホーン、マースと、あのげんこつのブラックを、見かけたと思います」
「ハンターとマラ・ゲイはいなかったかい」
「いませんでした」
エラリーは、ミラーのズボンのポケットから、手をひき出した。
すると、本当の奇跡がおこった。エラリーの手が、非常に具体的な、現実の一片を、つかみ出したのだ――そのものを求めて、ヴェリー部長も、クイーン警視も、ニューヨーク市警視庁の全警官も、全力をつくして何週間も捜査したのである。しかも、この瞬間までブーンの部屋から発見されなかったのは、前の捜査中にはブーンの部屋になかったという、きわめて、簡単な理由をもつ品物なのだ。そして、最後の徹底的捜査のあとで、ブーンの部屋のミラーのズボンにもちこまれたのは明らかなのだ。しかも、ヴェリー部長の指揮のもとに、最後の徹底的検査が行なわれたのは昨夜、ウッディが殺された直後だった。
少なくとも、そこまで明らかになった。
ダヌル・ブーンが、あえぐような叫びをあげた。ヴェリー部長は、こちこちになった。
エラリーの手は、小さくて、ぺちゃんこで、虫も殺さないような、かわいい二十五口径自動拳銃を、さりげなくとり出していた。
二十四 判定
「こりゃあ。私は――とんだ――ばかでした」とヴェリー部長が、大きく息をはずませた。「一体、どうして、それが分ったんですか」
「あんまり興奮しない方がいいよ」と、エラリーはいって、ほとんど愛情をこめて、その小さな武器を眺めながら「これが兇器ではないという確率もあるよ。一方また……」といいかけて、黙って、非常に大事そうに拳銃をハンカチに包んで、ポケットに落しこんだ。
「ところでね」と、エラリーは上機嫌でいって、だまりこんでいるブーンの方へ光る目を向けた。「一つ、すぐ分っといてもらいたいことがある」
「何ですかい?」と、ブーンは、おずおずいって、舌打ちした。ヴェリー部長はなにもいわなかった。
「ブーン君、おい、馬飼い君。自分の体が、かわいいだろう」
「へっ?」
エラリーは近づいて、小男のカウボーイの肩に手を置いた。「口をぴったり閉じとけるかい」
「あっしゃ――ええ――出来まさ。エラリーさん」
「やってみせてもらおう」
ブーンは目をむいて、ゆっくり口を閉じた。
「手始めとしちゃ上出来だ」と、エラリーは鋭くいって、ただではおかないぞというきびしい目付で「ブーン、はっきり言っとくぞ。もしお前がこのことについて――つまり、われわれが、この自動拳銃を発見したことについて――ただの一言でも洩らしてみろ。きっと、豚ばこにぶち込んでやるからな。分ったか」
ブーンは、また、舌打ちして「分ってまさ、クイーンさん」
「よし」と、エラリーは胸を張って「さあ、仲間のところへもどっていいよ」
ブーンは立って、ドアの方へよろよろ歩いた。
「君には注意する必要もないが、部長」と、エラリーはつづけた「このことは、人に知られたくない」
ヴェリーは、むっとしたようだった。
「警視にもですか」
「そうさ。知られたくない」と、エラリーはちょっと考えて「それが一番いいだろう。まあ、ぼくのいうことを聞いてくれ。このことは、二人だけの秘密にしとこう。きっと、ブーンは黙ってるだろう……ところで、今日、コロシアムに来た連中には、どういう措置をとったかね。入ってくるときには、身体検査をやらなかったろうね」
「出て行くときに調べただけです」
「そうか、もちろん、そうだろうな。丁度よかったよ、それでよかったんだ」エラリーは、気安く、ヴェリー部長の、がっちりした脇腹《わきばら》を、ひじでこづいて、鼻唄を唄いながら、楽屋から出て行った。
エラリーは急いで、グラントの事務室へ行った。老座長は、壁にうつる夕日の色をみながら、まだ、そこにいた。
エラリーを見上げて「ほう。また来なすったんですかい」
「臨時前線司令部にもどったよ」と、エラリーは笑って「邪魔してすまないが、電話を使ってもいいかな」
「どうぞ」
エラリーは交換を呼んで、番号をいった。「カービー少佐につないで下さい。どうぞ……少佐? エラリー・クイーンです……いや、試写はたくさんです、少佐……は、は――そうです。……え――少佐、非常に忙しいですか……分りました。じゃ、ご都合出来ますね。三十分以内に、本庁のロビーで、是が非でも会ってほしいんです……たのみます。急いで下さい」
エラリーは受話器をかけて、にっと笑った。あばれん坊ビル・グラントの椅子が、きゅっと鳴った。
エラリーは「ありがとう、グラントさん」と、とてもうれしそうにして、事務室を出て行った。
三十分後には、エラリーは、本庁の弾道課の実験室で、黙りこんでいる二人の男と会っていた。カービー少佐は息をはずませて、かけつけて来たのだ。ノールズ警部補は、質問したくてたまらない様子だった。
「よく都合をつけてくれましたね」と、エラリーは少佐にいった。「本当はその必要もなかったかも知れませんが、あなたには最初からタッチしてもらってたので、いいかげんにしておきたくなかったんです。本当に、あなたのおかげで、こんな楽しいクライマックスが、来たんですよ」エラリーは、ポケットから、ハンカチに包んだものをとり出した。そして、とても注意して、包みをほどいた。
「例の二十五口径か」と、少佐は息をのんで叫んだ。
「単なる二十五口径です」と、エラリーが、おだやかに、少佐の言葉を訂正した。「この会合の目的は、これが、|例の《ヽヽ》ものか、|単なる《ヽヽヽ》ものかを決定することにあるんですよ」
「おどろいたな」と、ノールズ警部補が、微笑して「どこで見つけました?」
「一番ありふれた所ですよ、警部補」と、エラリーはくすくす笑って「遠慮なくさわっていいんですよ。指紋は、もうとってもらったから、ひとつも着いてませんよ」と、肩をすくめて「さあ、はじめて下さい、さあ。条痕をしらべて、早く、この待ち遠しい気持に、けりをつけて下さい」といって、さすがに、息をはずませるのだった。
ノールズ警部補は、拳銃をとりあげて、首をかしげて手で重さをはかるようにし、それから、弾倉を引き出した。特に用心する必要はなかった。この小さなコルトには「安全装置」が付いていて、弾倉を引き出せば、引金と、歯止めとの全部の連絡が、自動的に切れるようになっていた。弾倉は空だった。火房にも、薬包は一袋も入っていなかった。ノールズは、何か、聞きたそうに目をあげた。
「そうさ」と、エラリーは小声で「見つけたときに、空でした。歯ぬけさ。そのことは重要なことじゃないでしょ」
ノールズ警部補はその拳銃に弾をこめて、的を調整して、落ちついて引金を引いた。エラリーは、エジェクターからとび出す空薬包をよけて、実験用標的から、撃ちこまれた弾頭をとり出した。どの弾も、焼けた火薬と油脂とで、黒ずんでいる弾受けに、深く撃ちこまれていた。
ノールズは、回収した七発の弾を、しばらく調べてから一発を択《えら》んで、実験台に持って行き、ていねいに、きれいにした。それから、保管戸棚へ行き、ちょっと探してから、二発の弾をもってもどって来た。
「ホーンと、ウッディのです」と、説明して、比較顕微鏡の前に坐りこんだ。「この二つの弾が、同一の銃から発射されたものだということは、少佐の助力を得て、調査ずみですよ。そこで、このどちらを使っても比較することが出来ます。さあ、じきに、はっきり分るでしょう」
カービー少佐が、実験台に近づいた。
ノールズ警部補は、保管戸棚からの弾の一つを顕微鏡の台の一方にのせ、今実験室で撃った弾の中から択んだ一つを、対《つい》になっているもう一方の台にのせた。そして顕微鏡をいじり始めた。二つの弾を、思いどおりに、同じ焦点で見えるようにすると、輪形のハンドルをまわして、二つの弾の映像が重なり合うようにした。その操作が終わると、顕微鏡の接眼レンズをのぞいて、ひとつに重なった二つの弾頭の映像を見ていた。映像は、完全な一個の弾になってみえる。実際は二つの弾のそれぞれの左側を組み合わせるのだが、ぴったり重なると、一個の弾のように見えるのである。
ノールズは慎重にのぞいてから、眼をはなして、少佐に合図した。カービーも、じっと接眼レンズをのぞきこんだ。
エラリーは、心配そうな顔をして二人を見つめた。
「さあ、自分で見てみたまえ」と、カービー少佐が頭をあげて、いった。エラリーは顕微鏡の前に坐った。
エラリーは拡大された弾をみて、細部がはっきり映し出されているのにおどろいた。丁度、十六世紀のデンマークの天文学者チコが、強力な天体望遠鏡で天体を調べたときに味わったようなおどろきだった。本当に、谷あり、山あり、噴火口ありで――月世界の風景のようだった。しかし、一番おどろいたのは、二つの弾の側面の映像が、ぴったり相似形を示していることだった。噴火口には噴火口が、谷には谷が、山には山が、二つの弾の側面はまったく同一のものに見えた。ほんのかすかな弾の形のちがいや、発射条件のちがいから生じる無数の差違があったとしても、エラリーの目では、とうてい見分けられないほど、かすかなものだった。
エラリーは、からだを起こして「すると、これが例の拳銃だな」と、ゆっくりいった。
「たしかにそうです」と、ノールズ警部補が「正確に、ぼくは断言します。それぞれちがう銃身から撃たれた二つの弾に、こんな相似性を示すことがあるとすれば、それは恐るべき偶然で、そんなことは有り得ません」
「なぜユニバーサルを使わんのかね」と、カービー少佐がいった。
「使うつもりですよ。ユニバーサル分子顕微鏡だと」ノールズがエラリーに向かって「うたがう余地もなく可否の結論が出るんです。バーニアがついているから――顕微鏡的な測定のできる能力があって、実に精密です」
ノールズは比較顕微鏡の台にのせてある弾のひとつを、他の機械の台に移した。接眼レンズを通して弾の条痕をしらべ、溝の角度――つまり弾の軸に対する条痕の角度――を調べて、その結果を度数で記録した。それから、谷の深さを測った。谷とは発射のとき銃身に弾が引っかかれたきずである。また、弾についているいろいろな特徴になる|きず《ヽヽ》の間の距離を、測微計で測った。……最初の弾頭の検査がすっかり終わると、それをわきにおいて、その記録を目の前の手近かなところに置いて、全く同じ手順で二番目の弾を調べた。
そう簡単にはすまなかった。およそ一時間以上も手間どった。その間、エラリーは、この精密な科学の慎重さにじりじりして、ぶつぶついいながらたばこをすいながら歩きまわって、もの思いにふけっていたので、カービー少佐に呼びかけられたときには、びっくりした。
エラリーが、われに返ってみると、二人の専門家が、ほほえみかけていた。
「成功した」と、カービー少佐が静かにいった。「この事実を否定できる弾道学者は世界中におらんよ、クイーン君――大丈夫だ。君が見つけた自動拳銃が、ホーンとウッディを殺した弾を発射したんだ」
エラリーは、しばらく、だまって、二人を見つめていた。それから、長い、吐息《といき》をついた。「終点だな」と、やっと、いった。「こういうべきかもしれないな――ぼくらの旅の最後一つ手前の泊りとね。じゃあ、諸君……」エラリーは、すばやく実験台に歩みよって、その自動拳銃をとりあげた。しばらく、ていねいに調べてから、表情もかえずに、ポケットへ入れた。ノールズ警部補は、まだ少しおどろいているようだった。
「ぼくはね」と、エラリーは明るく「君たちにぶしつけなたのみがあるんです。とても大事なことなんですが、だれにも――文字どおりだれ一人にも――君たちがやった実験の結果を知られたくないんです」
ノールズ警部補がせきばらいした。「ふーん。分らないな――ぼくには役所に対する責任があるよ、クイーン君――君がいうのは――」
「ぼくがいうのは、この銃がホーンとウッディを殺した弾を発射したものだということをだれにも知られたくないばかりか、この銃が発見されたことさえ、だれにも、もらしたくないんです。分りましたか、警部補」
ノールズは、あごをこすった。「それじゃ、君のいうとおりするとしよう。君は今まで何度も、ここを使って、なかなかいい仕事をやってるからね。しかし、ぼくとしては、記録は、きちんとしておかなければならないんだ……」
「ああ、記録はぜひとっといて下さい」と、エラリーは急いでいった。「ああ――それから、あなた。少佐も」
「もちろん、ぼくが口外せんことは信じていい」と、少佐がこたえた。
「あなたといっしょに仕事してたのしかったですよ、少佐」と、エラリーは微笑して、それから急いで実験室を出て行った。
読者への挑戦
ところで、またしても、ぼくの小説の、「ラッキー・セブン」に、さしかかりました。諸君、一服して、ここで楽しんで下さい。ぼくは、この四年間、語りつづけた小説のテーマを、ほんの少し、形を変えて、諸君に、提供しました。コロシアムで、二人の騎手を殺した犯人はだれか? 実にやさしい問題ですよ。もう、お分りになってもいいはずですがね。今や、この物語は、ほとんど全部、語りつくしたつもりです。そら、手がかりは、いくらでも気がつかれたでしょう。きっと、お出来になりますよ。物語の中の手がかりを、適当な順序にまとめて、それから必然的な推理をたてて行けば、必ず、犯人の可能性のある、ただ一人の人物が、浮かび上ってくるはずです。真犯人はただ一人です。こういう遊びのルールを守るのは、ぼくにとっては面目の問題ですから、正々堂々、ひとつのごまかしもしていません。ぼくは、諸君に、すべての手がかりを差し上げて、なにひとつかくしてはいません。これが、フェア・プレイの精神ですし、この遊びのルールなのです。ぼくはこのルールを、ちゃんと守っています。そこで、すべての手がかりは、今や、諸君の手のうちにあるのです。それらの手がかりをまとめさえすれば、いやおうなしに、犯人の型が、きめ出せるのです。諸君には、いくつかの手がかりから、犯人の型を、きめ出す能力があるでしょうか。この遊びで、ぼくが楽しく挑戦する度に、むずかしくて分らぬと、世をはかなむ少数の心がけのいい読者のために、一言、つけくわえておきます。物語の中で、ぼくがハリウッドへ打った電報の内容とその返事は、諸君が推理を組み立てるためには、絶対に必要とするものではありません。あとで、お分りになると思うが、差し当り、電報の内容が分らなくても、必ず犯人の割り出しは出来るはずです。あの電報は、ぼくが犯罪を分析、推理した結果として到達した、ぼくの結論を、確認してみたかっただけのものなのです。だから、犯人の割り出しが出来れば、当然、諸君も、あの電報の内容が、どんなものだったかを、ぼくに言えるはずのものなのです。では、諸君の御成功を祈ります。犯人はだれか。推理してみて下さい。
