エラリー・クイーン/田村隆一 訳
Zの悲劇
目 次
一 ドルリー・レーンさんに会う
二 死人と会う
三 黒い木箱
四 五番目の手紙
五 六番目の手紙
六 エーロン・ドウ現わる
七 首がしまる
八 救いの神
九 論理学のレッスン
十 監房での実験
十一 裁判
十二 余波
十三 ある男の死
十四 第二の木片
十五 脱走
十六 Z
十七 わたしは主役
十八 暗黒の時
十九 王手
二十 Zの悲劇
二十一 最後の手がかり
二十二 大詰め
二十三 最後の言葉
解説
登場人物
エライヒュー・クレイ……大理石会社社長
ジェレミー・クレイ……その息子
アイラ・フォーセット……医者、クレイの共同経営者
ジョーエル・フォーセット……その弟、上院議員
カーマイケル……その秘書
ファニー・カイザー……女傑
ジョン・ヒューム……地方検事
ルーファス・コットン……政治家
マグナス……アルゴンキン刑務所所長
スカルチ……死刑囚
エーロン・ドウ……囚人
ミュア……神父
ブルーノ……知事
サム……元警部、私立探偵事務所所長
ペイシェンス……その娘(愛称パット)
ドルリー・レーン……シェイクスピア役者
一 ドルリー・レーンさんに会う
これからお話する事件との、わたしの個人的なかかわりは、名探偵ドルリー・レーンの愛読者であるあなたがたにとって、さして興味のあることではなさそうだから、わたしの自己紹介は、女性としての虚栄心のゆるす範囲内で、できるだけ簡単にしておきましょう。
わたしはまだ若い女性、それはどんな意地悪な|あら《ヽヽ》さがし屋だってみとめてくれるはず。わたしの、どうにか工夫して大きく青くうるんで見せている瞳だって、そう、ロマンチックな男性諸君のお言葉をかりると、聖なる星のきらめき、大空のような色をたたえているんですって。いつだったか、あのハイデルベルクのハイスクールの生徒、ちょっとイカす男の子ったら、わたしの髪の毛を蜜の光沢にたとえてくれたけど、南フランスのリヴィエラで、ちょっとばかり口喧嘩をしたわたしの国のご婦人によると、たいそうお口の悪い方《かた》でしたけど、このわたしの髪の毛はボロボロの麦わらみたいなんですって。ほんのつい最近、パリの有名な婦人服の店クラリスのサロンで、ナンバー・ワンの八頭身美人のモデルとわたしが肩をならべて立ってみたら、わたしのスタイル、あの小生意気なモデルの肉体美にくらべても、まんざらじゃないってことがわかったくらい。そりゃあむろん、わたしの五体はちゃんとしたもの、それに――だれあろう、あの名探偵ドルリー・レーン氏保証ずみの――きわめて回転のいいオツム、もわたしは持っている。それにまた、わたしの最大の魅力の一つは、『チャキチャキのオテンバ娘』だってよく言われるけど、これだけは、この物語をおしまいまで読んでいただけばわかるとおり、まるっきりのでたらめです。
ま、わたしのことといったら、めぼしいところは、ざっとこんなもの。あとは、『迷える北欧人』とでもわたしのことを言ったら、ドンピシャリかもしれない。というのは、わたしがセーラー服に|おさげ《ヽヽヽ》の少女時代から、あちらこちらとやたらに駈けずりまわったからです。もっともその途中、かなり長いあいだ、エンコしていたことも、ままありました。そう、たとえばロンドンの、あのゾッとするような花嫁学校にはまる二年間、それからまた、パリのセーヌ左岸に十四か月もオミコシをすえていたことだってあります。もっとも、わが名ペイシェンス・サムが、ゴーガン、マチスと並び称されるようなことは、金輪際《こんりんざい》あり得ないということが、はっきりと肝《きも》に銘じられるまででしたけど。はてはマルコ・ポーロのひそみにならって、はるか東洋に旅したこともあるし、かのカルタゴの将軍、ハンニバルをしのんでは、ローマの城門を強襲したことだってある。おまけに、わたしは科学的精神の持ち主ときている。ですから、チュニスではアブサンを、リヨンではクロ・ヴージェ、リスボンではアガルディ・エンテを味わってきたんです。さらにまたアテネの城砦《じょうさい》、パルテノンの神殿まで登りつめて足のつま先をぶっつけたり、サフォーの島の魅惑的な雰囲気のなかで、官能的な歓びにわれとわが身を忘れたことだってあるのです。
こんなこと、あらためて言うまでもないでしょうけど、あんなにすばらしい旅行ができたのも、ひとえにお小遣いがたっぷりあったこと、おまけに都合のいいことに乱視で、しかもユーモアのセンスをかねそなえているという、世にもめずらしき付添婦人と、旅行中ずっといっしょだったからなのです。
そうね、旅というものは、まるで泡立ちクリームそこのけ、つぎからつぎへととめどもなくひろがって行くみたい。といって、泡立ちクリームもなんべんもおかわりしたら、それこそ胸がむかついてしまう。旅行だってそのとおりだわ、美食家みたいに、とどのつまりは栄養本位のあっさりした手料理のほうがありがたくなるというわけ。そこでわたしは、いちずに意をかためると、同行の世にもめずらしき付添婦人とアルジェで別れ、一路アメリカへと向かったのです。やがて、あのなつかしいロースト・ビーフのような父の顔を一目見たとたん、美食にげんなりしていたわたしのホームシックもすっかりけしとんでしまいました。ところが、父ときたら、わたしがボロボロになるまで愛読していたD・H・ロレンスの『チャタレイ夫人の恋人』のフランス版を、ニューヨークへ持ちこもうとしたものだから、腰をぬかさんばかりにおどろいてしまったのです。わたしはこの小説を、あのロンドンの花嫁学校の寄宿舎の自室で、あくまでも芸術的な感動にかられて幾晩も読み続けていたんですけどね。もっとも、このささいな問題も、わたしの希望どおりということに落着し、父にせきたてられるようにして税関の手続きをすませると、わたしたち親子は、ちょうど古巣へ舞いもどって行く二羽の鳩《はと》みたいに、なにか照れくささをおたがいに感じあいながら、問わず語らず、ニューヨークの父のアパートへ、ただ黙々と帰って行ったのです。
ところで、どうでしょう、『Xの悲劇』『Yの悲劇』を読んでみますと、その主要人物の一人であるサム警部、つまり、偉大にして、巨体、鬼神も避けるような面魂《つらだましい》のわたしの父は、この二冊の、スリルとサスペンスにみちみちている探偵小説のなかで、ただの一ぺんも、旅行中の娘のことには言及していないじゃありませんか。といって、父が、娘であるこのわたしに愛情を持っていないというわけじゃない、あの埠頭《ふとう》で、わたしにキスをしてくれたときの、父の目にあらわれた、言葉では言いあらわしがたい深い慈愛の色を見ただけでも、わたしにはよくわかる。要するに、わたしが父の手許から遠くはなれて成長してしまったからなのだ。わたしが抗議するということもまだ知らないほんの幼いときに、母は、あの世にもめずらしい付添婦人をつけて、このわたしをヨーロッパへ追いやってしまったのですもの。どうやら母には、むかしから感傷的な性向があったらしく、わたしの手紙を読んでは、ヨーロッパの生活を、まるで夢のように優雅なものだと自分勝手に夢想していたのじゃないかしら。そんなわけで、かわいそうな父は、ほんとうに、わたしという娘を知る機会がなかったのですね。といって、わたしたち父娘《おやこ》が、はなればなれに暮らすようになったのは、なにからなにまで、母の|せい《ヽヽ》ばかりとは言えないのです。そうだ、わたしがまだずっと小さかったころ、父の足もとにまつわりついて、捜査中の犯罪事件を、根掘り葉掘りたずねては父を手こずらせたり、さも面白そうに三面記事の血なまぐさい報道を、わくわくしながら大声で読みあげたり、センター・ストリートで勤務中の父のところへ、だしぬけに行って、支離滅裂な助言をどうしてもするのだと駄々をこねたりしたことを思い出します。こんなことを言うと、父は、そんな馬鹿な、とは言ってくれますが、さだめし父は、わたしがヨーロッパに旅立ったときには、ホッと胸をなでおろしたにちがいありません。
ま、いずれにせよ、わたしがアメリカに帰ってきてから、父と娘のノーマルな親子関係を回復するのには、それこそ何週間もかかりました。もっとも、わたしのヨーロッパ遊学時代にも、何度かあわただしく帰国したことはあったのですけど、そんなことぐらいでは、なにしろ、ああいう無骨な父ですから、若い女の子と食事をしたり、おやすみなさいのキスをしたりして、つまり見た目にも父親らしくふるまおうというような気のきいた芸当は、逆立ちしてもできなかったのですね。そんなわけで、わたしが帰国した当座というものは、父の気苦労はほんとうに痛々しいくらいでした。そう、父の全捜査活動を通じて検挙した無数の凶悪犯にもまして、この娘のわたしを、父が一番おそれていたと言ってもいいくらい。
ところで、くどくどとお話してきたのは、これからわたしが述べようとする、ドルリー・レーンさんとアルゴンキン刑務所に服役中のエーロン・ドウのきわめて異様な事件の、どうしても欠くことのできない序曲なのです。というのも、わたし、つまり、ペイシェンス・サムなどという|イカレ《ヽヽヽ》た娘が、いったいどういう因縁で殺人事件にまきこまれる|はめ《ヽヽ》になったか、そのいきさつがあなたがたにわかっていただけるからなのです。
わたしのヨーロッパに遊学中の数年間、ニューヨークから来る父の手紙に――とりわけ母が死んでからというもの――ドルリー・レーンという不思議な天才老優のことが、心からの尊敬の念をこめて、ちょくちょく書いてあるのを読んで、わたしは頭をずいぶんひねったものです。そのドルリー・レーンという引退した名優は、父の捜査活動にはなばなしく登場してきたのです。むろん、わたしは、それ以前にも、その老優の名声はよく知っていました。なにしろ、このわたしときたら、実話だろうと、探偵小説だろうと、こと犯罪に関するかぎり、じつに熱心な読者だったし、また舞台から引退したこの老優の名前が、ヨーロッパでもアメリカでも、その新聞紙上で、まるで芝居の神さま扱いにされているんですもの。不幸にも耳が聞こえなくなり、その結果、舞台から引退せざるをえなくなってから、犯罪捜査にめざましくうちたてた老優の功績は、世界中に宣伝され、その評判は、ヨーロッパにいるわたしの耳にさえ、何度となく入ってきたのです。
ヨーロッパから帰国の途中、ハドソン河をはるか下に見おろす壮麗な古城にすみ、現代ばなれのした生活をしているおどろくべき人物、老優ドルリー・レーンに、矢も盾《たて》もたまらず、突然、わたしは会いたくなったのです。
ところが、いざニューヨークに帰ってみると、父は自分の仕事にかかりっきりというありさまではありませんか。ニューヨーク警察本部を退職してからというもの、父が日々の無|りょう《ヽヽヽ》にただあきあきしていたのはあたりまえのこと、なぜって、その半生を捧げた犯罪捜査こそ、父にとっては欠かすことのできないパンと水みたいなものだったんですものね。そこで父が、私立探偵業をはじめたのも、|むべ《ヽヽ》なるかなです。ま、警部時代の信用と名声がものを言って、おかげさまで商売は開業早々から好調でした。
それにひきかえ、わたしのほうはなにもすることはないし、そうかといって、遊学中の派手な生活がたたって、地味な家庭生活にはなかなかとけこめそうもなかったし、そこでわたしは、もうずっと昔にやめてしまったことを、またまたブリ返すよりほかに手がないじゃありませんか。わたしは昔にかえって、たいてい父の探偵事務所に押しかけ、父にブツブツ言われようと、そんなことはおかまいなしに、父を手こずらせるようになりました。父ときたら、娘のことなんか、アクセサリーぐらいにしか考えていないようなんです、たとえばボタンの穴に插す花ぐらいにね。でも神さまが、父そっくりの頑丈な顎《あご》をあたえてくださったので、わたしは強情を張り通してしまいました。とどのつまり、父もとうとう音をあげて、ときたま、わたしに捜査の手伝いをさせてくれるようになったのです。こんなわけで、現代の犯罪に関する用語や心理学のイロハを習得したのです。こうした耳学問が、本篇のドウ事件を理解するうえに、とても役に立ったというわけ。
役に立つといえば、そのほかにもっとプラスになることがわかりました。じつは父ばかりか、このわたし自身もびっくりしてしまったのですけど、わたしにはどうしてなかなか、観察と推理という、この道になくてはならぬ非凡な才能にめぐまれているということに気がついたんです。ま、突然、自分自身で気がついたこの特殊な才能というものも、子供のころの環境と、犯罪に対するあくことのない興味が育ててくれたものなのでしょうね。
「パット、おまえに事務所にいられたんでは、手も足も出んよ、たいへんな娘がいるものだ、すっかり、お株をとられてしまったじゃないか、これじゃ、まるで警部時代に、ドルリー・レーンと捜査にあたっていたころと変わりがない」と、父はうなったものです。
「まあ、なんてお口のうまい警部さん、ところで、そのレーンさんにいつ紹介してくださるの?」
ところが、そのチャンスは、わたしが帰国してから三月《みつき》後に、突然やってきました。ことの起こりはごくなんでもないことでした――もっとも、こういったことのきっかけは、ごくさりげなくはじまるものですが――それがどうでしょう、四六時中、犯罪や事件に血道をあげているわたしのような娘でさえ、思わず心臓がとびあがるような大事件の発端になろうとは。
ある日、背のすらりとした、銀髪の身ぎれいな紳士が、父の事務所を訪ねてきました。その紳士の表情には、父の手を求めに来るもの特有の、あの悩みと心労の色がきざまれていました。名刺には、エライヒュー・クレイ。彼はわたしの顔をジロリと見ると、ステッキの握りに両手をしっかりとかけたまま、フランスの銀行家を思わせるような、かたくるしい態度で、そっけなく自己紹介をするのです
それによると、彼はクレイ大理石採掘会社の持ち主でした。ニューヨーク州の北部にあるチルデン区域がおもな採掘場で、事務所と住居は、ニューヨーク州のリーズ市。で、父に依頼したい調査というのは、きわめてデリケートで極密を要する、わざわざ、こんな遠くの事務所までやって来た理由も、ひとえにそこにあるのだから、万全を期してあくまでも慎重に扱ってもらいたい、と彼は強調するのです。
「よくわかりました」父はニヤッと笑いました、「ところで葉巻はいかがです? すると、金庫の現金をねらっているやつでもいるといわれるので?」
「とんでもない! いや、じつはですな、私には――つまり、匿名の共同経営者がおるのです」
「なるほど、で、そこのところをもう少しくわしく」
匿名共同経営者――匿名という点で、ひどくうさんくさい感じ――この共同経営者は、アイラ・フォーセット博士。博士は、チルデン郡選出の州上院議員ジョーエル・フォーセットの兄。このとき、父が眉をひそめたので、この上院議員は良心的な政治家からはほど遠い人物だな、とわたしはにらんだ。顔もあからめずに『昔気質の律義な商売人』と自分のことを言うクレイは、その上院議員の兄のフォーセット博士を、会社の共同経営者にしたことを、どうやら今になって後悔しているらしい。フォーセット博士はきっと肚黒《はらぐろ》い人物なんだわ、とわたしは見てとった。博士は、クレイがうさんくさいとにらんでいるような売買契約を片端から会社にむすばせてしまったというのです。おかげで商売は大繁昌――いや、どう考えても繁昌しすぎる。不自然なくらい、たくさんの州や郡からの取り引きが、クレイ大理石採掘会社にあつまってくる。そこで、細心にして厳正な調査が、どうしても必要だというわけです。
「これといった証拠はないのですか?」と父がたずねました。
「それが全然ないのです、警部。博士は尻尾を出すような馬鹿ではありません。ただ疑惑だけが、私のよりどころなのですがね。どうでしょう、引き受けていただけますか?」エライヒュー・クレイはそういうと、巨額の紙幣を三枚、父のデスクの上におきました。
父はわたしの顔にチラッと視線をうごかしました。
「パット、お引き受けするかい?」
わたしはあいまいな顔をしてみせました。
「だって、仕事がとてもつかえているじゃありませんか、みんな、なげてしまえばべつだけど……」
一瞬、エライヒュー・クレイは、わたしの目をじっと見つめました。「そうだ、いい考えがある」彼は藪《やぶ》から棒に言い出したのです、「警部、フォーセット博士にあなたのことが感づかれたらおしまいです。といって、私の依頼をあなたに引き受けていただかねばこまる。そうだ、あなたとお嬢さんとで、リーズ市の私の家に、客として来ていただけませんか。お嬢さんがおいでになれば――いろいろと好都合ではないでしょうか」
わたしは、アイラ・フォーセット博士が、女性の魅力というものに鈍感ではないと、見てとったのです。そうですとも、その途端に、この事件にたいするわたしの興味は、グーンと燃えあがったのです。
「パパ、お引き受けしましょうよ」わたしはいせいよく言いました、そこで話はきまりました。
父とわたしは、それからの二日間を旅行の準備についやしました。そして日曜日の夜には、リーズ市へ行くために、旅行鞄などの荷造りをしました。エライヒュー・クレイは、一足先に、ニューヨークの父の探偵事務所を訪ねたその日のうちに、リーズ市へとってかえしたのです。
そうだ、あの電報がとどいたとき、わたしは暖炉に両脚をのばし、ハンサムな税関吏の目をチョロマカして、やっぱり持ちこみに成功したピーチ・ブランディをチビチビすすっていたっけ。その電報はブルーノ知事、父が現役の警部時代に、ニューヨーク州の地方検事で、現在ではニューヨーク州の闘志満々たる知事として人望をあつめているウォルター・ザヴィア・ブルーノが打ってよこしたものでした。
父は膝《ひざ》をポンとたたくと、咽喉《のど》の奥でクックッと笑いました。
「ブルーノは変わらないね! おい、パット、おまえのおねだりも、いよいよかなえられるぞ。大丈夫だろうな、え?」
父は電報をポイと投げてよこしました。それには――
老戦友ヨ元気カ 明日 レーン城ニオモムキ七十回誕生日ノ老優ヲオドロカス所存 レーン病気トキク 元気ヅケル要アリ 多忙ナル知事ニ可能ナレバ 君ニテモ可能ナラン レーン城ニテ待ツ
ブルーノ
「ワッ、すごい!」思わずわたしは叫びました、そのとたんに、いちばん大好きなパタオのパジャマにブランディをこぼしちゃった。
「あの方、あたしをお気に召すかしら?」
「ドルリー・レーンさんはな」父はツッケンドンな口調で、「その、つまりだ、女嫌いなんだ。といって、おまえを連れて行かにゃあな。いいから、おやすみ」そこで父はニヤッと笑って、「パット、明日はとびきり別嬪《べっぴん》になってもらいたいものだね。あの意地悪じいさんをびっくり仰天させてやろうや。それからと、なあ、パット、酒はつつしんだほうがよくはないかい?」父はあわててつけ加えました、「なに、そう言ったからって、わしは昔気質の頑固おやじではないけどね、それにしても――」
わたしは、ボクサーみたいにつぶれた父の不格好《ぶかっこう》な鼻の頭にキスしました。ほんとにやさしいパパ、そんなにご心配なさることはないのよ。
ハドソン流域の丘陵に聳《そび》え立つドルリー・レーンの居城『ハムレット荘』にたどりつくまでの道は、父から話をきいて、わたしが頭に描いていたとおりのもの――いいえ、それ以上でした。ヨーロッパ各地の名所なら、一通りはこの目で観てきたのですが、こんなすばらしいところは生まれて初めてでした。ヨーロッパ大陸のどこをさがしても、こんな美しい景観に接することはできませんでした――かのライン河畔でさえも、あのこんもりとおい繁っている森、清浄な路、空を流れる雲、はるか下方にうねりながらゆったりと流れている青い河の、絶妙な平和と美しさにくらべたら、はるかに見劣りがすると言ってもいいくらい。それにまた、あのお城! はるか昔の英国の丘陵から、お城をそっくりそのまま、魔法の絨毯《じゅうたん》にのせて運んできたみたい。なんという巨大な、豪壮な、美しい、中世紀そのままのお城!
わたしたちは一風変わった丸木橋を渡ると、まるでロビン・フッド一味が棲《す》んでいた、あのシャーウッドの森を思わせるような私有林を通り――そうだ、ロビン・フッドの手下の坊主、あの痛快なフライヤ・タックが、ヒョッコリと木立のかげから、いまにもとび出してきそうな気がしたりして、正面の城門をくぐり、中庭へ入って行ったのです。そこ、かしこで、わたしたちは微笑をたたえている人たちに出会いました。そのほとんどが老人ばかりで、大部分がドルリー・レーンの恩恵に浴してくらしているのです。老優は、時代からとりのこされた老芸術家たちのために、この親しみやすい城を開放して、彼らの避難所にあてたのです。父の話ですと、ドルリー・レーンの名と、その惜しみなき慈悲心を祝福する人びとの数は、それこそかぞえきれないくらい。
ブルーノ知事は、中庭でわたしたちを迎えてくれました。まだ、この城の主人には挨拶もせずに、わたしたちが到着するのを、知事は待っていてくれたそうです。見たところ、ブルーノ知事は、とても感じのいい人――角ばった顔、高い額、知的な眼差し、戦闘的な頑丈な顎の線、それにたくましい体躯。その後方には、知事の護衛の任にあたる警官たちが、たえず油断なくうろついていました。
しかし、知事のことなど眼中にないくらい、わたしは興奮していたのです。なぜって、ひとりの老人がゆっくりとした足どりで、イボタの木々をぬけ、イチイの並木道から、わたしたちのほうへ近づいてくるではありませんか。見たところ、その老人は、びっくりするくらいヨボヨボした感じ。父の話から、ドルリー・レーンさんは、背がスラリと高く、五体にはまだ若さがみなぎり、男の働き盛りのように、わたしはいつも想像していたのに。十年という歳月が、この名優の肉体にいかに無情な変化をもたらしたか、目《ま》のあたりに見たわたしは、あらためてそう感ぜざるをえなかったのです。十年の歳月は、ガッシリとした幅のひろい両肩をすぼませ、ゆたかな銀髪を薄い白髪《しらが》頭に変え、顔や手に深い皺《しわ》をきざみつけ、歩き方から弾力を奪ってしまっていた。だがしかし、さすがに目だけは、いまもなお若々しく、ひとの心の奥の奥まで見透さずにはおかぬ、あの明澄さと、英知とユーモアにするどく光っているではありませんか。と、そのとき、老優の頬がパッと紅潮しました。はじめは、わたしの存在など目に入らなかったらしく、ブルーノ知事と父の手を固くにぎりしめると、二人にしがみつくなり、こう言いました、「これは、これは、よく来てくださいました、ほんとによく!」いつも自分のことを、ドライな娘だとばかり思いこんでいたのに、どうしたことでしょう、熱いものが咽喉にこみあげてくるなり、目には涙があふれてきて……。
父は鼻をかむと、わざと荒っぽい口調で言いました、「レーンさん、会ってやってくださいよ、うちの――うちの娘ですがね」
老優は、ひからびた両の手にわたしの手をにぎりしめると、わたしの目を見つめました。「お嬢さん」老優はおもおもしい口調で言いました、「ようこそ、ハムレット荘に」
わたしもそれにお答えしたのですけど、そのときのことを思いだすと、かならず顔が赤くなってしまう。ほんとのことを言うとね、あのとき、わたしは自分のことがひけらかしたかったのです。レーンさんに、自分が頭のいい娘だということを見せつけたかったんですわ。やっぱりわたしという女は、イヴとおなじ種族なのね。もうながいこと、ずっとレーンさんと会う日のことを夢見ていたものだから、まるで才能のテストでもされるように思いこんで、無意識のうちに固くなっていたのです。
いずれにせよ、わたしはこんなことを口走ってしまった――「お目にかかれて、こんなにうれしいことはありませんわ、あたし、どんなにお会いしたかったか――」それから、|あれ《ヽヽ》が口からとび出してしまったんです。わたしはレーンさんに流し目をおくって――そうですとも、あれは流し目だった――こんな言葉が口からとび出してしまったんです、「いま、回想録を書こうと思っていらっしゃいますのね!」
むろん、この言葉が口からとび出してしまったとき、とっさに、しまった! と思いました。なんて馬鹿なことを! あまりのはずかしさに、わたしは思わず唇をかみしめたくらい。そばにいた父がハッと息をとめてから、大きく息をつくのが手にとるようにわかり、ブルーノ知事があきれかえったあまり、ポカンと口をあけていたっけ。レーンさんはといえば、老いた眉をつりあげて、するどい目になりました。それからしばらくのあいだ、まじまじとわたしの顔を見つめていました。やがて、咽喉のおくでクックッと笑うと、両手をこすりあわせながら、こう言ったのです、「いや、お嬢さん、これはおどろいた、それにしても警部さん、なんだっていままで、こんないいお嬢さんを、わたしの目から隠しておいたのです。で、お名前は?」
「ペイシェンスです」わたしは口のなかでモグモグ言いました。
「なるほど、忍耐《ペイシェンス》とは、いかにも清教徒ごのみですね、警部さん、この名前は、奥さんがおつけになったというより、むしろあなたのほうですね」そこでまた、レーンさんはクスクス笑うと、おどろくほどの強い力で、わたしの腕をつかみました、「さ、みなさん、こちらへどうぞ、つもる話はまたのちほどすることにして……いや、それにしても、これはまったく驚いた!」老優はまだクスクス笑っていました。彼はわたしたち三人を、かわいらしい東屋《あずまや》に案内すると、血色のいい小柄な老人たちを使いにやり、また自分でもこまめに立ち動いて接待してくれたが、そのあいだにも、わたしの顔にチラッチラッと目をやるのです。もうこのときには、わたしの頭は混乱の絶頂に達し、よくもまあ、あんな思いあがったことが言えたものだと、われながらつくづくあきれはて、ひたすら自責の念にかられていたのです。
「それではと」わたしたちが一休みしたところを見計って、老優が口をひらきました、「ペイシェンスさん、あなたがさっき言われた、あのおどろくべき言葉を、ここでじっくりと考えてみようではありませんか」老優の声は、わたしの耳にやさしくひびきました、まるで年代のたったモーゼル産のワインのように、ゆたかな、こくのある、独得のまろやかなひびきで。
「このわたしが、回想録を書こうと思っているとね、そうでしたね? いや、これはおどろいた! それにしても、その美しいあなたの目にうつったほかのものは?」
「ああ、どうしましょう」わたしは口ごもりました、「あんなはしたないことを申し上げてしまって――その、べつにあれは――いいえ、お話をひとりじめにするつもりはなかったんですの、だって、知事にも父にも、レーンさんはずいぶん長いあいだ、お会いになっていらっしゃいませんもの」
「とんでもない、お嬢さん、われわれ年寄りは、忍耐《ペイシェンス》の涵養《かんよう》にかけては、よく心得ておりますからな」老優はまた面白そうに笑って、「いや、こんなことを言い出すのも、老いぼれになった証拠かな、さ、ペイシェンスさん、あなたの目にとまったほかのものは?」
「ええと――」わたしはふかく息をすいこむと、「あなたはタイプライターを習っておいでですわね、レーンさん」
「なんですと?」老優はびっくりしたようでした。父ときたら、はじめてわたしに会ったみたいに、目をまんまるにして、わたしの顔を見つめっぱなし。
「それから」わたしはひかえ目な口調でつづけました、「独習していらっしゃいますのね、それも自己流ではなくて、ちゃんとしたタッチ・システムで」
「これはおどろいた! きれいに仇《かたき》をとられましたね」老優は微笑をうかべながら、父のほうに顔をむけました、「警部さん、あなたはたいへんなお嬢さんをおつくりになったものだ、知恵のかたまりですよ、ま、それにしてもあなたは、わたしのことを、このお嬢さんにいろいろと話したのでしょうね?」
「とんでもない! この私自身、あなた同様、おどろいている始末です。なんで私が、タイプライターのことなど、娘に教えてやれるものですか、私だって、ぜんぜん知らんことですよ、で、娘の言ったことはほんとなんですか?」
ブルーノ知事は顎《あご》をなでながら、「あなたのような若い女性を、州庁でも雇いたいものですな、お嬢さん」
「おやおや、それは話と無関係だ」ドルリー・レーンは口のなかでつぶやきました、老優の目のかがやきが一段と増しました。「これは挑戦ですね。お嬢さんは推理して、そういう答を出した、そうですね? ペイシェンスさんにやれた以上、そういう推理ができるということは明らかです。待てよ……わたしたちが出会ってから、いったい、どんなことがあっただろう、まずはじめに、わたしは木立をとおりぬけて、あなたがたに近づいて行った。そこで警部さん、わたしはあなたに挨拶しました、それからブルーノ知事に。そこで今度はペイシェンスさんとたがいに目をかわし――握手をした。ふむ! すばらしい推理だ、なるほど、それでわかった、手ですよ!」言いおわらぬうちに老優は自分の手を、慎重に吟味しました、やがて微笑をうかべると、うなずきました。
「お嬢さん、驚嘆のほかはありませんね。なるほど、いや、まったくそのとおりだ。タイプの勉強ね。警部さん、わたしの指の爪を見て、なにがわかります?」
老優が父の鼻先へ、静脈のすけて見える白い手をつきつけると、父は目をパチパチさせました。
「なにがわかる? 冗談いっちゃいけませんや、こんな手を見たって、なにもわかるはずがないじゃありませんか、きれいな手、ただそれだけですね」
わたしたちは、いっせいに声をあげて笑いました。
「警部さん、わたしが口ぐせのように言っていることですが、どんなささいなものでも見逃さずに、丹念に観察してみるということが、犯罪捜査の上できわめて重要だということが、これでよくわかるはずです。ほら、わたしの、両手の四本の指の爪が裂けて割れているじゃありませんか。だが、拇指《おやゆび》の爪だけは割れていずに、ちゃんとこのとおり、マニキュアがほどこしてある。拇指以外の指の爪を傷つける手仕事といったら、タイプライターとしか考えられない――つまり、タイプの勉強中というわけです、そのわけは、爪がまだ、タイプライターのキイをたたくときのショックになれていないので、爪の割れ目がなおっていないからですよ……ペイシェンスさん、まさにご名答!」
「しかし、それは――」父が不満そうな顔をして言いかけました。
「まあ、お待ちなさいな、警部さん」老優はニヤニヤ笑いながら、「あなたは昔から疑り深かかった。それにしても、ペイシェンスさん、あなたの推理はすばらしい! ところで、こんどは、タッチ・システムの問題です。いや、するどい推論だ。自己流だと、初心者は指を二本しか使わない。したがって、二本の指の爪だけが割れることになる。ところがタッチ・システムでは、拇指以外の四本の指をのこらず使うのです」老優はしずかに目をとじた、「さて、わたしが回想録の執筆を計画しているという問題。これはお嬢さん、あなたが観察したものからは、ちょっと飛躍しすぎてしまいましたね。だが、あなたには、すぐれた観察力や推理力におとらぬ直観力も、そなわっていることがよくわかるのです。ブルーノさん、この若くて美しい探偵嬢が、どうしてこのような推理を立てたか、あなたにはおわかりかな?」
「いやもう、ぜんぜん」と知事はあっさり白状しました。
「まったく、おやじ泣かせの娘だ」父はうなり声をあげました、でも、持っている葉巻の火は消えてしまっていて、指先がワナワナふるえているじゃありませんか。
レーンさんはまた、おかしそうにクスクス笑いました、「なに、いたって簡単ですよ! 七十歳にも手のとどくへんくつものが、なんだって突然、タイプライターなどを習いだしたのか? ペイシェンスさんは自問自答してみたのです。いままでの五十年間に、タイプライターなど見むきもしなかったくせに、藪《やぶ》から棒に習い出すなんて、まったく腑《ふ》に落ちない、とね。どうです、ペイシェンスさん?」
「おっしゃるとおりですわ、レーンさん、なんだか、一ぺんで見破られてしまうみたい――」
「そこであなたは、こういう答を出してみた、人間が年をとってから、こんなつまらぬ道楽に精を出したのは、自分の人生が峠《とうげ》をすぎたことを悟り、この世を去るにおよんで、なにか個人的なものを書きのこすつもりになったのではないか、それもタイプライターで打つくらいだから、かなり長いものを、こうなれば、もう回想録以外には考えられない、いや、なかなかの名推理ですよ」老優の瞳がくもった、「それにしてもペイシェンスさん、どうしてもわたしにわからぬことがある、それはですね、どういうところから、わたしがタイプライターを独習しているとにらんだのです? たしかにあなたの推理どおりです、しかし、いったいどういうわけで……」
「それは――」わたしは蚊《か》のなくような声で言いました、「ちょっと技術的な点から推理してみたんですの。つまり、こうなんです、もしあなたが、先生について習っておいでなら、初心者ならだれでもそうするように、タッチ・システムで教わるにちがいない、という、かなりはっきりした前提に立って考えてみたのです。で、その前提にまちがいがなければ、先生は、生徒が文字の位置を暗記せずに、キイをズル見できないように、キイに文字をかくすための、ちいさなゴムのカバーをかけるものです。ところで、キイにゴムのカバーがかかっていたとすれば、レーンさん、あなたの爪は割れっこないのです! したがって、あなたはたぶん独習なさっているにちがいない」
父が横から言いました、「クソッ、いまいましい!」それから、まるで女流飛行家とか、ズールー族の娘、それに類した奇形の人間でも自分が産ませてしまったかのように、わたしの顔を穴のあくほど見つめているのです。それにしても、ほんのおそまつな、知恵の花火をあげてみせたばかりに、レーンさんをすっかりよろこばせてしまい、おかげで、そのときから、レーンさんはこのわたしをほんとの仲間扱いにしてくれるようになったのです。この老優と、昔から探偵術についてはげしくやりあってきた父にしてみれば、さぞかし口惜しかったことでしょうね。
その日の午後、わたしたちは静かな庭園を歩いてみたり、レーンさんが共同者たちのためにつくった、玉砂利を敷きつめたちいさな村を訪れたり、人魚酒場でビールを飲んだり、レーンさんの私有劇場や巨大な図書館や、世界中どこを探してもないようなシェイクスピア関係のコレクションを観たりしました。わたしにとっては、生まれてはじめての興奮の連続だったので、その日の午後は、またたくうちに過ぎ去ってしまったくらい。夜は、中世風の大ホールで、はなやかな祝宴が催されました。レーンさんの誕生日を祝うために、ハムレット荘の住人たちが一人のこらず出席して、さんざめく陽気な雰囲気のなかで、ご馳走をいただいたのです。祝宴のあと、わたしたち四人は、老優の私室にひきあげて、ゆっくりとトルコ・コーヒーとリキュールをのみました。まるで地の精のような、背中に瘤《こぶ》のある、小人のような老人が、その部屋をしきりと出入りしていましたが、見るからにたいへんな高齢らしく、なんでもレーンさんの話だと、その老人はもう百歳以上だということです。この老人は、レーンさんのなくてはならぬ忠実な部下、クェイシーで、あのシェイクスピアの『テンペスト』に登場する半獣人のキャリバンを思わせます。この人物については、わたしはいろいろと話にもきいているし、また、愉しい物語の中でお目にかかったことがある。
あのにぎやかな宴《うたげ》のあとでは、暖炉でメラメラと燃えあがる炎と、樫の壁の落ち着いたやすらぎが、なによりの憩《いこ》いでした。わたしは疲れていました、チューダー風のどっしりとした椅子にふかぶかと腰かけて、もっぱらわたしは話の聞き役にまわっていたのです。ひろい肩幅の、岩みたいな巨躯の父、戦闘的な顎の、やせ型の闘士ブルーノ知事、それに貴族的な風貌の老優ドルリー・レーン……
ただ、その場にいるだけで愉しかった。
レーンさんはとてもほがらかでした。自分のことはいっこう喋《しゃべ》ろうとしないで、もっぱら知事と父に話のほこ先を向けるのです。
「いよいよわたしも、年貢のおさめどきらしいですよ」と老優は、話の切れ目に、こんな言葉を、ふともらしました。「ただ土となり、枯葉となる、シェイクスピアの台詞《せりふ》にあるように、わが老いた肉体は、あの世へのかけ橋にすぎない。わたしの侍医たちは、このわたしを五体満足のまま、神さまにお返しするのに、ずいぶん苦労しているところですよ、いや、年をとったものです」老優はそこで声をあげて笑うと、壁にうつっている自分の影を、はらいのけるような手つきをしました。「ま、おいぼれじじいの愚痴《ぐち》話は、これぐらいにしておきましょう。それはそうと警部さん、あなたはさきほどペイシェンスさんとどこか遠方にお出かけになるとか、言ってませんでしたか?」
「ええ、事件の依頼で、パットと北部まで行く予定ですが」
「ほほう」レーンさんはそう言うと、鼻孔をヒクヒクうごかせました。「事件とね、わたしも、なに、わたしもいっしょに行きたいのはやまやまだが、ところで、事件というと?」
父は肩をすくめると、「それがくわしいことはわからないのですよ。ま、いずれにせよ、レーンさんのご専門とはちょっと畑違いですがね。むしろ、これは君の畑だよ、ブルーノ君。なんでも君の旧友の、チルデン郡のジョーエル・フォーセットが、この事件に一枚加わっているらしいんだ」
「そんな馬鹿な」と知事はするどく言って、「ジョーエル・フォーセットなんか友だちにしたおぼえはないよ。やつと政党がおなじだということだけで、ムカついているんだ。やつは悪党だ、なにしろチルデン郡の暴力団の親玉だからな」
「そいつは耳よりのことを教えてくれた」父は歯をむき出して、ニヤリと笑いました。「どうやら、ひさしぶりで大暴れができそうだぞ。それはそうと、やつの兄弟の、アイラ・フォーセット博士のことで、なにか知っているかね?」
一瞬、ブルーノ知事はギクッとしたようでした。彼は目をしばたたくと、暖炉の炎を喰い入るようにみつめていました。
「上院議員のフォーセットなら、いちばん悪質な政治ゴロだ。だが、その兄のアイラこそ暴力団の実際上のボスなのだ。アイラには公職がない、しかし、フォーセットを舞台のかげで操っているのがやつだと言ってもいいくらいだ」
「そうか、それで読めたぞ」父は苦虫をかみつぶしたような顔をして言いました、「ほかでもないが、そのフォーセット博士という男が、リーズ市にある、大きな大理石会社の匿名共同経営者なんだよ。で、その会社の社長のクレイの話によると共同経営者であるフォーセット博士が、会社に危害をおよぼすようなくさい取り引きをいくつかさせようとしている節があるから、この私に、調査してほしいというわけなんだ。ま、調べないまでも、おきまりの不正取り引きぐらいのことは私にもわかるがね、その裏付調査ということになれば、話はべつだ」
「あまりパッとしない仕事じゃないか。なにしろ、アイラ・フォーセットという男は一筋繩《ひとすじなわ》ではいかないからね、悪知恵にかけたらたいしたものさ。社長のクレイだって? その男ならよく知っている。ひどく律義で、堅い人物のようだ……じつは、私にとってとりわけ関心があるのはね、そのフォーセット兄弟が、今秋の選挙戦に打って出ようとしているからなんだ」
老優レーンは目をとじたまま、かすかな笑みをうかべて、しずかに笑っていました。と、その瞬間、そうだ、レーンさんはいま、二人の話をなにも聞いていないんだ、ということに気がついて、思わずわたしはギクリとしたのです。父からも再三、この老優の耳がつんぼで、読唇術によって人の言葉を解するのだということを、わたしはきいていました。ところがどうでしょう、いま彼は目をとじて、人の言葉を|きこう《ヽヽヽ》ともしないじゃありませんか。
わたしは胸中に押しよせる雑念を、いまいましげに追いはらうと、知事と父の話にきき入りました。知事は、あの戦闘的な語勢で、リーズ市とチルデン郡の政治的な情勢の色分けをしているところでした。その説明によると、どうやら、来たるべき秋の選挙までの数か月間というものは、激烈な選挙運動が展開される見とおしのようです。チルデン郡の、若さと活力にあふれている青年地方検事、ジョン・ヒュームは、もうすでに、フォーセットに対抗する政党の公認として、上院議員選挙に立候補していました。この若き侯補者は、その人柄においても地方選挙民から尊敬と支持を受け、また検察官としても、潔白にして率直だという信望をあつめていて、フォーセット一党にとっては、容易ならぬ対抗馬にのしあがっているのです。ニューヨーク州のもっとも凄腕の政治家のひとり、ルーファス・コットンにバックアップされて、この青年候補者ジョン・ヒュームは、州政改革の政治綱領をかかげたのです。そうですとも、フォーセット上院議員は、ブルーノ知事流に言えば「州北部地方の公共事業に対する国庫交付金を喰いものにする政治ボス」で、悪徳政治家としても悪名が高いのですし、リーズ市には、アルゴンキン刑務所などという州刑務所の一つがあることを思いあわせてみると、青年候補者ジョン・ヒュームの新綱領は、とりわけ巧妙適切な戦略だというよりほかはないようです。
レーンさんはというと、もう目をひらいていました、そしてしばらくのあいだ、まるで喰い入るように知事の唇の動きを見つめているではありませんか、どうしてこんなにも老優の眼差しが異様なくらい熱っぽいのか、わたしにはそのわけがのみこめないくらい。刑務所という言葉が出たとたんに、老優のするどい目がキラリとひかりました。
「アルゴンキン刑務所ですと?」老優は声をあげました、「すごく面白いところだ。そうだ、ブルーノさん、あなたが知事に選出される数年まえのことだったが、モートン副知事がマグナス所長にうまく取りはからってくれて、所内をつぶさに見学させてもらったことがありましたよ。いや、なかなか面白いところでした。そこで、わたしは旧友のミュア教悔師《きょうかいし》に会いましてね。彼とは昔も昔、そうですね、あなたがたとまだお知り合いになるまえのことだと思いますよ。彼は、ニューヨーク市のバワリー街が悪の温床だったころ、その地区の神父だったのです。警部さん、もしミュア神父にお会いになったら、わたしがくれぐれもよろしく申していたと、どうかお伝えください」
「とおっしゃられても、はたして会えるものやら。なにしろ現役からしりぞいて、刑務所視察など、もう昔がたりですからね……おや、ブルーノ君、もう帰るの?」と父。
知事はしぶしぶと、いかにも名残りおしげに椅子《いす》から腰をあげたところでした。「残念だけどね、州議会があるんだ。なにせ、重要議題が出ているまっ最中に、ぬけ出してきた始末でね」
レーンさんの顔から微笑が消えると、やつれた皮膚に、また老《お》いの皺がふかくきざまれた。「なにを言うのです、ブルーノさん、わたしたちだけをおきざりにするなんて、それではあんまりというものですよ。いま、やっと話がはじまったばかりだというのに……」
「ほんとうに残念なのですが、これで失礼させていただかねばなりません。ところでサム君、きみはまだ大丈夫なんだろ?」
父は顎のあたりをボリボリと掻《か》きました。と、レーンさんが間髪いれず、横から口をはさみました、「そりゃあ警部さんとお嬢さんはお泊りにきまっていますよ、べつにおいそがしいことはないはずですからね」
「ま、そうですね、フォーセットのやつは、尻尾をつかんだも同然ですからな」父は溜息まじりにそう言うと、両足をながながとのばしました。わたしもうなずいてみせました。
ところで、その晩のうちに、父とわたしがリーズ市へ出発していたら、事件の様相はガラリと変わっていたのにちがいないのです。まず考えられることは、フォーセット博士が謎《なぞ》の旅行に出かけないうちに、博士に会っていたことでしょう。そして、博士に会ってさえいたら、あとになって、あれほど雲をつかむような目にあったことも、ごく簡単に解決できたでしょうに……ところが、わたしたちときたら、ハムレット荘の魔力に喜々として負けてしまって、その晩、泊ってしまったのですものね。
ブルーノ知事は、ボディ・ガードの警官たちにはさまれて、いかにも名残り惜しげに帰って行きました。それからほどなくして、わたしは豪華なチューダー風の大寝台の、フカフカしたシーツにくるまると、これからさき、どのような運命が待ち受けているかも露知らず、ほどよく疲れたあとの、あの五体の恍惚感《こうこつかん》にひたりながら、グッスリと眠ってしまったのです。
二 死人と会う
リーズ市は、円錐形の丘のふもとにひろがっている、魅力的な活気のある小さな町。なだらかな起伏のある農園と、青い高地にただよっている靄《もや》にかこまれている、田園地帯の中心。その丘に聳《そび》えたっている陰鬱《いんうつ》な刑務所さえなければ、この世のパラダイスと言ってもいいくらい。ところが、てっぺんに監視塔のあるいかめしい灰色の壁、所内工場の不格好な煙突、その威圧的な堅固さと威嚇《いかく》感を誇る巨大な牢獄が、この美しい田園と町の上を、さながら屍衣《しい》のように高いところからおおっている始末。丘の木々のみどりでさえ、この陰惨な風景をすこしもやわらげてはくれない。あの鉄の牢獄のなかにつながれている多くの囚人たちにとって、灰色の壁一つ越えればすぐ近くに青々とした木々がおいしげっているというのに、それがはるか彼方の火星にでもはえている木々としか彼らには思えないのだわ、と、思わずわたしは声に出してしまいました。
「なに、そんなことはすぐ気にかからなくなるさ、パット」駅でタクシーに乗りこむと、父が言いました、「あの刑務所の連中ときたら、どうしようもないやつらばかりだよ。日曜学校じゃないんだからね、あの連中には同情は禁物だ」
たぶん父は、長いこと、犯罪者たちとつきあってきたので、無感覚になっているのです。しかし、わたしにしてみれば、受刑者たちが、みどりの大地と青い空から隔離されているなど、どうしても正当なこととは思えない。それに、それほどの無慈悲と残酷な刑罰に匹敵するほどの犯罪なんて、わたしの頭には想像もできないんですもの。
駅からエライヒュー・クレイの邸宅に向かうみじかいあいだ、父もわたしも無言のまま。
クレイ屋敷――豪華な植民時代風の建物で、大きな白い円柱のついた邸宅は、リーズ市の郊外にある丘の中腹にありました。エライヒュー・クレイは、柱廊玄関まで、わたしたちを迎えに出ていました。彼の態度は丁重をきわめたもので、わたしたちに対する注意もよくゆきとどき、その物腰には、わたしたちの依頼主《いらいぬし》といった感じは、みじんもありません。彼はすぐ女中に指図して、わたしたちを居心地のいい寝室に案内させ、ゆっくりと旅の疲れをいやさせてくれたのです。その日の夜は、クレイはこのリーズ市のことや、自分のことなどを、わたしたちにいろいろと喋《しゃべ》りました――もうまるで、昔からの友だちのような親しみで。その話から、彼が男|やもめ《ヽヽヽ》だということがわかりました。死んだ妻のことを、さもいとおしそうに語り、妻の代わりになってくれるような娘が自分にないことが、痛恨事だと言っていました。こうして、エライヒュー・クレイの人柄とその環境を知ってみると、ニューヨークの|うち《ヽヽ》の事務所にやってきて、仕事を依頼したときの、あのとっつきの悪い実業家のおもかげは、まったく消え失せてしまうように、わたしには思われる。わたしは、それからのしずかな日々をすごすうちに、だんだんとクレイに好感をもつようになったのです。
父とクレイは、書斎にとじこもったまま、何時間も話しあっていたこともあるし、また、まる一日というもの、二人で採石場へ出かけて行ったこともあります。そこはリーズ市からほんの数マイルはなれたチャタハリー河のそばです。いわば父は敵情を偵察していたわけですが、はじめの数日間、たえず苦虫をかみつぶしたみたいな顔つきから考えると、どうやら父は、早期解決の見とおしのない、いや、その成功さえおぼつかない苦戦を覚悟していたようです。
「尻尾《しっぽ》をつかむような書類が、まったくないんだよ、パット」と父はわたしにブツブツ言いました、「とにかくフォーセットというやつは、煮ても焼いても喰えん男だね、クレイが悲鳴をあげて助けをもとめるのもあたりまえだ。この仕事は、思ったより手ごわいぞ」
父に同情はするものの、わたしに手伝えそうな調査は、ほとんどない始未。問題のフォーセット博士は不在。たまたま、わたしたちがリーズ市に到着した朝、博士はこの町から出て行ったのです、つまり、わたしたちがまだ汽車に乗っているあいだに、彼は行先も告げずに、突然、リーズ市を出発してしまったというわけ。もっとも、博士がこんなふうにだしぬけに出かけることは、毎度のことらしい。博士の行動はいつも謎につつまれていて、このリーズ市をいつ出て行くのか、またいつ帰ってくるのか、|はた《ヽヽ》のものにはかいもく見当もつかないありさまなのです。もしフォーセット博士がリーズ市にいさえしたら、神がわたしにさずけてくれた女性の魅力を、最大限に発揮してみせたのに。もっともあの父が、こんなお色気作戦に賛成するはずはないだろうし、そのことでまた、父とはなばなしくやりあうことだけはたしかです。
こういった状況に、またひとつの要素が加わって、いくぶん複雑にはなったものの、面白いことになりました。じつは、第二のクレイがいるのです――つまり、クレイの長男で、たくましい体躯、このあたりの田舎《いなか》娘にはもったいないくらいの素敵な微笑の持ち主。この好青年の名前はジェレミー、波打つ栗色の髪の毛と向こう見ずな強気を示している唇は、その名前にいかにもふさわしい。ジェレミーなんて洒落《しゃ》れた名前と、それに似合う服装をしている彼は、まるでファーノルの小説のなかから、そっくりそのまま出て来そうな感じ。ジェレミーは、ダートマス大学を文字どおり卒業したてのホヤホヤで、体重百九十ポンド、在学中はボート部の選手。全米フットボールの花形選手の五、六人とは親友で、喰べるものといったら野菜だけ、しかもダンスはまったくの名手。わたしたちがクレイ邸に泊ったはじめての夜、その晩餐《ばんさん》の席でジェレミーは、まじめくさった顔で、わたしに自信ありげに言ったものです、アメリカで大理石ブームをまきおこしてやるんだと。彼は大学の卒業証書を岩石粉砕機にたたきこみ、目下、このリーズにある父親の採石場で、汗にまみれたイタリア人の石工たちのあいだに入って、頭髪に石くずをあびながら、爆薬を岩石に仕掛けているという。もっと質のいい大理石をたくさん生産できるように頑張っているんだ、と熱をこめて語っている息子が、父親のエライヒュー・クレイには自慢のようでもあり、また心配の種子《たね》でもあるようです。
わたしは、このジェレミーを、すごく素敵な青年だと思いました。ところで、いずれにしろ二、三日というものは、アメリカに大理石ブームをまきおこすという彼の野心も、ちょっとおあずけという形になりました。というのは、彼の父親が、青年にわたしのお相手をさせるために、仕事をやすませたからなんです。ジェレミーは、小さいけれど、とてもすばらしい馬を持っていました。それで、数日間というもの、わたしたち二人は、遠乗りに午後をすごしたというわけ。やがて肝《きも》に銘じたことだけど、わたしがヨーロッパで受けた教育も、ある点にかぎって、まったく役に立たなかったようです。だって、大学出のアメリカ青年の恋愛術に抵抗する法など、ぜんぜんおそわらなかったんですもの。
「あなたって、不良ね」ある日、わたしたち二人の馬が、ならんでやっと通れるような狭い谷間に入ったとき、彼がだしぬけにわたしの手を握ろうとしたので、わたしはピシャリと言ってやりました。
「二人とも不良になればいいのさ」ジェレミーは歯をむき出して笑うと、いきなり自分の鞍《くら》から身をわたしのほうに乗り出したのです。と、その瞬間、わたしの鞭が青年の鼻先にぶつかったものですから、ちいさな破局を避けることができたわけ。
「あ!」ジェレミーはのけぞるなり、声をあげました。「ひどいじゃないか? パット、きみだって胸をはずませているくせに」
「嘘!」
「はずませているさ、きみだってその気があるんだ」
「とんでもないわ!」
「じゃ、いいさ」青年はふくみ声で言いました、「じっくりと待っているからね」家に着くまでのあいだ、彼はニヤニヤと薄ら笑いを浮かべているばかり。
しかし、それからというものは、ジェレミー・クレイは、たった一人だけで遠乗りに出かけるようになってしまいました。とはいえ、彼がいぜんとして危険な魅力にあふれている青年であることに変わりありません。事実、あの破局が、かりに起こっていたとしても、わたしは心の底で、それを望んでいたのかもしれない、という意識にさいなまれていたんですから。
あの大事件の幕が切っておとされたのは、このような抒情的な田園詩の|さなか《ヽヽヽ》でした。こうしたことのつねとして、ま夏のはげしい雷雨のように、まったくだしぬけに、襲いかかってきたのです。それこそ予想するどころの騒ぎではありません。そのニュースは、おだやかな、思わず眠気をさそわれるような日の夕刻に、わたしたちの耳に入ったのです。その日、ジェレミーは虫の居所でも悪いのか、いやにむっつりとしていました。わたしはといえば、二時間ばかり、神経質なくらい手入れの行きとどいたジェレミーの髪の毛を、クシャクシャにしてやっては、彼のクサる顔を見てよろこんでいたのです。わたしの父はなにか秘密の調査に外出していましたし、エライヒュー・クレイは自分の事務所に出ていました。二人とも、晩餐にはとうとう顔を出しませんでした。
髪の毛をクシャクシャにされてすっかり怒ってしまったジェレミーは、わたしにすっかりよそよそしい態度をとるじゃありませんか。いままでのように「パット」と呼んでくれないで、ことあるごとに「ミス・サム」「ミス・サム」といった調子。わたしのためにクッションをとってきてあげると言いはったり、夕食には、わざわざわたしの特別料理を注文したり、わたしのタバコには火をつけてくれる、カクテルはついでくれる――とにかくわたしのよろこびそうなことを、いかにも他人行儀よろしく冷淡にやってのけるというわけ。つまり、頭のなかは自殺せんばかりに荒れ狂っているというのに、その動作だけは、社交的な礼儀正しさでくりかえす、世の男性諸君がよく使う、あの苦しまぎれのとってつけたような態度です。
父は、すっかり暗くなってから、苦虫をかみつぶしたような顔に汗をいっぱいかいて、ブスッとした表情で帰ってきました。そして自分の寝室にひきこもるなり、バスで一汗ながした様子、それから一時間ほどすると、ジェレミーがギターをやけくそになってかき鳴らし、わたしもまた、フランスにいたとき、マルセイユのカフェでおぼえたセクシーな小唄を口ずさんでいるポーチに、父はしずかに葉巻をくゆらしながらおりてきました。父にフランス語がぜんぜんわからないことは、わたしには|もっけ《ヽヽヽ》のさいわいでした、仏頂面《ぶっちょうづら》をしてギターをかき鳴らしているジェレミーでさえ、その小唄の文句にはショックを受けたようですもの。だけど、月の光と、その夜の雰囲気には、なんとなくその小唄がうたいたくなるようななにかがあった。そうだ、いま思えば、自分の純潔を守ったまま、どのくらいまでジェレミー・クレイと深入りすることができるものか、そのとき、わたしは、なかば夢見るような気持ちで、そのことばかり考えていたのです……。
ちょうどわたしが三番目の、いちばんすごい小唄をうたいだしたとき、エライヒュー・クレイが車で帰ってきました。いくらか疲れ気味の様子で(わたしの目にはそう見えたのです)、帰宅が遅くなったことをしきりと口のなかで弁解していました。なんでも、やむを得ない仕事のために、いままで事務所に残っていたということです。彼が椅子《いす》にやっと腰をおろし、父のさし出した安ものの葉巻を一本とったかと思うと、彼の書斎で、電話がけたたましく鳴りだしたのです。
「ああ、いいよ、マーサ」彼は女中に声をかけました、「私が自分で出るからね」それから軽く会釈するなり、彼は家の中に入って行きました。
彼の書斎は家の正面にあって、その窓からポーチが見おろせます。ちょうどその窓がひらいているものだから、彼がとった受話器から流れてくるせきこんだ相手の声が、否応《いやおう》なしにわたしたちの耳にきこえてきました。
相手の言葉をきいて、エライヒュー・クレイの口からまっさきにとび出した言葉は――「なんだって!」その口調にはげしい驚きのひびきがあったので、思わず父はパッと椅子から腰をあげ、ジェレミーも、いままでギターを弾《ひ》いていた指をとめてしまったくらい。
「なんということだ……ああ、夢にも考えられん――いや、彼の居所は、さっぱりわかりませんな。なんでも、二、三日で帰ってくると言ってましたが……それにしてもなんというおそろしいことが、私には――私にはとても信じられない!」
ジェレミーが書斎にとびこんだ、「いったい、どうしたんです。おとうさん?」
クレイはふるえる手で息子を制して、「なんですって?……ああ、それはもう、あなたの言われるとおりにする……そうだ、むろん秘密にしていただかなければ困るのだが、うまいことに、ある人が家にいるのですよ、この人なら、お役に立つにちがいない……サム警部ですよ、ニューヨーク警察本部にいた……そうです、二、三年まえに定年退職した――あなただって、サム警部の評判はご存じのはずだ……いや、ほんとになんと言っていいか、言葉もありません」
エライヒュー・クレイは電話器をおろすと、またポーチにゆっくりと出て来ました、額の汗をぬぐいながら。
「おとうさん! どうしたんです?」
灰色の壁を背にしたエライヒューの顔は、まるでまっ白な仮面のようでした。「いや、警部さん、あなたをおよびしたことは、ほんとうに幸運でしたよ。じつは大変なことが起こったのです――それにくらべたら、私がご依頼した事件など、ごくささいなものだ。電話は、地方検事のジョン・ヒュームです。うちの共同経営者のフォーセット博士の居所を探しているのですよ」彼は消え入りそうな微笑をうかべると、椅子に力なく身をしずめました。「自宅の書斎で刺殺されたフォーセット上院議員の死体が発見されたそうです。家は、この町の向こう側にあるのですがね」
どうやらジョン・ヒュームという地方検事は、殺人事件の捜査にその半生をかけてきたわたしの父の協力を、心から切望しているようでした。エライヒュー・クレイが、父が出向くまでは殺人現場には一指もふれさせずにそのままにしてある、と力のない声で言いました。地方検事も、一刻も早く|おみこし《ヽヽヽヽ》をあげてくれるように、頸を長くして待っている様子です。
「ぼくが車でご案内しますよ」と、ジェレミーが間髪おかずに言いました、「いますぐ車をまわしますから」そう言いのこすと、彼は車のほうへ、闇のなかにそそくさと消えました。
「あたしだって、ついて行くわ」と、わたしは口を出しました、「名探偵のレーンさんが、あたしのことをなんと言ってたか、パパだっておぼえているでしょ」
「よし、地方検事がおまえをつまみ出しても、わしは知らんからな」と父はうなり声をあげて、「殺しの現場なんかに、若い娘が顔を出すもんじゃない、おまえが気絶したって――」
「さ、乗ってください」ジェレミーが大声をあげました。自動車は車道をすべるように走り出しました。父といっしょに、このわたしまでがリムジンの座席にとび乗ったのを見ると、さすがのジェレミーもびっくりした顔をしましたけど、なにも言いませんでした。エライヒュー・クレイは手をふって、わたしたちの車を送り出しました。血を見るのがなによりも苦手でね、というのが、彼の同行しない理由です。
わたしたちの車は、闇の中を、矢のように疾走し、ジェレミーはハンドルをたくみにさばきながら、丘を一気にくだって行く。わたしは身をよじって、車窓からうしろを見ました。はるか彼方、黒雲を背にして、あかあかとともっているアルゴンキン刑務所の灯。いま、身の自由な人間だけに罪を犯すことのできる殺人現場へ急行しているというのに、どうしてまた、刑務所のことなんか、わたしは気にするのだろう? だが、刑務所の灯を見ていると、私の気持ちは滅入《めい》り、思わず身をふるわせると、父のたくましい肩に、わたしはすがりついてしまいました。ジェレミーはまったくの無言、ただ目を行手の道路にそそいでいるだけ。
目的地には、ほんの一瞬のうちに到着したといってもけっして過言ではないのですが、わたしには途方もなく長く感じられたのです。切迫した事件に特有の、あの不安感に、わたしは身をさらしていたわけなんだわ……二つの鉄の門をくぐりぬけ、目もくらむばかりに灯火のかがやいている華美な大邸宅の正面玄関で、けたたましい音をたてて車がとまったときは、それこそ何時間も乗っていたような気がしたものです。
もうすでにおびただしい車がつめかけ、暗い前庭には警察の連中がひっそりとたむろしていました。正面玄関のドアは大きく開けはなたれたまま。その脇柱に、ポケットに手をつっこんでじっとよりかかっているひとりの刑事。みんな、この刑事のように、まるで化石のようなしずけさです。話し声はおろか、もの音一つたてない。聞こえるものといったら、屋敷のまわりで愉《たの》しそうに鳴きつづけるコオロギの声だけ。
あの夜のことは、どんな細部にいたるまで、わたしの記憶にきざみつけられているのです。警察畑で半生をささげた父にとっては、手がけ馴れた一事件にすぎないが、わたしにとってはむき出しの恐怖そのものであり――こっそり白状すると――恐いもの見たさの興味にゾクゾクしていたんです。他殺死体って、どんなすごい顔をしているのかしら? わたし、そんな死人など、生まれてからただの一度だって見たことがないんですもの。たしかに、母の|死に目《ヽヽヽ》にはあいました。でも、母の死顔はとてもおだやかで、やさしい微笑さえ浮かべていた。きっと、こんどの被害者は、ものすごい顔をして死んでいるにきまっているわ、その死顔は恐怖にひきつれ、悪夢に出てくるような血まみれの……。
そんなことを考えているうちに、いつのまにか自分が、ひろびろとした書斎に立っているのにハッと気づきました。部屋の中は、おびただしい電灯がかがやき、警察関係の連中でごったがえしている。カメラを持った鑑識班、小さなリス毛の刷毛《はけ》を手にしているもの、書斎の本を片端から調べている男たち、まったくなにもしないでいる連中などが、わたしの眼に虚像のようにうつっている。だが、この部屋のなかで現実感をもっている存在といえば、ただひとつ。それは、だれよりもいちばん落ち着きはらい、もっとも無関心。ぶざまに肥満した牛のような巨体。それも上着なしのYシャツ一枚の姿。その袖を肘《ひじ》までまくりあげ、むき出しになっている見るからにたくましそうな毛深い腕。足には、使い古した室内ばきのスリッパ。下品な大きな顔には、とまどったような表情はあるものの、ゾッとするような感じはあたえない。
だれかが重苦しい声で言った、「被害者を見てもらえませんか、警部」
わたしは幻覚におそわれたように眼前の光景を見ていました、ぼんやりと眺めながら、頭のどこかでこんなことを考えた――見知らぬ連中が書斎のなかをやたらに走りまわり、個人のプライヴァシーを侵害し、蔵書を勝手にあらし、机を写真に撮《と》り、家具にやたらと粉末アルミニウムをふりかけて汚し、書類をめちゃめちゃにかきまわす、そんなにまでされているというのに、知らん顔をしてじっと坐っているとは、この死人もずいぶん横着《おうちゃく》じゃないか……この無礼な男こそ、フォーセット上院議員、つまり、故ジョーエル・フォーセット。
ゆらゆらとゆれていた幻覚のようなベールが視界からうすれ、わたしの眼は、死人の白いYシャツの胸もとに吸いつけられました。フォーセット上院議員は、乱雑になっている机をまえに、坐っていました。その分厚い上半身は、机のへりに押しつけられ、頭は、もの問いたげに片方にいくらかかしいでいる。そして彼がからだを押しつけている机のへりのちょうどま上、真珠色のボタンのついたYシャツの中心部から右側にかけて、大きくにじんでいる赤いしみのあと。細身のペイパー・ナイフの柄が突き出ている心臓部からひろがったものにちがいない。血なんだ、とわたしはぼんやり胸のなかでつぶやきました。まるでカサカサに乾いてこびりついてしまった赤インクみたい……それから、気むずかしい小男――これが、チルデン郡のブールという検屍《けんし》医だと、あとで知った――が、わたしの視界に入ってきたかと思うと、死体はその小男とともにどこかへ消えてしまいました。わたしはホッと溜息をつき、ふいにクラクラッときた目まいをはらいのけようと、頭をふってみました。父や警察の連中なんかに笑われてなるものか……と、わたしの肘《ひじ》を、父のたくましい手ががっしりと支えてくれるのを感じ、必死で自分自身をとりもどそうと、わたしは身をこわばらせたのです。
話し声が、聞こえてきました。わたしは、若い男性の眼を、じっと見上げました。父がとどろくような声でさかんになにか言っている――ふと、「ヒューム」という名前が、わたしの耳をとらえました――とたんに、そうだ、父は地方検事をわたしに紹介している最中なんだわ、ということがわたしにわかりました。まあおどろいた! じゃこの青年が、つぎの選挙では、殺された男の対抗馬になるところだったのね、(と、わたしは胸のなかで思わずつぶやきました)ジョン・ヒュームは背が高いわ、ジェレミーといい勝負――そうだ、ジェレミーはどこにいるのかしら? それにヒュームの眼はすごくきれいで、知的に黒くかがやいている。一瞬、その眼に惹《ひ》かれて、思わずやましい考えが、わたしの胸をチラッとかすめたのだけれど、それも恥かしさにサッと消えてしまいました。だれが、こんな男なんかに! なにさ、痩《や》せこけて、ものほしげな顔。いったい、なにがそんなに手に入れたいの? なによ? 権力? 事件の真相?
「や、はじめまして、ミス・サム」ヒュームは歯切れのいい口調で言いました、落ち着きのある洗練された声。「警部のお話ですと、あなたも探偵のほうではなかなかのものだそうですね。じゃ、われわれの捜査に協力してくださいますな?」
「ええ、むろん」わたしは精いっぱいの努力で、できるだけ|むぞうさ《ヽヽヽヽ》に答えました。だが、唇はカサカサに乾き、言葉もぎごちなくなると、青年検事の眼は、ますますするどくなりました。
「いや、安心しました」彼は肩をすくめました、「ところで警部、被害者の死体をお調べになりたいですか?」
「そいつはおたくの検屍屋さんにおまかせしましょうや。衣類は調べてみましたかね?」
「被害者の身につけているものには、なんの手がかりになるようなものもありません」
「こいつは女の客を待っている格好じゃないな」と父が口のなかでつぶやきました、「女じゃないですよ。この男の唇を見てごらんなさい、それにこの爪はどうだ、女みたいにテカテカみがいている、その|しゃれ《ヽヽヽ》者が、Yシャツ一枚で女に会うわけがない……被害者には細君がいるんですか、ヒュームさん?」
「独身です」
「異性関係は?」
「複数もいいところですよ、警部さん。正直なところ、芝居のまずい男でしてね、この男をナイフでつきさそうと思っている女は、ずいぶんいるはずです」
「すると、かくべつ心あたりの女でも?」
一瞬、二人の眼がピタッとあった、「いや」とジョン・ヒュームが言って、横を向いた。それから、サッと手をあげると、背こそずんぐりしているが、見るからにたくましい、耳のつぶれている男が、ツカツカと部屋を横切って、わたしたちのそばにやってきました。ヒュームは、その男を警察署長のケニヨンだと紹介しました。まるで魚みたいなにぶい眼をしていて、一目見ただけでわたしは嫌いになってしまった。おまけに、父の大きな背中に向けられているケニヨン署長の視線に、悪意がこもっているような気がしてならない。
さっきから大きな万年筆で、正式の検屍所見を書きこんでいたうるさがたのブール博士が、ちいさなからだを起こすと、万年筆をポケットにしまいました。
「どうです、先生?」とケニヨン署長がたずねた、「倹屍の結果は?」
「他殺だよ」とブール博士はきびきびした口調で言った、「まるっきり疑いの余地なし。あらゆる点から判断して、これは他殺。自殺の|け《ヽ》はまったくないね。とにかく、命とりとなった傷だけ見ても自分の手で、つけられるものじゃない」
「すると、傷はほかにもまだあるんですな?」と父がたずねました。
「そのとおり。フォーセットは、胸部を二回刺されているんですよ。ごらんのように、どちらの傷からも、かなりの出血が見られる。しかし、はじめの傷は深いとはいえ、致命傷にはなっていません、そこで犯人は、さらに一撃くわえて、とどめをさしたというわけです」
検屍医は、被害者の胸にさっきまでささっていたペイパー・ナイフを指さしました。いまは、死体からぬきとられ、机の上においてあるのだが、その細身の薄刃は、べっとりと血ぬられたままにぶく光っていました。と、ひとりの刑事が、そのナイフを慎重にとりあげると、灰白色の粉末をまぶしはじめました。
「太鼓判《たいこばん》が押せるわけですね」とジョン・ヒュームがたしかめるように言った、「自殺の線は絶対に考えられないと?」
「むろんですとも。二つの傷の角度と方向から考えて、それ以外にありません。ところで、あなたが見てよろこびそうなものが、ほかにもあるんですよ。すごく興味のあるやつでね」
ブール博士は、セカセカと机のそばまで行って、まるで小美術品の講釈でもするような格好で、死体のところに立ちはだかりました。そして、品物でも扱うみたいに、死体の右腕を上にもちあげました。その腕は死後硬直がきていて、もうコチコチ。その皮膚の色は蒼白《そうはく》、前腕一面には長い毛が、ゾッとするくらいにつやつやと密生している。それでわたしは、これが死体の腕だということも忘れてしまったくらい……。
なぜって、その前腕には、奇妙な傷痕が二つもついているんですもの。その一つは、ちょうど手頸のところにあり、細くてするどい切傷、そこから血がにじんでいる。もう一つは、はじめの傷痕よりさらに四インチ上にあり、奇妙なはっきりとしない掻き傷で、どうしてこんな傷がついたのか、わたしにはさっぱり見当がつかない。
「いいかね」小男の検屍医はさも愉快そうに言いました、「この手頸のま上にある切傷ですが、こいつはペイパー・ナイフでつくられたことに間違いなし。いや、すくなくとも」と彼はあわててつけたした、「それとおなじ程度の鋭利な刃物でやられたことはたしかです」
「すると、もっと上のほうにある傷は?」と、父が顔をしかめてたずねました。
「こいつは、だれが考えてもむずかしい。ただ一つ断言できることは、この引っ掻き傷は、おなじ凶器でつくられたものではないということですよ」
わたしは唇をなめた。ある考えが、チラッとわたしの頭をかすめたのです。「この二つの傷がいつつけられたものか、それを測定する方法はありまして、先生?」
と、みんながサッとわたしの顔を見ました。地方検事のヒュームはなにか言いかけた言葉をのみこみ、父は腕をくんで考えこみました。検屍医は微笑をうかべて、「なかなかうまい質問ですな、お嬢さん。いや、その方法はちゃんとあります。この二つの傷は、いずれもごく新しくつけられたものばかり――殺害時刻と前後して、そうですな、ほとんど同時につけられたと言ってもいいくらいです」
さきほどから血にそまった凶器を調べていた刑事が、うんざりした顔で、身をおこすと、「ナイフからは指紋が検出されません」と報告した、「こいつは面倒になったぞ」
「ま、これでわしの役目はすんだ」とブール博士は、さも肩の荷をおろしたような口調で言った、「むろん、解剖をおのぞみだろうが、解剖してみたところで、いまお話したわしの所見とかわるところはまずないでしょうな。死体を運ばせるから、公衆衛生局の車をよこしてくれませんか」
博士は検屍用の鞄をとじた。と、制服の男が二人、書斎に入ってきました。そのうちの一人は口のなかでなにかクチャクチャ噛んでいて、もう一人の男はしきりにしめった赤い鼻をクンクンいわせている。こんなつまらないことまで、わたしの記憶にいつも|しこり《ヽヽヽ》となって残ってしまう。いやしくも死者を運ぶというのに、こんな無神経な態度って、忘れられるものじゃない。思わずわたしは、顔をそむけてしまった……。
制服の男たちは机にズカズカと近づくと、|とって《ヽヽヽ》が四つついている大きなバスケットみたいなものを床において、二人がかりで死体の腋《わき》の下を乱暴にかかえ、ヨイショとかけ声もろとも椅子から死体を持ちあげました、そして大きなバスケットにドサッと投げこむと、上からヤナギ細工の蓋をする、それから、いまだにガムをクチャクチャかんでいるのと鼻をクンクンさせている、二人の男は、かがみこむと、そのお荷物を運び出していったのです。
いつしか胸苦しさもいくらかおさまり、わたしはホッとため息をつきました。それでもまだ、勇気をふるい起こして、死体のなくなった机と椅子に近よるには、数分もかかったのです。そのとき、はじめてわたしは、ノッポのジェレミー・クレイの姿に気がついてハッとしました。いつのまにか彼は書斎の入口の脇柱に身をもたせたまま、警官のそばに立っているじゃありませんか。そして、わたしのことをじっと見つめているのです。
「おっと――」小男の検屍医が鞄をもって、ドアのほうに行きかけたとたん、父が例の大きな地声をはりあげました、「被害者の殺された時刻は?」父の眼には非難の色がもえている。どうもこの現場検証には、どこか|ずさん《ヽヽヽ》なところがあって、ニューヨーク警察本部できたえあげた父の几帳面《きちょうめん》な捜査魂が、ただ書斎のなかをノホホンと歩きまわっているケニヨン署長や、陽気に口笛を吹いているブール博士に反感をいだいたことは、このわたしにもよくわかる。
「や、こいつはうっかりしていた。なに、死亡時刻ははっきりと推定できますよ」とブール博士はあわてて言いました、「今夜の十時二十分。ま、このあたりですな。そうですとも、まず一分のくるいもありますまい。十時二十分……」検屍医は唇を鳴らすと、ピョコンと頭をさげて、戸口から姿を消しました。
父はうなり声をあげて、腕時計を見ました。午前〇時五分。「いやに自信ありげな医者だな」
と、ジョン・ヒュームが、イライラして頭をふると、ドアのところに行きました。「カーマイケルという男をよんでくれたまえ」
「カーマイケルって、なんです?」
「フォーセット上院議員の秘書です。この男が貴重な証拠をいろいろと握っていると、ケニヨン署長も言っているのですよ。なに、会ってみればすぐわかります」
「指紋は見つかりましたかね、署長さん?」いくら田舎の警察とはいえ、その署長をつかまえて、父はまるで自分が上役みたいな目つきでジロリとにらみながら、うなり声をあげました。
ケニヨンはギクッとした、なにせこの男ときたら、象牙の楊子《ようじ》で歯をせせりながら、眼をトロンとさせていたんですもの。彼はあわてて楊子を口からはなすと、苦虫をかみつぶしたみたいな顔をして、部下のひとりにあたり散らしました、「指紋はどうなんだ?」
その刑事は首をふって、「外部の人間の指紋はいっこうに。被害者と秘書のものは掃いて捨てるほどあるんですが。犯人は、探偵小説の愛好家にちがいありません。ホシはぬかりなく手袋をはめていたんですね」
「手袋をはめていた」署長はそうくりかえすと、またぞろ楊子を口にくわえました。
ドアのところで、ジョン・ヒュームが警官に怒鳴りつけました、「なにをグズグズしているんだ! カーマイケルをさっさと呼びたまえ」父は肩をすくめるなり、葉巻に火をつけます。父がこの現場検証の|ていたらく《ヽヽヽヽヽ》にすっかり厭気がさしていることが、わたしには手にとるようによくわかります。
と、もものうしろのあたりをなにか硬いもので小突かれているのにわたしは気づき、サッとふりかえりました。なんだ、ジェレミー・クレイが微笑しながら、椅子をもって立っているじゃありませんか。
「かけたらどうです、女シャーロック・ホームズ君。どうしてもここに頑張っているというなら、せめて美しい|おみあし《ヽヽヽヽ》をやすめて、名推理にふけったらいいじゃないか」
「シッ! だまってて!」わたしは声を殺したまま、怒ってやりました。冗談など言っている場合ではないのです。でも、彼は白い歯をむき出してニヤニヤ笑うと、むりやりにわたしを椅子にかけさせようとします。だれひとり、わたしたちの|やりとり《ヽヽヽヽ》などに目をくれるものはいません。で、なんだかわたしは、かるい無力感におそわれて、とうとう腰をおろしてしまいました……それから、わたしは父の顔をチラッとうかがったのです。
父は火のついた葉巻を宙にうかしたまま、戸口のほうに眼をうばわれているのです。
三 黒い木箱
ひとりの男が戸口のところで釘づけになったまま、書斎の机をじっと見つめています。椅子が空《から》っぽになったことが、その男の脳裡にきざみつけられると、痩《や》せこけた顔に驚きの色がサッと走りました。やがて男は視線を椅子からそらせると、地方検事の眼とぶつかってしまったのです。男は気弱そうに微笑してうなずくと、絨毯《じゅうたん》の敷きつめてある書斎のなかほどまで入ってきて、とてもおだやかな物腰で、しずかに立ちどまりました。背はわたしより高くはなかった、ひきしまった体躯、まるでしなやかな動物の筋肉そのものを思わせる。その物腰と表情には、秘書などという職業にそぐわない、なにか別のものがありました。いやに若々しい感じがするせいか、ちょっと年齢の見分けはつかないが、それでも四十にはなっているようです。
わたしはまた、父のほうに眼をやりました。あいかわらず葉巻を持った手は、宙に浮いたまま。その顔に驚きの色をあらわに見せたまま、父はその男を喰い入るように見つめているではありませんか。
そして、死んだ上院議員の秘書もまた、父の顔をながめていました。その男がほんのわずかでも父を知っているようなそぶりでも見せるかと、わたしは目を皿のようにして見守っていたのですが、男の不敵な眼にはなんの色も浮かびません。男は父から視線を移すと、わたしの顔に眼をとめました。と、こんどはかすかな驚きの色をうかべたようですが、だれだって、こんな陰惨な殺しの現場に、若い娘がいるのを見かけたら驚くのも無理はないはずです。
さらにもう一度、わたしは父のほうを見ました。こんどは葉巻も、父の歯にしっかりくわえられ、ゆったりとくゆらしている父の顔は、もとのように無表情にかえっています。どうやら、父が一瞬に見せた、あの驚きの表情に、だれひとり気づいたものはいないらしい。しかし、父がカーマイケルという男をまえにどこかで見かけていることは、わたしにはちゃんとわかる。それに、カーマイケルにしたって表情にこそ出さなかったけれど、内心、ギョッとしたにちがいない、そうわたしはにらんでいるのです。どんなに驚いても顔にも出さない人物こそ、絶対に眼がはなせないわ、とわたしは胸のなかでつぶやきました。
「カーマイケル君」地方検事のジョン・ヒュームがだしぬけに口をきった、「ケニヨン署長の話によると、なかなか面白い材料をにぎっているようだが」
秘書の眉がかすかにつりあがった。「ヒュームさん、『面白い』という意味によりけりですよ。むろん、死体を発見したのは、この私ですが――」
「なるほど」地方検事の口調は、まるっきり事務的です。そうか、相手がフォーセット上院議員の秘書となると……わたしにも、そのへんのニュウアンスがのみこめたようです。「とにかく、死体発見までの今夜のいきさつを説明してください」
「夕食がすむと、先生は、コックと執事と召使の三人を、この書斎に呼びましてね、今夜は暇をやるから外出するように、と言いつけられたのです。先生は――」
「どうして、そんなことまで君が知っているのです?」ヒュームがするどくききかえしました。
カーマイケルは微笑して、「私もその場に居合わせましたからね」
と、ケニヨン署長が気のない足どりでまえに出てきて、「ヒューム検事、たしかにこの男の言うとおりですよ。さっき、使用人たちに、その点をあたってみたのです。三人とも、三十分ばかりまえに帰ってきたところで。町まで映画を観に行ったそうです」
「さ、つづけてください、カーマイケル君」
「先生は使用人たちをさがらせると、私にも外出するように言われたのです。で、先生に言いつかった手紙を数通書いて、私も家を出たのです」
「いささか妙な命令ですね?」
秘書は肩をすくめて、「いや、ちっとも」彼は白い歯をみせて、ニヤッと笑いました、「先生にはちょいちょい――その、個人的な用事がありましてね、私たちが外出するように言いつけられるのは、ざらのことですよ。ま、いずれにせよ、私は思っていたよりもいくらか早目に帰宅しました。すると、玄関のドアが大きく開いていて――」
「おっと」父が地声で『待った』をかけました、一瞬、男の顔から微笑がきえたかと思うと、すぐまた浮かびました。そして、父のつぎの言葉を、ひかえ目な興味を見せながらしずかに待っています。一点非のうちどころのない態度だわ、わたしは思わず胸のなかで、こうつぶやきました、そして、この点がどうしてもわたしには|うさんくさく《ヽヽヽヽヽヽ》思われてならなかったのです。なぜって、このような状況で尋問を受けているというのに、たかが秘書のぶんざいで、こうも落ち着きはらって応対できるものでしょうか?「あんたが屋敷を出るとき、そのドアをしめたのかね?」
「ええ、しめましたとも! たぶんお調べになったことと思いますが、いずれにしろそのドアは、スプリング錠ですからね。それに先生と私をのぞけば、玄関のドアの鍵を持っているのは使用人だけなのです。したがって、私たちの留守中に訪ねてきた客を、先生がご自分でドアをあけて中に入れたと思いますが」
「話は事実だけにしてください」とヒューム地方検事がピシリッと言いました、「合鍵をつくるのに、蝋型《ろうがた》をとる手だってあるじゃありませんか! とにかく、君は帰宅した、そして玄関のドアが開けっぱなしになっていた、それからどうしたんです?」
「とっさに、こいつは変だぞ、と私は思いました。そして胸さわぎを感じながら書斎に駈けこんだのです。なんと先生は、机に向かったまま、椅子のなかで冷《つめ》たくなっているではありませんか。ケニヨン署長がかけつけてこられたときと、まったくおなじ姿勢です。むろん、死体を発見するなり、警察に電話しました」
「死体には一指も触れなかったですな?」
「申すまでもありません」
「なるほど、で、見つけたのは何時です、カーマイケル君?」
「ちょうど十時半でした。先生の死体を発見するなり、私はすぐ腕時計を見たのです。こういう細かい点が手がかりになると承知しておりましたので」
ヒューム地方検事は父の顔を見ました、「どうです、面白いじゃありませんか? 犯行十分後に、このカーマイケル君は死体を発見しているんですからね……で、この家から出て来たものを見かけませんでしたか?」
「いや、いっこうに。ちょうど玄関にたどりつくころ、私はなにか考えごとをしていたようです。それにまっ暗でしたし。おそらく犯人は、私の足音をききつけて、庭の植え込みにでも身をかくし、私をやりすごしてから逃げ出したのではないでしょうか」
「まず、そんなところでしょうな、ヒュームさん」意外にも、父はこんなことを言うのです、「で、カーマイケル君、警察に電話してから、どうしたんだね?」
「私はあの戸口のところに立って、警察の方が見えるのを待っていました。ケニヨン署長さんが、すぐおいでになってくださって、そうですね、電話してから、ものの十分もたたないうちでした」
父は書斎のドアのところまで巨体を運んで行くと、廊下を見渡しました。やがて、また引き返してくると、うなずいて、「なるほど。するとあんたは、玄関のドアが見えるところにずっと立っていたわけだ。そのとき、この家から出ようとしているものを見るか聞くかしなかったかね?」
カーマイケルは強く首をふって、「だれひとり出て行ったものも出ようとしたものも、いませんでした。私が家の中に駈けこんできたとき、この書斎のドアは開け放しになっていたのですが、私は閉めずにそのままにしておいたのです。警察に電話しているあいだでさえ、私は戸口から目をはなしませんでしたから、廊下を通るものがあれば見のがすはずはありません。どう考えても、あのとき、私だけしか家にいなかったはずです」
「そんな馬鹿な話が――」ジョン・ヒュームがジリジリした口調で言いかけました。
と、そのとたんに、横から魚のようなトロンとした目つきのケニヨン署長が神経をいらだたせるような声でさえぎったのです、「こいつは、カーマイケル君が帰宅するまえに、犯人がやった仕事ですよ。われわれが駈けつけてからは、だれひとり逃げ出したやつはおらんのだし、おまけにこの家の隅から隅まで探したんですからな」
「玄関以外の出口は?」と父がたずねます。
おもむろにケニヨン署長は、机のうしろにある暖炉に唾をはいてから、答えました、「なに、駄目ですよ」鼻でせせら笑って、「玄関をのぞくと、ほかの出入口は、みんな|なか《ヽヽ》から錠がおりてましたからね。窓にしたって、その|でん《ヽヽ》ですよ」
「よし、時間つぶしをしている段ではないからね」とヒューム検事は言うと、机に近よって、血まみれのペイパー・ナイフをとりあげました、「これに見おぼえがありますか、カーマイケル君?」「ええ、ありますとも、それは先生のです。いつも、その机の上にありましたけど」カーマイケルは、一瞬、チラッと凶器に目をやったが、すぐにそらして、「ほかにおたずねになることは? なにしろ、いささかとり乱しているものですから……」
まあ、あきれた! 微生物みたいに神経なんかないくせに!
