エラリー・クイーン/田村隆一 訳
最後の悲劇
目 次
プロローグ ヨセフのひげ
一 青い帽子の男
二 十七人の先生
三 十九人目の男
四 ロウという青年
五 ジャガードの陳列ケース
六 ご助力を
七 『情熱の巡礼』
八 親切な泥棒
九 老司書の話
十 ウィリアム・シェイクスピア登場
十一 3HS wM
十二 思案投げ首
十三 エールズ博士
十四 愛書家たちの戦い
十五 驚愕と襲撃
十六 馬蹄型の指環
十七 告発第二号
十八 喰いちがい
十九 謎の家
二十 つけひげと文字謎
二十一 ウェストチェスターの惨事
二十二 斧をふるう男
二十三 記号解読
二十四 焼失と発見
二十五 殺人
二十六 蘇生
二十七 三百年前の犯罪
二十八 ベルの手がかり
二十九 錯覚
三十 ドルリー・レーンの解決
解説
登場人物
アロンゾ・チョート……ブリタニック博物館前館長
ハムネット・セドラー……ブリタニック博物館新館長
サミュエル・サクソン……死亡した蔵書家
リディア・サクソン……その未亡人
クラブ……サクソン文庫の老司書
ゴードン・ロウ……青年学究
エールズ博士……謎の人物
マックスウェル……その老召使い
ドノヒュー……ブリタニック博物館の警備員
ジョー・ヴィラ……コソ泥
ジョージ・フィッシャー……観光バスの運転手
ボーリング……タリータウン警察署長
サム……前ニューヨーク警察本部の警部、現在は私立探偵
ペイシェンス……その娘
ドルリー・レーン……シェイクスピア役者、探偵
プロローグ ヨセフのひげ
じつに奇妙な顎《あご》ひげだった。風変りで滑稽《こっけい》なと言ってもいいくらいだった。ちょうど、フランス人の使う鋤《すき》みたいな形で、ふさふさと顎《あご》も襟《えり》もかくし、全体がなんともはや妙な具合に波うって垂れ下り、先へ行くと二つに分かれてピンととがっている。クルクルときれいに巻いたまき毛の行列は、まるでゼウスのいかめしい彫像のひげのように、どこかあどけなく、しかも威厳がある。だが、人目をそばだてるものは、じつのところ、そのするどい二叉《ふたまた》の美でも回転のリズムでもなかった、その色彩こそ、驚異中の驚異だったのだ。
まさしくそれは、ヨセフのひげ。まだら色でだんだら模様、おまけに縞《しま》がついていて、どう見ても旧約のヨセフの、あの『いろどれる衣』そっくりの色具合。黒いかと思うと青く、とたんに緑色にかわり、突然思いがけない色に映《は》えて美しかった。いたずら者の日光の仕業《しわざ》で、かくも変色したのだろうか。それとも、なにかはかり知れぬ目的で、その持ち主が実験台に身を横たえ、見事な顎ひげを薬品の壺につけたのであろうか。ともあれ、オリンポスの神々にも似つかわしいこのひげには、そんな由来があったところで、いささかも不思議ではない。これは歴史的なひげだ、とだれだって思うにちがいない、博物館に保存して、後世の人を感嘆させるだけの値打ちのあるひげだ、と。
ところでサム警部は、さきごろ、ニューヨーク警察本部を定年退職し、第一線から離れたというものの、もともとジッとしていられない性分、いち早く開業した私立探偵で、はやる血潮をなんとか抑えているといった状態だったが、なにせ四十年も警察で過ごしたものだから、およそ人類の驚異などというものには無感覚になっていたのである。ところが、そのサムが、こともあろうに、このおだやかな五月の月曜日の朝、訪ねて来た客の顎からモッソリと垂れさがっている異様なひげを目にしたとき、まずギョッとさせられ、それからうっとりと見とれてしまった、という次第なのだ。警部の経験のどこを探しても、かくも色とりどりの、繊毛《せんもう》の不思議なコレクションは見あたらなかった。いつまでもいつまでも、見つめて見あきるということがない。
「おかけなさい」やっと力のぬけた声で言いながら、サム警部は、卓上のカレンダーにチラッと目をやり、ひょっとしたら、物忘れの術にでもかかって、今日が四月馬鹿だということを忘れていたのじゃあるまいか、などと考えたほどだった。それからサムは、椅子にどっかと大きな腰をおろし、ひげ剃りのあとも青々しい角ばった自分の顎をさすりながら、驚嘆と畏敬のまなざしで、客を見つめた。
虹《にじ》ひげの男は、落着きはらって腰をおろした。長身|痩躯《そうく》、とサム警部は観察したが、それから先はどうもうまくいかない。というのは、この男の他の部分は、顎と同様、神秘のヴェールにつつまれていたからなのだ。えらく着ぶくれしていたが、厚い布を何枚も何枚も巻きつけているような感じだった。さすがに警部の熟練した眼は、手袋の口もとからちょっとのぞいた手頸の痩《や》せ具合や、脚の細さから、客が痩せているというまぎれもない徴候をよみとっていた。だが、男が青色の眼鏡をかけているために、その眼をのぞきこむことはできなかった。それに、客がサムの部屋に入るとき、あざやかな無頓着《むとんちゃく》ぶりで脱ぐのを忘れている、なんとも形容のつかぬ中折帽《フェドラ》のおかげで、男の頭のかっこうも、髪の毛の色も、うまい具合にすっぽりとおおい隠されているのだ。
おまけに男は、まるでゼウスのように、超然と沈黙を守っているのである。
サムは咳ばらいした。「で、ご用は?」彼は誘うように言った。
顎ひげが面白がっているようにゆれた。
「いったい、ご用件はどんなことなんです?」
と、突然、男はやせ細った脚をパッと組むと、手袋をした両手で、骨ばった膝《ひざ》をかかえた。
「たしかにサム警部さんでしょうな?」正体不明の人物が、さびついた声を出した。サムの顔面が、神経にさわったみたいにピクピク動いた。どうにも彫像と話しているような気がしてならない。
「たしかに私ですがね」警部が蚊の鳴くような声で言った、「で、あなたは?」
男は手をふった、「なに、そんなことはどうだっていいじゃありませんか。じつはね――その、なんと言ったらいいか――いささか妙なことをおねがいにあがったのですよ」
そりゃあ妙だろうさ、と警部は胸のなかで呟《つぶや》いた、そんな訳のわからぬ風体でやって来て、妙なおねがいをしなかったらね。サム警部の頭に、あのいつものぬけ目なさが働きはじめ、彼の目から驚きの色が消えていた。警部の手が、そっと机のかげにまわって、ちいさなレヴァーをひねった。聞こえるか聞こえないくらいのかすかなブーンという音が鳴りはじめたが、まだらひげの男はそれに気づかない様子。
「その椅子《いす》にかける方は、たいてい妙な依頼で、お見えになりますよ」警部は、快活な口調で言った。
男の、先《さき》のとがった小さな舌が、唇の周辺に密生しているひげの森から、チョロリと顔を出したが、まるで下ばえの変った色合いに怖れをなしたみたいに、大いそぎでひっこんだ。「こう申してはなんですが、警部さん、あなたのことはもう、すっかり調べさせてもらっているのですよ。その結果、とりわけ気に入ったのは、あなたが、その――つまり、ありきたりの私立探偵とはちがうという点で」
「それはもう、|うち《ヽヽ》では、できるだけ親身になってお世話するようにしております」
「いや、むろん、そうでしょうとも。ところでと、おたくは、その、ほんとうに私立《ヽヽ》探偵なんでしょうな。つまり、いまは警察とは、なんのつながりもないという意味なんですが?」サムはじっと客の顔を見つめた。「どうも私の立場としては、その点をはっきりとたしかめませんとね。おねがいしたいということは、くれぐれも秘密を守っていただかないと困るのです」
「私の口は絶対にかたいですよ」サム警部は怒ったような声で言った、「どんなに仲のいい友人にだって喋《しゃべ》るものですか、ま、その点がご心配ならね。いかがわしいことだったら別ですよ、いかさま野郎は大嫌いですからな。こう言っちゃなんですが、サム探偵事務所は、悪党とは金輪際《こんりんざい》取引きなどしないんだ」
「ああ、いやいや」虹ひげの男があわてて言った、「そんな話ではけっしてないんですよ、それは――その、ちょっと変ったことなんですがね、警部さん」
「奥さんのよろめき事件でしたら、おことわりですな、そういったことも、|うち《ヽヽ》では扱ってないんで」
「なに、家庭のもめごとではありませんよ。そんなことではなく、じつは、一言《ひとこと》で言ってしまうと――」虹ひげの男の荒い息づかいで、顎のさきの|くさむら《ヽヽヽヽ》がゆれた、「こちらで預っていただきたいものがあるのです」
「ほほう」サムはすこし身体をうごかして言った、「いったい、なにをです?」
「封筒なので」
「封筒?」警部は顔をしかめた、「なにが入っているんです?」
と、思いがけず、虹ひげの男は、断固たる態度に出た。男の唇がギュッとしまった。「それは駄目です、お話するわけにはいきません、だが、それでもさしつかえはありますまい?」
警部の冷たい灰色のまなざしが、数秒間、この奇妙な客の顔にそそがれた。しかし、青色の眼鏡の奥は、のぞきようがなかった。
「わかりました」と警部が言った。そのじつ、なにもわかってなど、いるはずがなかった。「つまりこういうわけですな、その封筒を、|うち《ヽヽ》でお預りすればいいので」
「厳重に保管していただきたいのです。私が受取りにくるまでね。ま、保護信託といったところでしょうか」
サムはあくびをもらした。
「|うち《ヽヽ》ではね、保管業務はやっておらんのですよ。どうして銀行へ行かないんです? それに、その方がずっと安あがりじゃありませんか」
「まだわかっていただけないようですね」虹ひげの男は注意深く口をひらいた、「銀行なんかでは、ぜんぜん駄目なのです。だれか信用のおける立派な方に、個人的に預ってもらわなくては困るのですよ」そう言いながら、男は警部の、肉の厚いひきしまった顔を、まじまじと見つめた。まるで、この勇猛な元警部を、ほんとうに信用していいものかどうか、もう一度、推しはかっているみたいに。
「わかりました、いや、よくわかりましたよ。では、|もの《ヽヽ》を見せていただきましょう。さ、どうぞ」
警部にうながされても、男はなおしばらく、じっとしたままだった。が、熟慮の結果、意を決したとなると、男の行動はすばやかった。手袋をはめた右手で、着ぶくれた服のひだを探ったかと思うと、たちまち、細長い大型のマニラ紙製の封筒をとり出した。サムは目をかがやかしながら、手をさし出した。封筒が、思いきりわるく、しぶしぶと、その手の中に落ちた。
どこの文房具屋でも売っているような、ごくありきたりのマニラ紙製の封筒だった。表にも裏にも、標識になるようなものは、なに一つなかった。ふたについている糊《のり》で、封がしてあるばかりか、好奇心にもろい人間性を警戒したものか、不揃いに切った白い安紙のきれはしが六枚、ベタベタと貼《は》りつけてある。
「わりにあっさりしたもんですな」警部はさりげなく封筒をひねくりまわした。その目が細まった。男は椅子に腰をおろしたまま、身じろぎ一つしない。
「中身はなんですか? まさか――」
たしかに、虹ひげの男は微笑したにちがいなかった、その証拠に、口の両端のひげが、いっせいに上方にむいたからだ。「いや、気に入りましたよ、警部さん、あなたの、そのしつこさがすっかり気に入りました。まさに噂にたがわずだ。じつにすばらしい評判ですね、あなたの用心深い態度といったら――」
「で、中身はなんです?」サムはうなるような声を出した。
その男――(いや、男だとすれば、だ。というのは、とてつもない疑念が、サムの心をかすめたからである)その男は身をのりだした。
「そうですね、では、こんなところでどうでしょう――」男は耳ざわりなささやき声で言った。「いま、警部さんが手にしている封筒の中には、ある秘密の手がかりが入っている、しかもその秘密は、きわめて重要で、まさに驚天動地、世界中のなにものであろうと、その真相のすべてを打ちあけられないようなものだ、とね」
サム警部は目をパチパチさせた。畜生! おれとしたことが、いまのいままで気がつかなかったとは! 虹色のひげ、青い眼鏡、痩身をかくすためにぼてぼてと着ぶくれした服、奇怪な挙動――なんのことはない、どう見たって、精神病院から逃げ出してきた狂人じゃないか! 手がかり、驚天動地の秘密……やれやれ、可哀想に、気がふれているんだ。
「まあ、まあ、落着きなさい、興奮することはないからね」警部はそう言いながら、いそいで、脇の下のケースに入っている小型のピストルをさぐった。ひょっとすると、この狂人、刃物をもっているかもしれんぞ!
すると、虹ひげの男は、洞穴の奥からひびいてくるような、うつろな笑いをもらして、警部をギョッとさせた。「どうやらこの私を、気ちがいだと思っていられるようですな、いや、無理もない、私の言い方が少しばかり――その、あいまいでしたからね。ただ、これだけははっきりとうけ合っておきますよ」男の、奇妙なさびついた声が、生真面目《きまじめ》な、乾いた口調に変った、「いままでお話したことは、正真正銘ありのままのこと、けっして芝居がかった脚色をしたわけではないのです。さ、ピストルに指をかけなくても大丈夫ですよ、警部さん、なにも噛みついたりはしませんからね」
サムはあわてて内ぶところから手をぬくと、まっ赤になって客をにらみつけた。
「そう、それで結構。ところでと、よく聞いてくださいよ、なにせ、時間がないし、はっきりと理解していただくことが大切なのでね。いいですか、繰りかえしますが、その封筒の中には、きわめて重大な秘密の手がかりが入っているのです、そのうえ――」男は落着いた口調でつづけた、「|数百万ドルの《ヽヽヽヽヽヽ》値打ちのある秘密なのです」
「あんたの頭が変でないとすると――」サムは怒ったように言った、「変なのはこっちだ。そのホラ話を、ちゃんとのみこませる気なら、もう少し詳しく話してくれなくちゃね。数百万ドルの値打ちのある秘密だと? このうすっぺらな封筒の中に?」
「そのとおり」
「すると、政治的な秘密でも?」
「いいや」
「石油のストライキ? それとも脅迫の|たね《ヽヽ》――ラヴ・レターでも入ってるんですか? 宝物? 宝石? さ、はっきりさせてもらいましょうか、わけのわからないものじゃ、お引受けするわけにはいきませんよ」
「なんと言われようと、お話できないのです」虹ひげの男の声には、いらだたしさがまじっていた、「そういつまでも、つまらないことにこだわらないでください。私の名誉にかけて誓うが、警部さん、この封筒の中身は、絶対にやましいものではないのです。その秘密というのも、ちゃんと筋の通った合法的なものです。いま、あなたが言われたような、俗っぽいしろものとはまったく無関係なものですよ。そんなものよりも、はるかに興味のある、またはるかに値打ちのあるものなのです。それにもう一つ、お忘れにならないでください、この封筒の中に入っているのは、秘密そのものではなく、秘密への手がかりだということをね」
「どうも、話をきいていると、こっちの頭がだんだんおかしくなってきそうですよ。どうして、なにもかも秘密にするんです? いったいなぜ、こんなものを、私に預ける気になったんです?」
「それには、立派な理由があるからです」虹ひげの男は赤い唇をすぼめた、「私は、その封筒に入っている手がかりの――そう、『本源』とでも言いましょうか、つまり、秘密そのもののことですが、これを、私は探しているのです。ご推察のとおり、その秘密は、まだ見つかっていないのです。だが、それも時間の問題で、ほんの、あと一歩というところなのですよ。成功は絶対に疑いなしです。そこで、警部さん、もし万が一にも、私の身に、なにかありましたら、あなたに、この封筒をあけていただきたいのです」
「ほう!」と警部。
「私の身になにか起こった場合、この封筒をあけてごらんになれば、私の言う、ちょっとした手がかりが見つかるはずです。ま、遠まわりのきらいもありますが、そうすれば、私、というよりも、私の運命があなたにわかっていただけるでしょう。なにも復讐といった、そんな気持ちから、こうした不慮の事故にそなえているわけではありません。その点は、あなたにわかっていただきたい。もし、この私に、万一のことがあっても、私の望みは、犯人をとらえることよりも、その秘密の|本源をまもる《ヽヽヽヽヽヽ》ことなのです。わかってくださったでしょうか?」
「いいや、まるっきり!」
虹ひげの男はホッとため息をついた。「要するにそれだけなのですよ。この封筒に入っている手がかりは、|それ自体《ヽヽヽヽ》では、ほとんど無意味なのです。もっとも、そこが、私のつけ目なんですがね。いや、それが不完全であればこそ――失礼ですが、警部さん――あなたの好奇心、あるいは、なにかの偶然で、この封筒がだれかの手に入ったような場合、その人物の好奇心から、私を守ってくれるのです。もし、私の望む時期よりも前に、あなたが開封したところで、その中身があなたにとってまったく無意味なことは、うけ合いますがね」
「もうやめてくれ!」サムは椅子から立ち上るなり、叫んだ。顔は激怒で赤黒くなっていた。「馬鹿にするのもいい加減にしろ、いったい、どこのどいつにそそのかされて、こんな気ちがいじみた悪戯《いたずら》をする気になったんだ? 一分だって無駄な時間は――」
と、そのとき、警部の卓上で、ブザーがしつこく鳴り出した。客は身じろぎ一つしなかった。サム警部は、あばれ出した腹の虫をどうにかおさえると、内線の受話器をひっつかんだ。女の声が耳にキンキンひびいた。警部は苦虫を噛みつぶしたような顔で聞きいっていたが、やがて受話器をおくと、椅子に腰をおろした。
「その先を聞こうじゃありませんか」警部は押し殺した声で言った、「さ、話をつづけてください、ご依頼の件は|のみ《ヽヽ》ましたよ、いや、釣針も糸も錘《おもり》までね。で、それから?」
「まあまあ、警部さん」虹ひげの男は、いくぶん気がかりな口調で言った、「いや、ほんとうに、なにも他意はないのですよ……話せといわれても、これで全部なので」
「そうは言わせませんよ」警部は冷酷につっぱねた、「絶対にそんなはずはない、一杯喰わされて引受けるとしたところで、けじめだけはキチンとつけておきたい。話のつづきはまだあるはずです。気ちがいじみた話にしろ、いまの話だけじゃ、かっこうがつかん」
男は、その奇妙なひげをしごいた。
「いや、ますます気に入りましたな、警部さん、たしかにそのとおり、話はまだあるのです。ぜひお約束ねがいたいのですが、この封筒は、ある場合以外は絶対に開けないこと、そして、ある場合とは――」男の言葉がとぎれた。
「その、ある場合とは?」サムがうなり声をあげた。
男は唇をなめた。「今日は五月六日ですね。今日から二週間後、つまり二十日に、私はこちらに電話をかけます。まちがいなく、その日にお電話します。そして、六月二十日にも、七月二十日にも、例のものを探し出すまで、毎月の二十日に、かならず電話をかけましょう。私が、このスケジュールどおり、電話を毎月かけつづけているかぎり、私は無事だと思ってください。つまり、まだ不慮の危険が私の身に起こっていないというわけです」男のさびた声が、急に活気づいてきた、「この状態がつづくかぎり、私が受取りにくるまで、この封筒を、あなたの金庫に保管しておいてくださればいいのです。もしまた、ひょっとして、何月《なんがつ》かの二十日の真夜中まで、私の電話がなかったら、それはおそらく私が電話をかけることのできない状態にあるということです。そのときは――そのときこそはじめて――封筒をあけて、その中身をごらんになり、その上で、あなたの適確な判断にしたがって行動していただきたいと思うのです」
サムは、頑固な気むずかしい顔をして、ふかぶかと椅子に身をしずめた。ボクサーのようなつぶれた鼻には、まるでせせら笑いでもしているような皺《しわ》がより、その内心では、断わろうか引受けようかと、好奇心と強情がぶつかりあって、火花をちらしていた。
「その秘密というやつを探《さぐ》るために、あんたはずいぶん危険な橋を渡るわけですな。すると、あんたのほかにもだれかが、その秘密を狙《ねら》っているんですね? あんたがその秘密を手に入れる前後に、そいつがあんたを消すかもしれないと思うんですな?」
「いや、とんでもない」虹ひげの男が声をはりあげた、「それは誤解ですよ、私の知るかぎり、だれひとり、その秘密を狙ってなぞいないのです。といっても、その可能性はたえずあるのですがね。どんな意図をもった、どんな人間かはわかりませんが、だれかが狙っているのかもしれないのです。ま、そういった万に一つの偶然にそなえて、私はこんな用心をしているわけですよ。それだけなのです。その可能性もごく少ないのですから、私の名前や――そのほかのことも、べつにお話したくないのです! つまりですね、もし何事も起こらなければ――事実、起こらないと私はにらんでいるのですが――私としては、あなたにしろ、またどなたにしろ、私の秘密について、はっきりした手がかりをつかまれたくないわけですよ。もうこれで、なにからなにまでお話したつもりですがね、警部さん……」
「こいつはおどろいた」警部がうなり声をあげた、「なにからなにまで話したですと? いいですか、あんた?」サムは机をバンバンたたいた、「はじめはね、あんたを気ちがいだと思った、そのうちに、こいつはだれかにそそのかされて、私をからかいに来たものとにらんだ。ところが今じゃ、さっぱり見当がつかん。つくといったら、ただ、あんたがすぐここからおん出てくれりゃあ、さぞかし気持ちがサッパリするだろうということだ。さ、とっとと出て失《う》せろ!」
男のひげが、いかにも困ったといった|あんばい《ヽヽヽヽ》にダラリと垂れさがった。そのときまた、内線電話のブザーが鳴った。サムはとびあがった、まるでリンゴ泥棒の現場をおさえられた子供みたいに、顔をパッと赤くそめると、あわてて拳《こぶし》をポケットにつっこんだ。
「よしよし、わかった」警部は内線電話につぶやくと、こんどは客にむかって声をはりあげた、「どうも失礼しました、いや、今朝はどういうわけか寝起きが悪くて――それに、こういったご依頼には慣れておらんので。私は探偵が本職でしてね、封筒のお守りなどというものには、ちょっとなじめそうもないんですが……ま、いいでしょう、なにごともおつきあいだ、ひとつ、私も変り者の仲間入りをしようじゃありませんか。それはそうと、二十日に電話があった場合、あなただということがどうしてわかります?」
客はホッとした様子で、深くため息をついた。
「いや、これで肩の荷をおろしましたよ。ふうむ、なるほど、さすがは警部さんだ、ぬけ目がない。私もつい、うっかりしてましたね」男はクスクス笑いながら、手袋をはめた両手をこすりあわせた、「こいつはまったく愉快だ! ゾクゾクしますよ! まるで怪盗ルパンそこのけの活劇ですな!」
「だれですと?」
「不死身の怪盗、アルセーヌ・ルパンですよ。そうだ、合言葉、合言葉がいい! 当然、そうこなくちゃいけない、警部さん、それでは、私が電話するときの合言葉として――ええと――そうだ、『こちらはどこからともなく来た男、百万!』どうです、これで、かのマタイ言わざるごとく、『汝、われを知るべし』ですよ、ハッハッハ!」
「ハッハッハ」警部もそれにつられて笑ったが、「こちらはどこからともなく来た――」と言いかけて、油断なく頭をふった。と、期待の光りが、サムの目にサッと走った、「しかし、手数料の点で折り合いがつかないかも――」
「そうそう、手数料とね」虹ひげの男が言った、「あやうく忘れるところでしたよ。それでは、警部さん、この風変りな依頼料はいかほどです?」
「ただこの封筒一枚、金庫に保管しておくだけの料金ですな?」
「そうです」
「それなら」これだけ言っても引きさがらない客に業を煮やして、警部は言った、「五百スマカーいただきましょう」
「スマカー?」虹ひげの男はポカンとした顔をしたまま、おうむがえしにたずねた。
「なあに、ドルのことですよ、五百ドルです!」叫びながらサムは、客がさぞかし胆をつぶして青くなるだろうと、相手の顔を穴のあくほど見つめた。思いきりふっかけた料金に、目の玉もとびださんばかり、こけおどかしのひげも顎もどこへやら、こいつが尻尾をまいて逃げだしたら、さぞかし痛快だろうな。
「ああ、スマカーというのはドルのことですか」客はあいまいな微笑をうかべて言った。そして、べつだん驚いた色もみせず、ボテボテに着ぶくれした服の内ポケットをさぐり、分厚い紙入れを取り出すと、パリパリの真新しい紙幣を一枚ぬいて、机の上にポイと投げ出した。
手の切れそうな新しい千ドル紙幣だった。
「警部さん」虹ひげの男は、ハキハキした口調で言った、「手数料なら、千ドルぐらい差し上げるのがあたりまえだと思いますよ、なにせ、特別の依頼ですからね。それに、私にとっては、それだけの値打ちがあるのです。安心感、信頼感などを計算にいれれば――」
「は、はあ」サムは思わず息をのむと、ふるえる指で、千ドル紙幣にさわってみた。
「では、これでよろしいですね」こう言うと、客は椅子から腰をあげた、「それから、あと二つ、条件があるのですよ、警部さん、それは、ぜひ守っていただきたいのです。その第一は、私がこの事務所を出るとき――ええと、俗語でなんと言いましたっけ――とにかく尾行をつけないこと。それから約束の二十日に、私がこちらに電話しないかぎり、私のことを探ったりしないでください」
「そりゃあ、結構ですとも」うわずった声で、サムが答えた。ああ、千ドル! 警部の、あの無表情な目に、うれし涙があふれているではないか。このところ、サム私立探偵事務所は、閑古鳥《かんこどり》が鳴く日の連続だったのだ。こんな安ものの封筒一枚預かるだけで、なんと千ドルとは!
「第二は」こう言いながら、客は足早やにドアにむかった、「万一、約束の二十日に、私の電話がない場合でも、開封の際は、|かならずドルリー《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》・|レーン氏立ち会いのこと《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》」
警部の口は、疑惑の洞窟さながら、あんぐりと大きく開いたままだった。客の最後の言葉は、まさにとどめの一撃だった。勝負はついた。虹ひげの男はなだめるような微笑をのこして、ドアから、すばやくサッと姿を消した。
*
二十一歳をすぎたミス・ペイシェンス・サムは、気ままで色白、いかにも女らしく、髪の毛は蜂蜜色、父親のサム警部から、目の中に入れても痛くないくらい、可愛がられていた。事務所の控室で、彼女はあわてて頭から受話器をはずすと、すばやく机のいちばん下の引出しにしまいこんだ。その引出しは、近代的設備を誇るサム私立探偵事務所にしつらえた盗聴器の受話装置になっているのだ。娘のペイシェンスが、その引出しから手をはなすかはなさないうちに、警部の部屋のドアがあいて、背の高い、ブクブクと着ぶくれした男が、青い眼鏡に奇妙な顎ひげといういでたちであらわれた。気の毒なことに、この男には、ペイシェンスの姿が目に入らなかったらしく、ただもうやみくもに、青い眼鏡や顎ひげや不可思議きわまる自分自身やらを、サム私立探偵事務所から一刻も早く消し去りたくて大急ぎ、といったありさまだった。事務所の玄関のドアがバタンとしまったとたん、なにぶん世間一般の女性なんぞより、良心的ためらいとははるかに無縁のペイシェンスは――それに、だいいち、見ないと約束したわけじゃあるまいし、というわけで――ドアにかけよるなり、外をのぞいた。と、まさにあの奇妙なひげの先端が、廊下の角を、サッとまがったところだった。ひげの男は、エレベーターなどに目もくれず、非常階段をかけおりて行った。ペイシェンスは、下唇をかんだまま、貴重な三秒間を無駄にする以外になかった。それから、彼女は思いなおすように首をふると、控室にかけもどり、興奮のあまりブルーの瞳《ひとみ》をキラキラさせながら、父親の部屋にとびこんだ。
サム警部は、まだ茫然自失したまま、ぐったりと坐りこんでいた、一方の手に、細長いマニラ紙製の封筒を、もう一方の手に千ドル紙幣をにぎって。
「パット」警部はしわがれ声で言った、「あれを見たかね? いや、聞いたかね? あの男は変だったろ? わしの頭がおかしいのか、それともやつのほうが変なのか、あるいは――?」
「まあパパったら、バカなことを言わないで」ペイシェンスは、目をきらめかせながら、父の手から封筒をとりあげた。彼女は指で、封筒を上からさぐってみた、中で、なにかカサカサと音がした。「中には、もう一つ封筒が入っているわ。形がちがうけど。真四角みたい。ねえ、パパ、どうかしら、これ――」
「と、とんでもない」警部はあわてて封筒を奪いかえした、「いいか、あの男から、もう金を貰ってしまったんだからな。それも、パット、千ドルなんだよ!」
「まあ、意地悪! あたしにはパパの気持ちがわからないわ」
「いいかね、これは、おまえに新しいドレスを作ってやれるということさ、それだけだよ」警部はうなり声で言うと、金庫のいちばん奥に、その封筒を押しこんだ。そして鋼鉄製の扉をガチャンと閉め、机のところにもどって椅子に腰をおろすと、額《ひたい》の汗をぬぐった。
「いっそのこと、このわしに、この部屋からあの男を蹴とばして、放り出させてくれりゃよかったんだ」警部は口のなかでブツブツ言った、「こんなバカげた仕事は生れてはじめてだ。おまえがブザーをブーブー鳴らしさえしなかったら、あんな男は放り出してやったところさ。もしもだ、さっきの男とのやりとりを、だれかが本に書いたところで、いったい、だれが信じるものか!」
ペイシェンスは夢見るような眼をした、「すばらしい事件だわ、ほんとに素敵!」
「ま、精神病医にとってはね」警部がうなり声をあげた、「千ドルのことさえなけりゃ、わしだって――」
「ちがうわ! あのひと――そりゃ、あのひと、とても変っていてよ。大人になっても、夢を忘れないでいるひとがいるなんて、あたし、思ってもみなかった。あのひと、絶対に気ちがいなんかじゃないわ。まるでお伽噺《とぎばなし》に出てくるひとのような服を着て……それにパパだって、あのひとのひげに、すっかり感心したにきまっているわ、そうじゃなくて?」とペイシェンスがだしぬけに言い出した。
「なに、ひげだと! あんなものは、毛糸を染めたんだ」
「りっぱな芸術作品だわ。気まぐれ芸術。あの可愛い捲き毛! そうだわ、たしかにおかしなところがあるわね」とペイシェンスがつぶやいた、「きっとあのひとには、どうしても変装しなければならないわけがあったのよ――」
「おまえも、それに気がついたかね? そうさ、あれはまっ赤なにせものさ」と警部は吐き出すように言った、「それにしても、あんな風変りなにせものは、生れてはじめてだ」
「たしかにそのとおりよ、顎ひげも、青い眼鏡も、ボテボテの服も、みんな、自分の正体をかくすためなんだわ、でも、いったいなんだって、ひげをあんなにいろんな色で染めたのかしら?」
「要するに左巻きなんだよ。緑だの青だののひげなんて、馬鹿馬鹿しい!」
「なにかを知らせたかったのかしら?」ペイシェンスは深く息をついた、「だけど、それもおかしいわね。あの変装をはぎとったら、きっとあのひと、背がスラッと高くて、やせ型で、するどい顔つき、たぶん中年で、鼻にかかった声――」
「そうだ、つくり声も出しておった」と警部が口をはさんだ、「しかし、おまえの言うとおりだよ、たしかに、鼻にかかるところがあった。だがニューイングランドの人間じゃない。ああいうたちの鼻声とはちがうよ」
「むろん、ちがうわ。ね、パパ、わかって? あの男はイギリス人よ」
警部は思わず膝をたたいた、「そうだ、パット、それにちがいない!」
「さすがにそれだけは隠しきれなかったわね」とペイシェンスは眉《まゆ》をひそめて言った、「それに、言いまわしもイギリス風だったわ。アクセントはケンブリッジ大学じゃなくて、オクスフォード大学だった。それから、ほら、パパがドルの俗語をつかったでしょ、あのとき、あの男にはわからなかったじゃないの、もっとも、わざとわからないふりをしたのかもしれないけど」彼女は肩をすくめた、「いずれにしろ、あの男がインテリであることには、まちがいないわね。プロフェッサーみたいな感じもあったけど、どうかしら?」
「どこか|くさい《ヽヽヽ》ところもあったぞ」とサムが吐きすてるように言った。警部は葉巻を口につっ立てると、娘に、顔をしかめてみせた。それから、すこし口調をやわらげて、「どうもあの男が言ったなかで、一言だけ気になってならんのだよ。もし約束の二十日に電話がかからなかった場合、封筒をあけるんだったら、ドルリー・レーンさんに立会ってもらわなくてはこまる、というのだ。これは、いったい、どういうわけなんだ?」
「そうね、どういうわけかしら?」ペイシェンスもあやふやな相槌《あいづち》をうった、「きっと、そこのところが、今日の依頼人の、いちばんの特徴かもしれないわね」
二人は、たがいに顔を見つめあったまま、じっと黙って考えこんでいた。あの変装したイギリス人が、別れぎわに出した不思議な注文にくらべれば、ほかの謎など、まるで問題にならないくらいだった。ドルリー・レーンといえば、その名声や経歴からいってもずいぶん派手《はで》な存在だが、またこの老優ぐらい、世界中でも謎めいたところのない人物もなかった。舞台を去って十余年、七十歳をこした今では、ウェストチェスター北部の広大な所有地で、いかにも老芸術家にふさわしい、ぜいたくな隠居生活を送っているのである。城をかたどった大邸宅も庭園も、また小さな荘園風の村にいたるまで、老優の愛してやまぬ、そのかみのエリザベス朝のイギリスそのままの姿につくられ、見るものの心を魅了してやまない。ハムレット荘とみずから名づけた、その領地は、過ぎ去った一時代、一世を風靡《ふうび》したシェイクスピア劇の名優ドルリー・レーンの、晩年をかざるにふさわしい背景となっていた。六十歳のとき、まさに円熟の極致にあったこの名優にとって、運命は突如として悲劇にかわり、彼の聴力は永久に失われてしまったのだ。しかし、比類なき健全な精神の持主である老優は、いささかもとりみださず、読唇術の練習をはじめ、やがてこれをマスターして、この道でも名人の域に達したのである。老優がハムレット荘に隠退してからというものは、莫大な資産からあがる収益で余生を送るかたわら、めぐまれない同業の舞台人や、縁のある芸術に志す貧しい人々のために、憩いの場をあたえたのだ。まさにハムレット荘は舞台芸術家たちの聖地となった、附属の劇場は、実験的な演劇の研究室に、そしてエリザベス朝の二折本やシェイクスピア文献を蒐集した図書館は、野心的な学者のメッカとなった。また、この名優は、まったくの道楽として、休むことを知らぬ鋭い知性を、犯罪捜査にむけたのである。この道楽をつづけている途中で、当時ニューヨーク警察本部刑事局の現役だったサム警部と知り合い、二人のいっぷう変った友情が生れたのだ。サムが停年退職して、私立探偵事務所を開業するまえにも、またしてからも、この二人はたがいに協力して、かずかずの殺人事件を解決してきたのである。そこへ、こんどはサムの娘のペイシェンスが加わった。付添い婦人にともなわれて、その少女時代を、ヨーロッパのあちこちで過ごして帰国した彼女は、独特の強い熱意をもって、父親と老優とのコンビに仲間入りし、探偵活動にとびこんだのである。
サムの眼には、困惑の色があった。数百万ドルの秘密だのなんだのと、クドクドごたくをならべて帰った、あのうさんくさい謎の客と、耳もきこえず、近年、寄る年波に、しきりと身体の不調を訴えてはいるものの、高潔で聡明な、敬愛の的《まと》である老友ドルリー・レーンとのあいだに、いったいどんなつながりがあるというのか?
「あたし、お手紙を書いてみようかしら?」ペイシェンスがひとり言《ごと》のようにつぶやいた。
警部はにがい顔をして、葉巻を投げすてた、「いや、よしたほうがいい。どうもこの話は、なにからなにまで馬鹿げている。レーンさんとわしらの仲は、世間じゃだれでも知っとることだし、あのインチキ顎ひげのとんまは、ただのこけおどかしに、レーンさんの名前を持ち出したのかもしれん。だが、やつがなにか企んでいることはたしかだ! ま、いずれにしろ、いますぐ、レーンさんをわずらわすことはない。とにかく約束の二十日まで待ってみることだ。いいかね、二十日になったって、電話などかかってくるものか。そんな気は、はじめっからないにきまっている。いや、むしろやつは、わしらに封筒を|あけて《ヽヽヽ》もらいたがっているのさ。くさい、どうもくさい……レーンさんをひっぱりこむのは、まだ早いね」
「それもそうね」ペイシェンスは父の意見におとなしく従ったが、その目は、金庫の閉っている扉にピタッと吸いつけられ、眉のあいだには深い皺《しわ》がきざまれていた。
*
ところが、事実はといえば、警部の予言は見事にはずれ、それだけによけい、彼をびっくりさせる|はめ《ヽヽ》となった。五月二十日の正午きっかり、サムの卓上の電話が鳴り出した。いくぶんさびのあるイギリス風のアクセントがきこえた。
「サム警部ですか?」
「はい?」
連接電話の受話器を耳にあてていたペイシェンスの胸は、思わずドキドキと高鳴った。
「こちらはどこからともなく来た男、百万!」イギリス人の声が言いおわると、電話線のむこうから、クックッとふくみ笑いがひびいてきた。サム警部が驚きのあまり、一言も発することができないうちに、ガチャンと音がして、電話はきれてしまった。
一 青い帽子の男
五月二十八日火曜日、いつも気ままな勤めぶりで、勤務時間もいたって自由なミス・ペイシェンスが、この朝にかぎって、十時すこしまえに、サム私立探偵事務所の控室に姿をあらわした。もの淋しい顔に、いつも目をオドオドさせているお抱え速記者のミス・ブロディに、彼女はあかるく笑いかけると、いきおいよく事務室のドアをおした。父親は、なにか熱心に喋っている客の、のぶとい声に耳をかたむけているところだった。
「ああ、パットか」と警部が言った、「ちょうどよかったよ、早く出てきてくれてね。こちらはジョージ・フィッシャーさん、ちょっと面白い話をもってこられたんだよ。フィッシャーさん、これが娘です。親父のお目付役、といったところでしてな」サムが相好《そうごう》をくずした、「これでもわが軍の参謀《さんぼう》ですよ。さ、遠慮なく話してやってください」
客の青年は、ドギマギして椅子をずらし、ぎこちなく立ちあがると、手にした帽子をやたらといじくりまわした。山のやわらかな、ツバのついた帽子だった。ツバの上の小さなエナメル塗りの板には、『リボリ・バス会社』と書いてある。長身で、肩幅のひろい、感じのいい顔をした青年で、髪の毛はまっ赤だった。スマートな青灰色の制服が、大がらの身体をピッタリとつつみ、肩から幅広いベルトにかけて、黒い革紐がななめに走っている。皮の長靴をはいた両脚は、がっしりと、みるからにたくましい。
「どうぞ、よろしく」青年は口の中でつぶやくように言った、「なあに、たいしたことじゃないんです――」
「まあ、おかけになって、フィッシャーさん」ペイシェンスは、ハンサムな青年に、商売用にとってあった微笑をうかべて言った。
「どういうお話ですの?」
「いま、ちょうど警部さんのお耳に入れていたところなんですが」青年は耳のつけ根までまっ赤にして言った、「なんてこともないのかもしれませんけれど、ひょっとすると、なにかあるんじゃないかと思いましてね、そのドノヒューというのが友だちなので、それで――」
「ちょっと待った」警部が口をはさんだ、「はじめから話したほうがよさそうですな。いいかね、パット、こちらのフィッシャーさんは、ほら、よくタイムズ広場《スクエア》あたりに駐車している観光バス、あれの運転手さんなのだよ。リボリ・バス会社というんだ。ところで、ある友だちのことが気にかかって――ま、今日、|うち《ヽヽ》に訪ねて見えたのも、そのドノヒューという友人が、しょっちゅう、わしの名を口にしていたからなんだ。ドノヒューは、以前警官をしていた男でね、わしもうろ覚えだが、気のいい大柄なじいさんだったような気がする。たしか成績もよかったはずだ」
「その、ドノヒューさんも、やっぱりおなじ会社にお勤めですの?」ペイシェンスは、話の|でだし《ヽヽヽ》があまりにも散文的なので、内心ため息をつきながらたずねた。
「いや、そうじゃないです。五年ばかりまえに警察をやめて、五番街の六十五番地にあるブリタニック博物館で警備員をやっていたんです」
ペイシェンスはうなずいた。ブリタニック博物館は、建物こそ小さいが、イギリスの古い写本や書物がよく保存され、また展示されていることで、高く評価されている。彼女は、その博物館の後援者の一人であるドルリー・レーンにつれられて、なんどか見学したことがあった。
「ドノヒューさんは、うちの父と、仕事がいっしょだったので、ぼくは生れたときから知っているんです」
「で、その方がどうかしましたの?」
フィッシャーは制帽をいじくった、「それが――その、つまり、いなくなっちゃったんです」
「ああ、そうなの。だったら、パパ、これはパパの受持ちだわ。だって、堅実で評判のいい中年すぎの男の人が、突然いなくなるなんて、たいてい女性関係でしょ?」
「とんでもない、そうじゃないんですよ」バスの運転手があわてて口をはさんだ、「ドノヒューにかぎって、そんなことはありません!」
「捜索願いはお出しになって?」
「まだです。ぼくは――その、出したものかどうか、よくわからなかったものですから。もし、たいしたこともないのに、大騒ぎになったら、ドノヒューのじいさん、カンカンになって怒るだろうし。だって、ねえ、お嬢さん」フィッシャーの声には熱がこもっていた、「事実、なんでもないのかもしれませんからね。しかし、どうもなにか、おかしいような気がするんですよ」
「いや、たしかにおかしいぞ」警部が口を出した、「だいいち、お膳立《ぜんだ》てからして妙なんだよ。フィッシャーさん、娘にさっきの話を、あらためてしてやってくださらんか」
フィッシャーが不思議な話をはじめた。
インディアナポリスの学校の先生が、休暇を利用して、団体で、見学かたがたニューヨーク見物にやってきた。彼らは、前もって旅行日程を組んで、手紙で予約しておいたとおり、リボリ・バス会社の大型バスを一台借りきって、市中を見てまわった。フィッシャーの当番は、昨日、つまり月曜日に、一行のバスを運転することだった。彼らは正午きっかりに、ブロードウェイのはずれの、四十四丁目のバスの発着所から乗りこんだ。その日のコースの最後はブリタニック博物館の見学だった。この博物館は、正規の観光コースには入っていなかった。それは、だれにもわかる理由からだ。「お高くとまっていますんでね」とフィッシャーは悪口ともなく言った。一般の観光客はチャイナ・タウンとか、エンパイヤ・ステート・ビルとか、メトロポリタン美術館――ただし、これは古めかしい外観だけ――とか、ラジオ・シティ、貧民街《イースト・サイド》、あるいは南北戦争で有名なグラント将軍の墓、そういったところを見たがるものだ。しかし、昨日の先生方の一団は、いつものお客とちがって、美術や英文学の教師で、フィッシャーのプロレタリヤ式憎まれ口をかりれば、『キザなやつら』だった。かの高名なるブリタニック博物館を見学せずして、なんのニューヨーク旅行ぞ、といった気持ちの審美家ぞろいだった。ところが残念なことに、はじめの話では、せっかくの希望も画餠《がべい》に帰せざるを得ない始末だった、というのは、博物館は、ここ数週間というもの、大がかりな修理と内部の模様替えのために休館しており、あと二か月もたたなければ、再開できないという話だったのである。だが、とどのつまりは、この熱心な先生方が、またはるばるやってくるのもなんだからということで、館長ならびに評議会の特別の許可がとれて、見学できることになった。
「ここからがおかしいんですよ、お嬢さん」と、フィッシャーがゆっくりした口調で言った、「連中がバスに乗りこむとき、ぼくはちゃんと頭数を勘定していたんです。なにも、数えなきゃいけないってことはなかったんですがね。こういう特別の場合は、発車係がすべて段取りをつけてくれることになってましてね。ですから、ぼくはただ運転だけすればいいんですが、|くせ《ヽヽ》とでもいうんですかね、なんとはなしに連中をかぞえてみたら十九人。男も女もひっくるめて――」
「男が何人で、女が何人?」ペイシェンスが口を入れた。その青い瞳がキラキラとかがやきはじめた。
「いやあ、そこまではわかりませんね。とにかく、バスが出発するときはぜんぶで十九人。で、どう思います?」
ペイシェンスはプッとふき出した、「それだけじゃ、どう思うにも、思いようがないわ。フィッシャーさん、あなたには、なにか思うことがあって?」
「大ありですとも」フィッシャーは、大まじめで答えた、「終点にもどってきたとき――終点も始発も、おなじ四十四丁目ということになっているんです――そこにもどってきて、連中が降りるとき、ぼくはまた人数を勘定してみたんです、すると、おかしいじゃありませんか、十八人しきゃいないんです」
「ほんと、それはおかしいわね」とペイシェンスが言った、「だけど、そのことと、お友だちのドノヒューさんがいなくなったのと、どういう関係があるのかしら?」
「ドノヒューのことはだね」警部がゆっくりした口調でさえぎった、「あとからわかるさ。どうだ、だんだん、話が面白くなってきただろう? さ、つづけてください、フィッシャーさん」
サムは、窓の外に目をやると、タイムズ広場《スクエア》の灰色の壁をじっと見つめた。
「で、いなくなったのは、どんなひと?」とペイシェンスがたずねた、「ひとりひとり、あたってみまして?」
「いや、なにしろだしぬけのことなんで。しかし、あとから考えてみたら、|あれ《ヽヽ》じゃないかと、見当だけはついたですよ」フィッシャーは、たくましい上半身を、椅子からのり出した、「|行き《ヽヽ》に、なんとなく妙なかっこうをしたやつがいるな、と、ぼくは思ったんです。鼻の下にモシャモシャ白毛まじりのひげをはやした中年の男でした。ほら、よく先っちょにスープの|しずく《ヽヽヽ》をくっつけて、映画なんかに出てくるやつ、あんなひげですよ。やけに背の高いおっさんで、青っぽい変てこな帽子をかぶっていました。ずっと一人きりで、そうだ、あとで思い出してみると、ほかの連中とはてんで口をきこうともしませんでしたよ。その男です、いなくなったのは。帰りには、一緒じゃありませんでしたからね」
「おかしな話だろう、え?」警部が娘の顔を見た。
「ほんとにそうね。でもフィッシャーさん、ドノヒューのことはどうなりましたの? まだ、つながりがわからないわ」
「ああ、それはこうなんですよ。バスがブリタニック博物館に着いたとき、連中をチョート博士に渡して――」
「あら、チョート博士なら、あたし、お会いしたことがあるわ、館長さんでしょ?」ペイシェンスがあかるい声をあげた。
「そうです、博士が連中を案内して、見学がはじまると、こっちはもう、出発するまで用はないんです。それでぼくは、玄関のところで、ドノヒューとすこしだべっていたんですよ。なにしろ、半月以上も、ドノヒューとは顔を合わせていなかったし、ま、いろいろ喋ったあげく、昨夜の試合を見に行こうということになり――」
「試合って?」
フィッシャーはびっくりしたような顔をした、「ほら、あれですよ、ガーデンでやってるボクシングの試合ですよ。ぼくも、グローブをつけりゃ、ちょっとしたもんですがね。キビキビした試合運びが好きだなあ――それはとにかく、ぼくはドノヒューに、夕食がすんだら迎えに行くと約束したんです。おっさんは、ひとり者で、下町のチェルシーに下宿してましてね、そんな話をしてから、連中のあとを追って、博物館のなかを見てまわり、それがすんでから、またバスで終点まで送りとどけたわけなんです」
「連中が博物館から出てきたときには、ドノヒューは玄関にいたのかね?」サム警部が考え深げにたずねた。
「いや、いたかもしれませんが、ぼくの目にはとまりませんでしたね。で、昨夜は仕事がすんでから、あっさり食事をして――ぼくは、まだ独身なんですよ」運転手はペイシェンスの顔を見て、赤くなりながら言った、「それから、ドノヒューを下宿に迎えに行くと、おっさんはいないじゃありませんか。下宿のおかみさんにきくと、まだ博物館から帰ってこないという話なんで。たぶん、残業かなにかだと思って、一時間ばかり、その辺をブラブラして待ってましたが、いっこうに帰った様子がないんです。で、二、三、心あたりを電話してみたんですが、だれひとり、ドノヒューを見かけたものはないという返事です。そうなると、なんだか、うす気味がわるくなってきましてね」
「なによ、そんな大きなからだをしているくせに」ペイシェンスは青年をじっと見つめてつぶやいた、「それから?」
フィッシャーは子供のように息をはずませた、「ブリタニック博物館にも電話して、バーチという夜警にたずねてみたんです、すると、ドノヒューは、その午後、ぼくがまだ見学の連中にくっついて歩いているあいだに、あわてた様子で、おもてにとびだしたのを見たと言うんですよ。そのくせ、まだ下宿には帰ってないんですからね。で、どうしたらいいのか、わからなかったものですから、ぼくはひとりでボクシングの試合を見に行ったんです」
「そう、お気の毒にね」ペイシェンスの声には、思いやりのひびきがこもっていた。フィッシャーは、反射的にいかにも男性的なまなざしを投げ返した。
「お話は、それでおしまい?」
青年のたくましい肩がガクリとおちて、その目から、一瞬、勝ち誇ったような光が消えた。「ええ、ぜんぶなんです。今朝、こちらにうかがうまえに、もう一度、おっさんの下宿に寄ってみたんです。が、昨夜はとうとう帰らなかったという話でした。博物館にも電話をかけてみたんですが、まだ来ていないという返事で」
「だけど」まだよく|のみ《ヽヽ》こめないといった表情で、ペイシェンスが言った、「お友だちのドノヒューさんの失踪と、行方のわからないバスのお客さんと、どういう関係があるのかしら? なんだかあたし、今朝は頭がにぶいみたい」
フィッシャーの大きな顎がこわばった。「そいつは、ぼくにだってよくわからないけれど、でも」と、青年はなおも頑強な口調で言った、「青シャッポのおっさんがいなくなって、同じ時間にドノヒューがいなくなったときたら、どうしたってくさいと思わざるをえませんよ」
ペイシェンスは考えぶかげにうなずいた。
「じゃ、どうしてここへ来たんだといわれれば、さっきも話したように、警察にとどけたりしたら、ドノヒューにどやされるのが|おち《ヽヽ》ですからね。あのおっさんは世間知らずの甘ちゃんじゃありませんよ、自分の始末ぐらい、ちゃんと自分でつけられますからね。でも――やっぱり気になってしようがないので、こちらの警部さんに、ま、昔のよしみで、あのアイルランド生れのおっさんがどうなったか、そいつを調べていただこうと思いましてね、お訪ねしてみたんですよ」
「さ、警部さん」ペイシェンスは父親をひやかした、「男と見込まれた以上、お断わりできて?」
「まさかね」父親はニヤニヤしながら言った、「ま、お引き受けしたところで、金にはならないな、フィッシャーさん、それに、このせちがらいご時世ではね。しかし、せっかくだから、ひとあたりしてみようじゃないか」
フィッシャーの、まだ少年のおもかげがのこっている顔に、パッとひかりがさした、「ああ、よかった!」彼は叫んだ、「やっぱり、すばらしい警部さんだ!」
「よし、それではと――」警部の口調は急にキビキビしてきた、「こまかく検討してみようじゃないか。では、バスに乗っていた青い帽子の男を、まえにも見かけたことがありますかね、フィッシャーさん?」
「いいえ、まるっきりはじめてでしたよ。それに――」運転手は顔をしかめて断言した、「ドノヒューだって、あんな男は見たことがないにきまっています」
「あら、どうしてそんなことがわかって?」ペイシェンスがびっくりしてききかえした。
「そりゃあ、ぼくが十九人のお上《のぼ》りさんを連れて、博物館に入って行ったとき、ドノヒューはひとりひとり、客の顔をジロジロ見てましたからね、でもあとで、知った顔があったなんて、これっぽちも言いませんでしたよ。一人でもいれば、ぼくに言ったはずです」
「そうともかぎらんが」と警部がぶっきらぼうに言った、「ま、そういうことだろうな。どうだね、ドノヒューのことを話してくださらんか。そのひとのことは、どうもよく覚えていないのでね。なにしろ、もう十年以上になるからなあ」
「おっさんはがっしりした体格で、目方は百七十五ポンドぐらい」フィッシャーは待ってましたとばかりに答えた、「身長は五フィート十インチ、年は六十歳。まるで雄牛みたいに頑強で、アイルランド人特有のあから顔です。右の頬に弾丸の跡があるけど、警部さん、覚えているでしょう? あれを一度見たら、ちょっと忘れられるものじゃありませんからね。歩くときはいくらか前かがみで、その――」
「肩で風をきる?」ペイシェンスが助け舟を出した。
「そうそう、そういった歩きっぷりですよ。頭髪は白毛《しらが》まじりで、目はするどく灰色です」
「いや、見事だよ」警部は感嘆の声をあげた、「あんたは警官になったら出世しましたぞ、フィッシャーさん。わしもやっと思い出した。あの男は、例のヤニ臭いせともののパイプをまだ使っていたかね? あればかりは閉口《へいこう》だった」
「ええ、使ってますよ」フィッシャーはニヤリと笑った、「休みのときなんか、よくあれで煙草を喫《す》っていました、そうだ、そいつを言うのをすっかり忘れてた」
「それで結構」いきなり警部は椅子から立ちあがった、「もういいから、あんたはひきとって仕事をしてください、フィッシャーさん。このあとは、わしにまかせるんだ。もう少し調べて、いかがわしい|ふし《ヽヽ》があったら警察へまわす。本来、こいつは警察の領分ですからな」
「じゃ警部さん、よろしくおねがいします」バスの運転手は、そう言って立ちあがると、ペイシェンスのほうにむいて無器用におじぎをし、床をガタガタならしながら、事務所を出て行った。青年が控室を通りぬけるとき、その男性的なたくましさに見とれて、速記者のミス・ブロディの心臓は、乙女らしいはにかみで、早鐘のように高鳴った。
「あの青年、なかなかイカスじゃない?」ペイシェンスがつぶやいた、「ちょっと野暮《やぼ》くさいけど、どう、パパ、あの肩幅! 彼、非常ブレーキのかわりに、ラテン語の本にかじりついていたら、いまごろは、大学のすばらしいフットボール選手になっていたのにね!」
サム警部は、つぶれた鼻の穴からフーッと大きな息を吐き出して、自分のガッシリした肩をすくめた。それから電話帳をくると、ダイヤルをまわした。
「もしもし、リボリ・バス会社ですか? こちらは、サム私立探偵事務所のサムです。ええと、あなたは支配人で?……ああ、あなたですな、お名前は?――え? シオフェル。ところでシオフェルさん、おたくの会社に、ジョージ・フィッシャーという運転手がおりますかな?」
「はい、おりますが」いささか警戒気味の声が答えた、「どうかしましたか?」
「なに、いやいや」警部は愛想よく言った、「ただちょっとおたずねしただけでしてね、で、その男は、赤い髪の大柄な青年で、正直そうな顔をしていますな?」
「そのとおりです。わが社の模範運転手の一人ですよ。まさかあの男が――」
「いや、べつになんでもありません。ただすこし、調べたいことがありましてね。その運転手が昨日、お上《のぼ》りさんの学校の教師たちを案内したはずですが。その一行が市内のどこに泊っているか、教えていただけませんかな?」
「それはパーク・ヒル・ホテルです。プラザ・ホテルのはずれですよ。で、ほんとにたしかでしょうね、なんにも――」
「じゃ、どうも」警部はさっさと受話器をかけると、椅子から立ち上って、外套に手をのばしながら、娘に言った、「さ、鼻の頭をパフでたたいて。これからすぐに会いに行くんだ、その――インテル――インテル――」
「インテリゲンチャーにでしょ」ペイシェンスはホッとため息をついた。
二 十七人の先生
そのインテリゲンチャーの一行は、いろとりどりの紳士淑女で、どのひとりとして四十歳以下のものはいなかった。見たところ、女性軍が圧倒的に優勢で、そこかしこに、ひからびたくすんだ男性が、遠慮がちにまじっているといったありさまだった。パーク・ヒル・ホテルの大食堂では、いまや朝食の宴たけなわ、嬉々として彼らの語りあうさまは、あたかも春の若葉にたわむれる雀たちのさえずりかとも思われた。
陽《ひ》はすでに高く、彼ら教師たちの一団をのぞいては、食事をするものとてなかった。食堂の給仕長は、ものうげに親指をまわして、この安息日のよろこびにひたっている連中をさし示した。サム警部は、すこしもものおじすることなく、ずかずかと食堂《サラマンジェ》(このパーク・ヒル・ホテルは、そのご自慢のフランス料理とともに、万事フランス風に気どっていた)に入りこみ、ピカピカにみがかれた空《から》のテーブルをわけて進んだ。そのうしろから、ペイシェンスがクスクスとかすかに笑いながら、ついて行った。
見るからにおそろしそうな大男がテーブルに近づいてくるのを見てとると、教師の一団のさえずりはたちまち乱れ、ささやきにかわり、ついでまったく静まってしまった。びっくりしたいくつもの眼、眼鏡のガラスに守られた、いかにも教師らしい悲しげな眼が、訓練をつんだ砲台みたいに、いっせいにクルッとまわって、侵入者を観測した。警部の顔はといえば、これまでにただの一度でも、小さな子供や臆病ではにかみやの大人の心に、あたたかい信頼の気持ちなど、起こさせたことはなかった。ゴツゴツといかつく骨ばった、大きなあから顔、その鬼がわらのような顔のまんなかに、つぶれた鼻がでんと鎮座《ちんざ》し、なんとも不気味な味をそなえている。
「あんたがたは、インディアナから来た学校の先生ですな?」サムは威嚇《いかく》するような声で言った。
不安にみちた戦慄《せんりつ》が、サッとテーブルを走った。オールド・ミスの女教師連中は胸に手をやり、男たちはもったいぶった唇をなめた。
まんまるに肥った顔の、服もはちきれそうな五十がらみの男――一団の伊達男《だておとこ》で、みたところスポークスマンらしかった――テーブルの上席についていたその男は、椅子をずらし、腰をうかして身をよじり、椅子の背をしっかりとにぎりしめた。顔はまっ青だった。
「そうですが」その声もふるえている。
「私はサム警部です」サムは、あいかわらずの、いかついうなり声をあげた。一瞬、がっしりした父親の背中になかば隠れていたペイシェンスは、女教師たちが、いっせいに気絶するのではないかと思ったくらいだった。
「警察!」スポークスマンがあえいだ、「いったい、私たちがなにをしたというんでしょうか?」
警部は、ニヤリと笑いたいのをがまんした。この肥っちょの男が早合点して、『警部』と『警察』を混同してくれるなら、ねがってもないことだ。
「それを調べに来たのです」警部はきびしい口調で言った、「全員そろっているんですね、で、釈明してもらえますな?」
男はオドオドとテーブルをながめわたした。男の目が、グルリとひとまわりながめて、また、警部のいかつい顔にもどってきたときには、二十五セント銀貨のように大きくなり、カッと見ひらかれていた、「それはもう――全員そろっていますが」
「だれも、いなくなった者は、おらんでしょうな?」
「いなくなった?」スポークスマンはうつろな声でききかえした、「むろん、おりませんとも、しかしまた、なんだってそんな馬鹿なことが――」
一座の首が、いっせいに前後にゆれた。痩せた、しわだらけの女教師が二人、ちいさな、おびえたような叫び声をあげた。
「なに、ちょっと」警部はそれにとりあわず、冷酷な目つきでテーブルのひとりひとりを見つめていった。見つめられたほうは、まるで鎌をあてられた草みたいに、つぎつぎと目をふせていった。
「あんたがたは、昨日の午後、リボリ会社のバスで、市中を見学なさいましたな?」
「ええ、おっしゃるとおりです」
「全員で行きましたか?」
「はい、みんなそろって」
「全員、帰ってきましたか?」
突然、ふりかかってきた悲劇に、打ちのめされたかのように、肥っちょの男は、ヘタヘタと椅子に坐りこんだ、「たしか――たしかそうだと思いますが」男はあわれっぽい声を出した、「フ、フリックさん、ちゃんと私たちは、みんな帰ってきましたね」
いきなり呼びかけられて、糊のきいた大きなカラーをつけ、うるんだ茶色の眼をした痩せぎすの小男が、とび上らんばかりにびっくりし、テーブル掛けのはしをしっかりつかんで、助け舟を求めるようにあたりを見まわすと、つぶやくように言った、「ええ、ええ、オンダードンクさん、むろん、みんな帰りましたとも」
「さあさあ、あんたがた、だれかのことを隠していますな。いなくなったのはだれなんです?」
「でも、この方たち」突如、一座をおそった不気味な死の沈黙のなかで、ペイシェンスがつぶやいた、「どうやら正直に、ほんとのことをおっしゃっているようよ、パパ」
サムは、余計な口出しをするなと言わんばかりに、娘にこわい顔をしてみせた。が、彼女はやさしく微笑してつづけた、「だって、みなさんの数をかぞえてみたんですもの」
「どうだった?」父親はすばやくテーブルを見まわした。
「十七人だわ」
*
「こいつはいったい、なんということだ!」このおどろくべき事実を、自分の眼でたしかめた警部は、一瞬、威嚇するはずのポーズも忘れてつぶやいた、「あのフィッシャーは、十九人だと言ったのに……おい、あんた」警部はスポークスマンの耳もとで怒鳴《どな》った、「はじめから、ずっと十七人だったのかね?」
肥っちょのオンダードンク氏はかいがいしくグッと唾《つば》をのみこんだものの、結局はただ、うなずくばかりだった。
「おい、給仕君」サムは、食堂のすみでメニューを調べている給仕長にむかって大声をはりあげた、「君、ちょっと来てくれたまえ」
給仕長は身体をこわばらせた。彼は不機嫌そうに警部を見返した。それから、手負いの擲弾兵《てきだんへい》のようにノロノロと足を引きずってやってきた。
「お呼びでしょうか」給仕長は、|しょう《ヽヽヽ》の音を、音楽的にひびかせた。
「この連中を見てくれたまえ」給仕長は、スマートなヘアスタイルの頭を、いやいやかたむけて、サムの命令にしたがった、「これで全員かね?」
「|さようでございます《メ・ウィ・ムシュウ》」
「英語でしゃべってくれ」警部はにがい顔をして言った、「十七人でまちがいないな?」
「はい、たしかに十七人さまで、ムシュウ」
「泊りに来たときから十七人かね?」
「そのことでございましたら」と給仕長は形のいい眉をあげて言った、「支配人をお呼びしたほうがいいかと存じますが、憲兵殿《ジャンダルム》」
「質問に答えるんだ、この間抜けめ!」
「十七人さまです」給仕長がきっぱり答えた。それから、もうとっくにお祭り気分の消えうせてしまったテーブルのまわりで、ふるえている連中にむかって言った、「ご心配にはおよびません、奥さま方、なんでもございませんから。これはきっと、なにかの間ちがいかと存じます」
藁《わら》にでもすがりつきたい気持ちの淑女《マダム》や紳士《ムシュウ》は、安心と不安のいりまじったため息をついた。給仕長は、義務を思い起こさせられたときの、疲れた羊飼いのような、けなげな威厳をふるいおこすと、サム警部に言った、「どうぞ手短かにおねがいいたします。なにぶんお客さまに対して大変失礼でございますし、手前どもといたしましても、このようなことを黙って見ているわけにも――」
「いいか、フランス野郎!」そう叫ぶと、サムは怒りにわれを忘れて、給仕長の折り目正しい襟をグイッとつかんだ、「この連中は、ホテルに来てどのくらいになるんだ?」
給仕長は憤慨して、その手をふりもぎろうともがいたが、やがて相手のすさまじい剣幕におされて、凍りついたように動かなくなってしまった。ご婦人方は死人みたいにまっ青になり、殿方連中は、不安げに腰をうかしたままささやきあった。ペイシェンスのいたずらっぽい顔までが複雑にゆがんだ。
「き、金曜日からで」給仕長はあえぎながら答えた。
「よし」警部はそう言うと、給仕長のしわくちゃになった襟をはなした、「もういいから、あっちへ行け!」
給仕長は、とぶように逃げていった。
「さて、じっくりとお話ねがいましょうか」鬼警部は、スポークスマンの立ったあとの椅子に、ドッカと腰をおろすと、言った、「おまえもおかけ、パット。一日がかりの仕事らしいからな。まったく、どいつもこいつもグズばかりでかなわん! ところで、あんた、昨日の正午、観光バスに乗るときに、みんなの頭数をかぞえてみましたかね?」
不意をつかれた肥っちょのスポークスマンは、ドギマギしながらあわてて答えた、「いいえ、かぞえませんでした。ほんとに申しわけないのですが――その、じつは私どもべつに――しかし、いったい、どういうことなんでしょう――」
「まあまあ」警部の口調がすこしやわらいだ、「なにもそう固くならんで――べつに噛みつくわけでもなし。ただ情報を集めているだけなのです。ま、私の知りたいのは、こういうことなんだ、あんたがたは総勢十七名と言われましたな。あんたがたが、インディアナのボウハンカスとかいう町を出発したときが十七人、ニューヨークに到着したときも十七人、このホテルについたときが十七人、市内見物をしてまわったときもまた十七人、そこまではあってますな?」
十七の頭が、あわてていっせいにうなずいた。
「つまり――」警部は考え考え言った、「昨日の正午まではそうなんだ。で、あんたがたは観光バスを一台借りきって、市内をまわった。四十四丁目の、リボリ会社のブロードウェイ発着所から、バスに乗りこんだわけだ。そこへ行くまでのあいだも、十七人でしたか?」
「どうもよく覚えておりませんので」スポークスマンがとほうにくれて言った。
「ま、いいでしょう。が、ひとつだけ、はっきりしたことがある。その観光バスが出発したとき、乗客が十九人いた。これを、どう説明なさるおつもりかな?」
「まあ、十九人ですって!」鼻眼鏡をかけた、がっしりした身体つきの中年の婦人が叫んだ、「じゃ、きっと、あのひとですわ、あのひと、いったい、なにをしているのかしらと、わたし、思ったくらいですもの!」
「どんな人物です?」警部が間髪いれずたずねた。ペイシェンスはいじっていたスプーンを手からはなすと、じっと息をころして、みるからに頑丈そうな中年婦人の顔を喰い入るように見つめた。その婦人の表情には、得意と困惑のいりまじった色があった。
「どんなひとです、ラディさん?」肥っちょのスポークスマンも顔をしかめて、警部の質問をまねた。
「ほら、あの|へんてこ《ヽヽヽヽ》な青い帽子をかぶった男ですよ! みなさん、お気づきになりませんでして? マーサ、バスが出発するまえに、わたし、あなたにそう言ったわね? 覚えてなくて?」
骨ばったオールド・ミスのマーサが、かすれた声で答えた、「ええ、たしかに」
ペイシェンスと警部は、たがいに顔を見合わせた。では、やっぱりそうだったのだ。あのジョージ・フィッシャーの話はでたらめじゃなかったのだ。
「じゃ、その男の様子とか特徴を、おぼえていらっしゃいまして、ラディさん?」ペイシェンスが、やさしくほほえんでたずねた。
ミス・ラディの顔がパッとかがやいた、「ええ、よくおぼえてますとも、中年の男で、とても大きなひげをはやしてましたわ、映画に出てくるチェスター・コンクリンみたいなひげ」婦人の顔が赤くなった、「ご存じでしょ、喜劇俳優のチェスター・コンクリン? ただちがうところは、かなり白いものがまじっていましたけど」
「そうですよ、ラヴィニアが――ラディさんが、その男のことをわたしに注意してくれたとき」痩せて骨の出たマーサが興奮して、つけたした、「背が高くって痩せた男だなって、わたし、思ったんです!」
「だれかほかに、その男に気がついたひとは?」と警部がたずねた。
どの顔も、なんの反応もしめさなかった。
「すると、ご婦人方は、見知らぬ男が貸し切りバスに同席していても、いささかもご不審に思わなかったようですな」サムが皮肉った。
「あの、わたしも、じつはそう思ったのですけれど」ミス・ラディが口ごもった、「どうしていいのかわかりませんでしたし、それに、バス会社のひとかと思ったものですから」
やれやれといった表情で、警部は食堂の天井《てんじょう》を見上げた、「その男を、帰りのバスの中でも見かけましたか?」
「いいえ」ふるえ声で、ミス・ラディが答えた、「わたしもよく気をつけて見たんですが、もうその男は、おりませんでしたわ」
「いや、結構です。さてと、これで一歩前進したわけだが――」警部はうす気味の悪い笑いをうかべて言った、「まだ十八人にしかならん。ところが事実は、昨日のバスに十九人乗っておったことが判明している。さ、みなさん、胸に手をあてて考えてください。だれかがきっと十九人目の人物を見ているにちがいないと思うんだが」
ペイシェンスがつぶやいた、「テーブルの、あの端に坐っているチャーミングなご婦人が、なにかご存じじゃないかしら。さっきから二分ほど、なにか言いかけては、口をピクピクさせていらっしゃるけど」
すると、そのチャーミングな婦人は、ゴクッとつばをのみこんだ、「あの――ただ、こう申しあげたかっただけですの」彼女はブルブルふるえながら口をひらいた、「わたし、ほかにもうひとり、見かけたものですから――いいえ、わたしたちのグループの方ではなくて。青い帽子の男ともちがいます、そのひととはべつの男で――」
「ははあ、男ですな?」警部はすかさず喰いさがった、「で、その男はどんな様子の?」
「そのひとは、そのひとは――」彼女は口ごもった、「背の高い男だったように思いますけど」
「あら!」鼻の頭に|いぼ《ヽヽ》のある女傑《じょけつ》が大声で口を入れた、「スターバックさん、それはちがいますよ!」
チャーミングな婦人が鼻を鳴らした、「かもしれませんわね、でもわたし、この眼でちゃんと見たんですから」
「おや、わたしだって見ましたよ!」女傑が叫んだ、「ノッポどころか、ずんぐりしてたじゃありません!」
何人かの眼に、パッとひかりがさした。
「やあ、思い出しましたよ」デップリと肥った禿頭の紳士がのり出した、「そうだ、あの男なら、小柄でやせていた。年は、そう――四十ぐらいだったかな」
「バカおっしゃい!」女傑がピシリときめつけた、「あなたは、もの覚えの悪いことにかけて有名じゃございませんか、スコットさん。わたしははっきり覚えていますけど――」
「そうね、いまになって考えてみると」小柄な老婦人がおずおずと切り出した、「わたしも、その男を見たような気がしますよ、背のスラリと高い、がっしりした体格の青年で――」
「ちょっと待った」警部がうんざりして叫んだ、「こんなことではどうにもならん。ま、いずれにしろ、あんたがたはだれひとり、この十九人目の人物がどんな男だったか、はっきりしない、ということだけしかわかりませんな。どなたでも結構、この男が帰りもそのバスで終点まで乗ってきたかどうか、それだけでもおぼえているひとはいませんか?」
「おぼえておりますわ」ミス・スターバックが即座に答えた、「たしかに、一緒でした。バスからおりるとき、わたしのすぐ前におりましたもの。それっきり、その男の姿は見かけませんでしたけど」
そう言いおわると、チャーミングな婦人は、さからえるものなら、さからってごらんあそばせ、と言わんばかりに、女傑の顔をキッとにらんだ。
だれひとり、それにさからうものはなかった。サム警部は、はて、どうしたものか、と、大きな顎をボリボリかきながら考えこんだ。「ま、よかろう」彼はやっと口をひらくと、「すくなくとも、どの線を追ったらいいか、ということだけは、はっきりしたわけだ。ところで、あんたがたの代表として、あんたを――ええと、お名前はなんでしたかな?」
「オンダードンクです、ルーサー・オンダードンク」スポークスマンがいきごんで答えた。
「では、オンダードンクさん、あんたに代表になっていただいてですな、なにかありましたら、私のほうに連絡してくれませんか? たとえば、あんたがたのなかで、昨日バスに乗っていた見知らぬ男を、二人のうち、どちらでもいいから、見かけた方があったら、ただちに、このオンダードンクさんに知らせる。オンダードンクさんは、それをすぐ、私の事務所に電話してください」
サムがテーブルクロースの上に、自分の名刺をポイと置くと、スポークスマンは、用心深い手つきで、それをひろいあげた。
「では、みなさん、よく見張っていてくださいよ」
「つまり、あなたがたひとりひとりが、探偵になるというわけです」ペイシェンスがあかるい声で言った、「きっとみなさんの、ニューヨーク滞在中の最高の思い出になりますわ」
十七人のインディアナの先生たちが、いっせいに、顔をほころばした。
「さよう、だからといって、そこらをつっつきまわったりせんでくださいよ」警部がうなり声をあげた、「ただじっとして、坐って待っているだけで結構。あと、どのくらい滞在します?」
「予定では」とオンダードンクが、いかにもすまなそうに咳ばらいをして答えた、「金曜日に発つことになっていますが」
「なるほど、一週間の休暇旅行というわけですな。ま、ここを発つまえには、かならず私のところに、電話してください」
「むろん、そうしますとも」オンダードンクは熱心に言った。
警部は、娘のペイシェンスを従えて、パーク・ヒル・ホテルの大食堂を足音高く横切ると、入口のところで青くなってしょげかえっている給仕長をジロリとにらみつけ、ロビーを通って広場に出た。
ホテルを出たとたんに、それまで父親の言いなりになっていたペイシェンスの態度が、ガラリと一変した。「ほんとにいやね、パパったら。あんなおとなしい人たちを頭からおどかしたりして――可哀想に、死ぬほど怖がっていたじゃないの。まるで子供の遠足みたいな連中ばかりだというのにさ」
ところが、思いがけないことに、警部はクスクスと笑った。彼は、道端にとまっているオンボロ自動車のなかで、コックリコックリやっているじいさんの運転手にウィンクすると、娘のほうに顔をむけて言った、「テクニック、そこがテクニックだよ! なに、これが若い女の子だったら眼をクルクルッとさせてニコッと微笑しさえすればそれですむんだが、男がなにか聞き出そうとするときは、そうはいかない。一段と声をはりあげて、おっかない顔の一つもして見せにゃあならん。した手に出てたら、なんにもつかめやしないよ。わしだって、腹のなかでは、あの貧弱なやせっぽ連中を気の毒に思ってたんだ」
「ナポレオンだったらどうかしら?」ペイシェンスは、父の腕に、自分の腕をからませて言った。
「ナポレオンは声が小さかった、などと|からまん《ヽヽヽヽ》でくれよ! いいかね、とにかく、わしは、あの教師の婆さん連中を、うまく手なずけたんだからな」
「いまに手をかまれるかもしれなくてよ」ペイシェンスは、縁起でもないことを言い出した。
警部は苦笑した。「おい、タクシー!」
三 十九人目の男
二人を乗せたタクシーは、ブロードウェイ近くの四十四丁目の通りの南側、歩道沿いに大型バスが何台も駐車している間に、どうやらわりこめた。この観光バスは、やたらとキラキラ光る巨大なしろもので、ピンクとブルーを基調に、勝手気ままな色模様をぬりたくられた|さま《ヽヽ》は、さながら、お天気屋の母親に、ゴテゴテと派手なオベベを着せられた末端肥大症の子供、といった感じだった。また、この巨大な子供の乳母たちときたら、これまたひとりのこらず屈強な青年で、軍隊風のスマートな青灰色の制服に、きれいになめした子牛皮の脚絆《きゃはん》をつけて、ピンクとブルーに塗った小屋のまわりでブラブラしながら、煙草を吸ったり、喋ったりしていた。
警部がタクシー代を払っているあいだ、ペイシェンスは小屋のまえの歩道に立って待っていた。彼女は、制服の青年たちの眼にあらわれたぶしつけな讚美の色に、気がつかぬわけではなかった。
どうやら、そのなかのひとりは、彼女のことが特別にお気に召したらしかった。ブロンドの大男が、制帽をヒョイとまえにのめらせて、ペイシェンスに近づくと、うれしそうに声をかけた、「よう、別嬪《べっぴん》さん、ご機嫌いかが?」
ペイシェンスはニッコリ笑ってみせた、「あまりよくないわ」
その青年は眼を見はった。べつの赤毛の青年が、びっくりしたように彼女を見つめ、それからブロンドの大男にくってかかった、「おい、変なマネをするな。よさないと、きさまを二つにへし折ってやるぞ、このお嬢さんはな――」
「あら、フィッシャーさん!」ペイシェンスが声をあげた、「なんて勇ましいんでしょ! でも、あなたのお友だち、べつに変なマネをするつもりじゃなかったと思うわ。そうじゃなくて、大男のヴィーナスさん?」彼女の目がキラキラ光った。
大男の青年はポカンと口をあけた。それから、パッと顔を赤くした、「そりゃ、そうですとも」そう言うなり、彼はコソコソと運転手の群れのなかに逃げこんでしまった。ドッと爆笑が起こった。
ジョージ・フィッシャーが制帽を頭からとった、「どうか、あの連中のことは気にしないでください、お嬢さん。口の悪いやつばっかりでしようがないんです……や、こんにちは、警部さん」
「よう」警部はぶっきらぼうに答えると、油断なくあたりにたむろしている連中を見まわした、「どうしたんだね、パット? だれか、変なマネでもしようとしたのか?」
若い男たちは、シュンとなった。
「いいえ、そんなことなくてよ」ペイシェンスがあわてて言った、「こんなに早くお目にかかれるなんて、ほんとにうれしいわ、フィッシャーさん」
「はあ」フィッシャーも顔をほころばせた、「こうやって、番がくるのを待ってるところですよ、ぼく――」
「ああ、なにかニュースがあったかね?」と警部がたずねた。
「いいえ、なにもないんです。おたくの事務所を出てから、ドノヒューの下宿と博物館になんども電話してみたんですが、あのおっさん、さっぱり音沙汰がないんです。まったく、いやになっちまいますよ!」
「博物館の連中だって、すこしは心配しそうなものだが」と警部はつぶやいた、「どう言ってたかな、その連中は?」
フィッシャーは肩をすくめた、「ぼくはただ、博物館の番人と話しただけなんです」
