オランダ靴の秘密
エラリー・クイーン/二宮佳景訳
目 次
第一部 二つの靴の話
一 手術
二 興奮
三 視察
四 暴動
五 絞殺
六 尋問
七 扮装
八 確證
九 含意
十 明示
十一 訊問
十二 実験
十三 処置
十四 愛慕
十五 紛糾
十六 錯乱
十七 謎々
十八 凝縮
幕間――クイーン家の会合
第二部 整理棚の消失
十九 行先
二十 降参
二十一 二重
二十二 列挙
二十三 三重
二十四 再検査
二十五 単純化
二十六 方程式
読者への挑戦
第三部 書類の発見
二十七 解明
二十八 討議
二十九 完結
三十 説明
奇術師クイーン――江戸川乱歩
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登場人物
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アビゲイル(アビー)・ドーン……女資産家
ハルダ・ドーン……アビーの娘
ヘンドリック・ドーン……アビーの弟
サラ・フラー……アビーの相談役
ジョン・ミンチェン博士……オランダ記念病院院長
フランシス・ジェニー博士……その外科部長
リューシアス・ダニング博士……内科主任
エディス・ダニング……その娘。社会奉仕部勤務
フロレンス・ペニニ博士……産科医
アーサー・レスリー博士……外科医
ロバート・ゴールド……実習生
エドワード・バイアース……麻酔係
ルーシル・プライス……看護婦
グレイス・オーバーマン……看護婦
モリッツ・ニーゼル……冶金学者
ジェームス・パラダイス……病院監
フィリップ・モアハウス……弁護士
マイケル・カーダイ……ギャングの親分
トーマス・スワンソン……謎の男
ピート・ハーパー……新聞記者
ヘンリー・サンプソン……検事
トーマス・ベリー……巡査部長
リチャード・クイーン……警部
エラリー・クイーン……探偵
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第一部 二つの靴の話
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私自身の警察官としての立場から、深い共感を覚えた探偵は、二人あるだけである。……人種的特性とか、空間と時間の障壁を超えて……この二人は、およそ変っていて、空想と事実の、あり得べからざる奇妙な対照を示している。その一人は書物の世界において、輝かしい名声を博した者だし、もう一人は、実際の警察官と血縁関係にある者である……私は、むろん次の二人を指していっている……ロンドンはベーカー街のシャーロック・ホームズ氏、それにニューヨーク市西八十七番街のエラリー・クイーン氏。
ウイーン警察顧問医師
マックス・ペヒャー
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一 手術
リチャード・クイーン警部の思いやりは、彼の普段の機敏さとか、実際的で老練なやり方とは、およそ似合わしからぬものだったが、犯罪学の一般的問題については、おそろしく教訓的な意見を述べる癖があった。こうした大学教授めいた格言を、自分の息子であり、犯罪捜査上の協力者であるエラリー・クイーンに向って、習慣的に口にしたが、それは居間の煖炉の前で、食事をする時にかぎっていた。その居間には、ドジュナという家事の手助けをしている幽霊みたいなジプシーの少年の、すべるような影のほかには、誰も入ってくる者はなかった。
「最初の五分間が、もっとも大切だよ」老警部は厳しい口調でいう。「覚えておきなさい」それは彼の気に入りの言葉なのだ。「最初の五分間で、厄介な手数が省けるもんだよ」
そして、少年時代から探偵についての特別教育で育てられてきたエラリーは、いつもパイプを不平そうに鳴らして、煖炉の火を見詰めながら、一体探偵が犯行後三百秒以内に、犯罪現場に行かれるなんて運のいいことは、どれだけあるものだろうかと疑うのだ。
そこで彼が、自分の疑いを口に出していうと、いつも老警部は悲しげにうなずいて同意する――「そうだよ、そんなに運のいいことなんて、滅多にありゃしないさ。警察の者が現場に到着した時には、手がかりになる痕跡は、冷えて、とても冷たくなっているんだ。その時は、冷酷な運命の怠慢さを償うために、できるだけのことをするより仕方がないよ。ドジュナ、わしの嗅ぎ煙草を持ってきてくれ!……」
エラリー・クイーンは、決定論者でも、実証主義者でも、現実主義者でもなければ、運命論者でもなかった。主義や学説に対する彼の唯一の妥協点は、思想史を通じて多くの名と成果をあらわしてきたところの、理性の正しさに対する不動の信念にあった。この点において彼は、クイーン警部の根本的な職業意識と、大きな距たりがあった。彼は警察の情報制度というものを、独創的な思考の尊厳を傷つけるものとして蔑《さげす》んでいた。彼は警察の探偵方法を、その不器用なやり方と共に、はなはだしく軽蔑していた。――その欠点とは、厄介な規則ずくめの組織のせいなのである。「僕はこのことについては、カントに共鳴するね」と彼はよくいっていた。「純粋理性は、混濁した人間社会の最高の善である。一方に考え出す心があれば、他方に測り知ろうとする心がある……」
これが最も単純に表現した彼の哲学だった。彼はこの自分の信念を、アビゲイル・ドーン殺人事件の取調べ中に、もう少しで放棄するところだった。この事件こそ彼のはなはだしく非妥協的だった知的経歴において、おそらく疑問にぶつかった最初のことだったろう。それは以前のさまざまな事件で証明された自分の哲学に対する疑いではなくて、他方の心が考え出したところのものを解かなければならない一方の知力に対する疑いであった。もちろん、彼はエゴイストだった――「デカルトやフィヒチで、自分の頭を力強く鍛えるのだ」と、彼はよくいっていた。……しかし、ひとたびドーン事件をめぐる恐るべき迷宮の渦のなかに捲きこまれて、彼は自己決定の個人的領域にも侵入してくる皮肉な運命を看過《かんか》していたことを知ったのであった。
*
一九二一年一月の、ある冷えびえとする月曜日の朝、彼は東六十番街あたりの静かな町を、大股で歩いてゆきながら、犯罪のことを考えていた。いかめしい黒の外套に身をつつみ、フェドラ帽を鼻眼鏡のきらきらする光が遮ぎられるくらい目深かにかぶって、凍った舗道にステッキの音をひびかせながら、次の区割《ブロック》に建物が群がっている、下り坂になった町の方へ歩いていった。
彼が考えていたことは、奇妙な煩わしい問題だった。死の瞬間と死後硬直の間には、何らかの変化が起こるにちがいない……彼の眼は穏やかだったが、つやつやした頬の皮膚は緊張し、ステッキで力まかせにコンクリートを打ったりした。
彼は街を横切って、その一区割の一番大きな建物の表玄関の方へ急いだ。彼の眼前には紅《あか》花崗岩の巨大な曲った石段がぼんやりと見えており、その石段は舗道に面して左右からのぼってゆき、上方の石の歩廊でぶつかるようになっていた。大きな鉄の閂《かんぬき》がついている両開きのドアの上には、彫み込まれた文字があらわれていた。
オランダ記念病院
彼は石段を駆け登って、かすかに息を切らしながら、大きなドアの片方を開けた。そしてしんとした、天井の高い玄関を眺めまわした。床は白い大理石だったし、壁は鈍い色のエナメルで塗ってあった。すぐ左手には、ドアが開かれていて、白い標識には「事務所《オフィス》」と書いてある。右手にも同じようにドアがあって、「待合室《ウエイティング・ルーム》」と表示してある。すぐ前方は、玄関のむこうにガラス戸を通して、大きなエレベーターの鉄格子が見える。入口には、真白な服を着た老人が坐っている。
エラリーがあたりを見廻していた時、同じように白のズボンに白の上衣をつけた逞《たくま》しい頑丈そうな赤ら顔の男が、事務所の中から出てきた。「面会時間は、二時から三時までです」と彼はそっけなくいった。「それまで、病院の中じゃ、誰にも会えないことになっていますよ」
「え?」といって、エラリーは、手袋をはめた手をポケットに深くつっ込み、「ミンチェン博士に会いたいんだがな。大急ぎで」
追従《ついしょう》者は頤《あご》をさすった。「ミンチェン先生ですか? 何かお約束でもなさいましたんで?」
「いや、彼は会ってくれますよ。僕は急ぐんですがね」彼はポケットをさぐって、銀貨を一枚とり出した。「さあ、取ってくれないかね? 僕はとっても急ぐんだ」
「チップは頂けません」と、追従者は惜しそうにいって、「では先生にお取次ぎしますが、どなた様で?」
エラリーは眼を細くして笑って、銀貨をしまい込んだ。
「エラリー・クイーンですよ。チップは要らないの、へえ? 君の名前は何ていうの? チャロン君かい?」
その男は妙な表情をした。「いいえ、アイザック・カッブですよ『特別《スペシャル》の』」といって、上衣のニッケルのバッジを指さして、足を引きずりながら歩いていった。
エラリーは待合室に入っていって、腰を下した。部屋には誰もいなかった。彼は無意識のうちに、鼻に皺をよせた。消毒薬のかすかな匂いが、鼻孔の敏感な粘膜を刺戟する。彼は神経質にステッキの先で、タイル張りの床を叩いた。
白服を着た背の高い健康そうな男が、部屋の中へ入ってきた。「エラリー・クイーン、めずらしいじゃないか!」エラリーはすぐに立ち上った。二人は温かい握手を交わした。「何でまたこんなところへやってきたんだい? 相変らず覗き廻っているんだろう?」
「馴れっこになっちゃっているんでね。事件は」とエラリーは呟《つぶ》やいた。「病院はもともと性に合わないんだ。気が滅入っちゃうからね。ところが、ちょっと聞きたいことがあって――」
「君のお役に立てば嬉しいが」とミンチェン博士は、鋭くいった。彼は明敏な青い眼を光らせて、ちらっと微笑した。彼はエラリーの肘に手をかけて、ドアをとおりぬけ、奥へ導いていった。「ここじゃ話ができないからな。僕の部屋へ来いよ。君と話をするんだったら、いつだって時間はあるんだよ。この前に会ってから、もう何カ月ぐらいになるかな……」
二人はガラス戸を通りぬけて左にまがり、両側には閉まったドアが並んでいる、長い廊下に入った。消毒薬の匂いが、だんだん強くなってきた。
「|医者の神の亡霊《アスクレピオス》だ!」とエラリーは息を切らしていった。「こんな恐るべき匂いが、君にはまったく何でもないのかね? 一日中、こんなところにいて、よく窒息しないもんだね」
ミンチェン博士は、くすくす笑った。二人は廊下を突きあたると、右にまがって歩いていった。「すぐ馴れるよ。それに、この辺に漂っているバクテリアを吸込むよりは、水銀やアルコールの二塩化物であるリゾールの悪臭を吸い込む方がましだよ。……ところで、警部は元気かい?」
「普通だよ」エラリーの目が曇った。「手におえない小事件にひっかかっているんだがね――僕は、ほんのちょっとしたことが解らないだけで、あとはすっかり解決したんだ……もし僕が考えているようだったら……」
また二人は角を曲った。つまり最初に通った廊下と平行になっている第三の廊下を進んでいったのである。廊下の右手は、ずっと壁になっていて、ただ一箇所だけ頑丈なドアがあり、『実験手術立会人席』と表示してあった。二人が続いて通っていった左手には、まず『内科主任リューシアス・ダニング博士室』のドアがあり、それから少しさきに『待合室』の別のドアがあって、最後に三番目のドアのところへくると、エラリーの友は、笑いながら立止るように命じた。ドアには『院長ジョン・ミンチェン博士』と書いてあった。
その部屋は広かったが、家具類はすくなく、机ばかりがいやに目立っていた。ガラスの棚にピカピカ光る金属の器具をのせた小戸棚が壁ぎわに幾つかならんでいた。そのほか四脚の椅子と、重たそうな本を詰めた低くて幅の広い書棚と、数個の鋼鉄の屑を入れた箱があった。
「坐って、外套を脱げよ。それから話を聞こうじゃないか」とミンチェンがいった。彼は机のうしろの廻転椅子に腰をおろすと、ごつごつした手を頭の後ろに組んで、後ろに凭《もた》れた。
「ほんのちょっと訊きたいことがあるんだ」と呟いてエラリーは、外套を椅子の上に投げ出して、部屋を横切って近づいていった。彼は机の上にのしかかるように身体を前に乗りだすと、ミンチェンの顔を熱心に見つめた。「普通の死後硬直が始まる時間の長さを変える状況には、どんな場合があるんだろうね?」
「うん。患者は何で死んだんだね?」
「射殺だ……」
「年齢は?」
「四十五才ぐらいだね」
「病歴は? 何か病気をしたというような? 例えば、糖尿病だとか?」
「こいつは解らないな」
ミンチェンは、おだやかに椅子を揺った。エラリーは後退して、腰を下し、煙草を手さぐった。
「ここに――僕のがあるよ」とミンチェンはいった……「そうだね、まあ聞きたまえ、エラリー。死後硬直は間違いやすいものなんだ。死体を調べてみた上でなくちゃ、はっきりした意見は述べられないものなんだがね。僕が特に糖尿病のことを訊いたのは、四十才以上の人で、血液中のサッカリン過剰に影響されている場合、急死後約十分以内に硬直してしまうのは、ほとんど避けられないことだからだ――」
「十分間? 困ったぞ!」エラリーはミンチェンを見つめた、煙草がしっかり結んだ薄い唇から垂れている。「十分間」と彼はゆっくりと呟いた。「糖尿病……ジョン、電話を貸してくれ!」
「いいとも」とミンチェンは、椅子のなかで身体をゆすりながら、ゆったりと構えていた。エラリーは二人の人間に話すために、電話を医術検査官の事務所につないだ。「プローティかい? エラリー・クイーンだ……ジミネズの検死で、血液中に糖分の跡はなかったかい?……何だって? 慢性の糖尿病だって、え? 馬鹿をみたな!」
彼は受話器をゆっくりと元に戻し、ながい息を吸いこむと、笑ってみせた。彼の顔から緊張してひきつっていた皺がすっかり消え失せていた。
「これですっかり解ったよ、ジョン。君が今朝の急場を助けてくれたんだ。もう一度電話をかけて、これですっかりお終いだ」
彼は警察本署に電話をかけた。
「クイーン警部……お父さん? あれはオーラークですよ……絶対に確実です。折れた足は……そうです。死んでから折れたんですが、十分以内です……そうですとも!……僕もそう思います」
*
「帰るなよ、エラリー」とミンチェンは穏かに引とめていった。「僕も少しはひまがあるし、それにしばらく会わなかったんだからな」
二人は椅子に坐り直して、煙草を吸っていた。エラリーは、落着いた平静な表情をしていた。
「君さえよかったら、一日中ここにいて話をしよう」と彼は笑ってみせた。「君は頑固な駱駝の背中をぶち破って、ストローをさしこんだばかりだし……僕はまあ、あんまり邪魔をしない方がいいかな。ゲイレン〔古代ギリシャの医師〕みたいな職業の秘密を学んだことがないので、僕は糖尿病についちゃまるっきり知らなかったよ」
「まさか、まるっきり知らんということはないだろう」とミンチェンがいった。「実際問題として、僕は目下糖尿病のことが気にかかっているんでね、この病院内で最も重要といってもよい人物――それが慢性の糖尿病患者なんだが、今朝、構内でへまなことをしちゃったのさ。階段のてっぺんから、不様《ぶざま》に落っこっちまってね。胆嚢が破裂したんだ、それでジェニーが応急手術の準備をしているんだよ」
「気の毒だね。君のいうその最も重要な人物とは誰なんだい?」
「アビー・ドーン」といって、ミンチェンは、真剣な表情をした。「彼女は七十才を越している、年の割には元気だけれど、糖尿病の状態で、破裂に対する手術をやるのは、容易ならざることだからね。その代りにこの困難な仕事にとって、ただ一つの幸運は、彼女が昏睡状態にあるということだ。それで麻酔をかける必要がないんだ。僕たちはみんな、あの老婦人が、軽い慢性の盲腸炎を、来月手術するものとばっかり思っていたところなんだ。だが今朝は、ジェニーは盲腸には触れないと思う――彼女の身体の調子を狂わしちゃいけないからね。でも僕がいうほど、そんなに危険なものじゃない。もしこの患者がドーン夫人でなかったら、ジェニーだって、もっと楽な気持で興味をもって考えるだろうが」といって彼は、腕時計を見た。「手術は、十時四十五分だ――もうすぐ十時だ――ジェニーの仕事ぶりを、君は見たくないかい?」
「そうだね……」
「彼は驚嘆すべき男だよ。東部で一番の外科医だ。ある程度まではドーン夫人の友情と、むろん彼の外科的才能にもよるんだが、このオランダ記念病院の外科部長になっているんだ。君は見ていかないかね? ジェニーは巧くやるだろう――廊下一つ距てた実験手術室で手術することになっている。ジェニーは大丈夫だといっているが、彼がそういうんだったら、安心していいんだ」
「じゃ拝見しよう」とエラリーは浮かぬ口調でいった、「本当のことをいうと、僕は手術に立会ったことなんか、一度もないんだ。なんだか、おっかないようだな? ちっとばかり胸がむかつくんじゃないかと思うんだ、ジョン……」二人は声を合せて笑った。「大金持、博愛家、社交界の貴婦人、金融資本家といったって――結局は死んでしまう運命にある肉に過ぎないんだからね!」
「僕たちだって、みんな同じことだ」といって、ミンチェンは両足をゆっくりと机の下に伸ばしながら、考え込んだ。「そうだ、アビゲイル・ドーンは……この病院を建てた人なんだ。知っているだろう、エラリー? 彼女の創意と、彼女の資本――文字通り彼女が設立したんだ――で、僕たちはみんなショックを受けたよ。とりわけジェニーはほかの連中以上だろう――彼女は彼のこれまでの人生にとっては特別な、正しく保証人といってもよい人なんだ――彼をジョンズ・ホプキンズ大学や――ウィンナ――ソルボンヌ大学にやったのも彼女なんだ。彼の今日あるのは、まったく彼女のお蔭だよ。それで当然彼が手術を引受けたわけだ。彼はうまく仕事をするだろう。仕事の上じゃ、神経の太い男だからね」
「どうして夫人は、そんな怪我をしたんだい?」とエラリーは、好奇心にかられて訊いた。
「運が悪かったんだな……毎週月曜日の朝、夫人はここへやってきて、慈善病室を巡視することになっているんだ――それは彼女のお得意の思いつきの一つなんだがね――そして今日も三階の階段から降りようとした時、急に目まいがして、階段を転げ落ち、腹をひどく打ったんだよ……幸いなことジェニーがその場に居合せたんだ。すぐ彼女を診察して、ちょっと見ただけでも、墜落による胆嚢破裂だということがわかった――腹がひどく膨れあがっているからね……こんな場合、執るべき処置は一つしかない。ジェニーは、インシュリン・グルコーゼの応急処置を与えた……」
「目まいの原因は何だろう?」
「ドーン夫人の相談相手のサラ・フラーの怠慢だということがあとで分ったんだ――サラ・フラーというのは、アビーと数年間一緒の家に住んで、彼女の相談相手をつとめている中年の婦人なんだがね。アビーは、日に三回インシュリンの注射をやらなければならない容態なんだ。それが昨晩、折悪しくジェニーは、大変重要な用件にひっかかってしまって、いつものようにドーン家に行けなくなったので、彼はアビーの娘のハルダに電話をした。だが、ハルダも留守だったので、彼はこのフラーにハルダ宛の伝言をたのんだのだ。帰宅したら、母にインシュリンの注射をするようにって。ところがこのフラーという女は、どうしたのかすっかりそれを忘れちまった、アビーはいつも注射のことを気にしていなかったし、それで昨晩は、とうとうそれっきりさ。ハルダは今朝遅くまで眠っていて、それにジェニーの伝言も聞いていなかったために、アビーは今朝も注射をうってもらわなかったんだ。その上、腹一ぱいに朝食を摂《と》っていた。これじゃ覿面《てきめん》だよ。血液中の糖分が、インシュリンの均衡を急激に失ったために、目まいがやってきたのさ。運が悪いことに、彼女が階段の上にいる時、それに襲われたんだからたまらない。あとは、ご覧のとおりだ」
「気の毒に!」とエラリーは呟いた。「皆に知らせたんだろうね。家族の人達はむろんここに来るんだろう」
「手術室には入れないんだよ」とミンチェンは物々しくいった。「そのかわり、お転婆も間抜けもみんな隣の待合室に集るわけだ。家族は、見物することを許されないんだ。知らなかったかい? さて! そこら辺をぶらぶら歩いてみないかね? 君にここの中を見せたいよ。模範病院といっていいくらいだ」
「じゃ、そうしよう、ジョン」
二人はミンチェンの部屋を出て、さっき通った北廊下を歩いていった。ミンチェンは、実験手術立会人席のドアを指さした。そこはあとで手術を見学する場所である。そしてすぐ向いに待合室のドアがあった。「ドーン家の人達は、多分この中にいるよ」とミンチェンは説明した。「歩き廻ることを禁じられているんだ……この西廊下には、補助手術室が二つあるからね」二人が廊下の角を曲った時に、彼は続けていった。「僕たちは、いつも非常にいそがしい――東部で最大の外科スタッフを擁しているんだからね……この左側の廊下の向うは、大手術室で――実験手術室と呼ばれているが――二つの特別室、控室と麻酔室が付属している。ご覧のとおり、この廊下――つまり西側にドアがついている――もう一つの入口は、麻酔室に通ずるものだが、角を曲った南廊下にもドアがある……実験手術室では、いつも大手術が行われることになっている。それには、実習生《インターン》や看護婦に公開するという目的もあるんだがね。むろん階上にはほかの手術室もあるよ」
病院の中は、異様に静まり返っていた。白服を着た人影が、ときたま長い廊下をちらっと掠めてとおった。雑音はすべて遮断されているようだった。ドアの蝶番には、充分油が注がれていて、手荒く閉めても、音一つ立てない。柔かいぼんやりした光が、建物の内部にあふれていて、化学薬品の匂いがするほかは、空気は異常に透明に感じられた。「それはそうと」二人が南廊下へ曲がった時、エラリーが突然口をきった。
「ドーン夫人の手術をするのに麻酔をかけないと、さっき君がいったけれど、それは彼女が昏睡状態だからかい? 僕は外科手術なら何でも麻酔をかけるものとばかり思っていたよ」
「もっともな疑問だね」とミンチェンは認めた。「たいていの場合は、君が思っていたとおり――実際は、あらゆる場合といってもいいが――麻酔を用いている。しかし、糖尿病患者だけは別なんだよ。ご存知のとおり――いや、君はご存知ないかも知れないが――どんな些細な手術だって、慢性糖尿病には危険なんだ。ほんのちょっとした手術だって、致命的になる場合がある。先日もこんなことがあったよ――ある患者の足の指が化膿したので診療所にやってきた――ごくなんでもない傷さ。係りの医師が――診療所のきまりきった仕事をやって、この不慮の出来事にぶつかっちまったんだ。足の指を綺麗にして患者を帰してやったところが、翌朝になって彼は死んでしまった。検死調書によると、この男は糖分過剰だったのだね。きっと彼自身も知らなかったんだろうが……
手術がどうしても必要な時には、患者の血液中の糖分を、しばらくだけでも普通の状態にする仕事を、比較的短い間にやらなければならない。そして、手術をやっている間だって、糖分の均衡を保たせるために、間断なくインシュリンとグルコーゼの交互注射をやらなければならない。アビー・ドーンには、こうした処置を講じなければならないんだよ。彼女はいまインシュリン・グルコーゼの処置を受けているだろう。糖分の減少を記録しながら、血液検査をやってゆくんだ。この応急処置は、およそ一時間半から二時間ぐらいかかるよ。普通はこの手当に一カ月位かかるものなんだ。あんまり急激にやると肝臓に影響するからね。だがアビー・ドーンの場合は、そんな余裕がない。胆嚢破裂は、半日も放っておけないからね」
「なるほど、でも麻酔の件はどうなんだい?」とエラリーは反対していった。「手術することは、もっと危険なんじゃないかい? 彼女が昏睡状態におかれているから、麻酔をかけなくてもいいというわけなのか?」
「その通りさ。より危険で、さらに複雑だが、この上は万全の用意をしなくちゃ」ミンチェンは、診察室のドアの把手に手をかけて、「もちろん、麻酔をかける者が、手術台のそばに立っていて、アビーが昏睡から醒めかけたら、時をうつさず処置するんだよ……入れよ、エラリー。近代的病院の設備がどんなものか、君にみせたいんだ」
彼はドアを開いて、エラリーを部屋の中に招いた。エラリーは壁に嵌めこまれた華奢な鏡に気づいた。それは人が控室に入ったことを知らせるために、ドアを開けた拍子にパッと点いた小さな電球の光で輝やいたのだった。彼は閾《しきい》のところで、感心したように立止っていた。
「綺麗だろう、え?」とミンチェンは、得意そうに笑った。
「あのおかしなものは何だね?」
「螢光板さ。どこの診察室にも一つあるもんだ。むろん、これは診察机、消毒器、薬棚、機械棚……解るだろう」
「機械なんてものは」とエラリーは積極的にいった。「創造者である神を嘲るために、人間が発明したものだよ。神にかけて、五本の指で満足じゃないかい?」二人は声をそろえて笑った。「僕はここじゃ息苦しくなる。誰もあたりを乱雑にしたりしないのかい?」
「ジョン・クィンタス・ミンチェンが、院長であるうちは、そんなことできないよ」といって、医師は満足そうに笑った。「実際、われわれは秩序というものを重んずるんだ。たとえば、つまらない補充品なんかでも、みんなこうした引出しに蔵《しま》ってある――」彼は隅に置いてあった大きな白い戸棚を、手で軽く叩いた。「そして、患者や面会人が触らないように、見えないところに置いておく。だが病院内の者は、補充品がどこにあるか、ちゃんと知っていなくちゃならない。間違いやすい物は、すぐ分るようにしておくんだ」
彼は戸棚の下の大きな引出しを開いた。エラリーは身体を曲げて、繃帯がきちんと揃えてならべてあるのを眺めた。別の引出しには、脱脂綿や薄い紙が入っており、さらに薬綿や、絆創膏が入っていた。
「きちんとしているね」とエラリーは呟いた。「君の下役は汚いリンネルを着たり、靴紐が結んでなかったりしたら、×印をつけられるんだろうね?」
ミンチェンはくすくす笑った。「まあ、そんなところだね。病院内の者は、命ぜられた病院の制服を着る規則になっている。男は白の布靴に白い麻ズボンに上衣だし、女もすっかり白リンネルの服だ。外の『|特別の《スペッシャル》』やつでさえ、白服を着ていたのを覚えているだろう。エレベーター係、掃除人、炊事雇い、事務員――みんな病院の中へ足を踏み入れたら、帰るまで決められた制服を着用するんだ」
「頭が痛くなってきたよ」とエラリーは呻いた。「ここを出ようじゃないか」
二人が再び南廊下に出た時、褐色の外套を着て、帽子を手に持った、背の高い青年が急ぎ足で近づいてくるのを認めた。彼は二人に気がつくと、ためらっていたが、急に東廊下の方に向きを変えて姿を消した。
ミンチェンの顔色が変った。「大事なアビゲイルのことを忘れていたよ」と彼は呟いた。
「今、あそこを通ったのが、彼女の弁護士だよ――フィリップ・モアハウスというんだ。無能な若僧さ。アビーのために、自分の時間をすっかりさいているんだ」
「きっと通知を聞いて飛んできたんだろう」とエラリーはいった。「彼はドーン夫人とは、そんなに個人的な近づきがあるのかい?」
「ドーン夫人の最愛の娘とはね」とミンチェンは、そっけなく答えた。「彼とハルダは、結構似合っているからね。恋人同志のように見えるよ。そして、アビーは大邸宅の奥様らしく、この出来事を笑って眺めているらしいね。……さあ! みんな集っているよ……おい! 先生がいるよ。A手術室から出たところだ……そらあそこに。ドクター!」
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二 興奮
褐色の外套を着た男が、北廊下にある待合室の閉まったドアに駈けよって、強く叩いた。ドアの背後からは、何の物音も聞えない。彼はノッブに手をかけて、押した……
「フィル!」
「ハルダ!……」
眼を泣きはらした、背の高い、若い女が彼の腕の中に飛び込んできた。彼はいいようのない支離滅裂な同情の言葉を呟きながら、肩の上で彼女の頭をゆすった。
広いがらんとした部屋には、二人のほかには誰もいなかった。長いベンチが、壁に沿って、窮屈そうに置かれていた。その上に、ビーヴァー・コートが投げ出されてあった。
フィリップ・モアハウスは、やさしく彼女の頭を起こして、頤を上に向かせて、じっと眼を見詰めた。
「なんでもないんだよ。ハルダ!――お母さんはよくなるよ」と彼はしゃがれ声でいった。「泣くんじゃないよ、ねえ――どうか!」
彼女は目ばたきし、彼に笑いかけようとする努力で顔を痙攣させた。
「わたしは――フィル、あなたが来てくれて、本当に嬉しいわ……ここにずっと一人で坐っていて……待っていたの、待って……」
「わかっているよ」彼はちょっと眉をひそめて周囲を見廻した。「ほかの人達はどこだい? 君をこんな部屋にひとりぼっちで残しておくなんて、一体どいつが考えやがったんだろう?」
「わたし、知らないわ……サラやヘンドリックは――どこかにいるんでしょ……」
彼女は、彼の胸に顔を寄せて、彼の手をさぐった。しばらくして、二人はベンチのところへゆき、腰を下ろした。ハルダ・ドーンは、大きく開いた眼で、床を見詰めた。青年は、憂鬱になって言葉を探したが、何にも浮かんでこなかった。二人の周囲には、沈黙の空間があったが、病院は仕事の真最中でざわざわしていた。だが部屋の中は、物音一つしなかった。足音もしない。愉快な話し声も聞えなかった。ただ白い鈍い壁だけが……
「ああ、フィル、わたし怖いわ、わたし怖いわ!」
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三 視察
背の低い異様な姿をした男が、南廊下を歩いて、ミンチェンとエラリーの方へやってくる。エラリーは、その男の顔つきを、はっきり見わけないうちに、その性格を直感した。多分この印象は、彼の頭をかしげる独特の窮屈そうな癖と、かなり目立つ跛《びっこ》をひきながら歩いている格好から受けたにちがいない。どこか左足が悪いということは、右足に体重がかかった時の彼の様子から明白であった。「きっと、ある種の筋肉麻痺だな」とエラリーは、この小柄な医師が近づいてくるのを待ちながら、心の中で呟いた。
新来者の男は、すっかり外科医らしい服装をしていた――白いガウンを着て、その下から白麻のズボンと白い布靴の先が覗いていた。ガウンは化学薬品で汚れ、袖のところには、一すじの血痕がついていた。頭にかぶっている外科帽は、隅で折返しになっていた。彼は顔マスクの紐をいじりながら、待っている二人の方に跛をひきながら近寄ってきた。
「やあ、ミンチェン! 仕事はうまく片づいたよ。盲腸は切除したし、腹膜炎を避けられるように、手当をしといた。汚い仕事さ……ときにアビゲイルの容態はどうだ? 診察したかね? 最終報告では、何ミリグラムになっている? 誰が調べているね?」と、彼は機関銃のように早口にせかせかと喋べった。彼の明るい眼は、落着かなく、ミンチェンから視線を転じてエラリーの方をまばたきしながら見詰めた。
「ジェニー博士、クイーン君を紹介しよう。昔からの友人で」とミンチェンもせわしなくいった。「エラリー・クイーン、作家だよ」
「これは、どうも」とエラリーはいった。
「お会いできて嬉しいです、博士」
「私こそ、大変嬉しい、私こそ」と外科医は頷ずいてみせ、「ミンチェンの友達だったら、ここじゃ歓迎されますよ……じゃ、ジョン――すぐかからなくちゃ。アビゲイルが心配だ。うまくゆけばいいが。ひどい破裂だからな。あの静脈注射はどうかね?」
「素晴らしく、よくなっている」ミンチェン――は答えた。「僕が最後に聞いた時は、十時ちょっと前だったが、百八十から百三十五にさがったそうだ。予定どおり準備しなければならない。きっと彼女は、もう控室に運ばれて来ているだろう」
「よかったな! それならじきに彼女は、良くなるよ」
エラリーは、微笑しながらもじもじしていった。「僕にはよく分りませんが、先生、いま専門的に言及された百八十から百三十五にさがったというのは、どういうことですか? 血圧ですか?」
「とんでもない、違います!」とジェニー博士は、烈しくいった。「あれは百C・Cの血液に、百八十ミリグラムの糖分があるということです。それを下げたんです。われわれは普通の――百十か百二十にさがるまで、手術できないんですよ。ああ、あなたは医者じゃないんですね。これは、失礼」
「よくわかりました」とエラリーはいった。
ミンチェンは、咳払いをした。「ドーン夫人がこんなに悪くちゃ、本を書くことについての僕たちの今夜のプランは、お流れになっちゃったね」
ジェニーは頤をなでた。彼の視線は、相変らず落着きなく、エラリーと院長の間を往復していた。エラリーは、何となく彼らに不愉快なものを感じた。
「もちろん、今夜は駄目さ!」ジェニーは、彼の小さなゴム手袋をはめた手を、ミンチェンの肩にかけたまま、不意にエラリーの方に顔を向けると、「あなたは小説家でしたね?」といって気味の悪い笑いを浮かべ、煙草の脂でよごれた歯を覗かせた。「ここにも、もう一人作家がいますよ。ジョン・ミンチェン君です。慧敏な院長です。一緒に書いている本のことで、大変僕を助けてくれています。まったく画期的な研究なんですからね。それで僕はこの仕事で、最もすぐれた協力者を得たわけですよ。クイーンさん、先天性アレルギー疾患ということを知っていますか? ご存知ないでしょうな。医学界に、大きな衝動を与えますよ。僕たちは、みんなが骨格整形で何年間も困りぬいてきたある事を解決したんですからね……」
「そうかい、ジョン!」エラリーは愉快そうに笑った。「君は、そんなことをいわなかったが――」
「ちょっと、失礼」とジェニー博士はいって、突然右の踵で身体を向き変えると、「何か用かい、カッブ?」
白服を着た玄関番が、三人のところへ臆病そうに近づいてきていた。そして、この小柄な外科医の注意をひこうとして、背後でもじもじしながら立っていた。彼はかぶっている帽子を脱いだ。
「外で待っている男の方が、お会いしたいそうですが、ジェニー先生」と彼は慌てていった。
「お約束があると申しております。お忙がしいでしょうが、先生――」
「そいつは嘘つきだ」とジェニー博士は怒鳴った。「僕が誰にも会えないことを、お前は知ってるじゃないか。そんなことで邪魔しちゃいけないって、何遍いったらわかるんだ? ミス・プライスがいるじゃないか? そんなことは、みんな彼女が処理するんじゃないか。すぐ行ってくれ。その人には会えないよ、忙がしくって」
彼は玄関番に背を向けた。カッブはひどく顔を赤らめたが、立ち去ろうとはしなかった。
「でも私――彼女には――あの人は、あの……」
「君は忘れているんだよ、ドクター」と、ミンチェンが口を挟んだ。「ミス・プライスは今朝、先天性アレルギー疾患についての原稿を写していたが、君の命令でドーン夫人のところにいったんじゃないか……」
「ちぇっ! そうだっけ」とジェニー博士は呟いた。「でも、僕はその男に会えんよ、カッブ――」
無言のままで玄関番は、大きな手で、まるで貴重なものでも渡すように白い名刺をさし出した。ジェニーは、それをひったくるようにして受取った。
「誰だい? スワンソン――スワンソン……ああ!」たちまち彼の声の調子が変った。じっとその場に立ちすくんだまま、彼の明るい小さい眼が曇っていた。それから彼はガウンをたくしあげて、上衣のポケットに名刺をしまい込んだ。そして、ついでに服の下から懐中時計をとり出すと、「十時二十九分」と呟いた。驚くほど、彼は手先を器用に動かしながら、時計を懐中に戻し、ガウンを元どおり引きさげた。「わかったよ、カッブ!」と彼ははっきりいった。「案内してくれ。彼はどこにいるんだい?……ジョン、後で会おう、クイーン君、失敬」
現れた時と同様に慌しく、彼はカッブの後から、何か心配事があるらしい様子で、身体をゆすりながら跛をひいて去っていった。ミンチェンとエラリーは、しばらく彼らのあとを見送っていた。二人は、ジェニーと玄関番が、玄関の向いのエレベーターのところを過ぎた頃、やっとその場を離れた。
「ジェニーの部屋は、あっちにあるんだ」と、肩をすくめてミンチェンがいった。「あいつは変ってるだろ? 偉い奴ってのは、変ってるんだろうが……僕の部屋へ戻ろうじゃないか。手術が始まるまで、まだ十五分あるよ」
二人は廊下の角をまがって、西廊下をゆっくりと歩いていった。
「小鳥みたいな感じだね」エラリーは、考え込みながらいった。「あの頭をかしげる格好や、鳥みたいに眼をまばたきさせるところなんか、そっくりだね……面白そうな男だ。年は五十ぐらいかな?」
「それくらいだ……もっと面白いことがあるんだよ、エラリー」ミンチェンは、少年みたいないい方をした。「あいつは、本当に自分の一生を自分の職業に打込んでいる男だ。そのためには自分自身のことも、自分の財産のことにも無関心なんだ。報酬が少ないからといって、彼が診察を断ったというようなことは聞いたことがない。現に、彼は一セントにもならない仕事だってやっているんだよ。しかも報酬なんか考えてもいない……悪く思うんじゃないぜ、エラリー。あれは本当の人物だよ」
「ドーン夫人と彼の結びつきが君のいったとおりだとすれば」とエラリーは微笑しながら続けた。「ジェニー博士は、財政的にはそれほど心配することはないね」
ミンチェンは眼を見はった。「どうして、そんなことをいうんだい?――そりゃあ、むろん」と彼は、穏やかに笑って、「分りきったことだろう。アビーがあの世へ行ってしまったら、ジェニーはすごく大きな遺産を受けとるさ。そんなことは、誰だって知っているよ。彼女にとっちゃ、彼は息子同然なんだからね」
二人はミンチェンの部屋に入った。ミンチェンは、すぐに電話をかけたが、相手の報告に満足したらしかった。
「アビーはもう控室に運ばれたそうだ」と彼は受話器を下しながらいった。「彼女の血液の糖分含有量は、百十ミリグラムに下ったから――もうすぐかかるだろう。済んじまえば、僕もほっとするよ」
エラリーは、かすかに身震いした。ミンチェンは気がつかない様子をした。煙草をふかしながら、二人は黙って坐っていた。二人の間には言いようのない陰鬱な空気がただよっていた。
エラリーは肩をゆすって、煙草の輪を吐き出した。「さっきの共著の本のことだがね、ジョン」と彼は軽くいった。「僕は君が書物の虫に負けたとは思えないんだがね。つまりどういうことなんだ?」
「ああ、あれか」とミンチェンは笑った。「あの仕事は、ジェニーと僕とが、いつも抱いている説を説明しながら、実際の病状についてまとめあげることなんだ。この説というのは、胎児の特殊な病気に対する素質というものは、遺伝的要素を注意深く分析することによって予知することができるということなんだがね。むずかしいかい?」
「ひどく科学的なお話だね、先生」とエラリーは呟き、「その原稿を僕に見せてくれないかな? 文章の表現上のことで、いくらか君のお役に立つかも知れないよ」
ミンチェンは、慌てて打ち消した。「とんでもない、そんなことはできないよ」と彼は困ったようにいった。「ジェニーに大変な目に会わせられるよ。実際に、あの本に使われる原稿や症状記録は、絶対秘密にされているんだ。ジェニーは、それを命のように大切にしているよ。なぜって、つい最近にも、実習生《インターン》の一人が、運悪くちょっとした気持で――僕は単なる学問的好奇心だと思っているが、ジェニーの書類整理棚をひっかき廻して、やめさせられたんだ………こうした記録に眼を通せるのは、ジェニーと僕と、ジェニーのアシスタントのミス・プライスだけなんだよ。――ミス・プライスは、看護婦で――もっぱら決まりきった事務的な仕事をやっているんだがね」
「わかった、よくわかったよ!」とエラリーは、眼を閉じながら笑っていった。「僕はあきらめるよ。僕は君の手助けをしたいんだが、君はこの変り者を敬遠する……君はイリアッドの言葉を覚えているかい?『一つの仕事を多勢の者が骨折ってやれば、分前もすくなくなる』君が僕の申し出をはねつけたとすると……」
二人は声をそろえて笑った。
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四 暴動
エラリー・クイーン、彼は犯罪学の愛好家《ディレッタント》であるが、血を見ることは嫌いだった。日頃から無法者や刑事と接していて、犯罪の話や、殺人者の物語には馴れていたが、虐げられた肉体を見ることは耐え難かった。一警官の息子としての立場、残忍で歪んだ心を持った人間との交際、犯罪心理の泥沼のなかで文筆を弄《もてあそ》ぶこと――こうした一切のことがあるにも拘らず、彼は人間の非人間性が人間に行う血なまぐさい行為に、慣れていなかったのである。虐殺の現場で、彼の眼は鋭く光り、彼の判断は敏速であるが、彼の心はいつも病んでいた……
彼は外科手術に立会ったことは一度もなかった。死体を見たことは沢山あった。死体公示所の惨殺死体、河や海の溺死体、鉄道線路の轢死体、ギャング戦のあとの街の遺棄死体、――こうした最も醜悪な死の場面を、彼はいやというほど知っている。しかし、冷たいメスの先が、暖かい肉のなかにつきささり、生きた組織を切り開いて、切断された血管から赤い血がほとばしる――彼は考えただけでも、吐き気を催した。
そうした恐怖と刺激とまじりあった興奮のうちに、彼はオランダ記念病院の実験手術室の立会人室に腰を下した。そして、二十フィート離れた劇場の舞台で上演されている静かな無言劇のシーンにじっと眼を注いだ。ミンチェン博士は、彼の傍の椅子にもたれて、手術の準備に手落ちはないかと、青い眼を素早く動かして見守っている……低い話し声が、二人のそばの立会人席に坐っている人達のところから、かすかに聞えてきた。すぐ前の中央のところには、白い服装をした男や女がいた――実習生や看護婦が、外科の専門的な技術を見学するために集っていたのである。彼らはきわめて静粛であった。エラリーとミンチェン博士の背後に、一人の男が坐っている。彼もまた病院の服装をしていた。そして、白服を着た弱々しそうな若い女性が、ときどき彼の耳に何か囁やいている。男は内科主任のリューシアス・ダニング博士だった。女は彼の娘で、病院内の社会奉仕部に勤めていた。ダニング博士は、髪は灰色で、柔和な褐色の眼をしていたが、顔にはびっくりするような傷痕があった。娘の方は金髪で、不器量だった。片方の瞼には目立つほどの筋肉痙攣が見られた。
立会人席は、劇場の床から一段と高くなっていて、白い木製の高い柵で、舞台から仕切られていた。座席の列は後方にけわしく登っていて、劇場の二階棧敷のようであった。後方の壁には、外に開かれる一つのドアがあって、環状の階段で下の床に導かれ、直接に北廊下に出るようになっていた。
[#オランダ病院の見取り図(map.jpg)]
足音がはっきりと聞え、ドアが開くと、フィリップ・モアハウスが、眼をきょろきょろさせながら、いらいらした様子で立会人席に入ってきた。褐色の外套と帽子は、消えてしまっていた。院長の姿を認めると、彼は飛びかかるように駈け降りてきて、ミンチェンの耳に何か囁くために身を屈めた。
ミンチェンはゆっくりうなずいて、エラリーの方を向いた。
「モアハウス君を紹介しよう、エラリー。――こちらはクイーン君です」彼は指を波のように動かしながらいった。「ドーン夫人の弁護士さんだよ」二人は握手を交わした。エラリーは、反射的に笑ってみせて、すぐ舞台の方を向いてしまった。
フィリップ・モアハウスは、しっかりした眼つきと強情そうな顎をもった痩せぎすの青年だった。「ハルダもフラーもヘンドリック・ドーンも――みんな下の待合室にいますよ、手術の間、みんなここにいちゃいけないでしょうかね、先生?」と彼はしきりに小声で囁いた。ミンチェンは首を振った。彼は黙って、隣の空席を指さした。モアハウスは眉をひそめたが、椅子に腰掛けた。そして、すぐに下で動き廻っている看護婦達に気をとられていった。
白服の老人が、階段をのっそり登ってきて、立会人席を見廻していたが、一人の実習生がこちらを向いた時に、合図に強くうなずいてみせ、すぐに姿を消した。最後にドアに鍵をかける音がした。すぐさま、老人がドアの後ろあたりにいる気配が、ガチャガチャという鍵の音で分った。それから、彼の動く音も消えてしまった。
実験手術室の舞台は、期待どおりに、しんと静まりかえった。エラリーは、まるで開幕直前の瞬間の本当の劇場とそっくりだと思った。その瞬間、観客は固唾《かたず》をのんで、場内は文字どおりの静けさ……冷たく、きびしく、明るい光を放っている素晴らしく大きな三つの電燈の下には、手術台が置かれてある。それは、色彩が施してなく、無慈悲にむき出しのままであった。その近くのテーブルの上には、繃帯、脱脂綿、小さな薬壜がのせてあった。ガラス張りのピカピカ光る箱があり、一人の実習生が、残酷な鋼鉄の器具を見張りながら、右手では小さな機械のなかのものをたえず殺菌消毒していた。部屋の一方では、二人の白服を着た外科の助手が――男である――陶器の洗面器の上に身をかがめて、青い液体で両手を丁寧に洗っていた。その一人は、偉そうに看護婦からタオルを受取ると、すばやく手を拭って、すぐにまた、今度は水みたいに見える液体で手をゆすいだ。
「はじめは、水銀のニクロール塩溶液で、それからアルコールだ」とミンチェンは、エラリーに囁いた。
じきに、アルコールの手は乾いてしまった。そしてこの外科助手は、看護婦が消毒器からゴム手袋をとり出して、彼の上にのせるまで、その手を前にさし出していた。同じような順序に従って、もう一人の助手も仕度を整えた。
突然、手術室の左手のドアが開いた。そして小柄な、跛をひいているジェニー博士の姿が現われた。彼は例の鳥のような眼つきであたりを見廻してから、洗面器の方へ急いで近寄った。彼がガウンを脱ぎすてると、一人の看護婦が、巧みに新しい消毒したガウンを着せかえた。この外科医が、洗面器の上にかがんで、両手を丹念に青いニクロール塩溶液で洗っているうちに、別の看護婦が、注意深く彼の灰色の髪を巻き込むようにして、新しい白い帽子をかぶせた。
ジェニー博士はそちらを見ようとしないで「患者を」をそっけなくいった。二人の助手看護婦が、すばやく控室に通ずるドアを開けた。「患者さんを、プライスさん!」と一人がいった。二人がドアに消えると、間もなく、長方形の白いゴム車輪のついた輸送車を押して入ってきたが、その上にはシーツに覆われた静かな患者が横たわっていた。患者の頭は、後ろへのけぞるように反《そ》っていたが、幽霊のように蒼白だった。シーツは首のまわりに折り込んであった。両眼は閉じたままだった。三人目の人影が、控室から手術室の中に入ってきた――別の看護婦であった。彼女は、部屋の隅で待ちながら、静かに立っていた。
患者は輸送車から降され、手術台の上に移された。輸送車は、三人目の看護婦によって、すぐに控室に運ばれていった。彼女はドアを音のしないように閉めて、姿を消してしまった。ガウンを着て、マスクをかけた一人の男が、手術台のそばに近よって、さまざまな器具が載せてある小さな台のところで、せかせかと何かしていた。
「麻酔係だよ」とミンチェンは呟いた。「アビーが手術中に昏睡状態から醒めた場合、一方で麻酔をかけなければならないからね」
二人の外科助手が、その反対側から手術台のそばに近づいた。無造作にシーツが、患者の身体からとり除かれた。特別に仕立た衣服が、すぐに着せかえられた。一方では、手袋をはめ、ガウンを着け、帽子をかぶったジェニー博士は、代理看護婦が、彼の口と鼻を覆うマスクをかけている間、じっと立っていた。
ミンチェンは、何か妙なことに気づいたらしく、椅子から身体を前に乗り出した。彼の視線は、患者の身体をじっと見詰めていた。彼は異様に緊張した口調で、エラリーに小声でいった。
「おかしいぞ、エラリー、どうもおかしい!」
エラリーは、頭を動かさずに返事をした。
「硬直のことかい?」と低い声で、「僕も気がついたよ。糖尿病の……」
「困ったことになったぞ!」と、ミンチェンは、かすれた声でいった。
二人の外科助手が、手術台の上にかがんでいるところだった。一人が片方の腕を持ちあげて、下に落した。それは硬ばっていて、曲がらなかったのだ。もう一人が、瞼にさわって、眼球をしらべた。二人は顔を見合せた。
「ジェニー先生!」と、すぐさま一人が、烈しい口調でいった。
外科医はぐるっと振向いて、目を瞠《みは》った。
「どうかしたのか?」彼は傍の看護婦を押しのけて、跛をひきながら急いで近よった。瞬くうちに、彼は、手術台から覆いを引きはぐと老婦人の首に手をあてた。それからエラリーは、電気にうたれたように彼の背中がこわばっているのを見た。
ジェニー博士は、頭をもたげようともせずに、たった二言《ふたこと》、「アドレナリン、酸素吸入器《パルモーター》」といった。まるで魔術にかかったように、その瞬間、二人の外科助手と、二人の看護婦と、二人の代理看護婦は、あたふたと動き出した。大きな細長い円筒が持ち込まれ、幾人かの人影がせわしなく動いている間にも、ほとんど口を利く者はなかった。一人の看護婦が、ジェニー博士に小さなピカピカ光る注射器を渡した。彼は注射をする前に患者の口を無理やりに開いた。それから彼は、熱心に金属の鏡の表面をしらべた。彼はそれをぶつぶつ小言をいって投げ出すと、看護婦が準備した皮下注射器に片方の馴れた手をのばした。そして老婦人の胴を裸にすると、直接心臓の上あたりにずぶりと針をさしこんだ。すでに酸素吸入器は、彼女の肺に酸素を送りこむ作用を開始していた……
立会人席では、幾人かの看護婦や実習生、ダニング博士、彼の娘、フィリップ・モアハウス、ミンチェン博士、エラリー等が、身動きもせずに、座席の端に坐っていた。実験手術室の中は、酸素吸入器の音のほかには、何の物音もしなかった。
十五分ほど経って十一時五分――エラリーは、なにげなく腕時計を見た――ジェニー博士は、患者の上に身体を真直ぐにのばすと、あたりを見廻し、ミンチェン博士にむかって、いらいらしたように人差指を曲げてみせた。黙って院長は席を離れると、背後の階段を駈けあがり、ドアから姿を消した。しばらくたって、彼は西廊下のドアから突然現れると、手術台に駈け寄った。ジェニーは、あとずさりすると、黙って、老婦人の首部を指さした。
ミンチェンの顔は真蒼になった……ジェニーのように、彼も後ろに退ると、立会人席の方を振向いて、ミンチェンが離れた後に石のように坐っていたエラリーに指を曲げて合図した。
エラリーは立ち上った。彼の眉は吊上っていた。彼の唇は、声にこそ出さないが、一つの言葉を語っているように見えた。ミンチェンには、その意味がよく分った。
ミンチェン博士はうなずいた。
その言葉はこうだった。
「殺人ですか?」
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五 絞殺
エラリーはもはや、死すべき肉を虐げる手術を見ているあいだに、彼を襲った烈しい悪寒を感じなかった。西廊下から手術室のドアをあけて入った時、外科医や看護婦達が、まだしきりに手当をしていたが、彼にはもう完全に死んでいるように思われた。生きていた人間が殺されたのだ。しかも残酷な死にざまだった。でも、残酷な死は、探偵小説の作家や、非公式の犯罪視察者や、警部の息子にとっては、日常茶飯事のことだった。
落着きはらって彼は、渦をまくように動き廻っている人々の中心に近寄っていった。ジェニーは眉をひそめて、ちらっと彼を眺めた。「入ってきちゃいかん、クイーン」といって彼はくるっとテーブルの方を向くと、もうエラリーのことを忘れてしまったようだった。
ミンチェンが言葉をはさんだ。「ジェニー博士」
「え?」
ミンチェンは熱心に喋べった。「クイーンは、事実上、警察の一員なんだよ、博士。彼はクイーン警部の息子なんだ。それに彼は、これまでも沢山の殺人事件の解決を助けてきた。だから、きっと――」
「ほう」と、ジェニーは怒りがくすぶっている小さな眼を、エラリーに向けて瞬きした。「じゃ、この場はまかせますよ。何でもお好きなように。僕は忙しいから」
エラリーはすぐに立会人席に顔を向けた。みんな立上っていた。ダニング博士と彼の娘は階段を登って後ろの出口へ急いでいた。
「ちょっと、お待ち下さい」彼の声は、実験手術室に鋭く透明にひびきわたった。「あなた方は、立会人席に残っていただきたい――皆さん、どうか――警官が来て、許可が出るまで」
「途方もないことだ! 警官だって? 何のために?」ダニング博士は、緊張で蒼ざめた顔を向けた。娘は、腕を彼の腕にかけていた。
エラリーは、声を荒だてずにいった。「ドーン夫人が殺されたんです、博士」ダニング博士は、沈黙して娘の腕をとると、二人は立会人席の前の方へ、よろよろと降りてきた。誰も口を利かなかった。
エラリーはミンチェンに低い声でいった。「すぐ、やってくれよ、ジョン……」
「君のいうことなら、なんでもするよ」
「病院のドアを、直ちに全部閉めて、見張りをつけてくれ。出来たら、この三十分以内に、構内から出ていった者を、くわしく調べて欲しいな。患者も、勤務者も誰でもみんなだ。これは大事だからね。それから警察本署にいる僕の親父に電話してくれないか。管轄区の分署にも知らせて、起こったことを話してほしい。わかったかい?」
ミンチェンは、急いで立ち去った。
エラリーは、二三歩前に進み、医師たちが老婦人に、いろいろと熟練した動作で手当しているのを、少しわきから見守っていた。だが、一見して、蘇生《そせい》する望みのないことがわかった。この病院の創立者、大富豪、数えきれない慈善事業の後援者、社会的指導者、幸運の操縦者はもう人間の力ではどうすることもできなかった。
彼は頭を低く垂れているジェニーに、静かに訊いた。「望みがありますか?」
「全然、ない。これはどうしようもない。彼女は三十分ほど前に死んだんです。死後硬直は、この部屋に運び込まれた時に、もう始まっていたんです」ジェニーの低い声は、まるで無縁墓地の死体について話しているかのように、非情だった。
「何で殺したんでしょう?」
ジェニーは、身体を真直に伸ばすと、頭からマスクを外した。彼は、すぐにエラリーに答えようとしなかった。彼は二人の助手に動作で指図をするかわりに、意味ありげに頭を振ってみせた。助手たちは、黙って酸素吸入器をほかへ移した。一人の看護婦が、石みたいな顔をして、老いた人を起こすためにシーツを持ち上げた……
エラリーが止めようとした時、ジェニーは、彼の方を向いた。この外科医の唇は、ぶるぶる震えていた。顔は灰色だった。
「彼女は――絞殺されたんです」
そして顔をそむけ、ガウンの下をふるえる指でさぐっていたが、やがて一本の煙草をとり出した。
エラリーは死体の上に屈んだ。老婦人の首のまわりには、深くて細い血のにじんだ線がまきついていた。すぐ傍の小さなテーブルの上には、血のついた、短い長さの普通の額縁用の針金がのっていた。エラリーは室を離れずにそれを調べてみると、その針金は一度結んだらしく、二箇所が折れ曲っていた。
アビゲイル・ドーン夫人の皮膚は、かすかに青味を帯びた死灰色で、異様に膨れあがっていた。唇は固く結ばれ、眼は深く落ちくぼんでいた。身体は硬直していた、不自然に……
廊下のドアが開いて、ミンチェンが再び姿を現わした。
「みんな片づけたよ、エラリー」彼は陰気な声でいった。「僕は病院監督のジェームス・パラダイスに出入者を調べさせることにした。もうすぐ報告があるだろう。君のお父さんに電話したよ。部下をつれてくるそうだ。分署からも二三人来ることになっている――」
青い上衣を着た男が、手術室に入ってくると、場内を見わたしエラリーを見つけた。「やあ、クイーンさん。今、分署から報せがありましてね。あなたの受持ですか?」とどら声でいった。
「そうだよ。君、そばに居てくれないか?」
エラリーは、実験手術室のなかを、ぐるっと見わたした。立会人席の人達は、じっとして動かなかった。ダニング博士は、坐ったまま何か考え込んでいた。彼の娘は、ぼんやりして生気がなくなったように見えた……舞台では、ジェニー博士がみんなから離れて、壁の方を向いたまま、煙草を喫っている。看護婦や助手は、あてもなくうろうろしている。
「ここから出よう」と、突然エラリーがミンチェンにいった。「どこへ行こうか?」
ミンチェンは控室のドアを指した。
「僕もかい――?」
「ドーン夫人の関係者たちに、このことを知らせたかね?」と、不意にエラリーはいったが、
「いや、まだ駄目だ。もっと後でなくちゃあ。そこかい?」
「そうだ」
エラリーとミンチェンはドアに近よった。エラリーは、ノッブに手をかけたまま、後ろをふりむいた。
「ジェニー博士」
外科医はゆっくりとこちらを向いて、跛の足を前に出して、立ちどまった。
「何だね?」と険しい声でいったが、すぐに元の無表情にかえってしまった。
「この部屋から離れないようにお願いします、博士。僕はあなたにお話したいことがあるんです――じきに戻りますから」
ジェニー博士は、眼をむいて何かいおうとしたようだった。だが、彼は唇を固くむすぶと、ぐるっと廻転して、壁の方に跛を引いていった。
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六 尋問
