エラリー・クイーン/田村隆一 訳
Yの悲劇
目 次
プロローグ
第一場 死体公示所《モルグ》
第二場 ハッター家
第一幕
第一場 ハムレット荘
第二場 ルイザの寝室
第三場 図書室
第四場 ルイザの寝室
第五場 実験室
第六場 ハッター家
第二幕
第一場 実験室
第二場 庭園
第三場 図書室
第四場 ハムレット荘
第五場 死体公示所
第六場 メリアム医師の事務室
第七場 ハッター家
第八場 バーバラの書斎
第九場 実験室
第三幕
第一場 警察本部
第二場 ハムレット荘
第三場 死体公示所
第四場 サム警部の事務所
第五場 ハムレット荘
第六場 死の部屋
第七場 実験室
第八場 食堂
エピローグ
舞台裏
解説
登場人物
ヨーク・ハッター……化学者
エミリー・ハッター……その妻
バーバラ……長女(女流詩人)
ジル……次女
コンラッド……長男
マーサ……その妻
ジャッキー……その長男(十三歳)
ビリー……次男(四歳)
ルイザ・キャンピオン……エミリーと先夫との娘
エドガー・ペリー……家庭教師
トリヴェット……ハッター家の隣人(元船長)
ジョン・ゴームリー……コンラッドの仕事仲間
チェスター・ピグロー……弁護士
メリアム……医師
スミス……看護婦
アーバックル……家政婦
ジョージ・アーバックル……その亭主(住込運転手)
ヴァージニア……女中
ブルーノ……地方検事
サム……警部
シリング……検屍医
ドルリー・レーン……元俳優
クェイシー老人……レーンの扮装係
ドロミオ……運転手
フォルスタッフ……ハムレット荘の執事
プロローグ
「劇は晩餐のごときもの……プロローグは食前の祈り」
第一場 死体公示所《モルグ》
――二月二日午後九時三十分
まるでみにくいブルドッグを思わせる深海トロール船、ラヴィニアD号は、この問題の二月の午後、はるばると大西洋の波濤《はとう》をついて、サンディ岬をまわり、ハンコック堡塁《ほうるい》を横目ににらみ、船首《せんしゅ》を泡立て、船尾《せんび》に白い航跡をひきながら、まっしぐらにニューヨーク下湾へと入ってきた。漁の成績はさっぱりあがらず、汚《よご》れはてたデッキは屠殺場《とさつじょう》そのもの、船は大西洋の荒波にもみぬかれ、水夫たちは船長を、海を、魚を、鉛色《なまりいろ》の空を、そして左舷《さげん》に見えるスタテン島(ニューヨーク湾内の島)の荒涼とした海岸を呪《のろ》うばかりだった。酒壜《さけびん》が水夫たちの手から手へ渡った。水しぶきを浴びた防水|外套《がいとう》の下で、水夫たちはガタガタと身をふるわせた。
と、手すりにもたれながら、泡立《あわだ》つ緑のうねりを、うつろな目でながめていた大男が、突然、身をこわばらせると、その潮焼けした顔の目をむいて、大声でわめいた。水夫たちは、いっせいに大男の指さした方向に目をやった。一〇〇ヤードばかりはなれたところに、なにやらちいさな、黒いものが浮かんでいた。まぎれもなく人間、いや、まぎれもない人間の死体が湾内に漂っているのだ。
水夫たちはとびあがった。「面舵《おもかじ》いっぱい!」舵手《だしゅ》がからだをねじるようにまげると、大声でどなった。ラヴィニアD号は、ありとあらゆる関節をきしませながら、いかにもぎこちなさそうに左に大きくまわりはじめた。それから、すごく慎重《しんちょう》な獣《けもの》のように、獲物《えもの》を遠巻きにしながら、じわじわとにじりよっていった。すっかり生気をとりもどした水夫たちは、この日の獲物のなかでも、いちばん珍妙な獲物をつりあげてくれようとばかりに、潮風のなかに鉤竿《かぎざお》をさかんにふりまわした。
それから十五分後、その獲物は、水びたしのデッキの、悪臭を放つ海水だまりのなかにころがされてあった。ふにゃふにゃした、まるでぼろきれのような、原型をとどめぬ物体、だが、あきらかにこれは人間だった。死体の惨状からみて、何週間も深い海底で、潮にもてあそばれていたのにちがいなかった。水夫たちはだれひとり、口をきこうとするものもいなかった、ただ両手を腰にあて、足をひらいてデッキに立ちはだかっているばかりだった。死体にさわろうとするものもいなかった。
かくして、死せる鼻孔《びこう》に魚と潮風のにおいをかがされながら、ヨーク・ハッターの最後の旅がはじまった。いわば、この男の棺《ひつぎ》は、うすぎたないトロール船、棺のにない手は、うろこだらけの作業服を着たひげ面《づら》のあらくれ水夫たち、鎮魂歌は水夫たちのぶつくさつぶやく呪い声と、ニューヨーク港へと吹きぬけてゆく風の音だった。
ラヴィニアD号は、ぬれた鼻づらで泡立つ海面をかきわけてすすみ、バタリー公園(砲塁跡)の近くのちいさな桟橋《さんばし》につながれた。海から、思いもよらぬ船荷をつんで帰投したのだ。水夫たちはとび出し、船長がしわがれ声でどなった。港の役人たちはうなずいて、水びたしのデッキに目をやった。バタリーのせまくるしい港湾事務所では、ひっきりなしに電話のベルが鳴りだした。そして、ヨーク・ハッターは、防水布の下で、しずかに横たわっていた。さして時間はかからなかった。救急車がやって来た。白衣《びゃくい》の男たちがずぶぬれの船荷《ヽヽ》を運んだ。やがて死の行進は海をはなれた、挽歌《ばんか》は救急車のサイレンによって歌われた。ヨーク・ハッターは、ブロードウェイの下手《しもて》を通って、死体公示所へと運ばれた。
彼の運命はまったく奇妙なもので、いまでもなお、深い謎《なぞ》につつまれていた。前年のクリスマスの四日まえ、つまり十二月二十一日に、ヨーク・ハッターがニューヨーク市北ワシントン・スクエアの自宅から失踪《しっそう》したということが、その老妻エミリー・ハッターによって届け出られたのである。その日の朝、彼はだれにも声をかけず、ただひとり、赤煉瓦《あかれんが》づくりの屋敷から出ていったまま、消息を絶ってしまったのである。
それ以来、この老人の足どりは|よう《ヽヽ》としてつかめなかった。ハッター老夫人としても、夫の失踪について、ただ、なんの心当りもないとしか答えられなかった。失踪人調査局は、ヨーク・ハッターが身代金《みのしろきん》めあてに誘拐《ゆうかい》されて、どこかに監禁でもされているのではないかとふんでみた。ところが、その誘拐説の犯人からは、資産のある老人の家族あてに、なんの音沙汰《おとさた》もないところから、誘拐説は根底からくずされてしまった。また新聞は、さまざまな推理をうちだした。たとえばヨーク・ハッター殺害説、ハッター家ならどんな奇怪なことでも起こりうるというのだ。だが、ハッター家では頭からこれを否定した、つまり、ヨーク・ハッターは、まるで神さまのような好人物で、交際範囲もごくかぎられていて、ひとから恨まれるような筋合いのない温厚な性格の老人だと反駁《はんばく》したのである。またほかの新聞は、ハッター一族の一種異様な家庭の事情を強調して、老人の失踪はたんなる逃避にすぎない――口やかましい老妻と、常軌を逸した子供たち、それに神経をすりへらすような家庭生活に耐えきれなくなって逃げ出したのだ、という推理をたてた。しかし、この逃避説もまた、警察当局が、老人の銀行預金が一セントも手をつけられずそのままになっていることを指摘するにおよんで、たちまち相手にされなくなってしまった。それとおなじ埋由から、「事件のかげに女あり」という最後の切札《きりふだ》も、流産するはめとなった。この女説にいきりたったエミリー・ハッター老夫人は、夫はもう六十七歳である、家庭と家族と財産を捨ててまで、花の色香《いろか》にふみまよう年ではないと、どなりつけたほどである。五週間にわたる不眠不休の捜査の結果、警察当局もついにひとつの見解に達せざるをえなくなった、すなわち、自殺説である。そして、こんどこそ、この自殺説だけは、まずまちがいのないところだと見えたのだ。
ニューヨーク警察本部殺人課のサム警部は、ヨーク・ハッターの粗暴な葬儀には、まったくおあつらえむきの牧師だった。警部は、なにからなにまで大きくて、ぶざまだった。ごつい鬼がわらのような顔、押しつぶされた鼻、変形してしまった耳、巨大な図体《ずうたい》に、これもまた大きな手足。彼を一見したら、若いころ、ヘヴィ級の懸賞試合でならしたボクサーだと、まず見まちがえるところだ。彼のにぎりこぶしは、犯罪に強烈なパンチをくわしてきたおかげで、すっかり節《ふし》くれだち、変形してしまっている。白髪《しらが》まじりの赤い頭髪、灰色の目、砂岩のような顔、いかにもガンとしたたのもしい感じ。頭には脳みそがちゃんとつまっている。警察官特有の、一本気で、まっ正直。およそ彼は、犯罪との悪戦苦闘の歴史のなかで、その年輪《ねんりん》をかさねてきたのだ。
だが、いまの場合はそうではなかった。失踪者が出、なんらの捜査の手がかりもつかめなかったのに、魚の餌食《えじき》となった死体があがったのである。これで身元確認の手がかりは十分だ。すべては明白で、疑念をはさむ余地はないものの、他殺説も出たことだから、この事件の結着をはっきりつけるのが自分の義務だと、警部は思った。
ニューヨーク州検屍医シリング博士は、その助手に合図すると、裸の死体は、解剖台《かいぼうだい》から、移動テーブルにうつされた。大理石の流しのまえで、博士は、その、いかにもゲルマン人らしいずんぐりした体躯《たいく》をかがめて、警部に会釈《えしゃく》した。彼は手を洗って消毒をすませると、ていねいにぬぐった。それから、その肉づきのいいちいさな手をすみずみまで乾かせると、博士は使い古した象牙《ぞうげ》の爪楊枝《つまようじ》をとり出して、自分の歯を丹念にほじくりはじめた。警部はホッとため息をもらした――これでシリングの仕事が終ったのだ。博士が虫歯の穴をほじくりはじめたら、話しかけてもいいというお許しが出たようなものだ。
博士と警部は、移動テーブルのあとについて、公示所内の死体安置所にむかって歩いていった。二人ともおし黙っていた。ヨーク・ハッターの死体は、板の上にどさりとほうりだされた。助手が、壁龕《へきがん》におさめますか? とでも言いたげに、博士の方へ顔をむけた。シリング博士は頭を横にふっただけだった。
「どうですか、先生?」と警部が口をひらいた。
検屍医は、楊枝をはなした、「きわめて明白なケースだね、サム。海に落ちた直後、死んだのだ。肺を一目見ればわかる」
「じゃ、溺死《できし》というわけですね?」
「いゃ、溺死じゃない、毒物死だ」
サム警部は、板の上の死体に、顔をしかめた、「すると、こいつは他殺なんですな、先生、われわれはまちがったというわけだ。あの遺書は犯人がでっちあげたものかもしれん」
シリング博士のつぶらな目が、旧式の金縁《きんぶち》眼鏡《めがね》の奥でキラリとひかった。ちいさな灰色の布製の帽子が、博士のグロテスクな禿頭《はげあたま》のてっぺんにのっかっている。「サム、君はまっとうすぎるよ、毒物死、かならずしも他殺とはかぎらんからね。……なるほど、体内には青酸を飲んだ痕跡《こんせき》がある。するとどういうことになるかね? この男は船の手すりにもたれたまま、青酸を飲んで、それから海中に落ちたか、とびこんだかしたものだと思うのだ。それが他殺になるかな? 自殺だよ、サム、警察の見込みどおりというわけだ」
警部はいかにもホッとした表情をうかべた、「なるほど! すると、海面に落ちると同時に死んだ――死因は青酸死というわけですね? おかげさまで助かりましたよ」
シリング博士は、死体の台板によりかかった。彼の目は、ねむたげにまたたいた。もっとも博士は、いつもねむそうなのだ。「まず他殺とは考えられんね。そういったことを示す痕跡はなにひとつない。二、三、骨に傷があるし、肉にもかき傷がついているが――海水は防腐剤みたいなものさ、ま、君はごぞんじないだろうがね――あきらかにこいつは、海底でなにかにぶつかってできた傷だ、それ以外に考えられんね、ま、魚はご馳走《ちそう》にありつけたというわけさ」
「なるほど……しかしですね、これでは顔の見分けがつかんですよ」すぐそばの椅子《いす》にのせてある死者の衣類は、ボロボロになっていた。「だけど、なぜもっと早く、死体が見つからなかったものでしょうな? それにしても五週間も死体が浮いてるはずがないと思いますけど?」
「君、そんなことは簡単じゃないか、いったい、君には目がついているのかね!」博士は死体からはぎとったずぶぬれの外套を手にとると、背中にある大きな裂け目を指さした、「こいつは魚がかじったものかね? とんでもない! なにか大きくてとがったものにひきさかれてできた穴だよ。死体は、海底の沈み木にひっかかっていたわけさ、サム。そいつが、潮流かなにかのかげんで、はずれて浮きあがってきたのだ、たぶん、一昨日《おととい》の嵐《あらし》のせいだろう。だから、五週間、死体が見つからなかったのもべつに不思議ではない」
「すると、死体が発見された地点から判断して」サム警部は思案深げに言った、「話を綜合するのはわけないですな。この男は毒を飲んで海中にとびこんだ、たぶんスタテン島の渡船からね、そしてニューヨーク港の底から浮びあがったというわけだ……それはそうと、死体の所持品はどこにあるんです? もう一度、この目でたしかめてみたいんですがね」
警部と博士はテーブルの方へ歩いていった。いろいろなものが、その上においてあった――ぐしょぬれになってひきちぎられている紙、ブライヤーのパイプ。水びたしのマッチ箱、鍵束《かぎたば》、海水ですっかり変色してしまった紙幣入りの財布《さいふ》、ひとつかみの雑多なばら銭、そのわきに、死体の左手薬指からはずした、重い認印つきの指輪があった、銀でY・Hと頭文字《かしらもじ》が彫りこんである。
だが、警部は、ただ一つの品物にしか関心をもたなかった――それはタバコ入れ。フィッシュ・スキンと防水材料でできているので、なかのタバコは大丈夫だった。そのなかに、海水におかされない、ちいさくたたんだ一枚の紙が入っていた。サム警部は、もう一度、それをひろげてみた。まるで活字のようなきっちりとした書体で、不変色性のインクの文字が書きこまれてあった。文面は、しごく簡単なものだった。
関係者各位へ
私は完全に正常な精神状態において自殺する。
一九――年十二月二十一日
ヨーク・ハッター
「簡にして要をつくしておる」とシリング博士が口をひらいた、「私はこの男が気にいったよ。おれは自殺する、狂っちゃいない、これだけで十分だ。これは一行で書かれた小説だよ、サム」
「ああ、やめてください、さもないとおこりますよ」と警部はうめくように言った、「やあ、老夫人のお出ましだ、死体の碓認に来てくれるようにと知らせておったのです」警部は台板の下に投げ出されてあった厚ぼったいシーツをひろいあげると、あわてて死体の上にかぶせた。シリング博士は、口のなかでドイツ語をブツブツつぶやくと、目をひからせながら、わきによった。
一団のひとびとが、死体置場に無言で入ってきた。女が一人、男が三人。なぜ、その女が三人の男たちの先頭に立って入ってきたか、などといぶかるにはおよばない。この女を一目見れば、いつも先頭に立って、手綱《たづな》をにぎり、采配《さいはい》をふるにきまっていると思うにちがいない。女はすごく年をとっている、まるで化石した木のように古びて堅い。鼻は海賊が使う鉤《かぎ》のような形、白髪、氷のようにつめたい目は青く、禿鷹《はげたか》の目のようにまばたきひとつしない。頑丈《がんじょう》なその顎《あご》が、降伏のしるしにうなずくことはまずあるまい……この女こそエミリー・ハッター夫人である、二世代にわたる新聞読者に、ワシントン・スクエアの「途方もない大金持」「変人」「強情っぱりの老婆《ろうば》」としておなじみになっている老夫人なのだ。年は六十三歳だが、十年は老《ふ》けてみえる。おまけにウッドロー・ウィルスンが大統領であった時代ですら、すでに時代遅れであったような服を身につけている。夫人は、シーツでおおわれた台上の死体以外には目もくれなかった。ドアからそこまで近よってゆく夫人の様子には、まるで「審判」か「運命」がしのびよってゆく感じがあった。夫人のうしろからついてゆく男――背が高く、いかにも神経質そうなブロンドの青年で、老夫人とそっくりの顔立ちをしているな、とサム警部は見てとった――が、ささやくようになにか言いきかせたが、夫人は足もとめずにそれを受けながして、台のまえに歩みよると、シーツをめくり、見分けようもないほどくずれている死体の顔を、まばたきひとつしないで、じっと見おろした。
サム警部は、夫人がなんの感情も示さず、ただもの思いにふけるままにさせておいた。警部は、ほんのしばらく夫人の無表情な顔を見まもっていたが、やがてかたわらにひかえている男たちの方に顔をむけた。例の、長身のいかにも神経質そうなブロンドの青年、年のころは三十二歳前後だが、これはヨークとエミリーのあいだに生れたひとり息子《むすこ》、コンラッド・ハッターにちがいないと、警部はにらんだ。その母親とおなじように強慾《ごうよく》そうな顔つきをしているが、母親にない弱々しさと、頽廃的《たいはいてき》な色がこく、どことなく生活に疲れたかげがあった。彼は胸がむかついているような様子だった、死体の顔を一目見るなり、すぐ床《ゆか》に目をおとして、右足をせわしなく動かしだした。
青年のすぐわきに二人の老人が立っていたが、ヨーク・ハッターの失踪事件をあつかった関係で、サム警部には見おぼえがあった。ひとりは、ハッター家の主治医で、背が高く、白髪、やせたなで肩の、そろそろ七十歳に手のとどこうというメリアム博士だった。博士は死体の顔をかなりくわしく調べても、べつだん顔をしかめもしなかったが、あきらかに不快そうな様子だった。それも、死んだ老人と長年のおなじみのせいだろうと警部は思った。もうひとりの男は、この三人のなかで、いちばん異彩をはなっている人物で、精気のみなぎった、どことなくピリッとした感じだが、まるで針金のようにやせていた。彼は元船長のトリヴェットで、ハッター家とは昔なじみだった。と、サム警部は思わずハッとして目を見はった――なんだって、まえに会ったとき気がつかなかったのか! 彼は胸中でくやしがった――トリヴェット船長の右足のあるべきところに、青いズボンの先端から皮ばりの義足がはみ出しているではないか。トリヴェットは、のどの奥になにかがひっかかったらしく、さかんに咳《せき》をしていた。彼は潮風焼けした手をのばすと、ハッター夫人の腕に、ひかえめにかけた。老夫人はその手をふりはらった――骨ばった腕をひとふりして。トリヴェット船長は赤面するとあとにさがった。
はじめて夫人は、死体から目をはなした、「これが……? わたしにはどうとも言えませんよ、警部さん」
サム警部は外套のポケットから両手を出すと、咳ばらいをした、「いや、ごもっともです、たいへん、いたんでいますからな、ハッター夫人……そうだ、それでは衣類と所持品を見ていただけませんか」
老夫人は不愛想にうなずいた。警部のあとについて、ぬれた衣服ののせてある椅子に近づいたとき、夫人ははじめて感情のしるしらしいものを見せたのだ――ちょうど、猫《ねこ》がご馳走をたいらげたあとのように、まっ赤な薄い唇《くちびる》をぺロリと舌でなめたのである。メリアム博士は、夫人といれかわって無言のまま台に近づくと、息子のコンラッド・ハッターとトリヴェット船長を目顔で立ち去らせ、死体のシーツをめくった。シリング博士は職業的な疑念の目で、その様子を見つめていた。
「たしかに服はヨークのものですよ、失踪した当日、これを着てましたからね」夫人の口調《くちょう》は、いかにもその口もとに似つかわしい、堅くて強情そうなひびきがこもっていた。
「それからハッター夫人、こちらにあるのが所持品です」
警部は夫人をテーブルの方へみちびいた。夫人はおちつきはらった手つきで、イニシアルの入った指輪をつまみあげた。それから氷のようにつめたい老いのまなざしで、パイプ、財布、鍵束……と見ていった。
「やっぱりヨークのものですよ」と夫人はそっけなく言った、「この指輪もね、わたしが彼にやったもの――おや、これはなんです?」と、突然夫人は興奮した。紙片をとりあげるなり、一目でその文章を読みとった。だが、やがて例の冷静さにもどると、いかにも無関心そうにうなずいた。
「ヨークの筆跡だね、絶対にそう」
コンラッド・ハッターは、まるで目のやり場がないみたいに、あれこれと視線をむやみにはしらせながら、身をかがめた。彼もまた、遺書を見てすっかり興奮してしまった様子だ。彼は内ポケットに手をいれるなり、二、三枚の紙片をとり出しながら、つぶやいた――「すると、やっぱり自殺だったんだ。まさか、そんな勇気があるなんて思ってもみなかったけど、かわいそうに、おやじは――」
「筆跡の見本ですな?」だしぬけに警部はかみつくような口調で言った、ただむしょうに腹が立ってきたのだ。
金髪のコンラッドは、その紙片をサム警部に渡した。警部は、苦虫《にがむし》をかみつぶしたような顔をしたまま、そいつに見入った。ハッター夫人は、もう二度と死体や遺品を見ようともせずに、やせほそった頸《くび》に巻きつけた毛皮のぐあいをなおしはじめた。
「こいつはまったくおなじ筆跡だ」警部はうなるように言った、「よろしい、これでまず、万事オーケーだ」だが、それにもかかわらず、警部は遺書も筆跡見本も、自分のポケットにねじこんでしまった。それから死体の方に目をうつした。ちょうどメリアム博士が、シーツをかけようとしているところだった。
「どんなものでしょうな、先生? あなたなら、彼のからだのことはよくごぞんじのはずです、これはヨーク・ハッターですか?」
老医師は、警部の顔に目もやらずに言った、「ま、そうでしょな、いや、たしかにそうですよ」
すると、だしぬけにシリング博土が口をいれた、「六十歳以上の男で、手足がちいさい。古い盲腸の手術のあとがある。それから、たぶん胆石《たんせき》だと思われるが、六、七年まえに手術をしておる。いかがです、これと符合しますか?」
「そのとおりです、十八年まえに、この私が虫様突起《ちゅうようとっき》を切除しました、もう一つのほうは――胆嚢結石《たんのうけっせき》で、これはさして重いものではなかったが、セント・ホプキンズ病院のロビン君が手術したものてすよ……いや、たしかにヨーク・ハッターですな」
老夫人が口をひらいた、「コンラッド、葬儀の準備をしておくれ、ごく内輪《うちわ》だけでね、新聞には簡単な死亡広告を出すだけでいいんだよ、花輪はいらないからね。さ、すぐにだよ」夫人はドアにむかって歩きだした。トリヴェット船長は心配そうに、そのあとを追った。コンラッド・ハッターは、不本意ながら従うとでもいうかのように、口のなかでなにやらつぶやいた。
「ちょっとお待ちください、ハッター夫人」とサム警部が呼びとめた。夫人は足をとめると、警部の顔をにらみつけた。「そんなにおいそぎにならないでください、なんだってまた、ご主人は自殺なんかされたんです?」
「そうですか、じつは――」息子のコンラッドが弱々しい口調で言いかけた、と、
「コンラッド!」老夫人が頭からしかりつけた。息子は、まるでぶたれた犬みたいに、ちぢみあがってしまった。老夫人は、きびすをかえすと、警部の、ほんの目と鼻のさきのところまでつかつかとひっかえしてきた、夫人の吐くすっぱい息がかかるくらいだ。
「いったい、どうしろと言うんです?」夫人はかみつくように言った、「夫は、なにもひとさまの命をとったというわけじゃないんですからね」
サム警部はめんくらってしまった、「そりゃあ――まあ、そうですがね」
「それなら、もうなにも問題はありませんわね、これ以上、警察の連中にわずらわされるのは、ごめんですよ」夫人は、ジロリと、にくにくしい一瞥《いちべつ》を投げつけると、そのまま出ていってしまった。トリヴェット船長は、ホッと胸をなでおろした様子で、コツコツと義足の音をさせながら、そのあとを追った。コンラッドは、グッとなにかをこらえているような、気分の悪そうな様子で、それにつづいた。メリアム博士はやせた肩をしぼませて、これも無言のうちに出ていった。
「どうした、サム君」連中が立ち去ってドアがしまると、シリング博士が声をかけた、「みごとに一本やられたじゃないか、それにしてもききしにまさる女傑だね!」博士はクスリと笑って、死体をのせた移動テーブルを、壁の凹所《おうしょ》におしこんだ。
サム警部はただうなり声をあげるばかりで、足音もあらあらしくドアにむかった。おもてに出ると、目のパッチリした青年が警部のたくましい腕をつかんで、一緒に歩きだした、「待ってました、警部さん! こんばんは。ハッ夕ーの死体が出たそうですね?」
「くそくらえだ」と警部はうなった。
「そいつはいいや」と新聞記者はほがらかに言った、「いま、出てきた婆《ばあ》さんに会ったんですがね。ものすごい顎だ! まさにデンプシー級ですよ、あの顎は! ところでねえ、警部さん、あなたがここに来るからには、なにかいわくがあるはずです、なにがあったんです?」
「なにもないよ。腕をはなしてくれ、ほんとにしつこいぞ」
「あいかわらず、ご機嫌《きげん》が悪いですね……なにか|殺し《ヽヽ》の見込みでも?」
警部はポケットに両手をつっこむと、くいさがってくる新聞記者をにらみつけた。
「そんなことを一言でも言ってみろ、からだじゅうの骨をへし折ってやるぞ。まったく疫病神《やくびょうがみ》みたいなやつだ! クソッ! 自殺だよ」
「あれ、警部さんはたしか自殺説に反対を――」
「とっとと失《う》せろ! はっきり確認されたんだ、グズグズしていると、蹴《け》とばすぞ!」
警部は死体公示場の階段を一気にかけおりると、タクシーをよびとめた。新聞記者は、そのうしろ姿をずっと見つめていた。記者の表情からは、あのニヤニヤ笑いの影は、ぬぐいさられていた。
第二アヴェニュの方から、ひとりの男が、ハアハアと息をきらせて走ってきた。「おい、ジャック!」とその男が声をあげた、「ハッター事件でなにかわかったのか? あの鬼婆《おにばば》に会ったのか?」
サム警部にくいさがっていた若い記者は、走り去ってゆく警部の車を見送りながら、肩をすくめた。
「なにか、あったらしいんだ、それから、婆さんに会ったことは会ったんだけど、収獲はゼロ。しかし、いずれにせよ、すごいトップ記事をいただくことにはなるがね」青年はホッとため息をついた、「ま、|殺し《ヽヽ》だろうとなかろうと、おれたちにとっちゃ気ちがいハッター家さまさまというわけさ!」
第二場 ハッター家
――四月十日(日曜日)午後二時三十分
気ちがいハッター家……数年まえ、ハッター家のニュースが新聞でもちきりだったころ、ある想像力のゆたかな新聞記者が、少年時代に読んだ「不思議の国のアリス」を思い出して、この一家に「気ちがいハッター家」というあだ名をつけたのだ。だが、これはちょっと誇張しすぎたようだ。いくらなんでもこの一家は、「不思議の国のアリス」に出てくる、あの有名なハッターの半分も気ちがいではなく、億万分の一も愉快なところはなかった。この一家は――近所のひとたちがいつもささやきあう言葉《ことば》どおり――「いやな連中」だったのだ。だから、この土地でもいちばん古い家柄《いえがら》の一つでありながら、土地の空気になじむことがなく、つねにグリニッチ・ヴィレッジの上流社会の境界から一インチだけはみ出していたのである。
「気ちがいハッター家」というあだ名は根をおろし、成長していった。この一家のだれかが、いつもニュースのたねになっていた。それが酒場を飲みつぶそうとする金髪のコンラッドでなければ、新しい詩の舞踏会をひらいたり、文芸批評家たちにうまくおだてられたりしてパーティを催したりする派手好きなバーバラだった。さもなければジル、これは三人兄妹の末娘で、器量はいいが底意地が悪く、貪欲《どんよく》な嗅覚でたえずセンセーションをもとめてかぎまわっている。彼女については、阿片《あへん》を吸っているというような風評もあったし、週末をアディロンダックスで飲みあかすという噂《うわさ》もある。それから二か月に一度というものはきまって、ジルが大金持ちの息子《むすこ》と婚約したという話が起こるのだが……おかしなことに、どこのだれと、はっきりした相手の名前がわからないのもおもしろい。
この三人の兄妹《きょうだい》は、あらゆる点で似ているばかりでなく、みんな奇妙な人間ばかりだった。そろいもそろって偏屈で、大酒飲みで、変りもので、まったくつかみどころのない連中ばかりだったが、この三人のうち、だれひとりとして母親の悪名《あくみょう》高き業績を凌駕《りょうが》することはできなかった。ハッター老夫人は、末娘のジルも顔負けするような奔放《ほんぽう》な娘時代をすごしてから、ボルジアそこのけの支配的な、筋金入りの、抵抗しがたい女傑として中年期に入ったのである。夫人にとって、自分の社交的手腕にあまるような「動き」はなにひとつなかったし、また機を見るに敏《びん》で、熱狂的な投機本能にとっては、いかなる市場操作《しじょうそうさ》でも複雑すぎたり、危険だったりすることはなかった。夫人がウォール街の火で、指に大火傷《おおやけど》をしたとか、富裕《ふゆう》でけちんぼうのオランダ人の先祖から代々受けついできた巨額の資産を、夫人は投機熱にうかされて、その熱でまるでバターのようにとろけさせてしまったとかいう噂が、なんべんとなく流されたものだ。ところがだれひとり、夫人の顧問弁護士ですら、彼女の財産がいったいいくらあるか、正確に知るものはいないのだ。第一次大戦後のニューヨークに、タブロイド判の週刊紙全盛時代がおとずれると、夫人はいつも「アメリカ第一の女億万長者」とうたわれたものだが――これなど、真実でないことはいうまでもないことだ。一方、破産寸前などと書きたてられることもあったが、これもまったくのでたらめだった。
ま、これらすべてのこと――つまり、夫人の家族、業績、背景、けばけばしい来歴――のおかげで、エミリー・ハッター老夫人は、新聞記者にとって疫病神であり、また同時に福の神でもあったのだ。記者連中は夫人を頭から毛嫌いした。なぜって、このくらい底意地の悪い婆《ばあ》さんはなかったからだ。だが同時に、彼らは夫人を愛した、つまりそれは、ある大新聞の編集長の言にあるごとく「ハッター夫人のことなら、ニュースになる」からなのだ。
正直なところ、ヨーク・ハッターが、ニューヨーク下湾のつめたい水のなかに投身するまえから、いずれ彼は自殺するにちがいないと、あからさまに世間で言われていたくらいなのである。肉体が――ヨーク・ハッターをつつんでいる、あのばか正直な生身《なまみ》のからだが――これ以上耐えきれるものじゃないというのだ。ほぼ四十年というもの、この男はまるで猟犬のように鞭打《むちう》たれ、馬車馬《ばしゃうま》のように駆《か》りたてられてきたのだ。妻の毒舌の鞭に打ちのめされて、彼はすっかり萎縮《いしゅく》し、個性を失い、目ざめているあいだじゅうというものは、はじめは恐怖におそわれ、ついで自暴自棄におちいり、とどのつまりは絶望にとりつかれた亡霊のような男になりはてた。いわば彼の悲劇は、感受性と知性をりっぱにそなえたまともな人間でありながら、貪欲な、不合理な、苛烈《かれつ》にして狂気じみた環境にがんじがらめにされていたことである。
彼はいつも「エミリー・ハッターの夫」にすぎなかった――すくなくとも三十七年まえ、まだギリシア神話の怪獣グリフィンが装飾の最先端をゆき、テーブルの飾り覆《おお》いが客間にはつきものの付属品であった当時、すべてが大時代に飾りつけられていたニューヨークで結婚式をあげてからというもの、まさにそうだったのである。新婚旅行からワシントン・スクエアの邸宅――むろん、これは妻の家だ――に帰ってきたその日から、ヨーク・ハッターは自分の運命をさとったのだ。彼もまだ若かったから、妻の支配欲や狂暴性や専横ぶりにさからったことだろう。そんなことだから真面目《まじめ》な先夫のトム・キャンピオンから、理由もよくわからぬままに離婚されるようなはめになったのだと言って、妻をなじったかもしれない。あるいはまた、ほんのわずかでも思慮分別というものがつき、娘時代からニューヨークの社交界の鼻つまみになっていた無軌道ぶりがいくぶんでもおさまったのは、ほかでもない、二度めの夫の、この自分のおかげではないかと言ったかもしれない。もっとも、そんなことを彼が妻にむかって言ったとしたら、自分の運命をみずからの手で封じこめるようなものだ。なぜならエミリー・ハッターは、自分の命令にさからうことをけっして許すような女ではなかったし、すなおに、ひとさまの命令に従うような女ではなかったからだ。このために、彼の運命は封じこまれ、矚目《しょくもく》されていた輝かしき未来は、あえなくついえさってしまったのである。
ヨーク・ハッターは化学者だった――若くして貧しい、ほんの一学究にすぎなかった――だが、やがては世界を震撼《しんかん》させるような偉業をなしとげる学究として、矚目されていたのだ。結婚した当時、彼は二十世紀|初頭《しょとう》の化学界では夢想だにされなかった方面で、コロイドに関する実験にうちこんでいたのである。だがしかし、コロイドも輝かしき前途も名声も、妻の火のごとき強烈な個性にぶつかっては、たちまちついえ去ってしまった。歳月はむなしくながれ、年とともに彼はますます陰気くさくなり、とどのつまりは、妻の許可を得て作った自室の一隅《いちぐう》の実験室で、無意味にひとしい実験を行なうことで、満足するようになってしまった。いまや彼は脱《ぬ》け殻《がら》も同然、あわれにも金持ちの妻のお恵みだけにすがり(おまけに、そのことを、つねづねありがたく思い起こさせられるというしだいだ)、手に負えない子供たちの父親としては、女中ほどにもおさえつける権力がなかった。
バーバラは、ハッター家の子供たちのなかの最年長で、エミリーの異常な血をひいた三人のうちでは、いちばん正常の人間に近かった。三十六歳のオールド・ミスで、背が高く、やせていて、髪の毛は薄いブロンド、この娘だけは、ほかの子供たちとちがって、人間らしい血が流れていた。彼女は、生あるものすべてにゆたかな愛情をそそぎ、自然に対しても異常なくらい愛情をいだいていた、おかげでほかの兄妹たちからかけはなれていた。つまり、三人兄妹のなかで、彼女だけが父親の血をそっくり受けついだのである。しかしながら彼女は、ちょうど麝香猫《じゃこうねこ》の通った跡のように、母親の血のなかにある異常性を受けつぐことからまぬがれるわけにはいかなかった。だが彼女の場合は、その異常性がほぼ天才という形であらわれ、詩の世界にそのはけ口を見いだしたのである。すでに彼女は、現代の一流詩人――詩的アナーキストともくされており、文壇では、プロメテウスの魂をいだけるボヘミアン、天賦《てんぷ》の詩才にめぐまれた知性とうたわれていた。才知のきらめく、謎《なぞ》のごとく解きがたい数々の詩集の著者として、深い悲しみをたたえ、叡知《えいち》にひかる緑色の目をした彼女は、ニューヨークの知識人たちから、神託をくだすアポロのように仰がれるまでになっていたのだ。
バーバラの弟、コンラッドは、自分の異常性のはけ口となるような芸術的資質にめぐまれていなかった。いわば彼は母親エミリーの男性版であり、ハッター家の典型的なあばずれものだった。三つの大学では名うての不良学生でならし、とても正気《しょうき》とは考えられないような無鉄砲な行状におよんだので、つぎつぎと放校処分をくらったのだ。あまつさえ、婚約不履行のかどで、二度まで法廷にひっぱり出されている。また、ロードスターを盲滅法《めくらめっぽう》にすっとばして通行人を轢殺《れきさつ》したこともあったが、いちはやく母親の顧問弁護士たちが、金に糸目をつけずにもみ消しにかかったので、どうにか無事におさまった。乱酔のあげく、異常な血がたぎってくると、おとなしいバーテンにむかってハッター特有の怒りをまきちらしたことは数えきれないくらいだ。おかげで、鼻柱《はなばしら》をへし折られたときもあれば(もっともこれは、整形外科医が入念に手術して原形にもどしてくれた)頸《くび》の骨にひびがはいったこともあり、みみずばれや打撲傷《だぼくしょう》にいたっては枚挙にいとまがないほどだ。
だが、その彼も、母親の鋼鉄のごとき意志のまえでは、まったくの無力だった。老夫人は、息子の首っ玉をつかんで泥沼のなかからひきずり出すと、ジョン・ゴームリーという、真面目で誠実な、一点の非のうちどころのないような青年と一緒に仕事をするようにしむけたのである。だが、そうまでしてさえ、コンラッドを酒色《しゅしょく》から遠ざけるわけにはいかなかった。仕事の株式仲買業のほうは堅実なゴームリーの手にまかせっぱなしで、しげしげと放蕩三昧《ほうとうざんまい》の世界にもどっていった。
多少とも正気に近かったある時期に、コンラッドはひとりの不幸な若い女とめぐり会い、結婚した。むろん結婚したところで、彼の狂った生活がくいとめられたわけじゃなかった。妻のマーサは、彼とおない年の、おとなしい小柄の女だったけれど、いちはやく自分の不幸の深さをさとったのだ。老夫人が支配権をにぎっているハッター家に同居することを余儀なくされ、夫にはさげすまれ無視された彼女は、みるみるうちに、そのみずみずしい顔に、永遠に消えることのない恐怖の色をきざみつけられてしまったのだ。舅《しゅうと》のヨーク・ハッター同様、マーサもまた地獄をさまよう生けるしかばねとなったのである。
あわれなマーサは、移り気なコンラッドとの結婚生活からなんの愉《たの》しみも期待することができなかった。ただ、わずかに慰めといえるものは二人の子供たちだけ――十三歳のジャッキーと四歳のビリー……だが、これとても神の恵みだと、心からよろこんではいられなかった。なぜなら、ジャキーは乱暴でわがままで、おまけに早熟児、悪知恵が発達していて、残酷なことを思いつく点にかけては天才的な少年で、母親ばかりか、伯母《おば》や祖母までも、しょっちゅうてこずらせていたからである。ちびのビリーが兄の真似《まね》をするのは当然の話だった。そして夢を裏切られたマーサのあわれな生活は、二人の手に負えない子供たちを、なんとかまともに育てあげようとする苦闘と化したのである。
ところで、末娘のジル・ハッターはどうか……バーバラの言にしたがえばこうである――「あの子はね、いつまでたっても初舞台にあがるような気持ちでいるタイプなのよ。センセーションだけが、あの子の生きがいなのね。ジルみたいな、あんな悪女を、あたしはほかに知らないわ――それも悪女のなかの悪女よ、なぜって美しい唇《くちびる》とみだらな姿態で約束しておくくせに、いっぺんだって果たしたことがないんだから」ジルは二十五歳なのだ。「あの子はまるっきり魅力のないカリプソ(ギリシア神話に出てくるニンフ。オデュッセウスを捕えていた海の精)だわ。あんな卑劣な女なんて、めったにお目にかかれなくてよ」ジルは男たちから男たちへと、まるで実験するみたいに渡り歩く。そして、「どうせ生きるんなら、派手な大文字ではじまる人生よ」というのが彼女の口癖。つまり、一言で言うなら、ジルは、その母親エミリーの、みごとな青春版というやつだ。
まず筆頭に頑固《がんこ》無類の意地悪婆《いじわるばあ》さん、それからとうとう自殺にまで追いつめられたやせこびれた小男のヨーク、天才詩人のバーバラ、道楽者のコンラッド、無軌道娘のジル、いじけきったマーサ、それに二人の不幸な子供たち――これだけ役者がそろえば、この一家の気ちがいぶりは完璧《かんぺき》だと、だれしも言うことだろう。ところがそうではないのである。なぜなら、この家にはさらにひとり、ものすごいのがいるのだ、あまりにも異常で、あまりにも悲劇的なものだから、ほかの連中の狂態など色あせて正常だと思わせるくらいなのだ。これがルイザである。
彼女はルイザ・キャンピオンと名のっている。というのは、彼女もエミリーの娘なのだが、父親はヨーク・ハッターではなく、エミリー・ハッターの先夫、トム・キャンピオンだからなのだ。彼女の年は四十歳。まるまると肥《ふと》った小柄のからだ、まわりの気ちがい沙汰《ざた》になど、すこしも目もくれずおちつきはらったものだ。精神的には、彼女はまともである。気だてはすなおで、辛抱《しんぼう》づよく、なにひとつ不平がましいことを言わぬ、ごく善良な婦人なのだ。だが、それにもかかわらず、この悪名高きハッター一家のなかにあって、彼女の存在は、かげにかくれてしまうどころか、ハッター一族のうちのだれよりもひろく世間に知られているのである。彼女は、生れおちたその瞬間から、世間のすさまじい評判のたねとなり、その反響は、陰惨な、奇怪きわまりない彼女の生涯《しょうがい》に、執拗《しつよう》につきまとってきたのだ。
というのは、エミリーとトム・キャンピオンとのあいだに生れおちたルイザは、生れながらの盲目と唖《おし》であるうえに、つんぼの初期の徴候があり、おまけに成長するにしたがって、この徴候はますますひどくなり、ついには完全なつんぼになるだろうと、医師から宣告されたのである。
医師の宣告は、無慈悲にも、まったく正確なものとなってしまった。十八歳の誕生日《たんじょうび》に――まるで彼女の運命を支配する暗黒の神から誕生日のお祝いとして贈られたかのように――ルイザ・キャンピオンはまったくのつんぼになるという最後の屈辱《くつじょく》をうけたのである。
すこしでもたくましさに欠けた人間だったら、この打撃は致命的なものになっていたことだろう。ほかの娘たちが若い血潮に胸をときめかす青春の時代に、ルイザは自分だけの孤独の世界にとじこめられているのだ――音もなく、形もなく、色彩もない世界、表現のできない、また表現しようにもまったく名状しがたい世界のなかに。聴覚こそ、彼女にとって人生への最後にのこされたたのみのかけ橋だったのだが、これすらもすでに失われてしまったのだ。暗黒の神は、そのかけ橋をきれいに焼き落してしまったのだ。いまや、ひき返そうにもひき返すすべはなく、ただ彼女の行く手にあるものは、虚無と空漠《くうばく》と、無味乾燥の人生だけだった。人間の主要な感覚に関するかぎり、彼女は死んだも同然だった。
しがみつき、おびえ、うろたえ、絶望にさいなまれながらも、彼女の性質には、なにか鋼鉄のようなものがあって――おそらくそれは、悪の分配者である母親から受けついだ唯一《ゆいいつ》の美点であろうが――それが彼女の心に強烈な力をあたえ、すばらしい勇気から生れた平静さで、非望の世界に彼女を立ちむかわせたのである。たとえ彼女が、自分の不幸の原因をはっきり知ったとしても、そんなそぶりを毛ほども示すようなことはないのだ。それどころか、彼女の身に不幸をもたらした母親との間柄《あいだがら》は、五体の満足にそろっている普通の母娘《おやこ》のあいだにすら求めがたいほど、むつまじいものだった。
この娘のいたましい不具の原因が、母親の側にあることは、火を見るよりあきらかなことだった。彼女が生まれた当時には、罪は父親のトム・キャンピオンのほうにあって、彼の血のなかになにか悪いものがあって、それが子供にたたったのだと噂されたものである。ところが、キャンピオンとエミリーが離婚し、それからエミリーが再婚して、「気ちがいハッター家」とあだ名をつけられるような悪魔の子供たちをつぎからつぎへと生むにおよんで、世間は、母親の側に罪があるということを知ったのだ。そのうえ、キャンピオンには、先妻とのあいだに五体健全な男の子があったという事実を思いあわせてみれば、なおいっそう、エミリーのほうに罪があるということがはっきりするのだ。新聞は、事情もさだかでないままエミリーと離婚して、その数年後に死んでしまったキャンピオンのことなど、すっかり忘れ去ってしまった。男の子は行方《ゆくえ》不明だった。そしてエミリーは、不運なヨーク・ハッターを、その否応《いやおう》いわさぬ内ぶところにたくわえこんで、先夫とのあいだにできた発育不全の果実であるルイザを、ワシントン・スクエアの先祖伝来の邸宅にひきとったのである……そして、この邸宅こそ、一世代にわたって悪名をほしいままにしたのち、これまでに起こった事件などは、ほんの序幕にすぎないと思わせるほどの苛酷《かこく》にして激烈な悲劇の舞台となる運命をもっていたのだ。
悲劇は、ヨーク・ハッターの死骸《しがい》が、湾からひきあげられたほぼ二か月ののちにはじまった。それは、ごくさりげない調子だった。ハッター家の家政婦であり料理人でもあるアーバックル夫人は、毎日昼食後、ルイザ・キャンピオンのために卵酒をつくることになっていた。こんな卵酒をつくらせたりするのも、エミリー婆さんのハイカラ趣味からきていた。ルイザは、心臓がいくらか弱いのをべつにすれば、とても健康で、年も四十歳だから、かなり肥《ふと》っているほうなので、とりわけ蛋白質《たんぱくしつ》を補う必要もなかったのだ。しかし、ハッター夫人がこうと言いだしたら、それこそ鶴《つる》の一声《ひとこえ》なのだ。それにアーバックル夫人はいっかいの使用人にすぎないし、おまけに毎日、使用人だということを、たえず頭にたたきこまれているといったしだいなのだ。それにルイザは、鋼鉄のごとき母親の言いつけには、いたって従順で、毎日かかさず、昼食がすむと下の食堂へ行って、母性愛のこもっている卵酒をすするのである。これは、かなりひさしいあいだの習慣で、のちの話に重要な意味をもつのだ。老夫人の言いつけとあれば、髪の毛一筋ほどもそむくつもりのないアーバックル夫人は、卵酒をいれた背の高いコップを、いつも食堂のテーブルの南西の角《かど》、端から二インチのところにかならずおいた――おかげで、盲目のルイザは、毎日午後、判で押したようにそのコップを見つけ、それを手にとって、まるで目が見えるかのように、いともらくらくと飲みほすことができるのだ。
その悲劇の日、いや、悲劇に近いと言ったほうがいいのだが、それは四月の、あるおだやかな日曜日のことで、なにひとつ、変ったこともなくすぎていった……だが、それも、ある時刻までだった。午後二時二十分――あとでサム警部は、この正確な時刻を入念に調査して割り出したのだ――アーバックル夫人が屋敷の裏手にある料理室で、例の卵酒をつくり(その混合酒の使用材料については、警察の尋問のさい、彼女がまるでつっかかるような態度でつくってみせた)、それをいつものお盆にのせて食堂に運び、テーブルの南西の角、その端から二インチのところにおき――お役目がすんだので――それから食堂を出て料理室にもどった。彼女の証言によれば、卵酒を持って食堂に入ったときにはだれもいなかったし、そのコップをテーブルにおくあいだに入ってきたものもいなかった、という。そこまでは、はっきりしていた。
それからあとに起こったことをはっきりさせるのが、かなり厄介《やっかい》なことなのだ。各人の証言がかなりあいまいなのである。なにせ、興奮しきった一瞬間のことなので、だれがどこにいて、なんと言い、どういう経過をたどったか、そういった印象がはっきりつかめるほど、だれひとり、知覚力を働かせることができなかったのだ。およそ二時三十分ごろ――サム警部が不満ながら推定した時刻――ルイザは、いかめしい老夫人にともなわれて、食堂の卵酒を飲みに、二階の寝室からおりてきた。二人は食堂の戸口のところで足をとめた。と、その二人のあとからおりてきた女流詩人のバーバラ・ハッターも、二人のすぐうしろで足をとめて、なかを見た。なぜそうしたのか、あとになって説明をもとめられたとき、ただ、なんとなく様子がおかしかったから、という以外に、彼女ははっきり答えることができなかった。ちょうどこのとき、コンラッドのおとなしい妻のマーサが、どこか裏の方から、だるそうな足どりでホールへ出てきた。マーサは、口のなかで力なくつぶやくように言った、「ジャッキーはどこかしら? またお庭の花をめちゃめちゃに踏みつけてしまったけど」と、彼女もまた、フッと足をとめると、戸口のところで一瞬ためらった。
このとき、偶然にも五人めの人物が食堂のなかをのぞきこんで、みんなが注目している人影に視線をやった。これは片足のもと船乗り、トリヴェット船長で、ハッター家のとなりに住んでいた。彼は二か月まえ、死体公示場まで老夫人と息子のコンラッドにつきそって行って、ヨークの死体確認に立会った老人である。トリヴェット船長が顔を出したのは、食堂に入る二番めの戸口――つまり、廊下に通じる戸口ではなしに、食堂のとなりの図書室に通じる戸口のところだった。
五人の目がそそがれたものは、とりたてて騒ぎたてるほどのものではなかった。食堂のなかにただひとり、マーサの長男、十三歳のジャッキー・ハッターのちいさな姿があったのだ。その子は、卵酒のコップを手に持ち、じっとながめていた。老夫人のきびしい目が、ひときわけわしくなった。彼女はなにか言いかけようとして口をひらいた。と、ジャッキーは、みんなに見つけられたことがわかると、ビクッとしてふりかえった。その、小鬼のような顔をゆがめると、いたずらっぽい決心の色が、いかにもわがままそうな目にキラリとひかった、そのとたん、その子はグラスを唇《くちびる》にあてるなり、クリーム状の液体を一口、ゴクリと飲みこんだ。
それから起こったことは、どうもはっきりしない。間髪《かんぱつ》おかず――そう、老夫人が食堂のなかにとびこむなり、ジャッキーの手を思いきりたたいた、「これはルイザ伯母《おば》さんのじゃないか! このちび助め! 伯母さんのものを横どりするんじゃないって、おばあさんになんべん言われたんだい!」老夫人が金切り声をあげてしかりつけたかと思うと――ジャッキーは手にしたコップをとり落した、そのとがったわんぱく顔に、すごくびっくりした表情をうかべたまま。コップは床の上に落ちてこなみじんにくだけ、その中味が、食堂の煉瓦色《れんがいろ》のリノリュームの上にとびちった。それから、泥《どろ》だらけの両手でパッと口をおおうと、ジャッキーは大声で泣きわめきだした。みんなは、ただあっけにとられて棒立ちになっていたが、それでもこれは、しかられたあげくだだをこねて泣いているのではなく、実際に激痛におそわれているせいだということがわかった。ジャッキーのやせこけた、まるで針金のようなからだが痙攣《けいれん》しはじめ、その両手はひきつり、おそろしい苦悶《くもん》に、そのからだを海老《えび》のように折りまげた。呼吸もはげしくあえぎだし、顔の色も、異様に黒ずんだ色に変ってきた。そして、なおも悲鳴をあげつづけながら、ジャッキーは床の上にくずれるように倒れた。と、このときになってはじめて、戸口のところから悲鳴があがった。血の気を失った母親のマーサが食堂にとびこむなり、床にひざをついて、わが子のひきつった顔を一目見ると、そのまま気を失ってしまった。
この悲鳴で、家のなかは大騒ぎとなった。まず、アーバックル夫人がとびこんできた。それから、その夫の、住みこみの運転手、ジョージ・アーバックル、のっぽでガリガリにやせた老女中のヴァージニア、つづいて髪をみだした、日曜日の朝酒に酔っぱらって赤い顔をしたコンラッド・ハッター。ルイザなど、みんなの眼中になかった。彼女はおしのけられたまま、心ぼそげに戸口のところで、とほうにくれていた。それでも彼女の第六感でなにか異変が起こったことを感づいたものか、嗅覚《きゅうかく》だけをたよりによろよろと足をすすめると、やっとのことで老夫人をさぐりあてて、必死になってその腕をひっぱりはじめた。
ジャッキーの発作《ほっさ》とマーサの気絶という、かさなるショックから、まっさきに気をとりなおしたのは、いうまでもなく、老エミリー・ハッターだった。老夫人は少年のそばにかけよると、気を失っているマーサのからだをおしのけて、ジャッキーの首根子《くびねっこ》をつかんだ――少年の顔色は、もはや暗紫色《あんししょく》に変っていた――それから、かたくくいしばっている少年の口をこじあけると、そののどに骨ばった指をつっこんだ。たちまち少年はうめき声をあげると、吐いた。
老夫人の瑪瑙《めのう》のような両眼が、キラリとひかった、「アーバックル! すぐメリアム先生に電話して!」彼女は叫んだ。ジョージ・アーバックルは、あわてて食堂からとび出していった。ハッター老夫人の目は、ますますひかりだした。彼女はいささかもためらうことなしに、さらにも一度、応急処置をくりかえした。ジャッキーはまた吐いた。トリヴェット船長をのぞいたほかの連中は、手も足も出ない様子だった。ただ息をのんだまま、老夫人ともがき苦しむジャッキーとを見つめているばかりだった。それにひきかえトリヴェット船長は、老夫人のスパルタ式応急処置に感服したようにうなずくと、食堂をまわって、唖《おし》で聾《つんぼ》で盲目のルイザのそばに行った。彼女は、肉づきのいいやわらかな肩に手をかけられると、すぐ船長と感じとったらしく、自分も手をのばして、彼の手にとりすがった。
しかし、この劇のもっとも意味深い部分は、このとき、だれにも気づかれないうちに演じられていったのだ。耳にぶちのある仔犬《こいぬ》が――これはビリーの愛犬だった――だれも知らない間《ま》に、チョコチョコと食堂に入りこんできたのである。そして、リノリュームの床にこぼれている卵酒を見つけると、うれしそうに吠《ほ》えて、まっしぐらに近より、ちいさな鼻づらをおしつけながら、ぺロぺロとなめだしたのだ、と、突然、女中のヴァージニアがけたたましい金切《かなき》り声をあげた。彼女は仔犬を指さしていた。仔犬は床の上にぐったりと倒れていた。思い出したようにピクピクとからだを痙攣させていたが、やがて四肢《しし》を硬直させ、最後にその腹部を大きく波うたせると、そのまま動かなくなった。もう二度と、その仔犬が卵酒をなめなくなったことだけは、きわめて明白である。
ごく近所に住んでいるメリアム医師は、五分もしないうちにかけつけてきた。呆然《ぼうぜん》自失としているハッター家の連中には、目もくれなかった。あきらかにこの老医師には、きくまでもなく自分の患者が一目でわかったのだ。死んでいる仔犬と、吐きながら身をふるわせている少年、それにかたくふさいだ唇を見るなり、彼は言った、「すぐ二階へ運ばなくちゃならん。コンラッドさん、私に手をかしてください」金髪のコンラッドは、さすがに酔いのさめた目に、おびえた色をうかべていたが、息子を抱きあげると、食堂から運び出した。そのあとから、はやくも診察鞄《しんさつかばん》の口をひらきながら、メリアム医師がつづいた。
バーバラ・ハッターは、ただ機械的に床にひざまずくと、マーサのぐったりした両手を摩擦《まさつ》しはじめた。ハッター老夫人は一言も言わなかった。その顔にきざみつけられた皺《しわ》は、まるで石のようにかたかった。
ねむそうな目つきをしたジル・ハッターが、化粧着《けしょうぎ》をまとって、食堂にいきなり入ってきた、「いったい、なんの騒ぎ?」彼女はあくびをした、「いま、おいぼれ先生が二階にあがっていったじゃないの、コニー(コンラッド)がいたずら小僧をかかえて……」そこまで言いかけて、不意に言葉をのむと、目をみはった、床の上に硬直している仔犬、とびちっている卵酒、それに気絶しているマーサに気がついたのだ。「まあ、どうしたっていうの……?」だれひとり彼女などに目もくれず、答えもしなかった。ジルは椅子《いす》にドサッと腰をおろすと、顔面|蒼白《そうはく》の義姉マーサの顔を見つめた。
ちょうどそのとき、純白の服を着た、背の高い、がっしりした体格の中年女が食堂に入ってきた――ルイザの付添い看護婦のミス・スミスで、あとでサム警部の尋問に答えたところによると、彼女は二階の自分の寝室で読書をしていたそうである。彼女は現場の様子を一目見るなり、たちまち、その正直そうな顔に、恐怖に近い色をサッとうかべた。彼女は、まるで花崗岩《かこうがん》のように立ちはだかっている老夫人から、トリヴェット船長のすぐそばで身をふるわせているルイザに、視線を移した。それから彼女は、ホッとため息をつくと、バーバラをわきにどかせ、床にひざまずいて、いかにも職業的な手さばきで、意識不明のマーサの手当《てあて》をはじめた。
だれひとり、ただの一言もしゃべるものはなかった。と、まるでまったくおなじ衝動にかられたかのように、そこにいる連中は、いっせいに老夫人を不安げに見やった。だが、老夫人の表情から、なにひとつ、読みとることはできなかった。老夫人はルイザの、こきざみにふるえている肩に腕をまわし、マーサを手当するスミス看護婦のてきぱきした動作を、まったくの無表情で見まもっているのだ。まるで百年でもたったかのように、時間のたつのが長く感じられたころ、やっと一同は身動きをした。メリアム医師の、階段をおりてくる重い靴音《くつおと》がしてきた。彼はゆっくりとした足どりで食堂に入ってくると、診察鞄をおき、スミス看護婦の手当で、やっと意識をとりもどしかけたマーサを見てうなずいてから、ハッター老夫人の方に顔をむけた、「ジャッキーは、もうご心配にはおよびませんよ、ハッター夫人」医師はものしずかな口調《くちょう》で言った、「いやまったく、奥さんの沈着な応急手当のおかげです。生命《いのち》にかかわるほど、たくさんは飲んでいませんでしたが、あのとき、すぐ吐かせたので大事にいたりませんでした。もう大丈夫です」
ハッター老夫人はおうようにうなずいてみせた。と、不意に顔をあげると、ひややかな関心を示しながら、老医師の顔を見すえた。医師の語調に、なにかただならぬものを感じとったのだ。だが、メリアム医師は老夫人の方に背をむけて、仔犬の死骸を調べ、それから床にこぼれた液体のにおいをかいでから、最後に診察鞄からとり出したちいさなガラス壜《びん》に、液体をすこしすくい入れ、それに栓をして鞄のなかにしまいこんだ。医師は床から腰をのばすと、スミス看護婦の耳になにかをささやいた。看護婦はうなずくと、食堂から出ていった。一同の耳には、ジャッキーがうなってねている子供|部屋《べや》にむかって、階段をのぼってゆく彼女の足音がきこえた。
やがてメリアム医師は、マーサの上に身をかがめると、彼女を助けおこし、力強い声ではげました――その間というもの、まるで墓場のような沈黙があたりを支配していた――おとなしい小柄のマーサは、いつもの、あのやさしい顔とはまったくちがう不思議な表情をうかべて、食堂からフラフラした足どりで出ると、スミス看護婦のあとを追って、子供部屋へむかって階段をのぼっていった。その階段の途中で、夫のコンラッドとすれちがったが、二人とも口をきかなかった。コンラッドは食堂におもい足どりで入ってくると、腰をおろした。
と、まるでこれを待ちうけていたかのように、あたかもコンラッドが食堂に入ってきたのがひとつの合図でもあるかのように、ハッター老夫人はテーブルをはげしい勢いで、ドンとたたいた。思わずみんないっせいに、ギクッとした。もっともルイザだけは、老夫人の腕ぶところに、いっそう深くとりすがっていたが。
「おきき!」ハッター老夫人が叫んだ、「さ、これで事件の真相がすっかりわかるわけだね!メリアム先生、あのいたずら小僧を、こんな目にあわせた卵酒のなかには、いったい、なにが入っていたんです?」
メリアム医師は、つぶやくように口のなかで答えた、「ストリキニーネです」
「毒薬だったのね? 犬の死にざまを見て、わたしもそう思いましたよ」ハッター老夫人の背が、グッと高くなったような気がした。彼女は家族一同をにらみまわした。「どんなことがあっても、真相をつきとめてやりますからね、ほんとに恩知らずの悪魔め!」
バーバラが、かすかなため息をもらした。彼女はか細いきれいな指を椅子の背にかけると、そこにからだの重みをかけた。老夫人は、心を凍らせるような音声で、にくにくしげにしゃべりつづけた。
「あの卵酒は、ルイザのだ。ルイザは、毎日、おなじ時刻におなじ場所で|あれ《ヽヽ》を飲むことになっている。おまえたちはひとりのこらず、それを知っているのだ。アーバックルが食堂のテーブルにあの卵酒をおいてから、いたずら小僧が入りこんできて、コップに手を出すまでのあいだに、毒をいれたのは、そいつがだれであろうと、その人間は、ルイザが飲むということをちゃんと知っていたのだ!」
「お母《かあ》さん」バーバラがさえぎった、「おねがいだから――」
「お黙り! ジャッキーが喰いしんぼうだったおかげで、ルイザの身代りになったものの、すんでのところでジャッキーも命をおとすところだったんだよ。かわいそうなルイザはおかげで無事だったけれど、だれかがルイザを毒殺しようとした事実は、消そうたって、消えるわけがないんだからね」ハッター老夫人は、聾で唖で盲目の娘を、ひしとわが胸に抱きしめた。ルイザは、かすかに泣きじゃくりながら、言葉にならぬ声をだした。「おお、よしよし」まるでルイザにききわけられるかのように、老夫人はやさしい声でいたわりながら、娘の髪をなでてやった。だが、あらためて老夫人の口からでた声は、一段と、突きさすようにひびきわたった、「|あの卵酒に《ヽヽヽヽヽ》、|いったいだれが毒をいれたんだ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》?」
ジルが鼻でせせら笑った、「そんな、メロドラマじみたことはよしてよ、お母さん」
コンラッドも弱々しい口調でつづけた、「まったくノンセンスもいいとこですよ、お母さん、ぼくたちのなかで、いったい、だれが――」
「だれがだと? おまえたち、みんなのことだよ。おまえたちときたら、ひとりのこらずルイザのことを憎みきってるじゃないか! このかわいそうなわたしのルイザを……」老夫人は両腕で、ルイザをしめつけるばかりに抱きしめた、「さあ!」老いの身を激情にふるわせながら、彼女は叫んだ、「言ったらどうなんだい! だれがやったんだ?」
メリアム医師が口をひらいた、「まあまあ、奥さん」
すると、老夫人の激怒の色は消えうせ、その目に、いぶかしげな光があらわれた、「メリアム先生、あなたの意見がききたいときは、わたしのほうからそう言いますよ、いまは黙っていてください!」
「そういうわけにもまいりますまい」メリアム医師はひややかな口調で言った。
老夫人は目をほそめた、「と、いうと?」
「つまりですな」メリアム医師は答えた、「まずなによりも、私は義務を果たさなければならないのです。これは、れっきとした犯罪事件ですよ、ハッター夫人、私としては、義務に服せざるをえないのです」
医師は、戸棚《とだな》の上に電話器のおいてある食堂のかたすみにむかって、ゆっくりと歩いていった。
老夫人はハッと息をとめた、彼女の顔は、まるで苦悶していたときのジャッキーのように紫色になった。と、いきなりルイザをふりはなすなり、すごい勢いで医師のあとを追った。そして相手の肩をつかむや、はげしくゆすぶりだした、「いけない! やめて!」老夫人は叫んだ、「やめて! やめてください! いらぬおせっかいというものよ! いったい、表沙汰《おもてざた》にするつもりなの? また、噂になるじゃありませんか――さ、電話から手をはなして、メリアム!わたしは――」
逆上した老夫人が腕につかみかかってくるのも、白髪《しらが》の頭のまわりで叫びたてる呪《のろ》いの言葉にも、いっこうとりあわず、メリアム医師はしずかに受話器をとりあげた。そして、警察本部をよび出した。
第一幕
「なぜなら、殺人は舌をもたぬが、いとも不思議な器官でしゃべるからだ」(「ハムレット」第二幕第二場)
第一場 ハムレット荘
――四月十七日(日曜日)午後十二時三十分
サム警部は考えた――神はまずはじめに天と地を創《つく》りたもうたというけれど、それにしてもその神さまがニューヨークから数マイルはなれたウェストチェスター郡のハドスン河《がわ》かいわいにやってきたときには、なんとまた、けたはずれな仕事をやっつけたものだ――
この善良な警部は、そのたくましい双肩《そうけん》に、警察畑の老練者という職務上の重責をになわざるをえなかったものだから、宗教的な雰囲気《ふんいき》や芸術的なムードにひたるような余裕など、めったになかった。だが、その彼でさえ、世俗的な考えごとで心をうばわれながらも、いまだけはあたりの自然の美しさに無関心ではいられなかった。
警部の運転する車はせまい曲りくねった道を、空までのぼりつめるかのように、上へ上へと走っていった。その行く手には青空と白い雲とを背景に、木々の緑にかこまれた城の胸壁や城壁や尖塔《せんとう》が、まるでいりくんだ妖精《ようせい》の国の絵のようにそびえ立っていた。それとはまた対照的に、はるか下の方には、豆粒ほどの白いボートを青い水面にちりばめた、ハドスン河の流れが、あかるい陽《ひ》の光にきらめいていた。警部が胸いっぱいに吸いこむ空気には、木々と松の葉と花と、それにかぐわしい土のかおりとがいりまじっていた。真昼の太陽は強く照りかがやき、かすかに冷気をふくむ四月のそよ風が、警部の灰色の髪をそよがせた。犯罪があろうと、なかろうと、これが生きがいというものだな、警部は、思いがけないカーブにさしかかって、大きくハンドルをきりながら、いささか格言じみた感慨にふけった。もうこれで、ドルリー・レーン氏の不思議な住居「ハムレット荘」を訪《たず》ねるのは六回めになるが、来るたんびにこの奇怪な場所がますます心地《ここち》よいものになるな――と、警部は思った。
ドルリー・レーン氏の所有地の前哨《ぜんしょう》地点である、おなじみの小橋のまえまで来て、警部はエンジンの音たかく車をとめると、橋の番人をしているあから顔の小柄の老人に、子供っぽく手をふってみせた。老人は顔をニコニコさせて、古風な前髪をつかんで挨拶《あいさつ》をした。
「やあ!」とサム警部は声をかけた、「お天気のいい日曜日だが、レーンさんはご在宅かね?」
「ええええ、おいでですとも」と橋番の老人はかん高い声で答えた、「さあさ、どうぞお通りください、警部さんなら、いつでもお通しするようにと、旦那《だんな》さまから言いつかっておりますよ、さ、どうぞ!」老人は橋のところまで走ってゆくと、ギイギイと音高くきしらせながら門をひらいた。警部の車は、その奇妙な形をしたちいさな木造の橋をゴトゴトと渡った。
警部はホッと安堵《あんど》のため息をもらすと、アクセルをふんだ。今日《きょう》はついてるぞ!
ここはもう、すっかりおなじみの場所だった――みごとに敷きつめてある砂利道《じゃりみち》、緑の雑木林、と、突然、まるで夢のようにくりひろげられる城のまえの広場。城は、ハドスン河を数百フィートも眼下に見おろす断崖《だんがい》にそびえているのだが、その城の尖塔はまた、ドルリー・レーン氏の抱負の頂点をも示しているのだ。この建築設計は、新時代の批評家たちから、ごうごうたる非難をあびたものである。マサチューセッツ工科大学を出たての、鋼鉄の高塔と堅牢《けんろう》一点ばりのコンクリート建築の製図板にしかむかったことのない青二才の建築家たちは鼻であざ笑った。おかげで設計者のレーン氏は、「時代おくれ」「アナクロニズム」「気取り屋の唖役者《おしやくしゃ》」などと、さんざんにこきおろされたのである――この三番目の「気取り屋の唖役者」という罵倒《ばとう》は、ユージン・オニール以前の劇作家やレスリー・ハワード以前の俳優を、どれもこれも「ろくでなし」「老朽」「廃物」「まぬけ」とする、ある新進気鋭の前衛的な劇評家がはなったものだ。
だが、それにもかかわらず――このハムレット荘はびくともせずに存在していた。手入れのよくゆきとどいた、ひろびろとした庭園、きっちりと刈りこまれたいちいの木々、破風《はふ》造りのコテイジ、丸石道、小径《こみち》にかこまれたエリザベス朝ふうの村落、さらに濠《ほり》とはね橋、なかんずく城そのものの巨大な石の控え壁がそびえたっているのだ。それはまさしく、豊満なる十六世紀から切りとった一片のあぶら身、古きイギリスの断片であり、なにかシェークスピアを思わせるものがある……これこそ、かがやかしき過去の思い出にひたって、しずかに余生をおくる老紳士にとっては、まさに不可避の環境なのだ。その過去は、いかに彼を酷評する批評家ですら否定するわけにはいかないもので、不朽の名作の保護にあたり、ひたすら演劇のために、その天才的な才能によって貢献《こうけん》してきたのである。またそれによって、巨大な富と絶大な名声と、個人的にははかりしれない幸福とを、彼にもたらしたのだ。
かくして、これが引退した演劇界の大御所《おおごしょ》、ドルリー・レーン氏の住居なのだ。橋番とはべつの老人が出てきて、この山荘をかこむ高い石垣《いしがき》についている大きな鉄の扉をひらくあいだ、サム警部は胸のなかでつぶやいたものだ――ニューヨークあたりをかけずりまわっている馬鹿者どもが、たとえここをなんと考えようと、この山荘は平和そのものであり、美しいし、それにあの、ニューヨークの喧噪《けんそう》をきわめた雰囲気からの、絶好の隠れ家《が》じゃないか。
と、警部はあわててブレーキを踏んだ。車をきしませて、急停車した。左手前方二〇フィートのところに、妖怪変化《ようかいへんげ》のごときものが出現したのだ。チューリップの花壇の中央で、歯をむき出して水を噴いている|空気の精《エーリエル》(シェークスピアの「テンペスト」に出てくる)の石像……だが、そんなものにびっくりしたのではない、警部の目をうばったものは、節くれだった褐色《かっしょく》の手で、水盤の水をさかんにパチャパチャとはねかしている人物だった。警部は、ドルリー・レーン氏とこの山荘になじんでから、かなりひさしくなるのだが、どういうものか、この小人《こびと》のような老人を見るたびに、いつも奇妙な非現実感におそわれるのだ。その男は、ちびで、褐色の膚《はだ》、皺《しわ》だらけで、禿頭《はげあたま》、頬《ほお》ひげをのばし、その小人のような背中には大きなこぶが隆起していた――そいつが皮のエプロンをしているところは、まるで鍛冶屋《かじや》を戯画化したみたいで、どうにも形容のつかない姿だった。
せむしのじいさんは顔をあげると、ちいさな目をキラリとひからせた。
「やあ、クェイシー!」警部が声をかけた、「いったい、なにをしてるんだね?」
このクェイシーは、ドルリー・レーン氏のかがやかしき過去を回想するのには、なくてはならぬ人物――過去四十年というもの、レーン氏のかつら作りとメーキャップ係をつとめてきたのだ――彼はちいさな手を、曲ったちっぽけな腰にあてがった。
「なにね、金魚を見ているところでさあ」いかにも年よりくさい語尾のにごった口調《くちょう》で、おもおもしく言った、「おめずらしいじゃありませんか、警部さん」
サム警部は車からおりると、両腕をのばして、大きくのびをした。「ほんとにそうだね、ところでご老体のご様子は?」
クェイシーの手が、まるで蛇《へび》みたいにサッと水中をくぐったかと思うと、ピチピチとはねまわるちいさな金魚をつかみあげた。「まったく美しい色だ」硬い唇《くちびる》をピシャッとならしながら、じいさんは言った、「ご老体というのは旦那さまのことですかい? そりゃもう、たいへんお元気でさあ」ぶっきらぼうにそう言っておいて、いかにも不満そうな顔をした、「ご老体ですと? 旦那さまは、警部さんよりお若いくらいですぜ。あなただって、せんこくご承知のはずだ。なるほど、年はもう六十歳、ところが走らせてごらんなさいな、警部さんなんか、たちまち追いぬかれてしまう、まるで、あれだ……うさぎみたいなもんだ。今朝《けさ》なんざ、氷みたいにつめたい湖で――おお、寒い、ブルル――かけ値のねえところ、四マイルも泳がれたんでさあ。あなたに、そんな真似《まね》ができますかい?」
「そいつはちょっと無理だろうな」警部は、足もとのチューリップを踏まないように気をくばりながら、苦笑して言った。「どこにおられるね?」
金魚はグッタリして、はねかえる力もなくなってしまった。せむしはしまったといった表情で、あわててその金魚を泉水になげこんだ。「あのいぼたの木のかげでさあ。庭師たちが、刈りこみの最中でしてね、なにせ、うちの旦那さまときたら、大のきれい好きだ、庭師たちときたら――」
だが、おしまいまできかずに警部は、クスクス笑いながら、老人のわきを大股《おおまた》に通りすぎた――もっとも、サム警部は、人情の機微にかけてもなかなかの老練家だったので、通りすがりに、そのグロテスクなこぶをそっと手でなでてやるのを忘れなかった。するとクェイシーは声をあげてゲラゲラ笑うと、水中に、両手をつっこんだ。
警部は、きちんと刈りこまれたいぼたの木をかきわけた。そのかげから、いそがしげに刈りこむ鋏《はさみ》の音と、レーン特有の、太くてよくとおる、あの快活な声がきこえてきた。警部は木《こ》かげからぬって出ると、庭師のむれにかこまれた、コールテン服の背の高い人物に笑いかけた。「ドルリー・レーン氏おんみずからというわけですな」警部は大きな手をさし出しながら言った、「いや、けっこうですよ、いつもお若くて」
「これは、警部さん!」レーンはさもうれしそうに声をはずませた、「まったく意外というものだ、よくおいでになってくださった!」彼は大|鋏《ばさみ》を投げすてると、警部の手をにぎりしめた。「だが、私のいるところがよくわかりましたな、たいがいの人は、私を探し出すのに、ハムレット荘を何時間もさ迷いあるくところなのですがね」
「クェイシーですよ」警部は、美しい緑の芝生《しばふ》の上に、さもくたびれたといわんばかりに腰をおろした。「ああ、気持ちがいい! あの男が、ちょうどその泉水のところにいたものですからね」
「きっとまた、金魚をいじめていたのだ」レーンはクスクス笑った。それからまるでスプリングのようなかるい身のこなしで、警部のわきに腰をサッとおろした、「警部さん、また肥《ふと》ったようですね」サムの巨体を見ながら、おしはかるように言った、「もっと運動をしなければいけませんよ。このまえ会ったときより、一〇ポンドはふえていますね」
「どうもこれは、まさに図星《ずぼし》ですな」とサム警部はこぼすように言った、「おたがいさまと、あなたに言ってあげられないのが残念です、見るからに、あなたはお達者ですね」
警部は愛情といっていいくらいの感情をまなざしにこめて、老俳優を見つめた。レーンは背が高く、肉がしまっていて、見るからにピリッとした感じをあたえる。頸《くび》のあたりまで垂れている雪のような白髪さえなかったら、六十歳はおろか、四十歳といったほうがいいくらいだ。そのきびしいくらいの端正な顔には、一本の皺もなく、若さにみちあふれている。ひとを射るような、深みをたたえた灰緑色の目からは、老齢の片鱗《へんりん》だにうかがわれない。純白のシャツの襟《えり》の折返しからのぞいている|のど《ヽヽ》も、肉がよくしまっていて、褐色に日焼けしている。あくまでもおだやかな、おちつきを示していて、しかもなお、とっさに表情を変えることのできるその顔は、まさに壮者をしのぐものがある。さなきだに彼のよくとおる声は力にみち、必要とあれば軽妙自在のするどさにきらめく――その声は、無数の観客の耳を官能的に魅力しさったものだった――これもまた、彼の年齢をいつわらせる。つまり、ドルリー・レーンは、驚嘆すべき要素のアンサンブルなのだ。
「なにかありましたね」レーンは目をキラリとひからせながら言った、「まさか世間なみの挨拶のために、ニューヨークからわざわざおいでになることはありますまい、警部さん、まる一冬――そうですよ、ロングストリート事件(「Xの悲劇」におけるハーリー・ロングストリート殺人事件をさす)が解決してからというもの、すっかりお見かぎりだったのだから、察しがつくのはあたりまえです。いったい、どんな難問題が起こったというんですね?」レーンの射るような目が、警部の唇をじっと見まもった。この老俳優は、晩年、耳が遠くなったために舞台を余儀なく引退するはめになったのだが、いまでは完全に聴力を失っていた。しかし、思いがけない不具という境遇にも、たちどころに順応する神秘的な能力によって、またたくまに彼は読唇術《どくしんじゅつ》をマスターしてしまった。そして、彼と近づきになる十人のうち、九人までが、聾《つんぼ》とは気づかないくらいに、熟達したのである。
サム警部は、すっかり赤面してしまった、「いや、難問題というほどのことでもないんですがね、レーンさん……ただ、ニューヨークでちょっとしたことが起こって、そいつに手こずらされていることは事実なんです。ま、たぶん、あなただったら、興味をおもちになるかと思いましてね」
「犯罪事件ですな」と老俳優は思案ぶかげに言った、「あのハッター家の事件ではないのですか?」
警部はパッと顔をかがやかせた、「それではもう、新聞でごぞんじなんですね! そうなんですよ、その気ちがいハッター家の一件なんです。老夫人の最初の結婚のときに生れた娘、ルイザ・キャンピオンがすんでのところで毒殺されそうになったやつです」
「たしか、その婦人というのは、唖《おし》で聾でおまけにめくらでしたな」レーンはおもおもしい表情をうかべた、「とりわけ、あの婦人には、私は深い関心をもっているのですよ、警部さん、人間が、どのくらいまで肉体的なハンディキャップをのりこえられるか、注目すべき実例としてね。……おまけに、その事件が、警察の力で、まだ解決されていないのだから」
「そうなんです」警部は芝生の草を、手でなぶりながら、顔をしかめて言った。あたりの美しい風光も、突如として彼には色あせたものになったようだった。「完全にお手あげなんです、糸口がまるで見つからないんですからな」
レーンは、警部の顔をするどく見つめた、「新聞の記事は、ひとつのこらず目を通しましたよ、もっとも細部には誤報もあるでしょうし、事件の経過がなにからなにまで報道されるというわけにもいきませんからな。ま、それにしても、あの一家のことや毒入りの卵酒の件、それに、意地きたなさからそれを飲んだ子供があぶなく命をとられそうになったことなど、どれもこれも表面的な事実ばかりですが、概略のところはわかりますよ」レーンはサッと腰をあげた、「昼食はもうおすみですか、警部さん」
サム警部は、剃《そ》りあとの青々とした顎《あご》をなでた、「なに……それほど腹もへっておりませんから……」
「なにを言ってるんです!」レーンは、警部の肉づきのいい腕をつかむと、グイとひっぱった。と、芝生から自分の重いからだが、なかば浮かびあがったので、警部はその力の強さにおどろいた。
「さ、ばかなことを言わないで、こっちへいらっしゃい、とにかく、なにか喰べて、つめたいビールでも飲みながら、その問題を話しあおうじゃありませんか。むろん、ビールなら、お好きでしょうな?」
サム警部は、その巨体をやっとのことであげると、のどの奥がいまにもグイグイなりそうな表情だった、「べつに好きだというわけでもありませんが、かといって嫌いだというわけでも……」
「いや、そうでしょうとも、警察の連中は、みんなこうだ、好きなくせに、口にはだせない、それではひとつ、執事のフォルスタッフでもくどいて、いっぱい、さしあげましょうかな、スリー・スター・マーテルを」
「それは困ります!」と警部は熱くなって言った、「もっとも、いま、あなたがおっしゃったばかりですがね、レーンさん」
ドルリー・レーンは、両側に球根《きゅうこん》の植えつけてある小径《こみち》をぶらぶらと歩きながら、警部の目がキラキラとかがやきだしたのを見て、内心でほくそえんだ。二人は、木々のあいだをぬけて、城をとりまいている封建時代さながらの部落に近づいた。低い赤い屋根、丸石をきれいに敷きつめた道、細い小径、尖塔、破風、いずれを見てもひどく魅力的だった。警部はただ呆然《ぼうぜん》として、目をパチパチさせるばかりだった。だが、やっと現代の服装をした数人の男女を見たおかげで、彼ははじめて安心した。彼はこのハムレット荘をもうなんども訪ねてきたというのに、この村へ入りこんだのは、こんどがはじめてだった。二人は、低い褐色の建物のまえで立ちどまった。縦仕切《たてじきり》のある窓、それにユラユラとゆれている看板。
「マーメイド酒場というのを、きいたことがおありですかな、昔、シェークスピアやベン・ジョンスン、ローリーやフランシス・ボーモンなどという連中がよく集まった料理屋です」
「そういえば、きいたような気がしますけど」と警部はいぶかしそうな顔つきで答えた、「ロンドンにあって、その連中がよく泊ったり、会をやったりしたところじゃありませんか」
「そのとおりです、チープサイドのブレッド街にありますね――フライデイ街の近所ですよ。それにここは、本でおなじみの、有名な人物ばかり集まるような古風で趣きのある店なのですよ、この建物は」ドルリー・レーンは、ていねいに頭をさげるとつづけた、「由緒《ゆいしょ》ある不朽の酒場を、そっくりそのまま模してつくったものなのです、さ、なかに入りましょう、警部さん」
サム警部はにっこり笑った。天井《てんじょう》に梁《はり》をめぐらした、その酒場のなかは、タバコの煙と、話し声のざわめきと強いエイル(イギリスのビール)のにおいにみちていた。彼は満足気にうなずいた。「三、四百年まえの常連のたまりが、こういう酒場なら、私だって仲間入りさせてもらいたいものですよ、まったく!」
ひどい赤ら顔の、でっぷりと肥った小男が、しみひとつない純白のエプロンを、そのたいこ腹にたかだかとかけて、二lを迎えに、いそいそと出てきた。
「フォルスタッフをおぼえておいでかな、わがならぶべきものなきフォルスタッフを?」
その小男の禿頭をなでながら、レーンがたずねた。
「なんで忘れるものですか!」
まさにシェークスピアの芝居に出てくるフォルスタッフだ! そのフォルスタッフが会釈《えしゃく》してニッコリと笑った、「大ジョッキになさいますか、旦那さま」
「そうだ、こちらのサム警部にも一杯、それからブランディを一本たのむよ。それになにか喰べるものをね。さ、どうぞこちらへ、警部さん」
老俳優は、混みあっている酒場のなかを、ご機嫌の客たちに会釈したり、ほほえみかけたりしながら、先にたって通りぬけていった。二人は、あいているコーナーを見つけると、まるで教会堂の椅子《いす》のような、長いベンチに腰をおろした。フォルスタッフは、いよいよ宿屋の亭主になりきって料理場でうまい昼食をつくらせると、自分で運んできた。警部は大きく息をはくと、泡のもりあがっているジョッキのなかに、つぶれた鼻をおしこんだ。
サム警部が料理をたいらげ、ブランディにすっかり堪能《たんのう》したとみてとると、老俳優は口をひらいた、
「ところで警部さん、こんどの事件について、うけたまわろうじゃありませんか」
「どうも、じつに厄介でしてね」と警部は、さも弱りぬいたといった口調で言った、「あらたまってお話するようなことも、べつにないんですよ。新聞をお読みだったら、私の知っていることと、さしてかわりはないんです。老夫人の夫が、二か月まえに自殺したということも、新聞でお読みになりましたね?」
「ええ、読みましたとも。なにせ、あのころの新聞は、ヨーク・ハッターの一件でもちきりでしたからね。では、あなたがハッター家の現場に行かれたときの状況をきかせてください」
「そうですね」警部は、ベンチの、くるみ材の高い背にもたれかかりながら言った、「まず第一に、ストリキニーネが卵酒にいれられた正確な時刻を、私は割り出しにかかったのです。料理人兼家政婦のアーバックル夫人が、食堂のテーブルに、卵酒のコップをおいたのが、ほぼ二時二十五分、そのあと、五分から十分のあいだに、ま、その前後だと私はにらんでいるのですが、ハッター老夫人が、聾で唖でめくらの娘をつれて食堂にあらわれ、いたずら小僧のジャッキーが、例のコップに手をつけているところを見つけたのです。そのくらいの間隔しかないと思うんですが、どうでしょうかな?」
「そんなところでしょうね、新聞で読んだかぎり――ま、いずれあなたが新聞記者に、発表されたんだと思うが――ああいった状況なら、卵酒に毒をいれる機会のあったものは、だれにでもあったはずです。ジャッキーという子供が、食堂に入った時刻を、その子にきいてみましたか?」
「むろんききましたとも。しかし、なにぶん子供のことですからね、はっきりしたことはわかるはずがありません。ま、その子の言うのには、食堂に入ったらすぐおばあちゃんとルイザ伯母《おば》さんに見つかっちゃった、と、こうなのです。そうなると、その子よりまえに、だれが食堂に入ったかそれをつきとめるわけにはいかなくなるのです」
「いかにも、で、その子供はすっかり回復したのですか?」
サム警部は鼻をならした、「いやもう、それどころのさわぎじゃありませんよ! 一口ぐらいの毒を飲んだって、くたばるような小僧じゃないんです、ほんとにおどろいた小僧だ! しめ殺してやりたいくらい、こにくらしい小僧です。はじめっから、卵酒をよこどりする気じゃなかったんですよ、なぜ、飲んだのか、自分でもさっぱりわからないんです。ただ、『おばあちゃんが、こわい顔してにらんだから、飲んでやったんだ』と、こうなんですからねえ、いや、あの小僧にもっと飲ましてやりたいくらいですよ」
「しかしあなただって、子供のときは、まさか小公子みたいじゃなかったと思いますがね」とレーンはおかしそうに、のどの奥でクックッと笑った、「卵酒に毒がいれられたと推定される時刻に、ほかのひとたちは、どこでなにをしていたのです? 新聞の記事では、さっぱり要領をえないのですが」
「それなんですよ、どうもはっきりしないので困っているんです。トリヴェット船長は、食堂のとなりの図書室で、新聞を読んでいたけど、物音ひとつきかなかった、と言うのです。それからジル・ハッターですが――二階の自分の寝室で、うつらうつらしていたと言うんですが、それがどうです、午後の二時半とはねえ!」
「そのお嬢さんは、たぶんまえの晩外出してたのでしょうな」とレーンは、ごくさりげない口調で言った、「ま、ばか騒ぎをして、飲みあかしたんでしょう、なにぶん、不信者という話だから。で、ほかのひとたちは?」
サム警部は、両手であたためているブランディ・グラスに、力のない視線をおとした。「それから、問題のルイザ――世にも不思議な存在の女性ですが、彼女は昼食のあとで、午睡《ひるね》をするのが習慣になっていたのです。彼女と老夫人は、二階のおなじ寝室をつかっています。ところで、老夫人は、庭園にいて、手入れがどうのこうのというような小言を、奉公人にさんざ言ってから、二階にあがり、ルイザを起こして、ちょうど卵酒の時間になったので、きっかり二時三十分に二人は食堂におりてきたというのです。道楽者のコンラッド――いたずら小僧の父親ですが、彼はタバコをふかしながら、屋敷の東側の路地をぶらぶらしていたそうです。なんでもひどい頭痛がして――なに、二日酔《ふつかよい》にきまっていますよ――新鮮な空気が吸いたかったと言うんですがね。詩を書いてるという女、バーバラ・ハッター――なんでも有名な詩人だそうですが、あの一家では、まともな人間といったら、この女性だけですよ、レーンさん、頭のいい、ちゃんとした婦人で――彼女は二階の書斎で、書きものをしていたと言うんです。ルイザの看護婦のスミスという女は――この女の寝室は、ルイザの部屋のとなりにあって、東側の路地を見おろせるのですが、その部屋で、新聞の日曜版をずっと読んでいたそうで」
「それから、ほかには?」
「あとは|こもの《ヽヽヽ》ばかりです。家政婦のアーバックル夫人ですが、彼女は女中のヴァージニアと、裏の料理室で、昼食のあとかたづけをしていました。家政婦の亭主のジョージ・アーバックルは、裏のガレージで、車の掃除《そうじ》をしていました。これで全部です。これじゃ、手も足も出ないじゃありませんか、いかがです?」
レーンはうなずいた。彼の視線は、警部の唇にピタッとすえつけられたままだった。「その、片足のトリヴェット船長というのは、かなり興味のある人物ですな。いったい彼は、このパズルのなかで、どこにピタリとあてはまりますかね、警部さん? よりによって日曜日の午後二時半に、彼は、この家のなかでなにをしていたのです?」
「ああ、あの男のことですか」と警部は鼻であしらうように言った、「もと、船長をしていましてね、長年、ハッター家のとなりに住んでいるんですよ――退職したときに、その家を買ったというわけで。この男のことは、すっかりあらいましたから、問題はありません。金はしこたま持っていますし――なにしろ、三十年間も、自分の持ち船の貨物船で海を渡りあるいていたんですからな。南大西洋で、ひどい嵐《あらし》にあって、隠退するはめになったんですよ、大波に足をさらわれ、片足を二か所もやられてしまったんです。一等運転士が手当《てあて》をしましたが、そいつが不完全でしてね、入港したとき、切断しなければならなかったんです。どうして、なかなかの老人ですよ」
「それでは、私の質問の答えにはなりませんよ、警部さん」とレーンがしずかに言った、「その日、なんだって、その男が、ハッター家にいたのです?」
「これはどうも、ついうっかりしていました、あんまり、いい気持ちになってしまったものですから、あなたに言われるまで気がつきませんで……トリヴェットは、ふだんからハッター家によく出入りしていたんです。なんでも、自殺したヨーク・ハッターのたったひとりの親友だったそうで――ま、孤独な二老人が、おたがいの淋《さび》しさをなぐさめあうために親しくなったんでしょうな。ヨーク・ハッターの失踪《しっそう》と、それにつづく自殺は、トリヴェットにとってたいへんな打撃だったそうですよ。しかし、そのあとも彼は、ハッター家にあそびに行くのはやめませんでした。こんどは、あのルイザ・キャンピオンをなぐさめに行ったわけで――たぶん、普通の人間にはたえられないような不具の身でありながら、黙々とたえているかれんな女の姿と、自分も片足しかない不具者だという気持ちとが、そうさせたんでしょうな」
「いかにも、そうでしょうね。肉体的な欠陥というものは、ひとを結びつけるものですからね。すると、その善良な船長は、ただ、ルイザ・キャンピオンをなぐさめるために、図書室で待っていたというわけですか?」
「まさにそのとおりですよ、一日もかかさず、ルイザに会いに来るんですからね。二人はとても仲がいいんです、さすがに、あの鬼婆だって、文句のつけようがない――あわれな不具の娘をなぐさめてくれるような人間がいれば、それこそ願ってもないことですからね、なにせ、ほかの連中は、鼻もひっかけないのだから、無理はありません。で、その日、船長は二時をまわったころ、やって来ました。そこでアーバックル夫人が、ルイザは二階で午睡《ごすい》中だと言いますと、彼は図書室に入って、そこで待っていたというわけなんです」
「だけど、その二人は、どうやって、おたがいの意志を通じあうのです、警部さん? その婦人は、聞くことも見ることも、おまけに話すこともできないじゃありませんか」
「それが、なんとかなるんですよ」と警部はうなるように言った、「なにせ、十八歳までは、耳だけはまだきこえたんですからね、そのあいだに、家族のものがいろんなことを教えこんだのですよ。もっともトリヴェット船長は、たいてい腰をおろして、彼女の手をにぎっていただけだという話ですがね。ルイザのほうでも、船長をとても慕っているそうですが」
「なんともいたましい話ですな! ところで警部さん、問題は毒薬です、ストリキニーネの出所をつきとめてみましたか?」
サム警部は苦笑した、「いや、だめでした。むろん、捜査にあたって、いの一番に、そいつに目をつけたんですがね。しかし、あきらめずに、ねばってみますよ、とにかく、あのヨーク・ハッターというのは、化学への情熱が捨てきれなかった男でしょう――なんでも若いころは、その道にかけてなかなかの傑物だったそうですな。彼は、自分の寝室の一隅《いちぐう》に、実験室をつくって、一日じゅう、そこにとじこもっていたのです」
「つまり、気まずい家庭の空気から、逃げ出したというわけですね、よくわかりますよ。で、問題のストリキニーネは、その実験室のものだったのですか?」
サム警部は肩をすくめた、「まず、そうだろうと思うんですがね、ところが、こいつがまた、とても厄介だったんです。ヨーク・ハッターが行方《ゆくえ》不明になってからというもの、老夫人は、その実験室に錠《じょう》をおろしてしまい、入室を禁ず、という厳重なおふれを出したんです。いわば、夫の思い出のための記念といったようなものでしょう、とにかく老夫人は、夫が家出した当時のままに、保存しておきたかったのです――とりわけ、二か月まえ、つまり死体が発見され、夫の死が確認されてからというものは、それがいっそうひどくなったんですよ。いいですか、鍵《かぎ》は一つしかなく、おまけにその鍵を老夫人がしじゅう持ってあるいているのです。実験室の出入口は、ほかになく――窓には鉄格子《てつごうし》がはまっているのです。ええ、むろん、実験室のことを耳にしたとたんに、私は調べにとんで行ったんですが――」
「ハッター老夫人から、その鍵をもらってですね?」
「そうです」
「夫人は、その鍵をしじゅう持ってあるいていたというのは、たしかですね?」
「夫人が、そう公言しているのです。で、実験室のなかにふみこんでみると、ヨーク・ハッターが自分でとりつけた棚《たな》の上に、ストリキニーネの錠剤が入っている壜《びん》を見つけました。そこで、例の毒物の出所は、この壜だと、われわれはにらんだのです、粉末や液状のものを持ちあるくよりも、錠剤をそのまま、卵酒におとしたほうがずっと簡単ですからな。それにしても、いったい犯人は、どうやってその実験室に入りこめたんでしょう?」
レーンは、すぐには答えなかった。長くて白い、みるからにたくましい指をまげて、フォルスタッフに合図した、「大ジョッキを……。あなたの質問は、文法でいう修辞疑問というやつですよ、警部さん、窓には鉄格子がはまっている――ヨーク・ハッターは、自分の隠れ家を、異常なくらい防備したのにちがいない――ドアには錠がおりている、おまけにたった一つの鍵は、ハッター老夫人がはだ身はなさず持っている。ふむ……だが、なにも奇想天外な考え方をするにはおよばないな。たとえば、蝋《ろう》で、鍵の型をとるという|て《ヽ》もある」
「なるほど」サム警部がうなった、「そいつには気がつきませんでしたな。すると、私流に解釈すれば、三つの可能性があるわけですよ、レーンさん。まず第一は、ヨーク・ハッターの失踪以前、つまり、だれでも自由に出入りできたときに犯人が実験室からストリキニーネを盗み出しておいて、それを問題の日曜日までとっておく……」
「それはうまい」と老俳優は言った、「さ、つづけてください警部さん」
「第二は、あなたのお説のとおり、犯人が錠の蝋型をとって、その合鍵をつくり、それでまんまと実験室にしのびこみ、犯行の直前に毒薬を盗む」
「それは犯行のかなりまえでもいいわけですね、警部さん」
「第三は、毒薬の入手先が、まったく外部の場合」警部はフォルスタッフの手から、あふれるばかりに泡立つジョッキを受けとると、一息に飲みほした、「うまい!」のどを鳴らしながら言った、「いや、これはビールのことですがね。で、われわれも、できるかぎりのことはしたわけですよ。合鍵説も、錠前屋と金物屋をしらみつぶしに洗ってみたのですが……いまのところ、手がかりがないのです。毒薬の外部入手説、こいつも目下洗っているところなんですが、まだ、目星がつかないといったありさまです。ま、今日までのところ、こういったしだいなんですが」
レーンは、じっと考えこみながら、テーブルを指でコツコツとたたいていた。いつのまにか、酒場には人影もまばらになり、客は、老俳優と警部の二人だけといってもいいくらいだった。「それから、こういうことも考えてみましたかね」レーンは、沈黙をやぶると、こう言った、「アーバックル夫人が卵酒を食堂に運んでくるまえに、すでに毒が入っていたのではないか?」
「そうばかにしないでくださいよ、レーンさん」と警部はいかにも不服そうに言った、「これでも警察のめしを喰っているんですからね。むろん、考えてみましたとも、さっそく、料理室を調べてみました、しかし、ストリキニーネの痕跡も、犯人の入りこんだ証拠も、ぜんぜん発見できなかったんです。もっとも、二分ばかり、料理室のテーブルに、その卵酒をおいたまま、食器室へ用たしに行ったことは事実です。女中のヴァージニアは、そのちょっとまえに、客間の掃除に行ってしまったのです。とすると、アーバックル夫人が見ていないすきに、犯人が料理室にしのびこみ、毒薬をいれたのかもしれませんね」
「なるほど、あなたが当惑するのも無理はないと思いますよ」とレーンは悲しげな微笑をうかべて言った、「この私にしても、そのとおりです、警部さん、その日曜日の午後、ハッター家にいたひとは、ほかにないのですね?」
「私が調べたかぎりでは、だれもいなかったのです。もっとも玄関のドアには、鍵がかかっていませんでしたから、だれかがしのびこみ、また、そっと出ていったということも考えられます。毎日二時半に、卵酒が食堂のテーブルにおいてあるということは、ハッター家と親しいものなら、だれだって知っていますしね」
「なんでも、事件の起こった時刻に、ハッター家の人間で、外出していたひとがいましたね――そう、コンラッド・ハッターの男の子たちの家庭教師をしているエドガー・ペリーですよ。で、その男を洗ってみましたか?」
「いうまでもないことです。ペリーは、日曜日が休みということになっていましてね、事件のあった日曜日は、朝のうちからセントラル・パークをぬけて、散歩に出かけ、まる一日、ひとりだけですごしたと言うのです。夜になってから、彼は帰ってきましてね、私があの家で捜査にあたっているときです」
「事件を知ったときの様子は、どんなものでしたか?」
「ひどくびっくりしたようでした、それに、私の目には、話をきいて、とても心配そうにしていましたよ。これといって、手がかりになるようなことは、一言もしゃべってくれませんでしたがね」
「どうやらこれは」ドルリー・レーンは、そのほりの深い顔から微笑を消し、眉《まゆ》をひそめた、「五里霧中といったところですね。それにしても動機は? ひょっとすると、謎《なぞ》をとく鍵は、ここにあるのかもしれない」
サム警部は、ちょうどたくましい大男が、自分の強い力をもてあましかねているような、臆面《おくめん》のないうめき声をあげた、「動機なら、あの連中はひとりのこらずもっていると言ってもいいくらいですよ、ハッター家の連中ときたら、それこそ気ちがいばかりですからね。狂人の寄合い世帯《じょたい》のようなもんです。ま、女流詩人のバーバラだけはべつかもしれないが、あの女にしろ、変人のたぐいですからな、ただ、そいつが詩にはけ口を見つけたというだけの話でしてね。なにせ、ハッター老夫人というのは、聾で唖でめくらの娘に、一から十までかかりきりでしょう、まるで母親の虎《とら》みたいなかばい方です。おなじ部屋に寝て、喰べさせてやったり、着かえさせてやったり――できるだけルイザをらくにしてやろうと、それこそあの婆《ばあ》さんは自分のことなど、そっちのけといった熱のいれ方ですからね。ま、これが、あの鬼婆の唯一の人間味というところですな」
「そうなると、ほかの子供たちは嫉妬《しっと》するということになる」レーンは、目をキラリとひからせて、口のなかでつぶやいた、「いや、よくありがちのことだ。激しやすく、わがままで、道徳的な思慮に欠けた狂暴な連中のことだ……なるほど、みんな、やりかねないということが、私にはのみこめてきましたよ」
「私は一週間というもの、あの連中をこの目で見てきたんですがね」と警部ははき出すような口調で言った、「あの婆さんがあんまりルイザのことを猫《ねこ》かわいがりにかわいがるものだから、ほかの子供たちはすごく腹を立ててねたんでいるのです。うわべだけは、いかにもやさしげに、『うちのお母さま』なんて甘えていますけどね、なあに、まったくの裏腹《うらはら》ですよ」警部はいかにも意地の悪そうな笑いをうかべた、「親身《しんみ》の愛情かどうか、ほんとに眉つばものです、なあに自尊心と、片意地みたいなものですよ。それにルイザという女は、ほかの子供たちの実の姉ではなく、父親ちがいの、いわば義姉みたいなものですからな、レーンさん」
「それはやっぱり、ちがいが出てきますね」
「ちがいどころのさわぎではありませんよ。たとえば、末娘のジルなんか、ルイザにははなもひっかけませんし、あんなかたわがいるから、家のなかが陰気になる、あたしの友だちだって気味悪がって、だれひとり、よりつきゃしないと、不平をならすくらいです。あんなかたわなどと、ひどいことを言うが、なにもルイザに罪があるわけじゃありません、ところが、ジルときたら、まったく思いやりというものがないのです。私の娘であってみろ、ただではおくものですか」警部は、ピシャッと自分のももをたたいた、「コンラッドにしろ、その同類です。ルイザを、なにか施設みたいなところにいれてしまえと言って、母親と、たえずいがみあっているんですからね。あんなかたわがいるから、家のものが人間らしい生活をおくれない、と言うんです。よくもぬけぬけと、人間らしい生活などと言えたものだ!」警部は鼻で笑った、「テーブルの下に密造酒の箱をかくし、ひざの上に、踊子《おどりこ》をのっけるというのが、やつの言う人間らしい生活なんですよ」
「バーバラ・ハッターのほうは?」
「これはちょっと、ほかの兄妹たちとちがっています」サム警部は、あきらかにその女流詩人に情熱めいた感情をもやしているらしく、ビールをグッと飲み、さかなをつまむと、レーンのもの問いたげな視線にこたえて、しごくおだやかな口調で言った、「つまりですね――なかなかりっぱな女性なんですよ、レーンさん。分別のあるね、といって、なにもこの女が、あわれなルイザを愛しているとは言いませんけれど、私がほかの連中からきき出したところによると、バーバラはルイザのことをあわれんで、人生になにかの生きがいをあたえてやろうと、ほねをおっているという話なんです――ま、あたたかい血のかよっている女性なら、こうするのがあたりまえですよ」
「バーバラは、すっかり点をかせいでしまいましたね」レーンは椅子《いす》から腰をあげながら言った、「さ、警部さん、外の空気を吸おうじゃありませんか」
サム警部はヨロヨロと立ちあがると、ズボンのバンドをゆるめ、老俳優の先に立って、古風なせまい通りへ出ていった。二人はまた、もとの庭園にひきかえした。レーンは、その目ににぶい光をたたえ、口をかたくむすんだまま、ひとり、考えにふけっていた。警部も気むずかしい表情をうかべて、重い足どりで歩いていった。
「たしか、コンラッドと細君《さいくん》のあいだは、あまりうまくいってないようですね」丸木造りのベンチに腰をおろすと、レーンはようやく口をひらいた、「かけませんか、警部さん」
警部は、考えるのに倦《う》みつかれたといった様子で、元気なく、レーンのすすめにしたがった。
「そのとおりですよ、まるで猿犬《えんけん》の仲といったあんばいです。細君が私に言うには、『一刻も早く、このおそろしい家から、二人の子供をつれて逃げ出したいくらいです』と、こうなんですよ、いや、ものすごい興奮の仕方でしたがね。そういえば、ルイザ付の看護婦のスミスから、この細君について、ちょっとおもしろいことをきき出しましたよ。いまから二週間ばかりまえに、細君のマーサと老夫人とが、つかみあいの喧嘩《けんか》をしたというんです。それというのも、ハッター老夫人が、マーサの子供たちに平手打ちをくわせたので、マーサがカッとなってくってかかり、自分の義母をつかまえて、鬼婆だの、出しゃばりのおいぼれだのとののしり、あげくのはては、婆はさっさとくたばるがいいなどと言ったそうですよ――ほんとに女というやつは、逆上すると、なにを言いだすかわかりませんからな。ま、それから、髪の毛をつかみあわんばかりの大喧嘩になり、スミス看護婦もあわてて子供たちを外へつれ出したそうですよ――その子供たちは、すっかり怯《おび》えきって、ちぢこまっていたという話で……もともとマーサは、小羊《こひつじ》のように、ごくおとなしい女でしょう、それがおこりだしたら、手もつけられないようで。いや、私は、彼女に同情しますね、ちょうど気ちがい病院のなかでくらしているようなものですからな。うちの子供だけは、あんなひどい環境で育てたくないものですよ、ほんとに」
「それに、ハッター老夫人は資産家だから」まるで警部の話など耳に入らなかったみたいに、老俳優はつぶやいた、「この裏には、金銭上の動機があるかもしれない……」レーンの表情は、みるみるうちに暗くなっていった。
二人は、ただおし黙って、すわっていた。庭園はすずしかった。ちいさな部落の方から、笑い声がきこえてきた。警部は、両腕をくんだまま、レーンの顔を見つめた。だが、老俳優の表情は、警部にとって意にみたぬものだった。彼はうめくように言った、「レーンさん、あなたのご意見はどうなんです? なにか、解決の|めど《ヽヽ》があるでしょうか?」
ドルリー・レーンは、ほっとため息をつくと、かすかに微笑をうかべて、頭を横にふった。
「あいにくと、私はスーパーマンではないですからねえ、警部さん」
「とおっしゃると――?」
「つまり、なんともお答えのしようがないのです。だれが卵酒に毒薬をいれたか? 推理のくだしようもありません。なによりも、仮説の前提となるべき事実が不十分なのですよ」
サム警部はがっかりしたような顔をした。内心、きっとこんなことになるのではないかと、彼は心配し、おそれてもいたのだ。「それでは、なにか、ご忠告でも?」
レーンは肩をすくめた、「一つだけ、注意しておくことがあります。一度、毒殺をこころみた犯人は、かならず、この手でまたやってくるものですよ。ルイザ・キャンピオンの命を、も一度狙うのは、火を見るよりもあきらかです。むろん、いますぐというわけではない、だが、ほとぼりがさめて、犯人が身の危険を感じなくなったときこそ……」
「とにかく全力をつくして、防ぎましょう」さして自信のなさそうな口調で、警部は言った。
と、突然、老俳優は、そのひきしまった長身をすっくと起こした。サム警部はびっくりして彼を見上げた。レーンの顔は、まったくの無表情だった――だがこれは、考えが、彼の頭脳でひらめいたときの、れっきとしたしるしなのだ。
「警部さん、たしかメリアム医師が、食堂のリノリュームの床にこぼれた卵酒から、分析用《ぶんせきよう》にすこしとったという話でしたね?」警部は、もの問いたげな目つきでレーンの顔を見つめながら、うなずいた。「で、警察医は、それを分析したのですか?」
警部はからだから力をぬいた、「ああ、そのことですか、それならやりました。シリング先生に、市の実験所で分析してもらったんです」
「シリング博士から、その分析の報告がありましたか?」
「おやおや、いったい、なにを考えておいでなんです? それについて、べつに問題になるようなことはなにもなかったんですよ、レーンさん。たしかに、先生は結果を報告してきましたとも」
「で、卵酒の毒薬は、致死量かどうか、報告してきましたか?」
警部は鼻をならした、「致死量ですと? 致死量かどうか、なんてものじゃありませんよ、あれだけ入っていれば、人間の半ダースぐらい、らくに殺せるって、先生は言ってるんです」
一瞬の時がすぎさった。レーンの表情は、あのいつもの快活さをとりもどしていたが、かすかな失望の色があった。警部は、老優の灰緑色の目のなかに、敗北の色をよみとった。
「ただ私に申しあげられるのは――はるばると、あついさなかをおいでになった警部さんにはお気の毒だが――『気ちがいハッター家』を、十二分に監視してください、というだけのことなのですよ」と、ドルリー・レーンは言った。
第二場 ルイザの寝室
――六月五日(日曜日)午前十時
このハッター事件の特徴は、はじめからしごくテンポののろい進展ぶりを示すことだ。つまり、この事件は、犯罪がきびすを接して続発し、事件が連続的に起こり、運命のハンマーがたえまなく鳴りひびくといった性質のものではなかった。ゆっくりと、じつにゆっくりと、まるでなまけものがぶらぶらと歩いてゆくような足どりだった。そして、その歩みが緩慢なだけに、まるでジャガノート(インド神話でクリシュナ神の偶像をのせた巨大な車。これにひき殺されると極楽往生ができるという迷信がある)の行進を思わせる冷酷さがあった。
ある程度、この事件のテンポの緩慢さには、なにかのふくみがあったともいえる。だが、その当時は、だれひとり、老優ドルリー・レーンでさえ、そのふくみを解くだけの距離まで迫ったものはいなかったのだ。ヨーク・ハッターの失踪《しっそう》が十二月、その死体の発見されたのが二月、聾唖でめくらのルイザの毒殺未遂が四月、そしてこんどは、二か月近くすぎた六月のある晴れた日曜日の朝のことだった……
ハドスン河《がわ》上流のほとりに、まるで城のような山荘に隠遁《いんとん》生活をおくっているレーンは、ハッター家の事件のことも、またサム警部が訪《たず》ねてきたことも、いまは忘れてしまっていた。新聞も日がたつにつれて、毒殺未遂事件への興味本位の関心を失い、とうとうしまいには、紙面から完全にしめ出されてしまった。サム警部の必死の努力にもかかわらず、犯人の手がかりは、ようとしてつかめなかった。事件のほとぼりがさめるにつれ、警察当局もなりをしずめてしまった。だが、それも六月五日までのことだった。
ドルリー・レーンは、電話で、そのことを知らされた。城の胸壁の上で、日光浴をしながら、その裸体をながながと横たえていると、クェイシー老人が小塔の曲線状の階段を、つまずくようなかっこうで、のぼってきた。まるで地の精のような顔は、息ぎれのために、紫色になっていた。
「旦那《だんな》さま、サム警部さんから……お、お電話ですよ……警部さんは……」息をハアハアさせて言った。
レーンは、ハッとなって身を起こした。「いったい、どうしたんだ、クェイシー?」
「ハッター家で――なにか事件が起こったというお電話で!」老人はなおもあえぎつづけた。
レーンは、赤銅色《しゃくどういろ》のからだをのり出すと、筋肉のひきしまった腰をおとしてすわった。「とうとうやったか」彼はゆっくりと言った、「いつ? だれが? 警部さんはなんと言った?」
クェイシーは、額《ひたい》の汗をぬぐった、「べつになんとも言われませんでした。なんだか、えらく興奮なさっておいでで、ただやみくもにこの私をどなりつけるばかりなんでさあ。この年になるまで、あんなに頭から――」
「クェイシー!」レーンは立ちあがった、「いいから肝心《かんじん》なことを話しなさい」
「はい、はい、旦那さま、現場をごらんになりたいなら、すぐハッター家へおいでねがいたいとのことで。家はワシントン・スクエアの北側、いっさい、現場には手をふれないから、大至急、おこしいただきたい、と、こうなんでさあ」
おわりまできかないうちに、レーンは小塔の階段を一気にかけおりていた。
その二時間後、レーンの黒のリムジン型リンカーンは、たえず歯をむき出して笑っているドロミオという青年――身のまわりにいる人間に、シェイクスピアの作中人物の名前をつけるのが、レーン独特の思いつきなのだ――が運転して、下五番街の雑踏をたくみにぬいながら疾走していた。八番街の車道を横断すると、ワシントン・スクエア・パークいっぱいにむらがる野次馬《やじうま》、声をからしてそれを押しかえす巡査、そしてアーチの下の遮断されている自動車道路が、レーンの目に入った。と、二人のオートバイに乗った巡査が、ドロミオに、ストップを命じた。「ここは通行禁止だ!」と一人がどなった、「ここでターンして、迂回してくれ!」
すると、でぶの、赤ら顔の巡査部長がかけつけてきた。「レーンさんの車ですね? サム警部から、お通しするようにと、申しつけられております。いいんだ、君たち、この車は公用なんだ」
ドロミオは車を徐行させながら角をまがると、ウェーヴァリ・プレースにすすめた。第五アヴェニュとマクドゥガル街にいたる広場《スクエア》の北側には、巡査が警戒線をつくり、蟻《あり》の入るすき間もないくらいに遮断していた。街路を横ぎって、公園《パーク》に入る歩道には、野次馬がむらがり、新聞記者とカメラマンがまるで蟻みたいにせかせかと駆けまわっていた。また、ありとあらゆるところに、警官とおもおもしい足どりの私服刑事が張りこんでいた。
この台風の目のありかは、だれにきくまでもなかった。ドロミオは、そのまえでリムジンをとめた。まっ赤《か》な煉瓦《れんが》づくりの箱型の三階建てで、見るからに旧式の古風な屋敷だった――まさに開拓時代の遺物そのもので、ぶ厚いカーテンのたれさがっている大きな窓、屋根の蛇腹《じゃばら》にほどこされた帯状《おびじょう》の装飾壁、正面の玄関には、両側に鉄の手すりのついている白い石の階段があり、これをのぼりつめると、左右に古色蒼然《こしょくそうぜん》とした鋳鉄製《ちゅうてつせい》の牝《めす》ライオンが一頭ずつひかえている。この階段には刑事がたくさんむらがっていた。幅の広い白ぬりのドアがあけはなされたままになっているので、歩道からも、せまい玄関が見える。
レーンは、悲しげな色を表情にうかべて、リムジンからおりた。すずしげな麻《あさ》の服に、レグホンの帽子、白靴《しろぐつ》、それにたずさえた籐《とう》のステッキといういでたち。老優は階段を見上げ、ホッとため息をもらすと、やがてその石段をのぼりはじめた。すると、玄関から、ひとりの男が顔を出した。「レーンさんですね? どうぞこちらへ、サム警部がお待ちしているところです」
サム警部は――朱《しゅ》を満面にそそいで、まるで苦虫《にがむし》をかみつぶしたような表情だった――自分からレーンを迎えに出てきた。家の内部は、まるで死んだようにしずまりかえっていた。ひんやりとした広いホールは、奥の方までひろがり、その両側のどの部屋《へや》も、ぴったりとドアをしめていた。廊下の中央には、階上に通じる古風なくるみ材の階段があった。おもての騒々しさにひきかえ、この家のなかは、まるで墓場のようなしずけさだ。人影はどこにも見あたらなかった――レーンの見たかぎり、巡査の姿すらなかった。
「やりましたよ」サム警部は悲痛な声をだした。ほかに言うべき言葉がないといった感じだった。「やりましたよ」というのが、やっとのことで見つけたぎりぎりの表現といったあんばいだった。
「ルイザ・キャンピオンですね?」とレーンがたずねた。これこそ、無用の質問というものだ、二か月まえに、ルイザ・キャンピオンが毒殺されかかったというのに、なんで、ほかに被害者がありえようか?