サムはうなずいた。彼は胸のポケットから葉巻を一本とり出すと、無造作に端を噛みきった。そうしながらも、警部の眼は、運転手のひとりひとりを観察してまわっていた。彼らはあいかわらず慎重な様子で、だまって立っていた。さっきのブロンドの大男は、隅っこで小さくなっていた。見たところ、どの男も無骨な正直ものぞろいのようだった。サムは葉巻の切れはしをペッと歩道にはき出すと、ピンクとブルーに塗った、あけっぱなしになっている小屋のなかをのぞきこんだ。すると、彼の視線は、受話器をつかんで、なかにつっ立っている男の眼とぶつかった。男はあわてて目をそらした。白髪の赤ら顔の男で、ほかの若い連中とおなじ制服を着ていたが、制帽には、『リボリ・バス会社』という社名のほかに、『発車係』という文字が入っていた。
「ま、いずれなにかわかるだろう」警部の声は急におだやかになった、「あせらずにじっくりとやるんだな、フィッシャー君、さ、おいで、パット」
二人は、あいかわらず黙りこくっている連中のそばを通りすぎると、タイムズ広場《スクエア》の美観を殺《そ》ぐことはなはだしい古い建物の一つに入っていった。ギシギシときしむまっくろな階段をのぼったところにガラスのドアがあって、つぎのような文字が入っていた。
J・シオフェル
支配人
リボリ・バス会社
警部がそのドアをノックすると、なかから男の声が答えた、「お入り!」
二人は、高い桟の入った窓から、ニューヨーク特有の弱い陽《ひ》の光りがさしこんでいる、ほこりっぽい事務室に入った。
支配人のJ・シオフェルは、どこか年寄りくさい若い男で、顔には深い皺がきざみこまれていた、「ご用は?」彼は見つめていた図面から顔をあげると、するどい声でたずねた。その眼は、しばらくペイシェンスにじっとそそがれ、それから警部の顔にうつった。
「サムというものですがね」警部はうなり声で言った、「これは娘です。今朝、フィッシャー君のことで、あんたに電話したのは、この私ですがね」
「そうですか」シオフェルは椅子にもたれながら、ゆっくり言った、「ま、おかけください、お嬢さん。どうなさったのです、警部さん? どうも今朝の電話は、よく事情がのみこめなかったものですから」
「どうというほどのことではないのです、それより」サムは支配人の顔を穴のあくほど見つめて、「どうしてこの私が、警部だと分ったんです?」
シオフェルはかるく微笑した、「私は見かけほど若くはないんですよ。こう見えても、警部さんの写真が毎日のように新聞に出てたころのことを覚えているんですからね」
「ほう」と警部が言った、「葉巻はどうです?」シオフェルは頭をふった。
「じゃあ」と語尾をひきのばしながら、サムは椅子に腰をおろした、「ちょっとばかり気になることがあるんで、調べているんですがね。じつは、シオフェルさん、インディアナから来た先生たちの貸切りバスを予約した人を知りたいんですが?」
支配人は、目をしばたたいた、「たしか――いや、待ってください、たしかめてみますから」彼は立ちあがると、分厚い綴じこみをあちこち引っくりかえしていたが、一枚のメモをとり出した、「ああ、やっぱりそうだ、オンダードンクさんという方ですよ。この方が幹事らしく、二、三週間まえに手紙をくださいましてね、金曜日には、パーク・ヒル・ホテルから電話をかけてこられたし」
「それは、昨日の市内見物の打ち合せでしたの?」ペイシェンスが眉をしかめながらたずねた。
「正確にはそうじゃないのですよ、お嬢さん、その件もありましたがね。幹事さんは、みなさんがニューヨークに滞在なさるあいだ、まる一週間、バスを借り切りたいといわれたのです」
「すると、連中は土曜日も日曜日も出かけたわけですな?」とサムが口をいれた。
「はい、さようで。今日も明日も、とにかく一週間分の日程がおわるまで、ずっとそうですよ。まったくたいしたスケジュールです。ま、変っているといえば、いささか変っていますがね。むろん、特別料金は頂戴《ちょうだい》いたします」
「ふむ、はじめから総勢は十七人でしたか?」
「十七人? はい、そのとおりで」
「土曜日と日曜日も十七人でしたか?」
シオフェルは、びっくりしたように警部の顔を見つめた。それからニッコリ笑って、「十七人のはずですよ。ま、私の知るかぎりではね。ちょっとお待ちを」そう言うと、支配人は、卓上の受話器の一つをとりあげた。外線を通さない構内直通電話のようだった、というのは、いきなり彼が電話口でこう言ったからだ、「バービイかね、シャレックとブラウンを呼んでくれ」支配人はゆっくりと受話器をかけた。
「バービイというのは」と警部がたずねた、「発車係ですな?」
「そうです」
「なるほど」警部はマッチをすって、葉巻に火をつけた。
ドアがあいて、見るからに屈強そうな制服の男が二人入ってきた。
「ブラウン」シオフェルが、先に立って入ってきた男に、いかめしい口調で言った、「土曜日に、パーク・ヒル・ホテルの先生がたを受持ったのは君だったな、人数をかぞえてみたか?」
ブラウンは眼をみはった、「ええ、むろんですとも。十七人でしたよ、シオフェルさん」
支配人は、その男にするどい一瞥《いちべつ》をくれると、もう一人のほうにむかって言った、「君はどうだった、シャレック?」
「やっぱり十七人でしたよ、親方《チーフ》」
「二人とも、その点はたしかだな?」
二人の男は、胸をはってうなずいた。
「よし、もういい」
男たちが出て行こうとしたとき、警部が陽気な声でよびとめた。「ちょっと待った、階下へ行ったら、すまんが発車係のバービイに上ってくるように言ってくれんかね」
支配人は、男たちのたずね顔にうなずいてみせた。二人の背後でドアがしまると、支配人は警部に喰ってかかるようないきおいで言った、「まさか、あなたは――」
「こんどはこっちにまかせてくれるでしょうな、シオフェルさん、餠《もち》は餠屋といいますからね」警部はニヤリと笑って両手をもみながら、そっと横目で娘の顔をうかがった。だが、なにか懸命に考えているらしく、彼女は顔をしかめていた。サムは依然として、父親につきものの、自分の娘にたいするとほうもない驚きを禁じえないのである。なにせ、自分も人の子の親だと、サムが実感したのは、ペイシェンスがおさげ髪の時分から、眉を剃る年ごろまでにおよぶ、長いヨーロッパ生活を打ちきって帰国してからのことなのだから、それも無理はないのだ。とはいうものの、いま、この瞬間、娘の同意を求めようとした警部の沈黙の訴えは、すげなく無視されてしまったではないか。ペイシェンスは、あれこれと思案するのに、熱中していたのである。残念ながら、この大きな図体をした父親の虚栄心を満足させてやろうという思いやりは、どこにも見あたらないという始末。警部はため息をついた。
と、このとき、ドアがあいて、さっきの小屋にいた白髪の男が入ってきた。男は必要以上に唇をかたくむすんで、サム親子の存在をことさら無視するような態度に出た。
「お呼びで、シオフェルさん?」男はしゃがれ声で言った。
サムが横あいから、本職の刑事がいつも使う、あのさりげない口調で言った、「吐いてしまえよ、バービイ」
男は、ふしょうぶしょう、頭を警部のほうにむけた。サムと視線がピタリとあうと、男は一度、|まばたき《ヽヽヽヽ》して、あわててその眼を横にそらした。「いったい、なんのこってす? さっぱりわかりませんがね、旦那」
「おまえを調べに来たんだ」サムはチョッキのわきぐちに親指をひっかけた、「さ、バービイ、ネタはあがってるんだ。隠し立てをすると、|ため《ヽヽ》にならんぞ」
バービイはキョロキョロあたりを見まわし、舌で唇をなめると、口ごもりながら言った、「どういうことなのか、てんで分りませんや――ネタだなんて、なんのこってす?」
「わいろだ!」警部は一言《ひとこと》、ふるえあがらせるような声で言った。
発車係の顔面から、血の気がだんだんなくなってくると、ダラリとたれた大きな手が、力なくよじれた、「いったい――いったい、どうやって、かぎつけたんです?」
ペイシェンスは、はりつめていた息を、しずかにゆっくりと吐き出した。シオフェルの皺のきざみつけられた顔に、怒りの色がうかんできた。
警部は微笑した、「かぎ出すのが商売なんだからな。正直なところ、いますぐにでも、おまえを豚箱にたたきこんでやりたいんだが、こちらのシオフェルさんが、おまえさえその気になって、すっかり泥を吐くんなら、なんとか大目に見てくださると、こうおっしゃるんだ」
「そのとおりだ」支配人がかすれた声で言った、「いいか、バービイ、警部さんのおっしゃるとおりなんだぞ! さ、いつまでも唖《おし》みたいにつっ立っていないで、さっさと喋ったらどうなんだ?」
バービイは、もじもじと制帽をいじくりまわした、「なにしろ、あっしは――あっしは家族もちなもんですから、会社の規則に違反するってこたあ、百も承知だったんですがね。金の顔を見たとたんに、ついその――目がくらんじまって。そりゃあ、はじめは、このあっしだって野郎に言ってやったんですよ、まっぴらご免だって――」
「そいつは、スープ濾《こ》しみたいな鬚をはやした、青い帽子の男だな?」サムがすかさずたたみこんだ。
「へい、さようで! あっしはその野郎に、だめだって言ってやったんですよ、そしたら、あっしの鼻先に十ドル札《さつ》をちらつかせやがって――」バービイは口ごもった、「で、つい悪いとは知りながら、引き受けてしまったんです。その野郎を、先生連中といっしょにバスに乗っけた、すると一分もしないうちに、またひとり男があとからやって来て、まえの野郎とおなじことを言うじゃありませんか。フィッシャーの運転するバスに乗せてくれってね。で、どうせ最初の野郎に、|うん《ヽヽ》と言ったからには、一人乗せるも二人乗せるもおなじこと、あと五ドルにでもありつければと思ったもんですから――その野郎も、手を出して、あっしに握らせるんでさあ。で、二番目の野郎も、そのバスに乗りこんだというわけで。あっしの知っていることは、それだけなんですよ」
「運転手のフィッシャーも、仲間に入っているのか?」シオフェルがきつい語調でたずねた。
「いいえ、シオフェルさん、あの男はなんにも知りませんや」
「二番目のやつは、どんな男だった?」と警部がたずねた。
「なあに、脂肪のかたまりみてえな野郎ですよ、旦那。ネズミそっくりの面《つら》で、色が黒く、きっとイタリア人にちげえねえ。パレスのあたりをうろついているような、キザな|なり《ヽヽ》をした野郎で。みょうちきりんな指環なんかを左手にきらつかせやがって――そうだ、野郎は左ギッチョでしたよ、旦那、左手で、あっしに札《さつ》を握らせましたからね――」
「みょうちきりんな指環というのは、どういうんだ?」
「ほんとは石のはまっているところに、かわりにちっぽけな馬蹄《ばてい》がついてましてね」バービイは、つっかえながら説明した、「そいつはプラチナかホワイトゴールドでできていて、小粒のダイヤがちりばめてありましたよ」
「ふーむ」警部は、大きな顎をボリボリとこすった、「まえには一度も見たことのない男なんだな?」
「へい、まるっきり!」
「こんどまた、顔をあわせたらわかるか?」
「そりゃあ、むろんですとも!」
「その男は、先生の一行といっしょにもどってきたが、一番目の青い帽子の男はもどってこなかった、そうだな?」
バービイは、警部の千里眼に、眼をまるくした、「へえ、まったくそのとおりで」
「よろしい」警部は腰をあげると、机ごしに右手をさし出した、「おかげでたすかりましたよ、シオフェルさん、ま、この男のことは、どうか大目に見てやってください」サムは支配人に片目をつぶってみせると、まだオドオドしている発車係の肩を、ポンとひとつたたいて、ペイシェンスの、手袋をはめた手を自分の腕にはさみ、ドアにむかって歩いていった。
「この教訓はだな」警部はギシギシきしむ階段をおりながら、上機嫌で娘に言った、「ある男が、おまえのことをじっと見つめていながら、おまえが見かえすとあわてて眼をそらしたら、きっとなにか|くさい《ヽヽヽ》ことがあるということさ。わしには、その床屋のけばけばしい看板みたいな小屋のなかに、あの男がいるのを見た瞬間、あいつはくさいぞ、とわかったのだ」
「まあ、パパったら」ペイシェンスはゲラゲラ笑い出した、「ずいぶん、しょってるのね、あたし、どうしましょ? ところで、これから――」
警部の顔がくもった、「じつはそれなんだよ、行方不明になったドノヒューの手がかりはさっぱりないし……とにかくだな」サムはしめっぽい口調で、ため息をつきながら言った、「クソいまいましい博物館に行ってみようじゃないか」
四 ロウという青年
ブリタニック博物館は、第五アヴェニューの六十五丁目あたりにあって、その両側を簡素なアパートにはさまれた、高くて細長い四階建ての建物だった。見上げるばかりに大きな青銅の扉は、セントラル・パークの森に面し、北と南は、すっきりした形のアパートのひさしとむかいあっていた。
サムとペイシェンスは、歩道から一段だけ高くなっている入口の敷石の上に立ち、青銅の扉をまじまじと見つめた。その扉には、しぶい浅浮彫りがほどこしてあった。二枚開きの扉の、それぞれ中央部には、シェイクスピアの巨大な顔が彫ってあった。ひどく冷酷で、容易にひとを寄せつけたがらない感じの扉だった。いや、感じばかりか、実際、それにひけをとらないくらいのすげない札が、青銅のノブにぶらさがっていた。それにはただ、ぶっきらぼうに、『修理中につき閉館』と書いてあるだけだった。
だが、サムは、そんなことぐらいで、あっさりとひきさがるような男ではない。右手をにぎりしめて、ゲンコツをつくると、青銅の扉をガンガンたたいた。
「まあ、パパったら!」ペイシェンスがクスクス笑った、「シェイクスピアの顔をなぐっているのよ!」
警部はニヤッと笑うと、さらにはげしく、このエイヴォン生れの詩聖の鼻をなぐりつけた。と、ボルトをガタガタいわせる音がしたかと思うと、大きな団子鼻をした老人の、鬼|がわら《ヽヽヽ》のような顔が、ヌッとあらわれた。
「おい!」鬼|がわら《ヽヽヽ》の老人がどなった、「おまえさん、英語が読めないのかい?」
「やあ、ちょっと通してくれよ」警部が快活な口調で言った、「急いでいるんだ」
だが、門番はガンとしてゆずらなかった。団子鼻が、まるで内気な百合《ゆり》の球根みたいに、あいかわらず、扉のすきまから突き出ている。
「なんの用だね?」老人はつっけんどんにたずねた。
「むろん、中に入りたいのさ!」
「そいつは駄目だ。一般公開中止、目下修理中」扉のすきまが、なくなりかけた。
「待て!」なんとかして喰いとめようと、警部はむなしい努力をはらいながら、がなり立てた、「おい、こちらは警察だぞ!」
シェイクスピアの顔の背後から、老人のクックッという無気味なふくみ笑いがきこえたかと思うと、やがてシーンとしずまりかえってしまった。
「クソッ! 老いぼれの馬鹿野郎!」警部はカンカンになってわめきちらした、「こんなボロ扉なんか、ぶっこわしてやるぞ!」
ペイシェンスは、扉にもたれたまま、おなかをよじって笑った、「ああ、もうやめて、パパ!」あまりのおかしさに、あえぎながら言った、「これ以上笑ったらくるしいわ! 不滅のシェイクスピアの鼻になんか手をかけるから、バチがあたったのよ……そうだ、いい考えがあるわ」
警部は不機嫌そうに鼻をならした。
「さ、そんなに疑わしそうな顔をしなくてもいいのよ、くやしがり屋のパパ! 敵のなかにも味方あり、だわ、そうでしょ?」
「それはどういうことだ?」
「不滅の名優ドルリー・レーンよ! たしか、レーンさんはブリタニック博物館の後援者の一人だったわね? あの方に電話を一本してもらえば、それこそ『開け、ゴマ』よ」
「あ、そうか、なるほど! パット、頭がいいぞ、さすがわしの娘だ。さてと、電話はどこかな?」
*
一区画ほど東に行ったマジソン街のドラッグ・ストアに、公衆電話のボックスが見つかった。警部は、ハムレット荘へ長距離電話をかけた。
「もしもし! こちらはサムだが、あんたは?」
信じられないほど年とった声が、かん高くひびいた、「クェイシーですよ、こんにちは」
クェイシーというのは、もともと、ドルリー・レーンの扮装係で、いまは年金をもらって老優の身のまわりの世話などをしているが、たいへんな高齢で、レーンにつかえてから、もうかれこれ四十年以上になる。
「レーンさんはおられるかな?」
「レーンさまは、ちょうどいま、ここにおいでですよ、警部さん。あなたは悪い人だと、おっしゃっています」
「いや、そう言われると、穴にでも入りたいくらいだ。つい、ごぶさたばかりしてしまって、ほんとに申しわけなく思っているんだよ。ご老体はどうだ、元気かね? ところで、レーンさんにおねがいがあると、伝えてくれないかね」
電話線のむこうで、なにか伝えている声がきこえた。老優にとって、超人的とも言える読唇術のおかげで、顔をあわせての会話なら、なに不自由なかったが、さすがに電話だけはまったくのお手あげだった。そこでクェイシーが、もうながいこと、レーンの耳がわりをつとめているというわけである。
「事件か、とレーンさまはおっしゃっておりますが」やっとクェイシーの声がひびいてきた。
「ま、そんなところだ。いや、じつに不思議なことが起こって、それをいま調査中なんだが、それでブリタニック博物館に行かなければならないんだよ。ところが、門番の|もうろく《ヽヽヽヽ》野郎が、わしらを中に入れようとしないんだ。修理のために休館中だといってな。そこを、レーンさんのお力で、なんとかしてもらえないだろうか?」
しばらく沈黙があり、やがてきこえてきた声が、レーン自身のものだったので、サムはびっくりした。高齢にもかかわらず、かつて世界最良の|のど《ヽヽ》とうたわれた、そのすばらしく豊かで柔軟な声帯は、いぜんとして衰えをみせていない。「もしもし、警部さん」とドルリー・レーンは言った、「こんどは、あなたに聞き役にまわってもらわなくてはなりませんよ」老優はクスクス笑った、「私のほうはあいかわらず独白一点ばりの苦しみというやつです。ペイシェンスさんはお元気でしょうね? いやいや、ご返事にはおよびませんよ、文字どおり、聞く耳をもたぬ身ですからね。……それはそうと、ブリタニック博物館になにかあるのですか? いったい、なんでしょう、私にはさっぱり想像もつかない。なにしろ、世界でもいちばん平和な場所なのですからね。ええ、むろん、館長には電話をすぐかけますよ、チョート博士――ご存じでしょう、館長のアロンゾ・チョートは、私の親友でしてね、きっと博物館にいると思いますが、もしいなかったら、居場所をつきとめて、電話しておきます。たぶん、お二人が博物館にもどられるまでには――どうせ近くで、この電話をおかけになっているのでしょう?――入館の許可が得られると思いますよ」老優はホッと息をついた、「では、ごきげんよう、警部さん、近いうちにぜひ、お嬢さんと、ハムレット荘にあそびにきてください。くれぐれもお嬢さんによろしくね」
しばらく沈黙があって、やがてあきらめたようにガチャリと受話器をかける音がした。
「さよなら」サム警部は、ごくまじめな口調で、切れてしまった電話につぶやくと、電話ボックスの外で待っている娘のもの問いたげな視線をさけて、心の感動をかくすために、わざと渋面をつくってみせた。
*
二人がブリタニック博物館にひきかえしてみると、こんどはシェイクスピアのひげが、まえほど無愛想には見えなかった。じじつ、青銅の扉が人待ち顔に開いていた、戸口のところで、背の高い、南部風の優雅な山羊《やぎ》ひげをはやした、色の浅黒い年配の男が、ニコニコと皓《しろ》い歯を見せて二人を出迎えていた。そのうしろには、大きな団子鼻の、さっきの門番が、きまりわる気に、しょんぼりと立っている。
「サム警部さんですね?」山羊ひげの男が、そう言いながら、しなやかな指をさし出した、「館長のアロンゾ・チョートです。こちらはお嬢さんですね! このまえ、レーンさんとご一緒に見学に来られたときのことを、よく覚えておりますよ、さ、どうぞ、どうぞ! 門番のバーチがとんだへまをやりまして、申しわけありません。こんどからは、あんな軽はずみなことはさせませんから。そうだな、バーチ?」門番は、なにやらはしたない言葉を口のなかでつぶやくと、ものかげにひきさがった。
「なあに、あの男が悪かったわけじゃありませんよ」こうなると、警部は鷹揚《おうよう》だった、「命令は命令ですからな。たぶん、レーンさんから電話があったでしょうな」
「ええ、ありました、たったいま、召使いのクェイシーがかけてきました。館内はちらかっていますが、気になさらないでくださいよ、お嬢さん」チョート博士は、微笑をうかべて言った、「ちょうど、不意の来客に、なんと言ってちらかした台所の言い訳をしようかと、戸惑っている主婦のような気持ちですよ。長年の懸案だった館内の模様替えを、いま、やっているところなのです。ま、大掃除というわけですよ、この館長もふくめてね」
彼らは大理石の入口を通って、ちいさな応接室に案内された。ぬりたてのペンキの匂いが、ツンと鼻をさす。家具類はぜんぶ部屋のまんなかに集められ、ペンキ屋が仕事をするときにつかう、あのペンキだらけの布がかぶせてあった。職人たちは、足場の上をはい廻って、壁や天井に、はけでペンキをぬりたくっていた。壁のくぼみに安置されているイギリスの文豪たちの胸像にも、布がスッポリかぶせてあった。部屋のつきあたりには、エレベーターの格子戸が見える。
「博士、あたしにはあまり感心できませんわ」鼻の頭に小皺をよせて、ペイシェンスが言った、「こんなふうに――そう、百合の花にメッキをかけるようなやりかたには賛成できませんの。シェイクスピアやジョンソンやマーロウの骨が、だれにもさまたげられずに自然に朽ちるままにまかせたほうが、礼儀にかなっているんじゃないかしら?」
「いや、そこなのですよ」と館長が言った、「私もまったく同感です。しかし、ここの理事会は新しがり屋でしてね。沙翁《シェイクスピア》室の壁を、モダン絵画で飾ろうなどという思いつきをやめさせるのに、えらく苦労させられた始末なのです」博士はふくみ笑いをすると、警部の顔を横目で見た、「では、私の部屋へまいりましょうか、すぐ、このむこうですから。そこなら、まだペンキ屋さんが入っていませんから大丈夫です」
博士は先に立って、ペンキの飛び散った布の上を進み、奥まった一室のドアをあけた。ドアの上には、上品な字体で、博士の名前が書いてあった。その部屋は、ひろびろとして明るく、樫板《オーク》を張りわたした壁には、書物がきれいに並んでいる。三人が入って行くと、それまで肘掛け椅子で熱心に本を読んでいた青年が、ハッと顔をあげた。
「やあ、ロウ君」チョート博士が大きな声を出した、「邪魔をしてすまないね。こちらはドルリー・レーンさんのお友だちの方々なのだ。ご紹介しよう」青年はサッと椅子から腰をあげると、人なつこい微笑をうかべて、椅子のわきに立った。そして、ゆっくりしたしぐさで、角縁の眼鏡をはずした。眼鏡をとると、感じのいい顔だった。背が高く、運動選手のようなガッシリした肩つきなので、はしばみ色の眼にうかんでいる、疲れた学者のような表情とは、なにかチグハグな感じだった。
「ミス・サム、こちらはゴードン・ロウ君です。このブリタニック博物館には、まだ来て間もないのですが、たいへんな勉強家でしてね。こちらはサム警部」
青年は、ペイシェンスの顔から目をはなそうともせずに、警部に手をさしのべた、「博士、おかげさまで、疲れた目の保養ができました。ミス・サム……だけど、あまりいい名前じゃありませんね。ぜんぜん似合いませんよ。ええと……ああ、警部さん! あなたのお名前は、きいたことがあるような気がします」
「どうも」警部がぶっきらぼうに言った、「あんたのお邪魔をしちゃいけませんな、|なんとか《ヽヽヽヽ》君《くん》。わしらはどこかべつの部屋に行って、このお若いのに、三文小説をゆっくり読ませてやりましょうや、博士」
「パパ!」ペイシェンスがあわてて口を出した、「ロウさん、ごめんなさい、パパは、名前のことをとやかく言われたんで、きっとツムジをまげたんだわ」
彼女の頬がパッと赤くなった。青年は、いくら警部がにらみつけようとまったくシャアシャアとしたもので、あいかわらず冷静な眼差しで、ペイシェンスを観察していた。
「あなたなら、どういう名前をつけてくださって、ロウさん?」
「ダーリング」とロウはあたたかい口調で言った。
「ペイシェンス・ダーリング?」
「いや、ただダーリングですよ」
「おい!」警部がとうとう、がまんしきれなくなって、怒鳴り出した。
「まあまあ、みなさん、おかけになってください」博士がおだやかに微笑して言った、「ロウ君、すこしはつつしみたまえ。さ、お嬢さん、どうぞ」ペイシェンスは、じっと自分をみつめる青年の視線が、かすかにみだれるのを見て、どうしたわけか、急に手首の動脈がピクピク打ちはじめるのを感じながら、椅子に腰をおろした。つづいて警部も椅子にかけ、博士も坐ったが、ロウだけは立ったまま、なおもペイシェンスを見つめていた。
「待つというのは、いやなものですな」とチョート博士がいそいで口を切った、「まだやっとはじまったばかりで、いや、ペンキ屋の話なんですがね。二階から上は、まだぜんぜん手がつけてないのです」
「はあ」サムは気のない返事をした、「ところで、じつは――」
ゴードン・ロウがあいまいな微笑をうかべると、椅子に腰をおろした、「もしもお邪魔でしたら――」快活な声で言った。
サム警部はホッとしたような顔をした。だが、ペイシェンスが先手を打って、父親の顔をにこやかにチラリと見ると、館長に言った、「さっきのお話ですと、この大掃除のなかに、館長さんもはいっていらっしゃるとか……ロウさん、どうぞ、ここにおいでになって」
チョート博士は、自分の細長い机をまえにして、回転椅子に背をもたせかけながら、室内を見まわした。博士はホッとため息をついた、「ま、そう言えるでしょうな。まだ正式の発令はないのですが、やめることになっているのです。隠退ですよ。この建物で、もう十五年も暮らしましたし、ここらで、自分のことを考えてもいい時期だと思いましてね」博士は眼をとじて、つぶやくように語った、「これからのことは、はっきりきめてあるのですよ。コネティカット州の北部に、目をつけておいたイギリス風の小さな家を買って、読書|三昧《ざんまい》の世捨人で、余生をおくるつもりなのです……」
「そいつはすばらしい考えですな」と警部が口を入れた、「ところで、さきほどの――」
「すばらしい」ロウ青年が、いまもなおペイシェンスを見つめたまま、つぶやいた。
「レーンさんからあたしがお話をきいただけでも、博士はもう、お休みになっていいだけのお仕事を立派になさいましたもの」と言ってから、ペイシェンスはあわててつけ加えた、「で、いつ、おやめになりますの?」
「それはまだ決めてないのです。後任の新しい館長が来ることになっていましてね。じつは、後任者は、今夜の船で、イギリスを発つはずなのです。明朝、こちらに着いて、われわれと会う予定ですがね。ま、馴《な》れるまでには、いくらか日時がかかるでしょうから、後任者が独力でやっていけるようになるまで、むろん私は、ここに残りますよ」
「今日は社交的な訪問ですか、ミス・ダーリング?」だしぬけに青年が、ペイシェンスにたずねた。
「あたし、アメリカがイギリスから借りてくるのは、絵画や書籍ばかりかと思っていましたわ」ペイシェンスはいくらかドギマギしながら言った、「こんどいらっしゃる新任の館長さんは、きっと本の蒐集家で、その方面の大家なのでしょうね。有名な方なんですか?」
警部は、椅子の中でイライラしていた。
「ま、外国ではわりと名前の売れているひとですがね」チョート博士が、こまかに手をふりながら答えた、「一流の学者とは、ちょっと言えないでしょうな。ながいこと、ロンドンのちいさな博物館の館長をしていたのです、ケンジントン博物館というね。彼の名前は、セドラー、ハムネット・セドラー……」
「コチコチのイギリス人ってわけですよ」と青年が|やっき《ヽヽヽ》になって言った。
「ここの理事長のジェイムズ・ワイス氏が、個人的に契約して、呼ぶことになったのです」
ペイシェンスは、いつまでも目をかがやかして、自分を見つめている青年の視線を、なぜか急に受けとめられなくなって、ほっそりした自分の眉をつりあげた。理事長のワイスという男は、たいへんな敏腕家で、ぬけ目のない大富豪だったが、同時に、なかなか教養もあり、学問に対する強い尊敬の念ももっていた。
「おまけに、新館長のセドラーには、ジョン・ハンフリイ・ボンド卿の熱心な推薦《すいせん》もありましてね」チョート博士はおだやかな口調でつづけた、「それが大きく|もの《ヽヽ》を言ったわけですよ。ここ何十年来、イギリスではもっとも著名なエリザベス朝の文献蒐集家として通ってきた人物ですが、警部さんだって、そんなことはよくご存じでしょうな」
サムは、博士に顔をむけられて、ドギマギした。ゴホンと咳ばらいをすると、「いや、知っていますとも。それはそうと、じつは――」
「ぼくがここにいても、お邪魔じゃないでしょうね?」突然、ロウが言い出した、「正直なところ、だれか来ないかな、と思っていたんですよ」青年は声をあげて笑うと、読みかけの、みるからに重そうな二折本を、パタンと閉じた、「今日はぼく、ほんとにツイてますよ」
「ええ、かまいませんわ」とペイシェンスがつぶやいた。その顔は、ほのかに上気していた、「あたし、あの――少女時代をほとんどイギリスですごしたんですけど――」
「幸運なるかな、イングランド」青年が敬虔《けいけん》な口調で叫んだ。
「――いつも感じたことは、たいていの教養あるイギリス人が、あたしたちアメリカ人のことを、どこか変りもので、お行儀のわるい野蛮人のように考えているんです。ですから、こんど、後任のセドラーさんをお呼びするのに、さぞかし莫大な――」
チョート博士は、ひげの奥で、クックッと笑った、「ところがそうではないんですよ、お嬢さん、当博物館の予算では、莫大どころか、セドラー氏がロンドンの博物館でとっていた給料さえあげられない始末なのです。しかし、氏はこちらに来ることを、心からよろこんでいるのですよ。なにせ、二つ返事で、ワイスさんの申し出を承認したのですからね。ま、われわれ同様、世慣れていないのでしょうな」
「まったくだ」とロウがため息をついた、「もしぼくが世慣れた人間なら――」
「だけど妙な話ね」ペイシェンスが微笑をうかべて言った、「いつものイギリス人気質とそぐわないみたい」
警部は大きく咳ばらいをすると、「さ、パット」と叱るように言った、「チョートさんはおいそがしい身体なんだから、われわれの無駄話に、一日中、おつきあいをしていただくわけにはいかないんだよ」
「なにべつに警部さん――」
「チョートさんのようなご老体は、お嬢さんみたいな美しい女性と話をするのが、なによりの楽しみなんですよ、警部さん」ロウが愛想よく言った。
サムの眼に、もう我慢ならん、といった光がギラギラしだした、「われわれがこちらに来た目的はですな、チョートさん」警部は青年の言葉など頭から無視して言った、「ドノヒューの調査なんです」
「ドノヒューですと」館長は当惑したような顔をロウにむけた。すると、青年が眼をかがやかせて、身を乗り出した、「ドノヒューがどうかしたんですか?」
「どうかしたかって?」警部はうなり声を出した、「ドノヒューが行方不明なんだ!」
青年の微笑がかき消えた、「行方不明?」彼は間髪いれず、ききかえした。
チョート博士は顔をしかめた、「それはたしかなのでしょうね、警部さん? うちの特別警備員のことを言っておられるのだと思いますが?」
「むろん、そうですとも! 今朝、出勤していないのを、ご存じじゃなかったんですか?」
「いや、それは知っています。だが、べつに、気にもとめなかったのですが」館長は椅子から立ち上ると、机のうしろの敷物の上を歩きはじめた、「門番のバーチが、今朝、ドノヒューが来てないとかなんとか、私のところに言ってきましたが、べつだん私は、気にかけなかったわけで――そうだ、ロウ君、私がそう言ったのを、君もおぼえているね? あの男はなかなか評判がいいので、ほかの勤め先よりもずっと気ままにやらせていたのです。おまけに休館中のことでもあるし……で、いったい、なにが起こったというのです、警部さん?」
「さよう、われわれの知っているかぎりでは」警部は冷酷な口調で言った、「昨日の午後、教師の一行がこちらを見学しているあいだに、ドノヒューがあわてたようにこの博物館を出て行ったきり、だれも姿を見たものがないんです。下宿にも帰らないし、友人との約束はすっぽかすし――とにかく完全に消えてしまったんですよ」
「ずいぶん、変な話だとお思いになりません、博士?」ペイシェンスが口を出した。
ゴードン・ロウは、手にしていた本をしずかに置いた。
「いや、まったくおかしい」チョート博士が当惑顔で言った、「教師の一行とね……あのひとたちは、みんな、おとなしそうな方ばかりでしたがね、警部さん」
「あなたが、私のように、ながいこと警察の|めし《ヽヽ》を喰っていれば」と警部が反ぱくした、「たやすく人の見かけなど信じなくなりますよ。たしか、あなたご自身が、連中の案内をなさったという話ですが」
「そうです」
「一行は何人だったでしょう? おぼえておられますか?」
「いや、いっこうに。かぞえてみませんでしたからね」
「ひょっとして」ペイシェンスがものやわらかくたずねた、「青い帽子の、灰色のひげをモジャモジャにはやした中年の男に、お気づきじゃなかったでしょうか?」
「私のような、いつもとじこもって暮らしている人間には、悪いくせがありましてな、お嬢さん、たいてい、まわりのことに気づかないのです」
「ぼくは気づきましたよ」ロウが、その細い顎をポキッといわせて言った、「もっとも、チラッと見ただけだけど、残念!」
「それはお気の毒」警部が皮肉たっぷりに言った、「すると博士、あなたはただ、館内を案内されただけなんですな?」
「いや、大失敗でしたね、警部さん」館長は肩をすくめて、そう言った、「ところでお嬢さん、なぜまた、青い帽子の男のことを、とくべつにおたずねになるのです?」
「その青い帽子の男は、昨日の教師の一行のメンバーじゃなかったからですの。それに、ドノヒューの失踪が、きっとなにか、この男とつながりがあると、あたしたち、にらんでいるものですから」
「そいつはおもしろい」とロウがつぶやいた、「博物館の陰謀というやつですよ、博士! 骨の髄からのロマンチックなアイルランド気質が出ていて、いかにもドノヒューにうってつけの事件じゃありませんか?」
「すると、ドノヒューがなにかの異常に気づいたと言うのかね」チョート博士が思案顔で言った、「その青い帽子の男に不審の念をいだいて、自分ひとりで探ってみる気になったというわけか? いや、そうかもしれない、あり得ることだ。もっとも、ドノヒューの身になにか起こるというようなことは、まずないと思いますよ。あの男のことだから、うまく切りぬけて、無事にもどってくるにちがいありません」
「じゃ、いま、どこにいるというのです?」警部がそっけない口調で言った。
チョート博士は、また肩をすくめてみせた。博士が、警部の危惧《きぐ》など、すこしも気にかけていないことはあきらかだった。博士は、ニッコリ笑って、椅子から立ち上った。「さあ、用件がおすみなら、どうです、館内をひとまわりなさいませんか? お嬢さんもいかがです? いつか見学においでになったことがありましたね。じつは最近、たいへん貴重な寄贈があったのです。きっとお気に召すと思いますよ。サクソン室という部屋に置いてあるのです。サミュエル・サクソンですよ、このあいだ亡くなった――」
「いや――」警部がうなり声をあげた。
「ぜひ拝見したいですわ」ペイシェンスが横からいそいで言った。
*
まるで、イスラエルの民をひきいて紅海を渡るモーゼのように、チョート博士はみんなの先頭に立って、ペンキだらけのカンバスの海をふみわけ、応接室をぬけて廊下をおり、ギッシリ書物のつまった壁にやはり布のかけてある大きな読書室に、三人を案内した。サム警部がいかにも気のすすまなそうに博士とならんで、とぼとぼ歩き、ペイシェンスと背の高い青年のロウが、そのあとにつづいた。ごくさりげなく巧妙に仕組まれたこの配列が、さらにペイシェンスの頬に赤味をもたらした。
「おともしてもいいのでしょうね、ダーリング?」青年がささやくようにきいた。
「あたし、ハンサムな男性とご一緒するのを、おことわりしたことなど、一度だってありませんわ」ペイシェンスは、ツンとすまして言った、「それに、いまさらあなたをうぬぼれさせたって、べつにあたし、おどろきませんもの。ロウさん、あなたのこと、若いににあわずいけずうずうしい男だって、だれかに言われたことなくって?」
「そりゃあありますよ、兄貴のね」とロウがまじめくさって言った、「顔をなぐりつけたとき、そう言われましたよ、ねえ、ダーリング、ぼくはあなたのような女性に、うまれてはじめて――」
と、そのとき、読書室からさらに奥に通じるドアのところまで来ていたチョート博士が、大声で言った、「じつを言うと、私よりロウ君のほうがサクソン室にはふさわしいのですよ、お嬢さん。彼は本に出ているような神童のたぐいでしてね」
「まあ、こわい」ペイシェンスは頭をふった。
「冗談じゃない、まっ赤な嘘ですよ」ロウはあわてて否定した、「博士、ただではすましませんよ! わが敬愛する博士の言われたことはね、ミス・サム――」
「あら、また名前がサムになったのね?」
青年はパッと顔を赤くした、「これは失礼、ときどき、ぼくは混乱するんですよ。チョート博士が言われたのは、ぼくが運よくサム・サクソン老人の目にとまったということなんです。彼は、ご承知のように、数か月まえに亡くなったのですが、その遺言で、このブリタニック博物館に、稀覯書《きこうしょ》がごっそり寄贈されたんです。ぼくがたまたま、彼に面倒《めんどう》をみてもらっていたものですから、なかば職員みたいな資格で、遺贈された書物類がここにうまく住みつくまで世話をする、といったわけなんですよ」
「ますますこわいわ、ロウさん。だってあたし、どっちかと言えば、お金もなにもない、その日暮しみたいなイカレた若いひとのほうに興味があるんですもの」
「いやあ、ひどいことを言うな」ロウはささやくように言った。と、彼の目がいたずらっぽく動いた、「その日暮し以外の点では、このぼくにだって資格がありますよ! じつを言うと、いま、シェイクスピアについての、ある独創的な研究をしているんです。サクソン氏がぼくをひろって面倒みてくれましてね。彼が亡くなって、この博物館に、氏の蔵書が遺贈されたので、そのたくさんのシェイクスピア文献とともに、ぼくもここに移って、研究をつづけているというわけなんですよ」
四人は、細長い部屋に入った。その新鮮な印象、たちこめているニスの匂い、まだかけてないカーテンなどから察すると、ごく最近、修理が終ったと見ていい。ざっと千冊ばかりの書物があって、その大部分が、むきだしの書棚にならんでいる。とりわけ貴重と思われる少数の書物が、細い金属製の脚のついた、天井にガラスのはってある木製のケースにおさめられてあった。
「やっと整理がすんだところですよ」とチョート博士が説明した、「ここには、たいへん珍しい書物も何冊かあるのです、そうだね、ロウ君。むろん、この部屋の書籍は、まだ一度も展示されたことはないのですよ。なにしろ、二、三週間まえに着いたばかりですし、そのときはもう館内の修理がはじまって、休館していましたからね」
警部は所在なさそうに、ドアの近くの壁によりかかっていた。
「ここにありますものは」チョート博士がガイド口調《くちょう》で、手ぢかのケースを指さしたとき、突然、警部がするどい声で叫んだ、「や、あのケースはどうしたんだ?」
その声に、チョート博士とゴードン・ロウがびっくりした渡り鳥のように、いっせいにそっちのほうに顔をむけた。ペイシェンスは、自分の息づかいが荒くなるのを感じた。
警部の指さしているケースは、部屋の中央にあり、見たところ、ほかのケースと変ったところはなかった、ただ一か所、決定的にちがうところがあった。上面のガラスが粉々に割られ、ギザギザのガラスの破片が、ほんの形ばかり、まわりの|わく《ヽヽ》に残っているだけではないか!
五 ジャガードの陳列ケース
館長と青年の顔にあらわれたはげしい驚きは、すぐにゆるんだ。
「わあ!」ロウが頓狂《とんきょう》な声を出した、「びっくりさせないでくださいよ、警部さん。なにごとかと思ってギョッとしたじゃありませんか。なあに昨日、ちょっとした事故があっただけですよ」
ペイシェンスと警部の眼がキラっとひかり、二人はすばやく視線をかわした、「事故ですと? なるほど」と警部が言った、「ふむ、いや、館長さん、私もちょっとばかり、文化とやらに首をつっこんだ甲斐《かい》がありましたよ。事故《ヽヽ》というのは、どういうことなんです、ロウ君?」
「どういうことって、それっきりのことですよ」と館長が笑いながら口を出した、「なに、ほんとに些細なことでしてね、ロウ君から話してもらうほうがいいのですが、なんでも昨日の午後、ロウ君がとなりの読書室で仕事をしているとき、たまたま調べものがあって、この部屋へ、サクソン蔵書の一冊を探しに入って来たのです。そうしたら、このケースのガラスがコナゴナに割れていたというのですよ」
「昨日の朝」とロウが補足した、「この部屋の修理が終ったばかりで、職人のひとりが道具かなにか忘れていったのを取りに来たとき、うっかりガラスを割ってしまったのにちがいありませんよ。べつに騒ぎ立てるほどのこともないじゃありませんか」
「正確にいうと、ガラスが割れているのを発見したのは、昨日の何時ですの、ロウさん?」とペイシェンスがゆっくりとたずねた。この彼女の眼差しには、個人的な感情はすこしもふくまれていなかった。
「五時半ごろだったと思いますね」
「インディアナの教師の一行が、こちらを出たのは何時とおっしゃいましたっけ、チョート博士?」彼女の顔には、微笑のあとかたもなかった。
チョート博士はイライラしているようだった、「ほんとになんでもないことなんですよ! だいいち、私は何時などと、時間のことなんぞ言ったことはありませんからね、お嬢さん、教師の一行が帰ったのは、たしか五時でしたよ」
「それで、ガラスが割れたのは五時半でしたわね、ロウさん?」
青年は、彼女の顔をまじまじと見つめた。「女シャーロック・ホームズといったところですね! ぼくだって、はっきりしたことはわかりませんよ。あなたは女探偵?」
「冗談はやめた、やめた」警部がわりこんできたが、べつにその声には憎しみはなかった、いや、それどころか、やっと自分の出番だとばかりに、いつもの快活な調子をとりもどしていた、「どんな具合だったのかね? ガラスの割れる音を聞いたはずだが」
ロウはかなしげに頭をふった、「それが聞こえなかったんですよ、警部さん。このサクソン室と読書室のあいだのドアはピタッと閉っていたし、それにぼく、物事に熱中すると、雷《かみなり》が落ちても気がつかない性質《たち》なんです。したがって、この事故は、昨日の午後のいつでも起こり得た、ということになると思うんです」
「ふむ」警部はこう言うと、ガラスの割れたケースをのぞきこんだ、「なにか盗《と》られましたか?」
チョート博士は、さも愉快そうに笑った、「ほらね、警部さん、私たちだって子供ではありませんよ。だれかが忍びこみ、このケースのなかにある、たいへん貴重な三冊の中の一冊を持ち去った、ぐらいのことは、とうぜん考えてみましたからね。この部屋には、ごらんのとおり、あそこにもう一つドアがついていて、大廊下に通じていますから、入ろうと思えばわけなくできます。しかしですね、どうです、ほら、ちゃんと三冊そっくり、ここにあるでしょうに?」
サム父娘《おやこ》は、こわれたケースを見おろした。その底には、やわらかい黒ビロードが敷きつめてあり、三か所に長方形のくぼみがつくってある。それぞれのくぼみに一冊ずつ、古ぼけて色あせた、大きく分厚い書物がおかれてあった。三冊とも、粗《あら》い子牛皮の装幀で、左側にあるのは金茶色、右側にあるのは色あせた紅、まんなかのは青色にそめた皮だった。
「今日の午後、ガラス屋がなおしにやってくることになっています」と館長がつづけた、「では、そろそろ――」
「ちょっと待ってください」警部がおしとどめた、「職人は、昨日の朝、この部屋の仕事が終ったと言われましたな。すると、その午後は、この部屋に番人をおかなかったのですか? 博物館というところは、四六時《しろくじ》中、番人がウロウロしているものだとばかり、思ってましたがね」
「べつにおきませんでしたよ、警部さん、というのは、現在修理のため休館中なので、そのあいだは人数を減らしてやっているのです。ドノヒューと門番のバーチだけで、充分間にあいますからね。休館以来、昨日のインディアナの教師の一行が、はじめての外来者なのです。でも、そんな見張りなどとは――」
「なるほど」警部はわれ鐘のような声を出した、「どうやら、なにが起こったのか、お話できそうですよ。ま、あなたがたが考えているほど単純なことじゃありませんな」
ペイシェンスの眼がキラリとかがやいた。ゴードン・ロウは戸惑ったような顔をしていた。
「それは、どういう意味です?」チョート博士がすかさずたずねた。
「つまりですね」警部がピシャリと言った、「あなたがさっき推測されたとおり、ドノヒューが青い帽子の男の挙動に不審をいだき、その男のあとをつけたという説が正しい、ということなんですよ。では、なぜドノヒューは青帽子のあとをつけたのか? 青帽子が、このケースのガラスを打ちくだき、ドノヒューがそれを目撃したからです!」
「では、どうしてなにも盗《と》られていないのです?」館長が反ぱくした。
「たぶん、この中の一冊を盗《と》ろうとしたところを、ドノヒューに見つけられたのでしょうな。たしか、この書物は、すごく値打ちのあるものだと、言われましたね。それだけで充分ですよ、これはあきらかに計画的な窃盗《せっとう》です」
ペイシェンスが考え深げに、下唇をかんで、コナゴナにガラスの割れたケースを、じっと見つめた。
「じゃ、なんだってドノヒューは、警笛を鳴らさなかったんです、警部さん?」ロウがつぶやくように言った、「それに、もしドノヒューがその男を追いかけたのなら、とうぜんだれかが、青い帽子の男を目撃していると思いますがね?」
「それにいちばん重要なことは」ペイシェンスがひくい声で言った、「ドノヒューがどこにいるか、ということだわ。どうして彼はもどってこないのでしょう?」
「そんなこと知るものか」警部があらっぽく言った、「とにかく起こったことは起こったんだ。まちがっちゃおらん」
「でも、なにかもっと怖ろしいことが起こったのじゃないかしら。それも、青い帽子の男にじゃなくてよ、パパ。可哀そうなドノヒューによ!」ペイシェンスはこわばった奇妙な口調で言った。
*
三人の男たちはだまってしまった。警部は石を敷きつめた床を、コツコツと歩きはじめた。
ペイシェンスはため息をつくと、あらためてケースの中をのぞきこんだ。三冊の書物のそれぞれの向う側には、三角形のカードが立てかけてあった。手前にある一枚の大きな札には、こんなふうに印刷してあった。
「エリザベス朝のものですの?」とペイシェンスがたずねた。
チョート博士がうつろにうなずいた、「ええ、なかなか面白いものですよ、お嬢さん。ジャガードというのは、ロンドンの有名な印刷業者兼出版元で、例のシェイクスピアの初版の二折本を出した男です。サミュエル・サクソンのコレクションの中にあったのですが、どうして彼の手に入ったかは、まあ、神のみぞ知る、といったところですね! なにしろ、有名なけちん坊でしたよ」
「そんなことはないですよ」ゴードン・ロウがはしばみ色の眼をキラリとさせて、声をあげた。
「いや、なに、本の蒐集家としての話だがね」チョート博士があわててつけくわえた。
「さてと」警部がドラ声をはりあげた、「すこし、探しものでもするかな」
*
探しものはたくさんあるはずなのに、実際にはなにも見つからなかった。チョート博士の協力で、サム警部はブリタニック博物館に入っているすべての職人――室内装飾屋、ペンキ屋、石屋、大工――をあつめて、昨日の出来事について、根掘り葉掘りたずねた。だが、だれひとり、青い帽子の男がサクソン室に出入りしたところを見たものはなく、失踪したドノヒューの行動をはっきりと覚えているものもなかった。
サクソン室にそのまま居残って、ロウにつかまって話しこんでいたペイシェンスが、となりの読書室にかけこんできた。職人たちへの無駄骨だった尋問をおわったばかりの警部にむかって、彼女は頬をかがやかせながら言った、「パパ! なにかありそうな気がするわ……あたし、いっしょに事務所に帰らなくてもいいかしら?」
むりやりと父親たることを思い出させられて、警部はわざと厳格をよそおった、「いったい、どこへ行くのかね?」
「お昼食によ」ペイシェンスは、ハンドバッグの鏡をのぞきこみながら、陽気に言った。
「なんだと、昼食だ?」警部がむずかしい顔をした。
「ロウ君とごいっしょでしょう?」チョート博士がクスクス笑いながら言った、「文学のようなまじめなものを研究しているにしては、あの青年はなかなかの浮気者でしてね。ああ、やってきました」ロウが帽子とステッキを手にもって、部屋に入ってきた。
「ロウ君、午後にはもどってくるだろうね?」
「お嬢さんをふりきって別れられましたらね」青年はニヤッと笑った、「シェイクスピアは三百年以上も待ってくれたんだから、ついでにもうすこし待たせたっていいでしょう。警部さん、かまいませんね?」
「かまう? なんだ、それは?」サムはうなった、「なんだってわしがかまうんだ?」警部はペイシェンスの額にあらあらしくキスした。
若い二人は、さっそうと部屋を出ていった。そして、まるで太古の昔にはじまり、未来永劫いつはてるとも知れぬかのように、ロウとペイシェンスは、夢中になって語りあっていた。あとには、しばしの沈黙が残った。
「それではと」警部がため息をついて立ちあがった、「私も退散することにしますかな。ま、よく気をつけて、見張っとってください。もしドノヒューから連絡があったり、消息をきいたりしたら、ただちにお電話ねがいます」サムは館長に名刺を渡すと、力のない握手をして、読書室から出て行った。
チョート博士は、去って行く警部の類人猿のような広い肩を、もの思わしげな眼で見送った。やがて博士は、その名刺の縁を、ひげもじゃの唇にヒョイとあてると、かるく口笛をふいて、サクソン室にひきかえした。
六 ご助力を
「あたし、むかしからずっと思いこんでいましたわ」グレープフルーツをまえにして、ペイシェンスが口をひらいた、「文学を研究するひとなんて、化学者の同類みたいなもんだとね、猫背で、眼ばっかり狂信的にギラギラしている、そのくせ、セックスアピールはゼロ、といったタイプを想像してましたの。あなたは例外なのかしら、それともあたしになにか足《た》りないのかしら」
「いや、足《た》りないのは、|ぼくのほう《ヽヽヽヽヽ》ですよ」ロウが口いっぱいほおばった果物を、グッとひといきにのみこんで言った。
「でも、その精神的欠乏は、べつに食欲には影響なさそうね」
「だれが精神的欠乏だなんて言いました?」
給仕が来てフルーツのあいた皿をさげると、コンソメのカップをおいた。
「ほんとにいいお天気」ペイシェンスはあわててそう言うと、スープをすすった、「あなたのことについて、お話してくださらない? そのパンをとってね……つまり、身の上話よ」
「そんな話より、カクテルのほうがいいですよ。この店のジョージが、ぼくのことはよく知ってるし、たとえ知らなくたってかわりはない。おい、ジョージ、マーティニを二杯。辛口《からくち》をたのむ」
「シェイクスピアとマーティニ!」ペイシェンスがクスクス笑った、「すてきな組み合せ! よくわかったわ。だからあなた、学者のくせに人間味があるのね? 埃だらけのページにアルコールをふりかけて、それで中身が燃えだすってわけね?」
「さながら地獄の悪魔のごとく、ね」ロウ青年がニヤリと笑った、「生兵法《なまびょうほう》は大怪我のもと。だからぼくは、インテリ女性と食事をすると、うんざりしてしまうんだ」
「あら、あたしは好きだわ」ペイシェンスは熱くなって言った、「あなたって、ずいぶん口の悪い呑んべえね! あたし、こう見えても文学士ですからね。『トマス・ハーディの詩』という、才知あふれる論文を書いたのよ!」
「ハーディだって? ハーディ?」青年はひきしまった鼻筋に、皺をよせてききかえした、「へえ、あのヘボ詩人のね!」
「さっきの警句はどういう意味? あたしのなにが生兵法なの?」
「わがウィリアム・シェイクスピアの本質を見そこなっている点ですよ。いいですか、もしあなたが、ほんとうに深くシェイクスピアを理解しているのなら、なにもアルコールなんかぶっかけなくたって、彼の詩が自分自身の火で燃えさかっていることぐらい、わかりそうなものじゃありませんか?」
「おや、おや」ペイシェンスがつぶやいた、「これはおそれいりました。ただいまの美学のお講義、けっして忘れません、はい」彼女の頬はカッカッともえてきて、ピンク色にそまった。そして、パンを二つにちぎった。
彼が身をのけぞらして、大声で笑い出したので、見るからにつめたそうな琥珀《こはく》色のグラスを二つ、お盆の上にのせて運んできたジョージが目をむいた、「やれやれ!」ロウが言った、「こいつはたいへんなおかんむりだ! どうもぼくたちは二人とも、頭がすこし変だぞ……や、ジョージ、そこへおいてくれ……さ、のみましょう、ミス・サム」
「ミス・サム?」
「ダーリング?」
「あなたには、ペイシェンス(忍耐)がいいわ」
「じゃ、これからはペイシェンスということに――」二人はまじめくさってグラスをあげた。グラスの縁ごしに目と目があうと、思わず二人ともふき出して、カクテルにむせてしまった、「さて、自叙伝といきましょうか。名前はゴードン・ロウ。こんどのミカエル祭(九月二十九日)で二十八歳。孤児。収入はすずめの涙。今年のヤンキースはだめだと思います。フットボールでは、ハーバード大学がすごいクォーターバックを入れました。それから、あなたをあまり長くみつめていると、キスしたくなります」
「変な人!」ペイシェンスはパッと赤くなった、「あら、ちがうのよ、べつに承知したんじゃないんだから、手をはなして! おとなりのテーブルでおばちゃまが二人、あなたのことをにらんでいるわよ……ああ、くやしい! キスって言われただけで、うぶな女学生みたいに赤くなるなんて! あなたって、いつもこんなふうにぶしつけなの? あたしはね、ジョン・ミルトンの詩にあらわれた分離不定詞の用法とか、鱗翅類《りんしるい》の生態について、あなたと議論するつもりで、ここに来たのよ」
青年は、彼女の顔を穴のあくほど見つめた。彼の顔からはニヤニヤ笑いが消えていた、「きみって、ほんとにすばらしい」と彼は言った。それから、もうれつな勢いで、厚い肉と取組んだ。しばらく話がとだえた。やがてロウ青年が顔をあげると、二人の視線がさぐりあうようにぶつかった。さきに眼をおとしたのは、ペイシェンスのほうだった。
「ほんとのことを言うとね、パット――ありがとう、そう呼ばせてくれて――こんな子供じみた無作法はぼくのテレ隠しなんですよ。あんまり気のきいたやり方じゃないってことぐらい、ぼくも知ってます。それに、いつだってひとと話しているとき、自分の態度がぎこちなくなるのが、ぼくにはわかるんです。これまで青春のいちばん大切な時期を、ぼくは教育を受けるためにつかってしまったし、この数年間は、なにかどえらい研究をしようと思って文学にうちこんできました。ぼくはすごい野心家なんですよ」
「野心が青年をだめにしたことなんてないわ」ペイシェンスがやさしく言った。
「どうもありがとう。もっともぼくは、ものを創造するタイプじゃない。探究のほうに興味があるんです。自分では生物化学か天体物理学をやるべきだったと思っているんですよ」
ペイシェンスは、つつましくサラダに没頭していた。エメラルド色のからし菜の葉を、すこしばかりカリカリやってみたりした、「あたし、ほんとうに――あら、ばかばかしいからよすわ」
青年は身をまえに乗り出すと、彼女の手をとった。
「ねえ、パット、話してください」
「また、あのおばちゃんたちが見ていてよ、ロウさん!」ペイシェンスは、口ではそう言ったものの、自分の手をひっこめなかった。
「ゴードンと呼んでください」
「ゴードン……あなたはあたしを傷つけたのよ」ペイシェンスがかなしげに言った、「からかわれたことぐらい、あたし、百も承知よ、でもね、じつを言うと、ロウさん――いいえ、ゴードン!――女って、たいてい頭がにぶいので、あたし軽蔑しているんです」
「つまらないことを言って、ゆるしてください」ロウは後悔して言った。
「いいえ、それだけじゃなかったわ、ゴードン。あたしだってつまらない冗談を言いましたもの。あたし、自分がほんとうになにをしたいのか、まだよくわかっていないんです。そこへもってきてあなたが――」彼女は微笑をうかべた、「むろん、こんなことを言うのは、馬鹿げていてよ。でも、あたしたち人間が、猿とちがうのは、理性があるからじゃないかしら? だからあたし、女性が生理的に男とちがうからといって、なにも教養を身につけちゃいけないって法は、ないと思うんだけど」
「いや、女性と教養と聞いただけで、逃げ出したくなるのが、当今のはやりでしてね」青年はニヤリと笑った。
「そんなことはわかっているわ、でもあたし、そんな流行は大嫌い。ドルリー・レーンさんにお会いしてみて、人間の精神の可能性というものがはじめてわかったんですもの。あの方《かた》――そう、ひとの心を高め、なにかを考えたい、なにかを知りたいという気持ちにさせるのね。それでいて、一方では、とても魅力的な老紳士だということ……あら、なんだか横道にそれてしまったみたい」彼女ははずかしそうに手をひくと、まじめな眼で彼を見つめた、「じゃ、あなたのお仕事や、ご自身のことを話してくださらない、ゴードン。とても興味があるわ」
「たいして話すことなんかないですよ」青年はひろい肩をすくめてみせた、「働いて喰べて、運動して眠って、それでおしまい。むろん、働くことがいちばん大切ですよ。シェイクスピアには、ぼくをとらえてはなさないなにかがあるんです。彼こそ空前絶後の天才ですね。洗練された言いまわし、あるいはハムレットやリア王の背後にあるするどい哲学にひかれる気持ちより、もっと深いもの、つまり彼の人物そのものに対する興味なんです。いったい、なにが彼を彼たらしめたのか、彼の秘密はなにか、いかなる源泉から彼は霊感を汲みとったのか、それとも、自分自身の内部から噴き出した焔だったのか? ぼくは、それが知りたかった」
「あたし、ストラトフォードに行ったことがあるわ」とペイシェンスはやわらかな口調で言った、「あそこにはなにかがあるの、あのストラトフォード教会の礼拝堂の小道に、あの雰囲気のなかに――」
「ぼくもイギリスで一年半くらしましたよ」とロウがつぶやいた、「いや、たいへんな仕事でした。なにしろ、あるかないかの手がかりをたどっていかなくちゃならないんだから。ま、半分は想像力の仕事でしたがね。ところが……」
「ところが?」ペイシェンスが目をかがやかして、声をひそめてうながした。
ロウは顎を両手でつつむようにしてささえた。「芸術家の生涯の、もっとも大切な時期は、その形成期なんですよ。それは、いちばんはげしい情熱の時期で、あらゆる感覚がせいいっぱいに活動しているんです……それなのに、いったいわれわれは、この世界最大の詩人の青年時代について、なにを知っているというのか? なにもわかっちゃいないんですよ。シェイクスピアの伝記には、もしもぼくたちが、この詩人を鋭敏に聡明に理解しようとするならば、どうしても埋めなくてはならない空白があるんです」彼は突然、口をつぐんだ。と、なにか、恐怖と言ってもいいような光が、彼の疲れたはしばみ色の眼にさしこんだ、「パット」彼はやや落着きを失った声で言った、「どうやらわかりかけてきたような気がする。どうやら――」
ロウはそこまで言いかけて、途中で言葉をのむと、煙草のケースを手さぐりした。ペイシェンスは身じろぎひとつしないで、坐っていた。
彼は、せっかく取り出した煙草のケースをひらきもせず、またチョッキのポケットにいれてしまった、「だめだ」と彼はつぶやいた、「早急すぎる。まだ、よくわかっていない」こう言うと、彼はニッコリ笑った、「パット、ほかのことを話そうよ」
ロウの顔から目もはなさずに、ペイシェンスは用心ぶかく微笑した。それから、ニッコリ笑いかえして、「いいわ、ゴードン、じゃ、サクソン家のことを話してくださらない」
*
「よしきた」ロウ青年は、子供のようにドスンと椅子に坐りなおした、「といって、あまり話すこともないけどね、ま、サム・サクソン老が、ぼくの――そう、勘《かん》と言ったらいいかな、それに興味をもったんですよ。たぶん、ぼくが可愛かったんでしょうね。というのも、彼には子供がなかったし、性格上のいろんな欠点があるにせよ、イギリスの文学を心から熱愛していましたからね。がさつな人物でしたけど、ぼくの研究には、ちゃんとした方法で金を出してくれました――なにしろ、自分の家にぼくを入れて、養ってくれたし……やがてサクソン老は死に、ぼくはいぜんとして研究をつづけているわけですよ」
「サクソン夫人は?」
「あの、ものすごいリディア」青年は苦虫をかみつぶしたような顔をした、「ガミガミ婆さん、それもひかえめに言ってですがね。ま、ぼくを養ってくれたひとの悪口なんか言いたくはないけれど、ときどき、我慢できなくなるんですよ。夫人ときたら、文学のブの字も知らないし、夫の貴重なコレクションについては、もっとなんにも知らないんですからね。いや、もう夫人の話なんか、やめましょうや、なにしろ不愉快な女ですよ」
「つまり、夫人は、四折本や八折本のことで、あなたと議論しないからでしょ!」ペイシェンスが笑った、「サクソンのコレクションを管理しているのはだれ? あなた?」
「いよいよ古代史の分野に足を踏みいれましたね」ロウがクスクス笑いながら言った、「名前からクラブ(気むずかし屋)というじいさんですよ。名は体をあらわすとは、よく言ったもんだ! ぼくが管理しているのかって? とんでもない、いま言ったクラブのじいさんですよ。もっともぼくは、『鷹の目じじい』と呼んでいますがね。じじつ、そっくりなんですよ。もう二十三年間も、サクソン老の図書係をやっていて、ぼくの見るところ、サクソン自身よりも、自分の管理している本にずっと愛着をもっているといった感じですね」彼の顔に影がさした、「いまやまさに大黒柱といったところです。サクソン老が遺言書で、クラブがそのまま、コレクションの管理をつづけるようにと、指定したんです。これじゃ、ますます手がとどかなくなりそうですよ」
「でもあなただって、サクソンの書庫で働いていたんでしょ?」
「きびしい監視つきでね。クラブ老人が目をひからせていたし、いまだって見張ってますよ。ぼくなんか、蔵書の四分の一も知りゃしない。この数か月というもの、ぼくはブリタニック博物館に遺贈された本の目録を作ったり、検査をしたりする仕事をして、自分の研究をすっかりおろそかにしてしまったんですが、とにかくこれもサクソン氏の遺言だし、それにたいしたことでもなかったので……おやおや、退屈そうだなあ、ペイシェンス、こんどはぼくに話してくださいよ――あなたのことを」
「あたしのこと? お話することなんか、なんにもないわ」ペイシェンスはかるく|いな《ヽヽ》した。
「ぼくは本気なんですよ、パット。ぼく――ぼくは思うんだけど、あなたはなんといったって……まあ、いいから話してくださいよ」
「そんなにおっしゃるなら」彼女はハンドバッグをあけて、鏡をさがしながら言った、「あたしの経歴は一言で要約できます、あたしは現代版ヴェスタ女神の乙女」
「いやにおそろしいことを言うな」青年は笑いながら言った、「どうもよくわからない」
「あたし、自分の生涯を捧げています……あるものに」彼女は鏡をのぞきながら、髪をなおした。
ロウがするどい視線をむけて言った、「理性の育成に?」
ペイシェンスは鏡をしまうと、ホッとため息をついた、「ねえ、ゴードン、あたし、ほんとうはまだ、自分というものがわからないの。ときどき、どうしたらいいのか、わからなくなっちゃう」
「あなたの運命がなんであるか、分っているのですか?」とロウがたずねた。
「はっきり言って!」
「ごく平凡な生活をするように、あなたは運命づけられているのです」
「つまり――結婚して、赤ちゃんを産んで育てる、っていうわけね?」
「ま、そんなところですな」青年はひくい声で言った。
「考えてもゾッとするわ!」ペイシェンスは椅子から立ちあがった。ピンク色の頬に、血がのぼってくるのが自分でもわかった。頬がカッカッと燃えて、穴があいてしまうのではないかと思ったくらい。「さ、出ましょうよ、ゴードン」
*
サム警部は、あれこれと思案しながら、事務所にもどった。そして、ミス・ブロディにぶつくさ言うと、自分の部屋に入った。帽子をむこうの隅の金庫の上にほうりなげると、警部はにがりきった顔つきで、回転椅子に大きな腰をおろした。
彼は長い足を机の上にのせたが、じきにまたおろしてしまった。こんどはポケットに手を入れて葉巻をさがしたが、なかったので、机の引出しの底をゴソゴソとかきまわした。やっと、古ぼけて色の変ったパイプをひろいあげると、サムはごみ屑みたいな安タバコをそれにつめて、いかにもまずそうに吸った。カレンダーをくってみる。それから腰をあげると、床をガタガタと踏みならした。そしてまた坐りなおし、口のなかでブツブツののしると、机の上板の裏側にあるボタンを押した。
ミス・ブロディがハアハアと息をきらして入ってきた。
「電話は?」
「ございませんでした」
「手紙は?」
「べつに」
「なんたることだ、タトルから、ダーキン事件について、なんの連絡もないというのか?」
「はい、警部」
「クソッ、あのデメキン野郎ときたら――いや、もういいよ、ブロディさん」
ミス・ブロディのまるい眼が、いよいよまんまるになった。「はい」彼女はあえぐように言うと、あわてて逃げ出した。
サムは突っ立ったまま、しばらく窓ごしに、タイムズ広場《スクエア》をながめていた。パイプからはモウモウと煙がふき出した。
と、突然、彼は机にとってかえすと、受話器をはずすなり、ダイヤルを廻して、スプリングの七―三一〇〇番に電話をかけた、「よう!」うなり声をあげた。「ジョーガン警部につないでくれ。そう、そうだ、ジョーガン! おい、いいか、つべこべ言わずに、さっさとつなぐんだ、こっちはサム」彼は、警察の交換手が、おどろいて大声出すのをきくと、クスクス笑った、「家族はどうだね、ジョン? いちばん上の子は、もう大学だろ……ああ、元気だよ、じゃ、ジョーガンを頼む……もしもし、バッチか? サムだよ!」
電話口に出たジョーガン警部が、なにか洒落《しゃ》れた毒舌を吐いた。
「こいつはご挨拶だな」サムがどなった、「久しぶりに古巣に電話をかけたというのにな。まあ、聞けよ、バッチ。十番街式のへらず口をたたくのはやめろ……そうともさ、こちらはピンピンしているよ。君が元気なのはわかっている、げんに今朝の新聞で、君のゴリラみたいな顔を拝見したからな。ま、あいかわらず、小憎らしいほど元気とみえる……そうとも! ところでだ、五、六年まえにやめたドノヒューって男をおぼえているかい? たしか君がキャップだったころ、警察本部にいたはずだが――君だって、ずっとあすこにミコシをすえていりゃよかったんだ、ごますりゴリラめ!」
ジョーガン警部がクックッと笑った、「あいかわらず陽気ですな、ご老体。でも、そんな昔の三下《さんした》巡査のことなんか、おぼえとらんですよ」
「おいおい、君はその三下《さんした》に、命を助けてもらったことがあるんだぞ、この恩知らず野郎!」
「ああ、あのドノヒューか、そいつをさきに言ってくれればいいのに。いや、おぼえてますとも。で、なにが知りたいんです?」
「やつの勤務評定だ。罰点はあるかね? 成績はどうだったんだ?」
「Aの上ですよ。たしか、頭はあまり|きれる《ヽヽヽ》ほうじゃなかったですが、なにしろバカ正直で、もぐり酒場から、一セントだって袖の下をとらなかったくらいでしたよ。ただ小心翼々、協調性に欠けてましてね、それで出世ができなかったんですよ」
「すると、素行は申し分ないな……」とサム。
「そいつは太鼓判《たいこばん》です。やめられたときは、ほんとに残念でしたな。ロマンチックなアイルランド人でしてね、もっとも、見当ちがいのことにロマンチックなんで――職務というのにね、ハッハッハ!」
「まだそんな、カビの生えた冗談を言って、うれしがっているのか」サムがうなり声をあげた、「バッチ、君が署長になる日まで、おれは往生《おうじょう》しないからな。じゃ、また。たまにはおれの事務所へ遊びにこいや」
彼は受話器をしずかにかけると、カレンダーをにらんだ。しばし考えてから、また受話器をとりあげると、警察本部に電話して、失踪人課をよび出した。
失踪人課のグレーソン課長は、サムの旧友だった。サムは、ドノヒューのこと、失踪当時の不可解な状況やら、人相、服装の点などを、要領よく説明した。ニューヨーク管内に発生したすべての失踪事件を担当するグレーソン課長は、内密に調べてみようと、約束してくれた。それからサムは、電話をジョーガン警部に切り替えてもらった。
「やあ、バッチ、またおれだ。めずらしい古書を専門に盗む、愛想のいい男に心あたりはないかね。ヘンテコな青い帽子をかぶったやつなんだが、もっとも、いつもかぶっているかどうか請け合えないがね」
「書籍泥棒ですな?」ジョーガンは考えこむように言った、「青い帽子とね……いま、ちょっと思いあたりませんが、すぐ調べて電話しますよ」
「ありがとう、じゃ、待っているよ」
三十分後に、ジョーガン警部から電話がかかってきた。その報告によると、調査課の犯罪記録を調べても、稀覯書《きこうしょ》専門の泥棒で、青色、もしくは青色に似た色の帽子をかぶるくせのある男についての手がかりは、皆目《かいもく》ないとのことだった。
サムは、暗い顔をして窓の外をながめた。なんだか、世の中がひどくわびしげに見えてくる。やがて彼は、ホッとため息をつくと、机の引出しから便箋を一枚とり出し、万年筆のキャップをとって、苦労しながら書きはじめた。
親愛なるレーンさま
じつは、きっとあなたが食指をうごかされるような事件があるのです。今朝、電話でクェイシーに伝えておきました奇怪な事件です。正直なところ、小生とペイシェンスは、いささか手を焼いているのです、ひとつ、あなたのご意見をおきかせねがえないでしょうか。
元警官だったドノヒューという男が……
七 『情熱の巡礼』
ミス・ブロディがサムの部屋に、ころがりこんできた。いつもの、あの気のぬけたような顔が、いきいきと輝いている、「警部さん! レーンさんですよ!」
「いったい、どうしたんだ?」警部があっけにとられて聞いた。その日は水曜日だった。彼は、前の日に、レーンに手紙を出したのを、すっかり忘れてしまっていたのである。
「さ、ブロディさん」ペイシェンスがやさしく言った、「しっかりしてね、レーンさんがどうかしたの?」
ミス・ブロディは、せいいっぱいの力をふりしぼって、あえぎあえぎ、戸口を指さした、「|そこ《ヽヽ》にいらっしゃいます」
「なんだって!」サムは大声をあげるなり、ドアに走りよった、「なぜ早く言わないんだ?」彼はドアをグイッとひきあけた。ゆたかな純白の髪の、背の高い老人が、控え室の長椅子に腰をおろし、こちらを見てニコニコ笑っている。ミス・ブロディは、サムのうしろで、そわそわしながら、しきりに爪を噛んでいた。
「これは、これは、レーンさん! またなんで、ニューヨークにお出かけになったので?」
ドルリー・レーンは腰をあげると、愛用のステッキを小脇にかかえて、七十歳とは思えぬような元気さで、サムの手を握った、「あなたの魅力的な手紙のおかげではありませんか。や、ペイシェンスさん! あいかわらずお美しい。さあさあ、警部さん、私をなかに入れてくださらないのですか?」
ミス・ブロディは、あたかも高僧の威厳におそれをなした亡霊のような足どりで、フラフラと、そのわきをぬけていった。通りすがりに、レーンがほほえみかけると、思わず彼女はかすかなため息をもらした。三人はサムの事務室に入った。
老優ドルリー・レーンは、いともなつかしげにあたりを見まわした、「いや、ほんとにひさしぶりだ、あいかわらず、この部屋はせまっ苦しいですね、警部さん、現代版『黒ひげ』の拘禁室ですかな。ところで、お二人とも、お元気ですか?」
「ええ、からだのほうは、とても」とペイシェンスが答えた、「でも、精神的には、いまのところ――あまりパッとしませんの。レーンさんは、ずっとお元気でして? このまえ――」
「そう、このまえは」老優は真顔で言った、「棺桶《かんおけ》に、片足をつっこみかけていましたね、今日はごらんのとおり――ここ何年も、こんなに調子のよかったことはないくらいですよ」
「あなたが、そうして坐っておられるのを見るのは、ほんとにうれしいですな」とサムが言った。
レーンは、ペイシェンスの唇からサムの唇へと目をうつした。いかにももの慣れた、よどみのない目のくばりかた。「ま、正直な話、あなたの手紙が、私をパッと生きかえらせてくれたようなものですよ、警部さん。事件! しかも、あのちっぽけな、退屈きわまるブリタニック博物館をまきこんだなどと――あまりにもおあつらえむきで、ほんとうとは思えないくらいです」
「そこが、レーンさんとパパのちがいですわ」とペイシェンスが笑いながら言った、「パパときたら、事件というとイライラするし、レーンさんはお元気になるんですもの」
「で、お嬢さんはどうなのです?」
彼女は肩をすぼめた、「あたしなんか、ほんの添えものですわ」
「ブリタニック博物館とね」レーンは口のなかでつぶやいた、それから、「ところでペイシェンスさん、ゴードン・ロウ君に会いましたか?」
と、彼女はパッと顔をあからめ、思わずくやし涙を目にうかべた。サムは、いかにもにがにがしげに、口のなかでなにやらブツブツ言った。老優はたのしそうに、二人の顔をながめた。「あら――ええ、会いましたわ」
「そうだろうと思っていました」レーンがごくさりげない口調で言った、「なかなかの好青年でしょう?」
「ええ、とても」
サムはイライラしてきた、「じつはですな、レーンさん、どうも妙なことになっているんですよ、ビタ一文にもならない事件なのに、話は馬鹿げきっているし、私は昔の|よしみ《ヽヽヽ》とやらで、なんとかしてやらにゃならんし」
「それはご愁傷《しゅうしょう》さまですな」老優はクックッとのどの奥で笑った、「それでは、これからすぐ、博物館に行ってみようじゃありませんか。あなたのお手紙を読んだら、サクソン室のこわれたケースが、むしょうに調べてみたくなりましたよ」
「じゃ、あたし」ペイシェンスが叫んだ、「なにか、見落したかしら?」
「なに、ただの推測ですよ」ドルリー・レーンが考えぶかそうに言った、「なんでもないかもしれません、ま、行ってみましょう、うちの運転手のドロミオが、車をとめて待っていますよ」
*
アロンゾ・チョート博士は、博物館の事務室で、いかにも外国仕立てらしい服を着た、背の高い、手足のヒョロ長い男と、なにやら熱心に話しこんでいるところだった。男は、イギリス人によくある、痩《や》せてとがった顔つきで、目もするどく、右の眉の下に器用にはめこんだ縁なしの片眼鏡《モノクル》から、細い絹の黒紐《くろひも》が、その頸をひと巻きして垂れ下っていた。頬骨の高い、きれいに剃《そ》りあげた顔立ちは、ルネサンス時代の学者を|ほうふつ《ヽヽヽヽ》とさせる。その男の話しぶりはおだやかなものだったが、確信にみち、いかにも教養のあるイギリス人らしい、魅力的なアクセントだった。年齢は五十歳ぐらい。チョート博士は、レーン一行に、その男を、今朝の船でイギリスから着いたばかりの、後任の館長ハムネット・セドラー博士だと紹介した。
「レーンさん!」新任のセドラー博士が声をあげた、「お目にかかれて、まったくの光栄です。二十年まえ、ロンドンで上演されたあなたのオセロを拝見してからというもの、ぜひお目にかかりたいと思っていたのです。それから『コロホン』誌上に発表なさったシェイクスピアの研究論文も――」
「いや、いたみ入ります」老優はいそいで相手の言葉をさえぎった、「私は、ほんの文学愛好家にすぎませんので。ところで、あなたがお着きになるまえに、ちょっとした事件があったのですが、それはもう、チョート博士からおききになったでしょうね?」
セドラー博士は、狐《きつね》につままれたような顔をした、「いったい、なんのことでしょうか?」
「なに、つまらんことですよ」前任者のチョート博士が、山羊《やぎ》ひげをいじりながら大声を出した、「いささかおどろきましたね、レーンさんが、あんな事故を、それほど重大に考えておいでだとは」
「表面にあらわれた状況から判断すると、かなり腑《ふ》におちないところがありますね」ドルリー・レーンが言った。老優のするどい視線が、チョート博士とセドラー博士のあいだを、すばやく往復した、「セドラーさん、あきらかに変装したとわかる老紳士が、この月曜日、つまり一昨日、博物館にもぐりこみ、新設された陳列室のケースをねらったのです」
「なるほど」とセドラー博士が言った。
「なに、なんでもないことです」前任の館長がじれったそうに言った、「なにひとつ、盗《と》りはしなかったのですよ、そこがかんじんな点ですがね」
「そうでしょうね」後任のイギリス人は、微笑をうかべて同意した。
「せっかくの学問上のお話をお邪魔するようですが、もしよろしかったら、ひとつ、その証拠を調べてみようではありませんか? それとも、お二人は――」
チョート博士はうなずいたが、セドラー博士は言った、「チョートさんとは、もうだいぶうちとけましたから、私もぜひ、その壊れたケースを見てみたいですね」彼はクスリと笑った、「それに、ブリタニック博物館の後任館長ともあろうものが、アメリカ人の芸術品泥棒の手口を知らないではすまされませんからな、とにかく、後学のために、知っておいたほうが便利でしょう、博士」
「まあ――そうですな」チョート博士は顔をしかめた、「どうぞ、お好きなように」
*