実験手術室に接する控室は、だいたい四角い部屋だったが、その一隅は小さな立方体の区画によって仕切られていた。そのドアには、次のような文字が刻まれてあった。
実験手術室昇降機
あとは、エナメルとガラスで光っている二三のありふれた小戸棚、洗面器、輸送車、一脚の白塗りの金属椅子などがある。
ミンチェンは手術室から控室に入ると、ドアのところで立止って、椅子を幾つか持って来るように命じた。そして椅子が、看護婦達によって運び込まれてから、ドアを閉じた。
エラリーは部屋の中央にじっと立って、このあんまり見込みのなさそうな領域を見わたした。
「手がかりは、沢山ないようだな、ミンチェン?」と彼はしかめ面をしていった。「ところで、手術室に入る前にドーン夫人を置いといたのは、この部屋だね?」
「そうだ」とミンチェンは、憂鬱そうに返事をした。「十時十五分頃、この部屋に運び込まれたんだと思う。それまで彼女は確かに生きていたんだ」
「彼女がこの部屋に移された時に、生きていたかどうかという疑問より先に」とエラリーは呟いた。「二三解決しなけりゃならない重要な問題があるよ。ところで、どうして君は確かに生きていたというんだい? 彼女は昏睡状態だったんだろ? すると、移される以前に殺されたということだっていえるように思うんだ」
「ジェニーも、それについちゃ考えたに違いないよ、」ミンチェンは呟いた。「彼は手術室でみんなが酸素やアドレナリンの手当をしているうちに、徹底的に調べていたよ」
「ジェニー博士を、ここへ呼ぼう」
ミンチェン博士は、ドアのところへ行った。「ジェニー博士」と彼は、低い声で呼んだ。外科医がゆっくりと跛をひいて、ドアの方へのろのろと近づき、突然、足を早めたのを、エラリーは聞いた。ジェニー博士は控室に入ってくると、挑みかかるようにエラリーを注視した。
「何かね、君!」
エラリーは頭を軽くさげた。「お坐り下さい、博士。お互いに楽にしましょう……」二人は腰を下した。ミンチェンは実験室に通ずるドアの前を、行ったり来たりしていた。
エラリーは右の掌を膝の上に伸ばして、靴の先をじっと見ていたが、不意に顔をあげた。
「博士、僕は最初から話していただいた方がお互いにいいと思うんですがね――事の起こりの始めからです。今朝、ドーン夫人の身に起こったことについて、どうか。僕は詳しく聞きたいんです。おわかりですか――?」
外科医は鼻を鳴らしていった。
「ああ君は、僕に事件の経過を話せというのかね。僕は用があるんだ――患者を診察する準備をしなくちゃ!」
「ですけどね、博士」とエラリーは笑って、「殺人犯人を逮捕するのに、事件の取調べほど重要なものはないということを、あなたはご存じでしょうね。多分あなたはあまり新約聖書をお読みにならんでしょう? 科学者には、聖書を読む人はすくないですからね!『残れる断片をあつめよ、さらば何物も失わざらん』まさに断片をあつめよです。僕はあなたがその幾つかを持っておられると思っているんですよ。さあ、どうぞ!」
ジェニーは、エラリーの愉快そうな唇を、まじまじと見詰めていた。それから素早く視線をそらすと、横目でミンチェンの方を鋭く一瞥《いちべつ》した。
「よくわかりました。君はどんなことを僕に訊きたいんですか?」
「細かいことを、みんなです」
ジェニー博士は足を組んで、煙草に火をつけた。「今朝の八時十五分、外科病室で診察中に呼び出しを受けて、僕は三階の表階段の下へ行ったんです。そこで僕は、ドーン夫人がちょうど助け起こされたところにぶつかりました。彼女は階段の上から墜落して、ひどく腹を打ったために、胆嚢が破裂していました。応急診断によって、彼女は階段を降りようとした時に、糖尿病患者にありがちな目まいを起こし、自然に意識を失い、筋肉の運動が利かなくなったのだということが判明しました」
「なるほど」とエラリーは呟き、「それであなたはすぐに彼女を移されたわけですね?」
「もちろんですとも!」と外科医は、強くいった。「三階の特別室にすぐ担ぎ込んで、衣服を脱がせて、ベッドに寝かせました。破裂はひどいものでした。応急の外科的処置が、絶対に必要でした。しかし、糖尿病の副作用が心配なので、糖分を減少させるために必要なインシュリン・グルコーゼを注射しなかったら、非常に危険です。昏睡状態だったことは、いろいろな処置を講ずる上において幸いなことでした。ただ麻酔薬を用いることは危険なことです……それで、僕らは彼女の糖分を普通状態に下げるために、こうした静脈注射を使ったわけです。それから僕は手術室Aの急患の診察にゆき、それが終った時には、患者はもう控室で手術の時がくるのを待っていました」
エラリーは素早く訊いた。「彼女が控室に運ばれた時には、まだ生きていたと、はっきり断言できますか、博士?」
外科医の顎は、ぐっと引きしまった。
「僕はそんなことは何もいえない。クイーン君――僕の知らないことなんだよ。僕が『A』で手術していた間、患者は同僚のレスリー博士が看ていたんだからね。レスリーに訊いてみたらいい……身体の状態から考えて、僕は彼女が死んだのは二十分と経っていない、きっとそれより数分すくない位だと思いましたよ。その時、僕たちは首のまわりの針金を見つけたんです」
「わかりました……レスリー博士というと?」エラリーは考え込みながら、視線をゴム敷の床の上に落した。「ジョン、君ひとつレスリー博士を呼んでくれないかい? ジェニー博士、構いませんか?」
「ああ、いいとも。もちろん、構わないさ」といって、ジェニーは白い筋肉質の手を無造作に振ってみせた。ミンチェンは実験手術室の方のドアから出ていったが、すぐに白服の外科医を引っぱって戻ってきた――ジェニー博士の仕事を手伝っていた男のうちの一人だった。
「レスリー博士ですか?」
「アーサー・レスリーです」と外科医はいった。彼はジェニーに向ってうなずいてみせた。ジェニーは不機嫌そうに椅子にもたれて、煙草をふかしていた。「何ですか――訊問ですか?」
「まあ、そんなもんですが……」といって、エラリーは前に乗り出した。「レスリー博士、あなたはジェニー博士が、ほかの手術に行かれた時から、ドーン夫人が実験手術室に運び込まれるまで、ずっとドーン夫人に付き添っていましたか?」
「とんでもない」レスリーは訝《いぶか》しげにミンチェンの顔を眺めた。「僕が殺したっていうのかい、ジョン?……おい、冗談じゃないよ、僕はずっと夫人と一緒にいたわけじゃないですよ。ミス・プライスに看てもらうことにして、僕はこの控室から出ましたよ」
「ほう、そうですか! ですけど、夫人がここに移されるまでは、ずっと一緒にいたんでしょうね?」
「それは、そうです。そのとおりですよ」
エラリーは、彼の指を膝の上で軽く叩いた。
「じゃ、あなたは、この部屋を出た時までは、ドーン夫人が生きていたと誓うことができますか?」
この外科医は、人をひやかすように眉を吊りあげてみせた。
「僕の宣誓がどれだけ価値があるか知りませんけど――生きていました。僕はこの部屋を出る前に、彼女を診察しました。心臓は確かに脈打っていました。彼女は生きとりましたよ、あなた」
「ああ、そうですか! いくらか解ってきましたよ」とエラリーは呟いた。「時間の限界が判ったし、死亡時間についてジェニー博士が推測したところも確認されました。あなたにお訊きすることはこれで全部すみましたよ、博士」
レスリーは笑って、踵《くびす》をかえした。「あ、ちょっと、博士」とエラリーは引きとめて、「夫人がここに運び込まれた時間を、正確にご存知ですか?」
「十時二十分でしたよ。三階の特別室から、輸送車で、この昇降機にのせられて」――彼は、実験手術室昇降機と書いてあるドアを指さした――「それから直接この部屋に運び込まれたんです。この昇降機は、実験手術室で手当を受ける患者を運搬することだけに使用されています。刻々に報告を訂正するために、ミス・プライスとミス・クレイトンが僕に付き添っていました。そして僕が手術の準備をするために手術室に入っている間は、ミス・プライスが患者を看ていたんです。ミス・クレイトンは、ほかに用ができて行ってしまいました。ミス・プライスは、ご存知のとおりジェニー博士の助手です」
「彼女は、ドーン夫人と共に、この数年間、ジェニー博士の仕事を助けてきたんだ」とミンチェンが口を挟んだ。
「それだけですか?」とレスリー博士はせき立てた。
「ええ、すっかり済みました。ミス・プライスとミス・クレイトンに、ここへ来るようにいっていただけませんか?」
「承知した!」といって、レスリーは、陽気に口笛を吹きながら、さっさと出ていった。
ジェニーはいらいらしていった。「おい、クイーン君、君はもう僕には用はないんだろ。外へ出してくれないか」
エラリーは立ち上っていった。「お気の毒ですが、博士――僕たちは、あなたにまだ用があるんです……ああ、お入り下さい!」
ミンチェンは、規定の制服姿をした二人の若い女性を入れるために、ドアを広く開けた。
エラリーは丁寧に頭をさげて、一人ずつ眺めた。「プライスさんに――クレイトンさんですね?」
背の高い、可愛いえくぼのある美しい女が、早口にいった。
「あの、わたしクレイトンです。こちらは、プライスさんですの。怖ろしいことですね? わたし達は――」
「そうですね」と、エラリーは、後ろに退いて二つの椅子を指さした。ジェニーは坐ったままだった。彼は左足を荒々しく動かしていた。「お坐りになりませんか?……さて、クレイトンさん、あなたとプライスさんは、ちょっと前に三階からドーン夫人を輸送車にのせて、レスリー博士と一緒に、ここへ降ろしたそうですが、ちがいますか?」
「ええ、そのとおりです。それからレスリー博士は、実験手術室に行かれ、わたしは三階のC病室に用事があって戻りました。その後はプライスさんが、ここに残りました」と、その背の高い看護婦は答えた。
「そうですか、プライスさん?」
「ええ」と、もう一人の看護婦がうなずいた。彼女の背丈は中位で、新鮮な薔薇色の頬と、澄んだ眼をしており、髪は栗色だった。
「うまいぞ!」エラリーは、晴れやかに笑った。「プライスさん、あなたがこの部屋で、ドーン夫人に付き添っていた間に起こったことを、覚えていますか?」
「ええ、ちゃんと覚えています」
エラリーは、部屋にいるほかの人達を、素早く眺めた。ジェニーは、まだ足を動かしている。その表情から察すると、執拗に何か考え込んでいるようだ。ミンチェンはドアによりかかって、耳を澄ましている。クレイトンは、無心な表情で魅せられたようにエラリーを見ている。ミス・プライスは、静かに椅子に坐ると、両手を膝の上に置いた。
エラリーは覗き込むようにしていった。「プライスさん、レスリー博士とクレイトンさんが出てしまってから、この部屋へ入ってきたのは誰ですか?」
彼の口調が、ひどく真剣だったので、看護婦はちょっとどぎまぎしたようだった。彼女はためらいがちにいった。「あのう――ジェニー博士のほかには、どなたもいらっしゃいません」
「なんだって!」とジェニー博士は、怒鳴った。彼が急に飛びあがったので、ミス・クレイトンは、息づまるような叫びをあげた。
「なんだって、ルーシル、気が狂ったんじゃないか? 僕が手術前にこの部屋へ入って来たなんて、本気でいうのかい」
「でも、ジェニー先生」と彼女は、弱々しい声でいった。彼女の顔は、蒼白かった。
「わたし――わたし、あなたを見ましたわ」
外科医は自分の助手を、じっと見つめた。彼の猿みたいに長い腕は、膝のあたりでぶらぶら搖れていた。エラリーは、ジェニーとプライスとミンチェンを眺めた――そして、彼は自分の胸に息を吸いこむ音を聞いた。それから彼は、柔かな、僅かにふるえる声でいった。
「あなたは、もう結構ですよ、クレイトンさん」
この美しい看護婦は、大きく眼を見ひらいて、「ええ、でも――」
「どうか、そうして下さい」
彼女は気の進まぬ様子で、部屋を出ていった。ミンチェンがドアを閉めた時、彼女は肩越しにチラッと残り惜しそうな視線を投げた。
「さて!」エラリーは、鼻眼鏡を外して、静かに丸く円を描きながら、それを拭き始めた。「多少、話に食い違いができたようですな。博士、あなたは、手術前にこの部屋に入らなかったとおっしゃるんですね?」
ジェニーは、眼をぎらぎら光らせた。「もちろん、そうさ! そんな馬鹿々々しいことがあるもんか! 君自身、十時半頃、僕と廊下で話したじゃないか。あれは、二十分間で手術を終ったすぐ後だった。それから僕が玄関番のカッブと一緒に、待合室の方へ歩いてゆくのを見たはずだ。どうして僕がこの部屋に来られるんだい? ルーシル、君は錯覚しているよ!」
「お待ち下さい、博士」とエラリーはさえぎって、「プライスさん、ジェニー博士が入ってきたのは、何時頃でした? 覚えていますか?」
看護婦は、糊をつけてきちんとした彼女のガウンを、神経質に指でひっぱっていた。「でも――わたし、はっきりは憶えていません――十時半頃かしら――きっと、もうちょっと後ですわ。先生、わたしは――」
「それでどうして、ジェニー博士だということが分ったんです、プライスさん?」
彼女は神経質に笑った。「なぜって、自然にそう思いましたの――わたしは、先生だとすぐ思ったのです――わたしはその素振りからジェニー博士だと……」
「ははあ! その素振りというと?」とエラリーはいって、前に進み出た。「顔は見なかったんですか? あなたが彼の顔を見たんだったら、絶対に確実だったでしょうに」
「そうだとも!」とジェニーが横合からいった。「君は、ずいぶんよく僕を知っているはずなのに、ルーシル。僕には解らん――」彼の癇癪の下には、彼の当惑が隠されているように見えた。ミンチェンは、呆然自失しているようだった。
「おお、あなたは――いや、その人はガウンを着て、帽子をかぶり、マスクをして」と彼女は吃りながら、「ですから、わたし眼を見ただけなんです――でも――跛をひいて、背も同じくらいでしたし、それに――お分りでしょう、わたしが素振りから解ったという意味が。わからないなんてことありませんわ」
ジェニーは彼女をじっと見詰めた。「誰かが僕に化けたんだ!」と彼は叫んだ。「それに違いない! 僕の真似をするなんて、たやすいことだ……おかしな足と……マスク……クイーン君、誰かが――誰かが……」
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七 扮装
エラリーは、この小柄な外科医の震える腕を手で押えて引きとめながら、「落着いて下さい、博士。どうか、お掛け下さい。僕たちは、なるべく早く真相を掴んでみせますから……誰だい! 入れよ!」
ドアを軽くノックする音がした。今度は、平服を着た大きな男が入ってきた。彼はがっちりした肩幅の、眼の明るい、骨ばった顔をしていた。
「ベリーか!」とエラリーが叫んだ。「親父も来たのかい?」
彼は太い眉毛の下から、ジェニーとミンチェンと看護婦を、いぶかしげな眼つきで眺めた。……「まだです、クイーンさん。まだ来る途中なんでしょう。分署から派遣された者と警察本署の刑事がおります。ここへ入りたいそうですよ。お邪魔だと思いますが――」彼は意味ありげに、エラリーが訊問している人達を眺めた。
「うん、ベリー」とエラリーは、素早く、「連中を外で待たしといてくれよ。僕がいいというまで、誰も中へ入れないで欲しいんだ。親父が来たら、すぐ知らせてくれ」
「承知しました」大男は静かに引き退り、ドアを音もなく閉めると外へ出て行った。
エラリーは再び、看護婦の方を向いていった。「では、プライスさん、あなた方の仕事が正確さを重んずるように、ひとつ正確に話していただきたいですね。レスリー博士とクレイトンさんが出ていって、あなたがドーン夫人に付き添って残り、それから隣の実験室へ夫人が運ばれてゆくまでに、ここで起こったことを全部僕に話して下さい」
看護婦は唇をちょっと舐めると、臆病そうに外科医の方に神経質な一瞥を投げた。ジェニーは椅子にぐったりと坐って、鈍いぼんやりした眼つきで彼女を見守っていた。
「わたしは――そうです……」彼女は強いて笑顔をつくった。「ほんとに、単純なことなんですの――クイーンさん……レスリー博士とクレイトンさんは、三階からドーン夫人をここへ移すと、すぐ行ってしまいました。わたしは、することが何にもありませんでした。患者は博士が診てしまいましたし、することはすっかり片づいていました……あなたは麻酔を使わなかったことをご存知でしょう?」エラリーは頷ずいてみせた。「つまり、麻酔係がわたしと一緒に付き添っている必要もなければ、わたしが患者の脈を続けてとる必要もなかったというわけです。夫人は昏睡状態に陥ちていましたし、手術の準備は……」
「ええ、ええ」とエラリーはたまらなくなって、「それはよく解っているんですよ、プライスさん。あなたがご覧になったという人について、どうか」
看護婦は顔を赤らめた。「その人は、わたし――ジェニー博士が控室に入ってきたんだと思ったんです。レスリー博士とクレイトンさんが出ていってから、十分か十五分ほどしてからです。その人は――」
「どちらのドアから入って来たんですか?」とエラリーは訊いた。
「こちらのです」と、看護婦は麻酔室に通ずるドアを指さした。
直ちにエラリーは、ミンチェンの方を向いた。「ジョン、今朝、麻酔室には誰がいたんだ? 使っていたんだろうか?」
ミンチェンは、ぼんやりしていた。ミス・プライスがすすんでいった。「あそこでは、一人の患者に麻酔をかけていました、クイーンさん。たしかオーバーマンさんとバイアースさんがいたと思います……」
「なるほど」
「その人は手術着を着けて、跛をひきながら入ってくると、ドアを閉めました――」
「素早くですか?」
「ええ、その人はすぐにドアを閉めると、ドーン夫人が寝ている輸送車に近づきました。その人は夫人の上に身を屈めていましたが、やがて顔をあげると、何かに気をとられてぼんやりした仕種《しぐさ》で、手を洗う格好をしてみせました」
「黙ってですか」
「はい、そうです。その人は一言も口を利きませんでした――ただ両手を合せて、手を洗う格好をしただけなんですの。もちろん、わたしはすぐその意味がわかりました。それはジェニー博士がよくやる、見馴れた身振りなんです。両手を消毒したいということなんです――きっと、手術する前に、最後の診断をするんだろうと思いました。それで、わたしは、あそこの消毒室へゆきました」――彼女は部室の東北隅の立方体の仕切りを指さした――「それで、水銀のニクロール塩溶液と洗浄用のアルコールを準備したんです。わたしは――」
エラリーは嬉しそうな様子だった。「どれくらいの間、あなたは消毒室にいらしたんですか?」
看護婦はためらっていた。「さあ、三分くらいのものでしょうかしら。はっきり覚えていませんけど……わたしは控室に戻りました。そしてそこの洗面器に消毒剤を入れました。ジェニー博士は――いえ、博士みたいだったその人のことなんですけど――その人は急いで手を洗いました――」
「いつもより急いでですか?」
「ええ、そう思いました、クイーンさん」と、彼女は外科医から頭をそむけるようにして答えた。ジェニーは肘を膝の上について、恐ろしい顔で彼女を睨んでいた。「それから彼は、わたしが用意した外科用タオルで手を拭くと、洗面器を片づけるように合図しました。わたしはそれを消毒室に持ってゆきますと、彼は輸送車のところへ戻って、また患者の上に屈んでいたようでした。わたしが引き返して来た時には、その人はシーツを元どおりにかぶせて、身体を真直ぐに伸ばしたところでした」
「大変はっきりしました、プライスさん」とエラリーはいった。「もう少し、お訊きしたいんです……彼が自分の手を消毒している時、あなたは傍にいて、彼の手に注意しませんでしたか?」
彼女は眉をしかめた。「さあ、特に気づきませんでしたが。わたしは何も疑っていませんでしたし、当り前にその人の行動を眺めていたので、気がつきませんでしたわ」
「手に気がつかなかったのは残念ですね」とエラリーは呟いた。「僕は手の特徴というものは、非常に大切なものだと思っているんです……プライスさん、それじゃ、二度目にあなたが行かれた時――つまり消毒室に消毒の材料を返しに行かれたのは、どれ位かかりました?」
「一分そこそこです。わたしはニクロール塩とアルコールの溶液を流して、洗面器を洗うと、すぐに戻りました」
「あなたが戻られてから、どれ位たって出てゆきましたか?」
「あの、直ぐにです!」
「彼が入ってきた時と、同じドアを通ってですか――麻酔室の?」
「ええ、そうです」
「わかりました」エラリーは、何か思案しながら、鼻眼鏡で頤の辺を軽く叩きながら、部屋をぐるっと廻った。「あなたがおっしゃったところでは、プライスさん、お互いにまるっきり話をしなかったようですね。その奇妙な侵入者は、ここにいる間、ずっと何もいわなかったんですか――一言も、一言も大事なことをいわなかったんですか?」
看護婦はかすかに、動搖したようだった。彼女の明るい眼は、じっと空間を見つめた。「おわかりでしょう、クイーンさん――ここにいる間ずっと、その人は一言も口を開きませんでした!」
「驚いたもんだな」とエラリーは、そっけなくいった。「すべてが、抜け目がない……あなたは何もいわなかったんですか? 彼が部屋へ入ってきた時に、挨拶しなかったんですか?」
「ええ、わたしは挨拶しませんでした」と彼女はすぐ答えた。「でも、最初に控室に入った時に、わたしは彼に声をかけました」
「何ていったんですか?」
「そんなに大事なことじゃありません。わたしはジェニー博士の気性を、よく呑み込んでいます――時々、ちょっとした癇癪を起こすことがあるんです」かすかな微笑が彼女の唇のまわりに浮かんだ。が、すぐに消えてしまった。外科医が、そばからぶつぶつ鼻を鳴らしたからである。「わたしは呼びかけたんです。『すぐに準備ができます、ジェニー先生!』といったんです」
「あなたは、確かにジェニー先生と呼んだんですね?」エラリーはからかうように外科医の方をみて、「申し分のない化け方ですね、博士」といった。ジェニーは「確かに」と呟いた。エラリーはまた看護婦の方を向いて、「プライスさん、何かほかに憶えていることはありませんか?」
彼女は考え込んでいるようだった。「そうですね――何かほかにもあったようですけど、でもそんなに重要なことじゃありませんわ、クイーンさん」と彼女は、上眼づかいに彼の方を見ながら、言いわけするようにいった。
「僕はね、重要じゃないことでも、考え方によっては値打ちが出てくると思うんですよ」とエラリーは笑って、「それはどういうことですか?」
「最初に消毒室に入っていた時でした。控室のドアが開いて、ほんのちょっと躊躇していたようでしたが、すぐ男の声で『おや失礼しました!』というのが聞こえました。それからドアが閉まりました。わたしが、再びドアの閉まる音を聞いたことは確かです」
「どちらのドアですか?」とエラリーは訊ねた。
「さあ、それは、分りませんでした。あなただってそんな音の方向なんて分らないでしょう。わたしには分りませんでしたわ。わたしは見たわけじゃないんですもの」
「なるほど、それで! その声が誰だか解りましたか?」
彼女の指は、神経質らしく膝の上に組まれていた。「よく分りませんでしたわ、クイーンさん。聞き覚えがあるような気がしますけど、特に注意しませんでしたから、ほんとに、誰だったか分りませんの」
外科医はもう倦きあきしたといわんばかりに立ち上って、憂鬱そうにミンチェンを眺めた。「ああ、なんて馬鹿げたことなんだ!」と彼は唸《うな》った。「明らかに捏造《ねつぞう》だよ。ジョン、君は僕がこんなことに関係があるなんてことを信じやしないだろう?」
ミンチェンはガウンの襟のところに指を走らせていった。「ジェニー博士、僕がそんなこと信じるものかね。僕にはさっぱり分らない」
看護婦は立ち上ると、外科医に近づいていって、何かを訴えようとするように、彼の手をとると、「ジェニー先生、御免なさいね。先生を悪くいうつもりじゃなかったんです。もちろん、あの人はあなたじゃありませんわ――そんなことクイーンさんも解っていらっしゃいますわ……」
「これは、どうも!」とエラリーは、くすくす笑った。「劇的場面《ア・タプロオ》ですな! さて、もうそんなメロドラマみたいなことは止めましょう。どうか、お掛け下さい。それから、またあなたにお訊ねしますよ、プライスさん」
彼らはいくらか窮屈そうに腰を下した。「何か特に平常とは違っていたと思われることはありませんでしたかね、その間に――いま仮にその男のことを『|ペテン師《インポスター》』と呼ぶことにしますと――このペテン師が部屋にいた間に?」
「その時は、ありませんでした。むろん、今では、彼が一言も口を利かなかったことや、消毒の仕方やなんか、ちょっとおかしかったと思ってますけど」
「そのおかしなペテン師が部屋から出ていった後は、どうしましたか?」
「別に、どうもしませんでしたわ。わたしは、その人が診て行ってしまったあと、患者の容態には何の変化もないのだと考えました。それで椅子に坐って、待っていただけなんです。誰もほかに入ってきた人はおりませんし、本当に何も起こりませんでしたわ。しばらくして手術室の人達が、患者を運ぶために入ってきたのです。それでわたしは、手術室についてゆきました」
「その間、ずっとドーン夫人を見なかったんですか?」
「わたしは夫人の脈をとりませんでしたし、そんなに近くへ寄って調べもしませんでした」といって、彼女はほっと深い息をした。
「むろん、わたしは、ときたま患者の方を一瞥しました。でも、夫人は昏睡状態にあるものと思っていましたし――顔色は大変|蒼白《あおじろ》かったんですが――でも、博士が診察なさったものとばっかり考えて――お分りでしょう……」
「分りますよ、よく分ります」とエラリーは重々しくいった。
「とにかく、わたし達は、患者に突発的な変化がないかぎり、安静にしておくようにいわれておりました……」
「もちろん、そうでしょう! もうひとつお訊きしますよ、プライスさん。あなたはそのペテン師が、どちらの足に体重をかけていたか気づきませんでしたか?」
彼女の身体は、退屈したように椅子にもたれてぐったりしていた。「左足が悪いように見えましたわ。その人は右足に体重をかけていました――ジェニー博士のように。でも――」
「そうですか」とエラリーは頷ずいて、「でも、他人の扮装をしようと企てるような奴だったら、その位の注意はしているでしょうね……いや、ありがとう、それだけです、プライスさん。あなたのおっしゃったことは大変参考になりました。実験室の方へいらして結構です」
彼女は低い声で挨拶して、真面目くさった顔でジェニー博士を眺め、ミンチェン博士に微笑してみせると、ドアを抜けて実験手術室へ消えていった。
ミンチェンが、ドアをそっと閉めた後、みんなしばらく沈黙していた。院長は軽く咳をしてためらっていたが、いままで看護婦が坐っていた椅子に腰を下した。エラリーは、片足をほかの椅子の下にかけ、膝の上に肘をのせながら、眼鏡をいじくっていた。ジェニーはいらいらして煙草をとり出したが、それを指さきで揉みくちゃにすると……突然、彼は飛びあがるように起《た》った。
「おい、クイーン君」と彼は怒鳴った。「少々見当違いだとは思わないかい? 僕がここにいなかったことは、君だって承知のはずだ。きっとそいつは僕と病院のことによく通じている人殺しの悪党だったに違いない。誰だって、僕が跛のことは知っている。ここにいるうちは、外科衣を着てることだって、みんな知っているんだ。解りきったことじゃないか! ちぇッ!」と、彼は毛むくじゃらの犬みたいに頭を振った。
「そうですね。たしかにあなたの特徴を騙《かた》ったんですな、博士」とエラリーは、温和しくいって、ジェニーに眼を注いだ。「でも、よく似ていますよ――その男は、利口な奴ですね」
「それは認めないわけにはゆかんがね」と外科医はぶつぶつ呟き、「ミス・プライスを欺したんだ――彼女は数年間、僕と一緒に仕事をしてきたのに。きっと、麻酔室にいた二人も欺されたに違いない……クイーン君、それで僕をどうするつもりだね?」といった。ミンチェンは、落着きなくそわそわしていた。
エラリーは眉をあげた。「どうするって?」彼はちょっと笑ってみせて、「僕の仕事は、弁証法ですよ。僕はソクラテスの生まれ変りなんです。僕は質問するのが、お得意なんです……ですから、あなたにお訊ねしますよ――あなたは真実を語って下さるでしょうね――この滑稽なお芝居が行われている間、あなたはどこで、何をしていらしたんですか?」
ジェニーは身体を伸ばすと、鼻を鳴らした。「なぜだい、君は知っているじゃないか。君は、僕がカッブと一緒に、面会人に会いにゆくのを見たじゃないか。ちぇッ、君、子供だましみたいなことは止せよ」
「あなたは、その面会の方と、どこでどれ位お話でした?」
ジェニーは、ぶつぶつ呟くようにいった、「幸い、僕は君達と別れる時に、時計を見たんだ。君も覚えていると思うが十時二十九分だった。僕の時計は正確だよ――そうでなくちゃならんからね……カッブと一緒に行って、待合室で面会人に会って、すぐ玄関の昇降機の隣にある僕の部屋へ彼を連れていった。それだけだよ」
「それで、あなたはその面会人と、どれくらい部屋の中にいらしたんです?」
「十時四十分までだ。手術時間《ゼロ・アワー》が近づいてきたので、僕は面会を早く切りあげなければならなかった。新しい手術着を着けて――準備しなくちゃならない――消毒もしなくちゃ……それで面会人と別れて、すぐ実験手術室へ行ったんだ」
「僕が見たところでは、あなたは西廊下のドアからお入りになりましたね」とエラリーは呟いた。「ところで……あなたは面会人を玄関まで送りましたか? その方が表へ出られるのをご覧になりましたか?」
「当り前だよ」外科医は、だんだんそわそわし始めた。「おい、クイーン君、結局――君は、僕をまるで罪人みたいに訊問してるじゃないか」といって、この小柄な外科医は、全身に憤怒の色を漂わせた。彼の声は鋭く、首すじには、静脈が浮き出していた。
エラリーは微笑しながら、ジェニー博士に近づいていった。
「ところで、博士、その面会人は誰ですか? むろん、あなたはほかのことも率直にお話し下さったのですから、これもお答えしてくれるでしょうね?」
「僕は――」といった。ジェニーの顔から、怒りの痕《あと》がだんだん消えてゆき、すっかり青くなった。そして、彼は舌の先で唇を濡らすと、突然、踵を鳴らして真直ぐ立ち上った。……
実験手術室の側のドアで強引なノックの音が、控室に響き渡るように鳴った。エラリーは、すぐ振向いていった。「入れ!」
ドアが開いた。黒っぽいグレイの服を着た小柄の、頭髪も髭も白い痩せた男が、一同に向って微笑していた。彼の後ろには、手強わそうな数人の男が突っ立っていた。
「やあ、お父さん」といって、エラリーは近づいていった。二人は手を握りあうと、互いに顔を見合せた。エラリーは、悪戯っぽく頭をちょっと振った。「あなたは、最もドラマチックは瞬間にいらっしゃいましたよ。さあ、どうぞ!」
彼は傍へ退いた。リチャード・クイーン警部は、軽快な足どりで部屋の中へ入ってきた。彼は、何でも見抜いてしまう鋭い一瞥で、部屋をさっと見廻した。そしてジェニー博士とミンチェン博士に軽く頷ずくと、さらに一歩前に踏み出した。
「みんな、中へ入れよ」彼はてきぱきといった。「やってもらうことがあるんだ。エラリー――仕事中かね? まだ解けないかい? トマス、入ってドアを閉めてくれ! で、この方達は? あ、お医者さん! 立派なお仕事ですな……いや、リッチー、君じゃ何にも分らんだろう。その気の毒な老婦人は、ここでやられたってわけなのかい? ひどいね、まったくひどい!」
彼は絶え間なく部屋を見廻していた。彼の鋭い小さな眼は、何ものも逃しはしないのである。
エラリーは、二人の医師を紹介した。二人とも、黙って軽く頭をさげた。警部と一緒にやってきた刑事達は、部屋の周囲にひろがっていた。一人の男が、物珍らしそうに輸送車を押してゴム敷の床の上を数インチすべらせた。
「分署詰めの刑事ですか?」とエラリーは、苦い顔をして訊ねた。
「何でも首を突っこみたがるリッチーの部下さ」と老警部はくすくす笑った。「あんまり気にするなよ……あの隅へ行こうや。何だか、ひどくややこしいようだな」
二人は静かに部屋へ移った。そしてエラリーは低い声で、今朝の事件のあらましと証言とを父に話した。エラリーの話が終りに近づくに従って、警部の顔はだんだんむずかしくなっていった。彼は頭を振った。
「うまくないね」と彼は呻《うめ》くようにいった。「でも、警察の仕事なんて、そんなものだ。百の事件のうちで、一つぐらいは、一ダースもの大学で勉強した頭が要るもんだよ。犯罪大学というものも含めてね……すぐしなけりゃならんことがあるぞ」
警部は自分の部下の方を振り返った。大柄の頑丈な顎をした刑事班のベリーが近づいてきた。
「ブローテイは何ていったね、トマス?」と彼は訊ねた。……「いや、どうぞそのまま、ミンチェン博士、私はどうせ跳ね廻っているんですから……え?」
「検査官は、何かやっているところでした」とベリーは、重々しい声《バス》でのろのろといった。
「後から来るそうです……」
「そうか、わかったよ、紳士君《ジェントルマン》……」
彼はベリーの襟をひっ掴んで、重たい口を開かせた。エラリーは、警部にはあまり注意を払っていなかった。彼は横目でジェニー博士の方をうかがっていた。博士は壁のところに退いて、靴の先を静かに見詰めながら立っていた。
間違いなく助かると確信している様子であった。
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八 確證
警部は、親父らしい態度で、見上げるようなベリーに話していた。「さて。君にやって貰わなくちゃならんよ、トマス」と彼はいった。「まず第一にパラダイスのところへ行って――彼は病院監督だよ、トマス――それから、今朝、出入りした人間についての報告を受取ってくるんだ。パラダイスは、殺人が発見されてから、すぐに調べたに違いないからな。第二に、全部の出入口に見張りを立ててくれ。第三には――出てゆくついでに、バイアースとミス・オーバーマンを寄こしてくれ。大急ぎだぞ、トマス!」
ベリーが、実験手術室のドアをあけた時、青い服を着た男が、手術室をゆっくり歩き廻っているのが見えた。エラリーは、立会人席で、ちらッとこちらを見た視線に気づいた。フィリップ・モアハウスが、何か猛烈に抗議しながら突っ立っていた。彼は一人の逞ましい警官につかまえられていた。そのわきには、ダニング博士と彼の娘が、無感覚な表情で坐っているようだった。
エラリーは鋭く叫んだ。「お父さん、親戚ですよ!」彼はミンチェンの方を向いた。「ジョン、君に頼みがあるんだがね。控室に戻っていてくれないか。君と一緒に、あの若いモアハウスを連れて――あそこで何だかごたごたしているようだ――それからヘンドリック・ドーンやハルダ・ドーンやミス・フラーや、あそこにいる連中に事件のことを知らせてくれ……ちょっと、待ってくれよ、ジョン」彼は低い声で警部に何か囁いた。老警部は頷ずくと、一人の刑事に合図した。
「おい、リッチー、君は何かしたくてうずうずしているんだろう」と警部はいった。「ミンチェン博士と一緒に待合室へ行って、そこを引受けてくれないか。みんなを見張っててくれ――博士、手伝いがいるでしょう。誰か気絶するようなことがあっても大丈夫でしょうな。念のため看護婦を二、三人連れていっていいですよ。わしが許可を与えるまで、誰も出しちゃいけないよ、リッチー」
特別に髭の濃いむっつりしたリッチーは、短かい返事をすると、ミンチェンの後から無愛想な顔をしてついていった。開いたドアの隙間から、エラリーはミンチェンが、揉み合いながら出口の方へ飛びあがってゆくモアハウスの方に向って身振りをしているのを見た。
ドアが揺れながら閉まった。すると直ぐまた開いて、白服の男と看護婦が入ってきた。
「バイアースさんですね?」と警部がいった。「どうぞ、お入り下さい! すぐ来て下さってありがとう。あなたとこの若くて美しいご婦人は、お仕事中じゃなかったんですか? 違いますか? そうですか!……バイアースさん」と、突然言葉の調子を変えると、「あなたは今朝、隣の麻酔室にいたんですね?」
「確かにおりました」
「どんな事情で?」
「オーバーマンさんに手伝って貰って、患者に麻酔をかけていました。オーバーマンさんは、私の正式の助手です」
「あなたとオーバーマンさんと、その患者のほかに、誰かおりましたか?」
「いいえ」
「その仕事は、どれくらいかかりましたか?」
「十時二十五分から十時四十五分まで、あの部屋を使いました。患者は虫垂切除でした。ジョーナス博士によって手術される予定でしたが、博士は少し遅れました。それで『A』と『B』の手術室で待たなければなりませんでした――今日は忙しかったんです」
「ははあ」警部は愉快そうに笑った。「それで、あなた方が麻酔室にいらした間は、誰も入ってきませんでしたか?」
「いいえ――誰も」といって、慌てて、「知らない人は、入って来なかったんです。ただ、ジェニー博士が通って、十時三十分頃、あるいは一、二分あとだったかとも思いますが、控室に入ってゆきました。そして約十分位たって出てきました。十分か、それよりちょっと少ない位です」
「君もか」とジェニー博士は、バイアースに向って毒々しく眼を光らせた。
「え? 私が何か?」とバイアースは、口籠った。
警部はちょっと前に出て、早口に喋った。「いや、気になさらんで下さい。ジェニー博士はご機嫌が悪いんですよ――ちょっと面食らって――落着いて、自然に!……ところで、今朝、この部屋に出入りした男は、ジェニー博士に間違いないと誓えますか?」
彼は落着かずにそわそわしていた。「あんまり不意打ちなんで……さあ、誓言はどうも、つまり」といって、彼は元気をとり戻して、「顔は見ませんでしたからね。彼は外科用マスクとガウンを着けていました」
「さっきは!」と警部は、たしなめるようにいった。「そういいませんでしたね。ジェニー博士とはっきりいったようでしたが、なぜですか?」
「それは……」とまたバイアースは、まごまごして、「もちろん、私達には馴れっこになっている跛だったからです……」
「ほう! 跛か! それから」
「それに、次の外科手術の準備でドーン夫人が控室に運ばれて来ていることを知っていましたので、多少、ジェニー博士が現われることを予期していたんだと思います……それで、きっとそう思ったんです、それだけです」
「では、オーバーマンさん」警部は素早く看護婦の方を向いて、「あなたも、その人をジェニー博士だと思ったんですか?」
「はい、そうです」彼女は顔を赤らめて、口籠った。「あのう――バイアースさんと同じ理由で」
「ふむ」と警部は唸った。彼は部屋を一廻りした。ジェニーは、床を眼ばたきもせずに、じっと見詰めたままだった。「バイアースさん、ジェニー博士が入ったり出たりするのを、あなたの患者は見ていましたか? 患者はその時、意識がありましたか?」
「そうですね、彼はジェニー博士が入って来るのを見たかも知れませんよ。なぜかといいますと、まだ麻酔をかける前でしたし、ドアの方を向いて寝かせてありましたからね。でも、ジェニー博士が再び現われた時は、麻酔後でしたから、むろん気づいたはずはありません」
「その患者は、何者ですか?」
バイアースの唇を、ちらっと微笑がかすめた。「彼はきっとあなたを、よく知っていると思いますよ、クイーン警部。マイケル・カーダイです」
「誰? 何だ!『|マイク親分《ビッグマイク》』か!」驚きが部屋一ぱいに漲《みなぎ》った。刑事たちは、一斉にぴくっと身体を動かした。警部は眼を細めた。
彼は、突然部下の一人に向って、「マイケル・カーダイはシカゴへ逃げたといったね、リッター。君は、確かに空想家の頭を持っているよ!」それから彼はまたバイアースに、
「今どこにビッグ・マイクはいるんだい?」と訊ねた。「どの部屋だ? あのゲリラ奴《め》に会いたいもんだな!」
「彼は三階の特別室――三二八号――におりますよ、警部」と彼は答えた。「でもお止しになった方がよろしいでしょう。彼は意識不明でこの世には、いないんですよ――手術室から運んだばかりです。ジョーナス博士が、手術しました。手術が終ったら、すぐあなたの部下が、私を呼びに来たんです。彼は、自分の部屋に寝ていますが、あと二時間もしなければ、あの世から帰ってきませんよ」
「ジョンソン!」と警部は、いかめしくいった。小柄なぱっとしない男が前に進み出た。「ビッグ・マイクのことを覚えといてくれよ。あの世だって、こいつは愉快だ」
「バイアースさん」エラリーは、静かな声でいった。「あなたが麻酔室で仕事をしている間に、ここから洩れてくる話し声を聞いたでしょうね。憶えていますか? オーバーマンさんはどうです?」
二人はしばらくお互いに顔を見合せていた。バイアースは素直にエラリーの顔を眺めながらいった。「そういえば、ミス・プライスが、ジェニー博士にすぐ準備しますとか何とかいったのを聞きました。で、私はオーバーマンさんに、ジェニー博士は、今日はご機嫌斜めだね、といったのを覚えています。なぜって、博士は返事もしませんでしたからね」
「ほほう、それじゃあなた方は、博士がこの部屋へ入ってくる途中、何も聞かなかったわけですか?」とエラリーは、すかさず訊いた。
「一言も聞きません」とバイアースがいった。オーバーマンも、一緒に頷ずいた。
「この部屋で、ドアを開閉する音と、『失礼しました!』という声がしたのを、憶えておりませんか?」
「さあ、知りませんね」
「あなたは、オーバーマンさん?」
「憶えていませんわ」
エラリーは、警部の耳に何か囁いた。警部は唇を噛みしめて頷ずくと、頑丈な体格をしたスウェーデン人みたいな刑事を大急ぎで手招きした。「ヘス!」彼はぶざまな前屈みの格好で近づいてきた。「すぐ手術室へ行って、病院の関係者たちに、十時半から十時四十五分までの間に、この部屋を覗いた者があるかどうか訊いてみてくれ。もしいたら、すぐ連れてきてくれ」
ヘスが出ていっている間に、警部はバイアースと看護婦を退出させた。ジェニーは陰気な眼つきで、彼らを見送っていた。エラリーは父と話し合っていたが、やがてドアが再び開いて、ヘスは一人の若い男を連れて入ってきた。彼は、髪の黒いセム系の男で、ほかの人達と同様、病院の白い服装をしていた。
「ゴールドさんです。彼が覗きました」とヘスは、手短かにいった。
「そうです」とこの若い実習生は、すぐに警部に向って、「僕があのドアから頭を突き出したんです――」彼は西廊下に通ずるドアを指さした――「十時三十五分頃、僕は診断のことをお訊ねしようと思って、ダニング博士を探しに来たんです。――僕はドアを開けた時、ちらっと見て――入らないで、失礼して帰ったんです」
エラリーは前に乗り出した。「ゴールドさん、あなたはドアをどれ位開けましたか?」
「さあ、一フィートくらいでした――僕の頭が入るくらい。なぜですか?」
「いや、」とエラリーは微笑して、「とにかく、あなたは誰かを見ましたか?」
「誰か分りませんでしたが――博士のようでした」
「どうしてダニング博士じゃないと分ったんですか?」
「それはダニング博士は、背が高くて痩せていますが、その人は小柄でずんぐりしていました――肩の格好も違っていました――誰だか分りません――ただダニング博士ではありませんでした」
エラリーは鼻眼鏡を強く拭いた。「どんな工合に、その博士は立っていましたか――あなたがドアを開けた時の模様をお話し下さい」
「背中を僕の方にむけて、輸送車のうえに幾分屈んでおりました」
「手は?」
「さあ、見ませんでした」
「部屋の中には、彼だけでしたか?」
「僕が見たのは一人だけでした。むろん台の上には患者がいたんでしょうが、ほかには誰もいないようでした」
警部が、おだやかに割り込んだ。「君は『おや、失礼しました!』といったんだね?」
「ええ、そうです!」
「その男は、返事したかい?」
「いいえ、何にも。振り向きもしませんでしたが、僕は彼の肩がぴくっとしたのを見ました。とにかく僕は、すぐ退ってドアを閉め、立ち去ったんです。その間、十秒とかかりませんでした」
エラリーはゴールドに近づいて、彼の肩を軽く叩いた。「もう一つお訊ねしますが、その男は、ジェニー博士だったかも知れませんね?」
若い実習生は、のろのろと答えた。「ええ、そうですね。でも僕がちらっと見た程度から判断すると、あんな感じの人は、ほかに一ダースもおりますからね……博士、どうかなさったんですか?」彼は頭を、何も返事しない外科医の方にねじむけた。「じゃあ、お訊ねはこれだけですか。もう帰ってもよろしいでしょうね……」
警部は機嫌よく彼を退出させた。
「カッブを連れてこい――玄関番だ」ヘッセは、ぶらぶらと出ていった。
「ちぇッ」とジェニーが、かすれた声でいったが、まるっきり誰も注意しなかった。
ドアが開いて、ヘスが、『特別の』赤ら顔をしたアイザック・カッブを連れてきた。
彼はとぼけたように帽子を頭にのせ、まるで警察の連中に親しみを感じているみたいな様子で、あたりをゆっくり見廻した。
警部は手短かにいった。「カッブ、わしのいうことが違っていたら、すぐにそういってくれ……クイーンとミンチェン博士とジェニー博士が、廊下で立ち話をしていた時、君はジェニー博士に近づいてきたね。そして君は、彼に面会したい男が来ていると告げたんだね。彼は初めは拒絶した。だがその男の名刺を手渡すと――スワンソンとかいったね――彼は気を変えて、待合室の方へ、君に案内されてついていった。それからどうしたね?」
「博士は『やあ、これは』と挨拶しました」とカッブは勿体ぶった口調で答えた。「それから二人は待合室を出まして、右手の――博士の部屋へ入ってゆきました。そしてドアを閉めて――博士がお閉めになったんです。で、私はいつものとおり前廊下の位置に戻りました。そのうちミンチェン博士がお見えになりまして……」
「ちょっと、ちょっと!」と警部は、怒りっぽい声で、「君がしばらくその位置から動かなかったとすると――」といって、隅の方に身を屈めているジェニー博士の方をちらっと見ると、突然調子を変えて――「ジェニー博士かあるいはその面会人かが、博士の部屋から出て、手術室の方へ行こうと思えば、君に見つからずに行けたかね?」
玄関番は自分の頭をかきながら、「そうですね、行けたでしょう! 私はいつも内を見ているわけじゃありませんからね。時々、ドアを開けて、街の方を眺めますし」
「今朝も君は街の方を眺めたのかね?」
「ええ――たしかに」
エラリーは口を挟んだ。「ミンチェン博士がやってきて、ドアに鍵をかけろと命令したのは、ジェニー博士の面会人のスワンソンが病院を出てから、どれくらい経っていたかい? 彼は確かに病院から出ていったんだろうね?」
「ええ、確かに!」カッブは下品な笑いを浮かべた。「私にチップを――いや彼が私にチップを下さろうとなすったのは――でも私は受取りませんでしたよ――規則ですからね……そうです、その方は、ミンチェン博士が私に命令なさった十分位前に、街の方へ出てゆきました」
「誰かほかに」とエラリーは続けていった。「スワンソンが出て行ってから、君がドアに鍵をかけるまでの間に、出て行った者があるかい?」
「一人もありません」
エラリーはジェニー博士に真直ぐ向い合った。すると博士はすぐ身体を伸ばしたが、ぼんやりとあらぬところを見つめているようだった。
「ちょっと、お訊ねしますよ、博士」とエラリーは、おだやかに口を開いた。「さっきの続きなんです。覚えておられるでしょう? あなたは、その面会人の方について、僕に何かおっしゃろうとしていましたね。その時、警部が入ってきたんです……」ドアがぱっと開いたので、エラリーは唇をきっと結んで、言葉を途切らせた。巡査部長のベリーが、両脇に二人の刑事を引き連れて、威張って入ってきた。
「ああ、また」とエラリーは、微笑しながら、「どうも僕たちは、大事な質問を延期するめぐりあわせになっているようですね……ベリーは何か情報を持ってきたらしいな」
「何だい、トマス?」と警部。
「ジェニー博士の面会人のほかには、十時十五分以後、病院から出ていった者は誰もありません。カッブも、ついちょっと前に、このスワンソンのことをいってました」ベリーは吼えるようにいった。
「この時間に病院に入って来た者のリストを見て、全部調べてみました。まだ、みんなこの構内におります――僕らは誰一人外へ出しませんでしたよ」
警部はにこやかに笑った。「いいぞ、トマス、上出来だ! ところでエラリー」と彼は自分の息子にむかって、「お前のおかげでクイーン家は、幸福だったよ。まだ殺人犯人は、この建物の中にいるんだ。逃がすんじゃないぜ!」
「きっと、そいつは逃げたくないんでしょう」とエラリーは、そっけなくいった。「僕は、あなたがおっしゃるように楽観的になれませんね……ところで、お父さん――」
「何かね?」と警部は、急にむっつりしていった。ジェニーは、眼を奇妙に光らせて眺めていた。
「さっきから、僕の鼻さきにちょっとした考えがつきまとっているんですよ」とエラリーは、ぼんやりした眼つきでいった。「論議を一致させるためにも――」といって、彼は外科医の方を向いてかるく頭を下げると、「ジェニー博士のためにも、この犯行をやったのは、ジェニー博士ではなく、卑劣で細心なペテン師だったとしたらどうでしょう」
「君のいうとおりだよ」とジェニーは唸るようにいった。
「そして、この仮定をもっと推しすすめてみましょう」とエラリーは、身体をゆすぶったり、天井を見詰めたりしながら続けた。「もしそうだとすると、僕のあやふやな経験から推して犯人が着ていた服と、博士が着ていた服とは、絶対に違うものと考えなければなりません。すると犯人はこの仮装の衣服を着換えて、どこかに隠したことになります……さて、犯人はこの建物から出ておりません。すると構内を隈なく捜し廻ったら……」
「リッター!」と警部は怒鳴った。「クイーン氏のいったことを聞いたかい? ジョンソンとヘスを連れて、すぐ捜査しろ!」
「僕はこんなしかつめらしい瞬間に、文学を引合いに出したりすることは、ひどく嫌いなんですがね――」とエラリーはかすかに笑いを浮かべて、「でも、ロングフェローの方が、僕を当てにして待っているようですよ。知っていますか?『すべて予見することは、発見することなり!……』で、僕は君が発見することを、心から祈っていますよ、リッター――ただジェニー博士を安心させるためにね!」
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九 含意
「では、また」とエラリーは、三人の刑事がドアを閉めて出てゆくと、ジェニー博士に改たまった口調で頭を下げて、「さっきのお話に戻りますが、博士……面会人はどなたでした?」
警部は椅子の方向を動かした。そして一語も聞き洩らすまいとするかのように、そっと足音を忍ばせて部屋を歩きはじめた。現実に、生きた人間が、彼のちょっとした質問によって緊張した部屋の中を、ゆっくり歩き廻っていたけれども、エラリーは完全な沈黙のうちに突っ立ったままだった。
ジェニー博士は、すぐに答えなかった。彼は、まるで自分だけが知っている難解な問題の中で何かを検討しているかのように、唇に皺をよせ、眉をひそめていた。
彼は簡単にいった。「君はつまらぬことを、大袈裟にしているんだよ、クイーン君。面会人は僕の友人だよ……」
「スワンソンという名の友人なんですね」
「そうさ。彼は金に困っていたんだ。それで僕に借金を申込んできたんだ」
「なるほど、そうですか」とエラリーは呟いて、「お金が必要だったんですね、で幾ら……何も秘密になさるようなことはないでしょうね!」……彼はまた微笑した。「むろん、あなたは貸したんでしょう?」
外科医は苦しそうにいった。「うん――小切手で五十ドルだ」
エラリーは相手を傷つけない程度に笑った。「大した額じゃありませんね、博士! それくらいで済んで良かったですよ……ところで、その友達の姓名《フル・ネーム》は何というんです?」
彼は極めて自然に質問すると、無造作に言葉をきった。クイーン警部は、ジェニーを見守りながら、ポケットをさぐって、嗅ぎ煙草をとり出した。そして煙草を鼻へ持ってゆこうとして、途中で手をとめて――返答を待っている……
ジェニーの返答は、そっけなかった。「それは君にいえない!」嗅ぎ煙草を鼻へ持ってゆく途中で止った警部の手が再び動いた。彼はそれをちょっと嗅ぐと穏かな態度で前に進み出た。
だがエラリーが、彼に先んじて平静な調子でいった。「そのスワンソンという人は、そんなお金を借りにくるくらいだから、かなり親しい方なんでしょうね。むろん、昔からの友人なんでしょう?」
「いいや、違う!」とジェニーは素早くいった。
「違う?」とエラリーは、眉をあげて、「どうもあなたがおっしゃることは、食いちがいが多いようですね、ジェニー博士……」彼は外科医の方に近づくと、「一言答えて下されば、あなたは僕を永久に黙らせることができるんですよ……」
「君が何と思おうと、僕は知らんよ」とジェニーはいった。
「でもね、このスワンソンという人が、特別親しい友人でないのでしたら、あなたは今朝、十五分も貴重な時間を割いたりなさらんでしょう。あなたの後援者が、重態で、意識を失って、あなたの独得な熟練した腕とメスを待っている間に?……よく考えて、答えていただきたいんです」
だんだん頑固な反抗の様子が、ジェニー博士の眼の光に現れてきて、「僕は君の調査に役に立つようなことは、何も知らないよ」と冷やかにいった。
エラリーは、彼の父が休んでいる椅子の方に歩いてゆき、腰を下すと、「今度はあなたの番です」といわんばかりに手を振った。老警部の微笑は、一層おだやかになったようだった。
「いうまでもないことですが、ジェニー博士」と警部は丁寧に始めた。「この問題について、われわれはあなたの立場を受け入れることはできませんよ。そんなことはもちろんおわかりでしょうね……」それは挑戦だった。「きっとあなたは、いい逃れなんかなさらずに真直ぐ返答をして、私に名誉を与えて下さるでしょうな」ジェニーは何もいわなかった。「よろしい、じゃ始めますよ……あなたが自分の部屋にいた十五分間、あなたとスワンソンの間に、何か起こりませんでしたか?」
「僕はそんな強情な男じゃありませんよ」と、ジェニー博士は態度を変えた。彼は疲れているように見えた。身体を支えるために椅子の背に寄りかかっていった。「さっきいったとおり、スワンソンが会いに来たのは、五十ドル借りるためでした。彼にはどうしても、その金が必要だったんですが、他所《よそ》では借りられなかったんです。僕は最初断わりました。すると彼は事情を説明し始めました。それから僕は彼の要求に同意しました。僕は彼に小切手を渡し、しばらく話し合った後、彼は帰ったんです。それだけです」
「大変、筋道のとおったお話でした、博士」と警部は重々しくいった。「しかし、あなたがいわれるとおりまったく事件と無関係のものなら、なぜその人の名前と住所を知らせられないんです? あなたの友人の証言が、あなた自身のために必要なんですよ。どうか真直ぐおっしゃって下さい。それで終りじゃありませんか!」
ジェニーはばさばさした頭を重たく振った。「お気の毒ですが、警部……これだけは申し上げてもよいでしょう。僕の友人は、不運にもある事情の犠牲になったのです――敏感な素質とすぐれた育ちの男でしたが。今度のことで、なにか特に悪い評判でも立つと、彼のためによくないでしょう。それに、彼がドーン夫人の殺害については、何も関知していないことはたしかなんです」
エラリーは何か考えながら鼻眼鏡をこすっていた。彼は眼をジェニー博士の顔から、決して離さなかった。
「スワンソンの人相を、あなたにお訊ねしても無駄でしょうな?」と警部はいった。微笑は、彼の顔から消えていた。
ジェニーは、唇をしっかり閉じてしまった。
「それじゃ、よろしい!」と警部はきっぱりいった。「スワンソンの証言がなければ、勢いあなたの立場が危険に陥ることはお分りですな?」
「仕方がありません」
「私は、あなたにもう一度機会を与えましょう。ジェニー博士」警部の声は、冷やかな怒りで、烈しい調子をおびていた。「スワンソンの名刺を寄越して下さい」
ちょっと、息詰るような沈黙があった。「え?」とジェニーは呻《うめ》いた。
「名刺ですよ、名刺!」と警部は、我慢しきれなくなって叫んだ。――「スワンソンの名刺だよ。君が廊下で、ミンチェン博士とクイーンと話していた時、玄関番が渡したでしょう。どこにあるんです?」
ジェニーは、しょぼしょぼした眼を警部に向けた。「僕は受け取りませんよ」
「どこにあるんだ!」
ジェニーは墓のようにじっと動かなかった。
警部は、部屋の隅に離れて立っていたベリーの方を、すぐ振向くといった。「身体検査をしてくれ!」
外科医は喘ぎながら壁の方に退くと、追いつめられた獣のように、周囲を睨みつけた。エラリーは椅子から立ち上りかけたが、すぐまた腰を下した。ベリーは部屋の隅へ小柄な男を押し詰めて、無表情に、「おとなしく僕に渡すかい、それとも僕が取りあげようかね」
「畜生!」ジェニーは喘いだ。「僕の体にちょっとでも触ってみろ――そしたら、僕は……」結局、どうすることもできないで、彼の声はかすれていった。