サム警部はうめくように言った、「それが、ちがうんです」
そのときの、レーンのおどろきようは、むしろこっけいなくらいだった。「なに、ルイザ・キャンピオンではないと!」老優は思わず声をあげた、「では、いったいだれが……?」
「老夫人です、殺害されたんです!」
うすら寒いホールに立ちつくしたまま、老優と警部は、たがいの目を見つめあっていた。どちらも相手の表情から、慰めは得られなかった。「ハッター老夫人……」レーンは、もう三度も、おなじ名前をくりかえした。「いや、まったく意外だ、警部さん、これではまるで、ひとりの人間というよりも、むしろハッター家の一族を狙っているような感じではありませんか」
サム警部はいらいらしながら、階段の方に歩きだした。「あなたもそう思いますか?」
「なに、私は考えを口にだしてみただけのことですよ」とレーンはややぎこちなさそうな口調《くちょう》で言った。「まず、あなたは、私の意見に同意なさるまい」二人は、肩をならべて、階段をのぼりはじめた。
警部は、どこか痛むかのように、重い足どりであがっていった、「いや、そうともかぎりませんよ。まるで五里霧中といったところなんです」
「毒薬ですか?」
「いいや、すくなくとも、見た目ではちがうんです。とにかく、あなたご自身でごらんになればわかりますよ」
階段をのぼりきると、二人はたたずんだ。レーンの目は、するどくひかった。長い廊下に、二人は立っていた。その両側にならんでいるドアは、一つのこらずしまっていて、一人ずつ、そのまえに警官が立っていた。
「家族の寝室ですね、警部さん?」
サム警部は、鼻をならすと、階段のうえの木の手すりにそって歩きかけた、と、だしぬけに、ギョッとして立ちどまったので、あとからついてきたレーンは、警部の背中にぶつかってしまった。ちょうど、廊下の北西の一隅《いちぐう》のドアに背をもたせて立っていたずんぐりした巡査が、突然、「アッ!」と叫んで、背後によろめきこんだ、というのは、内側から、不意にドアをひきあけられたからだ。
警部はからだから力をぬいた、「また、あのいたずら小僧どもがやりやがったな」と、はき出すように言った、「ホーガン、あの小僧どもを、子供|部屋《べや》におしこんでおけと、あれほど言ったじゃないか!」
「はッ、警部」ひどいめにあったホーガン巡査は、あえぎながら答えた。と、そのとたんに、ひとりの少年が、ワーワーと喊声《かんせい》をあげながら、ホーガン巡査のはちきれるような股《また》ぐらをくぐりぬけ、すごい勢いで、廊下の方へ突進していった。よろめいたホーガンがやっとバランスをとりもどしたかとみるまに、こんどはまえよりもちいさな、ほんの、ヨチヨチ歩きに毛のはえたくらいの男の子が、おなじように股のあいだをくぐりぬけ、まえの少年にならって、うれしそうな喊声をはりあげて走っていった。ホーガン巡査があわててとびだすと、そのあとから、困りきった表情の女が出てきて、金切《かなき》り声をあげた、「ジャッキー! ビリー! ほんとにおまえたちときたら――おまえたちときたら!」
「あれがマーサ・ハッターですね?」レーンがささやくようにたずねた。どちらかといえば美人のほうだったが、目じりには小皺《こじわ》がより、みずみずしさは消え失せていた。警部は大活劇を、にがい顔をして見まもりながら、うなずいた。
ホーガン巡査は十三歳のジャッキーと、雄々《おお》しくもつかみあっていた。少年のわめき声から察すると、どうやらジャッキーは事件のなりゆきが見物したかったのだ。少年は金切り声をあげ、さかんに足をけっとばして、ホーガン巡査をてこずらせた。マーサ・ハッターは、これまた兄のジャッキーをお手本に、ホーガン巡査のくるぶしのあたりをせいいっぱいけっとばしているちびのビリーを抱きあげた。かくして、腕や足をばたつかせ、顔をまっ赤にし、頭髪をふりみだした四名の戦闘員は、子供部屋のなかに消えた。だが、その部屋のドア越しにきこえてくる金切り声から察すれば、戦場がたんに移動したのにすぎなかった。「あれですよ」とサム警部はにがにがしげに言った、「精神病院と納骨堂を一緒くたにしたような見本は。あのがきどもには、まったく泣かされますよ……さあ、この部屋です、レーンさん」
階段をのぼりきった、ちょうどそのま向いに、ドアがあった。それは東側に面した廊下の壁の角《かど》から、五フィートとははなれないところだった。このドアは、わずかにひらいたままになっていた。サム警部は慎重《しんちょう》な手つきで、そのドアをおしあけると、わきにからだをよせた。レーンは、目をするどくひからせながら、その戸口にたたずんだ。
その部屋は寝室になっていて、正方形に近かった。ドアをあけたその正面は、二つの出窓があって、そこから家の北側――つまり、この屋敷の裏にある庭園が見おろせる。この出窓のそばの東側の壁には、ひとつのドアがあって、浴室に通じていると、警部は説明した。レーンと警部がたたずんでいる戸口は、その寝室の廊下側の左手にあり、右手には、長い奥行きのある戸棚《とだな》があることにレーンは気がついた。これがあるために、外の階段をのぼりつめたところで、廊下がせばめられていたのである。つまり、戸棚の面積だけせまくなった廊下が、そのまま東にのびて、ほかの部屋につづいているのだ。
レーンの立っている戸口から、二台のベッドが見える。これは対《つい》になっていて、右手の壁にベッドの頭部をつけてならび、その二台のベッドのあいだには、両側にほぼ二フィートの間隔をあけて、大型のナイト・テーブルがおかれてある。てまえのベッドのヘッド・ボード(頭板)には、ちいさなスタンドがとりつけてあるが、向う側のベッドには、なかった。左手の壁のほぼ中央、ちょうど二台のベッドの足もとに面したところに、大きな時代ものの石造の煖炉《だんろ》がある。そのそばの棚に、炉道具がひとそろい、かけてあるものの、どうやら炉をたいた形跡はないようだ。しかし、なにもレーンはじっくりと観察したわけではなかった、いわば本能的に、一目でパッと部屋の模様をとらえたのだ。というのは、彼は家具などの位置にチラッと目をくれただけで、すぐまたベッドの上に、視線をもどしてしまったからだ。
「こいつは一年めにあがった土左衛門《どざえもん》よりも、すごい死にざまですよ」入口の柱によりかかったまま、サム警部がうなり声をあげた、「ま、よく見てごらんなさい、みごとなもんでしょ、え?」
ドアよりのベッド――スタンドのついているベッドに、ハッター老夫人は横たわっていた。警部の皮肉な注釈をきくまでもなかった。もみくちゃになった夜具《やぐ》のまっただなかに、からだをのたうって倒れている老夫人は、ガラス玉のような目をカッと見ひらき、紫色に変った顔に、静脈《じょうみゃく》をくっきりと浮きあがらせていた。どう見てもこの姿から、生あるものを想像することはできない。しかも夫人の額には、奇怪な傷痕《きずあと》があった――血まみれの傷は、みだれた麦藁色《むぎわらいろ》の白髪《しらが》のなかにまで達していた。
レーンは、いかにも腑《ふ》におちなそうな面《おも》もちでそれを見やったが、やがて、となりのベッドに視線をうつした。ここはからになっていて、清潔な寝具が乱雑につみかさねてあった。「ルイザ・キャンピオンのベッドですね?」
警部はうなずいた。「ここで、あの聾で唖でめくらの女がねていたんですが、この部屋からほかに移してあります。今朝《けさ》早く、気を失って、この床の上に倒れているところを発見されたんですよ」
レーンは、その絹のような白い眉《まゆ》をつりあげた。「襲われたのですか?」
「どうも、そうだとは思えないんです、ま、このことは、あとでお話します。彼女はとなりの部屋にいます、スミス看護婦の部屋ですがね、その看護婦が、彼女の介抱をしているんです」
「では、ルイザには別状がなかったわけですね?」
サム警部は、さもいわくありげに、歯をむき出してニャッと笑った、「変だ、と思うでしょう? まえの事件から割り出しても、この家で狙われるとすれば、ルイザにちがいないと考えるのはあたりまえですからねえ、それが、ルイザは無事で、やられたのは老夫人ですからな」
このとき、外の廊下で足音がしたので、二人はサッとふりかえった。レーンは、顔をかがやかした。「ブルーノさんではありませんか! これはなつかしい」
二人は心からの握手をかわした。ニューヨーク郡地方検事、ウォルター・ブルーノは、がっしりとした中背の、謹厳そのものの顔に、縁《ふち》なし眼鏡《めがね》をかけている。だが、彼の顔には疲労の色があらわれていた。「お目にかかれてなによりです、レーンさん。どうも私たちは、ひとさまに不幸な事件が起こらないと、お会いできませんな」
「いや、それはあなたのせいですよ、このサム警部とご同様、あなたはこの冬のあいだというもの、すっかり私をお見かぎりだった。ところで、かなりまえからここに?」
「なに、三十分ばかりまえです。あなたのご意見はいかがなんですか?」
「まだ、さっぱり見当もつかないありさまです」そう言っているあいだも、老優の目は、死の室内をながめまわしていた。「事件のいきさつはどうだったのです?」
地方検事は柱によりかかった、「いま、ルイザという女性に会ってきたところなのですよ。なんともかわいそうなものですな。死体は、今朝の六時に、スミス看護婦が発見したのです――彼女はとなりの部屋にいたのですが、そこから裏手の庭園と、東側の小路が見おろせて……」
「地理のご講釈ですかな、ブルーノさん?」とレーンがつぶやいた。
ブルーノは肩をすくめた、「いや、重要かもしれませんからね、ま、それはさておき、ルイザは、ひどい早起きなので、スミス看護婦は毎朝六時に起きて、ルイザの用をききにこの部屋まで来ることになっていたのです。今朝も、看護婦が来てみると、いま、ごらんのようなかっこうで、ハッター老夫人がベッドに倒れているのを発見しました。ところが、ルイザのほうは、自分のベッドと、そこの煖炉のほぼ中間の床の上に倒れていたのです、頭を煖炉の方にむけ、足を二つのベッドのあいだにおきましてね。ほら、ここのところにです」こう言って検事が部屋のなかに入りかけるのを、レーンは手で、彼の腕をおさえた。
「なに、あなたのお話だけでよくわかりますよ。それに、床の上は、歩きまわらないほうがいいでしょう。さきをつづけてくださいませんか」
ブルーノは、いぶかしげな表情でレーンを見つめた、「ああ、足跡がつくというわけですね! それでは、このままで説明することにしましょう。スミス看護婦は、一目で、老夫人の死んでいることがわかりましたが、ルイザもまた、死んだものと、思ったのです。看護婦は思わず金切り声をあげました、なにせ、女のことですからね。その声で、バーバラとコンラッド・ハッターが目をさましました。その二人がかけつけて、室内の様子を一目見るなり、なにひとつ、手もふれずに――」
「手をふれなかったというのはたしかなのですね?」
「めいめいの証言が一致してましたから、信用していいでしょう。で、なにひとつ手もふれずに、その二人には、老夫人が絶命していることがはっきりとわかったと言うのです。じじつ、死体はすでに硬直していましたからな。しかし、ルイザのほうは、たんなる気絶だということがわかったので、バーバラとコンラッドは、この部屋からとなりのスミス看護婦の部屋にルイザを運び、かかりつけのメリアム医師と警察に電話をかけ、だれひとり、この部屋に入れないようにした、というのです」
「メリアム医師は、ハッター老夫人の死亡を確認し、それからスミス看護婦の部屋に行ったのですよ」とサム警部が横から口をだした、「かたわの女を診察しにね。医師は、まだとなりの部屋におりますが、まだルイザには、なにも知らせることができない始末です」
レーンは思案深げにうなずいた、「ルイザが発見されたときの模様を、はっきり知りたいのですがね、もっとくわしくご説明ねがえませんか、ブルーノさん?」
「ルイザは、顔を床につけて、手足をのばしたまま倒れているところを発見されたのです。医師の診断は、気絶でした。彼女の前額部に瘤《こぶ》ができていましたが、メリアム医師の意見では、気絶して倒れたとき、床に額を打ってできたものだということですから、事件の手がかりにはなりませんね。現在、意識は回復したのですが、まだもうろうとしているありさまなのです。メリアム医師の許可がおりないものですから、はたして彼女が母親の死を知っているかどうか、すこぶる疑問です」
「検屍《けんし》はすんだのですか?」
「メリアム医師が最初に調べただけで、ほんのうわべだけだと思いますね」とブルーノが言うと、警部があいづちをうった、「ですから、検屍はまだですよ、警察医のやって来るのを待っているところなのですが、あのシリング医師ときたら、有名なのろまですからな」
レーンは大きな息をついた。それから、サッと決断の色を顔にうかべると、あらためて部屋のなかを見まわし、床に視線を集中した。その視線は、寝室の床一面におおわれている、みじかく刈りこまれた緑色の敷物にそそがれていた。ちょうど彼が立っている入口から、白い粉末のついた靴《くつ》の踵《かかと》とつま先の跡が、広く間隔をおいていくつかついているのがわかる。この靴跡は、レーンの位置から見るわけにはいかないが、二つのベッドのあいだからはじまっているように思われる。そのつま先は、廊下へ出るドアの方にむかっていて、その靴跡がいちばんはっきりついているところは、老夫人のベッドの足もとの、絨毯《じゅうたん》の緑色のむらのない部分で、ドアに近づくにつれて、うすくなっている。
レーンは、その靴跡の線を迂回《うかい》して、部屋のなかに入っていった。彼は、二つのベッドにむかいあって立ちどまった。おかげで、ならんでいるベッドのあいだの床をじっくりとながめることができた。やっぱり靴跡は、ベッドのあいだの緑色の絨毯にあつくこぼれている白い粉末から出ていることがわかった。その白い粉末の謎《なぞ》もすぐに解けた。ルイザ・キャンピオンのベッドの足もとに、ほとんどからっぽになったタルカム・パウダーの大きなまるい紙製容器がころがっていたのだ――容器のラベルを見ると、それは浴用のパウダーだった。二つのベッドのあいだの敷物いちめんに、その白い粉末がばらまかれていた。
その靴跡と白い粉末とを踏まないように細心の注意をはらいながら、レーンは、二つのテーブルのあいだにそろそろとすすむと、そのあたりの床とナイト・テーブルとを、丹念に調べた。タルカム・パウダーの円形の箱が、このナイト・テーブルのはしにのっていたことは、一目ですぐわかった。テーブルの表面にも、白い粉末がうすくちらばっていて、その一端に、白いまるい輪がのこっていて、テーブルから落ちるまえの箱のありかを、はっきりと示していたからである。このまるい輪から数インチうしろにずれたところに、まるで、するどくとがったもので、テーブルを強くたたいたような、なまなましい傷がついていた。
「きっと、この箱は、蓋《ふた》がしっかりしていなかったものだから、落ちたとたんに、蓋がはずれてしまったのでしょうね」とレーンは言った。そして、身をかがめると、ナイト・テーブルの足もとから、箱の蓋をひろいあげた。「むろん、こんなことは、せんこくご承知のことでしょうがね?」警部とブルーノはうんざりした顔で、うなずいた。その白い蓋のふちの近くに、数本の細い平行線がついていた。赤い色だった。レーンはいぶかしげに目をあげた。「血ですよ」と警部が言った。
その血の線のついている箇所《かしょ》、つまり蓋の先端はつぶれていた。まるで赤い線をつけた物体が、強くぶつかったときに、同時に蓋のその箇所をつぶしたかのように見えた。レーンはうなずいた、「みなさん、これはあきらかになにかがぶつかってテーブルに傷をつけ、この箱の蓋にも跡をのこしたのですね。そのはずみでパウダーの箱がルイザ・キャンピオンのベッドの足もとに落ち、蓋がとれて白い粉末をあたりいちめんにまきちらしたというわけだ」老優は、つぶれた蓋を、落ちていたもとの場所にもどしたが、その目は休みなく動いていた。見るべきものが、あまりにも多かったのだ。
彼は、まず第一に、靴跡から手をつけた。二つのベッドのあいだの、いちばん厚く粉末がまきちらされているところに、いくつかのつま先の跡があって、それはほぼ四インチ間隔で、殺害された老夫人のベッドの頭部から足もとにかけて、だいたいベッドと平行しながら、煖炉の壁にむかっていた。このパウダーで厚くおおわれた部分のおわりになる端近くに、靴のつま先のあとがくっきりと二つ、のこっていて、ちょうどこの位置から、靴跡の方向は変転し、老夫人のベッドの足もとをまわって、そこから、つま先と踵の跡をはっきりとつけながら、入口のドアへむかっていた。そして、靴跡の間隔からいって、歩幅がかなりひろくなっていた。「これで見ても、この靴跡の主《ぬし》は、ベッドをまわると、走りだしたことは、子供にもわかる」と、レーンは、口のなかでつぶやくように言った。
その走りだした靴跡は、パウダーのこぼれていない絨毯の上にだけついていた――走った人間の靴底に粉末がついて、それが敷物に跡をのこしたのだ。「警部さん、どうやらこれは、あなたに|つい《ヽヽ》ているじゃありませんか、これは男の靴跡ですよ」レーンは床から顔をあげると、言った。
「さあ、|つい《ヽヽ》ているものやら、いないものやら」とサム警部は不平そうに言った、「どうもこの靴跡が気にくいませんね。これじゃあんまり簡単すぎるじゃありませんか! ま、いずれにせよ、はっきりしているやつから寸法をはかってみましたがね、サイズは七インチ半、八インチ、または八インチ半といったところで、細いつま先の、左右ともに踵がへっている靴です。いま、うちの連中が、これに該当する靴を家《や》探ししているところですよ」
「案外、これは簡単にかたがつくかもしれませんね」とレーンは言うと、ふりかえって、二つのベッドの足のあいだに目をやった。「するとルイザが気を失って倒れていたのは、彼女のベッドの足の方、パウダーのこぼれている区域のはしっこで、ほぼ男の靴跡が方向を変えている見当、ということになりますね?」
「そのとおりです、ほら、彼女自身の足跡も、その粉のなかにのこっているでしょう」
レーンはうなずいた。ルイザ・キャンピオンが倒れたところまで、女の素足の跡が白い粉末のなかにのこっていた。その素足の跡は、寝具のめくれかえったルイザのベッドの横のところからはじまって、ベッドの足もとの方にむかっている。
「まず、ルイザのものでしょうね?」
「まちがいありません」と地方検事が言った、「彼女の足に、ぴったりと合ったのです。なぜ、こんな足跡がついたか、その情景を再構成してみることは、じつに簡単なことです。彼女はベッドからはい出すと、その縁をつたいながら、のろのろとベッドの足の方に歩いていった、そこで、なにか起こって、彼女は気絶した、といったわけです」
ドルリー・レーンは眉をしかめた。なにかが、気になるらしい。彼は、慎重な足どりで、ハッター老夫人のベッドの枕《まくら》もとに歩みよると、身をかがめて死体の顔をじっと見つめた。さきほども気がついた前額部の異様な傷痕に、しばらくのあいだ、彼は注意をうばわれていた。その傷は、いずれも深く、細い何本かの縦線で、長さはまちまちだが平行していて、ややナイト・テーブルの方向に、傾斜していた。傷は、前額部いっぱいにひろがっているのではなく、眉毛《まゆげ》と生えぎわのなかほどからはじまって、かたい白髪のなかにまで達していた。この奇妙な線状の傷から、血がにじみ出ていた。レーンの視線は、なにかを確認しようとするかのように、ナイト・テーブルの下の敷物をさまよっていた。やがて彼はうなずいた。なかばテーブルのかげになっている床の上に、こわれた古いマンドリンが、絃《げん》の方を上にむけてころがっていた。
老優は、なおいっそう近くで観察しようと、腰をかがめた――それから、検事と警部の方にふりかえった。ブルーノ検事は苦笑いをうかべていた。「見つけましたな、そいつが凶器ですよ」と検事が言った。
「そう」レーンはひくい声で言った、「たしかにそのとおりだ、絃の下の方に、血がついていますね」どうやら、長いあいだ、ひいたことはないらしく、どの絃もすっかりさびついていて、そのうちの一本は切れていた。だが、まぎれもなく、ま新しい血でそめられていた。
レーンは、そのマンドリンをひろいあげた、と、そのとき、こぼれているタルカム・パウダーのなかにころがっていたことがわかった。マンドリンがおちていたところには、粉末のなかに、くっきりとその跡がのこっていた。さらに手にとって仔細《しさい》に調べてみると、楽器の下部の一端に、テーブルの傷とうまく符合しそうな新しい擦《す》り傷があった。
「ねえ、レーンさん、人殺しの凶器にしては、ひどく|おつ《ヽヽ》なものじゃありませんか?」とサム警部は、まるでうなるような口調で言った、「マンドリンとはね!」この調子でゆくと、いまに、どんなとっぴな犯罪がとび出すものやら、とでも言いたげに、彼は頭をふった。「このぶんでいったら、百合《ゆり》の花が凶器になるようなことになりますよ」
「奇妙だ、じつに奇妙だ」とレーンは、警部の言葉などに耳もかさず、つぶやいた、「あの鬼神もさけるようなハッター老夫人が、こともあろうにマンドリンでぶんなぐられようとは……だがこの事件で問題になるのは、なぜ犯人がこんな凶器をえらんだかということよりも、この浅い傷から判断して、これだけでは致命傷にならないのではないかという点にあるのですよ。いや、まったく腑《ふ》におちない……シリング医師が早く来てくれればいいのに」
老優は、マンドリンを、ころがっていた場所にもどすと、あらためてナイト・テーブルに注意をむけた。目をおおいたくなるようなものは、なにひとつなかった。果物鉢《くだものばち》(これはルイザのベッド側にあった)、置時計、ひっくりかえったパウダーの箱の跡、古い聖書がはさんであるどっしりとしたブック・エンド、しおれた花がさしてある花瓶《かびん》。
果物鉢には、林檎《りんご》が一個、バナナが一本、はしりの葡萄《ぶどう》が一房《ひとふさ》、オレンジが一個、梨《なし》が三個、盛ってあった。
ニューヨーク郡の主席検屍医レオ・シリングは、およそ情緒《じょうしょ》というものから縁の遠い男だった。いわば、検屍医としての彼の経歴に、まるで記録係のようにつきまとってきた種々雑多な死体――自殺者、被殺害者、身許不明者、実験用死体、麻薬中毒者、原因不明の死者――が、この男をすっかり無感覚な人間にしてしまったのも、まったく無理はない。彼は「神経質」という言葉を軽蔑《けいべつ》し、彼の神経ときたら、まるでメスをあざやかにふるう彼の指のようにタフだった。知人たちは、彼のかたい甲羅《こうら》の下に、あたたかい血が流れているのだろうかと、よく疑ったものだが、まだかつて、それをたしかめてみたものはいない。
彼は、エミリー・ハッター老夫人の最後の休息所へ入ってくると、地方検事に機械的にうなずき、警部には鼻をならし、ドルリー・レーンにむかって、なにやら口のなかでつぶやいた。それから寝室のなかをひとわたり、サッと見まわすと、絨毯の上の白い粉末のついた靴跡にもぬかりなく目をとめてから、ベッドの上に、鞄《かばん》を投げ出した――それが、老夫人の硬直した足の上にドサッと大きな音をたてておちたので、ドルリー・レーンは思わずゾーッとした。
「靴跡を踏んでもかまわんですか?」とシリング医師はぶっきらぼうに言った。
「かまいませんよ、みんな写真にとりましたからね。しかしねえ、先生、このつぎから、もう少し早くしてくださいよ。連絡してから、たっぷり二時間半もかかっているんですから――」
「エス・イスト・アイネ・アルテ・ゲシヒテ・ドホ・ブライプト・ジー・インマ・ノイ」と、ずんぐりむっくりの医師はドイツ語をならべて、ニンマリ笑って、「『そは古き物語なれど、つねに新し』、ま、ハイネはこんな不粋な言い方はしないけどね……そうあわてなさんな、警部、死んだご婦人は、いつまでも待っていてくださる」彼は布帽子をグッとまえにおろした――鶏卵《けいらん》のような禿頭だったので、意外とそれが気になるらしい――それからベッドを大儀そうにまわると、粉末の靴跡などおかまいなしに踏みにじって、仕事にかかった。
医師の、小肥《こぶと》りの顔から笑いの影が消え、古風な金縁眼鏡の奥の両眼には、緊張の光があらわれてきた。彼が死体の前額部にある縦線状の傷痕を見て、不審そうに厚ぼったい唇《くちびる》をゆがめ、やがてマンドリンに気がつくなりうなずくのが、レーンに見てとれた。それから、ちいさな、ごつい両手で、死者の白髪頭《しらがあたま》を慎重につかむと、その髪をかきわけ、すばやく頭蓋《ずがい》をなでまわした。なにか不審な点があるのはあらそえなかった、医師の表情は、コンクリートのようにこわばり、みだれた夜具をめくりかえすと、死体を綿密に調べはじめた。あとの三人は、無言のまま、彼の動作を見まもっていた。腕ききの検屍医が、いよいよ不審の念にかられていることは、手にとるようにわかった。彼はなんども「くそ!」とつぶやき、頭をふり、唇をならし、鼻唄《はなうた》を口ずさんだりしていたが、だしぬけに、三人の方にふりかえると言った、「この婦人の主治医はどこにいるんです?」
サム警部が寝室から出てゆくと、ほどなくメリアム医師をつれてもどってきた。二人の医者は、まるで決闘でもするみたいに、堅くるしい挨拶《あいさつ》をかわした。メリアム医師は、その威厳のある態度で、ゆっくりとベッドをまわると、検屍医とともに死体に身をかがめ、うすいナイト・ガウンをめくり、小声でささやきあいながら、死体を調べていった。そのあいだに、ルイザ・キャンピオンの看護婦の、がっしりとしたスミスが寝室に小走りに入ってくるなり、ナイト・テーブルの上の果物鉢をつかみとると、またせかせかと出ていった。サム、ブルーノ、レーンの三人は、無言のまま、ながめていた。やがて二人の医者は、死体からからだを起こした。メリアム医師の端正な老顔には、不安の影がさしていた。検屍医は、その汗ばんだ額の上に、布帽子をいっそう深くひきさげた。「いかがです、先生」と地方検事がたずねた。
シリング医師は顔をゆがめた、「この婦人の死因は、前額部に加えられた打撃によるものではありませんな」ドルリー・レーンは、いかにも、といったようにうなずいた。「メリアム先生も私も、この打撃だけでは、せいぜい気絶させるのが関の山だということに、意見が一致したのです」
「それでは、いったい、なにが死因なんです?」とサム警部は、いかにも不満そうに言った。
「まあまあ警部、そうあわてなさんな」とシリング医師はいらだたしげに言った、「なにがそんなに心配なのかね? やっぱり、あのマンドリンが死因ですよ、とはいうものの間接的にだがね。つまりだね、この婦人の神経にはげしいショックをあたえたからなんです。なぜか? それは、この婦人が六十三歳という老齢であるうえに、メリアム先生の話では、心臓もかなり悪かったといいますからな。そうですね、先生?」
「そうでしたか」警部はホッとしたような表情をうかべて言った、「わかりましたよ、なにものかが夫人の頭を殴打《おうだ》し、そのショックで、弱っている心臓がとまって、死んだというわけですな。だとすると、老夫人はねむっているまに、死んでしまったことになる!」
「いや、そうではありますまい」とドルリー・レーンが口をひらいた、「ねむっていたどころか、夫人はパッチリと目をさましていたのですよ、警部さん」二人の医者は、同時にうなずいた。「それには三つの理由があります。その第一は、老夫人の目が大きく恐怖に見ひらかれているではありませんか、はっきりと目がさめていた証拠ですよ、警部さん……第二は、老夫人の顔に、およそ類のない表情がうかんでいるのに、お気づきになったはずです」むしろ、レーンの言葉づかいは、ひかえめすぎるくらいだった。エミリー・ハッターの死顔は、すさまじい苦痛とはげしい驚愕《きょうがく》とで、見るも無惨にゆがめられていたからだ。「その手にしろ、まるで虚空《こくう》をつかむような形ではありませんか……その第三は、いささか微妙な点なのです」レーンは、ベッドに近づくと、死体の前額部にある、マンドリンの絃でやられた傷痕《きずあと》を指さした、「この傷の位置は、ハッター老夫人が殴打されたとき、ベッドの上に、上体を起こしていたことを、はっきり物語っているのです!」
「どうして、そんなことがわかるんです?」とサム警部がくいさがった。
「なあに、きわめて簡単ですよ、もし老夫人が、打撃を受けたとき、熟睡していたとしたら――この体位から考えて、仰向《あおむ》けに寝ていたものと思いますが、マンドリンの鋼鉄の絃でつけられた傷痕は、彼女の額の上部だけにかぎらず、その下部にも、鼻にも、いや、たぶん唇のあたりにまでつくはずですよ。傷痕が、額の上部だけにかぎられているところをみると、老夫人は起きあがっていたか、さもなくば、起きあがろうとしていたかにちがいないのです。もしそうだとすれば、とりもなおさず、彼女が目をさましていたということになりますね」
「いや、じつにあざやかなものです」とメリアム医師が言った。彼は端然とした姿勢で直立しながら、その細長い白い指を、神経質そうにからみあわせていた。
「なあに、これはほんの初歩のことでしてね。ところでシリングさん、ハッター老夫人の死亡時刻は、いかがです?」
シリング医師は、チョッキのポケットから、象牙《ぞうげ》の楊枝《ようじ》をとり出すと、歯のすき間《ま》をせせりだした。「死後六時間ですな、つまり、この婦人は、午前四時ごろ、死亡したことになりますね」
レーンはうなずいた、「犯人が老夫人を襲ったとき、その立っていた位置をはっきりさせることが重要かと思いますが、シリングさん、この点について、ご意見は?」
シリング医師は、思案深げにベッドに目をはしらせた。「それはできると思いますね、犯人は二つのベッドのあいだに立っていた――それも、老夫人のベッドよりにです。死体の位置と、前額部の傷の方向から判断しますとね。いかがです、メリアム先生?」
老主治医はハッとして、「いや、――私もまったくの同意見です」とあわてて答えた。
サム警部は、いらだちながら、その角《かく》ばった顎をこすった。「このがらくたのマンドリンめ……こいつのおかげで、ほんとにいらいらする。問題はですね、心臓がいかれていようといまいと、マンドリンのようなしろもので、婆《ばあ》さんを殺すことができるかってことですよ。つまりですな――かりにも人殺しをしようというやつが、いくら奇妙な凶器をえらぶにしろ、もっとましなものをえらびそうなものじゃないですか」
「いや、マンドリンだって充分凶器になりうるさ、サム君」と検屍医が言った、「マンドリンのような軽いやつでも、力いっぱいぶんなぐれば、ハッター老夫人のような健康状態で年よりの女なら、りっぱに殺せるよ。もっとも、こいつは、あまり力が入っていないようだがね」
「額のほかには、暴力を加えられた痕跡はないでしょうね?」とレーンがたずねた。
「ありませんな」
「毒はどうでしょう?」と地方検事が口をだした、「なにか、その徴候でも?」
「いまのところそういうものは、見あたらないが」とシリング医師は慎重に言った、「しかし、ま、解剖してみますよ、すぐにでもね」
「そいつはぜひ、おねがいしなくちゃ」とサム警部が間髪をいれずに言った、「こんどは犯人が毒薬を使わなかったということをたしかめるためにもね。まったく、こんどの事件には手をやきましたよ。はじめは、あのかたわ女を毒殺しかけたと思ったら、こんどは、あの鬼婆をばらしてしまった。とにかく私は、毒物の形跡をあたってみるつもりです」
ブルーノ検事のするどい目がキラリとひかった。「いうまでもないが、これはりっぱな殺人です、たとえ殴打そのものが直接の死因ではなく――そのショックで死んだといってもね。殺意があった、ということだけは、まぎれのない事実ですからな」
「それならなぜ、いいかげんな殴り方をしたのでしょうね、ブルーノさん?」とレーンはそっけない口調で言った。検事は肩をすくめた。老優はさらに言葉をつづけた、「それに、なぜ、こんなばかげた凶器のえらび方をしたのでしょう?――マンドリンのようなしろものをね! もし、ハッター老夫人の頭を殴打して殺害するのが犯人の目的だとしたら、|この寝室のなかには《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|もっと重量のある凶器がいくつもあるというのに《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、なぜ、犯人はわざわざマンドリンをえらんだのでしょう?」
「そうか、そいつにはちっとも気がつかなかった」警部は、レーンが煖炉のそばの鉄製の煖炉道具のかかった棚や、ベッドぎわのナイト・テーブルの上のどっしりとしたブック・エンドを指さすのを見ながら、つぶやいた。
レーンは、手をうしろにゆるくくんで、寝室のなかをひとまわりした。シリング医師は待ちどおしそうにいらいらしはじめた。メリアム医師はまるで検閲を受ける兵士みたいに、あいかわらず直立の姿勢のままだった。地方検事とサム警部とは、ますます不安をつのらせてゆくような表情だった。「ところで」やっとレーンは口をひらいた、「マンドリンは、まえからこの寝室にあったのですか?」
「いや、下の図書室のガラス戸棚から持ち出されたんですよ」と警部が答えた、「ヨーク・ハッターが自殺してから、老夫人がそこに保管しておいたんです――亡夫のかたみの一つというわけです。マンドリンはヨークのものだったので……まてよ、そういうことになると――」
と、不意に、ドルリー・レーンはサッと手をあげて、警部の言葉を制した、その目はほそくなった。シリング医師が死体の上に、さっきめくった寝具を、かけなおそうとしているところだった。そして、その寝具をひっぱったとたんに、なにかちいさなものが、窓からさしこむ陽《ひ》の光にキラリとひかって、ベッド・カバーのひだのあいだから、白い粉末のこぼれている絨毯の上に落ちたのだ。レーンはかけよるなり、それを床からひろいあげた。からの注射器だった。
他の連中も、この発見に生きかえって、レーンのまわりに集まった。レーンは慎重に注射器の頭部を持って、針の先をかぎ、それから陽の光にかざしてみた。
シリング博士は、レーンの手からさっさとその注射器をとりあげると、メリアム医師と二人で、窓ぎわに行った。
「からっぽですな」と検屍医はつぶやいた、「この6という番号はなんでしょう? この注射筒のなかの沈澱物《ちんでんぶつ》は――ひょっとしたら……」
「ひょっとしたら?」レーンが熱心にききかえした。
シリング医師は肩をすくめた、「分析をしないことにはねえ」
「死体には、皮下注射のあとはありませんでしたか?」とレーンがなおもくいさがった。
「ありませんとも」
と、突然、まるで弾丸に射たれでもしたようにレーンはからだを硬直させ、灰緑色の目をひからせた……サム警部は、あッと言ったまま、口がしまらなかった。というのは、顔にものすごい興奮の色をうかべ、「あ、看護婦――あの部屋だ――」と叫んで、ドルリー・レーンがドアにむかって突進したからだ。ほかのものも、そのあとを追った。
スミス看護婦の部屋は、死の部屋のとなりだった。四人の男がそこになだれこんだとき、目にうつったものは、いとも平穏な光景だった。ベッドの上には、見えない目をひらいて、ルイザ・キャンピオンがむくむくと肥ったからだを横たえていた。そして、そのそばの椅子《いす》に腰をおろして、かたわ女の額をやさしくなでてやっているのは、がっしりとした中年の看護婦だった。ルイザは手に持った葡萄の房から、その粒をちぎっては、うまくなさそうに機械的に口にはこんでいた。ベッドぎわのテーブルには、ほんのついさっき、スミス看護婦が死の部屋から持ってきた果物鉢がのっていた。
言葉をかけるひまも惜しかった、ドルリー・レーンは部屋を一気に横切るなり、ルイザの手から葡萄の房をひったくった――この乱暴なふるまいにスミス看護婦は金切り声をあげて椅子からとびあがり、ルイザは上半身を起こして、唇をゆがめ、あの無表情な顔に、凍りついたような恐怖の色をうかべた。彼女は、野獣のような声を出して泣きはじめ、スミス看護婦の手をさぐると、すばやくしがみついた。その、おののく皮膚は不安の色をおび、両腕は、またたくまに鳥肌《とりはだ》だってきた。
「いくつ、喰べたんです?」レーンはかみつくように言った。
看護婦の顔には、血の気がなかった、「あんまり、おどろかせないでくださいな! ほんの、ほんのひとにぎりですよ」
「メリアムさん! シリングさん! 彼女に別状は?」
メリアム医師は、あわてて、ルイザのベッドに近づいた。彼女は、額に医師の手を感じると、ピタッと泣き声をとめた。医師はゆっくりした口調で言った、「なんともないようですな」
ドルリー・レーンは、ハンカチで、汗ばんだ額をぬぐった。その指は、見た目にもわかるくらいふるえていた。「手遅れになったのではないかと思いましたよ」と、ややかすれた声で言った。
サム警部はこぶしをつくって、大股《おおまた》にまえに出ると、果物鉢をにらみつけた、「毒薬が入っているんですな?」みんな、いっせいに、果物鉢に目をやった。その鉢のなかには、林檎、バナナ、オレンジ、それに三個の梨とが、なんの変哲もなしに盛合せになっていた。
「そうなのです」とレーンが言った。そのふとい声は、いつもの平静さをとりもどしていた。「まちがいありません。それに、事実がこういうことになった以上、みなさん、事件の局面は……一変したのです」
「だが、それにしても――」ブルーノ検事が当惑しきった面もちで言いかけた。ところがレーンは、いまここで自分の意見を詳しく説明する気はないといったように、そっけなく手をふった。そして老優は、ルイザ・キャンピオンの様子をじっと見まもっていた。彼女は、メリアム医師にやさしくなでてもらいながら、おちつきをとりもどし、ぐったりと横たわっていた。四十年の不自由きわまりない生活にもめげず、そのおだやかな顔には、なんの痕跡をもとどめていなかった。見方によっては、魅力的だと言ってもいいくらいだ、鼻はすんなりととのい、唇は優美な曲線をえがいていた。
「かわいそうに」と、レーンは口のなかでつぶやいた、「なにを考えているのだろう……」だが、老優が看護婦に顔をむけると、その目はするどくなった、「さっきあなたは、この果物鉢を、となりの寝室のナイト・テーブルから持ってきたが、果物はいつもあの部屋においてあるのですか?」と彼はたずねた。
「はい」とスミス看護婦はおどおどしながら答えた、「ルイザさんは、果物がとてもお好きなものですから、おとなりのナイト・テーブルに、いつも果物鉢をおいておくのです」
「ルイザさんの、とくに好きな果物は?」
「べつにございません、季節のものでしたら、なんでもお好きですわ」
「そうですか」どうやらレーンは、そこで行きづまったらしい、彼はなにか言いかけようとしたが、ふと気をかえて、唇をかみしめ、うなだれてじっと考えにしずんだ。「それでは、ハッター老夫人は?」と、彼はようやく口をひらいた、「その果物鉢のものを喰べたことがありますか?」
「ごくたまには」
「いつも喰べるというわけではない?」
「はい」
「老夫人も、果物ならなんでも好きでしたか、スミスさん?」老優はごくおだやかな口調でたずねた、だが検事と警部には、ただならぬ語気が感じられた。
スミス看護婦にも、それがピーンときた。彼女はゆっくり答えた、「おかしなことをおたずねになりますのね。たしかに夫人には、大きらいなものが一つございました、それは梨ですの――もう何年も、梨を召しあがったことがございません」
「なるほど、それはおもしろい」ドルリー・レーンは言った、「すると、この家のひとたちなら、老夫人の梨ぎらいを、だれでも知っていたのですか、スミスさん?」
「それはもう。ずっとまえから、みなさんの冗談《じょうだん》のたねになっていたくらいですから」
ドルリー・レーンは満足した面もちだった。彼はなんどもうなずくと、スミス看護婦を好意にみちたまなざしで見つめ、それから、ベッドぎわのテーブルに歩みよると、となりの寝室から持ってきた果物鉢を見つめた。
「老夫人は梨が大きらいだった」と老優はつぶやいた、「警部さん、この梨を、調べてみなければなりませんね」
三個の梨のうち、二つは金色にうれ、肉もしまっていて、見るからにおいしそうな梨だった、だが三つめの梨は……レーンは手でまわしながら、それをじっくりと見つめた。それは腐りかけていて、皮には茶色の斑点《はんてん》がいくつかあり、そこはみんなブヨブヨになっていた。と、レーンは、「あッ」と声をあげると、三インチも近く右目にその梨を近づけた。
「やっぱり、にらんだとおりだった」と老優はつぶやいた。彼は、いささか得意気《とくいげ》なジェスチュアを示しながら、シリング医師の方に顔をむけた、「どうです、シリングさん」彼は三つの梨を検屍医に手渡しながら言った、「ま、私の目に見まちがいがないなら、その腐りかかった梨の皮に、針の跡がのこっているはずですがね」
「毒を注射したんだ!」警部と検事が同時に叫んだ。
「そうときめこんでしまうのもなんですが、ま、私もそうだと思いますね。とにかく……そうだ、シリングさん、三個とも調べてくださいませんか、毒物の性質がわかったら、毒のために梨が腐ったものか、それとも毒が注射されるまえから腐っていたものか、それもおねがいしたいのです」
「引き受けました」シリング医師はそう言うと、まるで貴重品《きちょうひん》かなにかのように、その三個の梨をささげて、部屋からあたふたと出ていった。
サム警部がにぶい口調で言った、「こいつはなにやらこんぐらがってきたぞ……もしあの梨に毒が注射されていて、しかも老夫人があの梨を喰べなかったとすると――」
「だから、ハッター夫人が殺害されたのは、おそらく偶然のことで、はじめから計画されたものではなかった――そして毒入りの梨は、このあわれな女に喰べさせる目的だったのだ!」とブルーノ検事が断定するように言った。
「そうだ、そうだ!」警部は叫んだ、「それにちがいないですよ、検事さん! 犯人は寝室にそっとしのびこみ、あの梨に毒を注射する、と、婆《ばあ》さんが目をさます――そうですね? たぶん、婆さんは犯人の顔まで見たかもしれん――そうだ、それであんなものすごい死顔をしていたんですよ。それから? マンドリンの一撃を、婆さんは頭にくらい、それがこの世とのおさらばだったというわけだ」
「そうだ、これで事件の輪郭がはっきりしてきたぞ。あの梨に毒を注射したのは、二か月まえに卵酒に毒をいれた同一人物の仕業《しわざ》にちがいない」
だが、ドルリー・レーンは一言も口をきかなかった。彼の眉間《みけん》には、かすかな困惑の色があった。スミス看護婦は、みるからにうろたえていた。ところでルイザ・キャンピオンは、二度までも自分の命が狙われたものと、警察が結論したともつゆ知らず、暗黒と絶望の世界から生れた執拗《しつよう》さで、メリアム医師の手にすがりついているのだ。
第三場 図書室
――六月五日(日曜日)午前十一時十分
しばらくは幕間《まくあい》があった。警察の連中が、そのあたりを歩きまわっていた。そのひとりが、勢いこんだ様子でサム警部のところへやって来ると、注射器からもマンドリンからも指紋が発見されなかったと報告した。シリング医師は、死体の搬出の指揮におおわらわだった。
この目のまわるような騒ぎをよそに、ドルリー・レーンはひとり、思案深げな表情でたたずんでいた。それも大半は、ルイザ・キャンピオンの無表情な顔を、まるで謎《なぞ》の解答をひき出そうとするかのように、見まもっているのだった。どこにも指紋がついていないとすると、犯人はきっと手袋をつけていたのだ、と言っているブルーノ地方検事の言葉も、老優の耳にはほとんど入らなかった。
やっと騒ぎがおさまった。シリング医師は死体につきそって立ち去り、警部はスミス看護婦の部屋《へや》のドアをしめた。と、ただちにドルリー・レーンが口をひらいた、「ルイザには、母親の死を知らせたのですか?」
スミス看護婦は頭を横にふった。メリアム医師が答えた、「いまのところ、知らせるのは見合せたほうがいいと思ったものですから――」
「からだのほうは、もうべつに心配はないのでしょう?」
メリアム医師はうすい唇《くちびる》をすぼめた。「知れば、ショックを受けるでしょうな、なにぶん、心臓が弱いですからね。だが、興奮もほぼおさまりましたし、それにいずれは知らさねばならないことだから……」
「どうやって彼女に知らせるのです?」
無言のまま、スミス看護婦はベッドに歩みよると、枕《まくら》の下をさぐって、奇妙な道具をとり出した。それは、どこか円柱頭の冠板《かんむりいた》を思わせる溝《みぞ》のついた平たい板と、大きな箱だった。看護婦は、その大きな箱の蓋《ふた》をとった。なかには、ちょうどドミノのようなちいさな金属製の駒《こま》がたくさん入っていて、その一つ一つの裏面には、うまく板の溝《みぞ》にはまるだけの突起《とっき》がついている。また、駒の表面には、かなり大きな突起物がいくつかついていて、駒ごとに異なる特殊な型をつくっている。「点字ですか?」とレーンがたずねた。
「ええ」とスミス看護婦は、ため息まじりに答えた、「それぞれの駒が、アルファベットの点字になっているのです。ルイザさん用に、とくに作らせたものですわ、どこへ行くのにも、ルイザさんはこれを持っていきますの」
点字が読めないひとのために、駒の表面には、突起している点字のほかに、それにあたる普通のアルファベット文字が白く書きこんであった。
「なかなかうまくできている」とレーンは言った、「スミスさん、さしつかえなかったら、この私に……」老優は看護婦をしずかにわきへよせると、盤と駒を手にとって、ルイザ・キャンピオンをじっと見おろした。
運命の一瞬、だれもがそう感じた。このひしがれたかたわ女が、いったいどのような反応を示すだろうか? 彼女がいちはやく、あたりのただならぬ空気を感じとっていることはあきらかだった。その白い美しい指は――ついいましがた、メリアム医師から、その手をはなしたのだ――たえまなく動いていた。そのうごめく指が、まるで昆虫《こんちゅう》の触角《しょっかく》のように、知覚にわななき、情報を求めているのに気がつくと、レーンはかすかに身をふるわせた。おまけに、不安げに頭を左右にふりつづけているので、ますます昆虫に感じが似てくるのだ。盲目のひとみは大きかったが、にぶくどんよりと濁っていた。この瞬間、あらゆる目がルイザにそそがれていたのだが、彼女が外見的には美しいとは言われないまでも、十人なみの容姿をしていることなど、ひとりのこらず忘れていた。彼女はふくよかに肥《こ》え、身長も五フィート四インチどまり、鳶色《とびいろ》のゆたかな髪、それに顔色《かおいろ》もつやつやしているのだ。しかし、この場のひとびとの目をとらえたのは、奇妙な特徴ばかりだった――魚《うお》のような目、無表情な、まるで生気というものがない顔、たえまなくうごめく指……
「すごく興奮しているようですな」とサム警部がつぶやいた、「あのふるえている指、こいつを見ていると、ほんとにゾッとしますよ」
スミス看護婦は頭をふった、「あれは――あれは興奮しているためではないんです。ルイザさんが、しきりにたずねているんですわ」
「なに、たずねている!」地方検事が声をあげた。
「そうですとも」とレーンが言った、「聾唖者《ろうあしゃ》が手でしゃべっているのですよ、ブルーノさん。あんなに必死になって、彼女はなにを言っているのです、スミスさん?」
と、突然、体格のいい看護婦は、椅子《いす》のなかにくずれるようにすわりこんだ、「わたし――どうしたらいいか、わからなくなってきましたわ」とかすれた声で言った、「ルイザさんは、なんどもくりかえしては、こうたずねていますの、『なにがあったか? なにがあったか? 母はどこ? なぜ返事をしないか? なにがあったか? 母はどこ?』」
一座のものは息をころした。と、ドルリー・レーンはホッとため息をつくと、そのたくましい手で、ルイザの両の手をにぎりしめた。ルイザの手は、のがれようとしてさかんにもがいたが、やがておとなしくなり、彼女の鼻孔《びこう》は、レーンをかぎ分けようとするかのように、ピクピクとうごめいた。なんとも気味の悪い感じだった。レーンの手の感触に、ルイザをホッとさせるなにものかがあったためか、それとも、ほかのあらゆる動物には共通のものでありながら、大部分の人間に感じられないようなかすかな霊気のためか、彼女はこわばったからだから力をぬくと、レーンの手から、自分の指をしずかにぬき出した……
〈なにがあったか? 母はどこ? あなたはだれ?〉
レーンは、すばやく大きな箱から点字の駒をえらび出すと、一組の言葉を組合せて、その盤をルイザのひざの上にのせた。すると彼女は待ちかねたようにその盤を手でつかみ、指先を、金属製の点字の表面にせわしなくはいまわらせた。「私はあなたの友だち」レーンのつくった言葉の組合せはこうだった、「私はあなたの力になりたい。私は悲しいことをあなたに知らせなければならないが、勇気を出すこと」
ルイザは、のどの奥で、きくに耐えぬような音をさせた。サム警部は、見るにしのびず、顔をそむけた。メリアム医師は、彼女のうしろで、石のように身をかたくしていた。やがてルイザ・キャンピオンは、ふかぶかと息を吸いこむと、ふたたび、指先を動かしはじめた。スミス看護婦が、弱々しい口調《くちょう》で、それを翻訳した。
〈わかった、わかった、私は勇気を出す、なにがあったか?〉
レーンはまた、箱のなかに手をつっこむと、文字をならべかえて、新しい言葉を組みたてた……室内を、死の沈黙が支配した。「あなたの人生は、勇気をうたった詩そのもの。いつまでも、その勇気をもちつづけてください。たいへん悲しいことが起こった、お母《かあ》さんが、昨夜、殺された」
盤の上を走りまわっていた指が、痙攣《けいれん》を起こした。彼女のひざから盤がころがり落ちると、ちいさな金属製の駒が、床《ゆか》いっぱいにちらばった。ルイザは気絶した。
「さ、みなさん、すぐ出ていってください!」その場のものが、いたましげなまなざしで、いっせいにかけよろうとすると、メリアム医師が叫んだ。「私とスミス看護婦とで、手当をしますから」
一同は足をとめたまま、医師が年老いた腕に力をこめて、死んだようになったルイザのからだを、椅子からだきあげるのを見まもった。やがて不安そうに、ドアの方へ足ばやにひきあげた。
「じゃ、ルイザ・キャンピオンのことは、先生におまかせしますからね」とサム警部は医師に言った、「どんなことがあっても、彼女をひとりにはしないでくださいよ」
「あなたがたが出てゆかないかぎりは、なんとも責任はおいかねます!」
一同は、その言葉にしたがった。レーンがしんがりだった。彼はしずかにドアをしめると、しばらくのあいだ、考えこみながらたたずんでいた。やがて、疲労の身ぶりにしてはちょっと奇妙だが、こめかみに指先をあてると、顔をふり、その手をおろした。それからおもむろに、地方検事とサム警部のあとを追って、階下へおりていった。
図書室は、階下の食堂のとなりにあった。古めかしい部屋で、書物の背皮のにおいがただよっている。おもに科学と詩の本が、書棚《しょだな》をしめていた。いかにもよく親しまれてきたといった雰囲気《ふんいき》で、調度類なども使いなれたものばかりだった。とにかく居心地《いごこち》のいい部屋だった、レーンは満足げな吐息をついて、安楽椅子にふかぶかと身をしずめた。サム警部とブルーノ検事も腰をおろし、三人は無言のまま、顔を見合せた。屋敷のなかは物音ひとつしなかった。ただ、警部のあらい呼吸の音だけがききとれるばかりだった。「こいつはえらく」とやがて警部が口をひらいた、「難問題ですなあ」
「ま、いずれにせよ、興味深くはあるがね、警部さん」とレーンが答えた。彼はなおいっそう、椅子に背をしずめると、長い足をのばした。「ところで」とつぶやくように言った、「ルイザ・キャンピオンは、二か月まえにも自分の命が狙われたということを知っているのですか?」
「いや、知りませんよ、教えたところで無意味ですし、これ以上、つらい思いをさせることもありませんからな」
「なるほど、それもそうですね」レーンは、ちょっと考えて言った、「それじゃ、あまりにも酷ですからね」と、警部にあいづちをうった、と、不意に椅子から立ちあがると、部屋を横ぎって、ガラスのケースがのっている台のところまで見に行った。そのケースはからだった。「たぶん、これでしょうね、あのマンドリンが入っていたのは」
警部はうなずいた、「こいつにも」彼は吐き出すような口調で言った、「指紋はついてませんでしたよ」
「しかし、毒入りの梨《なし》の件だけど――実際に毒が入っているとなれば――問題はずっと簡単になるのじゃないかね」とブルーノが口をだした。
「あの梨に、そんなにこだわっているんですか? すくなくともルイザが犯人に狙われていることは、はっきりしているんですからね」とサム警部はうなり声で言った、「さあ、仕事にかかりましょうや」彼は腰をあげるなり、ドアまで行って、廊下に首を出した、「おい、モッシャー」と大声で呼んだ、「バーバラ・ハッターをよこしてくれ」
レーンは、ゆっくりした足どりで、安楽椅子にもどってきた。
バーバラ・ハッターは、出版物などに出ている写真よりか、はるかに好感のもてる容姿をしていた。写真だと、やせた顔の線がくっきりと出てしまって、とげとげしい感じをあたえるが、実物は、やせてはいても、女性特有のやわらかみがあって、ふくよかな端正さがあった。かの有名な写真家のカートでさえ、撮影にあたってこの妖精《ようせい》のような美の線を犠牲にせざるをえなかったのだ。彼女の背はきわめて高く、気品にみちみちていて、三十代のおちつきを示していた。その身のこなしも優雅で、どことなくリズムが感じられる。燃えるような輝きをうちに秘めているような印象をあたえ、その情熱が外面にもにじみ出て、彼女のあらゆる身ぶりにあたたかみをそえていた。この女流詩人、バーバラ・ハッターは知的な女性であるばかりか、繊細な情熱をもそなえたまれにみる婦人であることを、ひとに感じさせた。
彼女はサム警部にかるくうなずいてみせてから、地方検事に会釈《えしゃく》した。そして、レーンの姿をみとめると、その美しい目を大きく見ひらいた、「まあ、レーンさん!」彼女はよくとおるおちついた声で言った、「あなたまで、あたしたちのけがれた生活を調べておいでになったんですの?」
レーンは顔をあからめた、「いや、これはおそれいりました、お嬢さん。あいにくと、私にはおかしな性癖《せいへき》がありましてね」老優は肩をすくめた、「ま、そこへおかけになりませんか、おうかがいしたいことがあるのですよ」初対面のバーバラが自分の顔を知っていて、名前まで呼んだのに、彼はいっこうおどろいた顔もしなかった。こんなことには、なれっこになっていたからだ。
女流詩人は腰をおろした。そして、ものめずらしげに眉《まゆ》をあげると、警部たちの顔を見渡した、「どうぞ」彼女はちいさな吐息まじりに言った、「なんなりと、おたずねになってください」
「お嬢さん」と警部がだしぬけに口をきった、「昨夜の件で、あなたがごぞんじのことを話してください」
「ごくわずかしか、お話できませんわ、警部さん。午前二時ごろ、あたしは帰宅したんです――出版社の社長の家でひらかれた退屈なパーティに出ていたものですから。ご出席の紳士がたがエチケットを忘れたためか、それともお酒に酔いすぎたせいか、とにかく車で送ってくださらなかったものですから、あたしひとりで、帰ってまいりましたの。家のなかは寝しずまっていました。あたしの部屋は、ごぞんじのように表側の、公園が見おろせるところにあって、廊下の向い側が――母の部屋なのです。二階の寝室のドアが一つのこらずしまっていたことは、はっきりと申せますわ……あたし、とても疲れていたものですから、すぐ就寝しました。朝の六時、スミスさんの悲鳴で起こされるまで、ねむっていました。これだけですわ」
「ふーん」警部は眉をしかめて言った。
「これでは」とバーバラは疲れたような微笑をうかべて言った、「なんのお役にもたちませんわね」
彼女は、質問を予期するかのように、ドルリー・レーンの方に顔をむけた。あんのじょう、レーンは口をひらいた、だが、その質問は彼女にとって意外だったらしく、目をほそめ、レーンの顔を穴のあくほど見つめていた。
「お嬢さん、今朝《けさ》、あなたと弟のコンラッドさんと、お母さんの寝室にかけこんだとき、二つのベッドのあいだを、おふたりのうち、どちらかが歩きましたか?」
「いいえ、レーンさん」と彼女は臆《おく》せずに答えた、「あたしたちは、母がこときれているのが一目でわかったものですから、床《ゆか》に倒れているルイザを起こすのにも、ドアまでつづいている足跡を踏まないように除《よ》けて歩きました、ベッドのあいだにも入らないようにしたのです」
「弟さんも、そのとおりにしたことはたしかですね?」
「ええ、それはもう」
地方検事ブルーノは椅子から立ちあがると、疲れた脚《あし》の筋肉をゆるめて、彼女のまえを行ったり来たりしはじめた。バーバラは辛抱《しんぼう》づよく検事の質問を待っていた。「お嬢さん、率直に申しますがね、あなたは知的水準の高い女性です、だからお家族のひとたちの――その、異常性というものに、お気づきになっているにちがいない、また、お気づきになっている以上、それを嘆かれているはずです……で、私がおねがいしたいことは、家族に対する義理立てといった配慮を、しばらく忘れていただきたいということなのです」検事は、おちつきはらった、またたきひとつしないバーバラの表情を見ると、言葉をきった。彼は、いま彼女にのべたことの無益さをさとったにちがいなかった、そこであわてて言葉をつづけた。「ま、むろん、答えたくなければ、お答えになることはないのです。が、もし、二か月まえの毒殺未遂事件と、昨夜の殺人事件について、なにかご意見があれば、ぜひとも、お話していただきたいのです」
「検事さん、それはどういうことなのでしょう? このあたしが、母を殺した犯人を知っているとでもおっしゃるのですか?」
「いやいや――ほんの意見としてですよ、つまり、なにかの手がかりとなるような……」
「あたしには、そのような意見など、ひとつもありませんわ」彼女は、白魚《しらうお》のような細長い自分の指を見つめた、「検事さん、母がたいへんな暴君だったということは、知らぬものがないくらいです。たくさんのひとが、一度や二度、ついカッとなって母をなぐってやろうと思うことだって、きっとあったと思いますわ、でも、殺す……」バーバラは身をふるわせた、「あたしにはわかりませんわ、そんなことはとても信じられない、人間の生命を奪うなんて――」
「すると」サム警部がしずかに言った、「だれかがお母さんを|殺したいと思っていた《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》と、あなたはお考えなのですな?」
彼女はギクッとして、目をひからせると、顔をあげた。「それはどういう意味なんですの、警部さん? 母が殺された以上、当然、だれかが殺す意志を……まあ!」彼女は言葉をきるなり、椅子のシートをつかんだ、「まさか、まさかあなたは――あれは、母を殺すつもりじゃなかったなどと、おっしゃるのではないでしょうね?」
「いや、警部が言ったのは、まさにそのとおりなのですよ」と検事が言った、「お母さんは偶然殺害された――その場のはずみでね、これが私たちの確信なのです。寝室にしのびこんだ犯人の目的は、お母さんを殺害することではなく、あなたの姉にあたる、ルイザさんを殺すことだったと、私たちはにらんでいるのですよ」
「だが、それにしても」と、ドルリー・レーンは、バーバラが平静さにかえらないうちに、しずかな口調で言った、「なぜ、あのあわれな不具の女性を殺そうなどと思ったのでしょうね?」
と、不意にバーバラは片手を目にあてがった、そのままじっとしていたが、やがて手をおろすと、彼女の顔はげっそりとやつれて見えた。「かわいそうなルイザ」彼女は口のなかでつぶやいた、「かわいそうなルイザ」部屋の向う側のガラスのケースに、彼女はぼんやりと目をむけた。「うつろな、悲惨な生活、生れたときからみじめな思いばかりして」彼女は唇をかむと、ギラギラするような目で、彼らを見つめた、「検事さん、あなたがおっしゃったように、家族の――家族のきずななどにこだわっている場合ではありませんわ。あのあわれなルイザに危害を加えようとするような人間は、同情になんかあたいしませんもの。あたし、申しあげなければならないことがあるのです、レーンさん」彼女は熱意に燃えた目を、老優の方にむけた、「母とあたしとをのぞいたら、家のものはみんな、ルイザを憎んでいるのです、ほんとに憎んでいるのです」彼女の声は興奮にうちふるえた。「人間性にひそむ本質的な残忍性ですわ、翅《はね》のもげた昆虫《こんちゅう》をふみつぶすような本能……ああ、なんておそろしいことでしょう」
「いかにも、いかにも」検事はバーバラをするどく見つめながら言った、「ところで、おたくでは、ヨーク・ハッターの遺品に、手をふれてならぬということですが、ほんとうですか?」
彼女は顎《あご》に手をあてた、「はい」と口のなかでつぶやくように答えた、「母は、父を尊敬するよりも、はるかに父のかたみを尊敬していたのです」彼女は口をとじた。おそらくおびただしい不愉快な記憶が、いま彼女の頭のなかでよみがえってきたのだ。彼女の表情はくらく、悲しげだった。「父の死後、母はその遺品のまえにあたしたちの頭をさげさせて、死ぬまでよさなかった自分の暴君ぶりのうめ合わせをしようとしたのですわ。父の遺品の、ありとあらゆるものは、神聖化されました。でも、この二、三か月ばかりのあいだに、母もやっと目がさめてきたと思って……」彼女は途中で言葉をきると、床に目をおとしたまま、じっと考えこんだ。
サム警部が、テーブルをたたいた、「こんなことでは、いっこうに|らち《ヽヽ》があきませんな、お父《とう》さんはなぜ自殺したんです?」
苦痛の色がバーバラの顔をかすめた。「なぜですって?」彼女は単調な口調でくりかえした。「たった一つの生きがいを奪われ、精神的には乞食《こじき》みたいになりはてた人間が、なぜ自殺するのか、とおききになりますの?」腹だたしい、反撥的な、それでいてどこかせつなそうなひびきが、その声にこもっていた。「かわいそうに父は、一生、支配されどうしでした。自分自身の生涯《しょうがい》というものではありません。この家では、父に発言権など、まるでなかったのです。子供たちは父の言うことなどきかず、無視していました。ひどい話ですわ……でも、人間というものはおかしなものですのね、あんな母でも、はじめは父にやさしい感情をもったのですから。二人が知りそめたころの父は、なかなかハンサムだったそうです。母が父を支配するようになったのも、父を強くしてやらなければならないと考えたからだと思いますの。自分より弱いものは、強くしてやる必要があると、母は考えていたのですわ」彼女はそこでため息をもらした、「母は、父を強く支えてあげるかわりに、父の背骨を折ってしまったのです。父は世捨人《よすてびと》になり、幽霊同然になってしまいました。おとなりのおかしな老人、トリヴェット船長のほかには、友だちもありませんでした。その船長でさえ、父を、無気力な状態からふるいたたせることができなかったのです。すっかりとりとめのないお話をしてしまって……」
「どういたしまして、お嬢さん」とレーンはやさしげに言った。「きわめて大切な問題を、あなたはじつに手ぎわよくお話になった。ところで、お父さんのマンドリンと実験室に、いっさい手をふれるべからずというお母さんの命令は、忠実に守られていたのですか?」
「みんな、母の言いつけはよく守りますわ、レーンさん」とバーバラはひくい声で答えた、「マンドリンに手をふれたり、実験室に行ってみようなどと、考えたものさえいないと、はっきり言えるくらいです……まあ、ちがいますわね、母の言いつけを守らなかったものがいたんですもの、あたし――」
「あそこのガラスのケースのなかに、マンドリンがあるのを最後に見たのは、いつなんです?」と警部がたずねた。
「昨日《きのう》の午後ですわ」
と、まるでインスピレーションがひらめいたかのように、ブルーノ検事が熱くなって質問した、「この家にある楽器は、マンドリンだけですか?」
レーンは検事の顔をジロッと見た、バーバラはおどろいたような顔をした。「ええ、そうですわ」と彼女は言った、「でも、そんなことが、どうしてお知りになりたいんですの……べつに関係がないと思いますけど。だいたい、家のものは音楽好きではないのです。母の好きな作曲家といえばスーザぐらいのもので、父のマンドリンも大学時代のものですわ……グランド・ピアノもあったことはあったのですけれど――ロココふうの渦巻《うずまき》模様や金箔《きんぱく》でやたらに飾りたてたしろものですわ――これは、数年まえに母が処分してしまいました。母はやたらに腹を立てて――」
「腹を立てて?」ブルーノはけげんな顔をした。
「だってルイザはピアノをたのしめませんもの」
ブルーノ検事は顔をしかめた。サム警部は、その大きな手をポケットのなかにつっこむと、鍵《かぎ》を一つ、とり出した。
「これがわかりますか?」
彼女はすなおに、それを調べた。「これはエール錠ですわね? さあ、よくわかりませんわ、なにしろ、どれもこれもよく似ていますでしょう……」
「そうですか」警部はがっかりしたように言った、「これは、お父さんの実験室の鍵ですよ。お母さんの持物のなかにあったんです」
「まあ、そうですの」
「実験室の鍵は、これだけだったですか?」
「そうだと思いますわ。父の自殺の知らせがあってからというもの、母はその鍵をはだ身はなさずもっていました」
サム警部は、その鍵をまたポケットのなかにしまった。「そういう話ですな。これから、その実験室をよく調べてみなければなりません」
「お嬢さん、お父さんの実験室に、あなたはよく行かれましたか?」とブルーノ検事が好奇心をむきだしてたずねた。
彼女の顔に、生気がよみがえった、「ええ、よく行きましたわ、検事さん、あたしも、父が崇拝《すうはい》していた科学の信者のひとりでしたもの。父の実験を見ているのが大好きだったのです、もっともさっぱりわかりませんでしたけど。あたしはよく二階の実験室へ行っては、父と時間をすごしたものですわ。そういうときの父は、いちばん幸福そうで――みるからにいきいきとしていました」彼女はなつかしむような表情だった、「マーサ――あたしの義妹にあたる――も、父には同情して、彼女もときおり、父の実験を見ていましたわ。それから、むろん親友のトリヴェット船長もそうでしたし、ほかのひとたちは……」
「すると、あなたは化学について、あまりくわしくないのですな?」と警部が不満そうな口調で念をおした。
彼女は微笑した、「あら、毒薬のことですのね? 薬品のラベルぐらいなら、だれにだって読めるじゃありませんか。でも、あたしにはまるで化学の知識がないんですの」
「私がきいたところによると、あなたは科学的能力にはめぐまれなかったかわりに、詩のすばらしい才能をおもちになっているそうですな」なんだ、事件とは無関係な話なんかして、と腹のなかでいらいらしている警部をしりめに、レーンはのんびりした口調で言った、「あなたとお父さんのヨーク・ハッター氏とが一緒におられるところなどは、なかなかおもしろい絵になりますな、ユータピ(詩と音楽の女神)がサイエンシア(科学の神)の足もとにすわる……」
「むだ話はご遠慮ください」と警部が露骨《ろこつ》に言った。
「いや、おそれいりました」とレーンがほほえみながら言った、「しかしですね、私がこんなことを言いだしたのは、なにも古典の知識をひけらかしたいがためではないのですよ、警部さん……ええと、どこまで言いかけましたかな、お嬢さん、そうだ、これまでに、サイエンシアがユータピの足もとにすわったことがありましたかね?」
「ひとつ、アメリカの言葉に翻訳していただきたいものですな」と警部はすっかりむくれて言った。「私だって、質問の意味が知りたいですからね」
「レーンさんのおたずねの意味は」バーバラは、頬《ほお》をかすかにそめながら言った、「あたしが父の実験に興味をもったように、父もあたしの詩の仕事に興味をもっていたか、ということだと思いますわ。で、レーンさんにお答えしますけど、それは、『はい』です。たえず父は、とても熱心にほめてくれました――といっても、それはあたしの詩よりも、むしろ物質的な成功をほめてくれたのじゃないかと思いますけど。父はよく、あたしの詩がわからなくて、困ったような顔をしていたものですわ」
「いや、その点は私もご同様なのです、お嬢さん」と、レーンはかるく頭をさげて言った、「お父さんは、なにか書こうとされたことがありましたか?」
バーバラは顔をしかめてみせた、「いいえ、そんな――ただ一度、小説を書こうとしたことがありましたけど、ものにはならなかったようです。うちの父ときたら、なにをやってもながくはうちこめないたちのひとで――むろん、蒸溜器と燃焼器と化学薬品相手の実験だけはべつですけれど」
「もういいでしょう」と、警部はしびれをきらして言った、「脱線もいいところですよ、なにせ、時間を浪費するわけにはいきませんからな、レーンさん。……ええと、昨夜、いちばん遅く帰ってきたのはあなたですか、お嬢さん?」
「さあ、それはわかりませんわ。玄関の鍵を忘れて出たものですから――うちでは、めいめいがその鍵を持っているのです――玄関にあるナイト・ベルを押したんです。そのベルは、三階のアーバックル夫婦の部屋に直接通じていますの。それから五分ほどすると、亭主のジョージ・アーバックルがおりてきて、玄関をあけてくれたのです。あたしはすぐ二階へ行きましたけど、アーバックルはまだ下にのこっていて……ですから、あたしが最後だったかどうか、はっきりお答えできないんです。たぶん、アーバックルにおききになればわかると思いますけど」
「どうして鍵を持っていなかったのです? 置き忘れたのですか? それともなくしたのですか?」
「なんど申しあげたらわかっていただけるのでしょう、警部さん」とバーバラはため息まじりに言った、「鍵は、置き忘れたのでも、なくしたのでも、盗まれたのでもありません。さっきも言いましたように、ただ持って出るのを忘れただけなんです。あたしの部屋の、もう一つの財布のなかにちゃんと入っていました、やすむまえに、たしかめてみたのです」
「ほかになにか?」ほんのしばらく黙ってから、警部がブルーノ検事にたずねた。
検事はただ頭を横にふった。
「レーンさんは?」
「あなたのお気に召すような質問なら」とレーンは苦笑いをうかべて言った、「ありませんね」
サム警部は弁解がましく、のどの奥で笑った、「それでは、これでけっこうです、お嬢さん。ただし、外出はなさらないように」
「ええ、わかりました」と、バーバラ・ハッターは疲れたような口調で言った、「むろん、出かけませんわ」
彼女は椅子から立ちあがると、図書室から出ていった。サム警部はドアをあけたまま、彼女のうしろ姿を見送った。「ま、油をしぼってやったにしろ、なかなかどうしてりっぱな女ですよ」彼は肩をそびやかすと、言った、「さてと、それでは気ちがいどもにとりかかりますか。おい、モッシャー、アーバックル夫婦に、ここまでおりてくるように言ってくれ、むだ話でもしようじゃないか、と言ってな」
モッシャー刑事は靴音《くつおと》たかく立ち去った。警部はドアをしめると、ベルトに親指をかけて、腰をおろした。
「気ちがいどもだと?」とブルーノ検事がくりかえした。「しかし、アーバックル夫婦はまとものようだがね」
「冗談《じょうだん》じゃない」と警部が吐き出すように言った、「それはほんの外見だけのことでしてね、中味は狂っているんですよ、あの夫婦だって気ちがいにきまってまさあね」警部は歯ぎしりした、「この家に住んでいるやつは、気ちがいにきまっている、この私だって、頭がおかしくなってきそうですよ」
アーバックル夫婦は、二人とも背が高く、がっちりとした体格の中年ものだった。夫婦というよりも、兄妹《きょうだい》といったほうが感じに近い。顔だちはそろって粗野で、皮膚があらく、毛孔《けあな》は大きく油ぎっていた。先祖代々から、めぐりの悪い血と、愚鈍な頭をうけついできた水のみ百姓といった感じで、この家の空気におしひしがれたみたいに、二人ともむっつりとした顔をにこりともさせなかった。
女房《にょうぼう》のほうはおびえきっていた、「昨夜は十一時にやすみましたです、このジョージと一緒に。わたしどもは、それはもうおとなしい人間ですから、こんどのことだって、なにひとつ知りませんです」
警部は不機嫌な口調で言った、「じゃ、二人とも朝までねむっていたというのかね?」
「いいえ」と女房が答えた、「夜中の二時ごろでしたか、ナイト・ベルがなりましたです。ジョージが起きて、ズボンとシャツをつけ下へおりてゆきました」警部はむっつりした顔でうなずいた。たぶん彼は、女房が嘘《うそ》をつくかと期待していたのかもしれない。「ジョージは十分もしないうちにもどってきましたが、『バーバラさんだったよ――玄関の鍵を忘れたそうだ』と言いました」アーバックル夫人は、鼻をならした、「それから、わたしたちはまた寝てしまって、朝まで、なんにも知りませんでした」
亭主のジョージ・アーバックルも、そのもじゃもじゃの頭をゆっくりとうなずかせた、「まったく、そのとおりです、こんどのことについては、私らはなんにも知らないんで」
「君は、尋問されるまで黙っていなさい」と警部は言った、「それでは――」
