エラリー・クイーン/田村隆一 訳
Xの悲劇
目 次
読者への公開状
第一幕
第一場 ハムレット荘
第二場 ホテル・グラントの一室
第三場 四十二番街横断線
第四場 車庫の建物の一室
第五場 車庫の二階の大きな一室
第六場 ハムレット荘
第七場 車庫の二階の個室
第八場 デウィット・ロングストリート商会
第九場 ハムレット荘
第二幕
第一場 地方検察局
第二場 ウィーホーケン渡船場
第三場 ウィーホーケン駅
第四場 サム警部の室
第五場 ハムレット荘
第六場 ウィーホーケン
第七場 ウェスト・エングルウッドのデウィットの家
第八場 取引所クラブ
第九場 地方検察局
第十場 ハムレット荘
第十一場 ライマン・ブルックス・アンド・シェルドン法律事務所
第十二場 ハムレット荘
第十三場 フレデリック・ライマンの住居
第十四場 裁判所
第三幕
第一場 リッツ・ホテルの一室
第二場 ウィーホーケン駅
第三場 ウィーホーケン――ニューバーグ間普通列車
第四場 ニューヨークへの帰途
第五場 ウェスト・エングルウッドのデウィット邸
第六場 ホテル・グラントの一室
第七場 マイケル・コリンズのアパート
第八場 ウルグアイ領事館
第九場 ハムレット荘
第十場 ボゴタ付近
第十一場 ハムレット荘
第十二場 ウィーホーケン――ニューバーグ間普通列車
舞台裏
解説
読者への公開状
親愛なる読者諸君。
ちょうど九年前、それまでエラリイ・クイーンという共同のペンネームで作品を書いてきた二人の青年が、ある人々とある事情とに迫られて一連の探偵小説を書くことになった。
彼らの補助的な努力の結果、ドルリー・レーンなる、すばらしい推理力を備えたシェークスピア劇の老俳優が創造された。
エラリイ・クイーン集は探偵エラリイ・クイーンの功績をたたえたものであるから、ドルリー・レーン氏の功績をたたえるこの一連の小説は、エラリイ・クイーンの名で発表され得ないのは明らかである。
そこで、二人の青年は第二のペンネームを作り出した。ドルリー・レーン四部作の第一作『Xの悲劇』がバーナビー・ロスの名で静かに誕生したのである。
ところで、(二人の)作家エラリイ・クイーンと(二人の)作家バーナビー・ロスとの間には、いかなる点においても関係はなかったのである。
両者の作品はそれぞれ別の社から出版され、それぞれの周囲には故意に神秘や秘密が張りめぐらされていた。
事実、この二人の青年が公的な生活において二重の仮面をかぶっていた時には、ドミノ仮面をつけ、多くの演壇をはさんで実際ににらみ合って見せた。……一人はエラリイ・クイーンになり、も一人はバーナビー・ロスとなって、推理小説の分野でのライバルを粧ったのである。ニュージャージー州のメイプルウッドから、イリノイ州のシカゴにかけて、はるばる好奇心をもって講演を聞きに来た聴衆の前で互いに言い合った言葉は、かならずしもお世辞だけではなかった。こんなまったくのペテンによって二人の偽りの作者は正体を現わさずにすんだのである。
とはいうものの、手がかりはいつも存在していたのである。明敏なる読者探偵諸君がこれを見抜かれたなら、エラリイ・クイーンとバーナビー・ロスとの関係をつきとめ、過去九年間にわたり善良なる読者をあざむききたった恥ずべき欺瞞をすっぱ抜かれたであろう。
諸君がもし『ローマ帽子の秘密』(エラリイ・クイーンの第一回作品)の序文をお読みになれば、十頁の十七行目から二十二行目までに次のような注目すべきヒントとなる記述が述べられているのにお気がつかれたであろう。
『たとえば、今は昔のバーナビー・ロス殺人事件において、探偵としてすばらしい業績をあげた時にも、リチャード・クイーンはその手柄によって犯罪捜査の|腕利き《ヽヽヽ》として名声を博したばかりでなく……』
新たにもう一つのペンネームが必要になった時、バーナビー・ロスの名が選ばれたのは、この偽りの引用文の中からであった。バーナビー・ロスは実に、エラリイ・クイーン名義による第一作の序文が書かれた一九二八年に誕生したのである。しかし、バーナビー・ロスが二人の父親によって公けに洗礼を受け、自分自身の家に移り住むようになったのは一九三一年のことであった。
かくして、過去、現在を通じ、また未来もバーナビー・ロスはエラリイ・クイーンなのである、そしてその逆も正しいと言えるものである。
ドルリー・レーンについて一言述べておきたい。半身は|ひかがみ《ヽヽヽヽ》半身は雷鳥……ホラ吹きで天才、そしてある一人を除けば(その人物の名前は言うまい)古今東西、最も秀れた探偵であるこの年老いた変人に対して、われわれはいつもその胸中にあたたかい気持を抱いてきた。
その兄弟と同様(クイーンもレーンも同じ策謀家の二人の青年によって生みだされたのではなかったか)ドルリー・レーンは演繹《えんえき》派に属する――すなわち正々堂々と読者に立ち向うのである。それゆえ『Xの悲劇』においても、以後の『悲劇』ものと同じく、大詰に到る以前に読者には総《すべ》ての鍵が提供されるであろう。
ではこの厳粛なる再出発にあたって……ドルリー・レーン万歳!
(一九四〇年九月十三日金曜日。ニューヨークにて)
エラリイ・クイーン
ドルリー・レーンに関する記述
出版社の要請によって、未完のドルリー・レーン伝に関するノートからチャールズ・グレン氏による抜萃。
演劇人名簿(一九三〇年版)より
ドルリー・レーン、俳優。一八七一年十一月三日、ルイジアナ州ニュー・オリーンズに生まる。父、リチャード・レーン、アメリカ人悲劇俳優。母、キティ・パーセル、イギリス人喜劇俳優。未婚。学歴、個人教授を受ける。初舞台、七歳。十三歳にしてボストン劇場でキラルフィ作『魅惑』に初の大役で出演。二十三歳にしてニューヨーク、ダリー劇場において『ハムレット』に出演。一九〇九年、ロンドンのドルリー・レーン劇場においてロングランを続け、それまでのエドウィン・ブースの記録を二十四日上廻る新記録を樹立。著書、『シェークスピア文学』『ハムレットの哲学』『カーテン・コール』等々。所属クラブ、プレイヤーズ、ラムズ、センチュリー・フランクリン・イン、コーヒー・ハウス。アメリカ文芸アカデミー会員。レジオン・ド・ヌール受勲。住所、ニューヨーク州、ハドソン河畔、ハムレット荘(下車駅、ウェストチェスター郡、レーンクリッフ)。一九二八年ステージを引退。
ニューヨーク・ワールド紙、ドルリー・レーン引退声明に関する記事より抜萃。(一九二八年)
「……ドルリー・レーンはニュー・オリーンズの二流劇場『コマス』の舞台裏で生まれた。当時、父親のリチャードは|あぶれて《ヽヽヽヽ》いたので、母親のキティは自分達や生まれてくる子供を養うために再び舞台にもどらねばならなかった……彼女が分娩と同時に不幸にも一生を終えたのは、無理に舞台に立ったからで……第一幕の終了後、楽屋で早産……」
「……ドルリー・レーンは文字通り舞台で生まれ、舞台で育ち、悪戦苦闘する父親につれられ、劇場を渡り歩き、安宿を転々し、その日暮しの生活を送った。初めて口にした言葉が劇のセリフであり、男優、女優にあやされて育ち、劇が即ち教育となり……歩き始めるやチョイ役をつとめ……父親のリチャードは一八八七年肋膜肺炎で死んだ。彼が十六歳の息子に苦しい息の下から残した最後の言葉は『役者になれ』ということだった。しかし父親が息子に託した夢も、青年ドルリー・レーンが真実達した位置にははるかに及ばなかった。
「……彼の奇妙な名は、最近、自ら明らかにしたところによれば、由緒あるドルリー・レーン劇場の偉大な伝統にちなんで、両親がつけたものであるという……」
「……引退の理由は両方の聴覚が衰えてきたためで、もはや自分の声の調子を思うままに調節できないまでに悪化し……」
「……長年、慣れ親しんだ役柄への未練を捨て切れず、毎年四月二十三日、ハドソンの自邸に設けた私設劇場で本格的に『ハムレット』を演ずると言う。彼がこの日を選んだのは、この日が一般にシェークスピアの誕生日であり、命日であると信じられているからである。ドルリー・レーン氏が英語を話す世界各地で五百回以上もこの役を演じてきたことを想うと興味深い」
カントリー・エステート誌、ドルリー・レーンのハムレット荘紹介記事により。
「……建物は、純粋にエリザベス朝の様式を守り、使用人の住む幾つかの棟に囲まれ、荘園の中の城郭とでもいったものである。他の建物も、エリザベス朝の建築を忠実に模したもので、特徴あるわらぶき屋根、尖った切妻《きりづま》などがある。そして、時代の雰囲気を害《そこ》なわないよう、たくみに近代設備を備え……庭園もたいしたもので、たとえばイギリスの田園地方からわざわざとりよせた生垣や……」
ラ・ペンチュール誌、ポール・レヴァサン筆、ドルリー・レーンの肖像画に対するラウル・モリニューの批評(一九二八年パリにて)より。
「……最後に会った時のまま……背のすらりとした、静かだがどこか力強く、頸《くび》を隠すほどにふさふさと垂れた銀髪、灰緑色の射抜くような瞳、完ぺきなまでに端正で、ほとんど古典的で、無表情に見えて、電光のごとく変化する容貌……彼は今、チャールズ一世のごとく厳然と立ち、例の黒いマントから出した手を軽くあのブラックソーンのステッキの上に置き、かたわらのテーブルの上には黒いフェルトのソフトがあり……不気味なまでの暗さがくすんだ服装によって一層強められ……しかし、この人物が指をパチンと打ちならすや、近代世界のあらゆる服装がその足元に殺到し、過去の世界から華麗なる現実の人物にと一変するかと思うと、その暗さもやわらげられ……」
一九三―年、九月五日付、ニューヨーク州地方検事ブルーノに宛てたドルリー・レーンの書簡より。
「現在、警察の捜査難行中のジョン・クレーマー殺人事件につき、僣越ながら貴下の職域まで立ち入り、小生個人の分析結果などを述べさせていただきます。
「小生の資料はことごとく、事件に関する、時に不満足な新聞記事より拾い集めたものであります。しかしながら、小生の分析結果をよく調査していただけるなら、幾つかの事実から、当然筋道の通った唯一の結論へと導かれてゆくだろうという小生の意見に同意されることと思います。
なにとぞ老隠居の差出口と軽んじなさらないでください。犯罪事件にはことのほか興味を持っておりますので、今後、迷宮入り、もしくは不明なる事件の場合には、いつでも御依頼に応ずるつもりであります」
一九三―年、九月七日、ハムレット荘宛ての電文。
『犯人ノ自白ニヨリ、貴下ノゴ推察ノ正シキコト立証、クレーマー事件解決ノオ礼カタガタ、ロングストリート殺人事件ニツキ御高見ウカガイタク、サム警部ト、明朝十時半、オ訪ネシマス』
ウォルター・ブルーノ
登場人物
ハーリー・ロングストリート……株式仲買業
ジョン・オウ・デウィット……同
ジャンヌ・デウィット……その娘
ファーン・デウィット……デウィットの後妻
フランクリン・アハーン……デウィットの隣人
チェリー・ブラウン……女優
ポラックス……芸人
クリストファー・ロード……ジャンヌの婚約者
ルイ・アンペリアル……スイスの商人
マイケル・コリンズ……税務吏
ライオネル・ブルックス……弁護士
フレデリック・ライマン……同
チャールズ・ウッド……車掌
アンナ・プラット……秘書
ホアン・アホス……ウルグアイ領事
ブルーノ……地方検事
サム……警部
ドルリー・レーン……探偵・元俳優
時 現代
場所 ニューヨーク市とその近郊
第一幕
第一場 ハムレット荘
――九月八日(火曜日)午前十時三十分
下の方、青いもやの中にうっすらと光りながらハドソン河が流れていた。白い帆が走り過ぎ、汽船がのんびり流れをさかのぼる。
狭い、曲がりくねった道を自動車は登りつづけた。二人の乗客は車から顔を出して上を見上げた。
かなり上の方に、信じられないような中世風の小さな塔が雲の中に浮きたち、石造りの城壁、銃眼のついた胸壁、昔の教会のような珍しい尖塔が見え、その先端がどっしりと緑に茂った森の上につき出ていた。
二人は顔を見合わせた。「まるで中世にでもかえったような気がしてくるね」と一人が言って、身震いした。
もう一人の、大きな、頑丈な体をした男がうなった。「鎧《よろい》を着た騎士《ナイト》でも出て来そうだ」
自動車は、奇妙な形の、粗末な橋のたもとでブレーキをかけた。かたわらのわらぶきの小屋から赤ら顔の小さな老人が出てきた。老人は黙って、ドアの上にかかって左右に揺れている掲示板を指さした。それには古風な字体でこう書かれていた。
立入りを禁ず ハムレット荘
がっしりした男の方が車の窓から乗り出して、叫んだ。「ドルリー・レーン氏に会いたいんだ」
「さようですか」老人はちょこちょこ近づいてきた。「で、通行証はお持ちで?」
二人の訪問者は目をむき、もう一人が肩をすくめ、大男が怒ったように言った。「レーン氏がお待ちのはずだ」
「そうですか」橋番は白髪《しらが》頭をかきかき、小屋の中に姿を消した。がすぐに元気よく引き返してきた。「どうも失礼をいたしました。こちらへどうぞ」彼はちょこちょこ橋に近づき、ギーギーきしむ鉄の門を開いて、道をあけた。車は橋を渡り、きれいに敷きつめた砂利道をすっとばした。青々とした樫の林を少し行くと広い空地に出た。城郭、いわば眠れる巨人はハドソン丘陵地帯に向って小さな花崗岩の石垣に囲まれ、彼らの前に横たわっていた。車が近づくと、金具のついた巨大な扉が重い音をたてながら内側に開き、一人の老人が帽子に手をかけ、にこやかに微笑んでいた。
こんどは、車は手入れのゆきとどいた色彩豊かな庭園の間を曲がりくねりながら進んだ。両側には規則正しく続く生垣が庭園と道路とを仕切り、|いちい《ヽヽヽ》の樹が等間隔に植えられていた。小道に沿って沼地の方まで続いている庭園に、まるで童話に出てくるような切妻《きりづま》形の小屋が幾つも現われた。近くの花壇の中央には|空気の精《アリエル》の石像が水をしたたらせ……
車はやっと目的の建物に着いた。するとまた、一人の老人が二人が来るのを待っていた。濠の向う側から巨大なはね橋ががちゃがちゃ音をたてながら、きらめく水面の上にかけられた。はね橋の向うの、高さ二十フィートもある巨大な、鉄と樫で作られた扉がすぐに開かれた。びっくりするほど赤い顔の小男がピカピカの制服を着てそこに立ち、何かふざけてでもいるように、にこにこしながら右足を引いて丁寧におじぎをした。
二人の訪問者は、驚きに目を見開き、車からはいでるようにして降りると、鉄橋を荒々しく踏み鳴らしながら渡って行った。
「ブルーノ検事さまと、サム警部さまで? さ、どうぞこちらへ」太鼓腹をしたこの老僕は、ふたたび丁寧に礼をくりかえすと、楽し気に二人の先に立って、十六世紀の世界へと導いていった。
彼らは荘厳な宮廷ふうの大広間の中に立った。光り輝やく広大な天井、まばゆいばかりの甲冑をつけた騎士《ナイト》の像、修理を加えた古美術品。正面の壁には、まるで北欧神話に出てくるヴァルハラ殿堂のそれをもしのぐ巨大な喜劇の仮面が横目でにらみ、こちらの壁には悲劇の仮面が眉《まゆ》をくもらせていた。どちらも樫の古木を彫って作ったものだった。その中間の天井からは、とてつもなく大きな鉄製のシャンデリアがつり下がり、大きなローソク形の電燈には電気の配線など、まるでどこにもしてないといった感じ。
正面の扉が開くと、そのまま過去の世界からぬけ出て来たような奇怪な人物――せむしで、禿げ頭で、頬髯《ほおひげ》を伸ばし、ボロボロの鍛冶屋のような革のエプロンをかけたシワだらけの老人が現われた。検事とサム警部は顔を見合わせ、サム警部がつぶやいた。「老人だけしかいないのか、ここには?」
せむしの老人はすばやく進み出て二人に挨拶した。「今日は、おふたかた。ようこそハムレット荘におこしなされた」ぎこちない、しゃがれ声で、話すことに慣れていないといった奇怪な声だった。彼は制服を着た老人に向って「もうさがってよい、フォルスタッフ」と言った。地方検事ブルーノは見張った目を、さらに大きく見開いた。
「フォルスタッフだって……」彼はうなった。「そんな馬鹿な、だれがそんな名前をつけるものか!」
せむしの老人が頬髯をしごいた。「ごもっともで、あれはジェイク・ピンナという俳優だったのですが、レーンさまがそうお呼びになるわけで……さあ、どうぞこちらへ」
老人は足音を響かせながら、いま自分が出てきた扉に二人を案内した。彼が壁に手を触れると扉が音もなく開き、この宮廷じみた場所にふさわしからぬエレベーターがあった。首を振りながら二人は老人より先に乗り込んだ。エレベーターは二人を運び上げ、やがて静かに止まった。小さな扉がサッと開き、せむしの老人が「レーンさまのお部屋でございます」と言った。
なんと雄大な、またなんと古風な……すべて、古風で風雅にあふれ、エリザベス朝の英国を偲《しの》ばせる。皮革、樫材、石、どれも時代がかっていた。時代と煤とによって青銅色にしみついた梁《はり》のある、幅十二フィートもある煖炉に小さな火が燃えていた。鳶色《とびいろ》の目を油断なく見開いていたブルーノには、空気が少し冷たかったので、この火がありがたく感じられた。
二人は案内人のおどけたようなジェスチャーにしたがって、大きな古風な椅子に深く腰を下ろし、驚嘆のまなざしを見交わした。老人は鬚をしごきながら壁近く立っていたが、やがてハッと身を正すと、はっきりと言った。「ドルリー・レーンさまです」
二人は、思わず椅子から腰をあげた。入口のところに背の高い男が二人を見つめて立っていた。せむしの老人は古革のような年おいた顔に、不自然な笑顔を浮かべながら頭を下げた。我知らずこれにつられて、地方検事と警部も頭を下げた。
ドルリー・レーンはゆっくりと部屋に入ってくると、たくましい手をのばした。「これはこれは、さ、どうぞおかけください」
ブルーノは、レーンのじっと静けさをたたえた灰緑色の目をのぞきこんだ。ブルーノが話し始めると、その目が鋭く自分の唇にそそがれているのを知って、検事は驚いた。「お会いできて、サム警部ともども喜んでおります」ブルーノは口ごもった。「えーと、なんと申しましょうか、その、とてもすばらしいお屋敷でございますな」
「はじめはおどろかれるでしょうね、ブルーノさん。もっとも、簡潔な直線美にあきあきしている、現代人の目には、時代錯誤的な面白さでうつるだけでしょうがね」老優の声はその瞳と同様、落着いていた。その声はブルーノには今まで耳にしたどの声よりも豊かに思われた。「しかし、あなたがたにしろ、なじめば愛着を感じるものですよ。このハムレット荘のことを、ある同僚が、美しい丘陵を舞台にした背景幕のようだと言いましたが、私にとっては、ありありと生きており、息が通い、中世イギリスのたくましい花のように思われるのです……クェイシー」
せむしの老人が老優のかたわらに近よった。老優の手が背のこぶをなでまわした。「この男はクェイシーと言って、大の親友、たいした天才です。四十年もの間、私のメーキャップの面倒をみてくれています」
クェイシーがふたたび頭を下げた。まったく対照的なこの二人の主従の間に、芳醇とも言えるつながりのあるのを感じて、二人の客は名状しがたい温さをおぼえた。それでブルーノとサムが同時に話し始めた。
レーンの目がせわしく、一人の唇から他の唇へと移った。無表情な彼の顔がわずかにくずれた。「別々にお願いいたしましょう。耳がまったくだめなものですから。一度にお二人の唇を読むことができません――なにぶん習いおぼえて間がありませんので」
二人は吃《ども》りながら謝罪した。二人がふたたび椅子に腰を下ろすと、レーンも煖炉の前にある、すべての椅子の中の曾祖父とでも言うべき古めかしい椅子をひっぱってきて、二人の真向いに坐った。サム警部は、レーンが二人の客の顔を照らす火影をさえぎらず、自分は陰に身を置くように坐を占めたことに気がついた。クェイシーは目だたないように引きさがっていた。サムの眼の隅に、彼が壁の片隅の椅子に、褐色のねじけた樋嘴《ひさき》のようにじっとうずくまっているのが見えた。
検事が咳ばらいをした。「レーンさん、サム警部も私も大変ご迷惑をおかけしているのではないかと案じているのですが、あなたのあの驚くべき手紙によりまして、見事、クレーマー事件が解決いたしましたものですから、電報をお打ちしたようなわけでして」
「べつに驚くべきなどと言うものではありませんよ、ブルーノさん」
玉座を思わせる大椅子からゆっくりと声が響いた。「私の行為には先例が無いわけじゃないのですよ。エドガー・アラン・ポーのことはお忘れじゃないでしょう。彼はメアリー・ロジャーズ事件の解決について、何度かニューヨークの新聞に投書しています。クレーマー事件に関して申しますと、事件とはまったく関係のない三つの事実によって、核心が見失われてしまいました。不幸にして、あなた方はそのために迷路に追いこまれてしまったのです。ところで、こんどは、ロングストリート殺害事件を解決せよというわけですか?」
「ええ、レーンさん。その、サム警部も私も、大変お忙しいだろうとは思ったのですが……」
「いや、ブルーノさん。私にはこのようなちょっとしたドラマに参加できないほど、ひまもないということは決してありませんよ」その声はかすかに活気をおびてきたようだった。「舞台を引退して初めて気がついたのですが、人生は一つのドラマですよ。舞台には制約があり、束縛があります。マーキュシオの夢判断の台詞をかりれば、劇中の人物は『むなしい空想から生まれた、無益な観念の子供たち』なのです」二人の客は、老優の声にのり移った魔力に我を忘れた。「だが現実の人間たちは、情熱のクライマックスに、舞台以上の劇を見せてくれる。『空気よりもはかなく、風よりも気まぐれなもの』などということは絶対にありません」
「いかにも」と地方検事がゆっくりと言った。「まさにそのとおりです」
「犯罪――激情にかられた犯罪――はドラマの極致です。そして殺人がそのクライマックスとなるのです。私はこれまで多くの名優――」彼はわびし気に笑った。「モジェスカ、エドウィン・ブース、アダ・リーハンなどとともに、激情のクライマックスを舞台で演じてきました。今では、現実のそれを演じたいと思っています。私には、特殊な武器があります。私は舞台の上では無数に人を殺してきました。計画を実行できずに悩みもしました。罪の意識にも悩まされました。つたないながら、私はマクベスにもなり、ハムレットにもなりました。今、生まれてはじめて見た子供のように、この世には何とマクベスやハムレットが無数にいるかに驚いているのです。言い古されたことかもしれませんが、でも真実です……」
「私は今まで作者の糸にあやつられてきましたが、作りもののドラマより、もっと大きなドラマの中で、私自身、糸をあやつってみたいという衝動にかられています。万事、好都合です。この不運な難儀でさえ」彼はほっそりした指で耳をさした。「精神統一のためには幸いします。ただ目をつむるだけで、音のない、つまりですね、物理的妨害のまったくない世界に入ることができるので……」
見るからにサム警部は当惑していた。彼は今、現実的な彼の性格とはおよそ縁遠い感情にはまりこんでしまったというような顔だった。彼は目をしばたたき、こともあろうに、この自分が英雄崇拝に陥っているのではないかと内心、苦笑いしたくらいだった。
「私の言う意味はおわかりかと思いますが」レーンの声が続いた。「私には理解力があります。私には前歴があります。洞察力、観察力、それに集中力があります。そうです、私には推理力と探偵能力があると申し上げたいのですよ」
ブルーノ検事は咳ばらいした。老優の、気づかわしげな目がブルーノの唇に釘づけになった。「レーンさん、われわれの今度の事件は――あなたのご抱負にそえないかもしれません。単純な殺人事件なので……」
「まだ私の言ったことがおわかりでないようですな」その声は、今や、かすかに笑いを含んでいた。「単純な殺人事件とおっしゃいましたな、ブルーノさん。どうして、私は奇異な事件を求めなければならないでしょう?」
「とにかく」サム警部が口をはさんだ。「単純であろうとなかろうと、私どもは困惑しているのです。で、ブルーノ検事は、レーンさんが興味を持たれるかもしれないと考えたのです、事件については新聞をお読みでしょうね?」
「むろん。しかし、新聞記事はまとまりがなくて、役に立ちません。ゆがんだ先入観なしに問題に臨みたいのですが、警部さん、どんな微細なことでも話していただけませんか。明らかに無関係、あるいは無意味と思われるものでも、ひとつ残らず説明してください。とにかくなにからなにまで聞かせていただきたいのです」
ブルーノ検事とサム警部とは顔を見合せた。ブルーノがうなずいた。サム警部の無骨な顔が話し出そうとして、ゆがんだ。
広い壁がぼんやりとかすんでいった。煖炉の火が宇宙の力によって操作されたように衰えていった。ハムレット荘も、ドルリー・レーンも、古い器物と古い時代と老人たちの気配も、サム警部のだみ声におおい隠されていった。
第二場 ホテル・グラントの一室
――九月四日(金曜日)午後三時三十分
先週の金曜日の午後(以下はときおり地方検事からの補足もまじえて、サム警部の語った事件のいきさつである)ニューヨークの四十二番街と第八アヴェニューの角にある、鉄筋コンクリートのホテル・グラントの一室で、一組の男女が抱擁していた。
男はハーリー・ロングストリート、長身、中年、たくましい体躯だが、長年の放蕩で、病的に赤い顔をして、目のあらいツイードの服を着ている。女はチェリー・ブラウン、ミュージカル・コメディーのスター、ラテン系のブルーネット、よく動く黒い瞳、アーチ型の唇、大胆で情熱的な女である。
ロングストリートは濡れた唇で女にキスをした。女はいっそう体をすりよせた。「あの人たち、来なければいいわ」
「おれに可愛がられていた方がいいのかね」男は抱いていた手を離すと、今は見るかげもないが、昔は運動選手だったことを誇るように力こぶを作ってみせた。「だが来るね――もうすぐ来るよ。ジョニー・デウィットってやつは、おれが跳べと言えば、かならず跳ぶんだ」
「だって、どうして他の連中まで連れて来さすの。来たくないのかもしれないのに」
「あいつのうろうろするのが見たいのさ。奴はおれを憎んでる。どこまでもつきまとってやるぞ」
男は女を荒々しく膝の上から放り出すと、部屋を横切って、食器棚に並んでいる酒壜の一本を手にした。女は猫のような眠そうな目でそれを見ている。
「ときどき」と女が言った。「あなたがわからなくなるわ。彼をいじめて、どんな得があるっていうのよ」女は白い肩をすくめた。「あたしの知ったことじゃないわ、ご存分にお飲みなさい」
ロングストリートはぶつぶつ言いながら、あお向いて、酒をのどに流し込んだ。まだそのままの姿勢のとき、女はさりげなく言った。「デウィット夫人も来るの?」
男はウイスキー・グラスを棚にもどした。「むろんだ。もう彼女のことは持ち出すな。何度も言ったように、おれたちはなんでもないし、過去においてだって、なんでもなかったんだからな」
「気になんかしてないわ」女は笑った。「でも、デウィットの奥さんを盗むなんて、あんたらしいわ……で、他にだれが来て?」
「いろんな奴よ」男は顔をゆがめた。「デウィットのとりすました、長い面《つら》が早く見たいものだ。ウェスト・エングルウッドの、奴の近くに住んでいる、アハーンという男が来る。まるで婆さんの愚痴みたいに、しょっちゅう腹の調子が悪いなんて言っている奴だ。ヘッ、腹か」彼はトロンとした目で自分のへこんだ腹を眺めた。「ああいった堅物《かたぶつ》は、いつも腹の調子が悪いらしいな。おれさまは違うぞ。それから、ジャンヌ・デウィットも来る。あの娘もおれが大嫌いなんだが、親父に言われて来るんだ。すてきなパーティになるぞ。しかも、彼女のフランク・メリウェルばりのボーイフレンド、ロードの坊やが来るとなりゃ、こたえられねえ」
「あら、あの子はいい子よ」
ロングストリートの目がキラリと光った。「ああ、いい子だともよ、気どり屋で、おせっかいやきで。あの青二才が店でうろうろするなんて、がまんできねえ。デウィットに追い出させるんだった……まあ、いい」彼はため息をついた。
「それからもう一人――おかしな奴が来る。スイスから来た奴さ」彼は不愉快そうに笑った。
「ルイ・アンペリアル、前にも話したが、デウィットの仕事の関係で……そうだ、それにマイケル・コリンズ」
と、ブザーの音で、チェリーははねおきると、ドアのところへとんで行った。
「まあ、ポラックス、さ、入ってちょうだい」
派手な服を着て、色浅黒く、薄い髪を丁寧にポマードで撫でつけ、口髭をワックスでピンと塗りかためた中老の男が、両手で彼女の体を抱くようにした。ロングストリートがふらつく足を踏みしめて、立ち上がると、わざと威嚇するように、大きく咳ばらいをした。チェリー・ブラウンはパッと赤くなって、客を押しのけると、いそいで髪を直しはじめた。
「むかしの相棒のポラックスよ、覚えてない?」その声は愉しそうだった。「ポラックス、大ポラックス、読心術の大家、昼夜興行までしたのよ。さ、握手してちょうだい、二人とも」
ポラックスは力なく握手に応じて、すぐ棚の酒に引き寄せられて行った。ロングストリートは肩をすくめ、椅子にもどった。しかし、ふたたびブザーの音で立ち上がった。チェリーがドアを開け客たちを招じ入れた。
口髭も白くなりかけた、中年の、やせた白髪の小男がためらいがちに入って来た。ロングストリートの顔がパッと明かるくなった。彼は大股で近づき、親愛の情を示した、彼は低い声で挨拶を述べ、手をぎゅっと握りしめた。
ジョン・オウ・デウィットは頬を染め、その痛さと嫌悪とで目をふせた。肉体的にも、二人は著しい対照をなしていた。デウィットは控えめで、苦労のシワを額にきざみ、いつも決断と逡巡《しゅんじゅん》との間をうろうろしていた。ロングストリートは、身体も大きく、自信に満ち、傲岸《ごうがん》で、横柄《おうへい》である。
デウィットは、ロングストリートが他の客に挨拶をしに脇をすり抜けるとき、あわててかたわらに飛び退いて、路をあけた。
「ファーン、よく来てくれたね」この女はスペイン系の、盛りを過ぎて肥りはじめた女で、塗りたくった顔には、昔日の美しい面影がわずかにとどまっていた。デウィットの妻。
ジャンヌ・デウィット――小柄な小麦色の肌をした娘――は冷ややかに会釈した。彼女は長身のブロンドの青年、クリストファー・ロードに体をすりよせた。ロングストリートは青年のことなど眼中におかずアハーンやラテン系の、一分の隙もない服装をした大男のアンペリアルの手を握った。
「マイケル!」
ロングストリートはとんで行って、今うつむきかげんに入って来た男の広い肩を叩いた。
マイケル・コリンズはたくましいアイルランド人で、豚のような目をもち、明らかに敵意が彼にこびりついていた。彼は口の中で挨拶をぶつぶつ言って、じろりと一同を見まわした。ロングストリートは彼の腕をわしづかみにした。
彼の目がギロリと光った。「いいか、このパーティをぶちこわすような真似はするなよ、マイケル」ロングストリートはしゃがれ声で耳打ちした。「前にも言ったように、デウィットに始末させるからな、さあ、向うへ行って飲んでくれ――面倒を起こすなよ」
マイケル・コリンズは腕を振りほどくと、黙って棚の方へ歩いて行った。
給仕が現われた。琥珀《こはく》色のグラスの中で氷が美しい音をたてた。デウィットの一行はほとんど口をきかず、緊張し、――鄭重《ていちょう》ではあったが楽しまぬ様子だった。デウィット自身は椅子の端に腰をかけ、青白い顔で、ぼんやりと機械的に背の高いグラスを口に運んだ。だが、指の関節が白く見えるくらい、彼はグラスをかたく握りしめていた。
ロングストリートは、いきなりチェリー・ブラウンを大きな腕にかかえ込むと、女がわざと恥ずかしそうにするのにかまわず、一同に呼びかけた。「諸君、本日なぜここにお集まりいただいたか、もうご存じだろうと思います。今日はこのハーリー・ロングストリートにとりまして、めでたい日なのであります。否、デウィット・ロングストリート商会にとりましても、また、商会に関係する総ての人にとりましても、めでたい日なのです」彼の声が不明瞭になってきた。顔は煉瓦色になり、目がすわってきた。「ご紹介いたします――未来のロングストリート夫人!」
おさだまりのざわめきが起こった。デウィットが立ち上がり、女優に向ってぎこちなくお辞儀をし、ロングストリートの手をお座なりに握った。ルイ・アンペリアルが大胯で進み寄り、軍人のように靴の踵を合わせ、うやうやしく、女優のマニキュアをした指に身をかがめて唇を触れた。デウィット夫人は、夫のかたわらで、ハンカチを握りしめ、必死に笑おうと努めていた。ポラックスは酒棚から、よろよろと離れて近づくと、不器用にチェリーの腰に腕をまわした。が、ロングストリートに手荒く突きのけられるとふたたび、酒棚のところへ行ってぶつぶつと何か言った。
女連中は、女優の左手に光る大きなダイヤモンドを賞めそやした。食器やテーブルを抱えて給仕が何人か部屋に入ってきた……。
軽い食事が終り、ポラックスがラジオのダイヤルを探った。音楽が始まり、形だけのダンスが行なわれた。ロングストリートとチェリー・ブラウンだけが楽しんでいた。大男は子供のようにはしゃぎまわり、ふざけてジャンヌ・デウィットを抱きしめた。ブロンドのクリストファーは二人の間に割って入り、若い二人は踊りながら遠ざかっていった。ロングストリートはクックッと笑った。チェリーがそばにいて、楽しい、内輪もめが……。
五時四十五分にロングストリートはラジオを止めさせた。そして興奮したように叫んだ。「ウェスト・エングルウッドのおれの家でちょっとしたディナー・パーティの仕度ができてる。言い忘れていた。驚いたか、どんなもんだい」彼はわめき続けた。「みんな、来てくれ、来なくちゃだめだ。マイケル、君もだ。それからっと、ポラックスとか言ったな――君も来て読心術でもやってくれ」彼はしかつめらしく時計をとり出して「今、ここを出ればいつもの汽車に間に合うぞ。さあ、みんな行こう」
デウィットが喉をつめたような声で、今晩は約束があって客が来るんだ、と言った。ロングストリートは目をむいた。「みんなでなければだめだ」アンペリアルが肩をすぼめ、ニヤッと笑った。ロード青年は軽蔑のまなざしでロングストリートを見ていたが――デウィットの方に向けた瞳には少々困惑したような色があった……。
五時五十分きっかり、全員、チェリー・ブラウンの、食器や壜、ナプキンやグラスで散らかった部屋を後にした。彼らはひしめいてエレベーターに乗り、ホテルのロビーに溢れ出た。
ロングストリートはボーイを呼び、新聞とタクシーを頼んだ。
一同は歩道に出た――四十二番街に面したホテルの出口である。ドアボーイが懸命にタクシーを呼んでいる。通りはノロノロ走る車で溢れていた。頭上を黒雲が覆い、雷鳴がとどろいた。数週間続いた旱天《かんてん》が突然、いまいましい豪雨にかわろうとしているのだった。
雨が降りだすと、思いがけなく激しい勢いだったので、通行人や車の混乱といったら、たがいに先を争い、跳びはね、ぶつかり合い、まるで狂気の有様であった。
けたたましくタクシーを呼んでいたドアボーイが、肩越しに振り返ってロングストリートに諦めたように笑って見せた。一行は走っていって、第八アヴェニューの角に近い、宝石店の雨除けに身を避けた。
デウィットがロングストリートにすり寄った。
「忘れないうちに言っておくが、ウェーバーの苦情は私の言うとおりにした方がいいのではないか?」彼は、一通の封書を、ロングストリートにつきつけた。
ロングストリートは、右手でチェリー・ブラウンの腰をまいていたが、女をはなすと、上衣の左のポケットから銀の眼鏡ケースをとり出し、ケースをポケットに押し込み、眼鏡を鼻にかけた。
彼は封筒からタイプで打った手紙をひき出し、ザッと目を通した。その間、デウィットは半ば目を閉じていた。
ロングストリートはせせら笑った。「なんだ、こんなもの」彼はその手紙をデウィットの方に軽く投げた。それは小さなデウィットの手をはずれ、濡れた歩道に落ちた。死人のように青くなって、デウィットはかがみこむと、それを拾いあげた。「ウェーバーの奴もこれで厭なら、諦めるんだな。おれはもう決めたんだから。これで最後にしてくれ、もうこの話はごめんだ」
その時ポラックスが大声をあげた。「電車が来たぞ、あれに乗ろう」
混乱した車の群れを押し分けるようにして、前面を赤く塗った電車がのろのろと進んできた。
ロングストリートは眼鏡をむしりとり、ケースに収め、それを左のポケットにつっこんで、手をそのまま出さなかった。チェリー・ブラウンは彼の大きな体にしがみついていた。彼は右手を大きく振って「タクシーはだめだ、電車にしよう」と叫んだ。
電車が悲鳴をあげて止まった。ズブ濡れになった人の群れが後部の開いているドアに殺到した。ロングストリートの一行はその中にまじって、入口に行こうともがいた。チェリー・ブラウンはまだロングストリートにしがみつき、ロングストリートの左手はまだポケットの中につっこんだままだった。
彼らはステップに足がとどいた。車掌がしゃがれ声で叫んだ。「お早く、気をつけて」
雨が彼らの服をビショビショにしていた。
デウィットの体はアハーンとアンペリアルの大きな体の間でもみくちゃになった。苦闘の後、全員やっと乗ることができた。アンペリアルはナイト気取りでデウィット夫人を助け乗せた。そしてアハーンの方に首を伸ばして、ふざけてウィンクをして……低い声で、こんな奇妙なパーティは生まれてはじめてだと言った。
第三場 四十二番街横断線
――九月四日(金曜日)午後六時
一同は後部乗降口にいたが、ムッとするような人|いきれ《ヽヽヽ》に息もつまりそうだった、それでも肘と膝を使って、やっと彼らは後部車掌台に乗り込むことができた。ロングストリートは入り口付近につったち、チェリー・ブラウンは夢中でもがいているうちに、彼の左手から離れてしまった。
車掌は声をからしながら乗客を中に押し込み、やっと黄色い二重の扉を閉めることができた。車内は、とくに車掌台は身動きできないほどで、乗客が料金を差し出しても、車掌は受けとろうとしなかった。どうにか、扉はピッタリと閉まり、車掌は発車の合図をした。乗りそこねたあわれな群衆がもみあいながら、雨の中にとり残された。
ロングストリートは、車の動揺に大きな体を揺られながら、右手にしっかりと一ドル紙幣をつかみ、他の乗客の頭ごしに差しだした。
車内は窒息しそうだった。窓が全部、閉まっていたので、湿気のために吐気がするほどだった。
車掌はもがきながら、やはり大声をあげていたが、やっとロングストリートの手から紙幣をひったくった。乗客は、押し合い、へし合いし、ロングストリートは怒った熊のようにわめいていた。やっと釣銭を受けとると、彼は肩で人を分けながら仲間の方へ行こうとした。だれよりも奥にチェリー・ブラウンがいた。彼女は彼の右腕をつかんで身を寄せた。ロングストリートは吊革をつかんだ。電車は、耳も聾《ろう》するばかりの雨の中を、のろのろと第九アヴェニューに向って進んだ。
ロングストリートは左手をポケットにすべり込ませて、眼鏡のケースをさぐった。その瞬間、彼は小さな叫び声をあげて、銀のケースを持った左手をポケットからパッと出した。「どうしたの?」チェリーが言った。ロングストリートはいぶかしそうに左手を調べた。掌一面に小さな出血が認められた。彼の瞳が揺れ、生気の無い顔がゆがみ、彼はあえぎはじめた。
「何かでひっかいたようだ。一体全体?……」こう言いかけた時、電車がはげしく揺れたかと思うと、ガタンと止まった。乗客がいっせいに倒れかかり、本能的にロングストリートは左手に吊革を探った。チェリーは彼の右手にしがみついた。電車がまた急に動きだすと間もなく、ロングストリートがハンカチで左手の血を強くふきとった。それをズボンのポケットに返すと、眼鏡をケースからとり出し、ケースをポケットに落とし、右の腋の下にはさんでいた新聞を拡げようとした――その動作は濃い霧の中で行なわれているかのように、のろのろしていた。
電車は第九アヴェニューに止まっていた。待ちかまえていた群衆が口々にわめきながら、扉に殺到した。が、車掌は首を横に振った。雨はますます強くなった。電車は、またゆっくりと進み始めた。
ロングストリートが突然、吊革をはなした。読みかけの新聞が落ちた。彼は額に手をあて、苦しそうにあえぎながら、呻き声をあげた。
チェリー・ブラウンが驚いて、彼の右腕をつかんだ。そして助けを求めるように後をふりかえった……
電車は第九アヴェニューと第十アヴェニューの中間に来ていた。自動車の洪水の中で、走っては止まり、止まっては走りしていた。
ロングストリートは、のどをひきつらせると急に体をこわばらせ、怯《おび》えた子供のように目を見張り、風船を突きさしたようにぐったりとなって、すぐ前に腰かけていた若い婦人の膝にもたれかかった。
ロングストリートの左側で、先ほどから、その婦人――口紅が濃いが、かなり美しいブルーネットである――にかぶさるようにして話をしていた、中年のたくましい男が、むっとしたように、ロングストリートのだらんと垂れた腕を引っぱった。「起きろ、おい! ここをどこだと思ってるんだ」と彼は叫んだ。
だが、ロングストリートは若い婦人の膝から滑り落ち、そのまま乗客の足もとの床に崩れた。
チェリーがキャーッと悲鳴をあげた。
一瞬、車内がシーンとなった。それからガヤガヤとざわめきが起こり、顔がいっせいにこちらを向いた。ロングストリートの一行が人をかきわけて集まってきた。「どうしたんだ?」「ロングストリートだ!」「倒れてるぞ!」「酔ったな」「女を見てやれ――気絶しそうだぞ!」
マイケル・コリンズが、倒れかかる女優を抱きとめた。
濃い口紅の若い女性と連れのたくましい男は、度胆を抜かれて、血の気を失い、おし黙っていた。女は席を立って、男の腕につかまり、床にくずおれたロングストリートを恐ろしそうに見つめた。「いったい」と彼女は急に口を開いた。「どうして皆、黙って見てるの? ほら、あの目、きっと、もう……」彼女はガタガタ震えだし、連れの男の上衣の中に顔を埋めた。
デウィットは両手を握りしめて、石像のようにつっ立っていた。アハーンとクリストファー・ロードが、やっとのことでロングストリートの巨体を、さっきまで口紅の婦人が坐っていた座席に引きあげた。中年のイタリア人がすぐ席をたって、ぐったりした体を横たえるのに手をかした。ロングストリートの目は見開かれていた。口はだらりと開き、弱々しく息を吐き、小さな泡が唇から噴きだしていた。
騒ぎは電車の前の方にも伝わっていった。
「さあ、どいた、どいた」とどなりながら、乗客が左右に開いて通路を作ったなかを、腕に巡査部長の徽章をつけた大男の警官が、つかつかと近づいてきた。彼は前部の運転台に乗っていたのだった。電車が停留所に着くや、運転手と車掌が飛んできた。
巡査部長は荒々しく、ロングストリートの一行を押しのけると、ロングストリートの上にかがみこんだ。その身体は、ビクリと震えたが、そのまま全く動かなくなった。
巡査部長が立ち上がってつぶやいた。「ふむ、駄目か」
ふと彼は、死体の左手の傷に気がついた。掌全体に十数か所、針でつついたような傷から、血がにじんで、それが固まりかけて、傷のまわりが少し腫《は》れていた。「他殺のようだ、みんな離れて!」
彼はロングストリートの一行を疑わしそうな目で見廻した。彼らは、今では、お互いに身を護るように身体をすり寄せていた。
巡査部長ががなりたてた。「だれも降りてはいかん、いいか、じっとしているんだ! おい、君」彼は運転手に言った。「一センチも電車を動かすな。運転台に戻れ。窓もドアも開けるなよ、いいな?」運転手が戻っていった。「おい、車掌、第十アヴェニューまで走っていって、そこの交通巡査に、地区の所轄署と警察本部のサム警部に電話するように言ってくれ、わかったな、おい待て――わしがドアを開けよう。開けたとたん、だれかずらかるとまずいからな」
彼は車掌台まで、車掌についてゆき、レバーを動かして二重扉を開けた。車掌が雨の中へ飛び出すや、間髪を入れず扉を閉めた。車掌は第十アヴェニューへ走って行った。巡査部長は車掌台にいた、背の高い、気むずかしそうな顔つきの男の顔をじっと見た。「だれも、手を触れないように見張っていてくれませんか?」その乗客は嬉しそうにうなずいた。巡査部長はいそいで、ロングストリートの死体にひきかえした。
電車のうしろに列を作った車から、わめき声や、警笛が聞こえた。怯えた乗客の目に、雨のたたきつける窓ガラスに顔を押しつけて、のぞいている人が見えた。「おーい、部長さん、巡査が入れてくれと言ってますがね」
「ちょっと待て」巡査部長は車掌台に戻って、ドアを開き、交通巡査を入れた。巡査は敬礼してから言った。「第九アヴェニューの係りの者ですが、何かあったのですか、部長? お手伝いいたします」
「殺しらしいんだ」部長はドアを閉め、長身の乗客に目くばせした。男は、またうなずいた。
「たぶん、手を貸してもらうことになるだろう。所轄署とサム警部には連絡ずみだ。君は前のドアのところへ行って、だれも乗り降りしないようにしてくれ。ドアは開けるなよ」
二人は車の奥に入った。巡査は人をかきわけながら急いで前の運転台へ行った。
部長は腰に手をあて、ロングストリートの死体にかぶさるようにして、車内をながめまわした。
「で、誰が最初に?」彼は誰にともなく尋ねた。「ここには誰が坐っていたんだ?」若い女と中年のイタリア人が同時に喋ろうとした。「一人ずつだ。君の名前は?」
女は身震いした。「エミリー・ジュエット――速記者で家に帰るところだったんです。この人――私の膝の上に倒れてきたんです。だから、立って、席をあけてあげたんです」
「ムッソリーニ君、君は?」
「私の名はアントニオ・フォンタナです。私は何も知りません。この人、倒れた、私、席ゆずりました」イタリア人が答えた。
「この男は――立っていたんだな?」
デウィットが進み出た。彼はまったく、落着いていた。「部長さん、私が全部お話いたしましょう。この男はハーリー・ロングストリートと言って、私の共同経営者なのです。私たちはみんなで――」
「みんな? なるほど」巡査部長はあらためて一行を苦々しい目で見わたした。「みんなで仲良くというわけか、では、その話はあとでしてもらおう。サム警部に言ってくれ。車掌が別の巡査をつれてやって来たようだ」
彼は急いで車掌台にとってかえした。車掌が帽子のひさしから雨をしたたらせながら、ドアを叩いていた。警官が彼のかたわらにいた。部長は自ら扉を開け、二人が乗るとすぐまた閉めた。
警官が帽子の庇《つば》に手をかけて言った。「モローと言います。第十アヴェニューが受け持です」
「よし、私は十八分署のダフィー部長」と部長は無愛想に言った。「警察本部への連絡は?」
「はあ、所轄へもしておきました。サム警部と係員がもうすぐ見えるはずです。警部の指示があります。電車を四十二番街の第十二アヴェニューにある、グリーン線の車庫に入れておくように、そこで警部が会う、死体には触れるな、とのことです。それから救急車も手配しておきました」
「救急車には用はあるまい。モロー君、そのドアのところにいて、誰も出さないでくれ」
ダフィー部長は車掌台の長身の気むずかしい顔の男に向って言った。「誰か出て行こうとした者はいないか? むろん、開けはしなかったろうな?」
「開けませんよ」他の乗客も一緒に答えた。ダフィー部長は運転台に行った。「運転手、終点までやってくれ、グリーン線の車庫へ入れるんだ、急げ!」
赤ら顔のまだ若いアイルランド人の運転手は、口の中でぼそぼそ言った。
「私らの車庫は違うんですよ、部長さん。これは第三アヴェニュー線なんで……」
「かまわん」巡査部長はどなりつけた。彼は第九アヴェニューの交通巡査に言った。「笛を吹いて、邪魔な自動車をおっぱらってくれ――君の名前は?」
「シティンフィールド、八六三八号」
「よし、ドアを見張っててくれ、誰も出ようとはしなかったろうな」
「はい、ありません」
「運転手君、シティンフィールドが来る前に出ようとした者はいないかね?」
「ええ、いません」
「よし、じゃ行こう」
電車がゆっくり動きだすと、彼はまた死体のところに戻った。チェリー・ブラウンが、シクシク泣き、ポラックスが彼女の手を撫でていた。デウィットは、顔に深いシワを作って、まるでロングストリートの死体を護るかのように、その前に立ちはだかっていた。
* * *
電車はニューヨーク・グリーン線の大きな車庫に、轟音を響かせながら入っていった。私服の一団が黙って、それを迎えた。外は嵐のように豪雨がうなりをあげていた。
白髪まじりの頭、がっしりした顎と、灰色の鋭い目を持ったおかしいほどに無骨な顔をした――巨漢が電車のうしろのドアを力まかせに叩いた。巡査のモローが、車の中で、ダフィー部長に何か叫んだ。ダフィー部長が現われ、外を見て、サム警部の巨体を認めると、いそいでドアのレバーを引いた。二重扉が開いた。サム警部は苦労してやっと乗ると、ダフィー部長にドアを閉めるように目くばせし、外の部下に待っているように合図を送った。そして、車内に進んでいった。
「どうだ?」彼は無雑作に死体を見下ろして、「ダフィー、一体どうしたのだ」と言った。巡査部長がサム警部の耳に何かささやいた。サムはそれでも、相変らず気ののらない顔をしていた。
「ロングストリートだって? 株の仲買人……ふむ。エミリー・ジュエットさんはどなた?」
女が連れの男の大きな腕の中から、つかつかと前に進み出て、敗けまいとするように、警部の顔を凝視した。
「この男の倒れるのを見ていたそうですが、倒れる前に何か変ったことはありませんでしたか?」
「はい、あのー」女がうわずった声で、「あの人がポケットに手を入れて、眼鏡を取り出すのを見ました。その時手をひっかいたか、何かしたみたいでした。ハンカチで手をこすってました――私、血が出てるの、見たんです」
「ポケットはどっち?」
「上衣の左のポケットです」
「それは、いつ?」
「あのー、ちょうど、第九アヴェニューに電車が止まる少し前でした」
「時間にして、どのくらい前?」
「さあ」女は細い眉をよせた。「電車が走りだしてからここに着くまで五分くらいかかりました。それから、あの人が倒れてから電車が走りだすまで五分くらい、手をひっかいて倒れるまで――たしかほんの二、三分だったと思います」
「十五分もかからなかったんですな? 左のポケットね」サムは両膝をついて、ズボンの尻のポケットから小さな懐中電燈をとりだし、死体のポケットを外側から探ると、ポケットの口を大きくひろげて、懐中電燈で中を照らした。彼は満足そうにうなずいた。彼は懐中電燈を下に置き、ペンナイフをとりだして、注意深く、ロングストリートのポケットを切り離した。二つの物が懐中電燈に照らし出された。
切り取ったポケットから、その二つの物を取ろうともしないで、サムはそのまま、調べはじめた。一つは銀の眼鏡入れで、彼はしばらく眺めまわした。死体は眼鏡をかけていて、それが紫色の鼻にまでずり落ちていた。
警部は再び注意をポケットに向けた。もう一つの物は見慣れぬものだった。それは直径一インチ程のコルクの丸い球で、少なくても五十本の縫針が突きささって、その先端が全面に四分の一インチ程突きだしていた。それでその球の実際の直径は、一インチ半にもなっていた。針の先端には、赤茶けた物質がこびりついていた。サム警部は、そのコルクの球をペンナイフの先で突きさして、ひっくりかえしてみた。反対側の針の先にもやはり、同じ物質がついていた。それはタールのようにネバつく物質だった。彼は鼻を近づけて強く臭を嗅いだ。「かびたタバコのような臭いだ」彼は、自分の肩越から、のぞきこんでいたダフィーに言った。「一年分の給料を貰っても素手でさわるのはごめんだね」
彼は立ち上がって、ポケットを探り、ピンセットとタバコの箱をとりだした。そしてタバコをポケットの中にあけた。巧みにピンセットを動かして、どうやら針だらけのコルクの球をしっかりとはさんだ。ロングストリートのポケットの切れ端から極めて用心深く、それを持ち上げると、空になったタバコの箱の中に、すべりこませた。サムが低い声でダフィーに何か言うとダフィーはどこかに行き、命じられた物――一枚の新聞紙――を持ってきた。警部はそれでタバコの箱を幾重にもくるんで、ダフィーに手渡した。
「ダイナマイトだぞ、部長」彼はきびしい口調で言った。「気をつけて扱えよ。君の責任だからな」
ダフィー部長は体を固くして、腕を伸ばして、その包みをできるだけ体から離して持った。
サム警部は、ロングストリートの一行の強い視線を無視して、前に行き、運転手と前のドア付近の乗客に尋問した。それが済むと、引き返してきて、車掌と車掌台にいた乗客に尋問を続けた。ダフィーのところへ戻ってきて、「うまいぞ、部長。第八アヴェニューを発車してからは誰も降りていないぞ。つまり、この男がやられてから……そこでと、モロー巡査とシティンフィールド巡査を持ち場に帰してやれ。人手はたっぷりあるからな。それから警戒線を引いてくれ、乗客を皆降ろしてしまいたいんだ」
ダフィーはまだ剣呑な包みを捧げるようにして、車の後部へ行った。彼が車から降りると、車掌があわててドアを閉めた。
それから五分後に、後部のドアが開かれた。鉄のステップから、車庫の階段まで、警官と刑事が二列に並んでいた。
サム警部はあらかじめ、ロングストリートの一行を皆から離しておいた。一同は黙って一列になり、警官たちの間を通って、車庫の二階の個室に入って行った。その部屋のドアが閉められ、警官が一人、ドアを守って立った。室内では二人の刑事が一行を見張っていた。
ロングストリートの一行がいなくなると、サム警部は他の乗客も一列に並ばせた。蛇のような長い列が、同じ警官たちの列の間を通って、車庫の二階の大きな部屋に入って行った。六人の刑事が彼らを監視した。
サム警部はただ一人、がらんとなった車内にたたずんでいた。彼の他には座席に横たわった死体だけだった。彼は考え深そうに、苦痛にゆがんだ顔、大きく見開かれた目、むなしく開ききった瞳孔を見下ろしていた。救急車の停るものものしい音で、彼はハッと我に返った。白衣を着た、二人の若い男が駈け足で車庫に入ってきた。その後に、古めかしい金縁眼鏡をかけ、そりかえったつばを前だけさげた、昔流の灰色の布製の帽子をかぶった、ずんぐりした男が続いた。
サムは後部のドアのレバーを動かし、体をのり出した。「シリング先生! こっちです!」
ずんぐりした男、ニューヨーク州検屍官が二人のインターンを従えて、息を切らしながら車に乗り込んできた。シリングが死体の上にかがみこんだとき、サム警部が注意深く、自分の左のポケットから、あの銀の眼鏡のケースをとりだした。
シリングが立ち上がった。「こいつをどこへ移すかね?」
「二階へ」サムの目がいたずらっぽく光った。
「仲間と一緒にあの部屋に放りこんでやろう」彼は事もなげに言った。「その方が、面白くなる」
医師のシリングが死体を運ばせている間に、彼は電車を降り、一人の部長刑事を呼んだ。「すぐやってもらいたいんだが、車内を徹底的に|洗って《ヽヽヽ》くれ。どんな屑でも見落さないようにな。それから、ロングストリートの仲間やほかの乗客が通った跡も調べてくれ。警戒線を通る時にでも、誰も何も捨てなかったかどうか知りたいから。いいか、頼んだぞ、ピーボディ」
部長刑事のピーボディがニヤリと笑って、引き返して行った。「来てくれ、巡査部長」サムが呼んだ。ダフィーはまだ、新聞紙に包んだ凶器を恐る恐る捧げて、苦笑いしながら、警部に従って、二階に通じる階段を登った。
第四場 車庫の建物の一室
――九月四日(金曜日)午後六時四十分
車庫の二階のこの部屋は、だだっ広くて、殺風景で、四方の壁ぎわに、長いベンチが部屋をひとまわりしていた。ロングストリートの一行は、それぞれ、緊張や苦悩の表情をうかべたまま、黙りこくっていた。
担架に乗せて、二人のインターンに死体を運ばせながら、医師のシリングが警部とダフィー部長のすぐ後から部屋に入ってきた。
検屍医は衝立を持ってこさせると、その蔭に死体を運びこませた。検屍官による慎重な検屍が行なわれている間、誰ひとり、ことりとも音をたてなかった。ロングストリートの一行は、申しあわせでもしたように、衝立から顔をそむけていた。チェリー・ブラウンがポラックスの震えている肩に身をもたせて、シクシクと泣き始めた。
サム警部は、たくましい腕をうしろに組んで、無関心と言ってもいいような静かな態度で一同をながめた。「やっと、こうして部屋に落ちついたわけだから」彼は明るい声で口火を切った、「こんどのことで、まともに話しあえるわけです。皆さんが気も転倒するほどショックを受けたのはわかりますが、二、三の質問にはお答えいただけるでしょうな」一行は、まるで先生の話を聞く小学生のように、警部の顔を見上げていた。「部長」サム警部はつづけた。「君はさっき、死体がハーリー・ロングストリートに間違いないと誰かが証言したと言ったが、誰だったかな?」
ダフィー部長は、ベンチに妻と並んでもくねんと坐っているジョン・デウィットを指さした。デウィットの顔に動揺の色が走った。
「よろしい」サム警部が言った。「それじゃ、車内で部長に話しかけた事を今、言ってもらいましょう。――ジョーナス刑事、筆記を頼む」ドアの近くにいた私服の一人に向って言った。刑事はうなずいて、ノートに鉛筆を構えた。「ところで、まずお名前は?」
「ジョン・オウ・デウィット」決意と自信とがその態度にも声にも満ち溢れていた。サム警部は、この瞬間、他の連中の顔に驚きの色がひらめいたのを、見逃さなかった。デウィットの態度が彼らの興味を惹いたらしかった。「彼は私の共同経営者でした。私たちはウォール街でデウィット・ロングストリート商会の名で株式仲買人をやっていました」
「なるほど、で、この人たちは?」
デウィットは落着いて、一人一人紹介した。
「ところで、何をしようとしてたのですか、あの電車に乗って?」
小男のデウィットは淡々とした口調で、電車に乗るまでのいきさつ――婚約披露のこと、そこで行なわれたこと、週末をロングストリートの所で過ごそうと彼が誘ったこと、ホテルを出る時の模様、突然の豪雨、タクシーをやめて電車にしたこと――などを事こまかに話した。
サム警部は一度もさえぎらずに、黙々と耳をかたむけた。デウィットが口をつぐんだとき、警部は微笑した。「結構です、デウィットさん。車内でロングストリートのポケットからとりだした、あの針だらけのコルクですが、以前に見たことがありますか? あるいは、あんな物があるのを聞いた事でもありますか?」デウィットは首を横に振った。「誰か、他の人はどうです?」みんな、首を横に振った。「そうですか、ではデウィットさん、よく思い出してください。ロングストリートやあなたたちが、四十二番街の第八アヴェニューの角で、雨除けの下で待っている間、あなたはロングストリートに手紙を見せた。彼は左《ヽ》のポケットに左手《ヽヽ》を入れ、眼鏡のケースを取り出し、眼鏡を出して、再び、ケースをしまうために手をポケットに入れた。その時、彼は左手をどうかしませんでしたか? 悲鳴をあげるとか、急いで、手をひっこめるとか」
「いや、全然」デウィットは冷静な声で答えた。「当然、いつあの凶器が彼のポケットに入れられたかがお知りになりたいのでしょうが、あの時は絶対に入っていませんでしたよ」
サムは皆に向って言った。「何か気がつきませんでしたか?」
チェリー・ブラウンが涙声で言った。「何もありませんでした。私はあの人のそばにいましたから、もし手を刺せばわかるはずです」
「ふむ、それで、デウィットさん、ロングストリートは手紙を読み終えると、また、ポケットに手を入れて、眼鏡のケースを出した。眼鏡をしまうと、また、――これで四度目だな――手をポケットに入れて、ケースをしまった。その時も彼は声をあげるとか、痛いというような態度はしませんでしたか?」
「警部さん」デウィットが答えた。「誓って、そのようなことはありませんでしたよ」
他の連中も一人残らずうなずいて、同意を示した。
サムは身体を軽く前後にゆすった。「ブラウンさん」女優の方に向き直って言った。「デウィットさんの話だと、手紙を返すとすぐ、あなたとロングストリートは電車の方へ走って行き、電車に乗るまであなたは、あなたのフィアンセの左腕をつかんでいたようですが、間違いありませんか?」
「ええ」彼女はかすかに身震いした。「私はまわりから押されて、あの人の左腕につかまっていました。あの人――左手をポケットに入れていましたわ。あたしたちそうやって、車掌台まで来て……」
「車掌台で彼の手を見ましたか? 左の手を」
「ええ、上衣のポケットから出して、チョッキのポケットを探って小銭を捜しました。結局、見つからなかったようでしたけど。電車に乗ってすぐでしたわ」
「彼の手に異状はありませんでしたか?――傷とか、血とか」
「いいえ」
「デウィットさん、あなたがロングストリートに見せた手紙を見せてくれませんか?」
デウィットは胸のポケットから泥だらけの封筒を取り出して、サム警部に手渡した。サムは手紙を読んだ――苦情の主はウェーバーという顧客で、持株を、ある時期に、ある値で売るように依頼したが、デウィット・ロングストリート商会はそれに従わなかった。その結果、彼はかなりな損害を蒙った。商会の怠慢のせいであるから、損害額を補償してくれ、というのである。警部は何も言わず、手紙をデウィットに返えした。
「してみると、それまでは針の球は……」
「針の球は」デウィットが、平坦な調子で話を引きとった。「電車に乗ってから、ロングストリートのポケットに入ったにちがいありません」
警部は苦笑した。「そのとおり。彼は街角にいるとき、四度ポケットに手を入れた。電車に乗ろうとしたときも、ブラウンさんが彼の左側に寄り添っていて、彼の手は問題の左のポケットに入っていた。もし何かあれば、あなたにしろ、ブラウンさんにしろ、気がついたはずだ。車の中では、ブラウンさんが彼の手を見ている。そのときは何でもなかった。だから、針のついたコルクの球は、彼が電車に乗る前はポケットに入っていなかったわけだ」
サム警部は顎に手をやって、考えこんだ。それから、首を振って、一行の前を往ったり、来たりしながら、一人一人、車内でのロングストリートとの位置関係を尋ねた。その結果、一行は車の動揺や、乗客の動きにもまれて、皆、バラバラになっていたのがわかった。彼はギュッと口を結んだだけで、失望の色は見せなかった。
「ブラウンさん、なぜ、ロングストリートは満員の電車の中で眼鏡なんか取り出したのです?」
「新聞を読もうとしたのだと思います」彼女は蚊の鳴くような声で答えた。
デウィットが言った。「ロングストリートはいつも、渡船場へ行く途中、夕刊の後場の相場を見るのです」
「で、そのとき、つまりですな、眼鏡を出そうとしたとき、彼が声をあげ、手を見たわけですね、ブラウンさん?」サムがうなずきながら尋ねた。
「そうです。あの人、びっくりして、痛そうな顔をしましたけど、それだけでした。何か刺さったのだろうというふうに、ポケットを調べようとしたのですけど、電車がひどく揺れたので、あわてて、吊革につかまったのです。それから、手をひっかいた、と言いました。でも、ずいぶんお酒に酔っていたようでした」
「それでも彼は、とにかく、眼鏡をかけて、新聞を読みはじめたのでしょう?」
「開きかけたんです。でも開ききらないうち、あっと思う間に、前に倒れたんです」
サム警部が顔をしかめた。「毎晩、株式欄を見るんだって? ねえ、ブラウンさん、今晩新聞を見るような、何か特別な理由でもあったんでしょうかね? あんな満員の時に……あまり礼儀をわきまえた態度とは……」
「いや、なんでもありません」デウィットが再び、吐き出すように言った。「あなたはご存じない――いや、ご存じなかったから、そう言うのですよ。ロングストリートという男は何でも好きなことをする人間ですよ。特別な理由と言われましたが、そんなものあるものですか」
だが、チェリー・ブラウンは涙の跡を頬に残したまま、考えこんでいた。
「思いだしたわ」彼女は言った。「なにか、特別な理由があったに違いないわ。その前にも新聞を買わせて――最終版ではなかったようですけど――ある株の相場を調べてました。たぶん――」
サムがはげますように声をあげた。「それは重要だ。ブラウンさん、その株の名前を知っていますか?」
「そう、たしか……国際金属だったと思います」彼女は同じベンチの端に、むっつりとおし黙って、汚い床を見つめているマイケル・コリンズをすばやくチラリと見た。「国際金属が暴落したのを見て、ハーリーは、コリンズさんがギャアギャア言ってくるにちがいない、と言ってました」
「ふむ、そういうわけですか。コリンズ君がね」その肥ったアイルランド人のコリンズがうなった。その男をサムは目を光らせて眺めた。「それで、君も一緒だったわけだな。君は税務署の仕事で忙しいはずだと思っていたが……。コリンズ、ロングストリートとの取引だが、どういうことなんだ?」
コリンズは歯をむいた。「あんたの知ったことじゃない。だけど知りたけりゃ教えてやる。ロングストリートが国際金属を買えと言うので、したたか買いこんだ――しばらく、値動きを注意していたが、今が買い時だと言うもんだからね。ところが、どうだ、クソッ、今日、底値を割ってしまったじゃないか」
デウィットは、あきらかに驚いたというようにコリンズを見つめていた。サムがすばやくこれを見て言った。「あなたはこの取引を知っていましたか? デウィットさん」
「いや、全然知らなかった」デウィットは彼の顔をまともに見た。「ロングストリートが国際金属をすすめた、と聞いて驚いてるくらいです。国際金属の下落は先週のうちにわかっていました。それで、私はお客様にあれに手を出さないように注意していたくらいですよ」
「コリンズ、国際金属の暴落を知ったのはいつだ?」
「今日の一時頃だ。しかし、デウィットさん、ロングストリートの取引をあんたが知らないってのは、どういうわけなんだ。あんたたちの商会はインチキだ。おれは――」
「まあ、落着け」サム警部が言った。「落着いて、それから質問に答えてくれ。君は、今日の一時から、ホテルで彼に会うまでの間に、ロングストリートと話をしたか?」
「したとも」吐きだすように言った。
「どこで?」
「商会のタイムズ・スクェア支店だ。暴落を知ってからまもなくだった」
サムがまた、巨体をゆすった。「口論したろうな?」
「止めてくれ!」コリンズがいきなり、大声をあげた。「とんでもない見当ちがいだ。いったい、どうするつもりなんだ――このおれに罪をおっかぶせる気なのか?」
「まだ質問に答えてないぞ」
「ああ、口論はしなかった」
チェリー・ブラウンが金切り声をあげた。サム警部は射たれたように、パッとふり返った。丸々とこえた医師のシリングが、腕まくりをして、衝立から出て来た。ロングストリートの、硬《こわ》ばった死顔がちらりと衝立の蔭に見えた……。
「あのコルクだか何だか、例のやつを貰いましょう。階下《した》で若い連中に聞いたよ、警部」医師のシリングが言った。
サムがダフィーにうなずいて見せた。ダフィーはほっとしたように、包みを検屍官に手渡した。医師はそれを受け取り、鼻歌まじりで、衝立の蔭に消えた。
チェリー・ブラウンは立ち上がっていた。悪夢のメズーサのように、目をぎらつかせ、顔面がひきつっていた。最初の衝撃が収まりかけたとき、ロングストリートのつちけ色の死顔を、突然見せられて、やや意識的なヒステリーを起こしたのだった。彼女はデウィットに向って指をつきだし、走り寄って、彼のえりをつかむと、血の気を失った彼の顔にわめきちらした。「あんたが殺したんだ。あんたがやったのよ。あんたは彼を憎んでいた。殺したのはあんたよ」
男たちは蒼白になって立ちあがっていた。サム警部とダフィー部長が飛びかかって、まだなにかわめき叫んでいる女をひきもどした。デウィットははじめからしまいまで、石像のように無言でつっ立っていた。娘のジャンヌ・デウィットの顔から、血の気が失せていた。彼女は猛然と女優につめよった。クリストファー・ロードがそれをさえぎり、低い声でなだめようとした。彼女はやっと腰を下ろし、おびえた表情で、父親を見つめた。アンペリアルとアハーンは、いずれも真剣な顔つきで、デウィットのかたわらに、儀仗兵のように坐っていた。コリンズは、今にも誰かにとびかからんばかりにして坐っていた。ポラックスは立って、チェリー・ブラウンの耳許に何やら、ささやいていた。ブラウンは興奮が静まってくると、シクシク泣き始めた……デウィット夫人だけが髪の毛一すじ、動かさなかった。彼女はギラギラした、またたきもしない、人間とは思えない目つきで、成り行きをながめていた。
サム警部が泣きじゃくっている女優の前に立った。「どうして、そんなことが言えますか、ブラウンさん? どうしてデウィットが彼を殺したと知ってるのです? デウィットさんが、コルクの球をロングストリートのポケットに入れるところでも見たのですか?」
「いえ、いえ」身体をゆすりながら彼女は泣き声で言った。「なにも知りません。なにも知らないんです。でも、この人がハーリーを憎んでいたのは確かです……まるで毒薬みたいに……ハーリーがいつも言ってたんです」
サム警部が鼻を鳴らし、身体をまっすぐに伸して、ダフィー部長に意味ありげな目つきをした。ダフィーがノートに筆記していた刑事に身振りでなにか知らせた。刑事がドアを開けると、別の刑事が入ってきた。そしてポラックスがチェリーの上にかがみこむようにして、彼独特の魔術のような言葉で慰めているのにかまわず、サム警部が言い渡した。「私が戻るまでここにいてもらいます」そう言うと、筆記録を手にしたジョーナス刑事を従えて、警部は大股に部屋を出ていった。
第五場 車庫の二階の大きな一室
――九月四日(金曜日)午後七時三十分
サム警部は同じ車庫の二階の一室――他の乗客が集められている――にまっすぐ向った。
彼はそこに異状な光景を見た。男も女も、ある者は立ち、ある者は坐り、ある者は歩きまわり、ある者はしゃべり、皆、いらだたしさや、恐怖や、不快を表わしていた。警部は見張っていた一人の刑事にニヤリと笑いかけ、注意を集めるために、強く足を踏みならした。彼の方に皆、殺到してきた。彼らは口々に文句を言ったり、抗議したり、質問したり、毒づいたり……。
「静かに!」サムが号令調でどなった。「落着いてください。苦情も、提議も、弁解もいりません。言うとおりにしていただければ、それだけ早く帰れるんです」
「まず、ジュエットさん、あなたから。あなたは殺された男――電車の中であの男があなたの前に立っていたときですが――あの男のポケットに誰かが何か入れたのを見ましたか?」
「あたし、連れと話していましたし」女が唇をなめながら言った。「それに、とても暑くて――」
サムがどなった。「質問に答えてください。見たのですか? 見ないんですか?」
「み――みません」
「もし誰かが、彼のポケットに何か入れたとしたら、あなたは気がついたでしょうか?」
「気がつかないと思います。私とお友だちはお喋りしていて……」
サム警部はいきなり、白髪まじりで、けわしい、憎々しくさえ見える顔をした、大柄の男に向きなおった。その男はロングストリートが電車の中で倒れたとき、その腕をひっぱった男である。彼はロバート・クラークソン、書記である、と名乗った。彼はロングストリートの隣りに立っていたが、何も見なかった、たしかにロングストリートの左側だった、と言った。クラークソンの顔からいかめしさが消え、突然、自分の不利な立場を感じて、蒼白になり、半開きの唇をパクパクと動かした。
中年のイタリア人、アントニオ・フォンタナ――色が浅黒く、口髭の濃い男――は理髪師で、仕事が終って店から帰る途中で、今まで他の人が言ったことに、とくにつけ加えることはない、と言った。彼はイタリア語の新聞『イル・ポポロ・ロマーノ』を電車に乗ってる間中、読んでいた。
次に質問を受けたのは車掌で、チャールズ・ウッド、職番二一〇一、第三アヴェニュー電車に五年間勤務している。彼は五十歳くらいの赤い髪のたくましい男だった。彼は被害者の顔をよく覚えていて、第八アヴェニューで乗った一団の中の一人で、一ドル札で十人分の電車賃を払った、と答えた。
「この連中が乗り込んだとき、なにかおかしなことに気がつかなかったかね?」
「いや、電車は満員だったし、ドアを閉めたり、料金を貰うだけで精一杯でしたよ」
「被害者は以前にも電車に乗ったかね?」
「へえ、いつもあの時刻にしょっちゅう。もう何年もの常連ですよ」
「彼の名前は知ってるかね?」
「いいえ」
「あの被害者の一行の中で、他に君の電車の常連は?」
「いたようです。やせた小男で、白髪頭の男です。殺された男とよく一緒に乗っていました」
「その男の名前は知ってるか?」
「知ってるわけはありません」
サム警部は天井を仰いだ。「よく考えて答えてくれ、ウッド。これは大事なことだからな。はっきりさせなけりゃならん。あの連中は第八アヴェニューで乗ったと言ったな。それでドアを閉めた。それはいい。そこで、第八アヴェニュー以後乗ったか降りたかした客はいなかったのか?」
「いませんよ。満員でしたからね。第九アヴェニューでもドアは開けませんでした。だから誰も乗り降りしていません。もっとも私のところでのことで、前部の運転台のことは知りません。ギネス――私と組んでる運転手ですが――彼に聞いてください」
警部は、おおぜいの中から、肩幅のがっちりした、アイルランド人の運転手を呼び出した。ギネス――職番四〇九――はその線で八年も電車を動かしていた。彼の方は以前に被害者を見たことがなかったように思う、と言った。「しかし、あっしゃ、チャールズみたいにお客の顔をいちいち覚えてるわけにはいかねえんで」とつけ加えた。
「それは確かかね?」
「え――ええ、ちょっと見たような気もするんですが」
「第八アヴェニュー以後は誰か降りたか?」
「ドアを開けさえもしねえ。知ってるでしょ、警部。あの電車の客は皆、終点まで行って、渡し船でジャージイへ渡るんでさ。会社が皆沿線にあるんでね。あとはダフィー部長が知ってますよ。あっしと一緒にいましたから――非番でね。ねえ、部長? あんとき乗っててくれて、ほんとによかったよ」
サムが顔をしかめた。もっとも、これは会心の笑みをかくすためである。「じゃ、第八アヴェニュー以後、ドアは、前後とも、開かなかった、というわけだ」
「そのとおりで」運転手のギネスと車掌のウッドが答えた。
