エラリー・クイーン/真野明裕訳
七匹の黒猫
目 次
アフリカ帰り
正気にかえる
七匹の黒猫
神の燈火《ともしび》
作者紹介
アフリカ帰り
英国製のツィードの服にゆったりと身を包んだエラリー・クイーン氏は、物思いにふけりながら、大学のあの城塞のように壮麗な、人文学館の八階の廊下を、いわば苦労しながら進んでいった。着るものにうるさいエラリーのことだから、そのツィードの服はまぎれもなくロンドンはボンドストリートの舶来品だったが、一方、心中の思いのほうは、若い男女のあの独特の学生用語がしきりと耳に飛びこんでくるのと、彼自身が一九一〇年代にハーバードの学生だったこともあって、アメリカ臭いものにならざるを得なかった。
大声を張りあげている学生たちの一団をステッキの石突きでかきわけるようにして進みながら、エラリーは、ニューヨークではこれが高等教育ってものなのか、と皮肉っぽく独りごちた。鼻眼鏡のレンズの奥で銀色の目をなごませ、ため息をついた。犯罪現象を研究する職業柄必要不可欠な、あの鋭い観察眼の持ち主である彼としては、すれちがう種々雑多な女子学生たちの、ぼたんいばらのようなクリームがかったピンクの肌や、溌剌とした目や、柳のようにしなやかな肢体がいやおうなしに目についたからだ。わが母校も、教育的美徳の鑑《かがみ》ではあったが、むくつけき男どもばかりの教室にこうした香ぐわしい匂いのする女子学生たちをちりばめていたら、さらに結構な、はるかに楽しいところになっていたかもしれない――いや、まったく! ――と、彼は沈痛な思いに暮れた。
こうした教師らしからぬ考えを頭から払いのけつつ、エラリー・クイーン氏は、クスクス笑っている娘たちの大群の中を用心深くじりじりと前進して、目的の八二四番教室に威厳をもって近づいていった。
彼はふと立ち止まった。背が高く、きりっとした顔立ちの、子鹿色の目をした若い女性が、閉めきったドアにもたれて、自分のことを待ち伏せているらしい様子がありありとわかったので、彼はぴったりと体を締めつけるツィードの内側でひそかに狼狽を――いやはや! ――感じはじめた。実際、相手は『応用犯罪学、クイーン講師』と書いた小さな張り紙にもたれかかっていたのだ。
これはもちろん冒涜的行為だが……。子鹿色の目が熱っぽく、賞賛を、ほとんど畏敬の念を、こめて彼の顔を見あげた。かかる窮地に立たされた場合、教授諸公ならどうするのだろう、とエラリーは思案に暮れて、押し殺した声でうなった。相手の女らしい容姿を無視して、毅然たる態度で話しかけるべきか――?
その決断は彼の手からもぎとられて、いわば腕に置かれた。山賊娘が彼の左の二の腕を熱っぽく力をこめてつかむと、柔かく澄んだ声でこう言ったのだ、「あなた、エラリー・クイーンさんでしょ?」
「わたしは――」
「あたしにはちゃんと|わかったわ《ヽヽヽヽヽ》。すごくすてきな目をしてらっしゃるんですもの。とても変わった色で。ああ、|スリリング《ヽヽヽヽヽ》なことになりそうですわね、クイーン先生!」
「失礼だが、あなたは?」
「あら、まだ言ってませんでしたわね?」彼が気づいてちょっとびっくりしたほど、不自然なまでに小さな彼女の手が、痛くなるほどきつくつかんでいた彼の筋肉をはなした。彼に対する評価が多少下落したように、彼女は手きびしく言った、「でも、有名な探偵でいらっしゃるくせに。ふーん。また幻滅だわ……。もちろん、イッキーがあたしをここへよこしたんです」
「イッキー?」
「それさえもおわかりにならないの。あきれた! イッキーっていうのはイクソープ教授のことよ、学士、修士、博士、その他もろもろの肩書つきのね」
「ああ! だんだんわかってきましたよ」
「もうとうにわかっていい頃だわ」と娘はきめつけた。
「それからね、イッキーはあたしの父ってわけ……」彼女は急にひどくはにかんだ。とにかくエラリーがそうと見てとったのは、信じられないくらいそりかえった黒いまつげが、不意に濃い茶色の目をおおい隠したからだった。
「それでわかりましたよ、イクソープさん」イクソープか! 「何もかもじつにはっきりとわかりました。わたしを――その――そそのかしてこの風変りな講座を受け持たせたのがイクソープ教授だから、そしてあなたはイクソープ教授のお嬢さんだから、うまくちょろまかせばわたしのグループにもぐりこめると思っているんでしょう。とんだお門違いですな」そう言って、エラリーはステッキを軍旗のようにまっすぐ床に突っ立てた。「そうはいきません。だめです」
彼女の靴の先でいきなりステッキを蹴られて、彼は倒れまいとぶざまに体を泳がせた。「お高くとまりっこなしよ、クイーン先生……さあ! もう話はすんだわ。中へ入りません、クイーン先生? ほんとにすてきなお名前だこと」
「しかし――」
「イッキーがもうすっかりことを運んじゃったんです、さすがね」
「断じておことわ――」
「会計係にお賽銭も払いこんであるし。あたしもう学部は卒業して、目下のところ修士号を取るためにここで道草食ってるんです。これでもほんとはとっても頭がいいんですからね。さあさあ――そんなに教授面するのはおよしなさいよ。あなたみたいなすてきな若い男性には似合わないわ、そんな|まいっちゃいそうな《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》銀色の目をしてるくせに――」
「まあ、いいでしょう」エラリーは急に気をよくして言った。「いっしょに来たまえ」
そこは小さなゼミナール用の教室で、両側に椅子を並べた長いテーブルが置いてあった。二人の青年が、エラリーの見たところ、かなり丁重な物腰で、立ち上がった。ミス・イクソープの姿を見て彼らはびっくりしたようだったが、さして気落ちした様子でもなかった。この女子学生はどうやら誰知らぬ者のない人物らしかった。青年の一人が勢いよく前に進み出て、エラリーの手を握り、上下にゆさぶった。
「クイーン先生! ぼくはバロウズ、ジョン・バロウズです。あのものすごい探偵志願者の群れの中からぼくとクレーンを選んでくださってどうも」明るく澄んだ目といい、細面の利口そうな顔といい、これはなかなか好青年だ、とエラリーは断定した。
「そいつはまあ、きみの先生がたや、きみ自身の成績のおかげだよ、バロウズくん……で、きみはもちろんウォルター・クレーンくんだね?」
もう一人の青年が礼儀正しく、まるで儀式のようにエラリーと握手をかわした。こちらは長身で肩幅が広く、勉強家らしい感じも嫌味がなかった。「そうです、先生。化学で学位を受けました。あなたや教授がなさろうとしていることに、ぼくはじつに興味津々なんです」
「結構。イクソープさんは――まったく思いがけなく――我々のささやかなグループの四人目のメンバーということになります」とエラリーは言った。「まったく思いがけなくね! さてと、坐ってじっくり話し合いましょう」
クレーンとバロウズがどさりと椅子に体を投げ出し、くだんの女子学生は殊勝らしくそっと腰をおろした。エラリーは帽子とステッキを隅のほうに無造作に置いて、むきだしのテーブルの上で両手を握り合わせ、そして白い天井を見上げた。いよいよ、はじめなくてはならない……。
「これはまあどちらかと言えばまったく馬鹿げた試みですが、それでも多少はまともなところもあるわけでね。イクソープ教授が先日あるプランをもってわたしのところに見えられた。純粋に分析のみで犯罪を解決することにかけての小生のささやかな業績を耳にされて、教授は若い学生諸君を対象にして、推理による探知能力を育ててみたらおもしろかろうと考えられたのですな。自分自身大学生だったことのあるわたしとしては、あまり確信はなかったんですがね」
「この頃では、あたしたち学生はむしろ頭脳的になってますわ」とミス・イクソープが言った。
「ふむ。それはいずれわかる」エラリーはそっけなく言った。「これは規則違反なんだろうけど、わたしはタバコがないとものを考えられなくてね。諸君も吸っていいですよ。やりませんか、イクソープさん?」
彼女はうわのそらで一本取り、自分のマッチを出したが、その間もエラリーの目をじっと見つめつづけた。
「フィールドワークももちろんやるんですね?」と化学者のクレーンが質問した。
「その通り」エラリーはぱっと立ち上がった。「イクソープさん、|どうか《ヽヽヽ》注意を集中して……。どうせやるなら、きちんとやらなきゃね。……よろしい。我々は最新の事件をネタに犯罪を研究するわけです――言うまでもなく、我々の特殊な捜査にふさわしい犯罪をね。全員、ゼロからスタートするんです――先入観は一切抜きで、いいですね……。諸君はわたしの指示にしたがって動いてもらい、どういうことになるか見るとしましょう」
熱意にあふれたバロウズの顔が紅潮した。
「理論は? つまりその――取りかかる場合の原則みたいなものをまず示していただけるんじゃないんですか? 教室での講義は?」
「原則なんてクソくらえだ。おっと失礼、イクソープさん。……泳ぎをおぼえる唯一の方法はね、バロウズくん、水に入ることですよ……。この突拍子もない講座に六十三人の志望者がいたんです。わたしはほんの二、三人しか採《と》りたくなかった――多過ぎるとわたしの目的にそわなくなるんで、動きがとれなくてね。クレーンくん、きみを選んだのは、相当程度に分析的精神を備えているらしいのと、科学的な訓練を積んだせいで観察力が発達しているためだ。バロウズくん、きみはしっかりした教養を身につけているし、明らかに優秀なおつむの持ち主だ」二人の青年は顔を赤らめた。「あなたの場合はね、イクソープさん」エラリーは改まった調子で話をつづけた。
「自選だったわけだから、結果については自分で責任を持ってもらわなきゃなりませんよ。イッキーが何と言おうが、とんまなことをしたら即座にやめてもらいます」
「イクソープ家の人間にとんまはいませんわ、先生」
「そうだといいですが――ほんとにそうであって欲しいな……。さて、本題にかかろう。一時間前、わたしが大学に出向く前に、警察本部のテレタイプに速報が入ったんです。じつに運がいいと思いましたよ、諸君も当然感謝しないといけませんね……。劇場街での殺人事件で――被害者はスパーゴという名の男です。受信テープに打ちこまれた大まかな事実から察するに、かなり奇妙な事件だ。わたしは父に――クイーン警視ですがね――犯行現場を発見当時のままにしといてくれるように頼んでおきました。今からすぐそこへ行きましょう」
「しめた!」バロウズが叫んだ。「犯罪と取り組むんだ! こいつはすごいことになるぞ。現場に立ち入るのに面倒なことはないんですか、クイーン先生?」
「いや、全然。男性諸君にはわたし自身のと同じような、警察の特別許可証を持ってもらうように手配しておきました。あなたの分はあとで手に入れてあげます、イクソープさん……。全員に注意しておきますが、犯行現場からは何かを持ち出すようなことは慎むように――少なくとも、まずわたしに相談した上でないかぎり。それから決して記者連中の誘導尋問にひっかからないこと」
「殺人ねえ」ミス・イクソープが急に意気阻喪して、考えこんだように言った。
「おや! もう選り好みですかな。しかしまあ、この事件は諸君全員にとってテストケースになるでしょうね。実地に際してきみたちの頭がどう働くか見たいもんですね……。イクソープさん、帽子か何か持ってますか?」
「はあ?」
「身なりですよ、身なり! そんな格好でのこのこ現場に入っていくわけにはいかんでしょうが!」
「あら!」彼女は顔を赤らめて、つぶやいた。「殺人現場にはスポーツ着はふさわしくないんでしょうかしら?」エラリーがにらみつけると、彼女は愛嬌たっぷりにつけ加えた。「帽子なら廊下の先のあたしのロッカーに入ってますわ、クイーン先生。すぐ戻ってきますから」
エラリーはぐいと自分の帽子をひっかぶった。「五分したら人文学館の正面で諸君と落ち合うことにしましょう。五分ですよ、イクソープさん!」そう言うと彼はステッキを取って、いかにも教授然として悠々と教室から出ていった。エレベーターでまっすぐ一階まで降りて、大廊下を抜け、外の大理石の石段に出ると、彼は深く息をついた。すばらしい日だ! 彼はキャンパスに向かって言った。まったくすばらしい日だ!
フェンウィック・ホテルはタイムズ・スクエアから二、三百ヤードのところにあった。そこのロビーは、制服や私服の警官、記者、それに一様に不安そうな顔をしているところから見て、泊り客とおぼしき人々でごった返していた。クイーン警視の右腕で、大男のヴェリー部長刑事が野次馬に対する防壁として入口のところに突っ立っていた。そのかたわらに、紺サージの背広に白いリンネルのシャツ、黒の蝶ネクタイという地味ななりをした長身の男が、心配そうな顔で立っていた。
「ホテルの支配人のウィリアムズさんです」と部長刑事が言った。
ウィリアムズはエラリーと握手した。「不可解千万です。まるっきりむちゃくちゃですよ。警察関係の方ですか?」
エラリーはうなずいた。受持ちの学生たちは親衛隊のように彼を取り巻いていた――まるで保護を求めるようにぴったりと彼に寄りそって、まったくのところ、かなり臆病な親衛隊だったが。その場の雰囲気はどことなく不吉だった。背広もネクタイもワイシャツもすべてグレーの、そろいのお仕着せを着たホテルの事務員やボーイたちまで、沈没しかかった船の旅客係のように緊張しきった表情をしていた。
「出入りは一切禁止されてます、クイーンさん」ヴェリー部長刑事がどなるように言った。「警視の命令です。死体が発見されて以後、あなたが最初ですよ。この方たちは大丈夫ですか?」
「ええ。親父は現場ですか?」
「上です。三階の三一七号室。もうおおかた片はついたでしょう」
エラリーはステッキを構えた。「ついてきたまえ、諸君。ただし――」彼は穏やかにつけ足した。「そう神経質にならんで。そのうちきみたちもこういったことには馴れっこになるさ。しっかり気を落ち着けて」
三人はいささかぼやっとした目つきで、一斉にぴょこんと頭を下げた。警察の管理下にあるエレベーターでうちそろって上へ昇っていきながら、エラリーはミス・イクソープがその道のプロらしい無関心さを装おうと一所懸命努めているのを見てとった。いかにも彼女らしい! この調子だと今に参ってしまうぞ……。四人はしんと静まり返った廊下を、あけはなたれたドアのところまで歩いていった。息子そっくりの鋭い目つきをした、ごま塩頭の、鳥のような感じの小男、クイーン警視が戸口で一同を出迎えた。
死体のある部屋をこわごわのぞきこんだミス・イクソープがはっと身震いし、そして必死になってあえいでいるありさまに笑いを噛み殺しながら、エラリーは若者たちを警視に紹介し、渋り気味の彼らを中に入れてドアをしめ、それからベッドルームを見まわした。
ダイヴィングのような格好で両腕を前に投げ出し、死人は薄茶のカーペットの上に横たわっていた。頭部がただならぬ様相を呈していた。まるで誰かがどろどろの赤ペンキの入ったバケツを上からぶちまけたように、ぬるぬるしたものが茶色の髪にこびりつき、肩のほうまで流れ出していた。ミス・イクソープがかすかに喉を鳴らしたが、これはもちろん楽しくてしたことではなかった。その小さな手が固く握りしめられ、小妖精のような顔は死体がごろんと転がっているそのすぐそばのベッドよりも青白くなっているのを見て、エラリーは病的な満足感を味わった。クレーンとバロウズは激しい息づかいをしていた。
「イクソープさん、クレーンくん、バロウズくん――きみたちにとっては最初の死体だな」エラリーがきびきびした調子で言った。「さて、お父さん、取りかかるとしますか。どういういきさつなんです?」
クイーン警視はため息まじりに語った。「名前はオリヴァー・スパーゴ。四十二歳、二年前に細君と離婚。大手の織物輸出商社の出張販売員。一年間南アフリカに滞在ののち帰国。辺境植民地の原住民に評判が悪い――連中を殴りつけるわ、だまくらかすわで、事実、あるスキャンダルで英領アフリカから追放になった身だ。せんだってその記事がニューヨークの新聞にものっていたが……。このフェンウィックに三日間投宿して――ついでに言えば、同じこの階だが――それからここを引き払ってシカゴに行った。親類を訪ねてな」警視は、まるでそれが殺人によって罰せられて当然のことのように、不平がましく言った。「今朝飛行機でニューヨークに戻ってきた。チェックインしたのは九時三十分。以後この部屋から出ていない。十一時三十分に、これこのとおり、死体となって発見された、この階の係りの黒人メイド、アガサ・ロビンスによってな」
「手がかりは?」
老警視は肩をすくめた。「何とも言えんな。この男の身辺を洗ってみたんだが。報告によると、相当のしたたか者だが、人づき合いはよかったらしい。どうやら敵はなさそうだ。乗って帰った船が入港して以後の、彼の行動に怪しい点はなく、すべてちゃんと辻つまが合っている。|それにしても《ヽヽヽヽヽヽ》女たらしだな。今度の海外旅行の前に細君をおっぽり出して、可愛いブロンド娘をものにしてる。二ヵ月ばかりその女といちゃいちゃして、それから逃げ出した――旅行には連れて|いかなかった《ヽヽヽヽヽヽ》のさ。女二人はもうおさえてある」
「容疑者ってわけ?」
クイーン警視は不機嫌に旅商人の死体を見つめた。
「まあ、好きなように考えてくれ。|がいしゃ《ヽヽヽヽ》には今朝一人の訪問客があった――いま話したブロンドの女性さ。名前はジェーン・テリル――どうも定職はないらしい。ふん! 二週間前にスパーゴが帰国したことを、女は明らかに新聞の船客往来で知ったのだ。やっとのことでやっこさんの居場所を捜し当てて、一週間前、本人がシカゴに行っている留守に、下のフロントに立ち寄って面会を求めたのだ。スパーゴが今朝戻ってくることを、その時聞いたのだ――やっこさんがそう言い置いていったわけさ。女は、今日の午前十一時五分にやってきて、やっこさんの部屋の番号をおそわり、エレベーター・ボーイに案内してもらった。女が帰ったのは誰も記憶にない。だが女は、ノックしたが返事がなかったので、そのまま立ち去り、それきり来てないと言っている。やっこさんには会わずじまいだ――当人の言うところによればだが」
ミス・イクソープは苦労して慎重に死体をよけて通り、ベッドのへりにちょこんと腰をおろすと、ハンドバッグをあけて、鼻におしろいをはたいた。「で、奥さんのほうは、クイーン警視さん?」と彼女は小声で言った。その小鹿色の目の奥にきらきら輝くものがあった。何か思いついたことがあって、それを押し隠すため思い切った手段に出ていることは明らかだった。
「奥さん?」警視は鼻息を荒げていった。「神のみぞ知るってとこだね。さっきも言ったように、彼女とスパーゴは離婚してしまって、彼女の申し立てでは、やっこさんがアフリカから戻ってきたことさえ知らなかったということだ。今朝はウィンドー・ショッピングをしてたそうだよ」
その部屋は何の変哲もないホテルの小さな一室で、ベッド、衣装戸棚、化粧箪笥、ナイトテーブル、机と椅子が一式そろっていた。それに薪の形に似せたガス・バーナーを置いたまがいの暖炉、バスルームに通じるあけっぱなしのドア――それだけだった。
エラリーは死体のかたわらに膝をつき、クレーンとバロウズがこわばった顔で、そろってそれにならった。警視は腰をおろし、おもしろくもなさそうにニヤニヤしながら見守っていた。エラリーは死体をひっくり返し、死後硬直《リゴル・モルティス》のために堅くこわばっている四肢を手でさぐってみた。
「クレーンくん、バロウズくん、イクソープさん」エラリーが鋭く言った。「さっそく取りかかってもらおうか。目についたことを聞かしてくれたまえ――イクソープさん、あなたが最初だ」ミス・イクソープはさっとベッドから立ち上がって、死体のまわりをうろうろした。エラリーは首筋に彼女の熱い不規則な息づかいを感じた。
「さて、どうです? |何も《ヽヽ》目につかない? やれやれ、たくさんあると思うんですがね」
ミス・イクソープは赤い唇をなめて、押し殺したような声で言った。「彼は――彼は、くつろいだ部屋着を着て、厚地の室内ばきと――えーとそれから、下に絹の下着をつけてます」
「そう。それに黒い絹の靴下と靴下留め。そして部屋着と下着には店のマークがついてる。南ア連邦、ヨハネスブルグ、ジョンソン商店とね。ほかには?」
「左手首に時計をはめてます。どうやら」――彼女はかがみこんで、死体の腕を指先でおそるおそる突ついた――「ええそう、文字盤のガラスは割れてます。まあ、十時二十分で止まってるわ!」
「よろしい」クイーンが穏やかな声で言った。「お父さん。プラウティ先生は検屍をしたんですか?」
「したよ」警視はあきらめたような声で言った。「先生の話では、スパーゴの死亡時刻は十一時から十一時三十分の間だそうだ。思うに――」
ミス・イクソープの目が輝いていた。「だとしたら、こういうことになるんじゃありません――?」
「まあまあ、イクソープさん、思いついたことがあっても、それは胸に納めておきたまえ。一足飛びに結論を出しちゃだめです。きみはそれくらいで結構。じゃ、クレーンくん」
若い化学者は額にしわを寄せていた。彼は皮バンドつきの大きく派手な問題の腕時計を指さした。「男物です。倒れた際の衝撃で機械が止まったんですね、現在留め金がはまっている皮バンドの二番目の穴のところが、しわになってます。しかし三番目の穴のところにもしわができていて、こちらのほうが深い」
「じつにおみごとだ、クレーンくん。それから?」
「左手にもう乾きかけた血がべっとりこびりついてます。てのひらにも血痕がついてますが、もっとかすかで、被害者は血まみれの手で何かをつかんで、血をおおかた拭きとってしまったと見えますね。そこいらに、彼が手でつかんだために赤くしみのついたものが何かあるはずですが……」
「クレーンくん、偉いぞ。血痕のついたものが何か見つかりましたか、お父さん?」
警視は興味をそそられた様子だった。「なかなかやるね、きみ。いや、エル、何もなかったよ。敷物にもしみはついてない。きっと犯人が何かを持ち去ったんだな」
「ちょっと、警視殿」エラリーがくすくす笑った。「これは|あなた《ヽヽヽ》のテストじゃないんですよ。バロウズくん、何かきみからつけ加えることは?」
バロウズは早口にぼそぼそと言った、「頭の傷は、何か重いもので何度も殴られたことを示してます。敷物が乱れてるのは、おそらく格闘がおこなわれたしるしでしょう。それに顔ですが――」
「ああ! するときみは顔に気がついたわけか、ええ? で、顔がどうなんだね?」
「ひげを剃りたてです。タルカム・パウダーがまだほほやあごについてます。バスルームを調べてみるべきなんじゃないでしょうか、クイーン先生?」
ミス・イクソープがすねたように言った、「それはあたしだって気がつきましたわ、でも先生が言うチャンスを与えてくださらないから……。パウダーはむらなくついてますね。しまになったり、ぶちになったりせずに」
エラリーがひょいと立ち上がった。「諸君は今にシャーロック・ホームズそこのけになるよ……。凶器は、お父さん?」
「粗末な造りの、重い石槌《いしづち》だ――アフリカの骨董品のたぐいだろう、と鑑識のほうでは言ってるが。スパーゴの鞄の中に入っていたものにちがいない――彼のトランクのほうはまだシカゴから着いていないんだ」
エラリーはうなずいた。ベッドの上に、ふたのあいた豚革の旅行鞄が置いてあった。そのそばに、夜会用の衣装一式がきちんと並べてあった。タキシードの上下に胴着、ぱりっと糊のきいたシャツ、飾りボタンにカフスボタン、しみ一つない立襟のカラー、黒いズボン吊り、白い絹のハンカチ。ベッドの下には飾り穴のあいた頑丈なのと、エナメル革のと、二足の黒靴があった。エラリーはあたりを見てまわった。何か気になることがあるらしかった。ベッドのかたわらの椅子に汚れたワイシャツと靴下が一足、それにこれまた汚れた下着の上下がのせてあった。どれにも血痕は見当たらなかった。エラリーはもの思わしげにたたずんだ。
「槌は署のほうへ持っていったよ。血と髪の毛がいっぱいこびりついていた」と警視が切り出した。「指紋はどこにもない。何でも好きにいじってくれていい――すべて写真にとってあるし、指紋の検証もすんでいる」
タバコをふかしはじめたエラリーは、バロウズとクレーンが死体の上にかがみこんで、例の時計に熱中しているのに目をとめて、ぶらりとそっちへ戻った。ミス・イクソープがすぐあとにつづいた。
二人を見上げたバロウズのやせぎすの顔は輝いていた。「ここにちょっとしたものがありましたよ!」彼はスパーゴの手首から注意深く時計をはずし、側《がわ》の裏蓋をこじあけたのだ。何かをむしり取ろうとしてちょっとやりそこなった跡みたいに、ほぼ円形の毛ばだった白い紙きれが蓋の内側にはりついているのを、エラリーは見てとった。バロウズがぱっと立ち上がって、「これで|ぼくには《ヽヽヽヽ》あることがわかりましたよ」と言いはなった。「ええ、そうですとも」彼は死人の顔を熱心にしげしげと見た。
「で、きみは、クレーンくん?」エラリーは興味をひかれて催促した。若き化学者はポケットから小型の拡大鏡を取り出して、時計の機械部分をこまかく調べていた。
クレーンは立ち上がった。「今はまだ言いたくありません」と口ごもりながら言った。「クイーン先生、差しつかえなければ、この時計をぼくの研究室に持っていきたいんですが」
エラリーが父親のほうを見ると、老警視はうなずいてみせた。「いいとも、クレーンくん。ただし必ず戻してくれたまえよ……。お父さん、この部屋は徹底的に捜索したんですね、暖炉から何からすべて?」
警視はいきなりケラケラ笑いだした。「おまえがいつそれを言い出すかと待ってたんだよ。あの暖炉の中にはひどく興味をそそるものがあるんだ」そこで急に気落ちした顔になって、やや不機嫌に嗅ぎタバコ入れを取り出し、鼻の穴に一つまみ入れた。「もっともそれがどういうことを意味するのか、まるっきりわからんのだがね」
エラリーはやせた肩を怒らせ、目をしかめるようにして暖炉を見た。他の者たちがまわりに集まった。彼はまた目をしかめ、そして膝をついた。薪型のバーナーの奥の、小さな火床の中にうずたかく灰がたまっていた。奇妙な灰で、明らかに木や石炭や紙の燃えかすではなかった。エラリーはその灰燼《かいじん》の中をひっかきまわして――息を呑んだ。たちまちのうちに灰の中から十点のおかしな品物を掘り出した。平たい真珠貝のボタンが八個と金属製品が二個、これは一方が三角形の受け金のようなもので、もう一つはホックらしきものだった――両方とも小さなもので、安物の合金でできていた。八個のボタンのうち二個は、他のものよりいくらか大きめだった。いずれも畝《うね》のような盛り上がりがあって、中央のくぼみにはそれぞれボタン穴が四つあった。十点の品物はすべて焼け焦げていた。
「で、おまえはそいつをどう考えるね?」と警視がきいた。
エラリーは考えこんだ様子でボタンをお手玉のようにもてあそんだ。父にじかに返事をするかわりに、厳しい声音で三人の生徒たちに向かって言った。「きみたちにこれについて考えてもらおうか……お父さん、この暖炉を最後に掃除したのはいつですか?」
「今朝早く、アガサ・ロビンスがやっている、白人と黒人の混血のメイドだ。前の客が七時にこの部屋を引き払って、メイドはスパーゴがここに着く前に部屋をすっかり掃除したんだ。彼女の話では、暖炉は今朝は汚れていなかったそうだ」
エラリーはボタンと金具をナイトテーブルの上に置いて、ベッドに歩み寄り、あけたままになっている旅行鞄の中をのぞいた。中のものはごちゃごちゃになっていた。普通のネクタイが三本、清潔な白いワイシャツが二枚、それに靴下と下着とハンカチが入っていた。それらの男子洋品にはすべて同じ店のラベル――『南ア連邦、ヨハネスブルグ、ジョンソン商店』がついているのを、エラリーは見逃がさなかった。気をよくした様子で、彼は次に衣装戸棚を調べにかかった。そこにはツィードの旅行用スーツと、茶のトップコート、それにフェルトの帽子が入っているきりだった。
エラリーは満足げにバタンと音を立てて戸棚の扉をしめた。「諸君、何もかもすっかり調べてみたかね?」と三人にきいた。
クレーンとバロウズは多少心もとなげにうなずいた。ミス・イクソープはほとんど聞いてはいなかった。そのうっとりした顔つきからすると、天上の音楽に聞きほれていたのかもしれない。
「イクソープさん!」
ミス・イクソープは夢見心地でほほえんだ。「はい、クイーン先生」と、おとなしげな小さい声で言った。大きな茶色の目がキョロキョロしだした。
エラリーはぶつぶつ言いながら、大股に化粧箪笥のところへ行った。その上には何も置いてなかった。引出しの中を調べてみたが、全部からっぽだった。彼が机に向かって歩きかけたところで、警視が言った、「そこには何もないよ。やっこさんはものをしまいこむだけの暇はなかったんだ。バスルーム以外は、きみらはこれですっかり見つくしたことになるよ」
待ってましたとばかりに、ミス・イクソープはバスルームへ突進していった。いかにもバスルームの内部を調べてみたくてたまらない様子だった。クレーンとバロウズが急いでそのあとを追った。
エラリーは彼らが自分より先にバスルームを調査するのを黙認した。ミス・イクソープの手が洗面台のへりにあった品物に飛びついた。豚革の洗面道具入れが、あけっぱなしで大理石の上に投げ出してあった。使ったまま洗ってない剃刀、まだ湿っているひげそり用の刷毛《はけ》、チューブ入りのシェービング・クリーム、小さな罐入りのタルカム・パウダー、チューブ入りの練歯磨などが並んでいた。一方の側に、ひげそり刷毛用のセルロイドの容器が置いてあり、蓋のほうは、あいたままの洗面道具入れの上にのっかっていた。
「ここには興味をひくようなものは見当たらないな」とバロウズが率直に言った。「きみはどう、ウォルター?」
クレーンは首を横に振った。「彼はひげをそり終わった直後に殺されたにちがいないってことぐらいで、あとは別に」
ミス・イクソープが厳しい、かすかに勝ち誇ったような顔つきをした。「それは、男ってみんなそうだけど、あなたたちが明き盲だからよ。……|あたしは《ヽヽヽヽ》十分見るだけのものは見たわ」
三人はエラリーと入れ違いにぞろぞろ出ていき、ベッドルームのほうで誰かと話をしている警視に合流した。エラリーはひとりでくすくす笑った。脱衣かごの蓋をあけたが、中はからだった。ついで彼はひげそり刷毛の容器の蓋をつまみ上げた。蓋がはずれて、見ると、その内側に小さな丸い詰物がきっちりとはまっていた。彼はまたしてもくすくす笑って、ベッドルームのほうにいるけなげなミス・イクソープの昂然たる後ろ姿にあざけるような一瞥を投げ、蓋と円筒形の容器を元通りにして、ベッドルームへ戻った。
そちらでは、ホテルの支配人のウィリアムズが、警官に付き添われて、興奮のていで警視に話しかけていた。
「わたしどもとしてはいつまでもこんなことをつづけているわけにはいきませんよ、警視。お客さま方からはぼつぼつ苦情が出てきています。もうすぐ従業員の交替時間になりますし、わたし自身も家に帰りませんとね、みんなが一晩中ここに足どめされたんじゃかないませんですよ。とにかく――」
老警視は「ふん!」と言って、問いかけるように息子に目くばせした。エラリーはうなずいた。
「禁足を解いていけない理由もなさそうですね、お父さん。我々のほうはもう知りうるかぎりのことは知ってしまいましたしね……。おい、諸君!」三人の真剣なまなざしが彼に集まった。彼らはまるで一本の綱につながれた三匹の子犬のようだった。「もう十分に見たかね?」三人はまじめくさってこっくりうなずいた。「ほかに何か知りたいことは?」
バロウズがすかさず言った、「住所を一つ知りたいんですが」
ミス・イクソープは青くなった。「あら、あたしもよ! ジョンの意地悪!」
そしてクレーンがスパーゴの時計をしっかり握りしめながら、こうつぶやいた。「ぼくも知りたいことがあるんですが――しかし、それはほかならぬこのホテルの中で見つけだせるでしょうね!」
エラリーは笑みを隠して肩をすくめ、そして言った、「下にいるヴェリー部長刑事に会ってみたまえ――入口でさっき出会ったあの大男さ。彼がきみたちの知りたいことは何でも教えてくれるだろう」
「さて、わたしの指示に従ってくれたまえ。きみら三人が確固たる説を持っていることは明らかだ。今から二時間の余裕を与えるから、その間にめいめいそれをきちんと整理して、調査したいことがあればやっておくことだ」エラリーは自分の時計を見て、先をつづけた。「六時三十分に、西八十七丁目のわたしのアパートに来たまえ、諸君の説を論破できるように腕によりをかけて待ってるから……。健闘を祈る!」
彼はにやりと笑って解散の合図をした。三人は我勝ちにドアに殺到した。ミス・イクソープはターバン帽を少々ゆがめ、ひじでぐいぐい押しのけるようにして道をあけさせた。
「ところで」三人が廊下に姿を消したとたん、がらりと声の調子を変えてエラリーが言った、「ちょっとこっちへ来てください、お父さん。二人だけで話したいことがあるんです」
その夕刻、六時三十分、エラリー・クイーン氏は自宅のテーブルの前に司会役としてかまえ、報告を無理矢理胸にたたみこんで、はちきれんばかりになっている三人の若々しい顔を見わたした。ほとんど手をつけていない夕食の残りには布をかけてあった。
ミス・イクソープは、解散してからクイーンのアパートに現われるまでの間に、わざわざ着替えてきて今度のレースの柔らかいドレスは――明らかに本人も意識しているようだが――白い喉元、茶色の目、それにほんのりとバラ色のほほを引き立てていた。二人の青年のほうはコーヒーに気を取られていた。
「さあ、諸君」エラリーが含み笑いをしながら言った。「宿題の発表会だ」三人は顔を輝かせて居ずまいを正し、唇を湿らせた。「きみたちはそれぞれ、最初の調査結果を明確にするために、二時間ばかり費やした。どういう結果が出ようと、わたしの手柄にはできない、これまでのところ何も教えたわけじゃないからね。しかしこのささやかな懇談が終わるまでには、わたしには自分が扱っている相手がいったいどういった人材か、おおよその見当はつくと思う」
「でしょうね」とミス・イクソープが相槌を打った。
「ジョン――お互いに固苦しい呼び方はよしにしよう――きみの説は?」
バロウズはおもむろに言った。「ぼくのは単なる説なんてもんじゃありませんよ、クイーン先生。ずばり解答です!」
「解答だって、ジョン? あまりうぬぼれないことだな。で、きみの解答とやらはどんなんだね?」
バロウズは深々と息を吸った。「解答を導き出す鍵になったのは、スパーゴの腕時計です」クレーンとミス・イクソープははっとした。エラリーはタバコの煙を吐き出して、励ますように言った、「先をつづけたまえ」
「革バンドの二つのしわに重要な意味があったんです。スパーゴがあの時計をしていた時は、留め金は二番目の穴にはまっていて、それで二番目の穴のところにしわがあったわけです。ところが、もっと深いしわが三番目《ヽヽヽ》の穴のところにできていた。結論として、あの時計はいつもはもっと細い手首の人がはめてたことになります。言いかえれば、あの時計はスパーゴのものではなかったんです!」
「おみごと、おみごと」とエラリーがやさしく言った。
「では、なぜスパーゴは他人の時計をはめていたか? じつにもっともな理由があったんですよ。警察医は、スパーゴの死亡時刻は十一時から十一時三十分の間だと言っています。それなのに時計の針は明らかに十時二十分で止まっていました。この食い違いに対する答えは? すなわち、犯人はスパーゴが時計をしてないのに気づいて、彼女自身の時計をはずし、ガラスをこわして機械を止め、それから針を十時二十分に合わせておいて、死んだスパーゴの手首にはめたのです。そうすれば死亡時刻は十時二十分に確定され、犯人はその時刻のアリバイを都合よく用意できると考えたのでしょうね、実際には、殺人は十一時二十分頃に起きたわけですが。いかがですか?」
ミス・イクソープが辛辣に言った、「『彼女』って、あなた言ったわね。でも、あれは男物の時計よ、ジョン――それを忘れてるようね」
バロウズはにやっと笑った。「女が男物の時計を持つことだってあり得ないことじゃないだろう? さてそこで、あれは誰の時計だったのか? 簡単さ。裏蓋の内側に丸い毛ばだった紙きれがついていた、何かをはぎ取った跡みたいなね。紙でできていて、時計の裏蓋にはるものといったら、ふつうは何でしょう? 写真です。それがなぜはがされたのか? わかりきったことですが、犯人の顔がその写真にうつっていたからです……。この二時間、ぼくはこの線で追ってみました。新聞記者になりすまして、怪しいとにらんだ人物を訪ね、彼女が持っているアルバムに首尾よく目を通すことができました。その中に、丸く切り抜いた跡のある一枚の写真を発見したんです。残った部分からして、欠けている円の中には一組の男女の顔がうつっていることは明らかでした。ぼくの論拠は完璧だったんです!」
「まったくもって驚きだ」エラリーがつぶやいた。「で、きみのその女殺人犯とは――?」
「スパーゴの妻です! ……動機は――憎悪か、復讐か、裏切られた愛か、まあそんなとこですね」
ミス・イクソープがふんと鼻を鳴らし、クレーンは首を横に振った。「どうも」エラリーが言った、「我々はきみとは意見がちがうようだ。それにしても、非常におもしろい分析だよ、ジョン……。ウォルター、きみのは?」
クレーンは幅の広い肩を前にこごめた。「時計がスパーゴのものではないという点と、犯人がアリバイ作りのために針を十時二十分に合わせたという点では、ぼくもジョニーと同意見です。しかし、犯人の正体については意見がちがいます。ぼくも時計を主要な手がかりとして扱いました。でも、まったく別の角度からです」
「いいですか」彼は例の派手な時計をとり出し、ひび割れたガラスをゆっくりと軽く指先で叩いた。「ここにたぶんみなさんの知らないことがあるんです。時計はね、いわば、呼吸をするんです。つまり、温かい人肌に触れると内部の空気が膨張し、側《がわ》やガラスの微細なすきまとか穴から外に押しだされます。時計をはずして置いとくと、中の空気が冷えて収縮し、ほこりを含んだ外気が内部に吸いこまれます」
「かねがね言っていることだが、わたしも科学を勉強しておくべきだったよ」とエラリーが言った。「それは新しいやり方だな、ウォルター。さあ、つづけて」
「具体的に言うと、パン屋の時計を調べてみれば小麦粉のちりが入っているでしょうし、煉瓦職人の時計には煉瓦の粉が入りこんでるってわけです」クレーンの声が勝ち誇ったようにひときわ高くなった。「彼の時計にぼくが何を発見したかわかりますか? 女性のおしろいの細かな粒子ですよ!」
ミス・イクソープが顔をしかめた。クレーンは太い声でつづけた。「それも非常に特殊なおしろいなんです、クイーン先生。ある種の肌の色をした女性だけが使うものです。どんな肌の色か? 黒人特有の褐色です! そのおしろいの出どころは黒白混血の、ある女性のハンドバッグなんですよ! ぼくはその女を尋問し、彼女のコンパクトも調べてみました、で、本人は否定していますが、スパーゴ殺しの犯人は、死体を『発見した』と称するあの黒白混血のメイド、アガサ・ロビンスだと断定します!」
エラリーはそっと口笛を吹いた。「立派だよ、ウォルター、あっぱれなお手なみだ。そして、きみの見地からすれば、彼女は時計の持ち主であることをなんとしても否認するだろうね。それで|わたしには《ヽヽヽヽヽ》あることがわかった……。それにしても動機は?」
クレーンは困ったような顔をした。「それがその、突飛な感じがするとは思いますが、一種のブードゥー教的な復讐です――人種的な先祖返りというか――スパーゴはアフリカ原住民にむごい扱いをした……そう新聞に出てましたし……」
エラリーはまばたきを隠すために目の前に手をかざした。それからミス・イクソープのほうへ向き直った。彼女は椅子の上でもじもじしながら、自分のコーヒー・カップを苛立たしげに指先で叩き、さらにあれこれともどかしげな様子を見せていた。「さて」とエラリーは言った、「いよいよ真打ちの出番だ。どういう説をお持ちですかな、イクソープさん? あなたはあれからずっとある説にすっかり熱中してましたね。それをお言いなさい」
彼女は唇をきゅっと引き締めた。「あなたがた二人は自分では気がきいてるつもりなんでしょ。あなたもね、クイーン先生――とくにそうだわ。……ああ、そりゃ、ジョンとウォルターが、上すべりだけど知性の片鱗を示したことは認めますけど……」
「はっきり言ってくれませんかね、イクソープさん?」
彼女は頭をつんとそらせた。「いいですわ。あの時計は犯行にはまったく無関係だったんです!」
青年たちはぽかんと口をあけ、エラリーは軽く手を叩いた。「|大いに《ヽヽヽ》よろしい。わたしも同感です。どうぞ、説明してください」
彼女の茶色の目が輝き、ほほは濃いピンクに染まった。「簡単なことですわ!」彼女は鼻であしらうように言った。「スパーゴは殺されるほんの二時間前にシカゴから着いたばかりでした。シカゴには一週間半いたんです。とすれば、その間は|シカゴ時間《ヽヽヽヽヽ》で生活していたわけです。そして、シカゴ時間はニューヨーク時間より一時間早いんですから、|誰も《ヽヽ》時計の針を戻したりはしなかったことになります。つまり、彼が死んだ時、針が十時二十分をさしていたのは、本人が今朝ニューヨークに着いた際に時計を進めるのをうっかり忘れたためなんです!」
クレーンは口の中で何かぼそぼそ言い、そしてバロウズは顔を真っ赤にした。エラリーは残念そうな顔つきだった。「どうやらこれまでのところでは、勝利はイクソープさんのものになりそうだよ、男性諸君。あいにく彼女の言う通りなんでね。ほかにまだ何か?」
「もちろん。あたしには犯人がわかってます、それはスパーゴの奥さんでもなければ、あの異国的な、混血のメイドでもありません」彼女はじらすように言った。「よくって……これは、まあ、とっても簡単なことなの! みんなが気づいたことだけど、スパーゴの死顔にタルカム・パウダーがじつにむらなくついてましたわね。彼のほほや、バスルームにあったひげそり道具の様子から見て、彼が殺される直前にひげをそったことは明白でした。ですけど、男の方って、ひげそりあとのパウダーをどうやってつけますかしら? |あなたは《ヽヽヽヽ》どうやって顔にパウダーをおつけになります、クイーン先生?」彼女はどことなくやさしげな風情で質問の矢を放った。
エラリーは面喰った様子だった。「指先でつけるよ、もちろん」クレーンとバロウズが相槌を打った。
「でしょうね!」ミス・イクソープは得々として言った。「するとどうなります? |あたしには《ヽヽヽヽヽ》わかってます、なぜってあたしはとても注意深くものを見るたちですし、それに、イッキーは毎朝ひげをそるんで、おはようのキスをするときに、いやおうなしに目につくんです。まだいくらかしめったほほに指でなすりつけると、パウダーは縞になったり、しみのようになったり、まだらになったりしますでしょ。ところが、|あたしの《ヽヽヽヽ》顔を見てちょうだい!」男性一同はそれぞれに感じ入った面持ちで、彼女の顔を見た。「あたしの顔におしろいのむらなんかありまして? もちろんありゃしませんわ! じゃ、なぜでしょう? それはあたしが女で、女はパフを使うからです、ところがスパーゴのベッドルームやバスルームにはパフなんて一つもありゃしません!」
エラリーは微笑した――ほっと安堵の吐息をつかんばかりに、「じゃ、こうおっしゃるわけですね、イクソープさん、つまりスパーゴと最後にいっしょだった人物、おそらく加害者ということになるでしょうが、それは女で、スパーゴがひげをそるのを見とどけ、それからたぶんいとおしそうに、自分のパフを取り出して彼の顔に粉をはたいてやった、と――どうせ、二、三分後には石槌で頭を殴りつけることになる相手に?」
「ええ――まあ、あたしは|そんなふう《ヽヽヽヽヽ》には考えませんでしたけど……でも――そうですわ! だって心理学でもそういう特異な女性の例を指摘してますもの、クイーン先生。妻なら決してそんな――なまめかしい振舞いは思いもよらないでしょうけど。でも情婦ならやりかねません、はっきり言います、スパーゴの愛人、ジェーン・テリルは、あたしがほんの一時間ほど前に訪ねたところ、スパーゴの顔にパウダーをつけたことを否認しましたけど――彼女ならやりかねませんわ! スパーゴ殺しの犯人です」
エラリーはため息をもらした。立ち上がって、タバコの吸いさしをぽいと暖炉に投げこんだ。三人は期待をこめて彼を見守り、そして互いに顔を見合わせた。エラリーが切りだした、「イクソープさん、情婦というものについてのあなたの理解の鋭さに対する賛辞はさておき」――ミス・イクソープがむっとしたように小さく息を呑んだ――「話を進める前に、ひとこと言っておきたい。諸君ら三人が非常に才気にあふれ、きわめて俊敏であることがわかって、わたしとしては口では言いつくせないほど満足している。今後もきっとすばらしくいい授業ができると思う。みんな、よくやった!」
「ですが、クイーン先生」バロウズが異議をさしはさんだ。「ぼくらのうちの誰が正しいんですか? 三人がそれぞれちがった解答を出してるんですよ」
エラリーは手を振った。「誰が正しいかって? 枝葉末節ですよ、理論的な面からすれば、大事なのは、諸君がみごとな手並みを見せたことです――鋭い観察といい、未熟ながら前途有望な因果関係の結びつけ方といい。事件の真相そのものについては、残念ながらこう言わざるを得ない――諸君は三人とも間違っている!」
ミス・イクソープは小さなこぶしを握りしめた。「そう言うだろうってことは|わかって《ヽヽヽヽ》ましたわ! あなたってひどい方ね。でも、あたしは|まだ《ヽヽ》自分が正しいと思ってます」
「ほら、男性諸君、女性心理の驚くべき実例がここにある」エラリーがにやにや笑いながら言った。「さて、みんなよく聞いてくれたまえ」
「諸君がそろいもそろって間違った理由はただ一つ、それぞれが一つの手がかりと一連の推理だけに頼って一本槍な攻め方をして、問題の他の要素をまったく無視したためだ。ジョン、きみは、二つの顔がうつっている部分を丸く切り抜いたあとのある写真が、スパーゴの細君のアルバムに見つかったというだけで、彼女を犯人ときめつけている。それがまったくの偶然の一致かもしれないってことは、どうやら思ってもみなかったようだね」
「ウォルター、きみは時計の持ち主をあの混血のメイドだとみごとに立証した時点では、真相に一歩近づいたのだ。だが、メイドのロビンスはスパーゴが最初にあのホテルに泊まった時に、その部屋にたまたま時計を落とし、それをスパーゴが見つけて、そのままシカゴに持っていったのだとしたらどうだろう? おそらくそんなところだったんじゃないかな。スパーゴが彼女の時計をしていたというだけでは、あのメイドが殺人犯だということにはならんよ」
「次にイクソープさん、あなたは時計の一件を時差という面からうまく説明してのけたが、一つ重要なものを見落とした。あなたの解答は、スパーゴの部屋におしろいのパフがあるか否かにすべてかかっている。ないほうが自分の説に都合がいいものだから、犯行現場にはパフは残されていないと思いこみたがって、あなたはいいかげんに調べて、そこにパフはないとすぐ決めてしまった。ところが、パフはあったんです! スパーゴがひげそり刷毛をしまっていたセルロイドの筒の蓋をあなたがもし調べていたら、丸い詰め物のようなパフがはめこんであるのが見つかったはずです、これは、こういう総女性化時代だけに、化粧品業者が男物の携帯用洗面道具入れにもちゃんとセットしてあるものなんです」
ミス・イクソープは何も言わなかった。いかにも困惑しきった様子だった。
「さて、正解はとなると」エラリーが思いやりを見せて目をそむけながら、言った。「きみたち三人は、じつに驚いたことに、そろいもそろって犯人は女だと頭から決めつけている。ところが、いくつかの前提を検討した結果、わたしには加害者は|男にちがいない《ヽヽヽヽヽヽヽ》ことが歴然とした」
「男ですって!」三人が異口同音に言った。
「そのとおり。どうしてきみたちは一人として、あの八個のボタンと二個の金属の留め金の重要性に注意を払わなかったのかな?」彼は微笑した。「おそらくまたしても、それらの品がきみたちの先入観にとらわれた説にしっくりこなかったせいだろうね。だが、解答というからには|すべてが《ヽヽヽヽ》ぴったり符号しなくちゃ……。小言はもうこのくらいにしよう。この次はもっとうまくやれるだろう」
「六個の小さな平べったい貝ボタンと、二個のやや大きめなやつが、明らかに木でも石炭でも紙でもないものの灰の山の中から見つかったわけだ。こうした特徴をそなえたありふれた品物が一つだけある――男物のシャツさ。男物のシャツだから、胸のボタンが六個に、袖口の大きめのボタンが二個、そしてリンネルかブロードの生地の燃えかすってことになる。ということは、誰かが男物のシャツを暖炉の中で燃やしたんだ、ボタンは燃え残るってことをうっかり忘れて」
「大きなホックと受け金に似た金具はなんだろう? シャツといえば男物の服飾品がおのずと頭に浮かび、ホックと受け金から連想されるものとなればただ一つ――自分で結ばなくてすむように、初めから結んで売っている安物の蝶ネクタイだ」
三人は幼稚園のこどものようにエラリーの口もとを見つめていた。「クレーンくん、きみはスパーゴの血まみれの左手が何かをつかんだとみえて、てのひらの血はほとんどぬぐい去られているのに気づいたっけね。ところが、血がしみついたものは何も発見されなかった……。一方、男物のシャツとネクタイが焼き捨てられていた。……結論はこうなる――すでに頭を殴られて血を流していたスパーゴは、加害者ともみあっているうちに、相手のシャツの襟元とネクタイをつかんで、血で汚したのだ。これは室内に格闘の形跡があったことからも立証される」
「スパーゴが死に、自分のシャツとネクタイが血だらけだとなったら、いったい犯人はどうしたろう? その点はこういう角度から攻めてみよう。殺害犯人は三種類の人間のいずれかにちがいない。完全な外来者か、泊り客か、ホテルの従業員のいずれかだ。さて、犯人はどうしたか? シャツとネクタイを焼き捨てたのだ。だがもし、犯人が外来者だったら、上着の襟を立てて、ホテルから出るくらいの間、血痕を隠し通すこともできたろう――とすれば、一刻を争う時に、わざわざシャツとネクタイを焼いたりするまでもない。犯人がホテルの泊り客だったとすれば、自分の部屋に戻ってから始末すればいいわけだ。となると、犯人はどうしても従業員ということになる」
「確証かね? あるさ。犯人は、従業員だからして、勤務中はホテルを出るわけにいかず、どうしても絶えず人目にさらされる。どうすればいい? まあ、シャツとネクタイを替えるしかないな。スパーゴの鞄があいていて――中にシャツがあった。犯人は中をひっかきまわして――鞄の中の乱雑さは諸君も見たとおりで――着替えたのだ。自分のシャツは残していくだろうか? いや、それでは足がつかないともかぎらない。というわけで、諸君、どうしても焼き捨てる必要があったのさ……」
「で、ネクタイは? 思い出してみたまえ、ベッドの上にはスパーゴの夜会服が並べてあったのに、蝶ネクタイはそこにも、鞄の中にも、部屋のどこにも見当たらなかった。とすれば、明らかに、犯人がタキシード用のその蝶ネクタイをつけて、自分自身の蝶ネクタイはシャツといっしょに焼いてしまったのだ」