一行は、ガランとした一般読書室を通っていった――ペイシェンスは、なんだか軽い失望感におそわれた。ゴードン・ロウはどこにいるのかしら?――それから一同はサクソン室に入った。昨日、ガラスの壊れたケースは、もうちゃんと修理がしてあった。新しいガラスの光沢《こうたく》をながめていると、あたりに並んでいるほかのケースと、ちっとも区別がつかないくらい。
「昨日の午後、ガラス屋が来て、なおしたのです」チョート博士が、警部にむかって、切り口上めいた口調で言った、「むろん、一瞬だって、ガラス屋の職人をひとりだけにはしませんでしたよ、仕事が終るまで、この私がそばに立って見ていたのですからな」
警部はうなった。
ドルリー・レーンとハムネット・セドラー博士は、探るような目つきで、ガラスの奥を見つめた。と、二人の眼が、にわかに熱を帯びた。
「これはジャガード版ですね」セドラー博士が、ひどくやわらかな口調で言った、「いや、ほんとうに珍しいですな、レーンさん。ええと、チョート博士、ここは新しい部屋で、これらの本は、最近、寄贈されたものなのですか?」
「そうです。こちら側の部屋にある本は、蒐集家のサミュエル・サクソン氏が、当博物館に遺贈されたものでしてね。むろん、再開のはこびになれば、展示します」
「ああ、そうだ! そういえば、ワイスさんが一か月ばかりまえに、ロンドンでそんなことを言ってましたっけ。アメリカ人のサクソンというひとが、どんな本を蒐集されているのか、私はかねがね知りたいと思っていたのですよ。なんとも秘密主義のひとでしたな! これらのジャガード版は――いや、じつにすばらしい!」
「チョートさん」ガラス越しに、熱心に検査していたドルリー・レーンが、ふと顔をあげると、乾いた口調で言った、「このケースの鍵をお持ちですか?」
「ええ、持っております」
「ひとつ、開けてくださいませんか?」
館長は、不意をつかれたみたいに、ちょっとためらったが、すぐに承諾した。老優がケースの蓋《ふた》を持ちあげ、それに支えをかうと、一同はそのまわりに集まった。三冊の古書が、やわらかな黒ビロードの上に、むき出しになった。頭上の電灯の光にじかにさらされて、一層|褪《あ》せて見える古書の色合いが、見るものの目を強くひきつけた。レーンが、注意深く一冊一冊とりあげて、子牛皮の装幀を綿密にしらべ、見返しのところまであけてみた。そして、その中の一冊を、とくに時間をかけて、本文まで調べていた。老優は、三冊とも見終わると、もとの場所において、からだをのばした。ペイシェンスは、レーンの彫りの深い顔がひきしまっているのに気がついた。
「なんとも不思議だ」と老優は口のなかで呟いた、「まったく信じられない」彼はそう言うと、蓋のあいているケースを、じっと見おろした。
「いったい、どうしたのです?」チョート博士がぼやけた口調でたずねた。
老優は、落着いた声で答えた、「このケースのなかの古書の一冊が、|盗まれているのですよ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》」
*
「盗まれた!」みんな、異口同音に叫んだ。チョート博士が一歩ふみ出すと、棒立ちになった。
「そんな馬鹿な」博士はするどい声で言った、「このケースが壊されているのを、ロウ君が見つけたとき、私はこの眼で、ジャガード版をはっきりとたしかめたんですからな」
「中ものぞいてみたのですか?」レーンがたずねた。
館長は青くなった、「いや、見ませんでしたが――しかし、ざっと見たところでは……」
「あなたのような専門家でさえ、まんまとだまされたのですよ、博士。やはり、これは、私のいまだかつて経験したことのないような、じつに奇妙な事件です」レーンは、白絹のような眉をひそめて言った、「ごらんなさい」すんなりとした指で、老優がさして見せた三角形の札は、中央の青い皮表紙の本のうしろに立てかけてあるものだった。それには、こう書いてある――
情熱の巡礼
ウィリアム・シェイクスピア著
(ジャガード版一五九九年)
これは、サミュエル・サクソン文庫の中でも、逸品《いっぴん》中の逸品《いっぴん》である。この珍書の初版は、三冊現存するが、これはそのなかの一冊である。エリザベス朝の印刷者、ウィリアム・ジャガードによって、一五九九年に出版されたのだ。例のごとく、抜け目のないジャガードは、この詩集をシェイクスピアのものと詐称《さしょう》したが、その二十篇中、シェイクスピアの手になる詩は、ただの五篇にすぎない。残りはリチャード・バーンフィールド、バーソロミュウ・グリフィンその他当時の詩人たちの作品なのだ。
「それで?」チョート博士がおだやかに老優をうながした。ハムネット・セドラーは、片眼鏡《モノクル》の奥で、じっと目をほそめ、まんなかの古書を見つめている。そのうしろに立てかけてある札などに目もくれないありさま。
「それは――にせものなんですの?」ペイシェンスが息をつめてたずねた。
「いや、ペイシェンスさん、私は専門家ではないが、それでも、いま見ているこの古書が、まちがいなくジャガード版の『情熱の巡礼』だということぐらいはわかりますよ」
チョート博士は腹が立ってきた、「では、どうしてまた――」博士は青表紙の本を手にとると、見返しをあけた。と、彼の顎がダラリとさがった。セドラー博士がびっくりして肩ごしにのぞいた。そして、これも一瞬ギクリとした様子だったが、すぐに平静にもどった。
レーンは、ケースの横を、うなだれたまま、大股に行ったり来たりしていた。
「ときに――」警部は、まるで狐にでもつままれたような顔つきで、なにやら言いかけたが、手をふると、あとは口のなかでブツクサののしった。
「でも、それがほんもののジャガード版なら」とペイシェンスが言った、「どうして――」
「まったくあり得ない、いや、まったく」チョート博士が、なんどもなんども、おなじことを、口の中でつぶやいた。
「じつにばかげている」イギリス人が重々しい声で言った。
二人の博士は、いっせいに頭をかがめると、熱心に、その古書のページを調べはじめた。そして、おたがいに目と目を見あわせると、厳粛な面持ちでうなずきあい、ふたたび目を古書に落とすのだった。ペイシェンスがうしろからのぞくと、こう書いてあった――
情熱の巡礼、別名、ヴィナスとアドニスの間にかわされた数篇の愛のソネット。W・シェイクスピア著。第二版。W・ジャガードによる印刷。一六〇六年。
「すると」ペイシェンスがゆっくりした口調で言った、「これは一五九九年の初版じゃなくて、一六〇六年の発行のもの、つまり、再版というわけですわね、だったら、とうぜん初版より値打ちがさがって――」
「お嬢さん」チョート博士が肩ごしにきびしい口調で言った、「それは大間違いです」
「じゃ、もっと値打ちがあるとおっしゃいますの?」
警部の表情には、ようやく食指がうごいてきたぞ、といった色があらわれた。レーンは、あいかわらず、ふかく考えこんだまま、そのあたりを、行ったり来たりしていた。
だれひとり、ペイシェンスに答えるものはいなかった、彼女はパッと顔を紅潮させると、ひきさがった。
「ペイシェンスさん」老優がだしぬけに声をかけた。彼女が感謝するようにレーンに近よると、老優は、その長い手を、彼女の肩にかけた、「お嬢さん、どうしてこのことが、こんなに驚くべきことなのか、あなたにはわかりますか?」
「いいえ、ぜんぜん」
レーンは、彼女の肩をやさしくおさえた、「ウィリアム・ジャガードというひとは、悪気のない芸術の保護者だったのですよ。彼は、シェイクスピアをはじめ、ジョンソン、フレッチャー、マーロウなどといった|そうそう《ヽヽヽヽ》たる連中が、ま、金の卵を生んでいる時代に、ロンドンで営業していたのです。なにしろ、当時は出版者のあいだでかなりの競争があったらしく、ウィリアム・ジャガード氏も、有名人を追いかけたわけです。いまだって、芝居のプロデューサーや出版社の連中がやっていますね。とにかくジャガードは、いまならさしずめ、著作権侵害といったところまでいったわけです。『情熱の巡礼』を彼が出版したとき、シェイクスピアの未発表のソネットを二篇と、以前に出版された芝居の『恋の骨折損』から抜いた詩を三篇、その中に入れたのです。そして、あとは適当に詰め物をして、あつかましくも、それを、その全部をですよ、シェイクスピアの作品だと称したわけです。ま、よく売れたことでしょうね。ところが、シェイクスピアという劇作家は、これがまた、こと出版に関してはおそろしく無関心な人でしてね」レーンはため息をついた、「なに、事件の背景を知ってもらおうと思って、こんなことをお話するのですよ。たしかによく売れたらしい証拠には、一五九九年に初版を出したあと、一六〇六年に再版を出し、またそのあと、一六一二年には三版を出しているのです。さて、現在の状況に話をもどすと、どうしても腑《ふ》に落ちないのは、つぎの点なのです、つまり、一五九九年のジャガード版は三冊現存しています、また、一六一二年の三版のものも二冊残っている、一方、ほんのついさっきまで、全世界の愛書家のあいだでは、一六〇六年のジャガード版、すなわち、二版のものは、|ただの一冊も残っていない《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、と考えられていたのですよ!」
「すると、この本はとても貴重なんですのね?」ペイシェンスが息をつめて言った。
「貴重?」チョート博士が、おうむがえしに呟いた。
「ま、それで奇怪至極な事件だというわけですよ」老優がやさしい口調で言った、「警部さん、あなたが狐につままれたみたいな顔をしているからといって、私にはあなたを責めるわけにはいきません。もっとも、あなたは、この事件の複雑性を充分つかんではおられなかったが、ペイシェンスさん、事態はどこか狂ってきたようですぞ。どうやら、例の青帽子の男は、わざと混乱の種子をまきちらしているらしい、いいですか、あの男は、たいへんな危険をおかして、見学の一行のなかにもぐりこみ、このブリタニック博物館に侵入し、チョート博士が博物館の栄光について説明しているあいだに、一行からはなれ、このサクソン室に忍びこんで、ジャガードのケースのガラスを割った……一から十まで、この男のしていることといえば、じつに危険千万、重窃盗罪と芸術破壊のかどで、いつ逮捕されるかもしれないようなことなのです――だが、いったい、なんのために?」レーンの声がするどくなった、「珍奇で貴重な一冊の書物を盗み、かわりに、さらに珍奇で、はるかに貴重な書物を置いていくためなのです!」
八 親切な泥棒
「いったい、どうしたというんです?」陽気な声がして、ロウ青年が廊下のほうからブラブラ入ってきた。彼は、ペイシェンスの顔を見るなりニッコリ笑って、まるで磁石に吸いよせられる鉄片みたいに、彼女のそばにやってきた。
「ああ、ロウ君か」館長がいそいで言った、「ちょうどよかった。まったく驚くべきことが起こったんだよ!」
「当館は、バーナムの見世物のように、とてつもないものを引きよせるようですね」ロウ青年はそう言いながら、ペイシェンスにウィンクした、「や、レーンさん! ようこそ、ご機嫌いかがですか? これはまた、なんと厳粛な集まりではありませんか! それに、チョート博士、つまらない内輪のもめごとに、新任のセドラー博士まで、さっそくまきこんだというわけですか? こんにちは、警部さん。なにが起こったんです、先生?」
チョート博士は、無言で、手にしている青表紙の本をふって見せた。
と、たちまち、ロウ青年の顔から微笑がサッと消えた、「まさか――?」彼はあたりを見まわした。どの顔も深刻な表情をうかべていた。彼は、館長から本を受けとるなり、ゆっくりと表紙をひらいた。はげしい驚愕《きょうがく》の色が、彼の顔にあらわれた。青年は呆然自失の|てい《ヽヽ》で、あらためて、あたりを見まわした、「ここにはたしか――や、これは一六〇六年のジャガード版じゃないか!」彼は叫んだ、「そんな馬鹿な! この版が残存しているはずはない――」
「いや、残存しているようですよ」老優がそっけない口調で言った、「なかなか綺麗な本ではないか、ゴードン君。このニュースが世間に知れ渡ったら、さぞかし大騒ぎになることだろう」
「そうですね」ロウ青年が呟いた、「でも――いったい、どこから出て来たんです? だれが見つけたんです? まさか、セドラー博士がロンドンから持って来られたんじゃないでしょうね?」
「ちがいますとも」イギリス人が気取って言った。
「とても信じられまいが」チョート博士がたよりなさそうに肩をすくめた、「やはり泥棒が月曜日に入ったのだ、そいつが、この本をジャガードのケースに置き、かわりに、一五九九年の初版本を盗んで行ったのだ!」
「へえ――ぼくは――」青年はそこまで言いかけると、腹をかかえて笑い出した、「こいつは大笑いだ!」彼はおかしさに息をきらし、涙をふきながら叫んだ、「リディアの奥方がこれを聞いたらどうだろう、それにクラブ老人も……ああ、えらいことになりましたよ!」彼はグッと息をのみこむと、落着きをとりもどした、「いや、どうも失礼しました。どうにも我慢ができなかったものですから……それにしても、珍しい本が盗まれて、そのかわりに、それ以上に珍しい本が置いてあったなんて、サクソン夫人はまったくツイているじゃありませんか。こいつは気ちがいの仕業《しわざ》ですよ!」
「とにかく、サクソン夫人に、すぐこちらに来ていただいたほうがよさそうだな、ロウ君、ま、結局はだね」館長は、神経質にひげをひっぱりながら言った。
「では、さっそく」青年はジャガードの一六〇六年版をそっと撫でると、チョート博士に返し、ペイシェンスの腕をかるくおさえてから、気取った足どりで部屋を出て行った。
「おそろしく騒々しい若者ですな」とセドラー博士が批評した、「どうも、ああいった陽気な手あいはかなわん、それはそうと、チョートさん、この珍本を額面どおりに受けとるわけにもいきますまい。もっとよく調べる必要があると思いますよ。ほんものかどうか、認定するのはむずかしいことでしょうが」
チョート博士の眼が、猟師の眼のように、キラキラと光りだした、「それはそうですとも」彼は両手をすりあわせた。どうやら彼は、泥棒が残していった本を取りもどしに来ないかぎり、盗まれた本が泥棒の手にあるのは、いっこうに苦にならないようだった、「さっそく調べてみようじゃありませんか。それにしてもよく注意してやらにゃあなりませんな、セドラーさん、世間に洩《も》れたら、それこそ大変なことになる!そうだ、メトロポリタン博物館のガスパリ老人をよびましょう、秘密厳守を誓わせた上で……」
と、そのとき、セドラー博士の顔は、異様なほど青ざめた。その目は、まるで催眠術にでもかけられたみたいに、盗まれたケースに、釘づけにされている。
「それとも、フォルジャー図書館のクローニンシールド教授でも」と彼はつぶやいた。
ペイシェンスはホッとため息をついた、「あたしたち、ジャガードの一五九九年の初版本を盗んだのは、例の青い帽子の男ときめてかかっていますけど、なにもはっきりした証拠はありませんものね。ひょっとすると、バスに乗っていた、もう一人の怪しい男かもしれないし、あるいは、十七人の教師連中のうちのだれか、ということだって考えられるし」
サム警部は、にがい顔をして手を振った。事件が、どうにも彼の手に負えないことはあきらかだった。
「いや、私にはそうは思えませんね、ペイシェンスさん」ドルリー・レーンが、つぶやくように言った、「バスに乗っていたのは十九人で、ひとりのこらず、博物館に入りました。そして十八人が見学終了後、終点までバスでもどった、その十八番目の人間が、いま、あなたが言った、もうひとりの怪しい男というわけですね、つまり言いかえると、われらの友、青帽子君は、博物館から消えたことになる。ドノヒュー、またしかり。偶然の一致にしては、どうもうまくできすぎている。私は、青帽子の男が、一五九九年のジャガードの初版本を盗み、そのかわり一六〇六年版を置いて行き、さらにドノヒューが、その男を追っていなくなった、というのがいちばん妥当な線だと思いますね」
「いずれにしろ」と館長が早口で言った、「じきに解決すると思いますな。ところで、セドラーさん、よろしかったら、ただちに博物館の中を探してみようではありませんか」
「そいつは、なんのためです?」警部がぶっきら棒に口をはさんだ。
「一五九九年のジャガード版が、館内から持ち出されていないとも、かぎりませんからな」
「なるほど」サムがうなり声をあげた。
「それはいい考えですね」とセドラー博士が熱心に言った、「そう――私も、お手伝いしましょう。しかし、サクソン夫人が見えたとき――」夫人の人柄が、すでにセドラー博士の耳にも入っているらしく、彼はやはり気がかりらしかった。
「すぐ戻ってきます」チョート博士は陽気に言うと、青表紙の本を注意深くケースに置いて、あたふたと部屋から出ていった。
イギリス人は、コウノトリの母鳥が巣をのぞきこむみたいに、ケースの上から、中をのぞきこんだ、「なんたることだ、話にもならん、私は一五九九年の初版本のほうが見たかったのだ」と博士はブツブツ言った。
ドルリー・レーンは、そのセドラーの顔を、穴のあくほど見つめた。それから、椅子をさがして、それに腰をおろすと、静脈のくっきりと浮き出ている白い手で、眼をおおった。
「ずいぶん、がっかりなさっていますのね、セドラー先生」とペイシェンスが声をかけた。
博士はギクッとした、「え、なんだって?……ああ、そう、そのとおりですよ」
「でも、どうしてですの? 先生は、一五九九年の初版本をごらんになったことがないんですの? 稀覯《きこう》本というのは、愛書家のあいだでは、共有の財産だとばかり、あたし、思っていたんですけど」
「いや、そのはずなのですがね」イギリス人は薄笑いをうかべて答えた、「それが、駄目なのですよ。なにしろ、サミュエル・サクソンのものでしたからね。部外者には、見ることもできなかったのです」
「そういえば、ロウさんも、チョート博士も、サクソン氏の――秘密主義について、なんとか言ってましたわ」
セドラー博士は、見る眼にも興奮してきた。眼をパチパチさせたかと思うと、片眼鏡《モノクル》がはずれ、胸のあたりにダラッとぶらさがった、「秘密主義ですと!」博士はいきなり大声をあげた、「あの男は、すごい蔵書狂でしたよ、晩年の半分はイギリスにいて、競売に出かけてはバリバリ高値をつけ、われわれの貴重本を片端から持って行ってしまったのです……いや、失礼、しかし中には、世間にまったく知られていないものもあったのですよ。彼がどこで、それらを手に入れたのか、だれにも分かっていないのです。ここで盗まれた『情熱の巡礼』の一五九九年版も、そのなかの一冊ですよ。つい最近までは、この初版本は二冊しか現存していないものと考えられていたのです。そこへサクソンが、どこからか、三冊目を掘り出してきたわけなのですが、彼は、学者に、それを一目見ることも許さなかったのです。あの男ときたら、まるで家畜の飼料を倉に入れておくみたいに、しまいこんでしまったのです」
「そいつは|あこぎ《ヽヽヽ》な真似をしたもんですな」警部がさもにがにがしそうに言った。
「そうですとも」と博士が言った、「いや、ほんとうに、私は、その初版本が調べられるのを楽しみにしていたのです……ワイスさんが、サクソン氏の蔵書の遺贈を受けたと話してくれたとき……」
「一五九九年のジャガード版も、その中に含まれていると、言われましたか?」レーンが口を出した。
「ええ、そう言いました」セドラー博士は、ホッとため息をつき、またケースの上にかがみこんだ。彼は片眼鏡をかけた、「いや、じつにすばらしい、はやくこれを――おや、なんだ、これは?」ケースに入れてあった三冊目の本を取りあげて、見返しをひらいて見ていた博士の薄い唇が、興奮のあまり、ポカンとあけられたままになった。
「どうしました?」レーンが間髪《かんはつ》入れずたずねると、椅子からパッと立ち上り、つかつかとケースのそばに歩みよった。
セドラー博士は、ヒューと口笛をならした。
「なに、一瞬、オヤッと思ったのですが――私のまちがいでした。何年かまえに、ロンドンで、『ヘンリー五世』のちょうどこの本を、私は調べたことがあるのです。サクソン氏に買われる前のことです。一六〇八年の日付になっていますが、ジャガードお得意の、さかのぼって日付をつけるやり方の一例として、はっきり認められています。ジャガードが、出版業者のトマス・ペーヴィアのために、たぶん一六一九年に印刷したものですな。しかし、皮が、もう少し濃《こ》い紅色だったような気がしたものですからね。ま、サクソン氏の行きとどいた手入れのおかげで、すこしばかり色が褪せたのでしょうな」
「そうでしたか」と老優が言った、「いや、私は思わずとび上りましたよ!『サー・ジョン・オールドキャスル』のほうはどうでしょう?」
新任の館長は、ケースの一番手前にある本を、いかにも大事そうにいたわる手つきで取りあげると、中をひらいた、「ああ、これは大丈夫です」とまじめな口調で答えた、「一九一三年のソースビイの競売で、こいつがえらく高い値でせり落されたときに、私が見たのとそっくり同じ金茶色をしていますよ! いや、なにも私はね、サクソン氏のことを芸術破壊者だなどと言って、責めているわけではありませんからね、そこのところはどうか――」
そのとき、チョート博士が部屋にとびこんできた、「どうやら、私はまちがっていたらしい」博士はあかるい声で言った、「盗まれた初版本は、どこにも見あたりませんな、ま、もっと探してみましょう」
*
まるで怒り狂う牝象だった、リディア・サクソン夫人がものすごい勢いで、サクソン室に乗りこんできた。その身体つきといったら、どこもかしこも超特大型、小山のように盛り上った脇腹に、飛行船みたいに突き出たお尻、胸は海牛さながら、その歩きぶりにいたっては、まさにフリゲート艦が水を切って|ばく《ヽヽ》進するさまそのもの。夫人のうるんだ緑色の眼は、狂暴な光をたたえ、学者、館長、あるいはひとから慈善をあたえられる側の哀れな種族といった不運な連中にとっては、不吉な予感を起こさせるに充分だった。夫人のお供には、いかにも愉しそうにニヤニヤ笑っているゴードン・ロウと、それにもう一人、古い燕尾服《えんびふく》の、やせさらばえた老人が、まえのめりにコソコソとついて来た。しわだらけのしなびた皮膚、歩くたびにポキポキきしむ脆《もろ》い骨、それと、イタリアの城主、スペインの海賊、ならびに古物蒐集家に共通のどんよくな顔つき、つまり、一言でいえば、この老人には、なにか古代エジプトのパピルスを思わせるものがある。この男こそ、かの不遜《ふそん》なるサクソン・コレクションの司書、クラブなのだ。彼は並みいる連中になど目もくれず、すべるような足どりでジャガードのケースに近づくなり、泥棒からの奇妙な贈物をつかみあげ、禿鷹《はげたか》のごとき鋭い眼光で調べはじめた。
「チョートさん!」サクソン夫人が、|虫ず《ヽヽ》の走るようなキンキン声で叫んだ、「この泥棒騒ぎは、いったい、どうしたっていうんです? なんです、このバカ騒ぎは?」
「まあまあ、奥さん」館長は、おどおどした微笑をうかべながら、蚊《か》の鳴くような声で言った、「まことに不運なめぐり合せとでも申しましょうか、いや、反面、すばらしい幸運とも考えられまして――」
「冗談もいい加減にしてください! もう一冊の本のことは、ロウさんがみんな話してくれたんですからね。そんなことでは、ごまかされません。いいですか、わたしの夫の、いちばん大切な本の一冊が、それも、あなたのつい鼻の先で盗まれたんですよ。わたしはどうしても――」
「その、こまかいお話に入りますまえに」チョート博士があわててさえぎった、「ご紹介いたします。こちらはミス・ペイシェンス・サム。ハムネット・セドラー博士、ご存じのように後任の館長です。こちらはドルリー・レーンさん」
「おや」思わずサクソン夫人は、うるんだ緑色の眼を老優にむけた、「レーンさん、どうぞお見知りおきのほどを! それから、新しい館長さん?」夫人は、イギリス人のしゃちこばった姿を、つめたい、さぐるような眼でジロッと見ると、肥った牝猫のように鼻をならした。
「それから、こちらはサム警部――」
「じゃ警察? さ、警部さん、いますぐ犯人を見つけて!」
「よろしい」警部はつっけんどんに言った、「それでは――チョッキのポケットからでも取り出しますかな?」
夫人は、まるで熟《う》れたさくらんぼのように、顔面を紅潮させると、あえいだ、「そんな、わたしはなにも――」
クラブ老人が、ため息とともに、青い背皮の本を下におくと、夫人の腕をかるくおさえた、「お気をつけください、奥さま、血圧が――」老人は微笑をうかべてささやいた。それから彼は、身体をしゃんとさせると、つき刺すような眼差しで、ひとりひとりの顔をじっと見つめた、「どうもくさい、この盗難事件には、なんとも腑《ふ》に落ちぬところがある」その口調には、個人的な攻撃のひびきがあったので、チョート博士は長身のからだを、キッと身がまえた。「わしにはちゃんと――」そこまで言いかけて、クラブ老人がプッツリと言葉を切ったので、一同はびっくりした。老人の落着きのないちいさな眼が、セドラー博士の顔にとまった。いちど通りすぎてから、突然、ハッと気がついたといった調子で、博士の顔に、まいもどったのである。「こちらは、どなた?」クラブ老人は、しなびた親指を、イギリス人にむけると、かみつくように言った。
「なんでしょうか」セドラー博士がひややかに言った。
「セドラー博士ですよ、こんど来られた後任の館長です」ロウ青年がつぶやくように言った、「クラブさん、どうか失礼なことを言わないでください、ええと、こちらはサクソン文庫の司書をしているクラブさんです、先生」
「セドラー?」クラブが口のなかでつぶやいた、「セドラーとね、なるほど」老人はしなびた頭をグイとそらすと、かすかなうすら笑いをもらしながら、イギリス人を見つめた。セドラー博士もにらみ返した。怒り、かつ当惑している様子だった。それから博士は肩をすくめた。
「失礼ですが、私から説明させていただきましょう」博士は、サクソン夫人に愛想よくニッコリ笑って見せると、一歩まえに出た、「この件は大変に――」二人は片側に寄り、セドラー博士は、ひくい声で口早やに喋った。サクソン夫人は、すでに有罪と決めてしまっている裁判官のように、とりすました敵意ある態度で、博士の言葉をきいている。
ドルリー・レーンは、部屋のいちばん奥にある椅子《いす》に、そっと退いた。老優は眼をとじ、長い手足をのばした。ペイシェンスはホッとため息をつくと、ロウ青年のほうを見た。青年は、彼女をそばにひきよせると、ながながとなにかささやいている。
クラブ老人とチョート博士は、ジャガードの一六〇六年版の、ものいわぬ古書をまえにしたまま、情のかよわない、しかも熱のこもった会話をつづけている。サム警部は、ある特別の煉獄に入れられた迷える魂のように、そこいらをぶらぶらしながら、倦怠の呻《うめ》きをもらしてばかりいる。彼の耳に、愛書家たちの会話が、とぎれとぎれにとびこんでくる――
「見返しの記載は――」
「ハリウェル・フィリップスが言ってますが――」
「ソネットを盗んで入れたということはね――」
「しかし、そいつは四折本でしたかな、それとも八折本?」
「ボドリアン図書館にある版は――」
「――ということは、つまりですな、シェイクスピアの手にならない詩の中の二篇は、一六一二年に出たヘイウッドの『トロイア・ブリタニカ』から、ジャガードが取ってきたことを明示し――」
「本の体裁《ていさい》は、すっかり……をまねて――」
「いいですか、一六〇八年以前には、ジャガードはたんなる出版業者にすぎなかったのですよ。彼がバービカンのジェイムズ・ロバートの印刷所を手に入れたのは、それ以後なのです。したがって一六〇六年の――」
警部はまた呻き声をあげた。そして、イライラして、部屋の中を行ったり来たりした。
*
チョート博士と、気むずかし屋のクラブ老人とのあいだに、一時的な休戦が成立して、二人ははればれとした顔をあげた。「みなさん」館長がひげをいじりながら、大声で言った、「クラブさんと私は、このジャガードの一六〇六年版が、ほんものであるという点で、完全に意見が一致しました!」
「やれやれ」警部が憂鬱そうに言った。
「たしかでしょうな」サクソン夫人と話していたセドラー博士が、ふりむいてたずねた。
「そんなことは、どうでもよござんす!」サクソン夫人が金切声《かなきりごえ》をあげた、「わたしに言わせたら、ほんものにしたところで、夫のサクソンの好意に報いるやり方にしては、ずいぶん奇妙なものだと思いますがね」
「だからいやな女だって言ったんですよ」ロウ青年が、はっきり聞こえるような声で言った。
「シッ! むこう見ずね!」ペイシェンスが小声で叱った、「おっかないおばちゃんに聞こえるじゃない!」
「聞こえたっていいさ」青年はニヤッと笑った、「傲慢《ごうまん》なばばあ鯨《くじら》だよ」
「はじめから私は、にせものではないとにらんでいたのですよ」ドルリー・レーンが部屋のすみからしずかにいった。と、そのとき、団子鼻の小使がのこのこ部屋に入ってくると、足をひきずるようにしてチョート博士のそばに行った。
「なんだね、バーチ?」館長が見むきもしないで声をかけた、「どうせ、あとでいいんだろう?」
「わしはかまいませんけど」バーチはそっけなく言うと、また足をひきずって出て行こうとした。
「ちょっと」ドルリー・レーンが呼びとめた。さっきから老優は椅子から立ち上って、バーチがつかんでいる包みをじっと見つめていたのである。そのするどい顔に、英知のひらめきがチラッとかすめた、「チョートさん、私なら、あの包みを調べてみますね。もし、この事件が外見どおり奇妙なものだとすれば、一見信じられないような可能性も、なきにしもあらず……」
一同は、ポカンとしたまま、老優の顔と小使いの手とを見くらべた。
「すると、あなたのお考えだと――?」チョート博士がひげにかこまれている唇をなめながら言った、「よろしい、バーチ、その包みを置いて行きなさい」
まるで忠実な護衛のように、セドラー博士とクラブ老人が、サッと館長の両脇に立った。それは、ありふれた茶色の包装紙でくるみ、安ものの赤い紐《ひも》で結えた、小綺麗《こぎれい》なひらべったい包みだった。包装紙に札が貼ってあり、その上に、ちいさな活字体で、チョート博士の名前と博物館の住所が、青インクで書いてある。
「だれが持ってきたんだね、バーチ?」チョート博士がゆっくりとたずねた。
「使い走りの小僧でさあ」バーチがぶっきらぼうに答えた。
「そうか」チョート博士が紐をときにかかった。
「待った! バカな真似《まね》を!」警部があわててさえぎるなり、パッととび出すと、いそいで、だが慎重に、その包みを取りあげた、「ここでは突拍子《とっぴょうし》のないことばかり起こっている……爆弾かもしれませんぞ!」
男たちは青くなった、サクソン夫人が絹をさくような声をはりあげ、その胸は海のうねりのように波打った。レーンは悲しげに微笑してサムを見た。
警部は、カリフラワーのような耳を、茶色の包みに押しあてて、じっと聞き入った。それから包みをひっくりかえすと、こんどは、その裏に耳をおしあてた。それでもまだ満足できないらしく、そっと、文字どおりそっと、包みをふってみた。
「よろしい、どうやら大丈夫のようだ」警部はそう言うと、その包みを、館長のおびえている手のなかにおしもどした。
「いや、あなたにあけていただいたほうが――」チョート博士がふるえながら言う。
「なに、大丈夫ですよ、先生」老優が、ご安心なさいと言うように、博士にむかってニッコリと笑ってみせた。
それでもなお、館長の指は、こわごわと紐をほどき、おそるおそる、その茶色の紙をひらいた。サクソン夫人は、逃げ腰になってドアのそばまでにじりよった。ゴードン・ロウは、ペイシェンスをグイッとひっぱって、自分のうしろにかばった。
包紙がほどかれた。
なにごとも起こらなかった。
しかし、かりに包みの中に爆弾がしこまれていて、だしぬけにそれが手の中で破裂したとしても、チョート博士は、これ以上びっくりすることはなかったはずだ。包みから出てきたものがなんであるか分ったとき、博士の顎はガクッとたれさがり、指はなにかを探るように、ブルブルとそれを撫《な》でていた。
「これは――どうしたことか!」博士はつまったような声で叫んだ、「月曜日に盗まれたジャガードの一五九九年版じゃないか!」
九 老司書の話
息づまるような一瞬だった。だれひとり、驚きのあまり一語も発することができず、ただおたがいの顔を見あわせるばかり。奇妙な泥棒が、わざわざ獲物を返してよこしたのだ!
「これまでのところ、事件全体の調子が、あまりにも狂いすぎていましたから」と呟くように言いながら、ドルリー・レーンは椅子から腰をあげると、みんなのそばにやってきた、「こんなことでも起こるのではないかと、私は思っていたのです」老優の浮彫りのような顔には、好奇心の色があふれていた、「われわれが相手にしているのは、頭のいい、ユーモラスな人間ですな。おかしい、じつにおかしな話だ! チョートさん、これは、盗まれた本に間違いないでしょうね?」
「いや、疑問の余地はまったくありません」まだ呆然自失《ぼうぜんじしつ》のまま、館長は答えた、「まぎれもなくサクソン文庫のジャガード本です。みなさん、お調べになりますか?」
博士は、青い皮表紙の本を、包装紙にのせたまま、ジャガードのケースのガラスの上にのせた。クラブ老人は、すばやく熱心に調べた。ロウ青年によりそうように立っているペイシェンスが、たまたま、クラブを見つめているセドラー博士の顔に目をやったとき、彼女は思わずドキッとして、あやうく叫びだすところだった。このイギリス人は、いまのいままで謙譲《けんじょう》のマスクをつけていたのだ、そしていま、その仮面をかなぐり捨てたんだわ。マスクの下からあらわれたイギリス人の顔には、奇妙な怒りが燃えていた。内心の失望からくる怒りでもあろうか、彼の顔はものすごく狂暴に見えた。右の眼につめたく光るレンズのおかげで、その表情はますます狂暴な感じをつよめる。だが、それもほんの一瞬だった、たちまち、イギリス人は、狂暴な表情を、ふたたび仮面の下にかくしてしまった。ただ、注意ぶかく関心をよせる態度にもどったのだ……ペイシェンスは、ゴードン・ロウの顔に目をやった。二人は目と目で語りあった。ロウ青年も、セドラー博士の仮面の下からあらわれたすさまじい表情に気づき、じっとその顔を見つめていたのだ。
「たしかに、サクソンのジャガード本だ」クラブ老人が語尾のはっきりしない声で言った。
「や、しまった!」サム警部がだしぬけに大声をはりあげたものだから、みんなはびっくりした。そして一言も説明しないで、警部はサクソン室をとび出した。彼の大きな靴音が、しだいに廊下を遠ざかって行くのがわかる。
「お父さんは、だいぶせっかちなひとですな」セドラー博士が薄笑いをうかべて言った。
「パパは」とペイシェンスが言い返した、「ときによっては、とても鋭敏な力を発揮しますわ、実際的なものの考え方をしますもの。いまだって、きっと使いの子を追いかけていったにちがいありませんわ。あたしたちときたら、だれひとり、それに気がつかなかったじゃありませんか」
すると、サクソン夫人は、カンカンになって怒っている若い娘にはじめて気がついたというように、ペイシェンスの顔をまじまじと見つめた。ロウ青年がクスクス笑った。
「いや、まさにそのとおりだ、ペイシェンスさん」ドルリー・レーンがやさしく声をかけた、「警部さんが敏腕な方だということには、だれも異存がありませんよ。もっとも、いまの場合は、うまく行きそうもないと思うが。ところでみなさん、問題は、ジャガードの一五九九年版が、もとのままの形でもどってきたのではないということですよ、さ、本を裏返しにしてごらんなさい」
老優の炯眼《けいがん》は、すでになにかの異状を読みとっていたのだ。チョート博士は、本を包装紙からもちあげると、裏返しにしてみた。異状は一目でわかった。裏表紙の下縁《しもべり》にそって刃物の跡があり、背皮と、芯《しん》に入れた薄いボール紙とのあいだに、裂け目ができているではないか。裏表紙の下縁が、この調子で、端から端まで切ってあった。裂け目から、固いパリッとした紙の端がのぞいている。
チョート博士が、慎重な手つきで引き出してみると、それは百ドル紙幣だった。本の包装に使ったのとおなじ茶色の紙の切れ端が、ありきたりのピンで、その紙幣にとめてあった。小包の上書きとおなじ青インクで、おなじような活字体で、つぎのような文字が書かれている――
これを修繕費に
署名はなかった。
「まあ、生意気な!」サクソン夫人がいきりたった、「ひとの本を台なしにしておきながら――」
そのとき、サム警部がブツブツ言いながら、顔をふきふきもどってきた、「足の早い奴だ、うまく逃げられてしまった……や、これはなんだ?」びっくりした顔つきで、サムは裂かれた裏表紙を調べ、文字を読んだ。それから、もうわしの手には負えん、といわんばかりに、頭をふると、包装紙と紐を調べにかかった、「安いマニラ紙……それに、ありきたりの赤い紐、これじゃ、なんの手がかりにもならん、クソッ!いまいましい事件だ!」
百ドル紙幣をいじりまわしていたクラブが、クスクスと含み笑いをした、「チョートさん、感心な泥棒もいるものですな。本を盗んでおきながら、修繕費をつけて返してくる。おまけにえらく高価な贈物までそえるとはな!」そう言うと、突然真顔になって、なにかじっと考えこむ様子。
「新聞社に電話をかけましょうや」と警部がうんざりして言った、「この事件を話してやることですよ。そうすりゃ、泥棒だってひっ返してくる口実ができるわけだ」
「パパ、それはどういうこと?」
「パット、気が触れてる奴にしろ、悪党は悪党だ。この、突拍子もない一六〇六年版とかいう本を、とにかく奴は置いていったんだからね、取りかえしにくるさ」
「さあ、来ないと思いますがね、警部さん」とレーンが笑いかけた、「どうもそんな一筋繩でゆきそうな奴ではないらしい、それどころか、彼はもう――」
思いがけずジャガードの一五九九年版がもどってきたので、すっかりご機嫌をなおしていたサクソン夫人が、まるで渡し舟の警笛みたいなけたたましい叫び声をたてた、「まあ、クラブ! ほんとにおかしいじゃないか。いま思い出したよ、ねえ、レーンさん、うちじゃ、つい最近も、これと似たようなことがあったんですよ」
「なんですと、奥さん?」老優がせきこんでたずねた、「どんなことです?」
夫人の三重顎が、興奮のあまり、ブルンブルンとふるえた、「だれかがうちの書庫から本を盗んで、そのあとからやっぱり返してきたんですよ!」
クラブ老人が、妙な目つきで夫人を見た、「そうだ、わしも思い出しましたよ」老人は無愛想に言うと、なんとはなしにセドラー博士を横目でジロリとにらんだ。「変ですな」
「クラブさん!」ロウが大声を出した、「いったい、なにをボヤボヤしているんだ、むろん、おなじ奴の仕業《しわざ》にきまっているじゃありませんか!」
ドルリー・レーンがサクソン文庫の司書の腕をいきなりギュッとつかんだので、司書は思わずたじたじとなった、「さ、そのときの事情を説明してください、さ、早く! 非常に重要なことかもしれないのです」
クラブ老人は警戒するように、あたりを見まわした、「いや、すっかり興奮してたもので、すっかり忘れてしまって……六週間ばかり前でしたか、ある晩、私はおそくまで書庫で仕事をしていたことがあるんです。むろん、サクソン夫人のお宅にあるサクソン文庫ですがね。あのころは、ブリタニック博物館への遺贈分を選りわけたあとで、蔵書の分類をしなおしている最中でした。そのとき、どこかわきの部屋で、あやしい物音がしたもんですから、私は行って調べてみました。すると、どうです、ひとりの男が書棚をあさっているじゃありませんか」
「やっと手がかりがつかめたぞ」と警部が言った、「で、そいつの様子は?」
クラブは、すじばった乾からびた両手を、火にあぶるみたいにしてつき出した、「だれか分らんですわ。なにしろ、まっ暗で、マスクをつけ、外套にくるまって、おまけにチラッとしか見ないんですからな。こちらの気配に感づくと、フランス窓からとび出して逃げてしまったんで」
「とても怖ろしかったんですよ」サクソン夫人が顔をくもらせて言った、「あんなにびっくりしたことは生れてはじめて」そう言うと、こんどはクスクス笑い出した、「クラブさんたら、まるで呆けた雄鶏みたいにはね廻って――」
「ふむ」クラブ老人はいやな顔をした、「そういえば奥さんは、真赤な色の派手《はで》な寝間着など着て、階下におりていらっしゃいましたっけ……」夫人と司書は、たがいに挑《いど》むような目でにらみあった。ペイシェンスは、巨大な肉の塊りが、コルセットもつけず、ダブダブの寝間着をはだけてあらわれたさまを想像して、思わず吹き出しそうになり、唇をグッと噛んであやうくこらえた。
「とにかく、わしが騒ぎたてたもんですから、このロウ君もおりてきましたっけが、その恰好《かっこう》たるや、ウッフッフ! 下着のままでしたよ」
「冗談じゃない」あわててロウが言った、「クラブさん!」
「なに、毎度のことですよ、で、ロウ君があっぱれ騎士ぶりを発揮して、曲者《くせもの》を追いかけたんですが、うまく逃げられてしまったんです」
「ぼくは、薄地のパジャマだったんですよ」ロウが真剣な顔で言った、「それに追いかけたといったって、ぼくが外に出たときは、もう影も形もなかったんですからね」
「で、その男が本を盗んだというわけですね?」ドルリー・レーンがゆっくりした口調でたずねた。
クラブ老人はいたずらっぽく眼ばたきした、「ま、信じられんでしょうがね」
「なにをです?」
「そいつはジャガードの一五九九年版を盗んでいったんですよ」
*
セドラー博士の目は、クラブ老人の顔にピタリと釘づけになった。チョート博士は、狐につままれたような表情だった。警部は絶望的な叫びをあげた。
「いったいぜんたい、この突拍子もない本は、なん冊あるんだ?」
「クラブさん」レーンが顔をしかめて言った、「このジャガードの一五九九年版が、ブリタニック博物館にくるまえに、いちど盗まれて、あとでまた帰ってきた、と言うのですか? それではまるでわけがわかりませんね」
「いや、なにね」クラブ老人は歯のない口でニヤリとした、「盗まれたのはジャガードの一五九九年版の|にせもの《ヽヽヽヽ》なんで」
「にせもの?」セドラー博士がつぶやいた、「そいつは知らなかった――」
「二十年ばかり前に、サクソン氏がどこからか見つけだしてきたしろものなんですがね」司書はあいかわらず意地の悪い薄笑いを浮かべながら言った、「れっきとしたにせものでしてな、わしらは、ま、珍本として書棚にのせといたんですが、そいつを泥棒が盗《と》ったというわけなんで」
「どうも腑《ふ》におちない」とレーンがつぶやいた、「この事件のなかで、その点がいちばんおかしい。私にはどうにも合点がいかぬ……クラブさん、当時、ほんものはまだお手もとにあったわけですね? たしか博物館に寄贈する前だとか言われたように思うが?」
「ええ、ありましたよ、レーンさん。ただ、なにをかくしましょう、そのほんものは、家の地下室にしまってありましてね」クラブはクックッとのどの奥で笑った、「ほかの貴重本といっしょにね。にせもののほうは、好事家の興味を惹く以外、なんの値打ちもないものでしたから、かまわなかったんですよ。それに、さっきも言ったように、二日後ににせものが、なんの説明もなしに返送されてきたんですよ」
「ほう」レーンは声高に言った、「それで、そのにせものも、やはりここにあるほんもののように、切り裂かれていたのですか?」
「なに、まったくの手つかずのままで」
「どんな包装紙や紐がつかってありました?」と警部が口を出した。
「ここにあるのと、そっくり同じやつですよ」
レーンは、なにか考えついたのか、ジャガードのケースを眺めやり、いま使いの者が返しにきたジャガードの一五九九年版を手にとりあげると、裂かれたとじ目を仔細に点検した。裏表紙の内側のすくなくとも半分――見返しと、重ねあわせて芯にしてある厚紙のいちばん上の一枚――が、裏表紙の残りの部分から、かすかにめくれあがっている。
「さて、こいつは妙な具合になっていますぞ」老優は考えこみながら言った、そして泥棒の細工のおかげで、ヒラヒラになった部分を、みんなに示した。レーンはヒラヒラの部分をそっとひっぱってはがした。と、その下から、長方形の凹みがあらわれた。だれかが、ちょうど重ねあわせた厚紙一枚分だけ、そこのところを削りとったのはあきらかだった。きわめて浅い凹みで、幅三インチ、長さ五インチに足《た》りない大きさだった。
「そんなところまで切りとったんですか?」とチョート博士があきれ声で言った。
「いや、そうではありますまい。ペイシェンスさん、あなたの目のいいところで、よくこれを見てください。この妙な長方形が削りとられたのは、いつごろでしょうね?」
ペイシェンスは、言われたままに、まえに進み出た。一目見て、彼女は言った、「そうね、ずいぶんまえのことですわ。切り口が時代ずれしていますもの。うんと昔にちがいありませんわ」
「これが、ご質問に対するお答になると思いますがね、チョートさん」レーンが微笑した、「ところでお嬢さん、いったいなんのために、裏表紙を削って、こんな凹みをこしらえたのでしょうね?」
ペイシェンスは、ニッコリと顔に微笑をうかべた、「むろん、なにかをかくすためですわ」
「かくす!」館長が叫んだ、「そんな、馬鹿な!」
「いやいや、博士」老優がかなしげにつぶやいた、「どうして、あなたがた本の虫が、理のとうぜんのことを、鼻であしらったりなさるのです? このお嬢さんの言うとおりです、なにか、ごく薄くて軽いもの――薄いというのは凹みを見ればわかるし、軽くなかったら、何世紀ものあいだには、専門家に感づかれてしまったはずですからね――そういったなにかが、つい最近まで、ウィリアム・ジャガード版の裏表紙に、かくされていたのですよ、そうですとも、一枚の紙きれ以外になにが考えられるでしょうか」
十 ウィリアム・シェイクスピア登場
もうこれ以上、ブリタニック博物館には用がなかった。なかでも警部は、早く切りあげたくてジリジリしていた。一同は別れを告げて、表に出た。
ゴードン・ロウは、玄関のドアのところまで送ってきた。彼はこぶしを固めると、シェイクスピアの青銅のひげをコツンコツンとたたいた、「このじいさん、ほんとうに笑っている。ま、無理もないな! なにしろ博物館で、ここ何世紀のあいだに、はじめて人間くさい事件が起こったんだものね、パット」
「それもイライラするような事件がね」とペイシェンスが、怒ったような口調で言った、「さ、手をはなしてくださらない! うちのパパは、とてもやきもちやきで、おまけに背中に眼がついているのよ……じゃ、さよなら、ゴードン」
「ああ、今日はすばらしかった。こんどはいつ会えます?」と青年が言った。
「考えておきますわ」ペイシェンスはそっけなく言うと、父やレーンのあとを追おうとした。
ゴードンは彼女の手をつかんだ、「パット!いま、会いたいんだけど」
「いまって?」
「お父さんの事務所まで送らせてください、どうせ、そこへ帰るんでしょう?」
「まあね」
「じゃ、いっしょに行ってもいい?」
「あなたって、ほんとに図々《ずうずう》しいのね!」そう言いながら、ペイシェンスは、これで十二回も赤くなった自分に腹を立てた、「そうね、もしパパがいいって言ったら」
「そりゃ、いいって言うにきまってますよ」ロウは快活に言った、そして後手にドアをパタンと閉めた。彼はペイシェンスの腕をとり、さっさと歩道を横切って、ほかの人たちのあとを追った。レーンの運転手の赤毛のドロミオが、歩道ぎわに駐《と》めてある、ピカピカに光った黒塗りのリンカーンのそばに立って、ニヤニヤ笑っていた。
「警部さん」とロウはおずおずとたずねた、「ぼく、ごいっしょに行ってもいいでしょうか? ね、いいですね? 警部さんの目に、ちゃんとそう書いてありますよ!」
サムはつめたい目をむけた、「いいかね――」
そこへ、ドルリー・レーンがなだめるように割って入った、「まあまあ、警部さん、結構な思いつきじゃありませんか? ひとつ、私に、みなさんを下町へご案内させてください。車も待たせてあるし、ちょうど息抜きがしたいと思っていたところです。こう、あとからあとからと、妙なことばかり持ちあがったのでは、なにを考えたらいいのか、さっぱり見当もつきませんからね。とにかく作戦会議をひらく必要があります。さいわい、ゴードン君は頭がいいし、どうでしょう、警部さん、ごいっしょにいかがです? それともお忙しいですか?」
「まさに、ここに知己《ちき》あり、ですね」とロウ青年が言った。
「どうも近ごろのうちのやり方ときたら」と警部が浮かぬ口調で言った、「わしが一か月休暇をとったって、あのおめでたい秘書ときたら、わしのおらんのに気がつかないくらいですからな」警部はロウの顔をジロリとにらみつけ、それからペイシェンスに視線を移したが、娘のほうは、神経質に歌など口ずさみながら、うわべは無頓着なふりをしている。
「ま、よかろう、お若いの。さ、パット、早く乗った、車代はいらんぞ」
*
サムの部屋に入ると、老優はホッとため息をもらして、使い古した皮椅子に腰をおろした。ペイシェンスは、ものしずかに椅子にすわり、ロウ青年は眼をかがやかせながら、戸口の柱によりかかった、「警部さん、おたくでは詩篇百二十二の教えをよく守っておいでですね、『なんじの石垣《いしがき》のうちに平安《やすき》あり』いいですねえ」
「そうよ、だけど、そのつづきの『なんじの諸殿《とのどの》のうちに福祉《さいわい》あらんことを』というわけにはいかないわね」ペイシェンスは笑いながら、しゃれた小さな帽子を、むこうの隅の金庫の上に投げた、「もしもね、こんな不景気な状態がつづくようだったら、あたし、仕事を探さなくてはならなくなりそうですわ」
「女性は職業につくべきじゃないですよ」とロウ青年が熱をこめて言った。
「パット、おまえはだまってなさい」警部が苛ら立って言った。
「私にできることだったら、なんとか――」と老優が口を出した。
「いやいや、ご親切はありがたいのですが、ご好意だけで――。ちっとも困っているわけじゃないですからな。パット! お仕置きだぞ! ところで、レーンさん、こんどの事件をどうお考えです?」
ドルリー・レーンは、しばらく、一座の人たちの顔をさぐるように見ていたが、やがて、すんなりした脚を組んで言った、「警部さん、私の考えといったところで、ときにはずいぶんバカげていることがあるのです。ま、こんどのことは、私がいままで経験したこともないような驚くべき事件ですよ、おそらく、犯罪学のあらゆる文献をしらべてみる必要があると思いますね。あなたは実地で鍛《きた》えあげた警官です、|あなた《ヽヽヽ》のお考えはどうですか?」
「いや、支離滅裂《しりめつれつ》ですな」警部は苦笑しながら言った、「まったくのお手あげですわ。泥棒が獲物に|のし《ヽヽ》をつけて返してくるなんて、前代未聞ですからな! もっとも筋道がないわけじゃない、手を打つとすれば、あの二人を探すことですよ、例の青帽子の男と、バスの発車係が話した、妙な馬蹄型の指輪をしたあの二人をね。わしは、もう一度、あの十七人の教師連中をしらべてみますよ。ま、感じからいえば、あの連中は関係なさそうだが」
「お嬢さん、あなたは?」老優は、ペイシェンスのほうに顔をむけて言った。だが、彼女の思いは、あらぬ方《かた》をさまよっている最中だったのだ、「お嬢さんは、いつもいいことを言ってくれますからね」
「あたしたち、なんだかコップの中で嵐を起こしているみたいな気がするんですけど」とペイシェンスが言った、「盗難があって、その盗品におまけがついてもどってきたわけでしょう?でしたら、あたしたちの知るかぎりでは、べつに犯罪など起こったわけではない、ということになりません?」
「というと、面白い問題が残っただけで、それ以上の重大なことはなにもない、というわけですか?」
彼女は肩をすくめた、「あたし、なんだか今日は、血のめぐりが悪いようですわ。でも、どうしてもそんな気がしますの」
「ふん、犯罪じゃないってわけか?」と警部が皮肉な口調で言った。
「ああ、それでは」とレーンが、かすかな笑みを浮かべて言った、「あなたは、犯罪が|あった《ヽヽヽ》とおっしゃるわけですな、警部さん?」
「そりゃあそうですとも! でなかったら、ドノヒューじいさんは、どうなったっていうんです?」
老優はしばし眼をとじた、「あの行方不明の警備員ですね。そう、たしかに暴力の匂いがする。しかし、結局のところ、それは警察の問題ではありませんか。そうではない、もっと他のことなのです」
ロウ青年は、戸口の柱にもたれたまま、さも退屈そうに、ひとりひとりの顔を眺めまわした。ペイシェンスは眉の根にしわをよせ、しばらくはだれもしゃべるものがなかった。やがて、警部は肩をすくめると、電話のところにいった。
「警察の問題であろうとなかろうと、わしに関心のあるのはそれだけだ。あの可哀そうなじいさんを見つけだしてやると、約束したんですからな。できるだけのことはしてやらなくちゃ」警部はそう言うと、失踪人課のグレーソン課長に電話をかけ、それがすむと、友人のジョーガン警部のほうに廻してもらって、ちょっと話した。「ドノヒューについての新しい情報はないそうですよ。まるで神隠しにでもあったみたいですな。ジョーガンに、泥棒が送ってよこした百ドル紙幣の番号をしらせときました。なにかの手がかりになるかと思いましてね」
「それは考えられますね」レーンは同意した、「さ、お嬢さん、かわいらしいお鼻にしわをつくって、どうかな、私が言った『もっと他のこと』というのが、わかりましたかな?」
「いま、考えてる最中なんですけど」彼女は、苛ら立ちながら言った。
「装幀」ロウ青年がピシャリと言った。
「あら、ゴー――ロウさん、そのとおりよ!」ペイシェンスは叫ぶと、パッと赤くなった、「青帽子の男が、ジャガードの一五九九年版の裏表紙からぬき取った|もの《ヽヽ》!」
老優はクスクス笑った、「若い人というものは、二人でいっしょに考えるらしいですね。すばらしいじゃありませんか、警部さん――ま、そう苦い顔をしなさんな。ゴードン君は貴重な青年だと、私が言ったとおりです。いや、お嬢さん、それを言っていただきたかったのですよ。まるで雲をつかむような泥棒の行動が、あの本の秘密の隠し場所から出発してみれば、だんだん筋道がわかってくるではありませんか? 六週間ばかり前、なにものかがサクソン文庫に押しいって、たぶんジャガードの一五九九年版を盗《と》っていった。この盗難事件も、同一人物――つまり例の青帽子の変り者の仕業と考えても、べつにこじつけということにもなりますまい。ただし、その本はにせものだった。それで、手つかずに本は返ってきたのです。青帽子の男が探しているのは、ほんものだったからです! ところで、『情熱の巡礼』の初版本は、何冊、ほんものが残っているか? 三冊です。そして、サクソン文庫のものが、いちばん新しく発見された三冊目の本にあたるわけです。とすると、おそらく、謎の男は、ほかの二冊もしらべようとしたにちがいありません。サクソン本を盗み出して、それがにせものだとわかると、ほんものはまだサクソン文庫にあると、狙いをつけたのだと思いますね。そこへもってきて、サクソン氏がブリタニック博物館にその蔵書を遺贈し、そのなかに、ほんもののジャガードがふくまれていたというわけです。泥棒は、なんとかうまく博物館にもぐりこみ、まんまと、この三冊目のほんもののジャガードを盗み出しました。そして、謎の男は、もっと珍しい本を代りに置いていったのです。二日後に、彼はジャガードを返してよこしました。さて、ペイシェンスさん、これから先の結論は、あなたに言っていただきましょうか?」
「そうね」ペイシェンスは、下唇をかみながら言った、「そう考えると、ほんとに筋道がたっていますわ。その男が、ほんもののジャガードを博物館に返してきたという事実、ただし、裏表紙を引き裂いて、隠してあったなにかを抜き取ったということ、つまりそれは、男の関心が、ジャガードの一五九九年版そのものにあるのではなくて、その本に隠してあった薄くて軽いものだけにあった、ということを示していますわね。それさえ取り出してしまえば、あとは、本そのものに用はなく、泥棒は紳士的に本を返してきた、と、こうじゃないかしら」
「すばらしい!」とレーンが叫んだ、「いや、みごとな推理です」
「ほんとにすごいよ」ロウ青年がやさしくつぶやいた。
「で、ほかになにか?」と老優がうながした。
「そうですわね」ペイシェンスは顔をすこし赤らめながら言った、「それでまた、おかしな問題が出てきますの。だって、ジャガードの一五九九年版はとても貴重な本なんでしょ? もし、あたりまえの泥棒だったら、目的の品物を抜きとったあとでも、その本は手もとにとっておいたはずですわ。おまけに、皮の装幀を修理する費用として、百ドルもつけてよこすなんて。いいえ、そればかりか、その泥棒は、自分が盗んだ本のかわりに、とほうもなく貴重な本をちゃんと置いている。――もっとも、その本は、一五九九年版に似ているからかもしれないし、もしかしたら、どうしても気がとがめて、そうしないわけにはいかなかったのかもしれませんけど。いろいろな事情をあれこれ考えあわせてみると、この泥棒君、ほんとはとても正直なひとのような気がする。そして、そういう人が、やむを得ず不名誉なことはしたものの、まえもって、できるだけの償《つぐな》いをしておいたのだ、というふうに、あたしは思うんです」
老優は、グッと身をのり出して、目をかがやかせていたが、ペイシェンスの話がおわると、また椅子の背に身をもたせかけ、細長い人さし指を警部にむけた、「さ、カミナリ親父《おやじ》さん、いまの話はどうです?」
警部は咳《せき》ばらいをした、「まあ、悪くはないでしょうな」
「なんです、警部さん、それでは、ほめたうちには入りませんよ、完璧《かんぺき》です、お嬢さん! いや、われわれ耄碌《もうろく》じじいには、ほんとうにいい刺戟になる。そう、おっしゃるとおりだ。われわれの相手は、正直で良心的といってもいいくらいの泥棒ですよ、ま、犯罪史上でも、ちょっと類例がないでしょうね。まさに、十五世紀フランスの泥棒詩人フランソア・ヴィヨンの現代版といったところです! ところで、ほかにまだなにか?」
「もう一つ、はっきりしていることは」と、ロウ青年がだしぬけに口を出した、「にせのジャガードの装幀をこわさずに返したという点から見て、この男は、かなり稀覯書《きこうしょ》に通じていると考えられますね。ぼくは、あのにせものを見たことがあるんですが、素人が簡単に見破れるような雑な出来じゃありませんでしたよ。たぶん、謎の男は、あの本を調べてみて、即座にこいつはほんものじゃないと、見破ったんでしょうね。そこで、自分が探しているのは、ほんもののジャガードの一五九九年版だけだというわけで、手もつけずに送り返してきたのにちがいないんです」
「とすると、その泥棒は、愛書家といったような部類なのね?」とペイシェンスがつぶやいた。
「ま、そんなところでしょうね。ゴードン君、あざやかな推理ですよ」老優は椅子から腰をあげると、その長い脚で、部屋のなかをあちらこちらと歩きはじめた。「さ、これでかなり輪郭《りんかく》がはっきりしてきました。その謎の男は、学者で、古物蒐集家、愛書家、そして本心は正直者で、やむを得ず泥棒はしたものの、盗んだものといったら――これはまず間違いないものと思うが――たったの紙きれ一枚、それを、古書蒐集家の貴重本の裏表紙から探し出したというわけです。どうです、おもしろいではありませんか?」
「なにがなんだか、さっぱりわからん」とサム警部がつぶやいた。
「切り口、いや凹みは」とロウ青年が考えながら言った、「長さ五インチ、幅三インチ。すると、もし紙だとすると、たたんで入れてあったにちがいありませんね、それに、きっとすごく古いものなんだ」
「そうでしょうね」レーンがひくい声で言った、「もっとも、古いものとは、かならずしも言えないが。ま、だいぶ、はっきりしてきたようです。だが、それにしても……」老優の重々しい声が消えて、白い眉をひそめたまま、彼はしばらくのあいだ、無言で歩きまわった、「私も、すこしばかり、自分で調べてみなくてはなるまい……」彼はやっと口をひらいた。
「ドノヒューのことをですか?」サム警部が期待にはずんだ声でたずねた。
レーンは微笑した、「いや、そのことでしたらおまかせしますよ。その方面にかけては、私など、警部さんの足もとにもおよびませんからね。私がいま考えているのは」と、老優は顔をしかめてつづけた、「ちょっとした研究なのです。ご承知のとおり、私のところにもかなりの蔵書があって――」
「ハムレット荘は学者の楽園ですよ」とロウ青年が、夢みるような口調で言った。
「どんなご研究ですの?」とペイシェンスがたずねた。
「そうですね、例のジャガード本の現在の装幀が、はたして出版当時そのままかどうか、それを決める手がかりとはいかないまでも、参考になるようなことをですよ。とにかく、装幀の時代がわかれば、隠し場所の大きさから推して、ゴードン君が言ったように、たたんで隠してあった問題の文書の時代がつかめるかもしれないと、思うのです」
「そういうことだったら、ぼくにだって、なにかお手伝いができると思いますけど、レーンさん」とロウ青年が熱心に言った。
「そうだ、いい考えがある」と老優は言った、「ゴードン君、君は私とはべつにやってみてください、そうすれば、あとでくらべてみることができるわけです」
「いま思いついたんですけど」とペイシェンスは、なんとなくホッとしたような表情で口をひらいた、「なにかの文書が、そんな古い本に隠されていたとすれば、そのことを書いた記録がどこかにあると思いますの。だいいち、あの泥棒がどうしてそれを嗅《か》ぎつけたのか、どこを探したらいいか、いったいなんでそれがわかったのかしら?」
「いや、じつに鋭いお考えだ! 私が考えていたのも、そのことなのです。『情熱の巡礼』の一五九九年の初版について、知られているかぎりの材料を、私は検討してみるつもりです。おそらく日付の入った記録も見つかるでしょう。ジャガードは、エリザベス朝のロンドンで、こと出版に関するかぎり、いろいろな方面に首をつっこんでいましたから、彼の名前は、おびただしい数の文献と関連して、とび出してくるのですよ。そうだ、たしかにそれが正しい第一歩です。君はどう思います、ゴードン君?」
「その点でもお手伝いしますが」とロウ青年がしずかに言った。
「それはどうも! ところで警部さん、あなたはやはり、ドノヒューを追ってみますか?」
「ま、自分のできる範囲でね。だいたいは、失踪人課のグレーソンに任せるつもりですが」
「そう、もともとは、彼の仕事ですからね。それに警部さん、この事件は、金銭的には、どうも|わり《ヽヽ》に合わないようですね」
「残念ですが、まさにそのとおり」とサムはうなった、「だが、このままでは、どうにも腹の虫がおさまらんですよ。だから、もうしばらく、つっついてみるつもりです」
「あいかわらず意地っ張りですね」老優はクスクス笑った、「では、ひとつ、私から提案させていただきましょう、もし、あなたがこの事件に、ただ感情的な立場から関心をおもちなら、どうしてハムネット・セドラー博士のことを調べてみないのです?」
警部はびっくりした。ペイシェンスは、ロウ青年のさし出したマッチで、タバコに火をつけようとしていたが、思わず途中でやめた。「あの大将を? そいつはまたなぜです?」
「なに、虫のしらせですよ」とレーンが小声で言った、「しかし、あのクラブ老人が、セドラー博士を見つめたときの、あの妙な目つきには、きっとあなたも気がついたことと思うが?」
「あ、そうだわ!」ペイシェンスが叫んだ、「ゴードン、あなただって気がついたわね!」
「ゴードンだと?」警部が怒鳴《どな》った。
「いや、口がすべったんですよ」ロウ青年があわてて言った、「お嬢さんは興奮なさっているんです。ペイシェンスさん、ぼくをロウと呼んでくださいよ……そうだ、パット、ぼくもたしかに気がついた、あれからずっとそのことが気になっていたんだ」
「なんのことだ、いったい?」警部は苦虫を噛みつぶしたみたいな顔だった、「やれゴードンだ、パットだなどと、いやになれなれしく」
「まあまあ、警部さん」とドルリー・レーンがなだめた、「この際、個人的な感情はぬきにしましょうよ、警部さん、あなたは、自分がどんなに時代おくれの暴君か、おわかりなのですか? 近ごろの若い人たちは、昔とはちがうのですからね」
「パパ」ペイシェンスが顔をまっ赤にそめて言った。
「警部さんだって、お若いころは」とロウ青年が口をそえた。
「まず紹介、それから眼と眼との探りあい、それが終ると暗闇のキス」レーンが笑いながらつづけた、「さ、警部さん、あなたも、だんだん、そういうことに慣れていかなくてはいけませんよ。ま、それはとにかく、クラブという老人は秘密主義だから、アッという間に、そんな表情は押しかくしてしまいましたがね。でも、たしかにあの時の異様ななにかは、調査してみるだけの値打ちがあると思いますね」
「どうも、やっぱり」警部は口をとがらせてつぶやいた、「気にくわん……いや、いま、なんとおっしゃいました? つい、うっかりしていたもんで――。しかしですな、もしそういうことなら、クラブ老人に、二、三質問してみたらいいじゃありませんか」
ペイシェンスは、じっとタバコの先を見つめた、「ねえ、パパ」と声をひくめて、「そのことで、あたし、思いついたことがあるのよ。いまのところでは、まだクラブさんにご迷惑をかけるのはやめたほうがいいわ。それよりも、どうかしら、セドラー博士の身許調査をしたら?」
「イギリスのほうをかね、パット?」
「はじめは控え目に行きましょうよ。船会社をあたってみたらどうかしら?」
「船会社だと? いったいなんのためだ?」
「パパにはわかんないけど――」ペイシェンスは、口のなかでつぶやいた。
*
それから四十五分後、サム警部は受話器を置くと、ひどく震える手でハンカチをつかみ、額のあたりをゴシゴシふいた、「さあて」と彼はため息まじりに言った、「おかしなことになってきたぞ。こんな――こんなバカな話があるものか……ランカストリア号の事務長が、いま、わしになんと言ったと思う?」
「いやね、パパったら」とペイシェンスが言った、「じらさないでよ、なんて言ったの?」
「ハムネット・セドラーなどという名前は、乗客名簿に見あたりませんとな!」
みんなは、たがいに顔を見あわせた。それから、ゴードン・ロウがピューッと口笛を吹き、手にしていたタバコを警部の灰皿になすりつけた、「いよいよ、お誂《あつら》えむきというわけですね」と彼はつぶやいた、「あの有名なセドラー博士がね……」
「おもしろくなってきたわ」とペイシェンスが、ささやき声で言った、「なんだか、とてもおもしろくなってきたようね」
「あいつはイカサマ野郎なんだ!」とサムが吠えた、「いいか、おまえたち、このことは黙っているんだぞ、絶対に口外してはならん! いまに、このわしが――」
「まあまあ、警部さん」とレーンが、おだやかに口をだした、老優は皮椅子の底にぐったりと身をしずめ、そのなめらかな額には、いま、おびただしい小皺がよっていた、「そうあわてないでください。見せ場が一つでは芝居にはなりませんし、疑わしい状況が一つ出てきたからといって、それだけで犯人と決めるわけにはまいりますまい。あなたはセドラーの人相を、事務長に説明していたようですが、あれはなんのためなのです?」
「なに」警部は鼻をならした、「事務長が名簿を見ても、やつの名前はのっていないと言うもんですから、わしはセドラーの人相を話して、事務長から給仕にきいてもらったのですよ。船は、今朝着いたばかりで、連中はみんな、手近かにいたから、さっそく調べてくれました。ところがどうです、セドラーの名前がないばかりか、そういう人相の乗客もなかったというじゃありませんか!」警部は、相手をにらむようにして言った、「いったい、これをどう思います?」
「どうやらこいつは――」ロウ青年が考えこみながら言った、「くさくなってきたぞ」
「犯罪の匂いが強くなってきたことはたしかですが」と老優がつぶやいた、「おかしい、どうも腑《ふ》におちない……」
「ね、いいこと」ペイシェンスが叫んだ、「いまのお話ではっきりしたのは、セドラー博士が、すくなくとも四日間は、このアメリカにいたということなのよ!」
「どうしてそんなことがわかる、パット?」と父親がたずねる。
「だって博士は、飛行機で大西洋を渡ってきたわけじゃないでしょ? ほら、先週の木曜日に、あたしが船会社に電話して、こんどイギリスからの船が着くのはいつになるか、聞いたじゃないの――サリー・ボストウィックがアメリカに来ると言ってよこしながら、いつなのか日付が書いてなかったものですから。そしたら、なんでも土曜日に入港する船が一つあって、あとは今日までないという返事。すると、今日は水曜日、あたし、博士はニューヨークに最小限四日間、つまり先週の土曜日以来いることになると思うんです」
「あるいは、もっと長くね」ロウ青年が眉をよせながら、口をそえた、「それにしても、あのセドラーが! そんな馬鹿な」
「では、土曜日の船もあたってみたほうがいいかもしれませんね」レーンがぼんやりした口調で言った。
警部は受話器に手をのばした、が、途中で手をおろすと、また坐りなおした、「いや、もっといい方法がありますな、一挙に解決できるようなのがね」サムはボタンを押した。すると、まるで魔法のように、丸い眼をしたミス・ブロディがヒョッコリ現われた。「手帳をもってきたかね? ああ、よろしい。スコットランド・ヤードに電報を頼む!」
「ど――どこにですか、警部さん?」ミス・ブロディは戸口のそばの、たくましい青年の存在に圧倒されて、どもりながら言った。
「スコットランド・ヤード。あっちのお調子屋連中に、こっちのやり方を教えてやるんだ!」警部の顔はユデ蛸《だこ》みたいにまっ赤だった。「スコットランド・ヤードがどこにあるかぐらいのことは分ってるだろうな? イギリスのロンドンだ、ロンドン警視庁だ!」
「は――はい、わかります」ミス・ブロディはあわてて言った。
「宛名はトレンチ警視。T―r―e―n―c―h。電文、『ハムネット・セドラーノ全経歴ヲ知リタシ。ロンドン・ケンジントン博物館ノ前館長、現在ニューヨークニ滞在中。イギリス出発ノ日時、身体ノ特徴、係累、評判、前科ノ有無、オ知ラセ乞ウ、極秘』すぐ打つんだ」
ミス・ブロディは、ロウ青年の方へ、ヨタヨタとよろけた。
「ちょっと待った。セドラーの綴りは大丈夫かね?」
「S―e―d―d―l―e―r」ミス・ブロディは、興奮で青ざめながら答えた。
警部の胸がふくれあがった。それから彼は微笑した、「おいおい、ブロディ」と彼はなぐさめ顔で言った、「頼むから卒倒しないでくれよ。だがね、あんたは綴りも満足に知らんのかねえ、いいか、S―e―d―l―a―rだよ!」
「はい、わかりました」ミス・ブロディはそう言うと、部屋から逃げ出した。
「可哀想に、ブロディさんたら」とペイシェンスが笑いをころして言った、「パパがいつも雷さまを落すものだから、ちっとも大きくなれないじゃないの。それとも、今日は知らない男性がいたからかしら……あら、どうなさいましたの、レーンさん?」彼女はびっくりして声をあげた。
老優の顔には、驚愕の色がありありと浮かんでいるではないか。彼は、いまはじめて見たといわんばかりに、まじまじとサム警部の顔を見つめた。いや、現にサムのことなど眼に入らない様子だった。と、レーンはパッと椅子から立ち上った。
「そうだ!」老優が叫んだ、「それだったのだ!」そう言うと、あとは口のなかでブツブツつぶやきながら、部屋の中をせかせかと歩きまわった。
「いったい、なにが、それなんです?」警部が眼を見はってたずねた。
「名前ですよ、名前! ハムネット・セドラーという……ああ、まさか! しかし、偶然の一致にしては、できすぎている」
「名前?」ペイシェンスは額に皺をよせた、「名前がどうかしたんですの、レーンさん? ちょっと変ってるけど、いかにもイギリス人らしい名前ですわ」
ゴードン・ロウの口は、まるでさがってくる起重機みたいに、ポカンとあいたままだった。そのはしばみ色の眼からは、いたずらっぽい影が消え失せ、突然の啓示をうけた驚きがあらわれていた。
レーンは足をとめて立ちどまり、頬をこすると、のどの奥で長くふくみ笑いをした、「そう、そのとおりですよ。いかにもイギリス人らしい名前。ペイシェンスさん、あなたには、いつも物事の核心にふれる才能がおありだ。まさに、その点なのです。由緒《ゆいしょ》あるイギリスの名前だということなのですよ。ああ、ゴードン君、君にもわかりかけてきたようですね」老優はふくみ笑いをやめると、サッと椅子に腰をおろした。「どうもどこかで聞いたことのある名前だとは思っていました」彼はおもおもしい声でゆっくりと語った、「はじめて、あの博士と会ったときから、私は気になってならなかったのです。あなたが名前の綴りを言われたとき……どうです、警部さんもお嬢さんも、『ハムネット・セドラー』という名前に心あたりはありませんか?」
警部は、狐につままれたような顔をして答えた、「いや、まるっきり」
「では、ペイシェンスさん、お父さまはむろんのことだが、あなたはそれにもまして高等の教育を受けておられる。イギリス文学も勉強なさったはずだが?」
「ええ、それは」
「とくに、エリザベス朝を扱ったことは?」
ペイシェンスの頬が、パッと赤くなった、「でも、ほんの噛《かじ》った程度ですから」
老優は、さも残念そうにうなずいた、「現代教育というわけですね。そのおかげで、あなたはハムネット・セドラーなどという名前が初耳なのです。まったく妙な話だ。ゴードン君、おふたりに、説明してあげてくれませんか?」
「|ハムネット《ヽヽヽヽヽ》・|セドラーとは《ヽヽヽヽヽヽ》」ロウ青年は酔ったような口調で言った、「|ウィリアム《ヽヽヽヽヽ》・|シェイクスピアの親友の一人でした《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》」
*
「シェイクスピアだと!」サム警部が叫んだ、「ほんとですか、レーンさん? みんな、どうかしてるんじゃないですか? シェイクスピアがこれとなんの関係があるんです?」
「いや、大ありですとも、私もやっとそれに気がついたのです」ドルリー・レーンが声をおとして言った、「そのとおりです、ゴードン君」老優はなにか考えこみながら、頭をふった、「むろん、君にはわかるはずだね、セドラーは……あ、そうだ!」
「あたしにはさっぱりのみこめませんわ」とペイシェンスは不服そうに言った、「この点では、あたしもパパと同じですもの、たしかに――」
「まさかこのセドラーって男は、さまよえるユダヤ人じゃないでしょうな?」と警部がまぜっかえした、「三百年以上も生きているってわけじゃありますまい!」そう言うと、彼は大口をあけて笑った。
ロウ青年が深い息をついた。
「なにも私は、あの博士が、紀元前五世紀のペルシャ王、アハシュエロスだと言っているわけではありませんよ」レーンは微笑しながら言った、「いままでのところ、こんどの事件には、それほど馬鹿げた不合理な点はないのです。だが、私の言いたいのは、現在のハムネット・セドラー博士、つまりロンドンのケンジントン博物館の前館長で、ニューヨークのブリタニック博物館の後任館長、そして教養ある愛書家のイギリス人としての彼が……そうです、そのセドラー博士が、シェイクスピアによって親友と呼ばれただけで歴史に残っている、その男の直系の子孫だということは、けっしてありえないことではない、ということなのですよ」
「すると、やはりストラトフォードの出なのかしら?」とペイシェンスが考えながら言った。
老優は肩をすぼめた、「その一家のことは、ほとんどわかっていないと言っていいくらいです」
「たしか」ロウ青年が口ごもりながら言った、「セドラー家は、グロスターシャの出だと思いますが」
「それにしても」とペイシェンスが、いぶかしげに口をひらいた、「たとえセドラー博士が、シェイクスピアの幼な友達の子孫だとしても、そのセドラー一家と、いま問題になっているジャガードの一五九九年版の『情熱の巡礼』と、どういう関係があるのかしら?」
「そこのところですよ」ドルリー・レーンがしずかな口調で言った、「それが問題なのです。警部さん、こうしてみると、やはりあなたが、ロンドン警視庁に電報を打たれたのは、すばらしい思いつきでしたね。なにかがわかるかもしれません……『情熱の巡礼』そのものは、まさか――いや、しかし……」
老優は口をとじた。警部はあっけにとられたまま、レーンから娘に視線を移した。ゴードン・ロウはレーンを見つめ、ペイシェンスはロウを見つめた。
と、突然、レーンが椅子から立ちあがり、愛用のステッキを手にとった。一同はだまってそれを見ていた。
「いや、不思議だ」と老優が言った、「なんとも不思議だ」そして彼は、茫然自失のていでうなずくと、かすかな笑みをうかべて、サム私立探偵事務所から出て行った。
十一 3HS wM
運転手のドロミオは、陽気に口の中で、交通巡査にむかって悪罵《あくば》を吐くと、黒塗りのリンカーンをたくみにあやつって、五番街のはずれから、四十何丁目だかに乗り入れた。混みあっている車と車のあいだをぬって、六番街の角まで走らせたが、そこで赤信号に停められてしまった。
ドルリー・レーンは無言で座席に腰をおろしたまま、しきりと、黄色い紙片のするどい縁《ふち》で、唇をたたいている。もういままでに、何度も読みかえしたはずなのに、老優はさらにあらためて、その紙にタイプされている文字に目をやると、顔をしかめた、それは電報だった。日付欄は、『六月二十一日午前〇時六分』となっている。まだ夜も明けないというのに、ウェストチェスターのハムレット荘に、配達されたのである。
「サムがこんな時間にわざわざ電報を打ってくるなどと、おかしなことがあるものだ」と老優は胸のなかでつぶやいた、「真夜中だというのに! こんなことは、かつて一度もないことだ。……火急の用事か? だが、まさか――」