「結構、では休んでくれ」警部は二人のそばを離れて、他の客たちに質問を浴せはじめた。しかし、誰一人、ロングストリートのポケットに何か入れられたのを見ていなかったし、疑わしいことは何ひとつなかった。二人の乗客が意味ありげな陳述を進んでしたが、あきらかに頭に来た結果の臆測にすぎないので、サムは取り合わなかった。警部は、ジョーナス刑事に皆の名前と住所を控えておくように命じた。
と、このとき、ピーボディ部長刑事が屑のつまった麻袋をかついで、息せききって部屋に入ってきた。
「なにかあったかね、ピーボディ?」サムが尋ねた。
「ぜんぜん。見てください」彼は袋の中身を床にぶちまけた。紙屑、破れた新聞紙、タバコの空箱、芯の折れた短かい鉛筆、マッチ棒の燃えかす、つぶれた棒チョコの切れはし、二つにちぎれた時間表――どれもありふれたものだ。コルクや針の一部も、あるいはコルクや針に関連のありそうなものは何一つなかった。
「車内も、ここへ来るまで乗客の通ったところも調べましたが、しゃぶりつくした骨みたいなもんで、なにもありません。もし何か彼らが持っていたとすれば、今でも身につけてるはずです」
サム警部の灰色の目が光った。彼はニューヨーク警察では一番顔の売れている警部だった。彼は、たくましい体躯と、するどい洞察力と、豊かな常識と、貫禄のある声量とで、文字どおり、今日の地位を戦いとったのである。警部は、捜査方法の常道を忠実に守る、行動の人であった……「残された手段は一つだ」彼は口をあまり開かずに言った。「身体検査をしろ」
「何を捜すんです?」
「コルク、針。場所柄、あるいはその人間にふさわしからぬもの一切。もし、ぎゃあぎゃあ騒いだりしたら、ぶんなぐってもいいぞ。さ、急げ」
ピーボディ部長刑事が、部屋を出てゆき、すぐに六人の刑事と二人の婦人警官を連れて戻ってきた。そして、ベンチの上に飛び上がって叫んだ「みんな、並んで! 女性はこちら、男性はあちら! 議論は止めろ! 早くすめば、それだけ早く帰れるんだ!」
十五分の間、サム警部は口にタバコをくわえて壁に寄りかかり、深刻というよりも、むしろ噴きだしたくなるような光景をながめていた。女連中は、婦人警官のたくましい手が身体を無遠慮に撫でまわしたり、ポケットをひっくりかえしたり、財布をあさったり、帽子の裏や靴底を探ったりするたびに、黄色い声をはりあげた。男たちは、仔羊のようにおとなしくされるままにしていた。身体検査からやっと解放されると、こんどは一人々々、ジョーナス刑事が名前と勤務先と住所とを書きとっていった。ときおり、サム警部のさぐるような目が、出て行こうとする者の顔にそそがれた。一人の男がジョーナス刑事を通過したとき、サムが呼びとめた。この男は、小柄で、蒼白、一見会社員風で、よれよれの外套を着ていた。サム警部は手まねで、その男を呼びよせると、その外套を脱がせた――それは茶色いギャバジンのトレンチコートである。男の唇が、恐怖で血の色を失った。サム警部は、コートの隅々まで探ってから、黙って持ち主に返した。男はホッとすると、あわてて部屋をとびだしていった。
部屋が急速に淋しくなっていった。
「無駄でしたね、警部」ピーボディががっかりして言った。
「部屋を捜せ」
ピーボディと彼の部下は、こんどは部屋の隅やベンチの下から屑をかき集めた。サム警部は麻袋から出した屑の山にまたがり、ひざまずいて指でかきわけた。それから、彼はピーボディを見て、肩をすくめると、急ぎ足で部屋を出て行った。
第六場 ハムレット荘
――九月八日(火曜日)午前十一時二十分
「お分かりでしょうが、レーンさん」ここで、地方検事のブルーノが口をはさんだ。「サム警部は可能なかぎり、精しくお話しているのです。後に判明した当事者同士の会話とか、ほとんど問題にならないようなこととか――あまり重要ではないのですが……」
「ブルーノさん」ドルリー・レーンが言った。「重要でないものなど、ひとつとしてありませんよ。ほんのつまらないことが、どんなに大きな意味を持っていることか、いや、ともかく素晴しい説明でした」彼は大きなアーム・チェアーの中で身体を動かし、長い足を伸ばして、火にあたためた。「話の続きは少し待ってください、警部さん」
チラチラ揺れる炎を背に、顔は陰になっているにもかかわらず、二人はレーンの目が穏やかに閉じられているのを見た。老優の手は軽く膝の上で握られ、白い整った顔は動こうともしなかった。別の時代のものであるこの部屋の暗い壁に、長年の静寂が再び垂れこめようとしていた。その暗い部屋の隅で、クェイシーのしゃがれた声がした。サムとブルーノは振り向いた。せむし老人がクックッとしのび笑いした。
二人の客は顔を見合わせた。とたんにドルリー・レーンのよく調子のとれた、弾力のある、豊かな声がひびいた。二人はハッとした。
「警部さん」彼は言った。「ひとつだけはっきりしないところがあります」
「どんなところでしょうか?」
「雨は、あなたのご説明によりますと、その電車が第七アヴェニューと第八アヴェニューの間を走っているときに、降りはじめた。そのとき、第八アヴェニューでロングストリートの一行が電車に乗りこんだ。窓は、ピタリと閉まっていた、と確か言いましたな。ひとつ残らずでしょうか?」
サム警部の無骨な顔がつまらなそうな表情を見せた。「むろんですとも、レーンさん、間違いはありません。ダフィー巡査部長がはっきり言っていますから」
「結構」豊かな声が、彼の喉に響いた。「どの窓も第八アヴェニューからは開かれなかったというわけですな?」
「絶対です、レーンさん。電車が車庫に着いたときには、雨は一層、ひどくなっていました。豪雨があってからは、一瞬たりとも窓は開けていません」
「いや、よくわかりました。警部さん」白いものの混った眉の下の深く落着いた目が輝いてきた。「どうぞ、その先を」
第七場 車庫の二階の個室
――九月四日(金曜日)午後八時五分
サム警部の説明によると、他の乗客が部屋を出てから、事態は急速に発展した。
サムはロングストリートの一行がしょんぼり待っている部屋に戻った。一分の隙もない紳士であるルイ・アンペリアルがすぐに立ち上がって、軍隊式にかかとをカチッと合わせて丁寧にお辞儀した。
「ときに、警部さん」彼はいんぎんな身のこなしで言った。「出しゃばるようで恐縮ですが、食欲の有無は別としましても、われわれはなにか食事をする必要があると思うのです。少なくとも、女性方には食事の用意をすべきだと考えるのですが」
サム警部が見まわした。デウィット夫人は目をふせ、ベンチに身を固くして坐っていた。ジャンヌ・デウィットはロード青年の肉づきのいい肩にもたれ、二人とも血の気を失っていた。デウィットとアハーンは低い声で、気ののらないような会話を続けていた。ポラックスは前にのりだして坐り、膝の間で手をにぎりしめ、ひっきりなしにチェリー・ブラウンに話しかけていた。そのチェリー・ブラウンの思いつめた顔、くいしばった歯は、彼女の美しさをぶちこわしにしていた。マイケル・コリンズは両手の中に顔をうずめていた。
「ああ、いいですとも、アンペリアルさん。ディック、急いで下へ行って、この人たちに食べ物を捜してきてくれ」
一人の刑事が、アンペリアルから紙幣を受け取って、部屋を出ていった。そのスイス人は自分の任務を無事済ました、といった満足な面持で、自席に戻った。
「で、先生、検査の結果は?」
医師のシリングは上衣を着ながら、衝立の前に立った。彼の禿げた頭のてっぺんには、ボロボロの布の帽子が鎮坐していた。彼は指を曲げて、警部を招いた。サム警部が部屋を横切ってきて、二人は衝立の蔭に入り、死体の前に立った。救急車に乗ってきた二人の青年のうちの一人が、死体のわきに坐って、こまごまと報告用紙に記入していた。別の一人は爪を切りながら、軽く口笛を吹いていた。
「さて、と」医師のシリングが、さも愉しげな口調で、口を切った。「こいつは巧妙な犯罪だ。いや、実に巧みだ。死因は呼吸痳痺だが、それは問題にならない」医師はずんぐりした左手を拡げ、右手で指を折って算えあげた。「まず第一番、毒物」彼はひょいとベンチに視線を向けた。「コルクの球から突きだした針の部分は全部で五十三本。その先には――針先にも、頭にも――ニコチンがついている。たぶん、濃縮したニコチンだと思うね」
「そう言えば、カビたタバコの臭いがした」サム警部がつぶやいた。
「そう、そうでしょうな。新しい純粋なニコチンは無色無臭の油状の液体だ。しかし、水に溶けたり、古くなったりすると、暗褐色になり、タバコ特有の臭いがする。たしかに、こいつが直接の死因だね。ま、念のために解剖はしてみるよ。毒物は直接的手段によって――つまり、掌や指を二十一か所刺した針によって――直接、体内に入ったんだ。私の判断では、即死ではなく、死ぬまで二、三分はあったようだな。ということは、この男はかなりなタバコ常用者だったと考えていいわけさ。ニコチンに対して普通以上の抵抗力がある。
「第二に、凶器そのもの」医師は、さらに指を一本折ってみせた、「警部、こいつは警察博物館に飾るべき代物だよ。とるに足らぬもので、単純で、独創的で、しかも効果的ときてる。天才的頭脳の産物だね。
「第三、毒物の入手方法」ここでまた、三本目の指を折った。「お気の毒だがね、警部、合法的ルートで手に入れたのでないとすると、こいつはちょっと掴めないね。純粋なニコチンというやつは、なかなか手に入らないし、私だったら、薬局から買うなんてことはしないな。そりゃあ、大量のタバコを蒸溜するという術《て》もある。タバコは普通、四パーセントのニコチンしか含んでいない。しかし、そうなると、犯人の割り出しはちょっとむずかしくなるね。それにだね、もっと簡単な方法としましては」シリング医師は、ある名の通った殺虫剤をあげた。「こいつを一罐買ってくるんだ、これはいたって簡単。はじめから、三十五パーセントのニコチンを含んでいるんだから、蒸溜すれば、あの針についていたような、粘っこいのができるってわけさ」
「とにかく、正規のルートを探らせてみましょう」サム警部が暗い顔で言った。「先生、この毒物は何秒ぐらいで効いてきますか?」
シリング医師は口をすぼめた。「普通は数秒もかからないはずだがね。しかし、濃度が不充分だったり、ロングストリートのようなタバコの常用者だと、ま、三、四分はかかるね」
「ニコチンだというのは確実のようですが、ほかになにか?」
「そうさね、誰にでも多少の欠陥はあるものだが、この男の身体は大分まいっていたね」医師のシリングが答えた。「ふむ、まあ、内臓については解剖の結果を見てからということにして――明日にでも、早速やってみるが。今はそれだけだね、警部。じゃ、死体を助手たちに運ばせますよ、車が外に来てるから」
サム警部はタバコの空箱に入った針だらけのコルク球を新聞紙に包んで、ロングストリートの一行のところへひきかえした。彼はダフィー部長に、その包みを渡し、死体のために路をあけた。死体は毛布に包まれ、二人のインターンによって、担架で運び出され、その後を、うきうきした顔のシリング医師がついて行った。
死体が運び出されると、ふたたび、あの息苦しいような沈黙があたりを支配した。
刑事がなんなく食べ物を見つけてきたと見え、連中はサンドイッチの包みを開き、モグモグと口を動かし、コーヒーをすすっていた。
サム警部がデウィットに再び尋ねた。「ロングストリートの共同経営者として、たぶん、彼の習慣などについては、一番よく知っているはずですな、デウィットさん。車掌はロングストリートが何度も自分の電車に乗ったと言っていますが、それはどういうわけです?」
「ロングストリートという男は、時間に関してはとても几帳面でしてね。とくに」デウィットが皮肉たっぷりに言った。「退社時間などはね。正直言って、彼は長時間の仕事とか、面倒な仕事には見向きもしませんでした。骨折り仕事はみんな私に押しつけましたよ。うちの本店はウォール街の下町に在るのですが、そこを閉めてから、タイムズ・スクェアーの支店に戻ることになっています。ロングストリートはたいてい、毎日同時刻――六時少し前です――に店を閉めます。それからジャージイ側の同じ汽車に乗ります。今日もパーティを早めに切りあげて、いつもの汽車に乗ろうとしたのも、その習慣があったからだと思います。そういうわけで、いつも同じ電車を利用するのです」
「あなた自身もよくこの電車を利用しますね」
「ええ、店に居残らないときには、ロングストリートと一緒にウェスト・エングルウッドまで帰ります」
サム警部がためいきをついた。「あなた方二人とも自動車を使わないようですが、それはどういうわけなんです?」
デウィットがふん、と笑った。「ニューヨークでは、かえって厄介ですからね。車はエングルウッド駅に待たせてあるんです」
「で、他の点でもロングストリートは几帳面でしたか?」
「ええ、それはどんな小さな事にでも。もっとも、私生活はでたらめで、あてにはなりませんでした。しかし、新聞はいつも同じやつを読み、先ほど言いましたように、渡船場へ行く途中で、かならず最終の相場欄を見ています。出勤の時はいつも同じ型の服で、タバコも葉巻も同じ種類しかすいません――タバコはずい分のんでました――まあ、こんな点では型にはまっていましたね」デウィットの目が冷ややかに光った。「正午に店に出てくるのまで、きまっていましたよ」
サム警部は、さりげなくデウィットを見た。そしてまた、タバコに火をつけながら、尋ねた。「彼は、なにか読むときには、眼鏡が必要だったのですか?」
「そうです。とくに細かい物を見るときには。彼は見栄っぱりでしたから、顔が台無しだとかいって、外出する時とか会合の時などは、多少不便でもかけないようにしてました。もっとも、なにか読むときには、家の中でも外でも仕方なくかけていましたがね」
警部は手をデウィットのやせた肩に、なれなれしく置いて、言った。「この点についてはざっくばらんにいきましょうや、デウィットさん。さっきブラウンさんがロングストリートを殺したのはあなただと――むろん、そうじゃないでしょうが――言っていましたが、あなたが彼を憎んでいたというのは、どうなんです?」
デウィットが身体をゆすった。そのため、サム警部の大きな手がデウィットの肩から滑り落ちた。「私はロングストリートを殺してはいません、ざっくばらんに言えばですね」と、つめたい口調。
警部はしばらく、じっとデウィットの澄んだ目を見つめた。それから肩をそびやかせ、それから一行に向って言った。「明朝、九時、タイムズ・スクェアーのデウィット・ロングストリート商会にもう一度、お集りください。もう少し、聞きたいことがあります。一人残らずです」
一行は立ち上がって、のろのろと出口に向った。「ちょっと待ってください」警部が止めた。
「申し訳ないが、身体検査をさせてもらいます。ダフィー、婦人警官を呼んでくれ」
彼らはブツブツと言い、デウィットは怒ったように抗議した。サム警部がニヤッと笑った。「どなたも絶対に隠していないと云いきれますか?」
先ほど、大きな部屋で行なわれた行事が再びサムの目の前でくりかえされた。男たちはそわそわし、女たちは赤くなったり、プンプンしていた。デウィット夫人が沈黙を破り、早口で、警部の厚い胸に、スペイン語をぶちまけた。警部は眉をあげ、腕を振って、かまわずやれ、と命じた。
「名前と住所」調べが終って部屋を出ていこうとする人々に、ジョーナス刑事の単調な低音《バス》が響いた。
ダフィー部長ががっかりしたように言った。「何もありませんよ。針やコルクの痕跡もありません。他にめぼしいものは何も」
サムは部屋の中央に立ちはだかったまま、顔を曇らせ、唇をかんだ。「部屋を捜せ」彼は荒々しく、どなった。
部屋中が調べられた。
サム警部は、部下に囲まれて車庫を出る時も、まだ暗い顔をしていた。
第八場 デウィット・ロングストリート商会
――九月五日(土曜日)午前九時
土曜日の朝、サム警部がデウィット・ロングストリート商会に足をふみ入れたとき、緊張の暗流はまだ表面にあらわれていなかった。警部がツカツカと入って行くと、事務員も客も、彼を見てびっくりしたようだった。あきらかに業務は平常どおり続けられていたようである。サム警部の部下はすでに来ていたが、邪魔をしないように静かに、そのあたりをぶらついたりしていた。
『ジョン・オウ・デウィット』の札の下がった個室には、ピーボディ部長刑事の監視の下に、昨夜のロングストリートの一行が一人残らず集まっていた。隣りあわせの『ハーリー・ロングストリート』と書かれたガラスのドアに、ダフィー部長の大きな背中がもたれているのが見えた。
サムは一行を見まわし、ぶっきら棒に挨拶をし、ジョーナス刑事を呼んで、ロングストリートの私室に入って行った。一人の若い女が――サム警部はちょっと興味を感じた――ぎこちなく椅子の端に腰を下ろしていた。大柄で、美しく波をうったブルーネットで、美人だが、ちょっと安っぽい感じの女である。サムは大きな机の前の回転椅子に身を沈めた。ジョーナス刑事は部屋の隅で鉛筆とノートを構えた。「あなたはロングストリートの秘書ですね?」
「はい。プラット、アンナ・プラットと言います。四年と六か月、ロングストリートさんの専属秘書として働いています」アンナ・プラットのすんなりした鼻の先が妙に赤く、目がうるんでいた。彼女はクシャクシャのハンケチで目がしらを押えた。「なんて恐ろしいことなんでしょう!」
「まったく」警部は陰うつそうに歯をむき出した。「さて、涙はあとにしていただいて、要件に入りましょう。あなたはロングストリートの仕事内容は、それに私生活の方も隅から隅まで知っているようですが、ロングストリートとデウィットはうまくやっていましたか?」
「いいえ、いつも喧嘩ばかりしていました」
「それで、いつもどちらが勝つのかね?」
「そりゃあロングストリートさんですわ。デウィットさんは、ロングストリートさんが悪い時はいつも注意していましたけど、とどのつまり、最後には黙ってしまうんです」
「ロングストリートのデウィットに対する態度は?」
アンナ・プラットは指をひねった。「ほんとのことを言わなければいけないのなら……いつもデウィットさんに無理を押しつけてましたわ。デウィットさんの方が仕事が上だというのを知っていて、それが気に入らなかったのでしょう。デウィットさんを押さえつけて、自分が間違っている時でも、損がわかり切っていても、無理矢理、自分の考えでやってしまうんです」
サム警部の目が、女の体を上から下までなめまわした。「あなたは頭が良い、プラットさん。これから仲よくしましょう。で、デウィットはロングストリートを怨《うら》んでいましたか?」
彼女はしおらしく目をふせた。「ええ、そうだと思います。理由もわかっています。誰でも知っていることですわ」彼女の声がこわばった。
「ロングストリートさんはデウィット夫人と問題を、ただならぬ問題を起こしたことがあります。……直接聞いたわけじゃないんですけど、たしかにデウィットさんは、そのことを知っていて、自分の胸にだけ秘めていましたけど」
「ロングストリートがデウィット夫人を愛していた? じゃブラウンさんと婚約したのはどういうことになるんだ」
「ロングストリートさんは自分以外愛さない人ですわ。でも、いつも誰かと問題を起こしてました。デウィット夫人もその一人だと思うのですけど、女って、みんなそうしたものなんでしょう、彼が自分に夢中だと思っていたんです。そして他の女のことなんか……そうだ、お話ししといた方がいいかもしれない」彼女はまるで、天気のことでも話しているような口調で、つづけた。「なにかの参考になるかもしれませんものね。あるとき、ロングストリートさんが、ちょうどこの部屋で、ジャンヌ・デウィットさんに言い寄ったのです。そこへロードさんが入ってきて、これを見たものですから、大喧嘩になり、ロングストリートさんをなぐり倒してしまったんです。デウィットさんもすぐやってきて、あたしは部屋から出されました。ですから後のことは知りません。でも、なんとか収まったようです。もう二か月前の話ですけど」
警部は冷やかに彼女を値ぶみした。まさに願ってもない証人ではないか。「結構です、プラットさん。とても参考になりましたよ。それで、ロングストリートはデウィットの弱みでも握っているのでしょうか?」
女はちょっとためらった。「よくわかりません。でも、こんなことを知っています。ときどき、ロングストリートさんはニヤニヤ笑いながら、『個人借款』とかいって、大金をデウィットさんに要求していましたわ。そしてかならずお金を手に入れるのです。つい一週間前も、デウィットさんに二万五千ドルの借款を申し込んでましたの。デウィットさんはとても怒って、卒中でも起こすんじゃないかと……」
「ありそうなことだ」サム警部がつぶやいた。
「ここでさかんに言い合っていましたけど、とどのつまり、いつものようにデウィットさんが折れました」
「なにか脅迫めいたことは?」
「さあ、デウィットさんがこんなことを言ってましたわ、こんなことを続けてるわけにはいかない、はっきりと決めておかなければ、二人とも行きづまってしまう、って」
「二万五千ドル、そいつは大金だ」警部が言った。「いったい、その金をなにに使ったんだろう。この店だけでも、かなり収入があるんだろうが」
アンナ・プラットの茶色の目が光をおびた。「ロングストリートさんは、誰よりも金づかいの荒い人でしたわ」彼女がさも憎々しげに言った。「賭けはやる、贅沢はする、競馬はやる、株はやるで、いつもすってばかり。店からの収入なんか、またたく間に使ってしまい、すっからかんになるとデウィットさんにせびって、『借款』をするんですわ。『借款』なんて言っても、一度だって返したことはありませんよ。このあたしが、いつも小切手の切りすぎの言い訳を、電話で銀行にしてきたんですもの。公債や不動産だって、とっくに現金に換えてしまいました。もう一文だって残っていないと思いますわ」
サム警部は、机の上のガラス板を、指でコツコツたたきながら、じっと考えていた。「そうするとデウィットは、金を返して貰えず、ロングストリートは甘い汁を吸っていたというわけか、なるほど、なるほど!」彼は秘書を見つめた。彼女はどぎまぎして、あわてて目をふせた。「プラットさん」警部はからかうように言った。「もうわれわれは大人だ。|こうの鳥《ヽヽヽヽ》が赤ちゃんをつれてくるなんて話を信じる年ごろでもない。あなたとロングストリートの間には、なにもないのかね? 見たところ、ただの秘書ではなさそうだが」
彼女は怒って、パッと立ち上がった。「いったい、なんのことなんです?」
「まあ、まあ、坐って、お嬢さん」警部は、女が再び腰を下ろすのを見て、ニヤリとした。「そうとしか思えませんな。どのくらい、同棲してたんです?」
「だれが同棲なんか!」彼女はかみつくように言った。「二年ばかり、付き合っていただけだわ。あたし、まだ行ってはいけませんの、あなたが警部さんだからって、侮辱されてもがまんしなければならないの? これでもあたしはちゃんとした娘です。覚えといてください!」
「わかった、わかった」警部はなだめるように言った。「両親と一緒に住んでる?」
「両親は北部にいます」
「なるほどね。で、彼はあなたにも結婚すると言ったんだろう? そうに決ってる。前の女とまずくなったとこだからね。ところが、デウィット夫人に乗り換えた、そうでしょう?」
「ええ、あの……」彼女は言いよどんで、タイル張りの床に目を落とした。「そ、そうです」
「しかし、あんたはやっぱりしっかりしている」サム警部は、再び彼女の姿をしげしげと眺めまわした。「ロングストリートのような男と関係を持って、捨てられても、まだ仕事をしているというのは――立派なもんだ」
彼女はなにも言わなかった。もし餌だと感づいたら、それに喰いつくほど馬鹿な女ではない。サム警部は、ちょっと鼻歌を歌い、それをやめると、黙ってショートカットした女の髪をながめた。ふたたび、警部が口を開いた時は、声の調子も、話題も変っていた。警部が彼女から聞いてわかったことは、金曜日の午後、ロングストリートがホテル・グラントのチェリー・ブラウンの部屋に出かけてゆく前に、マイケル・コリンズが店にとびこんできて、怒りのために血の気を失って、ロングストリートに喰ってかかった。デウィットは、その時外出していた。コリンズが怒っていたのは、ロングストリートが国際金属を買うようにすすめたことだった。コリンズは損害を蒙った五万ドルを弁償するようにロングストリートに強く要求した。ロングストリートは困ったらしいが、なんとかしてそのアイルランド人を言いくるめようとした。「心配するな、マイケル、おれにまかせておけ、デウィットになんとかさせるからさ」それでもなお、コリンズはそれならすぐにデウィットに交渉しろ、と言い張った。しかしデウィットが外に出ていたので、ロングストリートは、コリンズを婚約パーティに招待して、その場ですぐにデウィットに話す、と約束した。
アンナ・プラットからは、それ以外聞きだすものはなかった。サム警部は彼女を放免すると、こんどはデウィットを部屋に呼び入れた。
デウィットは蒼白な顔をしていたが、落着いていた。サム警部がすぐに口を切った。「昨夜の質問をくりかえしますが、答えなければいけません。あなたはなぜロングストリートを憎んでいたのです?」
「威嚇はご免ですね、警部さん」
「じゃ、答えないつもりかね?」
デウィットは、堅く唇を噛んだ。
「よろしい、デウィットさん」警部が言った。「しかしだね、あなたは今、とりかえしのつかない過ちを犯しているのですよ……奥さんとロングストリートとはどんなふうに――つまり、うまくいっていましたか?」
「ええ」
「それでは、あなたのお嬢さんとロングストリートは――二人の間でなにか不愉快な事件はありませんでしたか?」
「失礼ですよ、そんな言い方は」
「じゃ、あなたの家族とロングストリートとはうまくいっていたのですね?」
「待ってください」デウィットが叫んで、突然、立ち上がった。「いったい、何をひきだそうというんです?」
警部は笑いながら、デウィットの椅子を大きな足で蹴った。「まあ、落ち着いて、坐ったらどうです……あなたたち二人は、経営の上では対等でしたか?」
デウィットの気持は鎮まっていたが、まだ目が血ばしっていた。「そうです」彼は喉をつめたような声で言った。
「何年ぐらい、一緒に仕事をやってきました?」
「十二年」
「どういういきさつで、二人が組むようになったんです?」
「われわれは戦前、南米でまとまった金を作ったのです。鉱山を当てましてね。それで一緒に帰国してからも、二人で株の仲買業をやることにしたのです」
「商売は順調?」
「まあ、かなり」
「それでは、なぜ」警部はさりげなく質問をつづけた。「もし二人ともうまくいっていて、財産があるのなら、ロングストリートはあなたからしょっちゅう金を借りていたのです?」
デウィットは身動きもしなかった。「そんなこと、誰に聞いたのです?」
「尋ねているのは私ですからね、デウィットさん」
「そんな質問は馬鹿げてますよ」デウィットは固い口髭の白毛になりかかったやつを噛んだ。「私はときどき、融通しましたが、この問題は個人的な問題ですし――金額もわずかですから……」
「二万五千ドルがわずかですか?」
デウィットは、背中を、火で焼かれでもしているように、椅子の中で身体をねじった。「しかし――あれは貸し金というようなものではなくて、まったく個人的なもので……」
「デウィットさん」サム警部は言った。「あなたは嘘をついている。あなたはロングストリートに多額の金を渡した。しかも、返済はされていない、恐らく、期待してもいないのでしょう。なぜだか知りたいですな。そうすれば――」
デウィットは、何か叫んで椅子からとびあがった。その顔はゆがみ、血の気が失せていた。
「越権行為だ! こんなことはロングストリートの死とはまるっきり無関係だ。私は――」
「芝居はやめたまえ。ま、外で待っててください」
デウィットはポカンと口を開け、あえぎ始めた。それから、しょんぼりして、怒りも消えたようだった。彼は肩を張り、身体を振って、部屋を出ていった。サム警部は当惑したように彼の後姿を見送った。あの男には裏があるぞ……
警部はファーン・デウィット夫人を呼んだ。デウィット夫人の尋問は簡単に終り、得るところはなにもなかった。色香も失せ、意地悪で、傲慢な女――夫と同様、特異な|しろもの《ヽヽヽヽ》である。夫人は心の奥深く、ある歪みを秘めているように思われた。彼女は何一つ知らない、と言った。彼女はロングストリートとは単なる友情以外の何ものでもない、としゃあしゃあと答えた。ロングストリートがジャンヌ・デウィットに言い寄ったらしいとほのめかすと、夫人はあざ笑って、「あの人は、いつも大人しか相手にしませんよ」と冷ややかに言った。チェリー・ブラウンについては、夫人は何も知っていなかった。あの女は腹黒い、低俗な女優で、ロングストリートはあの顔にのぼせたにすぎないとだけ言った。夫のデウィット氏が脅迫されたようなことはないか、との質問には、「そんな馬鹿なこと!」と吐き出すように言っただけだった。
サム警部は腹のなかでうなった。こいつは悍《かん》婦《ぷ》だ、この女の血管には血のかわりに酢が流れているんだ。警部は一所懸命、おどしたり、もちあげてみたりした。だが、やっと引き出せた事実は、デウィットとは六年前に結婚し、ジャンヌ・デウィットはデウィットが前の結婚でつくった娘だ、ということだった。サム警部には役に立ちそうなことは何もなかった。警部は夫人をかえした。
夫人が椅子から立ち上がって、出て行くとき、ハンドバッグからコンパクトをとりだすと、もうすでに厚く塗りたくった顔に、さらにまたお白粉をたたき出した。と、彼女の手が震え、コンパクトの鏡が床の上に落ちて、破片がとび散った。彼女のとりすました態度が消え、頬紅をつけた顔が蒼くなった。彼女はあわてて、胸に十字を切って、スペイン語でつぶやいた。「天なる神よ!」しかし、すぐ落着きをとりもどし、目で粗相をわび、ガラスの破片をまたいで、部屋から出て行った。サム警部は笑いながら、破片をつまみあげ、机の上に置いた。
警部は、ドアのところへ行って、フランクリン・アハーンを呼んだ。
アハーンは大きな男で、年の割に元気だった。彼は姿勢を正して入ってきた。その口元に微笑をひそませ、目は穏やかに輝いていた。
「おかけください。アハーンさん。デウィットさんを知ってから、どのくらいになります?」
「さあてと、ウェスト・エングルウッドに住むようになってからですから、六年ですね」
「ロングストリートをよく知っていますか?」
「いえ、あまり。われわれ三人は近所に住んでいるのですが、私はもと技術者でしたし、二人ともに仕事の関係というものはありません。しかし、デウィットさんとはすぐに懇意になりましたが、――ちょっと言いにくいんですがね、ロングストリートさんは、どうも虫が好かないんですよ。嘘はよくつくし、警部さん、はったり屋で――見かけは男らしい男ですが――心《しん》まで腐りきってましたよ。私は犯人は知りませんがね、ま、自業自得じゃ、ないでしょうかね」
「話は変るが」サム警部がぶっきらぼうに言った、「昨夜、チェリー・ブラウンがデウィットの仕業だと言いましたが、どう思います?」
「そんな馬鹿な!」アハーンは脚を組んで、サムの目の中をのぞきこんだ。「馬鹿げてるとは思いませんか? ただのヒステリー女があんな途方もない非難をしただけですよ。私は六年もの間、デウィットさんを知ってきましたからね。あの人にはやましいところとか、うしろめたいところなんて、これっぽっちもありはしませんよ。彼は過ちに対しては寛大です、本当の紳士とは、あの人のことですよ。あの人には虫一匹殺せません。敢えて言いますが、家族を除けば、私以上にあの人を知ってるものはいませんね。私たちは週に三、四回チェスをやっているんで」
「チェスをね?」
サム警部は興味を持ったようだった。「そいつはおもしろい。で、あなたは強いですか?」
アハーンはクスッと笑った。「そいつは情けない! 新聞は見ないのですか? 警部さん。今あなたは、この地区のチャンピオンと話しているんですよ。つい三週間前、大西洋岸選手権トーナメントで優勝したばかりで」
「ほう」サム警部が声をあげた。「これは、これは、チャンピオンに会えたとは嬉しい。私は昔、名ボクサーのデンプシーと握手したことがありますがね。で、デウィットの腕前は?」
アハーンは身体を乗り出してきた。話にも熱がこもってきた。「警部さん、アマチュアとしては大したもんです。私は何年も、もう少し本気になって、トーナメントに出るようにと勧めてはいるんですが、とにかく内気で、ひっこみじあんで――勘はすばらしいんですがね。頭は電光石火のようにすばやく回るし、ほとんど直感的に指しますね。考え込むということをしません。たまに私ともいい勝負をしましたよ」
「神経質なんですか?」
「そりゃ、頭の働きは早いです。少しは休む必要があるくらいです。打ちあけて言いますと、ロングストリートが心の重荷になっていたようです。むろん、仕事の話なんかしませんけど。ロングストリートが死んでしまえば、デウィットさんも新しく生れ変るでしょう」
「そうでしょうな」サム警部は言った。「それだけです、アハーンさん」
アハーンはサッと立ち上がった。そして、大きな銀時計をだして時間を見た。「いけない、胃の薬の時間だ」彼は警部に笑顔を向けた。「どうも胃の具合が悪くてね――私は菜食主義者になってしまいましたよ。若いころ、技術者だったのですが、罐詰の肉ばかり喰べていたせいでしょう。では、失礼」
彼は大股で出ていった。サム警部はジョーナス刑事にあきれたといわんばかりに言った。「彼があれで胃が悪いっていうなら、おれは合衆国大統領だ。なに、ヒポコンデリーなのさ」
警部はドアのところへ行って、チェリー・ブラウンに入るように言った。
机をはさんで警部と向いあって坐った女優は、前夜とはまったく違って見えた。彼女は生来の陽気さをとり戻したらしい。化粧も念入りで、アイシャドーもほどこし、流行の黒に身を包んでいた。答もてきぱきしていた。彼女は五か月前、ダンス・パーティでロングストリートに初めて会った。彼は数か月も『追いかけまわし』、婚約の発表にまでこぎつけた。彼は『遺言状を書き変える』と約束した。彼女は婚約したらすぐに、自分に有利に書き直してくれるものと信じていたと言った。彼女は、ロングストリートが大金持で、巨万の富を残してくれると、子供のようにかたく信じていた。
女優は机の上のガラスの破片を見つけて、ちょっと厭な顔をして目をそむけた。
彼女は、昨夜デウィットを非難したのはヒステリーのせいだ、と認めた。彼女は実際に電車の中でも何も見ていなかったし、あのように言ったのは『女の直感』からだと言った。サム警部はいやな顔をした。
「でも、デウィットさんが自分を憎んでいる、といつもハーリーは言ってたのです」彼女は意識した、美しい声で、まだ言い張った。なぜ、と聞かれると、少し気取って肩をすくめた。
出て行くとき、ドアを開けてやった警部に、コケティッシュな目つきをして見せた。
クリストファー・ロードがそっと部屋に入ってきた。サム警部は彼の前につっ立ち、二人の視線がぶつかり合った。「そうですとも」彼ははっきりと言った。彼はたしかにロングストリートをなぐり倒した。そしてそのことは少しも後悔していない――あんな不潔な奴は、なぐられるのが当然なのだ。彼は直接の上司であるデウィットに辞表を提出したが、受け入れられなかった。それで彼も思いとどまることにした。というのも、彼は心からデウィットを尊敬していたし、第二に、もしロングストリートがジャンヌにまた、変な真似をしたら、護ってやらなければならないからだ、と言った。
「小公子そこのけといったところだな、え?」サム警部が口の中でつぶやいた。「そこでだ、デウィットは気性の激しい男のように見えるんだが、自分の娘のことだというのに、なんで取り繕ろうような態度をとったのかね?」
ロードはポケットに大きな両手をつっこんだ。「知りません」彼はあっさり答えた。「ほんとにあの人らしくないんです。ロングストリートのこととなると、いつも頭の切れる、機敏な、信念を曲げない、というところがなくなってしまうんです。あの人はこのあたりじゃ、一番、目のきく仲買人ですよ、とても、娘さんの幸せと評判を気にかけてましてね。ですから、娘に手を出すような大猿は、なぐりとばしそうなものですが、じっと我慢してるんです。私には何が何だかわかりません」
「そうすると、ロングストリートに対する彼の態度は、デウィットの性格とは一致しないというわけだね」
「本当にあの人らしくないんです、警部さん」
ロードはさらに続けた。デウィットとロングストリートはいつもどっちかの個室で言い争っていた。理由は? と聞かれて、ロードは肩をすくめた。デウィット夫人とロングストリートとの関係は? と問われると、彼は宙を見つめて黙ってしまった。マイケル・コリンズの件は? と尋ねると、自分はデウィットの下で働いているので、ロングストリートの取引はよく知らない、と答えた。ロングストリートがデウィットに黙ってコリンズに株を勧めるようなことはあり得るか? と問うと、ロングストリートなら、やりかねない、と答えた。
サム警部は机の端に腰を乗せた。「ロングストリートは以前にもジャンヌ・デウィットをくどいたことがあるのかね?」
「あります」ロードはつらそうに答えた。「あのときは、私は居合せなかったのですが、アンナ・プラットさんが後で話してくれました。ジャンヌさんはロングストリートをはねつけて、店をとびだしたんだそうです」
「それで、君は何かしたのかね?」
「私をなんだと思ってるんです。むろん、やりましたとも。ロングストリートの胸倉をとって言ってやりましたよ」
「言い合った?」
「そりゃあ……どなり合いましたよ」
「充分だ」サム警部がさえぎった。「デウィット嬢を入れてくれ」
しかしながら、ジャンヌ・デウィットには、ジョーナス刑事が何ページも書き取っていた証言につけ加えるものは何もなかった。彼女は熱心に父親を弁護した。サム警部はむっつりと聞いていたが、すぐに隣室に引きとらせた。
「アンペリアルさんを」
長身で、肩幅の広いスイス人がドアいっぱいに姿を現わした。彼の服装はこまごまと気を使ってあった。彼のつややかなヴァンダイク風の口髭が、少なくともジョーナス刑事には印象的だったらしく、彼は畏敬のまなざしでアンペリアルを見つめた。
アンペリアルの明るい目が机の上のガラスの上に釘づけになった。いまわしそうに、ちょっと口をとがらせてから、彼はサム警部に向って、丁寧に頭を下げた。デウィットと彼とは親友として四年間もつき合ってきた。二人は、デウィットがスイスのアルプスを旅行中に知り合い、お互いに惹かれるものがあったのだ、と言った。
「デウィットさんはいつも親切でしたよ」彼は歯並びの良い歯をちらりとのぞかせて言った。
「私は商用で、四回ほどこの国を訪れましたが、その都度、デウィットさんの家にご厄介になりました」
「あなたの会社の名称は?」
「スイス精密機械会社です。社の総支配人をつとめております」
「なるほど……ところで、アンペリアルさん、あなたはこの事件をどうご覧になりますか?」
アンペリアルは手入れのゆきとどいた両手を拡げて見せた。「いや、まったく見当もつきません。ロングストリートさんという人は、ほんのうわべしか知りませんので」
サム警部はアンペリアルをひきとらせた。そのスイス人が消えると、サム警部の顔が厳しくなり、彼は叫んだ。「コリンズ君!」
大男のアイルランド人が憤りのために、唇を歪めて、よろよろと入ってきた。警部の質問に対して、彼は不平不満を叩きつけた。サム警部は彼にグッと近寄り、彼の腕を力まかせに押えつけた。「おい、よく聞けよ、口先だけの小役人め、言ってやることがある。昨夜、この尋問をのがれようとして小細工をしただろう。みんな知ってるんだ。それがだめで、のこのこやってきたというわけか、そうだろう? なにが公僕だ。ところで昨夜、ロングストリートのでたらめを責めるつもりで、ここに駈けこんで来たが、口論はしなかった、と言ったな。昨夜は聞きのがしてやったが、今朝は、そうはいかないぞ。全部、吐いてしまえ、コリンズ!」
コリンズの巨体が怒りを押えようとして、震えた。彼は警部の手を振りほどいた。「立派な警部さんだ、あんたは」彼はわめいた。「おれがいったいなにをした――キスでもした、と言うのか。どなりつけたさ――あんなインチキ野郎は地獄へ落ちりゃいいんだ! おれを一文なしにしやがって!」
サム警部がジョーナスにニヤリと笑いかけた。「書き洩らすなよ、ジョーナス」彼はゆっくりとそのアイルランド人に顔を向けた。「彼をバラすにゃもってこいの理由だ、そうだろう?」
コリンズは顔をひきつらせて笑いだした。「立派、立派、ますますもって大した警部さんだ。すると、その時までに針のささったコルクを用意しといて、チャンスを待ってたってわけですかね? 交番にでも戻るんだな、サム。警部なんて柄じゃねえや」
サム警部はまばたきをした、が、ただこう言っただけだった。「ロングストリートが君に株を勧めたのを、デウィットが知らないってのは変じゃないか?」
「それはおれのほうが聞きたいね」コリンズは吐きだすように言った。「まったく、なんてでたらめな店なんだ。だが、これだけことわっておく、サム」頸すじの静脈を浮きあがらせながら、彼は身体をのりだした。「デウィットにごまかされたりはしないぞ、きっと穴埋めさせてやる!」
「書きとめておけよ、ジョーナス」警部はジョーナス刑事に言った。「こいつは今、自分の首を締めてるんだ……コリンズ、君は国際金属に五万ドル投資したんだな。そんな大金を一体どこから手に入れた? たかの知れた君の月給では、五万という金は作れないはずだ」
「余計なことを言うな、サム! さもないと、首の骨を……」
サム警部の大きな手が、コリンズの胸倉をつかみ、顔と顔がぶつかるほど、ぐいと引いた。「口を慎まないと貴様こそ首をへし折られるぞ」警部がどなりつけた。「出て行け、下司やろう」
彼が突きはなすと、コリンズは激怒のために口もきけず、足音も荒々しく部屋を出て行った。サム警部は身体をゆすり、いまいましげにののしった。そして次に、短剣のような口髭のポラックスを呼び入れた。
この芸人はとがった、イタリア人らしい、狼のような顔をしていた。落ち着かず、キョロキョロしているポラックスを、サム警部は怒りの目でにらみつけた。
「よく聞け!」警部は太い指を、彼のカラーの下につっこんだ。「時間がないし、君にばかりかまっていられないんだ。で、ロングストリート殺人事件について、何か言うことはないか?」
ポラックスは、机の上のガラスの破片を横目で見て、イタリア語でなにか言った。彼は警部を恐れていたが、反抗的だった。彼は抑揚のない舞台口調で言った。「なにひとつ知りません。私だって、チェリーだって、疑われるようなことはなにもなかったじゃありませんか」
「なにも知らないだと? ミルクを飲んでる赤ん坊みたいにか?」
「いや、警部さん。ロングストリートは自業自得なんです。あやうくチェリーの一生をだめにしてしまうところでした。奴はブロードウェイのダニもいいとこなんです。賢明な人間なら、いつかはこうなるだろうと思ってましたよ。本当です」
「チェリーとは深いつき合いか?」
「誰が? 私ですか? 仲間だったんですよ」
「じゃ、親切にしてやるんだな」
「どういう意味なんです?」
「言ったとおりさ、もう結構」
ポラックスはそそくさと出て行った。ジョーナス刑事が急に元気づき、椅子から立ち上がり、芸人の真似をして気取って歩いて見せた。警部は鼻を鳴らすと、ドアのところへ行って、呼んだ。
「デウィットさん、もう一度、二、三分だけ」
デウィットはすっかり落ち着いていた。彼は何事もなかったような態度だった。彼は部屋に入ったとたん、すばやい目で机の上のガラスの破片を見つけた。
「誰が割ったんです?」彼は鋭く詰問した。
「見覚えがあるでしょう? 奥さんですよ」
デウィットは腰を下ろすと、大きく息をついた。「まずかったな。当分この話ばかり持ち出すでしょう。なにもかもこの鏡のせいにしてどなりちらしますよ」
「気にする性質《たち》ですか、奥さんは?」
「ひどいものです。家内は半分スペインの血が入っていまして、母親がスペイン人なのです。父親はプロテスタントだったのですが、母親が、自分は教会に行かないくせに、無理にカソリックに育てあげてしまったのです。妻にはときどき、手を焼くことがあります」
サム警部は破片の一かけを机の上から、はじきとばした。「お見かけしたところ、あなたはこんなことを信じないようですな。抜け目のない商売人だと聞いていますがね、デウィットさん」
デウィットは怒った様子もなく、まっすぐに警部を見た。「友人たちがそう言ったのでしょう」彼は静かに言った。「むろんです、警部さん。私は迷信など信じない方です」
サム警部が急に話題を変えた。「お呼びしたのは、地方検察局からの調査官と、私の部下たちにご協力をお願いしたいと思いまして」
「かまいませんとも」
「ご承知でしょうが、われわれはロングストリートの仕事内容だけでなく、私信や、銀行通帳なども調べなければなりません。調査にできる限り、ご協力願えますか?」
「承知しました」
「それはありがたい」
サム警部は別室で待っている一行を引きとらせると、ピーボディ部長刑事と地方検事のブルーノの部下の一人である、熱心そうな若い男にてきぱきと指示を与えて、デウィット・ロングストリート商会を出て行った。
警部の顔色は、すごく暗かった。
第九場 ハムレット荘
――九月八日(火曜日)午後十二時十分
クェイシーが煖炉に小さな丸木を投げ入れた。するとまた、炎が勢いよくメラメラと燃えあがった。ブルーノ地方検事は、そのゆらめく火影でドルリー・レーンの表情の動きを観察した。レーンはかすかに微笑みをたたえ、サム警部は苦い顔をして黙りこくっていた。
「それで全部ですね、警部さん?」
サムがうなずいた。
するとレーンの瞼《まぶた》が下がった。そして、とたんに筋肉がどう動いたのかわからないが、彼の表情はまるで眠ってしまったように見えた。警部はそわそわし始めた。「もし言い残したことがあったとしたら……」警部の口調には、もし言い残したことがあったとしても、とるにたらぬことで、結果は同じだ、という感じがこもっていた。サム警部は皮肉の好きな人間である。
ブルーノ検事は、老優の身体が少しも動かないのを見て、クックッと笑った。「聞こえやしないよ、サム。目を閉じているんだから」
サム警部は驚いた顔をした。そして突き出た顎を撫でさすって、大きなエリザベス朝風の椅子に浅く坐りなおした。
ドルリー・レーンが目を開き、すばやく、二人の客に目をやって、ブルーノ検事がハッとひるんだほど、だしぬけに椅子から立ち上がった。彼は半身《はんみ》になった。煖炉の火に、彼の均斉のとれたするどい横顔がシルエットになって浮かんだ。「二、三疑問があります。警部さん。シリング医師の解剖の結果、何か新しい手掛りがつかめませんでしたか?」
「いや、なにも」サム警部が元気なく言った。「ニコチンの分析結果は、検屍医の見解を実証しましたが、ニコチンの出所については、一歩も進んでいません」
「それに」と地方検事が続けた。――レーンの顔が反射的に彼の方に向けられた。「コルクにしろ、針にしろ、手掛りをつかむことはむずかしそうです。少なくとも、われわれはまだつかんでいません」
「いま、シリング医師の解剖報告書をお持ちですか、ブルーノさん?」
地方検事はいかにもそれとわかる書類を取り出して、レーンに渡した。レーンは受けとると、腰をかがめて、火にかざして読み始めた。読んでゆくにつれて、彼の目が怪しく、光ってきた。声が高くなり、速くなっていった。「死因、呼吸停止――血液、希薄にしてきわめて暗色。ふむ……中枢神経、とくに呼吸中枢の麻痺、明らかにニコチンの作用……肺臓および肝臓にも充血、脳に著しいうっ血。ふむ……肺臓の状態はニコチンに対する強い抵抗力のあったことを示している。タバコ常用者と認められる。非常用者では即死、または一分以内に絶命する量であるが、この抵抗力により、若干時間を要した……身体の特徴、左|膝蓋《しつがい》部に軽微の打撲傷、倒れた際のものと思われる……虫垂炎手術の痕跡、九年経過。右手薬指先端無し、恐らく二十年頃前に切断……糖度平常。脳のアルコール分量、異常。中年にいたって不摂生を続けているが、かつては、強壮、頑健であったと思われる……ふむ。身長、六フィート一インチ半、死後の体重、二百十一ポンド……」レーンは書類を地方検事に返した。
「どうもありがとう」
老優は大股で煖炉のところへ戻って、大きな樫のマントル・ピースにもたれた。「車庫の個室では何も見つからなかったのですね?」
「ええ、なにも」
「ウェスト・エングルウッドのロングストリートの家も徹底的に調べましたか?」
「それはもう」サム警部はそわそわして、そっと、しかし、おどけたように、ブルーノ検事に退屈を目で訴えた。「なにもありませんでした。手紙がたくさんありましてね。女友だちからのもので、ほとんど三月《さんがつ》以前の日付でした。ほかには受領証とか請求書――なに、ありふれたものばかりでしたよ。奉公人たちからも手掛りはつかめませんでした」
「市内でアパートを借りてるでしょうが、調べましたか?」
「ええ、調べましたとも。われわれが見過すようなことはありっこありません。昔の女関係も洗ってみましたが、なにも出てきませんでした」
レーンはまじまじと二人の客を見ていた。彼のまなざしは穏やかで、考え深げだった。
「サム警部、あの針のついたコルクは電車内で、ロングストリートのポケットに入れられたと断定しているのですか? 電車に乗る前とは考えられないのですか?」
サムがすかさず答えた。「絶対に間違いはありません。少しも疑う余地がないのです。そのコルクですが、興味をお持ちになるだろうと思って、持ってきたのですが」
「そいつはすばらしい、警部さん! まさにそのとおりです」このとき、老優の豊かな声に熱がこもった。
サム警部は上衣のポケットから、固く栓をした小さなガラス壜をとりだすと、その壜をレーンに渡した。「おあけにならない方がいいでしょう、レーンさん。なにしろ危険な代物《しろもの》ですから」
レーンはそれを煖炉の火にかざして、しばらく、壜の中味を丹念に調べた。コルクは、針の先と頭が全体に突きでていて、その先に黒いものがこびりついているだけのもので、まるで罪のない玩具のように見えた。レーンは微笑みながら、その壜を警部に返した。「むろん、手製の物ですな、それに、シリング医師の言うとおり、じつに巧妙にできている……乗客をみんな車庫に降ろしたときには、まだひどく雨が降っていましたか?」
「どしゃぶりでした。まるで天の底が抜けたような感じで」
「ところで、警部さん――電車には労働者は乗っていませんでしたか?」
サム警部が目を見張った。ブルーノ検事は驚いて、眉をしかめた。「労働者というのは、どういうことなんです?」
「土工、人夫、左官、煉瓦工とか――ま、そういった連中ですよ」
サム警部は困惑した表情を示した。「いいえ、みんな、会社員ばかりでした。どうしてまた……」
「一人残らず徹底的に調べましたか?」
「むろんですとも」警部がきっぱり言った。
「誤解しないでください、警部さん、あなたの部下の手腕を疑うわけではなく、念のためお尋ねしたいのですが、乗客の持ち物の中とか、電車や、みんなが帰ったあとの部屋で、なにか怪しいものは見つからなかったのですね?」
「くまなく調べたつもりですよ、レーンさん」
サム警部が素気なく答えた。
「しかし――天気、気候、人柄などから考えて、ふさわしからぬ物はなにも?」
「ちょっと意味がわかりかねますが?」
「たとえば――外套とか、夜会服とか、手袋とか――そういったものは?」
「ああ、そうですか。一人、レインコートを着ていまして、私が自分で調べましたが、べつにこれといって怪しいところはありませんでした。それは断言できます」
ドルリー・レーンの目が光った。老優はじっと二人の客を見較べた。彼は身体をまっすぐに伸した。古色蒼然たる壁の上の彼の影がゆらりと揺れた。「ブルーノさん、検察局の見解はどうなのです?」
ブルーノがぎこちなく微笑んだ。「レーンさん、われわれは、まだとくにはっきりした見解を示すことができません。関係者一人一人にみんな、動機がありますので、この事件は複雑になっているのです。たとえば、デウィット夫人はあきらかにロングストリートと深い関係を持ったことがありまして、彼がチェリー・ブラウンに乗り換えたことで彼を恨んでいます。ファーン・デウィットの行動は、終始――なんと言いましょうか、変っていましたね。
マイケル・コリンズは、税務署での評判もあまりよくなく、悪賢くて、すぐカッとなる性質《たち》で、向う見ずな男です。たしかに、この男の性格なら、やりかねません。
若いロードにしても、小説に出てくる騎士《ナイト》さながら、愛する女性の名誉のために、人一人くらい殺しかねません」ブルーノ検事はホッとため息をついた。
「ですが、すべてを考え合わせてみると、デウィットがくさい、とわれわれ二人はにらんでいるのです」
「デウィットがね」レーンがゆっくりと口を開いた。彼の目はまばたきもせず、地方検事の口にそそがれていた。「どうぞ、その先を」
「困ったことは」ブルーノが気むずかしい顔つきで言った。「デウィットだと決めつける証拠がまるっきりないことです――他の連中も同様ですが」
サム警部がボソボソと、その後をつづけた。「ロングストリートのポケットにコルクの球を入れるのは誰にでもできた。彼の仲間だけでなく、他の乗客でも可能でした。それで、われわれは彼らをかたっぱしから調べあげました。しかし、ロングストリートと結びつくのは一人だってありませんでした。言えるのはこれだけです」
「というわけで」地方検事が話を結んだ。「こうして、二人でお伺いしたわけです、レーンさん、クレーマー事件では、いつもわれわれの鼻先にぶらさがっていて、つい見過していたことを指摘され、見事な推理を展開されましたが、もう一度、お力をお借りしたいと思いまして」
レーンは手を振った。「クレーマー事件ですか――あれはほんの初歩ですよ、ブルーノさん」彼は何か考えるように二人を見つめた。沈黙の幕《とばり》が彼らを覆った。クェイシーは部屋の隅で、主人を吸いつくような目で見ていた。ブルーノとサムはこっそりと顔を見合わせた。二人の表情にはあきらかに失望の色が現われていた。サム警部は嘲《あなど》るように、うす笑いを浮かべていた。まるで、『だから、私の言ったとおりでしょう』とでも言っているように。ブルーノ検事の肩がピクリと動いた。その時、ドルリー・レーンの声が響いたので、二人はハッと顔をあげた。
「しかし」彼はおもしろそうに二人の客を見つめて言った。「打つ手は火を見るよりもあきらかです、おわかりでしょうな」
この言葉には電撃的効果があった。ブルーノ検事がポカンと口をあけた。サム警部は、ボクサーが一発くらって、意識を取り戻そうとするように、頭を振った。
サム警部はすっくと立ち上がった。「火を見るよりもあきらかですって!」彼は叫んだ。「いったい、レーンさん、あなたは――」
「ま、落ち着いてください、警部さん」ドルリー・レーンがおだやかに言った。「ハムレットの父親の亡霊のように、あなたは『恐ろしき呼び出しを受けた罪ある者のように』肝をつぶしておられる。確かに、打つ手は明らかです。もし警部さんの説明に誤りがなければ、打つ手は一つしかありません」
「そうすると私は永遠に地獄行きだ」警部が息を弾ませた。彼は疑わしそうな目を、レーンに向けた。
「とすると」地方検事が弱々しく尋ねた。「サム警部の説明を聞いただけで、あなたには犯人がわかったのですか?」
レーンのかぎ鼻がうごめいた。「たぶん――間違いはないでしょう。……ま、信用してもらうより仕方がありませんけどね、ブルーノさん」
「なるほど!」二人はほっとしたように声をあげて、意味ありげな視線を交わした。
「お二人とも疑っているようですな、しかし私を信用したほうがよろしい」レーンの声が魅力的になり、説得力を加えた。彼は剣をさばくように鮮やかに語調を変えながらつづけた。「あなたがたが追求している犯人――われわれは今後、これをXと呼ぶことにしましょう、そのXの正体、および、その共犯関係についても、見当はついていますが、精しいことは差し控えたいと思います」
「しかし、レーンさん」ブルーノが鋭く言った。
「遅れれば――結局……」
ドルリー・レーンは、赤い火影を浴びて、インディアンのように、静かに立っていた。いま、レーンの口もとから微笑みが消え、彼の顔はパロス島の大理石で刻まれた塑像《そぞう》のようであった。彼の唇がかすかに動いた。そして、やっと聞きとれるような声で言った。「遅れれば? むろん、危険もあるでしょう、しかし、犯人の正体をはやまって打明けるのに比べれば、危険は半分ですみます、その点ご了解ください」サム警部は押し黙って立ちつくしていた。彼はムカムカしているようだった。ブルーノ検事はまだ口をポカンとあけていた。「今のところはこれ以上聞かないでください。それでお願いがあります……」二人の顔から疑惑が消えないのを見て、老優の声はいらだたしそうになった。「郵便でも、お使いの方でも結構ですから、被害者の写真を――むろん、生前のやつを――とどけていただけませんか?」
「ああ、承知しました」ブルーノは言って、すねた子供のように、いらだたしそうに足を踏みかえた。
「新しい情報はどんどん知らせてください、ブルーノさん」レーンは冷静な声でつづけた。もっとも、彼は二人の心をさぐるように間を置いた。「もう、私を相手にしていただけないのなら別ですが」老優は二人の顔を凝視したが、すぐに先刻の微笑みが目のふちに戻ってきた。
一応、二人はおざなりに否定した。
「私がいても、いなくても、クェイシーが電話を承りますから」レーンは手を伸して、煤けたマントル・ピースの上の呼紐を引いた。血色のいい、太鼓腹の小柄な老人が、制服に身を包んで、魔法の精のようにひょいと入り口に現われた。「食事でも一緒にいかがでしょう?」二人は強く首を振って辞退した。「では、ブルーノさんとサム警部を車までお送りしろ、フォルスタッフ。お二人ともいつお見えになっても丁寧にお迎えするのだから、忘れないようにね。お一人でおいでになっても、すぐ知らせなさい……それでは、ブルーノさん」彼はすばやく上体を傾けて、お辞儀をした。「サム警部、失礼」
地方検事のブルーノとサム警部は黙って執事の後に従った。と、ドアのところで、まるでおなじ一本の紐で引かれたみたいに、二人とも立ち止まり、後を振りかえった。ドルリー・レーンが煖炉を背にして、古風な、浮世離れのした家具の間に立って、いんぎんに微笑をうかべて見送っていた。
第二幕
第一場 地方検察局
――九月九日(水曜日)午前九時二十分
翌朝、地方検事のブルーノとサム警部が、複雑な謎に頭をかかえながら、ブルーノの机をはさんで、顔つき合わせていた。地方検事の手がきちんとなっていた書類を乱し、サム警部のひんまがった鼻が外気の冷たさと――無駄骨折り――とを語っていた。
「まったく」サムが低いバスで言った。「行きづまってしまった。どうしようもない。毒物にしろ、コルクにしろ、針にしろ、ぜんぜん、見当がつかない。ニコチンは市販のものではなく、自分で作ったのか、シリング医師の言っていたとおり、殺虫剤を蒸溜したものらしい。そこで行き止まりだ。それにあなたがあてにしているドルリー・レーンだって――時間つぶしもいいとこだ」
ブルーノが反対した。「いや、警部、私はそうは思わない。もっとあの人を信用しろ」彼は両手を拡げて見せた。「君はあの人を過小評価しているよ。確かに、シェークスピアの台詞《せりふ》を発したり、古くさいものに囲まれた、あんな所に住んだりして、変った人には違いないよ、しかし……」
「それだ! そこを言いたいんだ」警部が顔をしかめた。「あいつはでたらめな人間ですよ。われわれをごまかしているんだ。ロングストリートを誰が殺したか知っているなんて言って、われわれにアッと言わせたかったんですよ」
「いや、しかし、サム、それでは先入観にとらわれすぎてやしないか」地方検事が反撥した。「彼だって、あんなことを言った以上、そのまま引きさがれないのは知ってるはずだ。最後にはなんとかしてみせなければならない。私は、なにか知っているのだと思う、なにか手掛りをつかんだが、理由があって黙っているのにちがいないよ」
サム警部がドンと机を叩いた。「すると、私も、あなたも馬鹿なのか? 大馬鹿野郎のコンコンチキなのか? 手掛りをつかんだ? いったいぜんたい、どんな手掛りをつかんだというんだ? なにもありゃしない! もうあの男をはずしたほうがいいと思うね。あなただって昨夜は……」
「意見が変ってもかまうまい?」ブルーノ検事がさえぎった。それから、てれたような顔をした。「クレーマー事件で、われわれの見落しを、見事にあの人が指摘したんだから、それを忘れるわけにはいかない。それにこんな難事件では少しでも解決の足しになるものを見過してはいけないよ。協力を求めておきながら、今更、締め出しもできないし、サム、このままつづけるよりしようがないと思う。べつに邪魔になるわけでもなし……で、なにか新しいことは?」
サム警部がタバコを食いちぎった。「コリンズがまた、面倒を起こした。部下の報告によると、土曜日以来、三回もデウィットを訪ねたそうだ。むろん、弁償させるつもりなんでしょう。まだ彼の張り込みはつづけるつもりです。しかし、これはデウィットの問題ですから……」
ブルーノは何気なく、目の前の手紙を開いた。前の二つを机の屑カゴに投げ入れ、第三の、安い、粗末な封筒のを手に取ると、アッと叫び声をあげて飛び上がった。ブルーノ検事の目がせわしく文面に走る間、サムは目を細めて、これを見ていた。
「うまいぞ、警部」ブルーノが叫んだ。「もし、これが本物なら――うむ、なんだ?」彼は秘書に向った。秘書は名刺を差し出し、ブルーノ検事はそれをひったくり、目をやった。「ほう、彼が」彼は、まったく違った声でつぶやいた。「よし、バーニー、ここへ通してくれ……一緒にいてくれ、サム。この手紙にはとてつもないことが書いてある。しかし、まず、あのスイス人がなんで来たのか会ってみよう。やってきたのはアンペリアルさ」
秘書が、がっしりしたスイス人の実業家のためにドアを開けた。彼はにこやかに入ってきた。アンペリアルは、例のように、きちんとした身なりをしていた。襟に新しい花をさし、ステッキを小腋に抱えこんでいた。
「お早よう、アンペリアルさん。どんなご用でしょう?」ブルーノ検事は慎重であった。先ほど彼が読んでいた手紙は、どこかに消えていた。彼の手は机の上で握りしめられていた。サム警部が口の中で挨拶をした。
「検事さん、警部さん、お早ようございます」アンペリアルはブルーノの脇の革張りの椅子に、そろそろと腰を下ろした。「お手間はとらせません、ブルーノさん」彼は鄭重に言った。「アメリカでの仕事が一切終りましたので、スイスに帰ろうと思うのです」
「それで?」ブルーノはサムを見た。そして、警部はアンペリアルの広い背中をじっと見つめていた。
「今夜の船を予約しまして」スイス人はちょっと苦い顔をした。「通運会社に荷物を運ばせようとしましたところ、どこからともなく、刑事さんが私の所へやって来まして、動いてはいけない、と言うのです」
「デウィットさんの家を出てはいけない、とですか、アンペリアルさん?」
アンペリアルはわずかにいらだたしそうに頭を振った。「いや、いや、出国してはいけない、と言うのです。荷物を動かすことも禁じられました。とても困るのですよ、ブルーノさん。私は実業家ですから、早く帰らないとベルンの会社で困るんです。どうして、帰ってはいけないのですか? まったく――」
ブルーノ検事は指で机を叩いた。「じつは、こうなんです、アンペリアルさん。あなたのお国ではどうか知りませんが、アメリカでは殺人事件と言えば容易ならぬことで、あなたはその渦中にあるのですよ」
「ええ、それはよくわかります、しかし――」
「しかし、ではありません、アンペリアルさん」ブルーノは立ち上がった。「お気の毒ですが、ハーリー・ロングストリート殺人事件が解決するまで、いや、少なくともなんらかの形がつくまでは、アメリカに留っていただきます。むろん、デウィットの家から出ることは自由です――どこへ行こうと、そこまでは干渉しません。しかし、いつでも呼び出しに応じられる所にかぎります」
アンペリアルは立ち上がり、背すじをぐっと伸した。彼の顔は明るさを失い、醜いまでに歪んでいた。「業務に差しさわりができるのですよ!」
ブルーノは肩をすくめただけだった。
「そうですか」アンペリアルは手荒く、帽子をかぶった。彼の上気した顔は、ドルリー・レーンの煖炉の炎を想い出させた。「ただちに領事館に行って、手続きとりますから。いいですね、ブルーノさん。私はスイス国民です、あなたがたに私を引き留める権利はないはずです。失礼します」
彼はこころもち、頭を下げて、まっしぐらにドアに向った。ブルーノ検事は微笑んだ。「しかし、船の予約は取り消した方がいいですよ、アンペリアルさん。金が無駄になりますからね……」
アンペリアルは黙って、出て行った。
「さて」ブルーノが元気に言った。「なに、あれはあれでいい。坐って、これを読んでみたまえ、サム」彼はポケットから、さっきの手紙を出して、警部の前に拡げた。サム警部は手紙の下部にすばやく、目をやった――サインはなかった。手紙は安物の便箋に、固まりかけた黒インクで書かれ、明らかに筆跡を変えようとしたところは見られなかった。地方検事宛であった。
『私はロングストリートという人が殺されたとき、その電車に乗っていたものです。私は犯人について、あることを知ってしまいました。私は、地方検事のあなたに、この情報をお知らせするつもりです。だが、どうしても犯人に感づかれているように思えてなりません、まるで監視されているような気がするのです。
しかし、もしもあなたか、代理の人が水曜日の夜、午後十一時に会ってくださるなら、知っていることをお話します。その時刻にウィーホーケン渡船場の待合室に来てください。そうすれば私が誰かわかります。それまではふせておきます。ただし、絶対に秘密にしといてください。この手紙についても、誰にも話さないでください。でないと、犯人は、私が喋ったと思って、殺しに来るかもしれません。国家に対する義務を果たしたために死ぬのは厭です。
私を保護していただけるでしょうね。水曜日の夜、私の話を聞けば、喜ばれるはずです。|非常に重要なことですから《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。それまでは自分で自分の身を守ります。昼間、警官と話しているのを、人に見られたくありません。』
サム警部は、その手紙を慎重に取り扱った。彼はそれを机の上に置くと、封筒を調べた。「消し印は昨夜、ニュージャージー、ウィーホーケンからだ」彼はつぶやいた。「汚い手でさわったと見えて、指のあとだらけだ。ジャージー側のあの汽車に乗る定連の一人だ……ブルーノさん、ここが問題だ。いたずらかも知れないし、本当かも知れない。そこでいつも困るんだ。あなたのご意見は?」
「むずかしい」ブルーノ検事は天井を見つめた。「本物のような気もする、行くだけは行ってみよう」彼は部屋の中を歩きはじめた。「警部、うまくいくような気がする。誰だか知らないが、署名していないのが本物らしく思えるね。とても大切なことだなんて、得意になってるかと思うと、密告がバレた場合を恐れて、震えているよ。それに、この手紙は、こういった種類の密告書の特徴を持っている――文面が長い、くりかえして同じことを言う、ビクビクしている――誤字やtの横棒が抜けていたりはざらだ。考えれば、考えるほど、本物に見えてくる」
「そうかな……」サム警部はうかぬ顔をしていた。それから、急に顔がパッと輝いた。「これでドルリー・レーンの鼻をあかしてやれるかもしれないぞ。たぶん、あんなカビのはえた忠告など必要なくなるんだ」
「よし、そうしよう、サム君。さっそく手配しよう」ブルーノ検事は、さも満足そうに両手をこすり合わせた。「じゃ、こうしてくれ、ハドソン郡の地方検事のレンネルズと連絡をとって、ウィーホーケン渡船場をジャージー署で監視するようにしてくれ。管轄問題でもめるのはごめんだからな、とにかく。制服はだめだぞ、サム君――全員、私服にしてくれ。君も行くのかね?」
「とめられても行きますよ」彼はきっぱりと言った。
サム警部がドアをピシャリと閉めて、出て行くと、地方検事のブルーノは机の上の受話器をとりあげて、ハムレット荘を呼び出させた。彼は電話のつながるのをのんびりと待っていた。ほとんど愉しそうにして。ブザーが鳴った。「もしもし、ハムレット荘ですね? ドルリー・レーン氏を……地方検事のブルーノです……もしもし、どなたですか?」
しわがれた、震え声が返事をした。「クェイシーでございますよ、ブルーノさん。レーンさまは私のすぐかたわらにおられます」
「ああ、そうですか、うっかりしてました。耳がご不自由でしたな」ブルーノの声が大きくなった。「では、情報があると、レーンさんに伝えてください」
クェイシーがその言葉を伝える声が聞こえた。
「それは結構、とおっしゃいました」クェイシーの声が響いた。「それから?」
「ロングストリート殺しの犯人を知っているのはあなただけではない、とお伝えください」ブルーノ検事は勝ち誇ったように言った。
彼は耳を澄まして、クェイシーがレーンにこれをくりかえしているのを聞いていた。すると驚くほど、はっきりとレーンの声が聞こえた。「ブルーノさんに、それはすばらしい、犯人が自供したのですか、と伝えなさい」
ブルーノは匿名の手紙の内容をクェイシーに説明した。しばらく沈黙がつづいてから、レーンの、ゆったりした、冷静な声が伝わってきた。
「直接お話しできなくて残念だ、それから、今夜の会合に加わってもよろしいか、と聞きなさい」
「どうぞ、どうぞ」ブルーノ検事はクェイシーに言った。「ところで、クェイシーさん、レーンさんは驚いた様子がないか?」
ブルーノは電話の向うで独特の含み笑いを聞いた。そして、クェイシーの笑いがまだ残っているしわがれ声が響いた。「いいえ、ブルーノさん、事情が変ったのを面白がっていられるようです。レーンさまはいつもおっしゃってますよ、私はいつも予想し得ない事が起こるのを予想してるのだよ、と。レーンさまは――」
地方検事のブルーノは短く「失礼」と言って、受話器を置いた。
第二場 ウィーホーケン渡船場
――九月九日(水曜日)午後十一時四十分
晴れた夜なら、暗い夜空に明るく映えるニューヨーク中心部の燈火も、この日は、昼のうちからがんばっていた霧の幕に包まれて完全にぼやけていた。ニュージャージーの桟橋からは、対岸の明りが、時たまわずかににじんで見え、河の上に不気味な霧が重く、壁のように垂れこめていた。ときおり、舳先《へさき》から艫《とも》まで、あるかぎりの燈火をつけた渡船が、突然、ぼーっと霧の中から現われた。小型の汽船が幻のようにゆっくりと河を上り、下りしていた。霧笛がひっきりなしに鳴り響いたが、その音すら霧の中におし包まれ、消えていった。
ウィーホーケン渡船場の裏手の納屋のような待合室に、十人ほどの男がたむろして、ほとんど口もきかず、目を光らせていた。その一団の中にずんぐりした、ナポレオンを想わせる、地方検事のブルーノの姿があった。彼は十秒毎に、そわそわと時計を出して時間を調べ、それから、気違いのように、セカセカと穴だらけの床の上を歩きまわった、サム警部も、大きな部屋をうろつきまわり、ときどき、ドアの方に鋭い目を向け、たまに誰かが入ってくると、目を光らせた。部屋にはいくらも客がいなかった。
刑事の一団から離れて、ただひとり、ドルリー・レーンが坐っていた。その異様な風体に、渡船を待つ人々が不思議そうな目を見張り、あるいはおかしそうに笑いを含んだ視線を投げた。彼は、脚の間にはさんだ、太い、ブラックソーンのステッキの頭に両手を置き、静かに坐っていた。長く、黒い外套が身を包み、ケープがゆったりと彼の肩を覆っていた。彼のふさふさした髪の上には、つばの広い、黒いフェルト帽が乗っていた。サム警部は、ときおり、それに目をやり、心の中でつぶやいた。「着ている物や、髪から判断すると、老人臭いくせに、顔かたちは驚くほど若々しい、こんな人間を見たことがない」端正で、たくましい面立《おもだ》ちは、どう見ても、三十五歳のそれと思えた。彼の泰然自若とした態度は人目を惹かずにはいない。彼は人々の好奇心を無視しているのではない――本当に、それに気づかないのである。
彼の光る目が地方検事のブルーノの唇にそそがれていた。
そのブルーノ検事がやって来て、落ち着かぬ様子で腰を下ろした。「もう三十五分も遅れています」彼はぶつくさと言った。「無駄な暇つぶしをさせてしまったようですね。むろん、われわれは一晩中でもこうしていなければなりませんが、正直言いますと、少々、馬鹿らしくなってきました」
「不安になってきたのと違いますか、ブルーノさん?」レーンがはっきりした、音楽的な口調で言った。「理由はあるはずですよ」
「と言うと、あなたは――」ブルーノが暗い顔で言いかけて、言葉を切った。待合室の外が騒がしくなり、混乱した叫び声が聞こえ、サム警部も足をとめた。
「なんでしょうな、ブルーノさん?」レーンが穏やかな調子で聞いた。
ブルーノが緊張して、耳をそば立てた。「あなたには、むろん、聞こえますまいが――レーンさん、『人が落ちた!』と叫んでいます」
ドルリー・レーンが猫のように身軽に、すっと立ち上がった。サムが大声で言った。「桟橋でなにかあったらしい、行ってみます」
ブルーノ検事は立ちつくしていた。「サム君、私は何人かとここに残ろう。一種のおとりかもしれない。行ってしまってから、あいつが来ると困るからな」
サムはもう、ドアに向って歩いていた。すぐその後をドルリー・レーンが追い、刑事の半分がさらに、その後に従って、出ていった。
彼らは外に出ると、裂け目だらけの床の上に立ち止まって、叫び声の方向を確かめた。屋根のついた桟橋のはずれに、渡し船が停っていて、岩壁の杭材に船体をこすりつけながら、降り口を鉄板敷きのステップに合わせようとしていた。サム、レーン、それに刑事たちがそこに着いた時には、もうすでに若干の乗客が船を飛び降りていて、他の乗客も降りようとしていた。上甲板の上の操舵室に金文字で『モホーク』と書かれてあった。北側の下甲板には、手すりにもたれた乗客がひしめき合い、右舷の船室の窓からも、霧のかかったまっ黒い海面を見下ろしていた。