ミス・イクソープがため息をもらし、クレーンとバロウズはいささか茫然たる面持ちで首を振った。「そこでわかったことは、犯人はホテルの従業員で、しかも男で、スパーゴのシャツと、黒か白の、おそらくはまあ黒の蝶ネクタイをつけているということだった。ところが、フェンウィック・ホテルの従業員は、我々があそこに入っていった際に見たように、全員グレーのシャツとグレーのネクタイを着用している。ただし」――エラリーはタバコの煙を深く吸いこんだ――「一人だけ例外がいた。きっと諸君もその男の身なりの他の者との違いに気づいただろう? ……そんなわけで、諸君がそれぞれの目的を果たしに出ていくと、わたしはその男を取り調べてみるように父にすすめたのだ――その人物がもっともくさいとにらんだんでね。そしたら、案の定、その男が身につけているシャツと蝶ネクタイに、スパーゴのほかの身のまわりの品に見られたのと同じ、ヨハネスブルグのラベルがついていることを発見した。この証拠が見つかることはわたしにはわかっていた、なぜならスパーゴは南アフリカに丸一年も暮らして、衣類の大半はそこで買ったものだったから、盗まれたシャツやネクタイもやはりそうだろうと考えるのは理屈にかなっていたのだ」
「じゃ、ぼくらが取りかかりかけた時には、もう一件落着というわけだったんですね」とバロウズがくやしそうに言った。
「しかし――誰なんです?」クレーンが当惑顔でたずねた。
エラリーはもうもうと紫煙を吹きあげた。「三分とたたずにその男の自供を引きだすことができた。あのやさ男のスパーゴは数年前、その男の細君を誘惑して、やがて捨ててしまったのだ。二週間前、スパーゴがフェンウィックに投宿したとき、その男は彼に気づいて、恨みを晴らす決心をしたわけさ。今ごろはもう市の刑務所に入っているだろうが――ホテルの支配人のウィリアムズさ!」
しばし沈黙が流れた。バロウズがいきなり首を前後に振って言った。「なるほどねえ、ぼくらはまだまだ勉強が足りないな」
「ほんとだね」クレーンがつぶやいた。「ぼくはこの科目が好きになりそうだ」エラリーはふふんと鼻であしらった。そのくせ、みんなの賞賛の気持に同調したくなっているはずのミス・イクソープのほうを振り返った。ところが彼女の思いははるか別なところにあった。「ねえ、クイーン先生」茶色の目をうるませて、ミス・イクソープが言った、「あなたはあたしのファースト・ネームを一度もきいてくださいませんでしたわね?」
正気にかえる
ポーラ・パリスがニューヨークに着いてみると、警察本部のクイーン警視はひどく浮かぬ顔をしていた。その気持は、ポーラにもわかった。彼女自身、ヘビー級の世界選手権保持者マイク・ブラウンと挑戦者ジム・コイルの一戦を取材するために、わざわざハリウッドから飛行機で飛んできたくらいだったからだ。この二人のボクサーはその夜、ヤンキー・スタジアムで世界選手権をかけて、十五ラウンドのタイトル・マッチをする契約になっていた。
「お気の毒ねえ」とポーラは言った。「それで、あなたのほうはどうなの、大先生? やっぱりあの試合の入場券が手に入らなくてがっかりしているくち?」とエラリーにきいた。
「ぼくって男は縁起が悪くてね」とエラリーが元気なく言った。「ぼくが行くと、必ず何かしら凄惨なことが起こるよ。だから、行きたがるわけがないじゃないか」
「あたしはまた、人が拳闘の試合を見に行くのは凄惨なことをまのあたりに見たいためだとばかり思ってたわ」
「いや、ぼくが言ってるのはノックアウトのような生やさしいことじゃない。もっと恐ろしいことさ」
「これは誰かが|殺し《ノック・オフ》をやりゃしないかと心配しているんだよ」と警視が口をはさんだ。
「だって、いつだって誰かしらが、しでかすじゃないですか」息子が反論した。
「こいつのことなんか気にすることはないさ、ポーラ」警視はもどかしそうに言った。「なあ、あんたは新聞記者だ。わたしに切符を一枚手に入れてもらえんかな?」
「ぼくにも一枚世話してもらってもいいな」エラリーがうめくように言った。
そこでミス・パリスはにやりと笑って、有名なスポーツ記者のフィル・マグワイアに電話をかけた。言葉巧みに頼みこまれて、マグワイア氏はその夕方、自分の小型オープン・スポーツカーで三人を迎えにやってきて、一同は殴り合いを見に、山の手のヤンキー・スタジアムに打ちそろって出かけた。
「今夜の試合はどうなると思うね、マグワイアくん」クイーン警視がきいた。
「その問題については、マグワイアがこう言ったと言われると困りますんでね」
「わたしは、チャンピオンがあのコイルってやつをのしちまうにちがいないと見てるんだがな」
マグワイアは肩をすくめてみせた。「フィルはチャンピオンを毛嫌いしてるの」ポーラが笑いながら言った。
「フィルとマイク・ブラウンは、マイクがタイトルをとってからってもの、しっくりいってないのよ」
「べつに個人的な問題じゃないんですよ」フィル・マグワイアが言った。「ただ、キッド・ベレスってやつをおぼえてますか? キューバ人の。オリー・スターンが何とかしてマイク・ブラウンをドル箱に仕立てあげようとしてた頃の話ですがね。だから、その試合は八百長でね、マイクは八百長と承知していたし、そのキッドってやつも八百長ってことは心得ていた、いや、それが八百長で、キッドは第六ラウンドでダウンすることになっているのは誰もが知っていたんですよ。ところが、それでもマイクはリングにのぼるとキッドをこてんぱんに殴りつけて、半殺しにしてしまった。面白半分にね。キッドは一ヵ月入院して、出てきた時には廃人同様になってましたよ」マグワイアはいつものひねくれたような笑いを浮かべ、道路を横切ろうとしている老人に向かって軽くクラクションを鳴らした。それからこう言い添えた。「ぼくはどうにもあのチャンピオンが気にくわんのだな」
「八百長と言えば……」とエラリーが言いかけた。
「そんなこと言いましたっけ?」マグワイアが何食わぬ顔できき返した。
「まともにやり合えば」エラリーは予言した、「コイルはチャンピオンを殺してしまうだろう。あいつをリングに這わせるよ。あの大男はタイトルを欲しがってるからね」
「ああ、そりゃそうだ」
「よせやい」警視がにやりと笑って言った、「今夜はどっちが勝つと思う?」
マグワイアもにやりと笑い返した、「さあね、賭け率がどうなってるか知ってるでしょう。チャンピオン側が三対一ですよ」
通りをはさんでスタジアムの向い側にある駐車場に乗り入れた時、マグワイアは「噂をすれば影か」といまいましげに言った。自分の車をバックさせて駐車したところが、血のように真っ赤な色をしたむやみに大きな外車の隣だったのだ。
「それどういうこと?」ポーラ・パリスがきいた。
「この赤い機関車みたいなやつは」マグワイアはくすくす笑って答えた、「チャンピオンのなのさ。というより、正確に言えばやつのマネジャーのオリー・スターンの車だ。オリーがマイクに使わせてやってるんだ。マイクの車は抵当流れになっちまったからね」
「チャンピオンは金持だとばかり思ってたが」とエラリーは言った。
「もうそうじゃない。何もかもがんじがらめに差し押えられててね。一ダースもの債務判決があいつのみっともない耳にからみついてる始末だ」
「今夜からきっとまた結構なご身分になるさ」と警視が言った。「自分の取り分として五十万ドルも稼ぐんだから!」
「やつのふところにはびた一文入りませんよ」と記者は言った。「やつの愛妻と――アイビーを知ってるでしょう、あのぽちゃぽちゃした別嬪の元ストリッパー――そのアイビーと、マイクの債権者たちが残らずさらっていっちまいますよ――つまり、税を引いた手取り分をね。さあ、急いだり」
エラリーはミス・パリスに手を貸して車から降ろすと、キャメル地の自分のトップコートを後ろの座席にむぞうさにほうりこんだ。
「コートをそんなところに置いてっちゃだめよ、エラリー」ポーラがたしなめた。「きっと誰かに盗まれるわ」
「くれてやるさ。どうせ着古したぼろだ。それにしても、この暑さに、何でそんなものを持ってきたのか、我ながらさっぱりわからん」
「さあ、早く早く」フィル・マグワイアが躍起になって言った。
リングサイドの記者席から見ると、観覧席は怒号する人々のうねり波立つ一つの塊だった。リングではバンタム級のボクサーが打ち合っていた。
「何を騒いでいるんだろう?」エラリーがたずねた。
「観衆は重砲の撃ち合いを見にやってきたんで、おもちゃの鉄砲なんかお呼びじゃないよってわけさ」マグワイアが説明した。「プログラムを見てみたまえ」
「前座試合が六つある」クイーン警視がつぶやいた。「しかも、みんないい選手だ。それなのにこの野次馬どもは何をぶうぶう言ってるんだろう?」
「バンタムに、ウェルターに、ライト級ときてる」
「それがどうだというのかね?」
「つまりカードが軽すぎるんです。ファンは、二人のでっかいやつの殺し合いを見にここへ来てるんです。小物どもは邪魔っけだってことですよ――たとえ一流の小物でも……やあ、ハッピー」
「あれ、誰なの?」ミス・パリスがきいた。
「ハッピー・デイだよ」警視がマグワイアに代わって答えた。「賭けで食ってる男だ」
何列か離れた席にいるハッピー・デイは、首根っ子の厚い脂肪のひだに上等のパナマ帽をのっけているのが見えた。丸々太った顔は冷えたライス・プディングのような色をして、目はさながら二粒の干しぶどうだった。彼はマグワイアにうなずいてみせ、それから視線を戻してリングに見入った。
「いつもなら、ハッピーは生のステーキ肉みたいな顔色をしてるんだがな」とマグワイアは言った。「心配ごとでもあるんだろう」
「ひょっとしたら」エラリーがぽつりと言った、「あの紳士は何かくさいと勘づいたんじゃないのかな」
マグワイアは横目でちらりとエラリーを見て、それからにやりと笑った。「さてチャンピオンの奥方のご入来だ。アイビー・ブラウン。どうだい、なかなかの代物だろう」
その女は、火のついていない長い緑色の葉巻を神経質そうに噛んでいる、しなびたしわくちゃの小男の腕につかまって、しゃなりしゃなりと通路を進んできた。フィレンツェのカメオ細工のような顔をした、熟れきった牝の獣だった。小男は女に手を貸して席につかせると、あたふたと立ち去った。
「あの小男は、ブラウンのマネジャーのオリー・スターンじゃないのかね」警視がきいた。
「そうです」マグワイアは答えた。「今の一幕を見ましたか? アイビーとマイク・ブラウンはもう二年も別居状態で、オリーはそれじゃ外聞が悪いと思ってるんですな。そこで、チャンピオンの奥方を人前で精一杯丁重に扱ってるんですよ。ポーラ、きみはあの女をどう思う? 女性のものの見方は、いつも変わってておもしろいからな」
「こう言うと底意地が悪く聞こえるかもしれないけど」ミス・パリスは小声で言った。「彼女は牝狼の本性をもった着飾りすぎの欲ばり女で、ちゃんとしたお化粧の仕方も知らないようね。安っぽいわ――ひどく安っぽい」
「それが高くつくんだ――恐ろしく高く。あのね、マイクはもう長いこと離婚したがってるんだが、アイビーがどんどん慰藉料をつりあげてるのさ。さて、こちとらは仕事にかからなくちゃ」
マグワイアはタイプライターに向かって身をかがめた。
夜が深まっても観衆の喧燥はやまず、エラリーは落ち着かない気分になった。特に、その六フィートの長身はバイオリンの弦のようにぴんと張りつめていた。それは珍しいことではないのだが、いつもきまって不吉な前兆だった。殺人が起こりそうな気配を意味するのだ。
挑戦者が先に登場した。増水してせきを切った川の轟きにも似たどよめきが彼を迎えた。
ミス・パリスが感嘆のあまり息を呑んだ。「すてきじゃないの!」
ジム・コイルはたしかにすてきだった――身長六フィート半の、ほとんどハンサムといっていいくらいの大男で、とてつもなく広い肩幅、長くしなやかな筋肉、そしてブロンズ色の肌の持主だった。剃刀をあててないほほをなでながら、ファンに向かって少年のようにニッと笑った。
マネジャーのバーニー・ホークスがつづいてリングに上がった。ホークスも大男だった――自分の配下のそのボクサーにほとんどひけをとらなかった。
「トランクスをはいたヘラクレスってとこね」ミス・パリスがささやいた。「あれほどの肉体ってみたことあって、エラリー?」
「きくべきことはもっとほかにあるよ」エラリーが言った。「あの体をずっと床から離しておけるかどうか、だ」
「大男にしちゃ、すごく敏捷なんだ」マグワイアが言った。「あれだけの図体からしたら、想像以上に敏捷だね。マイク・ブラウンほどすばしこくはないかもしれんが、身長とリーチではジムのほうが有利だし、それに牡牛みたいに力がある。往年のファーポそっくりだ」
「チャンピオンの登場だ!」クイーン警視が叫んだ。
大きな醜男が足を引きずるように通路を進んできて、リングに飛び上がった。マネジャーが――あのしなびたしわくちゃの小男だが――つづいてリングに上がり、あいかわらず火のついていない葉巻をくちゃくちゃやりながら、マットの上で体を上下にゆすって立っていた。
「ブー、ブー!」
「みんな、チャンピオンを野次ってるわ!」ポーラが叫んだ。「どうしてなの、フィル?」
「やつは嫌われ者なんだよ」マグワイアはにんまり笑って言った。「やつはラバみたいに足癖が悪く、プレッツェルみたいにねじけた性根を持った、下劣で、残忍なイカサマ野郎だから、みんな嫌ってるのさ。そういうわけだよ、きみ」
ブラウンは身の丈六フィート二インチ、幅の広い毛むくじゃらの胸、長い腕、丸く盛り上がった肩、大きな扁平足と、解剖学的にはまさにゴリラだった。顔はひしゃげて、残忍そのものだった。自分に敵意を持っている観衆にも、自分より背が高く、体が大きく、年も若い挑戦者にもまるで無関心だった。
だが、こまかい点を見のがさない特殊な天分を持ったエラリーは、ブラウンの力強いあごがごくかすかに動いているのを見てとった。
そしてまたしてもエラリーは身がひきしまった。
ゴングが鳴って第三ラウンドの開始を告げた時、チャンピオンは左目が茶色に腫れあがり、唇は裂けて血にまみれ、息を切らして類人猿まがいの胸が波立っていた。
三十秒後には、マイク・ブラウンはエラリーたちの真上のコーナーに、打ちのめされた獣のように追いつめられた。トランクスの上の、ちょうど腎臓のあたりに大小の斑点ができ、真紅の花が咲いたようだった。
ブラウンはうずくまって、腕で身をかばい、あごを守ろうとした。ビッグ・ジム・コイルがすばやく突進した。巨人のグラブがブラウンのボディにめりこんだ。チャンピオンは前にのめり、相手の長いブロンズ色の非情な両腕をがっちり抱えこんだ。
レフェリーが二人を分けた。ブラウンはまたコイルにつかみかかった。二人はダンスをしているようだった。観衆が「青きドナウ」を歌いだし、レフェリーはふたたび二人の間に割って入って、鋭くブラウンをたしなめた。
「小ぎたないペテン師め」フィル・マグワイアが薄笑いした。
「誰が、そりゃどういうことかね?」クイーン警視がきいた。
「結末を見ててごらんなさい」
チャンピオンがつぶれた顔をあげ、弱々しくコイルに打ってかかった。巨人は笑って、前へ踏みこんだ。
チャンピオンはダウンした。
「絵に描いたようにおみごとだ」マグワイアがほれぼれしたように言った。
カウント・ナインで、観衆の吠え声をつぶれた耳で聞きつけてか、マイク・ブラウンはよろよろと立ち上がった。コイルがすべるように接近して、ブラウンのボディに必殺のパンチを十二発つづけざまにしたたか叩きこんだ。チャンピオンの膝が崩れた。うなりを生じる六インチのアッパーカットがあごの先を見舞い、彼をマットに沈めた。
今度は、そのまま動かなかった。
「それにしてももっともらしく見せるもんだな」マグワイアがゆっくりした口調で言った。
スタジアムは残忍な歓喜で沸きかえった。ポーラは少々気分が悪いようだった。数列先でハッピー・デイがはねるように立ち上がって、むやみとあたりを見まわし、それから人ごみを押し分けて歩きだした。
「ハッピーもこれでもうハッピーじゃなくなったな」マグワイアが歌うように言った。
リング上は警官や、セコンドや、関係役員たちでごったがえしていた。ジム・コイルはわめき合う人波に半ば没して、少年のように笑っていた。チャンピオンのコーナーでは、オリー・スターンが意識を失った男の痙攣する胴体の上にかがみこんで、のろのろ手当てをしていた。
「いや、まったく」フィル・マグワイアが立ち上がって、のびをしながら言った、「あんなみごとな八百長ノックアウトは見たこともないな、鮮やかなのをこれでもかなり見てきてるんだが」
「ねえ、マグワイア」エラリーが言った。「ぼくにだって目はあるんだぜ。ブラウンがあっさりタイトルを投げ出したと、どうしてそう自信たっぷりにきめつけるんだい?」
「あんたはセンター街〔ニューヨーク警察本部〕のアインシュタインかもしれないがね」マグワイアがにやにや笑って言った、「ここじゃただのぼんくらにすぎんよ、エラリー」
「わたしの見たところじゃ」警視が喧騒の中で言い立てた。「ブラウンはこっぴどく痛めつけられたようだがな」
「ああ、なるほど」マグワイアがからかうように言った。「いいですか、おめでたい先生方。マイク・ブラウンはボクシング界はじまって以来のすごい右腕の持主だ。やつが今夜コイルに対してその右を使うところを見ましたかね――ただの一度でも?」
「そう言や、見なかった」エラリーが認めた。
「もちろん見るわけないさ。ただの一発だって。チャンスはいくらもあった、特に第二ラウンドあたりは。ジム・コイルはあいかわらずガードが低すぎたしね。ところがマイクはなにをした? 必殺の右は冷蔵庫にしまっといて、あのお粗末な――ポーラをやっつけることもできないような――左でジャブを繰り出すだけで、逃げ腰でクリンチばかりして、ぞんぶんに打ちのめされちまった……たしかに、見た目はもっともらしかった。しかし前チャンピオンが八百長をやったことは間違いない!」
ゴリラ男は助け起こされてリングから降りようとしていた。不機嫌で、疲れた様子だった。小人数の一団が声をあげて笑いながら、そのあとにつづいた。小男のオリー・スターンはいらだって人々を押しのけた。ブラウンのグラマーな妻、アイビーが怒り狂い、青ざめて一同のあとを急いで追うのを、エラリーは見逃さなかった。
「どうやら」エラリーがため息まじりに言った、「こっちの思い違いだったようだ」
「何のこと?」ポーラがきいた。
「うん、何でもない」
「あのね」マグワイアが言った。「ぼくはある人物のことである人に会わなきゃならないんだが、あとでコイルの更衣室で落ち合って、みんなでちょっとドンチャンやろうじゃないか。ジムが何人か連れておもしろいクラブをはしごしようって約束したんだ」
「まあ、いいわね!」ポーラが叫んだ。「あそこへはどうやって入ればいいの、フィル?」
「何のためにおまわりさんがついてるんだい? 案内してやって下さい、警視」
マグワイアが痩躯《そうく》を前かがみにして、ぶらりと立ち去った。不意にエラリーの頭皮がチクチクッとした。彼は顔をしかめ、ポーラの腕をとった。
新チャンピオンの更衣室は紫煙と人と騒音が充満していた。コイル青年は小人国リリパットのガリヴァーといった格好でトレーニング・テーブルに横になって、マッサージを受けていた。上機嫌で質問に答えたり、カメラに向かってにっこり笑ったり、肩の力こぶを出してみせたりした。大男のバーニー・ホークスはシャツのカラーをゆるめて駆けまわり、初めて子供をもった父親のようにみんなに葉巻を配っていた。
大変な混雑ぶりで、隣のシャワー室まで人があふれていた。床には空の酒瓶が並び、シャワー室の窓の近くでは、五人の男がひとすみに押しこめられて、大まじめでサイコロばくちを開帳していた。
警視がバーニー・ホークスに話しかけ、マネジャーは一同を新チャンピオンに紹介した。コイルはポーラを一目見るなり、「なあ、バーニー、ちっとはプライバシーってものがあってもいいんじゃないか?」
「いいとも、いいとも。きみも今じゃチャンピオンだからな、ジミー・ボーイ!」
「さあ、あんたたち、写真はもういやってほどとったじゃないか。あんたの名前は何ていったっけ、べっぴんさん? パリスかい? 変わった名前だね」
「あなたのはクッツィじゃないの?」ポーラが冷ややかに言った。
「やられた」コイルは笑った。「さあ、あんたたち、出てってくれよ。このお嬢さんとおれはちょっとばかりスパーリングをやらなきゃならないんだから。おい、塗り薬はやめてくれよ、ルウイ。やつはおれにかすりもしなかった」
コイルはマッサージ台からすべり降り、バーニー・ホークスがシャワー室にいた連中を追い立てにかかった。それを待ってコイルはタオルを何本かつかんで、ポーラにウィンクすると、シャワー室に入ってドアをしめた。シャワーがほとばしるさわやかな水音が外まで聞こえてきた。
五分ほどしてフィル・マグワイアがぶらりと入ってきた。汗をかき、少々足もとがふらついていた。「チャンピオンはどこだ?」と大声で呼んだ。
「ここにいるよ」コイルがシャワー室のドアをあけ、濡れた裸の胸をタオルでふきながら出てきた。腰にもタオルを巻いていた。「やあ、フィル・ボーイ! すぐ身仕度するからな。おい、このかわいこちゃんはあんたのいいひとかい? そうでなかったら、おれが立候補するぞ」
「さあ、行こうや、チャンピオン。五十二番街に繰りこむ約束じゃないか」
「わかってるって! あんた、どうする、バーニー? いっしょに行くかい?」
「いいから行って楽しくやってきな」とマネジャーは父親のような口調で言った。「おれはプロモーターと金の話がある」彼はのっそりとシャワー室に入っていき、キャメルのコートを抱えて出てくると、情愛をこめてコイルに手を振り、大きな足音を残して出ていった。
「彼が身仕度する間、きみはずっとここにいるつもりじゃあるまいね?」エラリーが気むずかしげにミス・パリスに言った。「さあ、出よう――外できみの英雄を待ったらいい」
「はい、はい」ミス・パリスが素直に言った。
コイルがげらげら笑った。「心配しなさんな。なにもあんたのものを横取りしたりしやしないから。かわいこちゃんはいくらもいるしな」
エラリーは断固としてミス・パリスを部屋から連れ出した。「車で待とう」と、ぶっきらぼうな調子で言った。
ミス・パリスが、「はい、|はい《ヽヽ》」と小声で言った。
二人は黙って廊下の端まで歩き、スタジアムから往来に出る通路に折れた。通路を歩いていく途中で、エラリーはシャワー室の窓ごしに更衣室をのぞくことができた。マグワイアが持ちこんだ酒で、コイルと警視と三人して祝杯をあげているところだった。
エラリーはミス・パリスをせかして通りの向う側の駐車場に行った。車が次々に徐行しながら出ていった。だが、オリー・スターンの例の赤い大型のリムジンは、マグワイアのオープンカーの隣に駐車したままだった。
「エラリー」ポーラがやさしく言った。「あなたってほんとにお馬鹿さんね」
「いいかい、ポーラ、その話はしたくないから――」
「あたしが何のこと言ってると思ってるの? 馬鹿ね、あなたのトップコートの話よ。盗まれるって言ったじゃないの」
エラリーは車の座席をのぞいた。コートはなくなっていた。「ああ、そのことか。どうせ、捨てようと思ってたんだ。なあ、いいかい、ポーラ、ぼくがどこかのけたはずれな大男に焼きもちを焼いてるなんて、ただの一瞬でも思ったら……ポーラ! どうしたんだ!」
煌々たるアーク燈に照らし出されたポーラのほほは血の気がなかった。彼女は震える人さし指で血のように赤いリムジンを指さしていた。
「中に――あの中に……あれは――?」
エラリーは急いでリムジンの後部座席をのぞきこみ、ついでこう言った、「マグワイアの車に入っていたまえ、ポーラ、こっちを見るんじゃないよ」
ポーラは震えながら車にもぐりこんだ。
エラリーはスターンのリムジンの後ろのドアをあけた。
マイク・ブラウンが車の中から彼の足もとに転げ出てきて、そのままじっと横たわった。
ほどなく、警視とマグワイアとコイルがぶらぶらとやってきた。マグワイアがだみ声で何やら言い、三人でくすくす笑い合っていた。
マグワイアがふと立ち止まった。「おい。そりゃ誰なんだい?」
コイルがいきなり言った。「マイク・ブラウンじゃないのか?」
警視が、「どいてくれ、ジム」と言って、死体のかたわらに膝をついた。
エラリーが顔をあげた。「そう、マイク・ブラウンだ。誰かが彼を針刺しがわりに使ったようだ」
フィル・マグワイアが一声叫んで、電話をかけに走った。ポーラは自分の職業を思い出して、マグワイアの車から這い出し、あたふたと彼のあとを追った。
「マイクは……マイクは――」ジム・コイルが喉をごくりと鳴らして言いかけた。
「カウント・アウトだ」警視がつっけんどんに言った。
「おい、ひっくり返すから手伝ってくれ」
三人で死体を仰向けにした。マイクは目もくらむばかりのアーク燈をじっと見上げていた。彼はすっかり着替えをすませていた。まだ帽子をかぶったままで、体を包んでいるグレーのツィードのトップコートはボタンがかかっていた。そのトップコートの上から腹と胸を十回も突き刺されていた。大量の血が流れ出て、コートは血でべとついていた。
「体がまだ温かい」警視が言った。「ほんの数分前にやられたんだな」彼は地べたから立ち上がると、集まってきた群衆を見るともなくじろりと見やった。
「たぶん」チャンピオンが唇を舌で湿して言いかけた、「たぶん――」
「たぶん何だというんだね、ジム?」警視がきいた。
「いや、べつに、何でもない」
「先に引きあげたらどうかね? せっかくの晩をこれで台無しにすることもないよ、きみ」
コイルはあごをぐっとひきしめた。「このままいさしてもらう」
警視は大声で警官を呼んだ。
警官が駆けつけ、フィル・マグワイアとポーラ・パリスがもどり、そしてオリー・スターンその他が通りの向う側から現われて、群集は一段と数を増した。エラリーはスターンの車の後部座席にもぐりこんだ。
赤いリムジンの後部座席は修羅場と化していた。内張りやもみくしゃになった床の敷物は血に染まっていた。キャメルのコートが丸めて置いてあり、そのそばのクッションに、布の切れはしがついたままの大きなコート用ボタンがのっていた。
エラリーはコートをつかみあげた。ボタンはそのコートからちぎりとられたものだった。コートの前面は、殺された男のコートの前面と同じように、ひどく血にまみれていた。だが、その血痕はひとつの形をなしていた。エラリーは前身頃《まえみごろ》を上にしてコートを座席の上に置き、ボタンをかけてみた。両側の血痕がぴったり合わさった。
警視が車の中に首をつっこんだ。「そりゃ何だ?」
「犯人のコートです」
「見せてみろ!」
「こいつからは着ていたやつのことは何もわかりませんよ。かなり安物のコートだし、ラベルがもぎとってある――手がかりになるような特徴はまるでないんです。ここで何があったかわかりますか、お父さん?」
「何があったんだ?」
「殺人はもちろんこの車の中で行われ、犯人はこのコートを身につけていたんです」
「どうしてそれがわかる?」
「激しい格闘のあとがあり、しかもそれがずいぶん猛烈だったと見えて、ブラウンは襲ってきた相手のコートのボタンを一つもぎとってるんですよ。その格闘の最中に、ブラウンは何度も刺されて、血がどんどん流れた。それが彼自身のコートばかりか、犯人のコートにもしみこんだんです。血痕の状態からして、犯人のコートは格闘の際、ボタンがかけてあったに相違なく、そうだとすれば犯人はそれを着ていたことになるわけです」
警視はうなずいた。「血まみれのコートを着ているのを人に見られたくなくて、置いていったんだな。足がつきそうなものを残らずもぎとったうえで」
警視の背後からポーラの震え声が聞こえた。「ひょっとしてそれ、|あなたの《ヽヽヽヽ》コートじゃなくて、エラリー?」
エラリーは妙な目つきでポーラを見た。「ちがうよ、ポーラ」
「どういうことなんだ?」警視がただした。
「エラリーは試合の前に、自分のコートをフィルの車に置いていったんです」ポーラは説明した。「盗まれるって、あたしは彼に言ったんですけど、そのとおりになってしまって。そこへもってきて、キャメルのコートがあるんですもの――この車の中に」
「これはぼくのじゃないんだ」エラリーが辛抱強く言った。「ぼくのはこれにはない、あるはっきりした特徴があるんだ――二番目のボタン穴のそばにタバコの焼けこげがあるのと、右のポケットに穴があいているんだ」
警視は肩をすくめて、車から離れた。
「じゃ、あなたのコートが盗まれたこととこれとは何の関係もないわけ?」ポーラが身震いした。
「ないどころじゃない」エラリーが言った、「ぼくのコートの盗難とこれとは関係大ありだよ」
オリー・スターンのお抱え運転手の、見るからにしたたかそうな感じの男が、帽子をひねくりまわしながらこう言った、「試合のあとで、マイクさんがあたしは用無しだって言いましてね。グランド・コンコースで拾ってやるって。自分で運転するって言うんですよ」
「それで?」
「あたしはちょっとその――気になりましてね。あそこのスタンドでホットドッグを食いながら――見てたんで。するってえと、マイクさんがやってきて、後ろの座席に乗りこんで――」
「彼は独りだったかね?」警視がただした。
「そうなんで。乗りこむってえと、ただ坐ったきりでね。そのうち酔っぱらいが二人そばにやってきて、あたしのほうからはよく見えなくなっちまいましてね。ただ、誰かべつのやつが来て、マイクさんのいる車に乗りこんだようですがね」
「誰だね? それは誰だった?」
運転手は首を横に振った。「よく見えなかったんでね。わかりませんや。しばらくして、自分の知ったことじゃないと思ったもんで、よそへ行ったんですよ。ところが、パトカーのサイレンが聞こえたんで、もどってきたってわけで」
「マイク・ブラウンのあとから来たやつは」エラリーが言った、「コートを着た人物じゃなかったかね?」
「そうのようでしたが。ええ、さいで」
「ほかに何があったか、見てないんだね?」エラリーは食いさがった。
「さいです」
「ほんとは、どっちでもいいんだ」エラリーはつぶやいた。「大筋ははっきりしている。明々白々だ。きっとこれは――」
「独りで何をぶつぶつ言ってるの?」ミス・パリスが彼の耳もとで言った。
エラリーは、はっとなった。「ぼくが何かつぶやいたかい?」そう言って首を振った。
そこへ、警察本部の者が、自分は何も知らないとくどくど繰り返している|にやけた《ヽヽヽヽ》小男を連れてやってきた。警視が声をかけた、「おい、エトジェンス、おまえはあのバーで大口を叩いてたそうじゃないか。そのネタを聞かしてもらおうか?」
小男は金切り声で言った、「おれは面倒はごめんだ、面倒はごめんだよ。おれが言ったのは、ただ――」
「何だね?」
「けさ、マイク・ブラウンがおれに会いにきてよ」エトジェンスはぼそぼそと言った、「おれにこう言うのさ、『ハイミー、ハッピー・デイはおまえとは知り合いだし、ずいぶんとおまえの賭けを引き受けてるな』って。『だからハッピーのところへ行って、コイルのKO勝ちに五万ドル賭けてこいや』と、こう言うんだ。『その五万はおまえが|おれに代わって《ヽヽヽヽヽヽヽ》賭けるんだ、いいな?』ってよ。それからこうも言った、『おまえがおれに代わって五万賭けたことを、ハッピーにだろうが誰にだろうが、もしもばらしゃがったら、おまえの心臓をえぐり出し、両手をへし折って、叩きのめしてやる』の何のってよ。で、おれはコイルのKO勝ちに五万張って、それをハッピーが十二対五で受けたってわけよ――やつはどうしてもそれ以上の賭け率をつけてくれなくて」
ジム・コイルがどなった、「こんちきしょう、きさまの首根っ子をへし折ってやる」
「ちょっと待て、ジム――」
「やつはブラウンがノックアウトされたふりをしたってぬかしてるんだぞ!」チャンピオンが叫んだ。「おれはブラウンをやっつけたんだ――正々堂々とやつを叩きのめしたんだ!」
「彼を正々堂々と叩きのめしたと、きみは|思った《ヽヽヽ》ろうがね」フィル・マグワイアが小声で言った。「ところが、やっこさんは自分からわざと倒れたんだよ、ジム。言ったとおりでしょうが、警視? やつはあの右をしまっておいて――」
「そんなの嘘だ! おれのマネジャーはどこにいる? バーニーはどこだ? この試合の賞金を取り上げようったってそうはいかんぞ!」コイルはわめきちらした。
「おれは正々堂々とそれを勝ちとったんだ――正々堂々とタイトルをとったんだ!」
「落ち着け、ジム」警視が言った。
「きみが今夜、リング上でまっとうにやったことはみんな知ってるさ。ところでな、ハイミー、ブラウンはその掛け金をキャッシュでよこしたのか?」
「やつは文なしだった」エトジェンスはびくびくしながら言った。「後払いってことで賭けたんだ。清算は翌日まわしだし。で、おりゃ、大丈夫だとちゃんとわかっていたよ、だって、本人のマイクがコイルに賭けてるからにゃ、勝負は初めからきまってるわけで――」
「この野郎、片輪にしてやる!」コイルががなりたてた。
「落ち着けって、ジム」クイーン警視がなだめた。「じゃ、おまえはマイクがわざと負けると知ってて、あとで十二万ドル受け取って、マイクに渡すつもりだったというわけだな?」
「ええ、そうなんで。だけど、それだけのこってすぜ、誓って――」
「ハッピーに最後に会ったのはいつなんだ、ハイミー?」
エトジェンスはおじけづいた様子で、あとずさりしはじめた。そばに付き添っていた警官がちょっと小突いた。だが、彼は頑として首を振るばかりだった。
「ひょっとして」警視が穏やかにたずねた、「おまえがその五万を自分のためじゃなく、マイク・ブラウンの代わりに賭けたのを、どうかしてハッピーがかぎつけたってことはないだろうな? イカサマだってことをハッピーが見破るなり、疑いをもつなりしたってことは?」警視は一人の刑事に鋭く言った、「ハッピー・デイを見つけてくるんだ」
「おれならちゃんとここにいるぜ」群集の中から低音《バス》の声が名乗りをあげ、でぶの賭博師が人ごみをかきわけて出てくると、クイーン警視にくってかかった、「つまりおれはカモにされたわけでしょうが、ええ? そのおれが罪を着せられることになるんかい、ええ?」
「マイク・ブラウンがイカサマをやる気でいたのを知ってたかね?」
「知るもんかい!」
フィル・マグワイアがくすりと笑った。
すると、小男のオリー・スターンが死んだボクサーに負けず劣らず青ざめて、がなり立てた、「ハッピーがやったんだ、警視! 仕掛けを見破って、試合が終わるまで待ち、マイクが倒れるのを見とどけると、ここへやってきて、マイクをばらしたんだ! そうにきまってる!」
「この小汚ねえネズミ野郎め」賭博師が言った。「おめえこそやった張本人じゃねえのか? やつが八百長をして、おめえが見抜けねえわけがねえじゃねえか! たぶん、やつのあの結構なお人形さんのために、おめえがやつを刺したんだろう。ちゃんとわかってるぜ。おめえさんとあのアイビーって女のことなら、こっちは何もかもお見通しよ」
「まあ、まあ、諸君」と警視がにんまり笑って言ったとたん、悲鳴がおこって、アイビー・ブラウンが人ごみをひじで押し分けて飛び出し、夫の死体にとりすがった――報道陣向けの効果を狙ったものだ。
カメラマンたちが嬉々として仕事にかかり、警視は上機嫌で息子に言った、「さしてやっかいな事件じゃない。いただきだよ。まちがいなくハッピー・デイの仕業だ、あとは裏付けさえとれば――」
「お父さんのしていることは時間の浪費ですよ」エラリーが微笑しながら言った。
警視は憮然《ぶぜん》とした。「じゃ、どうすればいいというんだ? 言ってみろ」
「ぼくのコートを見つけることですね」
「おまえのくだらんコートがいったい何だというんだ!」警視がどなった。
「ぼくのコートを見つけてくれたら、お探しの殺人犯はぼくが見つけてあげますよ」
一同はまたジム・コイルの更衣室に集まっていた。入口のほうがざわめいて、見ると、新チャンピオンのマネジャーのバーニー・ホークスが数人の役員やプロモーターたちと連れだってドアのところに立っていた。
「おや、何だい」バーニー・ホークスがいぶかしげに一同を見まわしながら言った。「きみはまだここにいたのか、チャンピオン? 何ごとだい?」
「大ごとさ」チャンピオンが荒々しく言った。「バーニー、ブラウンが今夜、八百長をやるって知ってたかい?」
「何だって? そりゃどういうことだ?」大男のバーニーはさも善良そうにぐるりを見まわした。「そんなことを言う小汚ない嘘つきはどこのどいつだ? 諸君、うちの若い衆はまともにタイトルを勝ちとったんだぞ!」
「ブラウンが試合を投げたって?」ホークスの連れの一人で、ボクシング委員会の委員をしている男が口をはさんだ。「その証拠はあるんですか?」
「そんなことはどうでもいいんです」警視が丁重に言った。「バーニー、マイク・ブラウンが死んだよ」
ホークスはげらげら笑い出し、それから笑うのをやめて早口にぶつぶつ言った、「そりゃどういうことだ? いったい何の冗談だ? ブラウンが死んだって?」
ジム・コイルが大きな手を振った。「今夜、誰かがあいつをばらしたんだ、バーニー。通りの向うにあるスターンの車の中で」
「へえ、何とね」マネジャーは目を丸くして、深く息をついた。「そうか、マイクがやられたってか? おや、おや。ひどい話だ。タイトルと命を一度になくすとはね。誰がやったんだろう?」
「うちのやつが死んだのを、あんたは知らなかったろうよな!」オリー・スターンが金切り声で言った。「まったく、あんたは大した役者だよ、バーニー! たぶん、あんたがマイクと示し合わせて、あいつにわざと負けさせ、あんたんとこの若いのにタイトルをとらせるようにしたんだろう! たぶん――」
「今晩ここでもう一つの犯罪が行われた」と穏やかな声が言った。エラリーがホークスのほうに進み寄っていくのを、一同は不思議そうに見守った。
「へえ?」コイルのマネジャーは間の抜けた様子でエラリーを見つめながら言った。
「ぼくのコートが盗まれたんですよ」
「へえ?」バーニーはぽかんと口をあけたままだった。
「そして、きまり文句にもあるように、この目に間違いがなければ」エラリーはホークスの前に突っ立って、先をつづけた。「ぼくはそれを見つけましたよ」
「あなたの腕にね」そこでエラリーはホークスの腕からくたびれたキャメルのコートを静かに取り上げ、広げて調べた。「そう、まさしくぼくのだ」
一同がしんと静まり返った中で、バーニー・ホークスは土気色の顔になった。
エラリーの目つきが鋭くなり、彼はもう一度キャメルのコートの上に身をかがめた。袖を広げ、袖ぐりの縫い目を調べた。そこのところが裂けていた。背中の縫い目も同様だった。彼はホークスを非難がましく見やった。
「せめてものことに、ぼくの持ち物を元通りにして返してくれてもよかったんじゃないですかね」
「あんたのコートだって?」バーニー・ホークスが悄然として言った。それから、いきなりわめきたてた、「いったいこりゃどういうことだ? それはわたしのコートだ! わたしのキャメルのコートなんだ!」
「いいや。これがぼくのものだってことは証明できますよ、ほら、二番目のボタン穴にタバコの焼けこげがあるし、右のポケットに穴があいてる」
「しかし――それは、わたしが自分で置いておいた場所にあったんだ! ずっとここにあったんだからな! 試合のあとで、それを持って出て、わたしは事務所に行って、この人たちと話をしていたんで――」マネジャーはふと口をつぐみ、顔の色が土気色からさらに蒼白に変わった。「それじゃ、|わたしの《ヽヽヽヽ》コートはどこなんです?」と緩慢な口調でたずねた。
「これをお召しになってみませんか?」とエラリーが服屋の店員のように丁重に言って、オリー・スターンの車の中に置き捨ててあった例の血まみれのコートを刑事の手から取った。
エラリーはそのコートをホークスの前にかかげて見せた。ホークスは聞きとりにくい声で言った、「なるほど。わたしのコートだ。あんたがそういうんだったら、わたしのなんだろうさ。それがどうだというんだね?」
「それがね」エラリーが答えた、「誰か、マイク・ブラウンが破産して借金だらけで、チャンピオンとしての賞金の取り分をもらってもその借金を払うには足りないことを知ってた者がいるんです。その誰かがマイク・ブラウンに今夜の試合を投げるように説得し、わざと負けるかわりに、おそらくは多額の金を払うと申し入れたんですね。その金のことは誰も知らない。その金はマイク・ブラウンの愛妻や債権者たちの手に引き渡さずにすむ――あるいは、国税庁にもね。マイク・ブラウン自身のものになるわけです。そこでマイク・ブラウンは、エトジェンス氏を通じてハッピー・デイと大きな賭けをすればさらに金を稼げると気づいて、申し入れに応じた。この二重のへそくりで、彼は冷たい世間をあざ笑ってやれるはずだった」
「そこでおそらくブラウンと彼をそそのかした人物は、試合の直後にスターンの車の中で会って金の受け渡しをしようと申し合わせた、ブラウンがその点は強硬に主張したでしょうからね。で、ブラウンが運転手を追い払って、車の中で待っていると、そこへ誘惑者が約束どおりにやってきた――支払いの金ではなく、短刀を用意してね。短刀を使うことでその人物はかなりの金を――ブラウンに約束した金額を――節約し、さらに、マイク・ブラウンがその不正行為を、これまた正しからざる世の中に万一にも漏らすことのないようにしたわけです」
バーニー・ホークスは乾いた唇をなめた。「おまえさん、わたしをそうじろじろ見るのはよしてもらおう。このバーニー・ホークスに不利な証拠をおまえさんがつかんでるわけはないんだ。わたしはこの件についちゃ何も知らんぞ」
エラリーは話をつづけた、「なかなかおもしろい問題ですよ、みなさん。いいですか、誘惑者は犯罪現場にキャメルのコートを着て現われ、それが血だらけになって、そのまま着ていては自分の犯行だとわかってしまうので置いていくしかなかった。ところが、人殺しがあった車の隣の車の中には、血で汚れてないだけが取り柄のぼくのキャメルのコートが置いてあった」
「我々はスターンの車の中に誰かのコートが置き捨てられているのと、ぼくのコートが盗まれているのを発見した。偶然の一致でしょうか? まさかね。きっと殺害犯人はあとに残していかざるをえないコートの代わりとしてぼくのコートを盗ったにちがいない」
エラリーは、うっとりと敬慕のまなざしで自分を見つめているミス・パリスをちらりと見やった。さいぜんミス・パリスがジム・コイルの筋肉に見とれたことを思い出して格別の満足を味わいつつ、エラリーは、正気にかえったな、と思った。そうとも、正気にかえらないことには。
「それで?」とクイーン警視が言った。「そいつがおまえのコートを盗んだとしたら? それがどうだっていうんだ?」
「いや、そこがまさしく肝腎な点なんですよ」エラリーがつぶやいた。「そいつはぼくのみすぼらしい、くたびれた、三文の値打ちもないコートをとっていった。なぜでしょう?」
「そりゃまあ、着るためだろうな」
「その通り」エラリーはそこで一呼吸置いて、それからつぶやいた、「しかし、そいつはなぜそれを着たがったりしたんでしょう?」
警視はむっとした顔になった。「おい、エラリー――」と文句を言いかけた。
「いやいや、お父さん。ぼくはある目的があってしゃべってるんですよ。一つ肝腎なことがあるんです。肝腎かなめのことが。そいつがぼくのコートを着なければならなかったのは、コートの|下の《ヽヽ》服に血がついて、その血染めの服を隠すためにとにかくコートが必要だったからだと、あなた方はおっしゃるかもしれない」
「そうとも」フィル・マグワイアが言った。「そうにきまってるさ」
「あんたはお宅の社のスポーツ部門ではアインシュタインかもしれないけどね、マグワイアくん、しかしここではただのぼんくらにすぎないな。ちがうんだよ」エラリーはかぶりを振って言った、「そうじゃないんだ。そいつの服に血がついていたはずはない。例のコートを見ればわかるが、そいつはブラウンを襲った時、そのコートを着て|ボタンをかけていた《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。トップコートにボタンがかかっていれば、下の服にブラウンの血がつくことはなかったはずだ」
「天気のせいでコートが必要だったってことでないのもたしかだな」
「その通りです。今晩はずっと暖かかったですものね。ね、わかるでしょ」エラリーは微笑した、「こいつはちょっとした、おもしろい問題なんですよ。犯人は自分のコートをあとに残していき、ラベルや、その他手がかりになるようなものはすべて取り除いてあるので、それが発見されることはべつに気にしなかった――そうでなければ隠すなり、捨てるなりしたでしょう。そういうことだとすると、犯人はコートの|下に《ヽヽ》着ていた服でそのままあっさり逃げればよさそうなもんでしょう。ところが、そうはしなかった。逃げるためにべつのコートを、ぼくのコートを盗んだんです」エラリーは軽く咳ばらいした。「逃げるためにぼくのコートを盗んだとすると、そいつには逃げるのにぼくのコートが必要だったことは疑問の余地なく明らかですよね? つまり、ぼくのコートなしで逃げれば、人《ヽ》|目についた《ヽヽヽヽヽ》んじゃないですか?」
「どうもわからんな」警視が言った。「人目につくって? しかし、もしそいつが普通の服装《なり》をしてれば――」
「それなら、明らかにぼくのコートなど必要としなかったでしょうね」エラリーはうなずいた。
「すると――そうか! ある種の制服のようなものを着ていたとすれば――たとえば、そいつがスタジアムの案内人だったとしたら――」
「その場合にもぼくのコートは必要としないでしょう。制服は、人目につかずに人ごみの中を通り抜けるには絶好の隠れみのでしょうからね。いや、この問題にはたった一つの解答しかないんです。殺人犯が血染めのコートの下に服を――まともに体をおおうものを|何かしら《ヽヽヽヽ》――身につけていたら、その服で逃げられたはずです。だが、そうしなかったからには、彼は服を身につけていなかったということにどうしてもなるわけです」
しばらく沈黙がつづき、そのあげくポーラが言った。
「服を身につけてなかったですって? その男……裸だったの? まあ、それじゃまるでポーの小説から抜け出たようだわ!」
「いや」エラリーは微笑した、「スタジアムから抜け出してきたまででね。いいですか、今夜この近辺には、衣類を身につけていない――と言って悪ければ、ほとんど身につけていない――ある種の男性諸君がいましたね。つまり、拳闘家たちです……ちょっと待ってください!」彼はすばやく言った。「これは珍しい事件です、というのは主として、殺人があったと知るとほとんど同時に、ぼくは事件のもっとも難しい部分を解明してしまったからです。ブラウンが刺され、自分のコートをあとに残していった犯人によってぼくのコートが盗まれたと知った瞬間、ぼくには、殺害犯人は|十三人の男たちのうちの一人《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》以外にはあり得ないとわかったのです――殺されたブラウンを除いて、残る十三人のプロ・ボクサーです。おぼえておいででしょうが、今夜スタジアムには十四人のボクサーがいたわけですから――六つの前座試合に出た十二人と、メイン・エヴェントに出た二人ですが」
「その残る十三人のボクサーのうち、誰がブラウンを殺したのか? ぼくには最初からそれが問題だったんです。そこでぼくとしてはどうしても自分のコートを見つける必要があった、なぜなら、それこそが殺人犯とその犯行との唯一の具体的な結びつきだったからです。さて、ぼくは自分のコートをこうして発見し、今や、十三人のうちの誰がブラウン殺しの犯人か知っています」
「ぼくは背が高く、横幅もかなり広いほうです」エラリーは話をすすめた。「ところが犯人が逃げるためにぼくのコートを着るにあたって、袖ぐりと背中の縫い目がはり裂けた! とすると、犯人はぼくよりもずっと大男――背丈も横幅もはるかに大きな男だということになります」
「今夜、出場した十三人のボクサーのうち、ぼくより丈も横幅も大きかったのは誰か? ああ、しかし、今夜のカードは軽量級ばかり並んでましたね――バンタム級、ウェルター級、ライト級といった具合だ! したがって十二人の前座の選手はいずれもブラウン殺しの犯人ではないはずです。となると残るボクサーはただ一人――六フィート半の背丈があり、肩幅と背幅が非常に広い男、今夜の試合を投げるようにマイク・ブラウンをそそのかす最大の動機を持った男です!」
今度の沈黙は不気味なまでに意味ありげだった。それがジム・コイルのものうげな笑い声で破られた。「おれのことを言ってるんだとしたら、あんた、きっと頭がどうかしてるんだ。だって、マイクがやられた時、おれはシャワー室でシャワーを浴びてたんだからな!」
「そう、ぼくはきみのことを言ってるんだよ、ジム・コイルくん」とエラリーははっきりと言い切った、「シャワー室というのは、きみの計画の中ではもっとも巧妙な部分だったな。きみは我々みんなの見ている前でタオルを持ってシャワー室に入り、ドアをしめてシャワーの栓をひねると、あそこの釘にかかっていたバーニー・ホークスのキャメルのコートを急いで着こんでシャワー室の窓から通路に忍び出た。そこから通りに出て、通りの向う側の駐車場に行くのは、ほんの数秒ですむことだ。もちろん、犯行の際にホークスのコートを汚してしまったきみは、それを着て戻ってくる危険は冒せなかった。しかも、帰り道で裸を隠すのにはどうしてもコートが入用だった。そこでぼくのコートを盗んだのだ、これには大いに感謝してるよ、だって、さもなければ――この男をひっとらえてくれませんかね? ぼくの右は大してよくないんです」自分に向かって突然殺気立って突進してくるコイルを避けるため、美しくみごとなフットワークを少しばかり披露しながら、エラリーはそう言った。
雪崩のようにどっと襲いかかる手足の下にコイルが押しつぶされている間に、エラリーは言いわけするようにミス・パリスにささやきかけた、「何と言っても、きみ、この男はヘビー級の世界チャンピオンだからね」
七匹の黒猫
アムステルダム・アヴェニューにあるミス・カーリーのペット・ショップの入口の鈴がちりんと鳴って、エラリー・クイーン氏が鼻にしわを寄せて店内へ入ってきた。敷居をまたいだとたん、彼は自分の鼻が大きくなく、しかも一応の用心に鼻にしわを寄せておいたことをありがたく思った。その小さな店の臭気の程度と種類の多さを考えたら、かのニューヨーク動物園も肩身の狭い思いをするにはあたるまい。というほどなのに、その店にはごくちっぽけな動物しか置いていないと知って、彼はびっくりした。動物たちは、エラリーが店内に一歩足を踏み入れるやいなや、一斉に吠え、叫び、うなり、わめき、ブーブー、キーキー、ギャーギャー、カーカー、ギーギー、チーチー、シューシュー、ウーウーと一大合唱をはじめ、屋根の落ちないのが不思議なくらいだった。
「いらっしゃいませ」と、きびきびした声が迎えた。
「店主のカーリーでございます。どうぞ、ご用の向きをおっしゃってください」
猛烈な騒々しさのただ中で、エラリー・クイーン氏は我知らず、生き生きとした目にじっと見入っていた。ほかにも見るべき箇所はあった――なにしろ相手は小ぎれいな若い女で、たとえば、ティティアーノ風の豊かな金茶色の髪と、曲線美と、少なくとも片方のほほにえくぼがある――が、さしあたり彼の注意を強く惹きつけたのは、その目だった。ミス・カーリーは顔を赤らめながら、もう二度同じことを言った。
「どうも失礼」とエラリーは急いで言って、当面の問題にもどった。「どうも動物の世界では声量や――そのー――匂いと、体の大きさとは釣合いがとれてないようですね。生きていると、いろいろ教えられますよ! カーリーさん、比較的うるさくなくて匂いもよく、毛並みは縮れた茶色で、せんさく的な耳が半分立っていて、後足の曲がっている犬を買いたいんですが、どんなもんでしょう?」
ミス・カーリーは眉をひそめた。あいにくアイリッシュ・テリヤは売り切れで、一匹だけ残っていた子犬も客が飛びつくようにして買っていってしまったそうだ。ひょっとしてスコッチ・テリヤでは――?