ベリーはジェニー博士を、まるで子供を扱うようにたやすく抱き締めると、外科医の弱々しい体のあちこちを、大きな手でなで廻した。
「ありませんよ」といって、ベリーは後ろに退いた。
警部は、呆れ果てたといわんばかりの様子で、まじまじとこの小柄の男を見詰めていた。彼は振り向こうともせずに、さりげなくいった。「ジェニー博士の部屋を捜査しろ、トマス」
ベリーは重たい足どりで、刑事を一人連れて、部屋から出ていった……
エラリーは、さっきから眉をひそめていたが、椅子から背を離すと、低い口調で警部に話しかけた。警部は、疑わしげに頭を振った。
「ジェニー博士」エラリーの声は低かった。外科医は壁に面して、床を見詰めながら萎《しお》れた様子で立っていた。彼の顔は充血して黒ずんでおり、肩で乱れた深い呼吸をしていた。「ジェニー博士、こんなことになって、本当にお気の毒でした。こうするより仕方がなかったんです……我々はあなたの知っていることを話していただきたいと思って、できるだけのことはしたんです……博士、あなたが一生懸命隠しているスワンソンが、もし本当に良い友達でしたら、そんなに驚かれることはないでしょうし、また彼もあなたの話されたことを立証するために、進んで表面に出ようとするでしょう? 彼には不運なんて問題じゃないでしょう……そう思いませんか?」
「お気の毒だが……」ジェニーは、嗄《しわ》がれた声でいった。しかし反抗的なところは、消えてなくなっていた。博士はまったく疲れきっているようだった。
「そうですか」エラリーは動じなかった。「じゃ、もう一つだけ訊きますよ。でも僕はあなたに返事を強いようとは思いません……ジェニー博士、あなたとスワンソンのどちらかが、部屋へ入ってから別れの挨拶を交わすまで、ちょっとでも部屋の外へ出たことはありましたか?」
「いや、出ない」と、ジェニー博士は、エラリーの眼を見つめようとして、頭をもたげた。
「ありがとう」エラリーは退いて腰を下した。彼は煙草をとり出すと火を点けて、何か思いめぐらしているようだった。
クイーン警部は、一人の刑事にぶっきら棒な命令を与えた。すぐに彼は、アイザック・カッブを連れて戻ってきた。玄関番は得意そうに入ってくると、赤ら顔を輝やかせた。
「カッブ」と警部は、すぐに始めた。「君はジェニー博士の面会人が、ホテルに入って来る時も出てゆく時も、彼の顔を見たろう。人相を話してくれないか」
「ええ、確かに見ましたよ!」カッブは嬉しそうに笑った。
「忘れちゃいませんよ、警部……ええ、忘れやしませんよ。その人は、中肉中背で、髪はまあブロンドで、きれいに髭を剃っており、黒っぽい背広を着ていました。それに黒の外套を着て」
「服の着こなしから考えて」とエラリーがすぐいった。「彼は裕福そうだったかい?」
「いや、そんなことはありません!」と玄関番は、首を烈しく振った。「まあ、みすぼらしい様子でしたね……そうです、見たところ――三十四、五才位のものでしょう」
「君はここにどれぐらい勤めていたんだね、カッブ?」とエラリーは訊いた。
「およそ十年になります」
警部が冷静にいった。「それで、君はこのスワンソンという男を、以前に見た覚えはないかい?」
玄関番はすぐ答えようとしなかった。「えーと」と口籠りながら、やっと口を開いて、「なんだか、ちょくちょく、見たような気がしますがねえ。でも――わかりませんな」
「ふーむ」とクイーン警部は、嗅ぎ煙草をつまみあげた。「カッブ」と彼はそれを鼻ですうすうかぎながら、「その男の呼名《ファースト・ネーム》は何だったね? 知ってるだろ!」彼は鋭くいって、嗅ぎ煙草をポケットに入れた。
「君はジェニー博士に、彼の名刺を持ってきたじゃないか!」
玄関番は吃驚したようだった。「いえ、私は――私は知りません。私はよく見ませんでした――ただ、ジェニー博士にお渡ししただけです」
「カッブ」とエラリーは、面倒くさそうに口を挟んだ。「おかしいじゃないか! 君は本当にチップも受け取らなかったし、詮索もしなかったのだね。僕を困らせるつもりかい!」
「君は、その男から名刺を受け取り、廊下を歩いてゆく途中、それに目もくれずに、ジェニー博士のところへ持っていったのかい?」と警部は険悪な口調でいった。
「私は――あの――見ませんでした」カッブは、すっかり震えあがっていた。
「馬鹿!」と、警部は、くるっと振り向いていった。「こいつは、低能だ。出てゆけ、カッブ!」
無言のうちに、カッブは出ていった。巡査部長のベリーは、カッブが質問されている間に部屋の中へ入ってきていたが、静かに前へ進み出た。
「どうだね、トマス」警部は、あまり巡査部長の報告を期待していないようだった。エラリーはジェニー博士の方を盗み見た。外科医は、何かの考えに心を奪われて、外には無関心な様子だった。
「ありません」
「ふむ!」警部はゆっくりジェニー博士に忍び寄ると、「あの名刺をどうしたんだ。返事をしろ!」と、いきなり怒鳴りつけた。
疲れはててジェニーは答えた。「焼いちゃいましたよ」
「そうか!」警部は唸っていった。「トマス!」
「はい」
「大急ぎだ。今晩までに、このスワンソンという男を本署まで引っぱってきてくれ。中肉、中背、金髪、黒っぽい服でみすぼらしい、年齢は三十五才位、貧乏してるらしい男だ。忙しいぞ!」
エラリーは深い息をした。「ベリー」ドアの方へゆきかけて、彼は足を停めた。「ちょっと、待ってくれ……」といって、エラリーは、ジェニーに向って、「博士、小切手帳を見せて下さいませんか?」
ジェニーは、身体をぴくっと痙攣させた。怒りがまた彼の眼の中で燃えあがった。しかし、彼が口を開いた時は、やはりひどく疲労した調子であった。「いいですよ」彼はズボンのポケットから小切手帳をとり出すと、何もいわずにエラリーにさし出した。
エラリーは、小切手帳の表紙を素早くめくった。頁の左は備忘欄になっていた。そして、とうとう見つけた。現金支払い。
「なるほど!」とエラリーは笑って、ジェニー博士に小切手帳を返した。ジェニーは、顔の筋肉をこわばらせて、それをポケットに元通りしまい込んだ。「ベリー、この小切手を調べてきてくれ、ネザアランド銀行の小切手支払所へ行ってみてくれ。小切手のナンバーは、一一八六で、五十ドルの現金支払いになっている。日付は今日で、ジェニー博士の個人口座だ。とにかく、スワンソンの署名がわかるだろう」
「承知しました」ベリーはすぐ行こうとした。
「もう一つ!」とエラリーは呼び止めて、「君がジェニー博士の部屋を調べた時、住所録のなかにスワンソンの名は見当らなかったかい?」
冷たい微笑が、ベリーの唇をかすめた。「確かに調べましたが、どうしようもありませんでしたよ。そんな名前は、全然見当りません。博士の机のガラス板の下に、個人電話表もありましたが、それにも載っていませんでした。それだけですか?」
「うん、それだけだ」
「さあ、どうぞ」といって、警部はジェニー博士のそばに近づくと、「立っていなくても結構ですよ、博士」と親切な口調でいった。「お坐りになりませんかね……」外科医は、ぼんやりした驚きの表情で、警部の方を見詰めた。「というのは」と老警部はにっこり笑って、「私達は、もうしばらくここでお邪魔するつもりですからね……」
ジェニーは、椅子に腰を下した。みんなしばらく沈黙していた。そのうちに、遠くから足音が近づいてきて、やがて西廊下のドアが開くと、一人の刑事が現れた。
リッター刑事は、大きな白い包みを小脇にかかえて、控室に入ってきた。彼の後ろから、ジョンソンとヘッセが、歯を見せて笑いながらついてきた。
クイーン警部は、あたふたと飛び出していった。エラリーも立ち上って、緊張してそちらに近づいた。ジェニーは、頭を胸にくっつけてうなだれていた。彼はまるで眠っているようだった。
「こりゃあ、何だい?」と警部は包みをひったくりながら叫んだ。
「衣服ですよ、警部!」とリッターが、鋭くいった。「殺人犯人の衣服を見つけたんです!」
クイーン警部は、ドーン夫人の死体を運び去った後の輸送車の上に、包みの中味を拡げた。
「ようやっと、手懸りを掴んだよ」と彼は呟いた。彼は嬉しそうに眼を輝かせながら、エラリーの方をちらっと見た。
エラリーは、長い白い指で包みを突つきながら、輸送車の上に身を屈めていたが、「もっと、もっと、燃料や火がなくっちゃ!」と呟いていた。そして、輸送車の上のものを見ようとして、首をのばしながら、油断のない様子で腰掛けているジェニー博士の方をこっそりうかがった。
「何とか、ぶつぶついわんのかい?」と、警部は、せわしく衣服をいじくり廻しながらいった。
「燃えがらですよ」とエラリーは、謎のようにいった。
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十 明示
みんな輸送車の周りに集って、クイーン警部が、包みを調べている様子を見守っていた。
ジェニー博士は、我慢しきれないといった身振りをした。坐ったり、立ったり、もじもじしていたが、とうとう好奇心が彼を打ち負してしまったようだった。彼は輸送車のところに横向きにそろそろと近寄ってきて、二人の刑事の肩の間から視線をそそいだ。
警部は、長くて白い上っ張りをとると、高く持ち上げてみせた。「ふむ、手術着だね?」そして突然眉をよせると、からかうように横目でジェニーを見ながら、「これはあなたのですね?」
ジェニーは小声でいった。「さあ、どうですか?」彼は二人の刑事の間にわり込むと、ガウンに手を触れた。「あなたの身体に合いますかね?」とエラリーは呟いた。警部はその上っ張りをジェニーの身体に当ててみたが、外科医の踝のところまであった。「僕のじゃない」と、ジェニーは断言した。「長過ぎるよ」
ガウンは皺になっていたが、汚れたところはなかった。明らかに洗濯したばかりのものらしかった。
「これは新品じゃないよ」とエラリーがいった。「折返しの縁がすりきれているよ」
「洗濯屋のマークは……」警部は急いで上っ張りを引っくり返し、背中の首の辺の内側をさがした。二つの小さな穴があったが、それは洗濯屋のマークを剥ぎとったのだということを、暗黙のうちに語っていた。
老警部はガウンを傍に投げ出した。
彼は、上の方に紐のついた、小さなよだれ掛けみたいなリンネルの布をとりあげた。上っ張りと同様、それは皺にはなっていたが、汚れてはいなかったし、一見して使われたことは明白だった。
「誰のものともいえますよ」とジェニーは、自ら身を守ろうとするかのようにすすんでいった。
それは外科用マスクだった。
次にとりあげた物は外科帽だった。それからも手懸りになるようなものは何も引き出せなかった。新品ではなく、汚れてもいないが、ひどく皺くちゃになっていた……エラリーは、それを父から受け取ると引っくり返してみた。彼は鼻眼鏡をかけると、頭の辺のところを眼に近づけて、爪先で布の合せ目のほそい溝まで丹念に調べた。ちょっと肩をすくめて、彼は帽子を台の上に戻した。
「犯人にとっちゃ、非常に幸運でしたね」
「頭髪がついていないっていうことかね?」と、すぐジェニーが訊いた。
「まあ、そんなところです。あなたは敏感ですね、博士……」エラリーは、警部がつまみあげた四番目の証拠品を調べようとして、身体を前にのり出した。老警部は、それを明るい方にかざした。それは固く糊づけした白いズボンだった。
「おい! これは何だろう?」と警部は叫んだ。彼はズボンを台の上に投げ出すと、腿のあたりを人差指で示した。両足の幾分だぶだぶした膝の上に、二インチほどの襞《ひだ》がついていた。
エラリーは何となく嬉しそうな様子だった。彼はチョッキのポケットからシャープ・ペンシルをとり出すと、細心に、その片方の襞の端を持ちあげてみた。すると鉛筆が何かに引かかった。かがんでよく見ると、何本かのとじ糸が、その襞をとめるために縫いつけてあった。ズボンの裏側も同じような糸でとめてあった。
「ほんの間に合わせに縫ったことが、すぐわかるね」とエラリーは呟いた。
「トマス!」と警部は、素早く眺め廻した。
ベリーは台の端っこの方にぼんやり立っていた。
「君はこの糸の出処がわかるかい?」
「さあ、ぶつかってみなくちゃ」
「ひとつ当ってみてくれ」
ベリーは小型ナイフで、右足の襞から糸を二インチほど切り取った。彼は、それをまるで殺人犯人の頭髪であるかの如く、丁寧に薄い封筒にしまいこんだ。
「これをあなたの身体に合せてみて下さい」と警部はにっこりともせずにいった。「いや、実際に足をつっ込んでみろというんじゃない。上から当てるだけで結構です」ジェニーは黙ってズボンを取ると、腰廻りのところを自分のバンドの上に当ててみせた。ズボンの裾が、靴の先まで垂れ下がった。
「じゃ、この襞をのばしてみると」とエラリーは、ゆっくりいった。
「四インチほど丈が長いわけですね……あなたの身長はどれ位ですか、博士?」
「五フィート五インチ」外科医はズボンをクイーン警部に投げ返した。
エラリーは肩をすくめた。「こんなことには大して意味はありませんね」と彼はいった。「でも、このズボンの元の所有者が、五フィート九インチだったら。しかし――」と彼は冷やかに笑って、「手懸りには、なりそうもない。市中に何百とある病院のどこかから盗んだものかも知れないし、何万という医者の誰かから……」
彼はちょっと立ち止った。クイーン警部が、ガウンやマスクや帽子を片づけると、今度は勿体らしく白い布靴が現れた。老警部の手は、前にのびた……
「ちょっと!」とエラリーは叫んだ。「それに触れないで……」
彼はじっと考え込みながら、靴に眼を注いでいた。「リッター」刑事はもぐもぐと返事をした。
「君はここへ持ってくる前に、この靴に触ったかい?」
「いいえ。包みを見つけると、すぐに持ってきました。真ん中辺に靴が入っていることは、手ざわりで分りましたが」
エラリーは再びシャープ・ペンシルを用いて、今度は右の靴の白い紐の先を突ついた。
「やあ――これはなかなかいいぞ!」と彼は身体をぴんと伸ばしていった。「やっと手懸りを掴んだよ」と彼は父の耳に囁いた。老警部は疑わしげな顔をして頷ずいた。
三番目の|はと目《ヽヽヽ》のところの靴紐は、半インチほど絆創膏がくっつけてあった。その外側の表面は、まったく綺麗に繕ってあったが、絆創膏の真ん中辺の奇妙な凹みに気がついてクイーン警部は物問いたげにエラリーの顔を見上げた。
「紐が切れたもんだから、両端をつなぎ合せたんだぜ。ぴったりくっつけなかったから真中が凹んだんだ」
「ここの勘所はむずかしいよ」とエラリーは呟いた。「絆創膏――絆創膏! どうもよく分らない」
ジェニー博士は大きく眼を見開いて、「そんなことは、ちっとも大切なことじゃない……」といった。「誰かが単に切れた靴紐をくっつけただけさ。僕が大切だと思う唯一の点は、その大きさだよ。誰が見たって僕が穿いている靴より小さいじゃないか」
「そう。いや、触らないで下さい!」とエラリーは、ジェニーが片方の靴を掴もうとしたので叫んだ。外科医は肩をぴくっと上げてみせると、照れ臭そうにあたりを見廻し、部屋の隅のほうに退くと、前に坐っていた椅子に腰を下した。
エラリーは絆創膏の端をすこしめくってみて、人差指の先でちょっと触ってみた。「さあ、博士」と彼は叫んでいった。「あなたにお断りして、一つ僕はあなたに代って、自分で外科手術をやってみますからね。ベリー、ナイフを貸してくれ」
彼は絆創膏の二つの端を剥がし、その角に指をかけて引っぱった。絆創膏はやすやすと剥がれた。「まだ湿っている」という彼の声は、いかにも得意そうだった。「はっきりしたよ――これではっきりした! 分ったでしょう、お父さん」といって、彼は急いでベリーの方を向くと、
「――おい、封筒を貸してくれ!――これは明らかに慌ててやった仕事だな。一方の端が、他方とぴったり密着してないよ」彼は絆創膏の切れっ端を、別の薄紙の封筒に入れると、すぐ上衣のポケットにしまった。
そしてもう一度、台の上にかがむと、切れた靴紐を引っぱってみた――靴紐はまだ靴についたままだった――彼はその両端を結び合せようとした。そうするためには、一番上の|はと目《ヽヽヽ》から垂れている白い紐から一インチほど三番目の|はと目《ヽヽヽ》のところまで引っぱらなければならなかった。
「種も仕掛けもないことですよ」と彼は微笑し、警部に向って、「靴紐が切れた時、すぐ結び合せるには、紐が短か過ぎたんです。それで、絆創膏で間に合わせたんでしょう」
「だが、エラリー」と警部は異議を唱えた。「それがどうしたというんだい? そんなに喜ぶほどのことはないと思うが」
「よろしい、あなたがそういわれるんだったら――あなたの靴紐が特別厄介な場合に切れたと仮定してごらんなさい――そして切れた靴紐を結ぼうにも、紐があんまり短か過ぎて、どうしても結べないとしたら、あなたは一体どうしますか?」
「うむ!」と警部は白い口髭をひねった。
「そりゃ、まあ、犯人がやったようにほかのもので間に合わせるがね。でも――」
「それで充分じゃありませんか」とエラリーはさとすような口調で、「僕が強烈な興味を感じ始めたんですからね」
その時、ピゴット刑事は、みんなの注意をひこうとするかのように咳をした。それに気がついた警部は、彼の方を振り向いた。
「なんだね?」
ピゴットは顔を赤らめた。「ちょっとしたことに気がついたんですが」と羞《はにか》むように彼はいった。
「その靴の敷革は、どこへやったんでしょうね?」
エラリーは、大きな声で笑った。ピゴットは、ひどく感情を傷つけられたような面持だった。だがエラリーは鼻眼鏡を外すと、また静かに拭き始めた。「ピゴット、君の給料は相当上ってもいいね」
「え? 何のことだい?」警部は何となく気に障ったらしかった。「わしをからかう気かい?」
エラリーは表情を変えて、「さて、靴紐のこととは別に――紛失した敷革の驚くべき秘密といってもいいんですが、こいつもこの調査には、絶対に欠くべからざるものになりましたね。一体、どこへいったんでしょう? 僕はさっき靴を調べた時に、ちゃんと見つけておきました――これです!」
彼はその靴を早速手に取ると、指を靴紐の下あたりに突こみ、ずっと爪先に近い面革の方をさぐった。そしてしばらくごそごそやっていたが、やがて隠れていた敷革を引っぱり出した。
「ここにありました」と彼はいった。「爪先の上方に窮屈に圧しつぶされて平たくなっていたんです……」
彼の左の靴のなかを調べた。その敷革も上の方にひっついていたが、すぐ引っぱり出された。
「変だな」と警部は呟いた。「リッター。君が靴に悪戯したんじゃないかい?」
「ジョンソンが知ってますよ」とリッターはむっとしたように答えた。
エラリーは警部とリッターを鋭く見較べていた。彼は台のそばから離れると、頭を下げて考え込んでいた。
「あなたは、きっとこの靴のことを気になさっているでしょう」と彼は控室の中を歩き廻りながら、ぼんやりといった。そして、ぴたりと足を停めると、「ジェニー博士」と呼びかけた。
外科医は眼を閉じて、「何だね」
「あなたの靴の|大きさ《サイズ》は?」
ジェニー博士は、本能的に自分が穿いている布靴にちらっと眼を落とした――台の上にのっている靴と見較べてみたのは明らかだった。「ありがたいことに」と彼は、のろのろした口調でいって突然立ち上ると、「まだ疑われているらしいね?」と歯をむいて唸ると、自分の顔をエラリーの顔にぐっと近づけ、ぎらぎらと眼を光らせた。「ふん、クイーン君、今度ばかりは君の見込み違いだよ。僕の靴のサイズは、六・五だからね」
「幾分小さいようですね」とエラリーは、受け流して……「この靴のサイズは六ですが!」
「サイズ六かい」と警部は口を挟んだ。「しかし――」
「お静かに!」とエラリーは微笑し、「これが殺人犯人の使用した靴だということを発見して、僕がどんなに満足しているか、あなたにはお分りにならんでしょう……でも僕の満足なんて、博士、あなたのそれに較べたら僅かなもんですがね……リッター、この靴はどこで見つけたんだい?」
「南廊下と西廊下の曲り角にある電話室の中に置いてあったんです」
「そうか!」エラリーは唇をむすんで、しばらく眉を寄せていたが、「ジェニー博士、僕がこの靴から剥ぎとった絆創膏をご覧になったでしょう。あれはここで使用しているものと同じ品ですか?」
「だから、どうだというんだ? 市中のどこの病院だって、あれを使っているんだよ」
「僕はそれ位じゃそんなにがっかりしませんよ」とエラリーはいった。「予想以上でしたからね……もちろん、博士、こうした品物はあなたの物じゃないでしょうね?」
ジェニーは手を拡げていった。「どんな悪魔が、僕にイエスとか、ノオとかの返事を強いるんだ? やつらは知らん顔なんだ。でも僕は、自分の戸棚を調べた上でなくちゃ、何とも返事できないよ」
「帽子とマスクは、あなたの物かも知れませんね?」
「誰かのかも知れんよ!」ジェニーはきつく締ったガウンの首紐をほどいた。「だが、そのガウンは長過ぎるよ。ズボンについちゃ――不格好な変装用というだけのものさ。そしてその靴は、絶対に僕のものじゃない」
「そんなにはっきりはいえないよ」と警部は、挑戦的にいった。「少なくとも、君のじゃないという証拠はないからな」
「いや、あるんですよ、お父さん」とエラリーは、温和な声でいった。
「これを見て下さい」
彼は両方の靴をひっくり返して、踵のところを指さした。黒いゴム底であった。履き古したらしく、踵が平らに擦り減っていた。右の靴の踵は、右側が擦り減っており、左の踵は、同じ様に左側が擦り減っていた。靴を一まとめにして傍に置きながら、エラリーは踵を指さしていった。
「よくご覧になったとおり」と彼はゆっくりした口調で、「両方の踵は、だいたい同じ程度に擦り減っていますよ……」
クイーン警部の視線は、床の方に移って、小柄な外科医の左足に注がれた。ジェニーの体重は、他方の右足にかかっていた。
「ジェニー博士のおっしゃることは」とエラリーは言葉をつづけて、「まったく正しいのです。この靴は彼のではありませんよ!」
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十一 訊問
ジョン・ミンチェン博士の規律正しい精神は、今朝のアビゲイル・ドーン夫人殺害事件の興奮で、すっかり掻き乱されていた。実習生たちも廊下のあたりに寄り集まって、規則を犯して煙草を喫いながら、お得意の専門的立場からの議論に花を咲かせていた。看護婦たちも、この惨事によってまるで規則を忘れてしまったかのように、あっちこっちでべちゃべちゃ喋ったり、くすくす笑ったりしていて、そのうちにうるさい古参看護婦がやって来て、彼らを病室や特別室へ追い返すという始末であった。
一階は刑事や警官で一ぱいだった。ミンチェンは、苦い顔をして、廊下のあっちこっちに寄り集まっている連中をかきわけて、控室に通ずるドアのところへやってきた。彼がドアを叩くと、煙草を口にくわえた刑事が開けてくれた。
彼は素早い一瞥でその場の様子を見廻した――ジェニーが追いつめられた者のように顔を蒼白にこわばらせて部屋の中央に立っている。クイーン警部には、困惑と焦燥の色がありありと見える、エラリー・クイーンは輸送車にもたれて、白い布靴をいじくり廻している、そして、数人の刑事が彼らをとり巻いて、沈黙のうちに成り行きを見守っている。
彼は咳払いをした。警部は踵をめぐらすと、台の方へ近寄っていった。ジェニーの頬に、ちらっと明るい色がさした。彼の身体は、空っぽの袋のように椅子に崩折れた。
エラリーは微笑した。「どうしたい、ジョン?」
「お邪魔して済まんが」とミンチェンは、いらいらしていった。「でも、待合室の方が、ちょっとばかり面倒になってきたんだ、それで僕は――」
「ドーン嬢かい?」
「うん。彼女は今にもぶっ倒れそうなんだ。本当に家に帰さなければならないんだ。なんとかして貰えないかな?」
エラリーと警部は、何か小声で話し合った。警部は心配そうに訊ねた。「ミンチェン博士、あなたのご意見では、どうしてもそうすることがその若い令嬢には必要なんですね」そして、突然質問の向きを変えて、
「誰か彼女の家族の者がおりますか?」
「ドーン氏――ヘンドリック・ドーン氏が来ています。彼は彼女の叔父に当り、アビゲイル・ドーンのただ一人のきょうだいで、弟にあたります。彼女を家へ帰すんだったら――そうだね、ミス・フラーを付き添わせたらと思うんだが」
「ドーン夫人の相談相手の人だね?」とエラリーは、ゆっくりといった。「いや、彼女はまだ止めておいて欲しいな……ジョン。ドーン嬢とダニング博士の娘さんとは仲好しかい?」
「随分懇意のようだね」
「それはかなり問題だね」エラリーは爪を噛んで考え込んだ。ミンチェンは、この「問題」がどういう事なのか分らないらしく、彼をじっと見詰めていた。
クイーン警部は我慢しきれなくなって口出しした。「だが、結局……彼女はこの病院に止めておいちゃ、気分が悪いんだろう。もし、そんなに気分が悪いんだったら、かわいそうだから、家へ帰した方がいいよ。すぐ帰してやりなさい」
「いいでしょう」といったが、エラリーの額は相変らず曇っていた。「ダニング博士の娘さんは、ドーン嬢とドーン氏に付き添ってゆくんだな。だが、帰る前に――うん、それがいい。ジョンソン、ドーン氏とダニング博士の娘さんを、ちょっとここへ呼んでくれ。そんなに手間をとらせないからね。それから、ドーン嬢には、看護婦を一人つけたらいいんじゃないか?」
「そうだね。それにモアハウスも一緒にいるんだがな」
「サラ・フラーは?」とエラリーは訊ねた。
「うん、いるよ」
「ジョンソン、それからついでにフラーを実験手術室の立会人席に連れてきて、僕が呼ぶまで待たしといてくれないか」
鈍い感じの刑事は、大急ぎで部屋から出ていった。
入れ違いに白服の実習生が入ってきて、おそるおそるあたりをうかがいながら、ジェニー博士に近づいてきた。
「おい!」と警部が怒鳴った。「どこへゆくつもりなんだ?」
ひどく萎《しお》れ返った実習生のそばへ、ベリーがのそのそ近寄っていった。外科医は、椅子から立ち上った。
「いや、その男なら構わないよ」と彼は疲れ切った声でいった。「何か用かい、ペアソン?」
若い男は生唾をぐっと飲みこんだ。「ホウソーン先生が、あの咽喉炎の診察のことで、博士をお呼びしているんですが、先生はすぐにやっていただきたいと……」
ジェニーは手を額に当てて、「馬鹿な!」と大きな声を出した。「すっかり忘れていた。――おい、クイーン君、僕は行かなくっちゃならん。真面目なことなんだ。珍らしい症状でね。ルドウィヒ咽喉炎というんだ。恐ろしく死亡率の高い……」
警部はエラリーの顔を見た。エラリーは、どうでもいいというふうに手を振った。「僕たちには医術の奇蹟的な手順を遅らせたりする特権なんて、確かにありませんからね。あなたがしなけりゃならないものなら、あなたがやらなければならないですからね。じゃ、さよなら!」
ジェニー博士は、若い実習生を押しのけてすでにドアのところに行っていた。彼は立ち止まってノッブに手をかけ、汚い歯を見せて後を振り返り、にやりと奇妙な笑いを浮かべた。「死人のお蔭でここに引っ張り込まれて、死にかけている者が僕を引っ張り出してくれるっていうわけだね……失敬!」
「そんなに急ぐことはない、ジェニー博士」警部はじっと立ったままだった。「あなたはどんな事情があろうと、この町を離れないで下さいよ」
「何だって!」と外科医は唸るようにいって、部屋の中へ二、三歩よろめくように足を踏み入れて、「そいつは駄目だ。僕は今週シカゴで医学協議会に出席するんで、明日出発するつもりだったんだ。欠席したら、死んだアビーだって喜びやしない――」
「わしはね」とすかさず老警部は答えた。「君は市中を離れちゃならんといったんだ。解ったかね。会議があろうとなかろうと、問題じゃない。その他どんな理由があろうと――」
「ああ、弱ったな!」と外科医は大声でいって、ドアをぴしゃりと閉めると、飛び出していった。
「奴の後をつけろ!」とベリーは、リッター刑事にいった。「見失っちゃ駄目だぜ!」
リッターは自信ありげに笑って、ジェニーが消えていった廊下を重い足どりでついていった。
エラリーが面白そうに、「あのジェニーという男は、自分の創造者の呼び出しに対しては、感心に職業的不可知論でもって嘲笑したりするようなことはないんですね。そう思いませんか……」などと話していた時、ジョンソンが実験手術室のドアを開けて、エディス・ダニングと、腹がつき出た恐ろしく腰廻りの大きい|チビ《ヽヽ》の男を中へ入れるために脇へどいた。
クイーン警部は前に一歩進み出て、「ダニングさん? それからドーン氏ですね? どうぞ、お入り下さい。お手間はとらせませんから!」
金髪をふり乱したエディス・ダニングは閾のところでちょっと立ち止ると、「はっきりして下さい」彼女は非常に金属的な声の持ち主だった。「ハルダは気分が悪いんです、わたしたち、彼女を家へ帰してやらなくちゃ」
ヘンドリック・ドーンは、もじもじと二歩ばかり部屋の中に足を踏み入れた。警部は愛想よく迎えたが、幾分吃驚したようだった。ドーンの腹は、脂肪の層が幾重にもかさなって、大きく膨らんでいた。彼は歩くというよりも、前の方にだらだらと流れ出るような感じだった。彼のゼラチンみたいな腹は、一歩ごとに全体のリズムでぶるぶると揺れ動いた。月みたいな丸顔が脂光りして、ところどころに小さな赤い斑点があった。彼はすっかり禿げており、不健康な白い頭の上に、部屋の光りが反射していた。
「そうですッ」と彼はいった。その声は、彼の外貌と同様に、ひどく特徴があった。ひどく甲高く、変に軋《きし》るような、かすれた声であった。「そうですッ」と、彼はまた軋った。
「ハルダは休息が必要なんですッ。こんな馬鹿なことが、あるもんか。我々は何も知らんのですッ」
「もうしばらく、お待ち下さい」と警部は穏やかにいった。「どうぞお入り下さい。ドアを閉めなければなりませんからな。まあ、お坐り下さい!」
エディス・ダニングの険しい眼は、警部の顔をじっと見詰めつづけていた。そして無表情に部屋の中へ入ってくると、ジョンソンがすすめた椅子に腰を下し、両手を膝の上にきちんと重ねた。ヘンドリック・ドーンは別の椅子にだらだらと近づくと、ぶつぶついいながらどっかと腰を沈めた。巨大な尻は、椅子の外へぶざまにはみ出していた。
警部は嗅ぎ煙草をとり出すと、ちょっと嗅いでから、「さて」と丁寧に口を切った。「一つお訊ねしますが、あなたにお解りになることだろうと思います……つまり誰があなたの姉さんを殺したかについて、何かお考えをお持ちでしょう?」
この肥った男は、絹ハンカチで頬を拭った。そして小さな黒い眼を警部から床の方へそらせてから、再び警部の方を向けると、「これは、我々にとっちゃ、恐ろしい事ですッよ。誰か知ってるかって? アビゲイルは変った女でした――とても変った女でしたからね……」
「それじゃ」と警部は鋭くいった。「あなたは姉さんの私生活について何か知っているでしょう――例えば、彼女の敵とか秘密とか。できるだけお話し願えませんか?」
ドーンは、腕で何遍も顔を拭うようにしながら、豚のような小さな眼を始終きょときょと動かしていた。心の中で何か考えているようだった。「そうですね――あるにはあるんだが……しかし、ここじゃいえない!」と、椅子から身体をもたげて、「ここじゃ、いえない!」
「ほほう、何かご存じなんですね」と警部は和らいで、「面白そうですな。すぐにお話し願えませんかな、ドーンさん、外へ出るわけにはゆきませんからね!」
この肥った男の隣に坐っていたエディス・ダニングは、耐えられなくなっていった。「あの、可哀想なハルダのために、すぐにここから出てゆきましょう……」
その時、烈しくノッブを廻す音がして、蹴破るような勢いでドアが開けられた。みんないっせいにそちらを振り向くと、モアハウスが、背の高い若い女性を抱きかかえるようにして入ってくるところだった。彼女の眼は閉じており、ぐったりと前に身体がのめっていた。そして一人の看護婦が、片方からしっかりと支えていた。
若い弁護士の顔は憤怒で燃えあがっていた。彼は烈しい視線を警部やエラリーに向けながら、その女性を介抱しながら控室の中に入ってきた。
「まあ、まあ!」と警部は驚いていった。「ドーン嬢ですね? 今ちょうど――」
「ちょうどどうしたっていうんです!」とモアハウスは食ってかかった。「一刻も早くドーン嬢を家へ帰していただきたい!……侮辱です! 罪悪ですよ! ちょっと、どいて下さい!」
彼は乱暴にエラリーを押しのけると、意識を失いかけている彼女を椅子に坐らせた。モアハウスは窮屈そうに立ったまま、何かぶつぶつ喋べりながら、彼女の顔を手であおいだ。看護婦は、慌てることなく彼をどかせると、彼女の鼻に何か薬壜をあてた。エディス・ダニングも立ち上って、ハルダの方に身を屈めながら、彼女の頬を軽く打ちつづけた。
「ハルダ!」と彼女は気短かに叫んだ。「ハルダ! お馬鹿さんね。しっかりなさいよ!」
彼女は眼を覚ましてまばたきした。そして薬壜から顔をそむけた。彼女はエディス・ダニングをぼんやり眺めた。それから頭を少しずらせて、モアハウスの方を見た。
「ああ、フィリップ! お母さんは――お母さんは……」彼女は幾分気を取り直したようだった。声はすすり泣きでかすれていた。そして腕を盲目的にモアハウスの方に伸ばすと、また泣き出した。看護婦とエディス・ダニングとエラリーは後ろに退いた。モアハウスの顔は不思議に和らいでいた。彼はハルダを上から抱きかかえると、早口で何か喋べりはじめた。
警部は鼻をくすんと鳴らした。椅子の前にじっと立っていたヘンドリック・ドーンは、彼女が介抱されている間、巨大な身体を搖すってちらっと眺めただけだった。
「続けましょう」と彼はいった。
エラリーは彼と穏やかに向い合った。「ドーンさん、あなたがおっしゃろうとしていたことは何です? 誰かが夫人に遺恨を抱いていたんですか?」
ドーンは身体を搖った。「そんなこといいたくないね。私の命が危いですからな。私は……」
「ふむ」と警部はエラリーの側によりながら唸った。「誰かが口留めしたんですか、ドーンさん?」
ドーンの唇は、ぴくぴく震えた。「ここじゃいえないんですッ。今日の午後――私の家でだったら。今はいやです」
エラリーとクイーン警部は、互いに顔を見合せると、エラリーはだまって後ろに退いた。警部はドーンに同意するように微笑して、「よろしい。午後、お宅へ伺いましょう……じゃ、待っていて下さい。おいトマス!」大男が頷ずいてみせた。
「君はドーン氏とドーン嬢とダニングさんを、誰かに送らせるようにしてくれ――よく気をつけてくれよ」
「僕が行くよ」とモアハウスは、突然振り返って叫んだ。「だから、刑事なんぞに送って貰う必要はないよ……ダニングさん、ハルダを抱いて下さい!」
「いや、あなたは困るんですよ、モアハウス君」と警部は猫なで声で、「もうしばらくここにいらして下さい。用事がありますからね」モアハウスはぎょろりと睨みつけ、警部の眼と烈しくぶつかった。それからこの若い弁護士は、物凄い顔をして自分をとり巻いている刑事たちを見廻した。彼は肩をすくめてみせると、泣いているドーン嬢を援けて、廊下のドアまで連れていった。ヘンドリック・ドーンとエディス・ダニングが、刑事に導かれてドアのところへ来るまで、彼女の手は、彼につかまっていた。そしてひそかに手を握り合うと、彼女は肩をぴんと張った。そして彼の愛人がゆっくりと廊下を去ってゆくのを見送りながら、モアハウスはドアのところにぽつんと取り残された。
ドアを閉めた後、しばらく沈黙があった。それから彼はみんなの方に顔を向けた。
「さあ」と彼は苦々しげにいった。「僕は残りましたよ。一体、どんなご用なんです? どうか、あんまり長くかからんようにして下さい」
*
クイーン警部の合図で、刑事達はみんな控室から出ていった。ベリーは廊下のドアに大きな背を向けて、腕組みした。
「モアハウス君」警部は楽に身を落ちつけると、膝の上で手を握り合せた。エラリーは煙草に火を点けて、深く吸い込んだ。そしてその煙草の赤く燃えている先端をじっとみつめていた。
「モアハウス君。君は永い間ドーン夫人の弁護をなさってたんですね?」
「そうです」とモアハウスは頷ずいて、「親父の代から、夫人の仕事を扱ってきましたからね。昔からのお顧客《とくい》みたいなもんですよ」
「それじゃ、法律事務と同じように、夫人の私生活のこともご存じでしょうね?」
「親しかったですからね」
「ドーン夫人と弟のヘンドリック氏の仲はどんな工合でしたか? 仲がよかったんですか? ヘンドリック氏についてご存知のことをみんなお話し願いたい」
モアハウスは、不快そうな顔をした。「お話してもいいですがね、警部……むろんこれは僕一個の意見として聞いて下さい――僕はただ彼の親しい友人として、自然に見たり聞いたりしたことを、お話するだけなんですからね……」
「どうぞ」
「ヘンドリックは、生れながらの寄食者とでもいうんでしょう。仕事なんて、からっきししたためしがありません、きっと、それであんなにでぶでぶ肥っているんです。血を吸って生きている蛭《ひる》で、養ってゆくには恐ろしく費用のかかる男なんです。僕は勘定書を見たんで分ったんですが。それにこうした連中にはつきものの、ちょっとした道楽もありますしね。例によって、賭博に女ですよ」
「女?」エラリーは眼を閉じて、夢見るように微笑した。「僕にはそんなことはとても信じられんがね」
「あなたは、そんな女を知らないんですよ」とモアハウスはにやりと笑って答えた。「彼はブロードウェイのある種の女には、肥っちょの甘ちゃんで通ってますよ。もっとも彼は一々そんな女のことを覚えちゃいないでしょうがね。新聞には知られませんでした――アビゲイルが気をつけていましたから……アビゲイルが|やつ《ヽヽ》に一年間二万五千ドルも払ってやっていましたから、むろん楽に暮せると思うでしょう。ところが、ヘンドリックは違うんです。|やつ《ヽヽ》はいつもぴいぴいしていますよ」
「自分の財産はないのかい?」と警部は訊ねた。
「一セントもありません。アビゲイルの莫大な財産というものは、彼女自身の才覚で築きあげたものです。彼女の一家は、元来、世間でいうほどの金持じゃありませんでした。だが彼女は金儲けの天才ですからね……アビーは面白い人ですよ。それに較べたらヘンドリックは一家の恥ですね」
「法律上のいざこざとか、不正の取引とかはなかったのかな?」と老警部は訊ねた。「つまり、彼が蔭にかくれて口留め料でも貰ったというようなことは」
モアハウスはためらっていた。「そうですね……何ともいえませんね」
警部は微笑した。「ふむ……じゃ、ヘンドリックとドーン夫人の仲はどうかね?」
「はっきりしませんね。アビーは、そこら辺の馬鹿とは違います。彼女は何でもよく承知していました。でも彼女は家族の者に対する強いプライドを持っていましたし、ドーン家のことをとやかくいわれることを許しませんでした。で、ヘンドリックの事も放任しといたのでしょう。それでも、時々、口出ししては、口論したりすることもあったようです……」
「ドーン夫人とハルダについてはどうですか?」
「それは、もう、とてもお互いに深い愛情を持っていました」とモアハウスはすぐ答えた。
「ハルダはアビゲイルの誇りであり、喜びだったんです。ハルダの言うことなら、アビーは何でも聞きました。しかしハルダは、大金持の娘に似合わず、いつも温和しい慎ましやかな性質の女性です。まったく模範的な――いまご覧になりましたっけね。彼女は――」
「もちろん、それは分ってますよ!」と警部は急いでいった。「それで、ハルダ・ドーンは、叔父さんの噂は知っているんでしょうな?」
「それは知っているでしょう。でも、そのことではひどく心を傷めていると思いますね。そんなことを口にしたことさえありませんが――」と、ちょっと言葉を休めて、「――僕にさえいったことはありませんよ」
「その若い娘さんは、お幾つですか?」とエラリーは訊いた。
「ハルダですか? ええ、十九か二十です」
エラリーは、部屋のずっと離れた隅にさっきから成行きを見守りながら、黙って静かに坐っていたミンチェン博士の方に、首をねじ向けると、「ジョン!」と呼んだ。
博士は立ち上った。そして「今度は、僕かい?」と皮肉な微笑を浮かべていった。
「いや、いや。君たち専門家がいつも問題にしている婦人病的現象の一つにぶつかって、僕は迷っているわけなんだよ。君は、今朝事件が起こる前の話で、アビゲイルは七十才以上だといわなかったかね?」
「ああ、いったよ。でも、どうして? ドーン夫人は婦人病だったわけじゃないぜ――」
エラリーは、とぼけた顔で指を弾《はじ》いてみせた。「うん、それはそうだよ」と彼は呟いた。「でも、ある一定の年齢を過ぎてから妊娠するというのは、何か病理学的根拠があるかも知れないじゃないか?……」と彼はいった。「ドーン夫人は、いろんな点で変った婦人だったに違いない……ところで、死んだ夫のドーン氏はどうだったんだい?」
「十五年ほど前に死んだんです」とモアハウスが口を挟んだ。彼は興奮している様子で「だからって、クイーンさん、あなたは何を当てこすってるんです――?」
「ちょっとおかしいと思ったのさ」とエラリーは笑って、「母と娘の年齢が、驚くほど違っているんでね?」
モアハウスはひどく当惑したようだった。その時警部が口を開いて、「それじゃあ、よく知らんわけだな。あの立会人席で待たしてあるフラーという婦人について聞きたいんだが……彼女はドーン家で、どういう地位にあるのかね? わしにはその点がはっきりしないんでね」
「アビーの相談役ですよ――彼女は二十五年ほども、一緒に住んでいたんです。やっぱりちょっと風変りな性格です。横暴で、宗教気違いで家中のみんなからひどく嫌われているようです。サラとアビーの仲は、とても永年一緒に暮らしてきたとは思えない位で、いつも口喧嘩をしていました」
「口喧嘩だって?」と警部は唸った。
「どんなことで?」
モアハウスは肩をすくめた。「誰も知らんようです。ただ口論するだけなんですよ。アビーは、ちょっとした腹立ちまぎれに、よく僕に向って、『あの女を追いだしてやるつもりだ』といっていましたが、実際には決してそんなことをしませんでした。単に口癖だったんですね」
「使用人は何人いるんだね?」
「普通の人数ですね。執事のブリストル、家政婦、その他女中の手合いで――あなた方の注意をひくような者はおりません」
「いよいよこれから、あらゆる殺人事件の調査で、最も肝腎な段階に入るわけですが」とエラリーは呟き、足を組みながら、深い息をして、「遺言のことについて質問する番になるんですが……一つドーン夫人の遺言について、あなたの知っていることを話して下さい、モアハウス君」
「普通の場合よりも、あっさりしたものだと思うんですが」とモアハウスはいい返した。「別に不吉なところも不可思議な点もありませんよ。まったく公然で正式のものです。会ったこともないようなアフリカの親戚にゆずるとか、赤の他人にやるなんてこともありません……
財産の大部分はハルダに遺されています。ヘンドリックにもかなりの信託財産が与えられ――その額は、あの肥っちょが欲しがっているより多い位です――それで、ニューヨーク中の酒を飲み干そうなんてことをしなければ、彼の余生は金に困ることはないでしょう。
サラ・フラーはその次に来ます。彼女にも使い切れぬほどの大きな金額が残されています。使用人達でも、むろん相当の額を受取ることになっています。それからこの病院ですが、ここにも数年間は経営を維持してゆける巨額の基金が用意されています。それも支払うようになっています」
「当然、そうだろうな」と警部は、低い声でいった。
「ええ、さっきいったとおりですよ」とモアハウスは、椅子の中で落着きなくもじもじして、「じゃ、続けましょう――あなたは驚かれるかも知れませんが、次はジェニー博士です」
「え?」と警部は驚いて、「何だって?」
「彼に遺される分は、二つに分れています。片方は個人宛のものです。ジェニーは、ずっと以前からアビーの被保護者でしたからね。もう一方の分は、ジェニーとニーゼルが共同で仕事をしているある研究を続けるための支援基金となっています」
「おい、おい!」と警部は遮ぎって、「ちょっと待ってくれ。そのニーゼルってのは何者だね? そんな名前は、はじめて聞いたよ」
ミンチェン博士が、椅子から身体を前に乗り出した。「僕が話しましょう、警部。モリッツ・ニーゼルは科学者でオーストリア人ですが、ジェニー博士と革命的な研究をやっているんです。合金の一種だという話ですが。彼は一階に特別の研究室をジェニーに設けて貰って、そこで夜となく昼となく研究しつづけています。まるでモグラみたいな男ですよ」
「その研究っていうのは、どんなことなのかな?」とエラリーは訊いた。
ミンチェンは、あんまり愉快でない様子だった。「ニーゼルとジェニーを除いては、誰もよく知らんようだね。二人共、それについてはまったく黙っている。その研究室は、この病院の冗談の種になっているんだ。二人のほかには、その研究室の壁の中に入った者はいないんだよ。どっしりした安全錠の二重ドアと、厚い壁とでできていて、窓は一つもないんだ。内側のドアには、鍵が二つあるだけだが、それを開けるには外側のドアのコンビネーションを知っていなければならない。もちろん、鍵はニーゼルとジェニーが持っている。ジェニーは絶対に研究室に入ることを許さなかったんだ」
「秘密の上に秘密というわけか」とエラリーは低く呟いた。「何だか中世的気分になってきたね?」
警部はぐっとモアハウスの方に頭を向けると、「このことについて、君は何かもっと知っていることはないかね?」
「その仕事の性質についちゃ何も知りません。ですけど、僕が知っているちょっとしたことが、あなたの興味をひくかもしれません。ごく最近になってのことなんですが……」
「待ってくれたまえ」といって警部は、ベリーを手招きした。
「誰かニーゼルを呼びにやってくれ。彼とちょっと話がしたいんだ。そしてわしが呼ぶまで手術室で待たせといてくれ」ベリーはすぐ廊下の誰かに伝えた。「じゃ、モアハウス君、お話を続けて下さい――」
モアハウスはそっけない口調で、「僕は、あなたの興味をひくことだろうと思うんです……アビーはご存じのように経験を積んだ豊かな心と賢明な頭の持主でしたが、やっぱり女です。ひどく移り気なところがあるんで……でも僕はそんなに驚きもしませんでしたがね、つい二週間前に、彼女は新しい遺言状を書くように僕にいったんです!」
「なるほどね」とエラリーは呻くようにいった。「この事件はいちいち専門的特徴をそなえて、進行してゆくんだな。解剖学に始まり、それから冶金学、今度は法律学……」
「最初の遺言が悪いというわけじゃないんですよ」とモアハウスは急いで口を入れた。「彼女は単にある部分だけ変えようという気になったのです……」
「ジェニーの遺産の分じゃないんですか?」とエラリー。
モアハウスは大きく見開いて彼を見詰めながら、「そうですよ。ジェニーの分です。でも個人的に遺贈する分ではなくて、ジェニーとニーゼルの共同研究の基金に関する部分なので、彼女はこれを全部抹殺したかったんです。そして全部、新しい遺言状を作る必要はありませんでしたが、使用人や、慈善事業なんかへ遺贈する分を付け加えたんです。最初の遺言状が作られてから二年経っていましたからね」
エラリーは、きちんと坐り直しながら、「それで新しい遺言状は書き変えられたんですか?」
「ええ、そうです。一通りの手続きは終りましたが――夫人のサインだけはまだでした」とモアハウスは、しかめ面をして答えた。「今朝、卒倒して昏睡状態になってから、すぐ殺されてしまいましたからね。僕だけでもこんなことになるのが分ってたなら! だが、むろんみんな少しも予期していませんでしたからね。実は、明日アビーの署名を貰う予定になっていたんです。今となってはどうしようもありません。最初の遺言が有効なわけです」
「その遺言を調べてみなくちゃならんな」と警部は呟いた。「遺言てやつが、いつも殺人事件を惹き起こすもとになるんでね……ドーン夫人は、ジェニーの金属研究に相当の大金を投資していたんだろ?」
「その通りです」とモアハウスはいった。「僕らみんなが楽に暮らせると思われるほどの大金を、ジェニーの秘密実験費にふり向けていました」
「君はその研究の性質についちゃ、ジェニーとニーゼル以外には誰も知らないといったが、ドーン夫人も知らなかったんだろうか? 仕事のことじゃ抜目がないという評判の老婦人が、まるっきり何も知らないで、補助金を出すなんて考えられないがね」
「どんな堅固な建物にだって、欠点があるものです」とモアハウスは勿体ぶっていった。
「アビーの弱点は、ジェニーでした。彼女は彼のいうなりになるんです。ですけど、僕の知っている限りでは、ジェニーは彼女の信用を決して裏切りませんでした。彼女は確かにこの研究の、そんな細かい科学的なことまで知ってはいませんでしたよ。それで、ともかく二年半というものは、ジェニーとニーゼルはこの仕事をやってきたんです」
「へえ!」とエラリーは歯を見せて笑いながら、「でもギリシァの貨幣とドーナツと交換しやしないよ。ドーン夫人には君がいうほどの弱点はなかったんだ。二人の仕事があんまり長びくんで業《ごう》を煮やして、第二の遺言から研究資金を除外しようとしたんだろう?」
モアハウスは眉を吊りあげた。「ご賢察のとおりです、クイーンさん。その点は確かにそうなんです。あの研究はもともと六カ月で完成するという約束でしたが、だらだらと五倍も予定が延びてしまいました。夫人はそれでもジェニーには相変らず熱心でしたが、『あんな見込みのない実験的な仕事なんかに補助金を出すのは止しますよ。この頃は金まわりが悪くなりましたからね』といっていました」
警部は突然立ち上った。「いや、ありがとう、モアハウス君。大変、参考になりましたよ。どうぞ、ご自由になさって下さい」
モアハウスは、予期してもいない時に放免された囚人のように、嬉しそうに椅子から飛びあがった。「ありがとう! 僕はすぐドーン家へゆきますよ」と彼は肩越しに叫んだ。彼はドアのところでちょっと、足を停めると、青年らしい笑いを浮かべた。「市中から外へ出るな、なんておっしゃらなくても結構ですよ、警部。僕はこうしたことには慣れてますからね」
それから彼は出ていった。
ミンチェン博士もエラリーに何か囁くと、警部に軽く会釈をして廊下へ出ていった。
ベリーがドアを開けて、大きな頭を振ってみせて、「検事がきました!」といった。エラリーは立ち上って鼻眼鏡をいじっていた……三人の男が、部屋の中へ入ってきた。
*
検事のヘンリー・サンプソンは、がっちりした体格のまだ若々しい男だった。彼の傍には真赤な髪をした、痩せた中年の検事補チモシー・クローニンが従っていた。二人の後から縁がだらりとした帽子をかぶり、煙草を口にくわえた中老の男が、きょろきょろと眼を動かしながらぶらりと入ってきた。彼の帽子は後ろの方にずり落ちそうになっており、もじゃもじゃした白髪が片方の眼の上に垂れ下っていた。
この白髪の男が閾を越えて入ろうとしたとき、ベリーが上衣の袖をつかまえると、「どこへゆくんだい? 何で入るんだ!」
「なんだ、ベリーかい」白髪の男は巡査部長の手を振りほどくと、「検事さんのお招きで新聞社を代表して、やってきたのが、君には分らんのかね? さあ――どいてくれ……やあ、これは警部さん。事件の方はどうですか? エラリー・クイーン君、相変らずだな! 君がいるんじゃ重大事件だね。ホシはまだわからんのかい?」
「静かにしてくれよ、ピート」とサンプソンはいった。「やあクイーン警部。どんな工合ですかね?」彼は腰を下すと、じろじろと周囲を見廻しながら、帽子を輸送車の上に投げた。新聞記者は、のっそり椅子に近寄ると、いかにも満足そうに腰掛けた。
「ややっこしいですな、ヘンリー」と警部は静かにいった。「まだはっきりしません。ドーン夫人が、手術前、昏睡状態に陥っている間に絞殺されたんです。誰かが手術をする外科医の扮装をしたらしいんだが、まだはっきりそいつがペテン師だってことが確められんのです」
「誰が殺《や》ったか知らないが、よくまあニューヨーク市でも最も優れた婦人を選んだもんだね」と検事は眉をひそめて、「表に新聞記者達が集まって、がやがやしていたよ――分署の連中も彼らを構内に入れまいとするのは、大変だろう――ピート・ハーパーは仕方なく特別にしてやったが――それから、僕は三十分前に総監から呼び出しを受け取ったんだ。君には、彼のいうことがわかるだろう。この事件は重大なことだよ、クイーン。事件の背後には何があるんだね――個人的な復讐かい、それとも狂気かい、あるいは金かい?」
「何とか新聞にも発表しなけりゃならんが」と警部は溜息をついて、「発表しようがないんだよ」といって、新聞記者の方を向いて「君がここに入ることは特別に黙認されたんだからね。ほかの記者連中が得られないようなニュースを、発表したりしちゃいけないぜ。さもなければ、ここに入れないよ。いいかい?」
「いわなくたって承知してますよ、警部」と、この記者はにやりと笑ってみせた。
「じゃ、ヘンリー。現在までの状況をいいましょう」といって、彼は今朝の事件の概要を、低い声で早口に説明した。そして警部は検事補と一緒に、事件の経過の草稿を短時間のうちにまとめあげると、病院の外で犇《ひしめ》きあっている新聞記者への発表を立案した。それから看護婦がタイプライターでコピーをとり、サンプソンが署名をしてから、ベリーが刑事にいいつけて、それを記者達のところへ持ってゆかせた。
クイーン警部は実験手術室のドアのところへゆくと、誰かの名を呼んだ。するとすぐに背の高い、骨ばった体格のリューシアス・ダニング博士が現われた。彼の眼には、怒りがくすぶっており、顔の傷痕がぴくぴく痙攣していた。
「いよいよわしの番というわけかい!」といらいらして叫ぶと、挑戦するように周囲を見まわし、「君たちは、まるでわしを老いぼれの女や二十歳の少年みたいに、外で待たしておくより能のない人間だとでも思っているのかい! こんなひどい侮辱が、君には幾らか意味があるのかい!」
「ダニング博士ですね」と警部は穏やかにいって、振りあげている博士の拳の下をくぐると、落着いてドアを閉めた。
「興奮なさらんで、ダニング博士」とサンプソン検事は、法廷におけるような態度でいった。
「本事件の調査には、ニューヨークきっての有能な人々が当っています。あなたに隠すようなことがなければ、少しも心配はありません。そして」と彼は無愛想につけ加えた。「なにか不平があって告訴なさるんでしたら、僕に宛てて下さい。僕は本州の検事です!」
ダニングは白い上衣のポケットに手をつっこんだ。「わしは君がアメリカの大統領だったとしても、別に驚きもしないがね。君達がわしに仕事をさせんのじゃないか。わしがすぐ診てやらなけりゃならん胃潰瘍の重症者があるんだ。君の部下達は、わしが実験室から出ようとすると五回も妨害したんだ。それは罪悪じゃないのかい! わしはあの患者を診察してやらなけりゃならんのだ」
「まあ、お掛け下さい、博士」とエラリーは、相手をなだめるような微笑を浮かべて、「あなたがいつまでも抗議なさっていると、いつまでもここにいることになってしまいます。二三の質問だけで結構です。それが終れば、胃潰瘍患者はあなたのものですよ……」
ダニングは、まるで怒った雄猫みたいに、眼をぎらぎら光らせて、しばらく縺《もつ》れた舌でぶつぶついっていたが、諦らめて口をつぐむとやっと椅子にもたれるように身を投げた。
「質問したけりゃ、今日から明日までかかってやるがいいさ」と彼は、ごつごつした胸に腕組みして、反抗的にいった。「だが、君の時間を無駄にするだけのことだよ。わしは何も知らん。君達の参考になるようなことは、何もないよ」
「あなたの今朝の行動を知りたいんだが」と警部。
「それだけかね?」とダニングは苦々しげにいった。「わしは病院に九時に着いた。それから十時ごろまで自分の部屋で患者を診た。十時から手術が始まるまで、自分の部屋にいた、患者の症状記録を調べていたんだ。それから十時四十五分になるちょっと前に、実験手術室のうしろの北廊下を通って、立会人席に入り、そこで娘に会ったわけだ――」
「なるほど。それで十時以後の訪問客は?」
「ないよ」ダニングは、ちょっと間を置いて、
「フラーさんの外には誰も来なかった――彼女はドーン夫人の相談役の婦人だ。彼女は、ドーン夫人の容態を訊きに、ちょっと寄っただけだよ」
「ドーン夫人をよくご存じでしょうね?」とエラリー。
「いや――親しくはない」とダニングは答えた。「もちろん、わしはこの病院創立以来のスタッフだし、自然仕事の上じゃドーン夫人をよく知っている。ジェニー博士や、ミンチェン博士などと一緒に理事に名を連ねている……」
サンプソン検事は、人差し指を彼の方に向けて、「お互いに率直に話し合いましょう」といった。
「ドーン夫人の社会的地位から考えて、彼女が殺されたということが世間に伝われば、大反響を捲き起こすでしょう。ですから、この事件を解決して、忘れ去られることが早ければ早いほど、みんなのためにいいわけです……で、あなたはこの事件の全貌をどうお考えになりますか?」
ダニング博士はゆっくりと立ち上ると、部屋の中をあっちこっち歩き始めた。エラリーは椅子にうずくまって、身をすくめた。「あなたは、今、おっしゃるところでしたね……」と彼は不愉快そうに呟いた。
「何?」と、ダニング博士は、まごまごして、「いや、いや、わしはまったく知らんよ。わしには完全に謎だよ……」