地方検事は机の上にナイフを投げ出すと、「この事件について、なにか心あたりは? どんなささいなことでもいいのだが?」
男はいかにも悲しそうな顔で、「いいえ、いっこうに。それはもう、先生のことですから、政敵といったものは掃いて捨てるほどありますが……」
ヒュームはゆっくり言いました、「いったい、どういう意味です?」
カーマイケルは顔をゆがめて、「意味? いま言ったとおりのことですよ。先生ぐらい敵の多い方はいないじゃありませんか。先生を殺したいほど恨んでいる男は、いや、男ばかりか女まで数えれば……」
「なるほど」とヒュームは口のなかでつぶやいて、「では、とりあえず、このぐらいで。部屋の外で待っていてください」
カーマイケルはうなずくと、微笑を浮かべて、書斎から出て行きました。
父は地方検事をわきにつれて行くと、ささやくような声で、検事の耳もとに質問の矢をあびせかけました、フォーセット上院議員自身のこと、その交友関係、フォーセットの政治上の汚職の数々、それに秘書のカーマイケルのことでもごく単純な質問をしているのが、わたしの耳にもはいってきます。
ケニヨン署長は、あいかわらず腑抜《ふぬ》けた表情で天井や壁をながめながら、床の上をブラブラ歩きまわっているだけ。
わたしはといえば、書斎の向こうにある机が、むしょうに気になって仕方がないのです。秘書のカーマイケルが尋問されているあいだというもの、いっそのこと思いきって、この椅子から立ち上がり、あの机のところに行ってみたらどうかしら、と思いつづけていたくらい。あの机の上の品物が、早く調べて、早く調べてと、声をあげて泣いているように、わたしには思えてならないのです。それなのに父も地方検事もケニヨン署長も、あの机の上の品物を、どうして吟味してみようとしないのか、わたしには不思議でなりません。
わたしはまわりを見ました。しめた、だれも見ていない。わたしがそっと椅子からぬけ出し、部屋をすばやく横切ると、ジェレミーが白い歯をむき出してニヤッと笑いました。グズグズしてはいられない、つまらぬ横槍が入らないうちに、わたしは机にかがみこみました。
フォーセット上院議員の死体があったまんまえの机の上に、一枚の緑色の吸取紙がありました。その吸取紙は、机の上が半分もかくれるほどの大きさで、その上に厚いクリーム色の便箋が乗っています。一番の上の用紙はまったくきれいで白紙のまま。わたしはその便箋をそっと手にとると、じつに妙なことを発見したのです。
殺害された上院議員は、机のふちにぴったりと身をつけるようにして坐っていました。そういえば、胸の傷口から血がふき出してはいたけれど、ズボンにはついていなかった、そして、いま調べてみると、彼が坐っていた椅子にも血はおちていないで、ただ吸取紙にこぼれてにじんでいるだけ。ところで、分厚い便箋を手にとってみると、ほとばしり出たおびただしい血液が、その緑色の吸取紙にしみこんでいるのがわかったのです。だがそのしみこみかたが、じつに奇妙なのです。ちょうど便箋の底辺の一角の形がついているではありませんか。つまり、下になっている吸取紙から、かさねてあった便箋をとりのぞいてみると、その使いたての緑色の吸取紙には、どす黒い血痕が不規則な球状をなしてにじんでいるのですが、上にのっていた便箋の角があたっていた部分だけには、直角形の空白をのこして、きれいに残っていたわけです。
これがなにを物語っているか、火を見るよりも明らかです! わたしはあたりを見まわしました。いまだに父とヒューム地方検事は、小声でヒソヒソ話をつづけている。ケニヨン署長は部屋の中をあきもせずに行ったり来たりしている。だが、ジェレミーとたくさんの警官たちがすごい目で、わたしの一挙一動を見守っているので、思わずわたしはためらってしまいました。とにかく、おとなしくやめたほうがよさそうだわ……だが、わたしの推理が、胸のなかで、やってみろ、やってみろ、と叫んでいるのです。わたしは決心すると、机の上にかがみこみ、便箋の枚数をかぞえ出したのです。この便箋はぜんぜん未使用のものか? 一目見ただけでは、そのように思われる。だがしかし……便箋の枚数は九十八枚。もし間違ってなければ、便箋の表紙に、枚数の表示がしてあるはず……
やっぱりそうだ! わたしの思ったとおり。表紙には百枚綴りと、はっきり印刷してあるじゃないの。
わたしはもとどおりに、その便箋を吸取紙の上にきちんとまたかさねました。犬がうれしさのあまり、床を尾ではげしくたたくみたいに、わたしの心臓は胸のなかで高鳴りました。わたしの推理をたしかめてみたおかげで、ひょっとすると、すごく重要な鍵がにぎれたかもしれない、と思ったからです。といっても、正直なところ、そのときはまったく五里霧中でしたけど。だが、ひとつの手がかりとして、期待がもてそうな気がする……。
と、そのとき、父に肩をたたかれてハッとしました。「なにをコソコソやってるんだ、パット?」父は|つっけんどん《ヽヽヽヽヽヽ》に言ったものの、わたしが置いたばかりの便箋を一目見るなり、思案深げに眼をほそめました。地方検事のヒュームは興味ありげにわたしの顔を見ただけで、かるく微笑すると、すぐ眼をそらしてしまいました。わたしは胸のなかでつぶやいてやった――『まあ、ヒュームさん、ずいぶんお高くとまっておいでですこと!』よし、こんど機会があったら、きっと目にもの見せてやる、とわたしは決心したのです。
「それではと、ケニヨン署長、あのナンセンスな代物《しろもの》でも見るとしますか」とヒュームは威勢よく言いました、「サム警部さんがそいつを見て、なんと言うかな」
ケニヨン署長は口のなかでなにやらブツブツ言うと、ポケットに手をつっこみ、なにやら得体の知れない品物をとりだしたのです。
玩具のようなもの。玩具入れの箱。松かなにかの安手の、やわらかな木の箱。まだらに色あせた黒塗りの箱で、その四隅には装飾用のいかにもお粗末な小さな留金がついています。まるでトランクのちっぽけな模型みたいな箱で、四隅の留金は、トランクの角を保護する真鍮《しんちゅう》の金具を模しているように思われます。といっても、わたしにはトランクの模型とは思えず、それよりも箱か容器のミニアチュールといった感じ。高さは三インチ足らず。
しかし、この箱を一目見てわかることは、小型容器のほんの一部分にすぎないということでした。つまり、その箱の右側は鋸《のこぎり》ですっぱり切断されていて、不潔な黒い爪をのばしているケニヨン署長の指につかまれている代物は、たった二インチの幅しかないのですから。わたしは頭の中ですばやく見積ってみました。その箱全体の幅は、高さから割り出して計算してみると、ほぼ六インチ見当のところ。そして、署長の手にある箱の幅は二インチしかない、したがって、全体の三分の一しかないということになります。
「こいつを、あなたのパイプにつめて吸ってみたらどんなもんです」ケニヨン署長が、厭味たらしく父に言いました、「大ニューヨークの警部さん、こいつについてのご意見は?」
「どこにあったんです?」
「なに、そこの机の上にですよ。われわれがこの書斎にとびこんだとき、まぎれもなくそこに鎮座ましましてたんですがね。その便箋の頭のところにありましたよ、死体と向かいあってね」
「妙ですな、いや、まったく」と父は口のなかでつぶやくと、もっとよく吟味しようと、ケニヨン署長の手から、その箱をとりました。
蓋《ふた》――正確にいえば、あとの三分の二を鋸で切断された箱にのっている蓋の一部分――は、ひとつのちいさな蝶番《ちょうつがい》で、箱の胴体についていました。中にはなにも入っていません。その内側には色は塗ってなく、けずりたての木目はよごれ一つありません。
父が手に持っている箱の正面には、色あせた黒地にくっきりと、金色の二文字が入念にえがかれています――HE
「なんだい、こりゃあ?」父は狐につままれたような顔をして、わたしを見ました、「彼《HE》って、だれのことかね?」
「暗号じゃないですか?」ヒュームが謎解き遊びでもするような軽い態度で、微笑を浮かべながら言いました。
「むろん、彼《HE》なんて意味はないと思いますけど」と、わたしは思案深げな顔。
「と言うと、お嬢さん?」
「あのね、ヒュームさん」わたしはとっておきの甘い声で、「あなたのように直感力のするどい男性なら、いわゆる第六感にものをいわせることができるでしょうけど、あたしのような女性には――」
「私には、さして重要だとは思えませんな」と、さえぎるような口調でヒュームが言いました、浮かべていた微笑もすっかり影をひそめています。「このケニヨン署長だって、そう考えているのです。とはいえ、手がかりになるようなものを、見のがしたくありませんしね、どうお考えです、警部さん?」
「いや、うちの娘は見方を変えてみたわけですよ。このHEというのは、一つの単語のはじめの二文字かもしれん、だとすると、『彼』(HE)などということにはならない、あるいは、短い文章の最初の単語とも考えられますな」と父。
と、ケニヨン署長があざけるような大声をあげました。
「この箱の指紋は?」と父。
ヒュームはうなずいたものの、当惑しているような様子でした。「フォーセットの指紋はついていましたが、それ以外は全然」
「こいつが机の上に置いてあった、と」父は口のなかでつぶやいて、「秘書のカーマイケルが今晩外出するときも、この箱みたいなものは机にあったのですかね?」
ヒュームは眉をつりあげて、「じつのところ、そんなことは、なにもきくほどのことではないと思ったのですよ。では、そこに待たせてありますから、カーマイケルを呼んで、たずねてみますか」
ヒュームは刑事にカーマイケルを呼ばせた。例の温和な顔に、ひかえ目な興味の色を浮かべて、秘書はすぐ部屋の中に入って来ると、父の手にある小さな木の箱に、その眼をピタッと釘づけにしたのです。
「とうとう、見つけられたようですね」と秘書はひくい声で言って、「どうです、面白いでしょう?」
ヒュームは緊張に身をこわばらせました、「あなたもそう思うのですか? いったい、どういうことを知っているんです?」
「じつは変な話がありましてね、ヒュームさん。あなたにも署長さんにも、お話するきっかけがなかったものですから……」
「おっーと待った」父がゆっくり言いました、「あんたが今夜、この書斎をさがるとき、この妙ちきりんの代物は、上院議員の机の上にあったかね?」
カーマイケルは、静かな微笑を浮かべました、「いいえ、ありませんでした」
「すると、こうなるな」と父が言葉をつづけて、「フォーセットか犯人にとっては、こいつを机の上に置くだけの|いわれ《ヽヽヽ》があったわけだ。いや、重要な手がかりになると思いませんか、ヒュームさん」
「そうですね、私はそういう見方をしなかったものだから」
「といっても、たとえば上院議員がだれもいないときを見はからって、こいつをのぞくために、取り出さなかった、とは言えない。ま、そんな場合なら、この事件とはまず無関係でしょう。だがですな、私の捜査経験から割り出すと、今夜のような状況で、つまり、使用人をみんな外出させてですな、その本人が殺害されたような場合には、十中八、九まで、その被害者がしていたことと殺人とはむすびつきがあるものですよ。どっちにするか、えらんでいただきたい、だが、私としては、このできそこないの箱を徹底的に|洗って《ヽヽヽ》みる必要があると思いますな」
「おそらく」秘書のカーマイケルがおだやかな口調で、口をはさみました、「結論をお出しになるまえに、私の話をおききになったほうがいいと思いますが。この木箱の片割れは、もう何週間というもの、先生の机の引き出しにあったものでしてね、ここですよ」秘書は机のまえにまわって、一番上の引き出しを開けました。とその中は乱雑そのもの。「や、だれかがいじったぞ!」
「どうしたんです?」間髪おかず、地方検事がたずねました。
「先生ときたら、それはもう大の綺麗《きれい》好きでしてね。どんなものでも整頓していないと、|おか《ヽヽ》|んむり《ヽヽヽ》なのです。昨日なんかでも、私はこの目で見たんですが、この引き出しの中はきちんと整理してありましたからね。それがどうです、この書類のありさまは――。あの先生にかぎってこんなに乱雑になさるわけがない。だれかが、この引き出しの中を荒したにちがいありません!」
ケニヨン署長が、部下の刑事たちに怒鳴りました、「この机の引き出しの中をかきまわしたものがおるか?」すると、異口同音に、そんな馬鹿な真似はしない、と刑事たちが答えました。
「おかしいな」署長は口の中でつぶやいて、「私自身、うちの連中に、許可があるまで机の中のものにはさわるな、と言っておいたのですからな。クソッ、なにやつが――」
「ま、署長さん、そう|むき《ヽヽ》になんなさんな」と父が例のうなり声をあげて、「少しずつわかってきたじゃありませんか。どうやら、引き出しを荒したやつは犯人らしいぞ。ところで、カーマイケル君、この妙ちきりんの箱の片割れに、どんな意味があるのかね?」
「それがお答えできれば、なによりなのですが、警部さん」秘書はいかにも無念そう。二人の眼と眼が、なんの変化の色もみせずに、ピタッと会った。「ですが、あなたがたご同様、私にもさっぱりわけがわからないのです。どうしてこんなものがここにあるのかさえ、見当がつきません。ほんの数週間まえ、そうですね、ちょうど三週間まえと思いますが、こんなことが……いや、はじめから説明したほうがよさそうです」
「早いとこ、たのむ」
カーマイケルはホッと溜息をつくと、「先生は、来たるべき選挙に苦戦を覚悟しておいででしてね、ヒュームさん――」
「そうでしたか」ヒュームはきびしくうなずくと、「で、そのこととどういうつながりがあるんです?」
「そこで先生は、もし自分が地方の貧民の味方であるように見せかければ――私は熟慮した上で『見せかければ』という言葉をつかうのですが――選挙人気があがるものと計算したのです。で、先生は、囚人たちの――むろん、アルゴンキン刑務所の連中ですが――製作品をもとにバザーを開催し、その|あがり《ヽヽヽ》を自分の地盤であるチルデン郡の失業者救済基金にするプランを考えついたのです」
「そいつは、リーズ新聞に見事にすっぱぬかれたじゃないか」とヒュームがそっけなく言葉をはさんで、「さ、回り道はしないで。そのバザーと箱の片割れと、なんの関係があるんです?」
「先生は州刑務局とマグナス刑務所長の認可を得て、アルゴンキン刑務所の参観に行ったのです。いまから一か月ばかりまえのことでした。先生はバザーの宣伝につかうということで、囚人の製作品の見本を、この自宅へ送ってもらえるように、刑務所長と話をとりきめてきたのです」カーマイケルは一息いれると、眼をキラリと光らせました、「そして刑務所の木工場で作った玩具の入ったボール箱のなかに、この木箱の片割れが入っていたのです!」
「そうか」父は口の中でつぶやくと、「それにしても、どうしてそんなことを知ったのかね?」
「私がそのボール箱をあけたのです」
「すると、この妙ちくりんな代物が、ほかの安《やす》ピカ物といっしょに、つめこまれていたというわけか?」
「じつは、そうじゃないのです、警部さん、この箱は、先生の宛名が鉛筆で書いてあるきたならしい紙につつまれていて、先生宛の手紙もいっしょに入っていたのです」
「手紙だと?」ヒュームが大声をあげました、「そいつは君、大変なことじゃないか! どうしてさっき、みんな話してくれないのです? で、その手紙はどこにある? 君は読んだんですか? 文面は?」
カーマイケルはいかにも気の毒そうな表情で、「それが残念なことに、ヒュームさん、なにしろその箱と手紙の宛名がフォーセット先生になっていたものですから、手紙を読むなどということはとても……そういうわけで、私はボール箱をあけると、先生に包みのままそっくりお渡ししたのです。そのときまで先生は机に向かって、なにか調べ事をなさっておいでで、先生が包みをおあけになるまで、そのなかになにが入っているものか、私にはまったくわからなかったのです。ただ先生の宛名がチラッと見えたくらいでしてね。先生は、この箱を一目見たとたんに、顔面蒼白となり、ブルブルと指をふるわせて、封をお切りになるじゃありませんか。いえ、ほんとうに。そして先生は、あとのボール箱は自分で開けるからと言われて、私にさがるようにお命じになったのです」
「ああ、なんということだ」ヒュームが吐き出すように言って、「じゃ、君は手紙のありかも、ひょっとしたらフォーセットが破いてしまったかも、ぜんぜん見当がつかないというんですね。え?」
「刑務所から送られてきたいろいろな玩具やほかのボール箱を、町のバザー本部に送ってしまってから、そういえば玩具関係のボール箱のなかに、この木箱が入っていなかったと、私は気づいたのです。そんなことがあってから、ある日、そうですね、一週間ばかりたっていましたか、たまたま、先生の机の一番上の引き出しに、その木箱がしまってあるのを、私は見つけたのですよ。あの手紙は、とうとうあれっきりになってしまいましたが」
ヒュームが言いました。「ちょっと待って、カーマイケル君」それからケニヨン署長になにか耳うちすると、ケニヨンはうんざりした顔をして、三人の警官にブツクサした口調でなにか命じました。と、ただちにそのうちの一人は、机のところにとんで行くと、椅子に|みこし《ヽヽヽ》をすえて、引き出しという引き出しを、片端からさがしはじめ、他の二人は書斎から出て行きました。
父は思案深げに目をほそめると、葉巻の先端をじっと見つめて、「カーマイケル君、玩具類のボール箱を、この家へとどけたのはだれだね? その話は、もう聞いたかな?」
「各部の模範囚がとどけに来たのです。ですから、顔見知りの人間ではないわけで」
「つぎの点はどうかね、玩具の入ったボール箱がとどいたとき、封印はちゃんとしてあったかね?」
カーマイケルは目をむいて、「ははあ、そうですか、つまり、配達した人間が、途中でボール箱をあけ、その木箱をこっそりと入れたかもしれない、とお考えになったわけですね? 私は、そんなことはなかったと思いますよ、警部さん。なにしろ封印にはなんの異常もありませんでしたし、なにか小細工をした形跡でもあれば、私だって見のがすはずがありません」
「しめた」父は得意そうに唇を鳴らして、「こいつは拾い物だ、ヒュームさん、おかげで捜査範囲が限定してきたじゃありませんか。いや、刑務所とはね。どうです。これでも、この妙ちきりんな箱は、三文の値打ちもありませんかね!」
「いや、面目次第ありません」ヒュームはあっさりカブトを脱ぎました。だが、その黒い眼には、少年のような興奮の色が、火のように燃えています、「するとお嬢さん、あなたも、この木箱を重要な手がかりとお考えになるのですか?」
うわべだけはいかにもあたりのやわらかい、ひとを小馬鹿にしたような彼の口調に、わたしはすっかり頭に来てしまいました。なにさ、この恩着せがましい態度! これで二度目だわ! わたしは顎をつき出すと、針をふくんだ声で言ってやった、「まあ、ヒュームさん、このあたしがどう考えようと、べつにたいしたことはないじゃありません?」
「これはご挨拶ですな、なにもあなたを怒らせるつもりは毛頭ないんですよ。この木箱について、ほんとうに、どう思っているんです?」
「あたしの意見はこうですわ」わたしは吐き出すように言ってやりました、「みなさん、そろいもそろって救いようのない明《あ》き盲《めくら》ですこと!」
四 五番目の手紙
わたしがヨーロッパから帰った最初の夏のあいだというもの、わたしはすっかり遅れをとってしまったアメリカ文化の最新知識を身につけようと、それこそおおわらわの態《てい》でした。そんなわけで多種多様の流行雑誌を読みあさる結果になりましたが、とりわけ興味をいだいたのは、雑誌の色とりどりの豪華な広告ぺージを見て、思わず眼を見張らざるをえなかったアメリカ企業とその飛躍的発展のサンプルだったのです。広告によってアメリカの実体を知る! というわけです。キャッチフレーズのある形式が、わたしをとらえました。たとえば、こういう広告文句です――『あたしがピアノのまえに腰をおろすと、みんながいっせいに笑う』――とか『ぼくがフランス人の給仕を呼びつけると、みんなが微笑する』――どうです、自分たちが下層階級だったときには想像さえできなかった、才能、流暢《りゅうちょう》なお喋り、あるいは文化とかいった華やかなものを、だしぬけにひけらかして、昔の仲間を面喰らわせておもしろがる熱心な審美家たちの面目が、こんなキャッチフレーズのなかにも躍如としているじゃありませんか。
いまのわたしには、こういった成り上がりの芸術愛好家がうらやましくてしようがない。だって、わたしが「みなさん、そろいもそろって救いようのない明《あ》き盲《めくら》ですこと!」ってやりかえしてやったら、ジョン・ヒュームはクスクス笑うし、あの我慢のならないケニヨン署長ときたら動物のような笑い声をたて、有象無象《うぞうむぞう》の警官連中はしのび笑いをする始末、おまけにジェレミー・クレイまでニヤニヤ笑っている……そうよ、みんな、わたしのことを、いいもの笑いの種子《たね》にしたんだわ。
口借《くや》しいけれど、まだそのときは、この連中がどんなにあわれな明《あ》き盲で、度しがたい馬鹿かということをまざまざと見せつけてやるだけのはっきりとした自信が、わたしにはなかったのです。そこでわたしは、わざとそっけない態度をよそおい、いかにも確信ありげにむずかしい顔をして、いまに見るがいい、おまえさんたちを顎がはずれるほどびっくりさせてあげるから、そのときは思いきり手をたたいてやるわ、とわたしは、胸のなかで固く誓ったのです。たしかに、考えてみると、こんなことはすごく子供っぽくおかしなくらいです。わたしがヨーロッパに行ったとき、同伴のおばさんが、わたしの強情な気まぐれを許してくれなかったときなど――じつは、しょっちゅう、そういうことがあったんです!――ほんの少女だったわたしは、よくおなじように感じたものです、そしてあのあわれな年寄りに、うんとおそろしいバチがあたるように、神さまにお祈りしたんですからね。しかし、このときだけは、わたしも大真面目だったのです、いやでも耳に入ってくる検事たちのクスクス笑いのなかを、わたしは机のところにひきかえしたのですが、腹の中は怒りに煮えくりかえっていたのです。
気の毒にも父は、身のおきどころのないような様子でした。カリフラワーみたいな耳の先までまっ赤にそめて、ものすごい目つきで、わたしの顔をにらんでいるじゃありませんか。
わたしは狼狽《ろうばい》した気持ちを隠そうと、机の一隅を調べはじめました。タイプライターで宛名が打ってあり、封印はしてあるものの、まだ切手の貼ってない何通かの封筒が、きちんと積んであります。それでも、怒りにくらんでいたわたしの眼が、はっきりするまでにはいくらかかかりました。やっとのことで机の上の手紙が、はっきりみえてくると、さすがにジョン・ヒュームも後悔したらしく、秘書のカーマイケルにこう言いました、「そうか、手紙がありますね。あなたのおかげで、気がつきました、ありがとう、お嬢さん。この手紙をタイプしたのはあなたですか、カーマイケル君?」
「え?」カーマイケルはギョッとしたようです。どうやら彼は自分の考えにすっかり気を奪われていたらしい。「ああ、あの手紙ですか。はい、タイプを打ったのは私です。今日の夕食後、先生が口述したのを筆記して、外出するまえに私がタイプで打ったのですよ。私が仕事するところは、ほら、この書斎の奥にある小部屋でしてね」
「その手紙に、なにか手がかりになるようなものは?」
「まず犯人をあげる糸口になるようなものは、なにひとつありませんね」カーマイケルは残念そうに微笑しました、「ま、本当の話、先生が待っていた訪問客にかかわりのありそうなことは、ただの一言もなかったように思います。こう言えるのは、私がタイプを打ちおわって、その手紙を受けとったときの先生の態度なのです。先生は息つくまもなく目を通されると、そそくさと署名し、折りたたんで封筒に入れ、封をする――これがもう、機械的というか、まったくアッという|ま《ヽ》のことなのです。もっとも、その間というもの、先生の指はふるえていました。そのとき、先生の頭にあったのは、一刻も早く私を追っぱらうことだけなのだと、私ははっきり感じましたが」
地方検事はうなずきました、「タイプを打ったとき、複写紙を使ったはずですね。この際、徹底的に調べてみたほうがよさそうですな、警部さん? ひょっとすると、その手紙から、なにか手がかりになるようなものが、つかめるかもしれません」
カーマイケルは机のところまで行くと、片側にある針金製のファイルから、桃色の、光沢のある薄い紙を何枚かとり出しました。ヒュームは、その複写紙にザッと眼をとおすと、頭をふって、父に渡しました。わたしも、父の横から、その文面をのぞきこみました。いちばんはじめの複写紙が、エライヒュー・クレイ宛のものだったので、いささかわたしもびっくりしました。父もわたしの顔を見、わたしもまた父を見かえしました。それからわたしたちは、かがみこむと、文面を読みはじめたのです。
はじめに型どおりの宛名や住所などがあって、以下の文面は――
親愛なるエリ。
友人のよしみでちょっとした内報をお知らせする。むろん、その内容や情報源については、極秘にされたく。従来どおり、君と小生との間だけのことにしてください。
九分九厘まで、来年度新予算には、チルデン郡に州立裁判所を新築する百万ドルの資金が計上されるものと見てさしつかえなし。現裁判所は、ご存じのとおり、老朽化し倒壊一歩手前という実状。そこで、予算委員会において、われわれ数名は、新裁判所の建設資金を分捕《ぶんど》るべく、目下奮闘中です。小生の選挙区民から、このジョーエル・フォーセットが地元の利害を無視したなどと、絶対に言わせないつもり!
われわれひとりのこらず、新裁判所建設資金金額が来年度予算に惜しみなく算入されることを望むや切。言うなれば、大理石も極上のものを使用すべし、というところ。
この内報が、君にすくなからぬ興味をおこすものと思い、とりあえず一筆。 敬具
ジョー・フォーセット
「ふん、友人のよしみでか?」父がうなり声をあげました、「ヒュームさん、この手紙はたいへんな代物《しろもの》ですぞ。あなたがたが、フォーセットの面《つら》の皮をはごうとしたのもあたりまえの話だ」父は、ジェレミーのほうに、警戒するような眼をチラッとむけると、声をひくめました。ジェレミーときたら、全身耳にして書斎のすみっこに突っ立ったまま、つづけさまにふかしている十五本目のタバコの火を見つめているじゃありませんか。「この手紙は本心でしょうかね?」
ヒュームは顔をゆがめて笑いました、「なに、あやしいものですよ。殺された上院議員がよく使う手でね。エライヒュー・クレイ氏はまったく潔白です。こんな手紙にひっかかったら馬鹿を見るだけですよ。クレイ氏は、この上院議員さんと、手紙にあるようなエリ、ジョーで呼びあうほどの仲ではありません」
「すると、作為的に記録に残す|こんたん《ヽヽヽヽ》だったのか?」
「そうですよ、万一の場合、このタイプの複写紙があれば、エライヒュー・クレイも自社の儲《もう》けに目がくらんで、大理石の闇取引をなんとかものにしようとした共犯者であるという証拠になりますからね。クレイ氏の自称『親友』であり、またクレイ氏の共同経営者のフォーセット博士の弟にあたる上院議員は、過去においてもこれとおなじように何度か情報をもらしているのだという含みをもたせて、この手紙を書いているわけです。もしこの汚職が摘発されるような場合、クレイ氏も一味と連座させられる仕組ですよ」
「なるほど、ま、いずれにしろ、この手紙が見つかったのは、息子さんのためにもよかったわけだ。それにしても、このフォーセットというやつは、たいへんなゴロツキ野郎だ!……パット、つぎのやつを読んでみよう。だんだん、いろいろなことがわかってきたぞ」
二番目の複写紙は、リーズ新聞の編集局長宛のものだった。
「フォーセット一味にまっこうから噛みつく勇気のある新聞は、この町ではこれだけですよ」と地方検事が説明しました。
この文面は、強硬な語調なもので、つぎのとおり――
本日の貴紙の論説は、根拠のまったくないもので、とうてい黙過できるものではない。小生の政治的業績のある事実について、いちじるしく故意に曲解したものである。
ここに小生は、記事の撤回を要求し、あわせてリーズ市およびチルデン郡の善良なる市民のまえに、小生の個人的人格に加えられた貴紙の破廉恥《はれんち》きわまりない記事が、まったくの事実無根であることを公告するように要求するものである!
「古臭い手だ」父はうなり声をあげると、その複写紙をわきにどけました、「おつぎはどうだね、パット?」
三番目の複写紙はアルゴンキン刑務所のマグナス所長宛のもので、簡単なものだった――
親愛なる所長殿。
明年度のアルゴンキン刑務所内の昇進につき、州刑務局宛に出した小生の公式推薦状のコピーを同封いたしましたから、ご一読ください。 敬具
ジョーエル・フォーセット
「おどろいたな、刑務所にまでツバをつけるとは!」と父が声をはりあげました、「刑務所のなかでバーベキューでもやる気なのかね?」
ジョン・ヒュームが吐き出すように、「ね、『貧民の味方』というやつが、タコみたいに見境もなく四方八方に手をのばしたがる|てあい《ヽヽヽ》だということが、よくわかったはずです。看守に恩を売りつけて、刑務所からさえ票をあつめようという|こんたん《ヽヽヽヽ》ですよ。やつの推薦状なるものが州刑務局にどのくらい|もの《ヽヽ》をいうのか、私にはわからないが、たとえききめがまったくないにしろ、市民にご利益《りやく》をさずける慈善家という印象をうえつけますからな。ばかばかしい!」
父は肩をすくめ、四番目の複写紙を手にとると、こんどはクスクス笑い出すじゃありませんか。「やれやれ、かわいそうなおひとだ! 二番|せんじ《ヽヽヽ》もいいところだよ、パット。こいつを読んでごらん。たいへんな代物だ」この手紙が、父の警察時代からの親友のブルーノ知事宛のものだったので、わたしはびっくりしてしまいました、そして知事さんが、この厚かましい失礼きわまる手紙を読んだら、どんな顔をするだろうと思ったものです。
親愛なるブルーノ君。
州議会で二、三の友人からきいたところによると、小生のチルデン郡での再選の見通しにつき、君はずいぶん言いにくいようなことまで喋《しゃべ》って歩いているそうではないか。
それならば、言わせてもらう。もしチルデン郡からヒュームが当選することにでもなれば――ヒュームが議員候補に指名されることは確実――その政治的反動は、次期州知事選における君の再選に重大な影響をおよぼすはずだ。チルデン郡がハドソン流域を扼《やく》す戦略的中心であることは、よもやお忘れであるまい。
君とおなじ政党に所属する有能な上院議員の人格や政務をかげでコソコソ非難するまえに、この点を猛省されるのが、君自身のためかと存ずる。
J・フォーセット
「いや、まったく泣かせるね」父は針金製のファイルに、いままで読んだ複写紙を投げこみました。「やれやれ、ヒュームさん、私はもう手を引きたくなりましたよ。やつは、ナイフで胸をグサッとやられるだけの男さ……おや、どうしたんだね、パット?」
「どうしたどころのさわぎじゃなくてよ」とわたしはゆっくり言いました、「いったい複写紙は何枚ありまして、パパ?」
と、ヒュームがするどい眼でわたしの顔を見ました。
「そりゃ、四枚じゃないか」
「だって、机の上には、封筒が五通《ヽヽ》あってよ!」
とたんに、地方検事が顔色をかえ、あわてて机の上の宛名のある封筒の束を鷲《わし》づかみにしたので、わたしの気持ちもいくらか|せいせい《ヽヽヽヽ》しました。
「まったくそのとおりだ!」と、ヒュームは叫んで、「カーマイケル君、こいつはどうしたわけです? 上院議員が口述したのは何通?」
秘書はほんとうにおどろいたようです、「四通だけですが、ヒュームさん。いま、ごらんになったその四通です」
ヒュームはすごい勢いで封筒をあらためると、順繰りにわたしたちに手渡しました。エライヒュー宛の封筒が、束のいちばん上になっていて、いまでは乾ききった血のりのかたまりがとび散っています。二番目はリーズ新聞の編集局長宛のもので、封筒の隅に『親展』とタイプで打ってあり、太いアンダーラインがひいてありました。三番目は所長宛のもので、封筒の両端には、在中の書類の紙ばさみの形がくっきりと浮き出ていて、『参照、書類綴二四五号、アルゴンキン刑務所人事昇級の件』という説明書きが、封筒の右下の隅にれいれいしく記入してあります。知事宛の封筒は、上院議員専用の青い封蝋で二重に封印がしてあり、これにも親展とタイプしてあって、おなじように太いアンダーラインがひいてありました。
さて、五番目の封筒、つまり複写紙のない問題の封筒を調べる段となると、ヒュームは眼を大きく見ひらき、ちょうど口笛をふくときのように唇をすぼめて、ながいあいだ、その宛名を喰い入るように見つめていました。
「ファニー・カイザーとね」地方検事はやっと言いました、「ははあ、そういうわけだったのか?」ヒュームはわたしたちをそばにまねきました。宛名は、タイプで打ってありません。ニューヨーク州リーズ市、番地、名前とが、黒インクで、権力者によくある自己流の飾り書きでしたためてあります。
「ファニー・カイザーというのは?」と父がたずねました。
「ああ、この町の有力者ですよ」地方検事は開封するのに夢中で、その返事も上《うわ》の空《そら》でした。と、ケニヨン署長が身を硬直させたのが、わたしの眼にもわかりました、そして署長はツカツカとわたしたちのほうにやってきます。まわりに立っている二、三の刑事たちは、噂の女が男たちの酒のサカナになったときによく見せる、みだらな目つきで、たがいにウインクしました。
手紙の文面も、封筒の宛名と同様、ペンで書いてあります。その筆蹟が横柄《おうへい》な走り書きであることもおなじ……ヒュームは声を出して読みかけたのですが、そのとたんに、はじめの言葉だけで声をのみ、わたしの視野にいないだれかにチラッと眼を走らせると、あとは黙読してゆきました。と、彼の眼がかがやきました。読みおわるとヒュームは、ケニヨン署長、父、それにわたしの三人をよびよせて、ほかの連中に背をむけるじゃありませんか。そして各自黙読するように頭で合図して、わたしたちに手紙を読ませてくれたのです。
その文面は、冒頭に挨拶の言葉もなく、いきなりズバリと本題に入っていて、終りには署名もありません。
どうやら電話はCに盗聴されているようだ。電話を使うのはまずい。昨日の相談と、君の提案をとりいれて、計画の変更を知らせるために、いま、アイラに手紙を書いているところ。
ジタバタせずに、腰をすえるんだ。われわれは、まだ負けたと決ったわけではないんだぞ。それから、メイジーをこっちによこしてくれたまえ。友人Hのために、ちょっとしたアイデアがある。
「フォーセットの字ですかね?」と父がたずねました。
「それはもう疑いの余地はありませんね。ところで、こいつをどうお考えになります?」
「Cとね」ケニヨン署長が口のなかでつぶやきました、「ははん、それにしても、まさかあの男が――?」署長は、あの魚のようなちいさな眼で、カーマイケルのほうを横目に見ました。秘書は、書斎の向こう側で、ジェレミー・クレイとしずかに立ち話をしている最中。
「いや、ベつにおどろくにはあたらないさ」とヒュームがささやくように言います、「そうか! どうもあの秘書のやつが|くさい《ヽヽヽ》とにらんでいたんだ」地方検事は戸口にいる刑事のひとりに頭で合図しました。その刑事は、もの慣れた物腰で、ゆっくりと近づいてきました、「二、三人で、この家の配線をシラミつぶしに調べてくれたまえ」とヒュームが、刑事の耳もとでささやきます、「電話線だ、いますぐ!」
刑事はうなずくと、来たときとおなじようにのっそりと立ち去ります。
「ヒュームさん」わたしは声をかけました、「手紙にあるメイジーって、何者ですの?」
地方検事の口もとがゆがんで、「メイジーという若い婦人が、ある方面ですごい才能を発揮しているということだけは断言できますね」
「いいわ、どうしてあなたって、奥歯にもののはさまったような言い方をなさいますの、ヒュームさん? あたしだって、もう大人ですわ。それから、『友人H』というのは、フォーセット上院議員があなたのことを指して書いたことですわね?」
地方検事は肩をすくめて、「どうも、そうらしいですな。わが寛大なるライバルは、ジョン・ヒュームという男が、自分で高言するほど小心翼々の堅物《かたぶつ》じゃないということを、例の古くさい手を使って宣伝するつもりだったと思いますよ。それでメイジーという女に、私を誘惑させて、私の評判を傷つけようというこんたんは、火を見るよりもあきらかです。いままでにこういう黒い誘惑はいくらでもあったことで、もし私がほんのわずかでも油断したら、私の――その、好色ぶりを証言する女がいくらでも出てきたでしょうな」
「あら、うまいことおっしゃって、ヒュームさん!」わたしはできるだけ愛らしくしっぺ返しをしてやりました、「奥さまはおいでですの?」
彼は微笑して、「ほう――まるであなたが私の奥さんになってくださるみたいですね?」
と、そのとき、電話の配線を調べに行っていた刑事がもどってきたおかげで、返事に窮していたわたしは助かったというわけです。
「検事、この書斎以外の電話線には、なんら異常がありません。では、ここもちょっと見てみますか――」
「待て」ヒュームがあわてて低い声でおしとめると、こんどは声をたかめて、「あの、カーマイケル君」秘書は声のほうに顔を向けました、「さしあたり、おたずねすることはおわりました。書斎の外で待っていてくださいませんか」
カーマイケルは落ち着きはらった態度で、部屋から出て行きました。と、間髪入れず、刑事がとび出すと、机から電話ボックスにのびている配線を調べはじめました。そして、かなりながいこと、電話ボックスを馴れない手つきでいじりまわしています。
「さあて、なんとも言えませんな」刑事は身を起こすと報告しました、「私には異状があるように見えないのですが、電話会社のものを呼んで、専門的に調べたほうが確実だと思いますね、検事」
ヒュームがうなずき、わたしが口をひらきました、「ヒュームさん、まだひとつ、問題がありますわ。なぜ、ほかの四通の封筒も、あけてみないんですの? ひょっとすると、封筒の中の手紙が、複写紙と一致しないかもしれませんもの」
地方検事は、すみきった眼で、わたしの顔を見つめると、ほほえみました。そして、ほかの封筒をまた手にとったのです。しかし、四通の手紙とも、さっき読んだ複写紙の文面とまったくおなじものでした。ヒュームは、上院議員がアルゴンキン刑務所の所長に出した手紙に同封されていた書類に、とりわけ興味を持ったようです。それは、議員の手紙に紙クリップでとめられた刑務局への推薦状のコピーで、昇級を推された所員の名前がズラリとならんでいました。地方検事は、いかにもにがにがしげに、そのリストをにらんでいましたが、やがてポイと投げ出しました。
「せっかくのあなたの勘も、空振《からぶ》りにおわりましたね。お嬢さん」そう言って、地方検事が机の上の電話をとりあげたとき、わたしはほかのことに考えをうばわれていたのです。
「局ですか? こちらはヒューム地方検事。ファニー・カイザーの自宅の電話番号を? 市外です」そのまま、彼はしずかに待っていました。やがて「ありがとう」と言うと、あらためて電話番号を申し込みました。ヒュームはしばらく立ったまま待っていましたが、わたしたちの耳にも、交換台がしきりに呼び出しているブザーの音がきこえてきます。「留守か、ふーん」そう言うと、検事は受話器をガチャリとフックにかけました、「まず第一に手を打つことは――ファニー・カイザーという女を尋問することだ」ヒュームはまるで少年みたいに両手をこすりあわせます、少年にしてはちょっと凄味《すごみ》があるけれど。
わたしは、もうすこし机に近よってみました。被害者が坐っていた椅子から手のとどくところ、机の片側から二フィートとはなれていない近くに、コーヒー・テーブルがありました。その上に、電気コーヒー沸《わか》し器と、一人分の茶碗《ちゃわん》と皿がお盆にのせてあります。好奇心にかられたわたしの指は、コーヒー沸し器にさわりました。まだ、ぬくみが残っている。それから茶碗の中をのぞいてみた。底のほうに、コーヒーの|かす《ヽヽ》がよどんでいます。
と、まるでインドの大道魔術師の不思議なロープのように、わたしの頭の中で、推理のロープがスルスルとひとりでにのぼって行くではありませんか! その推理のロープが、あやしげな魔術みたいにはかなく崩れ落ちないことを、わたしは必死で祈りました。なぜって、この推理が正しいなら……。
わたしは眼をかがやかしてふりかえりました、ひょっとすると、勝ち誇った色がありありと浮かんでいたのじゃないかしら、だって、ヒューム地方検事が、怒ったみたいな顔をして、わたしをにらみつけたんですもの。そのとき、たしかに彼は、わたしを叱りつけるか、質問を浴びせかけるかしたかったにちがいありません。ちょうどその矢先、捜査方針を根底からくつがえすようなことが起こったのです。
五 六番目の手紙
じつは、飛び入りがあったおかげで、ある発見が、しばらくのあいだ、さまたげられてしまったのです。
外の廊下から、なにやら騒々しい気配がしてきたかと思うと、戸口に立っていたケニヨン署長の部下のひとりが言いわけがましいことを口走りながら、王さまのまえにまかり出たように最敬礼をして、身をわきによせて通路をあけました。一瞬、水を打ったみたいに、あらゆる話し声が途絶えました。法の威光を|かさ《ヽヽ》に着た無神経な刑事に通路をあけさせるとは、いったいどんなお偉方《えらがた》かと、わたしは思ったくらいです。
ところが、やがて戸口に姿をあらわした人物は、見たところ、少しも恐ろしい感じがしないのです。テカテカに頭のはげた、血色のいい小男で、そのリンゴのようなまろやかな頬は、やさしいおじいさんを連想させずにはおきません。そして食後のお祈りでもしているような、腿《もも》の上までつき出ているさも気持ちよげなほてい腹。おまけに着ている服といえばチンチクリンで、外套もかなり着古した感じ。
しかし、その小男の目つきを見たとたん、わたしの第一印象は脆《もろ》くもくつがえされてしまったのです。たしかにこの男は、どんな仲間のうちにあろうと、かならず一目《いちもく》おかれるような人物でした。眉の下にするどくきらめく青い氷のような眼、きびしい、無慈悲にひかる、あらゆる悪を知りつくした賢者の眼。抜け目のない、ずる賢《がしこ》い、などというものではない、まさに全能の悪魔の眼。そして、リンゴのような頬にたのしげな微笑が浮かび、血色のいい禿頭がいかにも老人特有の用心深さで、ピョコピョコとうごいているだけに、その眼はいっそうおそろしいものになってくるのです。
と、びっくりしたことには、ジョン・ヒュームが――革新派の青年政治家で、民衆のチャンピオン、火で浄化した石を投げつけて、巨人ゴリアテを殺したあのダビデのごとき青年ヒュームが、部屋を小走りにつっきると、満面に敬愛の色をみなぎらせ、その老人のポッテリとした小さな手をにぎるではありませんか。これは演技なのでしょうか? どう考えたって、ヒュームが、この老人の冷酷そのもののような眼を見のがすはずはありません。だが、ひょっとすると、ヒューム自身の若さも精力も正義感も、この老人の微笑とおなじように、ただの見せかけだけなのかもしれない……思わずわたしは父の顔を見ました、しかし、父の、いかついなかに親しみのある素朴な顔には、なんの表情も読みとれませんでした。
「いま、事件を知ったばかりだがね」小柄の老人は、ボーイ・ソプラノのような声をはりあげます、「なんという恐ろしいことだ、ジョン。あわててとんで来たのだよ。で、なにか手がかりでも?」
「それが、いっこうにつかめないので」と、きまり悪げに、ヒューム。彼は、その老人を、わたしたちのところまで案内してきました、「お嬢さん、私の今後の政治的生命を掌中に握っている方をご紹介しましょう。ルーファス・コットンさんです。それから、こちらはもとニューヨーク警察本部においでになったサム警部です」
ルーファス・コットンはかるく会釈して微笑すると、わたしの手をにぎりました、「これは、これは、思いがけなくお目にかかれて、こんなにうれしいことはない」老人はリンゴのようにまろやかな頬をたわませると、「いや、まったく恐ろしいことです」そして、わたしの手をにぎったまま、父のほうに顔をむけました。わたしは、できるだけ相手の気にさわらないように、そっと手をぬいたのですが、老人は気がつかなかったようです。「すると、あの有名なサム警部さんですか! いや、あなたのお噂はよく聞いてますよ、警部さん! ニューヨークにいるおさな友だちの、バービッジ長官――たしか、あなたの在職時代も長官をやってたと思うが――この男から、あなたの評判をよく聞いたものでね」
「これはどうも」父は大満悦で答えました、「あなたが、ヒューム検事の後盾《うしろだて》というわけですか、コットンさん、私もあなたのことはよくうけたまわっておりますよ」
「そうですか」ルーファス・コットンはボーイ・ソプラノで言って、「このジョン君はね、こんどの上院議員選挙に、チルデン郡から立候補するんですよ。で、わたしも微力ながら、この男の後押しをしているわけで。ところが、この騒ぎだ――まったく、やれやれですよ!」老人はおいぼれのメンドリみたいな声を出しましたけれど、その眼は毒蛇のような光をはなち、まばたき一つしません。「ところで警部さん、それからお嬢さん、ちょっと失礼をねがって」コットン老人はわたしのほうに顔をむけて、ニッコリ笑いながら、「この事件について、ジョン君とすこしばかり話しあわなければなりません、いや、まったく恐ろしいことだ、なにせ、政局に重大な影響をおよぼさないともかぎらんし……」老人はなおも口のなかでブツブツつぶやきながら、青年地方検事をわきにひっぱって行きます。それから数分間というもの、二人は頭をよせあって、熱心にヒソヒソと話しあっていました。しかし、よく見ると、喋っているのは、ほとんどヒュームのほうで、老政治家のほうは、ときどき頭をするどくうなずかせ、若い子分の顔をじっと喰い入るように見つめているだけなのです……ここで、正義感に燃える青年政治家という、ヒュームにいだいていたわたしの見方は、ガラリと変わってしまいました。フォーセット上院議員の死が、ヒュームとコットン、そして二人の所属している政党にとって、絶好のチャンスだということは、まえから感じてはいたものの、このときほど痛切に感じたことはありません。殺害されたフォーセット上院議員の正体があらいざらい暴露されてしまうという点で、革新派の勝利は動かせないものとなったのです。この破局につづく混乱のなかで、フォーセット派のだれが上院議員に立候補して、選挙民の目の前で、この絶望的な一撃を受けて失墜した彼らの威信を回復できるというのでしょうか。
と、父が目顔で知らせたので、わたしはそのそばに急いで行きました。そのとき、あの発見が……。
どうしてまた、いままでそのことに、わたしは気がつかなかったのか。父が夢中になって調べているものを見たとき、思わずわたしは、胸のなかで、自分自身に毒づいてやりました、「こらッ、ペイシェンス、おまえみたいな大馬鹿者は、ほかにはいないよ!」って。
父は机のうしろのほうにある暖炉のまえにひざまずいたまま、一心になにかを調べている最中でした。そのそばで、ひとりの刑事がひくい声でしきりになにか言っていますし、その向こうではカメラを手にした鑑識課の係員が暖炉の内側の撮影に大童《おおわらわ》といったありさま。と、青い閃光とともに破裂音がしたかと思うと、部屋の中はマグネシウムの煙でいっぱいになりました。その係員は、こんどは父をわきにどけると、暖炉の際まできている敷物の端にカメラをむけて、もう一枚写真をとりました。ちょうど暖炉の火格子のまんまえあたりです。いったい、なにを撮影したのかと、わたしは見てみました、それは男の左靴の爪先の跡で、クッキリと残っているじゃありませんか。暖炉の灰が、そのあたりまでこぼれて、見ぐるしく散らばっています。靴跡をのこした男が、うかつにもその灰の中に足をふみ入れてしまったんだわ……鑑識の係員は、鼻を鳴らすと、撮影道具をしまいはじめました。これで、鑑識課の係員の仕事もきっと一段落ついたんだわ、とわたしは胸のなかで思いました、というのは、この部屋のほかのところと被害者の写真は、わたしたちが駈けつけるまえに撮影ずみになったと、だれかが言っていたからです。
しかし、父が夢中で調べているのは、敷物についている男の靴跡でなく、暖炉の火格子のなかにあったのです。一見したところ、これといって気にとめるようなものではなく――その夜もまだ早いうちに焚いた火の残りかすと思われる黒っぽくなった古い灰の山のうえに、はっきりと区別のつく、ひと握りの白っぽい灰がのっていて、そこに、かなり輪郭がぼやけてはいるものの、識別のきく靴跡がついていました。
「こいつをなんだと思う、パット?」わたしが父の肩越しからのぞきこむと、父は声をあげて、「なんに見えるかね?」
「男ものの右靴の跡だわ」
「まさにそのとおり」父はそう言うと、腰をのばしました、「まだ、ほかにもあるぞ。靴跡がのこっている上の灰と、その下の灰の山とは、色がはっきり違うだろう? いいかね、これは燃やした材料が違うからだよ。上の灰は、まだ燃やしてから間がないな、それから足で踏みつけたんだ。さて、燃やしたやつはだれか、そして、いったいなにを燃やしたのか?」
わたしにはわたしなりの答えがあったけれど、父にはなにも言いませんでした。
「こんどは敷物についている靴跡だが、こいつは爪先だな」父は敷物を見おろしながら、つぶやくように言いました、「すると、男がどんな動作をしたか、はっきりわかる。男 は暖炉の|まんまえ《ヽヽヽヽ》に立っていて、敷物にこぼれていた灰のなかに左足をふみこみ、それから暖炉の火格子でなにかを燃やし、右足で燃えかすをふみつける……君、ここはもういいんだろう?」父は写真を撮った鑑識課の係員にうなり声をあげると、係員はうなずきました。そこで父は、またひざまずくと、上のほうの白っぽい灰を慎重な手つきで、掘り返しはじめます。「見ろ!」父は叫ぶなり、意気揚々と腰をあげました、その手に、ごく小さな紙の燃えのこりをつかんで。
クリーム色の厚い紙片で、火をつけてから、まださほどたっていない紙の燃え残りであることは、一目でわかります。父は、その小さな紙きれを、さらにこまかくちぎると、マッチをすって、それに火をつけました。そのわずかばかりの灰は、火格子の中にのこっている白っぽい灰の色と、まったくおなじ色でした。
「やっぱりそうか」父は頭をかきながら、「それはそうと、この紙はどこにあったのかな――? そういえば、パット、たしかおまえは――」
「机の上にある便箋ですわ」と、わたしは落ち着きはらって答えました、「一目で、あたしにはわかってよ、パパ。便箋とはいえ、上院議員専用のすごい上等品ですもの」
「そうか、パット、おまえの言うとおりだ!」父は小走りに机のところへ行きました。はたせるかな、机の上の便箋の用紙と、わずかに燃え残った紙きれとをくらべてみると、わたしの予言どおり、火格子で燃やしたものは、まさしくこの便箋からひきちぎった用紙だったのです。
父は口のなかでモグモグ言いました、「しかしだね、これだけじゃ、たいして役には立たんぞ。かんじんのこの用紙を燃やしたのは|いつ《ヽヽ》か、ということがわからんじゃないか? 燃やしたのが、殺害犯人がこの書斎にあらわれた数時間まえのことかもしれないし、ひょっとすると、フォーセットが自分でこいつを――いや、待てよ」父は暖炉にあわててひき返すと、灰の中をまたかきまわしました。と、父は、さらにまたなにかを探し出したではありませんか――こんどの獲物はベトベトに|にかわ《ヽヽヽ》づけのしてある細長いリンネルの燃えのこりです。「しめた、こいつは便箋をとじる|のり《ヽヽ》づけの一部だぞ。用紙にくっついていたんだが。紙が燃えてしまっても、こいつだけは燃えのこったんだな。とはいうものの――」
父はヒュームとルーファス・コットンのところに行くと、その獲物を見せました。三人が頭をあつめて話しあっている|すき《ヽヽ》に、わたしはちょっとした探検をやってみました。わたしは机の下をのぞきこみ、まんまと|おめあて《ヽヽヽヽ》のものを見つけたのです――それは紙屑籠。ところが、なかはカラッポでした。そこでこんどは、机の引き出しという引き出しをさがしてみたのです、だが、わたしの探していたもの――なにが書いてあるにしろ、ないにしろ、便箋のもう一枚の用紙は見つかりませんでした。わたしは書斎から脱け出すと、秘書のカーマイケルをこっそりさがしました。と、応接間で、涼しい顔をして新聞を読んでいる彼を、わたしは見つけました。そして、まるで喜歌劇の王者W・S・ギルバートの新作にでも出てくるみたいに、刑事がひとり、あくまでも何喰わぬ顔をしながら、カーマイケルを監視しているじゃありませんか。
「カーマイケルさん」と、わたしは秘書にだしぬけに声をかけました、「上院議員の机にある便箋のことですけど――あれは、一冊だけしかないんですの?」
彼は手にしている新聞をおどろいてまるめると、とびあがりました。「や、これは――これは失礼しました。便箋ですか? そう、そうです、たしかに、あれだけしかありません。たくさんあったのですが、みんな使ってしまったものですから」
「あの便箋の前のはいつなくなったんですの、カーマイケルさん?」
「一昨日です。その便箋の台紙は、この私が捨てたんですから」
わたしは推理に没頭しながら、書斎にひきかえしました。いくら頭があっても足《た》りないくらい、いろいろな可能性が考えられます。おまけに推理の裏づけとなる事実は、ほとんどないといってもいいくらい。事実がまだ、ほかにも出てくるだろうか? はたして、わたしの推理を裏づけることができるのか――?