エラリー・クイーン
十五 解決直前
日曜日の夕べは、クイーン家では、普段は、のんびりしたものである。警視が完全にくつろぐのは日曜の宵である。だから、そんな時には、仕事の話をしたり、犯罪についての理論にふけったり、日常的なことで頭を悩ましたり、推理小説を読んだり、その他、静かな雰囲気《ふんいき》をみだすようなことはいっさいしないしきたりになっていた。
そこで夕食後、エラリーは寝室にこもって、非常に静かに、内線電話をとりあげた。そしてバークレイ・ホテルの番号にかけて、ホーン嬢を呼び出した。
「ぼく、エラリー・クイーンです。そう。……今夜は、何をしてるんですか、ホーンさん」
キットは、ちょっと笑って「お誘いなの?」
「もっと悪いことかもしれませんよ」と、エラリーは答えて「こちらの質問に対して、はっきりしたお答えをねがいます、議会式にね」
「じゃあ、申しますわ」と、キットは、きっぱりした声で「私、今、ふさがってますの」
「とおっしゃると、つまり、言葉をかえていえば――」
「紳士がおひとかた、今夜の同伴を、もう、お申しこみなんですのよ」
「まき毛の紳士でしょうか」
「気がおつきになるのね、クイーンさん。そうよ、まき毛の紳士よ。大してお考えにならなくてもお分りのことでしょうけどね」それから、ちょっとキットは気をもたせるように「あのね――あの何か耳よりのことでもありまして? あたくし、しびれをきらしてるの……あのね、今夜、あたくしに会う、大事なことでもありますの、クイーンさん」
「あなたにお会いするのは、いつの晩でも、ぼくにとっては大事なことですよ」と、エラリーは気どっていった。「しかし、あんなみごとな、まき毛をしていて、しかも銃には無類の名手という青年がライバルでは、仲間に入れていただいても、とても見込みがないし、向こう見ずのような気がしますよ。いや、ホーンさん、本当に大事な用じゃないんです。いずれまた」
「ちょっと」と、キットはしばらく言葉を切っていたが「あのね。まき毛さんは、今夜、あたくしを映画につれて行くつもりなんですの。あの人、そりゃ映画が好きなんです。それに、あたくし――とても、寂しいんですのよ、あれからってもの……お分りんなって」
「分りますとも」と、エラリーはなぐさめるようにいった「あばれん坊ビルも御一緒するんですか」
「あの人はもっと上手に立ちまわる方ですわ」と、キットは笑って「今夜はマースさんと御食事をなさるはずよ。他にも興行主の方が二、三人御一緒よ。何か新しい興行をもくろんでるんでしょ。大わらわよ。ビル小父さま。あたくしにはよく分らないけれど――」
「ぼくは、たしかに、今夜はついていなかったですね」と、エラリーは残念そうにいって、やがて受話器をかけた。
エラリーは寝室の中で、静かに立って、何か考えながら、ぴかぴか光る鼻眼鏡のレンズをふいていた。それから、静かに、歩きまわった。
五分してから、エラリーは外出のみなりで居間にあらわれた。
「どこへ行くのかね」と、警視が、日曜新聞の漫画ページから目を上げて、きいた。
「散歩です」と、エラリーは気軽に「少し運動して来ます。どうも、胃がもたれ気味なんです。すぐにもどります」
クイーン警視は、この見えすいた嘘を、ふふんと鼻であしらって、また漫画ページに目をおとした。エラリーは、すれちがうとき、ジューナの髪をくちゃくちゃになぜて、さっと出て行った。
エラリーは一時間ほどして帰って来た。顔を紅潮させて、少し神経質になっていた。だまって寝室にはいって行き、しばらくすると外套をぬいで出て来て、警視とならんで、ひじかけ椅子に、どっかりと腰を下ろした。そして、じっと炉の火をみつめた。
警視は、読みかけの科学のページを下においた。「散歩は、どうだったな」
「ああ、いい気分でしたよ」
クイーン警視は、スリッパをはいた足を火の方へのばして、かぎたばこを吸ってから、振り向きもしないでいった。「今度の事件ばかりは、わしにはどう考えていいのか、てんで分らんよ。わしは、実際――」
「事件の話はやめでしょ」と、猿みたいに椅子にのっかっていたジューナが、あきれ顔でとめた。
「図星だ」と、エラリーが「うまいぞ、ジューナ」
「図星なのは」と、警視が、つぶやいた「わしが、参ってるってことだ。まったく知りたいもんだよ――お前に分っとることをな」
エラリーはたばこの吸いさしを火になげこんで、のんびりと両手を、腹の上で組んで「すっかり分ってるんですよ」といった。
「何だって」と、警視が、あっけにとられた。
「みんな分ってるといったんですよ」
「そうか」と、警視はほっとして「また冗談か。そうだとも、お前は、いつでも、何んでも、みんな分っとるからな。お前は神にえらばれた四百人の一人だからな。お前に分らんという問題は一つもないんだろう――小説の中の探偵みたいにな――何でも見えて、何でも知ってる……ばからしい」
「みんな分ってるんですよ」と、エラリーは、おだやかにいった「ホーン=ウッディ事件はね」
警視は、すぐに、口小言をやめた。身動きもしなかった。それから、口ひげをひねり始めた。「お前――それは本当のことか」
「十字を切って、心からちかいますよ。ばかなら死んだ方がましですよ。この事件は解決しました。完全です。もう何もありません。すっかりすんだんですよ、お父さん。……真相はですね」と、エラリーはひと息ついて「あんまり、単純なんで、きっと、びっくりしちまうでしょうよ」
クイーン警視は、しばらくの間、息子の顔を、まじまじと見ていた。エラリーの引きしまった顔には、もう、冗談めいたものはなかった。それどころか、全身に、緊張とはげしい興奮を押える気魄《きはく》がただよっていたので、警視の血もわき立ってくるのだった。いつも、冷静な警視らしくもなく、眼が光り始めた。
「それじゃあ」と、警視はいきなり「いつ決着をつける?」
「いつでもいいですよ」と、エラリーはゆっくりいった。「よければ、今でも。ぼくは、謎ときには、かなりうんざりして来てるんです。いいかげんに頭から追っぱらいたいんですよ」
「じゃあ決着をつけに行こう。へらず口ばかりたたいてないで」といって、警視は寝室へはいった。
エラリーは黙って、ついて行って、父がスリッパをぬぎ、靴をはくのを見ていた。
エラリーは、ゆっくり外套を着た。目が輝き始めていた。
「どこへ行くんだ」警視は戸棚へ行って、帽子と外套をとりながら、どなった。
「バークレイ・ホテルです」
警視はおどろいた。エラリーは、ていねいにマフラを直していた。
「バークレイ・ホテルのどこだ」
「一つの部屋です」
「ああ、そうか」
二人はアパートを出て、八十七番街をブロードウェイの方へ歩いて行った。
ブロードウェイの角で、交通信号が緑にかわるのを待った。警視は両手をポケットに突っこんでいた。「ときに」と、ちょっと皮肉に「よけいなことをきくようだが――そのホテルの部屋で、一体、何をするつもりなんだね」
「捜査ですよ」と、エラリーが、低い声で「見落としたものがあるんです」
「ホテルの捜査に見落としがあったって」と、警視は声をとがらせて「何の話だ?」
「ああ、あのときは、捜査の目的が、はっきりしていなかったように思いますね。われわれは、ホーンの部屋も、ウッディの部屋も、他の連中の部屋も、みんな捜査しましたがね……しかし――」エラリーは時計をみた。十二時二、三分過ぎだった。「うん、きっと応援がいるだろうと思いますよ、お父さん。ヴェリーがいいです。役に立ちますよ、ヴェリーなら。ちょっと待って下さい。ヴェリーに電話します」と、父をせき立てて、道路を渡り、ドラッグストアにかけこんだが、五分ばかりして、にこにこ顔で出て来た。「ヴェリーは向こうで待ってます。さあ、出かけましょう、小言幸兵衛《こごとこうべい》さん」
警視は歩いていった。
十五分後には、二人は、バークレイ・ホテルのロビーを抜けて行った。かなりたてこんでいた。エレベーターに乗ってから、エラリーが「三階」と命じた。三階でエレベーターを下り、父の腕をとって、かなり長い廊下を歩いて行って、とあるドアの前で停った。ものかげから、ヴェリー部長が歩みよった。三人とも、まったく口をきかなかった。
エラリーは手をあげて、軽く、ノックした。ドアの中から、小さなささやき声がきこえた。やがて、ノブをまわる音がして、すぐ、ぱっとドアが開いた。顔があらわれた――むっとしていたが、すぐにおどろきの表情になった――あばれん坊ビル・グラントの顔だった。
二十六 逮捕
三人は黙ってグラントの部屋にはいった。グラントは三人を通してしばらくためらってからドアを閉めた。
椅子にかけていた、まき毛とキット・ホーンが、どちらも青くなって、三人を見つめた。
「こりゃあ」と、グラントが怒りっぽく「こんな時分に何ですかい」
テーブルの上には、黒い酒びんと、のみかけのグラスが三つあった。
「寝酒を一杯というところですね」と、エラリーは愉快そうにいった。「ところで、実を言うと、ちょっと面倒なことでしてね。警視の意向なんですがね。ぼくには思いとどまらせることが出来なかったんですよ」エラリーは、ずうずうしく、うすら笑いした。警視は、強く、顔をしかめたので、また一本、ひたいに、しわがふえた。「警視が、もう一度あなたの部屋を捜査したいというわけなんですよ」警視はてれて赤くなった。ヴェリー部長が、大男の座長の方へ一歩近よった。
「わしの部屋を捜すって」と、グラントは、渋い顔で、乱暴にいった「一体何のためだ」
「はじめろ、トーマス」と、警視がめんどくさそうに命じた。すると部長は顔色も変えずに捜査をはじめた。グラントは大きなこぶしを握りしめて、もう少しで、この侵入者に肉体的抵抗を示しそうにしたが、すぐあきらめて肩をしゃくって、黙って立ちつくした。
「おぼえてろよ、デカ長奴」と、ゆっくり言った。
まき毛が、とび立って、机の上の引き出しを開けようとしているヴェリーを荒々しく、つきのけた。「手をかけるな」と、するどくいって、つかつかと警視の前に近づき「一体、何んてことなんだ――ロシアじゃあるまいし。礼状を見せろ。何の権利があって、ひとの部屋にふみこんで――」
あばれん坊ビル・グラントは、せがれの腕をやさしくおさえて、部屋の中ほどまで、引きずっていった。「おとなしくしとるんだぞ。さあ、捜しなよ、旦那。どこいでも鼻面を突込んで勝手にさがすがいいさ」
ヴェリー部長は、まき毛の方に、妙なひとにらみをくれて、警視の合図にしたがって机の方へもどった。
まき毛は叱られた子供のようにすねて、キットのそばに、どしんと坐った。キットは全然無言で、ショックを受けたようにエラリーをみつめているだけだった。
エラリーは、いつもよりずっと力をこめて、鼻眼鏡をみがいていた。
ヴェリー部長は、無遠慮に、徹底的にやった。短気な泥棒のように、机を捜しまわした。引き出しから引き出しへ、開けて、目の前に抜き出したときは、処女のごとくきちんとしているのに、乱暴にさし込むときは、中はごしゃごしゃになっていた。それから、衣裳トランクの方へ注意を向けた。部長の行くところ荒廃《こうはい》がともなった。次にはベッドを攻撃した。部長の攻めるところ、残骸がのこった。
グラント父子と、キットと、クイーン父子は、黙って、捜査を見守っていた。
次は戸棚だった……部長はドアを引きあけて、たこのできている硬い手をすり合わせると、中の衣類にとびかかった。どの服も一つのこらず、押しつけ、ひっかき、たたきつけられて、台《だい》なしになった。だが、何も出て来ない……部長は、しゃがんで靴にとり組んだ。
立ち上ったときには、かなり情けなさそうな表情をしていた。そして、ちょっと困ったように、エラリーの方を見た。エラリーは、眼鏡をみがきつづけていたが、その目は、あきらかに鋭さをましていたし、ほんの少し、グラントの方へ、にじり寄っていた。
ヴェリー部長は手を伸ばして棚を捜していた。手が、大きな白い丸箱にさわったので、引きずり下ろして、ふたをはねのけた。つば広の、こげ茶色のステットソン帽の、新品が、でんとして姿をあらわした。部長はそのステットソンをつまみ上げた……そしてぎょっとした。
それから、ゆっくり、戸棚から、その箱を運んで出て来て、警視の目の前のテーブルの上に置いた。そして、ちらっと、妙なふうに、エラリーを見た。
箱の底の、ステットソンが納めてあった下にかくれて、平らべったい、にぶい色の、小さな武器が、おだやかに横たわっていた――二十五口径自動拳銃だった。
グラントのからだがわななき、岩のような顔から血の気がなくなり、あとには、泥まみれの大理石のような、顔色がのこった。
キットは、息づまるような小さな叫びをあげてから、急いで手で口をふさぎ、恐怖の色を浮かべた目で、老西部人を、じっと見つめた。まき毛は、石のようにかたくなり、呆然自失、とても信じられないという顔で坐ったままだった。
警視はちらっと武器を見ると、箱からとり出して、ポケットにすべりこませた。そして、すばらしい速さで、手を尻ポケットにまわし、三十八口径の警官用コルトをとり出し、それを、無造作に指にぶらさげていた。
「どうだね」と、落ちついた声で「何か言うことがあるかね、グラント」
グラントは、ぼんやりと拳銃を見つめて「こりゃなんとしたこった――一体、わしは――」と、足をふんばりながら、とぎれがちに、深く息を吸った。その目は死人のようだった。「わしは――」
「君はいわなかったかな」と、警視はおだやかに「二十五口径自動拳銃は持っとらんとな」
「持っとらんよ」と、グラントは、ゆっくり、しどろもどろに言った。
「ああ、この小っちゃい奴を否認するんじゃね」と、警視はポケットを軽くたたいて「君のじゃないと言う」
「わしんじゃない」と、グラントは、しょんぼりと言った「今まで見たこともない」
まき毛が、ふらふら立ち上って、じっと父をみつめた。そしてからだを少し左右にゆすぶった。ヴェリー部長が、静かに、まき毛を椅子におしもどして、その前に立ちはだかった。
だれひとり、何がおこったかとっさには分らなかった。キットが、丁度、牡虎のうなりのように不気味な、しめつけられるような叫び声をあげると、椅子からまっすぐに、グラントにとびかかった。キットの爪がグラントの喉にくいこんだ。グラントは動こうとも、防ごうともしなかった。エラリーは二人の間にとびこんで叫んだ「ホーンさん。おねがいだ、やめてくれ」
キットは身を退《ひ》いて、からだをかたくし、茶色の顔に、ぞっとするような憎しみの色をうかべていた。
