ヒューゴー賞/ネビュラ賞受賞
ニューロマンサー
[#地から2字上げ]ウィリアム・ギブスン
[#地から2字上げ]黒丸 尚訳
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これを可能にしてくれた
デッブに
愛をこめて
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第一部 千葉市憂愁《チバ・シティ・ブルーズ》
1
港の空の色は、空《あ》きチャンネルに合わせたTVの色だった。
「別に用《や》ってるわけじゃないんだけど――」
と誰かが言うのを聞きながら、ケイスは人込みを押し分けて〈チャット〉のドアにはいりこんだ。
「――おれの体がドラッグ大欠乏症になったみたいなんだ」
〈スプロール〉調の声、〈スプロール〉調の冗談だ。〈|茶《チャ》|壺《ツボ》〉は、|筋金入り《プ ロ》国外居住者用のバーで、だからここで一週間飲みつづけても、日本語はふた言と耳にしない。
ラッツがバー・カウンターの中にはいっていて、義手を単調に揺さぶりながら、トレイに並べたグラスにキリンの生《なま》を注いでいる。ケイスに眼をやってニヤッと笑った。歯が東欧の鋼と茶色の虫食いとで網目模様になっている。ケイスはバー・カウンターに空きを見つけた。ロニー・ゾーンのところの娼婦の、まゆつばものの陽灼け肌と、背の高いアフリカ人のパリッとした海軍軍服との|狭《はざ》|間《ま》だ。このアフリカ人の頬には、キッチリした部族模様の傷痕が刻みこまれて、畝《うね》になっている。
「さっきウェイジが来たぜ、若い衆ふたり連れて」
とラッツが義手でない方の手で、生ビールをバー・カウンターの上に滑らせてよこし、
「何かあんたとの仕事だろ、ケイス」
ケイスは肩をすくめた。右側の娘がくすくす笑いながら小突いてよこす。
バーテンダーの笑みが大きくなった。この男の醜いことは伝説ものだ。金さえ出せば美が購《あがな》える時代だというのに、この男の美しくないことといったら、紋章めいてすらいる。|年代もの《アンティーク》の義手を唸らせながら、別のマグに手を伸ばした。これはソ連の軍事用義肢であり、七|機 能《ファンクション》の強制フィードバック人工操作手《マニピュレータ》を薄汚いピンクのプラスティックで覆った代物だ。
「あんた、あんまり|凝り性《アーティースト》なんだよ、ケイス大人」
とラッツは唸る――この声が笑い声ということになっているのだ。白いシャツの下の腹の張り出しを、ピンクの鉤爪で掻きながら、
「ちょいとおかしな件で|凝り性《アーティースト》なのさ」
「そうとも」
とケイスは言い、ビールを口に含んで、
「このあたりじゃ誰かしら、おかしくなくちゃならないんだ。おまえさんは金輪際そうじゃないもんな」
娼婦のくすくす笑いが一オクターブ高まった。
「おまえさんもだぜ、姐さん。だから消えてくれよ、な。ゾーンてのは、おれの仲良しなんだ」
女はケイスの眼を見つめ、ほとんど唇も動かさずに、唾を吐く音をかすかにたてる。が、立ち去った。
ケイスが言う。
「まったくもう。なんてェひでェ飲み屋なんだい、ここは。おちおち一杯やってもいられない」
「へん」
とラッツは傷だらけの止まり木を襤褸《ぼろ》でふきながら、
「ゾーンは歩合を出してくれるぜ。あんたにここで仕事させてんのは、娯楽として値打ちがあるからさ」
ケイスがビールを口に運ぼうとした時、あの奇妙な静寂の瞬間が訪れた。まるで百もの別々の会話が、同時にいっしょの区切りにたどり着いたような具合だ。すると例の娼婦のくすくす笑いが、一種ヒステリー気味に響きわたった。
ラッツが唸って、
「天使のお通りだ」
「中国人」
と酔っぱらったオーストラリア人が吠え、
「中国人が神経接合を発明しやがったんだ。神経手術に本土に行けるんなら、いつでもいいぞ。一発で決まりよ、兄い――」
「まったく、あれだ」
とケイスはグラスに向かって呟《つぶや》いた。苦い想いのすべてが、急にこみあげてくるようだ。
「あれこそ、まるっきり駄|法螺《ぼら》じゃねェか」
中国人が知りえた以上の神経外科医学を、日本人はとっくに過去のものにしている。千葉《チバ》の闇クリニック群こそ最尖端であり、大量のテクニックが毎月のように更新されている。それでいてまだ、ケイスがメンフィスのあのホテルでこうむった傷痕を癒すことはできないのだ。
ここに来て一年になるが、ケイスはまだ電脳空間《サイバースペース》の夢を見、希望は夜ごとに薄れていく。“|夜の街《ナイト・シティ》”でこれだけ覚醒剤《スピード》をやり、あれだけ肩代わりし、危ない橋を渡ってきても、眠るときに見るのはマトリックス。無色の虚空に広がる、輝く論理《ロジック》の格子《ラティス》――。〈スプロール〉が太平洋をへだてて奇妙に遠い今、ケイスは操作卓《コンソール》マンでもなければ電脳空間《サイバースペース》カウボーイでもない。生き延びるだけで手いっぱいの無頼《ごろつき》でしかない。それでも夢は、日本の夜に、|活 線《ライヴワイア》ヴードゥーのように押し寄せ、眠りの裏に泣いて、ひとりきりで目醒めてみれば、あたりは闇で、どこかの棺桶《コフィン》ホテルのカプセルで体を丸め、両の手はベッド敷きに突き立てて指の間に恒温フォームが掴《つか》みこまれ、ありもしない操作卓《コンソール》をとらえようとしている。
「あんたの|彼《かの》|女《じょ》、昨夜《ゆうべ》見かけたぜ」
と言いながら、ラッツが二杯目のキリンを渡してよこす。
「彼女なんていないさ」
とケイスは答えて、飲んだ。
「ミス・リンダ・リーだよ」
ケイスは首を横に振る。
「彼女抜きかい……。なんにもなしかい……。仕事《ビズ》ばっかりかね、|凝り性《アーティースト》のお友だち……。業務に邁進かねェ……」
というバーテンは、小さな茶色の瞳で皺だらけの顔の奥深くから見つめ、
「あの娘といっしょのときの方が良かったなあ。もっと笑ってたじゃないか。こうなると、いつの晩か、あんたも凝りすぎちまって、クリニックのタンクに直行するかもしれないぞ――スペア器官《パーツ》になって」
「胸が痛むぜ、ラッツ」
ケイスはビールを飲み干し、金を払って外に向かった。ほっそりした肩を、雨に濡れたウィンドブレーカーの、カーキ色のナイロン地の下ですぼめる。|仁《ニン》|清《セイ》通りの雑踏を縫って歩きながら、自分の汗の饐《す》えた臭いをかいだ。
ケイスは二十四歳。二十二の頃は、カウボーイであり、やり手であり、〈スプロール〉でも一流だった。師匠が一流中の一流、業界内の伝説マコイ・ポーリーとボビイ・クワインだったのだ。その頃のケイスときたら、マトリックスと呼ばれる共感覚幻想の中に、肉体を離脱した意識を投じる特注|電脳空間《サイバースペース》デッキに|没 入《ジャック・イン》して――若さと技倆の副産物でもあったろうが――ほぼ恒常的なアドレナリン高揚状態で活動していたものだ。盗っ人として、別のもっと豊かな盗っ人に雇われていた。雇い主が新種の素材《ソフトウェア》を提供し、それを使って企業システムの輝く壁を貫いて、データの|沃《よく》|野《や》への窓を穿《うが》つのだ。
ケイスは、決して犯すまいと誓った古典的な過ちを犯してしまった。雇い主から盗んだのだ。あるものをくすねておいて、アムステルダムの故買屋を通じて捌《さば》こうとした。今になっても、どうして勘づかれたものか、はっきりしない。が、もうどうでもいいことだ。その場で殺されるものと思ったのに、向こうはニヤニヤするだけだった。こう言われた――もちろん好きにしていいよ、金は好きにするといい。それにその金は必要にもなる――とまだ笑いをうかべながら――二度と仕事ができないようにするんだからね。
連中は戦時中のソ連製|真菌毒《マイコトキシン》を使って、ケイスの神経系に損傷を与えた。
メンフィスのホテルのベッドに縛りつけられ、おのれの才能をミクロン単位で焼きつくされながら、三十時間にわたってケイスは幻覚を見つづけた。
損傷は微少で微妙。それでいて完璧な効果を発揮した。
電脳空間《サイバースペース》で、肉体を離れた歓喜のために生きてきたケイスにとって、これは楽園放逐だった。それまで腕っこきカウボーイとして出入りしていたバーでは、エリートは、ゆったりと肉体を見下す風があった。体など人肉なのだ。ケイスは、おのれの肉体という牢獄に堕ちたのだ。
ケイスの全財産は、たちまち|新 円《ニュー・イェン》の分厚い札束に換えられることになった。この古い紙幣は、世界じゅうの闇マーケットの閉回路の中を、トロブリアンド島民の貝殻細工のように、果てしなく環流している。〈スプロール〉でまともな商売を現金取引きするのは難しい。日本では、とうに違法になっている。
その日本でなら、治療法が見つかるはず、とケイスは力強く確信していた。千葉《チバ》なら、だ。公認クリニックでもいいし、闇医療の影の地でもいい。臓器移植や神経接合や微細生体工学《マイクロバイオニクス》と同義語となった千葉《チバ》は、〈スプロール〉テクノ犯罪者の下層を吸い寄せている。
千葉《チバ》では、二ヵ月の検査や診察で、みるみるうちに|新 円《ニュー・イェン》が消えていった。最後の望みの綱だった闇クリニックの人間も、ケイスが鮮やかな手際で傷つけられていることに感嘆したあと、ゆっくりと首を横に振った。
今やケイスが泊まっているのは最下級の棺桶《コフィン》。港にいちばん近く、ドックを巨大なステージのようにひと晩じゅう照らす石英ハロゲン投光器の下だ。TV空の眩しい光のおかげで、東京《トウキョウ》の灯はおろか、富士電機《フジ・エレクトリック》のホログラム看板すら見えず、東京湾《トウキョウ・ベイ》はだだっ広い黒で、そこでは鴎《かもめ》が、白い|発泡ポリスチレン《スタイロフォーム》の漂群の上空を旋回する。港の手前には街がある。工場のドーム群と、それを|睥《へい》|睨《げい》する企業の環境建築《アーコロジー》の巨大な立方体群とがある。港と街を仕切るように、細長く、古い街並の中間地帯があり、正式な名前もない。それが“|夜の街《ナイト・シティ》”であり、中心が|仁《ニン》|清《セイ》だ。|仁《ニン》|清《セイ》沿いのバーは、昼間はシャッターをおろしてなんの変哲もない。ネオンを消し、ホログラムも停めて、毒を含んだ銀色の空の下で待ちかまえている。
〈チャット〉から二ブロック西の、〈ジャール・ド・テ〉という喫茶店で、ケイスは今夜最初の薬《ピル》をダブル・エスプレッソで流しこんだ。薬は平べったいピンクの八角錠で、強力なブラジル製|覚醒剤《デックス》。ゾーンの女から買ったものだ。
〈ジャール〉の壁は鏡張りで、鏡一枚一枚を縁どるように赤いネオンがある。
千葉《チバ》でひとりぼっちだった当初、金もなくなり、治療を受けられる希望もしぼみ、ケイスは末期的な暴走状態にはいった。まるで別人になったように、冷酷な熱心さで新たな軍資金を強奪したのだ。最初の一ヵ月で男ふたりと女ひとりを殺したが、その金額たるや、一年前なら滑稽に思えたほどのものだ。|仁《ニン》|清《セイ》に疲れきって、やがてこの通りそのものが、ケイス自身すら内にあるのを知らなかったような死への願望の、秘密の毒の、具現化に思えてきた。
“|夜の街《ナイト・シティ》”は社会ダーウィン説の狂った実験に似ている。退屈しきった研究者が計画し、片手の親指で早送りボタンを押しっぱなしにしているようなものだ。ヤバいことをやめれば、跡形もなく沈むし、ちょっと早く動きすぎれば、闇マーケットの危うい表面張力を破ってしまう。どちらに転んでも消えるしかない。痕跡といっても、せいぜいラッツのような舞台装置の心に、ぼんやりした想い出が残るだけだろう。ただし、心臓とか肺とか腎臓だけなら、|新 円《ニュー・イェン》をかかえた誰かのために、クリニックのタンクに生き残るかもしれない。
ここでの商売《ビズ》は閾《いき》下の絶え間ない唸りだ。怠惰や不注意や世間知らずや、あるいは、複雑な掟の要求を無視することに対する罰は、当然、死だ。
〈ジャール・ド・テ〉のテーブルに独りすわり、八角錠が効いてくるとともに、両掌に細かな汗の滴が浮き上がり、腕から胸にかけての体毛一本一本がピリピリするのを急に意識しながら、ケイスは悟った。どこかの時点で、自分を相手の勝負を始めているのだ。きわめて古くからあるゲームのくせに名前がない、窮極の|独り遊び《ソリテア》だ。今のケイスはもはや武器も持たないし、最低限の用心すらしていない。この街で最迅速で、いちばんいい加減な取引きをしていて、必要なものならなんでも手に入れてくる男、と評判になっている。心の片隅ではこうわかっている。自滅へと弧を描いているのが、客にはいやでも目につくほど明らかで、だから客の数が着実に減っている、と。しかしまた、その同じ片隅は、これももう時間の問題だと悟りつつ、それで陶然としているのだ。だから、その死の予感に独りよがりしている心の片隅こそ、リンダ・リーへの想いをいちばん毛嫌いしてもいる。
ケイスがリンダを見つけたのは、ある雨の晩、|ゲーム場《ア ー ケ イ ド》の中だった。
|紫《し》|烟《えん》たちこめる中を灼き貫く幻影、『魔術師の城』『ヨーロッパ戦車戦』『ニューヨーク・スカイライン』などのホログラムの下――今のケイスはそのときのリンダを想い出す。顔が絶え間ないレーザ光に洗われて、眼鼻立ちが記号にまで還元されていた。魔術師の城が炎上すれば頬骨は深紅に輝き、ミュンヘンが戦車戦に陥落するとき、額は紺碧に濡れ、滑るように動く指標点《カーソル》が摩天楼の谷の壁面から火花を散らすと、唇が熱い金色に染まった。その夜、ケイスは成功に酔っていた。ウェイジのケタミンの塊りを|横《ヨコ》|浜《ハマ》に送り出し、代金をもう懐にしていたからだ。|仁《ニン》|清《セイ》の舗道を打ってシュウシュウ音をたてる暖かい雨の中から、そこにはいったとき、どうしたものかリンダだけが浮き上がって見えた。操作卓《コンソール》に向かって立つ何十人かの中で、ひとつの顔だけが、ゲームに夢中なまま浮かび上がったのだ。そのときのリンダの表情は、それから何時間か後、港のそばの棺桶《コフィン》での寝顔と同じだった。上唇の線が、空を飛ぶ鳥を描く子供の線画と同じなのだ。
|ゲーム場《ア ー ケ イ ド》を横切っていってリンダのかたわらに立つと、取引きをまとめ上げてご機嫌のケイスを、リンダが見上げた。灰色の眼の輪郭を黒の化粧スティックで塗ったあとが、ぼやけていた。迫りくる車のヘッドライトに照らし留められた、何かの動物の眼だ。
ふたりいっしょの夜が朝となり、ホーヴァクラフト乗場の切符となり、ケイスにとって初めての東京湾《トウキョウ・ベイ》を横切る旅となった。雨は続き、原宿《ハラジュク》にも降りしきって、リンダのプラスティック上衣に滴となる。東京《トウキョウ》の子供たちが白のローファーと|密着ぐるみ《クリングラップ》ケープを着て、有名ブティックの前を続々通り過ぎる。結局、ふたりはパチンコ屋の深夜の騒々しさの中で立ちつくし、リンダがケイスの手に子供のようにつかまっていたのだった。
一ヵ月のち、ケイスの暮らしぶりそのものである麻薬《ドラッグ》と緊張との有様《ゲシュタルト》によって、いつも怯えているようだったリンダの眼が、繰り返す欲求の泉となった。ケイスの眼前で、リンダの人格は破片と化し、氷山のように分離したかと思うとかけらは漂い去り、最後には剥き出しの欲求、中毒による飢えの枠組を露呈させた。眼前でリンダが注射痕に次の一発《ヒット》をうつときの集中ぶりを見せられて、ケイスは、滋賀《シガ》通りの露店で売っていた|蟷《かま》|螂《きり》を想い出した。それに並んで、変種の青い鯉のタンクや竹籠の中の|蟋《こお》|蟀《ろぎ》もあった。
ケイスは空のカップにコーヒー滓《かす》が黒い輪になっているのを見つめた。その筋は飲み干すスピードに従って波うっている。茶色の|積層プラスティック《ラ ミ ネ ー ト》製のテーブル面は、長年の細かい傷で曇っている。覚醒剤《デックス》が脊椎を登ってくるにつれ、表面がそうなるまでの、数知れぬさまざまのぶつかり具合が見えてくる。〈ジャール〉の内装は、前世紀の古くさくて名称もない様式だ。不安定に、日本の伝統と色褪せたミラノ製プラスティックとをブレンドした代物だが、全体が薄い膜で覆われているようでもある。まるで百万人もの客の異常な神経が、どうしたわけか鏡や、かつては光沢のあったプラスティックにつっかかり、すべての表面に拭いがたい曇りを残したかのようだ。
「やあ。ケイスじゃない……」
ケイスが眼を上げると、化粧スティックで縁どりした灰色の眼と出会った。色褪せたフランスの軌道作業服に新品の白いスニーカーを身に着けている。
「ずいぶん捜したんだよ」
と向かいの席につき、両肘をテーブルに載せた。青いジップスーツは、両袖が肩のところから切り取ってある。ケイスは反射的に相手の腕に眼をやって、|膚 板《ダーマディスク》か針の痕を捜した。
「煙草、いる……」
と踵ポケットからフィルターつき叶和圓《イエヘユアン》の皺くちゃのパッケージを取り出し、一本すすめてくれた。ケイスはそれを取り、赤いプラスティック・チューブで火をつけてもらう。
「ちゃんと寝てんの、ケイス……。疲れてるみたいよ」
という娘のアクセントは、〈スプロール〉の南、アトランタのあたりを示している。下瞼が蒼褪めて不健康そうだが、体はまだ艶やかでしっかりしている。二十歳《はたち》なのだ。苦痛による新しい皺が、口の両脇に刻みこまれはじめている。黒い髪をひっつめて、絹のプリント地を紐のようにして縛ってある。模様は、微細回路《マイクロサーキット》かもしれないし、市街地図かもしれない。
「錠剤《ピル》を飲むの、忘れなきゃ大丈夫さ」
と答えたが、欲望がはっきりした波となってケイスを襲う。肉欲と孤独感がアンフェタミンの波長に相乗りしている。港そばの棺桶《コフィン》で、過熱した闇の中の娘の肌の匂いを想い出す。ケイスの腰の裏で指を組んでいたっけ。
すべて肉、すべて肉体の欲求。
「ウェイジがね――」
と相手は眼を細くし、
「あんたの面《つら》に風穴あけてやりたいって」
「誰が言った……。ラッツかい。ラッツと話したのか」
「ううん。モーナ。あの娘《こ》の今度の相手が、ウェイジの手下なの」
「奴にそれほどの借りはないぜ。貸しがあるくらいだけど、どっちみち奴にゃ金がない」
と肩をすくめる。
「あの人に借りてる人間が多すぎるんだよ、ケイス。見せしめにされるかもしれない。ほんと、気をつけた方がいいよ」
「ああ。おまえはどうなんだ、リンダ。寝るところはあるのか」
「寝る」
とリンダは首を振り、
「あるよ、ケイス」
と身震いしてテーブルに身をかがめる。
「ほら」
と言って、ケイスはウィンドブレーカーのポケットを探り、くしゃくしゃの五十|新 円《ニュー・イェン》札を出した。テーブルの下で何気なく皺を伸ばして四つ折りにし、相手に差し出す。
「あんたこそ要るでしょ。それをウェイジに渡した方がいいよ」
という灰色の眼の中に、ケイスには読み取れない何か、見たことのない何かがある。
「ウェイジからの借りは、こんなもんじゃすまない。とっとけよ。大金がはいるからさ」
と嘘をつき、|新 円《ニュー・イェン》がジッパーつきポケットに収まるのを見つめる。
「その金がはいったらさ、ケイス、早くウェイジを見つけなよ」
「またな、リンダ」
と立ち上がった。
「うん」
瞳の下に一ミリほど白眼がのぞく。三白《サンパク》眼だ。
「あんた、気をつけなよ」
ケイスはうなずいたが、早く立ち去りたくてたまらない。
プラスティックのドアが閉まるとき、振り返ると、赤いネオンの檻にリンダの眼が映っていた。
|仁《ニン》|清《セイ》通りの金曜の夜。
ヤキトリ屋台にマッサージ・パーラー、〈|美 女《ビューティフル・ガール》〉という名の喫茶チェーン店、|ゲーム場《ア ー ケ イ ド》の電子騒音、と通り過ぎる。ダーク・スーツの“さらりまん”に道を譲りながら、その男の右手の甲に刺青された“三《M》菱|ジ《G》ェネンテック”の社章に眼を留めた。
本物だろうか。本物だとすれば、あの男は面倒に巻きこまれる。本物でなければ、いい気味だ。あるレベル以上のMG従業員は最新鋭の微細処置装置《マイクロプロセッサ》を埋めこまれ、血中の突然変異原レベルを常時監視されている。そんなブツをつけて“|夜の街《ナイト・シティ》”を歩けば、襲われるに決まっている。襲われて、闇クリニックに直行だ。
その“さらりまん”は日本人だったが、|仁《ニン》|清《セイ》の人込みは|外《ガイ》|人《ジン》の人込みだ。港から来る船員グループ。ガイドブックに載っていないお楽しみを求める、緊張した独り歩きの観光客。移植・内植組織を見せびらかす〈スプロール〉の大物。十種以上もはっきり種別を異にする犯罪者。みんなが路上にくり出して、欲望とかけ引きとの、入り組んだ舞いを舞う。
この|仁《ニン》|清《セイ》のシマを、なぜ千葉市《チバ・シティ》が|目《め》|溢《こぼ》ししているのかについては、数えきれないほどの説がある。が、ケイスとしては、“ヤクザ”がここを一種の歴史公園として保存し、ささやかな過去の想い出にしている、という考え方に魅かれている。他方、新興テクノロジー群が無法地帯を必要としている、という見方にも一理ある。つまり、“|夜の街《ナイト・シティ》”は住民のためにあるのではなく、故意に無監視にしたテクノロジーそのものの遊び場だというのだ。
それにしても、とケイスは灯りを見上げながら考えた。リンダの言うとおりなのだろうか。ウェイジが見せしめのために、おれを殺そうなどとするだろうか。辻褄が合わないような気もするが、ウェイジが主に扱っているのは禁制の生体関係であり、そんなものを扱うのは正気の沙汰ではないとも言う。
でもリンダは、ウェイジが命を狙っていると言っていた。ケイスにも最初からわかっていたことだが、闇取引きの力学では、売り手買い手ともケイスを本当には必要としていない。仲介人の仕事とは、自身を必要悪に転じることだ。“|夜の街《ナイト・シティ》”の犯罪がらみの生態系の中に、ケイスは自分のための怪しげな隙間を嘘で切り開き、ひと晩ごとに裏切りでえぐっていかなくてはならない。その壁が崩れはじめているのがわかった今、ケイスは奇妙な恍惚感を痛烈に覚えている。
先週、合成腺エキスの売り渡しを遅らせ、通常以上のマージンで捌《さば》いた。それがウェイジのお気に召さなかったのはわかっている。ウェイジはケイスにとって主要供給源だ。千葉《チバ》に九年いて、“|夜の街《ナイト・シティ》”境界外の確固と階層化した犯罪組織とわたりをつけられる数少ない|外《ガイ》|人《ジン》売人の一角を占めているからだ。遺伝子素材やホルモン類は、故買屋や代理人の複雑な経路を経て、|仁《ニン》|清《セイ》に流れこんでくる。かつてウェイジは、どうしたものか何かを遡ることができて、今や十余の都市に確実なコネを持っているのだ。
ケイスは、いつの間にか、ある店のウィンドウを覗きこんでいた。ここでは船員相手に、小さい光り物を商っている。時計、飛出しナイフ、ライター、ポケットVTR、|擬 験《シムステイム》デッキ、万力|鎖《チェーン》、|手《シュ》|裏《リ》|剣《ケン》、といったものだ。ナイフのように鋭い刃のついた鋼《はがね》の星、|手《シュ》|裏《リ》|剣《ケン》には、いつも魅かれていた。クローム仕上げのものも、黒いものも、水に浮いた油のような虹色処理されたものもある。が、クロームの星がケイスの眼をとらえた。ほとんど眼に見えないナイロンの釣り糸で、赤いウルトラスエードの台に留めてある。星型の中心には、龍《ドラゴン》や|陰《イン》|陽《ヤン》模様が型押ししてあった。|手《シュ》|裏《リ》|剣《ケン》は街路のネオンを受けて、ねじ曲げる。ふと思いついたが、こうした星の下でケイスはさすらい、安いクロームの星座に運命を定められているのだ。
ケイスは星に語りかけた。
「ジュリーだ。老いぼれジュリーに会ってみよう。きっと知ってる」