「驚くべき、実にさまざまな曲解が、この謎の中にあるようだが……」といってエラリーは、うんざりしたような様子でダニングを見詰めて、「じゃ、これで結構ですよ、博士」
ダニングは一言もいわずに、部屋から出ていった。
エラリーは立ち上ると、「ほかには誰が待っていたっけ? ニーゼルにサラ・フラーか? なんとかしなくちゃならんな……」
ピート・ハーパーは、両足を思いきり拡げると、くすくす笑い声をたてた。「大見出しは」と彼はいった。「『胃痙攣を起こした名探偵、悪循環に悩む』……」
「おい、君」とベリーは怒鳴った。「出てゆき給え」
エラリーは微笑した。「君のいうとおりさ、ピート。僕は腹痛を起こしたよ……さあ次にかかろうか」
その時、西廊下の方から騒がしい人声が響いてきた。そしてドアが手荒く開けられて、リッチー部長刑事と三人の警官に連行された怪しげな風態の三人組が入ってきた。
「何事だね?」と警部は、腰をあげていった。「おや、おや、おや」と彼は嗅ぎ煙草をさぐりながら「ジョー・ゼッコにリツル・ウィリー、それからスナパーじゃないか! リッチー、君はどこから連中を引張ってきたんだい?」
「どこかで見たような連中だが?」とエラリーは小声でいった。
「きっと、本署の容疑者調べの時だろうよ」とクローニンがにやりと笑った。
警部はしかめ面をして、逮捕された連中に向い合った。「おい、ジョー」と彼は、きっぱりした口調で、「こんな時、何を強請《ゆすり》に来たんだい? 病院に押し入ったのかい? この連中をどこで見つけたんだ、リッチー」
リッチーは、ひとりで嬉しがっているようだった。「上の三二八号特別室のあたりをうろついていました」
「ビッグ・マイクの部屋じゃないか!」と警部は声高にいった。「じゃ、ビッグ・マイクの看病でもしていたってのか、おい? わしは、お前たちはアイキー・ブルームの手下かと思っていたよ。鞍換えしたのかい、え? さっさと泥を吐けよ――どんな悪事をやっていたんだ?」
三人の悪党は互いにもじもじと顔を見合せた。リツル・ウィリーは、嗄《しゃが》れ声で猾そうな忍び笑いを洩らした。ジョー・ゼッコは眼ばたきしながら、固くなって踵を後ろにずらせた。だがスナパーは、顔を紅潮させて笑いながら、「逃がしておくんなさいよ、警部」といった。彼の気どった巻舌は、そんなにおかしくなかった。「俺達は何んにも知らねえ。俺達は親分を待ってただけじゃねえか。やつらが親分の腸かなんかを手術していたんだ」
「そりゃ、そうだ!」と警部は愛想よくいった。「で、お前達は、彼の手をとって、寝物語を聞かしてやったんだな」
「いや、親分は正式に入院したんですぜ」とスナパーは真面目くさって、「俺達は部屋の辺をうろついてたんだ。わかってるじゃねえか――親分はあそこに寝てたんだし、いろんな奴らがうようよしてやがって……」
クイーン警部はリッチーに向って、「連中はじたばたしたかい?」
リツル・ウィリーは大きな足をもじもじさせていたが、発作的にドアの方へ逃げ出した。ゼッコが叫んだ。「ぶっ放せ!」そして刑事の大きな腕で掴まえられてしまった。警官が彼らを包囲した。それからベリーがいつものように、にやりと笑ってみせた。
リッチーはいった。「小型拳銃三挺です、警部」と満足そうな様子であった。
「ついに捕まっちゃったね。サリバン法によってだ。スナパー、お前には驚かされたよ……じゃ、リッチー、この連中は君の餌だ。連れていって、銃器所持の科でぶち込んどけ……ちょっと待てよ、スナパー、お前達はいつからここにいたんだ?」
小悪党たちはぶつぶつと、「俺達あ、朝からずっとここにいたんだ。ただ、待っていただけなんで……」
「お前達は、まさかドーン夫人が、今朝殺された事件についちゃ、何も知らんのだろうな?」
「殺されたって!」
彼らは急に固くなった。リツル・ウィリーの唇は、ぶるぶる震え始め、今にも叫び出しそうな様子だった。だが、みんな一言も口を利かなかった。
「よし、わかった。連れてゆけ、リッチー」と警部はいった。
ベリーは失望した顔色で、彼らが出て行った後、ドアを閉めた。
「さて」とエラリーは疲れた声でいった。
「まだこれからサラ・フラーと対面しなけりゃあならないが、彼女は三時間も外で待ってたんだ……このまま続けてやったら参っちゃうよ。サンドイッチとコーヒーでも届けさせたらどうですか? 僕もひどく腹が減った……」
警部は口髭をひねった。「時間のことなんか、さっぱり気にしなかった……君はどうだい、ヘンリー? 昼食にするか?」
「うん、それがいいね」と横合いからピート・ハーパーがいった。「こんな仕事は腹が減るもんだ。食事は街でするのかい?」
「そうだよ、ピート」と警部はいい返した。
「大変嬉しいことをいうじゃないか。食事を街に出てしようと、ここでしようとお好きなようにしてくれ。隣の街には、簡易食堂《カフェテリヤ》があるよ」
*
ハーパーが出て行ってしまった後で、ベリーが、中年の黒い服装をした婦人を迎え入れた。彼女はひどく身体をこわばらせており、あんまり険しい眼つきをするので、サンプソン検事はクローニンとベリーにもっと彼女の側へ近寄って、抑えているように小声で呟いたほどだった。
エラリーは、彼女が入ってきた時、ちらっと見ただけで、開いたドアを通して、視線を実験手術室の方に向けた。そこには、シーツですっかり覆われたアビゲイル・ドーンの死体が、まだ横たわっている手術台を囲んで、実習生たちが集っているのが見えた。
彼は父にちょっと手真似をして、実験手術室の中に入っていった。
実験手術室は急に静かになった。エラリーは台の方に近づいていった。彼は若い医師達に短かい注意を与えた。彼らは黙って頷ずいた。彼はすぐ控室に戻ってくると、そっとドアを閉めた。彼は父の傍に立つと、「フラーさん!」と無造作に呼びかけた。
彼女の瑪瑙《めのう》のような、色褪せた青い眼が、彼の顔にそそがれた。彼女の口辺に、苦々しげな笑いが浮かんだ。「一体、何のご用なんですか?」その声は、彼女の顔のように、強《こわ》ばっており、とげとげしく冷淡であった。
「フラーさん、あなたはドーン家に二十五年間も同居なさっていたんですね?」と、警部がすかさず訊ねた。
「今年の五月で、二十一年間ということになります」
「それで、あなたと夫人は、あまり仲がよろしくなかったようですが?」
彼女は冷やかにいった。「ええ」
「どうしてですか?」
「あの人は、とても吝嗇《りんしょく》で不信心者でした。冷血な欲深い人でした。それに暴君でした。無慈悲で、残酷で、世間では彼女は美徳の人だという評判ですが、近しい者にとっては、ひどい悪の権化でした……」
クイーン警部とエラリーは顔を見合せた。ベリーは小声で何かぶつぶつ呟き、刑事達は意味ありげに頷ずいていた。
「マダム、あなたは神を信じますか?」とエラリーは温和な微笑をたたえていった。
彼女は彼に向って眸《ひとみ》をあげた。「主はわたしの導き手です」
「それでしたら」とエラリーはいった。「私達は黙示録的答えを、幾分控え目に致しましょう。あなたは、神の真実を、いつもお話になりますか?」
「真実こそ、わたしの人生なんです」
「なるほど、大変、立派な感情ですね、フラーさん。ドーン夫人を殺したのは誰ですか?」
「全然――判りません」
「そうですか」彼は心中ぞくぞくしながら唇をふるわせて、「あなたはアビゲイル・ドーンと始終口喧嘩をしていたんじゃありませんか?」
この黒い服装の女は、身じろぎもしなければ、顔色一つ変えずに、「その通りです」
「なぜです?」
「今いったとおりですよ。あの人は悪の権化でした」
「ですけど、僕達の聞いたところでは、ドーン夫人は善良な方だったようです。あなたは夫人を故意に怪物《ゴルゴン》視しようとしていますよ。あなたは夫人が吝嗇で暴君的だといわれましたね。どうしてです? 家政上のことでですか? はっきりおっしゃってくれませんか?」
「わたし達は仲が悪かったんです」
「質問に答えて下さい」
「わたし達は、互いに深く憎み合っていました」
「へえ!」といって、警部は椅子から立ち上った。「ここらで、二十世紀の言語で一つやって貰いたいね。お互いにもっと解るようにできんもんかい? 山猫みたいにひっ掻き合ってさ。それじゃ――」と彼は人差し指を彼女の方に突きさして、「なぜ、二十一年間も一緒に暮らしてたんだい?」
彼女の声は、やや活気を帯びてきた。「みんなお情けでしょうよ……わたしは乞食だし、あの人は淋しい女王ですからね。それが習慣になって、血のように強い結びつきができたんです」
エラリーは眉を曇らせて、彼女を注視していた。警部はさっぱり分らないという表情で、肩をすくめると、検事の方を見やった。
沈黙のうちにドアが開くと、数人の実習生達がアビゲイル・ドーン夫人の死体をのせた手術台を運んできた。サラ・フラーは立ち上ると、痩せた狭い胸をしっかり掴んだ。彼女の頬には、明るい奇妙な斑点が、薄紅く浮かび出た。
ゆっくりと彼女は手術台のそばに近づき、死体の固くなった外形を見詰めた。彼女の視線は、死体をずっと眺め廻して、頭のところへ来ると、恐ろしい勝利感のうちにぴったりと止まった。
「不信者の魂には、死があるだけです」と彼女は叫んだ。「得意の絶頂の時に、破壊者がやってくるんです!」彼女は金切り声をあげた。「アビゲイル、私はあなたに警告しましたよ。警告してあげたんですよ、アビゲイル。罪を行うことは……」
エラリーは、わざと歌うような口調で、「僕だって懲罰を与える神なんですがね……」
彼の冷やかし半分の言葉に、彼女は猛り狂ったように振り向いた。彼女の眼は、火を噴いていた。そして、「馬鹿者たちは、罪を嘲けるんですよ!」と叫んだ。それから、ぐっと声を落とすと、「見るだけのものは、見ましたよ」と勝ちほこっていった。そしてすぐに彼女は、すっかり自分の言葉を忘れたように見えた。彼女は痩せた胸を張って、深い息をした。
「じゃ、わたしは行きますよ」
「いや、いや、待って下さい」と警部は慌てて引きとめた。「お坐りになって、フラーさん。もうしばらくいて下さい」だが彼女は耳を藉《か》そうとしなかった。「頼むから、待って下さい」といって彼は飛び出していって、彼女の腕を荒々しく掴んで振り廻した。
「ここは教会じゃないんですよ」
彼女はもう二度と死体の方を見ようとしなかった。考え深げに彼女を見守っていたエラリーは、実習生たちに合図をした。白服を着た付き添い人たちは、控室の右側にある昇降機のドアを開いて、手術台を運ぶと消えていった。
警部はエラリーにそっといった。「ところで、おい、この分じゃ何にも掴めそうもないね。彼女は気狂いみたいだ。どうしたらいいかな?」
「もしほかに何にもないとしたら」とエラリーは、顔をしかめていった。「彼女は立派な精神病学の材料ですよ。ほかの面から突込んで、反応を見てみましょう……。フラーさん」
何かに心を奪われているような彼女の眼は、ぼんやりと彼の方を向いた。
「誰か、ドーン夫人を殺したいと思っていた人はありませんか?」
彼女は身震いした。フィルムが彼女の眼から消え始めた。
「わたしは――知りませんよ」
「あなたは今朝どこにおりましたか?」
「はじめは家にいました。そこへ電話がかかったんです。今朝の椿事《ちんじ》でした。……神の復讐です!」彼女の顔はぱっと輝やいた。「ハルダとわたしはすぐ駈けつけました。それから手術を待っていたんです」
「あなたはドーン嬢とずっと一緒でしたか?」
「ええ、いいえ」
「どっちですか?」
「いいえ、一緒ではありません。わたしはハルダを待合室に残して廊下に出ました。わたしは――気が立っていたんです。それで、あっちこっち歩きました。誰もわたしを引きとめませんでした。わたしは、散々歩いて、それから――それからハルダのところへ戻りました」
「それで誰とも話さなかったんですか?」
彼女はゆっくり上眼使いをした。「わたしはあの人の容態を訊いてみたかったんです。それでわたしは、ジェニー博士やダニング博士、それに若いミンチェン博士を訪ねてみました。そしてダニング博士にだけお会いして、大丈夫だとのお話だったので、すぐ戻りました」
「ところで、どうしてあなたは昨晩、ジェニー博士が、ドーン夫人にインシュリン注射をするように、電話で伝言したことをドーン嬢に伝えなかったのですか?」
「わたし、昨日は病気で、ほとんど一日中寝ていたんです。伝言は受け取りましたが、ハルダが帰ってきた時は、わたし眠っていたんです」
「それじゃ、なぜ、今朝伝えなかったんです?」
「忘れてしまいました」
エラリーは彼女の方に身体を傾けて、彼女の眼をじっと見詰めた。「あなたの不運な記憶の過失のために、ドーン夫人の死を招いたのだとは思わないんですか?」
「なぜ――どうしてです?」
「あなたがジェニー博士の伝言をドーン嬢に伝えておれば、ドーン夫人の今朝の卒倒という椿事も起こらなかったし、手術台の上に横たわることもなかったでしょう?」
彼女は少しも動じなかった。「いずれは、こうなるんですよ……」
エラリーは身体を真直ぐに伸ばすと呟いた。「あなたは聖書を巧く引用しますね……フラーさん、じゃドーン夫人は、どうしてあなたを怖れたんでしょう?」
彼女はハッとしたように息をのんだ。それから変な笑いを浮かべたが、慌てて口を結んで、椅子にかけ直した。年老いた彼女の顔には何か薄気味悪いものがあった。そして彼女の眼は、やはり険しく、氷みたいで、とにかく生きている人間のようではなかった。
エラリーは手を引いた。「お帰り下さい!」
彼女は立ち上って、素早い動作で身づくろいすると、黙って見向きもしないで、部屋からすーっと出ていった。警部の合図で、刑事のヘッセが彼女を尾《つ》けていった。
軽快な山高帽をかぶった顎髯の男が、ベリーの傍を通って控室の中に入ってきた。彼は不快な臭いのする葉巻を喫っていた。黒い医者鞄を輸送車の上に投げ出すと、頭を悩ましてふさぎ込んでいる一同を見渡しながら、「さあ、私ですよ!」と葉巻の切れ端を、タイルの床の上に吐き落として、「誰も私にお気づきにならんのですか? お葬いはどこなんです?」
「やあ、これはドクター」と警部は頭を振って、「エラリー、プローティさんだ」エラリーは、仕方なく頷ずいてみせた。「死体は死体収容所にあるよ。いま、地下室に運んだところだ」
「じゃ、早速行ってみましょう」といって、彼は昇降機に乗って、地下へ消えていった。
サンプソンは立ち上ると、大きく背伸びをした。「あーあーあ」彼は欠伸《あくび》をしてから頭を掻いた。「まったく参ったね、クイーン」警部も陰気に頷ずいた。サンプソンは、素早くエラリーの方に眼をむけて、「君はどうかね?」
「ほんの僅かですが」とエラリーはポケットから煙草をとり出すと、指先でそっといじりまわしながら、「幾らか興味を感じたことがあります。意識の奥深に、ごくかすかに光がさしています。でも、完全な満足すべき解決だとはとてもいえませんよ。あの着衣なんか……」
「二、三の明白な事実を別としてかい……」と検事がいった。
「いや、明白なんてものじゃありませんよ」とエラリーは重々しくいった。「あの靴なんか、いわば――もっとも光を放っているんですが」
赤髪のチモシー・クローニンが鼻を鳴らしていった。「それで君は、どんなことを掴んだんだい? もっと詳しく知りたいね、僕は問題の代物を見てないし」
「うん、あの着衣を初めに所有していた奴は」と検事がいった。「ジェニー博士より数インチ背が高いわけだな……」
「エラリーも、君が来る前に、そんな解釈をしていたし、材料は揃っているんだ」と警部はそっけなくいった。「それで、着衣の盗難を調べさせるが、しかし乾草の中で針を捜すようなことになるんじゃないかな……おい、トマス、まずこの病院から早速始めてくれ」
ベリーはジョンソンとフリントを呼んで、細かいことを打ち合せると、彼らはすぐ出ていった。
「ここじゃなさそうだが」と巡査部長は唸った。「でも手懸りがあれば、連中が掴んでくるでしょうよ」
エラリーは煙草を深く喫っていた。「あの女は……」と彼は呟いた。「ひどい宗教マニアだ。どこか常軌を逸している。彼女と死んだドーン夫人の間には、ひどい憎悪があった。その動機や理由は何だろう?」彼は肩をすくめた。
「あのジェニーという男を」とサンプソンが頤を突き出して、「もっとよく調べてみたら――」
検事がいおうとした言葉は、ハーパーが控室に入ってくる騒音で遮ぎられてしまった。彼は廊下のドアを蹴っとばして開けると、小脇に大きな紙包を持って、意気揚々と入ってきた。
「さあ白髪青年が、食べ物を持ってご帰還になったんだ!」と彼は叫んだ。「一生懸命詰め込み給え。なんだ君もか、ベリー――でかい図体だな。君の餌袋を一ぱいにするほどあるかなあ……さあ、これがコーヒー、これがハム、そして酢漬にクリーム、チーズ、それから……」
彼らは黙ってサンドイッチをむしゃむしゃ食い、コーヒーをすすった。ハーパーは彼らを刺すような鋭い眼つきで見ていたが、それ以上何もいわなかった。その時、昇降機のドアが開いて、再び警察医のプローティの姿が現われた。
「どうだったい?」とサンプソンが、ハム・サンドを噛むのをやめていった。
「やっぱり絞殺ですよ」プローティは鞄を投げ出すと、気軽にサンドイッチをとって猛烈に食いつくと、深い息をした。
「ふむ」と口をもぐもぐさせながら、「あっさり殺《や》られていたよ。針金の一捻りで可哀そうにお陀仏さ。蝋燭のように、吹き消されちゃったんだ……あのジェニーの先生、手術の機会を失ったとは気の毒だね。胆嚢破裂はひどいもんだよ。糖尿病だってこともすぐわかった……初めの所見のとおりなんだから、死体検証はほとんど不必要だね……」
警部は上品に口のあたりをハンカチで拭くと、「それじゃ、あとはニーゼルが残っているだけだな。外で待っているだろうから、さっさと片付けよう。どうだい?」
エラリーは、ぼんやり手を振ったが、突然、眉をひそめた。椅子の音が床で鳴った。「ああ、そうか」と彼はいった。それから忍び笑いを洩らして、「こんなことを見落とすなんて、まったくぼんやりしていたよ!」エラリーは興奮したように立ち上った、「じゃあ、オーストリア人の科学者にお目にかかることにしましょう。この神秘なパラケルスス〔スイスの錬金術師〕は、我々の謎を解いてくれるかも知れません……」
彼は実験手術室のドアに走り寄った。
「ニーゼル! ニーゼル博士は、いらっしゃいますか?」と叫んだ。
[#改ページ]
十二 実験
プローティは膝の上に散らかったパン屑を払いのけて立ち上り、大きな口の中に人差し指を突込み、サンドイッチの滓《かす》を念入りに調べて、それを見つけると、占めたとばかりに吐き出してから、やっと黒い鞄を手にとった。
「じゃ、行くよ。さよなら」彼は、ポケットから葉巻をとり出すと、調子外れの口笛を吹きながら、廊下のドアを抜けて足音高く歩いていった。
にこりともせずに、エラリー・クイーンは、実験手術室から入ってくるモリッツ・ニーゼルを導き入れるために、控室の中に後退した。
警部の直感的な印象では、モリッツ・ニーゼルは「変な男」だった。彼は背が低くて、浅黒くくすんだ中欧人の容貌をしていた。
彼の指は漂白されて、科学薬品で焼けた褐色の|しみ《ヽヽ》ができていた。左の人差し指の先は、潰《つぶ》れたようになっていて、皮が擦りむけていた。彼の仕事着には、薬品の汚点がいたるところに着いていて、白いズボンの折返しから布靴の先まで、とばっちりがかかっていた。
エラリーは椅子を指さして「お掛け下さい、ニーゼル博士」といった。
科学者は、いわれたとおり黙って腰を下ろした。彼は、じっと自分を眺めているクイーン警部や検事やクローニンやベリーに対してまったく無関心だった。彼は怖れも警戒も逃避もない様子だった。彼は周囲を見もしなければ、聞きもしないようだった。
彼は自分自身の世界に坐っていた。まるで架空の科学物語の冒険に出てくる星の世界の小人のようだった。
エラリーは、ニーゼルの前に突立って、まじまじと彼を見詰めていた。やがて、彼はエラリーの強い視線を感じたらしく、眼をあげた。
「これは失礼しました」と正確な英語でいったが、ほんの少しアリアン訛りがあった。「むろん、私に何かお尋ねになるんでしょう。私はたったいま外で、ドーン夫人が絞殺されたと聞いたばかりです」
エラリーは、緊張をとくと、腰を下ろした。「ずいぶん遅いですね、博士? ドーン夫人が殺されてから、大分時間が経ちますよ」
ニーゼルは首すじを軽く叩いた。「私はここじゃ世捨人みたいなもんでね。私の研究室は、別世界なんです。科学的精神というものは……」
「ははあ」とエラリーは足を組みながら、砕けた口調で、「僕も常に科学とは虚無主義《ニヒリズム》の別の形式だと主張しているんですがね……あなたは事件のニュースに、あまり驚いていないようですね、博士」
ニーゼルの柔和な眼に、さっと奇妙な驚きの影が掠めた。
「いや、いや」と彼は抗議した。「科学者というものは、死に無感動なものですよ。私だって、そりゃ人間の運命に興味を持っていますが、感傷的には見ていません。つまり――」といって彼は肩をあげると、変な微笑を唇に浮かべて、「我々は死に対するブルジョア的態度を超越してるんじゃないですかね?『魂よ安らかなれ』なんてことはね。私はスペインの皮肉な警句を引用したいですな――『死んで埋葬されれば、あばずれ女も善良になり尊敬される』」
エラリーは親しげにいった。「あなたの博識には感心しましたよ、ニーゼル博士。ところで、死の馭者が新しい、乗りたくない通行人を乗せる時は、荷物の釣合をとるために、時々別のものを下ろすということをご存知でしょう……僕はむろん一般の遺産相続制度を指していっているんです。アビゲイル・ドーン夫人の最初の遺言に、ちょっと面白いことが載っているんですよ……
あなたの先ほどの警句に、別のお返しをしましょうかね?―『死人の靴を持つ者は、裸足で飛び出してゆく危険がある』これはデンマークの警句ですがね」
ニーゼルは愉快そうに、「それから、たしかフランスにもあったようですよ。大てい警句なんていうものは、同じ根元から出ていますからね」と答えた。
エラリーも愉快そうに笑った。「そいつは知りませんでしたよ。あなたのおっしゃることを書きぬいておくべきですな。さてと――」
「あなたが知りたいと思っていることは」とニーゼルは、垢ぬけた口調でいった。「今朝、私がどこで、どう過ごしていたか、ということでしょう……」
「あなたがおっしゃって下さればね」
「私は、いつものように午前七時に病院に着きました」とニーゼルは、おとなしく両手を膝の上で組んで説明した。「それから、地下の更衣室で服を着換えた後、研究室に行ったんです。研究室はこの階の実験手術室の北西の角から廊下を距てた向いになっています。きっと、こんなことは知ってるでしょうね……私は研究室に呼び出しが来るまで、ずっと閉じ込もっていました。それからあなたの呼び出しに従って、実験手術室にすぐ参りましたが、そこで初めて今朝ドーン夫人が殺されたことを知ったのです。
誰も今朝、研究室に来た者はありません。ジェニー博士さえ姿を見せませんでした。きっとドーン夫人のことで忙殺されていたんでしょう。ジェニー博士は、毎朝必ず研究室をのぞくんですがね……これで全部ですよ」
エラリーは微笑した。「よくわかりました、ニーゼル博士。僕がお訊ねしようと思ったことを、ちゃんとあなたは知っていらしたんですから、黙っていても、次の疑問に答えて下さるでしょうね」
「おやすいことですよ、クイーンさん……ジェニー博士と私がやっている研究の性質を知りたいんでしょう?」
「そのとおりです」
「科学的知性の優越は、無限のものですからね」とニーゼルは、愛想よく述べ立てた。二人は顔を見合せ、愉快そうに微笑を交わしながら、まるで昔からの友人のように見えた。
「そうです、ジェニー博士と私とは二年半というもの、いや、違う、来週の金曜日でもって、二年と七カ月です――ある金属の合金の研究をやってきたんです」
エラリーは重々しい口調でいった。「僕はその合金のはっきりした性質を知りたいんです。それからその実験に、どれ位お金がかかったかということも知りたいんです。あなたのこれまでの経歴やあなたとジェニー博士が一緒に研究を始めるようになった事情も知りたいですね。更にドーン夫人が、あなた方の仕事に対する援助を中止した理由も……」彼は言葉を休めると、唇を曲げてみせて、「それに、誰がドーン夫人を殺したかも知りたい……」
「なるほど、もっともです」とニーゼルは、かすかに笑いを浮かべて、「私の科学的訓練の結果によれば、問題を解決するためには、まず第一に材料を丹念に集めることです。第二には、忍耐強く研究し尽すことです。そして第三は、全問題を新鮮な偏見のない想像力でもって解明する能力です……だが、これはあなたの質問に対する答えにはなりませんね。
たしか合金の性質をお訊ねでしたね。残念ながら、公表するわけにはゆきません。第一に述べたとおり、これは材料の蒐集として、犯罪の解決に役立ちませんよ。第二に、この仕事はジェニー博士と私だけの秘密になっています……ですけど、これだけは申し上げられます。私達の実験が完成して、合金が造られるようになったら、鋼鉄なんていうものは地球の表面から消えてしまうでしょう!」
検事と検事補は、黙って顔を見合せると、改めてしげしげとこの小柄なむさ苦しい科学者を見守った。
エラリーはくすくす笑った。「これ位にしておきましょう」と彼はいった。「もし鋼鉄にとってかわるような、安くて品質のよい合金ができれば、あなた方は一夜にして大金持になりますね」
「そうですとも。だから研究室を頑丈に造ったんです。補強壁や安全ドアがとりつけてあるのも、人の好奇心や盗難に備えてです」とニーゼルは得意げに続けた。「私達の製品ができ上れば、鋼鉄よりずっと軽く、ずっと伸縮性があり、ずっと耐久性があって、しかも強靭なものです。その上、製造費はずっと安くなります」
「それで、費用はどれ位かかりましたか?」
「はっきり知りませんが、八万ドルを超えていると思いますね。資金のことはジェニー博士がやっています」
「ごく簡単なちょっとした実験のようですが」とエラリーは呟いた。「それで……クロームとかニッケル、アルミニウム、カーボン、モリブデン――こうした鉱石を使ったところで、荷馬車で注文したってわけじゃあるまいし、そんなに巨額になるわけがないでしょう。博士、もっとのみ込めるように説明して下さい」
ニーゼルは分別臭い笑いを洩らすと、「あなたは実験用鉱物について、少しはご存じのようですね。あなたは、水鉛鉛鉱とか、硫水鉛鉱、重石といったようなものを考えて、そこから何かを抽出するかのように思っていらっしゃるかも知れない。だが私は、モリブデンなんかを使いませんよ。全然違った角度から問題にぶつかっているんです……
費用の点についてですが、あなたは大切な事を見逃がしています。研究室の設備のことです。特別の通風機、精錬装置――タービンや、電機分解機、カソード管、その他について、お考えになりましたか?」
「これは、どうも。僕はまったくぼんくらですから。ところであなたの経歴をお話し下さいませんか、博士」
「ドイツのミュンヘン大学、フランスのソルボンヌ大学、アメリカのMITの出身です。ウイーンのユブリック、パリのカルコ先生の下で、特別研究室に入って研究したことがあります。アメリカの市民権を得てから、冶金局に三年いました。それからある大製鋼会社に五年勤めていました。その間、独立に研究しているうちに、現在やっているような仕事を考えたんです」
「どうしてジェニー博士と知合いになったんです?」
「私自身あまり信頼もしていなかったある同僚によって、お互いに知合うようになったんです。私は貧乏でしたので、私の実験に対して、技術的な面を助けてくれると同時に、財政的にも援助してくれる人を捜していたんです。それで、結局、ジェニー博士は、私の要求にぴったり合ったわけです。あとは、お分りでしょう」
エラリーは、ちょっと身じろぎした。「どうしてドーン夫人は、あなた方の仕事の援助を中止したんでしょうね?」
ニーゼル博士の眉間に、細い垂直の縦皺が現われた。「倦きたんでしょうね。二週間前に、ジェニー博士と私は、夫人の家に呼ばれたんです。最初の約束では、私達の実験は六カ月の予定でしたが、すでに二年半を経過して、まだ終ってはいません。それで、興味がなくなった、と夫人はいわれました。極めて穏やかに申し渡されまして、私達も返す言葉がありませんでした。
すっかり意気消沈して帰りました。まだ幾らか研究費が残っていました。そこで私達は、何事もなかったものとして、とにかく金を使い果たすまで研究を続けることにしたんです。そのうちにジェニー博士は、どこかほかから資金を調達するでしょう」
サンプソン検事は、咳払いをしてから、「夫人がそのことをあなた方に通告した時、顧問弁護士が新しい遺言を作成しているということをいいましたか?」
「ええ、聞きました」
クイーン警部は、彼の膝頭を軽く叩いた。「あなたは新しい遺書が作成され、署名されたと思いますか?」
ニーゼルは肩をすくめた。「さあ、分りません。私は署名されていないことを心から願っています。最初の遺言が有効ならば、問題は簡単になりますから」
「それで、第二の遺書に署名されたかどうか知りたいとは思いませんか?」
「私は決して世俗的なことで、自分の仕事を邪魔されることを許しません」とニーゼルは、静かに顎髯を撫でながら、「私は冶金学者であると同時に、哲学者みたいなものですよ」
エラリーは椅子から身体を伸ばすと、「あなたは、大変良い方ですよ、博士」といって、片手で髪を撫であげて、ニーゼル博士をじっと見下ろした。
「いや、ありがとう、クイーンさん」
「ですけれど、あなたは努めて感情を表に出すまいと装っているようですね。例えば!」とエラリーは片手を椅子の背にかけたまま、彼の様子をうかがった。「もし、脈膊記録器が、この瞬間にあなたの身体に取り付けてあったら、きっとあなたの脈膊の記録は、次の質問で促進しますよ。アビゲイル・ドーンは、第二の遺書に署名する前に殺されました……」
「そうはいきませんよ、クイーンさん」ニーゼルは、浅黒い顔に白い歯を光らせた。「私はちっとも驚きませんよ。あなたの訊問の方法や目的は、あんまり見え透いていますからね。そんな当てこすりなんて、あなたの知性の価値をひどく傷つけるもんですな……それだけですか?」
エラリーは身体を真直ぐに伸ばした。「いや、ドーン夫人の財産から個人的な分として、ジェニー博士に幾らか贈られることを知っていますか?」
「よく知っています」
「それじゃ、もう結構ですから、お帰り下さい」
ニーゼルは椅子を離れると、エラリーに丁寧に挨拶した。それから警部や検事やクローニンやベリーに挨拶して、落ち着き払って控室から出て行った。
「それでと」エラリーは空っぽの椅子をゆすりながら囁やいた。「神の恩寵がエラリー・クイーンに下ったのだとすれば……はからずも、好敵手にぶつかったというわけだが」
「なんだ、つまらん!」警部は嗅ぎ煙草を嗅いでから、怒りっぽい口調でいった。「あいつは、試験管みたいな男だ」
「彼は曲者だよ」とサンプソンがいった。
新聞記者のハーパーは、帽子を目深かにかぶって、ずっと離れた隅の椅子にうずくまっていた。ニーゼル博士が訊問されている間、彼は一語も発しないで、じっと科学者の表情を見守っていた。
やっと彼は立ち上がると、ゆっくりと近づいてきて、黙ってエラリーと眼を見交わした。
「どうだい、僕は君が頭の先を見つけたと思うんだがね。僕のややっこしい比喩が気になるかい?」といって、彼はにやりと笑って、「あの人間氷山の頭の先っちょをさ」
「君に賛成したい気がするがね、ピート」エラリーは両足を伸ばしながら、青白い微笑を浮かべた。「大抵の氷山は、八九分通り水中に沈んでいるという科学的事実を、君は見逃がしているようだね……」
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十三 処置
巡査部長のベリーは、太い腕をドアの柱にかけて、廊下にいる部下の者と、何か熱心に話しあっていた。
エラリー・クイーンは、よい思案も浮かばず、暗い表情をして、一種の無感覚状態に陥ったまま坐っていた。
クイーン警部と検事とチモシー・クローニンは、寄り集まって事件の複雑な性格について、しきりに論議を交わしていた。
ピート・ハーパーは、一人で椅子の横木に足をからませながら、まったくのんびりと構えて、勝手なことを考えているように見えた。
しばらくしてから、警察の写真班と指紋係が入ってきたので、今まで静かだった部屋の中が急に忙しくなり始めた。
サンプソンとクローニンは椅子の上から、だらしなく放り出してあった外套と帽子をとると、仕事の邪魔をしないように傍へどいた。
写真班の主任は、「仕事中失礼します」といっただけで、本署から来た連中にむだ口を叩かずに、すぐ仕事にとりかかった。
彼らは控室や麻酔室と同様、実験手術室にも入ってゆき、手術台の周囲に群がった。二人の男はドーン夫人の死体と傷痕の写真をとるため、控室のエレベーターで地下室に降りていった。病院の一階の喧騒をつらぬいて、到るところで、フラッシュの青白い閃光と音響が走った。
エラリーは、プロメテウスのように、彼の椅子のコーカサスに黙想の鎖で繋がれて、混乱の渦のなかにじっと坐っていた。
クイーン警部は、一人の警官に何か一言いった。やがて彼は、若々しい感じのする、薄茶色の頭髪をした、生真面目そうな男と一緒に戻ってきた。
「連れてきました、警部」
「病院監のジェームス・パラダイス君だね?」と警部は訊ねた。
白服の男は頷ずいた。彼は、澄んだ夢みるような潤いがちの眼をしていた。鼻の先は不格好に膨らんでおり、耳は大きくて赤かった。彼は非常に単純で、しかもびくびくしているので、嘘をついたり不真面目になったりする様子はなかった。
「わ、わ、わたしの、妻は……」と、彼は吃りながら始めた。彼の燃え立つような耳は別として、顔色はすっかり蒼ざめていた。
「え? 何だって?」
病院監は元気のない笑いを洩らすと、「わたしの妻のシャーロットは」と呟いた。「いつも幻覚を見るんです。あれはわたしに今朝、こう申しておりました。『今日は、恐ろしいことが起こる』と、夜のうちに――内心の声によって警告されたと。変だと思いませんか? わたし達は――」
「確かに変だね」警部は迷惑そうな顔をした。「ところで、パラダイス、君は今朝、いろいろと手伝ってくれたね。我々は忙しいんだ。それで素早く質問をするから、素早く答えてもらいたいね。
君の事務室は、東廊下の真っすぐ突き当りだね?」
「はい」
「今朝、ずっと事務室にいたんだね?」
「はい。とても忙しかったんで、ミンチェン博士がお見えになるまで、机から離れませんでした――」
「君の机と椅子は、ドアに斜めに面しているね。そのドアは、朝のうち、開け放しておいたことがあるかね?」
「ええ、半分、ぐらいは」
「その半開きのドアから、電話室が見えるか、見えたかしたろう?」
「いいえ」
「まずいな、とてもまずい」と警部は呟き、口惜しそうに口髭を噛んだ。「それじゃ、十時三十分から十時四十五分の間に、一人の医師が通ったのに気がつかなかったかね?」
パラダイスは、無意識のうちに彼の鼻の膨んだところを掻きながら、「わたしは――知り――ません。とっても忙しくて……」彼の眼は、涙で一ぱいになった。警部は当惑してしまった。
「それに、一日中、多勢の方が、廊下を行ったり、来たりしていますから……」
「ああ、そうか。何も泣かなくたっていいじゃないか!」警部はくるりと振り向くと、「トマス! ドアは全部厳重かい? みんな遠ざけてあるね――不意に邪魔が入ったりしないように」
「邪魔するようなものは、何もありません、警部、連中はみんな、爪先で歩いてますよ」と、大男は怒り声でいった。そして、縮みあがった病院監を睨みつけた。
警部はパラダイスにいった。「よく気をつけて貰いたいな。わしの部下と協力してね。この病院は、ドーン夫人の殺害者が見つかるまで、ずっと警戒されるんだからね」
「え、ええ、でも――わ、わたしは、この病院で、そんな殺人なんかに、出会ったことはありません。警部……それで、あなたの部下が、わたしの仕事を滅茶々々にしないように、お願いしたいんです――」
「そんな心配はいらん。もういい、帰り給え」警部はパラダイスの震えている背中を、ほんのすこし親しさを籠めて、ぽんと叩くと、彼をドアの方に押しやった。
病院監は姿を消した。
「もうすぐだからね、ヘンリー」と警部はいった。サンプソンは、辛抱強く頷ずいてみせた。
「おい、トマス」と警部は、巡査部長のベリーに、「実験手術室とこの部屋と次の麻酔室を警戒してくれ。誰も中へ入れちゃいかん。絶対にだ。
それから、ついでに麻酔室から廊下に出ていった犯人の足跡をつきとめてくれないか。誰か犯人を見た者があるかも知れんからな。もしかしたら、どこかそこら辺で跛をひきながら仕事をしてるかも知れないよ。それから、看護婦、医師、実習生、局外者などの名前と住所とを調べてほしい。それからあと……」
サンプソンは素早く口を挟んだ。「経歴も調べたら?」
「そうだ。聞いたかい、トマス。いま調べた連中は、一人残らず経歴を調べてみてくれ。ニーゼル、ジェニー、サラ・フラー、医師、看護婦――それぞれ何かあるだろう。要点だけでいいからな。あんまり長ったらしい報告は閉口だよ。わしに必要なのは、確認できなかった事実と、すでに述べられた証言から洩れているところだからね」
「承知しました。警戒の件と、犯人の足跡調査と、関係者の名前と住所を調べることですね」とベリーは、手帳に書き込みながら、「ところで、警部。ビッグ・マイクは、まだ麻酔から醒めませんよ。まだ数時間は、話ができないでしょう。二三人張り込ませてあります」
「よし、よし! じゃ、すぐやってくれ、トマス」警部は実験手術室のドアに駈けよると、刑事と警官に早口で指図を与えて、すぐ引き返してきた。
「やっと終ったよ、ヘンリー」彼は外套をとりあげた。
「これで、片付いたのかい?」検事は吐息をつき、帽子を眼深かにかぶった。ハーパーとクローニンは、ドアの方に歩いていた。
「こんなもんだよ。今のところ、ここでできるだけのことは、みんなやっちゃったよ。おい――エラリー――ぼんやりするな!」
父の声によって、エラリーは深い瞑想から、はっと我に還った。彼はいままで眼を伏せて、眉をひそめながら、一人で考え込んでいたのだった。彼は顔を上げて、帰る準備をした警部やサンプソンや、クローニン、ハーパーを眺めた。
「おや、おや……埃屑《ほこりくず》は、すっかり焼いちゃったんですか?」彼は元気よく、背伸びをした。額の皺は、すっかり消えていた。
「さあ、出かけようや、エラリー。ドーン家へ行こうと思うんだ」と警部はいった。「ぼんやりするんじゃないよ――することが沢山あるんだからな」
「外套はどこだっけな? あ、誰か――ミンチェンの部屋へ行ってくれないかな」一人の警官が、すぐ彼の外套をとりにいった。
それからエラリーは、重たい黒の外套を着込むまでは、一言も口を利かなかった。彼はステッキを小脇に挟むと、指さきで帽子の縁を勿体らしく折り曲げた。
彼らが控室を出る時、彼は呟いた。「アビゲイル・ドーンは、ハドリアヌス皇帝といい勝負だね。彼の墓碑銘を知っているかい?」エラリーは彼らが、見張りの立っている麻酔室のドアの外を通ってゆく時、「『多くの医師が私を殺した』」
警部は足を停めた。「エラリー! そんなことをいうんじゃない――」
エラリーのステッキは小さな弧を描き、大理石の床をカチンと打った。「いや、これは非難じゃありませんよ」と彼は穏やかにいった。「ただの墓碑銘なんです」
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十四 愛慕
「フィル……」
「悪かったね、ハルダ。僕が一時間前に、病院から帰って来た時、君は休んでいるって、ブリストルがいったんだ。それにエディス・ダニングが、一緒だったんだろう、ヘンドリックも……僕は君を煩わしたくなかったんだ。それに、事務所にちょっとした仕事があってね――緊急の用だったんで……でも、すぐに戻ってきたんだ、ハルダ――ねえ、ハルダ――」
「わたし、とても疲れてるの」
「分ってるよ、ねえ、わかってるとも。ハルダ――どういったらいいかな?――ハルダ、――僕は……」
「フィル、どうかもう……」
「何ていったらいいか、どういったらいいか僕は分んないんだよ。大好きなハルダ。解るかなあ? 可愛いいハルダ。僕の思っていること、わかってるね。君のためなんだよ。でも世間や――新聞が――何ていうかも知ってるね、もし君が――もし僕たちが……」
「フィル! だからって、わたしにどんな影響があると思ってるの?」
「僕はアビー・ドーンの金と結婚するんだっていわれるよ!」
「わたし、結婚のことをとやかくいいたくないわ。まあ、そんなことを考えていたの……」
「でも、ハルダ。ハルダ! ねえ、可愛いいハルダ。僕は君を嘆かせるような、つまらん男なんだよ……」
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十五 紛糾
警察の車は舗道の縁石《ふちいし》を横切ると、ドーン邸のがっちりした鉄門の前で停った。大邸宅と所有地は、六十番街の二つの街にはさまれた五番通りの正面をすっかり蔽っていた。建物と庭の周囲には、高い石塀をめぐらしてあったが、永い年月、風雨にさらされて苔むしていた。舗道を通過する自動車の騒音さえなければ、大理石造りの庭の設計や、曲がりくねった歩道のある、昔の城や公園の中にでも入っているような気がするに違いない。
向いは、セントラルパークになっている。また、メトロポリタン博物館の白い塔と簡素な壁がそびえているのも、五番通りからかすかに瞥見《べっけん》できる。
クイーン警部とサンプソン検事とエラリー・クイーンは、三人の刑事を車の中に残して、ゆっくりと鉄門を潜って歩いていった。やがて、彫りのある大理石の柱に支えられた古風な柱廊式の玄関に行き着いた。
背のひょろ長い仕着せ服を着た老人が表のドアを開けた。クイーン警部は、老人を押しのけるようにして、広い円天井の部屋に入った。「ドーン氏に、早速取り次いでくれ」と彼は、無愛想にいった。
執事は、抗議しようとして口を開きかけて、ちょっとためらった。
「でも、どなた様でしょうか?」
「クイーン警部、クイーン、サンプソン検事だ」
「はい、かしこまりました。……では、どうかこちらへ」彼らは老人の後について、装飾に贅を凝らした廊下を通っていった。やがて老人は両開きのドアの前で立ち止まると、それを静かに押し開いた。
「では、どうかほかのお客様と一緒に、ここでお待ち下さい……」といって彼は、軽く頭を下げると、ゆっくりと引き返していった。
「ほかの客だって、へえ?」と警部は呟いた。
「誰だい――おや、ハーパー!」
彼らの眼が一斉に、薄暗い部屋の隅で、革張りのクラブ椅子にもたれ、にやにやしながらみんなの方を眺めているピート・ハーパーの方に注がれた。
「なんだ、君は新聞社へ帰るっていってたじゃないか? 抜け駈けする気かい?」
「戦場の習いでしてね、警部」と、新聞記者は愉快そうに手を振って、「女蕩しのヘンドリックに会おうとしたが、駄目でしてね――仕方なく、あなたのお出を待ってたんです。まあ、お掛けなさい」
エラリーは、書斎のまわりを、注意深く見まわした。周囲の壁には、床から非常に高い古風な天井に至るまで、おびただしい書籍がぎっちり詰っていた。彼は勿体らしく、その表題に眼を走らせていった。その中から一冊の本を取り出すと、彼は得意の微笑を浮かべた。そして試みにその頁をぱらぱらとめくってみた。頁はまだ切ってなかった。
「ここに、金持の、人に知れないちょっとした悪戯があるね。こんな本は、可哀そうな孤児《みなしご》みたいなもんだ」
「というと?」サンプソンは好奇心につられて訊いた。
「これは、ヴォルテールの豪華本で、特別に装幀し、特別に印刷したやつだが、――また、わざと読んでないときている。頁が切れてないよ。恐らく、ここにある本の九十八パーセントは、買ってからそのまま手つかずだろうよ」
警部は、椅子に坐ったまま呻くようにいった。「わしはね、あの肥っちょの阿呆が……」
肥っちょの阿呆が、不意に両開きのドアから現われた。彼はいらいらした微笑を頬に浮かべていた。
「お待たせしました!」と彼は軋る声でいった。「よくいらっしゃいましたね。どうぞ、お楽に!」
彼は海豚《いるか》みたいに、前に泳ぎ出た。
検事はアビゲイル・ドーンの弟を、うんざりした眼差しで見守りながら腰を下した。エラリーは本の方ばかり眺めていて、ドーンには一向無関心の様子だった。
ヘンドリック・ドーンは、壁際の長椅子にどっかと坐ると、脂ぎった両手をねっちりと組合せた。だが部屋の隅のハーパーの姿を認めると、彼の微笑はすーっと消えた。
「新聞記者ですねッ?」と身を震わせて、「新聞記者の前じゃ、話せませんよ、警部。出て下さい!」
「僕は新聞記者として、ここへ来たんじゃありませんよ――ねえ、サンプソンさん? 僕は、事件の手伝いをしているだけですよ。友人みたいなもんで」
「ハーパーは大丈夫ですよ、ドーンさん」と検事は明言した。「僕達と同じようなもんですから、楽な気持でお話し下さい」
「はあ………でも、彼は私がいいもしないことを、新聞にのせたりしないでしょうね?」
「誰が――僕かい?」ハーパーはすっかり侮辱されて、「あんまり、人をなめるもんじゃない。僕は元来口が堅いんだぜ」
「あなたは病院で、なにかわし達に、お話し下さるといったが」と横合いから警部が口を切った。「どんな事でしょうかね?」
「でも、それより先に、一つ約束していただきたい」と、彼は声を低くして、「絶対に秘密ですよ」彼は素早く、みんなの顔を眺めた。
クイーン警部は、両眼を閉じて、「提案をなさろうというわけですな?」と彼は呟いた。「警察と秘密協定というわけですか? ドーンさん」彼は眼を開くと、きちんと坐り直した。「そんな駆け引きをせずに、お話しなすったらいかがです」
ドーンは禿げ頭を、猾《ずる》そうに振って、「いや、それじゃ駄目です。お約束下さればいいますが、そうでなければ――お断りします」
「あなたは何か怖れているようですね。それじゃ、もし保護が必要なら、わし達が何とかしましょう」
「私に刑事を付けて下さいますか?」とドーンは訊ねた。
「その方が安心だというんだったら、そうしますよ」
「そうですか、それでは」とドーンは身体を前に乗り出して、「私は、ある吸血鬼に借金しているんです。ここ数年来、彼から借金してきたんです。巨額の金になります!」
「ちょっと、待って下さい」と警部は、「もう少し説明してくれませんか。あなたにはきちんとした収入があるように思っていたんですが」
「いや、いや、何もありません。カードや競馬に使いますからね。私は――よくいう――スポーツマンなんですよ。どうも運が悪くてね――それで! あの男が――私に金を貸したんです。それから彼奴は、『金を返して欲しい』といいました。でも、私には払えませんでした。で、訳を話すと、彼はもっと貸してくれたんです。私は借用証書を入れました。幾らになるかって――十一万ドルぐらいになります!」
サンプソンは、ひゅーと口笛を吹いた。ハーパーの眼は輝やいた。警部は厳しい表情をした。「何を担保にしたんですか?」と彼は尋ねた。「世間の常識として、担保なしということはないでしょう」
ドーンは眼を細くした。「担保ですか? 最上のものがありますよ!」彼はにたりとした笑いを顔一面に浮かべると、「姉の財産ですよ!」
「それじゃ、ドーン夫人が、借用証書の保証人になったんですか?」
「いや、そうじゃありません。でも、アビゲイル・ドーンの弟として、私はかなりの遺産を相続しますからな。姉は、こんなことを少しも知りませんでした」
「じゃ、そのシャイロックは、アビー・ドーンが死んだ時、あなたに遺産が入ることを見越して金を借したんですね。うまい遣り方ですな、ドーンさん!」
ドーンの唇は、だらしなく開いて、濡れていた。彼はびくびくしている様子だった。
「それじゃあ!」と警部は叫んだ。「そのお話の要点は何ですか?」
「その要点はですな……それから何年か経ちましたが、アビゲイルは死ぬ様子がありません。すると、私にはちょっといいにくいことなんですが――彼奴は姉を殺さなけれりゃならん、といったんです!」
彼は物々しく言葉を切った。警部とサンプソンは顔を見合せた。エラリーは小さな本の頁をめくる手を休めて、ドーンを見詰めた。
「お話っていうのは、そのことだったんですね」と、クイーン警部は呟いた。「その金貸しは誰なんです? 銀行員ですか? ブローカーですか?」
ドーンは、急に蒼ざめた。彼は豚のような眼で、そわそわと部屋の隅々まで見まわした。彼の恐怖は、真に迫っていた。彼は低い声で囁いた。
「マイケル・カーダイ……」
「ビッグ・マイクか!」と、警部とサンプソンは、同時に叫んだ。警部はすぐ立ち上ると、部屋の中を、あっちこっち歩きながら、「ビッグ・マイクは、病院に入院している……」
「カーダイには」と、エラリーが冷淡にいった。「完全なアリバイがありますよ。アビゲイル・ドーンが殺された時、彼は医師と二人の看護婦によって麻酔をかけられていたんですからね」
「確かに、あいつはアリバイを持っている」と、ハーパーが笑いながらいった。「だがあいつは、鰻《うなぎ》みたいな奴だから、ぬらり――と!」
「でも、カーダイであるはずがない」と警部。
「だが、彼の三人の手下の中の一人かも知れないよ」と検事。
警部は何もいわなかった。彼は面白くなさそうだった。
「分らんな」とぶつぶつ呟き、「この事件は、実に巧緻極まる犯罪だよ。リツル・ウィリー、スナパー、ジョー・ゼッコなんかが、直接手を下したんじゃないよ」
「そりゃ、そうだが、カーダイの悪計が……」とサンプソンはこだわっていった。
「まあ、まあ」とエラリーは隅の方から、「そんなに慌てないで下さい。『たった一度で決められるようなことを、よく熟考しなければならぬ』と、プブリウス・シルスが語ったじゃありませんか」
肥った男は、自分自身が惹き起こした興奮を、変に楽しんでいるように見えた。彼は眼を用心深く、くるくると廻しながら、にやりと笑ってみせた。「最初、カーダイは、私に殺せといったんです。だが、それとなく暗示したんですよ。私は警察へ告げようかと思いました。何のために、血と肉をわけた姉を……と私はいってやりました。すると彼は笑って、じゃ、おれがやるかも知れんよ、といったんです。私は『本気じゃないだろう、マイク?』というと、彼は『これが俺の仕事だからな』という返事です。でも、あなたは黙っていて下さるでしょうね? 私にはどうしようもないでしょう? あ奴は――あ奴は、私を殺すでしょうからね……」
「いつ頃、そんなことを話し合ったのかね?」とクイーン警部。
「去年の九月です」
「その後、カーダイは、そのことについて何かいったかね?」
「いや、それっきりです」
「彼に会った最後は、いつ頃ですか?」
「三週間前でした……」ドーンは気味悪く汗ばんでいた。彼の小さな眼は、落着きなく、みんなの顔をきょろきょろ見まわして、「今朝、姉が殺されたと聞いた時、私はすぐカーダイのことを考えたんです……お分りでしょう? そうなると、私は彼に借金を返さなけれりゃならないし――つまり返すことができるわけです。彼の思う壺ですよ」
「カーダイが脅迫したことについて、誰か証人がありますか?」とサンプソンが頭を振っていった。「ないでしょうね。ビッグ・マイクを逮捕する理由は、とても掴めそうもないですよ。もちろん、彼の三人の手下は捕えてありますが、よほど決定的な証拠でもないかぎり、そういつまでも拘留するわけにはゆかないし」
「とにかく、ジェニー博士を真似られるのは、スナパー位のものだからな……」
「こんなことを申し上げたのも」とドーンが、熱っぽくいった。「みんな姉のためです」彼は眉を曇らせた。「復讐です! 殺人者は罰を受けるでしょう!」彼は丸々肥った雄鶏のように、きちんと坐り直した。
サンプソンはいった。「カーダイや手下を、そんなに怖れなくてもいいように思いますがね」
「そうでしょうか?」
「大丈夫ですよ。あなたを生かして置いた方が、カーダイにとっちゃ、ずっと得ですからね。あなたを殺しちゃったりしようものなら、借用証書を書き直させるチャンスを失いますからね。彼の狙いは、あなたを生かしといて、遺産が決定してから、じりじりと取り立てることでしょうな」
「利息は幾らですか?」と警部。
ドーンは唸っていった。「十五パーセントです……」
「わし達は、あなたの話を内密にしておきましょう。ドーンさん、それだけは約束しますよ。それからカーダイから保護することも」
「ありがとう!」
「じゃあ、今朝のあなた自身の行動を話してくれませんか?」と警部は思いきって、さりげない調子でいった。
「私の行動?」ドーンは吃驚して目を瞠った。「だが、まさかあなたは……そんな。ただ形式的なもんなんでしょう? 電話で、姉が墜落したことを聞いたんです。病院からかかりました。その時、私はまだ眠っていました。ハルダとサラは、私より早く家を出ました。私が病院に着いたのは、およそ十時頃でした。それからジェニー博士を捜したんです。でも、見つかりませんでしたので、手術の五分位前に、控室に行き、そこでハルダと弁護士のモアハウスに会いました」
「じゃ、病院内を捜し廻ったんですね?」警部は口髭を噛んだ。エラリーは、みんなの中に身を乗り出すと、微笑しながらヘンドリック・ドーンを見下ろした。
「ドーン夫人は」と彼はいった。「未亡人でしょう。それで、なぜ『ドーン夫人』と呼ばれるんですか? 結婚した相手の姓もドーンというんですか? それとも遠縁の従兄とでも結婚なさったんですか?」
「それはですな」と肥った男は答えた。「アビゲイルは、チャールズ・ヴァン・ドンクという男と結婚したんですが、夫が死んでから元の名前に還ったわけです。『夫人』と付けたのは、彼女の威厳のためです。姉はドーンという姓に、非常にプライドを持っておりましたので」
「それは間違いないよ」とハーパーが面倒臭そうにいった。「僕が今朝病院へ駈けつける前に、記録綴りをちらっと見てきたところじゃ、そのとおりだよ」
「いや、僕は疑ったわけじゃないんだ」エラリーは眼鏡を拭きながら、「ちょっと、面白いと思っただけだよ。ところで、マイケル・カーダイに対するあなたの債務のことですがね、ドーンさん? あなたは、カード〔賭事〕だとか、競馬だとかいわれましたが、もっと大きな、もっと興奮する遊びについちゃどうですか?」
「へえ?」ドーンの顔は、また汗でぎらぎらと光った。
「どうして――そんな――」
「しっかり、僕の質問に答えて下さい! 金をやらなけれりゃならんような女があるんでしょう?」エラリーは鋭く突っ込んだ。
ドーンは厚ぼったい唇を舐めた。「いいえ、私は――私はみんな払ってしまいましたよ」
警部はエラリーをじっと見詰めていたが、彼の合図で立ち上ると、「今のところ、この位で結構だろうと思います。ドーンさん。カーダイのことは、心配しないで下さい」ドーンは、顔を拭きながら、足をもじもじさせた。「ついでに、ちょっとハルダ嬢に会いたいんですがな。どうか、ひとつ――」
「ええ、わかりました。じゃ、失礼」
ドーンは、急ぎ足でよたよたと部屋から出ていった。
彼らは顔を見合せた。クイーン警部は机の上の電話をとると、警察本部を呼び出した。その間にエラリーは「ドーンはあんなだらだらした話をしたが、裏返せば、どうしてなかなか抜け目のない性質だとは思わないか」
「たしかに、そうだよ」とハーパー。
「つまりカーダイが、アビゲイル・ドーン殺しの判決を下されれば、彼は借金を返さなくて済む……」サンプソンは眉をひそめた。
「そうだよ」とエラリーがいった。「きっとカーダイに嫌疑がかかるようにと、やきもきしているのさ……」
そして、しばらくすると、ハルダ・ドーンがフィリップ・モアハウスの腕にもたれて書斎に入ってきた。
*
警部のたてつづけの質問攻めと、検事の取りなしの後で、もうこれ以上黙っているわけにはゆかないと思って、彼女はやっと少しずつ打ち明け始めた。
モアハウスは彼女の背後に立って、整った顔を、いらいらした焦燥で曇らせていた。
アビゲイル・ドーンとサラ・フラーは……二人っきりになると、まるで魚屋の女房みたいに口喧嘩をしたが、その理由については、誰も知っていない。ハルダも知らなかった。二人の女は一緒に住んでいながら、数週間一言も口をきかずに過ごすことがあった。数カ月、必要なことだけしか口をきかぬこともあった。数年間、二人はお互いに温みのある言葉を交わしたことはなかった。そんな風にして、数週間、数カ月、数年間が経過したが、サラ・フラーは、アビゲイル・ドーンの許を去ろうとはしなかった……。
「ドーン夫人は、彼女を解雇するというようなことはいいませんでしたか?」
彼女は反射的に頭を振ると、「ええ、母は腹を立てると、時どきサラを追い出すんだといってましたわ。でも、それが口先だけだってことは、みんな知ってるんです……わたし、よく母に訊ねたんですの。なぜ、お母さんとサラは仲が良くないのかって。すると母は――おかしな顔をして、そんなことはわたしの勝手な妄想だっていうんです。そして、母みたいな地位にある女は、あんな頭が高い使用人なんかと親しい口をきけないんだって。でも、どっちにしても、母らしくありませんでした。わたしは――」