今度はクイーン氏が眉をひそめた。だめ、だめ、やかまし屋のジューナにアイリッシュ・テリヤを手に入れるように特に申しつかってきているのだ。陰気くさい顔をした、ちんちくりんの代用品ではことがすまないのは必定だった。
「明日、ロングアイランドの犬飼育場《ケネル》から連絡が入るはずになってますの」ミス・カーリーが商売人らしく言った。「お名前と住所を書いていっていただけます?」
その若い女の目に見入っていたクイーン氏は、喜んでそうすることにした。紙と鉛筆を受け取ると、すぐさまいそいそと書きつけた。
彼の書いたものを読んだとたん、ミス・カーリーは商売向けの顔をかなぐり捨てた。「エラリー・クイーンさんでしたのね!」と勢いこんで叫んだ。「まあ、驚きましたわ。あなたのお噂はたんとうかがってましてよ、クイーンさん。あなたがついそこの角を曲がった八十七丁目に住んでいらっしゃるなんて! ほんとに感激ですわ。お目にかかれるなんて思ってもみなくて――」
「ぼくも」クイーン氏がつぶやいた。「ぼくもですよ」
ミス・カーリーはまた赤くなって、無意識に髪に手をやった。「うちのお得意さまのお一人がお宅のすぐ向かい側に住んでらっしゃるんですのよ、クイーンさん。まあ一番の常得意と言ってもいいですわね。たぶん、ご存じなんじゃありません? ミス・タークル――ユーフィーミア・タークルっておっしゃるんですけど。ほら、あの大きなアパートに住んでらっしゃるんです」
「残念ながらまだお目にかかったことがないですな」クイーン氏はうわの空で答えた。「あなたはじつにたぐいまれなる目をしてらっしゃる! つまり、その――ユーフィーミア・タークルですって? おや、おや、この世にはいろいろ思いがけない不思議なことがあるもんですね。その方は名前と同じくらい変わった人ですか?」
「そんなこと言っちゃお気の毒ですわ」ミス・カーリーはぴしゃりとたしなめた。「でもたしかに、そう言っちゃ何ですけど、ちょっと変わってますわね。リスのような顔をしたお年寄りで、|しかも《ヽヽヽ》寝たきりの病人ですの。中風なんですのよ。それはもう風変りで、弱々しくて、とてもちっちゃな方。ほんとのところ、まったく気違いじみてるんです」
「そりゃきっと魔女ですな」クイーン氏はカウンターから自分のステッキを取り上げながら、気まぐれに言った。「猫を飼ってるでしょ?」
「あら、クイーンさん、いったいどうしておわかりになりますの?」
「つきものですからね」クイーン氏は重苦しい声音で言った。「猫が」
「あなた|なら《ヽヽ》きっとあの方に興味をお持ちになりますわ」とミス・カーリーは熱をこめて言った。
「でも、どうしてぼくが、ダイアナ〔美しい若い女性の代名詞〕さん?」
「あたくしの名は」ミス・カーリーがはにかんで言った、「マリーです。とにかく、その人は|すごく《ヽヽヽ》変わってるんですのよ、クイーンさん。あなたは変わった人間に興味がおありだと、かねがねうかがってますわ」
「目下のところは」クイーン氏はステッキをしっかり握り直して、急いで言った、「のんびり怠け暮しを楽しんでるところでしてね」
「でも、ミス・タークルがどんな気違いじみたことをしているか、ご存じ?」
「さっぱり見当がつきませんね」とクイーン氏は正直に言った。
「あの方、もう何週間も週にほぼ一匹ずつの割合で、うちから猫を買ってらっしゃいますのよ!」
クイーン氏はため息をついた。「別に怪しむにはあたらないと思いますがね。病気で寝たきりのお婆さんと、猫道楽――うん、こりゃぴったり合ってますよ、ほんとの話。わたしにもそんな叔母がいましたよ」
「すごく変わっているというのはそこなんですのよ」ミス・カーリーが勝ち誇ったように言った。「彼女は|猫好き《ヽヽヽ》じゃないんですもの!」
クイーン氏は二度、まばたきした。ミス・カーリーの感じのいい小さな鼻をじっと眺め、それから幾分うわの空で、ステッキをまたカウンターの上に置いた。「ですがねえ、どうしてあなたにそれがわかるんです?」
ミス・カーリーはにこやかにほほえんだ。「その方の妹さんが話してくれたんです――静かにおし、ジンジャー! あの、ミス・タークルは中風やら何やらでまるっきり体がききませんでしょ、それで妹のサラ・アンさんが家事の世話をしてるんです。二人ともまあ同じくらいの年格好で、とってもよく似てらっしゃって。小さくしなびたリンゴみたいなお婆さんたちで、ちっちゃな目鼻立ちといい、リスのような顔といい、そっくりなんですの。それがね、クイーンさん、一年ばかり前にサラ・アンさんがあたくしの店に来て、黒い牡猫をお買いになったんです――あまり持ち合わせがないので、そう高価なのは買えないとおっしゃって、で、あたくしはただの――そのう、ごく普通の猫をお世話してさしあげたんですのよ」
「黒の牡猫というのは向うの注文だったんですか?」クイーン氏は熱心に質問した。
「いいえ。どんなんでもいいっておっしゃったんです。猫ならどれこれなしに好きだって。それがほんの二、三日したらまたおいでになったんです。猫を返して代金を払い戻してもらえまいかと、おたずねになりましてね。なんでも、姉のユーフィーミアさんが身辺に猫がいるのが我慢できないとかで。ユーフィーミアは猫が大嫌いだからって、ため息まじりにおっしゃってましたけど、なにぶんにもサラ・アンさんは多かれ少なかれユーフィーミアさんの厄介になって暮らしているので、まともに姉さんに逆らうわけにはいかないんですのね。あたくし、ちょっと気の毒になって、猫はお引き取りしますって言ったんです。ところが、御本人の気が変わったか、それともお姉さんの気が変わったかしたらしくて、サラ・アン・タークルさんはそれっきりお見えになりませんの。とにかく、そんなわけで、あたくしはユーフィーミアさんが猫嫌いだって知ってますのよ」
クイーン氏は指の爪をかじった。「妙だな」と彼はつぶやいた。「まったくもって奇妙千万だ。あなたのお話だと、そのユーフィーミアって人は週に一匹ずつ猫を買ってるんですね? どういう種類の猫です、カーリーさん?」
ミス・カーリーはため息をついた。「あまり大した猫じゃないんです。もちろん、ユーフィーミアさんはお金持なので――とにかく、妹のサラ・アンさんがそうおっしゃってました――あたくしは、アンゴラを買っていただこうとしたんです――うちに素晴しいのが一匹いたもんで――それに品評会で賞をとったマルタ猫もいましてね。でもユーフィーミアさんはただの猫が欲しいとおっしゃるんです、妹さんにお世話したような黒いのを」
「黒ねえ……それはひょっとして――」
「あら、あの方は全然迷信家じゃありませんわ、クイーンさん。ある点では、とってもおかしなお婆さんですけどね。緑色の目をした黒猫で、どれも同じ大きさのものばかりなんて。とても変な気がしましたわ」
エラリー・クイーン氏の鼻の穴がかすかにひくついたが、といって店内に漂うペット・ショップ特有の臭気のせいではなかった。タークルという名の中風病みの老婆が、毎週、緑色の目をした黒い牡猫を買いこんでいるとは!
「たしかに変ですね」と彼はつぶやき、灰色の目が細くなった。「それにしてもこの異常な出来事は、もうどれくらいつづいているんです?」
「興味をお持ちになりましたのね! これで五週間になりますわ、クイーンさん。つい先日、あたくしが自分で六匹目をお届けしたばかりです」
「あなたが? その人は完全に体が麻痺しているわけですか?」
「ええ、そうですの。寝たっきりで、一歩も歩くことができないんです。そんなふうになってもう十年になるって、御本人が言ってましたわ。中風の発作で倒れるまではサラ・アンさんとは別別に暮らしてたんだそうです。今では何もかもすっかり妹さんに頼ってらして――食事も、入浴も、おまるも――一切の世話を」
「それじゃなぜ」エラリーがきいた。「猫を取りに妹さんをよこさないんですかね?」
ミス・カーリーの生き生きした目がまたたいた。「わかりませんわ」とゆっくり言った。「あたくし、時々、ぞっとしちゃいますの。彼女はいつも電話してくるんですのよ――枕もとに電話があって、それに手をのばすくらいは腕がきくんです――猫が入用な日はいつもそうなさって。きまって同じ御注文なんです――黒の牡猫で、目は緑色で、前のと同じ大きさで、しかもなるべく安いのをって」ミス・カーリーの愛嬌のある顔が険しくなった。「なかなか値切り屋なんですの、ユーフィーミア・タークルさんて」
「奇怪だ」とエラリーが考えこんだように言った。「奇怪千万ですな。そもそも状況そのものに何やらラベンダーのように悲劇の匂いがぷんぷんしてますよ。話してください、あなたが猫を届けた時、妹さんはいつもどんな態度でした?」
「静かにおし、ジンジャー! 何とも言えませんわ、クイーンさん、だって妹さんはいらっしゃらなかったんですもの」
エラリーはびっくりした。「いなかったですって! そりゃどういう意味です? たしか、あなたの話だと、そのユーフィーミアという人は体が不自由だとかで――」
「そうですわ、でもサラ・アンさんは毎日午後、散歩したり映画を見たりしに出かけるらしいんです、で、お姉さんは二、三時間独りきりになるんですの。あたくしのところに電話してこられるのは、そんな時なんだと思いますわ。それに、必ず決められた時間に来るようにいつもおっしゃるし、お届けに上がった時にサラ・アンさんをお見かけしたことがないことからしても、あの方、きっと妹さんには買物を内緒にしようとしてらしたんじゃないかしら。サラ・アンさんはお出かけの時、ドアの鍵はかけずにおかれるので、わたしは入れるわけなんです。ユーフィーミアさんはあたくしに何度となく、猫のことは一切誰にも口外しないようにとおっしゃるんですの」
エラリーは鼻眼鏡をはずして、曇ってもいないレンズを磨きはじめた――まぎれもなく心が動いたしるしだ。「ますますこんぐらかってきた」と彼はつぶやいた。「カーリーさん、あなたは何とも――その、気味の悪いことに出くわしたもんですね」
ミス・カーリーは青くなった。「まさか、あなたのお考えでは――」
「すでに不祥事が起こってるかっていうんですか? ええ、そう思いますね。だからこそ心配しているんです。たとえば、いったいどうしてその老婆は買いこんだ猫のことを妹に知られずにすむと思ってるんですかね? サラ・アンは盲じゃないんでしょう?」
「盲? あら、もちろんちがいますわ。それにユーフィーミアさんだって目はしっかりしてますわよ」
「今のはただの冗談ですがね。その点が腑に落ちないんですよ、カーリーさん」
「じゃ、まあ」ミス・カーリーが朗らかに言った。「少なくとも、あたくしは偉大なるクイーンさんに思案の種を提供したわけですのね……アイリッシュ・テリヤが手に入り次第、こちらからお電話を――」
エラリー・クイーン氏は眼鏡を元通り鼻にのせ、がっしりした肩をそらせると、またステッキを手に取った。
「カーリーさん、ぼくは度しがたいお節介屋でしてね。この不可解なタークル姉妹の一件にぼくがちょっかいを出す手助けをしてもらえませんか?」
ミス・カーリーのほほにぽっと赤味がさした。「本気じゃありませんでしょ?」
「本気ですとも」
「でしたら喜んで! あたくし、何をすればよろしいんですの?」
「ぼくをタークル姉妹のアパートに連れていって、お店の客として紹介して頂くってのはどうですかね。あなたが先日タークルさんに売った猫が、実はこのぼくに売約済みだったもので、頑固な猫キチガイのぼくがほかの猫では承知しない。で、前の猫を返してもらって、タークルさんには代りのをお世話するしかないとでも言ってもらいましょう。ぼくが先方に会って話をする口実になれば何でもいいんです。ちょうど今、午後も半ばで、サラ・アンさんはたぶんどこかの映画館でクラーク・ゲーブルに胸を焦がしてる頃でしょうしね。どんなもんでしょう?」ミス・カーリーはあでやかな笑みを投げかけた。
「それはもう――何とも言いようのないほどすてきですわ。すぐお化粧を直して、誰かに店番を頼んできますから、ちょっとだけ待って下さいな、クイーンさん。|何が《ヽヽ》あろうとこの機会は逃がしゃしませんわ!」
十分後、二人はかなり古ぼけたアムステルダム・アームズ・アパートの五階のC室の戸口の前に立って、廊下の床に置いてある、中身が入ったままの一クォート入り牛乳瓶二本を無言のままじっと見おろしていた。ミス・カーリーが心配げな顔をし、クイーン氏はかがみこんだ。腰をのばした時には、こちらも憂い顔になっていた。
「昨日と今日の分だ」とつぶやくと、彼はドアのノブに手をかけて回した。鍵がかかっていた。
「たしか、あなたの話だと、妹のほうが出かける時はドアに鍵はかけないということでしたが?」
「家にいるのかもしれません」とミス・カーリーは自信なげに言った。「それとも、出かけているとしたら、掛金をはずすのを忘れたんですわ」
エラリーは呼び鈴を押した。応答はなかった。彼はもう一度鳴らし、それから大きな声で呼んだ。「タークルさん、いらっしゃいますか?」
「さっぱりわかりませんわ」ミス・カーリーが神経質な笑い声をあげて言った。「ほんとなら聞こえているはずですもの。中は三部屋きりで、寝室も居間もこのドアの向う側の小さな控えの間のすぐわきにあるんです。台所はまっすぐ突き当りですの」
エラリーはまた大声をあげて呼んだ。しばらくして彼はドアに耳を押しあてた。かなりあちこちいたんだ廊下といい、ペンキのはげ落ちたドアといい……
ミス・カーリーのたぐいまれな目がおびえて銀のランプと化していた。彼女は何とも奇妙な声で言った。「ねえ、クイーンさん。何か恐しいことが起こったんですわ」
「管理人をさがしましょう」とエラリーは落ち着きはらって言った。
一階のとあるドアの前に金物の枠に入った『管理人ポター』という名札が出ているのが見つかった。ミス・カーリーはかすかにあえいでいた。エラリーが呼び鈴を鳴らした。
とてつもなく太い腕に石鹸の泡をつけたままの、ずんぐりむっくりした女がドアをあけた。汚ないエプロンで赤くふやけた手をふき、肌のたるんだ顔からべっとり濡れた一筋の灰色の髪をかき上げた。「何だい?」と無愛想にたずねた。
「ポターさんの奥さんで?」
「そうさ、空き部屋はないよ。門番がそう言ったはずだけどね――」
ミス・カーリーが顔を赤らめた。エラリーはあわてて言った、「いや、わたしたちはアパート探しをしてるわけじゃないんですよ、ポターさん。管理人さんはおいでですか?」
「いいや、いないよ」女はうさん臭げに言った。「うちの人はロングアイランド・シティの化学工場でパートタイムで働いてるから、三時半までは帰らないよ。何の用?」
「あなたでも結構なんですよ、ポターさん。こちらの若い御婦人とわたしでタークルさんをおたずねしたんですがね、5―C室はどうも返事がなくて」
太った女は眉を寄せた。「ドアはあいてないかい? いつもならこの時間にはあいてるけどねえ。ぴんしゃんしてるほうは出かけてるけど、中風病みのほうは――」
「鍵がかかってるんですよ、ポターさん、それに呼び鈴を鳴らしても声をかけても、返事がないし」
「そりゃおかしいね」女はミス・カーリーをじろじろ見ながら、金切り声で言った。「解《げ》せないよ――ユーフィーミアさんは体が不自由で、金輪際《ヽヽヽ》出歩きゃしないんだから。かわいそうに、発作でもおこしたんじゃないのかい!」
「そうじゃないと思いますがね。サラ・アンさんにこの前会ったのはいつです?」
「ぴんしゃんしたほうかい? えーとね。そうそう、二日前だよ。考えてみると、片輪のほうにも、もう二日は会ってないね」
「あらまあ」ミス・カーリーは二本の牛乳瓶を思い出して小声で言った。「二日も!」
「じゃ、あなたはユーフィーミアさんに時々は会うわけですね?」とエラリーがこわい顔になってきいた。
「そりゃ、会いますとも」管理人の細君は、まだたらいで洗濯でもしているように、赤らんだ手をもみはじめた。「時たま、午後、妹さんが留守だと、電話をかけてきて、焼却炉にものを捨てるとか、何やかや用事を頼まれるもんでね。こないだは、郵便を出してくれって言われたっけ。あの人は――たまに何かくれるしね。でも、もう二日ってもの……」
エラリーはポケットから何やら取り出し、てのひらにくるみこむようにして太った女の疲れたような目の前に差し出した。「ポターさん」と、いかめしい調子で切り出した。「わたしはあの部屋に入りたいですな。どうもおかしいんでね。お宅にあるマスター・キーを貸してください」
「け、け、警察の方で!」女は楯形のバッジをまじまじと見ながら、口ごもった。それから急にあたふたと奥へひっこんで、戻ってくるとエラリーの手に鍵を押しつけた。「ああ、うちの人がいてくれたらいいのに」と愚痴った。「あなたは、まさか――」
「このことは誰にも言わんようにね、ポターさん」
よくしゃべる口をぽかんとあけ、おびえきっている女を残して、二人は自分で操作するエレベーターで五階に取って返した。ミス・カーリーは唇まで青ざめていた。いくらか気分が悪いようだった。
「たぶん」エラリーは鍵穴に鍵を差しこみながら、やさしく言った。「あなたは一緒に入らないほうがいいでしょう、カーリーさん。不愉快な思いをしないともかぎらんですよ。ぼくが――」
彼は急に口をつぐんで、身をかがめた。
ドアの向うに誰かいた。
何かを引きずっているような、ふぞろいなこすれる音を伴なって、まぎれもなく人が走る足音がした。エラリーはすぐさま鍵をねじってノブを回し、その肩先でミス・カーリーがあえいだ。ドアは半インチほどあいたところで、動かなくなった。足音が離れていった。
「ドアに突っかい棒をしおったな」とエラリーはうなった。「後ろにさがって、カーリーさん」彼は横向きにドアに体当りした。バリバリと裂ける音がして、ドアはさっと内側に開き、壊れた椅子が後ろにひっくり返った。
「遅かったか――」
「非常階段よ!」ミス・カーリーが鋭く叫んだ。「寝室のほう。左手よ!」
一対のベッドが並んでいる、とりちらかった様子の細長い大きな部屋にエラリーは飛びこみ、あいている窓に駆け寄った。だが、非常階段には人影はなかった。見上げると、鉄梯子はカーブして、頭上数フィートのところで尽きていた。
「どこのどいつか知らんが、屋根づたいに逃げたらしい」とつぶやきながら首を引っこめて、彼はタバコに火をつけた。「タバコは? じゃ、まあ、そこいらを見てまわるとしましょうか。どうやら、血を見るようなことはなかったらしい。結局、早とちりだったかな。何か目をひくものはありますか?」
ミス・カーリーは震える指でさし示した。「あれがあの――あの方のベッドです。乱雑になっているほうが。でも、あの方はどこにいっちゃったのかしら?」
もう一方のベッドはきちんとしてあって、レースのベッドカバーも乱れていなかった。ところがユーフィーミア・タークルのはさんたんたるありさまだった。シーツははぎとられ、マットレスがざっくりと切り裂かれて、木綿のふとんがわの切れはしが床に落ちていた。枕はずたずただった。マットレスの中央のくぼみが、行方不明の病人の寝ていた位置を示していた。
エラリーはじっと立ちつくして、しげしげとそのベッドを眺めていた。それから次々に押入れを見てまわり、扉をあけては中を調べて、また扉をしめた。右の肩越しに絶えず振り返る不安げな癖がついてしまったミス・カーリーが、ぴったりと後ろについて歩いた。エラリーは居間、台所、それに浴室をざっとのぞいた。だが、どこにも人影はなかった。しかも、ユーフィーミアのベッド以外は、見たところ何も荒らされてはいなかった。全体にどことなく薄気味悪い雰囲気ではあった。さながら僧院のような静寂のただ中で暴力に見舞われたかのようだった。皿やフォークなどの食器と食べかけの食物がのった盆が、ほとんどベッドの下に隠れるようにして、床に置いてあった。
ミス・カーリーはおののいて、エラリーにぴったりと寄りそった。「何だかひどく――ひどくひっそりかんとしてますわね」唇を湿しながら彼女が言った。「ユーフィーミアさんはどこなんでしょう? それに妹さんは? あれ、誰だったのかしら――ドアをふさいだのは?」
「それより肝腎なのは」エラリーは食物がのった盆を見つめながらつぶやいた、「七匹の黒猫がどこにいるかってことです」
「七――」
「サラ・アンの愛猫が一匹に、ユーフィーミアの六匹ですよ。どこへいっちゃったんですかね?」
「たぶん」ミス・カーリーは期待をかけるように言った。「窓から飛び出したんですわ、あの男が――」
「たぶんね。それにしても『男』とは言い切れんでしょう。何もわかっちゃいないんだから」彼はいらいらとあたりを見まわした。「飛び出したとすると、ほんのちょっと前ですね、あの窓の掛け金がこじあけられているところからして、窓はそれまでしまっていたわけで、したがって猫はおそらく――」彼は急に話をやめた。「そこにいるのは誰だ?」と鋭く叫んで、すばやく振り向いた。
「あたしですよ」と臆したような声がして、ポターの細君が控えの間におずおずと入ってきた。その疲れた目が恐れと好奇心で輝いていた。「どこに――」
「いないよ」とエラリーは無精たらしい女を見すえた。「今日はユーフィーミアさんにも妹さんにも会ってないってのは、たしかなんだね?」
「昨日もですよ。あたしは――」
「この二日間に、近所で救急車を見かけなかったかね?」
ポターの細君は青ざめた。「いーえ! あの人がどうやって|外へ《ヽヽ》出たのか、さっぱりわかりませんよ。一歩も歩けないんだから。運び出されたんだったら、|誰かしら《ヽヽヽヽ》気づいてるでしょうに。門番ならきっとね。あたしゃ、ちょっときいてみたんです。でも、誰も気づいてないんですよ。何かあれば、あたしにゃすっかりわかるし――」
「ひょっとしてあんたの御亭主がこの二日間に、あの二人なり、どちらか一方なりに会ってるってことはないかね?」
「ないですね。うちの人はおとついの晩になら会ってますけどね。このところハリーはその、つまり、ちょっとした内職みたいなことをしてましてね。ユーフィーミアさんが部屋の飾りつけやら壁紙の張り替えやら、ちょっとした大工仕事やらを家主に頼んだんだけど、断わられちまってさ。それで、もう一ヵ月以上も前だけど、ハリーにこっそりやってもらえないかと頼んできて、本職並みとはいかないまでも金は払うって言うんですのさ。で、暇を見ちゃ、といってもたいてい午後遅くか夜分でしたけど、やってあげてたんですよ――器用でしてね、うちの人は。仕事はもう大方すんだんですよ。これ、きれいな壁紙でしょ? まあ、そんなわけで、うちの人はおとついの晩にユーフィーミアさんに会ってますよ」ふと不吉な考えが浮かんだと見えて、彼女は目をきょろきょろさせ、かすかな悲鳴をもらした。「考えてみると、もしも――もしも、あの婆さんの身に何かあったら、金を払ってもらえなくなっちまう! あれだけ仕事をして……それに家主が――」
「わかった、わかった」エラリーがもどかしげに言った。「ポターさん、このアパートにはネズミのたぐいはいますか?」
女二人は当惑顔になった。「とんでもない、そんなものは一匹だって」ポターの細君はおもむろに言いかけた。「駆除業者が来て――」と、そのとき、控えの間で音がして、三人とも一斉にくるりと振り向いた。誰かが入口のドアをあけようとしていた。
「入りたまえ」と、つっけんどんに言って、エラリーは大股にそっちへ歩きだしたものの、気づかわしげな顔がおずおずと寝室をのぞきこんだので、ぴたりとその場に立ち止まった。
「すみません」新来者はエラリーと女二人に出くわしてびっくりしながら、小心そうに言った。「どうやら部屋を間違えたようです。ユーフィーミア・タークルさんはここにお住まいで?」その男は針のようにやせた、のっぽの青年で、おびえたような馬面と、黄褐色の剛い髪をしていた。流行遅れの仕立ての、かなりくたびれた背広を着て、小さな旅行鞄をさげていた。
「ええ、そうですとも」エラリーが愛想のいい笑顔で言った。「さあ、どうぞ、どうぞ。失礼だが、どなたさんですか?」
青年は目をぱちくりさせた。「ですが、ユーフィーミア叔母さんはどこにいるんです? ぼくはイライアス・モートン・ジュニアっていいます。叔母はここにいないんですか?」赤く充血気味の小さな目が、とまどった心配そうな様子で、エラリーとミス・カーリーをとみこうみした。
「あなたは今、ユーフィーミア『叔母さん』と言われましたね、モートンさん?」
「ぼくはあの人の甥《おい》なんです。よそから来ました――オールバニーから。どこに――」
エラリーはつぶやくように言った、「突然訪ねてこられたんですな、モートンさん?」
青年はまた目をぱちくりさせた。鞄をまだ手に持ったままだったが、やがてそれを床にどすんと置くと、躍起になってあちこちのポケットをさぐったあげく、ひどく汚れてしわくちゃになった一通の手紙を取り出した。
「ぼ――ぼくはこれをつい二、三日前に受け取ったんです」と、どもりながら言った。「もっと早く来ようと思ったんですが、父がどこかへいっちまって――これ、どうもよくわからないことが書いてあるし」
エラリーは相手が軽く手に持った手紙をひったくった。それはありふれた茶色の包装紙の切れはしにたどたどしく書きなぐったもので、封筒も安物だった。鉛筆で走り書きした、いかにも年寄りらしいひねこびた字でこう書いてあった――
イライアス様――叔母さんはもう長年ご無沙汰ばかりしていますが、今度ばかりはイライアス、どうしてもあんたが必要になりました、それというのも、あんたはわたしがひどい難儀をしているときに頼りにできるたった一人の血縁だからです! わたしは今、大変な危険にさらされています。自分ではどうすることもできないこの哀れな寝たきりの叔母を、あんたは助けてくれなくてはいけません。|すぐ来てください《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》。あんたのお父さんにも誰にも言わないでね、イライアス! こちらへ着いたら、ただ見舞いに来ただけのふりをすること。いいわね。どうぞ、わたしを見捨てないで下さい。お願い、助けて! 愛する叔母より
ユーフィーミア
「驚くべき手紙だ」エラリーは眉をひそめた。「どうしても必要に迫られて書いたものですよ、カーリーさん。まず本物ですな。誰にも言わないで、か? ところで、モートンさん、どうやら来るのが遅すぎたようですよ」
「それは――しかし――」青年の馬面が蒼白になった。「ぼくはすぐ来ようとはしたんだけど、で、でも、父がどこかへ行ってしまって、い、いつもの酒癖が出ちゃって、つかまらなくて。どうしていいかわからなかったんです。それからすぐ来たんですが、か、か、考えてみると――」そっ歯がかちかち鳴った。
「これはたしかに叔母さんの筆跡ですね?」
「ええ、そうです。そうです」
「あなたのお父さんは、察するに、タークル姉妹とはきょうだいじゃないようですが?」
「ええ、ちがいます。亡くなった母が、ふ、二人ときょうだいだったんです」モートンは椅子の背につかまろうと手さぐりした。「ユーフィーミア叔母さんは――し、死んだんですか? それにサラ叔母さんはどこです?」
「二人ともいなくなっちゃったんですよ」
エラリーは自分にわかっていることを手短かに話してきかせた。オールバニーからの若い来訪者は今にも気絶しかねない様子だった。「わたしは――その――非公式にこの件を調べているわけなんですがね、モートンさん。二人の叔母さんたちについて知っていることをすっかり話してください」
「ぼくは、あ、あまり知らないんです」モートンは口ごもりがちに言った。「二人にはもうかれこれ十五年も会ってないんです、子供の頃会ったきりで。サラ・アン叔母さんからは時たま便りがありましたが、ユーフィーミア叔母さんからはたった二度です。二人とも決して――ぼくには思いもよらない――ユーフィーミア叔母さんが中風で倒れていらい、その……おかしくなったってことは、そりゃ知ってます。サラ叔母さんがそのことは書いてよこしましたからね。叔母さんは多少のお金を持ってて――どれほどか知りませんが――ぼくの祖父が残してやったもんなんですが、サラ叔母さんに言わせると、それはもうけちんぼだったそうです。サラ叔母さんのほうは一文無しだったので、仕方なくユーフィーミア叔母さんと一緒に暮らして、身のまわりの世話をしてたんです。サラ叔母さんの話だと、ユーフィーミア叔母さんは銀行を決して信用せず、どこか身辺に隠していたらしいんですが、その場所はサラ叔母さんも知りませんでした。ユーフィーミア叔母さんは中風の発作を起こしてからも医者を呼ぼうとさえしないくらいで、それはもうしぶちんでした――、いや、|です《ヽヽ》。二人は折合いが悪かったようです。始終けんかばかりしてると、サラ叔母さんが書いてよこしましたが、何でもユーフィーミア叔母さんは、自分の金をとろうとしていると言ってはのべつ責め立てるんで、サラ叔母さんは腹にすえかねていたようです。そんなところ――ぼくが知ってるのはざっとそんなところです」
「気の毒な人たちね」ミス・カーリーが目をうるませてつぶやいた。「何てみじめな生活なんでしょ! きっとタークルさんが悪いわけでもないんでしょうけど――」
「ちょっとききたいんですがね、モートンさん」エラリーは間のびした口調で言った。「叔母御のユーフィーミアは猫嫌いだったというのは、ほんとうですか?」
細く突き出たあごがあんぐりとなった。「へえ、どうしてご存じなんですか? 叔母は猫が大嫌いですよ。そのことはサラ叔母さんがたびたび書いてよこしました。ひどく気を悪くしてたんですね、何しろサラ叔母さんのほうは大変な猫気違いで、自分の猫をまるで子どもみたいに可愛がるくちですからね。それでまたユーフィーミア叔母さんは焼きもちを焼くとか、恐るとか何かするわけです。どうやら二人はまるっきり気が合わなかった――合わ|ない《ヽヽ》らしいんです」
「無理もないけど、どうもお互いに時制の使い方に困ってる感じですな」とエラリーが言った。「モートンさん、あなたの叔母さんたちが骨休めか、あるいは人に会いに、単にどこかへ出かけただけのことではないという証拠は、結局のところ、何もないんですよ」だが、そう言いながら彼の目の鋭いきらめきは依然として消えなかった。「どこか近くのホテルでひとまず休んだらどうですか? 何かあり次第こちらから知らせますよ」エラリーはちぎった手帳の一ページに、七十丁目にあるホテルの名前と所番地を走り書きして、じっとり汗ばんだモートンの手に押しつけた。「心配御無用。こちらから連絡しますよ」そう言うと、彼は戸惑っている若者を廊下に押し出した。ほどなく、エレベーターのドアがかちゃりと鳴る音が聞こえた。
エラリーがおもむろに言った。「盛装して町に出てきた田舎の親類ってとこだな。カーリーさん、ひとつそのきれいなお顔を拝見して、気分直しをさせてください。ああいう御面相をした連中は法律で差し止めるべきですよ」彼女のほほをさすりながら、彼は眉をひそめて、ちょっと考えていたが、やがて浴室に向かった。ミス・カーリーは再び赤くなり、急いでエラリーのあとを追いかけながら、またしても不安そうな目で背後を振り返った。「何だ、これは」エラリーの鋭い声が聞こえた。「そこをどきなさい、ポターさん――や、こいつは!」
「どうしたんですの?」ミス・カーリーが叫んで、彼のあとから浴室に飛びこんだ。
ポターの細君は、たくましい腕に鳥肌を立て、疲れた目に恐怖の色を浮かべて、口をあけたまま浴槽の中をにらみつけていた。二言、三言、意味をなさない言葉を発し、あわただしく目をきょろつかせると、そそくさ逃げ出した。
ミス・カーリーが、「まあ、ひどい」と言って、手を胸に当てがった。「何て――むごたらしい!」
「むごたらしく」エラリーが険しい調子でゆっくりと言った、「しかも啓示的です。ぼくはさっきここをのぞいた時には、あれを見落としてしまった。思うに……」そう言いさして、彼は浴槽に身をかがめた。もうその目にも、声にも、ユーモアは感じられなかった。あるのはただ病的なまでの注意深さばかりだった。二人とも黙りこくっていた。死の影が二人におおいかぶさった。
一匹の黒い牡猫が骨を抜かれたようにぐたっとのびたまま硬直して、浴槽の中で血糊にまみれて横たわっていた。緑色の目をした、大きくつやのある黒猫で、まぎれもなく死んでいた。頭は叩きつぶされ、胴体も数ヵ所で骨が折れているようだった。その血がほうろう引きの浴槽の内側に飛び散って、べっとりこびりついていた。何者かの非情な手からほうり出された凶器が、死骸のそばにころがっていた。頑丈な柄のついた、血まみれの浴用ブラシだった。
「これで、いなくなった七匹のうち少なくとも一匹は謎が解けたわけだ」エラリーが体を起こしながら、つぶやいた。「ブラシで叩き殺されたんですな。それに見たところ、死後一日かそこいらしかたっていませんよ。カーリーさん、お互い、悲惨な事件に巻き込まれたもんですね」
だが、ミス・カーリーは、恐怖による最初のショックも憤怒のあまり吹っ飛んで、こう叫んでいた、「猫をこうも残忍に殺すなんて――鬼だわ!」銀色の目がぎらぎらと燃えるようだった。「あの鬼婆――」
「忘れちゃいかんな」エラリーがため息まじりに言った、「婆さんは歩けないんですよ」
「これはいよいよもって」しばらくしてエラリーは、愛用の精巧な小型携帯用道具箱をしまいこみながら、そう言った、「ますます奇妙なことになってきましたよ、カーリーさん。ぼくがここで何を発見したか、見当つきますか?」
二人はまた寝室に戻っていて、エラリーが床から取って、行方不明の姉妹のベッドの間のナイト・テーブルの上に置いた食事盆をのぞきこんでいるところだった。ミス・カーリーは、これまで何度か訪ねた際、その盆がいつもミス・タークルのベッドかナイト・テーブルの上にあって、寝たきりの老婆が血の気のない唇をへの字に曲げて、近頃は独りきりで食事をするようになったと説明し、その老婆と、さしも辛抱強いサラ・アンがついに岐路に立ったことを暗にほのめかしていたのを、思い出したのだ。
「あなたが粉や何かでごそごそやってたのは見ましたけど――」
「指紋検査ですよ」エラリーは盆の上にちらばっているナイフとフォークとスプーンを謎めかしてじっと見おろしていた。「ぼくの道具箱は時に重宝《ちょうほう》しましてね。この食器類をぼくが検査したのは、あなたも見ましたね、カーリーさん。このナイフやフォークはユーフィーミアがここで最後の食事をした時に使ったと思うでしょう?」
「そりゃ、もちろん」ミス・カーリーは眉根を寄せた。「乾いた食べ物がこの通りまだナイフやフォークにこびりついていますもの」
「その通りです。ナイフもフォークもスプーンも、ごらんのように、柄に彫刻がしてありませんね――ただ表面に銀メッキがしてあるだけで。当然、指紋が残るはずです」彼は肩をすくめた。
「ところが、それがないんです」
「どういう意味ですの、クイーンさん? いったいそんなことがあり得まして?」
「つまり、誰かが指紋をきれいにふきとってしまったんですな。妙でしょう?」エラリーはうわの空でタバコに火をつけた。「とにかく、その点を検討してみるとしましょう。これはユーフィーミア・タークルの食事盆であり、食べ物であり、食器ですね。彼女はベッドで、独りぼっちで食事することもわかっている。だが、フォークや何かにさわったのがユーフィーミアだけだったら、誰が指紋をふきとったりしたでしょう? 本人ですか? 彼女になぜそんな必要があります? ではほかの誰かか? しかし、ほかの者が|ユーフィーミア《ヽヽヽヽヽヽヽ》の指紋をふきとるなんて、てんから意味がないでしょう、彼女の指紋はあって当然なんだから。とすると、これらの食器類にはユーフィーミアの指紋もきっとついていたろうが、同時に誰かほかの者の指紋もついていたことになり、わざわざふきとったのはそのためです。すなわち、ほかの何者かがユーフィーミアの食器に手を触れたわけですよ。何のために? どうやらぼくには」エラリーは冷厳きわまる声で言った。「だんだんわかってきましたよ。カーリーさん、よかったら正義の女神の侍女役をつとめてもらえませんか?」ミス・カーリーはただもう圧倒されて、うなずくだけだった。エラリーは病人が食べ残した盆の上の冷えた食べ物を包みにかかった。「この残り物をサミュエル・プラウティ博士のところへ持っていって――住所はこれです――分析してもらって下さい。すむまで待って、結果を聞いたうえで、ここへ帰ってきて下さい。ここに入るところをなるべく人に見られないようにね」
「この食べ物をですの?」
「そう」
「じゃ、あなたのお考えでは、これが――」
「もう考えている時じゃないんですよ」とエラリー・クイーン氏は落ち着きはらって言った。
ミス・カーリーが行ってしまうと、彼はもう一度あたりを見まわし、まだ新品のように見える空っぽの食器棚まで念のために調べたうえで、きりっと口もとを引きしめ、表から入口のドアに鍵をかけ――ポターの細君から預かったマスター・キーをポケットにしまって――エレベーターで一階に降り、ポターの部屋の呼び鈴を鳴らした。
鈍重で下卑た顔つきの、ずんぐりした小男がドアをあけた。帽子をあみだにかぶっていた。奥でうろうろしている細君の動揺した様子を、エラリーは見てとった。
「それ、警察の人だよ!」と細君が金切り声で言った。「ハリー、かかり合いにならないで――」
「ああ、じゃ、デカさんで」ずんぐりした男は、でぶの細君には取り合わずに、うなるような声で言った。「わっしはここの管理人で――ハリー・ポターってんですがね。たった今、工場から帰ったばかりで、女房からタークルさんのところで何かあったと聞いてたとこで。いったい、何があったんですね?」
「まあ、まあ、何も騒ぎたてるには及ばんよ、ポターくん」エラリーが低く言った。「それにしても、帰ってきてくれてよかった。たぶんあんたから提供してもらえるはずの情報が、わたしにはなんとしても必要なんでね。あんた方二人のどちらかが、最近この建物内で見かけなかったかな――|猫の死骸《ヽヽヽヽ》を?」
ポターのあごがだらんと下がり、細君は驚きのあまり喉を鳴らした。「さあ、それがじつに変なんで。たしかに見たんでさ。女房の話だと、今度は5―C室でも一匹死んでたってね――思ってもみなかったな、|あの《ヽヽ》二人の婆さまたちがまさかそんな――」
「死骸はどこで見つけたんだね、それに何匹?」エラリーがつっけんどんにさえぎった。
「なにね、焼却炉の中ですよ。地下室の」
エラリーはぴしゃっと腿を叩いた。「なるほどそうか! 我ながらじつにうかつだった。これですっかり読めたぞ。うん、焼却炉か。六匹いたんだろ、ポターくん?」
ポターの細君が息を呑んだ。「あれまあ、どうしてそれをご存じで?」
「焼却炉とはな」下唇をなめなめ、エラリーはつぶやいた。「骨になってたんだろうな――頭蓋骨があったわけだね?」
「その通りでさ」ポターは叫んだ。困惑のていだった。「わっしが自分で見つけたんですがね。灰をかき出すために毎朝焼却炉をあけるもんで。猫の頭蓋骨が六つと、ごちゃまぜになった小さな骨があってさ。ゴミ落しからそんなものを投げこむとんでもねえ馬鹿野郎を見つけてくれようと、アパート中の住人に怒鳴りこんだが、みんなおしみたいに口をつぐんじまって。一度に投げこまれたんじゃないんでさ。もうかれこれ、四、五週間もつづいてんじゃないかな。だいたい週に一匹ずつってとこかな。まったくとんでもねえ馬鹿がいたもんだ。わっしがこの手でこっぴどく――」
「たしかに六匹見つけたんだね?」
「そうですとも」
「で、他に何も怪しげなものはなかったかね?」
「いんや、べつに」
「ありがとう。もうこれ以上面倒なことは持ち上がらないと思うよ、まあ、きれいさっぱり忘れてしまうことだね」そう言うとエラリーは男の手に紙幣《さつ》を一枚握らせて、玄関からぶらっと出ていった。
遠くへは行かなかった。実は、歩道からじかに地下室へ通じる階段まで行ったにすぎなかった。五分ほどして、彼はまたこっそり五階のC号室へ入りこんだ。
午後も遅くなってから、ミス・カーリーが5―C室の入口まで来てみると、ドアには鍵がかかっていた。中からエラリーの低い話し声が聞こえてきて、ほどなく受話器を置くカチャリという音がした。安心して、彼女は呼び鈴を押した。すかさずエラリーが出てきて、彼女を中に引っぱりこむと、音を立てずにドアをしめ、寝室へ連れていった。ミス・カーリーは愛らしい小さな顔に苦い落胆の色を浮かべて、どっかりと紫檀の椅子に腰をおろした。
「刀折れ、矢尽きってとこですね」エラリーはにやりと笑って言った。「さてと、首尾はいかがですかな?」
「きっと、かんかんにおなりですわ」ミス・カーリーが顔をしかめて言った。「あまりお役に立たなくて申しわけないんですけど――」
「プラウティ大先生は何と言ったんです?」
「がっかりするようなことばっかり。そりゃプラウティ先生はいい方ですわ、たとえ検屍医だか何かで、レディの前でも気色の悪い小さなとんがり帽子をかぶっていらっしゃるにしてもね。でも、あの方の報告にはあまり感心できませんわ。あなたに言われてお持ちしたあの食物には、別に異常はないって言うんですのよ! 日がたって少々腐ってはいるけど、ほかには別状ないとかで」