ドロミオが警笛を鳴らした。一台の車が、曲り角で、もう一台の車と、泥除けをひっかけあったのだ。車どうし、まるで二頭の牡牛のように、車体をよじりあっている。その背後はすさまじい車の大洪水。レーンが車窓からふりかえってみると、長蛇の行列は五番街までつづいている。老優は運転席に身をのり出すと、ドロミオの耳に言った、
「あとはおりて歩くことにする、なに、一町だけだからね。サム警部の事務所の近くで、待っていておくれ」
レーンは、あいかわらず電報を手にしたまま、車からおりた。それから注意深く、粋なポンジー絹の服の上衣のポケットにそれをしまうと、ブロードウェイにむかって歩き出した。
彼がサム探偵事務所にたどりつくと、そこは異様な混乱状態を呈していた。控室にいる満月まなこのミス・ブロディまで、すっかり周囲の雰囲気にあてられてしまっていた。彼女は椅子の上でソワソワしながら、こみあげてくる不安を、ポカンとあけた口もとにただよわせ、目のまえを行ったり来たりしているペイシェンスを眺めているだけ。そのペイシェンスときたら、まさにいきり立った特務曹長といった恰好《かっこう》で、唇をキュッと噛みしめ、壁の時計に、はげしい視線を投げつけているありさま。
ドアのあく音がしたとたん、彼女はとびあがり、ミス・ブロディはかすかな叫び声をあげた。
「ほんとに来てくださったのね!」ペイシェンスは声をはりあげ、老優の腕を、しびれるくらいにギュッとつかんだ、「来てくださらないんじゃないかと、心配していましたの、なんて素敵な方なんでしょ!」そう言いながら、彼女がやわらかな腕をレーンの頸にまきつけて、はげしくその頬にキスしたものだから、さすがの老優もすっかり面くらってしまった。
「まあまあ」レーンは、彼女の腕をおさえながら言った、「ふるえていますね! いったい、なにがあったのです? 警部さんの電報には、不吉な匂いがしたが、具体的にはさっぱりわからなかった。お父さんは、ご無事なんでしょうね?」
「ええ、ピンピンしてますわ」ペイシェンスは、口もとをほころばせて答えた。そして、彼女の眼がキラリと光ったかと思うと、耳の上のかわいらしい捲毛をいじりながら言った、「じゃ、これから入ってごらんになりません?――死体を見に?」
ペイシェンスが警部の部屋のドアを押すと、蒼白な顔にまっかな眼をした初老の男が、こちこちに固くなって回転椅子の端に腰かけ、まるで獲物をねらう大蛇のような目つきで、机の上に置いたものをにらみつけているではないか。
「よかった!」彼は大声で言うと、足をよろめかしながら立ち上った、「やっぱり見捨てないでくだすった! な、パット、わしが言ったとおりだろ、レーンさんはちゃんと来てくれるんだ! さ、どうぞ、坐ってください、いや、ほんとによく来てくださった」
レーンは、皮の肘かけ椅子に身をしずめた、「まったく、たいした歓迎ぶりですな、なんだか聖書の放蕩息子《ほうとうむすこ》が家に帰ってきたみたいな気がしますよ。いったい何事が起こったというのです? 胸がワクワクしていますよ」
サム警部は、精魂こめてにらみつけていた例の品物をとりあげた、「見てください」
「ご存じのとおり、私の視力はいたっていいですからね、よく見えますよ」
警部は、のどの奥でクックッと笑った、「では、開《あ》けるとしますか」
レーンは、警部からペイシェンスに眼を移した、「ちょっと――いや、どうぞ。警部さん、電報をくださったのは、このためだったのですか?」
「あたしたちが電報を打ったのは」とペイシェンスがいそいで言った、「ある狂人が、これを開封するとき、是非《ぜひ》あなたに立会ってもらわなければならぬ、と言ったからなんです。パパ、おねがい、いますぐ開けてくださらなくちゃ、あたしのほうが気がくるいそう!」
それは、例のまだらのひげを生《は》やした、青眼鏡の奇妙な男が、七週間まえに、警部に保管を頼んだ、あの細長い茶色のマニラ紙製の封筒だった。
*
レーンは、サム警部の手から封筒をとると、すばやい手つきで、その上から撫でまわしてみた。指が、中に入っている真四角な封筒の輪郭を追っていくにつれて、老優の眼は細まった、「この謎は、説明していただかないことにはね。まず、事実から話してください……まあまあ、お嬢さん、以前よくお話したように、物事はじっくり掘りさげてかからないと――ハッハ――さ、警部さん、どうぞ」
サムは、五月六日に、変装したイギリス人が事務所を訪ねてきたときの模様を、要領《ようりょう》よく、かいつまんで説明した。ところどころ、ペイシェンスが、そばから補ったので、レーンは、その奇妙な訪問者のこまかい特徴にいたるまで、すっかり呑みこむことができた。警部の説明がおわると、レーンはじっと考えこんだまま、その封筒を見つめた、「それにしても、どうしてもっと早く話してくださらなかったのです、警部さん? あなたらしくもないですね」
「いや、そんな必要はないと思ったんですよ。ま、とにかく、開けてみましょうや!」
「ちょっと待ってください。すると、こういうことなのですね、今日は二十一日だから、その奇妙な依頼人は、昨日、約束の電話をかけてこなかった、そういうわけですね?」
「先月の五月二十日には、ちゃんとかけてきましたがね」警部は、ムッとして答えた。
「あたしたち、昨日は一日中、ここに坐って待っていましたの」ペイシェンスが、いそいで横から口をいれた、「それが、真夜中まで待っても、なんの音沙汰もなかったんです。ですから、もう――」
「ひょっとしたら、その男の話は記録にとってありませんかな?」レーンは、ひとの言うことなど、耳に入らないようすだった、「たしか、この事務所には、盗聴器があったはずだが」
サム警部は、ギュッとボタンを押した、「ブロディさん、封筒事件の記録をもってきてくれたまえ」
警部とその娘がジリジリしながら坐っているというのに、老優は奇妙な依頼人の記録を、一語一語、おそろしく丹念に読んでいた。
「なるほど」レーンは、やっと記録を下におくと、口をひらいた、「いや、まったく奇妙だ、たしかに、この男が変装していたことはまちがいありませんね。それにしても、じつに下手《へた》なやり方だ、もっともらしく見せようなどということは、まるっきり考えていないようだし、ひげにしても……」老優は頭をふった、「あ、いや、警部さん、はじめましょう、さ、どうぞ」
レーンは椅子から立ち上ると、封筒をサムの机の上におき、自分は机のそばの椅子に腰をおろして、グッとからだをまえに乗り出した。ペイシェンスはあわてて机をグルッとまわると、父親の背後に立った。彼女の息づかいはあらく、あのいつもの冷静な表情は消え失せて、はげしい興奮に、その顔面は蒼白だった。サムは、ブルブル震える手で、レーンの坐っている側の引出し板をひっぱり出すと、その上に封筒を置き、専用の肘掛椅子にドサリと腰をおろした。警部のからだじゅうからは、ひっきりなしに汗が吹き出していた。それから、彼は顔をあげてレーンを見――二人は顔を見あわせて、かすかに苦笑した。
「さあて、いよいよはじまりますぞ」警部はわざとおどけて言った、「まさか、いきなり鼻先にとび出してきて、『四月馬鹿だよ』とかなんとか言って、おどかすんじゃないでしょうな?」
そのうしろでは、ペイシェンスが息苦しさに耐えきれず、ホッとため息をついた。
警部は、紙切りナイフをとりあげると、ちょっとためらってから、マニラ封筒のふたのところに差しこんだ。そして、サッと封を切ると、ナイフを置き、封筒の切れ目をおしひろげて、中をのぞきこんだ。
「どう?」ペイシェンスが叫んだ。
「おまえの言ったとおりだよ、パット」警部がつぶやいた、「封筒がもう一つ入っている」彼は薄ねずみ色の小型の角封筒をとり出した。それもまた密封してあり、表書はなにもなかった。
「ふたについているのはなんです?」老優がするどい声でたずねた。
警部は封筒をひっくりかえした。彼の顔は、紙のように白くなった。
ペイシェンスは、父親の肩ごしに紙を見て、思わずハッと息をつめた。
サムは唇をなめた、「ここに」かすれた声で言った、「ここに――なんてこった!――ここには、サクソン文庫と書いてあるぞ!」
その文字は、ヨセフのひげをつけた謎の男の訪問と、ブリタニック博物館での奇怪な事件とのあいだに、なにかのつながりがあるかもしれないということを彼らに告げる最初の徴候だった。
*
「サクソン文庫か」とレーンがつぶやいた、「じつに奇妙だ」
「ざっと、こんな具合ですよ!」とサムが叫んだ、「いったい、どうしたってわけなんだ?」
「まあ」老優はかろうじて言葉を発した、「偶然の一致でしょう。世の中には、たまにこういうことがあって、ハッとさせられるものですよ――」その言葉も弱まって、消えてしまった。ただ、レーンの眼だけは、警部の唇から、はなれなかった。といっても、その眼はなにも見ているわけではなかった。なぜなら、その眼には、にぶい光が、まるでヴェールのようにかかっていたからだ――たったいま、目もくらむような認識を覆《おお》いかくそうとするヴェールのように。
「あたしには、なにがなんだかさっぱり――」茫然自失した表情で、ペイシェンスが口をひらいた――
レーンがブルッと身をふるわせた。すると、眼にかかっていたヴェールが消えた、「警部さん、開けてください」老優がひざを乗り出し、手にあごを埋めて言った、「さ、どうぞ」
サムは、ふたたび紙切りナイフを取りあげた。彼は、ふたの下に刃をさしこむと、ゆっくりと力を加えていった。紙質が丈夫なので、たやすく切れなかった。
レーンもペイシェンスも、まばたき一つしない。
サムの太い指が封筒の中にもぐり、封筒とおなじ薄灰色の、きちんとたたまれた紙きれをひっぱり出した。彼は、その紙をひらいた。短いほうの端近くに、文字が刷りこんであった。警部はグルリと紙をまわした。紙の上端に、黒みがかった灰色のインクで印刷されている文字は――『サクソン文庫』――警部は、その紙を、レーンとの間にある引出し板の上にひろげて、じっと見つめた。老優もペイシェンスも、それを見つめた。事務所の中は、水を打ったように静寂だった。
それには理由があった。というのは、例の変装したイギリス人が、いかに不可解な人物であるにしろ、その男が警部に託していった紙きれは、それ以上に不可解なしろものだったからである。いや、不可解というよりも謎そのものだった。まるっきり意味をなしていないのだ。
その紙の最上部には、『サクソン文庫』と印刷されている。そして余白の部分は、その紙が印刷機から巻き出されてきたときそのままの、手つかずの姿ではないか。ただ一か所、文字だか記号だかが書いてあるだけである。紙のほぼ中央、印刷した文字の下方に、
3HS wM
と書き込みがあるだけ。
それっきりだった。通信文も、署名も、ペンやエンピツのしみにいたるまで、なにひとつなかった。
*
はげしい、抑えつけたような発作が、レーンの老体を襲った。彼は椅子の中にじっとうずくまったまま、謎の記号を、喰い入るような目つきで見つめていた。紙の下すみにおいた警部の手が、とつぜん麻痺《まひ》したようにひきつり、そのため、紙がこまかくふるえた。ペイシェンスは身じろぎひとつしない。三人とも、化石のようになってしまった。やがて、老優はひろげた紙からゆっくりと視線をひきはなすと、顔をあげて警部を見た。その澄んだ眸《ひとみ》の底には、不思議な勝利の色が、いや歓喜にちかい輝きがあった。レーンが口をひらきかけた。
と、警部が口を出した、「3HS wM」いかにも不審そうな声で、まるでこの不可解な記号を声に出して、舌の上でころがせば、中から意味が出てくるかもしれない、といった調子だった。
レーンの顔に、かすかな当惑の色があらわれた。彼はすばやくペイシェンスの顔を見た。
彼女は、まるで子供が外国語の単語を練習するみたいな口調でつぶやいた、「3HS wM」
老優は両手に顔をうずめ、身じろぎひとつせずじっと坐ったままだった。
*
「だめだ!」とうとう警部が、深い吐息とともに叫んだ、「やめたよ、クソッ、わしはやめた。あのチンドン屋の出来損《できそこな》いみたいな野郎が、ウソ八百の|ごたく《ヽヽヽ》を並べ、数百万ドルの秘密でございのなんのってぬかしおったときに――ああ、やめだ、やめだ。からかいやがったんだ。だれかが、こんな悪ふざけをしてるんだ」警部は両手をふり上げると、鼻を鳴らした。
ペイシェンスは、父親の背後からグルッとまわると、謎の紙片をとりあげた。そして、眉をキュッと八の字によせると、暗号解読にとりかかった。警部は椅子をうしろにずらして立ちあがり、窓のところへ行って、タイムズ広場《スクエア》をぼんやり眺めた。
と、突然、ドルリー・レーンは頭をあげた、「ちょっと見せてくれませんか、お嬢さん?」彼はおだやかに言った。
ペイシェンスは、途方にくれて、椅子に腰をおろした。老優は、その手から紙片をとると、謎の記号を調べはじめた。
記号は、太いペン先をつかって、濃《こ》い黒インクで書いてある。すばやい、流れるような筆勢だった。のびのびとした、たしかな筆勢には、なんのためらいの跡もみとめられない。これを書いた人物は、自分の書くべきものを、知りつくしていたようだ。だから、このように、よどみなく書けたのだ。
レーンは、紙片をもとにもどし、薄ねずみ色の角封筒をとりあげた。そして、しばらくのあいだ、裏表《うらおもて》をひっくりかえして見ていた。どうやら彼は、|たれぶた《ヽヽヽヽ》に印刷されている『サクソン文庫』という文字に興味をもったようだ。老優はふたを撫でてみた。黒く光った字体が、指の尖にくすぐったく触れた。
レーンは封筒をおき、眼をとじて、椅子の背にもたせた。「ちがいますよ、警部さん」と老優はつぶやいた、「悪ふざけなんかではない」それから眼をあけた。
サムがふりかえった、「じゃ、いったい、どういうわけなんです? まともなものだとすれば、|なにか《ヽヽヽ》わけがあるはずだ……あ、そうか、奴さん、これはただの手がかりだと言ったっけ。なるほど、ちがいない。前代未聞の謎の手がかりだ。わざとわかりにくくさしたんだな? ふむ!」警部はこう言いおわるなり、クルッと窓のほうをむいてしまった。
ペイシェンスは顔をしかめた、「そんなにむずかしいはずはないわ。わざとわかりにくいように仕組んだとしても、筋道をたてて考えていけば、案外簡単にわかるようになっているんじゃないかしら? ね、やってみません?……もっとも、自分で考案した速記法かなにかかもしれないわね? つまり、秘密の通信文というわけ」
警部はふりむきもせず、のどを鳴らしただけだった。
「それとも」とペイシェンスは、考え考え言った、「化学記号かもしれない。Hというのは水素だったでしょ?――Sは硫黄だし、硫化――硫化水素だわ、そうよ!」
「いや」とレーンがひくい声で言った、「正式にはこんな書き方はしませんが、もしもこれが硫化水素なら、少なくとも2HSでなければなりません。HSというのは、化学的には、不可能ではないですか、ペイシェンスさん」
「そう、それに」とペイシェンスは、絶望的な口調で言った、「小文字のwと大文字のMがあるし……ああ、だめだわ、こんなときに、ゴードンがいてくれたらいいのに。あのひとったら、こういう|つまらない《ヽヽヽヽヽ》ことに、とってもくわしいんですもの」
警部はゆっくりとむきなおった、「だめだね」と彼は奇妙な音声で言った、「わしらにはね、パット。あんな、おしゃべりやのロウにだって、なにがわかるものか。だが、まてよ、謎の男は、レーンさんを立会わせろって言ったっけな。とすると、やつは、レーンさんならわかると考えたわけだ……そうですな、レーンさん?」
レーンは、このあからさまな挑戦をうけて、化石のようにじっと坐っていた。やがて、眼じりに小皺があらわれた、「疑っているのですか? そう、たぶん、わかっているでしょうね」
「じゃ、どういうことなんです?」警部は、ぶっきら棒に言うと、にじりよった。
レーンは、きゃしゃな白い手を振った。彼の視線は、眼のまえの紙に釘づけになっている。「どうも、わからないのは」と老優はつぶやくように言った、「謎の男が、|あなたにも《ヽヽヽヽヽ》、この意味がわかると考えていたらしい点なのですよ」
警部はパッと顔を紅潮させ、からだをそらすと、ドアのところに行った、「ブロディさん!メモを持って、こっちへ来てくれんか」
ミス・ブロディが、手にエンピツをもって、小走りに入ってきた。
「検屍官事務所のレオ・シリング博士あてに手紙を頼む。『前略、至急左記のごとき謎文字の解読を賜《たま》わりたし。極秘を要す』そのつぎ、いいかね、『3、大文字のH、大文字のS、すこしあけて、小文字のwに大文字のM』書いたか?」
ミス・ブロディは、あっけにとられたように、警部の顔を見あげた、「は、はい」
「おなじ手紙を、ワシントンの情報局、暗号課のルパート・シフ中尉にも送ってくれ、大至急」
ミス・ブロディは、あわてて飛び出していった。
「ああしておけば」と警部は、吐き捨てるように言った、「なにかわかるさ」
*
サム警部は、椅子にドッカと腰をおろし、葉巻に火をつけ、丸太ン棒のような両足を突き出すと、頭のなかのモヤモヤを、葉巻のけむりとともに、天井にむかってフーッと吐き出した。
「まず第一目標は」と彼は言った、「便箋の印刷文字でしょうな。例の男が闖入《ちんにゅう》してくる、そしてホラ話を一席ブッて行く、こんな謎の紙きれをおまけにくっつけてね、つまりですな、やつはそれがサクソンと関係があることを知られたくなかった、だから、なんの印もないマニラ封筒の中に、肝心《かんじん》の封筒をつっこんでおいたんですよ。だが、万一自分の身になにか起こった場合には、その封筒をあけてもらいたかった。そして『サクソン文庫』という文字を手がかりにして、われわれに行動を起こしてもらいたかった。ここまではまちがいがないと思いますな」
レーンはうなずいた、「まったく同感です」
「やつの計算ちがいは、ジョージ・フィッシャーがここにやって来て、ドノヒューのことを訴え、おかげでわしらがブリタニック博物館まで出かけて行って、あの妙ちくりんな、本の盗難事件に鼻をつっこむようになった、ということなんですよ。どうしてそういうことになったのか、それはわしにもわからんが、ま、偶然かもしれませんな。とにかく、このサクソンの便箋が出てきたというわけだ」
「パパ、それはちがうわ」ペイシェンスがじれったそうに口を出した、「そうじゃないのよ、つけひげの男と、ブリタニック博物館の怪事件とは、絶対につながりがあると思うの。このサクソン文庫の便箋に書いてある記号が、その結び目というわけよ、どうして――」
「なんだと?」サムは娘を、ずるそうな目でチラッと見てたずねかえした。
ペイシェンスは声をたてて笑った、「ほんとにバカげた考えだわ。でも、起こることが、みんなバカげているんですもの……あたし、このつけひげの男が、もしかすると、サクソン一家のだれかが変装して来たんじゃないかって、そんなことまで想像しているくらいよ!」
「いや、そいつは、それほどバカげた考えじゃないな」警部は、わざと無関心をよそおって言った、「じつは、わしもそんなことを考えていたんだよ、パット。たとえば、ロウなんていう若僧が――」
「ちがう!」ペイシェンスがピシリと言ったものだから、二人の男は、あわてて彼女の顔を見た、「ゴードンのはずがあるものですか」彼女は正直に赤くなった。
「どうして、そんなはずがないんだ?」サムは|かさ《ヽヽ》にかかって聞いた、「博物館からの帰り道、やつは、えらくわしらの密談の仲間入りをしたがっていたじゃないか?」
「仲間入りがしたかったのはね」ペイシェンスは、からだをやや固くして言いかえした、「事件のことじゃなくて、そのう――もっと個人的な感情の問題じゃないかしら? ねえ、パパ、あたしだって、しわくちゃのお婆さんじゃないでしょ?」
「冗談じゃない、なにが個人的感情なものか!」と警部が断言した。
「まあパパったら! あたしをいじめてばっかり。なぜ、そんなにゴードンにばかりつらく当るの? あのひと、子供みたいに――純真で、正直なのに。それに手頸だってふといし、五月六日に来た男とは雲泥《うんでい》のちがいだわ」
「だがね、やつだって、その――愛書家の仲間だろうが?」サムは、攻撃の手をゆるめなかった。
ペイシェンスは唇をグッと噛んだ、「まあ――ひどい!」
「ま、どう見ても」警部は、つぶれた鼻の頭をこすりながらつづけた、「サクソン夫人の仕業じゃないな。いっとき、わしは|あれ《ヽヽ》が女じゃないかと疑ったこともあったがね。それにしても、サクソン夫人はデブだし、謎の男は、ヤセッポときている。だから――いいかね、わしはなにもロウを除外したわけじゃないぞ! だがしかしだ、犯人はクラブ老人かもしれんと思うんだ」
「それなら話はべつよ」ペイシェンスは、頭をそらして言った、「あのひとなら、肉体的条件がピッタリだわ」
ドルリー・レーンは、黙々と、面白そうに、父娘《おやこ》のやりとりを聞いていたが、ここで手をあげると、口を出した、「おふたかたの議論の腰を折って申しわけないが」と老優はのんびりした口調で言った、「ひとつ、肝心なことを忘れていませんかな? 謎の依頼人が言ったことは、疑いもなく、彼が二十日に電話をかけてこなかったら、なにか重大な事が自分の身に起こったものと判断してくれ、ということだったではありませんか。とすると、警部さん、まずありそうもないことだが、ゴードン・ロウ青年か――あるいはクラブ老人かが、五月六日の謎の依頼人だとすれば、二人のうち、いずれかが失踪したか、殺害されたか、あるいは、なんらかの方法で自由を奪われているはずではないでしょうか?」
「そう、たしかにそうだわ」とペイシェンスが、熱心に言った、「そのとおりよ! ね、パパ、あたし、昨日、ゴードンと昼食をいっしょにしたのよ。それに今朝も電話で話したけど、べつになんにも、そんなこと言わなかったわ。だから、きっと――」
「ちょっと待った、パット」警部が、|のぶとい《ヽヽヽヽ》警戒するような声でさえぎった、「年寄の言うことも、ちっとは聞くもんだ。パット、おまえは、あの男にだいぶ思《おぼ》し召しがあるようだが?やつはなにか、甘い言葉でもおまえに言ったのかね? クソッ! わしは、あいつの首ねっこを押えつけてやるぞ――」
ペイシェンスは、椅子からスックと立ちあがった、「パパ!」彼女の声は怒りにふるえた。
「まあまあ、警部さん」老優が小声でとりなした、「そう封建的になってはいけません。ゴードン・ロウ君は、あれでなかなかの好青年だし、頭の良さから言っても、ペイシェンスさんとは、まったくいい釣合いではないですか」
「だけど、あたし、なにもあのひとのことを愛してるってわけじゃありませんわ!」とペイシェンスが声をはりあげた、「パパって、ほんとに野蛮人よ! あたしが男性にやさしくするのが、どうしていけないのかしら――」
警部は悲しそうな顔をした。
ドルリー・レーンは立ち上った、「ま、喧嘩はおやめなさい。警部さん、あなたはまるで子供ですね。とにかく、この紙片と封筒はよく注意して、金庫の中に保管しておいてください。それではと、これからみんなで、サクソンの屋敷へ行ってみようではありませんか」
十二 思案投げ首
道路はひどく混んでいた。五番街では、リンカーンが這うようにしか進められないので、運転手のドロミオはジリジリしていた。しかし、ドルリー・レーンは、べつに急ぐ様子も見せなかった。おだやかな眼つきで、サムからペイシェンスと順ぐりにながめ、一度などは、クスクス笑いさえした。
「おふたりとも、まるで駄々ッ子ですね、さ、笑って、笑って」二人が、かぼそく笑った、「それにしても、じつに驚くべき事件です」とレーンはつづけた、「どうもあなたがたには、これがいかに驚くべき事件なのか、よくのみこめていないらしいですね」
「わしは、頭が痛いですわ」と警部が、なげやりな口調で言った。
「あなたはどうです、お嬢さん?」
「あたしたちよりも」ペイシェンスは、運転しているドロミオの襟頸をじっと見つめながら言った、「あなたにとって、あの記号は意味がありそうですわね」
老優は目をみはって驚いた。思わず彼は、グッと身をまえに乗り出すと、彼女の若々しい顔を、穴のあくほど見つめた。「そう、いずれ、そのうちに時期がくればね。ところで警部さん、その後、なんか変ったことはありましたか? 今朝は、いろいろなことがあったものだから、あなたにきくのをすっかり忘れていました」
「くさるほどありますよ」警部はうんざりしたような声で答えた、「ブロディが、みんな、書きとめておきました、きっとあなたが見たがると思いましてね」
彼は、タイプの報告書を、レーンに渡した。
[ドノヒュー]――いぜん失踪中。手がかりなし。
[十七人の教師]――インディアナに帰る。全員の身元、照合ずみ、不審なし。綿密な調査。写真、特徴、住所、氏名――すべて入手。
[百ドル紙幣]――返却されたジャガードの一五九九年版より出たもの。番号による調査、成果なし。
[青帽子の男]――いぜん不詳。
[十九人目のバスの乗客]――いぜん不詳。
「これで全部ですか?」とレーンは、その紙を返しながら言った。その顔には、失望の色がありありとあらわれていた、「たしか、ロンドン警視庁に電報を打ったはずですが?」
「よくおぼえてますな」サムが白い歯をむき出して言った、「まったく、おそれいった記憶力だ。ええ、たしかにロンドン警視庁のトレンチから返事が来ましたよ、それも素晴らしいのがね。昨夜、おそく来たんです。ま、とっくりごらんください」
警部は、数枚かさねた電報用紙を、レーンに渡した。老優は、ひったくるようにして、それをとると、胸にギュッと押しあてた。サムとペイシェンスは、レーンの顔を見まもった。その顔は、電文を読むにつれて、けわしくなっていった。
電報はサム警部宛だった。
[ハムネット・セドラー]ノ件。
第二次十字軍時代以来ノ[イギリス]ノ旧家ノ出。[ウィリアム・シェイクスピア]ノ友人トシテ知ラレル、[ハムネット・セドラー]モ家系ノ一員。現在ノ[ハムネット・セドラー]ハ身長五フィート十一インチ、体重百五十四ポンド、ヤセ型、筋肉質、顔立チ鋭ク、碧眼、頭髪ハ薄茶色。トクニ目立ツ特徴ナシ。五十一歳。私生活ニツイテハアラカタ不明。少クトモ過去十二年間ハ[ロンドン]ニテ孤独ナ生活ヲ送ル。[ストラトフォード・オン・エイヴォン]ニ近キ[グロスターシャ]ノ[テュークズベリイ]ヨリ上京。職業ハ古物コトニ古書ノ研究。書誌学界ニテハ確固タル名声ヲ有ス。過去十二年間[ロンドン]ノ[ケンジントン]博物館館長。最近[アメリカ]ノ実業家ニシテ蒐集家タル[ジェイムズ・ワイス]氏ノ招聘《ショウヘイ》ニヨリ[ニューヨーク]ノ[ブリタニック]博物館館長ノ職ヲ受諾ス。コノ受諾ハ友人タチニハ意外ナリ。[セドラー]ハシバシバ自《ミズカ》ラヲ反米的ト公言シタレバナリ。五月七日[ロンドン]ニオケル理事会主催ノ慰労晩餐会ノ席上、[ケンジントン]博物館館長ノ職ヲ正式辞任。[ハムネット・セドラー]ノ近親ハ居所不明ノ弟[ウィリアム]タダ一人。[ウィリアム]ハ過去数年間[イギリス]ニ居住セズ。[セドラー]家ニハ不審ノ点皆無。公正厳格ナル学究生活ヲ送リシモヨウ。[ハムネット]ハ[シリンシア]号ニテ五月十七日金曜日ニ[イギリス]ヲ出発、五月二十二日水曜日ニ[ニューヨーク]ニ到着。彼ノ該汽船ニテ航海セルコトハ事務長ノ記録ニテ確認ズミ。カサネテノゴ用命ニ応ズ。ゴ健闘ヲ祈ル。
トレンチ
「どうです?」警部は鼻高々に言った。
「驚くべきことだ」レーンは口の中でつぶやきながら、電報を警部に返した。その額には皺がより、眼はうつろだった。
「さ、これで」ペイシェンスが口を出した、「セドラーは、自分で言ってるのより一週間早くニューヨークに着いたということが、はっきりしたわ。七日もまえによ! その一週間、もし博士がニューヨークにいたんだったら、いったいなにをしたかしら? だいいち、どうして嘘をついたのか? この『公正厳格ナ』紳士は、どうも虫がすかないわ!」
「警察本部のジョーガンにも電話しときましたよ」とサムが言った、「二十二日から二十九日までの、やつの行動を、極秘裡に調査するように依頼したのです。まちがいなく、やつですよ――特徴だってピッタリだ。しかし、どうもおかしな男だ。なにもパットだけじゃない、このわしだって、あの男は虫がすかん」
「厳密に言って、あの男のどこが、そんなにおかしいのです?」とレーンがたずねた。
警部は肩をすくめた、「そりゃ、ある点に関しては白ですがね。つまり、問題の封筒をこの事務所にあずけに来た、例のつけひげのイギリスなまりの男だけは、やつじゃあり得んのですよ。トレンチの報告によると、セドラーは十七日まではイギリスを離れなかったのだし、例のつけひげは、六日のニューヨークで、このわしの事務所にやって来たんですからな。もっとも」サムはニヤリと白い歯をむき出した、「やつが、ほかの人物になりすますということは、考えられますがね、いや、絶対にそうですよ!」
「ほんとうですか?」と老優が言った、「では、だれにです?」
「あの稀覯書《きこうしょ》に百ドル紙幣をつけて送り返してきた、あの青帽子の気ちがい野郎にですよ!」サムは大声で言った、「あのイカレポンチがウロチョロしてたのが五月二十七日、つまり、セドラーがニューヨークの埠頭《ふとう》に上陸してから五日後ってわけです!」
「あまりパッとした理由ではありませんね、警部さん」レーンが笑いながら言った、「そういう言い方をするなら、青帽子の男は、五月二十七日に行動不明の幾百万の人間のうち、だれでもいいということになりますよ」
さすがの警部も、レーンの言葉をすぐに理解したものの、苦虫をかみつぶしたような顔から察すると、どうもあまり、あと味はよくなかったらしい、「ま、それはそうですがね――」
「あっ、そうだわ!」突然、ペイシェンスが叫んでとびあがったので、車の天井に、ゴツンと頭をぶつけてしまった、「痛ッ! あたしって、ほんとにバカ、どうしてこんなことに気がつかなかったのかしら?」
「こんなことというと?」レーンがおだやかにたずねた。
「記号ですわ、あの記号! あれは――ああ、ほんとにあたし、アキメクラもいいとこよ!」
レーンは、じっと彼女の顔を見つめた、「記号がどうしたというのです?」
ペイシェンスは、ハンカチをさぐると、はげしく鼻をかんだ、「火を見るよりもあきらかじゃありませんか」ハンカチをしまって坐りなおす彼女の眼が、キラキラとかがやいた、「3HS wM おわかりになりません?」
「さっぱり見当がつかん、まえとおんなじだ」とサムがうめき声を出した。
「ねえ、パパ、HSというのは、ハムネット・セドラーの頭文字よ!」
一瞬、二人の男は眼を見はり、それからクスクスと笑い出した。ペイシェンスはじれったそうに、トントンと床をふみ鳴らした、「ずいぶん失礼ね」とふくれ面《つら》で言って、「いったい、なにがおかしいの?」
「すると、ほかの記号はどういうことになります?」と老優がおだやかに言った、「いや、ごめんなさい、ついあなたのお父さんの笑いにつりこまれてしまったものだから。で、3とか、小文字のwとか、大文字のMとかは、どう解釈しますか?」
ペイシェンスはツンとしたまま、運転席のドロミオのたくましい赤い頸すじを見つめていた――内心、だいぶ自信をなくして。
「おいおい、パット!」警部はからだをよじらせながら言った、「あんまり笑わせないでおくれよ。わしが、その記号の意味を教えてやろう、ハッハッハ! それはだね、『辛子《マスタード》つきハム・サラダ三人前』ってことさ!」
「まあ、おもしろいこと」ペイシェンスは、ひややかに言った、「さ、着いたようよ」
十三 エールズ博士
みごとな頬ひげをはやした、一見イギリス人らしい執事が、一同を、ルイ十五世風の応接室へ、ものものしく招じ入れた。――いいえ、サクソン夫人はご在宅ではございません、はい、サクソン夫人はいつおもどりになるか、手前には判じかねますので、いいえ、お言伝《ことづ》けはなにもうけたまわっておりません、いいえ、夫人は――
「いいか、おい!」召使い根性がなによりも嫌いなサム警部が、|がなり《ヽヽヽ》出した、「クラブはいるのか?」
「クラブ氏でございますか? 見てまいりましょう」頬ひげは、四角ばった言い方をした、「で、どちら様でございましょう?」
「だれだろうと、あんたの知ったことじゃない、とにかく奴さんをここへ連れて来てくれ!」
頬ひげは片眉をつりあげ、かるく会釈すると、すべるように出て行った。
ペイシェンスはホッとため息をついた、「パパ、いままでに、お行儀が悪すぎるって、だれかに言われたことあって? 召使いをどなりつけるなんて、あんまりだわ!」
「どうも、イギリス野郎がきらいでな」さすがに警部も、いくらか恥じいって、口ごもった、「ただし、トレンチだけは別格だ、やつには人間味があるよ。五番街生れと言ったって、立派に通じるさ……ホホウ、小公子のお出ましか」
ゴードン・ロウが書物を小わきにかかえ、帽子を手にもって、廊下を通りかかった。青年はびっくりしたように立ちどまると、ニッコリ笑って、応接室に入って来た、「これはこれは!ようこそ、みなさん! こんにちは、レーンさん、警部さん――パット! どうして、電話で、ひとこと言ってくれなかったんです?」
「だって、知らなかったんですもの」とペイシェンスがすまして言った。
「聖なる無知というわけですか」青年のはしばみ色の眼がほそまった、「なにか手がかりでも?」と彼は小声でたずねた。
「ゴードン」とペイシェンスが、だしぬけに言った、「3HSwMって、どういうこと?」
「パット、なんだってまた!」と警部がどなった、「彼にそんなことを――」
「まあ、警部さん」ドルリー・レーンが、なだめるように言った、「ゴードン君に知らせてはいけない、という理由もないでしょう」
青年は、ペイシェンスから二人のほうへ、視線を移した、「ぼくには、まるでチンプンカンプンですね、いったい、なんのことです?」
ペイシェンスが説明した。
「サクソン文庫か」とロウが言った、「そいつがいちばん妙だな――たしかに問題ですよ! たぶん……シッ! クラブが来ました」
そのとき、司書のクラブ老人が、セカセカと応接室に入ってきた。片手に持った金縁の眼鏡をあげて、訪問客をジロジロ見まわすと、急にパッとあかるい顔になり、一同に近づいてきた。そんな動作ひとつするのにも、老人の骨がポキポキ鳴っていたと、ペイシェンスは断言してもいいと思ったほどだ。
「やあ、レーンさん」クラブ老人は、顔に皺をよせて笑った、「お嬢さん、おまけに警部さんまで、お歴々のおそろいですな! ロウ君、君は出かけたはずじゃなかったかね? それとも、お嬢さんがお見えになったんで、なにかね――? ええと、サクソン夫人は、お加減が悪いものですから、失礼させていただきます。腹痛でしてな。むろん、コルセットの締めすぎですよ、悲劇ですな、いや、まったく」老人はいたずらっぽくニヤリと笑った、「で、ご用件は――?」
「じつは、ちょっと」レーンが微笑しながら先手を打ったので、さっきから言いたくてウズウズしていた警部も、口を出すことができなかった、「有名なサクソン文庫を拝見させていただこうと思いましてね」
「ああ、さようですか」クラブ老人はじっと立ったまま、痩《や》せた片方の肩をグッと下げ、頭をかしげて、射るような眼つきで、訪問客の顔を見つめた、「見学かたがたご挨拶というわけですな?」老人は身をゆすりながら、しなびた歯ぐきを見せて、クックッと笑った、「なに、結構ですとも、さ、どうぞ」司書は意外なほど愛想がよかった、「もっとも、じつを申しますと、外部の方をお入れするのは、これがはじめてなんですがね……どうだね、ロウ君? 今回だけは、規則を破るか?」
「なかなか、話せますね」とロウ青年が笑いながら言った。
「わしだって、見かけほど意地悪じゃないさ。さ、どうぞこちらへ」
フランス風の豪華な廊下をいくつか通りぬけて、一同は建物の東側にあたる部屋へ案内された。クラブ老人は重いドアの鍵をあけると、そのわきに立って、ニッコリと歓迎の笑みをうかべた――つもりなのだろうが、実際は、三文芝居の仇役《かたきやく》がニタリと笑ったような顔だった。ひろびろとした部屋で、高い天井には、樫《かし》の角材が肋骨のように組まれており、壁という壁には、書物でギッシリつまった本棚が立てつらねてある。その一隅には、大きな貴重品棚が無愛想につっ立っていた。つきあたりのドアが開いていて、むこうにもうひとつ、やはりギッシリと書物の並んでいる大きな部屋が見えた。大きな机と椅子が一脚、部屋の中央にあった。床にはペルシャ絨氈《じゅうたん》が敷いてあった。ほかにはなにもない。
「椅子をさしあげられませんので、どうも」と、クラブ老人はいつもの錆《さ》び声で言いながら、ドアを閉め、机のところに行った、「なにしろ、このごろは、この老人のほかは書庫を使いませんのでな。ロウ君などはさっぱりよりつかんし、まったく、若さというものは、いつも鬼火を追っているようなもんですよ!」老人はのどの奥でクックッと笑った、「サクソン氏が亡くなったあとで、机と椅子をここへ持って来たのですがね、ところで、ご用の向きは――」
老人はびっくりして、言葉を切った。それまでジロジロあたりを見まわしていた警部が、いきなり、机を叩きこわさんばかりの勢いで、近寄って行ったからだ。「あった!」と警部が叫んだ、「こいつだ! こいつだ!」そう言ったかと思うと、机から薄ねずみ色の便箋を一枚とりあげた。
「いったいぜんたい――?」クラブ老人はあっけにとられて言った。と、みるみるうちに彼のとんがった顔が怒りにゆがみ、なにやらわめくと、サム警部にとびかかっていった、「ものにさわるな!」と老人は金切声をあげた、「そうか、やっぱり嘘をついたな、スパイめあてで――」
「バカ、やめろ」警部はどなって、司書の曲った手をふりほどいた、「そう怒るなよ、だれもとりはしないから。ちょっと便箋が見たかっただけなんだ。きれいな便箋じゃないか! レーンさん、どうです、こいつは?」
だが、あらためて眼を近づけるまでもなかった。一目見ただけで、例の五目《ごもく》ひげの男が、謎の記号を書くのに使ったのとおなじものだということが、はっきりわかる。
「まちがいありませんね」とレーンが小声で言った、「クラブさん、警部のやり方は、ちょっと乱暴すぎたけど、どうか許してやってください。どうも、こういうことになると、高飛車《たかびしゃ》に出る人でしてな」
「いや、まったく」クラブ老人は、警部の背中をにらんで、鼻を鳴らした。
「封筒はおありですか?」レーンが微笑しながらつづけた。
クラブ老人はちょっとためらってから、皺だらけの頬をかき、それから肩をすくめると、机のところにいって、灰色の小型の角封筒をとり出した。
「まったくおなじだわ」とペイシェンスが口を出した、「どうしてこれが――?」と言いかけて言葉をきると、彼女は疑わしげに老司書の顔を見つめた。
ゴードン・ロウも、彼なりに興奮していた。一言も発せずに、その封筒を喰入るように見ている点からも、それはあきらかだった。
「おかけなさい、お嬢さん」レーンがやさしく言った。彼女は素直に、ひとつしかない椅子に腰をおろした。「ま、警部さんも落着いてください。クラブさんを驚かせてはいけませんよ。ところでクラブさん、二、三、簡単なことをおたずねしたいのですが、むろん、答えていただけますね?」
クラブ老人の南京玉のような眼に、ずるそうな、ちょっと警戒するような色がチラッとあらわれた、「それはもう、結構ですとも。このクラブには、隠し事なんぞなにもありませんからな。なんの話やらさっぱりわからんが、お役に立つことなら……」
「いや、恐縮です」老優は心をこめて言った、「では、サクソン文庫と印刷の入っている便箋を使っているのは、だれです?」
「この私が使っていますが」
「ごもっとも。図書のご用にお使いになるわけですね。で、ほかには?」
「だれもおりません」
「へえ――」サムが口を出しかけたので、レーンは頭をふって制した。
「これは、とても大切なことなのですよ、クラブさん、たしかにそのとおりですか?」
「私以外には、だれも使いません、太鼓判を押します」司書は、薄い唇をなめながら答えた。
「サクソン夫人もですか?」
「ええ、使いませんとも。奥さまは、ご自分用の便箋をおもちで、それも六種類ほどもあるくらいです、それに、ご承知のとおり、書庫のほうとはさっぱり――」
「なるほど、だが、君はどうです、ゴードン君? ここに来てから日もたつことだし、なにか参考になるようなことでも、話してもらえませんか?」
ペイシェンスは心配そうに、青年の顔を見た。警部は、なにくわぬ風をよそおっている。
「ぼくがですか?」ロウ青年は眼をまるくした、「クラブさんに聞いてみてくださいよ、そちらがボスなんだから」
「ああ、ロウ君なら、ごくたまにしか入ってまいりませんよ」クラブ老人が上半身を、とけかかったローソクのように曲げながら、キンキン声で言った、「ご承知かと思いますが、この青年は、シェイクスピアについての或る研究をしておりましてね、この家の規則として――これはサクソン氏ご自身がきめられたんですが――ロウ君が、なにか本を見たいときは、私に申し出て、私からその本を貸し出すことになっているのです」
「いまの説明が、ご質問の答えになっていると思いますがね」ロウが口をとがらせて言った。
ドルリー・レーンは微笑した、「そう喧嘩腰にならないでくださいよ、ゴードン君。まるで子供みたいだ。では、クラブさん、あなたのほかには、この家でだれひとり、サクソン文庫の便箋に手を触れるものはないというわけですね?」
「まあ、そうです。この便箋が置いてあるのは、ここだけですからね。むろん、だれかが取ろうとするだんには――」
「いや、クラブさん、その点はよくわかります。ゴードン君、笑顔を見せなさいよ。すると、この部屋は、ここ何年も立入禁止ということですね、で、いま――」
「召使いはどうなのかしら?」ロウ青年の哀れっぽい目つきをわざと無視して、ペイシェンスがだしぬけにたずねた。
「召使いも入れません。そういう規則になっているのです。掃除もこの私が自分でするんですよ。サクソン氏のご命令でね」
「ブリタニック博物館に遺贈する本を包装したときも、ご自身でお立会いになりましたか、クラブさん?」とレーンがきいた。
「むろんですとも」
「ぼくもいましたよ」とロウ青年が陰気な声でつぶやいた。
「ずっとですか?」
「はい」とクラブ老人が答えた、「ロウ君は、なにやら人夫とごたついておりましたがね、私はずっと見張っていましたよ」クラブは、さも意地悪そうに、歯のない歯ぐきをパクンとかみあわせた。この老司書が目をむいて見張っていたこと、一瞬たりとも目をそらさずに見張っていたいにちがいないことは、疑う余地もなかった。
「では」とレーンが微笑した、「結論として、警部さん、この便箋を手に入れることは至難の業《わざ》ということになりますね。この線を洗っても、無駄ですかな?」
「しようがありませんな」とサムが苦笑した。
レーンは老司書の眼をじっと見つめた、「いや、なにも怪しいことではないのですよ、クラブさん」と老優はおだやかな口調で言った、「じつは、サクソン文庫の便箋と封筒がわれわれの手に入ったのですが――その出所がぜひつきとめたいのです。ところが、あなたは、自分ではご存じなくて、問題をむずかしくしてしまわれた……」と、突然、ある考えがパッとひらめいて、レーンは自分の額をピシャッとたたくと、叫んだ、「ああ、私としたことが、なんとバカな! むろん、そうだ!」
「うちの便箋がですか?」クラブ老人は、狐につままれたような表情で言った。
レーンは老司書の肩をたたいた、「お客さんは、ときどき見えますか?」
「お客? このサクソン文庫に? ヒッヒッヒ! 言ってあげておくれよ、ロウ君」
「この甲羅《こうら》に苔《こけ》のはえたご老人は」とロウ青年が肩をすくめて言った、「世界一忠実な番犬ですよ」
「しかしだね、だれか訪ねて来たにちがいない。さ、思い出してください! 最近数か月のあいだに、この部屋にやって来た訪問客で、だれか思い出せるひとはいませんか?」
クラブ老人は眼をパチクリさせた。彼は、その骨ばった顎をこころもちひらき、質問者のほうを横目でうかがった。それから、だしぬけにからだを折って笑い出すと、筋ばった脛《すね》をピシピシたたいた、「ハッハッハ! あいつ、そうだ、あいつだ!」そしてからだをシャンとのばすと、涙をぬぐった。
「ああ」レーンが言った、「どうやら石油を掘りあてたようですね。それで?」
クラブ老人は、笑いはじめたときと同様、だしぬけにピタリと笑いをとめた。老司書は爬虫《はちゅう》類のような頭を半分まわすと、乾からびた掌をカサカサとこすりあわせた、「そうです、あれ、あれですよ。いや、事実は小説よりも奇なりですな……ありました、たしかに一人、じつに妙な人物が見えられましてね、なんどもなんども面会を申しこんできて、やっと私が会ってやったら、バカ丁寧《ていねい》に言うんですよ、ヒッヒッヒ!かの有名なサクソン・コレクションを一目拝観させてもらえないかとね――」
「で?」レーンがするどくうながした。
「その男は自分のことを本の虫だと言っておりましたよ。事実、いろいろと聞きかじっていて、本のことはよく知っていましたっけ」と、クラブ老人は、ずるそうに言葉をつづけて、「ま、一度だけ規則をまげてやったというわけで――べつだん悪い男にも見えませんでしたのでね――そんなわけで、その男をこの部屋に案内したのです。なんでも、なにかの研究をしていて、ある本を探しているところだとか、言っておりましたよ。ほんのちょっとだけ見せてもらえれば、と言うものですから……」
「どの本だったんです?」ロウ青年が顔をしかめながらたずねた、「ぼくには一言も言ってくれなかったじゃないですか、クラブさん!」
「おや、言わなかったかね? ついうっかり忘れてしまったらしいな」クラブ老人はクックッと笑った、「ジャガードの出版した一五九九年版『情熱の巡礼』だったのだよ!」
*
一瞬、一座は水を打ったように静まりかえり、だれひとり、おたがいの顔を見ようとさえしなかった。
「どうぞつづけてください」レーンがやさしい声で言った、「それで、あなたはその本をとってきてあげたのですね?」
クラブ老人は、ニタリとみにくく笑った、「このクラブが、なんでそんな真似《まね》をするものですか! とんでもない、駄目だと言って断わりましたよ。なにせ規則ですからな。その男も、こっちの答えを予期していたのか、おとなしくうなずくと、あたりを見まわしていましたよ。私は、なんとなくうさん臭いなと思いはじめたのですが、男はしきりと本のことを喋ってましてね……最後にこの机のところにやってきて、便箋と封筒がのっているのを見ると、眼をひからせて、こう言うじゃありませんか、『クラブさん、これがサクソン文庫の便箋ですね?』私が、そうだと答えると、いかにももの欲しげな目つきで、私のほうを見ましてね、『ああ、そうだ、こいつは面白い』と言いだすんです、『ここへ入るのは、えらく厄介な仕事ですねえ、じつは私、友人と賭《かけ》をしまして、サクソンの図書室に入って見せると大見栄《おおみえ》を切ったわけなんです。それを、いま見事にやってのけたわけですよ!』で、私は、『なんだ、そんなことだったのか』と言ってやりました。すると、その男は、『友人との約束を立派に果したわけだから、どうか、クラブさん、私に賭け金がとれるように、お力ぞえねがえませんか? たしかにここに来たという証拠がいるんです。あ、そうだ』男はそう言うなり、たったいま思いついたといわんばかりの様子で、便箋と封筒を一枚ずつとりあげて、いじくりまわしましてな、『これだ! これなら立派な証拠になる。ありがとう、クラブさん、大いに感謝します!』そう言いおわったかと思うと、私がなにも返事をしないうちに、男はとび出して行ってしまったんですよ!」
警部はポカンと口をあけたまま、この驚くべき話を聞いていたが、クラブ老人が舌打ちして話し終ると、いきなり大声で怒鳴りだした、「な、なんてこった! やつに持ち逃げされるのを、あんたは指をくわえて見てたのか? まったく――」
「そうか、そうやって便箋を手に入れたってわけなのね」ペイシェンスがゆっくりと言った。
「さあ」レーンがひくい声で言った、「よけいなことで、クラブさんの貴重な時間を無駄にしますまい、必要ぎりぎりのことだけを聞こうではありませんか。で、クラブさん、その珍客の特徴をおぼえていますか?」
「そうですな、背の高い、痩せぎすの中年の男でしたよ。イギリス人という感じでしたな」
「それだ!」警部が嗄《しわが》れた声で叫んだ、「パット、いつかの――」
「ま、警部さん、ちょっと。で、その男が訪ねてきたのは、正確にいって、いつです? 何月何日です?」とレーン。
「ちょっと待ってくださいよ、四、五週――いや、七週間ほどまえでしたね。そうだ、思い出しました、月曜日の朝早くですよ、五月六日です」
「五月六日ですって!」ペイシェンスが声をあげた、「パパ、レーンさん、おききになりまして?」
「ぼくもきいたよ、パット」ロウ青年が口をとがらせて言った、「なんだ、まるでシーザーの暗殺を予言した『三月十五日』みたいな言い方をするじゃないか、おかしいよ!」
クラブ老人は、ちいさな眼をキラキラさせながら、一同の顔を見まわした。その眼の奥には、なにかとてつもないいたずらを無理矢理《むりやり》におさえつけているといった、底意地の悪い歓びがかくされていた。
「すると、その背の高い、痩せぎすの中年のイギリス人が」と、レーンがささやくような声で言った、「五月六日にこちらにやってきて、見えすいた手口をつかって、一枚の便箋と封筒を持ち去ったというわけですね。いや、どうもクラブさん、おかげでだいぶはっきりしてきましたよ。では、あとひとつだけおたずねして、おいとましましょう――その男は、自分の名前を言いましたか?」
クラブ老人は、例のひとをバカにしたような薄笑いをうかべると、老優を見つめた、「名前を言いましたかって? レーンさん、つぎからつぎへと、よくまあ、ズバズバおききになりますな! 名前? むろん、言いましたとも、そうだ、思い出しましたよ」老司書は、のどの奥でクックッと笑うと、まるで年老いた蟹《かに》のように、机のまわりを横ばいにまわって、引出しをかきまわしはじめた、「ちょっと失礼、お嬢さん……名前とね」そしてまた、クックッと笑い声をたてた、「あった、これですよ!」老人は一枚の小さな名刺をレーンに渡した。ペイシェンスがパッと椅子から立ち上り、四人の目がいっせいに、その名刺の上にそそがれた。
ひどく安っぽい名刺で、太い活字体で名前が印刷してある。ただそれっきりで、住所も電話もない。
「エールズ博士!」ペイシェンスが顔をしかめて言った。
「エールズ博士!」と警部がうなるように言った。
「エールズ博士!」ロウ青年が考えこみながら言った。
「エールズ博士!」クラブ老人がひとの顔を盗み見しながらうなずく。
「エールズ博士」と言ったレーンの声には、いっせいにみんなの視線をひきつけるひびきがあった。だが、老優はただじっと名刺を見つめたままだった。「なんとも不思議だ、どうにも考えられない。エールズ博士……お嬢さん、警部さん、ゴードン君」とレーンはだしぬけに言った、「エールズ博士とはなにものか、ご存じですか?」
「まるっきり心あたりがありませんわ」ペイシェンスは、じっと自分を見つめているレーンの顔に、喰い入るような視線を返して言った。
「聞いたこともありませんな」と警部が言った。
「いや、どこかで聞いたような気がするぞ」と、ロウ青年が考えこみながら言った。
「ああ、ゴードン、専門家なら、その名前を聞けば、なにか感じるだろうね、彼は――」
クラブ老人が、まるで猿廻しの猿のように、奇妙な恰好《かっこう》でピョコンと跳ねあがった。金縁眼鏡が鼻からずり落ちて、その顔にはゾッとするような笑いが浮んでいる。「わしならエールズ博士の正体が言えますよ」老司書は、香水でもつけた老|伊達者《だてしゃ》のように、皺だらけの唇をなめまわして言った。
「あなたにですと?」間髪おかずレーンが言った。
「私が言うのはね、その男が|ほんとうは《ヽヽヽヽヽ》だれなのか、どこにいるのか、そのほかなんだって知っているんですよ!」クラブ老人は金切声で言った、「こいつは、まったくとてつもないいたずらだ! とたんに、すべてがピンときましたよ」
「で、いったい」と警部がせきこんで言った、「だれなんです?」
「あの日、博物館で彼に会った瞬間、私にはパッとわかりました。そうですとも」老司書は嗄れ声で言った、「やつが目をそらしたのに気がつかなかったんですか? このわしに正体を見破られたのを悟ったんですよ。とんでもない悪党だ! 七週間まえにやってきて、この名刺を置いてかえり、自分をエールズ博士と呼んでいる男――それは|ハムネット《ヽヽヽヽヽ》・|セドラー《ヽヽヽヽ》ですよ!」
十四 愛書家たちの戦い
市内のあるホテルの別室で食事をとりながら、彼らはバラバラになった考えをまとめようとした。あのクラブ老人の皮肉な得意満面の暴露のために、しばらくのあいだというもの、一同の頭はカラッポだった。ハムネット・セドラーが謎のエールズ博士だとは! クラブ老人が舌なめずりしながら、こおどりせんばかりに有頂天《うちょうてん》になって、彼らを玄関の戸口まで送ってきた。最後にふりかえってみると、老司書は、イオニア式玄関の額ぶちに、その痩せて筋ばった両手を、まるでコオロギのようにこすりあわせていた。一同を見送りながらも、老人は頭をうしろにそっくりかえらせて、お気の毒ながらセドラー博士はエールズ博士、とでも言っているみたいだった。いかがなもんです、老いたりとはいえ、このクラブの眼はふし穴ではございませんぞ……すっかりのぼせあがって、まるでリンチに夢中になっている群衆のように、残忍でひとりよがりの満足にふけっているあの老人の姿に、一同はあきれるばかりだった。
ゴードン・ロウは、考えごとに没頭しているくせに、なんとかかんとか仲間にわりこんでしまった。彼はじっと黙って坐ったまま、車の窓からさしこんでくる日光が、ペイシェンスの髪のあたりで踊っているのを眺めていたが、さすがにいまばかりは、それも目に入らないようだった。
「どうも妙なことがあればあるものだ」ドルリー・レーンは一同が席につくと言った、「とても私の手に負えるものではありません。あのじいさん、だいぶ芝居がかって怖い顔などして見せたけれど、根は嘘つきではなさそうですな。ああいった手合は、やたらとほんとうのことを喋りたがるものですが、それも他人を傷つけるとわかっているような場合は、とりわけそうなのですよ。それにしても――ハムネット・セドラーとはね! いや、どうしても考えられない」
「問題の訪問客がセドラーだったとクラブ老人が言うなら」とロウ青年が白い歯を見せて言った、「それはもうだれがなんと言おうと、セドラーにまちがいありませんよ」
「それはちがうわ、ゴードン」とペイシェンスが、ため息まじりに言った、「セドラーは五月六日にクラブ老人を訪ねた人間ではあり得ないのよ。だって、五月七日に、ロンドンで、ケンジントン博物館の理事たちが、セドラー博士の送別会を開いたことが、わかっているわけじゃない? エールズ博士が五月六日に、ニューヨークにいるクラブ老人と会っているとすれば――まさか幽霊じゃあるまいし、一晩で大西洋を渡れっこなくてよ」
「まったく妙な話だなあ! ぼくはクラブ老人のことならよく知っているつもりだけど、あの男は嘘なんかついていませんよ。いつだって、ほんとのことをすっぱ抜くときに、あんなふうに憎たらしいくらい嬉しそうな顔をするんだ。レーンさんのおっしゃるとおりですよ」
「あんなに自信満々だったから」ペイシェンスはやたらと皿の肉をつっつきながら言った、「クラブ老人は天地神明に誓っても、あれはセドラーだったと言いはるにちがいないわね」
「いったい、なにをそんなに騒ぐことがあるのかね?」と警部が、ロウ青年のほうをジロリとにらんで言った、「あのじいさんが嘘をついているのにきまっている、それだけのことさ」
「ふむ」とレーンが言った、「あの老人がまったくの悪意から、その話をでっちあげたということも、考えられないこともない。とかく老人の愛書家というものは、えてして同好の仲間に嫉妬心《しっとしん》をいだくものですからね――いや、しかし、そんなふうに考えたのでは、どうにもならない。こんどのことは、すべてが常識はずれのことばかりなのだから……それはそうと、ひとつ、言っておかなければならないことがあります、エールズ博士のことですが」
「あ、そうだわ!」とペイシェンスが声をはりあげた、「なにか、おっしゃろうとしましたね、そのとき、クラブさんが邪魔をしちゃったけれど……じゃ、エールズ博士というのは、でたらめの名前ではないんですの?」
「とんでもない! じつはそこのところなのですよ、不思議なのは。ところでロウ君、君はあの家で、なにかしきりに思い出そうとして、のどのところまで出かかっているといった様子だったけど、どうです、エールズ博士とは何者か、いや、何者で|あった《ヽヽヽ》か、思い出しましたか?」
「それが駄目なんです。あのときは、もう一息でわかりそうな気がしたんですけれど。どうも、ぼくの研究分野のどこかで、お目にかかった名前じゃないかと思うんですがね」
「そうだろうと思いますよ。じつを言うと、私もエールズ博士に会ったことはないし、個人的にはなにも知らないのだが、ただひとつ、知っていることがある。驚くべき偶然の一致ということを抜きにすれば、エールズ博士はちゃんと実在しており、しかもたいへん聡明で博識な文献学者なのです」レーンは考えながら、パセリを噛んだ、「数年前、そう、八年か十年ぐらいまえのことだが、例の書誌学関係の啓蒙雑誌『ストラトフォード・クォータリー』に、ある論文が出ていたことがある……」
「ああ、その雑誌なら」とロウ青年が叫んだ、「ぼくは学生時代にとっていましたよ」
「だから君に、かすかな記憶があったのですね。問題はその論文の署名が、エールズ博士となっていたことなのだが」
「イギリスの雑誌ですか?」とサム警部がたずねた。
「そうです。こまかい点はもう忘れてしまったのですが、そのエールズ博士というひとは、あいもかわらず雲をつかむような『ベーコン即シェイクスピア』説に関する新しい研究を発表していたのです。しかも、どうしても承服しかねる点が、二、三、あったので、私は署名入りの長い反論を『クォータリー』誌に送ったのですよ。すると、エールズ博士はたいへん腹を立てて、その雑誌の通信欄に返事を書いたわけです。そんな具合に、私と博士は『クォータリー』誌上で、何回かわたり合ったことがありました」老優はクスクスと思い出し笑いをした、「博士は、なかなか辛らつな論敵でしてね! 私のことを、おいぼれのもうろくじじいと呼ばんばかりの毒舌ぶりでした」
「あ、そうだ、ぼくも思い出しましたよ」と、ロウ青年は、がっしりした顎をつき出しながら、熱心な口調で言った、「えらい騒ぎでしたね、そうです、あの男ですよ!」
「博士が、どこに住んでいるか、ご存じで?」と警部がぶっきらぼうにたずねた。
「残念ですが、知らないのです」
「なに、雑誌社に問い合せればわかるでしょうが――」
「それがどうもね、警部さん。ロウ君もはっきり覚えていることと思うが、その『ストラトフォード・クォータリー』誌は、五年まえに廃刊になってしまったのですよ」
「クソッ! それでは、もう一回トレンチに電報を打って、面倒を見てもらうか、ところで――」
「それはそうと、ロウ君」と老優が言った、「このまえ話した、あのちょっとしたことを調べてみるひまがありましたか? 例のジャガードの一五九九年版の装幀と、もしかしたらその装幀にまつわる秘密がないかということだったが?」
ロウは肩をすくめた、「それが、どうもかんばしくないんですよ。装幀が百五十年くらいまえのものだ、というところまではつきとめたんですけど――とにかく、すごく苦労しましたよ。現在の装幀は、すくなくともそのくらい古いものです。中に入っていた問題の紙片については――まるっきりゼロです、手がかりになるようなものさえ見つからない始末なんですよ」
「ふむ」レーンの眼は、一瞬、キラリと輝いたが、すぐにまた、その眼をふせて、サラダに没頭した。
ペイシェンスは、皿をわきに押しやった、「ゆっくりと噛めやしないわ」と、じれったそうに言って、「あんまりややこしいものだから、神経がどうかなってしまいそう。セドラー博士とエールズ博士とが同一人物だなんて、ちょっと考えただけでバカバカしいと分っているくせに、それが頭にこびりついてはなれないものだから、どうしようもないくらいイライラしてしまうのね、その一点さえのぞいたら、あとはすっきりしているのに……」
「というと?」と警部がしかめ面でたずねた。
「たとえばね、エールズ博士の足どりだわ。ね、いいこと」ペイシェンスがだしぬけに言った、「五月六日に、パパの事務所にやって来たひげの男、あれはエールズ博士なのよ」
「どうしてわかった?」とロウ青年が小声でききかえした。
「彼は、あの朝早くサクソン邸を訪問する、そこでサクソン文庫の便箋を手に入れたというわけ。どこか町中の、ホテルの洗面所かなにかに、あの奇妙な変装の道具を隠しておいたのにちがいないわ。そして、あの変な記号を便箋に書いて、変装すると、大急ぎでパパの事務所にやってきたのよ。そこまでははっきりしているんだけど」彼女の青い瞳《ひとみ》が、訴えるようにレーンを見た。
「ま、そんなところでしょうね」と老優が言った。
「その男、自分がしくじるなんてこれっぽっちも思わなかったんだわ」ペイシェンスは唇をかんで言った、「その男の秘密、数百万ドルの値打ちのあるとかいうあの秘密を、その男は、だれにも知られていないと思っていたのよ。ちょっとおかしくない?……だけど、その男はすごく用意周到で、どんなことでも偶然にまかせておかないんだわ。月の二十日に電話をかけさえすれば、つまり、自分の身が安全なら、べつだん異状はないし、封筒もそのまま開封されずにおかれるわけよ。もし電話しなければ、あたしたちが封筒をあけてみるし、中に入っているサクソン文庫の便箋をみて、司書のクラブ老人を追究し、謎のエールズ博士にぶつかるという段どり――その男がクラブ老人にした話だって、わざとあんなふうにわけのわからないものにして、そうすればクラブ老人が覚えているにちがいないと、その男は計算したんだわ。それが、その男の足どりをつきとめる近道ですものね。そうすれば、謎の人物の名前がわかってくるわけだし、職業だっていくらかは……」
「すごい論理的分析だなあ!」ロウ青年がかすかに笑って言った。
「それだから、その男は、私の立会いがなければ、封筒を開けてはいけないと言ったのですよ」と、レーンがおだやかな口調で言った、「彼は、私が『クォータリー』誌の論争を思い出すということを、ちゃんと知っていたのです。だから私が立ち会って、エールズ博士は愛書家であると確認するように、彼はとりはからったのですね」
「はじめから、その男はそれを計算に入れていたのにちがいなくてよ。もしその男の身になにか悪いことが起こる場合にそなえてね、ちょうど今がそれなんだわ。だからあたしたち、エールズ博士という本の虫を、とにかく探し出さなくちゃ、そのためにはどんな手を――」
「なに、わけないさ」と警部はうつろな顔つきで言った、「それはわしの仕事だよ、パット。あの男は、もし万一電話がなかったら、自分の身になにか起こったものと思ってくれと言ったじゃないか。つまり、わしらにわかっていることは、やつの特徴、名前、職業ばかりか、やつがいつもの所在から姿を消してしまったということなんだ、どこかに身をひそめているのか、それとも殺《や》られてしまったのか――」
「お見事ですよ、警部さん!」とレーンが言った、「まさに図星です。では、五月二十日、つまり、その男が予定どおり電話をかけてきた日から、ここ数日まえまでの、殺人、誘拐、その他行方不明のすべての事件の報告書を、ひとつ、調べてくれませんか」
警部は苦笑した、「ええ、わかってますよ。だけどご存じでしょうな、そいつがどんなに大仕事だか?」
「なに、見かけほど厄介ではありませんよ、警部さん。お嬢さんが指摘したように、あなたには特別の知識がおありなんだから」
「ま、いいでしょう」サムは憂鬱そうに言った、「やってみましょう。しかし、結果がどう出るか、そいつは保証しませんよ。わしだって、食っていかなきゃなりませんからな――とにかく、グレーソンかジョーガンに電話して、すぐとりかかってもらうことにしましょう……それはそうと、おまえたち二人は、どこかへまわるんだろ?」
*
ドルリー・レーンは、サム警部を事務所に、ペイシェンスとロウ青年の二人を、セントラル・パークの緑の木かげに車からおろすと、無言のまま、運転手に指図をあたえ、深く考えに沈んだ表情で、座席のうしろに背をもたせた。老優の職業的によく訓練された顔面には、さまざまな表情が、かすかにすばやく浮かんだり消えたりするのだが、いまや、その微妙な変化をだれひとり見るものはいないのだ。そして彼は、身じろぎもせずに、ステッキの頭をグッと握りしめたまま、運転席のドロミオの頸のあたりをぼんやりと見つめているのだった。普通の老人とちがって、レーンには大声で独言《ひとりごと》を言う習慣がない。それは、音を失った石のような耳のせいで、たぶん、独言を言ったりする習慣とはもともと縁がなかったのだ。そのかわり、彼は、純粋な映像で|もの《ヽヽ》を考えた。ときには、その映像があまりにもいきいきと見えてくることがあるので、老優は眼をとじて、さらによく見ようとするのだった。
黒塗りの愛用車リンカーンは、ノロノロとウェストチェスターのほうへのぼって行った。
かなりたってから、老優は眼をひらくと、すがすがしい緑の木立ちや、公園にそって曲っているドライヴ・ウェイを見て、あわてて前に身をのりだし、ドロミオの肩をたたいた、
「おまえに言わなかったかね、ドロミオ? マーティニ博士のところに寄ってもらいたいのだよ」
忠実なガイドであるドロミオは、身を固くすると、主人に自分の唇が見えるように半分顔をむけて言った、「どこかお加減でも悪いのですか? また具合が悪くおなりで?」
老優は微笑した、「いや、からだのほうはなんともないのだよ。純粋に学問上のことで訪問するのだ」
「ああ、そうですか」ドロミオは左耳をかき、肩をすくめると、アクセルを踏んだ。
車は、アーヴィングトンの近くでとまった。木立ちに半分隠れた小さな別荘風の家が、すぐ眼のまえにあり、壁には蔦や遅咲きのバラが一面に這っている。その門のところで、白髪の、かっぷくのいい男がパイプをふかしていた。
「やあ、マーティニさん」レーンが声をかけて、車からおりると、足をのばした、「こんな時間にお目にかかれるとは、幸運です」
かっぷくのいい男は眼を見はった、「レーンさんではありませんか! なんでまた、わざわざこんなところまで? さ、どうぞ、どうぞ」
レーンはクスクス笑いながら、その男のうしろについて門を入った。「まあ、そうびっくりした顔をしないでください、私はこのとおりピンピンしているのですから」二人は握手をかわした。マーティニ博士の疲れたような眼が、職業的なするどさで、レーンのからだを眺めまわした。「どうです、元気そうでしょう?」
「いや、まったく。ところで心臓のほうはどうです?」と博士。
「おかげさまで力強く打っていますよ。胃のほうは、いささかたよりないのですがね」二人は、医師の家に入った。毛のフサフサした犬がレーンの踵《かかと》を嗅《か》いでいたが、やがて興味なさそうに、むこうに行ってしまった、「年をとってから、こう悪くなるとは、どうもよくわからない――」
「生れたときから芝居小屋の|めし《ヽヽ》を喰べてきたんですからね」と、マーティニ博士がズケズケ言った、「あとになって、時計みたいに規則正しく消化しようたって、それは無理というものですよ。ま、おかけになってください。私はね、二、三時間、病院から逃げ出すことにしているんですよ。なにしろ、うんざりするような毎日ですからな。面白い病症なんかに、まるっきりお目にかかれない――」
レーンはクックッとのどの奥で笑った、「ところが、それを持ってきたのですよ」
医師は口からパイプを離した、「ああ、それはうっかりしてましたな、まさか、あなたご自身じゃないでしょうね?」
「ええ、私じゃありません」
「いや、ほんとうに面白い病症なら」マーティニ博士は、夢みるような微笑をうかべて言った、「今日の緑蔭のたのしみを犠牲にしてもかまわんですよ――」
「なに、そんな必要はないのです」老優は身をのり出した、「この症例は、たぶん、安楽椅子に坐ったままで、診断できると思いますよ」と、レーンはあたりに目をくばった、「博士、ドアをしめていただきましょうか」
医師はびっくりした。それから、彼は腰をあげると、太陽を閉め出した。「えらく神秘的ですな」医師は椅子にもどると言った。パイプは、彼の口からダラリと下に垂れさがったままだった、「極秘なんですな? すると、犯罪事件ですね。もっとも、ここなら聞いているものなんか――」
レーンは、彼の至芸である『老水夫』ばりの、きびしい底光りのする|まなこ《ヽヽヽ》で、医師を喰入るように見つめた、「博士、耳のきこえないものにとっては、壁にも耳があるのですよ……じつは、いまだかつて人間が経験したこともないような、とんでもない事件に、私はまきこまれてしまったのです。非常に多くのことが、ただ一点にかかっている……」
*
車の中で、ウツラウツラしていたドロミオは、襟にとまった蜂をはたきおとすと、ビックリして目をさました。バラの強い香りに、彼は眠気をさそわれたのだった。三十分ほど閉まったままだったマーティニ家のドアがひらき、主人の背の高い、痩《や》せた姿があらわれた。ドロミオは、マーティニ博士がうつろな声で喋るのを聞いた、「それが唯一の解決方法だと思いますね、レーンさん。とにかく、なにか意見をのべるにしても、その紙を見ないことには。いや、見てからだって、さっき言ったように――」
「どうも科学者にはかなわない!」ドロミオの耳に、レーンのかるく苛ら立った声が聞こえた、「ここにくれば、もっとはっきりすると思ったのに。だがしかし――」老優は肩をすくめると、手をさし出した、「関心を持ってくださって、ありがとう。なんとなく、なにかあるような気がしたものですからね、とにかく、今晩、その紙を持ってきましょう」
「それなら、私のほうからハムレット荘に伺いましょうか」
「とんでもない、お手数をかけては申しわけありません、私がもどってきますよ――」
「そんなバカな! かえってドライヴをしたほうが、私にはいいんですよ。それに、クェイシーも、ちょっと診てやりたいのです。このまえ診たときは、どうも脈があまりよくありませんでしたからね」
ドロミオは、車のドアを開けたまま、モジモジしていた。やがて、主人が急ぎ足でやってきたが、突然立ちどまると、白い眉をひそめてドロミオの顔を見つめ、するどい声でたずねた、「この辺を、うろついていたものを見かけなかったか?」
ドロミオはあっけにとられた、「うろついていたものですか、旦那さま?」
「そうだ、だれかいたか?」
ドロミオは頭をかいた、「あの――じつは、二、三分うとうとしてしまったものですから。でも、そんな人間はひとりも――」
「ああ、ドロミオ」老優はため息をつくと、車に乗りながら言った、「いつになったら、おまえは見張りを覚えられるんだ……ま、大丈夫だろう」レーンは、送りに出たマーティニ博士にむかって快活に手をふった、「アーヴィングトンでとめておくれ、ドロミオ、電報局だ」
車は出発した。アーヴィングトンで、ドロミオが、ウェスタン・ユニオン電報局を見つけると、ドルリー・レーンは、局に入っていった。老優は、柱時計を注意深く眺めてから、ちいさなテーブルにむかって坐り、黄色い頼信紙《らいしんし》と、鎖のついた鉛筆を手にとった。しばらくのあいだ、彼は、するどく尖った鉛筆のさきを眺めていたが、といって、べつにそれを見ているわけではなかった。老優のおだやかな瞳には、肉眼で見える世界以上のものが見えていたのだ。
レーンは、ゆっくりと頼信紙に電文を書いた。その内容の重大さに、思わず彼の指には力がこもった。
電報はサム警部あてで、その事務所宛だった。
急用アリ。記号ノ紙持参、今夜大至急晩餐ニ来ラレタシ。D・L
老優は電報料金を払うと、車にもどった。ドロミオは、アイルランド人特有の眼に、かすかな興奮の色をうかべて、待っていた。
「ドロミオ、こんどこそ、ハムレット荘に帰ろう」老優はホッと息をつくと、いかにも気持ちよさそうに、ふかぶかとクッションに身をしずめた。
*
大型のリンカーンが北のタリータウンの方角に消えると、この暑いさなかに、灰色のトップコートの襟を耳まで立てた、背の高い男が、通りの向う側に駐車している大型の黒塗りのキャディラックのかげから現われた。男はソッとあたりをうかがうと、大股で電報局にむかって歩き出した。そして、もういちど周囲を見まわしてから、ドアのにぎりに手をかけ、局の中に入っていった。
男は、まっすぐにレーンが電文を書いたテーブルに行くと、そのまえに腰をおろした。そして、横目で、カウンターのむこうをうかがった。カウンターの中では、二人の事務員が忙しそうに、机にむかっている。男は、黄色の頼信紙に視線をもどした。いちばん上の紙には、レーンが無意識に力をこめて書いたサム警部宛の電文の跡が、かすかに残っていた。背の高い男は、ちょっとためらってから、鎖のついた鉛筆をとりあげ、ほとんど水平になるくらいに持ちかえて、その紙の端から端へと、軽く一面にまんべんなく塗りつぶして行く。すると、鉛筆で塗りつぶした薄黒い部分から、レーンの書いた電文の文字が、黄色い筋となって、くっきりとあらわれてきた……。
やがて背の高い男は立ち上った。男は、その黄色い頼信紙をはぎとるなり、それを折りたたんでポケットに入れ、しずかに電報局から歩み去った。事務員の一人が、首をかしげて、男のうしろ姿を見送った。
男は通りを渡り、まっすぐ大型のキャディラックに乗り込み、非常ブレーキをはずすと、ギヤの強いひびきをのこして南のほうへ……ニューヨーク市の方向へ疾走して行った。
十五 驚愕と襲撃
午後おそく、ペイシェンスがひかえ目ながらも充分|堪能《たんのう》した買物をすませて、サム探偵事務所にかえってみると、ミス・ブロディが、あわやヒステリーの爆発寸前といった状態だった。
「まあ、お嬢さん!」彼女の叫び声で、ペイシェンスは買物をそっくり床の上に落してしまう始末。「もう、怖くて怖くて! ああ、帰ってきてくださって、ほんとにたすかったわ! あたし、気が狂いそう――」
「ブロディさん、しっかりして」ペイシェンスがきっぱり言った、「どうしたっていうのよ?なんでヒステリーなんか起こしているの?」
ミス・ブロディは、口もきけずに、ただ大げさな身ぶりで、警部の部屋の開いているドアのほうを指さすばかり。ペイシェンスはとびこんだ。事務所のなかはカラッポだった。ただ、警部の机の上に、一枚の黄色い封筒があるだけ。
「パパは?」
「事件を依頼しに来たひとがありましたの。なんでも宝石泥棒かなんかなんですって。警部さんは、|いつ《ヽヽ》もどれるかわからないからと、お嬢さんにそう伝えてくれということでした。だけど、その電報が――」
「ブロディさんたら」とペイシェンスは、ため息をついて言った、「あなたも世間の人みたいに、電報と聞いただけでドキドキしちゃうのね。きっと、広告かなにかなのよ」だが、封筒を開けると、彼女の顔はきびしくひきしまった。彼女は、ドルリー・レーンの簡潔な電文を、眼を見はって読んだ。ミス・ブロディは、まるで泣き女かなにかのように、指のずんぐりした両手をねじって、ドアのあたりをウロウロしている。
「やめてよ、ブロディさん」ペイシェンスは、ぼんやりした口調で言った、「あなたったら、いつも悲劇役者みたいな身振りをするのね。外へ行って、だれかにキスでもしてもらったら――」そう言うと、こんどは独言《ひとりごと》のように、「いまになって、いったいどうしたのかしら? なにか起こるようなことがあるのかしら? あれからまだ数時間しかたっていないのに……」
「なにか――起こりましたの?」ミス・ブロディが、こわごわとたずねた。
「そんなことわからないわ。どっちみち、ここで、いくらやきもきしたところで、しようがないのよ。さ、落着いて。あたし、パパにお手紙を書くから、しっかりしてね、わかった?」そう言いながら、ペイシェンスはミス・ブロディの肉づきのいい背中を、ピシャリとどやしつけた。ミス・ブロディは、まっ赤になって、控室の自分の机にもどり、やっと安心した様子だった。
ペイシェンスは、父親の椅子に腰をおろすと、まず便箋をめくり、桃色の舌のさきで鉛筆をなめ、作文の女神のご登場を願った。
カミナリオヤジ殿へ。われらが盟友レーン聖者どのよりパパに電報あり。今夕、例の紙片をハムレット荘に持参せよとの厳命でございます。なにか怪《あや》しい雲行きなのですが、なんの説明もありません。あわれブロディ嬢は、あたしたち二人の所在もわからぬまま、とどいた電報を開けることもならず、ただオロオロとそのまわりをまわるだけで、いささかヒステリー気味になっておりました。彼女の話によると、パパは、目下、あたしのお小遣いをふやしてくださるためにご活躍中とか。現にあたしのほうといたしましても、ロウ君に連れられて公園を散歩し、ロウ君がうしろ髪ひかるる思いで――ありましたでしょう――ブリタニック博物館へ仕事にもどったあと、メーシー百貨店におもむき、新型スキャンティ(パパならさしずめパンツというわけね)に心おどらせ買い求めてまいり、パパのご活躍に協力いたしました。ご不在中は、もとよりサム探偵事務所の名にふさわしく行動すべく、あたし、ただちに『スクーター』にて出発いたします。紙片には充分気をつけますから、念のため。お帰りになったらハムレット荘にお電話ください。ドルリー老は晩餐にご招待くださいました。最悪の場合は、老の古きよきベッドの一つを拝借、シーツをしわだらけにさせていただくつもりです。あしからず。
パットより
追伸――途中の山道は淋しいから、たぶん、ロウ君にご同行ねがうことになると思います。そのほうがパパもご安心でしょ?