「どんなことをしたって、あんたを殺してやるわ。偽善者のユダ奴《め》!」と、冷たく言った。
グラントは、もう一度、身ぶるいした。
「トーマス」と、警視は少し張った声で「この連中は、わしが見とる。ポケットから豆鉄砲を出して、急いで本庁へ持って行け。ノールズをつかまえて、テストさせるんだ。わしらはここで待っとる……お前ら」と、鋭い口調で、ヴェリー部長が部屋を出かかるとき「下手なまねをするんじゃないぞ。グラント、坐っとれ。ホーンさんもだ。おい若いの、お前は、そのままにしとるんだ」警官用拳銃の銃口が、言葉につれて、小さな弧をえがいた。
エラリーは、ため息をついた。
一世紀もかかったかと思うほど経って、部屋の電話のベルが鳴った。グラント父子とキットが、反射的にびくっとした。
「みんな、静かにしとるんだ」と、警視がおだやかにいった。「エラリー、出てくれ。ノールズか、トーマスからじゃろ」
エラリーは電話に出た。しばらく無表情に聞いてから、受話器をかけた。
「どうだった?」と、警視は、グラントの両手から目をはなさずに、きいた。グラントは全身の筋一本動かさなかった。のしかかる苦しみで今にも叫び出しそうな目付で、じっとエラリーの唇をみつめていた。それは丁度、法廷で、陪審員が席について、被告が、生か死かを意味する判決を下す陪審長の唇を、坐ってじっとみつめている光景に、そっくりだった。
エラリーは低い声でいった。「部長の報告では、あれがバック・ホーンとウッディを殺した自動拳銃にちがいないそうです」
キットが、身ぶるいした。キットの目は、兇暴な感情で荒々しくなり、同時に混乱もしていた。まるで、急に光をあてられて視力を失い、危険を察知して身構える獣の目のようだった。
「手を出すんだ、グラント」と、警視が鋭くいった。「バック・ホーンならびに、片腕ウッディ殺害のかどによって逮捕する。それから、わしの義務として警告しておくが、今後、君の言うことは、何んでも、君の不利になるようにとられるかもしれんよ……」
二十七 犯人の泣きどころ
紳士エラリー・クイーンは、新聞などという芸術の熱心な支持者ではなかった。だから、出来るだけ、たまにしか新聞を読まない。保守的な新聞は、患《わず》らわしいし、色気たっぷりな赤新聞は虫ずがはしるというのが、エラリーの言い分だった。
しかし、その月曜日の朝は、警視庁の前の歩道で、四種類もの朝刊を買いあさったから、お金を受け取る新聞売り少年が、不思議そうな顔をした。
いつもの習慣を、こんなに急に変えた理由を新聞売りの少年になど説明する必要もないから、エラリーはただ、首をふるだけで、新聞を持って大きな灰色の建物に急いではいった。
クイーン警視が電話でどなりつづけていた。それをききながら、エラリーは買って来た新聞を読んでいた。もちろん、あばれん坊ビル・グラントの逮捕が、その朝の大御馳走だった。ロデオ座長の|かこみ《ヽヽヽ》写真が、二つのタブロイド新聞の第一ページに、二つの全紙新聞にはかなり大きく第一ページにのっていて、エラリーをにらんでいた。大見出しは、いろいろで、グラントを「悪鬼」「相棒殺し」「西部の兇悪人=ロデオ座長」などと呼んでいた。
妙なことだが、エラリーは大見出しと、小見出し、しか読まなかった。それから新聞を投げ出して、のんびりと腕組みをして、父を見ていた。
「ねえ、今朝は何かありませんでしたか」と、快活にきいた。
「あったとも。グラントの奴――口をわらん。イエスともノーともいわんのだ」と、警視はいまいましそうに「だが、割ってみせるさ。あのハジキを手に入れたのが、めっけもんさ。ノールズの報告だと、グラントの部屋から出たあの拳銃が、二つの殺人事件に使われたものに、絶対、まちがいないそうだ」と、一息入れて、ふと、鋭い目を、もの思いでくもらせた。「少しおかしい」と、ゆっくり「ノールズが何かを、わしにかくしとるらしい、あのノールズが」と、肩をすくめて「気のせいかもしれんな。あいつは宝ものだ。いつかはわしに説明がつくだろうがな、どうもおかしい。長官は朝っぱらから、電話をかけつづけで、せっついとる」
「あの先生は、理由に興味があるわけじゃないでしょう」と、エラリーがつぶやいた「あの人は、結論をききたがっているんでしょう。それなら、もう結論を与えたじゃありませんか。殺人犯人を、ニューヨーク渡しで、引きわたしたんですものね。取引完了です――そうでしょ。それ以上何を欲しがってるんですか」
「もっと知りたいのだ」と、警視がいった。「長官も人情として、どうして、なぜか、をききたがるんだ。で、それを考えてみると」と、うたがわしげに、エラリーを見て「実のところ、わしにも少し腑《ふ》におちんのだ。なぜ、グラントの奴は、あんなふうに、かなりだらしなく、ハジキを置き放しといたのかな。抜け目のない人殺しとしては、かなり間抜けてるように思えるんだ。殊《こと》に、コロシアムから、二度も、うまうまと、わしらの目をくぐりぬけて持ち出したのを考えるとな。わしは――」
「おやめなさいよ」と、エラリーが「まき毛はやってきましたか」
「市刑務所のハートが、三度も電話をかけて来た。あの子供《がき》がとても手に負えんらしい。それに、グラントおやじは弁護士に会うのも承知せんらしい――拒絶しとるそうだ。理由が分らん。まき毛の方は気違いみたいになっとるそうだし、キットが――」
「そうそ、キットはどうしてますか」と、エラリーは、ふと、まじめにきいた。
警視は肩をしゃくって「今朝早く、わしに会いに来た。グラントをしばり首にしてくれといっとる」
「そうでしょうね」と、エラリーはつぶやいて、たばこが、いかにもまずそうな顔をした。
エラリーは一日中、本庁の中をぶらついていた。何かを期待しているようだった。そして、殺人課の連中が、警視に報告をもってくるたびに、ドアの開くのを、すばやく見張っていた。やたらにたばこをふかしつづけ、地階の大ロビーの公衆電話から、五、六回も電話をかけた。
午後のあいだ、三回も別々の機会に、事件解決の説明をもとめられたが、ただ微笑するだけで、ことわった。地方検事のサンプスンにことわり、通信連盟の記者たちにことわり、長官じきじきの要求にもことわった。そして、頭をきっと立てて、何かを待ちつづけている態度を、しばらくの間もすてなかった。
しかし、一日中、とりたてていうような事は何もおこらなかった。
午後六時に、エラリーと警視は本庁を出て、地下鉄で山手へ向かった。
六時半には、食卓について黙りこんでいた。二人とも、いつもの旺盛な食欲はなかった。
七時にドアのベルが鳴ると、エラリーはとび立った。お客はキット・ホーンで――青い顔で、ぼんやりして、とても神経質になっていた。
「お入りなさい」と、エラリーはやさしく「どうぞ、おかけなさい、ホーンさん。よく、来る気になってくれましたね。うれしいですよ」
「あたくし――あたくし、どうしたらいいか、どう考えたらいいか分りませんの」と、低い声でいいながら、のろのろとひじかけ椅子に腰を下ろした「相談するところもありませんし、あたくし本当に――本当に……」
「むりもないな」と、警視が思いやりをこめて「本当に親しいと思っていた人間の、心の底を見破るのは、むずかしいことじゃよ。もしわしなら、そうだな、そのことで、他の人に対する感情まで、みだしはせんだろうな――その、他の人に対する愛情まで」
「まき毛さんのことを言ってらっしゃるの」と、キットは頭をふって「駄目ですわ。そりゃあ、あの人の罪ではないけど、でも――」
ドアのベルがまた鳴って、ジューナが玄関にとんで行った。しばらくすると、まき毛グラントの背の高い姿が入り口にあらわれた。
「何か用があるって?」と、いってキットに気がついた。二人は黙って見合っていた。やがて、キットが怒って赤くなって、立ちかけた。まき毛は、しょげて、うなだれていた。
「いけません」と、エラリーが鋭くささやいたので、キットは彼を見て、びくりとした。「あなたには大事な用があります。どうしてもここにいてほしいんです。気の毒なまき毛くんに、気をもませないで、こしかけて下さい、ホーンさん」
キットは腰を下ろした。
ジューナが、いわれていたとおり、用意してあったカクテルの盆を持ってあらわれた。気まずい一瞬が、氷とグラスのふれ合う陽気な音で、ゆるんでいった。まるで、前もって打合せておいたように、だんだん明るい話がはじまり、十分後には二人がかすかにほほえむのがエラリーに分った。
しかし、何分かがすぎて、一時間になり、二時間になると、会話がだれて来て、警視さえ、そわそわし出した。エラリーは夢中になってつとめていた。どんな話にもすぐついて行き、早口でまくし立て、たえず微笑し、大げさに顔をしかめてみせ、たばこをすいつづけ、たばこをしきりにすすめ――いつも出来るだけひっこんでいるエラリーとは全くちがっていた。それにもかかわらず――おそらく、それだからだろう――努力すればするほど、場は沈みがちだった。時の経つのが、ばかにのろのろしていた。しまいにはさすがのエラリーも、陽気にしようとつとめる大努力をやめたので、一同は一言もしゃべらなくなってしまった。
きっかり九時に、三度目のドアのベルが鳴った。
まったく不意だった。一同がしんと、だまりこんでいるところに鳴ったので、警視は何事かとひげをひねり、キットとまき毛はショックを受けてかたくなった。エラリーは繩をかけて引かれるように、椅子から立ち上った。
「いいよ、ジューナ」と、ドアへ行きかけたジューナにエラリーはすぐ言った。「ぼくが出るよ。ちょっと失敬」と、玄関へ急いだ。
ドアの開く音がきこえた。太いしわがれ声がきこえた。それから、エラリーの、しっかりしているが警戒するような声が「ああ、はいりたまえ。どうぞ。君を待っていたよ」というのがきこえた。
エラリーが玄関からもどって来た。顔色がシャツのように白くなっていた。すぐに、背の高い男が――エラリーより高い男が――エラリーとならんで敷居口に姿をあらわした。
悠久の≪時≫が、人間が日常の≪時≫の流れのなかでは、めったに出会うことがないような≪時≫が流れた。≪時≫が、その一瞬に、全エネルギーを結集し、はね上り、爆発して、人間の頭にとび込むような≪時≫だった。
一同は、敷居口にいる男を見つめた。その男も一同を見返した。
その男の頬はひどい、やけどのあとがあり、ぼろをきた汚ならしい西部男で、一昨日、コロシアムから、忽然《こつぜん》と姿を消した……ベンジー・ミラーだった。やけどのあとのない右頬の日灼けした肌の下には、ぎゅっと自分のももをつかんでいる手首と同じような、死人の青さがただよっていた。
「ミラーか」と、警視は、あわてていって、何となく、椅子から立ち上った。その瞬間、キット・ホーンが、ぎゃっと叫んだので、みんなは、いっせいにキットを見た。キットは、ミラーをみつめていた。戸口の男は、ちょっと、キットと目を合わせると、目をそらして、早足で部屋にはいって来た。
キットは唇をかみ、きょろきょろと左右を見まわし、発作的に息をつめて、目には押えきれない恐怖の色をうかべていた。
「一体、どうしたんだ――」と、まき毛がおどろいて、つぶやいた。
ミラーは戸口から一ヤードほどの所に立ちどまって、大きな手を、しっかりにぎりしめ、唇をなめながら「クイーン警視。おれが殺《や》ったんだ――おれが殺ったんだ――」
「何?」警視は、声といっしょに、とび立った。警視は怒りにもえる顔をエラリーに向けた。「お前――こりゃどういうことだ? こいつが、バック・ホーンと、ウッディを殺ったんだと?」
まき毛グラントは、そっと呪《のろ》いの声を出した。ミラーのにぎりこぶしがゆるみ、ふたたびかたくにぎられた。
キットが静かに、すすり泣いた。
そのとき、エラリーがいった。「この男は、ウッディを殺したが、バック・ホーンは殺《や》りませんでしたよ」
警視は怒って、テーブルを、どんと打った。
「なんだと、すぐ真相をきかねばならん。たとえ気が狂ってもいい。このばかふざけは何んだ。どういうわけなんだ――ミラーが、ウッディを殺ったが、ホーンは殺らんというのは。同じハジキが使われている」
「同じ人間が使ったんですよ」と、エラリーはあきあきしているようにいった。「しかし、ミラーは、バック・ホーンを殺すことは出来なかったはずです。ねえ、ミラーが、バック・ホーンなんですよ」
後口上――分析スペクトル
「結局、本質的でない色は、われわれの想像上の色の輪から消えて、あとに残るものは――何か? それはまちがいようのないスペクトル線の虹彩《こうさい》であって、それが、全体の物語を、はっきり語ってくれるのだ」と、エラリーがいった。
「君のはっきりしないたとえ話をきいてると」と、私はかなりいらいらして「かえって、分らなくなっちまう。ぼくの弱い頭では、事件は、まだ、深いなぞにつつまれているよ、正直にいってね。ぼくは今、全事実を知ってるが、その事実の意味をさぐり出したくてもさぐり出せっこないんだ」
エラリーは微笑した。ホーン事件が解決してから数週間後のことだった。事件の反響は、すでに、あらゆる忘れられた過去の犯罪と同じように忘却の墓にはいろうとしていた。その驚くべく、悲しむべき大団円は、ただ職業的な興味の対象になったにすぎない。私に分らないある種の理由で、いつもは騒ぎ立てる新聞も、事件を理解し得るような記事はほとんど出さなかった。バック・ホーンは、すばらしく抜け目のない方法で二回の殺人を犯した。殺人の理由と、同時にその方法とは、謎につつまれたままだ。それからまた、事件を解決にみちびいた推理の方法も分っていない。それらのどのひとつも、新聞には、出なかったし、なぜ出ないのか、私には分らなかった。
「何だね」と、エラリーがつぶやく「君が不思議がってるのは」
「呪われた事件の全体さ。だが、時に、君が事件を解決した方法さ。それからもう一つ」と私は意地悪くつづけた「君が困っていたあの二つの小さな謎を、どうやって解いたかさ。たとえば、両方の犯罪に使われた拳銃は、実際は、どういういきさつだったんだね」
エラリーはくすくす笑ってたばこの煙をはいた。「ああ、ところでね、J・J、君は今になってぼくの未熟な腕を責めるほど、ぼくを知らないわけじゃあるまい。もちろん、ぼくは本質的な回答は――つまり人間のすりかえについては――最初の死体が発見されたすぐ一、二時間後に気がついていたよ」
「何んだって」