「なら、そう悪くないじゃないですか」エラリーは上機嫌で言った。「さあ、さあ、ダイアナさん、元気を出して。あなたはこの上ない吉報を持ち帰ってくれたんですよ」
「きっぽ――」ミス・カーリーは唖然として言いかけた。
「それは実に申し分なく推測を事実に置きかえてくれます。メイ・ウェストのブラジャーみたいにぴったりってとこだな。我々は」そこで彼は椅子を引き寄せ、ミス・カーリーと向かい合って腰をおろした、「ついにやったんです。ところで、あなたはここへ入ってくる時、誰かに見られませんでしたか?」
「あたくし、地下室にこっそりもぐりこんで、そこからエレベーターに乗りましたの。誰にも見られてないはずですわ。でも、どういうわけで――」
「見上げた敏腕ぶりですな。くわしく説明してあげるだけの時間はまだあるでしょう。ぼくは一時間ばかりここで独りで考えてたんですがね、陰々滅々たるものとはいえ満足すべき結論が出ましたよ」エラリーはタバコに火をつけ、大儀そうに足を組んだ。「カーリーさん、あなたは頭がいいし、その上、きっと生まれつき女性特有の鋭さという利点も備えておられるにちがいない。ひとつ言ってみて下さい、ほぼ完全に体が麻痺した金持の老婆が、いったいなぜ五週間の間に六匹もの猫をこっそり買いこんだりするのか?」
ミス・カーリーは肩をすぼめた。「それはわからないって申し上げたじゃありませんの。あたくしにとって、その点は深く隠された謎ですわ」彼女の目がエラリーの口もとにじっと注がれた。
「ふん、こいつはそれほど不可解千万というわけじゃないんですがね。よろしい、おおよそのヒントをあげましょう。たとえば、そんな短期間にそれほどたくさんの猫を、さる変人が買いこんだとなると、そこから連想されるのは――生体解剖です。しかし、タークル姉妹はいずれも科学者なんかではない。したがってその説は除外される。わかるでしょう?」
「ええ、ええ」ミス・カーリーはかたずを呑んで言った。「ようやくおっしゃる意味がわかってきました。ユーフィーミアさんは猫嫌いなんだから、淋しさをまぎらすために買い求めたってこともあり得ませんわね!」
「まさにその通り、当てずっぽで考えてみましょう。ネズミ退治ってのはどうかな? いや、この建物には、ポターの細君の話だと、ネズミはいないってことです。交配用? まずあり得ない。サラ・アンの猫は牡で、ユーフィーミアが買ったのも牡ばかりでしたからね。それにみんな何てこともないどら猫で、血統書付きでない動物のためにキューピッドの役を演じる物好きもいないでしょう」
「ひょっとして人にあげるために買ったのかもしれませんわ」ミス・カーリーが思案顔で言った。「それはあり得ることですもの」
「あり得ますが、わたしはそうは思いませんね」エラリーはそっけなく一蹴した。「ある事実を知ったら、あなただってそのはずです。管理人が地下の焼却炉の灰の中に六匹の猫の骸骨を見つけたんですよ、それにもう一匹は完全に冷たくなって、向うの浴槽の中に横たわっているわけです」ミス・カーリーは口もきけず、ただまじまじとエラリーを見つめていた。「比較的もっともらしい説はこれで出尽したようですね。何かもっと突飛なのを思いつきませんか?」
ミス・カーリーは色を失った。「まさか――毛皮《ヽヽ》が目当てじゃないでしょうね?」
「ブラボー」エラリーが笑いながら言った。「突飛な上にも突飛なのがあるもんですね。いや、毛皮が目当てでもない。ここで一枚の毛皮も見つかっちゃいませんからね。それに、誰に殺されたにせよ、あの浴槽の中の猫は血まみれではあっても皮ははがれていないし。ついでに、さらに突飛な、食用説も除外していいと思いますよ。文明人にとって、猫を殺して食うなんてことは、人食いじみたところがありますからね。妹のサラ・アンをおどして追い払うため? ありそうもない話ですね。サラ・アンは猫には慣れっこで、可愛いがってるくらいだから、サラ・アンをひっかいて殺させるためですかね? それなら爪に毒を塗ったと考えられるわけです。ところが、そうなると、サラ・アンばかりかユーフィーミアも同じ危険にさらされるわけでしょう。しかも、なぜ六匹もの猫が必要なのか? あるいは――その――永遠の暗闇での案内役としてか? しかしユーフィーミアは盲人ではないし、おまけに床についたきりだ。ほかに何か思いつきますか?」
「でも、そんなのはみんな|馬鹿げて《ヽヽヽヽ》ます!」
「ぼくの論理にかなった回り道を悪く言っちゃ困りますね。そりゃ馬鹿げているかもしれないが、消去法では、一見ナンセンスに見えることであっても無視するのは禁物です」
「ですけど、ナンセンスじゃないのが一つありましてよ」ミス・カーリーが不意に言った。「純然たる憎悪ですね。ユーフィーミアはひどい猫嫌いでした。それが、どうやら気がふれてたこともあって、ただあの猫たちを皆殺しにする喜びのために買ったんですわ」
「緑色の目をした、同じ大きさの黒い牡猫ばかりをですか?」エラリーは首を横に振った。「ユーフィーミアがそれほど徹底した偏執狂だったとはまず考えられませんね。それに婆さんの猫嫌いは、サラ・アンがあなたからそういうはっきりした特色のある牡猫を買う以前からのものですよ。そうじゃなく、ぼくに言わせれば、考えられることが一つだけ残ってるんですがね、ミス・カーリー」彼はさっと椅子から立ち上がって、部屋の中をゆっくり歩きはじめた。「それは残された唯一の可能性であるばかりでなく、いくつか裏付けもありますが……防御用《ヽヽヽ》です」
「防御用!」ミス・カーリーの男殺しの目が大きく見開かれた。「まあ、クイーンさんたら。そんなことってどうしてあり得まして? 防御用に犬を買う人はあっても、猫を買う人はいやしませんわ」
「わたしが言うのはそういう意味の防御じゃないんですよ」エラリーはもどかしげに言った。
「生きのびたいという欲求に、たまたま猫嫌いだということが重なり合って、その目的のために猫が絶好の手段になったということを言っているんです。これは実に恐るべき事件なんですよ、マリーさん。あらゆる角度から見てね。ユーフィーミア・タークルは恐れていた。何をか? 自分の金を目当てにして殺されることをです。その点は、彼女が甥のモートンに書き送った手紙で十分証明されます。それに、彼女の有名なけちんぼぶりや、銀行不信、血を分けた妹への反感などからも、それは動かぬところですよ。では、猫がどうして計画殺人に対する防御手段となるのか?」
「毒薬だわ!」ミス・カーリーが叫んだ。
「その通り。|毒味役として《ヽヽヽヽヽヽ》です。まさに中世への逆戻りですな。確認材料はありやなしや? 大ありです。ユーフィーミアは最近、独りで食事するようになっていた。内緒で何かしていたことを暗示しますね。それから、短期間に猫を五度も追加注文している。なぜなのか? 明らかに、あなたから買った猫がそのつど、きめられたお役目を果たし、婆さんの食べ物を毒味して、あらゆる奴隷と同じ運命をたどったためです。猫たちは毒殺されたのです、ユーフィーミアを狙った毒入りの食べ物で殺されたのです。それで婆さんは何度も注文しなければならなかったというわけです。決定的な確証はといえば、焼却炉の中の六匹の猫の骸骨ですよ」
「でも、彼女は歩けませんのよ」ミス・カーリーが反論した。「ですから、どうやって彼女に死骸の始末ができまして?」
「ポターの細君が何も知らずに捨てさせられてたんじゃないですかね。おぼえているでしょう、ポターの細君は、サラ・アンが留守の時に、ユーフィーミアに電話で呼ばれてゴミを焼却炉へ持っていくように頼まれたと言ってましたよね。『ゴミ』は、おそらく紙でくるんであったんでしょうが、実は猫の死骸だったわけです」
「でも、同じ大きさの、緑色の目をした牡の黒猫ばかりとはどういうわけですの?」
「わかりきったことですよ。わけですか? これまた明らかに、|サラ・アンの目をごまかすため《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》です。サラ・アンが緑色の目をした、ある大きさの牡の黒猫を飼っていたから、ユーフィーミアもあなたから同じような猫を買ったんです。とすれば、その理由はただ一つサラ・アンをごまかして、ここで見かける黒猫は常に自分の、元の猫だと思いこませておくためです。ということは、もちろん、ユーフィーミアがサラ・アンの猫を最初の殺害の企てをくつがえすのに使い、サラ・アンの猫が毒薬の最初の犠牲になったことを暗示しています。それが死んだ時、ユーフィーミアはあなたから別のを買ったというわけです――妹には知られないようにね」
「毒殺者が活動を開始したとたんに、自分は狙われているとどうしてユーフィーミアが感づいたのか、それは無論知るよしもありません。おそらくただの偶然か、何か心霊現象みたいなもんでしょう――少々頭のおかしな婆さまというのは端倪《たんげい》すべからざるものがありますからね」
「それにしても、猫のことでサラ・アンの目をごまかそうとしてたとすると」ミス・カーリーは仰天して、小さな声で言った。「彼女が疑っていた相手は――」
「まさにその通り。婆さんは妹が自分を毒殺しようとしていると疑っていたのです」
ミス・カーリーは唇を噛んだ。「一本くださいませんかしら、その――タバコを。あたくし――」エラリーは黙って求めに応じた。「ほんとに聞いたこともないような恐しい話ですわ。二人のお婆さんが、姉妹で、ほかにはほとんど身寄りもなく、一方は身のまわりの世話を受け、もう一方は食べさせてもらって、お互いに持ちつ持たれつで暮しながら、お腹の中はてんでんばらばらで――身を守ろうにも寝たきりで体のきかない病人が……」ミス・カーリーは身震いした。「あの気の毒な人たちはどうなっちゃったんですの、クイーンさん?」
「さてね、考えてみましょう。ユーフィーミアは行方不明ですよね。彼女を毒殺しようとする企てが少なくとも六回なされて、いずれも失敗に終わったことはわかっているわけです。とすれば、こう考えて当然でしょう、つまり七度目の企てがなされ、そして――ユーフィーミアが不可解な情況のもとで、いなくなってしまったことからして――|七度目の企ては成功した《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、と」
「でも、どうして|わかる《ヽヽヽ》んですの、彼女が――彼女が死んだって?」
「じゃ、どこにいるんです?」エラリーはそっけなく問い返した。「残されたもう一つの可能性は、逃げたってことです。しかし婆さんは体の自由がきかず、歩くことはおろか、助けなしにはベッドから起きることもできない。いったい誰が手を貸しますかね? サラ・アンしかいないでしょうが、婆さんが自分の毒殺をはかっていると疑いをかけている当の相手ですよ。婆さんがサラ・アンに助けを求めるわけがないのは、甥へのあの手紙を見てもわかります。したがって逃げたというのは問題にならず、行方不明である以上、死んだに違いないですよ。さて、よく聞いて下さいよ。ユーフィーミアは自分が毒入りの食べ物で殺されようとしているのを知って、それに対する予防措置を講じた。とすると、毒殺犯人は彼女の防壁を――つまり七匹目の猫ですが――最終的にどう打ちやぶったのか? ところで、ユーフィーミアはあの盆にのっていた食物を七匹目の猫に毒味させたと考えていいでしょう。あの食物に毒が入ってなかったことは、プラウティ医師の報告でわかっています。だから、猫は食物それ事体の毒で死んだわけではない――撲殺されている事実もそれを裏付けています。だが、猫が毒入りの食物《ヽヽ》で死んだのでないとすれば、ユーフィーミアもそれは同じわけです。しかるに、あらゆる徴候からして、彼女が毒を盛られて死んだことは間違いない。そうなれば、答えは一つしかありません。婆さんは食べたことによってではなく、食べる過程《ヽヽ》において毒死したのです」
「どういうことですの?」ミス・カーリーが乗り出すようにして言った。
「食器類ですよ!」エラリーが叫んだ。「ユーフィーミアのナイフやフォークやスプーンに本人以外の何者かが手を触れたことを、昼間あなたに説明してあげたでしょう。このことは、毒殺犯人が七度目の企てでは|食器に毒を塗った《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》ことを暗示してやしませんか? たとえば、もし仮にフォークに無色無臭の毒が塗られて、それが乾いてしまっていたら、ユーフィーミアはごまかされてしまったでしょう。猫は、手で食物のかけらを投げ与えられたので――動物にえさをやるのにフォークやスプーンを使う者はいませんからね――それで生きのびたんでしょう。毒を塗った食器を使って食べたユーフィーミアは、死んだでしょうね。心理的にも、これは真実味がありますよ。毒殺犯人が、ある方法で六回もやりそこなったあと、必死になって七度目は別のやり方を試みたのは、理の当然というもんでしょう。やり方を変えたのが功を奏して、ユーフィーミアは死んだってわけですよ」
「でも死体は――どこに――」
エラリーは、ふと表情を変えると、すばやくそっとドアのほうに向き直った。つかのま、緊張した不動の姿勢で立っていたが、やがて無言のまま、すくんでいるミス・カーリーの体に荒々しく手をかけ、寝室の押入れの一つに乱暴に押しこめて、扉をしめてしまった。ミス・カーリーは、かび臭い女物の衣類のふわふわした海の中で窒息しそうな思いをしながら、息を殺した。表口のドアのところで金属と金属がこすれるかすかな音がしたのは、彼女も聞いたのだ。あれはきっと――クイーンさんがあんなにせっかちに振舞ったところからすると――問題の毒殺犯人にちがいない。なんだって舞いもどってきたのだろう? ミス・カーリーは必死になってあれこれ思いめぐらした。犯人が使っている鍵は――わかりきったこと――合鍵だ。先刻、あたしたちに不意打ちをくわされてドアを椅子でふさいだ時は、きっと犯人は鍵を使えないで屋根づたいに非常避難用の窓からここに入りこんでいたのにちがいない……廊下に誰か立っていて、表からは入れなかったのでは……まるでスイッチをひねったように思考がぷつんと途切れ、ミス・カーリーは思わず出かけた悲鳴をおさえた。耳ざわりな、しわがれ声――つかみ合いの物音――どすんという響き……二人が格闘しているのだ。
ミス・カーリーはかっとなった。押入れの扉を力まかせにあけて、外へ飛び出した。エラリーは床に倒れて、互いに手足をばたつかせて相手ともつれ合っていた。ナイフを持った手が振り上げられた……ミス・カーリーは飛びかかりざま、とっさの反射運動で蹴りつけた。鋭くポキッと音がして、折れた手からナイフがぽろりと落ちたとたん、彼女は気分が悪くなって後ずさりした。
「カーリーさん――ドアを!」膝で相手の体を激しく床に押しつけながら、エラリーが息をはずませて言った。かすかな耳鳴りにまじって、ドアをどんどん叩く音が聞こえ、ミス・カーリーはよろめきつつそこへ歩いていった。気を失う前に最後に記憶にとどめたのは、どっと彼女の脇を駆け抜けて、もみ合っている二人に殺到した警官たちの、紺の服に包まれた肉体が、沸きあがるように異様な感じで迫ってきたことだった。
「もう大丈夫」と遠くからおぼろげに声が聞こえて、ミス・カーリーが目をあけると、きちんと身なりをととのえて落ち着きはらったエラリー・クイーン氏が上からかがみこんでいた。ミス・カーリーは首を動かしてぼんやりあたりを見まわした。暖炉、十文字に重ねて壁に飾った二本の剣……「心配しないでいいよ、マリー」エラリーが歯を見せて笑った。「きみは誘拐されたわけじゃない。ヴァルハラ〔北欧神話で、英霊が招かれるという天上の殿堂〕に到達したんだ。もうすっかりすんで、きみはわたしのアパートのソファーに横になっているというわけさ」
「まあ」ミス・カーリーは声をあげて、まだふらふらしながら、すばやく足を床におろした。
「あたくし――あたくし、さぞひどい格好でしょうね。あれからどうなったんですの?」
「化けものはもののみごとにひっとらえましたよ。まあ休んでらっしゃい、お嬢さん、今、大急ぎでお茶をいれますから――」
「とんでもない!」ミス・カーリーはつっけんどんに言った。「あたくしはあなたがどうやってあの奇跡をなしとげたか知りたいんです。さあ、早く、じらさないで!」
「おおせのままに。いったい何を知りたいというんです?」
「あの恐ろしい男がもどってくることを、あなたは|知って《ヽヽヽ》らしたの?」
エラリーは肩をすくめた。「ありそうなことだったんですよ。ユーフィーミアは明らかに、隠し持った金のために殺されたんです。殺されたのは、どう遅く見ても、昨日のはずだし――昨日の牛乳瓶がそのままになってたでしょう――ことによるとおとといの夜かもしれない。犯人は婆さんを殺したあと、すでに金は見つけたのだろうか? それに今日の午後、我々に不意打ちをくらって、ドアをふさいで窓から逃げ出した胡乱《うろん》な人物は誰だったのか? どう見ても犯人にちがいない。しかし、犯行の|あとで《ヽヽヽ》現場に舞いもどってきたとすると、犯人は犯行の際は金を発見できなかったことになる。おそらく犯行の直後は、片づけなければならないことが多過ぎて、探しているひまがなかったのでしょう。ともあれ、舞いもどったら、我々に不意打ちをくらった――たぶん、あのベッドをめちゃめちゃにした直後だったでしょうね。犯人がまだ金を見つけていないという可能性は大いにあった。見つけてなければ、またもどってくるだろうと、わたしにはわかったわけです――何しろ、犯人はその金のために犯罪をやってのけたんですからね。そこでわたしは、犯人が邪魔者は消えたと見ればまた戻ってくるだろうと山をかけたところ、案の定、現われたわけです。あなたがプラウティ医師に会いに出かけている間に、わたしは警察に電話して応援を求めておいたんです」
「犯人の正体を|知ってらした《ヽヽヽヽヽヽ》んですの?」
「ええ、まあね。論証できることだったんですよ。あの毒殺を行う第一の条件は身近にいるということでした。つまり、毒殺計画が開始されたのはおそらく五週間前と推定されますが、それ以降、あれだけ繰り返し犯行を企てるには、犯人はユーフィーミアの身近か、少なくとも婆さんの食べるものに近づけるところにいなくてはならない。明らかに疑わしいのは、婆さんの妹です。サラ・アンには動機があった――憎しみと、たぶん欲がね。それに、たしかに機会もあった、食事の用意をするのはほかならぬ彼女でしたからね。だが、ぼくはきわめて妥当な根拠にもとづいて、サラ・アンは除外したんです」
「というのは、七匹目の黒い牡猫を残忍に殴り殺したのは誰か、ということです。普通に考えて、被害者か加害者のどちらかであることははっきりしている。しかしユーフィーミアであるはずはない、なぜなら猫は浴室で殺されたのであり、ユーフィーミアのほうは寝室で寝たっきりで、一歩も歩けなかったんですからね。となると、猫を殺したのは加害者のほうにちがいない。だが、もしサラ・アンが殺人犯だとして、猫を棒でぶち殺したりするでしょうか――猫の好きな彼女が? とうてい考えられない。したがって、サラ・アンは殺人犯人ではなかったことになりますね」
「じゃ、いったい――」
「わかってます。サラ・アンはどうなったか、でしょう?」エラリーは顔をしかめた。「サラ・アンも、恐らくは、猫や姉と同じ道をたどったんじゃないでしょうか。ユーフィーミアを殺して、サラ・アンがやったように見せる――歴然たる容疑者に仕立てる――これが毒殺犯人の計画だったにちがいない。とすれば、サラ・アンは現場にいなければならないはずです。ところが、いない。どうも、サラ・アンの失踪は、彼女がたまたま殺人の現場を目撃したため、犯行の生き証人を消すためその場で犯人に殺されたことを物語るもののようです――これは、犯人の自供でいずれ裏付けられると思いますがね。それ以外の状況では、犯人は彼女を殺しはしなかったでしょう」
「問題のお金は見つかりまして?」
「ええ。まったく大ざっぱなもんで」エラリーは肩をすくめた。「ユーフィーミアがいつも枕もとに置いていた聖書のページの間にはさまってました。ポオ流ですね、たしかに」
「それで」ミス・カーリーが震え声で言った。「死体は……」
「もちろん」エラリーは気取ったようにゆっくりと言った。「焼却炉じゃないですか? それが一番理にかなった処理方法だったでしょうからね。火は、実質上、すべてを消滅させてしまう。骨が残っても、これは簡単に始末できます、それにくらべると……まあ、ことこまかに言うこともないでしょう。ぼくの言わんとすることは、おわかりでしょう」
「でも、そうだとすると――床に倒れていたあの鬼畜生は誰だったんですの? あたくし、あの男には前に会ったことがありませんわ。まさか、モートンさんの、ち、父親のはずはないでしょうし……?」
「むろん、ちがいます。鬼畜生ですって、カーリーさん?」エラリーは眉をひそめた。「ほんの紙一重なんですよ、正気と――」
「さっきは、あたくしのことをマリーって呼んでくださいましたわ」
エラリーは急いで言った。「あの部屋にはサラ・アンとユーフィーミアのほかに同居人はいなかったが、しかし犯人は一ヵ月以上にもわたって病人の食事に近づくことができた――明らかに、怪しまれもせずにね。それができたのは誰なのか? 一人しかいません、一ヵ月以上にわたって、午後遅くや夕方――ほぼ食事時ってことになるが――あの部屋の模様替えをしていた人物です。化学工場で働いており、したがって、毒物についての知識や入手の機会に誰よりも恵まれていた人物、焼却炉の管理をしており、したがって、危険を冒さずに被害者たちの骨を始末できた人物です。すなわち」とエラリーは言った。「あのビルの管理人、ハリー・ポターというわけです」
神の燈火《ともしび》
第一章
仮にもし物語の冒頭が、「昔、昔、荒れ野のなかにおびえたようにうずくまっている一軒の家に、二人の妻に先立たれて死人同然の暮しをしている、メイヒューという名の隠者のような老いたる狂人が住んでいた。その家は『黒い家』と呼ばれていた」となっていても――物語がこんなふうに始まったとしても、誰も、格別驚きはしないだろう。そんな家にその手の人物が住んでいることは現に世の中にはあることだし、往々にして、そういう気違いじみた目つきをした連中の周辺には、霊媒から発するという心霊体のように、謎めいたものがつきまとうものである。
ところで、エラリー・クイーン氏は、生活習慣の上ではいかにでたらめであろうとも、精神的にはきちんとした人物である。彼の寝室にはネクタイや靴が雑然と散らかっているかもしれないが、その頭蓋骨の中では、十分に油をさした機械がうなりを生じて、まるで太陽系のように整然と、仮借なく動いている。だからして、今は亡きシルヴェスター・メイヒューなる人物と、その先立った二人の妻や陰気な住居などについて謎があったとすれば、必ずやクイーンの頭脳はそれをとらえ、つつきまわし、ときほぐし、白日の下にきちんと系統立てて並べて見せてくれるものと信じていい。合理性、まさにこれだった。いかなる秘教的なたわごとも|この《ヽヽ》男を惑わすことはできない。断じて不可能だ! 彼の二本の足はしっかりと地についていて、一たす一は常に二であり、それはただそれだけのことなのだった。
もちろん、マクベスは、石が動き、木がしゃべった例もあると言ってはいる〔三幕四場〕。ふん、こういう文学的空想ときたら! コミンテルンがあり、平和の戦争なるものがあり、ファシズムがあり、ロケットの実験が行われている今日、この時代に、そんなことが? ナンセンスだ! 実のところ、我々が生きている過酷で無慈悲なこの現代には、奇跡というものに対してひどく酷なところがあるのだと、クイーン氏ならば言うところだろう。愚昧さの奇跡とか、国家的貪欲の奇跡とかいったものをのぞけば、もはや奇跡など決して起こらないのだ。知性のかけらでも持っている人間なら、みんなそのことは承知している。
クイーン氏ならこうも言っただろう、「ああ、そりゃたしかに、ヨガの行者とか、ヴードゥーのまじない師とか、回教の苦行僧とか、シャーマンとか、その他、衰退した東洋や原始的なアフリカ生まれのペテン師どもはいろいろいるが、誰もそんなインチキには鼻もひっかけやしない――分別のある人間なら、ということだが。現代は合理的な時代であり、現代のどんな出来事であれ、すべからく合理的な説明がつかなくてはならないのだ」と。
正気の人なら、たとえば、三次元の、正真正銘の生身《なまみ》の人間が不意にかがみこみ、靴ひもをつかんで空を飛び去るなんてことを信じるとは思えない。あるいは、見ている前で水牛が金髪の少年に化身するとか、百三十七年前に死んだ男が墓石を押しのけ、穴から出てきてあくびをし、そして『アルマンティエールからきた娘さん』の歌を三節歌うとかいったことを。そういえば、石が動くの、木がしゃべるのといった話にしても同断だ――さよう、たとえそれがアトランティスやムー大陸の言葉で記されていようとも。
それとも……信じますか?
シルヴェスター・メイヒューの家の物語は世にも不思議な物語である。その出来事が起こった時、まともな理性は根底からぐらつき、堅い信念もこっぱみじんに砕けるかと思われた。奇想天外、不可解千万なその一件が成就する前に、神おんみずからが手を下された。いかにも、シルヴェスター・メイヒューの家の物語には神が一枚加わっており、さればこそ、この一件はあのやせぎすの、不退転の不可知論者、エラリー・クイーン氏がかつて巻きこまれた異常な事件のうちでも、もっとも驚くべきものとなっているのである。
メイヒュー事件の発端はささいなものだった――謎といっても、いくつかのしかるべき事実が欠けているというだけのことで、それなりに興味をそそる謎ではあったが、超自然の趣などというものはまずなかった。
その冷えびえした一月の朝、エラリーは音をたてて燃える暖炉の火の前の敷物に寝そべって、凍ってつるつるすべる道や、肌を刺す風をものともせず、これから何かおもしろいことをさがしにセンター街〔ニューヨーク警察本部〕へ出かけるのがいいか、それとも、このまま手持無沙汰ながらぬくぬくとしているのがいいかと、とつおいつしていた。ちょうどそこへ、電話が鳴った。
電話はソーンからだった。ソーンといえば、エラリーはいつもいやおうなしに人間の石柱を思い浮かべてしまうくらいで、手足が長く、ゴマ塩頭に大理石のようなほほと瑪瑙《めのう》のような目をした男性的な風采で、全身に黒檀の板で上張りしたかと見まごう人物だった。それだけにエラリーはいささかびっくりした。ソーンが興奮していたのだ。声がうわずるやら、かすれるやらで、感情のたかぶりを一々雄弁に物語っていた。ソーンが人間的な感情の片鱗なりとものぞかせたのは、クイーンの記憶では、初めてのことだった。
「どうしたんだ?」エラリーはきいた。「アンに何かあったんじゃあるまいね?」アンというのはソーンの妻だった。
「いや、いや」ソーンはまるで今まで走っていたように息を切らして早口にしゃべった。
「いったいどこへ行ってたんだ? つい昨日、アンに会ったら、きみからはもうかれこれ一週間も連絡がないと言ってたよ。もちろん、奥さんは、きみが際限のない法律問題にばかりかまけているのには慣れっこだろうが、六日も留守にしたとあっては――」
「いいから聞いてくれよ、クイーン、話の邪魔をせんで。どうしてもきみの助けがいるんだ。三十分後に五十四番埠頭まで来てもらえるかね? ノース・リヴァーのところだ」
「いいとも」
ソーンは何やらぼそぼそつぶやき、それは他愛なくも「やれやれ、たすかった」と言ったように聞こえた。それから、急いで先をつづけた、「旅行の仕度をしてな。二日分の。それにピストルだ。とくにピストルは忘れんでな、クイーン」
「わかった」とは言ったものの、エラリーは何が何やらさっぱりわからなかった。
「キュナード汽船のコロニア号を出迎えるんだ。今朝、入港する。ぼくはライナッハという名の男といっしょだ。ライナッハ医師だ。きみはぼくの同僚ということにする、いいね? 権柄ずくの、いかめしい態度をとってくれ。親しげにしちゃいかんよ。その男には――ぼくにもだが――質問をしないこと。そして、きみのほうもかまをかけられて何か聞き出されたりしないように。わかったね?」
「わかった、が、しかし必ずしもはっきりとはしないな。ほかには何か?」
「ぼくの代わりにアンに電話してくれ。よろしく言って、ぼくはまだ二、三日は帰らんが、きみもいっしょだし、心配はいらんと言っといてもらいたいんだ。それと、アンに、ぼくの事務所に電話して、クローフォードに事情を説明しておくように言っといてもらいたいな」
「すると、きみが何をしているのか、きみの相棒さえ知らないというわけか?」
だが、電話はもう切れていた。
エラリーは顔をしかめて受話器を置いた。どうも変なのだ。ソーンは一貫して堅実な市民であり、一点非の打ちどころのない私生活を送っている羽ぶりのいい弁護士で、その仕事ぶりは無味かつ乾燥だったのだ。ソーンのやつがクモの巣のように入りくんだ謎に巻きこまれようとは……。
エラリーは満足げに一息つくと、ソーンの妻に電話して、なるたけ相手を安心させるような口調でことづてを伝え、大声でジューナを呼び、旅行鞄に着替えをほうりこみ、三八口径の警察用拳銃にしかめ面で装填し、クイーン警視に走り書きのメモを残すと、階段を駆けおりて、ジューナが呼んでくれたタクシーに飛び乗り、約束より三十秒前に五十四番埠頭に到着した。
ソーン弁護士の姿を見るなり、エラリーは、そのかたわらの太った大男に目を向けるよりも先に、これはよほどどこか体の具合でも悪いにちがいないと気づいた。ソーンは、繭《まゆ》の中で早死したさなぎのように、格子縞のオーバーの中にちぢこまっていた。エラリーが最後に会って以来ほんの数週間のうちに、何年分も老けこんでしまった。いつもなら青いひげ剃りあとも鮮やかにすべすべしているほほが、今はぼうぼうたる無精ひげにおおわれていた。着ている服までがくたびれて、だらしなく見えた。エラリーと握手した時、その赤く充血した目にひそかな安堵の輝きが見えた。これなどは、ソーンの自信の強さと沈着ぶりを知っている者にとっては、痛々しくさえあった。
だが、ソーンはこう言っただけだった、「やあ、どうも、クイーン。どうやら思ったよりも長く待つことになりそうなんだ。ハーバート・ライナッハ先生に紹介しよう。ドクター、こちらはエラリー・クイーンです」
「はじめまして」とエラリーはそっけなく言って、手袋をはめた相手の大きな手にちょこっと触れた。権柄ずくで、ということなら、無作法であってもいいわけだと、彼は思った。
「遭遇ってわけですか、ソーンさん?」ライナッハ医師がエラリーの聞いたこともないような太い声で言った。その声は、こだまする雷鳴のように、胸の洞穴からごろごろと鳴りひびいた。小さな、紫色がかった目がおそろしく冷ややかだった。
「それも、楽しいものになりそうだ」とソーンは言った。
エラリーは両手でタバコをかこいながら、友人の顔をちらりと見やって、それでよしという表情を読みとった。頃合いの調子をつかんだからには、あとはどう振舞えばいいか、彼は心得ていた。マッチを投げ捨てると、いきなり、ソーンのほうに向き直った。ライナッハ医師は半ばとまどい、半ばおもしろがっている様子で彼をじろじろ見ていた。
「コロニア号はどこなんだい?」
「検疫で停船させられているんだ」ソーンが答えた。「船内で誰かが何かの病気にかかって重態になっていて、他の船客の下船にも支障が出ているんだ。どうもまだ何時間もかかるらしい。しばらく待合室で坐っていようじゃないか」
混みあった待合室に三人は何とか席を見つけた。エラリーは鞄を両足の間に置き、連れの二人の顔を逐一見てとれるような姿勢で坐った。ソーンの押し殺された興奮や、太った医師を取り巻いているいやが上にも気になる雰囲気が、エラリーの好奇心を猛烈に刺激したのだ。
「アリスは、たぶん、じりじりしているだろうね」ソーンは、アリスが何者か、さもエラリーが知っているように、さりげなく言った。「もっとも、わたしがちょっと会ったシルヴェスター老人から見ても、短気はメイヒュー家の血筋らしい。どうですかね、ドクター? それにしても、イギリスからはるばるやってきたあげく、もう一歩のところで足どめを食わされるんじゃ、やりきれまい」
すると、我々はコロニア号でイギリスからやってきたアリス・メイヒューなる女性を出迎えるわけか、とエラリーは合点した。ソーンもなかなかやるじゃないか! エラリーはもうちょっとでクスクス声を立てて笑いそうになった。シルヴェスターというのは、明らかにメイヒュー家の年長者で、アリスの血縁ということになる。
ライナッハ医師は小さな目をエラリーの旅行鞄にじっと注いで、がらがら声でいんぎんにたずねた。「どこかへお出かけですか、クイーンさん?」
とすると、ライナッハはエラリーが――行先はどこであるにせよ――同行することになっているのを知らないのだ。
ソーンがオーバーの下で身じろぎし、乾ききった骨の入った袋のようにかさこそ音を立てた。
「クイーンはいっしょに来るんですよ、ドクター」その声音には気難しい、敵意を含んだ響きがあった。
太った医師は、半月形にたるんだ肉の下に埋もれた目をしばたたいた。「へえ、そうなんですか?」と言ったが、そのバスの声はソーンとは対照的にやさしげだった。
「説明しておくべきだったかもしれないが」ソーンが唐突に言った。「クイーンはわたしの同僚でしてね、ドクター。この事件に彼も関心を寄せてるんです」
「事件?」医師がきき返した。
「法律的に言えばですよ。実は、わたしは彼が――その――アリス・メイヒューの利益を守るのを、手伝いたいと言うのをむげに断わることができなかったわけなんで。かまわんでしょうな?」
こいつはただごとじゃない、とエラリーは確信するにいたった。何か重大なことが危機にさらされており、ソーンは例によって頑固一徹に、力ずくであれ策を弄してであれ、それを守り抜こうとしているのだ。
ライナッハは腹の上で手を組み合わせ、はれぼったい瞼を伏せた。「もちろん、もちろんかまいませんとも」彼はねんごろな調子で言った。「あなたに来ていただければ、大いに嬉しいですよ、クイーンさん。そりゃまあ少々意外じゃあるにしても、嬉しい驚きは詩にとってばかりか、人生にとっても欠かせんものですからな。でしょう?」そう言って彼はくすくす笑った。
サミュエル・ジョンソン〔十八世紀の英国の辞典編者・詩人・批評家〕だな、エラリーは医師の言葉の出典に気づいてそう思った。肉体的な相似にも感じ入った。そのぶあつい脂肪の層の下には鉄があり、長頭型の頭蓋の中には立派な頭脳が隠されているのだ。その男は待合室のベンチにタコのように、くったりと大儀そうに腰をおろし、周囲に対して奇妙なくらい無関心だった。無関心――つまりはそれなんだ、とエラリーは思った。空漠たる水平線上の嵐をはらんだ雲のように、暗く茫洋として、とてつもなく超然としていた。
ソーンが待ちくたびれたような声で言った、「昼食にしようじゃないか。わたしは腹ぺこだ」
午後も三時をまわる頃には、エラリーは老けこんで精も根も尽き果てたような気分になった。危険な陥し穴をさりげなく笑顔でよけて通りながら、何時間も神経をとがらせ、慎重に口をつぐんですごしたあげく、警戒心をかきたてる程度のことしかわからなかった。危機がおぼろにかいま見えたり、どこからともなく危険が迫ったりするたびに、彼は何度となくがんじがらめになったような、せっぱつまった気持にさせられた。何かただならぬことが起ころうとしていた。
連れの二人と埠頭に立って、コロニア号の巨体がじりじりと横付けされるのを見守りながら、エラリーは長く重苦しい、意味深長な数時間のあいだに会話のはしばしから何とか拾い集めた断片的な情報を、じっくり噛みしめてみた。今のところ、はっきりわかっているのは、シルヴェスターという男がすでに故人であること、生前はひどい偏執狂だったこと、ロングアイランドのその住居はほとんど人を寄せつけないような荒野の中に埋もれていることなどだった。そして、コロニア号のデッキのどこかできっと埠頭のほうに目を凝らしているはずのアリス・メイヒューは故人の娘で、父親とは幼い頃に別れたきりなのだ。
エラリーはライナッハ医師という注目すべき人物もジグソーパズルの中にもうはめこみずみだった。この肥大漢はシルヴェスター・メイヒューの種違いの弟だった。また、メイヒュー老人が病みついて死ぬまで、その主治医をもつとめた。老人の病気と死はつい最近のことらしかった。というのは、淡々とこそしていたが、こと新しげに哀悼をこめて「葬式」のことが語られていたからだ。さらに、ライナッハ夫人というのが、背景につかみどころなくちらちらし、故人の妹にあたる頭のおかしな老女のことも話に出た。だが、謎の本体は何か、ソーンがそんなにも動揺をきたしているのはなぜか、ということになると、エラリーには皆目わからなかった。
定期客船はようやく埠頭につながれた。係員が走りまわり、汽笛が鳴り、道板が渡されて、船客たちはぞろぞろと下船し、いつもながらの大きな歓声と抱擁に迎えられた。
ライナッハ医師の小さな目に好奇の色が浮かび、ソーンは身を震わせていた。
「ほら、あそこにいる!」弁護士がかすれた声で叫んだ。「写真を見てるから、どこからだってわたしにはわかるんだ。茶色のターバン帽をかぶったあのほっそりした娘だよ!」
ソーンが急いでそっちへ駆けつけ、残ったエラリーは熱心にしげしげとその娘を観察した。娘は不安そうに群衆を見まわしていた。長身の魅力的な女性で、しなやかな身のこなしはスポーツ的というよりむしろ美的であり、調和のとれた繊細な顔立ちは美貌というに近かった。その身なりがあまりにも質素で安上がりなので、エラリーは不審の目を向けた。
ソーンが、手袋をはめた娘の手を軽くたたき、静かに話しかけながら、いっしょに戻ってきた。娘の顔は晴れやかで、いきいきしていて、気取りのない快活さにあふれており、エラリーは、どんな謎なり悲劇なりが彼女の前に横たわっているにせよ、当人はまだそれを知らないのだと確信した。それと同時に、目もとと口もとに――疲労からか、緊張からか、それとも不安からか、正確な原因は彼にもはっきりと指摘はできなかったが――エラリーにとって不可解なある種の表情がうかがわれた。
「あたくし、ほんとうに嬉しくて」彼女は強い英国なまりの、上品な声でつぶやいた。それからすぐまじめくさった顔になって、エラリーを見、そしてライナッハ医師に目を転じた。
「こちらはあなたの叔父さんですよ、メイヒューさん」ソーンが言った。「ドクター・ライナッハ。もう一方のこの紳士は、残念ながら、ご親戚じゃありません。エラリー・クイーンくんといって、わたしの同僚です」
「そうですの」と言って、娘は太った男のほうに向き直り、震え声で話しかけた、「ハーバート叔父さま。とっても思いがけなくて。つまり、あの――あたくし、いつもまるきり独りぼっちだって気がしてたもので。あなたという方は、あたくしにとっていわば伝説にすぎなかったんですのよ、ハーバート叔父さま、あなたにしてもサラ叔母さまにしてもみんな、それが今……」娘は太った男に抱きついて、垂れさがったほほにキスをしながら、ちょっと声をつまらせた。
「よし、よし」ライナッハ医師がしかつめらしく言った。ユダのようにうわべをとりつくろったそのしかつめらしさを見て、エラリーは張り倒してやりたくなった。
「とにかく何もかもすっかり話してくださらなくちゃ! 父は――父はどうしてまして? とても不思議な気がしますわ……こんなことを言うなんて」
「どうでしょうな、お嬢さん」弁護士が急いで口をはさんだ、「税関の手続きをすましてしまったほうがいいんじゃないですかな? だいぶ遅くなってきているし、まだ先も長いことだし。なにしろロングアイランドですからね」
「島《アイランド》ですって?」娘の無心な目が大きく見開かれた。「すごく楽しそうなところですのね!」
「それがね、あなたが思うようなのとはわけがちがうんで――」
「すみません。あたくし、とんまな真似ばかりしてて」娘はにっこりした。「あなたにすっかりおまかせしますわ、ソーンさん。あなたにはそれはもうご親切なお手紙をいただいて」
みんなで税関に向かう途中、エラリーは少しばかり遅れて、ライナッハ医師をとっくりと観察した。しかし、その大きな丸々とした顔は、ゴシック建築の樋嘴《ひはし》の怪獣のように謎めいていた。
ライナッハ医師が車を運転した。ソーンの車ではなかった。ソーンは堂々たるリンカーンの新型リムジンを持っていたが、こっちはまだ乗れるには乗れても、がたぴしのビュイックの旧式セダンだった。
娘の手荷物は車の後ろや両脇にくくりつけてあった。その貧弱さにエラリーは首をひねった――小さなスーツケースが三個に、ごくちっぽけな旅行用トランクだけ。この四つの哀れな入れものに、彼女の全財産が入っているのだろうか?