ジュリアス・ディーンは百三十五歳。毎週、大金を投じた血清やホルモン類によって、常に代謝を異常に保っている。加齢を防ぐ決め手は、年に一度、東京《トウキョウ》に|行《あん》|脚《ぎゃ》して、遺伝子外科医にDNA暗号《コード》を整復してもらうことだ。この処理は千葉《チバ》ではできない。処理のあと香港に飛んで、一年分のスーツとシャツを注文することになっている。性欲もなく、人間離れした気長さをもつこの老人にとって、第一の欲求充足法は、秘教めかした仕立て崇拝への没頭にあるようだ。持ち衣裳がどれも前世紀の衣服の入念な復元に思えるのに、同じスーツを二度着たディーンをケイスですら見たことがない。凝ったことに、細い金縁の眼鏡をかけているが、これがピンクの人工石英の薄い板から磨き起こしたもので、ヴィクトリア朝の|人形の家《ドルハウス》の鏡のように面取りしてある。
ディーンのオフィスは|仁《ニン》|清《セイ》通り裏の倉庫にある。そこの一部は、何年も前にヨーロッパ製の寄せ集め家具で、飾りつけをやりかけたようだ。以前はそこを住居にするつもりだったのかもしれない。ケイスが待たされた部屋の、一方の壁では、新アステカ風書棚が埃をかぶっている。ディズニー調の丸々としたテーブル・ランプがふたつ、赤塗りでカンディンスキー趣味の低いコーヒー・テーブルの上で収まりが悪い。書棚と書棚の間の壁にダリ時計がかかり、歪んだ文字盤は、コンクリート剥き出しの床まで垂れている。時計の針は、文字盤に沿って変化しながら回るようにホログラムなのだが、時間が正確だったことはない。部屋には白いファイバーグラス製の荷箱が山積みになっていて、そこから生姜《しょうが》の漬け物の匂いが漂ってくる。
姿の見えないディーンの声がした。
「何も隠し持ってはいないようだな、若いの。はいってくれ」
書棚の左手の、どっしりした模造紫檀のドアの周囲で、ドシッという音とともに磁気ボルトが何本も外れた。プラスティック扉では JULIUS DEAN IMPORT EXPORT(ジュリアス・ディーン商会)と貼りつけた大文字が剥がれかけている。ディーンの間に合わせ待合室の家具が前世紀末を思わせるとすれば、オフィス本体は前世紀初頭に相当する。
ケイスを見やるディーンの、縫い目も見えないピンクの顔は、四角い暗緑色ガラスのシェードがついた古めかしい真鍮ランプの投げる光の中に浮かんでいた。輸入業者は塗装鋼板製の巨大なデスクに護られ、両脇は、何かの白木でできた、|抽《ひき》|斗《だし》つきで丈の高いキャビネットで固めている。かつては書き文字の記録類でも収めたものだろう。デスク上には乱雑に、カセットやら黄ばんだ印字用紙《プリントアウト》を巻いたものやら、得体の知れない機械式タイプライタの様々な部品やら。この機械は、いつまでたっても組み上げないらしい。
「どうした風の吹きまわしかね……」
と尋ねかけながら、ディーンはケイスに、青と白の市松模様の紙に包んだ細長いボンボンをすすめ、
「食べてみろよ。ティン・ティン・ジャヘの最高級品だ」
ケイスは生姜を辞退して、傾《かし》いだ回転椅子に腰をおろし、親指を色褪せた黒《ブラック》ジーンズの縫い目に沿わせ、
「ジュリー、ウェイジがおれを殺したがってるって聞いたんだ」
「ほお。それはそれは。で、どこで聞いたのかな……」
「みんなから」
「みんな」
と口に生姜ボンボンを含んだまま、ディーンが言い、
「どんなみんなだね。友だちか……」
ケイスはうなずいた。
「誰が友だちか、なかなかわからんもんさ。そうだろうが……」
「確かにね、ディーン、奴には借りがあるんだ。あんたに何か言ってたかい……」
「連絡してないな、ここのところ」
と言ってから溜息をつき、
「仮にわしが知っていたとしても、だよ、当然、教えるわけにはいかないこともある。いろいろあるわけだから、ね」
「いろいろ……」
「あの男は大事な接点なんだよ、ケイス」
「ああ。おれを殺したがってるのかな、ジュリー……」
「知る限りでは、そんなことはない」
とディーンは肩をすくめた。まるで生姜の値段を語りあっているような具合に、
「根も葉もない噂だということになったら、一、二週間後にまたおいで。シンガポールからちょっとしたものが届くから、世話しようじゃないか」
「ベンクーレン通りの|南《ナン》|海《ハイ》ホテルから、かい」
「これこれ、口が軽いぞ」
とディーンは笑う。スチール・デスクには、ひと財産分もの盗聴防止装置が詰めこまれているのだ。
「また来るよ、ジュリー。ウェイジに挨拶してくる」
ディーンは指先を上げて、薄青い絹のタイの、完璧なノットに軽く触れた。
ディーンのオフィスから一ブロックと離れないうちに気がついた。誰かが、すぐうしろから尾《つ》けているという、突然の細胞レベルでの感覚だ。
ある種のパラノイアを飼いならしておくのは、ケイスにとっては当然のことだ。コツは、抑制できるようにしておくこと。だが、大量の八角錠が効いていると、むずかしいコツになる。アドレナリンの嵩まりに抗《あらが》いながら、細面の顔を、退屈しきってぼんやりした仮面につくろい、人込みに流されるふりをする。暗いウィンドウを見つけて、そこでなんとか足を止めた。改装のため閉店中の外科手術ブティックだ。両手をジャケットのポケットにつっこんだまま、ケイスはガラスごしに、模造|翡《ひ》|翠《すい》の台に載った槽《ヴァット》培養の平たい菱形の肉片を見つめた。その表面の色で、ゾーンの娼婦の膚を想い出す。肉片には発光ディジタル・ディスプレイが刺青され、それが皮下|素子《チップ》に結線してある。肋《あばら》を汗が流れ落ちるまま、いつの間にか、こんな風に考えていた。なぜ、わざわざ外科手術までうけるんだろう。こんなもの、ポケットに持って歩けばすむのに。
首を動かさないようにしながら眼だけ上げ、通行人の映りこみを見張った。
あそこだ。
半袖カーキ服の船員たちのうしろ。黒い髪、ミラー・グラス、黒っぽい服、瘠せていて――
と、消えた。
そしてケイスは走った。姿勢を低く、人込みを縫う。
「シン、銃を貸してくれないか……」
少年は微笑んで、
「二時間」
ふたりは滋賀《シガ》の寿司《スシ》屋台の裏の、鮮魚類の匂いの中に立っていた。
「あと。二時間」
「今すぐほしいんだよ。ここに何かないのか……」
シンは空《から》の二リットル缶の山の奥を探る。缶は粉末西洋|山葵《わさび》用だった。グレイのプラスティックにくるんだ細長い包みが出てきた。
「|ショック銃《テ イ ザ ー》。一時間二十|新 円《ニュー・イェン》。保証金三十」
「ちぇっ。そんなもん、いらないよ。銃がほしいんだ。つまりさ、人を撃つ。わかるかい……」
ウェイターは肩をすくめて、テイザーを西洋山葵の缶の蔭に戻し、
「二時間」
陳列してある|手《シュ》|裏《リ》|剣《ケン》には眼もくれず、ケイスは店にはいった。どうせ一度も投げたことがない。
叶和圓《イエヘユアン》をふた箱、三菱銀行|素子《チップ》で買った。これはチャールズ・デレク・メイ名義になっていて、トルーマン・スターという、パスポート用にやっと手に入れた名義よりましだ。
端末機《ターミナル》のむこうの日本人女は、ディーンより数歳老けて見えるが、科学の恩恵を受けていない数歳だ。ケイスはポケットから|新 円《ニュー・イェン》の薄い束を出して見せ、
「武器を買いたい」
女はナイフ類でいっぱいのケースを身振りで示した。
「いや、ナイフは好きじゃない」
女はカウンターの下から横長の箱を出してきた。黄色いボール紙の蓋には、首の膨れたコブラのとぐろを巻いた粗末な絵が捺してある。箱の中には、薄紙包みの同じような筒が八本あった。ケイスの眼の前で、茶色のしみだらけの指が、一本から紙を剥ぐ。女はそれを差し出して見せた。鈍色の鋼鉄の筒で、一端に革紐、もう一方の端にはブロンズ色の小さなピラミッドがある。女は片手で筒を握り、もう一方の手の親指と人差し指とでピラミッドをつかんで、引いた。固く巻きこんだコイルばねが三本、油まみれに伸び出して、噛みあった。
「コブラ」
と女が言う。
|仁《ニン》|清《セイ》通りのネオンの身震いの彼方で、空は例によって不快な灰色だった。空気はいつもより悪く、今夜は猛威をふるっているらしくて、通行人の半数は濾過マスクをつけている。ケイスは便所に十分間もいて、コブラのうまい隠し方を見つけようとした。結局、ジーンズのウエストに柄をつっこんで、筒が斜めに腹に当たるようにする。ピラミッド型の尖端は肋骨とウィンドブレーカーの裏との間におさまった。一歩踏み出すごとに、音をたてて舗道に落ちそうな感じはするが、これで気分が落ち着く。
〈チャット〉は本当は麻薬密売バーではないが、平日の夜には、その種の顧客層も魅きつけてしまう。金曜土曜は別だ。常連も、大半はやはり来ているが、殺到する船員やそれを目当ての専門家の蔭にかくれている。ケイスはドアを押してはいると、ラッツの姿を捜した。が、バーテンダーは見当たらない。このバー住みこみの女衒ロニー・ゾーンが、ぼんやりと父親めいた興味の眼で、自分のところの娘《こ》が若い船員を誘うのを見守っていた。ゾーンは、日本人が“雲舞子《クラウド・ダンサー》”と呼ぶ催眠薬を常用している。ケイスは女衒の注意を引き、バーに手招きした。ゾーンは人込みの中を漂うように、スロー・モーションで近づく。長い顔は力が脱けて穏やかだ。
「ロニー、今夜ウェイジを見たかい……」
ゾーンはいつもの落ち着きぶりでこちらを見つめ、首を横に振る。
「本当かい……」
「〈|南《ナン》|蛮《バン》〉かな。二時間ばかり前かな」
「若い衆を連れてたかい……。ひとり瘠せてて髪が黒くて、黒のジャケットとか……」
「いや」
とやや間をおいてゾーンが答える。なめらかな額に寄った皺が、そういう無意味な細かいことを想い出すのが、どんなに努力を要することか示している。
「大きい奴ら。移植ずみ」
ゾーンの眼はわずかな白眼しか覗かせず、瞳となると、さらに少ない。垂れ下がった瞼の下、瞳孔が拡大してしまっている。長い間、ケイスの顔を凝視したあと、視線を落とし、鋼の鞭のふくらみに眼を止めた。
「コブラか」
と片方の眉をもち上げてみせ、
「誰かとやるつもりかい……」
「またな、ロニー」
ケイスはバーをあとにした。
尾行者が戻っている。それについては自信がある。ケイスは唐突な高揚感を覚えた。八角錠とアドレナリンとが、他の何かと混じりあっている。こいつを楽しんでいるんだ。狂ってるぜ。
だって、どこか異様で大雑把な意味で、こいつはマトリックスの中の仕事《ラン》に似ている。とにかく消耗しきった上で、せっぱつまってはいるが妙に得体の知れない面倒ごとに巻きこまれると、|仁《ニン》|清《セイ》通りがデータの沃野に見えてくる。かつてマトリックスで、蛋白質が組み合わさって特定の細胞になるさまを想い出したのと同じだ。それなら、せいぜい高速で流され横滑りしてやろう。全面的に没頭しつつ、それでいて醒めていてやる。まわりじゅうでは、商売《ビズ》が舞い、情報が相互に作用し、闇マーケットの迷路ではデータが肉体を得る――
やってやろうじゃないか、ケイス。返り討ちにしてやる。まさか、こう出るとは向こうも思うまい。
あと半ブロックで、リンダ・リーと初めて会った|ゲーム場《ア ー ケ イ ド》だ。
ケイスは走って|仁《ニン》|清《セイ》を横切り、散策中の船員の一団を蹴散らした。中のひとりが、スペイン語で背中に罵声を浴びせてよこす。その時には、もう入口を抜けていて、効果音が大波のように全身を襲っていた。低周波音《サブソニック》が腹の底に響く。誰かが『ヨーロッパ戦車戦』で十メガトンを的中させたらしく、擬似空中爆発の白色騒音《ホワイト・ノイズ》が|ゲーム場《ア ー ケ イ ド》を満たし、毒々しい火球のホログラムが頭上にキノコ状に湧き上がった。ケイスは右に折れて、素材剥き出しの樹脂合板の階段を跳ぶように上る。ここには以前、ウェイジといっしょに来たことがある。マツガとかいう男を相手に、禁制品のホルモン誘因《トリガー》の取引きを話しあったのだ。憶えていたとおりの廊下だ。敷物はしみだらけ、ずらり並んだ同型ドアは、それぞれ小さなオフィス部屋に通じている。ドアがひとつ、開け放しだ。黒のスリーヴレスTシャツを着た日本人の娘が、白い端末機《ターミナル》から眼を上げた。娘の頭のむこうはギリシャの観光ポスター。エーゲ海の碧に、スッキリした象形文字が派手に載っている。
「身の安全に気をつけた方がいいぜ」
ケイスは娘に言ってやる。
それから廊下を駈け進んで、娘の視野から消えうせる。最後のドアふたつは閉まっているから、たぶん錠もおりているだろう。ケイスは体をひねりざま、いちばん奥の青塗り組木ドアに、ナイロン製ランニング・シューズの靴底を叩きつけた。ポンといって、割れたドア枠から安物の錠前が落ちる。奥は暗く、端末機《ターミナル》の曲面が白い。次にケイスはその右手のドアにとりかかる。透明プラスティックの把手に両手をかけ、全力をかけた。何かがはじけ、ケイスは中にはいる。ここでケイスとウェイジは、マツガという男に会ったのだが、どんな隠れ蓑企業をやっていたにせよ、とうにいなくなっている。端末機《ターミナル》も何もない。|ゲーム場《ア ー ケ イ ド》裏の小路からの光が、すすだらけのプラスティックを通して、射しこんでいた。眼につくものといっても、壁ソケットから蛇のように伸びた光ファイバーと、食い捨てにした容器の山、あとは羽根のとれた扇風機のモータ部。
窓は安プラスティックの一枚板が嵌《は》めごろしになっている。ケイスはジャケットを脱いで右手に巻きつけ、殴った。割れ目がはいり、あと二回やると窓枠から外れた。遠いゲームの雑音にかぶさって警報器が鳴りはじめる。割れた窓のせいか、廊下入口の娘のせいか。
ケイスは向き直り、ジャケットを着ると、コブラをぎりぎりまで飛び出させてみる。
ここのドアは閉まっているから、追っ手はケイスが蹴り開けた部屋にはいったと思うに違いない。コブラのブロンズ色のピラミッドがゆるやかに上下する。鋼製ばねの軸がケイスの脈拍を増幅している。
何ごともない。ただ警報のたかまりとゲームの騒音、それに早鐘の鼓動。恐怖が襲ってきても、忘れかけていた友人が訪れたようなもの。覚醒剤《デックス》パラノイアの、立てつづけで冷たく機械的なものと違い、素朴な動物的恐怖だ。長いこと、常に不安の極限で生きてきたものだから、本当の恐怖というのがどんなものか、忘れかけていた。
この小部屋などは、人が死ぬのにちょうどいい。ここで殺されるかもしれない。むこうが銃を持っていても、不思議はない――
ガシャン。廊下の端からだ。男の声。日本語で何か叫んでいる。悲鳴。かん高い恐怖。またガシャン。
そして足音。急ぐでもなく、近づく。
閉じたここのドアを通り過ぎる。止まって、早い鼓動が三回の間。そして戻ってくる。一、二、三歩。ブーツの踵が敷物にこすれる。
八角錠がもたらしてくれた勇気も、ついに萎えた。コブラをパチリと柄に収め、窓に向かう。恐怖に盲いて、神経が悲鳴をあげている。のぼり、出て、落ちかけてからやっと、自分が何をやったのか意識した。舗道に激突すると、脛に鈍い棒状の痛みが走る。
半端に開いた保守用ハッチからの、細い楔形の光が、捨てられた光ファイバーや廃棄|操作卓《コンソール》のシャーシの小山を、照らし出している。ケイスは、ぶよぶよした樹脂合板の上に、のめるように落ちていた。体を転がして、操作卓《コンソール》の影にはいる。さっきの小部屋の窓は、正方形にかすかに明るい。警報はまだ脈打っていて、ここだと大きく聞こえる。裏の壁がゲームの轟音を遮っているからだ。
窓の四角に人の顔が現われた。廊下の螢光灯で逆光になっている。そして消えた。また現われたが、まだ顔だちが見てとれない。眼もとが銀に光った。
「ちぇっ」
と誰かの声。女だ。〈スプロール〉北部のアクセントだった。
顔が消えた。ケイスは操作卓《コンソール》の下に横たわったまま、ゆっくり二十まで数え、それから立ち上がった。鋼のコブラがまだ手の中にあり、それがなんなのか想い出すのに二、三秒かかった。左の踵をかばって足を引きずりながら裏小路を出る。
シンのピストルは五十年前の、ワルサーPPKを南米でコピーしたもののヴェトナム製イミテーションという代物で、一発目はダブル・アクション。それもひどく力をこめて引かなくてはならない。22口径ロング・ライフル弾を装填するようになっており、ケイスとしては、シンに売りつけられた中国製のただのホローポイントより、アジ化鉛爆裂弾が欲しいところだ。とは言っても、いちおうは拳銃と九発の実弾である。寿司《スシ》屋台を出て滋賀《シガ》通りを進みながら、ケイスはそれをジャケットのポケットで弄《もてあそ》んだ。銃把は鮮紅色のプラスティック成型で、龍《ドラゴン》模様が浮き彫りになっており、暗闇の中、親指で触れるくらいの役には立つ。コブラを|仁《ニン》|清《セイ》のゴミ缶に葬り去り、八角錠をもうひとつ、何もなしで呑みこんだ。
薬《ピル》がケイスの回路を輝かせ、その効きはじめに乗じて滋賀《シガ》から|仁《ニン》|清《セイ》、そして|杯《バイ》|溢《イツ》へと進む。尾行は撒ききったようで、喜ばしい限り。電話をかけて、片づけるべき|取引き《ビ ズ》もあり、待ったはきかない。|杯《バイ》|溢《イツ》通りを港の方へ一ブロック行ったところに、醜悪な黄煉瓦造りの、平凡な十階建てオフィス・ビルがある。もう窓は暗いが、首を伸ばせば、屋上がかすかに輝いているのが見てとれる。正面入口近くのゴチャゴチャした象形文字の下に、火を入れていないネオンで |CHEAP HOTEL《チープ・ホテル》 とある。ここに別の名前があったとしても、ケイスは知らない。いつでも〈安《チープ》ホテル〉と呼んでいる。そこに行くのに、|杯《バイ》|溢《イツ》通りから脇道に折れると、透明なシャフトの中でエレベータが待っている。このエレベータも、〈安《チープ》ホテル〉同様、あとからの思いつきだから、竹とエポキシ樹脂で建物に縛りつけたものだ。ケイスはエレベータの箱《ケージ》に乗りこんで、自分の鍵を使った。鍵といっても、なんのしるしもない硬化磁気テープの一片だ。
ケイスは、千葉《チバ》にやってきて以来、ここの棺桶《コフィン》を週ぎめで借りているが、〈安《チープ》ホテル〉で寝ることはない。もっと安いところで寝るのだ。
エレベータは香水と煙草の臭いがした。箱《ケージ》の壁は掻き傷や焼け焦げだらけだ。五階を過ぎると、|仁《ニン》|清《セイ》の灯が見えてきた。指先で銃把を軽く叩いている間に、シューッと音をたてながら、しだいに速度が落ちてきた。例によって、完全に停止するときにひどく揺れたが、心の準備はできている。出ると中庭になっていて、これがロビー兼芝生の役を果たしていた。
緑色のプラスティック芝生の正方形カーペット中央に、C字型|操作卓《コンソール》に向かって、日本人のティーンエイジャーが座って教科書を読んでいた。白いファイバーグラス製|棺桶《コフィン》が、工事用足場材の枠組に載っている。縦に六層の棺桶《コフィン》、一面につき横に十個。ケイスは男の子の方にうなずいて、プラスティックの草に足を引きずりながら横切り、手近の梯子に向かった。この囲い地の天井は、安っぽい|積層プラスティック《ラ ミ ネ ー ト》のマットで葺いてあるから、強い風が吹けば音をたてるし、雨が降れば漏る。が、棺桶《コフィン》は、鍵がないとなかなか開かないようになっている。
体重で角格子の張り出し通路を震わせながら、第三層をゆるゆる進んで、ナンバー92に向かう。それぞれの棺桶《コフィン》は長さ三メートルで、長円形のハッチの幅が一メートル、高さが一・五メートル弱だ。ケイスはスロットに鍵をさしこんで、専用コンピュータが確認するのを待った。磁気ボルトが、頼もしい音とともに外れ、ハッチがスプリングの軋り音をたてながら垂直に開く。螢光灯が点灯する中に這いこんで、後ろ手にハッチを閉じ、パネルを叩いて手動錠をかける。
ナンバー92はガランとしていて、ありきたりの|日《ヒ》|立《タチ》ポケット・コンピュータと、小型の|発泡スチロール《ス タ イ ロ フ ォ ー ム》冷蔵箱しかない。箱の中は、昇華を遅らせるためにきっちり紙で包んだドライ・アイスの十キロ塊三つの残骸と、熱延アルミニウムの実験フラスクだ。床とベッドを兼ねた茶色の恒温フォームのマットの上にしゃがみこみ、ポケットからシンの22口径を出して、冷蔵箱の上に置いた。それからジャケットを脱ぐ。棺桶《コフィン》内の端末《ターミナル》は、窪んだ壁面に埋めこまれていて、その反対側には、七力国語で書かれた居住規則のパネルがある。ケイスは受話器を取って、記憶を頼りに|香《ホン》|港《コン》の番号をパンチした。五回鳴らし、切る。|日《ヒ》|立《タチ》に収めた危《やば》いRAM三メガバイト分の買い手は、お呼びでない。
東京《トウキョウ》は新宿《シンジュク》の番号をパンチする。
女性が出て、何か日本語で言った。
「スネーク・マンはいるかい」
「よくかけてくれたな」
とスネーク・マンが切替え電話に出て、
「電話を待っていたんだよ」
「お望みの曲目が手にはいったぜ」
と冷蔵箱を見やる。
「それはありがたい。資金繰りが問題なんだが、きみの預かりにしてもらえるかね」
「おいおい、こっちはひどく金が要りようで――」
スネーク・マンは電話を切った。
「糞ったれ」
とケイスは言ったが、受話器はツーッというだけ。安物の小型ピストルを見つめた。
「あやふやだな。今夜は片っぱしからあやふやだぜ」
夜明けの一時間前、ケイスは〈チャット〉に足を踏み入れた。両手ともジャケットのポケットにつっこみ、片手に借り物のピストル、片手にアルミのフラスクを握っている。
ラッツは奥のテーブルにいて、ビール用のピッチャーでアポロナリス水を飲んでいた。百二十キロにも達するブヨついた肉体を、軋む椅子に載せ、壁にもたれている。クルトというブラジル人の少年がバー・カウンターにはいっていて、酔い痴れてほとんど口もきかないわずかな客の相手をしている。ラッツがプラスティックの腕を唸らせてピッチャーを持ち上げ、飲んだ。剃り上げた頭に汗が浮いている。
「具合が悪そうだぜ、|凝り性《アーティースト》のお友だち」
と声をかけてよこし、濡れた歯の残骸を閃《ひらめ》かせた。
「絶好調だがね」
とケイスは応えて、骸骨のような笑みを浮かべ、
「超、絶好調」
とラッツの向かいの椅子に崩れこむ。両手はポケットに入れたままだ。
「なのに、この、酒と薬でできた小型防空壕の中を行ったり来たり、うろうろするか。もっといやな感情を避けるため、だろ」
「おれのことはほっといてくれよ、ラッツ、ウェイジは見かけたかい」
「恐怖とひとりぼっちとを避けるため」
とバーテンダーは喰い下がり、
「恐怖に耳を傾けな。それこそお友だちかもしれない」
「|ゲーム場《ア ー ケ イ ド》の喧嘩について、聞いてるかい、ラッツ、誰か怪我をしたか……」
「狂人が保安係を切った」
と肩をすくめ、
「女、だそうだ」
「ウェイジに話したいんだよ、ラッツ、おれ――」
「ああ」
ラッツの口がすぼまり、一直線になった。眼がケイスごしに入口を見ている。
「それなら、もうじき」
ケイスはとっさに、ウィンドウの中の|手《シュ》|裏《リ》|剣《ケン》を思った。覚醒剤《スピード》が頭の中で騒ぐ。握りしめたピストルが汗ですべる。
「ウェイジ大人」
とラッツは、握手を予期してでもいるかのように、ピンクの人工操作手《マニピュレータ》をゆっくり伸ばして、
「光栄ですな。めったにおいでいただけない」
ケイスは首をねじ曲げて、ウェイジの顔を見上げた。陽灼けした、どうということのない面だ。両眼は槽《ヴァット》培養の|ニコン《ナイコン》製海緑色移植もの。ウェイジは砲金灰色《ガンメタル》の絹のスーツを着て、両手首にプラチナの簡素な腕輪《ブレスレット》をつけていた。その両脇を固める若い衆は、ふたりともそっくりな外見で、腕から肩の盛り上がりは移植筋肉だ。
「どうしてるね、ケイス」
「諸君」
とラッツはテーブルの上で山になった灰皿をピンクのプラスティック鉤爪でつまみ上げ、
「ここでゴタゴタはごめんだ」
灰皿は、厚手の飛散防止プラスティック製で、|青《チン》|島《タオ》ビールの広告入りだ。ラッツがそれをたやすく握りつぶし、吸い殻や緑のプラスティック片がテーブルに降った。
「わかってるだろうね……」
若い衆の片割れが声をあげた。
「おい、可愛い子ちゃん、そんなものをおれに向ける気かい……」
「脚を狙う必要なんかないからな、クルト」