「アーバックル夫人」と、だしぬけにレーンが呼びかけた。女房は女性特有の好奇心で、老優の顔をジロジロながめた。「毎日、ハッター老夫人の寝室のナイト・テーブルに、果物《くだもの》がおいてあるのですか?」
「はい、ルイザ・キャンピオンがお好きなものですから」
「いま、二階に果物|鉢《ばち》がありますね、あの果物はいつ買ったんです?」
「昨日《きのう》です、わたしはいつも新しい果物をあの鉢のなかにいっぱいいれておくことにしているんです、老夫人がそうしろとおっしゃいますもんですから」
「ルイザさんは、どんな果物でも好きですか?」
「ええ、あのひとは――」
「『はい』と言いたまえ」と警部がきびしく言った。
「はい」と女房。
「ハッター老夫人も?」
「はあ……そうそう梨《なし》がおきらいでした。どんなことがあっても、あれだけは喰べませんです。この家のひとたちは、それを冗談のたねにして、よく笑ったもんです」
ドルリー・レーンは、サム警部と地方検事の顔を、意味ありげに見やった。「ところでね、アーバックル夫人」と老優はおだやかな口調でつづけた、「その果物はどこで買うのです?」
「ユニヴァーシティ広場のサットン果物店ですよ。毎日、新しいのを届けてきます」
「ルイザさんのほかにも、この果物を喰べるひとがいますか?」
アーバックル夫人は、四角い顔をあげて、レーンを見つめた、「なんでまた、そんなことをおききになるんです? そりゃあ、ほかのひとだって果物を喰べますよ。いつもそのために、いくつか、とっておくんです」
「なるほど、昨日配達された果物のなかから、梨を喰べたひとがいますか?」
とたんに女房の顔は、疑惑の影でおおわれてきた。果物のことを、しつこくたずねられるのが、あきらかに心配になってきたのだ。「はあ!」彼女はうわずった声をあげた。
「『はい』なら『はい』とはっきり言いなさい」と警部がまたたしなめた。
「はい……げんに、このわたしが一つ喰べたです、それがどうかしたんですか?」
「いや、べつになんでもないですよ」と、レーンはなだめるように言った、「あんたは梨を一つ喰べた、ほかには、喰べたひとはいない?」
「あの、いたずら――いいえ、あの、子供たちが、ジャッキーとビリーが梨を一つずつ喰べましたです」と彼女はホッと安心して言った、「それからバナナも一本――それもガツガツ喰べるんですからね」
「それで、おなかもこわさなかったのかね」と検事が口をはさんだ、「よく、なんともないものだな」
「昨日、ルイザさんの部屋に果物を持っていったのは何時です?」と、レーンはまたおだやかな口調でたずねた。
「午後でした。ちょうどお昼食のあとで」
「その果物は、みんな新鮮なものばかりだったのですね?」
「はい、はい、二つばかり、まえの日のが鉢のなかにのこっていましたので、わたしがとり出しました。そして新しいのをいれたんです。なにせルイザさんは飲みものと喰べものにはとてもやかましいひとですからね。かくべつ、果物にはそうなんですよ。熟れすぎたり、いたんだりしたのは、こんりんざい、口をつけませんですよ」
ドルリー・レーンはハッとしたようだった。彼はなにか言いかけようとしたが、そのまま、言葉をのみこんで、黙ってしまった。女房はうつろな目で、老優の顔をながめていた。亭主のほうは、その横で足をもじもじさせたり顎をなでたりして、ソワソワしていた。警部と検事は、レーンの態度が解《げ》せない様子だった。二人はじっと老優の顔を見つめた。
「それはたしかですね?」とレーンが口をひらいた。
「まちがいっこありませんとも」
レーンはホッとため息をついた、「昨日の午後、あの果物鉢に梨をいくついれました、アーバックル夫人?」
「二つです」
「なにッ!」警部が叫んだ、「ばかな、そんなはずが――」彼は検事の顔を見、検事はレーンの顔を見た。
「こいつはまったく変ですな、レーンさん」と検事が言った。
だが、レーンの口調はあくまでも冷静だった、「いま言ったことは、はっきり誓えますね、アーバックル夫人?」
「誓えますかって? 二ついれたって、あたしが言ったじゃありませんか、いれた当人がですよ」
「いや、たしかにそのとおりだ。あんたが自分で、その果物鉢を二階へ持っていったんですか?」
「ずっとそうしてきたんですよ」
レーンは微笑した、それは思案深げな表情だった。それから軽く手をふると、腰をおろした。
「こんどは君にきくがね、アーバックル君」と警部がどなるみたいに言った、「昨夜、最後に帰ってきたのはバーバラ・ハッターかね?」
尋問のほこ先が自分にむけられたと見てとると、その住込み運転手は、見る目にもふるえだした。彼は唇を舌でしめした。「その――私にはわかりませんです。お嬢さんをお入れしたあと、私は見回りをして――ドアや窓の戸締りをたしかめるあいだだけしか、階下にいませんでしたし、玄関の戸締りをして、三階の部屋にもどりましたから、そのあと、だれが帰ってきたか、こないものやら、私にははっきりわかりませんので」
「地下室は、どうなっているのだね?」
「あれは使っておりませんです」アーバックルは、こんどはやや自信ありげに答えた、「何年もまえから、しめきっておりますし、表も裏も、板で打ちつけてしまいました」
「そうか」警部はそう言うと、ドアのところまで行き、首を廊下に出してどなった、「おい、ピンカッソン!」
ひとりの刑事がかすれた声で答えた、「はい、警部」
「地下室へ行って、見てきてくれ」
警部はドアをしめると、もとの椅子にもどってきた。かわってブルーノ地方検事がアーバックルにたずねていた、「真夜中の二時だというのに、戸締りを調べて歩くとは、いやに用心深い話だが、これはどうしたわけかね?」
アーバックルは言い訳がましくニッと笑った、「私の癖になっていますんで、はい、それに老夫人からも、ルイザさんが泥棒をこわがるから、戸締りには念をいれるようにと、いつも言われていますんで。昨夜も、寝るまえに見回ったんですが、もう一度たしかめてみようと思ったものですから」
「すると、午前二時には、戸締りには異状がなかったんだね?」とサム警部が口をいれた。
「はい、それはもう一分のすき間もないくらいでして」
「君たち夫婦がこの家に奉公してから、どのくらいになるかね?」
「この四旬節で、まるまる八年ですよ」と、かわって女房が答えた。
「そうか」警部が鼻をならした、「もうこのくらいでいいだろう、ほかになにか、レーンさん?」
老優は安楽椅子に手足をのばしながら、家政婦とその亭主をじっと見まもっていた。「ねえ、お二人とも、このハッター家は、奉公しづらいところだとは思いませんか?」
亭主のジョージ・アーバックルは、にわかに活気づいた、「奉公しづらいか、とおっしゃいましたね?」彼は鼻をならした、「こんなに勤めづらい家族なんか、ほかにいたためしはありませんよ」
「あのひとたちに、いちいち気にいられるような真似《まね》は、とてもできやしませんよ」と女房がやりきれなさそうな口ぶりで言った。
「じゃ、なんだって八年間も、お二人は辛抱なさったのかね?」とレーンがおもしろそうな口調で言った。
「それは旦那さま」とアーバックル夫人は、なんてまあ見当ちがいのことをきくもんだといった調子で答えた、「なんの不思議もあるもんですか、お給金がいいんですよ――ずばぬけていいんですもの。それだからこそ、わたしらは辛抱しているんですよ、でなかったら、だれがこんな家に――」
レーンはあきらかにがっかりしたようだった。「あんたがた、どちらかが、昨日、あのガラスのケースのなかに入っていたマンドリンを見たおぼえはありませんかな?」
夫婦はたがいに顔を見合せると、二人とも頭を横にふった、「ありませんです」とジョージが言った。
「ありがとう」とドルリー・レーンが言った。警部はアーバックル夫婦を部屋からひきさがらせた。
女中のヴァージニア――だれひとり、彼女の姓をたずねようともしなかった――は背のひょろ高い、ギスギスと骨ばったオールド・ミスで、馬のような長い顔だった。さかんに手をもみ合せては、いまにも泣き出しそうな気配《けはい》だった。ハッター家に奉公してから五年になる……仕事に満足している……なによりも仕事が好きだ……お給金は……はい、昨夜ははやくやすみましたから……なんの物音もきかなかったし、なにひとつ見ず、なにも知らなかった……そんなわけで、彼女はあっさり放免された。
刑事のピンカッソンが、その大きな顔いちめんに、ひどい目にあったといわんばかりの色をありありとうかべて、のっそりと図書室に入ってきた。「あの地下室には猫《ねこ》の子一匹いませんよ、警部、もう何年も、足をふみいれたことがないようなありさまで――なにしろほこりが一インチもあつくつもっているんですから――」
「一インチだと?」警部が、さも不愉快げにくりかえした。
「ま、それほどではないにしろ、ドアにも窓にも、手のふれた形跡はありませんし、どこもかしこもごみだらけですが、足跡ひとつないんです」
「大げさな癖はやめろ」と警部はうなり声をあげた、「さもないと、いまに、その針小棒大の癖がたたって、とんでもないことをしでかすぞ。よし、かえれ」刑事が戸口から消えると、いれかわりに巡査がひとり入ってきて敬礼した。「お、なんだ?」と警部が応じた。
「二人の男が玄関に来て、家に入りたいと言っております。一人はこの家の顧問弁護士で、あとの一人はコンラッド・ハッターの共同経営者とか言っていますが、いれてよろしいでしょうか、警部?」
「ばかだな、おれが午前中かかって探していた連中だよ、すぐ通せ!」
二人の来訪者が姿をあらわすと、この図書室には、劇的な、それもいささか喜劇を思わせる空気がうまれた。この二人の男は、きわめて対蹠的《たいしょてき》だったけれど、いっそのこと二人だけだったら親しい友だち同士だったかもしれない。ところが末娘のジル・ハッターが一枚加わったおかげで、たちどころに男同志の親密さは、かき消されてしまったのだ。ジルは美人だったけれど、その顔には、目の下、鼻と口もとの線に、ふしだらな贅沢三昧《ぜいたくざんまい》の生活のかげがあらわれていた。どうやら彼女は、廊下でこの二人の男たちとパッタリ出会ったらしく、男のあいだにはさまれ、その左右の腕にすがりつくようにして図書室に入ってきた。そして悔《くや》みの言葉をせきこんで述べる男たちの顔をかわるがわる悲しげに見つめながら、ただ胸を波うたせ、唇をゆがめているばかりだった……
レーンと警部と検事は、無言のまま、この劇の一場面を見つめていた。この若い女は媚態《コケットリ》の塊《かたまり》だということは、一目でわかる。彼女の微妙な身のこなしは、すべてこれ性《セックス》を思わせ、触れなば落ちん、といった感じだった。二人の男を自分にひきつけ、対立させようという冷酷な計算から、母の死という悲劇すら利用して、男たちを無意識のうちに噛み合せ、対抗させて、手玉にとろうとしているように見うけられる。まったく油断のならぬ女だ、とドルリー・レーンは、胸のなかで手きびしくきめつけた。
だが、同時にジル・ハッターはおびえていたのだ。こうして二人の男をたくみにあやつっているのも、とっさの思いつきというより、なかば身についた習性によるものだった。背が高く、豊満な体躯《たいく》をほこっているくせに――おびえているのだ。彼女の目は、睡眠不足と恐怖とで、まっ赤《か》だった……と、だしぬけに、彼女はいまはじめて、自分の方を見つめている室内の視線に気がついたように、左右の男たちの腕をじゃけんにふりはらうと、鼻の頭に粉おしろいをたたきはじめた。だが、とっくに室内の警部たちに気づいていたのだ……彼女の目は、戸口に足を踏みいれた瞬間に、すべてを見てとったのだ。そしてギクッとしたのだ……
ジル・ハッターのそばについていた二人の男たちも、われにかえり、あわててよそゆきの顔つきをした。この男たちくらい、いちじるしい対蹠を示しているのもめずらしかった。ハッター家の顧問弁護士をしているチェスター・ビグローは、人並みの背の高さの男だが、それがコンラッド・ハッターの共同経営者ジョン・ゴームリーとならぶと、まるで子供ぐらいにしか見えなかった。ビグローのほうは色が黒く、ちいさな黒い口ひげをはやし、顎《あご》は青黒かった。それにひきかえゴームリーは色が白く、麦藁色《むぎわらいろ》の頭髪、あわてて剃《そ》ったものか、顔には赤い剛毛があちこちにのこっている。ビグローの動作は、いかにもきびきびしていて、才気|煥発《かんぱつ》といった印象だが、ゴームリーは鈍重で、石橋をたたいて渡るといったところがある。弁護士の知的な容貌《ようぼう》には、機敏な、むしろ狡猾《こうかつ》に近いところがあったが、ゴームリーは、くそ真面目《まじめ》な顔つきだった。そして、このすごく長身の金髪の青年のほうがはるかに年下だった――ライバルの弁護士よりすくなくとも十歳は若い。
「あたしにもおたずねになることがありまして、警部さん」とジルは、か細い声でたずねた。
「いますぐというわけじゃなかったんですが、ま、せっかくお見えになったのなら……そちらの方にかけてください」警部は、ジル、ビグロー、ゴームリーの三人を、検事とドルリー・レーンに紹介した。ジルは、くずれるように椅子にすわるなり、あのか細い声とおなじように、わざと頼りなげに見せようとしている様子だった。弁護士と株式仲買人の青年は、椅子にかけようともせず、不安げに立っていた。
「それではおたずねしますが、お嬢さん、昨夜はどこにいましたか?」
ジルはゆっくりと、ジョン・ゴームリーの顔を見上げた。「あたしはジョンと――こちらのジョン・ゴームリーと一緒に外出しました」
「くわしくねがいます」
「芝居を観《み》に行って、それから、ある夜会に出かけました」
「帰宅は何時です?」
「ずいぶん早かったですわ、警部さん……今朝《けさ》の五時」
ジョン・ゴームリーはパッと顔をあからめた。チェスター・ビグローはいらだたしげに右足をこきざみに動かした。そしてきれいな歯並みをのぞかせて、微笑した。
「ゴームリー君が家まで送ったのですか? どうなんです、ゴームリー君?」
青年がそれに答えかけようとすると、ジルがあわれっぽい口調でさえぎった、「いいえ、それがちがうんですの、警部さん、その――それがちょっと厄介《やっかい》なことになってしまって」彼女はいともしおらしそうに、床《ゆか》の絨毯《じゅうたん》に目をおとした。「あたし、夜中の一時ごろ、すっかり酔っぱらってしまって、ゴームリーさんと喧嘩《けんか》をしてしまったんです――だって、このひとときたら、まるで自分が風紀取締りの総元締《そうもとじめ》みたいな顔をしているんですもの――」
「おい、ジルったら……」ゴームリーが横から口をだした。顔は、自分のしめているネクタイの色ほども、まっ赤になっていた。
「それでゴームリーさんは、あたしだけおいてさっさと帰ってしまったんです、ほんとに! とにかくすごいおこりようでしたわ、このひと」とジルはあまったるい口調でつづけた、「それから――ええと、それからあとのことはさっぱり記憶がないんです。ただ、ひどいジンを何杯か飲んで、肥った汗くさい男と騒ぎまわったのはおぼえていますけど。あ、そうだ、夜会服を着たまま、声いっぱいはりあげて、大通りを歌いながら歩いたっけ」
「それから?」警部は苦虫《にがむし》をかみつぶしたような顔をしてうながした。
「お巡《まわ》りさんに呼びとめられて、タクシーにおしこめられましたわ。最高にいかす青年だった! 大きくて、たくましくって、ちぢれた茶色の髪……」
「その警官ならよく知っている」と警部が言った、「それで?」
「家についたときはもう酔いもすっかりさめてました。もう夜があけかかってましたわ、あの広場のさわやかな感じ、警部さん――あたしは夜明けが大好き……」
「さだめしあなたなら、夜明けとはおなじみでしょうな、さ、それから? お嬢さん、われわれは忙しいからだなんですからね」
ジョン・ゴームリーの顔は、まさに爆発寸前だった。彼はいまにもどなりださんばかりにのどをならし、こぶしを固め、絨毯の上を歩きまわりだした。ビグローの表情は、まったくつかみどころがなかった。
「それだけですわ、警部さん」と、ジルは目をふせて言った。
「なに、それだけ?」サム警部は、たくましい腕を組んだ、ひとを小ばかにするにもほどがある、といった表情だった。「それならば、お嬢さん、私の質問に答えてください。あなたが帰宅したとき、玄関の錠はおりていましたか?」
「ええと……たしかおりていたと思いますわ、そうだ、おりてました、あの鍵をさしこんで錠をあけるのに、ちょっとてこずりましたもの」
「二階のあなたの寝室へ行ったとき、なにか変ったことを目で見るなり、聞くなりしましたか?」
「変ったことですって? 警部さん、ゾッとするわ」
「つまりね、異常なこと、ただならぬことですよ、あなたの注意をひいたようなもの?」
「べつにありませんわ」
「老夫人の寝室のドアがしまっていたか、あいていたか、気がつきましたか?」
「しまっていましたわ。あたしは自分の部屋に入って、服をぬぎすてると、そのまますぐねむりこんでしまったんです。今朝の騒ぎで起こされるまで、グッスリねむってしまいました」
「それだけでけっこうです。それではゴームリー君、君は午前一時に、このお嬢さんをおいてきぼりにしてから、どこへ行きました?」
ジルの単純な好奇心にみちた視線をさけながら、ゴームリーはつぶやくように言った、「ぼくは下町の方へ歩いて行きました。パーティがあったのは七十六番街でしたから、歩くのに何時間もかかりました。ぼくは十五番街の第七アヴェニュに住んでいるんです、で、家へ帰ったのは――何時ごろだったか、とにかく夜が白みかかっていました」
「ふむ。君がコンラッド君と商売を共同ではじめてから、どのくらいになります?」
「三年です」
「ハッター家のひとたちと知り合ったのは?」
「カレッジ時代からです。コンラッドとぼくは寄宿舎で同室だったので、彼の家のひとたちとは、そのころから近づきになったのです」
「あたし、あなたにはじめて会ったときのことをおぼえているわ、ジョン」とジルが横あいからやさしく言った、「あたしはまだほんの少女だったわね、あのころのあなたはすてきだったかしら? 親切だったかしら?」
「そんな話はやめにしてください」と警部はかみつくように言った、「ゴームリー君はこれでけっこうです。それではビグローさんにおたずねするが、ハッター老夫人の法律上の仕事は、あなたの事務所でいっさいあつかっていたそうですな。老夫人には、事業上の敵がありましたか?」
弁護士はていねいな口調で答えた、「ま、警部さんもよくごぞんじのとおり、ハッター老夫人は、なんと申しましょうか、ごく変った方でして、なにからなにまで尋常ではございませんでした。敵なら、それはもうありました。ウォール街の株の仲買人なら、まず敵でなかったものはありますまい。もっとも、夫人を殺すほど憎んでいたような敵があったとは思われません、いや、これだけは断言できます」
「なるほど、ところで、こんどの事件について、あなたのご意見は?」
「なんともはや痛ましいことで」とビグローは口をすぼめて言った、「申しあげる言葉もないくらいです。それに、ごぞんじのとおり、こんどのことについては、なにもぞんじません、いや、まったく」彼は言葉をきると、あわててつけ加えた、「それに、二か月まえにキャンピオンさんを毒殺しかけた犯人についてもぜんぜん心あたりがありません、これは、たしかまえにも申したとぞんじますが」
検事はいらいらしていた、「警部、これではいっこう|らち《ヽヽ》があかないね、ビグローさん、遺言状《ゆいごんじょう》はありますか?」
「ございます」
「なにか変った点は――?」
「あるといえばありますし、ないといえばないようなもので――」
と、そのとき、ドアをノックする音がしたので、みんなはいっせいにふりむいた。警部はノッシノッシと部屋を横ぎると、ドアのすき間を二インチばかりあけた。
「ああ、モッシャーか? なんだ?」
大男のモッシャー刑事のなにか言う声が太いバスできこえた。「だめだ!」と警部がきっぱりはねつけた。それからクックッとのどの奥で笑うと、モッシャーの鼻先で、ドアをバタンとしめた。警部はブルーノ検事のそばにもどると、なにやら耳にささやいた、すると検事の表情には興奮をおしかくそうとする色がうかんだ。
「それで――ビグローさん」と検事がうながした、「そのハッター老夫人の遺言状を、相続人たちにいつ発表するのですか?」
「葬儀の終了後、火曜日の二時でございます」
「そうですか、それではそのとき、詳細をうかがえるわけですな、ではこれで――」
「ちょっとたずねたいことがあるのですが、ブルーノさん」と、ドルリー・レーンが、検事におだやかな声をかけた。
「どうぞ」
レーンは、ジル・ハッターの方に顔をむけた。「いつもこの部屋にしまってあるマンドリンを最後に見たのはいつですか、お嬢さん?」
「マンドリンですの? 昨夜の食事のあとですわ――あたしがジョンと一緒に出かけるほんのすこしまえ」
「それでは、お父さんの実験室に最後に入ったのは?」
「あの鼻にツンとくる部屋?」とジルは美しい肩をすくめてみせた、「もう何か月もまえですわ。いいえ、それどころじゃない、もっともっとまえですわ。あんなところは、あたし、大きらいですし、それに父も、あたしが行くことを好みませんでしたもの。いくら親子でも、おたがいのプライヴァシーは尊重《そんちょう》していましたからね、それにあんなうすぎたないところなんか」
「いかにも」とレーンはニコリともせずに言った、「お父さんが失踪《しっそう》してから、あの二階の実験室へ行きましたか?」
「ぜんぜん」
老優は頭をさげた――それもほんの形だけの会釈《えしゃく》だった、「ありがとう」
「では、おひきとりください」とサム警部が言った。
二人の男と末娘は、すたすたと部屋から出ていった。廊下に出るとチェスター・ビグローは、たくみにジルのひじをつかんだ、彼女は微笑をうかべて、その顔を見上げた。ジョン・ゴームリーは、苦虫をかみつぶしたような顔をして、その二人が客間に消えてゆくうしろ姿をにらみつけていた。彼は一瞬、ためらいがちにたたずんだが、やがてあやふやな足どりで廊下を行ったり来たりしはじめた。あたりをぶらぶらしている数人の刑事が、それをただ見まもっていた。図書室にのこった三人の男は、たがいに顔を見合わせた。ことさら口にだして言うまでもあるまい、といった空気だった。サム警部は戸口に行くと、ルイザ・キャンピオンの看護婦を刑事に呼びにやらせた。
スミス看護婦の尋問は、まったく予期に反して、いろいろと興味ある点があきらかにされた。見るからに体格のいい看護婦は、その職業柄、女性の弱さを卒業していて、その答え方もはじめのうちはキビキビと事務的にさばいていった。昨日ガラスのケースに入っているマンドリンを見たか? これに対して、思い出せないと彼女は答えた。ルイザ・キャンピオンの寝室にひんぱんに出入りしたのは、亡《な》くなったハッター老夫人のほかにはあなただけか? これには、「はい」と答えた。いかなる理由にしろ、これまでにマンドリンがルイザの部屋にあるのを見たことがあるか? これに対しては、「いいえ」だった。ヨーク・ハッターの失踪《しっそう》以来、そのマンドリンはガラスのケースにおさまっていたし、自分の知っているかぎりでは、どんな理由であれ、そこからとり出されたためしはなかった、と彼女は言った。
レーン――「ハッター老夫人はべつとして、ルイザの果物鉢《くだものばち》の果物を喰べたものがありましたか?」
スミス――「いいえ、ありません。ルイザさんの部屋は、家族のほかのひとたちから敬遠されていましたし、老夫人からかたく禁じられているというのに、あのかわいそうなルイザさんのものを横取りしようなどと考えるひとは、まずいないと思います。むろん、あのおちびさんたちがこっそりしのびこんで林檎《りんご》の一つやそこらをくすねることもたまにはあったでしょうけど、老夫人が子供たちにはとても厳しいので、そんなことはめったにないのです。最近では、三週間ばかりまえにそんなことがあって、老夫人がジャッキーを鞭《むち》で打ったり、ビリーを頭からガミガミ叱《しか》りつけたりして、ほんとに大騒ぎでした。ジャッキーが、いつものようにちいさな頭をのけぞらしてギャーギャー泣きわめくと、母親のマーサさんがとんできて、自分の子供がぶたれたということから、例のように老夫人にくってかかって、大喧嘩になったのですが、こんなことは、はじめてのことではないんです。奥さま――これはマーサさんのほうですけど、マーサさんは、ふだんはとてもおとなしいひとなんですけど、それが子供のこととなると、カッと頭に血がのぼってしまうんです。マーサさんとハッター夫人――これはお姑《しゅうと》さんのほうですが――この二人は、子供たちの躾《しつ》けはだれがするのが本筋かということで、年じゅう、口喧嘩をなさっていたのですよ……あら、すみません、すっかり脱線してしまいまして」
レーン――「なに、スミスさん、たいへん興味のあるお話でしたよ」
ブルーノ検事――「レーンさん、そんなことより、問題は果物ですよ。昨夜、ナイト・テーブルの果物鉢に、あなたは気がつきましたか、スミスさん?」
スミス――「はい」
検事――「鉢の果物は、今日《きょう》のものとおなじだったですか?」
スミス――「そのように思います」
サム警部――「ハッター老夫人を最後に見たのはいつです?」
スミス――(さすがにこのあたりから神経過敏になりだす)「昨夜の十一時三十分ごろでした」
警部――「そこのところを詳しく説明してください」
スミス――「ルイザさんがおやすみになるまえの用事は、いつも老夫人がなさるのですが、私が最後の見まわりに行ってみますと、ルイザさんはもうベッドのなかに入っていました。私はルイザさんの頬《ほお》をかるくたたいて、もうご用はないかと、点字盤をつかってたずねてみたのです。するとルイザさんは、ない、と答えました――むろん、例の手文字で」
警部――「それはもう承知しています、さきを」
スミス――「それから、果物が喰べたいかとたずねて、私は果物鉢の方に顔をむけたのです。ルイザさんは、いらない、と答えました」
レーン――(ゆっくりと)「するとあなたは、なかの果物を見たわけですね」
スミス――「はい」
レーン――「梨はいくつありました?」
スミス――(その強情そうな目にありありと驚きの色をうかべて)「あら、変ですわ! 昨夜は二つしかなかったのに、今朝は三つになっていました! どうしていままで気がつかなかったのかしら……」
レーン――「それはたしかなんですね、スミスさん? これは、きわめて重大なんですよ」
スミス――(熱心に)「たしかに二つでした、まちがいはありません」
レーン――「そのなかの一つは腐っていましたか?」
スミス――「腐って? とんでもありません、二つともよく熟していて、見た目には新鮮でした」
レーン――「そうですか! いや、ありがとう、スミスさん」
サム警部――(吐き出すように)「いったい、またなんで――ま、いい、スミスさん、そのあいだじゅう、老夫人はなにをしていたんです?」
スミス――「例の旧式な寝間着《ねまき》に着かえて、ベッドにお入りになるところでした。それでちょうど――婦人がベッドに入るまえにどうするものか、よくごぞんじでしょう」
警部――「よくわかっていますとも、私にも女房がありますからな。で、老夫人はどんな様子でした?」
スミス――「とりつくしまもないといった感じで――でも毎度のことですわ、ちょうどお風呂からあがったところだったので、いつもよりお元気そうに見えました――奥さまとしてはですけど」
警部――「それで、あのナイト・テーブルの上にバス・パウダーの箱があったというわけか!」
スミス――「いいえ、あのパウダーの箱はいつもテーブルの上においてあるんです。かわいそうなルイザさんは、いい匂いのするものなら、なんでもお好きで、それでタルカム・パウダーのかおりがお気に入りだったんです――いつも、あれを自分でつけるのです」
警部――「テーブルの箱に気がつきましたか?」
スミス――「はい」
警部――「蓋《ふた》があいてましたか?」
スミス――「いいえ、しまっていましたわ」
警部――「きっちりと?」
スミス――「ええと、あまりかたくないように思いましたけど、ゆるかったように見えましたわ」
ドルリー・レーンはうなずくと、会心の微笑をうかべた。サム警部はぶっきらぼうに顎をしゃくって、このささやかな勝利をみとめた。
ブルーノ検事――「スミスさん、あなたは正規の看護婦ですか?」
スミス――「はい」
検事――「このハッター家に来てからどのくらいになります?」
スミス――「四年になります。ひとりの患者にこれほど長く付添《つきそ》っているのは、たしかにめずらしいことだとはぞんじていますが、私もだんだん年をとってまいりますし、お給料もいいし、それに渡りあるくのも気がすすみませんので――第一、ここの仕事はとても楽なんでございますよ、おまけにルイザさんがとても好きになってしまって、ほんとにおかわいそうですわ――これといって、生きる愉《たの》しみなどほとんどないのですからね。正直なところ、こちらでは看護婦の技術など無用といってもいいくらいのものです。ま、看護婦というより、ルイザさんのお相手みたいなものでございますよ。それも、私はたいてい昼間だけで、夜分《やぶん》はハッター老夫人がお世話をなさっていましたから」
検事――「もうすこし、簡潔におねがいしましょう、スミスさん。昨夜、その寝室を出てから、あなたはなにをしましたか?」
スミス――「おとなりの自分の部屋にかえり、やすみました」
検事――「夜中に、なにか物音をききましたか?」
スミス――(顔をあからめて)「いいえなにも――ぐっすりとねむりこんでしまう|たち《ヽヽ》ですから」
サム警部――(スミス看護婦のからだをジロジロながめて)「いや、もっともです。ところで、あなたのあわれな患者さんに毒を飲ませようと考えるような人間に心当りがありますか?」
スミス――(目をパチパチさせて)「まあ、とんでもない!」
警部――「ヨーク・ハッターのことはよく知っていますか?」
スミス――(ホッとして)「はい、とてもおとなしい小柄の方で、老夫人には頭があがらなかったようですけど」
警部――「彼の化学の実験については知っていますか?」
スミス――「ほんの少しです。あの方は、私が看護婦なので、いくらか共通点があると考えておいでのようでしたわ」
警部――「その実験室に行ってみたことがありますか?」
スミス――「二、三回入りました。一度、モルモットに血清《けっせい》注射をして、実験するから見にこないかと呼ばれたことがありました。とてもおもしろく、ほんとに勉強になりましたわ、以前にも、その道の権威の――」
レーン――「あなたの看護用具のなかには皮下注射器があるでしょうな?」
スミス――「はい、二つあります。大型と小型と」
レーン――「二つとも、ちゃんとありますか? その用具箱のなかから、そのうちの一つが盗まれるようなことはありませんね?」
スミス――「いいえ、ほんのいましがた、たしかめてきたばかりですから。ルイザさんの部屋で注射器が発見されて――シリング先生とおっしゃいましたか――その先生がその注射器を持って部屋に入っていらっしゃったので――ひょっとしたら、だれかが私の用具箱からそれを盗み出したのかもしれないと思ったのです。でも二つとも、ちゃんと入っておりました」
レーン――「ハッター老夫人の部屋で見つけられた注射器の出所について、なにか心あたりでも?」
スミス――「そうですわね、二階の実験室になら何本かありますけど」
警部 検事――(同時に)「ああ!」
スミス――「……ハッターさんが、実験でお使いになっていましたから」
レーン――「その数は?」
スミス――「それはぞんじません、でも実験室の備品は一つのこらずインデックス・カードに記入し、あの部屋の鉄の戸棚《とだな》のなかに入れてありますから、そのカードをごらんになれば注射器の本数がわかるかもしれません」
「さ、どうぞ、ペリーさん」サム警部は、飢えた蜘蛛《くも》が獲物《えもの》をたらしこむような口調《くちょう》で言った、「お入りください、あなたとちょっとお話したいことがあるので」
エドガー・ペリーはドアのところでためらっていた。一見して彼は、行動するまえにかならず躊躇《ちゅうちょ》するといったタイプの男だった。背は高くやせていて――年のころは四十五、六――いかにも学究|肌《はだ》といった感じ。剃刀《かみそり》あとも青々とした顔は、禁欲者じみていて、敏感で端正だった。年齢よりはかなり若く見える、それはひとみのかがやきと、その深みに負うているからだ、とレーンは見てとった。彼はゆっくりと入ってくると、警部がすすめた椅子《いす》に腰をおろした。
「たしか、子供たちの家庭教師の方ですね?」とレーンはペリーにあかるくほほえみながら、たずねた。
「はあ、そうです」とペリーはかすれた声で言った、「そう――どういうご用件でしょうか、警部さん?」
「なに、とるにたりないことですよ」と警部は答えた、「たいしたことじゃありません」
一同は椅子に腰をおろしたまま、たがいに顔を見合わせていた。ペリーはおどおどしていた。たえず唇《くちびる》をなめまわし、自分に集中されている刺すような視線を意識して、ほとんど足もとの絨毯に目をおとしてばかりいた……はあ、マンドリンに手をふれることを禁じられていたことは知っていました――いいえ、ヨーク・ハッターの実験室には、一度も足をいれたことはありません――科学に特別な関心をもっていたわけでもないし、それに老夫人から厳命されていたものですから――ハッター家の家庭教師になったのは今年の正月の七日ごろのことです――自分のまえにやとわれていた家庭教師は、マーサと口論してやめたんです。それも、ある日、ジャッキーが風呂のなかに猫《ねこ》をおしこんで溺死《できし》させようとしたので、その家庭教師が、ジャッキーを鞭で打ったところ、母親のマーサが見とがめて、すごいけんまくでくってかかったからなんですよ――
「で、あなたは、そのいたずら小僧どもとうまくいっているんですか?」と警部がするどく切りこんだ」
「ええ、それはもう。うまくいくようにやっていますからね」とペリーは口のなかでつぶやくように言った、「ときにはてこずるような場合もありますが、うまい方法を考えついたんですよ」――彼はてれくさそうに苦笑した――「信賞必罰というやつで、これは効果てきめんですね」
「こんな家に勤めているのも、なかなか楽じゃないでしょうな」と警部は無遠慮に言った。
「はあ、ときにはそう思うこともありますよ」ペリーはやや活気づいて、本音《ほんね》を吐いた、「なにしろ、あの子供たちときたら、乱暴をするきらいがありましてね、それに――これはなにも非難するつもりではないのですから、どうか誤解なさらないように――どうもご両親が、子供の訓育にはむいていないような気がするのです」
「とくに、あの父親がね」とサム警部が言った。
「まあ、子供たちの模範とは言いがたいでしょうね」とペリーは言った、「私もときには辛抱しづらいようなこともあるんですが、そうはいっても――お金がほしいですし、それに給料がとてもいいのです。いままでになんどか……」彼はなにもかもばらしてしまいたいような衝動《しょうどう》にかられて、つづけた、「いっそのこと辞《や》めてしまおうかと思ったことだってあるんですが、しかし――」
彼はそこまで言うと、自分のむこうみずに愕然《がくぜん》としたらしく、あわてて口をつぐんだ。
「ひとつ、そのさきをきかせてくださいな、ペリーさん」とレーンがはげますようにうながした。
「――しかし、気ちがいじみた家庭であるにしろ、それをおぎなってくれるものがあるんです」彼は咳《せき》ばらいをすると、言った、「つまり――お嬢さんがいるからなんです――その、バーバラ・ハッターさんのことですよ。私は彼女を――いや、彼女のすばらしい詩を心から敬愛しているのです」
「なるほど」とレーンが言った、「芸術的な尊敬なのですね。ところでペリーさん、この家でいろいろと起こる奇妙な事件について、あなたはどうお考えになります?」
ペリーはパッと顔面を紅潮させた、だが彼の口調には、まえよりもきっぱりしたひびきがこもってきた。「私には説明がつきません。ただ、一つのことについて、私には不動の確信があります。つまり、ほかのひとたちが事件にかかりあいがあろうとなかろうと、バーバラ・ハッターさんだけは、こんな恥しらずの――犯罪とは絶対に無関係だということです。あんなりっぱな、あんなすばらしい才能のある女性が――そうですとも、あんなに正気な、心のやさしいひとが……」
「いや、けっこうなご意見です」とブルーノ検事がおもおもしく言った、「さだめしバーバラさんもよろこばれましょう。ペリーさん、外出するのは何日ぐらいです――むろん、この家に住み込んでいるのでしょうが?」
「三階の部屋に住んでいるのです――屋根裏ですよ。長い休暇をとるようなことは、めったにありません。正直なところ、みじかい休暇を一度だけとっただけです――四月に五日間ですが。そのほかは、日曜日が休みで、たいがい外出して、ひとりですごすことにしているんです」
「いつもひとりですか?」
ペリーは唇をかんだ。「いや、そうは言えないかもしれません、バーバラさんが数回、私の外出につきあってくださったことがあるんです」
「そうですか、ところで昨夜はどこにいたのです?」
「早めに自分の部屋にひきあげ、一時間ばかり読書をして、それからやすみました。ですから」と彼はつけ加えた、「今朝まで、なにも知らずにねむっていたというわけです」
「そうでしょうな」
沈黙があたりをしめた。ペリーは椅子の上でからだをもじもじさせた。警部の目には冷厳な光がひらめいた……「ルイザ・キャンピオンが果物が好きで、いつもナイト・テーブルの上に果物鉢がのっているのを知っていますか?」ペリーは当惑したような表情をうかべた、「はあ、知っていますけど、それがどうかしたんですか?」「では、ハッター老夫人は、果物に好き嫌いがあったかどうか、知っていますか?」ペリーは無言のまま、肩をすくめただけだった。それからまた沈黙――
ドルリー・レーンはしたしげな口調で口をひらいた、「さきほど、あなたがはじめてこの家に来たのは一月早々だと言われたが、するとペリーさん、あなたはヨーク・ハッターと一度も会わなかったわけですね?」
「はあ、そうなんです。私はヨークさんのことについては、ごくほんのすこししかきいていませんし、それもバーバ――いや、お嬢さんからうかがっただけなんです」
「三か月まえ、ルイザさんが毒殺されようとしたことは覚えていますか?」
「それは覚えていますとも、なにしろおそろしい事件ですから。あの日の午後、私が外出から帰ってくると、家のなかはひっくりかえったような騒ぎでした。いや、ほんとにびっくりしましたよ」
「ルイザさんのことを、どの程度、知っていますか?」
ペリーの声はたかまり、その目はキラキラとかがやきだした。「ま、知っているほうです、ええ、かなりよく知っていますよ! じつに注目すべき婦人です。むろん、私が彼女にいだく興味は、純粋に客観的なものであって――教育の分野において、彼女の存在はまさにおどろくべき研究課題です。彼女のほうでも、しだいに私がわかってきて、いまでは私を信頼していると思うのです」
レーンは考え深げだった、「いまさっき、あなたは、科学には興味がないと言いましたね、ペリーさん。するとあなたは、あまり科学の方面の勉強をなさらなかったわけだ、たとえば、病理学については、くわしくないでしょうね?」
警部と検事は、けげんそうに視線をかわしあった。だがペリーは、そっけなくうなずいてみせただけだった。「あなたのおたずねの意向は、よくわかりますよ。つまり、ハッター家の家族の異常性を説明するものとして、その背後に、なにか病理学的な根本原因がひそんでいるにちがいないと、あなたはお考えになったのでしょう?」
「まさにそのとおりですよ、ペリーさん」とレーンは微笑しながら言った、「で、あなたは私の意見に賛成ですか?」
家庭教師は、いやに固苦しく答えて、「私は医者でもなければ、心理学者でもないのです。とにかく、この家のひとたちは――異常ですよ、それは私もみとめます、しかし、それ以上のことは私にはわかりません」
サム警部がいきなり椅子から立ちあがった、「この話は、それくらいにしようじゃありませんか、あなたは、どうやって、いまの|くち《ヽヽ》を見つけたんです?」
「コンラッド・ハッター氏が、家庭教師を求める新聞広告を出したのです。ほかに応募者もかなりいたんですが、幸いにも私がえらばれたというわけです」
「そうですか、すると紹介状を持っていたわけですな?」
「はあ、持っていました」
「いまでも、持っていますか?」
「はあ……あります」
「拝見させていただきたいものですな」
ペリーはよくのみこめないといったように目をパチパチさせたが、やがて椅子から立ちあがると、図書室から急ぎ足で出ていった。
「なにかある」ペリーがドアをしめたとたんに警部が言った、「やっと手ごたえがあったぞ、どうやら見とおしがついてきたじゃありませんか、検事さん」
「いったい、なんのことです、警部さん?」とレーンが微笑しながら言った、「ペリーのことですか? それだったら、ロマンスの徴候、歴然というだけのことで、ほかにはべつに――」
「いや、ペリーのことではないんです、ま、しばらく黙って見ていてください」
ペリーが、細長い封筒を手にしてもどってきた。警部はそのなかから厚い紙を一枚とり出すと、いそいで目をはしらせた。いたって簡単な推薦状で、エドガー・ペリー氏は、当家の家庭教師として、その職責をりっぱに果たした、職を辞したのは、なんら教師としての無能力によるものではない、としたためてあって、ジェームズ・リゲットの署名があり、パーク・アヴェニュの住所が書いてあった。
「けっこうです」警部はその紹介状を返しながら、ほかのことを考えているような口調で言った、「大切にとっておくんですな、ペリーさん、ではご苦労さまでした」
ペリーはホッとため息をつくと、ポケットにその封筒をつっこみ、図書室からあわてて出ていった。「さて」警部は、その大きな手のひらをすり合わせながら言った、「いよいよ、これからがひと苦労だぞ」彼はドアのところへ行った、「おい、ピンク! コンラッド・ハッターをよんできてくれ」
いままでのながい会話、あきあきするような尋問、まるで霧につつまれたような疑惑と不明確、これらすべてのものが、いまの警部の言葉を待ちに待っていたといった感があった。実際には、そんなわけはなかったが、いかにもそのように感じられたのだ。ドルリー・レーンですら、サム警部のいやにはずんだ声をきくと、心臓の鼓動《こどう》が早くなるのを感じた。
といっても、コンラッド・ハッターの登場も、これまでの尋問とさしてかわらず、けっしてはなばなしいものではなかった。コンラッドはしずかに部屋のなかに入ってきた――背の高い、そわそわした男で、その顔にはあれはてた生活の刻印がふかくつけられていた。彼は感情の動きをじっと押し殺しているようだった。まるで薄氷の上を踏むような足どりで、彼は用心深く歩いてきた。そして中風《ちゅうぶう》患者みたいな不自然さで頭をぎごちなくもたげていた。その額はじっとりと汗ばんでいた。だが、彼が椅子に腰をおろすやいなや、見せかけの平穏さは、無惨にも粉砕されてしまった。図書室のドアがすごい勢いで開くと、廊下にドタンバタンという物音が起こり、ジャッキーとビリーがおどりこんできたのだ。ジャッキーはインディアンの叫び声をあげながら、あぶない足どりで逃げてきたちびのビリーを追いたててきたのだ。ジャッキーは、泥《どろ》だらけの右手に玩具《がんぐ》のトマホーク(インディアンの戦斧)をふりかざし、ビリーはうしろ手にガムシャラにしばられていた。さすがのサム警部も、これにはあいた口がふさがらなかった。
新しい旋風《せんぷう》が、すぐそのあとから吹きまくった。母親のマーサ・ハッターがやつれた顔をひきつらせて、二人の子供のあとを追って、図書室にとびこんできたのである。親子三人とも、室内のものには目もくれなかった。母親は、レーンの椅子のうしろでジャッキーをつかまえると、ものも言わずにその顔をひっぱたいた。少年は、ビリーの頭の上でヒヤヒヤするほど振りまわしていたトマホークを手からとり落すと、頭をのけぞらして大声で泣きだした。「ジャッキー! ほんとにおまえって子は!」母親は金切り声でわめいた、「ビリーにそんなひどい真似をするんなら、ママにだって覚悟があるよ」
こんどはビリーが泣きだした。
「やめてください!」と警部がどなった、「自分の子供のお守りもできないんですか、奥さん! すぐつれ出してください」
しんがりにかけこんできたのは家政婦のアーバックル、それから不運な警官ホーガンがヨタヨタと走りこんできた。この三人につかまるまえに、ジャッキーは腕白《わんぱく》そうな目つきで迫害者たちをにらみつけた。と、少年は痛快そうにホーガンの足をけった。一瞬、見えるものといったら、ふりまわされる腕と赤い顔だけだった。コンラッド・ハッターは、とうとうがまんしきれなくなって、椅子から腰をうかした。薄青いひとみに、憎悪《ぞうお》の光が燃えあがった。「ぐずぐずしないで餓鬼《がき》どもをつれ出せ、ばか!」彼は声をふるわせてマーサをどなりつけた。彼女はギクッとすると、ビリーの腕をはなし、顔をまっ赤《か》にして、はじめてあたりの様子に気づいたようにおびえた目で見まわした。家政婦とホーガンが二人がかりで子供たちを部屋からつれ出した。
「やれやれ」検事がふるえる手でタバコに火をつけながら言った、「もう二度と、こういうことは勘弁してもらいたいものだね……ついでだから奥さんにものこってもらいましょうか、警部」
警部はためらった。すると、思いがけなくもレーンが、同情の色を目にうかべて、立ちあがった。「さ、奥さん」老優はやさしく言った、「椅子にかけて、気をしずめてください、なに、心配なさることはありません。なにもあなたをどうこうしようというわけではありませんから」
マーサは血の気の失せた顔で、椅子にドサッと腰をおろすと、夫のつめたい横顔を見つめた。コンラッドは感情を爆発させたことを後悔しているらしく、いまはうなだれて、なにやら口のなかでつぶやいていた。レーンはそっと部屋の一隅《いちぐう》にしりぞいた。
ほどなく事件にかかわる重要なことがきき出せた。夫妻とも、その前夜、ガラスのケースにマンドリンが入っているのを見ていた。しかもコンラッドはきわめて重要な事実を証言したのだ。彼は真夜中に帰宅したのである、正確には午前一時三十分。寝酒《ねざけ》を一杯やろうと、階下の図書室に足をとめた。「この戸棚には酒がたっぷりあるんですよ」彼はおちついた口調で、近くの象眼《ぞうがん》で飾った酒瓶棚《さけびんだな》を指さした。このとき、いつもと変りなくマンドリンがケースのなかに入っているのを見たのだ。
サム警部はわが意を得たりとうなずいた。「こいつはすごいぞ」彼はブルーノ検事に言った、「これで事件の輪郭がつかめてきますよ。ケースからマンドリンを持ち出した犯人がだれであれ、おそらくそれは犯行直前だったんですな。ハッターさん、あなたは昨夜、どこに行っておられたんです?」
「なに、商用ですよ」と彼は答えた。
マーサ・ハッターは血の気のない唇をかんだ。彼女は、夫の横顔を穴のあくほどじっと見つづけていたが、コンラッドのほうは、見むきもしなかった。
「午前一時に商用ですか?」と警部は痛いところをついた、「なに、それはいっこうかまいませんがね、図書室から出て、どうしました?」
「なんだと!」いきなりコンラッドはどなった。あまりだしぬけだったものだから、警部は目をほそめ、歯をむき出してキッと身構えた。コンラッドの頸《くび》は、興奮にかられてふくれあがった、「いったい、なんのあてこすりなんだ? 商用だと言ったら、商用にちがいないんだ!」
サム警部はただじっとしていた。やがてからだから力をぬくと、しずかに言った、「いや、そのとおりでしょう。ところで、この図書室を出てからどこへ行きました、ハッターさん?」
「二階の寝室ですよ」興奮するのも早いが、それがしずまるのも早かった、コンラッドはつぶやくように言った、「妻はもうねむっていました。朝までなにも知りませんでしたよ、酔いつぶれていたので――死んだみたいにねむってしまったんです」
警部は言葉の言いまわしにまで気をくばりだした、「よくわかりました、ハッターさん」と言ってみたり、猫なで声で、「ありがとうございました、ハッターさん」などと言ったりした。検事はおかしさをかみころし、レーンはさもおもしろそうに警部の顔を見まもっていた。また蜘蛛《くも》が、興奮しやすい蠅《はえ》を巣のなかにおびきよせようとしているのだ――と老優は胸のなかでつぶやいた。
コンラッドは、そのまま椅子に腰かけていた。サム警部は、こんどはマーサにほこ先をむけた。彼女の話は簡単だった。十時に子供たちを子供部屋に寝かしつけ、公園へ散歩に出かけた。十一時近くに帰ってくると、そのまますぐやすんだ。夫が帰ってきたのは、まるっきり知らなかった。ベッドはべつべつだったし、昼間の子供たちのいたずらで、すっかり疲れきっていたから、死んだみたいにねむっていた、というのである。
いまは警部も、のんびりした態度で尋問をつづけていた、いままでの、あのいらいらした感じは、すっかり影を消してしまった。型どおりの質問、型どおりの応答といったくりかえしでも、おおらかにかまえて、ひどく満足そうだった。しかし、ハッター老夫人が実験室の出入りを禁止して以来、二人とも入ったことはなく、また、ルイザのナイト・テーブルに毎日果物鉢がおかれるというこの家の習慣も、老夫人は梨《なし》がきらいだということもよく知りつくしていた。
だが、コンラッド・ハッターの血液に潜伏しているウイルスは、いつまでもジッとしていてはくれなかった。警部がヨーク・ハッターのことで、ほんのとるにたりないようなことを質問した。コンラッドは顔をしかめたが、肩をすくめて言った、「おやじのことですか? まったくの変物《へんぶつ》ですよ、半気ちがいです。話すことなんか、たいしてありませんね」
マーサは息を吸いこむと、夫の顔をけんのある目でにらみつけた。「かわいそうなお父《とう》さまは、死ぬように追いつめられたようなものじゃありませんの、それなのにあなたときたら、お父さまのために指一本動かさなかったのだわ」
するとまた、あの奇妙な激情がコンラッドを襲った。みるみるうちに頸筋の血管がふくれあがると、一気に爆発した。「よけいなことを言うな! おまえの知ったことか、牝豚《めすぶた》め!」
形容のできない沈黙が座をしめた。あのサム警部でさえ、おどろいて、のどの奥でうなっていた。ブルーノ検事がひややかな口調でつよく言った、「言葉をつつしんでいただきたいものですな、ハッターさん、これは私とサム警部の仕事なんです。すわってください!」コンラッドは目をパチパチさせて、椅子に腰をおろした。「では答えてください」とブルーノ検事はつづけた、「ルイザ・キャンピオンがこんどもまた殺害されかかったことについて、どう考えます?」
「殺害されかかった? それはどういう意味です?」
「そうです、まさにルイザさんは殺害されようとしていたのです。あなたのお母《かあ》さんが殺されたのは、ほんの偶然にすぎないと、われわれはにらんでいるのです。昨夜、あの寝室にしのびこんだ犯人の真の目的は、ルイザさんの喰べる梨に、毒を注射しておくことだったのです!」
コンラッドはばかみたいにポカンと口をあけた。マーサは疲れた目をおさえた、これ以上の悲劇がまたとあろうか、とでも言いたげに。彼女が顔から手をおろすと、その顔は嫌悪《けんお》と恐怖でゆがんでいた。「ルイザ……」コンラッドは口のなかでつぶやいた、「それに偶然……ぼくにはわからない……なんだってまた……ぼくにはさっぱりわからない」
ドルリー・レーンがため息をついた。
ついに、その時がきた。だしぬけにサム警部がドアの方に歩きだした、思わずマーサは、ハッとして胸に手をあてた。警部はドアのところで立ちどまると、クルッとふりかえった。
「あなたは今朝《けさ》、お母さんの死体と部屋をいの一番に見ましたね――姉のバーバラさんとスミス看護婦と一緒に」
「そうですよ」とコンラッドはゆっくり言った。
「緑色の絨毯にタルカム・パウダーの靴跡《くつあと》がついているのに気がつきましたか?」
「ぼんやりとね、なにしろぼくは興奮してましたから」
「興奮?」警部はつま先で立つと、前後にからだをゆすった、「ま、いずれにしろ靴跡には気がついたわけですな、よろしい、これで万事決着だ」彼はドアを力いっぱいあけるなり、大声で呼んだ、「モッシャー!」
さっきジル・ハッターとビグローとゴームリーの三人を尋問していたとき、警部になにかささやいた大男の刑事が、命令にしたがって部屋に入ってきた。彼は息をきらせながら、左手を背中にまわしていた。
「いま、あの靴跡を、ぼんやりとだが見たと言われましたな」サム警部は注意深くドアをしめてから言った。
疑惑と恐怖、それにあの突発的な激情の色が、コンラッドの顔にみなぎった。彼はパッと立ちあがると、大声でわめいた、「言ったとも!」
「いや、けっこうです」とサムはニヤニヤ笑いながら言った、「モッシャー、君たちが見つけたものを、この方にお見せしたまえ」
モッシャー刑事は、まるで奇術師のようなあざやかな手さばきで、左手を前方にさし出した。レーンは悲しげにうなずいた――老優の想像どおりだったのだ。モッシャーの手には一足の靴があった……白いズックのオックスフォード型短靴で、つま先がとがってはいるものの、一目で男ものだということがわかる。はき古されていて、黄色に変色し、すっかりよごれていた。コンラッドはまたたきひとつせずに、それを見つめていた。すでに立ちあがっていたマーサは、椅子の腕をつかんだまま、血の気のない顔をひきつらせていた。「この靴を見たことがありますかね?」とサム警部はさも愉快そうに言った。
「こ、こいつはぼくの古靴ですよ」とコンラッドはどもりながら言った。
「どこにしまっておいたんです?」
「どこって――二階のぼくの寝室の衣服戸棚のなかですよ」
「最後にはいたのはいつです?」
「昨年の夏です」コンラッドはゆっくりとマーサの方に顔をむけると、なにかを押し殺すような声で言った、「たしか、捨ててしまえと言ったはずだよ、マーサ」
マーサは青ざめた唇をなめた、「忘れていたわ」
「まあまあハッターさん」と警部が口をだした、「また癇癪《かんしゃく》はごめんですよ。それよりも、私の言うことをよくきいてください……なぜ私が、この靴をあなたに見せるか、おわかりですか?」
「ぼくは――いや、わかりませんね」
「わからない? ではお教えしましょう」サム警部はまえに足を踏み出した。見せかけの親しみの影は、その顔からあとかたもなく消え去っていた。「君のこの靴の跡が、老夫人を殺した犯人が絨毯の上にのこしていった足跡とピッタリ一致すると言ったら、君だって、さぞかしおもしろいことだろう!」
マーサはちいさな声をあげたが、無分別なことをしたとでもいうように、いそいで手の甲を口におしあてた。コンラッドはまたたいた――これが癖だな、とレーンは心のなかで思った。コンラッドは、すっかり混乱状態におちいりつつあった。この男の、以前にはあったかもしれぬ理性も、アルコールのために、すっかりだめになるところなのかもしれない……「それがどうしたというんです?」とコンラッドはひくくボソボソと言った、「このサイズと型の靴が、世界にたった一つしかないというわけじゃあるまいし――」
「まさにそのとおり」とサム警部がとどろくような音声で言った、「だがね、君、犯人の靴跡と一致するばかりか、二階の部屋の絨毯にこぼれていた粉末とおなじものが、つま先にも踵《かかと》にもついているのは、この家のなかでは、この靴一足きりなんだぞ!」
第四場 ルイザの寝室
――六月五日(日曜日)午後十二時五十分
「まさか君は……?」警部が、まるで夢遊病者みたいな足どりのコンラッド・ハッターを、監視つきの自分の部屋《へや》に追いやると、地方検事がさも疑わしげな口ぶりで言った。
「いたずらに考えるのはやめにして」とサム警部はきっぱりと言った、「行動にうつりますよ。あの靴《くつ》が出た以上――文句のつける余地がないじゃありませんか!」
「ああ――警部さん」ドルリー・レーンが声をかけた。老優は警部に近よると、その手からきたないズックの白靴を受けとった。「ちょっと拝見」彼はその靴を調べにかかった。踵はすりへり、はきふるされていた。左の靴の底に、ちいさな穴があいていた。
「この左の靴も、絨毯《じゅうたん》の靴跡と一致するのですか?」
「そうですとも」と警部はニヤリと笑った、「部下がコンラッドの衣服戸棚のなかから、この靴を見つけたと、モッシャーが報告してきたとき、靴跡と合わさせてみたんですよ」
「しかし、このままですませるつもりではないでしょうな?」
「とおっしゃると?」と警部がききかえした。
「つまりね、警部さん」とレーンは思案深げに、右のほうの靴を手でおしはかりながら言った、「これを分析《ぶんせき》してもらう必要があるように思われますね」
「なんですって? 分析?」
「これをごらんなさい」とレーンは右のほうの靴をさし出した。つま先に、なにか液状のはねたしみがついていた。
「なるほど」と警部は言った、「すると、あなたのお考えは……?」
レーンは破顔一笑した、「警部さん、私も考えるのはやめましょう――私も行動に移ることに賛成ですよ。私があなただったら、この靴をすぐシリング医師のところへ送って、しみを検査してもらいますね。あの注射器に入っていたのとおなじ液体のしみだということも考えられますからね。もしそうだとなれば……」老優は肩をすくめた、「毒殺をくわだてた犯人がこの靴をはいていたことが確認されて、コンラッド・ハッターさんには不利な形勢になることでしょう」
レーンの口ぶりには、どこか嘲笑《ちょうしょう》するようなひびきが感じられたので、警部はジロッと彼の顔をにらんだ。だがレーンの表情はいたって真面目《まじめ》だった。
「レーンさんのおっしゃるとおりだ」とブルーノ検事が言った。
サム警部はしぶっていたが、やがてレーンの手から靴を受けとると、ドアのところに行き、刑事をよびよせた、「シリング先生に届けてくれ、大至急」刑事はうなずくと靴を持って立ち去った。
と、ちょうどこのとき、スミス看護婦が頑丈《がんじょう》なからだを戸口にあらわした。「ルイザさんはすっかり元気になりました、警部さん」と彼女はキンキンひびく声で言った、「メリアム先生が、もうお会いになってもさしつかえないとおっしゃっています。ルイザさんは、なにか申しあげたいことがあるそうですけど」
ルイザ・キャンピオンの寝室にむかって、階段をのぼりながら、ブルーノ検事がつぶやくように言った、「いったい、話したいというが、なんだろう?」
警部ははき出すように言った、「なに、とりとめのないことにきまってますよ。いずれにせよ、なんの役にもたたない証人ですからな。まったく、ひどい事件もあったものだ! 殺人の現場に、ピンピンした証人が居合わせたというのに、唖《おし》で聾《つんぼ》でめくらときているんだからな。証言の値うちからいえば、昨夜殺されていたのと同然でさあ」
「警部さん、私にはそうまで断言できませんね」とレーンは階段をのぼりながら、口をはさんだ。「なにもルイザさんはすべてを失っているわけじゃありません。人間には五つの感覚があるのですからね」
「それはそうでしょうが、しかし……」そこまで言って、警部の唇《くちびる》は無言のまま動いた、それが読めるレーンには、警部が五感を一つ一つ数えあげるのに、さんざん頭をいためているのがおかしかった。
検事が思案深げに言った、「むろん、なにかの役にはたつでしょう。もし彼女が、あのコンラッドという男の|ねた《ヽヽ》をつかんでいるとすると……ま、どのみち犯行時、彼女は目をさましていたのにちがいないですからな――白い粉末のなかにのこっていた彼女のはだしの跡から、そう考えられます――彼女が意識を失って倒れた場所と、そのそばの犯人の靴跡から考え合わせると、ひょっとしたら犯人にさわったかも――」
「うまいところに気がつかれましたよ、ブルーノさん」とレーンはあっさりと言ってのけた。
階段をのぼりつめて、廊下をへだてたルイザの部屋のドアは、あいたままになっていた。三人の男はなかに入った。
絨毯の上には、いまだに白い靴跡がのこっていたし、ベッドの寝具もめくれたままになってはいたが、死体が運び出されてみると、どこか部屋の感じが変ってきた。あかるい空気がただよっているのだ、陽《ひ》の光がさしこんでいて、その光線のなかで塵《ちり》がこまかくおどっていた。ルイザ・キャンピオンは、自分のベッドの向う側で、揺《ゆ》り椅子《いす》に腰をおろしていた。彼女の顔はいつものように無表情だったが、まるできこえない耳でなにかをききとろうとするかのように、妙なかっこうで首をかしげていた。彼女はゆったりとしたリズムで椅子をゆすっていた。両手を背中にくんだメリアム医師は、窓から庭園を見おろしていた。べつの窓のところには、ルイザの身を守るかのように、スミス看護婦がたのもしげに立っていた。それから、ルイザの椅子にかがみこんで、やさしく彼女の頬《ほお》をたたいてやっているのは隣家の老船長トリヴェットだが、そのひげだらけの赤い顔を、気づかわしげに曇らせていた。
三人の男が入ってくると、一同は姿勢を正して迎えた。ルイザだけは例外だったが、頬をたたいていたトリヴェット船長のしなびた手がとまると同時に、彼女も椅子をゆするのをやめた。ルイザは、本能的に戸口に顔をむけた。その大きな盲目の目には、やはりなんの光もなかったが、気どりのない感じのいい顔には、しんけんといってもいいくらいの、知的な色がうかび、指もまた、動きだした。
「やあ船長」と警部が声をかけた、「また、おかしなところでお会いしてしまいましたな。ええと、ご紹介しましょう、トリヴェット船長です――こちらはブルーノ地方検事とレーンさん」
「はじめてお目にかかります」と船長は、いかにも海できたえあげた船乗りらしいしわがれた声で言った、「いや、こんなおそろしいことははじめてですよ――いま、事件を知ってかけつけてきたところです――ルイザに――ルイザにもしものことがないかと思いましてな」
「大丈夫、彼女はピンピンしてますよ」と警部は熱心に言った、「なかなか勇気があります」彼はルイザの頬をやさしくたたいた。すると、昆虫《こんちゅう》が反射的に身をちぢめるように彼女はからだをすくめた。
〈だれ? だれ?〉
スミス看護婦はホッとため息をついた。それからルイザのひざの上の、ドミノのような駒《こま》がついている盤にかがみこむと、「警察」とつづった。
ルイザはゆっくりとうなずくと、そのやわらかなからだをかたくした。目の下にくまがあった。指がふたたび動いた。〈お話したいことがある、役にたつかもしれず〉
「彼女はかなりしんけんなようだぞ」と警部はつぶやいた。彼は盤の上に駒をならべた、「話せ、すべてを話せ、いかなる些細《ささい》なことでもよし」
ルイザ・キャンピオンは金属製の点字を指で読みとると、ふたたびうなずき、唇のあたりに、不気味なほどきびしい表情をうかべた。彼女は両手をあげると、手文字をはじめた。
スミス看護婦の翻訳によると、ルイザの話はつぎのようなことであった――ルイザとハッター老夫人は、事件の夜、十時半に寝室にひきあげた。ルイザは服をぬぎ、老夫人の手をかりてベッドに入った。その時刻は十時四十五分。というのは、彼女が手文字で老夫人に時間をたずねたから、正確な時間をおぼえているのだ。ルイザは枕《まくら》を背にあてて上半身を起こし、立てひざの上に点字盤をのせていたが、ハッター老夫人は、これから風呂《ふろ》に入ると、点字盤をつかって彼女に告げた。それから、ほぼ四十五分間というもの(これはルイザの見つもり)、彼女は母親と話をしなかった。つまり、その時間だけ経過すると、ハッター老夫人が浴室からもどってきて(ルイザの想像)、また点字盤をかりてほかの話をすこしした。ほんのとりとめのない会話だったのに――二人は、ルイザの新しい夏の服のことを相談したのである――彼女はいいしれぬ不安を感じたのだ……
(このとき、ドルリー・レーンはルイザの話をしずかにさえぎって、点字盤で、こうたずねた。「なぜ不安を感じたか?」)
するとルイザは、見る目にもかわいそうなほど、当惑したように頭をふって、指先をふるわせてこう答えた――〈わからない、ただそう感じただけ〉
(レーンは、了解というように、そっと彼女の腕をおさえた)
なごやかに夏服のことを話しあっているあいだ、老夫人は入浴後のからだにパウダーをはたいていたようだ、というのはルイザは、パウダーの匂いを知っていたし、そのパウダーは母娘《おやこ》二人で使うもので、二つのベッドのあいだのナイト・テーブルの上に、いつものっていたからである。スミス看護婦が、二人の寝室に入ってきたのはこのときだった。それは、自分の額《ひたい》にスミスの手がさわったからであり、果物《くだもの》がほしいかどうか、スミスがたずねたからわかったのだ。ルイザは、いらない、と答えた。
(レーンは、ルイザのうごいている指をにぎって、話をとめた、「スミスさん、あなたが寝室に入ったとき、老夫人はまだパウダーをつけていましたか?」
スミス――「いいえ、ちょうどつけおわったところだとぞんじます。というのは、夫人はナイト・ガウンを着ているところでしたし、それからまえにもお話したように蓋《ふた》をかるくのせたままのパウダーの箱が、ナイト・テーブルの上にのっていましたから。お肌《はだ》にはパウダーのつけたあとが、はっきりとわかりましたし」
レーン――「二つのベッドのあいだの絨毯の上に、そのパウダーはこぼれていませんでしたか?」
スミス――「なんの汚れも目につきませんでした」)
ルイザは、話の先をつづけた。スミス看護婦が部屋を出ていって、ほんの数分しないうちに――彼女には正確な時間がわからなかったけれど――老夫人はいつものように娘に「おやすみ」と告げて、ベッドに入った。老夫人がベッドに入ったことは、ルイザにちゃんとわかっていた。なぜなら、それからすこしすると、なにかいいしれぬ衝動《しょうどう》にかられて、ルイザは自分のベッドからはい出し、もう一度母親にキスをしたのだ、すると老夫人は、安心させるようにルイザの頬をやさしくたたいたのである。それからまた、ルイザは自分のベッドにもどり、ねむりのおとずれるのを待った。
(こんどはサム警部が話をさえぎった。「昨夜、お母《かあ》さんは、なにか心配ごとでもあるようなことを言いませんでしたか?」
〈いいえ、母はいつものように、おちついていて、わたしにやさしかった〉
「それからどうしました?」と警部は点字をならべた。
ルイザは身をふるわせ、両手もブルブルふるえだした。メリアム医師は気づかわしげに彼女を見つめた。「しばらくお待ちになった方がいいでしょう、多少、心をとりみだしています」
トリヴェット船長がルイザの頭をやさしくたたくと、彼女はその手にしがみついてきてかたく握りしめた。船長は顔をあからめると、すぐその手をひっこめた。だが、それだけでルイザは気持ちが楽になったらしく、緊張と、話をつづけようとするつよい決意の色を、そのかたくむすんだ唇にあらわして、またせわしなく指を動かして語りだした)
昼夜の別のない、いつも眠りのあさい彼女は、うつらうつらしていただけだった。ベッドについてから、どのくらい時間がたったものか彼女にはわからなかった――だが、突然――むろん、何時間かたっていた――彼女ははっきりと目をさまし、おもくるしい沈黙の壁につつまれていた。しかし、彼女の全神経は緊張していた。なんで目がさめたのか、彼女にはわからなかったけれど、なにかただならぬものを、この部屋のなかに、それも自分のベッドの手のとどくようなそばに異様なものを感じたのだ……
(「もっとはっきり言えませんか?」とブルーノ検事がたずねた。
ルイザの指が動いた。〈わたしにはわからない、説明できない〉
メリアム医師は、その長身に力をこめると、ため息をついた。「たぶん、感覚障害の当然の結果として、ルイザにはつねにやや心霊的なところがあるのではないでしょうか。彼女の直感力、つまり第六感というようなものがいつも異常に働いているのです。あきらかにこれは、視角と聴覚を完全に喪失した結果ですな」
「それはわかるような気がしますよ」とドルリー・レーンはおだやかな口ぶりで言った。
メリアム医師はうなずいた、「震動だとか、動く人体から発散する一種の霊気、足音のひびきとかいったものが、この不幸な婦人の、たえずはりつめている第六感を刺激するというだけのことでしょうね」)
聾で唖でめくらの女は、はげしい勢いで語りはじめた。……彼女は目がさめていた。ベッドのそばにいるものがだれであるにせよ、この寝室にいるべき人物ではないと感じた。ここでまた、彼女は奇妙なさだかでない激情におそわれた――ごくたまにしか感じることのない、あの、声にだして叫びたいという衝動的な欲望……
(ルイザは美しい口をあけると、まるで息の根をとめられそうになった猫のような声をだした。それが、とても人間の声だとは思われなかったので、突然、一同は背筋の凍る感じだった。肉づきもふくよかな、ものしずかでごく平凡な女が、まるでおびえたけだもののようないびつな叫び声をあげる――それはなんともいえないおそろしさだった)
彼女は口をとじると、まるでなにごともなかったように話をつづけた。
むろん、彼女にはなにもきこえなかった、十八歳のときから、音のない世界で生きてきたのである。だが、ただならぬものを感じとった彼女の直感は、なおもつづいた。と、肉体的な打撃にひとしいショックを、彼女の嗅覚《きゅうかく》はうけたのだ、あの浴用パウダーの匂いを、彼女はまたかいだのである。これは、あまりにも異様で意外で、わけものみこめなかったものだから、彼女はまえにもまして恐怖におののいた。タルカム・パウダー! 母だろうか? いいえ、そんなはずがない。冴えきった恐怖の本能が、そう教えたのだ。だれかだ――だれか、危険な人間だ。
ルイザは、頭がグラグラするような一瞬に、自分のベッドからはい出して、できるだけ、その危険からのがれようと決心した。逃げようという衝動が、彼女の胸のなかで燃えさかった……
(レーンが、しずかにルイザの指をにぎった。彼女は動かす手をとめた。老優はベッドに――ルイザのベッドに近づくと、片手で押してためしてみた。すると、ベッドのスプリングがキイキイとつよくきしんだ。彼はうなずいた、「音がする、これだったら、犯人は、ルイザさんがベッドからはい出した音をきいたにちがいないですね」)
老優はルイザの腕をかるくおした。彼女は話をつづけた。
彼女は母親のベッドよりの側にぬけ出した。絨毯の上を素足《すあし》のままで、彼女は自分のベッドの脚《あし》もとの方へつたって行った。ベッドの端まで来たところで、からだを起こすと、片手をのばした。
ここまで話をすすめてくると、突然、ルイザは顔をはげしくひきつらせて、揺り椅子から立ちあがった、そして、あぶなげのない足どりで自分のベッドをまわって行った。あきらかに彼女は、自分の説明力の不足を感じて、実際の動作でそれを補おうと思ったのだ。すごいしんけんさで――ちょうどゲームに夢中になっている子供のように――ルイザは服を着たままベッドに横たわった。それから、無言劇そのままに、深夜の自分の動作を演じはじめた。彼女は音もなく半身をベッドから起こすと、その顔にしんけんな色をありありとうかべて、頭を奇妙なぐあいにかしげると、あたかも耳をすましているようなかっこうをした。それからスプリングをきしませて、床に足をおろすと、ベッドからぬけ出し、片手でマットレスをさぐりながら、からだをおりまげて這っていった。ほぼ、ベッドの脚のあたりまで近づくと、彼女はまっすぐにからだを起こしてむきをかえ、自分のベッドに背をむけ、母のベッドの方にむき、それから右手をのばした……
(ほかのものたちは、息をころして、ルイザの動きを見まもっていた。いまや彼女は、あの恐怖の瞬間を再現しつつあるのだ。彼女が懸命に演じる無言劇から、事件の夜の緊張と恐怖を、一同はおぼろげながら味わうことができた。レーンは固唾《かたず》をのんだままだった。彼の目はするどい鎌《かま》のように細められ、彼女の動きに釘《くぎ》づけにされていた……
ルイザの右腕は、よく盲人がやるように、まるで鉄棒のように、床とまったく平行にまっすぐ前方にのばされていた。レーンの視線は、彼女がのばした指先の、その真下の床に、するどく落ちた)
ルイザはホッとため息をつくと、からだから力をぬき、その右手をぐったりとおろした。それからまた、両手を使って話しはじめると、スミス看護婦は思わず息をころして通訳した。
ルイザが右腕をのばした瞬間、なにかが、その指先をかすめた。まっさきに鼻だと思った、それから顔……そうだ、彼女のつき出した指に顔がぶつかって、それをよけた拍子《ひょうし》に人間の頬がふれたのだ。
「なに、鼻と頬だと!」警部が叫んだ、「しめた! そうとなったら、私に彼女と話をさせてもらいましょう――」
レーンが言った、「まあまあ警部さん、なにもそう興奮なさることはない、それよりも、よろしかったらもう一度、ルイザさんにさきほどの実演をやってもらいたいのですがね」
老優は点字盤を手にとると、自分の希望を点字で伝えた。ルイザは、さも疲れたように額に手をやったが、やがてうなずくと、自分のベッドにもどった。一同はまえよりもいっそう熱心に、彼女の動きを見まもった。
その結果は、うす気味悪いくらいだった。あらゆる動き、頭とからだのまげぐあい、腕の動かし方のすみずみにいたるまで、この二回めの実演は、はじめのそれと一分一厘《いちぶいちりん》のくるいもなかったではないか!