三人の渡船場の係員が、人垣をかきわけながら甲板に現われた。ドルリー・レーンは、サム警部のうしろにいたが、突然、金時計をとりだして見た。十一時四十分だった。
サム警部は甲板に飛び移ると、痩せてゴツゴツした老水夫をつかまえた。「警察の者だ! いったい、どうしたんだ?」
その老水夫はおびえた顔をした。「人が落ちたんです。モホーク号が桟橋に着こうとしたとき、誰かが甲板から落ちたんだそうで」
「落ちたのは誰だ、――誰か知ってるものはいないのか?」
「知らねえですよ」
「いらっしゃい、レーンさん」警部は言った。「落ちた奴は船の連中が何とかするでしょう。われわれは落ちた場所へ行ってみましょう」
彼らは船首の人垣を押し分けながら、船室の入り口の方へ向った。サム警部は「アッ」と小さく叫んで立ち止まり、片手を前に突きだした。下甲板の南側から今しも桟橋に移ろうとする、小柄で、きゃしゃな男がいた。
「おい、君、デウィット! ちょっと待て」
トップコートを着た、その小男ははっと顔を上げ、ちょっと躊躇《ちゅうちょ》してから、引きかえしてきた。彼の顔面は蒼白だった。彼はかすかにあえいでいた。「サム警部!」彼はゆっくりと言った。「ここで何をしているのです?」
「ちょっとした仕事でね」彼は面倒臭そうに言った。しかし、その目は興奮できらめいていた。「あなたこそ、なぜ、ここに?」
デウィットは左手を外套のポケットにつっこんで、身を震わせた。「家に帰る途中です」彼は言った、「なにかあったのですか?」
「それをこれから調べるところですよ」サム警部は穏やかに言った。「われわれと一緒に来てください。ところで、こちら、ドルリー・レーンさんです。いろいろ、お世話になっています。俳優でして、かなり名を売った人です。レーンさん、こちらがロングストリートの共同経営者のデウィットさんです」ドルリー・レーンが愛想よくうなずいた。デウィットのおどおどした目が、急にレーンの顔にそそがれ、そこに何かを認めたらしく、尊敬の色を浮かべてきた。「お目にかかれて光栄です」サムは苦い顔をした。サムのうしろに控えている刑事たちは、辛抱強く待っていた。サムは誰かを捜すように、そこらを見まわし、口の中でぶつぶつ言った。
それから、彼は肩をすくめた。「来てください」彼は鋭く言った。そして、錐《きり》でもむように、人々を巨体でかきわけながら、船室に入った。
船室は上を下への大騒ぎだった。サム警部は真鍮の手すりのついた階段をかけ登り、他の者があとに続いた。彼らは楕円形の上部船室に入り、その北側のドアから、真暗な上甲板に出た。刑事たちは懐中電燈の強い光りで、甲板を調べた。
およそ、船の中心と船首の中間あたり、舷側から数フィート離れた、ちょうど、操舵室の後にあたるところで、サムはなにかズルズルと引きずったような跡を発見した。刑事たちはいっせいに懐中電燈の光りをその部分に集中した。その跡は十字形の手すりから、甲板を横切って、船室の北西にある小さな室につづいていた。この小室の西と南の壁は船室の外側で、北の壁は薄い板になっており、東側が開いていた。懐中電燈の光が内部を照らした。
甲板のひきずり跡は、その内部から始まっていた。中には、壁に固定された鍵のかかっている道具箱、二、三の救命具、ホウキ、バケツ、その他こまごまとした物があった。東側の開いたところには、鎖が渡してあった。
「合鍵を借りてきて、あの箱を開けてみろ。なにか見つかるかもしれない」二人の刑事が消えた。「それから、ジム、下へ行って、誰も船を降りないようにしてくれ」
サムとレーンと、後からついてきたデウィットが手すりの方へ歩み寄った。手すりから船の舷側までは、二フィート半ほど甲板の板が張り出していた。サムは、手に懐中電燈を持って、甲板のひきずり跡を綿密に調べた。彼は顔を上げてレーンに言った。「ここに妙なものがありますよ、レーンさん。踵で削った跡です。なにか重い物を引きずったのですね。たぶん、人間です。それを引きずったとき、踵の跡がついたのです。殺しに間違いなさそうだ」
ドルリー・レーンは、かすかに照らし出されたサム警部の顔を熱心に見つめていた。彼がうなずいた。
彼らは手すりにもたれて、下の混乱を見下した。サムの視角の端には、デウィットの姿がとらえられていた。小柄の仲買人は今は、諦めたように静かにしていた。
警察艇が桟橋の端につながれた。警官が何人か、ヌルヌル滑る杭の頭に手をかけて、桟橋に上がった。
と、突然、二基のサーチライトが、渡船場を明るく照らし出した。桟橋が霧にもかかわらず、光の中にくっきりと浮かび上がり、上甲板も、今はまばゆいほど、明るくなった。サーチライトの光りは、さらに、下甲板の人々をも、浮かび上がらせた。下甲板の床が船外に張り出していて、ヌルヌルの橋杭にこすりつけられ、そのために水面を見ることはできなかった。
船員や係員たちが桟橋の杭の上に立ったり、坐ったりしながら、うす暗い操舵室に向って、なにか叫んでいた。急にガラガラと機関が動き出し、船がわずかに桟橋を離れた。船は北の桟橋から南の桟橋へ、じりじりと移動した。操舵室では二人の男――船長と舵手――が、懸命に、死体が浮いているはずの水面をあけようと懸命に働いていた。
「ペシャンコになっちまったろう」サム警部が事務的な口調で言った。「船が着く前に落ちたのだから、おそらく、船体と橋杭にはさまれて、つぶれてしまったな。そして船が進んだから、張り出している板の下へ押し込まれたに違いない。ちょっと骨が折れるぞ……やあ、水面が見えてきた」
船がゴトゴト音をたてて移動したので、油の浮いた、黒い水面が現われた。水の表面は泡だっていた。暗い杭の上から、鉄の鈎棒《かぎぼう》がぬっと伸びた。警官と水夫が死体を捜し始めた。
デウィットは、サムとレーンの間に立って、下の恐ろしい作業を夢中で見つめていた。一人の刑事がサムの脇にやって来た。「なんだ?」サム警部が言った。
「道具箱の中にも、小室の中にも、なにもありませんでした」
「そうか。この甲板の踵の跡は踏まないようにしろ」しかし、そう言いながらも彼の目は依然として、デウィットの様子に惹きつけられていた。小柄なその男は、左手で冷たく霧に濡れた手すりを握りしめていた。右手は、肘を手すりに乗せ、固定したように前に突き出していた。
「どうしました、デウィットさん? 手に怪我でもされましたか?」
小柄の仲買人はゆっくりと振り返り、自分の右手を見下ろし、あいまいな微笑を浮かべた。それから、その手をサム警部の目の前に突き出して見せた。レーンものぞき込んだ。人差し指の裏側に、第一関節から、真直ぐ、一インチ半ほどの切傷があり、うすいかさぶたがそれを覆っていた。「今夕、取引所クラブの運動場で、ある器械をいじってるうちに切ってしまったのです。夕食前でした」
「ほう」
「クラブのモリス先生が治療してくれましたが、しばらく痛むので、注意するように、と言われましてね」
下から歓声がわきあがってきた。サム警部とデウィットは向きを変えて、手すりにもたれて、のぞき込んだ。ドルリー・レーンも、いそいで二人にならった。「見つけたぞ! そっちは止めていい!」鉄の鈎が黒い水面下に固い物をさぐりあて、ロープが一本スルスルと杭の上に下ろされた。
三分の後に、河から、だらりとなった物体が水をしたたらせながら、現われた。悲鳴が下甲板から起こった――つづいて、意味のない声がもれ、混乱した叫び声が起こった。
「下へ行こう」サム警部が叫んだ。三人が同時にクルリと向きを変え、ドアに向った。デウィットは二人の先に立ったが、ドアのハンドルを握ったとたん、苦痛のうめき声をあげた。「どうしました?」サムが急いで尋ねた。デウィットは苦痛に顔を歪めていた。サム警部とレーンは、傷口から新しい血が流れているのを見た。かさぶたがはがれ、数か所が裂けていた。
「右手でドアを開けようとしてしまった――」デウィットがつぶやいた。「傷口が開いてしまいました。モリス先生に注意しろ、と言われていたのに」
「まあ死ぬことはあるまい」サム警部はそう言って、デウィットの脇をすり抜け、階段を降りはじめて、彼は振り向いた。デウィットは胸のポケットからハンカチを出して、右手を軽く包んでいた。ドルリー・レーンは外套に顎をうずめ、その目は陰になっていたが、あかるい口調でなにか声をかけ、二人はサムにつづいて、階段を降りた。
彼らは右舷の下部の船室を通り抜けて、前甲板に出た。そこには作業員によってキャンバスが拡げられていて、その上にぐしょ濡れの塊りが横たわり、その周囲に悪臭を放つ水溜りができていた。それは、押しつぶされ、血だらけになり、判別できないほど、めちゃくちゃになった男の死体だった。頭も顔もつぶれていた。奇妙な形に横たわっているところから判断すると、背骨は折れているらしく、片方の腕は、ローラーで押しつぶされたように、平たくなり、奇怪な恰好に伸びていた。ドルリー・レーンは顔面蒼白になりながらも、そのゾッとするような死体から目を離そうとはしなかった。血なまぐさい光景に慣れているサム警部でさえ、不快を感じて、思わずうなった。デウィットはと言うと、彼はしばらくあえぎながら見ていたが、すぐに顔をそむけてしまった。彼の顔はまったく、土色をしていた。彼らのまわりには、船長、舵手、他の乗組員、刑事、警官たちが、みんな、おし黙って死体を見下ろしていた。
南側の細長い船室が騒々しくなってきた。そこには乗客が集められ、監視されているのである。
死体は俯伏《うつぶ》せに横たわっていたが、下半身が不自然にねじられ、つぶれた顔もやはり、横を向いていた。キャンバスの上には、|ひさし《ヽヽヽ》のついた黒い帽子が、ずぶ濡れになって、置いてあった。
サム警部はぬかずくと、片手で死体を押してみた。それは濡れた粉袋のように、グニャリとして、手応えがなかった。彼が死体を仰向けにしようとすると、一人の刑事が手を貸した。二人がかりでやっと仰向けにしてみると、それは赤い髪をした、がっしりした男であった。顔かたちはつぶれてしまって、確認は不可能だった。サム警部は驚いて思わず声をあげた。その死体は紺の上衣を着け、ポケットは黒革でふちどりされていて、真鍮のボタンが二列、裾まで並んでいた。突然、サム警部は腕を伸ばして、甲板の上の帽子をひったくった――それは車掌の帽子だった。|ひさし《ヽヽヽ》の上の徽章には二一〇一と職番が入れてあり、『第三アヴェニュー電鉄』の文字があった。
「こんなことって――」警部が言いかけて、口をつぐんだ。彼は仰向いて、ドルリー・レーンの顔をじっと見た。レーンは身をこごめて、帽子にじっと目をそそいでいた。
サム警部は制帽を置き、手を伸ばして――もう、いつもの職業的な動作になっていた――死体の上衣の内ポケットをさぐった。彼の手には古くなった、グショグショの革財布が握られていた。彼は中身を調べると、サッと、立ち上がった。彼のいかつい顔が輝いていた……
「そうか!」彼は叫んで、すばやく、周囲を見まわした。
地方検事のブルーノのずんぐりした姿が、トップコートの裾をひるがえしながら、急ぎ足でやって来るのが見えた。数人の私服がその後に従っていた。
サム警部は一人の刑事に向って言った。「乗客が入っている船室の見張りを二倍にしろ!」彼はずぶ濡れの財布を前に突き出して、左右に振りながら「ブルーノさん、早く! 例の男がわかりましたよ!」と叫んだ。
地方検事は走り出し、船に飛び乗るなり、死体、人だかり、レーン、デウィットをすばやく見わたした。
「どうした?」彼は息を切らしていた。「誰のことだ――あの投書の主か?」
「まあ、死体を見てください」警部がしゃがれ声で言い、死体をつま先で軽くつっついた。「先手を打たれましたよ」
ブルーノ検事はあらためて死体に目をやり、上衣の真鍮のボタンに気づき、甲板の上の|ひさし《ヽヽヽ》のある制帽を見ると、目を見張った。
「車掌――!」彼は帽子を持ち上げると、風が冷たいにもかかわらず、額ににじんだ汗を絹のハンカチでふきとった。「たしかだろうな?」
答えるかわりに、サム警部は、先ほどの財布から濡れて柔らかくなったカードをとりだして、それを地方検事に渡した。ドルリー・レーンは静かにブルーノの背後に歩み寄り、その肩越しに、カードを調べた。
それは、第三アヴェニュー電鉄の角《かど》のまるい身分証明書で、二一〇一の職番と署名が書かれていた。その署名は乱暴な字で書いてあったが、読めないほどではなかった。そこにはこう書いてあった、チャールズ・ウッド。
第三場 ウィーホーケン駅
――九月九日(水曜日)午後十一時五十八分
ウィーホーケン駅の西岸線の待合室は、すき間風の入る古びた二階造りで、まるでガリバー旅行記の巨人国の納屋のように大きい。天井の鉄の梁はむきだしで、その梁がやたらと縦横に走っている。一段高いところに、二階の壁を抱くようにして、柵つきのプラットホームがあり、このプラットホームから廊下づたいに小さな事務所がいくつかある。すべてがくすんで汚なく、灰色になっている。
河の水でまだ濡れたままの車掌チャールズ・ウッドの死体が、布製の担架で、音のこだまする待合室を通り、二階に上りプラットホーム沿いに駅長室に運ばれて来ていた。待合室はニュージャージーの警察で占められ、鉄道の乗客はひとり残らず追い払われていた。モホーク号の南側船室から乗客が警察に守られて、がやがやと出て来て、警官の並ぶ列の間を通って、駅の待合室に送り込まれ、いったいどうなることかと、サム警部とブルーノ地方検事の指示を待った。
モホーク号はサムの命令で桟橋に繋がれていた。渡し船の乗組員は協議の結果、緊急に渡し船のスケジュールを変更した。いくつもの渡し船が入って来ては霧の中に出て行った。列車は平常通り運行を許可されていたが、ただ例外として、臨時の出札所が車庫に設けられ、乗客は渡船待合室を通って乗車しなければならなかった。置き捨てられたモホーク号には、灯があかあかともえ、刑事と警官が群がっていた。係員と警察関係者以外は誰も乗船を許されていなかった。二階の駅長室では少数の人が横になった死体を囲んでいた。ブルーノ地方検事は電話で忙しくしていた。まず呼び出したのは、ハドソン地区のレンネルズ地方検事の自宅だった。彼は、被害者が自分の管轄権内のニューヨークで起こったハーリー・ロングストリート殺害事件の証人であることを早口に説明し、殺された場所はニュージャージー地区内だが、死体についての予備調査を自分に任せてくれるように頼んだ。レンネルズはこれを承諾したので、ブルーノは早速ニューヨーク警察本部に通知した。サム警部は受話器を掴んで、ニューヨークの刑事の応援を求めた。
ドルリー・レーンは静かに椅子に坐って、ブルーノの唇と、今は固く唇を結んだジョン・デウィットの蒼白な顔――片隅に放置されている――と、サム警部の冷たく激した様を見つめていた。
サム警部が受話器をかけた時、レーンが言った。「ブルーノさん」
地方検事は死体の足もとに立ったまま、その無残に横たわっている姿をじっと見つめていたが、その声にレーンの方を向いた。彼の眼に奇妙な期待の色が浮かんだ。
「ブルーノさん」ドルリー・レーンがまた声をかけた。「ウッドの筆蹟は注意して調べましたか――身分証明書の筆蹟を?」
「どういうことですか?」
「投書の主と同一人物かどうか」レーンはおだやかに説明した。「これを調べるのが何と言っても一番大事だと思うのです。サム警部は、ウッドの筆蹟と手紙の字は同一だとお考えのようですが、警部さんのご意見を一応ごもっともとするにしても、私としては専門家の確認を仰いだ方がいいような気がするのですが」
サム警部は不快な笑いをもらした。「同じですよ、レーンさん。だいじょうぶです」彼はウッドの死体の側に膝をついて、まるで仕立て屋のマネキン人形をいじるような表情で、死人のポケットを探っていた。そして二枚のくしゃくしゃになった濡れた紙片を取り出して立ち上がった。一つは第三アヴェニューの鉄道事故報告用紙で、その日の午後にあった自動車との小さな衝突事故について細々と書かれてあり、署名がしてあった。もう一つは切手のはった封筒である。サムは封を切り、読んで、ブルーノに渡した。ブルーノはそれに眼を通すと今度はレーンに廻した。内容は運転技術についての通信講座の文書請求だった。レーンは両方の書類の筆蹟と署名を見較べた。
「ブルーノさん、あの投書をお持ちですか?」
ブルーノは紙入れの中をかき廻して手紙を取り出した。レーンは三枚の紙を側の机の上に広げ、まばたきもせずにつくづくと眺め入った。暫くしてにっこり笑い、それらをブルーノに返した。
「どうも失礼しました、警部さん」とレーンは言った。「三つとも確かに同じ筆蹟です。事故報告書と通信学校への手紙はウッドが書いたのですから、その筆蹟から見ても、この投書も彼が書いたにちがいありません。ですが、サム警部の確固たるご意見をも専門家に確認してもらうことが重要だと思うのです」
サムは何かぶつぶつ言って、また死体の側に両膝をついた。ブルーノ地方検事は三枚の紙片を紙入れに戻し、もう一度受話器をとった。「シリング先生……先生ですか? ブルーノです。ウィーホーケンの駅長室にいます。ええ、渡船場の裏の……至急……そうですか! ではそちらがすみ次第、急いで……四時ですか? 構いません。死体はハドソン地区の死体置場に運ばせておきますから、そちらで調べてください……。そうです、そうです、あなたにおねがいしたいのです。チャールズ・ウッドという、ロングストリート事件の電車の車掌です……そうなんです。では」
「もう一つ思いつきなんですが」ドルリー・レーンが椅子から声をかけた。「ブルーノさん、渡船員か電車の乗務員の同僚の中で、モホーク号に乗る前にウッドに話しかけられたか、彼の姿を見たものがあるかもしれませんよ」
「いい思いつきですよ、それは、レーンさん。まだうろうろしているかもしれませんな」ブルーノはふたたび受話器を取り、ニューヨーク側の渡船場を呼び出した。
「ニューヨーク地区の地方検事ブルーノです、ウィーホーケン駅からですが。ここで殺人事件がありまして――ああ、もうご存じですか?――早速ですがご協力を願います……ありがとう。では、渡船乗務員の中で、今晩、第三アヴェニュー鉄道の、四十二番街横断線の、職番二一〇一の車掌チャールズ・ウッドを見かけたか、あるいは話をした者があったら、誰でもいいから寄こしてください……約一時間前、そう……それから、勤務中の電車の監督を一人つかまえられませんか。警察の船を迎えに出します」
ブルーノは電話を切って、刑事の一人に、モホーク号の側に停泊している警察艇の艇長に命令を伝えさせた。
「よし!」ブルーノは揉み手をした。「レーンさん、サム警部に死体の方は任せて、私と一緒に下に降りてみませんか? することがたくさんありますよ」
レーンは立ち上がった。彼は横目で一隅にひとりうずくまっているデウィットを見つめていた。「そうでしょうね」レーンが澄んだバリトンの声で言った。「デウィットさんをお連れしては? ここにいては不愉快なばかりでしょうから、ブルーノさん?」
ブルーノの眼が縁なし眼鏡の奥で光った。彼の不気味な顔が笑いによじれた。「よろしいですとも。デウィットさん、よかったら一緒に来ませんか」
小柄の、蒼白な顔をした仲買人は、マント姿のレーンに感謝のまなざしを送った。彼は二人に従《つ》いて部屋を出た。彼らはプラットホームを通り、待合室に降りて行った。
歩きながら地方検事は静粛を求めて片手を振りあげた。「渡船モホーク号の舵手がいたら来てくれ。たずねたいことがある。船長も」
二人の男が乗船者の一団から出て、前に進んだ。
「私が舵手で――サム・アダムスです」渡し船の舵手は頑丈な男で、黒い髪をきちっと五分刈りにした、雄牛のような顔付きの男だった。
「ちょっと待ってくれたまえ。ジョーナスはどこだ? ジョーナス!」サム警部の筆記係がノートを用意して、さっと現われた。「証言の筆記をたのむ……さて、アダムス、死体の確認をしたいのだが。甲板にひきあげた死体を見たかね?」
「見ました」
「以前にその男を見たことは?」
「何百ぺんも見てますよ」舵手はわざとらしくズボンをつり上げた。「友だちみたいなもんでした。顔はめちゃめちゃでしたが、確かにあれはチャールズ・ウッドです、横断線の車掌の」
「なぜそう思う?」
舵手アダムスは帽子をもちあげて、頭をかいた。「なぜって――そうなんです。身体つき、赤い髪、服――どうしてかって言われても答えられませんが――私は知ってるんです。それに、今晩船で彼とは話しもしました」
「なに! 会ったのか。どこでだ――操舵室でか? 規則違反だと思うが。まあいい、全部話してみてくれ」
アダムスは咳払いすると、そばの痰壺に唾を吐き、隣りの背の高い、蒼ざめた、陽やけした男――船長――の顔を当惑げに見やって、言った。「そうですね、あのチャールズ・ウッドとは何年来の仲で、私はもう九年もこの船に乗っています、ねえ、船長?」船長はそうだと首をふって、痰壺にうまく唾を吐いた。「チャールズはウィーホーケンのこの辺りに住んでいるんでしょう、電車の勤務が終ると、いつも十時四十五分の渡し船に乗ってましたから」
「おっと待ちたまえ」ブルーノは意味ありげにレーンにうなずいてみせた。「今晩も十時四十五分に乗ったのかね?」
舵手は不平そうな顔をした。「これから言うところですよ。今晩も乗りました。ええ、とにかくチャールズはずっと前からですが、乗客用の上甲板に上がって来て夜を過す習慣になってるんですよ」ブルーノが顔をしかめたので、アダムスは先を急いだ。「とにかくチャールズが上がって来て声をかけてくれないと、何だか気が抜けたみたいになってしまうんですよ。もちろんあれが非番の時とか、ニューヨークで泊る時には会えませんがね。が、たいていモホーク号に乗りました」
「とてもおもしろいね」地方検事が言った。「いや、じつにね。だが、もっとテキパキ話してくれないか――そこんところは重要ではないからな」
「へい」舵手はまたズボンをつりあげた。「で、今晩も十時四十五分のに乗って、乗客用上甲板からいつものように右舷を通って来て、私に声をかけました。『アホイ、いるか、サム!』私が船乗りなのでたいてい『アホイ』って呼ぶんです。ふざけてるんですよ。ええ」ブルーノが歯をみせた。アダムスは途端に真顔になった。「いえ、いえ、すぐですよ」彼はあわてて言った。「で、こっちも言い返したんです『アホイ!』それから『ひどい霧だな、なあ、チャールズ? うちのばあさんの面の皮みたいに厚いな!』すると向うでもどなるんです――ええ、検事さんの顔を見ているくらいはっきりと彼の顔が見えましたよ。操舵室に近かったし、室の明りが顔を照らしていましたからね――『サム、やな霧だな!』でこっちは『チャールズ、あんたの方はどうだったね?』また彼がこう言いました。『いやあ、――今日は午後、シボレーとぶっつけたよ。ギネスが飛び上がったぜ』ってね。『女が運転してやがってさ』それから『ちくしょうめ』で――」
アダムスは、船長の肘で肉付きのいい肋骨を強く小突かれて、びっくりして鼻を鳴らした。「長ったらしい話、いいかげんにしないか、サム」と船長が言った。力のない低い声が部屋中に鳴りひびいた。「おまえのようなのろまじゃ、船だって入港しやしないぞ?」
舵手アダムスは船長にたてついた。「なにもそんなに小突かなくたって――」
「これ、これ!」ブルーノの声は鋭かった。「止めないか。モホーク号の船長かね、君は?」
「そうです」背の高い顔色の蒼ざめた男が低い声で言った。「船長のサッターです。二十一年間、河で働いてます」
「この――二人が話している間、君は操舵室にいたのかね」
「霧の夜はそうしなくてはならないので」
「このウッドという男がアダムスに声をかけているのを見たかね?」
「見ましたよ」
「確かに十時四十五分の船だったかね?」
「そりゃあもう」
「アダムスと話した後、でまたウッドの姿を見たかね?」
「いいや。次に見たのは、河から引き上げられるところでした」
「ウッドに間違いなかったかね?」
「私の話はまだ終ってないんですよ」舵手のアダムスが不服そうな声で口を出した。「彼はほかにも言いましたよ。今晩はのんびりと乗っていられない――ジャージー側で人と会う約束があるって言ってましたっけ」
「それは確かか? サッター船長、彼はそう言ったんだね?」
「このおしゃべり野郎の言うことも今度はほんとうですよ。それから、あれはウッドでした――何百遍と会ってるんですからね」
「アダムス、彼は、今晩はのんびりと乗っていられないと言ったんだな。いつもだと船に長いこと乗っているのかね?」
「いつもって訳じゃないですが、気分がいいと、特に夏なんかは、往復してましたね」
「二人とも、もうこれでいい」
二人は帰ろうとしたが、ドルリー・レーンの強い声にすぐ足をとめた。ブルーノは顎を撫でていた。「ちょっと、ブルーノさん」レーンが愛想よく言った。「二人に質問してもいいですか?」
「構いませんとも。何でも、いつでもお好きな時にどうぞ、レーンさん」
「いや、ありがとう。アダムスさん――サッター船長」二人の船乗りは口をぽかんと開けてレーンを見つめていた――ケープを、黒い帽子を、おそろしいステッキを。「お二人のうちどちらか、ウッドが話しをしてから上甲板を去るのを見ましたか?」
「ええ、見ましたとも」アダムスが即座に答えた。「信号が見えたので、船を出そうとした時です。ウッドは私たちに手を振って、乗客用上甲板の屋根の下に戻って行きましたよ」
「そのとおりです」サッター船長が大声で言った。
「夜、操舵室からは、部屋に明りがついている時でも、上甲板は正確に言ってどのへんまで見えるものですか?」
サッター船長はまた痰壺に唾を吐いた。「あまりよく見えませんよ。乗客用上甲板の屋根の下なんかまるで見えません。夜で霧がかかっていたりすると、操舵室の明りの届かないところなんぞ、海のもくずみたいに真暗です。操舵室は扇形に造られてますからね」
「すると十時四十五分から十一時四十分までは、上甲板には人影らしいものは何も見えなかったし、聞こえなかったのですね?」
「ちょっと待ってくださいよ」船長が不平を言った。「霧の夜に船で河を渡ったことはないんですか? 水路から眼を離すことなんぞできないじゃないですか」
「ありがとう」ドルリー・レーンは引き下がった。ブルーノは眉をひそめて、首を一振りして船乗りを放免した。
ブルーノは待合室のベンチに飛び上がって、叫んだ。「上甲板から人が落ちるのを見た人はみんな、前に出てください!」
六人が動揺し、互いに顔を見合わせ、それからおずおずと歩いて、気負いこんでいるブルーノの前に出て来た。みんな、まるでリハーサルをするみたいに、一斉にしゃべり出した。
「一人ずつ、一人ずつ」ブルーノはベンチを飛び降りながら大声でどなった。彼は出っ腹の、ブロンド髪の、でぶの小男に眼をつけた。「君――君の名前は?」
「オーガスト・ハブマイヤーです」小男はおずおず答えた。丸い牧師の被るような帽子に、紐のような黒いネクタイをしめ、服はよれよれで汚れていた。「印刷工で――仕事が終って帰るところです」
「印刷工で勤めの帰りか」ブルーノは踵で身体を揺すった。「ところでハブマイヤー君、渡し船が着く時に、上甲板から人が落ちるのを見たのかね?」
「そうです」
「その時、君はどこにいたね?」
「船のあの部屋――船室です、そこに、窓ぎわのベンチに坐ってました」このドイツ人はこう言って厚い唇をなめた。「ちょうど船が桟橋に入って、あの――あの大きな棒の間に……」
「杭?」
「そう、杭です。ちょうどその時です、何だか大きくて黒いものが――ちらっと顔が見えたような気がするんですが、暗かったので――二階のどこかから、反対側の窓の外に落ちて来ました。そして――ものすごい音を立てて……」ハブマイヤーは震える上唇から汗の玉を拭《ぬぐ》った。「あんまり突然のことだったので――」
「それで、君が見たのはそれだけか?」
「そうです。私は『人が落ちたぞ!』と叫びました。みんなも一斉に声をあげたんで、他の人も見たんですね……」
「それだけで結構、ハブマイヤー君」小男はほっとして引き下がった。「みなさんが見たのもこれと同じですか?」
一斉に同意の返事をした。
「他に別のものを見た人は――顔を見た人は?」
返答がなかった。ただ不安そうに互いに顔を見合わせていた。
「よし、ジョーナス! この人たちの名前と職業と住所を書き留めておいてくれ」刑事が一同の中に割って入り、集っている六人の乗船者にせわしく訊いて廻った。ハブマイヤーがまず答え、住所を言い終ると、逃げるようにして群衆の中に戻った。二番目はうす汚れた小柄のイタリア人で、黒く光った服に、黒い制帽を被った、ギゼッペ・サルバトーレという船の靴磨きだった。彼の言うには、窓に向って客の靴を磨いている時だった。三番目は着古した服を引きずった小柄のアイルランド人の老婆で、マーサ・ウィルソンと言い、タイムズ・スクェアにあるビルの掃除婦をしていて、仕事から帰るところだと言った。彼女はハブマイヤーの隣りに坐っていて、同じものを見たと言った。四番目は派手なチェックの服を着た大柄の小ざっぱりした装いの男で、ヘンリー・ニクソンと言い――安物の宝石類を扱う行商人で、船室から出ようとした時に、人が窓の外に落ちてぶつかった、と言った。最後の二人はメイ・コーヘン、ルース・トビアスという若いオフィス・ガールで、ブロードウェイで『すてきなショーを見て』ニュージャージーのわが家に帰るところだと言った。ハブマイヤーとウィルソン夫人の近くの席にいて立ちあがりかけた時、人が落ちたと言う。
六人のうち誰も船で車掌の制服を着た男――それどころか、赤い髪の男――を見かけなかった、ことが分かった。みんな十一時三十分にニューヨーク側からこの船に乗ったと云い張り、みんな上甲板に上がったことを否定した。ウィルソン夫人は絶対に上がらない――乗船時間が短いのだから――と証言し、さらに天候が『あんなに悪かったのだから』と言った。
ブルーノは六人を他の乗船客のところに戻し、つづいて他の客に簡単な訊問をしてみた。何も出てこなかった。赤髪の車掌を見た者も、上甲板に行ったものもいなかった。みんな十一時三十分にニューヨーク側から乗り、誰も往復していないと証言した。
* * *
ブルーノ、レーン、デウィットが二階に上がって、ふたたび駅長室に入ると、サム警部が部下に囲まれて、椅子に坐り、チャールズ・ウッドの惨死体をまじまじと見つめていた。三人が入って来るとサムは立ち上がり、デウィットを見据えて話しかけようと口を開いたが、また口をつぐんで、両手をしっかりと後に組んで、ころがっている死体の前を往ったり来たりし出した。
「ブルーノさん」彼は小声で言った。「あなたに話したいことがあるんですよ」地方検事の鼻がうごいた。彼はサム警部のそばに歩み寄り、二人はひそひそと話し合っていた。時々ブルーノがデウィットの顔をうかがっていたが、やがて強くうなずくと、ゆっくりと歩いて机にもたれた。
サム警部がいかめしく足を踏みならし、無骨な顔をひどくしかめて、デウィットに言い寄った。「デウィットさん、あなたは今夜何時にモホーク号に乗りましたか? 何時の船に乗りました?」
デウィットはやせた身体を緊張させた。濃い口髭がきっとなった。「お答えする前に伺いたいのですが、サム警部、あなたはどんな権限があって、私の行動を追求なさるのです?」
「われわれにあまり面倒をかけさせないでくださいよ、デウィットさん」地方検事が妙な語調で言った。
デウィットは眼ばたきした。彼の眼はドルリー・レーンの顔を探った。しかし老優は激励の色も、非難の色も示さなかった。肩をすくめてデウィットはふたたびサムに向った。「よろしいでしょう、十一時三十分の船に乗りました」
「十一時三十分? そんなに遅くお帰りとは、どうしたわけですか?」
「今夜は、下町にある取引所クラブにいました。船でお会いした時、そのことは話しましたでしょう」
「聞きました、聞きました」サム警部は煙草を口にくわえた。「船に乗っていた十分間に、モホーク号の上甲板に行きましたか?」
デウィットは唇をかんだ。「また嫌疑ですか? 行きませんよ」
「船で車掌のチャールズ・ウッドに会いましたか?」
「会いません」
「会ったとしたら、ウッドだとわかりますか?」
「わかると思います。横断線でよく見かけていますし、ロングストリート事件の訊問ではっきりやきついていますから。しかし今夜は確かに見ませんでしたね」
サム警部は紙マッチを取り出し、その一つをちぎり取って擦り、ゆっくりと煙草に火をつけた。「電車でしょっちゅう顔を合わせているなら、彼に話しかけたことはありますか?」
「警部さん」デウィットはおもしろそうな顔をした。
「話したことがあるのかないのか、どっちです?」
「むろん話したことはありません」
「では顔を知っているが、話したことはない、今夜は見なかった、というのですな……いいでしょう、デウィットさん。私がさっき船に入って行った時、あなたはちょうど降りようとしてましたね。事件が起きたのはちゃんと知っていて、あなたは船にとどまって、何が起こったのか知る気はなかったのですか?」
デウィットの唇からは微笑が消えていた。表情はこわばり、詰問をうけていた。「私は疲れてましたから、早く家に帰りたかったのです」
「疲れていて早く家に帰りたかった」サムがいまいましそうに言った。「なーるほど……デウィットさん、煙草は吸いますか?」
デウィットは目を見はった。「煙草?」怒ったように訊き返した。そして地方検事の方を向いた。「ブルーノさん」彼は叫んだ。「まるで子供だましです。私はこんな意味のない質問にも答えなければならないんですか?」
ブルーノは冷やかに言った。「質問に答えてください」デウィットはドルリー・レーンの顔を見たが、ふたたび力なくあたりを見廻した。
「吸います」彼はゆっくり答えた――疲労したまぶたの下に恐怖の色が忍んでいた。――「吸います」
「巻煙草ですか?」
「いいえ、葉巻です」
「いまお持ちですか?」
無言のまま、デウィットは上着の胸ポケットに手を入れ、金色のイニシアルのついた立派な革の葉巻ケースを取り出すと、警部にそれを渡した。サムは蓋を取って、ケースに入っている三本のうち一本を取り出し、丹念に調べた。葉巻の金箔の帯にJ・O・dewと頭文字がついていた。「あなた専用のですね、デウィットさん?」
「そうです。ハバナのウェンガスで特別に作らせています」
「帯もですか?」
「むろんです」
「ウェンガスで帯をつけているんですか?」サム警部がしつこく訊いた。
「くだらない」デウィットがはっきり言った。「こんなつまらない質問をしてどうするのですか? 警部さん、あなたは何か陰険で馬鹿げたことを考えてますね。そうですよ、ウェンガスで葉巻に帯をつけ、箱につめ、船で送ってよこして……それがどうしたというんです?」
それには答えず、サム警部は葉巻をケースに戻し、自分の深いポケットにしまいこんだ。デウィットはこの非道な独占に顔を曇らせたが、小柄の身体を挑戦的にひきしめて、黙っていた。
「もう一つ質問させてください」警部はこれ以上愛想のいい言い方はないほどの調子で言った。「これまでに車掌のウッドにこの葉巻をやったことはありませんか――電車か、あるいはどこか別のところで?」
「ははあ――」デウィットが落ちついて言った。「やっと分かりました」誰も口を出さなかった。サム警部は火の消えた巻煙草を口にくわえたまま、虎のような眼で、この仲買人を見つめていた。「とうとう王手ときましたね、え、警部?なかなかうまいものですな。いいえ、車掌ウッドには葉巻など一本もやりませんでしたよ、電車ででも、よそででも」
「これはおもしろい、デウィットさん」サムが得意そうに笑った。「あなたの特製のイニシアル入りの葉巻が一本、死体のチョッキのポケットから出て来たんですよ」
デウィットは、この言葉を予想していたように、苦々しくうなずいた。口を開いてまた閉じ、また開けてものうく言葉を吐いた。「すると私は、この男の殺害犯人として逮捕されるのですか?」それから彼は笑った。――老人特有の断続的な、訳のわからない高笑いだった。「私は夢でも見ているのか? 私の葉巻を死人が持っていたなんて!」彼はそばの椅子に腰を落した。
ブルーノがかたくるしく言った。「誰も逮捕するとは言ってませんよ、デウィットさん……」
この時、警察署長の制服を着た一人の男に連れられて、一団の人が入口に現われた。ブルーノ検事は言葉を切って、署長と眼で合図した。署長はうなずくと出て行った。
「さ、中に入ってください」サムが愛想よく言った。
新来者がおずおずと部屋に入って来た。一人はパトリック・ギネスというアイルランド人の運転手で、ロングストリートが殺された電車の運転手。二番目はみすぼらしい服装のやせた老人で、|ひさし《ヽヽヽ》のある帽子を被り、ニューヨーク側の渡船員、ピーター・ヒックスと名のった。三番目は陽やけした電車の監督で、四十二番街のはずれにある渡船場の近くで、横断線電鉄の終点の駅にいるものだと言った。
彼らの背後に数人の刑事の姿があり、中にピーボディ部長刑事がいた。ダフィー巡査部長の幅広い肩がピーボディの後に見えた。みんなの眼は本能的に、担架の上の死体に集っていた。
ギネスは一度だけウッドの遺骸に目をやり、けいれん的に唾を呑みこんで、怯えた眼をそらした。気分が悪くなったらしかった。
「ギネスさん、この男を正式にウッドだと認めますか?」ブルーノが尋ねた。
ギネスは口ごもった。「髪の毛を見たら……チャールズ・ウッドにちがいないです」
「確かですね?」
ギネスは震える指で死体の左脚を指さした。ズボンが船の横腹と杭に挾まれてひきちぎれ、靴と靴下を除いて、左脚がむき出しになっていた。脛の長い傷の一部が見え、黒い靴下に一部がかくれていた。傷はねじれて――その妙な傷あとが土色になっていた。
「あの傷は」ギネスが粗い声で言った。「何度も見ました。電鉄に初めて入って来た時に、チャールズが私に見せたんです、二人とも横断線勤務になる前でしたが。ずっと前に事故にあったのだと言ってました」
サムが傷から靴下をはがした。ぞっとするような傷がさらけ出された。傷はくるぶしのすぐ上からちょうど膝の下までのび、いく分か腓を廻っていた。「あんたの見た傷に間違いないですか?」サム警部が尋ねた。
「その傷に間違いありません」ギネスがかすかに言った。
「オーケー、ギネス」サムが立ち上がって膝をはたいた。「こんどはあんただ、ヒックスさん。今夜ウッドの行動について何か言うことはないですか?」
やせた老船員はうなずいた。「そうですとも、チャールズはよく知ってます――ほとんど毎晩船に乗りました。たいてい私のところへ来て声をかけてくれましてね。今夜は十時半ごろです、チャールズは船着場に入り、いつものように私たちは話しだしました。何か落ちつかない様子でしたよ、今思えばそんな気がします。しゃべったのはちょっとの間でしたがね」
「十時半という時間は確かだね?」
「確かです。船は時間どおり出さなくちゃなりませんからね――予定どおりに」
「何の話をしたのかね?」
「さあ」こう言ってヒックスは皮のような唇をならした。「何をしゃべったか。鞄を持っていたので、また前の晩に街に行って来たのかと尋ねると――チャールズは時々ニューヨークに泊るんで、きれいな服を持ち歩いているんですよ――ちがうと言いました。今日、休みの時間にセコハンで買ったんだと言いましたっけ。古い鞄の柄がこわれていて――」
「どんなカバンだったかね?」サムが訊いた。
「どんな鞄か?」ヒックスは唇をすぼめた。「ふつうのですよ、一ドル出せばどこででも買える、安っぽい黒い鞄ですよ。四角くて」
サムがピーボディ部長刑事を手招きした。「下の待合室の乗船客の中に、ヒックスの言ったような鞄を持っている者があるか調べてみてくれ。モホーク号も調べてみてくれ。上甲板、操舵室、すっかりたのむ、上から下まで。それから船にいる警官に河の中を調べさせろ――投げこんだかも、落ちたかもしれないからな」
ピーボディが出て行った。サムはふたたびヒックスに向き直った。話そうとすると、ドルリー・レーンがおだやかに言った。「警部さん、ちょっと……ヒックスさん、あなたとおしゃべりをしている時、ひょっとしてウッドは葉巻を吸いませんでしたか?」
ヒックスは、この不思議な質問者を見て、眼をまるくした。しかし彼はすぐに答えた。「そのとおりですよ。実を言うと、私はチャールズに一本ねだりました。クレモのようだったので。とにかくポケットを探って――」
「チョッキのポケットもでしょうね?」レーンが言った。
「そう、チョッキのポケットもみんな探って、『これで終りらしいよ、ピート、これが最後の一本だ』」
「いい質問ですな、レーンさん」サムがしぶしぶながら言った。「クレモだったんだね、ヒックス君、その他には持っていなかったね?」
ヒックスは訴えるような調子で言った。「この方にお話したとおりですよ……」
デウィットは下をうつむいたままだった。まるで化石したように椅子に坐っていた。その眼つきからみると、これまでの会話のやりとりを聞いているのかどうか疑わしかった。眼は光って血走っていた。
「ギネス君」サムが言った。「ウッドは今夜仕事が終った時、鞄を持っていたかね?」
「ええ、持ってました」ギネスはかすかな声で言った。「ヒックスの言ったとおりですよ。夜の十時半に仕事が終ったんですが、鞄はずっと車の中に置いてありました」
「ウッドはどこに住んでるか知ってるかね?」
「このウィーホーケンのアパートで――二〇七五番地です」
「親戚関係は?」
「ないと思いますよ。少なくとも結婚はしてません。親戚関係のことでは今までに一言も言ってないような気がします」
「もう一つあるんですが」船乗りのヒックスが口を插んだ。「チャールズと話をしていた時、チャールズが突然、一人の小柄の男を指さしましたっけ。その男は暖かくくるまって電車から降りると、こそこそと出札口に行き、渡船乗車券を買い、それを箱に落すと、待合室に入って、誰にも見られたくないような様子で船を待っていました。チャールズは、あの小男は仲買人のジョン・デウィットで、チャールズの車で起きた殺害事件に関係のあるやつだ、と教えてくれましたよ」
「なにッ!」サムが声をはりあげた。「で、君の言うのは十時半ごろのことか?」彼はデウィットをにらみつけた。デウィットは立ち上がっていたが、坐って前屈みになり、手で椅子の肘を握っていた。「それで、ヒックス、それから!」
「それから」ヒックスは腹立たしげに言葉をのばした。「チャールズはデウィットを見ると変にそわそわして……」
「デウィットはウッドを見たか?」
「見なかったでしょうよ。ずっと隅っこに一人でへばりついてましたから」
「その他には?」
「ちょうど十時四十分に船が入って来ましたから、私は出て行かなくちゃなんなかったです。デウィットが入口から入るのを見ました。チャールズも挨拶して入って行きました」
「ところで、その時刻に間違いないか――船は十時四十五分に出たんだね?」
「くどいね!」ヒックスは吐きすてるように言った。「何べん言わせるんです?」
「ちょっとどいてくれ、ヒックス」サムは船乗りを脇に押しやって、いらいらと上着の織り目をつまんでいる仲買人をにらみつけた。「デウィットさん! 顔をあげたまえ」デウィットはゆっくり顔をあげた。その眼は哀れっぽく、警部も驚いたくらいだった。「ヒックス君、ウッドが指さしたのはこの男かね?」
ヒックスは首を伸ばして、デウィットの顔をじろじろのぞきこんだ。「そうです」彼は答えた。「そうですとも、この男です、誓って言いますよ」
「よし、ヒックス、ギネス、それからこの――電車の監督だったな? 今はもういい――下へ行って待っててくれ」三人は不服そうに部屋を出た。ドルリー・レーンはいつの間にか腰を下ろし、ステッキによりかかって、悲しげな眼つきで、この仲買人のきちんとした身なりを見つめていた。その澄んだ眼の奥には、かすかな戸惑いが――判断に苦しむ、疑惑があった。
「さあ、ジョン・オウ・デウィットさん」サム警部が小男の前に立ちはだかって、大声で言った。「あなたが十時四十五分の船に乗るのを見た者がある、ところがあなたはさっき十一時三十分の船に乗ったと言われた。どう説明しますか、これを」
ブルーノ検事がちょっと身体を動かした。顔はきびしかった。「お答えになる前に、デウィットさん、職務としてご忠告申し上げますが、うかつなことをおっしゃると、あなたの不利になるかもしれませんよ。ここで一言一句速記している者がいますから。答えたくなかったら答える必要はありません」
デウィットは固くなって唾をのみこみ、細い指をカラーの下に動かせて、ぎごちなく笑ってみせようとした。「悲しい結果になりました」デウィットは身体を起こしてつぶやいた。「真実をもて遊んで……実は嘘をついたのです。私は十時四十五分の船に乗りました」
「分かったか、ジョーナス?」サムが叫んだ。「なぜ嘘をついたのです、デウィットさん?」
「それは」デウィットが落ちついて言った。「お答えできません。十時四十五分の船で人と会う約束がありました。しかしまったく個人的なことでして、この怖ろしい事件とは何の関係もないのです」
「しかし十時四十五分の船で人と会う約束があって、なんだってまた十一時四十分まで船でうろついていたんです?」
「どうか」デウィットが言った。「言葉を慎しんでください、警部さん。こんなふうに話されるのに慣れていないものですから。それでも通されるのなら、もう一言も話しません」
サムはどなろうとしたが、押し殺した。ブルーノの視線を捕えたからである。彼は深く息をし、挑戦的な調子をやや下げて先をつづけた。
「わかりました。で、お答えは?」
「それなら結構です」デウィットが言った、「約束の時間に待ち人が来なかったからです。遅れたのだろうと思って、さらに二往復して船に残っていました。十一時四十分に、私はあきらめて、家へ戻ることに決めたのです」
サムが忍び笑いした。「そんなことをわれわれが信じると思うんですか? 待ち人とは誰です?」
「申せません」
ブルーノはデウィットに指をつきつけた。「デウィットさん、あなたは微妙な立場にご自分を置いているのですよ。あなたの話は根拠がきわめてうすい――特別の裏付けがないかぎり、とてもわれわれは納得できませんな」
デウィットは唇をかみ、細い腕を胸に組んで、壁を見つめた。
「ですから」警部が理屈っぽく言った。「約束をした時の模様なら話せるでしょう。何か証拠になることを――手紙とか、話を聞いていた証人とか?」
「約束は今朝電話でしたのです」
「水曜の朝というわけですな?」
「そうです」
「相手がかけて来たのですか?」
「そうです、ウォール街の事務所にかけてきました。うちの交換台は外からの電話は記録に取らないことになっています」
「かけてきた相手をあなたは知っているのですね?」
デウィットは黙っていた。
「それから」サムは喰い下った。「こそこそ船を降りようとした理由は、待ちくたびれて、ウェスト・エングルウッドに帰ろうとしたから、とただそれだけですか?」
「たぶん」デウィットがつぶやいた。「信じてはもらえないでしょうね」
サムの頸に青筋が立った。「だれが信用するものか!」
サムはブルーノの腕を粗々しく掴んで、片隅に連れて行った。二人は昂奮してささやき合っていた。
ドルリー・レーンは吐息をつき、眼を閉じた。
* * *
この時、ピーボディ部長刑事が六人の客を従えて待合室から戻って来た。刑事たちが安っぽい黒い鞄を五つさげて、急ぎ足に駅長室に入って来た。
サムが早速ピーボディに尋ねた。「何だね?」
「探してこいと言われた鞄に似たものを持って来ました。それから」ピーボディがにやっとした。「この連中は鞄の持主で、心配してます」
「モホーク号はどうだ?」
「鞄は見つかりませんでした。警察艇が河を捜査してますが、今までのところ、これも見つかっていないようです」
サムは入口に歩いて、どなった。「ヒックスさん! ギネスさん! こちらへ来てくれたまえ!」
船乗りと運転手が二階にかけ上がって、おじけた様子で部屋に入って来た。
「ヒックスさん、ここにある鞄の中に、ウッドのものがありますか?」
ヒックスは床の鞄を眺めた。「どうもみんな似たりよったりで、わかりませんよ」
「あんたはどう思う、ギネスさん?」
「区別しにくいですね。どれも同じようで」
「よし、帰ってください」二人が去った。サムは頑丈な尻を出してしゃがみこみ、鞄の一つを開いた。年とった掃除婦のマーサ・ウィルソンが、ひどいことをすると言うように小さな声をあげ、鼻をすすり出した。サムは丸めた汚い作業衣、弁当箱、紙表紙の小説本をひっぱり出した。うんざりして彼は次の鞄を手に取った。行商人ヘンリー・ニクソンが怒って抗議を始めた。サムは威圧的な顔をして彼を黙らせ、鞄の口を開いた。数枚のボール紙や布を張った台に、安物の宝石や装身具が並び、別に、この男の名前の印刷した注文用紙が一束入っていた。サムはこの鞄を脇にやると、次のに手をつけた。汚れた古いズボンと道具が出て来た。サムは顔を上げて、心配そうに見つめているモホーク号の舵手サム・アダムスを見た。「君のか?」「そうです」警部は他の二つの鞄も開いた。一つは巨体の黒人のドック作業員エライアス・ジョーンズのもので、着換えと弁当箱が入っていた。他の一つからは、赤ん坊のおむつ三枚、半分のみさしの哺乳ビン、安本、安全ピン一箱、小さな毛布が出て来た。これは若夫婦トマス・コーコランの持物であった。男は腕に、眠そうな、気むずかしい顔をした赤ん坊を抱いていた。サムが唸った。赤ん坊は一瞬きょとんとしていたが、父親の腕の中でもがくと、その肩に小さな顔を埋めて、大声で泣き出した。火がついたような泣き声が駅長室にひびいた。刑事が一人クスクス笑った。サムは仕方なく苦笑すると、六人の客に鞄を持たせてひきとらせた。ドルリー・レーンは、誰かが死体の上に空の袋を数枚急いでひろげたのを、おもしろそうに観察していた。
警部は部下の一人に言いつけて、ギネス運転手、電車の監督、船乗りピーター・ヒックスを釈放した。
一人の警官が入って来て、ピーボディ部長刑事に何か告げた。ピーボディがどなった。「サム警部、河には何もないそうです」
「そうか、ウッドの鞄は投げられて、沈んでしまったんだろう。ピーボディにも見つかるまい」サムがつぶやいた。
ダフィー部長が息を切らして二階に上って来た。赤くなった拳に一束のメモをつかんでいた。「下の連中の名前と住所です」
ブルーノが急いでやって来て、サムの肩ごしに乗船者のリストをのぞきこんだ。ブルーノもサムも何かを求めている様子だった。一枚一枚調べて行った。しばらくして二人は、どうだとばかりに眼を見合わせた。地方検事の唇がきりっとなった。
「デウィットさん」きっぱりした口調だった。「ロングストリートが殺された電車に乗っていた人の中で、今夜この船に乗っていたのは、あなただけです。おもしろいじゃありませんか?」
デウィットは目をしばたたいて、ぼんやりブルーノの顔を眺め、ちょっと身震いして頭を垂れた。
「ブルーノさん」ドルリー・レーンの冷やかな声が沈黙を破った。「それは本当かもしれませんが、その証明はできないでしょう」
「どうして? なぜです?」サムが大声をあげた。ブルーノが顔をしかめた。
「警部さん」レーンがしずかに言った。「騒ぎが起こって、あなたと私が船に近づいた時、乗客が大勢モホーク号から降りていたことはご存じのはずです。それを計算に入れてますか?」
サムが上唇をとがらせた。「そんなことぐらい追求できますよ」彼はいばり散らした。「調べますとも」
ドルリー・レーンは微笑した。「合法的に裏づけられるくらいの自信があるのですか? これで乗客全部だと、どうやってわかるのです?」
ブルーノはサムに耳うちした。デウィットがふたたび哀れにも感謝の眼で、ドルリー・レーンを見た。サムは大きな身体をゆすってダフィー部長に大声で命令し、部長は出て行った。
サムがデウィットを指で呼んだ。「私と一緒に下に来てください」
仲買人は黙って立ち上がり、警部の先に立って部屋を出た。
三分後、二人は戻った。デウィットはやはり黙りこくり、サムは不機嫌に見えた。「だめでした」彼はブルーノにささやいた。「乗客は誰もデウィットの決定的な行動を覚えていません。一人だけ、デウィットが隅っこでしばらくぼんやりしていたのを覚えていたようでしたが、デウィットは電話の約束でなるべく人目につかないようにしていたというのです。畜生!」
「しかし、それはこっちには有利じゃないか、サム」ブルーノが言った。「上甲板から死体が投げ込まれた時のアリバイが、彼にはないわけだ」
「誰か、デウィットが上甲板の階段を降りて来るのを見たと証言するものがいればいいんだが。彼をどうします?」
ブルーノは頭をふった。「今夜は釈放しよう。彼は大物だから、起訴する前に充分確かめておきたい。二人ほど彼につけておけ。逃げることはあるまいがね」
「はあ」警部はデウィットの方に歩んで、眼をねめつけた。「今夜はこれで終りだ、デウィットさん。帰って結構です。しかし地方検事とは連絡をつけてください」
一言もなくジョン・デウィットは立ち上がり、機械的に上着をなおし、白髪の頭にフェルト帽を被り、あたりを見廻してホッと吐息をついた、それから駅長室を重い足どりで出て行った。サムはすぐに人差指で合図し、刑事が二人、仲買人の後を急いだ。
ブルーノはトップコートを着た。駅長室は煙草をふかす人間の話し声でざわめいた。サムは死体のそばに立ち、屈んで、潰《つぶ》れた顔の上の袋を持ち上げた。「馬鹿だな、おまえは」とつぶやいた。「あんなおかしな手紙を書くなら、いっそのことロングストリート殺しの犯人はXだと書いておけばいいんだ……」
ブルーノが向うから歩いて来て、サムの盛り上がった肩に手をかけた。「さあ、警部、頭は大丈夫か? 上甲板の写真は撮ったか?」
「部下が今やってます。何だ、ダフィー?」この時、部長が息を切って部屋に入って来た。
ダフィーが大きな頭をふった。「逃げた乗客はまるでわかりません。人数さえつかめないのです」
長い間、誰も何も言わなかった。
「まったくいまいましい事件だ!」サムがどなり、沈黙の中にその声がなりひびいた。怒り狂った犬が自分の尻尾を追ってるように、警部はくるッと廻った。「私は部下を連れてウッドのアパートに行きますが、ブルーノさん、あなたは帰りますか?」
「そうするかな。シリングが検屍をうまくやってくれるといいが。私はレーンさんと一緒に帰ろう」彼は振り返って帽子を被り、レーンが坐っていた場所を見た。
驚きが顔中にひろがった。
ドルリー・レーンはいなかった。
第四場 サム警部の室
――九月十日(木曜日)午前十時十五分
警察本部のサム警部の部屋の椅子に、大男がもじもじしていた。雑誌をいじったり、爪を切ったり、葉巻を噛みちぎったり、窓から単調な陰気な空を眺めていた――ドアが開くと彼は立ち上がった。
サム警部の陰気な顔は、外の天気のように暗かった。大股に歩いて入り、帽子と上着を洋服かけに投げつけ、ぶつぶつ独言を言って、机のうしろの回転椅子にどっかと腰をかけた。眼の前に足を引きずって来た大男には、目もくれなかった。
警部は郵便物を開き、警察内部の通話器に命令を下し、手紙を二通、男の秘書に口述し、それからやっと眼の前の不安げな刑事にけわしい眼を向けた。
「モッシャー、何と言い訳をするつもりだ? 一日が終らないうちにもう一度手を打つ気か?」
モッシャーはまごまごした。「これから――全部説明します。私は――私は……」
「早く話せ、モッシャー。自分の仕事のことだぞ」
大男の刑事は息をのんだ。「昨日はまる一日、命令通りに、デウィットを尾行しました。夜はずっと下町の取引所クラブに張り込みました。十時十分にデウィットが出て来てタクシーに乗り、運転手に渡船場までと命じました。私は別のタクシーを拾って、彼のあとをつけました。第八アヴェニューの四十二番街にさしかかった時、運転手が雑沓の中に突っ込み、他の車と車輪をぶっつけてしまい、面倒なことになりました。私は飛び降りて他のタクシーを拾い、ものすごい勢いで四十二番街を突っ走りましたが、デウィットの車は混雑の中に姿を消してしまったのです。彼が渡船場に行くことは知ってましたから、そのまま四十二番街を下って、渡し場に着きましたが、船は出た後でした。次の船までは二、三分待たなければなりませんでしたが、ウィーホーケンに着いてから急いで西岸線の待合室に行きました。デウィットの姿が見えません。時刻表を見て、ウェスト・エングルウッド行きの普通列車が今出たばかりだと分かったのです。真夜中すぎまで次の列車はありません。何が考えられたでしょう? 私は、デウィットが、あのウェスト・エングルウッド行きの列車に乗ったものと確信しました。そこで車に飛び乗り、ウェスト・エングルウッドに飛ばしました……」
「災難だったな」サム警部が認めた。憤激はもう消えていた。「それでどうした」
刑事はホッとして長い吐息をついた。「それで列車を追い越して、列車の到着を待ちました。デウィットが乗っていると思ったんです。だめでした。どうしようか迷いました――私の見落しか、衝突事故で、ぐずぐずしてる間にまかれたのかもしれないと考えたのです。で、部長に報告しようと本部に電話しましたら、階下のキングが出て、警部は事件に出て留守だ、そこで見張っていろ、と言われたので、私はデウィットの家に行って、外で張り込んでいました。デウィットは真夜中過ぎても帰って来ません――午前三時ごろだったと思います、車で帰って来ました。それからグリーンバーグとオハラムが尾行して来て、渡船上の殺人事件その他のことを聞いたのです」
「よし、引き下がって、グリーンバーグとオハラムから引きつぎを受けたまえ」
モッシャー刑事が急ぎ引き取ってから間もなく、ブルーノ地方検事がサムの部屋にのっそり入って来た。顔には困惑の筋が見えた。
彼はかたい椅子に腰をおとした。「昨夜の首尾は?」
「あなたが駅を引き上げた後すぐに、ハドソン地区のレンネルズ地方検事が来て、彼の部下の者と一緒にアパートへ行ってみましたが、手がかりはありませんでした。くだらないものばかりで、筆蹟の材料になるものは少し出ましたが。投書とウッドの筆蹟はフリックが当っていますが、会いましたか?」
「今朝会ったよ。投書は他の筆蹟と同じものに間違いないそうだ。ウッドが投書の主に相違ないことになった」
「ウッドの部屋で発見したものも、自分の眼で見る限り、やはり同じものでした。これです――追加資料としてフリックに渡してやってください。レーンも喜びますよ――あの老いぼれが!」
サム警部が机ごしに長い封筒を投げた。ブルーノがそれを紙入れにしまった。
「それから」サムがつづけた。「インク壺と用紙もありました」
「筆蹟は一致したんだから、もう大して問題ではない」地方検事がものうく言った。「インクと用紙はとにかく調べさせたが、どれも同じだ」
「よかった」サムの手が机の書類の束をぱらぱらめくった。「今朝は別の報告が来てます。一つはマイケル・コリンズのことです。刑事が|かま《ヽヽ》をかけて、土曜以後にデウィットに密かに逢ってるのを知ってるぞと言ってやると、コリンズは相変らず手に負えないやつですが、デウィットに逢ったことを認めたそうです。それからロングストリートにそそのかされて、失くした金の決着をつけようと、デウィットの後を追ったことまで話しました。デウィットは冷やかにあしらったそうですが、――このことでは、あのじいさんは責められませんよ」
「今朝はデウィットへの風当りがかわったな?」ブルーノが歎息した。
「とんでもない!」サムがどなった。「もう一つあります。部下の一人が、デウィットが土曜以後二度、チャールズ・ウッドの電車に乗ったことを突きとめました。モッシャーという刑事です――昨夜デウィットを尾行し、ぼやぼやして車を衝突させた時に見失ったそうです」
「おもしろい。しかしある意味ではまずかったな。そのモッシャーが、一晩中デウィットから眼を離さなかったら、事態は変っていたかもしれない。殺人の現場を見たかもしれないからな」
「そう、が今は、土曜以後にデウィットが二度もウッドの電車に乗ったという報告の方が、私には興味があります」サムが唸った。「ウッドは、どうやってロングストリートを殺した犯人を知ったと思いますか? 殺害のあった夜は確かに知らなかった。知っていたら何か言ってるはずですからね。ブルーノ検事、この二度乗ったというのが重要ですよ!」
「すると」ブルーノが考えこんで言った。「ウッドは誰かから聞いたのかもしれない……そうか! モッシャーはデウィットが誰かと一緒だったと言わなかったか?」
「そううまく行けばいいんですが。彼はひとりでした」
「では、デウィットが何かを落してウッドがそれを見つけたか。サム、これは調べる値うちがあるぞ」ブルーノはうなだれた。「ウッドもせっかく投書するなら、もっとおびえずに書いてくれればよかったのに……こぼれたミルクはどうにもならない、だ。何か他には?」
「報告を受けたのはそれだけです。ロングストリートの事務所の手紙について何か変ったことは?」
「ない、しかしちょっとおもしろいことを発見したぞ」地方検事が答えた。「ロングストリートには遺書が全然ないんだ!」
「でも、チェリー・ブラウンが何か――」
「そいつは、ロングストリートの例のでたらめらしいぞ。事務所、自宅、借りていたアパート、貴重品保管箱、クラブのロッカー、その他あらゆるところを探したが、遺言書らしいものは一つもなかった。ロングストリートの弁護士、あの三百代言のネグリだが、ロングストリートは遺言状を頼まなかったと言ってる。こんなわけだ」
「チェリーはごまかされたわけか? 他の女と同じように。彼に親戚は?」
「親戚はない。サム、ロングストリートの架空の財産をめぐって、面倒が起こるな」ブルーノが顔をしかめた。「財産なんか何もありゃしない、負債だけだ。唯一の資産と言えば、デウィット・ロングストリート仲買業の共有権だ。この権利をデウィットが買うとすれば、むろんこれが有形の財産になるわけだが……」
「入ってください、先生」
シリング医師は布製の帽子を頭の上にちょんとのせ――誰もが禿だろうと思っているが、まだ誰も実際に見たものはいない――サム警部の部屋に入って来た。眼の縁が赤くなって、丸いレンズの奥でしょぼしょぼしている目。汚ならしい象牙の爪揚子で歯をいじっている。
「おはよう。シリング先生徹夜でしたか、とは言ってくれないだろうな」検屍医は吐息をもらして、サムのかたい椅子に腰をかけた。「あのおかしなハドソン地区の死体収容所に着いたのが、今朝の四時なんだからな」
「検屍報告書はできてますか?」
シリング医師は胸のポケットから一枚の長い紙を取り出し、サムの前の机にぴしゃっと置き、椅子の背に頭をもたせると、すぐに眠ってしまった。まるまると太った無邪気な顔がゆるんだ。口を大きく開け、爪揚子がまだぶら下がっている。予告もなく彼はいびきをかき始めた。
サムとブルーノは、きれいに書かれた報告書に眼を走らせた。「何もありゃしない」サムがぶつぶつ言った。「なんだ、きまり文句じゃないか。先生!」彼がどなると、シリングの小さい丸い眼がやっと開いた。「ここは安宿じゃないですよ。眠りたけりゃ家へ帰ってください。事件の方は、あと二十四時間臨時休業にしておきますからね」
シリングはうなって立ち上がった。「そうしてくださるか」こう言ってドアの方によろよろと歩いて行った。そこでちょっと足をとめた。ドアが眼の前で開いていて、ドルリー・レーンが彼を見て微笑していた。シリング医師はきょとんとして、詫びを言い、脇に寄った。レーンが中に入り、検屍医は大きく欠伸をして出て行った。
サムとブルーノが立ち上がった。ブルーノが苦笑した。「どうぞ、レーンさん、どうぞ。昨夜は姿を消してしまわれて、どこへ行かれたんですか、一体?」
レーンは例のステッキを膝の間に挾み、椅子に腰をかけた。「ブルーノさん、私が俳優だからというので芝居を期待されたんですね。芝居を効果的に進行させる第一要素は、劇的退場ということです。不幸にして、私が消えたのは、下心があったわけではありません。必要なものは見てしまいましたから、ハムレット荘に引き上げるほか、何もすることがなかったのです……ところで警部さん、今朝はお天気が悪いですが、ご機嫌はいかがです?」
「まあまあ」サムが熱のない声で言った。「老優としては早起きですな? 役者なんてものは――おっと失礼、レーンさん――俳優は昼すぎにならないと起きないものと思っていましたよ」
「これはひどい、警部さん」ドルリー・レーンの澄んだ眼が輝やいた。「聖杯探しが流行らなくなってから、私は最も活躍している現役の一人ですよ。今朝は六時半に起床、朝食前に習慣になっている水泳を二マイルやり、いつもの旺盛な食欲を満たし、昨夜クェイシーが作ったお自慢の新しいかつらを合わせ、監督のクロポトキン、舞台装置のフリッツ・ホッフと打ち合わせ、たくさんの郵便物を楽しみ、一五八六年から七年までのシェークスピアに関係のある興味ある調べものをし――そして……ここに十時半にいるというわけです。ふつうの朝の日課としてはかなりなものでしょう?」
「なるほど、なるほど」サムが努めて愛想よく言った。「しかし、あなたのように引退された人には、現役の人間の持つ頭痛のたねがない。たとえば――ウッドを殺した犯人は誰か? しかしレーンさん、あなたの言われるXについては、もう何もうかがいませんよ――あなたはロングストリート殺しの犯人をもう知っておいでのようだから」
「サム警部!」俳優が口ごもった。「ブルータスの言葉で私に答えさせるのですか?『黙って聞いておきましょう。いずれ時が来たら耳にし、お答えするでしょう。その時まで、友よ、この言葉をかみしめておいてください』」レーンはくっくっと笑った。「ウッドの検屍報告はできましたか?」
サムはブルーノを見た。ブルーノがサムを見た。そして二人で笑った。いくらか機嫌がよくなっていた。警部はシリング医師の報告書をつまみ上げて、黙ってレーンに手渡した。
ドルリー・レーンはそれを眼に高くかざして、厳しゅくな面持ちで調べた。慎重に、ドイツ語の飾り文字でインクで書かれた、簡潔な報告書だった。読みながら時々眼を閉じて、明らかに考えこんでいた。
報告書によると、ウッドは船外に投げられた時は、意識を失っていたのであって、死んではいなかった。つまり、潰れていない頭部にはっきりと強打の跡があることから言える。意識を失っていたというのは、ウッドの肺に少量の水があったことから裏付けされる。したがって男は水に投げこまれた瞬間には生きていたことになる、とシリング医師は報告している。結論として、ウッドは鈍器で頭をなぐられ、意識を失ったところで河に投げこまれた。水に当った時はまだ生きていて、そのほんの直後に、モホーク号の船腹とゆるんだ杭にはさまれて圧死した、という。
さらに、肺のニコチンの痕跡は異常なものでなく、ふつうの喫煙者に認められるものである。左脚の傷は、少なくも二十年は経過したものと推定され、深く醜い傷痕であるところから、専門の治療は受けていない。血液中の少量の糖分は、被害者を糖尿病とするには不充分である。強い酒を常時飲んでいるためか、中毒症状がはっきり出ている。強壮な体躯の中年の男で、髪は赤く、指が不恰好、爪が不揃いなのは、手を使う仕事をしているためであろう。右手首に骨折のあとがあるが、きわめて古く、完全に癒着している。左臀部に生まれつきの小さなあざがある。二年前の盲腸の傷痕。肋骨にひびが入っているが、少なくも十一年経過しており、完全に癒着している。体重二百二十ポンド、身長六フィート半インチ。
ドルリー・レーンは報告書を調べ終ると、にっこりしてサム警部に返した。
「何かありましたか、レーンさん?」ブルーノが尋ねた。
「いや、シリング医師は細心の注意を払う人ですね」レーンが答えた。「立派な報告書です。あんなひどい死体からこれだけ調べあげるとは驚きました。ところで、ジョン・デウィットの嫌疑は、今朝はどんな具合ですか?」
「非常に興味がおありですか?」サムが受け流した。
「ええ、非常に興味がありますね」
「彼の昨日の行動には」ブルーノがこれが答えだといわんばかりに、すばやく言った。「ちゃんと尾行がつけてありますよ」
「何かかくしているのではないですか、ブルーノさん?」レーンはつぶやいて、立ち上がり、ケープを肩のあたりで整えた。「いや、そんなことはありますまい……。ありがとう、ロングストリートのいい写真、うけとりました。幕が下りる前に役に立つかもしれません」
「それは結構」サムがすぐに愛想よく言った。「レーンさん、お話しすべきことと思いますが、検事と私はデウィットを臭いとにらんでます」
「本当ですか?」レーンの灰緑色の眼が、サムと地方検事の間をさっと往復した。眼が曇った。それから彼はしっかりとステッキを握りなおした。「お二人のお仕事の邪魔はしません。私にも今日は予定がつまっていますから」彼はゆっくり部屋を横切って、ドアのところで振り返った。「しかし心からご忠告申しあげますが、この度はデウィットに関して特別の処置はおとりになりませんように。われわれは今危機に面しているのです。『われわれ』と申しましょう」彼は頭を下げて「くれぐれも私をお信じくださるよう」
レーンが静かにドアを閉めて去った時、二人は軽く頭をふった。
第五場 ハムレット荘
――九月十日(木曜日)午後十二時三十分
もしサム警部とブルーノ地方検事が、木曜の十二時三十分に、ハムレット荘にいたとしたら、彼らは自分たちの感覚を疑っただろう。
二人は形の変ったドルリー・レーンを見たであろう――半分だけがレーンで、眼と言葉つかいは正常のレーンのものだが、着ているものはいつものレーンとはこっけいなほどに違い、その顔は老クェイシーの巧妙な手さばきで、おどろくほど変形しつつあった。
ドルリー・レーンは固い、背の立った椅子に直立に坐り、正面の三面鏡に顔全面を、三方からの角度の顔を、横顔を、いろいろの角度からのうしろ姿を映していた。まぶしいほどの蒼白い電燈の光が、じかに顔を照らしていた。部屋の下にある明り窓は二つとも、黒ずんだおおいで完全に塞がれ、そのため外からの灰色の光りは、毛一すじといえどもこの部屋には入っては来なかった。せむしの老人が、革の前垂れを口紅や白粉《おしろい》で汚して、主人の前のベンチに膝をついていた。クェイシーの右側にある地のままのテーブルには、たくさんの顔料の壜、白粉、口紅の壺、調合皿、細い筆、いろんな色のかもじが束ねてあった。なお、ある男の顔写真もおいてあった。
二人は中世の活人画から脱け出た俳優のように、強い光を浴びて坐っていた。二人のいる部屋は十六世紀の錬金術師の実験室を思わせた。だだっぴろく、作業台やくずものが散らばっている。異様な、傾いた、古戸棚が開いていて、わけのわからないものが並んでいる。床には髪の毛が束になって散らばり、いろんな色のパテが積まれてあるのが、この老人の踵に踏みつけられている。電気ミシンのお化けのような妙な器械が隅に立っている。一方の壁には太い針金が吊ってあって、そこから少なくも五十種類はあると思える、大きさ、形、色のそれぞれ違ったかつらがぶら下がっている。一方の壁の隅には、一つずつ適当な場所に、石膏造りの実物大の頭部――黒人、モンゴル人、コーカサス人――がたくさん並んでいる。あるものには髪があり、禿もあり、平静の表情のものも、恐怖、喜び、驚き、悲しみ、苦しみ、あざけり、怒り、決意、愛、諦め、邪悪を表わしたものもある。
ドルリー・レーンの頭上の巨大なランプ一つを除いて外には、この実験室には明りがついてない。大小さまざまのランプが部屋のあちこちにあるが、今は明りがついていない。たった一つの大きな電燈が投げる奇怪な影は、ものすごい。レーンの身体は動かない。釣り合いのとれない大きな影も、壁に動かない。そのかわり、小さく屈んだクェイシーの姿が、ノミのようにはね廻り、その影が黒い水の流れのように、壁に、レーンの姿と合わさったり離れたりしている。
すべてが奇怪で、邪悪で、どこか芝居がかっている。隅で湯気を立てている蓋の開いた大おけも、現実とは思えない。壁に沿ってゆっくり漂う厚い湯気は、三人の魔女の大釜からのぼっているように見える――『マクベス』の偽の超自然のように気味が悪い。影絵として見れば、やせた、動かずにいる姿は、魔法にかかった人間。しきりと動く影はせむしのスヴェンガリ、小人のメスマー、きらびやかな衣裳をつけないマーリンとも言える。
事実は、小柄の老クェイシーがてきぱきといつもの仕事にかかっていたのだ――顔料と巧みな手さばきで、うまく主人の顔を変えているのだった。
レーンは三面鏡の中の自分の姿を見つめていた――ありふれた型の、かなり着古した平凡な外出着をまとっていた。
クェイシーは、エプロンで手を拭きながら、後に下がった。彼は眼を細くして出来栄えを眺めていた。
「眉が太すぎる……ちょっとオーバーだよ」レーンが長い指で、軽く眉をたたいた。
クェイシーは、茶色の小人の顔をしかめると、首を曲げ、肖像画家が遠くに離れてモデルの釣合を評価する時のような恰好で、片眼を閉じた。
「そうですね」彼はしわがれた声で言った。「左の眉のカーブも――これほど下がってはいないですね」
彼は、腰のベルトから紐でぶら下げている小さな鋏《はさみ》をつかんで、レーンの眉の付け毛をゆっくり、そっと切り出した。「どうです、これでよくなりました」
レーンがうなずいた。クェイシーは掌《てのひら》に肉色のパテをのせ、主人の顎の線を、忙しく撫でつけた……。
五分後、彼は後に下がり、鋏をおろし、小さな手を腰にあてた。「さしあたり、これでどうでしょう、レーンさま?」
老優レーンは自分の姿をとくと調べた。「この扮装という仕事には、間違いがあってはならないからな、キャリバン」クェイシーは小妖精のようににんまり笑った。ドルリー・レーンは満足していた――それだけは自明だった。クェイシーの仕事が特に気に入った時だけ、このキャリバンという名を使うのだ。「よし――これでよかろう。今度は頭だ」
クェイシーは部屋の別の隅に行って電燈をつけ、針金にかかっているかつらを見始めた。レーンは椅子に休んだ。
「キャリバン」彼は問いかけるようにつぶやいた。「二人は根本的には一致しないようだな」
「はあ?」振り向きもせずに、クェイシーが言った。
「扮装というものの真の役割についてだが。おまえはおどろくほどうまいが、下手をすると完全すぎるということにもなる」
クェイシーは、針金から毛深い白髪まじりのかつらを選び、電気を消して、主人のところに戻った。彼はレーンの前のベンチにしゃがみ、変な形の櫛を取りだして、かつらを梳きだした。