と言うラッツは落ち着いた口調だ。ケイスがちらりと店のむこうに眼をやると、ブラジル少年がカウンターの上に立って、三人組にスミス&ウェッスン鎮圧銃《ライアット・ガン》を向けている。銃身は、紙のように薄い合金に一キロメートル分ものガラス単繊維《フィラメント》を巻きつけたもので、拳がはいりそうなほど太い。骨組みだけの弾倉には、オレンジ色の薬包が五発、見えている。低周波サンドバッグ・ジェリーだ。
「いちおう、命には別条ない」
とラッツが言う。
「なあ、ラッツ、借りができたな」
とケイスが言うと、バーテンダーは肩をすくめ、
「いんや、貸しはない。こいつら――」
とウェイジや若い衆を睨《ね》めつけ、
「――場所をわきまえないんだ。〈|茶《チャ》|壺《ツボ》〉から人を連れ出そうなんてな」
ウェイジが咳払いして、
「でも、誰が人を連れ出すなんて言ってる……。仕事の話がしたいだけだぜ。ケイスとおれとは、仕事仲間だ」
ケイスは22口径をポケットから出し、ウェイジの股間に向けて、
「おれを片づけたいそうじゃないか」
ラッツのピンクの鉤爪がピストルをつかんだので、ケイスは手の力を抜いた。
「おい、ケイス、おまえさん、どうしちまったんだい。ぶっ飛んじまったのか……。おれがおまえさんを殺そうとするなんてデマは、どういうわけだい」
とウェイジは左側の若者に向かい、
「おまえたち、〈|南《ナン》|蛮《バン》〉に戻って、待ってな」
ケイスが見守る中、ふたりはバーを去っていった。カウンターにはもはや、クルトと、カーキ服を着てストゥールの足もとに丸くなった酔っ払い船員しかいない。スミス&ウェッスンの銃身はふたりをドアまで追い、振り戻ってウェイジを狙う。ケイスのピストルから弾倉が、テーブルの上に音をたてて落ちた。ラッツが鉤爪で銃を持ち、薬室の弾丸もはじき出す。
ウェイジがなおも尋ねる。
「おれがおまえさんを殺るなんて、誰が言ったんだい、ケイス」
リンダだった。
「誰だよ、おい。誰か、おまえさんをはめ[#「はめ」に傍点]る気かい」
さっきの船員が唸り、派手に吐き散らした。
「そいつを追っ払いな」
とラッツがクルトに言う。クルトはカウンターの端に腰をおろして、スミス&ウェッスンは膝に載せ、煙草に火をつけている。
ケイスは両眼の奥に、このひと晩の重みが濡れた砂袋のように居すわるのを覚えた。ポケットからフラスクを出して、ウェイジに手渡し、
「これしかない。下垂体剤だ。早く動かせば、五百にはなる。他にも金目のものがRAMにあったけど、もうなくなってるだろう」
「大丈夫か、ケイス」
という間にフラスクは砲金灰色《ガンメタル》のラペルの奥に消え、
「いや、まあ、これで帳消しにしとくけど、おまえさん、具合が悪そうだぜ。叩きのめした糞みてェだ。どっか行って、寝た方がいい」
「ああ」
と立ち上がると〈チャット〉が揺れて見え、
「あと、五十があったけど、人にくれてやっちまってね」
イヒッと笑う。22口径の弾倉と実包ひとつを拾い上げてポケットに収め、ピストルはもうひとつのポケットに入れると、
「シンのところに行かなくちゃ。保証金を取りかえす」
「帰んな」
とラッツは軋む椅子の上で、きまり悪げに尻を動かし、
「|凝り性《アーティースト》さん、帰んな」
ケイスは一同の眼を意識しながら店を横切り、プラスティックのドアを肩で押した。
「アマめ」
と滋賀《シガ》の、バラ色に染まりかけた空に言った。|仁《ニン》|清《セイ》ではホログラムが亡霊のように消滅しつつあり、大半のネオンはとっくに消えて冷たくなっている。ケイスは屋台のプラスティック・ミニカップから濃いブラック・コーヒーをすすりながら、太陽が昇るのを眺めた。
「飛んでっちまうがいいさ。こんな街は、堕ちるのが好きな人間向きなんだ」
けれど、必ずしもそれだけのことではなく、裏切られた気持ちを保つのが、次第に難しくなってくる。リンダは故郷《くに》に帰りたくなり、|日《ヒ》|立《タチ》のRAMなら、ちゃんとした故買屋さえ見つければ、その費用になる。だから、あの五十|新 円《ニュー・イェン》の一件なのだ。リンダは断りかけた。ケイスの残りの全財産をかっぱらうのがわかっていたからだ。
ケイスがエレベータから出ると、同じ男の子がデスクについていた。教科書は違う。
ケイスはプラスティックの芝生ごしに声をかけた。
「お兄ちゃん、言わなくていいぞ。もう知ってる。綺麗なご婦人がやってきて、鍵はあると言った。ちょいとチップをはずんでくれた。五十新ぐらいかな……」
男の子が本を置く。
「女だ」
とケイスは額に親指を横一直線に走らせ、
「絹で」
と大きく微笑んで見せる。男の子も微笑を返し、うなずく。
「ありがとよ、莫迦野郎」
とケイスは言った。
張り出し通路の上で、錠前にてこずった。リンダがこじ開けたときに、どこかをおかしくしたのだろう。初心者め。ケイスなら、〈安《チープ》ホテル〉のものを開ける程度のブラック・ボックスを、どこで借りればいいか知っている。這いこむと螢光灯が点った。
「ゆっくりハッチを閉めとくれ。あのウェイターから借りた安物鉄砲は、まだ持ってるのかい……」
女は棺桶《コフィン》の奥の壁に背をつけてすわっていた。両膝を高くして、そこに手首を据えている。その手から、短針銃《フレシェト》の、胡椒入れめいた銃口が伸びていた。
「|ゲーム場《ア ー ケ イ ド》は、あれ、あんたかい……」
とケイスはハッチを引きおろし、
「リンダはどこだい……」
「錠前スイッチをかけな」
言われたとおりにする。
「あれ、あんたの女かい、リンダっての……」
ケイスはうなずいた。
「行っちまったよ。あんたの|日《ヒ》|立《タチ》もって。やたらビクビクしてんの。鉄砲はどうしたんだい……」
女はミラー・グラスをかけていた。衣裳が黒で、黒のブーツの踵《ヒール》が恒温フォームに深く喰いこんでいる。
「銃はシンに返して、保証金を返してもらった。弾丸《たま》を引き取らせたら、買った時の半額。あんた、金が欲しいのか」
「いや」
「ドライ・アイス、欲しいか。それしかないぞ、今のところ」
「今夜のあんた、ありゃ何さ。|ゲーム場《ア ー ケ イ ド》で、なぜあんな騒ぎを起こしたんだい。ヌンチャク持った|出張マッポ《レ ン タ コ ッ プ》に追われたもんだから、殺《や》っちまったじゃないか」
「おまえに殺されるって、リンダに聞いた」
「リンダに……。ここに来るまで、会ったこともないのに」
「ウェイジの手の者じゃないのか……」
女は首を振った。よく見ると、グラスは外科手術で埋めこみになっており、眼窩を覆っている。銀色のレンズは、頬骨のすぐ上で、色白のなめらかな肌から生え出たように見え、荒っぽく刈りこまれた黒髪がそのまわりに垂れ下がる。短針銃《フレッチャー》を包みこむ指はほっそりと白く、指先は赤紫色《バーガンディ》。その爪も人工もののようだ。
「ヘマやったもんだね、ケイス。あたしが現われたら、てめえの現実像にはめこんじまったんだから」
「じゃあ、何がお望みなんだい……」
とケイスはハッチにへたりこんでしまった。
「あんたさ。生きた体を一丁、脳味噌もまずまず無事のまま。モリイよ、ケイス。あたし、モリイっての。仕事主のところへ、あんたを連れてく。話をするだけ。誰もあんたを殺そうなんて思っちゃいない」
「そいつはけっこう」
「ただし、あたしゃ、場合によっちゃ、やるよ、ケイス。どうもそういうふうにできあがってるらしい」
モリイは、体にぴったりした黒のグラヴレザー製ジーンズをはき、ゆったりした黒のジャケットは何か無光沢の素材でできていて、光を吸収するかのようだ。
「このダートガンをしまっても、おとなしくしていてくれるかい、ケイス。あんた、どうも間の抜けた滅茶苦茶やりそうだけど」
「おい、おれはとってもおとなしいよ。軟弱だから大丈夫」
「それならいいんだけどさ」
と短針銃《フレッチャー》は黒のジャケットに消え、
「あたしにちょっかい出そうなんてのは、生涯でも、いちばん間の抜けた滅茶苦茶になっちまうから」
モリイは掌《てのひら》を上に、両手を突き出した。白い指をやや広げ加減にしている。と、やっと聞こえる程度の音とともに、両刃の四センチばかりの薄刃が十本、赤紫色《バーガンディ》の爪の下の収納部から飛び出した。
ニッコリ笑うと、刃はゆっくり引っこんだ。
2
棺桶《コフィン》ばかりで一年間もすごしてしまうと、千葉《チバ》ヒルトン二十五階のその部屋などは巨大に思える。十メートル×八メートルが、スイートの半分。ブラウンの白いコーヒーメーカーが低いテーブルの上で湯気をあげ、そのそばのガラス戸のむこうは、幅の狭いバルコニーになっている。
「ちょっとコーヒーでも飲みな。飲んだ方がいいような顔してるよ」
と女は黒のジャケットを脱いだ。短針銃《フレッチャー》は腋の下に黒ナイロンの装着肩帯《ショルダー・リグ》で吊ってある。女が身につけているのは、灰色のスリーヴレス・プルオーヴァで、両肩に単純なスチール製ジッパーがついている。防弾着だな、と思いながら、ケイスは鮮紅色のマグにコーヒーを注いだ。両腕両脚が木でできているような感じだ。
「ケイス」
と呼ばれて眼を上げ、初めて男に気がついた。
「わたしはアーミテジという」
黒っぽいローブが腰まではだけ、無毛の幅広い胸の筋肉と、平たく頑丈そうな腹が見えている。瞳の青が褪めていて、漂白したように思えた。
「太陽は上がってるよ、ケイス、今日はきみにとって幸運日だ」
ケイスは横ざまに腕を振り、相手の男はやすやすと、沸騰するコーヒーをよけた。茶色のしみが模造障子に走る。男の左耳朶を角張った金の輪《リング》が貫いていた。特殊部隊だ。男はニヤリと笑う。
モリイが声をかけてきた。
「コーヒー飲みなよ、ケイス。どうでもいいけど、アーミテジが言うだけ言うまでは、どこへも行かせないんだから」
モリイは絹の|蒲《フ》|団《トン》に胡座《あ ぐ ら》をかいて、手もとも見ずに短針銃《フレッチャー》を普通分解《フィールド・ストリップ》しはじめた。二連のミラーは、ケイスがテーブル脇に戻ってカップをもう一度満たすまで、追いつづけた。
「齢が若すぎるから、戦争は憶えてないだろうなあ、ケイス」
とアーミテジは刈りこんだ茶色の髪を、大きな手で硫《す》く。重たげな金の腕輪《ブレスレット》が手首に光った。
「レニングラード、キエフ、シベリア。われわれがきみたちを発明したのは、シベリアだったんだよ、ケイス」
「そりゃ、どういう意味だい」
「〈スクリーミング・フィスト〉だよ、ケイス。名前は聞いたことがあるだろう」
「何かの任務《ラン》だったっけ……。ソ連の連結体《ネクサス》をウイルス・プログラムで灼こうとしたんだ。うん、聞いたことがある。誰も生還しなかったやつだ」
相手が急に体を硬ばらせた。アーミテジは窓ぎわに歩いていって、東京湾《トウキョウ・ベイ》を見渡し、
「それは違う。一部隊はヘルシンキまで戻ったよ、ケイス」
ケイスは肩をすくめて、コーヒーをすすった。
「きみは操作卓《コンソール》カウボーイ。きみが昔、産業バンクを破るのに使っていたプログラムの原型というのは〈スクリーミング・フィスト〉用に開発されたんだ。キレンスクのコンピュータ連結体《ネクサス》の攻撃用に、ね。基本構成は、ナイトウィングの|軽 飛《マイクロライト》とパイロット、マトリックス・デッキとジョッキーひとり。われわれは〈土龍(モ ー ル)〉というウイルスを走《ラン》らせた。この〈土龍(モ ー ル)〉シリーズこそ、本当の侵入プログラムの第一世代にあたる」
「|氷破り《アイスブレーカ》」
とケイスは赤いマグごしに言う。
「氷《アイス》はICE、侵《I》入対|抗電《C》子機|器《E》だ」
「言っとくがね、おっさん、おれはもうジョッキーじゃないんだ。そろそろ帰らせてもら――」
「その場にいたんだよ、ケイス。わたしはきみのような人間を発明する、その場にいたんだ」
「おれやおれみたいな奴には、あんた、なんのかかわりもないぜ。金がたんとあるから、お高そうな剃刀女をやとって、おれを引っぱってくることもできた、と。それだけ。おれは二度とデッキをパンチすることもない。あんたのためだろうと誰のためだろうとな」
とケイスは窓に近づいて眺めおろし、
「あそこで暮らすしかないんだよ」
「われわれの人物像《プロファイル》によると、きみは世間を欺いて、自分がよそを向いているうちに殺してもらおうとしているらしい」
「人物像《プロファイル》って……」
「われわれは詳細なモデルを組み上げた。きみの、ひとつひとつの変名について情報《ゴー・トゥー》を買い、軍用ソフトウェアで洗い出してみた。きみには自殺性向があるんだよ、ケイス。モデルによれば、あとひと月の命。医学予測でも、一年以内には新しい膵臓が必要になる、と出てる」
「“われわれ”って言うけどさ」
とケイスは褪せた青の瞳を見据え、
「何者だい……」
「われわれならきみの神経損傷を直せる、と言ったら、ケイス、どうするね」
アーミテジが急に金属の塊りのように見えてきた。動きがなく、とてつもなく重く。彫像だ。これで夢を見ていたのがわかった。じきに目醒めるだろう。アーミテジはもうものを言わない。ケイスの夢はいつも、こういうストップ・モーションで終わる。これでこの夢もおしまいだ。
「どうするね、ケイス」
ケイスは湾を見やって身震いし、
「嘘っぱちだと言ってやる」
アーミテジはうなずいた。
「それから条件を訊いてやる」
「きみがよく知っていることと、そう変わらんよ、ケイス」
「その男、ちょっと眠らしてやんなよ、アーミテジ」
とモリイが|蒲《フ》|団《トン》から声をかけてきた。絹地の上で短針銃《フレッチャー》の部品を、高級なパズルのように広げたまま、
「もうバラバラになりかかってるじゃない」
「条件だ。それも今。今すぐ」
とケイスは言った。
まだ身震いしている。身震いが止められない。
そのクリニックは無名だが、高価な設備があった。洒落た小家屋が群れ集まり、合間は小さいながら型どおりの庭園になっている。千葉《チバ》での最初の一ヵ月で、クリニックめぐりをしたとき、ここに来たのを憶えている。
「怯えてるね、ケイス。あんた本当に怯えてる」
日曜の昼下がり、ケイスはモリイとそこの中庭にいた。白い岩、青竹の茂み、黒石が掃かれてゆるやかな波形を描く。庭師ロボット――大型の金属蟹のような代物――が竹の手入れをしている。
「うまくいくよ、ケイス。あんたにゃ見当もつかないだろうけど、アーミテジは凄いもの持ってる。だって、あんたの治療代がわりに、ここの神経屋に支払うのは、あんたの治し方を教えるプログラムなんだから。それがあると、ここの連中、競合相手より三年は進歩しちまう。それにどんな値うちがあるか、わかるかい……」
モリイは両手の親指を革ジーンズのベルト通しにかけて、鮮紅色《チェリィ・レッド》カウボーイ・ブーツの磨き上げた踵《ヒール》に体重をかけている。細身の爪先が、鮮やかなメキシコ製銀細工に覆われていた。両眼のレンズは空虚な水銀色で、昆虫めいたもの静かさでケイスを見やっている。
ケイスが声を出した。
「あんた、街の侍《サムライ》だろ。いつからあいつの仕事をしてるんだい……」
「ふた月ばかりかな」
「その前は……」
「別の雇い主。働く女性ってやつよ」
ケイスはうなずいた。
「変だね、ケイス」
「何が変なんだい」
「あんたのこと知ってるみたい。例の人物像《プロファイル》だけどさ、あんたの出来ぐあいを知ってるから」
「わかってたまるかよ」
「あんた、なかなかいいよ、ケイス。ただちょっと運が悪いってだけ」
「あいつはどうなるんだい、モリイ。あいつはいいのかい」
ロボット蟹がふたりの方に向かって、小石の波の上を進んできた。ブロンズ色の甲羅が、千年も昔からのものに思える。モリイのブーツから一メートル足らずのところまで来て、一瞬、光を放ち、動きを止めて、入手したデータを分析する。
「いつでも、あたしが真っ先に考えるのはね、ケイス、可愛いてめえのことさ」
蟹は向きを変えてモリイを避けようとしたが、モリイはなめらかな正確さで、そいつを蹴とばした。ブーツの先の銀細工が甲羅に当たって音をたてる。蟹は裏返しに落ちたが、ブロンズ色の足を使って、すぐに起きなおる。
ケイスは岩の上に腰をおろして、靴先で端整な小石の波を突き崩す。煙草を探そうとポケットをまさぐっていると、
「シャツだよ」
とモリイが言う。
「さっきの質問には答えてもらえるかい」
と言いながら包みから皺くちゃの叶和圓《イエヘユアン》を一本引き抜くと、モリイが火をつけてくれた。薄べったいドイツ鋼のライターで、手術台に似合いそうな代物だ。
「そうさね、こう言っとこう。あの男は何かを掴んでる。今は大金を持ってるけど、前は持ってなかった。今やどんどん金がはいってる」
そう言うモリイの口もとに、ある種の緊張が見てとれ、
「それとも、もしかしたら、もしや何かがあの男を掴んでるのかも――」
と肩をすくめた。
「どういうことだい」
「わかんないわ、よくは。わかってるのは、本当は何様か何者かの仕事をしてるかあたしらが知らないってこと」
ケイスは二連ミラーを見つめた。土曜の朝、ヒルトンを出てから〈安《チープ》ホテル〉に戻り、十時間眠った。そのあと、港の保安境界線に沿って、長く無目的な散歩をした。鉄網フェンスの向こうで鴎が輪を描いていた。仮にモリイがあとを尾《つ》けていたとしたら、よほどうまくやったのだろう。ケイスは“|夜の街《ナイト・シティ》”に行かないようにして、棺桶《コフィン》でアーミテジの呼び出しを待った。そして今、この静かな中庭、日曜の昼下がり、体操選手の肉体と手品師の手をもつ、この女がいる。
「そろそろいらしていただけますか。麻酔医がお待ちしております」
と技術医が頭を下げ、背を向けると、クリニックに戻っていった。ケイスがついていくかどうか、確かめもしない。
冷たい鋼の匂い。氷が背柱を愛撫する。
とりのこされて、かの暗闇にあまりにも卑小であり、両手が凍えて、体感はTV空の回廊の奥へと薄れていく。
いくつもの声。
やがて漆黒の炎が、神経の分岐する支流をとらえ、苦痛という名の附された何物にも勝る苦痛が――
じっとして。動くな。
と、ラッツがいて、リンダ・リーも、ウェイジやロニー・ゾーンも、ネオンの森からの幾百もの顔。船員も与太者も街娼もいた。空は毒々しい銀色で、その手前は頭蓋という鉄網フェンスと牢獄。
この野郎、動くなってのに。
そこで空が、高域《ヒス》の空電からマトリックスの非色彩へと薄れ、ケイスは、守護星の|手《シュ》|裏《リ》|剣《ケン》を見た。
「やめてよ、ケイス、あんたの動脈さがしてんだから」
モリイはケイスの胸にまたがり、片手には青いプラスティックの|簡易注射器《シ レ ッ ト》を持ち、
「じっとしてないと、喉首を切り刻んでやる。あんた、まだエンドルフィン抑制剤漬けなんだよ」
目醒めると、脇でモリイが闇の中に寝そべっていた。
首が脆《もろ》く、枯れ枝のよう。背骨の中ほどに、確実に脈打つ痛みがある。幻影が形をなし、形を変える――またたくモンタージュの中に、〈スプロール〉の塔、不揃いなフラー・ドーム、橋か高架の下の蔭でこちらに近づいてくるぼんやりした人影――
「ケイス……。水曜だよ、ケイス」
モリイが身動きし、寝返りをうち、覆いかぶさるように腕を伸ばす。乳房がこちらの上腕に触れた。モリイが水の瓶の密封フォイルを破って飲むのが聞こえ、
「ほら」
と手に瓶を持たせてくれて、
「あたしは暗闇でも見えるんだよ、ケイス。微細《マイクロ》チャンネル画像|増幅機《アンプ》がグラスの中にあるの」
「背中が痛い」
「そこから髄液を換えたからさ。血も換えたよ。血の方は、条件の中に新しい膵臓ってのがあったからさ。それと肝臓にも新しい組織。神経についちゃ、わかんない。いっぱい注射してた。本題のためには、どこも切らなくてよかったみたい」
とケイスの横にすわり、
「今、午前《AM》2:43:12だよ、ケイス。視神経に表示《リードアウト》が刻んであるんだ」
ケイスも体を起こして、瓶から飲もうとした。むせて吐き出し、生ぬるい水が胸から太腿にかかる。
「デッキを叩いてみなくちゃ」
と何気なく言って、服を手探りしながら、
「早いところ――」
モリイが笑った。小さくとも力強い手がケイスの上腕を掴み、
「気の毒だね、腕っこきさん。八日間待機。今つないだら、あんたの神経がオシャカになっちまう。お医者の命令さ。それに、成功したらしいよ。いちんち二日したら検査するって」
ケイスはまた横になり、
「ここはどこだ」
「お家。〈安《チープ》ホテル〉さ」
「アーミテジはどこだい」
「ヒルトン。原住民にガラス玉を売りつけてるか何か。あたしらも、もうじきここを出るんだぜ。アムステルダム、パリ、それからまた〈スプロール〉」
とケイスの肩に手を触れ、
「うつぶせになんな。上手にマッサージしてあげるから」
ケイスは寝返りをうって、両腕を前に伸ばした。指先が棺桶《コフィン》の壁に触れる。モリイはケイスの腰にまたがって、両膝を恒温フォームにつく。革のジーンズがひんやりと触れた。モリイの指先が首筋を撫でる。
「あんた、どうしてヒルトンに行かないんだ……」
返事代わりに、モリイはうしろに手を伸ばし、ケイスの両腿の間に手を入れると、親指と人差し指とで柔らかく陰嚢を包んだ。闇の中で上体を立て、片手は首筋に添えたまま、モリイはしばらく体を揺すっていた。動きにつれて、ジーンズの革地がかすかにきしむ。ケイスは、自身が恒温フォームの上で硬くなるのを感じ、体を動かした。
頭はズキズキしているが、首の硬ばりはおさまってきたようだ。片肘をついて上体を起こし、仰向けにフォームに沈みこむと、モリイを引き倒して乳房を舐める。小さく硬い乳首が、濡れて頬に滑る。革ジーンズのジッパーを探り当てて、引きおろす。
モリイが言う。
「大丈夫。見えるから」
ジーンズを引き剥がす音。ケイスの脇でもがいていたが、やがて蹴るように脱ぎすてた。片脚をケイスにまわしたので、その顔に手を触れる。不意に、埋めこみレンズの硬い感触。
「やめて。指紋が」
またもモリイがケイスにまたがった。こちらの手を取ると、女性自身に圧しつける。ケイスの親指は臀の割れ目に沿い、他の指は陰唇を広げる。モリイが体を低くしてくると、幻影がよみがえってきた。いくつもの顔、ネオンの断片が、現われては遠ざかる。モリイが滑りおりてケイスを包みこみ、ケイスは痙攣するように背を反らせる。そのままモリイは、貫かれたなりに、繰り返し繰り返し滑りおり、やがてふたりとも達した。ケイスの絶頂は、時を越えた空間に青く花開いた。空間の広大さはマトリックスにも似て、いくつもの顔は引き裂かれてハリケーンの回廊に吹き飛ばされる。モリイの内腿が、濡れて力強く、ケイスの腰に密着していた。
|仁《ニン》|清《セイ》通りでは、いくらか人数の少ない平日版の群衆が舞いを繰り返していた。音の波が、|ゲーム場《ア ー ケ イ ド》からパチンコ屋から、押し寄せている。ケイスが〈チャット〉を覗くと、ゾーンが、生温かくビールの臭う薄暗がりで、女どもに眼を光らせていた。ラッツがカウンターにはいっている。
「ウェイジを見かけたかい、ラッツ」
「今夜は見てない」
とラッツはことさらに眉を上げてモリイを見やる。
「見かけたら、おれんとこに金があるって言ってくれ」
「ツキが変わってきたかい、|凝り性《アーティースト》さん」
「まだわからん」
「だって、この人に会わなくちゃならないんだよ」
言いながら、ケイスはモリイのグラスに映る自分の姿を見つめ、
「手を引く仕事《ビズ》があるからさ」
「アーミテジがいやがるよ、あんたから眼を離すと」
モリイはディーンの溶けた時計の下に立って、両手を腰にあてている。
「あんたがいっしょじゃ、話をしてもらえないんだ。ディーンのことは、どっちでもいい。手前の始末はつけられる人だからな。でも、おれがこのまんま千葉《チバ》を出てくと、やばい連中だっている。仲間なんだってば」
モリイの口もとが引き締まる。首を振った。
「シンガポールにも仲間がいるし、東京《トウキョウ》となれば新宿《シンジュク》と|浅《アサ》|草《クサ》だ。それがやばい[#「やばい」に傍点]ことになるんだぜ……」
と嘘までついて、ケイスはモリイの黒いジャケットの肩に手を置き、
「五、五分間。あんたの時計で、な……」
「そのために雇われてるんじゃないもん」
「雇われてる目的はそれとして、さ。あんたが杓子定規なために、むざむざ親友を死なせるとなれば、話は別だろ」
「嘘っぱち。親友なもんかい。ここにはいっていって、あたしらのことを密輸屋に確かめるつもりだろ」