ペイシェンスは、れいれいしく便箋をたたんで封筒に入れると、それを警部の卓上メモのあいだにさしこんだ。それから、鼻歌をうたいながら、金庫のところに行き、ダイヤルをカチカチ言わせて重い扉をあけると、中をゴソゴソかきまわして、封を切ったマニラ紙製の封筒を取り出し、ふたたび扉をしめた。あいかわらず鼻歌まじりに、封筒の中身が無事なのをたしかめると、布製のハンドバッグ――女物をこまごま詰めこんだ、大きな不思議ないれもの――をあけて、封筒をしっかりとその中にしまいこんだ。
それから、ペイシェンスは電話のダイヤルをまわした、「チョート先生ですか? あ、そうですか、いえ、かまいませんの。じつは、ロウさんにお話がしたかったんですけど……もしもし、ゴードン! こんなに早くまたお邪魔しちゃって、いけなかったかしら?」
「お邪魔だって! とんでもない、感激してますよ」
「お仕事のほうは?」
「着々とね」
「今日はもうそれくらいにして、手をあけていただくわけにはいかないかしら?」
「パット! きみのためなら火の中、水の中」
「あたし、これから大急ぎでハムレット荘へ持って行かなくちゃならないものがあるんだけど、ねえ、ゴードン、いっしょに行ってくださらない?」
「ためしに、ついて来ちゃいけないって言ってみな」
「ああ、よかった。じゃ、十分ほどしたら、ブリタニック博物館のまえでね」ペイシェンスは受話器を置き、耳のうしろの捲き毛のみだれをなおしてから、控室に出て行った、「ブロディさん、じゃ、出かけるわね」
「お出かけですか?」ミス・ブロディが眼をまるくした、「どこへいらっしゃいますの?」
「ウェストチェスターのレーンさんのお宅まで」ペイシェンスは、ミス・ブロディの背後の鏡にむかって、念入りに身なりをしらべた。ちいさな鼻の頭をパフでたたき、口紅をぬり、鏡にうつった姿にしげしげと見入った。
「まあ、困ったわ」彼女はため息をついて、白いリネンのスーツをなでまわした、「着替える時間がないわ、リネンて、すぐ皺になっちゃうのね!」
「ほんとにそうですよ」ミス・ブロディがいくらか活気づいて口を出した、「あたしも去年、リネンのスーツを作ったんですけど、クリーニング代のほうが高くつきましたわ……」と、突然、言葉を切って、「警部さんにはどうお伝えしましょう、お嬢さん?」
ペイシェンスは、青い水玉模様のリボンのついた、ごくちっぽけな帽子を、やわらかい捲毛の上にのせると、水玉模様のひもを器用にむすびながら言った、「机の上にパパ宛の手紙と、さっきの電報を置いてきたわ。あなた、ずっと事務所にいてくださるわね?」
「ええ、おりますとも。でも警部さんがお怒りになって――」
「とても重要なことなのよ」ペイシェンスはため息をついた、「ブロディさん、あなた、砦《とりで》を死守するのよ。あたしの買物の荷物は、明日、とりにくるわ、では、お願いしてよ」
身なりをくまなく検査しおわると、ペイシェンスはさも満足そうにミス・ブロディにほほえみかけ、気のぬけたように手をふるミス・ブロディをあとに、ハンドバッグをしっかり手にもって、彼女は事務所を出ていった。
*
歩道のへりに、小さな青いロードスターがとまっていた。ペイシェンスは心配顔で空を仰いだが、空は彼女の瞳よりも青かった。幌《ほろ》はおろさないことにした。彼女は車にとび乗ると、ハンドバッグを自分のわきの座席と背のあいだにおしこんでから、エンジンをかけ、ブレーキをゆるめて、ギヤを入れ、ゆっくりとブロードウェイの方角に走り出した。と、じきにギヤをぬいた。信号が赤になったからである。車はしずかにとまった。
そのとき、おかしなことが起こった。ペイシェンスは女らしいもの思いにふけっていて、一瞬、注意力が散漫になっていたのだ。それ自体としては、べつにたいしたことでもなく、ひとの注意をひくとも思われなかった。だが、事実は重大なことだったのであり、時がたつにつれて、じょじょに危険になっていったことなのである。
箱型の大きな黒塗りのキャディラックが通りの向う側にとまっていたが、ペイシェンスが青色のロードスターに乗りこむと、その黒塗りもにわかに活気づいて、エンジンのひびきをたてはじめたのである。ペイシェンスの車が出発すると、その車もそっと動き出し、まるで不吉な黒い影のように彼女の車のあとを追っていった。車の混雑の中で、赤信号を待つあいだ、その車は、彼女のうしろにピタリとついていた。やがて信号が青になると、その車もまた、彼女の車のあとについて走り出した。彼女が右折してブロードウェイにむかうと、その車もやはり右折してブロードウェイにむかい、そのまま、ずっと彼女の行くなりに、右に曲り、六番街を通り、五番街にむかい、五番街に入り……とにかく一瞬のためらいもなく、やすやすとロードスターのあとをつけて行くではないか。
ペイシェンスの車が、六十五丁目近くの歩道ぎわに、とつぜん停車したとき、その車はまるで生きもののように行動した。ちょっとためらったかと思うと、いきなりまえに飛び出し、それからスピードをおとして、結局はのろのろと六十六丁目まで走って行ってしまった。一方、ロウ青年が嬉しさのあまりポーッとなって、ニコニコしながら、ペイシェンスの横に乗りこんできた。ロードスターが通りすぎるまで、さっきの車はのろのろしていたが、通りすぎるや、ただちにまた尾行にうつった。
ペイシェンスは、わけもなくはしゃぎたい気分だった。顔色もいきいきとしていたし、頭にちょこんとのせた帽子のおかげで、顔つきもいつもよりいっそう、小粋《こいき》でロードスターを意のままにあやつり、陽はあたたかく、そよ風は頬にここちよかった。おまけに、隣りの座席には、若くてすばらしい男性が坐っているのだ。彼女はロウに、ハンドバッグの中の封筒を見せ、レーンの電報のことを説明し、とりとめのないことを喋りつづけた。ロウのほうはその間、彼女の座席の背に腕をのせて、だまって彼女のきりっとした表情に見入っていた。
雑沓するマンハッタンを通りぬける間じゅうというもの、黒塗りのキャディラックはピッタリとロードスターについたままだった。そしてマンハッタンの雑沓を通りぬけるあいだ、ペイシェンスとロウは、自分たちの背後の存在にすこしも気がつかなかった。街を出ると、尾行している車がすこし遠ざかった。ペイシェンスのほうでは、かなりのスピードでとばしているつもりなのに、キャディラックは、いかにものんびりした様子で、あとについてくるのだった。
街を出てかなりたったころ、ロウ青年の眼が細まり、彼はチラッとうしろをふり返ってみた。ペイシェンスはあいかわらずお喋りに夢中。
「もっとふんばってごらんよ、パット」と彼はさりげなく言った、「このヨタヨタ車で、どのくらいのスピードが出せるか、やってみようよ」
「あら、もっととばしたいの?」ペイシェンスは、いたずらっぽくほほえんだ、「いいこと、あなたが罰金を払うのよ!」彼女は思いきりアクセルを踏みつけた。ロードスターはグンとまえにとび出した。
ロウはうしろをふりむいた。キャディラックは、べつに苦労するふうもなく、いぜんとして同じ距離をたもっている。
ペイシェンスは、しばらくのあいだ、お喋りも忘れて、口を一文字にむすんで運転に没頭した。なんとかして、ロウに、もうスピードは充分だと言わせたかったのだ。だが、ロウはべつにこわがっている様子も見せなかった。ただ顎の線がすこしこわばり、はしばみ色の眼が細まっているだけだった。
と、突然、彼が言った、「あそこにわき道がある、パット、乗り入れてごらんよ」
「え? なんですって?」
「あの道へだよ、さあ!」
彼女はムッとして、怒ったような眼を彼のほうにむけた。彼の顔は半分まわって、よそを見ている。ゆっくりと、彼女はバックミラーをのぞきこんだ。
「まあ」彼女の顔からサッと血の気がひいた。
「つけられているのさ」ロウが落着いて言った。その声には軽い調子がなかった、「さ、パット、あの道へ入るんだ。あの車をまいちゃおう」
「そうね、ゴードン」ペイシェンスは小声で言った、そしてグイッとハンドルを切ると、ハイウェイから狭いわき道へ、いっきに乗り入れた。
と、キャディラックはいったん通りすぎたが、そこで急停車すると、アッというまにひきかえして、わき道へ入ってきた。
「あたしたち」とペイシェンスは、かすかに唇をふるわせながら、ささやくように言った、「なんだか失敗したらしいわ、この道――行きどまりよ、ゴードン」
「いいから、走らせるんだ、パット、わき目をふらずに道路を見つめて」
それは、事実狭い道で、どうやら行きどまりらしかった。といって、車をターンさせ、いま来た道をひきかえすひまもなかった。ペイシェンスは爪先ではげしくアクセルを踏んだ。小さな車は手負いの野獣のように、たけり走った。ロウはじっとうしろを見つめた。キャディラックは、いぜんとしてあとにつづいている。といって、ことさら追いつこうとする気配もない。たぶん、陽が高すぎるか、追跡者が機の熟するのをまっているのだ。
ペイシェンスの心臓は、早鐘のように、胸板になりひびく。彼女は無我夢中のうちにも、ゴードン・ロウを誘う気を起こさせてくれた神さまに感謝した。ピタリとよりそって横に坐っている彼、その男性のたくましいからだから伝わってくる暖かみが、ペイシェンスの不安をしずめてくれるのだ。彼女は歯を喰いしばり、眼を大きく見ひらいて、行く手のガタガタ道を一心に見つめながら、ハンドルにしがみついていた。道はコンクリートの舗装道路でなく、雑に切りひらいて固めた砕石舗装道路だった。二人は座席の中でとびあがり、ぶつかりあった。キャディラックはあいかわらず追跡してくる。
道はますます悪くなった。さらにせばまってきた。前方に、こんもりとした木立ちが道に蔽《おお》いかぶさっているのが見えた。大声を出したところで、だれの耳にもきこえそうもない様子だった。さまざまな光景が、彼女の脳裡をかすめた――『さびしい森の中』――『襲われた若い女性』――『殺害された護衛の青年』――『ウェストチェスターの恐怖の犯罪』――彼女のからだは傷ついて路傍に横たわり、そのそばで、ロウが血を流しながら死んでいく……と、そのとき、黒い車が自分たちのすぐ横まできたのに彼女は気がついた。だが、その車は彼女たちを追い越そうとはしなかった。
「進むんだ」ロウが立ちあがり、まともに吹きつける風に、身をかがめながら叫んだ、「こわがることはないぞ、パット!」
と、並行して走っている黒い車の隅の暗がりで、黒い袖の長い腕が、はっきりと動きを示した。そしてキャディラックは、疾走しているペイシェンスのちいさな車のほうへ、スレスレになるまで近よりはじめ、まるで道路からつき落さんばかりの勢いだった。彼女はわずかに残された判断力で、追跡者が、こちらを停車させようとしているのだと、見てとった。
「腕ずくでやる気だな?」とロウがつぶやいた、「よし、パット、車をとめて、やつの出方を見ようじゃないか」
ペイシェンスがロウのほうにチラッと目をやると、青年は彼女の横にピタッと身をかがめて、いまにも飛び出さんばかりの姿勢だった。その瞬間、彼女はクソ度胸をきめこんで、いっそのこと車ごとキャディラックにぶつかって、相手もろともめちゃめちゃになってやろうかとさえ思った。彼女は、そういう場面を、小説やなにかでなんども読んだことがあったし、そういう衝動や行為をごく自然のことと受入れてきたのだ。だが、現実に自分がその場面に遭遇《そうぐう》してみると、涙がドッとあふれてきて、死ぬのなんか、いや、生きているってことはなんとも言えないくらいいいことだ、と思わざるをえないのである……彼女は胸のなかで、自分のことをバカとあざけり、臆病ものと罵しったものの、ハンドルをにぎっている手はいっこうに動こうともしなかった。
長い、おそろしい瞬間がすぎさると、アクセルを踏む彼女の爪先がゆるみ、無意識にブレーキをさぐっていた。そしてロードスターは、ゆっくりと、いかにも気がすすまなそうに、やっととまった。
「いいか、ジッとしているんだよ、パット」とロウがささやいた、「きみは乗っていたまえ。相手は感じの悪そうな奴だからね」
「ね、ゴードン、やめて――乱暴するのは、やめて、おねがい!」
「きみは坐ってるんだ!」
キャディラックは、二人の車をサッと追い越すと、グルッとターンして、その軽快な車体で行く手をさえぎり、音をたてて急停車した。車の中から、黒い服を着た、覆面の男があらわれた――ペイシェンスは、思わずハッと息をつめた――男はピストルをふりかざしながら、車から飛び出し、ロードスターにむかって走ってきた。
と、ゴードン・ロウはなにやら絶叫するなり、道路にとびおりた。彼は覆面の男に真正面からいどみかかり、ピストルにむかって突進した。
ペイシェンスはただ茫然として眼を見はるばかり。こんなことって、あるはずがない、まるで映画みたいじゃない、と彼女は思った。路上の青年を威嚇《いかく》する、青びかりに光る凶器には、どこか現実ばなれをしたところがあった。
と、つぎの瞬間、彼女は叫び声をあげた。銃口から、煙といまわしい火花が散って、ゴードン・ロウが、まるで伐り倒された木のように、ドサリとぬかるみの道路にころがったのだ。青年のからだがピクピクと動き、かたわらの小石が血で汚れた。
煙が、悪魔の舌のように、銃口をなめまわした。と、覆面の男が、ロードスターの踏台に、ひらりと飛び乗った。
「人殺し!」ペイシェンスは絹をさくような叫び声をあげるなり、車から出ようと必死に身をもがいた。ゴードンは――ゴードンは死んでしまった、と彼女は思った。道路に横たわって、死んでいるのだ、ああ、ゴードン!「殺してやる」彼女はあえぎながら、ピストルにつかみかかった。
だが、その指を思いきりたたかれた。彼女は座席にはげしく突き倒された。その痛みで、気が遠くなりかけながら、彼女にははじめて事態がのみこめたのである――これが、ペイシェンス・サムのあえない最後なのか?
のぶといつくり声が、覆面から聞こえてきた、「しずかにしろ。そこに坐っているんだ。さ、紙きれをよこせ」ピストルがゆらゆらと、霧の中の物体のように、彼女の眼の前でゆれた。
ペイシェンスは茫然としたまま、自分の手をながめた。指から血がながれている。「紙きれって、なにさ?」と、彼女はかすれた声で言った。
「例のやつだ。封筒だ、早くしろ」そのおしつぶされた太い声には、なんの抑揚《よくよう》もなかった。ここでやっと、しかも突然に、彼女はすべてをはっきりさとったのだ。あのサクソンの便箋だったのだ! あの謎の記号! あれのために、ゴードン・ロウは命をおとしたのだ……。
ペイシェンスはハンドバッグをさぐった。すると、踏台の男がやにわに彼女を平手ではりとばした。男はハンドバッグをひったくるなり、サッと身をひいた。その間も、ピストルを彼女にむけたままだった。ペイシェンスは車から這い出そうとした。ゴードン……と、耳もとで、ものすごい音がした。まるで世界が破裂したような、すすり泣くかのような……彼女はなかば意識を失ったまま、くずれ落ちた。男が彼女を射ったのだ!……ふたたび彼女が眼をひらき、もうろうとした意識をとりもどそうともがいているとき、キャディラックが走り出した。その一瞬後、大きな黒い車体がうなりをあげて向きをかえると、タイヤをきしませて、彼女のわきを稲妻のように走りぬけ、アッというまに、もと来た方角に走り去った……。
ペイシェンスは、やっとのことで道路に這い出した。ロウはいぜんとして、路上に倒れたままだった。その顔には血の気がなく、身動きひとつしなかった。彼女はロウの服の下に手を入れて、胸にあてがった。脈が打っているではないか!
「おお、ゴードン、ゴードン!」彼女はすすり泣いた、「うれしいわ、うれしいわ」
ロウ青年はうめき声をあげると、眼をひらいた。いったん身を起こしかけたものの、痛さで、またグッタリとなった。「パット」彼はうつろな声で言った、「どうしたんだ? 男は――」
「傷はどこなの、ゴードン?」ペイシェンスが声をはりあげた、「お医者さまに連れて行かなくちゃ、あたしは――」
ロウは力なく身を起こした。二人がかりで、傷をさがしてみた。左腕から血が流れていた。ペイシェンスは、彼の上着を脱がせた。彼はまたうめき声をあげた。弾丸は二の腕の肉を貫通していた。
「クソッ!」ロウはいまいましそうに言った、「女みたいに気絶するなんて――さ、ここを結んでくれ、パット。あの人殺し野郎を追いかけるんだ」
「だって――」
「医者なんか、いらないよ。しばってくれりゃ、いいんだ。さあ」
彼女は道路にひざをつくと、ロウのシャツの裾《すそ》をやぶいて、傷口をかたくしばった。青年は、彼女の手をふりはらうと、ひとりで立ち上った。いや、それどころか、彼女を運転席に手荒く押しこむと、ひとりで車にとび乗った。
ペイシェンスは車のむきをかえると、いくぶんビクビクしながらも、キャディラックのあとを追った。半マイルほど行くと、ロウは車をとめさせ、よろけながら車からおりると、道路のまんなかに落ちているものをひろった。ペイシェンスの布製のハンドバッグで、口があいたままだった。
謎の記号の書いてあるサクソン文庫の便箋は、封筒もろともなくなっていた。
キャディラックの影も形もなかった。
*
その一時間後、ドルリー・レーンの年老いた気づかわしげな胸のなかで、ペイシェンスはすすり泣きながら、とぎれとぎれに、自分たちが強盗に追われて、どんなに危い目にあったか、そのいきさつを語った。ゴードン・ロウは、かたわらの庭椅子に坐っていた。その顔色こそ蒼白だったが、すっかり落着いた様子だった。彼の上着は、脱いで芝生の上におかれ、腕の包帯は出血で固まっていた。レーンの古くからの召使いである小柄のクェイシーは、お湯と新しい包帯をとりに走っていった。
「さあ、お嬢さん」と老優がなだめた、「そんなに思いつめたりしてはいけない。むしろ、大難が小難ですんだことをよろこびなさい。ロウ君、君にはほんとうに気の毒だった! 私はね、ペイシェンスさん、まさかあなたが封筒を届けにくるとは夢にも思いませんでしたよ。危険の可能性も考えないではなかったが、警部さんなら、いつも武器を持っているから大丈夫だろうと思ってね……クェイシー!」レーンは、老人を呼んだ、「サム警部の事務所に電話をかけておくれ」
「いいえ、みんな、このあたしが悪いんですわ!」ペイシェンスがしゃくりあげた、「あら、レーンさんのジャケットを、こんなに濡《ぬ》らしちゃって。ゴードン、もう大丈夫?……ああ、あたし、あの大事な封筒をなくしてしまったんだわ。あの泥棒、締め殺してやりたい!」
「いや、あなたがたはたいへん運がよかったのだ」とレーンがさりげなく言った、「どうみても相手は、人道主義などという言葉の通じそうもない獣《けだもの》ですからね……どうだった、クェイシー?」
「それはもう、警部さんは、たいへんな剣幕で」とクェイシーがふるえ声で報告した、「ただいま、フォルスタッフが水を持ってまいります」
「フォルスタッフ」ゴードン・ロウが、いぶかしげに言った、「ああ、そうか」それから、無傷のほうの手をゆっくりと眼の上にかざすと、「とにかく、この事件を徹底的に考えてみるつもりですよ、レーンさん」と言った。
「そうだね、しかし、医師の診断を受けるほうが先決ですよ。ちょうどいい、マーティニ博士が愛用の小型自動車でやって来た!……ペイシェンスさん、お父さんと電話でお話しなさい」
ペイシェンスはロウ青年のそばに行った。二人はためらいがちに、チラッと眼を見かわした。それから彼女はクルリとむきをかえると、家のほうにかけて行った。
使い古しの小型のフォードが、正面の自動車道をガタガタのぼってきた。車の中から、白髪のマーティニ博士が、頭をさげて挨拶している。
「マーティニ博士!」ドルリー・レーンが叫んだ、「ほんとによかった。あなたに診ていただきたいものがいるのですよ。ロウ君、じっとしていたまえ。君はいつまでたってもガムシャラだねえ。先生、この青年の腕をおねがいします」
「水を」博士は、固まった血糊《ちのり》をチラッと見ると、すぐそう言った。
背のひくい、太鼓腹のフォルスタッフが、大きな洗面器に湯を入れて、小走りにやってきた。
*
サム警部の猛烈な活動とウェストチェスター警察の協力のおかげで、その夜おそく、ブロンクスビルの近くの道ばたに乗り捨ててある黒塗りのキャディラックが見つかった。車は貸し自動車屋のもので、その日の午前中、黒っぽい外套の襟を立てた、長身の無口な男が、アーヴィングトンで借りたものだということが判明した。貸し自動車屋のほうは、あきらかに事件とは無関係で、借りた男については、それ以外なにも覚えていないと証言した。
レーンの提案で、アーヴィングトン電報局の事務員が調べられた。その一人が、黒っぽい外套の背の高い男が、局の中にちょっと入って来たのを思い出した。
犯人のキャディラックは見つかった。背の高い男が問題の封筒を入手する方法を、どうやって見つけたかということも、これでわかった。だが、その犯人と強奪された封筒については、なんの手がかりもつかめなかった。
十六 馬蹄型の指環
その翌朝、無言の一行がハムレット荘をあとにした。まだ土曜日だなんて、とても信じられないわ、とペイシェンスは胸のなかで思った。車はドルリー・レーンのリンカーン、ペイシェンスのロードスターは、ハムレット荘に残してきた。ロウ青年は負傷した左手を包帯で吊ったまま、レーンとペイシェンスのあいだに、不機嫌そうにむっつりとおしだまって坐っていた。レーンは深くもの思いにふけり、ペイシェンスは、いまにも泣きだしそうだった。
「お嬢さん」しばらくして老優が声をかけた、「そんなに自分のことを責めるものではない!あなたの|せい《ヽヽ》ではないのですからね! あなたをそんな危い目にあわせたこの私こそ、とんでもないことをしたと、悔んでいるのですよ」
「でも、あの便箋をなくしたのはあたしですもの」とペイシェンスは涙声で言った。
「なに、とりかえしのつかぬことではない、あの紙がなくても、なんとかやっていけます」
「じゃ、どうして」とロウが横から口をはさんだ、「電報で取りよせたりしたんです?」
レーンはホッとため息をついた、「いささか考えがあったのだが――」それだけ言うと、だまりこんでしまった。
ドロミオは、マーティニ博士の家のまえで車をとめた。博士はものも言わずに車に乗りこむと、その指ですばやく青年の腕の負傷にさわり、そして、うなずくと、うしろによりかかり、眼をとじて、そのままグッスリ眠ってしまった。
車が市内に入ると、レーンは身を起こした、「ロウ君、君をさきに家まで送ったほうがよさそうですね」
「家か!」ロウは、吐き出すように言った。
「ドロミオ、サクソンの屋敷に行っておくれ……マーティニ博士をごらん、こんなによく眠っている!」老優はクスクス笑った、「心がきれいなんだなあ、君だってペイシェンスさんのジュリエットで、ロミオ役をやっているのでなかったら……」
一同をむかえたサクソン邸は、あいもかわらず無愛想でガランとしていた。見事な頬ひげをはやした執事は、こんどもまた、おあいにくさまです、と言った。サクソン夫人は、『お留守』なのだ。執事の無表情な眼が、ロウの腕の包帯を見ると、すこし大きくなり、一瞬、さすがの彼も人間らしい感じになった。
だが、あきらかに司書のクラブ老人は、青年の腕の負傷など、度をこした悪ふざけぐらいにしか思っていないらしい。というのは、老人がそれをじっと見つめていたかと思うと、いきなり例の高笑いをして、のどをゼイゼイさせながら、言ったからだ、「つまらんおせっかいをするからさ! だれなんだね、このいたずら小僧の腕を折ったのは?」クラブ老人はそう言いながらも、横目でレーンのおだやかな顔と、マーティニ博士の冷静な顔を見ていた。
ロウ青年はパッと顔面を紅潮させると、無傷のほうの手のこぶしをグッとにぎりしめた。
「じつは、例のサクソン文庫の便箋を見せていただきたいと思いましてね」と、レーンがいそいで口をはさんだ。
「おや、またですか?」
「おねがいします」
クラブ老人は肩をすくめるなり、ヒョコヒョコ出て行ったかと思うと、書斎から、なにも書いてない便箋を一枚、持ってもどってきた。
「なるほど、ほかのものとまったく同じだ」レーンはそう言いながら、クラブの手から便箋を受取ると、マーティニ博士に渡した、「どう思いますか?」
博士は考え深そうにその便箋をいじりまわしていた、それから窓際に行くと、重いカーテンをあけて、その紙を眼をほそめて調べた。いちどなどは腕を思いきりのばして遠くから眺め、そうかと思うと、眼の先二インチぐらいのところまで近づけて見たりした……やがて博士は、カーテンをしめると、みんなのところにもどって来て、テーブルの上に、灰色の便箋を置いた。「さよう」彼は落着きはらった口調で言った、「あなたのにらんだとおりのようですな」
「ああ!」レーンは奇妙な抑揚《よくよう》をつけて言った。
「あなたが自宅に来られたときお話したように、あなたのご相談の件については、われわれにはほとんど分ってないといってもいいくらいです。いや、まったくめずらしい病症にちがいない。ぜひ、その男に会ってみたいものですな」
「私もですよ」とレーンがつぶやいた、「私もぜひ会いたい。さてと」老優は眼をキラッと光らせて、若い二人を見た、「行きましょうか?ではまた、ロウ君――」
「ぼくだって一緒に行きますよ」と、青年は顎をグッとつき出した。
「外出しないほうがいいわ」とペイシェンスが言った、「家で休んだほうが――」そう言いながらも彼女は、どうしましょうというように、マーティニ博士の顔をうかがった。
「それそれ」とクラブ老人がもみ手をしながら言った、「それが女性の所有本能というやつだよ、気をつけたまえ、ロウ君……ところでレーンさん、いったい、この長談義はどういうことなんです?」
しかし老優は、ペイシェンスとロウの二人を、いかにもいじらしそうに見ていた。レーンの耳が不自由なことはだれでも知っていた、彼はただこうつぶやくように言っただけだった、「つぎは警部さんを訪問するのが順序のようですね、先生、あなたは私の車で送らせましょう、あとでドロミオを返してください。私たちはタクシーで下町へ行こう……あ、クラブさん! どうもご親切に。さよなら」
*
「いったい、どうしたんだね?」警部は娘を抱擁《ほうよう》し、そのおかえしに、娘のほうからも抱擁してもらうと、ロウにたずねた。
「ピストルで射たれたんです、警部さん」
「ああ、そうだってな! 昨夜、パットから電話できいたよ」サムは白い歯をむき出してニヤリと笑った、「余計なおせっかいをするなという教訓だな、君には。ま、みなさん、椅子にかけませんか。追いはぎかね? いや、わしもその場にいたかったよ!」
「あなただって撃たれましたよ」とロウ青年がピシャリと言った。
「ふむ、相手に心当りはあったかね、パット?」
ペイシェンスはため息をついた、「だって、顔をすっかり隠してましたもの、それに、あのとき、ものを観察する余裕なんかなかったわ、それに――ゴードンが血を流して道路に倒れているし」
「声はどうだったんだ! 封筒を出せって、おどかしたそうじゃないか」
「作り声だったわ。それだけしかわからない」
「おまえのことを撃ったんだな」警部は椅子の背にもたれて、じっと考えこんだ、「いや、ありそうなことだ。いよいよ敵も正体を現わしはじめたぞ。こいつは面白い」それから大きく息を吐いた、「しかし、わしはこの事件にかかりきりになるというわけにはいかないんだ、いまのところ、宝石盗難の事件で手いっぱいでな――」
「失踪人の記録のほうは調べてくれましたか?」とレーンがたずねた、「じつは、それが聞きたくて、およりしたのですがね、警部さん」
サム警部は、タイプで打った分厚い紙の束をとりあげると、机のむこうから投げてよこした、「その中には、本だの、本を扱う連中に関係のある人間で、殺されたり、失踪したりした人間の記録なんぞ、ひとつもありませんよ」
老優は、その記録を自分で調べてみた、「不思議だ」と彼はつぶやいた、「この事件全体の中でも、もっとも腑《ふ》に落ちないことの一つだ。いったい犯人に、これ以外のどんなことが企《たくら》めたというのか?」
「そんな予感が、わしにだってしたんですよ、このまえ、そう言ったでしょうに。とにかく、わしはもう手を引くつもりですよ。こんなわけのわからない嫌な事件はこりごりだ」
と、そのとき、控え室のほうで電話が鳴った。相手の声をききかえすミス・ブロディの悲劇的な声がきこえた。ついで、警部の電話が鳴りだし、彼は受話器を手にとった。
「もしもし……ああ……なんだと?」
岩みたいなサムの顔に、危険信号のような赤い色がパッとひろがった。それは激怒したときのなによりの証拠。ほかの連中は、びっくりして警部を見つめた。
「すぐ行く!」サムは受話器をガチャンとかけるなり、椅子からサッと立ち上った。
「いったい、どうしたの、パパ? だれの電話?」ペイシェンスがあわててきいた。
「チョートだ! 博物館からだ」とサムがどなった、「なにかあったらしくて、われわれにすぐとんで来てくれと言うんだ!」
「こんどはなんだろう?」とロウが立ちあがりながら言った、「まったく奇妙な事件だ!」
老優はゆっくりと立ちあがった。その眼がピカッと光った、「ほんとうに変だ、もし……」
「もし、なんですの?」エレベーターにむかって歩きながら、ペイシェンスが喰い下った。
レーンは肩をすくめた、「シラーの言葉にあるとおり、何事も神の摂理ですよ。とにかく時のたつのを待ちましょう。天の配剤の妙というものを、私は信じているのです」
一同がエレベーターに乗りこむあいだ、ペイシェンスはだまりこくっていた。やがて彼女が口をひらいた、「マーティニ博士がサクソン文庫の便箋をくわしく調べていたのは、どういうわけなんですの? あたし、ずっと、そのことばかり考えていたんですけど――」
「お待ちなさい、お嬢さん。そのこと自体は面白いし、必要なことでもあるが、いまの段階では、たいしたことではありません、ま、いつかそのうち、役に立つだろうとは思いますがね」
*
ブリタニック博物館は、興奮のるつぼにまきこまれていた。チョート博士は、あの山羊ひげをさかだてて、青銅のシェイクスピア像の顔のうしろで、一行を迎えた。「お待ちしていましたよ」その声もいらだっていた、「こんな嫌な日はありませんな……ロウ君、腕はどうしたんだね? なにか事故でも?……さ、どうぞ、どうぞ」
博士は一行をせきたてるようにして、応接室を通り、事務所に入った。中には、奇妙な顔ぶれの連中が待っていた。長身のセドラー博士は、その痩せた顔を紅潮させ、しかめ面をしながら、やたらと歩きまわっている。がっしりした体格の警官がひとり、警棒をしっかりと握りしめて、椅子のうしろに立ちはだかっている。その椅子には、陰気な眼をオドオドさせて、背が高く色の浅黒いラテン系の男が腰をおろしている。ケバケバしい柄の服は、取組みあいでもしたみたいに、クシャクシャになっている。そして小粋な真珠色の中折帽《フェドラ》が、かたわらの床の上にほうり出されている始末。
「こりゃ、なんだ?」サム警部は、部屋のドアのところで立ちどまると、うなり声をあげた。と、唇の片隅がほころんだ、「やあ、だれかと思ったら……」
それと同時に、二人の人間が思わずハッと息をのんだ。その一人はゴードン・ロウ、もう一人は椅子に坐っているイタリア人。
「コバーンじゃないか」警部は、椅子のうしろに立っている警官に、親しげに声をかけた、「あいかわらず持ち場を巡回かね?」
警官はびっくりして眼をまるくした、「サム警部ですか! ずいぶんおひさしぶりです!」彼は白い歯を見せて敬礼した。
「しばらく顔を出さなかったからね」警部は上機嫌な声で言った。彼は部屋のなかに入ると、椅子に坐っている男の三フィートまえでとまった。男はモジモジと、おじけづいたように眼を伏せた。「どうした、ジョー、博物館なんかに来て、なにをしてるんだ? スリの学校は卒業したのかね? まさか大学に入りたいなんて言うんじゃなかろうな! このまえ会ったときは、財布専門だったじゃないか。おい、わしが話しかけたら、立つんだ!」警部が大声をはりあげると、イタリア人ははじかれたみたいに、パッと椅子からとびあがり、見るからに毒々しいネクタイを指でいじくりまわしながら、視線を警部の足もとにおとした。
「この男は」と、チョート博士が興奮した声で言った、「ついさっき、博物館に忍びこみ、サクソン室をうろついて、本をかきまわしているところを、セドラー博士に捕えられたのです」
「そうですか」ドルリー・レーンは、つぶやくように言うと、部屋に入ってきた。
「私たちは警官を呼びました。だが、この男は名前も侵入方法も目的物も、なにひとつ白状しないのです」館長は訴えた、「いったいぜんたい、どういうことになるんです!」
「セドラー博士」とレーンがたずねた、「あなたがサクソン室でこの男を捕えたとき、具体的に言って、この男はなにをしていたのです?」
セドラー博士は咳ばらいをした、「それが、じつに妙なのですよ、レーンさん。この男ぐらいの知識のレベルで、稀覯書を漁《あさ》って歩く人間がいるなどと思いますか? しかも、たしかに、この男はなにかを盗もうとしていたのですよ。いま、チョート博士が言われたように、本のケースの間をうろついていたんですからな」
「ジャガードのケースですか?」と、レーンがするどくきいた。
「そうです」
「名前を言いたがらないだと?」警部はニヤリと笑った、「どれ、いよいよわしの出る幕か、ええ、ジョー? このコソドロのトンチキ野郎はジョー・ヴィラ君と言いましてね、わしの知っているころは、その道じゃピカ一のスリの名人、近ごろじゃコソドロに商売替え、なんでも屋の泥棒、ひったくり、スパイ、その他いかがわしいことならなんでも、といったところですよ。おい、そうだな、ジョー?」
「あっしは、なんにもしちゃいませんよ」とイタリア人がぶつくさ言った。
「どうやってここに入ったんだ、ジョー?」
無言。
「いくらもらった? だれに頼まれたんだ? こんな芸当は、おまえのオケラ頭で考え出せるようなことじゃないぞ!」
男は唇をなめた。ちいさな黒い眼が、すばしこくみんなの顔を見まわした。「だれにも頼まれやしませんよ!」男はむきになって叫んだ、「あっしは、ただ――ブラッと入ってきちまったんですよ。それだけでさあ、ちょっとのぞいて見ただけなんで」
「本をのぞきにか、え?」サムがニヤニヤ笑いながら言った、「コバーン、この男を知っているだろ?」
警官は赤面した、「いえ、警部、それがどうも。たぶん――警部がおやめになったころから、なりをひそめていたんだろうと思います」
「チョッ、困ったもんだな」警部の声は淋しそうだった、「さ、ジョー、あっさりドロを吐いちゃえよ、さもないと、本署へしょっぴいて行って、痛い目にあわせなきゃならんぞ」
「なにも知ってねえったら」ヴィラはぶっきらぼうに答えたものの、その顔はまっ青だった。
ゴードン・ロウがすすみ出た。彼の負傷しているほうの腕がすこしゆれた。「警部さん」と彼は落着いた声で言った、「ぼくにお手伝いできそうですよ」
ヴィラは、チラッと青年に目をやった。どこか、とまどっている様子。と、こんどはロウの顔をじっくりと見つめて、どこで会った顔か思い出そうとしているようだった。
「この男は、ジャガードの一五九九年版が盗まれた日に、博物館に見学にやってきた教師連中のなかにいたんですよ!」
「それほんと、ゴードン?」とペイシェンスが叫んだ。
「ほんとうだとも。この部屋に入ったとたんにわかったよ」
「ロウ君」とレーンがすばやく言った、「すると、どっちの男です?」
「それはわかりません。ただ、一行のなかにいたことはたしかです。あの日、この博物館に来ていたんです、絶対にたしかですよ」
セドラー博士は、まるで顕微鏡で実験の標本でものぞくように、じっとヴィラを観察した。それから、身をひいて、長窓のひとつにかかっているカーテンのほうへ退いた。
「さ、白状したらどうだ、ジョー」サムがきびしい口調で言った、「教師の団体にまぎれこんで、いったいおまえは、ここでなにをしてたんだ? いくらなんでも、インディアナの教員免状をとったとは言わないだろうな!」ヴィラは、薄い唇を貝のようにとじた、「よし、この野郎。チョートさん、電話を貸してくれませんか?」
「いったい、どうしようってんで?」だしぬけにヴィラがたずねた。
「おまえを可愛がってやるんだよ」サムはダイヤルをまわした、「もしもし、シオフェルさん? こちらはサム。サム探偵事務所です。ジョージ・フィッシャー君いますか?……そいつはうまい。で、発車係のバービイは? まじめにやってますか?……その二人を三十分ばかり拝借できませんかな?……そうですか、それはありがたい、じゃ、すぐに五番街六十五丁目のブリタニック博物館までよこしてください」
*
見るからにたくましいジョージ・フィッシャーと赤ら顔の発車係が、いささか青ざめた顔をして入ってきた。二人は沈黙している連中を眺めまわしてから、椅子にかけておびえている男に目をやった。
「フィッシャー君」と警部が声をかけた、「この男を知っているかね?」
「ええ、知ってますとも」とフィッシャーが答えた、「先生方の一行にもぐりこんでいた二人のうちの一人ですよ」
ヴィラがうめいた、「バカ言うな! デッチあげだ!」
「だまってろ、ジョー。どっちの一人だね、フィッシャー君?」
フィッシャーは肩をすぼめた、「さあ、そいつはおぼえてませんね」彼はいかにも残念そうだった。
警部はバービイのほうにむきなおった。発車係はソワソワして、肉のたるんだ手でしきりと顎をたたいた。「君ならわかるはずだな、バービイ君。じっさいに、こいつと口をきいたんだからね。こいつは君に|わいろ《ヽヽヽ》をつかってバスに不正乗車した、二人のうちの一人だろうね?」
ヴィラは憎々しげに発車係をにらみつけた。バービイは口のなかでボソボソ言った、「ええ、まあ、そうだと思いますが」
「|思います《ヽヽヽヽ》? 君、そう|だった《ヽヽヽ》のか、そうじゃ|なかった《ヽヽヽヽ》のか?」
「は、はい、たしかに、そうでした」
「どっちの男だ?」
「二番目のほうで」
「じゃ、十九人目の男だわ!」と、ペイシェンスがロウ青年にささやいた。
「たしかだな? 間違いはないな?」
バービイがまえにとび出した。すると、だみ声のヴィラののどから、けたたましい叫びがあがった。一瞬、みんな、茫然と突っ立ったまま、取組みあう二人の男をながめるばかり。やがて警官が、ついでサムがとびこんで、二人を引き離した。
「どうしたんだ、バービイ」警部がハアハア息を切らせながら、どなった、「気でも狂ったのか? なにをしようってんだ?」
警官のコバーンは、コソドロのカラーをグイッとつかんで、三度ばかり強くねじあげた。男はゲエゲエ言うと、ぐったりしてしまった。バービイは、ヴィラの青白い左の手頸をつかみ上げた。黄褐色の皮膚がよじれた。
「この指環だ」バービイが重々しい口調で言った、「この指環ですよ」
ヴィラの左手の小指に、小粒のダイヤモンドをちりばめた、小さな馬蹄型の、風変りな白金の指環が光っていた。
ヴィラは乾いた唇をしめした、「わかったよ」と彼は嗄れ声で言った、「おれの負けだ。たしかにあれは、このおれさ」
十七 告発第二号
「よし」と警部が言った、「コバーン、はなしてやれ、こんどはドロを吐くだろう」
ヴィラは絶望的な眼つきで、あたりを見まわした。どの顔もきびしい表情だった。彼はぐったりしたようにうなずいた。
「そこに坐って楽にしな、ジョー」サムは警官に目くばせした。コバーンは男のうしろに椅子を押しやった。男はゆっくりと、ふかく腰をおろした。ほかの連中は、あいかわらずむずかしい顔をしたまま、椅子のまわりに集まって、男を見つめた。
「すると、おまえはバスに乗りこんだ十九人目の男ということになる」サム警部が、こんどはやさしい口調ではじめた。ヴィラは肩をすくめた、「おまえは、ここにいる発車係のバービイに五ドルやって、教師連中の仲間に入れてもらった、そうだな? いったい、なぜなんだ? なにが目的だったんだ?」
ヴィラは眼をしばたたくと、慎重に口をひらいた、「尾行していたんで」
「ほほう」と警部が言った、「そうだったのか! 青い帽子の男を|つけた《ヽヽヽ》ってわけだな?」
ヴィラはとびあがって驚いた、「いったい、どうしてまた――!」それから眼をふせると言った、「そうです」
「よし、ジョー、すべり出しはなかなかいいぞ。それから先はどうなんだ。その男をまえから知ってたのか?」
「ええ」
ペイシェンスは興奮して、思わずホッとため息をついた。ロウが彼女の手をギュッとにぎって、黙っているように合図した。
「おいおい、ジョー! わしは酔狂《すいきょう》で喋っているんじゃないんだぞ」
ヴィラは嗄れ声で喋りだした、「あっしは、その野郎を知ってまさあ、ふた月ばかりまえに、ちょっとした仕事で、百ドルくれたんで――」
「どんな仕事だ?」警部が間髪入れずにたずねた。
ヴィラは椅子のなかでモジモジした、「なに、ちょっとした、まあ仕事ですよ、なんでもねえんです」
サムはコソドロの肩をグイッとつかんだ。ヴィラは身じろぎひとつできなかった、「お手やわらかにたのみますよ」彼はいまにも泣き出しそうだった、「あっしは――あっしが喋ったら、帰してくれますか?」
「言っちまえよ、ジョー」
ヴィラは尖った顎を、けばけばしい色のネクタイの結び目におしあてて、口ごもりながら言った、「五番街の家でさあ、そこに忍びこんでね、本を盗んで来いって――」
と、そのとき、ドルリー・レーンの、よくとおるバリトンが、ヴィラのそむけた顔の上にひびいた、「だれの家で、どんな本だね?」
「サクソンとかって家で、本の名前は――」ヴィラは汚れた親指をロウ青年のほうにつき出した、「こちらの兄さんがさっき言った、それ、ジャグ――ジャグ――」
「ジャガードの一五九九年版かね?」
「そう、そいつでさあ」
「じゃ、この男なのね」とペイシェンスが叫んだ、「サクソン家の書庫に忍びこんで、|にせ《ヽヽ》のジャガードを盗んでいったのは!」
「らしいね」とゴードン・ロウがつぶやいた、「ぼくがあの晩追いかけたのは、おまえだったのか!」
「ひとつ、はっきりさせようじゃないか」と警部が言った、「ジョー、では、その青い帽子の男が――モジャモジャのひげもあったろうが?――おまえをやとって、二か月ばかりまえに、五番街のサクソン邸に忍びこませ、本を盗んで来させたってわけだな? 念のために聞くが、その本の題名はなんというんだ?」
「ええと」ヴィラはオデコに八の字をよせた、「なんとかの巡礼ってやつだったけど。なんだか――」男は唇をなめた、「エロ本みたいでしたよ」
ペイシェンスがクスクス笑った、「情熱の巡礼でしょ!」
「あ、そう、そいつでさあ!」
「それだけか、青帽子の男が盗んで来いと言ったのは?」
「ええ、やつは言いましたよ、『書庫に忍びこんだら、青い皮表紙の本を探すんだ。シェイクスピアって男の書いた[情熱の巡礼]って題の本で、中をあけると、ジャグ――いや、ジャガードが一五九九年に印刷したと書いてある』って、そう言ったんで」
「で、その仕事のために百ドルよこしたのか?」
「そのとおりでさあ、旦那」
「おまえは本を盗み出すと、そいつに渡したんだな?」
「まあね」とヴィラはつぶやくように言った、「やつに渡すまえにとっくり見ときましたよ。うす汚れたきたねえ本でしたっけ! 奴《やっこ》さん、やけにソワソワしてましたからね、あっしは一枚うわ手に出たんですよ。こんなきたねえ本をやつが欲しがるわけがねえ、なにかこの本の中に隠されてるにちげえねえってね。そう思ったもんだから、とっくりと、その本を調べてみたんでさあ。ところがね、なんにも入っちゃいねえ。おっと待った、それくらいのことでだまされるようなジョー・ヴィラさまじゃねえ。この本にはきっとなにか|いわく《ヽヽヽ》がある、あっしにはちゃんとわかってたから、それで――」
「わかった、わかった」と警部がひきとって言った、「つまり、こうだな、本をあけてみたがなにもなかった。だがおまえは考えた。ちょっと盗んだだけで百ドルもはずむんだから、きっとこの本には、金目《かねめ》のものが関係しているにちがいない、とな。そこでおまえは、例の青帽子のあとをつけたってわけだ!」
「こいつはもっと金になりそうだと思いましてね……それであとをつけたんですよ。あっしは|てめえ《ヽヽヽ》に言いきかせました、ここは一番、やつに勘づかれねえように、大きく眼を見はってることだってね。そうすりゃ、奴さんのお目当《めあて》からこちとらも旨《うま》い汁が吸えるだろうって。そしたら、あの日、奴さんがおかしな真似《まね》をするじゃありませんか。ここにいる発車係のおっさんに、やつが金を握らせるところを見たとき、あっしは|てめえ《ヽヽヽ》に言ってやりましたよ、『ジョー、仕事だぜ』ってね。で、あっしもやつの真似をして、あげくのはてにここまでやって来たら、やつがあの部屋のケースのガラスをこわしやがるんで――」
「なるほど」とレーンが口を出した、「やっと真相がつかめたようだ。それで?」
「やつはポケットから本を一冊ひっぱり出すと、ケースから取った青い本が置いてあったところに置いたんで。あっしは自分に言ってやりましたよ、『ジョー、おめえもなかなかやるじゃねえか、あの本はおめえがあいつから頼まれて盗みだしてやった本だ』ってね。で、奴さんの仕事が終ると、またあっしはあとをつけたんでさあ。ところが奴さん、ちょうど教師連中のなかに入っちまったんで、一、二分ばかり見失ってしまったんですよ。なんとかかき分けて出てきたら、もういねえって始末。しようがねえから、連中と一緒に帰ってきましたよ。それっきりでさあ、警部さん、ほんとですよ!」
「なにがそれっきりなんだ」サムは上機嫌だった、「まだあとをつけてるじゃないか、ジョー。なぜ嘘をつくんだ?」
ヴィラは小さな眼をふせた、「へえ、じつはそのあとで、やつの巣へ行ってみたんで。その辺をブラブラしてみたんですが、なんにもねえんですよ。そのあくる日もうろついてみたけれど、やっぱりだめなんで。だから今日、もう一度ここに来て、なにがあるのか、見てみようと思いましてね――」
「バカなやつだ! なにが見つかると思ったんだ?」可哀想に、この間抜けな、気のきかない男が、彼の単純な頭では考えもつかないような事件に、そうとは知らずまきこまれてしまったことはあきらかだった、「いいか、ジョー、おまえが青帽子の男を見失った日に、ここで警備員を見かけなかったか?」
「ええ、あっしはすぐそばを通りましたよ。どっかで見た野郎だと思ったけど、むこうじゃ気がつきませんでしたがね」
「それがドノヒューだ、元警官の。おまえはドノヒューが、青帽子を追いかけて行くのを見なかったか?」
と、ヴィラは喘《あえ》ぐように言った、「そうだ!見ましたよ! それであっしは、そのあとをつけられなかったんですよ! そのお雇《やと》いお巡《まわ》りが、眼をひからせていましたからね。でも、そのおかげで、二人とも見失ってしまったわけで」
「その日以後、おまえはドノヒューを見かけなかったかね?」と、レーンがゆっくりとした口調でたずねた。
「いっこうに」
「その青い帽子の男に、おまえはどんなきっかけで雇われるようになったのだね?」
「やつは――下町へ来て、あっしを探し出したんでさあ」
「友愛会推薦というわけだな」警部が間のぬけた皮肉を言った、「どうやら、ものになりそうだぞ! ジョー、やつはどこに住んでいるんだ? おまえは本を届けたんだろう、知らんとは言わせんぞ」
「それが町で会ったんですよ、旦那、嘘じゃねえ」
「ふむ、だがおまえは、あの日、やつをバスまでつけたはずだ。さ、どこに住んでいるんだ?」
「バス通りの家でさあ、警部さん、アーヴィングトンとタリータウンとの間のね」
「名前は知ってるか?」
「肩書はエールズ博士だって言ってました」
「エールズ博士だと?」サムはしずかに言った、「レーンさん、いよいよ運がむいてきましたな。みごとにつながりましたよ。エールズがこの男を使って、サクソン邸から本を盗み出し、それがにせものだとわかると、ここにあらわれて、ほんものとすりかえて行った……サクソン家を訪問して便箋をちょろまかし、わしのところに謎の封筒をあずけて行ったのもやつだ。これでいい! おい、小僧」警部はヴィラにむかって、おそろしい声で言った、「そのエールズ博士という男は、どんなやつだった? はっきり特徴を言え!」
と、ヴィラはだしぬけに椅子から立ちあがった。あたかもこの瞬間を、まえから待ちかまえていたかのようだった。そして、はじめから、この質問を待ち受け、獲物を狙う狼《おおかみ》のような残忍な期待に、胸をふくらませていたかのようだった。ヴィラの唇は歯ぐきまでめくれあがり、不潔な黒いしみのある黄色い歯をむき出しにした。その彼が、グルッとすばやくふり向いたので、ペイシェンスは小声でアッと叫び、警部は思わず一歩踏み出した。だが、ヴィラは、馬蹄型の指環が不気味に光る汚《きた》ならしい指を、肩ごしにグッとつき出しただけだった。
「特徴だって?」彼は金切声をあげた、「笑わせちゃいけないよ! こいつがエールズ博士だ! ちゃんと、ご本尊がいるじゃないか!」
ヴィラがはっきり指さしているのは、ハムネット・セドラーだった。
十八 喰いちがい
アロンゾ・チョート博士は、ひげのふさふさとした顎を胸もとにうずめたまま、はりさけるくらいにその眼を大きく見ひらいて、ジョー・ヴィラを見つめた。一瞬、セドラー博士は、眼をしばたたき、その顔からサッと血の気がひいた。無毛動物の脊柱のように、筋肉が、痩せこけた顎の線にそって、ピクリとしたのが見えた。
「なんということを」とセドラー博士は嗄れた声で言うと、ヴィラをにらみつけた、「貴様、自分でも真っ赤な嘘だとわかっているくせに!」
ヴィラの小さな眼がキラリと光った、「ヘッ、お高くとまるのはやめろよ、大将。おまえさんこそ、自分がおれを雇って、本を盗ませたって、百も承知のくせによ!」
ほんの束の間だったが、イギリス人は、この意地の悪いイタリア人の浅黒い顔を張りとばしたものかどうか、考えているようだった。だれひとり、口をきくものはいなかった。レーンにとっても、ペイシェンス、ロウ青年、いや警部にとってさえ、ヴィラの告発は、それほど強いショックではなかった。彼らはしずかに、ドラマのなりゆきを傍観していた。チョート博士だけが茫然自失といった体《てい》だった。
セドラー博士はホッとため息をついた。その痩せこけた頬に、血の気がもどってきた、「馬鹿気きったことですよ、むろん」彼は微笑をうかべて言った、「この男は気ちがいか、それともなにか|ふくむ《ヽヽヽ》ところがあって、わざと嘘をついているか、どちらかです」博士はそう言うと、みんなの顔を見まわした。彼の顔から微笑が消えた、「まさか」と博士は叫んだ、「まさか、この男の言葉を信じておられるんではないでしょうな?」
ヴィラはニヤニヤ笑った。いかにも確信ありげな様子。
「おとなしくしているんだ、小僧」と警部がおだやかにたしなめてから、「どうも妙な話なんですがね、セドラー博士、あなたがエールズ博士の名前を使ったということを聞いたのは、じつはこれがはじめてじゃないんですよ」
セドラーは身をかたくした、「これには罠《わな》があるらしいですな。チョート博士、あなたもご存じですか?」
館長は、ふるえる手で山羊ひげをいじくった、「い、いや……さっぱりわかりませんな。私にはまったくの初耳で――」
「それで、私がその――」イギリス人の眼がキラリと光った――「エールズ博士と名乗った、と言っている人間はだれなのです?」
「サクソン家の司書のクラブですよ、あの老人は、五月六日に、あなたがサクソン邸を訪問し、そのおりエールズ博士と名乗ったと言っています」
「なに、五月六日ですと?」セドラー博士は高飛車に言った、「まるで|たわごと《ヽヽヽヽ》ではありませんか、警部さん。ケンジントン博物館のもとの同僚に電報で問い合わせてもらえばすぐにわかることだが、五月六日には、私はロンドンにいたのですよ。事実、五月七日には、私の送別会に出ていたのですからね」
警部の、いんぎんに喰い下っていく目つきの底に、深い当惑の色がうかんだ、「ま、クラブ老人の言葉については、それくらいでいいでしょう」と、警部のうつろな眼に、突然、パッと光りがさした、「では、博物館で盗難のあった日はどうなんです?」
「こいつだって言ってるじゃないか!」ヴィラがいきりたって叫んだ。
「うるさいぞ、ジョー、黙ってろ」サムが叱りとばした、「さあ、博士?」
イギリス人は肩をすくめた、「どうもよくのみこめませんな、警部さん。あなたのご質問の意味がさっぱりわからない。言うまでもなく、この男がブリタニック博物館を荒した日には、私はまだ、はるか洋上にありましたがね」
「そのとおりなら申しぶんありませんがね、ところが事実はそうじゃない!」
チョート博士はハッと息をのんだ。セドラー博士は三度目のまたたきをした。彼の片眼鏡《モノクル》がはずれて、胸のところまで落ちた、「それはどういう意味です?」博士はゆっくりとたずねた。
「エールズ博士というのが、例のジャガードのケースを、五月二十七日――」
「なあんだ」とチョート博士が大声で言った、「それじゃ、まるで見当ちがいもはなはだしい。これ以上、セドラー博士をひどい目にあわせることはありませんな。博士がイギリスから乗ってきた船は、五月二十八日の真夜中まで入港しなかったし、ニューヨークの埠頭《ふとう》に着いたのは五月二十九日の朝なのですよ。したがって、原理的にいっても、博士が例のジャガードの一五九九年版の泥棒――いや、これは失礼――だなんてことは、あり得るわけがない」
セドラー博士はひとことも言わなかった。館長の熱心な弁護には、かすかな微笑で応え、眼はさぐるように警部の顔を見つめていた。
サムは顔をしかめた、「じつはそこなんですよ、チョート博士。それが真実なら、このわしもヴィラのズボンを蹴《け》ッとばして、ハイ、サヨウナラというところですが、しかし、事実はそうじゃないんです。セドラー博士は、その船に乗ってなかったのですよ!」
「なに、乗ってなかった!」館長は息をきらした、「セドラー博士、いったい――これは――」
イギリス人は肩をすくめ、いかにも疲れたといった目つきをした。が、いぜんとして、おし黙っている。
「それとも、乗っていたのですか、セドラー博士?」とサムがおだやかにたずねた。
セドラー博士はホッとため息をついた、「いや、無実の人間が、どんなぐあいに濡れ衣を着せられるものか、これでよくわかりましたよ……博士、たしかに私はその船に乗っていませんでした。それは警部さんの言われるとおりです。だが、いったいどうしてそれがわかったのです――」
「照会してみたんです。あなたは五月十七日の金曜日に、シリンシア号でイギリスを発った。そしてニューヨーク港には、五月二十二日の水曜日に着いたはずです。つまり、ご自分で言われた日より一週間も早くニューヨークに来ていたことになる。充分チャンスがあったというわけです!」
「わかりました」とイギリス人は呟くように言った、「まことに遺憾《いかん》なことですな。いや、みなさん、たしかにそのとおりです。私は公けに発表したよりも一週間早くニューヨークに着きました。しかし、それにしてもまだわからない――」
「いったい、なにが目当てなんだ? なんだって嘘なんかついたんだ?」
セドラー博士は苦笑した、「ずいぶん、乱暴な言葉をつかいますな、警部さん。私は自分が、あなたがたのよく言う『ピンチ』に立っていることはよく存じています」彼はいきなりチョート博士の机にもたれかかり、腕組みをした、「では、説明しましょう。チョート博士なら、私の釈明を聞いてくださると思います。じつを言うと、私は自分の用事で、ニューヨークに着いてから一週間使いたかったのです。到着したことを知らせれば、すぐにブリタニック博物館と連絡をとらなければならないでしょうし、そうすれば、私の行動に制約を受けると思ったのです。で、面倒な説明をするかわりに、実際よりも一週間遅く到着したとだけ言ったのですよ」
「なんのために、このニューヨークで一週間も必要だったんです?」
「警部さん、それは」セドラー博士は|いんぎん《ヽヽヽヽ》な微笑をうかべて言った、「お答えしたくありません。まったくの私事に関することですから」
「ふん」サムが鼻を鳴らした、「わしが思うに――」
と、ドルリー・レーンがおだやかに言った、「これこれ、警部さん、だれにでもプライバシーをまもる権利がありますよ。セドラー博士を問いつめてもしかたがありますまい。博士も、腑《ふ》におちない細かい点を説明なさったのだから――」
ジョー・ヴィラがパッととびあがった、その顔は激情にゆがんでいた、「それみろ! こんなもんだと思ってたんだ!」彼はさわぎたてた、「そうだろうとも、あんたがた、やつの言うことを信じるだろうさ! だがね、たしかに、おれを雇ってサクソンの仕事をやらせたのはそいつなんだし、あの日、おれが追いかけて、ここへ来たのも、やつなんだ! このまま、やつを見逃すんですかい?」
「まあ坐れよ、ジョー」警部はうんざりしたように言った、「結構です、博士。ただ、私だけは、まだ腑《ふ》におちんのですがね」
セドラー博士は、いささかこわばった表情でうなずいた、「きっといまに疑いを晴らしてみせますよ、そのときは、こちらからたっぷりお礼をさせてもらいますからな」博士は胸もとにブラ下っていた片眼鏡《モノクル》を眼にはめこみ、冷い視線でサムを見つめた。
「ちょっとおたずねしたいんですけど」あたりを支配している沈黙をやぶって、ペイシェンスが魅力的な声で言った、「セドラーさん、自分をエールズ博士と名乗っているひとをご存じでしょうか?」
「お嬢さん――」とレーンが言いかけた。
「なに、かまいませんよ」イギリス人が微笑して言った、「むろんお嬢さんにはたずねる権利があります。しかし、私には心当りがないですね。どこかで聞いたような気もしないではないが――」
「よく『ストラトフォード・クォータリー』誌に書いていた男ですよ」ロウ青年がだしぬけに言った。
「ああ、だからどこかで耳にしたような気がしたのですな」
「ところで」と館長がいらいらしたようにまえに踏み出した、「非難したり、責めあったりするのは、もうたくさんじゃありませんか。警部さん、こんな不愉快なことは水に流しましょう。このヴィラという男も告発する必要はないと思うが――」
「そう、ありませんとも」とセドラー博士が、おだやかに同意した、「べつに被害があったわけでもなし」
「ちょっと待ってください」と警官のコバーンが異議をとなえた、「私には義務があります。この男は窃盗の容疑者ですから、釈放するわけにはまいりません。それに、たったいま、サクソン邸に忍びこんだと自供したばかりですし……」
「ああ」とペイシェンスがロウ青年をふりかえって、ため息をついた、「またこんがらがってしまったわ。頭の中がグラグラするみたい」
「この事件にはすごく|うさんくさい《ヽヽヽヽヽヽ》ところがあるんだよ、パット」と青年がささやいた、「それにしても、どこかに小さな鍵があって、それさえ見つかれば、全部がいっぺんに解《と》けるような気がする――」
ジョー・ヴィラが音もなくスッと椅子から立ち上った。禿鷹のような頭を左右にふり、その小さな眼には暗い光りがあった。
「ところで――」とサム警部が、あたりをうかがうように切り出そうとした。
「警部さん、ちょっと」レーンがサムをわきにひっぱって行くと、しばらくのあいだ、二人はなにかヒソヒソと話しあっていた。警部はあいかわらず疑い深そうな表情だった。それから彼は肩をすくめると、警官のコバーンを手まねきした。警官はさも不本意そうに、やっとヴィラを手離し、二人のほうに近づいて、むずかしい顔をしながら、警部のだみ声に耳をかたむけた。ほかの連中は無言で、それを見ていた。
やっとのことでコバーンが言った、「では、わかりました、警部。しかし、私としてはやはり報告しなければなりませんが」
「それはそうだな。上司のほうは、わしがうまくやっとくよ」
コバーンは敬礼すると、部屋から出て行った。
ジョー・ヴィラはホッとため息をつき、テーブルにもたれかかった。サムは卓上に電話があるのに、それを無視して、外へ探しに行った。館長は、セドラー博士と小声で熱心に話しはじめた。ドルリー・レーンは、夢見るような眼差しで、チョート博士の部屋の壁にある古い肖像彫刻をながめていた。ペイシェンスとロウは肩をすりよせたまま、だまって立っていた。そのひとりひとりが、なにか起こるのを待ちかまえているかのようだった。
と、警部がドタバタと足音をたててもどってきた。「ヴィラ」と彼は簡単に声をかけた、コソドロはキッと身をかたくした、「いい子だ、いっしょにおいで」
「どこへ――どこへあっしを連れて行こうってんで?」
「なあに、すぐわかるさ」学者たちは話をやめると、警部の顔を、気づかわしげな厳粛な目つきでながめた。「セドラー博士、あなたはここに残りますか?」
「なんのことです?」イギリス人は驚いて問い返した。
「これからエールズ博士の家まで、散歩に行こうと思いましてね」警部は皮肉な笑いを浮かべて言った、「あなたも同行なさりたいのじゃないかと思いましてね」
「へーえ」ヴィラが嗄れた声をだした。
セドラー博士は眉をひそめた、「どうもよくのみこめないが」
「セドラー博士と私は、今日これから、やらなければならない仕事がたくさんあるのです」とチョート博士がひややかに言った。
「いや、そうでしょうとも」レーンがいきなり前にすすみ出た、「警部さん、ちょっと。こんな嫌な出来事のあとで、セドラー博士が、われわれアメリカ人の応対ぶりをどうお考えになるか、思っただけでもゾッとしますよ。ところで博士、もしなにか、その――緊急の場合、連絡の必要があるわけですが、どこにご滞在です?」
「セネカ・ホテルです」
「ありがとう。さ、行きましょう、警部さん。お嬢さん、ロウ君、君たち二人をここに置いていくわけにはいかないしね」老優はクスクス笑った、「とかく若いひとは、なんでも知りたがるものでね」レーンは悲しげに頭をふると、ドアのほうに足をはこんだ。
十九 謎の家
色の浅黒いイタリア人がぶっきら棒に指図するままに、運転手のドロミオは、アーヴィングトンとタリータウンのあいだで、黒塗りのリンカーンを大通りから狭い道路に乗り入れた。木立ちのおおいかぶさった、ほんの砂利道だった。雑沓をきわめていたコンクリートの世界から、いきなり静寂な荒野にとびこんだようなものだった。小鳥や虫たちが、頭上や両側の木々のしげみをふるわせていた。人間の気配はどこにもなかった。道は、まるで生きもののように、緑の木立ちのあいだをまがりくねっている。
「まちがいなくこの道だろうな?」サム警部がいらだってたずねた。
ヴィラは油断なくうなずいてみせた、「あっしはちゃんとおぼえてまさあ」
車は、どこまでつづくとも知れぬ林を進んでいった。一行の顔は心もち青ざめ、だれひとり口をきくものもなかった。ついにエールズ博士をつきとめたのだ! この数週間、悩まされどうしだった謎の霧が晴れていく思いだった。彼らは、とび去って行く木々を、車の窓からじっと見まもった。
と、なんの前ぶれもなしに、木立ちが消えて、もう一本の道があらわれた。大通りから曲って一マイル目に、はじめて出くわした道だった。それは粗末なドライヴ・ウェイで、蛇のようにクネクネと左のほうにわかれ、うすよごれた灌木《かんぼく》のしげみをぬって、五十ヤードほど先の、家らしきものに通じていた。いまにもくずれ落ちそうな、つぎはぎだらけの破風屋根が、木立ちのあいだに見える。
「ここを曲るんだ」とヴィラが言った、「この道だ。じゃ、あっしはこれで――?」
「じっとしてろ」警部がこわい顔をした、それから、車をとめて命令を待っているドロミオに、「ソッとやってくれたまえ」と言った、「おどかして逃げられちゃまずいからな。みんな静かに」
ドロミオは車を狭い側道に入れると、まるで羽根でも扱うみたいに、ソッと車を動かした。這うように車は進んで行く。道はいくらか広くなった。やがて、古びた木造家屋のまえのちいさな空地《あきち》にたどりついた。その家は、長年の風雨にさらされ、古い家々のなかでも、おじいさん格といったところだった。建てた当時は、疑いもなくまっ白だったにちがいないペンキも、いまは汚れた黄灰色に変りはてている。壁板はささくれだち、ジャガイモの皮をむいたように、みっともない外観を呈していた。家の正面にはちいさなポーチがあり、木の階段がそれに通じているが、その階段とてガタガタにたるんでいた。手前にある窓は、いずれもしっかりと閉ざされており、こればかりはいかにも頑丈そうに見える。両側の木々は壁をなめんばかり、左側には古い薪小屋《まきごや》が家のほうにかしいでいた。その小屋から十フィートとはなれていないところに、くずれかかった平屋《ひらや》の小さな建物があった。どうやらガレージらしいが、二枚の扉はしまっている。家とガレージから電話線と電線がのびていて、まるで謎のように、むこうの荒野に消えていた。
「まあ、すばらしい廃墟!」とペイシェンスが叫んだ。
「シッ!」と、警部がきびしく制した、「よかろう、ドロミオ。みんな、車の中で待っててください、わしはひとまわり様子を見てくるから。おかしな気を起こすんじゃないぞ、ジョー。おとなしくしてれば、悪いようにはしないからな」
警部はヒラリと車からとびおり、空地を横切ると、その大きな図体にしてはおどろくべき身軽さで、ポーチの階段をのぼっていった。玄関のドアは、壁とおなじようにペンキこそボロボロになっていたが、作りつけはがっしりしていた。ドアのわきにベルの押しボタンがついている。警部はベルには手を触れず、ポーチのあたりを探って、玄関の上の窓から中をのぞきこもうとした。だが、鎧戸《よろいど》がキッチリしまっていて覗《のぞ》けない。サムは足音をしのばせて階段をおり、家の左側にまわった。と、その三分後には、右側から現われた。警部は頭をふっていた。
「こいつは空家らしいな、よし、ためしてやろう」彼は足音荒くポーチにあがると、ベルのボタンを押した。
と、とたんに――あまりにも早いところを見ると、どこか節穴からでも覗いていたにちがいない――ドアがあいて、男が出てきた。そのドアの上端には、すこしでも動くと、カランカランと鳴るゼンマイ仕掛けの古風な装置がついていた。男は背の高い、痩せた老人で、粗衣をまとい、いかにも血色の悪い、しわくちゃでアバタだらけの顔をしている。老人は、どんよりした灰色の眼でチラッと警部の顔を見てから、陽ざしをすかして車をながめ、ふたたび警部に視線をもどした。
「なにか、ご用で?」老人はキンキンした声で言った。
「こちらはエールズ博士のお宅ですか?」
老人は熱心にうなずいた。とたんに、生き返ったような感じだった。老人はニッコリ笑うと、会釈した、「はい、そうですとも! では、なにか、あの方からのお話でも? じつは、そろそろ気になりはじめていたところなんですよ――」
「ほほう」と警部は言った、「なるほど。いや、ちょっと待ってください」サムはポーチの端まで行って、いかつい口調でどなった、「みんな、上ってきたほうがよさそうだぞ。どうも話が長くなりそうだ」
*
痩せた老人は、狭い廊下を通って、一行をちいさい客間に案内した。家の中は暗くさむざむとしていた。客間には、がっしりした作りの、時代がかって黒光りのした家具や、古い敷物、それからこれも古いカーテンがしつらえてあった。冷たい穴ぐらなどでよく感じる、あのカビくさい臭いが鼻をついた。老人がいそいで鎧戸をおしあけ、ブラインドをあげて、陽の光りを入れたところを見ると、部屋はいかにもみすぼらしく、居心地が悪そうだった。
「まず、おたずねしたいのは」と警部がいんぎんに口をひらいた、「あなたはだれかということですが」
老人はさも愉快そうに微笑した、「私は、マックスウェルと申します。エールズ博士の身のまわりのお世話をしていますので。食事、洗濯、薪割り、タリータウンでの買物――」
「すると、なんでも屋というわけですね? 召使いはあなたひとり?」
「はい」
「エールズ博士はご不在なのですな?」
と、マックスウェルの表情が愛想笑いから警戒の色に変った、「私は――では、ご存じなかったんで? あなたがたのほうで旦那さまの消息を教えてくださるかと思ってましたのに」
「やっぱりそうだわ」とペイシェンスがため息まじりに言った、「困ったわね。レーンさん、あなたのおっしゃったとおりですわ。きっと博士の身になにか起こったんです」
「おだまり、パット」と警部がたしなめた、「マックスウェルさん、わしらは情報をあつめているんだが、どうしても博士の居所をつきとめなくてはならんのです。いつ――」
マックスウェルのどんよりした眼に、疑惑の雲がかかった、「あなたがたは、いったい、どなたなんで?」
警部は、光った盾のバッジをチラッと見せた。それはサムが退官するとき、返却するのを怠った古い警官のバッジだった。彼はときどき、権威を示す必要を感じたとき、それをチラッと相手に見せることにしていた。マックスウェルはひるんだ、「警察の旦那で!」
「わしの質問に答えてもらいたい」サムはきびしい声で言った、「エールズ博士が最後に家にいたのはいつだね?」
「ほんとに来ていただいて、私はホッとしました」マックスウェルは口ごもるように言った、「とても心配していたのですよ。どうしていいか、皆目《かいもく》見当がつきませんので。旦那さまはちょくちょく短い旅行にはお出かけになりますが、こんな長いのははじめてで」
「長いといって、どのくらいなんだね?」
「ええと、今日は六月二十二日ですね。そう、かれこれ、もう三週間以上になりますよ。あれは五月二十七日でした、そうです、五月二十七日の月曜日に、旦那さまはお出かけになったので」
「博物館で盗難事件のあった日だ」とサムがつぶやいた。
「そら、あっしの言ったとおりでしょう?」とジョー・ヴィラが大声を出した。
ドルリー・レーンは、その室内をぐるりとひとまわりした。マックスウェルが心配そうな顔をして、その姿をながめた、「マックスウェルさん」と老優がゆっくりした口調で言った、「五月二十七日に、ここでどんなことがあったか、話してくれませんか。きっと面白い話が聞けると思うのだが」
「そうですね、旦那さまは朝早くお出かけになりましたよ。お帰りになったのは午後おそく、夕方近くなってからでした。旦那さまは――」
「どんな様子でした?」ロウ青年がたたみこむように質問した、「興奮してましたか?」
「はい、まったくそのとおりで! 興奮なさってましたよ、ふだんの旦那さまはたいへん落着いておいでで、けっして、その――顔の色にも出さないような方でして」
「博士が帰宅したとき、なにか持ってませんでしたか?」ロウの眼がかがやいた。
「はい、お見うけしたところ、本のようなものを。でも、朝お出かけのときも、おなじ本をお持ちでしたから――」
「それがおなじ本だと、どうしてわかったんです?」
マックスウェルは顎をなでた、「とにかく、おなじ本に見えたものですからね」
老優がおだやかに言った、「いや、ピタリと符合しますね。エールズ博士は月曜日の朝、ジャガードの一六〇六年版をもって、この家を出た。そしてブリタニック博物館で一五九九年版とすりかえる、それから帰宅する。ふむ……つづけてください、マックスウェルさん、それから?」
「はい、旦那さまは家にお入りになるなり、私にこうおっしゃいました、『マックスウェル、今夜は、もう用がないから、帰って泊ってきていいよ』そう言われたので、私は夕食の仕度がととのっているのをたしかめてから、失礼しました。小道を歩いて大通りまで行き、そこからバスに乗ってタリータウンにまいったのです。私は家族といっしょにそこに住んでおりますんで」
「それで全部かね?」サムがさも不平そうにたずねた。
老人は恐縮そうな顔をした、「はい、私は――ああ、そうだ! そういえば、私が出て行くまえに、旦那さまは、玄関に包みを置いておくから、明朝、それを送ってくれとおっしゃいましたっけ。そして、郵送では困る、火曜日の朝、おまえがもどってきたら、自分でその包みをタリータウンまで持って行っておくれ、そこで使いのものに、その包みを頼むのだ、と言われましてね。で、私が火曜日の朝、ここに帰ってみますと、案の定、旦那さまの|かげ《ヽヽ》はなく包みだけが玄関のところに置いてありました。そこで私は、その包みをタリータウンまで持って行って、使いのものに、届けさせたわけで」
「どんな包みだったね?」とレーンがするどくたずねた。
マックスウェルはキョトンとした顔をして、「どんなって、あたりまえの、平べったい――」
「中身は本のような感じだったかね?」
「はい、そのとおりで! たしかにそんな恰好《かっこう》でした、本にまちがいありません」
「とにかく、ひとつずつ片づけていこうじゃないですか」と警部がうなり声をあげた、「エールズが月曜日の夜帰宅したとき、彼はひとりだったかね? だれか外でウロウロしているのを見かけなかったか?」
「いいえ、おひとりでした」
「がっしりした中年のアイルランド人で、赤ら顔の醜男《ぶおとこ》がうろついていなかったかね?」
「いいえ」
「変だな。奴さん、どうなっちまったんだろう」
「ね、いいこと、パパ」とペイシェンスが口を出した、「マックスウェルさんはエールズ博士が帰宅すると、いれちがいに出かけたのよ。ドノヒューは、どこか草むらの蔭にでも隠れていて、マックスウェルさんが出て行くのを見とどけ、それから――」
「それから?」
ペイシェンスはため息をついた、「それはあたしのほうがききたいくらいよ」
「包みの宛名はおぼえてますか?」ロウ青年がたずねた。
「はい、おぼえております。こちらの方《かた》が」と言いながら、老人は灰色のふさふさした髪をレーンのほうにむけた、「さきほどおっしゃいましたよ。ブリタニック博物館で、ニューヨーク市、五番街六十五丁目の」
「茶色の包み紙で、宛名は青インクで書いてありましたか?」
「はい、そのとおりで」
「さてと」とサム警部が言った、「だいぶ、はっきりしてきたぞ。青帽子の男がエールズだということは、もう疑問の余地なしだね。やつが例の本を盗んで、かわりに一六〇六年版を置いて行き、翌日、使いの者に、一五九九年版を博物館に届けさせたんだ」
「そいつだ、間違いないとも」ヴィラがいかにも小気味よさそうに白い歯をむき出して言った。
「そうだね」レーンが口のなかでつぶやくように言った、その額にはふかい皺がきざまれた、「ところでマックスウェルさん、二か月ばかりまえに、おなじような包みを郵送したおぼえはありませんか」
警部が言った『盗み』という言葉が、マックスウェル老人をすっかり動揺させてしまった。老人はソワソワしながら、「べつに私は――あの」とビクビクして言った、「悪いことはいたしませんが。まさかそんなこととは――どう見ても旦那さまはいつも紳士的な方《かた》ですし――はい、たしかに送ったことがございます。以前にもおなじような包みを郵送いたしました。宛名は、サクソン家気付で、クラブとかいうひとで、住所は五番街――」
「見間違いはないだろうね?」と警部がぶっきら棒に言った、「ジョー、よかったな。全部符合する」
「なんということだ」とロウ青年がつぶやいた、「あらゆることがエールズ博士を中心にして廻っているみたいじゃないか。ブリタニック博物館の盗難事件の中心人物であるばかりか、サクソン邸の夜盗まで、この男が操っていたわけですからね。いったい、あの本には、なにが入っていたんだろう?」