と、そのとき、わたしの推理の糸は、だしぬけに切られてしまったのです。
その日の夜もまだ早いうちから、殺人犯人、警察の連中、わたしたち父娘《おやこ》、老政治家のルーファス・コットンと、順々におくりこんできた書斎の、そのおなじ戸口に、突如として、異様な人物が登場したのです。さながら亡霊でも連行してきたみたいに、この人物につきそっている刑事は油断なく目をひからせ、彼のいかつい手は、その人物の二の腕のあたりを喰い入るほどにつかみ、ものすごい形相です。
連行されてきた人物というのは、やみくもに背が高く、肩幅はひろく、さながらギリシア神話に出てくるアマゾンのような、たくましい女でした。一目見て、わたしはその女の年を四十七歳とにらみました。といって、なにもわたしの洞察力を吹聴する気は毛頭ない――なぜって、その女のほうで、年齢をカムフラージュする努力を、なにひとつしてないんですから。男まさりの顔には、口紅はおろか、白粉《おしろい》もつけていない、分厚い上唇のうえの濃い生毛《うぶげ》も漂白剤で脱色していない始末。頭にのっているフェルト帽の下からは、燃えるような赤毛がはみ出しているが、その帽子にしたって、婦人帽子店じゃなく男子用の装身具店で買ったにちがいありません。とにかく、この女には、女気というものがどこにもない、着ている服にしろ、まったくの男もので、両前の折えりつきの上着に、男仕立のスカート、どっしりとした平べったい踵《かかと》の靴、頸《くび》のところにボタン飾りのある白いYシャツ、のどもとにゆっくりと結んである男もののネクタイ……その女のいでたちときたら、上から下まで、ギョッとするものばかり。それに加えて、思わずわたしが眼を見はったのは、服の下のYシャツまでが糊《のり》のよくきいた男ものの型で、上着の袖口からのぞいている金属性の大きなカフスボタンには、美しい細線細工がほどこしてあるではありませんか。
そして、この女が人目を惹くのは、その異様ないでたちばかりではありませんでした。眼は、するどくキラキラかがやいていて、ダイヤモンドを思わせる。口をひらいたときの声は、ふとく、ひくく、やわらかで、いくぶんしゃがれてはいるが、けっして耳ざわりではありません。たしかに奇怪な人物ではあるが、頭の回転はたいしたものです――たとえ教育がなく、生地《きじ》のままであるにしても。
この女が、ファニー・カイザーであることは、だれにきかずとも、わたしにはわかりました。
いままでぼんやりしていたケニヨン署長は、女を目にするなり、まるで生き返ったみたい。署長が大声でどなりました、「よおっ。ファニー!」それがまるで気のあった男友だちによびかける口調だったので、わたしは目をまるくして、女の顔を見たくらいです。
「やあ、ケニヨン」女もとどろくような声をはりあげました、「ヘッ! このわたしを捕えて、いったいどうしようというんだい? この家でなにがあったのさ?」
女は、まるで望遠鏡をのぞきこむような目つきで、部屋にいるわたしたちの顔を順ぐりに見わたしました。地方検事のヒュームにはそっけなくうなずいてみせただけ、ジェレミーには無表情のまま、父には顔をしかめて考えこんでみせた、そしてわたしの顔を見たとたん、びっくりした表情で、いつまでもジロジロながめている。やっと検閲がすむと、女は地方検事の目をにらみつけて、言いました、「どうしたんだい、おまえさんたちは、みんな、唖《おし》かい? なんの真似なんだ、お通夜かね? ジョー・フォーセットはどこにいるのさ? なんとか言いなってば!」
「ファニー、よく来てくれたね」とヒュームがすかさず言って、「ちょうど、あんたと会いたいと思っていたところなんだ。おかげで、わざわざ行かないですんだよ。さ、こっちへ入ってくれたまえ!」
女は大股でゆっくりと部屋の中に入ってきました、まるでロダンの『考える人』のような重々しい足取りです。そして、歩きながらふとい指を大きな胸ポケットに突込むと、大型の葉巻をとり出して、分厚い唇に、ものものしくくわえるじゃありませんか。と、ケニヨン署長があわててマッチをすって近よりました。女は葉巻の煙を大きく吐き出すと、机にジロリと眼をくばるなり、その巨大な白い歯で、葉巻を噛《か》みつぶしました。
「話というのは?」女はうなり声をあげると、机によりかかりました、「お偉い上院議員さんに、なにかあったのかい?」
「まだ知らないのか?」とヒュームがしずかにたずねました。
女のくわえている葉巻の先端が、ゆっくりと弧をえがいて上にあがって、「このわたしがかい?」葉巻がさがりました、「わたしにわかる道理がないじゃないか」
ヒュームは、女を連行してきた刑事に顔をむけて、「どうしたんだね、パイク?」
刑事はニヤリと歯をむき出して笑うと、「向こうさんのほうからお出ましになったんですよ、厚かましくも、|いけ《ヽヽ》しゃあしゃあと、この家までね。ところが、玄関には|うち《ヽヽ》の連中が立っているし、電灯はあかあかとついている――さすがにこの女も、ギョッとしたようでした。『いったい、どうしたのさ?』とこの女が言うもんですから、『ファニー、ちょうどいいところへ来た、地方検事があんたを探しているところだ』と言ってやったんです」
「逃げる気配は?」
「冗談もいい加減にしなよ、ヒュームさん」とファニー・カイザーがだしぬけに口を出しました、「なんでわたしが逃げるんだね? わたしはさっきから、あんたの説明を待っているんだよ」
「よし、わかった」ヒュームが刑事に低い声で言うと、刑事は書斎から出て行きました。「さ、ファニー、どうして今夜、あんたがこの家にやってきたのか、そのわけを聞こうじゃないか」
「あんたになんの関係があるのよ?」
「上院議員に会いに来たんだな、ええ?」
女は葉巻の先端から、灰の大きなかたまりをおとしました、「いくらなんでも、大統領に会いにこの家へやってくる馬鹿はいないからね。それともなにかい、ひとの家を訪ねるのは、法律で禁止されているとでも言うのかね?」
「馬鹿な」ヒュームは苦笑しました、「しかしだね、ちょっと腑《ふ》に落ちないところがあるんだよ、ファニー。すると、あんたと大の仲よしの上院議員の身に、なにがあったか、知らないと言うんだね?」
女は眼を怒りに燃えあがらせると、くわえている葉巻を、口からひったくりました、「そいつは、どういうことなんだい? 知らないと言ったら知らないんだ! 知っていたら、だれがきくものか? いったい、なんの駄洒落なんだい?」
「いいかい、ファニー」ヒュームは冗談をたたきあうような口調で言いました、「上院議員は、今晩、天国へご出発になったのさ」
「そいつは、ヒュームさん」ケニヨン署長が耳ざわりな声をあげて、「ちょっとひどすぎますよ、ファニーはなにも――」
「へえ、あの男が死んだ」ファニー・カイザーがゆっくりと言いました、「そう、死んだの?人生はハカナイって、歌の文句にもあるけどね――それにしても、あの男がこうもあっさり死んでしまうなんて?」
女は、驚いた色を、毛ほどにも顔にあらわそうとしませんでした。だが、わたしの眼には、女のたくましい顎の筋肉がひきつれ、その眼が油断なく細くなったのがわかりました。
「ところが、そうじゃないんだ、ファニー、上院議員は、そうあっさりとこの世からおさらばできなかったんだよ」
女は葉巻の煙を静かにくゆらしたまま、「ああ、それじゃ自殺?」
「ちがう、他殺だ」
するとまた、女は「ああ」と言っただけでした、しかし、動じる色も見せず女はあくまで落ち着きはらっているが、内心では心を鬼にし、こういう事態になることを懸念しながらも予期していたのだ、と、わたしは見てとったのです。
「だから、ファニー」と地方検事が愛想のいい口調で、「われわれがいろいろと聞き出さざるを得ない理由が、あんたにものみこめるだろう。今夜、あんたはフォーセットと会う約束でもしてあったのかね?」
「これじゃ、わたしはあんたのいいカモになってしまったわけだね、ヒュームさん……会う約束?」女は上《うわ》の空《そら》でダミ声を出した、「そんなものはありゃしないさ。ただ、フラッと寄ってみただけだよ。あの男は、わたしが来るなんて、これっぽっちも――」と、突然、女はなにか意を決したみたいに、たくましい肩をすくめると、ふりかえりもせずに、背を向けたまま、うしろの暖炉に葉巻をポイッと投げ捨てたじゃありませんか。すると、この女は、フォーセット上院議員のこの書斎の模様を、眼をつぶってもわかるくらいに、よく知っているんだわ。父の顔にも、唖然《あぜん》とした色がいっそう強くあらわれました。父だって、女の動作から、なにごとかを読みとったにちがいない。「いいかい、おまえさん」女はヒュームにあらっぽい口調で言いました、「あんたのおつむの中ぐらい、このわたしにはちゃんとお見通しなんだからね。たしかにおまえさんは腕ききの青年検事だ。だがね、いくらあんたでも、このファニー・カイザーに濡《ぬ》れ衣《ぎぬ》を着せられやしないんだよ。わたしが、このけがらわしい殺人事件にかかわり合いがあるなら、なんだってわざわざ、この家へなんかやって来るものか? さ、わたしをサッサと放免するんだ、わたしは帰るんだから」
女は、大股でノッシノッシとドアに向かって歩いて行きます。
「ちょっと待ちたまえ、ファニー」と、ヒュームがうしろから呼びとめました。女は足をとめた。「まだ話が残っているというのに、なぜあわてて逃げるんだ? なにも私は、あんたを犯人だなんて、一言《ひとこと》も言ってないんだよ。ただ、どうしてもたずねたいことが、ひとつあるんだ。今晩、あんたがフォーセットを訪ねてきたのは、いったい、どんな用事なんだ?」
女は噛みつくように言いました、「サッサと帰してくれ、と言ったのが聞こえないのかい」
「おい、馬鹿な真似はよせ、ファニー」
「いいかい、おまえさん」女はそこで言葉を切ると、白い歯をむきだして、怪物じみた笑いを浮かべ、それからルーファス・コットンの顔に、底意地の悪い意味ありげな一瞥《いちべつ》を投げました。この老政治ボスは、頬に不気味な微笑を浮かべたまま、女の背後で、化石のように身をこわばらせて突っ立っているではありませんか。「わたしという女はね、あっちこっちからお座敷のかかってくるいそがしいお姐《ねえ》さんなんだよ。あんたが腰をぬかすくらい、リーズ市のお偉方の友だちがわたしのまわりにはわんさといるんだからね。このわたしに、下手な手だしをする気になったら、ヒュームさん、いまわたしが言ったことを、とっくりと思い出したほうが身のためだよ。わたしの|ごひいき《ヽヽヽヽ》は、つまらないことで引き合いに出されるのはおきらいでしょうからね。おまえさんが下手な真似でもしてごらん、そのときは、わたしのお友だちがあんたを踏みつぶすよ、こんなぐあいにね!」――女はさも憎々しげに、右足で敷物を踏んづけてみせました――「いいかい、あんたが馬鹿な考えを持ったらね」
ヒュームは顔面に朱をそそぎ、クルッと背をむけると、まただしぬけに女にむきなおって、フォーセット上院議員が、このファニー・カイザー宛に書いた手紙を、そのプロメテウスのような鼻先につきつけました。机の上に積み重なっている五番目の手紙です。
女はまたたき一つせずに、その簡単な文面を、ひややかな表情で読みました。しかし、その落ち着きはらった仮面の下に、恐怖がひしめいているのを、わたしは読みとったのです。その手蹟がまさしく上院議員のものであり、秘密めかした文面ではあるが、明らかに親密さを示す言葉づかいで、この女に書かれているのだから、いかにファニー・カイザーといえども、この手紙を一笑に付したり、凄文句をならべて逃げを打つわけにはいきません。
「いったい、どういうことなんだね?」とヒュームがつめたく言いました、「メイジーというのはだれだ? 上院議員が盗聴されるのを警戒している、極秘の電話というのはなんのことだね? 『友人H』とあるが、これはだれのことだ?」
「そんなことは、わたしのほうから聞きたいくらいだよ」女の眼はまるで氷のよう。「おまえさん、字ぐらい読めるだろうに」
と、ケニヨン署長が、吹き出したくなるほどオロオロした表情でシャシャリ出てくるなり、ヒュームをわきのほうにひっぱって行って、その耳もとに必死でなにかささやきだしたとたん、地方検事がファニー・カイザーに上院議員の手紙を見せてしまったことは、戦術的な失敗だったと、とっさにわたしにわかったのです。というのは、女は手紙を読んだおかげで、すっかり状況をのみこんでしまったではありませんか、女は恐れるどころか逆に攻勢に出て、まるで威嚇でもするよう態度で、不気味な決意と、ただならぬ気色をありありと見せている……そして、ヒュームがケニヨン署長のいらだたしげな異議を耳もとで受けているあいだに、女はグイッと頭をあげ、大きく息をすいこむと、老政治ボスのルーファス・コットンにジロリとつめたい一瞥を投げつけ、額に深い皺をよせて、大股でノッシノッシと書斎から出て行きました。
ヒュームは、女が出て行くのを、だまって見すごしました。彼は怒っているものの、手の下しようがない、といった感じでした。そしてケニヨン署長にすげなくうなずいただけで、父のほうに顔をむけました。
「あの女を留置するわけにはいかんのですよ、しかし、監視はつけておきますがね」と、ヒュームはつぶやくように言いました。
「すごい女だ」と父がうなり声をあげました、「商売はなんです?」
地方検事がひくい声でなにか言うと、父の毛深い眉がつりあがり、「やっぱりそうか! 以前にも、ああいった連中を手がけたことがあるが、とにかく手こずりますな」
「なんだか、あたしだけツンボ桟敷にいるみたいですわね」と、わたしはヒュームにはっきりと言ってやりました、「いまのひと、なかなかおしだしのいい女性じゃありません?」
ヒュームはかぶりをふり、父は苦笑して、「おまえにはむかない話だよ、パット。さ、クレイさんのお宅へ帰ったほうがいいんじゃないかね? 息子さんが送ってくださるよ……」
「いや!」わたしはふくれ面《づら》で言いました、「どうしてそう、あたしを子供あつかいにするのかしら? パパ、もうあたしだって二十一をすぎているのよ。あの女の魅力の秘密はなにかしら? まさか性的魅力ではないし……」
「こらっ、パット!」
わたしはジェレミーのそばへ行きました。この青年なら、もっと融通がきくと見てとったからです。それに、あの女の素姓や、このリーズ市での悪の支配ぶりをよく知っているはず。ところがどうしたことか、ジェレミーときたら、すっかりソワソワしてしまって、あわてて話題を変えようとするじゃありませんか。
「その、つまりだね」とうとう彼は、わたしから眼をそらして言いました、「世間でよく言う『夜の女王』というやつだよ」
「そうだったの!」わたしは舌打ちして、「ほんとにパパときたら、古くさいんだから! 時代遅れもいいところだわ、まるでこのあたしのことを、修道院から出てきたばかりの清純な乙女あつかいにするんですもの。すると、あの女は、マダム・カイザーというわけね? へえ!でも、どうして警察の連中は、あの女のことを、あんなにビクビクしているの?」
「そう……ケニヨン署長にしてもね」青年は肩をすくめて、「あの男は、あの女が支配している売春という機械の歯車みたいなものなんだ。まず、ぼくのにらんだところじゃ、あの女から手当をもらっているな、つまり、用心棒の報酬というやつさ」
「それから、あの女はあそこにいるルーファス・コットンの痛い所も握っているというわけなのね?」
と、ジェレミーは、まるで赤|煉瓦《れんが》みたいに顔を紅潮させると、「そんな、パット――そんなことが、どうしてぼくにわかるというんだい?」
「ああ、あなたってたよりない人!」わたしはギュッと唇をかみました、「そうか、あの女!たいへんなしろものなのね。すべてが一ぺんにわかったわ。あの女とお偉い上院議員さま。じゃ、あの女は、フォーセットとも手を組んでいたのね?」
「ま、世間の噂《うわさ》ではね」と、ジェレミーがあやふやな口調で言って、「さ、パット、ひきあげようよ、きみがいるような場所じゃない」
「そんな台詞《せりふ》は、あなたのおばあちゃんにでも言ってちょうだい!」と、わたしは叫びました、「それでも、あなたは男? ひとりまえにズボンをはいて、なにが紳士? あんまり笑わせないでよ! いや、絶対にいやよ、ジェレミー、あたしは一歩も退《ひ》かないわ――あたしが本気を出したらどうなるか、あの女に、きっと目にもの見せてやる!」
そのときです、まったくだしぬけに、重大な事態が突発したのは。この瞬間まで、数時間を費やした捜査にもかかわらず、期せずしてフォーセット殺害事件の焦点となった、あの哀れな人物にたいして、いささかの疑いもかけられていなかったのですからね。いま、ふりかえってみて、もしあの手紙が発見されなかったとしたら、どうなっていたろうかと、わたしは考えてみます。しかし、すべてを計算にいれて考えてみても、結局のところ、たいした違いはなかったように思うのです。どのみち、あの男とフォーセット議員とのつながりは、かならず明《あか》るみに出たことでしょうし、その結果起こるいろいろなことが、ただ先にのばされるだけなのですから。とはいえ、もしその間に、あの男が逃亡するようなことになったら……。
ひとりの刑事が、手あかにそまった皺くちゃの紙片を、頭上でふりまわしながら、書斎にとびこんできました。「地方検事!」と刑事は叫びました、「新発見です! 二階の上院議員の寝室の金庫で、こいつを見つけたんですよ、あの木箱の片割れといっしょにおくられてきた手紙で」
ヒュームは、溺死《できし》寸前の男が救命具にとびつくような勢いで、刑事の手から、その紙片をひったくりました。わたしたちは、検事をいっせいにとりかこみました。あの、血のめぐりの悪いケニヨン署長でさえ――まったく進化論の生ける標本だわ、この男を見ていると、カンブリア紀の彼の祖先たちが、海底のどろどろしたところを、のたうちまわっている姿がまざまざと眼に見えるくらい――この手紙の発見には眼をかがやかせ、その赤味をおびた頬が、まるで魚のエラみたいに、息をはずませるたびにピクピク動いているのです。
書斎の中は、水を打ったように、しずまりかえりました。
ヒュームはゆっくりと、声をあげて読んで行きます――
親愛なるフォーセット上院議員《ヽヽヽヽ》殿
おれが鋸《のこぎり》で切ってやった木箱の片割れを見て、なにか思いあたったかい? あの日、刑務所の木工場でおれが働いていたのに、あんたは気がつかなかったな。だが、おれにはあんたがわかったぞ、どんなにあんたが化けようとな。このエーロン・ドウにとっちゃ、千載一遇のチャンスというわけだ。
おい、耳をかっぽじいて、よく聞けよ。おれはもうすぐ出られる身だ。釈放され次第、あんたに電話をするからな。そしたら、その晩――いいか、あんたは耳をそろえて五万ドル、自宅でおれに渡すんだ、上院議員殿。それにしても、あんたは偉くなったもんだな、あのあんたが――もし、おれの言うことが聞けないというのなら、そのときはしようがない、この町のお巡りに、昔の一件をバラすからな。
昔の一件といやあ、あんたもピーンとくるはずだ。あっさり金を出すか、さもなけりゃ、このエーロンがみんなバラすからな。つまらない手はつかうなよ。
エーロン・ドウ
その一字一字が鉛筆で金釘流に書いてあるお粗末な手紙――汚れた親指のあとまでついて、無知な囚人が、やたらと下品な凄文句をならべたてた誤字だらけの手紙を見たとたん、わたしはブルッと身をふるわせてしまいました。突然、つめたい黒い影が、この部屋の上からおそいかかってきたような感じ。そうだ、丘に聳《そび》えている刑務所の影なんだわ。
ヒュームの口は、冷酷そのもののように固くむすばれ、凍りつくような微笑が、鼻孔のあたりにただよっています。「よし、どうやらこれで」ヒュームは紙入れにその手紙をしまうと、ゆっくり言いました、「目鼻がついたようです。手を打つことといえば、あとはただ――」検事はそこまで言いかけて、口ごもりました。わたしは、なんだか不安になってきた、もし万一なにか起こったら……。
「ま、あせらずにいきましょうや、ヒュームさん」と父がおだやかな口調で言いました。
「なに、まかせてください、警部さん」
地方検事は電話のところまで行くと、「交換台、アルゴンキン刑務所のマグナス所長にたのむ……やあ、所長? こちらはヒューム地方検事。夜分おそく電話などかけてすまん。もうニュースは聞いたでしょうな?……ええ、今夜、フォーセット上院議員が殺害されて……そう、そうなんだ、ところで、所長、エーロン・ドウという名前に、なにか心あたりでも?」
わたしたちは、息を殺して電話のなりゆきを見守っていました。ヒュームは受話器を胸にあてたまま、ぼんやりと暖炉に目をやっています。
その五分間というもの、だれひとり、身動きするものはいません。
と、地方検事の眼がキラリと光りました。彼は受話器にききいると、強くうなずきました、「よし、これからすぐ行きます、マグナスさん」そう言うなり、彼は電話を机におきました。
「どうなんです?」とケニヨン署長のしゃがれ声。
ヒュームは微笑をうかべると、「所長のマグナスが、その男のことを調べてくれたんだ。エーロン・ドウという囚人は、所内の木工場で働いていたんだが、今日の午後、釈放されたんだ!」
六 エーロン・ドウ現わる
この瞬間まで、わたしはまるで夢でも見ているように、わたしたちの頭上のどこかにただよっているぼんやりした影を意識したのにすぎなかったのです。さまざまな事実が、わたしの頭のなかで、脈絡もなく喋《しゃべ》りあい、その雑音のおかげで、ほんの眼と鼻の先に迫ってきている事件の大詰を嗅《か》ぎつける力を、わたしは失っていたのです。ところが、いま、背中を短剣でグサッと刺されたみたいに、突然、わたしの眼からウロコが落ち、すべてがはっきりとわかってきたではありませんか。エーロン・ドウ……こんな名前だけなら、わたしにはまったくの無関係、それが、ジョン・スミスだろうとナット・ソレンセンだろうと、いっこう変わらないわけです。こんな名前をきいたこともなければ、そういう男に会ったことも、わたしにはありません。だが、それにもかかわらず――心霊現象、第六感、いや、まだ消化しきれない材料から得た意識下の推断とでも言いましょうか――まるで、予言者のように、わたしには、このエーロン・ドウという人物、前科者で、おそらく社会のゆがめられた犠牲者にちがいないこの男が、いま、わたしたちすべての頭上に重々しくそびえている実在の、あの巨大な影の、はるかにおそろしい犠牲者にちがいないと、わかったのです。
あの夜の、それからのこまかいことは、もうほとんどおぼえていません。頭は、まるで霧がかかったみたいにボーッとしていたし、心臓の鼓動も息がつまるほど重苦しかった。わたしは地の底にひきこまれるような無力感におそわれました。父が、盤石のように、わたしのそばにひかえていてはくれるものの、あのハムレット荘で、わたしたち父娘《おやこ》を、気づかわしげにいつまでも見送ってくれた、あのドルリー・レーンさんを、わたしは心の中で無意識に求めていたのです。
ヒューム地方検事と老政治ボスのルーファス・コットンは、またなにかヒソヒソと密議をこらしていたっけ。ケニヨン署長はといえば、とたんに元気になり、刑務所から釈放されたばかりの無力な男を、これから相手にするということだけで活気づいたみたいに、あの耳ざわりな声でやたらと命令しながら歩きまわっている始末。たえまなくわめいている電話の声、がなりたてる命令の数々、その渦中に立っていると、もうすでに猟犬どもが――これは比喩にちがいないが、わたしの眼には文字通りあの連中が犬に見える!――アルゴンキン刑務所から釈放されたばかりの姿なきエーロン・ドウを追って、いっせいに走り出しているのだと知って、わたしは思わず身をふるわせたものです……。
そういえば、ジェレミー・クレイが、あのたくましい腕で、わたしのからだをささえながら、外に停めてある彼の自動車に乗せてくれたことや、身にしみとおるような夜気をふかぶかと吸いこんだときの嬉しさを、わたしはありありとおぼえています。地方検事は、運転席のジェレミーのとなりに腰をおろし、父とわたしは後部座席に。車は矢のように疾走しました、おかげでわたしは目まいがしたくらい。父は終始無言、ヒュームは行手の暗い道路を、意気揚々と見つめています、そしてジェレミーは唇をかたく結んで、ハンドルを握ったまま。車が、丘の急勾配の坂路をのぼって行くあいだというもの、まるで夢のようでした、車窓を過ぎ行くあらゆるものがはかなく、霧がかかったようにぼんやりしていて……。
と、突然、暗黒のながめから、夢魔のなかの巨人のように、わたしたちの車めがけて襲いかかってきたものは……アルゴンキン刑務所だったのです。
石と鉄だけでできている無機物が、かくもすさまじい妖気《ようき》を発散しようとは、わたしには夢にも信じられないことでした。ほんの子供のころ、鬼気せまる陰気な館《やかた》、荒廃したお城、霊魂のさまよう教会などの身の毛のよだつような話をきいては、わたしはゾクゾクしたものです。しかし、わたしがヨーロッパに留学しているあいだ、古代の廃墟や滅亡の跡をいろいろと観てあるいたけれど、魂も凍る恐怖に襲われるような建造物に、ただの一ぺんだってお目にかかったことはなかった……と、運転席のジェレミーが巨大な鉄の門のまえで、警笛をけたたましくならしたとき、はじめてわたしは、建造物のもつ恐怖というものが、どんなものであるか、突然、理解することができたのです。ほんの一部をのぞいた刑務所全体が、暗黒におおわれていました。月はもうとっくに沈み、風があたりをしめっぽく吹くばかり。そして高くそびえ立っている壁の内側からは、人間のいる気配はなにひとつ聞こえてこない。いま、鉄の門のまえにいるというのに、どこからも、あかりがさしてこないではありませんか。思わずわたしはシートに身をちぢませると、父の手をソッとさぐってみました、と、父もすぐわたしの手を握ってくれたのですが――ああ、想像力のにぶいパパったら!――「どうしたんだね、パット?」その、父の実直なうなり声に、いっぺんでわたしは現実にひきもどされました。想像力の悪魔は消え失せ、わたしは必死で悪夢からよみがえったのです。
と、突然、鉄の門が金属音をたててひらき、ジェレミーは車を中に乗り入れました。自動車のまばゆいばかりのヘッドライトの光にてらされて、黒い制服に、ひさしの角ばった制帽の、みるからいかつい看守が何人か、銃をにぎって立っていました。
「こちらはヒューム地方検事!」と運転席のジェレミーが大声で叫ぶ。
「ライトを消さんか、こらッ!」いたけだかなダミ声がとぶ。ジェレミーがヘッドライトを消すと、車内のわたしたちの顔を、目もくらむような光が、ひとつひとつ、丹念に照らしつけました。そして看守たちは、好悪の感情をひとかけらもみせずに、あくまで職務本位にわたしたちの首実験をするのです。
「大丈夫だよ、諸君」ヒュームがたまりかねて言いました、「私がヒューム検事、ほかのひとはみんな友人なのだ」
「マグナス所長がお会いするのは、あなたです、ヒュームさん」おなじダミ声だが、いくらか角がとれて、「しかし、ほかのかたは――門の外で待っていただきます」
「いや、連れのことは私がうけあう」それからヒュームはジェレミーのほうに顔をむけると、小声で、「君とお嬢さんは、門の外に駐車して、警部と私が出てくるのを待っていたほうがいいかもしれん」
地方検事は車からおりました。ジェレミーはまよっているような表情を浮かべていましたが、銃をかまえた無表情な看守たちに出鼻をくじかれたらしく、ただうなずくと、浮かしかけていた腰を運転席にドサッとおとしました。父も車からおりると、コンクリートの建物のほうへ、ゆったりとした足どりで歩いて行きます、で、わたしもそのあとについて行ったのです。父も地方検事も、看守たちのまえを通りぬけ、刑務所の中庭まで歩いて行くあいだというもの、わたしがノコノコとついてくるのにすこしも気がつかなかった、絶対にそうだわ、それに看守たちのほうも、わたしがついて行くのを、ごく当然のことと思ったものか、一言も文句を言わなかったのです。ところが途中でヒュームがうしろをふりかえり、ソッとついてくるわたしを見つけましたけど、彼はただ肩をすくめただけで、大股で歩いて行きました。
やがて、わたしたち三人は、ガランとした場所に出ました――なにしろ、すごく暗いので、どのくらいの広さなのか、はっきりしたことはわかりません、ただ三人の足音が、敷石のうえで、コツコツとむなしくひびきわたるだけ。と、ほんの数歩のところに頑丈な鉄のドアがあり、その内側から、青い制服の看守が鉄のドアをサッとあけて、わたしたちを中に入れてくれました。どうやらわたしたちは、刑務所の中枢部に通されたようです。そのなかはガランとして、水を打ったみたいにしずまりかえり、人のいる気配はどこにもありません。周囲の壁さえ、無気味にわたしをにらみつけ、恐怖の物語を無言で語りかけているような気がする、しかも、ここは監房ではなく、事務室だというのに。なんだかわたしの耳には、この身の毛のよだつような建物のあらゆるところに、ものの怪《け》がすみついていて、奇怪な叫び声をあげているような気がする。
父とヒュームのあとから、わたしはあぶなっかしい足どりで、石の階段をのぼり、その建物のずっと奥まったところまで進んで行きました。そしてわたしたちは、会社の事務室のような、簡素なドアのまえに立ったのです。そのドアには、こんな文字が入っていました――『マグナス所長』
ヒュームがそのドアをノックしました。と、背広を着た眼のするどい男が――いかにも急いで服を着こんだ感じで、ベッドからあわててとび起きたことが一目でわかる――ドアをあけました。書記か秘書といった風采の男で――これはべつの監獄人種なんだな、と、わたしは胸のなかでつぶやきました。ひとかけらの微笑もなければ、あたたかみや、やさしみもない――ただ鼻をならすと、広い応接間と外部屋を通って、わたしたちをべつのドアのところまで案内して行きます。そして、男はそのドアをあけるなり、人造人間みたいに戸口の横に立ち、わたしが男のまえを通ると、氷のような眼でジロリと見るじゃありませんか。
と、その瞬間、この部屋までくるほんの短い途中の窓という窓には、ひとつのこらず鉄格子がはめてあったっけ、というなんの脈絡もない考えが、わたしの頭にひらめいたのです。
その、静かな整頓のゆきとどいた部屋で、椅子から腰をあげて、わたしたちを迎えた男は、ちょうど銀行家のような感じです。地味なグレイの服、ネクタイだけは見るからにあわててしめたようでしたけど、そのほかはまったく申し分ありません。人生の大半を、呪われた人間どもとばかり接してきた人物特有の、あの厳格で重々しい憔悴《しょうすい》した顔をしていて、たえず危険に身をさらしてきた男の、警戒的な光が、その眼にはやどっています。髪の毛もすっかり白髪に変わり、うすくなってしまっていて、服も、痩せおとろえた身には、すこし大きすぎるようです。
「やあ、所長」地方検事がひくい声で言いました、「まだ暗いうちからあなたを起こしてしまって、恐縮です。しかし、殺人というやつには、そんな思いやりがありませんからな。ハッハッハ……さ、警部さん、どうぞ、それからお嬢さんも」
マグナス所長はわずかに微笑すると、わたしたちに椅子をすすめます。「いや、こうもお揃《そろ》いでお見えになるとは」と、おだやかな口調。
「なに、このお嬢さんは――そうだ、ご紹介します、こちらはサム警部のお嬢さん、それからサム警部さんです――このお嬢さんは、探偵にかけてはなかなかの腕利きでしてね、所長、それに、こちらのサム警部さんは、むろん、エキスパートですからね」
「ああ、どうぞ、ごいっしょにきていただいて、結構です」それから所長は深刻な表情になって、「フォーセット上院議員が不慮の死をとげられましたか、いや、まったく一寸|先《さき》は闇ですな、ヒュームさん?」
「しかし、あの男の場合はまさしく天罰ですよ」と地方検事がしずかに言いました。
わたしたちは椅子に腰をおろしました、と、父がだしぬけに口をひらいて、「そうか、やっと思い出しましたよ! あなたは十五年ばかりまえに、警察畑にいませんでしたかな、所長さん? 北部のほうで?」
マグナス所長は目を見はりました、それから微笑を浮かべると、「私も思い出しました……たしかに、バファロウにおりましたよ。するとあなたが、あの有名なサム警部で? いや、こんな場所で、あなたにお目にかかれるとは――たしか、退職なさったときいておりましたが?……」
父と所長とは、昔話に余念がありません。わたしは疼《うず》く頭を椅子の背にもたせかけたまま、目をつむりました。アルゴンキン刑務所……いま、わたしがいるこの巨大な無気味に静まりかえった場所に、千人以上の――いや二千人以上もの男たちが、その痛むからだがやっと伸ばせられるだけの狭い監房の中で、眠るか、眠ろうとあがいている。起きているものといえば、監房の廊下をたえず行ったり来たりしている制服の看守たちばかり、その屋根の上には、空と夜気がひろがり、一歩外に出さえすれば風にそよぐ木々の葉。あのハムレット荘では、病める老優ドルリー・レーンが眠っている。刑務所の鉄の門のそばではジェレミー・クレイがふくれ面《つら》をして待っているし、リーズ市の死体置場では、ほんの|つかのま《ヽヽヽヽ》の権力をほしいままにした男の解剖死体が、厚板の上にながながと横たわっている……なんだって、みんなはただ手をこまねいているのかしら? どうして肝腎《かんじん》のエーロン・ドウのことを話さないのでしょう?
と、そのとき、ドアのきしる音に、わたしは眼をひらきました。眼のするどい書記が、戸口に立っていて、「所長、ミュア神父がおいでになりました」
「通してくれたまえ」
書記と入れちがいと言ってもいいくらいに、銀髪で、強度の眼鏡をかけた、赤ら顔の小柄な人物が戸口に立ちました。無数の皺にきざまれたその顔、こんなにやさしくて、おだやかな顔を見たことは生まれてはじめてです。その表情にあらわれている悩みと痛苦の色といえど、内面からほとばし出る気高さを消し去るわけにはいきません。この老いた聖職者には、どこか本能的にひとを惹きつけずにはおかないところがありました。そして、こういった聖職者なら、たとえどんな凶悪な罪人といえども、その固い外殻を打ちやぶられるにちがいないというわけが、わたしにはのみこめたような気がしたのです。
神父は、身にまとった粗末な黒衣をかきあわせると、まわりが金色に光る小型の黒い祈祷書を右手ににぎりしめたまま、あかるい電灯の下で、近視の眼をパチパチさせました、こんな法外な時刻だというのに、所長の部屋に見知らぬ客が三人も来ているのが、明らかに神父には腑《ふ》におちない様子。
「さ、神父さん、どうぞ」とマグナス所長がおだやかな口調で言いました、「ご紹介したい方たちなのです」彼はわたしたちを神父に紹介しました。
「それはどうも」ミュア神父は、はっきりとした簡潔な口調で答えたものの、上《うわ》の空《そら》といった感じもしないではありません。神父は、わたしの顔をまじまじと見つめると、「はじめまして、お嬢さん」こう言うなり、所長の机のところまでツカツカと歩みよると、大声で言いました、「マグナスさん、なんというおそろしいことでしょう! 夢にも信じられないことです」
「まあまあ、落ち着いてください、神父さん」と所長がやさしくとりなして、「あの連中は、いずれはみんな、滅び去るのです。ま、椅子におかけください。じつはいま、その問題をみんなで検討しようとしていたところなのです」
「しかし、エーロンは」ミュア神父は声をふるわせて、「あのエーロンは、じつに善良な男でしたよ、ほんとうにまっ正直な」
「まあまあ、神父さん。ところでヒュームさん、さぞかし、わたしの話をおききになりたくてムズムズしていらっしゃることでしょうが、もうしばらくお待ちになってください。エーロン関係の記録を全部お見せしますから」マグナス所長が机の上のボタンを押すと、さっきの書記が、またドアに顔を出しました。「ドウのカードを持ってきてくれたまえ。エーロン・ドウだ、今日の午後、釈放になった」書記がひっこんだかと思うと、またすぐ大きな青いカードを一枚持って、ひきかえしてきました。「これがそうです。エーロン・ドウ。囚人番号八三五三二。入所年齢四十七歳」
「服役期間は?」と父がたずねました。
「十二年と数か月ですね。ええと……身長五フィート六インチ、体重百二十二ポンド。眼の色は青。髪はごましお。左胸部に半円形の傷痕あり――」マグナス所長は、思案深げに顔をあげて、「十二年余の服役で、彼の外見はガラリと変わってしまいましたよ。頭髪もまったく薄くなり、体力もかなり衰弱し――かれこれ、もう六十に手のとどく年ですからね」
「罪科はなんです?」と地方検事がたずねました。
「殺人です。ニューヨークの判事から、十五年の実刑を宣告されたのですよ。ニューヨークの河岸の酒場で、男をひとり殺害したのです。安もののジンをあびるほど飲んで、乱酔したらしいですな。検事の調べたかぎりでは、被害者とはぜんぜん面識がなかったというのです」
「前科は?」と、こんどは父が口をはさみました。
マグナス所長はカードを丹念に調べました、「検事側もドウの前科をさぐり出すわけにはいかなかったのですよ。ドウの身許がまるっきり割れなかったものですからね。名前だって、変名だと考えられたのですが、それを立証できなかったわけです」
わたしは、エーロン・ドウのイメージを心にえがいてみようとしました。その男の姿がじょじょに形をなして浮かび出してはくるが、まだ完全とはいえない。どこか、重要な部分が脱落しているのです。「所長さん、このドウというひとは、服役中はどうだったのでしょう? 手におえないような囚人でしたの?」と、わたしはおずおずとたずねてみました。
すると、マグナスは微笑して、「いや、お嬢さん、うまいことをおききになる。どういたしまして、あの男は模範囚だったのです――囚人を分類すると、Aクラスですな。入獄者はひとりのこらず、囚人服を着せられると、定められた刑期に服し、まずはじめに石炭積みの実習期間があり、それから割当局によって、正規の服役業務にそれぞれ配置されるわけです。その上で、いろいろな特典があたえられるのですが、囚人が正規の服役業務についてからは、このちいさな社会の中で、どのようなクラスにわけられるかは、ひとえに本人の心がけ次第でしてね。ま、言ってみれば、刑務所といえども、ひとつの都市ですからな。もし本人がトラブルを起こさず、命令に服し、規則を守るならば、社会が彼から剥奪した自尊心のいくぶんかでも、とりかえすことができるわけです。このエーロン・ドウは、所内の衛兵司令ともいうべき看守長に、ただの一度だって、手を焼かせたことはなかったのです。そのおかげで、ドウはAクラスに入り、いろいろな特典をさずかったあげく、模範囚として、三十か月余もの減刑の恩典にあずかったのです」
と、ミュア神父が、深みのある柔和なまなざしを、わたしにむけました、「お嬢さん、なんといっても、エーロンが悪気《わるぎ》のない人間であることは、この私がうけあいます。いや、あの男のことなら、なにからなにまで知っていますよ。私の教義とはちがいますが、あの男は信仰を持つようになったのです。あの男にかぎって、絶対にそんな――」
「しかし、彼は男を一人殺したことがあるのですからな」と、ヒュームがつめたい口調で言いました、「なんといっても、前例がある」
「それはそうと」父が横から言いました、「エーロン・ドウが十二年前に、ニューヨークで男を殺しましたが、その殺害方法は? 刺殺ですか?」
マグナス所長は首をふって、「口をきってないウイスキー瓶《びん》で、被害者の頭を殴打したのです。死因は脳震盪《のうしんとう》です」
「それがなんであろうと、人殺しにはかわりありませんからな」地方検事がいらだたしげに言って、「で、ドウについて、ほかになにかありませんか、所長さん?」
「もうほとんどお教えすることはありませんね。ま、服役期間が長ければ長いほど、相手も手強《てごわ》いというわけです」そう言いながら、マグナスはあらためて青いカードを調べました、「そうだ! ご参考になるようなことが、ここにありますよ、もっとも人相を見わける手がかりになるだけですが。入所してから二年目に事故を起こし、右眼を失明し、右腕は麻痺――なんとも悲惨な話ですが、旋盤作業中に、まったく自己の不注意から起こした事故でして――」
「すると、ドウは片目なんですな!」ヒュームが叫びました、「こいつは重要な手がかりですよ。所長さん。ほんとうにいいことを教えてもらいました」
マグナス所長は、ホッと溜息をつきました、「当然のことですが、新聞社の連中に、この事故をかぎつかれることを、われわれは極力ふせぎました。こんなことがニュース種子《だね》にでもなったら、それこそ|こと《ヽヽ》ですからね。なにせ、うちの刑務所にしろ、よその州の刑務所にしろ、監獄というものが施設の悪さで知れ渡っていたのは、そう昔のことではないのですからな、近代刑務所管理学で、いくら囚人を病人のようにあつかえといったって、実際には家畜同様にあつかってきたのではないでしょうか。一般の民衆――といっても、ほんの一部のものですが、こういった|てあい《ヽヽヽ》は現在の近代的な刑務所を、まるで十九世紀ロシアのツアー専制下の流刑地みたいに、頭からきめてかかっている始末です。ま、こういった一般の根強い偏見を打破するために、われわれは日夜、懸命に戦っているのですよ、そんなところへもってきて、ドウが事故を起こしたときは――」
「いや、結構なお話でした」と地方検事がいやに他人行儀に口を入れました。
「はあ、どうも」マグナス所長は、椅子にふかぶかと身を沈めました。どうやら、地方検事にあっさりさえぎられて、いささか不満の様子。「いずれにせよ、しばらくのあいだというもの、ドウはわれわれの頭痛の種子《たね》でしてね。なにしろ、右利きの男が、右腕を麻痺で駄目にしてしまったのですから、うちの割当局も、なにか障害者にでもできるような特別な手仕事を、ドウにあたえるより仕方がありません。それにこの男は無教育なので、字は読めるには読めても、書くとなると、まるで子供みたいに、金釘流にしか書けないという始末。知能程度もすこぶる低く、いま説明したように、ドウが事故を起こしましたときは、所内の木工場で旋盤の仕事をしていたのです。とどのつまり、割当局も、もとの木工場にドウをもどしました。ところが、このカードによりますと、右腕が麻痺しているというハンディキャップをものともせず、ドウは木工の細工仕事にみごとに上達したとあります……いや、なにをクダクダと筋違いなことばかり話しているんだと、あなたがたは胸のうちで思っておいでにちがいない、きっとそうだ、だが私は、どうしてもこの男がどんな人間か、できるだけあなたがたに知っていただきたいのです――私の個人的な理由からもね」
「と、おっしゃると?」ヒュームが腰をあげるなり、するどく聞きかえしました。
マグナス所長は眉をひそめて、「なに、じきにおわかりになることです……おしまいまで、私の話を聞いてくださればね。ドウには家族もなければ友人もおりませんでした――いや、すくなくとも|よそ目《ヽヽヽ》にはそう見えたのです、というのは、このアルゴンキン刑務所に、ドウが十二年間も入っていたあいだに、ただの一通の手紙も来なければ、また当人も出しもしなかったのですからね。それに面会人ひとり来なかったのです」
「じつに妙ですな」父は、ひげの剃りあとも青々しい顎をさすりながら、口をはさみました。
「だれだってそう思うでしょう。こんな|ケッタイ《ヽヽヽヽ》な話があるものですかね、警部さん――おっと、失礼、お嬢さん、下品な言葉づかいをしまして」
「どうぞ、ご心配なく」わたしはうんざりしながら、答えました。いわゆる、ご婦人のまえで喋ってはならないような言葉を言うたびに、いちいち、『失礼』などと弁解がましくあやまられるのに、わたしはもう、ほんとうにあきあきしていたのです。
「いや、じつに不思議な話ですよ」と、マグナス所長は、言いなおして話をつづけます、「私も、刑務所勤めに半生をささげてきたのですが、ドウのように世間から隔絶された囚人は見たことも聞いたこともありません。ドウが生きているのか死んでいるのか、そんなことを気にかけてくれる人間が、あの高い塀の外にはだれひとりいないような気がしたものです。これは、あえて言及せざるを得ないほど、異常なことではありませんか。この刑務所にいるもっとも凶悪な囚人、もっとも凶暴な犯罪者といえども、親身になって心配してくれるものがだれかいるものです――ま、母親、妹、恋人、といったものがですね。それがどうでしょう、あの男にかぎって、|しゃば《ヽヽヽ》との通信はおろか、入獄の最初の年に新入りの囚人ならだれでもかり出される道路工事に外に出た以外は、あの高い塀から一歩も出なかったのですよ、出所した昨日までね!あの男に、外に出たいという気持ちさえあれば、その機会はいくらでもあったのです。模範囚ならば、いろいろな名目をかりて、大手をふって外へ出て働くことが許可されるわけですからね。ところが、ドウの場合は、そのような恩典にあずかりたいばかりに模範囚になったのではなく、まったくの精神的な惰性からだったのです。悪いことをするには、ドウはあまりにも消耗し、無関心になり、うちのめされすぎていたのですよ」
「それじゃ、とても恐喝《きょうかつ》などできそうもないじゃありませんか」と父が口を入れました、「いわんや、人殺しなど、逆立ちしたってできそうもない」
「まさにそのとおりです!」神父が熱をこめて叫びました、「まったく同感ですよ、警部さん。いいですか、みなさん――」
「失礼だが」地方検事が神父の出鼻をくじきました、「こんなことをいくら言っていても、捜査ははかどりません」わたしは、ヒュームの声を、ぼんやりと聞いていただけです。何百人もの受刑者たちの運命が決定される、この異様な密室の一隅に、わたしは腰をおろしたまま、一瞬、稲妻のような光が、わたしの頭のなかでキラッと光ったような気がしたのです。そうだ、わたしが知っていること、一分の狂いもない論理の命ずるところを語るとしたら、いまをおいてほかにはない、と、わたしは直感したのです。たしかにわたしは、口をなかばひらきかけたはずだ。ところがまた、口をとじてしまいました。あの、一見取るにたりないような|ささい《ヽヽヽ》な問題――はたしてあれらが、この自分が思いこんでいるだけの、意味があるものなのか? わたしはヒュームを見ました、するどい、だが、どこかに少年の面影がのこっているヒュームの顔を見たのです、そして、わたしは内心の声にしたがった、『いまは言うべきではない』という警告に。この青年検事をとことんまで説得するためには、論理だけじゃ駄目なんだわ。それにはまだ、『時』が要《い》る……。
「それでは」マグナス所長は、自分の机に青いカードを置くと、口をひらきました、「今晩、なぜあなたがたをお呼びしたか、そのわけをお話しするとしましょう」
「ぜひ!」ヒュームは力のこもった声で、「われわれがおききしたいのも、そこなんですよ」
「そのまえにお断わりしておかなければならないが」所長は重々しい口調でつづけます、「私がドウという人間に興味をいだいているのは、あの男が、この刑務所に囚人として服役していた期間だけのことではないのです。われわれは釈放した囚人の身の上にも目をはなすわけにはまいりません、なぜなら、かなりの服役者が、またこの古巣に舞いもどってくるような場合が多いからです――最近の統計では出所者の三割がそうですね――そんなわけで、刑罰に対する考え方も、犯罪者の矯正《きょうせい》ということよりも、むしろ再犯防止へ重点がおかれてくるようになりました。ま、いずれにせよ、事実に眼をふさぐわけにはいきません。私がこんなお話をしようとするのも、いわば私の義務なのです」
ミュア神父の顔は、苦悩に血の気も失《う》せ、黒い祈祷書をにぎりしめている指の関節も、白くなっています。
「ちょうど三週間まえに、亡くなったフォーセット上院議員が私に会いに来られましてね、それがじつに妙なことなのですが、しきりと、ある囚人のことを、婉曲《えんきょく》におたずねになるのです」
「ああ、神さま」神父がうめき声をあげました。
「むろん、ある囚人というのは、エーロン・ドウなのですがね」
と、その瞬間、青年地方検事ヒュームの眼がキラリと光りました、「またなんだってフォーセットがやって来たんです? ドウのことで、いったいどんなことを知りたがっていたんですか?」
マグナス所長はホッと息をつきました、「じつはですね、ドウの書類と写真を見せてほしいと、上院議員は言われたのです。あたりまえなら、そんな申し出は、キッパリとお断りするところなのですが、なにせドウの出所する日も遠くありませんでしたし、相手はこの市の権力者でしたからね」――所長は顔をしかめて見せます――「で、私は上院議員に、ドウの書類と写真を見せました。むろん、写真は、十二年前の入所当時のものでしたがね。ところがどうでしょう、どうやら上院議員は、そんな古い顔写真でも相手の顔が見分けられたらしく、生唾《なまつば》をゴクリとのみこむなり、ソワソワしだしたではありませんか。ま、話が長くなりますから、簡単に申しますと、そこで上院議員は、とんでもない要求を、私にもち出したのです。ドウに、あと数か月、足どめをくわしてくれ、と、こうなのですよ!『足どめをくわす』――ええ、上院議員は、ほんとうにそう言ったのですからね。いったいこのことを、あなたがたはどう|おとり《ヽヽヽ》になります?」
と、ヒュームはまるで蠅《はえ》みたいに両手をこすりあわせるじゃありませんか。ほんとにヤナ感ジ。「こいつは聞き捨てなりませんな、所長、さ、その先を」
「ま、こんな法外な要求をもち出した男の心臓の強さに私も内心あきれはしましたが」マグナス所長は顎をひきしめるようにしてつづけます、「こいつは慎重を要するぞ、とも思ったのです。なにしろ、えらく興味をそそられましたからね。一囚人と一市民とのあいだに、なんらかのつながりがある、しかもフォーセットのような、札つきの市民である場合にはことさら、その関係をとことんまで追究してみる義務が、私にはあるわけです。そこで私は、上院議員の要求にはなんらの言質《げんち》もあたえず、もっぱら誘導作戦に出ました。で、どういうわけでエーロン・ドウに足どめをくわせたいのか、その理由を、私は上院議員にたずねてみたのです」
「で、その理由を言いましたか?」眉をひそめながら、父がたずねます。
「いや、はじめのうちはなかなか言いませんでしたね。アルコールを生まれてはじめて飲んだ男みたいに、汗びっしょりかいて、ガタガタふるえていましたよ。しかし、とうとう口を割りましてね――ドウに、恐喝されている、というのです!」
「そのことは、われわれも知っています」とヒュームがつぶやきました。
「私にはとても信じられないことでしたが、顔には出しませんでした。そういう事実があると、いまおっしゃいましたね? それにしても、獄中の囚人が外部の人間を恐喝するなどと、とても私には考えられませんでしたので、ドウがどんな手段でゆすっているのか、と上院議員にたずねてみたのです。言うまでもないことですが、郵便物と同様、面会などについても、厳しい検閲を実施しているのですからね」
「フォーセットに、恐喝の手紙と、鋸《のこぎり》で切断した木箱の片割れを送りつけたのですよ」地方検事が説明しました、「この刑務所の木工場でつくった玩具入りのボール箱の中にね」
「ははあ、そうでしたか」マグナス所長は思案深げに、唇をすぼめました、「そんな抜け穴があるとは気がつきませんでした、なるほど、そんな穴があいていれば、外部の人間に恐喝もできようし、至難のわざでもない――しかし、そのときは、私は非常に興味をいだいたのです、というのは、われわれのいちばん頭痛の|たね《ヽヽ》の一つに、刑務所内と外部との秘密通信という問題があるからなのです。もう長いこと、どこかに抜け穴があるのではないかと、私はにらんでいたところなのですよ。ま、いずれにせよ、フォーセットはドウがどういう手段を用いて恐喝しているのか、その点については口を固くして答えませんので、私もそれ以上は喰いさがらなかったのです」
わたしは唇をしめらせました、カサカサに乾ききっていたんです。「じゃ、フォーセット上院議員は、ドウという男が自分の泣き所をほんとうににぎっているということを、みとめましたの?」
「とんでもない、ドウの話は、まったくのでたらめでまっ赤な嘘だと、上院議員は言うのです。なに、いつもの|おとぼけ《ヽヽヽヽ》ですよ。むろん、上院議員の否認など、私が信じるものですか。だってそうじゃありませんか、ドウがどんな恐喝をしたにしろ、フォーセットにうしろ暗いところがまったくなかったら、あれほど大騒ぎをするわけがない。もっとも上院議員は、たとえドウの話がまっ赤な嘘であっても、それが世間に吹聴されたりすると、州上院議員選挙に敗れないまでも、再選するチャンスがむずかしくなるなどと、言いわけがましく言ってましたがね」
「なに、再選のチャンスがむずかしくなる、ですって?」ヒュームが冷酷な口調で言いました、「むずかしくなるどころか、チャンスなんか、はじめっからないんだ。いや、これは余計な話ですがね。それにしてもドウに握られているフォーセットの泣き所というやつは、それ相応のいわくがあるものと、私はにらみますがね」
マグナス所長は肩をすくめました、「いや、私もまったく同感でしたよ。しかし、そうかといって、私は、刑務所所長という特別の立場にある人間です。フォーセットの言葉だけで、エーロン・ドウを罰するわけにはまいりません、事実、私はフォーセットにそう言ってやったのです。むろん、あくまでも上院議員が自分の要求をおしつけたいのなら、ドウのついている『嘘』がなんなのか、はっきり言ってもらわなくちゃなりません、とね……するとどうです、上院議員ときたら、そのまえにドウの足どめを私に頼んだときぐらいに、すっかり興奮してしまうじゃありませんか。世間に知られては困る、の一点張りでしてね。そのあげくに、ドウを、あと数か月、独房に監禁しておいてくれるなら、この私のために、政治的に『力になって』やれるだろうと、ほのめかす始末です」マグナス所長はそう言いながら、歯をみせて、いやらしく笑ってみせました。「ま、そんなわけで、とうとうその会見は、大時代のメロドラマみたいになってしまいましてね。陳腐な汚職劇もいいところではありませんか。冗談はさておいて、この刑務所内には、いかなる政治力といえども介入できないことは言うまでもありません。いやしくも清廉潔白という点では、この私も多少世間には知られていますからな、私はフォーセットに身をもって、はっきりと知らせてやりましたよ。さすがのフォーセットも、なす術《すべ》がないと見てとると、ひきあげて行きましたがね」
「おびえているような様子は?」と、父が例のうなり声をあげました。
「いや、意気消沈といった感じでしたね。なんでこの私が手をこまねいているものですか。フォーセットが帰るやいなや、私は事務室までエーロン・ドウを呼び出しました。そして、いろいろと訊問してみたのですが、この男はあくまでもなに喰わぬ顔をして、上院議員を恐喝しようとしたおぼえなどないと言って、頭から否認するのです。そこで、フォーセットが告発をためらっている以上、私のほうとしても打つ手がないので、もし、すこしでも恐喝の証拠があがったら、ただちに仮釈放を無効とし、あたえられていたあらゆる特権は剥奪するからな、と、私はドウに警告しておくにとどめておいたわけです」
「それで全部ですか?」とヒュームがたずねました。
「いや、まだすこしあります。じつは今朝――昨日の朝と言ったほうが適切かもしれませんが――フォーセットが私に電話をかけてきましてね、ドウの『嘘』が世間に知れわたるのを、指をくわえて見ているよりは、ドウの恐喝におとなしく金を出して、やつの『沈黙』を買うことに肚《はら》をきめた、だから、会見の件は、どうか水に流してくれ、と、こうなのですよ」
「こいつは変な話ですな」と、父は思案深げに言いました、「いや、臭い、臭い! あのフォーセットにあるまじき話だ。フォーセットが電話をかけてきたことには間違いないんですな?」
「絶対に。じつは、この私も変だと思ったくらいです。なんだってまた、恐喝に金を出すつもりだなどと、わざわざ私に電話をかけてきたのか、まったく腑《ふ》におちなかったのです」
「たしかに妙だな」地方検事が眉をひそめて、「で、あなたは、昨日ドウが釈放になるということを、フォーセットに言ってやったのですか?」
「いや、やつのほうでもたずねませんでしたし、私もべつに言いませんでした」
「なるほど」父は、まるでアポロの巨像のような柔和な顔をして、脚をくみながら、ゆっくりと言い出しました、「その電話の件は、どうやら私にはわかりましたよ、そうですとも、突然、頭にひらめいたのですがね、つまり、こうです、フォーセット上院議員は、あの哀れなエーロン・ドウに、二重の罠《わな》をかけたと、私は読んだのだ」
「どういうことなんです?」所長は興味ありげにたずねます。
父は歯をむきだして、ニヤリと笑うと、「フォーセットは、わざと手がかりをのこしたんですよ、所長さん。つまり、アリバイをちゃんと用意したわけだ。ヒュームさん、私は有金全部|賭《か》けたっていい、フォーセットのやつは、自分の銀行から五万ドルおろしているにちがいありませんよ。まったく筋書通りだ、ね、そうでしょ? 身におぼえのない恐喝にゼニを払うつもりだった、と、いかにも見えるじゃありませんか、ところが――そうは問屋が卸《おろ》さない! 計算外のことが起こってしまったんです」
「どうも警部さんの言うことがのみこめないが」地方検事が吐き出すように言いました。
「ね、こうなんですよ。フォーセットは、ドウを殺すつもりだったんだ! もし露見した場合には、所長さんに電話した一件と自分の銀行から五万ドルおろしたことを盾《たて》にして、おとなしく現ナマを渡すつもりのところが、ドウが余計につけあがったものだから、思わずなぐり合いになり、相手をあやめる結果になってしまったと、こう逃げをうつつもりだったんです。ヒュームさん、フォーセットのやつは、ドウに恐喝されて、手も足も出ないありさまだったんですよ。だから、ドウを野放しにしておくよりも、ここのところは一《いち》か八《ばち》か、相手をねむらしてしまったほうが得策だと、考えたにちがいありません」
「それは考えられますね」と、ヒュームが思案深げに、口のなかでつぶやきました、「たしかに考えられる! ところが、作戦が狂って、逆に自分が殺されたというわけか、なるほど」
「とんでもありません」ミュア神父がさけびました、「エーロン・ドウにかぎって、流血をもたらすような残虐な犯罪とは無関係です。ヒュームさん、この事件の裏面には、悪鬼の手がうごめいているのですぞ。しかし神は、無実の罪に泣く人間を、決してお見捨てにはなりますまい。かわいそうに、あの不幸な男は……」
と、父が口を出しました、「所長さん、さきほどあなたに、ヒュームさんが話しましたね、フォーセット宛のドウの脅迫状は、小箱の片割れといっしょに、この刑務所から送られたものだとね。横に金色の文字が入っている小さな木箱は、ここの木工場の玩具製品の一つなんですか?」
「早速調べてみましょう」マグナス所長は内線電話で所内の交換台を呼び出すと、そのまま、しばらく待っていました、たぶん、相手がベッドから起きてくるのを待っているのにちがいありません。やがて所長は受話器をかけると、首をふりました、
「いや、いまのお話のようなものは、この木工場では作っていないそうですよ、警部さん。それに、うちの玩具工場は、できたばかりでしてね。ドウと、あと二人の囚人が、彫刻に才があるのがわかったものですから、じつはその連中のために、木工場に玩具部をもうけてやったようなもので」
父はひやかすような目つきで、地方検事の顔をチラッと見やりました。と、間髪入れずヒュームが言いました、「そうですとも、その小箱の片割れがなにを意味するか、そいつをとことんまで洗ってみなければならんということには、私だってまったく賛成ですよ」しかし、わたしには、地方検事が腹のなかで、その木箱の片割れなど重要視せず、ただ犯行の動機となんらかのつながりのあるほんの小さな問題ぐらいにしか考えていないのが、手にとるようにわかりました。ヒュームは電話器に手をのばすと、「所長さん、ちょっと電話を拝借させてください……ねえ、警部さん、ドウが恐喝状で要求した五万ドルが、あなたの勘どおりになっているかどうか、たしかめてみたいのですよ」
所長は目をしばたたきました、「ドウに握られていたフォーセットの弱味というやつは、相当なものにちがいありませんな。なにしろ五万ドルですからな!」
「大急ぎで、フォーセットの銀行を調べさせるために、刑事をやってあるのです、なに、もうわかりますよ」
地方検事は交換台に番号を告げます、「やあ、マルケイ? こちらはヒューム。どうだった?」と、ヒュームの口もとがひきしまりました、「そいつはすごい! じゃ、ファニー・カイザーの線を洗ってくれ。彼女と上院議員とのあいだに、金銭上の関係があったかどうか、そいつをたのむ」地方検事は受話器をかけると、だしぬけに言いました、「警部さん、やっぱりあなたの勘があたっていましたよ。昨日の午後、フォーセットは小切手と小額紙幣で五万ドル、銀行からちゃんとおろしていましたよ――昨日の午後ね、その日の夜、やつは殺されたんですからね」
「それにしても」父は苦虫《にがむし》を噛みつぶしたみたいな顔で言いました、「どうも気に入らんですな。あらためて考えなおしてみると、恐喝した男が金をまきあげておきながら、相手を殺すっていうのは、いささか間尺《ましゃく》にあわんじゃないですか?」
「そうですとも、そうですとも」ミュア神父がのり出すようにして言います、「そこが重要なところですよ、ヒュームさん」
だが、地方検事は肩をすぼめただけで、「しかし、つかみ合いの喧嘩となったのなら、どうなんです! フォーセットのペイパー・ナイフが凶器だったということを、思い出してください。それは犯人に、まえもって殺人の意志がなかったことの、なによりの証拠じゃありませんか。もし犯人に、計画的な殺意があれば、凶器をちゃんと用意して来るはずです。たぶんフォーセットは、五万ドルを渡したあとで、ドウに喧嘩《けんか》をしかけたか、おそいかかったのですよ。そこで格闘になる、ドウはペイパー・ナイフを手ににぎる――あとはご存じのとおりです」
「でも、ヒュームさん、こういうことも考えられますわ」わたしはものやわらかな口調で、言葉をかけました、「犯人はまえもって凶器を用意してきたのだけれど、すぐ目のまえにペイパー・ナイフがあったものだから、それを代用した、とね」
すると、ジョン・ヒュームは、見るからに不快そうな色をみせて、「いやにこじつけたお説ですな」と、つめたく吐き出すように言うじゃありませんか。でも、マグナス所長とミュア神父は、びっくりしたような顔をしてうなずきました。こんな手のこんだ解釈が、よくも若い娘にできたもんだ、といった|あんばい《ヽヽヽヽ》なのです。
と、マグナス所長の机の上の電話が、けたたましく鳴りました。所長は受話器をとると、「あなたにです。ヒュームさん。すごい興奮の仕方ですよ」
地方検事はパッと椅子からとびあがるなり、ひったくるようにして受話器をとります……ヒュームが受話器をかけて、わたしたちのほうに顔をむけた瞬間、思わずわたしの心臓はドキッとしました。地方検事の表情を一目見ただけで、とてつもなく重大なことが起こったのだ、とわたしにはわかったのです。彼の目には、勝ち誇ったよろこびの色がギラギラとかがやいているではありませんか。
「いまの電話は、ケニヨン署長からです」とヒュームはゆっくりした口調で告げました、「エーロン・ドウが逮捕されたのです! リーズ市の向こう側の森の中で、格闘の末」
一瞬、だれひとりとして口をきくものはいませんでした。ただ神父が、かすかに呻《うめ》き声をもらしただけ。
「ドウはものすごく泥酔していたそうですよ」やがて、ヒュームの声が沈黙をやぶりました。「むろん、事件はこれで解決したわけです。所長さん、いろいろとお手数をかけて、ほんとうにありがとうございました。いずれ、法廷で、もう一度証言していただくようなことになると思いますが――」
「ちょっと待ってください、ヒュームさん」父がしずかに声をかけました、「ケニヨン署長は、ドウが金を身につけているのをたしかめたのですか?」
「ええと――それはまだなんですが、しかし、そんなことは問題じゃありません。たぶん、どこかに金を埋めて隠したんでしょうよ。とにかく、いちばん重要なことは、フォーセット殺害犯人を検挙したことじゃありませんか!」
わたしは椅子から腰をあげると、手袋をはめました、「ほんとうに真犯人を検挙なさいまして、ヒュームさん?」
地方検事は、わたしの顔を、穴のあくほど見つめました、「どういうことなんでしょう、お嬢さんの言われたことは――」
「あなたには、絶対におわかりになれないでしょうね、ヒュームさん?」
「それは――いったいそれは、どういう意味なんです、お嬢さん?」
わたしはルージュをとり出しました、「エーロン・ドウは」唇をすぼめながら、わたしは言いました、「フォーセット上院議員を殺害した犯人ではありませんわ、それからね」わたしは、片方の手袋をぬぐと、口紅をぬったばかりの唇を、鏡で見ながら言いました、「わたしにはちゃんと証明できますとも!」
七 首がしまる
「パット」その翌朝、父がわたしに言いました、「どうもこの町には、腐敗したところがあるな」
「おや」わたしはつぶやきました、「パパの鼻にもわかったのね?」
「そんな言い方はやめたほうがいいな」父はうなり声をあげます、「女らしさがないじゃないか。それに、どうしておまえは、このわしに話してくれないんだ――なるほど、おまえはヒュームのことを怒っている――だが、わしに怒っているわけじゃあるまい? ドウが無実だということが、どうしておまえにわかるんだ? どうしてそう断言できるのかね?」
思わずわたしはたじろぎました。なんてわたしは軽はずみな真似をしたんだろう。ほんとうのところ、ドウの無実を証明するなんて、わたしにはできないんだ。はっきりと証明するためには、ただ一つ、欠けている部分がある。その点がはっきりしさえすれば、あの連中を思う存分びっくりさせてやれたのに……で、わたしは父に言いました、「まだ証明する段までいってないのよ」
「そうか、じつは奇妙な話だが、このわしも、ドウはフォーセット殺しの下手人ではないと、にらんでおるのだよ」
「まあ、意地悪なパパったら!」父にキスしながら叫びました、「わたしにはちゃんとわかっているの、ドウが下手人じゃないってことが。アバタ面《づら》の四十歳のオールド・ミスに負けないくらい、あの男は潔白よ、あの男に、札つきの上院議員が殺せっこないわ」
と、このとき、道路の方へ出て行こうとするジェレミーのたくましい背中に、わたしはじっと目をこらしました。あのひと、今日も労働者のなかにまじって働くんだわ、そして夕食には、それこそ汗と泥にまみれて帰ってくるんだわ。「じゃ、パパはどうしてあの男が無実だとお考えになるの?」
「な、なんだと?」父がうなり声をあげました、「わしに向かって説教する気か? そんな|ごたく《ヽヽヽ》を並べるには、おまえはまだ若すぎる。わしに証明しろだと? パット、すこしは口をつつしみなさい。おまえのことを、ほかの連中がなんと言うかと思うと、わしは――」
「パパは、あたしのことがはずかしいんでしょ?」
「パット、わしはなにもそんな――」
「そうよ、あたしのことを出しゃばりだと思っているのよ。いつまでもあたしを箱入り娘にしておきたいんだわ、ね、そうでしょ?」
「その――」
「パパはね、女性に関するかぎり旧式の権化《ごんげ》なのよ、女は投票すべからず、タバコを吸うべからず、下品な言葉を使うべからず、ボーイ・フレンドを持つべからず、馬鹿騒ぎをするべからず、ってわけね? それにパパは、産児制限は悪魔の方策だと、まだ思いこんでいるんでしょ?」
「パット」父は苦虫を噛みつぶしたような顔で椅子から立ち上がると、「父親に向かって、娘はそんな言い方をするもんじゃない」そう言うなり、エライヒュー・クレイの豪華な植民地風の邸宅のなかへ、足音あらく入って行きました。それから十分もすると、父はまたノコノコと出てきて、わたしのタバコに火をつけてくれるじゃありませんか。そして、なにやら弁解したりして、オドオドしている様子。可哀想なパパ!あなたには、女性の気持ちがわからないのね。
それから、父とわたしは町へ出ました。
ジェレミーの父とわたしの父は、朝――殺人事件があり、その足でアルゴンキン刑務所に行って奇妙な会合をひらいた翌日の土曜日の朝のことですが、二人はわたしたち父娘《おやこ》が客人として、そのままクレイ邸に残ることに話をきめたのです。その前夜、わたしたちがヒューム地方検事や警察の連中とわかれぎわに、父は、自分の職歴や世評について、固く秘密をまもってくれるようにと、念を押していました。それに、父もエライヒュー・クレイも、濡手で粟《あわ》をつかむようなボロイ大理石契約を、まるで魔術のようにせしめてくるフォーセット博士の内幕を父が調査することが、フォーセット上院議員殺害事件を解決する上にも、欠くことのできない仕事であるということを、いずれもひとしなみに感じていたわけです。父の計画では、あくまでも自分の身分を秘して、足と眼で、事件の真相をさぐり出そうというのです。それに、父がクレイ邸にひきつづき残る決心をしたことは、わたしにとってすごく重大なことでした。というのは、ヒューム地方検事や警察の連中が天啓でもうけないかぎり、あの哀れなエーロン・ドウは、電気椅子の危険にさらされているからです。
前日の夜、この哀れな泥酔した男が逮捕されてから、父とわたしは、まず第一に、つぎの二つのことに関心をもちました。その一つは、もしドウに、なにか言い分があるなら、その話をきいてみること、第二は、謎の怪人物フォーセット博士をつかまえて話してみることだったのです。ところが、土曜日の朝になっても、問題の博士の行方が|よう《ヽヽ》としてわからなかったので、とりあえず第一の目的を果たすために、懸命の努力をしたというわけです。
わたしたち父娘《おやこ》は、リーズ市役所の大きなビルのなかにあるヒューム地方検事の個室にたずねて行くと、すぐ彼に会うことができました。今朝のヒュームときたら、すごく上機嫌。いかにも活力にあふれていて、キビキビした物腰に、キラキラ輝く眼、おまけにわたしにたいしては、小憎《こにく》らしいほど勝ち誇ったような顔をしている。
「これは、これは、お早うございます!」ヒュームはしきりに両手をこすり合わせながら言います、「や、お嬢さん、今朝はご機嫌いかがです? まだあなたは、われわれが無実な男を迫害しているものとお思いですか? あの男の無実の証明ができると、まだお考えなんですかな?」
「昨日より、いっそう強くそう思っていますわ、ヒュームさん」わたしは、すすめられた椅子に腰をおろすと、地方検事のシガレット・ケースからタバコを一本ぬきながら、そう言ってやりました。「なるほど。よろしい、では、あなたご自身で|あたって《ヽヽヽヽ》みることですな、おい、ビル!」ヒュームはとなりの事務室にいる部下に声をかけました。「郡拘置所に電話して、ドウを再訊問するから、もう一度ここに連れてくるように言ってくれたまえ」
「すると、ドウの調べは、もうすんでしまったのですな?」と父がたずねました。
「それはもうやってしまいましたよ。ただ、あなたがたにとっくり得心がいくようにと思いましてね」地方検事は、まるで正義の神が自分の後盾《うしろだて》についていてくれるような顔をして、いかにも確信ありげにヌケヌケと言うじゃありませんか。わたしたちの敵意にみちた態度に対して、いやに寛大なヒュームでも、エーロン・ドウがアベルを殺したカインのように有罪と頭から考えていることだけは、火を見るよりも明らかでした。彼の、いちずに思いこんだ頑固そうな顔を見ただけで、この青年検事に非を悟らせるのは、およそ至難の業《わざ》だ、と思わずにはいられません。わたしの推理は、あくまでも論理というドレスを着ているのです、ところが、ヒュームときたら、目に見える証拠という鎧《よろい》以外のものを、身につけようとしないんですもの。
エーロン・ドウは、大男の刑事に、それも二人がかりで連行されてきたのですが、そんな警戒は、吹き出したくなるくらい不必要な感じでした。だって、連行されてきた前科者は、吹けばとぶような小男で、痩せ細った肩の、ヨボヨボで皺《しわ》だらけの老人なんだから。この老人の背骨ぐらい、護衛のうちの一人が、チョイと片手をかけただけで、簡単に折れてしまうでしょう。わたしだって、この貧相な小男のイメージを、あれこれと心のなかで想像してみたことがあります、だけど、あのマグナス所長の説明でさえ、目の前にいる哀れな老人の感じをいきいきとつたえるわけにはいかなかったくらいです。
老人の、その小さな顔は、ちょっと手斧《ておの》を思わせる――痩せさらばえた皺だらけの皮膚、灰色の髪、救いようのない無知にどんより曇っている眼。残酷で愚鈍なケニヨン署長や、検事という職責に眼のくらんでいるヒュームをのぞいたら、恐怖と絶望にゆがんでいるこの老人の顔を見て、心をうたれないものはいないはずです。この、うちひしがれ、恐怖におののいている人間の抜け殻のような小男に、なんで人殺しなどというだいそれた真似ができるというのでしょう? 無実だということは、わかりきった話じゃありませんか。ほんとうに潔白だからこそ、かえっておびえてしまって、まるで犯人のように見られてしまうのです。こういう人間性のイロハのイの字も、高慢ちきなヒュームや警察の連中にはまるっきりわからないんだわ。ジョーエル・フォーセット上院議員殺害犯人は、冷酷な人間の仕業《しわざ》なのよ、たぶん、すごい大芝居が打てるような人物。この推理は、あの犯罪のいろいろな事実を検討すれば、当然じゃありませんか。それなのに、この哀れな老人が犯人だというのは、いったい、どういうわけなの?