モリイはブーツの片足を、埃だらけのカンディンスキー・コーヒー・テーブルにのせた。
「ああ、ケイス君だね。どうやらお連れさんは相当に武装しているばかりか、頭にかなりのシリコンもあるようだ。いったいどういうことだね……」
ディーンのうつろなしわぶきが、ふたりの間の宙に漂うようだ。
「ちょっと待って、ジュリー、とにかく、はいっていくのはおれひとりなんだから」
「それはそのとおりだよ。そうでなければ許さない」
モリイが口をはさんだ。
「オーケイ。行きな。でも五分間だよ。過ぎたら、こっちがはいっていって、大親友を永久に冷たくしてやる。それはともかく、ちょいと考えてみな」
「何を……」
「なんであたしが優しくしてやるか、さ」
とモリイは背を向け、生姜の漬け物の白い荷箱の山を抜けて出ていった。
ジュリーが言う。
「いつになく変わった連れだな、ケイス……」
「ジュリー、いなくなったから、入れてくれよ。頼むよ、ジュリー」
ボルトが動き、
「ゆっくりとな、ケイス」
と声が言う。
「仕掛けを動かしなよ、ジュリー、デスクの中味をありったけ」
とケイスは言って、回転椅子に収まった。
「四六時中、動かしている」
と穏やかに言って、ディーンは古い機械式タイプライタの剥き出しの構造の蔭から銃を取り出し、ケイスに狙いをつける。拳銃だった。マグナム・リヴォルヴァの銃身をぎりぎりまで断ち落としてある。用心鉄《トリガー・ガード》の前部も切り落とし、銃把《グリップ》は古いマスキング・テープらしきもので巻いてある。ディーンの、手入れの行き届いたピンクの手には似つかわしくない。
「念のためなのは、わかるね。悪気はない。じゃあ、用件を聞こうか」
「歴史を教えてほしいんだ、ジュリー。それと、ある人物の情報《ゴー・トゥー》」
「どうした動きだね……」
ディーンのシャツは綿のキャンディ・ストライプ。衿は白く硬く、磁器のようだ。
「おれさ、ジュリー。出ていく。おさらば。でも、頼まれてくれるかい……」
「誰の情報《ゴー・トゥー》だね……」
「|外《ガイ》|人《ジン》で名前はアーミテジ。ヒルトンにスイートがある」
ディーンはピストルを置き、
「じっとしてなよ、ケイス」
と膝上の端末《ターミナル》を何やら叩いて、
「わしのネットでは、おまえさんの知ってることぐらいしか、わからんようだ。この御仁は“ヤクザ”と一時的な手打ちをしたらしい。あのネオン菊の坊やたちは、わしらから身内をかばう手立てを持っている。そうでなくちゃいかんが、な。さて、歴史だ。歴史と言ったな」
とまた銃を取り上げたが、直接ケイスには向けず、
「どんな歴史だね……」
「戦争。戦争には行ったの、ジュリー……」
「戦争……あれがなんだね……三週間続いた」
「〈スクリーミング・フィスト〉」
「有名だ。近頃は歴史も教わらんのかね。戦後の政治での大フットボールよ。暴露や何やでてんやわんや。おまえさんの親玉さ、ケイス、〈スプロール〉の――どこだったかな、マクレインかな――のお偉方さ。わが身は安全に、という奴で――大スキャンダル。あたら国を愛する若者の肉体で、何やら新しい技術《テクノロジー》をテストした。連中、ソ連側の防備は承知の上、というのが、あとで露見した。EMP、電磁パルス兵器については承知してた。なのにかまわず、若者たちを送りこんで、小手調べよ」
とディーンは肩をすくめ、
「イワンどもには、飛んで火に入る、さ」
「そいつらの誰か、生還した……」
「さあて。ずいぶん昔だから――でも、何人か戻ったはずだな。どれか一組。ソ[#「ソ」に傍点]の|武装ヘリ《ガ ン シ ッ プ》をちょうだいして。ヘリコプタだな、そいつでフィンランドまで戻った。当然、入国|暗号《コード》は知らんから、つまりはフィンランド防衛軍に叩き落とされた。特殊部隊みたいだが」
とディーンは鼻を鳴らし、
「まったくひどいもんだ」
ケイスはうなずいた。生姜漬けの臭いに圧倒されそうだ。
「戦争中、わしはリスボンで過ごしたよ」
とディーンは銃をおろし、
「いいところだよ、リスボンは」
「軍隊だったの、ジュリー……」
「とんでもない。ま、戦闘は見たがね」
ディーンは得意のピンクの笑みを浮かべ、
「戦争が商売の役に立ってくれることったらない」
「ありがと、ジュリー、借りができた」
「とんでもない、ケイス。じゃ、さよなら」
あとになってケイスは、こう思おうとした。サミのところでのあの晩は最初から変な感じがした、と。モリイのあとについて、踏みつけられてドロドロに混ざりあった半券やスチロール・カップの上を、あの廊下を進みながら、感じていた、と。リンダの死が待ちかまえている、と――
ディーンに会ったあと、ふたりは〈|南《ナン》|蛮《バン》〉に行き、ウェイジからの借りをアーミテジの|新 円《ニュー・イェン》の札束で払いおえた。ウェイジは好い顔をしたが、若い衆はそうでもなく、だからモリイはケイスの脇にいて、うっとりと獰猛な笑みを浮かべた。もちろん誰かが手出ししてくるのを待ち望んでいるのだ。そこで、ケイスはモリイに、〈チャット〉で一杯やろう、と連れ戻した。
「時間の無駄だよ、カウボーイ」
とモリイが言ったのは、ケイスがジャケットのポケットから八角錠をひとつ取り出した時だった。
「なんだい、ひとつほしいのか……」
とケイスはその錠剤を差し出した。
「あんたの新しい膵臓だよ、ケイス、それに肝臓の詰め物もある。アーミテジは、あんたの内臓がシカトするようにさせたんだ、その手のものを」
とモリイは赤紫色《バーガンディ》の爪で八角錠を叩いてみせ、
「あんたは生化学的に、アンフェタミンでもコカインでも、舞い上がれないのさ」
「糞ッ」
とケイスは八角錠に眼をやり、それからモリイを見やる。
「飲んでみな。一ダースでも飲むといい。なんにも起こらないから」
飲んだ。何も起こらなかった。
ビール三杯ののち、モリイがラッツに闘技について尋ねていた。
「サミのとこ」
とラッツが答える。
ケイスは、
「おれ、パス。あそこじゃ殺しあいだって聞いてるもん」
一時間後、モリイは、白のTシャツとダブダブのラグビー・ショーツを着た瘠せたタイ人から、入場券を二枚買っていた。
サミのところ、というのは、荷揚げ倉庫裏の空圧ドームで、張りつめたグレイの生地には細い鋼線網の補強がはいっている。両端にドアのある廊下は素朴なエアロックになっており、ドームを支える気圧差を保つためにある。合板の天井には、一定間隔でリング型螢光灯がとめてあるが、大半は割れている。空気は湿って、汗とコンクリートの臭いで息がつまりそうだ。
それだけの前段があっても、ケイスには予想もつかないようなアリーナ、観衆、緊迫した静けさ、ドーム下で聳えるように組みあわさる光芒があった。コンクリートが段々になって一種の中央ステージまでくだり、ステージは円形の壇になっていて、それを取り巻くように、ピカピカの投影機材が林立している。照明はない代わり、リングの上空で動き閃めくホログラムが、下のふたりの男の動作を映していた。層をなした煙草の烟《けむり》が客席から立ち昇って漂い、やがてドームを支える送風機からの気流につきあたる。音といえば、送風機のこもったような唸りと闘士たちの拡大された息づかいだけだった。
反射した色彩がモリイのレンズに映えた。男たちがたがいにまわりこむ。ホログラムは十倍に拡大されており、ふたりが持つナイフは一メートル弱になる。ナイフ闘士の握りは剣士の握り。ケイスも想い出した。他の指は丸め、親指を刃に沿わせる。ナイフは生命あるもののように動き、儀式めいて悠然と、滑るように弧を描き突きを舞う。切先が切先をかすめ、両者が隙をうかがいあう。仰向いたモリイの顔が、なめらかに静かに見守っていた。
「おれ、食い物でも捜してくる」
とケイスが言うと、モリイはうなずいた。舞いの観賞に余念がない。
ケイスはこういう場所が気に入らない。
背を向けて、影の中に戻っていく。暗すぎる。静かすぎる。
観客の大半は日本人だ。必ずしも“|夜の街《ナイト・シティ》”の群衆ではない。環境建築《アーコロジー》群から来た技術者《テ ク》たちだ。つまり、このアリーナは、どこかの企業の厚生委員会から承認されているということなのだろう。ひとつの|財《ザイ》|閥《バツ》で一生働きつづけるというのは、どんなものなのだろう、とちょっと気になる。社宅、社歌、社葬。
ドーム内を一周しかけて、やっと売店をみつけた。|焼《ヤキ》|鳥《トリ》をいく串かと、長い蝋紙容器いりのビールをふたつ買う。ホログラムに眼を上げると、一方の胸に血の筋がある。串から濃いタレがしたたって手にかかった。
七日後にはつなげるんだ。今、眼を閉じても、マトリックスが見える。
影がもつれ、ホログラムは舞いを続けている。
そのうち、恐怖感が両肩の中間で、しこりになってきた。冷汗が肋骨の上をしたたり落ちる。手術がうまくいっていなければ。いつまでもここ、いつまでも肉のまま。輪を描くナイフを眼で追うモリイは待っていず、切符と新しいパスポートと金を持つアーミテジもヒルトンに待っていなかったら。これがすべて何かの夢で、哀れっぽい妄想だとしたら――熱い涙で眼の前がぼやけた。
鮮血が頸静脈から、赤光のしたたりとなって飛び散った。すると観衆は叫び、立ち上がり、叫び――闘士のひとりがくずおれ、ホログラムは薄れ、またたき――
反吐が喉にこみあげる。眼を閉じて、深く息を吸い、眼をあけると、リンダ・リーが通り過ぎた。灰色の眼は恐怖に盲いているようだ。相変わらずフランス製の作業服を着ている。
そして消えた。影の奥だ。
純粋に無意識の反応で、ケイスはビールとチキンを投げ棄てて、それを追った。名前を呼ぶべきだったかもしれないが、よくわからない。
赤光がひと筋、髪の毛ほどに細く走った残像。薄い靴底の下に灼けたコンクリート。
リンダの白いスニーカーが輝く。もう彎曲した壁に近い。またもやレーザの微光が眼の前を横切ったが、ケイスが走っているので、揺れて見える。
誰かに足払いをかけられた。コンクリートで両掌を傷める。
転がって足を蹴り出したが、なんにも当たらない。瘠せた少年が、突き立ったブロンドの髪を逆光で虹色の後光のように見せながら、おおいかぶさってくる。ステージ上では、ひとりがナイフを高くかかげながら、観衆の歓呼に応えている。少年はニヤリと笑って、袖口から何かを引き抜いた。剃刀だ。それが赤く刻まれたように見えたのは、ふたりより奥の闇の中めがけて、三度目のビームが閃いたのだ。ケイスの眼前で、剃刀が探水師《ダウザー》の占い棒のように喉首めがけて落ちてくる。
その少年の顔が、微細爆発の唸る雲にかき消された。モリイの短針銃《フレシェト》の毎秒二十連射。少年は一度だけ痙攣するように咳こみ、ケイスの脚に倒れかかった。
ケイスは売店に向かって、影の奥へと歩いていた。眼を落として、今こそルビー色の細線が自分の胸から突き出るかと思う。何も起こらない。リンダを見つけた。コンクリート柱の基部にほうり出され、両眼は閉じている。焦げた肉の臭いがする。観衆は勝者の名を連呼している。ビール売りは黒い雑布で栓をぬぐっている。どうしたものか白いスニーカーの片方が脱げ、リンダの首の脇に転がっていた。
壁伝いに進め。彎曲したコンクリートだ。両手はポケットに。歩きつづけろ。何も眼にはいらない顔、顔。どの眼もリング上空の勝利者の姿を仰ぎ見ている。一度だけ、皺だらけのヨーロッパ面《づら》がマッチの輝きに浮かび上がった。金属パイプの短い軸にすぼめた唇。ハシシュの匂い。ケイスは歩きつづける。何も感じない。
「ケイス」
ミラー・グラスがより深い闇から現われ、
「大丈夫……」
何かがその背後の暗がりでピーといい、ブクブクといった。
ケイスは首を振る。
「闘技は終わったよ、ケイス。帰る時間だ」
ケイスはそれをすり抜けて、暗がりに戻ろうとした。何かが死にかけている。モリイはケイスの胸に手をおいて制し、
「あんたの親友の友だちさ。身代わりに、あの娘《こ》を殺してくれた。あんた、この街の友だちに、いい思いさせてないだろ。あたしら、あんたの人物像《プロファイル》を作る時に、あの爺いについてもちょっと調べたんだよ。あれは、|新 円《ニュー・イェン》少々のために誰でも片づける男さ。この奥の奴が言うには、あの娘があんたのRAMを売りに出そうとしたとき、眼をつけたらしい。連中にとっちゃ、殺して取り上げる方が安上がり。ちょっとの節約――。レーザを持ってた奴から全部聞いたよ。あたしらがここにいたのは偶然らしいけど、そこんとこ確かめておきたかったから」
モリイの口もとは厳しく、唇が一直線に結ばれている。
ケイスは脳をかき回された思いで、こう尋ねた。
「誰……誰がそいつらを送って……」
モリイは血|飛沫《し ぶ き》のついた生姜漬けの袋を手渡した。その手も血でべたついている。奥の暗がりで、誰かが湿った音をたて、死んだ。
クリニックで手術後検診をうけたあと、モリイに連れられて港へ行った。アーミテジが待っていた。ホーヴァクラフトがチャーターしてあった。最後にケイスが見た千葉《チバ》は黒々と角ばった環境建築《アーコロジー》群だった。やがて霧が、黒い水も、漂う浮遊物の群れも、押し包んだ。
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第二部 |買 物 遠 征《ショッピング・エクスペディション》
3
故郷。
故郷はBAMA、〈スプロール〉、|ボ《B》ストン=|ア《A》トランタ・|メ《M》トロポリタン|軸《A》帯。
データ交換の頻度を表示する地図をプログラムしてみよう。巨大なスクリーン上のひとつの画素《ピクセル》が千メガバイトを表わす。マンハッタンとアトランタは純白に燃え上がる。それから脈打ちはじめる。通信量《トラフィック》のあまり、この模擬実験《シミュレーション》が過負荷になりかけているのだ。地図が新星化してしまう。ちょっと落とそう。比率を上げてみる。画素《ピクセル》あたり百万メガバイト。これを毎秒一億メガバイトにすると、ようやくマンハッタン中央部のいくつかの区画《ブロック》や、アトランタの古い中核を取り巻く百年来の工業団地の輪郭が見えてくる――
ケイスは空港から空港という夢から目醒めた。モリイの黒革が先に立って、|成《ナリ》|田《タ》の、スキポールの、オルリーの、コンコースを抜ける夢――ケイス自身がどこかのキオスクで、デンマーク産ウオツカのプラスティック携帯瓶《フラスク》を買うのを見た。夜明けの一時間前だった。
〈スプロール〉の鉄筋コンクリート土台の奥底で、列車が饐《す》えた空気をトンネル内で押しのけている。列車そのものは音をたてず、電磁誘導クッションに乗ってすべるように動くのだが、行き場のなくなった空気のためにトンネルが歌い、低音から可聴下周波《サ ブ ソ ニ ッ ク》に至る。その震動が、ケイスの寝そべる部屋まで伝わり、乾ききった寄せ木作りの床の割れ目から埃が舞い上がる。
眼を開くとモリイがいた。素裸のまま新品でピンクの恒温フォームの広がりの上、ちょうど手の届かないあたりにいる。頭上では、天窓の煤に汚れた枠ごしに、陽光が射しこんでいる。半メートル角のガラスが一枚なくなり、代わりに合板がはまっていた。そこから太い灰色のケーブルが垂れ下がり、床上数センチまで来ている。ケイスは横向きに寝そべり、モリイの息づかいを見守った。乳房が、軍用機の機体なみに無駄のない、優美な側面を見せている。モリイの肢体は贅肉なく引き締まっていて、筋肉など、ダンサーのようだ。
部屋は大きい。ケイスは上半身を起こした。部屋はガランとして、あるものといったら、この幅広のピンク・ベッド板と、その脇に置いた新品でお揃いのナイロン・バッグふたつだけ。壁は剥き出し、窓はなし、白塗りのスチール製防火ドアがひとつあるきりだ。壁には、これまで何度となく白のラテックス塗料を塗り重ねてある。工場用スペースだ。ケイスは、こういう部屋こういう建物を知っている。こういうところの住人は、芸術が必ずしも犯罪でなく、犯罪も必ずしも芸術ならざる中間地帯で働いている。
故郷に戻ったのだ。
ケイスは両足を床におろした。床は小さな木製ブロックで張ってあるが、いくつか、なくなっているのや浮いているのがある。頭が痛む。アムステルダムでの別の部屋を想い出した。中心街の旧市街は建物が何世紀も前のものだった。モリイが運河ぎわからオレンジ・ジュースと卵を持って戻ったっけ。アーミテジが何やら秘密めかして出張《でば》っていったので、ふたりきりで歩いてダム広場を抜け、モリイの知るダムラク大通りのバーへ行った。パリとなると漠とした夢だ。買物。買物に連れていかれたっけ。
ケイスは立ち上がり、足もとでくしゃくしゃになっていた真新しい黒《ブラック》ジーンズをはいて、バッグのそばに膝をついた。最初にあけた方はモリイので、きちんと畳んだ衣類と高価そうな小さな機器があった。ふたつ目は買った憶えのないものでいっぱいだ。書籍、テープ、|擬 験《シムステイム》デッキ、フランスやイタリアのラベルのついた服。緑色のTシャツの下に、平べったい、|折《オリ》|紙《ガミ》包みのものがあった。|折《オリ》|紙《ガミ》は再生利用の和紙だ。
それを取ろうとしたら包みが破れて、輝く九芒星が落ち――寄せ木の割れ目に突き立った。
モリイの声がした。
「おみやげ。あんたがいつも見つめてたの、わかったから」
ケイスが振り向くと、モリイはベッドの上で胡座《あ ぐ ら》をかき、眠たげに赤紫色《バーガンディ》の爪で腹を掻いていた。
「あとで人が来て、ここに防護処置をする」
とアーミテジが言った。開けた戸口に立って、旧式の磁気キーを持っている。モリイは、バッグから出したドイツ製の超小型コンロでコーヒーをたてながら、
「あたしでもやれるのに。もう装備だって充分にあるしさ。周縁赤外走査器も警報器も――」
「いや」
とドアを閉めかけながら、
「厳重にやっておきたい」
「お好きなように」
モリイは黒っぽいメッシュのTシャツを、黒木綿のバギー・パンツにたくしこんでいる。
「サツだったことあるの、アーミテジさん……」
とケイスは、壁に背をもたれて腰をおろしたまま尋ねた。
アーミテジの背丈はケイスと同じぐらいだが、広い肩幅と軍人らしい物腰のため、戸口いっぱいに見える。地味なイタリア製スーツを着て、右手には柔らかい黒の仔牛革《カーフ》の書類鞄《ブリーフケース》を持っていた。特殊部隊のイアリングはない。整ってはいるが無表情な容貌は、美顔ブティックにお定まりの代物であり、過去十年間のメディア有名人の控え目な合成になっている。両眼の薄青い輝きが、なおさら仮面の印象を強めていた。ケイスは訊かなければよかったと思いつつ、
「部隊上がりが、よくお巡りになるからですよ。それか企業の保安係か」
と気まずい思いでつけ足した。モリイから湯気のたつコーヒー・マグを受け取り、
「おれの膵臓にやらせたあれ、お巡りのやり口だしね」
アーミテジはドアを閉じ、部屋を横切ってケイスの前に立つと、
「きみは運のいい奴だよ、ケイス。お礼を言ってもらってもいい」
「そうかな」
とケイスは音をたててコーヒーに息を吹きかける。
「新しい膵臓が必要な体だった。きみに買い与えたやつのおかげで、危険な依存症から解放されたんだぞ」
「ありがと。でも、その依存症が楽しかったんだけどな」
「けっこう。新しい依存症をかかえこんだんだから」
「どういうこと……」
ケイスはコーヒーから眼を上げた。アーミテジは笑みを浮かべている。
「きみの大動脈のほうぼうの内壁に、毒入りの液嚢が十五個固定してある。ケイス、その嚢《ふくろ》は溶けていくんだ。とてもゆっくりだが、確実に溶けている。中には、ある真菌毒《マイコトキシン》がはいっている。その真菌毒《マイコトキシン》の効能は、身をもって知っているはずだ。前の雇い主からメンフィスで与えられた、あれだよ」
ケイスは眼をしばたたいて、笑みを浮かべた仮面を見上げた。
「わたしに雇われた目的を、果たすだけの時間はあるよ、ケイス、けどそれきり。任務をやりとげたら、ある酵素を注射してやる。それが嚢を破らずに固定を解く。あとは血液交換が必要だ。そうしないと、嚢が溶け去って、きみは以前に逆戻り。つまりね、ケイス、きみはわれわれなしではすまないんだ。ドブから拾い上げてやった時と同じく、われわれが必要不可欠なのさ」
ケイスがモリイに眼をやると、モリイは肩をすくめて見せる。
「さあ、荷物用のエレベータのところに行って、そこにある梱包を持ってきたまえ」
とアーミテジは磁気キーを手渡し、
「ほら。きっと楽しいぞ、ケイス。クリスマスの朝みたいなものさ」
〈スプロール〉の夏。遊歩商店街《モ ー ル》の人込みの揺れ具合は風に吹かれた草原のよう。その肉体の原に、時おり、急に欲求と充足との渦巻が起こる。
ケイスはモリイといっしょに、水のないコンクリート噴水の縁に腰かけ、絶え間なく流れ過ぎていくさまざまの顔に、自分の人生のいろいろな段階を反復していた。最初は眠たげな眼つきの子供、両手の力を抜いて両脇にかまえた町場の少年。その次は、顔を赤い眼鏡《グラス》の下で無表情に謎めかしたティーンエイジャー。十七歳の時、屋上で喧嘩したのを憶えている。夜明けのジオデシック・ドーム群の、薔薇色の照り返しの中の、静かな闘いだった。
コンクリートの上で姿勢を変えると、薄い黒デニムをとおして、ザラついてひんやりしているのがわかる。ここは、|仁《ニン》|清《セイ》の電気仕掛けの舞いとは似ても似つかない。別の商い、別のリズムであり、匂いもファスト・フードと香水と爽やかな夏の汗。
ロフトに戻れば、デッキが、オノ=センダイ・サイバースペース|7《セヴン》が、待っている。ふたりが出かけてくるときの部屋は、発泡梱包材の白い抽象形態と、くしゃくしゃのプラスティック膜と、何百という小さな|発泡スチロール《ス タ イ ロ フ ォ ー ム》球とで散らかり放題だった。オノ=センダイ。来年の最高級ホサカ・コンピュータ。ソニーのモニタ。企業クラスの氷《アイス》を収めたディスクが十枚あまり。ブラウンのコーヒーメーカー。それぞれについてケイスが納得すると、すぐアーミテジは出ていった。
ケイスはモリイに訊いてみた。
「どこ行ったんだい」
「あの人、ホテルが好きなの。大きいやつ。空港近くがあれば、それがいちばん。あたしたち、街に出ましょ」
モリイはもう、いくつも妙な形のポケットがついた古い放出ヴェストに身を包み、巨大な黒のプラスティック・サングラスをかけて、ミラー状の埋めこみを完璧に覆っていた。
噴水のところで、ケイスが尋ねた。
「毒の話、前から知ってた……」
モリイは首を振る。
「本当のことかな……」
「かも。じゃないかも。どっちにしても効き目はあるし」
「確かめる方法、あるかな……」
「ないね」
と言うモリイは、右手を挙げて、黙れという仕草《ジャイヴ》をし、
「その手の仕掛けは、微妙すぎて走査《スキャン》にも写らないし」
と、また指を動かして、待て、と示し、
「それに、あんただって気にしてやいない。あのセンダイを撫でまわすのを見てたけどさ、あんた、ありゃ猥褻だったよ」
と笑う。
「じゃ、あいつ、きみにはどんな手を使ったんだい。働く女性への仕掛けって……」
「プロの誇《プライド》りよ、坊や。それだけ」
とふたたび、黙れの合図があり、
「ちょっと朝ご飯にしようじゃない……。卵と本物のベーコンと。あんたにゃ毒かな。千葉《チバ》で、あの成形オキアミをずっと食べてたんだから。ま、行こうよ。地下鉄《チューブ》でマンハッタンに出て、本物の朝食といこう」
埃をかぶったガラス管の、点っていないネオンは“メトロ・ホログラフィクス”とあった。ケイスは前歯に挾まったベーコンの切れはしをせせった。モリイに、どこに、なぜ向かっているのか尋ねるのは、とうにあきらめている。脇腹を小突かれ、黙れという手真似を示されるのが関の山だからだ。モリイが喋ることといったら、今シーズンのファッションにスポーツ、あとは聞いたこともないカリフォルニア政界のスキャンダル。
ケイスは|人《ひと》|気《け》のない袋小路を見回した。ニューズプリントが一枚、交叉点を側転しながら通り過ぎる。東部には異常な突風がある。対流や、ドームの重複に関係があるらしい。ケイスは消えたネオンのウィンドウを覗きこんだ。結局、モリイの〈スプロール〉と自分の〈スプロール〉とは別物だ。モリイはケイスを連れて、ケイスが見たこともないバーやクラブを十いくつも回り、商売の始末をつけたが、それとて、たいていはせいぜいうなずいて見せるだけ。人脈を保つわけだ。