医師の隣に坐ったエラリーは、耳をそばだてていた。車の進んでいく道にはほとんど注意を払わなかった。
後ろに坐った二人は長いこと黙りこんでいた。そのうちついにソーンが、妙に不吉な感じのするほど決然たる響きをもった咳ばらいをした。エラリーは何が起ころうとしているか見抜いた。死刑の宣告を下そうとする裁判官の口からそうした咳ばらいの音が発せられるのを、彼は何度も聞いたことがあったのだ。
「お嬢さん、あなたに悲しいことをお知らせしなけりゃならんのです。今、知っておかれたほうがいいでしょう」
「悲しい?」ちょっと間をおいて娘がつぶやくように言った。「悲しいですって? まあ、まさかそれは――」
「あなたのお父上のことです」ソーンが蚊の鳴くような声で言った。「亡くなられました」
娘は、「まあ!」と力ない小さな声で叫ぶと、あとは黙りこくってしまった。
「あなたをいきなりこんな知らせでお迎えしなきゃならんのは、どうも残念至極です」車の中をおおった静寂を破ってソーンが言った。「予期しないではなかったんですが……あなたとしては何とも言いようがないでしょうな、わかりますよ。結局のところ、あなたはお父上をまるで知らなかったも同然だし。親に対する愛情ってものは、どうも幼時のふれあいに正比例するようですからな。まるっきりふれあいがない場合は……」
「もちろん、ショックにはちがいありませんけど」アリスが押し殺したような声で言った。「でも、おっしゃるとおり、父はあたくしにとって赤の他人で、単なる名前だけのものでした。手紙でも申しましたように、母が離婚して、あたくしを連れてイギリスに帰った当時、あたくしはまだほんのよちよち歩きの子供でした。父のことはまるでおぼえていません。その後、会ったこともありませんし、便りをもらったこともないんです」
「そう」弁護士がつぶやいた。
「あたくしが六つの時に母が亡くなるということがなかったら、父のことをもっと聞いて知ってたかもしれませんけど、母は死んでしまうし、イギリスのほうの――母方の――親類も……。昨年の秋にジョン叔父さんが亡くなって。それで絶えてしまいました。それからあたくしは独りぼっちでした。あなたのお手紙を受けとった時、あたくし――それはもう嬉しかったんですのよ、ソーンさん。もう寂しくはなくなりました。何年ぶりかでほんとうに幸せな気分を味わいました。それが、今になって――」アリスは急に口をつぐんで、窓の外を見つめた。
ライナッハ医師が大きな頭をくるりと振り向けて、やさしげに微笑した。「しかしね、おまえは独りぼっちじゃないよ。およばずながらわたしってものがいるし、サラ叔母さんもミリーもいる――ミリーというのはわたしの家内なんだよ、アリス。もちろん、おまえはミリーのことは何も知らんだろうがね――それから、うちで働いているキースという名のたくましい青年だっているし――今でこそ落ちぶれてはいるが、なかなか利口な若者だ」彼はくすりと笑った。「そんなわけだから、人づきあいに不自由することはないさ」
「ありがとうございます、叔父さま」アリスが小声で言った。「きっとみなさんとても親切な方ばかりだと思いますわ。ソーンさん、父はどうして……あたくしの手紙への御返事では、あなたは父が病気だってことはお書きになっていましたけど、でも――」
「九日前に急に昏睡状態になられたんです。あなたがまだイギリスを発《た》たれる前だったので、あなたの骨董品店宛てに電報を打ったんですがね。しかし、どういうわけか、あなたには届かなかった」
「その頃にはあたくし、もうお店は人に譲って、いろんなことの片をつけるために、あちこち飛びまわっていたんですの。父はいつ……亡くなりましたの?」
「一週間前の木曜です。お葬式は……なにぶんその、待つってわけにもいかなくてね。コロニア号に電報を打つなり電話をかけるなりして連絡してもよかったんだが、折角の船旅を台無しにする気になれなくて」
「いろいろご心配かけて、何とお礼を申し上げたらいいかわかりません」エラリーは娘の顔を見ないでも、その目に涙が浮かんでいるのはわかった。「嬉しいものですわ、誰かが自分のことを気にかけていてくれたのを知るというのは――」
「今度のことではわたしたちはみんな辛い思いをしとったんだ」ライナッハ医師が低く重々しい声で言った。
「もちろんですわ、叔父さま。ごめんなさい」彼女は黙りこんでしまった。ふたたび口を開いた時には、まるで心ならずも言葉を吐き出さずにはいられない衝動にでも駆られたようだった。
「ジョン叔父さんが亡くなったあと、あたくしは父に連絡をとろうにも場所がわかりませんでした。あたくしが知っていたたった一つのアメリカの所番地は、ソーンさん、あなたのところでした。店のおとくいさんのどなたかが前に教えて下さったんですの。あたくしはそれしか思いつきませんでした。弁護士の方だったら、きっと父を見つけて下さるだろうと思いました。それであんなにくわしく、写真や何かまで添えて、あなたに手紙をお出ししたわけですの」
「当然、こちらとしてはできるかぎりのことはしました」ソーンは声が出しづらいようだった。「お父上が見つかって、わたしのほうから会いに出むいて、あなたの手紙や写真をお見せすると、お父上は……これを聞いたら、きっとあなたも嬉しいでしょう。あの方はとてもあなたに会いたがっておられましたよ。どうも晩年は苦しんでおられたようですな――その、精神的、感情的にね。それで、お父上の依頼を受けて、わたしからあなたに手紙を差し上げたわけです。二度目にお訪ねした時、あの方に生前お目にかかったのはそれが最後でしたが、その際に財産問題が話題にのぼって――」
エラリーは、ライナッハ医師の手がハンドルをぐっと握りしめたような気がした。だが、その太った男の顔は相変わらずものやわらかな、よそよそしい微笑を浮かべていた。
「どうか」アリスが疲れたように言った。「あまりお気を悪くしないで下さいましね、ソーンさん。あたくし――あたくし、今そういうことはお話しする気になれないんですの」
車は悪天候を逃れようとでもしているように、人通りの途絶えた道路を疾走していた。空はどんよりと鉛色をしていた。険悪で陰鬱な空の下に田園風景がちぢこまったように広がっていた。すきま風の入る暗い車の中は、だんだん冷えこんでもきていた。すきまから忍びこむ冷気が、コートの下にしみこんだ。
エラリーはかすかに足踏みしながら、体をひねってアリス・メイヒューをちらっと振り返った。卵形の顔が暗がりの中にほのかに見えた。彼女は身を固くして坐り、両手を握り固めて小さなこぶしを膝に押しつけていた。その隣にソーンがみじめたらしくぐったりと坐りこんで、窓の外を見つめていた。
「おやおや、こりゃ雪になりそうだ」とライナッハ医師が陽気にほっぺたをふくらませて告げた。
誰も返事をしなかった。
車は果てしもなく走りつづけた。景色はどこまでも単調で、空模様と釣り合った荒涼たるものがあった。車はとうに幹線道路をはずれて、ひどい脇道に入っており、東に向かってくねくねした弧を描きながら、葉のついていない木立のあいだをがたがた揺れて走っていた。道は穴ぼこだらけで、しかも堅く凍《い》てついていた。林は枯木がからまり合い、下ばえがびっしりと生い茂っていたが、何度も火事で焼かれた様子だった。全体の印象として、広漠とした重苦しい荒廃の感が支配していた。
「さながら『無人地帯』のように見えますね」ひどく揺れる座席にライナッハ医師と並んだエラリーがようやく沈黙を破った。「それにどうやらそんな感じもする」
ライナッハ医師の鯨を思わせる背中が、声を殺して笑っているように、大きく波打った。「実は、土地の者はまさにそう呼んでるんですよ。『神に忘れられた土地』とでもいいますかな? もっとも、シルヴェスターはいつもギリシャの三一致の法則〔西洋古典劇の原則で、時・所・事件の単一性〕を固く信じてましたがね」
この男は暗く静まり返った洞穴に住んでいて、時たま意地悪く姿を現わしては、まわりの雰囲気を毒するようだった。
「見るからにあまりぞっとしませんわね」アリスが低い声で言った。この荒れ地に住んでいた未知の老人と、もうずっと前にそこから逃げ出した自分の母親のことをあれこれ考えこんでいるのは明らかだった。
「昔からこうだったわけじゃない」ライナッハ医師が食用蛙のようにほほをふくらませて言った。「子供の頃のことをおぼえているが、以前はなかなか感じのいいところだった。当時は、繁華な町の中心になりそうなぐあいだったよ。ところが、発展は脇にそれてしまうし、おまけに手に負えない山火事が二度もあってとどめを刺されたというわけだ」
「おそろしいことですわね」アリスがつぶやいた。「まったくおそろしいわ」
「おやおや、アリス、そんなことを言うのはおまえが無邪気だからさ。人生とはこれすべて、醜い現実をバラ色に見せかけようとする気違いじみた努力なんだ。自分自身に正直になったらどうだね? この世のすべてのものは腐りきっているのだ。いや、もっと悪い、退屈千万なのだ。どう公平に見ても、ほとんど生きるに値しない。しかし、それでも生きなくてはならないとすれば、あらゆるものの腐敗と見合った環境に暮したほうがいいのさ」
アリスの隣で、オーヴァーに深々とくるまった老弁護士が身じろぎした。「あなたはなかなか哲学者ですな、ドクター」ととげとげしく言った。
「わたしは正直者だってことですよ」
「おわかりですか、ドクター」エラリーは思わず小声で言った。「あなたにはだんだんいらいらしてきましたよ」
太っちょはちらりと彼を見てから、こう言った。「あんたもこの得体の知れない友人と同感ですかな、ソーンくん?」
ソーンはぴしゃりとやり返した、「たしか、行いは言葉よりも雄弁なりという決り文句がありましたな。わたしは六日間ひげも剃らず、シルヴェスター・メイヒューの葬式以来あの家を離れたのは今日が初めてですぞ」
「ソーンさん!」アリスが彼のほうを振り向いて叫んだ。「なぜなんですの?」
弁護士はぼそぼそ言った、「いや失礼、お嬢さん。いずれ時がきたら話します」
「あんたはわたしらを誤解しているんだ」ライナッハ医師は薄笑いして、路上の深いみぞを巧みによけた。「それにどうもわたしの姪に、身内の者についての非常に誤った印象を与えかねないな。そりゃたしかに、わたしらは風変りだし、何代にもわたって冷凍漬けの状態だけにおそらくは血がすっぱくもなっているだろうさ。だがね、とびきり上等のぶどう酒はとびきり深い地下貯蔵室から生まれるもんじゃないのかな? アリスを一目見さえすれば、わたしの言わんとするところはわかるはずだ。こんな溌剌とした愛らしさは旧家からしか生まれない」
「それについては」アリスが目にかすかな嫌悪の色を浮かべて言った、「母だって関係してるわけですわ、ハーバート叔父さま」
「おまえのお母さんはだね」太っちょは答えた、「一要因にすぎんのだ。おまえはメイヒュー一族特有の顔立ちをしているよ」
アリスは返事をしなかった。今日まで会ったこともなかったこの叔父は、不愉快な謎の人物だった。行き着く先で待っている他の人たちも、全然会ったことはないし、叔父よりましだろうとはあまり期待をかけなかった。彼女の父の家系には鉛色の血が流れているのだ。父は被害妄想にとりつかれた偏執狂だった。薄暗い遠景にひっこんでいるサラ叔母は、まだ存命中の父の妹だが、どうやらちょっと変人のようだった。ライナッハ医師の妻であるミリー叔母は、過去はどうだったか知らないが、現在はきっとこうだということは、ライナッハ医師を一目見ただけでわかった。
エラリーは首筋がむずむずするのをおぼえた。この荒れ野に深く入りこんでいけばいくほど、今回の冒険全体が気にくわなくなってきた。まるで何か巨大な力を持った手が、とてつもない悲劇の第一幕の舞台装置をしつらえてでもいるかのように、どことなく、前もって筋書きがきまっているような芝居じみたところがあるのだ……。彼はそんな知ったかぶった愚劣な考えを振り捨てて、コートに深々とくるまった。それにしても、まったく妙だった。どんな寒村にだってあるはずの生命線すら欠けているのだ。電信柱もないし、彼が見たかぎりでは、電線も通っていなかった。だとするとローソクを使っていることになる。エラリーはローソクが大嫌いだった。
太陽は車の後方にあって、もう沈もうとしていた。弱い日差しが青白い冷気の中で震えていた。たとえ弱い日差しでも、エラリーはまだ持ちこたえていてほしかった。
車はがたぴし騒々しい音を立て、一行を人形のように揺さぶりながら、どこまでも際限なく走りつづけた。道はあくまでも東に向かって弧を描きつつ、くねくねと曲がっていた。空はますます鉛色になってきた。寒さが次第に深く骨にしみとおった。
ライナッハ医師がようやく、「着きましたよ」とガラガラ声で言って、道路を左折し、ほんの申しわけに砂利を敷いた狭い私道に車を乗り入れたとたん、エラリーは驚きと安堵ではっと我に帰った。じゃ、これでほんとうに旅は終わったんだな、と思った。後ろの座席でソーンとアリスがごそごそ動く気配がした。きっと二人も同じことを考えているのだろう。
エラリーは気持を引き締め、冷えきった足で足踏みしながら、あたりを見まわした。その脇道の両側は相変わらず、枝がからまりあった荒涼とした林だった。幹線道路からそれて以降、車は本道から一度もはずれず、ほかの道とも交差しなかったのを、彼はそこで思い出した。この地獄への道から迷い出ようにも迷いようがないわけだ、とエラリーは不吉なことを考えた。
ライナッハ医師が太い首を後ろにひねって言った、「ようこそお帰り、アリス」
アリスは何やらわけのわからないことをぶつぶつつぶやいた。先刻ライナッハが投げてよこした虫食いだらけの膝かけに、目もとまで顔を埋めていた。エラリーは医師にすばやく視線を走らせた。その太いしゃがれ声にひやかしともあざけりともつかない響きがこもっていたからだ。だが、その顔は、相も変わらず、つるりとして、生気がなく、温和だった。
ライナッハ医師は私道を突き進んで、二棟の家の少し手前に車をとめた。その二つの建物は道をはさんで並んでいて、ちょうど道幅だけの間隔しかなかった。道はそのまままっすぐ前方のぼろガレージに通じていた。その崩れかかった壁のすきまから、ソーンのぴかぴかのリンカーンがちらりと見えた。
三棟の建物は、ぼうぼうたる木立に囲まれた荒れ放題の地所に一かたまりに寄りそっていて、さながら茫漠とした大海に浮かんだ三つの無人島のようだった。
「あれが先祖代々の邸だよ、アリス。左手のがね」とライナッハ医師が熱をこめて言った。
左手の家は石造りだった。元は灰色だったのが、雨風にさらされ、そしておそらくは山火事にあぶられて、今ではほとんど真っ黒に変色していた。正面はまるで情け容赦のない癩病にやられたように、一面に汚ならしい斑点や縞ができていた。三階建てで、花模様の石彫や樋嘴《ひはし》で凝った装飾をほどこしてあり、様式はまぎれもなくヴィクトリア朝風だった。正面の石壁は、偉大な時代の技をもってしてはじめて刻みつけることのできる自然のままのようなざらざらした肌に仕上げてあった。建物全体が周囲のもの寂しい風景の中にどっかりとゆるぎなく根をおろしているようだった。
エラリーは、アリス・メイヒューが恐ろしさに声も出ないといった様子でその建物を見つめているのに気づいた。イギリスの古い館の好もしい寂《さび》のようなものはそれにはまるでなかった。火に焼かれ、荒れ果てたこの片田舎のおぞましい歳月とともに、ただひたすら古びているだけだった。この娘にこんなぞっとするような経験をなめさせたソーンを、エラリーは声をひそめて罵った。
「シルヴェスターはあれを『黒い家』と呼んでいた」ライナッハ医師がエンジンのスイッチを切りながら、上機嫌で言った。「たしかにきれいではないが、七十五年前に建った当時そのままの頑丈さだよ」
「『黒い家』だって」ソーンがうなるように言った。「くだらんな」
「すると何ですの」アリスが小声で言った、「父は……母は|ここ《ヽヽ》に住んでいたわけですか?」
「そうだよ。妙な呼び名でしょ、え、クイーンくん? これまたシルヴェスターが病的な色彩に夢中になっていたことのあらわれですな。おまえのおじいさんが建てたんだよ、アリス。こっちのも、あとでおじいさんが建てたものだ。おまえもきっとこっちのほうがずっと住みやすいと思うだろうよ。みんなはいったいどこにいるのかな?」
彼は大儀そうに車を降りて、姪のために後ろのドアをあけておさえていた。エラリー・クイーン氏は反対側の路上にさっと降り立って、野獣のように鋭く不安げに鼻をきかせながら、まわりに視線を走らせた。古い母屋と向かい合った離れ家はずっと小さくて、もっとあっさりした地味な建物で、元は白かったのがくすんで灰色になった石造りの二階建てだった。玄関のドアはしまっており、一階の窓はカーテンが引いてあった。だが家の中のどこかで火を焚《た》いているらしく、ちらちらとかすかに光がゆらめくのが見えた。次の瞬間、その光が老女の頭でさえぎられ、老女はほんのつかのま窓ガラスに顔を押しつけ、すぐに姿を消した。しかしドアは閉じたままだった。
「おまえはもちろん、わたしたちの家のほうに泊まるだろうね」と医師がやさしげに言っているのを聞きつけて、エラリーは車の向う側にまわった。連れの三人は道に立っていて、アリスはまるで保護を求めるようにソーンにぴったりと寄り添っていた。「『黒い家』に寝泊まりするのは嫌だろう、アリス。あそこには誰もいないし、かなり散らかっているからな。それに死人の出た家でもあるしね……」
「おやめなさい」ソーンがどなった。「かわいそうにこのお嬢さんはそれでなくても死ぬほど恐がっているのがわからんのですか? 彼女をおじけづかせて追っ払おうとでもいうつもりですか?」
「あたくしをおじけづかせて追っ払う?」アリスは茫然として鸚鵡返しにきき返した。
医師は薄笑いを浮かべて舌打ちした。「メロドラマはあんたには全然似合わんよ、ソーンくん。わたしはぶっきらぼうな偏屈じじいだがね、アリス、これでも善意で言ってるんだよ。|『白い家《ホワイト・ハウス》』のほうが、実際居心地がいいはずなんだから」彼はまた急にくすりと笑った。「『白い家』、これはいわば気分のバランスを保つために、わたしがつけた名前でね」
「何だかひどくおかしなところがありますわ」アリスが緊張した声で言った。「何なんですの、ソーンさん? 埠頭でお会いしてからというもの、あてこすりや敵意を含んだやりとりばかりじゃありませんの。それにいったいあなたは、お葬式のあとで何だって六日間も父の家でお過ごしになったんでしょう? あたくしには知る権利があると思うんですけど」
ソーンは唇をなめた。「どうもわたしとしては――」
「さあ、さあ、おまえ」医師が言った。「一日じゅうここで凍えてようっていうのかね?」
アリスは薄手のコートを一層ぴったりと体に巻きつけた。「みなさん、意地悪ばっかり。かまいませんかしら、ハーバート叔父さま、あたくし、あの中を見たいんですけど、父と母が……」
「よしたほうがいいですよ、お嬢さん」ソーンが急いで言った。
「かまわんじゃないか」ライナッハ医師はやさしく言って、自分が『白い家』と呼んだ建物を一度ちらっと振り返った。「今、見てしまって、それでおしまいってことにしたほうがアリスのためにもいいだろう。まだ明るいから見られないことはない。すんだら、うちのほうへ来て、顔や手を洗って、温かいものでも食べるとしよう、そうすればおまえもずっと気分がよくなるさ」彼は姪の腕をつかむと、一面に枯れ小枝のちらばっている不毛の地所を横切って、黒い建物のほうへ引っぱっていった。
「たしか」玄関の石段を昇りながら、医師はものやわらかに言った。「ソーンくんが鍵を持っているはずだが」
娘は黒い目で三人の男の顔をしげしげと見くらべながら、じっと立って待っていた。弁護士は青ざめてはいたが、口はかたくなに真一文字に結ばれていた。医師の言葉に答えもしなかった。ポケットから錆びた大きな鍵の束を取り出すと、その一つを玄関のドアの鍵穴にさしこんだ。鍵をまわすときしんだ。
それからソーンがドアを押しあけ、一同は家の中に入っていった。
そこはまるで納骨堂だった。かびと湿気の匂いがした。家具は、どれもどっしりとしていて、昔はさだめし豪奢なものだったろうが、今は一様に古ぼけて、ほこりをかぶっていた。壁はあちこちはげ落ちて、裂けて変色した下地の木摺《きずり》がのぞいていた。いたるところにごみやがらくたが散らばっていた。こんな汚ならしい洞穴のようなところにかつて人が住んでいたとは、とても考えられなかった。
娘は目にまぎれもない恐怖の色を浮かべ、落ち着きはらったライナッハ医師に案内されて、つまずきながら歩いた。この視察行がいつまでつづくのか、エラリーにはわからなかったが、赤の他人の彼にとってさえ、その印象はほとんど耐え難いまでに重苦しいものだった。一同は黙りこくったまま、何か自分たちよりも強い力に引きずられて、ごみくずをまたぎながら、部屋から部屋へとうろつきまわった。
アリスが一度、押し殺した声で言った、「ハーバート叔父さま、誰も……父の世話をしてくれる人はいなかったんですの? このひどい場所を誰も掃除したことはないんですの?」
医師は肩をすくめた。「おまえのお父さんは年とってから奇矯な考えにとりつかれていたんだよ。何かしてやりたくても、誰にもあまり手の出しようがなかった。その話には立ち入らないでおいたほうがいいんじゃないかな」
すっぱいような悪臭が鼻をついた。一同はもたもたしながら歩きつづけた。しんがりのソーンは年をへたコブラのように用心深く、その目はライナッハ医師の顔から片時も離れなかった。
二階で、一同は、とある寝室に行きあたった。医師の話では、シルヴェスター・メイヒューはそこで息を引きとったのだということだった。ベッドは乱れたままだった。実際、マットレスやしわくちゃのシーツには死者の体が横たわっていたあとのくぼみがまだ見分けられた。
がらんとした、みすぼらしい部屋で、ほかほど汚れてはいないが、はるかに陰鬱な感じだった。アリスは咳こみはじめた。
部屋の真ん中にじっと立ちつくして、自分がその上で生まれた汚ならしいベッドを見つめながら、彼女はどうにも手のつけようがないほど咳こんだ。
そのうち急に咳がやんだと思うと、アリスは、足が一本とれて傾《かし》いでいる化粧だんすのところに駆け寄った。その上には、大きめの色あせた着色写真が、黄ばんだ壁に立てかけて置いてあった。アリスは手を触れずに、長いことそれを眺めていた。それからようやく手に取った。
「母だわ」とゆっくり言った。「たしかに母よ。あたくし、来てよかったわ。父はやっぱり母を愛していたのね。こんなに長いこと、これを取っておいたくらいですもの」
「そうですよ、お嬢さん」ソーンが低い声で言った。「あなたが欲しがるだろうと思ってましたよ」
「あたくし、母のポートレイトは一枚しか持ってなくて、しかもそれができの悪いもんなんですの。これは――まあ、ほんとにきれいじゃありませんこと?」
アリスは誇らしげに写真をかかげ持って、今にもヒステリックに高笑いをしそうだった。色彩は時がたってくすんではいたが、髪を高く結いあげた堂々たる感じの若い女を表わしていた。顔立ちは整い、きりりと引きしまっていた。アリスとその絵の女性とはほとんど似てはいなかった。
「おまえのお父さんはね」ライナッハ医師がため息まじりに言った、「おしまいの頃にはよくおまえのお母さんの話をしていたよ、きれいだったと言ってね」
「父がこれしか遺してくれなかったとしても、イギリスからやってきたかいがあったというものですわ」アリスはかすかに身震いした。そして写真を胸に押しつけて、急いで男たちのそばに戻った。「ここから出ましょうよ」とひときわ甲高い声で言った。「あたくし――あの、ここは好きません。気味が悪くて。あたくし……こわいんですの」
一同はまるで誰かに追いかけられているように、半ば駆け足でその家を出た。老弁護士はひどく入念に玄関のドアの鍵をかけ、その間もライナッハ医師の背中をにらみつけていた。だが、医師はもう姪の腕をとって、道の反対側の『白い家』のほうへ案内していくところだった。そっちの家の窓には今はちらちらと明りがゆらめき、玄関のドアは大きくあけはなたれていた。
エラリーとソーンは遅れて、砂利を踏み鳴らしながら歩き出したが、途中でエラリーはソーンに鋭く言った、「ソーン。手がかりを与えてもらいたいな。ヒントをさ。何でもいい。こっちは何が何だかさっぱりわからんよ」
夕日を受けたソーンのひげもじゃの顔は、げっそりとやつれていた。「今は話せんのだ」と低く答えた。「あらゆることを、すべての者を疑ってくれ。今晩、きみの部屋で会おう。きみをどこへ泊めるか知らんが、とにかくきみが独りだったらな……いいか、クイーン、用心しろよ!」
「用心?」エラリーは顔をしかめた。
「命にかかわると思ってな」ソーンの唇がいかめしく細い一線になった。「わたしの知るかぎり、そうなんだ」
その時、二人は『白い家』の敷居をまたいでいた。
エラリーの受けた印象は妙に漠然としていた。もしかすると、体がひきつるほど寒い屋外に何時間もいたあとで、急に息苦しいばかりの熱気に当ったせいかもしれない。あまり急激に体がほぐれて、熱気が頭にのぼったのかもしれない。
年代をへて黒ずんだ暖炉でごうごうと燃えさかる火から渦巻いて流れ出る熱波にぬくもりながら、エラリーは半ば意識がないに等しい状態で、しばらくぼんやり立っていた。一同を迎えた二人の人間のことも、その家の内部のことも、おぼろげにしか意識にのぼらなかった。その部屋は、すでに見たほかのあらゆるものと同様に、古びていたし、家具などはあるいは骨董屋から買ったものだったかもしれない。そこは広々とした居間で、なかなかに快適だった。彼が異様に感じたのは、調度や造作があまりにも古風なせいにすぎなかった。現に、張りぐるみの椅子には飾りつきの背おおいがかかっているのだ! 部屋の一角からはすりへった真鍮の踏み板のついた幅の広い階段が、二階の寝所のほうへ螺旋状にのびていた。
一同を待っていた二人のうちの一方は、ライナッハ夫人、つまり医師の妻だった。エラリーはその女を見たとたん、相手はアリスを抱擁している最中だったが、これはまさしくあの太っちょが連れ合いに選びそうな女だと見てとった。青白い、しなびた小女で、骨と皮ばかりのひ弱な体が、今にも壊れそうだった。そして明らかに、内心の不安におののいていた。ひからび、青味をおびたその顔には、追われているようなおどおどした表情がうかがえた。鞭打たれた牝犬のすくみあがったような従順さを見せて、アリスの肩越しにおずおずと夫のほうを見やった。
「そう、あなたがミリー叔母さまですのね」相手の体を押しやるようにして、アリスはため息まじりに言った。「ごめんなさいね、もしかしてあたくし……何もかもまるっきり初めてのことばかりだもので」
「かわいそうに、きっと疲れ切っているのね」ライナッハ夫人は小鳥のさえずるような甲高い声で言った。アリスは弱々しく微笑し、感謝の気持が表情にうかがわれた。「よくわかりますよ。何と言っても、あたしたちはあなたにとって他人同然ですものね。まあ!」と言って、夫人は口をつぐんだ。その輝きを失った目がアリスの手にしている着色写真に釘づけになった。「まあ」ともう一度言った。「じゃ、あなたは|もう《ヽヽ》あっちの家へいらしたのね」
「もちろん行ったさ」と医師が口をはさんだ。夫のバスの声を聞くと、夫人は一段と青ざめた。
「さあ、アリス、ミリーに案内してもらって、二階《うえ》でゆっくりしたらどうだい」
「あたくし、そりゃもうかなりくたびれましたわ」とアリスは白状した。それから母親の肖像に目をやって、またほほえんだ。「あたくしのこと、きっとひどいお馬鹿さんだとお思いでしょうね、こんなふうにこれだけ抱えて飛びこんできて――」彼女はみなまで言わずに、暖炉のところへ行った。暖炉の上には炎にあぶられて黒ずんだ幅の広い炉棚があって、過ぎし昔のがらくたがところ狭しと並んでいた。アリスはヴィクトリア朝風の装いをした堂々たる美女の着色写真をいっしょにそこに並べた。「やれやれ! これでずっと楽になりましたわ」
「さあさあ、諸君」ライナッハ医師が言った。「どうかそんなにしゃっちょこばってないで。ニック! ひとっぱたらきしてくれ。メイヒュー嬢の荷物が車にくくりつけてあるんだ」
壁によりかかっていた、見上げるような大男の青年が無愛想にうなずいた。むっつりとただひたすらにアリス・メイヒューの顔を見つめていたが、やがて外に出ていった。
「あの方は」アリスが顔を赤らめながら小声で言った、「どなた?」
「ニック・キースさ」医師はコートを脱いで、ぶよぶよした手を暖めに火のそばへ寄った。「わたしが面倒を見ている気むずかし屋の青年でね。あの男がまとっているあの分厚い殻をおまえに突き破ることができれば、付き合って楽しい相手だってことがわかるよ。たしかもう言ったと思うが、屋敷内の雑用をしている、しかし、だからといってためらうことはない。ここは民主主義の国なんだからな」
「きっととてもいい方なんでしょうね。失礼させていただいてよろしいかしら。ミリー叔母さま、お手数ですけど……」
青年が荷物をかついでまた姿を見せ、足音高く居間を横切り、重そうに階段を昇っていった。すると不意に、まるで合図でもあったように、ライナッハ夫人が騒々しくぺちゃくちゃしゃべりだし、アリスの手をとって階段のほうへ連れていった。二人はキースのあとを追って姿を消した。
「医者として」ライナッハが一同のコートを受け取って玄関の戸棚にしまいながら、含み笑いをして言った、「わたしがたっぷり処方してさしあげよう……こいつをね、諸君」彼はサイドボードのところへ行って、ブランデーの瓶を持ち出した。「冷えきった腹には何よりの薬だ」そう言って、びっくりするほど楽々と自分のグラスを一気に飲み干した。だんご鼻にこまかく刻みこまれた毛細血管が暖炉の照り返しを受けて、はっきりと目についた。「あーあ! 人生の大きな楽しみの一つですな。どうです、あったまるでしょう? さて今度は、みなさん少々おめかしをする必要を感じとられるでしょうな。いっしょにおいでなさい、それぞれの部屋に案内しますよ」
エラリーは根気強く頭をゆすって、何とかはっきりさせようとした。「ドクター、お宅には何かこうひどく眠気をもよおすところがありますね。ありがたい、ソーンもそうでしょうが、ぼくも洗顔をしてしゃきっとしたいところだったんです」
「かなりしゃきっとはするでしょうな」医師は体をゆすって笑いをこらえながら言った。「ここは原生林の中でしてね。電燈やガスや電話がないばかりか、水道もないんですよ。家の裏にある井戸で用は足りてますがね。簡易生活ってんでしょうな。人を軟弱にする現代文明の影響を受けるよりましです。我々の先祖は細菌伝染病にかかったら今より簡単に死んだかもしれんが、鼻風邪に対してははるかに大きな抵抗力を持ってたことは請け合いですよ! おっと、こんな無駄口はもうたくさん。上へ行きましょう」
冷えびえした二階の廊下は体をぞくぞくさせたが、その身震いでかえって誰もが生き返ったようになった。エラリーはたちまち気分がよくなった。ライナッハ医師がローソクとマッチを持って、ソーンを家の正面に面した部屋に案内し、そしてエラリーは側面の部屋に入れられた。片隅の大きな暖炉には火がパチパチと音を立てて燃え、古風な洗面台の上に置いた洗面器にはいかにも冷たそうな水が満たしてあった。
「部屋がお気に召すといいんだが」医師が戸口のところでぐずぐずしながら、ゆったりと言った。「ソーンくんと姪だけを予定していたもんですからな、しかし、一人余分に泊めるくらいのことはいつでもできますよ。ええと――ソーンくんの御同僚だと、たしかソーンくんが言ってたように思いますが?」
「二度ほどね」エラリーは答えた。「かまわなければ、ぼくは失礼して――」
「ええ、どうぞどうぞ」ライナッハはなお立ち去ろうとせず、笑顔でじっとエラリーを見ていた。エラリーは肩をすくめ、上着を脱ぐと洗顔にかかった。水はまさしく冷たかった。小魚の口でつつくようにちくちく指を刺した。彼は威勢よくごしごし顔を洗った。
「これでよし」顔をふきながら彼は言った。「ずっとよくなった。下ではどうしてあんなにぐったりしてしまったのか、自分でも不思議ですよ」
「寒さのあとでいきなり熱気にあたったせいでしょうな、きっと」ライナッハ医師は立ち去る気配も見せなかった。
エラリーはまた肩をすくめた。わざと無頓着さを装って旅行鞄をあけた。身のまわりの品の上に三八口径警察用拳銃がのっているのが、あからさまにさらけ出された。彼はそれをかたわらにぽんと投げ出した。
「いつも銃を持ち歩いているんですかな、クイーンさん?」ライナッハ医師が低い声でたずねた。
「いつもですよ」エラリーは拳銃を手にとると、尻のポケットにすべりこませた。
「これは愉快だ!」太っちょの医師は三重にくくれたあごをさすった。「愉快ですな。さてと、クイーンさん、失礼させてもらって、ソーンくんがどうしてるか見てきますよ。強情ぱりでね、ソーンくんときたら。この一週間、わたしたちのところで気楽にしててくれたらいいのに、隣のあの汚ない穴ぐらみたいなところに独りきりで暮らすと言ってきかんのですよ」
「どういうわけなんでしょうな」エラリーはつぶやいた。
ライナッハ医師はじろっと彼を見た。それからこう言った、「支度がすんだら下に降りてらっしゃい。家内が御馳走を用意しています、あなたもわたし同様に腹をすかしておいでなら、きっと舌鼓を打たれますよ」なおも微笑を浮かべながら、医師は姿を消した。
エラリーはしばらくじっと立って、耳を澄ましていた。医師が廊下のはずれで立ち止まる気配がし、やがてまた重い足音が聞こえてきて、今度は階段を降りていった。
エラリーは忍び足ですばやくドアのところに行った。さいぜん部屋に入った瞬間に気づいていたことがあったのだ。
錠前がないのだ。錠がついていた場所は、ささくれだった穴になっていて、そのささくれはまだ新しいような感じなのだ。エラリーは眉をひそめ、ぐらぐらする椅子をドアの取手に寄せかけておいて、部屋の中を歩きまわりはじめた。
重い木の寝台からマットレスを持ち上げて、その下をさぐったが、何を探しているのか自分でもわからなかった。押入れや引出しをあけてみたり、隠れた電線でも探すように擦り切れた絨毯を手さぐりしたりした。
だが十分もすると、自分自身に腹が立ってきて、エラリーはあきらめて窓のところへ行った。そこからの眺めはいかにも荒涼としており、エラリーはすっかり憂鬱になって顔をしかめた。見えるのはただ丸坊主の褐色の木立と鉛色の空ばかりだった。『黒い家』というそのものずばりの呼び名がついた古い館は反対側にあって、その窓からは見えなかった。
雲に隠れた太陽は沈もうとしていた。嵐雲の層がつかのま横へそれて、光り輝く日輪がまともに目に照りつけ、エラリーは色とりどりの玉が目の中でちかちか踊るのを見た。やがて雪をはらんだ別の雲が迫ってきて、太陽は地平線の向うに沈んだ。室内が急に暗くなった。
錠前は取りはずされたわけか? 誰かが急いでやった仕事だな。自分が来ることは、もちろんこの家の者は知らなかったはずだ。とすると、私道に車が停まった時、誰かが窓から自分を見たのに相違ない。家からちらっと顔をのぞかせたあの老婆だろうか? あの女は今どこにいるのだろう、とエラリーはいぶかった。いずれにしても、あのドアの細工は手なれた者が数分間でやった仕事だ……ソーンの部屋のドアも同じように錠前をはずされているのだろうか、ともエラリーはあやしんだ。それにアリス・メイヒューのも。
エラリーが階下に降りていくと、すでにソーンとライナッハ医師は暖炉の前に陣取っていて、医師ががらがら声でしゃべっているところだった。「それでもまあよかった。あのかわいそうな女が正常に戻るきっかけを与えてやらんとね。今日のようなショックを受けると、あの女にはそれがとどめの一撃にならんともかぎらない。あのことはサラには徐々にやんわりと打ち明けるように、家内に言っといたんだが……ああ、クイーンさん。こっちへ来て、いっしょにお坐んなさい。アリスが降りてきたらすぐ、夕食にしますよ」
「ライナッハさんは今、断わりを言っておられたとこなんだ」ソーンがなにげなく言った、「メイヒュー嬢の叔母さんにあたるサラって人のことで――フェル夫人といって、シルヴェスター・メイヒューの妹さんだ。姪が来るというんで興奮されたのが、少々無理な負担になったらしくてね」
「それは、それは」と言いつつ、エラリーは腰をおろし、そばの薪のせ台に足をのせた。
「実を言いますとね」医師が言った、「わたしには種違いの姉にあたるんだが、かわいそうに気がふれとるんですよ。遺伝の偏執狂でね。常軌を逸してて、べつに暴れたりするわけじゃないが、うまく調子を合わせとくほうが無難てもんで。なにぶん普通じゃないんで、アリスもサラに会うのは――」
「偏執狂ですか」エラリーが言った。「どうもお気の毒な御一家のようですね。あなたの種違いの兄のシルヴェスターさんはがらくたと孤独に執着しておられたようですが。フェル夫人のほうの妄想はどんなものですか?」
「よくあるやつでね――自分の娘がまだ生きていると思いこんどるんです。実際は、かわいそうに、オリヴィアは三年前に自動車事故で死んじまいましたがね。それがサラの母性本能にショックを与えて、狂わせてしまったんですな。サラは兄の娘のアリスに会うのを楽しみにしとったが、それが厄介なことになりかねんのですよ。病んだ心が、なれないことにどういう反応をするか、誰にもわからんのでね」
「その点では」エラリーがゆったりと言った、「病んでいようといまいと、誰の心についても同じことが言えるんじゃないんでしょうかね」
ライナッハ医師は声を立てずに笑った。火のそばに背を丸めて坐っていたソーンが、ぽつりと言った。「あのキースという青年」
医師はゆっくりとグラスを下に置いた。「一杯どうです、クイーンさん?」
「いや、結構です」
「あのキースという青年のことだが」ソーンがまた言った。
「え? ああ、ニックね。それで、ソーンくん? あれがどうかしましたか?」
弁護士は肩をすくめた。ライナッハ医師はまたグラスを手に取った。「わたしの気の回しすぎですかな、それともあたりの雰囲気におぼろげなりとも敵意のようなものでも漂ってますかね?」
「ライナッハ――」ソーンが厳しい調子で言いかけた。
「キースのことは気にしなさんな、ソーンくん。うちではあの男はたいがい独りでほうっておくんです。あれは世間嫌いでしてね、そこがあいつの頭のいい証拠だが。しかし、どうやらわたしと違って、自分の知恵に縛られないための気軽さってものに欠けるうらみがある。おそらくあんたからすると、あれが敵対的に見えるんじゃないかな……。やあ、おでましだね、アリス! きれいだ、きれいだよ」
アリスはフリルなどのついていないあっさりしたドレスに着替えていて、生気を取りもどしていた。ほほに赤味がさし、目は前にはなかった光と色合いをおびてきらめいていた。帽子とコートを脱いだアリスを初めて目にして、まるで別人のようだ、とエラリーは思った。女というものはいずれみな、上にまとっているものを替え、婦人化粧室の閉ざされたドアの向うでの摩訶不可思議な操作で面目を一新して、何とか別人のようになろうとするものなのだが。もう一人の婦人に世話を焼いてもらったことも、明らかにアリスを元気づけていた。目の下にはまだ隈《くま》が残ってはいたが、笑顔は陽気さを増していた。
「ありがとう、ハーバート叔父さま」その声はややかすれ気味だった。「でも、たちの悪い風邪をひきこんでしまったらしいんですの」
「ウイスキーに熱いレモネードを割って飲むといい」医師がすかさず言った。「少し食べて、早目に床に入るんだね」
「ほんと言うと、あたくし、おなかがぺこぺこなんです」
「じゃ、好きなだけ食べたらいい。わたしは、きっともう気づいているだろうが、なんともひどい医者でね。食事にするとしようか?」
「ええ」ライナッハ夫人がおびえたような声で言った。「サラやニコラスは待つこともありませんしね」
アリスの目がちょっと曇った。それからアリスはため息をついて叔父の腕に手をかけ、一同ぞろぞろと食堂に入っていった。
夕食は失敗に終わった。ライナッハ医師はその全精力を傾けてガルガンチュアのように鯨飲馬食した。ライナッハ夫人はエプロンがけでサービスにこれ努め、次の料理の支度をしたり、汚れた皿を片づけたりで忙しく、ほとんど自分では料理に手をつける暇がなかった。この家には女中がいないようだった。アリスは次第に血の気が引き、顔にはまた先刻のように緊張の色が現われていた。そして、時々咳ばらいをした。食卓の上の石油ランプの火がしきりとゆらめき、エラリーは一口飲みこむごとに石油の味を感じた。おまけに、|主な料理《ピエス・ド・レジスターンス》が羊肉のカレー料理だった。エラリーの嫌いな食品があるとすれば、それは羊肉であり、うんざりする料理法があるとすれば、カレー料理なのだった。ソーンは皿から目をあげもせず、無感動に食べていた。
一同が居間にもどる際、老弁護士はわざと一足遅れて、アリスにささやきかけた、「大丈夫ですか? え、どうです?」
「あたくし、ちょっとびくびくしてるみたいなんですの」アリスは静かに言った。「ソーンさん、どうか、あたくしを子供だとお思いにならないでくださいね、とにかくとっても変なんですの――何もかもが……。今になってみると、来なけりゃよかったと思いますわ」
「わかりますよ」ソーンが低い声で言った。「しかし、必要だったんです、ぜひとも必要だったんです。あなたにこんな思いをさせずにすむ方法があったら、わたしはそうしていたでしょう。しかし、隣のあのおぞましい家に泊まるのは、あなたには無理なのはわかりきってるし――」
「まあ、ごめんですわ」アリスは身震いした。
「それに何マイルいったところでこのあたりにはホテルは一軒もない。お嬢さん、この家の者が誰かあなたに――」
「いえ、いえ。ただ、あの人たち、とても変な感じがするというだけで。たぶん、あたくしの気の迷いとこの寒さのせいなんですわ。もう休ませていただいちゃいけませんかしら? 明日になれば、ゆっくりお話もできますしね」
ソーンはアリスの手を軽く叩いた。アリスは感謝するように笑顔を見せ、小声でわびを言って、ライナッハ医師のほほにキスをすると、ライナッハ夫人といっしょにまた二階へあがっていった。
男たちがふたたび暖炉の前に坐りこんで、ちょうどタバコに火をつけかけたとたん、どこか家の裏手のほうで、ずしんずしんと足音がした。
「きっとニックのやつだ」医師がぜいぜい喉を鳴らして言った。「いったい、今までどこにいってたんだろう?」
あの大男の青年が居間のアーチ形の入口のところにふくれ面で姿を現わした。ブーツがびしょ濡れだった。青年は持ち前の無愛想な調子で、「やあ」とうなるように言うと、火のそばに寄って赤らんだ大きな手をあぶった。エラリーには通りすがりに一度だけすばやく視線を走らせたが、ソーンに対してはまるで何の注意も払わなかった。
「どこへいってたんだ、ニック? 行って食事をしたまえ」
「あんた方が着く前に飯はすませた」
「何をしていたのかね?」
「薪を運びこんでいたんだ。あんたたちがしようと考えもしなかったことさ」キースの口調は乱暴だったが、その手が震えていることをエラリーは見逃さなかった。ひどく変だ! その態度は明らかに使用人のそれではないのだが、見たところ、下男として雇われているらしいのだ。「雪が降ってる」
「雪だって?」
一同は正面の窓のところに押し寄せた。月のない夜で、窓ガラスの向うにふんわりとした牡丹雪が落ちていくのがはっきりと見えた。
「ああ、雪だ」とライナッハ医師がため息まじりに言った。ため息もさることながら、その口調にはどことなくエラリーのえり首をむずむずさせるものがあった。「雪白の気、丘を、森を、川を、天をおおい、庭のはずれの田家を隠す」
「あなたはまさしく田舎の住人ですね、ドクター」とエラリーが言った。
「わたしは荒れ気味の自然が好きでしてね。春は弱虫連中向きだ。冬こそは地金の鉄をさらけだす」医師はキースの広い肩に腕をかけた。「笑顔を見せたらどうだ、ニック。神、空に知ろしめす、じゃないのかね?〔ブラウニングの「ピパの歌」の一節で、あとに「世はすべてこともなし」とつづく〕」
キースは返事もせずに相手の腕を振りはらった。
「ああ、おまえはクイーンさんとは初対面だったな。クイーンさん、これはニック・キースです。ソーンさんのことはもう知ってるな」キースはそっけなくうなずいた。「さあ、さあ、元気を出せ。おまえは感情的すぎる、そこがおまえの困った点だ。さて、みんなで一杯やるとしよう。神経の病いは伝染しやすい」