「完全すぎる扮装などあるはずがありませんよ。レーンさま」クェイシーが言った。「職人はまずいのばかりで」
「ああ、おまえの素質のいいのを言ってるんじゃないよ、クェイシー」レーンは、老人の爪をのばした手の、すばやい動きを見つめていた。「しかし繰り返して言うが――扮装というものの表面的要素は、ある意味ではいちばん重要ではないのだ。いわば小道具だ」クェイシーが鼻をならした。「ほんとうだよ。ふつうの人間の眼には、パノラマ的に見える本能があることをおまえは考えていない。細かい印象よりも、むしろ全体的に捉えるのだ」
「しかし」クェイシーが激しくかん高い声で言った。「そこが問題です! 細部の一つに間違いがあると――何と申しましょうか――調子に狂いがあると、全体的に印象が狂ってまいります。で、人の眼はその狂わせた細部が気になってまいります。ですから――細部を完全にということになるのでございますよ」
「見事だ、キャリバン、そうだとも」レーンの声には、あたたかい愛情がこもっていた。「自分の弁護はそれでいい。しかし論議の微妙な点が抜けている。なにも扮装の細かい点が、人の眼に立つほど抜けていいとは言わなかったよ――細部が完全であるべきことは――それは事実だ。しかし、細部がすべて完全である必要はない! 言ってることがわかるかな? 扮装の精妙な正確さ……それはいわば海の景色を見て、波を一つずつ忠実に描き、木を見て葉を一枚一枚丹念に描くようなものだ。一つ一つの波、一枚一枚の葉、人間の顔のしわの一本一本、これらを描いても、立派な作品にはならない」
「それはそうでございましょうね」クェイシーがしぶしぶ言った。彼はかつらを明りに近づけると、よく調べ、首をふって、櫛を持った手を、調子よくまた動かしだした。
「そこで顔料、白粉、その他の扮装の道具は、扮装の外観を造るもので、扮装そのものを造るのではない、という結論に達する。顔のある要素は、特に強調すべきということは、おまえにも分かっている。アブラハム・リンカーンに扮装する場合には、あざ、頬髭、唇を強調し、他は調子をおとす、という具合だ。いや、完全に性格を描写し、人を納得させるものは、生命、動作、身振りだ。たとえば、作りと色にどんなに細心の注意を払っても、蝋人形はやはり、明らかに生命のない物であるにすぎない。しかしその蝋人形が滑らかに腕を動かし、彩色的に蝋の唇で話をし、ガラスの目玉で自然な動きをみせたら――何を言おうとしてるか分かるかな」
「さあ、これでいい」クェイシーは静かに言って、かつらをぎらぎら光る明りに、ふたたび照らした。
ドルリー・レーンは眼をとじた。「俳優としての演技の面で、いつも私の心を捉えていたものは――動作、声、身振りによって生命を造り、本当の人物の幻影を造りだすことだった。……大演出家ベラスコは、誰も人のいない舞台にまで、この生命を再現する術を不思議なまでに掴んでいた。舞台にくつろぎの感じを出すのに、煖炉の火をちろちろさせたりして、自然の平穏を描こうとはしなかった。こんな舞台装置の効果には、満足しなかったのだ。開幕前に、一匹の猫を縛って動かないようにしておく。開幕寸前に解いて、猫を放す。幕が上がって、例の情景が現われる。猫が舞台で起き上がり、煖炉の前で欠伸をして、縛られていたことに抗議するように筋肉を延ばす……これで観客は、一言の台詞がなくても、誰にもなつかしいこの簡単な情景だけで、これが暖かい、居心地のいい部屋だと知るのだ。ベラスコのつかっていた舞台装置家の中で、これほどの印象を創り出せるものは一人もいなかったのだ」
「おもしろいお話ですね、レーンさま」クェイシーは主人に寄りそって、レーンの釣合のとれた頭に、かつらをそっと合わせてみた。
「じつに彼は偉大な人物だった」レーンがつぶやいた。「作られたドラマに、生命を吹きこむというこの仕事は――つまるところ、エリザベス朝のドラマは、何十年もの間、台詞と俳優のパントマイムに頼って生命を彷彿とさせていた。どの劇も舞台には何もない――一人の下廻り役者が灌木をかかげて舞台をしずかに歩けば、バーナムの森がダンシネーンに動いて来たことが立派に表現できるのだ。何十年もの間、平土間の観客も、桟敷の観客も、それだけで理解していた。時々思うのだが、現代の演出技術には行き過ぎがあるのではないかと――その弊害として劇は……」
「さ、できあがりました。ドルリーさま」クェイシーが俳優の向う脛を突いた。レーンは眼を開いた。「できました、ドルリーさま」
「そうか。鏡の前からどいてみてくれ」
五分後、ドルリー・レーンが立ち上がった時には、その服装、容貌、身のこなし、態度は、もはやドルリー・レーンではなかった。まったく別の人間になっていた。彼は部屋を横切って、大きな電燈のスイッチをいれた。彼は軽いオーバーコートを着て、今までとはまるっきりちがう白髪まじりの頭にはねずみ色の中折帽をかぶっていた。下唇が前につき出ていた。
クェイシーがおかしさに脇腹をおさえて笑った。
「ドロミオに用意ができたと伝えてくれ。おまえも用意しなさい」
その声の調子までが変っていた。
第六場 ウィーホーケン
――九月十日(木曜日)午後二時
サム警部はウィーホーケンで渡船を降り、あたりを見廻すと、放置されたままのモホーク号の乗船口あたりを警戒してぶらぶらしていたニュージャージーの警官が、直立不動の姿勢になって敬礼したのに対し、軽くうなずいて、渡船待合室を通って、広場に出た。
彼は渡船場につづく丸石道を横切って、急な丘を登り始めた。ここは波止場と桟橋から、水に面した断崖の頂上へつづいている。骨を折って上に登って行くと、自動車が幾台か坂を這うように下りて行った。振り返ると、下の方には、河が無限のパノラマを広げ、その向うには高層建築の建ちならぶニューヨークの町が見えた。また彼は坂を登りつづけた。
頂上で交通巡査に近づき、ぶっきら棒なバリトンで、大通りへ行く道を尋ねた。さらに歩きつづけて広い自動車道を越え、静かなさびれた、古木の影をなす街を抜けて、とうとう繁華な交差点にたどりついた。ここが彼の求める街路だと分かった。彼は北に折れた。
ついに目的の家――二〇七五番地――を探し当てた。木造建てで、牛乳屋と自動車部品店の間にはさまれ、ペンキが剥がれ、時の重みで徐々に形が崩されて行きそうな感じだった。床の落ちそうなポーチには、古びた揺椅子が三つと、ぐらぐらのベンチが一つ置いてある。入口の前のマットに消えそうな字で『いらっしゃいませ』と記してある。ポーチの柱の一つに黄色い文字で『紳士向貸室あり』と書いてあるのが哀れだった。
サム警部は街路を上下に見渡し、上着を整え、帽子をかぶりなおすと、それからぐらぐらする階段を上った。彼は管理人と表札のある呼鈴を押した。ゆるくかしいだ、この蜂の巣のような家の奥で、かすかにベルが鳴り、じゅうたんを擦《こす》るスリッパの音がした。ドアが内側に動いて、すき間から吹出物のできた鼻がのぞいた。「何かご用ですか?」気むずかしい女の声がした。それから深いあえぎと忍び笑いがあって、ドアが内側に開き、みすぼらしい家庭着をきた、がっしりした中年の女が現われた――この建物と同じくらいにみすぼらしい女が。「警察の方ですね! どうぞ、サム警部さん、お入りを。失礼しました――分からなかったもんで……」彼女はしきりにしゃべりまくり、笑ってみせようとしたが、歯を見せた気取り笑いにしかならなかった。脇によけてお辞儀し、しゃべりながら彼女は、警部を部屋に入れた。
「大へんだったんですよ!」女はまだしゃべっていた。「新聞記者や、大きなカメラを持った男が午前中いっぱいやって来ましてね! 私たちは――」
「二階に誰かいるかね?」サムが尋ねた。
「あれがいるんですよ、警部さん! あの人がまだいて、うちのじゅうたんを煙草の灰でめちゃめちゃにして」女はかん高い声を上げた。「私は今朝から四枚も写真を撮られるし……で、警部さんはまた、あの男の室を見たいんですか?」
「二階にあがらせてくれ」サムが唸った。
「はい、はい」年とったがみがみ女は、またお世辞笑いをして、引きずるスカートを二本の荒れた指で、気取ってつまみ上げ、うすい敷物をしいた階段をよろよろと上がって行った。サムは鼻をならして、後について行った。階段の一番上で、ブルドックのような男と顔を合わせた。
「誰だね、マーフィーさん?」うす暗い中で、その男がのぞきこんだ。
「いいんだ、落ち着け、おれだ」警部がどなった。男はほっとして、にやっと笑った。「最初よく見えなかったんですよ。よく来てくださいました、警部。退屈してるんです」
「昨夜から何もないか?」
「異状ありません」
彼は二階のホールに沿って、奥の一室に案内した。管理女のマーフィーが後から足を引きずってついて来た。サムは開いたドアのところで足を止めた。
部屋は小さくがらんとしていた。色のはげた天井には、ひびが入り、壁の色も変って、擦り切れた敷物が床をおおい、家具は荒れ、開け広げの流しの鉛管は古くなり、たった一つの窓にかけたさらし木棉のカーテンは、古いもいいところだった――しかし部屋の中は小ぎれいにしてあり、充分手が行き届いているようだった。時代おくれの鉄製の寝台、片側が高くなった箪笥、大理石の表面の重い小さなテーブル、針金でとめてある椅子、衣裳戸棚、これで家具が全部だった。
警部は部屋に足を踏み入れ、さっさと衣裳戸棚の方に歩いて行って、両開きのドアを開けた。中には、三着の着古した背広がきちんと吊ってあり、靴が二足、一つはかなり新しく、一つは爪先の上にそった靴で、戸棚の下に並んでいた。上の棚には紙袋に入ったむぎわら帽と、絹のリボンに汗のしみついたフェルト帽があった。サムは手早く、背広のポケット、靴、帽子と調べたが、興味のあるものは何も出てこなかった。彼は太い眉をがっかりしたようにしかめ、戸棚の戸を閉めた。
「確かに」サムは、マーフィーのそばで、入口に立って自分を見つめている刑事につぶやいた。「昨夜以来、ここのものには誰にも手を触れさせなかっただろうな?」
刑事は首を振った。「言われたことは守ります、警部。あなたが帰られた時のままですよ」
戸棚のそばの敷物の上に、安物の茶色い鞄があり、その柄がこわれて、片方にぶら下がっている。警部は鞄を開けた。空《から》だった。
彼は箪笥のところで、その固い重い抽出しを開けてみた。着古してはいるが、清潔な下着が数枚、洗濯したハンカチがひと重ね、開襟の縞のワイシャツが半ダース、しわになったネクタイ数本、まるめたままのきれいな靴下などが入っていた。
サムは箪笥から離れた。外は寒いが、部屋はむしむししていた。彼は絹のハンカチで、赤かぶのような顔をそっと拭いた。それから部屋のまんなかに脚を広げて突っ立ち、しかめ面で見廻した。そして大理石を張ったテーブルに近づいた。インク壜、インクのこびりついたペン、安物の便箋用紙には目もくれず、ロイヤル・ベンガル葉巻の厚紙の箱を取り上げて中を調べた。葉巻は一本だけ、それも指でつまむとくずれた。サムは箱を置き、眉間のしわを深くして、もう一度部屋を眺めた。
隅の流しの上に棚があり、何かのっている。警部はそこへ行って棚を見下ろした。機械が止まってしまった、へこんだ目覚し時計、四分の一パイントのライ麦ウイスキー壜――サムはコルクを取って嗅いでみた――コップ一つ、歯ブラシ、さびた安全カミソリのケース、ありふれた洗面用具が二、三点、アスピリンの小壜、古びた銅製の灰皿……警部は灰皿から葉巻のすいがらを取り上げ、灰の中のちぎれた葉巻のラベルを調べた。クレモだった。サムは身体をゆすって考えこんだ。
管理女のマーフィーの意地悪そうな小さな眼が、夢中になって警部の動作を追っていた。鼻にかかった声で、急に彼女が話しかけた。「部屋がこんなですみません。この人は私に片付けさせないんですよ」
「いや、いや」サムが言った。それから不意に立ち止まって、何か思いついたように、管理女を見た。「それはそうと、マーフィーさん、――ウッドのところに女が訪ねてくることはありませんでしたか?」
マーフィーはにきびのある顎を突き出して、鼻をならした。「あんたが警察の人でなかったら頭をぶんなぐってやるところだよ! 絶対にないですよ! ここは卑しいところじゃない、みんなも知ってます。私はいつも最初にことわっておくんです。『女の人を連れて来てもらっては困りますよ』って、言葉はやわらかいけど、はっきり言っときます。このマーフィーのところでおかしなことはさせませんからね!」
「ふむ」サムは部屋にある椅子に腰かけた。「すると女は誰も来ない……じゃ親戚はどうかね? 姉や妹が訪ねて来たら?」
「そりゃあ」マーフィーが間髪入れずに答えた。「姉さんや妹さんがあるのは仕方ないですよ。うちの人のところにも姉さんや妹や、叔母さん、従妹なんかも訪ねて来ますよ。けれどウッドさんにはそんなことはありませんでした。あの人はうちの模範生だといつも思ってるんです。もう五年になるのに面倒なことは何も起こしませんからね。静かで、やさしくて、ほんとに紳士ですよ。私の知ってる限り、誰も訪ねて来ませんでした。けど、あの人とはあんまり会いませんがね。午後から夜までニューヨークの電車に乗ってるんですから。うちでは賄《まかない》はしてませんから――ここの人たちはみんな外食で――あの人の食事のことは知りません。でも、あの人のためにこれだけは言っときます――部屋代はきちんと払って、迷惑はかけませんし、お酒ものみません――部屋にいるのかいないのか、わからないくらいなんで。私は――」
しかしサム警部は椅子から立ち上がると、幅広い背を彼女に向けた。彼女は言葉半ばで打ち切って、蛙のようなまぶたを数回ぱちぱちさせ、それからにらみつけ、鼻をならして、刑事のそばを通り抜けて部屋を出て行った。
「なんてえ女だ」刑事が柱にもたれて言った。「前にもこんな下宿屋は見たことがありますよ。姉妹、叔母、従妹に限るというのは」彼はクックッと笑った。
だが、サムはそれには気をとめず、ゆっくりと歩き廻って、片足ですりきれた敷物を探っていた。敷物の隅の方が一個所ややもり上がっていて、彼の気をひいたらしかった。敷物をめくってみたが、床がひどくそっているだけだった。ベッドのところに来て、ちょっとためらったが、重々しく両膝をついて下にもぐり込み、めくらのように手探りしてみた。刑事が言った。「警部! 私がやります」しかしサムは答えなかった。彼は敷物を引っぱっていた。刑事は腹這いになって、ポケットの懐中電燈の光を、ベッドの下のその個所に当てた。サムが声高につぶやいた。「あったぞ!」刑事は敷物の隅をめくった。サムが薄い黄色の表紙の小さな本を掴んだ。二人は埃だらけでベッドから這い出すと、埃にむせびながら、服をはたいた。
「銀行の通帳ですか?」
サム警部は答えなかった――あわててページをめくっていた。通帳には数年前からの細かな金額が書き入れてあった。一度も引き出していない。一回の預金で十ドル以上はなく、大部分が五ドルである。最後の総計が九百四十五ドル六十三セントになっている。通帳の中程に、きちんとたたんだ五ドル紙幣が一枚入っていたが、おそらく最後の預金をするつもりが、死んで果せなかったのだろう。
サムは銀行の通帳をポケットに入れると、刑事の方に向いた。「交代時間は何時だね?」
「八時です。八時に交代が来ます」
「君に言っておくが」サムが苦い顔をした。「明日の二時半ごろ、本部に電話して私を呼んでくれ。ここで君にしてもらいたいことがあるんだ。わかったな?」
「わかりました。きっちり二時半にお電話します」
サム警部は部屋を出て階段を降りた――階段は一段ごとに子豚のような声をあげた――そしてアパートを出た。マーフィーがせっせとポーチを掃除していた。彼女は埃《ほこり》の雲の中で、怒ったように、吹出物の鼻をくんと言わせて、道を除けた。
歩道に出ると、サムは銀行の通帳のカバーをあらため、あたりを見廻してから大通りを横断し、南にむかって歩いた。通りを三つ越して、目指す建物を見つけた――大理石まがいの木造の小さな銀行だった。警部は中に入り、『SからZまで』と記した出納係の窓口へ行った。出納係のやや年老いた男が顔を上げた。
「この窓口の係りの人だね?」サムが尋ねた。
「はい。何かご用でしょうか?」
「この付近に住んでいる電車の車掌で、チャールズ・ウッドという男の殺害事件を知っているでしょうな?」出納係は即座にうなずいた。「私は河向うの殺人課のサム警部で、その事件を担当しているものだが」
「さいですか!」出納係は興味をそそられたようだ。「そのウッドさんというのはうちの預金者ですよ、警部さん、その調査じゃないのですか。今朝新聞で写真を見ました」
サムはウッドの預金通帳をポケットから出した。「ところで――」彼は格子窓についている金属製の名札をちらと見て「アシュレーさん、この窓口では何年お勤めですか?」
「もう八年になります」
「いつもあなたがウッドに応待しているのですか?」
「はい」
「この通帳を見ると、ウッドは一週に一度預金していたのですね――曜日はちがっているが。彼の預金について、何か知っていることがあったら話してくれませんか?」
「たいしたことはありませんが、おっしゃるとおりウッドさんは、私の憶えている限り、毎週欠かさず、一度は必ずお見えになりました。実際にはいつも同じ時刻に――一時半か二時に――おいでになりましたよ。新聞の記事を見ると、ニューヨークへ勤務に出かけるちょっと前だったのですね」
サム警部が顔をしかめた。「あなたの憶えている限りだと、彼はいつも自分で預金しに来ましたか? 特にそのことを聞きたいんだが。いつも一人?」
「人と一緒だったことはないようです」
「ありがとう」
警部は銀行を出て後戻りすると、また大通りを越えてマーフィーのアパートのすぐ近くまで来た。牛乳屋の三軒手前に、文房具店がある。彼はそこに入って行った。
店の老主人が眠そうな顔で出て来た。
「この通りを上がったところのマーフィーさんのアパートに住んでいる男で、昨夜、渡船上で殺されたチャールズ・ウッドというのを知ってるかね?」
老人はおどろいて目をしばたたいた。「ああ、知ってます。知ってます。うちのおとくいさんでした。葉巻と紙をここで買ってくれるんで」
「葉巻はどんなのかね?」
「クレモ、ロイヤル・ベンガル。たいていこの二つです」
「何度ぐらい?」
「毎日と言ってもいいくらいで、正午過ぎで、出勤前でした」
「ほう、ほとんど毎日? 誰かと一緒だったことは?」
「いいえ、いつも一人でした」
「文房具もここで買いましたか?」
「はい、だいぶ前に一度。紙とインクを」
サムは上着のボタンをかけ始めた。「どのくらい前からここに来てましたか?」
店主は汚れた白髪の頭をかいた。「四年、五年になりますかな。あなたは新聞記者で?」
しかしサムは黙って店を出た。歩道で立ち止まった。何軒か先に雑貨屋のあるのを見つけ、どんどん歩いて中へ入った。だが、そこでもずっと以前に男ものの身の廻り品を、いくつか買っただけと分かった。ウッドはいつも一人で来たと言う。
警部はいよいよ苦い顔をして店を出、こんどは近くのクリーニング店、靴直し、靴屋、レストラン、ドラッグ・ストアに入ってみた。どの店でも、ウッドは、僅かだが数年来のおとくいだと言った。しかし人と一緒のことはなかった――レストランに来る時でも。
ドラッグ・ストアで、サムは別のことを訊いてみた。薬剤師は、これまでにウッドが処方箋で薬を買いに来たことはない、病気の時は別の医師から処方箋をもらって、ニューヨークで薬をもらっていたのだろうと言った。サムの要求で、薬剤師は付近の十一人の医師と三人の歯科医のリストを見せてもらった――どれもみんな、半径五区画以内にあった。
警部は一人一人順に訪ねてみた。どこでも同じことを言い、同じことを訊いた。「チャールズ・ウッドという四十二番街横断線の車掌が、昨夜、ウィーホーケンの渡船上で殺されたのを知っているでしょう。この男はこの付近に住んでいました。私はサム警部で、被害者の背後関係を調査し、誰か彼の私生活、友人関係、訪問客などについて知っている者がいないかと探しているのです。ウッドが治療に来たことはないですか? あるいは、病気の時アパートに応診に行ったことはありませんか?」
四人の医師が殺人事件の記事を読んでおらず、この男の噂も聞いていなかった。あとの七人は新聞を読んで知っていたが、ウッドを診察したことはなく、彼については何も知らなかった。
警部は歯をくいしばって、リストの三人の歯科医を廻り始めた。初めの一人には、嫌気がさして来た。三十五分も待たされて、やっと歯科医に会えた。それもやっと診療室の隅に追いつめたが、客の正体が分かるまでは、質問に答えるのを拒んだ。眼に期待の色をみせて、サムは身元を明かし、質問に答えるよう大声をあげた。この男がやっとのことで、しぶしぶ言うことには、チャールズ・ウッドはまるで知らない。これで期待の色も消えてしまった。
残りの二人の医師も、死んだ男については知っていなかった。
吐息をつき、重い足をひきずりながら、サム警部は丘の上の広い車道に引き返し、渡船場につづく曲りくねった坂道を下りると、船でニューヨークに戻った。
* * *
ニューヨーク。
ニューヨークに着くとサム警部は早速、しかめた顔に苦悩の色をみせ、往来をかき分けて、第三アヴェニュー電鉄本社の営業事務所にかけつけた。
人事課がある建物で、警部は人事課長に面会を求め、広い事務室に案内された。クロップ課長は顔に深く労苦のしわをきざんだいかつい感じの男だった。彼はすぐに出て来て、手をさしのべた。「サム警部さんですね?」と彼はあらためて訊いた。サムがうなずいた。「おかけください」課長は埃っぽい椅子を前に引いて、サムに坐らせた。「チャールズ・ウッドのことでしょうな。気の毒なことをしました」彼はデスクの向うに腰を下ろし、葉巻の口を切った。
サムは冷静に彼を眺めた。「被害者の調査をしてます」サムがのぶとい声で云った。
「なんとも怖ろしいことです。訳がわかりません――チャールズ・ウッドは成績のいい従業員でして、おとなしく、しっかりしていて、頼もしく――じつに理想的な従業員でした」
「事故を起こしたことは一度もないのですか、クロップさん?」
課長は真顔で前に乗り出した。「お話しましょう。あの男は宝でしてね。勤務中には決して酒はのまず、この事務所ではみんなに好かれていました――報告はきちょうめんにしますし、模範従業員の一人でした――実を言うと、五年もまじめに勤務したのですから、昇級させるつもりでした、監督にでも。そうなんです!」
「まるで本物の小公子じゃないですか、クロップさん?」
「それほどじゃないですがね、サム警部さん」クロップがあわてて答えた。「しかし、信頼のおける男でした。あなたは人物を調べに来られたのでしょう? 入社以来、一日も休んでおりません。任務遂行に一所懸命でした! わが社でも、彼を優遇してました。それが本社のモットーでしてな。精進に努めていれば、それだけ目をかけてやりますので」
サムがうなった。
「警部さん。あれは暇がほしいと言ったこともなく、休みもとらず、休暇も稼いで二倍ももらっていました。運転手や車掌はいつも前借りを申し出るものです。ところがチャールズ・ウッドに限って、そういうこともないのです。預金をしていて――前に預金通帳を見せてくれたことがありましたよ」
「この会社に勤めて何年になりますか?」
「五年です。調べてみましょう」クロップは飛び上がってドアに走った。彼は首を突き出して叫んだ。「おい、ジョン! チャールズ・ウッドの勤務表を持って来てくれ!」
彼はすぐに手に長い紙を持って、デスクに戻った。サムはデスクに身体を乗り出し、肘をついて読んだ。「お分かりでしょう」クロップは指さして言った。「五年と少しになります。最初は東側の第三アヴェニューでしたが、三年半前に横断線に行きたいという本人の要求で、運転手のギネスと移ったのです――ウィーホーケンに住んでいたので、もっと便宜のいいところを望んだのですね。そら、黒星が一つもありません!」
サムは考えこんでいた。「クロップさん、彼の私生活の方は? 何かご存じですか? 友人関係、親戚、仲間など?」
クロップは首をふった。「その方はあまり知りませんが、まったく知らないわけでもありません。あれはつきあいのいい方でしたが、私の知る限り、だれかと連れ立って一緒に外に出たことはなかったようです。一番親しくしていたのは運転手のパトリック・ギネスでした。ちょっとお待ちください」彼は記録を裏返した。「これは本人の申請書で、近親者――なし。これでお答えになりますかな、警部さん」
「確かめたかったので」サムがつぶやいた。
「もしかするとギネスが――」
「結構です。必要があればこちらから会います」サムは中折帽をつまみあげた。「こんなところですね。いや、ありがとう」
人事課長はサムと親しく握手し、事務室を出て建物の外まで送り、協力を何度も繰り返した。サムはさっと相手を振りきり、別れの会釈をして角を曲った。
彼はそこで誰かを待つように立ち止まり、腕時計をしきりに気にしていた。十分後、カーテンを引いた大型の黒塗りリンカーンが、角にいる彼の前に現われた。前の席にいた制服のやせた、にやにやした若い男が、急ブレーキをかけ、車から飛び降り、後のドアを開けて脇に立ち、なおにやにやと歯を見せて笑っている。サム警部は急いで街路を見渡し、車に乗った。その隅にうずくまって、いつもよりもずっと小人じみた老クェイシーが、スヤスヤと居眠りしていた。
運転手はドアを閉め、自分の席に飛び乗り、車が音を立てて動きだした。そのとたんに、クェイシーが、ぱっと眼を覚ました。常になく考えこんだサム警部が自分のそばにひっそり坐っているのに、彼は気がついた。クェイシーの怪物のような顔が、急に笑顔になり、屈んで、車の床に取りつけた小箱を開いた。それから、少し顔を赤くして、大きな金属製の箱を手にして起き上がった。その箱の蓋の内側は鏡になっていた。
サム警部は幅広の肩をゆすった。「大へんな仕事だったよ、クェイシー、いろいろとね」と彼が言った。
そこで彼は帽子を脱ぎ、手を箱の中に入れてかき廻し、何かを取りだした。彼はクリーム状の液をたっぷりと顔にぬり始めた。クェイシーは鏡を彼に向け、やわらかい布をさし出した。警部はてかてかに光った顔をその布でこすった。どうだろう! 布が取り去られると、サム警部は消えていた――完全にというわけではなく、パテのようなものがまだ顔にこびりついていたが、メーキャップはすっかり消え、そこに現われたのは端正な、鋭い、笑顔の、ドルリー・レーンの顔だった。
第七場 ウェスト・エングルウッドのデウィットの家
――九月十一日(金曜日)午前十時
金曜日の朝、太陽がふたたび顔を見せた。大型の黒塗りリンカーンが、ポプラ並木の閑静な住宅街を走っていた。並木の葉は、太陽の黄色い光線を掴もうと最後の必死の努力をしている。
ドルリー・レーンは車窓から外を眺め、このウェスト・エングルウッドは少なくとも高級住宅街としては、その設計上の過ちはおかしていない、とクェイシーに話した。一つ一つの住宅が充分な敷地の上に建ち、隣家とは完全に独立した単位を作っている。クェイシーはこれに対し吐きすてるように、ハムレット荘の方がずっといいと言った。
彼らは、よく手入れの行き届いた小さな邸宅の前で車を止めた。L字形の付属物やポーチのたくさんついた、白塗りのコロニアル風の母屋のまわりを、広い芝生が囲んでいる。レーンは、いつも欠かさない肩マントと黒い帽子という恰好で、例のステッキを握り、車から降りると、クェイシーを手でまねいた。
「私も?」クェイシーは驚いた風で、落ち着きさえなくしているようだった。革のエプロンをたまたまつけていなかったので、そのため彼から沈黙の商標を奪っていたのだ。山高帽をかぶり、ビロードの襟の小さい黒のオーバーを着、爪先をしめつけられそうな真新しいぴかぴかの靴をはいていた。先が細いためか、歩道に飛び降りる時に顔をしかめていた。彼はうなりながら、レーンの後に従って玄関に向った。
制服を着た背の高い老執事が二人を迎え、輝やくばかりのホールを通って、見事なコロニアル風の広い居間に案内した。
レーンは腰をかけて、あたりを見廻し、うなずいていた。彼のうしろで、クェイシーがうろうろしていた。「ドルリー・レーンです」彼は執事にこう言った。「どなたかご在宅ですか?」
「いいえ、どなたもいらっしゃいません。デウィットさまはニューヨーク、お嬢さまはお買物、奥さまは――」彼は咳をした。――「美顔術とかで。ですから――」
「たいへん結構です」ドルリー・レーンはほほえんだ。「で、あなたは――?」
「ジョーゲンズといいます。デウィットさまの一番古い召使いでございます」
レーンは椅子にくつろいだ。「ところでジョーゲンズさん、あなたに釈明しなければならないが」
「私にですか?」
「あなたも知ってる、あのロングストリート事件を扱っている地方検事のブルーノさんから、特別に個人で調査する資格をもらって、私は――」
老人の顔から他人行儀の色が消えた。「失礼でございますが、私などに釈明なさる必要はございません。ドルリー・レーンさまと言えば……」
「わかった、わかった」レーンはたまらないといった、妙な素振りを見せて言った。「あなたの気持ちは分かる、ジョーゲンズさん。ところで少し質問に答えてもらいたいのだ。デウィットさんは――」
ジョーゲンズは固くなり、生気が顔から消えた。「デウィットさまに、不忠になることでしたら……」
「えらい、ジョーゲンズさん、えらい」レーンの鋭い眼が老執事を一心に見つめた。「もう一度言う――えらい。立派な心がけだ。しかし私がここに来たのは、デウィットさんのためなのだよ」ジョーゲンズは笑みを取り戻し、灰色の唇に手をあてた。「先をつづけるが、デウィットさんは亡くなったロングストリートと密接な関係にあったために、あの悲しむべき殺人事件に巻きこまれたのだ。しかしこの関係から、ロングストリート殺害犯人逮捕に、有力な手がかりが引き出せるかもしれないと思う。ロングストリートはよくここに来たかね?」
「いいえ、ほんのたまにでございました」
「なぜだろう、ジョーゲンズさん?」
「よくは分かりませんが、お嬢さまがロングストリートさんをお嫌いでして、デウィットさまは――デウィットさまは、はっきり申しますと、ロングストリートさんがそばにお出でになると気をふさがれていたようでございます……」
「なるほど。それで奥さんは?」
執事はためらった。「それが……」
「言いたくないのだね?」
「申しあげたくございません」
「これで四度目だが――見上げたものだ。……クェイシー、かけなさい。疲れるだろう」クェイシーは主人のそばに腰をかけた。「ジョーゲンズさん、デウィットさんのところへ来て何年になる?」
「十一年以上になります」
「デウィットさんは親しみやすい人かね――社交的な人かね?」
「そうでございますね……あまり。ほんとうに親しくしていらっしゃるお方は、アハーンさまお一人で、この近くに住んでいらっしゃいます。デウィットさまはとても気持ちのいいお方で、つき合ってごらんになればよくわかります」
「では、この家には客の出入りはあまりないのだね?」
「そう頻繁にはございません。アンペリアルさまが今ご滞在でございますが、この方は特別に親しいお方ですから、これまでに三、四回おいでになりました。その他にはめったにお出でになりません」
「めったに、と言うが、すると、たまに来る客というのは、おとくいさんかね――取引関係の?」
「はい、さようで。ですが、それも大勢ではございません。以前にもお一人。最近では南米の取引先の方がお泊りでございました」
ドルリー・レーンは考えているようだった。「いつごろのことかね?」
「一か月ほどご滞在で、一か月ほど前にお帰りになりました」
「その客は前にも来たことのある人かね?」
「記憶にございません」
「南米と言ったが、南米のどこかね?」
「存じません」
「正確に、帰った日は?」
「八月十四日と憶えております」
レーンはしばらく黙った。つぎに口を開いた時は、落ち着きはらった、並々ならぬ興味を示した声だった。「南米の人が滞在中に、ロングストリートさんがここに来たことは?」
ジョーゲンズがすかさず答えた。「はい、いつもより度々お見えになりました。マキンチャオさまがお見えになってから、ある晩などは――その方のお名前で、フェリペ・マキンチャオとおっしゃいます――デウィットさま、ロングストリートさま、マキンチャオさまは書斎に閉じこもって、真夜中すぎまでお話しでございました」
「むろん、あなたには、その話の内容は分からないだろうね?」
ジョーゲンズはびっくりした。「滅相もございません」
「そうだろう、愚問だった」ドルリー・レーンが口ごもった。「フェリペ・マキンチャオ。外国人らしいな。どんな人だった、ジョーゲンズさん? 話せるかね?」
老執事は咳ばらいした。「外国の方で、スペイン人のようでございました。色が黒く、背の高い、軍人のような小さい黒い口髭を生やしていらっしゃいました。とても色が黒くて、――黒人かインディアンではないかと思ったくらいでございます。紳士のような感じのところもございまして、口数も少なく、家にじっとしていられることも少なく、こちらのご家族と一緒にお食事なさることもまれで、何と申しますか、打ちとけた風もございませんでした。ある時は朝方の四時か五時までお家にお戻りにならず、ある時は全然お帰りにならないこともございました」
レーンは微笑した。「で、その風変りな行動をする風変りな客に対して、デウィットさんの感じはどうだった?」
ジョーゲンズは困った様子をみせた。「デウィットさまは、マキンチャオさまの出入りに口出しはなさいませんでした」
「その客について何かほかに?」
「スペイン訛《なま》りの英語を話されます。お荷物がとても少なく、大きなスーツケースが一つでございました。夜になると、デウィットさまと何度も密談され、時にはロングストリートさまも混じえてひそかに話していられました。時々、夜、他のお客さまがお見えになると、儀礼的に紹介なさる程度でございまして。私が知っておりますのはこのくらいでございます」
「アハーンさんはその人を知ってるようだったか?」
「いいえ」
「アンペリアルさんは?」
「アンペリアルさまはその時おいでになりませんでした。マキンチャオさまがお帰りになった少し後で、お見えになりました」
「その南米の客は、この家を出てどこへ向ったか知らないか?」
「存じません。スーツケースを持ってお発ちになりました。デウィットさま以外どなたもご存じないと思います。お嬢さまや奥さまもご存じないでしょう」
「ところで、ジョーゲンズさん、どうして南米人だと分かった?」
ジョーゲンズは、羊皮紙のような手を、口にあてて咳をした。「奥さまが私のいる前で、ご主人さまに尋ねておいでで、デウィットさまがそう申しておられました」
ドルリー・レーンはうなずくと眼を閉じた。ふたたび眼を開くと、はっきり尋ねた。「最近になって、南米からの客はその他になかったかね?」
「ございません。こちらへお出でになられたスペイン系の方は、マキンチャオさまお一人でございます」
「いや、ありがとう、ジョーゲンズさん。あなたが気に入ったよ。そこで、デウィットさんに電話して、ドルリー・レーンが来ていて、これからぜひ昼食を共にしたいと言ってる、と伝えてくれないか?」
「はい」ジョーゲンズは小卓のところで、ゆっくりダイアルを廻し、間もなく主人を呼び出した。「デウィットさまで? ジョーゲンズでございます……はい。ドルリー・レーンさまがこちらにお見えで、今日お昼食を一緒になさりたいと言われます。ぜひにと、……はい。ドルリー・レーンさまで……ぜひにとおっしゃいますので……」
ジョーゲンズが振り向いた。「正午に取引所クラブでいかがですか、レーンさま?」
レーンの眼が輝やいた。「正午に取引所クラブ、わかった」
二人が外に出て大型車に乗ると、レーンがクェイシーに言った――クェイシーはカラーを必死に引っぱっていた――「クェイシー、おまえの観察力も長い間、宝のもちぐされだったね。一時的に探偵になってみる気はないか?」
車が動きだした。クェイシーはしわだらけの頸から力いっぱいカラーを引きちぎった。「何でもお言葉どおりにいたします、ドルリーさま。今はこのカラーが……」
レーンは喉の奥でクックッと笑った。「役目はこれだけだが――大した仕事でなくて気の毒だけどね、おまえはこのゲームでは初心者だからな……。今日の午後、私は重要な仕事がいっぱいつまっているので、おまえに、ニューヨークの南米領事館を、みんな当ってもらいたいんだ。フェリペ・マキンチャオという南米人を知っている領事を探してもらいたい。背が高く、色が黒く、口髭を生やし、インディアンか黒人の血が混じっているらしい。まぎれもないオセロだな、クェイシー……。慎重にな。サム警部やブルーノ地方検事に、私の探っている線を知られたくないんだ。わかったね?」
「マキンチャオ」クェイシーはかすれ声でくり返した。年寄りの茶色の指が頬髭をいじっていた。「マキンチャオなどと、どんな綴りなんでしょうね?」
だが、ドルリー・レーンは考えこんでいた。「サム警部やブルーノ地方検事にはジョン・デウィットの執事に訊問するという頭が働かないから、知らせてやることもないのさ」
「あの執事はよくしゃべりましたね」一生を聴くことで過してきた男らしく、クェイシーはきびしく言った。
「それどころか」ドルリー・レーンがつぶやいた。「口のかたいやつだよ」
第八場 取引所クラブ
――九月十一日(金曜日)正午
ドルリー・レーンは決して故意にではなく、堂々たる登場ぶりをみせた。ウォール街の取引所クラブの重々しい空気の中に入って行ったにすぎないが、その事実だけで狂熱をよび起こしたのだった。ロビーでゴルフの話に夢中になっていた三人の男が、信号をうけたように彼の姿を認め、スコットランド・ゲームの話はささやきに消えて行った。黒人のボーイが肩マントの姿を見て眼をまるくした。デスクの向うの事務員がギョッとしてペンをとり落した。ささやきがどんどん広まって行った。
人々が動き出し、素知らぬ風を装って、レーンの風変りな姿をおもしろそうに横目でちらっと眺めて行った。
レーンは、ロビーのクラブの椅子に溜息をついて腰かけた。白髪の男が急ぎ足にやってきて、平身低頭した。
「ようこそおいでくださいました、レーンさま」レーンはちょっとほほえんだ。「光栄でございます。執事長ですが、何なりとお申しつけくださいませ。葉巻などはいかがでございますか?」
レーンは手をあげて断わった。「いや、結構。喉に差支えるので」彼には使いなれた儀礼の言葉であるらしい。言葉はやわらかいが、ほんの機械的に言った。「デウィットさんを待っているのだが、もう来られたか?」
「デウィットさまですか? 確かまだのようです」執事長の口調には、ドルリー・レーンを待たせたりしてという、デウィットに対する深い非難がこもっていた。「お待ちの間に何なりと御用命のほどを」
「ありがとう」レーンは後にもたれ、退散を念じて眼を閉じた。執事長は得意気に引き下がり、ネクタイをいじった。
この時、ジョン・デウィットのほっそりした弱々しい姿が、せかせかとロビーに入って来た、仲買人の顔は蒼白だった。不安の様子が見えたが、さらに緊張と新しい内からの圧迫感が加わっていた。彼は表情も変えずに執事長の笑顔を受け、羨望の視線を受けながら、ロビーのレーンの前に急いだ。
執事長が言った。「デウィットさまです」しかし、レーンの返答がないのでがっかりしたようだった。デウィットが彼に去るよう身振りし、レーンの硬い肩に手をかけると、初めて俳優は眼を開いた。「ああ、デウィットさん!」嬉しそうに言って、彼は立ち上がった。
「お待たせして申し訳ありません、レーンさん」デウィットの言葉はぎこちなかった。「別の約束がありまして――断わらねばならず――それで遅れてしまって……」
「いや、いや」レーンは肩マントを脱ぎながら言った。制服の黒人が急いでやって来て、レーンのマント、帽子、ステッキ、デウィットのコートと帽子を機敏に受け取った。二人は執事長の後についてロビーを抜け、クラブの食堂へ行った。給仕頭が職業的な無関心さを脱ぎすてて、微笑で迎え、デウィットの要求で食堂の隅に二人を案内した。
軽い昼食をしている間――デウィットはヒレ肉をもてあそび、一方レーンは厚いロースト・ビーフを旺盛に食べた――レーンは真面目な話をしようとはしなかった。デウィットはレーンとの会見の目的を尋ねようと、何度かくり返し言ったが、レーンはやさしくはねつけた。「食事は落ち着いて食べないと消化によくないですよ」と、とりあわなかった。デウィットは不本意ながら笑顔を見せた。レーンは易々《いい》として、なめらかに言葉をつづけ、イギリス製のビーフを咀嚼《そしゃく》する正しい方法以外には何も考えていない風だった。彼は舞台に立った最初のころの懐しい思い出話をし、話の合間に名優の名――オティス・スキナー、ウィリアム・フェイヴァシャム、ブース・フィスク夫人、エセル・バリモア――を插んだりした。食事の間にデウィットの固苦しさは、老優の流れるような含蓄のある話しぶりにやわらぎ、自ら愉しんで耳を傾けていた。緊張は幾分か去った。レーンはかまわず話しつづけた。
コーヒーを飲み、デウィットが、彼のすすめた葉巻をレーンに断わられるのを平静に受けとめると、レーンが言った。「デウィットさん、お見うけするところ、あなたは生来、陰気な方でも、病的な方でもありませんね」デウィットは驚いたが、それには答えずに葉巻をふかしていた。「あなたのお顔つきと最近の行動に、暗い影が、精神的な悩みが読みとれるのは、精神病学者でなくてもつとまります。おそらく慢性のものなのでしょうが、あなたのご性格とは無関係ですね」
デウィットが小声で言った。「ある意味で、私は苦難の生活をしてきましたからね」
「では、私の思ったとおりでした」レーンの口調が人を惹きつけるようになってきた。長い手を両方、テーブル・クロースにのせ、少しも動かなかった。デウィットの眼は、それに焦点を合わせていた。「デウィットさん、あなたと一時間お話して過そうと思った第一の理由は、親しくなりたかったからです。あなたをもっとよく知るべきだと思ったのです。ぎごちないかもしれないが、あなたをお助けできるような気がするのです。実際、あなたには特別の援助が必要な気がするのですよ」
「ありがとうございます」デウィットは眼を伏せたまま、もの悲しく言った。「私は自分でも危険な立場にあることを充分知ってはおります。地方検事もサム警部も、私に少しも気を許るしてくれません。常に私は監視されているのです。手紙さえ手をつけられているような気がします。レーンさん、あなたご自身も私の雇人を訊問されて……」
「執事だけですよ、デウィットさん、それもあなたのためを思ってです」
「……サム警部もそう言ってます。ですから――私は自分の立場を知ってます。しかし、あなたは警察の人とはちがう――もっと人間味があると思っています」彼は肩をすくめた。「不思議に思われるかもしれませんが、私は水曜日の夜以来あなたのことばかり思っていました。あなたは私をかばって数回、矢おもてに立ってくださった……」
レーンの顔は厳粛だった。「では、一つ二つ質問に答えてくださいますか? 私がこの捜査に関心をもつのは公的なものではありません。個人的な動機からで、真実を明かしたいという目的があるのみです。一層の進展を計るに当って知っておかねばならないことがいくつかあるので……」
デウィットはさっと顔をあげた。「一層の進展を? あなたはもう何か結論を得られたのですか?」
「二つの重要な点について」ドルリー・レーンは給仕を呼んだ。給仕があわててとんで来て、レーンはコーヒーのお代りを注文した。デウィットの葉巻は消えていた。彼はレーンの横顔を見つめながら、指の間からぼんやり葉巻を垂らしていた。レーンはかすかに笑った。「私は不適当を唱えねばなりません。十八世紀のフランスの貴婦人の説とは意見があいません。間違った断定ですよ、あれは、デウィットさん! セヴィニエ夫人が不滅のシェークスピアを、コーヒーの香《かおり》のはかなさと予言したも同じようなものです」彼は変らぬおだやかな調子でつづけた。「あなたが進展とお呼びになるなら、私はロングストリートとウッド殺害の犯人を知っています」
デウィットは、まるでレーンに顔を殴打されたように蒼白になった。葉巻が指の間で、ポキリと折れた。彼はレーンの澄みきったまなざしをうけて眼をしばたたき、驚きのあまり息をつまらせたが、冷静でいようと努めた。「ロングストリートとウッドを殺した犯人を知っておられる!」彼は声がもつれた。「しかし、レーンさん、知っておられるなら、なぜ手を打とうとはなさらないんですか?」
レーンがおだやかに言った。「打ちつつあるところですよ、デウィットさん」デウィットは身じろぎひとつしなかった。「不幸にして、われわれは想像力を許さない正義が相手なのです。正義は確証を要求します。ご助力ねがえますか?」
デウィットはしばらく答えなかった。顔が苦悩にゆがんでいた。彼の眼は必死になって、この異常な告発者の無表情な顔を洞察し、どのくらい知っているのか、正確に何を知っているのかを探り出そうとしていた。やがて彼は、やはりかたくなな声で言った。「私にできることなら、できますことなら……」
「では、ご助力ねがえますね?」
なんだかメロドラマじみて、つくりもののようだった。老優の体内深く、嫌悪の小さな虫がうごめいた。
デウィットは黙っていた。ふたたびレーンの顔を見て、そこに犯人の名を探し出そうとした。やっと彼はマッチをすり、震える指で消えた葉巻に火をつけた。「お答えできることはお答えします。しかし――何と言ったらいいのか?――私の両手は――そう、縛られていて……一つだけお尋ねにならないでいただきたいことがあります――それは水曜の夜の約束の相手のことですが」
レーンは気さくに首を振った。「この事件で、最も関心のある点の一つについて、沈黙を守るということは、立場が二重に悪くなることですよ、デウィットさん。しかし、それでは差し控えておきましょう――」彼は言葉を切った。「いまのところはね。デウィットさん、あなたはロングストリートと、南米のある鉱山の冒険的事業で財産を作り、合衆国に一緒に戻ってから、巨額な資本で仲買業を始められたそうですが、するとあなたの鉱山は大当りをとったのですね。たしか戦前でしたね?」
「そうです」
「鉱山というのは南米のどこですか?」
「ウルグアイです」
「ウルグアイ、なるほど」レーンは半ば眼を閉じた。「では、マキンチャオさんはウルグアイ人ですね?」
デウィットは口を開け、その眼は疑惑で曇った。「どうしてマキンチャオをご存じですか?」と尋ねた。「ジョーゲンズだな、困ったやつだ。あれに言っておくべきだった――」
レーンが鋭く言った。「それは間違ってますよ、デウィットさん。ジョーゲンズは立派な男で、忠実な執事です。彼は、私があなたのためを思って訊いているのだと分かって、初めて話してくれたのです。むしろ見ならうべきです――私の気持をお疑いになるなら別ですが」
「いや、失礼しました。そうです、マキンチャオはウルグアイ人です」デウィットは苦悶していた。瞳が左右に動き、あの狂気が戻っていた。「しかしレーンさん、マキンチャオのことでは、もういじめないでください」
「しかし私は追求せねばなりません、デウィットさん」レーンの眼はギラギラしていた。「マキンチャオとは誰です? 職業は? お宅に滞在中の不思議な行動はどう説明されます? この質問にはぜひ答えていただきましょう」
デウィットはスプーンでテーブル・クロースの上に意味のない模様を描きながら、蚊の鳴くような声で言った、「どうしてでもと言われるなら……特別な意味はありません、何も。純粋に商売上の客で、マキンチャオは――ある南米の公共事業の状況を調べに来たんで――うちの商会に公債の発行を委任したいと言って来たのです……完全に合法的な事業ですが。私は――」
「すると、あなたは、ロングストリートと、この公債発行の委任を受けることに決められたのですか?」レーンは無表情に訊いた。
「それは――私たちは――その、考慮することにしました」デウィットのスプーンはテーブル・クロースの上に、せわしく幾何学模様を描いていた。角、曲線、直角、菱形。
「考慮することにした」レーンが冷たく繰り返した。「なぜ、そんなに長く滞在したのですか?」
「それは、確か……分かりません。他の所を当っていたのかも……」
「住所を教えていただけますか?」
「さあ――はっきりは知りません。よく動き廻っていて、決して一か所に長く落ち着いていませんから……」
レーンは不意にクックッと笑った。「嘘は下手ですね、デウィットさん。この話はこれ以上つづけてもまるで無駄のようですから、あなたが嘘がつけなくなって、私もあなた自身も当惑してしまわないうちに、このへんで止めにしましょう。失礼します、デウィットさん。あなたの態度は、人間性を判断することにかけては鼻を高くしていた私の能力にきびしい批判を与えてくれましたよ」
レーンは立ち上がった――給仕がスプリングから飛びだしたようにとんで来て、椅子を掴んだ。レーンは給仕の方に笑顔を向け、デウィットのうなだれた頭を見つめ、今までと変らぬ愛想のいい声で言った。「お気持ちが変ったら、いつなりとハドソン河の私の家、ハムレット荘にお出かけください。では失礼します」
レーンは、まるで死刑の宣告を受けたような、うちひしがれたデウィットを残して、去った。
給仕頭の後を、テーブルの間を縫いながら、レーンはちょっと立ち止まってほくそ笑み、それから食堂を出て行った。デウィットがなお坐っている席からほど遠くないところで、一人の男が食事をしていた。赤ら顔の男は、落ち着きのない様子で、レーンとデウィットが話している間中、聞き耳を立て、臆面もなく盗み聞きしていたのだ。
ロビーで、レーンは給仕頭の肩を叩いた。「デウィットさんと私が坐っていた席の近くにいた赤ら顔の男は――クラブ員かね?」
給仕頭は困った顔をした。「いいえ、ちがいます。刑事です。バッジを見せるなり、乗り込んで来たんです」
レーンはふたたび笑い、この男の手に一枚の紙幣を握らせ、ゆっくりと受付けに歩いて行った。事務員が飛び出して来た。
「すまないが、まず、クラブの医師モリス博士、次にクラブの書記のところに案内してくれないか」とドルリー・レーンが言った。
第九場 地方検察局
――九月十一日(金曜日)午後二時十五分
金曜の午後二時十五分、ドルリー・レーンは一方に大きな警察本部の塀があり、もう一方にはニューヨークの下町、さまざまな外国人商店のたち並ぶセンター街を、元気に歩いていた。ニューヨークの主席検察官の住むにふさわしい百三十七番地の十階建てのビルのところまで来ると、レーンはその中に入り、廊下を渡ってエレベーターに乗り、上に昇った。
いつものように彼の表情は完全に調整され、まったくの無表情になっていた。生涯にわたっての舞台上の訓練が、アクロバットの四肢《しし》のように、顔の筋肉を自由自在に調節するようになったのである。だが今、人目にこそつかないが、彼の眼には、はっきりと輝きがみとめられた。昂奮の、期待の輝き――やぶの蔭に身をひそめて銃をかまえる猟師の眼の燃えるような輝き――きびしい生活と鋭い思想から生れる光輝と喜悦であった。この眼を見れば、この人物が不具の身で、不自由な生活をしているとはとても思えない。……何ものかが彼の自我を刺戟するのだ。彼の身体には新たなエネルギーが溢れ、自信と力と機敏さの新たな水路に、活力に満ちた流れを放出する。
しかし彼がブルーノ地方検事の外の室のドアを開けた時、この光はすでに消され、やや年老いた服を着こんだ、ただの若々しい人物に変っていた。
係官が慎重な声で、執務室の伝達器に声をかけた。「はい、ブルーノ検事」彼は振り向いた。「おかけになりませんか? ただ今警察部長と会議中ですので、お待ちいただけますか?」
では、と言ってレーンは腰をかけた。彼はステッキの柄に顎をもたせた。
十分後、レーンが眼を閉じて静かに待っていると、ブルーノの私室のドアが開いて、警察部長の背の高い堂々たる姿の後につづいて、地方検事が現われた。係官が立ち上がったが、レーンが坐ったまま、まだ眠っているようなので狼狽した。ブルーノはにっこりしてレーンの肩を叩いた。瞼があがり、おだやかな灰色の瞳が不思議そうに動き、それからレーンは椅子から飛び上がった。
「ブルーノさん」
「ようこそ、レーンさん」ブルーノはまじまじとレーンを見つめている警察部長に向き直って言った。「レーンさんです――警察部長のバーベイジさんです」
「光栄に存じます、レーンさん」部長はレーンの手を握って、太い声で言った。「あなたの舞台を――」
「私という人間ははなやかな過去に生きているようですな」レーンが笑い飛ばした。
「とんでもない、とんでもない! 以前とは変っておられない。ブルーノさんがあなたの新しい天分を話してくれました。あなたがヒントを与えてくだすったが、まだブルーノさんには分からないようですよ」部長は大きな首を振った。「われわれの誰にもわからんでしょう。サムもそう言っておりました」
「年よりの特性でしてね、ブルーノさんには鼻持ちならないでしょうね」レーンは眼を細めた。「バーベイジさん、有名なある人の名前を想い出しました。リチャード・バーベイジという当時の大名優の名で、ウィリアム・シェークスピアの三人の終生の友の一人でした」部長はぼんやり微笑んだ。
三人はしばらく話してから、バーベイジ部長は辞去し、ブルーノはレーンを私室に案内した。サム警部が苦虫をかみつぶしたような顔つきで、受話器にとりついていた。彼は耳をレシーバーに当てたまま、太い眉をぴくりと上げて挨拶した。レーンはサムに向って腰を下ろした。
「よく聞け」警部が言った。受話器の声に耳を傾けているうちに、彼の顔はいよいよ赤くなり、ものすごい憤激が今にも爆発しそうだった。「一体おまえは、このおれをからかうつもりか? はっきり言え……うるさい! 今日の午後二時半におれに電話しろと、おれが言ったって? おまえに何か命令があるって? どうかしてるんじゃないか! ばかな!……何? おれが自分で言ったって? おい、ちょっと待て」サムは振り向いて、ブルーノを見た。「部下の一人だが、気が狂ったらしいんです。もしもし!」彼は電話口にどなった。「おれに手伝って|敷物をめくった《ヽヽヽヽヽヽヽ》? どんな敷物だ、とんま?えっ、ちょっと待て」彼はまたブルーノを見た。「本物の気狂いだ。昨日ウィーホーケンのウッドの下宿で、私が捜索したと言うんです。いや、本当かもしれないぞ! もしかすると――あなたが!」彼は狂気のように叫んだ。「誰かがやったのかも……」それから、彼の眼は、おもしろそうに彼を見つめているドルリー・レーンの上に注がれた。顎が下がり、熱っぽい眼に理解の色が忍びこんだ。気むずかしい苦笑が顔に広がり、電話にどなりこんだ。「オーケー、考え直した。そのまま部屋を見張っててくれ」彼は受話器をかけるとレーンに向って、デスクに両肘をドンとついた。ブルーノは当惑顔に二人を見比べた。「レーンさん、あなたですね?」
レーンの顔つきが変った。「警部さん」彼は重々しく言った。「もし私が、あなたのユーモアのセンスを疑っていたとしたら、もうすっかり解消しましたよ」
「いったい、どういうことなんです?」ブルーノが尋ねた。
サムは口から垂らしていた葉巻をくわえなおした。「こういうことです。昨日のことですが、私はウィーホーケンに行って、管理人のマーフィー夫人に会い、ウッドの部屋を探して、敷物の下から銀行通帳を見つけました。その時に、六年も私の下で働いている部下に手伝わせて、それから帰って来ました。考えてみると奇蹟みたいですね。私はウィーホーケンにいながら、センター街のここで、私の部屋で、あなたと話をしていたんですから!」
ブルーノはレーンを見て、笑いだした。「それはちょっと不当ですな、レーンさん。それにちょっと危険ですよ」
「いや、絶対に危険ではありませんよ」レーンがおだやかに言った。「扮装にかけては世界第一流の人間がついてますからね、ブルーノさん。……警部さんには謹しんであやまらなければなりませんが。昨日あなたに変装したのには、重大な、厳然たる|わけ《ヽヽ》があったのです。あなたの部下の刑事に命令したのは、子供っぽいいたずらだったかもしれません、が、それも、確かに異例ではありますが、あなたに、この私の大役を知らせたかったからです」
「今度なさる時は、私に私自身を見せてくださいよ」サムがうなった。「危険な――」彼は顎を突きだした。「正直言って、私には――まあ、よしましょう。その銀行通帳というのを見せてください」
レーンは上着の下から銀行通帳を取り出した。サムは受けとって中を調べ始めた。「警部さん、近いうちに別の人間になって、もっと驚ろかせてあげますよ」
サムの指は、通帳の間に插んである五ドル紙幣をねじっていた。「いや」彼はにやりとした。「レーンさんは少なくとも正直です」彼は通帳をブルーノに投げ、ブルーノはそれをあらためると、引き出しにしまった。
「私がこちらにうかがったのは」レーンがきびきびした口調で言った。「なにも警部さんのまごつくのを見たかったからではありません。じつはおねがいが二つあります。一つは、あの日のモホーク号の乗客の、完全なリストの写しを一部いただきたい。いただけるのがありますか?」
ブルーノはデスクの一番上の引き出しを探し、薄い一綴りの紙を手渡した。レーンはそれをたたんでポケットに入れた。「もう一つは、過去数か月間の全失踪人の完全な名簿をいただきたい。これからも毎日増えるでしょうが、それも揃えていただけるでしょうか?」
サムとブルーノは顔を見合わせた。ブルーノは肩をすくめ、サムは不精不精、失踪人係に電話で命令を下した。「完全な名簿はあります、レーンさん。ハムレット荘の方へお送りします」
「ありがとう、警部さん」
ブルーノは戸惑って咳をした。レーンが親しげに好奇の眼を向けた。「先日」地方検事が始めた。「決定的な行動をとる前に知らせるように言われたが……」
「決断が下ったのですね」レーンがつぶやいた。「どういうふうにですか?」
「チャールズ・ウッド殺害のかどでジョン・デウィットを逮捕します。サムも私も有力な論拠を得ました。警察部長も私の話を聞いて、手を打つように言ってくれました。きっと起訴にもちこみますからね」
レーンはきびしい面持ちだった。頬のなめらかな皮膚がひきしまった。「すると、あなたとサム警部は、やはりデウィットがロングストリートを殺害したと信じているのですね」
「もちろんです」サムが言った。「あなたの言われるX氏というのが事件の鍵です。二つの犯罪は同一の人間の手で行なわれた、疑問の余地はありません。動機も手袋のようにピタリと合います」
「適切な表現ですね」レーンが言った。「巧い、警部さん。で、その逮捕はいつですか、ブルーノさん?」
「実際、急ぐ必要はありません」ブルーノが言った。「デウィットは逃げられませんからな。しかし、おそらく明日じゅうには逮捕します――」暗い声でつけ加えた。「その間に、われわれの気持ちを変える事態が起こらないかぎりはね」
「どうしても神業ですか、ブルーノさん?」
「まず駄目でしょう」ブルーノが顔を歪めて笑った。「レーンさん、警部と私がハムレット荘でロングストリート事件の大要をお話した時、あなたはもう結論らしいものをお持ちのようでしたが、デウィットの逮捕はその結論と一致しますか?」
「残念ながら」老優はもの思いに沈んだ声で言った。「あまりにも早計です……論拠をお持ちのようですが、どんなに強力なのですか?」
「デウィットの弁護士をしばらくは眠らせないくらい強力なものですよ」地方検事が返答した。「デウィットに対する検察側の考えは、だいたい次のようなものです。デウィットはこれまでの調査で分かった限りでは、ウッドと同時に乗船し、二往復後、殺害事件が起きた時にも、なおモホーク号上にいた、唯一の乗客でした。これは重大な点です。おまけに殺害事件直後、下船しようとした。二往復したという彼の説明は(最初はまったく否定している、この点をわれわれは強調します)薄弱で、まったく根拠がありません。約束があったなどという話はでたらめです。でたらめであるという証拠はちゃんと二つの事実に表われています。つまり、『電話の主』が現われなかった、ということと、電話だから証明ができない、ということです。ですから、電話呼び出しのデウィットの話は、架空のものだということになりますよ。ここまでのところで、どうですか、レーンさん?」
「ありそうなことですが、はっきりした証拠に欠けていますね、どうぞ先を」
ブルーノの鋭い顔が動いた。彼は天井を見上げて話しだした。「犯行のあった上甲板に、デウィットは近づけます――乗船者なら誰でも行けますがね、――しかも十時五十五分以後、誰ひとりデウィットを見たものがいない。デウィットが自分のものだと認めている、帯の頭文字からだけでも彼のものだと分る葉巻が、死体から見つかった。彼は以前に葉巻をウッドにやったことは、どこでもない、と言っているが――口実ですよ。実際これはわれわれにはかえって有利です、つまり、死体に葉巻があったということは、殺害前にどこかでデウィットがウッドに葉巻をやったという可能性も出て来るからです」
レーンは黙って両手をたたいた。
「さらに、葉巻は、渡船した時、ウッドは持っていなかった。したがって船上で、彼がもらったことは間違いない」
「もらった?」
ブルーノは唇をかんで、「少なくも妥当な解釈です」と言った。「葉巻に関する限り、私は、デウィットはウッドに船で会って彼と話をした、という推論をとります――これで行きますと、デウィットの二往復の件と、ウッドとデウィットの乗船していた時間の件、それにウッドの殺害とが説明できます。葉巻は彼がウッドにやったか、ウッドが話の途中にねだったか、どちらかです」
「待ってください、ブルーノさん」レーンがやわらかく言った。「すると、デウィットはウッドに葉巻をやった――あるいはねだられたかもしれないが――、その後でウッドを殺して、ウッドの身体に、自分に嫌疑のかかるような証拠の品を残したことをすっかり忘れてしまった、というのですか?」
ブルーノは短く笑った。「レーンさん、犯行を犯す時は、人は馬鹿なことをするものですよ。デウィットも明らかに忘れたのです。ひどく昂奮していたでしょうからな」
レーンは、どうぞ、というように腕を振った。
「では次に」ブルーノがつづけた。「動機です。もちろん、ウッドを殺したについてはロングストリート殺害と結びつくものがなければなりません。はっきりした証拠はありませんが、動機は確かに明白です。ウッドはロングストリートの犯人を知っていると警察に手紙を書いた。それを暴露しに行く途中で彼は殺された――推定ですが、口を塞ぐためにです。彼の口を封じたいと思うものはただ一人しかない――ロングストリートの犯人です。これ即ち、陪審員諸君」ブルーノはふざけた調子でつづけた。「デウィットがウッドを殺したのなら、彼はロングストリートをも殺したことになる、云々」
サムが大声をあげた。「レーンさんはあなたの言うことなんか一言も信じはしませんよ、ブルーノさん。むだです――」
「サム警部!」レーンはおだやかな非難を向けた。「私の態度を誤解されては困ります。ブルーノさんは避けがたい結論と思われるものを指摘された。私もまったく同意見です。チャールズ・ウッドの犯人は確かにハーリー・ロングストリートを殺した。この結論に至られたブルーノさんの論理過程は、しかし別問題ではありますが」
「するとあなたも」ブルーノが叫んだ。「デウィットだとお考えで――」
「どうか、ブルーノさん、つづけてください」
地方検事は顔をしかめ、警部は椅子にもたれてレーンの有名な横顔をにらんだ。「ロングストリートに対するデウィットの動機はかなり明白です」気づまりな沈黙を破って、地方検事が言った。「この二人の間には険悪な血が流れていました。ファーン・デウィットとのスキャンダル、ロングストリートがジャンヌ・デウィットに情欲で言い寄ったこと、中でも一番重要なことは、ロングストリートは長い間、理由は分からないが、デウィットをゆすっていた。さらに、動機とは別の確証ですが、デウィットは、ロングストリートが電車で新聞の相場欄を読むこと、そのため眼鏡を取り出すこと、この習慣を誰よりもよく知っていたので、ロングストリートが針のコルクで自分の手を突くとか、その他細かい点まで計画を練ることができた。車掌のウッドが、デウィットがロングストリートの犯人だという手がかりを得たことについては、われわれは、デウィットが最初と今度の犯罪の間に少なくとも二回ウッドの電車に乗ったことを知っています」
「で、その手がかりというのは?」レーンが尋ねた。
「その点はまだ分かっていません」ブルーノが顔をしかめた。「両方の殺人現場にいたのはデウィットだけです。しかし、われわれにはウッドがどうして知ったかを明かす必要はありません。――彼はたぶん知った、という事実だけで、私の論旨には充分です。……起訴する側の論拠として、非常に有力な点は、われわれの知る限り、ロングストリートが殺された時にその電車に乗っていて、ウッドが殺された時にも渡船にいた唯一の人間、それはデウィットだということです!」
「それだけで」とサムがうなった。「論拠は充分ですとも」
「法律的立場からもおもしろい」地方検事が考えこんで言った。「葉巻という事実は強力な証拠になる。その他のデウィットに関する推論、状況からも陪審員の起訴は保障できる。私によほどの思いちがいがなければ、陪審員の評決を聞いて、デウィットもガックリするでしょうよ」
「腕ききの弁護士なら、別の面で論駁《ろんばく》しますよ」レーンがおだやかに言った。
「ということは」ブルーノがすかさず言った。「デウィットがロングストリートを殺したという確実な証拠がないということですか? デウィットは、個人的な理由で名前を隠しているが、誰かにモホーク号におびき出された。そして葉巻はその誰かがウッドの身体に入れた――言いかえれば、デウィットはウッドの犯人に仕立てられた、というのですか?」ブルーノが笑った。「もちろん、そういう弁護も成り立ちましょう、レーンさん。しかし、その場合、弁護士は、電話の生きた相手を連れて来なくてはね。だめですよ、そんな議論は理屈にならない。デウィットは口を割らない、話したがらない、急速にデウィットがこの態度を変えない限り、絶対に彼に不利です。心理的にもわれわれのものですよ」
「おい」サムが口汚なく言った。「何を言ってもどうにもなりゃしない。レーンさん、われわれの立場はこうですが、あなたの考えはどうなんです?」彼は大地をしっかりと踏みしめて、まさに敵をやっつけようとするような、はげしい語調で言った。
レーンはかすかに微笑して眼を閉じた。ふたたび眼を開いた時、それはキラキラと輝いていた。「どうやら」と彼は椅子のなかで身体をねじると、二人に向った。「あなた方は罪と罰に対して、多くの演出家が戯曲とその解釈というつながりで犯しているのと同じ間違いを、犯しておられるようですね」
サムが大きく鼻をならした。ブルーノはしかめ面をして椅子にもたれた。
「間違いというのは主にこういうことです」レーンは両手でステッキを握ってにこやかに言った。「あなた方は問題に取り組むのに、子供たちがサーカスにもぐり込もうとする時――後向きにテントの中に入るそれと同じやり方をしていられる。おそらくこれではお分かりにならないでしょう。ひとつ、戯曲から同じ例をとってみましょう。
われわれ、いわゆる舞台芸術家は、定期的に、演出家から、また『ハムレット』を上演するからと言われては、あらためてこの傑作の不朽性を想い起こさせられるのです。ところで、この善意の、しかし方針を誤った演出家が先ず行なうことは何か? 彼は弁護士と相談の上なぐり書きして、驚くべき契約書を草案し、時をたがわず、その台なしにされてしまった古典に、名優バリモア、あるいはハムデンを主役にすると公表する。力点は完全にバリモア、ハムデンに置かれる。つまり呼び物はバリモア、ハムデンということになる。観衆もまったくこういう気持ちで応ずる――彼らはバリモアあるいはハムデンの熱演を見に行き、戯曲自体の雄大な魅力はまったく見すごしてしまう。
スター偏重の弊《へい》を改めようとして、優秀な若手俳優マッシーを主役に起用したゲデスの試みも、やはり戯曲を、別の面で台なしにしてしまったため、これもまた思慮のないことでした。マッシーがハムレットを一度も演じたことがないというのが、ゲデスにとっては妙案でした。この戯曲の本来の意図はいくらか果されました――つまり、ハムレットを自分なりに解釈し、伝統的な解釈は避けたのです。ところが、台詞を刈り込み、マッシーを指導して、その結果、ハムレットは哲学的であるというより、抜け目のないスポーツ青年になって、ぜんぜん別の物語りになってしまったのです……
このスター偏重は、いつの世も、この偉大な戯曲家にとっては残酷です。映画でも同じことが言えます。ジョージ・アーリスは映画で歴史上の人物の役を演じています。観衆は、声と肉体で不思議にも生命をとり戻したディスレリーという人物を見に集るのでしょうか? あるいはアレキサンダー・ハミルトンを見た? そうではない。観衆は、ジョージ・アーリスが単に他人に扮したすばらしい演技を見に集るのです。
「こうして」とドルリー・レーンは言った。「誤ったところに力点がおかれ、解釈が歪《ま》げられてしまうのです。あなたがたの現在の犯罪捜査の方法も、アーリスをほめちぎり、『ハムレット』にバリモアをキャスティングするという現代のやり方と同じく、平衡を欠き、ひどい誤りをおかしていることになる。演出家はバリモアに合うように『ハムレット』を作り、少しずつ削り、均衡を変えて、筋書きを作り変えてしまう。シェークスピア本来の作品の均衡に、バリモアを合わせようとはしない。あなた方、サム警部もブルーノ検事も、ジョン・デウィットに合わせて犯罪を作り、少しずつ削り、均衡を変えて、筋書きを変えてしまい、ジョン・デウィットが犯罪の決定的な細部に合うかどうかを測ろうとしない。曖昧な点、削除したもの、不可解な事実、副事実、これらはあまりにも自由自在に仮説を作ってしまった結果、でて来るのです。問題はつねに、動かしがたい事実としての犯罪それ自体から、追求していかねばなりません。仮説が細かい事実と相容れなかったり、対立することになったら、間違っているのは仮説の方です。お分かりになりますか?」
「なるほど、レーンさん」ブルーノの額にしわが寄り、全体の様子がかすかに変った。「見事な比喩です。私は根本的には真実であることを疑いません。しかし、そうしょっちゅう、あなたの言われるような方法がとれるものでしょうか? われわれには活動が必要です。上司、新聞、公衆にわれわれは追い立てられるのです。曖昧な点が二、三あっても、それはわれわれが悪いのでなく、説明のできない、おそらく無関係な、取るに足らないことなのです」
「たしかに論議の種になる問題ですね……まあ、しかし、ブルーノさん」レーンは唐突に言った。――彼の表情はなめらかになり、ふたたび謎めいていた。「おもしろい議論ですが、あなたに同意して、これは法の処置に任せることにしましょう。とにかく、ジョン・デウィットをチャールズ・ウッド殺しの犯人として逮捕することですな」
老優は立ち上がり、笑って頭を下げ、急いで部屋を出た。
ブルーノは廊下のエレベーターまで彼を見送り、困惑した様子で戻って来た。サムの顔からは、あの独特の苦い表情も消え去り、椅子に坐ったまま、検事を眺めていた。
「ところでサム、君はどう思う?」
「どう思うって、分かりゃしませんよ」サムが言った。「最初のうちは、レーンなんて、くだらないことを言う老いぼれのほらふきだと思っていたが、どうも……」彼は立ち上がって敷物の上を歩きだした。「さっきの話は、よぼよぼ爺さんのおしゃべりではないような気がする……それはそうと、いいことを聞かせてあげましょう、レーンが今日デウィットと昼食をしたんですよ。さっきモッシャー刑事から報告が入ったんです」
「デウィットと昼食を? しかしレーンは一言もそんなことを言わなかった」地方検事が口ごもった。「デウィットについて、ひそかにかくしていることがあるんじゃないかな」
「いや、デウィットと共謀してるとは思えません」サムが冷たく言った。「モッシャーは、レーンの去った後、デウィットが叱られた犬みたいにションボリしていた、と言ってますから」
「あるいは」ブルーノは揺り椅子に深くかけて溜息をついた。「あるいは彼は、われわれの味方かもしれないぞ。彼に何かを探し出すチャンスがあるなら、われわれは彼にくっついて、その汁を吸おうじゃないか……いや」彼は最後に顔をしかめてつけ加えた。「できることなら苦くないやつをな!」
第十場 ハムレット荘
――九月十一日(金曜日)午後七時
ドルリー・レーンは、コザック風の男を連れて――やせて、蒼い顎は歩く度にガクガク揺れた――ハムレット荘の個人劇場のロビーに入って来た。劇場は、広いホールと平行している廊下を通って、ガラス張りの壮麗な壁から場内に出入りができる。ロビーは、ふつうの劇場のように、金泊づくめのけばけばしさはなく、その主調はブロンズと大理石である。ロビーの中央に立派な彫像が立っている。ゴワ卿の有名な記念碑のブロンズの複製で――高い台座の上にシェークスピアの胸像がある。その下の両側に、レディ・マクベス、ハムレット、プリンス・ハル、フォルスタッフの像が立っている。ロビーの向うにはブロンズの正門がそびえている。
身ぶり手ぶりで話す連れの男の唇を鋭く見つめて、レーンは背の高い身体を縮めて、扉を開けた。二人は劇場の中に入った。ます席も、ロココ風の装飾も、高い天井から下がった壮麗なクリスタルガラスのシャンデリアも――バルコニーも、全面の壁画もない。
舞台では、頭の禿げ上がった仕事着の若い男が梯子に乗って、奇妙な印象画風の背景の中央に――奇妙にねじれた家が両側に立ち並ぶ横町――力いっぱい絵筆を振り廻していた。
「いいぞ、フリッツ!」この若い男の仕事ぶりを眺めようと、場内の後に立ち止まって、レーンは大声で言った。「気に入った」劇場はがらんとしていたが、レーンの声は少しもひびかなかった。
「ところで」最後列の席に腰をおとしてレーンが言った。「アントン・クロポトキン、おまえには自国の人の作品の潜勢力を軽視する気味があるようだが、グロテスクなものの下に、真のロシア人の情熱がかくされているのだよ。その戯曲を英語に焼きなおせば、スラヴ的な情熱が希薄になってしまうのだ。おまえが強調するように、アングロ・サクソンの言葉で書き直すと……」