“メトロ・ホログラフィクス”の奥の物蔭で何かが動いている。
ドアは屋根葺き用波形材の一枚板。その前でモリイの両手が、流れるようにこみいった手真似《ジャイヴ》をやってのけ、ケイスにはついていけない。ケイスにわかったのは、“|現《げん》|金《なま》”を意味する、親指で人差し指の先をこする動きだけだった。ドアが内側に開き、モリイが先に立って、埃臭い中にはいる。ふたりがはいったところは開けていたが、濃密にからみあった廃品が両側にそそり立って壁まで続き、その壁にはいく棚も崩れかけたペーパーバック本が並んでいる。廃品類は、そこで育った金属とプラスティックのねじれた菌類といったたたずまいだった。個々の物体を見分けることができたかと思うと、それが全体の中に溶けこんでしまう――真空管のガラスの柱が立ち並ぶほど古いTVの内部、ひしゃげた皿型《ディッシュ》アンテナ、腐食した合金チューブが詰まった茶色の繊維缶《ファイバー》。古雑誌の大きな山が開けたスペースに崩れ落ちていて、過ぎ去りし夏の肉体がうつろに見上げる中、ケイスはモリイに続いて、ぎっしり詰めこまれたスクラップの峡谷を進む。背後でドアの閉じる音が聞こえた。ケイスは振り向かない。
トンネルの突き当たりでは、戸口に古い軍用毛布が留めてあった。モリイがそれをくぐると、白い光が溢れ出た。
正方形の四面の壁は真っ白のプラスティック。天井も同じ。床は白の病院用タイルで、小さな円形の盛り上がりが滑り止めパターンになっている。中央に真四角で白塗りの木のテーブルと、白い折り畳み椅子が四脚あった。
ふたりの背後の戸口で、毛布をケープよろしく肩から垂らし、眼をパチクリさせながら立っていた男は、風洞実験で設計されたような人物だった。両耳はきわめて小さく、幅のない頭蓋骨にペッタリ貼りついている。笑いとも言いきれないような何かを浮かべたとき、剥き出しになった大きな前歯は、鋭く奥に向かって反っている。男は古臭いツイードのジャケットを着こみ、何やら拳銃のようなものを左手に持っていた。ふたりをじっと見つめ、またたきしてから、銃をジャケットのポケットに落とし入れる。ケイスに身振りで、戸口の近くに立てかけてあった白いプラスティック板を示す。ケイスが近づいてみると、その板は回路類をびっしりとサンドイッチしたもので、厚みが一センチほどもある。男に手を貸してそれを持ち上げ、戸口にはめこむ。すばやく、ニコチンに染まった指が、白いヴェルクロの縁を固定していく。見えないところで、換気扇が唸りはじめた。
男が体を起こしながら言う。
「今から使用開始だ。料金は知ってるよな、モル」
「走査《スキャン》も必要なのよ、フィン。埋めこみがあるといけないから」
「じゃ、その塔と塔の間に行きな。テープの上に立って、体をまっすぐ、そう。そこで回ってくれ、一回転」
ケイスが見守る中、モリイは感知器《センサ》を散りばめた貧弱なスタンド二本の中間で、体をめぐらせる。男はポケットから小型モニタを取り出し、眼を細めて見ながら、
「頭に何か新しいのがある、うん。シリコン、熱分解炭素層。時計だろ。グラスは例によって、低温等方性炭素。熱分解炭素の方が生体適合性はいいけど、そいつはあんたの勝手、だもんな。鉤爪についても同様」
「ここへ来な、ケイス」
ケイスは白い床の上の擦り切れた十文字に気がついた。
「回って。ゆっくり」
「こっちは、まっさら」
と男は肩をすくめ、
「安っぽい歯医者仕事があるっきり」
「生物系のはチェックしたの……」
とモリイは緑のヴェストのジッパーをおろし、サングラスを外す。
「ここをどこの田舎だと思ってんだい。テーブルに乗んなよ、生検《バイオプシー》をやったる」
と男が笑うと、黄色い歯がもっと剥き出しになり、
「大丈夫、フィン様が保証するよ、盗聴器《バ グ》もなけりゃ、皮質爆弾もない。もうスクリーンをおろそうか」
「あんたが出てく間だけね、フィン。そのあとは必要な間だけスクリーンをフルにしといて」
「おや、そりゃあフィン様はかまわないぜ、モル。秒単位で支払うのは、そっちなんだから」
フィンが出たあと、ふたりでドアを密封すると、モリイは白い椅子をひとつ向きを変え、またがって、交叉させた前腕に顎を載せ、
「これで喋れる。ここが、あたしの手にはいるプライヴァシーの限度」
「なんのこと……」
「あたしたちがやってること」
「何をやってる」
「アーミテジの仕事」
「で、これはあいつのための仕事じゃないって言うのかい」
「うん。あんたの人物像《プロファイル》は見たよ、ケイス。それと残りの買物リストも見た。一度ね。あんた、死人と仕事したことは……」
「ない」
とケイスはモリイのグラスに映る自分を見つめ、
「やれるとは思う。おれは腕はいいんだ」
と言ってから、現在形が気にかかった。
「“ディクシー・フラットライン”が死んだのは知ってる……」
ケイスはうなずいて、
「心臓だって聞いた」
「あんた、あの人の構造物と仕事すんのよ」
とモリイは微笑み、
「あんた、コツを教わったんだろ。あの人とクワイン。クワインの方は、あたしも知ってる。ひどい阿呆」
「誰かマコイ・ポーリーを録《と》ったものを持ってるのかい。誰さ」
今度はケイスも腰をおろし、両肘をテーブルに載せて、
「解《げ》せないな。そんなこと許す人じゃないけど」
「センス/ネット。さぞかし大金を払ったんだろ」
「クワインも死んだの……」
「悪運強く、ヨーロッパにいるよ。この件には関係ない」
「ま、“フラットライン”が加わってくれるなら、楽勝だね。ベストだったんだから。あの人が三回も脳死したの、知ってるだろ」
モリイがうなずく。
「脳波計《EEG》表示が水平線《フラットライン》を描いちまったんだもんな。テープを見せられたよ。「おら、おっ死んだ」だって」
「いいかい、ケイス、あたしは契約してからずっと、誰がアーミテジのうしろにいるのか探ろうとしてきた。でも、感触だと、|財《ザイ》|閥《バツ》でも、政府でも、“ヤクザ”の下部組織でもない。アーミテジが命令を受けてるのは確かなんだ。たとえば、千葉《チバ》へ行け、そこの濫用《バーンアウト》街道で最後の一歩を踏み出す薬中《ピルヘッド》を拾え、そいつを治す手術代にプログラムをくれてやれってね。あの手術プログラムに市場《マーケット》が払う金で、国際級カウボーイを二十人だって調達できたはずなんだ。あんたも腕はいいけど、それ[#「それ」に傍点]ほど良かない――」
とモリイは鼻の脇をかく。
「きっと誰かには意味があるんだろうなあ、誰か大物に」
とケイス。
「あんた、気を悪くしちゃいやだよ」
とモリイはニヤッと笑い、
「あたしら、これからヤバい|仕掛け《ラ ン》をやるわけだけどさ、ケイス、ただ“フラットライン”の構造物を取るだけなんだ。センス/ネットが、アップタウンの資料庫にしまってるやつだけど、きついったらウナギのケツ並みだよ、ケイス。だって、センス/ネットなんだから、同じところに秋シーズン用の新作をそっくり収めてあるわけ。そっちをいただけりゃ、あたしら左ウチワもいいとこなのに、そうじゃなくて、“フラットライン”だけ頂戴してほかは手つかず。おっかしいよ」
「うん、何もかもおっかしい。あんたもおっかしい、ここもおっかしい、それに外にいるおっかしなチンピラ、ありゃ何者だい」
「フィンはあたしの古くからの人脈。だいたい故買――ソフトウェアね。このプライヴァシー商売《ビズ》は内職よ。でも、あたしからアーミテジに言って、フィンを技術係《テク》にさせたの。だから、あとでフィンに会っても初対面。いいね……」
「で、アーミテジはあんたの何を溶かしてんだい」
「あたしは軽いからさ」
と笑ってみせ、
「やることが多少とも上手なら、それがその人物ってこと。でしょ……。あんたは没入《ジャック》する、あたしは暴れる」
ケイスは相手をじっと見つめ、
「で、アーミテジについてわかったことを教えてくれよ」
「さしあたり、アーミテジという名の人物は〈スクリーミング・フィスト〉にはいなかった。調べたの。でも、それはたいしたことじゃない。脱出した連中の写真《ピク》の、誰もアーミテジに似ていないんだし」
モリイは肩をすくめ、
「たいした情報量ね。しかも、さしあたりしかわかってない」
と椅子の背を爪で苛立たしげに叩き、
「でも、あんたならカウボーイなんだもんね。つまり、あんたなら、ちょっとは探りまわれる、と」
モリイが微笑む。
「あの男に殺されちまうぜ」
「かも。殺されないかも。どうやらあいつ、あんたが欠かせないみたいよ、ケイス、どうしてもね。それにさ、あんたならお利口さんでしょ。あの男ぐらい、出し抜けるに決まってる」
「さっき言ってたリストには、ほかに何が載ってる……」
「おもちゃね。ほとんどが、あんた用。それと極めつけの精神病質者。名前はピーター・リヴィエラ。実にもって醜悪なお客さん」
「どこにいるの……」
「わかんない。でも、これはほんとに狂ってるよ。人物像《プロファイル》見たもん」
とモリイは顔をしかめ、
「ひっどいんだから」
と立ち上がって、猫のように伸びをし、
「これで軸は回りはじめたかな。手は組めるかな……。仲間かな……」
ケイスはそれを見やって、
「ずいぶん選択の余地がある話だね」
モリイは笑いだし、
「そうとも、カウボーイ」
「マトリックスのルーツは、素朴なアーケイド・ゲームです」
とナレーションが言っている。
「さらには初期の映像《グラフィクス》プログラムであり、頭蓋ジャックによる軍用実験です」
ソニー・モニタ上では、二次元宇宙戦争が薄れ、代わりに数学的に生成された羊歯《しだ》の茂みが現われて、対数螺旋の空間への応用を見せる。冷たい青の軍事フィルムが輝いて、試験システムに配線された実験動物、タンクや軍用機の砲火制禦回路につながったヘルメット。
「電脳空間《サイバースペース》。日々さまざまな国の、何十億という正規の技師や、数学概念を学ぶ子供たちが経験している共感覚幻想――人間のコンピュータ・システムの全バンクから引き出したデータの視覚的再現。考えられない複雑さ。光箭が精神の、データの星群や星団の、非空間をさまよう。遠ざかる街の灯に似て――」
「それ、何」
とモリイが問いかけてきたところで、ケイスはチャンネル・セレクタを切り換えた。
「子供番組さ」
セレクタが切り換わるにつれ、つながりのない映像の洪水。
「切《オフ》」
とケイスはホサカに命じた。
「そろそろ、やってみる、ケイス……」
水曜日。モリイをかたわらに〈安《チープ》ホテル〉で目醒めてから八日。
「なんなら出かけていようか、ケイス。ひとりの方がやりやすけりゃ……」
ケイスは首を振り、
「いや。いてくれ。どうってことない」
黒いパイル地の|汗止め《スウェットバンド》を額に巻きながら、平べったいセンダイ皮膚電極《ダーマトロード》を傷めないよう、気をつかう。膝の上のデッキを見つめるが、本当はそこを見ているのではない。見えているのは|仁《ニン》|清《セイ》の店のウィンドウ。ネオンを反射して燃えるようなクロームの|手《シュ》|裏《リ》|剣《ケン》。ケイスは眼を上げた。ソニーのすぐ上の壁に、モリイからの贈り物が掛けてあるのだ。中央の穴に黄色い頭の画鋲を通してとめてある。
眼を閉じた。
作動スイッチの、刻み目のある表面が指に触れる。
眼の裏の、血に照らされた闇の中、銀色の眼閃が空間の端から渦巻くように流れこみ、催眠的映像が、滅茶苦茶に齣《こま》をつなぎあわせたフィルムのように走り過ぎる。記号、数字、顔――ぼやけて断片的な視覚情報の|曼《マン》|陀《ダ》|羅《ラ》。
お願いだから、今[#「今」に傍点]――
灰色の円盤、色は千葉《チバ》の空。
今こそ[#「今こそ」に傍点]――
円盤が回転を始め、どんどん速くなり、薄い灰色の球体となる。膨脹し――
そして溢れ開いてケイスを迎え入れる。流体ネオン|折《オリ》|紙《ガミ》効果。広がるは、距離のないケイスの故郷、ケイスの地、無限に延びる透明|立体《3D》チェスボード。内なる眼を開けば、段のついた紅色のピラミッドは東部沿岸原子力機構。その手前の緑色の立方体群はアメリカ|三《ミツ》菱《ビシ》銀行。そして高く、とても遠くに見える螺旋状の枝々は軍事システムで、永久にケイスの手には届かない。
どこかでケイスが笑っている。白塗りのロフトだ。遠くの指がデッキをいとおしみ、解放感の涙が頬をつたっている。
ケイスが電極《トロード》を外したとき、モリイは消えていて、ロフトは暗かった。時刻を確かめる。電脳空間《サイバースペース》に五時間もいたことになる。オノ=センダイを真新しい作業台に運び、ベッド板に倒れこむと、モリイの黒絹の寝袋を頭から引っかぶった。
スチール製防火扉にテープどめしておいた保安装置が、二度音を発してから言う。
「入室要請。対象は当プログラムによって確認済み」
「なら開けな」
とケイスは顔から絹地を剥ぎ、体を起こす。扉が開く時、てっきりモリイかアーミテジがはいってくるものと思った。
「くっそぉ」
としゃがれ声がして、
「あのアマ、闇ン中でも眼が見えるのは知ってるけど――」
小さな人影がはいってきて扉を閉め、
「明かり、つけてくれよ」
ケイスはベッド板から慌てて立って、旧式のスイッチを手探りした。
「おれはフィンだ」
とフィンは言いながら、戒めるような表情を見せる。
「ケイスだ」
「お初にどうも、と。お宅のボス用に、ちょいとハードウェアをやらかす、みたいだぜ」
フィンはポケットからパルタガスの箱を取り出し、一本点けた。キューバ煙草の匂いが部屋にたちこめる。作業台に歩み寄ってオノ=センダイを見やり、
「市販品だな。じきに手を入れたる。ただし、こいつが問題だぜ、若いの」
とジャケットの内側から汚いマニラ封筒を取り出し、灰を床に弾き飛ばすと、封筒からなんの特徴もない黒い四角形のものを出して見せ、
「憎ったらしい工場試作品でよ」
と作業台にほうり出し、
「ポリカーボンの塊りに鋳《い》こんでありやがって、レーザじゃ仕掛けを焼いちまうからバラせねえ。X線もウルトラスキャンも、ほかの何もかも使えやしない。バラしちゃみせるけど、ワルに暇なしってやつさ」
フィンは封筒を丁寧に畳み、内ポケットにしまいこんだ。
「なんなんだい、それ」
「基本的には|転 換《フリップフロップ》スイッチ。このセンダイに組みこむてえと、おまえさんはマトリックスから出ないでも、生《なま》なり記録なりの|擬 験《シムステイム》に|出入り《アクセス》できるわけさ」
「なんのために……」
「さあてな。ただし、モルの方に放送器をつけることになってるからよ、たぶん、あいつの感覚中枢に|出入り《アクセス》するんじゃないかな」
フィンは顎を掻き、
「つまり、あのジーンズが、どんだけピッチリしてるか、おまえさんにもわかるってあんばいさ」
4
ケイスは皮膚電極《ダーマトロード》を額につけたまま、ロフトで腰かけていた。頭上の格子《グリッド》を抜けて弱まった陽光の中、埃が舞っているのを見つめる。モニタ・スクリーンの片隅では、|秒読み《カウントダウン》が進行中だ。
カウボーイが|擬 験《シムステイム》をやらないのは、しょせん肉用の玩具と見なしているからだ。ケイスが使っている電極《トロード》も、|擬 験《シムステイム》デッキから垂れ下がるプラスティックの小|冠《ティアラ》も、基本的には同じだとは知っているし、電脳空間《サイバースペース》マトリックスだって、少なくとも表象の点では、人間の感覚の大幅な単純化だともわかっている。けれど、|擬 験《シムステイム》そのものは、肉体|入力《インプット》のよけいな増分と思えて仕方がない。市販のものは当然のことに編集ずみであり、だからある場面でタリイ・アイシャムが頭痛を感じていても、客は感じない。
スクリーンが二秒前という警告音を発した。
新しいスイッチは、薄いリボン状の光ファイバーでセンダイに接続してある。
さあ、いち、にい――
電脳空間《サイバースペース》は四方から、滑りこむように展開した。なめらかだけれど、いまひとつ。もう少しうまくやるようにしなくては――
そこで新しいスイッチを押した。
突然の衝撃とともに他人の肉体へ。マトリックスは消え、音と色の波――モリイは混みあった通りを進んでいた。安売りソフトウェアの屋台群を過ぎる。値段がプラスティック板にフェルトペンで書いてある。数えきれないほどのスピーカから音楽のかけら。臭いは、小便、遊離単量体《フリー・モノマー》、香水、揚げオキアミのパテ。怯えて、一、二秒、ケイスはモリイの体をなんとか操ろうとしてしまった。ようやく己れを制して受け身になり、モリイの眼裏の乗客になる。
ミラー・グラスはまったく太陽光線を遮らないようだ。内蔵|増幅器《アンプ》が自動的に補正するのだろうか。青い英数字が点滅して時を告げる。モリイの視野周縁の左下だ。見せびらかしてやがる。
モリイのボディ・ランゲージは混乱を招き、態度も異質だ。常に他人とぶつかる寸前にあるようだが、他人の方が、いつの間にかモリイの前から消え、脇へのき、道を譲ってくれる。
「どんな感じだい、ケイス」
という言葉が聞こえ、モリイがそれを発するのも感じ取れた。モリイが片手をジャケットの内側に入れ、指先で、暖かい絹地の下の乳首を撫で回す。その感触に、ケイスは息を呑んだ。モリイは笑い声をあげる。けれども、このリンクは一方通行。ケイスには返事のしようがない。
二ブロック過ぎて、モリイはメモリ小路のはずれにさしかかっていた。ケイスはついモリイの眼を、自分が目印にしそうなものに向けさせようとしてしまう。この受け身の立場がやりきれなくなってきた。
電脳空間《サイバースペース》への移行は、スイッチを叩いたとたんだった。ケイスはパンチしながら、ニューヨーク公立図書館の原始的な氷《アイス》の壁を下り、本能的に窓に使えそうなものを数え上げていた。キーを叩いてモリイの感覚中枢へ、しなやかな筋肉の動きへ。感覚は鋭敏で鮮やかだ。
いつの間にか、いま感覚をわかちあっているこの精神について考えていた。モリイについて、何を知っているだろう。モリイも一個のプロだということ。そのあり方もケイス同様、生きていくためだ、と言っていたこと。知っているのは、さっき目醒めたときの肢体の沿わせ方、ケイスが貫いたときの一体と化したふたりの呻き。それに、そのあとのコーヒーはブラックが好きだということ――
モリイの目的地は、メモリ小路に並ぶ怪しげなソフトウェア・レンタル共同ビルの中の一軒だった。そのあたりには静けさが、黙した感じがある。中央通路には屋台店が立ち並んでいた。客層は圧倒的に若く、二十歳代すらほとんどいない。みんな左耳のうしろにカーボン・ソケットの埋めこみをしているようだが、モリイはそんなところに眼をとめない。屋台店の正面カウンターには何百というマイクロソフトの小片が並べてある。マイクロソフトとは角張った色つきシリコンの断片で、それが正方形の白ボール紙を台紙にして、上から楕円形の透明バブルで覆ってある。モリイは南壁沿いに七番目の屋台に行った。カウンターの奥では、頭を剃り上げた少年がうつろに宙を見つめていた。耳のうしろのソケットから、十本ものマイクロソフト軸がつき出している。
「ラリイ、休業中かい」
とモリイは少年の前に立った。ラリイの眼の焦点が合う。椅子にすわったまま上体を起こし、汚い親指の爪でソケットから鮮やかな赤紫色《バーガンディ》の小片をかき出した。
「おい、ラリイ」
「モリイ」
と少年がうなずく。
「あんたの友だちに仕事があるんだよ、ラリイ」
ラリイは赤いスポーツシャツのポケットから、平らなプラスティック・ケースを取り出して開け、その中の十ばかりのマイクロソフトに並べて、今度のも入れる。手がさまよい、わずかにほかのより長くて、黒い光沢のある小片を選び取ると、なめらかに頭に差しこんだ。少年が眼を細くし、
「モリイには相乗りがいる。ラリイには気に入らない」
「へえ。知らなかったな、あんたがそんなに――敏感だとは。一本取られたよ。金がかかるよ、そんなに敏感になるには」
「知りあいだったっけ、姐さん……」
とさっきの無表情な顔に戻り、
「何かソフトを捜してんの……」
「〈モダンズ〉を捜してんのさ」
「相乗りがいるだろ、モリイ。こいつが言うのさ」
と黒いかけらを叩いて見せ、
「ほかの奴があんたの眼を使ってる」
「相棒さ」
「相棒に消えろって言ってくれ」
「〈パンサー・モダンズ〉に仕事があるんだよ、ラリイ」
「なんの話だい、姐さん」
「ケイス、外して」
とモリイに言われてスイッチを叩き、即座にマトリックスに戻った。ソフトウェア共同ビルの残像が、しばらくは電脳空間《サイバースペース》の唸るような静穏の中に漂う。
ケイスは電極《トロード》を外しながらホサカに向かって、
「〈パンサー・モダンズ〉、五分間で概要を」
「完了」
とコンピュータが応える。
ケイスの知っている名前ではなかった。何か新しいもの。何かケイスが千葉《チバ》に行っていた間にできたものだ。〈スプロール〉の若者には、流行が光速で襲いかかる。一夜にして小文化が丸ごと興って十週間ばかり栄え、やがてあとかたもなく消え去る。
「流せ」
とケイスが言った。ホサカはもうおびただしい文献や定期刊行物やニューズ・サービスを検索してある。
概要の初めは、長く静止したカラー画面で、ケイスは最初、これを何かのコラージュかと思った。別の画像から少年の顔だけ切り取り、塗料を塗りたくった壁に貼りつけたようだった。黒い瞳。内眼角贅皮は明らかに手術の結果。色白のこけた頬に滅茶苦茶なニキビ。ホサカが齣止めを解除した。少年が動く。流れるように不気味で優雅な身ごなしで、ジャングルの捕食獣を真似る。少年の体はほとんど見えない。塗りたくった煉瓦壁に似た抽象パターンが、体にピッタリしたワンピースの上をなめらかに流れているのだ。擬態ポリカーボンだ。
カットが変わると、ニューヨーク大学社会学部のヴァージニア・ランバーリ博士。校名・学部・氏名が、ピンクの英数字で点滅しながらスクリーンを横切る。
誰かの声がこう言う。
「こうした無闇な超現実的暴力に走る傾向を見ますとですね、この現象が一種のテロ行為でないとおっしゃりつづける博士のお考えでは、視聴者の皆さんも納得できないのではないかと思います」
ランバーリ博士はニッコリ笑い、
「テロリストには必ず、メディア・ゲシュタルトの操作をやめる時点があるものです。その時点では暴力がエスカレートしておかしくありませんが、その先ではテロリストが、メディア・ゲシュタルトそのものの徴候になってしまいます。わたしどもが通常考えるテロ行為というのは、そもそもメディアに関連したものです。〈パンサー・モダンズ〉が他のテロリストと違うのは、まさしく自意識の度合い、メディアがテロ行為を本来の社会政治的意図から切り離す限度をわきまえて――」
「とばせ」
とケイスは言った。
ケイスが初めて〈モダンズ〉の人間に会ったのは、ホサカによる概要を見てから二日後だった。〈モダンズ〉は、要するに、ケイス自身が十代後半だった頃の〈大科学者《ビッグ・サイエンティスツ》〉の現代版なのだ。〈スプロール〉には、一種得体の知れない|十 代《ティーンエイジ》DNAが働いている。その中に、さまざまの短命な熱病のための指示が遺伝信号化されており、妙な間隔をおいて自己複製するのだ。〈パンサー・モダンズ〉は〈科学者《サイエンティスツ》〉のソフト狂《ヘッド》版だ。当時このテクノロジーがあったら、〈大科学者《ビッグ・サイエンティスツ》〉もみんな、ソケットにマイクロソフトを詰めこんでいたことだろう。重要なのはスタイルであり、そのスタイルは同じ。〈モダンズ〉は傭兵で、プラクティカル・ジョーク屋で、虚無的なテクノ・フェチだ。
フィンからのディスケットをひと箱もって、ロフトの戸口に現われた一員は、穏やかな声のアンジェロという少年だった。顔は、コラーゲンと鮫軟骨多糖類で培養したものを単純に移植してあるが、なめらかで醜悪。ケイスの知る限りでも最悪の選択手術だ。アンジェロが微笑んで、何か巨大な獣の剃刀のような犬歯を剥き出しにしたとき、ケイスはほっとしたぐらいだった。歯牙移植。それなら知っている。
「チビッ子どもに|世代の断絶《ジェネレーション・ギャップ》で遊ばれちゃいけないよ」
とモリイは言う。ケイスはうなずき、センス/ネットの氷《アイス》のパターンに没頭した。