「そりゃ、そうさ。あれは、本当に、最も基本的な一連の推理の結論さ。しかも、いっしょに働いている連中が全く気がつかないのでおどろいたもんさ」と、エラリーは吐息をついて「かわいそうなおやじさ。おやじは敏腕な警官だが、洞察力も、想像力もないんだ。犯罪捜査には、想像力が必要なんだ」それから、エラリーは肩をしゃくって、ゆっくり椅子にもたれこんだ。ジューナが、コーヒー・ポットと、おいしそうなブリオシュの皿を持って来た。「じゃあ、発端から始めよう」と、エラリーが言った。
「いいかい。犯罪の現場には数千人の人間がいて、そのひとりひとりがだれでも犯人であったかもしれないのに――犯罪自体が独特な、複雑怪奇な状態だったのに――ぼくは、ホーン殺人事件のことを言っているんだよ――きわ立って注目すべき六つの手がかりがあったんだ」
「六つの手がかり」と、私は意外に思って「ずいぶんどっさり手がかりがあったもんだね。エラリー」
「うん、この事件は、ぼくにあり余る手がかりを与えてくれたのさJ・J。ぼくにいわせれば、この六つの事実は、最初の夜の捜査の中で、重要な手がかりとして特に注目すべきものだったんだ。その中の二つの手がかり――一つは物的なもの、他の一つは心理的なもの――をつないでみると、ぼくにはある事が分った。そのある事は、ぼくだけには捜査の最初から分っていたんだ。六つの手がかりを順々にとりあげて、推理をすすめてみよう――一つずつの推理を煉瓦のように積み上げて行くと、全体の事実を解明することが出来るただ一つの理論が、組み立てられるんだ」
エラリーは炉の火をみつめて、謎めいた微笑をうかべた。「第一の手がかりは」と、つぶやいた。「死人の腰をまいていたズボンのベルトだ。おどろくべき品だったよJ・J。次のようなことをはっきり物語っていたんだ。バックルの穴が五つあり、その二つ目と三つ目の穴には、穴に対して垂直に、深いみぞが革についているのが特徴だった――そのみぞは、明らかに、この穴でバックルをくりかえし、くりかえし、とめたことを示している。ところで、キット・ホーンは――かわいそうに――バックが近ごろ、からだの調子をこわしていたとぼくに言っていたが、事実、体重がへっていたのだ。そのことをよく考えてみたまえ」
「体重が減るのと――ベルトの留め金のあとさ。面白い事実の合致じゃないか。ぼくはすぐそのことの重要性に気がついた。ホーンが最近になって体重の減っていたことと、ベルトについている二つのみぞの間にはどんな関係があるか。少なくとも次のことはたしかだ。つまり、普段は、ホーンは明らかに二つ目の穴でベルトを締めていた。これは二つ目の穴にみぞが出来ているのが証拠だ。後に体重が減ってからは三つ目の穴で締めなければならなくなった――つまり、胴まわりが小さくなったのでベルトをきつくしめる必要があったのだ。しかも、バック・ホーンとみなされる男が殺された晩に、われわれは何を発見したか。被害者は、ぴっちりとしたベルトをしめていたが、バックルが一つめの穴でとめてあったのだ」
エラリーは、ちょっと休んで、たばこをつけた――私はまたしても、いくどもくり返すようだが――エラリーのすばらしい知覚の鋭敏さに感心した。こんなつまらない小さな事もおろそかにはならないものだ。感心して、そんなようなことを口にしたらしい。
「ふん」と、エラリーは眉をしかめて「ベルトの穴などは、本当に、取るにもたりないことさ。しかも表面的につまらぬばかりか、大した意義もないことだ。ただの指標さ。何も証明しやしない。しかし、推理の方向を示す材料にはなるよ。
さて、ぼくは、ホーンが普段はズボンのベルトを二つ目の穴で締め、体重が減ってからは三つ目の穴を使ったことを説明した。しかも、死体になった男は、ベルトを最初の穴でとめているのが分ったのだ。このことは異常なことだ、というのは、バックルのみぞは、二つ目と三つ目の穴だけを横切って、ついているからだ。言葉をかえていえば、死体の男が実際にベルトをとめていた、一つ目の穴には、全然、みぞがついていなかったのだ。そこに、いくつかの不審な事実がある。ベルトを、いつもは二つ目の穴でとめ、それから、しばらくの間、三つ目の穴でとめなければならなかったホーンが、急に殺された晩にかぎって一つ目の穴でベルトをしめた――つまり、急にとめ穴を二つも、ゆるめた。この現象を、ぼくはどう解釈したか。いいかね、一般には、どんなときにベルトをゆるめるかね。腹いっぱいたべたときだろう――ね?」
「そう思うよ」と、私はいった「しかし、緊張を要する演技をやる前に、そんなに腹いっぱい、つめこむかな。それに、食ったとしても、ベルトの穴を二つもゆるめるほど、つめこむかな、おかしいな」
「ぼくも同じ意見だ。だが、論理的には可能性がある。だからぼくは論理的手段をとった。解剖を受けもったプラウティ医師にたのんで、死体の胃の内容をたしかめてもらったのだ。すると、死体の胃は全く空だったと報告して来た。報告では、被害者は死ぬ前の六時間ぐらいは、何も食べていないことが明らかにされた。そこで、急にベルトの穴を二つもゆるめたのは、たらふくつめこんだせいではないかという解釈は、駄目になった。
すると、どうなるか。結論はたった一つだ。君に否定できるならしてみたらいい。ぼくは、殺された男が、あの晩しめていたベルトは、彼のものではなかったと、結論せざるを得ないんだ。しかも、それはたしかにバック・ホーンのベルトだった――ホーンの頭文字がはいっていたし、グラントが――ホーンの親友が――ホーンのものだと、証言している。すると、どうなるか。そのベルトは、それを締めている男のものではなく、バック・ホーンのものだとすれば、それを締めている男は、バック・ホーンではない。すると、死んだ男はバック・ホーンではない。実に簡単《ヽヽ》じゃないか、J・J」
「それだけで、全部の筋道が分ったのかい」と、私はつぶやいた。「とても不充分で、説明不足のような気がするがな」
「不充分だって? ちがう」と、エラリーは微笑した。「説明不足か? そのとおり。人間というものは、とかく、小さな事実からは大きな説明を受けとりたがらないからね。しかし、われわれの科学の発達の大部分は、とるにも足らぬ小さな事実の観察の結果から、帰納されたものじゃないかな。あの当時、実は、ぼくも世間一般の臆病な考え方から解放されていたわけじゃないんだ。ぼくの結論は自分で信じがたかった。一応ぼくはそれを捨ててみた。信じないようにした。世間なみの考えになってみた。しかし、他にどんな解釈があっただろうか」
エラリーは炉をみつめて考えこんだ。「それに、他にも、うたがいを深めるものがあった。死んだ男はロデオ一座に接触のあった者だ――ところが、その接触は、ほんの束の間のものにちがいなかった、というのは、証言によれば、ホーンは、おくれて、コロシアムにかけつけたというからね。そして、ホーンと推定された騎手が死んだあとで、キットが――ホーンの養女なのを覚えときたまえ――死体の毛布をまくりあげて、被害者の顔を、実際に見ているのだ。また、ホーンの生涯の友だったグラントも見ているのだ。しかも、顔はめちゃめちゃになってはいなかったんだよ、J・J――頭と体だけがきずついていたんだ。この事実からして、死んだ男はホーンではないという、ぼくの結論を、いっそう納得のいかないものにした。しかし、ぼくは自分の結論を捨てかねた。あの場合、他の人だったら捨ててしまっただろうがね。反対に、ぼくは自分にいいきかせたよ。とにかく、納得いこうといくまいと、大事な点は、ぼくの最初の推理が示すように、もし死んだのがホーンでないなら、死んだ男は姿も顔も、非常にホーンに似ているにちがいないということだ。もし君が、ぼくの推理の最初の前提を受け入れれば、この結論はのっぴきならないものだよJ・J。とにかく、ぼくは不満だった。心理的に全然すなおに納得出来ないんだ。そこで、ぼくの結論を確証するものを探した。それはすぐ見つかった。それが、初めにいった六つの手がかりのうちの、第二の手がかりだったんだ」
「死んだのがホーンでないという結論を確証したものはなんだね」と、私があきれてきいた。「ぼくは首をかけて――」
「そうやすやすと首をかけるもんじゃないよJ・J」と、エラリーが笑って「信じられないほど、簡単さ。それは、死んだ男の右手から見つけた拳銃の象牙の握りから思いついたのさ――右手ということを覚えていたまえ――その拳銃は、後にホーンの部屋で、ぼくが見つけた奴と対《つい》なんだ。
さて、対の拳銃は二丁とも、ホーンが長年使っていたんだ。キットが、養父の愛用の銃だといったし、グラントも、まき毛もみとめてる。これもまた所有者には問題なしだ。それを覚えといてくれたまえ。握りには頭文字がはいっていたし、キットもグラントも、すぐ認めてる。だからその二丁の銃はホーンのものだ。それには、ぼくも充分に確信を持ち得た。
そこで、新しい指標は何か? 最初の拳銃は死んだ男が、握ったままで発見された――右手だよ。馬からころがり落ちても放さなかったのだ。ぼくは自分の目で、その男が右側のホルスターからその拳銃を抜き、楕円競技場を疾走しはじめたときに、頭の上で振りまわしているのを見たんだ。それに、ニュースフィルムも、この観察を確認している。しかし、拳銃自体を調べて、ぼくは、きわめて妙なことに、気がついた」と、軽く頭をふりながら「注意してきくんだよ。拳銃の柄、つか、あるいは握り――専門語では何というかね――握りには両側の平らたい部分に象眼がしてあって、その象牙は、長年使ったので黄色くやけていたが、握りの右側のせまい部分だけは、やけていなかった。ぼくが左手で構えてみると、この象牙の色のやけていない部分が、曲げた指の先と、手のひらのふくらみの間に来た。その夜おそく、その対の拳銃を右手で構えてみて、気がついたんだが、象牙の象眼は、丁度最初のと同じようによごれて、黄色くなりながらも、それにも比較的新しく見える部分があったんだ――今度は、握りの左側で、ぼくの曲げた指先と、手の平らのくぼみの間に来るんだ。これはどういう意味だろう。つまり、第二の拳銃は――ホテルの室から出た奴は――バック・ホーンが、いつも右手で握っていた|もの《ヽヽ》だから、ぼくが右手で構えると、象牙の黄ばんでいない部分が握りの左側《ヽヽ》に来る、右手で握ればそうなるのが当然だ。もう一丁の拳銃、最初の奴、死んだ男が右手で握っていたやつは、ホーンが、長年、左手で握っていたんだ。だから、象牙の黄ばんでいない部分が右側《ヽヽ》に来たんで、左手で握ればそうなるのが当然だ」と、エラリーは一息ついて「いいかえれば、つまり、もっとも分りやすい形にしてみると、二丁使いのバック・ホーンは、いつも一丁は右、一丁は左にきめて使って、決して左右の銃をかえては使わなかった。だから、もし二丁の銃を、左右無差別に使えば、すり減らない部分なんて全然できなかったはずなんだ。このことを、忘れないでくれたまえ。
その上、ホーンは、たしかに、無双の名射手だった。つまり、彼の射撃は――二丁の拳銃の銃口、照星、握りが全く同じようにすり減っていることから考えて――両手を、しばしば、同じように使って射ち、しかも両手とも器用だったのが分る。バックが、両手のそれぞれに合わせた特別の銃を使うという習慣は、後に、ある小さな点から確認された。ぼくは、ノールズ警部補に二つの拳銃の目方をはかってもらって、一方が、片方より二オンスほど軽いのを発見した。あきらかに、それぞれの銃は、いつもそれを扱うきまった手の力、握りぐあい、≪感じ≫と、完全にバランスがとれていたのだ。
さあ、そこで、重要なくいちがいがある点にもどってみよう。つまり殺された男は、バック・ホーンが、いつも左手で握っていた拳銃を、右手で握っていたという点だ。そのことで、すぐに、ぼくには分ったんだ、バック・ホーンなら、決して自分の二丁の銃をまちがった方の手で扱ったりはしないだろうとね。そして――」
「しかしだね」と、私が異議をとなえた。「あの晩、ホーンは、何かの偶然で、左手用の拳銃を持って、コロシアムに行ったのかもしれないじゃないか」
「そんなことは、ぼくの推理を少しも変えさせるものじゃないよ。習慣《なれ》、重さ、≪感じ≫のあらゆる徴候によって、ホーンには、それを持っただけですぐに左手の銃だということが分り、自然に左のホルスターに入れ、左手に握ってあの夜の演技をしただろうからね。しかも、あの晩空中に空弾を撃っているとき、どうしても右手を使わなければならない理由はなかったんだ。手綱《たづな》は左手で持ち、帽子を左手でふるったけれど、それも、どっちの手を使ってもいいぐらいのちょっとした芸なんだ。つまり右手でやってもよかったんだ。
するとこうなる。死んだ男は、ホーンの左手用の銃を右手で握っていたし、右のホルスターさえ使っていたが、ホーンなら、その銃を左手で握り、左のホルスターを使ったにちがいない――このことは、あの晩、殺された男が絶対にバック・ホーンではなかったと言う、大した証拠になるじゃないか」
エラリーは言葉を切って、コーヒーをのんだ。まったく簡単だ――エラリーのいうとおりだ――エラリーが解説すれば。
「こうなるとね」と、エラリーは落ちついて「被害者の正体をうたがう、二つの完全に相関的な、補足的な理由が出来た。それを、一つずつ切りはなしたのでは、ただ有力な推理の本《もと》になるだけだったかもしれないが、二つをいっしょにしてみると、ぼくには、もう、疑う余地もないものになったのだ。死んだ男はバック・ホーンではない。この奇妙な結論には、ぼくも、かなり面くらったが、それでも承認せざるを得なかった。
しかし、あの晩、トラックに転がり落ちたのが、バック・ホーンの体でないなら、と、ぼくは自問した、一体全体、あれは、だれの体だったのだろうとね。そこで、前に話したように、その体は、明らかに、腰まわりが太いという他は、ほとんど見分けがつかないぐらい、バック・ホーンに似ているだれか他の人間の体ということになる。顔も姿も、バック・ホーンそっくりで、射撃も乗馬も上手で、おそらく声もそっくりの男でなければならない。この最後の条件に関してだが、声は、あの晩は、大して重要な役割をもたなかったといえるんだ。というのは、バック・ホーンは、おくれて、出演ぎりぎりにやって来て、グラントに手をふって挨拶しただけだ。このことはグラントが証言している。そしてすぐ楽屋にはいり、まもなく、ローハイド号に乗って競技場に出て来たんだからね。おそらく、だれとも、全然口をきかなかったろうし、口をきいたとしても、やあとか、おうとか、いうぐらいだったろう」