ブロンズのドアが内側に音を立て、小さな、背を曲げたクェイシーの姿が劇場内によろよろと入って来た。クロポトキンが巨体を揺らした。レーンがこのロシア人の眼を追った。「クェイシー。劇の神聖を侵す気か?」レーンはやさしく言った。それから眼を細めた。「疲れたようだな、カジモド。どうした?」
クェイシーは巨体のクロポトキンにぶつぶつ挨拶して、近くの席にふらふら歩いた。彼は訴えるように言った。「大変な目に会いました――天の善良な神様にしかできないことですよ。疲れたかって? 私は――私はもうくたくたです!」
しわだらけの老不具者を、まるで子供のようになだめて、レーンはその手を軽く叩いた。「で、首尾は?」
クェイシーの革のような顔に歯が光った。「どうして、どうして。あれでも南米の領事はお国のために働いているのですかね? けしからんです。みんな留守なんですよ。休暇で……無駄な電話で三時間もつぶしてしまい――」
「クェイシー、クェイシー」レーンが言った。「なによりも初心者の忍耐だよ。ウルグアイ領事にもかけてみたか?」
「ウルグアイ? ウルグアイ」老人がしわがれ声で言った。「かけてないと思いますよ。ウルグアイ? 南米にそんな国がありますか?」
「ある。きっと手応えがあるはずだ」
クェイシーは顔をしかめた。言うに言われぬ変な顔をして、大きなロシア人の脇腹を憎々しく小突いた。そしてぱたぱたと劇場を出て行った。
「どぶねずみめ!」クロポトキンが大声を上げた。「痛い!」
十分後、クロポトキンとホフとレーンが新しい戯曲について話し合っていると、ふたたび老人がにやにやして戻って来た。「結構なご指示でした、レーンさま。ウルグアイ領事は十月十日の土曜まで戻って来ません」
クロポトキンは大きな足で立ち上がり、通路を踏みならして歩いて行った。レーンは眉をひそめた。「運が悪かったな」彼はつぶやいた。「また休暇か?」
「そうです。ウルグアイに帰ったそうで、領事館では他に誰も分からないと――教えてくれようともしないので。領事の名前はホアン・アホス、綴りはAJOS……」
「私は」ホフが考えこんで言った。「私はこの作品で一つの実験をしてみたいのです、レーンさん」
「アホスは――」クェイシーが目ばたきして言いかけた。
「何だね、フリッツ?」レーンが言った。
「舞台を横に区切ってみてはどうでしょう? 機械力ですれば大してむずかしい問題ではありませんが」
「ただ今、電話で――」クェイシーが必死に言い始めた。しかしレーンはホフを見つめていた。
「考慮の価値ありだね、フリッツ」老優が言った。「おまえは――」
クェイシーはレーンの腕を引っぱった。レーンが振り向いた。「おお、クェイシーか! まだ何か?」
「さっきから声をかけているのに」クェイシーが歯をむき出して言った。「サム警部からの電話で、ジョン・デウィットを今逮捕したということです」
レーンはそっけなく手を振った。「ばかな、しかし、それもいいだろう。他には?」
せむしの男は、掌で禿げた頭をなでた。「警部は、ただちに起訴されるだろうが、公判は一か月くらい先になるだろうと言ってました。なんでも裁判所は十月にならないと開かないとか、そんなことを言ってまして」
「そうと話がきまれば」レーンが言った。「ホアン・アホス氏は静かに休ませておいてあげよう。キャリバン、おまえも休みなさい。引きとっていい!……では、フリッツ、君のそのインスピレーションを検討しよう」
第十一場 ライマン・ブルックス・アンド・シェルドン法律事務所
――九月二十九日(火曜日)午前十時
ファーン・デウィット夫人は、激しく尾をふる牝豹のようないきおいで、応接室の中を歩き廻っていた。豹の皮で縁どりしたスーツを着、豹の皮の縁どりのあるターバンを巻き、豹の皮で縁どりした何とも言えぬ奇妙な靴をはいていた。その黒い瞳には牝豹のような獰猛《どうもう》な光りがきらめき、女盛りをすぎた、厚化粧の顔は、幾世紀もの残忍性を内に秘めたトーテムのマスクのようでもある。しかもその厚化粧の顔の下には、すさまじい恐怖の色があった。
もっとも応接室係のものがドアを開け、弁護士のブルックスが面会すると告げた時、デウィット夫人は静かに椅子に腰をおろしていた。それまでの演技は、彼女自身の艶麗さをかきたてる手段にすぎなかったのである。かすかに笑って彼女は豹の皮の縁どりをしたハンドバッグを取り上げ、係に従《つ》いて法律書の並んだ長い廊下を通り、「ブルックス私室」と書いてあるドアのところまで来た。
ライオネル・ブルックスはその名の通り、堂々たる風格の人物である。大きな体躯で、房々したブロンドの髪が白くなりかけている。じみな服を着け、その眼は暗い心痛で沈んでいた。
「どうぞおかけください、デウィット夫人。お待たせしてすみませんでした」彼女はかたくなって、それに応じたが、煙草は断った。ブルックスは机の端に腰をかけて、空間を見つめたままだしぬけに言った。
「わざわざお出でを願って、何のことかと思っておられるでしょう。実は重大な要件がありまして、とても申しあげにくいのですが、私はただ中に立ってお取り次ぎをするのだということをご承知ください、デウィット夫人」
夫人は真赤に塗った唇を動かしもせずに言った。「よくわかっております」
ブルックスは先をつづけた。「私は毎日拘置所で、ご主人とお目にかかっております。むろん第一級殺人容疑なので、法律上保釈は認められません。ご主人はこの拘留を、その何と申しますか、あきらめておられます。しかし、これは今日のお話とは関係のないことでして。奥さん、昨日、私はご主人から伝言をことづかったのです、それは、容疑が晴れて釈放されしだい、ご主人はあなたとの離婚訴訟を起こされるということです」
彼女の眼はぴくりともしなかった。思いがけない一撃に打ちのめされた様子もなかった。その大きなスペイン風の眼の奥で、何ものかが燃え始めると、ブルックスは急いでつづけた。
「ご主人はこういうことを申されています、もしあなたが離婚に反対されず、世間を騒がせずにこれに応じられるなら、あなたが今後ひとりで通されるかぎり、奥さん、ご主人は年額二万ドルを支払われます。私の感じですが、このような事情では――」ブルックスは机から下りて、机の廻りをまわろうとした。「このような事情では、きわめて寛大な申し出です」
デウィット夫人は強い調子で言った。「応じなかったら?」
「一文ももらえず離婚されるだけです」
彼女は怖ろしい笑いをみせた。なぜなら、眼の奥の炎が消えず、唇がゆがんだだけだったから。「あなたも、デウィットも、ずいぶん甘く見ているんですね。離婚手当というものがあるじゃありませんか」
ブルックスは坐って、ゆっくりと煙草に火をつけた。「しかしこの場合、離婚手当はうけられません」
「弁護士のあなたがよくもそんなことを」頬の紅が火のように燃えた。「捨てられた妻には扶助をうける資格があるんですよ!」
ブルックスは、彼女の金属性の声にたじろいだ。彼女は人間味のない、まったく機械的な口調でしゃべった。「あなたは捨てられた妻ではないのです、奥さん。もし示談に反対して、裁判で黒白を争うというのなら、法廷の同情はご主人に集って、あなたにはありませんよ」
「要点を言ってください」
ブルックスは肩をすくめた。「いいでしょう、そう言われるなら。――ニューヨーク州では離婚訴訟を起こせる場合は、ただ一つだけなのです。デウィット氏は証拠を握っておられます――こういうことを申し上げるのは心苦しいのですが、奥さん。何もでっち上げる必要もない、あなたの不貞の証拠を握っておられるのです!」
夫人は今度はじっとしていた。わずかに片方のまぶたをちょっと伏せただけだった。「どんな証拠を?」
「正式な宣誓をしたある証人の申し立てですが、今年の二月八日の早朝、ロングストリートのアパートで、あなたとハーリー・ロングストリートを見たと言っています。その日は、あなたは週末旅行で、市外に出かけたはずなのです。証言によると、その日の朝の八時に、あなたはうすいナイトドレス、ロングストリートはパジャマを着ていて、証人が見た時のあなた方二人は、間違いなく、ねんごろになっていたと言うのです。もっと申し上げましょうか、奥さん? 証言は、口には出しかねるくらい細部にまで触れているのです」
「もう結構です、結構ですわ」彼女は低い声で言った。眼の奥で炎が揺れていた。力が抜けて、やっと人間的になり、小娘のように震えていた。そして頭を急に上げた。「そのけがらわしい証人というのは誰ですか、女?」
「申しあげる自由はありません」ブルックスはきっぱりと言った。「あなたの考えていられることはわかりますよ。これは、こけおどかしで、でっちあげの話しだと思っていられるんですね」彼の顔がひきしまり、語調は冷たく白々しくなった。「われわれはその証言の記録を持っていますし、証人を掴んでいます。その証人は完全に信頼しうる人間です。しかもわれわれは、ロングストリートのアパートでの情事が、おそらく最後ではありましょうが、最初のものではなかったと証明することができるのですよ。くり返して申しますが、奥さん、このような事態では、デウィット氏の申し出は寛大なものです。この種の件を扱って来た私の経験から申しまして、申し出を受けられるようにお勧めします――悪評を捲きおこさず、おだやかに離婚に応じてくだされば、独身でいられる限り、年に二万ドルを受けられるのです。よくお考えください」
彼は最後通諜をつきつけるように立ち上がって、夫人を見下ろした。膝に両手を重ねたまま、彼女は床の敷物を見つめていた。やがて黙って椅子から腰を上げ、ドアの方へ行った。ブルックスは彼女のためにドアを開け、応接室のところまで送り、エレベーターのボタンを押し、無言のまま、二人はエレベーターの来るのを待った。ドアがあくと、彼はゆっくりと言った。「一両日のうちにお返事を待っています。弁護士を依頼なさるのでしたら、その弁護士を通じてで結構です」
彼の存在など無視して、彼女はさっとそばを通り抜け、エレベーターに乗った。エレベーターボーイがにやりとした、ブルックスは身体をゆらしながら、突立ったまま考えこんだ。
年下の相棒のロジャー・シェルドンが応接室からちぢれ毛の頭を出して、顔をしかめた。「帰ったかい、ライオネル? どんな風だった?」
「恐れ入ったよ、彼女は平然としてた、たいした女だよ」
「それならデウィットの方はだいじょうぶだ。彼女がぎゃあぎゃあ騒ぎ立てなければね。訴訟を起こしそうかい?」
「何とも言えないな。しかし彼女は、アンナ・プラットが証人だということをさとったかもしれん。プラットはあの朝、寝室を覗いた時、デウィット夫人に見られたかもしれないと言っているからね。女ってやつは!」彼はちょっと言葉を切った。「ロジャー、どうも不安だ、君はアンナ・プラットを誰かに監視させる方がいい。あれの正直さかげんもあんまり信用できない。デウィット夫人に買収されて、証言台で証言を否定されたらたまらんからな……」
二人は廊下を歩いて、ブルックスの部屋まで行った。シェルドンが言った。「ベン・カラムに監視させよう。彼ならああいうことには慣れているから。デウィットの方はライマンだが、うまくやっているかな?」
ブルックスは頭を振った。「すごく厄介だよ。ライマンも相当の重荷だ。デウィットが釈放される見込みがどんなにうすいか夫人が知ったら、彼女も離婚訴訟を気にかけなくてすむなどと、ロード青年も云っている。離婚されるより未亡人になる見込みの方がずっと大きいんだからな!」
第十二場 ハムレット荘
――十月四日(日曜日)午後三時四十五分
イギリス風の庭園の中を、ドルリー・レーンは、腰のあたりに軽く手を組んで、花の香をかぎながら、ぶらぶら歩いていた。そのそばに、茶色の顔に茶色の歯をきしらせながら、クェイシーが黙りこんで、ぐずぐず従《つ》いていた。それもみんな主人のためであって、老犬のような忠誠さで、自分の仕える主人の顔色を見て、それに合わせているのである。
「不機嫌そうに見えるかもしれないが」と、レーンはクェイシーのもじゃもじゃの頭に、目をやるともなしにつぶやいた。「かんべんしておくれ。私はときどきいらいらする。が、われわれの師は、あせるな、あせってはならぬ、とよく言われた。たとえば」彼は台詞でも云うような調子でつづけた。「『時はすべての罪人を裁く老判事。だから時に任せるがいい』『お気に召すまま』の美しい女主人公ロザリンドの台詞の中で、これ以上に真実のものはなかった。『時は巧みにかくすものをあばき出す。過ちを隠すものは遂には恥じて嘲りをうける』これはちょっとまずいが、真を衝いていないこともない。もう一つ『時の変転は報復をもたらす』これもまことに真実だ。それで……」
二人は、太い幹が二つに分かれ、ふしだらけで、灰色をし、頭上に覆いかぶさるような奇妙な一本の老木のところに来た。その幹の間にベンチが彫りこまれていて、そこにレーンは腰をかけた。そしてクェイシーに傍に来て坐るように手招きした。
「クェイシーの木か」レーンはつぶやいた。「われわれは、おまえの背中の|こぶ《ヽヽ》に記念碑を捧げたわけだ……」彼は半ば眼を閉じ、クェイシーは心配そうに前屈みに腰をかけた。
「ご心配のごようすで」クェイシーはこう口ごもってから、軽率なことを口にしてしまったとばかりに、あわてて頬ひげをつかんだ。
「そう思えるか?」レーンは軽く流し目をしてたずねた。「そうするとおまえの方が、私より私のことが分かる。……しかし、クェイシー、こうして時を待つのは、神経を鎮めているのではない。行き止まりに来ているのだ。心を動かす性質のものが、何一つ起こってくれない。そういうものが一体起こるものかどうか、とさえ私は疑っている。われわれは人間スフィンクスが動くのを見守っているのだ。ジョン・デウィットは、かくれた恐怖に苦しんでいた人間から、かくれた強壮剤で元気になった男に変っている。どんな薬が彼の魂に筋金を入れたのだろう? 昨日私は彼に会ったが、ヨガ行者のようだった――超然として、冷静で、悩みもなく、奥義をとらえた東方の行者のような平静さで、死を待っているように見えた。なんとも不思議だ」
「おそらく釈放されるでしょう」とクェイシーが言った。
「もしかすると」レーンはつづけた。「私が諦観とみたのは、ローマ的なストイシズムであったかもしれぬ。あの男は心の底に鋼鉄の細胞を持っている。面白い性格だ……他には――何もない。私は無力だ。だらしのない口上使いの役にまで成り下がっている。……失踪人課の係官は親切だった、が、報告書はポープの偽作詩人ほどに調べても無駄だった。サム警部は、あのユーモアのない腕で――純情な男だよ、クェイシー――あの三途の河の渡し船に乗った乗客を一人残らず、素性を調べあげたと言う。住所、身元、経歴、まったく異常がないと言う。また行き詰りだ……。結局は、そんなことはどうにもならない! あの場で姿を消したものがたくさんいる、それが抜けている。責められない……。至るところに姿をあらわすマイケル・コリンズは、ざんげする人がパフヌチウスの洞窟に這って行くような熱意で、ジョン・デウィットを法律上の墓場に訪ねている――しかし魂の救いはうけられない……。ブルーノ地方検事も、頭をかかえて弱りきっているのだが、ライオネル・ブルックス弁護士を通じて言うところによると、デウィット夫人はねぐらにひきこもり――、主人の申し出をこの際、受けいれるともいれないとも言っていないそうだ。抜け目のない、怖ろしい女だよ、クェイシー……。そして、イカサマ芝居をしているとはいえ、私の同業にあたるチェリー・ブラウン嬢は、地方検事の私室を訪れては、デウィットを起訴するのに助力を申し出ているが、彼女のあやしげな媚態以外には、検事側に提供するものはほとんどない――が、証言台に立って、かわいい腓や胸をのぞかせるとなると、有形資産になるにちがいないが……」
「いまが四月ごろですと、レーンさま」しばらく黙って下がっていたクェイシーが思いきって言った、「ハムレットの独白でも、お稽古していらっしゃるところだと、思いますがね」
「そしてチャールズ・ウッドは」ドルリー・レーンは溜息をしてつづけた。「ニュージャージー州に不滅の遺産を残した。請求を申し出る者なき遺産――九百四十五ドル六十三セント。預けるつもりで預金通帳の中にあった五ドル紙幣は、おそらく保管所で朽ちてしまうだろう……。ああ、クェイシー、何という奇蹟の時代に生きているのであろうか!」
第十三場 フレデリック・ライマンの住居
――十月八日(木曜日)午後八時
ドルリー・レーンの車が、ウェスト・エンド街の、あるアパートの前で止まった。門番が頭を下げて、車から降りたレーンをロビーに案内した。
「ライマンさんに」
門番は通話管を巧みにあやつった。ドルリー・レーンはエレベーターに導かれ、上へ上へと運ばれて、十六階で降ろされた。一人の日本人が歯をむき出して挨拶し、複式アパートに招じ入れた。かなり好男子の中背の男が、タキシードを着て出て来た。丸顔で、顎の下に白い傷痕があり、額が広く、頭髪はうすかった。日本人がレーンのマントと帽子とステッキを受け取った。二人は握手した。
「ご高名はうけたまわっています」ライマンは、レーンを書斎のひじかけ椅子に案内して言った。「申し上げるまでもないことですが、お出でいただきまして光栄に存じます。ライオネル・ブルックスからも、デウィットの件にあなたが興味をもっておられることを承わっております」
彼は書類と法律書の山になっている平らな机の縁を通って、席についた。
「デウィットの弁護では、さぞかし大変でしょうな、ライマンさん」
弁護士は椅子の脇に腰をずらせて、顎の下の傷痕を、苛立しげにいじり始めた。「大変?」彼は気むずかしげに机の上の乱雑ぶりに目をやった。「私はベストをつくしているのですが、この件はほとんど不可能です。デウィットには、態度を変えない限り、無罪にはならないと、くり返し言っているのですが、口を閉じて頑張っているのです。どうにもなりません。公判がはじまってから数日になるというのに、彼からは何一つ聞き出せません。まったくもって暗澹《あんたん》たるものですよ」
レーンはなる程と溜息をもらした。「ライマンさん、あなたは有罪の判決が下るものと予期しておられるのですか」
ライマンはむっつりした。「駄目でしょうな」彼は両手を広げた。「ブルーノ検事は必死になって説得力を発揮しています――彼はおそろしく頭のいい検事ですよ――それに、陪審員に非常に強力な情況証拠を提出していますのでね。私は十二人の陪審員をじっと見ていましたが、彼らはただただ感心するばかりでしてね。馬鹿ですよ、みんな」
レーンは、弁護士の眼の下がにぶく腫《は》れてくまどられているのを目にした。「ライマンさん、あの奇怪な電話の相手の正体を、デウィットがあかさないのは、恐怖のためだと、あなたは考えますか」
「わかりません」ライマンはボタンを押した。すると日本人が盆を持って、そっと入って来た。「何かお飲みになりませんか、レーンさん。クレーム・ド・ココアはいかがです、それともアニゼットでも?」
「いや、それではブラック・コーヒーを」
日本人が出て行った。
「正直に申しますと」ライマンは一枚の紙を前に引き抜いた。「デウィットには最初から困っているのです。ただあきらめているのか、何かひそかに用意があるのか、よくは分かりませんが、もしあきらめているなら、自分の運命を投げているようなものです。私は最善をつくしました。ご存じのことと思いますが、ブルーノは今日の午後で、検事側の論告を終りました。明日の朝から、私が弁護に立ちます。今日、閉廷後、判事室にグリム判事を訪ねましたが、いつも以上に押し黙ったままです。ブルーノの方はというと、意気盛んで、自信満々です。うちのものが耳にしたのですが、彼は裁判はこっちのものだと言ってるそうです……。しかし私は弁護士の仕事の経験から『大きな危険にのぞんでは、どんなわずかの希望も捨ててはならない』ということをいつも口にしているのです」
「シェークスピアに匹敵するにゲーテですか」レーンはひとりごちた。「で、弁護の方はどんな具合に?」
「ブルーノの論告とは逆にゆく以外に、今のところ手はありません――つまり、罠を仕組まれたのだと、抗弁するよりありませんな」ライマンは言った。「ある一点で、ブルーノの鼻をあかしてやろうと、反対訊問で攻めてきたのですよ――殺害後に、二度もデウィットがウッドの電車に乗ったのは確かですが、どうしてウッドは、デウィットが犯人だと見破ったのか、ブルーノに、これが説明できないところを、陪審員の前でたたいてやりました。つまり、デウィットは、あの電車に乗るのが習慣だったのですよ。その点、陪審員を完全に納得させたのですが、いくらブルーノの論拠の弱点をつっついたところで、ウッドの死体にあったあの葉巻という直接証拠だけは論破できないように思えるのです。これが難題ですね」
レーンは日本人からコーヒーを受け取って、考えこみながらすすった。ライマンはリキュールグラスを撫でまわした。
「それに、まだあります」ライマンは肩をすくめて、つづけた。「デウィット自身が最悪の敵なのです。ウッドに煙草一本だって、どこででも絶対にやったことはない、なんて警察に言ってくれさえしなかったら! 私だって筋の通った弁護の線が考え出せたでしょうに。おまけに、あの夜のことは見えすいた嘘をつくし……いやになってしまう」ライマンは小さなグラスを飲みほした。「デウィットは、最初は、一回しか渡し船に乗らなかったと言い、舌の根のかわかぬうちに、二往復したなどと――あの電話の主についてはあいまいだし――実を言いますと、法廷でブルーノがそのことでなじったことについては責められない気持ちです。デウィットの人柄を知らないでいたら、私も信じなかったですね」
「とはいうものの」レーンはおだやかに言った。「直接証拠をつきつけられると、デウィットについてのあなたの個人的な評価を、陪審員が受け入れるとはあなたには思えないのですね。そうだとしますと……ライマンさん、あなたの今晩のお話しの様子では、最悪の事態を予期しておられることは明白ですな。だが、おそらく――」にやりとして、彼はコーヒーを下においた。「おそらく、われわれは協力すれば、ゲーテの言う『わずかな希望』を利用することはできます……」
ライマンはかぶりを振った。「ご助力はとても感謝いたしますが、私には方法がわかりません。法的には、ブルーノの情況証拠にあくまでも喰い下るのが最善だと思っています。そして論告に疑わしき点があるとして、陪審員が無罪の評決をするようにしむけるだけです。こちらとしてはむずかしいことですが、反論の最善の線です。デウィットが頑固に口を閉じている以上、無罪を証明するのは至難の業ですからね」
レーンは眼を閉じた。ライマンは黙って、この勇者の頭をじっと見つめた。レーンは眼を開けた。そして、その灰色の眼の底に、ライマンは心からの驚きの色を見た。「ライマンさん」とつぶやくように言った。「私には不思議でならないのです。この件を扱っておられる鋭利な頭の人々のうち誰一人として、とるにたりないヴェールを突き通して、その下にある――すくなくとも私には――写真のように黒白のはっきりした真実を見ておられない、と思えるのです」
ライマンの顔に何ものかがひらめいた――一つの希望が、憔悴した希望の色が。「では」彼はせわしく尋ねた。「あなたは、われわれの誰も知らない重要な事実をつかんでいるとおっしゃるのですか? デウィットの無罪を証明する何かを?」
レーンは手を組んだ。「ところで――あなたは本当に、デウィットがウッドを殺したのではないと信じておられますか?」
弁護士は口ごもった。「それは公正なご質問ではありませんな」
レーンは笑って頭をゆすった。「では申しあげましょう……。今しがた口にしました写真のような真実ということと、私が何か新たな発見をしたのではないかというあなたの即座のご判断につきましては、……ライマンさん、私は、サム警部やブルーノ検事、それに、事件の当夜に起こった事実や情況を調べられたあなたご自身が知っておられること以外、何一つ知りません。ただ、デウィットは鋭い頭脳を持っていますから、別の立場、つまり彼自身が事件の中心人物でなかったら、この真実は見抜いていたかもしれませんね」
ライマンはたまらず椅子から立ち上がっていた。「一体、それは何なのです?」と彼は叫んだ。「おお、私にまた希望が湧いてきました!」
「おかけなさい」レーンはやさしく言った。「よくお聞きください、何ならメモでもして……」
「少しお待ちを、少しお待ちを!」ライマンは棚のところに走って行き、奇妙な器械を持って急いで戻って来た。「ディクタフォーンです――すっかり話してください。一晩中研究して、翌朝には公判で頑張ってみます」
ライマンは机の抽出しから黒いワックス・シリンダーを取り出すと、器械に取りつけて、マイクをレーンに手渡した。レーンはおだやかにディクタフォーンに向って話しだした……。九時三十分、レーンは喜びに小おどりするライマンのもとを去った。ライマンの輝やく眼からは疲労の色もすっかり消え、手はすでに受話器を掴んでいた。
第十四場 裁判所
――十月九日(金曜日)午前九時三十分
黒い服に身を包んだ小柄で、むっつりしたグリム老判事がいかめしく入廷し、廷吏が槌《つち》を叩いた。開廷がおごそかに宣せられ、人々のざわめきがしずまる。やがて、チャールズ・ウッド殺害容疑にかかわるジョン・オウ・デウィットの第五回の公判廷が静寂のうちに始まった。法廷の外の廊下までも静まり返っていった。
法廷は傍聴人でいっぱいだった。判事の席の前の囲みには、法廷速記者の机の傍にテーブルが二つあった。一方にはブルーノ地方検事、サム警部、それに幾人かの助手が、もう一方にはフレデリック・ライマン、ジョン・デウィット、ライオネル・ブルックス、ロジャー・シェルドン、それに数人の書記が席を占めていた。
柵《さく》の向うの満員の傍聴席には、見覚えのある顔が動めいている。判事席にほど遠くない片隅にドルリー・レーンが坐っていた。その隣りにはクェイシーの矮小《わいしょう》な姿があった。反対の隅には、一団になって、フランクリン・アハーン、ジャンヌ・デウィット、クリストファ・ロード、ルイ・アムペリアル、そしてデウィットの執事ジョーゲンズがいる。この近くに、黒い服で人目を惹くチェリー・ブラウンと、陰気なポラックスが。それからマイケル・コリンズは唇をかんでひとりでポツンと坐っている。同じ椅子にロングストリートの秘書のアンナ・プラットもいた。ずっと後に、顔にヴェールを被って、ファーン・デウィット夫人が身じろぎ一つせず、謎めいた姿で坐っていた。
所定の手続きがすむと、元気を取り戻したライマンがさっと立ち上がり、テーブルの向うから歩み出て、陪審員を気持ちよさそうにちらりと眺め、ブルーノ検事を見てにやりとし、それから判事に向って発言した。「裁判長、弁護人側の第一番目の証人として、被告ジョン・オウ・デウィットを喚問いたします!」
ブルーノ検事は席から半分立ち上がって目を丸くした。驚ろきのざわめきが法廷に広まり、サム警部は当惑顔に頭を振った。それまで落ちついていたブルーノの顔にかすかに不安の色が現われた。サムの方に乗り出して彼は手をかざしてささやいた。「ライマンのやつ、一体何をたくらんでいるのだ、殺人容疑の公判廷に被告を喚問したりして! おれにデウィット追求のチャンスを与えようというのか……」サムは肩をすくめた。ブルーノは独り言を言って元に戻った。「何かある」
ジョン・オウ・デウィットは宣誓をすますと、静かな引きしまった声で名前と住所を言い、証人席に坐り、手を組んで待った。法廷は水を打ったように静まり返っていた。小柄で、沈着な、まさに超然としたデウィットの態度は神秘的で測り難いものだった。陪審員は席から乗り出した。
ライマンがひどく優しく言った。「年は?」
「五十一歳」
「職業は?」
「株式仲買人。ロングストリートが死ぬ前は、デウィット・ロングストリート商会の共同経営者でした」
「デウィットさん、法廷と陪審員諸氏のため、九月九日、水曜日の夜の出来事、つまり、あなたが会社を出てから、ウィーホーケン船着場に着くまでのことを、話していただけませんか」
デウィットはまるで話しかけるような調子で語った。「五時半にタイムズ・スクエアにある社の支店を出て、地下鉄でウォール街の取引所クラブに行きました。それから夕食前にちょっと運動をしようと思って、たぶんプールで一泳ぎしようと思ったのでしょう、体育館に行きました。そこで何かの機械で右手の人差し指を切ってしまいました――深い傷でひどく血が出ました。クラブのモリス医師が血を止め、傷の消毒をして、手当てをしてくれました。モリス医師は指に包帯を巻こうとしましたが、私は、その必要はないと考えました。それから……」
「ちょっと、デウィットさん」ライマンがものやわらかに口を插んだ。「あなたは包帯を巻く必要はないと考えたと言われましたが、実は体裁が気になったのでは……」
ブルーノは席を蹴って、誘導訊問だと異議を申し立てた。グリム判事は異議を認めた。ライマンは笑って言った。「では、包帯を巻くのを拒否した理由は他に、何かありましたか」
「はい。その晩はずっとクラブにいるつもりでしたから、モリス医師のお蔭で傷の血も止まりましたので、包帯などして不自由な思いをしたくなかったのです。それに人からどうしたのだと尋ねられれば、返事をしなければならないでしょうし、私はそういうことが気が重いのです」
ブルーノがふたたび席を立った。口論、怒号、わめき声……。グリム判事が地方検事を制し、ライマンに先をうながした。
「デウィットさん、それからどうしました」
「モリス医師に、曲げたりぶつけたりすると、傷がまた開いて血が出るから、注意するようにと言われました。苦労して服を着、泳ぎは止めて、友人のフランクリン・アハーンと、クラブのレストランに行きました。一緒に夕食をする約束をしていたのです。食事をすまして、仕事の他の仲間とずっとクラブにいました。十時十分にクラブを出、タクシーで四十二番街のはずれにある船着場に行きました……」
ブルーノがまた席を立ち、この証言は「不適当にして、事件に無関係、かつ不必要」と激しく抗議し、被告の今の証言をすべて記録から削除するよう要求した。
ライマンは言った。「裁判長、ただ今の被告の証言は、適切で、関連性があり、被告の負っている罪の無実を証明するために重要なものであります」
さらに論争がつづき、グリム判事は地方検事の異議を却下し、ライマンに先をつづけるよう促した。しかしライマンはブルーノに向って、愛想よく言った。「訊問をどうぞ、ブルーノさん」
ブルーノはちゅうちょし、苦い顔をしたが、立ち上がって、毒々しくデウィットを攻撃した。十五分にわたって、法廷は喧騒に渦巻いた。その間、ブルーノはデウィットを苦しめ、証言をくつがえし、ロングストリートにまつわる事実を引き出そうとした。これに対しライマンは容赦なく異議をとなえ、その都度、判事の同意を得た。ついにグリム判事から冷たく叱責されて、地方検事は片腕を振り上げて、席につき、額の汗を拭った。
デウィットは証人台を降り、以前よりも蒼白となって、被告席に戻った。
「第二の証人として」ライマンは告げた。「フランクリン・アハーン氏をお願いします」
このデウィットの友人は、茫然自失とした表情で、傍聴席の一団の中から立ち上がり、通路を通り、仕切りを抜けて証人台に歩いていった。彼は宣誓をし、ベンジャミン・フランクリン・アハーンと正確な名前を言い、ウェスト・エングルウッドの住所を言った。ライマンは両手をポケットに突っこんで、おだやかに尋ねた。「ご職業は? アハーンさん」
「もとは技術者でした」
「被告を知っていますか」
アハーンはちらっとデウィットを見て笑った。「はい、六年間になります。近所同志で、私の親友です」
ライマンは語気鋭く言った。「質問にだけ答えてください……。ところであなたは、九月九日水曜の夜、取引所クラブで被告に会いましたか」
「はい、デウィットさんの言ったことはみんな本当です」
ライマンはふたたび語調鋭く言った。「質問にだけ答えてください」椅子の肘を掴んでいたブルーノは、口を閉じ、席にのけぞって、以前に見たことのないようにアハーンの顔に目を据えた。
「その晩、取引所クラブでデウィットさんに会いました」
「何時に、どこで、最初に被告に会いましたか」
「七時ちょっと前でした。食堂の休憩室で会い、すぐに食堂に入りました」
「その時から十時十分まで、ずっと被告と一緒でしたか」
「はい、そうです」
「被告は今証言したとおり、十時十分にクラブを出ましたか」
「はい」
「アハーンさん、被告の親友として、あなたは被告が体裁屋かどうか言えますか」
「はっきり言えます――彼は体裁屋です」
「では指に包帯をさせなかったのは、この性格と一致すると言えますか」
アハーンが「むろんです」と答えると同時に、ブルーノがこの質問と答に異議を申し立て、裁判長に認められて、両方とも記録から削除された。
「あなたはその夜、食事の時に、デウィットの指が傷ついているのに気がつきましたか」
「はい、食堂に入る以前から気がついていましたので、どうしたのかと聞きました。デウィットさんは体育館でのことの次第を話し、傷を見せてくれました」
「では、あなたは傷を見たのですね。見た時、傷はどんな具合でした?」
「いたいたしく、長い、深い傷で、指の内側、長さ一インチ半くらいでした。血はすでに止まっていて、乾いた血がいく分か、かさぶたのようになっていました」
「食事中あるいはその後、何かこれと関連のあることが起こりましたか」
アハーンは顎をさすって黙って考えていた。彼は目を上げた。「そうです。デウィットさんは一晩中、右手をじっと上げたままで、食事するにも左手だけを使っていました。肉を切るのにウェイターにしてもらわねばならなかったくらいです」
「反対訊問をどうぞ、ブルーノ検事」
ブルーノは証人台の前を大股で行ったり来たりした。アハーンはじっと待った。
ブルーノは顎をつき出してアハーンを睨《にら》んだ。「あなたはさっき、被告の親友だと言いましたね、被告の親友と。親友だからと言って偽証はしないでしょうな、アハーンさん」
ライマンが笑って立ち上がり、抗議した。陪審員席で誰かがくすくす笑った。グリム判事は異議を認めた。
ブルーノは「とにかくお分かり願えたでしょうな」と言わんばかりに、陪審員を見やった。彼はふたたびアハーンに面と向った。
「あなたはその夜十時十分に別れてから、被告がどこへ行ったか知っていますか」
「知りません」
「あなたが被告と一緒に帰らなかったのは?」
「デウィットさんは約束があると言ってました」
「誰と?」
「それは言いませんでした。もちろん私も尋ねませんでした」
「被告がクラブを出てから、あなたはどうしました?」
ライマンがまた立ち上がって、にやにや笑いながらまた異議をはさんだ。ふたたびグリム判事に認められた。ブルーノはいくらかむっとした表情で、証人を解放した。
ライマンが自信をもって進み出た。「第三番目の証人として」彼はわざと言葉をのばして言い、原告席に目をやった。「サム警部を申請いたします」
サム警部は、まるで少年がりんごを盗んでいるのを見つけられたように、はっとした。彼はブルーノを見た。ブルーノは首をふった。警部はどしんどしんと歩き、ライマンを横目で見て、宣誓をし、証人席にどかりと腰を据えて、どう猛な表情で訊問を待った。
ライマンは、まるで楽しんでいるようだった。彼は親しげに陪審員席を見た。その様子はこうも言わんばかりだった。「どうです。私は依頼人を弁護するためには、サム警部だって呼び出すことができるんですよ」彼はふざけたようにサムに指を振ってみせた。
「サム警部、あなたはチャールズ・ウッドが殺害されて発見された時、渡し船モホーク号の捜査を担当しましたね?」
「そうです!」
「死体が河から揚がる直前、あなたはどこに立ってましたか?」
「上甲板、北側の手摺りのところです」
「一人でしたか?」
「ちがいます」サムはぴしっと言い放って口を閉じた。
「誰と一緒でしたか?」
「被告とドルリー・レーン氏です。部下も何人か甲板にいましたが、私と一緒にいたのはデウィットとレーン氏だけでした」
「その時、デウィットの指の傷に気づきましたか?」
「気がつきました」
「どうして気がついたのです?」
「彼は手摺りに寄りかかり、右手をぎこちなく上にもち上げて肘をついていました。私が彼にどうしたのかと尋ねますと、その晩クラブで切ったのだと言いました」
「あなたはその傷をよく見ましたか?」
「よく、とはどういうことですか? 私は見た――とただこう言ったのです」
「まあ、まあ、そう怒らないでください、警部。その時に見た傷の様子を話してください」
サムは困惑顔に地方検事を下に見た。が、ブルーノは頭をかかえこんだまま、きき耳を立てていた。サムは肩をそびやかして言った。「指が少し腫れて、傷口はいたいたしそうでした。血がかさぶたになってべったりくっついていました」
「べったりですか、警部? かさぶたは完全についていたのですか、どこか破れてはいませんでしたか?」
驚嘆の色がサムの気むずかしげな顔にうかび、彼の声から敵意が消えた。「そう、しっかりついてました」
「では、傷はかなり治っていたというわけですね、警部?」
「そうです」
「そうすると、あなたが見たのは|新しい《ヽヽヽ》傷ではない。つまり、手摺りのところで見た直前《ヽヽ》には、傷口は裂けていなかった、ということではありませんか?」
「あなたの言うことがはっきりのみこめません。私は医者ではない」
ライマンは上唇を引いて笑った。「なるほど、では別の言い方をしましょう。あなたがごらんになった傷は新しい傷でしたか、|できたばかりの《ヽヽヽヽヽヽヽ》?」
サムはもじもじした。「意味のない質問ですよ。かさぶたがついているというのに、どうして新しい傷だと言えますか」
ライマンはにやりとした。「まったくです、警部……。それでは、デウィットの傷に気づいてから何が起こったか話してください」
「その時、死体が引き上げられ、われわれは下甲板に通じる階段の方へ走ってゆきました」
「その間、デウィットの傷のことで何か起こりましたか?」
むっとしてサムは答えた。「起こりました。被告はまっ先にドアのところに行き、レーン氏と私のためにドアを開けようとハンドルを握りました。被告が叫び声をあげたので見ると、傷口があいて、血が流れていました」
ライマンは前にのり出して、サムのがっちりした膝をたたき、一語一語に力をこめた。「|被告がドアのハンドルを握っただけで《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、かさぶたが破れ、血が出たのですね?」
サムがちゅうちょし、ブルーノは仕方がないというように、ただ頭を振った。その眼は悲痛だった。
サムがぶつぶつと言った。「そうです」
ライマンはさらに一太刀あびせた。「血が出はじめてから傷をよく見ましたか?」
「見ました。デウィットはハンカチを取り出す間、手を上げていましたが、かさぶたは数箇所で破れ、破れ目から血が噴き出していました。それから彼はハンカチで手を包み、われわれは下に降りて行きました」
「警部、あなたは、ドアのところで見たその血を噴いている傷が、それより少し前、手摺りのところで見た口の開いていない傷と、まったく同じものだったと証言できますか?」
サムは諦めたというように言った。「はい、できます」
しかしライマンは執拗だった。「新しい傷は全然ありませんでしたか、擦り傷のようなものでも?」
「ありませんでした」
「これで終ります。ブルーノさん、反対訊問をどうぞ」ライマンは陪審員に意味ありげな笑いを見せて、引き下がった。ブルーノはいらいらして頭を振り、サムは証人台から降りた。その表情はいりくんだ感情――不快、驚愕、理解を表わした一つの標本だった。やがてまたライマンが前に進み出ると、傍聴人は興奮し互いにささやき合い、新聞記者は必死に鉛筆を動かし、廷丁が静粛を求めて声を張り上げ、ブルーノ地方検事はそっと頭を上げて法廷を見渡し、誰かを探しているようだった。
ライマンは沈着に、確信をもって、モリス医師を証人台に呼んだ。取引所クラブの医師で中年の、禁欲主義者のような顔をしたその男が、傍聴人の中から進み出て、宣誓し、ヒュー・モリスと名を言い、住所を答えて、証人席についた。
「あなたは医師ですね?」
「そうです」
「勤務先は?」
「取引所クラブの嘱託医です。ベルビュー病院の嘱託もしています」
「正式な医師としての経験は?」
「ニューヨーク州医師免許証を持って、二十一年間、医療に従事しています」
「被告を知ってますか?」
「はい、彼が取引所クラブの会員になった十年まえから」
「あなたは、九月九日夜、クラブの体育館で被告が右手人差し指にうけた傷についての、証人の言葉を聞きましたね? 体育館の件についてのこれまでの証言を、すべて正しいものとあなたは認めますか?」
「はい」
「被告が包帯を拒んだあと、何故、指に気をつけるよう注意されたのですか?」
「それは、指を曲げたりして急に縮めると、傷口がまた開く状態にあったからです。傷は人差指の上部の二つの関節にまたがっていて、水曜日の夜は、たとえ手をふつうに握っただけでも、傷口はふくれ、塞ぎかかっているかさぶたを破ってしまうからです」
「包帯を巻こうとされた医学上の理由は、それだったのですね?」
「そうです。傷をした場所が場所だけに、包帯さえしてあれば、たとえ傷口が開いてもばい菌は防げるからです」
「よく分かりました」ライマンは早口に言った。「そこで、船の手摺で見た時の、傷やかさぶたの状態について証言があり、あなたはそれを聞かれたわけですが、サム警部が証人として述べたような傷が、そう、彼が見た十五分前に傷口が開いていたというようなことがありうるでしょうか?」
「つまり、サム警部が見た十五分前に、その傷口が開いて、警部の証言どおりのようになり得るか、ということですね?」
「そうです」
医師は言葉を強めて言った。「絶対にありません」
「なぜですか?」
「たとえ一時間も前に傷口が開いていても、サム警部の証言のような状態――かさぶたができ、どこも破れずに一つにつながり、固く乾いた状態にはなりません」
「そうしますと、サム警部の証言からは、傷は、クラブであなたが手当をされた時から、被告が渡し船のドアのハンドルを握るまで開かなかった、ということになりますね?」
ブルーノが猛然と異議をとなえると同時に、モリス医師が冷やかに答えた。「そのとおりです」議論が沸騰している間、ライマンは熱心にささやき合っている陪審員を意味ありげに見つめていた。ライマンは満足げに笑った。
「モリス先生、手摺りのところでサム警部が見たと証言したような傷の状態にある数分前に、被告が二百ポンドもの物体を掴んで持ち上げ、手摺りを越えて二フィート半の床のさきへ抛り投げるということが、|傷口を破らずに《ヽヽヽヽヽヽヽ》できたでしょうか?」
ふたたびブルーノは席を蹴り、怒りに汗をかきながら、全力を張りあげて異議をとなえたが、グリム判事は、いま求めた専門的意見は弁護人側の論議に関連あるものと指摘して、ブルーノの異議を却下した。
モリス医師は答えた。「絶対にできません。傷口を破らずに、あなたが今述べられたような行為はできません」
勝利の微笑を満面にたたえながらライマンは言った。「反対訊問をどうぞ、ブルーノさん」
また廷内は騒然となり、ブルーノは下唇をかんで、医師をにらみつけた。檻《おり》の中の野獣さながら、彼は証人台の前を歩き廻った。
「モリス先生!」グリム判事は静粛を求めて木槌を打った。ブルーノは法廷が鎮まるのを待った。「モリス先生、あなたは宣誓と、専門的知識と経験の上に立って、被告は、これまでの証人の陳述のような傷の状態では、右手を使って二百ポンドの物体を、傷口を破らずに、手摺りを越えて投げることはできないことだと……」
ライマンは昂奮せずに言った。「異議があります。裁判長。証人が肯定した質問とはちがいます。私の質問には、手摺りのほかに、モホーク号上甲板のへり沿いの二フィート半の床も含んでいました」
「地方検事、質問を訂正してください」グリム判事が言った。
ブルーノはそれに従った。
モリス医師は落ちついて答えた。「それは私がさきに肯定したとおりです。私は私の言葉に名誉を賭けております」
弁護席に戻ったライマンは、ブルックスに小声で言った。「可哀そうに、ブルーノのやつがあれほど混乱したのは見たこともない。くり返せば陪審員に、それだけその点の印象を強めるじゃないか!」
しかしブルーノはまだやられていなかった。威嚇するように言った。「モリス先生、あなたはどちらの手のことを言っているのです?」
「傷した手、右手ですよ、むろん」
「しかし被告は、右手の傷を破らずに、前述の行為は左手でできるではありませんか」
「ごもっともです。右手を使わなければ、右手の傷口は破れません」
ブルーノは激しい眼つきで陪審員を見た。その眼は「どうです、こんな大騒ぎが一体何になります? まったく問題にならない。デウィットは左手でやったんだ」と言っているようだった。彼はあやふやな笑いを残して席についた。モリス医師は証人台を降りかけたが、ライマンは証人の再訊問を要求していた。医師はふたたび証人席についた。眼には愉悦の色が光っていた。
「モリス先生、あなたは今、地方検事が、被告は左手だけを使って死体を処理した、とほのめかすのを聞きましたね。で、あなたのご意見では、被告は右手は傷をしているというハンディキャップがあり、左手だけで、チャールズ・ウッドの二百ポンドの死体を持ちあげ、手摺りを越え、さらに張り出している床を越えて、船から抛り出すことができるとお考えですか」
「できません」
「なぜです?」
「私は専門医としてデウィットさんを数年間知っていますが、まず第一に、彼は右利きで、右利の人はたいていそうなのですが、左手は弱いものです。また、小柄で、虚弱で、体重は僅かに百十五ポンド、肉体的に弱い人です。これらの事実からしまして、百十五ポンドの人間が片手だけを使って、しかも弱い方の腕で、二百ポンドもの重さの死体を扱って、あなたが言われたようなことをするなんて、とうてい不可能です!」
喧騒は耳を聾せんばかり。数人の新聞記者が法廷からとび出していった。陪審員は昂奮して、うなずきながら語り合っている。ブルーノは立ち上がって、顔を紫色にして叫んでいるが、誰も彼に注意を払わなかった。廷丁が大声で静粛を求めている。騒ぎが静まった時、ブルーノががらがら声で、さらに医学上の意見を求めたいからと、二時間の休廷を申し出た。
グリム判事が激しいことばで言った。「公判中、今後もこのような不名誉な場面をくり返すようなことがあれば、全員に退場してもらい、ドアを閉鎖いたします! 休廷の動議を認めます。法廷は午後二時まで休廷します」
誰かが木槌をうった。全員立ち上がり、グリム判事が自室に引き下がるのを待った。ふたたび大騒ぎがもち上がった。靴を鳴らす音、論じ合う声。陪審員が退場した。デウィットは平静さを失い、呼吸をはずませて席についた。蒼白の顔には、まだ信じ難いがほっとした表情があった。ブルックスは喜んでライマンの手をポンプのように上下に動かした。「これ以上の名弁護は聞いたこともないよ、フレッド!」
騒ぎが渦まく中で、ブルーノ地方検事とサム警部が半分ユーモアまじりの怒りのうちに、お互いを見つめて坐っていた。新聞記者が被告席を取りまいていたが、廷丁がやっとデウィットを記者連中から救い出した。
サムが前屈みになってぶつぶつ言った。「ブルーノ検事も一本やられたね、赤恥もいいところだ」
「われわれがやられたのだよ、われわれが」ブルーノがかみついた。「おれが赤恥をかいたなら君もかいたのさ。結局、君が証拠を集め、おれがそれを提示するんだからな」
「それはそうです」サムは不機嫌に言った。
「われわれ二人はニューヨークの大馬鹿者だ」ブルーノは書類鞄に書類を投げ入れて唸った。「君はいつも目前に事実を見ていながら、一度も真実にとびつけなかったんだ」
「一言もない」サムが唸った。「おれは頓馬さ、ほんとうだ。しかし」彼は力なく言った。「あなただって、デウィットがあの晩ハンカチで手を巻いていたのを見たはずだ。なのにそれについて質問してみようとは思わなかった」
ブルーノは突然鞄を落した。顔がカッと燃えた。「フレッド・ライマンにはコーチがついているんだ! 畜生、にがにがしい。奴にあんな真似ができるものか! 君の醜い顔の鼻みたいに、明らかにこれは……」
「そうですとも」警部がわめいた。「レーンです。あの意地悪爺め!」声には力がなかった。「いっぱいくわせやがった。しかし、あのじいさんを疑ったのがそもそも悪かったんだ」
二人は椅子の上で身体をねじった、そして空っぽの法廷を見渡した。レーンの姿はどこにもなかった。「逃げてしまった」ブルーノはわびしげに言った。「ここにいたんだが……まあいい、サム、われわれの負けだ。彼ははじめからここを見落すなと警告していたんだ」彼はつぶやいた。「考えてみると彼は、後になってわれわれがデウィットを起訴するのに賛成していた。しかも、頭の中にはつねにこの弁護を用意していたんだ。わからない……」
「こちらも同じさ」
「なぜ彼はデウィットの生命を危険にさらすようなことをしたんだろう」
「それほど危険ではなかったんだ」サムは冷やかに言った。「あの弁護があればね。レーンにはデウィットが助け出せるとわかっていたんですよ。ところで」サムは猿のような腕を伸ばし、毛むくじゃらの猛犬みたいに身をふるわせて立ち上がった。「これからはサム坊やも、ドルリー・レーンおじさんの言葉には絶対にしたがいますよ。特にレーンがX氏の事件にかかわり合っている時にはね!」
第三幕
第一場 リッツ・ホテルの一室
――十月九日(金曜日)午後九時
ドルリー・レーンは人目につかずに、主人役の顔を見守っていた。デウィットは友人の一団に囲まれ、笑い、しゃべり、親しい軽口にもきびきびと応酬していた。
そしてドルリー・レーンは、研究に研究を重ねた結果、自分の求めているものを発見した科学者のように、内にゆったりとした満足感をたたえて、その顔は明るかった。というのは、ジョン・デウィットは人間の性格研究に、思わず食指を動かせるようなアウト・ラインを示してくれたからだ。六時間のうちに彼は、冷酷な甲冑に身を包んだ人間から、悲しみを脱ぎ捨てた男――生気にあふれ、溌剌とし、機智に富んだ、知性のある友、温和な主人役に変ってしまっていた。のどを鳴らしている老陪審長が、やせこけた顎をゆすって、即時釈放を、拘置所の門を開く呪文「無罪」を言い渡した瞬間、デウィットはうすい胸を波打たせて、沈黙の鎧《よろい》を脱ぎ捨てたのだった。
内気な人間? いや、今晩はそうではない。祝宴が、陽気な笑いが、グラスの触れ合う音が、釈放の宴があるはずなのだ……。
一行はリッツ・ホテルの私室に集まった。一室には陶器、グラス、花などをのせた長いテーブルが据えられていた。ジャンヌ・デウィットは華やかにバラ色の頬をしている。クリストファー・ロード、それにデウィットのきゃしゃな身体よりぬっと浮かび出たフランクリン・アハーン、一分《いちぶ》の隙もないルイ・アンペリアル、弁護士のライマンとブルックス、それにひとり離れてドルリー・レーン。
デウィットは一言ことわって、話し仲間から抜け出た。室の一隅で二人の男が向き合った。細やかなへりくだった態度のデウィット、レーンは愛想よく言葉をうけ流していた。「レーンさん、すっかり失礼してしまって……あなたにはお礼の申しようもございません。心より感謝いたしております」
レーンはくすくす笑った。「ライマンのような、したたかものの弁護士でも感動は抑えきれないことがあるものなのですね」
「おかけになりませんか……。そうです、フレデリック・ライマンが言っておりました。私は自分が祝辞を受けるわけにはいかない、当然あなたにと。あれは――あれはすばらしい推論でした。まったくすばらしい」デウィットの鋭い眼が動いた。
「いや、わかりきったことです」
「とても、そうは申せません」デウィットは愉しげに吐息をもらした。「あなたにはお出で願えてどんなに名誉に思っているかおわかりにならないでしょう。あなたがこういうことには殆んど関心をもたれず、公式の席にはめったにお出かけにならないことを存じておりますので」
「そのとおりですが」レーンは微笑した。「デウィットさん、いささか見当ちがいです。たしかに私はここに来ています……しかし私がここにいるのは、楽しい交わりや、あなたのご鄭重な招きに応じただけではありません」何か暗い影がデウィットの顔をかすめた、が、すぐに消えた。「というのは、あなたには何かある、と思ったのです」レーンの声はいつもの強さを失った。「何か私にお話になることが」デウィットはすぐには答えなかった。彼はあたりを見渡すと、楽しげなざわめき、娘のしなやかな美しさ、むこうから流れてくるアハーンの静かな笑い声に、聞きほれた。イヴニング姿の給仕が宴会場のすべり戸を開けていた。デウィットは背を向けて、手をそっと眼にやった。まぶたを押さえて、考えているような様子をした。「私は――いや、あなたは不思議な方です」彼は眼を開けて、じっと俳優の荘重な顔を見つめた。「あなたにおすがりすることに決めました、レーンさん。そうです。それ以外に道はありません」強い調子だった。「確かです、あなたにお話したいことがあります」
「どうぞおっしゃってください」
「けれども、今は申しあげられません」デウィットは強く頭をふった。「今はだめです。長いさもしい話ですから、せっかくの夜を――私自身のためにだいなしにしたくないのです」彼は灰色の手をひきつらせた。「今晩は、――そうです、私にとっては特別な晩です。私は怖ろしい運命から逃れられたのです。ジャンヌ、私の娘が……」レーンは静かにうなずいた。デウィットのうつろの眼の奥には、ジャンヌ・デウィットのでなく、妻ファーン・デウィットの幻影があったのだ。悲しみ、おそらくそうだろう。デウィットの妻はこの場にいなかった。黙した、何も言わない様子にレーンは、デウィットが自分を裏切った妻をまだ愛しているのだと感じた。
デウィットはゆっくり立ち上がった。「今夜は私の仲間とご一緒においでになりませんか。みんなでウェスト・エングルウッドの私の家に行くことになっています――ささやかな祝宴の用意がしてあります――週末をお泊りになれるようでしたら充分にその用意をさせましょう。一晩くらいなら……ブルックスは泊まることになっています。寝具の用意はできますから……」調子を変えて彼はつづけた。「明朝はわれわれだけになれます。その時お話します――魔法の直感とでもいうもので、あなたが今晩みぬかれた私の話を」
レーンは立ち上がって、デウィットの小さな肩に軽く手をおいた。「よくわかりました。すべてを忘れてください――明日の朝まで」
「明日の朝というのはいつでもあるものですね?」デウィットがつぶやいた。二人はみんなの仲間に入って行った。かすかなむかつきがレーンの胃の腑に走った。陳腐……。とたんに彼は退屈を感じた。彼の顔は一団を見て笑っていた。イヴニング姿の給仕が、みんなを宴席に招じ入れた時、レーンの脳裏に一点がきらめき、彼は考えに耽っていた。「『明日、明日、明日……歴史の最後の瞬間まで……』」それは彼の頭の中で輝き、ふるえ、はっきりとゆれた。「『灰色の死に至るまで』」彼は吐息をついた。ライマンの腕が自分の腕にからむのに気づいて、老優はほほえむと、みんなについて宴席に行った。
会は賑やかだった。申し訳なさそうにアハーンが野菜料理の大皿を注文したが、トーケイ・ワインをもうすすっていて、アンペリアルを相手に、あるチェスの熱戦を詳細に説明していた。アンペリアルはまるで耳をかさず、それよりもテーブルを插んだ向うのジャンヌ・デウィットに、洗練された話題を思いついてはささやいていた。部屋の隅の、ヤシの木の後に隠れた弦楽団が演奏しているやわらかい曲に合わせて、ライオネル・ブルックスの金髪がゆれていた。クリストファー・ロードはハーバード大学クリケット・チームの予想を論じてはいるものの、片目は傍らのジャンヌに向けられていた。デウィットは静かに坐って、話し声、ヴァイオリンの曲、部屋、食卓、ご馳走、あたたかい雰囲気を楽しんでいた。ドルリー・レーンは彼を観察し、じっと見まもっていたが、ワインで顔をそめているライマンが時々何か話をすすめてくると、しゃれを言ってかるく身をかわしていた。
コースが終って、コーヒーが出、みんなが煙草をすいだすと、ライマンが突然立ち上がって、静粛を求めて手をたたいた。彼はグラスを持ち上げた。
「原則として」と彼は言った。「私は乾盃という慣例を好みません。あれは腰当てや下袴の時代からの、楽屋口のめかしや共の古い遺物です。しかし今夜は特別で――一人の人間の釈放を乾盃するのです」彼はデウィットを下に見てにやりとした。「ご健康とご幸福を祈ります、デウィットさん」
一同は乾盃した。デウィットはよろよろと立ち上がった。「私は――」彼の声がつまった。ドルリー・レーンはにっこりしたが、胃の腑の不快感が深まった。「フレッド同様、私ははにかみやです」わけもなくみんなが笑った。「しかし、ここにわれわれの仲間の一人をご紹介申し上げます。何十年もの間、数百万人の教養ある人々の憧れの的であり、無数の観客の前に立ち、しかも私の考えるところ、われわれのうちでも最もはにかみやの、ドルリー・レーン氏!」
彼らはふたたび乾盃した。レーンはまたにっこり笑ったが、遠くへ逃げだしたい気持ちだった。彼は立ち上がらず、よくひびくバリトンで話した。「こういうことを易々とやってのけることのできる方を、私は心からうらやましく思います。舞台では沈着を学びますが、このような場合にのぞんでの完全な平静さの技術はまったく身についておりませんので……」
「つづけてください、レーンさん!」アハーンが叫んだ。
「わかりました、仕方ありません」彼は立ち上がった。眼は倦怠を捨てて輝いていた。「ここではお説教じみたことを申し上げるべきとは思うのですが、私の商売道具は神父さんの経典ではなく、俳優の台本でありますので、私のお説教は必然的に舞台上の用語とならざるをえません」彼は自分の傍に静かに坐り、じっと耳をかたむけているデウィットに面と向かって言った。「デウィットさん、あなたは、感じやすい人間に起こりうる最も悲惨な経験の一つを通って来られた。被告の席に坐り、いつ果てるともない永遠を感じながら判決を待つこと、人間ゆえにあまりにも過失を犯しやすい判決、生死を決める判決を待つことは、まさに人間社会の最も残酷な罰であります。このような永劫の地獄に厳として堪えて来られたあなたは、最高の賞讚に値します。私は、フランスの政治評論家シイエスが、恐怖政治時代に何をしたかと尋ねられた時の、半ばユーモラスな、半ば悲壮な言葉を想い起こしました。彼はただ『私は生きた』と言ったのです。勇気と沈着のある人間にしか言えない言葉です」老優は深く息を吸い、眉一つ動かさず一同を見渡した。「忍耐を通して得た勇気ほど偉大な徳はありません。この言葉が陳腐であればこそ、その真理を裏書きしているのです」一同は静まり返っていたが、なかでもデウィットは石像のように動かなかった。彼は含蓄のある言葉の潮が体内に入り、身体の一部になるのを感じた。これらの言葉がすべて自分にだけ向けられ、意味をもって、自分だけを慰めてくれるもののように感じた。
ドルリー・レーンは頭を上げて言った。「言い古された名言を引用することにどうしても頼ってしまいますが、そのためにこの楽しい集りに暗い調子を持ち込んでしまうようなことになりましてもご容赦ください――みなさんが私に話すように強要なさったのですから」彼の声が調子を上げ、さらに力強くなった。「充分に評価はされていませんが、シェークスピアの戯曲の一つ『リチャード三世』には、邪悪な人間の善良な面についての批評がある。その洞察力において驚くべきものがあると思えるのです」老優はデウィットのうなだれている頭にそっと眼をやった。「デウィットさん」彼はつづけた。「あなたの過去数週間の体験は幸いにして、あなたの名から殺人者の汚名を拭い去りました。しかし、このことはさらに大きな問題に解決をあたえたわけではありません。なぜなら、われわれの周囲のどこかに、霧の中にひそんで、すでに二人の人間を地獄に――彼らのために天国であることを祈りますが――送った殺人者がいるのです。われわれのうちの何人が、この殺人者の性格を、その魂のからくりを考えたことがあるでしょう? と言いますのは、月並な観察ではありましょうが、その犯人も魂を持っています。われわれの精神的先達の言を信じれば、その犯人もまた不滅の魂を持っているのです。ともすると、われわれは殺人者を非人間的な怪物だと考えがちで、われわれ自身の心のうちにも、ほんの僅かの衝撃で殺人者に早変りする生身の感情の弱点がかくれているということを、忘れてしまっているのです……」
沈黙はあたりの空気を重々しいものにした。レーンは淡々とつづけた。「そこで、最も興味ある劇的人物の一人についてのシェークスピアの観察を振り返ってみましょう――奇形にして残忍な王、リチャード、そういうものがもしあるとすれば、人間の形をした人食い鬼です。しかもすべてを見通す眼識力は何を見ているでしょう? リチャード自身の痛烈な言葉の中に……」
と、突然、彼は態度と表情と声をガラリと変えた。あまりにも巧みに、あまりにも思いがけなく変ったので、恐怖感におそわれたような眼つきでみんなが彼を見た。狡智、辛辣さ、ひどい悪徳、深い、年数を経た絶望が、不吉な線と影とで、老優のおだやかな顔をおおった。ドルリー・レーンは、すっかり新しい、怖ろしい性格に変っていた。口はゆがみ、その黄金の口から押さえつけた声が流れ出た。「『別の馬をくれ、傷をしばれ、助けてくれ』」その声は哀れな唸り声となり、苦悩の喉から破れ出た。そして感情もなく、絶望もなく、まるで聞きとれないくらいに活気のないものになった。「『ああ、夢だったか……』」人々は魅了され、恍惚として酔っていた。声はつづいた、つぶやくように、しかしはっきりと。「『臆病な良心、なぜおれを苦しめるのだ! 灯が蒼く燃えている。今は真夜中だ。冷たい怖ろしい汗がおれの震える身体に流れる。何を怖れているのだ? おれ自身をか? 誰もそばにはいない。リチャードはリチャードが好きだ。つまり、おれはおれなのだ。ここに人殺しがいるというのか? 何を……いや、おれが人殺しだ。なら逃げろ……。何、おれから? あたり前のこった。復讐しはしないか。何、おれがおれに? ああ、おれはおれが好きだ。なぜ? おれにいいことをしたからか? いや、ちがう! ああ、おれはおれが犯した憎むべき行為のために、このおれが憎い! おれは悪党だ。しかも嘘をつく、おれは悪党ではないと。馬鹿め、いい口をたたくな。馬鹿もの、へつらうな……』」
声はよどんだが、立ち直り、悲壮な自責の叫びにゆれた。「『おれの良心は千枚もの舌を持ち、その一枚一枚がいろいろなことを喋りまくり、どれもこれもおれを悪党だとなじる。偽証、この上もない偽証だ。犯した罪が、さまざまの罪が、法廷につめかけて、口々に叫ぶ、有罪!有罪! と。おれは絶望だ……。おれを愛してくれるものは一人もない。死んだって誰も悲しんではくれやしない。いやそれどころか、おれだっておれを少しも哀れんでやしないのだ、なのにみんながおれを哀れむなんて?』」
誰かがホッと吐息した。
第二場 ウィーホーケン駅
――十月九日(金曜日)午後十一時五十五分
真夜中の寸前、デウィットの一行はウィーホーケンの西岸の始発駅に着いた――納屋のような、うす汚い待合室で、天井を走る鉄柱はむき出し、壁沿いの階段上にプラットホームがある。人影はわずかしかない。隅の、構内に通じる入口の近く、荷物扱所の台のところで係員が一人うとうとしている。売店のなかで一人の男が欠伸をした。長い背のあるベンチは空っぽだった。
一行は笑いさざめいて駅に入った。ホテルで詫びを言ってアパートに帰ったフレデリック・ライマン以外は、みんな揃っていた。ジャンヌ・デウィットとロードが売店にかけつけ、アンペリアルが笑いながら後を追った。ロードはキャンデーの大きな箱を買い、大げさなお辞儀をしてジャンヌにそれを渡した。女性に親切なことでは|ひけ《ヽヽ》はとらないぞと、アンペリアルは一抱えの雑誌を買いこみ、踵をかちっと合わせてジャンヌに贈った。顔をバラ色にし、毛皮で身体を包み、眼を輝やかせて彼女は笑った。そして二人の男の腕に手をかけてベンチに行き、腰を下ろして三人はしゃべり、チョコレートをかじった。
一行の残り四人は出札口へ歩いて行った。デウィットは売店の上の大時計を見上げた。十二時四分だった。
「そうか」彼は機嫌よく言った。「十二時十三分までは汽車は出ないから――まだ余裕はある」
彼らは窓口で止まった。レーンとブルックスが一歩さがった。アハーンがデウィットの腕を掴んだ。「ジョン、私が買うよ」デウィットは笑ってアハーンの腕を振りほどき、係員に言った。「ウェスト・エングルウッド、六枚」
「七人だよ」アハーンが注意した。
「わかっているさ。私は五十回の回数券を持っているんだ」係員が窓口から六枚の切符を突き出した時、デウィットは顔をくもらせた。が彼は笑ってさっぱりと言った。「古い回数券の損害賠償を州当局に訴えてやるか。期限が切れてしまって――」途中で言葉を切って、ぶっきら棒に言った。「五十回回数券を一冊」
「お名前は?」
「ジョン・オウ・デウィット、ウェスト・エングルウッドだ」
「はい」係員は相手を見ないようにして、ひどく忙しそうにした。間もなく格子戸の下から、日付けの入った長方形の回数券を押し出した。デウィットが紙入れから五十ドル紙幣を取り出した時、ジャンヌの澄んだ声がひびいた。「パパ、汽車よ」
係員が急いで釣銭を出し、デウィットは釣銭の紙幣と小銭をズボンのポケットに押し込み、六人分の切符と回数券を手にして、三人の仲間を振り返った。
「走るか?」ライオネル・ブルックスが聞いた。四人は顔を見合わせた。
「いや、大丈夫さ」デウィットはこう答えて、切符と回数券をチョッキの左の上ポケットに押し込み、上着のボタンをかけた。
四人は待合室を通り抜け、ジャンヌ、ロード、アンぺリアルに追いついて、屋根のある構内の冷たい空気の中に出て行った。十二時十三分発の普通列車が入っていた。一行は鉄格子の改札口を抜け、長いコンクリートのプラットホームを歩いた。数人の他の乗客がばらばらになって後につづいた。最後部の車は暗かったので、前に歩いて、後から二番目の車に乗った。
その車輛には数人の見知らぬ乗客が坐っていた。
第三場 ウィーホーケン――ニューバーグ間普通列車
――十月十日(土曜日)午前零時二十分
彼らは二組に分かれていた。ジャンヌ、ロード、ナイトきどりのアンペリアルはずっと前部に坐って話していた。デウィット、レーン、ブルックス、アハーンは車のほぼ中央に向い合って席を占めた。
列車がまだウィーホーケン駅に止っていた時、デウィットの顔をまじまじと見つめていた弁護士が、向い側のドルリー・レーンに向って急に言った。「レーンさん、今夜あなたの言われたことで大変私の興味をひいたことがあります……一瞬の中に包まれる『果てしない歳月』――被告席で、死に追いやるか、あるいは生の新しい借用権を与えて法廷から外に送り出すか、という陪審員の評決を待つ、その一瞬。果てしない歳月! 名文句ですね、レーンさん……」
「まさに的確な言葉です」デウィットが言った。
「そう思いますか」ブルックスがデウィットの平静な顔をぬすみ見た。「私は以前に読んだ小説を思い出しました――アンブローズ・ビアーズだったと思います。とても変った小説で、絞首刑になる男の話でした。首が絞まるほんの一瞬前に、この男は自分の全生涯が頭に映った、というのです。文学の中の、あなたの言われる果てしない歳月、というわけですね。他にも大勢、こういうことを扱った作家がいるはずです」
「その小説なら、私も読んだことがあります」レーンが答えた。ブルックスのそばでデウィットがうなずいた。「時間の問題というのはすべて、現代の科学者がここ数年われわれに語って来ているように、相対的なものです。たとえば夢です――目が覚めてみると、一晩中夢を見ていたような気がするのですが――ある心理学者の説によると、眠っていて潜在意識が働いている時と、目が覚めて意識が働いている時の、その最後の境界の瞬間にだけ、実際見るのだそうです」
「私もそう聞きました」アハーンが言った。彼はデウィットとブルックスの正面に坐っていた。
「私が本当に考えたのは」ブルックスがデウィットをもう一度見て言った。「この特殊な心理現象があなたにはどう映ったかということです。みんなもそうだったと思うのですが――今日判決が下される直前に、あなたが何を考えたかと思わずにはいられなかったのです」
「おそらく」ドルリー・レーンがおだやかに言った。「おそらくデウィットさんはおっしゃりたくないでしょう」
「とんでもない」株式仲買人デウィットの目は輝やき、顔は生き生きとしていた。「あの瞬間は私に、生涯で最も驚くべき経験をさせてくれました。ビアーズの原理と、レーンさんの今言われた夢の説、その両方を裏書する経験です」
「その瞬間、あなたの全生涯が心にひらめいたと言うのではないだろうね」アハーンは大いに懐疑的に見えた。
「いいえ、ちがいます。それとはまったく関係のない、まったく異様なことが……」デウィットは緑のクッションに身体をそらせて、早口に言った。「ある人の素姓のことなのです。九年ばかり前、私はこのニュー・ヨークで殺人事件公判の陪審員に選ばれました。被告はよぼよぼの、見る影もない老人で、安い木賃宿で一人の女を刺し殺した罪に問われたのです。第一級殺人罪で――地方検事は、殺害はめんみつに計画されたものだという絶対的証拠を示し――その男の罪はだれの目から見ても確定的でした。短い公判の間中、陪審員室に戻ってから、彼の黒白を論議中も、私は、被告を以前にどこかで見たことがある、という感じにつきまとわれました。そういう場合は誰でもそうですが、私は頭の中で必死に、それこそ疲れ果ててしまうまで、その男の正体を考えつづけました。が、誰だったか、どこでいつ会ったのか思い起こすことはできませんでした……」
汽笛が鳴り、大きくゴトリと揺れて列車が動き出した。デウィットはやや調子をあげた。「話が長くなるので省きますが、提出された証拠に基づいて、その男は有罪だとする他の陪審員の意見に私も同意し、有罪の票を入れ、評決が行われました。その男は当然のこと刑を宣告され、執行されました。それっきり私はその事件のことをすっかり忘れていました」
列車は駅をきしり出た。デウィットが息をついて唇をなめている間、誰も口を開かなかった。「ところが不思議なことが起こったのです。私はどう考えてみても、それ以来九年間というもの、その男のこと、その事件のことは一度だって想い出したことはなかったのです。それが今日、私にとって運命を左右する評決を陪審長が求められた時――判事の質問の最後の言葉と、陪審長の公式の答の最初の言葉の間の、あの驚くほど短い瞬間に――突然、そして訳もなく、あの処刑された男の顔が、もう今は土と化しているでしょうが、その顔が私の心の眼にくっきりとうつり、その瞬間あの男が誰であったか、どこで会ったのかという問題が解けたのです――最後にその問題に悩まされて以来、思えば九年目です」
「で、誰だったのですか」ブルックスが興味深げに尋ねた。
デウィットはかすかに笑った。「奇妙なことだったんです……。二十年ほど前、南米をぶらついた時、ヴェネズエラのザモラ地方にあるバリナスという土地にいたことがあるのです。ある晩、宿ヘの帰途、暗い路地を通りかかった時、激しい格闘の音を耳にしました。当時私は若く、こう言っては何ですが、今よりは勇気がありました。
私はピストルを身につけていました。それをケースから抜き取るなり、その路地へかけつけました。二人のぼろをまとった土民が、一人の白人を襲っていたのです。一人は刀をその男の頭に振りかざしていました。私はピストルを発射した。弾ははずれましたが、二人の追いはぎはびっくりしたのでしょう、すでに数個所も切りつけられて地面に倒れている白人を残して、逃げて行きました。ひどく傷をしてると思ってかけつけますと、その男は立ち上がって、汚れた血だらけのズボンを払い、ぶっきら棒に礼を言って、びっこをひきながら闇夜に消えて行きました。私はその男の顔をちらと見ただけでした。
どうでしょう、二十年前に命を助けてやったその男が、十年以上も後になって私が電気椅子に送ったその男だったのです。神の摂理とでもいうのでしょうか?」
「不滅の民話の中の一ページを飾る価値があります」ドルリー・レーンが沈黙を破って言った。
点々と灯のともる暗闇を通って列車は疾走していった――ウィーホーケンの郊外だった。
「しかし不思議なのは」デウィットがつづけた。「あの解けなかった謎が、私自身の生命が危機に面している時に解けたということです! その男の顔は前にたった一度しか見ていないのです、しかもずっと以前に……」
「まったく奇妙な話ですね」ブルックスが言った。
「死に直面すると、人間の頭はもっと驚くべきことでもできるものです」レーンが言った。「八か月前、私は新聞で、ウィーンで行われた殺害の詳細を伝えた記事を読みました。こういうことです、ある男がホテルの一室で射殺されました。ウィーン警察はその男が、警察側のスパイとして働いていた暗黒街の、あまり重要でない人物だと、すぐ見分けがつきました。殺害の動機は明らかに復讐で、おそらくこの男の密告で、ひどい目に会ったある犯罪者の仕業だったのでしょう。記事によると、この被害者は何か月も前からこのホテルに住み、部屋を離れることもめったになく、食事も部屋でしていたということです。この男が何者かを恐れて逃げていたことは明らかでした。殺害の現場には、最後にとった食事の残りがあり、食卓から七フィート離れたところで立っているのを射たれたのです。致命傷ですが、即死ではありませんでした。血痕が、その場所から死体となって発見された場所まで、絨緞の上を、食卓の脚まで点々とつづいていたからです。
ところが、ここにおかしな状況があったのです。食卓の上の砂糖壺がひっくり返り、|ざらめ《ヽヽヽ》がテーブル・クロースの上にちらばり、そして被害者の手にしっかりと握られていたのが、一握りのこの|ざらめ《ヽヽヽ》だったのです」
「これは面白い」デウィットがつぶやいた。