これでいい。これこそケイスの天職、本質、存在そのものだ。ケイスは食事を忘れた。モリイが長テーブルの隅に、箱詰めの飯《ライス》とプラスティック皿の寿司《スシ》を残していってくれた。時おりケイスには、デッキを離れて、ロフトの片隅にしつらえた化学トイレットに行かなくてはならないことすら腹立たしくなった。氷《アイス》のパターンがスクリーン上に生まれ、形を変えていくのを見ながら、ケイスは隙を探り、見えすいた罠を避け、センス/ネットの氷《アイス》を抜けるルートを開拓していく。いい氷《アイス》。素晴らしい氷《アイス》だ。モリイの首の下に腕をまわして横たわり、天窓の鋼鉄格子ごしに赤い曙光を眺めるときも、氷《アイス》のパターンは眼前に灼けていた。目醒めて最初に見えるのも、氷《アイス》の虹のような画素《ピクセル》迷路だった。起きれば、身づくろいもかまわず、まっすぐデッキに向かい、|没 入《ジャック・イン》した。切りこみつつある。うまくやりつつある。ケイスは日がたつのを忘れた。
そしてときどき、とりわけモリイが〈モダンズ〉の貸し出し幹部を連れて下検分に出ていて、ケイスが眠りかけるとき、千葉《チバ》の情景が激しく甦る。さまざまな顔や|仁《ニン》|清《セイ》のネオン。一度など、混乱したリンダ・リーの夢で目醒めた。リンダが誰で、どんな意味をもつのか想い出せなかったのだ。ようやく想い出したあと、ケイスは|没 入《ジャック・イン》し、九時間ぶっつづけに作業した。
センス/ネットの氷《アイス》に切りこむのに、合計九日かかった。
「一週間と言っておいただろう」
とアーミテジは言ったが、ケイスが|仕掛け《ラ ン》の計画を示したときは、満足ぶりが隠しきれず、
「ずいぶん時間をかけたものだ」
「てやんで」
とケイスはスクリーンに向かって微笑し、
「立派なもんだろ、アーミテジ」
「うむ」
とアーミテジはうなずき、
「だが、こんなものでいい気になるなよ。そのうちおまえが立ち向かうものにくらべたら、こんなものは|ゲーム場《ア ー ケ イ ド》の玩具だ」
「愛してるぜ、猫母さん」
と〈パンサー・モダンズ〉の|つなぎ役《リンクマン》が囁いた。その声はケイスのヘッドセットでは変調のかかった雑音だった。
「アトランタよ、仔どもたち。そろそろゴー。ゴーだよ、わかった……」
というモリイの声はもう少しはっきりしている。
「仰せのままに」
〈モダンズ〉はニュージャージーにある金網ディッシュか何かを使って、|つなぎ役《リンクマン》からの周波数帯変換《スクランブル》した信号を、マンハッタンの静止軌道にある“天帝キリストの子ら”衛星にはね返させている。一同は今回の作業全体を凝った内輪のジョークと見なしており、通信衛星の選び方ひとつにしても、故意と思われる。モリイからの信号は、センス/ネット・ビルに近い高さの、黒ガラス張りの銀行ビルの屋上に樹脂《のり》づけした傘ディッシュから上空に発している。
アトランタ。識別|暗号《コード》は単純だ。|ア《A》トランタ、|ボ《B》ストン、|シ《C》カゴ、|デ《D》ンヴァー。各都市名が五分ずつ。仮に誰かがモリイの信号を探知して周波数帯変換《スクランブル》を解き、モリイの声を合成したとしても、この暗号で〈モダンズ〉にはわかってしまう。モリイが二十分間以上もビルに残っているようなら、出てくることも、まずありえない。
ケイスはコーヒーの残りを飲みこみ、電極《トロード》を定位置につけると、黒のTシャツの下になった胸を掻く。〈パンサー・モダンズ〉が、センス/ネットの保安要員相手にどんな陽動作戦を使うのか、ぼんやりとしかわかっていない。ケイスの任務は、自分で書いた侵入プログラムを、モリイが必要としたとき確実に、センス/ネットのシステムに結合させることにある。スクリーンの隅の|秒読み《カウント・ダウン》を見つめた。二。一。
|没 入《ジャック・イン》し、自作プログラムを起動する。
「本番」
という|つなぎ役《リンクマン》の声だけが聞こえる中、ケイスはセンス/ネットの氷《アイス》の、輝く複層の中にとびこんだ。いいぞ。モリイをチェックしよう。|擬 験《シムステイム》をヒットして、モリイの感覚中枢に転《フリップ》ずる。
変換器《スクランブラ》のために視覚|入力《インプット》がわずかにぼやけている。モリイはビルの広大な白いロビーの、金をちりばめた鏡の壁の前に立って、ガムを噛みながら、一見、自分の鏡像に見惚れているようだ。ミラー・グラスを隠すための、やけに大きなサングラスのほか、モリイは驚くほどその場に溶けこんで見える。タリイ・アイシャムをひと目でも見られれば、という観光客の類だ。モリイはピンクのプラスティック・レインコートの下に、白メッシュのトップと、去年|東京《トウキョウ》で流行ったカットのゆったりした白いパンツをはいている。モリイはぼんやりした笑みをうかべ、ガムをパチンといわせた。ケイスは笑いだしたくなった。ケイスにもわかるが、モリイの胸部には|微 孔《マイクロポア》テープが貼ってあり、その下の平らな小型機器も感じとれる。無線器、|擬 験《シムステイム》ユニット、変換器《スクランブラ》だ。首につけた喉《スロート》マイクは、できるだけ鎮痛用||膚 板《ダーマディスク》に似せてある。モリイの両手は、ピンクのコートのポケットの中で、連続した緊張解除の運動を繰り返している。何秒かたって、ケイスにもようやく呑みこめた。モリイの指先の奇妙な感覚は、刃がなかば出され、引っこめられることによるものだ。
ケイスは反|転《フリップ》した。自作プログラムは第五ゲートに到達している。自作の|氷破り《アイスブレーカ》が眼前で点滅し変形するのを見つめながら、ほとんど意識しないうちに、手がデッキの上を動いて微調整している。半透明の色面が組み替わるさまは、手品のカードのようだ。カードを一枚お引きください。どれでもけっこう。
ゲートがかすみ、通り抜けた。ケイスは笑う。センス/ネットの氷《アイス》は、こちらの侵入をロサンジェルス部門からの通常転送として、受け容れたのだ。これで中にはいった。背後ではウイルス性|下位《サブ》プログラムが剥がれ落ちて、ゲートの信号《コード》構造にからみつき、ロサンジェルスからのデータが来たときに逸《そ》らせてしまう。
ケイスはふたたび転《フリップ》じた。モリイは、ロビーの奥の大きな円形の受付デスクの横を、歩み過ぎていく。
モリイの視神経に12:01:20と表示が輝いた。
午前零時、モリイの眼裏のチップと同調《シンク》して、ジャージーの|つなぎ役《リンクマン》は命令を発していた。“本番”と。〈スプロール〉の二百マイルに散らばった九人の〈モダンズ〉が、同時に公衆電話からMAX EMERG(緊急通報)をダイアルし、おのおの決めておいたとおりの短いセリフを告げて切り、宵闇にまぎれこみながら手術用手袋を剥ぎ取る。九ヵ所の別個の警察署や公安部が受けた情報は、こういうことだ。戦闘的キリスト教|根本主義者《ファンダメンタリスト》の無名下部セクトの犯行声明として、センス/ネット・ピラミッドの換気装置に、ブルー・ナインという違法な精神活性剤を大量に投入した、と。ブルー・ナインは、カリフォルニアでは“嘆きの天使”と呼ばれ、験体の八十五パーセントに対して、激しい妄想《パラノイア》および殺人傾向の精神症を惹き起こすことで知られている。
プログラムが、センス/ネットの調査資料庫の保安を与《あずか》る下位《サブ》システムのゲートになだれこむのと同時に、ケイスはスイッチを叩いた。エレベータに乗りこむところだった。
「失礼ですが、従業員ですか」
と警備員が眉を上げる。モリイはガムをパチンといわせ、
「いいえ」
言いながら、右手指の二関節目まで男の鳩尾《みぞおち》に叩きこむ。男が上体を折り曲げながら、ベルトの警報器に手を伸ばそうとするところを、横ざまに頭を強打し、エレベータの内壁に叩きつける。
ガムを噛む口をわずかに早めながら、照らし出されたパネル上の、“閉扉”と“停止”に触れる。コート・ポケットからブラック・ボックスを取り出し、パネル回路を閉ざす鍵穴に導線を差しこんだ。
〈パンサー・モダンズ〉は最初の行動が効力を表わすまで四分間待ち、次に慎重に準備した二発目の誤情報を注入した。今回は直接センス/ネット・ビルの社内ヴィデオ・システムが対象だ。
12:04:03、ビルじゅうのすべてのスクリーンが十八秒間、点滅したが、その頻度はセンス/ネットの、感受性の強い一部従業員に、痙攣発作を起こさせるものだ。次に、どことなく人間の顔を思わせるものがスクリーンいっぱいになる。眼鼻は非対象に広がった骨に貼りつき、卑猥なメルカトール投影図のようだ。青い唇が濡れて開くと、ねじれて伸びた顎が動く。手だろうか、何か赤味がかって節くれだった根の塊りのようなものが、おずおずとカメラに近づき、ぼやけ、消えた。識閾下的にすばやく汚染の映像――ビルの水道図、実験用ガラス容器を扱う手袋の手、闇に転がり落ちるもの、青白い飛沫。音声は通常再生速度の二倍弱に調整してあり、一ヵ月も前の、軍が HsG なる物質を使用するかもしれないというニューズを流している。HsG は人間の骨格成育を左右する生化学薬品であり、これを過剰摂取《オーヴァドース》すれば、一部の骨細胞が暴走を始めて、成長が一千パーセントにまで加速する。
12:05:00、鏡に覆われたセンス/ネット帝国の連結部には、三千人強の従業員がいた。真夜中の五分過ぎ、〈モダンズ〉のメッセージは白く輝くスクリーンとなって終わり、センス/ネット・ピラミッドが悲鳴をあげた。
ニューヨーク市警察の戦術ホーヴァクラフトが六機、ビルの空調システムにブルー・ナインが投入された可能性を考えて、センス/ネット・ピラミッドに集結しつつあった。暴動鎮圧投光器を全開にしている。BAMA緊急配備ヘリコプタも一機、ライカー・ビル上の離着陸場から発進しつつある。
ケイスは第二のプログラムを起動させた。念入りに造り上げたウイルスが、センス/ネットの調査資料類を納める地下二階の、一次管理|命令《コマンド》の信号《コード》構造を攻める。
「ボストン」
とモリイの声が伝わり、
「こっちは下に来たよ」
ケイスがスイッチすると、エレベータの壁が見えた。モリイは白のパンツのジッパーを下ろしている。モリイの生白い踵と同じ色の、かさばる包みが、|微 孔《マイクロポア》でとめてある。腰を落としてテープを剥がした。赤紫色《バーガンディ》の光芒が擬態ポリカーボンの上を走ったかと思うと、モリイは〈モダンズ〉の服を広げている。ピンクのレインコートを脱ぎ、白いパンツの脇にほうり出してから、白メッシュのトップの上から服を着こみはじめる。
12:06:26。
ケイスのウイルスは資料庫の命令氷《コマンド・アイス》に窓をあけていた。キーをパンチすることで、そこからはいりこむと、中の無限の青い空間では、薄青いネオンの密な格子《グリッド》に、色|記号《コード》化された球体がつながれている。マトリックスの非空間では、どのデータ構造物の内部も、主観的には無限の広がりを有する。子供用の計算玩具だって、ケイスのセンダイで|出入り《アクセス》してみれば、果てしない無の深淵を見せ、そこにポツポツと基本|命令《コマンド》が吊り下がっている。ケイスが叩きはじめた|数 列《シークエンス》は、フィンが、ひどい麻薬中毒の中堅“さらりまん”から買い取ったものだ。ケイスは、まるで透明な線路に乗っているかのように、球体群を抜けて滑りはじめた。
ここ。こいつだ。
キーを叩いて球体の中へと進む。冷たい青ネオンの蒼穹が、曇りガラスのように星もなくなめらかに頭上に広がる。下位《サブ》プログラムを起動させると、管理中核|命令《コマンド》に、ある変更が加えられる。
さあ出よう。なめらかに後退すると、ウイルスが窓の構造を繕いなおす。
完了だ。
センス/ネットのロビーでは〈パンサー・モダンズ〉のふたりが、低く四角い植木鉢の蔭にしゃがみこんで、ぬかりなく騒動をヴィデオ・カメラに収めている。ふたりともカメレオン服を着こんでいた。
「戦術勢は、今、発泡バリケードをスプレイしている」
とひとりが言う。喉《スロート》マイクに喋りかけているのだ。
「緊急勢は、まだヘリコプタを着陸させようとしているところだ」
ケイスは|擬 験《シムステイム》スイッチを叩いた。そして骨折の苦痛の中に転《フリップ》じこんでしまった。モリイは長い廊下の、飾りけない灰色の壁に体を支え、荒く、不規則な呼吸をしている。ケイスがすぐさまマトリックスに戻ると、左腿の白熱化した激痛が薄れていく。
「何があったんだ、仔どもたち」
と|つなぎ役《リンクマン》に訊く。
「わかんねえんだ、切断屋《カッター》。母さんが喋らねえ。待て」
ケイスのプログラムは稼動している。髪の毛ほどに細い紅のネオンがひと筋、修復された窓の中央から伸び出して、ケイスの|氷破り《アイスブレーカ》の変わりつづける外形につながっている。待っている余裕はない。深く息を吸うと、ケイスはまた転《フリップ》じた。
モリイは一歩踏み出し、廊下の壁で体重を支えようとする。ロフトのケイスが呻く。二歩目で、伸ばした腕をまたぎ越えた。制服の袖が鮮血に染まっていた。砕けたファイバーグラス衝撃警棒を|瞥《べっ》|見《けん》。モリイの視野が、トンネルのように狭窄《きょうさく》しているらしい。三歩目でケイスは悲鳴をあげ、無意識のうちにマトリックスに戻ってしまった。
「仔どもたち……ボストンだよ――」
というモリイの声は苦痛に硬ばっている。咳こんでから、
「原住民と、ちょっともめた。脚を折られたみたい」
「何が要る、猫母さん」
|つなぎ役《リンクマン》の声は不鮮明で、ほとんど空電にかき消されている。
ケイスは無理矢理、転《フリップ》じ帰った。モリイは壁にもたれかかり、全体重を右脚にかけている。服についた前面《カンガルー》ポケットの中味を手探りして、多彩な|膚 板《ダーマディスク》を埋めこんだプラスティック・シートを取り出す。三つ選ぶと、それを左手首の血管の上に強く圧しつけた。六千マイクログラムのエンドルフィン類似体が、苦痛にハンマーのように襲いかかり、砕き散らす。モリイの背が、痙攣するように反りかえる。ピンクの温覚の波が両腿におしよせる。モリイは溜息をつき、ゆっくりと体の力を抜いた。
「オーケイ、仔どもたち。もう大丈夫。でも出る時には医療班が欲しい。うちの連中に伝えて。切断屋《カッター》、こっちは目標まで二分間。そっちは保《も》つかい」
「おれは中で保たしてると伝えてくれ」
とケイスが言った。
モリイは足をひきずりながら廊下を進みはじめる。一度、振り返ったとき、ケイスにもセンス/ネット保安要員が三人倒れているのが見えた。中のひとりなど、眼がなくなっていたようだ。
「戦術勢と緊急勢が一階を封鎖したぜ、猫母さん。発泡バリケードだ。ロビーは汁っぽくなってきた」
「ここだって汁気たっぷりさ」
とモリイは灰色の鋼鉄扉一対をくぐり、
「じき着くよ、切断屋《カッター》」
ケイスはマトリックスに転《フリップ》じ、額から電極《トロード》を引き剥がした。汗みどろになっている。タオルで額を拭い、ホサカの横に置いた自転車用水筒から、ひと口急いで水を飲んでから、スクリーンに表示された資料庫の地図を見る。点滅する赤い指標点《カーソル》が、戸口の輪郭のところを抜けている。ほんの数ミリのところに緑の点があり、それが“ディクシー・フラットライン”の構造物の位置なのだ。それにしても、折れた脚であんなふうに歩くとは、脚はどうなってしまうんだろう。エンドルフィン類似体がたっぷりあれば、脚を断ち切られても、血まみれの付け根で歩くことだってできるのだ。ケイスは、椅子に体を固定するナイロンのハーネスを堅く締め、電極《トロード》を付けなおした。
あとはお定まり――電極《トロード》、|没 入《ジャック・イン》、そして転《フリップ》。
センス/ネットの調査資料庫は退蔵区域。だから、そこにしまった素材は、物理的に取り出してこなくては、接続《インタフェイス》がとれない。モリイはよろめきながら、同型の灰色ロッカーの列を縫っていく。
ケイスが言う。
「仔どもたちよ、伝えてくれ。あと五列先、左に十個目」
「あと五列、左に十だよ、猫母さん」
と|つなぎ役《リンクマン》が言った。
モリイが左に曲がる。蒼白な顔の整理係がふたつのロッカーの間で身をすくませた。頬が濡れ、眼がうつろだ。モリイはそれを無視した。これほどの恐怖をひきおこすとは、〈モダンズ〉は何をやったのだろう、とケイスは考えた。何か虚仮《こけ》おどしのようなものなのはわかっているが、氷《アイス》に夢中になりすぎていて、モリイの説明をまともに聞かなかったのだ。
「それだ」
とケイスが言ったが、モリイはもう、構造物を納めるキャビネットの前に足を止めていた。千葉《チバ》のジュリー・ディーンの待合室にある新アステカ風書棚を想い出させる格好だ。
「やってよ、切断屋《カッター》」
とモリイが言った。
ケイスは電脳空間《サイバースペース》に転《フリップ》じて、資料庫|氷《アイス》を貫く紅の糸に命令《コマンド》を送りこんだ。五個の独立した警報システムに、まだそれぞれが作動中だと信じこませる。三重の精密な錠を解かせるが、錠の方はおりたままだと思いこんでいる。資料庫の中央バンクの永久メモリに、わずかな変更が加わる――構造物は、一ヵ月も前に、上からの命令で持ち出された、と。整理係が、この構造物を取り出したときの認可を確認しようとしても、そういうものの記録は消えていることになる。
無音蝶番の扉が開いた。
「〇四六七八三九」
とケイスが言うと、モリイはラックから黒い保管ユニットを引き抜く。大型|突撃《アソールト》ライフルの弾倉に似た形で、表面に警告デカルが貼ってあり保安等級がある。
モリイはロッカーの扉を閉め、ケイスは転《フリップ》じた。
資料庫|氷《アイス》を貫くひと筋を引き抜く。糸は鞭のようにケイスのプログラムにはね戻り、自動的に全面的なシステム反転が始まる。ケイスが退き出ると、とたんにセンス/ネットのどのゲートも閉まり、下位《サブ》プログラムを配したゲートでは、下位《サブ》プログラムが|氷破り《アイスブレーカ》の核に戻ってくる。
「出ろ、仔どもたち」
と言って、椅子にすわったまま力を抜く。本物の|仕掛け《ラ ン》の緊張状態を味わったあとでは、|没 入《ジャック・イン》したままでも肉体が感じとれる。センス/ネットが構造物の盗難に気づくまでには、何日もかかるだろう。鍵になるのは、ロサンジェルスからの転送が逸らされたこと。それがあまりにもうまく〈モダンズ〉のテロ|仕掛け《ラ ン》と同調している。モリイが廊下で出くわした保安要員三人が、生き延びて喋るとは思えない。ケイスは転《フリップ》じた。
エレベータは、コントロール・パネル脇にブラック・ボックスをテープどめにしたまま、さっきの位置にとどまっている。警備員は、まだ丸くなって床に転がっていた。ケイスは初めて気づいたが、その男の首筋に膚板《ダーム》がある。目を醒まさないよう、モリイがやったのだろう。モリイは男をまたぎ越え、ブラック・ボックスを外すと、ロビーのボタンを押した。
エレベータの扉がシュッと開くと、人込みから後ろ向きに飛び出してきた婦人がエレベータに跳びこみ、頭から奥の壁に激突した。
モリイはそれを尻目に、しゃがみこんで警備員の首の膚板《ダーム》を剥がす。次に白のパンツとピンクのレインコートを扉の外に蹴り出し、サングラスもそちらに投げる。服についたフードを目深に引きおろした。服のカンガルー・ポケットに入れた構造物が、動くたびに胸骨に当たる。モリイは足を踏み出した。
ケイスは、パニック状態を見たことがないではないが、閉ざされた区域では初めてだ。
エレベータ群から吐き出されたセンス/ネット従業員は、いったんは、街路に面した扉に押し寄せる。が、そこでは戦術隊の発泡バリケードとBAMA緊急配備陣のサンドバッグ銃の出迎えを受ける。この二組織は、潜在的殺人狂の群れを喰い止めているつもりで、常にもあらぬ効率で協力しあっている。街路に出る主要な扉の、砕け散った残骸のむこうには、バリケードの上に、死体が三段積みに折り重なっている。鎮圧銃《ライアット・ガン》の鈍い轟音を背景に、人込みが音をたてて、ロビーの大理石の床の上を右往左往する。このような音は、ケイスも初めて聞いた。
どうやらモリイにも初めてらしい。
「びっくり」
と口にして、足を止めてしまう。一種の悼《いた》み声が高まって、生々しい全面的恐怖の、沸々たる噎《むせ》び泣きになっている。ロビーの床は一杯に、人の体と衣服と血と、くしゃくしゃになった長い黄色の印字用紙《プリントアウト》だらけだった。
「さあ、姐さん。出るぜ」
〈モダンズ〉ふたりの眼だけが、滅茶苦茶に渦を描くポリカーボンの模様から覗いていた。この服すらも、ふたりの背後で荒れ狂う色と形の混乱には追いつけないらしい。
「怪我かい。さあ、トミイが手伝うぜ」
言った男にトミイが何かを手渡した。ポリカーボンにくるんだヴィデオ・カメラだ。
モリイは言った。
「シカゴ。こっちは行くよ」
そしてモリイは落ちていった。血と吐潟物だらけの大理石の床でなく、血ぬるみの井戸の中、静寂と暗黒の中へ。
〈パンサー・モダンズ〉のリーダーは、ルーパス・ヤンダーボーイと名のったが、録画機能つきのカーボン服を着ていた。これだと、意のままに背景を再生できるのだ。ケイスの作業台の端に、ちょこんと腰をのせた様子は、現代版の怪獣像《ガーゴイル》さながら。ケイスとアーミテジを半眼でとらえている。それが笑顔になった。髪はピンクだ。左耳のうしろで、マイクロソフトが虹色の森のように突き立っている。耳は尖り、さらにピンクの毛の房がついていた。手術によって瞳孔を、猫の眼のように光をとらえるようにしている。その服の上を色や質感が這い回るのをケイスは見つめていた。
「手に負えないことにしたな」
とアーミテジが言う。アーミテジは、高価そうなトレンチコートの黒々とした光沢のひだに身を包んで、彫像のようにロフトの中央に立っている。
「混沌さ、誰かさん」
とルーパス・ヤンダーボーイは答え、
「それがおれたちの方式で様式。おれたちの主な趣向さ。あんたたちの女が知ってる。取引きの相手はあの女だ。あんたじゃないぜ、誰かさん」
ヤンダーボーイの服が、ベージュと薄アヴォカド色との奇怪なギザギザ模様に変わり、
「女は医療班が必要だった。そこに行ってる。おれたちの方で見張りはしてる。すべて大丈夫」
とまた笑顔になる。
「払ってやれよ」
とケイスが言うと、アーミテジがそれを睨みつけ、
「まだブツを受け取ってない」
「女が持ってる」
とヤンダーボーイ。
「払ってやれよ」
アーミテジはぎごちなく作業台に近づき、トレンチコートのポケットから|新 円《ニュー・イェン》の分厚い札束を三つ取り出すと、
「数えるかい」
とヤンダーボーイに尋ねた。
「いや。払ってくれるさ。あんたは誰かさんだ。払えばそのまま。誰々さんにならずにすむ」
「まさか脅しのつもりじゃなかろうな」
とアーミテジ。
「商売さ」
とヤンダーボーイは、服の前部にひとつだけあるポケットに金を詰めこむ。
電話が鳴った。ケイスが出る。
「モリイだ」
とアーミテジに伝えて、受話器を渡した。
〈スプロール〉のジオデシック・ドーム群が明るくなって、夜明け前のグレイになる頃、ケイスは建物を出た。四肢が冷えきって、ばらばらの感じだ。眠れなかった。ロフトにはうんざりだ。ルーパスが最初に立ち去り、それからアーミテジ。モリイはどこかで手術をうけている。足の下の震動は、列車が走り抜けたのだ。遠くのサイレンがドップラー効果を示す。
ケイスはでたらめに角を曲がっていった。新品レザー・ジャケットの襟を立て、背を丸めて、一本目の叶和圓《イエヘユアン》を溝に捨てると、矢継ぎ早に二本目に火を点ける。こんなことを想像してみようとした。アーミテジの毒嚢が血流の中で溶けつつある。歩くにつれて、微細な膜が薄くなっていく、と。どうも現実味がない。それを言うなら、モリイの眼を通して見た、センス/ネット・ロビーでの恐怖や苦痛も同じことだ。いつのまにか、千葉《チバ》で手にかけた三人の顔を想い起こそうとしている。男ふたりは空白だ。女はリンダ・リーを想い出させる。窓をミラーにした、ボロボロの三輪トラックが躍るように通り過ぎた。荷台のプラスティック・シリンダーがカタカタ音をたてる。
「ケイス」
ケイスは横ざまに走り、本能的に壁を背にした。