「いや、じつにすばらしい!」とレーンは思わずつぶやいた。「みなさん、幸運というほかはありません、ルイザさんは、盲人に特有のことですが、自分のからだの動きについて、まるで写真のように正確な記憶をもっておいでだ。これは役にたちます――りっぱに役に立ちますよ」
ほかのものたちには、レーンの言葉がよくのみこめなかった――いったい、なにに役だつというのか? 老優はあえて説明しようとはしなかった、だが彼の顔にあらわれた異様な表情から、ある抵抗しがたい考えにうたれたことはあきらかだった――それがあまりにも尋常でないものだったので、その生涯《しょうがい》を舞台にささげて、顔面筋肉を自由にコントロールできる訓練をつんできた彼でさえ、その着想の反応を表情に出さないわけにはいかなかったのだ。
「どうも私にはよくわからないが……」とブルーノ検事が困惑した口ぶりで言いかけた。
すると、レーンの表情は、まるで魔法にかけられたみたいにおだやかになった。彼はやさしく言った、「いや、どうも私の態度はメロドラマじみていたようですね。どうか、ルイザさんの立ちどまった位置をじっくりとごらんになっていただきたい。彼女は、今日の未明に立っていたのと寸分ちがわぬ位置に立っているのですよ――彼女の靴は、ベッドの足もとのすぐそばの素足の跡と、ほとんどかさなるばかりのところにあるではありませんか。彼女の正面にはなにがあります? 犯人のまぎれのない靴跡です。すると、ルイザさんの指がさわった瞬間、犯人はタルカム・パウダーがいちめんにばらまかれているまっただなかに立っていたことはあきらかです――なぜなら、ここにのこっている二つのつま先の靴跡は、いちばんくっきりしていて、まるで、まっ暗闇《くらやみ》のなかで、幽霊のような指先で顔をさわられ、一瞬犯人はギョッとして立ちすくんだみたいですね」
サム警部は角《かく》ばった顎《あご》をかいた。「たしかにそうにはちがいありませんけどね、いったいそれがどうしたというんです? こんなことは、もうとっくにわれわれが考えていたことじゃないですか、どうも私にはわからんですな……いまのあなたの様子だと――」
「ま、ルイザさんの話をきこうではありませんか」とドルリー・レーンはせかせるように言った。
「いや、もうちょっと待ってくださいよ」と警部が言った、「そんなにせきたてないでください、レーンさん。私にはなんだか、あなたの頭にひらめいたことがわかるような気がするんです」彼はブルーノ検事の方にからだをむけた、「つまりですね、検事さん、ルイザさんが水平にのばした右手が犯人の頬にあたったのだから、犯人の背の高さが割り出されるじゃありませんか!」そう言うと、いかにも得意そうにレーンの顔を見た。
だが検事はおもしろくなさそうな顔をした、「ちょっとした曲芸だね」と辛辣《しんらつ》に言ってのけた、「それが割り出せたらね、しかし、できるわけがない」
「なぜなんです?」
「まあまあ、みなさん、そんなことよりもルイザさんの話を……」とレーンはいらいらしながら言った。
「いや、ちょっとお待ちを、レーンさん」と検事はそっけなく言った、「いいかね、警部。ミス・キャンピオンののばした腕が、犯人の頬にさわったから、その身長が割り出せると言うんですね、いかにも、そのとおりだ――彼女の手がふれたとき、その犯人がまっすぐに立っていたならね!」
「だが、しかし……」
「ところで、実際の話が」とブルーノ検事は活気づいて言った、「ミス・キャンピオンの指先がさわったとき、犯人はまっすぐ立っているどころか、むしろ|うずくまって《ヽヽヽヽヽヽ》いたと見るほうが、はるかに筋が通っているんですよ。犯人の靴跡から判断して、もうそのときはハッター老夫人を殺害し、そのベッドの頭部からはなれて、寝室を出ようとしていたのはあきらかなのだ。さきほどもレーンさんが言われたように、犯人は、ミス・キャンピオンのベッドのきしる音を耳にしたかもわからない。そうだとすると、犯人はあわてたにちがいない――そんなときは、本能的に思わず腰をかがめ、ちいさくうずくまるものだ」彼は薄笑いをうかべた、「そこが問題じゃないか、警部、いったい、どうやって犯人がからだをちぢめた度合をはかるつもりなんです? それがはっきりしないかぎり、犯人の身長など割り出せるものじゃない」
「わかりました、わかりました」とサム警部は赤面のていで言った、「そうくどくど言わないでくださいよ」彼は仏頂面《ぶっちょうづら》をしてレーンの顔をチラッと見やった、「だけど、さっきのレーンさんの様子では、まさに青天の霹靂《へきれき》といった感じでしたからね、もし犯人の身長でないとすると、そいつはいったい、なんだったのです?」
「そうでしたか、警部さん」とレーンはつぶやくように言った、「あなたにそう言われると、自分の芸の未熟さに赤面します。そんなふうに見えましたか?」老優はルイザの腕をやさしくつかんだ。彼女はまた、話をつづけた。
それは、ほんの一瞬のうちの出来事だった。すごい衝撃、ルイザの固体をうずめつくしている永遠の暗黒を物質化し、彼女の漠《ばく》とした恐怖感を血肉化する衝撃をうけて、彼女の意識はうすれていった。戦慄《せんりつ》のうちに、気の遠くなってゆくのがわかった。自分のからだの下で、ひざがねじれるのも感じた。床の上に倒れたとき、まだかすかに意識はあった。しかし、自分で感じた以上のはげしさで倒れたのにちがいない、床に頭部を強打していたし、意識を回復した今朝《けさ》にいたるまで、なにひとつ覚えていないのだから……
ルイザの指は動かなくなり、両腕がだらりとさがった。それから肩をすぼめると、揺り椅子にもどった。トリヴェット船長は、また彼女の頬をやさしくたたきはじめた。彼女はぐったりとして、船長の手に頬をもたせかけた。
ドルリー・レーンは、警部と検事の方に、もの問いたげな目を投げた。だが二人とも、判じかねたような面《おも》もちだった。老優はため息をつくと、ルイザの椅子に近よった。「まだ、話しのこしたことがあります、あなたの指がさわった頬は、どんな感じでしたか?」
一瞬、驚愕《きょうがく》に近い色が、彼女の疲労をふきとばした。まるで彼女の言葉をじかにきくみたいに、彼女の表情から、一同はつぎのようなことが読みとれた、「あら、まだお話ししませんでした?」彼女の指がめまぐるしく動くと、スミス看護婦は、声をふるわせて、それを翻訳した。〈すべすべしたやわらかな頬〉
たとえ背後で爆弾が破裂しても、サム警部はこれほど茫然《ぼうぜん》自失とはならなかったことだろう。大きな顎はだらりとたれさがり、目をむき出して、ルイザ・キャンピオンの静止した指を見つめていた、まるで目が――いや、耳が信じられないといったあんばいだった。ブルーノ検事は、看護婦の方を疑わしげに見まもっていた。
「スミスさん、いまの翻訳にまちがいはないでしょうな?」と検事は言いにくそうにたずねた。
「寸分もちがいはありません――ルイザさんのおっしゃったことと」看護婦はおどおどして言った。
サム警部は、まるで強烈なパンチをくったボクサーがその打撃を払いのけるように頭をふると――この癖は、彼がおどろいたときにかならず出るのだ――ルイザを見おろした。「すべすべしてやわらかだと!」彼は叫んだ、「そんなばかな、コンラッド・ハッターの頬なら――」
「ですから、コンラッド・ハッターの頬ではなかったのですよ」とドルリー・レーンはおだやかな口調《くちょう》で言った、「なぜ、そんなに、先入見にこだわるのです? いずれにせよ、ルイザさんの証言が信じられるものとするなら、いままでの材料を配列しなおさなければなりません。昨夜、犯人がコンラッドさんの靴をはいたことはたしかです。しかし、あなたや検事さんのように、コンラッドさんの靴をはいていたという理由だけで、コンラッドさんがはいたものときめてしまうのは誤りというものですよ」
「いや、毎度のことながら、あなたの言われるとおりです」と検事は言った、「警部――」
だが、人間ブルドッグのようなサム警部は、いっぺん出た解答を、そうやすやすと捨て去りはしなかった。彼は歯ぎしりすると、スミス看護婦にあたりちらした、「そのけったいなドミノをつかって、ほんとにそれにまちがいないか、どうすべすべしていたか、きいてくれたまえ、大急ぎ!」
スミス看護婦は、そのけんまくにおどおどして、言われたとおりにした。ルイザは熱心に点字盤に指をはしらせた。すぐ彼女はうなずくと、もう一度、手をつかって告げた。〈とてもすべすべしたやわらかな頬。まちがいありません〉
「なるほど、やっぱりそうらしい」と警部はつぶやいた、「それではコンラッドの頬でなかったかどうか、きいてくれたまえ」
〈いいえ、ぜったいにちがう。男の頬ではなかった〉
「よし、わかった」と警部は言った、「これできまった。いずれにしろ、彼女の証言を信じるよりほかはない。とすると、犯人はコンラッドではなく、男ではなく、女だということになるぞ。よし、それなら、こうと肚《はら》をきめるまでだ!」
「その女は、にせの手がかりをのこすためにコンラッドの靴をはいたのにちがいありませんな」とブルーノ検事が言った、「そうなると、あのパウダーも、わざと絨毯の上にぶちまけたことになりますね、犯人は、靴跡がのこれば、われわれがそれに符合する靴を探すものと、ふんだんですな」
「そうでしょうか、ブルーノさん」とレーンが言った。検事はにがい顔をした。「どうも私には、そうかるがるしく簡単に割りきれないのですよ」レーンはしずんだ口ぶりでつづけた、「この事件には、なにかとほうもない奇妙なものがひそんでいるのです」
「なにがそんなに奇妙なんです?」と警部がつっかかった、「ブルーノ検事がいま説明されたように、きわめて明白だと思いますがね」
「いやいや、明白どころか、謎《なぞ》もほんの序の口ですよ、警部さん」レーンは金属製の点字の駒を動かして、つぎのようにならべた、「あなたがさわったのは、ひょっとしたら、お母《かあ》さんの頬ではなかったか?」
間髪おかず、ルイザは答えた、〈いいえ、いいえ、いいえ、母の顔には皺《しわ》がある。さわった頬はすべすべ、すべすべ〉
レーンは悲しそうに微笑した。このおどろくべき婦人の言うことには、赤裸の真実感がそのすみずみにまでこもっているのだ。サム警部は床の上を、象《ぞう》のような重い足どりで歩きまわり、ブルーノ検事はしきりに考えこんでいる様子だった。トリヴェット船長、メリアム医師、スミス看護婦は、ただじっと立ちつくしていた。レーンの顔に、決意の色があらわれた。彼はまた、点字の駒をならべた。
「よく考えてください、なにかほかに――思い出すことはないか?」
ルイザは、それを指で読むと、ちょっとためらった、それから揺り椅子の背に頭をもたせかけた。彼女は頭を左右にゆっくりとうごかした――なにかが記憶のふちにゆれうごいていて、それがいまにも落ちそうに見えてなかなか落ちないといった感じの、否定とも肯定ともつかない頭のうごかし方だった。
「なにかがある」レーンは、ルイザの無表情な顔を見つめながら、興奮の色をかすかにあらわしてつぶやいた。「なんとしても思い出させなければ!」
「だけど、いったい、なにをです?」とサム警部が叫んだ、「きき出せることは、みんな、きいてしまったじゃありませんか……」
「いや、まだのこっていますよ」レーンはこう言って、しばらく言葉をきったが、やがてゆっくりした口調でつづけた、「私どもがきき出そうとしている証人は、五感のうち、その二つまで失っている婦人です。この証人は、味覚と触覚と嗅覚《きゅうかく》だけで、外部の世界と接触しているにすぎません。つまり、証人にのこされた三つの感覚による記憶だけが、私どもの唯一《ゆいいつ》の手がかりとなりうるわけです」
「そうですか、そこまでは気がつきませんでしたな」とブルーノ検事は思案深げに言った、「たしかに彼女は、触覚による手がかりを一つ、われわれにあたえてくれた、するとあとの――」
「そのとおりですよ、ブルーノさん。で、彼女の味覚に、手がかりを期待するのは、むろん、無理な話でしょうが、しかし、問題は嗅覚です! これには、大いに期待をかけていいわけですよ……かりにルイザさんが嗅覚の発達した動物、たとえば犬だとして、たちどころに犯人をかぎあてるような能力にめぐまれていたとしたら、どんなに事は簡単でしょう! ま、それほどではないにしろ、彼女には、普通人とはちがう条件がそなわっています。まず、彼女の嗅覚神経は、人並み以上に敏感ではないかと……」
「いや、まさしくそのとおりです」とメリアム医師がひくい声で言った、「身体障害者における感覚の代償機能については、これまでも学界でさんざん論議されてきましたが、このルイザ・キャンピオンは、そのめざましい解答なのです。彼女の指先の神経、舌の味覚、鼻の嗅覚はずばぬけて発達しております」
「なかなかおもしろい話ですな」と警部は言った、「しかしどうも――」
「ちょっと黙ってください」とレーンが言った、「ひょっとしたら私たちの鼻の先には重大な手がかりがぶらさがっているのかもしれないのですよ。いま、問題にしているのは嗅覚なのです。すでにルイザさんは、タルカム・パウダーの箱がひっくりかえったとき、その匂いをかぎあてているのですよ――これはなみの感覚ではありません、どうしてなかなか……」老優はしまいまで言い終らぬうちにかがみこむと、点字盤に例の駒をならべなおした。「匂いのこと。パウダーのほかに、なにか匂いませんでしたか? よく考えてください、匂いです」
ルイザの指が、盤上の点字をなでていくと、得意そうな、それでいて同時に困ったような色が、彼女の顔にゆるやかにあらわれ、鼻孔が大きくひらいた。彼女が必死になって思い出そうとしているのが、手にとるようにわかった。そして記憶の糸はたぐりよせられ、しだいにたぐりよせられ……やがて光がパッとさしたのだ。彼女は、あの背筋の凍るような動物めいた叫び声をたてた。どうやらこれは、彼女がハッとしたようなとき、無意識に出るらしい。指がせわしげに動きだした。
指の動きを目で追っていたスミス看護婦は、あんぐりと口をあけた、「まあ、ルイザさんは、本気でこんなことを言ってるのかしら……」
「どんなことを?」ブルーノ検事がうわずった声でたずねた。
「それが検事さん」看護婦はなおも信じられぬといった口ぶりで言った、「顔にさわった瞬間、気が遠くなって倒れかかったときに、匂いが……」
「それで、それで!」途中で言葉をのんだスミス看護婦のぶ厚い唇《くちびる》に、きらめく目を釘づけにしながら、ドルリー・レーンは叫んだ、「どんな匂いをかいだのです?」
スミス看護婦は、ひきつった笑い方をした、「それが――アイスクリームかケーキみたいな匂いだと言うんです!」
一瞬、一同は看護婦の顔を見つめ、彼女もまた見かえした。メリアム医師とトリヴェット船長でさえ、仰天《ぎょうてん》したようだった。ブルーノ検事は、まるで自分の耳が信じられないとでもいうように、いまの言葉を口のなかでボソボソくりかえした。サム警部は苦虫をかみつぶしたような顔をした。
張りつめた微笑の影が、レーンの顔から消えた。さすがの彼も、まったく困惑のていだった。「アイスクリームかケーキ」彼はゆっくりとくりかえした、「妙だ、じつに妙だ」
と、突然、警部が腹をかかえて笑いだした、「なんてこった、この女は唖《おし》で聾《つんぼ》でめくらのうえに、やっぱり気ちがい婆さんの血を引いているんですよ。へん、アイスクリームかケーキだと! こいつはまったく狂気の沙汰《さた》だ、茶番もいいところですよ」
「まあ、待ってください、警部さん……それほど気ちがいじみたことじゃないかもしれませんよ、なぜルイザさんはアイスクリームかケーキだと思ったのでしょう? ある種の香気がするという以外には、共通点があまりありませんね。――いや、ひょっとすると――そうだ、これはあなたが考えるほどでたらめではないと思いますね」
老優は点字をならべた。「あなたは、いま、アイスクリームかケーキだと言った。それは信じられない。おしろいかコールドクリームではないか?」
彼女が点字をなでるあいだ、話し声がとだえた。〈いいえ、おしろいでもコールドクリームでもない。それは――ケーキかアイスクリームの匂いに似ていて、ただそれよりももっと強い〉
「それだけでははっきりわからない。あまい匂いか?」
〈はい、あまい匂い、鼻につんとくるあまい匂い〉
「鼻につんとくるあまい匂い」レーンはつぶやいた、「つんとくるあまい匂い」老優は首をふると、つぎの質問をならべた、「花の匂いではないか?」
〈たぶん〉……これだけ答えかけて、ルイザはためらった。すでに何時間もまえの匂いをなんとかして思い出そうと、彼女は鼻をうごめかした。〈はい、花の匂い。とてもめずらしい蘭《らん》の花。トリヴェット船長にもらったことがある。しかし、はっきりおぼえていない……〉
トリヴェット船長の老いた目がまばたいた。あのするどい青い目が、いまの答えに、すっかりうろたえていた。一同の視線がいっせいにそそがれると、潮焼けした顔が、まるで古びた鞍皮《くらかわ》のような色に変った。
「どうです、船長?」と警部がたずねた、「心あたりがありますか?」
トリヴェット船長のしゃがれ声がひびいた、「これはおどろいた、ルイザさんはよく覚えていたものだ! いや、あれはもう……七年がとこまえの話ですよ、私の友人で――貨物船トリニダッド号の船長のコーコランという男が、南米から持ち帰ってきたものでしてな……」
「七年まえ!」検事が声をあげた、「そんな昔の匂いをおぼえているものですかね」
「ルイザさんは比類のない婦人ですからな」と船長は言って、またまばたきをした。
「蘭――」とレーンは口のなかでつぶやいた、「ますます腑《ふ》におちなくなった。なんという種類だったか、思い出せませんか、船長?」
老船乗りの骨太のいかった肩がビクッと動いた、「いや、ぜんぜんわかりませんな」錆《さび》ついた巻揚機を思わせる、さびのきいた声で言った、「とにかく非常にめずらしい種類だという話だったが」
「そうですか」レーンはまた点字盤にむかった。「たしかに蘭の一種類だったのか?」
〈はい。わたしは花が好き。一度かいだ花の匂いは忘れない。ああいう蘭の匂いをかいだのは、あのときがはじめて〉
「まさに園芸学上の神秘ですな」レーンはつとめて軽口をたたいた。だが、彼の目にはユーモアの色もなく、片足でいらだたしげに床《ゆか》を踏みつづけていた。一同は、手をくだしようがないといった表情で、老優を見つめていた。と、突然、彼はパッと顔をかがやかすと、額《ひたい》をパチッとたたいた。「ああ、そうだ、肝心《かんじん》かなめのことをきくのを忘れていたぞ!」そう言うと、あわただしく点字をならべなおした、「アイスクリームと言ったが、どんなアイスクリーム? チョコレート? ストロベリー? バナナ? くるみ?」
この老優の質問が、とうとう的の中心を射抜いたことはあきらかだった、いままで苦虫をかみつぶしていたようなサム警部でさえ、感嘆のまなざしでレーンの顔を見つめているではないか。ルイザは、指先でレーンの質問を読みとると、まるで小鳥のようになんども元気に顔をうなずかせ、即座に手を使ってそれに答えた、〈いま思い出した。ストロベリーでもチョコレートでもバナナでもくるみでもない。それはヴァニラ。ヴァニラ! ヴァニラ! ヴァニラ!〉
ルイザは、揺り椅子からからだをのりだすと、盲目の目はどんよりとしていても、その顔には、さあ、ほめてください、というような色があった。トリヴェット船長は、人目をぬすむようにして、彼女の髪をなでた。
「ヴァニラ!」一同は口々に叫んだ。
指が動きつづけた。〈それはヴァニラ。アイスクリームとかケーキとか蘭とか、ほかのものの名前をあげることはない。ヴァニラの匂い。ぜったいにヴァニラ〉
レーンはホッとため息をついた、眉間《みけん》によせた皺が深くなった。ルイザの指の動きがあまりに早いので、スミス看護婦の翻訳が追いつかず、なんどかルイザにくりかえしてもらうほどだった。ようやく、スミス看護婦が一同に顔をむけたとき、その目にはなごやかな光がうかんでいた。
〈わたしの答が役にたつか? 役に立ちたい、役にたたなければならない、今の答は役に立つか〉
「キャンピオンさん」警部は寝室のドアの方へ大股《おおまた》で歩いてゆきながら、おごそかな口調で言った、「かならず役に立ちますとも」
メリアム医師は、ふるえているルイザの上にかがみこんで、彼女の脈をとった。それからうなずくと、彼女の頬をやさしくたたいてから、もとの位置に身をひいた。トリヴェット船長は、どういうわけか、誇らしげな顔をしていた。
警部はドアをあけると、大声をあげた、「ピンク! モッシャー! おおい、だれか! あの家政婦をここへすぐつれてきてくれ!」
はじめから家政婦のアーバックル夫人は、喧嘩腰《けんかごし》だった。警察の連中に家のなかをさんざんあらされた最初のショックがおさまったところだった。彼女は両手でスカートをたくしあげ、ハアハア息をきらしながら階段をのぼってきたが、踊り場で一休みすると、わが身にむかってぶつくさごたくをならべた。やがて不吉な部屋《へや》に足音あらくとびこんでくるなり、警部を真正面からねめつけた。「いったいなんです、こんどの用というのは?」と彼女はつっけんどんに言った。
警部は短刀直入に問題に入った、「昨日《きのう》、焼いたのはどんなケーキかね?」
「焼いた? まあ、おどろいた!」二人は二羽のちゃぼみたいににらみあった、「そんなことをきいて、いったい、なんのたしになるんです?」
「うるさい!」警部はけわしい声で言った、「こちらの言うことをはぐらかすつもりか? 昨日、焼いたのか、焼かなかったのか?」
アーバックル夫人は鼻をならした、「どうするつもりなんだろ……いいえ、焼きませんでしたよ」
「なに、焼かなかった」警部は顎を二インチばかりつき出した、「料理室で、ヴァニラを使うかね?」
気でも狂ってるんじゃないかと、アーバックル夫人は警部を見まもった。「ヴァニラだって? まあ、なにかと思ったら! ええ、使っていますとも。料理室にはつきものじゃありませんか」
「するとヴァニラを使うわけだな」と警部はしたり顔で言うと、検事の方に顔をむけて、目くばせをした。「ヴァニラを使うそうですよ、検事さん……よろしい、アーバックル夫人、それでは昨日、どんなものにしろ、ヴァニラを使ったかね?」彼は手をこすりあわせた。
アーバックル夫人はドアの方に行きかけた、「なにも、こんなところに馬鹿面《ばかづら》をして突っ立っているいわれはないんですからね」と彼女は吐き出すように言った、「もうわたしは下にかえりますよ、そうすれば、こんな阿呆《あほ》くさいことをきかれないでもすむんだから」
「アーバックル夫人!」警部が大声でどなった。
さすがの彼女もたじろいで、あたりを見まわした。一同のしんけんなまなざしが彼女に集中されていた。「いいえ……使いませんよ」だが、むかっ腹《ぱら》をたてた余燼《よじん》がくすぶっていた、「わたしの家事のきりもりにまで、文句をつけようというんですか?」
「そうギャアギャア言いなさんな」と警部は機嫌よく言った、「おしずかにねがいますよ、では、食料品室か料理室に、いま、ヴァニラがあるかね?」
「ありますよ、栓もあけないのが一壜《ひとびん》ね。三日まえに使いきってしまったから、サットン食料品店から一壜とりよせたんですよ。忙しかったので、まだ口をきっていませんけどね」
「すると、おかしいじゃありませんか、アーバックル夫人」とレーンがしずかに言った、「きくところによると、毎日、ルイザさん用の卵酒をつくるそうだが?」
「いったい、それと、どういう関係があるんです?」
「私が子供のとき飲んだ卵酒には、ヴァニラが入っていましたがね、アーバックル夫人」
サム警部が緊張してからだをまえにのり出した。アーバックル夫人は、びっくりして頭をサッとあげた。「それがなにかの証拠になるんでしょうか? うちの卵酒は、にくずくの種子を粉にしていれるんですよ、それだと罪になるんでしょうか?」
警部は廊下に顔をつき出した。「ピンク!」
「はい」
「家政婦について、階下の料理室に行ってくれ、ヴァニラの匂いのするものなら、一つのこらず持ってくるんだ」警部はアーバックル夫人にふりかえると、親指をドアにむかってしゃくった、「さ、行ってください、早いとこたのみますよ」
待っているあいだ、だれひとり口をきくものはなかった。両手をうしろにくんだサム警部は、調子っぱずれな口笛を吹きながら、さかんに歩きまわっていた。ブルーノ検事はいかにも退屈げに、なにかべつのことを考えていた。ルイザ・キャンピオンはしずかにすわったままで、そのうしろに、スミス看護婦とメリアム医師とトリヴェット船長が、めいめい、身じろぎひとつせずに立ちはだかっていた。レーンは窓から、人影のない庭園を見おろしていた。
やがて十分ほどすると、アーバックル夫人と刑事が階段をあがってきた。ピンカッソン刑事は紙にくるんだちいさな平たい壜を持ってきた。「料理室には、いろんな匂いがたちこめていましたがね」と刑事はニヤッと笑った、「ヴァニラの匂いのするのは、この壜のほかにはありませんでした。封はまだ切ってありませんが、警部」
警部は、刑事からその壜を受けとった。ラベルには「ヴァニラ・エキス」とあり、封も包み紙も手つかずのままだった。警部はそれを検事にまわすと、検事はお義理にちょっとながめてから、すぐ警部に返した。レーンは窓から動こうともしなかった。
「古いほうの壜はどうしたね、アーバックル夫人?」とサム警部はたずねた。
「三日まえに、ごみためのなかに捨てましたよ」と家政婦は即座に答えた。
「するとからだったのだね?」
「はい」
「その壜にまだヴァニラが入っていたとき、知らぬまに中味が減っているようなことはなかったかな?」
「どうしてそんなことがわかるもんですか? 一滴ずつ、このわたしが数えているとでも思うんですか?」
「なに、あんたのことだからね」と、すかさず警部はやりかえした。彼は包み紙を破り、封を切ると、壜の栓をぬいて、鼻にあてがった。ヴァニラの強い匂いが、ゆったりと寝室のなかにただよった。あきらかにこの壜の中味にはいつわりがなかった。いっぱいに入っていて、妙な細工《さいく》をした形跡もまったく見あたらなかった。
ルイザ・キャンピオンはからだを動かすと、鼻孔をひろげた。彼女はクンクン鼻をならすと、蜜蜂《みつばち》が遠方から蜜のありかをかぎつけるように、部屋の向う側の小壜の方に顔をむけた。指が活発に動きはじめた。
「ルイザさんが、そうだと言ってます――あの匂いだと」とスミス看護婦はうわずった声をあげた。
「これは、これは」窓からふりかえって、看護婦の口の動きを見つめていたドルリー・レーンはつぶやいた。彼はつかつかと歩みよると、盤上に点字をならべた、「いまのように、強い匂いか?」
〈いいえ、昨夜のはもっとうすい〉
レーンはちょっとがっかりしたようにうなずいた。「アーバックル夫人、この家にアイスクリームがありますか?」
「いいえ」
「昨日はどうでした?」
「いいえ、この一週間はぜんぜんありません」
「いや、まったく不可解だ」とレーンが言った。老優の目は、いつに変りなく聡明な光にかがやき、その顔も若々しくつやつやとしていたが、どことなく思索に消耗しつくしたといった疲労のかげがあった。「警部さん、いまからすぐ、この家の全員に集まってもらったほうがいいですね。みなさんがそろうまで、アーバックルさん、お手数でもこの家にあるケーキとキャンディ類を一つのこらず、この部屋に集めていただきたいのだが」
サム警部が太い声で言った、「ピンク、おまえもついて行け――念のためにな」
部屋は人間であふれるばかりだった。全員がそろった――バーバラ、ジル、コンラッド、マーサ、ジョージ・アーバックル、女中のヴァージニア、エドガー・ペリー、それから、まだ邸内に根気よくねばっていたチェスター・ビグローとジョン・ゴームリーの二人まで加わった。コンラッドは、いささか茫然自失といったていで、自分からはなれない警官をポカンと見つづけていた。ほかの連中は、期待に胸をはずませている様子だった……警部はためらっていたが、部屋のすみにどいてしまって、ブルーノ検事とならんで、ふさぎこんだ顔をしてながめていた。レーンは立ったまま、すっかりそろうまで待っていた。例によって子供たちは、大人《おとな》と一緒にとびこんでくると、部屋のなかをワアワア声をあげて、かけずりまわった。だが、いまの場合だけは、子供たちのいたずらにかかずらうものなど、だれひとりいなかった。
アーバックル夫人とピンカッソン刑事の二人が、ケーキとキャンディの箱を山のようにもりあげて、その重みによろめきながら部屋のなかに入ってきた。みんな、いっせいに目を見はった。アーバックル夫人は、ルイザのベッドにお菓子の山をおろすと、ハンカチで骨ばった頸《くび》の汗をぬぐった。ピンカッソン刑事は、にがりきった表情を臆面《おくめん》もなく出して、腕いっぱいにかかえた荷物を椅子の上に投げ出すと、部屋から出ていった。
「あなたがたのなかで、ご自分の部屋にケーキかキャンディのある方はおりませんか?」とレーンはいやにしんけんな口調で言った。
ジル・ハッターが答えた、「あたしのところにはありますわ、いつもおいておくから」
「では、ここへ持ってきていただきたいのですが」
ジルは神妙に部屋から出てゆくと、すぐに大きな長方形の箱をかかえてもどってきたが、その箱には「五ポンド」という文字が読みとれた。このばかでかい菓子箱を一目みるなり、たちまち、ジョン・ゴームリーの白い顔が、煉瓦色《れんがいろ》に変った。彼はてれくさそうに薄笑いをうかべると、やたらに足を動かした。
一同の不審そうな視線を浴びながら、ドルリー・レーンはじつに奇妙な仕事にとりかかった。彼はキャンディの箱を、全部一緒に椅子の上に積み上げると、一つ一つ、その蓋をあけていった。箱はみんなで五つだった――一つはピーナツ・ブリトル、一つはフルーツ入りチョコレート、一つはかたいキャンディ、一つはかたいチョコレート菓子、それからジルが持ってきた菓子箱には、高価な砂糖づけの果物《くだもの》が見た目にもおいしそうにつまっていた。
レーンは、その五つの菓子箱から、手あたりしだいに一つずつとり出して、じっくりと味わっていた。それから、また菓子をとり出すとルイザ・キャンピオンに手渡して喰べさせた。ちび助のビリーは、さもうらやましそうな目つきでながめていたが、ジャッキーのほうはこの不思議な行事《ぎょうじ》にすっかり威圧されてしまい、片足をうかしたまま、くいいるように見つめていた。
ルイザ・キャンピオンは頭を横にふった。〈いいえ、みんなちがう。キャンディではなかった。わたしのまちがい。ヴァニラです!〉
「これらの菓子類には、ヴァニラがぜんぜん入っていないか、あるいは入ってたとしても、ごくわずかなものだから、味覚には感ぜられないのです」とレーンは言った。それからアーバックル夫人にむかって、「ところでケーキのほうですがね、このなかで、あなたが焼いたものはどれです?」
彼女は鼻たかだかと三つのケーキを指さした。
「ヴァニラを使ったものがありますか?」
「使いませんよ」
「あとのは買ったわけですね?」
「はい」
レーンは、買ったほうのケーキをすこしずつ、唖で聾でめくらの女に喰べさせた。するとまた、彼女ははげしくかぶりをふった。
スミス看護婦はため息をつき、ルイザの指の動きを見まもった。
〈いいえ、ヴァニラの匂いがしない〉
レーンはケーキ類をベッドにもどすと、暗澹《あんたん》とした表情で考えこみながら立っていた。
「この――だらだらとした検査はなんのまねなんでしょうかね?」と弁護士のビグローが、ひやかすような口ぶりで言った。
「いや、恐縮です」とレーンはからだをむけると、うわの空で言った、「ルイザさんは、昨夜、犯人と顔をつきあわせたのです。犯人にふれた瞬間、あきらかにヴァニラの匂いがしたと彼女は断言しているのです。ま、おそらく犯人のからだか身のまわりからにおってきたのでしょうがね。当然、その小さな謎《なぞ》から解きにかかっているというわけです――こんなところから、重大な発見と究極の勝利を得るようになるかもしれませんからな」
「まあ、ヴァニラ!」とバーバラ・ハッターはびっくりしてくりかえした。「とても信じられないような話ですわ、レーンさん――ですけど、感覚的な記憶力にかけたら、ルイザはほんとに神秘的ですからね、かならず――」
「ルイザなんか低脳だわ」とジルがずばりと言った、「でっちあげてばかりいるんだから、妄想《もうそう》もいいところよ」
「ジル!」とバーバラがたしなめた。
ジルはツンと上をむくと、ムッと黙りこんだ。
一同はうっかりしていた。ドタバタという足音がしたので、みんながギョッとしてふりかえると、ジャッキー・ハッターのちいさなからだがまるで猿《さる》のような身の軽さで、ルイザのベッドにヒョイととびのると、キャンディの箱をあらしだした。ちび助のビリーも歓声をあげて、あとからとびついた。兄弟は、すごい勢いでキャンディをほおばりはじめた。
母親のマーサがはりさけるような声をだして、子供たちにとびついた。「ジャッキー! そんなに喰べたら、おなかをこわすじゃないの……ビリー! やめなさい、さもないと、お母さんがひどい目にあわすから」マーサは、二人のからだをゆすぶって、かたくにぎりしめている手からキャンディをもぎとった。
ビリーは、まるでキャンディを落しでもしたような気で、むくれかえった顔をした、「昨日《きのう》、ジョン小父《おじ》さんがくれたようなキャンディがほしいよう!」と声をはりあげた。
「なんだって?」サム警部はききとがめて、まえにとび出すと、大声で言った。そして、ビリーのきかなそうなちいさな顎をグイッとしゃくりあげて、うなり声で言った、「昨日、ジョン小父さんがくれたキャンディはどんなんだい?」
サム警部は、どんなにご機嫌のときでさえ、ちいさな子供からなつかれるような男ではない。それがいまみたいにこわい声をだしたのだから、子供がふるえあがるのも無理はない。一瞬、ビリーはキョトンとして、警部の押しつぶされたぶざまな鼻を見上げたが、すぐさまつかまれた手をふりきって、そのちいさな顔を母親のスカートにおしあてると、泣きわめきだした。
「たいへんな外交|手腕《しゅわん》じゃありませんか、警部さん」とレーンは警部をしずかに押しのけた。「そんなやりかたでは名にしおう海兵隊の下士官だってふるえあがってしまいますよ。……よしよし、坊や」老優はビリーのそばにしゃがみこむと、肩をやさしくだきしめた、「泣くのはもうおやめ、だれも、坊やのことをいじめないからね」
警部は鼻をならした。だが二分もしないうちに、レーンの腕のなかでビリーは、涙でぬれた顔をほころばしてきた。レーンは、キャンディ、玩具《がんぐ》、虫、カウボーイとインディアンなどの、いかにもちいさな子供のよろこびそうな話をつぎつぎにしてやった。ビリーは、おもしろい小父さんだな、とばかり、すっかり老優になついてしまった。ジョン小父さんがぼくにキャンディを持ってきてくれたよ。へー、いつ? 昨日さ。
「ぼくにだってくれたさ!」ジャッキーが、レーンの上衣《うわぎ》をひっぱって、叫んだ。
「そうか、そうか、どんなキャンディだったんだね、ビリー?」
「リコリス(乾燥した甘草の根またはそのエキス)さ!」とジャッキーが声をはりあげた。
「リコリシュ」ビリーもまわらぬ舌で言った、「とっても大きい袋なんだよ」
レーンは抱いているビリーをおろすと、ジョン・ゴームリーに目をやった。ゴームリーは、いらだたしげに首筋をかいた。「ほんとうですか、ゴームリーさん?」
「むろんですとも!」ゴームリーはプリプリしながら言った、「まさか、そのキャンディに毒が入っていたなんて言いだすんじゃないでしょうね? ジル・ハッターさんをたずねたとき――あの五ポンド入りの菓子箱を贈ったんですけど――子供たちがリコリスに目がないことを思い出して、一緒に買ったんですよ、それだけのことです」
「べつだん、ふくむところがあるわけじゃありませんよ」とレーンはおだやかに言った、「それに、リコリスにはヴァニラの匂いがしませんから、問題になりませんよ。しかし、ま、念には念をいれたほうがいいですからね。こんなとるにたりないことをおたずねしただけで、なぜこうもみなさんは、いきりたつのでしょうかね?」老優はまたビリーにかがみこんだ。「昨日、だれかほかの小父さんもキャンディをくれたかい?」
ビリーは目をまんまるにした。ちび助にとっては、いささか難問すぎた。ジャッキーがほそい脚《あし》を絨毯の上でふんばると、金切《かなき》り声をはりあげた、「なぜ、ぼくにきかないんだい? ぼくならちゃんと答えられるんだよ」
「そうか、よしよし、ではジャッキーさんにおたずねしよう」
「だれにももらわなかったよ、くれたのはジョン小父さんだけだ」
「ありがとう」レーンは、子供たちのきたない手にひとつかみのチョコレートをにぎらせると、母親につけて、部屋の外に出した。「もうこれですみましたよ、警部さん」と老優は言った。
サム警部は、手をふって一同を寝室からひきとらせた。
レーンは、家庭教師のエドガー・ペリーが人目をしのぶようにしてバーバラのそばに近よるのをながめていた。二人が階段をおりてゆくとき、なにかコソコソとささやきあっていた。
警部はそわそわしていた。なにかしきりと迷っているのだ。と、コンラッドが監視の警官にともなわれて、ドアを出かかると、とうとう警部が声をかけた、「コンラッド君、ちょっと」
コンラッドはどぎまぎしながらもどってきた。「なんです――こんどはなんですか?」彼はすっかりおびえきっていた。いままでの挑戦的《ちょうせんてき》な態度は影をひそめ、相手の顔色ばかりうかがっている様子だった。
「ミス・キャンピオンに、あなたの顔をさわらせてください」
「ぼくの顔を……!」
「しかし、警部」とブルーノ検事が反対した、「彼女が昨夜さわったのは――」
「そんなことはかまわないじゃありませんか」と警部は頑強《がんきょう》に言った、「とにかく、たしかめておきたいんです。スミスさん、コンラッド君の頬をさわるように、伝えてください」
看護婦は無言のまま、警部に言われたようにした。ルイザは承知して身がまえた。コンラッドは青白い緊張しきった顔を、ルイザの揺り椅子のまえにつき出した。スミス看護婦は、ルイザの手をとると、きれいに剃《そ》ったばかりのコンラッドの顔にさわらせた。ルイザはサッとなでおろし、なであげ、もう一度、なでおろすと、かぶりをふった。
彼女の指がせわしなく動いた。スミス看護婦が通訳した、「ルイザさんは、もっとやわらかかったと言っています。女性の顔で、コンラッドさんのではないそうです」
コンラッドはすっかりうろたえて、かがめていたからだを起こした。サム警部は首をふった、「もうけっこう」ブスッとした顔をして言った、「家のなかだったら、どこへ行かれてもさしつかえないが、外出だけはみあわせてください、おい警官、コンラッド君からはなれてはいかん」コンラッドは、警官にともなわれて、重い足をひきずって出ていった。警部が言った、「レーンさん、すごくめんどうなことになりましたな」だが、彼はキョトキョトと老優の姿をさがさなければならなかった。レーンはいつのまにか、いなくなっていたのだ。
しかし、レーンが消えたのは魔術ではなかった。れっきとした目的があって、この寝室からしのび出たのである。目的はいたって明白、ともいえよう――つまり、ヴァニラの匂いを求めて、というだけのことである。老優は、部屋から部屋へ、二階から階下へ、と歩きまわり、寝室、浴室、客用の空室、物置にいたるまで、見落したところは一か所もなかった。形の整った美しい鼻は、たえず緊張していた。手にとれるものなら、一つのこらずかいでみた、香水、化粧品、花瓶《かびん》、あげくのはてはかぐわしい女性の下着類にいたるまで。最後に、階下から庭園に出た。そこで十五分というもの、いろいろな花々の匂いをかぎわけてすごした。まず覚悟はしていたものの、すべては徒労だった。昨夜、ルイザ・キャンピオンがかいだ「鼻につんとくるような甘い」ヴァニラの匂いのするようなものは、どこにもなかった。レーンが、サム警部とブルーノ検事がのこっている二階の死の部屋にもどってみると、メリアム医師はすでに帰っていて、トリヴェット船長が点字駒を使って、ルイザと無言の会話を交わしているところだった。警部と検事の二人は、落胆したような顔つきをしていた。
「どこへ行っておられたんです?」と警部がレーンにたずねた。
「匂いのしっぽを追っていたのです」
「へー、匂いにしっぽがあるとはちっとも知らなんだ!」だが、その冗談に、だれも笑わなかったものだから、警部はひっこみがつかなくなって、顎をやたらになでまわした。「だめだったんでしょう?」
レーンは黙ったまま、うなずいた。
「いや、そうでしょうとも。どこにもありゃあしませんよ。この家は、今朝、すみからすみまであらってみたんですが、これはと思うようなものは、なにひとつ、見つからなかったんですからね」と警部。
「どうやらこれは、迷宮《めいきゅう》入りくさくなってきましたな」と検事。
「そうかもしれませんね、しかし、昼食を喰《く》ったら、となりの実験室をひととおり調べてみるつもりですよ、二か月まえに入ったことがあるが、ひょっとすると……」
「あ、実験室がまだありましたね」とドルリー・レーンが気むずかしい顔で言った。
第五場 実験室
――六月五日(日曜日)午後二時三十分
まだ機嫌《きげん》の悪い家政婦のアーバックル夫人は、階下の食堂で、サム警部、ブルーノ検事、ドルリー・レーンの三人に、プリプリしながら昼食の給仕をしていた。食事のあいだというもの、だれもあまり口をきかず、重苦しい気分につつまれていた。ただ、この重くよどんだ空気をやぶるものといったら、食堂を足音あらく出たり入ったりするアーバックル夫人の靴《くつ》のひびきと、やせこけた女中のヴァージニアが不器用にテーブルにおく皿の音だけだった。会話はいたって散漫だった。一度はアーバックル夫人がひとりでしゃべりだし、だれに言うともなく、料理室のてんてこまいの模様を、さかんに顔をしかめてこぼした……どうやら屋敷の裏では、たくさんの警官たちがすごい健啖《けんたん》ぶりを発揮しているようだ。さすがの警部さえ、家政婦の長広舌《ちょうこうぜつ》をとめようともしなかった。いま彼は、靴の革《かわ》みたいに硬《かた》い肉と、それ以上に厄介《やっかい》な難問題をかみしめるのに夢中なのだ。
「そうだ」五分ばかり沈黙がつづいたあとで、ブルーノ検事がだしぬけに口をひらいた、「女が狙《ねら》っているのはルイザなんですな――女と言ったが、ルイザの頬《ほう》の一件から考えてはっきりしていますからな。老夫人を殺す意図はなかったのだ。梨《なし》に毒を注入しているとき、老夫人が目をさましたものだから、犯人は狼狽《ろうばい》したあげく夫人の頭をなぐりつけたというわけですよ。では、犯人はだれか? こうなると私には、それこそ五里霧中だ」
「それに、あのヴァニラの一件は、どういうことなんですかね」サム警部はうなり声をあげると、さもうんざりしたようにナイフとフォークを投げ出した。「たしかに……いや、奇妙な話だが、この問題さえ解ければ、真相に近づけるような気がするのですよ」
「ふむ」とドルリー・レーンは肉をかみきりながら言った。
「コンラッド・ハッター」と警部はつぶやくように言った、「頬の証言さえなかったらねえ……」
「それはもう忘れなさい」と検事が言った、「犯人が、あの男に濡《ぬ》れ衣《ぎぬ》を着せようとしたのだ」
そのとき、ひとりの刑事が、封筒を持って入ってきた。「シリング先生から、いま、これがとどいたのですが、警部」
「ああ、報告書ですね!」レーンはナイフとフォークをおくと言った、「朗読してください、警部さん」
警部は封をひらいた。「ええと、やっぱり毒物の件ですよ、では読みます――」
サム警部殿。
腐敗した梨には致死量をはるかに上回る塩化第二水銀溶液が含有《がんゆう》されている。その梨をほんの一口喰べただけで、死ぬことはまちがいなし。
レーン氏の質問に答えるならば、この梨の腐敗は、毒物のためではなく、毒物が注射されたときは、すでに腐敗状態にあったものである。
他の二個の梨には、いずれも毒物はみとめられず。
ベッドに落ちていた|から《ヽヽ》の皮下注射器には、同一毒物が残存していた。梨のなかの二塩化物の含有量と、注射器の見積り容量から判断して、梨に毒物を注射したのは、この注射器によるものと考えてさしつかえない。
毒物量について僅少の差があるも、私見によれば、当方に届けられた白靴についていた汚点《おてん》によって、その差は生じたものであろう。この汚点も、塩化第二水銀によるものである。梨に注射したさい、その少量が白靴の先端にこぼれ落ちたものだと思う。この汚点はごく最近ついたものである。
検屍の結果は、今夜遅くか、明朝判明する見込み。しかし、下検診から判断して、死体解剖に付しても、毒死の徴候は皆無で、死因については、当初の意見を再確認することと信じる。
シリング
「やっぱりにらんでいたとおりだ」とサム警部はつぶやいた、「おかげさまで、白靴と毒梨の件はかたがついた。塩化第二水銀とね? すると……いや、とにかく実験室に行ってみんことには」
ドルリー・レーンは、陰気な顔をして、黙りこくっているだけだった。三人は、コーヒーを飲みのこしたまま、椅子《いす》をがたつかせて席を立つと、食堂から出た。と、その戸口のところで、ニコリともせずに盆をささげてくるアーバックル夫人と出会った。その盆には、どろッとした黄色い液体が入っているコップがのっていた。レーンは腕時計を見た、きっかり二時三十分だった。
二階にのぼってゆくみちみち、レーンは警部からさっきの報告書を受けとると、丹念に目をとおしていたが、読みおわると、一言も言わずにそれを返した。
二階はしずまりかえっていた。三人は階段をのぼりきると、しばらく足をとめた。すると、スミス看護婦の部屋《へや》のドアがあいて、看護婦がルイザ・キャンピオンの手をとって、そこから出てきた――殺人事件が起こり、家のなかがめちゃくちゃになってしまったというのに、習慣はキチンとまもられているらしく、唖《おし》で聾《つんぼ》でめくらの女は、三人の男たちがあけた道をおりて、日課の卵酒を飲みに、階下の食堂へ行った。三人とも、なにも言わなかった。つぎの指示があるまで、ルイザはスミス看護婦の部屋で起居することになっていたのだ……トリヴェット船長とメリアム医師は、もうかなりまえに、この家を辞していた。サム警部の部下のモッシャーは、死の部屋の押入れにあたる壁に、そのでかいからだをもたせかけていた。のうのうとタバコをふかしてはいるものの、その目はぬかりなく、二階の部屋という部屋のドアを見張っていた。
警部は階下にむかって、声をはりあげた、「ピンク!」ピンカッソン刑事が階段をかけあがってきた。「君とモッシャーと二人がこの二階の監視にあたれ、わかったな? 交代でやれ、老夫人の寝室にはだれもいれるな、それ以外のことはいちいち干渉《かんしょう》するな、ただ、目をはなすんじゃないぞ」ピンカッソンはうなずくと、また階段をおりていった。
警部はチョッキのポケットをさぐると、エール錠をとり出した。ヨーク・ハッターの実験室の鍵《かぎ》で、死んだ老夫人の所持品から出てきたのである。彼は、その鍵の感触をじっくりと手で味わっていたが、やがて手すりをまわって、実験室のドアに近づいて行った。ブルーノ検事とレーンがそのあとにつづいた。
警部はすぐドアをあけなかった。そのかわりに、そのまえにしゃがみこむと、ちいさな鍵穴をのぞきこんだ。なにかブツブツ言いながら、なんでもとび出してきそうなポケットから細い針金をとり出すと、鍵穴にさしこんでガチャガチャ往復させてから、グルグルとかきまわしはじめた。やっとのことで満足すると、針金をひっこぬいて、丹念に調べた。針金にはなにもついてなかった。
彼は腰をあげると、その針金をポケットにしまい、とほうにくれたような顔をした。「どうも変だな」と彼は言った、「この鍵穴には、てっきり蝋《ろう》をぬったあとがのこっていると思ったのに。だれかが鍵穴の蝋型をとって、合鍵をつくらせたにちがいないとにらんで、そいつをたしかめようとしたのだが、針金に蝋がついてこない」
「いや、さして重要なことではないね」とブルーノ検事が言った、「蝋型をとってから鍵穴をきれいにぬぐっておいたか、あるいは犯人がハッター老夫人から鍵を一時『拝借』して合鍵をこしらえて、またもとにそっともどしたのかもしれない。ま、いずれにしろ、老夫人が死んでしまったいま、われわれにはわかりっこないさ」
「さ、早く警部さん」とレーンはいらいらしながら言った、「とやかく言ったところで、らちはあきませんよ、ドアをあけてください」
サム警部は、鍵穴に鍵をさしこんだ。鍵はピッタリ合うのだが、なかなかまわらなかった。まるで長いあいだ鍵をかけっぱなしにしてあったように、すっかり錆《さび》ついているのだ。警部は、鼻のあたまに汗をかきながら、がむしゃらにねじった。キイキイと音をあげながら、やっとのことで鍵がまわった、カチリと錠がはずれた。警部はドアのハンドルをにぎって押した。だが、きしるだけで容易にはあかなかった、錠と同様に、蝶番《ちょうつがい》も錆ついているのだ。やっとのことでドアがあくと、警部が踏みこもうとした、と、レーンがそのたくましい腕に手をかけた。
「なんです?」と警部が言った。
レーンは、部屋の入口の床《ゆか》を指さした。そこはむき出しの堅い板の間《ま》になっていて、あたりいちめんにほこりがつもっていた。レーンは腰をかがめると、その床の上を指でこすってみた。指先はまっ黒になった。「犯人は、この入口から入った形跡がありませんね、警部さん、このほこりはつもったままになっているし、その厚さからみても何週間もまえのことですからね」
「いや、二か月まえに見たときは、こんなになってはいませんでしたよ――これほどひどくはつもっていなかった」と警部はおもしろくなさそうな表情で見まわした。「それにとびこえるわけにもいかないし、なにせ、この入口から、ほこりがみだされているところまで、たっぷり六フィートはありますからな、どうもわからん!」
三人は入口につっ立ったまま、室内を見まわした。警部が言ったとおり、入口の近くの床は、まるで灰色のヴェルヴェットをしきつめたみたいに、ほこりがきれいにつもっているままになっていたが、六フィートばかり先になると、ほこりは足跡ですっかりみだされていて、三人の目がとどくかぎり、その踏みあらされたほこりの床は、部屋の奥までつづいていた。しかもその足跡は、一つ一つ、じつに丹念に踏み消されているではないか。ほこりが厚くつもっているのは、入口のそばとかわりなく、無数の足跡がついているくせに、一つとして見分けのつく足跡がないのだ!
「犯人がだれであれ、すごく用心深いやつだ」と警部が言った、「おっと、待ってください、テーブルの向う側に、一つぐらい、写真にとれそうなやつがのこっているかどうか、いま、見てきますからね」彼はきれいにつもっているほこりの上に、雪男みたいな巨大な自分の靴跡をのこしながら、ずかずかと部屋のなかに入ってゆき、犯人の足跡で踏みあらされている床の上をうろつきはじめた。そして、テーブルのかげになっている床をのぞきこむと、がっかりしたといわんばかりに顔をくもらせた。「こいつはおどろいた!」と思わずうなった、「はっきりしたやつはまるっきりない、さ、入ってください――これじゃ、遠慮することなんかありませんや」
検事は好奇心の色をありありとうかべながら、実験室に入ってきた、だがレーンは動こうともせず、戸口に立ったまま、室内を見渡していた。老優の立っている戸口が、この実験室の唯一《ゆいいつ》の出入口だった。部屋の構造は東隣りにある「死の部屋」とそっくりだった。やはり二つの窓が、入口のつきあたりにあって、裏庭を見おろすことができた。ただ、となりの部屋の窓とちがうところは、三インチたらずのせまい間隔で、数本の太い鉄棒がはめこんであることだった。
この一対《いっつい》の窓のあいだには、飾り気のない白塗りの鉄のベッドがあった。西側の壁と庭に面した壁の角《かど》、つまり西よりの窓の近くに洗面台がある。ベッドも洗面台もちゃんとなってはいたが、ひどいほこりだった。入口のドアのすぐ右手には使い古された蓋《ふた》つきの机がおいてあり、その角にはちいさな鉄製の書類用|戸棚《とだな》があった。入口の左手には衣装《いしょう》戸棚があった。西側の壁のほぼ上半分というものは、何段かの頑丈《がんじょう》な棚がとりつけてあり、薬品の壜や壺《つぼ》が目白《めじろ》押しにならんでいるのが、レーンの目に入った。その棚の下は、押入れになっていて、幅のひろい扉はきっちりとしまっていた。この薬品棚と直角のところに傷だらけの大きな長方形の実験台が二つ据えられ、その上に、レトルト、試験管台、ブンゼン燈、水道栓、めずらしい形の電気機械などがほこりをかぶったままならんでいて、レーンのような門外漢の目にさえ、たいへん整った実験設備のように思われた。その二つの実験台は平行にならんでいて、そのあいだにいる実験者が、からだのむきを変えるだけで、どちらの実験台でも仕事ができるだけの間隔がとってあった。
東側の壁、つまり薬品棚とはまむかいに、二台の実験台とはおなじく直角にあたる壁には、となりの「死の部屋」とまったく同型の大きな煖炉《だんろ》があった。それから実験室の奥、鉄のベッドとこの煖炉のあいだの東側の壁ぎわに、粗末な小型の仕事台が立っていて、薬品でところどころ焼けただれていた。そのほかに二、三脚の椅子があちこちにおいてあり、薬品棚の下の押入れのまんまえに、円形のシートのついた三脚床几《さんきゃくしょうぎ》があった。
ドルリー・レーンは足を踏みいれると、ドアをしめ、部屋のなかに入っていった。戸口から六フィートばかりの、ほこりがきれいにつもっている部分をのぞいたら、いたるところに、踏みあらされた足跡があった。ヨーク・ハッターの死亡後、サム警部が最初の調査を行ったあとで、だれかがこの実験室にしげしげと出入りしたことは、火を見るよりもあきらかだ。おまけに、ほこりの状態と、はっきりした足跡が一つものこっていないことから考えれば、侵入者が、その足跡を計画的に足でかき消したことは、それにもまして疑いをはさむ余地はなかった。
「このありさまじゃ、入りこんだのも一度や二度のことじゃないぞ」とサム警部は思わず声をあげた、「それにしても、その女はどこから入りこんだのだろう?」彼は窓ぎわに歩みより、鉄棒をつかむと、力いっぱいにひっぱってみた。だが、コンクリートでかためられている鉄棒は、ビクともしなかった。警部はなにかしかけでもしてあって、何本か抜けるようになっているのではないかという、はかないのぞみをいだいて、コンクリートと鉄棒を仔細《しさい》に調べてみた。しかし、これもまったく徒労だった。それから窓枠《まどわく》と窓の外の庇《ひさし》も調べてみた。庇は、敏捷《びんしょう》なものなら、渡ってあるけるだけの幅があったが、一つも足跡はついていなかった。窓枠についているほこりにも、手や指でみだされた形跡はなかった。サム警部は頭をふった。
彼は窓ぎわからはなれると、こんどは煖炉の方へ歩みよった。煖炉のまえには――ほかのところと同様――踏みにじった足跡がたくさんのこっていた。彼は煖炉を思案深げに見つめていた。ほかのものにくらべると、ほこりもあまりなく、きれいすぎるような感じもするが、べつに不自然ではなかった。彼はちょっと二の足をふんでいたが、その巨体を折るようにして煖炉のなかに首をつっこんだ。と、いかにも満足そうにうなり声をあげると、首をひき出した。
「どうした、なにがあるのだ?」とブルーノ検事がたずねた。
「ああ、どうしていままで気がつかなかったんだ!」と警部は叫んだ、「まあ、煙突をのぞいてみてください、空が見えるじゃありませんか! おまけに煉瓦には、ちゃんと足がかりになるように、大きな古釘《ふるくぎ》がうちこんであるんですよ――たぶん煙突|掃除《そうじ》をしたときのやつがのこっていたんだ。一ドル賭《か》けたっていい、犯人はここから……」ここまで言いかけて、彼は顔をくもらせた。
「すると、|例のご婦人《ヽヽヽヽヽ》が実験室にしのびこんだとでもいうのですか、警部さん?」とレーンがしずかに言った、「あなたの顔は正直すぎて、とてもポーカー・フェイスにはなれませんね。わが仮想女性毒殺犯人が、煙突からこの実験室に入りこんだと、あなたは言うつもりでしたよ。これはいささか、こじつけというものでしょう、警部さん。もっとも、男の共犯者《ヽヽヽ》がこの侵入手段にうったえたかもしれない、ということは考えられますがね」
「きょう日《び》の女なら、男のやることならなんだってしますがね」とサム警部が言った、「しかし、ま、いま言われたことはちょっとしたアイデアですよ、なるほど、こいつは男と女が組んでやった仕事かもしれませんな」警部は検事の顔を見つめた、「こうなると、あのコンラッド・ハッターがまた浮びあがってくることになりますよ! たしかにルイザ・キャンピオンは女性の顔にさわったかもしれない、しかし、ハッター老夫人の頭をぶんなぐり、この実験室に足跡をのこしたのはコンラッド・ハッターなのだ!」
「そのとおり」と検事が言った、「レーンさんが共犯者と言われた瞬間に、私の頭にもピーンときましたよ。そうだ、どうやらこれでわれわれの捜査も軌道に……」
「まあまあ、待ってください」とレーンが口をだした、「そうやたらと、私の意見を作り変えてもらっては困りますね、べつに私はなにも言わないじゃありませんか。ただ、共犯者も考えられうるという論理的な可能性を指摘したまでの話でしてね。そうだ、警部さん、この煙突は、大人《おとな》の男が屋根からおりてこられるだけの太さがあるのですか?」
「まさか私のような図体《ずうたい》の――いや、自分でごらんになったほうが早いですよ、レーンさん、あなただって、りっぱな手足が揃っていらっしゃるはずだ」とサム警部はムッとした口ぶりで言った。
「なに、あなたの言葉を信じますよ」
「太さならたっぷりありますとも! この私にだっておりられるくらいでさあ、私の肩幅は狭いとは言えませんからね」
レーンはうなずくと、西側の壁にむかってしごくのんびりした足どりで歩みより、薬品棚を調べた。棚は五段あって、各段が三つに仕切られ、全部で十五の区画にわかれていた。また、ヨーク・ハッターの几帳面《きちょうめん》な性格をあらわしているものは、これだけにとどまらなかった。棚にのっている壜は全部同一の大きさ、同型で、そのいずれにもおなじフォームのラベルがついていた。その一つ一つに不変性インクで薬品名が鮮明に書かれてあった。「毒物」と書いた赤い紙片がはってあるのもかなりあった。ラベルには薬品名と化学記号(これはないものもある)のほかに、いちいち番号がふってあった。
「いや、じつに几帳面なひとがいるものですな」とレーンが言った。
「そうですね、もっとも、こんなことはなんの関係もありせんがね」
レーンは肩をすくめた、「ま、たぶんね」
なおもレーンが薬品棚を綿密に調べてゆくと、全部の薬品が番号順にきちんとならべられているのがわかった。最上段のいちばん左端に1号の壜、そのとなりが2号、3号がそのまたとなりというように順をおっていた。どの棚もぎしっりとつまっていて――欠けている部分はなかった。つまり、この薬品棚には、全部そろっているわけである。どの区画にも二十個の壜がならんでいるのだから、合計三百個の壜ということになる。
「おや」とレーンが声をあげた、「ここにおもしろいものがありますよ」老優は最上段の第一区画のほぼ中央にある壜を指さした。それにはこんなラベルがはってあった――
♯9
ストリキニーネ
毒物
そして毒物を明示するための赤い紙がはってあった。この壜には、結晶状の白い錠剤《じょうざい》が半分ぐらいしか入ってなかった。しかし、レーンが興味をひいたのは、どうやらストリキニーネそのものではなくて、壜の底辺についているほこりだった。そのほこりはみだれていて、つい最近、その棚からとり出された事実を如実《にょじつ》に物語っていた。「あの卵酒に入っていた毒物は、ストリキニーネでしたね?」とレーンがたずねた。
「そうですとも」とサム警部が答えた、「二か月まえ、あの毒殺未遂の直後、この実験室を|あらった《ヽヽヽヽ》とき、ストリキニーネを見つけたと、あなたにお話したではありませんか」
「そのとき、この壜は、いまとおなじところにありましたか?」
「そうです」
「この壜がのっているあたりの棚のほこりも、いまみたいにみだれていましたか?」
サム警部は棚に近よると、顔をしかめながら、そこのほこりを見つめた。「ええ、こんなぐあいでしたね。これほどひどくはつもっていなかったが、やっぱりこんなふうでした。あのとき、そのほこりのみだれを見たあとで、よく注意して壜をもとの位置にかえしておきましたからね」
レーンは、棚の方にまたからだをむけた。老優の目は、上から二番めの棚にそそがれた。ちょうど六九号の壜がのっている棚の縁の下部に、奇妙な楕円形《だえんけい》の汚点がポツンと一つついていて、よごれた指先のあとみたいに見える。この壜のラベルには、
♯69
硝酸
毒物
と書いてあり、無色透明な液体が入っていた。
「これはおかしい」とレーンは、いかにも意外そうな口ぶりでつぶやいた。「この硝酸《しょうさん》の壜の下の汚点に見憶えがありますか、警部さん?」
警部は目を細めて見た、「ええ、確かに見憶えがあります。やっぱり二か月前にもついてました」
「そうですか……で、この硝酸の壜には指紋がありましたか?」
「いや、なかったですな、だれがさわったにしろ、手袋ははめてますからね。しかし、硝酸が事件に使われた形跡はありませんでした。たぶん、ヨーク・ハッターがゴム手袋をはめて、なにかの実験にでも使ったのでしょう」
「それだけでは、この汚点の説明にはなりませんよ」とレーンはつめたく言った。老優は、薬品棚を順々にながめていった。
「塩化第二水銀はどうでしょうな?」とブルーノ検事が口を出した、「その壜からなにかの手がかりがつかめれば――シリング医師の報告では、梨《なし》のなかに塩化第二水銀が……」
「じつに完備した実験室ですから、きっとありますよ」とレーンが言った、「ほら、ありました、ブルーノさん」彼は中央の棚、つまり三段めの右側の区画にある壜を指さした。その区画の八番めにあった。そのラベルには――
♯168
塩化第二水銀
毒物
その壜の液体は多少減っていた。壜の底部がふれるあたりの棚のほこりもみだれていた。サム警部は壜の頸《くび》をつまんで棚からとり出すと、丹念に調べた。「こいつにも指紋がついていませんな、やっぱり手袋をはめていたんだ」彼は壜をふってみて、顔をしかめながら、また棚にそれをもどした、「よし、これで梨に注射した毒物の出所がつかめた。しかし、一服《いっぷく》もろうとするんだったら、こんな便利なところもないですな! 毒薬なら、なにからなにまでそろっているんだから」
「なるほど」とブルーノ検事が言った、「下湾からヨーク・ハッターの死体があがったとき、内臓から検出された毒物を、シリング医師はなんと言いましたっけ?」
「青酸ですよ」とレーンが言った、「ここにあるのがそうです」ヨーク・ハッターが海に投身する寸前に飲んだ毒物は、最上段の右側の区画の棚にある五七号の壜だった。この壜にも、いままで調べた毒物の壜と同様に、赤い紙がはってあった。その無色透明な液体は、かなり減っていた。サム警部は壜についているいくつかの指紋を指さした。壜が立っている棚のほこりは、すこしもみだされていなかった。
「この指紋はヨーク・ハッターのものですよ。ルイザ・キャンピオンの最初の毒殺未遂事件を調査したとき、照合したのですがね」
「そうは言うものの、警部さん」とレーンはおだやかな口ぶりでたずねた、「ヨーク・ハッターの指紋をどうやって手にいれたのです? あのときはもう埋葬《まいそう》されていましたし、まさか死体公示所で、死人の指にインクをぬりつけるわけにもいきますまい」
「なかなかどうして、あなたの目はごまかせませんな」とサム警部は苦笑いをして言った、「たしかに、ヨークの死体からじかに指紋をとるようなわけにはいきませんでしたよ。なにせ、指先の肉はすっかりふやけきって腐っていましたからね、指紋どころのさわぎじゃありません。で、この実験室にやって来て、家具にのこっている指紋をさがすはめになりましてね、ま、たくさん見つかりましたから、そいつと、この青酸の壜についている指紋とを照合したというわけです」
「え、家具から?」とレーンはつぶやくように言った、「なるほど、これはうかつなことをおたずねしましたよ、警部さん」
「ま、ヨーク・ハッターがこの五七号の壜の青酸――シリング医師の言うところによるとシアン化水素酸を、小壜にとったことはあきらかですな」とブルーノ検事が言った、「それから服毒して海にとびこんだというわけです。それ以来、この壜にはだれも手をつけていませんよ」
どうやらドルリー・レーンは、薬品棚にすっかり心をうばわれているようだった。なんども、その棚に目をやった。やがて老優は数歩うしろにさがると、かなりながいこと、その十五の全区画を見渡していた。そして二度までも、六九号の硝酸の壜がある棚の縁の汚点に、彼の視線はもどってきた。彼は近よるなり、その棚の縁づたいに目をはしらせた。と、みるみるうちに彼の顔はかがやいた。まえのとそっくりな、べつの楕円形の汚点がポツンと一つ、硫酸《りゅうさん》とラベルに書いてある九〇号の壜がのっている二段めの中央区画の棚の縁についていたのだ。「汚点が二つ」と、老優は思案深げにつぶやいた、だが、その灰緑色の目には、いままでになかった光がきらめいていた。「警部さん、最初の実験室の捜査のときも、この二番めの汚点は、ここについていましたか?」
「これですか?」と警部がのぞきこんだ、「いや、なかったですな、しかし、これがどうしたというんです?」
「べつにどうということもありませんがね、警部さん」とレーンはさらりと受け流した、「二か月まえになくて、いまあるものなら、どんなものでも興味があるというわけですよ」彼は注意深く、その硫酸の壜を棚からとりあげた。その跡には、まるくくっきりと、ほこりの輪が棚の上にのこっているのが、彼の目にうつった。と、彼は目をそらした、いましがたのかがやきは、彼の顔から消え失せ、暗い疑惑のかげがそれにとってかわった。ほんのちょっと、老優はためらいがちに無言でつっ立っていたが、やがて肩をすくめると、その棚からはなれた。
しばらくのあいだというもの、レーンはガックリときた表情で、その実験室のなかを歩きまわっていた。一歩ごとに、彼の顔は暗さをましていった。だがしかし、まるで薬品棚にからだをひきつける磁気のようなものがあるかのように、最後にはまた、その棚のまえに彼はかえってきてしまったのだ。三区画五段の薬品棚の下の押入れに、彼はじっと目をそそいだ。やがて幅のひろい二枚扉をあけると、なかをのぞきこんだ……食指《しょくし》を動かされるようなものは、なにひとつ入ってなかった――ボール箱、ブリキ罐《かん》、薬品の包み、試験管、試験管台、小型電気冷却器、いろいろな電気器具の部品、種々雑多な実験用具などだった。老優は自分自身の不明に、いらだたしげなつぶやきをもらすと、その扉を乱暴にしめた。
やっとのことでレーンは、入口のそばにある蓋つき机を調べに行った。蓋はおりていたが、彼は手をかけると、それをまきあげはじめた。「このなかは、もう調べたでしょうね、警部さん」
警部は鼻をならした、「ええ、見ましたとも。ヨーク・ハッターの死体がサンディ岬の沖で見つかったとき、蓋をあけて調べたんです。この事件の手がかりになりそうなものは、なにもありませんでしたよ。みんな、ヨーク・ハッター個人の、化学関係の書物や書類ばかりです。ハッターの化学ノートもありましたが、ま、実験のノートでしょうな」
レーンは、机の蓋をすっかりまきあげて、なかを見まわした。机のなかは乱雑をきわめていた。
「あのときのままですよ」と警部が言った。
レーンは肩をすくめると、机の蓋をおろし、そのそばにある鉄製の書類戸棚にむかった。
「そこも、調べずみですよ」と警部がもどかしそうに言った。だが、レーンは、鍵のかかっていない鉄の引出しをあけ、ちいさなカード式インデックスが見つかるまで、なかをかきまわしていた。それは実験データをとじこんだぶ厚い綴込みの奥に、きちんとしまってあった。
「ああ、注射器のことがありましたな」と地方検事が言った。
レーンはうなずいた、「このインデックスによると、皮下注射器は十二本とありますよ、ブルーノさん、さあて……ああ、ここにあった」老優はインデックスをほおり出すと、引出しの奥から、大きな皮ばりのケースをとり出した。ブルーノ検事とサム警部は、肩ごしにのぞきこんだ。そのケースの蓋には、Y・Hという金文字が入っていた。レーンは、その蓋をあけた。紫色のビロードを敷いた溝《みぞ》のなかに、大小とりまぜた十一本の皮下注射器がきれいにならんでいた。溝の一つが、からになっていた。
「クソ! あの注射器はシリング医師のところだ」と警部が言った。
「なに、わざわざとりよせるまでもありますまい。ほら、ハッター老夫人のベッドで見つけたあの注射器に、6という番号がついていたでしょう、これも、ヨーク・ハッターの几帳面な性格のあらわれですよ」
彼は、からっぽの溝を、指の爪《つめ》でさわってみた。どの溝にも、それぞれ黒いリンネルのちいさな布片《ぬのぎれ》がはりつけてあって、それに白字で番号がふってあった。注射器はその番号順にならんでいた。からっぽの溝には、6の番号がついていた。
「この溝のサイズも、私の記憶にまちがいがないなら、あの注射器のサイズと一致するようですよ。そうだ、このケースからとり出して、塩化第二水銀をつめたのですね、それから」彼は身をかがめると、ちいさな皮ケースをひろいあげた、「これはきっと、注射針が入っているのですよ……やっぱりそうです、針が一本なくなっていますね、インデックスには十八本とあるのに、これには十七本しか入っていないのですからね。そうか!」老優はホッとため息をもらすと、大小の皮ケースを引出しの奥にもどし、あまり熱のなさそうな態度で綴込みをめくりはじめた。ノート、実験記録、予定表……と、何冊もあったが、一冊の綴込みはからだった。
レーンは書類戸棚の引出しをしめた。と、そのとき、どこかうしろの方でサム警部がアッと声をあげた。ブルーノ検事がいちはやくかけよったので、レーンも思わずふりかえってみた。サム警部はほこりだらけの床にひざまずいていたが、ほとんど大きな実験台のかげにかくれていた。
「いったい、なんだ?」と検事が叫んだ、レーンと二人で実験台の角をまわった、「なにか発見したのか?」
「なにね」とサム警部はさも不満そうにうなると、床から立ちあがった、「はじめのうち、さも曰《いわ》くがありそうに見えたんだが、よく見たらなんでもなかったんですよ。これですよ」検事とレーンは、警部の指さしたとこに目をむけて、彼に叫び声をあげさせたものを見た。二つの実験台の中間、薬品棚よりも煖炉に近いほこりだらけの床の上に、ちいさな円形が三つついていて、正三角形をつくっていた。レーンが顔を近づけてよくながめると、その三つの小さな円形にもほこりがついているが、あたりの厚いほこりにくらべたら、はるかにうっすらとしたものだった。「いや、とるにたりないものなんです。最初は、なにか重要な気がしたんですが、じつは三脚床几のあとなんですよ」
「ああ、そうか」とレーンは思い出して言った、「すっかり忘れていましたよ、そういえば三脚床几がありましたね」
警部は、薬品棚のまえから、ちいさな三本足の床几を持ってくると、問題の床の上においた。三本の脚《あし》が、ほこりの輪の上にピタリとかさなった。「ほら、このとおりですよ、じつに簡単で話にもなりません、はじめはここにあったのが、棚の方に移された、それだけのことですよ」
「なんだ、そんなことだったのか」とブルーノ検事が、がっかりしたように言った。
「そんなことですよ」
だがレーンは気落ちしたなかにも、なにかに満足したらしく、その三脚床几のシートをさも親しげなまなざしでみつめた。まるで薬品棚のまえにあったときから、その椅子とはおなじみだったという感じだった。床もまた、ほこりにまみれていたが、シートはこすられたり、汚点《しみ》をつけられたりしていて、ほこりもまばらになっていた。
「ああ――警部さん」とレーンが言った、「二か月まえの実験室の捜査のとき、この床几はいまのところにありましたか? つまりですね、最初の捜査以後に、この椅子が動かされた形跡がありますか?」
「さあ、そいつはおぼえていませんな」
「そうですか」レーンはおだやかに言うと、目をそらした、「では、今日《きょう》のところはこれでけっこうです」
「あなたが満足されたのなら、それにこしたことはないが」と地方検事は不満そうにつぶやいた、「この私にはさっぱりわかりませんな」
ドルリー・レーンはそれに答えなかった。彼はただ、機械的にブルーノ検事とサム警部とに握手をかわすと、ハムレット荘にひきあげるというようなことを口のなかでつぶやいて、実験室を出た。老優の顔には疲労のかげがひろがり、階段をおりるときも肩をややすぼめ、玄関で帽子とステッキを受けとると、ハッター家を出た。
警部がつぶやいた、「いや、あの様子では、おれと同様まるっきり見当がつかんらしいぞ」彼は、煙突の口の見張りに、刑事を一人《ひとり》屋根にあげ、実験室のドアに錠をおろすと、地方検事に挨拶《あいさつ》して、階段を重い足どりでおりていった。(ブルーノ検事はすっかり意気|銷沈《しょうちん》して、ごうごうたる世論の矢おもてに立っている役所へと帰っていった)
警部が一階におりてくると、ピンカッソン刑事が、力のない親指をさかんにいじくりながら立っていた。
第六場 ハッター家
――六月六日(月曜日)午前二時
ドルリー・レーンとブルーノ検事とが屋敷からひきあげてしまうと、さすがのサム警部もまるで去勢されてしまったようになり、いやに人間味のある心細さにおそわれるようになった。いまはただ、身も心も敗北感にひたされて、レーンの、あの暗い表情やブルーノ検事の絶望的な顔つきを思いうかべると、もうどんなことをしたってうきうきとした気分にはなれなかった――もっともこの男は、どんな得意絶頂のときですら、めったにそういう気分にはなれないのだが。彼はなんどもため息をつき、大きな安楽椅子にその巨体をだらりとのばし、図書室の葉巻箱から見つけたシガーをくゆらしながら、ときおり部下たちがもたらすパッとしない報告をきいたり、ハッター家のひとたちがまるで亡霊のように屋敷うちをさまよっているのをながめたりしていた。ま、いわば、やすみなく立働いていた男が、突然、することがなくなって、身のおきどころに困っているといった感じなのだ。
屋敷のなかは、不気味な沈黙におおわれ、ときどき、階上の子供|部屋《べや》であそんでいるジャッキーとビリーがあげるけたたましい金切《かなき》り声が、よけいにその静けさを強調するのだった。一度、裏庭の小径《こみち》をそわそわと歩きまわっていたジョン・ゴームリーが、警部をさがしにやって来た。その、背の高いブロンドの青年はすっかり頭にきていて、コンラッド・ハッターに話したいことがあるのに、二階で頑張《がんば》っている巡査のやつが、どうしてもコンラッドの部屋にいれてくれない、いったい、警部さんはどういうつもりなんだ、とくってかかった。サム警部はすこしもさわがず、やおら片目をほそめて、シガーの灰を見つめると、吐き出すような口ぶりで言った。どうするつもりもない、コンラッドは部屋にとじこめられているだけだ、当分は足どめはつづくはずだ、ゴームリー君がどうなろうと、おれの知ったことか。
ゴームリー青年はまっ赤《か》になり、負けずにはげしく言い返えしてやろうと身がまえたとき、ジル・ハッターと弁護士のビグローの二人が、図書室にブラッと入ってきた。ゴームリーは出かかった言葉をかみころした。ジルとビグローはうちとけた口調《くちょう》で話しあっていた。ちょうどこのとき、はた目にも二人の仲はたのしげで、むつまじく見えたのだ。ゴームリーの目は、嫉妬《しっと》の火に燃えあがった。警部に一言の挨拶《あいさつ》もせず、青年は図書室からとび出すと、そのまま屋敷から出ていった。その出がけに、大きな手で弁護士の肩をドンとたたいた――出しなの挨拶にしては、いささかありがたくなかったので、思わずビグローはやさしい言葉を途中でのむと、「クソッ!」と本音《ほんね》を吐いた。
ジルがびっくりして叫んだ、「まあ――な、なんて乱暴な!」サム警部も鼻をならした。五分後、すっかり興《きょう》ざめのしたビグローは、ジルに別れをつげた。彼女は突然、不機嫌になった様子だった。弁護士は警部にむかって、明日、火曜日の葬儀のあと、相続人を集めてハッター老夫人の遺言書《ゆいごんしょ》を発表するつもりだと、なんどもくりかえしてから、そそくさと帰っていった。ジルは鼻でフンと言うと、ドレスをなでつけた。それから警部と目をあわせると、顔をゆがめて笑い、身をひるがえすようにして図書室を出ると、二階へあがっていった。
その日は、うんざりするくらい遅々としていた。家政婦のアーバックル夫人は、勤務中の刑事の一人と口論をおっぱじめて、無聊《ぶりょう》をなぐさめた。そのあと、ジャッキーが喚声《かんせい》をあげてとびこんできたが、警部の姿を一目見るなり、パッと立ちどまって、ちょっとどぎまぎし、またワアワアとわめきたててとび出していった。一度、バーバラ・ハッターが、美しい精のような姿で、背の高い深刻な顔をした家庭教師のエドガー・ペリーとならんで、図書室のまえを通りすぎていった。二人は夢中で話しあっていた。
警部はため息をついてはまたつき、いっそ死んでしまったほうがましだと思ったくらいだった。電話のベルが鳴った。警部が出た。ブルーノ検事の声がした……なにか変ったことは? ありませんな。彼は受話器をかけ、葉巻ののこりをかんだ。しばらくすると、彼は帽子をかぶるなり、安楽椅子から立ちあがった。図書室を大股《おおまた》に出ると、玄関のドアにむかった。「お出かけですか、警部?」と刑事が声をかけた。サム警部はちょっと考えてから、頭をふると、また図書室にひきかえして待つことにした――なにを待つのか、自分でもさっぱりわからなかった。彼は酒壜棚《さけびんだな》に行って、茶色の平たい壜をとり出した。コルクをぬき、その壜を唇《くちびる》につけると、ゆううつそうな顔の色に、はじめてなにかいきいきとしたものがひろがった。いかにもうまそうに、ゴクゴクとのどをならして飲んだ。やっと、その壜をかたわらのテーブルにおくと、酒壜棚の戸をしめ、ホッと息を吐き出しながら椅子に腰をおろした。
午後五時に、電話のベルがまた鳴った。こんどは検屍医のシリング医師だった。すると警部のトロンとした目がパッとかがやいた。どうでした、先生?
「やっとすんだよ」疲労したシリング医師のかすれた声がきこえた、「死因はやっぱりにらんだとおりだった。マンドリンで額《ひたい》をなぐられたくらいじゃ、なかなか死ぬものじゃない、ま、気絶するのが関の山だ。ショックで心臓がやられたわけだ、それでお陀仏《だぶつ》さ! おまけに、なぐられるまえにものすごく興奮していたらしいからね、そいつも心臓にひびいたわけだ、じゃ、失敬」
サム警部は受話器をかけると、苦虫《にがむし》をかみつぶしたような顔をした。
午後七時、となりの食堂で気のおもい晩餐《ばんさん》がはじまった。警部はまだ苦い顔をしたまま、ハッター家のひとたちと食事をしていた。コンラッドは顔をまっ赤《か》にしたまま、黙りこくっていた――午後じゅう酒を飲みつづけていたのだ。皿に目をすえたまま、ただ機械的に口を動かしていたが、まだみんなが食事をしている最中に席を立つと、自分の監房《ヽヽ》へもどっていった。監視の警官が執拗《しつよう》についていった。マーサはなりをひそめていた。警部には、彼女の疲れた目のなかにある苦悶《くもん》の色がわかった。夫を見るときの目には恐怖の色が、二人の子供たちを見るときには、慈愛と強い意志の光があった。だが、その子供たちときたら、あいかわらずじっとしていないで騒ぎまわり、二分ごとに叱《しか》られてばかりいた。バーバラは、エドガー・ペリーとまるでささやくように話しあっていたが、この家庭教師はまるで別人の感があった。目をキラキラとかがやかし、まるで現代詩が彼の情熱のすべてであるかのように、女流詩人と新しい詩を論じあっているのだ。末娘のジルはふくれ面《つら》をして料理をつっついているばかりだった。アーバックル夫人は、仏頂面《ぶっちょうづら》の女看守みたいに、給仕をしていた。女中のヴァージニアは、皿をガチャガチャいわせながら、無神経に足音をたてて歩きまわっていた。このハッター家の一族を、公平な疑惑の目で見つめながら、警部ははじめからおわりまでむっつりと考えこんでいた。彼はいちばん最後に、食卓からはなれた。
晩餐後、義足をひきずりながら、トリヴェット船長がやって来た。彼はていねいにサム警部に挨拶すると、すぐその足でスミス看護婦の部屋にあがっていった。看護婦が、ルイザ・キャンピオンのわびしい食事の世話をしているのだ。トリヴェット船長は、三十分ほど、その部屋にいて、やがて階段をおりてくると、しずかに帰っていった。
やっとのことで日がくれると、夜になった。コンラッドが千鳥足《ちどりあし》で図書室に入ってくると、警部の顔をにらみつけ、たったひとりだけで酒盛りをはじめた。マーサ・ハッターは、二人の子供たちを子供部屋のベッドにおしこむと、自分の寝室にとじこもった。ジルも、足止めをくっているので、自分の部屋に姿を消した。バーバラ・ハッターは、二階で書きものをしていた。しばらくするとペリーが図書室へやって来て、今夜はもう用がないのか、疲れているから、もしかまわないならやすみたいが、と言った。警部は力なく手をふった。家庭教師は屋根裏の寝室にひきあげていった。
時がたつにつれて、ちいさな物音すらきこえなくなった。サム警部は、絶望の昏睡《こんすい》状態にふかぶかとおちていった。コンラッドが図書室からよろけ出て、階段を這《は》うようにしてのぼってゆくときも、目がさめなかった。十一時半に、部下の一人が入ってきて、さもくたびれたといったように腰をおろした。「どうだった?」サム警部はまるでほら穴のような口をあけて、あくびをした。
「例の鍵《かぎ》ですが、ぜんぜんだめでした。ひょっとしたらつくられたかもしれないと言われた合鍵の出所を、みんなでさがしまわったんですが、どこの錠前屋にも金物屋にも手がかりがないんです。ニューヨークじゅう、しらみつぶしに歩いたんですがね」
「そうか!」と警部は目をしばたいた、「あれはもういいんだ、犯人の女の侵入経路がわかったんだよ。ご苦労、フランク、帰ってやすんでくれ」
その刑事は出ていった。午前零時きっかりになると、警部は安楽椅子からその巨体を起こして、二階へのぼっていった。ピンカッソン刑事は、まるで一日じゅうそうしているみたいに、まだ親指をしきりに動かしていた。
「異常はないかね、ピンク?」
「ありません」
「よし、帰りたまえ、モッシャーが交代する」
ピンカッソン刑事はやはりうれしさがかくしきれず、いそいそと命令にしたがった。その証拠に、うきうきと階段をかけおりたものだから、重い足であがってくるモッシャー刑事とあやうくぶつかりそうになったのだ。モッシャーは警部に敬礼すると、ピンカッソンに代って階上の見張りについた。
警部は三階の屋根裏へミシリミシリとのぼっていった。死んだみたいにしずまりかえっていた。あらゆるドアはしまっていた。アーバックル夫婦の部屋には灯《ひ》がついていたが、警部がそのドアのまえに立ったとたんにパッと消えた。それから屋根裏の階段をのぼると、揚《あ》げ窓をあけ、屋根に出た。と、闇《やみ》につつまれた屋根のなかほどに見えたちいさな火が、フッと消えた。警部は忍びよってくる足音をききつけて、だるそうに声をかけた、「おれだよ、ジョニー、異常はないか?」
警部のまえに人影があらわれた、「なんにもありゃあしませんよ、まったくありがたい歩哨《ほしょう》をおおせつかったもんです。一日じゅう、猫《ねこ》の子一匹あらわれないんですからねえ」
「もうすこしの辛抱《しんぼう》だ、クラウスを交代によこすからな。朝になったら、また交代してくれ」
警部は揚げ窓をあけて、屋根裏の階段にひきかえした。交代の刑事を、屋根にやった。それから図書室に足をひきずるようにしてもどると、うなりながら安楽椅子に巨体をのばすと、からっぽの茶色の壜をうらめしげにながめてから、テーブルのスタンドを消し、鼻まで帽子をずりさげてねむってしまった。
はじめて、ただならぬ気配《けはい》を感づいたのは何時だったか、警部にはまるでわからなかった。ただ寝ぐるしいために、からだを動かし、しびれた足をのばして、安楽椅子のクッションにもっと深くしずみこもうとしたのだけはおぼえていた。だが、何時にそれが起こったのか、見当《けんとう》がつかなかった。もしかしたら、午前一時だったかもしれない。
しかし、つぎのことだけはたしかだった。午前二時きっかりに、枕《まくら》もとの目覚し時計に起こされたみたいにパッと目をさますと、鼻にのっていた帽子を床《ゆか》に落し、緊張に身をおののかせながら、安楽椅子から身を起こしたのだ。なにかが、彼を目ざましたのだ、だがそれがなんであるか、彼にはわからなかった。物音だったのか、落下音か、叫び声か? 警部は石のように身をかたくして、耳をそばだてた。すると、そのなにかがまたきこえた。男の、しゃがれた、興奮しきった声が遠くの方からきこえてきたのだ、「火事だ!」
警部は、クッションにピンでもささっていたみたいな勢いで安楽椅子からとび出すと、廊下にむかって突進した。廊下には小さな常夜灯《じょうやとう》がついていた。そのぼんやりとした光のなかに、階段の上からもくもくとした煙の渦巻《うずまき》が流れおちてくるのがわかった。モッシャー刑事が、階上の降り口に立ちはだかって、大声をはりあげていた。屋敷じゅう、きなくさい火煙でおおわれていた。
警部には、問いただす余裕などなかった。彼は階段をかけあがるなり、二階の廊下に出た。ヨーク・ハッターの実験室のドアのすき間《ま》から、黄色い煙が、モクモクとあふれ出ていた。
「モッシャー、火災報知器!」警部は絶叫すると、鍵を必死で探した。モッシャー刑事は階段をころげるようにかけおりると、屋敷のまわりを張っていた三人の刑事をつきとばして走っていった。警部はわめき声をあげながら鍵をさしこんでねじり、ドアをひきあけた――と、思わずまたドアをしめてしまった、すごい悪臭の煙とぐれんの焔が、彼をめがけて吹きつけたのだ。警部の顔がはげしくゆがんだ、一瞬、罠《わな》にかかった野獣のように左右を見まわしながら、立ちすくんだ。あちこちのドアから、顔がつき出た。どの顔も恐怖の色にこわばっていた。警部の耳に、煙にむせぶ咳と問いただすふるえ声とが周囲から殺到した。
「消火器だ! 消火器はどこだ!」と警部がどなった。
バーバラ・ハッターが廊下にとび出した、「ああ!……うちにはないんです、警部さん……マーサ――さ、子供たちを!」
廊下は逃げまどうひとかげであふれる火煙の地獄と化した。実験室のドアのすき間から、まっ赤な焔がめらめらと舌を出しはじめた。絹のナイト・ガウンをまとったマーサ・ハッターがひきさかれるような声をあげて、子供部屋にとんでゆくと、なかから二人の子供をつれ出した。ビリーはおびえて泣きさけび、さすがのジャッキーもすっかりおじけきって、母親の手にしがみついている。母子《おやこ》三人は階下へ消えていった。
「総員退避! みんな、外に出ろ!」とサム警部は大声をはりあげた、「なにも持ち出そうとするんじゃないぞ! 薬物が――爆発――」警部の怒声も、たちまち起こったけたたましい悲鳴にのみこまれてしまった。ジル・ハッターは血の気の失せた顔をひきつらせて逃げて行った。コンラッド・ハッターは、それを背後からおしのけて、階段をかけおりた。パジャマのままエドガー・ペリーは屋根裏からとびおりてくると、煙にまかれて床に倒れているバーバラをだきおこすなり、肩にかついで階下におりていった。だれもかれも煙にむせ、咳きこんで、目からとめどもなく涙をながしていた。交代で屋根にあがっていた刑事が、アーバクッル夫婦と女中のヴァージニアの尻《しり》をたたくようにしておりてきた。サム警部は、たえまなく咳きこみ、息をつまらせ、叫び声をあげ、実験室の閉じたドアにバケツの水をぶちまけながら、まるで夢のなかのように、かすかなサイレンのうなりをきいた……
まさに手に汗をにぎり、息づまるような光景だった。ブレーキが悲鳴をあげて、消防自動車の到着を告げた。消防夫たちはいっせいにホースをとりつけ、屋敷横の路地《ろじ》を通って裏庭にひきこんだ。実験室の鉄格子《てつごうし》の窓から火焔がふき出していた。鉄の梯子《はしご》が上にむかってのび、手斧《ておの》が、まだ溶けていない窓ガラスをたたき割った。何本ものホースの水が、鉄格子のあいだから、実験室のなかに注ぎこまれた……
髪をふりみだし、顔はまっ黒にすすけ、目を血ばしらせたサム警部は、屋外の歩道に立ちはだかって、消防夫たちが二階へ重いホースをむけて大活躍しているのを見まもっていたが、すぐそばで薄着のままガタガタふるえている家人の数をかぞえてみた。みんなそろっている、いや……たりないぞ!
警部の顔は苦悶と恐怖のかたまりと化した。彼は石段をひとまたぎにとびあがると、屋敷のなかにとびこんで、二階へかけあがった。そしてホースの水びたしになっている廊下に足をとられながら、スミス看護婦の部屋めがけて突進した。そのあとにモッシャー刑事がつづいた。警部はドアを蹴《け》やぶるなり、看護婦の部屋になだれこんだ。スミス看護婦は、まるでゆるやかな白い丘陵《きゅうりょう》を思わせる恰好《かっこう》で、ナイト・ガウンを着たまま床の上で意識を失っていた。ルイザ・キャンピオンは追いつめられた獣《けもの》のようにとまどい、身をふるわせて、スミスのからだにとりつきながら、煙の、つきさすようなピリピリする臭気に鼻孔《びこう》をヒクヒクさせていた。サム警部とモッシャー刑事は、やっとのことでこの二人の女を屋敷の外へかつぎ出した……
まさに間一髪《かんいっぱつ》だった。なぜなら警部たちが玄関の石段をころがるようにしておりてきた瞬間、その背後から、頭上からにぶい響きがしたかと思うと――後方の実験室の窓から、まるで大砲が発射したような閃光《せんこう》がパッとひらめき、つづいてすさまじい爆発音が起こった。一瞬、死の沈黙が支配したが、やがて爆風のなかに、消防夫たちの声にならない悲鳴がきこえた……
不可避のことが起こったまでだった。実験室の薬物に火がまわって爆発したのだ。歩道でガタガタとふるえながら身をよせあっているひとびとは、ただ呆然《ぼうぜん》と家を見まもっているばかりだった。救急車がうなり声をあげてやって来た。担架《たんか》が屋敷のなかに運びこまれ、運び出された。消防夫が一人、負傷したのだ。
二時間後に、やっと鎮火した。最後の消防自動車がサイレンをならしながらひきあげていったときは、もう白々《しらじら》と夜があけかかっていた。ハッター家の家族と奉公人たちは、隣家のトリヴェット船長の煉瓦づくりの建物に、一時避難していたが、焼けこげた古い屋敷へとヘトヘトになってもどっていった。パジャマとガウンだけのトリヴェット船長は、鋪道にうつろな義足の音をひびかせながら、息をふきかえしたスミス看護婦を手伝って、ルイザ・キャンピオンの世話にあたっていた。ルイザは手のおえないくらいにおびえきり、常人には想像のつかないようなヒステリーを起こしていた。ほどなく、電話でたたき起こされたメリアム医師がやって来て、さかんに鎮静剤をあたえていた。
二階の実験室は修羅《しゅら》のちまただった。ドアは爆風で吹きとばされ、コンクリートでかためられていた窓の鉄格子は、すっかりゆるんでグラグラになっていた。棚にならんでいた薬品壜の大部分はこなみじんに砕けて、水びたしの床にとび散っていた。ベッド、洗面台、机は黒こげになり、レトルト、試験管、電気装置などのガラス製品の大半は鎔《と》けてしまっていた。だが不思議なことに、それ以外のものは、さしたる損傷をうけずにすんだのである。
目をまっ赤にし、灰色の鉄仮面をかぶったような顔をしたサム警部は、家じゅうの人間を、階下の図書室と居間に集めた。あらゆるところに刑事が頑張っていた。いまは冗談《じょうだん》を言ったり、つむじをまげたり、腹を立てたりする余裕など、まるでなかった。ほとんどのものが、なりをひそめてすわっていた。いや、女のほうが男よりもしずかなくらいだったし、たがいにただ黙りこくって顔を見あわせるばかりだった。
サム警部は電話に歩みよった。はじめに警察本部を呼び出し、それからブルーノ検事としゃべった。つづいてバーベージ警察長官にかたくるしい報告をし、それがおわると、ニューヨーク州レーンクリッフのハムレット荘に長距離電話をかけた。なかなか、かからなかった。警部はじっと待っていた。日ごろの彼にしてはおどろくべき忍耐づよさである。やっとのことでドルリー・レーンのせむしの従者、クェイシー老人のいらいらしたふるえ声がきこえてくると、警部は火事の模様をテキパキと説明した。耳のきこえないために、直接電話口に出られないレーンは、クェイシー老人のすぐそばに立っていて、警部の報告を、すこしずつ区切ってくりかえす老人の唇から、読みとっていたのである。
「レーンさまはこうおたずねです」サム警部の報告がすむと、せむしの老人がキイキイいう声で言った、「出火の原因がおわかりですか?」
「わからないんだ。屋根の煙突口は休みなく見張っていたし、窓は内側から錠がおりていて、手をふれた形跡はない、実験室の入口は、部下のモッシャー刑事が徹夜で監視していたんだからね」
警部の言葉を反復するクェイシー老人のかん高い声につづいて、レーンの、あの太くてよくひびく声がかすかにききとれた。「警部さん、それはたしかか、とレーンさまがおたずねですが?」
「ああ、むろんたしかだとも! だからこそすっかりめんくらっているんだ。いったい、放火魔のやつは、どこからもぐりこんで火をつけたものか?」
クェイシー老人がまたくりかえすと、しばらく話がとぎれた。警部は耳をすまして、じっと待っていた。やがてクェイシー老人の声がひびいてきた、「レーンさまは、火事と爆発のあとで、実験室に入ろうとしたものはいなかったかとおたずねです」
「そんなものはいない」と警部はどなった、「この私が、ちゃんと見張ってたんだ」
「それでは、実験室の|なか《ヽヽ》に、いますぐ、だれかを監視に立たせるようにと言われています」とクェイシー老人がキイキイ声で言った、「消防夫のほかにだそうです、レーンさまは午前中に、そちらへ行かれますが、出火のいきさつについては、もうわかっているとおっしゃっています、というのは……」
「な、なんだと、わかっている?」と警部はじっれったそうに言った、「さすがはレーンさんだ、やっぱり私より一枚上だ。よし、それでは、こんどの火事を予期していたかどうか、きいてみてくれ」
しばらく間《ま》があった。クェイシー老人の声がひびいた、「予期してなかったそうです、まったく寝耳に水だ、さっぱりわけがわからない、とおっしゃっています」
「そうか、レーンさんにもまごつくことがあるときいて安心したよ」とサム警部はうなり声をあげて言った、「とにかく、至急こちらに見えるように伝えてくれたまえ」
警部が受話器をかけようとしたせつな、レーンの声が――クェイシー老人にむかってつぶやく声がはっきりときこえてきた――「まず、まちがいはない、あらゆる事実が、それを指している……それにもかかわらず、クェイシー、絶対に不可能なのだよ!」
第二幕
「屋根越しに矢を放ち、偶然、私の兄弟を傷つけたのだ」(「ハムレット」第五幕第二場)
第一場 実験室
――六月六日(月曜日)午前九時二十分
ドルリー・レーンは、見るも無惨な実験室の中央にたたずんで、するどい視線をあたりにくばっていた。サム警部は、煤《すす》だらけになった顔をきれいに洗いおとし、皺《しわ》だらけの服にもブラシをかけたが、目だけはねむたげに赤く充血していて、むっつりとおし黙っていた。モッシャー刑事は交代で帰宅し、疲れきっているピンカッソン刑事は焼けのこりの椅子《いす》に腰をおろして、消防夫と仲よく話しあっていた。
薬品|棚《だな》はまだ壁にのこっていたが、ホースの水びたしになり、煤でまっ黒になっていた。下の方の棚に、奇跡的にたすかった壜が何本かポツンポツンとのこっているほかは、どの区画もガランとしていた。これらの薬品類は、無数のガラスのこまかい断片といりまじって、よごれた床《ゆか》の上にとび散っていたが、劇薬類は注意深く処理されていた。
「危険な薬物は、化学消火班がきれいに始末してくれたんですよ」とサム警部が説明した、「ここにかけつけた消防夫の最初の連中は、署長代理にひどいけんまくでどなりつけられたそうですよ。なんでも薬品によっては、燃えているときに水をかけようものなら、それ以上にどえらいことになるそうですな。あやうくひどいめにあうところでした。ま、これくらいで火の手がくいとめられたのは、まったく不幸中の幸いでしたよ、ヨーク・ハッターが実験室の壁を特別に補強したとはいえ、屋敷全体が吹っとんでしまったかもしれないんですからね。それはそうと――」警部はうなり声をあげた、「われわれはまるっきりアマチュアあつかいじゃありませんか。あのクェイシー老人が電話で言ってましたよ、あなたには放火魔の侵入径路がちゃんとわかっていらっしゃるとね。ひとつ、教えていただけませんか。正直なところ、私にはてんで見当《けんとう》がつかないんです」
「いや、それほど小むずかしい問題ではありません」とドルリー・レーンは言った、「むしろ、ばかばかしいくらい簡単なことだと思いますよ、警部さん。いいですか――放火犯人は、このたった一つの入口から、実験室へ入れたでしょうか?」
「むろん、入れっこありませんよ。部下のなかでも、いちばん信頼できるモッシャー刑事が、一晩じゅう、このドアに近づいたものさえいなかったと断言しているんですからね」
「私も、その刑事さんの言葉を信用しますよ。すると、この入口のドアは、犯人の侵入径路としてはっきり除外できるわけです。すると、こんどは窓ですが、これにはみんな鉄格子《てつごうし》がはまっています。昨日《きのう》、あなた自身が指摘したとおり、私たちがこの実験室を調べたとき、この鉄格子にはまったく異常がありませんでした。しかし、鉄格子がどうであれ、論理的に考えれば、犯人が外の庇《ひさし》づたいにやって来て窓をこじあけ、火のついたぼろでも部屋《へや》になげこめば火災は……」
「そんなことは、とてもできっこないと言ったじゃありませんか」と警部はするどく言った、「どの窓にしろ、錠は内側からおりていたし、こじあけた形跡など、どこにもないのです。それに爆発するまえに、消防夫がここへかけつけてきたときは、どの窓のガラスもこわれていなかったんですよ。ですから、窓は二つともだめですね」
「なるほど、まさにそのとおりですな。ただ私は、あらゆる可能な推理をしてみただけの話なのです。それでは犯人の侵入径路から、窓を除外することにします。すると、あとになにがありますか?」
「煙突ですよ」とサム警部が言った、「しかし、こいつも問題になりませんな、部下のひとりが、昨日一日じゅう、屋根の上で頑張《がんば》っていましたからね。ですからこっそり煙突からしのびこんで、夜になるのを待つなんて芸当は、だれにだってできっこありませんよ。それから、夜中の十二時ごろ、見張りの部下を交代させたんですが、その男も、だれひとり、屋根にのぼってきたものはなかったと断言しているんです。さ、どうです」
「どうする、どうするというところですな」とレーンはクックッとのどの奥で笑った、「そこで私がグーの音も出ないと思っているのですね。侵入径路は三つあるが、三つともその入口をかためられていた。だが、それにもかかわらず放火犯人は実験室に入りこんだばかりではなく、ちゃんと出ていったんですよ、警部さん……それではもう一つおたずねするが、この部屋の壁をよく調べてみましたか?」
「なあんだ、そんなことを考えていたんですか!」と警部は即座に言った、「秘密の羽目板《はめいた》というやつですな」彼は歯をむき出して笑うと、たちまちむずかしい顔をした、「とてもだめですよ、レーンさん。壁も床も天井《てんじょう》もジブラルタルの要塞みたいにビクともしませんや、もうちゃんと調査ずみですよ」
「うむ」レーンの灰緑色の目がキラリとひかった。「いや、よろしい、警部さん、たいへんすばらしい! これで私の最後の懸念《けねん》はすっかりなくなりましたよ」
サム警部はびっくりして目を見はった、「そんなむちゃな! それじゃ、どれもこれもみんな不可能だということじゃないですか」
「いやいや」とレーンは微笑した、「そんなことはありませんよ、どう考えてみても、入口のドアも二つの窓も放火犯人の侵入径路になりえず、壁も床も天井も、ビクともしないとすれば――あとに残された可能性はただ一つ、したがって、その可能性は動かせないということになるのですよ」
サム警部の眉毛《まゆげ》が、けわしくまぶたにおおいかぶさった。「すると煙突というわけですか?しかし、あれは――」
「いや、煙突ではないのです」とレーンはしんけんな表情をうかべた、「警部さん、あなたは、この種の煖房装置には、二つの主要部分があるということをお忘れなのですよ、つまり、煙道《えんどう》と煖炉《だんろ》です、おわかりになりますね?」
「いや、いっこうに。そりゃあたしかに煖炉の口は、この部屋にむかってあいてはいますがね、しかし煙突をおりてこないかぎり、どうやって煖炉に出てこられるというんです?」
「私が考えてみたのも、それなのです」とレーンは煖炉のまえに歩みよった、「あなたの部下が嘘《うそ》をつかないかぎり、またこの部屋にぬけ穴のたぐいのような仕掛けがないかぎり、この煖炉を調べないまでも、その秘密をはっきりお教えすることができますよ」
「秘密?」
「この煖炉の壁のとなりは、どの部屋だか、おぼえていますか?」
「ルイザ・キャンピオンの部屋にきまっているじゃありませんか、殺人事件のあった」
「そうですね、ではルイザさんの部屋だと、この煖炉の向う側はどうなっています?」
警部はアングリと口をあけた。ほんのしばらく、レーンの顔を穴のあくほど見つめていたが、パッとまえにとび出した、「そうだ、もう一つある!」と叫んだ、「この煖炉のま裏には、となりの煖炉がついているんだ!」
警部は身をかがめると、炉棚の下をくぐり、奥の壁の方へもぐりこんだ。彼は煖炉のなかでからだをのばした、すると頭と肩が、すっぽりとかくれた。彼のあらい息づかいと、なかをまさぐる音がレーンにきこえた、と、彼の驚きの声が、おしつぶされたようなひびきをたてた、「こいつだ!」彼は大声で叫んだ、「どっちの煖炉も、煙突はおなじなんだ! この煉瓦の壁は途中で切れている……床から六フィートぐらいの高さまでですよ!」
ドルリー・レーンはホッとため息をついた。なにも服を汚して調べてみるまでのことはなかったのだ。
警部は、この発見にすっかり気をよくして、まるで生きかえったみたいになった。彼はレーンの背中をポンとたたき、鬼瓦《おにがわら》のような顔をほころばせ、部下たちに大声で命令し、ピンカッソン刑事を椅子から蹴出し、消防夫に葉巻を一本ふるまった。「こいつだ!」まっ黒な手のまま、目をギラギラさせて、彼はどなった、「きめ手はこいつだ!」
煖炉のからくりは、しごく単純そのものだった。実験室の煖炉とルイザ・キャンピオンの煖炉は背中合せになっていて――いわば同一の壁の両側がそれぞれ煖炉になっているのだ。だから、煙突を共有しているばかりか、二つの煖炉の仕切壁も一枚で――その厚い耐火煉瓦の壁の高さは六フィートぐらいしかなかったけれど、どっちの炉棚も床から四フィートばかりしかないので、外からながめただけではわからないようになっていた。その六フィートの仕切壁から上は、煙突孔が一つになり、二つの煖炉の煙が屋根にぬけられるようになっていた。「これでなにからなにまではっきりしたぞ」と警部はとびあがらんばかりによろこんで言った、「これだったら、だれだって自由に実験室に入りこめるわけだ。家のなかからなら、となりのルイザの部屋から仕切壁をのりこえてくればいいんだし、外からだったら、屋根から煙突の足場をつたわっておりてくればいい。昨夜の犯人は、ルイザの部屋から入りこんだにちがいない。モッシャー刑事が、だれひとり廊下から実験室に入ったものはいなかったと言ったのも、屋根にいた部下が、人影を見なかったのも、べつにおどろくにはあたらないのだ!」
「そのとおりですよ」とレーンが言った、「それから、むろん犯人は、おなじ径路から逃げたのです。ところで警部さん、煖炉から実験室に入りこむためには、まず第一にルイザ・キャンピオンの部屋に入らなければならないのですが、謎《なぞ》の犯人は、そこのところをどうやったか、考えてみたことがありますか? いうまでもなく、モッシャーはルイザさんの部屋のドアを、徹夜で見張っていたのですからね」
サムの顔がくもった。「いや、そこまでは考えませんでしたな、きっと――そうだ、外の庇《ひさし》か、非常階段ですよ!」
老優と警部は、こわれた窓に歩みよると、外をながめた。二フィート幅の庇が、裏手側の二階の窓という窓の外側についていた。度胸さえあれば、庭園に面したどの部屋にも出入りできる通路にりっぱになりうるわけだ。それからまた、細長い二つの非常階段は、二階の廊下の外側にその踊場《おどりば》があった。一つは、実験室と子供部屋のために出口をあけ、もう一つのは、「死の部屋」とスミス看護婦の部屋から出られるようになっていた。二つとも三階の屋根裏から各階の窓を経て、下の庭園までのびていた。レーンは警部の顔にチラッと目をやった、二人は一緒に頭をふった。
老優と警部の二人は実験室を出て、「死の部屋」に入っていった。窓を調べてみると、どの窓も錠はおりてなく、らくらくとあけることができた。また実験室にひきかえすと、ピンカッソンがどこからか椅子をさがしてきた。レーンはそれに腰をおろすと、足を組んでため息をついた。「あなたもさっき言われたように、このからくりはじつに簡単ですね、警部さん。二つの煖炉の秘密を知っているものなら、だれだって、昨夜、実験室に入りこめたわけですからね」
サム警部は力なくうなずいた、「家のなかのものだろうと、外のものだろうとね」
「そういうことになりますな、ところで、この家のひとたちの昨夜の行動を調べてみましたか、警部さん?」
「まあいちおうはね、しかし、そんな真似《まね》をしてどうなるというんです? 放火でもしようというやつが、なんで尻尾《しっぽ》を出すようなことを言うものですか」警部は、くすねてきた葉巻をあらあらしく噛みきった、「屋根裏の連中なら、どんな証言をするにせよ、だれだってやろうと思えばやれるんだし、二階にいるひとたちは、ジルとバーバラをのぞけば、みんな、庇と非常階段に出られるんですからね。それに、コンラッドと細君《さいくん》の部屋は表側にありますが、二人とも、眠っているちび助たちの子供部屋を通りぬければ、裏側の庇へも非常階段へも出られるわけですよ。おまけにモッシャー刑事が頑張っている廊下に出る必要もないんです、自分たちの寝室から子供部屋に行くのには、その間の浴室をぬければいいんですからね。なにしろ、こういった次第なんですよ」
「当人たちはなんと言っているのです?」
「どうもそれが、たがいに相手のアリバイを証言できないんでしてね。コンラッドは夜の十一時半ごろ二階にひきあげたと言ってます。私自身、その時間ごろ、彼が図書室から出てゆくところを見ていますし、モッシャー刑事も彼が寝室に入るのを見たと言ってますから、まず信用して大丈夫です。すぐ寝てしまったと、コンラッドは言っていました。細君のマーサ・ハッターは、夜のあいだ、自分の部屋から一歩も出ず、ぐっすりと寝こんでいたから、夫が部屋に入ってきたのをすこしも知らなかったと言ってます」
「お嬢さんたちは?」
「これは問題になりませんね――いずれにしろ、火をつけるような真似はしっこないですから」
「はたしてそうかな?」レーンはつぶやくように言った、「ま、それにしても、彼女たちはどう言っているのです?」
「ジルは庭園をぶらついていて、一時ごろ自分の部屋にもどったと言ってます。これはモッシャーがちゃんとたしかめています。バーバラのほうは、それよりも早く、十一時ごろ、部屋に入っています。二人とも、その後、部屋から出ていません……モッシャーは、だれひとり不審な挙動をしたものは見なかったと言っているんです。彼のおぼえているかぎりでは、ドアをあけたり、寝室から出たりしたものはなかったそうで――いや、やつの記憶力はじつにたいしたものなんですよ、なにせ、私がじきじきに胸を貸したんですからな」
「おやおや、すると私たちの推理は根本的にまちがっているかもしれませんね」とレーンはちゃめっ気《け》たっぷりに言った、「出火の原因には、自然発火ということもありますからね」
「そうあってほしいものですよ」とサム警部は情けなそうな顔で言った、「しかし、消防署の専門家連中が、鎮火後、焼跡を調査した結果、出火の原因は放火だと断定したんです。いや、そうなんです、なにものかがマッチをすって、鉄のベッドと、窓よりの実験台のあいだでなにかに火をつけたんですよ。燃えのこりのマッチ棒が、何本か見つかりましてね――ありふれた家庭用のマッチで、階下の料理室にあるのとおなじものです」
「で、爆発は?」
「こいつもまた偶然ではなかったんです」と警部はきびしい口調《くちょう》で言った、「化学班の連中が実験台の上で、壜の破片を見つけました――連中は二硫化炭素の壜だと言ってましたが。なんでも熱にあうと、すごい爆発力を起こすそうですよ。ま、ずっとその壜は、その実験台の上にあったのかもしれませんね――ヨーク・ハッターが失踪《しっそう》するまえに、実験かなにかに使って――しかし、あの実験台に壜があったような記憶はないんですが、あなたは?」
「私にもおぼえがありませんね、薬品棚からとり出したものですか?」
「ええと――例のラベルの断片がついたガラスのかけらが見つかりましたけどね」
「ああ、それならあなたの臆測《おくそく》はあきらかにはずれていますよ。あのヨーク・ハッターが、実験台に二硫化炭素の壜をおきっぱなしにするものですか。あなたの言われるとおり、例のラベルから考えれば常備薬品なので、あの薬品棚に、ビッシリと壜が全部ならんでいたのを、はっきりおぼえていますからね。きっとなにものかが爆発するのを百も承知のうえで、その壜を薬品棚からとり出して実験台にのせておいたのですよ」
「そうか、それも一理ありますね。ま、犯人はだれにしろ、いよいよ尻尾《しっぽ》を出してきたわけです。さ、レーンさん、下へ行ってみましょう、思いついたことがあるんですよ」
二人は階下におりると、警部は家政婦のアーバックル夫人をよびにやった。図書室に入ってくる彼女の姿を一目《ひとめ》見れば、例の反抗心をすっかりなくしてしまっていることがすぐわかった。どうやら、あの火事で彼女は戦意を喪失《そうしつ》し、女武者《アマゾン》ばりのマスクを火で焼いてしまったようだ。
「なにかご用だそうで、警部さん?」とおろおろした声で言った。
「うん、この家の洗濯物《せんたくもの》のかかりはだれだね?」
「洗濯物ですか? それは――わ、わたしです。毎週、わたしがよごれものを種類別によりわけて、八番街の洗濯屋に出すんです」
「よし! それではたずねるがね、いいかね、この二、三か月のあいだに、ひどくよごれたシャツ類を出したものはなかったかな? そう――煤《すす》か石炭でまっ黒によごれているとか、裂けたり、破れたりしたものでもいいんだが?」
レーンが横から口をだした、「いや、感服しましたよ、警部さん、すばらしい思いつきです!」
「これはどうも」と警部はそっけなく言った、「なあに、こんなことはざらなんですがね――あなたがそばにいないと、好調なんでしてね、どうも、あなたがそばにいると、せっかく浮かんだ知恵もあなたに吸いとられてしまうらしい……さ、どうだね、アーバックルさん?」
家政婦はおどおどして言った、「はい――ありませんでした」
「おかしいな」と警部はつぶやいた。
「いや、そうかもしれませんよ」とレーンが口をひらいた、「アーバックルさん、二階の煖炉は、いつごろまで火をいれていたんです?」
「ぞんじません、あの煖炉で火をたいたという話は、きいたこともありません」
サム警部は、刑事をよんだ、「看護婦をつれて来てくれ」
いままでスミス看護婦は、庭園で、ショックにふるえているルイザをやさしくいたわっていたようだった。彼女はおどおどした微笑をつくって、図書室に入ってきた。実験室とルイザ・キャンピオンの部屋の煖炉は、いつごろまで使用されていたか? という尋問がただちにあびせかけられた。
「ハッター老夫人は、あの煖炉をお使いになったことは一度もありません」とミス・スミスは答えた、「すくなくとも、わたしがこちらに勤めるようになりましてからは、そうでした。亡《な》くなられたご主人のハッターさまも、わたしが知っているかぎりでは、実験室の煖炉をお使いになりませんでした。そうですわね、もう何年にもなると思います……なにせ、冬のあいだは、屋根の煙突の口に蓋をして風が入るのをふせぎ、夏になるとそれをとるくらいですから」
「悪運のつよい女《ヽ》だ」と警部は犯人のことをぼかして、つぶやいた、「それでは女の着ているものに、煤がつかなかったわけだ――ただのほこりぐらいなら、はたき落してしまったか、人目につくほどほこりがつかなかったかだ……おや、なにをそんなにジロジロ見ているんです、スミスさん? もうけっこうです!」スミス看護婦はハッと息をのむと、まるでよく肥えた牝牛《めうし》のように胸をだぶつかせて、あわてて退散した。
「あなたはしきりと、女、女、と連発して、犯人を頭から女ときめているようですが」とレーンが言った、「警部さん、いったい、女が煙突からおりてきたり、六フィートもの煉瓦壁をのりこえたりするなどは、似合わしくないと思いませんか――たしか、まえにもあなたにそう言ったはずですが?」
「ま、待ってくださいよ、レーンさん」とすてばちになって言った、「似合おうと似合わしくなかろうと、そんなことは、私の知ったことじゃないんです。とにかく、煤でよごれた衣類さえさがし出せば、犯人の手がかりがつかめるかもしれないと、|ふん《ヽヽ》だまでなんでさあ。だが、そいつもだめになりました。じゃ、どうしろって言うんです?」
「それでは、私の異議に対する返事になりませんね」とレーンは微笑しながら言った。
「いや、その、それは共犯者ですよ! 男の共犯者です、といって、そいつがなにものだかわからないが」とサム警部はしょげきって言った、「もっとも、いま、直面している問題は、そんなことじゃないんです」警部の疲れた目に、こすずるい色がチラッとあらわれた、「いったい、なんの目的で火をつけたのか? これなんですよ、レーンさん、これについちゃ、どうお考えなんです?」
「警部さん」とドルリー・レーンはぶっきらぼうに言った、「それがわかったら、全部わかってしまうようなものじゃありませんか。この問題は、あなたがハムレット荘に電話をくださったときから、私が頭を悩ましていることですよ」
「で、お考えは?」
「それはこうですね」レーンは椅子《いす》から立ちあがると、実験室のなかを、大股《おおまた》で行ったり来たりしはじめた、「実験室にあるなにものかを破壊するために、この火事は計画されたのか?」老優は肩をすくめた、「しかし実験室は、すでに警察の手によって調査されつくしたのだし、すでにこのことは、放火犯人が知っていたはずです。それでは、昨日の調査のときなにか見落したものがあったのか? 犯人が部屋から持ち出すには大きすぎて、それを破壊するよりほかに手段《しゅだん》のないようなものだったのか?」レーンはまた肩をすくめた、「正直なところ、私はかいもく見当がつかないのです。ま、しかし、どの一つをとっても、ちょっと考えられないものばかりですよ」
「どうもあてになりませんな」と警部は音《ね》をあげた、「するとレーンさん、こいつはわれわれの目をくらますための偽装かもしれませんね?」
「だがねえ、警部さん」とレーンは声をたかめた、「いったい、なんのために、私たちの目をごまかす必要があるのです? もしそれが偽装なら、私たちの注意をほかにむけさせるための幕間《まくあい》の余興、陽動作戦といったもので、そのすきを狙ってほんとうの目的をとげるのが偽装というものではありませんか。だが、私たちの知っているかぎりでは、なにひとつ、起こっていないのです」レーンはかぶりをふった、「厳密に言えば、こういうことも考えられます。つまり犯人は実験室に火をつけたものの、いざというときに胸にえがいていた計画を実行にうつすことができなかったのかもしれない。ま、火のまわりが予想以上に早かったとか、どたん場にきておじけづいたとか……いや、私にはわかりません、ほんとのところ、わからないのですよ、警部さん」
サム警部は唇をすぼめたまま、しばらくのあいだ、じっと考えこんでいた。そのあいだ、レーンはたえまなく歩きまわっていた。と、突然、「わかったぞ!」と警部は叫び声をあげて、椅子から立ちあがった、「あの放火と爆発は、|あれからまた毒薬を盗んだのを隠すために《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》くわだてられたんですよ!」
「まあまあ、興奮しないで、警部さん」とレーンはうんざりした口ぶりで言った、「私もいちおうはそう考えてみましたが、もうとっくに捨ててしまったのですよ。いくら犯人だって、警察が、実験室の薬物の量を、いちいち明細に調べあげてしまったなどと思いますまい。昨夜、薬品が盗まれたところで、いったいだれに気づかれるというのです。なにもわざわざ火をつけて爆発させるまでもないことではありませんか。あまつさえ犯人は、あのほこりにあったおびただしい足跡から見れば、これまでになんども実験室にしのびこんでいるのです。もしその犯人に先見《せんけん》の明《めい》があるなら――当然あるはずですよ、いままでの犯行を見ても、ある点にかけてはうす気味の悪いほど用意周到ですからね――らくらくと実験室に出入りできたときに毒薬を持ち出せたはずで、なにもいまみたいに監視の目がひかっているときをえらんで、わざわざあぶない橋を渡るような真似はしないものですよ……そうですとも、そんなはずはありません。警部さん、もっとけたはずれの異常なことですよ、常識などでははかることのできない、突拍子《とっぴょうし》もないことなのです」老優は言葉をきると、やがてゆっくりとした口調でつづけた、「まるで合理性というものがないといってもいいくらいです……」
「まるっきり歯がたちませんや」とサム警部は顔をしかめて、あいづちをうった、「とにかく、容疑者がひとりのこらず気ちがいばかりといった犯罪を捜査していたら、こういうことになるのがあたりまえですよ、理由! 動機! 論理!」警部は両手を大きくひろげた、「クソッ! いっそ、こんな厄介《やっかい》な仕事から足を洗わせていただきたいもんでさあ」
二人はぶらぶらと廊下に出ると、レーンは、運転手のジョージ・アーバックルから帽子とステッキを受けとった。この男ときたら、いやに低姿勢になった女房とまったくおなじように、人の顔色ばかりうかがってうろつきまわっているのだ。
「警部さん、ここでおわかれするまえに、一つだけ、念をおしておきたいことがあるのです」二人が玄関で足をとめたとき、レーンがそう言った、「さらにもう一度、毒殺がくわだてられるかもしれないということですよ」
サム警部はうなずいた、「私もそうにらんでいるんです」
「それならけっこうです、とにかく、二度までも失敗した犯人を相手にしているのですからね。まず三度めの犯行があるものと覚悟して――なんとしてもこれをくいとめなければなりません」
「めんどうでもシリング医師のところからだれかをよこしてもらって、食前に、飲食物をいちいち検査してもらうことにしますよ。シリング医師の助手で、こういう仕事をしているのがおるんです――デュービンという、なかなか優秀な若い医者でしてね、この男にまかせれば、まず大丈夫ですよ。料理室に頑張っていてもらえば、いくらなんでも毒をいれるすきがありませんからな、それでは」警部は手をさし出した、「失礼します、レーンさん」
レーンも、その手をにぎった、「さよなら、警部さん」
老優は背をむけかけて、またふりかえった。たがいの目にもの問いたげな色をうかべて、二人は相手の顔を見つめた。やっとのことでレーンは口をひらいた、すごくはっきりした口調だった、「ところで、警部さん、この事件について、私の考えを、あなたとブルーノ検事にお話しなければならないと思うのだが……」
「なんです?」警部は顔をパッとかがやかせながら、せきこんでたずねた。
だが、レーンは、手にしているステッキを横にふって、「明日の遺言書の発表がすんでからが、いちばんいいと思います。では、ご機嫌よう!」
クルッと背をむけると、レーンは玄関をあとにした。
第二場 庭園
――六月六日(月曜日)午後四時
もしサム警部が心理学者か、あるいはもうすこし心に余裕があったとしたら、この日の気ちがいハッター家のひとたちは、じつに興味ある研究材料となったにちがいない。足どめをくっているものだから、この一家の連中はまるで亡霊のように屋敷のなかをさまよい歩き、ただそわそわと物を手にとったり、おろしたり、たがいに憎悪《ぞうお》の目でにらみあって、できるだけ顔を合せないようにしていた。ジルとコンラッドは、まる一日じゅう、いがみあっていた。とるにたりないようなことから口喧嘩《くちげんか》をはじめ、ほんのつまらぬことで衝突《しょうとつ》し、癇癪持《かんしゃくも》ちだからといっただけではとてもすまされないような毒々しい言葉を容赦《ようしゃ》なく投げつけあった。マーサは、二人《ふたり》の子供たちをひざのまわりからはなさず、無神経に見えるほど叱《しか》りつけたり、たたいたりしていたが、夫のコンラッドが千鳥足《ちどりあし》で寄ってきたときだけは、全神経を緊張させて、子供たちまでがいぶかるほど血の気《け》のうせた憔悴《しょうすい》しきった夫の顔を、すさまじい目つきでにらみつけるのだ。
警部は、これまでの手がかりがどれもこれもあいまいなしろものばかりだと考えれば考えるほど、ますますいらだってくるのだった。そのうえ、ドルリー・レーンがなにかはっきりしたものをつかんでいると思うと、その見当がつかないだけに、彼は閉口するばかりだった。だが、当のレーンにしても、どことなくおちつきがなく、確信がなさそうで、妙にそわそわとしていたではないか。警部には、これがさっぱりのみこめなかった。午後のあいだ、二度までもよっぽどハムレット荘に長距離電話をかけようと思ったが、そのつど、受話器に手をかけてから思いとどまったのだ、電話をしてみたところで、べつにたずねてみることも、こちらから伝えることもなかったからである。
やがてそのうちに、例の煙突のなかの奇妙な通路のことが、序々に警部の心を占めはじめ、レーンのことは忘れてしまった。彼は階段をのぼって二階の実験室へ行き、煖炉《だんろ》のなかの煉瓦《れんが》の仕切壁《しきりかべ》を自分自身でよじのぼってみた。ちゃんとした大人《おとな》が、その通路を利用して、たいしてほねもおらずに二つの部屋《へや》を往来することができるかどうか、自分で納得《なっとく》のいくようにためしてみたかったからだ……やっぱり、にらんだ目にくるいはなかった。彼のマンモスのような肩はばでさえ、やすやすと、なかの仕切壁をのりこえられたのだ。彼は実験室にまた抜け出てくると、ピンカッソン刑事に、家人全員を集めさせた。
この新しい尋問に、さしたる興味の色も示さず、ハッター家のものたちは、ひとりひとり集まってきた。やつぎばやに起こった事件と火事のショックとで、彼らはおどろく力もすっかりにぶってしまったのだ。全員が集まったとき、警部はおもむろにごく漠然《ばくぜん》とした質問に入っていったが、あきらかにその要点についてはだれひとり予期したものがいなかった。一同は機械的に答えた、サム警部の感じたかぎりでは、いつわりはなさそうだった。さて、問題の煖炉の通路にいよいよ話が入ったとき、そんなものが実在するとははっきり言わずに、ただそれとなく匂わせたものの、犯人がずばぬけてうまい役者なのか、それとも全員がごく正直に答えているとしか、警部には思われなかった。彼は嘘《うそ》の罠《わな》をかけて、だれかをひっかけてやろうかとも思った。そして、ほかのだれかが、うっかり、その嘘を指摘して、逆に当人の嘘がばれるようなことになればいいがと警部は期待さえしたのである。だが尋問が終わったとき、なんの収穫もないことをさとった。
警部から解放されて、一同はぞろぞろとひきあげていった。サム警部は肩であえぎながら、安楽椅子《あんらくいす》に巨体をしずめて、自分のへまをのろった。
「警部さん」とだれかが声をかけた。
顔をあげると、目のまえに、長身の家庭教師のペリーが立っていた。「やあ、なんでしょう?」とサム警部は太い声で言った。
ペリーはせかせかした口調《くちょう》で言った、「じつは今日《きょう》、外出させていただきたいんです。こんな事件のおかげで、どうも私は――いや、そんなことより、昨日《きのう》は私の公休日だったんですが、足どめされてしまったものですから、それに新鮮な空気も吸いたい気がしますし……」
サム警部は、途中までしかしゃべらせなかった。ペリーはそわそわとからだを動かしていたが、目の奥にキラリとひらめく光があった。サム警部の口まで、はげしい言葉が出かかったが、それをのみこんで、かわりにやさしい口ぶりで言った、「いや、残念だが、そいつはだめなんですよ、ペリーさん、なんとか目鼻がつくまでは、みなさんに外出をひかえてもらわんことにはね」
ペリーの目から光が消え、肩ががっくりおちた。彼は無言ですごすごと図書室を出ると、廊下を通って、裏庭に出ていった。あやしい空模様に、彼はちょっとためらったが、大きな日傘《ひがさ》の下で、しずかに本を読んでいるバーバラ・ハッターの姿を見つけると、軽快な足どりで、芝生を横ぎっていった……
いっこうに時間のたたない、けだるい午後をすごしながら、警部はつくづく思った、なんとまあ、だらだらしたしまりのない事件だろう。とっぱなに電撃的な、劇的な事件が爆発した――だが、それっきりなのだ、まったくなにも起こらないのだ、はっきりした動きというものがぜんぜんない。事件全体に、なにか不自然な感じがする、それが、絶望的な気持ちをさそい、どうにも抗しがたい犯罪といった敗北感をうえつけるのだ。あたかも、事件のすべてが、ずっと以前からもくろまれていて、不可避的なクライマックスにむかって情《なさけ》容赦なく迫ってゆくといった感じだった。だが――そのクライマックスとはなにか? 最終の目的はなんなのか?