「椅子にかけたまえ、ドウ」ヒュームがいくらかあたりのいい口調で言いました。すると男は、こわばった物腰で椅子にかけました。片目だけしかない、その青い眼には、期待と恐怖がいりまじった涙が浮かんでいます。右のまぶたがめくれあがっていて、おまけに右腕は――見たところ、いくらかしなびていますが――グンニャリとたれさがっているというのに、どういうものか凶悪な印象をすこしもあたえないのです。いや、かえってその男の無力さを強調しているくらい。この男の上に、ベッタリと、監獄の壁の烙印《らくいん》がおされていて、それは環境という苛酷な手によって、なまなましく焼きつけられたものなのです。まるで猿のようにたえず小刻みにゆすっている頭、蝋《ろう》のような青白い顔、足をひきずるような歩き方……
男はしゃがれた声で言いました、「へえ、へえ、検事さん」まるで飼いならされた犬が機械的に主人の言いつけにしたがうような調子で、早口に言うのです。おまけにその喋り方といったら、骨の髄まで囚人根性がしみこんでいるじゃありませんか。唇をこわばらせたまま、そのゆがんだ小さな口もとから、言葉を出すのです。と、こんな場所に若い女のいるのが腑に落ちないのか、突然、男が片目でわたしの顔を見たものですから、思わずわたしはハッと息をのみました。そして男は、このわたしが救いの女神かもしれないといったような顔つきで、じっと見つめるのです。
父がしずかに椅子から腰をあげました。それにつられて男の悲哀をこめた片目が、関心と期待にもえながら、立ち上がった父のほうに向きました。
「ドウ、この方は、おまえを助けたいと思っておられるのだ。で、おまえと話がしたいばかりに、ニューヨークからはるばる来られたのだぞ」――ヒュームときたら、なんて誇大な言い方をするんでしょう、いい加減にもほどがあるわ――
と、エーロン・ドウのもの言いたげな眼に、サッと疑惑の色がうかびました。「さいですか、検事さん」男はそう言うと、椅子のなかで、身をちぢめました、「でも、私はなんにもしなかったんですよ、検事さんにも申し上げましたとおり、殺したりなんかしません――あの方を」
父が地方検事に目くばせすると、ヒュームはうなずいて、椅子に腰をおろしました。わたしは、乗り出すようにして、じっと見まもりました。なにしろ、父の訊問するところなど、いままで一度も見たことがなかったものですから。警察官としての父の活動ぶりなど、わたしにとっては単なる伝説にすぎなかったのです。いま、その仕事ぶりを一目見ただけで、父が、警察官としてすごい腕ききだということが、すぐのみこめました。まずエーロン・ドウの信頼を得るために用いた父の|かけひき《ヽヽヽヽ》は、わたしにとって父の知られざる一面をおのずから見せてくれたのです。言動こそ粗野ですが、なかなかどうして、父はするどい心理学者じゃありませんか。
「ドウ、このわたしの顔をごらん」父は、威厳をそこなわない程度に、ごくさりげない口調で言葉をかけました。かわいそうに男は身をこわばらせて、父の顔を見ました。しばらくのあいだというもの、二人はおし黙ったまま、たがいの目を見つめあっています。「わしがだれだか、知っているかね?」
ドウは唇を舌でしめして、「いえ、いっこうに、旦那《だんな》」
「ニューヨーク警察本部のサム警部だよ」
「あっ」男はギョッとすると、とたんに警戒の色を見せました。そして、ちいさな薄い白髪頭を左右にふりつづけながら、わたしたちの顔をチラリと見ようともしません。油断なく身構えながらも、なにかを期待し、および腰でこちらへ近づくような気配をみせながら、いざというときにサッと逃げ出せる態勢をととのえている、といった感じ。
「すると、わしのことは知っているんだな?」父が追い討ちをかけます。
「その……」ドウは、黙っていようか、それともいっそのこと喋ってしまおうかと、しきりに迷っている様子。「じつは刑務所で、盗みで入れられた男と知り合いになりましてね、なんでもそいつの話では、あやうく電気椅子にかけられるところを、警部さんに助けていただいたそうで」
「アルゴンキン刑務所の中でかね?」
「へえ、警部さん」
「それならきっと、ヒューストン街のギャングだったサム・レヴィだよ」父は、さもなつかしそうに、微笑を浮かべて言います、「サムは、根はなかなかいい男なんだが、ギャング団にまきこまれ、あげくのはてにやつらから裏切られたんだ。ところでいいかね、ドウ、このわしのことを、サムはなにか言っていたかな?」
ドウは椅子のなかで、ひっきりなしにからだをうごかしています、「なんだって、そんなことを、この私に?」
「なに、べつに他意はないさ。そうか、あれほど面倒をみてやったのに、まさかサムがわしをこきおろしているとは思わなかった――」
「と、とんでもない!」ドウはムッとした表情で、ジロッと横目をつかうと、金切り声をあげました、「警部さんぐらい潔白で、公平なひとはいないって、やつは口ぐせのように言ってたんですよ」
「ほほう、あの男はそんなことを言ってたかね?」父は、例のうなり声をあげて、「なに、そうだろうともさ。ま、これで、わしが無実のものに濡《ぬ》れ衣《ぎぬ》をきせるような人間でないということが、わかったろ? 金輪際《こんりんざい》、ひとを泣かせるような真似をしない男だということがね?」
「そりゃあ――私も、私もそのとおりだと思っていますんで、警部さん」
「そいつはありがたい! じゃ、おたがいの気持ちがよくのみこめたというわけだ」父は椅子に腰をおろすと、ゆったりと足をくみます、「ところで、ドウ、こちらのヒューム検事は、おまえがフォーセット上院議員殺しの下手人だとにらんでおられる。わしはおまえに腹蔵のないところを話しているのだ。冗談ごとじゃないんだぞ。おまえの立場は、楽観をゆるさないんだ」と、男の眼に、恐怖の色がまたまたあふれてきました。ドウは、その眼をヒュームにむけました。ヒュームはサッと顔面に朱を走らせると、怒りをこめた眼で、父の顔をジロッと見ました。「だが、わしはちがう、わしはおまえがフォーセットの殺害犯人だとは思っていないのだ。それに、このなかなかイカス若い女性もだよ――なに、わしの娘だがね、この娘《こ》も、おまえが潔白だと思っているのだ」
「へえ――へえ」ドウは、顔をあげもせずに、口のなかでつぶやきます。
「ところで、なぜわしが、おまえのことをフォーセット殺しの下手人じゃないとにらんでいるか、そのわけがわかるかな、ドウ?」
さすがにこんどは、ドウの答え方もきっぱりしていました。ドウは、そのどんよりした顔に希望ともの問いたげな色を浮かべると、父の眼をまじまじと見つめるではありませんか。「いいえ、警部さん、私にはまるっきり! この私にわかっていることといえば、私が犯人じゃないってことだけなんで。いったい、どういうわけなんです?」
「よし、説明してあげよう」父は、岩のような大きな手を、その老人のゴツゴツした貧弱な膝《ひざ》の上におきました。その膝がガクガクふるえているのが、わたしの眼にもわかります。「つまりだな、わしは人間というものをよく知っているからだ。人殺しをするようなやつがどういう人間か、わしにはよくわかっている。そりゃあ、おまえは十二年まえに喧嘩のあげく、|ひょん《ヽヽヽ》なことから酔っぱらいを殺しはした、しかし、おまえのような男に、計画的な殺人などできっこないよ」
「そのとおりですとも、警部さん!」
「おまえにはナイフなんか使えないよ。かりに相手をやっつけようと思ってもだな、ええ、そうだろ?」
「だれが使うもんですか!」ドウが叫びました、その細い頸に、青い静脈をありありと見せながら。「下手人はあっしじゃねえ! 刺し殺したりなんかしねえ!」
「そうだろうともさ。これではっきりした。おまえはフォーセット上院議員を殺さなかったと言うし、わしもその言葉を信じる。だが、フォーセットが殺された以上、下手人がいるはずだ。その下手人はだれだと思う?」
ドウは、皺だらけのやつれた左手をかたく握りしめました。「知りません、十字を切って誓いますよ、警部さん、私は無実なんだ、濡れ衣を着せられたんだ」
「たしかに、おまえは濡れ衣を着せられてるのだ。それにしても、おまえはフォーセットを知っていたね、え?」
ドウは椅子からとびあがりました、「ええ、知っていますとも、とんでもねえ喰わせ者でさあ」と、つぎの瞬間、まんまと父の術策におちいって、不利なことを口走っていることにハッと気づいたものか、ドウは、恐怖の色をその表情に浮かべると、だしぬけに口をつぐんでしまい、父の顔を、ドウはものすごい目つきでにらみつけるではありませんか。
ところが、父ときたら、予想外の事態の変化に即応した、あのあざやかな変わり身の早さを見せて、さも心外だという表情をしてみせました、「おまえは、このわしを誤解しているよ」と、口のなかでブツブツ言います、「おまえにドロを吐かせるために、わしがおまえをいっぱい喰わせた、と思っているんだな。いいか、わしはそんなきたない真似はしないぞ。なにもおまえの口から、おまえがフォーセット上院議員と知り合いの仲だなどということを、わざわざきき出すまでもないことなんだ。そんなことは、こちらの地方検事さんが百もご承知なんだからな――フォーセットの机の上で発見されたおまえの手紙を、この検事さんはちゃんとお持ちなんだぞ。どうだね?」
老囚人は、なにやらボソボソと口のなかでつぶやくと、もとの椅子におずおずと腰をおろしました。そして今度は、まるで穴があくほど、父の顔を見つめるではありませんか。わたしは、その男の表情を見ているうちに、かすかに身をふるわせてしまいました、疑惑と期待と恐怖のいりまじった、そのいやしい、神経がむき出しになっているような顔が、それからしばらくの間というもの、わたしの心にまざまざと焼きつけられてしまったのです。わたしはジョン・ヒュームの顔を見ました。べつに心を動かされた気配はありません。これはあとでわたしが聞いた話ですが、警察と地方検事だけで最初のきびしい取調べが行なわれたとき、例の恐喝状を鼻先につきつけられたというのに、エーロン・ドウはあくまでも頑強に否認しつづけたそうです。この事実を知ると、余計にわたしは、この男の蠣《かき》のような固い殻の口を割るのに用いた、父の本能的な駆け引きに、舌をまかざるを得ませんでした。
「そうですか、よくわかりましたよ、警部さん」とドウが口のなかでつぶやくように言いました。
「そうか、そいつはなによりだ」と父が落ち着いた口調で言います、「とにかく、おまえが正直になにもかも話してくれないかぎり、助けようがないんだからね。で、フォーセット上院議員とはいつごろからの知り合いなんだね?」
うちひしがれた男は、またカサカサになった唇を舌でしめします。
「それはもう――その、ずっと昔のことなんで」
「なにか、ひどい目にでもあわされたのかい、ドウ?」
「そいつだけはご勘弁を、警部さん」
「そうか、よしわかった」ある点だけについては、どんなことがあってもドウが絶対に沈黙を守るということを、わたしなんかよりも父がいちはやく見てとって、間髪おかず、父は鉾先《ほこさき》をパッとかえました。
「しかしだね、このアルゴンキン刑務所の中から、おまえはフォーセットと連絡をつけたのじゃないか?」
無言――やっとのことで、「へえ、たしかにそのとおりで、警部さん」
「で、手紙といっしょに、鋸で切断した木箱の片割れを、玩具類のはいった箱のなかに入れて、フォーセットに送りつけたわけだな?」
「まあ……そんなところでして」
「いったい、どういうつもりだったんだ――木箱の片割れなんか送ったのは?」
たとえ、どんなに絶好の状況のもとであろうと、このドウから真実をひとつのこらずきき出すことなど、夢にも期待できないことは、その場に居合わせたものなら、すぐさとったにちがいないと思います。話が木箱の片割れになると、そのとたんに、たちまちドウの態度は、明るくなったような気がしました。だって、この男の、いまのいままで絶望の色にしずんでいた顔には、まがいもなく微笑が浮かび、見えるほうの片目には、いかにも抜け目のなさそうな色が、キラリと光ったんですもの。父も、いちはやくそれを見てとりましたが、べつに失望の色を見せませんでした。
「なあに、ちょっとしたサインでさあ」ドウはキンキンひびく警戒するような口調で言います、「あれを見れば、やつは私のことに気づきますからね」
「そうか、おまえの手紙によると、釈放された日に、上院議員に電話するとあったが、実際にそうしたのかね?」
「へえ、電話しました」
「じゃ、フォーセットと電話で話したわけだな?」
「そりゃあ話しましたとも」ドウは歯をむき出して言いましたが、いそいで自分をおさえて、「やつは、わかった、わかった、と言いましたよ」
「それで、昨夜、上院議員と会う約束をしたんだね?」
ドウの、大きく見はった青い眼に、またもや疑惑の色が浮かびました、「へえ……まあね」
「会う約束の時間は?」
「六点鐘でさあ、十一時ですよ」
「で、時間どおり会いに行ったんだな?」
「ところが行かなかったんですよ、警部さん。いえ、ほんとうに!」ドウの口から言葉が矢継ぎ早《ばや》にとび出します、「なにしろ十二年もムショで暮らしたんですからね、すぐに出られるエースとはいっしょにしないでくださいよ。十二年といやあ、気が遠くなるくらい、ながい年月です。刑務所を出た足で咽喉《のど》の乾きをうるおしたいと思うのも無理な話じゃないでしょうに。もうながいこと、イモ酎《ちゅう》しか飲まなかったもんですから、ほんものの酒の味なんざ、とっくに忘れてしまいましたからね」父があとで説明したところによると、『エース』というのは、一年の刑という囚人たちの陰語だそうで、また、父のあとからマグナス所長に聞いたところでは、『イモ酎』というのは、アルコールにうえた囚人たちが、馬鈴薯《ばれいしょ》の皮やほかのいろいろな野菜ののこりかすなどで密造したドロドロに発酵した手製の酒のことだそうです。「そんなわけで、刑務所から出たその足で、すぐ飲み屋にとびこんだんですよ、警部さん。なに、この町のシェナンゴ・スミス商店の角にある居酒屋でさあ。そこのおやじに聞いてくださりゃ、私が飲みにはいったことを、ちゃんとうけあってくれますよ、警部さん」
父は眉をひそめました。「ほんとですか、ヒュームさん? いまの話を裏づけてみましたか?」
ヒュームは微笑しました、「むろんですとも。警部さん、あなたにも申しましたとおり、私は無実の人間をやたらに投獄するような真似はしませんからね。たしかに酒場の|あるじ《ヽヽヽ》は、ドウが飲みに来たことを裏づけてはくれましたが、残念ながら、ドウは昨夜の八時ごろ、その店を出たという証言もしたのです。したがって、フォーセットが殺害されたのが十時二十分ですから、ドウのアリバイはぜんぜん成立しないわけです」
「なにしろ私はすごくご機嫌だったんですよ」と、ドウが口のなかでつぶやくように言いました。「ながいこと、ほんものの酒を口にしなかったもんですから、安ウイスキーをグイグイあおったら、てきめんに酔っぱらってしまいましたよ。そんなわけで、飲み屋を出てからのことは、これっぽっちもおぼえていない始末でして。ただあてもなくブラブラ歩きまわりましてね、とにかく酔いをさまそうと思ったんですよ、おかげで十一時ごろには、どうにか酔いもさめましてね」ドウは身をすくませると、飢えきった野良猫みたいに、なんども舌なめずりをします。
「で、それから」父が静かにうながしました、「フォーセットの家に行ったんだな?」
と、ドウの眼にはげしい苦悶の色が燃えあがり、言葉が咽喉をついて出た、「たしかに行きましたよ、だけど、家の中には入りませんよ、入りませんとも! 灯火やお巡《まわ》りやデカの姿を見るなりこいつは罠《わな》にかけられたと、ピンときたんでさあ。なんか、とんでもないペテンにひっかけられたとね。そこで私はアワを喰って逃げ出しましたよ、それこそ、まっしぐらに林の中に逃げこんだんで。それから――それから警察の旦那方に見つかって、捕ってしまったんですよ、だけど、私がやったんじゃない、絶対に私じゃありません!」
父は椅子から腰をあげると、床の上をやすみなく行ったり来たりしはじめました。思わずわたしもホッと溜息をもらしました。旗色悪し。それを裏書するみたいに、ヒューム地方検事は、勝ちほこった微笑を浮かべているじゃありませんか。法律の知識がまったくないにしろ、この不幸な男が、事件の渦中にまきこまれて、絶望的な状態におちこんでいることぐらい、わたしにも手にとるようによくわかる。ドウは、重罪犯人という烙印《らくいん》をおされたまったく、裏づけもなにもない自己の証言だけで、この決定的とも見える状況証拠に立ち向かわなければならないのです。
「すると、おまえは五万ドルせしめなかったわけだな、え?」
「五、五万ドル?」ドウは金切り声をあげました、「とんでもない、目にしたことさえありませんや、ほんとですとも!」
「そうか、わかったよ、ドウ」父は持ちまえのうなり声をあげました、「できるだけのことはしてやるからな」
ヒュームが、二人の刑事に手をあげて合図しました、「よし、郡拘置所に連行してくれたまえ」
二人の刑事は、エーロン・ドウに有無《うむ》を言わさず、部屋の外へひきずり出しました。
わたしたちがすごく期待していた、エーロン・ドウとの対面は、なんら新しい事実も加えることなく、むなしく終ってしまいました。ドウは、告訴の予審をする大陪審にまわされるために、リーズ市の郡拘置所に拘留されていました、そしてドウの起訴を喰いとめる手段といったら、わたしたち父娘《おやこ》にはまったくない始末だったのです。別れぎわのヒュームの言葉を聞いただけで、政治屋どもの常套手段を知りつくしている父は、ドウがまたたくまに『裁判』の犠牲になるにちがいないと確信したのです。これがニューヨーク市だと、訴訟事件表がいっぱいという盛況なので、刑事訴訟となるとたいてい、数か月の準備期間がかかるものです。ところが、リーズ市のような北部では、事件数が少ないうえに地方検事自身の政治的配慮から事件の早期処理を迫られている以上、エーロン・ドウは間髪おかずに起訴され、審議、求刑、有罪という段取りで、超スピードの判決が下されるにちがいありません。
「世間では、この事件の迅速な判決を期待しているのですよ、警部さん」とヒュームが言いました。
「そんな馬鹿な」と、父が快活な口調で、「すると地方検事は、アメリカ・インディアンの戦利品みたいに、自分の皮バンドに、ドウの毛髪つきの頭皮をぶらさげたいというわけですな。そしてフォーセット一派は、親分の仇とばかりに、手ぐすねをひいている。それはそうと、フォーセット博士はどこにいるんです? 居所をつかむ手がかりは、まだないのですか?」
「冗談にもほどがありますよ、警部さん」ヒュームはパッと顔面を紅潮させると、すごい勢いでくってかかります、「どうも面白くない言い方ですな。まえにも言ったとおり、私は心底《しんそこ》からエーロン・ドウを有罪とにらんでいるのです。状況証拠はおつりがくるくらい揃っている。私が有罪とにらんだのは、あくまでも事実にもとづいているので、推理なんかではありません。それにあなたは、まるで私がこの事件を政治的に利用しているように、ほのめかしているようだが――」
「まあ、落ち着いてください」父は無表情で言いました、「たしかにあなたは、検事として公正な人物だ。だが、なんといってもあなたは眼がくらんでいるし、それに絶好の機会だとばかりに焦りすぎる|きらい《ヽヽヽ》がある。そりゃあ、あなたの見解からすれば、あなたを責めるわけにはいきません。しかしですよ、ヒュームさん、どうもこの事件は、あまりにも|つじつま《ヽヽヽヽ》があいすぎはしませんか。どの証拠も、まるでおあつらえむきみたいに、だれの眼にもすぐそれとわかるような容疑者を、かくもあざやかに指《さ》している事件なんか、そうざらにあるものじゃありませんよ。それに、心理的な面がまるっきり|ちぐ《ヽヽ》|はぐ《ヽヽ》です。あの哀れな初老の男が、だいそれた人殺しの下手人だとは、どう考えても合点がいきません、じつは問題はそこだけなのですよ……それはそうと、アイラ・フォーセット博士のことで、私がおたずねしたことに、まだ答えてもらえませんかね」
「それが、いまもって居所がわからないのです」と、ヒュームがひくい声で言いました、「私はじつに残念ですよ、警部さん、あなたがドウのことを、そのように思っているとはね。事件の真相が、目と鼻のさきにぶらさがっているというのに、なにをわざわざ、そんなこんがらかった説明を必要とするのです? 例の木箱の片割れの問題さえのぞけば――それにしたって、過去の因縁《いんねん》話をべつにしたら、さして重要なことじゃありませんからね――証拠固めを要する点は、ごくわずかじゃありませんか」
「おやおや、そんなものですかな? では、これでおいとましたほうがよさそうだ」と父が言いました。
そしてわたしたち父娘《おやこ》は、鉛のような重い心をひきずって、丘のうえのクレイ邸に帰って行ったのです。
日曜日は、父はエライヒュー・クレイといっしょに、採石場で、帳簿や書類の調査といった無味乾燥な仕事に没頭していました。わたしはといえば、ジェレミーのすごく不満そうな顔を尻目に、自分の部屋にとじこもって、事件のことばかりあれこれと考えつづけたあげく、タバコの箱を、せっせとからっぽにする始末。パジャマのまま、ベッドに大の字なりに寝そべっているわたしの素足の踵《かかと》を、太陽の光がポカポカとあたためてくれる、でも、わたしの心まではあたためてはくれない。絶対絶命に追いこまれているドウのことや、自分の無力さを身にしみて感じると、つめたいものが背すじを走るような寒さにおそわれるのです。知恵の輪を丹念に一つ一つつなぎながら、わたしは自分の推理を組み立てていった、そして、推理の鎖は、見事に強力な論理でつながれたのだけれど、ドウの無実を法廷で立証できるような物的証拠、つまり推理の鎖を現実にかけられるような手ごたえのある|留め金《フック》をどこにも見つけ出すことができませんでした。ああ、推理だけでは、法廷じゃまったく無力なんだわ……。
と、このとき、ジェレミーがわたしの寝室のドアをノックしました。「すこしはぼくのことも考えてくれよ、パット。ね、遠乗りしないか」
「あっちへ行って、坊や」
「すばらしい上天気なんだぞ、パット。かがやく太陽、木々のみどり、とにかく中に入れてくれないか」
「なんですって! パジャマ姿のままで、若い男性をもてなせって言うの?」
「あっさりあきらめたらどうなんだ。きみに話したいことがあるんだよ」
「じゃ、へんな真似はしないって約束する?」
「だれがそんなことを約束するものか。とにかく入れてくれよ」
「しようがないわね」わたしはホッと溜息をつきました、「鍵はかかっていなくてよ、ジェレミー、あなたがあくまでも、か弱き女性につけこもうというのなら、あたしにはもうなす|すべ《ヽヽ》がないわ」
彼は部屋の中に入ってくるなり、わたしのベッドの端に腰をおろしました。陽《ひ》の光が、ジェレミーの巻き毛のうえで、いかにもここちよさそうにかがやいています。
「今日はもう、坊やは、お野菜の離乳食をたべて?」
「馬鹿な! ねえ、パット、冗談を言ってるどころじゃないんだ、ほんとに話したいことがあるんだよ」
「ではどうぞ。あなたの扁桃腺《へんとうせん》は、どうやら正常らしいから」
彼は、ふいにわたしの手をつかむと、「こんないまわしい殺人事件から、どうしてきみは、手を引かないんです?」
わたしはじっと考えこんだまま、天井に向かってタバコの煙りを吹きつけました、「あら、こんどは人身攻撃ね。あなたの気持ちが、あたしにはまったくわからないわ、ジェレミー。無実の男が、いまにも電気椅子で命をたたれようというのに?」
「餅《もち》は餅屋にまかせればいいんだ」
「ジェレミー・クレイ」わたしは毒づいてやりました、「そんな逃げ口上《こうじょう》をきいたのは、あたし、生まれて初めてだわ。じゃ、いったい、だれが餅屋だというの? あのヒューム? たしかに好青年にはちがいないけど、いやにお高くとまっている。彼には、二インチ先の自分の尊大な鼻の頭しか見えないのよ。それともケニヨン署長? あの男ときたら低能で残忍で、おまけに腹黒ときているわ。それにリーズ市の警察ときている、ねえ、こういった悪条件にとりまかれていたら、あのあわれなエーロン・ドウは、それこそ絶体絶命じゃないの」
「じゃ、きみのお父さんはどうなんだい?」と、ジェレミーが意地悪な口調で言います。
「そりゃあ、パパは立派に捜査をつづけているわ、でも、個人の力じゃ、どうしようもないじゃないの……あら、あたしの手をそんなにこすらないで、クレイさん、すり減ってしまいますわ」
彼はグッとにじりよると、「ねえ、ペイシェンス、ぼくは、ぼくは――」
「さ、あなたの退散する潮時よ」わたしはベッドに身を起こすなり、そう言ってやりました、「若い男性が頭にきちゃって、妙な目つきになって、いまみたいなことを口走るときはね……」
ジェレミーが出て行ってしまうと、わたしは思わず溜息をつきました。たしかに彼は、すごくハンサムな青年です。しかし、あの状況証拠の海から、溺死《できし》寸前のエーロン・ドウを救い出すには、まったく頼りになりません。
それから、老優ドルリー・レーンのことを思いだすと、そのとたんにわたしの気持ちが明るくなりました。そうだわ、最後の最後というときは……。
八 救いの神
この殺人事件を頭のなかで整理していくうちに、ある一つの因子が、わたしの心のなかで不釣合なくらいに大きな位置をしめていました、つまり、その因子というのは、殺害された上院議員の兄の不可解な雲がくれです。とにかくヒュームは、その数々の過失のなかでもとくに、フォーセット博士の謎めいた逃避行を軽視しすぎるというひどいあやまちをおかしているように、わたしには思われるのです。もうとっくにわたしは、この一筋蠅《ひとすじなわ》でいきそうもない博士に対する作戦計画を完了していました。それなのに、待てどくらせど、|よう《ヽヽ》として博士の居所がつかめないので、わたしは業《ごう》を煮やすと同時に、ますます好奇心にかられてきたのです。
おそらく、博士の雲がくれを、わたしは過大視しすぎていたのかもしれません。待ちに待ったフォーセット博士をついにこの目で見たときには、いままでその行先を追求するのに気のりのしなかった地方検事の態度もうなずけるような気がしたからです。だが、それにもかかわらず、この人物をみくびるようなことがあってはならないと、思ったものです。博士に会った直後、エライヒュー・クレイがこの人物にいだいている疑惑は、たぶん事実に根ざしたものにちがいない、という父の意見に、わたしは全面的に賛成しないわけにはいきませんでした。
問題のフォーセット博士が姿をあらわしたのは、わたしたちがエーロン・ドウと会ってみて、ひどく失望した二日のち、つまり、月曜日の夜でした。その月曜日はなにごともなく過ぎて行き、父はクレイさんに、もうこの事件から手をひくつもりだ、などと、さも落胆した口調で告げたものです。父の捜査はすっかり行きづまってしまったのです。いくらフォーセット博士を|くさい《ヽヽヽ》とにらんだところで、実際にそれが裏づけられるような書類や記録といったものは、なにひとつない始末。なにか明るい見込みがたちそうだと、父は抜け目なくいろいろと推測してみては調査に乗り出すのですが、とどのつまりは、きまって水の泡、ということになってしまいました。
月曜日の昼食のとき、はじめてわたしたちは、エライヒュー・クレイから、フォーセット博士が帰ってきたことを聞いたのです。
「うちの共同経営者が帰ってきましたよ」クレイさんは息を殺して、父に告げるではありませんか、「今朝、だしぬけにね」
「なんですと!」思わず父はわれ鐘のような声を出しました、「いったい、ケニヨン署長やヒューム検事は、なにをグズグズしているんだ!なんだって、このわしにすぐ知らせんのか? で、あなたはいつ知ったのです?」
「なに、いましがたですよ。それで、大急ぎで、食事に帰ってきたわけで。フォーセットは、リーズ市から私に電話をかけてきたのです」
「どんな電話です? こんどの事件をどう見ているんです? いったい、どこに行っていたんです?」
クレイさんは弱々しげな微笑をうかべると、首をふりました、「それが、なにも言わないのですよ。なんだか、ひどくガックリしている気配で。ただ、ヒューム検事の事務所から電話している、と言うだけで」
「とにかく会わんことには」と父がうなり声をあげました、「いま、どこにいるんです?」
「なに、もうすぐ会えますよ。じつは今夜、いろいろと話があるので、家にやってくるのです。あなたの経歴はかくしておきましたが、うちに滞在中のお客さんだとは言っておきましたがね」
問題の人物は、夕食がすんでほどなくすると、クレイ邸にやって来ました。それも、『血税の結晶』だと父が痛烈に毒づいた、豪華な大型自動車で乗りつけたじゃありませんか。また運転手というのが、いかにもボクサーくずれといった感じの、耳も鼻もつぶれた、すごい人相の男。この男が運転手|兼《けん》用心棒だということは一目《ひとめ》でわかります。
フォーセット博士は、長身の、まるで死人のように青ざめた男で、顔立ちは殺害された兄弟の上院議員とそっくりでした。つまり、フォーセット上院議員の顔に、硬い黄色の歯と馬みたいな笑い方、それにさきっちょのとんがった貧弱な黒いヴァンダイクひげをつければ、まったく瓜《うり》二つというわけ。そのからだからカビくさいタバコと消毒剤の匂いを発散させ――つまり、政治家と医者の匂いがまじりあっていて、わたしには興味はあったものの、なんとも鼻もちならない匂いで、博士の魅力を増すものでないことだけはたしかです。そのとき、博士は殺害された上院議員より年上にちがいない、とわたしは見てとったのですが、案の定、わたしのにらんだとおりだということが、あとでわかったのです。博士には、どうにも鼻につくいやらしさがありました。そして、博士のようなタイプの人間が、地方の市の策謀政治家になるということは、けっして考えられないことではないと、わたしは思ったのです。博士とは政敵にあたる、あの反対党の政治ボス、ルーファス・コットンが、やはり胸|くそ《ヽヽ》の悪くなるような印象をわたしに与えたことを思いあわせると、この政治ボスという名の鉄槌と鉄床にはさまれている、チルデン郡の善良な市民たちのことが、ほんとうに気の毒になってしまうのです。
エライヒュー・クレイがわたしを博士に紹介したとき、まるで|なめ《ヽヽ》まわすようにわたしを見る彼の視線を感じた瞬間、わたしはとっさに、一つのことを確信したのです。それは、世界中の黄金が山とつまれようと、絶対に博士と二人きりにはなるまい、ということでした。博士には、舌のさきっちょで、唇をベトベトになめまわすいやらしい癖がありました。わたしの|虫ず《ヽヽ》の走るような経験から言うと、これは、ある種の男たちが胸に一物あるときの明白なサインなのです。それに、このフォーセット博士は、海千山千の女でさえ手を焼くような男なのですからね。そうですとも、スキさえあれば、有無《うむ》をいわさずつけこんでくる、厚顔無恥な手合いなのです。
わたしは胸のなかで、自分に言いきかせました、「しっかりおし、ペイシェンス。作戦を変えなくちゃ駄目」
博士は、レントゲンで透視するみたいに、じっくりとわたしを眺めおわると、父やクレイさんのほうに向きなおり、肉親の思いがけない突然の死に茫然自失の|てい《ヽヽ》といった表情にもどりました。実際のところ、みるからに博士は憔悴しきっていたようです。クレイさんが「こちらはサム氏」と父を紹介すると、なんだか博士は|うろん《ヽヽヽ》な目つきで父をジロっとながめたような感じがしました。もっとも、わたしのような娘が居合わせたので、博士は警戒をゆるめたにちがいありません、一瞬、眼をキラリとひからせただけで、すぐまた悲しみの色を浮かべ、それからというものは、共同経営者のクレイさんとばかり、言葉をかわしていたからです。
「ヒューム検事やケニヨン署長に会って、ほんとうにびっくりした」博士はさきっちょのとんがった顎ひげをしごきながら、言います、「こんどの事件が、私にどんなにすごい打撃をあたえたか、とうてい君には想像がつかんだろうね、クレイ君、こともあろうに殺人とは! なんという残酷な――」
「いや、そのとおりだ」クレイさんはつぶやくように言います、「じゃ、今朝帰ってくるまで、事件のことはなにも知らなかったんですね?」
「ええ、ぜんぜん。こんなことなら、先週、行先を君に知らせておくんだった、いくらなんでも、こんな事件が起ころうとは、夢にも思わなかったし――正直なところ、私はこの町を出てからというもの、文明の恩恵には浴《よく》せないようなところにいたものですからな。なにせ、新聞さえないんだ。いや、想像もつかん――なんでも犯人はドウという男だそうだが……こいつは狂人ですとも!」
「すると、あなたはドウをご存じじゃないのですね?」と父がなに気ない口調で、言葉をはさみました。
「むろんですとも。まったくの見ず知らずの人間ですよ。ヒューム検事は、弟の机の上にあった手紙を見せてくれましたがね、いや、というよりも」――博士はあわてて唇をかみ、視線を、電光のような早さで変えました、とんでもないことを口走り、自分でもそれに気がついたのです――「なに、二階の弟の寝室にある金庫のなかから発見された手紙のことですよ。いや、もう、ほんとに、ショックでしたね。恐喝とはまったくおどろいた! とうてい信じられるものじゃない、どこかに、たいへんなミスがあることはたしかだ」
じゃ、博士も、あのファニー・カイザーを知っているんだわ! と、わたしは胸のなかでさけびました。手紙……そうだ、博士の念頭には、ドウが鉛筆でなぐり書きした手紙ではなしに、あの怪物のような女にしたためた弟の手紙だけしかないんだわ。それに、この男の心の動揺は、全部が全部みせかけのものではないと、わたしは見てとりました。むろん、博士の言葉づかいは、いかにもつくりものの感じがあるけれど、その心の奥底で、たえず懊悩《おうのう》しているのがわかります。この男には、悩みの影がありありとやどっているのです。まるでギリシア神話のダモクレスのように、一本の毛髪につるされた剣の真下に坐したまま、いまにも毛髪が切れて、剣が頭上におちてきはしないかと、おびえきっている感じ。
「さだめし、おそろしさに気も顛倒《てんとう》なさったことでしょうね、フォーセット先生」わたしはやさしい口調で言葉をかけました、「どんなお気持ちだったか、あたしにはよくわかりますわ、殺人だなんて……」わたしはかすかに身をふるわせてみせました。すると博士は、わたしのほうに視線をむけ、こんどはひどく個人的な興味をそそられた目つきで、あらためてわたしのことをジロジロと見るではありませんか。それから、また唇をベトベトになるまでなめまわします、まるで時代おくれのメロドラマに出てくるひげをはやした敵役《かたきやく》そっくり。
「いや、ありがとう、お嬢さん」博士は、おしつぶした|のぶとい《ヽヽヽヽ》声で言いました。
父はイライラして、身じろぎすると、「そのドウという男は」とうなり声をあげました、「亡くなった弟さんのことについて、なにか知っていることがあるに相違ない」
と、博士の表情は、また亡霊におびやかされているような暗さにもどった、そして、わたしのことなど眼中になくなってしまったのです。博士をおびやかしている亡霊というのが、リーズ市の郡拘置所につながれている、骨と皮だらけの老囚人であることは、火を見るよりも明らかです。女傑のファニー・カイザーの件は、さらにべつの問題なのです。ところで、なんだってフォーセット博士はドウをおそれるのでしょう? あの、吹けばとぶような囚人に、どんな威力があるというのです?
「ヒューム検事は、なかなか張り切っているようですよ」クレイさんは、自分の葉巻のさきをじっと見つめながら、眼をほそめると言いました。
フォーセット博士は、地方検事のことなど聞きたくもないといった調子で、はらいのけるように手をふりました、「いや、むろんそうですとも。あの男は、べつに私に迷惑をかけませんからな。なに、なかなかの好青年ですよ、ヒュームという男はね、もっとも政治的信条にかけては多少おかしなところもあるが。ま、他人の不幸を踏み台にして、のし上がろうというのは、人間としてどうも感心できませんな。新聞の論説にもあるとおり――あの男は、私の弟の死を、もっけの幸いとばかりに、自分の政治的進出に利用しているんですからね。いままでの例を見てもわかるように、殺人事件どころか、もっとつまらない事件を利用したって、票はかせげるんだ……いや、そんなことはとるにたりないこと、とにかく重要なことは、この身の毛もよだつような犯罪です」
「なんでもヒューム検事は、ドウを犯人とにらんでいるそうですね」父は、ひとから聞きかじった話を受け売りしているような口調で、言葉をはさみました。
と、博士は、いまにも目玉がとび出しそうな勢いで、父のほうに顔をむけました、「なにを言うんです! あたりまえの話じゃありませんか。あの男が下手人だということに、疑問の余地でもあるというのですか?」
父は肩をすくめると、「なに、いろいろと取沙汰《とりざた》されていますのでね。私はよく知らないのですが、なんでも市民のなかには、あのかわいそうな|のろま《ヽヽヽ》は濡れ衣を着せられたんだ、と言うものもいるらしいのでね」
「そうか」博士はまた唇をかむと、眉をひそめました、「いや、そういうことは、まるっきり考えてもみなかった。むろん、私は正義が行なわれることを強く主張するものだが、といって、素人の下司な勘ぐりで公正な法の裁きをないがしろにすることは許すべきではない」
博士の言葉をきいているうちに、わたしはすんでのところで|おなか《ヽヽヽ》をかかえて笑い出しそうになりました、だって、この男ときたら、まるで操り人形師みたいなペラペラした口調で、大言壮語しているんですもの。「よろしい、そういう事実があるかたしかめてみましょう、早速、ヒューム君に話して……」
いろいろと訊きたいことがたくさんあって、わたしの咽喉《のど》もとまで言葉が出かかったのですが、父の眼の色を見て、わたしは質問をのみこんでしまいました。父の眼の色が、『おまえは黙っていなさい』と言っていたからです。
「それではクレイ君、失礼しましょう」フォーセット博士は椅子から腰をあげながら、言いました、「それから、お嬢さんもね」博士はまた、思い切りわるそうに、わたしをジロジロながめるのです、「どうしてもまたお会いしないことには気がすみませんよ――こんどはだれもいないところでね」ささやくような口調でこう言うと、ねっとりした指で、わたしの手を握りしめました、「ね、わかってくれますね」博士は声をたかめると、「どんなに恐ろしい打撃だったか。さ、もうおいとましなければなりません。仕事がいやになるくらいたまっているのですよ……それからクレイ君、明朝、石切場に行くから、そのとき、いろいろと相談するよ」
博士の車が爆音をのこして出て行くと、エライヒュー・クレイが父に言いました、「警部さん、うちの共同経営者についてのご感想は?」
「ま、ペテン師というところですかな」
クレイさんは、ホッと溜息をつきました、「私の疑惑が、単なる思いすごしであってくれたら、どんなにいいかと思っていたんですがね。だが、あの男はなんだって|うち《ヽヽ》に来たのでしょうな。今日の電話のときは、私になにか話があると言っていたくせに、明朝、相談しようなどと言って帰ってしまって」
「なに、今夜やって来た理由はわかっていますよ」と、父が吐き出すように言いました、「どこかで――ま、ヒューム検事の事務所でしょうがね――私の素姓をやつが小耳にはさんだからです!」
「ほんとうですか?」クレイさんがつぶやくようにきき返しました。
「むろんですとも。それでやつは、この私を一目見てやろうと思って、おしかけて来たわけですよ。まだ、ほんの疑惑の段階でしょうがね」
「そいつはまずいじゃありませんか、警部さん」
「いや、こんなことぐらいではおさまりそうもありませんな」と父が吐き出すように言いました、「もっとまずいことになるにちがいない。どうも私には、あの男のクソ度胸が面白くないですよ。まったく面白くない」
その夜、身の毛のよだつような何匹もの怪物が、わたしのベッドによじのぼってくる悪夢にうなされてしまいました。むろん、うなずけることですが、どの怪物にもさきっちょのとんがった顎ひげがはえていて、薄気味の悪い色目をつかうじゃありませんか。やっと朝になったとき、わたしはホッと胸をなでおろしました。
朝食がすみ次第、父とわたしは、リーズ市の地方検事の事務所へ出かけて行ったのです。
「よう」ヒューム地方検事があらたまって朝の挨拶をするまえに、父がうなり声をあげました、「昨日、あんたは、フォーセットのやつに、わしの正体をバラしたのかね?」
ヒュームは眼をまるくして、「私がですって? そんな馬鹿な。すると、やつはあなたの素姓を知っているのですか?」
「いいかね、やつはなにもかもご存じなんだ。昨夜、やつはクレイの家にやってきたんだが、わしを見るやつの目つきで、こいつはわしの素姓がもれたな、と思ったんだ」
「ふうむ。すると、もらしたのはケニヨン署長くさいぞ」
「ケニヨンはフォーセットに鼻薬をかがされているというわけか?」
ヒュームは肩をすくめて、「私も地方検事ですからね、たとえ内々の話にしろ、私の口から、そんなことは言えるものではありません。ま、ご想像にまかせますよ、警部さん」
「パパ、そうガミガミ言うものじゃなくてよ」わたしはやさしくとりなしました、「ねえ、ヒュームさん、昨日、この事務所でどんなことがありましたの? おさしつかえなかったら、お話してくださいません?」
「なに、これといったことはべつにありませんでしたよ、お嬢さん。フォーセット博士は、弟の上院議員が殺害されて、ひどいショックを受けた、帰ってくるまで夢にも知らなかった、というようなことを言っただけで、捜査の手がかりになるようなことは、なに一つなかったのです」
「この週末をどこに行ってたか、博士はあなたに言いませんでした?」
「いや、なんとも。それに私のほうもその点に喰い下がりませんでしたからね」
わたしは父の顔に横目をつかいながら、「女の問題かしら、警部殿?」
「こらっ、パット!」
「じつは私たちも会議をひらいて、いささかはげしく討論したのですがね」とヒュームはきびしい口調で言います、「その結果、博士の動きを、私はずっと監視させているわけです。博士は、昨日、この事務所を出た足で、一味の悪党どもと秘密会議をひらいているのですよ。やつらが、なにか悪だくみをしていることは必定です。フォーセット上院議員が死亡したために、間髪入れずその失地回復をはからざるをえないことは……」
父は手をふると、地方検事を制しました、「ちょっとお待ちを、ヒュームさん。わしには、あなたがたの選挙戦に熱をあげている|ひま《ヽヽ》はないのです。いいですかな、博士は、問題の木箱の片割れのことで、なにか知っていましたか?」
「心当たりがないと言ってました」
「博士はドウに会ったのですか?」
一瞬、ヒュームは押しだまりました、「ええ。なかなかの見ものでしたね。といっても」ヒュームはあわてて言いそえました、「われわれのドウにたいする容疑を根底からくつがえしたり、無効にしたりすることはありませんでしたよ。いや、それどころか、容疑を深めたくらいです」
「いったい、なにがあったんです?」
「とにかくわれわれは、ドウに会わせるために、博士を郡拘置所に案内したのです」
「それで?」
「それでですよ、われらが尊敬するフォーセット博士の言明にもかかわらず、博士はドウを|ちゃん《ヽヽヽ》と知っているのです」地方検事は机を拳《こぶし》でドンとたたきました、「絶対にそうですよ、博士とドウが顔をあわせた瞬間、電気のようなものが通じあったのです。そうですとも、まるで二人は、共謀の上、口を割らないでいるみたいなのです。きっと二人は、なにか、ある秘密について沈黙をまもっているほうが、おたがいの利益になるのだ、という決定的な印象を、私はいだいたのですよ」
「まあ、ヒュームさんたら」わたしはつぶやくように言いました、「いつのまにか、形而上学派におなりになったようね」
ヒュームはいかにも痛いところをつかれたといった顔をしました、「ま、たいていの場合なら、こんなことをたいして重視しないんですがね。ところが、フォーセットはドウを憎悪しているのですよ――ただ、知っているばかりではなく、憎しみをいだいているんです。おまけに、ドウを怖れている……ところが、ドウのほうはどうかというと、フォーセット博士とちょっと会っただけで、明るい顔になったではありませんか。ね、おかしな話でしょう? しかし、実際のところ、ドウはすっかり自信ありげになってしまったんですからね」
「なるほどねえ」父は苦虫をかみつぶしたみたいな顔で言いました、「どうも理解にくるしみますな。それはそうと、ブール検屍医の死体検証から、なにか出てきましたか?」
「いっこうに新事実はないのです。事件当夜の診断どおりでしてね」
「ここのところ、女傑のファニー・カイザーは?」
「あの女に関心がおありで?」
「大ありですな。あの女はなにかを知っている」
「さよう」地方検事は椅子の背によりかかると、「じつは、あの女について、私もある考えを持っているのですよ。あの女もまた、貝みたいに口をつぐんでいて――これっぽっちも聞き出せない始末です。しかし、まあ見ててください、きっと近いうちに、ファニー・カイザーをいやというほど驚かしてやりますから」
「すると、殺害された上院議員の手紙をつっつくというわけか?」
「そんなところですよ」
「ま、それもいいでしょう、あんたのことだから、そのうちに大統領になれるさ」父はそう言うと、椅子から腰をあげました、「さ、失礼しようや、パット」
「おたずねしたいことがひとつあるんですけど」わたしはゆっくりした口調で言いました、と、ヒュームは頭のうしろで両手を組んだまま、柔和な眼で、わたしを見つめます、「ヒュームさん、事件の細部をじっくりと検討なさいまして?」
「どういう意味なんです、お嬢さん?」
「たとえば、暖炉のまえに残っていた靴跡ですわ。フォーセット上院議員のスリッパや靴と照合してごらんになりまして?」
「それはもう。あの靴跡は上院議員のものではありません。スリッパはくらべてみるまでもないことです――幅がひろすぎますからね。上院議員の靴にしたって、みんな、あの靴跡より大きいし」
わたしはホッと胸をなでおろすと、大きく息をつきました、「では、ドウのほうは? ドウの靴を照合なさいまして?」
ヒュームは肩をすくめました、「ねえ、お嬢さん、私たちはなにからなにまで調べつくしているんですよ。あの靴跡があまりくっきりと残っていなかったことを忘れないでください。あれはドウのものとも考えられるわけです」
わたしは手袋をはめました、「パパ、おいとましましょう。これ以上いると、議論になってしまいますもの。ヒュームさん、もしエーロン・ドウが、あの部屋の敷物の上と暖炉のなかに、二つの靴跡を残したのなら、あたし、大通りで、あなたの帽子を喰べてみせますわ」
いま、エーロン・ドウの奇怪な事件を回想してみると、だいたい、三つの発展段階に区切って考えられるようです。むろん当時は、事件がどの方向に進行しつつあるのか、まったく五里霧中というわけでしたが、いわば、そのときのわたしたちは、夢にも予期できぬほどの急ピッチで、第一段階の終末に向かって驀進《ばくしん》しつつあったのです。
もっとも、その当時のことをふりかえってみると、事態を急激に発展させたものが、まったくだしぬけに襲いかかってきた、とは言えないのです。事実、無意識のうちにも、そのことを、わたしはかなり予期していたのです。
あの最初の夜のあと、つまり、殺害された上院議員の書斎に、わたしたちみんなが立っていた夜のあとで、わたしはカーマイケルのことを、父にきいてみるつもりでした。前にも書いたように、秘書のカーマイケルが上院議員の書斎に入ってきたとき、父は思わず驚きの色を顔に出してしまったではありませんか。そしてわたしが見たところでは、カーマイケルもまた、父がだれであるか、一目でわかったのにちがいないのです。それなのに、なぜ、そのあとで、カーマイケルのことを父にわたしがたずねてみなかったのか、自分ながらよくわかりません。おそらく、矢継ぎ早に起こったさまざまの出来事にすっかり気をとられてしまって、心にとめておく余裕がなかったのでしょう。しかし、いまになってみると、カーマイケルという人物とその素姓が、父にとって、はじめから重大だったのだ、ということが、わたしにはよくわかるのです。つまり、機が熟すまで、カーマイケルのことは、父流に言うと、『最後の切札』として、あくまでも伏せておいたのです……。
わたしの心の底で眠っていたカーマイケルが、はっきりとよみがえってきたのは、それからいく日かたったあとのことで、事件の見通しは八方ふさがり、神経ばかりがイライラする五里霧中の最中だったのです。ジェレミーが、わたしの足もとにうずくまったまま、いやにロマンチックになっていたっけ――そうだわ、わたしとジェレミーはポーチに腰をおろしていた、ジェレミーったら、わたしの足くびをつかんだりして、歯の浮くような口調で、わたしの足のほめ言葉を、やたらと連発していたわ――そのとき、エライヒュー・クレイの書斎にかかってきた電話に、父が呼ばれて出たのです。やがて父は、すごく興奮しきった様子で、ポーチに出てくると、ジェレミーの手をふりほどくようにして、わたしをひきはなすと、わきにつれていって、こう言うではありませんか――
「パット」父は小声で言いました、「すごい話だぞ! カーマイケルから電話がかかってきたんだ!」
と、その瞬間、わたしのなかで眠っていたカーマイケルがよみがえったのです。「あら! あたし、あの男のことをパパにきこうと思っていたのよ、いったい、なにものなの?」
「くどくどと説明している|ひま《ヽヽ》なんかないのだ。これからすぐ、リーズ市の郊外で、あの男と会わなくちゃならん。田舎の族館で会いたい、と言うのだ。さ、おまえも行く支度をしなさい」
父とわたしは、いい加減な口実をつくって、クレイ邸を出ました――たしか父は、昔の友人にまねかれたなどと言ったようです――そして、クレイ家の自動車を借りると、カーマイケルとの会見に出発したわけです。わたしたちの車は、何度も道にまよったあげく、やっと正しい道に出たのですが、もうそのときには、父娘《おやこ》そろって、好奇心に眼の色をかえている始末でした。
「きっとおまえは仰天《ぎょうてん》するぞ」父は運転席に腰をおろすなり言いました、「カーマイケルが政府の探偵だと知ったらな」
思わずわたしは眼を見はりました、「まあ、あきれた! それじゃまるで諜報部じゃない?」
父はクックッとのどの奥で笑うと、「ワシントンの司法省直属の連邦刑事なんだよ。あの男には、昔、何度か会ったことがある。司法省きっての腕ききの刑事の一人さ。カーマイケルが、殺されたフォーセット上院議員の書斎に入ってきたとき、一目で、わしはわかったんだが、あの男の正体をバラしたくなかったものだからな。まんまと秘書になりすましているところへ、正体をすっぱ抜かれたら、あの男だって迷惑するにちがいないからね」
問題のホテルは、州の公道から奥に入った閑静な建物でした。時間が早いせいか、ほかにたいして客のいる気配もありません。わたしたちの、いいえ、どちらかといえば父の態度は堂にいったものだと、わたしは思いました。父はホテルに入るなり、食事のできるしずかな部屋はないか、と言いました、応待に出たホテルの番頭の、薄笑いを浮かべたのみこみ顔から推すと、どうやらわたしたち二人は、人目をしのんで逢い引きにホテルをチョクチョク利用するアベックの同類と見て取られたにちがいありません――こういうホテルでは、ロマンス・グレイの放蕩者《ほうとうもの》が、自分の娘のような若い女を連れこんでも、アメリカの家庭生活の現状では、避けがたいものとして、認められている始末なのです。
わたしたちは個室に通されました、父は白い歯をむき出してニヤリと笑うと、「いや、パット、なにもわしは若返りたいわけじゃないんだよ」ほどなくすると、ドアがあいて、カーマイケルがソッと入ってきました。彼はそのドアに鍵をかけました、と、外から給仕がノックすると、父はうなり声をあげて、「用はないから、入ってくるな」その声に、こんなことには無神経になっているはずの給仕が、思わず忍び笑いをもらしてしまったくらいです。
カーマイケルは、父と感激の握手を交《かわ》すと、わたしに会釈しました、「お嬢さん、あなたのお顔には、もう、この悪いお父さまが、私の素姓を、あなたに洩らしてしまったと書いてありますね」
「じゃ、あなたが諜報部のカーマイケルさんですのね」とわたしは声をあげました、「断然、スリルがあるわ! あたし、あなたのような方は、スパイ小説のなかにしか出てこないと、思いこんでいたんですもの」
「いや、このとおり実在していますよ」彼はわびしげな口調で言いました、「もっとも、そういったスパイ小説の主人公のような、はなばなしい思いをしたことはありませんがね。それはそうと警部さん、ゆっくりしてはいられないのです。じつは一時間だけ、抜け出してきたのでね」カーマイケルの物腰には、あらためて見直すような力強さがあふれていました、それは大胆不敵な感じ――いいえ、それ以上にもっと危機感がみなぎっているのです。またしてもわたしは、ロマンチックな衝動にかられてしまいました。それからわたしは、カーマイケルのずんぐりした体躯、年齢もさだかでない見栄えのしない彼の顔を見つめると、思わずホッと溜息が出てしまったのです。ああ、彼が、ジェレミー・クレイのようにハンサムで、たくましい体《からだ》の持ち主だったら!
「どうしてもっと早く私に連絡してくれなかったのです?」と父がなじるような口調で言いました、「あなたの電話を、それこそ一日千秋の思いで待っていたんですからな」
「それが駄目だったのです」カーマイケルは足音を難なく殺したまま、どこか動物を思わせる身の軽さで、部屋の中を歩きまわります、「いまでも私は監視されているくらいですからね。はじめは、ある女が監視していましたが、この女にはファニー・カイザーの息がかかっていると、私はにらんでいるのです。そのつぎの監視役はフォーセット博士。いまのところ、私の正体はまだ嗅ぎつけられていないのですが、それも時間の問題なのですよ、警部さん。といって、自分のほうから早まって逃げ出すような真似はしたくありませんしね……とにかく、話をきいてください」
いったい、どんな話なのか、わたしは思わずまえに身を乗り出しました。
「さあ!」父がうなり声をあげました。
カーマイケルは、落ち着いた声で、いままでの|いきさつ《ヽヽヽヽ》を説明しました。それによると彼は、もうかなり長いあいだ、フォーセット上院議員とチルデン郡の悪徳政治屋の一味の動きに探りをいれていたのです。この連中のほとんどすべてが、所得税をめぐる不正行為で、連邦政府から目をつけられていたというわけ。
そこでカーマイケルは、|からめ《ヽヽヽ》手から、やつらの本拠にもぐりこんだのです。フォーセット上院議員の秘書に化けると――わたしの想像では、たぶん前任者は、カーマイケルの巧妙な工作によって、クビになったのでしょう――フォーセット一味の脱税をめぐる証拠書類を、スキを見ては、すこしずつ、集めました。
「すると、アイラも一味ですか?」と父がたずねました。
「豚にも劣る代物ですよ」
フォーセット上院議員がしたためたファニー・カイザー宛の手紙の文面に、『C』という頭文字で書いたのは、このカーマイケルを指していたのにちがいありません。彼は、屋敷の外に盗聴線をつけて、一味の電話を傍受していました。ところが、現在では、その盗聴装置が発見されてしまい、それで殺人事件が起こってからというもの、カーマイケルは息をひそめてチャンスを狙っていたというわけです。
「いったい、ファニー・カイザーって、どういう女なんですの、カーマイケルさん?」とわたしはたずねてみました。
「あの女は、このチルデン郡のあらゆる悪に関係しているのですよ。フォーセット一味とガッチリ手を組んでいるのです――やつらから悪事をかばってもらうかわりに、あの女のほうではたっぷり返礼するというわけで。なに、ヒューム地方検事が、やつらの悪事業をひとつ残らず摘発するのも、目前にせまっていますよ、これで、あの悪党一味も、いよいよ年貢のおさめどきですな」
またカーマイケルの話だと、フォーセット博士は、口も八丁手も八丁といった人物で、弟の上院議員をかげで操っている黒幕、あの潔白なエライヒュー・クレイを利用して、自分の不正利得をさかんに計っているタコみたいな男だそうです。そして、郡やリーズ市との大理石契約が、クレイさんをツンボ桟敷においたまま、いかに不正にクレイ商会ととりかわされているか、その情報をたくさん父に教えてくれたのです。おかげで父はたっぷりとノートをとることができました。
「しかしですね、あなたと、こんなところでわざわざお会いするのは」連邦刑事はテキパキした口調で言いました、「もっと重要な話があるからなのです。まだ私が残務整理という名目でフォーセット邸に秘書として住みこんでいるあいだに、あなたにお知らせしたほうがいいと思いまして……上院議員殺害事件について、じつはすごい情報をにぎっているのです!」
一瞬、父もわたしも思わず眼を見はりました。「じゃ、真犯人を知っていますの?」わたしは声をあげました。
「いや、そういうわけではありません。ただ、私だけが知っている事実があるのです。しかも、その事実はヒューム検事にさえ、打ちあけるわけにはいかないのです、なぜって、その事実の入手方法を説明するとなると、とうぜん、この私の正体まであかすことになりますからね。私の正体を地方検事にまだ知られたくなかったのです」
わたしは椅子の中で身を起こしました。この事実こそ、わたしが必死で求めつづけてきた決定的な|きめ手《ヽヽヽ》なのだろうか?
「この数か月間というもの、私はフォーセット上院議員から目を離したことがありません。あの殺人事件の当夜、上院議員がまるで追い出すようにして私を外出させたとき、こいつは臭いぞ、と私はにらんだのです。どう考えても怪しいので、私は屋敷から離れずに、どんなことが起こるか、ひとつ見届けてやろうと、肚をきめたのです。そこで、ポーチの石段をおりると、歩道からそれて、植えこみのかげに、身をひそめました。時刻は九時四十五分。それからの十五分というもの、犬一匹あらわれず――」
「ちょっと待って、カーマイケルさん」わたしはすごく興奮して声をあげました、「じゃ、あなたは九時四十五分から十時まで、玄関のドアを見張っていたんですのね?」
「いや、そんな時間じゃききません、私が屋敷の中にひきかえしたのは、十時半でしたからね。ま、その先をつづけさせてください」
バンザイ! 思わずわたしは、そう叫ぶところでした。
カーマイケルの話によると、ちょうど十時に、覆面《ふくめん》の男がひとり、歩道を足早にやってきたかと思うと、ポーチの石段をのぼり、玄関のベルを押したというのです。すると、上院議員が自分で玄関に出てくると、その男を家の中にいれました。カーマイケルは、玄関のドアの曇りガラスに、上院議員の影がうつったのを、その眼で見たのだそうです。その覆面の男をのぞいて、だれひとり邸内に入ったものはいませんでした。そして、さっきの覆面の男が、十時二十五分に、たったひとりで玄関から出てきました。カーマイケルは、男をやりすごしてから、さらに五分待ってみましたが、その間に疑惑はいよいよふかまって、十時半になるや邸内に入ってみると、フォーセットが机にうつぶせになって死んでいた、というのです。まずいことに、カーマイケルには、その覆面の男の特徴などを説明することができませんでした。なにせ、男は眼から下を布で隠し、外はまっ暗だったのですから。そう、その男がエーロン・ドウだったということも十分に考えられることです。
でもわたしは、苛立《いらだ》ちながら、その考えを頭から追い出しました。時刻、時刻が問題じゃないの! 時刻こそ、いちばん重要なんだわ。
「カーマイケルさん」わたしは緊張に声をこわばらせて言いました、「あなたが玄関を出たときから、また邸内にひきかえすまで、玄関のドアをずっと見張っていたことは、ぜったいに請《う》け合いますのね? それから、覆面の人物をのぞいて、ほかにだれひとり出入りしなかったことも?」
彼はムッとしたような顔をしました、「いいですか、お嬢さん、私に確信がなかったら、こんな話ははじめっからしませんよ」
「で、家から出て行った覆面の人物は、はじめに訪ねてきたのと、同一人物だったのね?」
「絶対に」
わたしはふかぶかと大きく息をすいこみました。ああ、あと一つ残っている問題さえ解決できれば、わたしの推理は完璧《かんぺき》なんだわ。「カーマイケルさん、あなたが書斎に入って、上院議員の死体を発見なさったとき、あなたは暖炉のまんまえに、靴をふみ入れました?」
「いや、そんなことはしませんな」
わたしたちは、おたがいの秘密を固く守ると誓いあって別れました。クレイ邸にひきかえす途中というもの、わたしの口はカラカラに乾ききっていました。推理の見事さ、推理の単純明快さに、かえってわたしは自分でこわくなったくらい……わたしは、運転席の計器板のあかりに浮き出ている父の横顔を、チラッとながめました。父は顎をうずめ、その眼には苦悩の色がありありと浮かんでいます。
「パパ」わたしはやさしく話しかけました、「あたしにはわかったわ」
「なに?」
「もう大丈夫、エーロン・ドウの無実がりっぱに証明できるのよ」
と、その瞬間、すごい勢いでハンドルをとられた父は、あわてて車の位置をたてなおすなり、口のなかでなにやらののしりました、それから、「また、おまえの|おはこ《ヽヽヽ》がはじまったな! するとおまえは、さっきのカーマイケルの話から、ドウの無実が立証できるというのかね?」
「そんなことじゃないの、だけど、カーマイケルさんの話のおかげで、いままで最後の一片が欠けていたわたしの推理が、見事に完成したのよ。それこそダイヤモンドみたいに、どこから見たって明確な推理だわ」
かなり長いあいだというもの、父は押し黙ったままハンドルをにぎっていました。やがて、父は口をひらきました、「で、物的な裏づけは?」
わたしは首を横にふりました。じつははじめから、物的裏づけのないことが、わたしの悩みの種子《たね》だったのです。「それが、なにひとつないのよ」と、わたしは悲しげに答えただけです、「パパが法廷に持ち出せるような物的証拠はね」
父は例のうなり声をあげて、「とにかく、おまえの推理というのを聞こうじゃないか、パット」
わたしは、自分のたてた推理を話してみました。十分間というもの、風がわたしたちの耳もとを音をたてかすめていくなかで、わたしは、自分の推理を熱心に説明したのです。父は、わたしの話がおわるまで、ひとことも口をはさみませんでした。やがて、父はうなずくと、
「なかなか面白いじゃないか。いや、見事なもんだ、まるで名探偵ドルリー・レーンの、あの切れ味のいい名推理を拝聴しているみたいな感じだ、だが、それにしても――」
わたしはがっかりしました。かわいそうに年老いた父が、決断しかねて、迷いぬいているのが、わたしには手にとるようにわかるのです。
「どうもね」父は溜息をつきながら言いました、「こいつは、わたしには重荷すぎるよ、パット。たしかにこのわたしには、おまえの推理の是非を判定する資格などないようだ。しかし、どうしてもわしの腑《ふ》におちない点が、ひとつだけあるんだがね、パット」そう言いながら父は、ハンドルを強く握りなおすと、「どうだね、おまえと二人でちょっと旅行しようじゃないか」
わたしはびっくりして、「まあパパったら!まさか、いまからじゃないでしょうね?」
父は白い歯をむき出してニヤリと笑いました、「明朝さ。どうやらあの老いた禿鷹《はげたか》のところへ行って、相談したほうがよさそうだ」
「パパ! おねがいだから、ちゃんとした言葉で言って。だれに相談しに行くの?」
「いわずと知れた、ドルリー・レーンさんさ。おまえの推理に、なにか間違いがあれば、レーンさんなら、はっきりと指摘してくださるよ。いずれにしろ、この町にいるとわしは疲れるばかりだ」
ま、こういった次第で、わたしたちは旅行に出ることになったのです。その翌朝、父は情報の入手先をあかさずに、フォーセット博士の悪どい策謀の事実を、あらいざらい、エライヒュー・クレイに伝え、それから自分たちがこの町にもどってくるまで、訴訟など起こさずに、ただじっとおとなしくしているように、と忠告しました。
そして、父とわたしはこの町を出発したのですが、さして前途が明るいようにも思えませんでした。
九 論理学のレッスン
わたしたちの眼の前には、みどりの芝生のカーペットを豪華に敷きつめ、青そのものといったすばらしい大空を天井にし、数千の小鳥たちのさえずり声を美しい壁にしているハムレット荘が姿をあらわしました。度を越した物質文明に毒されて育ってきたわたしは、大地の自然の美しさにセンチな溜息をもらすような素朴なお嬢さんとは、およそほど遠い人間、ところが、そのわたしでさえ、この楽園の芳香と新鮮な活力に心酔してしまったことを、白状しなければなりません。現代の汚染した空気と鉄筋コンクリートの建物のなかで、しゃあしゃあと生きているドライな娘とばかり思いこんでいた自分が、どうでしょう、まるで必死になって、ハムレット荘の空気をパクパク吸いこんでいるじゃありませんか。
父とわたしは、陽のあたる小高い丘の芝生のしとねに、インドのガンジーのように坐っているレーンさんを見つけました。顔をしかめているので、よく見ると、あの小鬼を思わせるせむしのクェイシー老人の手から、匙《さじ》に山盛りの薬をのませてもらっているところなのです。そういえば、なめし皮のような強靱《きょうじん》なクェイシー老人の顔も、気づかわしげにゆがんでいます。レーンさんは、ネバネバした薬をのみこむと、顔をしかめ、裸の上半身に木綿のローブをまといました。その上半身の肉づきは、七十歳という老齢のわりにはひきしまっているものの、いたいたしいくらいに痩せてしまっていて、身体の調子がよくないことは、見た目にも明らかでした。
やがて、レーンさんは眼をあげると、わたしたちのほうを見ました。
「やあ、警部さん!」老優は叫ぶなり、その顔にパッと明るい色がさしました、「それにペイシェンスさんまで! クェイシーや、こちらのほうが、おまえの薬なんぞより、わたしには効《き》き目があるぞ!」
老優はとび上がるようにして腰をあげると、わたしたちの手をあたたかく握りしめました。そして、興奮に眼をキラキラとかがやかせて、まるで小学生のような騒ぎかたをするじゃありませんか、その大歓迎ぶりに、かえってわたしたちはテレてしまったくらいです。老優は、クェイシー老人に、追い立てるようにして冷たい飲み物をとりにやらせると、わたしを、自分の足もとに坐らせました。
「ペイシェンスさん」老優は、わたしの顔を、まじまじと見おろしながら言うのです、「あなたは、まるで天国の息吹《いぶき》のようにかぐわしい。それにしても、どういう風の吹きまわしで、お父さんとここまで来てくださったのです? いや、なによりの慰めですよ」
「ご病気でも?」父は気づかわしげな眼で、|のぶとい《ヽヽヽヽ》声をあげました。
「ひどい目にあいましたよ。老齢というやつが、一度にドッとおしよせましてね。どうやら医者のカルテにあるあらゆる老人病にとりつかれたようですよ。ところで、こんどはあなたがたのほうのお話をうかがいたいものですね、このハムレット荘にわざわざ来てくださったのは? いったい、どうしたのです? 捜査の進展は?もう悪党のフォーセット博士を告訴するところまで運びましたかな?」
狐につままれた父とわたしは、たがいに顔を見合わせました、
「じゃ、新聞をお読みになりませんの、レーンさん?」わたしはあえぎながらききかえしました。
「なんですと?」老優の顔から微笑がかき消え、その眼が、わたしたちをするどく見つめます、「いや、いまのところ頭に刺激をあたえるものは、いっさい医師から禁止されているものですからね……あなたがたの顔には、なにか思いがけない事件が起こった、と書いてあるが」
そこで父は、ジョーエル・フォーセット上院議員殺害事件のいきさつを、レーンさんに説明しました。『殺害』という言葉を耳にした瞬間、老優のするどい眼がギラリとひかり、その頬がサッと紅潮しました。まったく無意識のうちに、レーンさんは身をくるんでいた木綿のローブをかなぐり捨てると、ふかぶかと息をつきました。そして、父からわたしのほうに顔をむけるなり、急所をするどくついてきたのです。
「なるほど」話をききおわると、老優は口をひらいて、「いや、じつに面白い、それにしても、どうしてまた、現場をはなれて来てしまったのです? ペイシェンスさんに似合わしくないことだ。すると、捜査に見切りでもつけたのですか? あなたなら、優秀な警察犬のように、最後の最後まで喰い下がっていると思ったのに」
「なに、この娘《こ》は目下喰い下がっているところですよ」と、父がうなり声をあげました、「しかし、正直なところ、捜査の壁にぶつかってしまいましてね。そこで、このパットが推理をしたというわけで――ま、レーンさんの|おはこ《ヽヽヽ》をとったみたいですがね! ひとつ、あなたにご教示ねがおうと、それでお伺いした次第なんで」
「お役に立つことなら、なんでもしますが」老優は悲しげな微笑を浮かべて言うのです、「どうも近頃は、それもおぼつかなくなりましてね」ちょうどこのとき、クェイシー老人がサンドイッチと飲み物をのせた食卓を、ヨチヨチした足どりで運びながらもどってきました。レーンさんは、わたしたちが夢中でそれをたいらげているあいだ、じっと見守っていましたが、さぞかし心のなかでは、いらいらしていたのにちがいありません。
それで、わたしたちが喰べおわるがはやいか、レーンさんは、こう切り出すじゃありませんか、「とにかく事件の発端から説明してくださいませんか、どんな小さなこともはしょらないでね」
「パット、おまえから話してさしあげなさい」父は溜息まじりに言いました、「いや、歴史は繰り返すと言うが、まったくですなあ! おぼえておいででしょ――あれはええと――そうだ、十一年もまえのことになりますか? ブルーノ検事と私が、ハーリー・ロングストリート事件のことで、はじめてこの山荘におうかがいしましたのは? 十年一昔といいますが、ずいぶんまえのことですな、レーンさん」
「警部さんときたら、光輝ある過去を、無理にでもわたしに思い出させようというのですね、ひどいおひとだ」老優は口のなかでつぶやくように言うと、「さ、ペイシェンスさん、話してください、あなたの唇から、わたしは眼をはなしませんからね。なにもかも全部話してくださいよ」
そこでわたしは、フォーセット上院議員殺害事件のいきさつを、丹念に説明したのです、外科医が解剖するような綿密さで、さまざまな出来事、さまざまな事実、さまざまな事件関係者の印象を、細大もらさずに。耳のきこえないレーンさんは、読唇術でわたしの説明を読みとりながら、象牙の仏像のように、身じろぎ一つせず腰をおろしているのでした。そして、何度か、わたしの話に、なにか重要な意味をみつけでもしたように、老優は非凡な眼をキラキラとかがやかせ、頭を軽くうなずかせたりするのです。
わたしは、事件の発端から日時を追って順序正しく説明していきながら、ついこのあいだの、あの連れ込みホテルでのカーマイケルの証言をもって、話をしめくくったのです。するとレーンさんは力弱くうなずいて、微笑を浮かべると、ポカポカとあたたかい芝生のうえに、あおむけになりました。
老優がじっと空を見つめているあいだ、父とわたしは黙って腰をおろしていたのですが、レーンさんの皺にきざまれた顔は、奇妙に無表情でした。わたしは眼をとじて、ホッと溜息をつきました、そして、老優の判断は、いったいどうなのかしら、と考えていたのです。わたしの分析に、なにか見落したものはなかったか? なんべんも練りなおして、わたしの頭のなかに刻みこまれている推理を、話してごらんとでも、レーンさんは言うのかしら?