「あんたへのメッセージだよ、ケイス」
というルーパス・ヤンダーボーイの服は、純粋な原色を順にめぐり、
「ごめん。おどかすつもり、なかった」
ケイスは背を伸ばし、両手をジャケットのポケットにつっこんだ。ケイスは〈モダンズ〉の青年より、頭ひとつ背が高い。
「気をつけろよ、ヤンダーボーイ」
「これがメッセージだ。|冬 寂《ウィンターミュート》」
と綴りまで言う。
「おまえからかい……」
とケイスは一歩踏み出した。
「いや。あんたへ」
とヤンダーボーイ。
「誰からだい……」
「|冬 寂《ウィンターミュート》」
とヤンダーボーイは繰り返し、うなずき、ピンクの鳥冠《とさか》のような髪を揺する。服が無光沢の黒になった。古いコンクリートを背景にした炭の影。奇妙な踊りに、ほっそりした黒い腕を振り回し、そして消えた。いや。あそこだ。フードを上げてピンクを隠し、服はまさしく足もとの舗道と同じ、斑らに汚れたグレイだ。眼が停止信号の赤をキラリと反射した。そして、本当に消えた。
ケイスは眼を閉じ、しびれた指先で揉んだ。剥げかけた煉瓦壁に背をもたせかける。
|仁《ニン》|清《セイ》の方が、ずっと単純だった。
5
モリイが手配した医療班は、ボルティモアの旧中心街近くの、特徴のない共同《コンド》ラックで二階分を占めていた。建物がモジュール式ということは、〈安《チープ》ホテル〉を大がかりにしたようなもので、ひとつの棺桶《コフィン》が全長四十メートルあると思えばいい。そのひとつからモリイが出てくるのを、ケイスが出迎えた。そこには“ジェラルド・チン歯科”の凝った看板がかかっている。モリイは足をひきずっていて、
「何か蹴とばしたら、もげ落ちるってさ」
「きみの友だちに会ったぜ。〈モダンズ〉の」
「へえ……。どの子……」
「ルーパス・ヤンダーボーイ。メッセージだって」
と |WINTERMUTE《ウ ィ ン タ ー ミ ュ ー ト》 と書いた紙ナプキンを手渡す。ケイスのきちんとした丁寧な字が、赤のフェルトペンで書いてある。
「でもって――」
そこでモリイが手を挙げて、黙れ、の合図《ジャイヴ》をし、こう言った。
「蟹にしようよ」
ボルティモアでの昼食で、モリイは自分の蟹をあきれるほどやすやすと解体したが、そのあと、ふたりは地下鉄《チューブ》でニューヨークにはいった。ケイスは質問してはいけないことを悟らされていた。どうせ、黙れ、の手真似しか返事がないのだ。モリイは脚の具合が悪いらしく、ほとんど口をきかない。
木のビーズとアンティークの抵抗器を髪に結《ゆ》いこんだ瘠せぎすの黒人の子供が、フィンの店の扉をあけてくれ、例の廃品のトンネルの中を案内してくれた。ケイスは、来ない間にブツが増えたように感じた。それとも、わずかずつ変化しているのかもしれない。時の重圧を受けて煮つまり、もの言わぬ透明な薄片が降り積もって腐葉土に、捨てられたテクノロジーの精髄の結晶になり、〈スプロール〉の廃棄所で人知れず花開いているのかも。
軍用毛布の奥では、フィンが白いテーブルについて待っていた。
モリイはすばやい合図《ジャイヴ》を始め、紙きれを取り出して何かを書くと、フィンに渡した。フィンはそれを親指と人差し指でつまみ、爆発するのではないかというように体から離す。フィンの手話はケイスの知らないものだった。苛立ちと陰欝なあきらめとをない混ぜにしたような表現だ。フィンは立ち上がり、よれよれのツイード・ジャケットの前の屑を払う。テーブルの上には、酢漬け鰊を入れたガラス瓶が置かれ、その脇には口のあいたフラットブレッドのプラスティック包装と、パルタガスの吸い殻が山なすブリキの灰皿とがある。
「待て」
とフィンが言って、部屋を出ていった。
モリイはフィンの椅子にすわり、人差し指の刃を出すと、灰色がかった鰊の切り身を突き刺す。ケイスは手持ち無沙汰で部屋をうろつき、通りがかりに、塔の走査装置に触れてみる。
十分後、フィンがけたたましく戻ってきて歯を見せて大きく、黄色い笑みを浮かべた。うなずいて、モリイに親指を立てた挨拶を送ると、ケイスに身振りで、扉パネルを手伝うよう示す。ケイスがヴェルクロの縁を固定している間にも、フィンはポケットから平らで小さな操作盤《コンソール》を出し、凝った数値をパンチする。
「ねえ」
とモリイに向かい、操作盤《コンソール》をしまいこみながら、
「やったぜ。マブネタだよ、匂いでわかる。どこで手に入れたか、言ってみるかね……」
「ヤンダーボーイ」
とモリイは鰊やクラッカーを脇に押しのけ、
「あたしがラリイと取引きしたの。別件として」
「お鋭い」
とフィンは言い、
「こいつはAIだ」
「ちょいとわかりやすく言ってくれよ」
とケイスが言っても、フィンはそれを無視して、
「ベルンだよ、ベルン。あっち版の五三年法みたいなもので、限定つきのスイス市民権を持ってる。テスィエ=アシュプール株《S》式会|社《A》向けの奴だ。会社が|本 体《メインフレーム》も原ソフトウェアも持ってる」
「何がベルンにあるんだってば」
とケイスはわざわざふたりに割りこむように立った。
「|冬 寂《ウィンターミュート》は、AIの認識記号なんだ。ここにチューリング登録番号も持ってる。|人《A》工知|能《I》なんだよ」
「それはけっこうなこったけど」
とモリイが口を挾み、
「それでどうなるわけ……」
フィンが言う。
「ヤンダーボーイの言うとおりなら、このAIこそアーミテジの黒幕だ」
「あたし、ラリイに金を払って、〈モダンズ〉にアーミテジの周辺を嗅ぎ回ってもらったの」
とモリイはケイスに解説し、
「連中、実に変てこな情報網をもってるからね。条件は、ひとつの質問に答えられたら、金を払うっての。つまり、アーミテジを動かしてるのは誰か……」
「で、このAIだってのかい……。ああいうのは自律が許されてないんだから、その親会社のテスル――」
「テスィエ=アシュプール株《S》式会|社《A》」
とフィンが言い、
「しかも、この会社についちゃ、ちょっとした話がある。聞きたいか……」
と腰を下ろして身を乗り出した。
「フィンときたら、お話が大好きで」
とモリイ。
「こいつは誰にも話したことがないやつさ」
とフィンは話しはじめた。
フィンは故買屋だ。盗品、とりわけソフトウェアの闇取引きをする。仕事をしていく中で、ほかの故買屋と接触することもある。中には、昔ながらの物品を扱う者もいた。貴金属、切手、コイン、貴石、宝石、毛皮、絵画その他の美術品などだ。フィンがケイスとモリイに聞かせた話は、別な人物の話で始まった。スミスという男だ。
スミスも故買屋だったが、景気のいいときには美術商として表に出た。フィンの知る限りでは、スミスが初めて“シリコン化”した――ケイスにとっては古めかしい響きの言い回しだ――が、スミスの買うマイクロソフトは、美術史プログラムとか画廊の売却表だった。新しいソケットにチップを五、六個差しこんだスミスの、美術界についての知識は、少なくとも同業者の基準からすれば、恐るべきものとなった。なのにスミスは、フィンのところに助力を頼んできた。同業のよしみ、対等の商売人同士ということだ。言うには、テスィエ=アシュプール一族についての情報《ゴー・トゥー》が欲しいが、この問い合わせをもとまで絶対にたどれないような方法でないと困る、と。フィンは、やれるかもしれないが、どうしても説明してもらわねばいやだ、と答えた。
「匂ったんだよ」
とフィンはケイスに言い、
「金の匂い。で、スミスはとっても慎重だった。慎重すぎた」
それでわかったのだが、スミスにはジミイという調達人がいた。この男は盗っ人や何やかややっており、一年間高度軌道にいたあと、ブツを重力井戸に運び下ろしに戻ったばかりだった。植民群島を跳梁《ちょうりょう》して、ジミイが仕込んできたものの中で、いちばん目立つのが、頭部像というよりは精緻な胸像だった。プラチナの上にクロワゾンネ七宝を施し、ケシ珠や宝石がちりばめてある。スミスは溜息とともにポケット顕微鏡を置くと、こうジミイに言った。こいつは鋳つぶしちまいな。アンティークでなく現代ものだから、蒐集家にとって価値はない。ジミイは笑いだした。これはコンピュータ端末機《ターミナル》だぜ、と言う。喋るんだ。それも合成音声じゃなく、歯車とミニチュアのオルガン・パイプの凝った仕掛けなんだ。誰がこしらえたにせよ、異様で変態じみた品物だぜ。だって音声合成|素子《チップ》なんて、ただ同然のものなんだからな。珍品だよ、と。スミスがその像を自分のコンピュータにつないで、耳を傾けてみると、音楽的で人間離れした声が、前年の所得税申告の数字を読み上げた。
スミスの顧客の中に、東京《トウキョウ》の大金持ちで、ゼンマイ仕掛けの自動人形への傾注ぶりがフェティシズムに近い、という人物がいた。スミスは肩をすくめ、ジミイに掌を上に向けて見せた。質屋の昔からお馴染みのジェスチャーだ。ジミイには、こう言う。やってみてもいいけど、あまり期待できないぜ、と。
胸像を残してジミイが帰ったあと、スミスは再吟味にかかり、いくつか鍵になる特徴を発見した。それをたどっていったところ、チューリヒの職人ふたり、パリの七宝《エナメル》専門家、オランダの宝石細工師、それにカリフォルニアの素子《チップ》デザイナーという、考えられない取り合わせに行き着いた。その依頼主が、テスィエ=アシュプール株《S》式会|社《A》だったわけだ。
スミスは東京《トウキョウ》の蒐集家に対し、さしあたってのネタとして、注目に値する物件を追っている、とほのめかしておいた。
そのあと客が現われた。予告のない客。スミスの凝った警報装置の迷路を、そんなものなど存在しなかったかのように歩き抜けてきた客だった。小柄な男。日本人で、とんでもなく礼儀正しく、明らかに槽《ヴァット》培養の忍者暗殺者《ニンジャ・アサシン》の特徴を帯びている。スミスはじっと腰かけたまま、ヴェトナム産紫檀の磨き上げたテーブルごしに、死の、もの静かな茶眼を見つめた。もの柔らかに、申しわけなさそうに、クローンの殺し屋は説いた。ある美術品を見つけて持ち帰ることが義務であること。その大変美しい機械は、|忍《ニン》|者《ジャ》の主人の家から盗まれたものであること。スミスなら、その物件のありかを知っていそうだと気づいたこと。
スミスは、まだ死にたくない、と言って頭部像を出した。客は、それでこの品を売っていかほどの儲けにするおつもりでしたか、と尋ねた。スミスは、つけるつもりだった値段より、ずっと低い金額を言った。|忍《ニン》|者《ジャ》は与信素子《クレディット・チップ》を取り出して、スイス銀行の番号登録口座からその金額をスミスに支払った。それで、誰がこれを持ちこんだんですか、と尋ねる。スミスは教えてやった。日を経ずに、スミスはジミイの死を知った。
フィンの話は続く。
「そこで、こっちの登場よ。スミスは、おれがメモリ小路の人間とかなり取引きしてるのを知ってた。あそここそ、跡をたどられず静かに情報《ゴー・トゥー》を手に入れられるところだもんな。おれはカウボーイをひとり雇った。表に立つのはおれだから、割り前はもらったがね。スミスときたら、慎重そのもの。ひどく奇々怪々な取引き経験をして、それは成立したものの、どうも勘定が合わない。例のスイスの口座から払ったのは誰なんだ。“ヤクザ”か。まさか。こういう場合については、きっちりした掟があるし、必ず受取り手も殺す。じゃ諜報関係か。スミスにはそうは思えなかった。諜報|商売《ビズ》には独特のものがあって、匂いでそれとわかるようになるもんだ。で、おれはそのカウボーイにニューズ資料にあたらせているうちに、テスィエ=アシュプールの訴訟に行き当たった。事件はたいしたことがなかったけど、法律事務所がわかった。次に弁護士の氷《アイス》をやっつけて、一族の住所を手に入れた。ご立派なもんでさ」
ケイスは眉を上げて見せた。
フィンが言う。
「自由界《フリーサイド》さ。紡錘体《スピンドル》。調べてみりゃ、一族連中がほとんど全体を所有してやがる。面白いのは、カウボーイに普通の情報《ゴー・トゥー》のニューズ資料に当たらせて、概要をまとめた全体像だ。同族組織。企業機構。株《S》式会|社《A》なら株を買えそうなもんだが、この百年以上、テスィエ=アシュプール株は公開市場でひと株も取引きされてない。わかった限りじゃ、どんな市場でも同じこと。つまり相手は、とても静かで、とても奇矯な、第一世代の高度軌道一族で、それが企業のように振るまってるわけだ。たっぷり財産があって、ひどくメディアを嫌う。やたらとクローンを作ってる。軌道法規は遺伝子操作に大甘だからな。だから、あるときに主導権を握ってるのが、どの世代なのか、どんな世代の組み合わせなのか、つきとめにくい」
「どうしてさ」
とモリイが言う。
「自前の極低温保存《クライオジェニック》設備がある。軌道法規でも、冷凍されてる期間は死んでいるものと見なされる。どうやら交代してるらしい。ただし、創始者の爺さんだけは、この三十年、誰も姿を見ていない。婆さんの方は、何か実験室の事故で死んで――」
「それで、その故買屋はどうした」
「何もない」
とフィンは眉根を寄せ、
「やめにしたんだ。T=Aの委任関係の、とてつもない絡みあいを見たら、おしまいさ。ジミイはきっと|迷 光《ストレイライト》にはいって頭部像をいただいたんだろう。テスィエ=アシュプールは|忍《ニン》|者《ジャ》にそれを追わせた。スミスはこの件は忘れちまうことにした。それで賢明だったんだろうよ」
とモリイに眼をやり、
「ヴィラ|迷 光《ストレイライト》。紡錘体《スピンドル》の尖端。完璧に私有地」
モリイが訊いた。
「連中がその|忍《ニン》|者《ジャ》も所有してると思うのかい、フィン……」
「スミスはそう思った」
「金かかるよ。その|忍《ニン》|者《ジャ》は、あとどうなったんだろうね、フィン」
「冷凍しただろうな。必要になりゃ、解凍する」
「オーケイ」
とケイスが口を挾み、
「アーミテジは、|冬 寂《ウィンターミュート》というAIからゼニを頂戴してる、と。それで何がわかる……」
モリイが答えて、
「まだ何も。でも、あんたには、ちょいと割り当てができた」
とポケットから折り畳んだ紙片を出し、ケイスに手渡す。開いて見ると、格子《グリッド》の座標と侵入記号《エントリ・コード》。
「これ誰の……」
「アーミテジ。あいつのデータ・ベースらしい。〈モダンズ〉から買ったの。別取引き。どこかしら」
「ロンドン」
とケイス。
「そいつを探りな」
とモリイは笑い声をあげ、
「たまには食い扶持《ぶち》分、働きなよ」
ケイスは混みあったプラットフォームで、BAMA縦貫の各駅停車を待っていた。モリイはもう何時間も前に、グリーンのバッグに“フラットライン”の構造物を入れて、ロフトに戻っている。以来ケイスは飲みつづけていた。
“フラットライン”が単なる構造物になり、つまりは|結 線《ハードワイアド》ROMカセットごときが死者の技術や妄想や無意識の反応まで模している、と考えると気にかかってならない――各駅停車が、黒い電磁誘導帯に沿って轟然とはいってきた。トンネルの天井の割れ目から、細かい塵が降りかかる。ケイスは手近の乗車口に足を運び、乗りこみながら乗客たちを観察した。捕食動物めいたクリスチャン・サイエンティストがふたり、うら若いオフィス技術者《テ ク》の三人組ににじり寄っている。技術者《テ ク》たちは手首に、理想化したホログラム膣をつけており、それがきつい照明の下で濡れたピンクに輝く。技術者《テ ク》たちは不安げに、完璧な唇をなめ金属質の瞼を半眼にして、クリスチャン・サイエンティストを見やる。この娘たちは、丈高く珍しい草食動物を思わせ、列車の動きに合わせて無意識のうちにも優雅に体を揺らしている。ハイヒールも、車床の灰色の金属を踏みしめる蹄《ひづめ》だ。娘たちが宣教師から逃げるための暴走を始めるより先に、列車はケイスの目的駅に着いた。
降りたケイスは、駅の壁ぎわにホログラムの白い葉巻型が浮いているのに眼をとめた。その下では、日本語の活字体を模した歪んだ大文字が、自由界《フリーサイド》、とまたたいている。人込みを抜けてその下まで行き、よく眺めてみた。いますぐにも、と看板がまたたく。ずんぐりした白い紡錘体《スピンドル》に、格子《グリッド》や放熱器やドックやドームが散在し突出している。この広告にしろ似たようなほかのにしろ、何千回も見ているが、魅力を感じたことはない。デッキさえあれば、アトランタへ行くのと同じくらい簡単に、自由界《フリーサイド》の銀行へも到達できる。旅行などは、肉のやることだ。ところが今回、ケイスは小さな印章に気がついた。小さな硬貨ほどの大きさで、広告の光の面の左下に織りこまれている。T=Aと。
ケイスは歩いてロフトに戻りながら、“フラットライン”の想い出に浸っていた。ケイス十九歳の夏は、〈ジェントルマン・ルーザー〉で、高価なビールをちびりちびりやりながら、カウボーイたちを眺めるばかりで過ごした。その頃は、デッキに手を触れたことすらなかったが、それでも自分の求めるものはわかっていた。その夏、〈ルーザー〉にうろつく予備軍は二十人以上にのぼった。誰もが、どこかのカウボーイの下で若い衆をやりたがっていたのだ。ほかに学ぶ方法はない。
みんな、ポーリーのことは聞き知っていた。アトランタ周縁部出身の南部男《レッドネック》ジョッキーで、黒い氷《アイス》の奥での脳死を生き延びた人物だ。情報網――といっても頼りなく、誰でも知っているようなことで、とりあえずそれしかない、という情報網だが――それにもポーリーのことはあまり伝わらず、不可能なことをやりとげた男ということだけ。
「大仕事だったんだ」
と別の志望者が、ビール一本と引き換えに教えてくれ、
「でも、なんだったのか誰も知らない。聞いたところじゃ、ブラジルの給与網らしい。とにかく、あの人は死んだ。まっ平らの脳死さ」
ケイスは混みあったバーをすかして、シャツ姿で逞しい男を見やった。心なしか肌色が鉛がかっていた。
それから数ヵ月後、マイアミで“フラットライン”はケイスにこう言ったものだ。
「坊主、わしゃ、あの莫迦でっけえトカゲみてえなもんでよ、あいつら脳味噌ふたつもある。頭にひとっつ。腰骨のひとっつは、後肢動かしてる。例の黒い奴にやられてもよ、腰骨が、どうにも止まらねえって奴よ」
〈ルーザー〉のカウボーイ・エリートは、ポーリーを遠ざけていたが、迷信にも似た集団不安の故だった。マコイ・ポーリー、電脳空間《サイバースペース》の不死者《ラザルス》――
そして結局、心臓が仇になった。ロシア製の余剰心臓であり、戦時中、捕虜キャンプで埋めこまれたものだ。それを頑として代えようとしなかった。それ独特の心拍がないと、タイミングの感覚が狂うと言い張っていた。ケイスはモリイから渡された紙片を弄びながら、階段を登っていった。
モリイは恒温フォームの上でいびきをかいている。透明なギプスが、膝から股下数ミリのところまで覆い、硬質|微 孔《マイクロポア》の下の肌は、黒から醜悪な黄色までの打ち身だらけだ。それぞれ大きさも色も違う膚板《ダーム》が八枚、左手首に一直線に並んでいる。アカイ製の|貫 膚《トランスダーマル》ユニットがモリイの横にあり、細い赤の導線が、ギプスの下の入力電極《インプット・トロード》につながっている。
ケイスはホサカの脇の卓上灯《テンサー》を点した。くっきりした光の輪が、“フラットライン”の構造物を真上から照らし出す。氷《アイス》をいくつかスロットに入れ、構造物をつないでから、|没 入《ジャック・イン》する。
誰かから肩ごしに覗きこまれている感覚にそっくりだった。
咳払いしてから、
「ディクス。マコイ。あんたかい」
喉が締めつけられるようだ。
「おいさ」
とどこからともなく声がした。
「ケイスだよ、大将、憶えてるかい」
「マイアミ、若い衆、呑みこみが早い」
「おれが話しかける前、何を憶えてる、ディクス……」
「なんも」
「待ってくれよ」
と構造物をいったんはずす。存在感がなくなった。またつなぎ、
「ディクス。おれは誰だ……」
「見当もつかねえ。何もんだね……」
「ケイ――仲間さ。パートナー。どうしてるね」
「いい質問だ」
「ちょいと前にここにいたの、憶えてるかい」
「いや」
「ROM人格マトリックスがどう作動するか、知ってるよね」
「ああとも。ファームウェア構造物だ」
「じゃ、おれの使ってるバンクにつないだら、逐次的《シークェンシャル》な実時間《リアル・タイム》記憶を持たせられるかい」
「たぶんな」
と構造物は答えた。
「よおし、ディクス。あんた[#「あんた」に傍点]がROM構造物なんだ。わかるかい」
「そう言うんならな。何もんなんだい」
「ケイス」
「マイアミ、若い衆、呑みこみが早い」
と声。
「当たり。ところで手初めにさ、ディクス、あんたとおれとでロンドンの格子《グリッド》に行って、ちょっとしたデータに|出入り《アクセス》しないか。乗るかい……」
「選択の余地があるってのかい、坊主」
6
ケイスが事情を説明すると、“フラットライン”はこう助言してくれた。
「おまえさんは天国がほしいんだろ。コペンハーゲンを調べてみろ。大学区画の周辺だ」
声が暗唱する座標に合わせてパンチする。
天国が見つかった。この“海賊天国”は、保安度の低い学園|格子《グリッド》の、取り散らかった周辺部にあった。最初に見たときは、学生オペレータが残しそうな悪戯書きに似ていた。格子《グリッド》線の交点で、十二学部の混乱した輪郭を背景に、かすかな色光の模様がまたたいている。
“フラットライン”が言う。
「あそこ、あの青いやつ。わかるか。あれはベル・ヨーロッパの侵入記号《エントリ・コード》だ。それも新しいやつさ。じきにベルがここにやってきて、伝言板を読み取る。記号《コード》が残されているのを見つけりゃ、全部変えちまう。子供たちは明日になりゃ、また新しいのを盗み出す」
ケイスはキーを叩いてベル・ヨーロッパにはいってから、通常電話信号に切り換えた。“フラットライン”の手を借りながら、モリイがアーミテジのものだというロンドンのデータ・ベースにつなぐ。
声が言う。
「ほれ、代わってやろう」
“フラットライン”が一連の数値を唱え、ケイスがそれをデッキに打ちこむ。構造物がタイミングを示すために使う休止を、まねるよう努めた。それでも、三回やりなおさねばならない。
「おやおや」
と“フラットライン”は言い、
「全然|氷《アイス》なしだ」
「こいつを走査《スキャン》しろ」
とケイスはホサカに命じ、
「所有者の履歴を撰り出せ」
天国の神経電子落書きが消え、代わりに白光の単純な菱形が現われた。
ホサカの声が遠くから言う。
「内容は主として戦後軍事裁判の映像《ヴィデオ》記録です。中心人物はウィリス・コート大佐」
「見せてみろよ」
とケイス。
男の顔がスクリーンいっぱいになった。眼もとがアーミテジだった。
二時間後、ケイスは寝板のモリイの脇に倒れこみ、恒温フォームが体に馴染むままにした。
「何か見つかった……」
というモリイの声は、眠気と薬のせいでくぐもっている。
「あとで言う。もうフラフラだ」
ケイスは宿酔いの上、混乱している。横になったまま眼を閉じ、コートなる人物の物語の各部分をまとめようとした。ホサカがわずかばかりのデータを整理して概要をまとめてはくれたが、空白だらけなのだ。素材の一部は印刷記録で、スクリーンをなめらかに流れ過ぎた。それが早すぎたので、ケイスはコンピュータに読み上げてもらった。別の部分には、〈スクリーミング・フィスト〉公聴会の音声《オーディオ》記録もあった。
ウィリス・コート(大佐)は、キレンスク上空のソ連側防備網の盲点を抜けて降下した。シャトルがパルス爆弾を使ってあけた穴だった。そこにコートのチームは、ナイトウィング|軽 飛《マイクロライト》群でとびこんだ。翼は月光の下でぴんと張りつめ、アンガラ、ポドカメンナヤの両河を銀色のギザギザとして反射する。その光を最後に、コートは十五ヵ月間、視ることができなかった。ケイスは、凍てついた大草原《ステップ》のはるか上空で、発射カプセルから出て花開く|軽 飛《マイクロライト》群を想い描いてみて、
「あんたも、ものの見事に弄ばれたもんだね、ボス」
と口に出すと、脇でモリイが身動きする。