「僕が、そんなことは、みんな申し上げたはずですがね」とモアハウスがいった。「どうしてそんなことを訊くんです――」
警部は、不意に問題を変えて、彼女の今朝の行動について訊いたが、ハルダの証言は、病院の控室でサラ・フラーが述べたことと一致していた。
「ミス・フラーがあなたを控室に残して、どこかへ出て行くと、間もなくモアハウス君が入って来たんですね……それからずっと手術に立ち会うまで、あなたはモアハウス君と一緒にいたんですね?」
ハルダは唇をすぼめて、慎重に、「ええ、でも十分位は離れていました。わたしがフィリップに、ジェニー博士に会って、母の容態を訊いて欲しいと頼んだんです。サラは出ていったまま、戻ってきませんでした。フィリップは、博士が見つからなかったといって、しばらくしたら戻ってきました。そうだったわね、フィル? わたし――あんまりはっきり覚えていないんですけど……」
モアハウスは、すぐ答えた。「そうです。もちろん、その通りです」
「何時頃でしたか、ドーンさん」と警部はやさしく尋ねた。「モアハウス君が、あなたの許に戻られたのは?」
「さあ、憶えてませんわ。何時頃だったかしら、フィル?」
モアハウスは唇を噛んだ。「そうですね――十時四十分頃でしたよ。というわけは、それからすぐまたあなたから離れて、実験手術室へ行きましたが、手術は――間もなく始まったからです」
「なるほど」警部は立ち上った。「よくわかりました」
エラリーはいった。「ダニングさんは、お宅におりますか? 彼女にちょっとお話したいんですが」
「あの人は帰りましたわ」とハルダは、疲れたらしく眼を閉じた。「あの人は、わたしを大変やさしく送って下さったんですの。でも、すぐ病院に戻らなけれりゃならなかったんです。あそこの社会奉仕部に勤めているもんですから」
「話は違いますが、ドーンさん」と検事は微笑しながら、「あなたは、きっとできるだけ警察にご協力下さるだろうと思っているんですが……ドーン夫人の個人的な書類を調べる必要があるんです」
彼女は頷ずいた。そして怖しそう身を顫わせて、白い顔をそむけた。「ええ。でもわたしには――信じられない……」
モアハウスは、怒りっぽい声でいった。「この家には、あなた方の役に立つようなものは、何にもありませんよ。夫人の重要書類は、みんな僕が保管しているんですからね。さあ、あちらへ行きましょう……」
モアハウスは、ハルダの方に身を屈めた。彼女は彼を見上げた。二人は、一緒にさっさと部屋から出ていった。
*
老執事が呼び出された。彼は間のぬけた顔をしていたが、小さな眼だけは強く光っていた。
「ブリストルだね?」と警部は手短かにいった。
「そうです。ハリー・ブリストルです」
「本当のことを答えて貰いたい」
彼は眼ばたきした。「わかってますよ!」
「よろしい、じゃ」警部はブリストルの仕着せ服を指さきで軽く叩きながら、「ドーン夫人とサラ・フラーは、ちょくちょく口喧嘩したそうだね?」
「わたしは――さあね……」
「しなかったというのかい?」
「いえ……しましたよ」
「どんな原因で?」
当惑した様子が、彼の眼の中を掠めた。「存じません。お二人は、いつも何かで言い争っていました。わたし達は、時どきそれを耳にしましたが、その理由は誰も知りません。まあ――お互いに気に食わなかったんでしょう」
「君はこの家に、どれ位勤めているんだ?」
「十二年です」
「じゃ、これだけだ」
ブリストルは、頭を下げると、ゆっくりと書斎から出ていった。
彼らも立ち上った。
「あのフラーという女を、もう一度調べたらどうかね?」とハーパーがいった。「もっと手厳しくやったらいいように思うが」
エラリーは烈しく頭を振って、「放っとけよ。彼女は逃げやせんよ。ピート、君にはあきれたよ。人殺しとか健全な市民を相手にするのとわけが違うんだぜ。彼女は精神病患者だぜ」
彼らはドーン邸を辞した。
*
エラリーは、冷たい一月の新鮮な空気を深く吸い込んだ。彼はハーパーと並んで歩いた。警部とサンプソンは、五番通りの門の方へ彼らの先に立って歩いていた。
「君はどう思うね、ピート?」
新聞記者は、にやりと笑った。「さあね、これから先どうなるか、さっぱり見当がつかないね。みんなトリックをやる機会を持っていたし、大ていの奴が動機もあるわけだし」
「それだけかい?」
「僕がもし警部だったら」とハーパーは、道の小石を蹴っとばしながら、「ウォール街の方を当ってみるね。アビーは、ずいぶん沢山の未来のロックフェラーを破産させたからね。その復讐に、誰かがやったのかも知れないよ……」
エラリーは微笑した。「親父は、確かに馴れたもんだね。そんな手配はとっくにしているよ……僕にはある見当がついているんだが……」
「見当だって!」ハーパーは立ち止って、「じゃ、話してくれよ。あのフラーとドーンの関係についてだろう?」
「何かおかしなところがあったんだな。あの二人は、ナポレオンの『下着は自分で洗わなければならぬ』という忠告に従っていたわけなんだろうが、あまりに不自然過ぎるよ、ピート」
「深い奥底には、何か秘密があるというのかい?」
「確かにあると思うね。フラーも、それに与《あずか》っているが、ともかく人に知れたら恥辱になるようなことに違いない……どうも気になるね!」
四人の男は、警察の車に乗り込んだ。そして三人の刑事を、歩道に残すと、その場を離れて走り去った。残された刑事は、門をくぐって歩いていった。
その時、フィリップ・モアハウスが玄関のドアから出て来て、用心深くあたりを見まわし、三人組の私服が近づいてくるのを見つけると、じっとその場に立ちすくんだ。
それから彼は外套のボタンを掛け、頤をぴったりと襟に埋めると、階段を駈け降りた。彼は刑事たちとすれ違う時、軽く会釈をして、門の方へ急ぎ足で歩いていった。刑事たちは、彼の後ろ姿を見送った。
モアハウスは舗道に出ると、ちょっとためらってから、左に曲ると下町の方向に消えていった。
三人の刑事は、柱廊式玄関の所で手分けして別れた。一人はモアハウスの後を尾《つ》けていった。二番目の刑事は、邸宅の近くの潅木の茂みに姿を隠した。第三の男は、石段を駈け登って、玄関のドアを猛烈にノックした。
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十六 錯乱
サンプソン検事は、スピードを増すように命じた。彼は大分時間に遅れていた。ハーパーは社に電話をかけるというので、ウェストサイドで降ろされた。警察車は、けたたましい警笛の音をひびかせながら、午後の雑踏をぬって走っていった。
がたがた揺れる車の中で、クイーン警部はむっつりしながら、センター・ストリートの大きな建物に帰ってから監督しなければならない仕事のことを、あれこれと指折り数えていた。……ジェニーに会いに来た謎の男の捜査、ペテン師の衣服を調査して、本当の持主を突きとめること、絞殺に使用された額縁用の針金を売った金物屋か百貨店をさがす件などであった。
「あんまり見込みがないな」と、老警部はモーターの唸りやサイレンの高い響きの上に、吐き出すようにいった。
自動車は、オランダ記念病院の前でちょっと停って、エラリーを歩道に降すと、すぐまた速力を加えて走り出し、下町の雑踏の中へ消えていった。
次の瞬間、エラリー・クイーンは、もう一人で病院の石段を登っていた。アイザック・カッブは、警官と何か話をしながら、相変らず入口にいた。エレベーターの向いにミンチェン博士の姿が見えた。
彼は廊下を見渡した。麻酔室の入口に、一時間前に別れた刑事が、やはり頑張っていた。警官たちが待合室に集ってガヤガヤしていた。三人の男が、大きなカメラを担ぎながら右手の廊下からこちらへ歩いて来た。
エラリーとミンチェン博士は、左へ歩いてゆき東廊下へ曲った。犯人の着衣が発見された電話室は紐でもって封がしてあった。それから数フィート先の、二人が歩いてゆく北廊下に向って左側に、閉まっているドアが一つあった。
エラリーは足を停めた。「これは控室の昇降機《リフト》の外側のドアだね」
「そうだよ。ドアが二つついているんだよ」とミンチェンが答えた。「この昇降機は、廊下からでも、控室からでも入れるようになっている。この廊下のドアは、一階の病室から手術に来る患者のために使われているんだ。南廊下をぐるっと廻ってゆくよりは近道だからね」
「なるほどね」とエラリーは、感心していった。「どこもかしこも抜かりはないね。あの巡査部長殿は、このドアにもちゃんと封をしているよ」
しばらくしてミンチェンの部屋へ入ると、エラリーは早速いった。「僕はジェニーと、ここのスタッフの連中との関係を少し訊いてみたいんだ。みんなが彼を何ていっているか気になるんでね」
「ジェニーかい? 彼はむろんつき合いのいい人間じゃないがね。でも、彼の地位とか、外科医としての名声で、尊敬されていることは確かだよ」
「ジェニーは、病院内に敵を持ってはいないだろうね?」とエラリー。
「敵? そんなことはないと思うよ。僕の知らない反目があれば別だがね」とミンチェンは唇をすぼめて、考え込みながら、「そういえば、博士にいくらか反感を持っているものが一人あるよ……」
「ほんとかい! 誰だね?」
「ペニニ博士だよ。彼女は前の産科部長だが」
「『前の』というと? ペニニは辞めたのかい?」
「いや、そうじゃない。最近、人事異動が行われて、ペニニ博士は次長に左遷されたんだよ。ジェニー博士が、少なくとも名目だけは、産科の係になったんだ」
「どうして?」
ミンチェンは顔をしかめた。「ペニニ博士のせいじゃない。まあジェニーに対する死んだドーン夫人の贔屓《ひいき》の表れみたいなものさ」
さっと影が、エラリーの顔を掠めた。「なるほど、反目だね? ちょっとした仕事の上での嫉妬なんだな。ふん……」
「ちょっとでもないんだよ。君はペニニ博士を知らないけれど、彼女はラテン系の、激しやすい、復讐心の強いタイプでね――」
「何だって?」
ミンチェンは吃驚したようだった。「彼女は復讐心の強いタイプだといったんだが。どうして?」
エラリーは煙草に火を点けて、「そのペニニ博士というのに会ってみたいね、ジョン」
「いいとも」ミンチェンは、すぐ電話をかけた。「ペニニさん? ジョン・ミンチェンです。……僕の部屋へすぐいらしていただけませんか?……いや、いや、そんな大切なことじゃありません。紹介したい人がありましてね。ちょっとお尋ねしたいそうで……ええ、どうぞ」
エラリーが指の爪を眺めていると、やがてドアをノックする音がした。ミンチェンが「どうぞ!」と、明るい声でいった。ドアが開くと、はきはきした感じのするずんぐりした白服の女が入ってきた。
「ペニニさん。エラリー・クイーン君を紹介します。クイーン君は、ドーン夫人殺害事件の調査を助けている方です」
「そうでございますか」彼女の声は、太く嗄がれていて、まるで男みたいだった。ずかずかと二人の傍の椅子に近づくと、すぐ腰を下ろした。
彼女は、ひどく特徴のある女だった。皮膚はオリーヴ色で、上唇の上には、かすかに生毛が生えており、鋭い黒い眼がきらきら光っていた。年ははっきりしないが、三十五才位か、あるいはもう少し老けているかも知れない。
「ペニニさん。あなたは永年、このオランダ記念病院にお勤めだそうですね」とエラリーは、できるだけやさしい声でいった。
「ええ、そうですよ。煙草を一本下さいませんか」彼女は楽しそうだった。
エラリーは金の彫刻のあるケースを差し出し、彼女がくわえた煙草にうやうやしくマッチを点けてやった。彼女は美味《うま》そうに吸い込むと、物珍らしげにエラリーを眺めながら、楽な姿勢になった。
「実はね、ドーン夫人殺害事件の取調べで、僕たちは行き詰ってしまったんです。皆目、五里霧中なんです。僕は、誰でも片っぱしから質問してみたんですがね……ドーン夫人のことは、よくご存知なんでしょう?」
「どうして?」ペニニ博士は、目を輝かせて、「わたしを疑っていますの?」
「いや、そんな……」
「いいですか、クイーンさん」彼女は赤い唇をぐっと引き緊めた。「わたしはドーン夫人のことを、そんなに存じておりませんよ。あの人が殺されたことについちゃ、全然何もわかりません。わたしを疑っているんだったら見当違いですよ。どう、これでご満足ですか?」
「どうしてそんな?」とエラリーは口惜しそうに呟いた。「僕は、そんな突飛なことを考えてやしませんよ。僕がお訊ねしたわけは、ドーン夫人をよくご存知なら、あの人の敵を名指しできるかも知れないと思ったからなんです」
「お気の毒ですけれど、できませんわ」
「ペニニさん。言い争うのは止めましょう。僕は率直にお話したいんです」彼は眼を閉じて、椅子の背に首をもたせかけた。「あなたがドーン夫人を脅かしたといっている者がありますが、本当ですか?」
彼女は非常に驚いたらしく、大きく目を瞠ったが、その表情はだんだん怒りに変っていった。ミンチェンは抗議するように手を動かし、言い訳めいたことを口走った。そして、当惑しきった顔をして、エラリーを見詰めていた。
「いったんでしょう?」エラリーの言葉は、露骨で厳しかった。「この病院内で?」
「途方もないことです! 誰がそんな馬鹿げたことをいったんですか? わたしがあの人を脅かすなんてできませんよ。わたしは、あの人にかぎらず、誰にだってとやかくいったことはありませんよ。あれは、わたし――」彼女は何かいおうとして、不意に口を噤むと、ミンチェン博士の方をちらりと見た。
「あれは……何ですか?」
「あのう――わたし、いつだったかジェニー博士のことをけなしたことがあるんです」と彼女は固くなって、説明した。「でも脅かしじゃありませんわ。それに、ドーン夫人を指したわけじゃないんです」
「そうですか!」とエラリーは、顔をほころばせて、「ドーン夫人にではなく、ジェニー博士にだったんですか。じゃ、何かジェニー博士に面白くないことでも?」
「そんなに個人的なことじゃありませんよ。お聞きになったと思いますが」――彼女はまたミンチェンの方を横目でうかがった。彼は顔を赤らめて、彼女の視線を避けた。「わたしは、ドーン夫人の指し金で、産科部長の位置から左遷されたのです。わたしは当然腹を立てましたし、今でもまだ癪にさわっているんです。わたしは、ジェニー博士が、夫人に中傷したからだと思いました。それでかっとしてつい厭なことを口走ったんです。ミンチェン博士や、二三の人が聞いていましたが、でも、そんなこと何か事件と関係がありますか――」
「もっともです。よくわかりました」とエラリーは彼女に同情するようにいった。彼女は鼻をすすった。「ところで、もう少しご辛抱下さい……今朝、病院で何をなさっていたか話して下さいませんか」
「よく分って下さいました!」彼女は冷静に立ちかえっていた。「わたしには、隠すようなことは何もありません。早朝、八時にお産があったんです。双子でしたの。一人は死にました。お母さんも、きっと間もなく死ぬでしょう……朝食後、いつものように病室を巡回しました。ジェニー博士は」と彼女は皮肉にいった。「何もなさらないのです。名目だけですからね。わたしは三十五人の患者や、たくさんの赤ん坊を見舞ったんです。わたしは、朝の間、ほとんど働きどおしです」
「じゃ、あなたはアリバイをはっきりさせるほど、一個所に止まっていなかったんですか?」
「アリバイが必要だったら、自分で気をつけたでしょうがね」
「正午まで、病院から出たことがありますか」
「いいえ、ありません」
「大変助かりました。よく心に留めておきましょう」エラリーは立ち上った。「どうもありがとう」
二人は、ドアが閉まって、彼女が出てゆくまで黙って立っていた。ミンチェンは回転椅子に戻ると、「相当な女だろう?」
「そうだね!」エラリーは、煙草に火を点けた。「それはそうと、エディス・ダニングは病院にいますか? まだ彼女にはあってないんだが」
「じゃ、訊いてみよう」ミンチェンはすぐ電話を掛けた。
「いないそうだよ。ちょっと前に仕事に出かけたって」
「直ぐでなくていいことなんだ」彼は煙草をぐっと吸い込んで、「面白い女だ……」といって、煙を吐き出した。「これについちゃ、――エウリピデスが『私は教育のある女を嫌悪する』といったが、そんなに間違っちゃいないね。でも、このギリシァ人の見解は、バイロンがいったこととは、そんなに関係がなかったんじゃないか……」
「エウリピデスとかバイロンを引き合いに出して」とミンチェンは唸った。「君はどっちを指していってるんだい――ミス・ダニングかい、それともペニニ博士かね?」
「どっちだっていいじゃないか」エラリーは溜息しながら、外套を取った。
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十七 謎々
クイーン警部と彼の息子との関係は――親子というより友人としての親しさで――それが食事の時ぐらいはっきり現われることはなかった。食事の時間は、朝夕を問わず、冗談を飛ばしたり、思い出話をしたり、いつも快活な生き生きとした談笑のうちに過ごすのが常であった。ドジュナが給仕をし、ストーヴの火が赤々と燃え、西八十七番街を吹きすさぶ風の音と窓ガラスのガタガタと揺れる音、こうした冬の夕べのクイーンの家は、誰もが口にするほど、よく知られた美しい光景だった。
しかしアビゲイル・ドーンが殺害された日の夕べには、そうした習慣はすっかり破られてしまった。
そこには笑いもなければ、安息もなかった。エラリーは、憂鬱な顔をして考え込んでいた。半分空になったコーヒー・カップの上では煙草がぶすぶすくすぶっていた。警部はストーヴを前にして、大きな安楽椅子に背中を丸くして坐りながら、がたがた震えたり、ぜいぜい息をしていた。
最初の捜査は、不名誉にも失敗してしまったのである。正体不明のスワンソンは、依然として謎だった。上官の命に忠実なベリーの捜査も、各街の氏名録の中から、スワンソンという名を片っぱしから調べてみたが、ほんのかすかな手懸りすら発見できなかった。電話室に遺棄されていた外科用着衣の元の所有者も病院や研究所などで調べさせたが、刑事達から何の報告もなかった。額縁用の針金の出所もわからなければ、その科学的分析も何の役にも立たなかった。アビゲイル・ドーンが、生前取引していた財政方面の敵も綿密に調査したが、これという手懸りもなかった。殺された夫人の個人的書類も、まったく事件とは無関係なものばかりであった。それで、サンプソン検事は、この複雑な事件についてのニュースを市長と協議するために電話をかけ、長官からは、オールバニーから長距離の呼出し電話を受けた。新聞記者たちは本署に詰めかけ、事件の情報を得ようとして、係員たちを烈しく質問攻めにした。
こんな状態だったので、警部は椅子に掛けたまま、腹立ちまぎれに半分ヒステリックに立っていた。
けたたましい電話のベルの音がひびいた。ドジュナが台所から急いで出てきた。
「旦那様へです」
老警部は、身体をぶるぶるふるわせて、かさかさした唇を舐めながら、大急ぎで飛んでいった。「もし、もし。誰だい? トマスかい? うん、うん……え、何だって? 驚いたなあ、ちょっと待ってくれ」
彼は真蒼になって、エラリーの方を向いた。
「まったく腐ったよ。とうとう、リッターはジェニーにまかれちゃった!」
「馬鹿だなあ!」とエラリーは叫んだ。「もっとよく事情を訊いてみて下さい」
「おい! おい! トマス。君はリッターに、幾らか見込みがあるか訊いてみたかい、それとも奴は黙ってすごすごと戻って来ただけなのかい……それからスワンソンについちゃ、まだニュースはないかね?……ああ、君は一晩中頑張っていてくれ……何? そいつはヘスとしちゃ、お手柄だ……うん、分った。リッターをジェニーのホテルにやって、張り込ましてくれ……今度はうまくやるんだぜ!」
「どうでした?」とエラリーは訊ねた。老警部は椅子に戻ると、手をストーヴにかざした。
「いろいろあるがね。ジェニーは、マジソン通のタレイトンに住んでいる。リッターは一日中、彼を見張っていたんだ。ところが五時半になると、ジェニーが急いで出てきて、すぐ車に乗り、北の方に突っ走ってしまった。リッターは運が悪かったんだな――しばらく車が見つからなかったのさ――あんまり不意をつかれたんで、まごまごしたんだろう………
それからすぐタクシーを拾って、後を追っかけたが、時すでに遅く、雑踏のうちに彼の車を見失ったんだ。しばらくして再び四十二番街のあたりで、ちらっと見かけたが、その時はジェニーが車から降りて、グランド・セントラルに駈け込み、料金を払って駅の中に消えてゆくところだった……それがジェニーの姿を見かけた最後だったらしい!」
エラリーは考え込んでいるようだった。「故意に我々の命令に逆らったんですね? 市中から飛び出したりして。むろん、その理由は一つあるだけだが……」
「うん、間違いなくスワンソンに警告しに行ったのさ」老警部は、吐き出すようにいった。
「ジェニーがスワンソンに警告しに行ったというのは、絶対に確かだと思いますが、それじゃスワンソンはどこか郊外に住んでいるんですね」
「それについては手配してある。トマスが郊外の方面に一班をまわしたはずだ……」警部は眼をきらりと光らせて、「だが、ちょっと面白いことがあるよ。あの気違いめいたサラ・フラーのことだがね」
「どうかしましたか」
「一時間ほど前に、ドーン邸から抜け出したそうだ。ヘスがずっと見張っていたのだがね。どこへ行くかと思って尾けてゆくと――ダニング博士の家へ入ったそうだよ。どうだい?」
「ダニング博士ね?」エラリーはゆっくりいった。「そいつは、面白くなってきましたね。ヘスからほかに何か情報がありましたか?」
「いや、それだけだ。その事実だけで充分だよ。フラーはそこに三十分位いて、帰る時はタクシーを拾って真直ぐドーン邸に戻ったそうだ。ヘスが電話で知らせてきたんだが、まだ同僚と一緒に頑張っているよ」
「サラ・フラーとダニング博士か」とエラリーは呟いた。彼はテーブルに腰かけ、ストーヴの火を眺めながら、卓布の上をとんとんと叩いていた。「サラ・フラーとリューシアス・ダニング、こいつはちょっとした組合せですね。女予言者と医師か」
「充分、疑わしい節があるね」と警部はいった。「朝起きたら、早速調べにかからなくちゃ」
「そうですね」と、エラリーは得意そうなしたり顔をして、「スラヴ人はよく『朝は夕べよりも賢し』といいますが、まあ――いずれ分りますよ」
老警部は何もいわなかった。エラリーの顔から、得意げな嬉しそうな表情が、またたくうちに消え失せた。彼はさっさと立ち上ると、寝室の方に歩いていった。
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十八 凝縮
火曜日の朝、アメリカ中の新聞の第一面は、大見出しの下に、ぎっちりとこのむごたらしい事件の記事で埋められていた。特にニューヨークの新聞は、アビゲイル・ドーンの驚くべき生涯や、彼女の財政的手腕や、慈善事業の数々や、死んだ夫チャールス・ヴァン・ドンクとのロマンスの詳細に至るまで、全ページを割いて報道していた。
その日の夕刊になると、社説の欄で、警視総監やクイーン警部や警視庁に、それとなく当てつけた論説が載り始め、中には明らかに政治的な意図で市長を攻撃しているものもあった。
「二十四時間の貴重な時を、あたら徒費してしまった」とかさらに、「この優れた夫人を毒手にかけた憎むべき殺人犯について、ほんのわずかな手懸りすらも、まだ掴んでいないのである」と憤慨して書いているものもあれば、「多年犯人の検挙に成功せる恐るべきクイーン警部も、この最も重要な任務に失敗するのだろうか?」と問うているものもあった。
ニューヨーク中の新聞で、警察に対して非難も酷評もしなかったのは、奇妙なことにピート・ハーパーが記事を載せている新聞だけだった。
政治的にも社会的にも、世間はこの事件によって根底から震撼され、その震動は警察本署にも敏感に反応した。各方面の市民たちは、迅速に犯人の逮捕を要求する電報や電話や手紙などを、市長めがけてあびせかけた。経済的不安を受けたウォール街は、つのりゆく恐慌の波を防ぎきれず、関係者はいきり立っていた。中央政府も事件に対して、ただならぬ関心を示した。アビゲイル・ドーンが莫大な不動産を所有していた州の、ある議員のごときは評議会の席上、熱弁をふるって事件を論じたくらいであった。
*
市庁は狂乱した会議の渦《うず》でごった返していた。センター・ストリートは、巨大な蜂の巣のように、ぶんぶん唸っていた。クイーン警部はどこにも姿を見せなかった。ベリー巡査部長は、新聞記者たちに事件について話すことを拒絶していた。事件は依然として謎と秘密の空気にとざされたまま、いかがわしい風説は市中いたるところに乱れ飛んでいた。
火曜日の午後、市庁の奥まった会議室で物々しく秘密会議が行われた。煙草のけむりで濛々とした会議の卓を囲んで集まったのは、市長自身と、警視総監と、サンプソン検事と検事補、マンハッタンの区会議長等であり、クイーン警部の欠席が目立っていた。
市長は事件の詳細を記してあるクイーン警部の署名入りの報告書の分厚い束を手に持っていた。それは火曜日の朝までに、事件について集めたところの訊問や証拠について記録したものであった。この事件の登場人物については、さまざまな角度から検討された。区議会長はビッグ・マイク・カーダイには、どこか殺人犯らしいところがあり、アビゲイル・ドーンの謎の敵によって雇われたのかも知れない、というようなことを述べたりした。しかしジェニー博士の頑固な沈黙、スワンソンの捜査という問題については、何ら得るところがなかった。
この会議は失敗に終りそうだった。何の収穫もなく、これからどうするかという見当さえつかなかった。総監のすぐ傍には、警察本署に通ずる電話が置かれてあったが、それは捜査が次から次へと失敗してゆく報告で、絶えず鳴りひびいていた。
このせっぱつまった瞬間に、警視総監に宛てた分厚い封筒を持って、市長の秘書が部屋へ入ってきた。
彼は封を切って、タイプライターで打った報告書をとり出すと、熱心に眼を走らせた。
「クイーン警部の特別報告です」と彼は叫んだ。「後で完全な報告をおくるそうです。さてと……」彼は黙って読んだ。そして突然、傍にいた速記者に報告書を渡すと、「おい、ジェーク、これを読みあげてくれ」
速記者は、はっきりした平静な声で、素早く読み始めた。
≪マイケル・カーダイに関する報告書≫
火曜日、午前十時十五分、カーダイは、ドーン事件との関係について証言することが、医師の許可によって、肉体的に可能となった。訊問は、彼が昨日虫垂炎の手術を受けたオランダ記念病院の三二八号室で行われた。彼は衰弱しており、非常に苦痛のように見受けられた。
カーダイは殺人については、何も知らないと明言した。最初の質問は、エドワード・バイアースと看護婦のグレイス・オーバーマンが語った通り、カーダイが麻酔室に横たわっている内に、マスクを掛け、ガウンを着た人物が、麻酔室を通りぬけて控室に入ったかどうかを確かめる点に向けられた。彼は、白いガウン、外科帽、外科用マスクの人物が、急ぎ足で西廊下から入ってくるのを確かに見たと述べた。それからすぐ彼は麻酔をかけられ昏睡に陥ったので、その人物が去ってゆくのは見なかった由である。跛《びっこ》については、うろ覚えではっきりしていない。バイアースとオーバーマンの証言はこれで確かめられたわけである。
ヘンドリック・ドーンとの関係については、彼は六パーセントの利息で、巨額の金を融通し、ドーン夫人の遺産の分け前が入った時に払うという約束であった。クイーン警部による質問、『マイク、君は貸し金をもっと早く回収するために、ドーン夫人の臨終を少しせかせるようなことは、まさか勧めはしなかったろうな?』カーダイの返答、『警部、厭なことをいいますね。俺がそんなことをやらないのは、分りきってるじゃありませんか』。更に追求すると、彼はヘンドリック・ドーンに貸し金の催促をしたことを認め、恐らくドーンが、彼の姉の殺人について、もっとよく知っていても、不思議はないだろうと述べた。質問、『リツル・ウィリー、スナパー、ジョー・ゼッコのことはどうかね? ひとつはっきりさせてくれ、マイク!』。返答、『連中を豚箱に放り込んじゃったんですか? だが、殺人なんかとは何の関係もありませんよ、警部。連中は、ただの用心棒なんです。そいつは、あんたの見込み違いですよ』。質問、『じゃ、君は、ドーンを狙ってるんじゃないかね、マイク?』。返答、『奴は生まれたての赤ん坊みたいに安全ですよ。俺が十一万ドルをふいにしたいなんて思いますかい? そんなことはありっこないですよ!』
結語。カーダイは、完全なアリバイを持っている。彼が昏睡状態にある間に、犯罪が行われたからである。ジョー・ゼッコ、スナパー、リツル・ウィリーも、事件当時病院内にいたというほかには、犯行に関連した証拠は何もない。彼らは、まったく事件と無関係である。
書記はこの報告書を丁寧にテーブルの上に置くと、軽く咳払いをして別の書類をとりあげた。
「このカーダイという男は、鰻みたいにぬらくらしているんだが、疑わしい節があれば、クイーン警部が泥を吐かせるでしょう」と総監が、ぶつぶつ呟いた。
「まあ! まあ!」と市長が押しとどめて、「まだ続きがあるんだから。つぎは誰の報告書だね?」
書記が読み始めた。
≪リューシアス・ダニング博士に関する報告書≫
ダニング博士については、午前十一時五分、オランダ記念病院の彼の部屋で訊問した。月曜日の夕刻、彼がサラ・フラーと密会したことを追求すると、動揺した模様であったが、それについて説明することを拒んだ。そして、その訪問はまったくの個人的な問題で、犯罪とは無関係であると主張した。ダニングを逮捕する証拠もなければ、理由も見当らない。サラ・フラーとの親交の程度について質問したが、不満足な答えを得ただけで、彼は『そんなに親しくない』といい、それ以上の説明を拒絶した。
その後、部下にダニング家のほかの者たちを調べさせたところ、ダニング夫人は、月曜の夕刻のフラーの訪問を、いつもの職務上の用件で来たものと思ったようである。エディス・ダニングは、サラ・フラーが家にいた三十分間、外出中であった。女中の証言によれば、彼女とダニング博士は、診察室に閉じこもって三十分ほど話し、それからフラーはドーン家へ帰っていった。
結語。要するに、さらに慎重に追求して、フラーとダニングの話の内容を知る以外に、とるべき手段はない。この話の内容を秘密にして語らないというだけで、事件に関係があるものと疑うべき理由も見当らぬ。フラーとダニングについては、目下監視中である。この件に関しさらに発展をみた場合は、報告書を送る。
「どうも仕様がないね」と市長が呟いた。
「あなたにはお気の毒だが、総監、一向に進展していないじゃないですか。このクイーンという人は、この事件を扱うほど有能なんですかね?」
区会議長は、椅子の中で身体をねじ向けて、「いくら古強者でも、奇蹟を期待するわけにはゆきません。事件が始まって、まだ三十時間しか経っていないんです。彼が手懸りを見落としているとは思えないが――」といらいらしていった。
「そればかりじゃなくて」と総監が口を挟んだ。「これはただの殺人とは、わけが違いますからね、市長、私は――」
市長は手をあげた。「次は誰かね?」
「エディス・ダニング」といって、書記はさっさと書類をとりあげると、冷静に読み始めた。
≪エディス・ダニングに関する報告書≫
月曜日の朝の彼女の行動については、手術前に数回にわたって病院に出入りしたけれども、これといった不審の点はなく、明らかに事件に無関係である。ミス・ダニングは、犯罪とその可能なる動機については、ダニング博士と同様、何も説明できなかった。彼女はハルダ・ドーンと親友であるとか、父とドーン夫人の間柄が、親しい口を利いたことがなかったという以外に、これといった供述をしなかった。
結語。この線からは、手懸りとなるべきものは得られそうもない。
「なんだ、話にならんね」と市長がいった。「その次のリストは誰かね? 早く読んでくれ!」
速記者は続けた。
≪ジェニー博士に関する追加報告書≫
ジェニー博士は、リッター刑事の報告によれば、月曜日の夜九時七分に、タレイトンの自宅に帰った。タクシーの運転手モーリス・コーヘンの言によると、彼をグランド・セントラル停車場で乗せてから、直ちにタレイトンへ直行するよう命ぜられたとのことである。ジェニーは、その後ずっと家に止まって、電話の応待をしたが、いずれも友達か職業上の知合いからで、故人についての話しばかりであった。
今朝(火曜日午前十一時四十五分)スワンソンについて彼に訊問を試みた。彼は再びスワンソンについて語ることを拒んだ。クイーン警部による質問、『ジェニー博士、あなたは昨晩、私の命令をわざと無視しましたね。あなたには市中から出ないよう言ったはずでしたが……あなたは、昨日の午前六時グランド・セントラルで何をなさったのですか?』。ジェニー博士の返答、『僕は市中から出はしなかった。シカゴ行きの切符を取り消しに駅へ行っただけだ。昨日、僕がシカゴへ行くといったら、君は行くなといったじゃないか。だから医学会議の出席を取りやめたんだ』。問、『それでは、切符を取り消しただけで、どこにも行かなかったんですか?』。答、『今いったとおりだよ。調べればすぐ解るだろう?』
ノート。直ちにグランド・セントラル駅を調べたところ、彼が証言したとおり切符の取り消しは事実であったが、その人相は、はっきりしなかった――切符売りが憶えていなかったのである。彼がほかの目的地行きの切符を買わなかったという主張の確実性も立証できなかった。問、『あなたは五時三十分に家を出て、六時に駅に着いたのに、九時過ぎまで家に戻らなかった……電話で楽に用が足りるのに、切符の取り消しに三時間もかかったというのはおかしいじゃないですか!』。答、『むろん、切符の取り消しには数分しかかからなかった。だが僕は駅を出てから、五番通りやセントラル公園の中を散歩したのだ。新鮮な空気が吸いたかったし、独りでいたかったのだ』。問『では、もしセントラル公園の散歩が本当なら、なぜ帰りにグランド・セントラルの外でタクシーを雇ったんですか?』。答、『帰りの途中で、あんまり疲れたからね』。問、『散歩中、あなたのお話を証明する誰かと会いましたか?』。答、『いや会わない』。
エラリー・クイーンによる質問、『あなたは理解力のある方でしょうね、博士?』。答、『みんなは、そういっているよ』。問、『当然そうでしょうね。それでは、こういう解釈に対しては、どうお考えですか?――つまり、犯人はあなたの扮装をするために、あなたが居てはまずいのでスワンソンと名のる男に面会させて、その間に扮装し、アビゲイル・ドーンを絞殺してしまった。スワンソンは犯人が逃げたと思われる頃合いを見計らって、あなたと別れた……こうした解釈は、あなたの理解力に訴えるようなものはありませんか?』。答、『それは単なる暗合に過ぎないよ! あの面会人は事件と関係がないといったじゃないか!』
スワンソンの身許を打明けないなら、証人として警察に拘留すると警告したが、ジェニーは、依然として沈黙したままであった。しかし、非常に心配そうな様子をしていた。
結語。ジェニーが、六時から九時まで街を散歩して時を過ごしたというのは嘘で、彼がどこ行きかの切符を買い、ニューヨーク近郊あたりを目指して乗車したのは、かなり確実なことである。我々は目下、同時刻頃発車したすべての列車の車掌、あるいは乗客のうちで、ジェニー博士を見かけた者を見出そうと努力している。しかし現在のところ手懸りはない。
ジェニー博士が虚偽の陳述をしたという決定的な証拠(彼が列車にのったということが確められれば、この証拠となるだろう)がない限りは、これ以上追求することはできない。また、たとえ虚偽の陳述をしたことが確かめられ、ジェニーを逮捕したとしても、スワンソンが姿を現わさなければ無意味である。ジェニーに対しては、彼を引き留めていた実際の証人であるスワンソンが出頭しないかぎり、どうすることもできない。
書記は静かに報告書をテーブルの上に置いた。市長と警視総監は、憂鬱そうに顔を見合せた。市長は溜息をつくと、肩をすくめた。「私も警部の意見に賛成したくなったよ。どの新聞もみんな騒ぎ立てているが、この際、慌てて不名誉な失敗をするよりは、無理しないで間違いのないようにやって貰いたい。君の考えはどうかね? サンプソン?」
「まったく同意見ですよ」
「私もクイーンの意見に賛成ですよ」と警視総監もいった。
書記はまた別のタイプライターの紙片をとりあげると、声高に読み始めた。
≪サラ・フラーに関する追加報告書≫
彼女への訊問は、はなはだ不満足な結果に終った。彼女は月曜の夜、ダニング家を訪問した目的を明らかにすることを拒絶した。彼女は半ば狂人である。返答は不明瞭で、聖書の文句をしきりに引用した。訊問は火曜日、午後二時ドーン邸で行われた。
結語。サラ・フラーとダニング博士は、事件に関連する情報を差し控えるために明らかに共謀したものと思われる。だが、これも立証する手段がない。彼女はダニング博士と同様、ずっと監視されている。
「この連中は、まったく信じられないくらい、何もいわないんだね」と区会議長が叫んだ。
「揃いもそろってこんなに頑固な証人にぶつかったのは、私も始めてですよ」と総監は呟いた。「まだあるかね、ジェーク?」
もう一つ報告書が残っていた。それはかなり長く、参会者の注意は直ちにそれに集中した。
≪フィリップ・モアハウスに関する報告書≫
彼については、やや興味ある進展をみた。検事局のラブキン検事補からの通知によれば、遺言検証係は今まで知られていなかった奇妙な事実を明らかにした。それは弁護士モアハウスによって、すでに提出されたアビゲイル・ドーンの遺書中の一項に、ある秘密な記録書類を破棄するように、弁護士に命じている点である。そして、遺言中に指示された記録書類は、弁護士の許に保管されていたものである。
本日午後、ドーン家において、ハルダ・ドーンと会っていたモアハウスに問い合わせてみた。クイーン警部は、その記録書類はすぐ破棄すべきものではなく、事件の調査に関係するかも知れないから、警察に提出するように警告したが、モアハウスは、すでに書類を破棄してしまったと冷やかに答えた。
問、『いつだね?』。答、『昨日の午後です。依頼人の死後、僕がやった最初の仕事ですよ』
クイーン警部は記録書類に書かれてある内容の説明を求めたが、彼は遺書の指示したとおり、書類の封を切らずに焼却したので、内容についてはまったく知らないと主張した。その書類は、モアハウスの父の時代から保管されていたものである。
こうした事情――殺人事件――の下において、警察と協議しないでこうした行動をとったことは、正しいことではないと非難したところ、モアハウスは、自分のとった行動は法律的に間違っていないと主張した。
「それは、いずれわかることだよ」と、サンプソンが鋭くいった。
ハルダ・ドーンに、この焼却された書類について訊いてみたところ、その内容についてはまったく知らないばかりでなく、そうした書類があったことさえ知らなかった。
結語。この件に関しては、まずサンプソン検事の事務所に質して、モアハウスの行為は法的に正しいかどうかを調べることである。もしモアハウスが、法律に仕える者として越権行為を犯していたならば、起訴し得る可能性が増え、起訴が不可能な場合は、弁護士会にこの問題の調査を求めるべきである。当局において二、三の異論があるが、この焼却された記録書類は、この事件の解決に、なんらかの関係があったということは、一般に信じられている。
「クイーン警部は、よほど応えたにちがいないよ」と検事は静かにいった。「彼がこんなに執拗な気質をみせたのは、僕が知合いになって以来始めてのことだからな」
「今日はこれだけにしよう」と市長がいった。「最善を尽しているんだから、落胆しないで明日を待つことにしよう、……ベストを尽して取調べを行ったクイーン警部の報告書には、私も満足している。新聞記者達には、今までの成果を直ちに発表し、知事にも報告しておこう。それでいいでしょうね、総監?」
警視総監は、太い首のあたりを、湿っぽいハンケチで拭きながら、どうにも仕様がないといったように頷ずくと、会議室の外へ前かがみになって出ていった。市長が机の上のボタンを押したのを合図に、検事や検事補も、重苦しい沈黙のうちに、後に従っていった。
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幕間――クイーン家の会合
クイーン警部の風邪は、エラリーが甲斐々々しく手当てをしたためか、火曜日の夕方になると、かなり良くなってきた。しかし彼の神経は痛めつけられ、ひどく気力を失っていたので、無理矢理にでも、なんとかなだめたりすかしたりして、老警部を寝かすことが必要だった。
エラリーは、ベリー巡査部長やドジュナの助けをかりて、やっとのことで老警部に、服を脱いで、ベッドに横になって休息するように説き伏せた。しかも、彼は休んでなんかいられなかった。間もなく警部は起きあがって、寝室と居間のあいだのドアを開いた。そこには、エラリーやサンプソン検事やベリー巡査部長やピート・ハーパーなどが集っていて、さかんに議論し合っていた。
みんなの驚きを尻目にかけて、パジャマにガウンにスリッパーといういでたちで、寝室に退いてから五分後には、この勇敢なる老勇士は居間の中に入ってきた。そして厳めしい沈黙のうちに、ストーヴの前に置かれた愛用の椅子を占領すると、退却についちゃ何も聞きたくないと頑固に拒絶した。
「世間なみのことをいっても駄目だね」とエラリーは、穏やかに笑っていった。「一晩中、眠っていられるような人じゃないんだよ……どう、お父さん、幾らか気分はよくなりましたか?」
老警部は不意に忍び笑いを洩らした。「もうすっかりよくなったように思うよ……ドジュナ、例のコーヒー・ポットを持ってきてくれ!」
ドジュナもにっこり笑うと、すぐ台所に消えていった。やがて、コーヒーの素晴らしい芳香がただよってきた。
「スワンソンの手懸りは、まだ何もないのかね、トマス?」
「一つもありません。やるだけやってみたんですが駄目でした。郊外一帯から、列車から、全部手配して調べてみましたがね。一体スワンソンという奴はどこにいるんですかね?」
「昨日の朝、彼が病院を出てからの足どりを当ってみたかい?」とサンプソン。
「みんなやってみたよ、ヘンリー」と警部は不機嫌そうにいった。「結局、何百万の市民の中から、一人の大して特徴のない男を捕えるんだから、そんなにたやすいことじゃないよ。郊外を調べる方が見込みはあるし、近道だと思うな」
「ところで、このスワンソンなる男は、まったく架空な人物かも知れないとは、誰も考えないのかね?」とハーパーが、もの倦げにいった。
エラリーは頭を反らして微笑すると、「相変らず新聞記者らしいな、考えてはみたがね。何か、それについては巧い説明がありますか、お父さん?」
「大した意見はないがね」と警部はいった。「エラリーも今朝、それと同じことを暗示したが、わしは本気でいってるんじゃないと睨んだが……」エラリーは、おどけたように頭を振って、「僕は本気じゃないとはいわなかったですよ」
「わしは根も葉もないことはいわん」と老警部はぶつぶつ呟き、「とにかく、玄関番のカッブをもう一度徹底的に調べてみたが、彼の証言には、全然疑わしいところはなかった。スワンソンは確かに存在するんだ」
ベリーは咳払いした。「差し出口を利くようですが、僕はどうも、みんながいい加減あきらめかかった頃に、スワンソンが顔を出すように思うんですがね」
警部が首を伸ばして、驚いたように部下の方を見詰めた。静かな微笑が彼の苦労でやつれた顔に浮かびあがった。
「うまいことに気がついたぞ、トマス! ちょっと考えてみよう……」
みんな黙って警部を見守った。ドジュナがドアを開けて、台所から入ってきた。彼は大きな盆の上に、湯気のたっているコーヒー濾過器と、数個の茶碗と、クリーム入れ、砂糖壺などを載せて運んできた。そしてそれをテーブルの上に置くと、すぐ戻って、ケーキを載せた大きな皿をもって現れた。まだ沈黙がつづいていた。その間に、ドジュナはコーヒーを注《つ》いでまわり、みんなはテーブルのまわりに椅子を引きよせた。だが警部は相変らずガウンにくるまって、ストーヴのゆらめく炎を凝視しながら坐ったままであった。
老警部は、突然、椅子の肘掛けを叩くと、さっと立ち上った。
「そうだ!」と彼は叫んだ。
「きっとうまくゆくぞ!」
彼は大急ぎでテーブルの傍の椅子に着いて、せわしなくコーヒーを啜り始めた。
サンプソンは、ひどく気がかりな様子をして「何をしようというんだね?」と訊いた。
老警部の眼は、持ちあげた茶碗の上で、きらりと鋭く光った。「明朝、このままの状態だったら、わしはジェニー博士を、アビゲイル・ドーンの殺人犯人として逮捕するつもりだ!」
*
警部はコーヒーを飲み終って、嗅ぎ煙草をとり出すまでは、一言も口を利かなかった。
彼は再び火のそばに椅子を引き寄せ、客たちに向ってストーヴのもっと居心地のよい席の方にくるように手招きした。
「こういうと気でも狂ったように聞えるかも知れないが」と、前置きして警部は一同が火のそばに集った時に口を切った。
「わしは、ジェニーに対して、立派に状況証拠を持ちだせると思うよ。その上、別の理由もあるんだ……
第一に、わしは自分の持ち札を、テーブルの上にひろげてみせよう。……わしの考えを君達に検討してもらいたい……反対意見があったら、どしどしいって欲しいな。ある観点からみれば、ジェニーは有罪のように思われる。この事件に関係のある連中は、いずれも充分な動機を持っているが、ジェニーは、そのうちでも最も有力な動機を持っていると思う。それは何かというと、金だ。いや――ちょっと、待ってくれ」と彼はサンプソンの唇から、何か反対意見が出そうになったのを、手をあげて黙らせると、「アビーの最初の遺書によると、ジェニーには二つの遺産――つまり巨額にのぼる個人宛の分と、幾分少ないがかなりな額の研究費の分とがあることを忘れないでくれ。
だが、むろんジェニーの動機が、すべて金にあるとは思わない。わしのいうことを誤解しないでくれよ」と、彼は落着いた声でいって、「なぜなら、彼はただ金だけのために人を殺すような人間のタイプじゃない。ある面では、ニーゼルとそっくりの男だ。名声が揚がらなくちゃ、科学者として通用しないんだな。たとえば、あの合金のことをとりあげてみよう。ジェニーは、あの研究の成果が何百万ドルになるなんていうことには関心がないが――ただ名声だけはね? 彼が欲しているものはこれなんだ。
だが名声を得るには、まず金がいるんだ。つまり彼が成功するまで研究をつづけてゆけるだけの金が入用なんだ。彼は自分の貯えを使い果してしまったから、唯一の望みは、ドーン夫人が財政的に面倒をみてくれるということだけだ。それが、突然、女の気まぐれから、アビーが援助を中止してしまったので、彼らの研究は失敗に直面することになった」
一同は固唾をのんで、警部の言葉を聞いていた。エラリーは、じっと父の唇を見つめていた。
「そうなると、心理学的にみてどんな影響を受けるだろうか」と老警部は早口に続けた。「ジェニーのような男にとって? 彼やニーゼルにとっては、かけがえのない名声を得るためには、年老いた病的な老婦人の生命だけが邪魔になってくるんだ。それに毎日死人を取扱っている男にとって、糖尿病で、もう役に立たなくなった一老婦人の生命なんか問題じゃないだろう? それに、アビーは病弱であるが、生きているかぎりは、実験の完成がみすみす手間どってしまうのだ。しかも夫人が死ぬまで待っていたんじゃ、仕事が危険になるかもしれない。特にジェニーの遺産の一つが除かれる新しい遺書に署名されると、すぐに金にならない個人宛の分だけになってしまう。こうしたことは、ジェニーにとって、以前の恩人でさえも殺害しようという、有力な動機になりはしないかね?」
「うまい着眼ですね」とエラリーが呟いた。「続けて下さい、お父さん」
「いいかい! これで動機は解ったわけだ――ほかの連中より、ずっと有力な動機だ。じゃ、今度は別のことを考えてみよう。ジェニー自身の心理はどうか? 彼はアビー・ドーンの被保護者であり、親しい友であり、係りつけの医師であり、しかも最も恩義を蒙った者だ。こうした男が、自分の恩人を殺すなんて、誰も思うはずはないだろう……ジェニーの奴は、自分の盾になるこうした心理を抜けめなく考えてやったんじゃないかね!」
サンプソンは興奮していった。「憎むべき陰険さだが、公判で頭のいい弁護士の口にかかったら、いいカモにされるだろうね」
「さて、今度は機会の観点から、こいつを調べてみよう」と警部は続けていった。「アビーは病院で絞殺されたのだ。それで、彼女を殺そうと計画したら、病院の規則とか習慣をよく知っていなければならない。そうなると、あらゆる点からみて、ジェニーよりも有利なポジションにあった者があるだろうか? 誰もないよ。病院内における彼の地位からいっても、彼は自分のプランに、ぴったりするように、状況を作ることができたのだ……」
「スワンソンは? むろん共犯者だ」と警部は意気揚々として続けた。「なぜ、ジェニーが彼について一言も喋べらないか? 彼は秘密を握っているからだよ。ジェニーは、きっとスワンソンについて、我々がこんなに追求するとは思っていなかったに違いない。我々は彼自身やカッブの言葉を信じて、スワンソンは、犯罪が行われた間に、たまたまジェニーと会っていた普通の面会人と考えた。そうなれば、ジェニーは証人を作るまでもなく、完全なアリバイも得ることになるからね」
「薄弱だな」という声が、ほとんど聞きとれない位であったが、エラリーの椅子の方から洩れてきた。
「何だと?」警部はエラリーの方に向き直ると、詰問するようにいった。
「どうも済みません、お父さん」とエラリーは後悔したようにいった。「どうか、続けて下さい」
クイーン警部は嗅ぎ煙草を嗅いだ。「とにかく、スワンソンのことはしばらく措くとして、ジェニーの仮説の最も賢明なる点について考えてみよう……というのは――ジェニーは、アビー・ドーン殺害に当って、自分自身に扮装したということだ!」
サンプソンはすっかり吃驚し、ハーパーは膝を叩くと、面白そうに笑い始めた。警部もにっこりして、「どうやらわしの考えが分ったようだね……いいかい、このジェニーという奴は、頭のいい男だ。彼はきっと警察じゃ、こういうだろうと想像したのだ。
『ここに犯人がいたとする。彼はジェニーのような服装をし、ジェニーのような様子をし、ジェニーのように跛をひいている。彼はジェニーと見間違えられるように姿を現わす。わざと手懸りを残すような馬鹿者はあるだろうか? ありっこない! アビー・ドーン殺しの犯人は、ジェニーに扮装した誰かであって、ジェニー自身ではあり得ない!』
さて、彼自身が扮装した着衣は、本当の変装者がいたかのように見せかけるために、都合のよい場所に落として置いたんだ。彼は非常に巧く自分の証跡をごまかした。スワンソンを見張らせておいて、部屋から抜け出して、仕事をやってのけ、電話室の中に着衣を投げ込んでから、自分の部屋へ帰ったのだ。パイを食うみたいに簡単じゃないか。スワンソンの話の辻褄を合せるために、彼は実際に小切手をやったんだ。その証拠はちゃんとあるんだ。君はその写しを持っているな、トマス?」
「ええ、確かに」と大男は太い声でいった。「その小切手は交換所から、今日の午後に廻ってきたんです。T・スワンソンと裏書してありました。そいつの裏表を写真にとって、またすぐ返してやりました」
「そうすると、つまり」と警部はいった。「彼の名前と、筆蹟がわかったわけだね……じゃ、これからどうしたらいいと思う?」
「ジェニーに極めてよく似た人物が」とサンプソンは、注意深くいった。「控室に入ってゆくところを見られて、疑いもなく殺人が行われたという事実は、有力な証拠になるね。そしてジェニーが、これをくつがえすには、たった一つの方法があるわけだが……」
「もちろん、スワンソンを証人にすることによってだよ」とハーパーはもの倦げに答えた。
「だがね、もしジェニーが警部がいわれたとおりに、アビー・ドーンを殺したんだったら、スワンソンの住所を喋べらないで、自身の嫌疑を深めるよりは、どうして自分のアリバイを証明するために、スワンソンを引合いに出さないんだろうな?」
「そいつはもっともな質問だね」と警部はいった。「確かにおかしいよ。それは大分、気にしていたんだ。――わしの論旨の唯一の弱点なんだ。……しかし、論旨の強弱なんていうことよりも、ジェニーに関するかぎり、すぐにでもスワンソンを見つけなくちゃならない。それで、ジェニーを逮捕すれば、うまくゆくだろうと思うんだ――彼を餌にするんだよ……ピート、ここで一つ君に一役買ってもらいたいのだが」
「僕が?」ハーパーは慌てていった。「あんまりおどかさないで下さいよ! 何をしろというんですか――早くおっしゃって下さい!」
老警部は無造作にいった。「わしが君に特種《スクープ》をやるんだよ、ピート」
「それじゃ」と新聞記者は飛びあがって叫んだ。「ジェニーを逮捕しようとしているから、それについてスクープする機会を僕にくれるんですね?」
「そうだよ。まあ、坐れ、ピート。だがそれは愛他主義ってわけじゃないよ。君の新聞の第一面にだな――確かな筋から得た情報によれば、ジェニー博士は、ドーン夫人殺害の科で明日中には逮捕されるという記事を載せて欲しいんだ。すぐやってくれないかな――そうすれば、今夜中に刷り上って、第一版に間に合うだろう。というのは、スワンソンにその記事を読ませたいからだ!」
「そいつは、離れ業だな、クイーン! 奴が食いつくと思うかい?」
警部は痩せた肩をすくめた。「そいつは分らない。もし奴が郊外のどこかに、住んでいるんだったら、きっと市中で働いているに違いない。だから、今夜その記事を読まなくたって、明朝は読むだろう。うん、わしも賭だと思っている、だが見込みがあると思うよ。
わしはジェニーを逮捕する前に、スワンソンを引張り出したいんだ。そして彼を調べた挙句、彼が潔白であって、二人とも無関係だという確信を得た場合には、ハーパーの新聞は、すぐにその発表を撤回して――誤報に基づいていたといえばいいじゃないか。わしが何とかするから、新聞の方はそんなに問題にはならないよ。
スワンソンが共犯であるかないかは、その記事が出たら解るだろう。なぜなら、ジェニーが罪を犯していれば、彼はスワンソンのアリバイを至急必要とするし、スワンソンもそのことを知っているからだ。スワンソンさえ出頭してくれば、むろんジェニーを捕えるわけにはゆかない。彼のアリバイは完全になるからだ」
ハーパーは叫んだ。「ちょっと失礼するよ!」そして寝室に駈けこむと、電話で新聞社を呼び出す彼の興奮した声が聞えてきた。彼はもじもじした白髪を振り乱して、満面に笑みを湛えながら、帽子と外套をぶらさげて再び姿を現わした。
「すぐ報告にゆくよ」と彼はいった。「こいつはとても電話じゃいえないや。あとのことはよろしく頼むよ、警部、僕は君の本当の親友なんだからな!」そして彼は風のように去っていった。
*
「あんまり口を利かんようだね」と警部は微笑していった。
「ええ、考えごとをしていましたからね」とエラリー。
「何をだい?」
「本当にジェニーが殺《や》ったなんて思ってやしないでしょう」
老警部は大きな声で笑った。それでサンプソンは妙な顔をして父から息子の方に眼を移した。「わしは、ただスワンソンを見つけたいんだよ」
エラリーは椅子の背に首をゆったりともたれながら、「あなたはスワンソンを待っている重たい懐中時計ですね」と彼はいった。「スワンソンは歯車の一つの歯ですよ。大きなからくりです。今までのところ、多分この事件で最も重要な人物です」
「じゃ訊くけど、エラリー」とサンプソンは眉をひそめていった。「君はちゃんとした理由なしに結論を下したりしない男だ。ジェニーがアビーを殺したんじゃないと、君が考える理由は何だね?」
「もし僕が君にわけを話したら」と彼は笑いながらいった。「君も僕と同じように思うだろう……ジェニーがやったんじゃないと、いいかい、そして僕がいまはその理由を喋べることができないといえば、君は僕のこの言葉どおりに信じてくださるべきですよ」
「まあいいさ、それがこいつの遣り方なんだよ、ヘンリー」と警部が深い息をついていった。「すっかり準備が整うまで、何も聞かん方がいい」
「そうですよ」とエラリーはおとなしく呟いた。
「明日になれば、いずれ話が分るだろう……ところであのモアハウスだが――わしはあいつの首を捻じってやりたい。あの書類を焼却するなんて随分馬鹿なことをやったものだ。まんざら低能にも見えないが。ヘンリー、君はあいつをどうするつもりだい?」
「君のいうとおり何とかするが」とサンプソンはすぐに答えた。「でも、彼は評判は悪くないからね、もう少し待った方がいいかも知れない……」
「もし、あの若者を捕まえようものなら」とエラリーはいった。「さる令嬢の心臓は破裂しちゃうでしょう。しばらくフィリップは放っておくんですね。僕に考えがありますから」
「ほう、そうかい」と警部は不満そうにいった。「だが、どうも腹の虫がおさまらんね……それから、あのフラーという気違い女のことも。ダニングと彼女の話の後ろには何があるんだろうな? いつもアビーと彼女が口喧嘩していたということなんかも、どう考えたらいいんだろう? みんなばらばらなんだ……」