「説明はまったく簡単につきそうでした。被害者はテーブルから七フィートのところで射たれ、テーブルまで這って行き、超人的な努力で身を起こし、砂糖壺から砂糖を一掴みして、床に倒れて死んだ、というのです。だが何故か? 砂糖が意味しているものは何だったのでしょう?瀕死の男の、この最後の必死の行為をどう説明するか? ウィーン警察は頭をかかえこんでいる、とこの記事は結んでいました」ドルリー・レーンはみんなを見て笑った。「この挑発的な疑問に対する答が浮かんだので、私はウィーン警視庁に宛てて手紙を書きました。数週間後、ウィーン警視庁の総監から返事があり、私の手紙が届く前に犯人は逮捕されたが、私の解明で、被害者と砂糖の謎がとけたと書いてありました。――犯人逮捕の後も、この謎は警察にはわからなかったというのですよ」
「で、あなたの解明というのは?」アハーンが尋ねた。「そんな貧弱な材料では、私にはとても見当もつきませんな」
「私もです」ブルックスが言った。
デウィットは口を妙にゆがめて、渋面をつくった。
「あなたはどうです、デウィットさん?」レーンがまた笑って訊いた。
「砂糖それ自体の意味は分かりませんが」デウィットは考えこんで答えた。「しかし、一つだけははっきりしているようです。つまり、瀕死のその男が暗殺者の正体に手がかりを残そうとしたのです」
「おそれ入りました!」レーンが叫んだ。「いや、そのとおりです、デウィットさん。よくお分かりになりましたね――考えてみましょう。砂糖そのものが手がかりになるか? 被害者は犯人が――これは相当こっけいなこじつけになりますが――甘党だと教えたのか? または、犯人が糖尿病患者だというのか? もちろんこじつけですが。こうは私は考えませんでした。それは、この手がかりは警察を啓発するために残されたものにちがいありません。瀕死の男は、警察が犯人逮捕の鍵を握ってくれるようにこの手がかりを残したように思えたのです。そうでなければ、一体他に、砂糖が意味したものは何か――|ざらめ《ヽヽヽ》は形状的に見て何に似ているでしょう? そう、白い結晶体……。そこで私はウィーン警視庁総監にこう書きました。砂糖は犯人が糖尿病患者であることを示しているかもしれないが、もっとありうべきことは、犯人がコカイン常用者である」
みんな、彼を見つめていた。デウィットは軽く膝を打ってクックッと笑った。「そうか、コカインだ! 白い結晶状の粉末!」
「やっぱり逮捕された犯人は」レーンはつづけた。「アメリカのタブロイド新聞がコカイン患者としておもしろく記事にしている、あれでしたよ。ウィーンの総監はそう書いて来て、手ばなしの讚辞を捧げてくれました。しかし私にはこの謎の解明はやさしい方でした。むしろ私が興味を持ったのは、殺された男の心理です。そういう時は、あたりまえの頭の働きをしないものです。頭のどこかに天才のひらめきがあったのですね。死の直前の短い瞬間に、自分の手に入るもので犯人の正体の手がかりになるものを残したわけです。これでおわかりのように、――生の終りのあの特別な、神々しいような瞬間には、人間精神の飛躍には限度がないのです」
「まさにそのとおりです」デウィットが言った。「面白い話ですね、レーンさん。あなたはこの推理はやさしい方だったと言われましたが、物事の奥の奥まで見抜くあなたの非凡の才能があってこそだと思いますね」
「ウィーンにおられたら、警察はずいぶん助かったことでしょうな」アハーンが言った。
ノース・バーゲンの駅が闇の中に消えた。
レーンはホッと嘆息した。「よく考えるのですが、もしも人間が殺し屋に襲われるようなことになった時に、たとえどんなにあいまいなものでも、犯人の正体の手がかりになるものを残すことができたら、罪と罰の問題も簡単になるでしょうに」
「どんなにあいまいなものでも?」ブルックスがからむように訊いた。
「もちろんです、ブルックスさん。どんな手がかりでも、全然ないよりはいいでしょう?」
眼深に帽子を被り、蒼白な顔をした背の高い、たくましい男が、前部から車に入って来てた。彼はこの四人の話をしている男たちのところまでよろよろとやってくると、座席の|さい《ヽヽ》の目模様の緑の背にどっかともたれかかり、列車の揺れに身を任せて、四人の中のジョン・デウィットをにらみつけた。
レーンは言葉を切って、困惑気に男を見上げた。しかしデウィットが不愉快そうに云った。「コリンズ君か」老優は新たな興味で、その男を見つめた。ブルックスが言った。「飲んでるな、コリンズ。何か用か?」
「君には用はない」だみ声でコリンズが言った。眼は血ばしり、やっとのことでデウィットに焦点を合わせていた。「デウィット君」彼は鄭重に話そうとした。「二人きりで話したいんだが」帽子をうしろに押しやって、おだやかな態度で笑いを作ろうとした。が、それは冷笑に終った。デウィットはあわれみと嫌悪の眼で彼を見た。
二人がやりとりしている間、ドルリー・レーンの灰色の眼は絶えず、コリンズの重苦しい顔とデウィットのかすかにしわの寄った顔との間を往復した。
「ねえ、コリンズ君」デウィットが少し語調をおだやかにして言った。「繰り返して言ってるように、あの件に関してはどうしてあげることもできないのだ。君にもわかっているだろう。君は自分で不愉快にしているんだ。私たちの邪魔をしていることが君にはわからないのか? さ、おとなしく帰りなさい」
コリンズは口をゆるめた、血走った眼がうるみ、涙が滲んだ。「ねえ、デウィット」彼はつぶやいた。「君には聞いてもらわねばならないんだ。君には、これが私にどんなことを意味するのか分かってはいない。生きるか死ぬかの問題なんだ」デウィットはためらった。他の連中は互いに眼をそらせた。この男の哀れな様子、むきだしのへりくだった態度が見るにしのびないのだ。デウィットがためらっているのにかすかな望みを見つけて、コリンズがすかさず喰い下った。「約束する、誓うよ、話を聞いてくれればもう二度と迷惑はかけない、今度だけだ。頼む、デウィット、頼む!」
デウィットは彼をじっと見つめた。「本当か、コリンズ君? 金輪際、迷惑をかけないな! こんな風に責めたりはしないね?」
「うん、信じていい!」血走った眼にぞっとするような希望が燃えた。デウィットは溜息をついて立ち上がり、連れの三人に中座の言い訳を言った。二人の男は――デウィットは頭を垂れ、コリンズは早口に激して話し、手まねし、訴え、デウィットのそむけた顔を覗きこみ――通路を通って車輛の後部に歩いて行った。と、デウィットは、突然、コリンズを通路に待たせたまま、三人の仲間のもとに戻った。
デウィットは左のチョッキのポケットに手を入れ、回数券はそのままにして、駅で買った切符を取り出した。「車掌が検札に来るかもしれないから」彼はアハーンに手渡してそう言った。「話がどのくらい長びくか分からないからね。車掌には私の分はあとで見せる」
アハーンがうなずいた。デウィットは、コリンズが憂うつそうに立っている車の後部にあと戻りした。デウィットが近づくとコリンズは元気を取り戻し、ふたたびくどきにかかった。二人は入口を通って後部デッキに出た。一瞬二人の姿がぼんやり見えた。それから残った三人は、コリンズとデウィットが最後部のうす暗い車輛の前部デッキに立ち、視界から消えて行くのを見た。
ブルックスが言った。「火遊びをして指に大火傷をしたというやつさ。奴は見込みがない。その男を助けるとは、デウィットも馬鹿ですよ」
「ロングストリートの忠告のおかげで大損をしたのだから、デウィットにその償いをさせようとしているんですな」アハーンが云った。「しかしジョンはふびんに思うかもしれませんね?なにしろ彼は上機嫌だし、生の喜びを感じているのですから、ロングストリートのへまを償ってやってしまいそうですね」
ドルリー・レーンは黙っていた。振り向いて後部デッキに眼をやったが、二人の姿はなかった。その時、車掌が前の入口から入って来て検札を始めた。みんな振り向いて、緊張の瞬間は消えた。ロードが中央にいる三人を車掌に教え、あたりを見廻して、デウィットのいないのに気づいて驚ろいている様子だった。車掌がやって来た。アハーンは六枚の切符を見せ、もう一人いるのだが、ちょっと出て行って間もなく戻るだろうと説明した。
「結構です」と車掌は言って、パンチを入れ、それをアハーンが坐っている座席の上の切符挾みにさして、前に進んで行った。
三人はとりとめもない話を始めた。間もなく話が尽きると、アハーンはことわって席を立ち、両手をポケットに突っこんで通路を行ったり来たりし始めた。レーンとブルックスは遺言状の話に夢中になりだした。レーンはずっと以前、シェークスピア劇の上演でヨーロッパを旅していた時に遭遇した珍しい例をあげると、ブルックスは、法律上の複雑な問題を惹起したいくつかの曖昧な遺言の例を話した。
列車はガタゴトと走っていた。レーンは二度も頭を上げて後部を覗いたが、デウィットもコリンズも姿はなかった。俳優の眉間にかすかな溝が出来た。彼はブルックスとの話の合間にじっと考えこんでいたが、笑いをうかべ、そんなことがあるものかと首をふり、話をつづけた。
列車がゆらいで、ハッケンサック郊外のボゴタ駅に着いた。レーンは窓の外を見た。列車がまた動き出すと、彼の眉間に今度は前より一層深く溝が現われた。彼は時計を見た。十二時三十分だった。ブルックスが不安げにレーンを見つめた。
と、ブルックスがあっと言って驚いたほどだしぬけに、レーンが席を立った。「失礼」老優は早口に言った。「神経がどうかしてるんでしょう。しかし、デウィットさんがあんまり戻って来ないので気になって仕方がないのです。ちょっと行って見てまいります」
「何かあったんでしょうか?」ブルックスも驚ろいて立ち上がり、レーンのあとから後部デッキにむかって歩いた。
「そうでないといいのですが」二人はいらいら歩き廻っているアハーンの側を通った。
「どうかしたんですか?」アハーンが訊いた。
「デウィットが戻って来ないのでレーンさんが心配しておられるんだ」弁護士が言った。「アハーン、あなたも来なさい」
レーンを先頭に三人は後部出口を出てちょっと立ち止まった。デッキには誰もいなかった。揺れる車の連結器を渡ったが、最後部の車の後部デッキにも人はいなかった。
三人はたがいに目と目を見合せた。「一体どこへ行ってしまったんだろう」アハーンがつぶやいた。「二人とも戻っては来なかったが」
「特に注意はしていなかったが」ブルックスが言った。「二人とも戻って来なかったようです」
レーンは二人にはまるで気を止めていなかった。彼はドアのところへ行って上部のガラス窓から、走り去る真暗な郊外を眺めていた。それから戻って来て、うす暗く殆んど見分けもつかない後部車輛のドアを眺めた。それからガラス窓から中を覗いてみた。この車は明らかに終点のニューバーグに運ばれる空車で、明朝のラッシュアワーにウィーホーケン行にそなえるためのものだ。彼は顎を引き、きっぱりと言った。「中へ入って見ますから、ブルックスさん、ドアを開けておいてください。まるで暗いですから」
彼はドアのハンドルを握って押した。ドアはすぐに開いた。鍵はかかっていなかった。一瞬三人は、真暗闇に眼が慣れるまで、目を細くして立っていたが、何も見えなかった。レーンが不意に横を見るなり、息をのんだ……。
ドアの左側に壁で仕切られた小室があった――普通客車の入口についているありきたりの小室である。前部と後部の壁が境界線を作り、外に向かった面にはふつうの車の窓があり、その反対側の入口のところにレーンは立っていた。この小室には他の車と同じように、向かい合って二つの長い座席があり、前部の壁に向かって、窓際によりそうように首を垂れているジョン・デウィットの姿があった。
レーンは暗闇に眼を細めた。デウィットは眠っているようだった。ブルックスとアハーンに前に押されて、彼は二つの席の間に入り込み、デウィットの肩をそっと押してみた。反応はなかった。「デウィット!」彼は鋭い声で呼んで、身体を揺すった。やはり反応はなかった。しかしこんどは、デウィットの頭がかすかに動いて眼が見えた。それからふたたびうなだれてしまった……。
その眼は暗闇の中でも、死人のうつろな眼とわかった。
レーンは腰を屈めて、デウィットの心臓に手を当てた。
彼は身体を起こし、指を動かしながらその小室を後にした。アハーンは、ブルブル震え、動かない不気味なその姿をじっと見ていた。ブルックスが声をふるわせた。「死、死んでいる」
「手に血がつきました」レーンが言った。「ドアを開けておいてください、ブルックスさん。暗いですから。誰かを呼んでスイッチを入れてもらうまでは」彼はアハーンとブルックスの側を通ってデッキに出た。「さわってはいけません、お二人とも」きびしい言葉だった。二人とも返事をしなかった。すっかり立ちすくんで、眼を恐怖に魅入られたようにして死人を見据えていた。
レーンは頭上を見上げて、求めているものの場所を探し出し、長い腕を上に伸ばした。彼は力一ぱい、数回引いた――非常信号である。ブレーキがきしって、列車がすべり、大きく揺れて止まった。アハーンとブルックスはお互いに倒れないようにつかまり合った。
レーンは連結器を通り、明るい、元すわっていた車輛のドアを開けた。ちょっと足をとめた。アンぺリアルが一人で坐って居眠りをしていた。ロードとジャンヌは頭を寄せ合って一緒に坐っていた。他に数人乗客がいたが、ほとんど眠っているか、本を読んでるかしていた。車輛の反対側のドアが開いて、二人の車掌が通路をレーンの方に走って来た。とたんに乗客は目を覚まし、ある者は雑誌や新聞を落し、異常なものを感じとった。ジャンヌとロードが驚ろいて眼を上げた。アンペリアルはけげんな顔をして立ち上がった。
二人の車掌が駈けつけた。「非常信号を引いたのは誰ですか?」最初に来た小柄の老車掌が怒ったように叫んだ。「どうしたんです?」
レーンは声を低くして言った。「大変なことです。一緒に来てください」ジャンヌ、ロード、アンペリアルが走って来た。他の乗客がうろたえて何か言いながら集まって来た。「いや、ジャンヌさん、あなたはいらっしゃらない方がいいでしょう。ロードさん、ジャンヌさんを席にお連れして。アンぺリアルさんもここにいてください」彼はロードを意味ありげに見た。この青年は蒼白になって、うろたえるジャンヌの腕を取り、無理やり彼女を元の席に連れ戻した。もう一人の車掌は背の高いでっぷりした男で、集まった乗客を押し戻し始めた。「どうか席へ戻ってください。何も訊かないで、さあ、戻ってください」
レーンは二人の車掌を連れて後部車輛に取って返した。ブルックスとアハーンはじっとしていた。二人とも石のようにかたくなって、デウィットの死体に釘付けになっていた。車掌の一人が壁のスイッチを入れたので、これまでのうす暗い車内がパッと明るくなった。三人がブルックスとアハーンを押しやって中に入り、背の高い方の車掌がドアを閉めた。
小柄の老車掌は小室ににじり入り、重たげな金時計の鎖をチョッキからだらりと下げて、屈み込んだ。彼のしわだらけの指が死人の左胸を指した。「弾痕だ!」と叫んだ。「殺人です……」
彼は身体を起こして、レーンを見つめた。レーンが静かに言った。「どこにも触れないように、車掌さん」紙入れから名刺を取り出して、老車掌に渡した。「私は最近の殺人事件で、調査の相談役という資格で仕事をして来ました。で、この事件でも権限があると思います」
老車掌は名刺を疑い深げに調べてから返した。彼は制帽を脱いで、白髪頭を掻いた。「さあ、どういうものでしょうかね」彼はいく分か不満気に言った。「嘘でないということは私にはわかりかねますし。この列車では私が先任者でして、どんな時でも、どんな非常事態でも私が責任をもつという規則になっていますから……」
「おい、おい」ブルックスが割って入った。「こちらはドルリー・レーンさんだよ、ロングストリートとウッド殺人事件を手伝っておられるんだ。新聞で読んで知ってるだろうが」
「あ、そうでしたか!」老車掌は顎をこすった。
「ここに死んでる男を誰だと思う?」ブルックスが声をからして言った。「ロングストリートの共同経営者、ジョン・デウィットだ!」
「まさか」車掌が声を高くした。どうも腑に落ちないといったように、デウィットのなかば隠れた顔を覗いた。そして眼を光らせた。「そう言えばあの方らしいようです。長い間、この列車を利用されているんです。オーケイ、レーンさん、あなたにお任せします。どうすればいいですか」
レーンはこのやりとりの間、黙って立っていたが、眼には焦慮の色があった。彼は間髪入れずはっきり言った。「ドアも、車窓も全部錠をかけてください、すぐに。機関士に、この列車を一番近い駅まで走らせるよう指示してください――」
「次の駅はティーネックですが」背の高い車掌が口を出した。
「どこでもいい」レーンがつづけた。「全速力で。ニューヨーク警察のサム警部に連絡してください。警察本部か自宅か。そしてできればニューヨークの地方検事のブルーノさんにも連絡してください」
「駅長に頼みます」老車掌が考え込んで言った。
「それがいい。それから、ティーネックの駅でこの車輛を切りはなして、待避線に入れてくれるように頼みます。車掌さん、君の名前は?」
「ポップ・ボトムリーです」老車掌は落ちついて答えた。「レーンさん、わかりました」
「それじゃ、だいじょうぶだね」レーンが言った。「すぐにかかってください」
二人の車掌はドアに歩いた。ボトムリーが若い方に言った。「私は機関士のところへ行ってくるから、君、ドアの方を頼む。いいか、エド?」
「わかった」
二人の車掌は次の車輛の入口でひしめき合っている乗客を押し分けて、走って出て行った。
彼らが去った後は水を打ったみたいに静かだった。アハーンは急に力が抜けて通路の反対側の、トイレットのドアにもたれかかった。ブルックスは出入口のドアに背をもたれた。レーンはジョン・デウィットの死体を痛ましそうに見つめていた。
彼は首を動かさずに話した。「アハーンさん、デウィットさんのご親友として、辛いでしょうがお嬢さんにこのことを話してくださいませんか」
アハーンは身体を固くして、唇をなめ、何も言わずに出て行った。
ブルックスはまたドアにもたれ、レーンは歩哨のように死体のそばに立っていた。二人とも一言も言わず、動かなかった。前の車輛からかすかな叫び声が聞こえた。
二人はまったく身動きもせず立っていたが、間もなく列車はその重々しい鋼鉄の車体をゆすって、動き出した。
外はしんの闇。
* * *
ティーネック待避線 後刻
列車はあかあかと明りをつけて、ティーネック駅近くの錆びた待避線の暗闇の中に、いも虫のように身体を横たえていた。駅自体は急ぎ足に歩く人影で生き生きとしていた。唸りをあげて自動車が闇の中から突進して来て、線路わきで止まった。直ぐに大勢の屈強な男が降りて、止まっている列車めがけて走って行った。
かけつけたのは、サム、ブルーノ、シリング医師と何人かの刑事だった。
彼らは、一団の人々――駅員、機関士、構内係――が列車の外で、強い光りを浴びながら、ひそひそと語り合っている側を走り抜けた。一人の男が角灯を上に向けた。サム警部は、顔の光を払い除け、連中は後部車輛の閉っている昇降口の方に走っていった。サムは拳でドアを強く叩いた。「来たぞ!」というかすかな声が内部から聞こえ、ボトムリー老車掌がドアをぐいと引き、壁のかけ金に止めた。彼は可動性の鉄のデッキを引き上げ、鉄のステップを降ろした。
「警察の方ですか?」
「死体はどこだ?」警部の跡を追ってみんなステップを上がった。
「こっちです、最後部車輛です」
彼らは後部車輛になだれ込んだ。レーンが動かずにいた。みんなの眼が一斉に死人に向けられた。側に駐在所の巡査、ティーネック駅長、若い方の車掌が立っていた。
「殺しか?」サムがレーンを見た。「どうしたんですか、レーンさん?」
レーンはかすかに動いた。「しくじりましたよ、警部さん。……大胆不敵な犯罪です、不敵な犯罪です」その顔は一ぺんに老けこんでしまっていた。
あみだに布帽を被り、トップコートをはだけて、シリング医師が死体の側に膝をついた。
「さわりませんでしたか?」指を忙しく動かせて、もぐもぐ言った。
「レーン、レーンさん」ブルーノがふしぎそうに言った。「先生はあなたに訊いているんですよ」
レーンが機械的に答えた。「身体をゆすりました。首が一方に傾きましたが、また元に戻りました。私は屈んで胸にさわってみました。手に血がつきました。それ以外は指一本ふれていません」
それからみんな黙って、シリング医師を見守っていた。この検屍医は弾痕を臭ぎ、上着を掴んで引っぱった。弾は左胸のハンカチ・ポケットを貫いて、真直ぐに心臓に入り込んでいた。上着はかすかな音を立てて破れた。「上着、チョッキ、Yシャツ、下着、そして心臓に抜けている。見事なもんだ、よし」シリング医師が言った。衣服にはほとんど血はついていなかった。一枚一枚の弾孔のまわりに不完全だがべっとりと血の輪ができていた。「死後約一時間」検屍医がつづけた。彼は腕時計を見た。それから死体の腕と脚の筋肉をさわり、膝の関節を曲げてみようと変な恰好をした。「死亡推定時刻十二時三十分。二、三分前かもしれないが、正確にはわからん」
彼らはデウィットの冷たくなった死顔を見つめていた。怖ろしい、不自然な表情はゆがみ、ねじれていた。その表情は理解に困難ではなかった――むき出しの恐怖、眼をつり上げ、顎の筋肉がもり上がり、しわの一筋一筋に勇気を消し去る毒素が注入されているようだった。
シリング医師が小さく叫んだ。みんなの眼が、怖ろしい死人の顔から離れ、医師が見せるために持ちあげた死体の左手にさっと移った。「この指をごらん」シリング医師が言った。みんなが見た。中指が妙な恰好で人差指の上にしっかりからまり、親指と残り二本の指は内側にぐっと曲がっていた。
「一体これは――」サムが唸った。ブルーノは屈み込んで眼をむいた。「いや」彼は叫んだ。「私は狂っているのか、幻覚を見ているのか、どうしたんだ?――」彼は笑った。「そんなはずがない、あってたまるか。ここは中世紀のヨーロッパではないんだ……。悪魔の眼を防ぐ|まじない《ヽヽヽヽ》じゃないか!」
彼らは黙っていた。それからサムがつぶやいた。「こいつはまるで探偵小説だ。ことによると、ここの便所に長い牙の中国人が隠れているかもしれないぞ」誰ひとり笑う者はなかった。シリング医師が言った。「何の意味か、こんなふうになっている」彼は折り重なった二本の指をはずそうと、顔が赤くなるまで努力してみた。彼は肩をすくめた。「板のように硬直してる。デウィットは軽い糖尿病かもしれない、おそらく自分では気がつかなかったろうが。とにかく、こんなに早く硬直してしまうというのは……」彼は横目で見上げた。「サム、指をこんな具合にやれるかやってごらん」
機械人間のように、みんなは警部を見つめた。黙って彼は右手を上げ、やっとのことで、中指を人差指の上に重ねることができた。
「押さえつけて」シリング医師が言った。「もっとしっかり。デウィットがしているように。さあ、しばらくそのままにしていてごらん……」警部はぐっと押しつけていた。顔がいくらか赤らんだ。「どうだ、相当骨が折れるだろう?」検屍医が吐き出すように言った。「こんな奇妙なことは初めてだ。死んだ後まで離れないほど、こんなにしっかり重なっているとは」
「こんな|まじない《ヽヽヽヽ》なんて納得がいかない」サムが指を元通りにしながら、無神経に言った。「あまり小説めいている。理屈に合わない。ぴんと来やせん。それに――もの笑いの|たね《ヽヽ》ですよ」
「じゃ、他に説明は?」ブルーノが言った。
「そうだな」サムが唸った。「うん、この事件を引き起こしたやつが、自分でデウィットの指を曲げたんでしょう」
「そんな馬鹿な」ブルーノが強く言った。「その方がよほどめちゃめちゃだ。なんで犯人がそんな真似をするんだ」
「そうだな」サムが言った。「うーん、レーンさん、あなたはどう思いますか」
「こんどは一つ目の悪魔を探さなければならないというわけですか?」レーンが身体を動かした。「私はね」彼はまるで元気がなかった。「ジョン・デウィットさんは、今夜の私のなにげない話を、非常に真剣にうけ取られたのではないかと思うのです」サムがその説明を求めようとしたが、シリング医師がやっと立ち上がったので、黙ってしまった。
「仕事はおしまい」と医師が言った。「ただ一つ確かなことは、即死だということでさあ」
レーンがやっと初めて元気を取り戻した。彼は検屍医の腕を掴んだ。「確かですね、先生――即死ですか?」
「はい、絶対にそうです。弾は、おそらく三十八口径だと思いますが、心臓の右心室を貫いています。ついでに言いますと、外部から調べたところでは傷はこれだけです」
「頭部はだいじょうぶですか? 暴行の何か跡はありませんか――どこにも打ち傷はないんですね?」
「まったくありません。心臓に一発うけて死んだのですな、何も他には。それで充分だったんです。こんなあざやかな弾孔は見たこともない」
「すると、シリング先生、デウィットさんは死の苦痛にあえいで、指をこんなふうに重ねたということはないのですね?」
「よく聞いてくださいよ」シリング医師はやや激昂して言った。「私は即死だと言ったんですよ。死の苦痛などありっこない。弾が心室を貫いたんですからね――ローソクの灯のように、フッと消えてしまったんです。死んだ。それで終りです。人間はテンジクネズミじゃないからね。大変なちがいだ」
レーンはクスリとも笑わなかった。彼はサム警部の方を向いて言った。「警部さん、この短気なお医者さんのおかげで、興味ある点が一つ明白になりました」
「それがどうしたというんです? 声もあげずに死んだっていうことですか? 即死した死体なら何百と見て来ました。珍しいことはありませんよ」
「ところが珍しいことがあるのです」レーンが言った。ブルーノがいぶかしげに彼を見たが、レーンはそれ以上は何も言わなかった。
サムは頭をふって、シリング医師を押し除けた。彼は死人の上に屈み込み、ゆっくりと服を調べ始めた。レーンはサムの顔と死人の身体の両方が見られるように位置を変えた。
「これは何だ?」サムがつぶやいた。彼はデウィットの上着の内ポケットから、たくさんの古い手紙と一冊の小切手帳、万年筆、時刻表、それに二冊の列車回数券を発見した。
レーンが落ちついて言った。「それは拘留中に期限が切れてしまった五十枚回数券、その新しいのは今夜、列車に乗る前に買ったものです」
警部はぶつぶつ言って、古い回数券のパンチの入ったページを指ではじいた。ページの隅は折れていた。表紙と中味には無数にいたずら書きがしてあった。パンチの型や印刷の文字をなぞったものがあり――どこもかも幾何学図形で、デウィットの精神状態をありありと示している。回数券は大部分ちぎれていた。彼は新しい回数券を調べた。それは手つかずで、パンチも入っておらず、デウィットが駅で買ったままだ、とレーンが言った。
「ここの車掌は誰?」サムが訊いた。
青い車掌の制服を着た年寄の方が答えた。「私で、名前はポップ・ボトムリーです。この列車の先任者です。何かご用で?」
「この人を知ってるかね?」
「それがです」ボトムリーはだらだら言った。「あなたがおいでになる前に、ここでレーンさんにお話したのですが、おなじみなんです。もう長い間、この列車を利用されてまして、ええと、ウェスト・エングルウッドでしたか?」
「今夜、この列車で見かけたかね?」
「いいえ、見ませんでした。私が検札して廻った限りではいませんでしたね。君、見たか、エド?」
「今晩は見ませんでしたよ」がっしりした若い方の車掌がおどおどして言った。「この人は私もよく知っていますが、今夜は見なかった。車輛を前の方に進んで行くと、一組の客がいて、背の高い男がみんなの分だと六枚切符を渡して、もう一人いるのだが、ちょっと席を外していると言いましたが、その後も見かけませんでしたね」
「検札はしなかったのだね?」
「どこにいるかわからなかったもんで。便所だろうと思ったんです。まさかこのまっ暗な車とは。誰もここには入りませんからね」
「いま、デウィットを知ってると言ったね?」
「それがこの人の名前ですか? ええ、その人はしょっちゅう、この列車に乗っていました。よく知ってますよ」
「しょっちゅうと言って何度ぐらい?」
エドは帽子をとって、禿げあがった頭を叩いて考えていた。「さあ、わかりません、何度くらい乗ったかときかれても、時々、と言う他ありませんが」
ポップ・ボトムリーが勢よく小柄な身体を前に乗り出した。「それはわかりますよ、この夜行列車は、毎晩、このエドと組んで二人で乗っているんですから、この人が何回乗ったかはわかりますよ。その古い回数券を見せてください」彼はサムの手から隅の折れた回数券をひったくり、中を開いて、サムに見せた。他の者も集まって来て、警部の肩越しに覗いた。「いいですか」切り取った残りの半券を指しながらボトムリーが得意気に言った。「乗車毎に、私たちは切符を切り取ってパンチを入れ、念のため残りの半券にもパンチを入れます。ですからパンチのマークの数さえ数えればいいわけです――この丸い方のが私ので――ええと、十字の印、これがエド・トムソンのです。車掌は、私たち二人だけしか、この列車に乗りませんから、この人がこの列車に何回乗ったかがわかるわけですよ。おわかりになりますか?」
サムは古い回数券を調べた。「なるほど、全部で四十回だ。その四十回のうち、半分はニューヨーク行きで――パンチがちがうわけだな」
「そう」老車掌のボトムリーが答えた。「朝の列車は――別の車掌で、車掌でみんなパンチがちがうんです」
「わかった」サムがつづけた。「夜のウェスト・エングルウッドに戻るのに二十回。その二十回のうち――」彼は早口につづけた。「ええと、君と君の相棒のが十三ある。すると十三回だ。彼は六時頃のふつうの通勤列車よりも、この夜行列車に多く乗っていることになるな……」
「玄人の探偵だね、私は」老車掌がにやにやした。「え、そうでしょう。パンチは嘘をつきませんや!」彼は嬉しそうに、クックッと笑った。
ブルーノが顔をしかめた。「犯人は、デウィットがふつうの通勤列車より、こっちの夜行列車に乗る方が多いということを、知ってたんだね」
「そうかもしれない」サム警部が広い肩を後にそらした。「ここで、他のこともはっきりさせておこう。レーンさん、今夜ここで何があったのですか? デウィットは、どうしてこの車輛に入ったんです?」
ドルリー・レーンは頭をふった。「実際何があったのかは知りませんが、ウィーホーケン駅を出ると間もなくマイケル・コリンズが――」
「コリンズが!」サムが叫んだ。ブルーノが前にのりだした。「コリンズがこの事件に関係しているんですか? なぜもっと前に言ってくれなかったんです?」
「警部さん、まあ落ちついて……コリンズは逃げたか、それともまだいるか。私たちがデウィットの死体を発見してから直ぐに、車掌に言って誰も出られないようにさせました。それに死体発見前に下車したとしても、逃げられはしませんよ」サムが唸った。レーンは、コリンズがデウィットにもうこれで終りだから最後に二人だけで話したいからと頼んだ時のことを、さりげなく説明した。
「それで、二人はこの車輛に入ったんですね?」サムが訊いた。
「そこまではわかりませんね」レーンが答えた。「あなたの想像にすぎない。ま、おそらくそうでしょう、が、私たちは、二人が後部デッキを渡ってこの車輛の前部デッキに立ったのを見ただけですからね」
「よし、すぐに探し出してやる」サムは数人の刑事に命じて、消えた男を列車内に探させた。
「死体はこのままにしておくのかね、サム?」シリング医師が尋ねた。
「そのままにしておきましょう」サムが言った。「そうだ、他の車輛へ行って少し訊問してみるか」
刑事を一人、死体のそばに見張らせて、彼らは死の車輛から一団になって出て行った。
* * *
ジャンヌ・デウィットは席にくずれて、ロードの肩ですすり泣いていた。アハーン、アンペリアル、ブルックスは堅くなって、ぼうっと坐っていた。
他の乗客は誰もいなかった。みんな前の車輛に移されたのだ。
シリング医師は静かに通路を通って、泣きくずれている娘に眼をやった。彼は黙って医務鞄を開け、小瓶を取り出すと、ロードにコップ一杯の水を汲みにやらせ、瓶の口を開けたのを娘の震えている鼻孔に当てた。娘は、はっとして眼をしばたたき、身をふるわせた。ロードが水を汲んで戻って来ると、のどの渇いた子供のように、彼女はがつがつと飲んだ。医師は娘の頭をなでて、無理に何かを飲ませた。と、やがて娘は落ちつき、眼を閉じて、ロードの膝に頭を垂れた。
サムは緑色のビロードのシートに腰をおろし、脚を伸ばした。ブルーノはじっと考えこんでいた。それからブルックスとアハーンを呼んだ。二人はヨロヨロと腰をあげた。いずれも緊張で蒼い顔をしていた。ブルーノ地方検事に訊ねられて、ブルックスは、ホテルでの祝宴、ウィーホーケン行きのこと、駅で待ち、列車に乗りこみ、コリンズがやって来たことを手短かに説明した。
「デウィットはどんな様子でした?」ブルーノが訊ねた。「元気でしたか?」
「それはもう、すごく元気でした」
「あんなに愉快そうにしているところを見たのははじめてですよ」アハーンが低い声で口を插んだ。「公判、不安――そしてあの判決……。電気椅子から逃れられたというのにこんなことになって……」彼は身を震わせた。
弁護士ブルックスの顔に憤怒がひらめいた。「デウィットの無実を明かす最も恐るべき証拠だ、ブルーノ検事。あんな不合理な嫌疑で彼を逮捕していなかったら、彼は今も生きていたかもしれないんだ!」
ブルーノは黙っていた。やがて――「デウィット夫人はどこですか?」
「私たちと一緒ではありません」アハーンがこれだけ言った。
「夫人には吉報だ」ブルックスが言った。
「どういう意味ですか?」
「離婚されずにすみますからね」ブルックスが冷たく言った。
地方検事とサムは目を見合わせた。「すると、夫人はこの列車には乗らなかったのですね?」ブルーノが尋ねた。
「われわれの知る限りではね」ブルックスが顔をそむけた。アハーンは首をふった。ブルーノはレーンを見た。レーンが肩をすくめた。
と、この時、一人の刑事が来て、コリンズはどこにも見当らないと報告した。
「おい! 二人の車掌はどこだ?」サムは青い制服の二人を手招きした。「ボトムリー、赤ら顔の背の高いアイルランド人を見なかったか――今夜検札した時に?」
「その男は」レーンが静かに言った。「フェルト帽を不良みたいに目深に被って、ツィードのトップコートを着て、すこし酔っていたが」
老車掌のボトムリーはかぶりをふった。「検札はしませんでした。エド、君は?」
若い方の車掌も頭を横にふった。
サムが腰をあげた。そして前の車輛に行き、デウィット一行と同じ車輛に乗り合わせていた二、三の乗客に、大声で質問をあびせ始めた。誰ひとりコリンズを覚えているものはなく、彼の行動についても何もわからなかった。サムは引き返して来て、また腰を下ろした。「誰か、この車輛を通ってコリンズが戻って行ったのを覚えていませんか?」
レーンが言った。「コリンズは戻って来ませんでしたよ。後部車輛の前か後のデッキから飛び降りたと見て間違いない。ドアを開けて飛び降りるのは何でもないことです。デウィットとコリンズが消えて、この悲劇が起こるまでの間、どこかで列車は止まりましたからね」
サムは老車掌から時刻表をもらって調べた。その結果、列車は、リトル・フェリー、リッジフィールド公園、ウェストヴュー、それにボゴタでも停車するから、コリンズが列車から逃げ出すのは可能だということになった。
「オーケー」サムはこう言って部下の一人に向かった。「二人ほど連れて、これらの駅の沿線を洗ってくれ。コリンズの足どりをつかむんだ。どこかの駅で降りて、何か跡を残しているにちがいない。ティーネック駅に電話しておれに報告してくれ」
「わかりました」
「あんな時間だから、列車でニューヨークへ舞戻るわけにもいくまい。だから駅付近のタクシー運転手に訊くのも忘れるな」
刑事が去った。
「いいか」サムが二人の車掌に言った。「よく考えてみてくれ。リトル・フェリーかリッジフィールド公園、ウェストヴュー、ボゴタのどこかで乗客に降りたものがあるか?」
車掌はすぐに答えた。どの駅でも、乗客は数人降りた、しかし、その人数と、どんな人だったかは二人とも覚えがなかった。
「顔を見たら思い出すかもしれませんが」ポップ・ボトムリーが言葉尻をのばした。「たとえよく見かけるお客さんでも、名前まではわかりませんね」
「まして新顔の客じゃ、全然わかりませんよ」トムソンが口を出した。
ブルーノは言った。「サム、犯人にしてもコリンズにしても、人に見られずに列車から飛び降りることは可能だよ。列車が駅に止まるのを待って、駅とは反対の線路側のドアを開けて飛び降り、下からドアを閉めればいいんだからな。結局、この列車には車掌はたった二人きりだし、それだけじゃ出入口に全部目をくばることはできないよ」
「確かにそうだ。誰にだってこっそり逃げられますな」サムが唸った。「ああ、犯人がピストルを手にして死体のそばに立っていてくれたらなあ……そうだ、そのピストルはどこだ? ダフィー! 後部車輛にピストルはなかったか?」
巡査部長は首をふった。
「すっかり探してみてくれ。射ったやつがピストルを列車に残して行くということもあるから」
「こうしてはどうです」レーンが言った。「列車の通った線路を探させては? 犯人が列車からピストルを投げて、線路のどこかに落ちるということもありますからね」
「それがいい。ダフィー、それも頼む」
巡査部長が重い足どりで歩み去った。
「さて」サムはだるそうに手を顔にあてて、つづけた。「こいつは大仕事だぞ」彼はデウィットの一行六人を見つめた。「アンペリアルさん! ここへ来てください」
スイス人が立ち上がり、のろのろ歩いて来た。疲労が眼のふちを黒くし、ヴァンダイク髭までがだらりとしていた。
「形式だけですが」サムは皮肉らしく言った。「列車であなたはどうしてました? どこに坐ってましたか?」
「デウィット嬢とロード君のところにしばらくいましたが、どうやら二人になりたがっていたようですので、別のところへ移りました。そこで居眠りをしていたらしく、ハッと気がついた時は、レーンさんが出口のところに立っていて、二人の車掌が走って行きました」
「居眠り?」
アンぺリアルは眉をつり上げた。「そうですよ」激しい声だった。「疑うんですか? 渡し船と列車で頭痛がしてたんです」
「ははん」サムがからかった。「で、他の人がどうしてたか知らないっていうんだね?」
「あいにくと。眠っていたのでね」
サムはスイス人の横を通り越し、ロードがジャンヌを抱いている席に歩いた。彼は上から覗くようにして、娘の肩を叩いた。ロードが怒って見上げ、ジャンヌは涙で汚れた顔を上げた。
「お邪魔してすみません、デウィットさん」サムが粗い声で言った。「一つ二つお答してくださると助かるのですが」
「君、どうかしてないか?」ロードが怒った。「お嬢さんは疲れているんですよ」
サムは青年をにらみつけて黙らせた。ジャンヌが蚊の鳴くような声で言った。「何でも、何でも、警部さん。犯人を見つけてくださるなら……」
「それはわれわれに任せてください、お嬢さん。列車がウィーホーケン駅を出てから、あなたとロードさんはどうしていました?」
彼女は半分しか意味がわからないかのように、ぼんやり彼を見た。「あたしたち――あたしたちは一緒にずっといました。初めはアンペリアルさんが一緒に坐っていましたが、どこかに行ってしまいました。私たちはお話をしてました。そして、ずっと……」彼女は唇をかんだ。涙が眼に浮かんだ。
「それで、デウィットさん?」
「一度この人は席をはずしました。しばらくは一人でいました……」
「席をはずした? それで、どこへ行きましたか?」サムは黙りこんで坐っている若い男を横目に見た。
「あのドアから出ました」彼女は曖昧に前の車の出口を指した。「どこへ行くとも言いませんでした。何か言った、キット?」
「いや、何も」
「アンペリアルさんがあなたとロードさんの席を離れてから、彼の姿を見ましたか?」
「一度、キットがいなかった時。振り向いて見たら、少し後の席で居眠りしてましたわ。アハーンさんもうろうろしてましたわ。それからキットが帰って来ました」
「何時でした?」
ジャンヌは嘆息した。「はっきり覚えていません」
サムが身体をおこした。「ロードさん、ちょっとあなたと話したいんだが……アンペリアルさん! シリング先生でもいい。ちょっとお嬢さんのお相手をお願いします」
ロードはしぶしぶ立ち上がり、ずんぐりした小柄の検屍医が席に坐った。彼はすぐにもの慣れた調子で娘に話しかけた。
二人は通路を歩いて行った。「ロードさん」サムが言った。「本当のことを話してくれ。君はどこへ行ったんだね?」
「それがおかしいんです、警部さん」青年はしっかりした口調で言った。「ぼくたちが渡し船に乗ろうとしてたら、その、変なことがあったんですよ。チェリー・ブラウンとあのいやな、彼女のボーイ・フレンドのポラックスが同じ船に乗ってたんです」
「本当か!」サムがゆっくりうなずいた。「ブルーノ検事。ちょっと来てください」地方検事がやって来た。「ロード君が、今夜ここへ来る時、渡し船でチェリー・ブラウンとポラックスを見たと言うんですよ」ブルーノがビューッと口を鳴らした。
「それだけではないんです」ロードが言った。「駅でも二人を見ました。桟橋の近くでした。二人は何か言い合ってました。それからぼくはずっと眼を離しませんでした。というのは――何か怪しい気がしたので。待合室にはいませんでした。列車に乗る時注意してたんですが、二人が乗ったかは分かりませんでした。とにかく、列車が動き出してから不安になったのです」
「なぜ?」
ロードは眉をひそめた。「あのブラウンという女は手に負えない代物なんです。ロングストリート事件の調べの時、デウィットさんにひどい言いがかりをつけたのを思い出すと、今度は何を考えているかわかりませんからね。で、ジャンヌに断って席を立ったんですが、二人がこの列車に乗っていないのを確かめたかったのです。探しましたが二人はいませんでした。それでほっとして席に戻ったのです」
「あの最後部の車輛は覗いたかね?」
「とんでもない! あんな所にいるなんてとても考えられませんよ」
「それはどの駅のへんだった?」
ロードは肩をすくめた。「わかりません。気がつきませんでした」
「君が戻って来た時、他の人はどうしていた?」
「そうですね、アハーンがやっぱり行ったり来たりしていて、レーンさんとブルックスは話していました」
「アンペリアルさんは?」
「覚えていません」
「よろしい。デウィット嬢のところへ戻りなさい、さぞかしお待ちかねだろうから」
ロードは急いで席に戻った。ブルーノとサムはしばらくぼそぼそと話していた。それからサムは前部の出入口に見張っていた刑事を呼んだ。「ダフィーに伝えてくれ、この列車でチェリー・ブラウンとポラックスを探すように――顔は知っているはずだ」刑事は立ち去った。間もなく大男のダフィー部長が現われた。「駄目でした、警部。ここにはいません。人相を言ってみましたが、誰も見覚えがないんです」
「よし、ダフィー、君に仕事がある。すぐに誰かをやってくれないか。いや君がする方がいい。ニューヨークへ飛んでくれ、そして二人の足どりを掴むんだ。女はホテル・グラントにいる。そこにいなかったら、ナイトクラブか、ポラックスの行きつけの場所を二、三調べてくれ。酒場かもしれない。手がかりがあったら電話してくれ。必要なら一晩中張りこむんだ」
ダフィー部長はにやりとして飛び出した。
「さあ今度はブルックスだ」サムと地方検事は通路を引き返した。ブルックスとレーンは一緒に坐り、ブルックスは駅構内を窓から見つめていた。レーンはシートの背に頭をもたせて眼を閉じていた。サムが向い側に腰を下ろすと、老優は眼を開き輝やかせた。ブルーノはためらっていたが、それから車の前方に引き返して、前の車輛に入って行った。
「どうですか、ブルックスさん?」サムが重々しく尋ねた。「疲れましたよ。おかげでろくろく眠ってもいられない。――ところで?」
「ところで、何ですか?」
「列車であなたはどうしてました?」
「デウィットとコリンズがなかなか戻って来ないので、調べに行くと云って、レーンさんが立ち上がるまで、私はこの席を離れなかった」
サムがレーンを見た。老優がうなずいた。「それでは結構です」サムは首を廻した。「アハーンさん!」年輩の男がとぼとぼ歩いて来た。「列車が動き出してからずっと、|あなた《ヽヽヽ》はどうしてました?」
アハーンは苦笑いをした。「昔の|かくれんぼ《ヽヽヽヽヽ》ですね、警部? 特別に何も。レーンさんとブルックスさんと三人でしばらくあれこれと雑談をし、それから脚を伸ばしたくなって立ち上がりました。通路をぐるぐる歩き廻って、それで終りです」
「何か気がつきませんでしたか? 後の出口から誰か出て行きませんでしたか?」
「正直なところ、なにも私は見張っていたのではありませんからね。そういう意味では怪しいものは何も見ませんでしたよ」
「すると、ほかに何か見たんですか?」サムは激昂した調子で叫んだ。
「いや、何も見ませんでしたよ、警部。このことに関してなら、ほかに何も見てません。実を言うと、すばらしい|さし《ヽヽ》手を考えていたんですよ」
「え、何だって?」
「|さし《ヽヽ》手ですよ。チェスの駒の」
「ああ、あなたはチェスの達人でしたね。オーケー、アハーンさん」サムが振り向くと、レーンの灰色の眼が、面白そうに彼を見つめていた。
「では、むろん」レーンが言った。「私の番でしょうな」
サムが鼻をならした。「列車内で何かごらんになったのなら、とっくにお話になっているはずですよ。レーンさん、あなたの番はすみましたね」
「実際」レーンが声を落した。「こんなに屈辱をうけたのは、こんな卑しめをうけたのは生れて初めてです。この怖ろしい事件が、まったく私の目と鼻の先で起こるなんて……」彼は手を考え深げに見つめた。「これほど近くで……」彼は眼を上げた。「不幸にも、私はブルックスさんとの面白い話に夢中になっていまして、何にも気がつきませんでした。しかしだんだん不安になり、ついにその不安のために立ち上がり、暗い車内を調べる気になったのです」
「この車輛には注意を払わなかったんじゃないですか?」
「まったくお恥かしい話ですが、そうなのです」
サムが立ち上がった。地方検事が車内に入って来て、通路の向い側の座席にもたれた。
「他の乗客に訊いて来たんだが」検事が言った。「この車輛の者は誰ひとり、通路を誰が通ったか通らなかったか、何も覚えていない。あんな抜けた連中も初めてだ。他の車輛の乗客ではなんのたしにもならないし!」
「とにかく名前だけは控えておきましょう」サムは出て行って、命令を下し始めた。残った者は彼が戻るまで黙りこんでいた。レーンは精神集中をする時のいつもの態度で、目を閉じて坐っていた。
一人の刑事が警部のところに走って来た。「手がかりがありました、警部!」と叫んだ。「コリンズの足どりをたどっていた刑事から連絡がありました!」
重苦しい空気が急に活気づいた。「よし、やったな」サムが叫んだ。「何と言って来た?」
「リッジフィールド公園駅で見かけたそうですよ。それからハイヤーでニューヨークに向ったようです。市内から電話連絡があったのですが、やはりちょっと前に戻ったばかりでした。真直ぐにタクシーで家に帰った模様です。その後、運転手を手配してますが――まだ帰ってません。コリンズのアパートの外で張り込んでますが、ご指示をお願いします」
「よかった、よかった。電話はまだつながってるか?」
「一人が出てます」
「コリンズが逃げ出さない限りそうっとしておけ。一時間くらいでおれが行く。しかし、もしそのアイルランド人を逃がすようなことをしたらクビだ、とそう言っておけ!」
刑事は急いで列車から出て行った。サムは小踊りしながら大きな足で床を鳴らした。別の刑事が入って来た。サムは期待の眼を上げた。
「首尾は?」
刑事は頭をふった。「まだピストルが見つかりません。列車内にはどこにもないのです。線路沿いに探しに行った者からもまだ連絡がありません。やっているのですが、なにせ真暗なので」
「つづけてくれ……なんだ、ダフィー!」サムの顔に深い驚きが現われた。ニューヨークに向ったはずのダフィー部長のがっしりした姿が、よろよろと列車に入って来た。「ダフィー! こんなところで一体何をしてる?」
ダフィーは帽子を脱いで、額の汗をぬぐった。彼はにゃっと笑った。「ちょっと探偵の真似をしてみたんですよ。このブラウンという女がホテル・グラントに泊っているかどうかは、自分で踏みこんで行かずとも、ここから電話をすればわかる、と考えたんです。あなたが間もなく引きあげることを知ってましたから――ここにおいでになるうちに、できればご報告をしておきたいと思いまして」
「そうか、そうか」
「女はうまくいきましたよ!」ダフィーが声を張り上げた。「いるんです、ホテルに。おまけに、あのポラックスが一緒に来てるんです!」
「いつだ?」
「受付の話ですと、私が電話をするちょっと前に帰って来て、二人で女の部屋に上がって行ったそうです」
「出て行った気配は?」
「ありません」
「よかった。コリンズのアパートへ行く途中で寄ってみよう。君はホテル・グラントへ行って見張ってくれ。タクシーで行け」
ダフィー部長が列車から出る時、新しい一団に出会った。亜麻色の髪の中背の男を先頭に、列車内にどっとなだれ込んで来た。「おい! どこへ行く?」ダフィーがどなった。
「どいてくれ、ここの地方検事だ」ダフィーは舌打ちして列車の外に出た。ブルーノが急いで出て来て、この亜麻色の髪の男と軽く握手した。男はバーゲン地区の地方検事コールと名を告げ、ブルーノからの連絡でたたき起こされたと言ってこぼした。ブルーノはコールを後部車輛に案内した。コールはそこで、今は硬直してしまったデウィットの死体を調べた。二人はおだやかに、管轄権について話し始めた。ブルーノは、デウィットが殺された場所はバーゲン地区ではあるが、この殺人は疑いもなく、ニューヨーク地区のロングストリートと、ハドソン地区のウッドの殺害事件に関連があると指摘した。二人はにらみ合った。
コールが両手をあげた。「この次はサンフランシスコか。よし、わかった、ブルーノ君。君の管轄だ、できるだけ助力しよう」
二人は引き上げた。突然、列車が嵐の渦の中心となった。かけつけたニュージャージー病院の救急車から二人のインターンが降り、シリング医師の指揮で、デウィットの死体が車外に運び出された。検屍医が疲れたように手を振って、救急車に乗って行った。
車内では全乗客が一個所に集められ、サム警部からきびしく達しをうけ、名前と住所を控えられた。その後、彼らは解放された。駅当局による臨時列車が彼らのために仕立てられ、ティーネック駅をうなりを上げて出て行った。
「じゃ、頼みますよ」ブルーノが念を押した。ブルーノはコールと前の車輛で立って話していた。「死体発見前に降りた乗客の調査をね」
「ベストは尽すがね」コールが沈んだ顔で言った。「しかし、大した結果は出ないと思うね。無実なものなら出て来るだろうが、うしろめたい奴は逃げてしまうよ。そんなところさ」
「もう一つある。サムの部下が、列車から犯人がピストルを捨てたかもしれないということで、線路と路床を探っている。ニュージャージーの連中を応援に送って、捜索をつづけてくれないか? じきに明るくなるだろうから、捜索もしやすくなる。むろんデウィットの一行も他の乗客も調べたが、ピストルは見つからなかった」
コールはうなずいて、列車を離れた。
デウィットの一行はふたたびもとの車輛に集まった。サムがトップコートを着るのにもがいていた。「どうです、レーンさん。この事件についてのご意見は? 他にお考えが出ましたか?」
「やはりロングストリートとウッドを殺した犯人を知っているとお考えですか?」と、ブルーノ。
デウィットの死体を発見して以来初めて、レーンは笑顔をみせた。「ロングストリートとウッドだけでなく、デウィットを殺した犯人も知っていますよ」
二人は黙ってレーンを見つめた。サムはレーンに会って以来二度目に、拳闘選手が頭に強打をうけて、そのショックを振り払うみたいに頭をふった。「ヒュー、こいつはお手あげだ」
「しかし、レーンさん」ブルーノが反撥した。「それなら、何か手を打つべきじゃありませんか。犯人をご存じならおっしゃってください、ひっつかまえますよ。このままにしておくわけにはいかない。一体誰です?」
レーンの顔に憔悴した溝ができた。話しぶりにも困苦が感じられた。「いや、残念ですが――妙に思われるでしょうけど――私を信じていただきたいのです、今、X氏の仮面をはいだところで、何の利益にもなりますまい。忍耐です。私は危険なゲームをしているのです、しかし、あせったら、なにもかも水の泡です」
ブルーノはうめいた。彼は訴えるようにサムを見た。サムは人差指をくわえて考えこんでいた。サムは急に決心がついて、レーンの澄んだ眼をのぞきこんだ。「わかりました、レーンさん、何でもおっしゃるとおりにします。私は私なりにやってみます、そしてブルーノ検事も彼なりにやるでしょう。もしあなたを信じたのが間違いだったら、私はいさぎよく責任をとります。何故なら私にはまるで――ここだけの話ですが――見当がつかないのです」
レーンは顔を輝やかせた――彼が示した最初の感動の反応である。
「こんな狂った犯人を放っておけば、また殺人事件が起こるかもしれない」ブルーノが最後に絶望の矢を放った。
「私を信じてください、ブルーノさん」レーンの声には冷たい自信がこもっていた。「もう殺人事件は起こりません。Xは目的をとげたのです」
第四場 ニューヨークへの帰途
――十月十日(土曜日)午前三時十五分
ブルーノ地方検事、サム警部、それに刑事の一団が数台の警察自動車に乗り込み、ニューヨークの方面に向けて、ティーネックの待避線を出て行った。
二人の男は長い間、あれこれと思いの渦に身を任せて黙って坐っていた。車外を、暗いニュージャージーの田園が走り去った。
ブルーノは口を開いたが、すさまじい排気音に呑まれて言葉が声にならなかった。サムがわめいた。「えっ?」二人は顔を寄せ合った。
ブルーノは警部の耳もとでどなった。「レーンはデウィットを殺した犯人を知っているというが、どう思う?」
「ロングストリートとウッドを殺した犯人を知ってるというのと、同じ手でしょう!」サムが叫び返した。
「本当に知っているのかな」
「ああ、知ってますね、きっと。あの爺さん何か確信ありげだ。私には見当もつかないが……。あの爺さんの勘はこうだ、ロングストリートとデウィットとは最初から二人とも狙われていた。ウッド殺害は周囲の状況から――口を封じるためにやったことだ。つまり――」
ブルーノが大きくうなずいた。「というと、この犯罪の動機はずっと前にさかのぼる、というわけだな」
「そうらしい」運転手がブレーキをかけずに悪道路を走ったので、サムがすかさずどなりつけた。「それでレーンは、これ以上殺人事件は起きないと言うんでしょう? ロングストリートとデウィットが消された、それで終りだと」
「あの男にはかわいそうなことをした」ブルーノが半ば自分にささやいた。同じ考えは二人の心にあった――デウィット、知らず知らずのうちになにかの犠牲にされてしまった男……自動車は疾走し、二人は黙して坐っていた。
しばらくして、サムが帽子を脱いで額を叩いた。ブルーノがぽかんとそれを眺めていた。
「どうした――気分でも悪いか?」
「デウィットの指の謎を考えていたんです」
「ああそうか」
「ほんとに気違いじみている。何が何だかさっぱりわからない」
「デウィットが意識的にやったと、どうしてわかるんだ?」地方検事が訊いた。「何でもないのかもしれない。ただの偶然かも」
「そんなことはない、偶然だなんて、絶対にあり得ない! 私が指を重ねてみようとしたのを見たでしょう? 三十秒だって、あんな風に重ねるのは骨が折れますよ。|けいれん《ヽヽヽヽ》で指があんなになるとも考えられない。シリング先生も同じ考えだった、でなけりゃ、私にやらせてみたりしませんよ……そうだ!」警部はレザーのシートで腰を動かして、地方検事の顔をのぞきこんだ。「そういえば、あなたは悪魔の眼の何とかと言ってましたね!」
ブルーノは恥ずかしそうに笑った。「いやあ……考えれば考える程、あれはおかしい。そんなことはない。あまりにも空想じみている――現実的ではないね」
「話にもなりませんや」
「しかし、考えられないことだと誰に言えるかね? いや、いいかね、サム、私はそう信じているとは言ってないんだよ……」
「わかってます、わかってます」
「あの重なった指が悪魔の眼を防ぐ|まじない《ヽヽヽヽ》だとしてみよう。あらゆる可能性を考慮に入れるべきだからね。そこでだ。デウィットは射たれて、その場で死んだ。すると一つ確かなことは、あの指はデウィットが、|射たれる前に《ヽヽヽヽヽヽ》、計画的にやったにちがいない」
「デウィットが死んでから、犯人がやったのかもしれない」サムが不服顔に言った。「前にも私はそう言ったが」
「ばかな!」ブルーノが叫んだ。「犯人は前の二人には何もしなかった――今度だけとは何故だ?」
「ま、いいでしょう――あなたなりにお考えなさい」サムが大声をあげた。「私はただ捜査の常道を行っているだけです――捜査というものはあらゆる可能性を、そしてどんな馬鹿げたことでも調べる必要がありますからね」
ブルーノはそれにとりあわなかった。「もしデウィットが、あの指を計画的に組んだとしたら――彼は犯人を知っていて、犯人逮捕の手がかりを残そうとしたのだ」
「そこまではうまい」サムがわめいた。「初歩的段階だがね、ブルーノ検事!」
「ああ、黙ってくれよ。もう一つ」地方検事がつづけた。「悪魔の眼、というのがある。デウィットは迷信家ではなかった。君に自分から言ってた。すると……サム!」
「わかった、わかった」警部が叫んで、突然に立ち上がった。「あなたは、デウィットは犯人が迷信家だということを教えるために、あのサインを残した、というのでしょう! ああ――これなら筋は通る! デウィットの性格にもピタリと合う。彼は綿密な男だった。抜け目のない、頭のいい商売人だったし……」
「レーンもそう思ったんだろうか?」ブルーノが考えこんで尋ねた。
「レーン?」警部の興奮が、冷水をかけられたようにさめた。彼の大きな手が顎を撫でた。「いやあ、考えてみると、その推理もそれほどぱっとしないようですな。その迷信ということも……」
ブルーノがホッと息をもらした。
五分後、サムが不意に言った。「ジェタトーラというのは何です?」
「邪悪な眼を持った悪魔――ナポリの方言だろう」
二人がふさぎこんで黙った。自動車は突進した。
第五場 ウェスト・エングルウッドのデウィット邸
――十月十日(土曜日)午前三時四十分
大型の警察自動車がウェスト・エングルウッドの村を通り抜け、枯れかけた木の並ぶ脇道に入ったとき、この村は冷たい月光の下に寝入っていた。二台のオートバイに乗った、州警官が車の左右を守り、その後から、別の小型自動車が刑事一団をぎっしりとつめこんで走っていた。
一行は、芝生からデウィット邸に通じる車道の前で止まった。大型の車から、ロード青年に助けられてジャンヌ・デウィット、つづいてフランクリン・アハーン、ルイ・アンペリアル、ライオネル・ブルックス、ドルリー・レーンが降りた。みんな黙っていた。
警官はオートバイのエンジンを止め、スタンドを下ろし、ぼんやりサドルに腰をかけて、煙草をふかしていた。刑事たちは小型車から群がり降り、一行を囲んだ。
「みんな家の中へ入るんだ」いかめしく一人が言った。「一個所にいるようにと、コール地方検事の命令だ」
アハーンが抗議した――自分の家はすぐ近くなのだから、なにもデウィットの家で夜を過さなければならぬいわれはない。他の連中は玄関にだらだら歩いて行ったが、レーンは、ぐずぐずしていた。いかめしく命令した刑事が首をふった。別の刑事がアハーンのそばに寄って来た。アハーンは肩をすくめて、みんなにつづいた。レーンもかすかに笑って、アハーンの後を暗い道に進んで行った。刑事たちが後から重い足でついて来た。
一行は、けげんそうに彼らをみつめる、服を半分ひっかけた執事のジョーゲンズに迎えられた。誰ひとり説明しようとはしなかった。しつこく刑事に護衛されて、一行は大きなコロニー風の居間に入り、絶望と疲労のさまざまな表情をうかべて席についた。ジョーゲンズは片手でボタンをかけながら、もう一方の手で電気をつけた。ドルリー・レーンはホッと嘆息をついて坐り、ステッキを撫でながら他の連中をキラキラした目つきで見つめていた。
ジョーゲンズがジャンヌ・デウィットのそばにためらいながら来た。ジャンヌはロードの腕に抱えられてソファーに坐っていた。執事はおどおどと尋ねた。「失礼でございますが、お嬢さま……」
「なに?」その声があまりに異様だったので、老執事は一歩あとずさりした。
だが、執事はつづけた。「何かあったのでございますか? このお方たちは……失礼でございますが、デウィットさまはどちらに?」
ロードが荒い声で言った。「向うへ行ってなさい、ジョーゲンズ」
ジャンヌがはっきり言った。「パパは死んだの、死んでしまったのよ」
ジョーゲンズの顔からサッと血の気がなくなった。まるで魂の抜けた人間のように、じっと腰を屈めたままの姿勢でいた。それから、この怖るべき知らせを確かめるように、おそるおそるあたりを見廻したが、どの客もただ顔をそむけるか、その夜の冷酷な事件のためにすっかり感情を奪われてしまった、うつろな眼を見るばかりだった。彼は何も言わずに出て行こうとした。
すると、主任刑事が立ち塞がった。「デウィット夫人はどこだね?」
老執事は涙でうるんだ、うつろな眼で、ぼんやり彼を見つめた。「奥さま? 奥さまですか……」
「そうだ、さ、早く言ってくれたまえ――どこにいるんだ?」
ジョーゲンズは身体を硬ばらせた。「二階でおやすみだと思います」
「一晩中、在宅だったのか?」
「いいえ、いいえ、そうではないようでございます」
「どこへ行った?」
「存じません」
「いつ帰って来た?」
「お帰りになられたとき、私は眠っておりました。鍵をお忘れになったようで、ベルをお押しになったものですから、私が起きて行きました」
「それから?」
「一時間半ばかり前にお帰りだったかと存じます」
「正確にはわからないのか?」
「はい」
「ちょっと待ちたまえ」刑事はジャンヌ・デウィットの方に向いた。彼女はこの話の間中、坐り直して一心に耳をすましていた。刑事は彼女の異常な表情にたじろいだようだったが、鄭重にふるまおうとして、かえってぎこちなく話しかけた。「じつはお嬢さん――あなたからデウィット夫人に事の次第を話してくださいませんか? どうしても話さなければならないことですし、私も後でお話ししたいこともあります。コール地方検事の指令です」
「まあ、|あたし《ヽヽヽ》から?」ジャンヌはのけぞってヒステリックに笑った。「|あたし《ヽヽヽ》から話すのですか?」ロードがそっと彼女をゆすぶって、耳もとにささやいた。狂暴な光が彼女の眼から消え失せ、身体を震わせた。彼女はなかばささやくように言った。「ジョーゲンズ、デウィット夫人をここに呼んで」
刑事がすかさず言った。「それには及びません。私が呼んで来ましょう。君――部屋に案内してくれたまえ」
ジョーゲンズが部屋からそろそろと出て行った。刑事が従った。誰も話さなかった。アハーンが立ち上がって床を歩き始めた。アンペリアルはコートをまだ着ていたが、さらにしっかりとかき合せた。
「火をたくのが賢明ではないでしょうか」ドルリー・レーンがおだやかに言った。
アハーンはじっと立って部屋を眺め廻していた。彼は急に寒さを感じたように身震いした。どうにもならないというふうに目をやり、とまどってから煖炉の方に行き、膝をついて、震える手で火を起こし始めた。やがて小さく積み上げた薪がパチパチ燃え始め、火明りが壁におどった。すっかり燃え上がり出すと、アハーンは立ち上がり、膝の埃を払い、また歩き出した。アンペリアルはコートを脱いだ。隅で肘掛椅子にうずくまっていたブルックスが、椅子を火のそばにひきずって来た。
彼らはいっせいに、はっと顔を上げた。暖まってきた空気を通して、入口の方からがやがやと人声が流れて来た。硬くなったまま、不自然にみんながその方向に顔を向けた――さながら彫像のように、妙に気の抜けた様子で、何かが起こるのを待ち構えていた。やがてデウィット夫人が居間にすべるように入って来た、そのあとから刑事と、おどおどしてまだぼうっとしているジョーゲンズがつづいた。
夫人のしなやかな動作も、彼らの態度と同じく不自然で、夢のテンポのように非現実的ではあったが、それでも、恐怖の呪文と悪夜から彼らを解放してくれた。彼らはほっとした。アンペリアルは立ち上がって、型通り軽く頭を下げた。アハーンは鼻を鳴らして、頭を動かした。ロードの腕はジャンヌの肩を抱きしめた。ブルックスは煖炉の方へ歩いた。ドルリー・レーンだけが同じ姿勢のままでいた。聾《ろう》というハンディキャップを持った人間として、彼は頭を機敏に動かし、音に意味のありそうな如何なる微細な動きにも眼を鋭く光らせていた。
ファーン・デウィットはナイト・ドレスの上に、大急ぎで異国風のガウンをかけた姿で現われた。髪は相変らず黒く光り、両肩に房々と垂れ、真昼の光線の中でよりも、彼女はずっと美しく見えた。化粧は落していたが、煖炉の火が年齢の跡をやわらげていた。彼女は不安げに足を止め、眼はジョーゲンズと同じようにあたりを見廻した。ジャンヌに気がつくと、その目は妙に硬ばった。そしてデウィット夫人は真直ぐ部屋を横切って、彼女のやつれた姿に身を屈めた。「ジャンヌ、ジャンヌ、私はとても――」
ジャンヌは顔も動かさず、継母を見ようともしないで、透き通る声で言った。「あちらへ行ってください」
ファーン・デウィットは、まるで平手打ちを喰わされたみたいに後ずさりした。そして二の句も告げず、部屋を出て行こうとした。後で立って、じっと様子を見ていた刑事がそれを遮ぎった。「少しお訊きしたいことがあります、デウィット夫人」
夫人は仕方なく足を止めた。アンペリアルがあわてて椅子を持ち出すと、彼女はそれに腰をかけて火を見つめていた。息のつまりそうな沈黙の中で、刑事が咳ばらいをした。「今夜は何時に帰りましたか?」
夫人は息を呑んだ。「なぜですか? なぜそんなことを……」
「質問に答えてください」
「二時――少し過ぎでした」
「すると、約二時間前ですね?」
「はい」
「どこへ行ってました?」
「ドライブを」
「ドライブ」刑事の声はあきらかに疑っていた。「誰と?」
「一人です」
「何時に家を出ましたか?」
「夕食のずっと後、七時半ごろでした。自分の車で……」声が次第に消えて行った。刑事は辛抱強く待った。彼女は乾いた唇をなめ、ふたたび話し始めた。「ニューヨークに行きました。しばらくして気がついてみると大寺院のところに来てました――セント・ヨハネ大寺院です」
「アムステルダム通りと百十番街の?」
「そうです。そこで車を停めて中へ入りました。長いこと、じっと坐ったまま、考えごとをしてました……」
「いったい、どういうことなんです、デウィット夫人?」刑事があらあらしく訊いた。「あなたはただニューヨークの山の手へ行き、寺院に二時間も坐って来たとでも言うんですか? その大寺院を出たのは何時です?」
「それがどうしたというんです?」夫人は金切声をあげた。「いったい、それがどうしたというの? 私が殺したとでも思っているんですか?――そうよ――きっとそうです、みんなそう思ってるんです、ここにこうして坐って、私を見つめ、私の様子を探っている人たちはみんな……」
夫人はすすり泣きを始めた。その豊満な肩が揺れた。
「何時にその大寺院を出たんですか?」
すすり泣きはしばらくつづき、間もなく涙をおさえて、彼女はとぎれとぎれに話し出した。「十時半か十一時ごろです、よく覚えてないんです」
「それからどうしました?」
「ただ車を走らせただけです」
「ジャージーへはどうやって戻って来ました?」
「四十二番街の渡し船で」
刑事はヒューと口をならして、夫人を見つめた。「あの雑沓のニューヨークの下町をまた抜けて来たんですか? なぜです? なぜ百二十五番街の渡し船を使わなかったんです?」
彼女は黙っていた。
「さあ、どうなんです?」刑事は残忍な言い方をした。「ひとつ説明してもらいましょうか」
「説明ですって?」夫人の眼が曇った。「説明なんてできません。どうして下町へ出たのか、しりません。ただ車を走らせただけです、考えごとをして……」
「なるほど、考えごとをね」刑事の眼が光った。「何を考えていたんですか?」
彼女はガウンの襟を合わせて、立ち上がった。
「その質問は少し過ぎはしませんか。何を考えようと私の自由というものですわ。通してください。部屋に戻りますから」
刑事が立ち塞がった。夫人は足を止めたが、頬からは血の気が引いていた。「いけません」と刑事がはばんだとき、ドルリー・レーンがおだやかに言った。「実際、デウィット夫人の言われるとおりです。夫人は昂奮しておられるのだから、質問は延ばしたほうが――まだ訊く必要があるなら朝まで延ばすほうが思いやりがあるというものではないでしょうか」
刑事はレーンをにらみつけたが、咳ばらいして脇によけた。「いいでしょう」刑事はうなって言い、不服そうにつけ加えた。「失礼しました、奥さん」
ファーン・デウィットが姿を消し、ふたたび一座の連中は無感動の状態に陥った。
* * *
四時十五分、ドルリー・レーンは妙なことをしていた。
彼はたった一人で、デウィット邸の書斎にいた。インバネスは椅子に投げ出されていた。背の高い、整った姿が整然と部屋を動き、眼はあちこちを見廻し、手はたえまなく動き、何かを探していた。書斎の中央に、彫りのある、古びた大きなクルミ材の机がある。レーンは抽出しを一つ一つ引き抜いては、書類をえり分けて調べていた。だが、明らかに不満顔だった。彼は机を離れると、これでもう三度目というのに、また壁の金庫に向かったではないか。
老優はふたたびノブを廻そうとしてみた。金庫には錠がかかっていた。やがて、あきらめると、くるりと向きを変え、ゆっくり歩きながら、丹念に本の山を調べ、棚や本の間を覗き、あれこれと本を開いて見たりした。
すっかり本を調べ終ると、彼は立ったまま、じっと考えこんだ。彼の鋭い眼はふたたび壁の金庫に向けられた。
彼は書斎の入口に行ってドアを開け、外を覗いた。刑事の一人がホールでうろうろしていたが、それに気がついてサッとふりむいた。
「執事はまだ階下にいるかね?」
「見てきましょう」刑事は歩み去り、間もなく足をひきずるようにして歩くジョーゲンズを連れて来た。
「何かご用で?」
ドルリー・レーンは書斎の入口の柱にもたれた。
「ジョーゲンズさん、書斎の金庫のダイヤルの組み合わせを知ってるかね?」
ジョーゲンズは驚いた。「私がですか? とんでもございません」
「デウィット夫人は知ってるかな? お嬢さんはどうかね?」
「ご存じないと思います」
「それはおかしいね」レーンがおだやかに言った。刑事はホールの方へぶらぶら歩いて行った。「いったい、どういうことなのかね、ジョーゲンズさん?」
「はい、だんなさま、デウィットさまは……その……」執事は戸惑っているらしかった。「おかしなことでございますが、デウィットさまは、もう何年も、あの金庫を、ご自分専用にされておいでで、奥さまとお嬢さまの宝石類は、お二階の寝台の金庫にございます。書斎の中の金庫は……デウィットさまと弁護士のブルックスさまだけが、組み合わせ文字をご存じなので」
「ブルックスが?」ドルリー・レーンは考えこんだ。「彼をここへ連れて来てくれないか」
ジョーゲンズが去った。戻って来た時は、白髪まじりのブロンドの髪がもつれ、眠っていない眼を赤くしたライオネル・ブルックスが一緒だった。
「お呼びですか、レーンさん」
「ええ、あなたとデウィットさんだけしか書斎の金庫を開けられないということが分かりましたので」警戒の色がブルックスの眼に浮んだ。「教えていただきたいのですが」
弁護士は顎を撫でた。「よわりましたな、レーンさん。道義的に言って、私にはお教えする権利がありますかどうか。それに法律的には……困ったことになりますね。ずっと以前に組み合わせはデウィット氏から聞きましたが、書類を家のものに見られたくない、万が一、自分の身に何か起こっても、正式の手続きをふんでからでないと金庫は開けてもらいたくない、とこう言われておりますので……」
「困りましたね」レーンがつぶやいた。「しかしそういうわけでしたら、私はいよいよ金庫を開けねばなりません。もちろん私にそれを要求する権限があることもご存じでしょうね。地方検事になら教えられますか?」老優の眼は笑っていたが、弁護士が顎をぎゅっとひきつめるのを見逃さなかった。
「もし遺言状をごらんになりたいのでしたら」ブルックスは弱々しく言った。「それは正に公務で……」
「いや、遺言状ではないのです。ところで、あなたは金庫の中味をご存じですね。事件の謎をすっかり解いてしまう貴重なものが入ってるにちがいないですが」
「とんでもない、私は知りませんよ。何か特別のものが入っているとはいつも思っていましたが、もちろんデウィット氏には訊こうともしませんでした」
「ブルックスさん」レーンは声をガラリと変えて言った。「組み合わせを教えてくださる方がいいと思うのですがね」
ブルックスは困って眼をそらせた……やがてちょっと肩をすくめて、弁護士は一連の数字をつぶやいた。レーンは彼の唇を真剣に見つめてうなずくと、黙って書斎に引き返し、ブルックスの鼻先でドアを閉めた。
老優は書斎の金庫に急いだ。しばらく文字盤を操作していたが、重い小さな扉が開くと、期待に一瞬手を休めて、何も触れずに中を調べた。
十五分後、ドルリー・レーンは金庫の扉をガチャンと閉めて、文字盤を廻し、机に戻った。手には一つの小さな封筒を持っていた。
レーンは椅子に腰かけ、封筒の表書きを調べた。肉筆でジョン・デウィットに宛てられ、ニューヨーク中央郵便局の消印で、本年六月三日の日付けとなっていた。レーンは封筒を裏返してみた、差出人の住所氏名はなかった。
彼は封筒の破れた口にそっと指を入れて、ありふれた一枚の便箋を抜き出した。表書きと同じく走り書きがしてあった。インクは青だった。便箋の上に六月二日と日付けがあり、いきなり、ジャック! と始まっている。
文面は簡単だった。
六月二日
ジャック!