ジョー・ヴィラは痩せた背をまるめ、ビーズ玉のような黒い眼をらんらんと光らせた、が、警部が自分を見ているのに気づくと、ことさら、くつろいだふうをして見せた、「ジョー、おとなしくしていたほうが、身のためだぞ」と警部がおだやかに言った、「ときにマックスウェルさん、あんたはこの家の召使いになって、どのくらいになるね?」
マックスウェルは皺だらけの唇をなめた、「ちょうど三か月ぐらいになります。旦那さまがタリータウンに見えたのも、三月のおわりでした、『タリータウン・タイムズ』紙に、召使いの募集広告をお出しになったので。で、私が応募して、雇われました。どうして旦那さまがこちらに来た時期まで私が知っているのかと申しますと、ジム・ブラウニングという、タリータウンでこの家の周旋をした男が、私の友人でして、その男から聞いたというわけなのです。エールズ博士は、この家が気に入って、現金で六か月分の前家賃を払い、契約書なしの、信用調査、身許調査もいっさいなしといった調子で、この家を借りたのです。ま、そんなやり方が当世風だと、ジムは言ってました……そんなわけで、私どもはこの家へ移りましたので。旦那さまは――ほんとに、いつもよくしてくださいましたがね」
「なんの調査もなしでですって?」ペイシェンスがきびしい口調で言った、「ずいぶんロマンチックね! このつぎは、博士がツリンギアのフィデリオ王子で、合衆国をお忍び旅行なんてことになるわよ――ところで、マックスウェルさん、あなたの素敵なご主人のところに、たくさんお客さまがありまして?」
「いいえ、お嬢さま、ただのひとりも――あ、いや、そうじゃない、ひとりございます」
「ほう」とレーンがやさしい声で言った、「それはいつです?」
マックスウェルは眉をしかめた、「旦那さまが旅行に行かれる一週間ほどまえのことでした――はっきりした日《ひ》にちは覚えておりませんが。男の方で、たいへんな厚着をしているうえに、夜だったものですから、その顔もよく分らないくらいでした。その男は、自分の名前を告げようともせず、ただ、エールズ博士に面会したいの一点ばりで。そこで、お客さまを客間に通してありますと、旦那さまに私がお伝えしたところ、旦那さまはたいそう驚かれ、はじめのうちは会おうとなさいませんでした。それからやっと旦那さまは腰をあげると、しばらく客間で、その男となにか話しておいででした。やがて旦那さまは、男を客間に残して出てこられると――旦那さまは興奮なさっていたようでした――私にむかって、今夜はおまえに暇をやるよ、とおっしゃるではありませんか。そこで私は出かけ、その翌朝もどってまいりますと、もう昨夜の男はおりませんでしたので」
「博士は、その男のことで、なにかあなたに話しませんでしたか、マックスウェルさん? あとになってからでも、その男のことについて、博士がなにか言ったことは?」
「この私にですか?」マックスウェルはクスクス笑いながら言った、「いいえ、ひと言《こと》も」
「いったい、その男は何者だったんだろう?」と警部がつぶやいた、「まさか、こいつじゃなかったでしょうな、マックスウェルさん?」そう言うと、ごつい手をヴィラの肩にのせた。
マックスウェルは眼を見はった、それから大声で笑い出した、「とんでもない、ちがいますよ。このひとみたいな、そんな口のきき方はしませんでしたからね。その男は、エールズ博士とおなじような喋り方で、そうですね――どこか役者みたいな」
「役者!」こんどはドルリー・レーンがびっくりし、眼を見はった。それから、さも愉快そうに声をたてて笑った、「なるほどね、つまり、あなたの言うのは、その男がイギリス人みたいだった、というのではありませんかな?」
「イギリス人――あ、そうです!」マックスウェルは上気して言った、「旦那さまもその男も、そんな喋り方でした」
「ほんとに妙だわ」とペイシェンスがつぶやいた、「その男、いったい、だれなのかしら?」
ゴードン・ロウがけわしく眉をよせた、「ねえ、ちょっと、二十七日の午後、エールズ博士があなたに包みを送り届けるように言ったとき、自分の外出のことについては、一言《ひとこと》も博士は言わなかったんですか?」
「はい、一言《ひとこと》も」
「では、翌朝、あなたがこの家にもどって来たとき、玄関に包みだけ置いてあって、博士はもう外出したあとだったわけですが、なにか紙きれにでも、行先が書いてなかったのですか?」
「はい、なにも。べつに私は、気にもしませんでした。もっとも日がたつにつれて、旦那さまがいつまでもお帰りにならないものですから――」
「これでわかったわけですね、警部さん」と老優が言った、「グレーソンのよこした失踪人のリストに見つからなかったわけが。マックスウェルさんが、ただちにエールズ博士の失踪を届け出ていれば、手がかりをつかむことができたのに、不運でしたね!」レーンは肩をすくめた、「いまさら、もう遅すぎる」
「すると旦那さまは、あの――いなくなったんですか」マックスウェルが口ごもりながらたずねた。
「そうらしいね」
「では、この私はどうしたらいいのでしょう?」老人は手をよじりながら言った、「この家と家具と――」
「あ、そうだ」とサム警部が言った、「家具だ。エールズがこの家を借りたとき、家具はついてたのかね?」
「いいえ、旦那さまは、タリータウンの古道具屋でお買いになったので」
「百ドル紙幣をまき散らすやつにしちゃ、似つかわしくないな」とサムがひとり言《ごと》のように言った、「要するに、やつは長く住む気はなかったってわけだ」警部の灰色の眼が、さぐるようにじっとマックスウェルの顔を見つめた、「あんたの主人の様子はどんなだったかね? あんたなら、詳しく特徴を話してもらえると思うが」
「そうですね、背の高い、痩せぎすの――」マックスウェルは顎に手をやった、「そうだ、写真が撮ってございますよ、ほんのスナップですがね。私は写真道楽でして、いつだったか、旦那さまが知らないあいだに、ソッと撮ったんですが――」
「そいつはすごい!」とロウ青年が叫んだ、「写真か!」いままで居心地悪そうに坐っていたバス織りの椅子から、青年はパッととびあがった、「見せてください、さ、頼みますよ!」
マックスウェルが奥のほうに行っているあいだ、彼らはたがいに顔を見あわせた。カビくさい匂いがひときわ強く鼻をつく。ヴィラは、うす黒い、ナイフのような小鼻をピクピクさせると、だしぬけに、タバコに火をつけた。レーンは手をうしろにゆるく組んで、ゆっくりと部屋のなかを歩きまわった。
「スナップ写真ね」ペイシェンスがつぶやいた、「ねえ――どう! とうとう、あの厄介な謎がとけるのよ……」
痩せた老召使いが、その手に小さな写真をもって、せかせかと部屋にもどって来た。サム警部はそれをひったくるなり、あかるいところで見た。喰い入るような目つきで見つめたとたん、警部は驚きの声をあげた。ほかの連中が、彼のまわりに集まった。
「ヘッ!」ヴィラが金切声で叫んだ、「あっしの言ったとおりじゃないか?」
そこに写っているのは、見なれない型の黒い服を着た、背の高い、痩せた中年の男だった。ピントのあった、はっきり撮れている写真。
もう疑いの余地はまったくなかった。片眼鏡《モノクル》こそかけていないが、それはまさしくハムネット・セドラー博士だった。
*
「これであっしの身は青天白日さ」とヴィラが上機嫌で言った、そして残酷な満足感を味わいながら、タバコをふかく吸いこんだ。
「とんでもない嘘つき野郎だ」とゴードン・ロウが熱のこもったひくい声で言って、グッと顎をひきしめた、「畜生、やっぱり嘘をついてたんだ! あの人殺し野郎に、この腕をピストルで射たれた仕返しを、かならずしてやるぞ――」
「まあまあ」とレーンがなだめた、「落着きたまえ、ロウ君。なにもセドラー博士だという確証を握ったわけではないのだから」
「だって、レーンさん」とペイシェンスがかん高い声をはりあげた、「この写真という、|れっき《ヽヽヽ》とした証拠があるじゃありません?」
「打つ手は一つだ」と警部がつぶやいた、「奴に手錠をかけて、ドロを吐かせるんだ」
「すると、ひとりのイギリス市民を強圧するわけですな、警部さん?」と老優がひややかにききかえした、「どうか、くどいようだが、みんな冷静に考えてみてください。理論的に説明のつかないことが、まだまだたくさんあるではありませんか。私の意見をすこしでも尊重してくださるなら、行動はできるだけ慎重にしてもらいたいですね」
「しかし――」
「いずれにせよ」とレーンはしずかに言葉をつづけた、「打つべき手はまだあります。ひとつ、この家を隅から隅まで調べてみようではありませんか。なにか出てくるかもしれません」そう言うと、老優はクスリと笑った。マックスウェルはあっけにとられて、ポカンと口をあけたまま、一同の顔をつぎからつぎへとながめている。
「ベッドフォードがオルレアンで言ったように、『招かれざる客は辞したる後に最も歓迎される』というわけです――これも、われらが沈黙の詩人シェイクスピアの名文句ですね、ロウ君……ま、そんなわけですから、マックスウェルさん、どうか案内してください、できるだけ早く、こんな迷惑な訪問は切り上げますからね!」と、レーンが言った。
二十 つけひげと文字謎
マックスウェル老人は、重い足をひきずりながら、一同をカビくさい小さなホールに案内した。そこからさらに数歩右に入ってから、左にまがり、腐りかかった木の階段ののぼり口のまえを通った。その階段には粗末な絨氈《じゅうたん》が敷いてあり、二階の寝室に通じているらしかった。老召使いは石段を二段おりると、壁のくぼみにある、大きな樫の扉のまえに立った。扉はしまっていた。老人はそれを開くと、わきに寄って言った、「旦那さまは、いつもここでお仕事をなさっていましたので」
中はひろびろとした書斎で、天井《てんじょう》から床まで黒い樫の木でできており、ぐるりには書棚がつくりつけになっている。しかし大部分は空っぽで、下の方の棚に、数えられるほどの書籍がまばらに入れてあるだけだった。
「この書斎の模様から推すと」ゴードン・ロウが口をひらいた、「この家は、一時的な隠れ家としか考えていなかったようですね」
「そうらしいね」とレーンがつぶやいた。
天井は低く、ひどい色彩の古風なガラスのシャンデリアが、書斎のまん中にある、いたんだ机の上にぶらさがっている。奥の壁には暖炉があって、その上に、厚い樫の一枚板で作った頑丈な飾り棚がついている。黒ずんだ炉格子の中には、燃えのこりの薪や灰が残っている。机の上には、古びた鵞ペンや黒インクの瓶《びん》、度の強い読書用眼鏡、その他こまごましたものがのっている。
と、警部とペイシェンスが同時にアッと叫び声をあげるなり、机の上にかがみこんだ。
「なんです?」ロウも叫んで、まえにとび出した。
机の上には灰皿が置いてあった。ごくつまらない、縁《ふち》の欠けた色つきの陶器で、とてつもなく、豊満な肉づきの人魚が、歯をむき出した醜い小さなイルカの群れに取りまかれている絵が焼きつけてあった。その皿の中に、灰白色の陶器のかけらが五つあった。大きな二つは中がへこんで、彎曲した表面には焦げたあとが残っている。かけらの下には、乾いたパイプタバコのかたまりやかすがあった。
「こいつは安物の陶製パイプのかけらじゃありませんか」とロウがいささかとまどって言った、「なんで、こんなものに大騒ぎするんです?」
「ドノヒューのだよ」と警部がつぶやいた。
ペイシェンスの青い瞳がキラキラ輝いた、「これがなによりの証拠だわ!」と彼女は叫んだ、「ドノヒューはいつも陶器のパイプでタバコをすっていたのよ、ゴードン。あの日、ドノヒューは博物館からエールズ博士のあとをつけてきたのにちがいないわ。これは、彼がこの家に来たという絶対的な証拠なのよ!」
「マックスウェルさん」と警部があらあらしく言った、「ここのところ、がっしりしたアイルランド人など、この辺に来たことはないと、あんた、言ったっけね。じゃ、このパイプは、どうしてここにあるんだ?」
「私にはいっこうわかりませんです。旦那さまがお出かけになった日からというもの、私はこの部屋に、ずっと入っていませんので。あの朝、私が包みを送るまえに、机の前の床の上に、このかけらが落ちているのを見つけたもんですから、灰皿の中に入れといたんですよ」
レーンがため息をついた、「その前の晩、エールズ博士があなたを家に帰したとき、そのかけらがあったかどうか、気がつきませんでしたか?」
「ございませんでした、それはたしかで」
「エールズ博士は陶器のパイプを使いますか?」
「旦那さまはぜんぜんタバコなどお吸いになりませんです。灰皿は、ここに引越してまいりましたとき、薪小屋のガラクタの中にあるのを見つけて、もって来ましたので」マックスウェルは眼をしばたたいた、「私もタバコはやりませんですよ」その声はふるえていた。
「どうです、警部さん」老優が疲れたような声で言った、「十中八九まで、どうやら事件は組み立てられそうですよ。いいですか、二十七日の夜、エールズ博士がマックスウェルに暇をやったあと、それまで街からずっとエールズを尾行してきて、外のしげみに身をひそめていたドノヒューが、この家のなかに入ってくる。そして彼は、この部屋でエールズと対面する。そこまではまず、間違いない。それから先に、なにが起こったかは、推測の域を出ませんがね」
「なるほど、うまい推理ですな」サムは苦い顔をして言った、「どれ、もっと家探しをして証拠を見つけるか」
*
一同は、ギシギシきしむ階段をのぼると、ドアのならんでいる狭い廊下に出た。端から順ぐりに、彼らは部屋を調べた。はじめの二つは空《から》で、蜘蛛《くも》の巣だらけだった。どうやらマックスウェルは、ゆきとどいた召使いとは言いかねるようだ。そのつぎは、マックスウェル自身の部屋だった。鉄のベッド、古風な洗面台、椅子、古道具屋の物置から引っぱり出してきたような整理|箪笥《だんす》、といったもののほかには、なにもなかった。四番目の部屋がエールズ博士の寝室だった――狭く、こことてマックスウェルの部屋同様、殺風景でうす汚なかった、ただちがうところといえば、ほんのわずか余計に、|はたき《ヽヽヽ》の跡が見えるくらいのもの。古びたベッドは、きずだらけだが、固いクルミの木でできており、きちんと整頓してあった。
ペイシェンスは、女性の眼で、そのベッドを点検した、「あなたが、寝具をきちんとなおしたの?」と、するどくたずねた。
「はい、さようでございます。最後になおしたのは」マックスウェルはゴクリと唾をのんだ、「二十七日の朝で――」
「なに? それはどうしたわけだ?」とレーンが言った、「二十八日の朝、あなたがこの家に帰ってきたとき、エールズ博士はもう出かけたあとで、包みが階下の玄関にあったわけだが、そのとき、博士のベッドは乱れていなかったのですか?」
「はい、きちんとしておりました。それで私は、旦那さまは前の晩、つまり、私をタリータウンヘ帰したその晩のうちに、お出かけになったのだとわかったのです。なにせ、火曜日の朝、私が来てみますと、旦那さまのベッドには、おやすみになった形跡がございませんでしたからね」
「なんだって、そのことを、もっと早く言わなかったんだ?」サム警部が怒鳴った、「重大なことなんだぞ。ここで、月曜日の晩に、なにが起こったにしろだ、それはエールズが寝る前に起こったということなんだ。つまりだな、セドラーが寝る前ってことになる」
「まあまあ、警部さん」レーンが微笑した、「そう混み入らせないほうがいいですよ。いまのところは、まあ、失踪したここの主人はエールズ博士ということにしておきましょう……エールズ博士ですよ」老優は、また妙な微笑をうかべた、「ほんとうにおかしな名前ですね、え? どなたか、変だとは思いませんか?」
すると、衣装箪笥の中をかきまわしていたゴードン・ロウがからだをのばした、「いや、ぼくにはまさしく変ですね」と、彼はするどい口調で言った、「この無知な世界に、意味や型といったものがあるとすれば、その変なところを追究していくと、警部さんの意見が正しく、あなたの意見は間違ってる、ということになりますね、レーンさん!」
「これは参った、ロウ君」レーンはあいかわらず妙な微笑をうかべながら言った、「いや、君の、その猟犬のような追究にかかっては、どうあがいても見破られてしまうものと思っていましたよ」
「いったい、なんのことですの?」とペイシェンスが叫んだ。
「なにが見破られるんです?」苛ら立った警部が、顔をまっ赤にして怒鳴った。
ジョー・ヴィラはうんざりしたように、たった一つしかない椅子に、ドサリと坐りこんだ。その姿は、気違いどもの道化芝居は、もう見るのもご免、とでも言っているみたいだった。召使いのマックスウェルといえば、これはまたバカみたいに、口を半分あけたまま、みんなの顔を見ている。
「つまりですね」ロウが早口に言った、「エールズ博士(Dr・Ales)という名前は六つの特別な文字からできているのです。ひとつ、そのことを、考えてみてください」
「文字をね?」ペイシェンスがぼんやりとくり返した、「A―l―e―s……ああ、ゴードン、とても駄目!」
「ふーん」警部は口をモグモグさせた、「A―l―e―s……」
「いや、エールズではありません」とレーンが言った、「ドクター・エールズ(D―r―a―l―e―s)ですよ」
「ドレールズ?」ペイシェンスが眉をひそめた。
ロウは妙な顔をして、レーンをチラッと見た、「あなたにはおわかりでしたね! ねえ、ペイシェンス、『エールズ博士』という名前は、天下一品の文字謎《アナグラム》なんだよ」
ペイシェンスは眼を大きく見ひらいた、それから、すこし青ざめた、彼女はある名前を口ずさんだ。
「そうなんだよ。『エールズ博士(Dr・Ales)』という名前は、つづりの順序を変えるだけで、簡単にもとの名前にもどせるんだ……『セドラー(Sedler)』という名前にね」
「まさにそのとおり」と老優がつぶやいた。
*
一瞬、沈黙があたりを支配した。やがてロウが、しずかに衣装箪笥に注意をもどした。
「ホウ!」と警部が大声を出した、「君もそれほどとんまではないんだな! ねえ、レーンさん、あなたもしらばっくれないでくださいよ」
「べつにしらばっくれるほどのことではありませんよ」レーンは笑った、「いや、私もまったくロウ君の説に賛成ですね。『エールズ博士』などと、偶然にしてはあまりにも|でき《ヽヽ》すぎていますよ。意識的に名前を作ったものにちがいありません。だが、いったい、なにを意識したのか、どんな|いわれ《ヽヽヽ》があるのか、なんの目的でそんなことをしたのか……」老優は肩をすくめた、「私が人間の気まぐれな心を研究しはじめてから、学び得たことがひとつあります。それは、一足とびに結論にとびつくな、ということですよ」
「なるほど、しかしですね、今回だけは、いますぐにでも私はとびつきますな」と警部があらっぽく言いかけた、そのとき、ロウが快心の声をあげた。
青年はなにやら口の中でブツブツ言いながら、箪笥から身をおこした。そして負傷していないほうの手を背中にまわすと、クルッとふりむいた。
「なにを見つけたか、あててごらんなさい」と、ロウがニッコリ笑って言った、「エールズ博士という男は、|とう《ヽヽ》の立った三流策士ですよ!」
「ゴードン! なにを見つけたの?」ペイシェンスは、そう叫ぶなり、青年のほうに走りよった。
ロウは、包帯をしたほうの手で、彼女を押しのけた、「まあまあ、お嬢さま、ペイシェンス(忍耐)というお名前に恥じないようにしてくださいよ」それから、青年は急に真顔になると、「レーンさん、きっとお気に召すと思いますが」そう言って、負傷してないほうの手を前に出した。その指のあいだから、きれいに形をそろえた緑青色の|つけひげ《ヽヽヽヽ》がたれていた。それはあきらかに、謎の依頼人が、五月六日に、サム探偵事務所への記念すべき訪問のおりにつけていた、あの奇妙な顎ひげだった。
一同の、あんぐりあいた口がまだふさがらないうちに、ロウは身をひるがえすと、また箪笥のなかに首をつっこんだ。そして、つぎつぎと三つの品物をとり出した――特別な色合いの中折帽《フェドラ》、青色の眼鏡、ふさふさした灰色の口ひげ。
*
「今日は、ぼく、とてもついてますね」ロウはえらく上機嫌だった、「ところで、このささやかな戦利品を見て、どう思います?」
「こいつは恐れ入った」警部は、してやられたといった顔をロウにむけると、ボソッと言った。
「まあ、ゴードン!」とペイシェンス。
レーンは、顎ひげ、眼鏡、口ひげ、帽子をロウから受けとった、「たしかに」と老優はつぶやくように言った、「例の依頼人がつけていたものと同じでしょうな?」
「それはもう」サムがうなり声をあげた、「世界中探したって、こんなひげが二つとあるものじゃない。正気の人間が、こんなものをつけますか?」
「なるほど」レーンは微笑した、「よほど変った特別の事情でもないかぎりね。マックスウェルさん、この品物をまえに見たことがありますか?」
と、それまで顎ひげにこわごわ見とれていた老召使いが、首を横にふった、「帽子のほかは、ただの一ぺんも」
老優はうめくように言った、「帽子か……ヴィラ、おまえがブリタニック博物館まで尾行した日に、エールズ博士がかぶっていたのは、この帽子かね? それから、この口ひげも?」
「そいつに間違いありませんとも。だからあっしは言ったじゃありませんか、あいつはなにか狙ってるってね、あっしは――」
「のっぴきならぬ証拠だ」レーンは考えこむように言った、「警部さん、五月六日に、あなたに例の封筒を預けた依頼人と、五月二十七日の午後、ブリタニック博物館で狼藉《ろうぜき》を働いた男が同一人物だということは、これではっきりしましたね。一見したところ――」
「一見したところ」と警部は噛みつくように言った、「明々白々ですな。これだけの証拠があり、おまけに司書のクラブ老人やヴィラの証言、それにスナップ写真といった決定的証拠までそろってしまえば、おつりがきますよ。いいですか、この事件には、セドラーなどという人物はこれぽっちも関係していないのですぞ!」
「セドラーが無関係だと? 警部さん、おどかさないでください。いったい、どういうことなのです?」
「セドラーは現にいるじゃないですか?」ロウが反駁し、ペイシェンスも眉をひそめて父親を見た。
サムはニヤリと笑った、「わしは、この事件の裏を引っぺがしてやりましたよ! なんのことはない、パイみたいに、他愛のないものだ。新任の館長だと名乗って博物館に現われた男、セドラー博士は、じつはセドラー博士ではないんです! 正体は何者であるにせよ、それがエールズ博士なんだ! セドラーというイギリス人がニューヨークに着いて、新しい仕事につくまえに、エールズは|セドラーを殺害し《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》、セドラー博士になりすましたってわけです。やつは、身体つきや背恰好もセドラー博士に似ているし、だいいち、イギリス人なんて|やから《ヽヽヽ》は、みんなおんなじように見えますからね。つまり、そいつを利用したんだ。とにかく、やつはセドラー博士になりすましてから、猿芝居をはじめたってわけですよ。エールズ博士なる|どじょう《ヽヽヽヽ》野郎は、泥棒どころか、人殺しまでやってのけたんですよ」
「どうも腑におちないな」とロウが口を出した、「じゃ、エールズ博士というのは、いったい、何者なんです?」
「なあに、警部さんの推理は簡単に裏づけられますよ」とレーンが眼をキラリと光らせて言った、「ロンドン警視庁にいる警部さんの友人のトレンチに電報を打って、ハムネット・セドラーの写真を探し出して送ってもらえば、簡単に解決できるではありませんか」
「そうね、いい考えだわ!」とペイシェンスが叫んだ。
「しかし、どうも私にはあまり――」レーンが言いかけた。
この会話のあいだ、サム警部の下唇がだんだんにつきだされてきていたが、ここにきて、警部は満面に朱をそそぐと、両手をふりあげた、「クソッ!」サムは吠えた、「こんな気ちがい事件は、もうまっぴらだ。金輪際《こんりんざい》、ごめんこうむる。手をひくと言ってるんですよ。ただ、やたらと忙しいばっかりで、夜もろくろく眠れやしなかった。いまいましいにもほどがある。さ、パット、来るんだ!」
「ですが、この私はどうしたらよろしいんで?」老召使いのマックスウェルが途方にくれてたずねた、「旦那さまのお金をすこしお預りしているんですが、もしお帰りにならないとすると――」
「忘れちまうんだ、そんなもの。戸じまりして、家へ帰ってよろしい。さ、パット――」
「いや、それはまずいでしょう」とドルリー・レーンが口をだした、「警部さん、どうも賛同しがたいですね。マックスウェルさん、なにもなかったことにして、このまま、この家にいるというのも、いい考えかもしれませんよ」
「はあ、そうですか」マックスウェルは、青ぶくれの頬をかきながら言った。
「そして、もしエールズ博士がもどってきたような場合――その可能性はなきにしもあらずですからね――即刻、警部さんに知らせてあげれば、きっと大よろこびですよ」
「わかりました」とマックスウェルは、ため息まじりで言った。
「とんでもない、わしはもう――」警部がうなった。
「さあ、雷おやじさん」レーンが笑いながら言った、「マックスウェルさんに名刺をあげてください……そう、そのほうがいいですとも!」老優はサムの腕をとった、「いいですね、マックスウェルさん、エールズ博士が帰ってきたら、イの一番にね!」
二十一 ウェストチェスターの惨事
それから、まるで植物が枯凋病《こちょうびょう》にでもかかったみたいに、突然、事件はピタッと死んだようになってしまった。この一週間以上というもの、事件は、無風状態のまま停滞し、なにひとつ起こらず、なにひとつ発見されず、おまけに、もうそれ以上関心をもつものもいないようなありさまだった。
サム警部は、自分で言ったとおり、この事件をすっかり投げ出してしまった。そして、まえにも言っていた、宝石盗難事件の方に没頭していたのである。この事件は、かなりセンセーショナルなもので、高価な頸飾りだの、パーク・アヴェニューの高層アパートに住む退屈したコール・ガールだのが、からまっていた。警部は、ほんのたまにしか事務所に顔を見せず、それもただ、ザッと郵便物に目を通すためだけだった。サム探偵事務所は、ときたまペイシェンスがやってくる以外は、すべて、涙もろいミス・ブロディにまかせっぱなしだった。
ペイシェンスはといえば、どういうわけか、にわかに学問づいてきたのである。彼女はしげしげとブリタニック博物館にかよいだし、あいかわらず汚損した建物の修理や装飾にいそがしい職人たちともすっかりおなじみになってしまった。彼女とロウ青年は、よそ目にはいかにも熱心そうに、シェイクスピアの研究に従事していた。しかし、残念ながら、このエリザベス朝期の大詩人は、二人の文学史的共同作業に対して、あまり自からの秘密をあかしたがらないようだった。ペイシェンスとロウは、謎のセドラー博士のことや、自分たちのことばかり話しあって、肝心のロウの研究は、ほとんどはかどらない始末だった。
それにしても、なかでももっとも事件に無関心に見えたのは、ドルリー・レーンだった。彼は、あの居心地のよい難攻不落の砦《とりで》、ハムレット荘にとじこもってしまって、まる九日間というもの、さながら隠者のような沈黙の生活を送っていた。
とはいうものの、こまかい幕間狂言は、いくつかあった。たとえば、その週のうちに、サム警部の探偵事務所に届けられた手紙のなかの二通は、警部が手をひいてしまったこの事件に、直接関係のあるものだった。その一通は、ニューヨークの主任警察医の、レオ・シリング医師からだった。シリングは、マンハッタンの殺し屋どものあいだで、法医学の鬼とまで言われて、恐れられていたのだ。この腕ききの検屍医の文面によると、3HSwMという文字は、化学記号としては全然無意味である、とのことだった。はじめ医師は、この記号を、要素別に分解して考えてみた。つまり、3HS は水素と硫黄から成り立つ、分子三個を表わすのではないかと仮定してみたのである。だが、残念ながら水素の分子一個が、硫黄の分子一個と化学的に結合することを、プリーストリーの時代以来、いやその以前から、ずっと拒みつづけてきたのであってみれば、この化合物は断念しないわけにはいかなかった。小文字のwについては、いろいろな化学上の意味が考えられた、――とシリング医師は書きつづけている――たとえば、電気関係でワットの頭文字でもいいし、ウルフラマイト(鉄マンガン重石)という希少鉱石の頭文字とも考えられる。大文字のMは『金属』を示す一般記号だから、wをウルフラマイトととれば、Mとwとのあいだにつながりができる。『しかしながら、一般的に言って』と警察医の報告は、結論をのべている、『この数字と大小の文字のごった煮は、まったくナンセンスであり、いささかも科学的意味をもたないものと愚考する』
もう一通は、ワシントンの情報部にいる暗号専門家シフ中尉からの手紙だった。シフ中尉は、サム警部の風変りな照会にたいする返事が遅れたことを詫びていた。多忙のため、問題の記号について充分に調査していられなかったのが残念だが、私見によれば、この記号は、暗号もしくは隠語として、まったく意味をなさないものである、と中尉は書いている。たとえ暗号だとしても、解読できる見込みはまずなさそうだし、それにだいいち暗号といっても、おたがいのあいだで、あらかじめ記号の意味について打ちあわせてあるような、そういった個人間のものであろう。専門家の手をもってしても、その鍵や暗号文書を見つけるのに、数か月以上はかかるし、しかも成功の見込みはまずない、とあった。
ペイシェンスとしては、まったく泣きたいくらいの気持ちだった。彼女はながいあいだ、それこそ夜も寝ずに、この奇妙な記号と取組んできたのである。ロウ青年としても、お義理にしか、彼女をなぐさめられなかった。彼自身にしろ、さっぱり見当がつかないのだ。
ほかの情報も入るには入ったものの、二通の手紙と同様、役に立たないものばかりだった。情報の一つは、ジョーガン警部からの親展文書だった。本庁の係官らによる、五月二十二日、シリンシア号が到着した日から、五月二十九日、セドラー博士がブリタニック博物館に出頭するまでの、博士のニューヨークにおける行動に関する調査は、すべて徒労に終った、と報告していた。博士が投宿したセネカ・ホテルに照会してみた結果判明したことは、ただ、セドラー博士と名乗る人物が、五月二十九日の朝、部屋を予約した、ということだけだった。イギリスから二十九日にニューヨークに上陸したという本人の主張がある以上、それは当然の結果だった。博士は、大きな荷物を持ちこみ、現在なお同ホテルに滞在中である、おとなしい中年のイギリス人で、食事は一人きりで狩猟室でとり、午後をホテルで過ごすような場合は、四時にお茶を自室にとりよせ、しずかに閉じこもって、それを飲むということである。
哀れなアイルランド人、警備員のドノヒューはいぜん行方不明のままだった。彼の運命については、まったく手がかりがなかった。
エールズ博士も失踪したまま、消息をたっていた。
コソドロのヴィラも、ご同様、その筋の看視下に置かれていた。ある日の午後、警部がゴードン・ロウに説明したところによると――青年が覆面の強盗に襲われたり、つけひげを発見したりしてからというもの、警部のロウに対する評価はすっかり変ったようである――ヴィラが博物館で捕まった日、さすがに百戦錬磨の警部はちょっと中座して電話をかけに行った、むろん、ドルリー・レーンの耳|うち《ヽヽ》があったにせよ、なぜそんなことをしたかと言えば、自分が訊問を終ったあとで、あの陰険きわまるヴィラを部下に尾行させるためだ、と言うのである。尾行したのはグロスというサム探偵事務所の者で、彼はブリタニック博物館からタリータウンにあるエールズ博士の家まで、ぜんぜん気取られることなく一行を尾行したのだった。タリータウンでは、みんなが博士の家から出てくるまで家の外でじっと待ち、ついで、コマンチ族の影さながら、腕によりかけてイタリア人のヴィラの尾行をしつづけたのであるが、結局はなんの成果もあげられなかった。コソドロは、どうやら『数百万ドルの値打のある秘密』を探るのは、やめにしたらしい――というのが、警部の説明である。
セドラー博士は博物館にきちんと出勤していた。チョート博士もまたしかり。司書のクラブ老人はサクソン邸で本をいじくっている。サクソン夫人は、カンヌへ避暑に行く支度のために、六月下旬の暑さの中で、その肥った身体に大汗をかいている……つまり、だれもがみな、各自の流儀にしたがって暮らしており、だれもがみな、ペイシェンスの青い瞳のように、邪気がなさそうだった。サム警部が、宝石盗難事件捜査に駈けずりまわっているあいまに、部下の一人に語ったところによると、「こんな奇妙|きてれつ《ヽヽヽヽ》な事件は生れてはじめてだ」というわけである。
老召使いのマックスウェルは、いぜんとしてエールズ博士の留守宅で孤塁を守っている様子。
そんなとき、電話がかかってきたのである。
*
電話がかかったのは七月一日、うだるような月曜日の朝だった。警部は最近の事件の秘密調査のために、二日前から事務所を留守にしていた。ゴードン・ロウは、その週の間というもの、アパート式ホテルの一室を借りて、やすらかな寝息をたてているころだった――彼は断固として、わずかばかりの身の廻り品をまとめ、サクソン邸から飛び出してきたのである。彼がペイシェンスに告げたところによると、『一生もどらない』そうである。ミス・ブロディは事務所の控え室で、あいかわらずオドオドしながら事務をとっていた。そしてペイシェンスは、警部の椅子に坐って、父親から来た、アイオワ州カンシル・ブラフスの消印のある手紙に、顔をしかめていた。
ミス・ブロディが、あいているドアごしに叫んだ、「お嬢さん、電話を聞いてくださいません? なにを言っているのか、よくわからないんです。きっと酔っぱらいかなにかだろうと思うんですけど」
「やれやれ」ホッとため息をつきながら、ペイシェンスは受話器に手をのばした。ブロディときたら、ときどきわけがわからなくなるんだから――「もしもし」彼女は面倒くさそうに言った、と、その途端《とたん》、まるでからだに電流が通じたみたいに、全身をギクッと硬直させた。
電話の声は、まぎれもない、マックスウェル老人だった。だが、それにしても、なんという声か! のどの詰ったような、弱々しい、乱れた声――ただ、モグモグ言うばかりで、ペイシェンスにはとぎれとぎれにしかわからない、「助けて――家の中で――怖ろしい――サム警部さん――来てください」そういう言葉が、意味をなさない音声の羅列《られつ》の合い間合い間に、耳にとびこんできた。
「マックスウェルさん!」とペイシェンスが大声で言った、「どうしたんです? エールズ博士が帰りましたの?」
一瞬、老人の声が弱々しくはあるが、はっきり聞きとれた、「ちがう、すぐ来てください」そして、なにか重いものが倒れるような、ドサリという音が受話器にひびいた。ペイシェンスは、思わず受話器を見つめた。それから、夢中になって電話をガチャガチャ言わせた。だが、手ごたえはなかった、「マックスウェルさん!」しかし、哀れなマックスウェルが、彼女の呼びかけに応答できるような状態でないことが、じきにはっきりとわかった。
ペイシェンスは、ころげるようにして控え室に出て行った。麦わら帽が、彼女の捲毛の上で曲っていた、「ブロディさん! ハムレット荘に電話してクェイシー老人を呼んで!……もしもし、クェイシーさん! あたし、ペイシェンス・サムです。レーンさんは?」だが、クェイシーの返事は、『おあいにくさま』だった、――ドルリー・レーンさまは領地のどこかにいらっしゃることはたしかですが、はっきりした場所は残念ながら。とにかく、できるだけいそいで探し出して、ペイシェンスさんのお言《こと》づけをお伝えし、エールズ博士の家に急行していただきましょう……つぎにペイシェンスは、ゴードン・ロウの新しい電話番号をまわした。
「へえ――、こいつは驚いた、パット、大変なことらしいな。頭の中から、眠けをすっかり追っぱらうまで、ちょっと待ってくれたまえ……そうだ、警察に電話した?」
「警察って? どこの?」
「タリータウンさ、あたりまえじゃないか! パット、今朝はきみ、ちょっとどうかしているぞ。さ、早く、あの老人に救けを呼んでやってくれ!」
「ああ、ゴードン」ペイシェンスはべそをかいた、「あたしって、ほんとにバカね。ごめんなさい。そんなこともうっかりしていて。すぐ電話してみるわ。二十分したら、車でそちらに行きます」
「元気を出せ、パット!」
だが、ペイシェンスがタリータウン警察に電話してみると、ボーリングという署長は不在だった。くたびれたような副署長が電話口に出たものの、いかに事態が緊急を要するものか、さっぱりのみこめないようだった。それでもやっと最後に、「だれかを向けましょう」と約束してくれた。
事態がむずかしくなるにつれて、ペイシェンスの唇もむずかしく歪《ゆが》んできた。「あたし、行ってみる」彼女は陰鬱な口調で、ミス・ブロディに言った、「なんてことでしょう! かわいそうに、いまごろはきっと、マックスウェルさん、血まみれでころがっているんだわ、じゃ、あとをお願い!」
*
ペイシェンスは小道への曲り角で、ロードスターに急ブレーキをかけた。ゴードン・ロウが腰をあげて、前方をうかがった。
「レーンさんの車がやってきたらしいぞ」
大きな黒塗りのリムジン型の車が一台、無謀なくらいのスピードで、こっちにとばしてくる。その車が、ロードスターのまえで、キーッと音をたてて急停車したときは、さすがに二人とも、思わず安堵《あんど》の吐息をもらした。神風運転手はドロミオだった。車のドアがあいて、レーンの、背の高い痩せた身体がサッとあらわれた。
「やあ」と老優が叫んだ、「すまなかったね。いま、来たばかりですか? ちょうど泳ぎに行っていたものだから、クェイシーに、私が見つけられなかったのですよ。警察には電話しましたか?」
「もう来ていると思います」とペイシェンスが一息いれて言った。
「いや」老優は砂利道にするどい視線を投げながらつぶやいた、「昨夜はひどい降りでしたね。砂利はまだ濡《ぬ》れていて、道はやわらかい。それなのに、タイヤの跡がありませんね……なにかわけがあって、まだ来られないのでしょう。とにかくわれわれだけで、まず調査してみなくてはなりません。ロウ君、君の腕はどうやらなおったらしい……さ、行きましょう。あんまり飛ばさないように。なにが出るかわかりませんからね」
老優は自分の車にもどり、ペイシェンスはロードスターを小道に乗り入れた。運転手のドロミオも、大きな車で、そのあとにつづいた。木立ちが頭上においかぶさっている。明け方の豪雨で、砂利はすっかり洗われ、道はきれいだった。まるで、まだ使わない紙のようだ。若い二人は黙っていた。ペイシェンスは曲りくねっている狭い道を一心に見つめ、ロウは前方に油断なく目をこらしている。前途に、なにが待ちぶせているのか、予想すらつかない。武器をもった男が、わきのしげみから飛び出してきても、一団のギャングが機関銃をかまえて勢揃いしていたところで、彼らはべつに驚きもしなかったろう。二台の車が、いまにもぶつからんばかりに疾走したが、何事も起こらなかった。
エールズ博士の家に通じている狭い側道の入口で、ペイシェンスは車をとめた。レーンも、つづいて車からおりると、三人で作戦会議をひらいた。彼らをとりまく自然は、いつもながらの夏景色で、いきいきとした活気にみちたざわめきに息づいていた。ただ、そのどこにも人間の気配は感じられない。衆議一決。ドロミオに車の番をさせて、三人は、それから先は歩いて行くことにする。
一行は、注意深く側道をすすんで行った。ロウ青年が先頭に立ち、レーンは、しんがりをつとめた。ペイシェンスは、二人の男にはさまれながら、緊張しきっていた。やがて木立ちがまばらになり、三人は家の前の空地に出た。あたりは水を打ったみたいにしずまりかえっている。正面の玄関の扉は固くとざされ、どの窓にも、このまえとおなじように鎧戸がおろしてある。車庫のドアもしまっている――どこにも不審の点は見あたらない。
「それにしても、マックスウェルはどこかしら?」とペイシェンスがささやいた。
「とにかく家に入ってみよう。どうも様子が気にくわない」とロウが眉をひそめて言った、「いいかい、そばを離れないようにね、パット。なにが起こるかわからないぞ」
三人は足早やに空地を横ぎると、グラグラする階段をのぼって、ポーチに立った。ロウが玄関のドアを強くたたいた。何回もたてつづけにたたいてみたが、なんの反応もなかった。二人は、レーンの顔を見た。老優は、薄い唇を一文字に結びあわせ、その眼に、ふしぎな光をたたえていた。
「ドアを打ちこわしたら、どうでしょう?」とレーンがおだやかな口調で言った。
「よーし」ロウはポーチの端までさがり、あとの二人をわきへよせると、グッと身がまえてから、思いきり前方にとびあがった。右足がするどく突き出され、力まかせに錠前のあたりを蹴りあげた。扉の固い板がきしみ、内側の上のところで、かすかに鈴の音がした。彼はさらにもう一度、ポーチの端までひきかえすと、ドアに突進した。やっと五回目の攻撃でドアがこわれ、錠前がふっとんだ。ドアの上部にとりつけてある|ぜんまい《ヽヽヽヽ》仕掛の鈴が、けたたましくあたりにひびきわたった。
「跳び蹴りの一手だよ」ロウ青年は息をはずませながら、さも得意そうに言うと、家の中にとびこんでいった、「この春、マルセーユで、フランス人のレスラーから、ぼくは教わったんですよ……や、こいつはたいへんだ!」
三人とも、家の中に一歩踏みこんだとたん、眼をみはって、その場に立ちすくんでしまった。ちいさなホールはめちゃめちゃになっているではないか。旋風が吹き荒れたあとのような有様。傘立《かさた》てのそばにあった古椅子は手足バラバラ、壁の鏡も床一面にガラスの破片となって、こなごなに飛び散っている。傘立てもぶざまに床にころがり、ちいさなテーブルは、カブト虫の死骸のようにひっくりかえっている。
だれひとり口をきくものもなく、三人は客間に入った。そこもまた、眼もあてられぬ光景だった。
一行は、書斎をのぞいた。ペイシェンスの顔は、死人のようにまっ青だった。そこは、象か、飢えた虎の群れが通ったあとのようだった。もとのままの形で立っている家具は、ただのひとつもない。壁一面には、独特な形の穴があいている。シャンデリアは砕け散り、書物は床に放りだされている。鏡は|こなみじん《ヽヽヽヽヽ》……あいかわらず無言のまま、三人は裏の台所も調べてみた。そこは、まだいくらかましだった。とはいうものの、引出しはひっくり返され、戸棚は片端から荒らされ、皿小鉢にいたるまで、床の上に投げ出されている。
階上もおなじような有様だった、壁につけられた独特な傷跡まで……。
三人は階下におりた。家中、どこを探してみてもマックスウェル老人の姿はなかった、彼の寝室には、衣類がおいてあるというのに。
「外に、車庫がありましたね?」レーンが考えぶかげに口をひらいた、「ひょっとすると――」
「行ってみましょう」とロウ青年が言った。三人は外に出ると、ロウが車庫のまわりをグルッとまわってみた。窓はひとつ。しかも埃や|すす《ヽヽ》で薄黒くなっている。レーンはうすいドアをたたいてみた。掛け金に、錆《さび》ついた鍵がぶらさがっている。返事はない。
「窓をこわして入るより方法はなさそうですね」と青年が言った、「パット、どいていたまえ。ガラスで怪我《けが》をするといけないからね」そう言いながら、ロウは重そうな石を持ちあげると、窓をめがけて投げつけた。ガラスは砕けた。ロウは中に手を入れて、とめ金をさぐった。そして窓をあけると、中に入った。と、すぐに中から青年の声があった、「ドアのそばからはなれてください!」パッとドアがはじかれたように開き、ドアの掛け金が板からねじれ落ちた……ゴードン・ロウは、その細おもての顔を紅潮させて、入口のところにヌッとつっ立った。それから彼は、しっかりした声で言った、「たしかに、いることはいますがね、どうやら死んでいるらしい」
二十二 斧をふるう男
車庫には、一台のオンボロ自動車が入っていた。錆ついたボルト、油だらけのボロ布、木の箱――そういった、いやな臭いのするガラクタが、あたり一面に散らかっている。窓のある壁と車の間に、古ぼけた椅子《いす》があって、ボロボロの綱がかけてある。そして、椅子と両開きのドアとのあいだに、マックスウェルが倒れていた。その黒い服は埃にまみれている。老人はうつぶせに倒れ、両脚をからだの下にちぢこめていた。外傷はないようだったが、うなじのあたりに、頸に巻きつけた布の結び目が見えている。グッとのばした右手のさき、二フィートのところに、ペンキだらけの作業台があって、その上に内線電話がのっている。受話器はコードの端からぶらさがっていた。ペイシェンスは、のろのろとその受話器をフックにかけた。
ロウ青年とレーンは、床にひざまずくと、マックスウェルの動かない身体をあおむけにさせた。老人の痩せおとろえた顔はクリーム色をしている。その顎の下には、よだれ掛けのように厚くたたんだ布がぶらさがっていた。たぶんそれは、猿ぐつわで、老人がむこうの椅子にくくりつけられていた繩をぬけ出してから、なんとかしてゆるめようとしたものらしい。と、驚いたことに、老人の顔面がピクピク動き、かすれたような呻《うめ》き声をたてた。
「あら、生きてるわ!」ペイシェンスが叫ぶと、そのそばにかけよった。彼女は服のよごれるのもかまわずに、コンクリートの床にひざまずき、老人の頬をパタパタとたたいた。老人は、かすかに眼をひらいたかと思うと、すぐにまた閉じてしまった。ロウは、あわてて車庫の奥にある青く錆びた蛇口のところにとんで行くと、ハンカチに水をひたしてもどってきた。そのハンカチで、ペイシェンスは、血の気のない老人の顔をやさしく拭いた。
「かわいそうに」と、レーンがゆっくり言った、「ロウ君、二人で母家《おもや》の中に運びましょう」
二人がかりで、痩せ細った老人のゴツゴツしたからだをしずかに持ちあげると、空地を横ぎり、こわれたホールを通って、客間に運びこんだ。ペイシェンスは、うんうん言いながら、ひっくりかえっているソファをもとどおりになおした。ソファの上張りはズタズタに裂かれていた。三人は、その上にマックスウェル老人を寝かせると、無言のまま、そのまわりに立って、老人を見つめた。と、老人はふたたび眼をあけ、しわだらけの頬に、かすかな血の色がもどってきた。その眼には、恐怖と驚愕の色があった。だが、自分をのぞきこんでいる心配そうな顔がだれだかわかると、老人はホッと息をついて、唇をなめた。
と、そのとき、おもてのほうから、モーターのひびきが聞こえてきた。三人はいそいでポーチまで出てみた。青色の制服に身をかためた赤ら顔の男が、足早に階段をあがってきた。警官が二人、その男のうしろからついてくる。
「タリータウン署のボーリング署長です」と、先頭の男がきびきびした口調で言った、「お嬢さん、あなたですか、今朝、署に電話を下さったのは?……いや、この家がなかなか見つからなかったものですから、すっかりおそくなりました。ところで、なにがあったのです?」
*
紹介や説明が一段落し、マックスウェル老人もすっかり意識を回復すると、一同は、鎧戸をおろした客間で、老人のまわりにあつまり、彼の話に耳をそばだてた――
前の晩、十一時半に――まっ暗で気味のわるい日曜日の夜だった――マックスウェル老人が、家の中で、トランプの一人遊びをやっていると、玄関の呼びりんが鳴った。老人はいそいで玄関に出てみたものの、いささか心細かった。外は墨を流したような闇夜、自分はひとりぼっち、おまけに人里はなれた林の中……ふだんでさえ、訪ねてくるものなどめったにないのに、それもこんな真夜中、こんな時刻に、いったい、だれだろう? 老人は、たぶん主人のエールズ博士が帰宅したのだろうと思った。そこで、呼びりんの鳴りつづけている玄関のドアをあけた。と、その途端、片足が敷居をスッとまたいで、目まで隠した長身の男が、ホールの薄明りの中に立ったではないか。老人は思わず悲鳴をあげて、パッととびさがったが、男は丸くて小さな固いものを、老人のふるえる腹にグイッとおしつけた。それがピストルだとわかったとたん、マックスウェルのひざがガクガクしてきた。男が前に進み、弱い光が男の顔にじかにあたると、マックスウェルは恐怖に身をふるわせながらも、男が覆面しているのを見てとった。
「私は――ただ、もうこわくて」と、マックスウェルは、かすれた声で言った、「ほんとに気が遠くなりそうでした。男は、私をうしろにむかせると、背中にピストルをおしつけたまま、外へ連れ出したんで。私は観念して眼をとじました。男が――この私を射つものと思ったんです。ところが、男は私を車庫に連れこんだだけでしてね。男は、どこからか古い綱を見つけてくると、そこにあるこわれた古椅子に、私を縛りつけたんです。その上、猿ぐつわまでかませると、男は車庫から出て行きました。と、すぐまた引き返してきて、私のからだを探るじゃありませんか。私には、そのわけがすぐのみこめました。私どもが家を出たとき、玄関のドアがカチッと音をたててしまったんです。あのドアは|ばね《ヽヽ》錠なんで、それでやつは家に入れなかったんでさあ。私のポケットに合鍵がありました――エールズ博士が親鍵をもっているんで――男は、それを取りあげたんです。やつは出て行くと、外から車庫に鍵をかけ、私を暗闇にとじこめてしまったんで。あたりは、まるで死んだようにしずかでした……私は一晩中、やっと息をしながら、この車庫におしこめられていたんです」老人はブルッと身をふるわせた、「なにしろ綱がくいこんで、一睡もできるもんじゃありません。心は緊張のしっぱなし、手足はすっかりしびれてしまいました。朝になってから、やっと綱がゆるめられ、猿ぐつわをはずすと、ポケットをさぐって、サム警部さんにいただいた名刺をとりだしたんです。そして内線電話で呼び出したんですが……どうやら気絶してしまったらしいので。私の知っていることといったら、これで全部ですよ、ハイ」
*
一同は、家の中を、すみからすみまで見てまわった。マックスウェル老人もよろよろしながら、みんなのあとについてきた。調査は、まず書斎からはじまった。
一目見ただけで、老人を縛り上げた男が、こんな淋しい田舎家を襲った目的がなんであれ、その目的のためにはまったく手段をえらばなかったことだけは、火を見るよりもあきらかだった。書斎は、男がなにかを探しまわったために、めちゃめちゃに荒らされていた。家具やガラス器具がひっくり返されたり壊されたりしているばかりでなく、壁の鏡板まで、ところきらわず鋭い刃物で傷つけられていることも、歴然としていた。部屋を荒した凶器は、すぐにボーリング署長が見つけた。ちいさな手斧《ておの》で、暖炉のそばの床におちていたのだ。
「そいつは、うちの斧ですよ」と、また唇をしめしてから、マックスウェル老人が言った、「台所の道具箱に入れてあったやつで。暖炉の薪を割るのに使ってました」
「この家にある斧は、これひとつなの?」とペイシェンスがたずねた。
「はい、さようで」
木の部分と羽目板は、むざんにぶった切られている。長く裂けた木片が、壁のすその|くり《ヽヽ》形の上に落ちている。床さえも一か所たたき割られていたくらいだ。マックスウェル老人の話によると、そこは敷物がしいてあったところだそうである。その敷物は、まるで乱暴に投げすてられたように、隅っこでクシャクシャになっていた。べつの隅っこに、立っていたゴテゴテと飾りたてたヴィクトリア朝時代の大時計は、いまやガラスの破片のちらばっている床に、うつぶせになって倒れている始末。よく調べてみると、斧をふるった男は、なにか目的があってそのケースをぶちこわし、真鍮《しんちゅう》の振子をひきちぎり、時計を倒し、その後部と横側をたたき割って、内部のいりくんだ歯車や機械をむきだしにしてしまったのである。針はきっかり十二時を指してとまっていた。
「こいつは、昨夜動いてましたか?」とロウがするどくたずねた。
「はい、私がここでトランプの一人遊びをしていますと――そうです、あのとき玄関の呼びりんが鳴ったんですから、私ははっきり覚えていますよ。大きな音でチクタクと、ちゃんと動いておりました」
「すると、男は、ちょうど真夜中の十二時に、時計をぶちこわしたってわけね」とペイシェンスがつぶやいた、「ひょっとすると、なにかの手がかりになるかもしれないわ」
「いや、なんの役にも立ちますまい」と、ボーリング署長が異議を唱えた、「やつが十一時半に来たことは、マックスウェルさんの証言であきらかですからな」
ドルリー・レーンは、ひとり夢想の面持ちで、片隅にしずかに立ったまま、その場の様子をじっと見守っていた。ただ、その眼だけが油断のない光を不気味にたたえている。
ペイシェンスは書斎の中をゆっくりと歩きまわった。彼女は机を見おろした。引出しは放り出され、中身が散らばっている。机の上にはトランプのカードがひろげっぱなしになっていた。と、彼女は部屋のむこう側にふとなにか見つけると、眼を細めた。それは、ちいさな安ものの目覚し時計で、暖炉の上の樫の木の棚にのっている。
「どうしたんだい、パット?」注意を奪われているペイシェンスの表情に気づいて、ロウが言った。
「あの目覚し時計なんだけど。書斎に似合わない代物ね」そう言いながら、彼女は歩いて行くと、小さな置時計を手にとった。チクタクと陽気に時を刻んでいる。
「そいつは私がここへ持ってきたんで」と、マックスウェル老人が弁明するような口ぶりで言った。どうやら老人はショックからすっかり回復したらしく、好奇の色を眼にうかべて、その場の様子を見守っていたのである。
「あなたが? だけど、この部屋には、立派な振子時計があるというのに、なんでまた、こんな置時計まで必要ですの?」ペイシェンスはいぶかしそうにたずねた。
「なに、それは目覚し用でしてね」と、老人はいそいで答えた、「この二、三日、軽い咳が出るものですから、土曜日に、タリータウンで咳止めの薬を買ってきたんですよ。薬屋から、四時間おきに、小さじ一杯ずつ飲めと言われたもんで。それで、昨夜は八時に一服飲んだのですが、どうも私は、度忘れする|たち《ヽヽ》でしてな」――老人は弱々しく笑った――「うっかりすると、寝るまえに、もう一度飲むのを忘れてしまうんじゃないかと思ったんですよ。で、トランプをしているあいだに、目覚し時計をここへ持ってきて、夜中の十二時に鳴るようにあわせておき、それから寝る支度にとりかかったのです。それが、寝るまえに――」
「そうなの」と、ペイシェンスはうなずいた。その話は信用してもよさそうだった。というのは、四分の三ほど、褐色の液体の入った小瓶が、ベトベトしたさじと一緒に、その置時計と並べて棚の上においてあったからだ。彼女が置時計を調べてみると、なるほど、マックスウェルの言ったとおり、目覚しは十二時に鳴るようにあわせてあり、小さなポッチも、『鳴る』の側にいっぱいに押してあった、「あら変ね――」と彼女がつぶやいた、そして自分の小型の腕時計を見た。十一時五十一分を指している。「ゴードン、あなたの時計は、いま何時?」
「ちょうど十一時五十分」
「署長さん、あなたのは?」
「十一時五十二分」ボーリング署長がそっけなく言った、「なんですか、いったい――?」
「この置時計があってるかどうか、たしかめてみただけですけど」ペイシェンスはかすかな笑《え》みを見せて言った。だが、その眼には不審の色がただよっていた、「ほら、ちゃんとあっていますわ」事実、その安っぽい目覚し時計は、十一時五十一分を指している。
「ああ――ペイシェンスさん」レーンが前にすすみながら言った、「ちょっと拝見?」老優は置時計をひとあたり調べると、棚の上にもどして、またもとの隅にしりぞいた。
「おや、あれはなんだろう?」ロウ青年がいぶかしげな口調で問いかけた。彼はさっきから、ガラクタのあいだを歩きながら、いろいろ突っつきまわっていたのだが、グッと頭をもたげて、一方の壁の高いところにあるものを、じっと見つめたのである。
その壁は、床から半分の高さまでしか書棚が作りつけられていないほかの壁とちがって、そこだけは天井の近くまで棚が届いていた。その壁のすそに沿って金属のレールがしいてあり、靴屋や図書館などでよく使っているような滑り梯子が、その上を動くようになっていた。それはあきらかに、この家の建築主が、ふつうでは手の届かない上のほうの棚を自由に使えるようにとりつけたものだった。最上段の棚と天井の間は、他の三方の壁とおなじクルミ材の壁板になっていた。幅のせまい板で、旧式ないやにけばけばしい飾りが彫ってある。ゴードン・ロウが見つめているのは、その中の一つだった。それは、まるでドアみたいに壁からひらいている。
「こいつはまるで、隠し戸棚みたいだな」と青年はクスクス笑った、「このぶんだと、暖炉あたりから、モンテ・クリスト伯がとび出してくるかもしれないぞ」彼はその梯子にスルスルとのぼっていった。ちょうど梯子は、天井の近くのポッカリと開いている壁板の真下に立っている。
「なにがなんだかさっぱりわけがわからん」とボーリング署長がどなった、「隠し戸棚だと!まるで、これじゃ探偵小説じゃないか……マックスウェルさん、あんたは、あれを知っていたのかね?」
老人は、ポカンと口をあけたまま、上を見ていた、「とんでもない! いまはじめてでさあ。まったく、ちいさな開き戸で――」
「からっぽだ」とロウがつまらなそうに言った、「まったくみごとな隠し場所ですよ! 大きさは――そうですね――幅八インチ、高さ二インチ、それに奥行も二インチかな……こいつはエールズが作ったのにちがいありませんよ。それにしても、じつにうまく作ってあるなあ! わりに最近の仕事ですね。削ったあとが、まだ新しいですからね」青年が眼を細くしてのぞきこんでいるあいだ、ほかの連中は、下からじっと彼を見ていた。「この書斎を家探ししたやつは不運でしたね、この隠し戸棚は見つかってませんよ、このとおり!」ロウはそう言うと、最上段の棚の上方にある細い壁板を指さした。ところどころ、斧の刃が乱暴に木肌にくいこんだ跡が残っている。だが、ロウが例の開きになっている板をパタンとしめたところを見ると、その板には、なんの傷跡も残っていないことがわかった。「敵も、こいつには一ぱい喰ったわけですよ! どうです、うまくできているでしょう? さて、どうやったら、もう一度開けることができるかな?」
「わしに、あがらせたまえ」とボーリング署長がきびしい口調で言った。
ロウ青年がしぶしぶおりてくると、こんどは署長がひどく用心深い足取りでのぼっていった。その隠し戸棚は、ロウの言ったとおり、じつに巧妙に作られていた。小さな扉がしまってしまうと、どこにあるのか、まったくわからない。縁がちょうど壁の飾りの端の線に重なるようになっているので、見わけがつかないのである。ボーリング署長は押したり引いたり、赤ら顔をますます赤くしてうんうんやっていたが、扉はいっこう開く気配もなく、壁板はビクともしなかった。ただ、げんこつでたたいてみると、うつろなひびきがするだけだった。この壁板の四辺は、ほかのと同様、小さな木彫りの円花模様になっていた。署長はハアハアと息をきらしながら言った、「こいつは、なにか仕掛けがあるらしいぞ」そして円花模様をいじりはじめた。と、署長は大声をはりあげた。模様のひとつが、指の中でグルッとまわったのだ。彼は、それをひとまわりさせてみた。だが、なにごとも起こらなかった。もうひとまわりさせてみた。と、その途端に、扉がはじかれたようにパッとひらき、署長は、すんでのところで、梯子から落ちそうになった……彼は扉をとりはずすと、内部を調べた。そこには、簡単だが、巧妙なバネ仕掛けがあった。
「やれやれ」と言いながら、署長は床におりた、「あの棚はべつに気にすることはありませんな。なにか入っていたにしろ、すでになくなっているんですからな。それにしても、えらくちっぽけな穴ですね。では、二階を調べてみましょう」
*
エールズ博士の寝室も、階下の書斎同様、斧で滅多打《めったう》ちにされていた。ベッドはバラバラ、マットレスはズタズタに引き裂かれ、家具は打ちこわされ、床は叩き割られていた――たしかに、斧をふるった男は、階下で探しものを見つけることができなくて、エールズ博士の寝室まであがってきて、探索をつづけたのである。寝室には、小型の金めっきの置時計があった。そして妙なことに、この時計もまた、この部屋を襲った旋風のあおりを喰っていた。男がいそいでベッドをこわしにかかったとき、ナイト・テーブルをひっくりかえしたはずみに、その上から床にころがり落ちたものにちがいない。針は十二時二十四分で止っている。
ペイシェンスの眼がキラリと光った、「泥棒さんは、ご丁寧にも、自分の行動の時間表をいちいち残しておいてくださったのね」彼女は声をはりあげた、「これで一階を先に荒したっていうことが、はっきりわかるわね……マックスウェルさん、この時計が正確だったかどうか、おぼえていて?」
「おぼえていますとも。家にある時計は、安ものばかりですが、みんないい機械でしてね。私はぜんぶ時刻をあわせておきましたよ」
「それは幸運だった」とレーンが小声で言った、「それにしても、なんと愚かな賊だろう!」
「なんですって?」署長がききとがめた。
「ああ、なに、なんでもありませんよ、ボーリングさん。私はただ、犯罪者の本質的な愚かさについて、一言いってみただけです」
と、そのとき、太い声が階下からあがった、「署長! これを見てください!」
一同は、ころがるようにして階段をドヤドヤとかけおりた。警官のひとりがホールに立って、ちらばっている暗い片隅を、懐中電灯で照らしている。光の輪の中に、ガラスの破片が三つあり、その一つに長い黒絹の紐が、一か所だけ切れてくっついている。
レーンは三つの破片を拾うと、客間に持ってきた。老優がその破片をあわせると、ピッタリと円形のガラスになった。
「片眼鏡《モノクル》だ」とレーンはしずかに言った。
「へえ――」とロウ青年がつぶやいた。
「片眼鏡《モノクル》ですと?」マックスウェル老人が眼をパチパチさせた、「こいつは変ですね、エールズ博士は眼鏡をかけておられなかったし、この家で、そんなものを見かけたことは、ついぞありませんが――むろん、私だって――」
「セドラー博士よ」ペイシェンスが暗い口調で言った。
二十三 記号解読
もうこれ以上、その家ですることはなにもなかった。主人のことなどさっさと忘れてタリータウンに帰り、痛ましくも切断されてしまったこれまでの平和な生活をとりもどすようにと、マックスウェル老人はすすめられた。鈍重ではあるが精力的なボーリング署長は、その家を監視させることにした。部下を二人残し、母家《おもや》に通じる小道と裏側を見張らせたのである。もっとも裏側からこの家に近づくには、密生した藪《やぶ》をきりひらき、あぶなっかしい腐葉土をわたってこなければならないのだから、まず不可能と見ていい。書斎で、例の隠し戸棚を見つけて以来、だんだん無口になったロウ青年が、たしかめてみたことがひとつあった。マックスウェル老人の証言によると、こんな田舎家に、夜、ひとりぼっちでいるものだから、前の晩も、いつものように、ドアや窓には、ぜんぶ鍵をかけたとのことだった。それを聞いてロウは、自分で家の中を歩きまわってみた。その結果、玄関のドアをのぞいて、あとはぜんぶ、ドアも窓も内側から鍵のかかっていることが分った。地下室は、たしかめてみるまでもなかった。つまり、地下室におりて行くには、家の中の台所の近くにある階段を通る以外になかったからである……一同がこの家から出ると、まるで嘲笑するかのように、玄関のドアのベルがチリンチリンと鳴っていた。
ドルリー・レーンの招きをうけて――ボーリング署長は、警察の車でマックスウェル老人をタリータウンに送っていった――ペイシェンスとロウは、ドロミオの運転する黒塗りのリムジンのあとについて、ハムレット荘にむかった。若い二人は、この家の執事フォルスタッフに案内されて、いそいそとめいめいの部屋に入ると、浴室で汗を流し、心はともかく、身体だけはさっぱりして、おそい昼食をとりに階下へおりていった。そして、レーンの私室で、なごやかに三人だけで食事をしたのである。その間というもの、だれも、ほとんど口をきかなかった。ペイシェンスは気むずかしげにおし黙り、ロウはもの思いにふけり、レーンはあたりさわりのない話題を口にして、その日の朝の出来事にはいっさい触れなかった。食事がすむと、老優は若い二人をクェイシーにまかせて、自分は書斎にひきこもった。
ペイシェンスとロウは、ハムレット荘の広大な領内を、ブラブラ散歩した。ちいさな感じのいい庭に出たとき、二人は言いあわせたみたいに、草の上にあおむけになり、ながながと身をのばした。クェイシーは、それを眺めると、忍び笑いをもらしながら姿を消した。
小鳥がさえずり、なやましい草いきれがあたりにただよっている。二人とも、口をきかなかった。ロウは身をよじらせると、ペイシェンスの顔を見つめた。彼女は太陽と疲労のせいで、いくぶん上気していた。彼女のスラリとした身体は、健康にはちきれる曲線をえがいて、のびのびと横たわっている。珍しいものを見るように、じっとその姿を見つめるロウの眼には、彼女が、魅惑するような、しかもはるか遠くはなれた存在のように映った。彼女の両眼はとじられ、まっすぐな両の眉のあいだに、かすかな白い線がひとすじ、いまは冗談を言っている場合でも求愛の時でもない、といった感じで走っていたからだ。
ロウは、ホッとため息をついた、「なにを考えているのさ、パット? たのむから、そんな深刻な顔をしないでくれよ! 女性は、ぼんやりしているほうがいいな」
「そんなにむずかしい顔?」彼女はそうつぶやくと、パッと眼をひらき、彼を見てニッコリ笑った、「ゴードン、あなたって、ほんとに坊やね、あたし、思案中なのよ――」
「どうやらぼくは、頭のいい奥さんを貰うはめになるらしいね」と青年はそっけなく言った、「つまり、そうさ――だから頭のいいのが二人そろうわけだ」
「奥さんだって? そんなこと、冗談にも言うもんじゃないわ、ゴードン! そうよ、二人よ、あたし、考えている最中なんだけど、昨夜、エールズ博士の家に押し入ったのは、一人じゃなくて二人《ヽヽ》じゃないかしら?」
「ああ」ロウはそう言うと、あお向けにひっくり返って、草の葉っぱをむしった。
と、彼女がパッと起きあがった。その眼がギラギラしている。「あなたも気がついたのね、ゴードン? 一人は斧をふるった人物。あの家の荒され方を一目見れば、その男がなにかを必死で探しながら、しかもそれがどこにあるのか知らなかった、ということはすぐ分るはずよ――だって、あんなに家具やなんかを、片端から壊しているんですもの。重要なことは、その人物が、エールズ博士では|ない《ヽヽ》ということよ」
ロウはあくびをした、「そりゃそうさ。もしそいつがエールズなら、なにもあちこち探しまわることはないからね。あの壁の隠し戸棚をつくったのもエールズなら、ものを隠したのもエールズだもの」ロウはまたあくびをした、「で、もう一人いるというのは?」
「そんな、つまらなそうな顔をしないでよ」とペイシェンスは笑った、「あなただって、頭の中は、そのことでいっぱいのくせに……それは、だれだかわからないわ。でも、いまのあなたの説明は正しくてよ。斧をふるったのは、あたしたちの知らない人物。エールズ博士だったら、なにも自分の家の中のものを片端から壊して歩いて薪にすることはないでしょうし――だいいち博士なら、斧を持った男の探しているもののありかは、|わかっている《ヽヽヽヽヽヽ》はずですもの。ところが一方では、斧を持った男の探していたものは、だれかに|ちゃんと見つけられた《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》のにちがいなくてよ。だって、あの隠し戸棚は、あたしたちが見つけたときは開いていたじゃない、つまり、だれかが開《あ》けっぱなしにしていったということになるでしょ?」
「そこで、二人の人間が、昨夜、あの家にいたと考えるわけなんだね? しかし、その斧をふるった男――どうもややこしい言葉だな――がさんざん荒しまわったあとで、あの隠し戸棚を見つけたとも言えないかな?」
「おや、気の利いたことを言うわね」と、ペイシェンスが軽く一蹴《いっしゅう》した、「ね、いいこと、あの隠し戸棚は、あなたもその眼で見たとおり、すごく巧妙にできているのよ。署長さんに、あの花模様の仕掛けが見つけられたのは、開いている扉を見て、現にあの壁のあの場所に、隠し戸棚があるっていうことが分っていたからじゃありませんか。もし、隠し戸棚の扉がしまっていて、壁もなんともなかったら、あの壁板に目をつけ、あの花模様を見つけて、しかもおまけに、署長さんがやったみたいに、それを|二回も《ヽヽヽ》廻してみるなんて、逆立ちしても考えられないわ。ということはね、あの扉は、偶然にあけられっこないということよ。斧を持った男が花模様の秘密を知っていたら、なにも斧なんか振りまわす必要もなかったんだし――だからあたしは、花模様を二回まわして隠し戸棚をあけ、その中身をとりだして、扉をあけっぱなしにした人物は、斧を持った男ではないと、にらんでいるのよ。もしも、その人物が斧をふるった男でないとすれば、まったくの別人ということになり、したがって、そこには二人の人間がいたということになります、以上で、証明おわり」
「さすがは女名探偵だね」とロウが笑いながら言った、「パット、きみはほんとにすばらしいよ。あざやかな推理だ。すると、もうひとつ、そこから結論が引き出せるね。それではいつ、その男が――かりに男としてだね――隠し戸棚を見つけたか? つまり、そいつは、斧を持った男より先に来たのか、あとから来たのか?」
「ハイ、あとからです、先生。もし隠し戸棚を見つけた人物が先に来たのなら、あとから入ってきた斧の男は、あいている扉を見て、隠し場所にすぐ気がついたはずでしょ? そしたら、なにもあんなふうに家の中をこまぎれにして、隠し場所を探すはずはないわ……そうよ、ゴードン、斧の男が先に来たのよ。つまり、斧の男がマックスウェル老人にピストルをつきつけ、車庫の中に縛りつけた犯人ということね、そのあとから、第二の男がやって来る、そこでなにが起こったか、それはわからないけれど」
二人はながいこと黙っていた。二人とも芝生に寝ころんだまま、ちぎれ雲の浮かぶ空を眺めていた。ロウの陽焼けした手がのびて、彼女の手に触れた。そして、そのまま動かない。ペイシェンスも、自分の手を引こうとはしなかった。
*
夕食を早目にすませると、三人はレーンの書斎にひきあげた。そこは、古風なイギリス調の部屋で、なめし皮と書物と木質の匂いがたちこめていた。ペイシェンスは老優の肘掛椅子に腰をおろして、机の上に紙をひろげ、いたずら書きをはじめた。レーンとロウは、机のむこう側にすわって、スタンドの薄明りの中でくつろいでいた。
「あたしね」ペイシェンスがだしぬけに口をひらいた、「今夜、お食事のまえに、気になっていたことを、少し書きつけてみましたの。この事件の不思議な特徴とでもいったらいいかしら。中には、どうにも気になって、イライラしてくるような点もあるんですけど」
「ほほう」とレーンがつぶやいた、「あなたは女性にしては、おそろしく根気のいいひとですね」
「あら! それがあたしの第一の取りえですもの。では、書いたもの、読んでみましょうか?」彼女はハンドバッグから長い紙きれをとり出すと、ひろげた、そして、はっきりした声で読みはじめた――
(1) 謎の記号を書きいれた封筒を預けていった男は、エールズ博士である――証拠、博士の戸棚で発見された顎ひげと眼鏡。証拠、彼は『失踪中の愛書家』である。サクソン邸にヴィラを忍びこませて、ジャガードの一五九九年版を盗ませたのは、エールズ博士である。バスの教師連中にまぎれこんで、ブリタニック博物館のジャガードのケースを荒したのは、エールズ博士である――ヴィラがこのことを白状し、さらにエールズの寝室で青色の中折帽《フェドラ》と灰色のつけひげが発見されたことにより確認された。しかし、エールズ博士とは何者であるか? 司書のクラブ老人とヴィラが証言したように、ハムネット・セドラーなのか、それともまったくの別人なのか? どこかに人違いがあるのか?
(2) ハムネット・セドラーとして知られている男は何者か? ハムネット・セドラーという名前の人物が実在することは、ロンドン警視庁からの連絡、ならびに同名人物がブリタニック博物館の新館長に任命されたという事実によってあきらかである。しかし、ハムネット・セドラーと自ら名乗ってブリタニック博物館に赴任してきた男は、はたしてほんとうのハムネット・セドラーであるのか? それとも父の推論のごとく、ハムネット・セドラーをかたる別人なのか? 彼には、たしかになにかうしろ暗いところがある。彼は到着日について嘘をついた。ほんとうのハムネット・セドラーは死んでいるのか? この男が、真実のセドラー博士の地位と名前を横取りしたのか? ニューヨーク到着の日付について嘘をついた動機はなにか? 実際の到着日と、嘘の到着日とのあいだに、彼はなにをしていたのか?
「へえ!」とロウ青年が言った、「まったく根掘り葉掘りほじくり返さなきゃ、気がすまないんだな!」ペイシェンスは、ロウの顔をジロッとにらんで、さらにつづけた――
(3) もしハムネット・セドラーがエールズ博士でないならば、エールズ博士はどうなったのか? なぜ彼は消えてしまったのか?
(4) ドノヒューはどうなったのか?
(5) ゴードンとあたしを襲って封筒を奪った強盗はだれか?
(6) 斧の男はだれか? この男はエールズ博士ではなく、別の人間らしい。
(7) 斧の男のあとから来て、実際に隠し戸棚の中身を持ち去った人物はだれか? それはエールズ博士とも考えられる――彼なら当然隠し戸棚の秘密を知っているはずである。
「ちょっと待ってください」と、レーンがさえぎった、「斧の男がエールズ博士ではないと、どうして分ります? それから、昨夜エールズ博士の家に、二人の人間がいたということは、なぜ?」ペイシェンスは自分の推理を説明した。レーンは、彼女の唇を喰入るように見つめながら、なんどもうなずいた、「なるほど」彼女が話し終ると、レーンがつぶやいた、「いや、じつに見事なものだ、ねえ、ロウ君? まったくそのとおりです……それで全部ですか?」
「いいえ、もうひとつ」ペイシェンスは眉をひそめながら言った、「これがいちばん重要で、厄介なんですの」彼女はつづけた――
(8) これらすべての謎は、いったいなにがその眼目なのか? それは疑いもなく、エールズ博士の言った『数百万ドルの秘密』である。しかし数百万ドルの秘密は、エールズが父に託した謎の記号と結びついている。したがって、すべては、この最後の疑問にかかっている――|記号の意味はなにか《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》?