わたしは眼をあけました。レーンさんは、ふたたび身を起こすと、「エーロン・ドウは」そのゆたかな声で、さりげなく言うのです、「無実ですよ」
「どう、パパ! あなたの娘をどうお思いになって?」わたしは思わず叫んでしまいました。
「わしだって、あの男が無実ではないなどとは言わなかったぞ。ただ気になるのは、どういう推理からその結論を引き出したか、なのだ」と、父は呟くように言います。それから父は、陽の光に二度も目をしばたたかせて、レーンさんのほうをじっと見つめたのです、「あなたは、またどうしてそうお思いになったのです?」
レーンさんも、呟くようなひくい声で、「すると、あなたがたも、おなじ結論を導き出されたというわけですな。サミュエル・ジョンソンの詩の定義を思い出しましたよ、詩の精髄は、驚嘆をつくり出す発明にある、というのです。ペイシェンスさん、さしずめあなたは、この上なく驚嘆すべき詩、というわけですね」
「それじゃ、まるで歯のうくような伊達《だて》男の台詞《せりふ》ですわ」わたしはキッとなって言いかえしました。
「なに、わたしがもう少し若ければね。ところで、エーロン・ドウが無実だというのは、どういう推理によるのか、話してみてくださいませんか」
わたしは、老優のそばの芝生の上にゆったりと坐りなおすと、自分の推理をわき目もふらずに説明しはじめました、
「フォーセット上院議員の右腕に、奇妙な二つの傷がついていたのです。そのひとつは手頸のすぐうえのナイフの傷、もうひとつは、そこから四インチほど上のもので、ブール博士の検屍によると、これはナイフによるものではないそうです。でも、この両方の傷は、死体発見の直前、ほとんど同時につけられたものだというのです。このことは犯行が、死体発見のほんの少しまえにあったという事実と、時間的に暗合するので、殺害寸前に、この二つの傷はつけられたものと信じていいのではないでしょうか」
「なかなか鮮かなものです、そうです、お嬢さんの推理は正しい。さ、どうぞ、そのさきを」老優はまた呟くように言います。
「その考えは、はじめから、わたしにつきまとっていました。つまり、二つの|異なった《ヽヽヽヽ》傷がどうしてつけられたのか、それも明らかに異なった原因による傷が? ということなのです。ね、不思議ではありませんか、レーンさん、わたしって、少々疑りぶかい女ですから、ここのところをまずたしかめてみたいと思ったのです」
老優はニヤリと笑って言いました、「いや、お嬢さんが一万マイル以内にいるときは、わたしは金輪際《こんりんざい》、人殺しはやりますまい、まったく鋭い! それで結論はどうなりました?」
「ナイフの傷のほうは、とても簡単ですわ。死体の位置は、机に向かいあっている椅子にかけていたのですから、犯行がどんな具合になされたか、再現してみることも易しいことです。犯人は、その机のまん前か、あるいは少し片方に寄っていたかもしれませんが、被害者にむきあっていたのにちがいありません。そして机の上にあった紙切りナイフを取り上げるなり、被害者に突きかかります。さて、そこで当然起こることはなんでしょう? 上院議員は本能的に右腕をあげて、その一撃をさけようとします。それでナイフは、被害者の手頸をかすめて、鋭利な傷を残したというわけ。この事実から推理できるのは、これ以外にありませんわ」
「まるで写真で見るようですな。いや、じつにすばらしい。で、その先は? もう一つの傷は?」
「じつは、ここが問題なんです。それは、ナイフなどの傷ではありません。つまり、手頸を傷つけたのとおなじナイフでないことだけはたしかですわ。というのは、けば立った、かぎざきのような傷なんですから。しかも、ナイフが手頸を傷つけたとき、それと同時に、この二番目の傷も上院議員の腕につけられたのです。もっとこまかく説明すると、被害者の右手頸にあるナイフの傷より、四インチ上につけられたということです」そこでわたしは息を深く吸いこんで、「したがって、|犯人が手にしているナイフ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》|より《ヽヽ》四インチはなれている、剃刀《かみそり》の刃ほど鋭くはないが、鋭利なもので、その傷はつけられたのです」
「お見事です」
「言葉をかえるなら、二番目の傷を解《と》きあかすために、いま、わたしたちは、犯人の腕についていた鋭利なものを探さなければならないわけです。では、手にしているナイフから四インチ上のところで、犯人の腕についているものと言えば、どんなものがあるでしょう?」
「で、あなたの推理は、ペイシェンスさん?」老優はつよくうなずいて、言いました。
「女のひとの腕輪です」わたしは威勢よく叫びました、「宝石か、金の細線細工をした腕輪ですわ、フォーセット上院議員のむき出しの腕をひっかいたのは。上院議員は、シャツだけで、上着をつけていなかったのですもの。また、その瞬間に、犯人のナイフが手頸をかすめたというわけです」
父はかすかにうめき、レーンさんは微笑しました、「またもや鋭い推理ですな。だが、それではあまりにも限定しすぎてしまいます。あなたの推理だと、フォーセット上院議員を殺害した犯人は女だ、ということになってしまいますね。しかし、そうとはかぎらない。男のふりあげた腕にだって、女性の腕輪の位置に相当するところに、なにかあっても……」
わたしは呆然として眼を見はりました。ああ、とうとうしくじったか? 逆上した想念が、わたしの頭のなかで煮えたぎりました。「そうか、男のひとのカフスボタン? きっとそうですわ。じつは、それも考えてみたのです。でも女性の腕輪のほうが、なにか直観的にピッタリするような気がしたものですから」
老優は首をふると、「いや、それは剣呑《けんのん》ですね、ペイシェンスさん。直観などにたよってはいけません。論理的な可能性だけを厳密に追究することです……それではと、わたしたちは、犯人が男か、それとも女か、という点にたどりついたわけですな」かすかにレーンさんは弱々しく微笑して、「ま、いまのは、不完全な理解というものを示す実例にすぎません。あらゆる不調和は、不完全な理解による調和だとポープも言っています。神のみぞ知る、というわけですな、しかし、つづけてください、お嬢さん、あなたの推理は、わたしにはとても面白いですよ」
「あのナイフを使って、被害者の腕に、二つの傷をつけた犯人が男であっても女であっても、ひとつの点だけは、たしかですわ。つまり、犯人はフォーセット上院議員の胸を刺すのに、左手を用いた、という点です」
「どうして、それがわかります?」
「とても簡単な推理ですわ。ナイフのかすり傷は、上院議員の手頸にあり、カフスボタンの傷は、その手頸から四インチ上についていました、つまり、カフスボタンの傷は、ナイフのかすり傷の左側《ヽヽ》についていたことになります。ここまでは問題ありませんわね? ところで、かりに犯人がナイフを右手で用いたならば、カフスボタンの傷は、ナイフのかすり傷の右についてしまうはずです。初歩的な実験で、そんなことは、すぐわかるはずですわ。言いかえれば、犯人が右手にナイフを持てば、カフスボタンの傷はきまって右側へつきますし、左手にナイフを持てば、その傷はかならず左側につくのです。ところで、実際にはどうでしょうか? カフスボタンの傷は、ナイフのかすり傷の左側についています、したがってあたしは、犯人がナイフで突くとき、左手を用いたものと、結論したのですわ。犯人が逆立ちでもしていないかぎりね、むろん、そんなことは夢にも考えられませんけど」
「警部さん」老優はしずかに言いました、「あなたは、このお嬢さんを、大いに自慢なさらなければなりませんね。いや、じつにすばらしい」それから、こんどはわたしにほほえみかけて、「女性が、これほど見事に、論理を駆使して物事を結晶させることができるなどと、信じられないほどだ。ペイシェンスさん、あなたはまさに宝石そのものです。さ、そのさきを」
「レーンさん、ここまでは認めてくださいますわね?」
「いや、あなたの完璧な論理のまえに、わたしはカブトを脱ぎましたよ。いままでのところ、あなたの推理にはみじんも狂いがありません。だが、注意してくださいよ、たったひとつ、きわめて重大な点をまだ明らかにしていませんね」とレーンさん。
わたしは言いかえしました、「とんでもない、その問題に目をつむってなどいませんわ。その点を明らかにしなかったのは、まだ話がそこまで行っていなかったからなんです……十二年ばかり昔、エーロン・ドウがアルゴンキン刑務所に入れられたときには右利きだった――この事実は、マグナス所長からお話をきいて、ほかのいろいろなことといっしょにわかったことなのです。レーンさんが重大な点とおっしゃるのは、そのことなんでしょ?」
「そのとおりです、あなたが、そのことを、どう解釈するか、ぜひ知りたいものですね」
「じゃ、申し上げます、エーロン・ドウは、アルゴンキン刑務所に入って二年後に、事故のため、右腕が麻痺してしまいました。それからというもの、もっぱら左手を使うことを習練し、以来十年間というものは、まったくの左ぎっちょだったのです」
「いよいよ、おいでなさったぞ」父は坐りなおすと、興奮して言いました、「レーンさん、どうしても私に自信がもてないのは、そこんところなんですよ」
「警部さんのお気持ちは、よくわかるつもりです。ま、ペイシェンスさん、話をつづけてください」
「あたしには、火を見るよりもあきらかですわ」わたしは、胸をはって言いました、「あたしの考えは、ただ常識と観察だけが裏づけてくれるだけで、べつになんの権威もありませんけど、右利性と左利性(こんな用語ってあるかしら?)というのは、人間の腕と同様に、足にもその影響があるということなんです」
「おい、おい、ちゃんとした言葉で言わないか」父がうなり声をあげて、「いったい、どこの国の言葉なんだね、それは?」
「パパったら! 腕の右利きの人は、生まれつき右足も利くということが言いたいのよ。そして左手が利く人は、同様に左足が利くんです。あたしは右利き、だから、たいがいのことをするのに右足のほうが便利なのよ。ほかの人たちだってそのとおりだわ。ところで、レーンさん、あたしの仮定は正しいでしょうか?」
「どうも、そういった問題には、あまり詳しくないのですがね。だが、専門家の意見は、お嬢さんの考えを支持してくれると思いますね、で、そのさきを」
「そこのところを認めていただけるなら、あたしのつぎの主張は、こうなんです、もし右手利きの人間が、なにかの原因で、その頼みの腕がつかえなくなり、ちょうどエーロン・ドウが刑務所で十五年間やってきたように、左手を使う破目になったとしたら、両足がピンピンしていても、足を使うときは知らず知らずのうちに左足をつかうようになるのではないでしょうか。父が首をかしげるのも、ここのところなのですが、でも、論理の筋は通っているのじゃないかしら?」
老優は、眉をひそめて、「ペイシェンスさん、生理学的事実に、どんな場合でも論理が適用できるとはかぎらないと思いますがね」わたしは、とたんにしょげてしまいました。だってわたしの推理のすべては、もしこの一点が無効となれば、根底から崩れてしまうんですもの。「しかし――」と、レーンさんが言葉をつづけてくれたので、一瞬、まっ暗になったわたしの眼のまえに、また希望の光がさしこんできました。「お嬢さんの推理にとって、大いに役立つ事実がほかにもまだ一つあるのですよ。それは、エーロン・ドウの右の眼も、右腕が麻痺したのと時を同じくして失明したという事実です」
「すると、どういうことに?」父が、腑に落ちない顔で言いました。
「事情は、ガラリと変わってますよ、警部さん。そう何年かまえに、この問題で、その道のある権威に相談したことがあるのです。あなたは、左利きか、右利きか、それが重要なきめ手になったブリンカー事件をおぼえておいででしょう?」父はうなずきました、「私が相談した、その道の権威の説明によると、右利きと左利きの理論で、医学界で一番ひろく認められているのは、視覚説だということです。その説明を正確に私が覚えているとすると、幼児期におけるあらゆる自発的な運動は、視覚に依存している、というのですよ。その権威は、またこうも言いました、人間の視力、手、足、話したり書いたりすることなどに密接なつながりのある神経衝動は、いずれも脳のおなじ部分――正しい術語は忘れましたが、とにかくその源から発しているのだそうです。
ところで、視覚は、両眼によるものです。だが、おのおのの眼は、それ自身で一つの単位を構成していて、ひとつひとつの眼の映像は、きっぱりと分離され、まったく別個に、意識に達するのです。わたしどもの眼のひとつは、銃で狙いを定めるときのように、『照準』として働きます。照準に用いられる眼は、その人間の、左利きか右利きかで決るわけです。もし、照準につかう眼が駄目になると、その能力は、片一方の眼のほうに移るというのです」
「レーンさんのおっしゃろうとしていることがわかりましたわ」わたしはゆっくりと言いました、「つまり、言いかえると、その視力説によれば、右利きの人は右眼に照準能力がある、その眼が失明すれば、左の眼をもっぱら使うより仕方がないけれど、照準能力の移行につれて、手のほうも左利きになる、人間にはそういう生理的機能があるというわけなのですね?」
「ま、だいたいのところはね。むろん、わたしに理解のいくかぎりでは、習性とか、その他のいろいろな要素がそれに加わるわけです。だがドウは、この十年来、ずっと左の眼だけを使ってきました。それに手のほうも左ばかりを同様に使ってきましたし、こういった場合、習性とか神経移行によって、足も左が利くようになったと考えてもいいでしょうね」
「まあ! あたし、まぐれ当たりだわ! まちがった事実から正しい答が出てしまったんですもの……すると、エーロン・ドウがこの十年というもの、手が左利きだったように、足も左利きになっているとしたら、証拠という点で、はっきりした矛盾があるわけですわね」
「ところで、お嬢さんのさきほどの推理では、犯人は左手をつかっていなければならない。すると、左利きになったドウとピッタリ一致するではありませんか。いったい、どこに矛盾があるというのです?」レーンさんは、わたしを励ますように言ってくれます。
わたしは、ブルブル震える指で、タバコに火をつけました、「問題を、べつの角度から検討してみますわ。あたしの説明をおぼえておいででしょうが、暖炉の灰のなかに靴跡が一つ残っていました。それは右の靴跡だったのです。ほかの事実と考えあわせて、その人物が、なにかを燃やし、それを踏み消したのだということがわかっています。右の靴跡の説明は、これでちゃんとつくわけです。ところが、踏み消すという行為は、まったく無意識のうちにやることですわね、そうですとも、違うなんて言うひとがいたら、あたし、そのひとの頭の上から水をかけてやる!」
「いや、まったくそのとおりです」
「だれだって、踏み消そうとするようなとき、いつも使うほうの足で、踏み消しますわね。そりゃあ、場合によっては、位置がわるくて、右が利き足なのに、左足で踏みつけることだってあります、ところが、あの暖炉の灰を踏みつけた人物の場合は、そうじゃないんです。なにかを燃やした暖炉の前の敷物のうえに、左靴のつま先の跡がついていたことは、もうお話しましたわね。それは、なんの不都合もなく、どっちの足も使えたということを、はっきりと示しています。こんな場合、利き足のほうで踏みつけるのがあたりまえではないでしょうか。ところが、事実はどうだったか? 右足で踏み消しているのです! ですから、その人物は右足が利き、したがって右手利きということになるんです!」
父は、ひくい声でなにやらブツブツ口のなかで言ってました。老優はホッと溜息をつくと、「それが、どういう具合に矛盾しているというのです?」
「それは、こうですわ、ナイフをふるった犯人は左手をつかい、燃えがらを踏みにじったものは、右利きということになります。言いかえるなら、二人の人物がいるように思われるのです。つまり、一人は殺害犯人である左利きの人物、もう一人は紙きれを燃やし、その燃えがらを踏み消した右利きの人物」
「それで、どこがいけないというのですかな?おっしゃるとおり、たしかに二人の人物がいたことになる。なにがまずいのです?」老優はものしずかな口調でたずねます。
思わずわたしは目をまるくしてしまいました、「まさか本気でそんなことを?」
レーンさんはクスクス忍び笑いをもらすと、「というと?」
「むろん、ご冗談ですとも! とにかくあたしの推理をおききになってください。いまの結論は、エーロン・ドウに、どうひびくでしょうか? ドウがこの事件にどんな関係があるにしろ、紙きれを燃やし、その燃えがらを踏みつけた人物でないことは確実です。なぜって、それが彼だったら、燃えがらを踏みつける足は、あたしたちが裏づけたとおり左のほうです、それなのに実際には右の靴で踏まれていたのですから。
ところで、いつ、その紙きれは燃やされたのでしょうか? 上院議員の机の上にあった便箋は、あたらしいものでした――二枚しかなくなっていなかったんですから。フォーセット上院議員の傷からとび散った血は、彼が向かっていた机の上もまっ赤に染め、吸取紙には、直角の形をのこして、大きな血の痕がありました。それというのも吸取紙の上に、便箋の角が載っていたからなのですが、あたしたちが見つけたときには、一番上の便箋はまっ白で――つまり血がついていなかったのです。おかしな話じゃありませんか? もし一番上の用紙が、上院議員が殺害されたときにも一番上になっていたのなら、かならず血に染まっていなければなりません。だって、その便箋の下の吸取紙には血がついていたんですもの。ですから、あたしたちが発見した、まっ白な用紙は、上院議員の胸から血がとび散ったときに、一番上にあったのではないのです。つまり、一番上にはもう一枚の用紙があったはずです。その血だらけの用紙は、便箋からはぎとられて、まっ白な用紙だけが残って、あたしたちの眼にとまった、ということになります」
「まさにそのとおり」
「ところで、失われた二枚の用紙のうち、一枚はすでにわかっています。それは、ファニー・カイザーにあてた封筒に入っていて、殺害されるまえに、フォーセット上院議員が自分で使ったものです。さて、なくなっているもう一枚の用紙は、便箋からはぎとられたもの、つまり、ほんとうは一番上にあったはずなのに、そこになかった血まみれの用紙なのです――暖炉のなかで燃やされた紙こそ、机にあった便箋からはぎとった用紙であることは、父が確認したとおりです。
「そして、この失われた用紙が血に染まっていたとするなら、上院議員が殺害されたあとで、便箋からはぎとったことになります、なぜなら、その用紙がそもそも血に染まるようなことになったのは、人殺しのおかげなんですから。したがって、その血まみれの用紙が暖炉のなかで燃やされたのも殺害のあとなら、その燃えがらを靴で踏みつけたのも、殺害のあとということになります。では、いったい、だれがそんな真似を? 犯人でしょうか? しかし、殺害犯人がそんなことをしたとするなら、あたしが証明したとおり、燃やしもしないし、踏みつけもしないドウは、殺害犯人でもないことになります!」
「そこまで、そこまで!」老優はおだやかに声をかけました、「そう急いではいけませんね。ペイシェンスさんは、殺害犯人と、燃えがらを踏みつけたものが、同一人物だと仮定しているけれど、証明できるのですか? それには、ちゃんと証明する方法があるのですよ」
「ほほう!」父は苦虫を噛みつぶしたような顔つきで、足もとに目をおとしながら、うなり声をあげました。
「証明ですって? ええ、できますとも。では、殺害犯人と燃えがらを踏みつけた人物が、おっしゃるとおり二人だと仮定してみましょう。検屍医のブール博士によると、殺しは午後十時二十分に起こっています。そのとき、カーマイケルはおもてで、十時十五分前から十時三十分まで見張りをしています、そして、その間に、ただひとりの人物が屋敷に出入りするのを目撃しただけなのです。おまけに、屋敷のなかは、警察がシラミつぶしに調べつくし、だれひとり隠れてはいませんでした。それに、カーマイケルが上院議員の死体を見つけてから、警察が駆けつけてくるまで、だれひとり家のなかから出て行ったものはいないのですし、彼が見張っていた玄関のドア以外のところから出るわけにもいかなかったのです、なぜって、ほかのドアや窓には、どれも中から鍵がかかっていたんですから……」父は、もう一度、うなり声をあげました、「ねえ、レーンさん、ほんとに素敵じゃありません! だって、この事実は、事件に二人の人物は関係していない、終始、ただひとりの人物が、死の部屋にいて、殺害をし、一枚の便箋を燃やし、その燃えがらを踏みつけたのだ、と告げているんですもの。ところがエーロン・ドウは、さきほどのあたしの証明どおり、踏みつけた人物ではありません、したがって殺害犯人でもないことになりますわ。|ゆえに《ヽヽヽ》、エーロン・ドウは、まったく潔白なのです!」
そこで、わたしは口をつぐみました。とにかく一息つきたかったし、ほめてもらいたかったし、それにさすがにくたびれましたから。
レーンさんは、すこし悲しげに見えました、「どうです、警部さん、わたしもすっかり世間に無用の人間になってしまったようですね。あなたは、純血のシャーロック・ホームズをお産みなさったわけだ。そしてわたしが、ささやかながら果して来た役目もとりあげておしまいになった。いや、お嬢さん、じつにすばらしい推理でしたね。|お話の範囲《ヽヽヽヽヽ》では、まったくそのとおりですよ」
「ほほう、まだつづきがおありなのですか?」父はふいに立ちあがりながら叫びました。
「もっとありますよ、はるかに重要なことがね」
思わずわたしは、その言葉に向かって、夢中で言いました、「では、しかるべき帰結をまだ求めていない、とおっしゃるのですね? むろん、ドウが無実なら、だれかがドウに濡れ衣を着せていると、わたしは言いたいのです」
「それで?」
「それで、ドウに濡れ衣を着せている人物は、右利きなのです。その人物は、ドウを殺害者だと見せかけ、ドウの左利きと符牒《ふちょう》をあわせようとたくらんで、左手でやってのけましたが、無意識のうちに右足を使ってしまったので、ほんとうは右利きなのですわ」
「ふうむ、しかし、わたしが言うのは、そんなことではないのですよ、あなたが、もっともっと驚くべき推理ができる要素を見落しているか、考えのうちに入れていないということなのです!」
父は両手を上に差し上げました。わたしのほうは、おだやかに言いました、「そうでしょうか?」
と、レーンさんは、わたしのほうにするどい眼をむけ、一瞬、その眼とわたしの眼とが、火花をちらしました。やがて老優は微笑すると、「すると、お嬢さんにもわかったのですね?」
老優は夢想にしずみ、わたしはわたしで草の葉を指でいじりながら、言おうかどうしようかと、思案にくれていました。
「よし、わしも難題を出そう」父がうなり声をあげました、「いま考えついたのだが、わかったら答えるんだよ、パット。敷物に足跡をつけた人物と、暖炉のところで燃えがらを踏みつけた人物とが、同じだということを、どうして決められるのかね? わしもそうだとは思っているが、それがちゃんと証明できないとなると、せっかくのおまえの素敵な推理が、オジャンになってしまうからね」
「話してあげなさい」レーンさんはおだやかに言いました。
わたしは溜息をつきました、「パパったら、すっかり混乱しているのね。わたしは、人間はひとりしか関係していないって言ったでしょう? カーマイケルさんに、わたしが暖炉のそばの敷物を踏まなかったかときいたとき、踏まなかった、と、あのひと、答えたわね? それに、あの靴跡が、フォーセット上院議員のつけたものでないことを、ヒューム検事から聞いたわね? それならば、例の殺人者、つまり便箋の燃えがらを踏みつけた人間のほかに、足跡をのこすものはいないじゃありませんか」
「わかった、わかった! では、わしたちはどうすればいいんだ?」
「警部さん、わかりきっているではありませんか」レーンさんは、眉をつりあげて言いました。
「なにがわかりきっているのです?」
「わたしたちの行動の道筋がですよ。とにかくあなたは、すぐにもドウと会うために、リーズ市にひきかえさなくては」
わたしは眉をしかめました。それは重荷でした。父も途方にくれた様子でした、「ドウに会えですって? いったいぜんたい、なんのためにです? あの哀れな男は、私をイライラさせるだけですよ」
「しかし、それが大切なことなのですよ、警部さん」レーンさんは革のハンモックから起きあがると、木綿のあたたかそうな上衣を肩に羽織るのでした。「公判のまえに、なんとしてもドウに会わなければなりませんよ……」老優はふいに考えこみましたが、突然、その眼に輝きがおびてきたではありませんか。「では、警部さん、考えなおして、わたしも一肌脱いでみましょうか。もっとも、わたしが嘴《くちばし》を入れる余地があればの話ですが。それとも、お友だちのヒューム氏が、リーズ市からのわたしの退場をもとめられるでしょうかな?」
「ま、素敵!」思わずわたしは叫んでしまいました。父も、心から嬉しそうでした。「そいつはありがたい。パットをないがしろにするわけではありませんが、あなたがこの事件を手がけてくださるなんて、願ってもないことです」
「けれど、なぜドウにお会いになりたいのですの?」と、わたしはたずねました。
「ペイシェンスさん、わたしたちは、これまである事実から、完璧な推理を構成したのですが」――レーンさんは、裸の腕を、父の肩越しにまわして、わたしの手を握りしめました、「こんどは推理をあおずけにして、実験をひとつやってみようではありませんか。そして、それでもまだ、わたしたちは暗い森からは出られないかもしれないが」老優は、眉をしかめながらそうつけ加えるのです。
「どういう意味ですの?」
「なにものが、フォーセット上院議員をほんとうに殺害したのか、まだわたしたちにはわからない。一週間まえと同様」と、老優ドルリー・レーンは、ものしずかな口調で言うのです。
十 監房での実験
ハムレット荘で、わたしたちは、この世の人間とは思えないキャリバンのようなクェイシー老人に会ったり、レーンさんの執事兼雑用係のフォルスタッフのような男の、さながら天使のような微笑に心をあたためられ、手ぎわよくもてなされたりしたのです。そして、これらの幻想にいっそうみがきをかけるかのように、老優からドロミオと呼ばれている赤毛の、白い歯をむき出してよく笑うインド人みたいな運転手の運転で、わたしたちは、ハムレット荘をあとにしたのでした。自分の仕事を天職とこころえているこのドロミオは、レーンさん愛用のピカピカ光っているリムジンを、敏腕な法律家の冴えと、舞踏家のような軽快さとで、運転をつづけるのでした。彼のあざやかなハンドルさばきのおかげで、北部への旅は、このままどこまでも行ってしまいたいほど美しく、そして愉しいものでした。
おまけに、ドルリー・レーンさんが父とかわしていた豊かな談笑は、ことさら楽しいものでした。ほとんどわたしは、二人のあいだにはさまって腰をおろしたまま、その昔話を、とりわけ、老優の劇壇での回想談に、うっとりと聞きほれていたのです。レーンさんといればいるほど、ますます親愛の情が増し、その魅力の秘密もわかってくるようでした。老優は、いつものあの、なごやかなウィットで、自分の存在をひとの心にかもし出してしまうのです。老優の口からひとたび出ると、どんなことでも議論の余地なしに、そのとおりに思えてしまうのでした。そのうえ、話題も豊富で、ほんとうに心を魅了されるものがありましたし、生涯の交友はみな知名の士ですし、彼の黄金時代における重要な人物は、ほとんどすべて知己ででもありました……ほんとうにすべてこれ魅惑そのものといった人です。
孔版職人のサイラスが、なにかで述べていましたが、よい旅の道づれの価値は、乗物とおなじだ、ということですのに、わたしたちは、その両方ともかなえられたわけです。なんてまた、そのドライブはあっけなく終ってしまったことか! たちまち、片側に輝く河の流れが見えはじめ、そこからあまり隔たっていないところに刑務所と、リーズ市の見える谷へ通じる道をくだっているところでした。そしてわたしは、この旅は、その終局には死があるかも知れない、ということに気がついて、思わず身ぶるいをしました。エーロン・ドウのすばしっこい小さな顔が、丘にたちこめる靄《もや》のなかに、チラチラ浮かんでしかたありませんでした。ながい間、ずっとエーロン・ドウのことなど沈黙の布につつみこまれて、その名さえ、口の端にものぼらずにいたのですから、こんな憂鬱にとらえられたのは、ハムレット荘を発ってからはじめてのことでした――ですから、わたしは、ほんのつかのまとはいえ、この役目がもともと暗いものであることを忘れ去ってしまっていたのです。そして、それが心に浮かんでくると、単に慈悲をかけてやるだけで、結局は、あの哀れな男を電気椅子の腕から救いだすこともできずに、無駄に車を走らせているのではないだろうか、という気もしてくるのです。
リーズ市へのハイウェイを車で飛ばしているあいだ、個人的な話はふっつりと絶えて、わたしたちはながいあいだ沈黙していました。だれもがおなじように、すべては水泡に帰するのではなかろうかという不安にかられていたのではないでしょうか。
やがて、父が口をきりました。
「なあ、パット、わしたちは町にあるホテルに泊ったほうがよさそうだね。クレイ家に、また世話にもなれまい」
「パパのいいようになさったら」わたしは、ものうげに言いました。
「とんでもない! そんなことは、まったく無用の遠慮ですよ。わたしが、あなたがたの仲間に加わったからには、わたしにも戦略上の発言権がありますからね。警部さん、あなたは、ペイシェンスさんと、いましばらく、エライヒュー・クレイさんの家にお世話になるほうがいいですね」
「しかし、いったい、なぜです?」父はさからって、たずねかえしました。
「なに、理由はいろいろありますよ。いずれも、それだけでは重要なものではありませんが、総合的な見地からすれば、作戦として、そうした行動が指令されるというわけです」
「クレイさんには、またフォーセットの調査をはじめるために戻って来た、と言えばいいわ」と、わたしは溜息をつきながら言いました。
「たしかに、あの悪党の件はケリがついていないが……それにしても、あなたはどうなさるおつもりです? まさか、レーンさん、その――」父は考えこんで言います。
老優は微笑して答えました、「いや、わたしは、クレイ家のお世話になるつもりはありません、いや、わたしには、ある考えがあります……ミュア神父はどこに住んでいるのですかな?」
「刑務所の塀のそとの小さい家に住んでいますわ、そうね、パパ?」
「な、なるほど、それもいい考えですな。たしか、神父をご存じだとおっしゃっていましたかな?」
「ええ、よく知っていますとも。親友ですよ。ひとつ、旧交をあたため、かつホテル代を節約するとしましょうか」レーンさんはふくみ笑いをして、「それでは、そこへいっしょに行ってから、ドロミオに、クレイ家まで、あなたがたを送らせることにしましょう」
父は、運転手に道を教えました。わたしたちは市の周辺をまわって、丘のうえの灰色のマンモスみたいな刑務所に向かって、ながい坂道をのぼって行きました。そして、クレイ家の門前を通りすぎ、蔦《つた》のからんだ小さい木造の家に着きましたが、そこは刑務所の正門から百ヤードとはなれていないところでした。石の塀には早咲きの薔薇《ばら》がポツンポツンと咲いていて、ポーチには、人待ち顔にゆったりとした揺り椅子がおかれていました。
ドロミオがクラクションを鳴らすと、レーンさんが近づくにつれ、玄関のドアがひらいて、ミュア神父が法衣をぎごちなく着てあらわれました。度の強い眼鏡の奥から、いったいだれが訪ねてきたのだろうかと見さだめるように、温順な顔をしかめながら。
訪問客がだれかとわかると、神父のおもてに、はげしい驚きと、ついで喜びの色が浮かんできました。
「ドルリー・レーンさん!」
レーンさんの手をしっかり握りしめながら、神父は叫びました。
「夢を見ているのではないかな! どうしてこんなところへ? さあさあ、お入りになってください」
レーンさんの返事は、わたしたちの耳にはききとれないほど低かったけど、神父はしばらくのあいだ、しきりと喋りつづけていました。やがて、自動車のなかにいるわたしたちに気がつくと、神父は法衣の裾をたくしあげながら、小径をせわしげにやって来ました。
「よくおいでくださった、いや、まったく――」
神父の皺だらけの顔には、よろこびの色があふれています。
「さ、どうかお入りになってください! レーンさんが、このリーズ市に用事があって来たと言われるものですから、私の家にお泊りになるように、すすめているところなのですよ――あなたがたも、いかがです、お茶ぐらいおつきあいねがえませんか、よろしいでしょう」
わたしが返事をしようとしたとき、老優が玄関のところで、首をするどく振っているのが見えましたので、父になにか言ういとまをあたえず、すばやく言いました。
「申し訳ありませんが、クレイさんのお宅に泊っておりまして、もうとっくに戻っているはずの時刻ですので、せっかくですけど、またこのつぎにさせていただけないでしょうか、神父さん」
そこで、ドロミオは、車から二つの重いスーツケースをおろすと、玄関へ運び、レーンさんに挨拶してから、わたしたちを乗せて丘をくだって行ったのです。最後にふりむいたとき、レーンさんの長身の姿が先に立って家のなかに入って行くところで、神父は名残り惜しげに、車のほうをふり返っていたところでした。
わずらわしさとてべつになく、わたしたちはまたクレイ家の客となったわけですが、実際には、わたしたちが車を乗りつけたときには、マーサという年寄りの家政婦が家にいるだけでした。彼女は、わたしたちが舞い戻ってくるのを当たり前として気にもとめないふうでしたし、わたしたちも当然な顔をして、これまでの寝室に入ってしまいました。そして一時間もして、ジェレミーと、父親のクレイさんが、昼食に石切り場から戻って来たときも、私たちはさりげなくポーチで待っていたものでした――正直なところ、見かけほどではなかったのですが。でも、エライヒュー・クレイの心からの挨拶には、なんのこだわりもうかがえませんでした。ジェレミーは、わたしを見るなり、目をまるくしてしまいました。愉しい思い出を残して去って、二度と会えないと思っていた人にめぐり会ったとでもいうかのように。やがて、われにかえると、まっさきにわたしを屋敷の裏手のちいさな茂みのところへつれて行き、顔じゅうに大理石の粉をまぶしたまま、キスしようとするじゃありませんか。彼の愛の手の中をくぐりぬけながら、彼の唇が左の耳の先にふれるのを感じたとき、なんといったらいいか、わが家へもどって、昔どおりになったような思いがしたのです。
そのおなじ日の午後、わたしたちがポーチでウトウトしていると、自動車のクラクションが鳴り、おどろいて目をあげると、レーンさん愛用の黒塗りの車体が、自動車道にすべりこんでくるところでした。ドロミオは、ハンドルを握りながら白い歯を見せて微笑し、レーンさんは、後部のシートから手をふっています。
ひととおりの紹介がすむと、レーンさんが口をひらきました。
「警部さん、わたしは、リーズの郡拘置所にいる、あのかわいそうな男のことが気になってしかたがないのですがね」
まるで、いまはじめて、エーロン・ドウの話をきいてきて、無駄話のタネにでもしているみたいな口調。
父のほうも、平然として、その調子にあわせるのです。
「じゃ、神父さんからおききになったのですか。なんとも痛ましい事件です。で、どうして、この町においでになるつもりになったのです?」
どうしてレーンさんが、事件に首をつっこんでいることを言いたがらないのか、わたしは不思議に思いました。ここにいる人を疑っているわけでもないし――と、わたしは胸のなかでつぶやきながら、クレイ家の人たちのほうを、わたしはチラッと見やりました。エライヒュー・クレイは、この高名な老紳士を、ただ眺めては、ホクホクしているようでしたし、ジェレミーは、すっかりかしこまっているようでした。わたしは、いまさらのように、レーンさんは有名人だと、あらためて思いおこしたくらいですが、老優のくつろいだ、さりげない物腰を見ると、とうの昔から大衆の讃嘆には免疫性になっていることがよくわかります。
「ええ、ミュア神父は、その男を助けてやれるのは、このわたしだと、考えているのです。どうかして、その男に会ってみたいものですね。警部さん、どうかお膳立《ぜんだ》てをしてくださいませんか。地方検事とはお知りあいなんでしょう」
「それなら、お会いになれるように、とりはからいますよ。パット、おまえも来ないか? では、クレイさん、失礼します」
わたしたちは、その場をできるだけ当たりさわりのないようにして、二分後には、レーンさんとならんで車のなかに腰をおろし、町へと向かいました。
「この町へおいでになった目的を、なぜクレイ家の連中に知られたくなかったのです?」と、父がたずねました。
「なに、格別の理由もないのですがね」レーンさんは、言葉を濁して、「もっとも、できるだけ、ひとには吹聴しないでいるほうがいいと思いましてね。よけいな騒ぎをまき起こしたくありませんからな。……で、あのひとがエライヒュー・クレイですね? いかにも実直な感じの人物です。少しでも後暗いことには近づかないが、ちゃんとした取り引きとなると、きわめて手きびしく利益をまきあげるといったタイプの実業家です」
「レーンさん、口先だけのお喋りはおやめになって。考えていらっしゃることは、べつのことなんでしょ?」
わたしは、きびしい語気で言いました。
すると、レーンさんは声をあげて笑いながら、
「いやお嬢さん、あなたは、わたしがそんなに老練だと思っているのですかな。べつに言葉の裏などありませんよ。この事件には、ほんの手をつけたばかりだし、目鼻がつくまでは、いろいろ手探りをしておかなくてはならないと思うだけです」
ちょうどジョン・ヒュームは、事務所にいました。
「では、あなたがドルリー・レーンさんですか。まことに光栄のいたりです。子供のときの私にとっては、あなたは一種の偶像でしたよ。で、なにかご用があって、おいでになったのですか?」
わたしたちが、双方を紹介しおわると、ヒューム地方検事が口をひらきました。
レーンさんはほほえんで答えました、「なに、年寄りの好奇心ですよ。お節介をするのが、まるで商売みたいになりましてね、ヒュームさん。芝居のほうは、すっかり棚ざらし同然なので、やたらと他人のことを嗅ぎまわったりしているのですよ……ところで、エーロン・ドウにぜひ会ってみたいのですが」
ヒュームは、父とわたしの顔をチラッと見やってから、「警部さんとお嬢さんは、援軍に召集をかけたわけですね。ええ、よろしいですとも。これまでも、いつも言っていることですが、私は検事であって、死刑執行人ではありませんからね。目下のところ、ドウを真犯人だと信じてはいますが、無実の証しをたててくだされば、よろこんで告訴を撤回させるのに、手をおかしいたしますよ」
「いや、ご立派です」レーンさんはそっけない口調で言います、「で、ドウには、いつ会わせてくださるのです?」
「いますぐにでも結構ですよ。ここへ連れてこさせましょう」
「なに、そこまでお手をわずらわせるにはおよびません。会ってよろしいとあれば、わたしのほうから拘置所に出むいて、ドウに面会したいと思いますが」と、老優は口早に、検事をさえぎりました。
「ではお好きなように」
地方検事は肩をすくめ、指令書をしたためました。そこで、わたしたちは書類を受けとり、事務所を出てから、目と鼻の先にある拘置所におもむいたのです。そして、守衛の案内にしたがって、鉄格子の小さな部屋が両側にならんでいる暗い廊下を通って、エーロン・ドウの独房へと歩いて行きました。
以前、ウィーンで、わたしはある有名な若い外科医に、新しい病院の見学に招かれたことがありましたけど、わたしたちが、使ってもいない手術室を出て来ると、すぐそばのベンチに腰をおろしていた、うちひしがれたような男がヨロヨロと立ち上がって、その外科医を見つめたのを思い出します。その男は、わたしの連れが、彼につながりのある患者を手術した部屋から出て来たところと思ったのにちがいないのです。わたしは、その哀れな男の顔を、いまでもはっきり思い出す。もともと平凡な顔つきなのに、そのときは、強《し》いて持とうとしている希望と恐怖とで、すっかり乱れ、複雑な表情にゆがみきっていたのです。
独房の鍵穴に、鍵がさしこまれる音をきき、わたしたちが立っているのを見上げたときのエーロン・ドウの顔は、ちょうど、ウィーンの病院で出会ったあの男のようでした。二、三日まえ、ヒューム検事が言っていたような、ドウがフォーセット博士に示した『横柄さ』は、どこへやってしまったのだろうと、不思議に思ったくらい。無実を確信して、言い証しの立てられる被疑者の顔ではありません。苦悩と恐怖におののく|おもて《ヽヽヽ》に、かすかな望みの色が浮かびはしたものの、それは狩り立てられた野獣に最後にかすめる望みのように、はかないものでした。ドウのするどい小づくりの顔は、木炭画のようにすすけて、まるで汚れた手をこすりつけたみたいでした。眼はふちが充血して、南瓜《かぼちゃ》の提灯《ちょうちん》のようで、落ち着きなく火のように燃えています。髪はといえば伸びほうだい、着ているものは垢《あか》じみていて、こんな哀れなものをこれまで見たこともないくらい。この男のなりふりに、わたしは胸がふさがり、思わずドルリー・レーンさんのほうをうかがいましたが、その顔も沈痛そのものでした。
看守は、いかにも面倒くさげに独房の扉をあけると、わたしたちに入るよう合図して、うしろからまた鍵をかけてしまいました。
「よく、まあ」
エーロン・ドウは、みすぼらしいベッドのはしっこに固くなって腰をおろしながら、口をひらきました。
父は強いて、明るい声をかけました。
「やあ、ドウ、おまえに会ってみたいとおっしゃる方をお連れしたんだ。ドルリー・レーン氏だ。お話したいそうだ」
「へえ」
ドウはそれだけポツリと答えると、あおずけをさせられた犬みたいに、レーンさんを見つめていました。
「どうかね、ドウ」
老優は、丁寧《ていねい》な口調で言うと、廊下のほうをチラッと見やりましたが、看守は腕組みをしたまま、向かい側の白い壁にもたれ、眼をとじています。
「ちょっと、ききたいことがあるのだが、答えてくれまいか?」
「へえ、いいですとも。レーンさん、なんなりと」
ドウは、かすれた声で、必死になって言いました。
わたしは、なんとなく気分が悪くなったので、ザラザラした石の壁にもたれました。父はポケットに手をつっこんだまま、口のなかでなにやらブツブツ言っています。レーンさんは、さりげなくさして意味のないことを問いかけていました。その質問は、とっくにわたしたちが知りつくしていることか、さもなくばドウに答えられないようなことばかりです。いったい、なんのために、質問をしているのかしら? レーンさんはどんなことを考えているんだろう? 胸苦しいばかりの、この面会が、なんの役に立つというのか?
ドウとレーンさんは、ひくい声で、言葉をかわし続け、しだいにうちとけていったようですが――なにかにたどりつく様子はいっこうにありませんでした。父はまったく途方にくれ、壁から離れて歩きまわったり、せかせかと行ったり来たりを繰りかえすばかり。
と、そのとき、突然、ドウがなにやらクドクドと喋っている最中、老優が一本の鉛筆をポケットから引きぬきざま、パッと相手に投げつけたではありませんか。まるで、ドウをベッドに串刺しにしてやらんばかりの勢いでした。
思わずわたしは、アッと叫び声をあげ、父も大声を出して、この老人、発狂でもしたか、といわんばかりに、レーンさんの顔を見つめたのを、わたしはおぼえています。だが、わたしには、レーンさんが、ドウのことを、はっきりした意図で、じっと見つめているので、その振舞いが読めたのです……ドウは、口をあけたまま、飛んでくるものを防ごうとして、サッと左手をあげたのです。そして、萎《な》えた右腕は、なんらなすこともなく、袖からダラリとたれさがっているではありませんか。
「こいつはなんの真似です? なんてことを」
ドウは、ベッドの上にかがみこみながら、甲高い声で叫びました。
「どうか気にしないでおくれ。わたしは、ときたま、こんなことをしてしまうのだ。しかし、ひとを傷つけるようなことはしないよ。ところで、おまえの手を借りたいのだがね」
レーンさんは、こう低い声で言うのです。
「あっしの手を借りたい?」
ドウは、ふるえる声でききかえしました。
「そうだよ」
老優は、そう言いながら、立ち上がると、床にころがっている鉛筆を拾い、消しゴムのついた鉛筆の頭を先にして、ドウに渡すのでした。
「これで、わたしを突いてきてみないか」
「突く」という言葉に、ドウのショボショボした眼が、一瞬、キラリとひかりました。ドウは、左手で鉛筆をにぎると、ぎごちなさそうに、突きをひとつくれました。
「ほう!」
レーンさんは、うしろへ身を避けながら、いかにも満足そうに、大きな声をあげます。
「いや、見事な突きだ。ところで警部さん、なにか紙きれをお持ちではありませんか」
ドウはうろたえながら、鉛筆を返しました。父は不服そうな声を出して、
「紙きれですと? いったい、なんになさるんです?」
レーンさんは、ふくみ笑いをしながら、
「それも、わたしの乱心のひとつと思ってください。警部さん、さ、早く」
父はうなり声をあげると、手帳を渡しました。老優は、白紙のページを一枚ちぎりとると、
「な、ドウ、これで、わたしたちが、おまえに害を加えないということが得心いっただろうね?」
ポケットに手を入れ、なにかを探りながらレーンさんは言います。
「へえ、わかりましたとも。なんでも、お言葉のとおりにやりますよ」
「それはありがたいね」
レーンさんはマッチ箱をとり出すと、一本に火をつけ、悠然とした態度で、手帳からちぎった白紙に火をうつします。メラメラと燃えあがった紙を、放心した様子で床にとりおとすと、老優はうしろにすこしさがりました。
「な、なにをなさるんで? 拘置所を焼きはらっちゃうつもりなんですかい?」
ドウはそう叫ぶなり、ベッドからとび降りると、左足で、気ちがいのように、燃えている紙を踏みにじり、コナゴナの燃えかすになるまで、やめようとしません。
レーンさんは、かすかにほほえみながら、つぶやきました、
「さて、これで彼の腹心である陪審員だって、納得させることができるでしょうよ、ペイシェンスさん。警部さんも得心がいったことでしょうな?」
父は眉をひそめました。
「この眼で見なかったら、とても信じられないところでしたね、いや、まったく長生きはしてみるものですよ」
わたしは思わずホッとすると、自然と笑いがこみあげてきました。
「まあ、パパったら、ほんとに宗旨を変えそうね! あなたはほんとに運がいいわ、エーロン・ドウさん」
「どうも、あっしにゃ、なにがなんだか――」
ドウはうろたえて、言いかけました。
レーンさんは、みすぼらしいドウの肩を、やさしくたたきながら慰めます、
「いいかね、力を落すんじゃないよ、ドウ。わたしたちは、かならずおまえを助け出してあげるからね」父は看守を呼ぶと、看守は廊下を横切って来て、鉄の扉をあけ、わたしたちを独房から出してくれました。鉄格子にしがみついたドウが、わたしたちの後姿を、いつまでも喰い入るように見送っていました。
だが、冷えびえとする廊下に、足を踏み出したとき、なにかよからぬ予感が、わたしの心をかすめたのです。というのは、看守が、わたしたちの出たあとの扉の鍵をかけながら、その卑しい顔に、奇妙な表情を浮かべていたからです。気のせいよ、と、わたしは自分に呟いて納得させはしたものの、なんとなく胸騒ぎがしてなりません。廊下の向こうで、あの看守は、こっちをむいて眼を閉じてはいたものの、ほんとうに眠っていたのでしょうか。でも、たとえ眼をあけて見ていたにしろ、あの看守に、なにができるというのでしょう? わたしは、レーンさんの顔をのぞいてみましたが、老優はなにかほかのことに気をとられているらしく、大股でスタスタ歩いているので、きっと看守の表情には気づかなかったんだわ、と思いました。
わたしたちは、また地方検事の事務所にひっかえしましたが、ここでも、控室で三十分ばかり待たされてしまいました。レーンさんは、そのあいだというもの、眼をとじて、眠っているような様子で腰をおろしています。ヒューム検事の秘書が、入るようにと言いに来たとき、ほんとうに父が老優の肩に手をかけて、起こさなくてはならないような始末。レーンさんは、なにやら言い訳みたいなことをブツブツ呟きながら、すぐに腰をあげたものの、きっとその間、わたしなどの思いもおよばぬことを、沈思黙考していたのにちがいありません。
ヒュームは、事務所の椅子に、わたしたちが腰をおろすと、さぐるような口調で言いました、
「で、レーンさん、ドウにお会いなさったご感想は?」
「通りをぬけて、あの素晴しい拘置所へたどりつくまでは、エーロン・ドウは無実だと|信じて《ヽヽヽ》いただけですが、いまは、あの男が無実であることを|知る《ヽヽ》にいたりましたよ」
老優がおだやかにこう言うと、ヒュームは眉をつりあげました。
「いやはや、あなたがたには驚きますな。はじめはお嬢さん、それから警部、そしてこんどはレーンさん、あなたまで。こいつは、あなどりがたい対立ですね。では、どうしてドウが無実なのか、拝聴させていただきましょうか?」
レーンさんは、わたしに声をかけて、
「するとペイシェンスさんは、ヒューム検事に、例の論理学講義をすませていなかったのですね」
「だってヒュームさんは、耳をかしてくれないんですもの」
わたしはわざと、さも不平そうに言いました。
「ヒュームさん、あなたが偏見のない、公平無私な気持ちでおられるなら、どうかその気持ちを、ほんのしばらく変えないでいただきたい。とにかく、事件のことで知っていることは、ひとまず、なにからなにまで忘れてください。そうすれば、なぜわたしたち三人が、そろってエーロン・ドウを無実と考えるか、このお嬢さんが明らかにしてくれるはずです」
そこで、三日間のうちに三度というわけですが、ヒュームのために、これまでとおなじように、わたしは、自分の推理を説明したのです。しかし、話すまえから、わたしは心のなかで、こんな強情で野心家のヒュームが、単なる推理を信じてくれるはずがないと思っていました。ところが、事件のいろいろな事実にもとづいて行なった自分の推理を、ひとつのこらず(カーマイケルの証言も、それと言わずに加えて)説明して行くあいだ、ヒュームは、とても真面目な態度で、耳をかたむけているではありませんか。しかも、話の途中で、何度かうなずいたり、うぬぼれかもしれないけれど、眼をかがやかせたりしたのです。だが、わたしの説明がおわると、ヒュームは首をふって言いました、
「女性にしては、すばらしい推理です――いや、男だってかなわないくらいだ。しかし、私にはどうも信じられませんね。まず、陪審員は、だれひとり、そんな推理を信じないでしょうし、そのうえ、大きな欠陥があります――」
「欠陥?」レーンさんがけげんな色を顔にうかべました、「シェイクスピアは、ソネットで、バラに蕀《とげ》あり、しろがねの泉の底に泥あり、すべての人間に欠点あり、と歌っていますが、弁明が可能かどうかはあとまわしにして、その欠陥をはっきり指摘してくださいませんか?」
「では、いいですか、右足利きと左足利きに関するとほうもない理論ですが、右の眼と右腕を失えば、足もやがては左利きになるなどと、単純に言いきれるものかどうか。あまりにも馬鹿げているじゃありませんか。医学的にみても疑問ですよ。しかも、この点が無理とあれば、ペイシェンスさんの推理は、根底から崩れてしまうのですからね、レーンさん」
「それをみたことか」
父は両手をあげて、大声を出しました。
「その点が無理とあればですと? その点こそ、私が絶対間違いないと信じている数少ない点のひとつなのですよ」
ヒュームはほくそ笑んで、
「まさか真面目におっしゃっているのではないでしょうな。かりに一般的に言えるとしてもです」
それに対して、レーンさんはひくい声で、
「あなたは、わたしたちが、ドウと会ってきたばかりだということを、お忘れのようですな」
「そうですか! じゃ、あなたがたは――」と地方検事は、噛みつくように言いました。
「ヒュームさん、わたしたちの提出したのは一般論だが、エーロン・ドウのような、特別な経歴の持ち主は、右足利きから、左足利きに移行するのだとも言いました。たしかに、あなたの言われたように、原理だけを述べ立てても、ひとつひとつの場合を説明したことにはならないでしょう」レーンさんは微笑すると、さらにつづけて、「で、わたしたちは、その特殊の場合を立証したのです。わたしが、このリーズ市へ来た第一の目的も、じつはそのことなのです。つまり、エーロン・ドウは、無意識に動作をするときは、左足を使うのだということを証拠立てたかったのですよ」
「すると、あの男はそうしたのですね」
「そのとおりでした。わたしはドウに鉛筆を投げつけてみたのです。すると、あの男は、鉛筆をよけようとして、顔を左手でかばうではありませんか。それから、こんどは、わたしを、その鉛筆で突いてくるように言いますと、あの男は左手で突いてきたのです――つまり、ドウが、現在、たしかに左利きになっていること、右腕がほんとうに駄目になっていることを、この眼でたしかめてみるためだったのです。また、わたしが紙きれに火をつけて床に落すと、あの男はあわてて踏みにじったのですが、それも左足でした。そのことを、ひとつの証拠として、あなたに示したいのですよ」
ヒューム検事は、口をとじたままでした。彼が、心のなかで、この問題と争っているのが、わたしには、手にとるようによくわかりましたし、かなり苦しんでいるのも、彼の|みけん《ヽヽヽ》に深い皺がきざまれていることで察しられました。
「とにかく時をかせがせていただかないことには、私にはなんとも――私にはどうしても信じることができません……」検事は、イライラして机をたたいて、「私にとって、そんなことはなんの証拠にもならない! あまりにうまくできすぎていますよ。あまりに偶然すぎる。無実の証拠は――そう、具体的でなくては」
老優の眼が、ひややかな光をはなちました。
「ヒュームさん、現代の法律では、有罪が立証されるまで、被告は無罪として扱われるのではないのですかな?」
とうとうわたしも、我慢できず、怒りを爆発させてしまいました。「ヒュームさん、あなたって、もっとしっかりした方かと思ってましたわ!」
「パット!」父は、わたしを、おだやかにたしなめました。
ヒュームは顔を紅潮させています。「では、もう少し、私のほうも調査してみましょう。今日はこれで失礼させてください――仕事がいやというほどたまっていますので」
鼻白んだ空気で、地方検事と別れると、わたしたちは黙々と通りへおりて行きました。
わたしたちの乗りこんだ車を、ドロミオがスタートさせると、父が怒った口調で、
「昔はよく強情なやつにぶつかったものだが、あの青二才のようなのは生まれてはじめてだ!」
レーンさんは、ドロミオの赤らんだ頸筋に目をそそぎながら、しきりになにか考えこみながら坐っていました。
「ペイシェンスさん、どうやら失敗したらしいですよ。せっかくの努力も無駄骨折になったかもしれない」レーンさんは悲しげな口調で言います。
「どういう意味なんですの、それは?」わたしは不安に駆られてたずねかえしました。
「ヒュームの若気の野心が、正義感を圧し殺してしまうのではないかと懸念されるのです。それに、話をしているうちに、たいへんなあやまちをおかしていることに気がついたのですよ。ヒュームがもしがむしゃらに詰めて来たら、やすやすと王将をとられるところでした」
わたしはびっくりして叫びました。
「まあ、あやまちですって? レーンさん、どうか真面目におっしゃってください。いったい、どんなあやまちをあたしたちはしまして?」
「いや、わたし|たち《ヽヽ》ではなく、|わたし《ヽヽヽ》が、ですよ」老優は口をつぐんでから、ややあって言いました、「ドウの弁護士は? あの哀れな男を弁護する人はいないのですか?」
父がつぶやくような口調で答えました、
「この地方の弁護士で、マーク・カリアーという男です。そのことは、クレイが今日話してくれましたが、どうしてこの事件を引き受ける気になったのかわかりません。ドウが有罪で、しかもどこかに五万ドルでも隠していると思いこんでいるのなら、話はべつですがね」
「ほほう? で、その弁護士の事務所はどこにあるのです?」
「裁判所に隣りあっているスニハリー・ビルの中です」
レーンさんは、運転席のガラスをたたきました。
「ドロミオ、車をまわして、町へひっかえしておくれ、裁判所の隣のビルだ」
弁護士のマーク・カリアーは、でっぷりと肥っていて、額の禿げあがった、いかにも抜け目のなさそうな中年の男でした。わたしたちが事務所に入って行っても、とくに忙しそうなふりもせず、机に足をのせ、名探偵タットを縮尺したように、回転椅子にかけたまま、壁のウィリアム・ブラックストン卿のすすけた画像を、葉巻をくわえながらながめているところでした。
彼は、わたしたちが自己紹介をすませると、ねぼけたような声で言いました。
「はあ、私もお目にかかりたいと思っていた方々でした。少々肥りすぎているので、坐ったままで失礼させてください――法律の権威を坐らせると、こんな格好になりますかな。……ところでお嬢さん、ヒューム君からきいたのですが、ドウ事件に、大変な熱の入れ方だそうですな」
「彼は、いつそんなことを言いました?」
レーンさんがするどくききかえしました。
「なに、電話で、ほんの一分ほどまえですよ、なかなか親切でしょうが」
カリアーは、ちいさなすばしっこい眼で、わたしたちをジロジロとながめます。
「ところで、お仲間に入れてくれませんかね?いまいましいが、この事件をきりぬけるためなら、猫の手でも借りたいところでしてね」
すると、父が言いました、
「おっと、カリアーさん、われわれは、あんたのことをのぞいてみたこともないんですよ。いったい、どうしてこの事件を引き受ける気になったのか、そこのところを教えてくれませんか」
弁護士は、デブの梟《ふくろう》よろしく微笑しました、
「妙なおたずねですな、警部さん、どうしてそんなことを?」
二人は、しずかに眺めあっていましたが、しまいに父は、肩をすぼめると、口をひらきました。
「いや、べつに。だが、ひとつだけ教えていただきたい。つまり、単に経験をふやすためだけか、それともドウの無実を、ほんとうに信じているためなのか」
カリアーは、ものぐさそうな口調で、
「有罪ですよ、まったくのところ」
思わずわたしたちは、顔を見あわせました。
「パット、話してごらん」
父が、いやに陰鬱《いんうつ》な口調で言うものですから、わたしは、もうこれで百ぺん目のようなうんざりした気持ちになりましたけれど、もう一度、事件の推理をくりかえしたのです。弁護士は、わたしの話などに興味などないというふうに、またたきひとつせず、合槌《あいづち》を打つでもなく、微笑ももらさず、聞いていました。やがて話がおわると、ジョン・ヒュームがしたとおなじに、首をふるのでした。
「いかにもご立派。だがね、お嬢さん、その薬は効きませんな。そんな作り話じゃ、この辺の田舎陪審員でも納得させるわけにはいかんでしょうよ」
「それをやるのが、弁護士の役目じゃないですか!」
父が噛みつくように言いました。
「カリアーさん。陪審員のことは、ひとまずおくとして、あなた自身のお考えは?」
老優が落ち着いて言いました。
「どんなちがいがあるというんです?」
弁護士はタバコの煙を、軍艦の煙幕のように吐き出すとつづけました。
「むろん、最善はつくしますよ。しかし、あなたがたが、ドウの独房で、つまらない手品をやったものだから、あの男の命も、そのために奪われるのかもしれないんですからね、わかりませんか?」
「まあ、カリアーさん、ひどいわ、いったいそれは、どういう意味?」
わたしはそう言いながら、レーンさんのほうを見ると、老優は椅子に身をしずめて、その眼には苦悩の色をありありと浮かべているではありませんか。
「あなた方は、地方検事の思う壺《つぼ》にはまってしまったんですよ。証人に立ち会いを求めることもしないで、被告を実験にかけるなんて、利口なやり方じゃないですからな」
「でも、あたしたちが証人ですわ!」
思わずわたしは叫んでしまいましたけど、父は首をふり、カリアーは微笑しました。
「あなた方のすべてが先入観をもっていると、ヒュームに証明させてしまいますな。ドウは無実だ、と町じゅうふれまわっているんだから」
「話をしぼりたまえ」
父が怒りの語気をつよめて言いました。レーンさんは、さらに強く椅子に身を沈めてしまいました。
「いいですとも。あなたの振舞いが、どんな結果を招くか、おわかりかな? ヒュームは、あなた方が法廷で一芝居打つために、ドウにリハーサルをしたと言うことでしょうよ」
あの拘置所の看守だわ! そして、わたしの不吉な予感が事実となったことをさとったのです。レーンさんからも、わたしは目をそらさないわけにはいきませんでした。いまや落胆のあまり、老優はおし黙ったまま、ただ椅子に身を沈めるばかり。やがて、レーンさんが口をひらきました、
「懸念したとおりですよ。じつはヒュームの事務所で、わたしは気づいたのです。目論《もくろ》みちがいだった。弁解の余地はまったくありません」
あの素晴しい眼も、いまや曇ってみえます。が、やがてレーンさんはきっぱり言いました、
「よろしい、カリアーさん。この敗北は、わたしが愚かだったためなのですから、わたしにできるやり方――つまり現金で補償することにしましょう。あなたの弁護料は?」
カリアーは、眼をしばたたいていましたが、ゆっくりと言いました。
「私は、まったくの同情から、あの哀れな男の事件を引き受けただけでして……」
「いや、まったく。だが、とにかく料金を言ってくださいませんか、カリアーさん。おそらく、その英雄的な同情は、その金によって、さらに強まるのではないでしょうか」
老優は、小切手帳をかくしから取り出すと、万年筆をかまえました。その間、父のはげしい息づかいがきこえるばかりでしたが、やがてカリアーは、ゆっくり両手の指先をあわせながら、途方もない金額を言ったではありませんか。さすがの父も、思わず口をあけたまま。
しかし、レーンさんは黙って小切手を切ると、弁護士のまえに置きました。
「必要経費は惜しまないでください。勘定は払いますからね」
カリアーはほほえむと、机のうえの小切手を横目にしながら、肥えた鼻をピクピクとうごめかせました。
「こんなに依頼料がいただければ、デュセルドルフの凶悪犯でも弁護できますよ」
小切手は、彼とおなじくらい膨《ふく》れあがった財布にしまいこまれました。
「手はじめに、その道の腕ききをかき集めねばなりませんな」
「そう! わたしも考えていましたが……」
会話はなお続き、わたしは、それを虫の羽音のように、うつつともなく聞いていました。ただはっきりと聞こえたものは、ひとつだけ、それは弔鐘《ちょうしょう》です。奇蹟の手がとめぬかぎり、エーロン・ドウの非運を覆って鳴りやまない弔《とむら》いの鐘の音でした。
十一 裁判
それからの数週間というもの、わたしは前よりもいっそう深い絶望の泥沼にはまりこんでしまったのです。わたしは藁《わら》をもつかむような気持ちで、わずかな裂け目に一縷《いちる》ののぞみをかけてはみたものの、それはまことにおぼつかない頼りない感じでした。エーロン・ドウはもうおしまいだ――この言葉はわたしの頭からはなれず、いつもついてまわっている始末。わたしは、いっそ死んでしまいたいくらいだと思いながら、クレイ家のあちこちを幽霊のようにふらふらとさまよい歩きました。ジェレミーは、きっとわたしのことを、気の重い女の子だ、と思ったにちがいありません。わたしはもう、周囲の動きに、たいして興味をもたなかった。父は、いつもレーンさんとともに行動し、そしてマーク・カリアーとの談合を重ねていました。
とうとう、エーロン・ドウの裁判の日がきまりました。さだめし、老優ドルリー・レーンは、荘重な闘いにのぞむために、ぬかりない用意をしているにちがいない、とわたしは思いました。たまに老優を見かけましたが、彼は口許をきっとひきしめて、厳しい表情をしていました。レーンさんは、その尽きることのない機略を、弁護士のカリアーにさずけて、指揮しているようでした。また彼は、弁護人側の法廷実験の指導をたすける医師たちと協議するために、リーズ市のなかを走りまわっていて、地方検事の事務所をおおっている沈然の幕《とばり》を破ろうとこころみては、果たせずにいたのです。そしてついに、老優の主治医マルチニ博士に、公判のために北部へ来るように、と、ニューヨークへ打電したのです。
ま、こんなぐあいに、レーンさんや父にはなすべき仕事があったのですが、ただむなしく腕をこまねいていなければならないわたしには、それこそ厳しい試練の日々だったのです。わたしは、何度か、独房のエーロン・ドウに面会しようとしました。でも鉄格子は固く閉ざされていて、郡拘置所の待合室から先には行けないことがわかったのです。被告を自由にたずねることのできる弁護士のカリアーといっしょなら、ドウと会うこともできたでしょう。しかし、なにかが、わたしにそれをさせなかったのです。このリーズ市の弁護士が、わたしには、なんとなく虫が好かない。この男の同伴者として、あの狭い独房で、ドウと面会することを考えると、|虫ず《ヽヽ》が走るような気がしてしまうのです。
日はだらだらとむなしく過ぎ、いよいよ、|その日《ヽヽヽ》がやって来ました。新聞社の特派員、群衆にわきかえる街角、号外の鈴、超満員のホテル、そして民衆の興奮――これらのお祭り騒ぎのうちに、裁判がはじまりました。|しょっぱな《ヽヽヽヽヽ》から公判は劇的な調子をおび、弁護人側と検事側とのあいだは、意外に険悪な空気となり、そのために被告は鉄格子から救われるどころか、かえってむずかしい破目になったのです。かすかな良心の動揺か、あるいは不決断のためか、青年地方検事ヒュームは、安易な道をとって、次席検事スイートに、事件の論告を任せました。検事スイートと弁護人カリアーは、判事席の前の所定の位置に着くやいなや、さながら狼《おおかみ》のように、たがいの咽喉笛に喰らいつきあう始末。法廷におけるご両人の態度から推察するに、この二人は不倶戴天《ふぐたいてん》の敵同士の感があります。たがいに、もっとも悪意に満ちた毒舌で応酬し、その泥試合は、なんども裁判長のするどい譴責《けんせき》を受けたくらいです。
それに、はじめからわたしもまた、事態がいかに絶望的なものか、わかっていました。陪審員名簿から陪審員を選出するという退屈きわまる手続きのあいだ――弁護人のカリアーが、機械的といっていいほど反対意見を出すので、その選出に、三日もかかってしまいました――哀れに老いこんだエーロン・ドウの様子は、見るに耐えないものがありました。このかわいそうな被告は、被告席の椅子にうずくまり、間の抜けた顔つきで裁判官のほうを見たり、検事側のスイートやその一味を恨みがましくにらんだり、ブツブツ独りごとを言ったり、また、絶えまなくあたりをキョロキョロ見まわしては、自分に同情を寄せてくれそうな顔を探しもとめるのです。エーロン・ドウがだれを探しているのか、わたしはちゃんと知っていました。わたしのそばに、黙って坐っている老優にも、わかっていたにちがいありません。くどいほどの、その哀訴が心にこたえて、わたしはうんざりしてきたし、レーンさんの額の皺は、いよいよ深くなるばかりです。
わたしたちは、新聞社の連中がズラッと並んでいる列の、後側の特別席に一団となって陣取っていました。エライヒュー・クレイとその息子のジェレミーもいっしょ。それから、いくつか席をへだてた通路の向こうには、アイラ・フォーセット博士がいます。博士は、短い顎ひげを撫でながら、大げさな嘆声をあげたりして、まるで人目を惹《ひ》こうとしているみたい。わたしはまた、男のような|なり《ヽヽ》をした女傑ファニー・カイザーが、法廷の後のほうにいるのに気がつきました。彼女は、ひっそりと人目をさけるようにしていました。ミュア神父は、マグナス所長といっしょに、後のほうにいたし、左側のそう遠くないところに、カーマイケルが平静な態度で坐っているのがチラリと見えます。
弁護人側、検事側双方の同意で選出された陪審員が、最終的に決定し、宣誓が行なわれると、法廷の審議はふたたび進みはじめました。そして、しだいに山場にさしかかってきたのです。
次席検事スイートが、被告の状況証拠の網を張りめぐらしはじめると、わたしたちはとっさに、風向きがどうなっているかがわかりました。犯罪の表面的な事実を確証するために、証人が喚問されたあと――ケニヨン、ブール博士、その他がおきまりの証言をやって――カーマイケルが証人台につくことを求められました。彼は、地味で謙虚な態度で証言したので、はじめスイート検事は、彼のことを、たいした代物《しろもの》ではないと、|ふんだ《ヽヽヽ》ようです。しかし、スイートは、すぐにそれが、とんでもない思いちがいであることを悟らざるを得なかったでしょう。なぜって、カーマイケルの証言は、じつは術策をめぐらした立証だったのですから。わたしは、フォーセット博士の横顔をうかがってみました。博士の顔には、暗い苦渋の影がうかんでいます。
『秘書』は、完膚《かんぷ》なきまでに赤裸々な陳述をやってのけ、申し分なく、彼の役割を演じました。カーマイケルは、次席検事に向かって、もっと明晰な言葉づかいで質問するように要請したので、まだ本格的な裁判がはじまらないうちに、スイートの癇癪玉《かんしゃくだま》が破裂しかかったくらいです……。
カーマイケルが証人台に立って証言を行なっているあいだに、小さな木箱の片割れと、『エーロン・ドウ』と鉛筆で署名のある手紙が、証拠物件として提出されました。
つぎにマグナス所長がよばれ、フォーセット上院議員がアルゴンキン刑務所を訪問したことについての証言を、繰り返して述べるように要請されました。この証言の大部分は、マーク・カリアー弁護人の猛烈な反対によって、記録から削除されたものの、削除されたところも、されなかったところも、おなじように陪審員たち――そのほとんどが年老いた富農や地方の実業家たちだったが――に強い印象をあたえたようでした。
この、なんとも形容のつかない激しい応酬は、数日間つづきました。スイートの論告が終ったとき、被告の有罪を立証する検事側の作戦が、見事に功を奏したことは、明らかです。わたしは、法廷の雰囲気から、それを感じとりました。新聞記者たちの意味ありげなうなずきあい、陪審員たちのソワソワしたのぼせ上がった表情……。
弁護士マーク・カリアーは、この法廷にみなぎっている敗色にも、まいった様子を見せようともしませんでした。彼は、落ち着いて仕事をすすめていました。わたしには、彼がなにを考えているか、すぐわかりました。彼も父もレーンさんも、弁護を遂行する唯一の方策は、理論にもとづいて、証拠の一つ一つを解りやすく取り上げ、この事件の根本についての判断を、陪審員たちの眼のまえに引き出してみせるよりほかないと考えていたのです。またわたしは、カリアーの陪審員の選出のうまさに、舌をまいてしまいました。いかにも低能じみたものがいると、彼はなんとか口実をもうけて拒否してしまい、知的水準の高い連中を集めることに成功したのです。
このリーズ市の弁護士は、論理の基礎を一つ一つ固めていきました。彼は、カーマイケルを証人台によびました。カーマイケルは、ここではじめて、殺人の当夜に、彼が、上院議員の邸内でスパイしたことを陳述し、怪しい覆面《ふくめん》の男がやってきたこと、殺人のあった時刻には、たった一人の人物しか出入りしなかった事実を証言したのです。スイート検事は、これに対して意地の悪い反対訊問を行ない、その難点をあげようとしました。わたしは、カーマイケルの応答が混乱しはしないか、と、ハラハラしてしまいました。しかし、カーマイケルはすこしも騒がず、この証言以前に、その事実を口外しなかったのは、自分の地位を失いたくなかったからだ、と、はっきりのべたのです。それは、とても巧くいきました。彼のほんとうの任務――故フォーセット上院議員をスパイするという――を、隠しおおせることができたからです。わたしは、フォーセット博士のほうをチラッと見ました。博士の顔ときたら、黒雲みたいに険悪そのもの。あれでは、カーマイケルが政府のためにやっている個人的調査も、すぐに停止せざるを得ない運命だわ、と、わたしは思ったくらい。
くだらない道化芝居はつづけられました。ブール博士、ケニヨン署長、父、土地の警察の専門家……少しずつではあるが、わたしの立てた推理がまちがっていないことを示す、さまざまな材料が出てきました。そして、弁護人のカリアーは、わざと見せつけるような態度で、これらの材料を記録させると、被告エーロン・ドウを証人台に喚問しました。
ドウときたら、まったく情けない見世物でした。いまにも死なんばかりにオドオドし、唇をやたらになめ、宣誓も口のなかでモグモグやって、証人台の椅子にもぐりこみ、その片目をたえずキョロキョロさせているといった|ていたらく《ヽヽヽヽヽ》。カリアーは、ただちに訊問にかかりました。わたしには、まえもってドウが、この応答についてコーチを受けていることがすぐわかります。訊問と応答は、十年前の、刑務所内でのドウの偶発事故の件に限られていて、あとで検事が弁護人側から、不利な証言を引き出すことがないように仕組まれていました。スイート検事は、訊問ごとに大声で異議を申し立てたけれど、そのたびにカリアー弁護人が、ものやわらかな口調で、この質問は弁護人側にとって、こんどの事件を組み立てるために必要なものだと巻きかえしたので、スイート検事の異議申し立ては、裁判長からあっさり却下されてしまいました。
「裁判長――」カリアーは落ち着きはらって言いました、「ならびに陪審員諸君、私はここに立証いたしたいのであります。フォーセット上院議員は、右手利きの人物に刺殺されました、しかるに被告は、左手利きなのであります」
勝敗の岐路は、まさにこの一点にかかっていました。はたして陪審員は、わたしたちの専門医の意見を認めるでしょうか? スイート検事はどう受けて立つか? わたしは、検事の血色の悪い顔をうかがいました。そして、眼のまえがまっくらになってしまった、検事は、猟師のように、舌なめずりしながら待ちかまえているではありませんか……。
質疑応答のすべてが終り、はげしい攻防戦の戦塵もしずまったとき、わたしは虚脱したみたいになって坐っていました。ああ、わたしたちの専門医ときたら! この連中は、なにもかも台無しにしてしまったのだ。有名な臨床医学者である、レーンさんの主治医でさえ、陪審員を納得させることができなかったのです。というのは、スイート検事も、わたしたちに劣らず専門医を動員して、右足が利く者の手が左利きになった場合、足も左利きになるという、われわれの理論に疑問を投げる発言をさせたからです。医者たちの、うんざりするほど長い行列の末にあらわれた結果は、証人各自が証人台に立っては、前の証人の証言を否定する、といったことの繰り返しで、ついに行きづまりを見せてしまいました。気の毒に陪審員たちは、いったいどの医者の意見が正しいのか、まったくわけがわからなくなってしまったのです。
一撃、また一撃……マーク・カリアーの行なった弁論は、わたしたちの推理を細心に、しかも解りやすく説明した、じつに立派なものでした。だが、スイート検事の妨害論告は、それを、いっさい掻き消してしまいました。カリアーは打ちのめされながらも、レーンさん、わたし、そして父を証人台に喚問して、ドウの独房での実験について、わたしたちが実際に見てきたことを、証言させました。そうすることで、その道の権威に証明できなかった点を立証する――これが、弁護人カリアーの最後の手段だったのです。するとスイート検事は、ここぞとばかりに飛びついてきて、わたしたちに悪意のこもった反対訊問を浴びせてきました。そして検事は、わたしたちの証言を支離滅裂にしたあげく、検事側からの再審査の許可を求めると、別の証人を召喚しました。それは、郡拘置所の、あの人相の悪い看守でした。この男は、ドウの足の踏みかたについて、わたしたちが事前にリハーサルをした、と、わざとらしく訴えたのです。カリアーは、心細い髪の毛を掻きむしりながら、金切声をあげて異議を申し立て、いまにもスイート検事につかみかからんばかりの勢いでした。しかし、もうなにもかも|あと《ヽヽ》の祭でした。陪審員たちは、スイート検事の告発を頭から信用したらしく、また椅子にしずみこんでしまった……。わたしの全身は、まったく感覚を喪失してしまった。かろうじて見ることのできたものは、証人台に立たされて、さらしものになっているエーロン・ドウの姿だけ。気の滅入るような長い時間というもの、この哀れな男は、左手でなにかをつかまされ、たたかされ、握らされ、足のほうは足のほうで、踏みつける格好をさせられ、両足で、片足で、こんどはべつの足で、といったぐあいに、あらゆる動作をあらゆる姿勢でやらされて、とうとうあげくのはてはハアハア息を切らし、恐れおののき、しまいには、こんな拷問《ごうもん》にかけられるくらいなら、いっそ有罪になったほうがまだましだ、とでも思っているような感じ。この、みじめな光景は、廷内の陰気で不安な雰囲気を、さらにかきたてるのです。
公判の最後の日に、カリアーは最終弁論に立ったのですが、わたしたちはみんな、すでに敗北の前兆を感じていました。彼は全力をつくして闘い、そして敗れたのです。彼もまた、それを覚悟していました。しかし最後まで、この男の粘り強い性格は、遺憾なく発揮されたのです。彼は彼なりに、正しい道を歩んだ、とわたしは思う。彼は、受け取った巨額の弁護料にこたえて、ベストをつくそうと決心していたのです。
「私は諸君に申し上げたい――」いまや熱も失せて、当惑の色をありありと見せている陪審員に向かって、彼は叫びました、「もし諸君が、被告を電気椅子に送りこむならば、諸君は、法の正義と医学に対して、過去二十年間における最悪の一撃をあたえることになるのです! 検事側が、まことに手際よく、しかも虚偽によってでっちあげた本事件は、運命にもてあそばれた哀れな被告のまわりに張りめぐらされた、ご都合主義の罠なのであります。エーロン・ドウが、火の燃える紙きれを左足で踏みつけたことは、彼のふだんの習慣からの、ちょっとした動作の現われで、まったく本能的反射的になされたものであり、それは諸君もおききのとおり、医学専門家によって証明されたのであります。また諸君は、殺人犯が右足で燃えがらを踏み消したこと、おまけにその晩は、たった一人の人物しか出入りしなかったことは、もうご承知のはずであります。この事実をもって、諸君は被告の無罪を、いかに疑い得るでありましょうか? スイート検事は、なるほど巧妙でしたが、そこには巧妙すぎるものがあります。また、たとえ彼がおびただしい専門家を動員して、反証を挙げようとも、絶対にマルチニ博士に対してだけは、――特別主任弁護人であるマルチニ博士、ニューヨークにおけるその高名、清廉潔白なるその人格、その道における権威としての名声、きわめて高度な専門的学識、これらに対して、いささかなりとも非難するようなことは、できないはずであります。
陪審員諸君! よろしいですか、検事側の表面的な証拠によって、いかに被告に不利な状況に見せようと、また、検事側がいかに悪賢く、この裁判にあたって、被告と弁護人側によって予行演習が行なわれたというような観念を諸君の頭にふきこもうと、諸君はこの不運に見舞われた男――被告自身の身体をもってしては不可能な犯罪を負わされたこの男を、電気椅子に送りこむ死の票決は、諸君の良心にかけてなし得ないことだ、と私は申し上げたいのであります」
エーロン・ドウは、六時間半にわたる陪審員の討議の結果、起訴された犯罪について、有罪である、と評決されました。
なお、証拠のあるものについては、討論の余地があるという点から、陪審団は裁判長に対し、寛大な処置がとられるように勧告しました。
その十日後、エーロン・ドウは、終身刑を宣告されたのです。
十二 余波
弁護人カリアーはただちに上告したが、却下されました。エーロン・ドウは、いかつい代理治安官に手錠をかけられ、終身の刑罰に服するために、アルゴンキン刑務所に送りかえされたのです。
わたしたちはミュア神父を介して、だいたいの様子を知ることができました。アルゴンキン刑務所にもどったドウは、慣例にしたがって、まったく新入りの囚人同様の扱いを受けたのです。すでに服役の実績があるにもかかわらず、あらためてまた復権するために、だれだってうんざりするような刑務所服務規定の全過程をやりなおさなければなりませんでした。そして、冷酷な鉄格子の社会において、多少とも『顔』がきくというあわれな『特権』――それは服役成績と看守のお情けの程度できまるのですが――を獲得するために、彼の息の根のつづくかぎり努力しなければならないのです。
日はむなしく流れて、何週間かがすぎました。ドルリー・レーンの顔に刻まれた深い憂色は、依然として消えませんでした。わたしは、老優のねばり強さに驚嘆しました。レーンさんはハムレット荘にひきあげようともせず、頑固にミュア神父の家にとどまっていました。昼間は、その小さな庭で日光浴をし、夜はときたま、ミュア神父やマグナス所長と語りあって過ごしたりしました。そのときには、老優はマグナス所長に、エーロン・ドウについて、いろいろな質問をあびせ、所長に答えられるかぎりのことを知ろうとしました。
そうだ、老優は、何事かが起こるのを待っているのです。わたしには前からわかっていることだ。だが、レーンさんがリーズ市にとどまっているのは、ほんとうになんらかの希望を持っているためなのか、それともドウに対して、まったく申し訳のないことをしたという気持ちからなのか、わたしにはどちらとも判断できませんでした。ま、いずれにしろ、レーンさんをおいてきぼりにするわけにはいかないので、父もわたしも、そのままリーズ市に滞在していました。
ところで、事件とあまりつながりのないような出来事ばかり起こりつつありました。
フォーセット上院議員が殺害されたことによって、反対派の新聞が、いっせいにフォーセット一派の不正利得について、ほんのわずか歯に衣《きぬ》をきせただけで、その全貌をすっぱぬいたものですから、フォーセット博士の政治的立場は危機に瀕していたのです。ジョン・ヒュームは、フォーセット殺害事件が、いささか疑点もあるにせよ、どうにか満足できる結果に終ったので、こんどは上院議員に立候補するため、まっこうからの攻撃を開始したのです。その戦術は、相手が相手だという彼自身いいわけのできるものがあったせいか、かなり思いきった暴露手段でした。故フォーセット上院議員の人物や閲歴にまつわるえげつない噂ばなしが、市の内外に流れ出しました。そして毎日のように新しい噂が生まれたのです。上院議員殺害事件の調査のあいだに、ルーファス・コットンとともに手に入れた情報を、ヒュームはこのように利用し、それは今や政敵の頭上に一つ一つ炸裂《さくれつ》しつつあったわけです。
だが、フォーセット博士にしても、あっさりと敵にうしろを見せるような人物ではありません。博士の成功の秘訣である天才的な政治的能力は、その報復作戦にはっきりと反映しています。頭の弱いバンカラ政治家なら、ヒュームのてひどい手段に対して、罵《ののし》りわめいて応酬したにちがいありません。ところがフォーセット博士は、そんな真似はしない。博士はいっさいの中傷、人身攻撃にたいして、威厳ある沈黙をたもちつづけたのです。
そして、ただ一つの応答として、博士は上院議員候補に、エライヒュー・クレイを立てたのです。
わたしたち父娘《おやこ》は、ずっとクレイ家のもてなしにあまえていました。そして、じつに巧妙な選挙戦が行なわれるのを高みから見物する立場におかれたわけです。エライヒュー・クレイは、大金持ちにもかかわらず、チルデン郡の有権者には評判がよかった。なにしろ慈善家であると同時に、堅実な企業組織の指導者、そしてリーズ商工会議所の有力者であり、労働者にとっては理解のある雇い主……フォーセット博士の立場からすれば、やたらに革新をわめきたてているジョン・ヒュームに対抗するには、まさにうってつけの候補者だったのです。
わたしたちが、博士のそうした胸算用にはじめて感づいたのは、ある夜、彼がクレイ家を訪れ、エライヒュー・クレイと密談したときでした。まったくの二人きりで、二時間も閉じこもっていたのです。やがて、クレイさんと博士が出てきて、いつものように博士が、あのあたりのいい流暢《りゅうちょう》な口調で辞去したあと、この屋敷の主人の顔には、当惑とも喜びともつかない奇妙な表情が浮かんだものです。