「まあ、少しずつよくなってゆくよ」と検事は立ち上りながらいった。「明日はかなり興奮する日になるだろう」
警部は彼の腕をとって押しとどめると、「まあ待てよ、ヘンリー。エラリー、珍らしくずっと口を利かないが、こうした混乱について何か考えを聞かしてくれ」
「僕は悪鬼ともいうべき犯人について、かなり適確な説明ができます」
「何だって!」
クイーン警部は椅子から飛びあがった。ベリーは頤をつき出し、サンプソンは、化け物にぶつかったように、エラリーに眼を見張った。
エラリーは微笑した。「事実、僕はこの犯罪についちゃ、ほとんどすべてのことがいえますよ――ただ名前だけは!」
「だが――しかし」とサンプソンは口ごもって、「そいつは誰だ?」
エラリーの眼は曇った。「正直なところ、まだいえないんです。あんまりぼんやりしているんで」
サンプソンとベリーと警部は、互いに唖然として顔を見合せた。「じゃ――どんなことを基礎にして、そんな結論に到達したんだ」と警部はせかせかといった。
エラリーは肩をすぼめると、煙草をとり出した。「極めて単純なことです。純然たる観察と推理の問題ですよ。……僕のデータは、ほとんどあの一足の靴から集めたんです」
[#改ページ]
第二部 整理棚の消失
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君は|丸太の押合い《ロッグ・ジャム》を眺めたことがあるだろうか? それにはキイアーレンの大森林を流れている河へゆくとよい……切り倒されたばかりの丸太が、河に投げ込まれる。そして流れの工合で、河底に沈んでいる木と衝突する。おびただしい丸太が先を争っているが、流れてゆくことができない。ためらったり、ゆらめいたり、崩れたりしている。そして互にぶつかり合っては、驚くべき迅速さで滅茶苦茶な材木の砦をつくりながら、やがて丸太の山ができあがる。
すると材木|伐《き》り出し人は、混乱《ジャム》のもとになっている丸太を――材木の波をせきとめている丸太を――一言にしていえば解決の|鍵になる丸太《キイ・ロッグ》を見つけようとする。おお! 彼はそれを発見する。力一ぱい引張ったり、捻ったり、引いたりする――それは飛び出し、逆立ち、矢のように流れ去る。すると材木の壁は崩壊し、恐ろしい勢いで河を流れ下ってゆく……
複雑な犯罪調査というものは、時にはこの丸太の押合いみたいなものである。われわれの丸太は――われわれの手懸りは――解決の方にむかって進んでゆく。突然に――一つの混乱にぶつかる。われわれが困りきってしまうほど、意地の悪い結び目はもつれてゆき、悩ませるものである。
それから材木調べの探偵は、鍵になる丸太を見つけ出す。そら見給え! 手に負えなかった混乱が解けかかり、速かに流れの列に続々連なって、すっかり明るみに出てから、遠い製材所――解決に到達する。
スウェーデンの犯罪学者
グスタフ・イェーテボリ博士
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十九 行先
水曜日の朝、クイーン警部は、警察本署の自分の机に着いていた。彼は眼の前に朝刊をひろげていた――初号ゴチックの大見出しで、「殺人の嫌疑」によりフランシス・ジェニー博士の逮捕は目前に迫っている、と報じ――この外科医がアビゲイル・ドーンを絞殺した科によって捕えられようとしているという意味のことを、デリケートな文章で伝えようとしていた。
警部は何となく物足りないように感じた。彼の明るい小さな眼は、心配そうな光をたたえて、ピート・ハーパーによって書かれた記事を再三読み返しては、口髭を噛んでいた。電話のベルが絶えず隣室で鳴りひびいていた。だが老警部の机の上の電話は、慎重に沈黙しつづけていた。彼は署内の者以外に対しては、「外出中」ということになっていた。
新聞記者たちは、警察の大きなビルディングの付近に、夜どおしたむろしていた。「アビー殺しでジェニーがふん掴まるってのは本当ですかね、警部? 誰もそんなこと知らないようですがね。少くともその問題を誰も話していないようですね」
警視総監も市長も、火曜日の夜遅く、警部によってそのプランを内報されているので、新聞社に対して沈黙を守っていた。
午前九時に、警部はジェニー博士から、特別電話で呼び出しを受けた。ジェニーは警部へつないでくれといったが、部長刑事のデスクに切換えられてしまった。そして、警部は目下会議中で、取次ぐことができないと、体よく断られた。ジェニーは口汚く罵った。彼は朝じゅう悩まされどおしで、新聞記者には執拗に会見を求められるし、憤慨しきっていた。
「一言いってくれ」と彼は電話にむかってがみがみ怒鳴った。「新聞の報道は本当なのかね?」ジェニーは病院の私室に引込んで、誰にも会いたくないといった。彼はとても怒っていた。彼の声は聞きとりにくく、はっきりしなかった。受話器をがちゃんと掛ける音が、部長刑事の耳にひびいてきた。
この会話の内容は、警部に伝えられた。彼は苦笑すると、ベリー巡査部長に命じて、オランダ記念病院の中に、新聞記者達を入れないように手配した。
彼は検事を電話で呼び出した。「スワンソンは、まだ何ともいってこないかね?」
「まだ姿を現わさないよ。でも、もうじきだろう。奴が姿を見せたらすぐ知らせるよ」
しばらく間をおいてから、警部は、とげとげしい口調で、
「ヘンリー、あの小生意気な若僧のことだがね。わしが勧告したことを考えてみてくれたかい?」
サンプソンは軽く咳をした。「僕はね、クイーン、君のいうことだったら、ぎりぎりのところまでやるつもりだよ。わかってるだろう。だが、あのモアハウスのことは放っといた方がいいと思うんだがね」
「なんだ、君は態度を変えたのかい、ヘンリー」と老警部は苦がい顔をした。
「いや、そんなことはないよ」とサンプソンはいった。「でも始めの熱がさめてから、一わたり状況を考えてみると……」
「それから、どうしたね?」
「クイーン。彼は法律的に絶対正当なんだよ! アビーの遺書にある例の箇条は、彼女の財産に関するものではなく、個人委託に関するものなんだ。個人の委託なら、モアハウスは書類を焼却するために遺言検証が通過するまで待つ必要はないわけだよ。まったく別問題なのさ。君はあの書類が個人委託のものだということを知らなかったんだろう?」
警部は不服そうにいった。「あの書類になにかの証拠が含まれていたことを、わしに立証しろというんなら、そいつはできない相談だ」
「どうも、済まんがね、クイーン。僕には手の打ちようがないんだよ」
彼が電話を切ってしまってから、警部はハーパーの新聞を丁寧に机の上に置き、巡査部長のベリーを呼んだ。
「トマス、電話室で発見した例の布靴を持って来い!」
ベリーは頭を掻いて、靴を持ってきた。
老警部は、それを机のガラス張りの上に揃えて置くと、つくづく見詰めていた。そして眉をひそめて、ベリーの方を向くと、「こんな靴から、何か手懸りが掴めるかい、トマス?」
大男はがっちりした頤をさすった。「そうですね、靴紐が切れたので、誰かが絆創膏で継ぎ合わしたということぐらいですが」
「うむ、だがそれくらいのことでも、わしには分らんくらい重大らしいんだな」と警部は面白くなさそうな顔をした。「エラリーは喋ろうとしないんだよ。何か重大な意味があるんだな。ここへ置いといてくれよ。わしにも何か素晴らしいことがわかるかも知れない」
一見何でもないように見える、二つの白い布靴を前にして考え込んでいる警部を残して、ベリーは部屋から出ていった。
*
エラリーがやっとベッドから這い出して、顔を洗い終った時、ドアのベルが鳴った。ドジュナに案内されて、背の高いジョン・ミンチェン博士がふらっと入ってきた。
「やあ! 君は日の出を眺めたことがあるのかい?」
「まだ九時十五分じゃないか。僕はほとんど夜どおし考えていたんだよ」
ミンチェンは改まった顔をして、椅子に腰をかけた。「僕は病院に出勤する途中なんだが、今朝の新聞の、ジェニーが逮捕されるということについて、聞いてみたいと思ってね」
「どこの新聞だい?」とエラリーは、卵に食いつきながら、知らん顔で訊いた。「どうだい、君も?」
「ありがとう――朝食は済んだよ」ミンチェンは彼を鋭い眼ざしで見詰めた。「じゃ、君は知らないんだね? ジェニーが老夫人を殺した容疑で、今日逮捕されるだろうと報じているんだよ」
「へえ!」とエラリーは、トーストの一切れを、ばりばり噛みながら、「現代のジャーナリズムというやつは、確かに驚嘆に値するね」
ミンチェンは悲しげに頭を振って、「今日の情報じゃないと思うね。でもあんまり馬鹿々々しすぎるよ、エラリー。ジェニーは気違いみたいに怒ってるにちがいない。恩人を殺したなんて!」彼はきちんと坐り直すと、「ねえ、君! 僕だって幾らか汚名を蒙《こうむ》るんじゃないかね?」
「どうしてだい?」
「ほら、あのジェニーと共同で書いている先天性アレルギーに関する例の本のことを、新聞社に気づかれたら、とてもやりきれないことになるよ」
「ああ、そのことか!」とエラリーはコーヒーをすすって、「心配することはないよ、ジョン。ジェニーのことは、しばらく忘れるんだな。――彼は大丈夫だろうよ……君達は、その素晴らしい著述にどの位かかってるんだい?」
「まだ始めてから日が浅いけどね。実際に書くということは、大したことじゃないんだ、ただ病状記録が問題なんだよ。それを集めるのに、ジェニーは数年かかっているよ」
エラリーは唇を丁寧に拭いた。「ところで、その仕事の、費用はどうしているんだね? 共同負担かい?」
ミンチェンは顔を赤らめた。「彼はそういってはいるが、恥ずかしいけど僕より余計に出している……ジェニーは僕にはとても親切なんだよ」
「そいつは愉快だ」エラリーは立ち上ると、寝室の方へ行きかけて、「五分で着換えるからね、ジョン、一緒に病院へ行こう。じゃ、ちょっと失礼するよ」
彼は隣室に姿を消した。ミンチェンは立ち上って、居間の中をぶらぶらし始めた。
「おい、ジョン!」と寝室からエラリーの声がした。「君はダニング博士とは、永いつき合いなのか?」
「病院に来てから知りあったんだが、なぜだい?」
「いや、なに……あのペニニについちゃ、何か面白いことを知らないかね?」
「あまり知らないね。そんなに親しくしてないからね。彼女にはどこかに夫があると思うんだが」
「へえ? で、彼の職業は?」
「さあ。僕は彼に会ったこともないし、ペニニに訊いたこともないんだ」
「ニーゼルとは懇意かい?」とエラリーの声。
「全然つき合わないよ。彼は仕事の鬼でね。研究室の中が、彼の人生さ」
「彼とアビー・ドーンの仲は?」
「ジェニーを通して数回会ったと思うが、そんなに親しくないと思うな」
「エディス・ダニングについちゃどうかね? 彼女はガルガンチュア〔貪欲な巨人〕と仲好しかな?」
「ヘンドリック・ドーンのことかい? おかしな質問だな、エラリー」とミンチェンは笑った。「どう考えても、あの若いビジネスライクなフラッパーが、ヘンドリックに抱かれている図なんて想像できないね」
「そういうもんかな?」
「君があの二人に何か関係があると思ってたら、よほどどうかしているよ」
「そうかい、ドイツにこんな格言があるのを知ってるかね」とエラリーは、くすくす笑いながら、すっかり身仕度をして廊下に姿を現わした。「『胃袋は、あらゆる芸術の主人なり……』。おい、帽子と外套とステッキをとってくれよ。じゃ、出掛けるかな」
二人は軽い日常のむだ話をしながら、ブロードウェイの舗道を歩いていった。エラリーは、もうドーン事件について話そうとしなかった。
エラリーは突然足を停めた。「そうだ、ウインナの犯罪の本を、書店にとりよせてあったんだっけ。今朝とりにゆく約束をしたのを、すっかり忘れちまった。何時だろう?」
ミンチェンは腕時計を見た。「ちょうど、十時だ」
「このまま真直ぐ病院へゆくんだろう?」
「うん。君が本屋へ寄るんだったら、僕は失敬するよ」
「そうか。じゃ、三十分ほどしたら、病院で会うことにしよう」
二人はそこで別れた。エラリーは急いで本屋の方に歩いてゆき、ミンチェンはタクシーを拾った。彼のタクシーは、曲り角を大きく曲ると、東の方を目指して走っていった。
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二十 降参
「彼がやって来た!」
警視庁の通信網が、こんなに緊張したことはなかった。水曜日の午前九時三十分を少し過ぎた頃、すらっとした痩せぎすの黒い服装の男が、センター・ストリートを歩いて警察本署の前を過ぎ、きょろきょろと建物の番号を注意しながら進んできた。彼は百三十七号の建物の前にくると、黒い外套をきちんと整えて、その黄いろい煉瓦の建物の中へ入っていった。
謎のような、正体不明のスワンソンだった! 彼は百三十七号の建物の七階で、エレベーターを降りると、二人の刑事が両横にぴったりと付き添った。そしてサンプソン検事の事務所の中に消えていった。
十分後、九時四十五分、サンプソンは、さまざまな顔がぐるっと注視している中央に坐らせられた。彼をとり巻いているのは、検事とチモシー・クローニン、秘書、数人の助手たちであって、超自然的な機敏さで姿を現わしたクイーン警部も、かすかに微笑を浮かべて見守っていた。巡査部長のベリーは、例によって無愛想にむっつり控えていたし、警視総監も固唾をのんで坐っていた。
この時までに、この新来者がいった言葉は、「僕はスワンソンです」という一言だけだった。
スワンソンは、周囲に集まった取り調べ人たちを見廻しながら、落着き払って坐っていた。彼は青い眼と黒っぽい睫毛をしており、髪は薄くなったブロンドで、とり立てていうほどのこともない、平凡な顔立ちであった。
検事が口を開いた。「スワンソン君、今朝、なぜここへ来たんだね?」
スワンソンは驚いたようだった。「僕が出頭するのを望んでいらっしゃると思って」
「ああ、それじゃ新聞を読んだからなんだな?」と、サンプソンはすかさず訊ねた。
彼は微笑してみせた。「ええ、そうなんです……。すぐ判っていただけることなんですが。でも、第一に――当局では僕を探しているという記事が出たのに、どうして出頭しなかったかということで、僕を疑っていらっしゃると思いますがね……」
「それが分っていればよろしい」とサンプソンは、冷やかに彼を見詰めて、「君にはいろいろ説明して貰わなければならないよ、スワンソン。市では君のために随分費用を使ったんだ。ところで、何て弁解するんだね?」
「そんな弁解するようなことじゃありません。ちょっとごたごたしていたんです。僕にとっては、悲劇を意味するようなことでした。今日までに出頭できなかったのは、ちゃんとした理由があることです。それに、ジェニー博士がドーン事件に関係しているなんて、まったく信じなかったものですから。それに、新聞だって、そんな事実を暗示してはいなかったし……」
「まだ説明になっちゃいないね」とサンプソンは辛抱強くいった。「君の隠れていた理由を聞きたいんだよ」
「それはよく分ってます」スワンソンは、考え込むように絨氈に眼を落した。「僕はジェニー博士が殺人容疑で逮捕されようとしているという事実がなかったら、今日だってここへ来はしなかったんです。僕は彼がやったんじゃないということをよく知っていますからね。彼がはっきり無罪だと判っていながら、逮捕させるなんていうことは、僕としてはできませんからね」
「月曜日の朝、十時三十分から十時四十五分まで、君はジェニーの部屋にいたのかね?」とクイーン警部が訊いた。
「そうです。彼の供述は絶対に正しいのです。僕は金を少しばかり借りにいったのです。僕たちは、ずっと彼の部屋にいました――二人とも、部屋から一秒も出ませんでしたよ」
「ふむ」サンプソンは、じろじろ彼を眺め廻した。「随分簡単なんだね、スワンソン君。そんな大して重要でもない証言を調べるために、当局が躍起になっていると思うのかい」
「ジェニーは何のために君をかばったんだね?」と警部が不意にいった。
スワンソンは、当惑しきって腕をあげると、「どうせ分ることですから、早くいっちゃいましょう……僕は本当はトマス・スワンソンじゃありません。僕はトマス・ジェニーで、――ジェニー博士の息子です」
*
話が複雑になってきた。トマス・ジェニーは、フランシス・ジェニー博士の継子であった。博士の先妻には子供はなかったが、再婚した二度目の妻が、トマスの母であった。そしてトマスが二歳だった時に博士が法律上、彼の父になった。彼の母は、それから八年経って死亡してしまった。
トマス・ジェニーは、第二のジェニー――外科医になるように、最初から教育された。それは博士にとっては自明のことだったのである。
「僕はあの頃のことを、よく覚えています」と彼は口籠った。「学校の成績も良い方で――クラスでも首席に近いところでした――でも、酒を飲んで、父がくれた学費を、すっかり賭博ですっちまいました」
ジェニーは、こうした若気の過ちには寛大であった。彼はこのやくざな青年を、さまざまな教育期間を通じて堅実に指導していった。そしてトマスが卒業すると、オランダ記念病院の実習生にした。
「そういえば、アイザック・カッブが、見たことのあるような顔だといっていたっけ!」と警部は独り言をいった。
彼は永い間真面目に勤務した。そしてトマス・ジェニーは父の導きで、オランダ記念病院の外科の正式スタッフになった。彼はしばらくの間は、よくやっていた。
「それから、とうとう失敗しちゃったんです」と彼は力なくいった。「五年前の――今頃のことでした。つい、羽目を外したんです。また飲み始めました。そして、ある朝のこと、少々酔い加減で手術をやったんです。僕の手は、大事なところで顫えました。ナイフがずっと深くささって……患者は手術台の上で死んだんです」
誰も口を利かなかった。前外科医は、仕事や、計画や、青春の夢が、一挙に崩れ落ちた恐ろしい瞬間のことを、ありありと思い出しているようだった。その悲劇を目撃した者は三人あったが、その時は、医師の不文律のおかげで病院の外に洩れないで済んだ。それから、ジェニー博士自身が、その失敗をドーン夫人に伝えた。老夫人は仮借しなかった。この若い外科医は出て行かなければならなくなった……
彼は仕方なく辞職した。そして彼の継父《けいふ》のあらゆる努力の甲斐もなく、その噂はひろまって、あらゆる病院が彼を敬遠してしまった。華やかなこともなければ、評判にもならないうちに、彼は医師の免状を失ったのである。トマス・ジェニー博士は、ただのトマス・ジェニーになってしまい、それで自衛上母方の姓を名のってトマス・スワンソンと改名したのであった。
彼はニューヨーク市から、郊外のポート・チェスターに引越した。そして継父の名声と広い知己のおかげで、保険勧誘員として立つことにした。彼は酒をやめた。恐ろしい経験は、つくづく自分の愚をさとらせたのだ、と彼は告白した。だが、それはあまりにも遅すぎた。罪を償って、もとの医者として立つことは永久にできなくなったのだった……
「僕は誰も責めているんでもありません」と彼は苦しそうにいった。「老夫人は正しいと思うとおりにやったまでですし、父だってそうです。父にとっては、医術は世界と同じですからね。父はドーン夫人の信任を得ていますから、恐らく僕を救うことだってできたでしょう。だが、それでは父の厳格な良心が許しません。それに、僕にとって必要な苦い教訓だと思ったのでしょう……」
ジェニー博士は、息子の過失のために、プランも希望も無惨に打ち砕かれてしまったが、決して彼を咎めようとしなかった。彼は隠れて、息子の新しい仕事や、新しい生活のことを心配し、助けてやっていた。彼は、もしトマスが酒を止めて真面目な人間になるんだったら、ずっと親子の関係は変らないだろうと、はっきり約束した。彼は依然としてジェニーの相続人であり、ほかの誰でもなかったのである。
「それが父のやさしいところなんです」と前外科医は呟いた。「本当の息子だって、これ以上のことはできません……」
彼は口をつぐむと、長い指に力をこめて、いらいらと帽子の鍔《つば》を折りまげた。
サンプソンは軽く咳払いをして、「むろん、今のお話は、事件とは関係のないことだが、スワンソン君、ジェニー博士が、君のことを喋べるのを拒絶した理由がよく判ったよ。そんな古いスキャンダルが……」
「そうなんです。そんなことが知れると、五年間、真面目にやってきたことが駄目になるし――仕事も失敗するし、昔の失敗が世間に知れわたると、父の信用にもかかわりますし、どちらにしても……」ジェニー博士が警察に対してスワンソンを見出す手懸りを与えたら、古傷を暴かれるのは免れがたいことであった。それで二人とも、このことを非常に怖れたのであった。
「でも、こんな」とスワンソンはいった。「恐ろしい容疑に父が捲き込まれたのがわかると、とても自分勝手なことを考えていられなくなって……僕はジェニー博士の容疑を晴らしたいと思ったのです。
僕が月曜日に父を訪ねたのは、少しお金を借りるためでした――二十五ドルです――仕事の方がちょっと景気が悪くて、四、五日しのぐのに必要だったのです。父は――いつものように、気前よく五十ドルの小切手をくれました。それで病院を出ると、すぐ現金に換えたんです」
彼の眼には、無言の抗議があった。警部は、嗅ぎ煙草入れのすりきれた褐色の表面を、憂鬱な顔をしていじくり廻していた。警視総監は、がっかりした様子で椅子を離れると、部屋から出ていった。
スワンソンの声は、彼が再び口を開いた時、なんだか自信がない調子になっていた。お分り下さいましたか、と彼は臆病そうに尋ねた。そして、もし得心がいったら、彼の本当の身元を新聞社に隠してくれれば、非常にありがたく思うだろうと彼はいった。
「君はそんな古傷を心配しなくてもいい、スワンソン君」と検事は困ったようにいった。
「今日の陳述で、もちろん君の義父の嫌疑は晴れたよ。そんな完全なアリバイがあれば、逮捕されることはない。だから今の話が表沙汰になることも絶対にないだろう、ねえ、クイーン?」
「そりゃ、今のところはね」クイーン警部は一つまみの嗅ぎ煙草を嗅いだ。「スワンソン君、月曜日の朝以後に、ジェニー博士に会いましたか?」
彼はちょっとためらって、苦い顔をしたが、案外あっさりした表情で顔をあげると、「今さら隠しだてしても意味がありませんから」といった。「僕は月曜の朝以後、父に会いました。父は月曜日の夜、こっそりポート・チェスターに訪ねてきました。どうも、こんなことはいいにくいことなんですが……父は僕が捜査されていることを心配したんです。それで僕を西部のどこかの町へでも移転させたかったのです。でも警察が、父の沈黙にどんなに腹を立てているかということを聞くと――自分だけ鞄を持って逃げるなんてことはとてもできませんでした。いずれにしても、父も僕も事件には関係がありません。それが逃げたりすれば、かえって罪を認めたものと考えられる惧れがあります。で、僕は断ったのです。それから父は帰りました。そして今朝――僕は早朝、市中へ出て来ますと、あの新聞記事にぶつかったんです……」
「ジェニー博士は、君がここへ出頭することについて知っていますか?」と警部が訊ねた。
「いいえ、知りません!」
「スワンソン君」老警部は、前外科医を穴のあくほど見詰めた。「君は今度の事件で、何か思いあたることはありませんか?」
スワンソンは頭を振った。「僕には皆目見当がつきません。それに僕は老夫人をよく知りません。夫人が父のためにいろいろ援助していた頃は、僕は子供でしたし、青年時代は学校に行っていましたし、でも夫人を殺したのは、確かに父ではありませんよ。僕は――」
「いや、分りました」警部はサンプソンの机の上の受話器をとりあげた。「それじゃ、一応型通りに、君のいったことを調べてみるからね。もう少し待ってくれ」彼はオランダ記念病院を呼び出した。「もし、もし! ジェニー博士を頼むよ」
「どなたですか?」
「本署のクイーン警部だ。大急ぎで」
「ああ、ちょっとお待ち下さい」警部は電話を継ぐ音を聞いた。やがて聞き覚えのある太い男の声がした。「やあ、お父さん」
「エラリーか! どうしたんだい――どうしてお前は――どこにいるんだい?」
「ジェニーの部屋ですよ」
「どうして、そこへ行ったんだ?」
「ほんのちょっと前に、もぐり込んだんです。三分ほど前に、ジョン・ミンチェンに会いに来たんですよ。お父さん、僕はすぐお話しなければならない――」
「まあ、待て!」と老警部は吼えた。「こっちのニュースを聞けよ。スワンソンが、今朝現われたんだ。一通り話を聞いたよ、とても面白いんだ、エラリー――詳細は会った時に話すがね――彼はジェニーの息子なんだよ……」
「何ですって!」
「わしがたった今いったとおりさ。ジェニー博士はどこかね? お前は一日中、そこに突っ立っているつもりかい――ジェニーと少し話させてくれよ!」
エラリーから、深い沈黙が伝わってきた。
「さあ!」と警部は叫んだ。
エラリーはゆっくりいった。「ジェニーとは、お話できませんよ、お父さん」
「なぜだい? どこにいるんだね? そこにはいないのかい?」
「僕が話をしようとしていたら、お父さんの方が先に話しちゃったものだから……彼はここにおりますよ、ちゃんと」とエラリーは恐ろしそうにいった。「でも、お話できないわけは、死んでいるからです」
「死んだのか?」
「あるいは、第四次元の空間のどこかにいるのか……」エラリーの声の調子には、そんな軽はずみな言葉にもかかわらず、深い落胆がこもっていた。「いま十時三十五分です――いいですか――僕がここへ来たのは、だいたい十時三十分です……お父さん、彼は三十分前に殺されたんですよ!」
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二十一 二重
アビゲイル・ドーンとフランシス・ジェニー博士……
一つの殺人が、二つの殺人にかわったのである。
クイーン警部は、検事局の外からオランダ記念病院に向って出発した大型の警察自動車に揺られながら、黒い泥沼の中に沈んでいた……ジェニーが殺された! 信じられないほど不可解なことだった……一方では、この第二の殺人は、たやすく解決され――最初の事件の解決に導くかも知れなかった……あるいは二つの殺人は互いに何の関係もないかも知れなかった……しかし、それでも警官や刑事が沢山いる建物の中で、手懸りも残さず、人に見られることもなく、殺人を犯すということは不可能なことであった……検事のサンプソンと、すっかり意気消沈したスワンソンは、老警部の右と左に肩をくっつけていた。
事件の新しい進展に狼狽した警視総監は、すぐ後ろの車に乗って続いていた。彼は怒りと心配でいらいらしながら爪を噛んでいた……
突進してきた自動車は、鋭いブレーキの軋る音とともに停った。彼らは一斉に慌しく車から飛び降りると、病院の玄関前の石段を駈けあがっていった。総監は警部に向って息せき切っていった。「君の仕事は、わしの仕事も同じだからね、クイーン、やり損なったりしたら……大変なことになるぜ!」
一人の警官が大きなドアを開けた。
アビゲイル・ドーンが殺されて混乱していた病院は、ジェニー博士が殺害されるに及んで、完全に機能を停止してしまった。白い服装の看護婦もいなければ、医師の姿も見えない。だが私服の刑事や警官たちが、廊下を右往左往していた。
エレベーターのドアは開けっぱなしで、係の者もいなかった。
待合室はぴったり閉まっていた。事務所のドアも閉まっていた。そして、大勢の刑事たちが、ジェニー博士の部屋の前で、がたがたと犇《ひしめ》き合っていた。
警部や総監やベリー巡査部長やサンプソンが歩いてくると、みな一斉に通路をあけた。警部は静まり返った死人の部屋に入った。つづいてスワンソンが、顔を真蒼にして、よろめきながら部屋に足を踏み入れた。ベリーが、そっと後ろのドアを閉めた。
彼らの眼は、ジェニーの死体に注がれた。――ジェニーは取り散らかした机の上に、死の無関心さでうつぶせにのびていた……死に襲われた瞬間、彼は回転椅子に腰掛けていたのだった。それで彼の上体は、だらしなく机にかぶさって、灰色の頭を、折りまげた左腕の上にのせ、右手はまだペンをしっかり握ったまま机のガラス板の上に真直ぐのばしていた。
部屋の左側の簡単な椅子には、エラリーと、ピート・ハーパーと、ミンチェン博士とパラダイス病院監が坐っていた。四人のうちで、エラリーとハーパーだけが死人を見守っていた。ミンチェンとパラダイスの二人は、半ばドアの方を向いてぶるぶる慄えていた。
警察医のサミュエル・プローティは、机の近くに立っていた。彼の黒い鞄は床に放りなげてあった。彼は外套を着たまま、不愉快な感じのする口笛を吹いていた。
誰も一言も口を利かなかった。まるで、この思いがけない不可解な悲劇に直面して、驚きや恐怖を表現する適当な言葉が見つからないようだった。スワンソンは、ドアにぐったりともたれかかり、警部や総監やサンプソンは棒立ちになったまま、この場の情景に大きく眼をみはった。
その部屋はほとんど真四角で、ドアは、今彼らが入ってきた一つだけで、窓も一つあるきりだった。ドアは南廊下に面していて、玄関から斜めの方向に当っていた。部屋の左手の後ろに窓があって、中庭に向って開いていた。ドアの左手には、小さな速記用の机が置いてあり、タイプライターが載っていた。左側の壁に沿って、エラリー達が坐っている四つの椅子があった。死人の大きな机は、右手のずっと隅に置かれてあった。机の背後にはジェニーの死体がのっている回転椅子のほかに何もなかった。右手の壁際には、大きな革椅子とぎっちり詰まった本箱《ブックケース》があった。そして頬髯を生やした外科医の銅版の肖像画が四つ壁に掛けてあり、床に大理石まがいのリノリュームが敷いてある外には、何の飾りつけもなかった……
「おい、検証はどうだったね?」と総監がとげとげしくいった。
プローティは、消えた葉巻をいじくっていた。「同じ手口ですね、総監。絞殺による殺人です!」
エラリーは身体をかがめて、膝に肘をつくと、頤に手をやって撫でまわしていた。
「この前のように、針金かい?」と警部が訊ねた。
「そうです。ごらんになったらいいでしょう」
クイーンは、サンプソンや総監と一緒に、机の方にゆっくり近づいた。死んだ男の灰色の頭に黒い血の塊がこびりついていた。警部と総監は、すばやく顔をあげた。
「彼は絞められる前に、撲《なぐ》られたのです」とプローティがいった。「何か重たい鈍器で――はっきり兇器は何だといえませんが、小脳の上あたりに打撲傷があります」
「彼が窒息する時に、声を立てないようにやられたんだな」と警部がいった。「撲られたのは後頭部だね。やられた時、彼はどんな姿勢だったのだろう? 昼寝かなんかしてたんじゃないのかな? それだったら加害者は、机の前に立って一撃することができるからね。つまり、もし彼がちゃんと坐っていたんだったら、背後からやらなくちゃならないよ」
エラリーは眼を光らせたが、何もいわなかった。
「そうですよ、警部」プローティは火の消えた葉巻をくわえた唇を、おかしな工合にひんまげた。「彼を殺《や》った奴は、机の後ろに立っていたんです。いいですか、僕たちが発見した時は、こんな風にうつ伏せになっていなかったんです。椅子によりかかって坐っていましたよ――ちょっと、やってみましょうかね……」彼は後ろへさがると、机の後ろに廻るために、壁と机の角の間をやっとのことですりぬけた。彼は無表情に、死人の肩をつかんで引き起こすと、死体を真直ぐに回転椅子に坐らせた。頭はがっくりと胸の上に垂れた。
「こんな風だったね?」とプローティはいった。「おい、クイーン君?」
エラリーは、はっとして反射的に微笑を浮かべると、「ああ、そうだった。そのとおりだよ」
「さて、今度は針金の番だね」プローティは慎重に頭をもちあげた。首のまわりには、細い血の線がついていた。針金は深く死んだ肉の中にくい込んでいたので、ほとんど見えないくらいだった。そして首の後ろで、針金の両端が捻《よ》じられているのは、アビゲイル・ドーンの場合と同じだった。
警部は姿勢を正すと、「あの時と、同じ手口だな。彼がここに坐っているところへ、誰かがやってきて、背後に廻り、頭を撲りつけ、それから絞めたんだ。そうだろう?」
「そうですとも」プローティは肩をすくめると、鞄を拾いあげた。「これだけは絶対間違いありませんよ。机の後ろに廻る以外には、頭をあんな風に撲ることは、どこからもできません……さて、行くかな。写真もすんだし、指紋もとりましたよ、警部。指紋の主は、どこもかしこも、特にこの机のガラス張りの上の指紋は、ジェニーのものか、彼の助手のものばかりだと思いますがね」
警察医は帽子を頭にちょこんとのせると、つぶれた葉巻をくわえて、部屋の外へ出ていった。
彼らは再び殺された男を眺めた。「ミンチェン博士、この頭の打撲傷が死因じゃないでしょうかね?」
ミンチェンは息をのんだ。彼の瞼は赤くはれて、眼は充血していた。「違います」と彼は低い声でいった。「プローティがいった通りです。絶対に絞殺ですよ、警部」
彼らは針金を覗き込んだ。「同じ種類のようだね。トマス、君の番だよ、こいつを調べてくれ」大男は黙って頷ずいた。
死体はプローティが元通りにしたままの姿勢になっていた。その顔には、恐怖も驚きも苦悶のあとも見当らなかった。膨《ふく》れあがった皮膚の下は、ぞっとするような青みを帯びていたが、その容貌は穏やかで――ほとんど温和といってよいくらいだった。両眼は閉じていた。
「気がついたでしょう?」と突然エラリーがいった。「猛烈に襲われて殺された男のようには見えないでしょう?」
「わしもそう思っていたところだ。君はクイーン君の息子だね?――これはどうもおかしいな」と総監がいった。
「確かに変ですね」エラリーは椅子から立ち上ると、ジェニーの顔を、よく調べてみるために机の方に近よった。「それにプローティがいった鈍器が――見えないようですね。犯人が持ち去ったのでしょう……ジェニーは殺《や》られた時、何をしていたんでしょうね?」
彼は死人が握っているペンと、身体を前に傾ければ、手があたる辺の、ガラスの上に置かれた白い原稿を指さした。原稿は半分ほど書かれており、ジェニーは明らかに、一つの文章の途中まで書いて倒れたのであって、その頁の最後の語は顫える手でインクをなすりつけてあった。
「犯人に襲われた時に、彼は本を書いていたんですよ。彼とミンチェン博士は、先天性アレルギーについての共同研究をやっていたんですから」とエラリーは呟いた。
「何時ごろ殺されたのかな?」とサンプソン。
「プローティは、十時から十時五分の間だといっていますが、ジョン・ミンチェンも同意見です」
「そうか、いつまでこんなことをしていても仕様がない。トマス、死体を地下の収容所に運んでくれ。衣服をよく調べるんだぜ。それから、すぐ戻ってくるんだ――用があるからな。お坐り下さい、総監。君もだ、ヘンリー……スワンソン君!」
前外科医はぎょっとして、眼を大きく見ひらいた。「僕は――もう帰っちゃいけませんか?」彼は嗄がれた低い声で訊ねた。
「そうだね」と警部はやさしくいった。「しばらく君に用はないな。トマス・スワンソン君を、ポート・チェスターまで誰かに送らせてくれ」
ベリーはスワンソンに付き添って外へ出た。スワンソンは、一言も口を利かず、振り返りもせずに、部屋から姿を消した。彼は恐怖のあまり、ぼんやりしてしまったようだった。
エラリーは機敏に部屋を歩き廻った。総監は、低い声で警部やサンプソンと話しはじめた。パラダイスは、相変らず顫えながら、椅子にくっついていた。
エラリーは彼の前で立ち止って、不思議そうに床を見下ろした。
「何を見ているんだい――新しいリノリュームかい?」
「え?」ミンチェンは、かさかさした唇をなめると笑おうとした。「どうして新しいと分る?」
「そりゃ解るよ」
「こうした私室は、みんな二、三週間前に取り換えたばかりだよ……」
エラリーは、また歩きはじめた。
ドアが開いて、二人の実習生が担架を持って入ってきた。
彼らが死体を椅子から持ちあげている間、エラリーは窓のところで足をとめていたが、眉をしかめると、斜かいに置かれた机の方をちらっと眺めた。そして眼を細めて、せっせと仕事をしている実習生のたちのそばに近寄った。
彼らがジェニーの跛《びっこ》の身体を担架の上に横たえた時に、エラリーはくるっと振り向くと、鋭くいった――居合せた者は、びっくりして彼を見上げた――「この机の後ろに、本当は窓が一つなくちゃならんと思いませんかね!」
クイーン警部がいった。「頭の中で、何をぐずぐず考えているんだね、え?」
ミンチェンは不愉快そうに笑って、「君はまた何てことを? そんなところに窓がついてるはずがないじゃないか、エラリー」
エラリーは頭をふった。「建築の手を省いてあるのが気になったのさ……ジェニーがプラトンの言葉を忘れていたのは、あまりにも気の毒だったね。『悪い習慣を破るよりも、それを防ぐ方がやさしい』……」
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二十二 列挙
それから数時間後、煙草の煙が濛々と立ちこめている殺された博士の部屋で、黙りこくってエラリー達が坐っていた。緊張した面持や、こわばった頤や皺をよせた額から察すると、ジェニー博士の殺害は、アビゲイル・ドーンの時と同様、手懸りを得るのぞみはなく、明らかに失敗に帰したように見えた。
人数は大分減っていた。警視総監は、灰のような顔をして帰ってしまった。ハーパーは新聞に重要な記事を発表するために、一時間前に去っていた。サンプソンも心配そうな顔をして、検事局に戻ってしまった。
ベリー巡査部長は、まだ廊下を走り廻って情報を集めていた。致命傷を与えた額縁用の針金は、最初の殺人に用いられたものと、同じ種類のものだということが確められた。
警部とエラリーとミンチェン博士と、博士の助手看護婦のルーシル・プライスだけが、部屋に残っていた。彼女は、警部の速記をとるために、急場の間にあわせに呼ばれたのだった。
この第二の殺人によって、ミンチェンはすっかり気が転倒していたが、それよりひどい打撃を受けたのはエラリーのようだった。彼の顔には、心痛のあまり深い皺が刻まれ、ぼんやりした眼をして、窓の近くの椅子にちじこまって、じっと床のリノリュームを見詰めていた。
「よろしいですか、プライスさん」と警部はかすれた声でいった。
看護婦は隅の机に坐りながら、鉛筆を構えたが、かすかに顫えているようだった。そして蒼ざめた顔をして、白い速記帳の上に眼を落とした。
「では、頼みます」警部は両手を後ろできっちりと握り合せて、眉を逆立てながら、彼女の前を行ったり来たりした。「フィリップ・モアハウス。モアハウスが死体を発見した。
詳細。モアハウスは、ドーン遺言状における彼の分け前について、ジェニー博士と相談するために、九時四十五分に病院を訪問した。彼が入ってきたのは、玄関番のアイザック・カッブが見ており、時間も確認された。交換手はジェニーの部屋に電話して、モアハウスが博士に面会したい旨の伝言をつたえた。その時の声は、疑いもなくジェニーの声であって――そこのところにアンダーラインを引いて下さい、プライスさん――彼はいまは用事で忙しいが、すぐに片がつくからと返事をしたので、モアハウスは待つことにした。カッブは彼が待合室に入って、腰を下ろすのを見た……わしのいうのは早過ぎますかね?」
「いえ――そんなことはありません」
「じゃ、次に注意として、モアハウスが待合室から出たことがあるかという点については、カッブもはっきりした返事ができない。カッブは玄関にとどまっていた。待合室には南廊下に面した別の出口があって、そのとき南廊下に誰もいなかったとしたら、人に見咎められずに待合室から抜け出すことができる……」
「詳細(続)。モアハウスは、十時十五分近くまで、約三十分間待合室に坐っていたといっている。それから彼は我慢しきれなくなって、事務所の玄関寄りのドアを通って、電話交換台にやってきて、もう一度ジェニーを呼び出すように交換手にたのんだ。交換手はベルを鳴らしたが、答えがない。憤慨したモアハウスは、南廊下を走っていって、ジェニーの部屋のドアをノックしたが、返事がない。これを見てカッブは、文句をいうために、モアハウスの方に近づいていった。警官もいそいで飛んできた。モアハウスはいった。『この三十分のうちに、ジェニー博士は、この部屋から出て行ったのかい?』。カッブがいった。『いや、でもずっと見ていたわけじゃありませんよ』。モアハウスがいった。『彼に何事か起こったのかも知れない』。それからカッブとモアハウスとモーラン(巡察警官)が部屋の中に飛び込んで、ジェニーの死体を発見した。カッブは直ちに急報し、モーランは病院内の刑事を集め、ミンチェン博士は、このとき建物に入って来た、そして数分遅れてエラリーが病院に到着した……書けましたか、プライスさん?」
「はい」
ミンチェンは指をくわえながら、足を組んで坐っていた。わけのわからぬ冷たい恐怖が、彼の眼の中にひそんでいた。
警部は報告書を調べながら、部屋を歩き廻っていた。「このモアハウスのデータに、こうつけ加えて下さい。注意。この間、モアハウスには絶対にアリバイなし……じゃ、今度はハルダ・ドーンについて。
ハルダ・ドーンは九時三十分、病院に到着したのをカッブとモーランが見ていた。彼女はアビゲイル・ドーンが事件当日の月曜日、手術前にいた病室から手廻り品を持ち帰るために訪ねてきたのであった。ドーン嬢と一緒に、部屋にいた者はない。彼女は死んだ母の衣類を見た途端に悲しくなって、その場に坐り込んでしまったといっている。彼女がベッドの上で泣いているのを、十時三十分に看護婦のオーバーマンが見た。彼女が少しも病室から離れなかったことについては確証はない。
リューシアス・ダニング博士とサラ・フラーについて。ダニングは、いつものように早朝病院に到着した。これは助手によって確証されている。サラ・フラーは、九時十五分、ダニングに会いにやってきた――そして一時間にわたって密談し、サラ・フラーはジェニーの死体が発見された直後、病院から出てゆこうとした。
二人とも会話の内容を話すことを拒絶している。アリバイについては――互いにダニングの部屋から一歩も出なかったと主張している。だがこれについて第三者の確証はない」警部は言葉を切ると、天井を見あげた。「警視総監の主張により、ダニングとサラ・フラーは、重要証人として拘留されたが依然として沈黙を守りつづけ、直ちに両名とも二万ドルの保釈金を積んで釈放された。保釈金はモアハウスの事務所によって提供された」
彼は大急ぎで続けた。「エディス・ダニング。彼女は午前九時から社会奉仕部に勤務している。ずっと病院内にとどまって仕事をつづけており、時間や行動については、確たる調べがつかない……
マイケル・カーダイ。虫垂炎以来、ずっと三百二十八号室に刑事の監視付きでとどまっている。彼がベッドから抜け出すことは不可能である。刑事の知るかぎりでは、外部との連絡もない。しかし彼は、こうしたことをやることにかけては、独特の方法を持っている強《したた》か者である……
ペニニ博士。彼女は平常通り産科で仕事をしていた。そして約二十名ほどの患者を診察したが、細かな行動についての調べはつかない。カッブとモーランの言によれば、朝はずっと建物の中にとどまっていた……
モリッツ・ニーゼル。朝中、研究室に閉じこもっていた。彼のいうところによれば、ジェニーは九時前にちょっと研究室を訪ね、目前に迫った逮捕のニュースに不安な面持であったが、自分の部屋へ行って、本の仕事をすると述べ、実験の進行について、手短かに話合ってから別れたとのことである。ニーゼルは、この殺人事件について、一言も語らないが、ひどく打撃を受けた模様である……いいですか、プライスさん?」
「はい、全部写しました」
「それじゃ、もう一つだけ」警部は手帳をじろじろ調べてから、「ヘンドリック・ドーン。午前九時二十分。彼は一週三回の超紫外線療法を受けるために病院に到着。四階紫外線研究室で九時三十五分まで待ち、治療が終ったのが九時五十分であった。それからプライヴェート・ルームで休憩するため一階に降りてきて、死体が発見されるまでやすんでいた。彼がずっとその部屋にとどまっていたかどうかについては確証がない……
これで全部です。すぐタイプに打ってくれませんか。二枚写しをとって、全部ベリー巡査部長に渡して下さい――外にいる大男ですよ。彼は午後もずっとここにおりますからね」
看護婦は素直に頷ずいてみせると、ノートを机の上のタイプライターで打ち始めた。
エラリーは疲れたように顔をあげた。「その空虚で、無益で、びくびくしている報告書が済んだのでしたら、家へ帰りたいですね、お父さん」彼は窓の外に、ぼんやりと眼を向けた。
「もうじきだよ。そうひどいことをいうな。お前だってやれないじゃないか」警部はジェニーの机に身体をのばすと、嗅ぎ煙草をとった。「わしは、こんなことは不可能だといったが、これだけ沢山の刑事達がいながらこの部屋を誰も注意していなかったというのは、まるでジェニー自身が自分の死を企てたみたいだな。ミス・プライスには、今朝は彼女に用事はないからといって、自分で部屋に閉じこもったというんだ――ひどく不機嫌だったそうだ――それで、自ら目撃者のないところをえらんで、犯人の襲撃にチャンスを与えてしまったのさ。彼がニーゼルの研究室から戻って、部屋に入るところを、カッブが最後に見ている。九時を少し過ぎた頃だ。それからカッブは誰とも話をしなかったし、九時四十五分モアハウスが面会にやってくるまでは、誰にも会わなかったそうだ。ジェニーが殺されたのは、十時から十時五分の間だという点で、医師達の意見は一致している。だから疑いもなく、九時四十五分には、ジェニーは生きていたんだ……」
「まったく混乱してしまいますね」とエラリーは窓から眼を離さずに、ゆっくりといった。「ハルダ・ドーン、ヘンドリック・ドーン、ダニング、サラ・フラー、ニーゼル、モアハウスみんな病院内にいながら、はっきりしないなんて」
ミンチェンは身動きして、曖昧な微笑を浮かべると、「全然関係がないのは、ビッグ・マイク・カーダイだけだな。それから僕と。まさか僕を疑っちゃいないでしょうね、警部? これから、どうしたらいいだろう……」彼は手の中に顔を埋めた。
タイプライターの音が、沈黙のうちに続いている。
「ミンチェン博士、もしあなたが心霊主義者であったとしても」と老警部は厳めしくいった。「一時に二つの場所に存在することはできませんよ……」
二人は声を合せて笑った。ミンチェンの声はいくらかヒステリックであった。
エラリーは外套をぴったり身につけると、「帰ろう」と鋭い調子でいった。「僕の悪い頭が、あまり考え過ぎて破裂しちゃわないうちに、さっさと帰ろう」
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二十三 三重
エラリー・クイーンは、オランダ記念病院から、警察本署の父の部屋へ帰ったが、ずっと悩まされつづけで、残念でたまらなかった。
彼はすっかり愛想をつかして、こんなことなら西八十七番街の家へ帰り、マルセル・プルーストでも読んで、こんな煩わしいことを忘れたいといった。警部はちょっと考えてみたけれど、そんな申し出を聞きいれなかった。部屋の中には警部とエラリーとサンプソン検事が坐っていたが、警部とサンプソンは、ドーンとジェニーの殺害事件に触れないで、愉しそうに世間話をしていた。
ニューヨーク市の新聞は、沸き立っていた。この三日間における二つの殺人は、最もジャーナリスティックな素晴らしいニュースだった! 市庁のあたりは新聞記者でごった返しており、警視総監は姿をくらまし、市長も「医師の忠告により」自宅に引籠ってしまった。事件にほんの少しでもひっかかりのありそうな者は、写真班やら通信員《レッグ・マン》に追っかけまわされた。トマス・スワンソンについての情報が漏れたので、ジャーナリズムの手はポート・チェスターの方へのび始めた。クイーン警部は、あらゆる職務上の圧力をもって、スワンソンの秘密を保持するように努めた。スワンソンは、現在厳重に監視されていた。
ベリー巡査部長は、ジェニーに何か書き遺したものでもないかと捜していた。死んだ外科医のその日の行動をさぐったり、今まで調べた以外の者と接触しなかったかということを捜査するのが、彼の最もさしせまった仕事だった。ジェニーのアパートで、彼の私信は徹底的に調べられたが、スワンソンの陳述を充分立証しているトマス・ジェニーからの数通の手紙のほかには、この捜査も何ら得るところはなかった。
どこもかしこも空白の壁……
「欺されないようにしようじゃありませんか」とエラリーがぶっきら棒にいった。警部とサンプソンは、彼の方を向いて心配そうな顔をした。「僕たちは、まるで暗闇の中で、子供がおっかなびっくり囁きあっているようですよ。お父さん、サンプソン――僕たちはなめられているんです」
二人とも返事をしなかった。サンプソンは頭を垂れ、警部は考え込むように靴の先を見つめた。
「僕のゲール人のプライドのためじゃなくても、またお父さんが僕のやることに異議があるとしても」とエラリーは続けた。「僕はあくまで戦いぬくつもりですよ……」
「どうしたんだ、エラリー?」警部は顔をあげないでいった。「今までにそんないい方をしたことはないのにね。お前は昨日、犯人について、かなり見当がついているようなことをいってたのに」
「そうだよ」とサンプソンも熱心にいった。「この第二の殺人は、疑いもなく第一の殺人と関連しているんだから、根本的な問題で何か手懸りを持っているんだったら、何とかうまくゆくんじゃないかと思う」
エラリーはぶつぶつ呟いた。「僕はそうは思いませんよ……昨日いったことは、今でも変ってはいません。僕はアビゲイル・ドーンを殺した者について、ぼんやり見当をつけています。そして手懸りの性質から考えて、アビーを殺したんじゃないと、断言できる者は半ダースほどありますよ、だけど――」
「この事件全部で、たった半ダースばかりかい」と警部は挑むようにいった。「じゃ、何を気にしているんだい?」
「証拠ですよ」
「いいかい、もしお前が、この第二の犯罪を防ぐことができなかったという理由で、くよくよしてるんだったら、忘れることだよ。大勢の人間の中から特にジェニーがアビーの後を追って殺されるなんて、お前だって、わし達だって、予見できるわけがないじゃないか?」
エラリーは、投げやりな調子で頭を振って、「いや、そんなことは気にしてません。おっしゃるとおり、僕はどんなに疑ってみたって、ジェニーの死は予見できませんでしたよ……サンプソン、君はこの二つの犯罪は関連するといいましたね。どうして、そうはっきりいえるんです?」
サンプソンは、吃驚したようだった。「なぜって――当然のことじゃないか。この二つの犯罪は、続いて起こったのだし、二人の犠牲者は近しい間柄であり、場所も同じ、手口も同じ、なにもかもはっきりと――」
「この二つの犯罪は、関連しないと考えることについては、うまい説明がありませんかね? 犯人を一人じゃなく、二人と仮定してみましょう。アビー・ドーンは、ある事情の下に、ある手口で殺されました。すると第二の殺人犯は、こういうでしょう『うまいぞ! これはジェニーを殺す、またとない好機会だ。そして警察には、第一の殺人犯がやったように見せかけてやろう!』。いいですか、僕は第二の犯罪を、別の犯人がやったと思っているといってるんじゃありませんよ。僕は単に可能性を指摘したまでです。今日までのところ、どちらも成立しますよ」
「だけどね――」
「僕だって犯人二人説よりも、一人説なんですよ。しかしいいですか、もし一人の犯人が、二つの犯罪をやったとしたら、僕たちは、あんなに利口な犯人が、どうして危険なコースを冒して故意に同一の手口を用いたか、という理由を探さなければなりませんよ」
「じゃ、絞殺によらなかった方が、犯人には安全だったというのかい?」と警部が訊ねた。
「むろん、そうですよ。もしジェニーが射殺されたとか、あるいは毒殺されたとかいうんだったら、この二つの犯罪が結びつくと考える理由は、少しもありませんからね。第二の事件で、犯人は彼を絞殺する前に、彼の頭部を一撃していることに注意して下さい! ではなぜ犯人はその棍棒で片づけてしまわなかったのか? なぜ気絶させただけで、それから首に針金を巻きつけるなんて面倒なことをやったのか……どうです、まるで犯人が、この二つの犯罪が関連するように見せかけたいためにやったみたいじゃありませんか!」
「なるほど、そうだね」と老警部が呟いた。
「僕の考えでは、そうなんです。なぜ犯人がそう見せかけたかったか、その理由がわかれば、事件の全貌がわかるでしょう……しかし僕は、この第二の殺人者については、何の手懸りもありません。二つの犯罪が同じ悪者によって行われたという証拠を、僕はまだ握っていないんですからね」
*
警部の机の上にある内線電話が鳴った。警部は受話器をはずした。
含み声で、「ニーゼルという方が、お会いしたいそうです、警部。重要な用件だそうで」
「ニーゼル!」老警部は、ちょっと口をつぐむと、眼を光らせて、「ニーゼルかね? すぐ案内してくれ、ビル」
サンプソンは身体を前に乗り出した。「また何だってニーゼルが?」
「解らんね」二人は互いに顔を見合せた。エラリーは何もいわなかった。
刑事がドアを開いた。小柄なモリッツ・ニーゼルの姿が閾の上に現れた。
警部は立ち上った。「どうぞ、お入り下さい、ニーゼル博士」
刑事が去ると、浅黒い顔をした科学者は、ゆっくりと部屋の中に歩を進めた。彼はビロードの襟のついた汚い緑色のオーバーを着て、斑点のある手にベロア帽を持っていた。
「お掛け下さい。ご用件は何です?」
彼は膝の上に帽子を置いて、椅子の縁にきちんと坐った。そして柔かな黒い眼を、休みなく動かして部屋を見まわしていた。
彼は急に喋べり始めた。「今朝あなたから訊問された時は、友であり協力者であるジェニー博士の不慮の死で、私はすっかり驚かされて、よく考えるひまがなかったのです。あれからずっと事件について一わたり考えてみました。クイーン警部、それで私は率直に申し上げるのですが――私は身の危険を感じているんです!」
「ふむ、なるほど」
大げさな言葉が、彼の唇で氷のように融けてしまった。検事はニーゼルの背後から、警部に向って軽い眼くばせをした。警部はかすかに頷ずいてみせた。
「といいますと? ジェニー博士の殺人事件について、何か気がつかれたことでもあるのですか?」
「いや、そんなことじゃありません」ニーゼルは手をあげると、汚点だらけの擦りむけた皮膚をぼんやり眺めた。「だが私は、確信があるのです。それは、今日の午後ずっと私を悩ませてきました。その確信が、もし正しいとしたら、私はこの恐ろしい連続殺人の――第三の犠牲になるのです!」
エラリーは眉をあげた。彼の眼は、興味を覚えたらしく、きらりと光った。「確信ですか?」と彼は呟いた。「それは、またメロドラマじみていますね」ニーゼルは、ちらっと横眼で彼の方を見た。「ニーゼルさん。僕たちは今日、とても確信どころじゃなかったんですよ。詳しくお話を伺いましょう。新しい解決の端緒になるかも知れない」
「私の死が切迫しているということは、お笑い種《ぐさ》なんですか、クイーンさん?」と科学者はとげとげしくいった。「私はまず第一に、あなたについての考えを変えましたよ。あなたは人をからかっているから、何も分りっこないのですよ……警部!」
彼は、また後ろにひっ込んでしまったエラリーから眼を離すと、正面に向き直った。
「私の確信はこうです。つまり第四者がいるのです。仮にXと呼びましょう。彼はアビゲイル・ドーンの絞殺に始まる連続殺人を計画し、続いてジェニー博士を絞殺しました――そして、最後にモリッツ・ニーゼルを絞殺することによって終るのです」
「第四者って、誰です?」警部は眉をひそめた。
「知りませんよ」
「じゃ、どういう理由で?」
「そんなことは、わかりきっているじゃありませんか!」ニーゼルは警部の膝を軽く叩いた。
「私の合金ドアニットの秘密と利益を独占するためですよ!」
「それじゃあ……」サンプソンは、また疑わしそうな顔をしていた。だが警部は、真面目に眉を寄せて、「何百万ドルの秘密のための殺人か。おかしくはないね。少しもおかしくない、だが、どうしてドーン夫人やジェニー博士を殺したのかな? あなたの研究が完成した時に、あなた一人を殺せばいいように思えるが」
「そうじゃないでしょう」と科学者はつとめて冷やかにいった。「この仮定の第四者には、背後関係があるものと考えてみましょう。そして彼の欲しいものは、私の研究の成果なのです。彼はドーン夫人が、研究資金を出しているうちは生かしておいて、彼女がそれを打切るという段になった時、彼女を殺害し、そうすることによって、二つの目的を達したのです――つまり、彼女の死後も財政的援助を保証し、しかも三人の秘密保持者のうちの一人を排除したわけです」
「なるほど、続けて下さい」
「それからジェニー博士ですが、彼は私ほど仕事の完成には根本的な点で役立っていないのです。ただ私の仕事を達成する手段に過ぎませんから、ドーン夫人が死ぬと彼が役立った時期は過ぎてしまったわけです。それで殺されたのです。今まで説明したことは、お分りですか、皆さん?」