その午後、トリヴェット船長が、あの、いつものものしずかな態度で義足の音をコツコツとならしながら訪《たず》ねてきて、唖《おし》で聾《つんぼ》でめくらの婦人に奇妙な面会をするために、階段をあがっていった。ルイザは二階のスミス看護婦の部屋で、みんなからひとりはなれて、むなしく休息していた。刑事がやって来て、弁護士のビグローが来ていると警部に報告した。きっとジル・ハッターに会いにきたのだろう。ゴームリーは姿をあらわさなかった。
午後四時、サム警部が図書室で爪《つめ》をかみながらみこしをすえていると、腕の信頼できる刑事のひとりが、そそくさと入ってきた。容易ならぬものが、その物腰に見えたので、警部は俄然《がぜん》活気づいた。二人は、ほんの二言三言《ふたことみこと》ささやきあったが、その一語ごとに警部の目はかがやきをましていった。話がすむや、警部はパッと立ちあがると、その刑事に階段の昇り口で見張っているように命じて、彼は屋根裏へと、二段ずつ大股《おおまた》に、三階の階段をのぼっていった。
屋根裏の模様はよくわかっていた。庭園を見おろせる裏側の二つの部屋には、女中のヴァージニアと、家庭教師のエドガー・ペリーの寝室があった。北東のすみの部屋は空室で、浴室をへだてた南東のすみに物置があった。南側の大部屋は、そのとなりに浴室がついていて、いまは物置になっているものの、ハッター家の全盛時代には、賓客用の寝室に用いられていたのだ。屋根裏の西側は、全部アーバックル夫婦が住居につかっていた。
警部はすこしもためらわなかった。廊下を横ぎると、エドガー・ペリーの寝室のドアに手をかけた。鍵《かぎ》はかかっていなかった。すばやく警部は部屋のなかにすべりこむと、ドアをしめた。それから窓ぎわにかけよると、庭園を見おろした。ペリーは大きな日傘のかげにすわって、バーバラと話に夢中になっていた。警部は満足げにうなると、仕事にかかった。
殺風景なくらい、小ざっぱりとした部屋だった――いかにもその住人にふさわしい感じだ。高い脚《あし》のベッド、化粧台《けしょうだい》、絨毯《じゅうたん》、書物のぎっしりつまった大きな本箱、すべてが、その所を得ていた。
非常に用心深く、順序を追って、警部は室内を捜査した。ペリーの化粧台の引出しのなかのものに、いちばん食指をうごかされたようだった。だがめぼしいものは皆無だった。そこでこんどは小型の衣服|戸棚《とだな》をあけて、遠慮|会釈《えしゃく》なく、片端《かたはし》から衣類のポケットをさぐっていった……絨毯をめくってもみた。書物のページをパラパラとめくった。ならんでいる書物の裏側ものぞいてみた。ベッドのマットレスをもちあげてみた。このエキスパートの徹底的な捜査にもかかわらず、獲物《えもの》はなかった。
手にふれたものを、それぞれ、注意深くもとどおりのところにもどすと、警部はまた窓ぎわに行った。ペリーはあいかわらずバーバラと話に熱中していた。こんどはジル・ハッターが木蔭《こかげ》にすわっていて、弁護士のチェスター・ビグローに、ただやたらと色目《いろめ》ばかりつかっていた。
警部は階下におりていった。それから屋敷の裏に出て、木のみじかい段々をおりて庭園に足を踏みいれた。雷鳴がとどろいた。大粒の雨が、日傘にポツリポツリときた。話に夢中になっているバーバラも、ペリーも、いっこうそれに気づかぬ様子だった。だが、サム警部の姿を見て、パッと甘いささやきをやめてしまったビグローとジルは、天候の邪魔《じゃま》だてをこれ幸いとばかりに、雨をいい口実にしてあわてて立ちあがると、屋敷のなかに逃げこんでしまった。ビグローは、警部と行きちがうとき、てれくさそうに会釈したが、ジルはすごい目でにらみつけた。
サム警部は両手をうしろに組んで、暗雲のたれさがっている空に目をやりながら、人情味のある笑いをもらした。そして、芝生をふんで、日傘の方にゆっくりと歩みよった。バーバラがよく通るひくい声で話していた、「だけどペリーさん、けっきょくは……」
「いや、なんと言おうと、形而上学《けいじじょうがく》が詩に入りこむ余地はないと思いますね」とペリーははりつめた口調で言った。彼のかぼそい手は、二人のあいだのテーブルの上にのっている薄い詩集の黒い表紙をたたいた。警部がその詩集に目をやると、「かすかなコンサート」という題名に、バーバラ・ハッターと著者名が印刷されてあった。「たしかに、この詩集はすばらしいですよ――詩的デリカシーの光沢《こうたく》と、強烈な想像力の――」
バーバラは声をあげて笑った、「まあ、光沢ですって? うれしいわ、だって、すくなくとも率直な批評ですもの。つまらないお世辞を言わないひととお話すると、ほんとに生きかえったような気がしますわ」
「いやあ!」ペリーはまるで小学生のように顔を赤くすると、しばらく二の句がつげなかった。雨に降られながら、サム警部がじっと観察しているのを、どちらも気がつかなかった。「じゃ、『瀝青《れきせい》ウラン鉱』という詩の第三節はどうです、その第一行はこうですよ――壁のような山々がそそりたち――」
「ちょっと失礼」とサム警部が口をいれた。
二人はギョッとしてふりかえった。ペリーの顔から、話に熱中していたときのしんけんな表情がきえた。彼は、バーバラの詩集に手をおいたまま、ばつが悪そうに椅子《いす》から立ちあがった。バーバラは微笑すると、言った、「まあ、警部さん、雨じゃありませんか、さ、日傘の下にお入りになってください」
「ぼくは家のなかに入りますからね」とペリーはだしぬけに言った。
「まあ、そう言わずにペリーさん」と警部は、ニヤリと笑って、男性的に大きく息をはくと、巨体を椅子にすえた。「じつを言うと、あなたに話したいことがあるんですよ」
「あら、それじゃあたしが失礼しましょうか」とバーバラが言った。
「なに、それにはおよびません」と警部は寛大に言った、「話といっても、ほんのとるにたりないことなんです、いや、なんでもありませんから、ごく形式的なことでしてね。さ、腰をおろしてください、ペリーさん。いや、ひどい天気になりましたな」
ついいましがたまで、ペリーの顔をかがやかせていた詩精神は、とたんにその翼を折って、その影をひそめてしまった。ペリーは、棒をのんだみたいにかたくなった。なんだか急に年とったように見え、バーバラは、ペリーのあわれな顔から、できるだけ目をそらすようにつとめていた。これまでになかった陰湿な空気が、日傘の下にしのびこんできた。
「じつは、あなたがここへ来るまえにつとめていた家のことなんですがね」と警部はなおもおだやかな口ぶりでつづけた。
ペリーは緊張した。「はあ?」かすれた声で言った。
「あなたの推薦状《すいせんじょう》に署名したジェームズ・リゲットというひとを、どの程度まで知っているんです?」
ペリーの顔はしだいに赤くなってきた。「どの程度……?」家庭教師は口ごもった。「その、お話するまでもないことでしょうけど――推薦状をいただくような場合は――」
「なるほど」警部は微笑した、「いや、そうでしょうとも、ばかなことをたずねましたよ、では、どのくらいの期間、そこで家庭教師をしていたんです?」
ペリーはギクッとからだをひきつらすなり、黙りこんでしまった。まるではじめて馬に乗ったみたいに、からだをこわばらせて椅子に腰かけていた。やがて蚊《か》のなくような声を出した、「すっかりわかってしまったんですね」
「たしかにそのとおりですよ」サム警部はあいかわらず微笑をうかべたまま言った、「ペリーさん、警察の目をごまかそうなんて、まったく愚の骨頂というものですよ。ジェームズ・リゲットなる人物が実在しないこと、推薦状にあるパーク・アヴェニュの番地にジェームズ・リゲットが住んでいないことなど、かぎ出すのは、ほんの朝めしまえのことですからな。ま、正直な話、こんな他愛ない手でだませるとあんたが考えたと思うと、いささかむかっ腹が立ちますね」
「ああ、おねがいだからやめてください!」とペリーが叫んだ、「いったい、このぼくをどうなさりたいんです――逮捕でもするんですか?そうならそうと、さっさと逮捕してください、いまみたいに、責めるのはよしてください!」
警部の唇《くちびる》から微笑がきえた。彼はキッとすわりなおした、「さ、白状したまえ、ペリーさん、つつみかくさず正直に言いなさい」
バーバラ・ハッターは目《ま》ばたきひとつしなかった。彼女はただ、詩集の表紙を、見つめていた。
「それではなにもかもお話します」とペリーはよわよわしく言った、「ほんとに、ばかな真似《まね》をしたものです。それに、つまらない嘘をついて家庭教師をしているうちに、殺人事件の捜査にまきこまれるなんて、ほんとにぼくは運が悪かった。そうです、あの推薦状は、このぼくがでっちあげたんですよ、警部さん」
「あたしたちでね」とバーバラ・ハッターがやさしい口調で言った。
と、ペリーは、まるで自分の耳が信じられないといったように、ギクリとした。警部の目はするどくなった。「それはどういう意味でしょう、お嬢さん? いいかげんなことをおっしゃると、たいへんなことになりますぞ」
「いま言ったとおりのことですわ」とバーバラは、ひくいが、きっぱりした口ぶりで言った、「ペリーさんとは、家におつとめになるまえから知っていました。このひとは仕事がなくてとても困っていたのですけど――それなのに、ひとから経済的な援助を受けようとはなさらないのです。兄のコンラッドのことを知っていたので、このひとに自分の推薦状を書くようにおすすめしたのです。なにせ、推薦状を書いてくださるような方は、このひとにはぜんぜんなかったものですから。みんな、このあたしの責任ですわ」
「ふむ」警部は、うさぎみたいに頭をふりつづけながら言った、「そうですか、そうですか、お嬢さん、よくわかりましたよ。それにしてもあんたはじつに幸運なひとだ、ペリーさん、こんなたよりになるお友だちがあるとはね」ペリーの顔色は、バーバラのガウンにおとらぬくらい蒼《あお》かった。彼は茫然《ぼうぜん》自失といったていで上衣《うわぎ》の襟《えり》をひっぱった。「するとあんたにはちゃんとした推薦状がなかったわけですな」
家庭教師はかわいた咳《せき》ばらいをした、「そ、そうなんです、ぼくには有力者とのコネなんかなかったんです。それにぼくはどうしても就職しなければなりませんでした、警部さん……ここは――その、サラリーがとてもよかったし、おまけにミス・ハッターとはおなじ屋根の下にいられるし」――ペリーの息がつまった――「ミス・ハッターの詩はいつもぼくの心を感動させてくれたものですから……それでつい、こんなことをしてしまったのです。これだけです」
サム警部はペリーからバーバラの顔に視線を移し、またペリーにもどした。バーバラはおちつきはらっていたが、ペリーのとり乱し方は、目もあてられないくらいだった。「よろしい、わかった」と警部は言った、「あんたに有力者の推薦がないとしても――いや、そのくらいのことなら私にだってわかる、これでもものわかりのいい男なんですからな、ペリーさん――あんたにはどんな保証人がありますかね? つまり、あんたの身元保証人だが?」
と、バーバラがいきなり椅子から立ちあがった、「サム警部さん、このあたしの推薦ではいけないのでしょうか?」彼女の声と、その緑色の目には、氷のようなものがあった。
「いやいや、それでけっこうなんですがね、お嬢さん。ただ私は職務上、やむをえずたずねたまでなんですよ。さ、ペリーさん、どうなんです?」
ペリーは詩集をいじくっていた。「じつを言いますと」彼はゆっくりと言った、「いままで一度も家庭教師をしたことがなかったものですから、推薦状をもらおうにも、もらえないわけなんです」
「そりゃあそうだ、それでは身元保証人のほうはどうなんです?――ミス・ハッターのはいちおうべつにしてだね」
「ぼくには――だれもいないんです」とペリーは口ごもった、「友だちもないんです」
「これはおどろきましたな」と警部はニヤリと笑った、「あんたって、ずいぶん変ったひとですな、ペリーさん、その年になって、たった二人の身元保証人がいないとはねえ! そういえば、こんな話を思い出しましたよ。ある男が合衆国に五年暮してから登録局に市民権を申請した、ところが、その保証人としてアメリカ市民が二人必要だといわれると、保証人になってくれるほどの知人は、二人もいないと、審査官に答えたもんだ。ええ、どうです? 審査官はその申請を却下しましたよ、こう言ってね――五年も住んでいるくせに……」サム警部はやれやれといったように頭をふった、「ま、そんな話はどうだっていい、ペリーさん、あんたの行った学校は? 家族は? 本籍は? ニューヨークの在住期間は?」
「サム警部さん」とバーバラ・ハッターがひややかに言った、「ばかげた真似《まね》はおやめになってください。べつにペリーさんは法に触れるようなことをしたわけじゃありません。それとも罪を犯したとおっしゃるんですの? それだったら、なぜそれを追求なさらないんです? ペリーさん、あなたは――あなたは答える必要がないんですよ、このあたしがゆるしません、もういままでだって、越権《えっけん》もはなはだしいと思いますわ!」彼女は日傘から出ると、家庭教師の腕に手をかけた、そして降りしきる雨をものともせず、芝生を横ぎって屋敷の方へひきあげていった。ペリーは夢遊病者みたいな足どりだったが、バーバラは昂然《こうぜん》と頭をあげていた。二人とも、警部の方をふりかえりもしなかった。
サム警部は、ながいあいだというもの、葉巻をくゆらしたまま、雨にうたれる日傘の下にすわっていた。彼の目は、女流詩人と家庭教師が消えていったドアに釘《くぎ》づけにされていた。その目には、底意地の悪い笑いのかげがあった。やがて椅子から立ちあがり、芝生を横ぎって、屋敷にもどると、どなりつけるような大声で、刑事のひとりを呼びつけた。
第三場 図書室
――六月七日(火曜日)午後一時
六月七日(火曜日)、この日は、ニューヨークのあらゆる新聞社にとって、目のまわるような忙しさだった。ニューズ・ヴァリューのある出来事が二つもあったからだ――第一は殺害されたエミリー・ハッターの葬儀、その第二は遺言書《ゆいごんしょ》の発表だ。
ハッター老夫人の遺骸《いがい》は、薬で防腐して、死体公示所から葬儀社に送られ、それから最後の安息所にいそいで運ばれた。これらは、月曜日の夜半から火曜日の朝にかけて行われたことで、火曜日の午前十時半には、葬儀の四輪大馬車は、ロングアイランドの墓地にむかいつつあった。あんのじょう、ハッター家の一族には、葬儀の厳粛さに心から襟をただすといった感じが、あまり見うけられなかった。この一族の、いささか常軌を逸した生死観が、涙と、慣習的な哀悼《あいとう》の表現をはばんでいるのだ。バーバラをのぞいたのこりの連中は、たがいに相手の腹のなかをさぐりあい、ロングアイランドまでの道をいがみあいつづけていた。屋敷にのこるのをいやがっていた二人の子供たちにとっては、まるでピクニックにでも行くようなものだった。母親のマーサは、のべつまくなしに子供たちをしかりつづけだった。おかげで、一行が墓地《ぼち》にたどりついたときには、マーサ・ハッターはくたくたに疲れきり、すっかりいらだってしまった。
ドルリー・レーンは、なにか思うところがあるのか、この葬儀に参列していた。屋敷の警備は、ハッター家にのこったサム警部とブルーノ検事との二人にまかせ、レーンはもっぱらハッター家の人々に観察の目をむけていた。この連中の経歴、特質、態度、動作、会話、相互関係のニュアンスなど、レーンは、時々刻々のうちにますます心をうばわれてゆく沈黙の観察者だった。
新聞記者の一群が葬列のあとを追ってくるなり、墓地に流れこんできた。カメラのシャッターがたえまなく鳴り、鉛筆がはしり、汗だくの若い記者連中が、遺族をつかまえようとやっきになって走りまわっていた。もっとも遺族たちは、墓地の門前で車をおりたときから、ハッター老夫人の遺骸を埋葬する墓所にたどりつくまでというもの、警官隊にがっちりと護《まも》られていたのだ。コンラッド・ハッターは酒の酔いにまかせて出しゃばりはじめ、あっちこっちとひとの群れによろめきわたっては、みさかいもなしに大声でわめきたてていた……見るに見かねたバーバラが、コンラッドの腕をつかむなり、その場からつれ出した。
じつに奇妙な葬儀だった。女流詩人バーバラの友人|知己《ちき》である文壇関係の一団が、亡き老夫人の追憶に哀悼の意を表するというよりは、生ける女性の悲嘆をなぐさめるために参列していた。老夫人の墓には芸術界のそうそうたる男女が集まっていた。
一方、ジル・ハッターは、あまりお行儀のよくない有閑階級の若者や中年の男たちにとりまかれていた。いずれも、一分《いちぶ》のすきもないような服装だったが、葬儀の進行などに目もくれず、ジルの視線をとらえたり、彼女の手をにぎるのに血眼《ちまなこ》になっているありさまだった。
新聞記者連中にとっては、まさに野外演習のような騒ぎだった。彼らは、家庭教師のエドガー・ペリー、アーバックル夫婦、女中のヴァージニアなどを相手にせず、もっぱらルイザ・キャンピオンとスミス看護婦とを撮《と》りまくった。婦人特派記者たちはルイザの顔を「悲劇的空白」だとか「いたましい当惑」などと表現し、「土くれが母の棺《ひつぎ》の上に落ちはじめると、あたかもその音がきこえ、心になりひびくがごとく、彼女の目から涙が流れた」などと書きなぐった。
ドルリー・レーンは、患者の心臓の鼓動《こどう》にききいる医師のように、なごやかな、それでいて注意力を集中した表情で、すべてを観察していた。
ハッター家の遺族たちにつきまとっていた一団は、またそれについてニューヨーク市内へひきかえした。遺族たちの車のなかでは、緊張感がしだいにたかまってきた――この興奮と焦躁《しょうそう》は、ロングアイランドの地下に埋葬してきた老夫人の遺骸とはまったくの無関係だった。弁護士のチェスター・ビグローは、この日の午前中にかけて、秘密を一手ににぎりしめている中心人物だった。コンラッドは、酔った勢いで、しきりと遺言書の中味をききだそうとたくみにかまをかけたが、一同の関心の的となって、すっかりいい気持ちになっているビグローは、かぶりをふるばかりだった、「いや、コンラッドさん、正式発表まではなんとも申しあげられませんよ」コンラッドの相棒のジョン・ゴームリーは、今朝はやつれた顔をしていて、コンラッドの腕をあらあらしくひっぱった。
喪服《もふく》で葬儀に参列していたトリヴェット船長は、ハッター邸のまえで車からおりると、ルイザの手をとって歩道までつれて行き、その手をにぎりしめてから、となりの自分の家に入りかけた。すると、チェスター・ビグローがあわてて老船長をよびとめた。トリヴェットはちょっと当惑げにルイザのところにもどってきた。ゴームリーも、べつに弁護士から声をかけられなかったが、そこにとどまった。ジルを追うこの青年の視線には、なにか執拗《しつよう》なものがあった。
墓地から屋敷にもどったその三十分後、弁護士の助手で、元気のいい青年が呼びまわって、一同は図書室に集まった。部屋の一隅《いちぐう》にサム警部とブルーノ検事の横にならんだレーンは、一族の集まってくるのを固唾《かたず》をのんで見まもっていた。二人の子供たちは庭園においやられて、そこで遊ぶことになり、不運な刑事のひとりがその世話をおおせつかるはめとなった。マーサ・ハッターは両手をきちんとひざにおいて、いやにかしこまってすわっていた。スミス看護婦は、点字盤と駒《こま》を準備して、ルイザ・キャンピオンの椅子《いす》のそばに立っていた。
レーンは、他の連中がぞろぞろと集まってくるところをながめていたが、あらためて彼らの異常性に目を見はらざるをえなかった。このハッター家の一族は、見たところ、そろいもそろって健康そうだった。いずれも背が高く、がっしりした体格だった。じじつ、ハッター家の血筋をひいていないマーサと、それにルイザだけは、いちばん背が低かった。この二人は、ほとんどおなじ身長だった。しかし、レーンの目は、あらゆるものを見のがさなかった――彼らのいつもソワソワしている態度、ジルとコンラッドのやや狂暴に近い目の色、バーバラの異様なほどデリケートな知性、ジルとコンラッドの、いかにも無関心をよそおった素振り、それでいて亡母の遺言書の内容をきき知ろうとする、だれの目にもよくわかる異常な執着《しゅうじゃく》……これらは、半局外者ともいうべき、うちひしがれたマーサや生ける屍《しかばね》のルイザとあざやかなコントラストを示していた。
弁護士のビグローがきびきびした調子で口をひらいた、「どうか途中で発言なさらぬようにおねがいします。この遺言書は、ある点に関して、いささか風変りな個所もありますが、私が読みおわるまで、発言なさらぬようかさねておねがいします」一同は息をのんで耳をそばだてていた、「この遺言書を読むまえに、あらかじめおことわりしておきたいことは、遺産分配額は負債を支払った残額一〇〇万ドルと仮定された資産にもとづいております。実際には、一〇〇万ドルを上回るものと思われますが、この仮定資産額は、遺産の分配を簡易化するためにさだめられたものであります。この点につきましては、いずれおわかりになることと思います」弁護士は、助手の手から細長い書類を受けとると、肩をいからして、エミリー・ハッターの遺言書を音吐《おんと》朗々と読みあげていった。
その冒頭《ぼうとう》の第一行から、この遺言書は不吉なひびきをもっていた。ハッター老夫人は、まず、自分の精神状態は正常であると断言してから、この遺言書のすべての条項の根本目的は、遺言者の死後、もしルイザ・キャンピオンが遺言書発表のさいに生存しているなら、娘ルイザ・キャンピオンの将来の生活を保証するためである、とつめたい言葉でのべてあった。
バーバラ・ハッターは、エミリー・ハッターとヨーク・ハッターとのあいだに生れた子供たちのなかの最年長者であるゆえ、不幸なルイザの将来の扶養《ふよう》と福祉《ふくし》の責任を負うか否かについては、第一に選択権をあたえられるものとする。もし、バーバラがこれを承諾し、ルイザの肉体的、精神的、道徳的な幸福を、その死にいたるまで、保証する意志を示すならば、遺産は以下のごとく分配されるものとする――
ルイザ(バーバラに委託)……三〇万ドル
バーバラ(その相続分として)……三〇万ドル
コンラッド……三〇万ドル
ジル……一〇万ドル
この場合は、ルイザの相続分はバーバラがこれを保管するものとする。ルイザの死亡のさいは、この委託財産は、ハッター家の三人の子に一〇万ドルずつ等分に分配される。たとえ、このような場合が生じても、バーバラ、コンラッド、ジルの当初の遺産分配額は、なんら変更を受けない。
弁護士のビグローが一息つくために、ここで言葉をきった、と、ジルが激怒に顔をゆがめて叫んだ、「これはいったい、どういうこと! なんだってお母《かあ》さんは――」
弁護士はうろたえたが、いちはやく威厳をとりもどして早口に言った、「お嬢さん、どうかおしずかにおねがいします、あと――ほんのすこしのご辛抱ですから――」ジルはかるく鼻をならすと椅子にそりかえり、すごい目つきであたりを見まわした。ビグローはホッと息をつくと、そのさきをつづけた。
もしバーバラがルイザ扶養の責任を拒否した場合には、年齢順からコンラッドにその責任を受諾する特権があたえられる。この場合――つまり、バーバラが拒否し、コンラッドが受諾したときは、遺産の分配は以下のごとくなるものとする――
ルイザ(コンラッドに委託)……三〇万ドル
コンラッド(その相続分として)……三〇万ドル
ジル……一〇万ドル
バーバラ(拒否したため)……五万ドル
遺産の残額二五万ドル――つまり、バーバラ・ハッターの分配額が減ったために生じた差額は、「ルイザ・キャンピオン唖聾盲《あろうもう》ホーム」という名称の施設の創立基金とする(以下、その内容が詳細にしるされてあった)
この分配の場合、ルイザが死亡のさいには、その相続分三〇万ドルは、コンラッドに二〇万ドル、ジルに一〇万ドル増配し、バーバラは除外するものとする……
ほんのしばらく沈黙がつづいた。一座の視線がいっせいに女流詩人バーバラに集中された。彼女はゆったりと椅子に腰をかけたまま、チェスター・ビグローの口もとを見つめていた、その表情にはいささかの変化もなかった。コンラッドは、その目にすみきった薄弱な心をむきだしにして、バーバラの顔をくいいるように見つめていた。
「これは、ちょっとした見ものじゃありませんか」とブルーノ検事がレーンにささやいた。その声はとなりにいるサム警部にもききとれぬくらいだったが、レーンは検事の唇の動きからそれを読みとると、かなしげに微笑した。「人間の本性というものは、遺言の発表のときにはっきりとあらわれるものですな、ほら、あのコンラッドの目つきをごらんなさい、殺人でもやりかねませんよ。ま、どうなるにしろ、レーンさん、これはただではおさまりませんね、なにしろ、気ちがいじみた遺言書ですからな」
弁護士のビグローは唇を舌でしめすと、そのさきをつづけた。もしコンラッドがルイザの扶養の責任を拒否した場合は、その配分は以下のごとくなる――
バーバラ(拒否したため)……五万ドル
コンラッド(拒否したため)……五万ドル
ジル(前とかわらず)……一〇万ドル
ルイザ・キャンピオン唖聾盲ホーム……二五万ドル
ルイザ……五〇万ドル
一座のものは、思わずハッと息をのんだ。ルイザに五〇万ドル! 一同は、この巨額の遺産相続可能者を、そっと盗み見た。だが、よく肥えた小柄《こがら》の婦人が、しずかに壁の方に顔をむけているにすぎなかった。
ビグローの声に、一同はわれにかえった。弁護士は、なんと読みあげたのか?
「……そして、ルイザに遺《のこ》す前述の五〇万ドルは、エリ・トリヴェット船長に委託するものとする。かならずや船長は、わが不幸な娘、ルイザ・キャンピオンの後見《こうけん》の責任をすすんで受諾するものと信じる。もしバーバラとコンラッドが拒否し、トリヴェット船長が受諾した場合には、その労にむくいて、トリヴェット船長に五万ドルを遺贈するものとする。娘ジルには選択権があたえられない。
この最後の場合、(弁護士は朗読をつづけた)ルイザの死亡のさいは、その五〇万ドルのうち一〇万ドルをジルの相続額に追加し、残額四〇万ドルは、ホーム創立基金の二五万ドルに追加する……」
あたりを支配する沈黙の重圧に耐えかねて、弁護士のビグローは、遺言書から顔もあげずに早口で読みあげていった。ジョージ・アーバックル夫妻には、そのいずれの場合にかかわりなく(弁護士の声はかすかにふるえていた)これまでの忠勤にむくいて二五〇〇ドル、看護婦アンジェラ・スミスにも、その忠勤にむくいて二五〇〇ドル。なおアンジェラ・スミスが遺言者の死後もルイザ・キャンピオンの看護婦および友人としてとどまることに同意するならば、その勤務期間中、週七五ドルの給料が支払われるようホーム創立基金より除外するものとする。最後に、女中ヴァージニアには五〇〇ドルを遺贈する……
弁護士のビグローは遺言書を下におくと、椅子にかけた。助手がパッと立ちあがると、遺言書の写しを二枚ずつ配った。どの相続人たちも、無言で、その写しを受けとった。
しばらくのあいだというもの、だれひとり口をきくものはなかった。コンラッド・ハッターは、その遺言書の写しをなんども指でめくりかえしながら、にごった目でタイプの文字を見つめていた。ジルの美しい唇は憎悪《ぞうお》もあらわにゆがみ、その美しい目は、ルイザ・キャンピオンにむかって陰険にはしった。思わずスミス看護婦は、ルイザの身をかばいでもするかのように、そのそばににじりよった。
と、コンラッドが憤怒《ふんぬ》を爆発させた。彼は椅子からとびあがるなり、床にその写しをたたきつけ、まるで発狂したような勢いで踏みにじった。顔面を紅潮させ、つぶれた声でわめきちらしながら、チェスター・ビグローめがけてすすみよった、その不気味さに、弁護士はおどろいて椅子から立ちあがったくらいだった。サム警部が一隅からとび出すなり、その岩のような手で、たけり狂うコンラッドの腕をむんずとつかんだ。「この馬鹿者《ばかもの》!」警部はわれるような大声でどなりつけた、「気をしずめろ!」
コンラッドの紅潮した顔色は桃色《ももいろ》になり、それからくすんだ灰色に変った。気ちがいじみた激怒がしずまると、まるで目がくらんだ人間のように、ゆっくりと頭をふった。その目に、理性の光がもどってきた。彼は姉のバーバラの方にふりむくと、小声でささやいた、「姉《ねえ》さん――どうするつもり――あの女を?」
みんな、ホッと安堵《あんど》のため息をもらした。バーバラはそれに答えずに無言で椅子から立ちあがると、コンラッドには目もくれず、そのまえを通りぬけ、ルイザの椅子に身をかがめて、唖で聾でめくらの婦人の頬《ほお》をやさしくたたいた。それからきびすをかえすと、きれいなひくい声で言った、「失礼いたします」そして図書室を出ていった。コンラッドは呆然《ぼうぜん》と、そのうしろ姿を見送っていた。
こんどはジルの番だった。まさに彼女はその本領を思いきり発揮した。「よくもあたしだけをのけものにしたわね!」と金切り声をはりあげた、「母親がきいてあきれるわ!」まるで猫《ねこ》のような身のこなしで、ルイザの椅子にとびかかり、そのまえでかがみこんだ、「この化けもの!」彼女は唾《つば》をはきかけると、身をひるがえして部屋から走り出た。
マーサ・ハッターは氷のようなさげすんだ目で、ハッター家の家族たちを見つめながら、椅子に腰をおろしていた。スミス看護婦は、ルイザに遺言書の内容を一語々々忠実につたえるために、点字盤の駒をせかせかと動かしつづけていた。
ビグロー弁護士とその助手をのこして、図書室からハッター家のものが全員出ていってしまうと、ブルーノ検事がレーンに言った、「ところで、あの連中をどうお思いです、レーンさん?」
「いや、ブルーノさん、あのひとたちは気ちがいじみているばかりか、なにか邪悪なところがありますな、それがあまりひどいものなので、なんだかあのひとたち自身の罪ではないような気さえするのですよ」とレーンはごくものしずかな口調《くちょう》でつづけた。
「と、おっしゃると?」
「つまり、あのひとたちの血管のなかに悪い血が流れているのですよ、あきらかに先天的な欠陥が血統のなかにあるのです。悪の起源は、ハッター夫人にちがいありません――ルイザ・キャンピオンがなによりの証拠ですよ、いちばん不幸な犠牲者《ぎせいしゃ》ではありませんか」
「犠牲者にして同時に勝利者でもあるわけですな」とブルーノ検事は冷酷な口調で言った、「どうころぼうと、あの女にはぜんぜん損がないんですからな。自分ではどうすることもできない女にとっては、かなりの財産ですからね、レーンさん」
「かなりなんてもんじゃありませんよ」と警部が鼻息あらく言った、「これじゃ、造幣局なみに、あの女に見張りをつけんことには」
ビグロー弁護士は書類|鞄《かばん》の錠をしめにかかり、助手は机の上をさかんにかたづけていた。レーンが声をかけた、「ビグローさん、この遺言書が作成されたのはいつごろですか?」
「ヨーク・ハッター氏の死体が湾内で発見された翌日、ハッター老夫人から、遺言書を書きかえたという申入れがあったのです」
「まえの遺言書の内容は、どういうものだったのです?」
「夫のヨーク・ハッターに全財産を遺贈するということになっておりました。ルイザ・キャンピオンが死ぬまで、その生活のめんどうを見るというのが唯一《ゆいいつ》の条件でしてね、夫のヨークが死亡した場合は、彼自身の遺言書によって分配されるということになっておりました」ビグロー弁護士は鞄を手にとった、「こんどの遺言書にくらべたら、しごく簡単なものでしたね。夫がルイザをあとにのこして死亡するとしても、夫はルイザの将来のために、かなりの遺産をのこすような処置を講じてくれるものと信じるといった老夫人の言葉が書いてありました」
「で、その最初の遺言書の内容を、家族のひとたちは知っていたのですか?」
「ええ、知っていましたとも! ハッター老夫人も、こう私におっしゃっていたくらいですからね――もしルイザが自分よりさきに死ぬようなことがあったら、財産は、バーバラ、ジル、コンラッドとそれぞれ均等にわけてやるつもりだと」
「いや、ありがとう」
ビグロー弁護士はホッと安堵のため息をもらすと、せかせかした足どりで図書室から出ていった。そのあとを助手が、まるで仔犬《こいぬ》のように追った。
「ルイザ、またルイザだ」とサム警部はいらいらした口ぶりで言った、「はじめからおしまいまでルイザだ。あの女は颱風《たいふう》の目なんだ、うかうかしていようものなら、あの女はやられてしまうぞ」
「レーンさん、この事件について、なにかご意見があるそうですが?」とブルーノ検事はごくさりげない口調でたずねた、「サム警部の話ですと、私たちに今日《きょう》なにかお話があると、昨日《きのう》言われたそうですが」
ドルリー・レーンは籐《とう》のステッキをかたくにぎりしめると、自分のまえにちいさな弧《こ》をえがいた、「たしかにそのつもりだったのです」と老優は口のなかでつぶやくように言った。彼の顔面はおもおもしく緊張した。「しかし――よく考えてみますと、いまはお話ししたくないのです。どうもいまは考えがまとめられません――あたりの空気がうるさくて、気持ちがおちつかないのですよ」
警部はぶしつけにうなり声をあげた、まさに癇癪《かんしゃく》が爆発する寸前だった。
「いや、申しわけがない、警部さん、なんだか自分が『トロイラスとクレシダ』のヘクターになったような気がしてきましたよ――シェイクスピアが自分でも言っている『ちぐはぐで、無気力な結末』――もっともこれは、自分の失敗作について言っているわけではないので――なに、この芝居《しばい》は、いまニューヨークでかかっていますがね。この芝居のなかで、ヘクターの台詞《せりふ》はこうです、『ほどほどの疑いこそ賢名の戒め』、ま、いまの私は、このヘクターの台詞《せりふ》をそっくりいただかねばならないと思うのですよ」老優はため息をついた、「ひとつ、ハムレット荘にひきあげて、じっくり問題を解きにかかってみましょう、さて、解けるかどうか……警部さん、この不幸なトロイを、いつまで包囲なさるつもりなのです?」
「そりゃあ、れっきとした木馬《もくば》が手に入るまでですよ」意外な学識ぶりを示して、サム警部は不満そうに言った、「どう手をうったらいいのか、私にはさっぱり見当がつかない。役所じゃ、やいのやいのとうるさくききはじめましたがね、私にわかっていることといったら、道がただ一つ」
「なんです、それは?」
「ペリーですよ」
レーンの目が、ほそくなった、「ペリー? 家庭教師のペリーがどうしたというのです?」
「なに、いまのところはどうもしませんよ、ただね――」サム警部はわざとじらせるような口ぶりで言った、「もう間もなく、いろいろなことがわかってきますよ。ミスタ・エドガー・ペリー――こいつが本名でないということは、一ドル賭けてもいいですがね――この家に入りこむために自分の推薦状を偽造したんでさあ――道が一つあると言ったのは、このことですよ!」
あきらかにレーンはしんそこから動揺したようだった。ブルーノ検事はあわててまえに身をのり出した、「それにまちがいないなら、警部、その理由だけで逮捕できるだろうに」
「そうやすやすと問屋がおろしてくれませんや、バーバラ・ハッターが割こんできて、ペリーをかばうんですよ――コンラッドが有力な推薦状のないものは傭わないと言っているし、ペリーにはそんなものがないので、自分が推薦状を偽造するようにすすめたんだ、と彼女は言うんです。なに、たわごともいいことですよ! だからといって、われわれは、バーバラの言葉を頭からしりぞけるわけにはいきませんや、いちばん臭いのは――やつに推薦状がないってことですよ。過去のことについちゃ、これっぽっちも話そうとはしないんですからな」
「それで、その男をあらっているというわけですね」とレーンはゆっくり言った、「なるほど、それは賢明な策ですよ、警部さん。バーバラ・ハッターさんも、私たち同様、ペリーのことについてはほとんど知らないと、あなたはにらんでいるのですね」
「そうですとも」と警部はえたりと歯をむき出して笑った、「美人のうえになかなか才女だが、どうやらあの男のことが好きらしい――恋に目がくらむと、どんなことでもしかねませんからね」
ブルーノ検事が思案深げに言った、「すると、君はコンラッド説を捨てたわけですな?」
サム警部は肩をすくめた、「なにひとつだって捨てるもんですか。あの絨毯《じゅうたん》の靴跡《くつあと》は――あの男にだれか女の共犯者がいないかぎり、いささか、わざとらしすぎる。それに、ルイザがさわった女の頬の一件もあるし……ま、どうにもしようがありませんな。いずれにしろ、私はペリーをあらってみるつもりですよ、明日になれば、きっとあなたへのおみやげができると思いますよ」
「それはありがたい」レーンはリンネルの上衣のボタンをかけながら言った、「それでは明日の午後、ご足労でもハムレット荘までおいでくださいませんか、そうなればペリーの件もうかがえるし、私のほうからも……」
「あの山荘まで行くんですか?」と警部は口のなかでこぼすように言った。
「なに、そうねがえるか、おたずねしたまでですよ、警部さん」とレーンがつぶやいた、「おいでになりますか?」
「うかがいましょう」とブルーノ検事がすばやく言った。
「いや恐縮です。それはそうと、むろん警戒にぬかりはないでしょうな。この屋敷、とりわけ実験室の見張りは厳重にしてくださいよ」
「それに、シリング医師がよこしてくれた毒物の専門家を、ちゃんと料理室に張りこませていますよ」とにがりきった口ぶりでサム警部が言った、「百も承知なんですがね、ねえ、レーンさん、どうも私はこんな気がときどきするんですよ、あなたときたらまるで私のことを――」くさりきった警部が、なにをぼやこうと、ドルリー・レーンには通じっこなかった。レーンは顔につくり笑いをうかべると、会釈《えしゃく》して背をむけるなり、さっさと出ていってしまったからだ。
サム警部はやけになって指の関節をポキポキ鳴らした。背をむけたとたんに、聾《つんぼ》になるような人間に、いくらぼやいてみたところで、それこそ無駄というものである。
第四場 ハムレット荘
――六月八日(水曜日)午後三時
水曜日はカラリと晴れていたが寒かった。ハドスン地方はまるで冬の海を思わせた。密生している木々の葉をわたる風のざわめきが、大洋の波濤《はとう》の音のようだった。木々の青さは六月だったが、空気のつめたさは十一月だった。
警察の車は、急勾配《きゅうこうばい》の坂道をのぼり、鉄橋を渡り、砂利道《じゃりみち》を走り、広場をすぎ、庭園の道に入った。ブルーノ検事も、サム警部も、口をきく気にはなれなかった。背中に瘤《こぶ》のある、つねにかわらぬグロテスクな姿のクェイシー老人が、鉄鋲《てつびょう》を打った門扉《もんぴ》のところで二人《ふたり》を出迎えると、藺《い》を床《ゆか》に敷きつめ、大燭台《だいしょくだい》、甲胄騎士《かっちゅうきし》、悲劇と喜劇の巨大な仮面などが飾りつけてある大広間を通り、その奥の壁に隠されたちいさなエレベーターに案内した。二、三階のぼって、ドルリー・レーンの居間の入口に彼らは立った。
茶色のビロードの上衣《うわぎ》を着た老優は、燃えさかる煖炉《だんろ》の火のまえに、スラッと槍《やり》のように立っていた。ゆらめく焔の光と影のなかでさえ、レーンの顔にきざみつけられた心労の色が、検事と警部にありありとわかった。すっかりやつれ果て、みるかげもなかった。それでも彼は、かわらぬ慇懃《いんぎん》さで二人を迎えると、呼鈴《よびりん》のひもをひき、小男のフォルスタッフにコーヒーとリキュール酒を命じた。そしてよぼよぼの猟犬のように、鼻をクンクンいわせてあたりをかぎまわっているクェイシー老人を部屋《へや》から追いやると、煖炉のまえの椅子《いす》に腰をおろした。「まずはじめに」と老優はしずかに言った、「ニューズがおありなら、それからうかがいましょう、警部さん」
「たっぷりありますよ。ペリーの記録をすっかりあらいましたからね」
「ペリーの記録?」レーンは眉《まゆ》をつりあげた。
「いや、前科やなにかではなくて、つまり過去の経歴のことですよ。まず、あなたがさか立ちしても、あの男の正体――本名がなんというか、ちょっとわかりませんね」
「私は予言者ではありませんよ、警部さん」とレーンはかすかに微笑をうかべて言った、「まさか、失踪中《しっそうちゅう》のフランスの皇子さまというわけではありますまい」
「なんですって? ねえ、レーンさん、こいつはすごく重大なことなんですよ」と警部は歯をむきだして言った、「エドガー・ペリーの本名は、いいですか、エドガー・|キャンピオン《ヽヽヽヽヽヽ》!」
だが、レーンは目《ま》ばたきひとつしなかった、「エドガー・キャンピオン」しばらくして、彼は言った、「なるほど、でもまさか、エミリー・ハッター老夫人の先夫の子ではないでしょうね?」
「ところが、そうなんですよ! だから、こういうわけです――エミリー・ハッターが、いまは亡《な》きトム・キャンピオンと結婚したとき、このキャンピオンには、すでに先妻の子が一人《ひとり》あったのです。それがエドガー・キャンピオンなんですよ。だから、ルイザ・キャンピオンとは異母|兄妹《きょうだい》で――つまり、父親がおなじで、母親がちがうというわけです」
「ふむ」
「どうも私に腑におちないのは」とブルーノ検事がすごく不満げに言った、「どうしてまた、キャンピオン――いや、ペリーでもいいが、この男が家庭教師なんかに化けて、ハッター家に入りこまなければならなかったかということなのですよ。警部は、バーバラ・ハッターが彼の就職に手をかしてやったと言うが――」
「あれはたわごとですよ」とサム警部が言った、「バーバラの話をきいたときから、私にはわかっていたんです。彼女がペリーを知ったのは、あの男が就職してからですからね――私がやつの正体を調べあげたんですよ。いまだって、バーバラには、まだあの男の正体がわかっちゃいませんや。要するに彼女は惚《ほ》れてしまったんですよ、みんな、恋のしわざでさあ!」
「すると、ハッター老夫人は、エドガー・ペリーが、自分の継子《ままこ》にあたるエドガー・キャンピオンだということを知っていたでしょうか?」とレーンが思案深げに言った。
「そんな――本人の口から言わないかぎり、老夫人にわかりっこないじゃありませんか。ペリーの父親とエミリー・ハッターとが離婚したとき、ペリーはほんの六歳か七歳だったという事実をかぎつけたんですよ。だから、四十四歳にもなった男を、いくら老夫人でも、見わけられるはずがありませんよ」
「ペリーにじかにたずねてみたのですか?」
「なにが口を割るもんですか、あの男が」
「警部は、すでにあの男を逮捕したのですよ」とブルーノ検事が言った。
と、一瞬、レーンはからだをこわばらせたが、頭をひとふりして力をぬいた、「警部さん、それはひどい、向う見ずすぎます、いったい、どういう理由で逮捕できるのです?」
「お気に召さないようですね、レーンさん」と、サムはニヤリと歯をむき出して笑った、「理由なんか、ご心配無用ですよ。ちゃんと合法的にひっぱったんですからな、ま、自由に泳がせておくのには、ちょっともったいないしろものですよ」
「すると、あの男がハッター老夫人を殺害したとにらんだのですね?」とレーンはひややかに言った。
警部は肩をすくめた。「ま、そうかもしれないし、そうでないかもしれませんがね。いや、おそらく犯人じゃないでしょうよ。動機が割り出せないし、それにむろん、証拠もつかめないんですからな。しかし、あの男がなにかを知っていることだけはまちがいありません。さもなければ、素姓《すじょう》をかくしてまで、こんな屋敷に」――と彼は指をならした――「こんな、人殺しのあるような屋敷なんかに就職するもんですか」
「すると警部さん、あのやわらかな、女のようにすべすべした頬の件はどうなるのです?」
「おやべつに共犯者の線を捨てたわけじゃないんでしょう? でなかったら、あのかたわ女の錯覚ということもありますからな」
「まあまあ警部」とブルーノ検事がいらいらしながら口をいれた、「なにも君の意見を拝聴しに、ニューヨークからはるばるやって来たのではないんですよ。それよりも、レーンさん、あなたのご意見というのを、うかがおうではありませんか」
かなりながいあいだ、レーンは口をひらかなかった。その間に、フォルスタッフが命じられた飲みものを運んできた。サム警部は湯気のたっているブラック・コーヒーを飲んで、いらだたしさをまぎらわした。フォルスタッフが部屋から出てゆくと、レーンははじめて口をひらいた。
「日曜日からというもの、私はずっとこの問題を考えつづけてきたのです」と、老優は芸できたえあげたすばらしいバリトンで言った、「ところが、それによって到達した結論は――なんと申しましょうか――よけいまえよりもつじつまのあわないことになってしまったのですよ」
「いったい、それはどういう意味なんです?」とサム警部はつめよった。
「ある点では、きわめてはっきりしているのです。そうですね、たとえば以前に解決したことのある『ロングストリート事件』のときに、ある点がはっきりしていたのと同様なのですが――」
「すると、真相をつきとめられたというのですか?」とブルーノ検事が言った。
「いや、いや」レーンはまた、しばらく黙りこんだ。「どうか誤解なさらないでください。どうしてどうして――解決どころのさわぎではありません。ほかの点が、じつに疑わしいのですよ。いや、疑わしいばかりか、なんとも奇妙なのです」その声はささやくようにひくくなった。「じつに奇妙だ」と彼は言った。検事と警部はいらいらしながら老優の顔を見つめた。
レーンは椅子から立ちあがると、煖炉のまえの絨毯の上を歩きはじめた。「私の頭が、どんなに混乱しているか、とても口では説明できるものではありません。いや、たいへんな混乱のしようですよ! 自分の感覚にありありと訴えるものさえ、私は疑いはじめたのですよ、私にのこされた四つの感覚のね」検事と警部は当惑しきって、たがいに顔を見あわせた。「しかし、もうこんな話はやめましょう!」とレーンはだしぬけに言った、「さっぱりと決心したのです。私の行手には、二本のくっきりとした捜査線がはしっています。私はこの二本の線をたどることにしました。いずれも、まだ手をつけてない線なのです」
「つまり、手がかりなんですね?」と警部が待ちかねたように口をいれた、「いや、それでこそあなただ! で、いま言われた、手をつけてない捜査線とは、どんなものなんです?」
レーンは微笑もうかべず、足をとめようともしなかった。「匂いですよ」と彼はポツリと言った、「あのヴァニラの匂いです。これが捜査線の一つ、なんとも法外なことで――私はさんざん悩まされたものです。ま、それについて推理をたてましたから、この線を追求してみるつもりですがね。もし運命の女神《めがみ》が私に微笑をなげてくれるなら……」老優は肩をすくめた、「もう一本の捜査線については、いまは、お話したくないのです。ただ、きわめてとっぴな、とうてい信じられそうもないものでいて、しかもじつに論理的なのです……」検事と警部の口から、質問がとびだしそうな気配《けはい》を見てとると、その機会をあたえずに、レーンは言葉をつづけた、「警部さん、この事件について、あなたが全般的にどう考えておられるか、それをひとつ、きかせていただけませんか、おたがいに腹蔵《ふくぞう》のない意見を交換したらいかがでしょう。場合によっては、ひとりで考えるよりも、頭をあつめたほうがいいですからね」
「それなら、そういうことにしましょう」とサム警部が威勢よく言った、「私の見た目では、いたって簡単なんですがね。犯人は、先週の土曜日の深夜か日曜日の未明に、梨《なし》に毒薬を注射する目的で、ルイザの寝室にしのびこんだ。その梨は、ルイザのために用意されていて、その朝、彼女がそれを喰べるということを、犯人がちゃんと知っていたわけです。ところが、犯人がその寝室にいるあいだに、ハッター老夫人が目をさまし、騒ぎたてたか、叫んだかしたのです。犯人は逆上して老夫人の頭に一撃をあびせました。ま、たぶん、老夫人を殺すつもりはもうとうなく、ただ黙らせようとしたのでしょうな。ですから、あの婆《ばあ》さんが死んだのは、ほんの偶然だったと私はにらんでいるんですよ。ブルーノ検事も私の考えに賛成で、疑いをさしはさむ余地はまるっきりないと思うんです」
「すると」ドルリー・レーンがものやわらかな口ぶりで言った、「あなたとブルーノさんは、ハッター老夫人の殺害は、誤殺であって、不測の事態における突発的な犯罪だとおっしゃるのですね?」
「そうですとも」とサム警部。
「まったく同意見です」とブルーノ検事。
「それでは」とレーンはしずかに言った、「|お二人ともまちがっていますね《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》」
「な、なんですと?」ブルーノ検事はびっくりしてききかえした。
「つまり、こういうことですよ。ハッター老夫人が謀殺されたことは火を見るよりもあきらかです。犯人は寝室にしのびこむまえから、老夫人を殺すつもりだったのです。いや、そればかりか、|ルイザ・キャンピオンを毒殺する意図など《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|犯人にはこれっぽっちもなかったのです《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》!」
検事と警部は、ただ息をのんで、いまの言葉を口のなかで反芻《はんすう》した。二人の目には狼狽《ろうばい》と、説明されなければどうにも考えつかないといった色がありありとあらわれていた。レーンは、おちついた態度で、しずかに、ときあかしていった。「ではまず」老優は煖炉のまえの椅子にもどると、リキュールで唇《くちびる》をしめした、「ルイザ・キャンピオンのことから説明していきましょう。表面にあらわれた事実はなんでしょうか? 注射器と毒物をふくんだ梨から判断すれば、いかにもあの塩化第二水銀は、ルイザの命を奪う目的のように見えます――ルイザは果物《くだもの》が大好きですが、あの果物|鉢《ばち》からいつも果物をとって喰べるもうひとりの人物、ハッター老夫人は、あまり果物類が好きでないうえに、かくべつ梨が大きらいでした。ところが、その梨の一つに、毒物が注射されていたのです。すると一見、犯人が、ルイザは喰べるが、老夫人はけっして喰べないとわかっている果物を故意に狙《ねら》ったように思われるわけです。これは、いかにもあなたがたのお考えのように、はじめからルイザの命を奪うのが犯人のはっきりした目的だったと、思いこませ――しかもこの推理は、この事件から二か月まえの、やはりルイザの命を狙って、どたん場で失敗した第一回めの毒殺未遂事件とてらしあわせると、ますますその確実性がましてくるのです」
「そうですとも」と警部が口はさんだ、「私にはどうしてもそう考えられますね。もしあなたに、それはちがうと証明できるなら、私もいさぎよく、かぶとをぬぎますよ」
「ところが、それができるのですよ」とレーンはおだやかな口調で言った、「どうか、これから説明することを、よく噛みしめてください。もし犯人が、ルイザ・キャンピオンが毒入りの梨を喰べるものと予期していたとしたら、あなたがたのお考えは正しいということになります。だがはたして、犯人はそれを予期していたでしょうか?」
「それはあたりまえじゃありませんか」とブルーノ検事は、当惑顔で言った。
「残念ながら私は、あなたのご意見とは正反対なのですよ、犯人は予期などしていなかったのです。それは、つぎのような理由によってです――まずはじめに、犯人が家族の一員であるかどうかはべつとして、すくなくとも、ハッター家の内情にくわしいものと考えていいでしょう。この臆測《おくそく》には、ちゃんとした裏づけがあるのです。たとえば、ルイザが、毎日午後二時半に、かかさず卵酒を食堂で飲むことを犯人は知っています。それから犯人は、外部の人間ではとても気がつきそうもないような家屋の構造――実験室と寝室をつなぐ煖炉の秘密の通路を発見したくらい、よく知っています。また、あのマンドリンのしまい場所もちゃんと知っていましたし、実験室と、そこにある薬品類などにも通暁《つうぎょう》していたのです。ですから、犯人は犯行計画にとって必要な、ありとあらゆることを、その細部にいたるまで熟知していたと断定しても絶対にまちがいはありますまい。さて、犯人がこれほど内部の事情にくわしいなら、ルイザが飲食物に潔癖だということも承知していたはずですし、それならまた、ルイザが熟しすぎたり、いたんだりした果物を喰べないということも当然知っていなければなりません。いや、ルイザでなくても、だれが喰べましょう――|腐りかけの梨が入っているそのおなじ果物鉢に《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|ほどよく熟した《ヽヽヽヽヽヽヽ》、|新鮮な梨がまだほかにいくつか入っているというのに《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。それに、シリング医師の分析《ぶんせき》報告によれば、あの梨は、塩化第二水銀を注射されるまえから、すでに腐りかけていたというではありませんか。したがって犯人は、わざと|腐りかけの梨《ヽヽヽヽヽヽ》をえらんで毒物を注射したことになります」
検事と警部は、その顔つきはあくまで疑わしげだったが、まるでひきずりこまれるようにきき耳をそばだてていた。レーンはかすかに微笑をうかべた、「いかがです、この事実が、あなたがたに奇妙に思えないでしょうか? 私には、まさに異常そのものだったのです。ところで、これはほんの偶然にすぎない、とあなたがたは異議をとなえられるかもしれない――まっ暗闇《くらやみ》の寝室のなかで、犯人はそれと知らずに、たまたま腐りかけの梨を果物鉢からとり出したのだろうとね。しかし、この推理とて、けっしてゆるぎないものとはいえないのです。というのは、手でさわってみただけでも、梨の腐っていることぐらい、らくらくとわかるからです。腐っていれば、その皮の部分を指がすべりますからね。ところで、この推理――つまり、犯人が腐りかけの梨をえらび出したのは、ほんの偶然にすぎないという仮定に立ってみましょうか。それでも私は、それが誤りであることを、ちゃんと証明してごらんにいれることができるのです。
では、いかにして証明するか? それは家政婦のアーバックル夫人の証言によって、立証できるのです、彼女は、殺人の当日の午後、いつもの果物鉢に、梨は二つだけしかいれなかったと言っているではありませんか。スミス看護婦も、あの夜、十一時三十分にその果物鉢を見たとき、梨は|二つしか《ヽヽヽヽ》なく、その二つともほどよく熟《う》れて、新鮮だったと証言しているのです。ところが、犯行の翌朝、私たちがその果物鉢を調べたとき、梨は|三つ《ヽヽ》あったのです。そこで結論は、こうなる――信頼のおける証言によって、はじめから入っていた二つの梨が新鮮だったと判明した以上、第三の梨つまり腐りかけの梨は、犯人が持ちこんだものにちがいないということになります。したがって、腐りかけの梨に毒物を注射したのは計画的な仕業《しわざ》であり、同時に、犯人は、|自分自身の腐りかけの梨を《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》外部から持ちこんだということが立証されるわけです。
それではなぜ犯人は、おなじ果物鉢のなかに新鮮な梨があり、狙う相手がいたんだ果物は喰べないと知りながら、犯行現場にわざわざ、腐りかけの梨を持ちこんだのでしょうか? それに対する解答は、たった一つしか考えられません――すなわち、|犯人には《ヽヽヽヽ》、|その梨をルイザに喰べさせようとする意図がぜんぜんなかった《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、ということです。以上の論理には、絶対にくるいがないものと、私は確信しているのです」
検事も警部も、一言も発しなかった。
「つまり、言いかえると」レーンは言葉をつづけた、「犯人は、ルイザ・キャンピオンが毒入りの梨を喰べるものと予期していたというあなたがたの推理はまちがっているのです。それとは逆に、犯人は、喰べないということを知っていたのです、と同時に、あの果物鉢から果物を喰べるもうひとりの人物、ハッター老夫人も、絶対に梨を喰べないということを知っていたにちがいありません……したがって、あらゆるところから考えると、毒梨の一件は、完全な偽装行為、すなわち、ルイザこそ謀殺の被害者になるところだったと警察に|信じこませる《ヽヽヽヽヽヽ》ための犯人の奸計《かんけい》と、考えなければならないのです」
「ちょっと待ってください」と警部が間髪いれず、口をはさんだ、「いま、言われたように、ルイザがその梨を喰べないとすると、犯人はそのみせかけの毒殺計画を、いったい、どうやって警察に発見させるつもりだったんです?」
「いや、それはいいところに気がついた、警部」と検事が言った。
「犯人の動機がなんであれ」とサム警部はつづけた、「だれかに発見されないかぎり、せっかくのトリックも水の泡《あわ》ですからね、私がおたずねした意味が、おわかりになりますか?」
「ええ、わかりますとも」とレーンはおだやかな口調で答えた、「なかなか味のある質問ですね、警部さん。つまり、あなたが言われるのは、犯人が持ちこんだ梨に毒薬が注射されているのを、警察に見つけてもらわなかったら、せっかくの犯人の偽装計画も無駄骨折りということになる。その梨に毒がふくまれていることをだれも発見しなかったなら、なにものかがルイザを毒殺しようとしているということ、すなわち、犯人の計算した効果があがらないことになるではないか、ということですね。
よろしい、けっこうです、もしハッター老夫人の殺害が謀殺にあらず、偶発的なものだとするならば、警察に偽装の毒殺計画を発見させうる可能性は、三つありました。その第一――あの寝室に注射器をのこしておくことです。むろん、こうしておけば疑惑を起こさせますし、二か月まえにも毒殺未遂事件があったのですから、警察が調査するのはあきらかです。これは十分に考えられます。しかし、犯人がびっくりしたはずみに、うろたえたあまり、その注射器を落していったと見るほうが、至当のようですね。第二は、数人のものが、あの果物鉢に梨が二つしか入っていないのを知っているのに、さらに第三の梨――毒入りの梨を一つくわえて、三つにしておくことです。だが、これもまた可能性にとぼしいですね。ま、わかるとしても気の長い話ですし、梨の一つぐらいふえたところで、だれにもわからないのがごくあたりまえですよ。第三は、犯人自身が、なにか口実をつくって、その腐りかけの梨に、警察の目をむけさせることです。この三つの可能性のなかで、これがいちばん見込みがありますね」
サム警部とブルーノ検事はうなずいた。
レーンは頭をふった、「ところが、ハッター老夫人の殺害は突発的なものではなく、偽装毒殺計画と同時に起こるように用意周到に仕組まれたものだと私が説明してごらんにいれれば、いまあげた三つの可能性など、まったく不必要なものだということがおわかりになるはずです。いわば、たたき倒すために立てただけの藁人形《わらにんぎょう》にすぎません。
なぜなら、犯人がルイザの毒殺を計画したのではなく、老夫人を殺害しようとしたものなら、あらかじめ毒入りの梨が発見されることを|見越して《ヽヽヽヽ》いなければならないはずです。したがって犯人はすべてを自然のなりゆきにまかせて、老夫人殺害事件《ヽヽヽヽヽヽヽ》の捜査にあたる警察に、その毒入り梨が発見されるのをただ待っていればいいわけです。それはもはや運というよりも、ほとんど確定的なことなのです。そして、なにかのはずみで毒入りの梨が発見されると、きっと警察は、犯行の目的は、ルイザを毒殺することであって、ハッター老夫人の殺害はほんの突発的なものだと考えるにきまっています。こうなれば、犯人の真の目的が達せられるわけです。真の目的とは、|ハッター老夫人を殺害しておいて《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|警察の捜査方針を《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|ルイザを殺す動機のある人間にむけさせ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|同時に《ヽヽヽ》、|老夫人を殺す動機のある人間から警察の目をそらせるようにすること《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》なのです」
「そんなことがあってたまるもんですか」と警部は吐き出すように言った、「それがほんとなら、すごい腕だ」
「ところが、これはほんとうなのですよ、警部さん。あの寝室のベッドで、まだ注射器を発見しないうちから、あなたは二か月まえの毒殺未遂の先例にならって、毒の入っているものがないかどうか、たしかめてみる必要がある、と言ったではありませんか。これを考えてみただけでも、犯人が警察の出方を正確によんでいたことがわかるはずです。たとえ、あの注射器が発見されなかったとしても――あらゆるところから判断して、あれは偶然にのこされたものと、私はにらんでいますが――また、梨が二つしか果物鉢に入っていなかったとしても、さだめしあなたは、毒殺を念頭において、毒入りの梨を発見したにちがいありませんね」
「たしかにそのとおりだね、警部」とブルーノ検事が言った。
レーンは長い腿《もも》をそろえると、煖炉の火をじっと見つめた。「それでは、ハッター老夫人の殺害は、事前に計画されたもので、突発的な要素はすこしもなかったということを証明しておめにかけましょう。
一つの点は、だれの目にもきわめて明瞭にうつるはずです。凶器として使用されたあのマンドリンは、寝室におかれてあるものではなかった。階下の図書室のガラス箱のなかにおさめられていて、だれかれをとわず、それに手を触れることを厳禁されていたのです。じじつ、事件当日の午前一時三十分――ハッター老夫人がそのマンドリンで殺害される二時間半まえに、コンラッド・ハッターがガラス箱に入っているのを実際に見ており、また、事件の前夜、そこにあるのを見たものは、ほかにも何人かいるのです。
したがって、このことだけはたしかだということになります――すなわち犯人は、家のものであれ、外部のものであれ、わざわざ、あのマンドリンを階下までとりに行かなければならなかったか、あるいは寝室にしのびこむまえに、マンドリンをとってきて用意しなければならなかった……」
「待ってください」ブルーノ検事が眉《まゆ》をしかめて、さえぎった、「どこから、そういうことがわかるのです?」
レーンはホッとため息をついた、「もし犯人が家のなかのものならば、マンドリンをとりに、二階か三階から階下の図書室までおりてこなければなりません。また、外部のものなら、窓もドアもすべて堅く戸じまりがしてあったのですから、階下から屋敷のなかにしのびこむことはできないのです。したがって、非常階段で二階に侵入するか、さもなければ、このほうがずっと可能性があるのですが、非常階段で屋根にのぼり、煙突から入りこむよりほかにないのです。ま、いずれにせよ、マンドリンをとりに、どうしても階下までおりてこなければならないわけで……」
「なるほど、そういうことになりますね」とブルーノ検事は一歩譲って、「しかし、だれか家のものが、夜おそく帰ってきて、自分の寝室に行くまえに、マンドリンを持ち出したとも考えられないですかね? ごぞんじのとおり、夜中に帰ってきたものが二人あるのですからな」
「よろしい」とレーンは微笑した、「深夜帰宅したものがあって、その男、または女が階段をのぼるまえにマンドリンを持ち出したと仮定してみるのですね? それなら、あきらかにその人間があるはっきりとした目的をもっていて、はじめからマンドリンを使う計画があったということにならないでしょうか?」
「わかりました」とサム警部が言った、「どうかそのさきを」
「ですから、あのマンドリンは、犯人が、ある特別の目的のために、寝室へわざわざ持ちこんだということになります。すると、その特別な目的とはいったいなんでしょうか? いろいろな目的をあげてみて、不適格なものから一つ一つ除去していきましょう。
では第一に、あの使いふるしのマンドリンは、その本来の目的のために、つまり楽器として使用されるために、あの寝室に持ちこまれたのか……」警部はクスッと笑い、ブルーノ検事は頭をふった。「むろん、ばかばかしい話で、論じあうまでもないことです。第二――だれかほかのものに濡《ぬ》れ衣《ぎぬ》をきせるために持ちこまれたのか? それならば、いったい、だれに? あのマンドリンからひとしく連想のうかぶ人間はたった一人しかおりません。それは、マンドリンの持ち主、ヨーク・ハッターです。ところが、そのヨーク・ハッターはすでに死んでいます。したがって、第二の仮定も除去しなければなりません」
「ちょっと、待ってくださいよ」と警部がゆっくりと言った、「もうすこし考えさせてくれませんか。ヨーク・ハッターが死んでいるにしても、犯人がそれを知らないということだって考えられるじゃありませんか。あるいは、かりに犯人がヨーク・ハッターの死亡を知っていたとしても、あのときの死体確認の状況が完全とはいえないものだったから、ヨーク・ハッターがじつはまだ生きているのだと、われわれに思わせようとしたのかもしれませんよ。これについちゃ、どうお考えです?」
「なかなかいいところをつきましたよ、警部さん」とレーンは、のどの奥で笑った、「いや、手のこんだするどい質問です。しかし、この万に一つというような可能性も、きっぱりと否定することができると思います。二つの理由から、犯人はそんなばかげたまねをするはずがありません。その一つは、もし警察に、ヨーク・ハッターが生きていると思いこませ、犯行現場にうっかり自分のマンドリンを置き忘れたというように信じこませるとしたら、そのトリックは警察の目をあざむくにたるものでなければなりません。だが、はたして警察は、ヨークがかくも明白な手がかりをのこしてゆくと思うでしょうか? むろん、思うはずがありません。自分から、だれの目にもすぐそれとわかるような手がかりをのこすなどということは、あのヨークにかぎって、絶対にありえないことです。したがって警察は、これはトリックであって、ほんものの手がかりではないと、簡単に見破ってしまうにきまっています。理由の第二は、なぜマンドリンのようなおかしなものを凶器に使ったのか? およそ流血とは、いちばん結びつかないものです。警察は、ヨーク・ハッターが、よりによって、こんな奇妙な自分の所有品を、犯行現場に正気でのこしておくはずがないとにらんで、これはだれかほかの人間がヨークに濡れ衣を着せるためにわざとのこしたものだと、いっぺんに見破るにちがいありません。そうなれば、犯人の目的は達せられないことになります。いや、警部さん、犯人は、そんな手のこんだことを考えてはいませんよ。あのマンドリンを凶器に使ったのは、それが一見奇妙に思われても、犯人自身の計画に、はっきりとした関連があるからなのです」
「さ、かまわずにつづけてください、レーンさん」と、ブルーノ検事はじれったそうな視線を警部になげて言った、「警部、ばかげたことを考えるのもいいかげんにしたまえ!」
「まあまあ、ブルーノさん、そう警部さんをとがめないでください」とレーンは言った、「万に一つというような可能性でも、いや、たとえ不可能だと思われることでも、いちおう検討してみるところなどは、態度としてなかなか見上げたものですよ。論理には、それ自体のなかにしか法則はないのですからね。
ところで、あの寝室にマンドリンを持ちこんだのはなにも弾《ひ》くためではなく、また、ヨーク・ハッターに濡れ衣を着せるためでもないとすると、犯人には、ほかにどんな目的があったのでしょうか? あと一つだけ私には考えられるのですが、これ以外にもしあったら、お目にかかってみたいものです――それは、|凶器として使うためです《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》」
「凶器にしては、あまりにも変ったしろものだ」とサム警部がつぶやいた、「はじめっから、こいつが気にかかっていたんですがね」
「いや、納得《なっとく》のいかないのも無理のないところですよ、警部さん」とレーンはホッとため息をついた、「たしかに、奇妙な凶器ですからね、私たちがこの事件の真相をつきとめさえすれば……」老優は言葉を切った。その目は悲しげにくもっていた。やがていずまいをなおすと、よくひびく太い声でさきをつづけた、「いま、この疑問には答えられないのですから、しばらくこのままにしておくことにしましょう。しかし、その理由はなんであれ、あのマンドリンが凶器として寝室に持ちこまれたということは確実です。いまのところ、これだけしか考えられません」
「むろん」と検事が心細い声をだした、「いま言われたように、そのマンドリンが凶器として持ちこまれたのなら、はじめから攻撃用の武器としてですな。つまり、攻撃用か殺人用の武器として、ガラス箱から持ち出したわけですね」
「そんなことがあるもんですか」レーンが答えるよりもさきに、サム警部がかみつくように言った、「いったい、攻撃用の武器として持ちこんだということが、どうしてわかるんです? 防禦用《ぼうぎょよう》の武器として持ちこまれたんじゃないと、なんで言いきれるんです? あの婆《ばあ》さんをぶんなぐるつもりなどもうとうなくて、ただ用心のために持っていったのかもしれないじゃありませんか?」
「たしかに、それもそうだね」とブルーノ検事はつぶやくように言った。
「いや、それはまちがっています」とレーンは言った、「よろしいですか、警部さん、あなたが言われるように、かりに犯人が、梨に毒物を注射している最中に、ハッター老夫人か、あるいはルイザを場合によっては黙らせるのに|そなえて《ヽヽヽヽ》、つまり、本来は攻撃用ではなく、ひたすら防禦用にマンドリンを持ちこんだにすぎないと仮定してみましょう。あらためて言うまでもないことですが、犯人はあの寝室には精通していました。しかも、あの部屋には、武器としておあつらえむきのものが半ダースもあったのですよ――たとえば煖炉のところには鉄製の炉道具がかかっていたし、老婦人の寝ていたベッドのすぐわきの、あのナイト・テーブルには、一対《いっつい》の重いブック・エンドがおいてあったのです――そのどの一つを武器としても、さして重くないマンドリンなどより、打撃を加える点では問題にならないはずです。したがって、もし犯人が、実際に必要になるかどうかわからないような武器をとりにわざわざ階下の図書室までおりていったとすると、理解にくるしむようなばかなまねをしたものだということになるのです。なにせ、犯行をもくろんだ現場にははるかにかっこうの武器がいくつもころがっているのですからね。
ですから、論理的に見れば、あのマンドリンは防禦用としてではなしに、攻撃用の凶器として持ちこまれたということになります。それもただ万一の必要にそなえて、といったような漠然《ばくぜん》とした目的のためではなく、はじめから計画的に使うつもりだったのです。しかも、ほかの武器ではだめだったのです――いいですか、この点をとくに注意してください――あくまでもマンドリンでなければいけなかったのですよ」
「こいつは一本参りました」とサム警部は本音《ほんね》をはいた、「さきをつづけてください、レーンさん」
「そうですか、それでは、もしあのマンドリンが、攻撃用の凶器として計画的に犯人によって持ちこまれたものとするなら――犯人の目指す相手は、いったいだれだったのでしょう? ルイザ・キャンピオンですか? 絶対に否です。まえにも私が指摘したとおり、梨に毒物を注射したのは、じっさいにその毒入りの梨を喰べさせるためではなかった、つまり、犯人にはルイザを毒殺する意図がなかったのです。では、毒入りの梨でルイザを殺そうとしなかったくらいなのに、どうしてマンドリンのような奇妙な凶器で殴打《おうだ》して、彼女の生命を奪おうとするでしょうか? まさにそのとおりです。あのマンドリンは、ルイザ・キャンピオンに打撃を加えるための凶器であるはずがない、では目指す相手はだれか? ハッター老夫人のほかにありません。ではこれから、犯人の意図は、ルイザ・キャンピオンを毒殺することにあるのではなく、エミリー・ハッター老夫人を殺害することが、はじめから変らぬ目的だったということを証明しておめにかけましょう」
老優は両足をのばすと、つま先を煖炉の火にかざした、「のどが弱くなりましてねえ! 引退したらてきめんですよ……さて、これから申しあげる基本的事実の相互関係をよくお考えになれば、これからの推理が明確になり、強化されることがおわかりになると思います。第一、ごまかし、見せかけ、偽装行動といったものは、まずほんとうの目的をかくすための煙幕とみなければなりません。第二、ルイザの毒殺未遂は、さきほど証明したとおり、私どもの目をごまかすための偽装にすぎません。第三、それが偽装であるにかかわらず、犯人は計画的に凶器を持ちこみました。第四、この状況のもとに、計画的に持ちこんだ凶器を実際に使用し、死にいたらしめうる相手は、ハッター老夫人ただひとりです」
そのあとに沈黙があたりを支配した。ブルーノ検事とサム警部は、いずれも感嘆と心のみだれのいりまじった表情で、たがいに顔を見合わせた。検事のほうが、よりいっそう名状しがたい色をうかべていた。その緊張した表情の背後では、なにかかたくななものが、レーンの推理をなんとかしてみとめようと、あがいているようだった。検事は、警部の顔をちらりと見ると、すぐその視線をふせて、ながいあいだ、床をじっと見つづけていた。
警部のほうは、ブルーノほどとりみだしてはいなかった。「くやしいけれど、どうやらあなたのお説が正しいようですな、レーンさん。われわれは、出だしから捜査方針をまちがえていましたよ。これで捜査の局面は全面的に変りますね。いままではルイザ・キャンピオンを殺す動機をずっとさがしてきたんですが、こんどはハッター老夫人殺しの動機にきりかえなければなりません!」
レーンはうなずいた、だがその表情には満足の色も勝利のかがやきもなかった。自己の推理を決定的なものにしたにもかかわらず、むくむくと頭をもたげてくる不安の念に、心をかきみだされているような様子だった。熱弁の興奮がさめるとともに、老優はしだいに沈鬱《ちんうつ》になっていった。そして絹のような眉《まゆ》のかげから、ブルーノ検事をじっと見つめていた。
警部には、この、老優と検事との脇狂言《わききょうげん》など、いっこう目に入らなかった。彼はさかんに首をひねっては、ひとりごとを言っていた。「老夫人殺しの動機とね、すると、あの遺言書がからんでくるぞ……待てよ、あの婆さんを殺せば、みんな得をする人間ばかりじゃないか……すると、どういうことになるんだ? いや、さっぱりわからん。ルイザを殺したって、みんな、なにかしらにありつけるわけだ――金が入るか、さもなければ日ごろの憎悪《ぞうお》がはらせるかだ……ま、バーバラ・ハッターが、ルイザの世話を見るかどうかがわかれば、なにかがつかめるかもしれん」
「あ――そうだ、そうだ」とレーンがつぶやいた、「これは失礼しました、警部さん。あなたの口の動きに見入っていましたら、頭のほうがすっかりお留守《るす》になってしまって……ところで、もっと緊迫した問題があるのですよ。老夫人が死亡し、遺言書の内容が発表されたとなると、いままで|偽装だった《ヽヽヽヽヽ》ルイザの毒殺計画が、こんどは本物になる可能性がおおいにあるわけです。あの聾で唖でめくらの婦人が死ねば、だれでも利益を得るわけですからね」
サム警部はハッとして、上半身を椅子から起こした、「そうだ、こいつはうっかりしていたぞ! おまけに、また新しい問題が出てきますよ」と彼はうなり声をあげた、「そんなことにでもなれば、だれが犯人か、わからなくなってしまいます。もしルイザが殺されたとしても、かならずしも老夫人殺しの犯人と同一人物だとはかぎりませんからな。第一回の毒殺未遂にも、第二回の毒殺未遂プラス老夫人殺害事件にもまったく無関係な人間ならだれでもルイザの命を狙うのには、絶好の地点を占めているのです。なぜなら、その男、あるいは女は、警察がまえと同一の犯人とにらむものと考えるからです。いや、こいつはめんどうなことになった!」
「なるほど、あなたのご意見のとおりですよ、警部さん。こうなったら、ルイザさんを昼夜分かたず警戒するのみでなく、ハッター家の人間には、ひとりひとり、監視をつけなければなりませんね、それから実験室にある毒物類は、ただちに移す必要があります」
「そうでしょうかねえ」とサム警部は曰《いわ》くあり気に言った、「とんでもないこってすよ、そりゃあ実験室はちゃんと見張っていますとも。だが、毒物類はそのままにしておくべきです――ひょっとしたらだれかが、毒薬を盗みにしのびこんでくるかもしれませんからな」
ブルーノ検事は床から目をあげると、ドルリー・レーンの顔を見た。その目がキラキラとひかった。レーンは、全身の筋肉をこわばらせて、椅子の奥にふかぶかとからだをちぢこめた。まるで打撃から身をかわそうとするような構え方だった。ブルーノ検事の顔には、なんとも形容のつかぬ勝利の色がただよっていた。「レーンさん! ずっと私は、あなたのお説を熟考していたのですよ」
「で、その結論は?」とレーンは無表情のままでたずねた。
ブルーノ検事はニヤリと歯をむき出して笑った、「あなたのすばらしい分析に難癖《なんくせ》をつける気はもうとうないのですが、どうもやむをえないのです。あなたの推理によりますと、はじめからルイザの毒殺計画者と老夫人の殺害者とが、同一の犯人ということになっていますが……」レーンはからだから力をぬくと、ホッとため息をついた。「ところで、私たちはまえにも、毒殺計画者と殺害者とは同一犯人ではなく、べつべつの人間で、事件当夜の異なった時間に、二人はめいめいの仕事をしたのかもしれないと話しあったことがありましたね……」
「ええ、ありましたよ」と老優。
「しかしですよ」とブルーノ検事は手をふって言葉をつづけた、「殺害者のほうがまったくの別人だとすると、毒殺計画者《ヽヽヽヽヽ》の動機がわからなくなってしまうのです。そこで、その動機は、聾で唖でめくらの女性をたんにおどかすためであって、なんども彼女を毒殺するように見せかけて、あの屋敷にいたたまれなくするためではなかったか、と考えてみたらどうでしょうか?人殺しとまではいかなくとも、この程度の動機をもっている人間なら、あの家には何人かいますからね。したがって、あなたの推理では、犯人がべつべつに二人あって、ハッター老夫人殺しの犯人は、それがだれであろうと、毒殺未遂事件とはまったく無関係かもしれないという点が、見のがされていると思うのです」
「あの夜の事件にも、二か月まえの毒殺未遂事件にも」とサム警部は、ブルーノ検事の明敏な頭脳に目を見はって、つけ加えた、「いまの検事さんの説はあてはまりますよ。こいつは、さすがのあなたも検事さんにみごとしてやられましたね、レーンさん」
レーンは、しばらくのあいだ、無言のまま椅子にすわっていたが、やがて彼が、のどの奥でうつろな笑いをひびかせたので、検事と警部はおどろいてしまった。「いや、ブルーノさん、そんなことは、あらためて言うまでもないことだと思っていたのですよ」
「言うまでもないこと?」二人の客は同時に声をあげた。
「そうですとも、おわかりになりませんか?」
「なにがです?」
「なんだ、そうだったのですか」レーンはまた、のどの奥で笑った、「ことさら言うまでもないことだと思って、私が説明をはぶいたのは、あきらかに手ぬかりでしたよ。いや、それにしても、ブルーノさん、さすがに一筋繩《ひとすじなわ》ではいかない検事ですよ、最終論告まできて、サッと反証を提出するあたりの呼吸はね」
「とにかく、説明していただきましょう」とブルーノ検事はおちつきはらって言った。
「ではそうします」レーンはいずまいをただすと、煖炉の火をじっと見つめた。「なぜ私が、毒殺計画者と殺害者とを同一犯人と想定したか、それが知りたいといわれるわけですね……? その答はこうです。つまり、私は想定したのではなく、はっきりそうだということを知っているのです。それは数学的に証明することができるのですよ」
「そいつはちょっと、できない相談じゃありませんか」とサム警部が言った。
「話の筋さえとおっているなら、よろこんで納得《なっとく》しますがね」とブルーノ検事が言った。
「ま、たぶん、『女の涙』のように」とレーンは苦笑をもらしながら言った、「私の説明にはだれだってお手あげになりますよ……まずはじめに、私の論証の大部分は、あの寝室の床の上にちゃんと書かれてある、と申しあげておきましょう」
「あの寝室の床の上に?」とサム警部がおなじ言葉でききかえした、「同一犯人だという証拠が――?」
「そうですとも、警部さん! あれを見落すとは、おどろいた話です。いいですか、もし犯人が一人ではなく、べつべつの二人だったとしたら、それぞれちがった時刻にしのびこまなければならなかったという点はおわかりになりますね――つまり、二人は異なった目的、一人はルイザをおどかすために梨に毒物を注射し、もう一人はハッター老夫人を殺害するという目的があったのですから」
検事と警部はともにうなずいた。
「よろしい、では、どちらがさきに、あの寝室へしのびこんだのでしょうか?」
サム警部とブルーノ検事とはたがいに顔を見合せた。検事は肩をすくめた。「そんなことが断定できるものですか」
レーンは頭をふった。「それはよみがたりないからですよ、ブルーノさん。私たちが発見したとおり、毒物を注射した梨を、あのナイト・テーブルの果物鉢《くだものばち》にいれるためには、毒殺計画者は、二つのベッドのあいだに立たなければなりません、これは火を見るよりもあきらかなことです。それから、ハッター老夫人を殺すためには、シリング医師が指摘したように、これもまた、殺害者はベッドのあいだに立たなければならないのです。したがって、もし犯人が二人なら、二人とも、ベッドのあいだに敷かれている同じ絨毯の上を歩くことになります。ところが、その絨毯にまかれたパウダーの上には、一人分の足跡しかのこっていなかった――むろん、ルイザ・キャンピオンの足跡は除外してです。彼女の証言まで信じられないとなったら、それこそ、一切合財《いっさいがっさい》放棄するのとおなじですからね。
さて、かりに第一《ヽヽ》の侵入者がパウダーの箱をひっくりかえしたとするなら、二人分《ヽヽヽ》の靴跡がのこっているはずです。つまり、第一の侵入者がパウダーをこぼしてつけた第一の足跡と、その人物が立ち去ったあとで、しのびこんだ第二の侵入者が不注意につけた第二の足跡とです。ところが、絨毯の上には、一人分の足跡しかのこっていませんでした。したがってパウダーの箱をひっくりかえしたものは、第一の侵入者ではなく、第二の侵入者であることがあきらかになります。そしてひとりの侵入者、これは当然第一の侵入者ですが、この人物がぜんぜん足跡をのこさなかったということが証明されることになります。いわば、これが根本的な原理ですよ。
そこで必然的に起こってくる問題は、その足跡はだれのものか――つまり、第二の侵入者はだれであるか、ということになります。パウダーに足跡をのこした靴は、すでに私たちが発見しました。その右の靴のつま先についていた液体の汚点を、検屍医は塩化第二水銀と明言しました。あの梨に注射された毒物も、注射器にのこっていた薬物も、これとおなじ塩化第二水銀だったのです。そこで、パウダーに靴跡をのこした侵入者、すなわち、第二の侵入者が毒殺計画者であったことが、あきらかになります。つまり、あくまでも二人のべつべつの侵入者があったと仮定するなら、タルカム・パウダーの箱をひっくりかえし、その粉のなかに靴跡をのこした第二の侵入者が毒殺計画者であり、はじめに忍びこんだ第一の侵入者がハッター老夫人の殺害者であったということになるのです。ここまではおわかりになりますね?」
二人はうなずいた。
「それでは、殺害者、つまり第一の侵入者によって凶器として使われたあのマンドリンは、その人物についてなにを語ってくれるでしょうか? それは、こうです――あのナイト・テーブルの上にのっていたパウダーの箱を床にたたきおとしたのは、このマンドリンだった。なぜ、それがわかる? パウダーの箱の蓋には、血の線が何本かついていました。それは、マンドリンの血まみれになった絃がふれたからこそ、ついたのではありませんか。テーブルの上の、パウダーの箱がのっていた場所のやや後方に、なにかするどいかどがあたってできた新しい疵《きず》を私たちは見つけましたが、これは、その位置や形状から判断して、マンドリンのかどがテーブルにぶつかってできたものと、私たちが確認したのです。また、マンドリンのほうにも、その下部の一端に、テーブルの疵とピッタリ一致する擦《す》り疵がはっきりとみとめられたのです。したがって、マンドリンが、テーブルのその個所にぶつかった拍子《ひょうし》に、絃がパウダーの箱の蓋にふれ、そのとき、テーブルから、その箱をたたきおとしてしまったのです。
まさかマンドリンに手がはえて、ひとりであばれだしたわけではありますまい。マンドリンは、老夫人の頭部をなぐりつけるためにもちいられたのです。したがって、パウダーの箱がひっくりかえって落ちたのは、テーブルのすぐわきで、ハッター老夫人の頭部にマンドリンで一撃を加えたとき、その余勢によるものにちがいありません。いま説明したことは、ほんのおさらいにすぎないのですよ、私たちが犯行現場を検証した当時、これらの事実を確認しているのですからね」
レーンは椅子から上半身をのり出すと、そのたくましい人差指をふりまわした、「さて、ついいましがた、パウダーの箱をひっくりかえしたのは、毒殺計画者、すなわち第二の侵入者だと、私たちは証明したばかりです。それにもかかわらず、こんどは、殺害者、つまり第一の侵入者がパウダーの箱をひっくりかえしたことになってしまいました。これでは矛盾撞着《むじゅんどうちゃく》もいいところですよ!」老優はニッコリと微笑した、「つまり、説明の仕方をかえると、こうなるのです――あのマンドリンは、こぼれ散ったパウダーの上に落ちていたのです。ですから、マンドリンが落ちたときは、床の上にはすでにパウダーがちらばっていたということになります。ところで、はじめの推理によると、毒殺計画者がパウダーの箱をひっくりかえしたことになっているのですから、殺害者が二番めに侵入したことにならなければなりません。しかし、それならば、発見された唯一の靴跡が毒殺計画者のものなのですから、殺害者の足跡はいったい、どこにあるのでしょうか?