読み終ったペイシェンスは紙をおくと、また机の上の紙に、いたずら書きをはじめた。レーンとロウは、しばらくのあいだ、黙りこんでいた。と、ペイシェンスの鉛筆の動きをぼんやりと眺めていたロウが、ハッと身をこわばらせると、椅子から腰を浮かした。ペイシェンスとレーンは、いぶかしそうに青年を見た。
「きみがそこに書いているのは、なんだ?」とロウがするどい口調でたずねた。
「なにって?」ペイシェンスが眼をしばたたいた、「あのいまいましい記号じゃないの。3HS wM よ」
「わかったぞ!」ロウが大声をあげた。彼はとびあがった。その眼がキラキラ輝いている、「わかったよ、とうとうわかったよ! なんのこった、まるっきり子供だましだったんだ!」
ドルリー・レーンも椅子から腰をあげると、机のそばに寄った。老優の顔は、暗がりから浮かび出て、皺のひとつひとつが黒くはっきりと刻みこまれていた、「ついに君も見つけましたね」とつぶやくように言った、「私にはまえから分っていたのです。お嬢さん、あの日、お父さんの事務所で、サクソンの便箋に書かれた現物を開いて見せてもらったとき、私はそれを見て気がついたのですよ。さ、ロウ君、お嬢さんに説明を」
「あなたがた、いったい、なにを言っているのか、さっぱり分らないわ」とペイシェンスがさも不服そうな声を出した。
「いいかい、きみがその記号を書いてたとき、ぼくはどこに坐っていた?」とロウが言った。
「この机のむこう側よ、あたしとむきあっていたじゃない」
「そのとおりさ! 言いかえると、ぼくは、警部さんが最初にあの便箋をひろげたとき、レーンさんが机の向う側でそれを見ていたのと、まったく同じ方向から、きみが書いた記号を見たわけなんだよ。つまり、さかさまに見たわけさ」
ペイシェンスは、かすかにアッと叫び声をあげた。彼女は紙をひったくるなり、グルッと一回転させた。彼女はそれをゆっくりとくりかえして読んだ。
「なんだか――これ、だれかの署名みたいね。Wm ……ウィリアム――」二人の男は、息をころして彼女を見まもっている、「ウィリアム・シェイクスピア!」彼女はとびあがるなり、叫んだ、「ウィリアム・シェイクスピアだわ!」
*
それからややしばらくのち。ペイシェンスは、ドルリー・レーンの足もとの敷物の上にペッタリと坐っていた。老優の細長い白い指が、彼女の髪をやさしくいじっている。ロウは気がぬけたみたいに、二人にむかって、腰をおろしていた。
「あの日以来、私は何回も何回もそのことを考えてみたのですよ」レーンはもの憂い口調で説明した、「分析的に見れば、べつに厄介なことでもなさそうです。なにもエールズ博士は、シェイクスピア自身の署名を模写したわけではありません。模写したのだったら、エリザベス朝の筆記体になるはずですからね。彼は自己流で、この一風変ったシェイクスピアの署名を書いたのです――たぶん、そのほうがもっとはっきりするだろう、などという妙な考えからでしょう。変っている点は、小さく書いたMの字と筆記体のeです。それにしても、どうしてHを大文字で書いたのか? ま、エールズの気まぐれのせいですかね。それはさして重要なことではありません」
「重要なことは」とロウが口を出した、「これが、シェイクスピア自身の署名の一変形であるということです。まったく奇妙だ!」
レーンは、ホッとため息をついた、「ロウ君、君のほうが私よりよく知っているはずだが、現存するシェイクスピアの署名で、ほんものとわかっているのは六つしかないのです」
「奇妙な署名と言えば」と青年が言った、「そのなかのひとつは Willm Shak'p' と書かれているんです」
「そうそう。しかし、ほかにもいわゆる『疑わしい』署名がたくさんあって、そのなかにエールズの記号と似たのが入っているのです。はじめに大文字のWがあって、そのつぎにそれと頭の線をそろえて小文字のmが書かれており、すこし間をあけて大文字のS、小文字のh、最後にこれまた頭の線をそろえた筆記体のeの小文字、といった順で並んでいる」
「すると、古い英語で、ye(=the)と書くときのようにですの?」とペイシェンスが質問した。
「そのとおり。この疑わしい署名は、現在オックスフォード大学のボードリアン図書館に収められている、オウィディウスの『変身』のオルダイン版に書かれています」
「ぼくはイギリスでそいつを見ましたよ」ロウが気負って言った。
「じつを言うと、私はボードリアン図書館に照会してみたのです」老優はしずかにつづけた、「すると、オウィディウスには異常がないとのことでした。それまでは、こんどの事件が、その本の盗難と結びついているものと、目星をつけていたのです。むろん、ばかげた考えでしたがね」ペイシェンスは、レーンの指が自分の頭の上で動くのを感じた、「もうすこし詳しく言うと、エールズ博士の言葉によれば、例の秘密は数百万ドルだということでしたね。彼は、このウィリアム・シェイクスピアの署名の写しを手がかりとして預けていきました。ですから、われわれもそこから出発しなければなりません。ところで、その秘密というのが、どんな種類のものか、もうおわかりですか?」
「つまり」ペイシェンスが厳粛な口調でたずねた、「こんどの盗難騒ぎ、いろいろな謎、その他いっさいのことは、|シェイクスピアの七番目の自筆の署名《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》が発見されたことを示している、というわけですの?」
「いや、どうもそうらしいな」ロウは苦笑した、「ぼくなんか――ハッハッ!――エリザベス朝の古い記録をさんざ漁《あさ》りまわって、すっかり青春をすりへらしてしまいながら、そんなどえらいものがあるなんて、これっぽっちも知らなかったんですからね」
「いや、そのものずばりですよ」とレーンが言った、「もしもほんとに数百万ドルもする秘密だとしたら、エールズ博士が、その署名をほんものと信じたのも無理はない。どうして数百万ドルの値打ちがあるのか? ああ、これはなかなか興味のある問題ですな」
「まあ、署名だけでも」と青年がおだやかに言った、「大変な値打ちものでしょうね。その歴史的、文学的価値はとうていはかり知れませんよ」
「そうですね、新しく発見された、しかもほんとうにシェイクスピアの七番目の自筆署名と折紙がつけば、私はなにかで読んだことがあるが、競売に出してもかるく百万、いや、そんなものではすむまい。それも、ドルかポンドか、うっかり忘れてしまいましたがね! それにしても、ただの署名だけということはないはずです。署名というものは、たいてい、なにかの文書につけられているものですからね」
「あの本の中にあった紙きれだわ!」とペイシェンスが叫んだ。
「シッ、パット。そのとおりですね、でも、かならずしもそうであるとはかぎりませんよ」とロウが考えながら言った、「むろん、ほんものの六つの署名は、みんな文書につけられています。その一つは彼が関係した訴訟の供述書に、一つは一六一二年に彼が買った屋敷の売買契約書に、もう一つは、その屋敷の抵当証書に、それからあとの三つは、彼の遺言書の三枚の紙に、それぞれ書かれています。しかし、本の見返しに署名することだって、あるかもしれませんよ」
「いや、ペイシェンスさんも言ったように、そんな簡単なものではあるまい」とレーンが言った、「この七番目の署名は、ただの文書――といっても、契約書とか証文とか――そういった比較的に歴史的価値の小さいものに書かれてあるものだろうか? いや、おそらく……」
「小さくなんかありませんよ」ロウはやっきとなって言った、「契約書や証文にしろ、たいへんな値打ちものですからね。それによって、シェイクスピアがある特定の時期にどこにいたか、はっきりと裏づけられるかもしれないのです――そうしたら、長年の懸案が一挙に解決されるじゃありませんか」
「それはそうです。ただ私の言うのは、人間的見地からみて、価値が小さいということだ。どうでしょう、もしも手紙《ヽヽ》の署名だとしたら?」レーンはグッとまえに身をのり出した。そのとき、老優の指がペイシェンスの捲き毛をギュッとつかんだものだから、彼女はすんでのところで声をあげそうになった、「いいかね、どんなことが起こるか、考えてもごらん! 不朽の詩人シェイクスピアの署名入りの自筆の手紙!」
「ちょっと考えただけでも、目がくらみそうですよ」とロウがつぶやいた、「すると、だれに宛てた手紙と考えられるか? その内容は? 伝記の資料。シェイクスピアの真筆による文書――」
「たしかに充分考えられることです」老優はのどのつまったような、奇妙な声で言った、「もしそれが、手紙の末尾にしるされた署名だとしたら、手紙のほうが署名より価値があります!押しも押されぬ一流の老学者たちが、つかみ合いをしたところで、なんの不思議もない。それはちょうど――パウロの書簡の原文が発見されたようなものですからね!」
「その文書は、ジャガードの一五九九年版の中に入っていたんだわ」ペイシェンスは低い熱っぽい口調で言った、「あきらかにエールズ博士は、現存のジャガードの一五九九年版のはじめの二冊を探して、なにも見つからなかったものだから、なんとしてでもサクソン文庫にある三冊目が手に入れたかったのよ。そして、博士は手に入れた! それは――考えられるかしら……」
「たしかに考えられるな」ロウが白い歯をむき出した、「博士は見つけたんだよ、悪運のつよい奴め!」
「ところが、その本をだれかに盗まれてしまったのよ、ああ、そうだ! あたし、賭けたっていい、その本は、エールズ博士の書斎の隠し戸棚に入れてあったんだわ」
「まず、そんな見当ですね」とレーンは言った、「それからもう一つ。調べてみて分ったのですが、この、一度盗まれてまた戻ってきた第三番目の本は、はじめ、イギリスの蒐集家ジョン・ハンフリイ・ボンド卿のものだったのを、サミュエル・サクソンが買ったのですよ」
「すると、ハムネット・セドラーをワイス氏に推薦した人物ですか?」ペイシェンスはびっくりしてたずねた。
「ええ、その人ですよ」レーンは肩をすくめて見せた、「ハンフリイ・ボンド卿は死にました。ほんの数週間まえに死んだばかりです。あ、いやいや」老優は微笑を浮かべると、とびあがった二人を手で制した、「なにも驚くことはありません。完全な自然死ですからね。人間の手によって、故意にもたらされた死ではないという意味ですよ。常のごとく、神が死の執行人でした。卿は八十九歳で、肺炎で死んだのです。だが、私の在英通信員は、それといっしょに、こんどの事件の原因となった本、つまりジョン・ハンフリイ・ボンド卿からサクソンが買ったジャガード本は、エリザベス朝以来ずっとハンフリイ・ボンド家に伝わるものである、ということを知らせてよこしたのです。ジョン卿は、ハンフリイ・ボンド家の血筋をひく最後の人で、後継者はいないのです」
「するとジョン卿は、ジャガードの裏表紙に、そんな文書が隠されているなんて、ぜんぜん知らなかったんですね」とロウが言った、「さもなけりゃ、はじめから、あの本を売ったりしないでしょうから」
「むろん、そうですとも。おそらく、ハンフリイ・ボンド家代々の人たちも、自分の家の本にそんな文書があることなど、夢にも思わなかったでしょうよ」
「でも、どうして」とペイシェンスがたずねた、「裏表紙になんか文書を隠したのかしら? 隠したのはだれなんでしょう?」
「それが問題ですよ」と、レーンがため息まじりに言った、「その文書は幾世紀ものあいだ、その場所に埋れていたのではないだろうか。ま、おそらく同時代の人に宛てられたものでしょうね。だが、それが隠されていたという事実から判断すると、その文書には、なにか特別な価値か、もしくは意味があるものと考えられる。たしかに――」
と、そのとき、クェイシー老人が書斎に入ってきた。年老いた彼の顔には無数の皺がきざみこまれ、その一本一本の皺が、不吉な知らせを無言のうちにはっきりとしめしていた。老人は、ドルリー・レーンの袖をひっぱった、「なんでもボーリングとかいう人が」と彼は口をとがらせて言った、「タリータウンの警察署長だそうで、旦那さま」
レーンは眉をひそめた、「相変らずだね、キャリバン! いったい、おまえはなにを言ってるのだ?」
「そのひとが電話で、旦那さまに伝えてほしいと言っております、なんでも一時間前に」――書斎の壁の時計が七時を指していた――「エールズ博士の家が原因不明の爆発で破壊されたとか!」
二十四 焼失と発見
エールズ博士の家はすっかり焼けおちて、くすぶっていた。濃い黄色の煙の帯が、黒焦げの立木にまつわりつき、ピリピリとのどを刺すような硫黄の臭いが、あたり一面にたちこめていた。古い木組は見るかげもなくくずれおち、壁や屋根の残骸が道路一面にちらばっていた。家は地下室の上に崩壊し、燃えがらの散乱する空地のなかで、一塊りになっていぶっていた。州の警官たちが出動して、野次馬の整理にあたっていた。タリータウンから急行した消防夫たちは炎の鎮圧につとめ、火が周囲の乾燥した木々に燃え移らないように、必死で活躍していた。なにぶん、水利の不便な土地なので、タリータウンとアーヴィングトンから補助ポンプが出動していたが、それとてもじきに|から《ヽヽ》になってしまい、とうとう野次馬までかり出されて、消火にあたる始末だった。
ボーリング署長は、ペイシェンス、ロウ、レーンの一行を、空地のはしで迎えた。署長は赤ら顔をすすだらけにして、ハアハア息をきらしながら叫んだ、「いや、ひどい目にあいました。おかげで張込み中だった部下は、二人とも重傷です。ま、爆発時に、家の中が無人だったのは不幸中の幸いでしたがね。爆発は六時です」
「まったくだしぬけにですか?」とレーンがつぶやいた。老優は妙に興奮しているようだった、「まさか飛行機から爆弾を落したのではないでしょうね?」
「とんでもない、今日は一日中、このあたりに飛行機は一機も来ませんでしたよ。それに、私たちが二時間前にこの家を出てからというもの、人っ子ひとり、この近くにあらわれなかったと、張込み中の部下が二人とも報告しているのです」
「じゃ、家の中に爆弾が仕掛けてあったんだ」とロウが吐き出すように言った、「やれやれ、間一髪で命拾いというわけか!」
「ひょっとしたら、あたしたちがまだ家の中にいるうちに――」ペイシェンスは青くなった、「あまりゾッとしない話ね、爆弾だなんて!」彼女はブルッと身をふるわせた。
「おそらく地下室に仕掛けてあったのだ」とレーンが呆然としたまま言った、「今日の午後、よりによって地下室だけ調べなかった。うかつにもほどがある!」
「地下室――いや、私もそうにらんだのですよ」と署長が言った、「とにかく二人の部下を病院へ運ばせにゃあならんです。それにしても運のいい連中だ! すんでのところで、こっぱみじんに吹きとばされるところだったのに。明日でも、火がおさまり次第、早速焼跡を調査してみますよ」
*
三人は、老優の車でハムレット荘にひきあげる途中、めいめいもの思いにしずんでいて、まるでカキのようにおし黙っていた。なかでもレーンは、指を下唇にあてたまま、空間をにらんで、じっと考えこんでいた。
「あのね」ロウ青年がだしぬけに口をひらいた、「ぼくは考えてみたんだけど」
「どんなこと?」とペイシェンスがたずねかえした。
「どうもこの事件には、いろんな謎の人物が関係しているように思われるんだ。それがなんであれ、シェイクスピアの文書があらゆる問題の根底にあることは、火を見るよりもあきらかだよ。エールズ博士が、博物館から盗み出したジャガードの一五九九年版の中に、その文書を見つけたという点では、ぼくらの意見は一致したと見ていい。ところで、まず第一の主人公が登場する――エールズ博士。二番目の登場人物は、昨夜の斧の男。そいつが、シェイクスピアの文書を狙《ねら》ったことは疑いのないところ。これで二人だ。それから、斧の男のあとに来た人物、つまり隠し戸棚の扉を開け放していった人物、これが三人目の登場人物。そしてこんどは爆発だ。爆弾を仕掛けた人物がいるわけだね。これで四人。まったく、これじゃ頭も痛くなるさ」
「でも、四人になるとはかぎらないわ」とペイシェンスが反論した、「いまあなたがあげた登場人物のうち、一人か二人は、同一人物かもしれなくてよ――あなたって、単純すぎるわ!――斧の男のあとからやって来た人物はエールズ博士かもしれないじゃないの。そうすると登場人物は三人になるし、斧の男が爆弾を仕掛けたものと考えれば、二人になってしまう……そんなこと、いくら考えたって、なんの役にもたたなくてよ、ゴードン。だけど、ひとつだけ問題があるわ。あたし、この怖ろしい爆発のことを、じっくりと考えてみたんだけど、とても妙なことに思いあたったのよ」と、レーンの眼からぼんやりした薄膜がはがれると、好奇的な色がキラリと光った。「いままであたしたち、シェイクスピアの文書を狙っている人物がだれであるにしろ、文書そのものを手に入れるための――盗むにしろ、愛蔵するにしろ、あるいは売ってお金にするにしろ――つまり利得が目的のありきたりの犯罪だとばかり思いこんでいたんだわ」
ロウがクスクス笑った、「パット、きみときたら、まったくつむじ曲りだね! なにを言ってるんだ、値打ちのあるものをとりっこしてるんだから、そう考えるのがあたりまえじゃないか!」
ペイシェンスはホッとため息をついた、「あたしの考え方が変なのかもしれないわね、でも、もし爆弾が昨夜より前に仕掛けられたのだとしたら、その犯人は、|問題の文書があの家の中にあることを知っていた《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、と思わないわけにはいかないわ!」
老優の眼がピカリと光った、「なるほど、それで、ペイシェンスさん?」
「まともな考え方じゃないってことは、あたしにだって分ります、でも、こんどの事件ぐらい気ちがいじみているものはありませんわ――襲撃だの泥棒だの爆発だの……あの家にはマックスウェル老人がたったひとりで住んでいる、そのことを、爆弾を仕掛けた人物は、ちゃんと知っていたんだわ。まさか、あのひとのいい年寄り目当てに、爆弾を仕掛けたりするはずはありませんもの。では、いったいなんのために爆弾が仕掛けられたのか? いままであたしたちは、シェイクスピアの文書を狙っている人物、もしくは人物|たち《ヽヽ》が、それを手に入れるために動いていたとばかり思っていた、ところが、その文書を|消滅させる目的で《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》動いている人物がいる、ということが、あたしは言いたいんです!」
一瞬、ロウはポカンと口をあけたが、やがて身をのけぞらすと、大声を立てて笑い出した、「ああ、苦しい、パット、あんまり笑わせないでくれ、女の考えることといったら……」彼は涙をぬぐった、「いいかい、歴史的にも金銭的にもすごい価値のある文書を、消滅させようなどと思う馬鹿が、どこの世界にある? まるっきり気ちがい沙汰だよ!」
ペイシェンスの顔が朱にそまった、「あなたって、なさけないひとね」
「ロウ君」とレーンが無愛想に言った、「お嬢さんの意見は、ちゃんと筋が通っています。君の頭では、このお嬢さんの論理に到底太刀打ちできるものでない。なるほど、シェイクスピアの署名だけなら、消滅させようなどと思うのは正気の沙汰ではないだろう。しかし、問題は、署名以上のなにかがあるということです。つまり、署名がしるされている文書のことだ。爆弾を仕掛けた人物は、その文書の内容がどのようなものであれ、それが|公けにされることを《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》阻止するために、あんな大それたことをやったのかもしれない、ということです」
「それが言いたかったのよ」とペイシェンス。
「それにしても、消滅させてしまうなんて――」ロウはしかめ面をした、「シェイクスピアが三百年前にどんなことを書いたか知らないけど、この二十世紀になってまで、その公表を阻止するのに大騒ぎするような秘密なんて、ぼくにはちょっと考えられませんね。いったい、なにが書いてあるというんです? 馬鹿馬鹿しいにもほどがある」
「それが核心ですよ」と、レーンがそっけなく言った、「いったい、なにが書いてあるか? それさえ君に分っていれば――馬鹿馬鹿しいなどとは言っていられなくなる」
*
もしペイシェンスが今日一日のことを人にたずねられたら、あの不吉な電話からはじまり、斧の男に襲撃されたマックスウェルのこと、荒され放題《ほうだい》に荒されたエールズ博士の家、そして最後に、ものすごい爆発で話をしめくくり、もうこれ以上驚かされるような目にはあわないだろうと、答えるにちがいない。ところが、さらにもう一つが、彼女を待ちかまえていた。いや、ペイシェンスばかりか、ロウを、レーンを、それはハムレット荘で待ち受けていたのである。
日は暮れかかっていた。ちいさな灯りがひとつ、跳ね橋の上でポツンと待っていた。クェイシー老人の妖怪《ようかい》じみた顔が、古風な角灯に照らしだされて、皺だらけのなめし皮のように光っていた。
「旦那さま」とクェイシーが叫んだ、「どなたか怪我でも?」
「なに、たいしたことはない。どうかしたのか、クェイシー?」
「ホールにお客さまがお見えで。旦那さまがお出かけになると、そのすぐあとに電話がかかり、それから一時間ばかりしたら、そのご本人がお出でになりました。かなり興奮している様子で」
「だれだね?」
「チョートと名乗っておいでで」
一行は小走りに、荘園風のホールに入っていった。ホールは、建物と同様に、中世のイギリスの城を忠実に模してつくられていた。藺草《いぐさ》の敷物が、一行の靴の下でギシギシ鳴った。部屋のつきあたりには、レーンの好みで、『悲劇』の巨大な仮面が飾りつけられてあり、その下を、顎ひげを生やしたブリタニック博物館長が、手をうしろに組んで、大股に行ったり来たりしていた。
三人は、博士のそばに馳けよった、「チョート博士」と、レーンがゆっくり声をかけた、「お待たせしました。どうも、思いがけないことが起こったものですから……おや、あなたの顔は、あの仮面みたいに悲劇的ではありませんか! いったい、どうしたのです?」
「思いがけないこと?」チョート博士は苛ら立っていた、「すると、もうご存じなんですな?」ペイシェンスもロウも、いまや博士の眼中になかった。
「爆発のことでしょう?」
「爆発? なにが爆発したんです? 冗談じゃない! 私が言っているのはセドラー博士のことですよ」
「セドラー博士?」三人がいっせいに叫んだ。
「失踪したのです」
*
チョート博士は樫《オーク》のテーブルによりかかった。その眼は血走っていた。
「失踪したんですって?」ペイシェンスは顔をしかめた、「あたしたち、このあいだの土曜日に博士に会ったばかりだわね、ゴードン?」
「そうなのですよ」と館長が嗄れ声で言った、「博士は、土曜日の午前中に、ほんの五、六分、博物館に立ちよりましてね。そのときは、べつに変ったところもありませんでした。で、博士が出て行くまえに、日曜日に、つまり昨夜ですが、私の家に電話してくれるように頼んだのです。仕事の話があったものですからね。博士は承知して、出て行ったのです」
「で電話をかけてこなかったのですね?」と、レーンがつぶやくように言った。
「そうです、で、私のほうからセネカ・ホテルに電話してみたのですが、留守でした。今日一日、博士の連絡を待っておったのですが、ウンともスウとも言ってまいりません」チョート博士はグイッと肩をそびやかした、「いやまったく――馬鹿にするのにもほどがある! どこかへ行くなんてことは、一言《ひとこと》も言ってませんでした。で、私は病気ではないかと思ったのです。今日の午後、また電話をホテルにかけてみました、すると、ホテルの返事は、土曜日の朝以来、博士の姿を見かけない、と、こうなんですよ!」
「といって、博士が土曜日に失踪したとはかぎりませんね」と、ロウがつぶやいた。
「それはそうです。しかし、おかしいですな。どういう手を打ったらいいものか、さっぱりわからなかったものですからね。警察に電話したものか、それとも――じつは、お嬢さん、あなたのお父さんにお知らせしようと思ったのですよ、ところが電話口に出た事務所の女のひとが言うには……」館長は椅子に身をしずめると、うめき声をあげた。
「イの一番がドノヒュー、それからエールズ博士、そしてこんどはセドラー博士」ペイシェンスが悲劇的な口調で言った、「そろいもそろって行方不明! それにしても――ひどすぎるわ」
「セドラーがエールズでないかぎりね」とロウが横から口を出した。
チョート博士は頭をかかえこんだ、「まったく弱った!」
「ひょっとすると」ペイシェンスが眉をひそめて言った、「エールズ博士がセドラーだとすると、問題の文書を手に入れて、高飛びしてしまった|かも《ヽヽ》よ!」
「いや、お嬢さん、ホテルの話だと、博士の荷物は、まだそっくり部屋にあるそうですよ。だから、高飛びしたとはちょっと考えられません! ところで、いま文書と言われたのは――?」
レーンは疲れきった様子だった。老優の眼の下には黒い|くま《ヽヽ》ができ、皮膚は皺のよった羊皮紙のようだった。レーンは大儀そうに頭をふった、「いくら臆測したところではじまりません。予想外の事件の進展……ただ私に忠告できるのは、セドラーの身になにが起こったか、それを調べてごらんなさい、ということだけですね」
*
ペイシェンスとロウがニューヨーク市に着いたときは、もうだいぶ夜もふけていた。二人はロードスターをセネカ・ホテルの前に停めると、支配人に面会を申し込んだ。しばらく待たされてから、二人はセドラー博士の部屋に入ることを許された。部屋の中はきれいに整頓されていた。イギリス仕立ての服がきちんと衣装箪笥にかけてあり、引出しには、新しいシャツなどがいっぱいに詰っていた。博士の二つのトランクと、三つの鞄はからっぽだった。警察沙汰になることをひどく恐れているらしい支配人は、ペイシェンスの身分証明書を――むろん、サム警部のものだが――あらためて見直してから、しぶしぶと室内の調査を許した。
荷物も衣類も、みんなイギリス製のものだった。『ロンドン』の消印のある『ハムネット・セドラー博士』宛の手紙が何通かでてきたが、いずれも以前のイギリスの同僚から来たものらしく、他意のないものばかりだった。小箪笥の引出しをあけてみると、正式の査証を受けたパスポートが、そっくりしまってある。ハムネット・セドラー博士のパスポートで、それには見覚えのある博士の顔が、小さな写真におさまって貼ってある。
「セドラーだ、まちがいなし」と、ロウが口惜しそうに言った、「まったくイライラさせるな。どこを探したって、この部屋には、高飛びを企てた男の気配なんか、これっぽっちもないよ」
「ああ、もうたくさん!」ペイシェンスは鼻をならした、「ねえ、ゴードン、あたしを家まで送ってきて――それから、それからキスしてね」
二十五 殺人
太陽は空にかがやき、地上の火は消えた。煙も一夜にしておさまり、あるものはただ黒い残骸、先史時代の塚を思わせる累々《るいるい》たる堆積、焦げた立木といったものばかり、いまはむなしく前夜の爆発のすさまじさを物語っている。消防夫と警官の一隊は焼跡を掘り返すのに大わらわだった。眼つきの鋭い、顔の浅黒いおちついた男が作業の采配をふるっていた。その男は、一刻も早く地下室に降りて中を調べたいらしく、真上の残骸をとりのけるのに、ことのほか熱心な様子だった。
一同は木立ちのはずれに立って眺めていた。なまあたたかい朝の風が、彼らの服をそよがせた。ボーリング署長はむずかしい顔をして、作業員たちを見つめている。
「あそこに、鷲《わし》のような眼つきの男がおるでしょう? あの男は爆弾の専門家ですよ。調べる以上は、とことんまでやらにゃあ、と思ったものですからね。とにかく、爆発の真相がつかみたいのです」
「すると、あの残骸のなかから、あのひとがなにか見つけるだろうと言うんですか?」とロウがたずねた。
「そのために、彼は来てるんですよ」
作業は大いにはかどった。またたく間に、燃えかすの残骸が、地面にあいている穴からとりのぞかれ、作業員の手から手へとリレーされて、三十フィートはなれたところに積みあげられた。地下室に人間が降りて行かれるくらいに掘り起こされると、鷲のような眼つきの男が穴の中におりて、姿を消した。それから十分ほどすると地面にのぼってきて、あたかも爆発の状況を調べるかのように周囲に眼をくばり、こんどは木立ちの中にふたたび姿を消した。そして戻ってきたかと思うと、彼はまた穴の中に入ってしまった。三度目に地面にあらわれたときは、その落着いた顔に満足の色をうかべていた。男の両手には、小さな鉄片、ゴム、ガラス、針金といった、さまざまなガラクタがあった。
「どうだね?」とボーリング署長がたずねた。
「こいつが証拠ですよ、署長」爆弾の専門家がこともなげに言った、そして小さな時計のような装置をさし出した、「時限爆弾です」
「そうか」とドルリー・レーンが言った。
「お粗末な代物《しろもの》ですよ、手製ですね。六時に爆発するように仕掛けてありますよ。爆薬は相当量のトリニトロトルエン――TNT火薬です」
と、同時におなじ質問が、ペイシェンス、ロウ、レーンの唇から出かかった。だが、するどい口調でたずねたのは、レーンだった、「爆弾が仕掛けられたのはいつです?」
「こいつが昨夜の六時に爆発したとすれば、日曜日の午後六時です。二十四時間用の時限爆弾ですからね」
「日曜日の午後六時」ペイシェンスがゆっくりと繰り返した、「すると、マックスウェル老人が日曜日の夜おそく斧の男に襲撃されたんだから、仕掛けたのはその前だわ!」
「そういう勘定になるな、パット」とロウが小声で言った、「もし爆弾を仕掛けた人間が、例の文書が家の中にあることを知っていたとすれば、そいつの目的は文書の消滅にあったわけだ。つまり、犯人は、文書が家の中にあることは知っていたが、その隠し場所を知らなかった、ということになる。なにしろ厄介な――」
「爆発の現場は」専門家が黒焦げの石にペッと唾をはいて言った、「地下室ですよ」
「そうか」とレーンがまた言った。
「斧の男のあとから来た人物、つまり小さな隠し戸棚から文書をとり出した人物は」ペイシェンスがレーンの顔をさぐるように見て言った、「爆弾を仕掛けた犯人ではありませんわね。それはたしかよ。だって、その人物は文書の隠し場所をちゃんと知っていたんだし、爆弾を仕掛けた犯人は、ゴードンが言ったように、そのありかを知らなかったんですもの……」
と、そのとき、地下室を掘り返していた作業員のひとりが、かすれたような叫び声をあげたので、ペイシェンスの話は中断させられた。みんな、いっせいにパッとそのほうを見た。
「どうした?」そう叫ぶなり、ボーリング署長が駈け出した。
三人の作業員が、なにかの上にかがみこんでいる。その男たちの頭だけが、掘り返した穴のふちからのぞいて見えた。その一人が頭をあげてふりかえった。顔面は蒼白《そうはく》で、ブルブルふるえている。「こ、ここに――死体が、署長」男はかすれた声で言った、「見たところ――どうも他殺《ヽヽ》のようで」
*
ペイシェンスとロウは、焼跡の灰を蹴って、土台のへりまで突っ走った。レーンは、そのあとからゆっくりとついていった。老優の顔には血の気がなく、ふかい悩みの色があった。
ロウはチラッとのぞきこむなり、あわててペイシェンスを押しもどした、「いけない、パット」彼は嗄れ声で言った、「あっちの木立ちのほうへ行っておいでよ、見ないほうがいい」
「そう」とペイシェンスは言って、小鼻をピクリとさせた。そして、おとなしくロウの言いなりになった。
一同はただ呆然として、穴の中を見おろしていた。作業員のひとりだった赤ら顔の若い警官が、地下室の隅に這うようにしてたどりつくと、吐き気をこらえるようにかがみこんで、身をふるわせた……死体の残部は目もあてられぬくらいに焼け焦げ、人間の形態をとどめていないと言ってもいいくらいだった。片脚と片腕はむごたらしく四散し、まとっていたはずの衣服は、一片ものこさずに燃えつきていた。
「どうして」とレーンが嗄れた声でたずねた、「他殺だと分ったのかね?」
年配の警官が、一文字に唇をむすんだ顔をあげた、「黒焦げになってはいますが、穴はわかります」
「穴?」ロウがのどのつまったような声を出した。
警官は奇妙なため息をついた、「穴が三つ、横ッ腹にきれいにあいてますよ。こいつは弾丸の穴ですからね、よくおぼえておいてくださいよ」
*
それから三時間後、レーン、ボーリング署長、ペイシェンス、ロウの一行は、ホワイト・プレーンズにある地方検事局に、無言のまま腰をおろしていた。運搬車を現場によぶために急報がとび、ただちに死体を、郡役所のあるホワイト・プレーンズの検屍事務所に運ぶための手配がなされた。ボーリング署長は、散乱した遺体の残部を集める以外、何人《なんぴと》といえども、死体に手を触れることを許さなかった。衣服の残り、ことにボタンの捜索がおこなわれた。はっきりした身許確認の決め手がない以上、せめてボタンなどによって、被害者の手がかりにしようというわけである。とはいうものの、なにぶん死体は爆発の中心点ときているので、探すほうも、たちまちお手あげといった始末。奇蹟みたいなものですよ、なにしろ死体が原子になって霧散しなかったんですからな、と爆弾の専門家は陽気に言ったものだ。
彼らは、地方検事の机のまわりに腰をおろしたまま、その上の品物を喰い入るように見つめていた。それは、死体から得られた身許確認の手がかりとなるかもしれぬ唯一の品物だった。皮バンドのついた安もののイギリス製の腕時計。これをもとに探ってみても、どうにもなりそうにない代物だった。ガラスは飛び散ってしまい、三角形のかけらがひとつ、|わく《ヽヽ》にささっているだけ。側《がわ》の合金は、煙でまっ黒になってはいるものの、べつに爆発でそこなわれてはいない。ただひとつ、妙なことがあった。針が十二時二十六分をさして止っており、その表面に、一筋、深い傷がついている。この傷は、文字盤の10という数字のところに喰いこんでいるばかりでなく、さらにのびて、側の合金まで傷つけていた。
「おかしいな」若い地方検事が、眼に当惑の色を浮かべて言った、「ボーリングさん、さっきあなた、この死体はうつぶせになっていて、腕時計をはめたほうの手は、からだの下になっていた、と言いましたっけね」
「そうです」
「すると、文字盤の傷は爆発によってできたものではない」
「おかしな点はまだありますわ」とペイシェンスが言った、「爆発が起こったのは六時。もしそれが原因で時計が止ったのだとしたら、針は六時をさしているはずだけど、そうなっていませんわ」
地方検事は讃嘆の眼《まなこ》を彼女にむけた、「いや、まったくだ! 正直な話、私はその点をうっかりしてましたよ。たしか、サム警部のお嬢さんでしたね?」
と、そのとき、検屍医がせかせかした足どりで入ってきた――禿げあがった赤ら顔の小男で、顎のあたりがダブダブしている。「やあ! 吉報を待ちわびているという図ですな、やっとめちゃくちゃな死体を解剖してきたところですよ」
「他殺だったでしょ?」とロウが熱心に言った。
「まさにそのとおり。むろん、死体があんな状態だから、はっきり断定はできんが、わしの考えでは、死後三十六時間といったところ。つまり、死亡時刻はほぼ日曜日の真夜中ということになる」
「日曜日の真夜中!」ペイシェンスはロウの顔を見つめ、ロウもまた彼女を見かえした。ドルリー・レーンは、かすかに身をうごかした。
「それなら腕時計の時刻とピッタリ合いますな」と地方検事が言った、「十二時二十六分か。きっと殺害されたときに止ったのだ。すると被害者は、月曜日の午前零時二十六分に殺されたことになる」
禿の検屍医が言葉をつづけた、「前方至近距離から撃たれてますな。弾丸は三発」彼は形のつぶれた弾丸を三発、机の上に置いた、「それから、時計の傷と関連して妙なことがあるんですがな。手頸にも、それとおなじような傷が深くついているんです。手頸のやつは、時計の傷からつづいているんですよ」
「すると、手頸と時計とが、おなじ一撃で同時に傷をうけた、というわけですか?」とロウがきいた。
「そのとおり」
「こいつは、いよいよ斧の男の登場だぞ」ロウの眼につめたい光りがきらめいた、「さもなくば、斧をもったべつの人間だ……先生、手斧で、こんな傷がつけられますか?」
「つけられますとも。ナイフじゃ駄目だ。長い柄のついた広い刃の凶器ですな」
「これできまったわけだ」とボーリング署長が言った、「犯人が斧でこの男をなぐりつける。その一撃が被害者の手頸にあたって、腕時計がこわれて止る、同時に手頸も負傷する。それから、たぶん格闘ということになる、はげしくもみあっているうちに、犯人が被害者の横っ腹に弾丸を撃ちこむ」
「まだほかにもあるがね」と検屍医は言うと、ポケットから、ちり紙につつんだ小さな鍵をとり出した、「署長さん、あんたの部下が、ついさっき持って来たんだ。なんでも死体のあった近くの焼跡を掘り起こしていたら、ズボンのポケットらしいボロ屑が出てきて、その中にあったそうだがね、だれかが、この鍵を確認して――」
「マックスウェル?」
「あの家の管理人ですかな? そうだ、そのマックスウェルが、玄関のドアの親鍵だと、確認したそうですよ」
「親鍵ですって!」ペイシェンスとロウが異口同音に叫んだ。
「こいつは面白くなってきたぞ」と署長がつぶやいた、「ちょっと待ってください」彼は地方検事の受話器をわしづかみにするなり、タリータウン警察を呼び出した。そして、だれかと簡単に話をかわすと、受話器をもとにもどした、「間違いなし、部下の報告によると、マックスウェルは、この鍵を、エールズ博士のものだと証言したそうです。覆面した男が、あの晩、マックスウェルを車庫の中に縛りつけて、奪いとったのは合鍵のほうだった」
「親鍵はそれひとつ?」とペイシェンスがたずねた。
「マックスウェルの話ではそうです」
「では、疑問の余地はないわけだ」と、地方検事は、さも満足そうにホッと息をつくと言った、「これで、死体はエールズ博士ときまりましたな」
「さあ、どうかな」とレーンがつぶやいた。
「すると、あなたはそう思わないのですか?」
「検事さん、鍵ひとつで、持ち主ときめてかかるわけにはいきませんね。むろん、推理の上では充分考えられましょうけれど」
「それはそうと、わしも忙しいのでね」と小男の検屍医が口を出した、「あとひとつ、報告しとかにゃならん、この死体の特徴が知りたいんでしょうが。身長五フィート十一インチ、髪は赤黄色かブロンド。体重百五十五ポンド前後。年齢は四十五歳から五十五歳までのあいだ。これといった識別の手がかりになるような特徴はなし」
「セドラーだわ」ペイシェンスがささやくように言った。
「ピッタリだ」とロウが吐き出すように言った、「この事件の関係者のひとりに、セドラー博士というイギリス人がいるんですが、その男が、土曜日に、ニューヨーク市のホテルを出たまま、行方不明なんです。いまの特徴が、博士にそっくりなんです!」
「まさか、君!」ボーリング署長がうなった。
「そうですとも。しかし、身許確認については、どうやら混同しているようですがね。このセドラーという男は、エールズ博士と同一人物であるとして、目下追究されて――」
「それだったら、答は簡単だ」署長はホッとして言った、「死体のズボンにエールズ博士の鍵が入っていたことを、忘れんでくださいよ。セドラーがエールズだとすれば、万事オー・ケーではないですか」
「いや、あらためて考えなおしてみると、そう安心してはいられないんですよ」とロウがつぶやくように言った、「事実上、可能性はたった二つしかないのです。われわれは、この点をよく分析してみなかったから、混乱してしまったのです。第一の可能性は、署長さんの言われるように、セドラーとエールズとが同一人物であるということ。その場合、死体は――両方の特徴にピッタリなんですから――両人の失踪の謎を、ほぼ解きあかしてくれます。だがしかし、かりにセドラーとエールズとが同一人物でないとすれば、結論は自ずからただひとつ、両人はおたがいに不気味なくらい類似している、ということになります! これまでぼくたちは、その結論があまりに――ええと――安っぽい探偵小説じみているので、かえりみなかったわけですけどね、だからといって、無視するわけにはいきませんよ」
レーンは無言のままだった。
「ま、こういう議論は」ボーリング署長はブツクサ言いながら腰をあげた、「あなたがたには有益かもしれんが、私にはただ頭が痛くなるばかりですな。私が知りたいのはこれだけだ――この死体はだれか、エールズ博士か、あるいはイギリス人のセドラーなのか?」
*
水曜日の朝、重要なことが二つ起こった。まず第一は、サム警部が、宝石泥棒を捕え、無事に犯人を警察に引渡して、オハイオ州のチリコスから、意気揚々として帰還したこと。第二は、『不気味な類似』の謎がとけたこと。
二十六 蘇生
「こちらにまたお邪魔にあがったわけはですな――パットの話では、この若い狼と一緒に、まるでハムレット荘に住みついているようなことを言っとりましたが!」とサム警部は、はずんだ口調で、レーンに話しかけた。それは、翌朝、老優と老警部、そして若いペイシェンスとロウの四人が、レーンののどかな庭園に枝をひろげる樫の木蔭に坐っているときだった。「――じつは、面白い情報をおきかせしたいと思いましてね」
「情報?」レーンは肩をすぼめた。老優の顔は、いかにもものうげで生彩がなく、疲れているようだった。やがて弱々しい微笑をうかべると、往年の名調子をかすかにしのばせる声で言った、「『たえて久しく乾いたままのこの耳に、さ、実《みの》りの雨を降らしておくれ』さだめし、実《みの》り多き知らせでしょうな?」
警部はニヤリと笑った。彼はまったくのご機嫌だった、「ま、ご自分で判断なさるんですな」そう言うと、ポケットに手をつっこんで、一通の封筒をとり出した、「思いがけなく、今朝、ロンドン警視庁のトレンチが電報を打ってきましてね」
電文はつぎのようなものだった――
[ハムネット・セドラー]ニツキ、ソノ後ノ調査ノ結果、興味アル新事実判明ス。[ハムネット]ニ[ウィリアム]ナル居所不明ノ弟アリト先電ニテ知ラセタルガ、両人ハ双生児ナルコトヲ発見セリ。[ウィリアム]ガ去ル三月小型不定期貨物船ニテ[ボルドー]ヨリ[ニューヨーク]ニ向ケ出帆シタルコトヲツキトム。彼ハ不法侵入オヨビ凶悪ナル暴行ノカドニテ、[ジロンド]ノ[ボルドー]警察ニヨリ指名手配中ノ者ナリ。[ブレイ]ノ富裕ナル[フランス]人ノ愛書家ノ書庫ニ押入リ、稀覯書ノ窃盗ヲ企テタルモノノゴトシ。[フランス]人ハ[ウィリアム]ガ書物ノ装幀ヲ破壊シツツアル現場ヲトリオサエタルモ、カエッテ激シキ打撲ヲ受ケタルナリ。ソノ書物ハ[ウィリアム・シェイクスピア]著『情熱ノ巡礼』[ジャガード]ノ一五九九年版ナリ。[ウィリアム]自身ハ資産家ナレバ、コノ行為ハ奇怪ナリ。彼ハ兄[ハムネット]同様愛書家ニシテ、[エールズ]博士ナル筆名ノモトニ文学上ノ論文ヲ発表セシコトアリ。三年前[イギリス]ヨリ失踪セル以前ハ、古書競売ノ鑑定家トシテ、資産家ノ古書蒐集ニ協力セリ。彼ノ最上ノ顧客ハ最近物故セシ[ジョン・ハンフリイ・ボンド]卿ナリ。[ウィリアム]、[ハムネット]両人トモ指紋記録ナク、著シキ身体的特徴モ不明ナリ。サレド入手ノ情報ニヨレバ、[ウィリアム]ハ兄ニ生キウツシノ由。コノ情報ガ貴下ノオ役ニ立タンコトヲイノル。モシ貴下ニシテ[ウィリアム・セドラー]別名[エールズ]博士ノ消息判明ノ節ハ、[フランス]、[ボルドー]警察署長ニゴ連絡乞ウ。ゴ成功ヲイノル。
トレンチ
「これで説明がつくわけね?」とペイシェンスが声をあげて言った、「双生児なら、ハムネットとウィリアムは、ピーナツを二つに割ったみたいに、よく似ているにちがいないわ。それでみんな、二人を混同してしまったのよ!」
「なるほど」とレーンはおだやかに言った、「これはたいへん貴重な情報です。これで、セドラー、エールズ博士のほうは、フランス警察から指名手配されている弟のウィリアムだということがはっきりしたわけです」老優は両手の細長い指の先をあわせた、「それにしても、まだ身元確認の障害が残っていますね、発見された死体はどっちか――ハムネットか、それともウィリアムか?」
「それと、ブレイで、ウィリアムがジャガードの一五九九年版を狙《ねら》ったという事実がありますね」とロウが言った、「レーンさんも、あのフランスの老人のことはおききになっていると思うんですが、例のピエール・グレヴィーユ? ぼくは去年、訪ねていって、実際にこの老人と会ってるんです」レーンはうなずいた。「彼が二番目の本を持っているんです。サクソンのが三番目の本で、もう一冊はどこにあるのかわからないのですよ。その電報では、装幀をこわしたなんて言ってますね? とんでもない、ウィリアムは、シェイクスピアの自筆を探していたんですよ!」
「ま、おまえたちで考えるんだな」警部はクスクス笑いながら言った、「わしはもう、この事件から手をひいたんだからね。だが、なんとかなってきたじゃないか、え?」
「だれが地下室の男を殺したか」ペイシェンスが、指で無意識に自分のドレスをこすりながら、だしぬけに言った、「お知りになりたいでしょ?」一瞬、みんなのびっくりした様子に、ペイシェンスは声を立てて笑った、「あら、べつに犯人の名前が言えるわけじゃないのよ。未知数のいっぱいある代数の問題みたいなもんですもの。でも、ひとつだけ、たしかなことがあるわ。それは、犯人は、例の斧をふるった男だっていうこと!」
「なあんだ」ロウはそう言うと、また芝生に腰をおろした。
「斧の男が夜中の十二時きっかりに書斎にいたことは、大時計の停っていた針でわかるわね。十二時二十四分には、斧の男はまだ二階の寝室で家探しをつづけていました――その証拠は、寝室用のこわれた置時計。ところが、殺人は十二時二十六分――それから、たった二分後なんです! しかも犯人は、斧をふるった形跡がある――被害者の腕時計と手頸に見られる深くて鋭い傷が、その証拠。以上の証明によって、犯人は斧の男」
「なるほど」レーンはこう言うと、青空をじっと見あげた。
「ちがいます?」ペイシェンスが気ぜわしくたずねた。
だが、レーンは彼女の唇を見ていなかった。老優は、おもしろい形の空のいりくんだ稜線に、心を奪われている様子だった。
「もう一つあるよ」と、ロウがきびきびした口調で言った、「エールズ博士の家の廊下で見つけた片眼鏡《モノクル》さ。あれは、セドラーがあの家にいたという、のっぴきならない証拠じゃないか。いったいセドラーは被害者なのか、殺害者なのか? 一見したところ被害者のようだね、身体の特徴がピッタリなんだから……」
「エールズ博士の死体でないとすればね」とペイシェンス。
「だが、爆弾を仕掛けたのは、だれだ?」と警部がたずねた。
と、そのとき、クェイシー老人がセカセカした急ぎ足で、赤黒く日焼けした警官を案内してやってきた。
「サム警部でいらっしゃいますか?」と、その警官が言った。
「そうだが」
「私はタリータウンのボーリング署長の命令でこちらにまいりました」
「ああ、そうか! 今朝、署長に電話して、わしが帰ってきたことを知らせておいたんだ」
「では、署長の伝言を申し上げます、アーヴィングトンとタリータウン間の路上で、一名の男がフラフラになっているのを発見いたしました。餓死寸前といったありさまで、極度に衰弱しております。精神状態ももうろうで、名前も答えられず、ただしきりと、青い帽子のことを口走っております」
「青い帽子!」
「はい、それで、その男をタリータウンの病院に送りましたが、署長の申すには、もしご面会の希望があれば、即刻おいでいただくようにとのことであります」
*
一同が病院に駈けつけてみると、ボーリング署長は待合室の中を、大股で歩きまわっているところだった。署長はいかにも嬉しそうにサムの手をとった、「ずいぶんお久しぶりですな、警部! ところで、こんどの事件みたいに日増しに複雑怪奇になってくるものもめずらしい。その男に会ってみますか?」
「むろんですとも、で、そいつは何者です?」
「それがわからんのですよ。やっと意識を取り戻したところなんですがね。ひどい痩せ方で、あばら骨が出てしまっています。餓死寸前でしたよ」
署長に案内されて廊下を歩いて行くうちに、一行はしだいに興奮してくるのだった。
と、署長は個室のドアをあけた。ベッドには、初老の男がじっと横になっていた。ボロボロに汚れきった衣類が、かたわらの椅子の上につまれている。男のやつれはてた顔には、深い皺がきざまれ、ザラザラの短いひげが一面に生えている。男はぼんやりと眼をあけたまま壁を見ていた。
サム警部の顎がガクッとさがった、「ドノヒュー!」と吠えるように言った。
「じゃ、この男は、失踪中のアイルランド人ですか?」とボーリング署長が乗り出すようにしてたずねた。
ドルリー・レーンは、そっと音をたてずにドアをしめた。老優はベッドにしずかに近づくと、初老のアイルランド人を見おろした。と、突然、男の眼に苦痛の色があふれ、頭をゆっくりとこちらにむけた。レーンと視線があったが、なんの反応もなく、そのまま警部の顔のほうへ移っていった……と、その途端、男はハッと気がついたようだった。男は唇をしめした、「警部」蚊の鳴くような声だった。
「そうだよ」と、サムは思いやりをこめてやさしく言うと、ベッドに近づいた、「おまえを探すのに、さんざん手こずったぞ。いったい、どこにいたんだ? どんな目にあったんだ?」
男の落ちくぼんだ頬に、かすかな赤味がさした。男は口をひらいたが、声が言葉になるまえに、のどの奥でゴロゴロ鳴った、「話せば――長いことながら――」と言って、男は笑顔を見せようとした、「なにしろ、ここに来てからってもの、管で喰いものを流しこみやがるんですよ! 焼きたてのジュージューいうようなビフテキを喰わしてくれたら、それこそ、右腕の一本やっちまったってかまわねえ。だが、いったい、どうして私が見つかったんです?」
「おまえがまるで鉄砲玉みたいに博物館を飛び出してしまってからというもの、それこそ血眼《ちまなこ》で探してたんだぞ。もう喋っても、からだのほうは大丈夫かい?」
「なあに、へっちゃらですとも。だいいち、そのほうが気が楽だ」ドノヒューは、ひげだらけの頬を手でこすりながら、しだいに力のこもってくる声で、異様な物語をはじめた――
インディアナからやってきた教師の一行が、ブリタニック博物館を見学にきた午後、奇妙な青色の中折《フェドラ》をかぶり、長身の痩せた口ひげの男が、なにかを小脇にかかえて、博物館から抜け出していくところを、ドノヒューは見た。男がかかえているものは本のようだった。いつも泥棒の監視をしているドノヒューは、警報を鳴らすいとまもなく、あわててその男のあとを追いかけた。賊はタクシーをとめるなり、とびのった。ドノヒューも車をつかまえて、そのあとを追った。追跡はさまざまな交通機関を使って郊外までおよび、ついにタリータウンとアーヴィングトンの中間でハイウェイから一マイルも入る、くずれかかった木造の家までつづけられた。ドノヒューがしげみの中に身を隠して見張っていると、黒服の老人が、その家から出てくるのが見えた。ドノヒューは、その老人をやりすごしてから、ポーチに立った。呼鈴の下の表札を見て、この家の持ち主がエールズ博士という名前であることがわかった。ドノヒューが呼鈴を押すと、さっきの青帽子の男がなに喰わぬ顔をして玄関のドアをあけた。青帽子はぬいでおり、モジャモジャの灰色の口ひげもなかったが、ドノヒューには、まちがいなくこの男だということが分った。ははん、口ひげは変装のためだったのか! とはいうものの、ドノヒューは進退きわまったかっこうだった。その男が泥棒だという証拠をつかんだわけではないのだ。ひょっとすると、自分の思いちがいかもしれない。だが、口ひげがないという点に希望がもてる……といって、ドノヒューには逮捕する権限がない、そこで辞をひくくして、なんとか家の中に入れてもらうことにした。彼は、壁一面に書棚のある書斎に案内された。そこでドノヒューは、思いきってその男に、博物館から書物を盗んだ罪をせめたててみた。
「いや、煮ても焼いても喰えねえ奴でしてね、やんわりと下手《したで》に出るじゃありませんか」とドノヒューが目をキラキラさせながら言った。「いけしゃあしゃあと、白状するんでさあ! その償《つぐな》いはたっぷりさせていただくとか、お金は充分払うだの、いや、もう、ごたくをやたらとならべましてね。私はパイプをひっぱり出して、一服つけながら、なんとか敵をだまくらかして、近くの警察に電話をかけてやろうと、胸のなかで思案してたんで。だが、この私も、やっぱりあがってたんですな、パイプを床におっことして割っちまったんですよ。それから、敵はうまいことを言って、私を送り出した、それじゃ仕方がない、どうしてやろうかと思案しながら、私が小道を歩いて行くってえと、いきなり脳天に一撃くらいましたよ、ええ、それっきりであとはもうなにひとつ、おぼえてない始末でしてね」
やがてドノヒューは意識をとりもどすと、自分がグルグル縛られて、猿《さる》グツワをかまされたうえ、暗い部屋のなかに放りこまれているのがわかった。そのときは、てっきりエールズ博士があとをつけてきて、自分を襲撃したものと思い、今日までずっとそう思いこんでいたのだが、その部屋から逃げ出してみると、自分が入れられていたのはエールズ博士の家ではなく、いままで見たこともない、ぜんぜん別の家だということがわかった。
「その点は大丈夫だろうな? ああ、そうか、たしかなわけだ。エールズの家は爆発で吹っとんでしまったんだからな」とサム警部がつぶやいた、「で、それからどうなんだ、ドノヒュー」
「どのくらい長いこと、犬ころみたいに縛りつけられていたものやら、さっぱり分りませんや」蘇生したアイルランド人は、さも気持ちよさそうにつづけた、「いったい、今日は何日です?なに、そんなことはどうだっていい。食事は一日にたったの一回、ピストルを持った覆面の男が運んでくるだけで」
「その男はエールズ博士?」とペイシェンスが大きな声でたずねた。
「さあ、そいつは分らない。なにしろ薄暗い部屋でしたからねえ。そういえば、声は似ていた――イギリス人みたいな口のきき方でね、私はよく知ってるんで、昔、イギリスにいたとき、連中にはさんざ会ったし、しょっちゅう話もしてましたからね。そうだ、覆面の野郎、のべつまくなしにやって来ちゃ、拷問《ごうもん》にかけるとおどかしやがって、畜生!」
「まあ、拷問?」ペイシェンスが息をのんだ。
「そのとおりですとも。なに、ほんのおどかしでしたがね。文書はどこだ、って、しつこくききやがるんですよ」ドノヒューはクスリと笑った、「で、私は言ってやりましたよ、『おまえさん、ちっとおかしいんじゃねえのか?』ってね。そしたら、奴は怒りやがって、ますますおどかしやがったっけ。この私に、文書だなんて言ってみたって、なんのことだか、さっぱりでさあね」
「おかしいな」とロウが言った。
「ぜんぜん喰わしてくれない日も、何回かありましたからね」ドノヒューが鼻をならした、「畜生! 羊の脚が喰いてえなあ!」彼は舌なめずりをしてから、さらに不思議な物語をつづけた――ある日、といっても、かなり前のことだった、なにせ、まるっきり時間のない世界にとじこめられてきたあとなので、はっきり何日のことだったか、いや、何日頃のことだったかさえ、まるっきり覚えていないが、その建物のどこかで、ザワザワする音を、ドノヒューは耳にした。なにか重いものが引きずられ、すぐ近くの部屋にドサリと放りこまれた気配だった。と、その部屋から、男のうめき声が聞こえ、まもなく、ドアがパタンとしまる音がかすかにした。ドノヒューは、なんとかしてその同類に信号を送ろうとしてみた。その男も自分とおなじ捕虜の身の上だと思ったのである。ところがドノヒュー自身、繩目と猿グツワで自由がきかないものだから、その試みも水泡に帰してしまった。最後の三日間というもの、彼は食物もあたえられず、覆面の男もやって来なかった。やっと今朝になって、さんざん苦労したあげく、ドノヒューは繩をとくことができた。ドアの鍵をこじあけると、よごれはてた薄暗い玄関に出た。彼は聞き耳をたてたが、家の中に人の気配はなかった。同類の入れられている部屋を探してみたが、どの部屋のドアにも鍵がかけてあり、いくらたたいてみても、中から返事がなかった。自分のからだも衰弱しきっているうえに、覆面の男がもどって来たら、それこそ大変なので、ドノヒューは、その家から這い出して逃げたというわけである。
「じゃ、どうだ」サム警部がせきこんで言った、「もう一度行ったら、その家を探しあてられるか?」
「なに、大丈夫ですとも、なんで忘れるもんですか」
「ちょっと待ってください」若い医師が、ドアの近くから注意した、「この患者はまだかなり衰弱しています。からだを動かすことは、絶対に避けてください」
「避けるもへったくれもあるもんか!」ドノヒューは叫ぶと、ベッドの上に起きあがろうとした。だが、その途端、ウーンとうなると、うしろにひっくり返ってしまった、「どうもまだ、エンジンがかからねえや、もう一杯、スープをくれませんか、先生、そうすりゃあ、私だって、救援班の先導がつとまるんだ、ねえ、警部、こいつはまるっきり警察時代を思い出しますぜ!」
*
ドノヒューの案内で、レーンの車を先頭に、そのあとにつづいてボーリング署長と警官の一隊をつめこんだ車は、今朝早くドノヒューがフラフラしているところを警官に保護された地点までやってきた。警部は、ドノヒューを車からたすけおろした。頑張り屋の老アイルランド人は、路に立ったままあたりをうかがった。
「こっちです」しばらくしてから彼が言った。二人は車にもどった。ドロミオがゆっくり車を走らせると、ものの百ヤードも行かないうちに、ドノヒューがなにやら叫び、車は細い道に乗り入れた。エールズの家に通じる道から、一マイルとはなれていない枝道だった。
二台の車は注意深く進んでいった。表の道路からずっと奥まったところに小屋が三軒ならんでいた、そこまで車が入ってきたとき、ドノヒューがやにわに叫んだ、「あれだ!」
古ぼけた小さな家、というよりも、掘立て小屋に近い建物だった。さしずめ考古学の標本にでもなりそうな、取り残された廃屋。人間はおろか、生きものの気配はみじんもない。家のぐるりは仕切りでかこまれ、もう何年ものあいだ、人間が暮らした様子はどこにも見られなかった。
ボーリング署長の配下は、瀕死《ひんし》の垣根にあっさり引導《いんどう》をわたした。そして、突き棒がわりに、古い丸太を玄関のドアにドシンとぶちかませると、まるで腐ったクルミの殻みたいに、ドアはあっさりこわれた。警官隊は銃をかまえて家の中に突入した。中はガランとして薄汚なかった、ドノヒューが監禁されていた部屋を除いたら、家具類は何一つ置いてない。警官隊は、つぎつぎと部屋のドアを打ち破った。最後に、まっ暗な、カビ臭い小部屋に入ると、そこには小さなベッドと洗面器、それに一脚の椅子がおいてあり、ベッドの上には男がひとり、縛られてころがっていた。
男の意識はなかった。
警官が、その男を明るいところに運び出した。一同の視線が、男のゆがんだ黄色い顔にあつまった。どの眼にも、一様におなじ質問の色がうかんでいた。この、悪い空気と飢餓《きが》の犠牲者は、はたしてハムネットなのか、それともウィリアムなのか? そのいずれかであることは、火をみるよりもあきらかだった。
*
ドノヒューは大役を果し終ると、弱々しいうめき声をあげて、警部の腕の中にくずれこんだ。二台の車のあとを追ってきた救急車がかけつけて、ドノヒューをかつぎこんだ。見習医《インターン》が意識を失っているイギリス人のやせた身体の上にかがみこんだ。
「気を失っているだけです。繩の痛みと栄養失調と、腐敗した空気と――つまり、全身が衰弱状態にあるんです。すこし手当をすればよくなりますよ」
やせ落ちた頬のあたりには、やわらかそうな金色の無精《ぶしょう》ひげがはえていた。若い医師が強壮剤を注射すると、男は眼をピクピクさせてひらいた。だが、その眼は焦点がさだまらず、警部の浴びせかける質問にも、ただうつろな視線を返すだけだった。それからまた、眼をとじてしまった。
「よし」とボーリング署長が言った、「二人とも病院へ運べ。この男に聞くのは明日だ」
救急車が出発すると、いれかわりに一台の車がやって来て、無帽の若い男が中からとび出した。新聞記者である。いつも報道関係者の第六感にだけピンとくる、人の噂のあの神秘的な電流を感じとって、彼はこの場にやって来たのだ。おかげでボーリング署長とサム警部は質問ぜめにあった。レーンが懸命に合図しているにもかかわらず、ニューズはぜんぶスクープされてしまった。エールズ博士に関するすべての情報、『フランス警察に指名手配されている男』、ドノヒューの劇的な物語、セドラー兄弟の双生児にまつわる識別の混乱など……若い新聞記者は有頂天《うちょうてん》になって走り去った。
「どうも」とレーンはひややかに言った、「まずいことになりましたな、警部さん」
サムはパッと赤面した。そのとき、ひとりの警官がボーリング署長のところにやって来て、家宅捜索を徹底的にやってみたものの、二人を監禁した男の正体をあかす手がかりは、なにひとつ得られなかったと報告した。
「タリータウンにも電話してみました」と警官は言った、「そして、この家の所有者をつきとめました。所有者は、ここに人が住んでいようなどとは、思ってもみなかったようすです。三年間も、ずっと空家だった、と言っておりますが」
一同はまた二組にわかれて、無言のまま、めいめいもとの車に乗りこんだ。それから十分もたってから、やっとゴードン・ロウがうんざりしたように口をひらいた、「こんなややこしい謎なんて、あるもんか!」
二十七 三百年前の犯罪
「われわれのまず知りたいのは」とサム警部が真顔できりだした、「あなたがだれなのかということです」
その翌朝、タリータウンの病院の一室で、一同はイギリス人のベッドのまわりに集まっていた。当直医からの電話で、患者が喋れるくらいまで回復したと知らせてきた。注意深い栄養補給と鎮静剤の使用、それに一晩の熟睡がみごとな効果を発揮したのだ。ひげもきれいに剃り、やせた頬にはうっすらと赤味がさしていた。遠くを見つめる患者の眼には、思慮深い光があった。彼らが病室に入ったとき、その男はベッドの背によりかかって、となりに寝ているドノヒューと愉しそうに語りあっていた。かけぶとんの上には、新聞が何枚も散らかっていた。
イギリス人は茶色の眉をあげた、「すると、なにか疑念でも? おっしゃる意味がよくわかりませんが」彼は、その真意をはかり知ろうとするかのように、するどい眼つきで、ひとりひとりの顔を見わたした。それから、弱いが聞き慣れた声で言った、「私はハムネット・セドラー博士です」
「ああ」とレーンが言った、「これはチョートさんには吉報ですな」
「チョートさん? ああ、チョート博士ですね! さぞかし、ご心配なさったことでしょうな」とイギリス人はなんのためらいも見せずに言った、「いや、ひどい目にあいましたよ! おとなりのドノヒューさんは、私のことを青帽子だと思っていたようですな、ハッハ! いや、実際、びっくりするくらい似てます――いや、似てましたからな」彼はまじめになった、「私は彼とは双生児でしたからね」
「すると、弟さんが亡くなったのはご存じですのね?」とペイシェンスが叫んだ。レーンは警部の顔をチラッと見た。警部はまっ赤になった。
「朝から新聞記者連中にせめられ通しでしたよ。それと、この新聞で――なにもかも教えてもらいました。検屍医の検証書を読んでみると、あれは私の弟のウィリアムに間違いないようですね。彼は、ご存じのとおり、専門的な論文にはエールズ博士の筆名を使っておりました」
「ふむ」と警部は言った、「それでですな、セドラーさん。一見、これでこの事件は解決したように見えますが、まだまだ疑問の点が残っとりましてな。前にもお話しましたように、あなたのことについても若干――それと、あなたの弟さんについてもだが――たしかめたいことがあるのです。弟さんも亡くなられたことだし、もう隠しだてなさる必要もありますまい」
セドラー博士は、ホッとため息をついた、「たぶん、そのとおりでしょう。よろしい、なにもかもお話してしまいましょう」博士は両眼を閉じた。彼の声はひどく弱々しかった、「あなたがたも、報道関係の人たちも、私がニューヨークに到着した日付について嘘をついたことを、たいそう重要視しておいでだ。じつを言うと、私が予告した日取りよりも早く、こっそりやってきましたのは、ある背信行為を未然に防ぐためだったのです。はっきり言えば、弟のウィリアムのやろうとしていた行為です」言葉がとぎれた。だれひとり口を出す者はなかった。やがて彼は眼をひらくと、ポツンと言った、「ここには、おおぜいの人がいすぎますね」
「いや、べつに、博士」とロウが言った、「みんな協力してやってきたんですから。それにドノヒューのことなら――」
「見ざる、聞かざる、言わざるでさあ」とアイルランド人は、白い歯を見せて言った。
博士はしぶしぶ話し出した。いまから数年まえ、ウィリアム・セドラーがまだイギリスで、書物蒐集家の代理人として活躍していたころ、彼は愛書家として名高い、イギリス人のジョン・ハンフリイ・ボンド卿の知遇を得ていた。サミュエル・サクソンが、ジョン卿の蔵書からジャガードの一五九九年版『情熱の巡礼』の現存三冊のうちの一冊を買いとったとき、その仲介の労をとったのは、ウィリアムだった。その取引がすんで数か月したころ、ウィリアムはいつものようにジョン卿の膨大な蔵書をあちこち見ているうちに、ふとある古文書を手にとった――それ自体としては無価値なもので、愛書家仲間にも知られていないようなものだった――それを読んでみると、ウィリアム・シェイクスピアが、ある意外な秘密について、自分で書いて署名した個人的な手紙が、現在、というのはウィリアムがつきとめたところによると、その古文書の書かれた一七五八年のことだが、とにかく残存しているということが書いてあった。このシェイクスピアの手紙は、とさらに古文書の筆者はつづけていた、その秘密の重大さの故に、ジャガードが一五九九年に出版した『情熱の巡礼』のある一冊の裏表紙の中に隠されている……。この発見に躍りあがってよろこんだウィリアムは、ジョン卿がまだこの古文書を読んでいないことをたしかめると、自分自身の蒐集欲のつのるがままに、持ち主のジョン卿には内容を明かさないで、その古文書を自分で買いとってしまったのである。当時、ケンジントン博物館の館長だったハムネットにだけは、ウィリアムもその秘密を明かし、また古文書も見せた。だが、ハムネットは、そんなものは作り話だと一笑に付してしまった。しかしウィリアムは、この古文書に言及されている数世紀も埋もれているシェイクスピアの手紙の、はかりしれない歴史的、文学的、金銭的価値に夢中になったあげく、『情熱の巡礼』のジャガードの初版本が三世紀の間にほとんど消失して、いまではたった三冊しか残っていないことは充分承知の上で、その手紙の探索にのりだしたのである。それから三年間というもの、それこそ血眼になって探し歩いてみたものの、そのうちの二冊――二番目のはフランスの蒐集家ピエール・グレヴィーユのものだが――には、問題の自筆の手紙がないということがわかった。警察に追われてフランスを逃げ出さなければならぬ羽目になったウィリアムは、それこそやけくそになってアメリカ合衆国の土を踏んだのである。それでもまだ、最後の三冊目を調べてみるというはげしい妄執は捨てなかった。しかも、この三冊目というのは、皮肉にもウィリアムが、自分で仲介して、サミュエル・サクソンに購入させたものだった。彼はフランスのボルドーを出帆するまえに、ひそかにハムネットに宛てて手紙を書いた。
「弟はグレヴィーユに暴行を働いた一件について書いてよこしましたよ」と弱々しい口調で、セドラー博士は語りつづけた、「そのとき私は、シェイクスピアの手紙を探索するということが、弟のものすごい執念になっていることを知ったのです。幸運にも、そのすこし前に、ジェイムズ・ワイス氏の申し出を受けて、私自身アメリカへ行くことが決っておりました。私はなんとかしてウィリアムに会って、できることなら、罪を重ねるのを防いでやりたいと思いました。そんなわけで、私は一便早い船に乗りこみ、ニューヨークに着くと、さっそく、新聞の消息欄に広告を出したのです。ウィリアムはすぐに連絡してきました。私たち兄弟が、一時的に偽名を使って私が借りていた安ホテルの一室で会ったとき、弟は、ウェストチェスターにエールズ博士という昔の筆名を使って、家を一軒借りているのだ、と言いました。また弟は、サクソンの所蔵本をねらっているのだが、まずいことに、サクソンの遺言によって、他の蔵書といっしょにブリタニック博物館に寄贈されてしまったので、手に入れることができなくなった、とも言っておりました。さらにまた私に語ったところによると、ヴィラとかいうチンピラの泥棒をつかって、サクソンの屋敷にしのびこませ、その本を盗ませたのも弟だという話です。ところがヴィラがドジを踏んで、紙屑同然の、一目で|にせ《ヽヽ》ものとわかる本を盗んで来てしまったので、ウィリアムは匿名でそれをサクソン邸に送り返したそうです。弟はジリジリしているようすでした。博物館は修理中で休館しているんだが、なにしろ狙っているジャガード本は、他の本にまじって遺贈されてしまったのだから、なんとしてでも博物館に入りこまなくちゃならん、というわけなのです。貪欲のために気ちがいみたいになっている弟の姿を見て、私はなんとかしてなだめようと試みました。事態は最悪でした。なにせ、この私自身、その博物館の館長になろうというのですからね。しかしウィリアムは最後まで折れず、私たちの最初の会見はものわかれになり、そのまま弟は帰ってしまったのです」
「すると、おそらく」とレーンがゆっくり言った、「いつかの晩、こっそりと弟さんの家を訪問なさったのは、あなただったのでしょうね――マフラーで顔をかくした客が来たと、老人の召使が言ってましたが?」
「そうです。しかし、あれも役には立ちませんでした。なにしろ気が転倒してしまって、ビクビクしていたのです。私としてみれば、あまり愉快な立場でもありませんからね」イギリス人は深い吐息をもらした、「ジャガード本が盗まれたとき、私は即座に、青帽子の男は弟のウィリアムだと悟ったのです。といって、それを口にするわけにはいかなかった。ウィリアムは、その日の晩、ひそかに私に連絡をとって、まず見込みはあるまいと半分あきらめて手にとったサクソンのジャガード本の裏表紙から、ほんとにシェイクスピアの手紙が出てきたと、それこそ得意満面に語って聞かせたのです。本のほうにはもう用はないから、博物館に送り返すつもりだとも言っておりました。自分はケチな泥棒とはちがうのだから、というわけで、良心の負担を軽くするためと、おそらくは盗難の発見をおくらせるためでしょう、弟は、自分で所持していたジャガードの一六〇六年版をかわりに置いてきたとのことでした。私は、そんな本が現存するなどとは聞いたこともありませんでしたし、弟がどこでそれを手に入れたものか、いまもってわかりません。外見は一五九九年版にそっくりなのですよ」
「それにしても、いったいなんだってまた、あなたは監禁などされたんです?」とサムがたずねた、「どこからその話になるんです?」
セドラー博士は唇をグッと噛んだ、「まさか弟が、あんなひどいことをするとは、夢にも思いませんでしたよ。ぼんやりしているところを、だしぬけに襲われたのです。ほんとうの兄弟だというのに!……先週の金曜日にセネカ・ホテルの私宛てに、弟から手紙が来たのです。タリータウンの近くの、弟の家とは別のところで、ひそかに会いたいという文面でした。なにか割り切れない調子でしたが、私はべつに気にとめませんでした、そのわけは――」博士の言葉がとぎれ、眼がくもった、「いや、とにかく土曜日の朝、私は博物館に寄って、チョート博士に会ってから、約束の場所に出かけたのです。それから――それから先はなんとも悲しい話なので、みなさん」
「弟さんがあなたを襲ったわけですな?」とボーリング署長がピシャリと言った。
「ええ」博士の唇がブルブル震えた、「なんと、この私を誘拐したのですよ――自分の兄をです! そして、弟は私を縛りあげ、猿ぐつわまでかました上に、息もつけないようなけがらわしい穴倉に監禁したのです……その後のことは、ご存じのとおりですよ」
「それにしても、なぜそんな真似《まね》を?」とサム警部がたずねた、「まったく合点がいきませんな」
セドラー博士はやせた肩をすくめた、「おそらく弟は、私が密告するとでも思ったのでしょう。事実、私も興奮のあまり、警察に密告すると言って弟をおどかしたことがあるくらいです。弟は、シェイクスピアの手紙を持って、国外に逃亡するまで、私に妨害されたくなかったのだろうと思いますね」
「じつは、あなたの片眼鏡《モノクル》が、殺人の行われたあとで、エールズ博士の家で発見されたんですが」とサム警部はきびしく追求した、「その点、ご説明ねがいたいですな」
「私の片眼鏡《モノクル》? ああ、そうですか」博士はだるそうに手を振った、「そういえば、新聞になにかそんなことが出ていましたね。といって、私には説明できません。きっとウィリアムが私から取りあげて――弟はシェイクスピアの手紙が母屋に隠してあるから、それを取りに帰って、それから逃亡するんだと言っていました。しかし、おそらく弟は、家の中で殺害者と出会って、もみあっている最中に、なにかのはずみでポケットから片眼鏡《モノクル》を落してこわしたのだろうと思いますね。うたがいもなく、弟が殺されたのは、問題の手紙を所持していたからですよ」
「では、そのシェイクスピアの手紙は、現在、あなたの弟さんを殺害した人物の手にある、というわけですね?」
「言うまでもないことです」
みじかい沈黙が、流れた。話のあいだに眠りこんでしまったドノヒューの|くったく《ヽヽヽヽ》のなさそうないびきが、小銃の音のように、沈黙の時間に刻み目をつけていた。やがてペイシェンスとロウの二人が、おたがいに顔を見あわせると、すっくと椅子から立ちあがり、両側からベッドをのぞきこんだ。
「それで、シェイクスピアの手紙の秘密というのはどうなったんです、セドラー博士?」とロウが眼をかがやかして、問いつめた。
「それをはぐらかしてしまってはいけませんわ!」とペイシェンスが叫んだ。
ベッドの上の博士は、微笑をうかべて二人を見た、「じゃ、あなたがたも、やっぱり知りたいのですな?」と博士は、ものやわらかな口調で言った、「まえにも言ったと思いますが、秘密というのは……|シェイクスピアの死《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》に関することなのですよ」
「まあ、シェイクスピアの死にですって?」
「で、それから?」ロウの声はかすれていた。
「でも、自分の死について書き残すなんてできるのかしら?」とペイシェンスがたずねた。
「いや、ごもっとも」博士はクスクス笑った、と思うと、いきなりベッドの中でからだを動かして、眼をかがやかせながら言った、「では、シェイクスピアの死因はなんだと思います?」
「そいつは、はっきりしていませんよ」とロウがつぶやいた、「臆測やら、多少の科学的診断も行なわれてはいますけどね。『ランセット』誌の古い号に載《の》っていた論文を読んだことがありますが、シェイクスピアの死は、いろいろな原因の奇妙な組合せによるものだ、としてありましたね――チフス、てんかん、動脈硬化、慢性アルコール中毒、腎臓病、運動失調、その他いろいろとあげてありましたよ。たしか全部で十三種類でしたね」
「ほほう」とセドラー博士はつぶやいた、「面白いですな。三世紀前の、その自筆の手紙によるとですね――」博士はちょっと間をおいた、「|シェイクスピアは殺害されたのですよ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》」
*
一瞬、魂を凍らせるような沈黙が、あたりを支配した。セドラー博士は奇妙な微笑を浮かべながらつづけた、「その手紙は、シェイクスピアがウィリアム・ハンフリイという人物にあてて書いたもののようです――」
「ハンフリイ!」とロウが小声で言った、「ウィリアム・ハンフリイですって? ぼくの知るかぎり、シェイクスピアに関係のあるハンフリイはたたひとり、オジアス・ハンフリイがいるだけですがね。例の、一七八三年にマローンの依嘱を受けて、チャンドスの肖像画のクレヨンの下絵を描いた男ですが。レーンさん、その手紙のハンフリイというのをご存じですか?」
「いや」
「シェイクスピア学者にとって新しい名前ですよ」とセドラー博士が言った、「その――」
「そうだ!」とロウが眼をむいて叫んだ、「W・H・だ!」
「なんですって?」
「W・H・ですよ。十四行詩《ソネット》集の捧げられた謎のW・H・ですよ!」
「なかなか穿《うが》った考えですね。そうかもしれない、なにしろその点については、はっきりした結論は出てないのですからな。とにかく、われわれにわかっているのは、ウィリアム・ハンフリイがジョン・ハンフリイ・ボンド卿の直系の先祖だということですよ!」
「それで説明がつきますわね」とペイシェンスが感に耐えたような声を出した、「その手紙の入っていた本が、ハンフリイ・ボンド家にあるということが」
「たしかにそうですね。ハンフリイはシェイクスピアのごく親しい友人だったようです」
ロウは、ベッドの足もとでパッととび上った、「このことだけは、はっきりさせてくださらなくちゃ困ります」と青年は嗄れ声で言った、「その手紙の日付はどうなんです? いつ送られたんです?」
「一六一六年四月二十二日です」
「え! じゃ、シェイクスピアの死ぬ前日じゃないですか! 博士――博士ご自身でその手紙をごらんになったのですか?」
「いや、残念ながら見ていないのです。しかし、弟がそう話してくれました。自分だけで秘めておくことができなかったのですな」とセドラー博士はため息をついた、「不思議でしょう? その手紙の中でシェイクスピアは、友人のウィリアム・ハンフリイにあてて、自分は『急速に衰えつつ』あり、『ひどい肉体的衰弱』に悩まされ、だれかが少しずつ自分を毒殺しているにちがいない、と書いているのです。そしてつぎの日――彼は死んだのです」
「こいつは驚いたなあ」とロウはなんどもなんどもくり返して言いながら、まるでネクタイが自分の頸をしめでもするように、しきりにそれを指でしごいた。
「毒殺ですと?」警部は頭をふった、「いったい、だれが奴さんを毒殺しようなんて、思いたったんです?」
ペイシェンスが固苦しい口調で言った、「たいへんなことですわね、あたしたち、まずはじめに三百年まえの殺人事件を解決して、それが終ってから……」
「終ってから?」とレーンが奇妙な声できいた。
彼女はかるく身ぶるいすると、老優の視線をさけて、横をむいた。
二十八 ベルの手がかり
突然、ペイシェンス・サムは、ガラリとひとが変ってしまった。警部の心配は、よそ目にも立つほどだった。彼女は小鳥のように食がほそり、夜もろくに眠らず、自宅のアパートから事務所へ毎日通うさまも、やせ細った幽霊のように青ざめ、物思いに沈んで見えた。ときには頭痛を訴え、数時間も自分の部屋にとじこもったきりだった。そして出てきたときは、きまって大儀そうな打ちしおれたようすをしていた。
「いったいどうしたんだね?」と警部は、ある日、うまく機会をとらえると、たずねてみた、「ボーイ・フレンドと喧嘩でもしたのかね?」
「ゴードンと? いやだわ、パパったら。あたしたち――ただの仲のいいお友だちよ。それにこのごろ、あのひと、ブリタニック博物館の仕事で目がまわるほど忙しいのよ。あまり会ってないわ」
警部は、口の中でなにやらブツクサ言って、娘の顔を心配そうに見つめた。その日の午後、警部は博物館に電話して、ゴードン・ロウと話してみた。だが、青年のほうはあいかわらずのうわの空で、いっこう埓《らち》があかなかった。いいえ、べつにこれといって心あたりも――受話器を置いた警部は、いかにも試練に苦しむ父親といったありさまだった。その日は一日中、ミス・ブロディにあたりちらしてばかりいた。
タリータウンの病院で博士と会見した日から、一週間ばかりたったある日、ペイシェンスはまあたらしいリネンのドレスに身を装い、ひさしぶりで以前の元気な彼女にかえって、父親の事務所に姿を見せた、「ちょっと遠足にね」と彼女は、白い網《あみ》手袋をはめながら言った、「郊外のほうに行ってみたいの。いいかしら、パパ?」
「ああいいとも、結構だよ」と警部はいそいそと答えた、「心おきなく遊んでおいで。ひとりでかね?」
ペイシェンスは手鏡をとり出すと、顔をあらためた、「もちろんよ。ひとりじゃ、いけません?」
「いや、わしはその――例のロウ君だな――パット、ここのところあの男は、さっぱり顔を出さんじゃないか?」
「まあ、パパったら! あのひと、きっと――すごく忙しいのよ。それにそんなこと、あたしの知ったことじゃないわ」彼女は、父親のつぶれた鼻の頭に軽く唇をあてると、風のように部屋から出ていった。警部は、なにかと気にさわるロウに、ひどい悪罵を口のなかでつぶやくと、力一杯ベルを押して、ミス・ブロディを呼んだ。
ペイシェンスの、あのかろやかな態度は、彼女が階下におりて、車に乗り、走り出したかと思うと、そのとたんにサッと消えてしまった。そして、ここ何日ものあいだ、眉のあたりに刻みこまれていた皺が、いっそう深くなった。五番街のブリタニック博物館の前は、そのまま無視してあっさり通りすぎた。しかし、六十六丁目の交叉点で赤信号にとめられたとき、さすがに彼女はバックミラーをのぞきこまずにはいられなかった。むろん、なにも見えるはずがなかった。彼女はホッとため息をつくと、車を走らせた。
タリータウンまでは、長くて淋しいドライヴだった。手袋をはめた手で、ハンドルをたくみに握ってはいたものの、心はまったくうわの空の運転ぶりだった。目こそ前方の道路にたえずくばっているが、気持ちはずっと遠くにあったのだ。
ペイシェンスは町のまんなかにある薬屋《ドラッグストア》のまえで車をとめると、店の中に入っていって、電話帳を繰り、店員と二、三言葉をかわすと、すぐにまた出て来た。それから車を走らせて、せまい横町にまがり、番地を見ながら、のろのろと進んでいった。五分ばかり行ったころ、探していた家が見つかった――ほんの形ばかりの前庭のある、こわれかかったような木造の平屋《ひらや》で、いまにも倒れそうな垣根の柱に、蔦《つた》がからんでいる。
ペイシェンスはポーチにあがって呼鈴を押すと、家の中でかすれたかぼそい音がひびいた。疲れにトロンとした眼つきの中年の女が出てきて、網戸をあけた。くたびれたふだん着に、石けんの泡だらけの赤い手をしている、「なにかご用?」と女はつっけんどんに言った。その眼には、ひけめを感じているものの敵意が燃えている。
「マックスウェルさんはおいでですの?」
「どっちの?」
「あら、何人もいらっしゃるんですの? このあいだまでエールズ博士のお宅のお世話をしていた方ですけど」
「ああ、義兄《にい》さん」女は鼻をならした、「そこで待ってて、いま見てくるから」
女は奥に入った。ペイシェンスはため息をついて、ほこりだらけの揺り椅子に腰をおろした。と、すぐにマックスウェル老人が、下着の上にじかに上衣をひっかけながら、背の高い白髪の姿をあらわした。鶏のガラのようなゴツゴツしたのどが、むき出しになっている。
「や、サムのお嬢さまで!」老人はかん高い声で言うと、ショボショボした眼で通りのほうを見て、彼女の連れを探した、「私になにかご用で?」
「ご機嫌よう、マックスウェルさん」とペイシェンスはほがらかに言った、「あたし、ひとりでうかがいましたの。どうぞ、おかけになって」老人は、陽焼けした肌のように、ボロボロ皮のむけた脚のグラグラする椅子に腰をおろすと、おどおどしながらペイシェンスの顔を見た、「爆発のことは、すっかりお聞きになったでしょ?」
「はい、聞きましたとも、お嬢さま! いやもう恐ろしいことで。私はまあ、なんて運がよかったんだろうと、弟や義妹にも話したんですよ。あの日、みなさんがおいでくださらなけりゃ――私をあの家から連れだしていただけなかったら、私のからだはバラバラになっちまったところですからね」マックスウェル老人はさもおびえたように、身をブルッとふるわせた、「それで、もう――下手人は見つかったんですか?」
「それが、まだだと思いますわ」ペイシェンスの眼がするどくなった、「マックスウェルさん、じつはあたし、この事件のことをなんどもなんども考えてみましたの。ことに、あなたの話してくださったことをね。それで、どうしてもあなたが、なにかまだ言い残していらっしゃるとしか思えませんの?」
老人はギョッとすると、とびあがった、「と、とんでもない! 私はなにからなにまでお話しましたよ。ぜったいに――」
「いいえ、なにもあなたがわざと嘘をついたなんて言うんじゃないのよ……あら、蜂よ、気をつけて!……あたしが言うのは、なにか大事なことを言い忘れているんじゃないか、ということなんだけど」
老人はふるえる指で頭をかいた、「いや、べつに――さっぱり思いあたりませんですねえ」
「ね、いいこと」ペイシェンスはすばやく坐りなおした、「だれもかれも――あたしだけは別ですけど――ひとつだけ見落していることがあるんです。覆面をした男があなたを閉じこめた車庫の壁は、とても薄かったですわね。車庫は、母屋《おもや》の玄関から、ほんの五、六フィートのところにあったし、田舎《いなか》の深夜だから、物音なんかきっとよく聞こえたと思いますのよ」彼女は上体をまえにかたむけ、声をひそめて言った、「|あなた《ヽヽヽ》、|玄関のドアの上のベルが鳴るのを《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|おききにならなかった《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》?」
「ああ、そうだ!」老人は眼を見はって叫んだ、「聞きましたよ!」
*
ペイシェンスが父親の事務所にとびこむと、ドルリー・レーンがいちばんいい椅子に腰をおろして、ながながと足をのばし、サム警部はなにかイライラしているようすだった。窓のところにはゴードン・ロウが立って、憂鬱そうにタイムズ広場《スクエア》を見おろしていた。
「どうしたの――会議中?」とペイシェンスは手袋をぬぎながらたずねた。彼女の眼は、すばらしい吉報にキラキラと輝いていた。
ロウ青年がふりむいた、「パット!」と叫ぶなり、かけよった、「警部さんの電話で、とても心配してたんだ。大丈夫なの!」
「ええ、ありがとう」ペイシェンスは、そっけなく答えた、「あたし――」
「ぼくはひどい目にあっちまったんだ」と青年はガッカリしたような口調で言った、「ぼくの研究はもうニッチもサッチも行かないんだよ、パット。台なしさ」
「あら、おもしろそうね」
「やれやれ」彼はペイシェンスとむかいあって腰をおろすと、ロダンの『考える人』のポーズをとった、「はじめから駄目だったんだ。方向がまちがっていたんだよ。ぼくのシェイクスピアについての大研究もこれでパーさ。参ったなあ」彼は嘆息した、「何か月、いや何年の努力も、これでまったくの水の泡か……」
「まあ」とペイシェンスは言った。その表情がなごんだ、「ごめんなさい、ゴードン。あたし、ちっとも知らなかったものだから――可哀そうなひと」
「くだらん話はあとまわしだ」とサム警部がうなり声をあげた、「いったい、どこへ行ったんだね? わしらはおまえをおいてけぼりにして、出かけるところだったんだよ」
「まあ、どこへ?」
「セドラーに会いにだ。レーンさんは思いつかれたことがあって、事務所によられたんだよ。あなたから話してやってくださったほうがよさそうですね、レーンさん」
老優は、ペイシェンスのようすを喰い入るように見まもっていた、「ま、それはあとまわしでもいいでしょう。ペイシェンスさん、どうしました? よほどうれしいことがあると見える、ちゃんと顔に書いてありますよ」
「まあ、やっぱり?」ペイシェンスは神経質に笑った、「あたしって、昔からお芝居が下手なのね。じつはあたし、たったいま、すばらしい大発見をしてきたとこなんです」彼女は、話の途中で、わざと煙草を一本とりだした、「マックスウェル老人と話してきましたの」
「マックスウェル?」サム警部が顔をしかめた、「なんでまた?」
「このまえ会ったとき、聞きもらしたことがあるんですの。だれも聞かなかったことで、ふと思いついたことがあったものですから……あのひと、殺人のあった晩に、エールズの家に何人の訪問者があったか、ちゃんと覚えていましたわ!」
「なるほど」とレーンがしばらく間をおいてから言った、「それがほんとうなら、なかなか面白い。どんな具合です?」
「覆面の男が家の中を荒しまわったり、殺人が行なわれたりしているあいだ、あの老人はずっと車庫の中にとじこめられていたけど、意識だけはちゃんとしていたのです。あたし、玄関のドアに、あの、なんていうのかしら、ドアがあくたんびにチリンチリン鳴る古風な仕掛けが、てっぺんについていたのを思い出したんです」
「ああ!」
「で、あたし、マックスウェル老人は、ドアがあくたびに鳴ったその音を全部聞いたにちがいないと思ったんです! あたしはそのことを、彼に聞いてみました。そして案の定、はっきりとおぼえていましたの。そんなこと、べつにたいして重要じゃないと思われていたようですけど――」
「いや、おそろしく頭がいいですね」とレーンがつぶやいた。
「どうしてもっと早く、それに気がつかなかったのか、ほんとにあたし、どうかしてましたわ。とにかく、マックスウェル老人は記憶をたどって、ちゃんと思い出してくれましたの。覆面の男が、老人を車庫にとじこめて出ていったあと――つまり、男がマックスウェルの鍵をとりあげて、母屋のほうに歩いていったあとで――マックスウェルは、はっきりと、玄関のドアのベルが二度鳴るのを聞いたんです。一度鳴って、ほんの五、六秒してまたもう一度、というふうに二度ですの」
「二度か?」とサムが言った、「じゃ、玄関のドアをあけたときと、中に入ってしめるときの二度だ」
「そのとおりよ。これでまず、覆面の男がひとりで家の中にいるってわけだわね。それからしばらくして――たぶん三十分以上はたっているとマックスウェル老人は言うの、またつづけざまに二度鳴ったそうですの。しかもそれからじきにまた、二度鳴ったんですって。それが最後で、あとはもう朝までなにも聞こえなかったそうよ」
「それでもう」とレーンが変な言い方をした、「充分だと思いますね」
「すごいぞ、パット」とロウが叫んだ、「こいつはものになりそうだな! 最初の二回は、きみの言うように、覆面の男が車庫から母屋にもどるときのベルだね。二度目のは、あとから来た男が家に入るときのだ。三度目のは、二人のうちどちらかが出てくるときのベルというわけだよ。それ以後は、鳴らなかったんだから、つまり殺人の行われたときは、母屋の中に二人しか人間がいなかったことになる――覆面の男と、もうひとりの訪問者の二人だ!」
「ゴードン、それでピッタリよ」とペイシェンスが叫んだ、「あたしの推理とそっくりおなじ。覆面の男は、時計の証拠から考えて、斧をふるった人物だし、斧をふるった男が殺害犯人だということは、被害者の死体の手頸と腕時計の傷から見てあきらかだわ。したがって、あとから来たほうの男が被害者で、殺害されてから地下室にほっておかれたというわけね!」
「二人にしぼるなら」とレーンがさりげなく言った、「たしかに勘定があいますな、警部さん」
「ちょっと待った」とサム警部が口を出した、「早まっちゃいかんぞ。どうして二度目に鳴ったのが、あとから来た男のだとわかるんだね?覆面の男が、家を空《から》にして、出ていったのかもしれんじゃないか? そして三度目のやつが、あとから来た男の――」
「ちがうわ、それじゃおかしいと思わないこと?」ペイシェンスが声をはりあげた、「だってそのとき、だれかが家の中で殺されたわけでしょ? じゃ、いったい、それはだれ? あとから来た男が、覆面の男が出て行ってしまったあとで家に入ったとしたら、いったい、どういうことになって? 殺害犯人のいない被害者というわけ? あとから来た男が被害者にまちがいないわ。この男は、家を出なかったのよ。玄関のベルは鳴らなかったのだし、ほかのドアや窓はぜんぶ内側から鍵がかけてあったのを、あたしたち、見たはずじゃないの。それが、もしその男が被害者で、しかもひとりぼっちで家にいたのだとしたら、殺したのは、いったい、だれ? やっぱり、ゴードンの言ったとおりなのよ。出て行ったのが犯人で、それは覆面の男だわ」
「すると、結局のところ、どういうことになりますかな」とレーンがゆっくり呟いた。
「犯人が割り出せますわ」
「そのとおり!」とロウが叫んだ。
「ね、いいこと――あなたは黙ってて、ゴードン! あの晩、あの家には二人の男がいた。そのうちの一人、つまり被害者はセドラー兄弟のどちらかです――死体の特徴から考えても、ほかの人間では絶対にありえない。ところで、あの家にやって来た人間二人のうちの一人は、シェイクスピアの手紙がどこにあるか、はっきりと知っていた。その男は、書斎の隠し戸棚に行ったけれど、もうひとりのほうは、それを知らなかった。だから、その男は、その隠し場所を探すために、家の中じゅう斧で叩きこわしてまわったわけ。では、隠し戸棚のありかを、もっともよく知っていそうな人物は、いったい、だれか?」
「あのエールズという男――ウィリアム・セドラーだ」と警部が言った。
「そう、そのとおりよ、パパ。だって彼が自分で隠し戸棚を作って、シェイクスピアの手紙をしまったのですものね。してみると、あとから来た男は手紙の隠し場所を知っていたのだから――最初に来たほうは、それを知らないで斧をふりまわした男だわね――とすると、エールズ博士があとから来た男ということになる。このことは簡単に証明できるわ、なぜって、あとから来た男が、わけなく家に入れたんですもの。玄関のドアは自動的に鍵がかかるようになっているし、マックスウェル老人の合鍵は最初に来た男が持っているのに、あとから来た男は家に入れたんですもの。エールズ博士の親鍵を使う以外に考えられないじゃなくて?」
「じゃ、覆面の男はだれだと思うんだね?」とサム警部がたずねた。
「それには、|れっき《ヽヽヽ》とした証拠があるわ。あたしたちがホールで見つけた片眼鏡《モノクル》の破片よ。事件に関係のある人間で、片眼鏡《モノクル》をかけているのは、セドラー博士ただひとりだわね? マックスウェル老人は、以前に、あの家で片眼鏡《モノクル》など見たことはないと証言しているのだから、これは殺人のあった晩、あの家にハムネット・セドラーがいたということを示している! もしハムネットが家の中にいたとすれば、それは二人のうちのひとりであり、もうひとりはエールズ博士、つまり弟のウィリアムということになるわね。ところが、いまあたしが証明したように、ウィリアムは被害者なのだから、したがってハムネットは必然的に弟殺しの犯人ということになります!」
「こいつは驚いた」とサム警部が言った。
「ちがう、ちがうよ、ペイシェンス」とロウが言うなり、椅子から立ちあがりかけた、「それは――」
「ちょっと待ってください、ゴードン君」とレーンがしずかに言った、「いかなる根拠に立って、あなたはハムネット・セドラー博士が、この事件の中心人物だと、断定するのです、お嬢さん?」
「それは、こうですわ」とペイシェンスは、挑むような視線を、ロウの顔に投げた、「いろいろな理由から、ハムネット自身、シェイクスピアの手紙を狙っているひとりだということが言えます。まず第一に、博士が愛書家であるということ――自分でも、シェイクスピアの手紙のことについては弟のウィリアムから聞いていたと言ってますし、シェイクスピアの自筆の手紙が自分の手にはいるチャンスがあるというのに、彼の学者|気質《かたぎ》が指をくわえてみすみす見逃すはずはないと思いますわ。第二の理由は、博士が突然、ロンドンの博物館長の職をなげうって、イギリス人が馬鹿にするアメリカの博物館館長に、しかも|給料がさがるというのに《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、就任したという奇妙な事実です。つまり、合法的にサクソンのジャガード本に近づけるチャンスが、むこうからやってきたというわけですわ! それから最後に、予定されていた到着日よりも前に、秘密裡にニューヨークにやって来たという事実です」
レーンはホッとため息をついた、「じつに見事です、ペイシェンスさん」
「おまけに」ペイシェンスは息もつかずにつづけた、「ハムネットが斧の男だと断定できる論拠は、兄弟二人のうち、彼のほうは手紙の隠し場所を知らず、したがって、斧をふるってメチャメチャに探してみる必要があったにちがいない……という事実でもはっきりしますわ……セドラー兄弟をあの家の中に立たせて考えてみれば、犯行現場の状況を再現するのはいとも簡単です。ハムネットがまだ二階のウィリアムの寝室を荒し廻っている最中に、ウィリアムが帰ってきて、書斎の隠し戸棚からシェイクスピアの手紙をとり出す。それから間もなく二人の兄弟はパッタリ顔をあわせる、ハムネットは、探していた手紙がウィリアムの手にあるのを見て、斧をふるい、弟の腕時計と手頸に傷を負わせる。そして、格闘しているうちに、ハムネットの片眼鏡《モノクル》が床に落ちてこわれる。ハムネットがウィリアムをピストルで撃って、弟の死体を地下室に放りこみ――」
「いや、ちがう!」とロウが叫んだ、「ペイシェンス、黙っていたまえ。レーンさん、ぼくの意見を聞いてください。ぼくはある点までは、ペイシェンスの意見とまったく同じです――ウィリアムとハムネットがあの家に入った二人だということ、ウィリアムが手紙を隠し戸棚からとり出した男で、ハムネットのほうは斧をふるった覆面の男だということ、そこまではいいんです。しかし、手紙の奪いあいで格闘している最中に、ウィリアムがハムネットに殺されたのじゃなくて、ハムネットがウィリアムに殺されたんですよ! 焼跡から出た死体は、どっちだとも言いきれませんからね。ぼくは、現在ハムネットだと名乗っている男、つまり、あの小屋の中で監禁されたまま飢え死しかかっていた男こそ、ウィリアムだと思うんです!」
「ゴードン」とペイシェンスがはねつけるように言った、「そんな――そんな馬鹿な話ってあるものですか。あなた、玄関のドアの親鍵が死体といっしょにあったのを忘れているのね。それだけとりあげてみたって、死体がウィリアムだということぐらい、わかりそうなものじゃない」
「あ、いや、ペイシェンスさん」とレーンが言った、「それは論理的ではありませんね。ゴードン君、その先をつづけてください。君の穿《うが》った意見の論拠はどこにあるのです?」
「つまり心理の問題ですよ。それを積極的に裏付ける証拠に欠けていることは、ぼくだってみとめます。ただぼくは、病院で寝ている男は、自分の正体について嘘を言っていると思うんです。というのは、ほんとうはウィリアム・セドラーなんだけれど、フランス警察から指名手配されているためなんです。むろん、生き残っている以上、シェイクスピアの手紙は彼の手にあるわけで、それを処分するためにも、行動の自由が必要だからなんです。あの男にいろいろな知識が自由に入手できたことを計算に入れてください。警部さんが前の晩、新聞記者にむかってみんなベラベラ喋ってしまったから、洗いざらい新聞に出ちゃったし、そのほかの点は、翌日の朝、記者連中からじかに聞き出しているわけですからね」
レーンは奇妙な微笑を浮かべた、「君の理論も、なるほど仮説としては、充分成り立つと思いますね、ゴードン君。なかなか鋭い意見だ。それにしても、爆弾をしかけたのはだれなのです?」
ペイシェンスとロウは顔を見あわせた。二人の意見はあっさり一致した、つまり、こういう意見である――爆弾は殺人の行なわれる二十四時間前に、ぜんぜん別の第三者によってしかけられた、その目的はただひとつ、理由は不明だが、シェイクスピアの手紙を消滅させるためである。そして、この第三者は時限爆弾をしかけると、自分の仕事は終ったものとみて、現場からサッサと姿を消してしまった、というのである。
老優は低い声で言った、「すると、誘拐のほうはどうなります? 生き残ったのがウィリアムであれ、ハムネットであれ、どうしてその男は、わざわざややこしい筋書などを作って、警察に『瀕死の状態』で発見されるような真似をしたのでしょう? われわれが見つけたとき、彼は正真正銘、衰弱しきっていて、餓死寸前だったではありませんか」
「そんなこと、なんでもありませんわ」とペイシェンスが答えた、「ウィリアムにしろ、ハムネットにしろ、目的は同じですもの。にせの誘拐事件をでっちあげて、死人にその罪を着せようとしたんですわ。そうすれば企んだ本人は、ますます潔白らしく見えますもの」ロウも、半信半疑ながらうなずいた。
「じゃ、ドノヒューの一件はどうなんだね?」と警部が口を出した。
「ハムネットが生き残ったとすれば」とペイシェンスが言った、「それは彼の仕業よ。ドノヒューがエールズの家から出てくるのを見て、てっきりウィリアムの仲間だと思いこんだんだわ。だから、ドノヒューをつかまえて問いつめれば――ほら、拷問するっておどかしたそうじゃない?――手紙の隠し場所がわかると思ったのよ」
「それとは反対に、もしウィリアムが生き残ったのだとすればですね」とロウが口をとがらせて言った、「ドノヒューを誘拐したのは彼ですよ。なぜって、奴さん、ドノヒューにあとをつけられたんだから、いつ計画の妨害をされるか知れたもんじゃありませんからね」
「すると、結局のところ」とレーンが言った、「こういうことですね、二人とも、ハムネットとウィリアムの兄弟が、この犯罪の立役者である、という点では一致していながら、さて、肝心のどちらがどちらを殺したかという点になると、意見が決定的に分れてしまう。おもしろいですね、これは!」
「よろしい」警部が目の玉をギョロリとむき出して、破れ鐘のような声を出した、「ちょうどいい頃合いに話が出たわい」
「なんのことなの、パパ?」
「いや、なにね、パット。おまえが帰ってくるまえに、レーンさんが言われたんだが、ひょっとすると、あのイギリス人は嘘をついているのかもしれない、で、彼が嘘をついているのかどうか、試《ため》す方法がある、ということだったんだ!」
「試す方法ですって?」ペイシェンスが顔をしかめた、「あたしにはなんだか――」
「なに、ごく簡単な方法ですよ」とレーンは言って、腰をあげた、「とにかく、ブリタニック博物館へ行ってからの話です。ゴードン君、ハムネット・セドラーと名乗る男は、そこにいるんでしょうね?」
「ええ、いますとも」
「それなら大丈夫。さ、行きましょう。五分もあればいいのです」
二十九 錯覚
ハムネット・セドラーと名乗る男は、館長の事務室で、チョート博士といっしょに仕事をしていた。レーンの一行がゾロゾロと入っていくと、館長はちょっとびっくりしたような顔をした。イギリス人のほうはサッと椅子から立ち上ると、いそいそと笑顔で迎えに出てきた。
「これは、これは、みなさん、ようこそ」と彼は愛想よく言った。だが、一行の真剣な表情を見てとると、たちまち微笑は消えてしまった、「べつに変ったことはないのでしょうな?」
「まあね」と警部が言った、「チョート博士、恐縮ですが、しばらくのあいだ、席をはずしてくださいませんか。セドラー博士と内々の話があるのです。いささか秘密を要することでしてな」
「秘密?」机の前に立ちあがっていた館長は、そのままじっと一同の顔をひとわたり眺めまわした。それから眼をふせると、机の上の書類を指でいじりまわした、「ああ――結構です」山羊《やぎ》ひげのつけ根のあたりから、赤い色がゆっくりのぼっていった。彼は机のわきをぬけると、そそくさと立ち去った。セドラー博士は身じろぎひとつしなかった。一瞬、部屋の中は水を打ったみたいに静まりかえった。やがて警部がレーンにうなずいてみせると、老優は一歩すすみ出た。警部のはげしい息づかいだけが、部屋に聞こえる唯一の物音だった。
「セドラー博士」とレーンはいささかも表情をかえずに言った、「じつは――そう――科学上の問題として、あなたにほんのちょっとしたテストをさせていただく必要が生じまして……ペイシェンスさん、ハンドバッグを貸してくださいませんか」
「テスト?」イギリス人はちょっといやな顔をした。博士は服のポケットに両手をつっこんだ。
ペイシェンスはすばやくハンドバッグをレーンに手渡した。老優はバッグの口をあけてなかをのぞきこむと、派手な色のハンカチをひっぱり出した。それから口金をパチンとしめた、「さ、それでは」と老優は落着いて言った、「このハンカチの色は何色か答えてください」
ペイシェンスはハッと息をのんだ、突然のひらめきに、彼女は両眼をカッと見ひらいた。ほかの連中はただ唖然としてながめている。
セドラー博士の顔面は紅潮した。鷹《たか》を思わせる精悍《せいかん》なその顔には、さまざまな感情の葛藤《かっとう》が、ありありと色となってあらわれていた。博士はかすかに後ずさりした、「冗談にしてはすこし度が過ぎますな」と耳ざわりな声で言った、「こんな子供だましの実験をするなどとは、いったいなんの目的があってです?」
「まあまあ」とレーンは言った、「この何の害もない、ちいさなハンカチの色をあてていただいたところで、べつにどうということもありますまい」
しばらく沈黙がつづいた。やがてイギリス人は、視線も変えず、抑揚のない声で言った、「青です」
ハンカチは、緑、黄、白の三色だった。
「では、ロウ君のネクタイの色はどうでしょう、セドラー博士?」レーンは表情をくずさずにつづけた。
イギリス人は、すこし身体をまわした。その眼には苦痛の色があった。「茶色です」
ネクタイはトルコ玉のような空色だった。
「ありがとう」レーンはハンカチとハンドバッグを、ペイシェンスにかえした、「警部さん、この紳士はハムネット・セドラー博士ではありません。ほんとうの名前はウィリアム・セドラー、ときにはエールズ博士と名乗る方ですよ」
*
突然、イギリス人は椅子の中にくずれおちると、両手に顔をうずめた。
「いったいぜんたい、どうしてそれが分ったんです?」サム警部は、あっけにとられたように言った。
レーンは深く息をついた、「なに、簡単なことですよ、警部さん。五月六日に、あなたの事務所にやってきて、封筒を預けていったのはエールズ博士、つまり、ウィリアム・セドラーなのですよ。その男は、ハムネット・セドラーではありえなかった。この点は、自分でも指摘していたとおりです。ハムネット・セドラーは五月七日にロンドンで、自分の送別会に出席していますからね。ところで、エールズ博士ですが、封筒を持ってきたのだから、むろん中の記号も自分で書いたことになる――自分であの朝、あなたの事務所で話したとおりです。あの便箋と記号からどんなことが分りますか?」
「それは、つまり、その……いや、さっぱりわからんですな」と警部は言った。
「便箋は」とレーンは疲れたような声で説明した、「薄ねずみ色でしたね、そして、その紙の上のほうに、サクソン文庫ともうすこし濃《こ》いねずみ色で印刷してありました。それと、記号の書き方とを結びつけてみて、私にはピンときたのです」
「わしにはいっこうピンときませんな。わしらはただ、あれをさかさまに見ていたという、それだけでしょう? そしてあなたのほうは、ま、偶然、正しい方向から見ておられた」
「そのとおりです。つまり、ウィリアム・セドラーは Wm SHe という文字を、さかさまに書いてしまったのですよ! 言いかえると、あの記号を正しく眺めるならば、便箋の上部の印刷文字はひっくり返しになって、紙の下のほうにくることになるのです。このことは重大な意味をもっていたのです。ふつうだれでも、なにか便箋に書こうと思ってひろげた場合、無意識に上下を間ちがいなく――つまり、名前や住所の入ったほうを上にして――正しく置くものです。ところが、あの記号を書いた人物は、便箋をひろげて、それとちょうど逆のことをやってしまった! なぜでしょう?」レーンは口をつぐみ、ハンカチをとり出すと、かるく唇にあてがった。イギリス人は顔から手をはなして、グッタリと椅子に身を沈めたまま、くるしそうに床を見ている。
「わかりましたわ」ペイシェンスがため息まじりに言った、「偶然にそうなってしまったのでないとすれば、彼には上部の|印刷文字が見えなかった《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》だけの話なのね!」
「いや、そうなのです。まさにご名答。ちょっと考えると、ありそうもない話ですがね。それよりも、エールズ博士は急いでいたものだから、うっかり便箋をさかさまにしたまま、まさかあとで読む者が意味をとりちがえようなどとは考えもせずに記号を書いてしまった、と見るほうが自然かもしれませんね。しかし、理論的には、前の見方も可能なわけです。私にはその点を無視できませんでした。そこで私は、自問自答してみたのです。もしそれが事実としたら、いったいいかなる理由によって、こんなおかしな現象が生じたのか? なにゆえに、エールズ博士は、サクソン文庫の便箋に印刷された濃いねずみ色の文字を見落したのか? 盲目《めくら》なのか? いや、それは到底考えられない。警部さん、あなたの事務所を訪ねた男は、どう見ても視力はたしかなようすでしたね。そのとき、ふと私は、あることを思い出したのです……例の|顎ひげ《ヽヽヽ》のことですよ」
イギリス人は苦渋《くじゅう》にみちた眼をあげた。その瞳に、一瞬、好奇の色が浮かんで消えた、「顎ひげ?」と彼はつぶやいた。
「ほらね」レーンはニッコリと笑った、「いまがいままで、このひとは、自分がつけていた顎ひげにおかしいところがあるなどと、夢にも思っていなかったのですよ! セドラーさん、あの日、あなたが見せびらかしていたつけひげは、じつに妙ちくりんな、とんでもないしろものだったのですよ! 青と緑となにやら得体のしれぬ色のだんだら模様でしてね」
セドラーはポカンと口をあけた。彼はうなり声を出した、「そうか、しまった、私はあのつけひげを衣裳屋で買ったんです。たぶん、私が目的をはっきり言わなかったものだから、店の者が――仮装舞踏会かなにかで、ふざけたことに使う滑稽《こっけい》なひげが入用なのだと思いこんで……」
「いや、お気の毒でした」レーンはそっけなく言った、「いずれにせよ、ひげと便箋がその線で、ピッタリと符合したのです。私は、その記号を書いた人物が全色盲《ヽヽヽ》だという可能性が大いにある、と考えました。全色盲のことは、以前にも聞いたことがありましたし、友人のマーティニ博士にもたずねてみたのです。博士によると、全色盲の症例はきわめて稀《ま》れではあるが、たまたまそういう宿命を負ったものは、どんな色を見ても、ちょうど鉛筆画のように、さまざまな濃淡の灰色に感じるとのことでした。また、こういう可能性もある、と博士は教えてくれました、つまり、全色盲のかわりに、患者が色の濃淡をぜんぜん見わけられないといった場合で、このほうが全色盲と考えるよりも、便箋とおなじ色の印刷文字を、その人間に見わけられなかったという事実を説明するには、都合がいいのではないか、というわけなのです。マーティニ博士は、サクソン邸で、あれと同じ便箋を調べてみて、例の記号を書いた人物がたしかにそういった視力の欠陥をもっていると確信したのです」
イギリス人は身をうごかした、「私はこれまでいちども」とかすれたような声で言った、「色を見たことがないのです」
しばらくのあいだ、だれひとり口をきくものはなかった。「そこで、エールズ博士は」とレーンが深く息を吸うと、つづけた、「色盲である、と私は確信したのです。あなたはたったいま、私の確信が正しかったことを証明してくれました。あなたは、ペイシェンスさんのハンカチの色やロウ君のネクタイの色をきかれて、まるっきりわかりもしないのに、あてずっぽうに返答なさった。ところで、あなたは、ハムネット・セドラーと自称しておられる。しかし、ハムネット・セドラーは色盲ではありません! この博物館で、博士とはじめて会った日、彼はサクソン室でジャガードの一五九九年版が盗まれたケースを仔細に見て、簡単にしかも正確に、ケースにおさめられている本の装幀のさまざまな反対色はもとより、同じ色の濃淡まで見わけたのですからね。あのとき、博士はある本の装幀が金《ヽ》茶色だと言いましたが、これなど色盲の人間には金輪際《こんりんざい》できないことでしょう。さて、あなたはウィリアムかハムネットのどちらかです。ハムネットなら正常の視力をもっているはずだが、あなたは色盲です。したがって、あきらかにあなたはウィリアムである、ということになりますね。ごく初歩的な三段論法ですよ。さきほどのテストは、あなたが嘘をついているかどうかをためすために、私が提案したのです。やはり、あなたは嘘をついていた。あなたが病院でわれわれにした話は、ほとんど作り話だったわけですね。もっとも、かなりほんとうのこともまじっているとは思いますが。さ、こんどは、なにごともつつみ隠さず、ほんとうの話をみなさんにしてあげてくれませんか」
老優は言いおわると、椅子にふかぶかと腰をおろし、また唇にハンカチをあてた。
「たしかに」とイギリス人は小声で言った、「私はウィリアム・セドラーです」
*
ウィリアムは、まずエールズ博士として警部を訪問した。そして、シェイクスピアの手紙を探索する際に、自分に不慮の災難がふりかかってきた場合の手がかりとして――そんな心配をする必要はないと思ったものの、万一ということがあるので――例の記号を警部に預ってもらうことにしたのである。六月二十日に彼が電話をかけなかったのは、かけることができなかったからなのだ。万一のことがほんとうに起こってしまったのである。兄のハムネットが、サクソン家所蔵のジャガードの一五九九年版に近づけるというだけの理由から、ブリタニック博物館長の職を受諾したということは、現在になってやっとウィリアムにも分ったのだが、ウィリアムが、そのジャガード本を博物館から盗み出した日の夜、兄のハムネットが彼を誘拐してしまったのである。それは、ドノヒューがエールズの家にやって来た直後、ハムネットに襲われたのとおなじ夜のことだった。ドノヒューの時間の観念は、そもそも自分がどのくらい長く意識を失っていたのか、見当もつかない状態だったのだから、かなりあやふやだったのである……とにかく、そんなわけでウィリアムは、博物館の盗難事件の日から、警察の手で救い出されるまで、人里離れた一軒家に監禁されたまま、手も足も出ないありさまだったのである!