「それは分りますがね」と警部はきびしくいった。「でも、どうして老婦人を殺して、すぐにジェニーを殺したのか、その理由が分りませんね。何でそんなに性急にやったんです? それに研究は未完成なんでしょう。ジェニーだって、合金の完成に、少しは役に立つかもしれませんよ」
「ええ、でも相手は狡猾で先見の明のある奴なんですよ」とニーゼルはいった。「もし仕事が完成するまで待つとしたら、ほとんど同時に二つの殺人を犯さなければならなくなるでしょう。ジェニーを殺しておけば、今度は三人のうちの最後の一人を殺せば、数百万ドルの秘密を独占できるわけですよ」
「なるほど、でも薄弱だな」とエラリーが呟いた。
ニーゼルは彼を無視した。「ドーン夫人とジェニー博士が死んでしまえば、充分な資金が後に遺りますし、私の実験を推進する上において、ずっと仕事がやりやすくなるんです……これで分ったでしょう」
ニーゼルは女のような眼を、ちらっと細めたが、光りは消え失せていた。彼は肩をすくめた。
「立派な推論ですが、ニーゼル博士」と警部はいった。「でも、推測以上のものが要るんですよ。名前ですよ、その犯人の名前です。もちろん誰かわかっているんでしょう」
科学者は眼を閉じた。「はっきり申し上げると、私は知りません。それに、どうしてあなたが私から明確な証拠を要求されるのか、私には分りませんね。あなたは推理を軽蔑してるんじゃないですか、警部? エラリー・クイーン君は、こうした知的なプランの上で仕事をなさると、私は信じているんですがね……この推論は確かなものです。あらゆる事実の考察の上に立脚しているんですからね。それは――」
「真実じゃありません」とエラリーは、すかさずいった。
ニーゼルは、また肩をすくめた。エラリーがいった。「貧弱な三段論法ですよ。ところで、ニーゼルさん、あなたはびくびくしていますね。何か隠していらっしゃるんでしょう?」
「ドーン夫人とジェニー博士とあなた自身のほかに、あなたの仕事が非常に経済的に有望であるということを知っていた者は誰ですか? もちろん、わし達は月曜日のドーン事件以来、そのことを聞いたわけですが、それ以前に知っていた者はありませんか?」と警部が訊いた。
「あなたは、私に独断的に返答を強いるんですね。そういえば、ドーン夫人からこの秘密を聞いて、よく知っていた者が一人ありますよ。あの遺言を書き直した弁護士の――モアハウスです」
「しかし、ドーン家の者や、夫人の友達連中のうちにだって、知っている者がいることは、よくご存知でしょう。なぜ特にモアハウスを指したんです?」
「特別な理由はありません。ただふっと話の順序でそう思っただけなのです」
「ドーン夫人が、秘密を話したとあなたはいいましたが、ジェニー博士が同じことをやらなかったと断言できるんですか?」
「できますとも!」とニーゼルは鋭くいった。「ジェニー博士は、私達の秘密を監視することにかけちゃ、私と同様に注意深かったんです」
「そうすると、つまりどういうことになるんですか、あなたの結論は、ニーゼル博士?」と警部が訊いた。
「私の推論は、不慮の事件さえ計算してあるのです。この殺人事件を企てた男は、私の死後、何も知らない製鉄会社に合金の秘密を売る位置にいるわけです。ですから、私が突然死んでしまったら――」
サンプソンは椅子の腕を叩いた。「それは、不安ですね。しかし、はっきりした証拠がないようですが」
ニーゼルは冷たく微笑した。「どうかお許し下さい。私は探偵のふりをするのが厭でしてね――でも、敢えてお訊ねしますが、あなたにせよ、クイーン警部、エラリー・クイーン君にせよ、ドーン夫人やジェニー博士の殺害について、はっきりした動機を述べられますかね? ほんの少しでも、その動機を説明できますか?」
「それは、別問題だ!」と警部が、ぴしりといった。「あなたは、別の殺人が起こるものとして、そしてその対象が自分になるものと仮定しています。それじゃ、あなたが間違っているとして、オランダ記念病院の殺人事件は、これでお終いになったと仮定したらどうですか? あなたの推論はどうなりますね?」
「私は科学者らしく、喜んで自分の理論の過ちを認めるでしょう、警部。私が殺されなかったら、私の考え違いです。もし私が殺されたら、私の推理は正しい――どちらもあまり満足とは申せませんな。私は保護していただきたいんですがね、警部!」
「よろしい、そうしましょう。わし達も、あなたの身に何かあったら困りますからね、ニーゼル博士」
「もしあなたの推理が正しいなら」とエラリーが口を挟んだ。「ドーン夫人は、一人だけじゃなくて、もっと沢山の人に秘密を洩しているかも知れませんね? どうですか?」
「それは、そうです。でも? それはどういう意味ですか?」
「なに簡単な論理ですよ」エラリーは、のんびりと頭のうしろに手を組んだ。「もし一人以上の人間に秘密が話されたとすれば、あなたのおっしゃる謎の第四者、X氏はその事実を知っているわけですね。そうすると、このメロドラマにおいて、保護を必要とする者は、なにもあなた一人だけじゃありませんよ。もっとほかにもあるわけです。ニーゼル博士。この点、いかがですか?」
ニーゼルは唇を噛んだ。「そ、そうです! ほかにも殺人が起こるでしょうね……」
エラリーは噴き出した。「僕は、そう思わないんですがね。だが、そいつはいいとしときましょう。お帰りになる前に、もう少しお訊ねしたい気持なんですが……ドアニットは、まだ完成していないのですね?」
「まだです」
「いつ頃、完成なさるんです?」
「数週間のうちですよ。それまではとにかく私は安全なんです」
「そうはっきりとはいえませんよ」とエラリーは、そっけなくいった。
「何ですって?」
「その架空の陰謀者が、すぐにでもあなたを殺して、自分で研究を完成しようとしないと、はっきり断言できますか? あるいは彼が適当な冶金学者に完成させるということはないでしょうかね?」
科学者は、仰天したようだった。「本当だ。たしかにそうだ。誰かほかの奴にやらせることができる。ということは――私が安全じゃないということなんだ――今だって、安全じゃない」
「あなたが、自分の研究の証跡となるものを、直ちに全部破壊しなかったらね」とエラリーは優しくいった。
ニーゼルの声は緊張しきっていた。「どっちみち、助からないな。生命か、仕事かというんじゃ」
「有名な文句ですね?」とエラリーは呟いた。
ニーゼルはぎごちなく坐り直した。「私は今日にでも殺されるかも知れない、今夜にでも――」
「そんなことはありませんよ、ニーゼル博士。充分気をつけますからね。ちょっと、失礼」老警部は内線電話をとりあげた。
「リッター! 君は、これからモリッツ・ニーゼル博士の身辺を警戒してくれ。今、わしの部屋から出てゆくからね……すぐだ。彼と一緒にいて、夜なんか、よく気をつけてくれ……いや、尾行するんじゃない――用心棒をするんだよ。そうだ」彼は科学者の方を振り向くと、「もう大丈夫ですよ」
「どうもご親切に、じゃ行きましょうかな」ニーゼルは帽子の鍔をいじっていたが、不意に腰を上げると、エラリーの方は見ようともせずに、早口にいった。「じゃ、さよなら、皆さん」彼は部屋の外へ出ていった。
「猾《ずる》い奴だ!」警部は突立ったまま、白い顔を紅潮させて、「あいつは、こすいよ! 勝手なことをいいやがって!」
「どうしてさ、クイーン?」とサンプソン。
「わかってるじゃないか」と老警部は叫んだ。「あいつの推論なんて、何の価値もありゃしない。あいつこそ、アビー・ドーンやジェニーの死によって、最大の利益を得るんじゃないかね? 彼の推論による『第四者』はあいつ自身の象徴じゃないか? ほかに第四者なんてあるかい?」
「まったくその通りだと思うよ、クイーン」
老警部は得意そうにエラリーの方を向いた。「どうだね! わしのいうとおりだとは思わないかね?」
エラリーは、しばらく口を利かなかった。彼の眼には元気がなかった。
「僕には自分の考えをはっきりさせる確実な証拠が、まるっきりないんです」と、彼はやっといった。「でも、あなたもニーゼルも間違っていると思います。僕はニーゼルがやったと思いませんし、ニーゼルがいう第四者が犯人だとも思いません……もしこの事件の底を叩いてみたら、ニーゼルが仮定したよりも、遥かに巧妙な犯罪が潜んでいると思いますね」
警部は頭をかいた。「どうしてお前は、同じ呼吸でも、熱かったり冷たかったりするんだね! それじゃ、お前は、ニーゼルは事件に無関係だといった口の下から、彼が最も有力なる容疑者だから注意しろというんじゃないかね」
「驚きましたね、まったく、いまいおうと思っていたところでしたよ」エラリーは煙草に火を点けた。「でも、誤解しないで下さいよ。ニーゼルを、パンジャブのマハラジャみたいに警護しなければなりません。が僕は、彼の十フィート以内に近づく、あらゆる人間の会話と、続いて起こる行動を詳しく知りたいんですよ!」
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二十四 再検査
虚ろな、じめじめした気分のうちに、不安な夜が明けた木曜日の朝、クイーン警部は目を覚ました。咳は再発し、眼は不健康に、熱っぽく光っていた。しかし彼は、ドジュナやエラリーがとめるのも聞かずに、暖かい冬の日であったが、大きな外套にくるまってぶるぶる震えながら、八十七番街を出て、本署に行くためにブロードウェイの地下鉄の方へ、とぼとぼと歩いていった。
エラリーは窓のところに坐って、去ってゆく彼の後姿をぼんやりと見送っていた。
テーブルは朝食の残骸で、散らかっていた。ドジュナは茶碗を持ったまま、手足をのばしているエラリーの方をジプシーの眼でじっと見詰めた。
エラリーは、顔を向けようとしないでいった。「ドジュナ」
ドジュナは瞬くうちに窓のところへ来ていた。
「ドジュナ、僕に喋べってくれよ」
痩せた身体が顫えた。「ぼくが――あなたに喋べるんですか、エラリーさん?」
「そうだよ」
「でも――何を?」
「何かだよ。僕は声が聞きたいんだ。君の声が」
黒い眼が輝やいた。「あなたもお父さんもご心配ですね。夕食に揚げたチキンはどうでしょう? あなたが、ぼくに読ませて下さった大きな鯨の本、『白鯨』ですか、あれはすばらしいですね。ぼくは、ずっとある部分を、とびとびに読んでいるんです。あの|黒ん坊《ニガー》の少年、何ていいましたかね――あのクィー――クィー」
「クィークェグだよ。それから|黒ん坊《ニガー》なんて決していうんじゃない。黒人《ニグロ》というんだよ」
「ああ!……そうですね、それじゃ……」少年は黒光りのする顔に、苦しそうな皺をよせて、
「野球のシーズンだったらなあ。ベーブ・ルースが、かっ飛ばすのを見たいんですけど。どうしてお父さんが咳込むのを止めてあげないんですか? 新しい電気座蒲団がいりますね――古いのは、すっかり擦り切れちゃったから。クラブで、みんなはぼくをフットボール・チームのクオーターバックにしたんです」
「そいつは……」不意に、エラリーの唇に微笑が浮かんだ。彼は腕をのばすと、少年を窓のところに坐らせた。「ドジュナ、君は、どこまでも善良だよ……君は昨夜、親父と僕がドーンとジェニーの事件について話していたのを聞いたんじゃないかい?」
ドジュナは真面目な顔をしていった。「ええ!」
「どう思っているかいってごらん、ドジュナ」
「ぼくが考えたことですか?」少年は大きく眼をみひらいた。
「そうだよ」
「ぼくは、あなたが捕まえるだろうと思っています」彼は大きく胸をふくらませた。
「本当かい?」エラリーは少年の痩せた肋骨にさわった。
「幾らか肉が足りないね、ドジュナ。フットボールをやるといいよ……じゃ、僕が犯人を捕まえると確信してるんだね? でも、今まで聞いたところじゃ――まるっきり駄目じゃなかったかい?」
ドジュナは高い声で笑った。「相手をなめていたんじゃないんですか」
「そんなことはないよ」
「投げ出したりしないでしょうね、クイーンさん」と少年は熱心にいった。「ぼく達のチームは、二日前の試合で、十四対〇で負けていたんです。ぼく達は投げませんでした。それから三回タッチダウンをやったんです。彼らには手痛かったでしょう」
「僕はどうしたらいいと思うかい、ドジュナ? 君にできるだけの助言を、僕は聞いてみたいんだよ」
ドジュナはすぐ返事をしなかった。彼の口は固く結ばれ、一生懸命考え込んでいた。ながい、そして意味深い沈黙の後、彼ははっきりといった。「卵《エッグス》」
「何?」とエラリーは吃驚して訊いた。
ドジュナは、ひとりで悦に入っているようだった。「ぼくは卵のことをお話しましょう。今朝、お父さんのために、ぼくは卵を茹でていました。ぼくはお父さんの卵についちゃ、注意してるんですよ――気むずかしいですからね。ところが、ぼくは固く茹ですぎたんです。それで、ぼくはそいつを投げちゃいました――そして、もう一遍やり直したんです。二度目には、ちょうどいい加減でした」
エラリーはくすくす笑った。「環境の悪影響を受けたな。僕の寓意的方法《アレゴリカル・メソッド》を盗んだんだね……ドジュナ、そいつは、いかにも素敵な考え方だよ!」彼は少年の黒い髪を、かき乱した。「もう一遍やり直し、か?」彼は椅子からとび起きた。
彼は元気をとり戻して隣室に姿を消した。ドジュナは朝食の皿を片づけ始めた。
*
「ジョン、僕はドジュナの忠告に従って、二つの犯罪の現場に引返してきたよ」
二人は病院のミンチェン博士の部屋に坐っていた。
「僕が必要かい?」ミンチェンは元気のない眼をしていた。
「もし暇があったらね……」
「そうだろうと思ったよ」
二人はミンチェンの部屋を出た。エラリーとミンチェンは東廊下を歩いてゆき、南廊下を西にまがった。麻酔室のドアは閉まっており制服の警官が見張っていた。エラリーは、クイーン警部によって署名された特別パスを見せて、麻酔室の中に入った。
麻酔室は、三日前とちっとも変っていなかった。控室に通ずるドアにも、別の警官が番をしていた。彼は再びパスを見せて、二人は控室の中に入った。
輸送車、椅子、備品用小戸棚、昇降機に通ずるドア……何にも変っていなかった。
エラリーはいった。「誰もここへは入らなかったようだな」
「少し備品を持ってゆきたいんだがね」とミンチェンが呟いた。「でも、君のお父さんが厳重に命令してったんでね」
エラリーは憂鬱そうに、あたりを見まわした。「こんなとこへ引き返してきたので、君は僕の気が変になったと思ってるだろうね、ジョン。実際、今じゃドジュナのインスピレーションの、最初の閃きが消えちゃったよ。少し頭がどうかしたんじゃないかな。ここに新しい手懸りがあるはずはないよ」
ミンチェンは答えなかった。
二人は手術室を覗いて、すぐ控室に引き返した。エラリーは昇降機のドアに近づき、それを開いた。彼はエレベーターの中に入り、反対側のドアのハンドルを押した。少しも動かなかった。
「向う側に封がしてあるんだな」と彼は呟いた。「こいつは東廊下に通ずるようになっているんだ」
彼は控室に戻ると、ぐるっと見まわした。エレベーターの近くに、小さな消毒室のドアがあった。彼はなかを覗いた。なにもかも、月曜日のままだった。
「馬鹿々々しい!」とエラリーは叫んだ。「この恐ろしい場所から出ようじゃないか、ジョン」
二人は麻酔室を抜けて、南廊下を玄関の方へ歩いていった。「そうだ!」と不意にエラリーはいった。「ジェニーの部屋へ行ってみよう」
警官がドアの前あたりの廊下をうろうろしていた。
部屋の中へ入ると、エラリーは大きな机の後ろにある死んだ男の椅子に腰掛けた。そしてミンチェンを西側の壁際にある椅子に坐らせた。エラリーは煙草をふかしながら、皮肉な眼つきで、部屋のなかをじろじろ見まわした。
彼は落着いたゆっくりした声でいった。「ジョン、僕は白状するけどね。依然としてどうしようもない状態なんだ。こんなに不可解な犯罪は始めてだよ」
「望みがないというのかい?」
「いや、アフリカのウォロフがいったように『希望は世界の支柱だ』よ」エラリーは煙草の灰を落とすと、微笑した。「僕の支柱は倒れかけている。僕のプライドに対する恐るべき打撃だよ、ジョン……だが、僕が『完全犯罪』といわずに、『不可解な犯罪』といったことに注意して欲しいね。犯人は、実際にはっきりと理解できる、決定的な手懸りを残しているんだからな。だから、優しい悪魔が自分の失敗を、うまく誤魔化したのか、それとも運命が、それと同じことをやったのか、どっちかだよ……」
エラリーは乱暴に煙草の吸いさしを、机の上の灰皿に押しつけた。「こうなったら、やることはたった一つしかないよ。今まで調査した連中の背後関係を、片っぱしから当ってみるんだ。どこかに何か隠れているに違いない!」
ミンチェンは急に熱心になって、「僕は、その点じゃ君を援助できる。僕は役に立つかも知れないある事実を見つけたよ……」
「そうかい?」
「僕は昨晩遅くまで、ジェニーと僕が書いていた本について、調べていたんだ。そこで僕は、事件に関係のある二人の人間について、かなり妙なことを発見したんだ」
エラリーは眉をひそめた。「その本の原稿の中でかい? 僕が見たいといった――」
「いや、原稿の中でじゃない。ジェニーが十年間に集めた記録の中でさ……エラリー、これは職業上の秘密で、普通の事情だったら、こんなことを知らせるなんて、許されないことなんだぜ……」
「誰に関することなんだね?」エラリーは鋭く訊いた。
「リューシアス・ダニングとサラ・フラーだ」
「ほう!」
「だけど、もしこれが事件に関係がなかった場合は、記録には絶対載せないと約束するかい?」
「うん、もちろんさ。じゃ、話してくれ、ジョン。面白そうだな」
ミンチェンは早口に喋べりだした。「君も知っていると思うが、特別な病症を学術的に引用する場合は、ただ頭文字とケース・ナンバーしか出さないものだ。これは患者のためを思ってやっていることだし、それに研究のためには本人の名前なんか必要じゃないんだ。
昨夜、まだ『先天性アレルギー』の原稿の中に入れてない、ある病症記録を調べていると、ふと、ある二十年前の記録が眼にとまった。それには特別の脚註がついていた。その註によると、この事実を引証する場合には、患者の身元が絶対にわからないように、合法的な頭文字さえ使わぬようにと注意書きがしてあった。
それがあまりに特異なものだったので、僕はまだ本の中に引用する準備ができていなかったが、すぐに読んでみたのだ。すると、その症状例というのが、ダニングとあのフラーに関するものなのだ。フラーは、子宮切開で分娩した患者であったが、その記録には僕らの本の症状例として役に立つ、出産と性的背景についてのある特殊な事情があったのだよ。その時、産み落とした子供は私生児だった。そして、その子が、現在のハルダ・ドーンさ!」
エラリーは椅子の肱掛けを握りしめ、吃驚して大きく眼を瞠《みは》った。「ハルダ・ドーンは、私生児だったのか」と、すぐ鸚鵡《おうむ》返しにいった。「なるほどね!」彼は一息すると、煙草に火を点けた。「そいつは驚いたな。最も厄介だった点が、はっきりしたよ。だが事件の解決に、どんな影響を与えるか、まだわからないね――ほかにまだ何かあるのかい?」
「その頃は、ダニング博士もまだ生活に苦しんでいた青年で、この病院で毎日数時間ずつ働いていた外勤医師だったのだ。彼がどうしてサラ・フラーと知り合ったのか分らないが、秘密の関係があったらしい。でもダニングは、すでに結婚していたため、二人は結婚できなかった。事実、彼には二才になる娘まであったのだ――その娘が今のエディスだよ。当時、サラは娘として、満更でもなかったらしい……もちろん、こんなことは医学とは関係のないことだがね」
「それから、どうしたんだ!」
「それが表沙汰になった時、アビーはサラの状態をくわしく知って、二人の関係に同情したわけだ。そしてダニングを黙らせてから、引き続いて彼を病院のスタッフにとめておいたばかりか、生れた子を彼女の子供として引取って、醜聞をうまく解決したんだ」
「法律上の手続きはとったんだろうね?」
「そうだ。サラは何もいえなかったのだ。記録によると、彼女は、多くを語らず、取り決めに賛成したそうだ。そしてアビゲイル・ドーンの娘となる子供の今後のことについては一切干渉しないと誓ったのだ。
当時は、まだアビーの夫も生きていたが、二人の間にはちょうど子供がなかった。それで、その秘密は病院内の人々からも、うまく隠しおおせたのだが、子供のことでサラを救ったジェニーだけは例外だった」
「その事実は今まで、はっきりしなかった点を説明するのに大分役立つようだね」とエラリーがいった。「アビーとサラの口喧嘩や、ダニングが、サラはアビーの殺害に無関係だといって庇《かば》っている理由などが、よくわかるよ。もし彼女が逮捕されようものなら、彼の青年時代の無分別が暴露して、家庭的にも、社会的にも、恐らく仕事の上でも破滅しちゃうだろうからな」と、エラリーは頭を振った。「だが僕には、それがどうして事件の解決に役立つか、まだ分らないね。もしそうしたことが、アビー殺しにせよ、ジェニーの場合にせよ、サラに有力な動機を与えるとしても、それじゃ強迫観念から出た偏執狂的犯罪に過ぎないだろう。あの女は、確かに普通じゃない。しかし……」
彼は不意にいった。「ジョン、よかったら、僕にその症状記録を覗かせてくれないかね。何か君が見落とした重要なものがあるかもしれないよ」
「こんなことを洩らしたからには、君に見せられないという理由もないな」と、ミンチェンは疲れた声でいった。
彼は大儀そうに立ち上ると、ぼんやりした様子で、部屋の隅の、ジェニー博士の机の後ろの方に行きかけた。
ミンチェンがエラリーの椅子の後ろへすり抜けようとしているのを見て、エラリーは噴き出していった。「どこへゆくつもりなんだい、先生?」
「え?」ミンチェンは、ちょっとぽかんとしていた。それから苦笑いを浮かべると、照れ臭そうに頭をかいた。そしてドアの方に踵《きびす》を返した。「ジェニーが死んじゃって、頭が少し変になったところをみせちゃったね。昨日、ジェニーの死体が発見されたあとで、すぐ書類整理棚を机の後ろから移したんだっけ。すっかり忘れていたよ……」
「何だって?」
*
後年、エラリーは、このうわべは他愛もない情景を思い出して、その時のことを、「犯罪研究家としての僕の一風変った経歴中でも、最もドラマティックな瞬間だった」といっている。
一つの忘れていた出来事のうちに、短いほんのちょっとした言葉のうちに、ドーン・ジェニー事件の全貌が、まったく新しい、驚くべき様相を呈してきたのである。
ミンチェンは、エラリーの叫びにすっかり度胆をぬかれて、その場に釘づけになっていた。そしてあっけにとられてエラリーを見つめていた。
エラリーは飛びつくように、回転椅子の後ろの床に片膝をついて、細心の注意でリノリュームの上を調べた。しばらくして、彼は元気よく立ち上ると、微笑さえ浮かべながら頭を振って、「床の上には、書類整理棚のあとなんかないよ。みんな新しいリノリュームのせいなんだね。これでどうやら解ったよ……」
彼は、つかつかとミンチェンのそばによると、力一杯肩をつかんだ。「ジョン、君のおかげだよ! ちょっと待てよ……こっちへきてみろ――病状記録なんかかまわないよ!」
ミンチェンは、やれやれという風に、肩をすくめると、複雑な面持で、エラリーをみつめながら腰を下ろした。エラリーは、やけに煙草をふかしながら部屋をいったりきたりした。
「ここでどんな事が起こったか、やっと解ったよ」と彼は愉快そうにいった。「ジェニーが殺されていたのを発見したときに、僕よりも、君は数分早くここにきたんだ。君は、警官にそこら中をまたたくうちにひっかきまわされやしないかと思って、こうした重要な記録類をほかに移す事にきめて――どこか安全なところに移したんだろう。違うかい?」
「うん、そうだよ。それが悪いかい? あんな整理棚に、まさか意味があるとは思わなかったからね――」
「悪いかい、だって?」とエラリーは叫んだ。「君のお蔭で、事件の解決をまる二十四時間もおくらしちゃったんだぞ! あの書類整理棚が、事件と大いに関係があったのを知らないのかい? ジョン、それを知らないで、君は、もう少しで、親父と僕をだいなしにするところだったんだぜ……」
ミンチェンはあっけにとられていた。「だって――」
「だってじゃないよ。だがまあ、気にするなよ。最も大事なことは、僕が鍵になる手懸りをつかんだということさ」エラリーは部屋の中を歩き廻っていた足を止め、いらずらっぽくミンチェンをみつめて、頭をちょっと右に動かした。「ほら、あのすみに窓があったらといったろう、ジョン……」
ミンチェンは、エラリーが責めるように指さした方向をぼんやりとながめた。
彼には何も見えなかった。ただジェニー博士の机の後ろに、白い壁があるだけだった。
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二十五 単純化
「一階の見取図を持ってきてくれないか、ジョン」
ミンチェン博士は、急に熱心になったエラリーの態度に、すっかり引きずり込まれてしまった。むっつりと、不機嫌な顔をして、考え込んでいた男から、急にエラリーは――いきいきとした、活発な歯切れのよい男になった……。
病院監のパラダイスが、ジェニーの部屋へ病院の見取図をもってやってきた。エラリーは、それをほどいて机の上に拡げた。そして、彼の肩越しに見守っているミンチェンに、ややこしい足どりを指で辿って示しはじめた。エラリーは、まるで見取図に描かれた迷路のほかには、現実の世界がなくなってしまったかのように、じっと眼をすえて考え込んでいた。
その間、ミンチェンは辛抱強く待っていたが、しばらくして、やっとエラリーは、なんとなく満足したような顔をして身体を伸ばすと、鼻眼鏡を外した。
見取図は、くるくると丸められた。
エラリーは、鼻眼鏡で下唇のあたりを軽く叩きながら、物思わしげに行ったり来たりした。彼が煙草に火を点けると、一瞬頭が煙のなかに消えた。「もう一度行ってみよう――もう一度」その言葉は、煙の外に這い出した。「さあ、ジョン!」
エラリーはミンチェンの肩を、ぴしゃりとたたいていった。
「もしかしたら……習慣の力が――」彼は立ち止ると、ちょっと笑い声をたてて、「運が良ければ、ちょっとした証拠が手に入るよ。ほんの小さな切れ端だけどね……」
彼は部屋から南廊下にとび出していった。ミンチェンもすぐ後を追った。エラリーは麻酔室のドアの前で足をとめて振り返った。
「早く! 控室の備品棚の鍵をくれないか!」といって、待ちかねたように手をさし出した。
ミンチェンは鍵束をとり出した。エラリーは、彼がさし出した鍵をひったくると、あたふたと麻酔室に入っていった。
そして彼は、胸のポケットから大急ぎで手帳をとりだして頁を繰《く》っていたが、その中に鉛筆で何かを書きつけたわけのわからぬ図解が見つかった。その図は、細長い矩形のようであったが、先端が妙にぎざぎざしていた。しばらく彼は、この図を熱心に見守っていたが、やがて微笑を浮かべ、黙って手帳をポケットに戻すと、ドアのところの警官を払いのけるようにして、控室に入っていった。ミンチェンは戸惑いながら、ついていった。
エラリーは、真直ぐに白い備品棚に近づいた。そしてミンチェンの鍵で、ガラス戸をあけると、いくつもある小さな抽出《ひきだ》しに眼を光らせた。その抽出しには、それぞれ納めてある備品名を記した紙が貼りつけてあった。
彼は、その貼り紙にすばやく眼を走らせた。下の方にある一つの貼り紙に眼をとめると、その抽出しをあけて、中の品物を綿密に調べはじめた。そして何か抽出しの中から取り出しては、一々眼に近づけて見ていたが、やっと四度目に薄い容器を見つけ出した。それから、かすかな感嘆の声をもらすと後ろへ二三歩退って、またポケットから手帳をとり出し、さっきの図解の頁を開いて、抽出しから取りだした品物と注意深く見較べていた。
彼は微笑すると、手帳をポケットにおさめ、見つけた品物を備品棚に返した。
「君は、どうやら重大なものを見つけたようだね」ミンチェンは腹立たしそうにいった。「だが僕には何が何だがさっぱり分らないよ。一体、どうしてそんなににやにや笑っているんだい?」
「発見したんじゃない――確証したのさ」とエラリーは落着いて答えた。彼は控室の椅子に腰を下ろすと、両足を少年のようにぶらぶらゆすった。「今度の事件は、僕が今まで出くわした事件のうちで、最も奇怪なものだよ。
僕が掴んだ一片の証拠は、この複雑な仮説を確認する上に、充分強力なものなのだ。僕は前から、それを探そうと思いながらも、今までやらなかったのさ。
わかるかね。そいつはずっと僕の鼻の先にあったんだ。それでも、なお僕はこの貴重な証拠の存在を疑ってみるより先に、犯罪そのものを第一に解決しようしていたんだよ!」
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二十六 方程式
木曜日の午後、エラリーは片手に大きな包みをかかえ、もう一方の手に細長く紙を巻いたものを持って、満面に微笑をたたえながら、八十七番街の自宅へ帰ってきた。
エラリーの鍵の音を聞きつけて、ドジュナがドアのところへ飛んできた。ドアをあけると、彼はいきなり背中に、エラリーから大きな包みを押しつけられて吃驚した。
「エラリーさん! もうお帰りですか? どうして呼鈴を鳴らさなかったんです?」
「僕が――ふふん――」エラリーは、歯を見せて笑うと、柱にもたれた。「ドジュナ、いってごらん……君は大きくなったら何になりたいんだい?」
ドジュナは大きく眼を瞠った。「大きくなったら?……僕は探偵になりたいんです!」
「自分を偽っていってるんだろ?」と、エラリーは鋭くいった。
少年の唇は、ぽかんと開いた。「いえ、ちがいます。でも、僕は勉強できないんです」
「僕はこう思うんだがね」といってエラリーは、うしろに隠していた手を出して、包みを少年の腕に押しつけた。「これはつまらんものだけれど、すぐに君のためになるよ」
そして彼は、胆をつぶして黙りこくっているドジュナを後にして、部屋の中に入っていった。
それから二分と経たないうちに、ドジュナが居間にとび込んできた。「クイーンさん!」と彼は叫んだ。「僕にですか?」
彼はうやうやしく包みをテーブルの上に置いた。包装紙を解くと、中から金属の箱が現われた。その蓋をとると、|つけ髭《ヽヽヽ》や、チョークや、顔料や、|かつら《ヽヽヽ》など、そうした種類のものがぎっちり詰まっていた。
「君にだよ」エラリーは、外套や帽子を隅に放りだすと、少年の方に身をかがめて、「君にだとも、ドジュナ。君はエラリー家で、最もすぐれた探偵だからだよ」
ドジュナは喜色満面の態《てい》であった。
「もしそれが君のじゃなかったら」とエラリーは、少年の頬ぺたをつねって、勿体らしく続けた。「今朝の君の不思議な暗示が、ドーンとジェニーの事件を、解決したりしなかったろう」
ドジュナは、すぐさま聞き返した。「じゃ、解決なさったんですか?」
「まだだよ、でも、もう長くはかかるまいね」
クイーン家の家風をすっかり身につけていたドジュナは台所の方へアラジンの魔神みたいに姿を消した。
エラリーは細長く巻いた紙をテーブルの上にひろげた。それは、病院監のパラダイスが彼に手渡した見取図だった。口に煙草をくわえたまま、彼はしばらくその見取図を研究していた。
時々、彼は図表の欄外に、わけの分らぬノートを書きつけた。
何かが、彼を当惑させているようだった。何本となく煙草を喫いながら、部屋の中をぐるぐる廻りはじめた。彼の額は曇っており、深い皺が刻まれていた。
ドジュナは、用心深くこっそり近よってきた。彼は恐るべき風采をしていた。黒い巻き毛の上から、すっぽり深紅色のけばけばしい|かつら《ヽヽヽ》をかぶっていた。薄茶色の頬髯が、彼の頤から垂れさがっていた。たけだけしい口髭が、鼻の下についていた。そして、毛むくじゃらの顔を、一層ひきたてるために、灰色の太い眉をくっつけていたが、それは警部の眉に似ていないこともなかった。紅で頬をぼかして、有名なスベンガリの眼に似せて、自分の眼を墨でくまどっていた。
彼はエラリーに、わざと見てもらいたいように、テーブルのそばにわくわくしながらつっ立った。
エラリーはふと立ち止って彼の方を見ると、驚きの表情が顔一ぱいに拡がった。そして、すぐ驚きが失せたが、その表情は急に心配そうな様子に変った。
ちょっと顫えを帯びた声で彼はいった。「どなたでしたっけ? どうしてここへ?」
「エラリーさん――僕ですよ!」
「なんだ!」エラリーは一歩さがると、「ドジュナ――本当に君かい?」
「たしかに僕ですよ!」とドジュナは勝ち誇ったように叫んだ。彼は口髭と頬髯をむしりとった。
「まんまとしてやられた!」とエラリーは呟いた。「こっちへ、おいで!」
彼は警部の大きな肱掛椅子に坐ると、少年を近くに引き寄せて、「ドジュナ」と彼は重々しくいった。「事件はすっかり解決したよ。一つのことをのぞいてはね。僕は、今日にでも犯人を掴まえることができるんだよ――二つの殺人を行った一人の犯人をね。僕は完全に、事件の機微《きび》を掴んだんだ。だが、一つだけ厄介な点が……」彼はドジュナよりも、自分自身に喋べっていた。「ちょっとしたことだから、別に大して影響はあるまい。だが、何もかも分ったとはいえないな。返事を訊いてみるまで……でも、これでどうやら、解決したよ」
彼は椅子から飛び出すと、寝室に姿を消した。ドジュナはすばやく彼にくっついていった。
エラリーは、ナイト・テーブルから電話をとりあげると、すぐに相手を呼び出した……
「ピート・ハーパー!……ピート。僕のいうことを黙って聞くだけだよ……余計なことを喋べるんじゃないぜ。
ピート、もし僕の頼みをきいてくれたら、僕はいつかの話よりも、ずっと素晴らしいニュースを約束するがね……承知だって! じゃ、鉛筆と紙の用意はいいかい? このことを誰にも一言も洩らしちゃいけないよ。誰にもだよ、わかったね? 僕がいいというまで、発表しちゃいけないよ。
では、君に早速行ってもらいたいところがあるんだが……」
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読者への挑戦
「オランダ靴の秘密」も、数年前に発表した僕の最初のミステリー「ローマ劇場毒殺事件」の例に倣って、この辺で「読者への挑戦」を挿入する……読者には、ドーン、ジェニー殺しの正しい解決にとって、根本的な、すべての適切な事実を、完全な誠実さをもって知らせてある……
精確な論理と完璧な推理を行使することによって、与えられたデータから、アビゲイル・ドーンとジェニー博士の殺人犯を名指しすることは、読者にとって簡単なことであろう。僕は故意に簡単だというのである。実際には、簡単なことではない。推理は自然であるが、鋭く緊張した思考を要するのである。
僕が控室の備品棚からとり出した品物とか、前章において、ハーパーに電話で与えた情報とかは、事件の解決にとって必要のないものである……だが、読者が正しく論理に従うなら、その品物が何であったか、その情報がどういうことであったか、およそ推測し得るであろう。
不公正《アンフェアネス》のそしりをまぬがれるために、僕は次の反駁を掲げておく。僕自身が答えを解いたのは、備品棚のところへゆく以前であり、ハーパーに電話する以前である。
エラリー・クイーン
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第三部 書類の発見
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犯罪を追いかけて一生を過ごした人々は、年老いて回顧的になる年齢に達するまでに、ある種の事件の物的証拠を蒐集しているものである。……私の知っているある探偵は、部屋の中を兇器で一ぱいにしているし、またある探偵は指紋の記録をおびただしく集めている……私自身の悪癖は、紙を集めることであった――大きさ、形、色、用途のちがうあらゆる種類の紙――だが、そうした紙も共通な出所によって、自ら限界がある。即ち、犯罪事件におけるその重要さは……
それが見つけられた時には、水びたしになっており、文字や印刷の跡も見あたらず、そんなに薄くもなかった、ただの白い紙のように思われた。あんまりひどく濡れていたので、私達はそれをやっとのことで元通りにした……その結果、このなんでもない一片の紙が、二十世紀最大の海賊を処刑するに至った重大な手懸りとなったのである。
それはオールド・ウィスキーのレッテルだった。科学的分析によって、大洋の塩からい水のなかに沈めてあったことが暴露されたのであった……
バーソロミュー・テアン
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二十七 解明
フィリップ・モアハウス弁護士より
金曜日、一月××日
リチャード・クイーン警部へ
ニューヨーク市八十七番街
親愛なるクイーン警部
今朝、エラリー・クイーン氏と電話でお話したことに関し、氏から特別に依頼されたことについて、この手紙を書く次第です。
クイーン氏は、まだ警察が関知していない、ある個人の秘密について、オランダ記念病院のミンチェン博士より、昨日、詳しく聞き知ったということを申されました。
秘密が洩れてしまったからには、僕も沈黙を守ったり回避したりする理由もなくなりましたので、この機会を捉えて、いままでは不明瞭で説明されなかったダニング、フラーの関係について明らかにしましょう。
しかし、それを述べる前に、今朝エラリー・クイーン氏にも約束していただいたことですが、ハルダ・ドーンの真の血統については、新聞社には絶対に秘密を守っていただきたく、警察記録にもできるだけ載せないようにお願いします。
ドーン夫人の遺書によって焼却するように命ぜられていた書類は、その中に記載されている事件をめぐる数年間、同夫人によって書かれた日誌であって、五年前にとり出され、それより今日まで厳重に保存されていたものでした。
クイーン氏が明察されたとおり、僕は自己の法律的権限を越えて、封をしたまま焼却せずに、それを開いて読んだのでした。
クイーン警部、僕は永年法律の仕事に携ってまいりまして、父の職務上の名声を汚さなかったものと確信しております。もしドーン夫人が、自然に死なれたものでしたら、僕は決して自己の法律的信用を裏切るようなことはしなかったでしょう。しかし夫人は殺害せられたのであり、それに僕は故人の許しによってドーン嬢と婚約の間柄であり、ドーン家の一員であるわけですから、余儀なく封を破り、内容を調べてみた次第です。僕が開封して読む前に、警察に提出したならば、殺人とは全然関係のない個人的事実が明るみに出てしまいます。ですから、僕は弁護士としてよりも、家族の一員としてそれを開封し、もし犯罪に結びつく何かがあれば、僕はすぐに貴方にお渡しするつもりでした。
しかし、日誌を読んでゆくにつれて、僕はハルダの出生について、驚くべき事実を知ったのです……警部、僕が情報を隠し、日誌を焼却したことに対して、貴方は僕をお責めになりますか? でも自分のためにやったのではないのです――僕には少しくらいの恥は何でもありません――でも純真無垢なるハルダに、彼女は自分のハウス・キーパーの私生児である、ということを知らせるようなことはできませんでした。
これと関連して、もう一項目があります……それは目下遺言検証中でありますから、いずれ確認されるものと思います。それは、出生とか血統に関わりなく、ハルダはアビゲイル・ドーンの合法的な娘として、ドーン家の財産の大部分を相続するということであります。彼女の真の血統は、彼女の遺産に何らの影響も与えないのです。従って、この恥ずべき事実について僕が沈黙していたわけは、ハルダの遺産継承が、故人との血統関係に左右されるというような利己的動機によって、動かされていたのでは絶対ありません……
クイーン氏が推測されていたとおり、アビゲイルとサラ・フラーは、ハルダの出生の秘密について、絶えず口論しておりました。日誌には、サラが自分の約束を後悔して、ハルダを返してくれなかったら、自分が母であることを暴露すると、絶えず脅かしたということが明記されています。何年か経つにつれて、アビゲイルの気持はハルダを実子のごとく愛するようになっていました。そして、サラによって真相が世間に洩れることを恐れるあまり、中年になって、今では狂信的でさえある彼女を、解雇することができなかったのでした。
ドーン夫人が死なれてから、僕はサラ・フラーと内密に話し合いました。今では彼女の憎悪の対象であったアビゲイルは死んでしまったし、僕がハルダと結婚するのを承知して、秘密を明かさないことを確約しました。ダニング博士も、分別をわきまえて口外するようなことはないでしょう。彼の全経歴と名声は、その秘密について沈黙してこそ完全なのですから。
数日来、サラ・フラーとダニング博士が会っていたのは、エラリー・クイーン氏がお考えになったとおり、ハルダの血統の秘密と今後の方針を相談したものと思われます。奇妙なことに、彼女は彼に悪意を抱いておりません。気狂い女の気違いじみた気まぐれです! 昨日、彼女は僕に次のように打ち明けました。彼らは問題をあらゆる角度から検討した上で、ダニング博士は従前どおりハルダをドーン家の者として生活させるように彼女を説得したということです……
日誌に書かれているもう一つの重要な問題は、ハルダの秘密に関するジェニー博士の役割です。ご存知のことと思いますが、ジェニー博士は常にドーン夫人の信任厚い人でした。それには彼が、ハルダ出生の真相について、詳しく知っていたということも関係しておりました。日誌中の某所に記されたところによると、ジェニー博士のダニング博士に対する態度は、事実上暴行に等しいダニングの醜聞によって影響されることなく、彼のつまづきは許さるべきであるという寛容な考えを持っていたようです。とにかくジェニーは、サラが自己の歪められた母性本能を満足させたいというだけで、ハルダの一生のことを顧みずに、つまらぬトラブルを起こす癖を、たびたび責めておりました。恐らく彼のダニングに対する寛容な態度は、ダニングの専門的手腕に正直に敬服しているためであり、また彼自身の超俗的な性格のためでしょう。
いかなる点から考えても、ジェニー博士は、ドーン夫人の良き友でした。彼は彼女のあらゆる行動の味方であって、決して二人の間に、どんなに小さな不和や背信も起こったことはありませんでした。
上述の件に関して、絶対秘密をお守り下さるよう重ねてお願いしておきます。それはご存知のとおり、僕自身のためではありません。僕にとっては何物にもかえがたいハルダのためであります。
フィリップ・モアハウス
追伸。この手紙をお読みの上は、写しをとったりなさらずに、直ちに焼却して下されば大いに感謝致します。
*
この手紙を読んでからクイーン警部は、穏かだった金曜日のほかの出来事に、はたと思いあたった。が、それは金曜の夕刻六時三十分に、エラリー・クイーンのところに電話がかかってきたということだった。
過去二十四時間におけるエラリーの態度は、微妙に変化してきていた。彼はもういらいらしたりしなかったし、以前のように、あらぬことを考えながら床を歩き廻ることもなかった。
金曜日はずっと、彼は居間の窓際に坐って読書をしたり、休憩時間に、二時間ほどタイプを叩いたりしていた。それは数カ月前から書いていたミステリーであったが、事件の間、一時中止していたものであった。
その重大な電話は、警部が何の収穫もなく家に帰ってくるとすぐかかってきたのである。
警部の顔は、すっかり焦悴しきっていたが、エラリーの声が寝室から聞えてきた途端、すーっと緊張し、鋭く聴き耳を立てたのだった。
それは興奮した声であった――生きいきした愉快そうな――エラリーが、時たまの憩いの時にたてるような声であった。
警部はそっと外側のドアに近づくと、息を殺して耳を澄ませた。
「ピート! どこにいるんだい?」はじめは少し心配そうな調子だった。が、すぐに愉快そうな声に変った。「そいつは素敵だ! 素晴らしいぞ、ピート! コネチカット州かね? ありそうなことだよ……間にあうかい? うん、構わないとも……ピート! しっかりしてくれよ。証書を見たんだね? そうか……いや、いいよ。写しを作ってきて、帰ったらすぐに見せてくれたまえ――朝の三時だって構わないよ。僕はずっと待っているから……うん。急いでくれ!」
警部は受話器のガチャンという音と、エラリーが大きな声で叫ぶのを聞いた。「ドジュナ! 済んだぞ!」
「何が済んだんだ?」と警部は、エラリーが居間に飛びこんできた時に訊いた。
「あ、お父さん!」エラリーは父の腕をとると、やさしく振って、「事件は完全に終りですよ。ピート・ハーパーが――」
「ピート・ハーパーが?」警部は顰め面をした。疲労の皺が、口のまわりに深く刻まれた。「誰かに仕事をさせるくらいなら、なぜわしの部下にやらせないんだ?」
「まあ、お父さん」とエラリーは笑いながら、警部を肱掛椅子に坐らせると、「そんなことをおっしゃらないで、僕のいうことを聞いて下さい。ちゃんと理由のあることなんですから――事件はすっかり片付いたわけじゃありませんよ。それに僕は、この仕事をあんまり目立つようにやりたくなかったんです。もし巧くゆかなかった場合は、いろいろ弁解しなくちゃなりませんし……ピートが今晩ここへ帰ってきたら、非常に興味のある書類を持ってくることになっています……もう少し辛抱して下さい」
「うん、そうか」老警部は疲れているようだった。彼は椅子にぐったりともたれて、眼を閉じた。
「わしは、これで静養できるかな……」警部は眼をぱっちりと開いた。
「ところで、二十四時間前には、この事件のことで、ひどく悲観してたじゃないか」
「あの時は巧くゆきませんでしたからね!」と彼は叫んだ。「でも、今日は違います。ディズレリイの言葉を引合いに出せば、『成功は大胆の子なり』ですよ――お父さんが信じなくったって、僕は自分の推理には大胆でしたからね……今後、僕は自分の信条として、『常に大胆なれ!』というガリアの格言に従うつもりですよ」
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二十八 討議
次第に事件はクライマックスに近づいてゆき、従ってクイーン家のうちにも、その緊張した空気がひしひしと感じられてきた。そうした興奮の気配は、躍りあがって喜んでいるドジュナや、むっつりして怒りっぽくなった警部や、力強い確信にみちたエラリーの態度のうちに、はっきり現われていた。
エラリーは、父の仲間を秘密の討議に招くことにした。彼のプランは、霧と謎のうちに隠されていた。もし金曜日の夜のうちに、彼が心中ひそかに考えているところを父に打ち明けたところで、二人とも充分な確信に達することはできなかったろう。ピート・ハーパーが、土曜日の朝、二時三十分にそのノンシャランな姿を現わしたことなんかいいもしなかった。だからきっと警部は、この新聞記者の夜の訪問については、まったく知らなかったであろう。部屋着とスリッパのエラリーは、警部がベッドで眠っている間に、ハーパーを部屋に招じ入れて、強いウィスキーや沢山の煙草をやって、彼から一枚の薄い書類を受取ると、彼を追い返し、自分もさっさと部屋に引込んでしまったのであった。
土曜日の午後二時、クイーン警部とエラリーは、二人の客を午餐に招いた――サンプソン検事とベリー巡査部長である。ドジュナは彼らのまわりを、うろうろしていた。
サンプソンは、エラリーを咎めるように見つめて、「何とかなりそうかね」
「凄い旋風が起こりますよ」とエラリーは微笑した。「コーヒーでも飲んで下さい、検事さん。これから解決のいきさつをお話しますからね」
「じゃ――もうすっかり済んだのかい?」サンプソンは疑わしそうだった。
「なにもかも、わかりましたよ」エラリーはベリー巡査部長の方を向いた。「君はニーゼル博士の契約書を調べてくれたね?」
「たしかに」と、大男は一枚の紙をテーブル越しに投げてよこした。エラリーは眼を細めてそれを読んですぐに返した。
「もうこれは、問題じゃなくなったよ」
彼は椅子にどっかと坐ると――彼の好きな姿勢で身体を休めて――首をぐっと後に反らせた。そして、夢でも見ているように天井を見詰めた。「ずいぶん面白い追求だったよ」と彼は呟いた。「実に大事なポイントを含んでいたんだ。事件に夢中になっている最中は分らなかったんだよ――すっかり済んじゃったから、こんなこともいえるんだけれど」と彼は嬉しそうに笑った。
「僕はまだ自分の結論をいえないんだ……僕の推理は、かなり複雑だし、みんなの意見を聴いてみたいんだよ。
まず最初の殺人について考えてみよう。アビゲイル・ドーンの場合だね、二つの素晴らしい手懸りがあった。でも、上べはなんでもなさそうに見える! 一つはあの白い布靴だし、もう一つは例の白ズボンさ」
「それが、どうしたんだ?」サンプソンは、ぶつぶついった。「どちらも興味はあるよ。そいつは僕も認めるが、だからといって、あれを土台にして、起訴することができるかね――」
エラリーは両眼をすっかり閉じていた。「僕がはっきりした証拠を引き出すから、その上で起訴できるかどうか、考えてみようじゃないか。
まずあの布靴だ。あれには三つの顕著な特徴があった。切れた靴紐、継ぎ合せた絆創膏、それから爪先の上側に敷革が折れ込んでいたことだ。
表面的な説明は、分りきっていると思うがね。切れた靴紐は、予期しなかった事故だろうし、絆創膏は修理したんだろうし、それから折れ込んだ敷革は何を意味するね?」
サンプソンは、ひどく眉をひそめて考え込んだ。大男のベリーはただ途方にくれているようだった。警部は一生懸命考えをまとめようとしている様子だった。三人とも、一言も口を利かなかった。
「返事がないのかい? 論理的推理ができないのかね?」エラリーは溜息した。「じゃ、そいつはこれぐらいにしておこう。ただペテン師が用いたあの靴の三つの特徴から、僕はこの事件の真相を明らかにする最初の目星をつけたのだ、ということは断言してもいい」
「それじゃ、あの時に、もう誰が殺《や》ったか分ったとおっしゃるんですね?」とベリーが、かすれた声でいった。
「そんなことはいわないよ」とエラリーは微笑した。「だが、僕はあの靴や、あのズボンの最も目立った特徴から考えて、自分の推理にほぼ確信が持てたんだ。そのお蔭で、僕は犯人の格好をかなりのところまで説明できるまでに見当がついたんだよ。
あのズボンをとってみても、膝のところにあげがしてあったのは、なかなか意味深長じゃないかね、少くともあのズホンの証拠は……」
「あのズボンの元の所有者は」と警部は疲れたようにいった。「あれを盗んだペテン師よりも背の高い奴だったんだな――だからペテン師は、両足を短かくしなければならなかったのさ――それだけのことだと思うよ」
サンプソンは、葉巻の先を乱暴に噛みきって、「今までのところ、僕は一向に決定的な結論に達するとは思わないね」
「困りましたね」とエラリーは呟いた。「揃いもそろって、お分りにならないとは。先に進みましょう。じゃ、第二の殺人です。僕が最初におかしいと思ったのは、ジェニーが殺されていた時の状態です」
「状態だって?」サンプソンは訝《いぶか》しげな顔をした。
「そうです。明らかにジェニーは普通の死顔をしていました。確かに彼は仕事中に殺されたに違いありません――例の先天性アレルギーについての原稿を書いていたんですよ。顔の表情は、まるで眠っているうちに死んだようでした。死の驚きも、恐怖も、懸念も見えませんでした。
そのことと、彼を殴打して気絶させた傷の位置とを結び合せて考えると、恐るべきシチュエーションが潜んでいることがわかりますよ。
第二の手懸りを得ると、この犯罪が行われた時の状況《シチュエーション》は、もっと興味をそそるものとなります」
「ちっとも興味を感じないよ」とサンプソン。彼は賛成したくないような気分になっているらしかった。
「さて、第二の手懸り……いいですか! それは、ジェニーの症状記録がしまってあった書類整理棚《フィリング・キャビネット》を、ミンチェンがほかへ移したということだ――これですっかり、事件の謎が解けたのです……もし第二の犯罪が行われなかったら、ドーン夫人殺害事件の犯人は無事だったかも知れません。僕はジェニーの遺産の秘密を解くことによってのみ、ドーン夫人がどうして殺されたかという驚くべき真相を解決し得たんです」
クイーン警部は、嗅ぎ煙草入れに指をつっ込んで、「わしも、ヘンリーが考えているのと同じように、どうもよくわからないね。いつものように、もう少しはっきり説明してくれなくちゃ、何だか担がれているみたいだな。一体、その書類整理棚にどんな意味があるんだい? お前のいうとおりだとすると、それも例の靴とほとんど同じぐらい重要らしいが、わしにはどっちも分らないよ。どうして戸棚なんかが事件を決定するんだね?」
エラリーは、ひとりで笑っていた。「じゃこれから、みんなで僕が予見したことを確かめに行きましょう。時は来れりです。じゃ」と彼は立ち上り、テーブルの上に身を乗り出して、「これからの期待で僕の脈膊は、いつもより、ずっと早くなっています。僕は、みなさんに最も素晴らしい驚きを約束しておきますよ……じゃ仕度して下さい、その間に僕は電話しますから」
エラリーが寝室に入っていった時、彼らは互いに顔を見合せて頭を振った。やがてエラリーが電話で病院を呼び出している声が聞えてきた。
「ミンチェン博士……ジョンかい? エラリー・クイーンだよ。僕はこれからちょっとした実験をやってみたいんでね。君に手伝って貰いたいんだ……うん、君にとっちゃ簡単なことだよ……そうか! じゃ、ジェニーの書類整理棚を、彼の部屋に戻しておいてくれ。元通りに、ちゃんと置くんだぜ……わかったね?……うん、すぐにだよ。僕はこれから、二三のお歴々と一緒に君のところへゆくからね。じゃ失敬!」
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二十九 完結
ジョン・ミンチェン博士が、好奇心にみちた青白い顔をして、ジェニー博士の部屋の前で――鈍感そうな見張りの警官と一緒に待っているところへ、エラリーとクイーン警部、検事、ベリーの一行の後について、信じられないような、おどおどした眼つきのドジュナが、オランダ記念病院の中に入ってきた。
エラリーの親切な取り計いで、ドジュナにとっては思いがけなかっただけに、彼が一行のうちで明らかに一番興奮していた。頬が赤く輝やいていたし、眼がきらきら光っていた――澄みきって生きいきしていた。
ミンチェンは、静かに悲しげな様子で、ちらっと彼の友を眺めた。
エラリーは彼の二の腕をつかんだ。「ジョン! 僕は誰かちょっと速記のできる者が必要なんだがね。誰……? ああ、そうか。ジェニー博士の助手の看護婦だね。ルーシル・プライスさん。じゃ、すぐ呼んできてもらいたいね」
ミンチェンが急いで立ち去ると、彼は部屋の中へ飛び込んだ。
警部は両手を後ろに組んで、部屋の中央につっ立っていた。
「さあ、これからどうなるんだね?」と彼は穏やかに訊ねた。
「整理棚があると、どんな違いがあるのかね?」
エラリーの視線は、殺された外科医の机の後ろの、部屋の隅に注がれた。そこには壁際によせて、緑色の鋼鉄製の書類整理棚が、真直ぐに置かれており、机と平行になっていた。
「ベリー」とエラリーは、ゆっくりした口調でいった。「ジェニー博士が殺される前に、この部屋に入ったのは、僕たちのうちじゃ君だけだね。覚えてるだろう? ドーン夫人が殺された時、ジェニーの住所録を捜しにここへ来たろう。スワンソンを調べるために」
「ええ、まいりましたよ」
「この整理棚に見覚えがあるかい?」
「ありますとも。僕は住所録を捜そうとして、そいつの抽出しをあけようとしたくらいですよ」と、大男は面目にかけて、大声で断言した。「でも、あの時は鍵がかかっていました。わざわざ報告しなかったのは、抽出しには一々分類カードが貼ってあって、何が入っているか、すぐ分ったし、住所録は入ってないようでしたから」
「なるほど、で整理棚の位置は、たしかにこの通りだったかい?」
「ええ」
「それから机の両端は、このとおり壁に接近していたかね?」
「そのとおりです、クイーンさん。机のあちらの端が、あんまり壁にくっついていたものですから、僕はこっちの窓に近い方の端から、机の後ろに廻ったんです。それでも、ひどく窮屈でした」
「うまいぞ! そいつは惜しかったな、ベリー」とエラリーは、相手を怒らせないように笑いながら、「君は書類整理棚のことを何にも言わなかったので、不朽の名声を博する好機会を逸しちゃったんだよ。むろん、君には分りっこなかったんだけど……やあ、入り給え、ジョン、どうぞ、プライスさん」
ミンチェン博士は、小ざっぱりした制服を身につけたルーシル・プライスを入れるためにわきへよけた。二人が部屋の中へ入ると、エラリーはすばやくドアを閉めた。
「じゃ始めましょうかね」と彼は愉快そうな声でいった。
「プライスさん、どうぞあなたの机について、ノートをとって下さい」看護婦は腰を下ろすと、小机の上の抽出しから、ノートブックと鉛筆をとり出した。彼女は静かに待っていた。
エラリーは父を手招きすると、「お父さん、済みませんが、ジェニー博士の回転椅子に掛けてくれませんか」警部はかすかな笑いを浮かべて、彼のいうとおりにした。エラリーは、元気よく巡査部長の背中を叩くと、ドアのそばに立っているように合図をした。