神経だと! エラリーは冷ややかにそう思った。あたりにかすかに漂う謎めいたものをかぎつけて、鼻孔がぴくぴくうごめいた。その謎めいたものが彼をじらした。ソーンはさしこみでも起こしたように、体をこわばらせていた。こめかみの静脈が薄青くひものようにふくれあがり、額には汗がにじんでいた。二階は静まり返って物音一つしなかった。
ライナッハ医師がサイドボードのところに行って、あれこれと瓶をひっぱり出しにかかった――ジン、ビタース、ライ・ウイスキー、ヴェルモット。医師は絶え間なしにしゃべりながら、せっせと飲み物を調合した。その低いしゃがれ声には喉の鳴る音が、まぎれもない興奮のわななきがこもっていた。いったいぜんたい、ここで何が持ち上がろうとしているのだ、とエラリーはもだえるような思いで考えた。
キースがカクテルを配り、エラリーの目はソーンに警告を発した。ソーンはかすかにうなずいた。二人はそれぞれ二杯ずつ飲んで、それ以上は断わった。キースは何かを忘れたがってでもいるように、がむしゃらに飲んだ。
「さて、これでよしと」ライナッハ医師はそう言って、安楽椅子に大きな図体を沈めた。「女の邪魔が入らず、火のけと酒があれば、人生もまずは我慢できる」
「あいにく」ソーンが切りだした、「わたしが水をさすことになりそうですな、ドクター。これからそいつを我慢ならぬものにしようとしてるところなんでね」
ライナッハ医師は目をぱちくりさせて、「おやおや」と言った。ブランデーの瓶をひじがぶつからないところに用心深く押しやって、ぼってりした手を腹の上で組んだ。紫色をおびた小さな目がきらめいた。
ソーンは火のそばに寄り、一同に背を向けて炎を見おろしながら立っていた。「わたしがここにいるのは、メイヒュー嬢のためでしてね、ドクター」ソーンは振り向きもせずに言った。「ただただ彼女のためです。シルヴェスター・メイヒューが先週、あまりに突然に亡くなられた。かれこれ二十年前に離婚して以来、ついぞ会わなかった娘に会える日を待ちこがれながら死んだのです」
「事実そのとおりですな」医師が身じろぎもせずにガラガラ声で言った。
ソーンはくるりと向き直った。「ドクター、あなたはメイヒューが死ぬ一年以上前からその主治医をつとめておられた。あの人はどこが悪かったんですか?」
「いろんなものの積み重ねでね。これといって特に変わったことはない。死因は脳溢血ですよ」
「あなたの書いた死亡証明書ではそうなってましたな」弁護士は身を乗り出した。「わたしは必ずしも納得しておらんのですよ」彼はゆっくりと言った、「あなたの証明書が真実を物語っているとは」
医師はつかのま、ソーンをまじまじと見ていたかと思うと、盛りあがった自分の太腿をぴしゃりと叩いた。「けっさくだ! 気に入ったよ。ソーンくん、あんたは見たところは無味乾燥だが、噛みしめれば味の出てくるお人だね」そう言って、にこにこ笑いながらエラリーのほうを振り返った。「今のを聞きましたか、クイーンさん? あなたの友人は公然とわたしを人殺し呼ばわりしてるんですよ。こいつは大いに愉快なことになってきましたな。そうか! このライナッハは兄弟殺しか、おまえはこれをどう思う、ニック? おまえの主人は冷酷な人殺しだと非難されてるんだ。いやはや」
「そいつは馬鹿げてますよ、ソーンさん」ニック・キースはうなるように言った。「自分でもそんなことは信じちゃいないくせに」
弁護士のこけたほほがすぼまった。「わたしが信じていようがいまいが、そんなことはどうでもいい。その可能性は現にあるんでね。しかし、わたしが目下のところ気にかけているのは殺人のあった可能性よりも、アリス・メイヒューの利益なのだ。シルヴェスター・メイヒューは、いかなるものの手によるにせよ――神の手であれ、人の手であれ――もう死んでしまった。ところが、アリス・メイヒューはぴんぴんしてるわけですからね」
「それで?」ライナッハ医師が穏やかにきいた。
「それで、わたしに言わせれば」ソーンはつぶやいた。「彼女の父親が、おりもおり、あの時に死んだというのはひどくおかしいということです。ひどくね」
長いこと沈黙がつづいた。キースは膝にひじを突き、ぼさぼさの子供っぽい髪を目の上まで垂らして、炎に見入っていた。ライナッハ医師はブランデーをいかにもうまそうにすすった。
やがてグラスを置くと、医師はため息をついて言った。「用心しいしい探り合いをして時間をつぶすには、諸君、人生はあまりにも短い。牽制めいたことはやめにして、ずばり本題に入ろうじゃないですか。ニック・キースはわたしが信頼している男だから、彼の前では何でもざっくばらんに話してかまわんのです」青年は動こうともしなかった。「クイーンさん、あなたはほとんど何もわかっちゃおらんのでしょうが?」医師は柔和な微笑を浮かべて言った。
エラリーも身動きをした。「しかし、どうしてまた」と小声で言った、「あなたにそれがわかったんですかね?」
ライナッハは笑顔を絶やさなかった。「ふふん。ソーンくんはね、シルヴェスターの葬儀以来、『黒い家』を離れたことは一度もなかったんですよ。先週、自分から買って出て寝ずの番をしている間、郵便物のやりとりも一切なかった。今朝、この人はわたしを埠頭に残して誰かに電話をかけにいったんですよ。それから間もなく、あなたが現われた。この人がわたしから離れていたのはほんの一、二分だから、あなたに何か話したにしても、大した話をする暇がなかったのは、わかりきったことです。今日のあなたの振舞いには敬意を表させてもらいますよ、クイーンさん。あっぱれなものでした。五里霧中で何もわからないのを押し隠して、何もかも承知しているようなふりをして」
エラリーは鼻眼鏡をはずして、レンズを磨きだした。「あなたは医者であるばかりか、心理学者でもあるんですね?」
ソーンがぶっきらぼうに言った、「そんなことはすべて的はずれだ」
「いや、いや、大いに的を射てますとも」医者は憂わしげな低音で応じた。「ところであなたの友人をわずらわしている悩みの種はですね、クイーンさん――これ以上あなたに気をもませておくのも酷だから言うんですが――ざっとこういうことなんです。わたしの種違いの兄のシルヴェスターは――神よ、あの男の悩める魂をやすましめたまえ――ありゃ守銭奴だったんですよ。自分の金貨を墓穴に持っていけるものなら――そのままそこに残るという保証があれば――きっと、あの男はそうしていたに違いないんです」
「金貨ですって?」エラリーが眉を上げて言った。
「お笑いでしょう、クイーンさん。シルヴェスターにはどうも中世風のところがありましてね。長く黒いビロードのガウンをまとって、ラテン語で呪文を唱えるようなことさえしかねなかった。ともあれ、金貨を自分といっしょに墓に持っていくわけにもいかなかったため、次善の策をとったわけです。隠しちまったんですよ」
「おやおや」エラリーが言った。「お次はじゃらじゃら音を立てる幽霊を手品の帽子から引っぱり出そうというんでしょう」
「隠しちまった」ライナッハ医師は満面に笑みをたたえた、「不浄の金をあの『黒い家』の中にね」
「すると、アリス・メイヒューさんのことは?」
「かわいそうに、境遇の犠牲者ですな。シルヴェスターは最近まで、あの娘のことは考えもしなかった、母方の最後の親族が死んだことを娘がロンドンから手紙で知らせてよこすまではね。手紙の送り先はこのやせこけて飢えたような目をしたソーンくんで、誰か知り合いから信頼できる弁護士として推薦されたんですな。実際、そのとおりの人だ、いやまったく! アリスは父親の居どころはおろか、生きているかどうかさえ知らなかったわけでね。義侠心のあついソーンくんがここを突きとめて、アリスの綿々たる手紙や写真をシルヴェスターに渡し、それ以来ずっと連絡《ヽヽ》将校の役をつとめていたのです。そのやり方がまた、用心深いったらなくてね!」
「そんな説明はまるきり不必要ですな」弁護士が切り口上で言った。「クイーンくんにはちゃんと――」
「わかっちゃいませんな」医師は薄笑いした、「わたしのつまらん話に熱心に耳を傾けておられるところから判断して。ソーンくん、この点についてはお互いに物分りをよくしようじゃないですか」彼はまたエラリーのほうに向き直って、ひどく愛想よくうなずいた。「さて、クイーンさん、シルヴェスターは溺れかかった人間が救命具にしがみつくようなしつこさで、新たに見つかった娘への思いにしがみついたんですな。これは秘密でも何でもありゃしませんが、兄は偏執狂でもうろくしていて、自分の身内の者たちを疑ってたんです――考えてもごらんなさい! ――自分の財産をかすめとる悪だくみをしていると疑ってたんですよ」
「とんでもない邪推ってわけですな、もちろん」
「そう、まさにそのとおり! それで、シルヴェスターはわたしを前においてソーンくんにこう言ったんです、自分の財産はとうの昔に正貨にかえ、その金貨は隣のあの家のどこかに隠してあって、その隠し場所については、自分の唯一の相続人たるべき娘、アリス以外には誰にも明かさない、とね。おわかりかな?」
「なるほど」とエラリーは相槌を打った。
「不幸にして、アリスが到着する前に死んでしまった。ソーンくんがわたしたちについて恐しい想像をするのは無理もないんじゃないですかな、クイーンさん?」
「どうも突拍子もない話なんだ」ソーンが顔を赤らめながら、吐き捨てるように言った。「むろん、依頼人のためを思えば、わたしとしてはどこかに大金が転がっているあの建物を無防備のままほったらかしておくわけにはいかなくて――」
「むろん、そうでしょう」医師は相槌を打った。
「ぼくの良心の声を差しはさませてもらえれば」エラリーがつぶやいた、「こりゃ大山鳴動してネズミ一匹ってとこじゃないですか? 金貨の所持はこの国では明らかな法律違反ですよ、数年前からですが。たとえ見つけたところで、政府に没収されるのがおちじゃないのかな?」
「複雑な法律問題があるんだよ、クイーン」ソーンが言った、「しかし金貨が見つからないことには、問題にも何もなり得ない。したがって、わたしの努力は――」
「大した努力だ」ライナッハ医師はにやりとした。「ご存じかな、クイーンさん、あなたの友人はドアに錠をおろし、かんぬきを差し、古い短剣を握りしめて眠ったんですよ――海軍にいたシルヴェスターの祖父の形見で、あの男が大事にしていた品ですがね。何とも愉快じゃありませんか」
「わたしはそうは思わない」ソーンがそっけなく言った。「あんたがあくまで茶化してばかりいるなら――」
「それにしても――あんたのつまらん疑惑の件に立ちもどるにしてだね、ソーンくん――あんたは事実を分析してみたのかい? 誰を疑っているんだね、え、あんた? やつがれめにござりまするかな? 請け合ってもいいが、このわたしは精神的には禁欲主義者で――」
「ひどく太った禁欲主義者もいたもんだ!」ソーンがぴしゃりときめつけた。
「――だからして、あの金は、それ自体、わたしにとっては何の意味もない」医師は動じる気配もなく先をつづけた。「種違いの姉のサラですかね? 幻覚の世界に住んでいるもうろくした廃人だし、シルヴェスターと同様大変な高齢者で――なにしろ、あの二人は双子ですからな――もう先はあまり長いことない。となると残るは、わが尊敬すべき妻ミリーと、むっつり屋のわれらが若き友ニックということになる。ミリーを疑うなんて馬鹿げてる。あれはもう二十年も、よかれ悪しかれ、自分のもくろみなんて持ったことがない。じゃニックか? うん、身内の者ではないな――そこに何か思い当ることがあるといえばあるかもしれん。あんたがくさいとにらんでるのはニックなのかね、ソーンくん?」ライナッハ医師はくすくす笑った。
キースが立ち上がって、太っちょの医師の温和な、ぬめぬめした丸い顔をにらみつけた。すっかり酔いがまわっているようだった。「この豚野郎め」とだみ声で言った。
ライナッハ医師はなおも笑みを浮かべてはいたが、その豚のような小さな目は油断を見せなかった。「まあ、まあ、ニック」となだめるようにガラガラ声で言った。
すべては一瞬の間の出来事だった。キースはよろよろと前に進みでて、重いカットグラスのブランデーの|飾り瓶《デカンター》をひっつかむや、医師の脳天めがけて振りおろした。ソーンは大声で叫んで、本能的に一歩前へ踏み出した。が、ひょっとすると力の出し惜しみをしていたかもしれない。医師は太い蛇のように頭をぐいと後ろにそらせて、襲撃をかわした。勢いあまってキースの体は完全に一回転し、その手から瓶がすべり落ちて暖炉の中に飛びこみ、粉みじんに砕けた。破片は暖炉一面に飛び散り、外に突き出た炉床にまで散らばった。瓶に少しばかり残っていたブランデーがしゅっと音を立てて火に降り注ぎ、青い炎をあげて燃えた。
「あの飾り瓶はかれこれ百五十年も前のものだったんだぞ!」と医師が腹立たしげに言った。
キースは一同に広い背中を向けて、じっと立ちつくしていた。肩が波打っているのが見えた。
エラリーは何とも変な気がして、ため息をもらした。室内は夢の中でのようにかすかな光がゆらめき、目の前の出来事がすべて、舞台の上の芝居の一場面のようにわざとらしく思えた。かれらは芝居をしているのだろうか? この一幕はあらかじめ綿密に計画されていたのだろうか? だが、もしそうだとすると、なんのためだろう? かれらは喧嘩をするふりをして、いったいどんな目的が遂げられると考えたのだろう? 結果は、美しい古い飾り瓶が理不尽に壊されただけのことだ。それではまるで意味をなさない。
「さてと」エラリーはやっとの思いで立ち上がりながら、言った、「悪魔が煙突から降りてこないうちに、ぼくは床に入らせてもらうとしますかな。まったく変わった夜を過ごさせてもらって感謝しますよ、みなさん。きみもくるかい、ソーン?」
エラリーはおぼつかない足どりで階段を昇っていき、これまた彼に劣らず疲れ切った様子の弁護士がそのあとにつづいた。二人は寒々とした廊下で一言もかわさずに別れ、それぞれの寝室に向かってよろよろ歩いていった。階下は重苦しく静まりかえっていた。
ベッドの足もとの横木にズボンを投げかけたとたん、ようやくエラリーは、数時間前ソーンがあとでこっちへ来て、この奇妙至極な一件について一部始終を説明すると言ったのを、おぼろげに思い出した。やっとのことで部屋着をひっかけ、スリッパをつっかけた足を引きずって廊下づたいにソーンの部屋まで行った。だが、弁護士はもうベッドに入って、高いびきをかいていた。
エラリーは重い足どりで自分の部屋に引き返し、着替えをすませた。明朝は二日酔いになりそうだとわかった。彼はきわめつきの下戸だった。頭の中がぐるぐる回り、毛布の間にもぐりこむと、たちまちいびきをかかんばかりの勢いで眠りに落ちた。
寝返りばかりしている鬱陶しい眠りのあと、何かがおかしいという不安な思いにかられてエラリーは目をさました。しばらくは、頭痛と舌のけばだったような感じしか意識にのぼらなかった。自分がどこにいるのか、思い出せなかった。やがて、色あせた壁紙や、すり切れた青い絨毯にまだらにさしこんでいる青白い日の光や、昨夜ベッドの横木に投げ出したままのズボンなどを見てとると、記憶がもどってきた。寒さに身震いしながら、寝る前にはずし忘れた腕時計を見た。七時五分前だった。寝室の凍るような冷気の中で、枕から頭をもたげた。鼻が半ば凍えていた。だが、これといって何もおかしなところは見つからなかった。太陽は彼の目に弱々しくとも華やかに見えた。部屋の中は静かで、寝る時に見たままのたたずまいだった。ドアはしまっていた。エラリーはもう一度毛布にもぐりこんだ。
その時、人の声が聞こえた。ソーンの声だった。ほとんど泣き声に近い、かぼそくかすかな叫びをあげているソーンの声で、どこか家の外から聞こえてくるのだった。
エラリーはベッドから出て、裸足のまま一飛びで窓辺に行った。だが、家のそちら側には枯れた木立がすぐそばまで迫っていて、ソーンの姿は見えなかった。そこでエラリーは大急ぎで取って返し、靴をつっかけ、パジャマの上に部屋着をひっかけると、ベッドの足もとに駆け寄ってズボンの尻のポケットから拳銃をつかみだし、それを手にして廊下に飛び出し、階段に向かった。
「何ごとです?」と誰かが苦情がましく言い、振り向いたエラリーは、隣室からライナッハ医師の大きな頭がぬうっと突き出ているのを見た。「わかりません。ソーンが叫ぶのが聞こえたんです」と言って、エラリーはどかどかと階段を駆け降り、玄関のドアをさっとあけた。
エラリーはぽかんと口をあけて戸口に棒立ちになった。
ちゃんと身なりをととのえたソーンが、エラリーと斜めに向き合って、家の前方十ヤードほどのところに立ち、エラリーの視野には入らない何かを見つめていた。そのやせこけた顔には、エラリーがかつて人間の顔に見たこともないような深刻この上ない表情が浮かんでいた。ソーンのかたわらには、身仕度が中途半端なままのニコラス・キースがしゃがみこんでいた。青年は愚かしくあんぐり口をあけ、目はぎらぎら光る大きな二個の円盤と化していた。
ライナッハ医師が荒々しくエラリーを押しのけて、どなった。「何ごとだ? どうしたというんだ?」医師は厚地のスリッパに足を包み、寝巻の上にアライグマの毛皮のコートを羽織っているため、格別でっぷりとした熊のように見えた。
ソーンの喉仏が神経質にひくついた。地面も木々も、あたり一面、妙に現実離れした感じの雪におおわれていた。空気はふんわりと落ちてくる暖かい羊毛のような雪片をたっぷりと含みこんでいた。深い吹きだまりが丸く盛り上がり、木々の幹を締めつけていた。
「動いちゃいかん」エラリーとライナッハが身動きをしたとたん、ソーンがかすれた声で叫んだ。「頼むから、動かないでくれ。そのままじっとしてるんだ」エラリーは拳銃をしっかりと握りなおし、何が何でも医師のかたわらを通り抜けようとした。だが、それは石の壁を動かそうとするようなものだった。ソーンは背景の雪景色よりもさらに青白い顔で、後ろに二本の深い溝をつくりながら、雪の中をよろよろと玄関のほうへもどってきた。「わたしを見てくれ」と叫んだ。「|わたしをよく見てくれ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。まともらしく見えるかね? わたしは気が違ったんじゃないのか?」
「しっかりするんだ、ソーン」エラリーが鋭く言った。「どうしたというんだ? べつに変わったことも見当らないが」
「ニック!」ライナッハ医師がどなった。「おまえも頭がおかしくなったのか?」
青年は日焼けした顔を急に両手でおおった。やがて手をおろすと、また眺めやった。
彼は押し殺したような声で言った。「たぶん、みんなそうさ。こんなことって――自分で見てみるといい」
そこでライナッハが身動きし、エラリーはしゃにむに脇をすりぬけて、激しく身震いしているソーンのかたわらの柔らかい雪に足を踏み入れた。ライナッハ医師がよろけながらついてきた。二人は何一つ見落すまいと目をしかめ、瞳をこらしながら、雪を踏み分けてキースのほうへ向かった。
瞳をこらすまでもなかった。見てとるべきものは、見る目をもった者には一目瞭然だった。エラリーは見たとたん、頭皮がむずむずするのを感じた。それと同時に、これは必然的なものだ、前日の気違いじみた出来事のクライマックスとしてはこれしかあり得ないと、自分がはっきり確信しているのに気づいた。世界が逆さまにひっくりかえってしまったのだ。もう何一つ理にかなった、まっとうな意味は持たなくなったのだ。
ライナッハ医師は一度あえぐような声をもらした。それから大きな梟《ふくろう》のように目をぱちくりさせて立っていた。『白い家』の二階の窓ががたんと鳴った。誰も見上げようとはしなかった。それは化粧着をまとったアリス・メイヒューで、私道に面した側にある自分の寝室の窓から外をじっと見つめていた。一声叫ぶと、それきり、これまた黙りこんでしまった。
そこには、一同が出てきたばかりの家、ライナッハ医師が『白い家』と名づけた家があり、玄関のドアが風のせいか静かに開き、二階の横手の窓のところにはアリス・メイヒューがいた。堅固で、ゆるぎなく、石と木と漆喰とガラスでできた建物であり、年ふりて古色をおびていた。家たるべき一切のものが備わっていた。そこまでは現実であり、しっかりつかまえることもできた。
だが、その向う、私道とガレージの向う、『黒い家』のあった場所、エラリーがつい昨日の午後足を踏み入れた家、汚物と悪臭の家、一様な石の壁、木の化粧仕上げ、ガラス窓、煙突、樋嘴《ひはし》、玄関のポーチを持った家、黒ずんだ外観の家、南北戦争の頃に建てられた古いヴィクトリア朝風の家、シルヴェスター・メイヒューがそこで死に、ソーンが短剣を持って一週間たてこもった家、かれら全員が目に見、手に触れ、匂いをかいだその家がたっていた場所……そこに、|そこに何もたっていないのだ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。
壁もなければ煙突も屋根もない。残骸も瓦礫もない。家も何もないのだ。あるのはただ、なだらかにふんわりと雪におおわれた空き地ばかりだった。
家が一夜のうちに消えてしまったのだ。
第二章
「おまけに」エラリー・クイーン氏はぼんやり考えた、「アリスという名の登場人物までいる」
彼はもう一度見た。目をこすらなかった唯一つの理由は、滑稽な感じになりそうだったからだ。それに、視覚も、他のすべての感覚もかつてないほど鋭敏になっていた。
エラリーは雪の中に突っ立ったまま、建って七十五年もたった三階建ての石造りの家が昨夜までたっていた空地をただひたすら眺めていた。
「まあ、なくなっているわ」アリスが二階の窓から弱々しい声で言った。「あれが……あそこに……ないわ」
「じゃ、わたしは気が違ったわけじゃないんだな」ソーンがよろめきながら近づいてきた。エラリーは老人の足がとぼとぼと雪を踏みわけ、後ろに長い跡を残すのを見守った。してみると、人間の体重はまだこの世界で意味をもっているわけだ、いや、それだけではなくエラリー自身の影があった。したがって、形ある物体はまだ影を落とすのだ。馬鹿げた話だが、その発見はある種のかすかな安心感をもたらした。
「消えてなくなった!」ソーンがしわがれ声で言った。
「どうもそうらしい」エラリーは自分の声がかすれ、ゆっくりと出てくるのに気づいた。言葉がくるくる渦を巻いて空中に漂い出て、そのまま無と化すのをじっと見守った。「どうもそうらしいね、ソーン」エラリーはそれしか言うべき言葉を思いつかなかった。
ライナッハ医師は太い首を曲げ、七面鳥のように垂れさがったほほを震わせた。「信じられん。信じられん!」
「信じられないことだ」ソーンがささやくように言った。
「非科学的だ。あり得ない。わたしは分別ある人間だ。正気の人間だ。頭ははっきりしている。こんなことが――くそ、こんなことが起こるわけはない!」
「麒麟《きりん》を初めて見た人間もそう言ったんだろうな」エラリーがため息まじりに言った。「それでもなお……麒麟は事実いたのだ」
ソーンは途方にくれて、うろうろと円を描いて歩きまわった。アリスは魔法で石と化したように、二階の窓からじっと見入っていた。そしてキースは悪態をつき、盲人のように両手を前にのばして、見えない家をめがけて雪に埋まった道を駆け出しかけた。
「待った」エラリーが声をかけた。「そこを動くんじゃない」
大男はしかめ面をして立ち止まった。「どうしろというんだ?」
エラリーは拳銃をポケットにすべりこませ、雪を蹴散らして、道に立っている青年のそばまで行くと立ち止まった。「ぼくにもはっきりとはわからないんだが、何かおかしい。我々か、世界か、どちらかが調子が狂っているんだ。これは我々の知っているようなのとは違う世界だ。ほとんど……異次元の出来事といっていい。太陽系が宇宙の本来の場所から四次元の未知の深淵にずり落ちて、転落し、すっかり狂ってしまったとしたらどうだろう? どうやらぼくはわけのわからんことをしゃべっているようだ」
「自分でわかってりゃ世話はない」キースがどなった。「このおれはこんな馬鹿げたことにおたおたさせられたりするもんか。ゆうべはたしかにあの地所に頑丈な家があったんだ、それがもうないと思いこませようたってそうはいかない。たとえ自分の目にだってごまかされやしないぞ。おれたちは――おれたちは催眠術をかけられているんだ! あそこにいる河馬おやじならそれくらいやりかねない――あいつは何だってやりかねないんだ。催眠術さ、あんたがおれたちに催眠術をかけたんだな、ライナッハ!」
医師は、「何だって?」とくぐもり声でつぶやき、依然として空き地をにらみつけていた。
エラリーはため息をつき、雪の中にがっくり膝をついた。そして冷えきった手で白く柔らかなしとねをかきのけにかかった。地面があらわになると、湿った砂利とタイヤの跡が見えた。
「これはたしかに私道だよな?」エラリーは目を上げもせずに問いただした。
「私道か」キースがつっけんどんに言った、「さもなきゃ地獄への道さ。あんたもおれたちと同じくらい混乱してるね。まさしくそいつは私道だよ! あのガレージが見えないのかい? そいつが私道であってなぜいけないんだ?」
「さあね」エラリーは眉をしかめて立ち上がった。「ぼくにはさっぱりわからん。もう一度初めから勉強し直さないことには。たぶん――引力の問題だろう。こうなると、いつなんどき、みんな空に飛び立つかわからないな」
ソーンがうめいた。「なんたることだ」
「はっきり言えるのは、ゆうべ何かきわめて異常なことが起こったということだけだ」
「いいかい」キースがどなった、「こりゃ目の錯覚なんだ!」
「何か異常なことか」医師が身じろぎした。「うん、たしかにそうだ。いや、とてもそれじゃ言い足りない! 家が一軒消えたんだ。何か異常なことだなんて」そう言って、むせぶような陰気な調子でくすくす笑い出した。
「ああ、そりゃ」エラリーが苛立たしげに言った。「そうですとも。そうですとも、ドクター。それは事実《ヽヽ》ですよ。ところで、キース、きみはそんな集団催眠なんて馬鹿げたことを本気で信じちゃいまい。家は消えてなくなったんだ、間違いなく……。ぼくが頭を悩ましているのは、家がなくなったという事実じゃない。その作用、手段《ヽヽ》だ。そいつがどうも――その――」エラリーは首をひねった。「ぼくはこれまで信じたことがないんだ……くそ、こんなことがあるなんて!」
ライナッハ医師は広い肩をぐっとそらして、雪におおわれた空き地を充血した目でにらみつけた。「こりゃトリックだ」医師はわめいた。「くだらんトリックさ、そうにきまっている。あの家は我々の鼻先にちゃんとあるんだ。それを――それを――この|わたし《ヽヽヽ》はだまされやしないぞ!」
エラリーは医師を見やった。「ひょっとしたら、キースくんがポケットにしまいこんでるんじゃないですか?」
素足にハイヒールをはき、寝巻の上に毛織のコートをひっかけたアリスが、髪をなびかせ、カタカタと足音高く玄関先に出てきた。その背後に小柄なライナッハ夫人がそっと歩み寄った。二人とも目つきがただごとでなかった。
「御婦人方に話しかけて」エラリーがソーンにささやいた。「何でもいい。とにかく気をまぎらわしておくことだ。せめて正気のふりだけでもしていないと、ぼくらはみんな頭がいかれてしまうぞ。キースくん、ほうきを貸してくれたまえ」
エラリーはひどく用心深く、見えない家のへりをよけて、決して空き地から目を離さずに、足を引きずって私道を歩いていった。医師はためらっていたが、やがてエラリーの足跡をたどってのっしのっしと歩いていった。ソーンはよろめきつつ玄関のほうに引き返し、キースは大股に立ち去って、『白い家』の裏手に消えた。
もう日は出ていなかった。ほのかな、不気味な光が寒々とした雲をすかしてもれていた。雪は静かに降りしきっていた。
二人の姿は一枚の白紙の上の小さな、心もとないしみのようだった。
エラリーはガレージの折戸を引きあけて、のぞきこんだ。生《き》のガソリンとゴムの無害なにおいが鼻をついた。ソーンの車が、昨日の午後エラリーが見たとおりに、クローム・メッキの輝く黒い巨体を横たえていた。その隣に、一同の到着後キースがしまったらしく、ライナッハ医師が町から客人たちを乗せてきたおんぼろのビュイックがあった。二台とも一点の湿りもおびていなかった。
エラリーは戸をしめて、私道に引き返した。二人が今しがた雪の上にしるしたばかりの鎖状につながった足跡は別として、私道は真っ白な処女雪におおわれていた。
「ほら、ご注文のほうきだよ」と若い大男が言った。「何をする気なんだい――魔女みたいにこいつに乗っかるのかい?」
「口をつつしめ、ニック」ライナッハ医師がどなりつけた。
エラリーは笑った。「ほっときなさい、ドクター。彼の腹立ちまぎれの正気は伝染しますからね。二人ともいっしょにおいでなさい。今日は最後の審判の日かもしれないが、形だけでも何かしていたほうがいいでしょう」
「ほうきをどうしようというんです?」
「この雪が偶然か、それとも計画の一部か、そいつを決めるのはむずかしい」エラリーがつぶやいた。「今日はどんなことだって真実かもしれないんだ、文字通り、どんなことでも」
「くだらん」医師が鼻を鳴らして言った。「|たわごと《アブラカダブラ》だ。オム・マニ・パドメ・ハム〔チベット語の経文で『蓮華の中に宝がある』との意味らしいが、ここでは、アブラカダブラ同様、『わけのわからないたわごと』として使っているようだ〕。どうして人間が計画的に雪を降らしたりできますか。あんたの言っとることはちんぷんかんぷんのたわごとだ」
「ぼくは人間の計画とは言ってやしませんよ、ドクター」
「くだらん、じつにくだらん!」
「余計な口出しはなさらないほうがいい。あなたは暗闇でひどくおびえて無理に口笛を吹いている子供とおんなじです――大きな図体をしてるくせにね、ドクター」
エラリーはほうきをしっかり握り、足を踏みしめて私道を横切っていった。白一色の四角い空き地に踏みこもうとした時、自分の足がしりごみするのを感じた。筋肉がこわばり、まるでまだそこにありながら、なぜか触れることのできない大きながっしりとした家屋に出くわすことを、実は予期しているかのようだった。冷たい空気のほかに何の手応えもないとわかると、エラリーはちょっと照れくさそうに笑って、ほうきを妙な具合に雪の上で振り回した。掃除の動作としては細心この上ない手つきで、表面の雪の結晶をごくわずかずつ払いのけた。膜をはぐようにじわじわと雪の深さは減じていった。一はらいごとに、新しく露出した雪の層をエラリーは心配そうにしげしげと調べた。この作業を、地面が顔を出すまでつづけた。ついに最後まで人間の痕跡のかけらにも出合わなかった。
「妖精のいたずらだ」エラリーは愚痴っぽく言った。「そうとしか言いようがない。正直言って、ぼくの手には負えない」
「土台まで――」ライナッハ医師が重々しく言いかけた。
エラリーはほうきの柄の先で地面を突ついてみた。鋼玉のように硬かった。
ソーンと女性二人がいつの間にか『白い家』の中に引っこんで、玄関のドアがばたんと鳴った。外にいる三人の男たちは何もせずに、ただじっと立ちつくしていた。
「どうも」やがてエラリーが言った、「こいつは悪夢か、さもなきゃこの世の終りですな」疲れた掃除婦のようにほうきを後ろに引きずって、エラリーは地所を斜めに横切り、雪に埋まった私道に出ると、見えない街道に向かってとぼとぼ歩いていき、白い雪のしずくをたらしている葉のない木立の下の角を曲がって姿を消した。
街道まではわずかな距離だった。エラリーははっきりおぼえていた。それは幹線道路をそれてからずっと一貫して長い弧を描きながらカーブしていたのだ。あのがたがたに揺られっぱなしの悪路の途中には、一本の交差路もなかったはずだ。
エラリーは街道の真ん中に出た。街道は今は雪をかぶっていたが、雪化粧をしてからみ合っている木立の間に横たわっているきらきら光る何もない帯として見分けがついた。エラリーの記憶していたとおり、ゆるやかな曲線を描いていた。彼は無意識にまたほうきを使って、わずかな範囲を掃ききよめた。すると、あの古びたビュイックで通り過ぎた穴や轍《わだち》が現われた。
「何をさがしているんだい?」とニック・キースの穏やかな声がした。「金貨かい?」
エラリーは徐々に腰をのばし、ゆっくりと振り向いて大男と向かい合った。「それで、きみはぼくのあとをつける必要があると思ったわけか? それとも――いや、失敬。きっとこれはライナッハ医師の差し金だな」
相手の日焼けした顔は表情を変えなかった。
「あんたはまったくどうかしてるよ。あとをつけたって? おれが自分の思いどおりに何をやろうと勝手さ」
「そりゃそうだ」エラリーは言った。「しかし、きみはぼくが金貨をさがしているんじゃないかときいたんじゃなかったかな、我らが若きプロメテウスくんよ?」
「あんたは妙な人だな」二人で家のほうに引き返す道すがら、キースが言った。
「金貨か」エラリーがまた言った。「ふむ。あの家には金貨があったのに、今や、家が消えてなくなったというわけだ。家が鳥みたいに飛んでいってしまうものだと知った驚きで、そのちょっとしたことをすっかり忘れていたよ。ありがとう、キースくん」エラリーはしかつめらしく言った。「思い出させてくれて」
「クイーンさん」アリスが言った。彼女は唇まで青ざめて、暖炉のそばの椅子にうずくまっていた。「どうなっちゃったんでしょう? あたくしたち、どうすればいいんですの? もしかして……昨日のことは夢だったんでしょうか? あの家に入って、中を見てまわり、いろんなものに手を触れたんじゃなかったでしょうか?……あたくし、こわい」
「昨日がもし夢だとしたら」エラリーは笑みを浮かべた、「明日は幻になると思っていい。梵語の聖典にそう書いてありますからね、奇跡を信じるなら寓話を信じてもいいでしょう」そう言って腰をおろし、勢いよく両手をこすり合わせた。「火をたいたらどう、キースくん? ここはまるで北極だよ」
「すみません」とびっくりするほど愛想よく言って、キースは出ていった。
「幻ならいいんだが」ソーンが身震いした。「わたしは頭が――変になった。あんなことがあってたまるか。恐しいことだ」彼の手が自分の脇腹を叩き、ポケットの中で何かがじゃらじゃら音を立てた。
「鍵だな」エラリーが言った、「ところが家がない。たまげた話さ」
キースが薪を山ほどかついでもどってきた。暖炉の中の散らかりようを見て顔をしかめ、薪をおろすと、ガラスの破片を掃き集めにかかった。昨夜、自分が煉瓦の壁にぶつけて壊したブランデーの瓶の残骸だった。アリスはキースの幅の広い肩から炉棚の上の母の肖像へと視線を走らせた。ライナッハ夫人はといえば、おびえた小鳥同然に鳴りをひそめていた。化粧着をぴったりとかき寄せ、雀色の剛《こわ》い髪を背中に垂らして、しなびた小人のように片隅にたたずみ、どんよりと生気のない目で夫の顔を見すえていた。
「ミリー」と医師が声をかけた。
「ええ、ハーバート、あたし、行きますわ」とライナッハ夫人は即座に言って、のろのろと階段をのぼり、姿を消した。
「さて、クイーンさん、解答は? それともこの謎は神秘的すぎて、あなたの趣味に合わんですかな?」
「神秘的な謎なんてものはありゃしませんよ」エラリーはつぶやいた、「神の謎でないかぎりね。それにこれは謎というようなもんじゃない――巨大な暗黒です。ドクター、応援を求める手だてはありますか?」
「空を飛べでもしないかぎり、ありませんな」
「電話はないし」キースが背を向けたまま言った、「道路の状態は見てのとおりでね。あの吹きだまりじゃ車は通れっこない」
「たとえ車があったにしてもな」ライナッハ医師がくすくす笑った。そこで消えた家のことを思い出したと見えて、笑いは消えた。
「どういう意味です?」エラリーが問いただした。「ガレージには――」
「機械時代の無用の長物が二台あるにはありますがね。いずれも燃料切れだ」
「それにわたしのは」ソーンが深刻な個人的関心をとりもどして、唐突に言った、「わたしのはおまけにどこか故障しているようなんだ。それがね、クイーン、この前こっちへくる時、運転手は町に残してきちまったんだ。こうなっては、タンクに少しばかり残ったガソリンでエンジンをかけようにも、わたしの手には負えないんだ」
エラリーの指先が椅子のひじかけをとんとん叩いた。「やれやれ! それじゃ、我々が魔法にかかっているのかどうか、第三者の目でためしてもらうこともできないわけだ。ところで、ドクター、一番近くの人里までどれくらいありますか? どうも、ぼくはこちらへくる途中でよく注意して見てなかったようなんで」
「道路づたいに行けば十五マイル以上ある。歩いていくつもりがあるなら、クイーンさん、御随意にどうぞ」
「吹きだまりで通れたもんじゃない」キースがつぶやくように言った。吹きだまりがよほど気がかりらしかった。
「してみると、我々は雪に閉じこめられたわけですね」とエラリーが言った、「四次元の世界のまっただ中で――いや、ひょっとすると五次元かな。えらい破目になったもんだ! ああ、キースくん、それでずっと居心地がよくなるよ」
「あなたは今日の出来事でうろたえてもおらんようですな」ライナッハ医師が不思議そうにエラリーを見ながら、言った。「白状すると、このわたしでさえショックを受けたんだが」
エラリーはしばらく黙っていたが、やがてあっさりと言った、「あたふたしても何にもならんじゃありませんか」
「わたしはどうも竜が家の上に飛んでくるんじゃないかという気がしてしょうがない」ソーンがうめくように言って、いささか気恥ずかしそうにエラリーの顔をうかがった。「クイーン……たぶん、我々は……何とかここを出るようにしたほうがいいんじゃないかな」
「キースくんの言ったことを聞いたろう、ソーン」
ソーンは唇を噛んだ。「あたくし、凍えてしまったわ」アリスが暖炉のほうへ近づきながら言った。「うまくつきましたわね、キースさん。あの――そのう――こういう火を見てると、何となく家庭ってものを思い浮かべてしまうんですの」青年は立ち上がって、くるりと振り向いた。一瞬、二人の目が合った。
「いや、なんでもない」キースがそっけなく言った。「べつになんでもないんです」
「見たところ、どうやらあなただけが――あら!」
肩に黒いショールをまとったひどく大柄な老婆が階段を降りてきた。もう何年も前に死んだかと思うほど、すっかり肌が黄ばみ、やせこけて、ミイラのようにしなびていた。そのくせ、太古からの永遠の生命とでもいったものを秘めて、おそろしく生気にあふれた印象を与えた。片足で階段をさぐり、ひからびた両の手で手すりにつかまりながら、横向きに降りてきた。一方、生きいきした目はアリスの顔をひたと見すえたままだった。その表情には奇妙な渇望の色がうかがわれ、長いこと冷めきっていた希望が理に反して、突然燃えあがった観があった。
「だ――だれなの――」アリスがひるんで体を引きながら言った。
「こわがらなくていい」ライナッハ医師がすばやく言った。「まずいことにミリーのそばから逃げ出してきたようだ……。サラ!」またたく間に彼は階段の昇り口に駆け寄って、老婆の行く手に立ちふさがった。「今時分、起きて何をしているんです? もっと自分の体を大事にしなくちゃ、サラ」
老婆は医師を無視して、かたつむりの歩みでゆるゆると階段を降りつづけ、とうとう厚皮動物然とした巨体に行き当った。「オリヴィア」生きいきと熱意をこめてくぐもり声で言った。「オリヴィアがあたしのもとにもどってきてくれた。ああ、かわいい、かわいい娘や……」
「さあさあ、サラ」医師がやさしく老婆の手をとって言った。「落ち着きなさい。これはオリヴィアじゃないんだよ、サラ。アリスだ――シルヴェスターの娘のアリス・メイヒューで、イギリスからやってきたのさ。アリスをおぼえているだろう、小さい頃のアリスをさ? オリヴィアじゃないんだよ、サラ」
「オリヴィアじゃないって?」老婆は手すり越しにじっと目を凝らし、しわだらけの口を動かした。「オリヴィアじゃないって?」
アリスは椅子から飛び上がった。「あたくし、アリスです、サラ叔母さま。アリス――」
サラ・フェルはいきなり医師の脇をさっとすり抜け、小走りに部屋を横切ってきて、アリスの手をつかみ、その顔を穴のあくほどにらみつけた。アリスのおびえきった顔をつくづくと見ているうちに、老婆は絶望の表情に変わった。「オリヴィアじゃない。オリヴィアはきれいな黒い髪で……オリヴィアの声じゃない。アリスだって? アリス?」老婆は広い骨ばった肩をがっくりと落とし、アリスがあけた椅子にくずおれて、泣き出した。半白のまばらな髪のあいだから黄ばんだ頭の地膚がすけて見えた。
ライナッハ医師がいきりたった声で、「ミリー!」とどなった。ライナッハ夫人がびっくり箱の人形のようにひょっこりと姿を現わした。「なぜサラを部屋から出したんだ?」
「だ、だって、あたし、てっきりサラは――」ライナッハ夫人がどもりながら言いかけた。
「すぐ二階へ連れていくんだ!」
「ええ、ハーバート」雀はささやくように言った。そして夫人は化粧着であたふたと階段を降りてきて、老婆の手をとると、抵抗を受けることもなく連れ去った。フェル夫人は泣きじゃくりながら、姿が見えなくなるまで、「どうしてオリヴィアは帰ってこないんだろう? なぜ母親のもとから連れていかれてしまったんだろう?」と繰り返しつづけた。
「気の毒したな」医師は汗をぬぐいながら、息をはずませて言った。「いつもの発作なんだ。おまえがくると聞いたとたんに好奇心を示しはじめたことからして、こうなることはわかっていたんだよ、アリス。たしかによく似ているからな。あの人を責めるわけにはいかんだろうよ」
「あの方――こわいわ」アリスが弱々しく言った。「クイーンさん――ソーンさん、あたくしたち、ここにいなくちゃいけませんの? 町にいるほうがずっと気が楽になると思うんですけど。それに、あたくし、風邪をひいてしまって、こういう冷えびえした部屋だと――」
「いやまったく」ソーンがいきなり大声で言った。「わたしも一か八か歩いて退散したくなったよ!」
「シルヴェスターの金貨を我々のなすがままにまかせてかね?」とライナッハ医師は薄笑いを浮かべていい、それからすぐしかめ面になった。
「父の遺産など欲しくはありませんわ」アリスが必死になって言った。「今は、ここから出ていくことだけが望みです。あたくし――あたくし、自分で何とかやっていけますもの。仕事の口を見つけます――こう見えても、ずいぶんいろんなことができますのよ。出ていきたいんです。キースさん、ひょっとしてあなたなら――」
「|おれは《ヽヽヽ》魔法使いじゃないんでね」キースがぶっきらぼうに答えた。格子縞の毛織の半コートのボタンをかけると、大股に外へ出ていった。その長躯が舞い降りる雪のとばりの向こうにのっそりと歩み去っていくのが見えた。
アリスは顔を赤らめて、暖炉のほうに向き直った。
「魔法使いじゃないのは我々も御同様でね」エラリーが言った。「お嬢さん、何とか勇気を出して、ここから出ていく方法が見つかるまでは、頑張ってもらうしかありませんね」
「ええ」アリスはぶるっと身震いして、小さな声で答え、炎に見入った。
「それはそうとソーン、この件について知ってることを洗いざらい話してもらいたい、とりわけシルヴェスター・メイヒューの家に関して。お嬢さん、あなたのお父さんの過去に手がかりがあるのかもしれませんよ。あの家が消えてなくなったとすると、家の|中に《ヽヽ》あった金貨も消えたことになる。あなたが欲しかろうが欲しくなかろうが、その金貨はあなたのものです。したがって、我々としてはそれを見つける努力をしなきゃならない」
「それなら」ライナッハ医師がつぶやいた、「まず家を見つけたらどうなんですかね。家を!」最後のところは毛深い腕を振りまわして、吐き捨てるように言った。そしてサイドボードのほうへ向かった。
アリスは気乗りしなさそうにうなずいた。ソーンがぼそぼそ言った。「クイーン、そいつはきみとわたしで内々に話したほうがいいんじゃないかな」
「ゆうべ、お互いにあけっぴろげに口火を切ったんだ。同じ調子で率直に話をつづけちゃいけない理由はないと思うがね。ライナッハ医師の前で話すのを渋ることはないよ。この家《や》の御主人は明らかに有能の士だ――それもありきたりの才能じゃない」
ライナッハ医師は取り合わなかった。水飲みコップ一杯のジンをぐっと飲み干した時のその顔は、不機嫌そのものだった。
敵意のせいで金属のように硬化した空気の中で、ソーンはこわばった声音で話をし、ライナッハ医師から決して目を離さなかった。
何かおかしいというソーンの最初の疑惑はシルヴェスター・メイヒューその人によって植えつけられたのだという。