殺害者の足跡が発見できないとするなら、|パウダーの箱がテーブルから落ちたあとでは《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、侵入者は二人いなかったということになります。言いかえると、殺害者なる別個の人物は、存在しなかったのです。それゆえに私は、はじめから、毒殺計画者と殺害者とはまったくの同一人物であると、あなたがたの言葉をかりるなら、『想定』していたわけなのですよ」
第五場 死体公示所
――六月九日(木曜日)午前十時三十分
ドルリー・レーンは、その顔にいくらか期待の色を見せて、陰気で古くさい、ニューヨーク市の死体公示所の石段をのぼっていった。建物のなかに入ると、老優は検屍医《けんしい》のレオ・シリング医師に面会をもとめた。ほんのちょっと待っただけで、彼は解剖室《かいぼうしつ》に案内された。強い消毒薬の匂《にお》いに鼻をさされながら、彼はその戸口にたたずんだ。シリング医師は、その小肥《こぶと》りのからだを解剖台にかがめて、干《ひ》からびた死体の内臓の諸器官をさかんにさぐっているところだった。そのかたわらで、背の低い、丸顔で金髪の中年男が、椅子《いす》にグッタリともたれたまま、シリング医師の仕事を、ひどく無感覚な態度で見まもっていた。「やあ、お入りください、レーンさん」むしずのはしるような気味の悪い仕事から顔をあげようともせずに、シリング医師が言った。「おどろいたね、インガルス君、この膵臓《すいぞう》はすごくいきがいいぜ。……おかけください、レーンさん、こちらはインガルス君です、毒物の専門でしてね。あとすこしで、この死体をかたづけてしまいますから」
「毒物学がご専門ですか?」レーンは、背の低い中年の医者と握手をしながらたずねた、「いや、まさに神さまのおみちびきですよ」
「といわれると?」とインガルス医師がききかえした。
「そちらは有名な方だよ、インガルス君」とシリング医師は、しきりと内臓をいじくりまわしながら言った、「新聞によくお名前が出る方だ、知らないものはないよ」
「そうですか」とインガルス医師が言った。
シリング医師がわけのわからないことをわめくと、二人の助手がとんできて、死体を運搬車にのせて運び出した。「さあ、やっとすみましたよ」とシリング医師は言って、ゴム手袋を脱ぎとると、手洗場へ歩みよった。「ところで、レーンさん、またなんでこんなところに?」
「それが、じつにたわいのない、妙な用件でしてね。じつは、ある匂いをさがしもとめているところなんです」
インガルス医師は眉《まゆ》をあげた、「匂いですか?」
シリング医師は手を消毒しながら、のどの奥でクックッと笑った。「それなら、おあつらえむきのところへおいでになったわけですよ、レーンさん。この公示所なら、世間にざらにないような匂いがそろっていますからな」
「いや、私が求めているのは、そんな匂いじゃないのですよ、シリングさん」とレーンは微笑しながら言った。「甘い、気持ちのいい匂いですよ。一見、犯罪などに関係がなさそうですが、殺人事件を解決する重大な鍵《かぎ》になるかもしれないのです」
「いったい、どんな匂いです?」とインガルス医師がたずねた、「ひょっとしたら、お役にたてるかもしれません」
「それが、ヴァニラの匂いなのです」
「ヴァニラ!」二人の医師は、口をそろえて言った。シリング医師が目をまるくして言った、「すると、レーンさん、ハッター家の事件で、ヴァニラの匂いが手がかりになったわけですな。いや、こいつはまったく変っていますよ」
「そうなのです、ルイザ・キャンピオンが、犯人の顔に手をふれたとき、その匂いをかいだと証言しているのです」とレーンは根気よく説明した、「はじめは、『ピリッと刺すようないい匂い』としか言えなかったのですが、いろいろとためしてみたところ、ヴァニラの匂いだとわかったのです。なにか、心あたりはないでしょうか?」
「化粧品《けしょうひん》、菓子、香水、料理」とインガルス医師はつぎつぎとあげていった、「ほかにもまだたくさんありますが、事件と直接関係のあるものは、思いうかびませんね」
レーンは手をふった、「むろん、そういったたぐいのものは、ひとつのこらずあたってきたのです。ごくありふれたものはしらみつぶしに調べてみましたよ。いま、あげられた以外のもの、たとえばアイスクリーム、キャンディ、エキスなども、あたってみましたが、だめだったのです。どうも、こういった種類のものではなさそうなのです」
「花はどうでしょう?」とシリング医師が思いつくままに言ってみた。
レーンは頭をふった、「ただ一つ、関係のあるものといったら、ヴァニラのかおりを放つ蘭《らん》の一種があるのですが、これもまったく意味をなさず、この蘭が、これまでの事件の経過につながりをもった形跡はまったくみとめられないのです。そこで、シリングさん、さだめしあなたなら、この方面の知識から、ぜんぜんべつの、もっとじかに犯罪一般に関連のありそうなものを教えていただけるのではないかと思ったものですからね」
二人の医師は、たがいに顔を見合せた。インガルス医師が肩をすくめた。「薬品はどうでしょうね?」とシリング医師がためしに言ってみた、「ひょっとしたら――」
「いや、それなのですよ、シリングさん」とレーンはかすかに微笑をうかべて言った、「私がおうかがいしたのも、じつはそのためです。で、あげくのはてに、このとらえどころのないヴァニラの匂いは、ひょっとしたら薬品かもしれないと、私は思いついたのです。はじめのうち、ヴァニラの匂いと化学とをむすびつけて考えなかったのは、私としてはごく当然な話で、この二つのものは、まったく正反対の感じでしたし、それに私の科学的知識は、おはずかしいくらいのものですからね。インガルスさん、ヴァニラのような匂いのする毒物がありますか?」
毒物学者は頭を横にふった、「いや、すぐにはちょっと思いつきませんな。ごく普通の毒素や毒物には、そういった匂いのないことはたしかなんです」
「ごぞんじのように」とシリング医師が思案深げに言った、「ヴァニラそのものには、医療的な価値は、実質的にないのですよ。そうだ、ヒステリーや軽い熱病などに、芳香性興奮剤としてときおりもちいられることもありますが、それにしても……」
と、突然、レーンは興味をそそられて、目をキラリとひからせた。すると、インガルス医師もハッとなにかを思いついたらしく、だしぬけに笑いだした。肉づきのいい腿《もも》をたたいて、椅子から立ちあがると、解剖室のすみにあるデスクへ歩みよった。彼はなおもクスクス笑いながら、紙片にサラサラとなにかを書きなぐった。それから戸口に行くと、「マクマーティ!」と大声でどなった。助手がかけつけてきた。「こいつをスコットにたのむ」助手はいそぎ足で立ち去った。「ちょっとお待ちになってください」と毒物学者はニヤリと笑って、レーンに言った、「いま、思いついたことがあるんですよ」
検屍医のシリング医師はちょっとおもしろくなさそうな顔をしていた。レーンはじっと椅子にかけたままだった。「いや、シリングさん」と、老優はものしずかな声で言った。まるでインガルス医師のインスピレーションの結果など、眼中にないといった口ぶりだった、「なぜヨーク・ハッターの実験室の薬品壜を、一つ一つ嗅いでみる気にならなかったのか、私は腹が立って、この自分を、ハムレット荘の端から端まで蹴《け》とばしてやりたい気持ちですよ」
「ああ、あの実験室のね。あそこなら、なにかあったかもしれませんな」
「すくなくとも、ひとつのチャンスでしたからね。やっとそれに思いついたときは、もうあとの祭りで、火事で実験室はめちゃめちゃになり、薬品壜はおおかた、こわれてしまいましたよ」老優はホッとため息をもらした、「しかし、幸いなことにヨーク・ハッターの薬品目録がそっくりそのまま、たすかりましたから、いかがでしょう、インガルスさん。私と一緒に目をとおしていただいて、目録にある薬品を一つ一つチェックしていただけませんか。あなたでしたら、なにかの手がかりがつかめるかもわかりません。なにせ、こういった化学の方面には、私はとんとくらいものですからね」
「なあに、それほどまでにすることはないと思いますよ」と毒物学者が答えた。
「いや、それなら願ってもないことですが」
さっきの助手が、ちいさな白い壺《つぼ》を持ってもどってきた。インガルス医師が、そのアルミニウムの蓋《ふた》をあけ、匂いをかぎ、微笑して、その壺をさし出すと、レーンはだしぬけに椅子から立ちあがった。レーンはその壺を手にとった……そのなかには、色といい、濃度といい、ちょうど蜂蜜《はちみつ》のような、一見無害に見える液体が入っていた。老優は、それを自分の鼻に近づけた……
「インガルスさん」レーンは壺を持った手をおろしながら、しずかに言った、「なんとお礼を申しあげたらいいかわからないほどです。まちがいなく、これはヴァニラの匂いです。この薬品はどういうものですか?」
毒物学者はタバコに火をつけた。「ペルー香油というのですよ、レーンさん。ま、さだめしあっけにとられることと思いますが、こいつはどこの薬屋にもあるし、たいていの家庭にある薬なんですよ」
「ペルー香油」
「そうです。ごらんのように粘着性の液体で、用途もごく広いのですよ、おもにローションや軟膏《なんこう》に用いられるのですが、まったく毒性はありません」
「ローションや軟膏に? なににきくのです?」
シリング医師は、自分の額《ひたい》をピシャリとたたいた、「このばかめが!」彼は、いまいましげに叫んだ、「なんというとんまだ、もう何年も縁がなかったとはいえ、どうしてこいつが思い出せなかったんだ。いや、レーンさん、このぺルー香油は、ローションや軟膏の基剤として用いられ、ある種の皮膚病にききめがあるんですよ、なに、ごくありふれた薬でしてね」
レーンは眉をしかめた。「皮膚病にね……どうもおかしい、このまま使うのですか?」
「ええまあ、ときにはね、たいがいは、ほかの薬とまぜて使いますよ」
「しかし、そんなことがどうして役にたつのです?」とインガルス医師がいぶかしそうにたずねた。
「じつは、あのとき……」ここまで言いかけてドルリー・レーンは椅子に腰をおろすと、二分ばかり、じっと考えこんでいた。やがて顔をあげると、その目には疑惑の色がひかっていた。「ハッター老夫人の皮膚に、なにか異状はなかったでしょうか、シリングさん? 解剖をあなたがなさったのですから、お気づきになったはずですが」
「いや、とんでもありません」とシリング医師は力をこめて言った、「ハッター老夫人の表皮は、内臓同様、まったく健全でしたね、ま、心臓はべつとして」
「ああ、すると、老夫人には内部疾患の徴候はなかったのですか?」とレーンはゆっくりとたずねた。それは、シリング医師の言葉で、ふと忘れていたものを思い出したような口ぶりだった。
シリング医師はとほうにくれたような表情をうかべた、「と言われても……いや、解剖の所見では、なにも異状はみとめられませんでしたがね、ええ、なにひとつ……どうも、おたずねの意味がよくのみこめませんが?」
レーンは、検屍医の顔を穴のあくほど見つめていた。と、医師の目に、わかった、というひかりがさした。「ああ、なるほど、そうですか、レーンさん。いや、表面にはなにもあらわれていませんでしたな、しかし、私もとくに注意していたわけではなかったから、ひょっとすると……」
ドルリー・レーンは、二人の医師と握手をかわすと、解剖室から出ていった。シリング医師は老優のうしろ姿を見送っていた。やがて肩をすくめると、毒物学者に言った、「おかしな人物だね、インガルス?」
第六場 メリアム医師の事務室
――六月九日(木曜日)午前十一時四十五分
それから二十分のち、ドルリー・レーンをのせた車は、第五アヴェニュと第六アヴェニュのなかほどにある十一番街の古風な砂岩づくりの三階建ての建物のまえでとまった。スクエアからほんの数丁はなれた、ごく閑静な、あたりは古めかしい貴族的な感じのするところだった。老優は車からおりて、その建物を見上げ、一階の窓にかかっている白と黒のすっきりした看板を見やった。
メリアム医院
診療時間 午前十一時〜十二時 午後六時〜七時
レーンはゆっくりと石段をのぼっていった。玄関のベルをならすと、制服を着た黒人の女がドアをあけた。
「先生は?」
「どうぞこちらへ」黒人の女は、玄関のホールにつづく待合室《まちあいしつ》に案内した。なかには、患者がかなり待っていた。あたりには、かすかに薬品の匂いがただよっていた。待っている患者の数は五、六人で、レーンは窓ぎわの椅子《いす》に腰をおろすと、気ながに順番を待った。
一時間ほど、ただなすこともなく待っていると、清潔な白衣《びゃくい》をつけた看護婦が、奥の滑《すべ》り戸をあけて、レーンのそばにやって来た。
「予約をなさっておいでですか?」
彼は名刺入れをさぐった。「いやべつに、だが、きっと先生は会ってくださると思うが」
老優が、ごく地味な名刺を手渡すと、看護婦は目を見はり、あわてて奥にひっこむと、すぐに、純白の長い診察着をつけたメリアム老医師ともどってきた。
「これは、これは」と言いながら、医師はかけよるように近づいてきた。「なぜもっと早く、受付におっしゃってくださらなかったのです、レーンさん? なんでも、一時間もお待ちになったそうではありませんか、さ、どうぞ、どうぞ」
レーンはつぶやいた、「なに、そんなことはいっこう」そしてメリアム医師について、診察室が見えるひろびろとした事務室に入った。その部屋《へや》は、いまいた待合室と同様、さっぱりとした、清潔な古めかしいつくりだった。
「おかけになってくださいませんか、レーンさん。また、どうしてこちらへ? ああ、どこかおかげんでもわるく?」
レーンは、クックッとのどの奥で笑った、「なに、病気でおうかがいしたわけではないのですよ、メリアムさん。いや、愛想がつきるくらい、からだは健康でしてね。ま、老衰のきざしといえば、何マイル泳げるなどと、むやみに吹聴《ふいちょう》するのが……」
「もうよろしい、フルトンさん」と、だしぬけにメリアム医師がそばにいる看護婦に言った。看護婦は滑り戸をピッタリとしめて出ていった。「ところで、ご用件は?」その口調《くちょう》には親しみがこもっていたものの、一刻も空費できぬ職業人だという印象を、レーンにあたえようとするひびきがあった。
「じつはですね」老優は籐《とう》のステッキの頭に両手をかさねた。「メリアムさん、ハッター家の家族のものに、あるいはハッター家と関係のあるものでもいいのですが、ヴァニラを使用した処方箋を書かれたことがありますか?」
「ふむ」と医師は言った。彼は回転椅子に背をもたせた。「するとまだ、ヴァニラの匂いを追求されているのですね、いいえ、書いたおぼえはありませんが」
「たしかですね、メリアムさん。ひょっとすると、お忘れになっているのではありませんか。なんでも、ヒステリーや軽い熱病にきくという話ですが」
「絶対にありませんね」メリアム医師の指は、机の上の吸取紙のしみをなぞっていた。
「では、これならお答になっていただけると思いますが――たぶん、この二、三か月のうちのことでしょうが、ハッター家のものに、皮膚病の薬として、ペルー香油を主剤とする処方をお書きになりましたか?」
メリアム医師はギクッとからだをまえに動かすと、顔面を紅潮させた。やがて老いた青い目に驚きの色をうかべたまま、回転椅子の背にもたれた。「そんなことは絶対に――」と言いかけて、口をつぐんだ。医師はだしぬけに椅子から立ちあがると、怒りに声をふるわせながら言った、「レーンさん、患者に関する質問には、お答えしかねます。それに、あなたにとって無益な――」
「しかし、もうお答えになってしまいましたよ、メリアムさん」とレーンはおだやかな口調で言った、「患者は、ヨーク・ハッターですね?」
老医師は、机のそばに立ちつくしたまま、吸取紙をじっと見おろしていた。「そのとおりです」ひくい声で押し出すように言った、「いかにもヨーク・ハッターです。いまから九か月ばかりまえに、両腕の、手首の上あたりに発疹ができたといって、私のところにみせに来ました。べつにたいしたことはなかったのですが、本人は非常に気に病んでいました。で、ペルー香油――黒香油ともいいますが――をふくんだ軟膏を、処方してあげたのです。彼は、なにかの理由から、このことは秘密にしてくれと、かたく私に口どめしたのです。とても心配でたまらないから、だれにも、家族のものにも話してくれるな、というわけです。……ペルー香油とね、いや、どうしてこれがすぐ思い出せなかったのか……」
「そうですね」とレーンはそっけなく言った、「もっと早く思い出してくださったら、私たちだってさして苦労しないですんだのですよ。で、ヨーク・ハッターは、それからまた、やって来なかったのですか?」
「発疹の件では、一度見えただけです。それから――ほかの用事で来たことはあります。発疹の様子をたずねてみたことがありましたが、なんでも周期的に出るそうで、はじめに私が処方箋に書いた軟膏をぬっていると、彼は言ってました。きっと、自分で調剤したのでしょうな。たしか――ヨークには薬剤師の資格があるはずですよ。腕の繃帯《ほうたい》も、自分でまいたようです」
「自分でですか?」
メリアム医師はいらだたしげな顔をした、「なんでも一度、軟膏をぬっているところへ嫁のマーサが入ってきたので、仕方なく、腕の発疹のことをうちあけたという話ですよ。すると、マーサが同情したとみえて、その後は、ときどき、繃帯をまくのを手つだってくれたそうですよ」
「これはおもしろい」とレーンはつぶやいた、「すると、ヨーク・ハッターとマーサに関するかぎり、いわゆる嫁と舅《しゅうと》の問題はなかったわけですね」
「ま、そうだと思いますよ。マーサなら知られてもかまわない、あの家のなかで、どんなことでもうちあけられるのはマーサひとりだ。とヨークは言ってましたからね」
「なるほど……マーサがね。たしかにある意味では、あの当時、ハッター家の家族のなかのよそものといえば、ヨークとマーサだけだった」レーンはそこで言葉をきると、ズバリとたずねた、「ヨーク・ハッターの皮膚病は、なにが原因だったのです、メリアムさん?」
医師は目をパチパチさせた。「血液のせいですよ、しかし、レーンさん――」
「その処方箋の写しをいただくわけにはまいりませんか」
「ええ、よろしいですとも」メリアム医師はホッとした様子だった。処方箋を一枚とり出すと、この古風な医院にふさわしいような古めかしい太いペンで、几帳面《きちょうめん》にその処方をしたためた。やっと医師が書きおわると、レーンは、その処方箋を受けとって、ザッと目をはしらせた。
「毒性のものはふくまれてないでしょうね?」
「むろんですとも!」
「ただ、念のためにおたずねしたまでですよ、メリアムさん」レーンは、つぶやくように言うと、その処方箋を紙入れにしまった。「ところで、ヨーク・ハッターの診察カルテを見せていただくわけには……」
「え!」メリアム医師は、また、はげしく目《ま》ばたきした。蝋《ろう》のような白い耳が、サッと赤くそまった。「診察カルテですと?」彼は声をあげた、「そんな非常識な! 患者の秘密に属する記録を見せろなどと……とんでもありません、こんなことを言われたのは、いまがはじめてです! 絶対に――」
「ねえ、メリアムさん、おたがいにもっと理解しあえないものですかね。むろん、あなたのそういう態度は、医師としてりっぱなものだと思います。しかし、私は法の代表者としてここにおうかがいしたのですし、殺人犯人を逮捕する以外に目的がないことは、あなたにもおわかりのはずです」
「それはわかります、だが、私には――」
「第二、第三の殺人が起こるかもしれないのですよ。警察の捜査に協力するのは、むしろ医師としての職権内にあることですし、それに、私たちのまだ知らない重要な事実が、あなたの考えひとつで、あきらかにされるかもしれないのですよ。それでもなお、職業上の秘密を盾《たて》にとるつもりですか?」
「それはできませんな、医師としての徳義に反します」とメリアム医師は、口のなかでボソボソ言った。
「医師の徳義が、いったいなんだというのです」レーンの顔からは、微笑が消えてしまった。「それなら、カルテが見せられないわけを、私から申しましょうか? 医師の徳義がきいてあきれますよ、私は聾《つんぼ》だが、この目まで見えないと思っているのですか?」
老医師の目に、狼狽《ろうばい》の色がはしったが、すぐ、血管のういたまぶたをふせたので、見えなくなってしまった。「いったい、な、なにが……」彼は口ごもった、「おっしゃりたいのです?」
「よろしい、はっきり申しましょう。あなたがハッター家のカルテをあくまで見せたがらないのは、私に、ハッター家の遺伝をかぎつけられるのが心配だからではありませんか」
メリアム医師は、まぶたをふせたままだった。レーンはからだから力をぬき、その顔にはまた、かすかな微笑がよみがえってきた。それは勝利の微笑ではなく、悲しみのそれだった。
「いや、メリアムさん、すべてはゾッとするくらいあきらかなのです。なぜルイザ・キャンピオンは、生れながらのめくらで唖《おし》、それに聾にまでなる運命にあったのでしょうか……」メリアム医師の顔からサッと血の気がひいた。「なぜ、バーバラ・ハッターは天才なのか……なぜコンラッド・ハッターは気でもくるったように逆上しやすいのか、なぜ彼は酒色《しゅしょく》で身を破滅させるのか……なぜジル・ハッターは無鉄砲で、美貌《びぼう》でありながら、悪徳の化身《けしん》なのか、馬身女面《ばしんにょめん》の怪物なのか……」
「ああ、おねがいだから、やめてください」とメリアム医師が叫んだ、「昔から、このひとたちのことはよく知っているのです、まだ、このひとたちがほんのちいさい時分から、私はずっと見まもってきたのですよ。このひとたちの病気と闘ってきたのです。このひとたちがまともな人間として生きて行く権利のために……」
「いや、ごもっともです、メリアムさん」とレーンはやさしく言った、「あなたは医師としての徳義を厳格にまもってこられた。だが、それと同時に、ヒューマニティそのものが、英雄的手段を要求しているのです。クローディアスの台詞《せりふ》にもあるように、『絶望的な病いをいやすのは、必死の手段あるのみ』ではありませんか」
メリアム医師は、椅子のなかで身をすくませた。
「それはすぐわかることなのです」と、レーンはかわらぬおだやかな口ぶりでつづけた、「なぜ、あのひとたちが気ちがいじみていて、乱暴で、エクセントリックなのか、なぜあわれなヨーク・ハッターが自殺をしたのか。むろん、禍《わざわい》の根源が、エミリー・ハッターにあったことはいうまでもありません。老夫人の先夫、トマス・キャンピオンの死も、それと気づくまえに彼女から病毒が感染したためにちがいないのです。さらに二度めの夫、ヨーク・ハッターにも感染させ、その子供や孫たちにもいまわしい病毒を遺伝させたのです……メリアムさん、この問題についてはたがいに理解しあって、緊急事態のあいだは、徳義上の考慮など、すべて切り捨ててしまうことが、絶対に肝要なのですよ」
「わかりました」
レーンはホッとため息をついた。「シリング医師が、ハッター老夫人を解剖したところ、なんら異状をみとめなかったという話ですが、あなたの治療で、ほぼ全快していたのでしょうね?」
「しかし、ほかの家族のものは、もう手遅れでした」とメリアム医師はボソボソとつぶやくように言った。老医師は、あとは言葉をつづけようともせず、椅子から立ちあがると、その事務室のかたすみにある錠《じょう》のかかった戸棚《とだな》に、のろのろと歩みよっていった。そして、錠をはずすと、ファイルのなかをさがして、大型のカルテを何枚かとり出した。無言でそれをレーンに手渡すと、血の気のない顔で、またぐったりと椅子に腰をおろした。レーンがその何枚かのカルテに目をとおしているあいだ、医師は一言も言葉を発しなかった。
どのカルテもぎっしりと書きこまれ、いずれも、その内容がおどろくほど共通していた。レーンはそのカルテを読みながら、なんども頭をうなずかせ、その若々しい顔に、深い悲しみの色をきざみつけていった。ハッター老夫人のカルテは、三十年まえ、メリアム医師がはじめて彼女を診察したとき(もうすでに、ルイザ・キャンピオン、バーバラ、コンラッド・ハッターが生れていた)から、その死亡にいたるまでつづいていた。それはまさに、心をふさぎこませるような記録だった。レーンは顔をしかめて、わきにおいた。老優はカルテをめくって、ヨーク・ハッターのをさがし出した。ヨークのカルテは、老夫人のよりは簡単だった。レーンはざっと目をはしらせてから、去年、ヨークが失踪《しっそう》する一か月まえの日付になっている、最終の記入に目をそそいだ。
年齢六七……体重一五五ポンド(良好)……身長五フィート五インチ……血圧一九〇……心臓状態(不良)……皮膚(正常)……ワッセルマン反応(プラス一)
つぎにレーンが調べたルイザ・キャンピオンのカルテは、最終の記入が、今年の五月十四日になっていた。
年齢四〇……体重一四八ポンド(過度)……身長五フィート四インチ……胸部疾患初期……視力、聴力、発声能力(絶望?)……神経症進行……ワッセルマン反応(陰性)……心臓(要注意)……食餌《しょくじ》一一四号(処方)
コンラッド・ハッターのカルテの最終日付は、去年の四月十八日だった。
年齢三一……体重一七五ポンド(不良)……身長五フィート一〇インチ……健康状態(概シテ不良)……肝臓(不良)……心臓(肥大)……アルコール中毒症状顕著……ワッセルマン反応(陰性)……前回ノ所見ヨリ悪化……静養ヲ勧告セルモ無益ナラン
バーバラ・ハッターのカルテの最終記入日は、去年の十二月はじめだった。
年齢三六……体重一二七ポンド(不足)……身長五フィート七インチ半……貧血症悪化……肝臓摂取処方……健康状態(概シテ可)……肝臓摂取ガ貧血症ニ効果アラバ、健康状態良好トナラン……ワッセルマン反応(陰性)……結婚セバ改善セン
ジル・ハッターは、今年の二月二十四日が最終記入日。
年齢二五……体重一三五ポンド(ヤヤ不足)……身長五フィート五インチ半……体力消耗顕著……強壮剤試用……初期|心悸亢進《しんきこうしん》?……軽度ノアルコール中毒……下顎右知歯膿腫(要注意)……ワッセルマン反応(陰性)
ジャッキー・ハッター、本年五月一日。
年齢一三……体重八〇ポンド……身長四フィート八インチ……特ニ注意ヲ要ス……発情期遅シ……異常体質……ワッセルマン反応(陰性)
ビリー・ハッター、本年五月一日。
年齢四……体重三二ポンド……身長二フィート一〇インチ……心臓、肺臓(キワメテ良好)……スベテ正常ニシテ頑健ト思ワルル……注意
「いや、あわれなことです」とドルリー・レーンは言うと、カルテをもとどおりにそろえて、メリアム医師にかえした。「マーサ・ハッターのものがないですね」
「そうなんですよ」と老医師はよわよわしく答えた、「二人の子供を産むときも、二度ともべつの医者にかかっています。子供は、定期診断につれてくるのですが、どういうわけか、本人は、私の診断をどうしても受けようとしないのですよ」
「すると、マーサは知っているわけですね?」
「そうです、彼女が夫を憎み、さげすむのも無理のない話ですよ」老医師は椅子から立ちあがった。あきらかにこの会見は、彼にとって好ましからざるものだったのだ。その年老いた顎《あご》のあたりに、なにか一徹《いってつ》な色があらわれていたので、レーンも腰をあげて、帽子をとりあげた。
「メリアムさん、ルイザ・キャンピオンの毒殺未遂と、ハッター老夫人の殺害事件について、なにか、ご意見はありませんか?」
「あなたが、ハッター家の家族のものを、その犯人としてつきとめられようと、私はべつにおどろきませんがね」とメリアム医師は抑揚《よくよう》のない口調で言った。そして机を重い足どりでまわると、ドアに手をかけた。「あなたには、その犯人を捕え、裁判にかけ、有罪を宣告することができるかもしれません。しかし、レーンさん、これだけはあなたに申しあげておきたいのです」一瞬、二人の目と目がかちあった、「いやしくも科学を知り、あるいは良識のある人間なら、ハッター家の家族の、どのひとりに対しても、犯罪の道徳的な責任を負わせるようなまねはしないでしょう。あのひとたちの頭脳は、おそろしい肉体的遺伝によってゆがめられているのです。ひとりとして、悲惨な最後をとげないものはおりますまい」
「そうならないことを願うばかりです」ドルリー・レーンはそう言うと、立ち去った。
第七場 ハッター家
――六月九日(木曜日)午後三時
それから二時間というもの、レーンはたったひとりですごした。ひとりになりたかったのだ。自分自身にいらだっていた。なぜ、こんな厄介《やっかい》な事件に、足をつっこまなければならないのか? 彼はおのが身を詰問した。とどのつまり、義務があるとするなら、それは法に対する義務だ。さもなければ、なにに対する義務か? 正義だ、正義がほかのものにまして、このドルリー・レーンを求めているのだ……
ドロミオの運転する車で、住宅街にあるフライヤーズ・クラブにむかうあいだ、レーンは自分の胸にたえず詰問しつづけていた。彼の良心が、自分を孤独にしてくれないのだ、クラブの一隅《いちぐう》の、お気に入りの席でひとりしずかに食事をとりながら、友人、知人、昔の芝居《しばい》関係の同僚などの挨拶《あいさつ》にただ機械的に答礼するやすらかな雰囲気《ふんいき》のなかでさえ、レーンは平和な心境に達することができなかった。料理をフォークでつついているうちに、老優の顔はますます暗くなっていった。イギリスふうの羊肉料理すら、今日《きょう》は味がしないくらいだった。昼食をすませると、ちょうど蛾《が》が灯《ひ》にひきつけられるように、ドルリー・レーンは、ドロミオに命じて、下町のハッター家へ走らせた。
屋敷はひっそりとしずまりかえっていた。彼には、それがなによりもありがたかった。玄関を通ってホールに入ると、住み込み運転手のジョージ・アーバックルが無作法な顔つきで、レーンをジロッと見た。
「サム警部は?」
「三階のペリーさんの部屋《へや》です」
「すまないが、実験室まで来るように言ってくれないかね」
レーンは、ひとり考えこみながら階段をのぼっていった。実験室のドアはあいていた。見張りのモッシャー刑事が窓ぎわの実験台にぼんやりと腰をおろしている。
と、サム警部のおしつぶされた鼻があらわれ、うなり声で挨拶をした。モッシャー刑事があわてて立ちあがるところを、警部は手で制して、おちつかぬ目でレーンの姿を見まもりながらつっ立っていた。レーンはさかんに書類戸棚のなかをかきまわしていたのだ。やがて実験室の備品が書きこんである目録のカードのたばを手にすると、腰をのばした。
「やあ、これだ、ちょっと待ってください、警部さん」
老優は、古びた蓋《ふた》つきのデスクのまえの、かなり黒焦げになった回転椅子にすわると、目録カードを調べだした。その一枚々々に目をはしらせ、休みなくカードをめくっていったが、三十枚めにきて、かるく声をあげると、手をとめた。レーンがなんでそんな声をあげたのかと、サム警部は、老優の肩越しにのぞきこんだ。そのカードには、三十と番号がついていて、その下に『寒天』と記入されてあった。しかし、レーンが興味をひかれたのは、どうやら『寒天』の文字が、一本の細い線で几帳面《きちょうめん》に消されてあり、その下に『ペルー香油』と書き加えられていることらしい。「なんです、いったい?」とサム警部がたずねた。
「あと、もうすこし」とレーンは言うと、椅子から立ちあがって、爆発のあと、ガラスの破片が掃《は》きあつめられている実験室の一隅に行った。彼は、その破片の山をかきわけながら、どうにか原形をとどめているような壜《びん》や壺《つぼ》をさがし出すのに夢中のようだった。だが、狙《ねら》った獲物《えもの》がなかったとみえて、こんどは火炎に焼かれた薬品棚のまえまで行って、最上段の中央区画を見上げた。その棚には、ひとかけの壜ものこっていなかった。彼はうなずくと、部屋の一隅の破片の山にひきかえすと、まだ形がちゃんとのこっている壺や壜をいくつかえらび出し、それを、薬品棚の最上段の中央区画に慎重《しんちょう》にならべてみた、「これでよし」彼はよごれた手をはたきながら言った、「上等々々、ところで警部さん、ちょっとモッシャー君をおかりしたいのですが?」
「どうぞ」
「モッシャー君、マーサ・ハッターをつれてきてくれませんか」
モッシャー刑事は、歯をむき出してニヤリと笑うなり、ヒョイと台からとびあがって、実験室から足音をひびかせて出ていった。と、すぐに、彼はマーサを先に立ててもどってくると、ドアをしめて、定評のある王室の守衛といった姿勢で、そのドアのまえに立った。
警部とレーンのまえに、ためらいがちにたたずんだマーサ・ハッターは、その二人の男の顔をさぐるように見つめた。濃い紫色のくまが目の下にでき、鼻の肉がこそげおち、口を一文字にむすんだ血の気《け》のない顔は、まえよりもいっそう、悲惨な感じがした。
「さ、どうぞ、椅子にかけてください、奥さん」とレーンはあいそよく言った、「なに、ほんのちょっとおたずねしたいことがあったので……あなたの義理のお父《とう》さん、つまり、ヨーク・ハッターさんはなにか皮膚病にやられていたという話ですが?」
ちょうど腰をおろそうとしていたマーサは、ギョッとして、「まあ――」と言うなり、そのまま腰をうかしていた。それから思い出したように、回転椅子にドサッとすわりこんだ。「はい、そのとおりですわ、でも、どうしてそれがおわかりになりまして? だれひとり――」
「あなたとヨーク・ハッターとメリアム医師をのぞいたら、だれひとり知らないものと、あなたは思っていたのですね。なあに、ごく簡単なことですよ……あなたは、ヨークさんがだれにも知られぬように軟膏をぬり、繃帯をまくのを手つだいましたね?」
「いったいこれは、なんのことです?」とサム警部があわてて口をだした。
「ちょっと黙っててください、警部さん……どうです、奥さん?」
「はい、手つだいました。ときどき呼ばれたものですから」
「その軟膏は、なんという薬です?」
「はっきり思い出せませんけれど」
「ヨークさんは、その薬をどこにしまっておきました?」
「それなら、よくおぼえていますわ! あそこの棚の、ならんでいる壜のなかに……」マーサは椅子から立ちあがると、薬品棚のところへ小走りに歩みよった。その中央の区画のまえに立つと、いまさっきレーンがならべた壜の一つを、彼女は背のびして、手にとった。レーンの目は、彼女にじっとそそがれていた。その区画のちょうどまんなかから、その壜をとり出したのが、彼にはわかった。
マーサは壜を手渡そうとすると、レーンは頭を横にふった。「奥さん、蓋をあけて、なかをかいでみてくれませんか」
マーサはいぶかしげな顔で、それにしたがった。「あら、ちがいますわ」と、かいだとたんに彼女は叫んだ、「あの軟膏ではありません、あれは、ちょうど蜂蜜のようにドロッとしていて、匂いは――」と言いかけたまま声をのむと、急に、死のような沈黙があたりを支配した。彼女の歯が下唇《したくちびる》をグッとかみしめた。そのやつれた顔に、身の毛のよだつような恐怖の色がみるみるうちにひろがった。壜が彼女の手から落ちた。床にあたって、みじんにくだけた。
サム警部は穴のあくほど、マーサの顔を見つめていた。「さ、どうだったんです?」警部の声がかすれた、「どんな匂いがしたんです、奥さん?」
「どうでした、奥さん?」とレーンがおだやかにうながした。
マーサは、まるでぜんまい仕掛けの人形のように頭をふった、「よく……おぼえていないんです」
「|ヴァニラの匂いですね《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|奥さん《ヽヽヽ》?」
マーサは、まるで蛇《へび》に見こまれた蛙《かえる》のように、レーンの顔を見つめたまま、ジリッジリッとドアの方へ後退していった。老優はホッと息をつくと、椅子から立ちあがって、父親のようにやさしく彼女の腕をソッとたたいた、そしてドアのところで頑張《がんば》っているモッシャー刑事を、手で合図してどかせると、ドアをあけてやった。彼女は、夢遊病者のような、宙にういた足どりで、ドアから出ていった。
「こいつだ!」サム警部はおどりあがらんばかりになって叫んだ、「皮膚病の薬――ヴァニラの匂い! こいつはすごい! レーンさん、あと一息だ!」
ドルリー・レーンは煖炉《だんろ》のまえに歩みよると、火のない炉格子《ろごうし》を背にして、まえこごみの姿勢でたたずんだ。「そうですね」と老優は思案深げに言った、「どうやら、ルイザさんが証言した匂いの正体が、やっとつきとめられたようですよ、警部さん」
サム警部はすっかり興奮していた。実験室のなかをやたらに行ったり来たりしはじめて、レーンにというよりも、もっぱら自分にむかってしゃべりまくっていた、「やった! 急転直下だ! すると、こいつはとんだことになったぞ……ペリーを逮捕してしまったんだからな……しまった! ヴァニラの匂い――軟膏……こいつを、どうお考えになります、レーンさん?」
「ペリーさんを逮捕したとは、あなたの思慮が浅すぎたようですね、警部さん」とレーンはニヤニヤ笑いながら答えた。
「いや、これは! この私だって、そんな気がしてきたところですよ、レーンさん」サム警部は、目をずるそうにひからせると、つづけた、「私にもわかってきましたよ」
「なに?」レーンはするどくききかえした、「いったい、なにがです?」
「だめですよ、あなたに教えてなるものですか」と警部は歯をむき出して笑った、「いままで、あなたの攻撃だったんですからね。こんどはあなたに守備にまわってもらって、私がヒットをとばす番ですよ。ま、いまのところ、なにもはっきりとは申せませんがね、しかし、こんな難事件にぶつかって、はじめて私の目に燭光《しょっこう》が見えてきたんですよ」
レーンはまじまじと警部の顔を見た、「すると、はっきりとめどがついたというわけですね?」
「まあまあというところですよ。なに、ほんの思いつきでしてね、よく探偵小説なんかに出てくるインスピレーションというやつですよ。よし! こいつさえものになれば……」彼はドアに靴音《くつおと》をひびかせて近よると、「おい、モッシャー」といかめしい声をだした、「君とピンクは、この実験室を見張っているんだ、わかったな?」警部は窓にチラッと目をやった。窓は板で打ちつけてあった。「ほんの一秒だって、ここから動くな、いいか!」
「はい、警部」
「どじをふんだら、警官バッジをもぎとるぞ。では、これから行ってみますが、よろしいですか、レーンさん?」
「なにも教えてくださらないのだから、私だってなんとも返事のしようがありませんよ、警部さん。……ところで、お出かけになるなら、そのまえに――巻尺を拝借したいのですが?」
サム警部はドアのところで急に立ちどまると、目をまるくしてふりかえった、「巻尺ですって? こんなもので、どうするおつもりなんです?」彼はチョッキのポケットから折尺《おれじゃく》をとり出すと、レーンに手渡した。
老優は微笑をうかべながら、それを受けとると、またもう一度、薬品棚に歩みよった。そして、折尺をのばすと、最上段の棚の下縁と、二段めの棚の上縁との間隔を計った。「ふむ」と彼はつぶやいた。「六インチ……そうか、よし! それに板の厚さが一インチあって……」レーンは顎をさすりながらうなずいた。それから、憂色《ゆうしょく》と満足の色とがいりまじった奇妙な表情をうかべると、折尺をたたんで、サム警部にかえした。
と、警部の顔にかがやいていた有頂天《うちょうてん》の色が、サッと消えたかに見えた。「そうだ、そういえば」と彼はうなり声をあげた、「昨日《きのう》、あなたは手がかりが二つあると言われましたっけね、一つはヴァニラの匂い……すると、こいつが、あと一つのほうなんですか?」
「え? 棚の間隔を計ったことですか? なに、そうじゃありませんよ」レーンは、ぼんやりと頭を横にふっただけだった、「あと一つの手がかりは、もっとよく調べてからでないとね」
警部は、口まで出かかった言葉を、言おうか言うまいかと迷っていたが、やがて、きっぱりとあきらめたように頭をふると、実験室からひとりで出ていった。モッシャー刑事は、べつに気にもかけずに、それを見送った。
レーンは、サム警部のあとから、ゆっくりとした足どりで実験室を出た。彼は、となりのスミス看護婦の部屋をのぞいてみた。だれもいなかった。それからさらに廊下をぶらぶらしながら、南東の角の部屋のまえまで来て足をとめると、ドアをノックしてみた。だれも出てこなかった。彼は階段をおりていった。だれとも行き会わなかった。屋敷の裏にぬけて、庭園に出た。外ははだ寒いくらいだったが、大きな日傘《ひがさ》の下で、スミス看護婦が本を読んでおり、そのそばにルイザ・キャンピオンがデッキ・チェアに身を横たえて、すやすやとねむっているようだった。近くの芝生《しばふ》に、ジャッキーとビリーがしゃがみこみ、一心に地面を見つめて、ばかにおとなしく遊んでいた。ちいさな兄弟たちは、蟻塚《ありづか》を見まもり、蟻たちのせわしなく走りまわるさまに見とれているらしかった。
「スミスさん」とレーンが声をかけた、「バーバラ・ハッターさんはどこだか、ごぞんじではないですか?」
「あ!」その声に、スミス看護婦はびっくりして、本をとりおとした、「失礼しました、おどろいたものですから、たしかお嬢さまは、警部さんの許可を得て、外出なさったと思いますけど、その行き先も、何時にお帰りになるかも、わたくし、ぞんじませんです」
「そうですか」老優はこう言いながら、ふと、ズボンがひっぱられているのに気づき、下を見た。ビリーの、ちいさなばら色の顔が、下から見上げながら呼んだ、「キャンディ、ちょうだい、ちょうだいヨオ!」
「やあ、ビリー!」とレーンはうかぬ声で言った。
「バーバラおばさんはケイサツに行ったよ、ペリーさんに会いに行ったんだよ」十三歳のジャッキーは大声で言うと、こんどはレーンの籐《とう》のステッキをおもしろそうにひっぱった。
「きっと、そうかもしれませんわ」とスミス看護婦は、鼻をフンとならしながら言った。
レーンはそっと子供たちの手をふりほどいた――子供たちのお相手をしてやる気持ちにはなれなかったらしい――それから小径《こみち》づたいに屋敷の横をまわって、広い道路に出た。歩道のふちで、ドロミオが車をとめて待っていた。老優はそこまで歩いてくると、目に嫌悪《けんお》の色をうかべて、屋敷をふりかえった。それから、グッタリとした物腰で、車にのりこんだ。
第八場 バーバラの書斎
――六月十日(金曜日)午前十一時
その翌日、ドルリー・レーンがハッター家をまた訪《たず》ねてみると、昨日《きのう》とかわらぬあの不気味なしじまが依然として屋敷うちにたちこめていた。サム警部はいなかった。アーバックル夫婦の話だと、なんでも昨日の午後出かけたまま、もどってこなかったらしい。バーバラ・ハッターはいるということだった。
「お嬢さまは、自分の部屋《へや》で朝食をなさいましてね」アーバックル夫人は妙にとげとげしく言った、「もう十一時だというのに、下へおりてこないんですよ」
「お会いしたいと、つたえてくれませんか」
アーバックル夫人はさも意味ありげに片方の眉《まゆ》をつりあげたが、それでもおとなしく二階へあがっていった。やがて、もどってくると夫人は言った、「よろしいそうですよ、おあがりください」
昨日の午後、レーンがノックしてみた部屋に、今朝《けさ》は女流詩人がいた。公園が見わたせる窓ぎわの腰かけに両ひざを立ててすわって、彼女は細長い緑色のシガレット・ホルダーで、タバコを吸っていた。
「どうぞお入りになって。こんなかっこうで失礼しますわ」
「なかなかチャーミングですよ」
バーバラは、絹の支那服を着て、淡い金髪を、肩に波うたせていた。「こんなにちらかしたままで、ごめんなさいね、レーンさん」と彼女は微笑した、「なにしろ、名うての不精者《ぶしょうもの》ですから、お掃除《そうじ》もまだなんですよ。それでは書斎へまいりましょうか」
彼女は、なかばひらいているカーテンのあいだを通って、この寝室とつづいている小部屋に案内した。室内の模様は、まるで隠者が住むような簡素なものだった――なんの飾りもない大きな机が一台、椅子が一脚、壁には乱雑に書物がつっこんである書架《しょか》、タイプライターが一台といったあんばいだった。「朝からずっと仕事をしていたんですの」と彼女は言った、「その椅子におかけになってくださいな、レーンさん。あたしは机にかけますから」
「恐縮です。じつにけっこうな書斎ですな、私が想像していたとおりですよ」
「まあ、うれしい」彼女は声をたてて笑った、「世間では、それこそ根も葉もないようなことを言うんですのよ、この家のことや――あたしのことをね。あたしの寝室には、四方の壁も床《ゆか》も天井《てんじょう》も、みんな鏡ばりで――贅沢三昧《ぜいたくざんまい》な暮しにふけっているなんて噂《うわさ》が耳に入ってくるんですのよ、ほんとうに! それから、一週間ごとに新しい恋人をつくるとか、あたしにはセックスがないだとか、一日にブラック・コーヒーを三クォートとジンを一ガロン飲みあけるとか……でも、レーンさん、あなたの炯眼《けいがん》なら一目でお分りになるとおり、あたしはごく平凡な女、こんな噂とは縁もゆかりもない真面目《まじめ》な詩人ですわ」
レーンはため息をついた、「お嬢さん、じつは妙なことをおたずねにあがったのですよ」
「と、おっしゃると?」いままでの陽気さと平静さが、サッと消えうせた。「どんなことですの、レーンさん?」女流詩人は先を針のようにとがらせたばかでかい鉛筆をにぎると、机の上にいたずら書きをはじめた。
「はじめてお目にかかったおり、ええ、サム警部とブルーノ検事と三人で、あなたにちょっとおたずねしたときですよ、そのときのあなたの言葉が、どういうわけか、私の頭にこびりついてはなれないのです。そこで、こんどは、ゆっくりと、もうすこし詳しくそのお話をおききしたいとぞんじましてね」
「なんですの?」彼女はささやくような声で言った。
レーンは、女流詩人の目を、じっと見つめた。「|お父さまは《ヽヽヽヽヽ》、|探偵小説をお書きになったことがありますか《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》?」
意外な質問に、バーバラはひどくびっくりして、目をまるくした。唇にくわえていたタバコがダラッとたれさがった。この驚き方はほんものだ、とレーンはいちはやく見てとった。これでは、彼女が、ぜんぜんべつの質問を予想して、ハラハラしていたという感じだった。「なあんだ……」彼女は声をたてて笑った、「ほんとにおどろくじゃありませんか、レーンさん。まるであなたったら、往年の名探偵、シャーロック・ホームズみたいな方ですわ、子供のころ、ホームズの冒険を夢中になって読んだものですけど……ええ、父は書きました。でも、どうしてそれがおわかりになりましたの?」
ドルリー・レーンは、なおも女流詩人から目をはなさないでいた。やがて、大きくため息をもらすと、からだから力をぬいた。「やはり、私のにらんだとおりでしたね」とレーンはゆっくりと言った。不可解な苦悩の色が、老優の目にあらわれたが、すばやく目をふせると、それをかくしてしまった。彼女も、微笑を消して、レーンの顔を見つめた。「図書室でお会いしたとき、あなたは、お父さまが道楽半分に小説を書いたと言われましたね。それを、なぜ私が、『探偵小説ではないか?』と妙な質問をしたかといえば――ある事実から考えて、九分九厘までまちがいなしと、にらんだからなのです」
バーバラはタバコをおしつぶした。「どういうことか、あたしにはさっぱりわかりかねるのですけど――でもあたし――あなたのお言葉を信じますわ、レーンさん……たしか――そうですわ、昨年の秋のはじめでした――父が、なんですか、はずかしそうな顔をして、あたしのところに来て、どこか信用のおける出版社を教えてくれと言うものですから、私の詩集を出している本屋さんを紹介したんです。あたしもちょっと意外な感じを受けて――なにを書いているのか、父にたずねてみたんです」
彼女はここで言葉をきった。レーンがうながした、「どうぞ、そのさきを」
「はじめのうち、父ははにかんで、なかなか言いませんでしたけど、あたしがねばったものですから、だれにも言わないという約束で、じつは探偵小説を書こうと思って、いま、腹案をねっているところだと、父はとうとううちあけたんです」
「腹案を?」と、間髪《かんぱつ》おかずレーンはたたみかけた。
「たしか、そう言ったと思いますわ。荒筋《あらすじ》はもうできていて、自分でもおもしろい筋立てだと思うし、原稿ができあがったら、出版社のひとと会って、出版してもらえるかどうか、相談してみたいと言っておりました」
「なるほど、そうですか、いや、よくわかりましたよ、これでなにもかもはっきりします。で、お父さまは、そのほかのことは、なにか?」
「いいえ、べつに、それにあたし――あまり興味がなかったものですから」彼女は口のなかでつぶやくように言った、「でも、いまとなるとなんだか申しわけがない、というような気がしますの」彼女はばかでかい鉛筆に目をおとした、「ふだんから科学にこりかたまっていた父が、なにを思ったのか、突然、探偵小説などを書く気になるなんて、ちょっとおもしろいとは思いましたけれど。その話は、それっきりで、あとはなんにもききませんでしたわ」
「この話を、だれかにしましたか?」
バーバラは頭を横にふった、「つい、いましがた、あなたがおたずねになるまで、すっかり忘れていたくらいですわ」
「お父さまは、その秘密をたのしんでいたわけですね」とレーンが言った、「で、お父さまが、お母さまやほかのひとたちに、自分から口外するようなことはないでしょうか?」
「そんなことはないはずです。もし、父がしゃべったとしたら、かならずあたしの耳に入るはずですもの」彼女はホッとため息をついた、「ジルの耳にでも入ったら、あのとおりのおしゃべりですから、いい笑いぐさにして、吹聴《ふいちょう》してあるくにきまっていますわ。コンラッドに知れようものなら、みんなのまえで、さんざん嘲笑《ちょうしょう》することでしょうよ。それに父は、どんなことがあっても母だけにはしゃべるはずがありません」
「どうして、そんなにはっきり言えるのです?」
バーバラは片手にこぶしをつくると、それをじっと見つめた、「父と母は、もう何年というもの、ほんのとおりいっぺんのことしか、口にしなかったからですわ、レーンさん」彼女はひくい声で言った。
「これは失礼なことをおたずねして……ところで、お父さまの原稿を、じっさいに見たことがありましたか?」
「いいえ。それに、そのようなものはなかったと思いますの――いまも申しましたように、ほんの荒筋があるだけで」
「その荒筋が、なにかに書きとめられて、しまってありそうな場所というと、どのへんでしょうね?」
バーバラは肩を大きくすくめた、「ぜんぜん、見当がつきませんわ、父の実験室にないとしたら」
「ところで、その筋書のことですが――ご自分でもなかなかおもしろいと言われたそうですが、どんな筋なのです、お嬢さま?」
「あたし、なんにも知りませんの、父が、その筋について一言もふれなかったものですから」
「で、お父さまは、その探偵小説のことで出版社と相談されたのですか?」
「いいえ、しなかったと思います」
「どうしてそれがわかるのです?」
「出版社のひとに、父が訪ねていったかどうかたずねましたら、来ない、という返事でしたから」
ドルリー・レーンは椅子から立ちあがった。
「お嬢さま、おかげで、たいへん役にたちました、ほんとうにありがとうございます」
第九場 実験室
――六月十日(金曜日)午後三時三十分
その数時間後、屋敷のなかがひっそりとしずまりかえるのを見はからって、レーンはそっと三階の階段をのぼってゆき、それからまた、屋根裏のちいさな梯子《はしご》をのぼって揚《あ》げ戸をあけ、ツルツルと滑りそうな屋根の上に出た。防水衣を身にまとい、蝙蝠傘《こうもりがさ》をさした刑事が、ひとりしょんぼりと煙突にもたれていた。レーンは愛想よく言葉をかけた、そして、服が雨にぬれるのもいとわず、煙突の口から、まっ黒な孔《あな》をのぞきこんだ。なにひとつ見えなかった。もっとも懐中電燈で照らせば、老夫人が殺害された「死の部屋」と実験室をへだてている仕切壁《しきりかべ》の上部が見えるはずだということは、彼にはわかっていた。しばらくのあいだ、老優はじっと考えぶかげにそこにたたずんでいたが、やがて刑事に手をふって別れをつげると、さっきの揚げ戸から、また階下へおりていった。
二階まで来ると、レーンはあたりに目をくばった。寝室のドアというドアは、みんなしまっていた。廊下にはまったく人影がなかった。と、目にもとまらぬ早さでドアのノブをまわすなり、彼は実験室にスルッと入った。モッシャー刑事が、読んでいた新聞から顔をあげた、「やあ、これはこれは!」と刑事はうれしそうに言った、「レーンさんじゃありませんか、ほんとによく来てくださいましたね、こんな退屈な役目をおおせつかったのは、生れてはじめてですよ」
「お察ししますよ」とレーンはつぶやいたが、その目は、やすみなく動いていた。
「いかにも人間らしいいきいきとした風貌《ふうぼう》にせっするのはいいものですな」とモッシャー刑事は心やすそうにつづけた、「まるでここときたら墓場みたいにしずまりかえっているんですからね――ハッハッハ!」
「いや、そうでしょうとも……ところでモッシャー君、ちょっと手をかしてくれませんか、なに、私のためというより、いま屋根にいる君のお仲間のためにね」
「だれです――クラウスですか?」とモッシャー刑事がけげんな顔をしてたずねた。
「ええ、きっとその刑事さんですよ。君も、屋根に行ってあげてくれませんか、なんだかひとりぼっちで、しょんぼりしていましたからね」
「さあ」モッシャー刑事はモジモジしながら足を動かして、「そいつはなんとも申せませんな、レーンさん。なにしろ警部からの厳命で――この実験室から一歩もはなれるわけにはいかんのですよ」
「その全責任は、この私が負います、モッシャー君」とレーンはいらいらしながら言った、「さ、すぐ屋根に行ってください! とくに見張りを厳重にしてください。ここしばらく、私はどんな邪魔《じゃま》も入らぬようにしたいのです。屋根にのぼろうとするものがいたら、容赦なく追いはらってください、ただし、手荒らなまねはしないようにね」
「はあ」とモッシャー刑事はあやふやな口調《くちょう》で言って、「そうですか、じゃ、そうしますよ、レーンさん」彼は気のりのしないような足どりで、実験室から出ていった。
レーンの灰緑色の目がキラリとひかった。老優は、モッシャー刑事につづいて廊下に出た。それから、刑事が階上へのぼりきるのを見さだめると、となりの「死の部屋」のドアをあけてなかに入った。だれもいなかった。彼は小走りに部屋を横ぎって、庭園を見おろせる窓に近よると、錠がおりているのをたしかめ、そこからまた、入口のドアにひきかえし、内側からボルトを仕掛けておいて廊下にすばやくとび出した。いきおいよくドアをしめた。ためしてみると、ボルトはうまくかかっていた。それから彼はまた実験室にとびこみ、なかからドアにボルトをかけ、上衣《うわぎ》を脱ぎ、ワイシャツの袖《そで》をまくりあげると、仕事にかかった。
まずはじめに、レーンの興味をひいたものは煖炉だった。その前飾りを手でふれ、石造りのアーチの下に首をつっこんでみたが、すぐにひっこめて、煖炉のまえからはなれた……しばらくのあいだ、ためらいながら部屋のなかを見まわした。蓋つきの机は黒焦げになっていた。鉄製の書類戸棚は、すでに検分ずみである。半分しか焼けのこっていない洗面台はどうか? まずだめだろう。
老優は顎《あご》をひき、腰をかがめると、思いきって煖炉のアーチをくぐりぬけ、外側の壁と煖炉の奥の耐火|煉瓦《れんが》の壁との中間にはいって、かがめていたからだをのばした。この黒い、手ざわりのなめらかな古煉瓦の仕切壁は、身長六フィートをやや上まわるレーンの頭と、だいたいおなじ高さだった。彼はチョッキのポケットから、ちいさな鉛筆型の懐中電燈をとり出すと、その仕切壁の煉瓦に細い光線をあちこちとあててみた。しかし、こんな粗略な調べ方では、なにを見つけ出そうとするにしろ、とうていその見込みはなかった。煉瓦が寸分のすきもなく壁いちめんにギッシリとつまっているのだ。しかもなおレーンは、その煉瓦の一つ一つを、丹念にたたいたり、押してみたりして、ゆるんでいそうな煉瓦はないかとさぐってみた。だが、とどのつまり、この実験室側の仕切壁には、あやしい箇所がどこにもないとあたりをつけると、腰をのばして、その仕切壁が自分に越せるものかどうか、目で測った。
なに、年をとっていても、このぐらいの壁ならのり越せないものではない、と老優は見てとった。そこでまず、仕切壁の上に細い懐中電燈をのせると、壁のふちに両手をかけ、力をこめてからだを引き上げた。と、壁をあざやかにのり越え、「死の部屋」側にヒラリととびおりた身の軽さは、じつにみごとなものだった。六十歳の老齢とはいえ、彼の筋肉のしなやかさは、まさに青年のそれであった。……仕切壁をのり越えたとき、煙突の口からしとしとと降ってくるやわらかい雨を、レーンは無帽の頭と頬《ほう》に感じた。
寝室側でも、煉瓦にゆるんだ箇所はないかと、まんべんなくさぐってみたが、これも手ごたえはまるでなかった。もうこのときは、老優の額の眉間《みけん》には、皺《しわ》がふかくきざみつけられていた。ふたたび彼は耐火煉瓦の仕切壁をよじのぼった。だが、こんどは、そのてっぺんに馬乗りにまたがると、あたりを懐中電燈で照らしてみた。
と、たちまち、緊張に身をこわばらせ、眉間の皺が消えた。煙突の内側の壁の、仕切壁の上端からほぼ一フィートの高さのところに、あきらかにゆるんでいる煉瓦が一つあったからである。その煉瓦は、まわりのモルタルがはげおちていて、周囲の煉瓦よりほんのすこしはみ出していた。レーンは、その鉄のような指先を、はみ出している煉瓦にたてると、力をこめてひっぱった、そのとたん、彼はからだの平衡を失って、あやうく床に転落しそうになった。その煉瓦がかすかな摩擦音《まさつおん》をたてただけで、スポッと抜けてしまったからである。レーンは、またがっている仕切壁のてっぺんに、その煉瓦をソッとおくと、ポッカリと口をあけた長方形の暗い穴に、懐中電燈の光をあてた。穴のなかは、懸命に掘りひろげられたものらしく、そのいちばん奥は大きくなっていた。と、懐中電燈の光に白いものが照らし出された!
レーンは、穴のなかに指をつっこんだ。そして、ちいさく折りたたんだ、すすけよごれたクリーム色の紙片を指につかむと、穴からひき出した。その紙片をチラッと見てから、レーンは尻《しり》のポケットにねじこむと、また、穴のなかをのぞきこんだ。なにかが、懐中電燈の光にキラリとひかった。手でさぐってみると、この隠し穴の奥には、煉瓦のうしろに掘りこまれた横穴があり、かたくコルクの栓《せん》をしたちいさな試験管がかくしてあるのがわかった。
その穴から、試験管をとり出して、よくあらためてみると、レーンの目はくもった。ラベルは貼ってなかったが、白色の液体がいっぱい入っていた。穴のなかを、さらに念をいれてたしかめてみると、ゴムのキャップのついている点滴器もかくしてあった。だが、これには手をふれなかった。彼はひきぬいた煉瓦をそのままにして、実験室側の煖炉にとびおり、仕切壁のてっぺんから、白い液体の入っている試験管を手をのばしてとると、からだをかがめて、煖炉からはい出した。
いまやレーンの目は、灰色よりも緑色にちかく、つめたい緑色にきらめき、まるで苦痛に身を焦がしているといった感じだった。煤《すす》によごれた顔に沈痛な色をうかべて、彼は脱ぎすててある上衣《うわぎ》のポケットに試験管を入れ、黒焦げの実験台の一つに歩みよると、尻のポケットから煤によごれた紙片をとり出して、それをゆっくりとひろげた……ひらきおわってみると、それは数枚の薄い安っぽいタイプライター用紙で、いやにこまかい字がぎっしりと書きこまれていた。レーンは、それを読みはじめた。
あとになって、レーンがなんども言っていたように、これは、ハッター家事件の捜査を通じて、もっとも注目に値する瞬間だったのだ。だがしかし、この手記を読む老優の表情を見たら、この発見に意気揚々とするどころか、逆に彼が意気|銷沈《しょうちん》したものと思うにちがいない。たしかに、その手記を読んでいる彼の顔は、暗かった。彼はなんども気むずかしげに頭をうなずかせた、まるで読まないさきから、すでにわかっていた結論を確認するかのように。もっとも、ある箇所では、はげしい驚愕《きょうがく》の色を、顔いっぱいにうかべた。しかし、こうした表情は、ほんの一瞬のうちに消えうせてゆき、レーンがその手記を読みおわったときは、身じろぎひとつしたくない様子だった。あたかも、こうしてじっと息をころしてすわっていれば、「時」と事件と、行手におぼろな姿で待ち伏せている不可避的な悲劇を、なんとかはぐらかせるとでも思っているかのようだった。だが、やがて彼は目《ま》ばたきをすると、そばにちらかっているこまごましたもののなかから鉛筆と紙を見つけ出して、せっせと筆記しはじめた。かなり長い時間をかけて、その隠し穴から見つけた手記を、一字一句のがさずにうつしとったのである。すっかりうつしおわると、彼は椅子から立ちあがった。手記の紙片とうつした紙を、尻のポケットにいれ、上衣を着て、ズボンのほこりをはらい、それから実験室のドアをあけた。廊下を見渡した。あいかわらずひっそりとしずまりかえっていて、どこにも人影がなかった。
かなりながいあいだというもの、レーンはさながら死のように、そこにじっと立ちつくしていた。と、ようやく階下で、物音がした。彼ははじめてからだを動かすと、階段の手すりまで歩みよった。手すりと床のあいだから、下をのぞくと、アーバックル夫人が料理室によちよち歩いてゆくところだった。「アーバックルさん」とレーンはそっと呼びかけた。
彼女はギョッとして、二階の方に顔をあげた。「どなた?――おや、レーンさんですか! まだ、おいでになるとはついぞ知りませんでしたよ、はい、なんのご用で?」
「お手数でも、料理室から菓子パンを一つと――それから、そうだ、ミルクを一杯、持ってきてくださらんか?」とレーンは愛想よく言った。
家政婦は身じろぎひとつせず立ちはだかったまま、じっと彼を見上げていたが、やがて仏頂面《ぶっちょうづら》でうなずくと、気がなさそうな足どりで消えていった。老優は、あいかわらず、不自然なくらい息をころしたまま待っていた。ほどなく、家政婦がお盆にゼリー入りの菓子パンとミルクのコップをのせて、ひきかえしてきた。そして、よちよちと階段をのぼってくると、手すりごしにそのお盆をレーンに手渡した。
「ミルクがなくなりかけていてね、これっぽっちしかありませんよ」とぶっきらぼうに言った。
「いや、けっこう、けっこう、どうもありがとう」家政婦が依然として仏頂面で階段をブツクサ言いながらおりてゆくのを見送りながら、レーンはミルクのコップをとりあげて、チビチビなめるようにすすりはじめた。だが、アーバックル夫人が階段をおりきり、屋敷の裏手につづく廊下を曲ったとたん、コップから口をはなし、実験室に脱兎《だっと》のごとくひきかえすと、ふたたびドアにかたくボルトをかけた。
こんどは、なにをさがしたらいいか、レーンにははっきりわかっていた。彼は実験台にミルクとパンののっているお盆をおろすと、薬品棚の下の戸棚のなかをさがしはじめた。その戸棚は扉《とびら》がしまっていたことと、床に近かったせいで、さして火事の被害を受けずにすんだのだ。さがしているものはすぐに見つかった。さっきの隠し穴から見つけた同型のちいさな試験管とコルクの栓をとり出すと、しゃがんでいたからだを起こした。実験台の水道でこれをきれいに洗うと、隠し穴から持ってきた試験管の白色の液体とまったく同量のミルクを、すごく慎重《しんちょう》な手つきで、洗ったばかりの試験管のなかにそそぎこんだ。
その二つの試験管が、見わけもつかないほどそっくりなのに気をよくすると、老優はミルク入りの試験管に栓をして、コップにのこったミルクを実験台の流しに捨てた。それからまた、煖炉のなかの仕切壁をよじのぼって馬乗りになると、問題の試験管を見つけた穴の、おなじ場所に、ミルク入りの試験管をいれた。隠し穴のなかにある点滴器には一指もふれなかった。黄ばんだ紙片ももとどおりにちいさくたたむと、あった場所にかえし、引きぬいた煉瓦をもとどおりにはめてから、仕切壁をおりた。
レーンは顔をしかめて両手のほこりをはたいた。その顔には、深い皺がくっきりときざみこまれていた。
と、ふいに、まるで忘れていたものをいま思い出したかのように、老優は実験室のボルトをはずし、それからひきかえすと、また煖炉のなかにもぐりこみ、仕切壁をのり越えて「死の部屋」側に出た。こんどは、寝室のドアのボルトをはずし、廊下を通って、いまボルトをはずしたばかりの実験室のドアをあけて、なかに入った。「モッシャー君!」彼は煙突の口にむかって、慎重に声をかけた、「モッシャー君!」カッカッとほてっている老優の顔に、降ってくる雨がつめたかった。
「やあ、レーンさんですか?」と上の方からモッシャー刑事の声がにぶいひびきになってつたわってきた。下から見上げると、鉛色《なまりいろ》の空を背にした煙突の口から、ちいさな薄黒い頭がのぞきこんでいた。
「すぐおりてきてください、あとはクラウス君にのこってもらって」
「いま行きます!」モッシャー刑事は声をはずませて答えると、その顔が消えた。と、すぐ実験室におどりこんできた、「ただいま」顔じゅうをほころばせて、刑事は言った。ぬか雨にぬれて、その服にはこまかい水の玉がいっぱいついていたが、そんなことは意にも介さない様子だった。「さがしていたものは、ありましたか?」
「なに――そんな心配はご無用ですよ、モッシャー君」とレーンは言った。老優は、実験室の床の中央に、まるで根が生えたように立ちはだかっていた。「屋根の煙突に近づこうとしたものはいましたか?」
「いや、だれもありません、ぜんぜん異常なし、というやつですよ、レーンさん」と、モッシャー刑事は目を見はった。レーンの右手が、背中のかげから出てくると、口のなかになにかを運んだからである……モッシャーがあっけにとられたのも無理はない、それは菓子パンだった。しかもレーンは、このボルジア家そこのけの屋敷のなかに、毒などというしろものはなにもないといった顔で、しきりに考えこみながら、ムシャムシャと口を動かしているのだ。
だがしかし、上衣のポケットにいれている老優の左手には、白色の液体入りの試験管がにぎりしめられていた。
第三幕
「逆境に、私はよろこんで身をさらそう、それが最良の道だと、賢者たちが言うからだ」(「ヘンリー六世・第三部」第三幕第一場)
第一場 警察本部
――六月十日(金曜日)午後五時
ドルリー・レーンは、そぼふるつめたい雨にぬれた六月の午後、ハッター家の屋敷を出ると、訪《おとず》れたときにくらべて十年も年をとったかにみえた。もしサム警部がこの場にいあわせたら、事件の解決の一歩手前までこぎつけたレーンが、なぜかくも、あらゆる失敗にうちひしがれたように見えるのか、いぶかしく思ったにちがいない。いつもの彼とは、まったく別人の観があった。つね日ごろ、四十歳の壮年の外見をよく保っていられたのも、それはひとえにごく若いときから自制心をつちかい、悩みをたくみに発散させてしまう術にひいでていたがためである。ところがいまは、沈着という、長い生涯《しょうがい》の信条が、根本から打ち砕かれてしまった男のように見えるではないか。車にのりこむレーンの姿は、六十歳の老人にかえってしまっていた。彼は重い口調《くちょう》で運転手のドロミオに命じた、「警察本部へ」そしてクッションにぐったりと身をしずめた。センター街の、その灰色の大きなビルにつくまでというもの、老優の顔からは、悲しみと責任と、なにか、きわめて重大なことに対する悲劇的な自覚の色がいつまでものこっていた。
しかし、レーンはあくまでレーンであった。警察本部の階段をのぼると、愛想のいい、おだやかで、沈着なドルリー・レーンにもどり、その物腰には、ゆるぎない自信と軽快な感じがみなぎっていた。デスクで勤務中の警部補が、入ってきたレーンの顔を見て挨拶《あいさつ》すると、ひとりの巡査に、サム警部の部屋《へや》まで案内させた。
どうやらこの日は、ふさぎこみたくなるようなうっとうしい天気だとみえて、サム警部は苦虫《にがむし》をかみつぶしたような顔で回転椅子にすわりこみ、ぶこつな指にはさんだ火の消えた葉巻をじっとにらみつけていた。レーンの顔を一目見るなり、警部の顔がパッとあかるくなった。彼は、老優の両手を思いきりにぎりしめた。「ああ、よく来てくださいました、なにかありましたか、レーンさん?」レーンは片手をふると、吐息《といき》をついて、腰をおろした。「なにか耳よりなニュースでも? なにしろ、ここときたら、死体公示所よりもしめっぽいんですからな」
レーンはうなずいた。「あなたとブルーノさんがふるいつきたくなるようなニュースですよ」
「かつがないでくださいよ!」とサム警部が大声をだした、「まさか、あなたは――」彼は疑わしそうにレーンを見つめたまま、言葉をきった、「ペリーのしっぽをつかんだなんていうんじゃないでしょうな?」
「ペリーのしっぽ?」レーンは眉《まゆ》をひそめた、「私にはなんのことやらさっぱりわからないが」
「それでホッとしましたよ」警部は消えている葉巻を口にくわえると、思案にくれながらそいつを噛んだ。「こんどは手ごたえのあるやつを、つかんだのですよ。ペリーは昨日釈放したんですがね、バーバラ・ハッターがくだらないことで騒ぎたてましてね――顔のきく弁護士なんかをつれて、やって来たんですよ――そんなわけで……なあにへっちゃらですとも、監視はちゃんとつけてあるんですから」
「しかし、いったい、なんのために? するとあなたはまだ、ハッター家の事件にエドガー・ペリーが関係していると思いこんでいるのですか、警部さん?」
「じゃ、あなたはどうなんです? だれにしろ、ほかにどう考えられるというんです? なにからなにまで、お膳立《ぜんだ》てはそろっているじゃありませんか――ペリーの本名はキャンピオン、ルイザ・キャンピオンとは異母|兄妹《きょうだい》で、やつの父親はエミリー・ハッターの最初の夫なんですよ。いいですか、そこで、ペリーにそこんところを突っこんでやると、やつもとうとう認めましたがね、それからあとのことは、まるっきり口をわらないんですよ。そこでパッタリ行きどまりというわけなんですが、私はあきらめませんや、もう少し深く掘ってみました。そこで、いったいなにが出てきたと思います、レーンさん?」
「いや、いっこうに」とレーンは微笑して言った。「ペリーの父親のトム・キャンピオン、つまり、殺された婆《ばあ》さんの最初の亭主の死因というのが――」
警部はハタと口をつぐんだ。ドルリー・レーンの顔から微笑が消えうせ、灰緑色の目がキラリとひかった。
「すると、もうごぞんじなんで」とサム警部が不服そうにうなった。
「なにも調べたわけではないのですが、それにまずちがいはないものとにらんでいたのですよ」レーンは椅子の背に頭をもたせかけた、「いや、あなたの言わんとするところはよくわかります。そこで、エドガー・ペリー・キャンピオン氏が大きく浮かびあがってきたというわけですね?」
「むろんですとも、あたりまえじゃありませんか」とサム警部はさも不服そうな声をだした、「筋がちゃんととおっていますよ。ペリーのおやじが死んだのは、エミリー・ハッターのせいなんだ――むろん、じかに手を下したわけでもなければ、たぶん故意にやったものでもないでしょうがね。しかし、ナイフで突き刺して殺したのも同然ですからな、いや、この事件ときたら、始末におえないことばかりですよ。だが、これで動機が見つかったわけです、レーンさん――いままでいくら考えてもわからなかったやつがね」
「というと……?」
「ね、いいですか、あなたなら世情によく通じておいでのはずです。自分の父親が、継母から病毒をうつされて死んだとしたら……その男は自分の一生を棒にふってまで継母に復讐《ふくしゅう》したいと思うのが人情じゃありませんか」
「初歩の心理学ですね、警部さん。ま、とりわけ、このように残忍な事件では、当然考えられてしかるべきことです。むろん、そうでしょうな」レーンは考えこんだ、「あなたがひどく気になさるのも、しごく無理もない話です。ペリーには動機もあれば、犯行の機会もありました。それに緻密《ちみつ》な計画をたて、それを実行に移すだけの頭脳もあります。だが、証拠がありませんね」
「じつは、われわれが直面している問題はそれなんですよ」
「いや、そればかりか、エドガー・ペリーという男が、どうも私には行動的な人間とは思えないのです。むろん、計画的な頭脳の持ち主ではある。しかし、いざというときに、おじけづいてしまって、とても暴力をふるうだけのふんぎりがつくまいと、私はふんでいるのですよ」
「そんな複雑なことは、私にはわかりませんがね」と警部は鼻の先で笑って、「ねえ、レーンさん。われわれ、警察のパンを喰っている連中はですね、犯人がなにを|するだろうか《ヽヽヽヽヽヽ》なんてことは眼中にないんですよ、そいつがなにを|したか《ヽヽヽ》という事実のほうが、はるかに大切なんです」
「しかし、これだけは言わしていただきましょう」とレーンはおだやかではあるが、きっぱりと言った、「人間の行為というものは、その人間の心理のあらわれにすぎないのです。それともあなたは、エドガー・ペリー・キャンピオンが自殺しようとするところを見たとでも言うのですか?」
「自殺ですって? 冗談《じょうだん》じゃない! なんでまた、そんなばかなまねをしなくちゃならないんです? 悪事が露見したというのならばとにかく……」
レーンは頭を横にふった、「いや、ちがいますよ、警部さん。エドガー・ペリーが人殺しをしたとすれば、ああいう男ですから、おめおめと生きているわけがありません、すぐ自殺してしまうはずです。ハムレットを覚えていますね? 感情の動揺しやすい、優柔不断の人物ですが、計画的な頭脳の持ち主でした。ハムレットは暴力と陰謀のはげしい渦中にまきこまれて、自責と自虐にさいなまれ、もだえつづけてきたのです。だが、重要なのはつぎのことです――決断力にかけてはいても、ひとたび行動に出るや、血に飢えて暴れまわり、ことがおわりしだい、ただちに自らの命をたってしまったのです」レーンは悲しげに微笑した、「ついいつもの癖が出てしまいました。しかし警部さん、あなたの容疑者を、じっくりと吟味《ぎんみ》してください。エドガー・ペリーもある種のハムレットなのです。第四幕の終わりまでは、ハムレットの役を忠実に演じますが、第五幕となれば――芝居の筋書は変ってしまいます、そこからハムレットとのちがいが生れてくるのですよ」
サム警部はしきりにそわそわしていた。
「まあ、それでは、そういうことにしておきますか、ところで問題は――この事件を、あなたがどうお考えになっているかということなんですよ?」
「どうも警部さんは」とレーンはだしぬけにのどの奥でクックッと笑った、「こっそりとかげで、なにかやっているようですね。いまさらペリー犯人説をもち出したのは、いったい、どういう魂胆なのです? 私はまた、あなたが私にも教えてくれなかった例のインスピレーションのおかげで、ペリー説などはとっくに捨ててしまったものと思っていましたよ」
サム警部はどぎまぎした顔をした、「どうかそのインスピレーションの件だけは棚上《たなあ》げにしてくださいよ。じつは調べてみたんですが、まるっきり徒労だったんです」警部はすばしっこい目をレーンにむけた、「しかし、あなたはまだ、こちらの質問に答えてくださらんのですよ、レーンさん」
こんどはレーンが無口になる番だった。あの憂色の影が老優の顔にあらわれ、うかべていた微笑がかき消えてしまった。「正直なところ……どう考えていいものやら、さっぱりわからないのですよ、警部さん」
「すると、手も足も出ないというわけですか?」
「いまのところ、どんなものにしろ決定的な手がうてないというのです」
「そうですかねえ……私たちは、あなたの腕を信用しきっているんですよ、レーンさん。なにしろ、去年のロングストリート事件で、あれだけすばらしい手腕《しゅわん》をお見せになったんですからな」と警部は顎《あご》をさすった、「ま、ある程度」と警部はちょっときまりわるげに言った、「ブルーノ検事も私も、あなたをたよりにしているんですからねえ」
レーンはパッと椅子から立ちあがるなり、部屋のなかを歩きだした、「いや、それはいけない、私などをたよりにされては困ってしまいます」老優のひどい狼狽《ろうばい》ぶりに、警部がポカンと口をあけるほどだった。「どうか、私などがこの事件にまったく関係ないものとみなして、捜査をすすめてください、警部さん。警察の方針どおりにしたがって……」
サム警部の顔は失望にくもった、「あなたがそんな調子では、とてもこの事件は……」
「昨日《きのう》の――あなたの頭にひらめいたインスピレーションは――すると、ものにならなかったわけですね?」
サム警部の警戒するような目つきは、いまも変らなかった。「そのインスピレーションにしたがって、メリアム医師に会ってみたんですよ」
「そうですか!」とレーンはすばやく言った、「それはよかった、非常にけっこうでしたよ、で、医師から話を……?」
「ところが、すでにあなたからきいて、こっちが知っていることしか口をわらないんですよ」と警部は仏頂面で答えた、「ヨーク・ハッターが、腕の発疹に塗っていた、あのヴァニラ入りの軟膏のことですよ。すると、あなたも、メリアム医師に会われたわけですな?」
「ええ――まあね」レーンはふいに椅子に腰をおろすと、片手で目をおおった。
サム警部はとほうにくれて、ながいあいだ、なかばムッとしたような顔で、レーンをじっと見つめていた。やがて肩をすくめると、「それはそうと」警部はつとめて、口調《くちょう》をやわらげてきり出した、「ブルーノ検事と私に、すばらしいニュースがあるとおっしゃいましたね。いったいそれはなんです?」レーンは、顔をあげた、「警部さん、きわめて重要な情報をお教えするつもりなのですが、一つだけお約束していただかなければならぬことがあるのです――どこからその情報を私が得たか、それをおたずねにならないことです」
「わかりました、で、その情報というのは?」とサム警部はうなり声をあげた。
「ではお話しましょう」レーンは、一言々々を慎重にえらびながら、その言葉づかいに最大限の注意をはらいながら言った、「ヨーク・ハッターが失踪《しっそう》するまえに、彼は小説の筋書をつくりあげていたのです」
「小説ですって?」警部は目を見はった、「それがどうしたというんです?」
「ところが、これはただの小説ではないのですよ、警部さん」とレーンは、やっとききとれるくらいのひくい声で言った、「それは彼がいつか書きあげて、出版したいと思っていたもので、探偵小説なのです」
一瞬、サム警部は、まるで催眠術にかけられたように、レーンの顔を見つめた。くわえていた葉巻が下唇からたれさがり、右のこめかみの静脈が生きもののように、ピクピクと動いていた。と、ちょうど椅子がカタパルトといった感じで彼のからだがまえにとび出すと、叫んだ、「探偵小説!」葉巻が床にポトンと落ちた、「そいつは特ダネだ!」
「そうです」とレーンは重くるしく答えた、「筋書は、殺人とその犯人の発見がテーマになっているのですが……あなたにぜひお話しておきたいことがあるのです」
興奮のあまり、サム警部の耳には、ほとんど言葉が入らないくらいだった。その目はどんよりとかすんでしまって、レーンの顔に視線をむけるのにも、骨がおれるほどだった。
「それは……」
「くそ!」サム警部は例の調子で頭を左右にふると、やっと意識がはっきりしてきた。「なんです?」
「ヨーク・ハッターの小説は、舞台も登場人物も、みんな実在のままなのですよ」
「実在のまま?」と警部は口のなかでつぶやいた、「どういうことなんです?」
「ヨーク・ハッターは、自分の家族たちを、そっくりそのまま、登場人物に使っているのです」
警部の巨体が、電気にふれたみたいにビリッとふるえた。「そんな、そんなばかなことが――」かすれた声で言った、「話がうますぎますよ……まさか――」
「それがほんとうなのですよ、警部さん」とレーンは力なく言った、「おもしろいですか? いや、無理もありません、じつにおどろくべき暗合ですからね。ある男が、毒殺計画と殺人をテーマに探偵小説を書いた。すると、現実にそれとそっくりなことが、その男の家で起こりはじめた……つまり、|その事件は《ヽヽヽヽヽ》、|小説中の《ヽヽヽヽ》、|架空の筋立てと《ヽヽヽヽヽヽヽ》、|なにからなにまでピタリと一致しているのですよ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》」
思わずサム警部は音をたてて息を吸いこむと、胸をはげしく動かした。「すると、こうだというんですな」警部はよくひびく低音で言った、「これまでにハッター家であいついで起こった事件――二度にわたるルイザ毒殺未遂とハッター老夫人殺害事件、実験室の火災や爆発――これらの事件が全部、ヨーク・ハッターの創作した筋書どおりだというんですか? ばかな! こんな話はきいたこともありませんよ!」
「いや、それどころか……」ここまで言いかけてレーンはため息をついた、「ま、いずれにしろ、私がお話したとおりですよ。じつは、ニュースというのは、このことです」老優は椅子から腰をあげると、どこか絶望的な感じでステッキの頭をにぎりしめ、からだの重みをそれにかけた。彼の目には、救いがたい敗北の色があった。サム警部は、さながら野獣のように床の上を歩きまわり、こおどりしたかと思うと、なにやらブツブツ口のなかで言ってみたり、頭のなかでめまぐるしく思案しては、あれを捨てたり、これにきめたり……レーンは入口のドアまで歩みよると、そこでたたずんだ。いつもの、あのキビキビした身のこなしさえ、見うけられなかった。老優は重い足どりで歩き出した。力にあふれた姿勢のいい彼の背が、いまはよわよわしげに曲っているではないか。
警部はあわてて声をかけた、「ちょっと待ってください! なにも質問するな、と言われましたね。それにはなにか深いわけがあることでしょうし、そう言われたからには私だってよけいなことはたずねません。ですが、こいつだけは教えてください。探偵小説なら、かならず犯人というものがあるはずです。ヨーク・ハッターは、その小説のなかで、自分の家族をそのまま、登場させているとすると、いったいだれを犯人に仕立てているんです? まさか小説のなかの犯人が、実際の事件でも犯人だなんてことはありっこありませんがね――それでは危険すぎますからな、犯人はだれなんです?」
レーンはドアのハンドルに手をかけたまま、無言でじっと考えこんでいた、「そう」老優はさえない声でやっと言った、「たしかに、それを知る権利は、あなたにもありますね……ヨーク・ハッターの探偵小説のなかの犯人は――|ヨーク《ヽヽヽ》・|ハッター《ヽヽヽヽ》でしたよ」
第二場 ハムレット荘
――六月十日(金曜日)午後九時
ふだんなら、どこよりもいちばん静寂《せいじゃく》で、心にやすらぎをもたらしてくれるはずの、隠れ家《が》にはもっともふさわしい、このハムレット荘までが、この夜にかぎって、地獄の棲家《すみか》といった感じだった。雨がいっこうに降りやまず、それとともに冷気がしのびこみ、衣服を通して鳥肌《とりはだ》がたつほどだった。ハドスン河畔《かはん》の、がっしりとした断崖《だんがい》の上にそびえたつハムレット荘は、さながらエドガー・アラン・ポーの小説に出てくる廃墟《はいきょ》のように、近よりがたい感じだった、灰色の霧に下半身をおおわれて、その頭上には身の毛のよだつような暗雲がさかまいていた。
ほんとうに火の恋しくなるような夜だった。すでにクェイシー老人が、レーンの居間の大きな煖炉《だんろ》で、まるで大火事のような炎《ほのお》を燃えあがらせていた。つま先が焦げるかと思われるくらい、煖炉のそばはあたたかだった。レーンはあっさりした夕食をすませて、鞣《なめ》さない毛皮の煖炉用の敷物の上にからだを投げ出して、目をとじた。炎の熱が、そのまぶたに感じられるほどだった。せむしの老人は気づかわしげに、足音をころして部屋《へや》を出入りしていた。老人はなかば正気を失ったみたいに、ただオロオロしていた。横目で主人の様子をうかがいながら、煖炉の火がパチパチはぜるたびに、目《ま》ばたきをした。一度、老人は炉のまえの敷物ににじりよると、主人の腕に手をかけてみた。と、レーンはすぐ目をパッチリとあけた。その灰緑色の目は、深いもの想《おも》いに冴《さ》えかえっていた。「どうかなさったのですか、旦那《だんな》さま。ご気分でもわるいのでは?」
「なに、大丈夫だよ」
それから、クェイシー老人は部屋の一隅《いちぐう》の椅子に腰をおろすと、そこにうずくまったまま、炉端の敷物にじっと身をよこたえているレーンの姿から目をかたときもはなそうとしなかった。無言の一時間がすぎて九時になると、レーンのからだがムクムクと起きあがった、「クェイシー!」
「はい、旦那さま!」まるで舌を垂れて勢いよく主人にじゃれかかる猟犬のように、老人は間髪おかず椅子から立ちあがった。
「これから書斎に行く、邪魔をしないようにね、いいかな」
「かしこまりました」
「もしフリッツ・ホッフかクロポトキンがたずねてきたら、もうやすんだと言っておくれ。芝居のことで相談にくるのだが、なに、明朝会ってやるからいい」
「はい、旦那さま」
レーンはせむし老人の禿頭《はげあたま》をやさしくたたき、背中のこぶをピシャリとうつと、ドアに追いやるように押しやった。クェイシー老人はしぶしぶ出ていった。レーンはドアに錠をおろすなり、となりの書斎にしっかりした足どりで入っていった。彫刻をほどこした、古い胡桃材《くるみざい》の机に歩みよると、スタンドをつけ、引出しをあけた。そして、なかから紙片をとり出した。それは、ハッター家の煙突の穴から、彼が見つけた黄ばんだ原稿のうつしだった。革《かわ》張りの椅子にふかぶかと腰をおとすと、机の上に、その紙片をひろげた。老優の目はくもり、顔色はしずんでいた。やがて、おもむろに精神を集中すると、その一語々々を丹念にかみしめながら、今日《きょう》の午後、あわただしく書きうつした探偵小説の梗概《こうがい》を読みはじめた。沈黙と机の周囲をとりまく暗黒のなかで、あらためて読みかえしてみると、語句は新しい意味をもつように思われた。レーンは、その意味をすいとり、そのなかに浸っていった――
探偵小説梗概
題(仮題)――「ヴァニラ殺人の秘密」
著者――ペンネーム使用のこと。ミス・テリー? H・ヨーク? ルイス・パスター?