これが最後の手紙だ。
どんなやつにもいい時はある。おれにも間もなく来るだろう。
償いの用意をしろ。お前が最初になるかもしれない。
紋切り型の結句もなく、マーティン・ストープスとだけ署名してあった。
第六場 ホテル・グラントの一室
――十月十日(土曜日)午前四時五分
ダフィー部長はチェリー・ブラウンの部屋に通じるドアの羽目板に、その途方もなく大きな背を押しつけて、一人の心配そうな顔の男に用心深く話しかけていた。そのとき、サム警部とブルーノ地方検事、その部下が、ホテルの十二階の廊下を大股に歩いて来た。
ダフィーは、この心配そうな顔つきの男をホテルの探偵だと一行に紹介した。ホテルの探偵は、サム警部の眼がするどく光るのを見て、なおのこと心配そうな顔をした。
「何かあったか?」サムが不吉な声で訊いた。
「コトリとも音がしないくらいです」ホテルの探偵が口ごもった。「まったく静かです。厄介なことになるんではないでしょうね」
「まるで姿を現わしません」部長が言った。「二人で眠ってしまったんですね」
ホテルの探偵はとたんに目の色をかえた。「ここではそういうことは許さないのですが」
サムが唸った。「この部屋に他の出口はないかね?」
「あのドアです」ダフィーが肉付きのいい腕をあげた。「もちろん非常口はあります。しかし降り口には見張りをつけてありますし、非常の場に備えて、屋上にも一人、見張らせています」
「ま、その必要はないようだが」ブルーノが水を差すように云った。彼は落ちつかない風だった。「逃げたりすることはないだろう」
「いや、それはわかりませんよ」警部が冷やかに言った。「用意はいいか?」彼は廊下をずっと眺めた。部下とホテルの探偵を除いては誰もいなかった。部下の二人が隣りの出入口をかためた。それだけの手配をすませると、サムはドアを叩いた。
部屋の中からは物音一つ聞こえなかった。サムはドアに耳をつけて、ちょっと様子をうかがい、それから激しくノックした。ホテルの探偵は抗議しようと口を開きかけたが、ふたたび口を閉じ、敷物の上をいらいらして歩き出した。
長い間待った。が、こんどは、かすかなささやきが警部の耳に入った。彼はにやりと笑って待った。次には中から電気のスイッチを入れるカチッ! という音がして、足をひきずる音、それからドアの錠をぬく音がした。サムは目で、部下に警戒のサインを送った。ドアがわずか二インチ開いた。
「誰? 何の用なの?」チェリー・ブラウンの不安げな声だった。
サムはドアを大きく押し開けようとして、隙間から大きな足を押し込み、ハムのような手をパネルに当てがって押した。ドアがやっと開いた。部屋の明りの中で、ほれぼれするほど美しいチェリー・ブラウンが、ひどく心配そうな顔をして、レースの付いた絹のネグリジェに身を包んで立っていた。素足のかわいい足にサテンのスリッパをつっかけていた。
彼女はサムの顔を見ると、はっと息を呑んで本能的に後ずさりした。「あら、サム警部!」サムが実際目の前にいるのに、自分の目を疑うとでもいうように、弱々しい声をあげた。「どう――どうしたのですの?」
「何でもない、何でもないよ」サムはさり気なくこう言ったが、眼は休みなく動いていた。警部は女優の居間に立っていたのだ。かなり散らかっていた。サイドボードの上には空のジンの瓶と、ほとんど空のウィスキーの瓶があった。テーブルの上には煙草のすいさしと、女持ちの真珠のイヴニング・バッグがあった。洗ってないグラス、ひっくり返った椅子……彼女の眼は警部の顔からドアの外へ移った。そして外の廊下にブルーノと無言の刑事たちが立っているのを見ると、眼を見張った。寝室へ行くドアは閉っていた。
サムは笑った。「中に入ってみましょう、検事さん――君たちは外にいてくれ」地方検事は部屋に入って、入口のドアを後手に閉めた。
女はいつもの落ちつきをいくらか取り戻した。頬に色がさし、手を髪にやった。
「へん! こんな時間にレデイを騒がすとはね。いったい、何なの、警部さん?」
「まあ、まあ、お嬢さん」サムが愛想よく言った。「一人かね?」
「それがあんたに何だというの?」
「一人かね、って言ってるんだよ」
「あんたの知ったことじゃないわ」
サムはにやりとして、寝室のドアに歩みよった。ブルーノは壁にもたれていた。女優はあわてて声をあげると、警部の後を追った。そして彼を遮ぎり、背を寝室のドアにぴったりつけた。彼女は怒った。その輝やくスペイン系の眼が、ギラギラ光った。「何てひどい!」彼女は叫んだ。「令状は?――」
サムはその大きな手を彼女の肩にかけて、ドアから引き離した……。パッとドアが開いて、まぶしそうに眼をしばたきながら、ポラックスが出てきた。
「いいさ、いいさ」つぶれたような声でポラックスが言った。「騒いでみてもしようがない。何かあったんですか?」
彼は窮屈そうな絹のパジャマを着ていて、昼間の念入りなあの伊達男ぶりはすっかり消えていた。うすい髪の毛はまるで脂を塗ったように逆立ち、針のように尖った髭はだらりと垂れていた。その突き出た眼の下には、石墨色の不健康な隈ができていた。
チェリー・ブラウンは頭をツンと上げ、テーブルの灰皿から煙草のすいさしを一本取り、マッチを擦り、がつがつと吸い、腰を下ろして脚をふらつかせた。ポラックスはただじっと立っていたが、ひどい恰好をしているのが気になるらしく、足を踏みかえていた。
サムは二人を見較べながら、冷静にポラックスを値ぶみしていた。誰も一言も言わず黙っていた。
重苦しい沈黙を破って警部が言った。「さあ、あなた方お二人に、今夜どこへ行ったか話してもらいましょうか」
チェリーが鼻であしらった。「そんなこと聞いてどうするの? それより、なぜ急にあたしのことにそんなに興味を持つようになったのよ」
サムは、硬《こわ》ばった赭《あか》ら顔を、女優の前に突き出した。「お嬢さん」彼は何気なく言った。「あなたと私とはうまくやれるんだよ――うまくね――あなたさえおだやかにしてくれれば。しかし強情を張ると、あなたのそのかわいい身体の骨をばらばらにしてしまうよ。さ、質問に答えるんだ、お上品ぶるのはよしてくれ!」
警部の眼は|めのう《ヽヽヽ》のようになって、女を見据えた。彼女はくすくすと笑った。「いいわ……今夜は舞台がはねてからポラックスが迎えに来て、それから二人で――ここに帰って来たわ」
「馬鹿も休み休み云え」サムが言った。ブルーノは、ポラックスが眉をひそめ、サムの肩ごしに女に合図を送ろうとしているのを見てとった。「あなたは二時半ごろに帰って来た。さあ、どこに行ってたんだ?」
「なんでそんなに湯気を立てるのよ? たしかに帰って来たわ。ただ、劇場からホテルに真直ぐ帰って来たとは言いたくなかっただけよ。そんなつもりではなかったけど。あたしたちは四十五番街のバーに寄って、それから帰ったわ」
「ひょっとして今夜、ウィーホーケンの渡し船に乗らなかったかね? 十二時ちょっと前に?」
ポラックスが唸った。「君もだ!」とサムが大声をあげた。「君もそこにいた。二人ともジャージー側の船着場にいたのを見られているんだぞ」
もう駄目か、というようにチェリーとポラックスが顔を見合わせた。女がゆっくり言った。「それがどうしたというのよ? 悪いっていうの?」
「悪いことだらけだ」警部が怒った。「どこへ行くつもりだったんだ?」
「ただ渡し船に乗ってみただけじゃないのよ」
サムはむっとなって鼻であしらった。「何ということだ。君たちは間抜けか、それとも、何だ? そんなことをおれが信じるとでも思っているのか?」彼は片足でどんと床を踏みならした。「もううんざりだ、藪《やぶ》の周りでこんなに騒ぎ立てるのにはあきあきした。君たちはあの渡し船に乗った、そしてジャージー側で降りた、デウィットの一行の後をつけていたんだからな!」
ポラックスがぶつぶつ言った。「すっかり話してしまった方がいいよ、チェリー。それしかないさ」
女優は軽蔑して彼をにらんだ。「いくじなしの臆病もの。脅《おど》かされた子供みたいに何もかもしゃべってしまうのね。あたしたちは何も悪いことなんかしてやしないじゃない? 何かしたわけでもないし、いったい何をしゃべろうっていうの?」
「しかしチェリー――」ポラックスが目くばせした、そして両手をひろげた。
サムは二人に口喧嘩させておいた。彼は、少し前からテーブルの上の真珠のイヴニング・バッグに眼をつけていた。警部はそれを引き寄せると、手に取って量るようにして重みを調べた……。すると、口喧嘩がまるで魔法にかかったようにぴたりと止まった。チェリーは警部の大きな手が上下に動くのを見つめた……。「それを返して」しわがれ声で彼女は言った。
「このバッグの中にはかなり重いものが入っているね?」サムがにやっとした。「一トン近くもあるぞ。おかしいね……」
彼の大きな指が、器用にバッグの口を開け、中に入ったとき、女優は小さい動物的な叫び声をあげた。ポラックスは顔面蒼白になり、発作的に一歩足を踏みだした。ブルーノが静かに背後の壁を離れて、サムのそばに来た。
警部の指が、小口径の、真珠の柄の、小さいピストルを取り出した。彼はこの武器の構造を調べ、中をあらためた。三発、弾丸がこめてあった。サムはハンカチを鉛筆に巻いて、銃口にさし込んだ。ハンカチはきれいなままで出て来た。それからピストルを鼻に近づけて嗅いでみた。彼は頭を振って、その武器をテーブルの上に投げ出した。
「あたし、ピストルの許可証もってるわよ」女優が唇をなめなめ言った。
「では拝見」
彼女は戸棚のところに行き、抽出しを開けて、テーブルに戻った。サムは許可証に目を通して、彼女に戻した。彼女はまた腰を下ろした。
「今度は君の番だ」サムはポラックスに言った。「デウィットの一行をつけたね? 何のために?」
「私――私には何のことだかわからない」
サムの眼がピストルに流れた。「君はこのピストルのお陰で、そこの可愛いチェリーの立場が悪くなったのがわかるだろう?」
チェリーが唾をのみこんだ。「それ、どういう意味?」ポラックスの口が歪んだ。
「ジョン・デウィットが今夜、西岸線で射たれて死んだ」ブルーノ地方検事が言った――部屋に入ってから初めて口を開いたのだ。「殺しだ」
二人の唇が機械的にこの言葉を繰り返し、目を見はり、怯えたように顔を見合わせた。
「誰がやったの?」女が低い声で言った。
「|あんた《ヽヽヽ》が知らないだと?」
チェリー・ブラウンの唇がわなわな震えだした。と、ポラックスが初めて大きな動きを見せて、サムとブルーノを驚ろかせた――サムが抑えるひまもなく、彼はテーブルにとびつくなり、ピストルをひっ掴んだ。ブルーノが身をよけてかまえ、サムの手は腰のポケットに走った。チェリーが悲鳴をあげた。しかしポラックスは一暴れするつもりではなかった。彼は慎重に銃身を持っていた。サムの手がポケットのところで止まった。
「見てください!」ポラックスが早口に言った。警部にピストルの柄をつきつける手が震えていた。「中の弾丸をよくみてごらんなさい、警部さん! 実弾ではない――ただの空包ですよ!」
サムはピストルを手に取った。「空包だ」とつぶやいた。ブルーノは、チェリー・ブラウンがまるで初めて会ったというような顔つきでポラックスを見つめているのを、見た。
ポラックスは夢中になったあまり、どもった。「先、先週、私が自分ですりかえておいたんです。チェリーは知りません。実弾の入ったピストルを、彼女が持ち歩いているのは気にくわないので、な、なにしろ、女ってこういうことには不注意ですからね」
「なぜ薬包は三発しかないのだね?」ブルーノが尋ねた。「空の弾倉に、実弾が一つくらい入っていたんじゃないのか」
「とんでもない、入っていませんでしたとも!」ポラックスが叫んだ。「なぜ全部こめなかったか私にもわかりません。とにかくこめなかったんです。それに私たちは今夜、あの列車にも乗りませんでした。桟橋までは行きましたが、そこで引き返して、次の渡し船で又ニューヨークに戻りました。そうだったね、チェリー?」
女優が黙ってうなずいた。
サムはバッグをもう一度よく調べた。「切符は買ったかね?」
「いいえ。窓口の近くにさえ行きませんし、列車の方へも行きませんでした」
「しかしデウィットの一行をつけていたんだろう?」
ポラックスの左まぶたがおかしいほど、小さく|けいれん《ヽヽヽヽ》し出した。|けいれん《ヽヽヽヽ》の度が激しくなった。しかしポラックスは、まるで海亀みたいに口をつぐんでいた。女は眼をおとして、じゅうたんを見つめていた。
サムが暗い寝室に入って行った。空手でふたたび出て来ると、今度は居間を片端から捜索しはじめた。誰も何も言わなかった。とうとう彼はみんなに背を向けると、入口のドアの方へどしどしと歩き出した。ブルーノが言った。「いつでも呼び出しに応じられるように。二人ともおかしな真似はしないようにね」そしてサムにつづいて廊下に出た。
サムとブルーノが出て来ると、待っていた刑事たちが期待に眼を光らせた。しかし警部は頭《かぶり》をふっただけで、エレベーターに進んで行った。ブルーノがその後に一人、重い足どりでついて行った。
「なぜピストルを押収しなかったんだね?」ブルーノが尋ねた。
サムは角ばった人差指でエレベーターのボタンを押した。「押収してどうなるんです?」彼は仏頂面《ぶっちょうづら》で言った。ホテルの探偵が後にいたが、心配そうな表情がますますはっきりと現われていた。ダフィー部長が、肩で彼を押しやった。「何にもならないですよ。シリング先生は、傷口は三十八口径によるものだと言ってたんだし、さっきのは二十二口径ですからね」
第七場 マイケル・コリンズのアパート
――十月十日(土曜日)午前四時四十五分
ニューヨークは夜明けというのに、信じがたいほどまだ暗かった。警察自動車が、まるで山道を走るように暗い淋しい街を何の防害もうけずにつっ走った。ヘッドライトをあかあかとつけて、時々走って行く流しのタクシー以外には目にとまるものもなかった。
マイケル・コリンズは西七十八番街のアパートに住んでいた。警察自動車が歩道の縁に滑りこむと、一人の男がアパートの影から現われた。サムが飛び降り、ブルーノと刑事たちがそれにつづいた。すると男が言った。「まだ階上にいます。帰ってから一歩も出ていません」
サムがうなずくと、彼らはいっせいにロビーになだれこんだ。受付けの制服の老人がぽかんとただ眺めていた。一同は、眠っているエレベーター・ボーイを揺り起こして、階上に急いだ。
八階で、彼らはエレベーターを降りた。別の刑事が現われると、目顔で一つのドアを指さした。彼らは息を殺して円く集まった。ブルーノが昂奮のあまり、大きく息をついて、腕時計を見た。「用意はいいな?」サムが事務的に言った。「やつは手に負えなさそうだからな」
警部はドアに歩み寄ってベルを押した。遠くでベルの鳴るのが聞こえた。すぐに足をひきずる音がし、男の声で荒々しく叫んだ。「誰だ?誰だ?」
サムがどなった。「警察の者だ! ドアを開けろ!」
ちょっと沈黙があってから、「生捕りにされてたまるか!」と圧しつけたような叫びが聞こえ、また足をひきずる音、そして凍った枝を折るような鋭い音――銃声がした。それから何か重いものの倒れる音がした。
間髪をいれず、彼らは激しい行動に移った。サムは一歩下がって深く息を吸い込むと、ドアに身体をぶっつけた。ドアは怖ろしく頑丈だった。ダフィー部長ともう一人、腕っぷしの強いのがサムと一緒になり、三人の男が破城槌《はじょうつち》さながらの勢いでドアにぶつかった。ドアは揺れたが、開かなかった。「もう一回!」警部がわめいた……。四回目の攻撃で、ドアがきしって開き、彼らは長い暗いホールに頭から転がりこんだ。ホールの突き当たりに、明か明かと灯のついた部屋に通じる出入口があった。
ホールとその部屋の間の入口に、パジャマ姿のマイケル・コリンズが倒れていた。彼の右手のかたわらには、どす黒いピストルがまだ煙をふいていた。
サムは寄木細工の床を靴で重く踏みならしながら前に進んだ。コリンズの傍にどしんと膝をつくと、心臓に耳をあてた。
「まだ息がある!」と彼は叫んだ。「部屋へいれろ!」
彼らは生気のない身体をもち上げ、明りのついた居間に運び、低い長椅子に下ろした。コリンズの顔は死人のようだった。眼は閉じ、唇はひきつって狼のように唸っていた。彼は大きく喘いでいた。頭の右側の髪の毛がもつれ、血が滴っている以外に分らない。顔の右半分は血で真赤になり、血は右肩に飛びちり、パジャマまで濡らしていた。サムの指が、傷に触れると、すぐに真赤になった。「頭蓋骨までは届いていない」彼が唸った。「骨をかすっただけだ。ショックで気絶したんだろうよ。だらしのないやつだ。医者を呼べ、誰でもいい……。ブルーノ検事、これでけりがついたようですね」
一人の刑事が飛び出して行った。サムは大股に三歩進んで、ピストルを拾い上げた。「たしかに三十八口径だ」彼は満足げに言った。が、次の瞬間、彼の顔は曇った。「おや、たった一発だぞ。今射ったのがそれだ。弾はどこに当ったんだ?」
「この壁に当っています」一人の刑事が言った。彼はしっくいの飛び散った壁の一点を指した。
サムが弾を探っている間に、ブルーノが言った。「ホールから、居間にかけ込みながら射ったんだ。弾は真直ぐに部屋を抜けている。狙いがはずれて、この入口でやつは倒れたんだ」サムが潰れた鉛の小さな弾を手にして、苦い顔をした。それをポケットにしまってから、ハンカチでそっとピストルを包み、一人の刑事に手渡した。八階の廊下から、ざわめきが聞こえて来た。振り返ってみると、薄着のままの何人かの野次馬が、怖ろしそうに部屋を覗きこんでいた。
刑事が二人出て行った。すぐに押し問答が始まったが、その間に医者を招びにやらされた刑事が人垣を分けて帰って来た。彼の後に、パジャマ姿にガウンを着た上品な男が、黒い鞄をさげてついてきた。
「お医者さんですね?」サムが尋ねた。
「そうです。このアパートに住んでます。どうしたのですか?」
刑事たちが脇によけるまで、彼には長椅子の上の動かない人影が眼に入らなかった。もうそれ以上何も言わず、医師は膝をついた。「お湯を」しばらくして、指を上げると医師が言った。「熱いのを」刑事が一人浴室に行き、湯気の立っている湯を洗面器にいっぱい持って来た。
手ぎわよく手当てをし、五分ほどして医師は立ち上がった。「かすり傷のひどいやつです」と彼は言った。「間もなく気がつくでしょう」彼は傷口を拭い、消毒をして、コリンズの頭の右半分をすっかり丸坊主にした。それからまったく無関心に、ふたたび傷口を消毒し、縫い合わせると繃帯をした。「あとでもっとよく手当てをする必要がありますが、今のところはこれでいいでしょう。ひどい頭痛が来て相当痛みますよ。さあ気がつきだしたようです」
しわがれた、うつろな唸り声を上げて、コリンズが身を震わせた。目がきょろきょろ動き、意識が次第に戻って来ると、その眼には、うそのように涙がいっぱいになった。「もうだいじょうぶ」医師は無表情にこう言って鞄を閉めた。
医師が帰った。刑事が一人、コリンズの腋の下を抱えて、上半身を起させ、頸《くび》の下に枕を当てがった。コリンズはまた唸って、片方の青ざめた手を頭にやり、繃帯にきづいて仕方なく長椅子に手を落した。
「コリンズ」傷ついたコリンズのそばに腰を下ろして、警部が口をきいた。「なぜ自殺なんかしようとしたんだ?」
コリンズは乾いた舌で、唇をぬらそうとした。顔の右半分に血が乾いてこびりつき、怖ろしい、グロテスクな姿だった。「水をくれ」彼は口ごもった。
サムが目で合図した。一人の刑事がコップに水を持って来て、コリンズの頭をそっと支えてやり、その間にこのアイルランド人は水をのみこみ、その冷たさに鼻をすすった。「さあ、コリンズ?」
コリンズはあえいだ。「捕まってしまったか? とうとう、捕まってしまったのか? もうだめか……」
「それじゃ自白するな?」
コリンズは何か言おうとしたが、止めて、うなずき、それから驚いた顔をして、急にこれまでのあの兇暴な何ものかをたたえた眼を上げた。「自白するって、何を?」
サムが一瞬笑った。「よせ、コリンズ。つまらん芝居は止めろ。わかってるはずじゃないか。ジョン・デウィット殺しだよ!」
「おれが――殺した――」コリンズは茫然とした。それから起き上がろうともがいてみせたが、サムの手で胸を押されて倒れ、大声でわめいた。「何てことを言うんだ? おれがデウィットを殺したって? 誰だ、殺したのは? デウィットが死んだことだって、おれは知らなかった!みんな気でも狂ったんじゃないのか? それともおれを罠にかける気か?」
サムは変な顔をした。ブルーノが身動きした。コリンズの眼がブルーノを見た。ブルーノがさとすように言った。「いいかね、コリンズ。ごまかしたところで少しも得にはならないぞ。警察が追って来たのを知って、お前はわめいたじゃないか。『生捕りにされてたまるか』とな。そして自殺を計った。それが潔白な人間のいう最後の独白か? 少し前にはこうも言った。『捕まってしまったか?』罪を認めたようなものじゃないか? 嘘をついてもむだだ。お前の言動は犯人だという裏書だよ」
「しかしおれはデウィットは殺さなかった。ほんとうだ!」
「じゃ、なぜ警察が来るのを予期したんだ? なぜ自殺しようとしたんだ?」サムが語気あらく迫った。
「それは……」コリンズは頑丈な歯で下唇をかみ、ブルーノをじっと見つめた。「君たちに関係ないよ」彼はむっとして言った。「殺しについちゃ、おれは何にも知らない。デウィットと別れた時は、彼はぴんぴんしてたんだ」大きな身体を痛みが襲ったらしく、彼はうめいた。両手で頭をかかえた。
「じゃ、今夜デウィットに会ったのは認めるな?」
「確かに会ったよ。証人もわんさといる。今夜、列車の中で彼に会った。そこで彼は殺されたのか?」
「ごまかすのは止めろ」サムが言った。「どうしてニューバーグ行きの列車に乗ったんだ?」
「おれはデウィットをつけた。それは認めるよ、一晩中つけていた。彼と残りの一行がリッツ・ホテルを出てから、おれは駅までみんなの後をつけた。ずっと前から彼に会おうとしてた。拘置中にだってそうだ。おれは切符を買って同じ列車に乗りこんだ。列車が発車するとすぐに、デウィットの席へ行った――彼は弁護士のブルックスと他に二人の男と坐っていた。アハーンがその一人だった――それからデウィットに頼んだ」
「そうだ、そのとおりだ、そこまではわかってる」警部が言った。「その車輛を離れてデッキに出て行った。その後はどうした?」
コリンズの血走った眼がぎょろぎょろした。「ロングストリートのインチキ情報でひどい目にあったんだから、その償いをしてくれと頼んだのだ。ロングストリートはおれをひどい目にあわせやがった。あれはデウィットの店なんだから彼にも責任がある。おれは――おれは金が欲しかった。デウィットは耳をかさない。だめだと言うだけだ……畜生、やつは釘みたいに頑固な野郎だ」抑えていた憤怒が声ににじみ出て来た。「おれはやつの前に膝を折らんばかりに頼んだのだ。でもだめだった」
「その時どこにいた?」
「車を渡って別のデッキ、真暗な車輛のデッキにいた……。それから列車を降りることに決めた。もう話も決裂したからな。ちょうどリッジフィールド公園とかいう駅にさしかかっていた。列車が止まったので、線路側のドアを開けて飛び降りた。それから手を伸ばしてドアをまた閉め、線路を渡った。ニューヨーク行きの列車はもうないことがわかったので、タクシーを探して、真直ぐここに帰って来た。それだけだよ」
激しい息づかいをして、彼は枕にもたれた。「飛び降りた時、デウィットはまだその後部デッキにいたか?」サムが訊いた。
「いたとも。おれを見ていた、畜生……」コリンズは唇をかんだ。「おれは――おれはやつを憎んでた」彼はどもった。「しかし殺すほどは――そんなにまでは……」
「そんな話をこっちが信じると思ってるのか?」
「殺しはしないと言ってるじゃないか!」コリンズは声を張り上げた。「線路に降りてドアを閉める時、あいつはハンカチで額を拭いてた。それからハンカチをポケットに入れて、暗い車のドアを開け、中に入った。見てたんだ。誰も知りやしない。おれは見たんだよ!」
「坐るのも見たのか?」
「知らない。もう列車から離れていたからな」
「なぜ明りのついている車に戻って、車掌の開けたドアから降りなかったんだ?」
「そんな|ひま《ヽヽ》がなかった。発車しかかっていたんだ」
「彼を憎んでいたんだな?」警部が言った。「言い争ったか?」
コリンズが叫んだ。「おれに罪をきせようってんだな? おれはひどく昂奮してた。そりゃあ口喧嘩ぐらいはしたさ。たしかにおれはどなった。誰が昂奮しないでいられるものか? デウィットもそうだった。きっと頭を冷やそうと思って、あの暗い車輛に入ったんだ。かなり昂奮していたからな」
「ピストルは持ってたか、コリンズ?」
「持っていなかった」
「お前はあの暗い車輛には入らなかったんだな?」サムが訊いた。
「絶対に入らない!」アイルランド人が叫んだ。
「駅で切符を買ったと言ったな。見せろ」
「ホールの戸棚のオーバーにある」ダフィー部長がホールの衣装戸棚に行き、手探りして、間もなく小さい厚紙を持って戻った。
サムとブルーノが手に取った。西岸線の片道の切符で、パンチは入ってなかった。ウィーホーケンとウェスト・エングルウッド間と指定されていた。
「車掌の検札のしるしがないじゃないか?」サムが訊いた。
「車を降りるまで検札が来なかったんだ」
「オーケー」サムは立ち上がり、両腕を伸ばして大きな欠伸をした。コリンズは坐り直した。いく分か体力が恢復していた。彼はパジャマのポケットを探って煙草を取り出した。「コリンズ、今はこれで止めだ。どうだ、気分は?」
コリンズはもぐもぐ言った。「少しはいいが、頭がひどく痛む」
「そうか、気分がよくなってよかったな」サムがさりげなく言った。「救急車を呼ぶ必要はあるまい」
「救急車?」
「そうとも。さ、起きて服を着たまえ。警察本部まで同行してもらおう」
コリンズの煙草が口から落ちた。「じゃ君たちは――君らは殺人容疑でおれを引っぱって行く気か? 殺しはしないって言ってるじゃないか! ほんとうのことを話したんだ、警部――神に誓って……」
「しっかりしろ。デウィット殺しで誰が君を逮捕するものか」サムがブルーノに目くばせした。「重要な証人として来てもらうだけさ」
第八場 ウルグアイ領事館
――十月十日(土曜日)午前十時四十五分
ドルリー・レーンは砲台公園を散歩していた。ケープを黒雲のようにたなびかせ、例のステッキをしっかりと歩道に突き、強い潮風を鼻で吸っていた。潮の香がただよい、朝の太陽が老優の顔をここちよく暖めた。彼は公園の壁際で足をとめ、かもめの群が油ぎった波の表面に舞い降りて、波間に浮かぶオレンジの皮をつつくのを見つめた。沖には低く舷を傾けた定期船が水面を這うように動いていた。ハドソン河の遊覧船がかん高い汽笛をあげていた。風が強くなった。ドルリー・レーンはふたたび鼻で潮風を吸い、ケープをしっかりとかきあわせた。
吐息すると、彼は腕時計を見、足のむきを変えた。公園を抜け、広場の方に歩いた。
十分後、彼は簡素な部屋に腰かけ、机をへだてて、モーニング・コートを着た小柄の、色の黒いラテン系の男に微笑をなげていた。男の襟には鮮やかな花が光っていた。ホアン・アホスは褐色の顔に美しい歯並み、生き生きした黒い瞳に上品な口髭の、一見派手な人物だった。
「このような領事館にお出でいただけるとは」彼は完全な英語で話した。「まことに光栄に存じます。若いころ外交官補をしておりましたころは、あなたの舞台を……」
「おそれいります、アホスさん」レーンが答えた。「しかし、休暇からお戻りになったばかりでお忙しいでしょう。実は私は特別の資格でここにお伺いしたのです。あなたもウルグアイご滞在中に、この市とその近郊で起った一連の殺人事件をお聞き及びでございましょう」
「殺人事件ですって?」
「そうです。最近三件起こりました。それが何と申しますか、じつに興味深い事件なのです。非公式にではありますが、私は地方検事の捜査を手伝っております。適切か適切でないかはわかりませんが、秘かに私が探りましたところ、ハッとするような手がかりがつかめたのです。それで、こちらのご協力が得られるのではないかと思われる筋があるものですから」
アホスは微笑した。「私にできますことなら何なりとおっしゃってください」
「フェリペ・マキンチャオという名前をご存じですか? ウルグアイ人ですが」
きびきびした領事の小さい瞳に、キラッと光が射した。「己の罪は己にかえる、というわけですな」彼は軽快な口調で言った。「レーンさん、マキンチャオについてのお調べですか。いや、あの人なら会って話もしております。お調べになりたいのは、どういうことでございましょう?」
「どうしてお知りあいになったか、そのいきさつと、あなたがこれはと思われることを何でもお聞かせください」
アホスは両手をひろげた。「みんなお話しましょう、レーンさん。捜査に適切かどうかはご自身でご判断ください……。フェリペ・マキンチャオはウルグアイ司法部の代表者でして、きわめて有能な信頼すべき男です」
レーンの眉がつり上がった。
「マキンチャオは、数か月前にウルグアイ警察から派遣されて、ニューヨークに来ました。あのモンテヴィデオ刑務所から脱走した囚人を捜査しているのです。その囚人はマーチン・ストープスという男でしてね」
ドルリー・レーンはじっと坐っていた。「マーチン・ストープス……だんだん面白くなって来ましたね。ストープスとかいう英米人の名のような男が、なぜウルグアイ刑務所になぞ投獄されたのですか?」
「私はただ」アホスは襟の花をそっと嗅いで答えた。「その件について派遣代表のマキンチャオから聞かされただけなのです。彼がその囚人の犯罪調書の完全な写しを持っていまして、それを見せてもらったり、マキンチャオからじかにいろいろと話をききましたので」
「どうかそれを」
「一九一二年のことですが、若い探鉱青年で、地質学の知識と相当な技術的な素養をもったマーチン・ストープスという男が、ブラジル生まれの若妻を殺した廉《かど》で、ウルグアイ法廷で終身刑を宣告されました。彼は、三人の望みをかけていた仲間の動かしがたい証言で有罪とされました。モンデヴィデオからかなり河をさかのぼり、ジャングルを抜けた奥地に、彼らは鉱山を持っていたのです。公判廷での仲間の証言ですと、三人は殺害を目撃したそうです。そこでストープスを打ちのめし、縛り上げて、奥地からボートで警察に引き渡さざるを得なかったというのです。殺害された女の死体は暑さのために怖ろしい状態になっているのを、二歳になるストープスの娘と一緒に運んで来ました。兇器も提出されました――マシェートという|なた《ヽヽ》に似た短刀です。ストープスは抗弁しませんでした。一時的にですが発狂して、虚脱状態にあり、自己を弁護することもできなかったのです。当然、有罪と認められ、投獄されました。子供は裁判所のとりはからいでモンテヴィデオ修道院に移されました。
「ストープスは模範的な囚人でした。精神錯乱状態からも次第に恢復し、すっかりあきらめて刑に服しているようでした。看守たちにも迷惑はかけませんでした。しかし、仲間の囚人と交わることもなかったようです」
レーンは落ちついて尋ねた。「犯罪の動機は公判中に明らかになりましたか?」
「それがまったく奇妙なことですが、わからないのです。動機については、三人の仲間の臆測だけですが、ストープスは口論中に殺したようです。三人は殺害が行なわれる前は小屋の中にいず、悲鳴を聞いたそうです。かけ込んでみると、ストープスが女の頭をマシェートで切りつけていたというのです。彼は激しやすい性格のようですな」
「どうか先を」
アホスはホッと嘆息した。「投獄されて十二年目に、ストープスは大胆な脱走をやってのけて、看守を狼狽させたそうです。あきらかに長い間かかって細部にまでわたる計画が練られた、という性質のものです。詳細をお話しいたしますか?」
「いや、その必要はなさそうです」
「さながら大地が呑んでしまったように、彼は消えてしまったのです。南米大陸全土をシラミつぶしに探したのですが、足どりは|よう《ヽヽ》としてつかめません。奥地に深く逃げこみ、怖ろしいジャングルで死んだのではないかと一般に考えられもしました。マーチン・ストープスについてはそれくらいでして……ブラジル・コーヒーはいかがですか、レーンさん」
「いや、結構です」
「ウルグアイの名産、マテ茶でもおいれしましょうか」
「どうぞ、おかまいなく、ところでマキンチャオの話はまだありますか」
「そうですね、一方、三人の仲間は、公式の記録によると、鉱山を、すばらしい鉱山ですが、それを大戦中に売りました。すばらしいマンガン鉱が出たそうで、なにせ戦争中でしたから、軍需品としてマンガンは非常に貴重なものだったのですね。鉱山を売ったおかげで、三人とも金持ちになり、合衆国に帰って来ました」
「帰った?」語調を変えてレーンが訊いた。「では、みんなアメリカ人だったんですか?」
「いや、うっかりしておりました。三人の名前を、お話するのを忘れていました。ハーリー・ロングストリート、ジャック・デウィット、それから――ええ――そう! ウィリアム・クロケット……」
「ちょっとお待ちを」レーンの眼がキラキラ光っていた。「あなたは最近当地で殺害された男のうち、その二人が、デウィット・アンド・ロングストリート商会の共同経営者だったことをご存じですか?」
アホスの黒い瞳が大きくなった。「ほう!」彼は叫んだ。「まったく初耳です。すると彼らの予感が……」
「どういう意味ですか?」レーンがすばやく尋ねた。
領事は両手をひろげた。「今年の七月、ウルグアイ警察はニューヨークの消印で、匿名の手紙を一通うけ取ったのです。これは後でデウィットが自分で出したものと認めたのですが、その文面は、脱獄囚ストープスはニューヨークにいる、ウルグアイ警察で調査するようにというのです。むろん政府は当時と変っていましたが、昔の記録を調べて即座に活動が開始され、マキンチャオがこの調査に任命されたのです。私も手伝ったのですが、ウルグアイ警察にこんな情報を送って寄こすのは古い仲間の一人にちがいないという彼の考えから、マキンチャオはそれを調べ、ロングストリートとデウィットが実際にニューヨークに住んでいて、事実相当な社会的地位を築きあげていることがわかったのです。また三人目の昔の鉱山仲間であるウィリアム・クロケットも捜査したのですが、それはだめでした。クロケットは、三人が北米に引き揚げたとき、三人組からぬけているのです。喧嘩したか、自分の財産を自由に使いたかったのか――どちらともわかりません。どちらも正しくないかもしれません。むろん、これはみんな臆測ですが」
「そこでマキンチャオはデウィットとロングストリートに近づいたわけですね」レーンがおだやかに先をうながした。
「そのとおりです。彼はデウィットに会って話をし、密告状を見せました。しばらくためらっていましたが、デウィットは、自分が書いたのだと白状しました。それから、アメリカにいる間、自分の家に滞在するようにマキンチャオにすすめ、捜査活動の本部に使うように言いました。マキンチャオは何よりもまず、当然のことながら、デウィットはどうしてストープスがニューヨークにいるのを知ったか、聞き出そうとしました。デウィットはストープスのサインのある一通の手紙を見せました、脅迫状です――」
「ちょっと」ドルリー・レーンは長い紙入れから、デウィットの書斎の金庫で見つけた手紙を取り出し、アホスに手渡した。「これですか?」
領事は強くうなずいた。「そうです。マキンチャオが、その後報告した時に、私に見せてくれました。それから写真で複写してからデウィットに返したのです」
「デウィット、ロングストリート、マキンチャオの三人はウェスト・エングルウッドのデウィット邸で何度も協議しました。むろんマキンチャオは単独では実際どうにもならないので、早速合衆国警察の協力を求めるつもりでいましたが、二人に、警察には知らせないでほしいと強く言われたのです。新聞に出ると、自分たちの卑しい前身や、みじめな殺人事件の裁判沙汰が明るみに出るというのです……。なに、よくあることですよ。マキンチャオはどうすべきか迷って、私に相談しました。われわれは二人の現在の立場を考慮して、不本意ながら彼らの要求を容れました。二人とも五年も前から同じような脅迫状を時おり受け取っていたそうです。全部ニューヨークの消印だそうです。いずれも手紙は破り捨てていましたが、デウィットは最後の手紙が非常に心配になり、それは他のよりずっと脅迫めいていたので、それを残しておいたのです。
話を省略しますが、マキンチャオは一か月捜査に費したのですが、何の手がかりもなく、私とその二人に自分の敗北を報告し、その事件からすっかり手を引いて、ウルグアイに帰ってしまいました」
レーンは考えこんでいた。「クロケットという男の消息はわからなかったのですね?」
「マキンチャオがデウィットから聞いたところですと、クロケットはウルグアイを去った後、理由も言わずに仲間を離れたそうですよ。時々、主にカナダから手紙をもらうそうですが、二人ともこの六年ほど、彼とは文通していないそうです」
「もちろん」レーンがつぶやいた。「このことについては、二人の死人の証言しかないわけですね。アホスさん、ストープスの女児について何か記録にありませんか?」
アホスは首をふった。「ごくわずかのことだけです。その女の子は六歳の時にモンテヴィデオ修道院を出たとか、連れ去られたとか――はっきりしませんが、そういうことです。それ以来何もわかりません」
ドルリー・レーンは嘆息して立ち上がり、机ごしに小柄の領事を見下ろした。「今日は正義のために適切なご助力をいただきまして」
アホスは白い歯を見せて笑った。「こちらこそ大変光栄に存じます、レーンさん」
「さらにご助力をいただけますなら」レーンがケープを整えながらつづけた。「お国の政府に電報を打って、ストープスの指紋とついでに顔写真を電送していただきたいのです。そのような写真の記録があればのことですが、それと完全な人相書も。私はウィリアム・クロケットにも興味を持っておりますから、この人物についても同様の材料が手に入れば……」
「早速手配いたします」
「小さくても進歩的なお国ですから、近代的科学設備はお持ちでしょうね?」レーンが微笑した。二人は入口に歩いた。
アホスはびっくりした様子をした。「むろんですとも! どこの国にも劣らないすばらしい装置で写真は電送されますよ」
「それは何よりです」ドルリー・レーンが頭を下げて言った。彼は通りに出ると砲台公園の方に向かった。「願ってもないぞ」心がうきうきして、彼はこうくり返した。
第九場 ハムレット荘
――十月十二日(月曜日)午後一時三十分
サム警部はクェイシーに案内されて、曲りくねった廊下を通り、隠れたエレベーターに進んだ。エレベーターは月ミサイルのように、ハムレット荘の主塔の中を上昇し、てっぺん近くにある小さな踊り場に飛んだ。サムはクェイシーの後について、さながらロンドン塔のような古風な石の階段に達し、それを螺旋状にぐるぐる昇って、鉄のボルトのついている樫材の扉の前に着いた。クェイシーは掛け金と重いボルトと闘って、やっと外すと、老人らしくゼイゼイ息を切らして、その扉を押し開けた。彼らは、がっしりした石の胸壁を築いた塔の頂上に歩み出た。
ドルリー・レーンは、ほとんど裸体で熊の毛皮に横たわり、両手を眼の上にかざして、頭上の太陽光線をさえぎっていた。
サム警部ははっと足を止めた。クェイシーはにやにや笑って去って行った。警部はドルリー・レーンの肉体を目にとめて、そのブロンズ色にみなぎった活力、堂々たる若々しさ、筋肉のたくましさに息を呑まずにはいられなかった。うすい金色のうぶ毛を除いては、他に毛もなく、褐色の、たくましい、しかもなめらかなその寝姿は、人生の最盛期にある人間のそれであった。形の整った頑健な肉体全部に目をやると、頭の白髪が妙に不調和だった。
老優の身だしなみに対する唯一の譲歩は白いサポーターだった。褐色の脚はむきだしだったが、敷物のそばにモカシンの靴があった。その一方にはクッションのついたデッキ・チェアが置いてあった。
サムはうすら寒そうに頭をふり、トップコートの襟をかきあわせた。十月のつめたい空気が身にしみた。かなり強く風が塔の上を吹いていた。彼は前に歩いて、横になっているレーンに近づいた。皮膚はまったくなめらかで、鳥はだもたっていなかった。
電流のような直感で、レーンは眼を開いた。あるいはサム警部がそばに立った時に、その影が映ったのかもしれない。「警部さん!」すぐに眼を覚ますと彼は起き上がり、すんなりした、しっかりした脚をかかえこんだ。「これは驚ろきましたね。こんな恰好で失礼しますよ。そのデッキ・チェアにどうぞ。むろん」彼はクックッと笑った。「服を脱がれて、この熊の毛皮の上で私におつき合いくださるなら別ですが……」
「いえ、結構です」サムはあわててこう言って、デッキ・チェアに腰を落した。「この風の中でですか? 勘弁してくださいよ」彼はにやっと笑った。「余計な世話かもしれませんが、レーンさん、おいくつになられますか?」
レーンの眼が陽光にゆらいだ。「六十歳です」
サムは首をふった。「私は五十四ですがね。お恥かしい話ですよ――いや、まったく――お恥かしくて、服を脱いで私の身体などとてもお見せできません。あなたと較べたら私などはよぼよぼの老人ですよ!」
「身体を大事になさる時間がなかったのでしょうね、おそらく」レーンがゆっくりと言った。「私には時間も機会もあります。ここでは――」彼は精巧にできたおもちゃのようなパノラマを指さした。「ここではなんでも好きなことができます。マハトマ・ガンジーのように私が腰の部分を覆っているただ一つの理由は、あのクェイシーにはどこか、しとやかぶった女のようなところがあって、――その、私の裸体の非常に個人的な部分を隠さなかったりすると、それはもうすごいショックを与えてしまうものですからね。あわれなものです。二十年来、こうした太陽の饗宴に、私の仲間入りをするようにすすめているのですが。ま、はだかのクェイシーを想像してごらんなさい、もっとももうずい分年を取っていますがね。自分でもいくつかは正確な年は知らないでしょう」
「あなたのような方はまったくはじめてです」サムが言った。「六十歳でね……」彼は吐息した。「それはそうと、事態は好転しています。今日は新しい進展を――特に一つのことを、お知らせに上がりました」
「コリンズのことでしょう?」
「そうです。土曜日の早朝、コリンズのアパートにふみこんだ時のことは、ブルーノ検事からお聞きになったでしょうね?」
「ええ、知っております。馬鹿なことをしたものですね、自殺を計ったりして。で、その男は今拘留してあるのですか?」
「こちらは必死ですからね」サムは厳しい顔をした。「しかし、どうも」今度は恥じるように言った。「私はかけ出しの刑事みたいな気になりますよ。暗闇の中をわれわれは手探りしながら、ここで私はあなたに何かをお話している。ところがあなたときたら、もうみんなご存じなんだから」
「警部さん、あなたは長い間、私に反感をもっておいでだった。私が、なにも知らないくせに知ったかぶりしていると、あなたは思っていましたね。ま、当然のことです、今でも、私が黙っているのが、止むを得ずなのか、ごまかしているのかご存じないでしょう。それにもかかわらず、あなたはあらためて私を信頼なさった。深く感謝いたします。それにしてもおたがいに、このうっとうしい気分からのがれるわけにはいきません、解決するまではね」
「解決するものならね」サムは沈んで言った。「ところでコリンズのことですが、情報があります。彼の過去を洗ってみましたところ、株で損をしたのを、何故あんなに埋め合わせようと気をもんでいたか、やっとわかりました。彼は所得税係をいいことに州の金をつかい込んでいたのです!」
「ほんとうですか?」
「そのとおりなのです。現在までのところ、彼が着服したのが十万か、あるいはそれ以上か、正確にはわかりません。相当の大金ですよ、レーンさん。株を買うのに州の公金を借用《ヽヽ》したらしいのです。ところが失敗した。それでどんどん深みに入り、最後に、国際金属株を買うようにとロングストリートから内報を得た時に、五万ドル着服したのです。これは彼にとって一か八かの大勝負だったのです――これまでの損害をとりもどし、着服分の穴埋めをしようとしたわけで。ところが、何か感づかれたらしく、局の帳簿の調べがこっそりと始まっていたのですね」
「コリンズはじかに訊問されないように何か手を打ったのですか。彼に、どうしてそんな真似ができたのです?」
サムは唇を一文字に結んだ。「なに、朝めし前のことですよ。帳簿をごまかし、何か月も発覚を喰い止めていたのです。それから、収賄で抱きこんだ安っぽい政治勢力をやたらに笠に着ましてね。しかしもうだめです。もうこれ以上言い抜けることはできません」
「人間性の側面をとくと見せてくれたわけですね」レーンがつぶやいた。「この男は胆汁質で、意志強固、激しい気質の持主だから、その生活はおそらく他人を犠牲にしようという衝動の連続だったでしょう。そしてこれまでの生活もおそらく政治上の敵の死骸でまき散らされていることでしょう。……その男が膝をついて懇願するとはね、ブルーノさんから話を聞きましたよ。敗残者ですね、警部さん。まったく救いようのない人間とはこの男のことです。その罪を社会に今|償《つぐな》っているのですよ」
べつにサムは心を打たれた様子もなかった。「まあね。とにかく、われわれは彼を黒とするかなり正当な論拠を持っています――やはり情況証拠だけですがね。なに、動機ですか? 裏切られた復讐でロングストリートを殺し、破産の憂き目に会い、ロングストリートの虚報で損をしたつぐないをデウィットに迫ったが、断わられて自暴自棄になり、それでデウィットを殺す。こういった情況から判断する限り、コリンズは二人の共同経営者殺害犯人として考えられるわけです。そして、ウッドを殺す可能性とも矛盾しません。彼は、モホーク号が桟橋に着いた時に姿を消した乗客の一人として、充分に考えられるからです。その夜の彼の行動を調査しているのですが、コリンズにはアリバイがありません……。それともう一つ、公判廷にのぞんでも、われわれがアパートに踏み込んだ時のコリンズのあやしい行為――わめいた言葉、自殺未遂、などの証拠をブルーノ検事は提出することができますし……」
「ま、法廷で地方検事の弁舌にかかれば」長いすんなりした腕を伸ばし、レーンは微笑して言った。「間違いなく、コリンズは有罪になりましょう。ですが、警部さん、コリンズは朝の五時に、アパートの部屋の戸口で、警察の気配を感じた時、逆上してしまった彼は、とっさに、州の公金横領がばれ、横領罪か窃盗罪で逮捕されるのではないか、とかん違いしたとは考えられませんか? その時の精神状態を考えれば、自殺未遂も、生け捕りになるものかと叫んだことも、説明がつくのではないでしょうか」
サムは頭をかいた。「じつは今朝、横領の嫌疑で彼をたたいてみたら、そのとおりに泥を吐いたのです、どうしてそれをご存じで?」
「それは、警部さん、子供でもわかるようなことです」
「あなたは」サムが真面目に言った。「サムがあの時言ったことは真実だ、と考えておられるようですな、彼が犯人ではないと信じておられるのですね? 正直に言いますと、ブルーノ検事から、内々にあなたのご意見を伺ってくるようにと言われて来たのです。おわかりでしょうが、われわれは殺人罪で彼を起訴したいのです。ところがブルーノ検事は前に一度苦い目にあっているので、また同じ経験を繰り返したくないのです」
「警部さん」ドルリー・レーンは素足で立ち上がると、褐色の胸を張った。「ブルーノ検事には、コリンズをデウィット殺しの犯人として有罪にすることはできませんよ」
「そうおっしゃるだろうと思ってました」サムは握りこぶしを作って、苦い顔でそれを見つめた。「しかしですな、われわれの立場も考えてください。あなたは新聞をお読みになってるんですか? デウィットに嫌疑をかけたわれわれの失敗を、非難攻撃しているじゃありませんか。新聞はそのことを暴露し、デウィット殺害の件と結びつけています。新聞記者連には顔も出せない始末ですよ。大きな声では話せませんが、私の首もあやうくなっているようです。本部長には今朝叱られましたよ」
レーンははるか下を流れている河を見ていた。「もしいくらかでも、あなたやブルーノ検事にお役に立つのでしたら、今私に分かっていることをお話もいたしましょう。しかし、ゲームは最後の追い込みに来ているのです。終了のホイッスルが鳴ろうとしているのです。あなたの地位のことなら……本部長はあなたを格下げにするようなことはしますまい、あなたが犯人に繩をかけて引き渡せば」
「私が?」
「そうですよ、警部さん」レーンは胸壁のざらざらした石に裸の身体をもたせた。「ところで、何か新しい情報を聞かせてください」
サムはすぐには答えなかった。口を開いた時、それは何か元気がなかった。「あなたに強《し》いるつもりではないのですが、レーンさん、これまでに三回あなたは、今度の犯罪について、確信ある言明をなさいました。どうしてコリンズが無罪だという確信があるのですか?」
「それは」レーンがおだやかに言った。「話すと長くなります。ところで、そろそろ私も、気取っているだけでなく、それを証明する潮時に来ているようです。今日の午後には、コリンズに対する件もかたがつくだろうと思いますよ」
サムがにやっと笑った。「そうですか、レーンさん! やっとほっとしましたよ……。こちらの情報ですか? たくさんあります。まずシリング医師がデウィットの死体解剖をして、弾丸を取り出しました。最初の見込みどおり、三十八口径のものです。二番目は、あまりいい話ではありませんが、バーゲン地区のコール地方検事は、死体発見前に列車を降りた乗客を、まだつきとめられないのです。それから、彼の部下もうちの部下も、線路や路床ではピストルを発見できていません。もちろん、コリンズのピストルが兇器だというのが、ブルーノ検事の意見ですがね。それでわれわれは、デウィットの死体から出た弾丸と、コリンズのピストルから出た弾丸とを較べて顕微鏡写真で調べています。しかし、たとえ別のものであっても、コリンズの無罪の証明にはなりません。デウィットを射殺したときは、ほかのピストルを使ったかもしれませんからね。少なくもブルーノ検事の意見はこうなのです。ブルーノ検事の推理で行くと、もし別のピストルを使ったとしても、あの晩、タクシーに持ち込むのは簡単だから、ニューヨーク行きの|渡し船《フェリー》で河に投げ捨てることはできる、というわけです」
「おもしろい偶然の一致だ」レーンがつぶやいた。「おつづけください、警部さん」
「で、われわれはニューヨークまでコリンズを乗せたタクシーの運転手を探し出し、コリンズが渡し船に乗ったかどうか、乗ったとすれば渡し船でコリンズが車から降りたかどうかを調べました。が、運転手は、はっきりとおぼえていませんでした。たしかなことは普通列車がリッジフィールド公園を出た直後に、コリンズが車に乗りこんだということで。そのことに関してはこれだけです。
第三の進展は、まるで進展ではないのですが、ロングストリートの商売上の書類と、個人的な書類のファイルを調べてみましたが、一つとして関心をひくようなものは見つかりませんでした。
しかし、第四番目は実におもしろいです。というのは、デウィットの事務所でファイルを調べたところ、ものすごい発見をしたのです。小切手の控えで、ウィリアム・クロケットなる名の人物に宛てて、過去十四年間、年に二回ずつ小切手を切っているのです」
レーンは動かなかった。彼の灰色の瞳はサムの唇を見つめていて、淡褐色を帯びてきた。「ウィリアム・クロケット、なるほど……。警部さん、これは大きなニュースの先ぶれですよ。その小切手の額は? それから、どこの銀行で支払っていますか?」
「ええと、額はまちまちですが、どれも一万五千ドル以下のものはありません。みんな同じ銀行――カナダのモントリオールにある拓殖信託銀行で、現金で支払われています」
「カナダ? ますますおもしろいですね。それで、小切手のサインはどうでした――デウィット個人のものでしたか、それとも商会名義でしたか?」
「商会名義のようでした。デウィットとロングストリートの二人のサインでしたから。われわれもそのことは考えてみました。デウィットに対する恐喝行為ではないかと。しかし、たとえそうであるにしろ、サインは共同経営者二人のものでした。事務所を調べましたが、年に二度という小切手の理由を明かす記録は何もありません。二人の引出し金勘定は五分五分になっていて、税金の方も、調べた結果、半額ずつ負担しています」
「そのクロケットについて調べてみましたか?」
「レーンさん!」サムが責めるように言った。「カナダの連中はきっとわれわれに手を焼いていますよ。小切手の控えが見つかってからというもの、ずっとそれを追求して来ましたからね。それにしても、おかしなことがあるんです。モントリオールの銀行を通して調べた結果、ウィリアム・クロケットという名の人物がいて、むろん、この男がいつも小切手の裏書きをして、現金を受取っているのです……」
「他人の裏書ではないのですね? どれも同じ筆蹟でしたか?」
「間違いありません。これから言おうとしていたのですが、このクロケットは、カナダのいろいろな場所から郵便で小切手を預金し、その預金を別小切手で引き出しているのです。引き出すが早いか、現金にして費っているのは明らかです。銀行ではクロケットの人相も、現住所も、そういった手がかりはまったくわかりませんでした。ただ、計算書と領収書は、モントリオールの郵便局私書箱に郵送するように、本人から求められてることが分りました。
むろん早速、その方面も調べました。私書箱は調べましたが、これはと思うようなものは何もありません。われわれが調べた時は空《から》でしたが、いつごろ、誰が私書箱を開けに来たか覚えているものは一人もない始末です。そこでまた、われわれはデウィット・アンド・ロングストリート商会に戻って調べてみると、小切手は全部おなじ郵便局宛てに郵送されていたことが分かりました。郵便局では、ウィリアム・クロケットがどういう人間で、容貌はどんなか、なぜ小切手を取りに来るのか、誰も知りませんでした。郵便局私書箱使用料は、一年分払いで、それもいつも前払い――しかも郵送してくるのです」
「まったくじれったいですね」レーンがつぶやいた。「あなたもブルーノさんもきっと頭に来たでしょうね」
「現に、今だってそうですよ」警部がぶつぶつ言った。「深入りすればするほど五里霧中というやつですからな。このクロケットという男が姿をくらましていることだけは、馬鹿にだって分りますが」
「たしかに姿をかくしてはいますが、自分から好んでというよりは、デウィットとロングストリートにそそのかされてではないでしょうか」
「こいつはすばらしい思いつきだ!」サムが叫んだ。「それまでは考えて見ませんでしたよ。いずれにせよ、このクロケットの問題はすべて銭投げみたいなものです。殺人事件とは何ら関係がないかもしれない――これはブルーノ検事の考えですが、彼はこういう前例をたくさん持っているのです。殺人事件というやつは、その核心となるものに、とんでもない無関係な尾ひれがついて、複雑になるものですからね。しかし、彼が事件とは無関係だと頭からきめつけるわけにもいかないし……。もしクロケットが彼ら二人を恐喝していたのなら、殺害の動機が掴めたことになるのだが」
「警部さん」レーンが微笑した。「金の卵を生む鵞鳥《がちょう》の愉快な寓話とこれをどう一致させますか?」
サムは顔をしかめた。「たしかに恐喝論はおかしいと思います。まず第一に、最後の小切手の控えの日付が、ついこの六月になっている。そうするとクロケットは順調に半年に一回ずつ現金を手にしていることは明らかです。したがって、あなたがおっしゃるとおり、金の卵を生む鵞鳥をどうして殺したりしましょう? ことに最後の小切手は中でも最高額でしたからね」
「しかし警部さん、あなたの恐喝論に従って考えてみますと、クロケットの鵞鳥はもう金の卵を生まなくなったのかもしれません。この六月の小切手が最後のものだったとしたらどうでしょう? クロケットが、デウィットとロングストリートからもうこれで終りだと通告されていたとしたらどうでしょうか?」
「それは考えられますな……むろん、われわれはこのクロケットとの通信の記録も探してみましたが、何もでてきませんでした。もっとも、こんなことは何にもならないことです。というのは、証拠を残さないでも連絡は当然できるのですからね」
レーンは軽く頭をふった。「どうも私には、あなたの言われた事実だけでは、恐喝論に同意しかねますね。何故、金額がそうもまちまちなのでしょう? 恐喝というのはたいてい、一定の金額ですよ」
サムが口ごもった。「それもそうだ。事実、この六月の小切手は一万七千八百六十四ドルでした。ずいぶん端数がついているじゃありませんか」
レーンはにっこり笑った。彼は、はるか下の木々の間を縫って光る、細い糸のようなハドソン河を名残り惜しげに見つめ、大きく息をして、モカシンの靴に足を滑りこませた。
「さ、下に参りましょう。『我が考えに行動の冠をかぶせる』べき時に到りました。ですから――『考えを行動に移さねばならぬ』!」
二人は塔の階段に向かった。サムはこの主人のむきだしの胸を見てにやっと笑った。「ああ!」と彼は言った。「あなたは私までまきこんでしまいましたよ。そんな台詞が好きになるなどとは考えもしなかったことです。このシェイクスピアという男は俗識に|たけ《ヽヽ》ていますな。今のは『ハムレット』からでしょう」
「どうぞお先に、警部さん」二人は塔のうす明りの中に入り、螺旋階段を降り始めた。レーンはサムの幅広の背中に微笑みかけた。「デンマークの王子の言葉を引用する私のいやな癖をご存じで、それででたらめにおっしゃったのでしょう。しかし間違いです、警部さん、今のは『マクベス』ですよ」
* * *
十分後、二人の男はレーンの図書室に坐っていた。裸体に灰色のガウンをひっかけたレーンは、ニュージャージーの大きな地図を見ていた。サム警部は茫然とそれを見守っていた。ずんぐりした、ローストビーフとプディングのような恰好の、婉曲にフォルスタッフと呼ばれているレーンの執事が、ぎっしりと詰った書物のアーチをくぐって消えて行った。
地図を喰い入るように見つめていたレーンは、間もなくそれを脇に押しやると、満足しきった微笑をもらしてサムに向き直った。「巡礼に出かける時が来ました。重要な巡礼にね」
「最後のですか?」
「いえ、――最後のではありません」レーンが言った。「おそらく最後から二番目でしょう。もう一度、私を信じていただかねばなりませんが、デウィットの殺害以来、私は自分の力を疑い出しています。予見できたのに、直接手を下して防ぐことが出来なかった……私は自分に言い訳をしているのです。デウィットの死は……」彼は黙った。サムは彼を不思議そうに眺めた。老優は肩をすくめた。「さあ、やりましょう!私の生来の芝居気で、ぜひともあなたにすばらしいクライマックスを見せずにはいられないのです。私の言うとおりにしてください。もし運よくゆけば、コリンズに対するあなたがたの立場を裏返してしまうような、すごい証拠をお目にかけることができるはずです。地方検事さんにはご迷惑なことでしょうが、人の生命は守らねばなりません。ここから直ぐに適当なその筋に電話して、出来るだけ早く、今日の午後、ウィーホーケンに警官隊を寄こしてください。川底をさらう道具も必要です」
「川底をさらう道具?」サムがいぶかった。「川底をさらう……水の底を? 死体ですか?」
「こう申しましょう、いかなる偶然の事件にも備えるためにと。ああ、クェイシー!」
古いレザーのエプロンを細い腰に巻いた小さい|かつら《ヽヽヽ》師が、大きなマニラ紙の封筒を持って書斎にとぼとぼ入って来た。ガウンの下にレーンの素裸を見て、非難するような眼つきをしていたが、レーンはもどかしげに封筒をうけ取った。それには差出人が領事としてあった。
「ウルグアイからの通信です」彼はポカンとしているサムに明るく声をかけた。彼は封筒を破いて、中からじょうぶな台紙をつけた数枚の写真と、一枚の長い手紙を取り出した。手紙を読むと、彼はそれを机の上に投げ出した。
サムは好奇心を押さえるわけにはいかなかった。「指紋の写真のようですが、いったい何ですか、レーンさん?」
「これは」レーンは写真を振りながら答えた。「マーチン・ストープスという非常に興味ある紳士の、指紋の電送写真です」
「ああ、これは失礼しました」サムが即座に言った。「私はこの事件に関係のあるものかと思ったもので」
「警部さん、これが事件ですよ!」
サムは、まるで兎が催眠術をかけられて、目をパチパチさせているような眼つきで、レーンを見つめた。彼は唇をなめた。「しかし――しかし」彼は唾をとばした。「何の事件ですか?われわれが捜査している殺人事件ですか? いや、レーンさん、そのマーチン・ストープスというのは一体何者ですか」
レーンは衝動的な行為に出た。サムのごつい肩に腕を廻した。「これで、あなたより有利になったわけです。いや笑うべきではなかった。笑うなどと、まったく失礼というもの……。マーチン・ストープスというのは、われわれが探しているX氏ですよ――ハーリー・ロングストリート、チャールズ・ウッド、それからジョン・オウ・デウィットをこのよき地上から消した責任のある男です」
サムは息をのみ、目をしばたたき、あのいつものあっけにとられた時にするように、首を振った。「マーチン・ストープス、マーチン・ストープス。マーチン・ストープス、ロンスグトリートとウッドとデウィットの殺害犯人……」彼は舌の上に名前をころがした。「とんでもない!」彼は叫んだ。「そんな名前は聞いたこともない! そんな名前はこの事件では一度も出てこなかった!」
「名前がどうだというのです?」レーンは写真をマニラ紙の封筒に戻した。サムはそれを貴重な書類かなんぞのように見つめていた。五本の指先が無意識のうちに曲っていた。「名前がどうだっていうのです? 警部さん、幸運にもあなたは、もう何べんも、そのマーチン・ストープスに|会って《ヽヽヽ》いるのですよ!」
第十場 ボゴタ付近
――十月十二日(月曜日)午後六時五分
何時間も捜索がつづいて、サム警部は文字どおり、非常に沈んだ顔をしていた。ドルリー・レーンの予見力、推理力への信頼は強くはなってきていたものの、ある激しい衝動を押さえることはできなかった。スペイン宗教裁判の遺物を思わせる奇妙な道具をもった小隊が、午後からずっと、西岸線沿いに横断しているいくつものニュージャージーの堆積した川底を、かき廻していた。引きつづき行なわれている作業が徒労だと分かってくると、サム警部の顔はますますうっとうしくなって来る。レーンは黙っていた。ただ彼は、求めているものの出て来そうな場所を指示するにとどめて、捜索の直接指導に当っていた。
ずぶ濡れになり、疲れ果てた捜索隊がボゴタの町に近い川に達した時には、すっかり真暗になっていた。部下が命令を受けて走った、すると、たちまちサム警部の権威の魔力で道具が追加された。強力なサーチライトが線路ぎわに据えられ、静かな川面を照らした。午後の間ずっと働いたスコップに似た鉄の道具が、ふたたび働きだした。レーンと、沈み顔のサムは並んで、作業員の機械的な動作を見守っていた。
「干し草の山の中から一本の針を探し出すようなものですね」警部がぶつぶつ言った。「絶対に見つかりっこありませんな、レーンさん」
と、サムの悲観的な言葉が偶然の神々の哀れを催させたかのように、この時、路床から二十フィート離れたところで、ボートを操っていた作業員の一人が叫び声をあげた。この声でレーンの返事は打ち切られた。別のサーチライトが、そのボートに向けられた。スコップは例によって泥、草木、小石などをすくい上げていたが、今度はサーチライトの強い光線の中で何かが光っていた。
勝利の叫びをあげて、サムが後をも見ずに馳け下った。レーンが落着いて後につづいた。
「あったか――何だ?」警部がどなった。
ボートが彼に向ってにじり寄ってきた。作業員の泥まみれの手がギラギラ光るものを差し出した。サムは、そばに来ていたレーンの顔を、畏怖の目で見上げた。それから頭をふって発見物を調べ始めた。
「三十八口径に間違いありませんか?」レーンがおだやかに尋ねた。
「これだ、やったぞ!」サムは叫んだ。「今日はついてるぞ! 一発しか射っていない、よし、これで弾を撃てば、デウィットの死体から出たのと同じ弾だってことがわかるんだ!」
彼はびしょぬれのこの兇器をそっと撫で、ハンカチに包んで、上着のポケットにしまった。
「集合!」彼はひどい姿をしている作業員に声をはりあげた。「見つかったぞ! 道具をしまって引きあげろ!」
彼はレーンと一緒に、午後の間乗り廻した警察自動車の一台に向って線路を後戻りした。
「ところで」サムが声をかけた。「筋を通して考えてみましょう。ここで今、われわれは、あの夜、列車が渡った川の中から、デウィット殺害に使われたと同じ口径のピストルを発見した。発見位置から考えて、ピストルは殺害後、列車から川に投げ捨てたと見て差支えないでしょうな、犯人の手で」
「もう一つ可能性があります」レーンが言った。「犯人はボゴタの手前か、あるいはボゴタで列車を降り、先に歩くか引き返すかして、この川まで来て、このピストルを投げ捨てた、ということもあり得ます。ただ」と彼は言った。「可能性を指摘しているだけなのですが、ピストルは列車から投げられたとする方が、はるかに理屈にかなってはいますね」
「あらゆる場合を考えてみるのですな、あなたは? たしかに私も、あなたと同意見なので……」
二人は警察自動車にたどり着くと、肩の荷をおろしたように黒塗りのドアにもたれた。レーンが言った。「どんなことがあっても、ピストルが発見された以上、コリンズの有罪を確実にするチャンスはすっかりなくなったわけです」
「すると、コリンズはこれで完全に白だとおっしゃるのですか?」
「お察しのとおりです、警部さん。あの普通列車は十二時三十分にリッジフィールド公園に着きました。コリンズは列車が見えなくなる前に、タクシーに乗りました――この点が重要です。ここから先のアリバイは運転手が明らかにしています。運転手は、彼を列車と反対方向――つまりニューヨークに向けて走らせています。ピストルが十二時三十五分前に、列車から川に捨てられるはずはありません、その時刻には列車は川を渡っていたのですから。たとえピストルが、歩いて来た人間の手で河に捨てられたとしても、その人間は列車より前に、その川にたどり着ける道理がない。しかるにコリンズは、列車が駅を出て見えなくなる前に、歩くにしろ車を飛ばすにしろ川まで来て、兇器を捨て、またリッジフィールド駅に戻るなんて、とうていできるものではありません! 駅と川の間はおよそ一マイルありますから、往復で二マイルです。もっともこんなことは考えられる。ピストルは殺害後ずっとたってから川に投げこまれた――つまりコリンズは、後刻ここに戻って来てピストルを処分した、これも普通なら不可能なことではありません。しかしコリンズの状況は特別でした。なぜなら、タクシーは彼のニューヨークのアパートに直行し、その瞬間から彼の行動は監視されていたのですからね。それ故に――コリンズは白です」
サムの声が勝ち誇ったようにひびいた。「レーンさん、見落してることがありますよ! 今の論法はまさにそのとおり――コリンズは自分ではピストルを川に捨てられなかった。しかしですよ、共犯という問題はどうです? こう考えてみたら――コリンズはデウィットを殺し、ピストルを共犯者に渡して列車から降りる、共犯者に、自分が降りてから五分経ったら川に捨てるように言っておいたと。どうでしょう、こういう推理は、スマートじゃないですか、レーンさん!」
「警部さん、落着いてくださいよ」レーンがにっこりして言った。「わたしたちはこれまで、コリンズ事件の法律上の黒白を問題にして来たのです。私は共犯の可能性を無視していたのではありません。まったくそうではありません。よろしい、では――この共犯者は誰か、と、お聞きしたいものですね。その男を法廷に引き出せますか? もっともらしい論理だけで、それ以外に陪審員に何か提出できるものがありますか? だめです、この新しい証拠の前では、コリンズをデウィットの殺害犯人として有罪にすることはできないでしょう」
「なるほどね」サムの顔はふたたび陰気に曇った。「ブルーノ検事にしろ、私にしろ、誰が共犯者なのか、まるで分かってはいません」
「それも、もし共犯が|いる《ヽヽ》としての話ですがね」レーンが冷やかに言った。
捜査班が三々五々と舟から上がっていた。サムは警察自動車に乗りこんだ。レーンがそれにつづいた。もう一台の車に一隊が乗り込むと、このキャラバンはウィーホーケンに向って走った。トレーラーが器具を運んでいた。
サムはその表情からみても、悲痛な思いの渦に巻きこまれているらしく、じっと坐っていた。ドルリー・レーンは、その長い脚を伸ばしてくつろいでいた。「警部さん」彼はつづけた。「心理学的立場から考えても、共犯説は薄弱ですよ」
サムが唸った。
「その推理を検討してみましょう。コリンズはデウィットを殺した。共犯者がいて、ピストルをその共犯者に渡し、リッジフィールド公園で降りて五分後に列車から捨てるように言った。と、ここまではいいでしょう。この仮説は、コリンズが一分のすきもないアリバイを自分ででっちあげた、という想定の下にのみ成り立っているのです。言いかえれば、ピストルは、コリンズが引き返したと証言される地点から、反対の方向に、五分後に発見されなければなりません。
彼が列車から降りて、その五分後の地点にピストルが発見されなかったら、コリンズのアリバイは成立しないことになります。ですから、もしコリンズがこのアリバイ計画を立てたなら、ピストルは絶対に|発見される《ヽヽヽヽヽ》ようにしておかなければならないのです。ところが、われわれはピストルを川の中で見つけはしたものの、それも神のみ恵みがなければ永久に沈んでいたかもしれないのです。コリンズがアリバイを作り上げたという推理と、あらゆる努力を払っても明らかにピストルが絶対に発見されないようにしたという事実とを、われわれはどう一致させるのです? あなたはこう言われるでしょう――」だが、サムの表情は、なにも言いたげでなかった――「ピストルが川に落ちたのは偶然の手ちがいだったのだ、共犯者はピストルを、わざと路床ぞいに落ちるように窓から投げたのだ、と。しかし、コリンズのアリバイを援護して、わざと見つかるようにするのだとしたら、共犯者は列車から二十フィートも離れたところにピストルを捨てたりするでしょうか? われわれがピストルを発見したのは、線路から二十フィート離れた川の中なのですからね。
「そうですとも、共犯者はすぐ発見されやすいように、ピストルを投げないで、窓からただ落しただけでしょうよ。そうすれば路床以外のどこにも行く心配がありませんからね」
「すると」サムがつぶやいた。「あなたは、ピストルは発見されるように落したのではないとおっしゃるのですね。それならコリンズは白ですな」
「そういうわけですよ、警部さん」レーンが言った。
「では」サムが致し方なく鼻を鳴らした。「私の敗北を認めます。ブルーノ検事と私がXだと思って掴まえると、きまってあなたはそれをひっくり返してしまう。癖になったみたいですな。さーて、これで私に関する限り、事件はいよいよ複雑になりました」
「それとは反対ですよ」ドルリー・レーンが言った。「いよいよ大詰にあと一歩というところです」
第十一場 ハムレット荘
――十月十三日(火曜日)午前十時三十分
クェイシーが、ハムレット荘の自分の扮装室の電話口に立っていた。ドルリー・レーンはそばの椅子に手足を伸ばしていた。窓は暗い日覆いが上がって、弱い陽光がはねていた。
老人はきいきい声で話していた。「ですがブルーノさま、レーンさまがおっしゃっておいでなので。はい……はい、今夜十一時に、こちらまでお出でを、サム警部さまと少し警官を連れて……ちょっとお待ちを」クェイシーは受話器を骨ばった小さな胸に抱くようにした。「警官は私服がよいかと尋ねておられます、それから、一体どういうことなのかと」
「検事にこう言いなさい」レーンがゆっくり言った。「警官は制服でない方がいい、それからニュージャージーにちょっと遠足に行くのだと。事件に関係のある非常に重要な用件で、ウェスト・エングルウッド行きの西岸線に乗ると言いなさい」
クェイシーは眼をしばたたいて、命令に従った。
* * *
午後十一時
サム警部は、おそらく一番親しい関係にあるためか、その夜ハムレット荘の書斎に集まった警察の一行の中でただ一人、すっかりくつろいでいる様子だった。ドルリー・レーンの姿はなかった。ブルーノ地方検事はいらいらした声を出して、古風な椅子に深くかけていた。
でっぷりした小柄のフォルスタッフが、ブルーノの眼の前で、片足を引いてお辞儀をした。「何だね?」
「おそれ入りますが、レーンさまがもう少しお待ちくださるようにとのことで」
ブルーノは仕方なさそうにうなずいた。サムがクックッと笑った。
一方、警官たちは珍らしそうに広い部屋を眺め廻していた。天井は非常に高く、三方の壁は床から天井まで本棚になっていて、ぎっしりと書物がつまっていた。棚の上段には書斎用のはしごが立ててある。風変りなバルコニーが部屋のまわりをぐるっと取り囲み、二つの鉄の螺旋階段が二方の隅からバルコニーに通じている。古代英語が彫りつけてあるブロンズ標識で書物は分類されていた――部屋の一隅にある円卓は、今は坐るものもいないが、明らかに特定の書籍管理人の聖所とわかる。もう一つの壁には何か奇妙なものがかかっている。ブルーノが落着かないまま椅子から立ち上がり、歩き廻りはじめた。彼は、この壁の中央の、塗ったニスがかちかちになり、ガラスの覆いのしてある古い地図に眼をとめた。左下隅の飾り文字には一五〇一年の世界地図としてある。エリザベス王朝の衣装のコレクションが、一つ一つケースに入って、壁に並べてある……。
書斎のドアがさっと開いて、クェイシーのしなびた姿が部屋に滑りこむと、みんな一斉に顔を向けた。彼は老いた骨ばった顔に何か期待するような笑いを見せながら、そのままドアを広く開けていた。
すると、アーチ型の入口から、長身の、たくましい、あから顔の男が進み出て、|どう《ヽヽ》悪にみんなを見据えた。顎が張り、頬はかすかに落ちこんでいるが、眼のふちには明らかに放蕩を物語る影があった。ツィードの服――織りの粗いツィードの服に、スポーティーなズボン、それにゆったりしたコートを着ていた。両手はふたなしのポケットに突っこみ、みんなをにらみつけた。
男の出現の効果はいち早く現われ、しかも大きかった。ブルーノ地方検事は床に立ちすくみ、視神経が頭脳にひらめかせた知覚をまるで信じることができないかのように、眼をあわててしばたたいた。ブルーノがギョッとしたというなら、サム警部はさらに繊細な、深い意味で驚愕したのである。頑丈な顎が子供のようにふるえ、ガクッと落ち、かすかに揺れた。ふつうならきびしく冷たい眼が、熱病におそわれたみたいにカッと燃えた。彼は数回すばやく目を開けたり閉じたりした。顔色は紙のように白かった。
「どういうことだ」彼はしわがれ声でささやいた。「ハ―ハ―ハリー・ロングストリート!」
他の者は筋肉一つ動かそうとしなかった。戸口の亡霊は不気味な笑い声で、沈黙を破り、一同の背筋を凍りつかせた。
「『おお、かくも豪華な宮殿に偽りが住むとは!』」とハーリー・ロングストリートが言った。
そのすばらしい音声はドルリー・レーンであった。
第十二場 ウィーホーケン――ニューバーグ間普通列車
――十月十四日(水曜日)午前零時十八分
じつに不思議な旅だった……。歴史は、想像力に欠けた駑馬《どば》は、繰り返したのだ。同じ列車、同じ闇夜、同じ時刻、同じ鉄の車輪のひびき。
零時十八分過ぎ、ウィーホーケン――ニューバーグ間の普通列車の後部車輛の一つに、ドルリー・レーンが召集した警察の一行が坐っていた。列車はウィーホーケンとノース・バーゲンの間を音を立てて疾走した。レーン、サム、ブルーノ、同行の警官隊を除けば、車輛には乗客はほんの僅かだった。
レーンはゆったりとしたトップコートにくるまり、縁広のフェルト帽を眼深にかぶっているので、顔は見えなかった。彼は窓際にサム警部と並び、窓枠に頭を向け、誰にも話しかけず、眠っているか何か考えごとに耽《ふけ》っている様子だった。向い側の席の地方検事も警部も一言も口をきかなかった。二人ともひどくいら立っていた。この緊張感が周囲に席を占めている刑事たちに伝わったものか、彼らはほとんど口もきかず、銃の|さくじょう《ヽヽヽヽ》のようにかたくなって坐っていた。ある劇的なクライマックスを、それがどんな性質のものであるのか、まったく知らずに、待っている感じだった。
サムはソワソワしていた。レーンのそむけた頭を、彼は一瞥《いちべつ》すると、吐息をついて立ち上がった。そして重い足取りで車輛の外に出て行った。と、アッという間に興奮に顔を赤くして戻って来るや、席につくなり前屈みになってブルーノにささやいた。「変ですよ……前の車輛にアハーンとアンペリアルの姿が見えたんです。レーンに話しましょうか?」
ブルーノはレーンの帽子にかくれている頭に目をやった。そして肩をすくめた。「すべて彼に任せておいた方がいいようだ。何か胸のうちにあるようだからね」
列車がガタガタと胴ぶるいして止まった。ブルーノは窓から外を見た。ノース・バーゲン駅に着いていた。サムは腕時計を見た――時刻はきっかり零時二十分だった。駅のぼんやりした光りの中に、乗客が二、三人、列車に乗るのが見えた。ランタンが揺れ、ドアがバタンと閉まり、列車はふたたび動きだした。
数分後、車輛の前部に車掌が現われ、検札を始めた。警察の一行のところに来ると、それと認めてにやっと笑った。サムがきむずかしくうなずいて、一行の代金を払った。車掌は胸ポケットからお定まりの二連式の切符を取り出し、きちんと揃えて二か所にパンチを入れ、半分切りとって半券をサムに渡し、残りの半券を別のポケットにしまった……。
すると、居眠りしていたか、考えごとをしていたドルリー・レーンがこの瞬間を境《さかい》に、驚くほど活気を呈してきた。彼はすっくと立ち上がり、顔をかくしていた帽子とコートをかなぐり捨てると、車掌の真正面に向いた。車掌はきょとんとして見つめた。レーンはサックコートの縫いつけのポケットに手を突っこみ、銀のケースを取り出してパンとそれを開き、眼鏡を取り出した。彼はそれをかけるでなく、ただ、物思わしげな妙な眼つきで車掌を見つめた。きつい、くぼんだ、生気のないその顔は、車掌の心魂を奪うかのように見えた。
それは車掌に異様な効果をもたらした。パンチを持った手が宙に止まった。面と向っているこの恐ろしい顔が、読みとれたのだ。はじめは理解できなかったのが、そのうちに恐ろしいほど理解されたのだ。口は開き、背の高いたくましい身体から力は抜け、葡萄酒色の顔が蒼白となった。口からはただ一語、息苦しい声がもれた。「ロングストリート……」全神経を麻痺させ、棒を呑んだみたいに車掌が立ちすくんでいる間に、ハーリー・ロングストリートに造った唇が笑い、右手が銀のケースと眼鏡を落して、するするとポケットにふたたび入り、鈍く光る金属製のものを取り出した……と、車掌の手につかみかかるや、カチリと小さい音がした。車掌は相手の笑い顔から目をそらして、茫然と、手首にかかった手錠を見つめた。
そこでドルリー・レーンは、ふたたび笑いを浮かべた。だがそれは、息を押し殺し、身じろぎもせず一瞬の活人劇を見守っていた、サム警部とブルーノ地方検事の蒼ざめた不信の顔を見下ろしていたのである。二人の額にはくっきりと皺がきざまれた。彼らはレーンから、今はちぢこまり、震える舌で唇をぬらし、シートの背にもたれている車掌に目を向けた――打ちのめされ、恥じ入り、自分の眼が現に見るものをどうしても信じられないといった様子で、手首にかけられた手錠を見つめていた。
ドルリー・レーンが落着いた声で、サム警部に言った。「お願いしておいた印肉をお持ちくださいましたか?」
サムは黙ってポケットから、錫《すず》の容器に入った印肉と一枚の白い紙を取り出した。
「この男の指紋を取ってください」
サムはやっと立ち上がると、まだ信じられない様子で、言いつけに従った……。レーンは打ちのめされた車掌のそばに立ったまま、同じようにシートの背にもたれた。サムが、車掌のグッタリとした手を掴んで、印肉に押しつけている間、レーンは席に脱ぎ捨てたトップコートを拾い上げ、ポケットをさぐって、月曜日に受けとったマニラ紙の封筒を取り出した。サムが車掌の血の気のない指を紙に押しつけている時、レーンは封筒から、ウルグアイからの指紋の電送写真を取り出して、含み笑いをしながら、それを眺めていた。
「終りましたか、警部さん」
サムは、濡れている車掌の指紋の写しをレーンに渡した。レーンはその紙を写真と並べ、首をかしげてうずまき模様を見ていた。それから濡れた写しを写真と一緒に警部に戻した。
「どうごらんになりますかね、警部さん? あなたなら、こういう鑑定はもう何千回とやっておられるでしょうからね」
サムは細心に調べた。「どうやら同じようですな」とつぶやいた。
「むろん、同一です」
ブルーノがふらふらと立ち上がった。「レーンさん、誰です――何者です――?」
レーンは手錠の男の腕を軽く掴んだ。「ブルーノさん、サム警部、神の最も不幸な子の一人、マーチン・ストープス氏をご紹介します――」
「しかし――」
「――別名」とレーンがつづけた。「西岸線の車掌エドワード・トムソン――」
「しかし――」
「別名、渡し船の見知らぬ紳士――」
「しかし私には――」
「別名――」やさしい調子でレーンが言葉を結んだ。「車掌チャールズ・ウッド」
「チャールズ・ウッド!」サムとブルーノが同時に叫んだ。二人は囚人のおじけた姿を見つめた。ブルーノが小声で言った。「しかし、チャールズ・ウッドは死んでいる!」
「ブルーノさん、あなたにとっては死んでいる、そしてサム警部、あなたにとっても。だが私にとっては」ドルリー・レーンが言った。「ちゃんと生きていたのです」
舞台裏
ハムレット荘
――十月十四日(水曜日)午後四時
そして最初と同じように、はるか下にハドソン河、一つの白い帆、のろのろと進む蒸汽船があった。五週間前と同じように、自動車が道を曲りくねって登り、サム警部とブルーノ地方検事を乗せて、噺話《おとぎばなし》に出てくる美しい色どりの城郭のように、朽ち葉色の林の中にそびえている、幻のように美しいハムレット荘めざして一気に登って行った。
五週間!