アリスから手紙を受け取ったソーンは、調査してメイヒューの居どころをつきとめた。老いた病人に、その娘が、もしまだ父親が生きているものなら、捜し出して会いたいと望んでいることを知らせた。メイヒュー老人は異様なまでに興奮して、その申し入れに同意した。娘との再会を熱望したのだ。そして老人はどうやら隣の家の親類の者たちをひどく恐れて暮らしていたようだ、とソーンが挑戦的に語った。
「恐れていたですと、ソーンくん?」医師は腰をおろし、眉をつりあげた。「いいかね、彼が恐れていたのは我々ではなく、貧乏だったんだ。あの男は守銭奴だった」
ソーンは医師の言葉を聞き流した。さて、メイヒューは、アリスに手紙を書いて、すぐアメリカにくるように言ってやってくれと、ソーンに指示したという。全財産をアリスに残すつもりで、自分が死ぬ前に譲りたいと考えたのだ。金貨のありかについては、巧みに言を左右にしつつ、ソーンにさえ打ち明けることを拒んだ。「家の中」にあるとは言ったが、アリス本人以外の者にはその隠し場所をもらそうとしなかった。「ほかのやつら」はここに「乗りこんで」きて以来、ずっとそれを捜しつづけているのだ、と老人はとげとげしく言ったという。
「ところで」エラリーがゆったりした口調で言った。「ドクター、あなた方、善良なる方々はこの家に住んでどれくらいになりますか?」
「一年かそこらですな。まさか、死にかけた人間の偏執狂じみたうわごとを信じるんじゃないでしょうな? 我々がここに住んでるのに何の不思議もあるもんですか。一年ばかり前、わたしは久方ぶりにシルヴェスターを訪ねて、彼がまだ生家のほうに住んでいて、この家はしめきったまま空き家になっているのを知った次第でね。ついでながら、『白い家』、つまりこの家だが、これはわたしの義父が――シルヴェスターの父親が――シルヴェスターとアリスの母親が結婚した時に、建てたものだ。シルヴェスターは父親が死ぬまでここに住んでいて、その死後、『黒い家』に移ったわけでね。わたしが来てみると、シルヴェスターは見る影もなく老いさらばえ、ろくにものも食べず、まったくの独り暮しでぜひとも医者の手当を受ける必要があったんですよ」
「独りって――ここに、この荒れ野の中にですか?」
「さよう。実のところ、彼のものであるこの家にわたしが引っ越してくる許しを得るには、ただで治療してやるという餌を目の前にぶらさげるしかなかったくらいでね。ごめんよ、アリス。彼はすっかり錯乱していたんだよ。……そんなわけでミリーとサラとわたしは――サラはオリヴィアの死後、ずっとわたしらといっしょに暮らしていたんだが――ここへ移ってきたという次第ですよ」
「ご親切なことですね」エラリーが言った。「そうするためには開業医としての仕事を放擲《ほうてき》しなけりゃならなかったんじゃないですか、ドクター?」
ライナッハ医師は渋い顔をした。「放擲するというほど大して仕事はありませんでしたよ、クイーンさん」
「しかし、ほとんど純粋そのものの兄弟愛からそうなさったわけでしょうな?」
「そりゃ、シルヴェスターの財産の何がしかを相続できるかもしれないと考えたことは否定しませんよ。アリスのことは何も知らなかったんで、我々としては遺産は当然自分たちのものだと思ってましたからな。たまたま――」医師は太った肩をそびやかした。「わたしは諦めのいい人間でね」
「これも否定しなさんなよ」ソーンががなり立てた、「メイヒューが最後の昏睡状態に陥った際、わたしがまたここへやってくると、あんた方はわたしを監視しましたな、まるで――まるでスパイ団みたいに! わたしが邪魔だったんだ!」
「ソーンさん」アリスが顔面蒼白になって、ささやいた。
「失礼、お嬢さん、しかし、あなたも真実を知られたほうがいい。いいか、わたしはごまかされやしなかったぞ、ライナッハ! あんたはあの金貨が欲しかったんだ、アリスさんがいようがいまいが。あんたにそれを手に入れさせまいと思えばこそ、わたしはあの家に閉じこもったんだ!」
ライナッハ医師はまた肩をそびやかした。ゴムのような唇が引き締まった。
「きみは率直がお望みだ。さあ、このとおりさ!」ソーンがきいきい声で言った。「クイーン、わたしはメイヒューの葬儀がすんでからアリスさんが到着するまで六日間、あの家にいたんだ、|金貨を捜して《ヽヽヽヽヽヽ》。あの家はすみからすみまで調べつくした。それでも金貨の影も形も見つからなかったよ。あそこにないことは請け合ってもいい」ソーンは医師をにらみつけた。「メイヒューが死ぬ前に盗まれたにちがいないんだ!」
「おい、おい」エラリーがため息をついた。「それじゃやはりあまり意味をなさんよ。そうだとしたら、何者かがあの家に呪文をかけて消してしまったのはどういうわけだい?」
「知るもんかね」老弁護士は荒々しく言った。「わたしが知っているのはただ、ここで卑劣きわまることが行われたこと、何もかも不自然で、あの――あのイカサマ師の薄笑いでごまかしているということだけだ! お嬢さん、あなたの身内の人たちについてこんなふうな言い方をしなきゃならんのは残念です。しかし、あなたは人間の皮をかぶった狼どもの群れの中に投げこまれたのだということを警告するのが、わたしの義務だと思いましてね。まさに狼ですぞ!」
「どうやら」ライナッハが苦り切って言った、「わたしは推薦状をもらう場合、あんたにだけは頼むべきじゃなさそうだな、ソーンくん」
「あたくし」アリスが消え入りそうな声で言った、「ほんとにもう死んでしまいたい」
だが、弁護士は自制心を失っていた。「あのキースという男」ソーンは叫んだ。「あれは何者なんだ? ここで何をしているんだね? 見るからにギャングのようだ。わたしはあの男をくさいとにらんでるんだ、クイーン」
「どうやら」エラリーは微笑した、「きみはみんなを片っぱしから疑っているようだね」
「キースさんが?」アリスがつぶやいた。「まあ、そんなはずありませんわ。あたくし――あたくし、あの方は決してそんな人じゃないと思います、ソーンさん。苦労なさった方のように見受けられますわ。何かでひどく苦しんだことがあるような」
ソーンは両手を振り上げて、暖炉のほうに向き直った。
「こうしましょう」エラリーが愛想よく言った。「話を当面の問題に限るんです。我々は、たしか、消えた家のことを問題にしていたんでしたね。あのいわゆる『黒い家』なるものの設計図は残っていますか?」
「とんでもない」ライナッハ医師が答えた。
「先代が亡くなられて以後、シルヴェスター・メイヒューとその奥さんのほかには誰があの家に住んでいました?」
「奥さんたち、だ」医師がまた自分のグラスになみなみとジンを注ぎながら、訂正した。「シルヴェスターは二度結婚したんですよ。おまえはそのことは知らなかったろうね、アリス」アリスは暖炉のそばで身震いした。「古い灰をひっかきまわすような真似はわたしは好かんが、今はお互いに告解室にいるみたいなもんだから……シルヴェスターはアリスの母親を虐待してね」
「あたくし――そうだろうとは思ってました」アリスがささやくように言った。
「アリスの母親は気骨のある女で、黙って言いなりになってはいなかった。しかし、ようやく離婚許可が下りて、イギリスへ帰ると、その反動がきて、その後間もなく亡くなったと聞いている。訃報はニューヨークの新聞に出ましたっけ」
「あたくしがまだ赤ん坊の時分でした」アリスがささやくように言った。
「シルヴェスターは、当時はまだ晩年ほど隠者じみてはいなかったものの、すでに心のバランスを失っていた。やがてある金持の未亡人を口説き落とし、こっちへ連れてきて住まわせた。その未亡人には連れ子が一人あって、男の子だった。その頃にはもう父は亡くなっていたので、シルヴェスターと後添いは『黒い家』に住んだ。シルヴェスターが金めあてでその未亡人と結婚したことは、間もなくはっきりした。細君を説き伏せて、それを――当時としては相当の財産だったが――自分の名義に書き換えさせてしまうと、たちまち細君をいじめにいじめ抜くようになってね。その結果、その女はある日、子供を連れて姿を消してしまった」
「どうやら」エラリーがアリスの顔を見て、言った、「その話はやめにしたほうがよさそうですね、ドクター」
「実際にはどういうことだったのか、わたしたちにはわからずじまいだった――シルヴェスターが細君を追い出したのか、それとも、残忍な仕打ちに耐えかねて、細君のほうが自分から出ていったのか。ともあれ、わたしは数年後、たまたま、死亡記事を見て、その女が貧乏のどん底で死んだことを知ったような次第でね」
アリスは嫌悪のあまり鼻のところにしわを寄せて、じっと医師を見つめていた。「父が……そんなことをしたんですの?」
「いいかげんにしたまえ」ソーンが怒気を含んで言った。「あんたのおかげで、かわいそうにお嬢さんは今にも気が変になりそうじゃないか。そんな話があの家と何の関係があるというんです?」
「クイーンさんがおききになったんでね」医師は穏やかに言った。エラリーは魅せられたように炎にじっと見入っていた。
「ほんとに肝腎なのは」弁護士がぴしゃりと言った、「わたしがここに足を踏み入れた瞬間から、あんた方がわたしを監視していたってことですぞ、ドクター。わたしを一瞬たりとも独りにしておくことを恐れて。なんと、あんたはわたしがここを訪ねた際、二度ともキースにあんたの車で迎えによこしさえした――ここまでわたしを『護送』するためにだ! そして、わたしは五分と、あの老人と二人きりにはなれなかった――あんたがそうとりはからったんだ。そのうち老人は昏睡状態に陥り、生きているうちにもう二度と口をきくことができなかった。なぜです? なぜあんなに監視したんです? わたしが寛容な人間であることは、神もご存じだ。しかし、あんたはわたしに真意を疑われても仕方のないようなことをさんざんやってのけた」
「どうやら」ライナッハ医師が含み笑いをしながら言った、「あんたはシーザーとは意見が違うようですな」
「何ですと?」
「『あの男が』」と太った男は引用してみせた、「『もっと太っていたらなあ〔シェイクスピア作『ジュリアス・シーザー』第一幕第二場、カシウスのようにやせた男は危険人物だとして、シーザーが言うせりふ〕』さて、みなさん、たとえこの世の終りがくるにしても、朝食を食べていかんというわけもありますまい。ミリー!」医師はがなりたてた。
ソーンは、うつらうつらしながらおぼろげに危険を嗅ぎつけた老いた猟犬のように、のろのろと目をさました。寝室は寒かった。青白い朝の光がようやく窓から射しこもうとしていた。ソーンは枕の下をさぐった。
「そこを動くな!」と厳しい口調で言った。
「そうか、きみも拳銃を持っているのか?」と低い声で言ったのはエラリーだった。もう着替えていて、ろくに眠れなかったような様子をしていた。「ぼくだよ、ソーン、相談があって忍びこんだまでさ。それにしても、ここへ忍びこむのはそう難しくないな」
「どういうことだ?」ソーンはぶつぶつ言いながら起き上がって、旧式の拳銃をしまった。
「この部屋の錠前は消えてなくなっているよ、ぼくやアリスの部屋のもそうだがね、『黒い家』とシルヴェスター・メイヒューのつかまえどころのない金貨とご同様にね」
ソーンはつぎはぎ細工の羽根ぶとんを体のまわりに引き寄せた。老いた唇が血の気を失っていた。「で、何だね、クイーン?」
エラリーはタバコに火をつけ、白く筋をひいてなおも舞い落ちてくるちりめんのような雪を、しばらく窓越しに見つめていた。雪は昨日から丸一日、こやみなく降りつづけている。「この事件はどうも奇妙なことずくめだよ、ソーン。物心両面にわたって奇怪きわまることの連続だ。たった今偵察してきたところなんだがね。我らが友なるあの巨人《コロッソス》がいなくなったと聞いたら、きみも興味をそそられるだろう」
「キースがいなくなったって?」
「あの男のベッドは全然寝た形跡がない。調べてみたんだが」
「それにあの男は昨日もほとんど丸一日留守だったじゃないか!」
「そのとおり。気むずかし屋の我らがクライトン〔ジェイムズ・バリーの風刺喜劇『あっぱれクライトン』に登場する執事〕は、どうもとりわけ重症の厭世病にかかっているらしくて、周期的に姿をくらますね。どこへ行くんだろう? この疑問に対する解答を教えてもらえるものなら、たっぷり礼ははずむんだがな」
「あんなひどい大雪じゃ遠くへは行けまいよ」弁護士がぼそぼそつぶやいた。
「フランス人の言い草じゃないが、そこが考えさせるところだ。同志ライナッハもいないのさ」ソーンが緊張の色を見せた。「ああ、そうなんだ。彼のベッドは寝た形跡があるが、察するところ、それも短時間だ。あの二人はいっしょに出奔したんだろうか? それとも別々かな? ソーン」エラリーはもの思わしげに言った、「こりゃいよいよもって奇っ怪千万なことになってきたぞ」
「わたしの手には負えん」ソーンがまた身震いしながら言った。「もうお手上げになりそうだ。我々はここでは何一つ果たせそうもない。それに、あの到底信じがたい、厄介な事実がつきまとっている……家が――消えたという事実が」
ソーンは羽根ぶとんを後ろにはねのけて、ベッドの下のスリッパをさぐった。「下へいこう」とぶっきらぼうに言った。
「じつにうまいベーコンですね、奥さん」とエラリーが言った。「食料品をここまで運んでくるのはさぞかし大変でしょうな」
「我々には開拓者の血が流れとるんです」細君が答える暇もなく、ライナッハ医師が上機嫌に言った。ちょうど炒《い》り卵とベーコンをごっそりほおばっているところだった。「幸い、貯蔵室にはかなり長期間持ちこたえられるだけの食料が置いてあるんですよ。ここらあたりは冬が厳しいもんで――去年、それを思い知らされましたよ」
キースは朝食の席に顔を見せなかった。フェル老夫人は出てきていた。胃袋を満たす以外には人生の快楽は何一つ残されていない老人特有のむきだしの貪欲さを発揮して、がつがつとむさぼり食らっていた。それでいて、ものを言いこそしないが、食べている間も目は、幽霊にとりつかれたような顔をしているアリスから離そうとしなかった。
「ゆうべはあまりよく眠れませんでしたわ」アリスがコーヒー茶碗をもてあそびながら言った。声が一段とかすれていた。「ほんとにいやな雪ですこと! 何とかして今日、出ていくわけにはいかないでしょうか?」
「雪がやまないかぎり、無理でしょうね」エラリーがやさしく言った。「で、ドクター、あなたはどうでした? やはり、よく眠れなかった口ですか? それとも、我々の目と鼻の先で家が一軒丸ごとかっさらわれたことも、あなたの神経にはまるでさわりませんでしたかね?」
医師は目のふちが赤く充血し、まぶたがはれぼったかった。それなのに含み笑いをしながらこう言った、「わたしですか? わたしはいつだってよく眠れますよ。何も気に病むことがないもんでね。なぜ、そんなことを?」
「いや、べつにこれといって理由はありません。けさはキースさんはどこにいるんです? あの青年は人嫌いなたちなんじゃないですか?」
ライナッハ夫人がマフィンを丸ごと飲みこんでしまった。夫にじろりとにらまれて、立ち上がると台所に逃げこんだ。「どこにいるかは神のみぞ知るってとこですな」医師が言った。「あいつは『マクベス』に出てくるバンクォーの幽霊みたいに神出鬼没でしてね。あの青年のことは気にしなさんな。ありゃ害はありませんよ」
エラリーはため息をついて、食卓から椅子を引いた。「二十四時間たっても、あの出来事の不思議さは薄らぎませんね。失礼させてもらっていいですか? もうなくなってしまったあの家をもう一度のぞいてみようと思いましてね」ソーンが立ち上がりかけた。「いや、いや、ソーン。ぼくは独りで行きたいんだ」
エラリーは手持ちの衣類の中で一番暖かそうなのを着こんで、外へ出ていった。積もった雪はもう一階の窓に達していた。木々はほとんど雪の下に隠れてしまっていた。玄関から数フィートばかり、誰かの手で通路らしきものがざっと切り開いてあったが、それもすでに半ばまた雪に埋もれていた。
エラリーはその通路にじっと立ちつくして、冷えびえした空気を深く吸いこみながら、右手の、『黒い家』がたっていたあとの四角い空き地を見つめていた。その広い敷地を横切って向うの林のへりまで、足跡がついているのが、かろうじてそれとわかった。エラリーはコートの襟を立てて身を切るような風をよけ、腰まである雪の中に踏みこんでいった。進むのに骨は折れたが、まんざら不愉快でもなかった。しばらくすると、体がすっかり温まりはじめた。しんと静まりかえった一面の銀世界――新しい、未知の世界だった。
空き地を抜けてようやく林の中にわけ入った時、その新しい世界さえもあとに残していくのだという心地がした。あらゆるものがじつに静かで、真っ白で、美しく、この世のものならぬ澄み切った美をたたえていた。木々は雪におおわれて、様相が一変し、元の形から奇妙な模様をつくり出していた。
時おり、下枝から雪の塊りが落下して、エラリーに降りかかった。
そのあたりは、地上と空との間にいわば屋根があるので、雪もそう早くは正体不明の足跡の上に降り積もってはいなかった。その足跡は目的ありげで、横にそれることなく、何か遠くの目標に向かってまっすぐ点線のようにつづいていた。エラリーは発見の予感に興奮して、一段と足を早めて突き進んだ。
と、その時、世界が急に暗くなった。
雪は灰色になり、まるで下からインクがあふれ出てくるように、ぐんぐん濃さを増して、ついにはひどく黒ずんだ灰色になり、最後の瞬間、漆黒と化した。そしてエラリーは片っぽのほほに積雪の冷たく湿ったキスを感じて、びっくりした。
目をあけてみると、雪の中に仰向けに倒れていて、厚地の外套を着たソーンが自分の上にかがみこみ、青ざめた顔から冬のいばらのとげのように鼻を突き出していた。
「クイーン!」老人はエラリーの体をゆすぶって言った。「大丈夫か?」
エラリーは唇をなめながら上半身を起こした。「どうやら別状なさそうだ」とうめくように言った。「何に殴られたんだろう? 神の怒りの雷《いかずち》に打たれたような感じだった」彼は後頭部をさすり、そしてよろよろと立ち上がった。「なあ、ソーン、我々は魔法の国の境まで来てしまったらしいよ」
「きみは錯乱しているんじゃないだろうな?」弁護士は心配そうに言った。
エラリーはあたりを見まわして、その辺にあるはずの例の足跡をさがした。だが、先端のところにソーンが立っている二本の線のほかには、何もなかった。どうやらエラリーは長いこと意識を失って雪の中に倒れていたようだ。
「これより先へは」エラリーが顔をしかめて言った、「行っちゃいかんてことかな。手を出すべからず。鼻を突っこむべからず。いらざる干渉をすべからず。この見えない境界線の向うには冥土が、魔窟が、底なし地獄がある。汝ら、ここに入るものは一切の望みを捨てよ《ラスシアーテ・オグニ・スペランツァ・ヴォイ・ケントラーテ》〔ダンテ『神曲』地獄篇〕。……おっと、ごめんよ、ソーン。きみがぼくの命を救ってくれたのかい?」
ソーンはさっと体をひねって、静まりかえった木立の中をうかがった。「わからん。そうじゃあるまいな。いずれにせよ、わたしはきみがここに独りで倒れているのを見つけたんだ。まったく、ぎょっとしたよ――死んでるかと思ってさ」
「まかりまちがえば」エラリーが身震いして言った、「そうなっていたかもしれない」
「きみが家を出たあと、アリスは二階に上がってしまうし、ライナッハもちょっと一眠りするとか言うんで、わたしはぶらっと外へ出たんだ。しばらく雪に埋まった街道を歩いているうちに、ふときみのことを思い出して、引き返してきたんだ。きみの足跡はほとんど消えかけていたが、まだ見えることは見えたので、それを頼りに空き地を横切って林のはずれまできたところ、ついにきみにぶつかったというわけだ。もう足跡は消えてしまっている」
「こいつはまったくどうも気にくわないな」とエラリーは言った、「もっとも、別の意味では、大いに気に入ってもいるがね」
「どういう意味だね?」
「神ともあろうものがこんな卑劣な襲撃までするとは考えられない」
「そうか、いよいよ戦闘開始だな」ソーンがつぶやいた。「何者か知らんが――相手は何でもやりかねないやつだ」
「慈悲深い戦さだよ、少なくとも。相手はぼくを意のままにできたんだ、いとも簡単に殺すことだってできたわけで――」
エラリーはふと口をつぐんだ。松のこぶが火の中ではじけたか、凍《い》てついた小枝が二つに折れたかしたような、しかもそれよりはるかに大きな、鋭い音が耳に達したのだ。それからすぐ、もっと低い、まぎれもないこだまが聞こえた。
銃声だった。
「家のほうだ!」エラリーが叫んだ。「きたまえ!」
二人は雪に足をとられながら駆け出したが、ソーンは青くなっていた。「拳銃を……忘れてきた。わたしは銃を寝室の枕の下に置いてきちまったんだ。きみの考えでは――?」
エラリーは自分のポケットを急いでさぐった。「ぼくのはちゃんとここにある。……いや、いかん、裏をかかれた!」エラリーのかじかんだ指が弾倉をいじくっていた。「弾《たま》を抜きとられている。それにぼくは予備の弾薬は持ってないときてる」エラリーは口もとをこわばらせて、黙りこんだ。
帰ってみると、女たちとライナッハが、驚きあわてた動物のように右往左往し、何か知らないが捜しまわっていた。
「あんた方にも聞こえましたか?」二人が家の中に飛びこむと、医師が叫んだ。非常に興奮している様子だった。「誰かが発砲したんだ!」
「どこで?」エラリーはあたりをきょろきょろ見まわしながら言った。「キースくんは?」
「どこにいるのかわからん。家内の話だと、音は家の裏のほうから聞こえてきたらしいんだが、わたしはうたたねをしてたんで、何とも言えない。ピストルですな! とにかく、やつはこの敷地内まで出てきたんだ」
「誰がです?」エラリーが問い返した。
医師は肩をすくめた。エラリーは部屋を突っ切って台所へ行き、勝手口のドアをあけた。外に積もった雪は平らで、踏みつけたあとはなかった。居間にもどると、アリスが震える指で首に巻いたスカーフの具合を直していた。
「みなさんがこの薄気味悪いところにいつまでいらっしゃるつもりか知りませんけど」とアリスが激した声で言った。「でも、あたくしはもう|ほんとに《ヽヽヽヽ》たくさんです。ソーンさん、ぜひとも今すぐ、あたくしをここから連れ出してください。今すぐに! もういっときもぐずぐずしてはいられませんわ」
「まあ、まあ、お嬢さん」ソーンがアリスの手を取って、困り果てたように言った。「わたしだってそうしたいのはやまやまですよ。しかし、おわかりでしょうが――」
一度に三段ずつ階段を駆け上がってすでに二階に向かっていたエラリーには、ソーンのあとの言葉は聞こえなかった。彼はソーンの部屋に行って、ドアを蹴りあけ、くんくん匂いをかいだ。それから少々気味の悪い薄笑いを浮かべて、寝乱れたベッドのところへ行き、枕を引きのけた。銃身の長い旧式の拳銃がそこに置いてあった。弾倉を調べてみると、からだった。エラリーは銃口を鼻にあてがってかいでみた。
「どうなんだ?」戸口のところからソーンが言った。イギリス娘がそばにぴったりくっついていた。
「まあね」エラリーは拳銃をぽいとほうり出して言った、「これでいよいよ空想の産物ではなく事実に直面したわけだ。こりゃ戦いだよ、ソーン、きみが言ったとおり。あの銃声はきみの拳銃から発せられたものだ。銃身がまだ温かく、銃口がまだぷんぷん匂ってるし、この冷たい空気を一杯に吸えば、火薬の燃えた匂いがするはずだよ。|それに《ヽヽヽ》弾丸がなくなっている」
「でも、それ、どういうことですの?」アリスがうめくように言った。
「誰か、おっそろしく利口なやつがいるってことですよ。あれはソーンとぼくを家に呼びもどすための害のない策略だったわけだ。おそらくあの発砲はおびき寄せる手段であると同時に、警告でもあったんだろうな」
アリスはぐったりとソーンのベッドに坐りこんだ。「それじゃあの、あたくしたち――」
「そうです」エラリーは答えた、「これから先、我々は囚われの身なんですよ、お嬢さん。監獄の囲いの外にふらふら出ていくことは許されない捕虜なんです。どうしてそんな目に合わされるのか」エラリーは眉をひそめて言い添えた、「ぼくにもよくわかりませんがね」
限りなくもやもやした気分のまま一日が過ぎていった。外の世界はますます深く雪に閉ざされていった。空気は厚い白い幕のようだった。まるで空そのものが裂けてしまって、今ある分も、将来の分も、ありったけの雪をぶちまけているようだった。
正午頃、キース青年が不意に姿を現わし、どんよりした目つきでむっつり黙りこくったまま、温かい食物をそそくさとかきこむと、言いわけ一つするでもなく自室に引きこもってしまった。ライナッハ医師はしばらく静かにふらふらと歩きまわっていた。そのうち姿を消したが、結局、夕食前には、濡れたむさくるしい様子で、黙然と現われた。日が暮れていくにつれて、ますますみんな口数が少なくなった。ソーンはやけっぱちになってウイスキーを飲み出した。八時頃、キースが降りてきて、自分でコーヒーをいれ、三杯飲むと、また二階へ上がってしまった。ライナッハ医師はいつもの愛想のよさをなくしてしまったようで、陰気くさく、不機嫌とさえいえるくらいで、口を開けばきまって細君をどなりつけた。
雪はなおも降りつづけた。
一同は話らしい話もせず、みんな早々と自分の部屋に引っこんだ。
夜半におよんで、緊張はエラリーの鉄のような神経をもってしても耐えがたいまでになった。彼は暖炉で勢いよく燃えている火をさらにかき立てたりしながら、何時間もうろうろと寝室の中を歩きまわって、ありそうにもないことや突拍子もないことを次から次へととりとめなく思いめぐらしているうちに、とうとうひどい頭痛で頭がずきずきしだした。とても寝つかれたものではなかった。
ある衝動に駆られ、エラリーはそれをことさら分析してみようともせず、上着をひっかけると、冷えびえした廊下に出ていった。
ソーンの部屋のドアはしまっていた。老弁護士が寝ているベッドがきしむ音が聞こえた。廊下は真っ暗闇で、エラリーは手さぐりしながら進んでいった。不意に爪先が絨毯の裂け目にひっかかり、体のバランスを取りもどそうとしてたたらを踏みながら、どさりと壁にぶつかり、幅木にそった廊下のへりのむき出しの床板で靴のかかとががたがた音を立てた。
エラリーが立ち直るか立ち直らないうちに、女の押し殺した叫び声が聞こえた。それは廊下の反対側から聞こえてきた。エラリーの見当違いでなければ、アリス・メイヒューの部屋からだった。何とも弱々しく、おびえ切ったような叫び声だったので、エラリーはマッチを出そうとあちこちポケットをさぐりながら、急いで廊下を横切った。マッチとドアが同時に見つかった。マッチを一本すってドアをあけ、パッと燃え上がる小さな火を前にかざしながらその場に突っ立った。
アリスは羽ぶとんを肩のまわりに引き寄せてベッドに起き上がり、ほのかな明りの中で目をきらめかせていた。部屋の反対側の脚つき箪笥の開いた引き出しの前に、中身をひっかきまわす手を中途で止めたライナッハ医師の姿がぼうっと浮かびあがっていた。医師はすっかり身仕度をととのえていた。靴が濡れていた。表情はうつろで、目は糸のように細められていた。
「どうかそのままじっとしてて下さい、ドクター」マッチがパチパチと鳴って消えると同時に、エラリーがものやわらかに言った。「ぼくの拳銃は飛び道具としては役に立たないが、まだ鈍器としてなら危害を加えられるんですよ」エラリーは石油ランプが置いてあるのをマッチが消える前に見とどけた、近くのテーブルのところに行き、もう一度マッチをすってランプに火をともすと、また後ろにさがってドアに寄りかかった。
「ありがとう」とアリスが小声で言った。
「何があったんです、お嬢さん?」
「あたくし……存じませんわ。よく眠れなくて。つい今しがた、床がきしる音がして、目をさましたんです。そしたら、あなたが飛びこんでらして」アリスは突然、大きな声になった、「あきれた方!」
「あなたが叫んだんですよ」
「あたくしが?」アリスは疲れた子供のようにため息をついた。「あたくし……ハーバート叔父さま!」急に、険しい口調で言った。「これ、どういうことですの? あたくしの部屋で何をしてらっしゃるの?」
医師の目が大きく見開かれ、さも無邪気そうに明るく輝いた。手が引き出しから出て、それをしめた。そして象のような巨体を起こして、まっすぐ立った。「何をしているってかい?」がらがら声で言った。「そりゃもちろん、おまえがどうしてるか様子を見に来たのさ」その目は、羽根ぶとんのへりからわずかにのぞいているアリスの白い肩に注がれていた。「おまえは今日は極度に興奮してたからね。叔父としての情に駆られたまでさ。びっくりさせたんだったら、ごめんよ」
「どうやら」エラリーがため息まじりに言った。「ぼくはあなたを見そこなってたようですね、ドクター。そいつはいただけませんよ。実際、何ともまずい言い訳だ。一時の気の迷いとでも考えないことには合点がいかない。アリスさんが脚つき箪笥の引き出しの中にいるはずはないでしょう、たとえいかにその中が広々しているにせよ」
エラリーはいきなりアリスに向かって言った。「この男はあなたに手を触れましたか?」
「あたくしに手を?」アリスの肩がさもいとわしげにぴくりと動いた。「いいえ、暗がりで、もしそんなことをされてたら、あたくし――きっと死んでしまったんじゃないかしら」
「何ともうれしいことを言ってくれるじゃないか」ライナッハ医師がうらめしそうに言った。
「とすると何を」エラリーが詰問した、「あなたは探しておられたんです、ドクター?」
医師は右脇が戸口のほうを向くまで体をまわした。「わたしはどうもひどく耳が遠くてね」彼はくすっと含み笑いをした。「右のほうの耳が。おやすみ、アリス。いい夢を見るんだな、通してもらえませんか、ランスロット卿〔アーサー王伝説中の騎士・王妃グィネビアの恋人〕?」
エラリーはドアがしまるまで、太った男の温和な顔をじっと見すえていた。ライナッハ医師のくすくす笑いの最後のこだまが消えたあとも、しばらく二人は黙りこんでいた。
やがてアリスはするりとベッドにもぐりこんで、羽根ぶとんのへりをつかんだ。「クイーンさん、お願いです! 明日、あたくしをここから連れ出して下さい。これは本気です。心からお願いしているんです。あたくし――とても口では言いつくせないほどおびえているんです……ここでのいろんな出来事に。それを――それを考えるたびに……こんなことってあっていいもんでしょうか? ここは正気の場所じゃありませんわ、クイーンさん。ここにこれ以上長居をしたら、みんな気が狂ってしまいますわ。どうか、連れて出ていただけません?」
エラリーはアリスのベッドのへりに腰かけた。「お嬢さん、あなたはほんとにそんなに動転しておられるんですか?」とやさしくきいた。
「あたくし、ただもうこわくって」アリスは小さな声で言った。
「それじゃ明日、ソーンとぼくでできるだけのことをしてみましょう」エラリーは羽根ぶとんの上からアリスの腕を軽く叩いた。「ソーンの車をちょっと調べて、何とかならんものかどうか見てみましょう。タンクに多少ガソリンは残っていると言ってましたからね。それで行けるところまで行って、あとは歩くとしましょう」
「でも、そんな少しばかりのガソリンで……いえ、かまやしませんわ!」アリスは目を大きく見はって、じっとエラリーの顔を見上げた。「どう思います……あの人はあたくしたちを行かせてくれるでしょうか?」
「あの人とは?」
「誰であるにせよ、その……」
エラリーはほほえんで立ち上がった。「取り越し苦労はよしにしましょう。その暇に少し眠ることです。明日は強行軍になりますよ」
「ひょっとして、あたくし――あの人は――」
「ぼくが出ていったら、ランプはつけたままにして、ドアの取手の下に椅子を支《か》っておくんですね」エラリーはすばやく室内を見まわした。「ところでね、お嬢さん、あなたの持ち物でライナッハ医師がくすねたがるようなものが何かありますか?」
「それがあたくしにも腑に落ちませんの。あの人が欲しがりそうなものを、このあたくしが持ってるなんて想像できませんわ。あたくし、とても貧乏なんですのよ、クイーンさん――まさにシンデレラです。なんにもありゃしません、ただ着るものと、いっしょに持ってきた身のまわりのものだけですもの」
「古い手紙とか書類とか形見のようなものはありませんか?」
「母のごく古い写真が一枚あるきりです」
「ふむ、ライナッハ医師が|それほど《ヽヽヽヽ》感傷的とは思えませんね。それじゃ、おやすみ。椅子を支《か》うのを忘れないように。なに、大丈夫ですよ、ぼくが保証します」
エラリーは寒く暗い廊下に立って、アリスがベッドから這い出してドアに椅子を支う音が聞こえるまで、待った。それから自分の部屋に引きあげた。
するとそこには、くたびれた部屋着を着たソーンが、まるで髪をふり乱した陰惨な老いたる幽霊のような姿で、待ち受けていた。
「ほほう! 幽霊のお出ましか。きみもやっぱり眠れない口か?」
「眠るなんて!」老人は身震いした。「神にも見捨てられたようなこんな場所でまともな人間なら眠れるわけがないじゃないか。見受けたところ、きみのほうは何だか愉快そうだな」
「愉快ってこともない。生きてるってだけさ」エラリーは腰をおろして、タバコに火をつけた。
「さっき、きみがベッドで寝返りを打っているのが聞こえたが。この寒さにわざわざ起き出してくるなんて、何かあったのかい?」
「いや。神経がたかぶってるだけさ」ソーンはさっと立ち上がると、部屋の中を歩きまわりはじめた。「きみのほうこそどこにいたんだ?」
エラリーは事の次第を話した。「驚きいったやつだよ、ライナッハってのは」エラリーは話のしめくくりとしてそう言った。「しかし、ただ感心ばかりもしていられない。実のところ、この事件からは手を引くしかなさそうだよ、ソーン、少なくとも一時的にね。ぼくとしては期するところもあったんだが……まあ、やむを得ん! かわいそうなあの娘に約束してしまったんだ。明日、何とか手を尽くして、ここを出るんだ」
「そして三月になって救助隊に凍死体となって発見されるわけか」ソーンは情けなさそうに言った。「結構な見通しだな! しかし、たとえ凍死しても、このいまわしい場所にいるよりはましだ」ソーンは妙にじろじろエラリーの顔を見た。「こう言っちゃ何だが、きみにはいささか失望したよ、クイーン。きみの職業的手腕についてかねて噂に聞いたところでは……」
「ぼくは一度も言ったおぼえはないよ」エラリーは肩をすくめた、「自分を魔法使いだとは、あるいは、神学者だともね。ここで起こったことは、邪悪きわまる妖術か、さもなくば奇跡があり得るという明白な証拠だ」
「どうもそうらしいな」ソーンがつぶやいた。「しかしそれにしても、よく考えてみると……まるっきり理屈に合わんじゃないか!」
「どうやら」エラリーがそっけなく言った。「弁護士先生も最初のショックから立ち直りかけているようだね。そりゃそうと、今ここを出なきゃならんのは、ある意味で恥だな。手を引くなんて思ってもしゃくにさわる――特に、現時点では」
「現時点でとは? どういう意味かね?」
「ソーン、たぶん、きみはまだ、このちょっとした難問をきちんと分析できるまでには、ショック状態から抜け切っていないんだよ。ぼくは今日とくと考えてみたんだ。なかなかゴールには到達しかねているが――近くまでは迫っている」エラリーはもの静かに言った。「ごく近くまで」
「ということは」弁護士は息をはずませて言った、「つまり、きみはほんとに――」
「驚くべき事件だ」エラリーは言った。「いや、異常と言おうか――これを的確に言い表わす言葉は、英語にも、ほかのどこの国の言葉にもない。仮にぼくが信心深いたちだったら……」エラリーは考えこむようにタバコをぷかぷかふかした。「この事件はごく単純な要素に還元できる、ほんとうの大問題というのはみんなそうだがね。まず、金貨にした財産が存在する。それはある家の中に隠されている。その家が消えてなくなった。しからば、金貨を発見するには、まずその家を見つけなければならない。思うに……」
「先日、キースに借りたほうきで、わけのわからんおまじないをした以外には」ソーンが叫んだ、「きみがその線で一つでも努力をしたという記憶はないな。家を見つけるって! ――だって、きみは何もしないでぼんやり待ってただけじゃないか」
「そのとおりさ」エラリーはつぶやいた。
「何だと?」
「待つことだ。それが処方箋だよ、やせっぽちの怒りん坊くん。それこそが『黒い家』にとりついた霊をはらいきよめる印《いん》なんだ」
「印?」ソーンは目を丸くした。「霊?」
「待つことだ。まさにね。まったく、どんなにぼくは待っていることか!」
ソーンは、エラリーがこの真夜中に時ならぬ冗談を言っているのではないかと疑うように、戸惑った、胡散臭げな顔つきをした。だが、エラリーはタバコを吸いながら落ち着きはらって坐っていた。「待つだと! なにをだね、きみ? あのでぶの怪物より、きみのほうがよっぽどしゃくにさわる! 何を待っているというんだね?」
エラリーは相手の顔を見守った。それから立ち上がると、消えかかった火の中に吸い殻を投げ捨て、老友の腕に手をかけた。「寝たまえ、ソーン。ぼくが話したって、きみは信じやしまいよ」
「クイーン、|ぜひとも《ヽヽヽヽ》話してくれ。この件について早いとこ光明が見えてこないことには、わたしは気が狂っちまう!」
エラリーはハッとした様子を見せたが、なぜなのかはソーンにはわからなかった。それから、これまた不可解千万にも、ソーンの肩をぴしゃりと叩いて、くすくす笑い出した。
「行って寝たまえ」なおもくすくす笑いながらエラリーは言った。
「しかし、ぜひとも話してもらわんことには!」
エラリーは笑いをひっこめて、ため息をついた。「だめだね。きみは笑うさ」
「わたしは今、笑うどころの気分じゃない!」
「それにこりゃ笑いごとでもないがね。ソーン、さっきぼくはこう言いかけたんだ、このぼくは、哀れむべき罪深い人間だが、もし宗教的感情を持っていたら、この三日間で永久に信心深い人間になっていただろうってね。どうやら、ぼくは救いようのない人間らしい。しかし、このぼくにさえ、今度のことにはこの世のものならぬ力が働いていることはわかる」
「なかなか役者だな」老弁護士がぶつぶつ文句をつけた。「神の手を見たふりなんかして……おい、罰当りなことを言うもんじゃないぞ。みんながみんな不信心者ばかりじゃないんだ」
エラリーは窓越しに、闇夜と、灰色にきらめく雪に包まれた世界を眺めやった。
「神の手?」エラリーはつぶやいた。「いや、手じゃないんだ、ソーン。この事件が万一解決されるとしたら、そいつは……燈火《ともしび》によってだ」
「燈火?」ソーンはおずおずと言った。「燈火だって?」
「まあ、言ってみればね。|神の燈火《ヽヽヽヽ》さ」
第三章
次の日はどんよりと明けそめ、限りなく灰色の絶望的な朝を迎えた。信じがたいことに、雪は依然として同じ調子で、まるで空全体が少しずつ崩れ落ちているかのように、降りしきっていた。
エラリーはその日の大半をガレージで、黒い大型車の中枢部をいじくりまわして過ごした。ガレージのドアは大きくあけはなって、彼が何をしているか見たい者には見えるようにしてあった。エラリーは車の構造についてはすこぶる不案内で、最初から、無益なことをしているという気がしていた。
ところが午後も遅くなって、さんざんむだな試みをしたあげくに、まわりと切り離されてしまっているように見えるごく短い電線を不意に見つけた。それはただぶらさがっているだけで、用をなしていなかった。理の当然として、どこかに接続個所があるはずだった。エラリーはいろいろためしてみた末に、接続個所を見つけた。
エラリーがスターターを踏みこんで、冷えきったエンジンが息を吹き返すブルブルンという音を聞いてると、ガレージの入口に人影が立ちふさがった。エラリーはイグニッション・スイッチを切って、顔を上げた。
それはキースで、両足を大きく開いて、雪を背景に黒々と立ちはだかり、大きな両の手に大きな罐を一つずつぶらさげていた。
「やあ、きみか」エラリーはつぶやくように言った。「また人間の姿にもどったようだね。下界へのたまのお出ましかい、キースくん?」
キースはもの静かに言った。「どこかへお出かけで、クイーンさん?」
「いかにも。おや――きみはとめだてするつもりかね?」
「どこへ行くかによりけりだが」
「ああ、脅迫か。じゃ、行先を|きみに《ヽヽヽ》話したらどうなるのかね?」
「話したければ何でも話すさ。あんたの行先がわかるまでは、この場所から出てはいかせない」
エラリーはにやりと笑った。「きみには素朴な率直さがあるね、キースくん、ぼくはついついそこにひかれてしまうんだな。よし、きみを安心させてあげよう。ソーンとぼくはメイヒュー嬢を町に連れ戻すつもりなんだ」
「それならかまわない」そう言うキースの顔をエラリーはつくづくと見た。疲労と心労にやつれて深いしわができていた。キースは持っていた罐をガレージのコンクリートの床におろした。
「だったらこれを使っていいよ。ガソリンだ」
「ガソリンだって! いったいどこで手に入れたんだ?」
「そうだな」キースはにこりともせずに言った、「インディアンの古い墓から掘り出したことにでもしておくさ」
「いいだろう」
「あんたはソーンの車を修理したようだね。そんな必要はなかったのに。おれがしてやってもよかったんだ」
「じゃどうしてしてくれなかったんだね?」
「誰にも頼まれなかったからさ」大男はくるりと踵《きびす》をめぐらすと、どこかへ行ってしまった。エラリーはしかめ面でじっと坐っていた。やがて車から降りると、罐を持ち上げて、中身をタンクにあけた。それからまた車の中に手をのばして、エンジンをかけ、大きな猫のようにゴロゴロ喉を鳴らさせておいて、家に取って返した。
アリスは自分の部屋で肩からコートを羽織って、窓の外を眺めていた。エラリーがノックすると、飛び上がった。
「クイーンさん、あなたはソーンさんの車をお直しになりましたのね!」
「ようやくうまくいきましたよ」エラリーはにっこりした。「用意はできてますか?」
「ええ、そりゃもう! いよいよ出かけるとなったら、気分もずっとよくなりましたわ。あたくしたち、難儀をするとお思いになります? キースさんが罐を運びこんだのを見ましたけど。ガソリンじゃありませんこと? いい方ですのね。あたくし、決して信じやしませんでしたわ、あんないい青年が――」アリスは顔を赤らめた。ほほには赤みがさし、目はここ数日来になく明るかった。声も今までほどかすれてはいないようだった。
「吹きだまりを通り抜けるのは一苦労かもしれないが、あの車にはチェーンが用意してありますしね。運がよければ、うまくやりとげられるでしょう。あれは馬力もあるし――」
エラリーはじつに唐突に言葉を切って、石のように無表情ながら呆然として、足もとのすり切れた絨毯を見すえた。
「いったいどうなさったんですの、クイーンさん?」
「どうって?」エラリーは視線を上げ、深々と息をついた。「別に何でもありゃしません。神、空にしろしめす、すべて世はこともなし」
アリスは絨毯を見おろした。「まあ……お日さまだわ!」甲高いかすかな歓喜の声をあげて、窓のほうを振り向いた。「あら、クイーンさん、雪がやみましたわ。西日が射しています――ようやく!」
「しかもいい潮時だ」エラリーはきびきびと言った。
「身仕度をしてください。すぐ出かけますよ」そしてアリスの鞄を取り上げ、古い床板をゆるがすほどの力強い、弾むような足どりで、彼女を残して部屋を出た。廊下を横切って、向い側の自分の部屋に行き、口笛を吹きながら自分の鞄の荷造りにとりかかった。
居間は別れの言葉のやりとりでがやがやと騒々しかった。これを見たら誰しも、当り前の人間たちが当り前の人間模様を繰り広げている当り前の家庭だと思っただろう。アリスはまったく陽気で、一財産の金貨をおそらくは永久に残していくことになる人のようにはとても見えなかった。
ハンドバッグを炉棚の上の母親の着色写真のすぐそばに置いて、アリスは帽子をかぶると、ライナッハ夫人に抱きつき、フェル夫人のしなびたほほにこわごわとおざなりのキスをし、そしてライナッハ医師にはすべてを水に流すようにほほえみかけさえした。それから炉棚のところに駆けもどると、さっとハンドバッグを取り、キースのひきつった顔に長い謎めいた一瞥をくれると、悪魔にでも追いかけられているように急いで外に出た。
ソーンはすでに車に乗りこんでいて、まるで死刑執行室の小さな緑のドアの向うにまさに足を踏み入れようとした瞬間に、刑の執行を猶予されたかのように、信じられないほどの幸福感に老顔を輝かせていた。そして沈みかけた太陽に向かってにっこりと微笑した。