場所――ニューヨーク市グラマシー公園? ハッター家とおなじ構造の屋敷。
時――現代
構成――一人称で書くこと。犯人は私自身。
[登場人物]
ヨーク(私)――Yと略す。犯人。被害者の夫。
エミリー――被害者。老婦人。暴君(実際のごとし)
ルイザ――唖《おし》で聾《つんぼ》でめくらの娘(動機を強めるため、Yの継子《ままこ》とはしない)
コンラッド――長男
マーサ――その妻 子供はなし、不必要。
バーバラ――Yとエミリーとの長女。作家。心理的容疑者?
ジル――Yとエミリーとの末娘。
トリヴェット――片脚《かたあし》の隣人、ルイザに恋愛感情をもつ(ちょっと無理か?)
ゴームリー――コンラッドの仕事仲間。
[補助人物]
ルイザの看護婦、家政婦、運転手、女中、主治医、顧問弁護士(ジルに求婚する?)
注意――以上の人物は、すべて仮名《かめい》を使うこと!
第一の犯罪
ルイザの毒殺未遂。事実――この家にはひとつの習慣がある。家政婦がルイザ用の卵酒をつくり、毎日午後二時三十分に、食堂のテーブルにそのコップをおくことになっている。
詳細――ある日、Y(犯人)は、家政婦が食堂のテーブルに卵酒をおきに来るのを身をひそめて待ちかまえている。だれも見ていないときを見はからってYは食堂にしのびこみ、卵酒のコップのなかにストリキニーネをいれ、いそいで食堂のとなりの図書室へひきかえす。
Yは、二階の実験室の薬品棚にある第九号の壜からストリキニーネの錠剤を三粒、とり出したのであるが、この事実を知るものはだれもいない。
卵酒に毒をいれてから、Yはとなりの図書室にかくれて、ルイザが卵酒を飲みに来るのを待っている。
ルイザがおりてきて食堂にまさに入ろうとするとき、Yは図書室から出てくる。ルイザが毒入りの卵酒を飲むまえに、Yは食堂に入り、テーブルから卵酒のコップをとり、なんだか変だと言って、自分で一口すすってみる。
たちどころに吐き気におそわれる(Yはそばにいるだれかに嫌疑がかかるようにしむける)
注意――これは、だれかほかの人間がルイザを毒殺しようとしているように、みんなに思わせることになる。Yに嫌疑がかかるようなことは絶対にない。その下手人《げしゅにん》が自分でいれた毒を飲むはずがないからだ。そしてこのことはまた、ルイザが実際に毒を飲むのを防ぎとめることになる――犯行計画の上から言って、これはきわめて重要である。
第二の犯罪
第二のルイザの「毒殺未遂」が起こり、同時にYの老妻エミリーが殺害される。それは、第一の毒殺未遂事件の日から七週間後。
詳細――その夜、午前四時ごろ、家人が寝しずまっているところを見はからって、ルイザとエミリーが寝室(この母親と娘は、同室のつがいのベッドでやすんでいる)でねむっているあいだに、Yは第二の犯行にうつる。
こんどの計画は、梨《なし》に毒物を注射して、ルイザのベッドとエミリー老夫人のベッドと中間にあるナイト・テーブルの上の果物鉢《くだものばち》に、その毒入り梨をいれることである。梨をえらんだのは、エミリー老夫人が絶対に梨を口にしないということを、家のもの全部が知っているからである。そこで梨に毒物を注射したことは、ふたたびルイザを毒殺しようとしたごとく思わせることになる。だが、ルイザもその梨を喰べることはない。つまりYは、ルイザがいたんだり腐りかけたりしている果物をけっして喰べないことを知っているので、わざと腐りかけの梨をえらんで(料理室から一個持ち出してもよい)、寝室に持ちこむからである。Yはこの梨に、実験室にある塩化第二水銀(第一六八号の壜)をいれた注射器で毒物を注入する。
Yは、実験室の鋼鉄製の書類戸棚から、その注射器を持ち出す。そこには注射器が何本も入っているケースがある。
なおまた、Yはルイザの寝室にしのびこむまえに、コンラッドのはき古した夏の白靴《しろぐつ》を一足盗み出しておく。そして実験室で注射器に塩化第二水銀をいれるとき(真夜中、ルイザの寝室に入りこむ寸前)この毒液(第一六八号の壜)を数滴、わざとコンラッドの白靴の片方にこぼしておく。
行動――Yはルイザとエミリーの寝室にこっそりとしのびこむ。ナイト・テーブルに近より、果物鉢に毒入りの梨をいれる。エミリーの頭部を鈍器で殴打《おうだ》して殺す(これが犯行計画の真の目的であるが、いかにもエミリーが夜中にふと目をさましたので、犯人はその口をふさぐために殺さなければならなかった、つまり、偶然のことからエミリーは殺されたかのように見せかける)。
注意――この全計画の主要目的は、エミリーを殺害するにある。二回におよぶルイザの毒殺未遂は、犯人の目的はルイザ殺害にあると警察に思いこませるためにすぎない。したがって警察は、エミリーではなく、ルイザの命を狙う動機をもつものだけをさがすことになる。この探偵小説では、Yは、ルイザときわめて親密な間柄ということになる。そうすればYに嫌疑のかかることはない。
偽装の説明――Yはわざとコンラッドの白靴に塩化第二水銀の毒液をこぼしておく。Yは犯行後、ルイザの寝室を出てから、その白靴をコンラッドの戸棚にかえしておく。警察は、毒液のついた白靴を発見し、コンラッドに毒殺者の容疑をかける。コンラッドがルイザを憎んでいることは周知の事実である。
正しい解決へ警察をみちびく手がかり――ルイザは唖で聾でめくらの女である。そこで、Yがエミリーを殺害するとき、ルイザは目をさまして、Yの腕にぬってあるペルー香油のヴァニラの匂いをかぐ――ルイザが警察に手がかりをあたえられるものは、嗅覚《きゅうかく》以外にないのだから。事件のあと、彼女はヴァニラの匂いがしたと証言する。主役の探偵は、それにもとづいて捜査をつづけ、苦心のあげく、ヴァニラの匂いとかかわりのある人物はY以外にないという真相をつきとめる。
火事
殺人事件の翌日の真夜中、Yは実験室に放火する(Yはここを寝室にも兼用している)。はじめに、二硫化炭素の壜(第二五六号の壜)を、大きな実験台の上にのせる。この薬品は、火気に近接すれば爆発する。Yはマッチをすり、自分のベッドに火をつける。
放火の目的――火事と、それに伴って起こる爆発は、なにものかがYの命まで狙っているように思わせるためである。これによって、さらに虚偽の手がかりをのこすことになり、Yは、すくなくとも白であるということになる。
第三の犯罪
エミリー殺害から二週間のち、Yはさらにルイザに対して「毒殺未遂」を行う。こんどの毒物は、実験室の薬品棚にある白色の液体フィゾスチグミン(第二二〇号の壜)を使用する。ルイザが飲むバターミルクのコップに、点滴器で十五滴落す。このバターミルクは、毎晩夕食後一時間たつと、ルイザは飲むことになっている。このときもまた、Yは、バターミルクが変だとかなにか言って、またはほかの手段で、|ルイザが毒入りのバターミルクを飲むのを防止する《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。
目的――この犯行計画は、いかなる場合においてもルイザを殺害するものではない。エミリーの死後に行われる第三の毒殺未遂は、犯人が依然ルイザの命を狙っているものと警察に信じこませ、エミリーではなく、ルイザに対して殺害動機をもつ人間を捜査させるのがその目的なのである。
[一般的注意事項]
1 Yはどの犯行時においても、どこにも指紋をのこさないように、つねに手袋をはめることに留意せよ。
2 傍系的な筋を工夫すること。
3 主役の探偵が最後に事件を解決する経過を工夫すること。
4 Yの動機――エミリーに対する憎悪《ぞうお》。老夫人はYの生涯《しょうがい》を破滅させ――Yの健康を破壊し――Yを支配し、押しつぶした……探偵小説にかぎらず、現実の犯罪でも、これだけそろえば動機は十分だ!
このいちばんしまいの、はなはだ適切でない辛辣《しんらつ》な言葉は、その上を鉛筆でかなりくろぐろと書き消されていたものの(レーンは、そこのところまで原稿そっくりに写したのだ)読めないことはなかった。梗概は、あと二つの注意事項でおわっている。
5 作中の登場人物は、読者にまったく架空のものと思いこませるように作りかえること。ペンネームを使うからには作中人物の名前も適当に工夫しなければならぬ。なにも読者に、ハッター家がこの小説のモデルだと感づかれることはないのだ。小説の背景は、シカゴかサンフランシスコのような、他の都市に変えたほうがいいかもしれない。
6 主役の探偵はどんな人物にするか? ヴァニラや薬品類が関係するから医者か? Yの友人はどうか? いわゆる本職の探偵は不可、演繹的《えんえきてき》推理方法をとる知的な探偵のタイプ――シャーロック・ホームズの風貌《ふうぼう》とエルキュール・ポアロの感じ、それにエラリー・クイーンの推理の仕方を合せたようなもの……とくに実験室の捜査を見せ場にする……薬品壜の番号がひとつの手がかりになるように案出すること。あまりむずかしくなってはいけない(?)
やつれた顔をこわばらせて、レーンはぐったりとヨーク・ハッターの探偵小説の雑な梗概のうつしを机の上においた。老優は両手に頭をうずめ、死のような沈黙のなかで懸命に考えつづけた。このまま、十五分がすぎていった。レーンのかすかな呼吸音のほかには、物音ひとつしなかった。やがて彼はからだを起こすと、机のまえのカレンダーをじっと見つめた。唇《くちびる》が動いた。二週間……レーンは鉛筆をとりあげると、さも絶体絶命といった感じで、六月十八日という日付に、一気に強く輪をえがいた。
第三場 死体公示所
――六月十一日(土曜日)午前十一時
なにものかがレーンを駆りたてていた。きびしい自己省察と、周囲の世界のするどい分析《ぶんせき》には慣れていたにもかかわらず、いま、彼を頭からとじこめている息のつまりそうな気分に対しては、まったくの無力だった。それを分析しつくすことも、言いのがれるすべもなかった。そのまえでは、理性もなきにひとしかった。それは、まるで鉛のおもりのように、彼の首のつけねに重くのしかかってくるのだった。
だが、それにもかかわらず、彼はとどまるわけにはいかなかった。たとえその結末が目をおおうようなものだと彼ひとり覚悟はしていても――終局までつきとめなければならないことだった。その終局になにが起こるか……それを思うと心はおびえてちぢみこみ、苦痛と恐怖の発作《ほっさ》にかられて自分の胃の腑《ふ》までがさしこんでくるのだった。
その日は土曜日だった。太陽がカッとハドスン河《がわ》に照りつけていた。いま、愛用のリンカーンからおりたレーンは、歩道を横ぎって、死体公示所の古びた石段を重い足どりであがっていった。いったい、なんの義理があってこんなところまで来なければならないのか? なぜ、感受性のするどい芸術家の彼が、かくも非情な世界に深入りしてしまったことをさとろうとしないのか? 彼は俳優としてその名声の絶頂にあったとき、賞讃の嵐《あらし》をうけるとおなじくらい、おびただしい罵詈《ばり》をあびたものである。「世界一の名優」からはじまって、「二十世紀の世の中で、いまだに虫の喰ったシェークスピアにしがみついている売れ残り役者」にいたるまで、ピンからキリまでの評言を受けてきたのである。しかし彼は、自己の本分をはっきりと自覚している芸術家にふさわしい厳然とした態度で、これらの賞讃と罵詈を、いずれも平静にききながすだけだった。新興芸術にいかれた劇評家たちが、どんな毒舌をはこうと、自己の天職を果たしつつあるのだというレーンの不動の信念と不屈の抱負とはびくともしなかったのである。なぜ、名声の頂上に、彼はふみとどまっていなかったのか? なぜ、犯罪などに手を出したのか? 悪を追求し、悪を罰するのは、サム警部やブルーノ検事といった連中のなわばりではないか。悪? 純粋な悪というものは存在しないのだ、悪魔でさえ、もとをただせば天使だったではないか。ただ、無知な人間、ゆがめられた人間、悪意のある運命の犠牲者《ぎせいしゃ》があるばかりなのだ。
だがレーンは、心のなかで沸騰《ふっとう》するこうした疑惑からかたくなに目をそらして、真実を究明し、確認するために、死体公示所の石段を、とぼとぼとのぼっていった。
市の毒物学者インガルス博士は、二階の実験室で、若い医学生たちに講義をしているところだった。レーンは無言で講義の終わるのを待ちながら、ガラスと金属でできている一対《いっつい》のきれいな器具をぼんやりとながめたり、インガルス医師のキビキビした講義ぶりを唇でよんだり、いかにもものなれた、機械的な医師の手さばきに見とれたりしていた。
講義がおわると、インガルス医師はゴム手袋をぬいで、愛想よくレーンの手をにぎった、「よくおいでになりましたね、レーンさん。また、匂いの問題でも出てきたのですか」
すっかり畏縮してしまったドルリー・レーンは、学生たちのいなくなった実験室を見まわした。レトルトと電極と薬品が入っているガラス壜ばかりの科学の世界! いったい、こんな場所で自分はなにをしようというのか? どうあがいたところで、自分は局外者であり、邪魔者であり、ほんの素人《しろうと》にすぎないのだ。この世から悪を駆逐《くちく》しようなどと、それこそ身のほどを知らぬ夢ではないのか……レーンはホッとため息をつくと、はじめて口をひらいた、「じつはフィゾスチグミンという毒薬のことで、うかがったのですが?」
「フィゾスチグミンですか? ええ、いいですとも」毒物学者は顔をパッとかがやかした。「そいつは、われわれのお手のものですからね、白色無味の有毒アルカロイド――猛毒ですよ、まず、アルカロイド系統のものでは屈指のしろものですね。カラバル豆からとるのですよ」
「カラバル豆?」とレーンはぼんやりと口のなかでくりかえした。
「学名はフィゾスチグマ・ヴェネノスムです。アフリカ産の荳科《まめか》植物で、この実《み》に猛毒がふくまれておるのですよ」とインガルス博士は説明した、「医療には、ある種の神経障害、破傷風《はしょうふう》、癲癇《てんかん》などに使います。フィゾスチグミンは、この豆からとるもので、こいつにかかったら、鼠《ねずみ》だろうとなんだろうと、バタバタ死んでしまいますよ、実物がごらんになりたいですか?」
「なに、それにはおよびません」レーンは、用心深く詰物をいれて包装したものをポケットからとり出すと、それをひらいた。ハッター家の煙突のなかの隠し穴から見つけた白色の液体が入っている試験管で、厳重に密封してあった。「これは、フィゾスチグミンでしょうか?」
「うむ」インガルス医師は、その試験管を光線にかざして言った、「どうも、そうらしいですな、レーンさん。ちょっとお待ちください、いま、調べてみますから」
医師は黙々と検査にかかった。レーンは固唾《かたず》をのんで見まもっていた。「たしかにそうです」調べおわると毒物学者が言った、「フィゾスチグミンにまちがいありませんな、純粋なやつです、どこでこんなものを手においれになったのです?」
「ハッター家ですよ」とレーンはあいまいに答えただけだった。それから紙入れのなかをさぐって、ちいさく折りたたんだ紙片をとり出した。「これは、ある処方箋のうつしなのですが、ちょっと、見てくださいませんか?」
毒物学者はその紙片を手にとった、「なるほど……ペルー香油……ですな! で、なにがおたずねになりたいのです、レーンさん?」
「ちゃんとしたものですか?」
「ええ、大丈夫ですとも、この軟膏は皮膚病の治療に――」
「ありがとうございます」とレーンは力よわく言った。その紙片をとりもどそうとさえしなかった。「ときに、もう一つ、おねがいしたいことがあるのですが?」
「どうぞ」
「このフィゾスチグミンの試験管を、ハッター家の事件の証拠品の一つとして、私の名義で、警察本部にとどけていただけないでしょうか」
「ええ、いいですとも」
「警察の記録として保管しておかなければならないのです」とレーンはおもおもしい口調《くちょう》で言った、「この事件にとって、これは決定的な重要性をもっているものなのです……いや、いろいろとありがとうございました」
レーンは、インガルスと握手をかわすと、戸口にむかった。重い足どりで帰ってゆく老優のうしろ姿を、毒物学者は、けげんそうな顔つきで見送った。
第四場 サム警部の事務所
――六月十六日(木曜日)午前十時
事態はここで、ピタリと静止する運命のように思われた。卵酒の毒殺未遂事件をかわきりに、やつぎばやに事件が続発して、目的はわかっても、その理由がかいもく見当《けんとう》のつかぬまま、気ちがいハッター家をすさまじい勢いで押し流していったのだが、それが突然、ピタリととまってしまったのである。ちょうど、加速度を増しながら長距離を疾走していたものが、だしぬけに、思いもよらぬ堅固な障壁にぶちあたって、粉砕され、二度とふたたび活動できなくなった感じだった。
なんとも耐えられない期間だった。レーンがインガルス医師の実験室を訪《たず》ねてから六日間というもの、なにひとつ、起こらなかったのである。サム警部は袋小路《ふくろこうじ》にまよいこみ、逆上したあげくおなじところをグルグルまわるばかりで、行きつくところもないしまつだった。ハッター家のひとたちは、うわべだけはもとの生活にもどった、つまり、厄介《やっかい》な警察の拘束《こうそく》からほぼ解放されて、また無軌道な暮しぶりにかえったというわけである。この六日間の新聞という新聞は、そろって否定的な記事で紙面をいっぱいにかざっていた――気ちがいハッター家の連中は、どうやら「この最新型のとっぴな悪ふざけ」から怪我《けが》もなく脱けだしたらしい、とある新聞は報じている。また、ある新聞の社説ではつぎのように暗《あん》に批判した、「これはわが国においてとみに増大しつつある犯罪傾向のじつにいまわしき一例である。暗黒社会ならぬ一般市民社会においても、まんまと殺人をやりおおすのが当世ふうとなり――しかも犯人はすずしい顔で暮していられるという始末だ」
こうして無風状態のまま、ハッター老夫人が殺害されてからほぼ二週間にもなろうとする木曜日の朝、ドルリー・レーンは警察本部を訪ねてみる気になった。
みるからにサム警部の顔は、この一週間の心労を物語っていた。警部はレーンの顔を一目見るなり、まるで主人にとびつく犬のようにこおどりして迎えた。「やあ、よく来てくださいました!」と彼は大声をあげた、「いったい、どこに雲隠れしていたんです? とにかく、ひとに会うのがこんなにうれしいなんて、私は生れてはじめてですよ! なにか耳よりな情報でも?」
レーンは肩をすくめた。老優の口もとにはただならぬ決意の色が見えたが、表情は依然として暗かった。「ここのところ、耳よりな情報など、不思議なくらいありませんよ、警部さん」
「ふむ、あいかわらずですか」サム警部は手の甲の古傷を、しぶい顔でながめた、「だれにも、なにもわからんというわけか」
「あなたのほうも、パッとしないようですね?」
「きくまでもないじゃありませんか」とサム警部は歯をむき出して言った、「例の探偵小説の梗概を、とことんまで研究しているところなんですがね、こいつは、事件のきめ手になるぞと思ったんですよ。ところがどうだったと思います?」これだけで、もうはっきりと答がでているような質問だったが、警部は自分からわざとそれに答えた、「まるっきり、なにも出てきませんや!」
「すると、なにが出てくると思ったのですか?」とレーンはしずかにたずねた。
「むろん、犯人の手がかりじゃありませんか!」と警部は、頭にきて、目をギラギラさせながら叫んだ、「ところが、かいもく、正体がつかめないんですよ、いや、さすがにこんどの事件だけには、私も音《ね》をあげましたね、まいりましたよ!」彼は気をしずめた、「ま、ブツブツこぼしたところで、どうなるものでもなし……そうだ、私がどう考えたか、話すとしましょうか……」
「どうぞ」
「ヨーク・ハッターが探偵小説を書いた、あなた流に言えば梗概をつくった。自分の家族をモデルにして、登場人物も舞台も、なにからなにまで実在のものを使いました。ほとんど実際にあるものばかりだと言っていいですな? もっとも、探偵小説むきのモデルが、ヨークのまわりにはゴロゴロしていたんですからね、無理もありませんや」
「それにしてもヨーク・ハッターは、いささかモデルをみくびりすぎたようですね」とレーンはつぶやくように言った、「ぜんぜん、その可能性に感づきもしなかったのですよ、もし感づいていたとしたら……」
「そうですとも、だが、そうはいかなかった」と警部はうなり声をあげた、「そこでヨークは探偵小説の構想をあれこれと練りながら、こう考えたわけですよ、『こいつはおもしろい! われながらうまいことを考えたぞ、ひとつ、自分でこの探偵小説を書いてやれ――作者になって、探偵小説として書いてやるんだ、いろいろとたわごとをならべたて――おれが犯人になるんだ』もっとも、こいつは小説の話ですがね……」
「うまいじゃありませんか、警部さん」
「ま、こんなところでご満足ならね」とサム警部は不満そうに言った、「ところで、いいですか、ヨークがあんなぐあいに死んじまったら――彼が探偵小説の梗概をつくりにかかったときには想像もしないようなことがもちあがってしまったんです――なにものかが横あいから出てきて、ヨークの筋書を見つけ出し、そいつをそっくり手本にして、ほんものの殺人をやろうと思いついた……」
「まさにそのとおりです」
「まったくいまいましい話ですよ」とサム警部は大声をあげた、「なにか曰《いわ》くありげに見えるくせに、そのじつ、なんにもありはしないんですからね! せいぜい、そこから考え出せるのは、なにものかが、ヨーク・ハッターの探偵小説の筋書をそっくり頂戴したというだけのことなんですよ。すると、犯人にはだれだってなれるというわけだ!」
「こんどは、あなたが可能性をみくびりすぎたようですね」とレーンが言った。
「どういうことです、そいつは?」
「なに、たいしたことではありませんよ」
「いいですよ、どうせ私なんかより、あなたのほうが頭はいいでしょうからね」と警部はうなり声をだした、「いずれにしろ、こんどの事件がこうもひねくれているのは、こういったわけだからですよ。犯人のやつが、探偵小説の筋書どおりに犯行をかさねるとはね!」警部は大きなハンカチをひっぱり出すと、三度もすごい音をたてて鼻をかんだ。「まったく、癪《しゃく》にさわる探偵小説じゃありませんか、もっとも、おかげで役にたつところもありますがね。この実際の事件では、どうにも解釈のつかない点がたくさんありますが、そういうところはみんなヨークのできの悪い筋書のせいにしてしまえばいいんですからな」
レーンは一言も言わなかった。
サム警部は苦虫《にがむし》をかみつぶしたような顔で言葉をつづけた、「ところで、あらためてお話があるんです」彼は自分の指の爪《つめ》を丹念に見つめた、「じつは先週、この探偵小説の筋書のことを話されたおり、あなたがなにもきかないでくれと言われたものですから、それを尊重《そんちょう》して、私は一言もおたずねしないできたのです。ブルーノ検事もこの私も、あなたの腕を大いにかっているんですからね、レーンさん。こいつは、腹をぶちわった話ですよ――あなたはなにか知っておいでだ、検事も私も知らないことを、あなたはちゃんとつかんでいるにちがいない、そのことだけは私どもにもわかっています。さもなければ、あなたのような局外者に捜査の特権をあたえるようなまねはしませんからな」
「いや、これはいたみいります、警部さん」とレーンはつぶやくように言った。
「しかし、私だってそれほどひどい唖《おし》じゃありませんよ」と警部はゆっくりと言葉をつづけた、「それに、いつまでも私がじっと辛抱《しんぼう》しているものと思われたら、それこそ迷惑です。あなたが、あの筋書を手にいれられた径路は、三つの場合しか考えられませんね。まず第一に、あなたがどこからかさがし出してきたという場合ですが、こいつはちょっと考えられませんね、あなたが手にいれるまえに、われわれは、あの家のなかをすみからすみまで調べあげたんですからな。第二は――犯人自身から、その筋書を手にいれるというのですが、これは考えるまでもないことです。第三は――あなたがなにかのきっかけで、この筋書を推測したのではないかということになります。だが、それだと、ヨーク・ハッターが犯人になっていることまで、どうしてあなたが知ったか、これが腑《ふ》におちません。ですから、これもものにならない、いや、正直のところ、まったく五里霧中というやつですよ、こんな気持ちには、ほとほと手をやきましたね!」
ドルリー・レーンはからだを動かすと、ホッとため息をつき、その、もどかしげに話しだした口調に似合わず、目には深い苦悶《くもん》の色があらわれていた、「いや、こう申しては失礼だが、あなたの考え方はちょっと筋がとおりませんね、警部さん。もっとも、それを論じあうだけのひまはないのですが」レーンはちょっと言葉をきってから、口をひらいた、「それにしても、説明しておかなければならないことがあります」
サム警部の目がほそくなると、レーンは椅子から立ちあがり、せわしない足どりで床の上を歩きはじめた、「警部さん、これはあなたが使命とされている犯罪捜査史上でもまったく類例のないものなのですよ。去年のはじめ、私は犯罪学に興味をもちはじめてから、古い昔のものから現代にいたるまで、おびただしい犯罪記録を読破して、この問題に没頭してきたのです。とにかく、この事件のように――なんと言ったらいいでしょう――至難で、いりくんでいて、じつに並はずれた犯罪は、全捜査史上を見わたしても一つとしてなかったと申しても、けっして過言ではないのです」
「ま、そうでしょうな」とサム警部はうなり声をあげた、「箸《はし》にも棒にもかからぬ、としか言えませんよ」
「この事件の複雑さというものは、ちょっとやそっとのことでは理解できるものではないのです」とレーンはつぶやくように言った、「また、罪や罰でかたづく問題でもありません。病理学、異常心理学、社会学、倫理学の諸問題が、さまざまな形でいりくんでいるのです……」老優は言葉をきると、唇をかんだ、「しかし、こんなことをいくら言っていても、らちはあきません。その後、ハッター家では、なにかめぼしいことがありましたか?」
「まったく異常なし、というやつですよ、ちょっと、たねぎれといった感じですな」
「そんなことで、いい気持ちになってはいけません」とレーンは、語気をつよめて言った、「なにもたねぎれになったわけではなく、ほんの中休み、つかのまの休戦状態にすぎないのですよ……毒薬がとび出してくるような事件はなかったでしょうね?」
「ええ、ありません。専門医のデュービンがあの家に頑張っていて、飲食物にいちいち目をひからせていますからね、犯人だって、これじゃ手も足も出ませんよ」
「ルイザ・キャンピオンの扶養のことですが……バーバラ・ハッターは引受けましたか?」
「いや、それがまだなんですよ。コンラッドのやつが本領を発揮しだしましてね、さかんにバーバラをそそのかして、扶養を断るようにしむけているんです――なに、やつの肚《はら》は見えすいていますから、むろん、バーバラだって、ひっかかりはしませんよ。臆面《おくめん》もなくやつが、どんな口説《くど》き方をしたと思います?」
「なんです?」
「バーバラにこうぬかしたんですよ。姉《ねえ》さんがルイザの扶養を断るなら、自分も同調する、すると、トリヴェット船長にルイザの扶養がまわるから、二人そろって、遺言書に異議を申したてようじゃないか、とこうなんですよ! まったく心根のやさしい弟じゃありませんか。もし、バーバラがその手にのって断ろうものなら、たちまち彼女を裏切って、やつがルイザの扶養を引受けるという段取りですよ、三〇万ドルのちがいとなれば、ばかにできませんからね」
「ほかの連中は?」
「ジル・ハッターは、またおなじみのパーティを遊びあるいていますよ。母親の悪口をさかんに言ってますが、こんどはまたゴームリーに鞍《くら》がえして、弁護士のビグローをあっさり捨ててしまいましてね」警部は苦虫をかみつぶしたような顔つきで言った、「そのほうが、どんなにビグローにとって幸いだかわからないのですが、当人にはそうは思えないんですよ。まるで青菜《あおな》にしおといったあんばいで、この一週間というもの、ハッター家にはとんとよりつかないしまつなんです。ま、ざっとこんな調子ですが、異常なし、といったところじゃありませんか」
レーンの目がキラリとひかった、「ルイザ・キャンピオンは、まだスミス看護婦の部屋《へや》でやすんでいるのですか?」
「いや、ルイザは神経質でしてね、自分の寝室にもどりましたよ。あの寝室も、すっかりきれいに掃除《そうじ》しましてね、スミス看護婦も一緒にうつって、死んだ婆《ばあ》さんのベッドで寝ていますよ。まったくいい度胸で、私はすっかりあの看護婦を見なおしましたね」
レーンは歩きまわるのをやめると、警部のまんまえに立ちどまった、「じつは警部さん、もう一度、あなたの辛抱と好意にすがろうと、さきほどから言い出す機会をうかがっていたのですがね」
サム警部は椅子から立ちあがった、二人の男は顔と顔をパッと見合わせた――がっしりとした醜《みにく》い大男と、すらりとした長身の筋肉質の老優とが。「どういうことでしょう?」と警部が言った。
「どうかなにもきかずに、承知していただきたいのです」
「こととしだいによりますな」
「よろしい、あなたの部下は、まだハッター家に張りこんでいるわけですね?」
「そうです、で、それがどうしたというんです?」
レーンは、とっさに答えようとしなかった。老優は警部の目をさぐるように見つめた。そのレーンの目には、どこか子供がおねだりをするような色があった。「じつは」と彼はゆっくり言った、「ハッター家に張りこんでいる刑事や警官を、ひとりのこらず、ひきあげてほしいのです」
ドルリー・レーンの常規を逸した考えには慣れているはずのサム警部も、こんな肝《きも》をつぶすような要求を出されようとは夢にも思っていなかった、「なんですと?」警部は大声で叫んだ、「あの屋敷の警戒を全部とっぱずせ、というんですか?」
「いかにも」とレーンはひくい声で言った、「いま言われたように、完全な無警戒状態にするのです、しかも、いますぐにです」
「じゃ、デュービン医師もですか? こいつはおどろいた、冗談《じょうだん》もいいかげんにしてくれませんか、そんなことをしたら、それこそ犯人は野放しになってしまう!」
「私の狙いも、そこにあるのです」
「とんでもない!」とサム警部は大声をはりあげた、「そんなまねができますか! わざわざ、また事件を起こさせるようなもんです!」
レーンはしずかにうなずいた、「やっとあなたも、核心にふれましたね、警部さん」
「それにしても」とサム警部は唾《つば》をとばさんばかりに言った、「ハッター家にだれかいて、家人の生命を保護し、犯人が尻尾《しっぽ》を出したらそいつをつかまえるものがいなければなりませんよ!」
「それならいますよ」
サム警部は思わずギョッとしたようだった。それは、老優の頭が狂っているのではないかと、突然、疑いだしたような表情だった。「だって、警察のものに、ひとりのこらずひきあげてくれと、たったいま、言われたばかりじゃありませんか」
「そのとおりです」
「え?」
「|私が《ヽヽ》いるのですよ」
「あ、そうか!」警部の口調が変った、彼は急に考えこむと、レーンの顔を穴のあくほど見まもった。「なるほど、例の手ですな? それにしても、連中は、あなたがわれわれの一員だということは知っていますからね、なにか工夫でもしないかぎり――」
「私もそのつもりなのですよ」とレーンは生気のない口ぶりで言った、「この私ではなく、だれか、ほかの人間になって張りこむのです」
「そうか、すると、連中が知っているだれかに変装するわけですな、むろん」とサム警部はつぶやくように言った、「いや、悪くないですな、こいつはいける。レーンさん、あなたがまんまと連中の目をごまかすことができるならね。それにしても、こいつは舞台とはわけがちがうし、探偵小説でもないですよ。変装がそんなにうまくゆきますかね――つまり、いくらうまくいったところで……?」
「どうしてものがすことのできないチャンスですからね、それに、私を変装させることにかけては、クェイシーは天才なのです。あの老人の腕がずばぬけているのは、オーバーにならない点ですよ。この私にしろ……はじめて変装するわけじゃありませんしね」レーンはムッとしたような口ぶりで言ったが、すぐ気をとりなおした、「さ、警部さん、いたずらにグズグズしているわけにはいきません、私の要求をいれてくださるのですか、どうでしょう?」
「そうですな、ま、いいでしょう」とサム警部は仕方なさそうに言った、「石橋をたたいて渡るようにしてくだされば、まず危険はありますまい。いずれ近いうちに、うちの連中をひきあげさせねばならないところですからね……わかりました、で、手順はどうします?」
レーンはてきぱきした口調で言った、「エドガー・ペリーはどこにいます?」
「ハッター家に帰しましたよ、いちおう、釈放はしましたが、事件のかたがつくまで足どめを言いわたしています」
「それでは、すぐペリーを呼びよせてくださいませんか。もう一度、ききたいことがあるというような口実で、大至急、こちらへ来るようにしてください」
その三十分後、家庭教師のエドガー・ペリーは、サム警部のいちばんいい椅子に腰かけて、レーンと警部の顔を不安そうに見くらべていた。老優の顔からは、あの憂色があとかたもなくきれいにぬぐいとられていた。彼はおちついていたが、一点のすきもなかった。カメラのような非情な目で家庭教師を観察し、その身のこなしや風采《ふうさい》にこまかい注意をはらっていた。サム警部は顔をしかめ、いらいらした様子で、そのそばに腰をおろしていた。「ペリーさん」やっとのことでレーンが声をかけた、「警察のためにひとはだぬいでいただきたいのです」
「はあ――」ペリーは、いかにも学究らしい夢みるような目に不安の色をたたえて、ぼんやりと答えた。
「じつはハッター家から、警察がひきあげることになりましてね」
ペリーはびっくりすると、身をのり出して叫んだ、「ほんとですか?」
「そうですとも。そのかわり用心のために、だれかに監視してもらわなければなりません」家庭教師の顔からかがやきが消え、ふたたび不安の影があらわれた。「むろん、その人間は、ハッター家に自由に出入りできるもので、そのうえ、家人を見張りながら、彼らに怪しまれずに行動のできるものでなければなりません。おわかりになりますか?」
「ええ――よく」
「警察関係のものがだめなことは、いうまでもないことです」とレーンはてきぱきとつづけた、「そこでペリーさん、ハッター家におけるあなたの身代りに、私をさせてほしいのですよ」
ペリーは目をパチパチさせた、「身代り? いったい、どういうことでしょう……」
「変装技術にかけてはならぶものがないという名人が、私の家にいるのです。あなたに白羽《しらは》の矢をたてたのは、ハッター家のひとたちのなかで、からだつきが私に似ていて、見破られるおそれがいちばんすくないのは、あなたよりほかにないからなのです。私とあなたは、からだつきも身長もほぼおなじですし、顔だちもあまりちがいません。まず、クェイシーの変装技術をもってすれば、私はあなたそっくりの人間になれるでしょうね」
「ああ、そうですね、あなたは俳優ですもの」とペリーは口のなかでつぶやくように言った。
「承知してくださいますか?」
ペリーは、なかなか答えようとしなかった、「さあ……」
「あっさり承知したほうがあんたのためだぜ」と、サム警部がけんのある声で言った、「あんただって、この事件にかけちゃ、あまりえらそうな顔はできないはずだがね、キャンピオンさん」
ペリーのおだやかな目に、キラリと怒りの色がうかんだが、すぐに消えた。家庭教師は肩をガックリと落した、「わかりました、けっこうですよ……」と口のなかでつぶやいた。
第五場 ハムレット荘
――六月十七日(金曜日)午後
朝、サム警部は黒い小型の車にペリーをのせてハムレット荘にやって来た。ハッター家の連中は、ペリーが今日《きょう》一日警察で調べられているものと思っているからと言いのこして、警部自身はその足で帰っていった。
変装となれば、それこそレーンにとって長年にわたってきたえあげてきただけあって、なにもあわてることはなかった。老優は家庭教師のペリーをともなって邸内をゆっくりと歩きながら、演劇や、蔵書や、園芸のことなど、ハッター家のこと以外なら、あらゆることを話題にのせて愉《たの》しげに語らった。ペリーは、ハムレット荘をとりまく夢のように美しい光景にすっかり魅了され、身も心ものびのびとして、かぐわしい空気を胸いっぱいに吸いこんだ。それから、かの有名なマーメイド酒場をそっくり模造した酒場に入って目をかがやかせ、広大なひっそりとした図書室では、ガラスのケースにおさまっているシェイクスピアの初版本を崇敬《すうけい》の念にみちたまなざしでながめ、また、レーンの領地内の在住者たちに会ったり、劇場をのぞいて、クロポトキンという、レーンの演出家であるロシア人と近代劇を論じあったりして、あまりの愉しさにすっかりわれを忘れてしまっていた。ペリーはまるで別人に生れ変ったみたいだった。
レーンは、家庭教師をゆっくりと案内して歩きながら、その午前中というもの、ペリーの表情、身ぶり、手ぶりから、かたときも目をはなさなかった。老優は、その口の形、唇の動かしぐあい、姿勢、歩き方、身のこなしのすみずみにいたるまで観察したのである。昼食のときには、ペリーの食事の仕方を研究した。クェイシー老人も二人のあとについて歩き、ペリーの頭ばかりを鵜《う》の目|鷹《たか》の目で観察していたが、午後のなかばごろになると、しきりに興奮して口のうちでブツブツ言いながら、どこかへ姿をかくしてしまった。
その午後もひきつづきレーンとペリーは、広い敷地内を歩きまわった。もっともこんどは、レーンはたくみに話題をペリー自身にむけていった。そこでしぜんにペリーの個人的な話となった。この男の趣味、先入見、思想、バーバラ・ハッターとの文学的な交際の核心、ハッター家のひとたちとの関係、マーサの子供たちの教え方の程度というようなことを、レーンは知りえた。ここで話が教育のことになると、ペリーはふたたびいきいきとしてきて、参考書はどこで手に入るとか、二人の子供に対する教育法だとか、ハッター家での自分の日常生活をしゃべりだした。
晩餐《ばんさん》をすませると、レーンとペリーはクェイシー老人のちいさな仕事部屋へ行った。そこは、ペリーが生れてはじめて見たといってもいいような、この世のものとは思われぬ部屋だった。近代的な設備がちゃんとそろっているくせに、大時代がかった雰囲気《ふんいき》がただよっていて、ちょうど、中世の拷問所《ごうもんじょ》のような感じだった。一方の壁の棚《たな》には、人間の頭部の模型が目白《めじろ》押しにならんでいて、黄色人種、白色人種、黒色人種といった、ありとあらゆるタイプと種族がそろっていて、その一つ一つが人間のさまざまな表情を一つのこらずうかべていた。また、ほかの壁は、かつら――灰色、黒、褐色、赤、ちぢれっ毛、羽毛のような毛、剛毛、つやのない毛、油でひかっている毛、カールのある毛――色とりどりのかつらでうずまっていた。仕事台の上には、各種とりまぜた顔料、パウダー、クリーム、染料、ペースト、それにこまごまとした金属の道具がところせましとならべられていた。それから、ミシンのような機械、ばかでかい多面鏡、大きな電燈、黒いシェード……。その部屋にペリーが一歩入ったとたんから、いままでの元気はどこへやら、あの例の怖《お》じ気《け》とためらいが身のこなしにあらわれてきた。この部屋の不気味な雰囲気に圧倒されて、フッとわれにかえったものか、たちまち黙りこくると、そわそわと動きだした。レーンは急に心配になりだしたようなまなざしで、ペリーを見つめた。彼はただおちつきがなく部屋のなかを歩きまわっていた。その、グロテスクに長くのびたペリーの影が、歩きまわるにつれて、壁にゆらゆらと動いていった。
「ペリーさん、服をおぬぎになっておくんなさい」クェイシー老人はキイキイ声をはりあげた。彼はさもせわしげに木型《きがた》にかかりきっていて、人間の毛髪でつくった異様なかつらに、最後の仕上げをしているところだった。
無言のまま、ペリーはのろのろと服をぬいだ。レーンはさっさと自分の服をぬぎすてると、ペリーの服に着かえた。服はピッタリだった。二人のからだつきは、ほとんどくるいがなかったのだ。
ペリーは化粧着《けしょうぎ》を身にまとうと、身をふるわせた。
クェイシー老人はせかせかと動きまわった。さいわい、顔つくりはたいして手数がかからなかった。レーンは、鏡のまえの妙なかっこうの椅子に腰をおろすと、せむしの老人は仕事にかかった。その節《ふし》くれだった指には、なにか神秘的な力がこもっているかのようだった。鼻と眉《まゆ》にかるく手がくわえられ、頬《ほお》と顎《あご》の形状を変えるためにふくみ綿が用いられた。みるみるうちに、目がたくみに仕上げられ、眉の毛がそめられた。ペリーは、息をのんで見まもっていた。その目には、決意の色がうかんできた。クェイシー老人は威勢よく合図してペリーを腰かけにすわらせると、彼の髪形や頭の恰好《かっこう》を見ながら、レーンの頭にかつらをかぶせ、鋏《はさみ》をとり出した……
二時間で、変装は仕上った。ドルリー・レーンが椅子からスックと立ちあがった。ペリーの目は恐怖に大きく見ひらいた。いま彼は、自分で自分の姿を見るという、まさに異様な、信じがたいショックに身をさらしたのだ。レーンが口をひらいた、すると、ペリー自身の声がひびいてきた――唇の動きまでそっくりではないか……
「ああ、やめてください!」突然、ペリーが叫んだ、その顔はひきつり、すごく紅潮していた。「いけない! そんな、そんなまねはすぐやめてください!」
レーンの目に狼狽《ろうばい》の色があらわれ、ペリーに似せた声が消え、ふたたびレーンは、自分の声にもどった、「いったい、どうしたというのです?」と彼はおだやかにたずねた。
「あんまり似すぎているんです! いくら変装だからといったって……とても黙ってはいられません、やめてください!」ペリーは腰かけにうずくまると、肩をはげしくふるわせた。「ぼくは――バーバラを……バーバラをだますようなまねを……」
「私がいくら変装したところで、彼女になら見やぶられてしまうだろうと、あなたは思っていたわけですね?」その目にあわれみの色をたたえながら、レーンが言った。
「ええ、そうなんです、きっと彼女なら、ぼくが無理やりに承知させられたということをすぐわかると思ったんです……でも、こんなに変装がうますぎてはとてもだめです、やめてください!」ペリーは歯をくいしばると、パッと立ちあがった。「レーンさん、どうしてもぼくの身代りになろうというのなら、ぼくは腕ずくでも妨害します。そんな変装なんかして、バーバラをだますのを黙って見ているわけにはいきません」ペリーは言葉をきると、身がまえた。「あのひとをぼくは愛しているんです、さ、ぼくの服を返してください」
彼は化粧着をぬぎすてるなり、目に反抗と決意の火をギラギラと燃やして、レーンの方に一歩つめよった。と、これまでポカンと口をあけて見ていたクェイシー老人は、おどろいて叫び声をあげると、仕事台から一丁の重い鋏をわしづかみにして、猿《さる》のようにとび出した。
レーンは、老人の行手をさえぎるなり、その肩をやさしくたたいた、「いけないよ、クェイシー……ペリーさん、たしかにあなたの言われるとおりだ、まったくそのとおりですよ。ひとつ、今夜はうちのお客さんになってくださいませんか」
ペリーは口ごもった、「いや――ぼくこそたいへん失礼しました――べつにあなたをおどかすつもりはなかったんです」
「私の判断がどうかしていたようです」とレーンはきっぱりした口調《くちょう》で言った、「バーバラさんに、すっかり事情をあかさないかぎり、こんなまねをすべきではありませんでしたね……そうだ、こんな変装はやめてしまったほうがいい、クェイシー、そんなににらむものではないよ」老優はかつらをいくぶん苦労しながらぬぐと、狐《きつね》につままれているような顔をしているクェイシー老人の手にのせた。「このかつらは、私のばかさかげんと、このペリーさんの、婦人に対するいかにも紳士らしい真情を記念して、大切にしまっておいておくれ……」そう言うなり、レーンは、ペリーの見ているまえで、めざましい早変りを演じてみせた。アッという間にもとの老優にかえると、目を二度ほどまたたいてから、微笑をうかべた、「ペリーさん、うちの劇場へ行ってごらんになりませんか? いま、クロポトキンが新しい出しものの本稽古《ほんげいこ》をやっていますよ」
ペリーは自分の服に着かえ、レーンの劇場へフォルスタッフに案内されて行ってしまうと、老優はいままでうかべていたさりげない表情を一瞬のうちに消し去った。「クェイシー! 大急ぎだ、サム警部に電話をかけてくれ!」老人はびっくり仰天《ぎょうてん》して、壁ぎわにかけつけると、やせさらばえた手で隠し電話をつかんだ。レーンは、その背後を、待ちどおしそうにせかせかと歩きまわった。「大至急! 大至急! クェイシー、一秒も無駄にはできないのだ」
しかし、警部の居所《いどころ》をつかむのにはほねがおれた。警察本部にいないのだ。
「それでは自宅だ」
電話に出てきたのは奥さんだった。クェイシー老人はキイキイ声をはりあげた。いかにもひとのよさそうな奥さんは電話口でためらった……どうやら警部は安楽椅子でいびきをかいているようだった、それで奥さんは警部を起こすのをためらっているのだ。「こちらはドルリー・レーンですよ!」とクェイシー老人は必死になってどなった、「緊急の用件なんですよ」
「おお!」老人の耳に、電話ごしにきこえていた、まるで雷のようなものすごい音が、ピタッととまると、警部の、例ののぶとい声がきこえてきた。
「ハッター家から警察の連中がひきあげたかどうか、きいてごらん!」
クェイシー老人はどもりどもり、レーンの言葉をつたえてから、警部の返事を忠実にききいった。「まだだそうです、今夜、旦那さまがおいでになりしだい、警戒をとくと言っております」
「それはよかった! 作戦を変えたから、ペリーの身代りでのりこむのはやめた、と言っておくれ。明日《あした》までひきあげるのは待つようにね。明日の午前中にこちらから出むくから、ひきあげるのはそれからにしてくれるように」
ききかえしてくるサム警部の大声が、受話器にビリビリひびいてきた。「どういうわけか、それが知りたいと警部さんは言ってます。ぜがひでも理由がききたいそうで」とせむしの老人は、むこうの意向をつたえた。
「いまは説明できない、どうぞよろしくと言って、電話をきってしまうんだよ」
ほんの運動シャツ一枚で部屋のなかを歩きまわっているのにも気がつかず、ドルリー・レーンはクェイシー老人に身ぶりもあらあらしく大声で叫んだ、「こんどはメリアム医師のところへかけておくれ! 番号はニューヨークの電話帳に出ている」
クェイシー老人は親指に唾《つば》をつけて、あわててページをめくりだした。「メリ……メリア……Y・メリアム、医師、こいつですね?」
「そうだ、大至急!」
クェイシーは交換手に番号を告げた。と、すぐ女の声が出た、老人はキイキイ声をかすらせて言った、「メリアム先生をおねがいします、こちらはドルリー・レーンです」
キンキンひびく女の声にききいりながら、老人のしわくちゃな褐色の顔に、落胆の色がうかんだ。「先生は留守《るす》だそうです、週末で、今日の午後、ニューヨークをたたれたそうで」
「そうか」ドルリー・レーンはおちついて言った、「週末でね? それなら……まあいい、電話をきっておくれ、よくお礼を言ってな、これはめんどうなことになってきたぞ」
「つぎの電話は?」クェイシー老人はジリジリしながら、レーンの顔を見上げた。
「いや」ドルリー・レーンは意味深長な微笑をうかべながら答えた、「もっといい考えがうかんだぞ」
第六場 死の部屋
――六月十八日(土曜日)午後八時二十分
土曜日の正午にあと数分というとき、ドルリー・レーンのリムジンがハッター家のまえの車道のふちにとまり、なかからエドガー・ペリーとレーンがおり立った。ペリーは顔面|蒼白《そうはく》だったが、決意の色がありありとうかんでいた。レーンクリッフからここに着くまでのあいだというもの、彼は一言もしゃべらなかった。レーンもまた、ペリーのすきなようにさせておいたのだ。
玄関のベルを鳴らすと、刑事のひとりが出てきた。「お早うございます、レーンさん。あんたも一緒だったんだね、ペリーさん」だがペリーは見むきもせず、足ばやに廊下を歩いてゆくと、階段をのぼっていってしまった。刑事はレーンにウインクしてみせた。
レーンは、ホールをぬけて屋敷の裏手に行きかけたが、途中で足をとめると、思いなおして料理室に入っていった。ほんの数分で、そこから出てくると、こんどは図書室にむかった。なかには、コンラッド・ハッターがいて、机にむかって、なにか書いていた。「やあ、コンラッドさん」とレーンは親しみをこめて言った、「もう、いやな目に会わないですみそうですよ」
「なんですって? いったい、どういうことなんです?」と、コンラッドはパッと顔をあげるなり、叫んだ、その目の下には、黒いくまができていた。
「いま、耳にしたばかりですがね」と、腰をおろしながら、レーンは言った、「午前中で警戒がとかれるという話ですよ、やっとこれで、警察がひきあげるわけです」
コンラッドは口のなかでつぶやいた、「へえ、そいつはいいころあいだ、ただなにもしないでブラブラしていたんだからな、もう半月にもなるというのに、おふくろを殺した犯人をあげるどころか、まるっきり目鼻がつかないじゃありませんか」
レーンは渋面《じゅうめん》をつくって、「私どもは万能というわけにはまいりませんからな……やあ、お早う、モッシャー君」
「お早うございます、レーンさん」モッシャー刑事は象《ぞう》のような足どりでノッシノッシと図書室に入ってくると、威勢のいい声をあげた。「や、これはこれは、コンラッドさん、いよいよ、お別れですよ」
「レーンさんからきいたばかりですよ」
「警部の命令でしてね、私たちは全員、正午きっかりにおさらばというわけです。心のこりですがね、コンラッドさん」
「心のこり?」コンラッドがききかえした。彼はやにわに立ちあがると、両腕をグンとのばした、「冗談じゃない、こいつは、ねがってもない厄介《やっかい》ばらいだよ! これで、この家のなかもせいせいするというもんだ」
「それにプライヴァシーを侵害されずにすむというものだわ」女のとんがった声がした。ジル・ハッターが図書室に入ってきたのだ、「兄《にい》さん、もうこれからは、あたしたち、だれにも気がねしないで、すきなことができるのね」
今日《きょう》までハッター家におみこしをすえていた四人の男――刑事のモッシャー、ピンカッソン、クラウスに、色の浅黒い飲食物の毒見役《どくみやく》デュービン医師が図書室の戸口のところに集まった。「じゃ、みんな」とピンカッソン刑事が言った、「これでおいとましようじゃないか、私は女の子とデイトがあるんでね、ハッハッハ!」彼は部屋もゆらぐばかりの大声をたてて笑いだした。と、その笑い声の余波がまだ消えぬうちに、彼は息をハッとのみ、まるで魔術にかかったみたいに、笑い声がピタッととまった。彼は、椅子に腰かけているレーンの姿を食いいるように見つめていた。みんな、いっせいにその視線を追った。ドルリー・レーンは、ガックリと首を椅子の背にもたれかけたまま、両眼をとじ、顔面を蒼白にして――気を失っているではないか。
みんながハッと息をのむ間に、デュービン医師がすごい勢いでとび出した。ピンカッソン刑事があえぎあえぎ言った、「突然、ガクッときたんだ! 顔面が紅潮したと思ったら、とたんに息がつまり、そのまま気絶してしまったんです!」
デュービン医師は、椅子のそばにひざまずくや、レーンの胸もとを手あらくひきあけると、その胸に耳をおしあてて、心音《しんおん》にききいった。医師の表情は深刻だった。「水!」彼はひくい声で命じた、「それとウィスキー、大急ぎ」
ジルは壁にもたれたまま、ただ見つめていた。コンラッド・ハッターは、口のなかでブツブツつぶやきながら、戸棚からウィスキーの壜《びん》をとり出した。刑事のひとりが料理室にかけこみ、コップに水をくんであわててひきかえしてきた。デュービン医師はむりやりにレーンの口をこじあけると、のどの奥に、たっぷりとウィスキーをながしこんだ。意気ごみすぎた刑事が、コップの水を、レーンの顔にぶちまけた。まさに効果てきめんだった。レーンはモグモグと口を動かすと、白眼《しろめ》をむいて、ギョロギョロ動かし、やきつくようなウィスキーにむせて咳《せき》こんだ。「ばかなまねはよせ!」とデュービン医師は、その刑事を頭からどやしつけた。「いったい、レーンさんを殺すつもりか? さ――手をかしてくれたまえ……コンラッドさん、レーンさんをやすませるところはありませんか? すぐ、ベッドに寝かせなければ、なにしろ心臓の発作《ほっさ》だから……」
「ほんとに毒薬にやられたわけじゃないのね?」とジルがあえぎながら言った。バーバラ、マーサ、その二人の子供たち、家政婦のアーバックル夫人が、騒ぎをききつけて、駆けつけてきた。
「まあ、なにがあったんです?」バーバラがおびえきった声で言った、「レーンさんがどうかなさったの?」
「どなたか手をかしてくれませんか?」デュービン医師は死んだようになっているレーンのからだを椅子から抱きおこすのにてこずりながら、肩で息をしいしい言った。
ホールから牛のほえるような声がきこえてきた。戸口にかたまっているひとびとをかきわけるようにして、赤毛の運転手のドロミオがとびこんできた……
十五分ほどたって、屋敷のなかはやっと静けさをとりもどした。レーンの死んだみたいになっているからだは、デュービン医師とドロミオの手で、二階の客間に運ばれていった。三人の刑事はただ気ばかりもんでなすところもなくつっ立ってながめていたが、とどのつまり、警部からなんの沙汰《さた》もないので、レーンとハッター家のひとたちをなりゆきにまかして、ぞろぞろとひきあげていった。結局のところ、たんなる心臓の発作では、「事件」の部類に入らないのだ。ほかの連中は、ピッタリと閉ざされている客間のまえに集まっていた。ドアのなかからは、もの音ひとつしなかった。と、だしぬけにドアがあいて、ドロミオが赤毛の頭をつき出した、「さわがしいから、ドアのまえには立たないように、と先生がおっしゃっています」そしてまた、ドアがピタリとしまった。
連中は足音をしのばせるようにして、その場からはなれていった。三十分すると、デュービン医師がその部屋から出てきて、階下へおりていった。「絶対安静を要します」と彼は家人につげた、「生命に別状はありませんが、ここ一両日は動かすわけにはまいりません、どうか、しずかにさせておいてください。運転手のドロミオさんがつきそっていて、動けるようになるまで看病することになりました。私はまた明日まいりますが――それまでには、レーンさんの容体《ようだい》はずっとよくなると思います」
その夜の七時三十分、ドルリー・レーンは、「心臓の発作」の仮病《けびょう》のおかげで、人目をしのんでできる仕事にとりかかった。デュービン医師の命令がものをいって、だれひとり、「病室」に近づくものはいなかった。もっともバーバラ・ハッターはだれにも相談しないでメリアム医師の病院に電話をかけて往診を乞うた――たぶん、医者がいなくては、なんとなく不安でたまらなかったのだ――だが、あいにくと医師は週末旅行に出かけているということだったので、これ以上、よけいなおせっかいはしなかった。ピッタリとしめきったドアの奥におみこしをすえている運転手のドロミオは、まえもってポケットに葉巻と雑誌をねじこんできたので、その午後は時間をもてあますというほどのこともなかった。すくなくとも、レーンの緊張した表情から比較すれば、主人より運転手のほうがよっぽど気が楽なことはたしかだった。
六時に、バーバラからの言いつけで、家政婦のアーバックル夫人が軽い夕食をつくって、客間に運んできた。ドロミオはケルト人特有の鄭重《ていちょう》さで、そのお盆を受けとると、レーンさまはよくおやすみになっていますと言うなり、仏頂面《ぶっちょうづら》のアーバックル夫人の鼻先で、ドアをしめてしまった。それからほどなくして、スミス看護婦が、自分の職業柄、なにかしないわけにはいかないとでも思ったのか、「病室」のドアをノックして、手伝うことはないか、と声をかけた。ドロミオは、彼女をうまく言いくるめるのに五分ばかりかかったが、とどのつまり、これも鼻先でドアをしめられただけだった。もっとも、看護婦のほうは、これでいちおう義理はすんだものとかえってホッとしたらしく、首をふりふり、立ち去っていった。
七時三十分になると、ドルリー・レーンはムクムクとベッドから起きあがり、ささやくようにドロミオに声をかけて、ドアのかげになるところに立った。ドロミオはドアをあけて、廊下を見渡した。人影はなかった。彼は廊下に出てドアをしめ、あたりを歩きまわった。スミス看護婦の部屋のドアがあいていたが、なかにはだれもいなかった。実験室と子供部屋のドアはしまっていた。ルイザ・キャンピオンの部屋のドアは開いたままだった。ドロミオは、そのなかにだれもいないことをたしかめると、客間にサッとひきかえした。それと入れかわるようにして、ドルリー・レーンは足音をしのばして廊下をすすみ、死の部屋――ルイザ・キャンピオンの部屋にすばやく入った。老優は一直線に衣裳戸棚のドアをパッとあけると、そのなかに身をかくした。それから、部屋の様子がわかるだけのすき間をあけて、目のまえの扉をしめた。廊下にも、ほかの部屋にも、また、いまいるこの部屋にも、なんの物音もしなかった。死の部屋は、みるみるうちに暗くなってしまった。せまい衣裳戸棚のなかは、息苦しかった。とはいえ、おびただしい婦人服がつるしてある奥の方へ、レーンはさらにからだをしずめて楽にすると、大きく息を吸って、これからの長い見張りにそなえた。
時は刻々とすぎていった。客間のドアのかげにうずくまっているドロミオの耳には、ときおり廊下でする人声や階下のかすかな話し声が入ってきたが、耳のきこえないレーンには、外の物音など、なにひとつわからなかった。いわば彼は、完全に遮断された暗黒のなかにいるのだ。彼が身をかくしている死の部屋には、だれも入ってこなかった。
七時五十分、レーンの腕時計の夜光文字がその時刻を示したとき、はじめてひとの入ってくる気配《けはい》がした。動物的な本能のようなもので、老優はサッと緊張に身をこわばらせると、警戒の姿勢をとった。と、突然、部屋の電気がパッとついた。電燈のスイッチが、いま入っている戸棚の左側、ドアの右側の壁にあるのを、彼は思い出した。そうだ、だから、部屋に入ってきたものの姿が見えないわけだ、と胸のなかで彼はつぶやいた。もっとも、そんなことをグズグズ考えているまでのこともなかった。スミス看護婦の肉づきのいいからだが、戸棚のすき間を横ぎったのだ。彼女はズッシリとした足どりで絨毯《じゅうたん》の上を歩いてくると、つがいのベッドのあいだに入っていった。いま、電燈のあかあかとついたこの部屋を見ると、すみずみまできれいに掃除《そうじ》してあり、きちんとかたづけられていて、あの惨劇の痕跡《こんせき》はどこにものこっていなかった。
スミス看護婦は、ナイト・テーブルに歩みよると、ルイザ・キャンピオンの点字盤と駒をとりあげた。と、そこできびすをかえしたので、看護婦の顔がレーンに見えた。いかにも疲れているといった感じで、ため息をついた拍子《ひょうし》に、もりあがっている胸が大きく波うった。それから、ほかのものには手をふれずに、レーンがのぞいている戸棚のすき間を横ぎって、ドアの方に歩いていった。と、すぐ電燈が消えて、レーンはふたたび闇《やみ》のなかにとりのこされた。彼は全身から力をぬき、額《ひたい》の汗をぬぐった。
八時五分、死の部屋に第二の訪問者があった。ふたたび電燈がパッとつき、絨毯の上を足をひきずるようにして歩いてくるアーバックル夫人の、長身をまえのめりにした姿がレーンの目に入った。彼女が肩で息をしているのは、階段をあがってきたせいだとレーンは見てとった。お盆に、バターミルクの入っている背の高いコップとちいさなケーキを盛ったお皿をのせて運んできたのだ。そのお盆をナイト・テーブルの上におくと、顔をしかめ、頸《くび》すじのあたりをこすってから、クルリとむきをかえて、部屋を出ていった。だが、こんどは――アーバックル夫人の不注意を、レーンはどんなに心のなかで手をあわせて拝んだことか――そのまま電気を消さずに出ていってしまったのだ。
それこそ、まったくのだしぬけだった。家政婦が立ち去ったその四分後、八時九分だった。いまのいままでそよとも動かなかった向う側の窓のブラインドの一つがかすかにゆれたのにレーンは気がつくと、サッと緊張した。老優は戸棚のなかで身を低くかがめ、全身に力をこめると、すき間をほんのわずかひろげて、問題の窓に目をこらした。と、突然、おりていたブラインドがめくりあがった。庭園を見おろす二階の外側の壁にそって走っている窓の張出しのところに、ピッタリとはりついている人影を、レーンははっきりと見た。その影は、数秒間、そのままの姿勢で動かなかったが、やがてヒラリと窓を越えると、部屋の床《ゆか》にとびおりた。ついいましがたまでしまっていた窓が、ちゃんと開いているではないか。
アッという間に、その人影は部屋を横ぎって入口のドアの方につっ走り、レーンの視界から消えた。だが、その侵入者はドアをしめにいったとみえて、またすぐひきかえしてきた。電気はついたままだった。こんどは、まっすぐに煖炉にむかった。煖炉は、戸棚のすき間から、かろうじて見えた。侵入者はほんのわずか身をかがめて煖炉のなかにしのびこむと、その両足がスルスルと上の方に消えていってしまった。レーンは心臓をドキドキさせながら、固唾《かたず》をのんで待っていた。ほんの数秒後、侵入者が煖炉から出てきた。レーンが煙突のなかの煉瓦《れんが》の隠し穴にわざとのこしておいた、あの白い液体入りの試験管と点滴器を手にしていた。侵入者は部屋をつっ走ると、ナイト・テーブルへ行った。目をギラギラさせながら、その上のバターミルク入りのコップに手をのばした……戸棚のなかのレーンの背筋をつめたいものがはしった。ほんの一瞬、侵入者はためらった……と、すぐ決心したかのように試験管の栓をぬき、アーバックル夫人が運んだバターミルクのコップのなかへ、白い液体を全部そそぎこんだ。
目にもとまらぬ早業《はやわざ》だった。一飛びに窓にかけもどると、庭園にひとの気配のないのをすばやくたしかめて、窓わくをのり越え――外へ出てから、ガラス窓とブラインドをおろした。ただブラインドが、全部おりきらずに、すこしすき間がのこったのに、レーンは気がついた。……老優はため息をつき、足をのばした。彼の表情は、まるでモルタルで固めたみたいにこわばっていた。はじめからおしまいまで、三分とはかからなかった。レーンが腕時計を見ると、きっかり八時十二分だった。
幕間《まくあい》……なにごともなくすぎていった。問題のブラインドは微動もしなかった。また、レーンは額の汗をぬぐった。全身の汗が、服の下をしたたり流れていた。
八時十五分、レーンはふたたび緊張した。二つの人影が、彼の視界をすぎるとき、一瞬、電燈の光をさえぎった――そのひとりはルイザ・キャンピオンだった。この屋敷のなかや、そのまわりを歩くときの、ゆるやかではあるが自信にみちた足どりで部屋のなかに入ってきたのだ。そのあとから、スミス看護婦がついてきた。ルイザはいささかのためらいもなく自分のベッドに近づくと、その上に腰かけて足をくみ、夜のきまりといった感じで、ごく機械的に、ナイト・テーブルに手をのばして、バターミルクのコップをとった。スミス看護婦は暗い微笑をうかべると、ルイザの頬をやさしくたたき、右の方へ歩いていった――そうだ、彼女は浴室へ行くのだ、部屋のつくりを思い出して、レーンはこう見てとった。老優はじっと目をこらしていた、それはルイザではなく、侵入者が出ていった窓だった。はたして、ルイザがバターミルク入りのコップを唇に近づけると、全部おろしきらなかったブラインドのすき間から、窓ガラスにぴったりと顔をおしつけて、用心深くのぞきこんでいる黒い影を、レーンの目はとらえた。その顔は緊張に蒼《あお》ざめ、まるで死人のようだった。
ルイザはといえば、例のうつろな、無邪気な表情をうかべたまま、しずかにバターミルクを飲みほすと、そのコップをテーブルにおき、ベッドから腰をあげて、ドレスのボタンをはずしだした。
問題は、この一瞬にあった。レーンは、目が痛むほど焦点《しょうてん》をしぼりつづけていた。窓ガラスにはりついている顔は――これだけは神かけて断言できる――一瞬、信じられないといった驚きの色を見せ、それからひどい失望の色に変っていった。そして、まるで玩具《がんぐ》の人形のように、その顔はひょっこりと消えてしまった。
スミス看護婦がまだ浴室でさかんに水音をたてているすきに、レーンはそっと戸棚から出ると、足音をころしてルイザの部屋からにげ出した。ルイザ・キャンピオンはふりむきもしなかった。
第七場 実験室
――六月十九日(日曜日)午後
日曜日の朝、みたところ、ハッター家でただひとり、ドルリー・レーンの容体《ようだい》を気づかってくれているらしいバーバラに、運転手のドロミオはつたえた、「旦那《だんな》さまはおかげさまで昨日《きのう》より元気になられましたよ――いいえ、それはもうすっかり、それにしても旦那さまは、昼すぎまで、客間でまだやすんでいたいと言われますので、そのまま、そっとしずかにさせておいていただけましょうか?」
バーバラは、どうぞ、ごゆっくりと答えた。おかげでドルリー・レーンは、だれにも邪魔をされなかった。
十一時、デュービン医師がやって来て、客間にとじこもって「患者」となにか話しあっていたが、それから十分もすると部屋《へや》から出てきて、「患者」の容体は、ほとんど回復したと家人に言って、帰っていった。
正午をすぎてほどなく、レーンは昨夜のような秘密調査をもう一度くりかえした。その顔色ときたら、彼がほんとに病気だとしても、これ以上悪くはあるまいと思われるくらいひどいものだった。顔はすっかり憔悴《しょうすい》しきっていた。まんじりともせず一夜をあかしたのだ。いま、ドロミオが合図すると、老優は肩をすぼめ、足音をころして廊下にすべり出た。だが、今日(日曜日)の偵察目標は、「死の部屋」ではなかった。彼はすばやく実験室のなかに入った。あらかじめじっくりと計画がねられていたものか、彼の行動はきわめて迅速《じんそく》だった。まず、実験室に入ると、ドアの左手にある衣服戸棚のなかに身をひそめ、室内が見とおせるだけの細いすき間をのこして、戸棚の扉をしめた。そして、ここでもまた、待機の姿勢をとった。
うわべだけを見たかぎり、こんなまねをするのは、いかにも無駄でばかげたことのように思われる。息のつまりそうなまっ暗な箱のなかにうずくまり、それも、どんな大きな物音がしようとまるっきりきこえないつんぼの身で、細いすき間からじっと目をこらして室内を見張りつづけている――何時間も、いつはてるとも知らず、ただじっと。じじつ、何時間たってもなにひとつ起こらず、だれひとり実験室に入って来ず、なにかが動く気配も、彼の目にはうつらなかった。
その日の午後は、はてしなくだらだらとつづいた。レーンの考えがどのようなものであれ、それは狂暴な、煮えたぎるような絶望的なものにちがいないのだが、一瞬たりとも、見張りの目をゆるめるわけにはいかなかった。だが、とうとう、午後四時に、待望のものが姿をあらわしたのだ。
まずはじめに気がついたのは、レーンの視野を飛ぶように横ぎった一つの人影だった。それは、彼の位置からは見えないドアの方角から室内に入ってきたのだ。むろん、彼の耳には、そのドアのひらく音も、またしまる音もきこえるはずがなかった。これで、何時間にもわたる緊張の疲労も、いっぺんに吹きとばされ、彼はのり出して、衣服戸棚のすき間に目をおしあてた。その影は、昨夜の侵入者だった。
その侵入者は一瞬もためらわなかった。実験室の左側にま一文字《いちもんじ》に突進すると、薬品棚のそばで足をとめた。それが、レーンの身をしのばせている戸棚のごく近くだったものだから、侵入者の息をはずませている様子まで手にとるようにわかった。侵入者の片手が薬品棚の下段にサッとのびた――焼けのこりの薬品壜の一つをとった。そのとき、その壜にはってある赤いラベルに、クッキリと白ぬきで劇薬としるされているのを、レーンは見た。侵入者は、そこにたたずんだまま、その壜をまじまじと見つめていた。と、やがて実験室のなかをひとわたり見まわしてから、窓ぎわの、部屋の左すみに掃きよせられた壜の破片の山に歩みよると、ちいさな空壜をさがし出した。それから、流しの水道で、その壜をゆすごうともせずに、そのまま、劇薬の壜の中味を空壜にうつし、口に栓をすると、劇薬の壜を、もとの棚にかえし、きわめて慎重な足どりで、レーンがかくれている戸棚にむかって歩いてきた……一瞬、レーンは、侵入者の火のように燃えている目をまざまざと見た……だが、その目は、老優のまえを素通りすると、入口のドアの方に過ぎていってしまった。
かなりながいあいだ、レーンは窮屈な姿勢でじっとうずくまっていたが、やがて立ちあがると、戸棚からいそいで出た。入口のドアはしまっていた。侵入者の姿はすでになかった。老優は、侵入者がどんな劇薬を盗み出したのか、それをたしかめてみようとさえしなかった。彼はただ、床の上に立ちつくしているだけだった、ちょうど、はかりしれぬほど重い責任を背負わされて、それに耐えかねている老人のように、腰をかがめてぼんやりとドアを見つめているのだった。やがて苦痛が消えさると、いつものドルリー・レーンにたちかえった。いくぶん、血色が悪く、まえかがみになっているところなど、いかにも心臓|発作《ほっさ》から回復しかけたばかりの老人といった感じだった。いささかよわよわしげに見えたが、それでも確信ありげに実験室を出ると、侵入者のあとを追っていった。
警察本部。夕刻。
本部はひっそりとしずまりかえっていた。勤務時間がおわったあとだったので、夜勤の巡査をのぞいたら、廊下にはまるで人影がなかった。ブルーノ検事が足音もあらく廊下を歩いてくると、「サム警部」とドアに名前がある部屋に、勢いこんで入ってきた。サム警部はデスクにすわっていて、スタンドの光だけで、前科者の写真帳に見入っているところだった。
「どうなんだね、サム君?」と検事が声をかけた。
警部は写真帳から目をあげなかった、「なんです――いったい?」
「レーンさんのことだよ! なにか連絡があったかね?」
「いいえ、いっこうに」
「そいつが心配でならんのだ」とブルーノ検事は顔をしかめた、「だいたい、君があんなことを許可するなんて、まったくの気ちがい沙汰というものだよ、サム君、ひょっとすると、たいへんなはめになるかもしれんぞ。家族の生命を保護する警察官を、ひとりのこらずひきあげてしまうなどと……」
「なんです、人身保護令のお説教ですか」とサム警部はうなり声をあげた、「いったい、われわれにどんな損があるというんです? どうやらレーンさんには目算《もくさん》があるらしいが、われわれときたら五里霧中で手の打ちようがないんですよ」警部は写真帳をほうり出すと、あくびをした、「あなただって、レーンさんのやり口を知りぬいているはずじゃありませんか――確信がつくまで、一言も口外しないのが、あのひとのいつものでんですからな、ま、レーンさんにまかしておきましょうよ」
ブルーノ検事はかぶりをふった、「いや、私にはどうしても賛成できんね、万一、ことが起こったら……」
「どうか、やめてくれませんか」とサム警部は声をあらだてた。その小さな目が、ギラギラひかった。「そんな婆《ばあ》さんのぐちみたいなことをきかないまでも、こっちの頭だって、気がかりで――」そこまで言いかけて、びっくりして口をつぐんだ。デスクの電話が、けたたましく鳴りだしたのだ。ブルーノ検事はサッと緊張した。警部は受話器をもぎとった。「もしもし」彼はしわがれ声で言った。
興奮した声が受話器からながれてきた……サム警部はききいっているうちに、その顔はどす黒く充血していった。やがて、一言も言わずに受話器をガチャリとかけると、警部はドアをめがけて突進した。ブルーノ検事は、あわをくって、そのあとを追った。
第八場 食堂
――六月十九日(日曜日)午後七時
その午後、ドルリー・レーンは消えいるような微笑をうかべながら、ハッター家のひとたちと話をかわしながら、屋敷のなかを歩きまわっていた。この日は、ゴームリーも早くから訪《たず》ねてきていて、レーンは、この青年ともしばらくあたりさわりのない雑談をかわした。トリヴェット船長は、ルイザ・キャンピオンやスミス看護婦と一緒に、午後のあいだ、庭園でぶらぶらしてすごした。ほかの連中は、そわそわと屋敷のなかをあてもなく歩きまわり、まだ、おたがいに警戒の目で見あっていて、めいめいの生活に腰をおちつけるわけにいかないらしかった。
それにしても、レーンが一度も腰をおろそうとしなかったことは、注目に価いする。老優は、屋敷のなかを休みなしに動きまわり、目はたえずあたりの様子をうかがい、なにものかを必死に追い求めているのだ……
六時四十五分、レーンは運転手のドロミオにそっと合図した。すると、ドロミオは老優のそばによってきて、二人はなにやら小声でささやきあっていた。やがて運転手は屋敷から出ていったが、五分もすると、ニヤニヤ笑いながらもどってきた。
七時、慈愛にみちた微笑をその顔にたたえながら、レーンは食堂の一隅《いちぐう》に腰をおろしていた。テーブルには夕食がととのい、家人たちはあいかわらず元気のないグッタリとした様子で食堂にポツリポツリと入ってきた。と、ちょうどそのとき、サム警部とブルーノ検事が、ひとかたまりの刑事をひきつれて、屋敷にドヤドヤとのりこんできた。
椅子から立ちあがって警部と検事を迎えたレーンの顔には、微笑の影がかき消えていた。一瞬、食堂にいたものは、そのまま化石となってしまったようだった。ルイザとスミス看護婦は、すでにテーブルについていた。マーサ・ハッターとその二人の子供たちは、ちょうど椅子に腰をおろしたばかりだった。バーバラは、サム警部が食堂にあらわれたとき、ほかの入口から入りかけようとしたところだった。サム警部は、となりの図書室で、コンラッドが例のごとく酒を飲んでいるところを見た。ジルの姿はなかった。だが、このときトリヴェット船長とジョン・ゴームリーは、ルイザが腰をおろしている椅子のうしろに立っていた。
レーンが口をひらくまで、だれひとりしゃべろうとするものはいなかった。「これは、警部さん」老優がはじめて声をかけた。一同はこれでホッとしたように、めいめいの椅子にそ知らぬ顔で腰をおろした。
サム警部はのぶとい声で挨拶《あいさつ》をかえした。すぐうしろにいるブルーノ検事とともに、レーンの方に歩みよると、しんけんな表情で顎《あご》をしゃくった。老優と警部と検事の三人の男は、食堂のすみで額《ひたい》を集めた。だれもそれに注意をはらうものはなかった。食卓についている家人たちはナプキンをひろげた。家政婦のアーバックル夫人が食堂に姿を見せた。それから女中のヴァージニアが、料理をのせた重い盆をもって、あぶなっかしい足どりで入ってきた……「どうしたんです?」とサム警部がささやくように言った。
レーンの顔に、また疲労の色がよみがえった。「いや、警部さん」老優はこれだけしか言わなかった。しばらく、三人の男は黙りこくっていた。
やがて警部が不服そうな口調《くちょう》で言った、「お宅の運転手から、いま電話できいたばかりなんですがね、もうなにもかもおわったから、事件から手をひくという話じゃありませんか」
ブルーノ検事がかすれた声で、横から言った、「もう脈がないのですか?」
「そのとおりです」とレーンはひくい声で言った。「みごとに失敗しました。私はあきらめますよ、実験をしてみたのですが……だめでした」
サム警部もブルーノ検事も、一言も発しなかった。ただレーンの顔を見つめているばかりだった。「もう私には打つ手がありません」と老優は言葉をつづけた。その目に、苦悶《くもん》の色をありありとうかべて、警部の肩ごしの、なにものかを、レーンはじっと見すえていた。「ハムレット荘にひきあげたかったものですから、それで電話でお知らせしたわけなのですよ。いずれにしろ、もう一度警察の方に、この家の見張りをしてもらわないうちは、私もひきあげるわけにはまいりませんからね――ハッター家の家人の生命を保護するためには……」
「そうですか」サム警部はふたたびにがりきった口ぶりで言った、「じゃ、あなたも犯人にしてやられたわけですな」
「いや、残念ながらそのとおりです。今日の午後に、最後の希望をつないでいたわけですが、いまとなっては……」レーンは肩をすくめた。「ねえ、警部さん」老優は自嘲《じちょう》の笑いをもらしながら言葉をかさねた、「どうやら私は、自分の腕を過信していたようですね。去年のロングストリート事件がうまく解決したのも、あれはただ、私に運がついていただけのようです」
ブルーノ検事はホッとため息をついた、「もうすんだことは、いくら悔んでもしかたがありませんよ、レーンさん。とにかく、われわれは最善をつくしたのですからね。なにもそう悲観なさるにはおよびません」
サム警部もおもおもしくうなずいた、「検事の言われるとおりですよ、どうか、そう深刻に思いつめないでください、なにもあなたばかりが失敗なすったわけじゃない、われわれにしろ……」
と、突然、警部は途中で言葉をきると、怪猫《かいびょう》のような感じで、ノッソリとうしろをふりむいた。レーンが、その目に恐怖の色をみなぎらせて、警部の肩ごしに、なにかを見つめていたからだ。それは、どうにも防ぎようのない、アッという間《ま》の出来事だった。ほんの一瞬のうちに、もうおわっていた。目にもとまらぬ蛇《へび》の一撃を思わせる、一閃《いっせん》の出来事。
ハッター家の家人たちも、来客たちも、ただ麻痺《まひ》したように、食卓にすわったきりだった。さかんにテーブルをたたいて、パンのおかわりをしきりにねだっていたジャッキーが、自分のまえにあるミルクのコップをとって――ミルクのコップは、いくつかテーブルの上に出ていて、弟のビリーのまえにも一つ、ルイザのまえにも一つあった――半分ほど、むさぼるように飲みほしたかと思うと、突然、グッタリとなって、その手からコップを落した。のどの奥でゴボゴボという音をたてると、ブルッと身ぶるいし、全身を痙攣《けいれん》させた……そして椅子にくずれかかったとたんに、ドサリと床《ゆか》の上にころげおちた。
三人の男たちはハッとわれにかえった。サム警部とレーンが、つづいてブルーノ検事がジャッキーのそばにかけつけた。ほかの連中は、恐怖にうちのめされて、ただ呆然《ぼうぜん》としているばかりだった。口をポカンとあけているもの、フォークを口のまえで浮かしたままのもの、食塩に手をのばしかけのもの……母親のマーサが絹を裂くような悲鳴をあげると、動かなくなったわが子のそばに、ペッタリとひざまずいた、「毒を飲まされた! 毒を飲まされたのよ! ああ、なんてことを――ジャッキー、返事をしておくれ、ママだよ、ママだよ!」
サム警部はマーサを手あらく押しのけると、ジャッキーの顎に手をかけ、力まかせに口をおしひらくと、のどの奥に指をつっこんだ。のどがよわよわしく鳴った……「どなたも、動いてはいけません!」と警部はどなった。「おい、モッシャー! 医者を早く! 医者は――」そこまで言いかけて、警部の唇はピタリと動かなくなった。太い腕に抱かれていたちいさなからだが、一度、グイッとのけぞったかと思うと、水びたしの服のように、グッタリとしてしまった。大きく見ひらいた母親の目にさえ、ジャッキーが息をひきとったことはあきらかだった。
同日。午後八時。
二階の子供部屋のなかを、メリアム医師は歩きまわっていた――うまいぐあいに、惨劇のほんの一時間まえに、医師は週末旅行から帰ってきたばかりのところだった。マーサは、ブルブルふるえている次男のビリーのからだを抱きしめて、ヒステリックに泣きわめいていた。ビリーはすっかりおびえきって母親にしがみつきながら、ジャッキーの名前を叫びつづけていた。ハッター家のひとびとは、つめたくなったちいさな死体を横たえたベッドをかこんで、いずれも陰気におし黙ったまま、たがいに顔をさけあっていた。ドアのところには、刑事たちが見張っていた……
階下の食堂には、二人の男がいた――サム警部とドルリー・レーンだった。老優の目には、苦悶の色がありありとうかんでいた。レーンの様子は、まるで病人そのものだった――彼の演技力をもってしても、かくすことができないほど、ひどい蒼《あお》ざめ方だった。二人はまったくの無言だった。レーンは食卓のまえに力なくすわったまま、死んだジャッキーが、ソクラテスのように毒杯をのみほした、床の上の残骸《ざんがい》をじっと見つめていた。サム警部は、怒りに顔面を紅潮させて、なにか口のなかでブツブツつぶやきながら、足音もあらあらしく、床の上を歩きまわっていた。
食堂のドアがあいて、ブルーノ検事がヨタヨタしながら入ってきた。「へまをやったものだ、へまもいいところだ、大失敗だ」
サム警部は狂暴な視線をレーンにむけたが、老優は顔もあげずに、ただテーブル・クロースをいじっているばかりだった。「警部、これでわれわれの面目はまるつぶれというものだ」と検事はうなり声をあげた。
「それどころの騒ぎじゃありませんよ!」とサム警部がわめきかえした、「いまになってレーンさんが、事件から手をひくなんていいだすんだから、いらいらするじゃありませんか。ねえ、レーンさん、いまさらそんなことが言える義理ですか!」
「いや、やっぱり手をひきます」とレーンはきっぱりと言った、「どうしてもやめますよ、警部さん」老優は椅子から立ちあがると、食卓のそばで身をこわばらせた。「もはや私には、事件に介入する権利はありません、ジャッキーが死んだ以上……」彼はかさかさの唇を舌でしめした、「いや、はじめから、警察のお手伝いをすべきではありませんでした。どうか、私を解放してください」
「しかし、レーンさん……」ブルーノ検事ははりのない口ぶりで言いかけた。
「いや、私には弁明の余地などないのです。私は、とりかえしのつかぬ失敗をしてしまったのです。あの子供の死は、ひとえに私の責任です、あなたがたに罪はない、みんな……」
「いや、わかりました」サム警部がさえぎった。いましがたまでの激憤はすっかりしずまっていた。「そりゃあ、事件から手をひかれるのは、あなたの特権ですがね。だが、このことで非難が起こるとすれば、その責めは、この私にかかってくるんですよ。あなたが一言も説明せず、いままであなたがどういう働きをしてきたかということをすこしももらさずに、さっさと手をひいてしまうとなると……」
「ですが、私はあなたにちゃんと申しあげたはずです」レーンはよわよわしい声で言った、「私が悪かったのです、それだけですよ、みんな、私の失敗なのです」
「そんなばかな」とブルーノ検事が言った、「そうあっさりと手をひかれては、こちらはいったいどうすればいいのです、レーンさん。これには、もっとなにか深いわけがあるはずです。この屋敷から警官を全員ひきあげさせ、ご自身で自由に活動させてくれと、警部を説得なさったときには、さだめしはっきりとした目算があなたにあってのことだと思いますがね……」
「たしかにありました」レーンの目のふちに、どす黒いくまができていた。ブルーノ検事はふとそれに気づいて、思わずギョッとした。「犯人のあらたな凶行を未然に防ぐことができるとにらんだからなのです。だが、できませんでした」
「なにからなにまで、まんまといっぱいくわされたんですよ」サム警部はじだんだふんで言った、「あなたはさも確信ありげに、毒殺事件は犯人の偽装にすぎない、犯人のねらいは、毒殺にあるのじゃないと言ってましたね。ところがどうです、このざまは!」警部はうめき声をあげると、両手で顔をおおった、「こんどの事件ではっきりしたじゃありませんか、毒殺も、大量殺人の一部だったんです、一家みな殺しがねらいなんだ……」
レーンはみじめに頭をさげ、なにか言おうとしたが、それを思いとどまると、ドアの方に歩いていった。老優はかかっている帽子をとろうともしなかった。一瞬、食堂の外で足をとめ、ふりかえりたいのをためらっているような様子だったが、やがて肩を張り、胸をそらすと、屋敷から出ていった。ドロミオが、歩道の端に車をとめて待っていた。夕闇《ゆうやみ》のなかから、新聞記者の一団がレーンをめがけて殺到してきた。老優はむらがる記者連中を払いのけて、車にのりこんだ。車が走り出すと、両手のなかに顔をうずめた。
エピローグ
「ひとりの悪魔はいなくなった、しかし、悪魔たちはまだのこっている」
二か月がすぎさった。ドルリー・レーンがハッター家を出るとともに、彼と事件との関係はスッパリときれてしまった。レーンを迎えたハムレット荘は、沈黙をまもりつづけていた。サム警部もブルーノ検事も、あれからというものは、もう訪《たず》ねてゆこうとしなかった。
警察に対する新聞の攻撃ぶりは、いまもなお、痛罵《つうば》をきわめているが、事件に関係してときどき記事にあげられていたレーンの名前は、事実上レーンが事件と手をきってからは、しだいに紙面から消えていってしまった。まる二か月たつというのに、捜査はおなじところで足ぶみをしているというありさまだった。サム警部の予言に反して、その後、犯罪らしいものは、なにひとつ発生しなかった。警察本部のしめきった扉のなかで、捜査はなおもつづけられていた。サム警部は、このハッター事件のおかげで、満身|創痍《そうい》といってもいいくらい、ひどい目にあったのにもかかわらず、どうやら降職処分もうけず左遷《させん》もされずにすんだようである。
こういったわけで、ついに警察は――新聞の辛辣《しんらつ》きわまる言葉をかりれば、「まんまと邪智にたけた犯人に出しぬかれて」――ハッター家から全面的に手をひかなければならなくなった……。長年にわたって、ハッター老夫人の鋼鉄のような手で、ガッチリとひとにぎりにされていたハッター家のひとびとも、ジャッキーの葬儀がすんでほどなく、仲たがいして、一家離散するはめになってしまった……ジル・ハッターが行方《ゆくえ》をくらましてしまって、ゴームリーや、婚約者のビグローや、一群の彼女の取巻き連中を大いにあわてさせ、その失踪《しっそう》の原因に首をひねらせるといった始末だった……マーサは、わずかにのこっていた自尊心をふるいおこし、けなげにも覚悟のほぞをきめ、コンラッドと別れて、ひとまず安アパートに移って、四歳のビリーと二人で暮すことになった……家庭教師のエドガー・ペリーは、数週間にわたる警察の監視がとけるや、これもまた姿をくらましてしまったが、ほどなくバーバラ・ハッターの夫として姿をあらわし、ジャーナリズムや文壇のにぎやかなゴシップだねになったものの、二人が手をたずさえてイギリスに渡ってしまうと、その話題もたちまち下火になってしまった……いまは、ハッター家には、だれもいなくなってしまった。屋敷は釘《くぎ》づけにされ、売りものに出されてしまった。トリヴェット船長はすっかり老《ふ》けこんでしまって、皺《しわ》もにわかにふえ、自宅の庭を、ただあてもなくぶらぶらしているだけだった。メリアム医師は、あいかわらず職業の秘密をまもりながら、患者の診察に余念がなかった。
かくしてハッター事件は過去の闇《やみ》のなかに没してしまった。毎年ニューヨークに発生する迷宮入り事件の一つとして、警察の記録にその名をとどめたにすぎなかった。
一つの出来事が、ハッター家|ダネ《ヽヽ》に飢えている新聞に、まさに最後の付録にふさわしい記事を提供することになった。バーバラ・ハッターとエドガー・ペリーとが結婚する三日まえに、ルイザ・キャンピオンは、午睡中、しずかに息をひきとったのである。検屍医《けんしい》は、死因は心臓麻痺であると診断したメリアム医師の所見に同意した。
舞台裏
「すみずみまであらさがしをするような目で全体を見るがいい、そのうえで、彼に功績がないと言えるなら言ってみたまえ」
ドルリー・レーンは芝生《しばふ》に腹ばいになって、池の縁石《ふちいし》にからだをのり出しながら、ブラック・スワンにパンくずを投げていると、小道から、クェイシー老人がサム警部とブルーノ検事を案内してきた。警部も検事も、ばつの悪そうな顔をして、もじもじしていた。クェイシー老人が、池に目をやっているレーンの肩をかるくたたいた。老優はふりかえった。と、これは思いがけない、といった意外な表情で、パッと立ちあがった。「やあ、警部さん、それにブルーノさん!」と彼は声をあげた。
「ご無沙汰《ぶさた》いたしました」サム警部は蚊《か》のなくような声で言うと、まるで小学生みたいに、おずおずとまえにすすみ出た。「検事と一緒にうかがいました」
「その――えへん!――そういうわけでして」と、ブルーノ検事もしどろもどろだった。
二人とも、身の置き場がないといった様子で、そこにたたずんでいた。レーンは、二人をまじまじと見まもった。「どうです、一緒に芝生に腰をおろしませんか」と、ややあってから彼は言った。老優は半ズボンに丸首のセーターという身軽ないでたちで、筋肉質の茶褐色の足には、芝草の青いしみがついていた。彼はインディアンのように両足を組んで、あぐらをかいた。
ブルーノ検事は上衣《うわぎ》をぬぎ、ワイシャツのカラーをはずして、ホッとしたように大きくため息をつくと、芝生の上にすわりこんだ。警部はためらっていたが、やがてオリンパスの雷鳴のような地ひびきをたてて、ドカンと腰をおろした。かなりながいあいだ、だれひとり口をきこうとするものはいなかった。レーンはもっぱら池に見入るばかりで、水面に浮かぶパンくずを、長い頸《くび》をのばしてサッとついばむブラック・スワンのあざやかな技倆《ぎりょう》に心をうばわれているようだった。
「じつはですね」やっとのことで警部は口をひらいた、「じつは……レーンさん!」彼は手をのばすと、レーンの腕をかるくたたいた。レーンは顔をむけた。「お話があるんですよ」
「なんですか」とレーンは口のなかでつぶやくように言った、「どうぞ、ご遠慮なく」
「話というのは、ほかでもないのですが」サム警部は目《ま》ばたきして言った、「私たち――検事と私のことなんですが、ちょっと、おたずねしたいことがあるんです」
「ルイザ・キャンピオンの死が、自然死かどうかということですね?」
警部と検事はおどろいて、たがいに顔を見合わせた。やがて検事がまえにのり出すと、「そのとおりです」と、口から唾《つば》をとばさんばかりに言った、「すでに新聞でお読みになったことと思いますがね。私どもは、あの件について、再調査しようかと、目下《もっか》のところ、考えているわけなのですが……あなたのご意見は、いかがなものでしょう?」
サム警部は無言のままだった。その太い眉毛《まゆげ》の下から、レーンの顔を穴のあくほど見つめていた。「たしか、心臓麻痺というメリアム医師の診断に、検屍医のシリングも同意したはずでしたね」とレーンはつぶやくように言った。
「そうです」とサム警部はゆっくり言った。「たしかにシリング医師の意見は、メリアム医師の所見と一致してました。いずれにしろ、あの不具女の心臓は弱いと、メリアム医師は口ぐせのように言ってましたからね、彼のカルテにも、そう記入されています。しかし、どうもわれわれには腑におちませんのでね……」
「私どもはこうにらんでいるのですよ」とブルーノ検事が口をはさんだ、「痕跡をなにひとつのこさないような毒を飲まされたか、それとも疑われずに殺害できるような注射を打たれたか」
「しかし、二か月まえに、私はあなたがたにはっきり申しあげたはずですよ」レーンは、ひとにぎりのパンくずを池の水面になげこみながら、おだやかに言った、「この事件からいっさい手をひくとね」
「それはもう、よくわかっています」サム警部がふとい声で言いかえすまえに、検事はあわてて言った、「それにしても、あなただけが知っているような事実を、まえからにぎっておられるような気がしてならないものですから――」
検事はそこまで言いかけて言葉をのんだ。レーンがヒョイと顔を横にそむけたからだ。しずかな微笑が老優の口もとにのこってはいたものの、その灰緑色の目は、なにかもの思いに沈みながらブラック・スワンの群れにぼんやりとむけられていた。かなりながいあいだ、レーンはそのままの姿勢でじっと考えこんでいたが、やがてため息をつくと、二人の客の方に顔をむけた。「いかにもそのとおりですよ」とレーンは言った。
サム警部は、ひとつかみの芝草をむしりとると、ばかでかい自分の足にたたきつけた。「やっぱりそうか!」と大声をあげた、「検事、私が言ったとおりじゃありませんか、レーンさんは、事件の鍵《かぎ》をにぎっていたんだ、それさえ、教えてもらえれば――」
「いや、事件はとっくに解決しているのですよ、警部さん」とレーンはしずかに言った。
思わず二人はとびあがった。警部はレーンの腕をグイッとつかんだ。老優は痛さに顔をしかめた。「なに、解決してるですと?」警部の声がかすれた、「じゃ、犯人はどいつです? どうして? いつ? いつ、解決されたんです――先週ですか?」
「二か月以上まえのことですよ」
一瞬、警部と検事は、口がきけないほど息がつまってしまった。やがてブルーノ検事はハアハアあえぎながら、顔面から血の気《け》がなくなってしまった。サム警部の上唇が、まるで子供みたいにブルブルふるえた。「すると、あなたは」やっとのことで、警部はかすれた声で言った、「二か月間も、犯人が大手をふって歩いていたというのに、黙っていたというわけですな」
「べつに犯人は、大手をふって歩いていたわけではありません」
二人は、おなじ滑車《かっしゃ》につながれた一対《いっつい》のあやつり人形のように、同時に、パッと立ちあがった。「それでは――?」
レーンは悲しみにしずんだ声で言った、「犯人は……死んでいたのですよ」
一羽のブラック・スワンが黒いつばさをひろげて、大きく羽ばたいた。その水しぶきが、彼らの頭上にまでとびちった。
「ま、立っていないで、お二人ともすわってください」とレーンが言った。二人は機械的にまた腰をおろした。「じつは今日《きょう》、あなたがたがお見えになったのは、ある意味ではたいへんうれしいのですが、半面、そうは言いきれないところがあるのです。お二人にお話したものかどうか、いまもって、私にはわからないしまつなので……」
サム警部はうなり声をだした。
「いやいや、警部さん、なにもひとをじらしてよろこぶような、加虐的な趣味は、私にはありませんからね」レーンは沈んだ口ぶりでつづけた、「これは、きわめて実際的な問題なのですよ」
「それにしても、いったいどういうわけで、私どもに話してくださらないのです?」と検事が叫んだ。