「なるほどね」と、私は同意した。「はっきりしてるねエラリー。しかし、さっきもいったとおり、ぼくには、まだ割りきれないところがあるよ。たとえば、最初の犯罪で殺された人間の正体は、新聞をよんで、知ったんだが、君は、どうやって、事件の最初にそれを割り出すことが出来たんだ?」
「そこだよ」と、エラリーは、さらに深く椅子にこしかけこんで「痛い所をついたね。ぼくにも分らなかったんだ。はっきりとは分らなかったんだよ。しかし、ぼくの理論を解決の方へ推しすすめていく力になるぐらいは、ぼんやりとではあるが分っていたんだ。話をすすめよう、そうすれば、君にも分ってくる。
当然、ぼくは自問した。この男――この死者――はだれだろう――顔も体も、バック・ホーンそっくりの男は、何者なのだ? 直感的に双子の兄弟を考えた。だが、キットとグラントが証言するとおり、ホーンには、この世には全く血縁関係の者はいないんだ。そこで、バックの経歴をしらべてみたら、すぐ回答が出た。つまり、身許の分らぬ男と、もとのスター、バック・ホーンとの瓜二つという点を説明する完全な、不可避的な条件というものは、ホーンと同じような経歴を持つものでなければならないはずだ。ところで、バックは野外劇専門の役者だったし、その役割は、あらゆる種類の緊迫した行動を必要とし、時には、アクロバットのような芸も要るんだ――つまり、西部劇をみれば分るように、ヒーローは窓をつきやぶって馬にとび乗ったり、断崖《だんがい》を馬でとび下りる――例の、ばかげた、離れ業という奴さ。ところで、映画会社は、スターにこんな危険な演技が出来ないときにはどんな手段をとるか――もっと適切に言うと、スターが命がけだったり、手足を折りそうな危険をさけるために、プロデューサーは、どうするか――スターというものは結局、財物なんだからね。これは、ファン雑誌や新聞の≪映画便り≫で、今日の読者諸君なら先刻御承知の方法――吹き替えを使うんだ」
私が、思わずうなったのでエラリーが笑った。「うなるなよ、J・J――ぱくぱくやって水の足りない金魚みたいだぜ。……一体、何を感心して、そんなにおどろいているんだ。完全に筋道の通った理屈《りくつ》じゃないか。ぴったり事実と合致する。危険な演技には、プロデューサーは、吹き替えを使う、ところで、吹き替えをやる人間を択ぶには二つの基本的な資格が要るんだ。第一は、代役をつとめるスターと、肉体的に似ていなければならない。第二に、代役としてスターの出来る演技がやれるばかりではなく、スター以上にやらなければならないんだ。なぜなら、実際に危険な演技をやってのけるのは、吹き替え役なんだからね。西部劇スターの場合、吹き替え役者は、乗馬の達人、投繩の名手、おそらくは射撃の名人ということに疑いない。ところで、多くの場合、顔が似ているということは絶対必要な条件にはならないだろう、というのは、すばらしい名射手ぶりを写すときには、吹き替えの顔はとらないようだからね。しかし、スターと同じ演技が出来る上に、顔もそっくりという特例の吹き替えもいる……そうさ、それを考えているうちに、競技場で殺された男は、バック・ホーンの昔の映画の代役ではないかという可能性がいよいよ濃くなったんだ。それを確認するために、ぼくは、ロサンゼルスの秘密調査所へ電報を打って、そんな代役がいるかどうか、スタジオを捜してもらったんだ。電報の返事は二、三日中に来た、ぼくの思ったとおりだった。〔クイーン氏はこの点をもう一度念を押している。ハリウッドに電報を打ったのは、氏の思考の直接の結果だから、≪読者への挑戦≫の中で、その電報は確認のためで、本質的に重要なものではないと述べているのは、正当なことなのである――J・J・マック〕たしかにそういう代役はいたが、バック・ホーンが三、四年前にとった最後の写真以来、その男はスタジオと関係がなくなったし、どこにいるか見当もつかないというのだ。電報には男の名もあったが、どうせ芸名だろうし、ぼくには必要はなかった。もしハリウッドに電報を打たなかったとしても、映画の代役ではないかというぼくの理論の当然の帰結は、被害者の身許割り出しには正しかったわけだ」
私は両手をふりあげた。
「やめようか」と、エラリーがきいた。
「たのむよ。きかせてくれ。私は理知の神を拝んだだけだよ。やめたらなぐるぜ。たのむから、つづけてくれよ」
エラリーは困った顔をして「やめるぜ」と、きびしく言った。「もし君が、そんないやらしいまねを、もう一度でもしたらね……どこまで話したかな。そう、当然、次の問題が出てくる。なぜ、バック・ホーンは、グラントにもキットにも一言もことわらないで、昔の代役を、またロデオで身替りにするために、雇ったかということだ。――グラントとキットが、ホーンと思われる死体をみたときの、あの深いなげきようは、心の底から湧き出したものとしか思えないから、代役のことは知らなかったにちがいない。ところで、代役を雇ったことについて、二つの悪意のない理由が考えられる。その一つは、バックが急に病気になったか、あるいは健康状態がいっそう悪くなったかだ。そのために、お客を失望させたくなかったか、もう少し|かんぐれ《ヽヽヽヽ》ば、キットや、古い友であるグラントや、興行主のマースに、このことを白状するのを、プライドが許さなかったのかもしれない。もう一つは、バックの役には、とてもむずかしくて、こなせないほど、危険な離れ業がふくまれていたのかもしれない。しかし、バックは急病になったわけではない。出演の日にロデオの医者に診てもらって、健全だといわれている。これは、キットと医者が証言している。では、医者に診てもらってから、開幕までの間に、急に病気になることが、あり得たであろうか。あったとすれば、ホーンは、開演直前の、ちょっとの間に、代役の手配をしなければならなかったはずだ。しかし、あらゆる点からみて、代役の手配は開演の日ではなく、その前日にやられたようだ。その理由のひとつは、その前日の晩、ホテルの部屋に、謎の訪問客を迎えているし、もうひとつには、その前の日に、銀行から預金の大部分を引き出している。だから、代役を呼んだのは開幕の前の日で、その男に代役料の三千ドルと、対の拳銃の一丁を渡したことは、きわめて明瞭だと思えるね――ホーンがその日に銀行から出した三千ドル全部払ったか、その一部かは分らないがね。おそらく着衣も渡しただろう――覚えてるかい、グラントの陳述だと、開幕前の最後の総ざらいに、他の連中はみんな舞台衣裳だったのに、バックは衣裳をつけずに演《や》ったといっている。……これらの事実から、すべてのことは、少なくとも医者の診察を受ける一日前に計画されたもので、ホーンが診察を受けてから後で病気になったから代役を雇ったという理論は成りたたない」
「筋が通ってるね」と、私は、つぶやいた。
「筋が通るか。ところで、ショーの中での、バックの芸がむずかしすぎるという問題だが――それは話にならないよ。初日の最後に行なわれた最後の総げいこに、演技したのは、疑いもなく、ホーン自身だからね。じゃ、なぜけいこに出たのはホーンで、代役の男ではなかったかという点だが。いいかい、ホーンはあの午後、多くの友達と、実際に話をしている。ウッディ、グラント、キット――この連中は、代役が、いかによくバックに似ていても、面と向かって長く話していれば、けっして、ごまかしきれるもんじゃないからね。その上、バックは現に、グラントの目の前で小切手を書いているし、総げいこのすぐあとのことだが、グラントはその小切手を現金にしてやり、ぼくはその小切手が銀行を通っているのを発見した。小切手のサインは真筆まちがいなしだ。これらの事実から明らかに、総げいこをやったのはホーンにちがいないといえる。しかも、けいこは本番のとおりにやったというし、グラントとまき毛グラントの二人が証言するように、ホーンは一つもへまをやらずに、けいこをすませたというんだから、ホーンの能力で出来ない演技というものは、ショーの中には一つもなかったことが明らかだ。
そこで、もしバックが急病にもならず、ロデオの芸の中に、彼には出来ないか、出来そうもないものがないということになれば――なぜ、昔の映画の吹き替えを過去から呼び出して、金を払って代役をやらせたのか。それはさておき、――なぜ、代役が殺されたときに、ホーンが名乗り出て正体をあらわし、事情を説明して警察に協力しなかったか。もし、ホーンが、潔白で事件に関係がないなら、当然、名乗り出る義務を深く感じるはずなんだ。
ホーンが名乗り出なかったわけは、二通りに説明出来ると思った――あの男が潔白だとしてね。その第一は、ホーンには敵があって、その敵の計画を、あらかじめ知っていた。だから、代役を雇って代わりをやらせた。自分の命がねらわれることを知っていて、代役の男を、一種の|いけにえ《ヽヽヽヽ》に供したのだ。そして、殺人事件のあとは、自分の安全を守りつづけるために、あえて名乗り出て来なかった。そうすれば、敵がホーンを死んだものと信じている限り、ホーンは安全なわけなんだ。しかし、この場合には、なぜ、ホーンは、この事情を最も近い肉親のキットや、親友に、こっそり知らそうとしなかったんだろう。ぼくがすぐに、グラントとキットの生活を四六時中見張らせ、通信物は途中で押えて読みとらせ、電話は全部録音させることを主張したわけはここにあるんだ。しかし、それからは何も得られなかった――人間の力で見いだせるかぎりの手はうったが、ホーンからの通信はひとつもなかった。このホーンの大きな手落ち、つまり養女とも友達とも連絡をとらないことで、ぼくは、彼は敵があるから、自発的に姿をかくしたのだろうと思った理論を捨てた。そして、彼の無実を考えられる、もうひとつの、理論に思いついた。それはホーンの失踪《しっそう》と、ホーンと間違えて殺された男の死を説明し得る、ただ一つの可能性のある理論なのだ。それはすなわち、初日の夕方、ホーンが敵かまたは敵の一味に誘拐《ゆうかい》されて、ホーンの役を、何か分らぬ目的のために吹き替えがつとめ、その代役が、彼の悪仲間か、偶然にせ者であるのを発見したホーンの友達の誰かに殺されたという筋なのだ。しかし、これは非常に目のあらい、満足のいかない理論で、ほとんど支持出来ない――というのは、たとえば、誘拐者から何の連絡もないし、はっきりした動機も考えられない(もし、ホーンの娘か、友達から身代金をとろうとするなら、当然、何かの連絡があるはずだ)――そこで、この理論を可能性がないものとして、決定的に捨てたわけではないが、なにしろ薄弱な線だから、一応捨てることにして、もっと有望な捜査を、ぼくが手がけはじめても無理はあるまい。と、同時に、この理論にしても、いまひとつの理論にしても、ぼんやりとではあるが真相をみちびき出す可能性があったから、ぼくは死んだ男について知っていることを、発表しないようにしたんだ。事実について最終の結論がついていないのに、うっかりはやまったことをしようものなら、ぼくは間違いを犯すだろうし、ホーンを死なせることになるかもしれないと思ったのだ。もちろん、ウッディ殺しは、予想もつかなかったのだ」
エラリーは、ふと黙りこんで、かなり長い間、口をひらかなかった。そして、何んともいえない不愉快な顔をしていた。ウッディ事件のいきさつを思い出すのが、ひどくいやだったのだろう。世の推理作家たちが、その作品の中で、登場人物たちが、身のまわりで、どんどん殺されていくような時にでも、その主人公である探偵を、のんきに坐らせて、だじゃれなどとばさせておくという、いいかげんな態度を、いつも、エラリーがひどく、にがにがしがっているのを私は、よく知っていた。
エラリーは吐息をついて「ところで、この段階まで来たとき、ぼくは、当然、一つの疑問にぶつかった。ホーン失踪と、代役の殺害に対してホーンが無実のものと考える線が、成立しないなら、あの夜、はたして、ホーンは代役を殺すことが出来ただろうかということだ。ここで、ぼくが最初の夜の捜査で、はっきり握《つか》んだ残りの四つの大きな手がかりが役に立ってくるのだ。それらは、可能性の範囲をせばめるだけではなく、犯人に決定的な二つの条件を課すもので、もしホーンが犯人であるなら、その条件がホーンに当てはまらなくてはならない。
その二つの条件の第一のものは、コロシアムのお椀張の観覧席の形状と、被害者の弾きずの性質に関係がある。競技場は、むろん、お椀形の一番下の部分に当たる。一番下の手すりの席や、桟敷でも、競技場の土間からは十フィートは高いのだ。ところで、二つの殺人とも、弾は被害者の胴体にはいっている。プラウティ医師の調べでは弾道は明確に下降線なのだ。表面的に見れば、このことは、弾が上方から、二度とも撃たれたことを示す――つまり、観覧席の観客からだ。この見方は、一応正しいものとして関係者一同に受け入れられたが、ぼくは、犯人が上から撃ったということを断定する前に、まず解いておかねばならない問題がひとつあると思った。その問題というのは、弾が肉体に命中したときの被害者の体の位置はどうだったかということだ。犯人が上から撃ったのが正しいと決定するためには、弾の当たった瞬間、被害者の胴体が、普通に直立していたものとしなければならない。つまり、普通に土間に直角で――馬の背で直立していて、前に斜めにかしいでいたり、後や横に斜めにかしいでいてはならない」
私は眉をしかめた。「待ってくれ。ちょっとついて行けないな」
「じゃあ、描《か》いてみよう。ジューナ、すまないが、紙と鉛筆を持って来てくれよ」目をむいて、きき耳を立てていたジューナが、とび立って、求められた品物を、すぐそろえた。エラリーは、しばらく、紙に図を書いて、やがて目をあげた。「ぼくが言うとおり、弾の当たったときの体の正確な位置を知るまでは、射撃の角度を決めることは、不可能なんだ。特殊な場合が、その点を明確にする。二人の被害者に弾が当たった瞬間の胴体の位置を映したフィルムを拡大してみると、二人とも、鞍から右へ、垂線に対して約三十度、かたむいていたことが分った。(被害者からいえば左側、観察者やカメラからいえば右側になる。ぼくは混同をさけるために、いつも右側という)
さて、この絵をみてくれたまえ」
私は立って、エラリーの椅子に近よった。エラリーは四つの小さな絵を描いていた。