エラリーはアリスの後ろから、もっとゆっくりした足どりでついていった。荷物はソーンの車に積みこんであり、ほかにもう何もすることはなかった。車に乗りこむと、まずエンジンをふかし、それからブレーキをはずした。
医師が太った体で戸口をふさいで叫んだ、「おい、道はわかってるんだろうね? この私道の突き当りで右に曲がるんだ。そしたらそのまま一直線に走ればいい。迷いっこないさ。幹線道路に行き当たるには、およそ……」
医師の最後の言葉はエンジンの響きに呑みこまれてしまった。エラリーは片手を振ってみせた。後ろの座席にソーンと並んで坐ったアリスは体を後方にひねって、ややヒステリックに笑った。ソーンはエラリーの後頭部に向かってにこにこ笑いながら坐っていた。
車は、エラリーの運転のもとに、私道をがたごとと走り抜け、右に曲がって街道に出た。
あたりは急速に暗くなっていった。車はのろのろと進んだ。チェーンを巻いてあるのにスリップしたりかしいだりしながら、積もった雪の中をじりじりと一寸刻みに前進した。日が暮れて、エラリーは強力なヘッドライトをつけた。
エラリーは脇目もふらず一心不乱に運転していた。
誰も口をきかなかった。
幹線道路に出るまでには何時間もかかったような気がした。だが、除雪車で雪を一部かたづけてある幹線道路に出たとたん、車はたちまち生気を取りもどし、じきに最寄りの町にさしかかった。
なつかしい電燈の明り、舗装した街路、切れ目のない家並みなどを見て、アリスは限りない喜びの声をあげた。エラリーはとあるガソリン・スタンドに車を停めて、満タンにした。
「ここからはもうすぐですよ、お嬢さん」ソーンが元気づけるように言った。「じきに市内に入ります。トリボロー橋を渡れば……」
「ああ、生きてるってすばらしいわ!」
「もちろんあなたにはわたしの家に泊まってもらいます。家内も喜ぶでしょう。そのあとで……」
「ソーンさん、あなたにはほんとにご親切にしていただいて。何とお礼を申し上げたらいいか、わかりませんわ」アリスは、はっとしたように、一瞬口をつぐんだ。
「まあ、どうしたんですの、クイーンさん?」
エラリーが妙な行動に出たのだ。車を交差点で停めて、立番中の警官に小声で何やらたずねていた。警官はエラリーをじろじろ見ながら、身ぶりで答えた。エラリーは車の向きを変えて別の通りに入り、ゆっくりと走らせた。
「どうしたんですの?」アリスが前に身を乗り出して、またきいた。
ソーンは眉根を寄せて言った、「道を間違えていたはずはない。標識が出ていて、はっきりと……」
「いや、そういうことじゃないんだ」エラリーは何かに気を取られた様子で言った。「ちょっとあることを思いついてね」
若い娘と老人はけげんそうに顔を見合わせた。エラリーは表に緑色の明りがついている大きな石造りの建物の前で車を停めて、中へ入っていった。十五分ほどたってから口笛を吹き吹き出てきた。
「クイーン!」ソーンが緑色の明りを眺めながら、つっけんどんに言った。「どうしたというんだ?」
「やってのけなきゃならんことがあってね」そう言うとエラリーは車をぐるりと回して、先刻の交差点に向かった。そこまで来ると、左に曲がった。
「あら、方向が逆じゃありませんか」アリスが苛立たしげに言った。「こっちはさっき来た方角ですわ。あたくし、それははっきりおぼえてます」
「いかにもおっしゃるとおりですよ、お嬢さん。そうなんです」アリスは引き返すと考えただけでおびえてしまったように、青ざめて、ぐったりと後ろにもたれかかった。「引き返しているわけですよ」とエラリーは言った。
「引き返すだと!」ソーンが居ずまいを正して、どなった。
「ああ、あの不愉快な人たちのことはこれっきり忘れてしまうわけにはいきませんの?」アリスがうめくように言った。
「ぼくはあいにくひどく物覚えがいいもんでね。それに、援軍もついてます。振り返れば、ぼくらのあとをつけてる車が見えますよ。あれは警察の車で、地元の警察署長と、腕っこきの警官連中が乗りこんでいる」
「でも、なぜですの、クイーンさん?」アリスが叫んだ。ソーンは何も言わなかった。幸福感はすっかり消し飛んで、エラリーの首筋を沈鬱にじっと見つめていた。
「それはね」エラリーが毅然として言った、「ぼくにはぼくなりの職業的なプライドがあるからです。ぼくとしたことが、とてつもなく利口な魔術師のトリックにひっかかっていたからですよ」
「トリック?」アリスは茫然として鸚鵡返しに言った。
「今度はこのぼくが魔術師になる番です。あなたは家が消えてなくなるのを見ましたね」エラリーは低く笑った。「それをぼくがまた出してごらんにいれますよ!」
二人はあっけにとられてものも言えず、ただエラリーを見つめるばかりだった。
「それから」エラリーの声が厳しくなった、「家の非物質化などという他愛ないことは大目に見るとしても、良心に顧みて、見逃すわけにいかないのは……殺人《ヽヽ》です」
第四章
そして再びそこには『黒い家』があった。幻ではない。がっしりとした家、羽根がはえて空に飛んでいってしまうことなど夢にも考えられそうもない、頑丈で、汚ならしい、古色蒼然とした家だ。
それは私道の向う側の、もともとあった場所に立っていた。
車が雪におおわれた街道から私道に折れたとたんに、それはもう見え、正気の世界ならどこにでもあるような実体を備えた家として、明るい月明りの中に黒々とその巨体を浮かび上がらせていた。
ソーンもアリスも口がきけなかった。ただぽかんと口をあけて、最初の家の消滅よりもさらに大いなる奇跡を唖然として見守るばかりだった。
エラリーはといえば、車を停めて、すばやく地面に降り立ち、うなり声を立てながら後ろから近づいてくる車に合図を送ると、『白い家』に向かって雪の中を突進した。『白い家』の窓はランプと暖炉の火の明りで、あかあかとしていた。警察の車から男たちがどやどやと降りてきて、猟犬のようにエラリーのあとを追った。ソーンとアリスも茫然としてあとにつづいた。
エラリーは『白い家』のドアを蹴りあけた。手には拳銃を構え、その握り方から見て、弾倉に装填してあることは明白だった。
「やあ、また来ましたよ」悠然と居間に入っていきながら、エラリーは言った。「幽霊じゃない。クイーン警視の小倅で、ぴんぴんしすぎるくらいぴんぴんした生身《なまみ》の人間だ。ネメシス〔応報天罰の女神〕かもしれんがね。こんばんは、とご挨拶申し上げよう。おや――歓迎の笑顔はなしですか、ドクター?」
ライナッハはスコッチのグラスを口もとに持っていく途中で手を止めてしまっていた。たるんだほほからじわじわと血の気がひいて、土気色になっていくさまは見ものだった。ライナッハ夫人は部屋の片隅ですすり泣き、フェル夫人は馬鹿みたいに目を丸くしていた。ただニック・キースだけは、さして驚きの色も見せなかった。耳のところまで襟を立てて、窓辺に立っていた。その顔にはいまいましさと感嘆と、そして異なことに安堵のようなものが浮かんでいた。
「ドアをしめて」エラリーの背後で刑事たちが無言のうちに散開した。アリスはへなへなと椅子にくずおれ、狂おしい目つきでライナッハ医師をまじまじと見すえていた……。風のそよぐかすかな音がして、刑事の一人がキースの立っていた窓のところへ突進した。しかし、キースはもうそこにはいなかった。林に向かって雪の中を大きな鹿さながら、ぴょんぴょん跳ねるように走っていた。
「あいつを逃すな!」エラリーが叫んだ。三人の刑事が拳銃を構え、大男を追って窓から飛び出した。パンパンと銃声が起こった。外の闇にオレンジ色の閃光が走った。
エラリーは暖炉のそばへ寄って、手をあぶった。ライナッハ医師がゆっくりと、ひどく緩慢にひじかけ椅子に腰をおろした。ソーンもどっかりと椅子に坐りこんで、頭をかかえた。
エラリーがくるりと向き直ってこう言った。「署長、あなたには我々がここに来てからの出来事を一通りお話ししてあるので、わたしがこれから言うことはちゃんとおわかりになるはずです」制服姿のずんぐりした男がそっけなくうなずいた。
「ソーン、ゆうべ、ぼくは生涯で初めて」エラリーは気まぐれな調子で話をつづけた、「天佑《てんゆう》に感謝したよ……ところで、この驚くべき犯罪に関与しているあなたに言いますがね、天上の善なる神がおられなかったら、アリス・メイヒューの遺産を狙ったあなた方の陰謀は成功していたことでしょうな」
「あんたって人には失望しましたな」椅子に深々と坐りこんだ医師が言った。
「ぼくにとってそりゃ大いに痛手ですね」エラリーは相手の顔を見ながら、笑みを浮かべた、「説明してあげるとしましょうか、懐疑屋さん。ソーン氏とメイヒュー嬢とぼくとが、先日ここへ着いたのは、午後も遅くなってからでした。あなたがいともご親切に提供してくださった二階の部屋で、ぼくは窓から外を眺めて、日が沈むのを見たんです。この日没そのものは何てこともなく、たしかに何の意味もあったわけじゃない。単なる日没にすぎない。詩人や気象学者や天文学者にとってしか興味のない、ありふれたことがらです。しかし、今度ばかりは、太陽が真実を求める者にとって決定的な意味を持っていた……闇の中に光るまことの神の燈火《ともしび》だったのです」
「というのは、いいですか。あの最初の日、メイヒュー嬢の寝室はぼくの部屋から見て家の反対側にあったのです。ぼくの部屋の窓のほうに日が|沈んだ《ヽヽヽ》とすれば、ぼくのほうは西向きで、彼女の部屋は東向きだったことになる。ここまでは、これでいい。我々はひとしきり話をして、部屋に引き取った。翌朝、ぼくは七時に目がさめた――冬の今頃だと、日の出のあと間もなくということになりますが――その時、ぼくは何を見たでしょう? 『ぼくの部屋の窓から日が射しこむのを見たのです』」
エラリーの背後の暖炉で、薪の節がジューッと音を立てた。紺の制服のずんぐりした男が落ち着かなげに身じろぎした。
「わかりませんかね?」エラリーは声を大きくした。「ぼくの部屋の窓から日が|沈む《ヽヽ》のが見えたと思ったら、今度は|昇ってくる《ヽヽヽヽヽ》のが見えたんだ!」
ライナッハ医師はいささかくやしそうにエラリーを見守っていた。肥えたほほには血の気がもどっていた。手に持ったグラスを、妙に乾杯のあいさつめいた仕草で差し上げた。それから、ぐうっと呷《あお》った。
エラリーがつづけた、「この神秘的な暗示の重大さに、ぼくもすぐに気づいたわけではなかった。しかし、ずっとあとになってそのことを思い出してね。偶然か、宇宙の秩序か、神か、呼び方はどうでもいいが、家が一夜にして地上から姿を消すというあのとてつもない、頭がおかしくなるような現象を理解する手がかりを、与えてくれていたことが、おぼろげながらわかった」
「ほほう」ソーンが小声で言った。
「だが、ぼくには確信がなかった。自分の記憶に自信が持てなくてね。もう一度天からの教示が必要だった、ぼく自身が薄々感づいていることを動かぬものにしてくれる支えが。そこで、雪が小やみなく降りしきり、太陽は一面の雲にさえぎられて、いっこうに日が照らないので、ぼくは待った。雪がやんで、また太陽が顔を出すのを待ったのだ」
エラリーは吐息をもらした。「ふたたび日が照った時、もはや疑問の余地はなくなった。その日射しをぼくはまずアリスさんの部屋で目にしたわけだが、あの部屋は我々が到着した日の午後には東向きだった。ところが、今日の午後遅くぼくがアリスさんの部屋で見たのは、何だったろうか? ぼくは日が|沈む《ヽヽ》のを見たのだ」
「ほほう」ソーンがまた言った。ほかには何とも言いようがないらしかった。
「となると、アリスさんの部屋は今日は西向きだったことになる。我々が到着した日には東向きだった彼女の部屋が、今日は西向きになるなんてことがどうしてあり得るのか? 我々が到着した日には西に向いていたぼくの部屋が、いったいどうして今日は東向きなのか? 太陽がずっと静止していたのだろうか? 世界が狂ってしまったのだろうか? それともほかに説明となるようなことがあったのだろうか――とてつもなく簡単すぎて、かえって想像の及ばないようなことが?」
ソーンが低い声で言った、「クイーン、こいつは実に――」
「いいから」エラリーは言った、「ぼくにおしまいまで話させてくれたまえ、唯一の論理的結論は、自然の法則や科学の前に消し飛んでしまったりすることのない唯一の結論は、我々が今日いた家、それぞれが過ごした部屋は、我々が到着した日に過ごした家や部屋と同じもののように|見えた《ヽヽヽ》が、実は|そうではなかった《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》ということだ。このがっしりした建物を、棒切れの先のおもちゃのように、土台の上でくるりと向きを変えさせたのでないかぎり――そんなことは馬鹿げきった話だが――|それは同じ家ではなかった《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》ということになる。内も外も同じように見え、家具も同じなら、絨毯も飾りつけも同じだが――それは同じ家ではなかったのだ。別の家だったのだ。一点を除いてあらゆる細部にいたるまで最初の家とそっくりの、別の家だった。そしてその一点とは、太陽に対する地上での位置なのだ」
外にいる刑事が大声で、追跡に失敗したことを知らせた。その叫び声は、冷たく晧々《こうこう》とした月の光の中を風に運ばれて消えていった。
「どうです」エラリーが穏やかに言った、「すべて辻褄が合うじゃないですか。我々がいた『白い家』が、あの最初の晩に泊まった『白い家』と同じものではなく、太陽に対して違った向きを持つ双子のようにそっくりの別の家だとすれば、消えてしまったように見えた『黒い家』は、全然消えてなどいなかったことになる。よそに移動したのは『黒い家』ではなく、我々のほうだったのだ。あの第一夜のうちに、我々は別の場所に移されたのだ、そこはまわりの林も同じように見え、同じような私道があって、そのどんづまりに同じようなガレージがあり、外の街道も同様に古く穴ぼこだらけで、とにかく何から何までよく似ていて、違うところといえば、『黒い家』がなく、ただの空き地があるということだけだった」
「というわけで、我々は最初の夜、床について翌朝目をさますまでの間に、体も荷物もともども、その双子の『白い家』に運ばれたに相違ない。我々も、炉棚の上のメイヒュー嬢の着色写真も、元は錠前がついていた我々の部屋のドアの穴も、前の晩、仕組まれたけんか騒ぎの最中に、初めの家の暖炉の煉瓦壁にぶつけて壊されたブランデーの飾り瓶の破片にいたるまで……すべて、何から何まで双子の家に移されて、翌朝我々がまだ元の家にいるという錯覚を起こすようにしむけたのだ」
「たわごとだ」ライナッハ医師が薄笑いしながら言った。「どうもまったくのたわごとで夢か幻じみてますな」
「おみごとでしたよ」エラリーは言った。「みごとな計画だ。均斉がとれていて、偉大な芸術のもつ優雅さがある。しかも、ぼくがいったん正しい手がかりをつかんだら、次々とみごとに論理の筋道がつながっていった。というのは、どういうことか? 我々は夜のうちに知らない間に移されていたのだから、その間、意識を失っていたのに違いない。そこで思い出したのは、ソーンとぼくが二杯ずつ酒を飲んだことと、そのために翌朝舌がざらつき、頭がぼやけていたことだった。ということは、いくらか麻酔薬が入っていたのだ。医師――麻酔薬、いとも簡単明瞭な話ですよ」ライナッハはおもしろそうに肩をすくめ、紺の制服のずんぐり男を横目でちらりと見た。だが、紺の制服のずんぐり男はこわい顔をして、仮面のように表情を変えなかった。
「しかし、ライナッハ医師が独りでやった仕事だろうか?」エラリーがつぶやくように言った。
「いや、そんなことはあり得ない。許されたわずかな時間のあいだに、たった一人で必要なことをすべてやってのけるなんてことはできるわけがない……ソーンの車を修理し、我々の体や衣類や鞄を一方の『白い家』から、もう一方の『白い家』に車で運び、ソーンの車をまた使いものにならなくして、我々をベッドに寝かせ、衣類を同じように整理し、あの着色写真や、暖炉の中のカット・グラスの瓶のかけらや、ことによると、第二の『白い家』には同じものがない置き物や装飾品などまでも移動する。我々の到着前に下準備はほとんどすましてあったとしても、これは大変な大仕事だ。明らかに、一味総がかりの仕事だ。共犯者たちがいる。ほかでもないこの一家全員さ。おそらくフェル夫人だけは例外だろうけどね、何しろあの状態では、何が起こっているのか、はっきりわからないままに、やすやすと操られたろうから」
エラリーの目がきらりと光った。「したがって、ぼくはあなた方全員を――抜け目なく逃げ出したキース青年を含めて――告発します、シルヴェスター・メイヒューの正当なる遺産継承者が、その遺産の隠されている家を所有することを妨げんとする陰謀に、そろって荷担したかどで」
ライナッハ医師は上品ぶって咳ばらいをし、大きなあざらしのように両手をパチパチ打ち鳴らした。「大変おもしろいですな、クイーンさん、大変にね。まったくの作り話にかつてこれほど感じ入ったことはない。しかし、また一方、あんたの話には個人的なあてこすりが多少含まれていて、その巧妙さには大いに感心するものの、わたしとしてはどうにも心穏やかならざるものがある」医師は制服のずんぐり男のほうを振り向いた。「署長、もちろんあなたは」彼はくすくす笑った、「こんな馬鹿げた話を信用はせんでしょうな? どうもクイーンさんはあまりのショックでいささか頭が変になっとるようです」
「あなたらしくもないですね、ドクター」エラリーはため息をついた。「ぼくが言っていることの証拠は、我々が今、現にここにいるという事実そのものの中にあるんですよ」
「そこんところを説明してもらわんとね」署長が合点のいかない様子で口をはさんだ。
「つまり、我々は今、元の『白い家』にいるってことです。ぼくはあなた方をここへ案内してきましたね? もう一つのほうの『白い家』にお連れすることもできますよ、というのはもう今では錯覚の原因《もと》がわかっているからです。ところで、今夕、我々が出発したあとで、この人たちはみんなこっちの家に戻ってきたのです。もう一方の『白い家』はお役目を果たして、もはや必要なくなったわけです」
「これにからむ地形上のトリックについて言えば、今も通ってきたあの街道は何マイルにもわたってずっと弧を描いていることに、ぼくは気づいたのです。両方の私道とも、あの同じ街道から別れていて、一方は街道をさらに六マイルばかりいったところから別れています。もっとも、街道は数字の9のような形に大きく弧を描いて湾曲しているので、実際は元に逆戻りしているわけで、したがって二軒の家は、カーブした街道づたいにいけば六マイル離れているものの、直線ではわずか一マイルかそこいらしかないのです」
「コロニア号が入港した日、ライナッハ医師はソーンとメイヒュー嬢とぼくの三人をこちらへ車で案内するに際して、替え玉の家に通じるほとんど目につかない細い私道をわざと通り過ぎて、こっちの、元の家に着くまで走りつづけたのです。ぼくらは最初の私道には気づかなかったわけです」
「ソーンの車はソーンが自分で運転するのを妨げるためにわざと使えなくしておいたのです。脇にただ乗っている者はほとんど何も気がつかなくても、車を運転している者は道路ぞいの目標にちゃんと注意を払うものでしてね。ソーンが前にメイヒューを訪ねた時は、二度ともキースが出迎えまでした――表向きは『道案内のため』と称して、実はソーンがあの街道にくわしくなるのを阻むためでした。そして、ぼくら三人を最初の日にここまで乗せてきたのは、ライナッハ医師でした。今日ぼくが自分で運転して出ていくのを許したのは、ぼくらは替え玉の家から――二軒ある家のうち、町に近いほうの家から、出発するので、もう戻ってはこないと見こんだからなのです。その場合には、真相を暴露しかねない二つ目の私道のそばをぼくらが通るはずはなく、したがって疑惑を抱く気づかいはなかったわけです。それに、来た時にくらべて帰りの運転距離が短いことなどにぼくらが気づくことはあるまいと、ちゃんと承知していたのです」
「しかし、たとえすべてその話のとおりだとしてもですな、クイーンさん」署長が言った、「この人たちがそれで何を成就できると見こんだのか、解《げ》せませんな。あなた方を永久にだまし通せるとは、よもや思いもしなかったでしょうからな」
「そりゃそうです」エラリーは声高に言った、「しかし、ぼくらがこの件にかかわるさまざまなトリックを見抜く頃には、連中はメイヒューの財産を手に入れてドロンするつもりだったのを、忘れないでください。わかりませんか、錯覚を起こすように仕組んだのはこれすべて『時間稼ぎ』のためだったんですよ。邪魔をされずに『黒い家』を丸裸にひっぺがし、必要とあらば取り壊して、あの隠された金貨を見つける時間が欲しかったわけです。隣の家を調べてみればわかりますが、きっとめちゃめちゃにひっかきまわされて抜け殻同然になっているはずですよ。ライナッハとキースがのべつ姿を消していたのは、そのためだったんです。二人は交替で『黒い家』に取っ組み、隠し場所を捜そうと躍起になって石を一つずつ片っぱしからはがしにかかり、その間、ぼくらのほうは替え玉の『白い家』で一見超自然的な現象に気をとられていたんですよ。それだからこそ誰かが――おそらくはそこにおられるご立派な医者先生だったんでしょうが――ソーン、きみに内緒でこっそり家を抜け出し、そして無鉄砲にも雪に残ったキースの足跡をつけようとしていたぼくの頭を殴りつけもしたわけだ。ぼくを元の家に行かせるわけにいかなかった、なぜなら、そうなれば、途方もない錯覚の正体が暴露してしまうからです」
「問題の金貨はどうなったんだ?」ソーンががみがみ声で言った。
「おそらくは」エラリーが肩をすくめて言った、「もう見つけて、またどこかへしまいこんでしまったんじゃないのかな」
「あら、だって見つかりゃしなかったわ」ライナッハ夫人が椅子でもじもじしながら、涙声で言った。「ハーバート、だから言ったじゃないの――」
「ばか」医師がきめつけた。「脳足りんの豚め」夫人はまるで夫に殴りつけられたように、ぴくっと体をひきつらせた。
「あんた方が獲物をまだ見つけていなかったのだとすると」署長がライナッハ医師に向かってぶっきらぼうに言った。「どうして今日、この人たちを出ていかせたのかね?」
ライナッハ医師は厚ぼったい唇をぐっとひきしめた。それからグラスをあげて、一気に飲んだ。
「その答えならぼくにもできると思いますよ」エラリーが沈んだ調子で言った。「いろんな意味で、それは全体の謎のうちでも一番注目すべき要素です。まさに、冷酷きわまりなく、最も許すべからざるものだ。それにくらべたら、ほかのごまかしなど児戯に等しい。というのは、一見相いれない二つの要素がそこに含まれているからです――アリス・メイヒュー嬢と殺人という」
「殺人ですと!」署長が緊張して、そう叫んだ。
「あたくしが?」アリスは面喰って言った。
エラリーはタバコに火をつけ、それを署長に向かって振りまわした。「最初の日の午後、アリス・メイヒュー嬢はここへ着くと、ぼくらといっしょに『黒い家』に入ったんです。そして父親の寝室で古い着色写真をたまたま見つけた――ここにないところから見ると、あれはまだもう一軒のほうの『白い家』にあるんでしょうが――それは亡くなって久しい彼女の母親の娘時分の写真でした。アリス・メイヒュー嬢は、一杯の飯に飛びつく中国の難民のように、その着色写真に飛びついた。御本人の説明では、母親の写真は一枚しか持っていなくて、しかもそれが出来の悪い写真なのだということでした。メイヒュー嬢はこの思いがけない掘出し物をとても大事がって、即座に『白い家』、つまりこの家に持ってきたんです。そしてこの暖炉の上の棚の、目につく位置に置きましてね」
署長は眉をひそめ、アリスは坐ったままじっと身じろぎもせず、ソーンは当惑顔だった。そこでエラリーはタバコをまた口もとに持っていきながら言った、「ところが、アリス・メイヒュー嬢は今日、ぼくらといっしょに、たぶんもう戻ってくることもないはずの『白い家』を逃げ出すにあたって、『母親の着色写真を完全に無視したのです』、最初の日にはあれほど大喜びしたあの大事な形見の品を! たとえ一時の興奮にまぎれていたにせよ、あれをうっかり見落したりするはずはなかった。メイヒュー嬢は出かけるちょっと前に、ハンドバッグを炉棚の上のその写真のすぐそばに置いたんですよ。あとでバッグを取りに炉棚のところに戻ってきたくせに、写真には目もくれなかった。彼女にとってその写真の心情的な価値は、御当人も認めていたように、はかり知れないものであった以上……、ここにある全財産のうちで、それこそ彼女が置いていくはずのないものだったのです。『最初にそれを手に取ったとすれば、去るにあたっても持っていくはずだったのです』」
ソーンが叫んだ、「一体全体、きみは何を言わんとしているんだね、クイーン?」その目は、椅子に釘づけになってほとんど息もできないでいる娘をにらみつけていた。
「ぼくが言わんとしているのはね」エラリーがそっけなく言った、「我々が明き盲だったということさ。家ばかりか、ある女性もまた替え玉だったと言っているんだ。『この女はアリス・メイヒューではないと言っているんだよ』」
女は、長い長い間《ま》を置いてようやく、目をあげた。その間、誰一人、居合わせた警官たちまで、一歩も動こうとすらしなかった。
「あたしはそのこと以外はありとあらゆることを考えに入れておいたのよ」女は何とも奇妙なため息をつきながら、声のかすれはもうすっかりかなぐり捨てて言った、「しかも、じつに鮮やかにことが運んでいたのに」
「いや、きみにはぼくももののみごとにごまかされた」エラリーがゆっくりした口調で言った。
「ゆうべのあの寝室でのちょいとした一幕たるや……どういうことだったのか、今ではわかっている。お仲間のこのライナッハ大先生が夜中にきみの部屋に忍びこんだのは、『黒い家』の家捜しの進み具合を報告かたがた、おそらくは、ソーンとぼくを説き伏せて何が何でも今日出ていくようにさせようと、きみにはっぱをかけるためだったのだ。そこへぼくがたまたまきみの部屋の外の廊下を通る途中でつまずき、どしんと音を立てて壁に倒れかかった。それが何者か、またその闖《ちん》入者の目的が何なのかもわからぬまま、御両人は即座にあの巧妙なごまかしをやってのけた……大した役者だ! 二人とも舞台生活に入れたものを惜しいことをした」
医師は目を閉じていた。眠っているように見えた。女がうんざりしたようにふてぶてしい調子でつぶやいた、「惜しいことなんてしてやしないわよ、クイーンさん。あたしは何年か舞台生活をしてるんだもの」
「きみたちは二人とも大したすご腕だった。心理学的に言うならば、この陰謀は悪の天才が生み出したものだ。きみたちは、アリス・メイヒューがこの国では写真による以外、誰にも知られていないことを承知していた。その上、メイヒュー嬢の写真で見たところ、きみと彼女とはびっくりするほどよく似ていたというわけだ。しかもメイヒュー嬢はソーンやぼくとはほんの数時間しかいっしょにおらず、それも主として薄暗い車の中だと、わかっていた」
「いやはや」ソーンがぞっとおぞけをふるって女を見つめながら、うめいた。
「アリス・メイヒュー嬢は」エラリーが険しい口調で言った、「この家に入ってくるなり、ライナッハ夫人によって二階へ連れ去られた。『そしてイギリス娘のアリス・メイヒューは二度と我々の前に姿を現わさなかったのだ』階下に降りてきたのはきみだった。きみは、それまでの六日間というもの、ソーンの目にふれないように隠れていたので、ソーンはきみというものの存在に感づきすらしなかった。ソーンがアリス・メイヒュー嬢の写真と、いろんな事情がくわしく書いてある饒舌な手紙をここへ持ってきた時、全計画を思いついたのはおそらくきみだろう。きみは本物のアリス・メイヒューとよく似ているので、偽装すれば、アリス・メイヒューとは一面識もない二人の男の目をごまかすことができた。あの最初の晩、きみが夕食の席に姿を見せた時、何となく違って見えるとはぼくも思ったのだ。しかし、元気を取り戻し、おしゃれをして、帽子もコートも脱いだきみの姿を初めて目にしたせいだと考えてしまった。当然のことながら、その後、きみを見なれるにつれて、ぼくは本物のアリス・メイヒューの容姿についての細かい記憶が次第に薄れて、きみをアリス・メイヒューだと無意識のうちにだんだん確信するようになっていった。かすれ声と、波止場からの長いドライブで風邪をひいたという言いわけだが、あれは二人の声の避けがたい相違をとりつくろうための巧みな策略だったのだ。残る唯一の危険はフェル夫人にあった。現に夫人は、ぼくらが最初に会った時、全体の謎を解く鍵を与えてくれていたわけなのだ。夫人はきみのことを自分の娘のオリヴィアだと思った。当然だね。『それがきみの正体だったのだから!』」
ライナッハ医師は相変わらず周囲のことには無関心な様子で、今やブランデーをすすっていた。その小さな目は何マイルも先の遠い一点にすえられていた。フェル老夫人は馬鹿みたいにぽかんと口をあけて娘に見とれていた。
「きみは、フェル夫人の『妄想』と、数年前の自動車事故によるオリヴィア・フェルの『死』という作り話を、前もってライナッハ医師の口からぼくらに吹きこんでおくことによって、その危険さえも防いだのだ。いや、おみごと! しかもこの気の毒な婦人までもが、もうろくしたせいで、声と髪とが違っていることにごまかされてしまったのだ――声と髪は、人間の特徴としては一番区別しやすいものであるだけにね。たぶん、きみは、ライナッハ夫人が本物のアリス・メイヒューを二階に連れてきて、生きたモデルを手本にできるようになってから、髪を直したのだろう……。ある問題がなかったら、大いに感服したくなるところだな」
「あなたって、すごく頭がいいのね」オリヴィア・フェルが平然として言った。「ほんとに大したもんよ、超人的だわ。問題って何のことかしら?」
エラリーはオリヴィアのそばに行って、肩に手を置いた。「アリス・メイヒューは消えて、きみがその身代りになった。なぜ身代りをつとめたのか? 考えられる理由は二つある。一つは――ソーンとぼくを危険区域から一刻も早く追い出し、財産を『放棄』するか、あるいはアリス・メイヒューとしての権限でぼくらを解任することによって、ぼくらを遠ざけてしまうためだ。もう一つは――このほうが今度の陰謀にとってはるかに大きな重要性を持っているのだが――きみの共謀者たちがすぐに金貨を発見できない場合も、きみは、ぼくらの目には、依然としてアリス・メイヒューで通るということだ。そうすれば、きみはいつでも、思いどおりにあの家を処分できる。いつ金貨が見つかっても、それはきみときみの共犯者たちのものになるわけだ」
「それにしても本物のアリス・メイヒューが消えてしまった。本物になりすましているきみが、アリス・メイヒューの相続財産をわがものにする長い過程をくぐりぬけるためには、アリス・メイヒューが永久に|姿を現わさない《ヽヽヽヽヽヽヽ》ことが必要だった。きみが彼女の正当な財産を手に入れ、その利益を享受して生きるためには、アリス・メイヒューに死んでもらう必要があったのだ。つまりそこなんだよ、ソーン」エラリーは女の肩をぐいとつかんで、いきなり鋭い口調で言った。「消えた家のこと以外にも、今晩けりをつけなければならないことがあると、ぼくが言ったわけは。アリス・メイヒューは殺害されたのだ」
外で、ひどく興奮したような叫び声が、三声響きわたった。それから急にぱったりとやんだ。「殺したのは」エラリーが話をつづけた、「あの最初の晩、この偽物が階下に降りてきた時、家の中《ヽ》にいなかったただ一人のこの家の者――ニコラス・キース。殺し屋だ。もっとも、この連中はみんなその殺人の従犯だがね」
窓のところから声がした、「殺し屋なんかじゃない」
一同はすばやく振り向き、はっと声を呑んだ。先刻窓から飛び出していった三人の刑事が後ろのほうに黙って立って、警戒の目を光らせていた。その前に二人の人間がいた。
「人殺しじゃありません」と、そのうちの一人が言った。女だった。「そうなるはずのところでした。でも、そうはならず、ほかの人たちに内緒で、この人はあたくしの命を救ってくれたのです……ねえ、ニック」
今や、フェル夫人、オリヴィア・フェル、ライナッハ夫人、そして肥大漢の医師の顔の上に土気色のとばりがおりてきた。それというのも、キースのそばにアリス・メイヒューが立っていたからだ。彼女は、暖炉のそばに坐っている女とは、顔立ちのおおよそのところが似ているだけだった。二人をこうして間近に置いてくらべてみると、明らかにいろんな点で違いがあった。アリスはやつれて険しい顔つきになってはいたが、にもかかわらず幸せそうだった。いかにも自分のものだといわんばかりにしっかりと、毒舌家のニック・キースの腕にかじりついていた。
補遺
後に、この驚くべき陰謀と事件の全貌をふりかえってみることができるようになった時、エラリー・クイーン氏はこう言った。「あのたくらみは、二つのこと、つまりオリヴィア・フェルの性格と、あの、それ自体奇想天外な、林の中の瓜二つの家とがなかったら、到底不可能だったろう」
これに加えて、その二つのことは、また、メイヒュー一族の常軌を逸した血統を抜きにしてはあり得なかったと、エラリーは言い添えてもよかったのである。シルヴェスター・メイヒューの父親――ライナッハ医師の継父――は生来、変り者で、その精神的不均衡が子供たちにも受けつがれていた。シルヴェスターと、後にフェル夫人となったサラは、双生児であり、互いに相手が特典を与えられることに常に気違いじみた嫉妬心を抱いていた。二人が同じ月に結婚した時、父親はもめごとを避けるために、どこからどこまでそっくり同じ家を特別に二軒建てさせて、それぞれに与えた。一軒は自分の家のすぐ隣に建てて、フェル夫人に結婚祝いとして与え、もう一軒は数マイル離れた自分の所有地に建てて、シルヴェスターにあてがった。
フェル夫人の夫は結婚して早々死んでしまい、そこで夫人は種違いの弟のところに移って、一緒に暮らした。父親が死ぬと、シルヴェスターは自分の家を閉めきって、先祖代々の邸に移った。かくして同じ家具調度をすっかり備えつけた双子の家が、長年わずか数マイルの道のりをへだてて立っていた――メイヒュー一族の奇矯さのとてつもない記念物というわけである。
瓜二つの『白い家』は板を打ちつけられたまま、むなしく放置され、オリヴィア・フェルという悪の天才を得てようやく初めて利用されることのなったのである。オリヴィアは美しく、聡明で、教養があり、マクベス夫人のように破廉恥だった。シルヴェスター・メイヒューの財産をしぼり取るなり、奪い取るなりするだけの目的で、『黒い家』の隣に打ち捨てられていた家に戻るように、他の者たちをうながしたのは、ほかならぬオリヴィアだった。ソーンが現われて、長らく行方の知れなかったシルヴェスターの娘の消息をもたらした時、オリヴィアは自分たちのくわだてが危うくなることを察し、ソーンが持参した写真から自分とそのイギリス在住のいとこが似ていることを知って、あのとてつもない陰謀を思いついたのである。
そこで第一段階は、明らかに、シルヴェスターを片づけることだった。有無を言わせぬ説得力を発揮して、オリヴィアはライナッハ医師を自分の意に従わせ、シルヴェスターの娘が到着する前に、自分の患者を殺させてしまった。(後日、死体を発掘して解剖したところ、体内から毒物の痕跡が発見された)その一方で、オリヴィアは扮装と錯覚の計画を練り上げたのである。
家が消えてなくなる錯覚は、ソーンを狙って計画されたもので、『黒い家』を壊して金貨を捜すあいだ、彼を遠ざけ、途方に暮れさせておくためだった。自分の扮装が完全に成功するという確信がオリヴィアにもしあったら、錯覚戦術はおそらく不必要だったであろう。
この錯覚戦術は、もちろん、見かけよりも簡単だった。家はそこにあり、すっかり家具調度を備えつけて、いつでも使えるばかりになっていた。必要なことといえばせいぜい、打ちつけた板を取り払い、中の空気を入れかえて掃除をし、新しいシーツやカバーを用意するくらいのことだった。アリスの到着までに、この下準備をする時間はたっぷりあった。
オリヴィア・フェルの計略の一つの弱点は、道具立てではなく、人にあった。それがなければこの女はあらゆる点で成功しているところだった。ところが、アリス・メイヒューを殺す仕事にニック・キースを選ぶというあやまりを犯してしまったのである。キースは最初は、十分報酬さえもらえば何でもやってのけるならず者を装って、陰謀の一味にもぐりこんだのだった。実のところは、シルヴェスター・メイヒューにひどく虐待されたあげく追い出されて窮死したメイヒューの二度目の妻の息子だったのである。
母親は生前、キースの心にメイヒューに対する憎悪を植えつけ、それがその後、年とともに薄れるどころか、ますますつのっていった。キースが陰謀の仲間に加わった唯一の目的は、継父の財産を見つけ出し、メイヒューが母親から奪い取った分を取り戻すことだった。アリスを殺すことが、表向き自分の役目になっていたのだが、初めからそんなつもりはさらさらなかった。最初の晩、エラリーとソーンの鼻先でアリスを家から運び出したのも、オリヴィアの言いつけどおり締め殺して埋めてしまうためではなく、自分しか知らない近くの林の中の古い掘立て小屋にアリスをかくまうためだった。
『黒い家』の中をひっかきまわすかたわら、キースはアリスのために何とかこっそり食料を持ち出した。初めは彼女をまぎれもなくただ監禁していただけで、金を見つけ、自分の分け前を取って逃げる時が来るまで、そうしておくつもりだった。ところがアリスをよく知るにつれて愛するようになり、間もなく掘立て小屋の中でこっそり彼女に一部始終を打ち明けてしまった。アリスが寄せた同情はキースに新たな勇気を与えた。今や、アリスの身の安全をほかの何よりも案じたキースは、自分が金を見つけ出し、共謀者たちを出し抜くまで、そのまま隠れているようにアリスを説き伏せた。時が来たら、二人はオリヴィアの仮面をはいでやるつもりだったのである。
エラリー・クイーン氏も後に指摘したように、この事件で皮肉だったのは、これほどまでの陰謀と反陰謀の目的物、すなわち、シルヴェスターの金貨が、かつて『黒い家』が一見そうなったように、姿を隠したまま、依然として現われないことだった。建物と敷地をすみずみまで徹底的に捜索したにもかかわらず、金貨は影も形も見つからなかった。
「みなさんに拙宅までご足労願ったのは」数週間たったのち、エラリーがにこやかに言った、「あることを思いついて、ぜひとも調べてみる必要があったからなんです」
キースとアリスはぽかんとして顔を見合わせた。そして、何週間ぶりかで、身ぎれいになり、元気を取り戻して、いかにも満足そうな様子を見せていたソーンが、エラリー宅の非常に坐り心地のいい椅子にきちんと坐り直した。
「何かを思いついてもらって、嬉しいですね」ニック・キースがにっこり笑って言った、「ぼくは貧乏人だし、アリスだってその点じゃ五十歩百歩ですからね」
「きみは富というものに対して哲学的な受けとめ方をしていないな」エラリーがそっけなく言った、「ライナッハ医師の人柄のじつに魅力的な点はそこだったんだがね。なさけない巨人《コロッサス》だ! あの男は刑務所暮しが気に入っているかな……」そこで暖炉に薪を一本押しこんだ。「アリスさん、現在までに、ぼくらの共通の友人、ソーンくんが人を使ってあなたのお父さんの家をほとんど根こそぎ取り壊してしまったんですがね。それでも金貨は出てこない。だろう、ソーン?」
「出てきたのはほこりだけさ」弁護士がなさけなそうに言った。「やれやれ、我々は石を一つ一つひっぺがしてあの家を解体したのにな」
「まったくだ。となると、二つの可能性がある。なにしろぼくは度しがたいほど断言的な人間でしてね。アリスさん、お父さんの財産は存在するか、あるいは存在しないか、どちらかです。存在しないのなら、お父さんは嘘をついていたことになり、もちろんそれで一件落着で、あなたと、あなたの大事なキースくんは額を突き合わせて相談し、気高くも厳しい独立独歩の貧困に甘んじて生きるか、それともお上の生活保護の厄介になるか、いずれかに話をまとめなければなりますまい。しかし、お父さんが言われたとおり、財産があり、あの家のどこかに隠したのだとしたらどうでしょう。どういうことになりますか?」
「そうだとしたら」アリスがため息まじりに言った、「どこかに飛んでいってしまったんですわ」
エラリーは声をあげて笑った。「そうとばかりはかぎらない。いずれにしても、何かが消えてなくなるってのは、もう当分たくさんですよ。別の角度から問題に取り組んでみましょう。シルヴェスター・メイヒューの生前にはあの家にあって、今はあすこにないというものが何かありませんか?」
ソーンが目を見張った。「もしも、きみの言おうとしているのが、あの――死体のことだとしたら……」
「気味の悪いことを言いたもうな、想像力貧困もいいところだ。それに、死体は発掘して調べたじゃないか。だめだね、もう一度考えて」
アリスは膝に置いた包みにゆっくりと視線を落とした。「じゃ、今日これを持ってくるようにおっしゃったのは、そういうわけでしたのね!」
「すると」キースが叫んだ、「あの爺さんが財産は金貨だと言ったのは、わざとみんなをはぐらかすためだったっていうわけですか?」
エラリーはくすくす笑いながら、アリスから包みを受け取った。そして包みをほどくと、アリスの母親の古ぼけた大判の着色写真を、しばらく鑑賞するようにじっと見ていた。
それから、正真正銘の論理主義者らしくいかにも確信ありげに、額縁の裏板をはぎとった。
金色と緑色をした証書類が滝のようにばらばらと膝の上に落ちてきた。
「証券に換えてあったんですね」エラリーがにっこり笑って言った。「アリスさん、あなたのお父上は気違いだなんて誰が言ったんです? じつに頭のいい方じゃないですか! さあ、さあ、ソーン、そんなにじろじろのぞきこむのはやめて、この好運児たちをそっとしといてあげようじゃないか!」(完)
作者紹介
『エラリイ・クイーン』は、二人の従兄同志のアメリカ人フレデリック・ダネイとマンフレッド・B・リーの共同の筆名である。彼らはふたりとも一九〇五年ブルックリンでうまれた。リーはニューヨーク大学にゆき、在学中自分でオーケストラをつくった。ダネイは大学にはゆかなかったが二十四歳のときにはニューヨークの広告会社の美術部長になっていた。またリーは、映画会社の宣伝広告をかいていた。そのころ彼らはある探偵小説懸賞募集の広告をよみ、気軽に応募してみた。おどろいたことには、彼らは当選したのだ。だが募集した雑誌は出版をやめてしまった。ある出版社がこの小説に注目し、『ローマ帽子の秘密』は出版されるようになった。こうして現代のもっとも人気ある共同著作の幕がきっておとされたのである。
数年間というもの『クイーン』は、身元をかくすために慎重な注意をはらった。署名会とか文学茶会などには黒マスクをして出席した。このことは「悲劇シリーズ」の筆名『バーナビー・ロス』についても同様であって、ダネイ、リー両氏は、この別名で二番名の、見逃すことのできない探偵『ドルリー・レーン』というもとシェークスピア俳優をつくったのである。従兄弟たちはあるとき同時に『クイーン』と『ロス』として共同論争の講演旅行をしたが、主催者さえ彼らが二重に同一人であることをしらなかった! この共同作業に従事する従兄弟たちは、他のどんな作家よりもっと大きな楽しみをこの仕事にもっているのだろうが、彼らの著作を本質的には商売と心えている。めいめい自宅で一定のスケジュールにしたがって働いている。そしてときどき五番街のあるガランとした事務室にあつまる。彼らは、そこを郵便のアドレスぐらいに考え、そこにあるもののなかで彼らの商売を暗示するものは唯ひとつ小さな防弾窓ぐらいのものである(しかもそれは先住者の宝石商がおいていったものだ)。彼らはときどき日課をやぶってハリウッドに旅行にゆく。リーは結婚しふたりの娘をもち、ニューヨーク市にすみ、切手収集道楽をしている。ダネイもやはり結婚し、ふたりの小さな息子をもち、郊外のグレイト・ネックにすみ、現存最上の立派な短篇探偵小説のコレクションをもっている。
(ヘイクラフトの評論『娯楽としての殺人』から)
〔訳者略歴〕
真野明裕《まのあきひろ》 一九四二年東京生まれ。慶応大学卒。おもな訳書ジョイス・キャロル・オーツ『かれら』、ジョン・アーヴィング『サイダーハウス・ルール』、ピーター・アクロイド『チャタトン偽書』、ジェーン・オースティン『いつか晴れた日に』など多数。