「というのは」とレーンが言った、「お話したところで、あなたがたには信じてもらえないからですよ」玉の汗が、警部の鼻をつたわり、その頑丈《がんじょう》な顎からしたたり落ちた。「いや、信じられないのも無理はありません」と老優はしずかな口調《くちょう》で言葉をつづけた、「ですから、これからお話することをきいて、たとえあなたがたが、この私のことを、とんでもない嘘《うそ》つきだ、でっちあげだ、気ちがいのたわごとだ、ハッター家の連中におとらぬ気ちがいだと――」――老優の声がふるえた――「と、ののしって、池のなかに蹴《け》りおとしても、私はお二人のことをうらむわけにはいかないくらいなのです」
「犯人は|ルイザ《ヽヽヽ》・|キャンピオン《ヽヽヽヽヽヽ》だったのですね」とブルーノ検事はゆっくりと言った。
レーンは、検事の目を穴のあくほどのぞきこんだ。「ちがいます」と老優は言った。
サム警部は、青空に大きな手をふった。「やっぱり|ヨーク《ヽヽヽ》・|ハッター《ヽヽヽヽ》だったんだ」彼はあらあらしく叫んだ、「はじめっから、私はそうにらんでいたんですよ」
「ちがいます」ドルリー・レーンはため息をつくと、またブラック・スワンの方に顔をむけた。そして、ひとつかみのパンくずを池になげいれてから、言葉をつづけた――ひくい、それでいてはっきりとした、深い悲しみにとざされた声だった。「ちがうのです」老優はくりかえした、「犯人は――|ジャッキー《ヽヽヽヽヽ》だったのですよ」
全世界がピタリと静止してしまったかのような一瞬だった。そよそよと吹いていた微風が、突然、パタリととだえ、水の上を音もなくすべってゆくブラック・スワンの群れをのぞいたら、動いているものはなにひとつ、三人の目にうつらなかった。やがて、どこか遠くの方から、エーリエルの噴水で金魚を追いまわしているクェイシー老人のうかれ声がしてきた、その声で、彼らはハッとわれにかえった。
レーンは二人の方をふりむいた。「どうです、とても信じられないでしょう」
サム警部はゴホンと咳《せき》ばらいしてなにか言おうとしたが、声が思うように出ないので、また咳ばらいをした。「そうですとも」やっと声が出た、「信じられるものですか、いくらなんでも……」
「そんなばかな! レーンさん!」とブルーノ検事も叫んだ、「とんでもない話です」
レーンは吐息《といき》をついた。「いや、お二人が正気なら、信じられないのも当然です」とひくい声で言った、「だが、それにもかかわらず、私の説明がすっかりすむまでには、お二人とも、きっと納得《なっとく》してくださることでしょう。わずか十三歳のジャッキー・ハッター――まだ幼児に毛がはえたくらいだといってもいいような、やっと思春期に手のとどいたばかりの子供が――三回もルイザ・キャンピオンに毒を盛り、ハッター老婦人の頭部をなぐりつけて、死にいたらしめたのですよ、それにまた……」
「ジャッキー・ハッター」とサム警部は口のなかでくりかえした、「ジャッキー・ハッター」くりかえせば事件の意味がつかめるとでも思っているかのように、警部はなんどもつぶやいた。「またどうして、あんな犬ころみたいな十三歳の小僧に、だいそれた殺人計画がたてられ、そいつをちゃんと予定どおりに運べたというんです? そんなばかな! だれが信じるものですか!」
ブルーノ検事は、おもおもしく頭をふった、「まあまあサム君、ハンドルからそう手を放すものじゃない、興奮しなさんな、おちついて考えれば、すくなくともその答は出てきますよ。|犯行の筋書がなにからなにまでそろっていれば《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、いくら十三歳の子供にしろ、そのとおりにことを運ぶぐらいのことは考えられないこともない」
レーンはかるくうなずいた、そして、なにか思いつめるような目で芝草をながめた。
警部は、死にかかっている魚のように、からだじゅうであがいてみせた、「そうか、ヨーク・ハッターの筋書か!」と彼は叫んだ、「いや、これですっかりわかりましたよ、そうだったのか! あのいたずら小僧め……私はまたヨーク・ハッターが犯人だとばかり思っていましたよ――ヨークが死なずにまだ生きていてね――これじゃ、幽霊の足どりを追いかけまわしていたようなものだ……」恥ずかしさとにがにがしさがさきにたって、警部は腹をゆすって笑いとばすよりほかにてがなかった。
「ヨーク・ハッターが犯人だということは、絶対にありえないのです」とレーンが口をひらいた、「その生死にかかわらず、ヨークでないことは確実です。もっとも、死体の身元確認が完全だったというわけにはいきませんでしたから、まだ生きているということも、いちおうは考えられましたがね……そうです、犯人はジャッキー・ハッターなのです。はじめから、ジャッキー以外には考えられなかったのですよ。それでは、その理由を説明しましょうか」
警部と検事は無言でうなずいた。ドルリー・レーンは芝草の上にあおむけになると、両手を頭の下で組み、きれいに澄みきった青空にむかって、おどろくべき物語をはじめた。
「まずはじめに、第二の犯罪――エミリー・ハッター殺害事件の捜査から、話をすすめることにします。どうか、これだけはおぼえていてほしい、つまり、あの当時、私が知っていることといったら、あなたがた以上のものではなかったということです。いわば私は、なんの先入見もなしに、処女地に足を踏みいれたわけですよ。ですから、私が知ったこと、信ずるにいたったことは、ひとえに観察と推理の賜物《たまもの》だったのです。では、さまざまな事実から推理して、あのジャッキー少年があらゆる出来事の中心人物であると私に確信させ、それによって、ヨーク・ハッターの悲劇的な筋書にまで私をみちびくことになった、その経過を、これからたどってみることにしましょう……
捜査するにあたって、この犯罪は、その当初からきわめて異常な障害をともなっていたのです。つまり、私たちが直面した事件は、殺人現場にれっきとした証人が居合わせて、しかもその証人が捜査への協力をあきらかにしてくれたにもかかわらず、なんの役にもたたぬ死人も同様だったということです。唖《おし》で聾《つんぼ》でめくらの婦人……見ることも、聞くこともできない、さらに都合の悪いことには、しゃべることもできないという証人なのです。だが、この障害は、絶対に克服できないものではありませんでした、つまり、その証人には、ほかの感覚だけは人並み以上にちゃんとあったからです。第一に味覚、第二に触覚、第三に嗅覚《きゅうかく》です。
味覚、これは事件と無関係だったので、これから手がかりを得るわけにはいきません。だが、触覚と嗅覚はりっぱに役にたちました。私に事件の鍵がにぎれたのも、ルイザの手が犯人の顔にふれ、犯人のからだから匂いをかぎとったことから推理して得た手がかりに、その大半を負うているのです。
まえにも、あなたがたに証明してごらんにいれたように、ルイザ・キャンピオンの果物鉢《くだものばち》の梨《なし》に毒液を注射したのと、そのとなりのベッドでやすんでいたハッター老夫人を殺害したのは、同一人物の仕業《しわざ》だったのです。それにまた、犯人には、ルイザをほんとうに毒殺する意図がもうとうなく、ひたすらハッター老夫人を殺害するのが唯一《ゆいいつ》の目的だったということも、すでに証明したとおりです。ところで、毒殺計画者と殺人者とが同一人物であるからには、事件当夜、あの寝室の暗闇《くらやみ》のなかで、ルイザの手がふれた人物――そのショックでルイザは気を失ってしまったのですが――その人物こそ、犯人でなければなりません。ほら、そのときルイザはまっすぐに立って、水平に腕をのばしたら、その手が犯人の鼻と頬《ほお》にさわったのですよ、警部さん。あのときのあなたの推理はあたっていたのです」
サム警部は目をパチパチさせると、顔をあからめた。
「いったい、どういうことなのです、それは……」とブルーノ検事がけげんな口ぶりで言った。
だが、あおむけに寝て、青空を見つめているレーンには、検事の唇を読みとれなかった。老優はしずかに言葉をつづけた、「あのとき、警部さんは即座にこう言われましたね――ルイザの身長の高さがわかっていて、その手を水平にしたところに犯人の鼻と頬があったのだから、それから犯人の身長が割り出されるではないか、とね。いや、あざやかなものでしたよ! その言葉をきいたとたんに、こんな重要な事実をあなたがつかんだ以上、まもなく真相がわかる、いや、すくなくとも真相に近いものがわかるにちがいないと、私はふんだのです。ところが、ブルーノさんが、横から異議をとなえました、『そのとき、犯人が腰をかがめていなかったと、どうして言えるのかね?』そう反対されてみれば、たしかにもっともな意見です。いかにも、犯人が腰をかがめていたとすると、そのかがめ方に応じて、犯人の身長の高さは、当然、変ってきますからね。そんなわけで、警部さんもブルーノさんも、この事実を、それ以上深くつっこむこともなく、あっさりと投げすててしまいました。あきらめずに、もうすこし追求してみたら――ほんとのところ、床の上の靴跡《くつあと》をごらんになるだけでもよかったのです――この私のように、ただちに真相がつきとめられたのにちがいないのです」
ブルーノ検事は顔をしかめた。レーンは芝生から起きあがると、哀れむような微笑をうかべて、三人の方に顔をむけた。「警部さん、立ってみてください」
「立つ?」警部は狐《きつね》につままれたような顔つきでききかえした。
「そうです、立ってごらんなさい」
サム警部は、半信半疑といった表情で、しぶしぶと立ちあがった。
「では、つま先を立ててください」
警部はぎこちなく靴の踵《かかと》を芝生からうかして、よろよろしながらつま先で立った。
「こんどは、つま先で立ったまま腰をかがめる――はい、歩いて」
警部は踵を上げたまま、不恰好《ぶかっこう》にひざをまげて、前方に歩きだそうとしたが、ヨチヨチと二歩すすんだだけで、たちまち、バランスを失ってしまった。思わずブルーノ検事はクスクス笑ってしまった――警部の歩くざまが、まるで肥《ふと》っちょのあひるに見えたのだ。
レーンはまた微笑をうかべた。「いまやってみて、どういうことがわかりました、警部さん?」
サム警部は、草の葉を口でかみ切ると、検事の顔をすごい形相《ぎょうそう》でにらみつけた、「笑うもんじゃありませんよ、薄情なひとだ!」うなり声をあげると、「腰をかがめたら、なかなかつま先で歩けるもんじゃないってことがわかりましたよ」
「まさにそのとおり!」とレーンはてきぱきした口ぶりで言った。「むろん、やってやれない歩き方ではありません、しかし、人殺しをしたものが犯行現場から大急ぎで逃げ出そうというときに、腰をかがめてつま先で立って歩くというようなことは、絶対にありえないことです。つま先で歩いたことは事実です、だが、その上に腰をかがめるなどという芸当ができるものではありません。人間の歩き方としては不便この上もないことですし、おまけになんの役にもたちません、せいぜい、逃げる速度がおそくなるのがおちじゃありませんか……つまり、言いかえると、ルイザ・キャンピオンの手が顔にさわったとき、犯人がつま先で歩いて寝室から逃げ出そうとしていたのなら、腰をかがめていなかったことは火を見るよりもあきらかだということです。
そのなによりの証拠は、床の上に歴然とのこっていました。よもやお忘れではありますまい、タルカム・パウダーの白い粉末の上にのこっていた靴跡は、ベッドからルイザの手が犯人の顔にさわった位置までのあいだ、ひとつのこらず、つま先で歩いた足跡ばかりではありませんか――ところで、ルイザの手が顔にさわった地点から、犯人は方向を変えて、あわてて寝室から走り出したのですが、そのために、そこからさきの靴跡はすべて、つま先ばかりか靴の踵の跡もついていて、歩幅もはるかにひろくなっているのです……」
「つま先だけの靴跡ね」とブルーノ検事は口のなかでつぶやいた、「そうでしたかねえ? どうもこういうことは苦手なのですが、そんな靴跡があったなどと、はっきり思い出せないのですよ、あれはみんな、つま先の跡でしたかな……?」
「そうですとも、たしかにつま先の跡でしたよ」とサム警部がかみつくように言った、「よけいなことは言わんでください、検事」
「ところで」レーンはおだやかな口調でつづけた、「つま先だけの靴跡がのこっていた床には、さらに一つ、注目すべき事実があるのです。それは、おのおのの靴跡の間隔が、ほぼ四インチしかないということです。これには、たった一つの解釈しかありません――つまり犯人は、ハッター老夫人の頭部をなぐりつけたベッドわきの地点からはなれるのに、つま先を立てて歩いたので、靴の踵はのこさなかったのです。また、靴跡の間隔が四インチしかないのも、せまい床の上をつま先で立って歩けば、ごくあたりまえの歩幅だということになります……したがって、ルイザ・キャンピオンの手が顔にさわったとき、犯人はまっすぐつま先で立っていたので――いいですか、腰をかがめてはいなかったのです!」
「さて」とレーンは語調をはやめて言った、「これで犯人の身長を割り出す根拠ができたというものです。ちょっと横道にそれますが、ルイザ・キャンピオンの身長なら、簡単にわかるはずです。老夫人の遺言書の発表で、ハッター家のひとたちが全員一室に集まったとき、ルイザとマーサの二人は、ほぼおなじ高さで、おまけに、ならんでいる大人《おとな》のなかではいちばん背が低いことが、はっきりわかりました。その後、私はメリアム医師のところへ面会しに行ったおり、ルイザのカルテを見せてもらって、彼女の正確な身長を知りました。五フィート四インチです。もっとも、カルテなどで調べてみるまでもなかったのですよ、事件直後、彼女の証言をきいていたときに、私は、彼女のだいたいの身長を、目分量ではかってしまったのです。あのとき、自分の身長と比較してあたりをつけ、ざっと計算してしまいました。では、これから説明することを、じっくりきいてください」
二人はレーンの顔を熱心に見まもった。
「人間の頭のてっぺんから肩の高さまで、どのくらいあるものでしょうね、ブルーノさん?」
「さあ――さっぱり見当がつきませんな」と検事が答えた、「だれにしろ、そんなことは正確に知らんでしょうが」
「いや、それがちゃんとわかるのですよ」レーンは微笑した、「もっとも個人差というものがあるし、むろん、男性と女性とではちがってきます。じつは、偶然、こんなことを知ったのですよ、なに、うちのクェイシーからの受売りなのですがね。まず、あの老人ぐらい、人間の頸《くび》から上の形状についてくわしく知っているものはないでしょう……で、女性の頭のてっぺんから肩の高さまでの距離は九インチから一一インチまでのあいだで――普通の身長の女性なら、一〇インチとみてまちがいはないそうです。なんなら普通の女性を見て、目測をなさってみるといい。そうすれば、いまの話がほんとうだということがよくわかるはずです。それでは先にすすみましょう! 肩から水平にのばしたルイザの手が、犯人の鼻と頬にさわったということは、つぎのことを物語っている以外にないのです、すなわち――|犯人はルイザよりも背が低かったのだ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、と。二人がおなじ身長ならば、ルイザの手は犯人の肩さきにふれなければなりません。しかるに、鼻と頬にさわったというのですから、犯人はルイザより低かったということになるのです。
それでは、犯人の身長をもっと正確に割り出すわけにはいかないものか? 大丈夫、できるのです。ルイザの身長は五フィート四インチです、いいかえると六四インチ。水平にのばした手から、床までの距離は、ルイザの身長から一〇インチ差し引いた数字、したがって、ルイザの手がさわった犯人の頬から床までの距離もまた、ルイザの身長から一〇インチ差し引いた数字、つまり、五四インチということになります。犯人の鼻近くの頬の高さから床までの距離が五四インチとすれば、全身長を知るのには、頭のてっぺんから鼻までの距離を、人体の比率から割り出してこれに加算しさえすればいいわけです。ルイザより背が低いのですから、ざっと六インチとみればいいでしょう。したがって犯人の身長は、五四インチに六インチ加えて、六〇インチ、つまり、五フィートちょうどということになります。だが、犯人はつま先で立っていたのですから、その分だけ、差し引かなければなりません。これはほぼ三インチとみてまちがいないでしょう。そうしますと、犯人の身長は、ざっと四フィート九インチだったのです!」
ブルーノ検事とサム警部は、ただあっけにとられているばかりだった。「こいつはおどろいた」と警部はうなり声をあげた、「すると、われわれは数学者にもならなければいかんのですな」
レーンは、とりあわずに説明をすすめた、「犯人の身長を割り出すには、まだ一つ、こういう方法もあるわけです。いまも申しましたとおり、かりに犯人の身長がルイザとおなじ高さだとしたら、肩から水平にのばしたルイザの手は、犯人の肩さきにさわるはずです。ところが、さわったのは、犯人の鼻と頬でした。したがって犯人の身長は、ルイザの身長から、犯人の鼻から肩までの寸法を差し引いたものにひとしいということになります。鼻から肩までの寸法は、標準でいけば、ほぼ四インチ。これに、つま先で立った分の三インチを加えれば、七インチ。つまり、犯人は、五フィート四インチのルイザより七インチ低いわけです。差し引き四フィート九インチ――前回の計算とピタリと一致します」
「いや、これはおどろきました!」とブルーノ検事は声をあげた、「たいしたものですな、目測だけで、よくもこれだけ正確な数字がピタリと出たものです!」
レーンは肩をすくめた、「なに、あなたのほうでむずかしくとっただけですよ、もっとも、私の計算の仕方が、くどすぎて、ちょっと厄介《やっかい》にきこえたことも事実ですがね。しかし、ほんとのところは、こっけいなくらい簡単なのです。……念のため、いまの計算にもう少し幅をもたせてみましょう。かりにルイザが前方にのばした手を水平にではなく、つまり、肩よりいくらか低いか、あるいは高くしていたとしたらどうでしょうか? ま、そのいずれにしても、実際のところたいした差は出てくるはずがないのです。なぜなら、ルイザは目が見えません、盲人というものは、歩くとき、手を前方にまっすぐのばすのが、もっとも慣れた姿勢だからです。しかし、この際、気まえよく譲歩するとして、ルイザの手が二インチ高かったか、あるいは二インチ低かったものと仮定してやろうではありませんか。そうしますと、犯人の身長は四フィート七インチから、四フィート一一インチまでのあいだで、これでもやはり、犯人の身長は常人以下、非常に背の低い人間という点に変りはありません。……いや、ここまで説明しても、あなたがたはなお反対されるかもしれない――げんに、警部さんは物言いがつけたくて目をギラギラさせておいでだ――頭のてっぺんから鼻までの寸法、あるいは鼻から肩さきまでの寸法を、私が自分に都合のいいように見積っているとお考えになるかもしれません。もし、そのようなお疑いでもあれば、ご自分で測ってみていただくのがいちばんいい。ま、いずれにしろ、ルイザののばした手が、つま先で立っている犯人の鼻にさわったという厳たる事実は、犯人がルイザよりもはるかに背の低い人間だということを示しています――この事実だけでも、ルイザの手にふれたものは、ジャッキー・ハッターにちがいないと断言できるのです」
レーンは言葉をきると、ひと息いれた。サム警部はため息をついた。レーンにこう説明されてみると、すべてはおどろくほど簡単に見えた。
「では、なぜジャッキー・ハッターにちがいないのか?」レーンはふたたび言葉をつづけた、「それは小学生にもわかるようなことです。遺言書の発表で、家族の全員が一室に集まったとき、だれの目にもわかったように、ルイザとマーサの背はほぼおなじ高さで、この二人は、家族の大人のなかでいちばん低かったのですから、ルイザの手にさわった人間は、家族の大人のなかにはいないということになります。また、家族以外の大人も、おなじ理由から除外されます。家庭教師のエドガー・ペリーは背が高い、アーバックル夫婦も背が高く、女中のヴァージニアも同然です。それでは、犯人は屋敷外の人間でしょうか? だが、トリヴェット船長、ジョン・ゴームリー、メリアム医師――そろいもそろって、みんな背が高い。たしかに弁護士のチェスター・ビグローは中背です。しかし、中背とはいえ、男性なのですから、五フィートに数インチもたりないなどということはまず考えられません。また、犯人がハッター家と縁もゆかりもない人間だということは、ありえないことです。この犯罪の他の特徴から考えても、犯人が屋敷内の事情、たとえば家族の喰べものの好き嫌いや、食事の習慣、建物の構造などを、じつにくわしく知っているからです」
「そうか、そうだったのか」サム警部は苦虫《にがむし》をかみつぶしたような表情で言った、「すると犯人は、つい目と鼻の先に、しじゅういたというわけか」
「そのとおりです、はじめて、あなたと意見が一致したわけですね」レーンはおかしそうに、のどの奥で笑った、「したがって、犯人はジャッキー・ハッター以外ではありえないのです。ジャッキーなら、見たところ、私が割り出した身長とほぼ一致するのです――これは、私がメリアム医師のところで、少年のカルテを見せてもらったとき、はっきりと確認することができました。記入されていた身長は、四フィート八インチだったのです――私の計算と一インチしかちがっておりません……むろん、弟のビリーは問題外で、考えてみるまでもないことです。あの子は、まだほんの幼児にすぎず、背も、三フィートにたりないくらいですからね。話はちがいますが、問題を解く鍵《かぎ》がまだ一つあります。それは、ルイザの手にさわったのは、すべすべしたやわらかい頬だという彼女の証言です。だれの頭にも、すぐ女性の頬がうかんできてしまいます――警部さんもそう考えられたようにね。|ところで《ヽヽヽヽ》、|十三歳の子供の頬もまた《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|すべすべしてやわらかいものなのですよ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》」
「ああ、なんということだ」と警部はいまいましげに言った。
「私はあの寝室で、ルイザの証言をききながら、彼女が前夜の動作を再現するのを見まもっているうちに――犯人の身長をざっと計算して――だいたいのねらいをつけたのです、ジャッキー・ハッターがくさいぞ、前夜、寝室にしのびこみ、ルイザの梨《なし》に毒液を注射し、祖母の頭をなぐりつけて殺したのは……」
レーンはここで言葉をきると、ホッとため息をつき、ブラック・スワンを目で追った。「だが、正直なところ、あまりにも信じられない結論だったので、その場で私は、この考えを放棄してしまったのです。まだ年はのゆかぬ少年が、大人の知能を要する精密な犯罪計画をたて――おまけに殺人者だとは? そんなばかな! 警部さん、私もまた、さきほどのあなたの気持ちとまったくおなじだったのですよ。私は、自分で自分の考えを鼻の先で笑いとばしたのです。あの少年に、そんなだいそれたまねができるはずは絶対にない、どこかで、自分の推理がまちがっているにちがいない、さもなければ、かげにかくれてジャッキーをあやつっている大人がいるのだ。それからまた、まだ見たこともないような、身長四フィート八インチか九インチの一寸法師のような男が、どこか床下みたいなところに潜伏しているのではないかとさえ、空想したくらいでした。いや、これもまったくばかげた話です。五里霧中で、私は手も足も出なくなってしまったのです。
むろん、こんなことはだれにもうちあけませんでした。あのとき、自分の考えをあなたがたにすっかりお伝えしたところで、とんだばかを見るのがおちですからね。自分でも信じられないことが、どうしてあなたがたに信じてもらえるというのです?」
「だんだんとわかってきましたよ――いろいろと」とブルーノ検事が言った。
「さあ、どうでしょうか?」とレーンは口のなかでつぶやいた、「どうもあなたには、半分も――いや四分の一もわかっていないような気がするのですがねえ、ブルーノさん。ま、あなたの鋭敏な頭脳に対して、心から敬意をはらうにしてもですよ。……では、それからどういうことになりましたか? ルイザ・キャンピオンは、犯人のからだからヴァニラの匂いがしたと執拗《しつよう》なくらい言いはりました。ヴァニラの匂い! 私は胸のなかでつぶやきました――こいつは子供と無関係ではないぞ、とね。そこで、思いうかぶかぎりヴァニラの匂いを調べて、その正体をつきとめようとしたのです、ごぞんじのように、菓子、ケーキ、花などです。ところが、いっこうにらちがあきません。そこで、その匂いに関係のあるものはないかと、私はひとりきりで、屋敷じゅうをすみからすみまでさがしてみたのです。これもやはり、徒労でした。そこで思いきって、その匂いを子供とむすびつけるのは断念し、それなら薬品ではないかと考えてみたのです。
私は、毒物学者のインガルス医師に会って、さまざまな皮膚病の治療に用いられる軟膏《なんこう》の基剤、ペルー香油に、いちじるしくヴァニラの匂いがあることがわかりました。それから、メリアム医師の話から、ヨーク・ハッターの腕に発疹《ほっしん》ができて、その手当《てあて》にペルー香油を使っていたことがわかりました。そこで、ヨークの実験室の備品カードを調べてみますと、このペルー香油の壜《びん》がおいてあったことを知ったのです……ヨーク・ハッター! だが彼は、すでに死んでいるのです。それとも、まだどこかで生きているのだろうか?」
「私がひっかかったのも、そこなんですよ」とサム警部はにがい顔をして言った。
レーンは、それにとりあわずに言葉をつづけた、「そうだ、生きていることも考えられる、死体の身元確認は、完全とは言えなかった、水からあげられた死体が、きっとヨークだろうと推定されたにすぎない……いや、待てよ、それなら身長はどうか? 警部さん、あなたがはじめてヨークの死体があがったことを私に話してくださったとき、身長のことにはひとつもふれませんでしたね。たとえそれが、ヨーク・ハッターの死体ではなくて、また、胸にいちもつあって自殺をよそおったのだとしても、自分とおなじ身長の死体を替玉《かえだま》にえらばなければなりますまい。したがって、その死体の身長は、ヨークの身長とみていいわけです。もっとも私は、メリアム医師から見せてもらったカルテで、ヨーク・ハッターの身長を知りましたよ、五フィート五インチです。それなら、ルイザの手がさわったのは、ヨーク・ハッターではありえない――なぜなら、犯人の背はルイザよりはるかに低く、どう大幅に見積っても五フィート以下なのですから……
では、犯人のからだから匂ったヴァニラはどういうことになるか? 殺人の夜、ヴァニラの匂いがしたのは、ペルー香油が匂ったのにちがいない。この薬品は、犯人が毒薬を盗んだヨークの実験室にあるもので、とろうと思えば、だれでも薬品棚からとり出せるものであり、私が調べたところでは、そのほかの薬品で、ヴァニラの匂いのするものは一つもなかったのです……したがって、殺人の夜、ペルー香油の匂いがしたのは、ヨーク・ハッターと無関係だと思いながらも、それなら、ヨーク以外の人間が、ペルー香油をなぜ使ったのか、その理由を見つけてやろうと、私は追求していったのです。あの夜、犯人がペルー香油を使用した理由は、ただ一つしか考えられませんでした。それは犯人がわざとその匂いをのこしたもので、ヨーク・ハッターが過去にペルー香油を使ったことがあるという事実を警察に発見させ、ヨークに濡《ぬ》れ衣《ぎぬ》をきせようとしたのだ、ということです。だが、これもまたばかげた話です――なにせ、ヨークは死んでいるのですからな。それとも生きているのか? あのときは、ここのところが、すっかりわからなくなってしまったのですよ」
レーンはため息をついた、「さて、つぎに問題になってくるのは実験室です。あの薬品棚に、壜と壺《つぼ》がどう配列されていたか、よくおぼえていますね? 全部で五段にわかれていて、各段が三つに仕切られ、その区画ごとに薬品壜が二十個ずつならべてあって、その一壜ずつに順番に番号がついていました。最上段の、いちばん左端、その第一区画から1号がはじまり、右に順を追って2号、3号といったぐあいにならんでいましたね。警部さん、9号のストリキニーネの壜が、最上段の第一区画のほぼまんなかへんにあると私が言ったのを、あなたはおぼえているでしょう。また五七号の青酸の壜は、おなじ棚の第三区画、つまり、右端の仕切りのなかにありました。たとえ私が薬品棚のまえに立たなくても、あなたから説明をきいただけで、薬品壜の番号が左から右へと順を追って、各段の三区画を通して、ならべられていることがわかったはずです。さもなければ、9号と五七号の壜が、あのような位置にあるはずはありませんからね……ま、そこまでは、問題はないのですが。
さて、備品カードによると、ペルー香油は三〇号の壜ということになっています――この壜は、火事と爆発のために焼失してしまいましたが、配列順がわかっている以上、どの棚のどの位置にあったか、ピタリとわかるはずです。どの区画にも、二十個ずつ薬品壜が目白押しにならんでいて、あきはなかったのですから、三〇号の壜は、最上段の第二区画のちょうど中央に並んでいなければなりません……ところで、ヨーク・ハッターが皮膚病になやまされているのを知っているのは、家族のなかでマーサ・ハッターただひとりということをかぎつけましたので、さっそく、本人を呼んでたしかめてみました。マーサの話によると、ヨークが軟膏を塗っていたことも――その薬の名前は思い出せなかったが――ヴァニラの匂いがすることも、彼女はよく知っていました。まえもって私は、最上段の中央区画に、かわりの壜をいれておいて、その薬壜はいつもどこにあったかとたずねてみたのです。すると彼女は、棚の中央区画(第二区画)のまえまで行って、いつも三〇号のペルー香油がおいてあったはずのところに、私がかわりにならべておいた壜をとり出したのです……だがそのとき、私はたいへんなことに気がつきました――いや、ヴァニラの匂いの件とは無関係なのです!」
「なんです、いったい?」とサム警部はのり出してたずねた、「あのとき、私もその場にいたんですが、べつに変ったことは目に入りませんでしたよ」
「目に入らなかった?」レーンは微笑した。「もっとも私は、あなたよりずっと見やすい位置にいましたからね。それではマーサ・ハッターが、どうやって壜をとったか、見えませんでしたか? つま先で立って背をのばすと、かろうじてその壜に手がかかったのです。ということは、なにを意味しますか? ハッター家のひとびとのなかで、ルイザとともにいちばん背の低いマーサは、背のびをしなければ、最上段の棚の壜をとることができなかったのです。つまり問題の点は――マーサは床に立ったままでも、どうにか最上段の棚に|手がとどく《ヽヽヽヽヽ》ということです!」
「それにしても、どうしてそれがたいへんなことなのです?」ブルーノ検事が顔をしかめて、横から口をだした。
「なに、すぐわかりますよ」レーンの歯が、陽《ひ》の光にひかった。「はじめに実験室を捜査したとき――あの火事のまえですよ――薬品棚の縁に、二か所、汚《よご》れがついていたのをおぼえていますか? 二つとも楕円形《だえんけい》の汚れで――あれは一目で、指の跡だということがわかります。そのうちの一つは、二段めの棚の、六九号壜の真下の縁、あとの一つは、おなじ棚の九〇号壜の真下の縁についていました。二か所の汚れとも、棚の縁の上までとどかずに、なかほどのところにしかついていません。ところで、九〇号壜も、六九号壜も、事件とは無関係です――九〇号は硫酸ですし、六九号は硝酸《しょうさん》だからです。だが、二つの汚れの位置には、べつの意味がふくまれているのです――つまり、第一の汚れの棚にのっている六九号壜は、その一段上の9号壜の真下にあり、第二の汚れの棚にのっている九〇号壜は、おなじく一段上の三〇号壜の真下にあるからです。そして、この9号壜と三〇号壜とは、いずれも事件と重大なつながりをもっているのです。9号壜はストリキニーネで、第一回の毒殺未遂でルイザの卵酒のなかにいれられた毒薬ですし、三〇号壜はペルー香油で、ハッター老夫人が殺害された夜、犯人のからだから匂ったものです。これが、たんなる偶然でないことは、火を見るよりもあきらかだ……と、私の頭に、べつのものがパッとひらめきました、それは三本|脚《あし》の腰掛けです。床のほこりのなかにのこっていた、ちいさな円形の三つの跡から判断してもわかるように、もともと、二つの大きな実験台のあいだにあったはずの腰掛けが、私たちが調べたときには、それが薬品棚の中央区画のまえにおかれていたのです。おまけに、その腰掛けには、なにかべつのことに使われた形跡がありました――腰をおろす部分には、なにかでこすった跡や、いちめんにつもっていたほこりがみだされていたのです。ただ腰をかけるだけのことなら、表面のほこりが、あんなみだれかたをするものではありません。腰をおろした跡がのこるか、ほこりがきれいにはらわれているはずです。こすったようなむらが、できるはずはありません……おまけに、実験台のあいだからわざわざ引越して、薬品棚の中央区画、つまり、三〇号壜と九〇号壜の真下においてあったではありませんか。いったい、これはどういうことなんでしょう? なぜ、腰掛けなんかが入用だったのか? 腰をかけるためでないなら、なにに使ったというのです? 答えるまでもない、それは踏み台に使ったのです。ほこりがみだされてむらになっていたのもそのためです。では、なぜ踏み台が必要だったのか? これもまた、答は明白です。
二段めの棚の縁についている指跡の汚れは、なにものかがその上の段の9号壜と三〇号壜とをとろうとして、どうしても手がとどかず、二段めの棚の縁に、指先がやっととどいたという事実を示しているのです。そこで、その人間は、目的の壜をとるためには、踏み台になるものが必要となり、実験台のあいだからあの腰掛けを持ってきたというわけです。むろん、このおかげで、目的の壜はとれたのでしょうね、その薬品をちゃんと使っているのですから。すると、ここから、どういうことが考えられるでしょう? すなわち、こうです――もし、だれかが六九号壜と九〇号壜の下に指紋をのこしたのなら、その指紋のついている棚から床までの長さが、その人間のだいたいの身長ということになる、むろん、これは正確な身長ではなしに、手足をいっぱいにのばした身長ですが。私どもが、高いところにあるものをとろうとするときは、無意識につま先で立って、手をいっぱいにのばすものですからね」
「なるほど」ブルーノ検事はゆっくり言った。
「ところが、マーサ・ハッターは、あの腰掛を使わず、じかに床に立ったままで、最上段の棚から壜がとれたのです! したがって、子供たちをのぞいた事件の関係者は、ひとりのこらず、踏台代用の腰掛けなしで床に立ったまま、最上段のペルー香油がとれるということになります。なにせ、大人のなかで、マーサとルイザはいちばん背が低くて、そのマーサにあの壜がとれたのですからね。そこで、二段めの棚の縁に指紋をのこし、腰掛けを踏み台がわりにして、目的の壜をとった人間は、マーサよりもはるかに背が低く、また大人ではなかったことになります。……それでは、どのくらいマーサより低いか? この計算はいとも簡単です。警部さん、あのとき、私はあなたから折尺《おれじゃく》を借りて、棚と棚の間隔を計りましたね、あれで、最上段から指跡のついている下の段まで、かっきり六インチだということがわかったのです。それから、棚板の厚みも計ってみましたが、これは一インチでした。したがって、指跡をつけた人間は、六インチに一インチを加え、さらにまた一インチ加えて(マーサの指が棚板から上に一インチだけ出て、それで壜をつかんだから、これはその分の一インチです)――合計八インチ、これだけ、マーサより背が低いことになります。ところで、マーサの背はルイザとおなじで、ルイザの身長は五フィート四インチ、ゆえに指跡をつけた人間の背は四フィート八インチです! 私の最初の推定と、気持ちが悪いほどピタリと一致するではありませんか――ここでまた、手がかりは、犯人は身長五六インチの人間と出たのです。ふたたびジャッキーが、私の捜査線にうかびあがったわけです」
しばらく沈黙がつづいた、「私には腑《ふ》におちない、どうしてもだめです」とサム警部がつぶやいた。
「いや、無理もない話です」とレーンがうち沈んだ声で言った、「私はいよいよ気が滅入ってしまいました――この自分でさえ信じられないような推理に、決定的な確証があがってしまったのですからね。否定しようにも、動きのとれぬ証拠がそろってしまいました。もはや私には、真実に目をつむることはゆるされませんでした。ジャッキー・ハッターは、梨に毒液を注射したり、ハッター老婦人の頭を殴《なぐ》りつけたりしたばかりか、卵酒に毒薬をいれるためにストリキニーネを盗み出し、ペルー香油の壜に手をのばした下手人《げしゅにん》……まぎれもない殺人者だったのです」
レーンは間をおくと、深く息を吸った、「私は覚悟をきめました。いかに気ちがいじみていようとも、十三歳のジャッキーが真犯人であることは、もはや疑いの余地がありませんでした。荒唐無稽《こうとうむけい》であろうと、事実は火を見るよりもあきらかです! だがそれにしても、その犯行計画はいりくんでいて――舌をまくほど巧妙にできています、この計画は、成熟した大人の知恵でなければ、とても考えられるものではありません。いかに早熟であろうと、十三歳の少年が、だれの力もかりずに、ひとりで考え出せたとは絶対に思えないのです。したがって、これだけのことは、きっぱりと言いきれると思います――解釈の仕方には二つしかない。その一つは、背後に大人がかくれていて、この人物が犯行計画をたてて、ジャッキーに実行させている、いわば、ジャッキーは、あやつり人形にすぎない……しかし、これは明白にまちがっています。いちばんあてにならないはずの子供を、はたして大人が道具として使うものでしょうか? いちおうは考えられるにしても、実際には無理な話ですよ――子供というものは価値の軽重をわきまえないから、いつ秘密をもらすかわからない。それに、ほんのいたずら心もあるし、子供につきもののからいばりから吹聴《ふいちょう》する場合もある。また、警官からほんのちょっとおどかされただけで、あっさりと泥《どろ》を吐いてしまうかもしれません。ですから、子供を道具に使おうものなら、その大人はとほうもない危険を覚悟しなければならない。むろん、暴力でおどかして、子供に秘密を守らせる手もありますが、ジャッキーの場合にかぎって、そういったことはちょっと考えられないことです。子供というものは、じつに透明なものですからね。ジャッキーの様子には、だれかにおどかされて、いやいや動いているといった暗い影はみじんもありませんでしたよ」
「その点については、まったく異存がありませんな」と警部がのぶとい声で言った。
「そうでしょうね」レーンは微笑した、「ところで、たとえ大人がジャッキーを道具に使ったものと仮定してみても、その計画の実行の仕方には、じつにはっきりとした矛盾《むじゅん》があらわれているのです。それは、かげで操っている大人がいるなら、その人間が絶対に承知しないような、どんなことがあっても実行を許さないような矛盾――具体的には、のちほど説明しますが――成熟した人間の頭よりも、子供の頭からしか生れたものと思わざるをえないような矛盾なのです。これらの矛盾から考えて、大人がジャッキーの行動を、背後からあやつっているという推理を捨てたのです。だが、それにしても、その犯行計画の根幹は、大人の頭脳でなければ生み出せないものだと、思わざるをえなかったのです。そこで私は、つぎのような疑問に直面しました――大人が計画をたて、子供がそれを実行に移す、しかも、この二人のあいだにはいかなる共犯関係も存在しない、というようなことがありうるだろうか? これについて考えられる解答はただ一つ――まえに申しました二つの解釈のうちの、これがあとの一つにあたるわけです――すなわち、大人が考えて書いた犯行計画書にしたがって、子供がそれを実行に移し、書いた大人は、子供が実行しているのをぜんぜん知らずにいる、という場合です。(大人が知っていれば、すぐ警察に、計画書のことを正直にうちあけるはずです)」
「そこであなたは、ヨークの探偵小説の梗概《こうがい》に行きついたというわけですね」とブルーノ検事はしみじみと言った。
「そのとおりです。それにまちがいなし、と私はにらんだのです。では、大人が犯行計画書というようなものを書いたような形跡があったでしょうか? あります。まず第一に、あれほど自由自在に、しかも効果的に毒物を使いこなすということは、化学者であるヨーク・ハッターをのぞいて、ほかに考えられません。第二に、バーバラ・ハッターは、最初の尋問のとき、父が小説を退屈しのぎに書いていると証言したことです。この言葉が、私の頭に衝撃となって、よみがえってきたのです。小説! 第三にペルー香油の一件があります、この薬品は、ヨーク・ハッター以外にはだれも使っていないものです……こうしたいくつかの形跡は、その生死を問わず、まぎれもなくヨーク・ハッターを示しているのです」
レーンはため息をつくと、両腕をのばした。「警部さん、いつでしたかあなたに、捜査するうえに、たどるべき道が二つあると言ったことがありましたね――そのとき、あなたは狐《きつね》につままれたような顔をなさったじゃありませんか? その一つは、その場でお話したようにヴァニラの匂いです。第二の道というのは、大人の計画者をつきとめるために、バーバラ・ハッターに会いに行くことだったのですよ。そのときのバーバラの話から、ヨークが探偵小説を書いていたにちがいないとにらんだ私の目に狂いのないのを知って、私はいささか得意になったものです。犯罪を扱う以上、探偵小説だし、それにちがいないと、私はにらんだわけなのです。バーバラは、ヨークが探偵小説の梗概《ヽヽ》を書いていると言っていた以外のことは、なにも知りませんでした。だが、それなら、その梗概がどこかにのこっているかもしれないぞ! 私は、ヨーク・ハッターが探偵小説を書くために殺人の筋を考え、すくなくともその梗概だけはつくっておいたのが、その死後、はからずもジャッキーに、現実の殺人の計画書を提供するはめになってしまったものと、確信したのです。
ジャッキーは、祖父が書いた探偵小説の梗概どおりに行動しているのだ。ではあの子は、その梗概を、どこかに捨ててしまっただろうか?なに、捨てるものか。子供の心理として、捨てるよりも隠すほうが自然だからです。いや、すくなくとも、さがしてみるだけの値打ちはあります。あの子が隠すとしたら、どこか? むろん、屋敷のなかにきまっている。しかし、屋敷のなかは事件直後、警察がすみからすみまで捜索ずみだが、そういったものは、どこからも出てこなかった。だが待てよ、十三歳の少年なら――海賊や、カウボーイや、インディアンや、血まみれの格闘《かくとう》や、ニック・カーター物語にあこがれる年ごろなら、その梗概の隠し場所には、冒険小説にでも出てきそうなロマンチックなところをえらぶにちがいない、こう私はにらんだのです。そのときは、もうすでに、ジャッキーが煙突と煖炉《だんろ》を利用して、実験室に出入りする、あの方法を、私はかぎつけていました。ひょっとしたら、このきわめてロマンチックな侵入の仕方から思いついて、ジャッキーは探偵小説の梗概の隠し場所も、このロマンチックなところをえらんだのではなかろうかとあてにして、いかにもありそうなことに思えたものですから、私は煙突と煖炉のなかをさがしてみたのです。すると、仕切壁《しきりかべ》の上の方に、一か所、ゆるんだ煉瓦があって、その奥の隠し穴のなかに、あの梗概が入っていたというわけなのです。ここが臭いと、私がにらんだのには、もう一つ、理由が考えられたからです。つまり、ジャッキーは、ルイザと寝室と実験室をつなぐ秘密の通路を知っているものは自分ひとりしかいないと確信し、ここに梗概を隠しておきさえすれば、だれにも発見されるはずがないと、たかをくくっていたにちがいないということです。
この秘密の通路に関するかぎり、まるでギリシア神話に出てくる、あの、髪の毛が蛇で見る人を石にしてしまうゴルゴンのような祖母から実験室に入ることを厳禁されていただけに、いたずら盛りで、強情で、反抗心のつよいジャッキーは、逆にむきになって、ひとつ、なんとかして実験室にもぐりこめる手はないものかと、屋敷の内外をうろつきまわったのにちがいありません。よく子供というものは、ときどき、思いがけないことをやるものですが、ジャッキーもその例にもれず、ルイザの寝室の煖炉にもぐりこみ、仕切壁が途中までしかないことに気がつくと、それによじのぼったりしているうちに、ドアから入らなくても、実験室にしのびこめる方法を発見したのに相違ないのです。それからあの子は、実験室のなかをうろつきまわったにちがいありません。そして書類戸棚のなかの、私たちが調べたときはもうからになっていた引出しの一つから、ヨークが自殺するまえにしまっておいた探偵小説の梗概を、きっとジャッキーは見つけ出したのでしょうね。しばらくして、たぶん、その梗概どおりに実行してみようと、あの子が決心したときのことでしょうが、煙突のなかの煉瓦を一つはずしたのです――おそらく、すでにゆるんでいて、ただあの子はそれを隠し穴に利用したのかもしれませんね。……ここには、さらにもう一つ、重要な問題があります。それは、あの子が梗概を発見してから、第一回の毒殺未遂事件にとりかかるまでのかなりながいあいだ、ジャッキーは、ゾクゾクするような殺人計画書に読みふけり、むずかしい字は判読し、なんとか意味をつかもうとしたが、なにぶん子供のことです、読みこなせないところがかなり出てきたにちがいありません。それでも、どうすればいいか、だいたいの要点だけはつかむことができたのです。しかし、このことだけはよく覚えていてください。ジャッキーが梗概を見つけたのは、第一回の毒殺未遂事件のまえだったが、ヨークの死んだあとだということを」
「あんな子供が」と警部が口のなかでつぶやいた、「よくもだいそれたまねを……」彼は頸をふった、「クソッ――いまいましい、言うべき言葉もない」
「じゃ、黙っていなさい!」ブルーノ検事が歯をむき出して言った、「レーンさん、どうか、そのさきを」
「探偵小説の梗概に話がもどりますが」こんどはニコリともせずに、レーンは言葉をつづけた、「私はそれを見つけても、持ってきてしまうわけにはいかなかったのです。そんなことをしたら、ジャッキーに、なくなったことがすぐわかってしまうし、あくまでもうまくいっていると、あの子に思わせておくほうが好都合だったのです。そこで私は、その場で梗概を書きうつすと、またもとにもどしておいたのです。それから、たしかに毒物だと思われる白色の液体の入った試験管も、おなじ穴にかくしてあったので、危険を防止するために牛乳とすりかえておいたのです――そのほかにもまだ一つ、理由があるのですが、それは梗概をお読みになればわかることです」すぐそばの芝生の上においてある古い上衣《うわぎ》に、レーンは手をのばした、「もう何週間も、梗概の写しを身につけて歩いているのですよ」と老優はものしずかな口調《くちょう》で言った、「じつにおどろくべき内容です。ま、話をつづけるまえに、お二人にこれを読んでいただきましょうか」
レーンはそのポケットから、鉛筆で書き写したヨーク・ハッターの梗概をとり出すと、ブルーノ検事の手に渡した。二人はむさぼるように読んでいった。レーンは無言のまま、二人が読みおわるのを待っていた。ややあって、二人は、おなじように無言でそれを老優に返したが、その顔には、理解の光がさしてきていた。
「ついさきほど言いましたように」レーンはその写しを大事そうにポケットにしまうと、説明をつづけた、「この殺人計画を実行する段になると、いかにも幼稚な、子供じみた矛盾が、いくつかあるのです。さもなければ、じつに巧妙に考えぬかれた殺人計画だといえるのですがね。では、捜査線上にあらわれた、犯人のおかしたいくつかの矛盾を、順々に説明してゆきましょう。
まず第一に。毒入りの梨です。ルイザを殺害するのが犯人の目的ではなかったということを、ここではいちおう忘れていただきましょう。とにかく、動機はなんであれ、犯人は梨に毒液を注射するつもりだったのです。ところで、それに用いた注射器が、|あの寝室《ヽヽヽヽ》に落ちていました。しかるに毒液を注射された梨は、はじめからその寝室にあったものではなく、犯人が持ちこんだものなのです。つまり、言いかえますと、犯人は毒のまだ入っていない梨をわざわざ持ちこんできて、その犯行現場で毒液を注射したことになります。ずいぶんばかげた話ではありませんか! いかにも頭の幼稚な子供のやり口です! いったい、大人がこんなまねをするものでしょうか? 犯罪には、発見や妨害の危険がつきまとっているのですから、なによりも迅速《じんそく》に行動するのが不可欠の条件です。犯人が大人なら、寝室に梨を持ちこむまえに、あらかじめ毒液を注射してくるはずですし、それならば、一刻をあらそう、いつ目をさまされて発見されるかもわからないという犯行現場で、なにもわざわざ立ちどまって、梨に注射針をつきたてるような悠長なまねをするまでもないのです。
もっとも、犯人にある目的があって、あの寝室にわざと注射器をおいていったのなら、注射器を持ちこんだのは、その部屋で梨に毒液を注射するためだとばかり、きめつけてしまうわけにはまいりません。そうなると、梨に注射したのは、寝室のなかか、それとも持ちこむまえにか、私にはわからないからです。しかし、それでは、その注射器を寝室にわざとのこしておくために、犯人が持ちこんだものと仮定するなら、その目的はなんでしょうか? その答は、一つしか考えられません。それは、梨に毒液が注射されていることに、警察の目をむけさせるためです。だが、考えてみれば、なにもそんなまねをする必要はありません。というのは、ハッター老夫人が殺害されたのは突発的なものでなく、計画されたものであり、とりわけ、そのまえにも卵酒による毒殺未遂事件があったのですから、毒入りの梨が発見されるのは当然のことなのです。毒物が使用されているかどうか、警察が捜査するのにきまっていますからね――げんにあのとき、サム警部さんも調べはじめたではありませんか。こう考えると、注射器が寝室に落ちていたのは、犯人がうっかり忘れていったもので、注射器を持ちこんだのも、ただあの部屋で、梨に毒液を注射するためだったということになりますね……このことは、私が梗概を読んだとき、はっきりとわかったのです」
レーンは上衣のポケットから、ふたたび梗概の写しをとり出すと、それをひろげた。「いいですか、これにはこう書いてあるのですよ、『こんどの計画は、梨に毒物を注射して、果物鉢に入れておく』それから、あとのほうに、『Yは……腐りかけの梨を寝室に持ちこみ、それには注射器で毒物を注入する』とあります。ま、子供の幼稚な頭には」レーンは梗概の写しを芝生の上におくと、言葉をつづけた、「この文章は、いささかあいまいですよ、これだけでは、寝室に持ちこむまえに梨に注射するのか、それともその部屋のなかで注射するのか、はっきりしませんからね。それに、注射器を寝室にのこしてくる、というようなことには、一言も触れてないのです。しかし、ヨーク・ハッターにかぎらず、大人なら、犯行現場に持ちこむまえに梨に注射しておくぐらいのことは、わかりきった話ですからね。したがって、この梗概を読んだ犯人は、その文意を文字どおりに解釈してしまい、ルイザの寝室のなかで梨に毒液を注射してしまったのです……私はとっさに、これは子供だな、とにらみました。言いかえるならば、犯行計画の筋書は大人が考えて書いたものだが、それを実地に移したのは子供だ、ということです――つまり、文章にはっきり書いてないかぎり、子供の頭脳がどういう反応を示すか、具体的にあらわれているではありませんか」
「いや、まったくですな」とサム警部は思わずつぶやいた。
「では、第二の矛盾を説明しましょう。実験室の床のほこりに、たくさんの足跡がのこっていたのに、原形をとどめている足跡が一つとしてなかったことをおぼえていますね? ところで、あのほこりのことなどは、ヨーク・ハッターの梗概のどこをさがしても出てはこないのです。それはあたりまえですよ、ヨークの、あの梗概のなかでは、彼自身が実験室で寝起きしていたのですから、ほこりなどつもっているはずがないのです。したがって、あのグシャグシャに踏みつぶされた足跡や、それから調査したものなどは、ヨークの梗概とはまるっきり無関係で、現実の事件にだけあてはまるものなのです。私どもが調査したおり、実験室にしのびこんだ人物は、自分の足跡という足跡を、入念に踏み消していたではありませんか――ま、ある意味では、子供の頭だけで考えてやったこととしたら、大出来と言ってもいいでしょう。ところが、実験室の入口であるたった一つのドアの付近には、踏み消すにも踏み消さないにも、足跡というものが一つもついていないのです! 犯人が大人だったら、入口のドアのそばにも、足跡をかならずつけておいたにちがいありません。なぜなら、煙突の秘密の通路からしのびこんだということは、あくまで隠しておかなければなりませんからね。入口のドアのそばまで足跡をつけておきさえすれば、犯人はたぶん合鍵でも使って、ドアから侵入したものと、警察は思いこんでしまいますからね。入口のドアのそばに足跡がなかったら、煖炉を捜査しないほうが不思議なくらいです。この点にも、思慮の浅い子供の頭脳がはっきりとあらわれています、すぐバレるような大きな手ぬかりが、子供の目にはとんとわからないのですね――足跡を踏み消すことまで思いついたくらいなら、なんで大人が、こんな手ぬかりをするものですか」
「そうか、こいつも一本やられましたな」とサム警部がしゃがれ声をだした、「クソッ、なんておれはばかなんだ!」
「第三の矛盾、ま、たぶん、これはいちばん興味があると思いますね」一瞬、レーンの目がキラリとひかった、「あなたがたお二人は――いや、あのときはこの私もそうでしたが――ハッター老夫人を殺害した凶器があまりにも異様だったので、すっかり惑わされてしまいました。よりによって、マンドリンとはね! なぜだ?どうして、こんなものをジャッキーは凶器にえらんだのか? 正直なところ、あのハッターの梗概を読むまで、私には、その理由が、まるっきり見当《けんとう》がつかなかったのですよ。私はただ、あの子がだれかの計画をお手本にして動いている以上、マンドリンが、特別な理由から、凶器として指定されているものと、とってみたのです。また、そのマンドリンの持ち主であるヨークに、ただ濡《ぬ》れ衣《ぎぬ》を着せるために凶器としてえらばれたのかもしれないと、考えたことさえあるのです。だが、いずれも、まったく意味をなしませんでした」
レーンはまた、梗概の写しをとりあげた、「ではもう一度、これを見てください、さて、なんと書いてあるか? どうです、マンドリンのマの字も書いてないではありませんか! ただ、『エミリーの頭部を鈍器《ブラント・インストルメント》で殴打』としかありません」
サム警部は目を見はった。レーンはうなずいた、「どうやら、意味がおわかりになったようですね。いかにも子供らしい頭の働き方が、手にとるようにわかるではありませんか。行きあたりばったりに、十三ぐらいの子供に『鈍器』とはなにか、たずねてみてごらんなさい、まず、正確に答えられるのは、千人に一人しかいませんよ。この梗概には、凶器に使われる『鈍器』について、一言も説明がついていないのです。鈍器とは、刃がなくて、先端のとがっていない重い武器――というくらいのことは、なにも大人に説明するまでもないとヨークは思って、『鈍器』という単語をそのまま使ったわけです。ところが、ジャッキーにはこの単語を読んでも、さっぱり意味がわからなかった。あの子は、『鈍器』というききなれない武器を手にいれて、憎くて憎くてしかたのないおばあさんの頭をぶんなぐらなければならないと考えたのです。こういった場合、子供だったら、頭をどう働かせるでしょうか? 『器《インストルメント》』――この言葉のつくもので、子供がなじんでいるものは、たった一つしかありません。つまり、楽器《ミュージカル・インストルメント》です。『鈍《ブラント》』――さあ、これはちょっとわからない。たぶん、こんな言葉はいっぺんもきいたことがなかったか、たとえ耳にしても、どんな意味かわからなかったことでしょう。ひょっとしたら、辞書ぐらいひいて、まるくて、とがってないもの、ということがわかったかもしれません。と、あの子の頭にパッとうかぶものはマンドリンです――バーバラも言っていたように、ハッター家の唯一の楽器だし、しかも、梗概の作者であるヨーク・ハッターの愛蔵品ですからね! これこそ、子供が犯人だという動かせない証拠ですよ、大人なら、よほどの無智でないかぎり、『鈍器』を『楽器』と解釈するはずがありません」
「おどろいた、これはおどろきました」ブルーノ検事には、これだけしか言えなかった。
「ま、これで、私には、ジャッキーが実験室で探偵小説の梗概を見つけ出し、それをお手本に、つぎつぎと犯行をかさねていったのだな、ということが、だいたいわかってきたのです。それでは、梗概そのものを研究してみましょう。この探偵小説の筋書では、作者であるヨーク・ハッター自身が――むろん、作中の登場人物としてですが――殺人犯人ということになっています。いまかりに、ジャッキーのような子供ではなく、れっきとした大人が、この梗概を見つけ出し、これをそのまま実地の犯罪に適用するとしたらどうでしょうか? その梗概を読めば、犯人がヨークになっています、しかし、当のヨークはすでに死亡しているのですから、その大人は、ヨークを犯人とするきめ手の部分はすべて、梗概から除外して行動するにちがいありません。ところが、私どもが捜査にあたった犯人はどうしたでしょうか? まったく梗概どおり、作中の犯人《ヨーク・ハッター》のきめ手になるはずのペルー香油のくだりまで、そのまま実行に移してしまったのです。ヨーク・ハッターが、探偵小説の構成で、これを用いたのは、なかなか巧妙なアイデアでした。つまり、『匂い』が、手がかりとなって作中のヨーク・ハッターが犯人とわかり、最後に逮捕されるという段取りになるのですからね。しかし、ヨーク・ハッターがすでに死亡している現実の犯罪では、ヨークの犯行の手がかりとなる『ヴァニラの匂い』をそのまま利用するとは、じつに幼稚すぎていて……ここでまた、私どもにどういうことがわかりますか? あの梗概をそのままうのみにして実行に移すような幼い頭脳――まだ成熟しない知能の働き方なのです。
では第四の矛盾――いや、五番めになりますかな? ハッターが書いた梗概では、彼自身が作中の犯人なのですから、『ヴァニラの匂い』という手がかりを設定しておくことは当然で、これが、作中では真犯人を逮捕にみちびく|ほんとう《ヽヽヽヽ》の手がかりになっているのです。しかし、コンラッドの夏の白靴は、|にせ《ヽヽ》の手がかりです。この|にせ《ヽヽ》の手がかりで、濡れ衣をコンラッドに着せ、警察の捜査を狂わせようというのが、作者のねらいなのです。
しかし、これが探偵小説ではなく、実際の事件となると――つまり、なにものかが梗概を手本にして、現実の犯罪をかさねてゆくとなると、事情は一変してしまいます。現実の事件では、|ほんもの《ヽヽヽヽ》の手がかりである『ヴァニラの匂い』も、これまた、|にせ《ヽヽ》の手がかりになってしまうのです! ヨークはすでに死亡していて、もはや梗概のなかの役割をはたすことができないからです。それならば、私たちが捜査していた犯人は、なぜ、二人の人物にそれぞれ嫌疑がかかるような二つの|にせ《ヽヽ》の手がかりを、犯行現場にのこしておいたのでしょうか? これがジャッキーではなくて、だれかほかの大人だったら、コンラッドに濡れ衣を着せるために、夏の白靴を利用はしても、死んだ人間に嫌疑がかかるような『ヴァニラの匂い』は使うはずがないのです――いや、すくなくとも、ただ、みさかいもなしに二人の人物に嫌疑のかかるような手がかりはのこさずに、どちらか一つにしぼったはずです。また、コンラッドの靴を手がかりに利用したとしても、ジャッキーとは反対に、なにもはいて歩くまでのことはないと考えるにきまっています。犯人は、ただ夏靴の片方のつま先の部分に、毒物をこぼして、コンラッドの戸棚のなかにもどしておけば、たくさんだったのです。ところが、ここでもまたジャッキーは、梗概の文意が十分にのみこめないで、はくなどとはどこにも書いてないのに、わざわざ靴をはいて歩いているしまつです……タルカム・パウダーの箱をひっくりかえしたのは、これも梗概にないことで、不慮の出来事だったのですから、靴跡をのこすために、コンラッドの靴をはいたということにはならないのです――しかも、靴跡をのこす目的がなかったら、いよいよ、夏の白靴をはく意味はなくなってしまいます……以上のことはすべて、犯人に、あたりまえの大人の知能さえあったら、やすやすと処理できるというのに、頭の働きの幼さから、犯人はむざむざと尻尾《しっぽ》を出してしまったわけです。これもまた、子供が犯人であるという、はっきりした証拠ですよ。
最後の矛盾は、あの実験室の火災です。じつは私も、ヨークの梗概を読むまで、火災の意味がさっぱりつかめなかったのです。つかめなかったといえば、梗概を読むまでは、ほかにもまだわからないことがたくさんあったのですよ、というのは、犯人のあらゆる行動に理由を見つけようとしていたからです。ところが、理由など、まるっきりなかったのです! ただ、盲目的に犯行がかさねられていたんです……梗概のなかでは、実験室に放火をする目的がちゃんと書いてありました。つまり、ヨーク・ハッターがだれかに狙われて焼き殺されようとした、したがって彼は犯人ではありえないというふうに、警察に思いこませるのが、その目的なのです。しかし、ヨークがすでに死んでいるというのに、彼の寝起きしていた実験室に火をつけたところで、まったく意味をなさないわけです。犯人が大人だったら、この放火の部分を梗概からけずってしまうか、あるいは、自分の部屋を火事にするかどうかして、いかにも、こんどは自分の命がなにものかに狙われたのだ、というように脚色《きゃくしょく》しなおすはずです。ま、大人だったら、放火の部分は、まず捨ててしまうでしょうね。なにせ、ヨークの探偵小説としても、月並なアイデアで、ずばぬけておもしろいといったトリックではありませんよ。
すると、どういうことが、私たちにわかったのでしょうか? 要するに、探偵小説の梗概が、枝葉末節《しようまっせつ》にいたるまで、ただ盲目的な愚かさで、そっくりそのまま実行に移されたということ――おまけにその人間は、自主的な判断や選択をせまられるたびに、幼稚な行動をくりかえして、自分が子供だということを、言わず語らずのうちにその正体をさらけ出しているのです。こうしたことから、ジャッキーこそ殺人犯人だという確信を、私は得たのです。あなたがたも、この私と同様に、ジャッキーが忠実にお手本をまもっているにもかかわらず、梗概の文意というものをまるっきり理解できず、ただ、しかじかのことを行う、と具体的に明記してあることだけを鵜呑《うの》みにして実行したのだ、ということがよくおわかりになったはずです。あの子は、行動のふくみや理由を、ぜんぜん理解していなかった。あの幼い頭できれぎれに理解しえたことといえば、こんなことぐらいでしょう――梗概を読んで、ヨーク・ハッターが犯人であることを知る、そのヨークが死んでしまった、それではひとつ、自分がヨークになって、犯人になろうと思いつく。そこで、梗概でヨーク、またはYが|する《ヽヽ》と書いてある箇所は、全部自分がしなければならないと考える。あの子はヨークの役割をそのまま受けついで、実行に移る。ヨークが、その梗概のなかで、真犯人の自分自身を最後にあばかれる段取りとして設定しておいた手がかりまで、あの子はそのまま実行してしまう! そしてジャッキーが自主的に行動しなければならないはめになったときや、梗概にはっきりした指示がない場合、それを自分の頭で判断しなければならないときには、はた目にもはっきりとわかるような、いかにも子供っぽいことをしでかして、尻尾を出してしまったのです」
「それにしても、第一回の毒殺未遂事件ですが」サム警部は咳《せき》ばらいをして言った、「どうも私には……」
「そう、せかせないでください、警部さん。これから、そのことを説明しようと思っていたのです。あの当時では、あれがほんとうにルイザを殺害しようとしたものかどうか、私たちには判断を下すすべがまったくなかったのです。しかし、ハッター老夫人が殺害されたのち、第二回の毒殺計画がたんなる偽装にすぎないということが私たちに論証されたからには、第一回の卵酒による毒殺計画も、ルイザを殺害するのが目的ではなかったと十分考えられたわけです。まだ私がヨークの梗概を発見しないまえ、つまり、ジャッキーがヨークの梗概をお手本にして犯行をかさねているとはつゆ知らず、ただあの子が自分の考えだけで凶行を演じたものと、私がにらんでいた当時、私はひそかにつぎのような疑問をいだいたのです――『一見、いかにも偶然のようではあるが、ルイザが毒入りの卵酒を飲むのを未然に阻止《そし》したのはジャッキーだった。だが、あの子が毒入りの卵酒を盗み飲みしたのは偶然ではなしに、計画的に飲んだものとは考えられないだろうか? もしそうなら、理由はなにか?』第二回の毒殺計画と同様に、第一回の毒殺計画も殺害が目的でなかったとするならば、犯人は、いったいどうやって、ルイザが卵酒を飲むその直前に阻止し、しかもそれと同時に、その卵酒に毒が入っていることをひとびとに知らせるには、どうすればいいのか? たとえば、卵酒に毒をいれただけで、偶然のように見せかけて、そのコップをひっくりかえしてみたところで、毒が入っていることを、ひとびとに知らせるわけにはまいりません。あのとき、仔犬《こいぬ》があらわれて、床にこぼれた卵酒をなめてくれたのは、まったくの偶然ですからね。したがって、もし、ルイザに卵酒を飲まさないで、しかも毒が入っていることをひとびとに知らせようとするなら、犯人は思いきった手段に訴えざるをえなくなります。ですから、ジャッキーが毒入りの卵酒をほんの少し飲んだという事実は、あの子がなにものかの指示によって動いているという証拠、法律用語で言えば、一見証拠《ヽヽヽヽ》だったのです――あの子が毒薬自殺を計るはずはありませんし、自分で毒をいれたうえに、それを飲んで苦しむといった手のこんだことを、あの子が考えつくわけもありません――子供の頭では、まったく無理な話ですよ。ジャッキーが、こんな狂言をやってのけたという事実は、あの子がなにものかの指示にしたがって行動しているのだという私の確信を、ますます強めてくれたのです。
私がヨークの梗概を読むにおよんで、すべてが明白になってきました。作中のYの狙いは、卵酒に毒薬をいれ、自分ですこし飲んで、かるい病気になる――これによって、三つの目的が一挙に果たせるわけです、つまり、ルイザには危害をあたえず、しかも、なにものかにルイザの命が狙われているものと、みんなに思いこませ、それから、自分を容疑者の圏外《けんがい》におく――犯人なら、自分で毒をいれた卵酒を、飲むやつはいないというわけです。ヨークにしてみれば、なかなか巧妙な計画ですよ――ただし、これは小説のうえだけの話ですがね。かりに、ヨークが現実の殺人計画をたてていたとしたら、たとえ人目をごまかすのが目的であっても、自分で毒を飲むなどということは、考えついてもためらったにちがいありません」
レーンはため息をついた。「ジャッキーは、その梗概を読むと、Yが卵酒に毒薬をいれ、自分でそれをすこし飲むと書いてあります。あの子は、梗概のなかで、Yがすると書いてあることは、なにからなにまでしなければならないと思ったものですから、勇気と――事情がゆるすかぎり、お手本どおりにやってのけたわけです。第一回の毒殺未遂事件で、毒入りの卵酒を飲んだのがジャッキーであるという事実、さらに、第二回の毒殺未遂事件とハッター老夫人殺害事件の犯人が、おなじくジャッキーであるという事実は、文面の言外の意味やふくみをまったく理解できずに、およそ空想的で、実際にはとうていありえないような犯罪の筋書を、ただ鵜呑《うの》みにして従っていたという、なによりの証拠なのです」
「すると、動機はなんでしょう?」サム警部が力のない声でたずねた、「いったい、なんだって、あの子が、自分のおばあさんを殺す気になったものか、さっぱりわからんのですよ」
「叱られずに野球がやりたかったのも、動機の一つだろうて」とブルーノ検事が、ちゃかすように口をはさんだ。
サム警部が、検事の顔をグッとにらみつけた。検事は言った、「ねえ、警部、ああいう家庭で育ったんだ、べつに不思議はないじゃないか、そうですね、レーンさん?」
「ええ」老優は悲しげな微笑をうかべた、「警部さん、その答は、あなたにだってわかっているはずですよ。ハッター家の悪性の血の遺伝の原因は、よくごぞんじではありませんか。わずか十三歳とはいえ、ジャッキーの体内には、祖母と父親から遺伝した病毒の血が流れていたのです。たぶん、生れおちたときから、あの子には殺人者の下地ができていたのでしょうね――子供なら、わがまま、意地わる、残忍といった素質を多少はもっているものですが、ジャッキーには、それが普通の子供以上にあるばかりでなく、ハッター家の悪い血の遺伝まで背負っていたというわけなのです……ほら、あのちいさな弟のビリーを、あの子がまるで気ちがいみたいになっていじめていたのをおぼえていますか? それから、自制心というものがまったく欠けている、あの子の加虐的なことをうれしがる性質――花を踏みにじったり、猫《ねこ》を水に溺《おぼ》れさせたりするいたずらですよ? こうしたあの子の性情と、私がひそかに想像していることを結びつけて考えてみてください。想像といっても、たぶん、ほんとのところだと思いますがね――つまり、こういうことなのです。ハッター家の家族のあいだには愛情というものがまるっきりなく、むしろ、おたがいに憎悪《ぞうお》しあっているのが、あの一家のしきたりみたいになっていたのです。わけてもハッター老夫人は、つね日ごろから、ジャッキーをなぐりつけていました。げんに、その老夫人が殺害される三週間まえにも、ルイザの果物を盗み喰いしたといって、ジャッキーは折檻《せっかん》されているではありませんか。そのとき、たまりかねた母親のマーサが、老夫人にむかって、『さっさと死んでしまえばいい!』というような言葉で毒づいたのを、ジャッキーはそばできいていました――子供の心にもえあがった憎悪が、頭のなかの邪悪な血に煽《あお》られて、さらに火の手をあげたとき、偶然見つけたヨークの梗概を読んで、世界じゅうでいちばん憎らしい祖母、母親の敵である『エミリーおばあさん』が殺害されることを知ると、憎悪の火はたちまち殺意となって、燃えひろがったのでしょうね……」
このところ、とみにレーンの顔にあらわれるあの憔悴《しょうすい》の影が、いままた、老優の顔を暗くした。「悪質な遺伝と環境にゆがめられたもの心のつきはじめた子供が、あくまでも自分の敵と思いこんでいる人間の殺害計画にとびついたとしても、けっして無理な話ではないのです。そして、その計画に着手してみると――第一回の毒殺未遂事件ですが――まんまと成功した。そうなれば、なにも途中まできてやめることはない、第一回の成功にすっかり気をよくしたのが、心のなかで燃え出したその子の犯罪本能に、油をそそぐ結果になったのです……ま、多くの犯罪がそうであるように、この複雑きわまる犯罪は、計画者のヨーク・ハッターも計算にいれず、それを実行に移した、まだほんの子供にすぎないジャッキーも予想しなかった偶発的な出来事のおかげで、ますます、わけのわからぬものになってしまったのです。事件当夜、ナイト・テーブルにのっていたタルカム・パウダーの箱をひっくりかえしてしまったのもそうですし、ジャッキーがつま先で立っているところを、ルイザの手で顔をさわられたのもその一つ、また犯人の身長を割り出す裏づけとなった、あの薬品棚の縁についていた指跡なども偶発事だったのです」
レーンは言葉をきると、ひと息いれた。ブルーノ検事が待ちきれないようにたずねた、「家庭教師のペリーは、この事件と、どういう関係があるのです?」
「その答は、もう警部さんがお出しになってしまったようなものですよ」とレーンは答えた、「ハッター老夫人の継子《ままこ》にあたるペリーは、自分のほんとうの父親が、業病《ごうびょう》で悲惨な死をとげたのも、みんなハッター老夫人のせいであるとはげしく恨んでいましたから――その胸中に復讐の念のようなものを秘めていたことは、まずたしかですね、さもなければ、家庭教師を口実に偽名までつかって、ハッター家に入りこむはずがありません。はっきりとした計画があってのことかどうかはべつとして、なんらかの方法で、ハッター老夫人に復讐してやろうと思っていたことは事実じゃないでしょうか。しかし、老夫人が殺害されて、こんどは自分の足もとに火がついてきたというわけです。それでもなお、ペリーがあの屋敷から出てゆけなかったのは、バーバラと恋におちいっていたからだと思います。ま、おそらく、殺人事件が起こるかなりまえから、老夫人への復讐は、あきらめてしまったのかもしれませんね。まず、ペリーの胸中は、永久にわからないでしょう」
しばらくのあいだ、サム警部は、思案にあまったような異様な目つきで、レーンの顔を、穴があくくらい見つめていた。「なぜあなたは」と警部は口をきった、「捜査のあいだじゅう、はじめからしまいまで、あんなに秘密主義で押し通したんです? あなたは自分の口から、実験室の一件で、ジャッキーの仕業《しわざ》だとわかったとおっしゃった。どうしてそれを、われわれにうちあけてくださらなかったんです? あんまりひどすぎるじゃありませんか、レーンさん?」
レーンは、かなりながいこと、それに答えなかった。ようやく口をひらいたとき、警部と検事がハッとなるくらい、あくまでも感情をおしころしたしずかな声だった。「捜査の進展につれて、私の心がどんな動き方をしたか、率直にうち割って、お話してみましょう。……私が、ジャッキーを犯人だとにらみ、つぎつぎと証拠があがってきて、もう、その疑問の余地がなくなったとき、私は身の毛のよだつほどおそろしい問題に直面したのです。
どのような社会学的観点から見ても、あの子供に犯罪の道徳的な責任があるとは考えられないのです。あの子は、祖母の罪の犠牲者にすぎません。それならば、私はどうすればいいのか? ジャッキーの罪をあばくことか? 私があばいたなら、あなたがた――法の守護者たるあなたがたは、どんな措置《そち》をとるか、はっきりと目に見えています。法にさからうことを許されないあなたがたです、ただちにジャッキーは逮捕されるにちがいない。たぶん、あの子は、法律上の成年に達するまで少年刑務所に監禁され、それから未成年者の殺人罪として起訴され、公判に付されるでしょう。道徳的責任のない年齢時の犯罪ということで、かりに有罪の判決を受けなかったとしても、それから、あの子はどうなるでしょう? せいぜい、精神異常ということで釈放され、死ぬまで精神病院にとじこめられているのが、あの子にとって最上のところではありませんか」
老優はホッとため息をついた、「あなたがたとはちがって、この私には、法律を字句どおりに支持しなければならぬ義務がないし、それに、もともと罪は、あの子にあるわけではない、殺人計画も、そのきっかけになったものも、彼の責任ではありません。いわば、ジャッキーは広い意味で、おそるべき環境の犠牲者にすぎない、と思われたからなのです……あの子にだって、運をためす機会があたえられてもいいはずですよ!」
二人とも、一言も言わなかった。レーンは、池の水面のさざなみと、すべるようにしてなめらかに泳いでいるブラック・スワンを見つめた。「はじめのうちから、それもまだ、あの梗概を読まないまえのことで、つまり、この犯罪はきっとだれか大人の筋書にちがいないとにらんで私が捜査をすすめていたころから、ルイザの命が狙われるのは、二回だけにとどまらず、今後もまだあるにちがいないと、私は予想していたのです。というのは、これまでの二回にわたる毒殺の企てが、そのじつ、ただの偽装にすぎず、ハッター老夫人殺害が、ほんとの狙いだったのですから、ルイザ毒殺という偽装をさらに強化するために、犯人がもう一度、ルイザの命を狙う作戦に出たほうが、どうしても論理的に思われるからです。……しかし、だれか大人にあやつられている犯人がほんとうにルイザを殺害しようと思っているならば、第三回めの毒殺が、はたしていままでどおり、未遂におわってくれるかどうか、私には確信がなかったのです。だが、いずれにせよ、もう一度、ルイザが狙われることだけは、まずまちがいがないと思ったのです。
私の、この推理は、煙突の壁の隠し穴に、これまで一度も用いられたことのないフィゾスチグミンという毒液入りの試験管を発見して、はっきりと裏づけられたわけです。私がフィゾスチグミンを、ミルクとすりかえたのには、理由が二つあるのです。その一つは危険を未然に防止するためであり、いま一つは、ジャッキーに運だめしの機会をあたえてやるためだったのです」
「どうも、そこのところが私には、のみこめないのですがねえ……」とブルーノ検事が口をいれた。
「ですから私は、あの梗概を見つけた場所を、あなたがたに教えるわけにはいかなかったのですよ」と老優は答えた、「あなたがたが知ったら、ただ手をこまねいて、黙って見ているはずがありませんからね。さしずめ、あの子を隠し穴までおびきよせ、その場で取り押えるにきまっています……では、どんな方法であの子に運だめしの機会をあたえてやったのか? それはこうです――ヨークの梗概には、ルイザを毒殺する意図はない、と、一か所にとどまらず書いてありました。あなたがたもお読みになったのだから、ヨークが再三再四にわたって、そのことをくりかえしているのがおわかりになったはずです。私は、試験管の毒液を無害なミルクにすりかえて、梗概の最後の指示――すなわち、ルイザに対する第三回めの偽装毒殺計画を安全に遂行するチャンスを、ジャッキーにあたえてやったのです。私は、あの子が、はじめからおしまいまで梗概の指示を忠実にまもるものと信じていたのです……私は胸のなかで自問してみました、あの子は、梗概の指示どおりに、ルイザのバターミルクのなかに毒をいれてから、はたしてどうするだろう? この点については、梗概にはくわしいことが書いてありません。ただ、Yはバターミルクがちょっとへんだぞぐらいのことを言って、ルイザがそれを飲むのをやめさせる、とだけしか書いてないのです。そこで、あの子がどうするか、目を皿《さら》にして見まもっていました」
二人は、緊張して、ひざをのり出した。「で、あの子は、どうしました?」ブルーノ検事がささやくように言った。
「ジャッキーは、窓の外側の張出しからルイザの寝室にしのびこむと、自分ではあくまで毒液だと信じこんでいる、あの白色の液体の入った試験管をとり出しました。ヨークの梗概では、バターミルクのコップのなかに、十五滴たらすとありました。ところがあの子はちょっとためらってから――|試験管の中味をぜんぶ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、コップのなかにいれてしまったのです」レーンは言葉をきると、空を仰いで身をすくめた。「これは不吉な徴候です、ここではじめて、あの子は、梗概の指示に、わざとそむいたのですからね」
「それから?」サム警部が、気負いたった声でうながした。
レーンは、さも疲れきったように、警部の顔を見つめた。「梗概には、バターミルクを飲まないうちに、言葉をかけるかなにかして、飲ませないようにすると、ちゃんと書いてあったのにもかかわらず、|あの子はそうしなかったのです《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。あの子は、声もかけずに、そのままルイザに飲ませてしまったのです。じじつ、あの子が窓のブラインドのすき間から、そのさまを黙って見まもっていたのを、私はこの目で見とどけたのです。そして、ルイザがバターミルクをすっかり飲みほしてしまっても、いっこうに苦しむ様子がないのを見てとると、あの子は、いかにもがっかりしたような色を顔にうかべました」
「なんということだ!(グッド・ゴッド)」とブルーノ検事は、ゾッとしたような声をだした。
「いや、けっして善《よ》い神《グッド・ゴッド》とは言えませんでしたよ」とレーンはしずみこんだ口調で、それを受けた、「このあわれな子供にとってはね……ところで、つぎに直面する問題は、このあと、ジャッキーはどういう行動に出るか、ということです。たしかに、あの子が、梗概の指示にしたがわなかった点はいくつかありました、しかし、もうこれで、ヨークの梗概は終ってしまっているのです。こんどは、自分のひとりぎめで、勝手なまねをするようなことはないだろうか? もしここで、あの子が梗概どおりに行動を中止するなら、もうこれ以上、ルイザであれ、だれであれ、あの子が毒殺をくわだてるようなまねをこんりんざいしないなら、私は、あの子の犯した罪にはいっさい触れずに口をかたくとざし、自分が事件の解決に失敗したことにして、この悲劇の舞台から、いさぎよくおりるつもりだったのです。そうすれば、あの子の身心に巣喰っている邪悪なものを、匡正《きょうせい》する機会があるかもしれない……」
サム警部ははなはだおもしろくなさそうな顔つきだった。ブルーノ検事は、塚《つか》の上に、枯葉の小片《こぎれ》をせっせとひきずってゆく一匹の蟻《あり》の動きをじっと見まもっていた。「私は実験室に張りこみました」レーンのうつろな声がきこえた、「また毒薬がほしくなったとき、あの子の手にすぐ入るところといったら、そこだけしかないからです」そこで、ちょっと言葉がとぎれた。「やっぱり、あの子は、毒薬がほしくなったのです。あの子は実験室にしのびこむと『劇薬』とラベルにある薬壜を棚からとり出し、べつの小壜にうつしました。そして、それを持ち去ったのです」突然、レーンはパッと芝生から立ちあがると、靴のつま先で、土くれを踏みつぶした、「みなさん、ジャッキーは、われとわが身に有罪の判決をくだしてしまったのです。骨の髄《ずい》まで、血の殺人悪鬼と化したのです……すでに梗概の指示にそむいたあの子は……いまはその指示には目もくれず、そこからはるかに逸脱して、自分勝手なまねをしはじめたのです。かくして、もはやこの子には、匡正の道がないということを、私はさとったのです。もし、このまま、ジャッキーが放置されていたら、あの子の死ぬ日まで、社会の脅威になるでしょう、あの子は生存に適さない人間だったのです。とはいうものの、もし私があの子を告発するならば、社会がほんの十三歳にすぎない少年に復讐するという身の毛のよだつような光景を見ることになります、しかも、せんじつめれば、その社会自身に罪があるというのにですよ……」レーンは言葉をきった。
やがてまた、老優が口をひらいたとき、その口調はまるでちがっていた。「この一連の事件は、――作者のヨークがYと自称したごとく――まさに『Yの悲劇』と呼ぶにふさわしいものです。そもそもヨーク・ハッターが探偵小説を書くつもりで考えた犯罪計画が、孫の心のなかに、フランケンシュタインのような怪物を産みつけ、あの子はその計画どおりに犯行をかさね、Y自身がその探偵小説のなかで予想だにしなかったような不気味きわまりない結末をまねいてしまったのです。あの子が死んだとき、私はただ、そのいたましい惨事にショックを受けたような顔をしただけで――あえて、あの子の罪をあばこうとはしなかったのです。いまさらそんなことをしたところで、いったいだれのためになるというのです? この事件に関係のあるすべてのひとのためには、あの子の罪は表沙汰《おもてざた》にしないほうがよかったのです。警察の上司や新聞社の連中が、この事件の解決を騒ぎたててあなたがたに迫っていた当時、もし私が真相をうちあけていたら、矢面《やおもて》に立っていたあなたがたは、それを公表せざるをえなかったでしょう……」
と、サム警部がなにか口をだそうとした、だがレーンは、そしらぬ顔をしたまま、言葉をつづけた、「それに、ジャッキーの母親、マーサのことも考えにいれなければなりませんし、さらに重要なことは、まだちいさくて、これからさき自分の運命をきりひらいてゆかなければならぬ弟のビリーのことも、考えてやらなければならないのです……とはいうものの、警部さん、私はあなたにもご迷惑をかけたくなかったのです。かりにあなたが事件の解決に失敗したという理由から、左遷されるようなことにでもなったら、即座に真相をあなたにうちあけ、あなたの名誉をとりもどし、いままでの地位をまもるようにしなければならないと思っていたのです。これだけは、あなたに対する私の義務ですからね、警部さん……」
「いや、恐縮です」サム警部はぶっきらぼうな口ぶりで言った。
「しかし、あれから二か月もたって、あれほどはげしかった非難の声もおさまり、あなたの地位にいささかのゆるぎもなかった以上、あなたがたお二人に――法の公僕《こうぼく》としてではなく、人間としてのあなたがたに、もはや真相を隠しておく理由はなくなったのです。私のただ一つの希望といえば、このいまわしい事件全般を通じての私の意図を、人間的な立場から理解してくださって、――ジャッキー・ハッターの思い出してもゾッとするような物語を、このまま永久に秘密として葬っていただきたいのです」
ブルーノ検事とサム警部はおもおもしくうなずいた。二人ともじっと考えこみ、しずまりかえっていた。サム警部は、なんども頭をうなずかせた。……と、突然、警部は芝生の上でいずまいをなおすと、はちきれんばかりの両ひざを、たくましい胸にかかえこむようにした。「ところで」と彼はさりげなく言った、「事件の結末のところで、私にはどうもよくのみこめないところがあるんですがね」警部は草の葉をちぎると、かみはじめた、「最後に、あのジャッキーが、ルイザ・キャンピオンに飲ませるつもりの毒入りのバターミルクを、いったいなんだってまちがえて、自分で飲むようなへまをしたんでしょうな、レーンさん?」
レーンは答えなかった。老優は、サム警部からわずかに顔をそらした。と、だしぬけにポケットに手をつっこみ、パンくずをひとつかみ、とり出すと、池の水面にすこしずつ、投げはじめた。ブラック・スワンが、音もなく滑るように泳いでくると、その餌をついばみはじめた。
サム警部は巨体をまえにのり出すと、レーンのひざを、いらいらしたようにたたいた、「ねえ、レーンさん、いまおたずねしたことが、わからないんですか?」
と、すごい勢いでブルーノ検事が立ちあがった。検事はあらあらしく警部の肩をこづいた。警部はびっくりして検事の顔を見上げた。ブルーノ検事の顔面は蒼白《そうはく》、その顎《あご》の線はきびしくひきしまっていた。
レーンはゆっくりふりかえると、苦悶《くもん》の色を目にたたえて、二人の顔を見つめた。ブルーノ検事が名状しがたい声で言った、「さ、警部、レーンさんはお疲れの様子だ、そろそろおいとまして、ニューヨークに帰ろうじゃないか」  (完)
解説
探偵小説の歴史は、一八四一年に出版されたエドガー・アラン・ポーの『モルグ街の殺人』からはじまるというのが、今日では定説になっている。そして、この百二十年間におけるもっともかがやかしい黄金期は、イギリスでは第一次大戦後の一九一八年から三十年代におよぶ二十年間とされている。クロフツ『樽』クリスティ『アクロイド殺し』フィルポッツ『赤毛のレドメイン』セイヤーズ『ナイン・テイラーズ』ノックス『陸橋殺人事件』アリンガム『幽霊の死』マーシュ『死の序曲』ブレイク『野獣死すべし』などの傑作がこれである。アメリカでは、イギリスよりもほぼ十年おくれた一九二六年に、遅まきながら突如として急転回がおこった。S・S・ヴァン・ダインの『ベンスン殺人事件』がこれである。「一夜にしてアメリカ探偵小説は成年に達した」と、探偵小説の著名な研究家ハワード・ヘイクラフトは評している。つづいて二七年には『カナリヤ殺人事件』が発表され、アメリカ探偵小説の黄金期を迎えるにいたった。このヴァン・ダインの諸作に対抗して、新しく登場したのがエラリイ・クイーンである。一九二九年の『ローマ帽子の秘密』を皮切りに『フランス白粉の秘密』(三〇年)『オランダ靴の秘密』(三一年)『ギリシャ棺の秘密』(三一年)『エジプト十字架の秘密』(三二年)『アメリカ銃の秘密』(三三年)『シャム双生児の秘密』(三三年)『チャイナオレンジの秘密』(三四年)『スペイン岬の秘密』(三五年)の諸作がこれであって、いずれも新鮮な本格探偵小説の醍醐味を持ってはいるものの、ヴァン・ダインの名作『グリーン家殺人事件』や『僧正殺人事件』に匹敵するような傑作にまでいたらなかった。ところが、一九三二年に、バーナビー・ロスという無名の新人が『Xの悲劇』を発表するにおよんで探偵小説界に一大センセーションをまきおこすにいたる。ヴァン・ダインの名作を凌駕するものと喧伝され、つづいてロスは本書『Yの悲劇』を発表し、前作にまさるともおとらないものと熱狂的な大好評を博し、やがて『Zの悲劇』『ドルリー・レーン最後の事件』の四部作となるわけである。そしてもっとも興味のあることは、バーナビー・ロスが当時の新進作家エラリイ・クイーンの変名であることを、だれひとり夢想だにしなかったことである。第二次大戦後、はじめてエラリイ・クイーンの名で四部作が刊行されるにいたって、探偵小説界はただただ驚倒するばかりであった。
ここで、ヘイクラフトの有名な評論『娯楽としての殺人』から、エラリイ・クイーンのアウトラインをぬき書きしておく。(訳文は林峻一郎氏のものによる)
『エラリイ・クイーン』は、二人の従兄同志のアメリカ人フレデリック・ダネイとマンフレッド・B・リーの共同の筆名である。彼らはふたりとも一九〇五年ブルックリンでうまれた。リーはニューヨーク大学にゆき、在学中自分でオーケストラをつくった。ダネイは大学にはゆかなかったが二十四歳のときにはニューヨークの広告会社の美術部長になっていた。またリーは、映画会社の宣伝広告をかいていた。そのころ彼らはある探偵小説懸賞募集の広告をよみ、気軽に応募してみた。おどろいたことには、彼らは当選したのだ。だが募集した雑誌は出版をやめてしまった。ある出版社がこの小説に注目し、『ローマ帽子の秘密』は出版されるようになった。こうして現代のもっとも人気ある共同著作の幕がきっておとされたのである。数年間というもの『クイーン』は、身元をかくすために慎重な注意をはらった。署名会とか文学茶会などには黒マスクをして出席した。このことは『バーナビー・ロス』についても同様であって、ダネイ、リー両氏は、この別名で二番名の、見逃すことのできない探偵『ドルリー・レーン』というもとシェークスピア俳優をつくったのである。従兄弟たちはあるとき同時に『クイーン』と『ロス』として共同論争の講演旅行をしたが、主催者さえ彼らが二重に同一人であることをしらなかった! この共同作業に従事する従兄弟たちは、他のどんな作家よりもっと大きな楽しみをこの仕事にもっているのだろうが、彼らの著作を本質的には商売と心えている。めいめい自宅で一定のスケジュールにしたがって働いている。そしてときどき五番街のあるガランとした事務室にあつまる。彼らは、そこを郵便のアドレスぐらいに考え、そこにあるもののなかで彼らの商売を暗示するものは唯ひとつ小さな防弾窓ぐらいのものである(しかもそれは先住者の宝石商がおいていったものだ)。彼らはときどき日課をやぶってハリウッドに旅行にゆく。リーは結婚しふたりの娘をもち、ニューヨーク市にすみ、切手収集道楽をしている。ダネイもやはり結婚し、ふたりの小さな息子をもち、郊外のグレイト・ネックにすみ、現存最上の立派な短篇探偵小説のコレクションをもっている。
この百二十年間にあらわれたおびただしい探偵小説の名作のなかから、ベスト3を探偵小説の各層の愛好家に問えば、かならず、本書『Yの悲劇』があげられると言ってもけっして過言ではない。事実、あらゆる名作のリストにえらばれ、新聞、雑誌などによせられる諸家のアンケートがこれを証している。(その過半数がベスト1に本書をあげている)それではエラリイ・クイーンの最大の魅力はなにか、ヘイクラフトはつぎのように解明している――『なにがクイーン小説に大きな評判と成功をもたらした要素かとたずねられたとき、作者は慎ましげに、推理の「完全に論理的な」正攻法《フェア・プレイ》だとこたえた。まさにこれこそは、最初の作品以来標ぼうしてきたものである。だがこれだけではない。「クイーン」諸氏は率直に、もちろん自分たちの作品は生活の手段だとみとめているが、探偵小説に敬意と誠実さとをもっていた。これは――そのゆるがぬ熱意とともに――つねにたかい水準にあるとみとめられる大きな理由である。クイーンの小説は、大体この方面での知的な面と劇的な面とのたくみな混合で、また近代探偵小説にみられるこまかな筋の組みたて、活気ある叙述、気やすいユーモア、愉快な人物などをふくんでいる。それらは、推理の小説の現代における技巧の最高峰である』
『Yの悲劇』は、その完全に論理的な正攻法《フェア・プレイ》と近代探偵小説としての最高度の技法とが見事に結合された一典型といえるだろう。終章の最後のセンテンスぐらい、私の心にはげしいショックと戦慄と、名づけがたい魅惑をあたえてくれたものは、私の記憶するかぎり、他の探偵小説には見出せない性質のものであったことを、ここに特記しておきたい。
一九六一年十月 (訳者)
[訳者紹介]
田村隆一《たむらりゅういち》
一九二三(大正一二年)東京に生る。明治大学文学科卒業。詩誌「新領土」「LE BAL」などを舞台に詩を発表、戦後は「荒地」の主要メンバーとして活躍した。
〔著書〕詩集「四千の日と夜」、〔訳書〕ロアルド・ダール「あなたに似た人」、アガサ・クリスティ「予告殺人」「魔術の殺人」、クロフツ「樽」、エラリイ・クイーンの四部作(「Xの悲劇」「Yの悲劇」「Zの悲劇」「最後の悲劇」)などがある。
◆Yの悲劇◆
エラリー・クイーン/田村隆一 訳
二〇〇三年一月二十日 Ver1