「第一図は、普通の直立のときの被害者の胴体を示すもので、プラウティ医師は、これを想像していた。絵の人物の心臓の上にある小さい矢印は、弾が体に当たったときの方向を示すのだ。プラウティ医師は、地面に対して三十度の角をもつ下降線だといっている。第二図は、まだ被害者が第一図と同じ体形である。つまり、もし、胴体が、はっきり馬の背に直角であるなら、矢印を点線で伸ばして見れば、射撃の角度が明確になる。弾道は、見れば分るように、決定的に下降線をなすから、弾は上方から発射されたという決定を支持出来るだろう。いいかい、その決定は、図に示すように、もし被害者が馬上で直立していたのなら正しい。しかし、被害者は、馬上で直立してはいなかった。フィルムを拡大したものによると、被害者は、右に約三十度かしいでいた。それが第三図だ。
そこで、第三図では、人物を右にかしがせてみる。実際にそうだったんだから。当然、弾の方向を示す線も、そのままにしておかなければならない。なぜなら、ひとたび弾が体にはいってしまったらその弾の角度は被害者が立っていようと、腰かけていようと、後にかしいでいようと、横にかたむいていようと、胴体に対してつねに同じ関係を保つはずだ。もし胴体がゆれれば、弾の進路もゆれる。胴体と弾の進路の関係は、一定不変の要素なのだ。……そこで第四図では、右にかしいだ胴体に当たった弾の進路をのばしてみる。すると、どういうことが分るか? 線の方向、つまり弾の進路は、正確に地面と平行なんだ。言いかえれば、代役と、ウッディの胴体は(二人ともほとんど同じ姿勢だったから)右に約三十度かしいでいたのに、弾きずは水平についている、つまり、弾の進路は下降線ではなかったのだ。上方から発射されたものではなくて、間違いなく水平に発射されたのだ」
私はうなずいて「すると、もちろん、プラウティ医師が三十度をえがく下降線だといったのは、あの二人が、鞍の上に、銅像のように直立して乗っていたものと信じたからだね。しかし、体が三十度かしいでいたから、水平に撃った弾の進路を下降線三十度にさせたんだね」
「少し分りにくい言い方だが」と、エラリーは笑って「根本は正しいよ。さて、このことが分ったので、ぼくは、当然、容疑者中、二つのクラスにはいる者を除外した――これは、大掃除ってわけだったよ。第一は、一番下の手すりに添っている席や桟敷にいたものも含めての観客全員だ。なぜなら、桟敷の床は競技場の土間から十フィートは高い。だから桟敷に坐っていた者は、だれでも、約十三フィート以上は土間から高かったはずだ。したがって、この高さから、馬の上で三十度横にかしいでいる人間をねらって撃てば、もっと、はっきり下降線をえがくだろうし、数学が苦にならないなら計算してみれば分るが、命中したときの弾の角度は六十度以上の下降線になるだろう。そうなると、ちょっとみると被害者は屋根から射たれたようになるぜ。次に第二の集団除外だが――ニュース映画の撮影台で働いていた連中も、台が、競技場の土間から十フィート高く組み立てられていたから除外だ。それにこの台から撃てば、右側からでなく正面から撃つことになる――カメラが正面から映していることがこの証拠だ。その上、弾の進路は、やはり三十度以上の下降線になる。
しかし、命中したときの弾道は、説明したとおり、地面に平行なんだ。すると犯人は、馬に乗っている人間の胸を、平行に撃つことの出来た奴だから、やはり馬に乗っていたんだ。分るかい」
「ばかじゃないよ」と、私がやり返した。
エラリーはにやにやして「そうむきになりなさんな。実は、そうすぐに分るとも思えないんだ。なるほど、一見、明解な推理だがね。もし犯人が競技場の土間に立っていたのなら、弾の進路は少し上昇線を示すだろう。また、もし犯人が観客席にいたのなら、弾の進路は鋭い下降線を示すだろう。だから、弾が完全な水平直線で被害者の体にはいるためには、犯人は、前にもいったとおり、被害者と同じ水平直線上にいなければならないことになる。しかも、被害者が馬上の人だから、犯人もまた馬上で、自分の胸の高さに拳銃を構えて撃たなければならない。
すると、論理的に追いつめた唯一の容疑者は、始終、被害者の後ろからついて行った騎馬の一団、つまり競技場の中にいた騎手の中にいなければならないということが、すぐに分った。騎手たちの他にも、馬に乗っていた男が一人いる。あばれん坊ビル・グラントだ。しかし、グラントには、およそ、あの弾を撃つことは出来なかったろう。というのは、グラントは殺人の行なわれたとき、二度とも競技場の中央にいたからだ。それに、カメラが被害者を真正面から撮っている。ということは、被害者の体に命中した弾が右から来ているから、発射した位置は、被害者と、ほぼ直角をなす、マースの桟敷の方向でなければならないことを意味する。しかも、グラントは、カメラと同じように、事実、被害者と向き合っていた。すると、グラントはあの弾を撃てなかったはずだ。しかし、他の騎手たちの一団はみんな、あの弾が撃たれた瞬間、マースの桟敷の真下にいた。このことは、騎手の一人が犯人だという、ぼくの推理と、一致する」
「なるほど、分ったが」と、私がいった「ぼくに納得できないのは、君が観客の中のどの一人も犯人ではないということを完全に知っていながら、なぜ、二万人の無実の人間を引きとめて、武器を捜すという、迷惑至極な面倒をかけるのを黙って見ていたのかだ」
エラリーは炉のほのおを見ながら、にんまりと微笑した。「駄目だなJ・J、君も、定義を混同するという、つまらない間違いを、おかしている。武器を持っているものが必ずしも人殺しじゃないよ。共犯者というものもあるじゃないか。あの二つの殺人のあとの混乱にまぎれて、容疑者と思われる騎手が、観客の中の何者かに武器を投げ渡すことは、わりに、簡単に出来ただろうからね――頭上の手すりごしにね。そして、むろん、兇器を捜すということは、われわれにとって絶対に必要だったんだ。だから、あの大がかりな方法をとったんだ。
さて、もし、犯人が競技場内の騎手の一人とすると、ホーンは――彼が犯人と仮定して――騎手の一団の中の一人として出場していたにちがいない。どうして、そんなことが出来たか。簡単だ。ぼくは自問自答した。当然、バック・ホーンではなくて、別の人間になっているだろう。変装しているだろう。もともと役者だったのだから、変装など、全然やさしいものだ。どんな顔をしているだろうか。ホーンは白髪だったのを知っている。だから、変装しようと思えば、きっと髪を染めるにちがいない。それから、服装を変え、姿勢と、あるき方と、声とを少し変えれば、表面的にだけホーンを知っている連中を、やすやすとだますことが出来る。それからまた、みにくいやけどのあとをつくったホーンの、ずるがしこい洞察力を見てみたまえ。あのようなきずあとは、他人のあらゆる注意を一か所に集めて他の特徴に気がまわらないようにさせがちだ。それにまた、ぼくは自分でもそうだが、一般に、人々は、きずあとのある顔をじろじろ見まいとするものだ。そんな不幸にあった人間の気持をきずつけるのを恐れるからだ。ぼくは、ホーンのずるがしこさに、むしろ感心しているんだ」
「待ってくれよ」と、私は横槍を入れた。「ぼくは、君の重大な手落ちをせめてもいいと思うぜ。君がわざと手をはぶいたのでなければいいがね。もし、ホーンが隊員の中の一人として行動しているということに、そんなに確信があったのなら、なぜ、騎手たちを並べといて、しらみつぶしに捜査しなかったんだね」
「もっともな質問だ」と、エラリーはうなずいて「それへの答えも、もっともなものなんだよ。ぼくが、連中をならべて、化けの皮をはがそうとしなかったのは、ホーンが何か他の目的をもって行動しているのが明らかだったからだ。犯人が好んで犯行現場にうろついているなんてことは、めったにあるもんじゃない。なぜ、ホーンはあえて、それをしているのだろう。もし人殺しをしようとするなら、なぜ、こんな、こみいった、危険な方法をえらんだのだろうか。暗い通りで、一発やって、すばやく逃げる――この普通のやり方で犠牲者を殺すのは、ホーンにとっても、やさしかったろうにさ。しかし、むずかしい方法をえらんだのは、なぜだろう。それを見つけたかったのだ。ホーンが自繩自縛《じじょうじばく》になることをのぞんだのだ。事実、あの男は待つ必要があったのだ。まだしなければならないことがあったのだ。それが、ウッディ殺しだった。それを、すぐに説明しよう」
「その上に」と、エラリーは少し顔をしかめてつづけた「ぼくの好奇心、知恵といってもいいが、それに、挑戦してくるような、いくつかの要素があったのだ。ぼくに全然、分らなかった犯罪の動機の問題はさておき――兇器の自動拳銃は、一体、どうなったのか。これは本当にむずかしい問題だった。その上、拳銃が出なければ、たとえ事件を解明しても――もしホーンの仮面をはがしても、彼が頑強に否認すれば――真犯人としてつかまえることが出来なかっただろう。
そこで、ぼくはわざとホーンの正体をあばくのを引きのばしておいたのだ。決して、次におこることを期待していたのではない――何かを期待する理由は一つもなかったのだからね――殊《こと》に第二の殺人など」と、エラリーはため息をした。「そのことでは、ぼくもかなり不愉快なめにあったよ。J・J。同時に、ぼくは出来るだけ、さりげなく、一座の連中のまわりをうろつきはじめた――ホーンに疑いをおこさせずに、彼をつきとめてやろうとしたんだ。ところが、失敗だった。あの連中は排他的だったから、ぼくは何も引き出せなかったのだ。あの男の個性が、一座の大きな個性の中に、とけ込んでしまっていたのだ。ぼくは、キット・ホーンと仲よくして、バック・ホーンが、必ず連絡してくるだろうと、それを待ったが無駄だった。
しかし、ウッディ殺しのあとで――直後、すなわち、あの翌日――座員の一人が姿をかくした。ベンジー・ミラーと名乗る男だった。それは、一月前の、初日の夕方、たしかにホーンが書いた紹介状を持って来て、仕事をもらった男なのだ。その男は外見上、髪の色と、やけどをとってみると、ホーンそっくり、ホーンかもしれなかった。それに、紹介状の中で、ホーンの愛馬インジャン号に乗ることを許可されている男なんだ――これが決定的な手がかりになることを、これから説明しよう。ホーンにとって、初日の晩に、自分の愛馬に乗らないという正当な理由はなかったのに、他人を乗せることを許可したんだ。これらの事実から、姿を消したミラーこそ、実際はバック・ホーンなのだということが疑う余地がなくなった。すると、ホーンが犯人として、第一の条件をそなえていることになる。つまり、ホーンはミラーに化けて、二度とも、殺人のときには馬に乗って競技場にいたんだからね」
私は、ため息をした。
「犯人としての第二の条件は、ぼくのつかんだ六つの大きな手がかりの中の、五番目と六番目のものから推理したのだ。五番目のものは、見物人の一人として気がついたもので、カービー少佐の映画班が撮影した発声ニュース映画と、ノールズ警部補の報告によって確認された。グラントが発進の合図の一発を撃ったあとで、ホーンと推定される男を後から追いかける騎手たちはただ一度、一斉射撃をしただけなのを、ぼくは覚えている。騎手たちの一斉射撃と、被害者がトラックに転落したのは、ほとんど、同時といっていいくらいで、わずか数秒の差だった――少し乱れた一斉射撃のあとは、もう一発も撃つ暇もないほど短い時間で、すぐ、人も馬も一かたまりになってもみ合っていたのだ。一斉射撃がただ一回だけだったことは疑問の余地がない。その証拠には、全騎手のどの拳銃も、ただ一発しか発射されていないのが調べで分った。
さて六番目の最後の手がかりだが、それは座員一同のどの拳銃も、ホーンや、グラントや、狂気小僧テッド・ライヤンズの拳銃も、あの致命的な一発を撃ちえなかったということだ。ノールズ警部補は、あの致命的な一発を撃てるのは、二十五口径自動拳銃だけだと、確信をもって報告している。そして、あのとき集めた拳銃は、一丁以外は全部三十八口径かそれ以上のものだった。そして、その一丁、ライヤンズの二十五口径も、弾道テストの結果、兇器とはなりえないことが証明された。
この二つの事実を合わせてみると何が分るか。いいかい、分りきったことさ。もし、犯人が座員の一人であって、しかも全座員の銃を調べてみて、致命傷の一発を撃ったものが一丁もないなら、犯人はわれわれが調査していない銃を使ったことになる。しかし、どうしてそんなことが出来たろう、と君はきくだろう。そして君は言うだろう、一人残らず身体検査して、兇器は見つからなかったじゃないかと。ぼくは答えよう。犯人は兇器をどこかへかくしたんだと。その問題はしばらくおいておこう。ところで、今、肝心な点は、犯人が二十五口径自動拳銃を使ったことと、一斉射撃はただ一回だったのだから、騎手の一団が射撃したときに、犯人もそれを使ったにちがいないことなのだ。言いかえれば、犯人は実弾をこめた、もう一丁の銃を持っていて、空弾《からだま》をこめた銃を撃つのと同時に、それを射撃したことになる。すると、両手で射撃したことだ。つまり、犯人が両手使いだったのではなかったかと、ぼくは、自問した」
「必ずしもそうとは思えないな」と、私は反対した。「君は犯人が、一度に二丁の銃を撃ったと推理して、それをむりにも正しいものにしようとしているんじゃないかな。君は、一斉射撃は少し乱れていたといったじゃないか」
「そうだよ。しかし、騎手たちは手を上に上げていたのを思い出してほしいな――みんなは天井に向けて空弾を撃ったんだ。――犯人は当然自分も疑われないように注意しただろうと思う。だから、皆といっしょに天井へ向けて空弾を撃たなければならなかったし、事実、撃ったんだ。しかし、ただ一回の一斉射撃の後は一発も撃たなかったから、彼はもう一方の手に、実弾をこめた銃を持っていて、一斉射撃と全く同時に、それを撃ったものと推定するのが正しいと思うな。
ところで、この珍しい問題、つまり、両手使いのことを考えるとしよう。そんなことが出来たか。絶対に、とはいえないが、たしかに出来るんだ。もし出来るものとすれば、この線はまたバック・ホーンにもどる。というのは、彼は長年、対《つい》の拳銃を持っていたからだ。二丁拳銃の男は、射撃に関しては、両手使いだ。バックは、その他の点でも論理的に容疑者であるばかりでなく、二つの点で、犯人としての条件に合うんだ。二丁拳銃であっただけでなく、すばらしい名射手だったんだ――これは証言ずみだ。あの致命的な一発を撃った男は、すばらしい名射手だったし――事実、一斉射撃の反響が消えないうちに、拳銃の弾倉を全部|空《から》にするまで撃つぐらいのことは、ホーンにとってはやさしいのに、一発以上は撃つのをいさぎよしとしなかったのだ。これも筋が合うだろう。