「サンプソン、君はここに坐って下さい」エラリーは西側の壁から、椅子を一つ前に引っぱりだした。検事は黙って腰かけた。「おい、ドジュナ」少年は興奮で息をはずませていた。「君は本棚のそばに立っていろよ……ジョン、君はサンプソン検事の横に掛けてくれ給え……これで、すっかり準備はできたわけだ」
エラリーは東側の壁から大型の椅子を引きずってきて、みんなを見渡せる位置に坐った。そしてゆっくりと鼻眼鏡をかけると、両足を思いきり伸ばした。
「準備はいいですね、プライスさん?」
「ええ」
「じゃ、ニューヨークの警視総監宛に、まず『警視総監殿』として下さい。いいですか?」
「はい」
「小見出しで『リチャード・クイーン警部による』――アンダーラインを引いて下さい、プライスさん――『アビゲイル・ドーン夫人、ならびにフランシス・ジェニー殺害事件の報告。私はこの報告をなすに当って、大いなる名誉と喜びとをもって――』」
部屋の中の物音といえば、エラリーのゆっくりした平静な声と、看護婦が鉛筆を走らせる音、固唾をのんでいる一同の太い呼吸だけであったが、この時、突然ドアを叩く音がした。
エラリーは、ベリーに向って頭をちょっと動かした。「誰か見てごらん」
巡査部長はドアを細めにあけると、「なんだね?」といった。
すると不確かな男の声で、「ミンチェン先生は、いらっしゃいますか? ダニング先生が、ちょっとお会いしたいそうですが」
ベリーは、どうしますかといった表情で、エラリーの方をうかがった。エラリーはミンチェンに顔を向けると、揶揄《やゆ》するように訊ねた。「あっちへ行きたいかい、ジョン。ダニングが、ひどく君に会いたがっているようだが」
博士は肱掛けをつかむと、半ば立ち上りかけた。「そうだね――行った方がいいかな――?」
「好きにしたらいいよ。もうじき、気を紛らすにはもってこいの余興が始まるんだがね、じゃ君には見られないな……」
ミンチェンは、「僕は忙しいといってくれよ」といって坐り直した。
ベリーは、ぴしゃりと男の顔にドアをとざした。
「誰だね、ベリー?」とエラリー。
「玄関番のカッブですよ」
「ああ、そうか!」エラリーは、再び椅子の背にもたれた。
「続けましょう。プライスさん。どこまで書きましたか?」
彼女は明晰な早口で、今まで書き取ったところを読んだ。
「『警視総監殿。リチャード・クイーン警部によるアビゲイル・ドーン夫人、ならびにフランシス・ジェニー博士殺害事件の報告。私はこの報告をなすに当って、大いなる名誉と喜びとをもって――』」
「『上記の両事件の解決を報告する次第です。ドーン夫人、ならびにフランシス・ジェニー博士は、同一犯人によって殺害されたのであります。その理由については、後刻正式なる詳細報告によって説明致します――』」
また、別のノックの音に邪魔された。エラリーは立ち上ると、顔を紅潮させた。「誰だい、一体何の用があるんだ!」と彼は叫んだ。
「ベリー、ドアをしっかり閉めておけよ」
ベリーは、また細めにドアをあけると、太い腕を廊下の方につき出して、外の者を追っぱらった。
「今度はゴールドですよ」と彼はいった。
エラリーは看護婦の方を指さすと、「じゃ、続けましょう。『今度の事件の動機と手口については、いずれ後ほど説明することにして、この報告では触れないことにします』。行を改めて下さい、プライスさん。『ドーン夫人とジェニー博士を殺害した者は――』」
エラリーは、ここでちょっと言葉を切ったが、部屋の中は静まり返っていた。「そうそう、忘れていた。ここでジェニーによって書かれたフラーとダニングの病症記録のことに触れなくちゃならない……プライスさん、ちょっとその記録をとって下さいませんか」
「はい、かしこまりました」
看護婦は自分の回転椅子から、きびきびした態度で立ち上り、ノートブックをきちんとして、鉛筆をタイプライターの上に置くと、ジェニーの机の方に近づいた。
「ちょっと、失礼しますよ――」と彼女は呟いた。
警部は机と壁の間で、彼女を後ろに通すために、椅子を前に引きつけた。彼女は老警部のわきをすり抜けると、エプロンのポケットから鍵をとり出して身を屈め、書類整理棚の一番下の抽出しの錠にさし込んだ。
部屋は、死のように沈黙していた。警部はじっとしたまま頭を動かそうとしなかった。彼は黙ってガラスの文鎮をいじくり廻していた。ベリー、サンプソン、ミンチェン、ドジュナは、それぞれ緊張しているとも、酔っているともつかない表情で、彼女のてきぱきした動作を見守っていた。
彼女は青い表紙のついた書類の束をとり出すと、また警部のわきをすり抜けて、エラリーに病症記録を手渡した。そして静かに自分の席へ戻ると、鉛筆をとりあげてノートブックに書く姿勢をとった。
エラリーは椅子にゆったりと構えて、煙草をふかしていた。そして無意識に青い表紙の症状記録をめくっていたが、彼のきつい眼ざしは、殺された博士の椅子に坐っている父の眼を鋭く見詰めていた。二人の間に何かの合図が電光のように通じた。警部は何事かを了承したようだった。
エラリーは微笑した。「僕の見るところでは、リチャード・クイーン警部が、何か重大な発見をしたようです」警部は何となくそわそわしはじめた。「お父さん、どうです。警視総監への報告を、あなたが続けたら?」
「うん、そうしよう」と警部は冷たくいい放った。彼は回転椅子から立ち上って机の端を通りぬけ、看護婦のそばに歩みよると、にぎりこぶしをタイプライターの上に置き、「じゃ、プライスさん」といった。彼の眼は険しく輝やいた。「『ドーン夫人、ならびにジェニー博士を殺害した犯人は――』こいつを掴まえろ、トマス!――『ルーシル・プライスだ!』」
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三十 説明
その日の夕刊第一版には、各新聞とも一斉に、ジェニー博士の秘書兼助手であるルーシル・プライス看護婦が、彼女の雇主ならびにアビゲイル・ドーンを殺害した科《とが》で逮捕されたというニュースを報じた。
そのほかには何も書いてなかった。
なぜなら、ほかに書く材料がなかったからである。
ニューヨーク市の各新聞の編集長は、いずれも社会部の記者たちに向って、同じようなことを訊いていた。「これは本当かね、スワンソン逮捕の時みたいに、またギャグじゃないのかい?」
するとどこでも、返事はきまりきっていた。「さあ、わかりませんね」
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ただピート・ハーパーの返事だけは例外だった。彼は編集長室にとび込むと、三十分間もそこに閉じこもって、喋べって喋べって、喋べりまくった。
そして彼が出ていったあとで、編集長は顫える手で、机からタイプを打った原稿の束をとりあげて読み始めた。彼は眼を丸くした。そして大急ぎで電話をとりあげると、あっちこっちに命令を発した。
ハーパーは、エラリー・クイーンから許可があり次第、彼だけがせしめた貴重な特権を直ちに印刷に付する準備が整うと――あたふたとタクシーに飛びのって、警察本署の方に大急ぎで走らせた。
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検事局も大騒ぎであった。
サンプソン検事は、彼の助手のチモシー・クローニンと、慌しく何事かを打ち合せた後、事務室からこっそり抜けだし記者団を巧みにまいて、警察本署の方に足をはこんだ。
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市庁内は混乱しきっていた。市長は部屋に鍵をかけて、猛りたった虎のようにうろうろ歩きまわりながら――各所からの電話の呼び出しに、指図したり、命令したり、返答したりしていた。彼の赤らんだ顔には、汗が浮かんでいた。
「長距離電話。知事の呼び出しです」
「繋いでくれ!」市長は机から、受話器をとりあげた。「やあ、知事ですか……」その途端に! 彼の声は穏やかになり、ワシントン風の様子をして、「もう、すっかり済みましたよ。絶対に間違いなしです。プライスという女がやったんですがね……ええ、ええ。今までは、あんまり問題にならなかったようですな。まんまと一ぱい喰わされましたよ……五日間です――そんなに悪くもないでしょう?――たった五日で、この市の歴史のうちで、最もセンセーショナルな二つの殺人事件が片づいたんですからね!……詳しいことは、また後ほど電話しますよ……ええ、ありがとう!」
彼は電話を切った。すると、また汗が顔に滲み出て、彼の表情はだんだん落着きを失っていった。「仕様がないな! 総監はどこにいるのかな。一体どうしたわけなんだろう? ちぇッ、ニューヨーク中で、事件についてさっぱり知らないのは、わしだけじゃないのか?」
*
「やあ、市長さん……どうもね、すぐ電話がかけられませんでして。訊問にひっかかっていたんですよ。猛烈に忙がしくって――大変なんです。はっ、は!……まだ、今のところ詳細は申し上げられません。ですけど、すっかり片づきました。ご心配はいりませんよ。……プライスはまだ白状していません。喋べろうとしないんです……いや、ほんのしばらく頑固なだけですよ。われわれが掴んでいる証拠を、まだ知らないんですな……ええ、そうです! クイーン警部は、今日中には白状するだろうといってましたよ。もうこっちのものです……え?……そうですとも! 素晴らしく面白い事件ですよ……ええ、はっ、はっ! では失礼します」
*
この日のクイーン警部の部屋は、ニューヨーク中で最も静かな場所であった。老警部は裸馬にでも乗ったように椅子にまたがって、内線電話を通じて落着いた声で命令を発したり、時々速記者に向って口述したりしていた。
エラリーは、林檎を食べながら、窓際の椅子に身を沈めていた。彼はまったく平和そのもののようであった。
ドジュナは、エラリーの足もとの床にうずくまって、チョコレートの棒を噛じっていた。
私服の刑事が入ってきた。「ハルダ・ドーンが警部にお会いしたいそうですが。通してよろしいですか?」
警部は後ろにもたれかかって、「なに、ハルダ・ドーン? いいとも、連れて来たまえ、ビル。大して手間どるまい」
刑事は間もなくハルダを伴ってきた。彼女は黒い服を着ていたが――興奮で頬をそめた可憐な容貌は、なかなか魅力的であった。彼女の指は、警部の上衣の袖をとらえた時、かすかに顫えていた。
「クイーンさん!」
ドジュナは仕方なく立ち上り、エラリーも、まだ林檎は噛じっていたが、椅子から身体を起こした。
「お掛け下さい、ドーンさん」と警部はやさしくいった。
「元気になられた様子で、わしも嬉しいですよ……わしは大してお役に立ちませんでしたが」
彼女は唇をふるわせた。
「わたし――あのう――」
警部は微笑した。「ニュースをお聞きになったんでしょう?」
「ええ、そうです! わたし、とっても怖ろしいことだと思いましたわ」と、彼女は娘らしい澄んだ声でいった。「でも、あなたが掴まえて下さって良かったと思います――あの恐ろしい女《ひと》を」彼女は身ぶるいした。「まだ信じられないくらいです。あの女は、お母さんの手当てにジェニー博士と一緒にいつも家に来ていたんですし……」
「彼女は罪を犯したんです、ドーンさん。それで……」
「あのわたし、どういったらいいか分らないんですけど」彼女は膝の上の手袋をいじっていた。「フィリップのことなんです。わたしの許婚者《フィアンセ》のフィリップ・モアハウス」
「あなたの許婚者のフィリップ・モアハウスがどうかなさったんですか?」と警部は、おだやかに尋ねた。
「わたし、心配なんですの――例の書類を焼いちゃったことについて――あの、あなたが先日、フィリップにおっしゃったことが……」
「ははあ、なるほど」老警部は彼女の腕を叩いていった。
「あなたの可愛いい頭で、そんなことを心配なさっていたんなら、すっかり忘れちまいなさい。モアハウス君のやったことは――まあ無分別だったんで、わしは怒っていたんです。それだけのことですよ。もう忘れちまいましょう」
「ありがとうございます!」彼女の顔は明るく輝やいた。
ドアがぱっと開くと、ビルと呼ばれる刑事が、外から猛烈につき飛ばされて、部屋の中に転げ込んできた。
フィリップ・モアハウスが、眼をきょろきょろさせて入ってきた。そしてハルダ・ドーンの姿を見つけると、彼女のそばへ近より、肩に手をかけて、警部の方をきっと睨みつけた。「ドーンさんをどうしようというんです?」とモアハウスは、とげとげしくいった。「ハルダ、君がここへ来てるって聞いたんもんだから――何を訊かれたの?」
「まあ、フィリップ!」彼女は身をひねって椅子から立ち上った。彼はぴったりと両手を彼女の腰にまわした。警部は顔をしかめ、エラリーは溜息をした。ドジュナは、ぽかんと口をあけていた。
「失礼ですが、わしは――」と警部が何かいいかけたが、一向に手応えがなかった。彼は大声で怒鳴った。
「ビル、あっちへゆけよ! 若いご婦人に対する礼儀を知らんのかい?」刑事は肩をさすりながら、外へ出ていった。
「それでは、ドーンさんに――モアハウス君――わし達も若いお二人の幸福そうなご様子を見て大変嬉しいですがね、それでも、ここが警察だということを、どうかお忘れなく……」
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それから十五分後、警部の部屋はすっかり様子が変っていた。
椅子が机のまわりに並べられ、そこにはサンプソン検事、警視総監、ピート・ハーパーの顔が見られた。ドジュナは、警視総監のすぐ後ろの椅子の端に坐っていた。そしてまるでお守りか何かのように総監の制服に、こっそり触ったりしていた。
エラリーとミンチェン博士は、窓際に立って低い声で話し合っていた。「病院じゃ大騒ぎだろう、ジョン?」
「ひどいもんだよ」ミンチェンはぼんやりしていた。「どうしていいのか、誰にもわからんよ。あそこは、すっかり滅茶滅茶さ……ルーシル・プライスとは、何てことだ! とても信じられないね」
「うむ、だがそいつは、常習ではない殺人犯の最大の心理的保身の術となっているのさ」とエラリーは呟いた。
「『罪のある者の方が、無罪の者よりも保身の術にたけている』ということは、普遍的な真理に基づいているんだ……ところで、冶金学者のニーゼルは、ニュースを聞いたろうね?」
ミンチェンは苦い顔をした。「君が思ってるとおり、あいつは人間じゃないね。同僚が殺されても、一向おかまいなく、例の仕事をつづけているよ。研究室に錠を下して、殺人にも無関心だし、同情もしようとしないのだ。蛇のように冷血な奴だよ」
「草っ原にでも行かんのかい?」とエラリーはくすくす笑った。「奴はいまに自分の理論が間違っていたことを悟る時がくるよ。あの合金の理論なんて、あんまり空想的じゃないかね……」
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「僕はこの数年来、父が取り扱った事件に、多少とも積極的に興味を持ってきましたが、このアビゲイル・ドーンの殺害事件ほど、綿密に計画された犯罪には、まだぶつかったことがありませんでした。
どこから話し始めていいか、ちょっと厄介ですけれど……みんな同じように疑っていると思うんです――ルーシル・プライスが控室にいたということは、バイアース、グレイス・オーバーマン、それから例のビック・マイクらの証人たちによって証言されています。その彼女がどうしてあんなことをやれたのか――同時に証人達は、ジェニー博士の扮装をした者が現われたことも証言している――では、どうしてルーシル・プライスは、明らかに同一時間に、二人の違った人物になり得たのか」
みんなは一斉に強く頷ずいてみせた。
「つまり、こうなんです」とエラリーは続けた。「彼女のこの降神術的演技を、分析してみましょう。
まず、その驚くべき立場を考えてみて下さい。ルーシル・プライスはルーシル・プライスであって、控室で意識不明のアビー・ドーンに付き添っている看護婦です。だが彼女はその期間、ジェニー博士の扮装をして、いかにもそれらしく見せかけていたのです。証人達は、二人の人間が控室にいた(ドーン夫人は別ですよ)――看護婦と博士だった、といっているんです。博士は、入ってきた時も、出てゆく時もその姿を見られました。まさか看護婦と博士が一人だなんて、誰も想像できませんでした。じゃ、このことはこれでいいとして、次に実際に起こったことで意味深長な特徴をとりあげてみましょう。一見不可能のように思えて、可能でもあり、うまく辻褄があうようになっていた状況――つまり、看護婦の声が聞えた時は、彼女の姿は見えなかったし、博士の姿を見た時には、彼の声が聞えなかったということです」
エラリーはコップの水を飲んだ。「でも、これは話の順序が少し違いますね。ルーシル・プライスがどうして二重の役割の奇蹟をやり遂げたかをお話する前に、事件の発端から、推理の経緯を辿って、最後の素晴らしい勝利にいかにして達したかを顧みてみましょう。
ペテン師の着衣が、電話室から発見された時、顔マスクとガウンと外科帽は、何の手懸りにもなりませんでした。これといった特徴のない、普通の見本みたいなものでした。
だが、三つ重要なものがあったんです――それはズボンと二つの靴です――これは何か手懸りになりそうでした。
研究室の用語を使って、この靴を解剖してみましょう。あの片方の靴の切れた靴紐のまわりに、絆創膏が巻きつけてありましたね。これはどういう意味でしょう?
第一に、ちょっと考えて、それは犯罪が行われている期間に切れたに違いないことが確かめられました。その理由ですか?
これは綿密に計画された殺人です。その証拠は沢山ありますよ。じゃ、もし靴紐がその準備期間に切れたものとすると――絆創膏なんかで、切れたものを継ぐようなことをするでしょうか? そんなことは滅多にないことです。それにあの殺人犯の遣り口から考えて、犯罪遂行中にまた切れたりしない用心に、新しい靴紐と取り換えたでしょう。
むろん、そこにも疑問が起こってきます。どうして普通に切れた両端を結ばないで、継ぎ合せるなんていう変なことをやったのか? ところが、靴紐を調べてみると、その理由がはっきり解りました。もし靴紐を結び合せたとすると、その長さが短縮されて、文字どおり靴が結べなくなったでしょう。
それから、靴紐が犯罪遂行中に切れて、大急ぎで修理されたのだということを示す、もう一つの証拠がありますよ。僕が靴紐から絆創膏を剥ぎとった時、まだ少し湿っていたということなんです。確かに使用されてから、そんなに時が経っていませんでした。
絆創膏を使用したということ、それからまだ湿っていたということで、靴紐が犯行中に切れたのだという点が明らかになりましたね。じゃ――犯行中のいつごろ切れたのか? 殺す前か、それとも後か? 答えは、殺す前です。では、なぜか。犯人が靴を脱ぐ時に切れたんだったら、それを継いだりする必要が少しもありません! 時は貴重ですから、すでに目的を達していたんだったら、切れた靴紐でぐずぐずしていることはないでしょう? わかりましたか?」
みんなの頭が、一斉に頷ずいた。エラリーは煙草に火をつけ、警部の机の端に腰かけた。
「でも、それだけじゃ見当がつかないでしょう?」とエラリーは、その時のことを思い出すような微笑を浮かべた。「で、僕はしばらく、そのことは頭の隅にしまっておいて、絆創膏だけに興味の焦点を置いてみたんです。
僕は、こう自問自答してみました。人間の性質を二つに大別して、殺人者はそのどちらに属するだろうか? たとえば、喫煙者であるとか、それとも煙草嫌いであるか。酒好きか、酒嫌いか、コーカサス人種か、ニグロか、といった風な他愛のない分類ですよ。
でも、大真面目でした。ところが病院内の殺人事件を考えているんですから、その答えは自然に次のようなところに落ちてゆきます。つまり犯人は、病院に関係した専門的な知識を持たない者か、それとも専門的知識を持っている者かということです。
僕の考えをもう少しはっきりさせてみましょう。『専門的知識を持っている者』というのは、病院のことや、医学のことに、馴れてもいるし知識も持っている人という意味です。いいですか! 靴紐の修理に絆創膏《アドヒーシプ・テープ》が使われたということから考えてみて、このペテン師の殺人者は、専門的知識を持っているものだ、と僕は結論を下したんです。
どうして僕はこういう結論に達したか? つまり、靴紐が切れたということは、予期しなかった出来事です。換言すると、ペテン師が、夫人を殺害するために、用意していた外科医の着衣をつけて靴を穿《は》こうとした時にぷっつり切れたので、犯人にとっては思ってもいなかったことなのです。ですから、犯人はそんな不測の事態に対して準備していませんでした。従って、ひどく慌しい気持で応急修理をしようとすれば、どうしても直感的になるでしょう。こんな火急な場合に、切れた靴紐を絆創膏で継ぎ合せようなんて考えつくのは! どうですか、職業的に無関係な人間が、一体絆創膏なんか身につけているでしょうかね? そんなことは、思っても見ないでしょう。それを身につけてもいないで、靴紐の修理に必要になったからといって、普段扱いつけてないそんなものを探してみようなんて考えますかね? 絶対に考えませんよ。
そうすると、あの急場に絆創膏を思いついたということと、それを使用したということから、明白に日頃ああした品物を扱いつけた者だということになります。換言すれば『専門的知識を持っている者』です。
ほんのちょっと、話がわきへ逸れますが、この専門的知識を持っている者というのは、看護婦、医師、実習生だけでなく、病院の仕事に馴れている医術に関係のない者も含んでいます。だが、もし絆創膏が犯人のすぐ手近なところに――まるで、それを使いなさいといわんばかりに置いてあったとすると、僕の推理はまったく覆《くつが》えされてしまうでしょう。こんな場合だったら、それを扱いつけた者であろうとなかろうと、誰だって運よく利用できる絆創膏を使って修理するでしょう。しかし、僕の議論が間違っていないということについては」とエラリーは煙草を喫いながら続けた。
「幸いなことに僕は、事件が始まる前にミンチェン博士と話した際に、オランダ記念病院は、医薬の備品については最も厳重な規則をもっているということを聞きました。備品類は特別の戸棚にきちんと保管されています。ですから馴れていない者には、まるっきりどこにあるか分りません。病院に勤めている人か、よほど勝手に通じた者でなければ、絆創膏をとり出すことはできないのです。絆創膏は、犯人の眼前に転がっていたのではないとすれば、犯人はそれを使う前に、それがどこにあるかを知っていなければなりません。もっとはっきりいうと犯人はオランダ記念病院に関係のある専門的知識を持った者ということになります。
もう一度、要点をかいつまんで述べてみましょう。きっと僕の推理が、みんなの頭に結晶するでしょうからね。犯人が絆創膏を考えついて、それを使用したということは、専門的知識があった者に違いない。それから咄嗟の場合にその蔵《しま》ってあるところを知っていたということは、ほかならぬオランダ記念病院に関係のある者に違いないということです」
エラリーは、また別の煙草に火を点けた。
「まだ満足するところまではゆきませんが、大分範囲が狭まってきましたね。こうした結論から考えますと、エディス・ダニング、ハルダ・ドーン、モリッツ・ニーゼル、サラ・フラー、門衛のアイザック・カッブ、病院監のジェームス・パラダイス、エレベーター係、掃除婦なども除外するわけにはゆかなくなります。彼らは病院内のことを熟知しているのですから、オランダ記念病院の医学的分野に携っている者と同様に取り扱わなければなりません。
それから靴のことですが、まだ問題が残っていました。あれを調べているうちに、おかしなことに気がつきましたね。敷革が爪先の上方にぴったりと押し込まれていたことです。これはどう説明したらいいんでしょうね?
あの靴は犯人が用いたものだということは、絆創膏がそれを証明しています。そして犯人の足は小さかったんです。だから敷革が、あんな風になっていたんですよ! 靴を穿く時に、敷革が爪先に引っかかって中に押し込まれたことがありますか? 誰だってたまにはありますね。そして、すぐ気がつくでしょう? 敷革が変な工合になっていたんじゃ、どうにもしようがないですからね……ところが犯人は、あの敷革があんな風になったのに気づかなかったか、それともそんなに窮屈でなかったか、どちらかなんです……
どうしてでしょう? その説明は、たった一つあるだけです。犯人の足は、穿いた靴よりも小さかったということですよ。しかもあの靴のサイズは六でした! その意味が解りますか? サイズ六といったら、普通の男の靴としちゃ、最も小さい方です。つまりあの靴を穿いて、しかも敷革を折りまげて窮屈にも感じなかったんですから、犯人は非常に小さな靴を履きつけている者に違いないのです! サイズ四か五ぐらい? 男の靴じゃ、そんなのはありませんよ!
そこで、この分析はここまで解けたわけです。つまりあの靴の敷革の状態から考えて、そんなに小さい足をしている者は、まず子供、それから病的に足の小さい男、そして普通の女、ということになります!」
エラリーは机を叩いた。「僕は過去一週間の捜査のうちに、何回かあの靴が重要であると申しあげましたね。やっぱり、そのとおりでした。絆創膏を使った点から、オランダ記念病院に関係のある人間であることがわかり、敷革から女だということを推理したんです。ですから犯人は他人に扮装したばかりでなく、異性の扮装をしたのだということになりますね。女が男に化けたんです!」
誰かが深い息をした。サンプソンが、「証拠は……」と呟いた。警視総監の眼は輝やいていた。ミンチェン博士は、始めて会った人のように友人の顔を見詰めていた。警部は何もいわないで、じっと感慨に耽っていた。
エラリーは肩をすくめた。「違った角度からこの問題に移る前に、あの靴の踵が、両方とも同じ程度に擦り減っていたということも、とりあげてみる値打があると思います。もしあれがジェニー博士の靴だとしたら、一方が他方より擦り減っていたでしょう――ご存知のとおり、ジェニーは片足がひどい跛でしたからね。
ですから、あの靴はジェニーのものではありませんでした。でもこれはジェニーが犯人ではないという証明にはなりません。彼は僕たちに発見させるために、誰かの靴を電話室に投げこんだのかも知れませんし、自分のものじゃない、踵が同じように減っている靴を犯行の時だけ用いたのかも知れません。踵が同じ高さの靴は、ジェニー博士の無罪の立派な確証にもなりますからね。すると、ジェニーが自分自身に扮して――誰かほかの者が彼に扮装したかのごとく見せかけようとしたのかも知れないという考えが浮かんでくるわけです。
僕は最初から、そうは考えませんでした。いいですか、もしジェニー自身が、僕たちのいう『ペテン師』だったとしたら、あの血まみれの仕事を、彼があの朝着ていたままの服装でやってのけられたでしょう。すると電話室で発見した着衣は、『ペテン』だということになりますね――犯罪のために使ったものではなくて、僕たちの眼をくらますためにやったということになるでしょう。しかし、そうすると靴の絆創膏や敷革はどういうことになりますか? 僕が証明したとおり、あの靴は確かに使用されたものです。それから、彼が自分に扮したんだったら――どうして犯行期間における彼のアリバイを証明するスワンソンを紹介しなかったんでしょう? 紹介した方が彼にとっては、有利だったでしょうに。でも彼は頑固に、スワンソンを引き合いにだすことを拒絶したんです――警察の疑惑を招く結果になることがわかっていながらですよ。彼が彼自身に扮したのではないということは、その着衣の場合と同様に、その行為からも明らかです。
それから、あげをしたズボンについて――あの|あげ《ヽヽ》は何のためでしょう? 犯人の身長を誤って判断させるために――実際よりも二インチ低く見せかけるためでしょうか? だが、そんな考え方は、まったくのナンセンスです。なぜなら犯人は自分の身長を偽れないことを自分で知っていたからです。扮装している期間に、人から見られるというのが、はじめからの計画であって、証人達の眼に、どれくらいの身長か分ってしまいますからね。従って|あげ《ヽヽ》がしてあったのは、犯人にはあのズボンが長すぎるので、身体に合うように短くするためじゃないでしょうか。疑いもなく、あのズボンは犯人がはいたに違いありません」
エラリーは微笑した。「ところで、ペテン師は、病院に関係のある男か、病院に関係のない男か、それとも病院に関係ない女か、病院に関係のある女かのうちにあるわけですが、そのうちの三つを、手早くとり去ってしまいましょう。
まず、ペテン師は病院に関係のある男じゃあり得ません。病院の厳しい規則にしばられている者だったら、そこにいる間は、白い上っ張りとズボンを着なければなりません。それで、もし病院に関係のある男だったら、兇行を犯す以前に、すでに白ズボンを着用しているわけです。自分にぴったりする白服を脱ぎすて、電話室にあったあのぴったりしない白服を身につけ、それから犯行を演ずるなんてことが、あるでしょうか? 馬鹿々々しいことです。もしジェニーの扮装をしたいんだったら、自分の白ズボンでやったでしょうし、発見されるようなほかのズボンを残したりしませんよ。でもズボンは発見され、それがペテンではなく、実際に犯人に使用されたものだということが証明されました。しかし、もしそうだとしたら、彼は犯行以前にはズボンを穿いていなかったわけですね。
もし彼が犯行以前にはズボンを穿いていなかったとすれば、犯人は病院に関係のある男ではあり得ません。
では次ぎに、犯人は病院に関係のない男でもあり得ないのです。それは先刻いったとおり絆創膏を使用したということから考えれば明らかなことです。
これに関連して、フィリップ・モアハウスやヘンドリック・ドーン、それにマイケル・カーダイなどはどうかといわれるかも知れませんね。彼らは病院の制服を着てはいませんでした。
これについての答えは、彼らは確実に絆創膏のありかを知っているほど、病院の事情に通じてはいなかったといえると思います。ドーンは、あるいは知っていたかも知れませんが、その外貌から見て、可能性はありません――あんまり図体が大きすぎますよ。控室に入っていったペテン師はジェニーの体格に極めて近いものでした――彼は小柄でほっそりした身体でした。モアハウスについていえば、彼が備品のありかを知っていたと思われる節は全然ありません。このことは、カーダイの手下にもいえることです。そしてカーダイ自身は、ほとんど問題になりません。彼はドーン夫人が絞殺されている間に、麻酔をかけられていたんですからね。その他、病院の仕事に携っている連中は、さっきいったとおり、ダニング、ジェニー、ミンチェン博士、実習生、カッブ、エレベーター係なんかは、ズボンを穿きかえたりする必要がないわけで、問題になりません。
これで、犯人は病院に関係のある男でもなければ、関係のない男でもないということが確証されました!
すると女ということになりますね? だが病院に関係のない女では、あり得ません。なぜなら、外部の女だったら大抵スカートをはいていますから扮装をするためにズボンに穿きかえなければなりませんが、ここでも絆創膏の推理が再び物をいいます。ですから、犯人は病院に関係のない女じゃありません。
このややこしい複雑なシステムから、最後にたった一つ残った可能性は、この扮装殺人犯は、病院に関係ある女だということです。すると、ドーン夫人と同様に、病院とは極めて近しい間柄であるハルダ・ドーンやサラ・フラー、それからあそこで働いているエディス・ダニング、産科のペニニ博士、その他看護婦、掃除婦らということになります。あのペテン師に似通った病院に関係のある女だったら、扮装するために白いズボンを必要としたでしょうし、彼女が元の女にかえるためには、どこかにそれを遺棄しなければならなかったでしょう。普通の女だったら、長いズボンに|あげ《ヽヽ》をして短くしなければならなかったでしょう。あの靴の敷革のことだって、大抵の女の足は、同じぐらいの背丈の男の足よりも小さいものですし、彼女が男の靴をはかなければならなかったわけもわかるでしょう。そして最後に、病院に関係のある女だったら、直感的に絆創膏のことを考えるでしょうし、咄嗟にそれがどこにあるかも分るわけです。
どうです。皆さん。あらゆる点でぴったり符合しますよ!」
彼等は互いに顔を見合せた。警視総監は不意に足を組むと、「続けたまえ」といった。「こいつは――うむ……」彼は口ごもると、髯がのびた頤をさすった。「わしが犯人の名をいったんじゃ、ぶちこわしだろうから。続けたまえ、クイーン君」
エラリーは先へ進んだ。「第二の犯罪については」と彼は煙草の先端から立ち昇る煙を、じっと見詰めながらいった。「まったく事情が違っていました。第一の犯罪に用いたのと同じ方法を試みてみましたが、僕は成功する望みがないことを知ったのです。
それで別の観点からこの二つの犯罪は、同一犯人によって行われたものか、それとも違った犯人によって演ぜられたものかを確かめることから始めたんです。
はじめは、よく分らなくなってしまいました。もしアビゲイル・ドーンを殺した専門的知識のある女が、ジェニーを殺したんだとすれば、なぜ故意に同じ兇器を用いて、つまりどちらの場合も同じ種類の針金で絞殺するようなことをしたのだろうか? 女の殺人犯というものは、愚鈍じゃないものなんです。第二の犯罪に、違った兇器を用いたんなら、警察の捜査を二つの犯人事件に分裂させることができたでしょう。どうも、この点が曖昧でした。もし、彼女が両方とも殺《や》ったとすれば、彼女はわざと犯罪を隠蔽しようとしなかったのだということになります。なぜでしょう? 僕はどうもその理由が解りませんでした。
それから、もしジェニーが別の犯人に殺されたのだとすれば、同じ手口だったということから、ジェニー殺しの犯人は、小賢しくも、アビーを殺した者がジェニーを殺したんだと見せかけようとしたことになります。こいつは、ありそうなことでした。
第二の犯罪には、同じ手口が用いられたということとは別に、もう一つ厄介な点がありました。ジェニーが殺された朝、ミンチェン博士から、僕が病院に到着する前に、ジェニー博士の机の後ろにあった書類整理棚を移したということを聞くまでは、僕は第二の犯罪についちゃ、まるっきり見当がつきませんでした。
しかし、ジェニーの部屋に書類整理棚があったということと、その元の位置を知るに及んで、すっかり状況が一変しました。ドーン夫人の場合における靴とズボンのように、ジェニーの場合には、その整理棚が重要な意味を持っていたんです。
事実について、考えてみましょう。ジェニーの死顔は、びっくりするほど穏やかで、自然な表情をしており、急死による恐怖や苦痛や驚愕の跡は見当りませんでした。それに、最初に彼を昏倒させた打撲傷の位置から考えると、犯人は博士のすぐ後ろに立って、小脳あたりを一撃したに違いないのです! 犯人が外から侵入してきて、ジェニーを一撃したんだとすると、ジェニーの机の後ろに窓がないのがおかしい。窓がないとしたら、誰かがジェニーの許しを得て外庭を眺めに、彼の後ろに立つなんていうこともあり得ないわけです。北側には、中庭に面した窓がありましたが、あそこから一撃を加えるなんてことはできそうもありません。
そうだとすると、机と椅子は、向い側の北と東の二つの壁に対して、三角形の斜辺をなしており、机に坐っている者に感づかれずに、机の後ろにすり抜けることは困難です。それにジェニーは殺された時に、机に向って坐っていたことは――疑問の余地がありません。彼は気絶させられた時、原稿を書いていたのでした。インクの跡が、言葉の途中で切れていましたからね。すると殺人犯が彼の背後にまわったのを、ジェニーは充分知っており、許可を与えたことになります!
ところが、何のために彼の後ろへ行ったのか、何もないので、さっぱり分らないのです。しかし、二つの結論が考えられます。一つは、ジェニーが犯人をよく知っていたということ、もう一つは犯人が彼の後ろにいることを知っていながら、疑いもしなければ怖れもしないような事情があったのだということです。
さて、それから僕は、彼の後ろに書類整理棚があったことを聞きました。僕はそこで始めて、あの隅にあった唯一つの物は、整理棚だったことを知ったわけです。しかもその整理棚は、普通の病院の記録を蔵っておくようなものじゃなかったのです。それはジェニーにとっては最も大切な、個人的な記録書類を入れたものでした。その記録は、ミンチェン博士と共同で書いていた本のために集めた病症記録でした。ジェニーが、この病症記録を外部の者に絶対に見せないようにしていたことは、周知のとおりです。鍵をかけて、誰にも見せないようにしていました。誰にも、といいましたが」とエラリーは声を強めて、眼を輝かしながら、「三人だけは別でした。その一人はジェニー自身。これは当然ですね。二人目は、ジェニーの協力者のミンチェン博士。しかしミンチェン博士がジェニーを殺したんじゃないことは、犯行当時、病院にいなかったんですから明白です。彼はあの朝、僕と一緒だったんですし、犯行のほんの少し前に、八十六番街の近くのブロードウエイを話しながら歩いていたんですからね」
「しかし、そうだとすると?」エラリーは鼻眼鏡を外して、レンズを拭き始めた。「ジェニー博士の秘書であり、病院内における彼の活動の助手であり、ジェニーの部屋にいて、彼の原稿の手伝いをしたり、ジェニーの後ろに貴重な書類をとりに行ったりできる者の外にはありません。彼女があの隅にいたということは、ジェニーが仕事中でも、彼女だけは日に幾度となく行っており、ジェニーの許しを得ていたということです!……僕は、むろん、ルーシル・プライスのことをいっているんです」
「よくそれだけ調べたね」とサンプソンは感嘆の声をあげた。警部は、やさしい眼でエラリーを見守っていた。
エラリーは鼻眼鏡を揺すった。「結論は、ジェニー博士を殺し得たのは彼女だけでした。ルーシル・プライス……この名前が、直感的に僕の脳裡に浮かんだのです。ところで、ルーシル・プライスの特徴はどうでしょうか? 彼女はまず女であり、オランダ記念病院に関係のある仕事をしています! しかし、彼女がアビゲイル・ドーン殺害事件に、ぴったり合致するかどうかが問題です!」
エラリーが水を一口ぐっと飲んだ。部屋の中はしんとしていた。
「この時から、事件の全貌が僕の眼前に拡げられたのです。僕は一階の見取図を調べて、彼女が看護婦とジェニー博士の扮装者とをやってのけた足どりを辿ってみました。
いろいろ慎重に調べて、まとめあげた結果、ルーシル・プライスが、あのような奇蹟をやってのけたとおりに、時間表を作製することができました。すぐ読んでみましょう」
エラリーは内ポケットから、すりきれたノートブックをとり出した。ハーパーは急に忙しくなって、鉛筆と紙をとり出した。エラリーは早口に読んだ。
「十時二十九分――本物のジェニー博士が呼ばれていった。
十時三十分――ルーシル・プライスは、控室から、ドアを開けて控室の昇降機の中に入り、ドアを閉めて、東廊下のドアから邪魔が入らぬように大急ぎで、靴と白ズボンとガウン、外科帽、マスクを身につけ、自分の靴はエレベーターに残し、彼女自身の着衣は、上から着た扮装でかくしてしまった。それからこっそり昇降機のドアから東廊下に出ると、南廊下をまがって麻酔室に達した。顔はマスクでかくし、頭は外科帽でかくして、ずっとジェニーを真似て跛をひきながら、彼女は急いで、バイアースやオーバーマンやカーダイに見られるように麻酔室をぬけて控室に入り、ドアを閉めた。
十時三十四分――昏睡しているドーン夫人に近より、着衣の下にかくしていた針金で彼女を絞め殺し、それから自分の声で、「もうすぐですから、ジェニー博士!」といったようなことを叫んだ。(もちろん、彼女が証言したように消毒室なんかに入りはしなかった)ゴールドが控室に首をつっ込んだ時は、手術着を着けたプライスの、夫人の上に屈んでいた背中が見えたわけである。当然、ゴールドは、看護婦の姿を見かけなかった。
十時三十八分――控室を出ると、麻酔室を通って、南と東廊下を戻ってゆき、昇降機に入り、男の服装を脱ぎ、自分の靴をはいて、大急ぎで着衣を昇降機の外側のドアに近い電話室に投げすて、前のとおり、昇降機のドアをぬけて控室に帰った。
十時四十二分――ルーシル・プライスとして、控室で自分の役目に戻っていた。
この全過程は、十二分しか要しなかった」
エラリーは微笑して、ノートブックをしまった。「靴紐が切れたのは、殺人を犯す少し前、男の布靴を穿く時でしょう。彼女はすぐ控室に戻って、備品棚をあけて絆創膏の一片を、抽出しからとり出した自分の鋏で切りとり、すぐ昇降機に戻ったわけです。絆創膏のありかを知っている者なら、誰だってこんなことは二十秒でやれるでしょう。だが絆創膏が控室からとられたものであるということは確かではありませんでした。しかし、あそこ以外にはありようがなかったのです。それからやっと見つけて、靴についていた一片の切り口と合せてみました。ぴったり一致しました。これが証拠でしょう、検事さん?」
「うむ」
「プライスは、絆創膏を使ったあとで、ポケットにでも入れてしまったら証拠を残さなかったでしょう。でも、そこまで考えなかったんです。それとも、身体検査をされるかも知れないと思って、咄嗟にそんな危険なものを避けたのかも知れません。
控室は、捜査が開始された時から使用禁止となり――警戒下に置かれましたね。しかし、彼女があの絆創膏の残りをとり去ったとしたところで、解決には影響しませんでしたよ。僕が証拠の絆創膏を探そうなんて考える前に、この犯罪の秘密を解決していたことを覚えといて下さい。
つまり、靴とズボンは、犯人の名前以外のすべてを語っていました。そして備品棚は、僕にその名前を教えてくれたのです。それですっかり解決したんです」
彼は口をつぐむと、疲れたような微笑を浮かべて一同を見わたした。ハーパーは興奮して、身体をふるわせていた。
サンプソンは、何となく腑に落ちぬらしく、「どこか抜けてるようだね。すっかりじゃないな……ニーゼルはどうかね?」
「やあ、これは失礼」とすぐエラリーはいった。「僕はルーシル・プライスの共犯者のことを説明しなければなりませんね。彼女は背後の男から操られていたのかも知れません。ニーゼルが、その計画の張本人だったかも知れないのです。それに彼の動機は充分です――ドーン夫人とジェニー博士を殺害することによって、彼の仕事を続けるための莫大な資金を独占できるのですからね。ですけど――」
「共犯者……」と警視総監はいった。「スワンソンが、今日の午後逮捕されたのは、そのためなんだ……」
「何だって!」検事が叫んだ。「スワンソン?」
クイーン警部は、かすかに笑った。「突然だったんだよ、ヘンリー。それで君に知らせる間がなかったんだ。スワンソンは、今日の午後、ルーシル・プライスの共犯者として逮捕されたのだ。ちょっと、待ってくれよ」
彼はベリー巡査部長に電話した。「トマス、あの二人を一緒につき合せてくれ……スワンソンとプライスだ……彼女は、まだ何も白状しないって?……じゃ、そうしてみろよ」彼は電話を切った。「もうじきですよ」
「どうしてスワンソンが?」とミンチェンは穏かに訊いた。「彼はどっちの殺人も自分でやれるわけがなかったろう。最初の事件のときはジェニーが、二度目の時は君自身が、彼のアリバイを確かめたじゃないか。僕には分らないね――」
エラリーが説明した。「スワンソンは、始めっから怪しいと睨んでいたんだ。僕には、彼が主張していたように、ジェニー博士を訪問したのは偶然だなんて考えられなかったよ。ルーシル・プライスの計画によれば、彼女がジェニーを装っている間、ジェニーを絶対に現場付近に近づけてはならぬということを忘れないで欲しいね。だから、スワンソンはからくりなのさ。つまり彼は何にも知らずに丸めこまれて――その面会の重大な意味を知らないで、ジェニーを訪問するように彼女から仕向けられたか、それとも罪を知ってやった共犯者かどちらかだね!
しかし、スワンソンが検事局を訪ねてきた時、ジェニー博士が殺されたことを考え合せると、非難の余地のないはっきりしたアリバイを得るためにやってきたに違いない。だから彼は罪を知ってやった共犯者なのだよ。それに、スワンソンこそ、ジェニーとアビーの死によって、最大の利益を得る者なんだからね! アビーからジェニーへ遺産がわたり、ジェニーの死によって、金はスワンソンに残される――完全にぴったりじゃないか」
電話が鳴りひびいた。警部は机から、それをひったくるように取った。彼は顔をすっかり紅潮させて聞いていた。それから受話器をがちゃんとかけると、大声で叫んだ。「さあ、終ったぞ! スワンソンとルーシル・プライスとつき合せた途端に、スワンソンはへたへたとして、白状したとさ! お蔭で、とうとう犯人を捕えたよ!」
ハーパーは椅子を蹴って立ち上った。「僕は早速――ここから社に電話したいんだが、いいだろうね?」
「いいとも、ピート」とエラリーは微笑し、「約束は守るよ」
ハーパーは電話をひっ掴んだ。
「すぐやれ!」と彼は、連絡がつくと叫んだ。それだけだった。彼は席に戻ると、猿みたいに白い歯をみせて笑っていた。
警視総監は黙って立ち上って出ていった。
「ねえ、君」とハーパーがいった。「どうも僕には不思議なんだが、あんなに複雑な犯罪を、どうして犯人は、全然予期し得ない夫人の怪我という事故から、わずか二時間ぐらいのうちに手配できたのかね。また、そんなことは別としても、犯罪を犯す必要がないみたいだね。つまり、ドーン夫人は、手術の結果、死んだかも知れないし、それに殺すにしても、あんなに厄介な手数をかけないで済んだろうと思うな」
「素晴らしいよ、ピート」エラリーは愉快そうだった。「二つとも、とても素晴らしいもっともな疑問だよ。だがね、そのどちらに対しても、さらに素晴らしい答えがあるんだよ。
ドーン夫人は、約一カ月後に、虫垂炎の手術を受けることになっていた。それは病院中の者が知っていたことだ。疑いもなく犯罪は、だいたい似かよった手口のヴァリエーションでこの時に行われるように計画されたのだ。たとえば、その時には、老夫人は昏睡状態じゃないから、麻酔係が控室に付き添っているだろう。そして麻酔係がついているってことは、ルーシル・プライスが、手術前に殺人を行うことはむずかしいということだよ。だから、僕は手術後に、病院内の特別室でドーン夫人を殺す計画だったと思う。その時にも、彼女が実際に控室でやったように、ジェニー博士を装って入ってゆくのだ。それでもって、あの突発事故が起こる前に、犯罪の細かい手筈を整えていたのだ――あの着衣をどこかに用意し、スワンソンとしめし合せて、ジェニーを現場から遠ざけるように打ち合せてあったのだ。そこへ、たまたまあの椿事《ちんじ》が持ちあがった。それはかえって彼女が望んでいたよりも、ずっと好ましい条件になって――主として麻酔係がいないというようなことで――殺人計画がやりやすくなってしまったのだ。大急ぎで、スワンソンに電話をかけ、新しい状況を彼に説明し、それから実行したというわけだ」
エラリーは、そっと咽喉をなでた。「そいつは分ったが……殺す必要が少しもなかったという君の見解についてはこういったらいいだろう。ミンチェン博士もジェニーも、ジェニーが老夫人を救うだろうということに絶対の自信を持っていたんだ。そうなると、博士に近しいルーシル・プライスだって、彼の自信ありげな態度を信じるようになるだろう。それにもしドーン夫人が助かったとなれば、虫垂炎の手術はいつまでも延期されるだろうし、ルーシル・プライスも無期限に待たなくてはならないだろう。そして彼女のプランは宙に浮いてしまうだろう。いいかい、ピート、突発事故が起こったということは、犯罪の手数を単に急がせたに過ぎないんだ」
サンプソンは考え込んで、石みたいにじっと坐っていた。エラリーは愉しそうに、彼の様子を見守っていた。ハーパーは、ひとりでにやにや笑っていた。サンプソンがいった。
「だが、ルーシル・プライスの動機は僕はまだ聞いてないよ。彼女とスワンソンの間には、どんな結びつきがあるんだい? 全然気がつかなかったね――なぜ、彼女は彼のために、手を汚したんだい、二重殺人によって利益を得るのが彼だとしたら?」
クイーン警部は、洋服掛けから帽子と外套をとると、ぶつぶつと仕事があるからと言い訳をいった。彼は出てゆく時、落着いた声で「エラリーが、君に話をするだろう。わたしには、もう用なしだ……ドジュナ、温和しくしているんだよ」
ドアが閉まると、エラリーは父の椅子にゆったりと腰を下し、足を机の上にのせた。「それはね、サンプソン。僕だって半日も考えたんだよ。見たところ結びつきそうもない二人の間には、どんな関係があり得るだろうか? スワンソンには、病院を馘《くび》にされたんだから老夫人に恨みがあるし、継父のジェニーは彼の失敗を知らん顔していたということや、金銭上の理由もあり、彼の歪んだ根性から考えて、それぞれ動機になるんだが……ルーシル・プライスとなると、温和しい看護婦で――そこにどんな関係があり得るだろうか?」
沈黙のうちにエラリーはポケットから謎の書類をとり出した。それは彼がひそかにハーパーに調べさせたものだった。彼はひらひら宙に振ってみせた。
「これが簡単な答えですよ。こいつは、ルーシル・プライスがなぜスワンソンのためにあんな兇行をやったかを説明しますよ、そして、彼女が彼と一緒に、ジェニーの財産を継ぐわけも判明する。
それに数年間にわたって綿密に計画された恐るべき犯罪の秘密もこの中にかくれている。
それはまた、ルーシル・プライスが、どこでどうして人に知られずに外科用着衣を求め得たかを示している――つまり、前外科医のスワンソンの着衣を用いたのでした。ついでにいうと、そのズボンが彼女に長すぎたわけです。靴も多分彼のものでしょう。彼は五フィート九インチですが、体格は華奢ですからね。
彼らは秘密に連絡し、ジェニーを殺すというような危険な話は、電話を使ったんです――なぜなら抜け目のない彼らは一緒に逢ったり住んだりしなかったに違いないからです。というわけは、先日新聞の計略にひきずられて、検事局を訪ねてきたスワンソンは、ジェニーが殺されていた間の安全なアリバイを、思いがけなく与えられるようにやってきたからです。
これは二人の人間を殺すのに、なぜ同じ手口を使ったかを説明するものです。つまり、もしスワンソンがドーン夫人殺害の容疑者として、逮捕されたような場合に――彼らにはあり得ることに考えられたのです――同じ手口を用いてジェニーを殺しておけば、一連の犯罪と見なされて、第二の犯罪におけるスワンソンのアリバイが確かなのですから、自然に第一の犯罪における容疑も晴れるでしょう。
要するに、ジェニー博士でさえ、彼の継子のトマス・ジェニー、通称スワンソンとルーシル・プライスの間に離れ難い結びつきがあったことを知らなかったようです……
じゃ、こうした結びつきは、何によってできたのでしょう?」
エラリーはその書類を皆の前に投げた。すると、サンプソン検事、ミンチェン博士、それにドジュナが一斉に身をのり出して覗きこんだ。ハーパーは、にやりと笑っただけであった。
それは結婚証明書の複製写真だった。(完)
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奇術師クイーン――江戸川乱歩
クイーンとは数年来文通しているし、彼が著書や雑誌に私の事を紹介してくれたりしているので、彼については書くことがありすぎるほどだが、クイーンの作がこの叢書(早川ポケットミステリ)に入るのはこれが最初だから、まず彼の小伝からはじめる。
彼の場合も、書き出してしばらくのあいだ、ヴァン・ダインの初期と同じように、筆名クイーンの正体が隠されていたことが、一つの大きな魅力であった。これはクイーンの方で先輩ヴァン・ダインのひそみにならったのかも知れない。しかも、クイーンの場合は、ヴァン・ダインよりもはるかに劇的、奇術的だったのである。Ellery Queenの正体が、Frederic DannayとManfred B. Leeの両君であることは、今では周知と思うが、この二人はいとこ同士で、生まれ年も同じ一九〇五年。リー君の方は一月、ダネイ君の方は十月の生まれである。
リー君はニューヨーク大学を出ている。在学中、学生オーケストラを組織し、ヴァイオリンが得意であった。ダネイ君の方は大学は出ていないが、二十四才のときには、ニューヨーク広告取次社の美術主任になっていた。リー君も大学を出てから映画会社の宣伝部に関係したりして、両君とも平凡な実際的な仕事についていたのだが、ある雑誌が長篇の懸賞募集をやっているのを見て、二人は合作でこれに応募する気になった。そして、その作品は見事入選したのだが、何かの事情でその雑誌が廃刊になってしまい、作品は発表されないままに終った。しかし、間もなくこの作に出版社がつき、一九二九年に単行本として出版された。これが彼らの処女長篇「ローマ劇場毒殺事件」であった。ヴァン・ダインの処女長篇「ベンスン殺人事件」(一九二六)におくれること三年である。「ローマ劇場毒殺事件」は非常に好評だったので、彼らは世界の国名を頭につけた多くの長篇を、引きつづき発表し、たちまちヴァン・ダインにつぐ名声を博するに至った。
彼らはクイーンの正体を数年のあいだまったく世間に知らせなかった。人気が出るにつれて、自著に署名をする会だとか、お茶の会だとか色々な会合に出なければならなかったが、そういう場合には、彼らのどちらかの一人が、目隠しのブラック・マスクをつけて出席し、いよいよ世人の好奇心をあおった。
本がよく売れるので、別の出版社から申込みがあり、彼らはこれにも応ずることになったが、ここでまた茶目っ気を出し、第二の出版社の分にはBarnaby Rossという別の筆名を使うことにした。そして、このロス名義ではX、Y、Zの「悲劇」と、「最後の事件」の悲劇シリーズ四冊を発表した。つまり「二人二役」というわけである。ことに面白いのは、ダネイ、リーの両君が、一方はクイーンと名乗り、一方はロスと名乗って、講演旅行をし、同じ演壇に立って、さも商売敵のような口を利き合ったことさえあり、その時の主催者達も、それと信じ切って少しも疑わなかったという。両君の奇術師的茶目っ気には、驚くほかはない。
私なども戦前には、クイーンが二人だということも、ハッキリは知らず、まして、クイーンとロスが同一作家だなどとは想像もしていなかった。ロスの作風は筋の運び方が、どこかイギリス風に重厚なところがあり、主人公もイギリスの名優ドゥルリー・レインを使っているし、従来のアメリカ風な文体のクイーンの作とは違った味があるので、別の作家と思いこんでいて、戦後同一人と分かったときには、アッと驚かされた。クイーンとロスが同一人だということは、九年のあいだ秘密にされていて、ロスの作がグロセット・ダンラップ社本として出た時(一九四〇年)クイーンが序文を書いて、はじめて、それと打ちあけたのである。そして、その後はロスの作品もクイーンの名儀で発行されている。私はこの二重底の匿名トリックについて、昭和二十一年九月号の「ロック」誌に「手品師クイーン」という小文を書いたことがある。(後に「随筆探偵小説」に收む)
リー君はニューヨーク市内に、ダネイ君は郊外に住み、それぞれ妻子があるが、二人の事務所はニューヨークの五十番街に置き、一日一度は必ず顔を合せることにしているという。しかし、どんな風にして合作するのか、その方法はよく分らない。筋を二人で相談しながら作ることはできるが、文章を二人で書くことはむつかしい。半分ずつ手分けをしたり、交互に書いたりしたのでは、変なものになってしまう。筋は二人で考えて、文章は作品によって、どちらかがタイプするのではないかと想像する。
両君にはそれぞれ道楽がある。リー君は都会の真中の生活を楽しみ、切手蒐集に凝っている。ダネイ君は郊外に雑踏をさけて、古書蒐集を楽しみ、自宅に世界一の探偵小説図書室を持っている。随って同君は探偵書誌学者である。クイーンは非常に沢山の短篇小説傑作集を編纂しているが、そういう仕事は恐らくダネイ君の方がやるのではないかと思う。彼の編んだ傑作集の代表的なものは101 years' Entertainment(1941)で、ポーから同書の出版の年までの百一年間の最傑作短篇探偵小説五十篇を選んだ大著。現在までに英米の著名人が編纂した多くの傑作集の中で最良の書である。
ダネイ君は、古書蒐集と書誌学を好むような趣味を持っているし、写真を見ても、リー君の方はモダーンな顔をしているが、ダネイ君は頭がはげ上り、口ひげなど蓄えて、十カ月ほど年下のくせに、リー君よりふけて見える。だから、私はロスの作品は、この人が筋を考えたのではないかと邪推している。私はリー君のようなアメリカ青年型よりも、いくらかヨーロッパ味のある学究的なダネイ君型が好きだし、作風でも、クイーンよりはロスの方が好きなのである。私が戦後探偵書誌に凝り出したのも、多分にダネイ君の影響を感じている。そういうわけで、最初文通するときもダネイ君宛てに手紙を出し、先方からもFred Dannayのサインで返事が来る。