「ま、あなたがたには、思いもおよばぬことでしょうな」と、彼は、自分でも信じかねるような口調で言うのです、「あの男が、この私になにを求めているか……」
父は、すかさず、「あなたに、自分の政治活動の竹馬になれ、と言うんでしょう?」と言葉を一語一語区切りながら言って、余裕のあるところを見せました。
と、クレイさんはびっくりして、「またどうしてそれがおわかりなんです?」
「なに、わかりきったことじゃありませんか」と、父はあっさり言って、「まず、奸智《かんち》にたけた悪党の考えそうなことですな。で、やつは、あなたにどうしろというんです?」
「来たるべき上院議員選挙に、彼の地盤から立候補してくれ、というんです」
「じゃ、あなたは、やつの党に所属しているのですか?」
クレイさんはパッと顔をあからめて、「ま、政治理論には、同意しているのですが……」
「お父さん!」息子のジェレミーはさも不服そうに、「まさか、あんなやつと手を組もうと思っちゃいないでしょうね?」
「もちろんさ」クレイさんがあわてて言います、「きっぱりと断わったとも。が、いまいましい、こんどばかりは、あいつのいうことを、真《ま》にうけるところだった。あいつは、党の幹部連中が、竹を割ったような正直な候補者――その、なんだ、つまり私のような人物を求めているなどと言いおった」
「なるほど、結構な話じゃありませんか」と父が言いました。
わたしたちは、思わず父の顔を見ました。
「こいつはおもしろい」父は葉巻をくわえたまま、ほくそえみました、「毒をもって毒を制す、ですよ、クレイさん。それこそ、飛んで火に入る夏の虫というやつだ。あなたは、博士の言うままにおなりなさい!」
「しかし、警部さん――」とジェレミーはギョッとした口調でいいかけました。
「ま、いいから若い人は黙って見ていなさい」父はニヤリと笑って、「お父さんが上院議員になるというのは、まんざらでもないでしょうが。ねえ、クレイさん、いままでのことでもおわかりでしょうが、あなたの共同経営者は、|なまは《ヽヽヽ》|んか《ヽヽ》なことじゃ、化けの皮がはがれませんよ。なにしろ一筋繩ではゆかんやつですからな。どうです、やつとひとつ、わたりあおうじゃありませんか。やつの提案をあっさり受け入れる、そうすればやつのお仲間になれるというわけです。ね、そうすりゃ、証拠書類になるようなものが入手できるかもしれません。ああいった抜け目のない連中でも、とんとん拍子にいっていい気になると、ときたま、尻尾を出すもんですよ。そして、選挙前になにか証拠がつかめたらギリギリのところで立候補を取りやめることだってできるんです、そしてあなたの後援者の鼻先で、やつの悪事を世間に暴露してやることだってできるわけだ」
「そんなこと、ぼくはいやですね」とジェレミー。
「さあて――」クレイさんが渋い顔で、「それはどういうものですかなあ、かなり卑劣なやり方だと思いますがね。私は――」
「そりゃ、当然、勇気がいりますとも」父は遠くを見据えるように、言います。「しかし、やつら一味の悪事を摘発すれば、あなた自身にだって、また、この郡の人たちにも、大きな幸せがもたらされることになるんですからな。市民の英雄になることは太鼓判を押しますよ!」
「なるほど――」クレイさんは目をかがやかして、「そうか、そういうふうにも考えられますな。警部さん、たしかにあなたのおっしゃることが正しいようだ。いや、正しいにちがいありません。よし、思いきってやってみますよ。これからすぐ、フォーセット博士に電話して、考えなおしたと言いましょう」
思わずわたしは、口まで出かかった抗議の言葉をのみこみました。そんな真似をして、いったいなんの役に立つのかしら? と同時に、わたしは心のなかで首をふりました。父の作戦がうまくいくとはどうしても思えない。あの、顎ひげをはやした、抜け目のない野心家は、とうの昔に父の意図なんか、見ぬいているように、わたしには感じられてならないのです。父が、クレイ会社の帳簿や書類綴を調べていることも知っているだろうし、クレイさんが上院議員立候補を一度ことわりながら、こんどは父のさしがねで承諾するにちがいない、というところまで、博士に読まれているのではないでしょうか。たぶん、わたしは、少々神経過敏になりすぎているのかもしれない。けれど、父からきいたことだが、わたしたちが最初、このリーズ市に足を踏み入れたのとほとんど同時に、クレイ大理石会社対フォーセットの間にたちこめていた一種異様な不正の臭気が、サッと消え失せてしまったなんて、ずいぶん意味ありげじゃありませんか。偽紳士は息を殺してチャンスを狙っているのだ。さらにまた博士は、エライヒュー・クレイを一味の立候補者に仕立てあげて、この善良な市民であるクレイさんの手を汚し、おまけになにか不正な計画に捲きこんで、匿名共同経営者に関しても永久に口を閉じざるを得ないようにしてしまおうと考えているのかもしれない。
ま、いずれにせよ、こういったことは単なる疑惑の域を出ませんでしたし、それに、父はおそらく事態をだれよりもいちばんよく知っているはずだと思ったので、わたしはなにも言いませんでした。
クレイさんが腰をあげて、家の中に入りかけたとき、ジェレミーが叫びました、
「フォーセットの卑劣な罠だ。警部さん、なんてひどい助言をしてくれたんです」
「ジェレミー――」クレイさんは、つよい口調でたしなめました。
「だけどお父さん、これが黙っていられますか。断わっておきますけどね、もしお父さんが立候補なんかしたら、それこそ泥沼におちこむようなものですよ」
「そんなことは、私にまかせておいたっていいだろうに」
「じゃいいですよ、どうぞご勝手に」ジェレミーはパッと椅子から立ち上がりました、「お父さん、自分で自分の頸をしめるというやつですよ」彼は縁起の悪いことを言い出します、「あとになってから、ぼくがなにも言わなかった、なんてコボさないでくださいよ」
そしてジェレミーは、だしぬけに、おやすみを言うと、さっさと中に入って行ってしまいました。
その翌朝、食事のとき、わたしの席の卓上に、ノートが置いてあるのに気づきました。エライヒュー・クレイの顔色はとても悪い。ジェレミーの姿は見えない――『仕事場に行く』と、彼は小さいそのノートに、烈しい言葉をたたきつけるように書いています――そして、『父にかわって仕事を監督しなければならない。たぶん父は選挙に夢中だから』……かわいそうなジェレミー! 彼は、夕食に帰ってきたときも、むずかしい顔つきで黙りこくったままでした。それから何日間か、いつもあたたかい言葉にしか生きがいを感じない若き女性にとっては、ジェレミーは、なんともいただけない相手でした。そしてわたしの顔の色といったら、よく詩人がうたうように、おとめの頬のかぐわしさは失われぬ、青春のうつろいを告ぐるがごとく、といったぐあいだったのです。じっさい、わたしは鏡に向かってこっそり髪の毛をしらべてみたくらい。白髪《しらが》がありはしないか、と。そして、色のあせた一本の髪の毛をみつけたとき、わたしはベッドにひっくりかえってしまいました。いっそのことエーロン・ドウとかジェレミーとか、リーズ市とか、アメリカ合衆国とか、そんなものをいっさい、耳にしなければよかったのに……。
エーロン・ドウの裁判と判決とに直接関係のある、一つの波紋が、わたしたちの身辺にまでおよんできました。わたしたちは、ずっとカーマイケルと連絡しあっていました。彼は、フォーセット博士について、いつも重要な情報を、わたしたちに提供してくれたのです。しかし、この連邦政府の役人が、活動しすぎたせいか、あるいはフォーセット博士の油断のない目が、スパイの正体を見破ったのか、それともまた、公判における彼の証言が、雇い主である博士に疑いをいだかせたものか――このうちの一つにしてもまた全部にしても、それだけで十分な理由ですが――いずれにしろ、カーマイケルは、抜き打ちにクビになってしまったのです。解雇の理由について、フォーセット博士は、一言も説明せずに。そして秘書をクビになったカーマイケルは、ある朝、鞄をさげて、沈痛な色を顔に浮かべながら、クレイ家に姿をあらわしました。彼の言葉によると、これからワシントンへ帰るところだったのです。
「仕事は、まだ半分しかすんでいないのですがね」と、彼はぼやくように言いました、「あと、二、三週間もあれば、やつら一味の全貌をつかむことができたのです。ま、これでは、不十分な証拠書類で、事件を処理しなければなりません。もっとも、銀行預金の貴重な記録や、抹消個所のある領収書をそっくりそのまま複写写真にとることもできたし、あなたの腕の長さくらいもある分厚い架空の預金者名簿も手に入れましたがね」
出発するにあたって、カーマイケルは、自分が握った証拠資料をワシントンの上司に提出すれば、ただちに連邦政府は、チルデン郡に巣喰っている悪徳政治家一味を処罰するために、必要な法的措置をとるはずだ、と断言して立ち去ったものの、その瞬間、父もわたしも、見事にフォーセット博士に裏をかかれたような気がしてなりませんでした。いわば、敵の本拠地から、わたしたちのスパイが放遂されてしまったとあっては、わたしたちにとってなによりも大切な情報源を断《た》たれたようなものではありませんか。
わたしは、ひどく滅入った気持ちで、このあわれむべき事態について、文字どおり思案投げ首、父の顔といえば、まるで苦虫を噛みつぶしたみたい、エライヒュー・クレイは立候補と選挙運動に追いまくられ、息子のジェレミーは、父親の採石場で、命も手足も知ったことかといわんばかりに、盲滅法《めくらめっぽう》にハッパをかけている始末。こんなありさまのなかで、インスピレーションがわたしの頭にパッとひらめいたのです。そうだ、ワシントンに帰ったカーマイケルの代行をだれかがしなければならないわ、だったら、このわたしにだってできそうなものじゃないの? 思案すればするほど、わたしにはこのアイデアが気に入ってきた。フォーセット博士には、リーズ市にいる父の真の目的がなんであるか、うすうす感づいていることは、たしかです。だが、女性にお弱くていらっしゃる博士と、見かけはいたって無邪気に見えるわたしとは、いい組み合わせではありませんか。過去にだってもっとすごい札つきの悪党が、若い女の誘惑におちたことは掃いて捨てるほどある。だったら、あの博士だって、わたしの疑惑にひっかからないともかぎらない。
そこでわたしは、父にはこっそりと、顎ひげの紳士に近づく|てだて《ヽヽヽ》をこうじました。わたしが最初に打った手は、ある日、街頭で、博士とパッタリ出会うという作戦。それこそまったく偶然に、という感じでね。
「これはこれは、お嬢さん!」と言いながら、フォーセット博士は、まるで美術品を鑑定するような目つきで、わたしを見るではありませんか。わたしは、このチャンスにそなえて、一分の隙もないようなドレス・アップ。すなわち、すこしでもわたしの魅力を発揮してやろうというこんたん。「これはまったく奇遇ですな。いや、あなたにお目にかかる機会を得たいものと思っていたところですよ」
「まあ、ほんとですの?」わたしはいたずらっぽく言いました。
「いや、これは私の怠慢でした」博士はニヤッと笑うと、舌のさきで唇をなめまわします。「そうだ、せっかくの機会ですから、その償いをさせてください。さ、ごいっしょに食事でもどうです、お嬢さん」
わざとわたしは、ちょっとはにかんでみせながら、
「まあ、フォーセット先生ったら! すごく独占欲が旺盛ですのね」
博士は、キラッと眼をひからせると、顎ひげをしごきました、「さよう、あなたのご想像よりずっと――」博士は、低く、イミシンな口調で言います、そして、わたしの腕をとるなり、そっと力を入れて、「さ、私の車に乗って」
わたしは、ホッと溜息をついてみせました。そして博士は、わたしを車のなかに助け入れると、わたしのあとから、自分もいそいそと乗りこむとき、お抱えの人相の悪い運転手のルイスに、ウインクをしたような気がしました。わたしたちは、あるホテルに乗りつけました。そこは、数週間まえに父といっしょに、カーマイケルに会いに行ったホテルだったのです。そのホテルの支配人ときたら、わたしの顔をちゃんと覚えていて、客あしらいよろしく、|虫ず《ヽヽ》の走るような流し目をくれると、フォーセット博士とわたしを個室へ案内しました。
かのヴィクトリア朝時代の小説のヒロインのように、あくまでも貞操を守りぬこうと覚悟をしていたわたしは、むしろ愉しいくらいの拍子ぬけを味わう破目になったのです。フォーセット博士はなかなかどうして魅力的な接待役でした。これで、博士の株があがったというものです、まったくの紳士。むろん、わたしのことを、いずれは手に入れる生娘《きむすめ》ぐらいに思っているにちがいありませんが、どうやら博士は、あまりせいて、せっかくの獲物をおびやかすようなつもりはないようです。博士は、上等のワインづきの豪華な昼食をとってくれて、テーブルごしにちょっとわたしの手をとってみたぐらいで、べつにみだらな言葉を口にすることもなく、クレイ家までわたしを送ってくれたのです。
そこでわたしは、フラッパー娘を気取って、チャンスを待ちました。やっぱりわたしは、あの女たらしの腕を見そこなってはいなかった。何日かたったある夜、博士は電話をかけてきて、観劇に誘いたいが、どうだろうか、といってきたではありませんか。どこかのあやしげな劇団が、市で『カンディダ』をやっているが、きっとお気に召すだろう、というのです。ま、胸に一物のある紳士がたにかぎって、このアメリカにしろ、ヨーロッパにしろ、バーナード・ショウの芝居が、『情事』の|きっかけ《ヽヽヽヽ》にはおあつらえむきだと、思いこんでいるようです。そしてわたしは、『カンディダ』を、もう六回も観ているという始末。が、あえてわたしは、鳩が咽喉音をならすようなぐあいに、「まあ、先生、あたしまだそのお芝居を観ていませんの。ぜひ拝見させていただきたいですわ。だって、とてもすごいお芝居だという評判なんですもの!」(もっとも、現代の劇作家の煽情的な作品にくらべたら、まるで春の夕べみたいにまのびした代物《しろもの》ですけど)すると、いかにも満足気にしのび笑いをする博士の声が受話器からきこえ、明晩、わたしを迎えにくることを博士は約束しました。
芝居はまずまずのできだったし、わたしのナイトも、申し分ありませんでした。わたしたちのほかにも、おおぜいの人たちがいっしょでした。いずれもリーズ市の金持ち連中で、奥方たちは、宝石類で満身を飾り立て、このご亭主どもは、どれもこれもあから顔で、政治屋特有の、くたびれたずるそうな目つきをしています。フォーセット博士は、さながらわたしの影みたいに、一歩も離れようともしません。それから、しばらくすると、いま、思いついたという口調で、『みんな』で自分の家へカクテルを飲みに行くことにしようと、言い出しました。ははん! いよいよ、おいでなさったよ、ペイシェンス、と、わたしは胸のなかで呟きました。ちょっと、手が|こんで《ヽヽヽ》いるじゃないの。――わたしはわざと心配そうな顔をしてみせた。「大丈夫かしら?」博士はさも愉快そうに笑います。まあ、ご安心なさい、お嬢さん! お父さんだって、決してなんともおっしゃいませんよ……わたしはホッと溜息をつき、なにかとんでもないことを仕出かそうとする、頭の弱い女学生のような態度をしてみせました。
とはいうものの、その晩は、まったく危険がなかったわけではありません。たくさんいた連れは、まるでおあつらえむきのように途中から一人減り二人減りして、フォーセット博士の化物屋敷のような邸宅についたときは、不思議なことに、博士とわたしの二人きりになっていたではありませんか。博士は正面玄関のドアをあけて、わたしを招じ入れました。わたしは、かつて死体があったその屋敷の中へ一歩足を踏み入れた瞬間、背筋の凍るような不気味さに襲われたことを正直に告白します。わたしのあとにつづいて入ってくる生きた人間よりも、前に立っていそうな死人の影におびえてしまったのです。殺害された上院議員の書斎の前を通りすぎたとき、なかの家具は置きかえられ、殺害当時の模様があとかたもなく消えているのを見て、わたしは思わずホッと胸を撫でおろしました。
結果から見ると、わたしが博士の家まで行ったことは、博士に|まと《ヽヽ》はずれな安堵感をあたえ、彼の欲望を刺激した以外に、なんの収穫も得られませんでした。博士は強いカクテルをしつこくわたしにすすめるのです。だが、あいにくと、わたしは賢明な飲酒法が必須科目みたいな大学にいた人間です。わたしの酔ったふりの大芝居が当たって、博士はわたしの飲みっぷりに驚いたらしい。その夜もふけるにつれて、わが伊達男は、紳士のエチケットもどこへやら、いよいよ、その本性をあらわしてきました。わたしをソファにひっぱって行くなり、あらゆるテクニックをつかって、ジワジワとくどきにかかったのです。博士の意のままになるのを避けながら、しかもわたしの心底を見破られまいとするのには、バレリーナのような軽やかな身のこなしと、ドルリー・レーンのようなすばらしい演技力とをいちどきに発揮しなければなりません。かろうじてわたしは、博士の抱擁から身をかわすことができたものの、博士の執拗な攻撃をはねのけながら、しかもなお敵の心をつなぎとめておくことに成功したのは、誇ってもいいわたしの功績です。どうやら博士は、おいしいご馳走を待つ気になったらしい。|おあずけ《ヽヽヽヽ》が、博士にとっては快楽の大半をしめるのじゃないかしら。
ま、こういった調子で、敵の要塞の一角を破っておいて、わたしは選抜突撃隊を育てあげていました。フォーセット博士邸へのわたしの訪問は、彼のくどき方がはげしくなるにつれて、頻繁になっていきました。思えば、じっさい、よくかよったものです。この剣呑な生活は、エーロン・ドウがアルゴンキン刑務所に服役してから、一か月ばかりつづきました。しかも、そのうちには、父のいぶかしげな問いつめ方からジェレミーの陰気なやきもちまで入っているのですからね。ほんとに彼には手を焼いてしまう。ある時なんか、わたしが、町で、ある人と『知り合い』になったのだ、といくら説明しても、いっこうに満足せず、わたしを尾行する始末。そこでわたしは、水中にもぐる鰻《うなぎ》みたいに、くねりくねって、彼をまかなければならなかったほど。そうだ、いまでもはっきり覚えている、ほんとうにすごいピンチがやってきたのは、水曜日の夜のことでした。わたしは約束の時間より早目に、フォーセット邸を訪問したのです。そして、一階の診察室の隣にある博士の研究室に入ったとき、わたしは彼がなにかをひねくりまわしているのを見ました。それは、なんだかとても奇妙な品物で、机の上に置いてありました。博士は顔をあげると、なにやら口のなかでブツクサ呟き、そしてわたしにむかってニンマリ笑い、その間にあわてて、その奇妙な品物を、机の一番上の引き出しにしまいこむじゃありませんか。とっさにわたしは、驚きの色をほんのすこしでも顔に出すまいと、歯を喰いしばって頑張らなければなりませんでした。博士が手にとっていた品物は――ああ、信じられない! でも、現にわたしは、この眼ではっきりと見たのだ。とうとう来るべきものがきた。信じがたいことだけど、それはついにやってきたのです。その夜、博士の邸を出たとき、わたしは興奮に身をふるわせていました。博士のくどき方すら、その晩はとってつけたみたいで、わたしは身をかわすのに、いつものような苦労はいらなかったほどです。それにしても、いったい、なぜ?そう、疑う余地もなく、博士の心は、机の一番上の引き出しのなかの品物のことで、いっぱいだったのだ。
わたしは、自動車が待っている車道まで出ないで、屋敷の横手に回り、フォーセット博士の研究室の窓を目あてに足をしのばせて近寄って行きました。わたしのこれまでの訪問の目的は、博士を破滅させることのできるような証拠書類を手に入れることだったけれど、いままでの努力がすべて水泡に帰したとしても、今夜こそは、夢想していた以上の貴重な収穫があるにちがいないのです。書類なんかじゃない。そんなものよりはるかに重要なもの。わたしの咽喉《のど》はいまにもつまりそうだったし、心臓ときたら、壁ごしに博士の耳に入りはしないかと思われるくらい高鳴っていました。
わたしは、ドレスのすそを膝小僧のところまでたくしあげると、見るからに頼もしそ うな葡萄《ぶどう》の木を伝って、研究室の内部が見えるところまでよじのぼっていきました。月のない夜をお恵みくださった神さまに、わたしはひそかに感謝をささげます。そして、窓ごしから、机に向かっているフォーセット博士の姿を見たとたん、思わずわたしは勝利の叫びを上げたくなったほどでした。やっぱり、わたしのにらんだとおりだ! 博士は、わたしを送り出すやいなや、あの引き出しのなかの品物が気になって、研究室にあわててとってかえしたのです。
いま、博士は机に向かって、坐《すわ》っている。頬のゲッソリとこけた顔は激情でドス黒くなり、例のヴァンダイクひげは威嚇的にピーンと突き出され、そして、その手は、力いっぱい、握りつぶさんばかりに、あの奇妙な品物をつかんでいるではありませんか。それにしても、あすこにあるのはなんだろう? 手紙――たしかに手紙みたいなものだわ! それは、博士の机の上にのっていました。博士はその手紙のような書きつけをあらあらしく手にとるなり、すごく興奮した様子で読みはじめました。ああ、その形相のすさまじさ! とその瞬間、思わずわたしは樹上でバランスを失って死人でさえよみがえるくらいのはげしい音をたてて、地面の砂利の上に落ちてしまったのです。
電光石火、博士は椅子からパッと窓ぎわにとんできたにちがいありません。砂利の上にぶざまにのびた瞬間、わたしの眼にはいったのは、窓から見おろしている博士の顔でした。そのものすごさに、わたしの全身の血が凍りついてしまったくらい。博士の顔は、あたりの夜の暗さのように、どすぐろく険悪な形相。わたしは博士が、いまにも咬《か》みつかんばかりの表情で、窓をサッと押し上げるのを見た。恐怖のおかげで、ハッとわれにかえったわたしは、ガバッとはねおきるなり、脱兎《だっと》の勢いで小路を走りぬけました。博士が地面にとびおりた音がかすかにきこえ、足音がわたしの背後にせまってくる。
博士が怒鳴った、「ルイス! 女をつかまえろ! ルイス!」行手の暗闇の中から、影のように運転手の姿が現われた、と思うと、ニタニタ笑いを浮かべた顔がわたしに近づき、ゴリラのような腕がのびてくる。なかば|もうろう《ヽヽヽヽ》としながらその腕のほうへよろめきかかったわたしを、彼は鉄のごとき指で|むんず《ヽヽヽ》とつかみました。
フォーセット博士がハアハア息を切らして駈けつけてくるなり、わたしの腕を、思わず声を立てたくらい強くひっつかみました。「やっぱりおまえもスパイだったのか!」博士は、いかにも自分自身に言いきかせるように呟きながら、わたしの顔をにらみつけました、「この小生意気な悪魔め! すんでのところでいっぱい喰わされるところだった」博士は顔をあげると、運転手に向かって吐き出すような口調で、「いいからあっちへ行け、ルイス」
運転手は、「へい、旦那」と言うと、例のニタニタ笑いを浮かべながら、暗闇の中に消えました。
わたしは恐ろしさのあまり、化石のようにこわばってしまいました。博士につかまってしまったわたしは、もう眼もくらみ、おまけに吐き気までもよおしてきます。そういえば、博士はわたしのからだを憎悪をこめてゆさぶりつづけ、わたしの耳もとで毒々しく罵ったっけ。わたしはその眼を見た。はげしい怒りに、らんらんと火のように燃える眼。まさしく激情にかられた殺人者の眼……。
それから、いったいどんなことになったのか、はっきりとは思い出せません。わたしが博士の手をふりちぎったのか、それとも彼が自分のほうからわたしを放したのか。とにかく、気がついたときには、わたしはよろめきながら道を歩いていたのです。イヴニング・ドレスに足をとられ、博士の爪痕が、焼けるようにヒリヒリと熱いのを腕に感じながら……。
しばらく歩いてから、わたしは足をとめ、太い黒い木にもたれかかって、熱っぽくほてっている顔を風にあてました。あふれてくる恥辱感と安堵感のいりまじった苦い涙。そして、急に父が恋しくなってきました。ああ、もう二度と探偵なんか! わたしは涙をぬぐい、鼻をすすりあげた。やっぱり、あたたかい暖炉のそばで、編物でもしていればよかったのよ……。と、そのとき、自動車の音を聞いた。車は、わたしのほうへゆっくりやってくる気配。
わたしは息を殺し、また木のかげに身をちぢめました。一瞬にして恐怖がよみがえり、身がすくんでしまいました。フォーセット博士が、あの身の毛もよだつようなものすごい目つきで、わたしをとことんまで追いつめにやってきたのではないだろうか? ヘッドライトが路をグルッとまわると、わたしのほうに向いた、そして、妙にゆっくりと近づいてくる、まるで迷ってでもいるみたいに……と、わたしは突然ヒステリックに笑い出し、気が狂ったように腕を振りながらとび出しました、「ジェレミー! ああ、ジェレミー! あたしはここよ!」
思わずわたしは、忠実な若き恋人というものを創造し給うた神さまに、心から感謝したい気持ちでいっぱいになりました。ジェレミーは車からとび出してくるなり、わたしを腕に抱きしめてくれました。わたしは、あの優しい親しみのある顔に出会って、嬉しさのあまり、とうとう彼にキスを許してしまった。ジェレミーは、わたしの涙をぬぐうと、抱えこむようにして車に乗せ、自分のすぐとなりに坐らせてくれたのです。
彼自身、ひどいショックを受けたらしく、なにひとつ、きこうともしませんでした。そのことで、わたしは二重に彼に感謝したい気持ちだった。わたしがにらんだところでは、その夜、彼はわたしのあとをつけてきたのにちがいありません。わたしがフォーセット博士の屋敷に入るのを見とどけると、夜どおし、わたしが出てくるのを、道路で待ちかまえていたというわけです。彼が中庭の騒ぎを聞きつけ、車道へ駈け上がったときには、もうわたしの姿は見えず、フォーセット博士は家の中に引っ返してしまったあとだったのです。
「いったいどうしたの、ジェレミー?」わたしは、彼の頼もしい肩によりかかって、ふるえながらたずねました。
ジェレミーは右手をハンドルからはなすと、指の関節をいたわるように口で吸いました、「一発お見舞いしてやったのさ」彼はポツリと言って、「なに、ほんのまぐれさ。そのとき、だれか――運転手だと思うが、駈けつけてきたんで、ほんのちょっと殴り合ったんだ。それだけさ。運がよかったんだ。やつは獰猛《どうもう》な男だったからね」
「じゃ、あの男もやっつけたの?」
「やつの顎は、ガラスみたいだったよ」とジェレミーはポツンと言いました。彼は、最初わたしを見つけたときの歓喜から落ち着きをとりもどすと、もとどおり、素敵な木星神みたいにわたしを黙殺しながら、愁いのこもった暗い表情で、前方を見つめているのです。
「ジェレミー……」
「ああ?」
「いいわけが聞きたくないの?」
「だれが――このぼくがかい? そんなふうに見える? きみがフォーセットみたいな無頼漢にいらぬチョッカイを出したというのなら、そんなことはぼくの知ったことじゃないよ。こんなことにまきこまれるなんて、ぼくもよっぽどおめでたい男だな。ほんとにありがとうございます!」
「あなたって、素敵だわ」
彼は無言。わたしはホッと溜息をつき、前方をみつめていました。それから、わたしはジェレミーに、丘の上にあるミュア神父の家へ行ってくれるように頼みました。なんだか急に、大人の話相手がほしくなって、あのドルリー・レーンさんのやさしくて、明敏な容貌が見たくなったのです。わたしの情報――きっとレーンさんなら、眼をかがやかせるにちがいないわ。いいえ、この情報ほしさに、レーンさんはいままでリーズ市に頑張っていたんだ。
ミュア神父の家の、小さな門とバラのからんだ石塀の前に、わたしたちの乗っている車がとまったとき、家の中はまっ暗でした。
「みんな、留守らしいじゃないか」ジェレミーがぼやきます。
「あら、ほんと。でも、とにかくのぞいてみるわ」わたしは疲れきったからだで車から降りると、玄関の石段を上がってベルを鳴らしました。ところが、どうでしょう、玄関の小さなホールに灯《あか》りがついて、小柄な老婆が白髪頭を突き出したではありませんか。
「おいでなさいませ、奥さん」その老婆が言いました、「ミュア神父にご面会ですか?」
「いいえ、そうじゃないんです。ドルリー・レーンさんは、おいででしょうか」
「ああ、あいにくと、奥さん」老婆は声をおとすといやに深刻な表情で、「レーンさんとミュア神父は、刑務所へ行かれましてね。わたくしは、クロセットと申しまして、こんなときの用事をうけたまわっているものでして。神父は――」
「まあ、刑務所ですって!」思わずわたしは叫んで、「こんな時刻に? いったい、どんな用事で?」
老婆は溜息をついて、「じつはね、今夜、死の家で、死刑があるんですよ。死刑囚というのは、なんでもニューヨークのギャングだそうで、スカルチとかなんとか、そんな外国風の名前の男なんですよ。ミュア神父は最後の儀式に、レーンさんは立会人として、お出かけになったので。あの方は、死刑の執行をじかに見たいとおっしゃって、それでマグナス所長がおまねきしたんですよ」
「まあ、そうですの」一瞬、わたしはどうしたものかと、ためらって、「なかで、待たせていただいていいかしら」
「あなたは、警部さんのお嬢さんではいらっしゃいませんか?」
「はい、そうですけど」
と、老婆の皺だらけの顔が、明るくなって、
「じゃ、どうぞお入りになってくださいませ、お嬢さん、おつれの方も、どうぞ」それからささやくような声で、「死刑の執行は、たいがい夜の十一時なんですよ。そ、それで、わたくしは、その時間にひとりぼっちでいるのがいやでしてね」老婦人は、やっと笑いをかすかに浮かべると、「刑務所というところは時間のやかましいところでしてね」
そのときのわたしは、かりに悪意のない世間話にせよ、死刑の話など聞く気分にはなれませんでした。で、ジェレミーを呼ぶと、わたしたち二人は神父の簡素な居間に入りました。留守番の老婆は、わたしたちとなにか話がしきりにしたいらしく、二、三度話しかけてきたものの、わたしたちが相手にしないものだから、それもあきらめて、溜息をつきつき、居間から出て行きました。ジェレミーは不気味に黙りこくったまま、あかあかと燃える暖炉の火を見つめているばかり。わたしも無言のまま、ジェレミーの顔を、熱にうかされたみたいに見つめていました。
それから三十分ばかり、そんなふうにしてじっと坐っていると、玄関のドアがバタンとしまる音がしました。そして、ミュア神父がレーンさんといっしょに居間に入ってきました。老神父の苦悩にゆがんだ顔からは血の気も失せて、油汗がジットリとういています。そのずんぐりした小さな手は、例のとおり、金色にきらめく新しい祈祷書をしっかりと握っていました。レーンさんの眸《ひとみ》は、まるでガラス玉のように空虚、そして、地獄をかいま見て魂をうばわれたかのように、ただ茫然と突立っているばかり。
ミュア神父は、無言のまま、わたしたちにうなずくと、言葉もなく肘掛け椅子に身をしずめました。やっとのことでレーンさんは、居間の入口からやってくると、わたしの手をとって、「こんばんは、クレイ君……ペイシェンスさん」老優は押し殺したような声で、「なにかご用でも?」
「ああ、レーンさん」わたしは叫びました、「とても怖ろしいニュースがあるんですの」
老優の唇に、かすかに陰鬱な笑いが浮びました、「怖ろしいニュース? わたしはいま、人間が死ぬところを見てきたばかりなのですよ。それよりも怖ろしいものが、この世にあるとでもいうのですか。死! それがどんなに簡単なものか、どんなに残忍な代物《しろもの》で、また、どんなに荒廃をきわめたものか、とうてい信じられないくらいです」レーンさんは、ふかぶかと息を吸いこむと、ブルッと身をふるわせて、わたしのそばの肘掛け椅子に腰をおろしました、「で、あなたのニュースというのは……ペイシェンスさん、いったい、どんなことです?」
わたしは救命具にでもすがりつくように、レーンさんの手をつかみました、「フォーセット博士が例の木箱のもう一つの片割れを受け取ったんです!」
十三 ある男の死
何週間もたったあとで、あの夜、ある一人の男が、どんなふうに死んでいったかを、わたしは話に聞いたのです。その男は、わたしにとっても、この事件の関係者にとっても、まったくなんの意味を持たない人間で、ドウにも、フォーセット兄弟にも、またファニー・カイザーにも、なんのつながりもない人間でした。だが、虫けらのような一生をおくり、悲惨な死に方をしたその男でさえ、その死にいたって、ドウやフォーセット兄弟や、ファニー・カイザーばかりではなしに、ほかの人々にまで影響をあたえるような、ある目的に貢献したのです。なぜなら、その男の死のおかげで、なにものにも発見されないまま、永遠に闇の中に葬られてしまったにちがいないある事実が、陽の目を見ることになったからなのです。
ドルリー・レーンさんは、そのときの模様をわたしに話してくれました。老優は、ミュア神父の家で、なすすべもなく時をすごしていたとき、スカルチという、暴力に生き、暴力に死に、その死はとりもなおさず、ほかの人々の利益でしかないような、生まれながらの悪党の一人である男の処刑が、間もなく執行されることを聞いたのです。ただ手をこまねいて、ジリジリしていた最中《さなか》でもあり、また、おだやかに暮らしてきた静かな人間によくある好奇心も手伝ってか、ドルリー・レーンは、その一週間前になって、処刑を見たいと、マグナス所長に頼んだというのです。
ちょうどそのとき、レーンさんと所長は電気椅子による死刑について、とりとめのない話をしていました。もっとも老優には、ほとんど初耳のことばかりでしたが。「刑務所の内における規律は」とマグナス所長が強調して、「平常でもいたって厳格なものでしてね――そうでなければおさまりがつきません。ところが、死刑執行という段になれば、これはもう絶対専制ということになります。むろん、死刑囚の監房は、隔離されます。しかし、なにか地下情報組織とでもいったようなものがありましてね、これがどんなに早く情報を伝えてしまうか、あなたには想像もつかないことでしょう。これは、ま、あたりまえのことですが、囚人たちは『死の家』で――そんなふうに呼んでいるのです――進行しているあらゆることに、全神経を奪われてしまいます。そこで私どもは、電気椅子による死刑が予定されたときには、とくに情報洩れのないように、警戒せねばなりません。いわば刑務所はごく短い期間にはちがいないが、狂暴きわまるヒステリー状態におちいるわけですからな。どんな重大な事態が突発しないともかぎりません。したがって私どもは、厳重に警戒するわけでして」
「たいへんな仕事ですな」
「いや、まったくそのとおりでして」マグナス所長はホッと溜息をついて、「ま、それはそれとして、同じ執行人がいつも処刑の任にあたることを、私は所内の不文律にしたのです。これは可能なかぎりの話ですがね。むろん時には、看守が病気だったりなんかで、出席できないこともあるわけですから、そのときは、代理をたてなければなりません。もっとも、そういったことは、まだありませんがね」
「なにが目的なのです?」レーンさんは、興味深げにたずねます。
「ま、目的というのは」マグナス所長はひややかな声で、「処刑に馴れさせるためですよ。電気椅子による死刑執行のあいだ、私のそばに、経験のある人間にいてほしいからです。なにが起こるか、わかったもんじゃありませんからな。そんなわけで、同じ七名の看守が、夜勤の中からえらばれて、常時、この|いやな《ヽヽヽ》仕事をやるのです。そして、二人の検屍医も、いつもおなじです。実際の話」所長は鼻高々と、「こんなふうに言わせていただくなら、私は電気死刑を立派な科学にまで育てあげた、というわけですよ。うちの刑務所では、まだ一度だってトラブルを起こしたことがありませんからね。うちの七人の看守たちは、いずれも粒よりの連中でしてね。それに規則は厳格で、たとえば、昼間の勤務の看守が、夜勤に変わることなど、絶対にないのです。したがって彼らは仕事に精通していますし、緊急事態の際には、いかに対処すればいいか、十分承知しています。ま、そういうわけですが」所長はするどくレーンさんの顔をみつめて、「で、あなたは、スカルチの処刑に立ち会ってみたいと言われるので?」
老優はうなずきました。
「よろしいですか? あれは気持ちのいいものではありませんからね。おまけにスカルチは、自分の死を、しずかに笑って迎えるなんて男じゃありませんよ」
「いや、なにごとも経験です」とドルリー・レーン。
「ごもっとも」と所長はひややかに言って、「承知しました。あなたがご希望なさるんでしたらね。法律では、刑務所長は、成年に達し、かつ立派な市民生活をいとなんでいる民間十二人に、処刑に立ち会ってもらうよう、招請状を送ることと、なっております。むろん、刑務所とは、いかなる関係もない市民ですがね。では、あなたに、その中に、加わっていただきます。あれを気になさらないと、強いておっしゃるならね。たしかにめったに得られないような経験です。いや、べつに大げさに言っているわけじゃないので」
「おそろしいことです」ミュア神父は、不安そうに言いました、「どんなにたくさん、私が|あれ《ヽヽ》に立ち会わされたか、それは神さまもご存じですが、|あれ《ヽヽ》には、あの中にある非人間的なものには、どうしても慣れることができません」
マグナス所長は肩をすくめて、「われわれにしたってたいがいのものが、神父さんとおなじような気持ちをなめますよ。この私なんかでも、ほんとうに自分が死刑を認めているのかどうかと疑問に思うときだって、ままあるのです。正直なところ、相手がどんな凶悪犯であれ、その人間の生命を奪う責任を持たされるということは、ひどい重荷ですからね」
「しかし、あなたにはなんの責任もないではありませんか」と老優は指摘しました、「ひっきょう、責任は、州当局にあるわけですからね」
「それにしても、この私が合図をしなければならないのですよ。それに執行人は、自分の手でスイッチを入れなければならないのですからね。そうなると、話は大変ちがいます。私が知っている知事なんかは、処刑の夜には官邸にいたたまれないで、どこかへ逃げ出してしまったものですよ。とても、じっとしていられるものじゃありませんからね――ま、とにかくよろしいですよ、レーンさん。ご希望どおり、お取り計らいしましょう」
そんなわけで、わたしがフォーセット博士を訪れた、あのスリリングな水曜日の夜には、レーンさんとミュア神父は、つめたい石壁の向こう側に行っていたのです。ミュア神父は、処刑される男の世話をいろいろとしなければならないので、一日中刑務所に詰めきりでした。レーンさんは、夜の十一時すこしまえに刑務所に行き、看守にみちびかれて、すぐに処刑室、別名『死の家』に案内されました。死の家は、陰気な四角い中庭の奥に建てられた、ひくい石造りの細長い建物で、獄中の獄とでもいった印象です。その建物の、異様でゾッとするような雰囲気に気圧《けお》されて、老優は処刑の部屋に入っても、すぐにはそれと気づかなかったくらいでした。それは、ひどく殺風景なガランとした部屋で、二脚の長椅子が置かれ、そして――電気椅子がありました。
老優が、この四角張って、ゴツゴツと固く醜い凶器に、注意を奪われたのは当然でした。椅子は、レーンさんの考えていたよりも小さく、思ったほど不気味でもなく、いささか、|あて《ヽヽ》がはずれた感じでした。電気椅子の背と腕と、脚の部分から、革の締め具が、ダラリと垂れています。椅子の背の上方には、ちょうどフットボール選手のかぶる金属製のヘルメットのような奇妙なものがついていました。これらの見馴れぬ器具は、まったく無害な代物《しろもの》としか思えず、そのときはただ、あまりにも奇怪すぎて、これが現実に人間の生命を奪う装置だとは思えないくらいでした。
ドルリー・レーンは、周囲を見まわします。老優は固い長椅子に腰をおろし、十一人の彼の仲間たちも、すでに着席しています。彼らは、いずれも年配の男たちで、顔は青ざめ、落ち着きを失っていました。だれひとり、言葉を発するものもいません。と、おどろいたことに、レーンさんは、二列目の長椅子に、ルーファス・コットンがいるのに気づきました。その小柄な老政治家は、蝋《ろう》のような顔色をして、どんよりと曇った眼を、電気椅子にそそいでいました。レーンさんは視線をそらすと、椅子に深くかけなおし、また室内を見まわしました。
部屋の一方の壁に、小さなドアがありました。それが仮死体安置室に通じていることを、老優は知っています。州当局の配慮によって、ここには、死刑囚の助かるようなチャンスは、万に一つもないのだ、ということを彼はあらためて考えたのです。処刑が終るとただちに、二名の検屍医がその囚人の法的死亡を宣告し、死体は次室に運ばれて解剖され、もし生命の火花が奇蹟的に残っていたにしても、手際よく完全に消しとめられてしまうのです。
長椅子に面したところに、もうひとつ、ドアがありました。小さな暗緑色のドアで、鉄の釘が打ちこんであります。このドアは、死刑囚の最後にたどる旅路となる、廊下に通じているのです。
いま、そのドアがひらき、無表情な顔つきの男たちが入って来ました。彼らの靴音が、固い床にひびきわたりました。中の二人が、黒い鞄を下げています。これは刑務所付きの検屍医で、法の命じるところに従い、すべての処刑に立ち会って、死刑を執行された者の死を宣告するのです。また、ほかの地味な服装をした三人の男は、裁判所の役人で、法の命により、その場に立ち会って、死刑の執行を検視する者たちでした。これは、ドルリー・レーンが、あとになって知ったことです。そして残りの三人は、刑務所の看守で、青い制服に身をつつみ、いずれも冷酷な顔をした連中でした。……と、そのときはじめてレーンさんは、部屋の一隅に、たくましいからだつきをした中年の男が立っているのに気づいたのです。この男は、壁のくぼみにある電気装置をしきりにいじっていました。その顔はまったくの無表情。いかにも鈍重で、白痴的な顔。これこそ、死刑執行人なのだ! この瞬間に至って、この室内のおそろしい現実感と、その残忍きわまる本質的な意味とが、ドルリー・レーンの心に致命傷をあたえたのです。咽喉《のど》の筋肉はひきつれ、さすがの老優もほとんど息もできない始末。いまやこの部屋は現実ばなれのした代物《しろもの》ではなかった。それは不吉な様相をおび、邪悪な生きもののように脈打っているのです。
老優は、かすんだ眼で腕時計を見ました。十一時六分すぎ。
と、ほとんど同時に、全員が、身をこわばらせました。そして室内は、死そのもののような重苦しい沈黙におおわれました。暗緑色のドアの向こうから、足をひきずる音が、一定の速度で足をひきずりながら進んでくる音がひびいてくるではありませんか。立会人は、その足音に神経をかき乱され、とうとう一人のこらず、その硬直したからだを前に乗り出し、椅子の縁《ふち》をにぎりしめたのです。そして、その足音とはべつに、骨身に突きささるようなにぶい声がきこえはじめます。それは、ひくい呟きと、嗄《しわが》れた、呻《うめ》くような慟哭《どうこく》。また、その不気味な声に和するかのように、死を告げる妖魔のうめき声を思わせる、他の死刑囚たちの叫び声が、死の部屋の向こう側の廊下にならんでいる監房のなかから、野獣の遠吠えのようにかすかにきこえてくるのです。見守っているのだ。彼らは見守っているのです。仲間がよろめきながら進んで行く最後の旅路を、その重い足どりを、永遠の虚無への歩道をおずおずと歩む恐怖の行進を。
足音は近づいた。そして、ドアが音もなくひらきました。立会人はいっせいに見た、冷たい血の気のひいた顔のマグナス所長を。かがみこんで、なかば失神したようにブツブツと祈りの言葉を、入ってくる前からつぶやきつづけているミュア神父を。さらに死刑囚の四人の看守たちを。いまや、全員もれなくそろったのです。ドアがしまった……ほんのしばらくのあいだ、まんなかにいる男は、人影にさえぎられて見えませんでした。と、やがて男の全身があらわれたとたん、そのまわりにいる連中は、まるで亡霊のようにかすんでしまったではありませんか。
青黒い、野獣のようなアバタ面の憔悴《しょうすい》しきった背の高い男でした。力なく膝をまげ、両脇を二人の看守に支えられています。その土色をした唇のあいだに、煙をたてているタバコがたれ下がっています。足には軽いスリッパ。右のズボンは、裾から膝まで破れて、ダラリと垂れています。髪は刈っていたが、ひげを剃ってはいません。……男はなにひとつ見ていなかった。男は、長椅子に並んでいる立会人たちに視線をむけてはいたものの、その水晶のような瞳は、すでに死んでいるのです。看守たちは、男を、まるで操《あやつ》り人形のようにあつかった。引っ張ったり、軽く押しやったり、低い声で命令したり……。
信じられないことだったが、男はもう電気椅子に坐らされていました。頭は深く垂れさがり、唇のあいだには、あいかわらずタバコの煙がくすぶりつづけている。と、七人の看守のうちの四人が、まるで自動人形のような正確さで、椅子のそばにサッと進み出ました。無駄な動きは、ひとつとしてなく、無駄な時間は一秒もありません。看守の一人が、死んだようになっている男のまえに膝まずくと、すばやく、男の足に革の締め具をはめた。二番目の看守が、男の腕を椅子の腕木に固定した。三番目の看守が、厚い締め具を、男の胴に巻きつけた。そして四番目の看守が、黒っぽい布を取り出し、しっかりと男の眼の上からしばりつけた。と、間髪入れず、四人の看守は木彫りの面を思わせる無表情な顔で、サッと立ち上がり、うしろに引き退ります。
と、死刑執行人が、部屋の一隅から、音もなく現われました。だれひとり、口をきくものはいません。執行人は処刑される男のまえに膝まずき、その長い指をした手で、死んでいく男の右脚に、なにかをとりつけはじめました。死刑執行人が腰をあげたとき、ドルリー・レーンは、彼が男のむき出しにされた|ふくらはぎ《ヽヽヽヽヽ》に取りつけた、電極を見ました。と、死刑執行人は、サッと電気椅子のうしろに回ります。彼は長年の経験をつんだ熟練者の手つきで、髪の毛を刈りとられた男の頭に、金属製の帽子をかぶせました。彼は音もなく、迅速にそれらをやってのけた。彼は一切の準備を完了し、死刑囚スカルチは、さながら奈落の淵に不安定におかれた彫像のように前後に揺れながら、ただ――待っていた……。
死刑執行人は、ゴム底の靴で音もなく、もとの壁のところにもどって行きます。
マグナス所長は、手に時計を持ち、無言のまま立っていました。
ミュア神父は、看守の一人にもたれかかり、十字をきりました。老神父の色あせた唇は、ほとんど動きません。
その瞬間、時は歩みをとめた。そしてそのとき、天使の羽ばたきに呼び起こされたのであろうか、スカルチはブルッと身をわななかせた。男の土色の唇のあいだから、煙をあげていたタバコがポトッと落ち、窒息したような呻《うめ》きがもれた。それは、防音された部屋の壁から壁へとさ迷い、やがて、失われた魂の死の叫びのように消えて行きました。
マグナス所長の腕が、大きな弧をえがいて、サッとあがり、そしておりた。
長椅子に腰をおろしているドルリー・レーンは、なんとも言いようのない激情に息がつまり、胸をはげしく鼓動させ、あえぎながら、死刑執行人の青服の左腕が、部屋の隅の壁のソケットに、サッとスイッチをおろすのを見たのです。
その一瞬というもの、ドルリー・レーンは、どこか超自然界からの信号のように、自分の胸をゆさぶりつづける振動が、はげしく鼓動している心臓の|せい《ヽヽ》だとばかり思っていました。だがすぐに、それは錯覚で、一気に解放された電流が、電線にあふれるばかりに湧き立ち、奔流しながらあげる叫びに、神経のささくれだった自分の皮膚が反応しているのだと、彼はさとったのです。
処刑の部屋の煌々《こうこう》と輝く明かりが、サッと薄暗くなりました。
と、電気椅子の男は、スイッチが入れられると同時に、からだを締めつけている革紐をひきちぎろうとでもするかのように、強く身を突き上げました。細い一条の灰色の煙が、金属製の帽子の下からユラユラと立ち昇った。椅子の腕を握りしめた手は、ゆっくりと赤らみ、そしてゆっくりと蒼白くなっていきます。頸部の血管が、タールを塗ったロープのように脹れあがり、醜い鉛色をさらしています。
スカルチは、まるで棒をのんだみたいに体を硬直させて、坐っています。
明かりは、またもとにもどりました。
二人の検屍医が歩み出て、一人ずつ、電気椅子の餌食となった男の裸の胸に、聴診器をあてました。やがて二人はうしろにさがり、顔を見合わせます。そして年上の方――白髪で無表情な眼をしている医師が、無言で合図しました。
ふたたび、死刑執行人の左腕がおろされた。ふたたび明かりは暗くなった……。
そして二度目の検診を終えて、医師たちがひき退ったとき、白髪の医師が、法の命じるところに従って、低い声で、言いました、「所長、私はこの男の死を宣告します」
死体はグッタリと電気椅子にもたれかかっていました。だれひとり、身じろぎひとつするものはありません。死体置場兼解剖室になっている次室につづくドアがひらき、白い車つきの解剖台が入ってきました。
そのとき、反射的に、ドルリー・レーンは時計を見ました。十二時十分。
死刑囚スカルチは死にました。
十四 第二の木片
ジェレミーは椅子から立ち上がると、部屋の中を歩きはじめました。ミュア神父はぼんやりした様子で化石のように坐ったまま。神父の耳には、なにひとつ、言葉が入っていなかったのにちがいありません。神父の眼差しは、わたしたちの想像を絶する、はるか彼方に向かって投げられているのです。
ドルリー・レーンさんは、まばたきをすると、ゆっくり口をひらきました、「お嬢さん、フォーセット博士が木箱のもうひとつの片割れを手に入れたのを、どうして知ったのです?」
そこでわたしは、その晩の冒険|譚《たん》を話しました。
「どのくらいはっきりと、そのフォーセット博士の机の上にあったものを見たのですか?」
「ちょうど、あたしのまんまえにあったんです。十五フィートとは離れていませんでしたわ」
「フォーセット上院議員の机のところで見つけた片割れと、おなじ形に見えましたか?」
「いいえ、ちがっていました。両側が開いていたんです」
「ほほう! すると、木箱のまんなかの部分ですな」老優は口のなかで呟くように言って、「表面に文字があったかどうか、見ませんでしたか、お嬢さん? フォーセット上院議員の受け取った片割れにあったHEにあたるような文字が?」
「そうですね、たしかに表面に、なにか文字があったような気がするんですけれど、はっきり見るには、ちょっと距離がありましたわ」
「それは残念でしたね」老優は思いに沈み、じっと椅子に腰をおろしていました。やがて、レーンさんは身を乗り出すと、わたしの肩をたたいて、「いや、一晩の仕事にしては、なかなか立派なものですよ、お嬢さん。私には、まだよくわからないところもあるが――ではそろそろ、クレイ君に送ってもらうことになさったがよいでしょう。かなりひどい目にお会いになったわけだから――」
わたしたちは、眼と眼を見かわしました。ミュア神父は椅子に坐ったまま、なにやらブツブツ呟いているだけ。神父の唇はふるえていました。ジェレミーは、窓の外をじっと見つめています。
「じゃ、レーンさんがお考えになっているのは――」わたしがゆっくり言いかけると、老優はさえぎって、
「なにもかもですよ、お嬢さん。さ、ではおやすみなさい。心配なさることはありませんよ」
十五 脱走
その翌日は木曜日でした。その日は朝からあかるく晴れ上がって、あたたかくなりそうな日和でした。父は、わたしがリーズ市で無理に買わせた洒落《しゃれ》た麻の服を着込んで、とてもスマートに見えたけど、父ときたらブツブツ訳のわからないことばかり呟き、あげくのはてに、『わしは百合《ゆり》の花じゃないぞ』などと吐き出すように言って、ノソノソ歩きまわるばかり――そして父は、たっぷり三十分ものあいだ、だれか知っている人に見られるのが心配のあまり、クレイ家から一歩も出ようとしないんですからね。
その日は――ずっとリーズ市にいたわけですが――まったくいろいろなことが起こりました。わたしには、いま、まざまざとその日のことが思い出される。センスのある人なら、麻の服に似合うと考えるにちがいない、素敵なオレンジ色のネクタイを、父に買っておいたのですけど、そのネクタイを、父にさせるためには、わたしが自分で結んでやらなければならないという始末なんです。しかもその間中、父ときたら、ブツクサ言いつづけ、世にも不幸な顔をしているじゃありませんか。父は、まるで大罪でも犯したような顔をしていて、せっかくのスマートな装いも、囚人服のように見えます。ほんとにお馬鹿さんよ、パパは!
父ときたら、度し難い石頭なのだけど、それだけに、父をキチンとした身装《みな》りにさせてあげるのが、わたしにはとても嬉しかった。それなのに、父には、わたしの気持ちが、これっぽっちもわからなかったようです。
父とわたしが散歩に出かけることをきめたのは、もう昼近くなってからのことでした。わたしたちというより、わたしがそう決めたのです。
「丘のほうへ行ってみましょうよ」とわたしは言ってみました。
「こんな、とんでもない格好でかね?」
「むろんよ」
「わしはいやだね。行かないよ」
「あら、かまわないじゃないの。年寄りの怠け者なんか、まっぴらだわ。こんな素晴しいお天気なのよ」
「ところがわしには、そうじゃないんだ」と父はうなり声をあげて、「それにわしは――つまりその、調子がよくないんだよ、どうやら左足のリューマチが出たらしい」
「まあ、こんな高原にいるくせに? ね、レーンさんのところへ行きましょうよ。パパの素敵な服をお見せするといいわ」
そうして、わたしたちは散歩に出たのです。わたしは道すがら、路傍の野の花を、手にいっぱい摘みました。父も、やっと気がかりを忘れ、かなり愉しそうになりました。
ミュア神父の家に着くと、ちょうどレーンさんは、ポーチで読書にふけっているところでした。そして――ああ、なんということでしょう――老優は麻の服に身をつつみ、オレンジ色のネクタイをしめているじゃありませんか!
父とレーンさんは、老いたる道楽者よろしく、おたがいに見つめあいました。父は照れくさげな様子で、一方レーンさんはクスクス笑い出します。
「なかなか素敵な|いでたち《ヽヽヽヽ》ですな、警部さん。ペイシェンス風というわけですか。まったくあなたには、お嬢さんが必要ですよ」
「いや、はじめて着てみたところなんですがね」父はボソボソ言いましたが、だんだん愉快そうになってきて、「ま、なんにしても、やっとお仲間ができたわけですな」
ミュア神父が家の中から出て来て、わたしたちをあたたかく招じ入れてくれました。――神父は、前夜のショックで、まだ顔色も青ざめ、沈鬱な様子をしていました――わたしたちは、みんな椅子に腰をおろしました。よく気のつくクロセット夫人が、アルコール分をぬいた冷たい飲物を、お盆にのせてあらわれました。老優が話しているあいだ、わたしは、ちぎれ雲の浮かんでいる青空をながめていました。この家の、すぐそばにあるアルゴンキン刑務所の高い灰色の石塀を、できるだけ見ないようにしていたのです。いま、ここは暑い夏、それなのに、あの石の塀の内側には、つめたい冬以外の季節はないのです。ふとわたしは、あの哀れなエーロン・ドウはどうしているかしら、と思ったりしました。
時は音もたてずにひっそりと過ぎて行きました。わたしは椅子に身をゆだね、忘我の淵をさ迷いながら、美しい青空にひきこまれていました。そうしていると、いつのまにか、昨夜の出来事に立ち戻って行くのです。あの小さな木箱の第二の片割れ――あれは、なんのまえぶれなのだろう?
あの片割れが、アイラ・フォーセット博士にとって意味のあるものだったことは、火を見るよりも明らかです。博士の顔にあらわれたあの歪んだ表情は、博士が、その意味を知っていることを、ありありと示しているのです。あの表情は、未知のものへの気味悪さ、などというものでは絶対にありません。では、あの片割れは、どうやって博士の手に入ったのか? いったい、だれが送りつけたのか――? 思わずわたしは、不安に駈られて、ガバッと身を起こしました。|エーロン《ヽヽヽヽ》・|ドウが《ヽヽヽ》、|あの木箱の片割れを送った《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》|のだろうか《ヽヽヽヽヽ》?
わたしは深く思いあぐねたまま、ふたたび身を椅子にしずめてしまいました。あの二番目の片割れは、事件に新しい展開をあたえたことになります。第一の木箱の片割れは、あの無実なドウが送ったもの――それは、ドウが自分で白状している――そして推測によると、ドウは刑務所の木工場で、自分でそれを作ったのです。では、ドウは、二番目の片割れも自分で作り、どこか秘密の経路を通じて、|第二の犠牲者《ヽヽヽヽヽヽ》にそれを送りつけたのだろうか? わたしははげしい興奮にとらえられ、胸は早鐘のように打ちました。だが、それでは辻褄《つじつま》があわない。だってエーロン・ドウはフォーセット上院議員を殺害しなかったんだから――わたしの頭は、クラクラしてしまいました。
十二時半をすこしすぎたころ、わたしたちの注意は、するどく刑務所のほうにむけられました。ほんの少しまえまでは、いつもと変わったところはぜんぜんなかったのです――武装した警備員が、厚い壁の上を、ゆっくり巡回していたし、みにくい見張所はまったく静かで、にぶく光って突き出ている銃口にさえ、気がつかなければ、そこにはまるで人気《ひとけ》がないように見えます。だが、この瞬間、いつもとはちがう騒々しい動揺が起こっているではありませんか。
わたしたちは、いっせいに椅子から身を起こしました。男たちは話をやめた。わたしたちはじっと見まもりました。
巨大な鋼鉄の門が内側にひらき、青い制服の看守が、拳銃を吊し、銃を持ってあらわれました。その看守はふりかえるなり、たくましい肩をこちらにむけてなにか怒鳴りましたが、なんと言っているのか、わたしたちにはよく聞きとれません。と、二列縦隊にならんだ男たちが門から出て来ました。囚人たちです。彼らは土煙をたてて、道路を行進してゆきます。めいめいにツルハシかシャベルを持ち、頭をもたげて、飢えた犬のように、外気の甘い香りをクンクンと嗅いでいます。囚人たちは、いずれもおなじ服装をしていました――重いドタ靴を履《は》き、ヨレヨレの灰色のズボンとコートを纏《まと》い、下に粗い布地のシャツを着ています。二十人ほどの一隊で、明らかに丘の向こうを目指していました。どこか森のほうで、道路をなおすか、つくるかするのです。列の先頭の男が看守の号令で不器用に左むけをすると、そのまま隊列はゆっくりと遠のいて行きました。もう一人の武装した看守が、列の後尾につきました。最初の看守は、二列の縦隊を監視しながら、その右を進み、ときおり大声で号令をかけます。そうして、二十二人の男たちは姿を消しました。
わたしたちはまた椅子の背にもたれました。ミュア神父が、ものうい口調で、「あれが囚人たちには天国なのですよ。なにせ辛い仕事です。まったく背骨の折れるような仕事なんですがね。でも聖ジェームズもおっしゃっているように、『働いていれば、悪魔もよりつく隙がない』というものです。それに、これは外に出られることですからね。高い壁を越えて、外の世界に出ることなんです。囚人たちは、この道路工事に出かけるのが、とても好きなんですよ」こう言うと、神父は溜息をつきました。
事件はちょうど、その一時間と十分の後に起こったのです。
クロセット夫人は、軽い昼食をつくってくれました。わたしたちはポーチに出て、またのんびりとくつろいでいました。と、ちょうどさっきとおなじように、塀の上で何事かが起こって、わたしたちの注意をひきつけたのです。会話は、ピタリとやんでしまいました。
塀の上を巡回していた警備員の一人が立ちどまって、まるで凍りついたように、じっと中庭を見おろしているではありませんか。なにか一心に聞いているようです。わたしたちは、椅子の中で身を硬直させました。
それが、はじまったとき、わたしたちはみんなギクリと身をちぢめ、震え上がってしまったのです。あらあらしく、なまなましく、残忍そうな――ながく突きぬけるように、かん高い、むせび泣く警笛のひびきが、周囲の丘に怖ろしくこだまして、やがて断末魔の悪魔の呻きのように消えました。それは消えたかと思うと、また起こり、また消え、そしてまた起こったのです。思わずわたしは耳をおおい、叫び声をあげそうになったくらい。
警笛が鳴りはじめた瞬間、ミュア神父は椅子の腕をにぎりしめ、シャツの襟よりも蒼白になってしまいました。
「警笛です」神父がささやきました。
わたしたちは、まるで麻痺したように、その悪魔の交響楽にきき入りました。やがてレーンさんが、するどい口調で、
「火事ですか?」
「いや、脱獄でしょう」父が唇をしめしながら、うなり声をあげます、「パット、家の中にお入り――」
ミュア神父はじっと石の塀をみつめていました、「いや、ちがう、脱走です――おお、神さま」
わたしたちは椅子からとび上がり、いっせいにバラの咲きみだれている塀に向かって駈けおりて行きました。アルゴンキン刑務所の石の塀は、警笛のひびきに応じるかのように硬くそそり立っています。その上に立つ看守たちは、五体をこわばらせて八方を睥睨《へいげい》し、銃をにぎりしめていました――身をふるわせ、なにをすべきかも決めかねていたが、どんな事態にも応じようとしているようです。鋼鉄の門がふたたびひらきました。そして大型自動車がライフル銃で武装した青服の看守たちを満載して、うなりをあげて道路に走り出たかと思うと、タイヤをきしらせ、はげしく左側に傾いたとみるや、たちまち視界の外に消え去ってしまいました。さらに、そしてさらに、つぎの車がつづき、爪先まで武装した看守たちを満載して、五台まで通過しました。彼らはカッと眼をみひらき、じっと前方をみつめています。青ざめて硬い表情をしたマグナス所長が、最初の車の運転手の横に乗っていたようです。
ミュア神父は喘ぐように、「失礼」と言うと、僧衣の裾をからげ、土けむりをあげながら、刑務所の門のほうへ、道路を駈けあがって行きました。わたしたちは、神父が、門のすぐ内側にたたずんでいる武装した看守の群れのほうに走って行き、そこで足をとめると、男たちとなにか喋りはじめたのを見ました。男たちは、左手のほうを指で示しました。そこには、刑務所の横手から下方にかけて深い森が丘の麓までひろがっているのです。
神父はうなだれて、絶望にうちひしがれた様子で、ノロノロとひきかえしてきました。
「どうなんですの、神父さん」ミュア神父が法衣のくたびれた襞《ひだ》をさぐりながら、小門をくぐって、わたしたちのそばに立ったとき、わたしはせきこんでたずねました。
神父は頭をあげません。その顔には、当惑と、苦悩と、そしてあれこれ言うことを憚《はばか》るような、傷ついた表情がうかんでいます。それは、なにか突然信頼を裏切られた、とでもいうような感じで、神父には経験したこともない心の打撃であるかのようでした。
「道路工事に出ていた囚人の一人が――」神父は口ごもりながら言いました、その指はブルブルふるえています、「作業中に逃亡を計ったのです。そして――そしていなくなったのです」
ドルリー・レーンさんは、きびしい眼差《まなざ》しを丘のほうに投げました、「で、それは――?」
「私は――」小柄な神父の声がふるえました、そして顔をあげると、「その囚人は、エーロン・ドウなのです」
わたしたちはみんな、あまりの驚きに黙りこんでしまいました。少なくとも父とわたしにとっては、すぐにはなんのことか呑みこめないほど、思いがけないことでした。エーロン・ドウが逃げた! たとえなにが起こったにしても、またどう考えてみても、こんなことが起ころうとは、夢にも予期していなかったことです。
わたしは、老優の顔を見ました。そして、レーンさんは、はじめからこのことを予期していたのではないかと、疑ったのです。老優の、するどい彫ったような顔は、あくまでも平静そのものでした。そして、見惚れるような放心の態《てい》でたたずんだまま、はるかにひろがる丘の斜面を見つめています。それはちょうど、たぐい希《ま》れな落日の光景に、心をうばわれた画家の姿のようでした。
とにかく待つ以外には、わたしたちには打つべき手はありませんでした。わたしたちは、ミュア神父の家で、その午後中、ずっと待ちつづけました。話すこととてほとんどなく、笑い声も起こりませんでした。老優たちは、ふたたび、前夜の、あのいまわしい気分につつまれていたようです。事実、死は、小さなポーチにその影を落とし、その中でわたしは、死から逃れようとあがくスカルチを見ながら、あの不吉な処刑室に坐っているような気持ちにさえなりました。
午後中、刑務所の内外では、働き蟻のような活動がつづいていました。わたしたちは、むなしく沈黙して、ただそれを眺めているばかり。わたしたちの神経は、ショックに打ちひしがれていました。なんどか、老いた神父は情報をもとめて、刑務所に出かけ、そのたびに、なんのあたらしい事実も持たず、手ぶらで帰ってくるのです。ドウは、依然、行方がわかりませんでした。付近一帯はくまなく捜索されました。近辺の住民たちは警告をあたえられ、サイレンが絶え間なくひびきわたりました。刑務所では、わたしの知っているかぎりでは、最初の警笛と同時に囚人たちは各監房ごとに区分され、独房に監禁されることになっていました。逃亡者が逮捕されるまで、囚人たちはそこから出してもらえないのです。――そして午後もまだ早いうちに、道路工事に出ていた一隊が帰ってくるのが見えました。囚人たちは、六人の警備員の銃口に威嚇《いかく》され、鉄の規律の下に、ギクシャクした足どりで行進して来ます。そして二列の縦隊には――わたしは数えるともなく数えた――十九人の男しかいません。囚人の一隊はたちまち刑務所のなかに消えてしまいました。
午後遅くなって、捜索に出ていた車が帰ってきはじめました。最初の車に、マグナス所長が乗っています。看守たちが、疲れきった様子で、門の内に降り立ったとき、所長がその一人に――看守長ですよ、とミュア神父が低い声で父に教えました――なにか厳しい口調で、咆えるような大声で命令しているのが、こちらから見えます。それから、重い足どりで、所長はわたしたちのほうにやって来ました。所長はゆっくりと、あえぎながら石段をのぼって来ます。彼のずんぐりしたからだには、深い疲労の色があらわれており、その顔は、汗とほこりにまみれていました。
「やれやれ、どうも」肘掛け椅子に身をしずめると、ホッと吐息をついて、所長が口をひらきました、「これは、あの男がやりおったことです。どうです? お気に入りのドウを、なんとお思いになりますね、レーンさん?」
老優が答えました、「野良犬だって、追いつめられれば、牙をむきますよ、所長さん。やった覚えのない犯罪で終身刑にされるのは、あまり嬉しいとはいえませんからね」
ミュア神父が、小声で言いました、「なにも手がかりはないのですか、マグナスさん?」
「いっこうに。あの男は、大地に呑まれたみたいに消えてしまいましたよ。断言してもいい――こいつは、一人でやった仕事ではありませんな。やつには共犯者がいる。さもなければ、もうとっくに、あいつをひっ捕えているところです」
わたしたちは黙って坐っていました。なにも言うことはありませんでした。やがて看守の一団が、刑務所の門を出て、こちらに向かって進んで来ます。所長が早口に言いました、
「神父さん、ちょっと調べたいことがありましてね。それをここで――このポーチでやらしていただくことにしたんですが。刑務所の中でやって、士気を乱すような事があってはつまりませんのでね。いや、実際、いやなことなんです――おさしつかえはないでしょうか?」
「それはもう、かまいませんとも」
「いったい、なにをするんです、マグナスさん?」父がつぶやくようにたずねます。
マグナス所長はきびしい面もちになりました、「いろいろ考えることがありましてね。ま、たいていの場合、脱走計画は、囚人たちのあいだだけで企てられるものなんですよ。仲間の囚人たちが脱走の手助けをし、頼まれたものたちも、なにも言いません。そういった脱走は、ほとんど例外なく失敗します。いずれにしろ、脱走なんて、ほとんどありはしません。うちでは十九年間に、たった二十三回です。そして、まんまと逃げおおせたのは、わずか四人ですからな。そこで囚人たちは、実行にかかるまえに、確実に逃げられるかどうか、十分たしかめるわけです。失敗すれば、それこそ、なにもかも失う破目になるのですからね。――まず持っていた特権は、ことごとく剥奪《はくだつ》されます。こいつは、なんといっても辛いことですよ。しかしですな、今回の場合には、ひとつ気づいたことがあるんですよ――」所長は口をつぐみ、顎《あご》を固く噛みしめました。そのとき、看守の一団が、ミュア神父の家の石段のところまでやって来て、気をつけの姿勢をとりました。その一団のうちの二人が、武装していないのにわたしは気がつきました。そして、その二人を取りかこんでいる残りの連中の態度には、どこかにわたしをふるえあがらせるようなものがあります。
「パーク! カラハン! こっちへ来い!」と、マグナス所長が怒鳴りました。二人の男は尻込みしながらも、前に出てくると、石段をのぼって来ました。二人の顔は青ざめ、土ほこりの縞《しま》ができています。二人とも、ひどくおびえきっていますが、とりわけ、片方の男――パークのほうはすくみあがり、下唇をワナワナふるわせて、叱られた子供みたいにすすり泣いています。
「おい、どうしたんだ?」
パークは唇のあいだから唾を吐きました。だが、ボソボソ答えたのは、カラハンのほうです、「あいつは監視の隙を狙ったんです、所長さん。あなたもお聞きになったはずです。私たちは、これまで八年間、道路工事中に逃げ出させるような真似は、一度もさせませんでした。岩に腰かけて、やつらが働くのを見張っていたんです。ドウは水運びをやっていたんで、道路の下の方にいました。それが、まるで突然、桶《おけ》をほうり出して、アッという間に森の中へ駈けこんでしまったんです。パークと私は――あとの連中に道路に伏せろ、と怒鳴っておいて、すぐさま、やつを追いかけたんで。私は三発射ちました、しかし、どうも私は――」
所長は手をあげました。カラハンは口をつぐみました、「デリー」マグナス所長は、下にいる看守のひとりにしずかに声をかけました、「私が言いつけたように、道路を調べてみたかね?」
「はい」
「なにが見つかった?」
「ドウが森にとびこんだところから二十フィートはなれた木から、つぶれた弾丸を二発、発見しました」
「道路の同じ側かね?」
「いいえ、反対の側です」
「そういうわけだな」マグナス所長はおなじ静かな口調で、「おい、パークとカラハン、ドウを逃がしてやって、いくらもらった?」
カラハンは口ごもって、「そ、そんな、所長、私らは決して――」だが、パークの膝は、ガクガクふるえはじめました。そして叫び出しました、「だから言ったんだ、カラハン! おれを引っ張りこみやがって、この野郎! だからおれは、そんなことはできないって――」
「おまえたちは賄賂《わいろ》をとったんだな、え?」マグナス所長は噛みつくように言いました。
パークは両手で顔を蔽うと、「はい、所長」
わたしは、これを聞いてレーンさんが、ひどく困惑しているように思いました。老優の眼が暗く光り、じっと考えこんだまま、椅子によりかかりました。
「だれが賄賂《わいろ》をくれたんだ?」
「リーズ市の人間です」パークはのろのろ答えます。カラハンの顔は、見るからに凶悪になりました。「名前は知らないんです。だれかの代理なんです」
レーンさんは、咽喉《のど》の奥で、奇妙な音をたてました。そして椅子から身を乗り出すと、所長の耳になにやらささやきました。マグナスはうなずくと、「ドウは、どうやって手筈を知ったんだ?」
「わかりません、所長。誓います。ほんとうに知らないんです。なにからなにまで、ちゃんとでき上がっていたんです。私らは、刑務所のなかでは、やつに近づかないようにしていました。私らは、ドウのほうの手筈は、つけてある、とだけ言われたんで」
「いくらもらったんだ?」
「ひとり、五百ドルです。私は――私はやる気はなかったんです、所長。ただ、女房が手術をするというんで、それに子供が――」
「もう話はすんだ」マグナスは素気《そっけ》なく言って、グイッとうなずきました。二人の看守は、刑務所のほうに連れ去られて行きました。
「マグナスさん」とミュア神父が、心配そうに言います、「どうか苛酷なことはしないでください。あまり酷く責めないで。解職ぐらいにしてやってくれませんか。私はパークの妻を知っていますが、彼女はほんとうに病気なんです。それにカラハンもけっして悪い人間じゃない。なにせ二人とも家族もちです。ところが、あなたも知っているように、ここの給料は――」
マグナスは溜息をついて、「わかってます、神父さん、それはわかってます。といって、前例をつくるわけにはいかんですからね。私の自由にはならんのです。ほかの看守たちの士気をゆるめることになりますからな。そういうことが、囚人にどんな影響をあたえるか、知っていらっしゃるでしょうに」所長は小さく、曖昧《あいまい》な身振りをして、「おかしいですな」そう口のなかでつぶやくと、「ドウは、いつ脱走するのか、どうやって連絡されたのかな、パークが嘘をついているのでないとすると――刑務所のどこかに穴があるような気が、かなり前からしていたんです。それにしても、その方法なんだが――利巧なやり方なんでしょうが――」
老優は、憂わしげに、赤い夕日をながめています、「わたしは、そのことで、お助けできそうですよ、所長さん」レーンさんは呟くように言って、「たしかに、利巧なやり方です。だが、わかってみれば、じつに簡単な方法ですがね」
「ほう?」マグナス所長は、眼をパチパチさせて、「どんな方法なんです?」
レーンさんは肩をすくめて、「わたしは、ときどき、このことを考えていたのですが、あるおかしな現象を見ましてね。その結果、そのおかげでなんですが、つまらないことを考えついたのですよ。わたしはまだ、これを他人《ひと》に喋ったことはないのですがね。というのは、途方もないことに、わたしの旧友ミュア神父が、これに関係している、ということになるからです」
神父の皺《しわ》くちゃな口が、あんぐり開きました。マグナス所長は、すごい勢いで跳び上がって、
「そんな馬鹿な! だれが信じるものですか!この神父さんにかぎって――」
「いやいや、それはよくわかっています」レーンさんはおだやかに言って、「ま、椅子におかけなさい、所長さん。どうか落ち着いてください。あなたも、神父さん、そうびっくりなさらないで。なにもあなたが悪いなどと責めるつもりはないのですから。とにかく、わたしの説明を聞いてください。じつは神父さんといっしょに暮らすようになってから、わたしはちょくちょく、おかしなことを見たのですよ、所長さん。それ自体は、まったく罪もない出来事なのですが、じつに巧妙な話で、あなたの刑務所の情報洩れにぴったり符合するのです。そこでわたしは、こう結論せざるを得なかった――神父さん、最近、町へお出かけになったときの、なにかいつもと変わった出来事を思い出しませんか?」
神父のかすんだ眼に、思案の色が浮かびました。厚いレンズの向こうで、神父の眼は、真剣な色をみせたまま動きません。やがて神父は|かぶり《ヽヽヽ》をふって、「いや、いっこうに――どう考えても思い出せません」そして神父は、いかにもすまなそうに微笑しました、「私がよく他人《ひと》とぶつかることをおっしゃっているのでなければ、べつにこれといって――ご存じのように、私はひどい近眼ですからね、レーンさん、それに、よく上《うわ》の空でいるものですから――」
老優はほほえみました、「そのとおりです。あなたは強度の近眼で、上の空で、リーズ市へ行くと、よく道路で人にぶつかります。これですよ、所長さん。私はまえに、これを疑ってみたのです。正確な手順はわかりませんでしたがね。で、どうなりますか、神父さん? あなたが――その、罪もない者とぶつかると」
ミュア神父は困ったような顔をして、「それは、どういう意味でしょう? みなさん、じつに親切ですし、私の僧衣には敬意をはらってくださるようですよ。いつか、私の傘《かさ》が歩道に落ちたときも、帽子のときも、祈祷書のときも――」
「ほう、祈祷書ですか! いや、思ったとおりです。で、親切な人たちは、落ちた帽子や祈祷書をどうします?」
「そりゃあなた、拾って、私に返してくださいますとも」
レーンさんは、クスクス笑って、「おわかりでしょう、所長さん。なんと単純ではありませんか。その親切な人たちは、あなたの祈祷書を拾う。いいですか、神父さん、あなたの祈祷書はべつにとっておいて、ほかのものを、あなたに渡すのですよ。おなじものに見えてもじつは違うのです。そして、その取りかえられた祈祷書のなかに、おそらく、あなたが刑務所へ運んで行くことになる通信が入っているか、その親切な通行人が盗んでしまった分のなかに、刑務所から外部にあてた通信文があるか、そのいずれかだと思いますね」
「それにしても、どうしてそんなことを考えつかれたんです?」所長は、ボソボソ言いました。
「べつに不思議なことではありません」老優はほほえんで、「わたしはたびたび、この善良な神父さんが、すこし傷んだ祈祷書を持って出かけるのを目にするのですが、神父さんは帰ってくるとき、目立ってま新しいのを持っていることが、よくあるのです。神父さんの祈祷書は、けっして古くならないのですよ。不死鳥みたいに、灰の中から甦《よみが》える、というわけですな。で、さきほどの推理を立てざるを得ないのです」
マグナス所長は、ふたたび椅子から腰をあげると、ポーチを大股に歩きまわりました、「そのとおりだ、まったく巧妙きわまる。いや、神父さん、そんなにしょげないでください。なにもあなたのせいじゃありません。だれが、これをやっていると、お思いですか、どうです?」
「私には――私にはまるで見当もつきません」神父は口ごもって言います。
「こいつはタッブの仕業ですよ。そうにきまってます!」所長はクルッとふりかえって、「タッブだけにできるんです。いいですか、ミュア神父は、教悔師であると同時に、図書館の責任者でもあるのです――大きな刑務所には、かならず図書館がありましてね。で、神父さんには助手がついているのです。こいつは、囚人で、タッブという男です――模範囚の一人で、たしかな男なんですがね、しかし、罪人は罪人ですよ。やつが神父さんを道具に使ったのにちがいありません。囚人たちと外部との連絡者になって、手紙や情報をやりとりして、そのたびに、だいぶ稼《かせ》いでいるんでしょう。ああ、これでなにからなにまではっきりしました。ほんとうにありがとうございました、レーンさん。五分もしないうちに、その悪党の油をしぼってやります」
所長は眼をギラギラさせると、急ぎ足で刑務所にとってかえして行きました。
高い木立の影が、丘の斜面にくろぐろとのびて、暗闇がしのびよってきました。黄昏《たそがれ》とともに、捜索者たちはほとんど刑務所へ引きあげてきました。看守たちの照らす光が、道路にせわしく揺れています。だが、彼らは空手《からて》でした。ドウは依然として、自由なのです。
わたしと父は、クレイ家に帰るか、神父さんの家で待っているか、これよりほかに仕様がありませんでした。そこで、わたしたちは、待つことにきめました。父は、わたしたちのことを心配しないように、エライヒュー・クレイに電話しました。父もわたしも、人間狩りの結果を知らぬままに、アルゴンキン刑務所のそばから、はなれられそうになかったのです。そしてわたしたちは、更けていく夜の中で、ひとかたまりになって、黙りこくったまま、椅子に坐りこんでいました。一度、猟犬の吠え声を聞いたような気がしたけれど――
喰わせもののタッブの一件は、ミュア神父をのぞいたら、ほとんどわたしたちの関心をひきませんでした。神父は、浮かぬ顔をして、図書館の助手を勤めた『あれほど宗教の本に関心を持ち、囚人たちのあいだで、いちばん読書家だった立派な若者』が、こんな酷《ひど》いことをするとはとても信じられない、と言いました。
しばらくたって、もう夜の十時ごろでしたが――わたしたちは、お昼からなにも喰べていなかったのですが、だれひとり、お腹《なか》が空いたものはなかったくらい――神父は心配のあまり、もうそれ以上じっとしていることができなくなり、なにやら言い訳をすると、刑務所のほうへ、道路を小走りに駈け上がって行きました。だが、やがて引き返してきたとき、神父の姿はひどい苦渋の色にぬりつぶされていたではありませんか。神父は両手を固く握りしめ、慰めようもないほどに拉《ひし》がれ、その顔には、二度と拭い去ることはできないだろうと思われるほどの驚愕の色があらわれています。神父の善良な心は、囚人たちにそそいできた信頼のバラ色の蕾《つぼみ》が、現実に、無残にも引き裂かれてしまったことを、どうしても信じることができないようでした。
「いま、マグナスさんに会って来たのです」神父は、椅子の中に身を沈めながら、あえぐように口をひらきました、「ほんとうだったのです。ほんとうに、そのとおりだったのです。タッブは――ああ、私にはまるでわかりません。なにがあれたちにとり憑《つ》いたのでしょう。――タッブは、自白したのです」
「じゃ、あなたを利用していたのですね?」父がやさしくたずねました。
「そうです、そうなんです! 私は彼に会ってきました。あの男は、模範囚の特権も、なにもかも剥奪されるのです。それにマグナスさんは――いや、それはまったく当然なのですが、それにしても、あれほど厳しいとは――所長は、あの男をCクラスに落としたのです。タッブは、まともに私の頭を見ることができませんでした。どうしてあの男は、あんな――」
「なんど通信したのです?」レーンさんはつぶやくように言いました、「エーロン・ドウにもしてやったのでしょうか? タッブはそう言いましたか?」
ミュア神父はたじろいで、「そう言いました。ドウは一度だけ通信したのです――何週間かまえに、フォーセット上院議員に。しかし、タッブは、その内容は知りませんでした。外部からも一、二度あったのです。ねえ、あなた、タッブは、もう何年も、これをやっていたのですよ。ほくそえんで! このうまい副業で、たんまり儲《もう》けていたのです。あの男の仕事は、新しい祈祷書から、通信を取り出すだけなのです、私が――私がそれを持って行ったときにね。通信文は、祈祷書に縫いこんであったのですよ――そして、私が外出する折には、外部への通信文を、入れておいたわけです。あの男は、通信文の内容については、なにも知らないと言っています。ああ、なんということでしょう――」
わたしたちは、椅子に腰をおろしたまま、恐ろしい時の来るのを、ただ待ちつづけていました。逃亡した囚人は、発見されるだろうか? あのドウが、看守たちのするどい追求の網の目を、いつまでも逃れつづけられようとは、どうしても思えませんでした。
「こんなことを――警備員たちが言っていました」とミュア神父は震え声で、「犬を放すんだそうです」
「そういえば聞こえたような気がしますわ――吠えるのが」わたしは、ささやくような小声で言いました、だれひとり、口をきくものもありません。時は、気が遠くなるようなおそさですぎてゆきました。刑務所の方向から、囚人たちの叫び声がきこえました。ときどき、光の筋が、空の闇をつらぬいて乱舞します。夜どおし、車が刑務所に走りこみ、また出て行きます。ある車は森のほうに走って行き、ある車はミュア神父の家のまえを、うなりをあげて走りすぎました。また、ある時は、黒っぽい服の男が、舌をダラリと垂らした怖ろしい猟犬の群れを、何本もの革紐につないで引いて行くなまなましい光景を、わたしたちは見ました。
神父が刑務所からもどって来た十時少しすぎから、ま夜中まで、わたしたちはじっとポーチに腰をおろしたままでした。
ドルリー・レーンさんは、その無表情な顔の奥で、まだはっきりとつかむことのできないある考えに、とらえられているようでした。老優は、それこそ、一言《ひとこと》も口をききません。なかばとじた眼を暗い空に投げ、深い思いに沈んでいました。レーンさんの指は、前のほうでゆるく組まれていました。彼にとっては、わたしたちなど、その場にいないも同然なのです。かつて、エーロン・ドウが、アルゴンキン刑務所を出たときに、ひとりの男が死んだ事実があったのではなかったか?