はるか上には雲に形どられた動楼、城壁、胸壁、針先を思わせる教会の尖塔……。それから奇妙な小さい橋、草ぶきの小屋、風にゆらぐ木の門標を指さすあから顔の小柄の老人……。ぎいーと開く古い門扉《もんぴ》、橋、なおも上にくねって行く砂利道、今は赤茶色になった樫の林、城をめぐる石壁……。
彼らは、はね橋を渡り、樫造りの玄関でフォルスタッフに迎えられた。それから大昔の荘園風のホールに入り、枯れた古い天井の梁の下を通り、甲冑の騎士とエリザベス朝の頑丈に釘止めにされた英国製の家具のそばを通った。信じがたい仮面と巨大な燭台の下に、禿げた、顎髭の小男のクェイシーがいた……。
ドルリー・レーンの個室の心持ちのよい暖かさの中で、足先を炉にかざして、二人の男はくつろいだ。レーンはヴェルヴェットのジャケットに身をつつんでいたが、揺れる焔《ほのお》の影で非常に端正に若々しく見えた。クェイシーが壁にしつらえた小さなマイクロフォンのような器械に、わけのわからないしわがれ声をかけると、間もなくバラ色の顔のフォルスタッフが、香り高いリキュールを一杯にしたグラスを盆にのせて、微笑みながら現われた。カナッペもあったが、サム警部が遠慮なく食べて、たちまちなくなった。
「考えてみますと」ドルリー・レーンは客が十分に食べくつろいで、煖炉の前に坐り、フォルスタッフが調理場に戻ってしまうと、こう切り出した。「これまで数週間というもの、私は言いたい放題に言葉の曲芸を使って来ましたが、その説明をお二人に求められるでしょうな。そう直ぐにはまた殺人事件もありますまい!」
ブルーノが言った。「それはないでしょう。あなたにはおわかりでしょうが、この三十六時間に私が見てきたことから言っても、もし相談すべきことが起こったら、真っ先にあなたのところにご相談にあがりますよ。いくらか含みのある言葉ですが、あなたにはおわかりいただけると思います。レーンさん、警部も私もともども心から感謝しています――言葉ではとても云いつくせるものではありません」
「別の表現をすれば」サムが苦笑いをうかべて言った。「われわれの首を助けていただいたわけです」
「つまらないことをおっしゃるものではない」レーンは軽く手を振ってこの問題を片づけてしまった。「新聞を見ると、ストープスは自白したようですね。どこでどうしたのか、私がこの事件に関係していたのを嗅ぎつけて、一日中まったく執念深く、ある新聞社の記者に攻めたてられましたよ……。ストープスの自白で何かおもしろい点がありましたか?」
「われわれにとってはおもしろいですが」ブルーノが言った。「どういうわけだか、私にはさっぱり分りませんが、あなたは自白の内容をご存じなのでしょうね」
「とんでもありません」レーンが笑った。「マーチン・ストープスに関しては、まったく訳のわからないことがたくさんあるのです」
二人の客は首をふった。レーンはべつに説明をしなかった。ブルーノをうながして、自白の内容をもとめた。ブルーノが最初から話し出した時は――つまり、一九一二年にウルグアイの無名の熱心な若い地質学者が云々というところでは、レーンは何も口を出さなかった。しかし、ある詳細に話が及んで来ると、老優は好奇心を見せ、機敏に質問をして、ウルグアイ領事のホアン・アホスとの話では明らかにならなかった情報を聞き出した。
その話から、一九一二年にマンガン鉱を発見したのはマーチン・ストープス自身であったこと、彼と仲間のクロケットで広大な奥地に踏査に出かけていたこと、がわかった。二人には一文もなく、鉱山の仕事をするには資金が必要だったので、なにがしかの分け前を出すということで別に二人の男を仲間に入れた――これがロングストリートとデウィットで、クロケットが若いストープスに紹介したのだ。ストープスが自白の中で痛ましくも明らかにしたところによると、後に問われた罪――マシェートによる妻の殺害事件――は実はクロケットの犯したものだった。ある夜、ストープスが近くの鉱山に出かけていた時、クロケットは酒に酔って色情にかられ、ストープスの妻を襲った。ところが彼女に抵抗されたので殺してしまった。首謀者のロングストリートはこの機会をとらえ、三人で殺害の罪をストープスにきせる計画をたてた。鉱山が法律的にストープスのものだと知る者もないのを幸いに、彼らは鉱山をのっとってしまった――まだ登記はすんでいなかったのだ。陰謀にクロケットはすなおに従った。彼は自分の罪におびえていたので、渡りに舟ととびついたのである。ストープスの言うところだと、デウィットは性質のやさしい方だが、ロングストリートに頭をおさえられ、脅迫されてこの陰謀に加わったのだ。
妻の死のショックと、仲間の裏切りとで、若い地質学者は精神の均衡を失ってしまった。有罪の判決をうけ、投獄されてからやっと、彼は正常に戻った。しかしもうどうにもならなかった。その時から、彼の思想と、強い野望と熱望とが、怖ろしい復讐への欲望へと変って行った。牢獄からの逃亡と三人の悪党の殺害に余生を費すことを心に誓った、と彼は自白している。脱獄の時機が来るまでに彼はひどく老けこんでしまった。幽閉のきびしさが彼の容貌を変えてしまった。しかし身体は元通り頑強であった。これなら復讐の時が来ても、狙っている敵に悟られないという確信がついた。
「しかし、こんなことは」ブルーノが終りに言った。「今のわれわれにはさして重要ではありません、レーンさん――少なくも私にとりましては――あなたが事件を解決されたほとんど超自然的なやり方に比べたら。一体あなたはどうやってかくも不可思議な解決に達せられたのですか?」
「超自然的?」レーンは首をふった。「私は奇蹟など信じませんし、もちろん奇蹟を起こしたことだってありません。魂を奪われるほど興味深い今度の捜査で成功にこぎつけることができたのは、いわば、観察からありのままに考え出した直接の結果にすぎません。
まず概論から始めましょう。たとえばですね、われわれが直面した三つの殺人事件のうち、一番簡単なのは最初のものでした。驚ろかれましたか? しかし、ロングストリートの変死に付随するまわりの状況からは、信じられないくらいの動かし難い論理が考えられます。私がこの状況を知ったのは、例によって不満足な方法で――つまり伝聞で知ったということはご存じでしょう。犯行の現場にいたわけではありませんから、自分の目で観たのではないというハンディキャップの下によく考えてみたのです。しかし」――そして警部を真顔でみつめた。「警部さんの説明がじつに直截で詳細に亙《わた》っていましたので、あたかも自分がその場に居合わせたようにはっきりと、殺人劇の構成要素を想い描くことができたのです」
ドルリー・レーンの瞳は輝いていた。「電車内の殺人では、考えられる結論といえば一つしかありませんでした。すぐにはっきりしました。今でも、こんな自明の理がなんでお二人に分からなかったのかと、ふしぎに思われるのです。すなわち、兇器の性質上、|素手で触れれば《ヽヽヽヽヽヽヽ》、|触れた人は毒針にさされて《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|致命的結果を得る《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》、ということは明らかです。警部さん、あなただって針のささったコルクに触らないように、ずい分注意していましたね――ピンセットを使ったり、後にはコルクをガラス壜に封印したりして。あなたに兇器を見せてもらってすぐに私は、犯人は、兇器を電車に持ち込むのにも、それからロングストリートのポケットにうまく滑りこませるのにも、自分の手を何かでカバーしていたに違いない、と思いました。これはすぐに分かった、と言いましたが、実はたとえコルクの実物は見ていなくとも、あなたのご説明が非常に正確でしたので、こんなはっきりした点を見落すわけはなかったでしょう。
次には当然こういう疑問がうかびました。手をカバーするもので、ふつうに考えられる形のものは? 当然こういう答が出てきます。むろん、それは手袋です。これなら犯人の必要条件を満足させただろうか? 手袋だったら犯人の目的に実際に適います――生地がじょうぶですし、革製であれば特に完全に手を保護できます。布製はみんな使っているものですから、手をおおう特別の性質のものよりも、はるかにみんなの注意を惹かないですむ。よく練られた計画犯罪ですから、ふつうの手袋がより以上に犯人の目的に適っているのに、わざわざ特別な保護物を考え出すなどと、こちらにも考える理由はありません。それにもっと都合のいいことには、たとえ見つけられても、比較的に注意を惹きませんし、疑惑も招きません。手袋の代りに役立ち、特別な細工もせずに人目に怪しまれないですむものとしては、ただ一つハンカチでしょう。しかしハンカチは手に巻けば無恰好で、人目に付きやすく、それにもっと重要なことは、毒針に対して安全確実《ヽヽヽヽ》な保護にはなりません。そこで、こんなことも考えてみました。犯人はサム警部と同じ方法を使ったかもしれない――即ち針をさしたコルクをピンセットで操作する方法です。しかしちょっと考えてみてこの方法では、犯人自身の皮膚は毒から守られるだろうが、当時の状況から照らして――すし詰めの電車で、手を動かす自由もまるでない電車内で、こんなにデリカシーを要求する操作などできるはずはない。しかも厳密に限られた時間内で必ずや仕事をやってのけるということは。
そこで、つぎのような確信をもつに至ったのです。犯人はロングストリートのポケットに、針をさしたコルクを滑りこませるのに、|手袋をはめていたにちがいない《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》」
サムとブルーノは顔を見合わせた。老優は眼を閉じて、低い抑揚のない口調で先をつづけた。「さて、コルク玉はロングストリートが電車に乗った後でポケットに入れられた、ということはわかっていましたね。これは証言によって明らかです。また、ロングストリートが電車に乗ってからはドアも窓も閉ったままでした。二つの例外はありましたが、これについてはすぐ後で話します。ですから、犯人は、その電車に乗っていて、後で警部さんが取り調べた人間のうちの一人だったにちがいないのです。ロングストリートとその一行が電車に乗ってからは、一人を除いては|誰も降りなかった《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》。そしてこの人間もダフィー部長自身の命令で降りて、また戻って来ています。
また、車掌も運転手も含めて乗客のすべての身体検査をしても、電車に乗っていたものからは手袋は一つも見つからず、その後訊問を受けた車庫からも見つからなかった。それからこれもご記憶でしょうが、電車から取調べの車庫の部屋までは、警官と刑事の警戒線を通ったわけですが、ひきつづいて捜査した結果、その道筋には何も発見されなかった。警部さん、あなたのご説明の後で、他のものに混って手袋は見つからなかったかと、特にあなたにお尋ねしましたね。すると、あなたはなかったと言われた。
つまり言葉をかえれば、犯人がまだ電車内にいたのにもかかわらず、犯行に使用されたにちがいない品物が犯行後も発見されないという奇怪なことになったのです。窓から捨てたはずはない。ロングストリート一行が乗車する前から、どの窓も開いてはいなかった。ドアから捨てたはずもありません。何故なら、犯行後は、ダフィー部長自身がドアを開け閉めしただけですし、そういう事実はみとめていません、そういうことがあれば報告するはずです。手袋を破ったりちぎったりするはずもない。残骸が見つかって、報告されるでしょうから。たとえ共犯者に手渡されるとか、無関係の人間にそっと押しつけたとしても必ず見つかってしまいますよ。共犯者にしろ犯人よりうまく処理できるわけでもなし、無関係の人間に渡れば、後の取り調べですぐ分ることです。
では、この謎の手袋はどうして姿を消したのか?」
ドルリー・レーンは少し前に主人と客人のためにフォルスタッフが持って来た湯気の立つコーヒーを、満足げにすすった。「私は実のところ、精神的な快感を味っていたのです。ブルーノさん、奇蹟と言われたが、まさにその時は一つの奇蹟に直面したのです。しかし私は懐疑派とでもいうのでしょうか、必死の手段でこの手袋の紛失を解明しようとしました。つまり、処分の方法を一つ一つ、丹念に検討しては除去して行って、最後に一つだけ残ったのです。あの論理学の法則に従うと、最後に残った方法が紛失の手段であるにちがいないのです。手袋は電車から外に捨てられるはずがない、しかも電車内にない、すると電車を降りた人間の手で捨てられたということになる。ところが|電車を降りた人間はただ一人《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》! それは車掌のチャールズ・ウッド、彼はダフィー部長の言いつけで、事件を本部に報告するために、モロー巡査を呼びに行きました。第九アヴェニューの交通巡査シティンフィールドが馳けつけて中に入ったが、彼はダフィー部長に認められて乗車し、その後、電車からは降りていない。最後にウッド車掌の連絡でやって来たモロー巡査も降りなかった。言いかえると、事件発生後、二人が、それも二人とも巡査が電車に乗り、事件後チャールズ・ウッド以外は誰も降りていないことになります。ウッドは戻っているが、これはむろん、論議の進展とは無関係です。
そこで結論を出さざるを得なくなりました。ありそうもない、現実ばなれしたことのようではありますが、車掌のチャールズ・ウッドが犯行現場から手袋を持って出て、どこかで処分したのだ、と。初めは当然のことながらおかしなことだと思いました。しかし厳密に、妥協することなく考えつくしたのですから、この結論を受け入れる以外になかったのです」
「まったくお見事です」地方検事が言った。
レーンはクスッと笑ってつづけた。「すると電車から手袋を持ち出して処分したチャールズ・ウッド自身が犯人であるか、あるいは人混みにまぎれて手袋を受け取り処分した共犯か、このいずれかでなければなりません。
憶えておいでだと思いますが、サム警部のお話をうかがってから、私は打つべき手は明白だとは言いましたが、あえて説明はしませんでしたね。その理由は、その時はまだウッドが犯人だという確信がなかったのです。もっとも共犯者という可能性は充分にありましたし、犯人か共犯者かのいずれかだという確信はありました。と言いますのは、もし手袋がウッドの知らないうちに犯人によってポケットに入れられていたら――つまり、計画的共謀とは無関係であったなら――取り調べの時に手袋が発見されるか、ウッド自身が気づいて警官に届け出るでしょうからね、つまり、云いかえれば、手袋は彼から届け出られなかったし、発見されもしなかった、したがって彼はモロー巡査を迎えに電車を降りた時に、手袋をうまく処分したにちがいないのです。自分のために処分したにしろ、他人のために処分したにしろ、これは立派な罪です」
「見事だ――絵に画いたように見事だ」サムがつぶやいた。
「心理的に照合もしてみましたよ」レーンが愛想よくつづけた。「ウッドを有罪とする論理的徴候についてね。ウッドが車を離れて手袋を処分する機会があるのを予期していたとは思えません。それどころか、いろいろな場合を考えて、もし取調べがあり、捨てる機会もなければ、手袋が発見される可能性のあることをも考えに入れていたにちがいないのです。しかし、ここに、この殺人計画の最も微妙な要素の一つがあったのです! それは、たとえ手袋がウッドの身体から発見されても、また実際なかったですが、たとえ車内からの他の手袋が発見されなくても、疑われる心配はないと彼は思っていたのです。車掌というのは夏の暑い時でも、人がふつうにはめたり、手にしていたりしない時でも、仕事の性質上手袋は使うものです。一日中不潔な金銭を扱う車掌として、手袋を持っていても疑われはしまいという心理的に有利な立場にあったわけです。この確実な推理の線から、手袋に関する私の最初の考えは絶対に間違いないという確信を強めました。ウッドが手をカバーするものを処分する機会を予期していなかったのなら、手袋のような最もありふれたものを使うにちがいない。ハンカチだと毒のしみがついて、すぐ分かってしまいますよ。
それからもう一つ。ウッドは雨天に犯罪を計画するはずはないということ。窓やドアを閉めねばなりませんからね。むしろ晴天の日を狙って計画を練ったはずです。晴れていれば、窓やドアから手袋を捨てて処分する機会は充分にあったでしょうし、犯人が車から投げ捨てたものと警察でも考えるでしょうからね。また晴天ならおそらく電車の乗り降りも頻繁でしょうし、そうなれば警察でも犯人逃亡の可能性を考えねばなりません。ではなぜこんな好条件の揃っている晴天を選ばずに、ロングストリート殺害に雨天を選んだのか? しばらくは私も迷いました。しかしよく考えてみると、この特別の夜は雨でも晴れていても、犯人にはまたとない絶好の機会だったということが分かったのです。つまり、ロングストリートは大勢の仲間と一緒だったということ、そのだれもが直接の疑いをかけられるということ。おそらくこの状況の嘘のような好機に一瞬目がくらんで、悪天候ゆえに引きおこされる事態の複雑性に考え到らなかったのです。
むろん車掌なら、ふつうの犯人にはない利点が二つありました。一つは、みなさんご存じでしょうが、車掌の上着には釣銭を入れるための革で裏うちしたポケットがついています。ですから、いざという時まで兇器を手もとにおいておいても、このポケットなら身の安全は絶対に守ることができるわけです。おそらく彼は何週間も前から、すでに毒をつけた針のコルクをポケットに用意していたのでしょう。もう一つの利点は、車掌としての彼には、犠牲者のポケットに兇器を入れる機会が確実にあるのです。と言うのは、四十二番街横断線のような電車ですと、乗客はすべて車掌のそばを通らなければ乗れないのです。ラッシュ・アワーで車掌のいる後部入口が非常に混雑していればさらに好都合なわけです。さらにこの二つの心理的確証を加味すると、どうしても私にはウッドの有罪が……」
「じつに不思議だ」この時ブルーノが口をはさんだ。「まったく不思議です、レーンさん。ストープスの自白は、すべての点であなたの言葉と一致してますよ。あなたは、彼とは何一つ話をしていないはずなのに。ストープスははっきりこう言ってます。針つきのコルクは自分で考案したと。それからシリング医師が検屍報告書の中で、あざやかに指摘しているとおりの方法で、毒物も手に入れました――どこの薬局でも手に入る殺虫剤です。それをねばねばになるまで蒸溜し、純粋なニコチンの含有量を高めたのです。それに針を浸しました。彼は、車掌台でロングストリートが一行の料金を払い、釣銭をうけとるのに手間取っている隙に、ポケットに兇器を入れたのです。さらに追及してみますと、殺害計画では晴天の夜を予定していたが、ロングストリートが大勢の仲間と乗車したのを見て、雨が降っていたにもかかわらず、ロングストリートの友人から、敵にいたるまで、容疑者に巻き込む誘惑に勝てなかったと自白したのです」
「学者たちの説《と》く、物質に対する精神の勝利ですね」サムが口を出した。
レーンがにっこりした。「衆目も認める事実万能主義者から、身に余る讚辞をいただいたものですね……警部さん……。先をつづけましょう。あなたのお話をうかがって、ウッドがクサイことはわかったのですが、果して犯人であるのか、別の未知の人間のただの共犯にすぎないのか、手先であるのかそれはわかりませんでした。もちろんこれは、匿名の手紙が来る前のことです。
ところが不幸にも、ウッドがその投書の筆者であるとは誰にもわからず、筆蹟鑑定の結果、その事実を知った時はもう手おくれで、第二の悲劇を防ぐことができなかったのです。投書を受けとった時は、たまたま恐ろしい事実を知るに至って、自分の生命の危険も犯して警察に知らせようとした、事件とは無関係な目撃者の手紙のように思えたのです。その後、ウッドは事件と無関係な目撃者ではなかったわけですが、彼がその投書の筆者だとわかって、その手紙を分析した結果、意味するところは次の点しかなかったのです。一つは、彼が犯人で無実な人間を巻きぞえにする、偽りの情報を提供して、罪を逃れようとしたか、もう一つは、共犯者として真犯人を引き渡そうとしたか、あるいは真犯人の扇動で無実の人間にぬれぎぬをきせようとしたか、このいずれかです。
「しかしここで困ったことが起こりました。|ウッド自身が殺されたことです《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》」レーンは指先を揃えて、ふたたび眼を閉じた。「この矛盾のおかげで、私は自分の考えをふり出しにもどし、手紙の二つの解釈を再分析するはめになったのです。
最も緊急を要する問題はこういうことでした。もしウッドがロングストリートの殺害犯人なら(共犯者ではなく)なぜモホーク号上で殺されたのか? その下手人は一体だれか?」レーンは回想するように微笑した。「この問題は面白い考えをいくつか生み出しました。私はすぐに三つの可能性に気づいたのです。まず第一、ウッド自身は犯人だが、共犯者がいて、その共犯者が彼を殺した――この場合、共犯者は、ウッドが自分をロングストリート殺しの犯人に仕立てはしないかと恐れたか、主犯ではないが扇動者として自分を密告するのを恐れた。第二、ウッドの単独犯で共犯者はいなかったが、無実の人間にぬれぎぬを着せようとして、その人間に殺された。第三、ロングストリートの殺害とはまったく関係のない理由で、未知の人間に殺された」
レーンはすぐ言葉をつづけた。「私は一つ一つの可能性を充分に分析しました。第一の場合――これはありそうにありません。何故なら、共犯者がウッドにロングストリート殺害の罪をきせられると恐れたり、扇動者として密告されるのを恐れたなら、ウッドを生かしておく方が共犯者としてはずっと有利なはずです。それで第一の場合は、むしろウッド自身が殺害者であると、私はにらんだわけです。ウッドに罪をきせられたら、共犯者はその罪をウッドに投げ返せばよい。しかるに共犯者がウッドを殺してしまったら、最初の殺害の従犯者である上に、自分をも殺人犯人にしてしまい、こうなっては、殺人罪を免れるチャンスはおろか、主犯の嫌疑をくつがえすチャンスはまるでなくなってしまう。
第二の場合――これも同様に、ありそうもないことです。まず何よりも、事件と無関係な人間が、ロングストリートの殺人犯だと警察に密告して自分を巻きぞえにしようというウッドの意図を、どうして前もって知るでしょうか。もう一つ、たとえ知っても、殺人の罪をきせられないように自分で人を殺すことは絶対にありません。
第三の場合、つまりウッドが未知の人間に、不明の理由で殺された、という場合は、あり得ることです。ですが、無関係の殺人動機の並置という、万に一つというような偶然性を必要としますから、これは縁の遠いものと考えなければならない」
「ここで妙なことになりました」レーンはしばらく煖炉の火を見つめていたが、それからふたたび眼を閉じた。「この分析の結果、私はきわめて厳密な論理にしたがって検討して来たのですから、どうしてもこれらの解釈は間違っていると結論せざるを得なくなりました――即ち、ウッドはロングストリートの殺害犯人ではないと。私が検討してきた三つの可能性はすべて論理的にあり得ない――まったく不充分なのです。
そこで私は推理の主流に立ち戻りました。第二の可能性ある解釈を検討してみたのです――ウッドはロングストリートの犯人ではなく共犯者であって、投書で真犯人を警察に引き渡すつもりでいた。この推理はつづいて起こったウッドの暗殺事件をきわめてわかりやすくしてくれます。真犯人がウッドの密告の意図を知り、正体を明かされないようにウッドを殺した、ということになる。完全に論理的推論ですから、私に間違いがあることはありません。
しかし私はそれでも葦《あし》の外に出られなかったのです。事実、いよいよ推理の沼地にはまり込んで行きました。と言いますのは、この仮説が正しいとすると、次のように自問しなければならないのです。なぜウッドは共犯者でありながら、つまりロングストリートの従犯者でありながら、主犯を裏切ってまで警察に密告しようとしたのか? 犯人の正体を明かせば自分の立場をかくすことはできないし、警察に訊問されれば暴露せざるを得ないし、真犯人が逮捕されれば、犯人は絶望的報復の気持で、自分の共犯者を明かしてしまうにきまっている。それならなぜ、なぜウッドは必ずやふりかかる危険をも冒して、真犯人の正体をばらそうとしたか? ただ一つの答は――筋は通るものの何となく不充分な答としては――ウッドが、ロングストリート殺害の共犯を後悔したか、その結果を怖れたかして、警察当局に密告して、すこしでも自分の罪を軽くしようとしたということです。
推理を進めてここまで来ますと、もう疑問の余地はありません。警察に手紙を出したことと、ロングストリート殺害に関係していることから考えて、ウッド殺害の最もありそうな解釈というと、彼は裏切りを計ったために真犯人に殺されたというやつです」
レーンは吐息をつくと、薪載せ台に脚を伸ばした。「どんなことがあっても、私のとる行動の筋道ははっきりしていました。実際そうせざるをえませんでした。私はウッドの私生活と背景を探り、どうしてでも彼が共犯として加担した人物の正体への手がかりを見つけねばなりませんでした。ロングストリート殺害事件に、関係している犯罪者が一人でなく二人いるとすれば、この人物こそ殺人者だからです。
この捜査は私の問題の一転機となりました。最初は無駄のようでしたが、新しい視野がまったく偶然に開けたのです。いや、驚きました……しかし順番にお話しましょう。
警部さん、憶えておいででしょうね、私が図々しくもあなたに化けて、ウィーホーケンのウッドの下宿に出かけて行った時のことを。あなたに化けたのはなにも策謀ではなかったのです。あなたの人格と権威を借用したお蔭で、釈明の必要に迫られることなく訊問を自由に進めることができました。はっきり申し上げて、どこを、何を探したらいいのか、私にもわかりませんでした。ウッドの部屋を調べましたが、おかしな点は一つもありません。葉巻、インク、紙、銀行通帳。ところがここにウッドの絶妙な演出があったのです! 現に彼は銀行通帳をそっくり残し、彼にとっては相当の金額であるはずの金をフイにしたわけですが、これもじつは、彼が創りつつあった幻影にただ色彩をほどこすためだけだったのです! 私は銀行に行きました。預金は手をつけられずにありました。預金額は一定していて、疑問など湧く余地はありませんでした。私は近所の商人たちにあたって、この男の私生活にひそかに関係のありそうな手がかりを持つ何かを探そうとしたのです。そしてウッドが誰かと一緒にいるのを見たことはないかと、そのききこみに努力してみました。だが何もありませんでした。まるでありませんでした。付近の医師と歯科医を訪ねてみましたが、こんどは面白い聞き込みがあったのです。この男は医者にかかったことは一度もないようでした。なぜかと考えて見たのですが、たぶんニューヨークの医師にかかったのだろうと考え――薬剤師がそう言ってました――その場ではこの疑問をそのままにしておきました。
見えざる敵を求めて、私はなおも跡を追っていたのですが、電鉄会社の人事課長を訪ねた時、まったくの偶然から、ある奇怪な、信じられない、しかしいよいよ私の心につのって来る怪しい事実に気づいたのです。モホーク号上で殺害され、ウッドと認定された男の死体の検屍報告書に、二年前の盲腸炎の傷痕があると記してあったのを覚えておいでですね? ところが、私が会社のウッドの勤務記録を調べ、その課長と話をしていると、|ウッドが殺害される前の五年間というもの一日も欠かさず勤務していた《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》ということが分かったのです」
レーンの声が激しく躍動した。ブルーノとサムが前に乗り出し、この俳優の顔に表われた喜びの色にすっかり魅せられてしまった。「しかし、演劇の守護聖徒の名にかけて申しますが、死ぬ二年前に盲腸炎の手術を受けたウッドが、どうしてこの五年間、一日も休まず勤務したなどということがあり得るでしょうか? 人も知るとおり、盲腸炎の手術には少なくも十日間の入院が必要です――しかもこれは稀にある短期間の場合です。ふつう二週間から六週間は休まねばなりません。
この答は、レディ・マクベスの野心のように非妥協的なものでした。この矛盾は、発見されてウッドだと確認された死体――二年前の盲腸炎の傷痕のあった死体――が、ウッドのではなかったことを疑いもなく証明しています。しかし、この新しく発見された領域に、私の眼はどんなに開かれたことでしょう! ウッドは殺されなかった、あたかも殺されたように巧妙に仕組まれていたのです。言いかえれば、ウッドは|まだ生きていた《ヽヽヽヽヽヽヽ》のです」
死のような静けさのうちに、サムが奇妙にいりまじった昂奮を示して嘆息した。レーンはにっこり笑うと、低い声で話の先をつづけた。「たちどころに第二の殺人事件の諸要素が、順序立てて再整理されました。ウッドがなお生きているという動かし難い事実は、自分の手で書いた投書が擬装であったこと、その意図が明らかに警察に対するウッド殺害の予告であったこと、最初からロングストリート殺しの犯人の正体を明かす意図がなかったということ、犯人の正体を教えると約束した後でウッドが殺されたとわかれば、警察は犯人が彼の口を永久に封じるために殺したとしか思わないこと、以上のことを明らかにしています。こうしてウッドは、いまだに正体の分からない犯人に殺された無関係の人間に見せかけて、当の事件からは完全に自分を抹殺してしまったのです。つまり、投書と水死体の擬装は、真犯人ウッド自身への嫌疑を警察当局から完全に消してしまう巧妙な手段だった、ということになります。
この非常に重要な推論のおかげで、他のからくりの糸もほぐれていったのです! ウッドが第二の犯罪で自己を抹殺した理由は、第三の犯罪の説明のとき明らかになりましょうが、ウッドは姿を消さねばならなかったのです。彼は第三の事件でエドワード・トムソンとなって証人に喚問される可能性があり、同時に第一の事件の証人チャールズ・ウッドとしても喚問される可能性があったのです――同時にしかも同じ場所で、どうして二人の人間になり得ましょうか? もう一つ。自己抹殺のウッドの計画は文字どおり一石二鳥だった――彼はチャールズ・ウッドとして自分を殺したばかりでなく、一人の知らない人間、渡船場で死体となって発見されたウッドの制服を着ていた人間をも殺したのです。
さて、この最後の線に沿って話を進めてみましょう。ウッドと認定された死体には、片方の脚のふくらはぎに特殊な傷痕があり、髪の毛は赤い。その他はめちゃめちゃになっていて見分けがつかなかった。ところでウッドは髪の毛が赤かったし、運転手ギネスの証言では、脚に同じような傷痕があった。ところが死体はウッドではない。頭髪の赤いのは偶然の一致だったかも知れないが、傷痕はそうとは考えられない。するとウッドの傷痕は偽でなければならない――しかも少なくも五年前から、つまり電鉄に勤め始めた時から偽の傷痕をつけていたことになる、乗車勤務になってすぐに、運転手のギネスにその傷を見せているのですからね。ですから少なくも二つの点で――髪の色と傷――モホーク号上で殺された男に表面上なりすます計画をたてていたということになります。こんな訳で死体が見つかった時に、何の疑もなくウッドだと確認されたのでしょう。すると、渡船上の殺害計画は少なくも五年前に立てられたにちがいない。そしてこの殺害はロングストリート殺害事件の結果なのだから、ロングストリート殺害事件もまた、五年ないしはそれ以前から計画されていたにちがいないのです。
もう一つの結論。ウッドは渡船に乗るのを人に見られている。しかし私の仮定では殺されなかったのだから、変装して下船したはずだ。彼はサム警部がみんなの足止めをする前に抜け出した乗客の中にいたか、あるいは……」
「まったく」とブルーノが口を插んだ。「あなたのご想像のとおりです。事実、彼は船内で足止めを喰った一人でした。ヘンリー・ニクソンという宝石の行商人だった、とストープスが自白してます」
「ニクソン?」ドルリー・レーンがつぶやいた。「すごい智慧です。この男は俳優になるべきでしたね――変装にかけては本能的天分を持っていたのですよ。犯行後、ウッドが船上にいたのかどうか、私にはどうしても分かりませんでしたが、あなたから、行商人ニクソンに化けていたとうかがって、これでつじつまが合いました。車掌ウッドとして船に持ちこんだ安物の鞄を、行商人ニクソンに化けて、船から持ち出したのです。彼には、行商人に変装するための必要物と、犠牲者を気絶させるための鈍器と、犠牲者の衣類を河に沈めるためのおもりを入れる鞄が必要だった……。いや、まったく巧妙だ。行商人なら、ちょっとぐらいの取調べをうけただけでは、一定の住居を欠いたり、時々不在であっても、商売柄いたし方のないことと見なされるでしょう。さらに、前もって安宝石類でも詰めこんでおいた鞄でも持っていれば――彼は犠牲者の衣類と錘り、それに鈍器は捨てて、行商人の身なりをしていたのです――どう見たって行商人です。そう、彼は変名を印刷した注文用紙に、以前時々泊って知っている下宿の住所まで用意していました。ニクソンに化けたのなら、ウッドが新しい鞄を買ったことも説明がつきます。と言うのは、行商人としては、ウッドのものだとすぐに分かってしまうような古い鞄をさげては船を降りられませんからね。このトリックを成功させるために、彼は古い鞄の柄を壊すという念の入れ方なのです。警察の足止めを喰う前に船を降りられなかったらという不慮の場合にそなえていたとは、まったく手ぬかりがなかったと言わねばなりません。むろん、警察の追手がかかる前に船を降りられるかどうかは、彼にだって予測できませんし、それを計画に入れないでおくという危険も冒せませんからね」
「レーンさん」サムが小声で言った。「私はカブトを脱ぎましたよ。実を言いますと、最初のうち、私は、あなたなど時代おくれの人間で、はったりを言ってるんだと思ってました。しかし、これは――人間わざじゃありません!」
ブルーノは薄い唇をなめた。「私も同感だね、警部。事件の全貌を知っていながら、今でも私には、レーンさんがどうして第三の殺人事件を解決する手がかりを得られたのか分かりません」
レーンは一方の白い手をあげた。彼は声をあげて笑った。「お二人とも、先廻りしては困りますね。第三の殺人事件と言われましたが――まだ第二が終っていないのですからね!
つまり次のことを考えてみました。ウッドはやはりただの共犯なのか、それとも殺人犯なのか? 渡船上の死体がウッドではないと分かるまでは前者と思っていたのですが、今や振子は後者に戻ったのです。
ウッドがロングストリートを殺したという再生した推理には、はっきりした心理上の理由が三つありました。
第一は、ウッドは正体不明の男を殺害するために、五年も前からその男の特徴を自分の身につけていた――これは明らかに、計画的な殺人者の行為で、単なる手先のすることではない。
第二は、警察に手紙を出し、ウッドの自己抹殺に導くための計画的な偽装は、手先のすることではなく、犯人自身の計画であることを示す。
第三は、すべての事件や状況や偽装は、明らかにウッドの安全が保証されるように計画されている――これも共犯者でなく、むしろ中心人物の計画的行為であるはず。
いずれにせよ、第二の殺害事件の完了時の状況はこうだったのです。ロングストリートと、正体不明の男の殺害犯人ウッドは、自分も殺されたように見せかける巧妙な手段で、事件から己を抹殺し、この偽装殺人にジョン・デウィットを巧みに巻きこんだ後、自分は未だ生きていたのです」
ドルリー・レーンは立って、煖炉棚のそばの呼鈴の紐を引いた。フォルスタッフが部屋に現われると、熱いコーヒーのお代りを持って来るように言いつけた。レーンはふたたび腰を下ろした。「さて、次に出てくる疑問は当然こういうことです――なぜウッドはデウィットを渡し船におびき寄せてから、葉巻で彼にぬれぎぬをきせたのか?――ウッドがたくらんだ以上、デウィットを船におびき出したのは彼の仕業ですからね。その理由は、デウィットのロングストリートに対する強い殺害動機を利用して、デウィットを警察に最もあやしませるためか、あるいは――ここが重要なところですが――ウッドのロングストリートに対する殺害動機がデウィットに対してもあてはまるからか、そのいずれかです。
後者の場合、もし陰謀が成功し、デウィットが逮捕され、裁判の結果が無罪となれば、犯人はデウィットを襲って最初の計画を成し遂げようとするにちがいない。これが」と言ってレーンは、フォルスタッフのずんぐりした手からお代りのコーヒーを受け取り、二人の客にもすすめた。「これが、デウィットの無罪を知りながらも、彼が起訴されるのを私が黙認した理由です。法律によって有罪になる危険性にある限り、デウィットはウッドに襲われる身の危険からは守られるわけですからね。さぞかし私のおかしな態度に、あなたがたは当惑されたでしょう。実際のところ逆説的な処置ですからね。デウィットをある危険におとしこむことによって、私はもう一つの、さらに確実な危険を辛うじて防止していたのです。と同時に、私も休息し、その間にじっくりと熟考して、真犯人逮捕に導く証拠を見つけ出したかったのです。むろんウッドが、どんな人物に化けているかなど、私には少しも分かっていませんでした……。それに、もう一つ有利なこともありました。と言いますのは、デウィットが苦悩の果てに――なにせ、生命にかかわる裁判ですからね――彼の胸に秘めているにちがいない事実を、ウッドと名乗る人物、そして依然として謎につつまれている動機に必ずや関係のある事実を、もらすかもしれない、ということでした。
ところがデウィットの公判が不利に進行し、彼の生命をおびやかすようになって来ては、私の方は以前より少しも進展していなかったのですが、ここでデウィットの負傷した指に関する論議を持ち出さざるを得なくなりました。一言お断りしておきますが、デウィットの指の負傷に関する事実を知らなかったら、決して私はあなたがたに彼を起訴させはしませんでした。ブルーノさん、あなたが頑固者だったら、私は知っていることをすべてしゃべらされていたでしょうね。
釈放と同時に、時を移さずデウィットの身の危険を考慮に入れねばならなくなりました」レーンの顔は曇り、声が濁った。「あの晩以来、デウィットの死に私は責任がないのだと、何度も何度も自分に言い聞かせようとしました。むろん注意は決して怠らなかった。ですからウェスト・エングルウッドのデウィット邸にも即座に彼と同行することを承諾し、その晩は泊るつもりでさえいたのです。あれほど完全にしてやられるとは毛頭思いませんでした。ま、釈明するなら、まさか釈放されたその晩にウッドがデウィットを襲うとは予期もしていなかった、と申し上げるべきでしょう。とにかくウッドがどんな姿でどこに現われるか分からなかったのですから、デウィットを殺す機会を捕まえるには数週間、数か月はかかるものと考えてました。ところがウッドは想像以上に機会主義者だった。デウィット釈放の最初の晩に機会を見つけて、それを掴みました。ウッドは私より頭がよかった、完全に予期していないことをやってのけたのです。コリンズが彼に近づいた時は、私は何も不審を抱かなかった。ウッドでないと分かっていたからです」――彼の輝やく眼に自責のいろがただよった――「この事件では、実際、私には勝利を誇ることなどできません。鋭さが欠けていた。犯人の隠れた能力を嗅ぎ分ける敏感さが充分はたらいていなかった。やはり私は素人探偵のようです。仮りに別の捜査に当る機会があるとしても……」彼は嘆息して先をつづけた。「あの晩、デウィットの招待に黙って応じたもう一つの理由は、デウィットが翌朝、私に重要なことを明かすと約束したからです。その時こう思いました――今でもはっきりそう思っていますが――とうとう過去の秘密を打明けるつもりなのだと。ストープスがあなたがたに自白した過去の因縁をです。デウィットの南米の客人を調べていた時に――警部さん、この客人については耳にしたこともないでしょう!――とにかくその時に私はいきさつを知ったのです。この調査でアホスというウルグアイの領事に会うことになり……」
ブルーノとサムはあっけにとられて彼を見つめた。「南米の客人? ウルグアイの領事?」サムは早口に言った。「聞いたこともない!」
「今はそのことには触れないでおきましょう、警部さん」レーンが言った。「実際のところ、ウッドが正体を変えてまだ生きているという重大な発見の結果、ウッドが単なる共犯者だという予想から、長年の計画であった一連の複雑な犯罪を、想像も及ばない、大胆な、ほとんど非の打ちどころのない方法でやってのけるりっぱな殺人犯だと考えるようになったのです。この点に確信を持ちながらも、一方では、どこに彼を探し出すべきか、まったく分からなかったのです。チャールズ・ウッドとしてのチャールズ・ウッドが、地球の表面から消えたことは分かっている、だが次にどんな人物に化けて現われ出るか、むやみと臆測するだけしかなかったのです。しかし彼が現われることには確信がありましたし、私はそれを待っていたのです。
それが、われわれを第三の殺人事件に導いたのです」
レーンは湯気の立つコーヒーをおいしそうにのんだ。「デウィットの殺害が急激だったことは、他の要素とも関連して、この殺害もまた計画的なものだったこと――前の二つの殺人とおそらく同時に計画されたことをはっきり表わしています。
デウィット殺害の私の解決の鍵は、九分九厘まで、あの晩、西岸線の待合室で列車を待っていた時に、デウィットがアハーン、ブルックス、それに私のいる前で、五十回綴の新しい回数券を買ったという事実にあったのです。あのとき、デウィットが回数券を買わなかったら、この事件を満足な大団円に果して持ちこめたかどうか分かりません。と言うのは、ロングストリートの殺害犯人の正体を知ってはいましたが、ストープスがどんな変装でデウィットを殺しにくるか、絶対に分からなかったからです。
なんといっても大事な点は、デウィットが持っていた回数券の入れ場所です。駅で、彼はその回数券を、一行の分として買った片道乗車券と一緒に、チョッキの左上のポケットに入れました。その後、コリンズが来て一緒に問題の後部車輛に出て行く時、彼はやはり左上のチョッキのポケットからみんなの片道切符を取り出し、アハーンにそれを渡しました。新しい回数券は、もとのチョッキのポケットから動かさなかったのを私は見て知っています。ところがデウィットの死体を、こちらの警部さんが調べられた時、その回数券はもうチョッキの左上のポケットにはなく、上着の内ポケットに移動しているのに気づいて、私は目を見はったものです!」レーンは悲しげに笑った。「デウィットは心臓を射ち貫かれていました。弾は上着の左側、チョッキの左上ポケット、Yシャツ、下着と貫きました。結論はいたって簡単。彼が射たれた時には、回数券はチョッキの左上のポケットにはなかった、ということです。そこに入っていたら、弾孔があいているはずなのに、回数券には穴はおろか、カスリ傷さえなかったのです。
私はすぐに自問しました。デウィットが射たれる前に、一方から他方のポケットに回数券が移動していたのはどういうことか?
ひとつ、死体の状態を思い出してください。デウィットの左手は、中指と人差指が重なって何かの印を作っていましたね。デウィットは即死だとシリング医師が断定している限り、重ねられた指は次の三つの重要な点を明らかにしています。第一に、デウィットは射たれる前に指印を作った――死の苦しみはなかった。第二は、彼は右利きで、指印は左手だった。故に彼の右手は印を作ろうとした時にはふさがっていた。第三は、苦労してこんな印を作ったのだから、何らかの点で犯人と関係のあるはっきりした目的があったはず。
さて、この第三の点をよく考えてみましょう。もしデウィットが迷信家なら、この指印は魔除けの印で、殺されると知って、本能的に迷信家の魔除けのまじないをしたのかもしれません。しかし、デウィットがこれっぽっちも迷信家でないことは分かっています。するとこの指印は故意に作ったもので、自分自身ではなく犯人と関係があるにちがいない。これは明らかにデウィットがコリンズと出て行く直前に、彼とブルックス、アハーン、私の四人が話しあっていたことの結果だったのです。その話というのは、死に直面した人間が、最後の瞬間に何を考えるかということで、私が、ある被害者が殺される寸前に、犯人の正体に手がかりとなるものを残した、という話をしたのです。それで私は、デウィットが哀れにもこのことをはっと想い出して、私に――われわれにと申しましょう――犯人の正体を示す印を残したのだと、こう確信を抱いたのです」
ブルーノが得意そうな顔をした。サム警部が昂奮して言った。「ブルーノと私が考えたとおりだ!」それから下を向いた。「しかし、それにしても……一体どうしてそれがウッドを指すのですか? やつは迷信家ですか?」
「警部さん、デウィットの印は、迷信という意味ではウッドもストープスも指してはいませんよ」と、レーンが答えた。「実のところ、指印をそう解釈する気など、私には毛頭ありませんでした。あまりにも作り話めいています。が、何を意味するのか、その時には分からなかったのです。事実、犯人とデウィットの指印の関係――お恥かしいことに、はなっから火を見るよりもあきらかだったはずなのに――その関係を結びつけるよりも、事件を完全に解こうという気持ちが先に立ってしまって……。
とにかく、重ねた指の唯一つの妥当な解釈としては、犯人の正体を何らかの形で暗示しているということです。とすると、犯人の正体への手がかりを残したということは、デウィットが犯人を知っていた、その人物に関する暗示を残せるくらいに加害者について充分知っていたということになります。
この問題から、さらに強力な推理が引き出せました。と言うのは、指印の意味が何であるにせよ、それが左手だったということは、右手が、ふつう何にでも使う右手が、さき程も申したように、殺害される直前に塞がっていたことになるからです。一体どうして塞がっていたのか?格闘の形跡はない。右手で犯人を防いだのかもしれない、しかし、そうしながら同時に左手で指印を、かなり努力しないとできないような指印を作るなどとは考えられない。そこで、もっとうまい解釈はないかと、自問してみました。右手の塞がる説明になるようなものが、身体のどこかにないか? それがあったのです!――回数券が一方から他方に移動していたではありませんか。
そこで早速、その可能性をいろいろ考えてみました。たとえばデウィットが自分の手で、死亡前に回数券を動かした、これは考えられ得ることです――ということは、回数券の移動は、犯罪それ自体と無関係だというわけです。しかし、これでは殺害された時に右手が塞がっていたことの説明にはならない。そこで、殺害された時に回数券を動かしたという推理を立ててみると、ふさがっていた右手の説明も、ふつうなら右手でする指印を左手でやったわけも、一挙に解決できます。これなら想像力にたけた論理で、あらゆる事実にあてはまるではありませんか。有望な推理ですから、さらに検討を重ねました。その結果は?
その一つとして、こういう推論が出て来ました。殺された時にデウィットの手に回数券があったのは何故か? ただ一つの説明として――彼はそれを使おうとしていた、ということです。ところで、コリンズがデウィットと喧嘩別れをするまでに、車掌は検札に来なかったという事実があります。あの晩、あなたがたがアパートで逮捕した時、コリンズはパンチの入っていない切符をまだ持っていましたね。車掌が検札していれば、コリンズの切符は車掌の手に渡っていたはずです。したがって、デウィットが暗い車輛に入った時は、彼も車掌の検札をうけていなかったことになります。もちろん、このことは、あの晩、列車では分かりませんでした。コリンズが切符を持っていたということは、警部さん、あなたが彼を逮捕して初めて分かったことです。ただ私の推理を進めて行く上で、後になって確証されたこの仮説を立ててみたのです。
「デウィットが暗い車輛に入る前には車掌の検札を受けていなかった、という仮説、後に事実となったことですが、これに焦点を絞ってみますと、彼が死の直前に回数券を取り出して、右手に持ったという私の推定した彼のこの行動を、最も自然に説明してくれるものは何か? これは簡単です。車掌が来たのです。しかし車掌は二人ともデウィットの検札は|しなかった《ヽヽヽヽヽ》と言っている。すると私の推論は間違っていたのでしょうか? 必ずしもそうとは言えない。|もし二人の車掌のうちの一人が犯人で《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|デウィットの検札に来たのなら《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|そして自分が犯人である故に嘘をついたのなら《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》」
ブルーノとサムは緊張して前に乗り出し、抑揚自在な豊かな声がレーンの唇から静かに流れて、その驚くべき分析に、魅せられていた。「この推論は、これまでに分かった事実すべてと矛盾しないか? 矛盾はしませんでした。
第一、指印が左手で作られた理由を説明している。
第二、右手がなぜ塞がっていて、何を持っていたかを説明している。
第三、デウィットの切符にパンチが入っていない理由を説明している。もし車掌が犯人で、デウィットを殺害した後で、手に回数券のあるのを見たら、パンチを入れることはできません。パンチのマークを残せば、生前にデウィットを見た最後の人物という確たる証拠となり、そのために罪が発覚するか、あるいは少なくも殺人事件の参考人として取り調べを受けて――どんな計画的な犯人にとっても望ましくない事態に当然なりますから。
第四、回数券がなぜ胸の内ポケットにあったかを説明している。車掌が犯人なら、検札のパンチを入れられないのと同様、デウィットの手に切符を残して、警察に見つけられるような真似はできません。――即死体の手に回数券があるというのは、デウィットが車掌の検札に気づいて、その直後に殺されたという、絶対に隠しておかなければならない事実を示すことになります。一方、車掌の方も回数券を取り上げるわけにはいきません。表紙に日付けのついた新しい回数券ですから、その夜買うのを誰かが見ていて、それが失くなっているということになると、警察にたやすく『切符――車掌』というように心理的に結びつけられ、犯人にとっては危険になります。車掌の最善の策は、自分自身と、それに疑がわしきものを完全に現場から消しておくことです。
では――回数券を取りあげることが車掌の最も安全な策ではないなら、デウィットの身体に回数券を残しておくのにどういう方法をとるでしょうか? デウィットのポケットに戻す――なるほど、では、どのポケットに? そう、デウィットがいつもどこへ回数券を入れておくか知っているか、もし知らなければ、入れそうなポケットを探すでしょう。そして、上着の内ポケットに古い期限の切れた回数券のあるのを見つけたら、そこに古いのと一緒に入れるのが当り前ではないでしょうか? たとえデウィットがチョッキのポケットに新しい方を入れていたのを知っていたとしても、|そのポケットに戻したりはできない《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。チョッキのポケットは、すでにデウィットの身体を抜けた弾の路と一直線につながっている。弾孔のないまま回数券をチョッキのポケットに戻せば、犯行後に入れたことが明らかになる。こういう警察の結論は車掌としてはやはり避けたい。
第五、第四の帰結として――この推論はやはり回数券になぜ弾孔がないかを説明している。車掌が回数券にもう一発射ち込んだところで、最初の弾で射ち抜いた穴と正確に一致させることは不可能です。その上、二発目の銃声を聞きつけられる危険もある。また二発目の弾が車内のどこかにめり込んで、後で見つかることもある。あげくの果ては、そんな処置は面倒で、廻りくどくて、時間の浪費で、考えてみても馬鹿馬鹿しいことだ。併せ考えた上で、彼は最も自然な、最も安全と思われる方法をとったのです」
「ここまでは」ドルリー・レーンはつづけた。「この推理はあらゆる点と照合します。それなら、犯人が列車の車掌だという確証は、あるだろうか? 非常にすばらしい心理的確証があります。列車の車掌というものは元来人目につきません。つまり、どこにいても不思議はないのですし、咎め立てたり、その行動を記憶しておく理由は誰にもありません。われわれ一行の誰かの動きは見たり、ある場合には見られたりもしますが、――車掌は、現にやったように、車輛を通って、誰の目にもとめられず、痕跡も残さずに、うす暗い車内にだって入れます。事実、私は気がつきませんでした。警戒はしていたのですが。彼は、コリンズが降りた後で、あの暗い車輛に、私のそばを通って行ったにちがいない。しかし今でも私には、彼が通って行った記憶がないのです。
もう一つの確証。兇器が見えなくなり、結局は発見されたこと。兇器は列車内には見つからず――犯行五分後に列車が渡った川で発見されました。犯行後、五分待ってからピストルを捨てたのは単なる偶然でしょうか――線路沿いの川の中にまったく偶然に落ちたというのも、文字どおり偶然なのでしょうか? 犯人にとっては、犯行後すぐに列車から捨ててしまう方がずっと安全なのに、彼は待った――なぜか?
闇夜であるにもかかわらず、川の正確な位置――列車から兇器を投げ捨てるに絶好の場所――を知っているということは、発車後五分待って川の位置を知っていた、その兇器を投げ捨てた者がその辺の土地に非常に詳しいにちがいないということです。列車に乗っている者の中で、いったい誰がそれほどに精通しているのか? 毎夜、同じ時刻に、同じ場所を通る、列車の乗務員です。機関士、制動手、車掌……。むろん車掌です! 純粋に心理的推理にすぎませんが、車掌だというこれ以上の確証はないのです。
さらにもう一つの確証。もっとも強力で、はっきりと犯人を指摘しています。しかしそれは少し後にしましょう。
事件当座、当然ながら私は兇器に関する推理を逆から考えてみました。私は自問しました。もし私が犯人の車掌だったら、ピストルの処分をどうするだろう? 発見される機会を最少限にするには? 線路ぎわとか路床では――たちまち発見されてしまう。警察が真っ先に捜査するにきまっているから、そんなところは駄目です。しかし線路沿いに、自然の隠し場所がある。兇器を処分できるばかりか、自然の力でちゃんと隠してくれる場所が。そうだ、川だ!……私は鉄道の地図を調べて、捨てられる可能性のある範囲内の川という川に目星をつけ、兇器の発見に成功したのです」
レーンの語調はいきいきとしてきた。「さて、二人の車掌のどちらが犯人か――トムソンかボトムリーか? 列車の後部がトムソンの受持ちだという事実を除けば、どちらがやったというはっきりした証拠がありません。
ああ、しかし待ってください! 私は車掌を第三の事件の犯人と推定しましたが、第一の事件の犯人も車掌でした。両方の車掌がまったく同一の人物ということ――即ちウッドだということがあり得ましょうか。あります。大いに可能性があります。ロングストリート、渡船上の身元不明の男、そしてデウィットは疑いもなく同じ人物の手にかかったのです。
しかし、ウッドの身体的特徴は? 赤い髪と脚の傷は――髪は楽に細工が施せますし、傷痕の方も問題なく偽物ですから、この二つは別にして、――ウッドはすくなくとも背が高く、逞しい男でした。年をとった方の車掌ボトムリーは小柄で弱々しかった。トムソンの方は背が高く逞しかった。したがって、トムソンがわれわれの求めている人物なのです。
ついに私は、次の点に達しました。デウィットはトムソンに殺された。そしてトムソンは間違いなくチャールズ・ウッドだったのです。
しかし、このウッド=トムソンという人物は一体だれか? 明らかに三つの殺人事件はすべて同一の動機によるもので、その動機の発生は最低五年、おそらくそれ以前のものです。で、次に打つべき手は火を見るよりも明らかです――デウィット、ロングストリート両人の過去を洗って、この二人の死を望み、その目的のために数年の計画を立てるに充分な動機を持つ人間を、なんとしてでも探し出すことです。
もういまはストープスが何者であるか、あなたがたには分かっている。しかし当時は、過去のことについて、私はまるで知る由もなかったのです。私はデウィットの執事ジョーゲンズにあたってみて、少し以前にデウィットの家に泊っていた南米人の見知らぬ客のことをきき出しました――ここで私は、捜査のトップを切ったのですよ、警部さん、あなたは私にだし抜かれたことを認めなくてはね……。これは有力な手がかりになるぞ、と思い、私はひそかに南米各国の領事を探り、遂に、ウルグアイからニューヨークに来ている領事のホアン・アホスから話を聞き出しました。この話も今はもう説明するまでもありませんね。しかし私は初めて、ロングストリート、デウィットと他の二人の男との関係を知ったのです――他の二人というのは脱獄囚マーチン・ストープスと、デウィット・ロングストリート商会の蔭の第三の共同経営者であるウィリアム・クロケットです。動機は明らかに――復讐です。仲間の三人全部の命を同様に狙っていたのです。そこでストープスが車掌であると結論し、クロケットは渡船上で殺された男――ストープスが五年間かかって、赤髪と脛の傷を真似て殺害の準備をしていた男だと、私はにらんだのです。ですからクロケットが死体となって発見された時、身体が押しつぶされて、赤毛と脚の傷痕の他に確認すべき点がなかったので、ウッドと認められたわけです。
アホスから話を聞くずっと以前、死体がウッドではないとにらんだ末に、私が失踪人名簿を見せていただいたのは、ウッドが身元不明の人間を殺したのだから、その名簿に身元不明の人間の手がかりがつかめるかもしれないと思ったからです。しかしアホスの話を聞いてから、私はその身元不明の男がクロケットだと知りました。身元不明の人間が他の犯罪と無関係の単なる人間の道具になり、身体だけ利用されるということはあり得ないことです。それにウッドは少なくも五年かかって、その男の傷と頭髪を真似て準備していたのですから。クロケットがどうしてストープスにおびき出されて殺されたかは、今もって私には分かりません。ストープスはこのことを話しましたか、ブルーノさん?」
「はい」地方検事がしわがれ声で言った。「ストープスはクロケットに自分の筆蹟を知られたくないという特別の理由で、クロケットには脅迫状は一度も書いたことがないというのです。通信する時はデウィット・ロングストリート商会の解雇された会計係と偽っていました。そして、年に二度、二人の共同経営者からクロケット宛に送られる多額の小切手に、商会収益の三分の一の分け前をもらえるはずなのにひどいごまかしがあると、書いてやったのです。はじめ三人で合衆国に帰って来た時、クロケットは二人が何かで成功したら、何でもいいからその分け前をくれと言い張ったのです。クロケットは向う見ずで、残忍で、無責任な男だったので、ウルグアイでの陰謀をしゃべられるよりはということで、ロングストリートとデウィットは、商売を始めるに当って、彼にもその資本金の三分の一を投資させることにし、利益の三分の一を渡すことに同意したのです。これまでにロングストリートが再三約束を破ろうとするのをデウィットが押しとどめてきたらしいのですが、ともかく、この会計係は、ごまかしの証拠を握っている、ニューヨークに出て来るならその証拠を譲ってやってもいい、と手紙に書いて、その中で何か不吉なことを匂わせたのです――二人の仲間がウルグアイの殺人事件をあばいて、彼を警察に引き渡すことを企んでいる、というようなことを、クロケットにすっかり信じこませたのですね。そして、ニューヨークに着いたら『タイムズ』の個人通信欄に気をつけるようにと、ストープスは書きそえました、クロケットはこの話にまんまとひっかかり、怒りと同時に心配でニューヨークに出て来て、『タイムズ』の通信欄を見たのです。――ホテルをそっとひきはらい、十時四十分のウィーホーケン行きの渡船上の北側上甲板で、人目につかないように会う、というわけです。殺害はむろんそこで行なわれました」
「いや、それだけでなく」サム警部が口を入れた。「奸智にたけたストープスは、デウィットをだましたいきさつも話しましたよ。クロケットになりすまして、あの水曜日の朝、デウィットに電話したのはストープスだったのです。緊急の用があるからと脅迫めいた電話をし、あの晩十時四十分に渡船上の下甲板に来るよう命令したのです。人に見られないよう注意しろと言い、デウィットとクロケットが顔を合わすチャンスを最小限に喰い止めようとしたわけです。なに、クロケットにも同じように警告してあるのですからね」
「なるほど、そうだったのか」レーンがつぶやいた。「それで、デウィットは誰と約束があるのか言わなかったのですね。相手がクロケットですから、ウルグアイ当時の陰惨な秘密をぶちまかれることを恐れて、相手の名を打ち明けるわけにいかなかったのでしょう。それにストープスはデウィットの口のかたいのを知っていたのですから――こころ憎いほどです」
「実のところ」レーンは考え深げにつづけた。「私はこのストープスなる男の驚くべき多才と大胆さにすっかり舌を巻いているのです。衝動的な、極度に感情的ないわば激情的犯罪ではなく、長年の苦悶から鋼鉄のような動機によって行なわれた、冷静に計算された犯罪です。この男は偉大な人物になる素質を持っています。第二の事件で彼がしなければならなかったことを考えてもごろうじろ。彼はウッドとして上甲板でクロケットに会い、あの小部屋近くに誘いこんで、鞄から取り出した鈍器でなぐりつける。服を着替え、クロケットに自分のを着せ、自分は鞄に持っていた新調の服――行商人ニクソン用の――を身にまとう。クロケット自身の服は鞄から錘を取り出して船外に投げ捨てる。モホーク号がウィーホーケン桟橋に着く頃を見はからって、意識を失ったクロケットの身体を船外に投げ、杭と船体にはさまれてつぶされてしまうように計らう。それから注意して、ニクソンになりすまして下甲板に急ぎ、『人が落ちた!』という騒ぎにまぎれこむ。こういうことは度胸のある、よほど頭のいい、計画の練れる者にしかできないことです。もちろん服を着替えるという危険きわまりない仕事も、殺害するために河を往ったり来たり四回もしていて、最初の三回でクロケットを気絶させ、服をとり替え、クロケットの服の仕末をしたりしている事実から考えれば、わりあい簡単だったのです。それに夜も更けて暗く霧がかかっていたという事実、四十二番街――ウィーホーケン間の渡し船は乗っている時間が短いので、乗客はめったに上甲板に上がらないという事実、ストープスは必要とあれば八回乗ってでもゆっくりと仕事にかかれたこと、警察はいつまでもウィーホーケン側で待っていたでしょうから、こういった事実から判断してもね」
レーンは顔を歪めると、喉に手をやった。「めっきり調子が悪くなったようです。昔なら、何時間もたてつづけに台詞を喋りつづけたところで、何でもなかったのですが……推理をつづけましょう」レーンは簡単に、デウィット殺害の夜、数か月前にデウィットに送ったストープスの脅迫状の一つをウェスト・エングルウッドのデウィット邸の金庫の中で発見したことを語った。レーンはその手紙を出して、二人の客に渡して見せた。
「むろん」とレーンは言った。「これが見つかる以前に事件はすでに解決していましたから、たとえ見つからなくても、私はやはり結論に達していました。と言うのも、すでにウッドとトムソンが同一人物だと分かっていましたからね。
しかしこの手紙は法律的見地からは重要なものでした。一目見ただけで、ストープスの筆蹟がウッドのものと同じだと分かりました。ウッドのは電車の身分証明書のサインで覚えていたものですから。筆蹟が同一だという事実は推理の解決には必要はなかったと、繰り返し申しあげねばなりません。単に法律上の確証にすぎないのです。
だが、ここで私は、自分の結論を検察側がどう取り上げるかという問題に直面しました。ウッドとストープスとトムソンが同一人物と知ることはできても、それを法廷で証明するとなると別問題です。そこでホアン・アホスに頼んで、本国からストープスの指紋の電送写真を受け取りました。トムソンが逮捕された時、警部さん、彼の指紋を取るようにまず最初にお願いしましたね。あなたは指紋を取り、トムソンの指紋がストープスの電送写真とぴったり一致しました。これでトムソンがストープスだという法律上の証拠が得られ、筆蹟からウッドがストープスだと分かりました。で、初等数学の理論にしたがって、トムソンがウッドであることも分かり、事件が解決したのです」
レーンはあらたに力をふるいおこして先をつづけた。「しかしながら、いくつか曖昧なところが残っていました。ストープスはどうやって三人の人物――ウッド、ニクソン、トムソン――を肉体的に使い分けていたのか? 実を言いますと、この点はいまでも分かりません」
「ストープスはその点も自白しました」地方検事が言った。「まず、思ったほど難しくないようです。ウッドとして午後二時半から十時半まで勤め、それがすんでから、トムソンとして夜中の十二時から午前一時四十分まで鉄道の短時間交替勤務という特別の仕事に当っていたのです。ウッドとして、服を着替え、トムソンに変装して、列車の勤務に間に合うように、彼はウィーホーケンに住み、またトムソンとして、自分の勤務する列車の終着駅ウェスト・ハーバーストローに住み、そこで夜を過して、翌朝のおそい列車で、ウッドとしてウィーホーケンの下宿に戻って来るのです。ニクソンの方はたまにやることで、めったになりません。渡し船の殺人の夜に関して言えば、ストープスがあの夜を選んだのは、トムソンとしての勤務がなかったからです! なんと簡単じゃありませんか!……ついでながら、その変装もそう驚くほど複雑ではなかったようです。ご存じのように、彼は禿げています。で、ウッドに変装する場合、彼は赤いかつらを被ったのです。トムソンとしては本当の自分の地でいったわけです。ウッドになる時に多少、あちこち手を入れて……お分かりでしょう、簡単ですよ。ニクソンになる時は時間が充分あり、好きなようにできました。いまも言いましたように、ニクソンにはめったになりませんでしたからね」
「ストープスは」レーンが不審そうに尋ねた。「デウィットにぬれぎぬを着せるために、クロケットの服に入れた葉巻を、どうして手に入れたか話しましたか?」
「あいつは」サムが唸った。「何もかも説明しましたよ。分かっていないのは、あなたがどうしてこの難事件を解決なさったかということだけです。ロングストリートを殺害する少し前に、デウィットからあの葉巻をもらったそうです――列車車掌のトムソンに化けていたときですよ、成金連中がよくやることで、べつに意味はないようです――ただ車掌なんかにポイッとくれてやるだけです。一ドルもする葉巻をね。ストープスはそいつを吸わずにとっておいたのです」
「むろん」ブルーノがつけ加えた。「ストープスにも説明できないことがかなりたくさんあります。たとえば、ロングストリートとデウィットの間の絶え間ない争いの原因などですが」
「それは簡単に説明がつくように思うのですが」レーンが言った。「道徳的には一つの大きな汚点があるというものの、やっぱりデウィットはりっぱな男です。若い頃、おそらくロングストリートに頭を抑えられ、強制されて加わったストープスへの陰謀を悔いるようになった。デウィットは仕事の上でも交際の上でも、何とかしてロングストリートと手を切ろうと努めたことでしょう。ところがロングストリートの方は、おそらくサディスティックな心理みたいなものがあって、おまけにデウィットと組んで商売していればかならず儲かるということも手伝って、デウィットにくいついて離れず、ウルグアイ時代の旧悪をたえず盾にとっていたわけです。また父親の眼に入れてもいたくない娘のジャンヌに昔の秘密をばらしてしまうと、脅したということも分かるような気がします。ともかくこれで二人の反目の説明になると思います。デウィットはロングストリートの馬鹿げた遊興の資金を融通し、しかもロングストリートのあからさまの侮辱を黙ってうけていたのですからね」
「そうらしいですな」ブルーノが言った。
「クロケットについては」とレーンがつづけた。「ストープスの犯罪計画を考えてみれば自明です。ストープスの妻を殺したのは、あきらかにクロケットです。ストープスは、三人の中で、クロケットに最も残忍な死の手段をとりました。クロケットの顔を滅茶滅茶にしてしまったのは、死体を自分と思わせる、つまりウッドと思わせる必要もあったことは事実ですが」
「レーンさん、覚えておいででしょうか」サムが考えこんで言った。「このハムレット荘に電送写真が届いた時のことを? マーチン・ストープスの名前を、あの時、初めて耳にし、一体だれなのかと、あなたにうかがいました。するとあなたは、マーチン・ストープスは、ロングストリート、ウッド、デウィットを消した責任者だとか、そういうことを言われましたよ。あの時、ウッドを一枚加えたのは、私をまよわすおつもりだったのですか? ストープスがウッドなんですから、どだい、ウッドを殺せるはずがないじゃありませんか?」
レーンはクスッと笑った。「警部さん、なにも私はストープスがウッドを殺したなどと申しませんでしたよ。ウッドを地上から消した責任者だと云ったのです。文字どおりですよ。クロケットを殺し、彼にウッドの服を着せて、彼自身の手で、この世界から永久にウッドを抹殺したのです」
三人の男は黙って考えに耽っていた。火がメラメラッと燃えあがった、ブルーノが見ると、レーンはおだやかに眼を閉じていた。ポンと、サムが腿を打った大きな音に、ブルーノが驚いた。「そうだ!」警部が大声をあげた。彼は屈んで、レーンの肩に手をやった。レーンは眼を開けた。「レーンさん、まだ話し落していることがありますよ。私にはまだ分からず、あなたも明確にされなかったことが一つあります。デウィットの指の謎です。あなたは前に、重ねた指は迷信とは関係がないとはっきり言われましたが、すると、あれは何を意味していたのですか?」
「いや、うっかりしていました」レーンがつぶやいた。「これは重大な点ですよ。警部さん、思い出させてくださって感謝します。実際、重大な点です。全事件の中で、いろいろの意味で最も奇怪な要素でした」レーンの美しい横顔が緊張し、声に活気が出た。「トムソンがデウィットを殺したと分かるまで、あの重なった指のことは私にもまったく分かりませんでした。ただ一つだけは確信があったのですが。それは、デウィットが生の最後の瞬間に、私の話を思い出して、犯人の手がかりを残そうと、あの印をわざと作ったということです。ですから、あの印は何らかの形でトムソンに関係がある。さもないと、私のせっかくの論理構造がくずれてしまいますからね。したがって、あの指印の本当の意味が解けて満足するまで、トムソンの逮捕に踏みきれなかったのです」
レーンは彼独特の動きで肘掛椅子から立ち上がった。――さっと、なめらかに、外見には筋肉を使っているとは思えないような身のこなしだった。二人は彼を見上げた。「それを説明する前に、ストープスが、デウィットの生命を奪う直前の模様をくわしく自白したかどうか知りたいのですが?」
「はあ」ブルーノが言った。「彼の自白はその点も充分に明らかです。ストープスはデウィット一行が列車に乗る瞬間から、目をつけていたようです。そうです、彼はデウィットが一人になる機会を狙っていたのです。誰にも見られずにデウィットを殺すチャンスを、必要とあらば一年でも待ったでしょう。ところが、コリンズがデウィットと後部車輛に行くのを見、コリンズが列車から飛び降りてドアから姿を消したのを見届けると、彼は絶好の機会が到来したのを知ったのです。そこで、あなたが坐っておられた車輛を通り抜け、デウィットがうす暗いあの車輛に坐っているのを、ぬかりなく見てとった上で、中に入って行きました。デウィットは顔を上げ、車掌に気づいて、本能的に回数券を取り出しました。しかし昂奮していてトムソンは、デウィットがどのポケットから回数券を取り出したか、見ていなかったのです。念願の復讐の時が来たということに激情して、トムソンはピストルを抜き出すなり、デウィットのおびえる眼の前で、マーチン・ストープスだと正体を現わしました。彼は満足そうに相手を眺め、デウィットを罵り、死を宣告した。この間、デウィットは、ストープス《トムソン》の腰から垂れている皮紐のついたニッケルのパンチを見入っていたようだ、とストープスは言ってます。デウィットは死人のように蒼白になり、身動きもせず、黙っていました(電光のような早さで、その瞬間に指印を残すことを考えていたにちがいありません)トムソンは自制を失い、激怒にかられて発射しました。昂奮の発作は、来た時と同じ早さで去り、ストープスは、デウィットの首が前にぐったりすると、その手にパンチの入っていない回数券をまだ持っていることに、気づいたのです。とっさに、それを取り上げることはできないとは思ったが、デウィットの手に残しておくわけにもいかなかった。そこでデウィットのポケットを探って、古い回数券と一緒に上着の内ポケットに入れた。デウィットが指を重ねていたことには、全然気がつかなかったと言ってます。殺害後に、この指のことが発見されたとストープスに言うと、彼は非常に驚いて、今でもわれわれと同様に、何のことか説明がつかないと首をかしげている始末です。
ま、それはともかくとして、列車がボゴタの駅に着くと、彼は暗い車輛のドアを開け、飛び降り、もう一度ドアを閉めてから、プラットホームに沿って前方に走り、前の車輛に乗ったのです。ピストルは、あなたのご説明どおり、川に捨てるつもりだったそうです。その理由もご説明のとおりでした」
「いや、ありがとう」レーンがおごそかに言った。背の高い姿が、煖炉のまだらな赤い炎を背に、黒く浮き上がった。「では指印の問題に戻りましょう。トムソンと指、指とトムソン……。いったい何の関係があるか、と私は自問してみました。
と、きわめて平凡な事実を思い出すと、突然、眼のくらむような一瞬の光の中に、このやっかいな問題への唯一の可能な答がはっきりと見えたのです……」レーンは静かにつづけた。「まるで意味もない魔除けなどという解釈は問題外として、ほかに、この重ねられた指の意味するものは? とりわけトムソンに関連して?
トムソンとの関連で、これまでいろいろとこじつけて解釈して来た方法を捨てて、まったく別の見方をとってみました。この重なった指の形そのものは何を意味しているか、その変な形に組合せた指は、ある特別の幾何学的な形に似ているのではないか? 一瞬考えて、興味のある一つの発見をしました。指を十字に重ねていることから、幾何学的図形に最も似ているのは、疑いもなくXです!」
彼はちょっと言葉をとめた。客の顔に理解の色がひろがった。サムは指を十字に重ね、強くうなずいた。
「しかしXというのは」ドルリー・レーンは声をひびかせてつづけた。「未知の性質を表わす一般のシンボルです。また私は間違いをした。デウィットが判じ物を残すはずはない!……しかし――X、X……私はそのマークを脳裡から離すことができなかった。漠然とではあるけれども、あと一歩で追いつめられるような気がする。そこで試しにXをトムソンに当ててみた。するとどうでしょう、いままで眼を覆っていたヴェールがハラリと落ちて、鉄道の乗務車掌としてのトムソンの特徴を示すものをはっきりと思い出したのです。そのものズバリ、トムソンと確証するもの――指紋同様にこの一人の男の特徴を示すものです」
ブルーノとサムは呆然として顔を見合わせた。地方検事は眉にひどくしわを寄せ、サム警部はあてもなく指を十字に重ねたりはずしたりした。彼は首をふった。「あきらめました」と吐き捨てるように言った。「やっぱりだめです。何だったのですか、レーンさん?」
だが、無言のまま、レーンはもう一度紙入れを探って、今度は印刷した細長い紙片を取り出した。それを、さもいとおしむようにじっと見つめてから、煖炉の前をひとまたぎして、ブルーノの手にその紙片をのせた。あわてた二人が、その紙片をのぞきこんだとたんに、頭をはち合わせさせた。
「車掌エドワード・トムソンが扱った複式切符のただの片券です」ドルリー・レーンがおだやかに言った。「警部さん、トムソンを逮捕する前に、われわれの分をあなたが買ってくださった時のですよ」
レーンはクルリと背を向けて煖炉に向って歩いて行き、燃えあがる薪の香をかいでいる間、サムとブルーノはその最後の証拠物に見入っていた。
その紙片の二か所――ウィーホーケンと印刷された文字と、その下のウェスト・エングルウッドの文字の横に――車掌エドワード・トムソンの十字のパンチがくっきりとついていた――X。   (完)
解説
本書『Xの悲劇』は、一九三二年、バーナビー・ロスという筆名でアメリカで刊行されたが、一九四一年に、ポケット・ブックに編入されるさい、ほぼ十年近く極秘にされていたバーナビー・ロスの正体が、はじめてあきらかにされたのである。本書の冒頭の『読者への公開状』がそれである。これを読めば、『Xの悲劇』『Yの悲劇』『Zの悲劇』『最後の悲劇』の四部作の成り立ちと、そのいきさつが、エラリイ・クイーンの大きな抱負と自信とともに、詳細に書かれている。エラリイ・クイーンの作家的略歴は、『Yの悲劇』の解説に書いたので、今回ははぶくことにする。『Xの悲劇』を読まれるひとなら、かならずや、『Yの悲劇』を読まれるであろうし、また、『Yの悲劇』の読者ならば、本書を読まずにはいられないであろうから。私には、自信をもって、そう断言できる。クイーンの、この有名な四部作は、探偵小説史上の画期的な傑作であるのみならず、本格探偵小説の円熟と豊さをみごとにしめすものである。なかでも、『Y』と『X』は、その優劣をつけがたく、読者のこのみによって、判断する以外にないであろう。
私が愛読しているものに、E・Q・M・M誌日本語版に連載中の『探偵小説風物誌』がある。筆者は英文学者の中内正利氏で、その該博な知識と豊富な体験とが、読者を充分にたのしませてくれる。昭和三十七年の同誌十月号に、中内氏は、『Xの悲劇』をテキストにして、ニューヨーク近郊の通勤列車について書かれているが、本書の読者には特に参考となると思うので、少し長くなるが、ここに引用させていただく。なお、本書の登場人物の一人デウィットは、中内氏はドウィットとされている。また、ウェスト・ショーア鉄道とあるのは、本書では西岸線となっている。
アメリカの鉄道は私企業である。わが国の郊外電鉄のようなもので、幾つもの会社があり、お互いに、鎬《しのぎ》を削って競争している。鉄道相互間の競争とは別に、近年は、バスと飛行機とに、だいぶ喰われているようである。しかし、鉄道には、また、鉄道のよさがあるので、無下《むげ》に斜陽企業とも言えない。飛行機よりも時間はかかるが、普通列車ならば、料金は飛行機より安い。バスに比べると高いけれども、その代り、バスよりも早いという中庸を得た特徴があるので、利用者は、必ずしも激減はしないようである。大きな都会に職場を持つ勤めの人は、大抵、郊外に住んでいて、いわゆる通勤列車で毎日往復しているのである。
例えばニューヨークである。
市内には大停車場が二つあるので、近郊に住む勤め人たちは、その住いの場所によって、その何れかの停車場を利用することになる。
一つは、四十二丁目とパーク街とが交叉するところに、四十二丁目に面して表玄関を持つグランド・セントラル停車場(Grand Central Terminal)であり、他の一つは、七番街に面して三十二丁目にあるペンシルベイニア停車場(Pennsylvania Station)であるが、この方はペン停車場と日常は略称されている。
ウォール街界隈からダウンタウン一帯のオフィスその他に勤めている人たちは、近郊の自宅に最寄りの駅から、通勤列車で、グランド・セントラルなり、または、ペンまで来て、そこで、地下鉄かバスに乗り換えるのである。
ニューヨークの郊外も、東の方のロング・アイランド、および、南西に当るニュージャージー州の南部方面から通って来る連中は、ペン停車場へ入って来るが、北東方面のコネティカット州や、ニューヨークの北方に住んでいる連中は、グランド・セントラル停車場へ到着するというのが定石である。
両停車場とも、列車の発着は地階のプラットフォームになっているから、停車場の中へ入って行っても、列車の姿は、全然、眼につかない。
建物の中央はコンコースになっており、その周囲には乗車券売り場、待合室、手荷物預り所などが並んでおり、その中心辺りに、案内所のブースがあり、何人かの係員が、年中忙しく旅客の応接をしている。
特に、グランド・セントラル停車場の案内所は、市民に、待合せの場所として一般によく利用されることで有名になっている。東京に例をとれば、国電渋谷駅前の忠犬ハチ公の銅像というところで、この周辺には、いつも何人かの人が、人待ち顔で、ウロウロしている。何しろ交通の中心をなしているので、どこからでも便利にやって来ることができる上に、四十二丁目のパーク街という場所柄、五番街の繁華地帯へは歩いて五分、盛り場のタイムズ・スクエアへは十分で行けるという地の利を占めていることも、その原因の一つとなっていることであろう。
会社勤めをしている人たちの、出社や退社に都合のよい時刻には、いわゆる通勤列車が何本も運転される。
エラリイ・クイーンの傑作と目されている「Xの悲劇」の中には、この通勤列車のことが少し出ているので、それを基にして、簡単に解説することにしよう。
同書の第三幕第三場の中程に、次のような叙述がある。
『だとすると、二十枚が、晩にウエスト・エングルウッドへ帰る時の切符ということになる。その二十枚のうち十三枚に、君たち二人がパンチを入れているのだ。これは十三回ということになるね。すると、彼は六時過ぎに出る通勤列車よりも、この列車の方に、よけいに乗っているわけだね』
ここにウエスト・エングルウッドとあるのは、ハドソン河沿いの、ニュージャージー州にある町で、五キロほど南東へ進めば、ジョージ・ワシントン橋に達する。橋を渡れば、ニューヨーク市で、直ぐそこには、ウエスト・サイド高速道路が、ハドソン河の左岸に沿って、マンハッタンの南端まで通じているので、自動車で来てもわけないのであるが、市内へ乗り入れるのと、駐車の問題とがあるので、彼は、列車で通勤しているのである。
列車の場合は、ウエスト・ショーア鉄道(West Shore Railroad)によることになるが、その終点は、四十二丁目からハドソン河を隔てた対岸のウイーホーケン停車場(Weehawken Terminal)ということになる。そこで 連絡船《フェリー》に乗り換えて、対岸の四十二丁目へ渡る。そこからは、この当時には、市内電車がタイムズ・スクエアの方へ走っていた。
通勤列車というのは 原文では Commuting trainとなっているのであるが、こういう列車で毎日通勤しているような人のことをCommuterと呼んでいる。これは、アメリカ英語である。
第二場の初めから見て行こう。
夜半の十二時少し前、ドウィットの一行は、ウエスト・ショーア鉄道のウイーホーケン停車場へ入って行った。裸の鉄骨が縦横に交錯した天井で、納屋を思わすような待合室である。
ここでは、停車場が terminus となっているが、同じ本書で、他の部分では terminal となっていて不統一である。恐らく、本書では、両者を差別しないで用いているらしいが、大体アメリカでは、終着駅の意では terminal の方が普通のようである。
一行の残りの四人は、ブラブラと出札口の方へ行った。ドウィットは雑誌売店の上にかかっている大時計を眺めた。針は十二時四分を指している。
待合室に、雑誌の売店(magazinestand)などのあるのは、わが国の風景と変らない。
出札口の係員に、ドウィットは『ウエスト・エングルウッド片道六枚』と言った。
片道乗車券のことは single-trip ticket である。これに対して、往復乗車券のことは、round-trip ticket という。英 国 で は、これを return ticket と呼んでいる。英米によって、同じ英語でも、呼び名が変る。鉄道そのものも、アメリカでは railroad であるが英国では railway である。
彼等の一行は、総勢七人であるのに、ドウィットは、片道乗車券を六枚しか買わなかったので、他の一人が、彼に注意をすると、
『いいんだよ。ぼくは五十枚綴りのパスを持っているんだから』
と答えている。
この五十枚綴りのパス(regular fifty-trip ticket-book)というのは、通勤者用の、一種の定期乗車券であり、五十枚の乗車券が一冊のパスに綴り込んである。乗車の都度、一枚ずつにパンチを入れるので、五十回、すなわち、二十五回の往復乗車ができるので、一カ月分ということになる。これには通用期限があるが、これは、直ぐその後で、ドウィットが、
『前のパスは、期限が切れてしまったのだよ、ぼくが留守を……』
と言っているところからでもわかる。
十二時十三分の普通列車は入っていた。一行は、鉄柵の改札口を通り抜け、コンクリートの長いプラットフォームを歩いて行った。列車の最後の一輛は真暗であった。それを通り越して、二輛目の車に乗り込んだ。
普通列車というのは、急行(express train)に対するもので、英語では local train であるが、これは、各駅に停車する列車の意味である。
鉄柵の改札口は、原文では irongrilled gateway となっているのであるが、これは、待合室のプラットフォームに通じる一方に、二、三メートルもある高い鉄柵があり、それに、各プラットフォームに応じた門が設けてある。列車の発車時刻が近づくと、その門扉が開かれ、改札係員が傍に立つ。乗車券を持っている者だけが中へ入って行ける。発車の直前に扉は閉められるので、発車したばかりの列車を、遅れた乗客が追っかけながら飛び乗るというようなことはあり得ない。遅刻した乗客は、鉄柵にすがりながら、出て行く列車を恨めしく見送るより他はない。尤も、グランド・セントラルやペン停車場のような場合には、プラットフォームは地階になっているので、鉄柵の間からでは、列車の姿さえも見えないことになる。
引用文の最後の部分の原文は、
The last car was dark, and they walked ahead, boarding the second car from the end.
となっている。
列車そのものは train なのであるが、それを構成している車輛の一つ一つは、これを car と言うのである。この car を何輛か連結して編成されておれば、その動力が電気であろうと、ディーゼルであろうと、一律に train と呼ぶ。
わが国は、どうやら、動力に基準をおいて、電車、列車、ディーゼルカーなどと区別しているかのようにも見えるが、それにしても、二輛以上連結している場合に、ディゼルカーというのは、英語の建前からすると、おかしい。カーというのは、単車の意味だからである。(エラリイ・クイーンズ・ミステリー・マガジン誌、昭和三十七年十月号、中内正利氏『探偵小説風物誌』より)
最後に、著名な探偵小説研究家ハワード・ヘイクラフトの、エラリイ・クイーンへのきわめて率直な賛辞があるので、ここにしるしておく。
『クイーンの小説は、知的な面と劇的な面とのたくみな混合で、また近代探偵小説にみられるこまかな筋の組みたて、活気ある叙述、気やすいユーモア、愉快な人物などをふくんでいる。それらは、推理小説の現代における技巧の最高峰である』(林峻一郎氏訳『探偵小説・成長と時代』より)
なお、ヘイクラフトは、同書において、エラリイ・クイーンの最高傑作として、『Xの悲劇』をあげていることを、書きそえておく。
昭和三十八年二月 訳者
訳者紹介
田村隆一《たむらりゅういち》
一九二三(大正一二年)東京に生る。明治大学文学科卒業。詩誌「新領土」「LE BAL」などを舞台に詩を発表、戦後は「荒地」の主要メンバーとして活躍した。
〔著書〕詩集「四千の日と夜」、〔訳書〕ロアルド・ダール「あなたに似た人」、アガサ・クリスティ「予告殺人」「魔術の殺人」、クロフツ「樽」、エラリイ・クイーンの四部作(「Xの悲劇」「Yの悲劇」「Zの悲劇」「最後の悲劇」)などがある。
Xの悲劇
エラリー・クイーン/田村隆一 訳
二〇〇三年一月二十日 Ver1