しかし、あんなに徹底的に調べたのに見つからなかったほど巧妙に、第二の武器を始末するにはどうやったのだろう。あの二つの事件で最も手を焼いた点は、兇器が見つからなかったことだ」と、エラリーは一息いれて「ぼくは、片腕のならず者ウッディが死んだあとで、やっとその謎をさぐりあてたのだ」
「たしかに、それが、ぼくにも謎だった」と、私はひざをのり出して「ぼくの知る限りでは、新聞にはそれを説明するものは、一言も出ていなかった。一体どうやったんだろう、君は最後まで発見できなかったのか」
「ウッディが死んだ次の日に、その答えが出たんだ」と、エラリーは渋い顔をした。「ちょっと話をもどしてみよう。この二回の殺人事件が同じ犯人によって行なわれたのは明らかだった。状況も同じだし、殊に、あんなに厳重に捜査したにもかかわらず兇器が出て来ないというのは、武器の隠し方が、二回目の殺人でも、一回目と同じ方法がとられたことを示している。そして、ウッディ殺しで武器が消えたということは、われわれが同一犯人を相手にしていることを証拠立てるものだった。
さて、なぜ、ホーンは失踪する前に、「一番騎手のウッディを殺したのだろう。二人が、職業上の競争相手だったことは事実だが、それだけではあの殺人行為を説明するためには、明らかに根拠が薄弱すぎる。実際はホーンがウッディを殺さなければならないよりもウッディの方が――表面的には――ホーンを殺す動機を余計に持っていた。というのは、ホーンがウッディのスターの座を横取りしたので、怒っていたのはウッディの方なのだ。ところがちがう、恐らく、こんなふうに説明が、つくんじゃないかな。それは、ひょっとしたことで、ウッディがホーンのごまかしを発見して、最初の犯罪を犯したのがホーンだということに気がついたのかもしれない。そして、もし、ミラーなる男が実はホーンなのだと知っていて、ウッディがミラーに対決したとすれば、ホーンは、自分の命を救うために、ウッディを殺さなければならなかっただろうよ」
「犯罪の可能性を説明するためには非常によく理論が通ってるね」と、私が生意気に口をはさんだ。「しかし、君はいつも具体的な証拠だけをたよりに捜査を進めたと思うのだがな」
「ぼくもそうしてるつもりだがな」と、エラリーはつぶやいた。「そして、君のようながりがり亡者にも信じられるような実証を、この理論に与えられると思うんだ。その実証がどこに求められるかといえば、まき毛グラントの一度は盗まれたが、すぐにウッディの部屋から見つかった、あのみどり色の銭箱の中にあった一万ドルが、それなのだ」
「どうして、それが実証になるのだ」と、私は、半信半疑できいた。
「こういうわけだ。あの荒らされた銭箱を調べてみると、ウッディが金を盗んだのではないことが分った。とんでもない飛躍した結論だと言いたそうだね。ところがそうじゃない。あの箱の二つの錠前は、鍵ぶたが、ちぎれるほどひんまげられていた。二つとも同じ方向にひんまげられていた。明確に、箱の背に向けてだ。箱の両側に蝶番《ちょうつがい》がついていたのを覚えているね。箱の前面には蝶番はなかった。それだけ言えば分るだろう」
「分らないな」と、私は正直にいった。
「こんなにはっきりしてるのにな」と、エラリーは情けなさそうに「大抵、人は、ものをひねるのに、利《き》く方の手を使って、いつも同じ手で同じ方向にやるものだ。特に力が要る場合はね。もし、ねじる掛金《かけがね》が二つあるとすれば、(右利きなら)まず、右側の一つを右手で右にひねり、それから箱をまわして左側の掛金をひねる。箱をまわせば、自然に、左側の掛金も、右手で右の方へひねるようになる。こういう場合は、まげられた金属の|ひずみ《ヽヽヽ》は、はっきりした左右反対を向くはずで、グラントの箱のように同じ方向に曲げられることはないはずだ。しかし、これは、両手がそろっていて、片一方が利き手であるという普通人の話しだ。大抵はそうだ。ところが、ウッディは、片腕をまわして左側の掛金をねじるに違いない。どっちにしても、片手だけでやるんだから、ねじれる方向は、明らかに反対を向くはずだ。ところが、実際には二つとも同じ方向にねじられていた。してみると、掛金をねじったのはウッディではないし、したがって金もウッディが盗んだんじゃない。
その上、もしウッディが盗んだんなら、ちょいと探せばすぐ分るような自分の楽屋の、鍵もかけないテーブルの引き出しなんかに盗品をかくすだろうか。その金が、ウッディの部屋の鍵もかけないひき出しに放うりこまれていたということは、もしウッディが自分で置いたのなら、その金が盗まれたものだと知らなかったのだし、もし自分で置いたのでなければ、ウッディは、全然、盗難のことは知らないのに、彼を泥棒にみせるために計画的にその金が彼の引き出しに入れられたのだ、ということになる。
ところで、もう一度、荒らされた銭箱の話にもどろう。二つの掛金が、逆向きでなく、同じ方向にひねられているという事実は、二つが同時にひねられたということを証明する――つまり、泥棒は、両手でひとつずつ掛金をつかみ、二つを一気に、箱の背の方へ、ねじまげたのだ。一体どういうことなんだ。犯人は両手利きにちがいない。掛金は、金属だったんだぜ――薄い弱いものだったが、金属は金属だ。一つの掛金をねじ曲げるのにも、利く方の手の強い力が要るはずなんだ。しかも、泥棒は、あの場合、両手を同じような強さで使っている。分るだろう。たしかに、両手使いの泥棒なんだ。いや、いや、分ってる」と、エラリーは、私が反対しそうなのを、急いで、おさえて「君は、完全無欠な結論ではないと言うつもりだろう。多分そうだ。しかし、ぼくが言いたいのは、それが一つの指標だと言うことで、それは君も否定できないだろう。もし、泥棒が両手利きだったとすれば、殺人犯、バック・ホーンも両手利きなのだから――たしかに、おどろくべき、偶然の一致だね。そうだろう。まき毛グラントの金を盗んだのはホーンだったというぼくの意見はほとんど正しいことになる。
しかし、一体、なぜ、ホーンかミラーか、どう呼んでもいいが、あの男は、まき毛の金を盗んだんだろう――親友のむすこの金なんだよ。絶望からか、せっぱつまった必要からか、心やすだての図々しさからか。しかも、もし、ホーンがあの金を盗んだのなら、どうして、その日のうちにウッディの部屋から捜し出されるようなことをしたのだろう。すると、ホーンは、説明はどうにでもつくが、とにかく、金が欲しくて盗んだんじゃない。筋道を立ててみるのはやさしいと思うな。つまり、ウッディが、どういう方法か分らないが、ミラーの正体は、ホーンだとつかんだ――多分、変装に気がついたんだろう――そして、そのつもりでホーンにぶっつかって行ったんだ。こんな場合、ウッディのような男なら、どうするだろう」
「ゆすりだな、もちろん――口どめ料だ」と、私がつぶやいた。
「そのとおり。ホーンは、ウッディを永遠に黙らせるまで、欲をみたしてやらなければならなかったのだ。ホーンは、グラントが、まき毛に遺贈金を渡す時にチャンスをつかんだのだ。ホーンはその金を盗んで、ウッディにやった――ウッディは、それがまき毛の金だと、疑う暇もなかったから、かくす理由もなく――その金を楽屋のテーブルの引き出しに入れて置いたのだ。ホーンは、泥棒がばれたときにはウッディは死んでしまっているし、金は見つかって、まき毛にもどるだろうし――当然、ウッディのほかは――だれにも迷惑がかからないだろうということを知っていたんだ。ホーンは実に、ずるがしこい奴だよ。もし、自分の金を、ウッディに払えば、あとからウッディの引き出しから見つかっても、とても取り戻せなかったろうよ。ミラーとしてはとても請求出来ないしね。しかし、まき毛の金を寸借しておけば、自分の金は手つかずで、しかも、まき毛の金も戻るという寸法だ……あらゆる点が、ホーンを犯人とするのにぴったりだ。理論的な条件にも、もっともらしい条件にも、ぴったりだ」
「しかし、おそろしい危険をおかしていたんだね」と、私は身をふるわせて「ホーンだと見破られたら、どうするつもりだったんだろう」
「さあね」と、エラリーは考えながら「しかし、君が考えるほど危険じゃなかったろうよ。実際には、ウッディをのぞけば、ホーンをよく知っていて、見破れる人間は、たった二人だったんだ。キットと、あばれん坊ビル・グラントだ。キットさえ、近ごろでは、ごくたまにしか養父に会っていないと、ぼくに言っていた。しかも、もしキットが、偶然ミラーの変装に気がついたとしても、ホーンは、彼女が絶対に口を割らない自信があった。グラントにしても、まったく同じことだ。なにしろ、竹馬の友なんだからね。しかしぼくは、グラントが、第一回の殺人の直後から、真相を知っていたのではないかと疑っている。神経的に参《まい》っていたからね。ウッディが殺された日の午後、グラントは、だれかをちらっと見かけたらしかった。そしてまっ青になった。あのとき、きっとミラーの顔をみたにちがいない――ミラーがホーンだったことに思い当たったんだ」
エラリーは、新しくたばこをつけて、ゆっくり煙をはいた。「ところでミラーに化けたホーンが失踪したあとで、ホーンを、おびきよせるための、|わな《ヽヽ》に使ったのは――ホーンが信頼していた――グラントの友情だったのだ。ぼくは、ホーンを、おびき出す、ただひとつの手を心得ていたんだ。それは、親友のグラントか、本当の娘のように愛しているキットに、彼の犯した罪がきせられそうなおそれがあるという風にしてやることなんだ」と、ひと息入れて「汚い手だがやむを得なかったんだ。ぼくはグラントを生き餌として使ったが、その理由は説明するまでもないよ。つまり、古風な人間の友人に対する誠実さという美徳で、友達が無実の罪で苦しむのを、ホーンが放っておけないだろうということを見抜いていたのだ。しかし、どうしたら、グラントを逮捕するように|はめ《ヽヽ》こめるか。手っとり早くいやおうなしに逮捕するただ一つの条件は、具体的な証拠をつかむことだ――どんな場合でも、最もいい証拠は、容疑者のものと推定される兇器を見つけることだ。ぼくは、グラントが競技場内でいた場所からいって、到底あの犯罪をなし得ないのはよく知っているが、そんな事実には、かまっていられなかった。それに、ぼくの他には、弾の命中した角度と方向に関して、だれひとり、正確に分析していないことも明らかだった。そして、グラントを逮捕すれば、あとはとんとん拍子に行くだろうということも見抜けた。
とにかく、例の自動拳銃を見つけなければならなかった。ついに見つけたんだ――偶然だと君は言うだろうが、あれも全くの偶然とはいえないんだ。こんな風に考えて見たまえ。なぜミラーは、最後に失踪したのか。いいかい。彼の犯罪は完了した。しかも完全にだ。次には将来の安全を計らなければならなかったんだ。しかし、ミラーはミラーではない。本当はバック・ホーンなんだ。ミラーは、一時的に、特別の目的のために作られた、名であり、身分だった。気の毒なぼくのおやじは――なぜ、ベンジー・ミラーなる人物の過去がさっぱり分らないのかを不思議がっていたよ。もともと過去はなかったんだ。そこで、ぼくはホーンの立場になってみた。もしミラーが失踪すれば、警察はだれを捜査するだろうか。明らかにミラーを捜す。とすれば、次になすべきことは、ミラーとして失踪し、直ちに、ミラーの扮装と自分とを永遠に捨ててしまうことだ。そうすれば警察は永遠にミラーを探すだろうが、探し当てようがない。もし警察をして、永遠に架空の証拠を追わせ、ウッディ殺しの犯人と信じさせておく方が、身の危険がないどころか――事実、有利なわけだ。兇器の上に失踪の事実があれば、警察がその男を犯人として追及する理由としてはそれで充分だ。そこで、ぼくは、ミラーまたはホーンは、失踪したあとで警察の手で発見されるような所に、兇器を置いて行くだろうと考えた。どこへ置いて行くだろうか。二つのうちの一つの場所だ。ホテルの部屋か、コロシアムの、彼の使っていた楽屋だ。ぼくは、まず楽屋の方をえらんだ。思ったとおり、拳銃が出て来た。
拳銃を見つけるやいなや、その晩、ぼくは自分で――よせよ、変な目付きをしてみるなよ――グラントが夕方の外出をしているのをたしかめてから、彼の部屋に、その拳銃を置いて来たんだ。あとは知ってのとおりさ。ぼくが、おやじを連れて行く、兇器を発見する、グラントが逮捕される、新聞が、ぼくのためみたいに、いやおうなしに、そのニュースを拡《ひろ》めてくれる――そして、ホーンがあらわれる、すべてこちらの計画どおりさ。だがホーンは、彼の友達が無実の罪を着せられるのを防ぐためだと思っていたのさ。おまけに、ミラーの扮装で姿をあらわした。察するに、ミラーだったことを証明したかったのだろう。というわけで」と、エラリーは苦笑しながら「呪縛《じゅばく》はとけたり、さ。どうだ、よかったろう」
ジューナが、コーヒーのおかわりをついだので、私たちは、しばらく、黙って飲んでいた。「とてもよかった」と、しばらくしてから、私は言った「とてもよかった。しかし完全じゃないな。君はまだ、ホーンが最初の殺人のときの兇器を、どうやってああも見事に隠したか、その謎をといていない」
エラリーは夢からさめたような顔で「ああ、そのこと」と、いいわけするように手を振って「あとまわしにしといて、話すのをうっかり忘れていたんだ。むろん、面白いよ。しかし、そいつも、所詮は子供だましだったさ」私はふふんと鼻を鳴らした。「分ったよ。J・J簡単なものさ――分ってみればね。こみ入った謎ほど、解けやすいものさ。ぼくらのおなじみの作家チェスタートンは、非常に簡単な謎の心理を上手に使って小説を面白くしてるじゃないか。もしブラウン神父がここにいたら――冷汗ものだ……」と、エラリーは笑って、椅子をきしませた。「ところで、その問題なんだが、なんというかな? つまりその問題はだね。兇器の自動拳銃が、第一回の殺人後、どこにあったか、第二回の殺人のあともだがね。ミラー、またはホーンは、何十人の刑事たちが、やっきになって捜しても見つからなかったほど完全に兇器を隠すためには、どんな手を使ったかだ。
カービー少佐の試写室で、二度目の時さ――つまり、ウッディ殺しのあとさ――ぼくのみたホーン殺しのときのニュース映画は、あの晩、コロシアムで撮ったフィルム全部のシーンのものではなくて、劇場用に整理したものだったのに気がついたのがよかった。