そして、それは、老優がいまはっきりさせようとしていることに関係があるのだろうか? わたしは、あることを言ってみようか、と思いました――
変事は、ちょうどま夜中の十二時にやって来ました。それはあたかも、運命の神にあらかじめさだめられていたもののようでした。
一台の自動車が、リーズ市の方向から、すさまじい勢いで丘を駈け上がってきたのです。そしてエンジンをあえがせて、わたしたちのいる神父さんの家の門の前で停ったではありませんか。わたしたちは、思わずサッと椅子から腰をあげ、頭を突き出して、闇の中をのぞきこみました。
ひとりの男が車の後部座席からパッととび出すなり、庭の小径を、ポーチのほうへ駈けあがってきました。
「サム警部? レーンさん?」その男が叫びました。
それは髪をふり乱し、興奮に息を切らしている地方検事のジョン・ヒュームです。
「なにごとです?」父は嗄《しゃが》れ声でたずねかえしました。
ヒュームは石段ののぼり口に、ペタッと坐りこんでしまいました、「あなたがたにおきかせしたいことがあるのです。あなたがたひとりのこらずに――まだドウを無実だとお思いですか、え?」青年地方検事は、最後の部分をつけ足して言いました。
ドルリー・レーンさんは、サッと前に足を踏み出しかけて、思いとどまりました。暗い月明かりに、老優の唇が、声もなくふるえるのが見えます。そして、ひくい、ザラザラした声で、「まさか、あなたのおっしゃるのは――」
「私が言いたいのは」ヒュームは低い声で言いました。彼の声は疲れきっていて、苦々しげで、憤っているひびきがあります。検事は、あらたなる事態が、彼自身に対する個人的な侮辱でもあるかのように、思っているようでした、「つまり、あなたの友人、エーロン・ドウが、今日の午後、アルゴンキン刑務所を脱走した、ということです。そして、今夜――ほんの数分前に――アイラ・フォーセット博士が殺害されているのが、発見されたのです」
十六 Z
とうとう、こういう事態になってしまった、はなっからわたしには、それが避けられないということがわかっていたのだけど。わたしときたら、事件の|うわべ《ヽヽヽ》ばかりに気をとられていて、その核心を見破るところまでいっていなかったのですね。レーンさんといえば、このあらたなる事件の発生は、まさに踏《ふ》んだりけったりといったところでした。あのリーズの郡拘置所で、ちゃんとした証人も用意せずに、エーロン・ドウを実験するような馬鹿な真似をした自分自身が、レーンさんには、どうしてもゆるせなかったのです。それはそうと、わたしたちはドロミオの運転する車に乗りこんでいました。そして暗闇のなか、前方の丘をものすごいうなりをたててフルスピードで降りて行くヒュームの車のあとを追っていました。レーンさんは、深くうなだれたまま、フォーセット博士殺害を事前に見破り、なんとしてでも喰いとめる手を打つべきだったという苦い事実を、じっと噛みしめていたのです。
「つまり」レーンさんは抑揚のない口調で言いました、「わたしなんかの出る幕ではなかったのだ。いろいろな事実を考え合わせれば、フォーセット博士が殺害されることぐらい、火を見るよりも明らかだったのですからね。わたしはなんという大馬鹿だ、まったく明き盲《めくら》も同然……」
レーンさんは、そこで言葉をきったまま、だまりこんでしまいました。わたしたちにしたって、この老優を、どう言って慰めたらいいものか、その言葉も浮かばない始末。わたしはみじめな気持ちになり、父はただ、文字どおり五里霧中につつまれて坐っているだけ。ミュア神父は、同行しませんでした。この最後の一撃で、神父には、もはや疑いの余地などどこかへ吹っとんでしまったわけです、それでわたしたちは、バイブルにすがりついている神父を居間に残してきたのです。
わたしたちの車は、また、あの暗い車道に乗りこみました。見ると、邸内にはあかあかと電灯がともり、刑事や警官たちがあわただしく動きまわっているではありませんか。わたしたち一行は玄関の敷居をまたいだのですが、その敷居こそ、被害者と犯人とをつなぐ運命の飛び石のように思われてなりませんでした。
わたしたちは、まるで数か月まえの事件の夜の光景が再現したような錯覚におそわれました。ものものしい刑事たちにとりかこまれて立ちはだかっている、あの大男のケニヨン署長。しかも部屋は一階。その部屋の中には被害者の死体が……。
といっても、アイラ・フォーセット博士が、弟の上院議員の書斎で殺害されたわけではありません。断末魔の様相を如実に物語っている博士の死体は、彼の診察室の絨毯《じゅうたん》の上にころがっていました。そこは、つい前の晩に、博士が、あの、まるで子供だましのような小さな木箱の片割れを調べていた机から、ほんの数フィートはなれたところ。たしかあの片割れは、木箱の中央の部分。死体の青味がかった顎《あご》には、つやつやした黒いひげがこわばったみたいにピンとつき出ています。博士はあおむけざまに倒れていて、ガラス玉のような眼をカッと見ひらいたまま、天井をにらんでいる。四肢に死後硬直のゆがみさえなかったら、永遠の相に見入りながら、しずかに横たわる古代エジプト王のミイラといったところ。
死体の左胸部には、まるい柄のついたナイフのような凶器が突きささっていましたが、手術用の刃針だと、わたしは見てとりました。
わたしがよろめくように父にもたれかかると、父はわたしの腕をつかむなり、しっかりと支えてくれました。歴史は繰りかえされたのです。目まいがして、あたりがぼんやりとかすんだものの、わたしには話し声もきこえ、おなじみの顔もわかりました。大の字に倒れている死体のそばに膝をつき、すばやい手つきで調べている、小柄な検屍医のブール博士。例のしかめ面《つら》を天井にむけているケニヨン署長。それに、ピンク色の禿頭に汗をビッショリかきながら、机にもたれているルーファス・コットン。この、ジョン・ヒュームの政治的な黒幕である老人の、いかにも狡猾《こうかつ》そうな眼には、恐怖と困惑の色がいりまじっています。
「ルーファスさん!」地方検事が叫びました、「いったい、これは? 発見したのは、あなたですか?」
「そうなんだ、わしがね――その――」老政治屋はひろげたハンカチでしきりに禿頭の汗をぬぐいながら、「ジョン君、じつはひょっこり訪ねて来たんだが――いや、べつに約束はしてなかったんだがね。フォーセット博士と――その――あることについて相談するつもりだったんだ。なに、言うまでもないが、選挙のことだよ。するとどうだ――ああ、ジョン君、そんなに変な目でわしを見ないでくれ――わしが見つけた時にはもう死んでいたんだ。ちょうど、いま君が眼にしているのと、まったくおなじありさまだったんだよ」
一瞬、ヒュームは、ルーファス・コットンの顔をするどく見つめてから、つぶやきました、
「なるほど、わかりましたよ、ルーファスさん。ま、個人的な事に立ち入るつもりはありませんよ――いまはね。博士の死体を発見したのは何時です?」
「おいおい、ジョン君、もう勘弁《かんべん》してくれないか……」
「発見したのは何時なんです?」
「十二時十五分だよ……家の中にはだれもいなかったんだ、猫の子一匹もな! で、すぐにケニヨン署長に電話して――」
「なにかに手を触れましたか?」父がたずねました。
「とんでもない」どうやら老人はふるえている様子。持ち前の鉄面皮もどこへやら、ジョン・ヒュームの視線をさけるようにして、机にグッタリとよりかかって、かろうじて立っているといった按配《あんばい》。
それまで部屋のなかにくまなく眼をくばっていたドルリー・レーンさんは、ブール博士のそばに音もなく近よると、かるく身をかがめました。「検屍医の方《かた》ですね? 被害者の死亡推定時刻はどんなものでしょう?」
ブール博士は歯をむき出してニッと笑うと、
「やれやれ、商売繁昌ですよ。ま、十一時をちょっと回ったあたり。十一時十分といったところですかな」
「即死ですか?」
ブール博士は、のぞきこんでいるレーンの顔を、チラッと見上げると、「さあ、そこのところはなんとも言えませんな。すこしぐらいは息があったかもしれないが」
老優はまじまじと死体を見つめていました。
「いや、ありがとうございます」それからからだを起こすと、机のところへ歩いて行って、その上にのっている医療具類を無表情で眺めながら立っていました。
と、ケニヨン署長が|どら《ヽヽ》声をあげて、「ヒューム検事、召使連中から聞いた話なんですがね、フォーセット博士は、宵の口に、その連中を、この家から追払っているんですよ。ちょっと|くさい《ヽヽヽ》じゃありませんか、弟の上院議員の時とそっくりですからな」
ブール博士は床から腰をあげると、黒い検屍用の鞄をパチンとしめるなり、「一丁あがり」と陽気な声をあげて、「疑問の余地はまったくなし。立派な他殺。凶器は刃針、専門用語では柳葉刀というやつで、ちょっとした切開に使うものでさあ」
「すると」レーンさんが考え深げに言いました、「この机の上の皿から、とり出したものですね」
ブール博士は肩をすくめて見せただけ。たしかに、レーンさんの言うようにも考えられる。机の上には、ゴム張りの皿がのっていて、そのなかに、見慣れない手術用の用具がごちゃまぜに入っています。一見しただけで、フォーセット博士が、すぐそばのテーブルにのっている電気消毒器で、その用具類を消毒するつもりだったことは明らかです。なにしろ、その消毒器はさかんに蒸気をたてている最中なんですから。ブール博士は小走りにとんでくるなり、スイッチを切りました。どうやら、部屋の模様が、わたしにもはっきり見えてきました。すごく整備のととのった診察室。室内の片側には、診察台と巨大な螢光透視機、レントゲンの機械、それにわたしにはちょっと見当もつかないようないろんな装置が並んでいます。例の皿のそばには、ちょうどブール博士の鞄とおなじような黒鞄がパックリと口をあけたままになっている。そして、その鞄には、『医学博士アイラ・フォーセット』という文字がくっきりと浮き出ています。
「傷は、この一か所だけですな」検屍の間に、死体からひきぬいた凶器をあれこれと調べながら、ブール博士はつづけます。凶器は、先端が釣針のようにちょっと曲った、細長くて薄い刃で、全体にどす黒い血がついていました、「ねえ、ヒュームさん、こいつは格好が悪いが、凶器にはもってこいじゃありませんか。こいつのおかげで、ごらんのとおりの出血多量というわけだ」ブール博士は、死体のそばに足をさし出しました。見ると、死体のすぐそばの絨毯にベットリと血がしみこんでいます。まるで傷口から吹き出した血が、被害者の衣服を通して、床にしたたり落ちたように見えました。「実際のところ、こいつは肋骨《ろっこつ》の一本をかすっていますよ。いや、大変な傷ですな、まったく」
「しかし――」ヒューム検事が苛立《いらだ》たしげに口を切ったとたん、ドルリー・レーンさんが目をほそめて死体のそばに膝まずくと、被害者の右腕を手にとりながら、詳しく調べはじめたのです。
レーンさんは顔をあげると、たずねました、
「これはなんですか、ブール博士? ごらんになりましたか、これを?」
検屍医は冷淡に見下ろしながら、「ああ、そいつなら見ましたとも。しかし、とりわけ重要なものじゃありませんな。ま、あなたが気になさるようなら申しますが、ほかに傷はないんですよ」わたしたちは、フォーセット博士の右手頸の下に、三つの血痕をみとめたのです。それは、ほぼ楕円形《だえんけい》をしていて、それぞれ隣りあっています、「動脈の上です。よく見てください」
「そのとおり」レーンさんは無愛想に言いました、「ブール博士、これは重要なことですよ。あなたのご意見に逆らうようだが」
思わずわたしは老優の腕をつかむなり、叫びました、「レーンさん、犯人が博士を刺したあとで、血まみれの指で、|被害者の脈をとったん《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》|ですわ《ヽヽヽ》」
「おみごとです、ペイシェンスさん」レーンさんはかすかに笑《え》みを浮かべました。
「じつはわたしもそのとおりに考えたのです。どうして犯人は、そんな真似をしたのか?」
「つまりフォーセット博士の死を確めたのですわ」わたしはおずおずと言ってみました。
「むろん、そうですとも」地方検事が間髪入れず口をはさみました、「しかし、それがいったいどうしたというんです? さ、ケニヨン君、仕事だ。ブール博士、解剖の方はやってもらえますね。とにかく、なにひとつ見落すのはご免ですからな」
公衆衛生局の車がやってくるのを待つために、ブール博士が死体にサッと布をかけましたが、その前に、わたしはフォーセット博士の死顔に、もう一度目をやりました。そこには、恐怖の表情はなく、むしろ厳しくて、どこか驚いたような色があったのです。
指紋係の刑事が仕事にかかり、ケニヨン署長は、大股で部屋の中を歩き回りながら、例の大声でさかんに命令を下していました。ジョン・ヒュームが、ルーファス・コットンをわきへ連れて行きました。と、そのとき、ドルリー・レーンさんが低い叫び声をあげたものだから、みんな、いっせいに顔をむけました。レーンさんは机のうしろにいたのですが、なにか書類の下で見つけたものを手に持っています。
それは、前夜、フォーセット博士が猛り狂ったように調べていた、例の木箱の一部分でした。
「うーむ」レーンさんはうなり声をあげると、「いや、これはすごい。たしかに、ここにあるにちがいないと、わたしはにらんでいたのだ。ペイシェンスさん、この代物をどう思います?」
最初に見つけたのと同じように、それは鋸で引いた小さな木箱の断片でした。もっとも、両側を鋸で切断してあるので、これは中央部にあたるわけです。そして、その表面には、やはり最初のとおなじように、金箔で、大文字が二つしるしてある――JA。
「はじめのがHEで」わたしは口のなかでつぶやきました、「こんどがJA。レーンさん、あたしにはなんのことか、さっぱりわかりませんわ」
「まったく変な話だ」ヒューム検事が怒ったみたいな口調で言いながら、父の肩越しにへばりついています。
「|HE《ヒー》(彼)とは、いったい誰のことなんだ?それに|JA《ヤー》とは――」
「ドイツ語だと、『イエス』の意味ですわ」そうつぶやいたものの、たいして期待していたわけじゃない。
と、ヒュームはいやに勢いづいて、「そうだ、それなら意味が通る。そうでしょう」
「いいですか、ペイシェンスさん」老優が口をひらきました、「これはきわめて重要な手がかりなのです。いや、不思議だ、じつに不思議だ」レーンさんは、なにかを探すように、すばやく部屋の中を見まわしました。と、キラッと眼をかがやかせるなり、部屋の片すみに急ぐではありませんか。そこには、小さな書見台があって、その上にドッシリした辞典がおいてありました。ヒューム検事と父はポカンと口をあけたまま。レーンさんが探し求めているもの、それはわたしにもわかる。わたしだって必死で考えた。H・E・J・A……きっとこう続くにきまっている。だって、二つのグループに別れるとしたら、まるっきり意味なんか考えつくことができない。だから、一つの単語にちがいないのよ。Heja……でも、そんな言葉なんか、ないはずだわ。
レーンさんはゆっくりと辞典をとじました。
「やっぱりわたしが思ったとおりでした」老優はおだやかな口調で言うと、口をすぼめて、放心したような色を眼に浮かべたまま、死体のそばを行きつ戻りつするのです。「二つの木片をいっしょにすると」老優はつぶやきます、「いま、ここに最初の部分がないのは残念ですね」
「だれがないなどと言ったんです?」ケニヨン署長がまるで嘲笑するような口ぶり。すると、おどろいたことに、彼が自分のポケットに手を入れると、最初の木片を取り出すじゃありませんか。「妙ちくりんな代物《しろもの》だが、なにかの役に立つかもしれんと思いましてね。出かけるまえに、わざわざ本署の証拠物件のなかから持ち出してきたんですよ」そう言うなり、署長は無造作に、木箱の片割れを老優に渡しました。
レーンさんは、まるでひったくるようにして、その断片をつかむと、机にかがみこんで、二つの部分をもとの形につなぎました。すると、小さな掛金などもついていて、木製の小箱になるのが、はっきりわかります。文字もピッタリつながって、HEJAとなるではありませんか。わたしには、眼のまえが明るくなるような気がしました。なぜって、この四つの文字は、それだけでは完全な一語になっていないからです。もう一字か、あるいはあと、二、三の文字があるはず。というのは、もし小箱に書いてあるのが一つの言葉だとしたら、両端から中心になるように書かれるはずですもの。するとAが箱の中央の部分に書かれているのだから、もう他につけ加える文字がないとすると、この言葉は中心をずれたところに書いてあることになってしまう――。
レーンさんはつぶやくように言いました、「もうおわかりですね。こうやって再び組み立ててみると、そうです、あと一つの部分がありさえすれば、箱の模型がみごとに完成するのです。あの大きな辞典を引いてみて、私は、自分の想像に確信がもてたのですよ。英語の辞書には、Hejaではじまる言葉が、たった一つあるだけです」
「ご冗談でしょう」ヒューム検事が噛みつくように言いました、「そんな言葉なんか聞いたこともない」
「なに、べつに類語があるというわけではありません」レーンさんはしずかに微笑します、「もう一度申しましょう。英語の辞書には、h―e―j―aではじまる言葉がたった一つある。それも、もとから英語ではないのですが、しかし、英語になった言葉です」
「どういう言葉かしら」わたしは静かにたずねました。
「Hejazです」
その言葉を耳にした瞬間、ひとりのこらず眼をまたたきました。まるで魔術の呪文でも聞いたみたい。ヒューム検事が怒ったみたいに言いました、「たとえそうだとしても、いったい、それがどうだというんです?」
「Hejaz《ヘジャズ》は」老優はおだやかな口調で答えます、「アラビアの一地方なのですが、奇妙なことに、ヘジャズの首府はメッカなのですよ!」
ヒュームは両手をさしあげるなり、「さ、レーンさん、おつぎはなんです? 冗談もいい加減にしてくれませんか、アラビアだの、メッカだのと!」
「冗談ですって、ヒュームさん? とんでもない。二人の人間の死が、それを中心にめぐっているというのに」レーンさんは無愛想につづけました、「文字どおり、それがアラビアとかアラビア人とかを示しているとしたら、なるほど、現実ばなれがしています。だが、かならずしもそうだとは言いきれないと思う。私には、きわめて奇妙な考えがあるのだが――」レーンさんは、そこで言葉をのむと、やがて静かにつけ加えたのです、「ヒュームさん、まだ終ったわけではないのですよ、おわかりですか」
「終っていない?」
父の眉がピクッと動きました、「すると、さらに殺人が起こるはずだ、とでも言われるのですか?」父は、まさか、といった口吻《くちぶり》でたずねました。
老優は手をうしろに組むと、「そうお思いになりませんか? まず最初に、小箱のHEの部分を受け取った上院議員が殺害されました。つぎの被害者は、殺害される前に、小箱のJAの部分を受け取った……」
「じゃ、だれかが最後の部分を受け取って殺される、というわけですかな」ケニヨン署長が厭味たっぷりに笑いながら言いました。
「かならずしも、と言っているのではありませんよ」レーンさんは、ホッと溜息をつきました、「もし今までのことに、なんらかの意味があるとすれば、第三の人物が最後の部分を受け取ることになるでしょう。すると、その部分にはZの文字がしるされていて、その人物は生命を奪われる、というわけです、ま、Z殺人事件とでも言っておきますか」レーンさんは微笑を浮かべると、「しかし、この点については、今までと同様の手口になるとは思われませんね。重大なことは……」レーンさんは、きっぱりとした口調で、「フォーセット上院議員とフォーセット博士の事件で明らかになった最後の人物、すなわち、第三の人物が関係しているということです!」
「どうしてそういうことになるんです?」父が喰い下がります。
「なに、簡単なことですよ。なぜ小さな木箱がはじめから三つに切断されていたのです? 三人の人間に送るつもりだったことは、火を見るよりも明らかではありませんか」
「すると三番目はドウだ」ケニヨン署長がうなり声をあげました、「送るなんて、とんでもない。最後の部分は、あいつのところにあるんだ」
「いや、ケニヨンさん、それはあまりにも馬鹿げている」レーンさんは静かに言いました、「そうではない、ドウではありません」
小さな木箱について、レーンさんが話したことは、それだけでした。ケニヨン署長もジョン・ヒュームも、レーンさんの意見を、頭から信じていないことが、三人の顔を見ただけでわかるくらい。父でさえ、疑わしげな様子なのです。
レーンさんは、口をひきしめると、だしぬけに言いました、「みなさん、手紙はどこにあるのです?」
「なんでまたそれを――」ケニヨン署長が、分厚い唇をポカンとあけたまま言います。
「さ、時間が無駄です。あなたが手紙を見つけたのですね?」
ケニヨンは、黙って頭をふりながら、ポケットから小さな紙片を取り出すと、老優に渡しました。「机の上にあったんですがね」署長は蚊《か》の鳴くような声でつぶやきながら、「いったい、どうしてこいつがあるとわかったんです?」
わたしは、その紙片が、前夜、フォーセット博士の机の上に、小箱の中央の部分といっしょに並んでいたことを思い出しました。
「なんだ!」ヒュームは叫び声をあげるなり、レーンさんの手からその紙片をひったくって、「ケニヨン君、これはどういうことなんだ! どうして、私に報告してくれないんです?」ヒュームは舌打ちをしながらも、「ま、とにかく、これで話がまた現実に戻ったわけですな」
手紙は、インクでしたためてありましたが、べつに暗号文ではない。紙は汚れていて、何人もの手垢《てあか》がついているみたい。ヒューム検事が大声で、その手紙を読みあげました。
脱走は水曜の午後と決まった。道路工事をしている間に決行せよ。監視人のことは心配するな。この前の手紙で教えた小屋に食糧と衣服がある。そこに隠れていろ。ここへは、水曜日の午後十一時半に来い。私は金を用意して、ひとりで待っている。くれぐれも注意せよ。
I・F
「アイラ・フォーセットだ!」地方検事が叫びました、「これでよし! こんどはほんとうに、ドウのやつをとっちめてやるぞ。なにかの妙な因縁から、フォーセット博士はドウの脱走を準備し、監視人を買収したんだ――」
「フォーセット博士の筆蹟かどうか、調べてくれませんか」父が怒ったような口調で言います。レーンさんは悲しげ、といっても、どこかぼんやりと愉しんでいる様子。
フォーセット博士の筆蹟の見本が引き出されました。たとえ筆蹟鑑定の専門家でないにしろ、ちょっと見ただけで、まぎれもなく手紙の筆蹟が、フォーセット博士のものであることはわかります。
「裏切ったのだ」ケニヨン署長がもったいぶって言いました、「ここからは楽に進めますよ、ヒュームさん。私はこうなるのを待っていたんだ。ドウは金を取ると、フォーセット博士を殺害して、逃げたというわけです」
「すると」父が皮肉な口調で言いました、「わざわざ見つけてもらうように、この手紙をここに残して行ったことになりますかな」
もっとも、この皮肉は、ケニヨン署長には効き目などありません。さすがに地方検事は、今までにしばしば見せたような、ソワソワした表情を見せましたが。
ケニヨン署長は、なおも間の抜けた話をつづけます、「ヒューム検事、あなたが見える前に、私は銀行に電話してみたのですよ。私は、どんなことだって見逃しませんからな。すると、案の定だ、フォーセット博士は、昨日の朝、自分の預金から二万五千ドル引き出しているじゃありませんか。そして、その金は、この部屋にはないんですからね」
「|昨日の朝《ヽヽヽヽ》、と言いましたね?」レーンさんが、だしぬけに声をあげました、「ケニヨンさん、それはたしかでしょうね」
「ねえ、いいですか」ケニヨンは吐き出すように答えました、「私が昨日の朝と言ったら、絶対に――」
「なに、これは非常に大切なことですから」老優はつぶやきました。とにかく、レーンさんが、これほど元気づいたのを見るのは、ほんとにはじめてでした。レーンさんの眼はいきいきと輝き、頬には赤味までさして、まるっきり若返って見えるではありませんか。
「むろん、あなたが言われたのは水曜日の朝のことで、木曜日のではありませんね?」
「聞くだけヤボですよ」ケニヨン署長は吐き出すように答えます。
「考えてみると」ヒュームが独り言のように、「この手紙では、ドウに水曜日に脱走するように書いている、それなのに、ドウが脱獄したのは今日、つまり木曜日です。たしかに、これは変じゃありませんか」
「手紙の裏を見てごらんなさい」
老優はしずかな口調で教えました。とにかく、レーンさんときたら、並はずれた鋭い眼の持ち主、だれひとり気がつかないことをちゃんと指摘するのですからね。
ヒューム検事は、あわてて、その紙片を裏返してみました。裏には、鉛筆で|つぎの伝言《ヽヽヽヽヽ》がしたためてあり、書体は、以前にフォーセット上院議員の部屋で見つけた、あの最初の手紙とそっくりの金釘流です。文面はつぎのとおり――
水曜日は駄目だ。木曜日にする。木曜の夜、同じ時刻に、こまかい札で金を用意しろ。
エーロン・ドウ
「おお」ヒューム検事は、これで助かったとばかりに、「おかげではっきりしましたよ。ドウのやつは、フォーセット博士がよこした手紙の裏を使って、アルゴンキンから返事をひそかに出したんだ。つまり、この手紙が本物であることを示したかったのでしょうな。なぜやつが脱獄を延期しようとしたのか、こいつは問題にするまでもありませんよ――たぶん、刑務所で、なにか都合の悪い事態が持ちあがり、それで一日待つことにしたんでしょう。あるいは、やつのほうで怖気づいて、勇気を出すのに手間取ったのかもしれない。レーンさん、フォーセット博士が水曜日に銀行から金を引き出した点について、あなたがきわめて重大だと言われたのは、いま言ったような事情があるからなんでしょう?」
「いや、まったく違います」とレーンさん。一瞬、ヒュームは老優の顔をジロッと見てから、肩をすくめました。「ところで、こんどこそ疑いの余地はまったくなくなりましたな。こんどこそは、ドウのやつも、電気椅子から金輪際《こんりんざい》のがれられまい」ヒューム検事はほくそ笑《え》みます。最初の疑いも消えてしまったような感じ。「レーンさんは、まだ奴の無罪を信じているのですか?」
老優はホッとため息をもらしました。「ドウが無罪だという私の信念を、いささかでもゆさぶるものは、まだなに一つ見つけられていないのです」それから、突然思い出したように、こうつけ加えました、「ところで、これらすべてのことが犯人を指摘しているのですが――それは、エーロン・ドウ以外のだれかです」
「いったい、だれなんです、それは?」父とわたしは同時に声をあげました。
「わかりません……|正確にはね《ヽヽヽヽヽ》」
十七 わたしは主役
今になって、あの精も根もつきはてた数時間のことをふりかえってみると、事件が、必然的にその驚くべき大団円に向かって、すごいハイ・ピッチで進行していたことが、わたしにはわかるのです。でも、その当時は、ただ空《むな》しく五里霧中をさまようばかり。いいえ、すくなくとも、父とわたしはそうだった。わたしは、それらの出来事に、どんな形を与えていいのか、さっぱりわからなかったのです。布で覆われた死体の搬出、ヒューム地方検事のテキパキした指図、アルゴンキン刑務所のマグナス所長との電話のやりとり。依然足取り不明のエーロン・ドウ逮捕に関する警察の作戦、沈黙のなかで帰途についたわたしたち。その道すがら、レーンさんの異様な沈黙。
そしてその翌日……アッという間に、すべてが起こったのです。その日の朝早く、わたくしはジェレミーと会った。ジェレミーは、彼の父親といささか気まずくなったので、いつものように石切場へ出かけてしまったのです。クレイさんは、フォーセット博士の殺害を聞いて、まったく落ち着きをなくしていました。彼は、自分の立場が不利になったことで、いつかうちの父をとがめていたのです。ま、それも無理もないことでした。なにしろ、上院議員に立候補するというので、選挙戦の準備にあたっていた二人の男が殺害されてしまったのですからね。
うちの父ときたら、それをたいして気にもかけずに、クレイさんに、立候補をあきらめるようにすすめました。「不運だと言うのほかありませんな」父はそっけなく言うのです、「私をいくら非難したところでしようがないじゃありませんか、クレイさん、いったいなにがお気に召さないというのです? 新聞記者連中を呼んだらどうです? もしあなたが、死者に鞭打つことをさして気になさらないなら、連中にはっきり言ってやるのですよ。自分が立候補したのは、まず第一に、フォーセット博士の不正を明らかにするのが目的だったのだとね。とにかく、真実を発表することです。それとも、ひょっとすると、本音《ほんね》は上院議員に|なりたかった《ヽヽヽヽヽヽ》んですか……」
「そんな馬鹿な」クレイさんは眉をひそめます。
「ま、それなら結構です。ヒューム検事にお会いになって、フォーセットの取り引き上の不正について、私がいままで集めた証拠を引き渡しておやりなさい。そして、私が申しあげたような理由をつけて、立候補辞退を新聞に発表するのです。ヒュームは対抗馬もなしに、州の上院議員にゆうゆうと当選するでしょう。彼はあなたにものすごく感謝するでしょうし、あなたは余生を、チルデン郡の貴公子としてお送りになればいい」
「しかし――」
「というわけで、こちらでの私の仕事は」父は愉しそうに言葉をつづけます、「もう終ったことになりますな。ま、さしてお役に立たなかったようですし、それで実費のほかには一セントも頂戴《ちょうだい》しないつもりです。それも、予約金で十分間に合うくらいで」
「とんでもない、警部さん! なにもそんなつもりで私は――」
わたしは、仲良く口論している二人のところから離れました。と、そのとき、家政婦のマーサが、わたしを電話口に呼んだのです。ジェレミーからでした。しかも、ものすごく興奮しているので、はじめの一言から、わたしの皮膚がピリピリするくらい。
「パット!」ジェレミーの、低い、張りつめた声。まるでささやくような声。「だれかそばにいる?」
「ううん、いないわ。ね、ジェレミー、いったいどうしたの?」
「いいかい、パット。仕事なんだよ、いま石切場の現場管理所から電話しているんだ」まるで機関銃のような喋り方。「一大事なんだ。すぐ飛んで来てくれ、すぐにだよ、パット」
「でも、どうしたのよ、ジェレミー、いったい?」
「なにも聞かないでくれ。ぼくの車で来るんだ。絶対ないしょだよ。いいかい? 大至急、パット!」
わたしはころがるほど急ぎました。受話器をかけるなり、服装をなおし、二階へかけあがって帽子と手袋をとり、その足で階下にかけおりるや、表口へわざとブラッと出たのです。父とクレイさんは、まだ押し問答をつづけている最中。
「ジェレミーの車で、ちょっと一回りしてきますわ」わたしは用心しながら言いました、「いいでしょ?」
二人の耳には、わたしの言葉なんぞ入るどころではありません。絶好のチャンスとばかり、わたしはガレージにとんで行き、ジェレミーの車にとび乗って、よろめいた矢のように車道に乗り出し、さながら地獄じゅうの悪魔に追いかけられているみたいに、丘の下り道を疾走して行ったのです。考えることなどなにもなかった。とにかく、一秒でも早く、大理石採石場に行くことだけで精いっぱい。
その六マイルの田舎道を、わたしはたった七分足らずでスッとばしたのです。車は砂埃をまきあげながら、現場管理所の空地にすべりこみました。と、ジェレミーが、若い女性の突然の訪問を受けたときに若者が見せるような、あの他愛のない微笑を浮かべて、車のステップにとび乗るじゃありませんか。
しかし、彼の言葉は他愛のないものではなかった。もっとも、イタリア人の労働者がひとり、こちらを見てニヤッと笑ったのは、わたしにもわかったけれど。「素敵だよ、パット」ジェレミーは表情を変えずに言います。だが、その声には、いまにも叫び出さんばかりのひびきがこもっていました。「いいかい、驚いた様子を見せちゃいけないよ。さ、ぼくに笑いかけるんだ」
わたしは彼にほほえみかけたけど、なんだか口もとがひきつれるような感じ。
「パット、|ぼくは《ヽヽヽ》、|エーロン《ヽヽヽヽ》・|ドウが隠れてい《ヽヽヽヽヽヽヽ》|るところを知っているんだよ《・・・・・・・・・・・・・》!」
「なんですって、ジェレミー?」わたしは思わずあえぎます。
「シーッ! さ、笑って。いいかい……ここの石工のひとりが、こいつは信用できるやつなんだ――口はかたいし、絶対大丈夫なんだ――その男が、すこし前に、ぼくのところへソッとやって来たんだよ。その石工の話によるとこうなんだ――昼休みに、どこか森のなかの涼しいところを探そうと思って、そのへんにちょっと散歩に出かけたわけだ。すると、半マイルほど奥にはいったところで、古い掘立小屋の中にドウがひそんでいるのを、チラッと見たと言うのさ」
「ドウにまちがいないの?」わたしはささやいた。
「絶対まちがいないようだ。新聞でドウの写真をはっきり見ているからだ。パット、で、どうする? あの男が無罪だと、きみは信じているんだし――」
「ジェレミー」わたしはすごい剣幕で、「ドウは無実よ。あたしを呼んでくれるなんて、ほんとにあなたはいい人ね」ジェレミーは埃まみれの汚れた作業服を着ているものだから、なんだかとても子供っぽく見えて、ちょっと頼りない感じ。「その小屋へ行ってみましょう。そして、ドウを森からこっそり連れ出して逃がしてあげるといい……」
陰謀をくわだてた二人は、しばしのあいだ、おびえながらたがいに見つめあったまま。
やがてジェレミーは、顎をグイッとひいて力強く、「よし、行こう。何気なく森をぶらついているふりをするんだ」
ジェレミーは微笑を浮かべたまま、わたしが車から降りるのを助けてくれます。彼はわたしの腕をとると、安心させるかのようにしっかと握りしめ、道に向かって歩き出しました。彼はこっちのほうを見ている労働者たちを気にして、くどいている様子をしたほうがいいと思ったものか、わたしを見おろしながらなにやらさかんにつぶやいていました。わたしのほうも、クスクス笑いながら、ジェレミーの眼をうっとりと見つめていたというわけ。しかし、その間というもの、わたしの頭はすっかり混乱していたのです。これからわたしたちがしようとすること、それはなんと言っても恐ろしいこと。だが、わたしにははっきりとわかっていました、エーロン・ドウは、今度こそ捕ったら百年目、もうだれひとり、あの血も凍るような電気椅子から彼を救い出すことはできないんだ、と……。
どこまで行ってもおなじような道を歩いたあげく、やっとのことで二人は森にたどりつきました。頭上には涼しげな小枝がむらがり、樅の木の匂いに鼻をふくらませると、俗界ははるか彼方に遠ざかってしまうような感じ。ときおり、遠くのほうで、石切場のハッパの爆発音がぼんやり聞こえてくるくらい。わたしたちは、いままでの演技をかなぐり捨てるや、脱兎のごとく駈け出しました。ジェレミーは、まるでインディアンみたいにピョンピョン跳びながら先を走り、わたしはハアハア息を切らしながら、あとについて行きました。と、突然――わたしがぶつかってしまうくらいまったく突然に――彼は立ち止ったのです。ジェレミーの、あの正直そうな顔に、はっきりと警戒の色があらわれているじゃありませんか。そう、警戒、恐怖、それに絶望の色までが――。
わたしの耳にも聞こえました。犬の吠え声と首輪の鈴の音。
「だめだ!」ジェレミーがささやく、「ここからほんのすこし行ったところなんだが。パット、犬が嗅ぎつけたんだよ!」
「おそすぎたんだわ」わたしはそう呟くなり、まるで気を失ったように彼の腕にすがりつきました。ジェレミーはわたしの肩をつかむと、はげしくゆすぶります。おかげで、わたしの歯がカタカタ鳴ってしまった。
「おい、頼むから、今はか弱き女性の真似《まね》はやめてくれ、わかったかい?」彼は怒った口調で、「さ、行こう。まだ望みなきに非ずさ!」
ジェレミーはクルリと背中をむけると、暗い小径を通って、さらに奥に急ぎます。わたしはすっかり混乱してしまい、気おくれしながらも、いそいで後について行きました。わたしは怒っていたのです、だって、わたしをゆさぶったあげく、あんな失礼なことを言ったんですもの。
と、ジェレミーはまただしぬけに足を止め、その手で、パッとわたしの口をふさぐじゃありませんか。そして、地べたにかがみこむと、埃だらけの小さな灌木の藪のなかを、四つんばいになって這って行くのです。わたしも彼にひきずりこまれました。わたしは泣き出したくなるのを我慢して、唇をかみしめていました。わたしの服は、藪の|とげ《ヽヽ》でビリビリに裂け、指にはなにか|とげ《ヽヽ》のようなものが突き刺っている始末。でも、痛みなど感じているひまはありませんでした。わたしたちは、小さな空地をじっと見つめていたのです。
おそかった! そこには、屋根が奇妙なぐあいに垂れさがっている、壊れかかった小屋がありました。空地の向こう側から、犬の吠える声がしだいに大きくなってきます。
一瞬、空地は水を打ったみたいに静かになり、あたりには物影ひとつありません。と、つぎの瞬間には、青い制服の男たちで、空地は騒がしくなりました。連中は嚇《おど》しをかけるようにライフルの銃口を小屋にピタッとむけています。犬が何匹か――いずれも大きな醜い犬で、空地をパッと跳び越えて小屋に近づくなり、戸口をガリガリひっかいたり、跳びついたり、それこそたいへんな騒ぎ……と、三人の看守がとび出したかと思うと、革紐《かわひも》をつかんで、犬をうしろに引きずりました。
わたしたちは絶望的な感情に襲われたまま、無言で見つめているだけ。
すると、小屋の小さな窓の一つから、裂けるような銃声一発、一条の赤い火花がひらめき、小屋のなかにピストルの銃身がサッとすべるようにひっこむのが見えました。と同時に、よだれをたらした一匹の猛犬が、不思議な格好で空中にはねあがり、地面にドサッとたたきつけられて死んだ――。
「出て行け!」鋭い甲走った声が聞こえました――エーロン・ドウです。「出て行け! 出て行け! でなきゃあ、その野良犬とおなじ目に会わせるぞ。生きているうちは、絶対につかまらないからな。さ、出て行くんだ、わかったか!」その声はかぼそい叫び声になりました。
思わずわたしは這ったまま進み出た。ある突拍子もないむちゃな考えで、わたしの頭のなかは、まさに沸騰していたのです。あの調子ならドウは、自分の言ったとおり実行すると思いました。そうなれば、彼の手で、本当の殺人が行なわれるわけです。だが、こうすればチャンスはある、ほんの一握りの、途方もないチャンスが……。
ジェレミーの手が、またもわたしを後にひき戻しました。「いったい、どうするつもりなんだ、パット」彼がささやきます。ところが、わたしがその手をパッとふりほどこうとしたものだから、彼はポカンと口をあけたまま……。
わたしがもがいて抵抗しているうちに、空地の光景が変わりました。連中のなかに、じっと身をひそませているウォーデン・マグナスの姿も眼に入った。連中はみんな、藪や木のかげにひきさがっています。そのうちの何人かが、わたしたちのほうに少しずつ進んできました。どっちを見ても、貪欲な眼を光らせた、武装した看守の姿ばかり……。
マグナス所長が空地に出て来ました。「ドウ」彼はおだやかな口調で呼びかけました、「馬鹿な真似はよせ。小屋は包囲されているのだ。われわれはおまえを逮捕するつもりだが、殺すつもりはないのだ――」
ダーン! 夢うつつのなかで、マグナス所長の右腕に、魔法にでもかけられたみたいに、血痕がにじんでくるのがわたしにもわかる。ひからびた地面に、ポタッポタッと落ちてくる血。ドウのピストルが、またもや火を吐いたのです。一人の看守が森の中からとび出すと、失心した所長をひきずって行きました。
わたしは、まるで狂気にかられたみたいになって、全身の力をふりしぼると、ジェレミーの手をふりちぎりました。はげしい動悸《どうき》、苦しさのあまり、咽喉にチクチクと感じる痛み。突然パッとわたしは空地へとび出した。時間がピタッと停止したとき、宇宙の形相がそうなるように、眼に見えるすべてのものが静止したのを、わたしは、一瞬、感じた。わたしが無暴にもドウの射線上にとび出したものだから、所長も看守たちも、それに犬、いいえ、ドウでさえ、まるで化石になってしまったみたい。だが、わたしは興奮したあまり、この突拍子もない目的におじけづきながらも、すっかり逆上していたのです。もうわたしには、自分で自分を制することなどできなかった。ジェレミーが、わたしのあとを追ったりしないように、ひそかに祈るばかり。と、その瞬間、背後から近づいて来た三人の看守につかまって、もつれている彼の姿がわたしの眼に入りました。
わたしは、グッと頭をあげた。そして、高く澄んだ自分の声を、この耳で聞いたのです、
「エーロン・ドウ、あたしを小屋の中に入れて。あたしがだれだか、あなたは知っているはずよ。ペイシェンス・サムよ。ね、お話したいことがあるの」わたしは、まるで雲の上を歩くような感じで、だが、足取りはしっかりと、小屋に向かって進んで行きました。
わたしの頭は、まるっきりしびれていた。感覚もなにもなかった。かりにドウが、恐怖に駆られて、わたしを撃ったとしても、わたしには、なにが自分のからだにあたったのか、絶対にわからなかったと思う。
と、甲走った音《ヽ》が、わたしの耳に痛いほどひびいた、「ほかのやつは退っていろ! その女に狙いはついてるんだ。ちょっとでも動いてみろ、その女を殺してやるぞ! 退っていろ!」
とにかく、わたしは小屋の入口にたどりついた。眼の前で入口の戸がひらくと、薄暗いジメジメした小屋の中に、なかば倒れかかるみたいにわたしは転がりこんだのです。背後で、カチッと戸のしまる音。
かわいそうにドウは、目もあてられないほどみじめな姿に変わっていました――からだは汚れ、よだれをたらし、ひげは伸び放題、さながら『ノートルダムのせむし男』のように醜く、鬼気せまる姿で立ちすくんでいるではありませんか。ただ、眼だけはしっかりしていて、避けられない死に直面した勇者のように、しずかな決意をうかべていました。左手の銃口からは、まだ硝煙が立ちのぼっています。
「早くしろ」ドウがかすれたような低い声で言いました、「だましたりすると、おまえの命はないぞ」彼は窓から外の方をチラッと見て、「さ、話すんだ」
「エーロン・ドウ」わたしはささやくように、「こんなことをしてみても、なんにもならないわ。あたしが、あなたの無実を信じているのは、あなただって知っているでしょ? それにレーンさんも――ほら、独房で、あなたを実験した親切な老人、それに、あたしの父、警部なのよ、みんな、あなたの無罪を信じているのよ……」
「目の黒いうちに、このエーロン・ドウを捕えることは、無理な相談だね」と、彼はつぶやきます。
「ねえ、エーロン・ドウ、こんな真似をしていると、自分で自分の頸を締めているようなものよ」わたしは叫び出していた、「さ、自首しなさい。それ以外に、あなたが救われる道はないわ……」
わたしは、つぎからつぎへと喋りつづけました。自分でも、自分の言っていることが半分もわからなかったくらい。彼の身代わりになって、わたしたちが動きまわっていることや、かならず彼を助けだせる方法などを、喋りつづけたのだと思う。
まるで、はるか彼方から聞こえてくるように、ドウの途切れ途切れの呟きが、かすかに、わたしの耳にきこえてきました、「わしは無罪なんだ、お嬢さん、わしは殺さないんだ、絶対にわしがやったんじゃない。どうか助けておくんなさい」ドウは膝まずくと、わたしの手に口づけをしました。わたしの膝はガクガク震えるばかり。硝煙を吐いているピストルが床の上にころがっています。わたしはこの初老の男を抱きかかえるようにして起こすと、そのうなだれた肩に手をかけ、入口の戸を押しあけて、外に出たのです。きっとドウは、落ち着いて自首したのだと思います。
というのは、その瞬間、わたしは意識を失ってしまったのですもの。ハッと気がついたときには、ジェレミーがわたしに顔を近づけ、だれかが、わたしの頭に水をかけている始末。
それから、事態は結末に向かうどころか、逆に苦しい様相を呈してきたのです。わたしは、あの午後の出来事を思い出すたびに、きまって身震いが出るほど。父とレーンさんとが連れ立って、だしぬけにどこからかやって来たときのことです。わたしは、ジョン・ヒュームの検事室に腰をおろして、あわれなドウの話を聞いていたのをおぼえています。それからまた、椅子に身をこごめているドウが、しょっちゅう奴隷みたいに、その打ちひしがれた顔を、わたしからレーンさんや、さらに父へとむけていたのが思い出されます。わたしは、すっかり意気|銷沈《しょうちん》して、ぼんやりしていました。それにしても、ドルリー・レーンさんの顔は、さながら悲劇の仮面そのものでした。ヒューム検事の部屋で、ドウに会う一時間まえに、あの掘立小屋のなかでドウに約束したことをレーンさんにお話したときの、レーンさんの言葉やその表情を、わたしは、どんなことがあっても忘れることができないでしょう。
「ペイシェンスさん、ペイシェンスさん」そのとき、老優は声をあげたのです、沈痛なひびきをこめて、「ああ、そんな約束はしないほうがよかったのです。わたしには事件の真相がわかっていないのだ。実際のところ、そうなのですよ。ただ、わたしは、なにかを――それは途方もないことですが――手がかりをつかみつつあることはたしかです。しかし、完璧《かんぺき》とは申せません。ドウを助けるのは、むずかしいかもしれないのです」
わたしは、自分がしでかしてしまったことにハッと気がつきました。ドウに希望をもたせたのは、これでもう二度目じゃないか、そしてもし今度……。
ドウが検事の尋問に答えていました。――と、とんでもない、フォーセット博士を殺したのは、あっしじゃありませんよ。あの家へ行ったことさえないんだ……。ジョン・ヒュームが机の引き出しからピストルを取り出しました。それは、ドウが小屋の中で持っていたもの。
「これは、フォーセット博士のものだ」ジョン・ヒュームが、威厳をこめて言います、「シラを切ったって無駄だぞ。博士の召使は、昨日の午後、このピストルが診察室にある秘書の机の一番上の引き出しに入っていたのを、ちゃんと見ているんだ。おまえは、その引き出しから、こいつを持ってきたんだ、ドウ。おまえは博士の家にいたんだ」
ドウは打ちのめされたようになりました。――そう、そうなんで、と金切声《かなきりごえ》をあげて――だけど、あっしはフォーセット博士を殺したりなんかしません。たしかに会う約束はしてました。夜の十一時半でさあ。あっしが博士の部屋に入ったら、フォーセットは血まみれになって、床の上に転っているじゃありませんか。ひょいっと見るてえと、机の上にそのピストルがあったもんですから、おそろしくなって、そいつをひっつかむと、外へ走り出たわけなんで……いいえ、ほんとうに。へえ、たしかに小箱の切れっぱしは送りましたがね。
どうやって?
ドウはずるそうな様子をして、なにも言おうとはしません。
――この、JAというのは、いったい、なんだ?
ドウはまるで牡蠣《かき》みたいに口をつぐんでしまいます。
「すると、あんたが見たのは、死体だったのだね」レーンさんが緊張した面持ちでたずねます。
「そ、そのとおりなんで。やつが死んでるのがわかると――」
「ほんとうなんだね、ドウ、フォーセット博士は死んでいたんだね?」
「ほんとですとも、旦那。これっぽっちもまちがいありません」
すると地方検事は、フォーセット博士の机の上で見つかった、なぐり書きの手紙をドウに示しました。ところが、わたしたちはみんな――ドルリー・レーンさんは別ですが――びっくりしてしまいました。なにしろ、ドウの否認の仕方があまりにも真剣で、はげしかったからです。――そんな紙きれは見たこともない、とドウが悲鳴をあげる始末。フォーセットと署名された、インクで書かれたその手紙なんか、読んだことはないし、『エーロン・ドウ』と署名された、鉛筆書きの金釘流の手紙も、金輪際《こんりんざい》書いた|ためし《ヽヽヽ》がない、と言うのです。
と、老優が間髪入れずにたずねました、「ドウ、ここ四、五日のあいだに、フォーセット博士から、ぜんぜん受け取ったものはなかったのかね?」
「そういえば旦那、たしかに博士から手紙をもらいました。ですが、この手紙じゃありません! あれは火曜日でしたが、わたしは手紙を――フォーセット博士からもらいましたんで。そいつには、木曜日に脱走しろって書いてありました。まちがいありませんよ、旦那。木曜日と、博士の手紙にはあったんで」
「その手紙を持っているかね?」レーンさんはゆっくりたずねました。
だが、ドウの答によると、その手紙を刑務所内の便所に投げ棄ててしまった、というのです。
「どうにも腑《ふ》におちん」ヒュームが口のなかでつぶやきました、「なんだってフォーセット博士は、そんな手までつかって、この男を裏切らなければならなかったのか? さもなければ、おそらく……」
と、そのとき、老優がなにやら言い出そうとしたようでしたが、やがて頭をふると、また黙りこくってしまいました。
わたしには、光が――ほんのわずかですが少しずつ見えはじめてきたのです。
それから、恐ろしいことになってしまいました。またも、ジョン・ヒュームは安易な道を選んだのです。ヒューム検事は、公判で次席検事のスイートに、ドウを起訴することを許したのです。ドウは、まったくめちゃくちゃだと思えるほどのスピードで、第一級殺人犯として起訴され、アッという間に、公判にもって行かれてしまったのです。なかでも一番むずかしかったのは、リーズ市の市民たちがドウをリンチにかけないように、警戒することでした。なにしろ、同じ男が二度までも殺人罪で起訴されたということで、市民たちがひどく激昂している気配だったからです。そんなわけでドウは、リーズ刑務所から裁判所まで隠密裡に連れ出され、ふたたび厳重な警戒のもとに連れもどされるといった按配だったのです。
弁護人マーク・カリアーの腹のうちは、まったくわかりませんでした。この弁護士は、レーンさんが出した弁護料をきっぱり断わったのです。そのとりすましたマーク・カリアーの顔からは、なにも推測できませんでした。しかも彼はふたたび、優勢な検事側を向こうにまわして、全力をあげて闘ったのですからね。
公判の進行中というもの、ドルリー・レーンさんは絶望感と無力感を抱きながら、マントにくるまって、傍聴席にじっと坐っていたのです。エーロン・ドウは審理され、陪審員の四十五分間にわたる審議の結果、第一級殺人犯として有罪の票決を受け、ほんのひと月ほど前、彼に終身刑を宣告した同じ裁判長によって、こんどは電気椅子による死刑が宣告されたのです。
「エーロン・ドウ、法の定めるところにより……死刑に処せられるものとする……細目はその週にあたって……」
二人の保安官代理にガチャリと手錠をかけられ、武装した看守たちに取り囲まれて、エーロン・ドウは、せきたてられるようにして、アルゴンキン刑務所へ護送されたのです。そこでは、死刑囚を待つ独房の沈黙が、冬の墓場の凍《い》てついた土のように、ドウの頭上にのしかかってきたのです。
十八 暗黒の時
こうしてわたしたちは、希望の風が吹きはじめるのを心から念じながら、無風地帯のなかに、密閉されていたのです。頭上では太陽がはげしく照りつけ、しかも油をながしたような海上で、わたしたちは沈没しかかっている、といった格好だったわけですね。精も根も枯れて死んだようになり――望みのうすい風を空頼みに、帆《ほ》を張ることにも疲れ果て、闘うことにも考えることにも、消耗しつくしていたのです。
父とクレイさんとの確執は、治っていました。だれひとり争いを起こすつもりなどなかったのですから、わたしたち父娘《おやこ》は、そのままクレイ家にとどまっていました。もっとも、ほんの寝に帰ってくるだけでした。父ときたら、まるで逆上したみたいに落ち着きがなく、ずんぐりした幽霊よろしく、町のなかをうろつきまわっているばかり、わたしはわたしで、丘の上にあるミュア神父の家をしょっちゅう訪ねていたのです。たぶん、あの死刑囚のそばにいなければならないという、罪悪感のようなものにかられていたのだと思います。みんなの友である神父は、毎日エーロン・ドウに会っていたのですが、なぜか、彼の様子を話すのを拒むのです。わたしは、神父の微妙な表情の動きから推して、ドウが、わたしたちみんなの頭上に、呪詛《じゅそ》の言葉を浴びせつづけているのだと思いました。そのことが、さらにわたしの心を重くしたのです。
わたしたちは、できるだけのことはやっていたのです。ほんのちょっとした出来事はいくつかありました。わたしは、ドルリー・レーンさんが、ドウがリーズ郡拘置所で判決を待っているあいだに、ひそかに彼を訪ねたのを知っています。二人のあいだに、どんな言葉がかわされたのか、それはわたしにもよくわかりません。ただ、尋常な面会ではなかったはずです。なぜって、その後の数日間というもの、老優の顔には、恐怖の色がまざまざと残っていたからです。
一度わたしは、どんな言葉をドウとかわしたのか、レーンさんにたずねてみたことがあります。レーンさんは、かなり長いこと、口を閉じていましたが、やがてこう言うではありませんか――「HEJAZ《ヘジャズ》の意味を、あの男はどうしても話してくれないのです」わたしに面会の内容が聞き出せたのは、ただそれだけでした。
それから、またある日のこと、レーンさんはふいに行方をくらましてしまいました。おかげで四時間ものあいだ、わたしたちは狂ったように老優を探して歩いたものです。それなのに、レーンさんときたら、何喰わぬ顔をして舞い戻ってくると、まるで昔から一歩も離れなかったといわんばかりに、ミュア神父の家のポーチに、また坐りつづけているじゃありませんか。そして、いかにも憂鬱《ゆううつ》そうにからだをゆすりながら、疲労ときびしさの色を顔にきざみつけたまま、じっと考えこんでいるのです。これは後になってからわかったことですが、わたしたち凡人には理解できないようなレーンさん独特の推理にもとづいて、老優はルーファス・コットンを訪ねたのでした。いったい、どういう目的があって、レーンさんが、突拍子もない訪問をしたのか、当時のわたしには、さっぱり見当がつきませんでした。もっとも、レーンさんの狙いがなんであるにせよ、沈みきった老優の様子から推して、その訪問がみごとに失敗だったことは、火を見るよりも明らかでした。
また、別の日のこと、レーンさんは数時間も化石みたいに無言の行をつづけていたかと思ったら、だしぬけにサッと椅子から立ち上がり、運転手のドロミオを呼んで車の用意をさせ、ものすごい土煙をあげて、リーズ市の方向に、丘を下って消えて行ったこともあります。だが、そのときは、ほんのわずかの時間で戻ってきました。すると、それから数時間して、自転車に乗った郵便配達夫が、電報をとどけに、丘をのぼってきました。レーンさんは、すごい目つきで電文を読むと、わたしの膝の上に投げてよこしました。
ゴ照会ノ連邦政府係官ハ、目下公用ノタメ中西部ニアリ、乞ウ極秘。
電文には、合衆国司法省の一高官の署名がありました。明らかにレーンさんは、苦肉の策にのぞみをかけて、カーマイケルにわたりをつけようとしたのですが、電文に見るとおり、水泡に帰してしまいました。
言うまでもなく、老優こそ、ほんとうの意味の殉難者なのです。そのときのレーンさんは、それよりほんの数週間まえに、老いの顔を興奮と悦びの色にかがやかせて、わたしたち父娘《おやこ》といっしょに、このリーズ市へやってきた同一人物だとは、とても信じられないくらいでした。さながら人間の脱け殻を思わせるまでに、この老優の内部で、なにものかが衰微してしまったのです。レーンさんは、もとの老病人に逆もどりしてしまったのです。ときたま、発作をおこしたみたいに精力的にとび歩く以外には、老優はミュア神父と無言で向かいあったまま、ただむなしくはてしない時間をついやして坐っているばかり。その胸中は神のみぞ知る、といった始末です。
時の歩みは、さながら虫の這うみたいだった。ところが突然、その歩みが早くなったのです。何事もない日々がのろのろとつづいていたのに、ある朝、ベッドからやっと起き出そうとしたとたん、その日が金曜日だということに気がついて、眼もくらむばかりの恐ろしさのあまり、思わずわたしは、身をこわばらしてしまったのです。そうだ、来週の月曜日から一週間たつと、マグナス所長は法の命ずるところによって、エーロン・ドウの死刑執行の正確な日どりを決めることになっているのです。だが、それは、ほんの形式上の手続きにすぎない。アルゴンキン刑務所では、水曜日の夜に、死刑が執行されるならわしになっているのです。奇蹟が生まれないかぎり、二週間以内には、エーロン・ドウは黒焦げの死体になるんだわ……それに気がつくと、わたしは気が狂いそうになりました。その瞬間、そうだわ、あの刑務所の壁の中にいる哀れな囚人のために、いろんな人に会い、当局に嘆願して、全力をあげて減刑運動をしなければ、という気になったのです。だが、いったい、だれのところへ行けばいいのでしょう。
その日の午後、いつものように、わたしはミュア神父の家に重い足をひきずって出かけました。すると、父も来合わせていて、レーンさんや神父さんと、何事か熱心に相談しているところでした。わたしはソッと椅子に腰をおろすと、眼をとじました。それから、また眼をひらきました。
レーンさんが話していました、「警部さん、まず絶望ですね。とにかくアルバニーへ行って、わたしはブルーノ君に会うつもりです」
それは友情と義務の板ばさみという、芝居によく出てくるような場面でした。もっと幸せな状況のもとで行なわれたのだったら、さだめし面白い山場になったことでしょうに。
わたしたち、つまり、父とわたしにとっては、ただ手をこまねいてじっとしていないですむ口実ができただけでも、なによりでした。わたしたちは、アルバニーまで、レーンさんのお供をして行くべきだと言い張ったのです。老優は、わたしたち父娘《おやこ》が同行することに、むしろ満足している様子でした。運転手のドロミオは、まるで疲れを知らぬスパルタ人みたいに、ハンドルをにぎっていました。丘陵地方の、とある小さな州の首都に車が着いたとき、わたしたちは――すくなくとも父とわたしはすっかりへトへトになっていました。ところがレーンさんときたら、少しお休みになったらと言うわたしたちの言葉に、耳を貸そうともしないのです。もっとも、レーンさんがリーズ市から電報を打っておいたので、ブルーノ知事が待っていたせいもあります。そこでレーンさんは、ドロミオに命じて、小休止なしに、そのまま州議事堂まで車を直行させたというわけです。
わたしたち一行は、議事堂の執務室で、ブルーノ知事と面会しました――うすい褐色の髪、きびしい眼差し、昔とすこしも変わらないずんぐりしたブルーノです。彼はあたたかくわたしたちを迎えてくれました。秘書にサンドイッチを運ばせて、とても嬉しそうに、父やレーンさんととめどもなく冗談を交わしたりして……だが、そうしているうちにも、その眼はきびしく寸時も油断がなく、唇に微笑を浮かべてはいても、眼は笑っていないのです。
「ところで」わたしたちが疲労を回復し、気分がほぐれてきたところを見はからうと、ブルーノ知事は切り出しました、「レーンさん、アルバニーへはどんなご用件で?」
「エーロン・ドウの事件のことです」老優がしずかに答えます。
「いや、そうだろうと思いましたよ」ピアノでも叩くような調子で、知事は机をコツコツ叩きながら、「では、みんな話してみてくださいませんか」
そこで老優は、どんな想像の介入もゆるさないような、飾り気のない簡潔な言葉づかいで、事件の全貌を説明して行きました。最初の被害者、フォーセット上院議員殺害の真犯人が、絶対にエーロン・ドウではあり得ないという、あのうんざりするほどこみ入った推論をつづけたのです。その間、ブルーノ知事は眼をとじたまま、傾聴していました。たとえなにかに心を動かされたとしても、ブルーノ知事は、顔にその色をあらわすようなことはしませんでした。
「そういうわけで」レーンさんは結論に達すると、「ドウの有罪には明らかに疑問の余地がのこるという事実から、ドウの死刑執行を一時停止していただこうと思って、あなたにお願いに来たわけなのです」
ブルーノ知事は眼をあけると、「いや、あいかわらず、じつにお見事な推理ですな、レーンさん。ま、これが普通の場合なら、正確な推理と申せましょう。だが……かんじんの証拠に欠けております」
「いいかね、ブルーノ君」父はうなり声をあげて、「そりゃあ、君のむずかしい立場は百も承知さ。しかし、君らしくもないぞ。これでも昔からの君をよく知っているはずだ! 強い義務感こそ、君の根性だったじゃないか! ほんとの君なら、この死刑執行は延期すべきだ!」
ブルーノ知事はホッとため息をもらして、「こいつは知事就任以来の最大の難問題だね、サム君、それにレーンさん、私は法律のただの道具なのでしてね。実際のところ、私は正義に仕えることを宣誓しております。ところで、われわれの法律制度が明らかにしているように、正義は事実に立脚しています。そしてあなたがたは、事実《ヽヽ》を持っておられない。事実《ヽヽ》というものがありませんね。すべてが推理です――いや、じつにお見事な、賞賛に値すべき推理だが、推理はあくまで推理です。その死刑囚の無実が、単なる推論だけではなく、はっきりとした確証があげられないかぎり、陪審員の評決を受け、裁判長によって下された死刑宣告の執行を、私が停止するわけにはいかないのです。ですから、なによりも証拠を、証拠をくださいませんか!」
ぎごちない沈黙がつづいた。わたしははげしい無力感に襲われながら、椅子のなかでむなしくもがくばかり。と、レーンさんが、椅子から腰をあげました。スックと立ち上がった長身のレーンさんにはただならぬ気配が感じられ、その老いた顔は、さながら大理石の像のように蒼白。「ブルーノさん、わたしはエーロン・ドウの無実について、単なる推理以上のものをたずさえてきたのです。このあまりにも明白すぎるほど明白な二つの犯罪から、いくつかの避けられない呪われた推論を引き出すことができます。しかし――あなたもおっしゃるように――その推理を裏づける証拠がなければ、推論は決定的なものではない。そしてわたしには、その裏づけとなるべき証拠がないのです」
父は眼を大きく見はるなり、「じゃ、あなたには事件の真相がわかっているんですね!」
するとレーンさんは、妙に苛立たしげな素振りを見せて、「わたしには、全体がほぼわかっています。ま、全部とは言えないまでも、ほとんどそれに近いと言ってもいいでしょう」老優は知事の机に身をもたせかけると、ブルーノの眼をまじまじとのぞきこみました、「ブルーノさん、これまでにも、いろいろな場合に、わたしを信じてくださるようにお願いしたことがありましたね。それなのに、どうして今度だけは、わたしを信じてくださらないのです?」
ブルーノは視線を落しました、「レーンさん、なんと言われても……これだけは」
「そうですか、よくわかりました、では」老優は姿勢を正すと、「さらに話を先へ進めましょう。わたしの推理は、フォーセット兄弟殺害の真犯人を、たった一人にしぼるところまでは行っておりません。しかし、ブルーノさん、わたしの推理はすでに数学的な正確さをもって断言できる段階にまで達しているのです。よろしいですか、|真犯人は《ヽヽヽヽ》、|三人のうちのたった一人です《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》」
思わず父とわたしは、狂気じみた眼を、レーンさんに向けました。三人のうちの一人! なんという驚くべき発言、逆立ちして考えたって、そんなことが可能だと、とうてい思えるものではありません。これまでにもわたし自身、自分で疑わしい人物をしぼってみたことがありました、だが、それにしても――三人《ヽヽ》だなんて! 現在までに判明した材料から、どうしてこのような消去法が可能なのか、わたしにはまったく呑みこめなかったのです。
ブルーノ知事が低い声で、「で、エーロン・ドウは、その三人のうちには入らないのですね」
「そうです」
確信にみちた老優の言葉が、しずかにわたしたちの頭上にひびきました。ブルーノの沈痛な眼に、かすかな光がさしたのを、わたしは見た。
「ブルーノさん、どうかわたしを信頼して、時間を貸してください。時間《ヽヽ》です。おわかりかな、それだけで結構、わたしが欲しいのは時間だけなのです。時がすべてを解決するはずです……ある一片、重要な一片が欠けているだけなのだ、その一片を見出すためには、どうしてもわたしには時間が要るのです」
「たぶん、その一片は存在しますまい」ブルーノ知事がポツリと言ってから、「まるで雲をつかむような話ですね。もしそれが駄目だった時は? 知事としての私の立場も考えてみてください」
「その時は、わたしもいさぎよくカブトを脱ぎます。しかし、その一片が存在しないとわたしが確信するまでは、まったく身におぼえのない犯罪のために、ドウの死刑執行を許可するという道徳的権利は、あなたにはないはずです」
と、ブルーノ知事がサッと立ち上がって、「よくわかりました、では」彼は決意のひびきをこめて、「この点まで認めることにします。もし死刑執行の当日までにあなたが探している鎖の最後の一環が見つからない場合には、執行を一週間延期させましょう」
「おお、ありがとう、ブルーノさん、ほんとにありがとう。それでこそ、あなただ。この暗黒の数週間のうちで、わたしははじめて陽《ひ》の光を見ましたよ。さ、警部さん、お嬢さん、それではすぐ引き返しましょう!」
「ちょっとお待ちを」知事は机の上の書類をめくりながら、声をかけました、「お話しようかどうしようかと、じつは迷っていたのですが、あなたがたに協力する以上、隠しておく権利は、私にないと思われますのでね。ひょっとすると、お役に立つかもしれないし」
老優はキッと顔をあげて、「とおっしゃると?」
「じつは、エーロン・ドウの死刑執行の停止を嘆願してきたのは、あなたがただけではないのです」
「なんですと?」
「リーズ市のある人物で――」
「すると、ブルーノさん」レーンさんはギラギラと燃えるような眼を向けながら、おそろしい声をあげました、「わたしどもが知っていて、しかもこの事件の関係者のひとりが、われわれの先を越して、ドウの死刑執行の延期を依頼した、と言われるのですな」
「いや延期ではないのです」知事はつぶやくように低い声で言って、「無罪釈放です。彼女は二日前にやって来ましてね、どういう事情があって、彼女がそういう依頼をするのか、そこのところは、私にも話しませんでしたが――」
「彼女?」わたしたちは仰天したあげく、いっせいに聞きかえしました。
「ファニー・カイザーですよ」
レーンさんは、知事の頭上にかかっている油絵を、ぼんやりと見つめていました。「ファニー・カイザーか、そうだったのか、どうしていままで――」老優は|こぶし《ヽヽヽ》で机をドンとたたくと、「そうだ、そうだったのだ、いや、わたしはなんという明き盲《めくら》だ、なんという大馬鹿者なんだ! 彼女は釈放の依頼に来た理由を、言いたがらなかったのですね?」レーンさんは、絨毯《じゅうたん》の上を跳ぶようにしてやってくると、父とわたしの腕を痛いほどつかみました、「さ、お嬢さん、警部さん、リーズ市へ引き返すのです! 大丈夫、まだ望みがある!」
十九 王手
リーズ市への帰途は、いささか異様なものでした。レーンさんは大きなコートにくるまって――日増しに寒さがましてきたので――その眼ときたら、まるで熱病にかかったみたい。疾走している自動車の車輪は、まるでレーンさんの強い意志の力で回転しているような感じ。そして、運転手のドロミオに、もっとスピードをあげるように命じるときだけ、レーンさんはわれにかえるのです。
もっとも、自然の要求にはかないっこない。その夜は車を停めて、食事と睡眠をとらなければなりませんでした。翌朝ふたたび車の旅をつづけて、その日の正午少し前に、わたしたちの車は、リーズ市に到着したのです。
一見して、街は異様なくらい興奮のるつぼに巻きこまれていました。新聞の売り子たちがヒラヒラする新聞を高くかかげながら、さかんに呼び声をあげている。第一面には特号活字の大見出し。と、いきなりわたしの耳に、大見出しの言葉がとびこんできました――ファニー・カイザー! 新聞売りの少年の金切《かなきり》声です。
「とめて!」わたしはドロミオに叫びました。「なにかあったのよ!」
父とレーンさんに身じろぎするいとまもあたえずに、わたしは車からとび出すと、小銭を売り子に投げるようにして渡すと、新聞を一枚、ひったくりました。
「大変よ!」わたしは車のなかにとびこみざま叫びました、「読んでごらんなさい!」
その記事は痛快なくらい、事実を赤裸々にスッパ抜いていました。リーズ・エグザミナー紙はつぎのように報道している――『ファニー・カイザーは、ここ数年間にわたって、当市の悪名高い人物であったが、このたび、ジョン・ヒューム地方検事の指揮によって逮捕された。容疑は……』そして、犯罪事実がズラッと書きたてられています。たとえば婦女売買、麻薬取り引き、その他悪業のかずかず。その記事によると、どうやらヒュームは、最初の殺人事件の捜査中に、フォーセット上院議員邸の中で手に入れた書類をあざやかに利用したようです。ファニー・カイザーの経営による何軒かの『店』も手入れを受けていました。いままで臭いものに蓋《ふた》をしていた、その蓋が、やっととれたのです。黒い噂が街中にあふれていました。リーズ市の社交界、実業界、政界のたくさんの名士たちが、ファニー・カイザー事件と直接のつながりがあることが、暴露されていました。
また、記事によると、ファニー・カイザーの保釈金は二万五千ドル、しかし、その金は即時支払われ、女はなんらの拘束を受けることもなく、告発を待っているというわけです。
「まさにニュースです」レーンさんは考え深げに言いました、「いや、じつにラッキーでしたよ、警部さん、この恩恵は、はかりしれないくらいです。これで、われらの友ファニー・カイザーも年貢を収めるわけですからね。たぶん……」レーンさんは、ファニー・カイザーの逮捕や告発など、まるっきり歯牙にかけず、その女の出鼻をくじいた点を重視していました。「こういった種類の女は不死鳥みたいなものでしてね……ドロミオ、ヒューム地方検事の事務所に車をやっておくれ!」
葉巻をゆったりとくゆらしながら、ジョン・ヒュームは机についていましたが、わたしたち一行が訪ねると、いやに愛想よく迎えてくれました。ファニー・カイザーの居所をたずねると、目下保釈中という返事。で、女の本拠をたずねると、ヒュームは微笑を浮かべてから、その住所を教えてくれました。
わたしたち一行は、女の本拠に急行した――市の郊外にある大きな邸宅で、すでに警察の手ですみずみまで荒されていました。邸内は、豪華な絹ビロード、ケバケバしい装飾、金箔趣味にあふれていて、いかがわしい裸体画が、べタベタと飾られていました。ファニー・カイザーは不在。保釈以来、女は立ち戻っていなかったのです。
わたしたちはまたも緊張に顔をこわばらせて、女の行方を血眼になって探しはじめました。その三時間後には、ただおたがいに顔を見合わせて、絶望のあまり口もきけなかったくらい。女の足どりは、|よう《ヽヽ》としてわからなかったのです。
女は、保釈金の没収など眼中になく、州外へ高飛びしてしまったのか――いやひょっとすると国外逃亡も? ファニー・カイザーにつきつけられた恐るべき罪状の数々を思いあわせれば、その可能性は十分ありました。わたしたちがなす術もなくただハラハラしているあいだにも、老優は死神のようなすさまじい形相をして、ジョン・ヒュームと警察を叱咤鞭励《しったべんれい》していたのです。たちまち電話が四方八方に飛び、ファニー・カイザーの巣窟という巣窟はくまなく捜査されました。刑事たちには、彼女の足どりをつかむように指令が飛び、鉄道の駅という駅に張り込みがつづきました。ニューヨーク警察も連絡を受けて捜査にあたったのですが、すべては水泡に帰したのです。女は完全に姿を消してしまいました。
「いまいましいことには」わたしたちがグッタリと疲れきって、ジョン・ヒュームの事務所で、報告を待ちわびているとき、地方検事が言いました、「あの女の告訴は、三週間先に予定されているのですよ。こんどの木曜日から起算して二週間先ということになりますな」
それを聞いたわたしたちは、同時にうめき声をあげました。たとえブルーノ知事が死刑執行を延期してくれたにしろ、エーロン・ドウの死刑が執行されたその翌日にならなければ、ファニー・カイザーには出頭の義務がないのです、それも、彼女がおとなしく出頭するとしてですからね。
それからの恐怖の日々、わたしたちは急に年をとってしまったような気がします。またたく間に一週間がすぎてしまいました。金曜日……それでもまだ、わたしたちはファニー・カイザーの捜索をあきらめませんでした。レーンさんは、さながらダイナモのように精力的でした。警察の協力のおかげで、地方放送局も自由に使えるようになったのです。呼びかけや訴えが、電波にのって放送されました。ファニー・カイザーの暗黒街の地下組織に関係ありとわかったものは、すべて監視下におかれました。彼女の子分たち――つまりリーズ市の暗黒街でうごめいていた売春婦、人身売買業者、ヒモ、用心棒といった連中は、いっせいに検挙され、訊問を受けました。
土曜日、日曜日、月曜日……その月曜日には、ミュア神父からも聞き、また新聞でも読んだのですが、マグナス所長は、ドウの死刑執行の日時を、水曜日の午後十一時五分と正式に決定したのでした。
火曜日……ファニー・カイザーの消息は依然不明。全ヨーロッパ航路の汽船に電報が打たれました。だが、あれほど特徴のある女に符合する乗客は、一人もありませんでした。
水曜日の朝……まるでわたしたちは夢遊病者のようなものでした。ただ機械的に食事を口に運び、話もほとんどしませんでした。父は、まる二日間というもの、服を着たままでした。レーンさんの頬は死人のように蒼ざめ、その眼は、瀕死《ひんし》の病人のように混濁していました。わたしたちは、なんとかしてアルゴンキン刑務所に入って、ドウと言葉をかわしたいものと、必死でネバってみたものの、許可がおりませんでした。刑務所の厳格な規則に違反するというわけです。しかし、つぎのような噂が、どこからともなく洩れてきました――ドウは不思議なくらい平静、話すにしても、『ハイ』とか『イイエ』ぐらいしか喋《しゃべ》らなくなった、わたしたちのことを呪わなくなったばかりか、わたしたちの存在さえすっかり忘れてしまったようだ――それからまた、こんなこともわたしたちの耳に入りました、ほんとうのところは、死刑執行の時間が刻々と迫ってくるにつれて、ドウは明らかにはげしい動揺を示し、独房の床を発作的に歩きまわっている、という話です。しかし、ミュア神父は眼に涙をためて、微笑しながら、わたしたちに報告するのです――「彼は信仰にすがっていますよ」お気の毒な神父さま! エーロン・ドウは、信仰などにすがっているのじゃありません、もっと現世的な希望のおかげで、気を強くしていられるのだ、とわたしはにらんでいたのです。なぜって、これはわたしの直観でしたが、レーンさんがなんらかの手段を講じて、今夜は刑の執行がない、ということを、ドウに伝えるにきまっているからです。
水曜日、それは恐ろしい、まったく意外な出来事がいくつも起こった日でした。朝食――わたしたちはほとんど咽喉《のど》に通らなかったくらい。ミュア神父は、その老いた重い足をせかせかと引きずりながら、所内の中庭にある死刑囚の独房へ出かけて行きました。やがて不安な様子でもどってくると、そのまま二階の寝室にひきこもってしまいました。ふたたび神父が姿をあらわしたときは、祈祷書をしっかと手に握りしめて、まえよりも落ち着きをとりもどしていたようです。
その日は、むろんミュア神父の家にみんな集まっていました。そう言えばジェレミーもやって来て、まるで犬殺しのような顔をして、タバコをむやみに吹かしながら、神父さんの家の小さな門の前を、乱暴な足どりで行ったり来たりしていたのを、わたしはぼんやりおぼえています。一度、わたしが話しに外へ出て行ったとき、ジェレミーの話によると、彼の父、つまりクレイさんが、おそろしい仕事を引き受けた、と言うのです。どうやらクレイさんは、死刑執行の立会いに、マグナス所長から招かれて、それを承諾したらしいのですが、ジェレミーがあまりにも苦々しい顔をしていたものですから、わたしはなんと返事していいものか、ほんとに困ったくらい……。こうして、その日の午前もゆっくりと過ぎて行きました。レーンさんの頬はゲッソリこけ、|しみ《ヽヽ》があらわれていました。この二晩というもの、老優は一睡もしていなかったのです。持病が再発して、その顔に苦悩の皺が深く刻みつけられていました。
どこかわたしたちには、臨終の病室の外に集まっている近親、といった感じがありました。だれひとり無駄口をきくものはなく、たとえなにか喋ったにしろ、それはヒソヒソ声でした。ときおり、だれかがポーチへ出て行って、刑務所の灰色の壁を無言で見つめていたっけ。わたしは、われながら不思議な気持ちにかられました――なぜわたしたちは、そろいもそろって、あの哀れな男の死に、これほどかかずらっているのかしら? あの男は、わたしたちにとって何者でもないはずなのに――個人的な知り合いでもなければ肉親でもないではないか。それなのに、どういうものか、わたしたちの心は、しだいにあの男に占められてしまった――あるいは、彼が体現している抽象的な事件そのものに。
その日、午前十一時になる数分前に、レーンさんはリーズ市の地方検事事務所からの最新の報告を、使いの者から受け取りました。あらゆる努力も水の泡だったのです。ファニー・カイザーは見つからず、最近の彼女の足どりも、|よう《ヽヽ》として掴めなかったのでした。
老優は肩をグッとそびやかすと、「打つ手はただ一つ」彼は低い声で告げました、「それは、死刑執行延期の約束をブルーノ君に思い出してもらうことです。ファニー・カイザーが見つかるまで――」