いかにハムネットが脅迫しても、彼はシェイクスピアの手紙の隠し場所を白状しなかった。ドノヒューのほうは、そんな手紙があることさえ知らなかったのだから、いくらおどかされても白状しようがなかった。ハムネットは、なに喰わぬ顔で博物館に通っていなければならなかったから、捕虜のところへは、ときたま、それも大急ぎでやって来るだけだった。いつまでたっても埓《らち》があかないので、しまいにハムネットは業《ごう》を煮やし、ある日ウィリアムに、とにかく手紙がウィリアムの家にあることはわかっているのだから、地下室に爆弾をしかけて、家もろともあの手紙を吹っ飛ばしてやることにしたと告げた。その爆弾は、ハムネットがある札つきの化学者に極秘裡に作らせたものだった。そのときになってはじめてウィリアムは、シェイクスピアの手紙に抱いている兄の真意を悟ったのである――兄はその手紙を保存するためではなくて、消滅《ヽヽ》させるために、追求しているのだ!
「しかし、いったいなぜなんだ?」ロウは両手をギュッと握りしめながら叫んだ、「そんな――そんなことは、野蛮きわまる冒涜《ぼうとく》じゃありませんか! かけがえのないシェイクスピアの手紙を消滅させるなんて、いったいなんのためなんです?」
「ハムネットは、気が狂っていたのかしら!」とペイシェンスが叫んだ。
ウィリアムは口をとざした。彼はレーンのほうをチラッと見やったが、老優はしずかにあらぬ方を眺めていた。「存じません」と彼は言った。
ハムネットがしかけた時限爆弾は、二十四時間後に爆発することになっていた。ひとたび爆発が起これば、シェイクスピアの手紙が永久に消滅してしまうという事態に直面して、とうとうウィリアムは降参《こうさん》したのである。それもひとえに、爆発をすこしでものばせばなんとか打つ手があるだろうと思ったからだ。監禁所から抜け出して、手紙を救うことだってできるかもしれない……そこで、彼は兄のハムネットに隠し戸棚の所在《ありか》と開け方を告げた。だが、ウィリアムは監禁所から逃げ出すわけにはいかなかった。それどころか、ハムネットはいかにも小気味よさそうに言うではないか――これからすぐにウィリアムの家にとって返して、自分の手でシェイクスピアの手紙を消滅させてやるんだ、時間はたっぷりあるし、時限爆弾のしかけを止めることもできる……ハムネットはウィリアムの持っていた親鍵をとりあげて出ていった。それが生きている兄のハムネットの姿を見た最後だった。そのあとの経過は、ドノヒューが脱走して、その注進で警察が救いに来てくれるまで、ウィリアムにはなにひとつわからなかった。病院に入れられて、ウィリアムは新聞を読み、記者たちから話を聞いた。そのときはじめて、爆発のあったことと、焼跡からセドラー兄弟のひとりとおぼしき死体が発見されたことを知ったのだ。ウィリアムはとっさに事情をのみこんだのである。ハムネットが手紙を探しあてて、まだ家の中にいるあいだに、運悪く、やはりその手紙を狙っていた第三者とパッタリ鉢合せしてしまったのだ。そして、この第三者がハムネットを殺害して手紙を奪いとってしまったのにちがいない。殺害者は、時限爆弾が地下室でチクタクと時を刻んでいようなどとは露知らず、貴重なシェイクスピアの手紙を持って、さっさと逃げてしまったのだ。ハムネットが死んだとなれば、爆弾のことを知っているのはウィリアムただひとり、しかも、そのウィリアムが監禁されて身動きできないありさまときては――爆発は予定どおり起こり、家は吹っとんだ。
「とっさにわかりましたよ」とウィリアムは怒りに声をふるわせて言った、「私たちのほかに、第三者が手紙を狙ってうろついており、その手紙はそいつの手に落ちてしまったのです。こんなに多くの――それこそ生涯のかけがえのない歳月を費《つい》やして、あのシェイクスピアの自筆の手紙を探しまわってきたというのに……私は、あの手紙がもうこの世にはないものとあきらめておりました。ところが現在、まだ無事に残っていると確信したのです! 私はまたふり出しにもどって、はじめからやりなおさなくてはなりませんでした。どうあっても兄を殺害した犯人をつきとめ、あの、シェイクスピアの手紙をとりもどさなければならないと決心したのです。ところで、自分はウィリアム・セドラーだと名乗れば、この計画は挫折するにきまっています。なんといってもこの私はボルドー警察に追われている身ですし、フランスの官憲に引き渡されて、取調べを受けているあいだに、シェイクスピアの手紙が永久に私の手のとどかないところに行ってしまう危険があります。そこで警察が、焼跡から出て来た死体を、兄弟のどちらとも決めかねているのに乗じて、さいわい私たち兄弟はそれこそ瓜《うり》二つ、声までそっくりなのをいいことにして、私は兄のハムネットになりすましたのです。どうやらチョート博士は私のことを|くさい《ヽヽヽ》とにらんでいたようです。この一週間というものは、それこそ薄氷を踏む思いでした」
ウィリアムの話が終るまでに、一同には、ハムレット荘へ行く途中でペイシェンスとロウを襲ったのはハムネットであることがのみこめたのである。レーンを郵便局まで尾行して、ハムレット荘に封筒を持ってくるようにというサム警部あての電文を盗み読みしたハムネットは、封筒の中身が狙っているシェイクスピアの手紙そのものだと思いこんでしまったのである。
*
警部は唇をへの字に曲げ、ペイシェンスはすっかり意気消沈し、ロウは顔をしかめて行ったり来たりした。レーンだけがしずかに腰をおろしていた。
「断っておくがね」サム警部がやっと口をひらいた、「あんたの言うことは、いぜんとして信用できませんな。あんたがウィリアムだということは、ま、信じることにしましょう。しかしですな、だからといって、あんたがあの晩、あの家にやって来た二番目の人物ではない、という証明にはならんのですぞ! あんたが嘘をついていると思われる節《ふし》は掃くほどあるんだからね。あんたがハムネットに監禁されていた部屋から脱走し、そのあとを追って自分の家までやって来て、ハムネットを殺害し、手紙を奪い返したのではないという証拠は、どこにもないんですからな。第三の人物がハムネットを殺害し、手紙を持ち逃げしたなどと、でたらめもいいところだ――第三の人物がおるとかおったとか、そんなことがだれに信じられるものか!」
ウィリアム・セドラーはしだいに青くなった、「いや、私は――」彼は口ごもりながら言いかけた。
「いいえ、パパ」とペイシェンスは、うんざりしたように言った、「それは間違っていてよ。このウィリアムさんは、お兄さんの殺人に関しては無実です。それはあたしにだって証明できますわ」
「ほう」レーンは眼をパチパチさせながら言った、「それができますかな、ペイシェンスさん?」
「この方がウィリアムさんだということは、もうあきらかですわね。とすると、被害者はセドラー兄弟のどちらかなのですから、とうぜんハムネットということになります。問題は、ハムネットが殺人事件の当夜、あの家に入った第一の人物か、第二の人物かということです。第一の人物は、マックスウェル老人を車庫にとじこめたあとで、母屋にひきかえすために、老人の持っていた合鍵をとりあげる必要があったことがわかっていますね。したがって、第一の人物は、あの家にやって来たときは、鍵を持っていなかった、ということになります。ところがハムネット・セドラーはちゃんと鍵を持ってやって来た――このウィリアムさんからとりあげた親鍵で、これはあとで死体のそばから出てきたものです。ですからハムネットは二番目の訪問者にちがいありません。ハムネットが二番目なら、殺害者は最初に来た人物です。だって、マックスウェル老人のベルの証言でもわかるように、訪問者は二人しかいないんですものね。では、最初に来た覆面の男はいったいだれでしょうか?」ペイシェンスは熱心に言いつづけた、「あたしたち、かなりまえに、第一の人物は斧をふるった男だということを証明しましたわね。したがって、ハムネットは斧をふるった男に殺害されたことになります。パパがいま言ったみたいに、ウィリアムが斧をふるった男だと考えられるでしょうか? いいえ、ちがいます。だってウィリアムは世界中のだれよりも隠し戸棚をよく知っていたのですものね。どんな事情があったにしろ、家の中をめちゃめちゃに叩きこわしてまわる必要なんか、ウィリアムにはありっこないんですもの! したがって、ウィリアム・セドラーは斧をふるった男ではなく、あの晩、あの家には行かず、ハムネットを殺しもしなかった、そして、この事件には第三の人物がいる、とあたしには断言できるのです。この第三の人物こそ斧をふるった男であり、手紙のありかを知らず、ハムネットが隠し戸棚から手紙をとり出したあとで、彼を殺害し、死体を地下室に放りこんで、シェイクスピアの手紙をもって逃げた男なんです!」
「すごい!」とロウ青年は間髪おかずに言った、「それにしても、そいつはいったいだれなんだろう?」
「あたしたちこそ、ふり出しにもどって、もういちどはじめから出直さなくてはいけないんじゃないかしら」とペイシェンスは肩をすくめながら言った。そして額に深い皺をよせると、むっつりと押し黙ってしまった。と、まったくだしぬけに彼女はかすれたような叫び声をあげた。顔がまるで死人のように蒼白だった、「まあ!」と彼女は言ったかと思うと、フラフラと椅子から立ちあがりかけた。からだがヨロヨロとした。ロウが、「あぶない!」と叫んでかけよった。「パット、大丈夫かい? どうしたの? なにがあったの?」
警部はロウをあらあらしく押しのけた、「パット、気分でも悪いのか?」
ペイシェンスは、よわよわしくうめいた、「あたし――あたし、なんだかとても変な気分なの。あたし、やっぱり――病気らしいわ……」彼女の声は途中で消えてしまった。とたんに、足もとがよろめいて、父親の腕のなかに倒れこんだ。
レーンとウィリアムは、椅子からとびあがるとまえに出た、「警部さん!」とレーンはするどく言った、「お嬢さんが……しっかり!」
ロウがパッとかけよって、床の上にくずれかけたペイシェンスのひざをだきとめた。
*
サム警部とロウ青年が、軽いヒステリーを起こして泣きじゃくるペイシェンスをタクシーにのせて、アパートにむかって連れかえったあと、ドルリー・レーンとウィリアム・セドラーの二人は、館長室に残っていた。
「暑さのせいでしょうな」とウィリアムはつぶやいた、「かわいそうに」
「そうでしょうな」とレーンは言った。立ったままでいる老優の姿は、雪をいただいた松の木のようにすらりと高かった。その両眼は底知れぬ穴のように、暗く深かった。
ウィリアムは、突然、ブルッと身をふるわせた、「これで、なにもかもおしまいですね? 私の探求も終りです」と彼は苦い口調で言った、「こうなったからには、もう――」
「あなたの気持ちはよくわかりますよ、セドラーさん」
「それはどうも。ところで、私を警察に引き渡すのでしょうな――」
レーンは妙な眼つきで、彼を見た、「どうしてそんなふうに思うのです? 私は警察官ではありませんし、サム警部にしろ、もういまは警察とは無関係ですからね。知っているのは、われわれ四、五人だけではありませんか。この事件に関するかぎり、べつにあなたは告発されているわけではないし、盗品に対しては償いをすませているのだし、殺人犯人でもないのですからね」ウィリアムは、落ちくぼんだ眼に希望の色を見せて、老優を見つめた。「私は警部さんに代ってものを言うわけにもまいりませんが、ブリタニック博物館の理事のひとりとして申しあげたいことは、ジェイムズ・ワイス氏にあてて、ただちに辞表を提出されることですね、それから……」
ウィリアムの薄い肩がガクリと落ちた、「よくわかりました。なんともつらいことですが……なすべきことはよく存じております、レーンさん」彼はホッとため息をついた、「かつて、『ストラトフォード・クォータリー』誌上で、あなたとシェイクスピアをめぐって論争を交していたときは、まさかこんなことになろうなどと――」
「これほど劇的な終幕になろうとはですか?」レーンは、一瞬、相手をじっと見据え、それからあいまいにつぶやいた、「それではどうも」そう言うなり、老優は帽子とステッキをとりあげて部屋から出ていった。
運転手のドロミオは、歩道沿いにとめてある車の中で、主人を辛抱づよく待っていた。老優は、まるで関節でも痛むかのように、ぎこちなく車に乗りこんだ。車が走り出すと、彼はすぐに眼をつぶってしまった。あまりに深くもの思いにしずんでいたので、はた目には、まるで眠っているようにしか見えなかった。
三十 ドルリー・レーンの解決
サム警部は、あまり繊細な感情の持ち主とはいえなかった。むしろ粗野で衝動的な感情を、まるでギュッとしぼったレモンの汁のように、あたりかまわず発散させるたちである。彼がこれまで身につけてきた父性というものは、当惑と歓喜と戦慄《せんりつ》のいりまじったものだった。警部は自分の娘を見れば見るほど、ますます彼女を讃嘆せざるを得ないのだが、その反面、彼女の心の動きがますますわからなくなるのだった。だから、彼は娘のことで、しょっちゅうワクワクしたり、ハラハラしたりするばかり。この可哀想な父親には、それこそ逆立ちしたところで、娘がこのつぎどんな気分になるのか、たったいまの気持ちがどんなものか、いちどだってわかったためしはないのである。
そんなみじめな感情の渦にもまれつづけてきた警部にとって、まったく原因不明のヒステリーを起こしている若い娘のなだめ役を、ゴードン・ロウに肩がわりしてもらうことは、なんといっても思わぬ拾いものだった。当のゴードン・ロウはと言えば、これまでは書物のことしか念頭になかったのに、いまや女性を愛するということのなんたるかをさんざん味わわされて、ただただ途方に暮れたように、ため息をつく始末。
というのは、ちかごろのペイシェンスときたら、掴むことも解《と》くこともできない謎の塊《かたま》りなのである。彼女は、ひとしきり泣いて、泣きやんだかと思うと、ロウの胸ポケットのハンカチで涙をぬぐい、青年の顔を見あげてニッコリ微笑し、そして自分の部屋にひきこもってしまうのである。おどしてもすかしても、彼女にはそれこそ|のれん《ヽヽヽ》に腕押しだった。彼女はただ、ゴードン・ロウに、あっちへ行ってちょうだいと言うばかり。いやよ、お医者さんなんかに診《み》てもらうことはないわ。そうよ、どこも悪いとこはないんだから。ただちょっと頭が痛むだけ。いくら父親がやっきとなって吠えたてても、ペイシェンスはもうそれ以上、一言だって、口をきこうとはしなかった。ゴードン・ロウと、彼の未来の義父は、おたがいに浮かぬ顔を見あわせると、ロウははやくも恐妻ぶりを発揮して、未来の花嫁の命令に服して、部屋から出て行ってしまうのである。
ペイシェンスは夕食にも出てこなかった。「おやすみなさい」も、ドアごしに、嗄れた声で言うだけ。真夜中、警部は年老いた心臓が異様に高鳴りだすと、ベッドからおりるなり、娘の部屋へ行ってみた。ドアの内側から、はげしいすすり泣きが聞こえてきた。思わず警部は手を振りあげて、ドアをノックしようとした、だが、そのまま力なく手をおろしてしまった。彼はベッドにもどり、暗い壁にじっと眼をこらしたまま、夜の白むまで、一睡もしなかった。
朝になってから、警部は娘の部屋をのぞいてみた。彼女は眠っていた。その頬の上に、昨夜の涙の跡がまだ残っている。枕には彼女の蜂蜜色の髪が乱れていた。眠りながらも彼女は、寝苦しそうにからだをたえず動かし、ため息をついていた。警部はあわてて娘の部屋をはなれると、ひとりきりで味気なく朝食をとり、事務所に出かけていった。
サム警部はまったく気のりのしない態度で、その日のきまりきった仕事をやっていた。ペイシェンスはとうとう事務所に顔を見せなかった。やっと四時半になると、警部は大声でわめき散らし、帽子をひっつかんだ、そして追い立てるようにしてミス・ブロディを帰らせると、自分もさっさとアパートにひきあげた。
「パット!」警部は玄関の広間から気づかわしげに声をかけた。
と、ペイシェンスの部屋の中から、なにか人の動く気配がするので、サムは小走りに居間を横ぎった。彼女は、自分の寝室のしめきったドアを背にして、血の気のない異様な表情で立っているではないか。捲き毛の上に、小さな黒い縁なしの帽子をのせ、地味なスーツを着ている。
「出かけるのかね?」と警部は娘にキスしながらたずねた。
「ええ、パパ」
「どうして、そんなふうにドアをしめたんだね?」
「あたし――」彼女は唇を噛んだ、「パパ、あたし、|荷造り《ヽヽヽ》をしているところなの」
警部のたくましい顎がガクンと下った、「パット! おまえ――いったい、どうしたんだ?どこへ行くんだ?」
彼女はゆっくりと自分の寝室のドアをあけた。にわかに曇ったサムの眼に、ベッドの上にひらいているはちきれんばかりのスーツケースがうつった、「二、三日出かけてきます」ペイシェンスはふるえ声で言った、「あたしには――とても大切なことなの――」
「だが、いったい――」
「黙ってて、パパ」彼女はスーツケースのふたをパタンとしめると、皮ひもを締めた、「後生だからなんにも聞かないで、おねがい。ほんの二、三日なんですから。あたし――あたしは、どうしても――」
サム警部は居間の椅子に巨体をうずめると、娘の顔を喰い入るように見つめた。彼女はスーツケースを手に持つと、小走りに部屋を横ぎった。と、その途中で、かすれたような小さな叫び声をあげたかと思うと、スーツケースを床にとり落すなり、父親のところに一気にかけもどった、そしてサムの頭に自分の腕をまきつけるとキスした。あっけにとられた警部が、われにかえったときは、もう彼女の姿はそこになかった。
サム警部は空気のぬけた風船のようにグッタリとして、人気のないうつろな部屋に坐りこんでいた。火の消えた葉巻を口にくわえ、頭には帽子をのせたままだった。アパートの入口のドアがしまったバタンという音は、彼の耳にはあたかも雷鳴のようにとどろいた。やがて気持ちがしずまってくると、警部独特の、慎重なやり方で事態をじっくりと考えてみた。だが、熟考を重ねるにつれて、不安はますますつのるばかりだった。その半生を捧げて、犯罪者や警察官と密接なつながりをもってきたサム警部には、人間性に対するある種の鋭敏な洞察力が、おのずからそなわっていたのである。親子という骨肉の情をいったんはなれてみると、はじめて彼にはペイシェンスの行動が、いかに突拍子のない異常なものであるかがわかりかけてきたのだ。いくら娘とはいえ、もうペイシェンスは分別のある立派な女性なのである。それに彼女は、女によくありがちな、お天気屋だったり、カッと逆上したりする性格ではない。それにもかかわらず、このわけのわからない行動は……しだいに暗くなっていく部屋の中で、警部は何時間もじっと坐ったまま化石のように動かなかった。真夜中ごろ、警部はやっと腰をあげると、電気をつけ、自分で濃いコーヒーをいれた。それからその巨体をベッドにおもおもしく埋めた。
二日間が、耐えがたいほどのろのろと過ぎていった。ゴードン・ロウは見るも悲惨なものだった。青年は、事務所に電話をかけてきたかと思うと、とんでもない時分にフラリとやってきて、まるで吸いついて離れないヒルみたいに警部にまつわりつくのである。サムが仏頂面《ぶっちょうづら》で、ペイシェンスなら『ちょっと骨休み』に、二、三日旅行に出かけたのだよ、と言ってみても、そんな気休めには、まるで耳をかさないといった始末。
「じゃ、どうして彼女はぼくに電話をかけてくれなかったんです? 言《こと》づけぐらい、してくれたってよさそうなものじゃありませんか」
警部は肩をすくめた、「いいかね、べつに君の気を悪くしようと思って、こんなことを言うんじゃないが、いったい君は娘のなににあたるんだね?」
ロウはパッと顔を赤くした、「なんてたって彼女は、ぼくを愛してるんですからね!」
「そう見えるだけじゃないのかな?」
だが、あれから六日もたつというのに、娘のペイシェンスからなんの音沙汰もないとなると、さすがの警部もすっかり参ってしまった。ふだん見せている、あの、いかにも平然とかまえていた態度はどこへやら、サムは生れてはじめて、真の恐怖というものを味わったのである。いかにも仕事をしているように見せかけていた警部も、それどころの騒ぎではなくなってしまった。サムは事務所の床を、屠所《としょ》の羊のようにオロオロと歩きまわるだけだった。とうとう六日目には、さすがの警部も我慢しきれなくなって、帽子を鷲づかみにするなり表へとび出した。ペイシェンスは愛用のロードスターに乗って行かなかったので、車はアパートの近くの駐車場にそのままになっていた。警部はいかにも大儀そうに、その巨体を車につめこむと、ウェストチェスターにむかって走らせた。
警部がハムレット荘を訪れると、ドルリー・レーンは、すがすがしい庭園のひとつで、ひなたぼっこをしているところだった。老優の姿を目にしたとたん、一瞬、警部は、自分の悲しみも忘れ、思わずギョッとして身をすくめてしまった。レーンは、あれから一週間もたたないというのに、信じられないくらいに年をとってしまったのである。老優の皮膚は蝋《ろう》のような黄色にかわり、くずれかけた石灰石のような荒れはてた肌は、はた目にも痛々しかった。暑いくらいに太陽がかがやいているというのに、寒気でもするのか、インディアン織りの毛布に身をくるんでうずくまっているではないか。レーンの身体まで、しぼんでしまったかのようだった。サム警部は、ほんの一、二年前までの、あの驚くばかりの逞《たくま》しさと、若々しい生命力にあふれていたレーンの肉体を思い返すと、自分のほうがふるえてきて、思わず目をそむけながら、老優のそばに腰をおろした。
「やあ、警部さん」レーンは、蚊の鳴くような声で言った、「ようこそおいでになった……私のようすを見て、さぞかし気持ちが悪くなったでしょうね?」
「あ、いやいや」と警部はあわてて言った、「お元気そうじゃありませんか」
レーンは微笑した、「ほんとにあなたは昔から嘘をつくのが下手ですね。ひとから見たら九十歳、自分の気持ちでは、まるでもう百歳ですよ。人間の年というものは、突然、ガタッとくるものですね。シラノが第五幕で、木の下に坐っているところをおぼえていますか? もういままでに、なん度私は、あの役を、あの気っぷのいい、老残の騎士の役をやったことか! あのころは、胴着の下で、私の心臓も若さの血に力強く脈うっていたというのに! それがいまは……」レーンはちょっと眼をとじた、「マーティニ博士は見た目にも心配しているようですが。いや、どうもこの医者というやつはね! あの連中は、老年というものが、セネカの名言にあるように、不治の病《やまい》であることを、頑として認めたがらないのですからな」老優は眼をひらくと、するどく言った、「警部さん! なにが起こったのです? どうしたのですか?」
警部は両手の中に顔を埋めた。そして顔をあげたとき、その眼は濡れたビー玉のようだった、「じつは、その――パットのことなんです」と警部はつぶやいた、「いなくなってしまったんですよ――レーンさん、お願いします、なんとか助けてくださいませんか!」
老優の顔色がいちだんと青ざめた。それからゆっくりと言った、「お嬢さんが――失踪したと?」
「そうなんです、いや、そうじゃない、自分から出かけて行ったんです」サム警部は、しどろもどろで、そのいきさつを説明した。その唇を見つめているレーンの眼のまわりには、皺がおびただしくよっていた、「どうしたらいいのか、見当もつかんのです。いや、わしの失敗でした。いまになって、やっとそのわけがわかったんです」とサムは叫んだ、「あの娘《こ》はなにかを嗅ぎつけたんですよ。とんでもない考えを起こして、むこう見ずにとびついていったんです。こわいもの知らずにもほどがありますよ、レーンさん、もうかれこれ一週間にもなるんですからね。ひょっとすると……」警部はその先を言いよどんで、口ごもった。心に湧き起こった恐ろしい疑惑の影を、彼は言葉にすることができなかったのである。
「すると、こうですね、警部さん」とレーンは言った、「お嬢さんは、自分の身に危険がふりかかるほど真相に近づいている、というわけですな? 第三の男、つまり殺人犯人のあとを追って出かけ、しかもその男がもしかするとお嬢さんを襲って……」
サム警部は無言でうなずき、節《ふし》くれだった武骨なこぶしで、丸木造りのベンチを、ゴツンゴツンとたたいていた。
かなり長いあいだ、二人は言葉もなく黙りこくっていた。近くの木の枝で、とつぜん駒鳥が囀《さえず》りだした。庭園のうしろのほうで、クェイシー老人が園丁になにかガミガミ言っている声が、サムの耳にきこえてきた。だが、レーンの死せる耳には、もとよりなにもきこえるはずがなかった。老優は足もとの芝草に眼をやったまま、坐っていた。やがて彼は、ホッとため息をつくと、青く静脈の浮き出た手をあげて、サムの手にかさねた。警部は、藁《わら》をもつかむような気持ちで、レーンを見つめた。
「かわいそうな警部さん。あなたの胸のうちを思うと、ほんとうに言葉もありません。ペイシェンス……昔、シェイクスピアはうまいことを言いましたよ、
あわれ、みめよくもさかしき魔性!
誰か知り得ん、女ごころを?
あなたはあまりに一本気だし、武骨すぎるものだから、お嬢さんの心に起こった微妙な動きがのみこめないのですよ。女性というものは、男性を美しい拷問にかける無限の能力を持っているものです。しかもたいていはぜんぜん悪気なしなのですからね」サム警部の落ちくぼんだ眼が、喰い入るようにレーンの顔を見つめていた、「鉛筆と紙をお持ちですか?」
「鉛《えん》――ああ、持ってますとも!」警部はあわててポケットをさぐると、鉛筆をとり出した。
サムは、老優の手の動きを熱心に見まもった。レーンはしっかりと鉛筆を動かしていた。書き終ると、眼をあげた。
「これを、ニューヨーク中のあらゆる新聞の尋ね人欄にのせてください、警部さん」と老優は落着いて言った、「おそらく――効果がありますよ」
警部は狐につままれたような顔をして、その紙片を受け取った。
「なにかあったら、すぐ知らせてください」
「ええ、むろん」サムの声が鼻でつまった、「ほんとうに助かりました、レーンさん」
一瞬、老優の青ざめた顔が、奇妙な苦痛の|けいれん《ヽヽヽヽ》にゆがんだ。それから、おなじような奇妙な笑いをうかべて、唇がかすかに曲った、「なに、たいしたことではありませんよ」レーンはサムに手を差しのべた、「では、さよなら」
「さよなら」警部も小さくつぶやいた。二人はたがいに手をにぎりあった。そしてサムは、そそくさと車のほうに歩き去った。エンジンをかけるまえに、警部はレーンの書いた紙片を読んでみた――
パット。私にはすべてわかっている。帰宅せよ。D・L
警部は肩の荷をおろしたようにため息をつき、白い歯をむき出して笑った、それからエンジンをかけると、レーンに手をふってから、もうもうと立ちこめる煙をあとにして砂利道に消えていった。ベンチから立ちあがって見送っていたレーンの頬には、警部の車が見えなくなってしまうまで、ふしぎな微笑が浮かんでいた。やがて老優は、かすかに身をふるわせると、またベンチに腰をおろし、まえよりももっとしっかりと毛布を身にまきつけた。
*
その翌日の午後、老警部と青年は、むかいあって椅子に腰をおろしていた。二人とも憔悴《しょうすい》し、やたらと爪をかんでいる。アパートの室内は冷えびえとし、物音一つしなかった。たがいの手もとにある灰皿は、煙草の吸いがらであふれている。二人の間の床の上には、各種の朝刊が乱雑につみかさねられたままだ。
「ほんとうに帰ってくるんでしょうか――」ゴードン・ロウは嗄れた声で、さっきからもう二十ぺんも同じ言葉をくりかえしているのだ。
「そんなことを言ったって、わしにもわからんよ、君」
と、そのとき、入口のドアの鍵をまわす音がした。二人はいっせいに椅子からとびあがると、玄関の広間にかけよった。ドアがあいた。ペイシェンスだった。彼女は小さく叫ぶなり、父親の腕のなかにとびこんだ。ロウはだまって待っていた。だれひとり言葉を発するものはなかった。サム警部はまるっきり意味をなさない音声をもらし、ペイシェンスはすすり泣きをはじめた。いかにもはげしく悩み苦しんだようすで、彼女の顔は血の気を失い、いたいたしくゆがんでいる。スーツケースは敷居のところに投げ出されたままだし、ドアもあけ放しだった。
ペイシェンスは顔をあげた、そして眼をみはった、「ゴードン!」
「パット」
警部はクルリと背をむけると、居間のほうへ歩いて行った。
「パット、ぼくは、いまになってはじめてわかったんだ――」
「いいのよ、ゴードン」
「ぼくはきみを愛している、ほんとにつらかった――」
「まあ、ゴードン」彼女はロウの肩に両手をかけた、「あなたって、ほんとに素敵。心配をかけて、あたし、馬鹿だったわ」ロウは、つと彼女をかかえて、ひきよせた。彼の腕のなかで強く抱きしめられながら、ペイシェンスは、ロウの心臓が自分の胸に脈打ってくるのを感じた。しばらくのあいだ、二人はそのまま動かなかった。それからキスした。
二人は無言のまま、居間に入っていった。
警部がこちらをふりむいた。彼は顔じゅうに笑みをたたえ、新しい葉巻の煙をいかにもうまそうにパッパッと吐いた、「すっかり仲なおりしたかね?」サムは上機嫌だった、「よかった、ほんとうによかった。ゴードン、おめでとう。さ、これでわが家も一安心――」
「パパ」ペイシェンスは小声で言った。ドキッとした警部は言葉をとぎらせ、喜びの色がその顔から消えた。ロウは彼女の死人のようなつめたい手をしっかとにぎりしめた。ペイシェンスは弱々しく、その手をにぎりかえした、「あの方には、ほんとうにすべてがわかっているの?」
「すべて? だれが?――ああ、レーンさんか! そうさ、自分でそう言ったんだよ、パット」警部はそう言うと、長い腕を、彼女の背中にまわした、「もういいじゃないか? おまえが無事で帰ってきたんだから、わしはもう、それだけで結構だ」
ペイシェンスは、父親をやわらかく押しのけた、「いいえ、なにかあるわ――」
「そうだ」サムは顔をしかめた、「おまえがもどってきたらすぐ知らせてくれと、レーンさんに言われたっけ。ひとつ、電話でもしとくか……」
「そうなの?」ペイシェンスの青ざめた顔に、パッと血の気がさした。彼女の眼は、熱をおびたように、ギラギラ光った。男たちは、彼女が気でもちがったのではないかと、眼を見はった、「いいえ、だめよ! 行ってじかにお話したほうがいいわ。ああ、あたしったら、なんて思慮のない、泣き虫で大馬鹿者だったんでしょう!」彼女ははげしく下唇を噛んだまま立っていた。それから入口のほうへとんで行った。「レーンさんが危ない!」と彼女は叫んだ、「行ってみなくちゃ!」
「でも、パット――」ロウが抗議した。
「行くのよ、どうしても。なぜもっと早く気がつかなかったのかしら……ああ、もう手遅れかもしれない!」言いすてて彼女は、サッと身をひるがえすと、アパートをとび出していった。ロウとサム警部は、たがいに顔を見合せた。二人ともまるで狐につままれたような顔だった。それから、帽子をひっつかむと、あわてて彼女のあとを追ってかけだした。
*
三人は先を争ってロードスターに乗りこみ、ロウの運転で出発した。スタンドの下では、おだやかな学究の徒である彼も、ひとたびハンドルを握ると、たちまち悪鬼と早変りした。ニューヨークの雑沓する市街を抜け出るまでは、だれひとり口をきくものもなかった。ロウは、車の混みあっている道路を一心ににらみつけ、ペイシェンスは顔面蒼白、いくらか気分でも悪いのか、その眼つきにもただならぬものがあった。サム警部は、さながらスフィンクスのように、巨大な図体を緊張に固くこわばらせている。
車がニューヨークをあとにして、ひろびろとした道路が白いゴムひものように弾力的にのびているあたりまできたとき、車内の沈黙を破ったのはサム警部だった、「パット、さ、すっかり話しておくれ」警部はおだやかに言った、「たしかにレーンさんは、すごく悩んでおられたようすだった、それにしても、おまえの言うことは、わしにはさっぱりわからん。もっとちゃんと話してくれんことには――」
「そうね」ペイシェンスはうわずった声で言った、「あたしがいけなかったんだわ……パパにも、ゴードンにも話しておかなくて、ほんとに悪かったと思う。いまは、なにをおいてもおふたりに知ってもらわなくちゃならないわ。ねえ、ゴードン! パパ! あたしたちの行く手には――血の惨劇が待っているのよ!」
ロウの唇が固くひきしまった。ロードスターは猟犬に追われる兎のように疾走する。
「このまえの話の終りごろ」とペイシェンスは、小鼻をピクピクさせながら語りはじめた、「――でも、それはあなたがたもごらんになったわけね。あたしたちの推理では、被害者とその殺害犯人はセドラー兄弟だということだったでしょ。つまり、あの家で、セドラー兄弟のうちのどちらかが、どちらかを殺したものと考えていたわけ。ところが、そうじゃなかった。先週――博物館に行ったとき――事情がガラリと一変したんです。あのとき、ウィリアムの自白で、焼跡から出た死体はハムネットで、生き残ったほうが弟のウィリアム、しかもそのウィリアムは、殺人の当夜、あの家にいた二人の人物のいずれかでもありえなかった、ということを、あたしたちは知ったわけなのよ。それに、おぼえているでしょう、あたしたちが鍵のことで、その点をちゃんと証明して見せたことを。そんなわけで、それまでのあたしたちの推理は根底から吹っとんでしまいました。被害者は、ハムネット・セドラーとわかったものの、それでもまだ、殺人当夜の第一の訪問者、マックスウェル老人を縛りあげて、斧をふるった男、それが何者だか、ぜんぜんわからなかった……と、そのとき、ほとんど忘れかけていたことを、あたし、パッと思い出したのよ、それが実際に起こった当時も、あたしがこの目で見たときにも、充分にその意味がつかめなかったことなの。それが、まるで――雷光のように、あたしの頭にパッとひらめいたんです」
彼女は行く手の道路にじっと目をやった、「あらゆる問題を解く鍵はただひとつ、つまり、第一の訪問者の正体をつかむことに、すべてがかかっているわけなのよ。では、あの殺人の当夜、実際にどんなことが起こったのか? 第一の訪問者は、マックスウェル老人に猿ぐつわをかませて、車庫のなかに縛りつけると、老人から奪いとった合鍵で母屋《おもや》に侵入する。玄関のドアにはスプリング錠がついているから、男が入るとそのあとで自動的にカチリとしまるわけ。男は、台所の道具箱から小型の斧をとりだして、まず書斎から探しはじめる。きっと男は、問題のシェイクスピアの手紙を隠すには、書斎がいちばん適当な場所だとあたりをつけたのにちがいないわ。でも、書斎のどこに隠してあるのか、さすがにそれだけは男にも見当がつかなかったのよ。だって、あんなふうになにもかもめちゃくちゃに斧で壊して探しているくらいですものね。これは推定だけど、まずイの一番に男は、本をひっぱり出して、その中に問題の手紙がはさみこんであるのじゃないかとにらんで調べる。ところが、いくら探しても見つからないものだから、こんどは家具を斧で叩き割り――それから、壁板や床まで壊して探しまわる。ちょうど真夜中の十二時に、たぶん、そこもかっこうな隠し場所だと思って、大時計を壊したのね。その時間は、針のとまっていた位置でわかるわ。そんなにまでしても、手紙が見つからないものだから、男はすっかり途方にくれてしまう。書斎はもとより、一階のほかの場所をいくら探してみても手紙が見つからなかった。そこで男は、二階のウィリアム・セドラーの寝室が、書斎についで手紙の隠してありそうな場所だとあたりをつけて、上にあがって行く」
「そんなことなら、もうわかっているじゃないか、パット」とサム警部は、さもけげんそうに彼女の顔を見て言った。
「おねがいだから黙ってて、パパ……壊された寝室の時計から判断して、十二時二十四分には、その男が寝室にいたことがわかる。ところで、ハムネットは、あの家で、例の腕時計でわかるように、十二時二十六分に殺害されている――斧をふるった男が二階で時計を壊してから、たった二分後によ。そこで問題は、いつハムネットがあの家に入ったか、ということになるわね。ハムネットはまず玄関のドアを親鍵であけなければならなかったし、中に入ると書斎に行って、狼藉《ろうぜき》のあとを眺め、書棚の上の隠し戸棚をあけ、シェイクスピアの手紙をとり出して梯子をおり、おそらく手紙をたしかめてみたにちがいない。それからハムネットは斧の男とパッタリ出くわし、はげしい格闘の末、殺害される。どう見積っても、それまでに二分以上はかかったはずよ! したがってハムネットは、|まだ斧の男が家にいるあいだに《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、中に入ったことになるわね」
「それで、どうなんだ?」とサム警部がうなり声をあげた。
「いま話すから、黙って聞いて」とペイシェンスはうるさそうに言った、「このあいだの博物館でのウィリアムの陳述で、ハムネットはシェイクスピアの手紙をただ消滅させたいばかりに、それを手に入れたがっていた、ということがわかったわね。では、ついにあの書斎で、手紙を手にしたとき、ハムネットはどうしたかしら?なにをおいても、そのシェイクスピアの手紙を消滅させようとするにちがいない。どうやって? そう、なによりも確実で、いちばん簡単な方法といえば、火で燃やしてしまうことだわ。ハムネットは手紙を片手に持ったまま、マッチをすって、あわや炎を手紙につけようとしたにちがいない」彼女はホッとため息をついた、「むろん、これは単なる推理にすぎないわ。それも、ある一点をあきらかにする以外に他意はないのよ。つまり、|この推理によって《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|ハムネットの腕時計と手頸に《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|なぜあんな傷がついたか《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、その説明がつくわけだわ。だって、もしもハムネットがマッチの火を手紙に近づけた瞬間に、斧を持った男が二階の寝室からおりて来て、それを目撃したとすれば、男は当然――手紙の消滅ではなくて、その保存にはげしい関心をもっているのだから――ハムネットにとびかかって、手紙が灰になってしまうのを|さまたげた《ヽヽヽヽヽ》はずですもの。たぶん男は、電光のような早業で、まだ手にしている斧をふるって、ハムネットの手頸と腕時計に切りつける。その一撃で、ハムネットは手にしている手紙とマッチをとり落したにちがいないわ。むろん、ハムネットも応戦する、そしてはげしくもみあっているうちに、斧の男にピストルで撃たれて死んだのよ。格闘は、おそらく、斧の落ちていた書斎ではじまり、だんだんホールのほうに移っていったのね。あそこにハムネットの片眼鏡《モノクル》が壊れて落ちていたじゃないの。ハムネットが射殺されたのもそのホールだと思うわ。……斧の男は、時限爆弾が仕掛けてあるのも露知らず、ハムネットの死体を地下室にひきずりおろし、そのあとで――もしも男がハムネットの手頸を斧で一撃加える前に、手紙が灰になってしまったのでなければ――その手紙を奪って、家から出て行ったのだわ。斧で一撃を加えたり、はげしい格闘をしたことで、絶対に見逃してはならない点は、斧の男が、いかなる手段に訴えても――暴力はおろか、殺人をおかしてまでも――そのシェイクスピアの手紙を救おうとしたことなのよ」
ちょうど車は、ハムレット荘が聳《そび》えている丘に通じるけわしい坂路にさしかかったので、ロウ青年は運転に全神経を集中した。青年がU字形の急なカーブを、たくみにロードスターを操ってあざやかに通過するあいだ、ペイシェンスはじっと黙っていた。そこを曲りきると、とたんにもう領内だった。車は奇妙な小橋を越えた。自動車のタイヤが砂利道にギシギシ鳴った。
「どうもまだわからないな」とロウが顔をしかめて言った、「いまの推理が、ぜんぶ正しいとしてもだよ、パット、それでどういうことになるんだい? 殺人犯人は何者なのか、あいかわらずわからないじゃないか」
「ほんとにそう思って?」ペイシェンスは声をはりあげた。そして苦い薬を無理やりに飲まされる子供みたいに、眼をつむって、身をすくめた、「あら、はっきりしてるじゃないの! 犯人の特徴よ、ゴードン。その特徴が、|家の中で起こったことによって《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、ありありと示されているじゃないの」
二人の男は、ポカンと口をあけたままペイシェンスの顔を見つめた。車は正面入口の門をくぐりぬけ、ゆるやかなカーブをえがいている車道をゆっくりと走っていった。と、そのとき、背中に大きなコブをつけたクェイシー老人の妖怪《ようかい》のような小柄なからだが、ライラックの茂みから、ヒョイとあらわれた。そして、警部たちの一行とわかると、顔中皺くちゃにして笑いかけ、手をふりふり、道路にとびだしてきた。
ロウは車をとめた。「クェイシーさん!」二人の男のあいだで、腰をうかしながら、ペイシェンスはこわばった声でたずねた、「レーンさんは――大丈夫?」
「やあ、お嬢さま!」クェイシー老人はさもうれしそうに金切声をはりあげた、「おかげさまで、今日はたいそう具合がおよろしいようですよ。もうほとんど元気におなりで。警部さん、ちょうどいま、このあなた宛の手紙を出しに行くところでしたよ!」
「手紙を?」サム警部はおうむ返しに言うと不審そうな顔をした、「おかしいな、ま、見せてくれたまえ」クェイシー老人から、真四角な大型の封筒を受取ると、その端を破った。
「手紙?」ペイシェンスは、まるっきり気のぬけたような声で言って、また男たちの間に腰をおろした。そして、青く澄みわたった空を見あげて、ポツリと言った、「ほんとによかったわ、あの方がご無事で」
警部は黙々と手紙を読んでいたが、やがて眉間に深い皺をよせると、声を出して読み始めた――
警部殿。
ペイシェンスさんはいたましい体験にくじけることなく、帰宅なされたことと確信しております。小生の『尋ね人』通信が無事にお嬢さんを連れもどすことと存じます。あなたがお嬢さんの帰りを待つ間のつれづれに、このたびの事件の究明にあたって、あなたを五里霧中におとしいれている若干の疑点についての解答をご高覧に供したく、ここに筆をとった次第です。
とりわけ、疑点の主眼となるものは、ペイシェンスさん、およびゴードン君がともに指摘したごとく、なにゆえハムネット・セドラーのような、健全にして知性高き文化人が、かくも稀《まれ》なる、かくも貴重なる、かくもかけがえのなき真筆書、すなわち不朽の大詩人ウィリアム・シェイクスピアの自筆の手紙を消滅せしめようなどと欲したか、ということにあります。小生は、その点を独自に追求したところ、ここに解答を得るに到ったと自負しております。
ジョン・ハンフリイ・ボンド卿の祖先で、シェイクスピアの親友として知られる人物宛てに書かれたこの手紙のなかで、筆者《シェイクスピア》は、自分がじょじょに毒殺されつつあることを危惧しておりますが、さらに加えてその手紙には、シェイクスピア自身の手で、毒殺の容疑者の名前が記されているのです……世間とはまことに不思議なものです。シェイクスピアが自分を毒殺する容疑者として挙げているのは、ハムネット・セドラーという名前なのです。警部殿、かのハムネットおよびウィリアムのセドラー兄弟は、じつにこのハムネット・セドラーの直系の子孫にあたるのです!
どうです、不思議なこともあればあるものではありませんか? あの、学者であり、文化人、謹厳にして聡明な古書蒐集家であり、誇り高きイギリス人であるハムネットが、自己のあらゆる教養もかえりみず、学問的科学的本性の命じるところにそむいてまで、いや、人類のもっとも貴重な遺産のひとつになり得べきものを犠牲に供してまで、かの不滅の人シェイクスピア――エイボン生れの詩人、かつてカーライルが『地上最大の英知』と形容し、ベン・ジョンソンが、『一時代のものにあらずして万古のもの』と呼び、三世紀以上にわたって、心ある人々から讚えられ崇《あが》められてきた大詩人――が、ハムネット・セドラー博士の祖先の手によって毒殺されたという秘密を、かくまでして世間の目から隠蔽したがったか、その理由は、この事実によって充分に説明されることと思うのです。しかも、よりによって、その祖先がハムネット自身とおなじ名前の人間だったとは! あるものは、ハムネットの情熱に狂気の片鱗《へんりん》をみとめ、また他のあるものはそれを信じないかもしれません。しかし家名の誇りというものは、老齢とおなじ不治の病なのであって、みずからの氷の炎で、みずからの身を焼きほろぼすものなのです。
弟のウィリアムは、この家名崇拝という冷酷な病におかされてはおりませんでした。彼の場合は科学的精神が勝利をおさめていたのです。しかし彼もまた、世俗的欲望からのがれることはできませんでした。ウィリアムはそのシェイクスピアの手紙を子孫のためではなく、自己の所有欲にかられて欲したのです。第三の男つまり、あの殺人の当夜、はじめてこの事件に登場し、そしてそれを最後にただ一度だけ主役をつとめた謎の人物は、たとえ個人の生命を奪おうとも、その大詩人の手紙を全世界のために保存したいと願ったのです。
どうか、ペイシェンスさん、ゴードン君をはじめ、関心をいだいている方にお伝えいただきたい――ほどなく真相はあきらかになるでありましょうが――そのシェイクスピア直筆の手紙の安全については、もはやいかなる心配もご無用である、と。その点については、小生自身の手で、法律的にはイギリスの所有にして、精神的には全世界の所有物たるべく、その手紙の正当なる帰属地イギリスにむけて、発送の手続を万端遺漏なくすませたところであります。なお、その手紙の法律上の所有者、故ジョン・ハンフリイ・ボンド卿には遺児もしくは法定相続人にあたる者が一人もおりませんので、卿の全財産はすべてイギリス王室に返還されております。警部殿、もしも小生が、このたびの返還にあたって、いささかなりとも貢献したと考えられるならば、小生の友人たちもたえざる好意をもって、小生のことを思い出してくれるものと存じます。かくいう小生も人の子、自愛心にかけては、世の人といささかも変るところはございません。このような人生の終りにのぞんでもまだ、自分が人類のためになんらかの寄与をしたものと思いこみたいのであります。
ペイシェンスさん、ならびにゴードン君――あなたがただけのプライベートな問題に、老人がいらぬ口出しをするようですが――あなたがたお二人は、仲よく手をたずさえるならば、きっと幸福になられるにちがいありません。あなたがたは共通の興味に結ばれ、いずれも知性の豊かな若人であり、しかもおたがいに尊敬しあっているように見受けられます。いついつまでも幸せでありますように。小生は、あなたがたお二人のことをけっして忘れません。
親愛なるサム警部殿。小生は老い、ほとほと疲れはてましたので、そろそろ……長い休息におもむくのも間近いことと存じます。それで、このように常になく長文の手紙をあわただしくしたためる気になったのです。そして小生は、だれひとり看《み》とられるものもなく、またあなたがたに知られることもなく、いわばひとりでしずかに去って行くことになるかと思いますゆえ、われとわが身に、このような輝かしい別れの言葉を口ずさむ所存です。
「散りぎわも見事、負目もすべて償ったとか、されば、神よ、彼とともにいまさんことを!」
では、また会う日まで――
ドルリー・レーン
警部は、ひしゃげた鼻に皺をよせた、「さっぱりわからん――」
ロウはすばやくあたりを見まわした。だが、平和な景色があるばかりだった。ハムレット荘の尖塔や鐘楼が、木々の梢の上に、何事もなくおだやかに聳《そび》えているばかり。
ペイシェンスが、のどのつまったような声で言った、「レーンさんはどこなの? クェイシーさん?」
クェイシー老人は蛙のような小さな眼をパチクリさせた、「旦那さまなら、西の庭で日なたぼっこをなさっておられますよ、お嬢さま。みなさんのお顔を見たら、きっとびっくりなさいますとも。なにせ今日はどなたもいらっしゃらないと、思っておいでですからね」
男たちは車からパッととびおり、ペイシェンスは身をこわばらせて、砂利道におりた。二人の男の間にはさまり、しずかについてくるクェイシー老人を後にしたがえて、彼女はビロードのような芝生を横ぎり、西の庭にむかった。
「さっきのつづきだけど」彼女の声があまりに小さかったので、男たちは耳をこらして聞かなければならなかった、「斧をふるった男は、おのずから正体をあかすことになったのよ。その男にしてみれば、なにひとつ尻尾を出すようなヘマをしなかったつもりだったの。ところが、たいへんなヘマをしでかしたことに、自分では気がつかなかったのよ。いわば、運命がその男に尻尾を出すようなヘマをさせてしまったのね。あの安物の目覚し時計が、その男にとって命とりだったのよ」
「目覚し時計だって?」と警部がつぶやいた。
「あたしたちがあの家の書斎を調べてたとき、暖炉の棚の上にのせてあったマックスウェル老人の目覚し時計を見て、目覚しの|てこ《ヽヽ》がまだ『|鳴る《ヽヽ》』に|なっていたのに《ヽヽヽヽヽヽヽ》気がついたわね? このことはなにを意味するのか? 目覚しは、ちゃんと仕掛けられた通りの時刻に鳴ったわけなのよ――前の晩、つまり真夜中の十二時ね。(だって、あたしたちはその翌日のお昼前に調べたんだし、マックスウェル老人は前の晩の夜中前に仕掛けたんですもの)あたしたちが調べたとき、目覚しの小さな|てこ《ヽヽ》は、まだ『鳴る』のところを指したままだったわね。ところで、|てこ《ヽヽ》がまだ『鳴る』というほうを指していたとすれば、それはとりもなおさず、目覚しが実際に|鳴った《ヽヽヽ》ということなのよ。では、目覚しが鳴ったという事実には、いったいどんな意味があるのか? それが鳴って、しかもあたしたちが見たときは、まだ、鳴るように仕掛けてあったという事実、その事実が意味するのは、つまり、その目覚し時計は、|全部鳴り終るまで鳴りつづけたはずだ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》ということよ。もし鳴っている最中に、だれか人の手で止められたものなら、|てこ《ヽヽ》は『鳴る』ではなくて『止まる』のほうを指していなければならないはずだわ。だから結局、その|てこ《ヽヽ》はそのままになっていたというわけ。目覚しはジリジリ、ジリジリ鳴りつづけて、最後にぜんまいがゆるみきってから、やっと止まり、|てこ《ヽヽ》はいぜんとして『鳴る』を指していた……」
「だけど、それがいったいどうしたというんだい、パット?」とロウが叫んだ。
「真相のいっさいが分るのよ。斧をふるった男が、ちょうど真夜中の十二時に、あの書斎にいたことは、あたしたちにも分っているとおり。したがって、斧の男は、目覚しが十二時に鳴り出したときは、当然、その部屋にいたことになるわね。そのことは、二つの事実によって証明できます。第一は家中の時計の時刻を全部あわせておいたというマックスウェル老人の証言、第二は、ちょうど十二時のところで破壊されていた大時計」
ロウは無言のまま一歩退いた。顔面は蒼白だった。
「ま、そいつはいいとしておこう」と警部はうなるように言った、「だが、どうしてその斧をふるった男は、目覚しがけたたましく鳴り出したとき、とめなかったのかね? さだめしびっくりしてとびあがったことだろうが! だれだって他人の家の中をうろついている最中に、目覚しが鳴れば、鉄砲玉をくらったみたいにとびあがって、あわてて音をとめるだろうに。家の中に人がいようといなかろうとだよ」
彼らは樫の古木の蔭で立ちどまった、ペイシェンスはなかば無意識にザラザラした木の肌を手で撫でた、「まさにそのとおりよ」と彼女はささやいた、「でも、事実はあくまで事実だった、その男が目覚しの鳴っている部屋にいたというのに、その男に本能があるなら目覚しをとめずにはいられないというのに、事実は、|彼はとめてなかったのよ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》」
「どうも、わしの手には負えんな」とサムはつぶやいた、「さ、ゴードン、行こうじゃないか」警部はさっさと大股で樫の木かげからはなれた。ほかのものたちも、のろのろとその後にしたがった。と、いくらも行かないうちに、イボタのひくい生垣ごしに、こちらに背をむけて、丸太造りのベンチに腰をおろしているレーンの、じっとうずくまっている姿が見えた。
と、ペイシェンスがのどのつまったような小さな叫び声をあげたので、警部はサッとふりかえった。ロウは眼に恐怖の色をうかべて、彼女のそばにかけよると、彼女の両脇をしっかりおさえた。
「どうしたんだ?」と警部がゆっくり言った。
「パパ、待って」ペイシェンスが涙声で言った、「まだ行かないで。だめなのよ。パパには、まだわかってないんですもの。どうして斧を持った男は、ハムネット・セドラーの死体を地下室に運びこんだとき、そこでカチカチいっていた時限爆弾に気づかなかったの? だいいち、どうして書斎の壁をあんなふうに壊してまわったの? ふつうなら、がらん洞の所を探すには、どうやって? トントンと上からたたいてみるでしょ? ね、パパ、ただトントンでいいのよ! じゃ、どうしてその男は、壁板を上からかるくたたくだけですまさなかったの?」
サムは、さも困ったように、二人の顔を不安そうに見くらべた、「どうしてなんだろう?」
ペイシェンスはふるえる手で、父親のたくましい腕をつかんだ、「おねがい、レーンさんに――会うまえに、一言だけ。斧の男は、鳴っている目覚し時計をとめなかったわね。その男は地下室でカチカチいっている時限爆弾になんの不審もいだかなかったわね。その男は壁を上からトントンとたたいてみなかったわね――それはみんな、おなじ理由からなのよ、パパ。ね、わからない? あたしにはそれこそひどいショックだった、いきなりおそろしい力で脳天をくだかれたみたいだった、それであたし、まるで子供みたいに、ただもう夢中で家を飛び出しちゃったんです。どこかへ逃げ出したかった、どこだってかまわない……その男には目覚しのけたたましい音がわからなかったのよ。時限爆弾のカチカチと時を刻む音も聞えなかったのよ。トントンと壁の上からたたいてみたところで、空洞の音はきこえなかったのよ。その男は|つんぼ《ヽヽヽ》なんですもの!」
林間の空地は水を打ったように静まりかえっていた。警部の顎が、城門の落し戸のようにガクンと落ちた。あまりの意外さに、津波のように恐怖の色が、彼の眼の中を襲った。ロウはふるえているペイシェンスの胴をしっかと抱きしめたまま、化石のようにつっ立っていた。と、うしろのほうで、うろうろしていたクェイシー老人が、だしぬけに、のどをしめつけられたような、動物的な金切声をあげたかと思うと、ヘタヘタと芝草の上にへたりこんだ。
警部はもつれるような足どりで前にすすむと、レーンのじっと動かない肩に手をおいた。ペイシェンスはクルリと後むきになり、ロウの胸に顔を埋め、胸がはりさけんばかりに、泣きくずれた。
老優の頭は、胸の上にガックリと垂れたままだった。サム警部がいくら触《さわ》っても、なんの反応も示さなかった。
警部は、その巨体からは想像もつかないくらいの素早さで、丸太造りのベンチをまわると、レーンの手をしっかと握りしめた。
氷のような冷たさ。その手の白い指先から、しみのついた空《から》っぽの小壜《こびん》が、青々とした芝草の上に、コロッと落ちた。 (完)
解説
レーンは、彼の至芸である『老水夫』ばりの、きびしい底光りのするまなこで、医師を喰入るように見つめた、
「博士、耳のきこえないものにとっては、壁にも耳があるのですよ……じつは、いまだかつて人間が経験したこともないような、とんでもない事件に、私はまきこまれてしまったのです……」(本書『最後の悲劇』より)
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さて諸君、探偵小説を愛し、なかんずくエラリー・クイーンの創造した名探偵ドルリー・レーンを愛してきたあなたがたも、いよいよ、本書『最後の悲劇』で、不朽のシェイクスピア役者、「X」「Y」「Z」の三大事件を見事に解決した白髪の名探偵ドルリー・レーンと、永遠に別れなければならない。まさに『最後の悲劇』である。
いやしくも諸君が探偵小説の愛好家ならば、『Xの悲劇』『Yの悲劇』そして『Zの悲劇』を読んでいるはずである。エドガー・アラン・ポーの『モルグ街の殺人』から始まった近代探偵小説の傑作は、百を数えてなおあまりあるであろう。だが、その中でも、真の意味で現代探偵小説の金字塔を樹立し、コナン・ドイルの創造した『シャーロック・ホームズ』に、あらゆる意味で対抗できるものは、「X」「Y」「Z」そして本書『最後の悲劇』の立役者ドルリー・レーンをおいて、私には考えられないのである。世界の探偵小説史家や研究家が、名作中の名作として、『Xの悲劇』と『Yの悲劇』をかならずあげることを、私はいささかもあやしまないものである。そのトリックの独創性において、その完璧な論理と謎ときにおけるフェア・プレイの原則を確立したことにおいて。だが、探偵小説の傑作をはかる目盛りに、もうすこし工夫がないものであろうか。トリックの独創性や近代探偵小説の論理的構造という視点から、もっとはみだしたところに、真の傑作が存在するのではなかろうか。そういう意味で、本書『最後の悲劇』は、非凡なトリックや論理的構造を内包しながら、それを超えたところに、その真骨頂がある。いわば、作品の存在自体がきわめて独創的なのである。読者よ、まず一読されんことを。では、作品の存在自体が独創的であるということは、どういうことか? その具体的解答は、本書のなかにしかない。そして、エラリー・クイーンがいだいた、「X」「Y」「Z」「最後」の四部作の大構想のなかにしか得られない性質のものである。
むろん、「X」「Y」「Z」「最後」の四大悲劇は、いずれも独立した事件をあつかい、老優レーンに独自の解決をあたえさせている。読者が、「Z」から読もうが、「Y」から読もうが、それはあくまでもあなたがたの自由である。しかし、できうることなら、「X」「Y」「Z」そして本書『最後の悲劇』というように読んでいただければ、クイーンが、この四部作に賭けた偉大なる独創性を、より一層、味読できるのではないかと思う。私は探偵小説を愛好する一詩人にすぎないが、もし傑作探偵小説を人から問われたら、ちゅうちょなく答えるだろう――それは、「X」でもなければ「Y」でもない、クイーンの四大悲劇をあつかった四部作であると、そして、なかんずく、『最後の悲劇』をあげるだろう。
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本書のために、エラリー・クイーン自身の書いた『作者のノート』がある。読者のために大いに参考になると思うので、つぎに全文引用しておく――
『ここに私が記録するのは――毎度のこと、ぞっとするような料理を、あきあきしながら少しずつ食べてきた美食家が、思いがけなく、めったにないすてきなごちそうにぶつかって、食欲を新たにしたというような――演劇界の大長老、ドルリー・レーン氏が特別の努力を傾注した最後の事件である。
レーン氏がなしとげた数々の功績の隠れた記録係を勤めることは、私にとって一つの特権であった。そして、彼自身の人となりに変化があっても、私が「Xの悲劇」「Yの悲劇」「Zの悲劇」と題した事件の調査において、彼が示した思考のおどろくべき自在性には、たしかに、だれしも異議をさしはさまないであろう。しかし、その理由は読み進むうちに明らかになるだろうが、「一五九九年の悲劇」と副題した、このすぐれた人物の最後の調査を書きとめておくことは、特権というよりも「義務」と言ったほうがよい。なぜ「義務」と言ったかといえば、それはこうである。すでに記録した三つの犯罪解決において、レーン氏はその思考過程の崇高さで、同時代人と公衆を驚かしたとすれば、この事件の調査によって、彼は、積極的に彼らを動揺せしめ、法の守護者と自任したその経歴を閉じたのである。それで、ドルリー・レーンの運命のあとから、しんぼうづよく、はげましをもって、ときには熱狂的につきしたがってきた人たちに、この驚くべき冒険をいつまでも隠しておくことは、嘆かわしいほど残酷なこととなろう。
あえて私の偏見を申し述べれば、本書に収録された事件は、そのまったき不可思議さと珍奇さにおいて、犯罪学史上に前例のないものである』(鮎川信夫氏訳)
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本書は、Drury Lane's Last Case(一九三三年刊)の完訳である。
一九六四年一月十日 (訳者)
◆最後の悲劇
エラリー・クイーン/田村隆一 訳
二〇〇三年四月二十五日 Ver1