少佐にたのんでカットしたフィルムを映してもらった時、ぼくたちは、殺人の当夜には見おとしていた多くのものを見ることができた。というのは、殺人のあった現場では、ぼくらは物理的にも感情的にも、非情なフィルムのように全般を展望することは出来ないからね。殺人のあとの一場面で、酒ずきの小男カウボーイ・ブーンが、乗り手のおりた馬の群を競技場の片すみの水場につれていくのが映った。一頭の馬があばれて、水をのむまいとした。いつもより酔っていたらしいブーンが、馬をなぐりつけるという、許すべからざる罪を犯した。すると、その時だ、レンズの中に一人のカウボーイが、おどり込んで来て、ブーンからむちをひったくって、すぐにあばれる馬をしずめたんだ。ぼくはブーンからきいて、その画面にとびこんで来て、馬をしずめた、怒かれる紳士こそ、他ならぬ、われらの友ミラーだと知ったんだ。しかも、その馬たるや、賢《か》しこい老馬、インジャン号だったんだよ。そして、インジャン号の持ち主は、いわずと知れたバック・ホーンさ。こうなればもう分るだろう。いいかい、ホーンの持ち馬である、あばれ馬をしずめることが出来たミラー、このことで、ミラーがホーンだという理論が確認された。もうひとつには、あの馬の妙な反応さ。他の馬がみんなよろこんで水を飲んでいるのに、あの馬だけが飲みたがらない、こりゃ、妙だとぼくは思った。いっそう妙に思ったのは、ミラーが競技場をとび出して来て、ブーンをとめた事さ。――何をとめたんだと思う、J・J」
「馬をなぐるのをとめたんだろう」
「ちがう、いやがる馬にむりに水をのませようとするのをとめたのさ」と、エラリーが笑って、あきれている私へ「忘れちゃいけない。あの自動拳銃は、お椀形の競技場のどこからも発見出来なかった。あの建物は天井から地下室までかきまわされたし、人間という人間は一人残らず胸の悪くなるほど調べ上げたんだ。馬具まで徹底的に洗ったんだ。しかも、妙な言い方だが、たった一つだけ、調べ残したものがあった」と、ひと息いれて「馬そのものさ」と、エラリーは言葉を切った。
私は考えあぐんだ。「残念だが」と、かぶとをぬいで「君のいうことが分らないよ」
エラリーは、おかしそうに手を振った。「あんまり奇妙だからだよ。だが一応は考えてみるんだな。拳銃を馬にではなく、馬のからだの中に、かくせないものかな」
私は、信じられないというふうに目をむいた。
「ねえ」と、エラリーは顔中で笑いながら「考えられるだろう。ぼくは、インジャン号が、ただの馬じゃないのを思い出した。どうして、大した馬なんだ。ブーンも――キットも――インジャン号は、バックが昔、映画に使った、曲芸用の馬だと言っていた。ここが肝心なんだ。インジャン号は、水を飲むことを拒んだとき、われわれがやっきになって捜していた拳銃を――いいかい、長さがわずか四インチ半で、おまけに平らべったい小さい奴だ――そのとき口の中にかくしていたんだ」
「こりゃ、おどろいたな」と、私は、息をつまらせた。
「むりもないさ」と、エラリーがつぶやいた。「結論から事件をもう一度組み立ててみるのは簡単さ。代役を撃ってから、ホーンは前のめりになって、インジャン号の口に、拳銃をすべり込ませるだけでよかったんだ。しかも、インジャン号は乗り手を知ってたんだよ――頬を少しばかりぬったり、髪を染めても、そのくらいでは、老刑事のように鋭い勘を持っている馬はごまかせなかったのさ。それから、ホーンのしなければならなかった事は、捜査が全部終わるまで待つことだけだったんだ。インジャン号は兇器を口に入れていて、絶対口をあけないことを知ってたしね。捜査がすんで、馬の群れが、夜、休むために、十番通りの馬舎《うまや》へつれて行かれたら、インジャン号の口から、拳銃をとりもどせばよかったんだ。この計略が、実にうまくいったものだから、ホーンは何のためらいもなく二度目の殺人にも同じ手口をくり返して、もちろん、同じ兇器を使ったんだ」
「しかし、インジャン号が、口の中に兇器を入れておくのに疲れるというおそるべき危険はなかったんだろうか」と、私がいった。「殺人の現場で落しでもしてみろ、どんな破局がくるか、目に見えるようだ」
「ぼくは考えてもみなかったな。ホーンが、その方法で兇器を消そうときめたからには、決して|へま《ヽヽ》はないと確信してただろうよ。それは君にだって当然分ることさ。なにしろ、インジャン号は仔馬のときからホーンに仕込まれているんだ。ホーンが口に入れるものなら何でも、ホーンがじかに、あけろと命じるまでは、ぎゅっと口の中にしめ込んでおくこともまた仕込まれていたにちがいないよ。犬にだって、それくらい仕込めるんだからね。まして馬は犬にまさるとも劣らぬ利口な動物だもの……。と同時に、ぼくは今になって分るんだが、なぜ、ホーンが、いつもの習慣にそむいて、二十五口径自動拳銃を殺人の兇器にえらんだかということさ。つまり、致命傷を与える最小の武器が必要だったのさ。隠すことを考えて、最もかさばらず、最も軽い奴をね」
エラリーは立って、のびをし、あくびをした。しかし、私はまだ火のきわに坐って考えていた。すると、私を見下ろして、不審そうにきいた。
「どうしたんだ。うかない顔をしてさ。まだ何か気になるのかい」
「そうさ。今度の事件は、何から何まで、謎の連続だったじゃないか」と、私がこぼした。「というのは――新聞はごく大ざっぱの話しか伝えていないし、だれも大したことは何も知っていないらしい。ぼくは覚えているが、一、二週間前に、ホーンが自殺したあとで、その話が伝わったとき――」
「この部屋でやったんだ」と、エラリーは気軽くいったが、悲しそうな目をして「とても、大ごとだったよ。かわいそうに、ジューナは気絶するしさ。あの血しぶきと銃声のことは、もう、あんまり思い出さない方がいいな、そうだろう、ジューナ」
ジューナは、頬のあたりが少し青ざめ、気分悪そうにほほえみながら、こっそりと部屋を出て行った。
「ぼくのいわんとするところはだ」と、私はじりじりしてつづけた。「ぼくは町中の赤新聞をあさりつくして読んだんだが、どれにも、犯罪の動機が一言も出ていなかったんだ」
「ああ、動機か」と、エラリーは、考えこみながら、すぐに机のところへ行き、ちょっと立ちどまって、眉をしかめて見下ろしていた。
「うん、動機さ」と私はくどく、くりかえして「一体、どんな秘密があったんだろうな。ホーンは、なぜ、昔の映画時代のふき替えだった、不幸な男を殺したんだろう。わけがあるはずだ。だれだって、面白半分に、手のこんだ犯罪をもくろんだり、自分の正体を永遠にかくしてしまおうなどとはしないしね。しかも、ホーンは、まさか、気が狂ってはいなかったんだろ」
「気違い? とんでもない。気は狂ってはいなかった」エラリーは、いつになく、何んといったらいいか分らないでいるように見えた。「ああ――そうだ。ホーンがもしだれかを殺さなければならなかったとすると、その方法と手段が問題になってくる。大っぴらに代役を殺して、逮捕され、裁判にかけられ、処刑される道をえらぶだろうか。自己保存本能と、キットの上にかかる不名誉へのためらいから、その方法はとらないことにしたのだろう。では、代役を殺して、自殺すべきだろうか。これも、前のと同じ理由で出来ない。そこで、彼の考えでは、多少手はこんでいるが、逃げ道のあるただ一つの方法をえらんだのだ。君はきっと――」
「そうとも」と、私は手きびしく、さえぎった。「――ホーンとしての身分を自らなくすような、犯罪計画を立てるなんて、ホーンにとっちゃばかげてるといいたいんだろう。だが、本当に、そんなにばかげたものだったんだろうか。ホーンは何を失なおうとしていたのか――金か。実際に、金は全部、身につけていた。地位か。ああ、そいつは楽しい夢物語にすぎないんだ。あの男も最後には気がついただろうがね。何年もの間≪時≫の前に頭を下げることを頑強にこばんで、さけられないものにいきり立っていた老人も、終《しま》いにはさとったんだろうな。この先、もう映画スターになれる見込みがないことを、自分はもう年をとって役にたたないぬけがらであること、グラントが、自分のカムバックのために投資すると申し出てくれたのも、ただ友達としての思いやりにすぎないんだということなどをね。くり返して言うが、最後の花々しい宣伝にくるまれて死ねば――このことが多分彼にとっては魅力だったんだろうが――ホーンにとっては、損するものはなかったはずなのだ」
「なるほど、だが何か得するものがあったろうか」と、私は、そっけなくきいた。
「ホーンの考えでは、たくさんあっただろう。まず心の平静が得られたろう。それにあの男の一風変わった道義心を満足させられる。それから、キットのために身を犠牲にしてつくせる。キットが父とぼくに話したのだが、ホーンは十万ドルの生命保険にはいっていて、彼女一人が、受益者だったのだ。そこで次の点に注意したまえ。ホーンはハンターの賭場で、ばくちに負けて莫大《ばくだい》な借金をつくっていた。四万二千ドルだぜ。どうやって返すつもりだったんだ。しかも、彼の道義心からは、どうしても返さなければいられないんだ。映画界の地位は崩れ去り、個人財産ではとても借金の返済には足りない――農場を売らなければね。しかし、キットに残したがっていたから、とても売る気にはなれなかったと思うよ――とすると、どうやってハンターに払うつもりだったんだろう。生きているより死んだ方が値打ちがあるというのが文字どおりの事実だったんだ。そこで、ホーンというものの存在を消してしまえば、十万ドルの現金が使えるようになる――それでばくちの借金も払える(キットの性分をよく知っていたから、その始末をしてくれるのは予想出来たのだ)。しかも残りの金で、キットの将来を守ってやれるということを考えたんだな。もしも、希望どおりにこれらの事をなしとげて、なお数年の余生をながらえたと考えてみたまえ、不愉快な余生だろうがね、やがては、ホーンは、結局、ホーンとして死ななければならないんだ――かえ玉のホーンを死なせるために、つまり自分自身が死んだと思わせるために、あんなに手のこんだ計画を実行しなければならなかったのにね」
「分った、分った」と、私は気短かに「みんな君の言うとおりだろうよ。だが、君は肝心な点をごまかしてる。わざと話を先へ急がせてしまってさ。君はさっきいったじゃないか≪もし彼がだれかを殺さなければならないと認めれば≫とね。いいかい、ぼくは、そんな仮説は認めちゃいないぜ。その点が腑《ふ》におちないんだ。なぜ、だれかを殺さなければならなかったんだい。特に、なぜ、彼の代役を殺さなければならなかったんだい?」
「ああ、それには理由があったろうと想像しているよ」と、エラリーは、振り向かずに、つぶやいた。
「想像してるだけか」と、私は叫んだ。「真実を知っているんじゃないのか?」
エラリーは、まともに向き直った。その目には、非常に重々しい、ある決意がうかんだ。「そうだ、J・J。実は知っているんだ。ホーンが、ぼくに告白するまでは、知らなかったんだ。ぼくとおやじに告白した……」
「しかし、あの晩は、キットもグラント父子もいたんじゃなかったかな」
「ホーンが座を、はずさせたんだ」と、エラリーは、また一息いれて「それから、拳銃で自殺する前に告白したんだ」
「グラントは知っていたのか」と、思わず私はきいた。「グラント老人は?」
エラリーは巻きたばこを親指の爪の上で軽くたたきながら「グラントは知っていた」
私は口ごもった。「娘の席をはずさせたんだね……ふーん。あの娘はホーンのすべてだったんだろう。そして、あの娘を守るためなら、ホーンはどんなことでもしたんだろう――養女の安全と、名声のためにはね……もし何かがあるとすれば――そうか、娘の血統に何か不審なものがあって、代役の男がそれを知って、キットに告げるぞと、おどかしたものかもしれないな!……あの娘は、みなし子だと、君は言ってたね」
エラリーはなにも答えなかった。かなり長く沈黙していたので、私の言ったことが、聞こえなかったのかと思った。やがて、エラリーは、いきごんで「今年のノーベル文学賞は、どう思うね、J・J。ぼくの考えでは――」と、話題をそらした。
しかし、私の、いいかげんな、ゴシップ好みの当て推量に対しては、一言も答えず、厳として、沈黙を守りつづけた。
「沈黙」これこそ、バック・ホーンの墓碑銘として、もっとも、ふさわしい言葉だった。 (完)
あとがき
この作品の原名は、「アメリカン・ガン・ミステリー」だが、訳名は内容を加味して、「アメリカロデオ射殺事件」としておいた。ロデオのスター二人が、同じような方法で、同じ場処で、二万人の目撃者の目の前で殺されるという、いかにも、クイーン好みの、はでな事件で、読者のあなたにも二万人の中の一人として事件の推理遊びを、楽しんでもらおうという趣向である。
この作品は、一九三三年に発表された、クイーンの国名ものの第六作である。
今日の推理小説には色々種類があるが、イギリス流にいえば、「暖炉の前に坐り、パイプをくゆらし、そして一冊の推理小説」というのが、本格派推理小説のたのしみ方の一つで、あくまでもトリックを楽しみ、読者がトリックの解明に参加するという、頭のレクリエーションを目的とするこの小説は、こういう意味で、ティピカルな本格派作品の一つである。
エラリーが作品の中で、忠実にフェアプレーの精神のもと、「|犯人探し《フーダニット》」の材料を全部さらけ出していることは、注意深い読者には、すぐ分る。読者も一つ、フェアプレーの精神を発揮して、「読者への挑戦」まで読んで、本をとじて、犯人探しの推理を展開してみると、大変面白いと思う。
皆さんも既に御承知だろうが、エラリー・クイーン・ミステリー・マガジンの主催者エラリー・クイーンは、実は、フレデリック・ダンネーと、マンフレッド・ベニントン・リーという、ともに一九〇五年生まれの推理作家二人が、共作している作品に使うペンネームなのである。
のちに皆様にお送りする予定の「ローマ劇場毒殺事件」を、処女作として、以来約八十冊の、長編、短編、編集ものを出しているのである。
近ごろ、「消費者は王様」という言葉があるが、読書においては「読者は王様」なのである。
王はみずから択び、自ら楽しむものだ。推理小説は読まされてしまうという従属的な面白さもさることながら、主体的に読みこなす楽しみもまた、その中にあることを、発見していただければ、楽しみは倍加するはずである。(訳者)