と、そのとき、玄関のドアのベルが鳴りました。レーンさんは、わたしたちのびっくりした表情を見ただけで、とっさに何が起こったかを悟ったのです。ミュア神父が小走りに玄関へ急ぎました。と、やがて息のつまったような、神父のよろこびの叫びが、わたしたちのところまで聞こえてきたのです。
わたしたちは狐《きつね》につままれたみたいな顔をして、居間の入口を見つめていました。その入口の柱によりかかったまま、ひとりの人物が立っていたのです。
ファニー・カイザーでした、さながら、死者が蘇《よみが》えったかのように。
二十 Zの悲劇
女だてらに葉巻をふかし、ものに動じる色もなく、あれほどひややかにジョン・ヒュームを鼻であしらった、あの異様な女傑の姿も、いまはすっかり消え失せていました。眼前にいるファニー・カイザーはまるで別人だった。かつての燃えるような赤毛は、うすぎたなく、色あせたピンクと灰色のまだらに変わっています。男仕立ての衣服は泥にまみれ、クシャクシャにしわがより、何か所も裂けている始末。女の頬と唇には化粧のあともなく、たるんだ胸に、その顔を弱々しくたれている。そしてその両の眼には……恐怖の色がありありとあらわれていました。
名うてのファニー・カイザーも、いまはただ、おびえきった老女でした。
わたしたちはいっせいに戸口のところにかけよると、なかば力ずくで、彼女を部屋の中にひき入れました。ミュア神父は嬉しさのあまり、小踊りしながら、わたしたちのまわりを歩きまわるばかり。だれかが椅子を出すと、彼女は弱々しい、年寄りくさいうめき声をあげて、その椅子の中にくずれ落ちました。レーンさんはといえば、あの痛ましい影が消え、その表情ももとの平静さをとりもどしていました。とは言え、ワナワナとふるえる指、ピクピクと脈打っているこめかみの静脈が、老優の興奮にわなないている心の動きをひそかにあらわしていました。
「わたしは遠くの方へ行ってたんですよ」彼女は乾いた唇をなめながら、しゃがれ声で言いました、「それから、耳にしたんです――みなさんが、このわたしを探しているってことをね」
「そうか、そうか!」父は興奮に顔面を紅潮させて叫びました、「で、いったい、どこにいたんだね?」
「隠れていたんです、アディロンダックスの山小屋の中に」彼女は無気力な声で答えます、「わたしは――なにがなんでも逃げ出したかったんだ、わかってくださるわね? リーズ市の、こんどのゴタゴタで……わたしはもうへトへトになってしまったんですよ。山の中じゃ……文明なんかとはすっかり縁が切れちゃってね、電話もなければ郵便も来ない。サッパリしたもんですよ、新聞なんかないしね。だけど、ラジオだけは持っていったものだから……」
「じゃ、フォーセット博士の山小屋ね!」頭にパッとひらめくなり、わたしは思わず叫んでしまった。「弟の上院議員が殺害されたとき、博士はその山小屋で週末をすごしていたはずだわ!」
一瞬、彼女のたるんだ|まぶた《ヽヽヽ》がつりあがったが、またダラッと落ちた、そして頬はいっそうたるんで、まるで痛々しい老いぼれの海豹《あざらし》みたい。「そうだよ、お嬢さんの言うとおりだ。たしかにあの小屋は――アイラ・フォーセットのものです。ま、あの男の愛の巣、とでも言いましょうかね」彼女は陰気に笑ってみせた、「あの男は、その山小屋に女をつれて行くのさ。弟のジョーがバラされた週未にだって、あの男はどこかのアバズレ女を山小屋にひっぱっていたんだ――」
「いささか話が脱線したようだが」ドルリー・レーンさんがしずかな口調で言いました、「マダム、どうしてリーズ市にもどって来る気になったのです?」
ファニー・カイザーは肩をすくめると、「おかしいと思います? このわたしだって、自分にそんなかわいいところがあるなんて、ちっとも知らなかった。この調子じゃ、いまにワーワー泣き出すかもしれませんよ」彼女は胸を張ると、レーンさんにまるで突っかかるような勢いで、タンカを切りました、「わたしにだって、良心というものがあるんだよ!」笑いものにされるか、すくなくとも信じてはもらえまいと、自分でひとりぎめしているような口ぶりです。
「そうですか、それを聞いて、わたしはたいへん嬉しい、カイザーさん」レーンさんの言葉に、彼女は眼をパチパチさせた。老優は椅子をひきよせると、彼女と、対坐しました。わたしたちは、息をのんで、なりゆきを見守るばかり。「エーロン・ドウは、郡拘置所にいるときに――たしか裁判の前でしたな――あなたに小さな木箱の最後の部分を送りましたね? その第三の部分には、Zの文字が書いてあったはずだが?」
ファニー・カイザーは、口をポカンとあけた、まるで大きなドーナツの穴みたい。そして赤く腫《は》れ上がった眼をむきだして、老優の顔を見つめました、
「へえー、こいつは驚いた」彼女はあえぎながら言いました、「なんだって、それを?」
レーンさんは苛立たしげに手をふると、「なに、ごく簡単なことですよ。あんたは知事のところへわざわざ行って、|よそ目《ヽヽヽ》には、あんたと縁もゆかりもないドウの無罪釈放を願い出た。なぜ、よりによって、ファニー・カイザーだけが、そんな真似をしなければならないのか? その答はただ一つ、ドウがあんたの泣き所をつかんでいたからだ。わたしがにらんだところでは、ドウがフォーセット上院議員とフォーセット博士に対してつかんでいた泣き所と、まったく同じものだ。したがって、ドウが小箱の最後の部分を、あんたに送ったことは、自明のこと。Zの文字は……」
「なんでもご存じなのね」彼女はボソッとつぶやきました。
レーンさんは、彼女の肉づきのいい膝をかるくたたくと、「さ、話してください」
彼女は蠣《かき》みたいに口をつぐんでしまいました。
レーンさんはつぶやくような口調で、「だが、カイザーさん、わたしにはもう話の一部がわかっているのですよ。|あの船は《ヽヽヽヽ》……」
と、彼女はギクッと腰を浮かすなり、その太い指で、肘掛け椅子のまるまるとした腕を、爪がくいこむほど、はげしくつかみました。そしてまた、椅子に身を沈めると、「そうかい!」そう言うと、薄気味の悪い、それでいてどこか痛々しい笑いをたてました、「いったい、旦那はどなたなの? それじゃ、これ以上隠したって無駄のようね、それにしても、よくまあ嗅ぎつけたものだ……ドウが喋ったわけじゃないでしょうね?」
「いや、喋りはしない」
「死ぬまで隠しておくつもりなんだね、あの哀れな|ろくでなし《ヽヽヽヽヽ》は」彼女は口のなかで呟くように、「それはそうと、旦那さん、悪いことをすると、結局だめね、いつかは必ずバレる。そして、とどのつまりは、賛美歌をうたう連中にしてやられるんだわ。あら、ごめんなさい、神父さん……ええ、たしかにドウはわたしの泣き所をつかんでいたんです。その秘密をバラされたら|こと《ヽヽ》なので、それで、あの男をなんとかして助けようとしたんです。ところが、うまくいかなかったものだから、わたしはあわてて逃げたんだ、まんまと逃げおおせてやろうと思ってね……」
老優の眼に、奇妙な光がサッときらめきました、「ドウに秘密をもらされると、その後がこわかったからだね?」口調こそおだやかでしたが、質問自体は凄味のあるものでした。
彼女は、脂肪ぶとりの腕をはげしくふると、「とんでもない、ドウにバラされたって、それほどこわいわけじゃありません。それよりも、まずはじめに、あの子供だましみたいな小箱に、どんなイワクがあるか、それからお話したほうがよさそうですね。この数年というもの、ドウがにぎっていた、わたしや、フォーセット兄弟の泣き所をね」
ファニー・カイザーの話は、とうてい信じがたいような、驚くべきものでした。かなりの昔――いまから二十年か二十五年も前のこと、彼女自身、はっきりしたことをおぼえていないのですが――ジョーエルとアイラのフォーセット兄弟は、金になるならどんなことにも手を出すという若い小悪党で、世界中をうろつきまわっていました。荒稼ぎするなら、真面目《まじめ》な仕事はしていられないと、悪事の一点張り。その当時は二人とも別名だったが、この話とは無関係。一方、ファニー・カイザーはアメリカ人の渡り者とイギリスから追放された女泥棒との間に生まれた娘で、ちょうどそのころ、仏領シナの首都、悪が大手を振って横行していたサイゴンで、彼女は、べつにこれといって野心のない酒場のマダムにおさまっていました。と、そこへフォーセット兄弟の二人が流れこんで来ました。彼女の言葉を借りると、兄弟は眼を光らせて『摘み喰い』をしにやって来たというわけ。彼女は兄弟と知りあいになり、『ドライで、度胸があり、おまけに小粋なならず者に惚《ほ》れた』という筋書。
彼女がやっている酒場の常連といえば船乗りで、上客もいれば|カス《ヽヽ》もいる。こんな商売をしていると、秘密になっているようなことが、知らぬ間に彼女の耳に入ってくる。海に出ている間、何週間も酒にありつけなかった男たちは、上陸して自由勝手に飲み出すと、酒に酔った勢いで、言ってはいけないようなことまで、まま口走るものです。彼女が耳よりな秘密を手に入れたのは、そのころ入港していた不定期船の二等航海士の口からでした。その船員は酔っぱらったあげく、彼女をくどきにかかってきた。彼女は、その男をうまくあしらいながら、まんまと秘密を聞き出しました。その船の積荷が、香港向けの、数こそ少ないが最上質のダイヤモンド原石だという話。
「それこそ朝めしまえの仕事でしたよ」彼女は、昔のことをなつかしそうに思い出しながら、しゃがれ声で言いました。わたしは、彼女の顔を見て、思わずブルッと身をふるわせました。このふやけきった老女も、昔は美人だったんだわ!「わたしはその話を、フォーセット兄弟にソッと教えてやったのさ。ええ、分配の仕方まで、三人でちゃんと話を決めましたよ。そうですとも、あの連中なんかに、このファニー・カイザーがだまされるようなへマをするもんですか。ま、そんなわけで、わたしはやつらについて行き、三人で船客に化けて、おめあての船にもぐりこんだんですよ」
仕事はこっけいなくらい簡単でした。下《した》っ端《ぱ》の乗組員はシナ人とインド人ばかり――そろいもそろって意気地《いくじ》のない、あわれな連中で、乗り込んだ三人には手も足も出ない始末。まずフォーセット兄弟は武器庫を襲撃し、つづいて就寝中の船長を殺害し、高級船員は殺すか重傷を負わせ、下っ端の乗組員の半数を打ち倒し、ダイヤモンドを掠奪してから、船を沈め、そしてファニー・カイザーともども兄弟は、大型のボートで逃げたというのです。とりわけフォーセット兄弟は、乗組員には生存者は一名もいないと確信していました。三人は暗夜を利用して、人里はなれた淋しい海岸に上陸し、掠奪品を配分しあって、バラバラに別れ、それから数か月後に、何千マイルも離れた約束の場所で、顔をあわせたのです。
「で、エーロン・ドウはだれだったのです?」間髪入れず、レーンさんがたずねました。
一瞬、彼女はためらいましたが、「あの二等航海士ですよ。わたしがはじめにダイヤモンドの秘密を聞きこんだ、酔っぱらいの船員なんです。どうやって、あの男が九死に一生を得たか、それこそ神さまだけにしかわからないけれど、生き残ったことだけはたしかね。土左衛門にもならずに、怪我《けが》ぐらいはしていたろうけど、とにかく海岸に泳ぎついたんでしょうよ! そして、この数年間というもの、フォーセット兄弟とこのわたしに、憎悪を燃やし、復讐を誓ってきたんですよ」
「それにしても、ドウはなぜ、最寄りの港の警察に通報しなかったんだろう?」と父がつぶやくように言いました。
彼女は肩をすくめると、「ま、はなっから、わたしたち三人を恐喝《きょうかつ》するつもりだったんでしょうよ。いずれにしろ、あの船は『行方不明』と新聞に出たそうだわ。海上保険会社の調査もあったけれど、なんの結論も出なかったという話。わたしたち三人は、アムステルダムにある大きな『故買屋』にダイヤモンドを売り払って、現金にかえたんですよ。それからフォーセット兄弟とわたしはこのアメリカに高飛びして、それ以来、三人で手を組んでやってきたんです」彼女のしゃがれた声に、きびしいひびきがこもった、「いわば、三人がいつもいっしょにいるように、このわたしが采配をふっていたんです。あの兄弟から、わたしは絶対に眼をはなさなかった。三人はしばらくニューヨークにいて、それから、これといった目的もなしに、北部へ移って行ったんですよ。兄弟は万事順調に行ってね、とくにアイラはそうだった。昔からアイラは、ずばぬけて頭が切れる男でね、弟のジョーには法律の勉強をさせ、当人は医学を習った。わたしたち三人は、たんまりお金を儲《もう》けさせていただきましたよ……」
わたしたちは、無言のままでした。海賊行為、サイゴン、沈められた船、掠奪されたダイヤモンド、殺害された乗組員、それは、とうてい信じられないような残虐きわまる物語でした。いずれも現実離れがしていて、あまりにも異常すぎました。だが、それにもかかわらず、ファニー・カイザーのしゃがれ声には、真実のひびきがこもっているのです……と、そのとき、ドルリー・レーンさんの、重みのあるしずかな声に、わたしはハッと|われ《ヽヽ》にかえりました。
「その話で、すべてがピッタリと符合します。ただし、一つの点以外はね。私は、ほんの些細なきっかけから――船乗りしか使わないような言葉を、ドウが二度も口にしたものですから――この事件の背景の一部には、海がある、ということがわかったのです。そして、例の小さな木箱も、きっとこれは船員用木箱の小模型だと、わたしはにらみました。それから問題の『|HEJAZ《へジャズ》』は、競馬の馬の名前か、新しい賭博の名称、あるいは東洋の敷物の一種かもしれない、などと頭を悩ましたものだが――いや、とんでもない思いすごしだった!――なんのことはない、船の名前ではありませんか。しかし、古い海事記録を調べてみたのですが、そういう名前の船は、どこをさがしても見あたらない――」
「そうでしょうとも」ファニー・カイザーがうんざりした口調で言いました、「あの船の名前は、『|HEJAZ《へジャズ》の星』というんですからね」
「ああ、そうだったか!」レーンさんは声をあげて、「それではいくら探してもわからないはずだ。『|HEJAZ《へジャズ》の星』とね?で、むろん、ダイヤモンドは船長の小箱に入っていたのだね? それでドウは、あんたがたが盗んだ船長の小箱の模型をつくって、その切断した部分を三人に送りつけたわけだ、そうすれば、その意味が、あんたがたの胸にピンとくるはずだと考えてね!」
ファニー・カイザーは、ホッとため息をつくと、うなずきました。この場になって、やっとわたしは、この数週間にわたる老優の活動ぶりに思いあたったわけです。ひたすらレーンさんは、たゆまずに、船―海―小箱の推理の線をたどっていたのだ……老優は椅子からスックと立ち上がると、ファニー・カイザーを見おろしました。まるで彼女は、つぎの成り行きにおびえるかのように、身をこわばらせて椅子にうずくまっていました。わたしたちは、さながら夢を見るような気持ちで、無言のまま、じっと立ちつくしていました。いったい、どういうことになるのかしら? わたしには、一筋の光明すら、見出せませんでした。
レーンさんの鼻孔が、かすかに動いていました。「カイザーさん、さきほど、あんたは、先週リーズ市から姿を消したのは、自分の身の安全をはかるよりも、良心の呵責《かしゃく》に耐えかねたからだと言いましたね? 正直なところ、それはどういう意味なのです?」
精も根もつきはてた老女傑は、爪にまっ赤なマニキュアをほどこしている太い指で、絶望的なしぐさをしてみせました、「連中は、なにがなんでもドウを電気椅子に坐らせようとしているんじゃありませんか」彼女はしゃがれ声で、ささやくように言いました。
「死刑を宣告されているのだ」
「そらごらん!」彼女は叫びました、「連中は、無実の男を死刑にしようとしているんだ! エーロン・ドウは、フォーセット兄弟を殺しはしないよ!」
わたしたちは、同じ見えない糸に強くひっぱられたみたいに、いっせいに身を乗り出しました。
ファニー・カイザーの上にかがみこんだ老優の頸すじのあたりは、頸動脈がくっきりと浮き出ていました。「あんたに、どうしてそれがわかる?」老優の声が雷鳴のようにとどろきました。
と、突然、ファニー・カイザーは、椅子に身を沈めると、両手の中に顔をうずめました。
「どうしてって」彼女はすすり泣きながら、「アイラ・フォーセットが息をひきとるとき――|わたしにそう言ったんだもの《・・・・・・・・・・・・・》」
二十一 最後の手がかり
「ほほう」レーンさんが、ものしずかな口調で言ったものですから、わたしには――そう、彼だけが知っているなにか信じられないような方法で、奇蹟が起こったことがわかりました。そして、老優はやすらかな微笑をもらしたのですが、それは、ながいあいだの労苦が、やっと実を結んだというような微笑だったのです。レーンさんは、それ以上、一言も言いませんでした。
「アイラは、自分の口からそう言ったのよ」ファニー・カイザーは、いくらか元気をとりもどすと、沈んだ声でくりかえしました。すすり泣きも、いつかやんでいました。彼女は眺めるともなく壁に眼をむけていましたが、あの夜の記憶が、|まれ《ヽヽ》にしか探ったことのない心の深淵にさざなみを立てているかのような表情でした。
「わたしはね、いつもフォーセット兄弟の二人と連絡をとっていたんですよ、ひそかにね。おわかり? それが仕事なんです。弟のジョー・フォーセットが殺された晩は、あの家に入って行くなり、ヒューム検事から、ジョーが死ぬまえに、わたし宛に書いた手紙をつきつけられたので、いよいよ、わたしたちも年貢の収め時かな、と観念したのです。わたしたち――といっても、わたしとアイラのことですが、秘書のカーマイケルが|くさい《ヽヽヽ》と目をつけていたんですよ。例の小箱の最初の部分が、ジョーに送りつけられてきたとき、兄弟とわたしの三人は、頭をあつめて協議したんです。それで、エーロン・ドウが生きていることも、はじめて知ったんです。とにかく、事件を表沙汰にしまいとしたのに、ジョー、あの上院議員さんときたら!」彼女は鼻をならすと、「すっかり臆病風にとりつかれてしまったのね、金をやって済まそう、と思ったのよ。アイラとわたしは、彼の尻を叩かなくてはならなかったくらいですわ」そこで一息つくと、せわしくつづけて、「ジョーが殺された夜、ほんとうのところ、わたしはドウを追っ払ってやるつもりで行ったんですよ。ドウはかならず来るでしょうし、ジョーは、弱気になっているから、あの五万ドルを渡してしまうのもわかっていましたからね」
この女は嘘をついている、眼はなんとなく落ち着かず、なにか裏があるようです。どんなことだってやってのける女ではないでしょうか。フォーセット上院議員が殺害された夜、あの家にやって来たのも、それなりの目的があってのことにちがいありません。もし、ドウがおとなしく引きさがらなければ、ドウを殺す意図があったのでしょう。上院議員自身も、きっとおなじような企みをしていたのにちがいないのです。
女は、うわずった声でつづけました、「アイラ・フォーセットが殺害された晩、わたしは運のわるいことに、またまた、その家に入って行ったのです。つまり、小箱の第二の部分を、ドウが送って来て、その日の午後、電話で、その晩の約束を交わしたことを、アイラから聞いたものですから、いくら心臓の強いアイラでも、やっぱり臆病風に吹かれて、前日銀行から金を引き出して、ドウに払うのを迷っていやしないかと、わたしは見届けに行ったというわけですよ」
わたしには、ここでもまた、彼女がデタラメを言っているのがわかりました。『支払いの意志』を警察に示すために、預金から金を引き出したのじゃありませんか。アイラ・フォーセットも、ファニー・カイザーも、その晩、エーロン・ドウを殺害しようと企んでいたのです。
彼女の眼がギラリと光りました。「わたしが足をふみ入れると、アイラは胸を刺されて、床の上に息絶えているじゃありませんか」
老優は、いかにも不思議そうな面持ちで、「しかし、あんたは、彼が息をひきとるときに、と――」
「ええ、わたしだって自分の言ったことぐらいおぼえていますよ」彼女は口のなかで呟くように言って、「死んでいる、と、そう思っただけなんです。どっちにしたって、あまり気持ちのいいもんじゃありませんからね。ほんとに背筋がつめたくなるわ」そう言って、彼女が身をふるわせると、その巨体が、まるで海のうねりのように見えたくらい。「そこで、思わず引き返そうとして、ふりむきかけると、アイラの指が一本、動いたのが目に入ったじゃありませんか……で、わたしはあわてて引き返すと、そのそばに膝まずいて、言ったんです、『アイラ、アイラ、あんたをやったのはドウなの?』って。すると彼は、口をあき、咽喉の奥のほうから呻くように答えたんですけど、それが聞きとれないくらい低い声なんですよ、『ちがう、ドウじゃない。ドウじゃなくって、そいつは――』」彼女は言葉を切ると、大きな拳をふりまわしました、「それから、アイラは身を|けいれん《ヽヽヽヽ》させて、息を引きとってしまったんです」
「なんてこった!」父がいかにも残念そうに言いました。「私は、そんな場面に何回も出会わしたっけ。だれにやられたのか、言いさしては息が絶えてしまう。あんたは、犯人の名前までをたしかに聞かなかったのだね?」
「ほんとに死んでしまったんですよ。それで、あとも見ずに、その忌わしい家を、いちもくさんに逃げ出してきたんです」
女の声は、消え入るばかりになったが、また高くなって、「まったく、|ついて《ヽヽヽ》なかったよ。もし、いまのことを喋ったら、ヒュームはきっとわたしを下手人扱いにするだろうし……そいで、アイラの家から逃げ出したんです。むろん、山小屋の中に隠れているあいだも、ドウが無実だということは知っていました。それで、どうにも我慢ができなくなったんですよ――悪魔みたいなやつが、あの哀れな鼠を利用してるんだ――ドウはまんまと濡《ぬ》れ衣《ぎぬ》を着せられているのよ!」彼女の声は、金切声にまで高くなりました。
ミュア神父は、小走りに近づくと、彼女の分厚い手を、その青白い小さな掌で握りしめました。そして、やさしく言うのです、「ファニー・カイザーさん、あなたは、これまで、罪びとの生活を送って来ましたが、今日ここに、神の恩寵《おんちょう》をふたたび受けられたのです。あなたは、無実のひとりの男を、死から救い出しました。神よ、祝福あれ」そして、度の強い眼鏡の奥で、目をキラキラと輝かせながら、ドルリー・レーンさんをふりむいて、言うのです、「さ、これから刑務所へ直行しましょう。一刻の猶予もなりません」
「神父さん、まあ落ち着いてください、まだ数時間はありますよ」
老優は、微笑を浮かべて言いましたが、その声はおだやかながら、確信にみちていました。そして下唇を噛み、呟くのです、「ひとつだけ問題がある。きわめて微妙な……」
レーンさんの出方は、わたしを驚かせました。ファニー・カイザーの話は、たしかに重大な、最後の手がかりを与えているところがある。なんだろう? わたしには、彼女の話から、事件を解きほごす糸口のひとつをも見つけることができないのだ。エーロン・ドウの無実の証しは、いまの話で、たしかに成立したわけだけど。それにしても、レーンさんは人が変わってしまったのかしら……。
老優は、おだやかな口調で言いました、「カイザーさん、いまのあんたの話で、事件は解決しますよ。ほんの一時間まえ、わたしは、フォーセット兄弟殺害の真犯人が、可能なのは三人のうちの一人とはわかっていましたが、あんたの話で、そのうちの二人をのぞいてくれました」そして肩を張って言うのです、「では、ごめん、片づけておかなければならないことがあるのでね」
二十二 大詰め
レーンさんは、指をまげて、わたしを呼びました、「ペイシェンスさん、あなたに骨を折ってもらいたいことがあるのですがね」
わたしが胸をおどらせて、老優のそばに行きますと、
「どうかブルーノ知事に電話してくださいませんか、なにぶん不自由で……」
老優は、自分の耳に触れ、微笑してみせました。彼はまったく耳が聞こえないのです。周りの人々と交渉ができるのは、ひとえに読唇術のおかげ。
アルバニーの知事官邸に、長距離電話を申し込んだわたしは、胸をときめかせて待っていました。
老優は、じっと考えこんでいました。やがて、「カイザーさん、あんたがフォーセット博士の家で、死体のそばにいたとき、被害者の手頸には触らなかったでしょうね?」
「はい」
「その手頸に、血痕があったのに気づきましたか?」
「そういえば」
「で、一度も触らなかったのですな――フォーセット博士が息をひきとる前にも、死んでからも?」
「絶対に!」
老優はうなずいて、微笑しました、と、そのとき、交換台から呼び出しがかかってきました。「ブルーノ知事でいらっしゃいますか?」わたしは、深く息を吸いこみながら言いました。それから、五、六人もの秘書が、わたしの名前を取りついで行く間、待たなくてはなりませんでした。それから、やっとのことで、「こちらはペイシェンス・サムです。ドルリー・レーンさんに代わってお話しております。ちょっとお待ちください……レーンさん、知事さんに、なんとお伝えしますか?」
「事件は解決したから、リーズ市へすぐにも来てほしい、と伝えてください。それから、エーロン・ドウが無実であるという、しっかりした新しい証拠が手に入ったとも、つけ加えてもらいましょうか」
わたしは、そのとおりに伝えました――こら、ペイシェンス・サム、あなたは偉大なる名探偵ドルリー・レーンの口になっているのよ! すると、驚いてあえぐような声が、電話の向こうから返って来ました。知事のあえぐ声など、そうやたらに聞けるものではありません。
「すぐまいります! いま、どこにおいでです?」
「ミュア神父のお宅です。アルゴンキン刑務所のすぐ外ですわ」
受話器をおろすとき、わたしはレーンさんが椅子に腰をおろすのを見ました。
「ペイシェンスさん、どうか、カイザーさんを休ませてやってください。いいでしょう、神父さん?」
それから老優は眼をとじると、落ち着いた微笑をたたえました。
「よろしい、なすべきことは、ただ待つだけです」
そして、八時間ばかり待ちました。
九時、つまり死刑執行の二時間まえに、オートバイの四人の護衛官に守られた黒い大型のリムジンが、ミュア神父の門前に停ったのです。そして、疲れきった様子で、顔にきびしい悩みを浮かべた知事が、石段をせわしく登って来ました。わたしたちは電灯が二つ気味わるく点《とも》っている玄関に、知事を出迎えたのです。
ミュア神父は、これからの出来事を、素振りに出して悟られないように、レーンさんから繰り返し注意されていたので、かなり前に外出していましたし、それに神父の存在が、死刑囚の独房で必要なのは、言うまでもありません。神父が出かけるまえに、レーンさんと話を交した様子から、エーロン・ドウに希望を失わないようにと言ってやっているのだろうと、わたしは察していました。
ファニー・カイザーのほうは、風呂に入り、一休みしてから食事をすませ、玄関のポーチに黙ったまま腰をおろしていました。まっ赤に充血した眼をキョトキョトさせながら、なんとはなしに淋しげな様子。わたしたちは、さまざまな感情に浸りながら、この歴史的会見を眺めていました。知事は、いささか昂《たか》ぶったふうで、おまけに少しつっけんどんだったものだから、ファニー・カイザーはオドオドし、しおれていました。そして、レーンさんは、おだやかに見守っていました。
わたしたちは、その会話に耳をかたむけていました。彼女は、物語をもう一度繰り返し、フォーセット博士の最後の言葉について、知事は、かなり細かな質問をしました。しかし、彼女は前に述べた言葉をひるがえそうとはしませんでした。
尋問が終ったとき、ブルーノ知事は、額《ひたい》の汗をぬぐいながら、腰をおろしました。
「ところで、レーンさん、また、やりましたね。予言者マーリンの再来というところですな……早くアルゴンキン刑務所に出むいて、即刻、この忌わしい所業を、取りやめさせようではありませんか」
「いや、そうはまいりません、ブルーノさん、この事件は、不意打ちをかけなければ、心理的に殺人者の士気をくじくことはできないのです。なにせ、証拠をひとつも、わたしは握っていないのですからね」と、老優はしずかな口調で言います。
「すると、フォーセット兄弟殺害の真犯人が、あなたにはおわかりなのですか?」知事はゆっくりした口調でたずねました。
「わかっています」
それから、わたしたちに失礼と言いながら、老優は、ブルーノ知事とともに、ポーチの隅に行き、しばらくしずかになにか話しあっていました。そのあいだ、知事は、合い槌《づち》を打っている様子でしたが、やがて、わたしたちのところへ戻って来たときには、二人とも、むずかしい顔になっていました。
知事は、てきぱきした口調で、「カイザーさん、あんたは、この護衛官といっしょに、ここに残りなさい。警部とお嬢さんは、私といっしょに来てくださいませんか。レーンさんと私は、いま、手筈を整えたところです。少々危険かもしれないが、どうしてもやらなければならないのです。では――少し待ちましょうか」
わたしたちは、また待ちました。
十一時三十分前、わたしたち一同は、ひっそりとミュア神父の家を出発しました。あとには、若い四人の制服の大男たちに囲まれて、ファニー・カイザーがうずくまっているのでした。
わたしたちは、ひとかたまりになって、押し黙ったまま、アルゴンキン刑務所の門に向かって歩を進めて行きました。いまや、夜のとばりに包まれているものの、刑務所の灯火が、漆黒《しっこく》の空に、たくさんの怪物の目のように輝いていました。
それからの三十分間のことは、怖ろしいほどはっきりと、わたしの心に焼き付いています。
知事とレーンさんとの計画は、わたしにはわかりませんでしたし、なにか差し障りが起きはしまいかと、たえずビクビクしていました。けれども、刑務所の門をくぐり、中庭に足を踏み入れると、なにごとも、おかしなくらいスムーズに動いていったのです。知事が来ているというので、看守たちもにわかに活気のある勤務をはじめるのでした。知事の権威は、もとより文句なしのものでしたし、わたしたちはすぐに通されて、四角い中庭の隅に、死刑囚の独房の灯をみとめるとともに、その灰色の固い壁の中から、不吉な準備の気配が感じられるのでした。ほかの独房の棟からは、何の物音もしないのに、看守たちは、神経質に、身をこわばらせて歩き回っているのでした。
知事は、わたしたちを入れてくれた看守たちに、わたしたちが到着したことをほかの者に伝えてはいけないと、厳命しました。看守たちは、いぶかしげな目つきをしたものの、おとなしく従いました……つぎに、わたしたちは、照明のとどかぬ中庭の片隅で、無言のままじっと待っていたのです。
腕時計の針は、まるで這うようにノロノロと動いていました。父はたえず、口の中でなにかブツブツ言っています。
わたしは、レーンさんの緊張した表情から、死刑が執行される最後の一瞬まで、こうして待つということは、計画のうちでも、とくに大事なんだな、と察したのです。むろん、ドウの危険は、知事がこの場にいるからには、ほとんどないようなものの、やっぱり心配でした。時々刻々と、運命の瞬間は近づいてきます。わたしは、いっそのことひと思いに抗議の喚声をあげて、目のまえの静まりかえっている巨大な建物に突っかかって行きたい衝動を押えかねていました……。
十一時一分前、知事は、サッと緊張したかと思うと、語気するどく、看守になにか申しつけました。それから、いちもくさんに、わたしたちは中庭をつき抜け「死の家」めがけて走り出したのです。
「死の家」にとびこんだのは、ちょうど十一時。ブルーノ知事が二人の看守を押しのけ、「死の部屋」の扉を、運命の女神のように容赦《ようしゃ》なく開いたのは、十一時一分でした。
わたしには、そのときの、「死の部屋」の住人たちの顔にあらわれたはげしい恐怖の色を、忘れることができません。さながら、ヴェスタル神殿を汚したヴァンダル族か、ユダヤの祭壇の布を土足にかけたペリシテ人の闖入《ちんにゅう》と思っているかのような感じ。その光景は――わたしの記憶はいまも鮮かですが、まるでその瞬間に全生涯が圧縮され、表情も、手振りも、首の動きも、時間と空間のなかに篏《は》めこまれてしまったかのようでした。
あまりにも興奮して、息も詰るばかりだったので、わたしは、この光景が、死刑を法のもとで執行しようとしているときに天地がひっくりかえっても起こることではなく、いま、わたしたちが行刑史において空前絶後の劇的な一瞬を作ろうとしていることさえ忘れてしまったくらい。
わたしは、すばやく、その場の人物や物事を見てとりました。エーロン・ドウは、電気椅子にかけ、哀れにも眼をつむっていました。看守の一人が足を縛《しば》り、一人が胴を、三人目の看守が、腕を縛っていました。また四人目の看守は、ドウに目隠しをしようとするところで、布をもった手を宙に浮かしたまま。この四人は、仕事をやめ、唖然として、棒立ちになってしまいました。数フィート離れたところに立っていたマグナス所長は、時計を手にもったまま動こうともしません。ミュア神父は、すっかりあがってしまい、血の気も失せて、ほかの看守の一人にもたれかかっていました。その他の人たち……三人は、あきらかに裁判所の役人で、それに十二人の立会人、そのなかに、口もきけないほど驚いた顔をしたエライヒュー・クレイがいるので、びっくりしました。その瞬間、ジェレミーの言葉がパッと、ひらめきました。また二人の刑務所医がおり、死刑執行人は、左手で壁の電気装置をせわしくいじっていました……。
「所長、この死刑執行を停止するように!」知事は、きっぱりと申し渡しました。
エーロン・ドウは、やや驚いたように、眼をあけましたが、その眼のなかに浮かんだ表情も、ぼんやりしたものでした。そして、これが合図のように、画のなかで凍りついていた人物が、いっせいに動き出したのです。電気椅子の周りの四人の看守は、当惑したように、所長の顔をうかがいました。所長は、眼をしばたたきつつ、うつろな眼を時計の文字盤に落していました。ミュア神父は、叫びにならないような声を発して、青ざめた頬に血をのぼせました。のこりの人たちも、息をつめ、顔を見合わせながら、ささやきあっていましたが、マグナス所長が前に進み出て、「ですが――」と言いかけたとたんに、たちまち静まってしまいました。
と、そのとき、すかさずドルリー・レーンが口をはさみました。
「所長さん、エーロン・ドウは無実なのです。死刑に値する殺人罪について、完全に彼を免れさせる新しい証言を得たのです。知事さんも……」
が、こうした法の悲劇において、前例がなかろうと思われることが起こりました。通例、知事の死刑中止命令が伝えられれば、囚人はただちに独房に移されて、立会人や、その他の同席者は引きさがって、すべてが結着ということになるのですが、あまりにも、今度は特別なケースだったのです。すでに、あらゆる準備がととのえられていたので、中止するためには、この「死の部屋」のなかで、弁明が行なわれなければ駄目なのだ、とわたしは思いました。それにしても、いったい、どういうつもりで、知事さんとレーンさんとは、こんなメロドラマのような手段を使ったのでしょうか……。
彼らは、あまりにも驚いていたため、抗弁もできなかったのでしょうし、かりに出席の係官のひとりが、こんな方法で刑の執行を中止させるのは妥当かどうか質問しようとしても、ブルーノ知事の断乎たる態度にけおされて、黙っているほかはなかったと思います。それに、レーンさんが、死の腕のなかで蹲《うずくま》っている小柄な初老の男の電気椅子のかたわらにたたずんで、話をはじめたので、そうしたきっかけも失われてしまったのです。レーンさんが口をひらいたとたん、聴き手たちは、水を打ったように静まりかえってしまいました。
老優は、きわめて要領よく、わたしがこれまで述べたどれよりも、さらに明快に、フォーセット議員殺害事件から導き出した、例の最初の推理をここでもまた繰り返し、エーロン・ドウは左利きであり、この犯行の不可能なことを説明し、真犯人は右手利きであることを証明したのです。
レーンさんは、ゆたかな声でつづけました、「それで、真犯人が、いつも右手を使っているのにもかかわらず、左手を用いたというのは、エーロン・ドウを犯人に見せかけるためだったのです。言いかえると、エーロン・ドウの犯罪を捏造《ねつぞう》しようとしたのです。
そこで、心にとめておいていただきたいのは、ドウの犯罪を捏造する上で、真犯人が、エーロン・ドウについて、ぜひ知っておかなければならないことは、なんでしょうか? それは、つぎの三点です。
一、真犯人は、ドウが、このアルゴンキン刑務所に入所してから、右手が駄目になったことを知っているにちがいないこと。それに、現在は、左手だけが使えることも。
二、殺人の夜、ドウが、フォーセット上院議員の家を訪れようとしていたこと、また、そのため、ドウが当日、出所することになっていたことも知っていたこと。
三、ドウがフォーセット上院議員を、殺害の仮定的な対象にするほどの動機を持っていることを知っていたこと。」
「この三点を、秩序だてて考えてみようではありませんか」たんたんとした口調で、老優はさらにつづけます、「ドウがアルゴンキン刑務所に入所しているうち、右手が使えなくなった事実を知りうるものは、だれでしょうか? マグナス所長は、ドウには、手紙も、面会人も、この十二年間というものは絶えてなかったと言明しております。そのうえ、検閲を経て手紙を出したこともありませんが、刑務所図書室の助手タップを通して、ひそかに非合法のやり方で、一通だけ、手紙を出しています。それは、フォーセット上院議員宛の、はじめての恐喝状ですが、われわれは、その内容を知っています。つまり、彼の手のことは、まったく書いてありません。そのうえ、右手が駄目になった十年前から、刑務所を一歩も出てはいないのですし、家族も、友人とてもなく、この期間、外部のもので、ドウに会ったものはただ一人、フォーセット上院議員だけでした。彼は、所内の木工場を訪れ、ドウの方は、上院議員に気づきましたが、上院議員の方は、ドウにすこしも気がつかなかったことは、信ずるにたる証言によって、明らかです。囚人たちが沢山、木工場のなかにいて、ドウに気づかなかった上院議員が、その右手が使えなくなっていることを覚えているなどということはありえますまい。したがって、これは論外です」
レーンさんは、微笑を浮かべると、さらにつづけました、
「換言すれば、ドウが右手を駄目にしたのを知っている唯一の人物は、刑務所関係のある人間であると言いきってもいいと思います。すなわち、囚人、模範囚、係官、市民のうちで、アルゴンキン刑務所に出入りする職業の者のうちの誰かなのです」
この眩《まぶ》しいばかりに電灯のともっている死の部屋が、くらい沈黙に覆われました。レーンさんほど鋭くはないにしても、おおよそここまでの見当は、わたしにもついていました。それからの推理もわかってはいました。ほかの人たちは、足をセメントで固定されたみたいに、立ったままでした。なおも、レーンさんはつづけます――
「また、別の解釈もあります。つまり、ドウに濡れ衣を着せた人物、すなわち、ドウがアルゴンキン刑務所にいるあいだに、左利きになったことを知っている人物は、これらの情報を、刑務所の内部にいる仲間から得たのだということです。
二つのうち、正しいのは一つです。さて、どちらでしょう? わたしは、より強力な推理の方を選びます――そして、ドウに濡れ衣を着せた人物が、刑務所内部の人間だという方が正しいことを証明してみましょう。
よろしいですか、フォーセット上院議員が刺殺されたとき、その机の上に、封をした手紙が五通のっていましたが、その封筒の一つが、すばらしい手掛りをあたえてくれたのです。それについては、サム嬢が、写真のように正確に、最初の殺害事件を、わたしに報告してくださったおかげですが、その封筒の上には、クリップの跡がくっきりとついていたのです――それも二つです。封筒のおもての右端と左端に、はっきりとね。けれども地方検事が、その手紙を開いたときには、なかにはただ一つのクリップしか見つからなかった! では、どうして一個のクリップが、おなじ封筒の左右の端に、はっきりと二つの跡をつけたのでしょうか?」
笛のような音をたてて、吐息をついたものがありました。老優が、少しかがみこんだので、電気椅子にかけたままのエーロン・ドウの化石のような姿は、そのかげに見えなくなりました。
「では、どうしてそのようなことになったのか説明しましょう。フォーセット上院議員の秘書のカーマイケルは、上院議員が、かなり急いで紙を封筒に入れ、封もかなり急いでしたことを目撃しています。常識から申せば、封をするとき、封筒を押えたため、中のクリップの跡が表面に浮き出たと思われます。しかるに、われわれは、二つの跡が、違った端についているのを見ているのです。これを説明するのは、ただ一つ」
ちょっと言葉をきってから、老優はつづけます。
「なにものかが、封をされた封筒をひらき、なかの紙をとり出し、ふたたび納めるときに、うっかり左右をちがえて入れてしまったのです。それで封をするため、また押えたところ、クリップの跡がふたたびつきましたが、そのときは別の端に、つまり、まったく違った位置にクリップがあったというわけです。
「ところで、封筒をあけることのできたのは、だれだったでしょうか?」
老優はテキパキした口調で、
「すでに判明しているように、それが可能なのは、ただ二人だけです。一人は上院議員その人であり、もう一人は、凶行があったらしい時刻に、あの家に入り、そして出て行った人物、カーマイケルが目撃した訪問者です――それはすでに申しましたように、真犯人であるとともに、手紙を焼き棄て、灰を炉のちかくに残した人物です。
上院議員が、自分で、カーマイケルが外出し、訪問者が来るまでに、自分自身の手紙を開封して見たのでしょうか? 理屈としてはあり得るかもしれません。しかし、常識的に可能性を進めて行きましょう。そこで、お聞きしたいのですが、なぜ彼は、自分の手紙を、また開封しなくてはならないのでしょう? 訂正のため? しかし、訂正したところは一か所もありません。手紙の内容は、カーボン紙とまったく一致しています。書きとらせてタイプされた内容を、読みなおそうとしたのでしょうか? まさか! そのためなら、机の上にカーボン紙がちゃんとあったのです。
また、それはそれとしても、議員自身が開封したのならば、サッと切り開き、あとから新しい封筒に入れればいいのです。おまけに、カーマイケルに、この手紙は翌朝出せばいいと言っているのですから、なおさらではありませんか。にもかかわらず、明らかに封筒は、新しくないし、クリップの跡が二つもついています。新しければ、跡は一つのはずでしょう。したがって、開封されたのにもかかわらず、同一の封筒なのです。では、開封の方法は? それは机のすぐそばに、電気パーコレーターがありました。そして凶行後も、温みが残っていたのです。開封の方法を示す他の証拠がない以上、明らかに湯気を利用して、手紙は開けられたのです。さあ、ここで要点にたどりついたわけです! フォーセット上院議員が、自分の手紙を、湯気をつかって開いたりするでしょうか?」
みんなが人形のように頭をうなずかせたところからみると、老優の論証に聞き入って、はげしく共鳴していることは明らかです。
「もしフォーセット上院議員が開封しなかったならば、訪問者が開いたのにちがいなく、その人物は、凶行の時刻に家の中に入り、そして出て行ったただ一人の人間なのです。
さて、この封筒の正体は――訪問者、つまり殺害犯人の眼をとらえ、あとさきも考えずに、凶行の現場で、開けて見ずにはいられなかったものは、いったい、なんでしょうか? それは、アルゴンキン刑務所長宛で、上書には『アルゴンキン刑務所職員昇級者名簿在中』とありました。このことは、とくによく覚えておいてください。大切なことなのです」
わたしは、エライヒュー・クレイの顔を、チラッと見やりました。その顔面は蒼白、ふるえる指で、顎をなでているではありませんか。
「われわれは、二つの別の流れにそって、推理をすすめてまいりましたね。一つは――強い方ですが――殺害者が刑務所関係のものとするもので――第二の弱い方は、犯人は直接関係はないが、刑務所内に、あらゆる情報をもたらす共犯者があるという見方です。で、かりに後者の推理が、この事件にふさわしいとしましょう。すなわち、刑務所の中に情報者を持つ外部のものの犯行だとします。すると、犯人が、この『アルゴンキン刑務所昇級者名簿在中』の手紙を開かねばならない関心は、どこから来たのでしょう? 犯人が外部のものとすれば、この封筒に関心をもつこと自体がおかしい。情報者のためだ、といわれるかな? だが、どうしてそんな苦労をする必要があるのです? かりに、その共犯者が昇級したとしても、犯人には、なんら得るところはないのです。したがって、われわれは、いま仮定したごとき外部のものが開封したのではないと、はっきり断定します。
しかるに、真犯人が、その封筒を開けたことは、厳たる事実です! したがって、われわれは、第一の強い可能性に従うべきでしょう――一般的に、アルゴンキン刑務所の昇級人事に関心をもつ者でなければなりません。つまり、刑務所と直接つながりのある人物です」
レーンさんは言葉をきると、その顔に、ひややかな影がよぎりました。
「それに、わたしがここで、真犯人をはっきり指摘したならば、みなさんは、わたしが述べた以上に興味のある理由を見つけ出されることでしょうが、いまは真犯人がこの刑務所関係のものであるという一般論だけを申し上げておきましょう。
もう一つの推理が、最初の犯行の事実からみちびき出されます。かつてマグナス所長から聞いたのですが、所内の規律は、きわめて厳格だということです。看守は、変更を許されない勤務時間制になっています。いま、真犯人は、アルゴンキン刑務所関係の者だ、と断定しましたが、では、フォーセット上院議員を殺害したのはいつだったでしょうか? 凶行は夜ですから、所内のどんな地位にあっても、正規の夜勤でなかったことは明白ですね。でなければ、凶行当夜、この刑務所を出て、フォーセット家に行くことはできなかったはずです。したがって、犯人は正規に昼間勤務していた者か、時間に縛られない者かということになります。これからわたしが、他のことを説明しているときでも、どうか、この一番基本となることを、心にとめておいていただきたい」
老優の声は、しだいに鋭さを増し、その顔には金属のような筋が深く刻まれて行きました。レーンさんは部屋をひとわたり見回し、立会人の何人かが、ゴツゴツした長椅子に、すくんだように坐っているのに眼をとめました。荘重だがよく透る声、まぶしいばかりに輝いている電灯、電気椅子、それに化石のように坐っている男、制服……わたしが不安を感じたのも、あたりまえではありませんか。緊張で、わたしの膚は痛いくらい。
「そこで」老優はたたみかけるような調子でつづけます、「二番目の犯行ですが、この二つの事件が関連性をもっていることはたしかです。同一の小箱の第二の部分といい、ドウが双方に関係していることといい、被害者二人が兄弟である点といい、それは考えるまでもありますまい。さて、第一の殺人について、ドウは無実なのですから、第二の殺人についても、無実と考えられましょう。はじめに犯人に捏造されたのですから、そのつぎにも犯人に仕立てられたというわけです。では、たしかな証拠があるのでしょうか? あります。ドウは、水曜日に、アルゴンキン刑務所を脱走するように唆《そその》かされた手紙を、フォーセット博士から受け取ったりはしていません。しかし、木曜日に脱走せよ、という手紙を、フォーセット博士|らしき《ヽヽヽ》人物から受け取りました。これは、簡単にフォーセット博士の手紙を横取りし(殺害現場の机の上にあったものです)別の手紙を、ドウの手に渡し、木曜日の脱走を指示したのだ、と考えることができます。フォーセット博士の手紙を横取りしたもの――この人物がドウを利用し、自分の凶行を果しおおせた人物、すなわち、ドウの犯罪を捏造した人物ではないでしょうか?
で、われわれが得たのは、犯人が刑務所関係の者であるという結論が正しかったということです。外部からの手紙を押えるには、刑務所内の秘密のルートを知らなくてはなりませんし、フォーセット博士の手紙を横取りし、犯人の偽筆とすりかえたということは、事が運ばれたのが、刑務所内であったという強い裏づけになるではありませんか。
さて、いよいよもっとも重要な解決点にさしかかりました。犯人は、なぜ水曜日の脱走を、木曜日に変えたがったのでしょうか? それはドウを、アイラ・フォーセット博士殺害の犯人に見せかけたかったからですし、事実はドウが無実であるところからすると、真犯人は、ドウが脱走して、身軽になった夜に、フォーセット博士を殺害することが必要でした。もし真犯人がドウの脱走日を変えたのだとすると、理由はただ一つ、彼自身がフォーセット博士を、水曜日には殺害できず、木曜日には殺害できたということです!」
レーンさんは、痩せた顔をこわばらせ、人差し指をふりかざしながら、推理をつづけます。
「では、どうしてそんなことが自由にならなかったのか、とおっしゃるのですか? われわれは、最初の犯罪のときから、犯人には夜勤がないことがわかっていますから、水曜日の夜はもとより、いつの夜でも、犯行は随意だったのです。そこでただ一つの理由は――」
老優は腰をのばして、ここで言葉を切りました――
「つまり、刑務所の普通の勤務以外に、なにかがあって、犯人は水曜日の夜は手があけられなかったのです! しかし、アイラ・フォーセット博士が殺害された前夜の水曜日、普段は夜勤のない刑務所関係者が、忙しくなるということがあったでしょうか? これが事件の核心です、結論は、自然の法則のように、はっきりしていることを申し上げたい。問題の水曜日の夜は、この同じ怖ろしい部屋で、スカルチという男が、電気椅子で死刑に処せられているのです。そこで、これからわたしの述べる結論は、絶対に動かすことができないのです。すなわち、フォーセット兄弟を殺害した真犯人は、スカルチの死刑に立ち会わねばならなかった人間であるということです!」
宇宙のような静寂が、部屋のなかにみなぎりました。わたしは、息をするのもこわく、頸を動かすのもおそろしく、まばたきするのさえ、こわいようでした。だれひとり身動きするものはなく、電気椅子のそばに立って、真犯人の追究と、切迫した最後の審判の悲劇を、一語一語、述べたてている老優の火のように燃える眼には、わたしたちが、さながら博物館に並べられた蝋《ろう》人形のように見えていたことでしょう。
「さて」
レーンさんは、ついに興奮の色もみせず、鍾乳石《しょうにゅうせき》のような冷やかな声で言いました――
「真犯人ならば欠くことのできない資格――この二つの犯行のいろいろな事実から、明確に導かれる資格を列挙してみましょう。
一、右利きであること。
二、アルゴンキン刑務所の関係者であること。
三、正規の夜勤についた者でないこと。
四、スカルチの電気処刑に立ち会った者であること」
ふたたび沈黙が座を占めましたが、こんどはなにか眼に見えるような感じ。
「どうやら強くみなさんの胸にこたえたようですな。とくに、スカルチの電気処刑に立ち会った人たちが、今夜、ここにも実際に出席しておられるからでしょう。そうです、たしかに真犯人は、今夜、この同じ部屋にいるだれかなのです! なぜならわたしは、電気処刑に立ち会うアルゴンキン刑務所の職員は、絶対に交替を許されないと、マグナス所長から聞いて知っているからです」
と、そのとき、看守のひとりがおびえた子供のように、うつろな小声を発しました、反射的にみんなが、そっちのほうにいっせいにふりむいたが、すぐまたレーンさんのほうへ顔をむけました。
老優はおもむろに口をひらきました、「では、一人ずつ消去してみましょう。スカルチの死刑執行に立ち会ったのは、だれとだれでしょうか? 真犯人は、いま挙げた四項目全部に該当するものでなければなりません……成年に達しており、尊敬されておられる十二人の市民の方々は、また法によって要請されている立会人でもありますから」
レーンさんは、長椅子に、身をこわばらせて坐っている人々に言いました、「なに、ご心配にはおよびません。いま述べた定義によって、どなたも刑務所にご関係がないのですから、第二の項目に該当いたしません。したがって、犯人の可能性は失われました」
二つの長椅子に腰かけていた十二人の立会人は、いっせいにため息をもらしました。なかには、おずおずとハンカチを取り出して、額の汗を拭うものもあります。
「裁判所の三人の係官も、法によって死刑が執行されたことを見とどけに来られたのですから、同じ理由で消去されます」
三人の係官は、足を踏みかえて床を鳴らしました。
「七人の看守たちは」ドルリー・レーンさんは、うっとりしたようにつづけます、「所長さんの言葉を、わたしが間違いなく聞いたとすれば、いずれも、スカルチの電気死刑に立ち会っております」そこでレーンさんはちょっと言葉を切ってから、「全員、除きます! いずれも正規の夜勤についている職員ですから――死刑は、いつも夜、執行されるので、この人たちは、つねに執行に立ち会っているのです――これは第三の項目と、はっきり矛盾しています。したがって、あなたがたは、だれも真犯人ではあり得ません」
青い制服の七人の男のうちのひとりが、なにか小声で、悪態をついたようです。こうした、はりつめた雰囲気が、わたしには耐えがたくなってきました。感情は、まるで電気のように火花を発していました。父のほうをうかがってみると、頸筋がまっ赤に充血し、いまにも卒中を起こしそうな気配。ブルーノ知事は、彫像のように静止し、ミュア神父の眼は、まるでガラス玉のようでした。マグナス所長は、息もつけない様子。
レーンさんの、おだやかだが厳しい声はつづきます――
「死刑執行人も除きます! スカルチの電気処刑のとき、わたしはこの眼ではっきりと見ていましたが――運よくわたしは立ち会ったので――スイッチを二度とも左手で入れておりました。第一の項目によれば、犯人は右利きでなければなりません」
わたしは眼をとじました。心臓の音が、鼓膜《こまく》にひびいていました。いったん、レーンさんの声はとぎれましたが、またつづいたとき、いっそう鋭く、怖ろしいこの部屋の壁全体にひびきわたるのでした。
「死刑を執行された人間の死を確認するために、法によって立ち会いを要請されている二人の医師は」老優はつめたく微笑しました、「わたしには、消去することができませんでした」レーンさんは、黒い鞄をもった、凍りついたようになっている二人の男に、告げたのです、「それは事件解決の妨げとなっていました。しかし、ファニー・カイザーが、今日、お二人を、すっかり消去する手掛りを、わたしにあたえてくれたのです。それは、こうです――
ドウを、フォーセット博士殺害犯人に仕立てた真犯人は、そのすぐあとに、ドウが博士の部屋に姿を現わすことを知っていたのです。したがって、立ち去るときに、被害者が息絶えて口をきくことができなくなり、ドウや、そのほか不意にやって来る訪問者に、下手人の名を告げることができないということを、確認しなければなりませんでした。これは、フォーセット上院議員を殺害したときにも、事実となっています。つまり、犯人は、二度、はじめは致命傷でなかったので、また一突き、とどめを刺したわけです。
フォーセット博士の手頸には、血の指跡が三つついていました。それは、犯人が博士を刺殺してから、脈をとった跡です。なぜ、犯人がこんな真似を? いうまでもなく、犯人は、被害者が完全に息絶えたことを知ろうとして、脈をとったのです。この明々白々たる事実に、ご注目ください」老優の声は、ひびきわたりました、「脈をとるほど気をつけたのに、被害者は、犯人が立ち去ってからも、まだ生きていたのです。二、三分おくれて、ファニー・カイザーが現場にあらわれたとき、フォーセット博士が動き、ドウの無実を、彼女に告げようとしていたのですから。もっとも、真犯人の名を教えるまえに死んでしまいましたが……。
そこで、みなさんは、スカルチの死刑に立ち会い、しかも今夜この場にいる二人の刑務所医をどうして除外するのか、おたずねになりますかな? それはこうです――
かりに二人の医師のうち、一人が犯人だということにしてもらいましょう。凶行現場は博士の診療室でした。死体から、ほんの二、三フィートある机の上に、被害者の医療鞄があり――その中には聴診器が入っていたはずです。いくら医者だからといっても、臨終間際の人間の脈を見おとすこともあるでしょう。しかし、医者が診療室に居合わせて、必要な器具もあり、被害者の死を確認しようとするとき、聴診器を用いたり、あるいは鏡をつかったり、また医者が死亡を確認するいろいろな方法をとるだろうことは、はっきりと断言できます……。
したがって、被害者の死亡をこうして確認できる方法がちゃんとあるというのに、被害者を生かしたまま立ち去るなどということは、犯人が医者ならばあり得ないことです。医者だったら被害者の生命のかすかな残り火を見つけて、とどめの一突きで、完全に消しとめたことでしょう。ところが、犯人は、それをしませんでした。したがって、医者ではないのですから、二人の刑務所医は、いずれも犯人ではありません。お二人は、除きます」
わたしは、あまりの緊張のため、あやうく叫び声をあげそうになってしまいました。父は、拳を、筋肉の繩のように、かたく握りしめていましたし、まわりの顔という顔は、いずれも蒼白、まるで仮面の陳列台のようでした。ドルリー・レーンさんは、低い声でなおもつづけます――
「つぎにミュア神父。フォーセット兄弟の殺害は、同一人物の犯行です。そしてフォーセット博士は、十一時を少し回ったときに殺害されました。その夜、神父さんは、私といっしょに自宅のポーチにいたのですから、身体的にも犯行はなしえません。つまり、ミュア神父が、フォーセット上院議員を殺害することも、論理的に言って、不可能なのです」
わたしは、目のまえが赤くなり、人々の顔がぼんやりしてくるのを感じながら、レーンさんの迫力ある声が、脈うっているのを聞いていました。
「この部屋にいる二十七人のうちの一人が、フォーセット兄弟殺害の真犯人です。われわれは二十六人を除いてきました。残っているものはただ一人……彼です! みなさん、あの男をつかまえてください、逃がすな! 警部さん、ピストルをとりあげてくれ!」
部屋のなかは、すさまじい音響と叫喚と怒号と格闘が渦巻き、そのまんなかに、いまや父の鉄の腕に捕えられ、紫色に顔をゆがめて、狂ったように眼をギラギラ光らせている男がいました。それは、マグナス所長でした。
二十三 最後の言葉
これまでのページを振り返ってみると、わたしは、フォーセット上院議員とフォーセット博士を殺害した真犯人が、マグナス所長でなく、ほかの誰かであるというような印象を、どこかで残してはいないでしょうか。たしかめるのは、むずかしいけれど、まず、そんなことはないはず。わたしはときどき、ハッとするような真実が、いろいろな場所で顔をのぞかせているように思えるのです。
わたしは、探偵小説を書く方法も(事実によるものでも、創作によるものでも)一通り心得ているつもりですから、ドルリー・レーンさんや、わたしが、事件解決に至るまでのさまざまな段階において、たどり着いた地点が、どこかに見いだせるように、気を配って書いているのです。もっとも、わたしたちが成し遂げたことを単に対照すること――大ざっぱにいえば――読んで、解決と対照してみればいいのです。ま、したことの結果は、読者のみなさんの判定におまかせするとして、とにかくわたしは、この驚くべき事件を、できるだけ正確に再現したつもりです。むりやりにわたしを、この事件の渦中にひっぱりこんだ、あの超人的な名探偵も、事件の細密な構成の分析において、読者が知らないことは、なにひとつ用いておりません。わたしたちには、単に事実をつかみ、それを用いる鋭さが欠けていただけです。わたしたちの知らないことで、この物語を完結させるための、いろいろな未解決のことに、わたしは気がつきました。もっとも、事件の解決には不必要なことだったのですが。たとえば、マグナス所長が罪を犯すに至った動機など――刑務所長ともあろう者が、誘惑に負け、血を流したりするだろうかという人もいましょう。しかし、犯罪や、犯罪者を扱いつけているために、かえって、とてつもない罪を犯して、現在も服役している刑務所長の例も記録にあるそうです。
不幸なマグナスの場合、その告白の手記によると、よくある例で、結局はお金が欲しかったのです。彼は、長いあいだ真面目に勤めて、財産も少しはできたものの、株の暴落ですっかり失くしてしまったのだそうです。こんなわけで、働き盛りを少しすぎたところで、一文なしになってしまいました。そのころ、フォーセット上院議員が、ドウに眼を留めて、自分が恐喝されているということをほのめかしに、マグナスのところへやって来たのです。そして、ドウが釈放された、あの運命の日に、上院議員から電話がかかって来て、ドウに五万ドル払うことにきめ、いま手もとにそのお金が揃えてある、と、所長に告げたのです。ああ、かわいそうなマグナス!
どうにも首のまわらないところへ、打ちかつことのできないようなはげしい誘惑。そこで、その晩、マグナスは上院議員の家へ出かけて行きましたが、べつにはっきりとした殺意があったわけではなく、ドウに払うお金を、こんどはこっちが恐喝して、せしめてやろうぐらいのことで、出かけて行ったわけなのです。こうしたやり口もあったからです。もっとも、このとき、マグナスはドウがつかんでいるフォーセット兄弟の弱味を知ってはいませんでしたが、フォーセット上院議員に会い、目の前で現金をみせられたとき、見さかいもなしに殺意を抱いてしまったのです。骰子《さいころ》は投げられました。マグナスは上院議員を殺害し、金を奪い、罪をドウにかぶせようと決心しました。机の上のペイパーナイフをとりあげざま、途方もない罪を犯してしまったのです。それから、あたりを見まわすと、便箋の一番上に、上院議員が、兄のフォーセット博士に宛てた手紙のあるのに気づきました。そこで、ある考えがマグナスの頭にひらめきました。兄のフォーセット博士も、ドウの恐喝にまきこまれているのだ。その紙には、『ヘジャズの星』という船名が記されていたのです。こうした手がかりさえあれば、過去の記録をあとでゆっくり調べて、ドウとフォーセット兄弟にまつわる背後の真相をつきとめるのは、|ぞうさ《ヽヽヽ》もないことでした。それで、マグナスは、この紙が、警察の手に入ることを恐れて、破いてしまったのです。真相が、あらわれてしまえば、もうゆすれなくなりますし、ドウだけが知っているかぎり、上院議員殺害の犯人ということになって、州当局の手で死刑になるでしょうから、これから先、マグナスは思うままに、博士をゆすることができるというわけです。
それは、かなり巧く仕組まれているようでしたが、エーロン・ドウは、フォーセット上院議員殺害の件では、死刑とならず、終身刑を宣告されたのでした。だがかえって、ある意味では、マグナスをよろこばせる結果になりました。つまり、マグナスは、もう一度、ドウを利用できるからです。彼は機会を待ちました。そして、たまたま図書係のタップが、ひそかに操っている刑務所内の秘密の通信網に気づきました。しかしマグナスは、わざとこれを追及せず、チャンスの到来をうかがっていたのです。とうとう、その機会がやって来ました。秘密の通信ルートを見張っていたマグナスは、あるとき、ミュア神父の祈祷書のなかから、ドウに宛てたフォーセット博士の手紙を押収し、タップに知られないようにして、こっそりと読んだのです。そして彼は、ドウの脱走計画を知ると、二度目のチャンスだと思ったのです。しかし、水曜日の夜は、スカルチの死刑執行の責任者として、マグナスは立ち会わねばなりませんでした。マグナスは、脱走日を木曜日に指定した偽の手紙を書きました。つまり、自分の身が自由な日、その日にドウが脱走するように計らったわけです。それからマグナスは、横取りしたフォーセット博士の手紙のうらに、自分で、ドウの手紙を、金釘流の字で似せて書き、水曜日には脱走できないから、木曜日に変更したと、博士に返事を出したのです。こうした犯罪によくありがちのように、計画を進めようとすればするほど、深みにはまりこんで行くのでした。博士に偽手紙を書き送ったときには、安全のようにおもえたのに、かえってこの偽手紙が、マグナスの命取りになってしまったのです。
もうそのほかには、あまり言うことはありません。そうだ、そう言えば犯人逮捕の次の日、わたしたちがみんなで、ミュア神父のお宅のポーチに坐っていたとき、エライヒュー・クレイさんが、なぜマグナス所長は、フォーセット上院議員の机の上の『アルゴンキン刑務所職員昇級者名簿』という封筒を、自分宛なのに、わざわざあけたのだろうと、聞いたことです。
するとレーンさんは、ホッと吐息をついて、「いや、面白いおたずねですな。昨夜、わたしがやった推理のなかで、犯人がだれであるかわかれば、もっと興味のある理由を見つけられるでしょう、と言ったのをおぼえておられるでしょうが、わたしには、マグナスがなぜそんな真似をしたか、よくわかるような気がします。わたしの推理からすれば、かえって、所長以外の刑務所関係者が、あの封筒をひらいたのなら、だれでもあてはまるわけです。なにしろ封筒は、マグナス所長宛になっていたし、中味が『刑務所職員昇級者名簿』だとすれば、受取人である所長に影響のあるはずがないからです。そこでわたしがさらに推理を進めて行くと、犯人がどうしてもマグナス所長にしぼられてしまうとき、まず疑問になったのは、なぜマグナスが開かないでもいい封筒を開いたりしたのか、という一点だったのです。おそらくそれは、上書きとちがう内容の手紙が入っているかもしれないと、マグナスが思いこんだためではないでしょうか……。上院議員は、刑務所でマグナス所長に面会したおり、ドウに弱味をにぎられていることをほのめかしているので、そのことを手紙に書いてはいないか、またそんなものが警察の手に渡れば、自分が巻きこまれてしまうと、マグナスは判断したのですね。ま、マグナスの|読み《ヽヽ》は、間違っていたわけですが、そのときは考えることもできないほど、興奮していたのにちがいありません。いずれにしろ、ごくあたりまえの推理で、十分説明がつくわけですよ」
「では、いったい誰が、小箱の二番目の部分を、アイラ・フォーセットに送り、三番目の部分をファニー・カイザーに送ったのです? ドウにはとてもできっこないし、私には見当がつきませんな」と、こんどは父がたずねました。
「あたしも、そうですわ」わたしは、残念だけど、父に同調しました。
「わたしは、黒幕の人物を知っているつもりです」ドルリー・レーンさんは、微笑しながら答えました、「われわれの友人、マーク・カリアー弁護士ですよ。ま、断定はできないにしろ、ドウは、裁判を待っているあいだ、小箱の二つの部分を、べつべつに送ってくれと、その弁護士に頼んだのでしょうね。わたしの想像では、ドウが前もって手紙といっしょに、郵便局の私書箱かなにかに預けておいたのですよ。カリアーという男は、あまり良心的な人間とも思えませんし、この恐喝の種子が嗅ぎつけられれば、いくらか金になると思ったのかもしれませんね、想像の上での話ですから、あまり、わたしの受け売りはしないでおいてください」
こんどはミュア神父が、おずおずと口を出しました、「ドウの潔白を証拠だててやるまえに、あの哀れな男を、死の一歩手前まで追いやったのは、いささか危険すぎはしないでしょうか?」
老優の顔から微笑が消えて、「いや、ああするより仕方がなかったのですよ。法廷で、マグナスに引導を渡すだけの決め手になる証拠が、ひとつもなかったことを思い出してください。ですから、異常な興奮状態に犯人を追いこんで、不意打ちをかけることが必要だったのです。そして、わたしは自分の推理を展開するタイミングを計り、舞台割りから緊張感の盛り上がりにいたるまで、正確に計算しておいたのです。結果はごらんのとおり。マグナスは、わたしの理詰めの戦法から遁《のが》れられないと知ると、興奮の|るつぼ《ヽヽヽ》にまきこまれて、支離滅裂となり、おろかにも、わたしの作戦どおり、逃げ出そうとしたのです。逃げるなどと! まったく気の毒な男です」老優はしばらく言葉を切ってから、「マグナスは、こう告白しています――もしわれわれが、尋常な手段に出たなら、マグナスにも心のゆとりができて、事の成り行きを見きわめ、犯行をすべて、巧みに否認して、切りぬけたかもしれないと。とにかく決定的な証拠に欠けているわれわれには、たとえ彼を殺人罪で告発することができたにしろ、きわめて難航したことでしょうね」
それから、いろいろなことがありました。地方検事のジョン・ヒュームは、チルデン郡選出の州上院議員に当選し、エライヒュー・クレイは、大理石事業の収益こそ、多少|尠《すくな》くなったけれど、堅実な経営をするようになりました。ファニー・カイザーは、連邦刑務所で、長期服役中……。
そうだ、そういえば、まだわたしは、事件の原因でもあり、絶望的になった一人の男の仕組んだ計画の、罪なき犠牲者であるエーロン・ドウが、どうなったか申し上げておりませんでしたね。もっとも、かわいそうなドウについて語ることを、わざとさしひかえていたのかもしれません。とにかく――そう、あれは、ウジムシのような彼の生活態度に対する因果応報ではないでしょうか。たとえ、こんどの殺人事件に、彼が無罪であろうとなかろうと、社会になんの役にも立たなかった人間への、運命の女神からの警告だったのです。
ま、いずれにしろ、レーンさんのあざやかな演出が終って、マグナス所長が逮捕された瞬間、老優は、パッとふりむいて、電気椅子にかけている男に、気づかわしげな視線を投げたのです。そして、老優が合法的な拷問《ごうもん》である恐怖の椅子から、ドウを引き起こそうとしたとき、わたしたちは見たのです、ドウがまるで化石のようになって腰かけたまま、その顔にかすかな微笑さえ浮かべているのを。
ドウは、死んでいたのです。医師たちは、心臓麻痺による死亡だと言っていました。とどのつまり、興奮の絶頂に彼を追いあげたわたしたちが、ドウを殺してしまったことになるのではなかろうか? それが一種の強迫観念になって、何週間も、わたしを悩ましつづけたのです。しかし、これは神さまだけにしかわからないことです。もっとも、ドウの身体検査表によると、十二年前に、アルゴンキン刑務所に入所したときでさえ、もう心臓が弱っていると、記録されているのですが。
お話しておくことが、あと一つあります。
それは、マグナスが逮捕された翌日、つまり、レーンさんが、わたしたちの質問に答えて、補足的な説明をしてくださった、その少しまえに、ジェレミーがわたしの腕をとると、路を下って散歩に連れ出してくれたのです。彼にしたら、ずいぶん気の利いたやり方でした。わたしは、前の晩の出来事で、かなり強いショックを受け、たぶん、ほかのときとちがって、自制心を失っていたのでしょう。
いずれにせよ、ジェレミーは、わたしの手をおそるおそる握りました、ま、話が長くなるので簡単に言うと、彼はうわずった声をあげて、ジェレミー・クレイ夫人になってほしい、とわたしに言うのです。
ほんとにいい青年だわ! わたしは、ジェレミーの波打った髪と納屋の戸みたいにがっしりした肩を見つめました、そして相手が誰であるにしろ、結婚したいと思うほど、自分に憧れてくれる男性があるというのは、まんざら悪い気持ちじゃないな、とわたしは胸のなかで呟きました。それに、この骨組みのガッシリした健康な若い肉体は、菜食主義者の運動に貢献するみたいだけど、それもいいわ。バーナード・ショウのようなセンスのある人でも信じていることなんだから――もっとも、たまには火で炙《あぶ》ったステーキも喰べたいけれど。……それにジェレミーが父親の石切場で、ハッパを仕掛ける仕事をしているのも、やはり結構なこととは申せません。わたしの夫が、五体そろって帰って来るのやら、組み合わせパズルの破片みたいに、バラバラになってご帰還になるのやら、いつもビクビクしながら一生をすごすなんて、とっても我慢ができない。むろん、いつもハッパばかりかけているわけではないでしょうけれど……。
じつのところ、わたしはうまい口実を、しきりに考えていたのです。べつにジェレミーのことが好きでないわけではありません。これが、さしずめ小説なら、最後の幕切れで、恋人たちが、落日の光を浴びながら、たがいに胸をよせあって、「おお、いとしのジェレミー、あなた、大好き――うれしいわ、うれしいわ」というところで、ハッピー・エンドとなることでしょう。
けれど、わたしは、彼の手をとり、爪先立つと、たくましい顎にキスして言ったのです。
「おお、いとしのジェレミー――それはダメヨ」
むろん、うんと優しい口調でね。素敵な彼の心を、だれが傷つけるものですか。でも、結婚なんて、いまのペイシェンス・サムには無用のもの。わたしは、真面目に自分の仕事のことを考えていたのだ、とジェレミーに言ったのです。そして何年か先のことを夢に描いているのだ、わたしの行く道を示してくれたすばらしい名探偵、ドルリー・レーンのかたわらに、わたしは、糊《のり》のきいた襟《えり》つきの服に、目だたぬ靴をはいて立っている自分の姿を思いえがいているのです。ああ、素晴しい! わたしはレーンさんの片腕となって、ありとあらゆる犯罪を、ともに解決して行こう……ね、それこそ夢みたいな話?
それから、あの父さえいなければ(大好きだけど、ちょっと頭の閃《ひらめ》きがたりないのよ)わたしは、ペイシェンス・サムなんて名前を変えてしまいたいんです、もっと個性のある、それでいて深味のある名前、たとえば、ドルリア・レーン嬢といったような。それくらい知性というものに、わたしは魅力を感じる。
解説
本書『Zの悲劇』は一九三三年刊行の傑作。その前年の一九三二年に、シェイクスピア役者ドルリー・レーンが名探偵として活躍するエラリー・クイーンの野心作、いわゆる「悲劇もの」四部作のうち、『Xの悲劇』『Yの悲劇』の二作が世に出たわけである。そして、探偵小説の批評家、研究家はもとより、広汎な探偵小説ファンの熱狂的な大好評にむかえられた。事実、「X」「Y」の両二作とも、今日でもなお世界探偵小説中の傑作として、ベスト・テンの上位にあるほど、高く評価されているのである。「Z」は、エラリー・クイーンが、その野心をさらに刺戟されることによって書きあげた作品だけあって、前作「X」「Y」にもまして、さまざまな創意工夫がなされている。それだけに、オリジナリティの豊富な作といえよう。
四部作(「X」「Y」「Z」「最後の悲劇」)の主要登場人物は、一貫してかわらない。むろん、名探偵は老優ドルリー・レーン、その傍役は、ニューヨーク警察本部の鬼警部サム、それに地方検事ブルーノ。だが、小説の上では、第一作『Xの悲劇』から、レーンがしずかに退場する第四作『最後の悲劇』にいたるまでには、十年以上の歳月がながれている。「X」「Y」は、ごく短い期間中の事件をあつかったものであるが、「Z」の事件は、「Y」の事件解決後から十年たっているのである。「X」「Y」では、六十歳だったレーンも、本書「Z」では、七十回目の誕生日を迎えようとしているのだ。そして鬼警部サムも警察を退職し、いまでは、『サム探偵事務所』を開業している身である。またブルーノも、地方検事からニューヨーク州知事になっている。さらにまた、ここに新しく登場する若い女性。サム警部の娘、ペイシェンス・サムがそれである。彼女は少女のころからヨーロッパに遊学に行っていて、「X」「Y」には顔が出せなかったという仕組みになっている。そして、本篇『Zの悲劇』では、ナレーター(語り手)の大役を引き受ける破目になる。父、鬼警部の血をひくだけあって、若くて美しいペイシェンスは、たくましい推理力を発揮する。シェイクスピア文献の世界的蒐集家である七十歳の名探偵ドルリー・レーンに配するに、D・H・ロレンスを愛読する二十歳のヨーロッパ帰りの「|あたらしい《ヽヽヽヽヽ》女性」。このコンビネーションの妙も、「Z」をより一層興味深いものにするクイーンの趣向の一つである。
それに、他の三作がいずれも客観的記述を用いているのに、「Z」だけは、ペイシェンス・サムの手記という一人称形式をとっていることも、本篇の特徴である。若い近代的な女性の眼をとおして、『Zの悲劇』を描くことによって、アメリカの地方小都市の政治的な暗黒面と、刑務所、死刑囚、死刑執行という劇的な道具立てが、なまなましい迫真力を生むにいたる。
また、きわめて重要な工夫の一つに、本筋とは無関係に、あるエピソードが、本篇に挿入されていることである。第十三章「ある男の死」。これは、スカルチというギャングが、電気椅子による死刑を執行されるエピソードである。たまたま、ドルリー・レーンが、立会人を志願して、その死刑執行のはじめからおわりまで、細部にわたって観察してくる話だが、吐き気をもよおすようなリアリスティックな描写は、これを訳している私にとっても、身の毛のよだつ「おそろしい経験」であった。いま、このエピソードについて、「本筋とは無関係に」と私は書いたが、じつは一見そう見えるだけのことであって、この孤立しているエピソードが、事件解決の重大な鍵になっているところに、作者エラリー・クイーンの卓絶した構想があるのだ。
本格探偵小説の醍醐味に加えて、社会派的な視点から、三十年代のアメリカのリアリティをいきいきと描いたところに、本篇『Zの悲劇』に賭けたクイーンの新しい野心がうかがわれる。
ますます円熟味を加えてきた名探偵ドルリー・レーンとともに、本篇から初登場する、きわめてチャーミングな近代女性、ペイシェンス・サムにも、どうか読者のご声援をいただきたい。彼女は、四部作の最終篇『最後の悲劇』にもひきつづき登場し、その若々しい知性と行動力とで、老優ドルリー・レーンにとって最大の難事件に肉迫します。なにとぞ、ご贔屓《ひいき》のほどを。
サム警部にかわって (訳者)
訳者紹介
田村隆一《たむらりゅういち》
一九二三(大正一二年)東京に生る。明治大学文学科卒業。詩誌「新領土」「LE BAL」などを舞台に詩を発表、戦後は「荒地」の主要メンバーとして活躍した。
〔著書〕詩集「四千の日と夜」、〔訳書〕ロアルド・ダール「あなたに似た人」、アガサ・クリスティ「予告殺人」「魔術の殺人」、クロフツ「樽」、エラリイ・クイーンの四部作(「Xの悲劇」「Yの悲劇」「Zの悲劇」「最後の悲劇」)などがある。
◆Zの悲劇
エラリー・クイーン/田村隆一 訳
二〇〇三年一月二十日 Ver1