|軽 飛《マイクロライト》群には武装がなかった。ぎりぎりまで剥ぎ取って、代わりに操作卓《コンソール》オペレータと試作デッキ、そして〈土龍(モ ー ル)\〉というウイルス・プログラムを載せる。〈土龍(モ ー ル)〉はサイバネティクス史上最初の、本格的ウイルスだった。コートに率いられたチームは、この|仕掛け《ラ ン》のために三年間も訓練を積んでいた。氷《アイス》を突破し、いよいよ〈土龍(モ ー ル)\〉を注入しようとしたとき、|電《E》磁|パ《M》ル|ス《P》が炸裂した。ロシアのパルス砲はジョッキーたちを電子の暗黒に叩きこみ、ナイトウィングはシステム崩壊《クラッシュ》を起こして飛行用回路が吹っ飛んだ。
次にはレーザ砲が赤外線で狙いをつけて、射撃を始めた。脆弱なレーダ不感知の攻撃機は狙い撃ちにされ、コートと絶命した操作卓《コンソール》要員とはシベリアの空から墜ちた。墜ち、墜ちつづけ――
このあたりで、話に空白が多くなるので、ケイスは書類をざっと見た。ロシアの|武装ヘリ《ガンシップ》を奪取して、フィンランドにたどり着く。|唐《とう》|檜《ひ》の木立ちにつっこみながら、早朝警備についていた在郷軍人隊の旧式二十ミリ砲で、穴だらけにされる。コートにとって、〈スクリーミング・フィスト〉は、ヘルシンキ郊外で終わりを告げた。ヘリコプタのねじ曲がった機体から、フィンランド落下傘軍医がコートを切り出してくれた。その九日後に戦争は終結し、コートはユタ州の軍施設に移送された。盲いた上、脚と下顎を失くしていた。そのコートを議会補佐官が見出すのに十一ヵ月かかり、その間コートは、管を液体が下るのに耳傾けていた。すでにワシントンやマクレインでは世論操作のための裁判が進行中だった。国防総省《ペ ン タ ゴ ン》やCIAは分割され、一部解体された。議会の調査委員会は〈スクリーミング・フィスト〉に注目している、ウォーターゲイト化間近だ、と補佐官はコートに告げた。
補佐官はこうも言った。コートは眼と脚と大がかりな形成手術が必要だが、それはなんとかなる。新しい配管工事さ、と。そして汗まみれのシーツごしにコートの肩を掴んだ。
コートは、柔らかく、止まることのない滴りを聞いた。そしてこう言う。むしろこのままの姿で証言したい、と。
補佐官は言う。いかん、裁判はTV中継されている。この裁判は有権者に訴えなくてはならないんだ、と。そして優雅な咳払い。
治療され、補整され、たっぷりと下稽古させられたコートは、そのあと証言台に立ったが、その証言は詳細で感動的で明快で、しかも大半が議会内の一派の創作だった。その一派は、既得権益確保のため、国防総省《ペ ン タ ゴ ン》の基礎構造の特定部分を残そうとしていたのだ。コートにも次第に呑みこめてきた。自分の証言のおかげで首がつながった三人の士官は、実はキレンスクに|電《E》磁|パ《M》ル|ス《P》施設が建造されたという報告を揉み消した直接の責任者だったのだ。
裁判でのお役目がすむと、コートはワシントンでは不要な存在となった。M通りのレストランで、アスパラガスのクレープを食べながら、補佐官は、間違った相手に喋ると致命的な危険があるよ、と言った。コートは、右手の指先で相手の喉頭をつぶした。議会補佐官が窒息して、顔をアスパラガス・クレープに浸けると、コートはひんやりした九月のワシントンに踏み出した。
ホサカが、警察記録、企業諜報記録、ニューズ・ファイルと漁った。コートはリスボンとマラケシュで企業内密告者を募った。それでいて裏切りということに取り憑かれるようになり、依頼主のために自分が金で釣った科学者や技術者を、ひどく嫌うようになる。シンガポールで酔っ払って、ロシア人技師を殴り殺し、その男のホテルの部屋に火を放つ。
次に現われるのはタイ。そこではヘロイン工場の監督役だった。その次はカリフォルニアの賭博カルテルの用心棒。次はボンの廃墟で雇われ殺し屋。ウィチタでは銀行強盗。記録は次第に曖昧に、怪しげになり、空白が長くなる。
どうやら薬物を使ったらしい尋問テープで、コートはこう言っている。ある日、すべてが灰色になってしまった、と。
翻訳したフランスの医療記録によると、身許不詳の男がパリの精神衛生施設に収容され、精神分裂症と診断されている。男は緊張病状態となって、ツーロン郊外の政府施設に送られる。サイバネティク・モデルの適用によって分裂症を快癒させる実験計画の被験者となる。任意に選ばれた患者に、マイクロコンピュータを与え、学生の助力でプログラムさせようとするものだ。男は全快した。実験全体で唯一の成功例だった。
記録はここで終わっていた。
ケイスは恒温フォームの上で寝返りをうち、モリイは眠りを乱されたと悪態をついた。
電話が鳴った。ケイスはそれをベッドに引きこみ、
「はい」
「われわれはイスタンブールに向かう」
とアーミテジの声がして、
「今夜だ」
「あん畜生、なんだって……」
とモリイが尋ねる。
「今夜、イスタンブールに向かうんだってさ」
「すっばらしい」
アーミテジは便名と出発時刻を読み上げている。
モリイが起き上がって灯りを点《つ》けた。
「おれの装備はどうするのさ、デッキは……」
とケイスが言う。
「フィンが手配する」
とだけ言って、アーミテジは電話を切った。
ケイスはモリイの荷造りを見つめた。モリイの眼の下には隈ができているが、ギプスをはめていてすら舞いを見るようだ。無駄な動きがない。ケイスの衣服は、バッグの脇でくしゃくしゃの山になっている。
ケイスが尋ねた。
「痛むかい」
「もうひと晩、チンのところにいても良かった」
「あの歯医者……」
「そうだよ。口固くてね。あそこのラックの半分を持ってて、総合クリニック。侍《サムライ》向けの治療をやってる」
とバッグのジッパーを閉め、
「あんた、イスタンブールは……」
「一度だけ、二日ばかり」
「変わんないところ。古い街」
とモリイは言った。
「千葉《チバ》へ向かうときも、こんなふうだったっけ」
とモリイは列車の窓ごしに、月面のように荒れ果てた工業地帯を見やる。地平線上の赤い標識《ビーコン》が、核融合プラントから飛行機を遠ざけている。
「LAにいたら、奴さんがはいってきて、荷造りしろ、マカオに向かう、だろ。着いて、あたしはリスボン・ホテルで番攤《ファンタン》やってたけど、奴さんは|中 山《チュオン・シアン》に渡ってった。次の日には、“|夜の街《ナイト・シティ》”であんたと追っかけっこだもん」
モリイは、黒ジャケットの袖口から絹のスカーフを取り、埋めこみレンズを磨く。〈スプロール〉北部の風景を見ると、ケイスの少年時代の混乱した想い出が甦る。高速道路の、傾いたコンクリート路面で、割れ目に群生した草が枯れていたっけ。
空港の十キロ手前から、列車は減速を始めた。ケイスが見つめる中、陽が昇る。少年時代の風景の上、でこぼこした鉱滓や精練所の錆びた骨格の上。
7
雨のベーオール地区。レンタルのメルセデスが、用心深いギリシャ人やアルメニア人宝石商の、格子張りで灯りの点《つ》いていないウィンドウをかすめ過ぎる。街路にはほとんど人影がなく、ときどき黒っぽい外套の人物が振り返って車を見送る。
「ここはかつて、オスマン朝イスタンブールのヨーロッパ区画として栄えたところです」
とメルセデスが説明する。
「それが落ちぶれちまったわけか」
とケイスが言った。
「ヒルトンは共和国大通《ジェムフリェト・ジャデシ》りにあるからね」
とモリイは言って、車の灰色ウルトラスエードに体を落ち着ける。
「どうしてアーミテジは、ひとりで飛んでくるんだろう」
とケイスは言った。頭痛がする。
「あんたが鼻につくからさ。あたしの鼻にもついてる」
ケイスはコートの話を伝えたかったが、やめておくことにした。飛行機内で睡眠|膚板《ダーム》を使ったのだ。
空港からの道路は一直線で、街をまっぷたつに切り開くかのようだ。ケイスの眼の前を、継ぎはぎ木造住宅の滅茶苦茶な壁が流れ過ぎ、共同住宅、環境建築《アーコロジー》、陰気な公営住宅、さらに合板と波形鉄板の壁。
フィンは、“さらりまん”黒《ブラック》の新調|新宿《シンジュク》スーツ姿で、ヒルトンのロビーで苦々しげに待っていた。薄青カーペットの大海を、ベロアの肘掛け椅子に乗って漂流しているようだ。
「驚いた。ビジネス・スーツを着た鼠だ」
とモリイが言う。
ふたりでロビーを横切って近づく。
「ここに来るのに、いくら払ってもらったんだい、フィン」
とモリイは肘掛け椅子の脇にバッグをおろし、
「そのスーツを着る代金ほどじゃないだろうけどさ」
フィンは上唇をめくり上げ、
「充分じゃねえさ」
モリイに黄色の丸タッグのついた磁気キーを手渡し、
「ご両人の記名は済んでる。班長《ハンチョウ》は上」
あたりを見回して、
「この町には反吐が出るぜ」
「ドームの下から引き出されると、広場恐怖症になるんだからねえ。ブルックリンかどこかにいるつもりにおなりよ」
とモリイは一本指でキーを振り回し、
「あんた、ボーイさんか何かやってんの……」
「誰かの埋めこみを調べるって仕事があるのさ」
とフィン。
ケイスが訊いてみた。
「おれのデッキはどうした」
フィンは顔をしかめ、
「筋は通してくれよ。ボスに訊きな」
モリイはジャケットの蔭で指を動かし、チラチラと手話《ジャイヴ》して見せる。フィンはじっと見つめ、やがてうなずいた。
「ああ、誰だかわかった」
とモリイは首でエレベータの方向を示し、
「行こうよ。カウボーイ」
ケイスはふたり分のバッグを持って、あとに従った。
ふたりの部屋は、ケイスがアーミテジと初めて会った、あの千葉《チバ》の部屋にそっくりだった。朝、ケイスが窓辺に向かっても、東京湾《トウキョウ・ベイ》が見えそうなほどだ。道路をはさんだ向かいには別のホテルがあった。まだ雨が続いている。代書屋が二、三人、戸口で雨やどりしていて、古い音声プリンタを透明プラスティックにくるんでいる。ここではまだ書き文字に権威があると見える。停滞した国なのだ。ケイスが眺めるうちに、旧式な水素電池変換方式の、艶消し黒のシトロエン・セダンから、皺だらけの緑の制服を着た、陰気なトルコ軍士官が五人、吐き出された。一行は向かいのホテルにはいる。
ケイスはベッドの方を振り返ってモリイを見た。蒼白いのが眼につく。|微 孔《マイクロポア》ギプスは、ロフトの|貫 膚《トランスダーマル》誘導ユニットの脇のベッド板上に置いてきた。グラスが部屋の照明器具を映しこむ。
電話が二度鳴らないうちに受話器を取った。
「起きていて良かった」
アーミテジの声だ。
「ちょうどね。姐さんはまだお寝んね。なあ、ボス、そろそろ話しあいをした方がいいんじゃないか。もう少し何をやらされてるのかわかってる方が、うまく仕事ができると思うんだ」
むこうは沈黙。ケイスは唇を噛んだ。
「きみは必要なだけ知ってる。知りすぎてるかもしれん」
「そうかな」
「身支度しろ、ケイス。モリイも起こせ。あと十五分ばかりすると客が来る。相手の名前はタージバシュジァン」
電話がツーという。アーミテジが切ったのだ。
ケイスが言った。
「起きろとさ。仕事《ビズ》だ」
「もう一時間も目を醒ましてるよ」
とグラスがこちらを向いた。
「ジャージー|とりで《バスチョン》とかいうのが来るってさ」
「あんた、いい耳してるね、ケイス。きっとアルメニアの血が流れてるんだ。その男はアーミテジがリヴィエラに張りつけた犬さ。さ、起きるの、手を貸してよ」
タージバシュジァンが現われてみると、灰色のスーツに金縁ミラー・グラスの若い男だった。白いシャツの衿をくつろげ、密生した黒い胸毛をのぞかせている。それがあまり濃いので、ケイスは最初、Tシャツか何かかと思った。この男は、はいってくるときに、ヒルトンの黒い盆《トレイ》に、濃く香り高いブラック・コーヒーの小さなカップ三つと、東洋風の藁色でベタつく菓子三つを載せてきて、
「英語《インギリズ》で言うように、お気楽にやりましょう」
モリイを鋭く見つめるようだったが、結局は銀色のサングラスをはずした。瞳は焦茶色で、短く刈りこんだ軍隊風の髪の色あいと同じだ。それが微笑んで、
「この方が、いい、でしょ。そうでないと、|トンネル《ツ ネ ル》無限になってしまう――鏡と鏡で。特にあんた――」
とモリイに向かい、
「――注意しないと、トルコでは、そういう整形を見せびらかす女性は好まれません」
モリイは菓子を噛んで半分にし、
「あたしの勝手だろ」
と口がいっぱいのまま言う。噛みしめ、呑みこみ、唇をなめて、
「あんたのことは知ってるよ。軍のたれこみ屋だろ、え……」
モリイの手がさりげなくジャケットの前からはいり、短針銃《フレッチャー》を取り出す。持っているとはケイスも知らなかった。
「お気楽に、どうか」
と言うタージバシュジァンの白陶の小盃が、口から数センチのところで止まった。
モリイは銃を突き出し、
「さあて、爆発する針が山ほど出るかな。それとも癌にかかるか。針一本でだよ、抜け作。何ヵ月も何も感じない針だ」
「お願いしますよ。これじゃ英語《インギリズ》でいう硬ばり――」
「いやな朝ってんだよ。さあ、とっとと男のことを喋って、ここから出ていきな」
と銃をしまう。
「奴の住まいはフェネル。キュチュク・ギュルハネ・ジャデシ14です。毎晩バザールへ向かう|トンネル《ツ ネ ル》・ルートはわかっています。最近の舞台はイェニシェヒル・パラス・|ホテル《オテリ》。観光客用《ツリスティク》の現代的なところです。手配して、警察がそこのショウに興味をもつよう仕向けました。イェニシェヒルの経営者、びくびくしています」
とタージバシュジァンは微笑んだ。何か金属質のアフターシェイヴが匂う。
「あたしが知りたいのは、埋めこみだよ」
とモリイは太腿を揉み、
「奴がつまり、どういうことができるか」
タージバシュジァンはうなずき、
「英語《インギリズ》で言うなら、最悪。識閾下《サブリミナル》」
と最後の言葉を慎重に区切って発音した。
「左手に――」
と言いながらメルセデスは、雨の街の迷路を抜け、
「――“カパリ・ジャルシ”、大バザールがあります」
ケイスの脇で、フィンが満足げな声を発したが、見ているのは逆方向だ。道の右側には小さな屑《スクラップ》置場が並んでいる。ケイスが眼をやると、機関車の抜け殻が、錆に汚れて不揃いな縦溝つきの大理石に載っている。首のない大理石像が薪のように積んである。
「ホームシックだろ」
とケイスが訊いた。
「ここにゃ反吐が出る」
とフィンが答える。シルクの黒タイが、擦り切れたカーボン・リボンのようになりはじめている。新品スーツのラペルには、ケバブの汁と揚げ卵の食いこぼし。
「おい、ジャージー」
とケイスはふたりのうしろに座っているアルメニア人に声をかけ、
「そいつはどこで埋めこみ手術をうけたんだい」
「千葉市《チバ・シティ》です。奴は左の肺がありません。もう片方は、強化してる、って言うんですか……。奴と同じ埋めこみは誰でもできるんですけど、奴はすごい才能で」
メルセデスが急にハンドルを切って、皮革を山積みにした低圧《バルーン》タイヤの荷車をよけた。
「奴のあとをつけていたら、奴の近くの自転車が、一日に十台以上も倒れたんです。乗ってた人間を病院で見つけたら、いつも同じ話。ブレーキ・レヴァの脇にサソリがいた、と――」
「“眼にした物が手にはいる”か」
とフィンが言い、
「そいつのシリコンの概略はわかる。派手だよ。自分で思い描いたものを、ひとに見せる。そいつを一|拍《パルス》に絞りこめば、網膜なんていちころだろうな」
「これを、あの女性のお友だちに話したんですか」
とタージバシュジァンは、ふたつのウルトラスエード張りバケット・シートの間に身を乗り出し、
「トルコでは、女はやはり女で、あれも――」
フィンが鼻先で笑い、
「おまえさん、下手なことを考えると、あの女はタマタマを蝶タイに結ぶぞ」
「その言い方、わかりません」
「いいよ。黙んなってことさ」
とケイスが言う。
アルメニア人は上体をうしろに戻し、アフターシェイヴの金属めいてあざとい匂いを残していった。サンヨーのトランシーヴァに囁きはじめる。言葉が、ギリシャ語、フランス語、トルコ語に、ポツンと英語も混ざった、奇妙なとりあわせだ。トランシーヴァはフランス語で返事をした。メルセデスがなめらかに角を曲がりこむ。車がこう言った。
「香辛料《ス パ イ ス》バザールはエジプト・バザールとも呼ばれますが、一六六〇年にスルタン・ハティジェが建設したこれ以前のバザールの跡地に建ちました。市の中心的マーケットとして、香辛料《ス パ イ ス》ばかりか、ソフトウェア、香水、麻薬――」
「麻薬」
と口に出しながら、ケイスは車のワイパーが防弾レクサンの上を行っては帰るのを見つめ、
「なんと言っていたっけ、ジャージー、そのリヴィエラの悪趣味のこと……」
「コカインとメペリジンの混合物です、はい」
とアルメニア人はサンヨーとの会話に戻ってしまった。
「デメロールって昔いってたやつだ」
とフィンは言い、
「敵は|混合コカイン《ス ピ ー ド ボ ー ル》派か。おかしな部類とつきあうんだなあ、ケイス」
「かまうこたない」
とケイスはジャケットの衿を立て、
「その阿呆野郎、気の毒に新しい膵臓か何かを手に入れることになるのさ」
一同がバザールに足を踏み入れると、フィンは眼に見えて陽気になった。人込みの密度と囲いこまれている感触とで落ち着くようだ。アルメニア人を含めた三人で幅広い中央通路を歩く。頭の上は、煤に汚れたプラスティック布や蒸気機関時代からの鉄細工を緑色に塗った代物だ。何百という吊り看板が身をよじり、ちらついた。
「おい、たまげたなあ」
とフィンがケイスの腕をとり、
「あれ、見てくれよ」
と指さしながら、
「馬だぜ、ありゃ。馬なんて見たことあるかい」
ケイスもその防腐処理した獣に眼をやり、首を振った。鳥や猿を売る区域の入口近く、一種の台座の上に陳列してある。何十年も通行人の手が触れて、脚は黒く、毛も抜けていた。
「昔、メリーランドで一頭だけ見たことがあるんだ」
とフィンは言い、
「それも汎病禍《パンデミック》からたっぷり三年も後だぜ。アラブ人は今でもDNAから組み上げようとしてるけど、いつもドジ踏んでる」
一同が通り過ぎる間、茶色ガラスの馬の眼が、こちらを追っているようだった。タージバシュジァンに連れられて、マーケットの中核近くのカフェにはいる。天井の低い部屋で、もう何世紀も営業中だったように見える。しみだらけの白衣を着た細身の少年たちが、詰めこまれたテーブルの合間で身をかわしながら、トルコ・ツボルグや小さなお茶グラスを載せた鉄の盆のバランスをとっている。
ケイスは扉脇の売り子から叶和圓《イエヘユアン》をひと箱買った。アルメニア人はサンヨーに呟きかけていたが、
「来て」
と言い、
「奴が動いてます。毎晩、奴は|トンネル《ツ ネ ル》に乗ってバザールに来ます。例の混合物をアリから買うんです。あなたの女も近くです。来て」
小路は古いところだった。古すぎるほどで、両方の壁は、黒っぽい石の塊りから切り出したものだ。舗道はでこぼこしていて、古代の石灰岩の、滴ったガソリン一世紀分を吸いこんだ臭いがしている。
「何も見えねえ」
とフィンに囁きかけると、
「姐さんはそれでいいんだ」
とフィンが言う。
「静かに」
というタージバシュジァンの声が大きすぎた。
木が、石かコンクリートにこすれた。小路を十メートルばかりはいったところで、黄色い光の楔が敷石に落ち、広がった。人影が出てきて、扉がまたきしんで閉まる。狭いところが暗闇に戻る。ケイスは身震いした。
「今だ」
タージバシュジァンが言うと、眩いばかりの白色光ビームがマーケットの反対側の建物の屋根上から射し、古い木の扉の脇にいた細身の人影を、完璧な円の中に捉えた。輝く瞳が左を、右をうかがい、そして男はくずおれた。ケイスは誰かに撃たれたものと思った。男はうつぶせに倒れ、ブロンドの髪が古い石造りに蒼白く、力ない両手は白々と哀れだ。
フラッドライトは微動だにしない。
倒れた男のジャケットの背中が膨れ上がり、はじけた。血が壁や戸口にはねかかる。考えられないほど長く、腱がロープのように浮き上がった腕が二本、照明の下で灰色がかったピンクに蠢いた。化物は舗道の下から体を引き上げようとしているらしい。それも、かつてリヴィエラだった、動きもなく血まみれの死体を突き抜けて、だ。化物は身の丈二メートルもあり、二本足で立ったが、首なしのようだ。やがてそいつは、ゆるゆるとこちらに向き直った。見れば、頭部はあるが首がない。眼もなく、膚が濡れた内臓のピンク色に照り映えている。口、と呼べるなら、それは円く、浅い円錐型で、内側には渦巻くような柔毛やら剛毛やらが生えて、それが黒クロームのように光る。化物はボロボロになった服や肉を蹴りのけて、一歩進み出た。動きながら、口がこちらを探るようだ。
タージバシュジァンがギリシャ語かトルコ語で何やら言って、化物に突進した。窓からダイヴする人間のように、両腕を広げている。化物を突き抜ける。その先、光の輪の外の闇から、ピストル射撃の銃光炎《マズル・フラッシュ》が走った。岩のかけらがケイスの頭をかすめて過ぎた。フィンがケイスを引っぱって、しゃがみこませる。
屋根の上からの光が消え、銃光炎《マズル・フラッシュ》と化物と白色光の不釣りあいな残像が残る。耳が鳴った。
やがて光が戻ってきたが、今度は揺れながら闇を探っている。タージバシュジァンは鋼鉄ドアによりかかり、強烈な光の中で顔面蒼白になっている。左手首をおさえ、左手の傷から滴る血を見つめていた。ブロンドの男は、もとどおり五体満足で血痕もなく、その足もとに倒れている。
モリイが黒ずくめの姿で、短針銃《フレッチャー》を手に、闇から踏み出てきた。
「無線を使え」
とアルメニア人は歯を喰いしばったまま言い、
「マフムートを呼べ。この男をここから連れ出さないと。いい場所じゃないから」
「あの間抜け、すんでのところだったじゃないか」
とフィンは膝を鳴らしながら立ち上がり、パンツの裾を払うが、あまり効果はなく、
「おまえさん、恐怖ショウの方を見ていたんだろ。眼につかない方にほうり出したモノホンには気もつかないで。手際が良かったからな。さて、連中に手ェ貸して、あれをここから運び出してくれ。おれは奴さんが目を醒ます前に、あのお道具を走査《スキャン》して、アーミテジが手に入れたのが金に見あった代物なのを確かめなくちゃ」
モリイがかがみこんで、何かを拾った。ピストルだ。
「ナンブだね」
と言い、
「いい銃だ」
タージバシュジァンが哀れっぽい声を出した。ケイスが見ると、中指の大半がなくなっていた。
街並が夜明け前の青に浸っている中、モリイはメルセデスに、トプカピに行くよう命じた。フィンはマフムートという大男のトルコ人と、意識を失ったリヴィエラを運んで、小路から去っている。その数分後、埃だらけのシトロエンがアルメニア人を迎えにきた。当人は失神寸前のようだった。
「おまえは阿呆だよ」
とモリイは車のドアを開けてやり、
「退ってりゃいいものを。奴が出てきたときから、こっちは狙いをつけてたんだ」
タージバシュジァンがモリイを睨む。
「これでおまえとはおさらばだよ」
とモリイは相手を車に押しこんで、ドアを叩きつけるように閉め、
「今度、面《つら》ァ出したら、殺してやる」
と色つきウィンドウのむこうの白い顔に言う。シトロエンは小路をやっとこ進み、ぎごちなく角を曲がって通りに出ていった。
今、メルセデスは、目醒めかけたイスタンブールの街を静かに走っている。ベーオール地区の|トンネル《ツ ネ ル》終着駅を過ぎ、ケイスにどことなくパリを思わせる、|人《ひと》|気《け》のない迷路のような裏通りや荒《すさ》みきったアパルトマンを抜ける。
「これ、なんだい」
とモリイに訊いてみた。メルセデスは宮殿《セラーリオ》を取り囲む庭園のはずれで止まっている。ケイスはぼんやりと、さまざまな様式の奇妙な寄せ集めを見ている。それがつまり、トプカピだった。
「王様ひとりのための淫売宿みたいなもんよ」
とモリイは伸びをしながら車を降り、
「女を大勢集めてたんだ。今は博物館だけどね。フィンの店みたいなもんでさ、いろんなものがかき集めてある。大きいダイヤモンド、剣、洗礼者ヨハネの左手――」
「培養|槽《ヴァット》の中か何か……」
「いんや、死んでる。真鍮の手型か何かに収まってて、脇にゃ小さい戸がついててさ、クリスチャンがキスして幸運を祈るようになってる。大昔にクリスチャンからかっさらったきり、埃も払ってないんだ。異教徒の遺宝だかんね」
黒い鉄製の鹿が、宮殿《セラーリオ》の庭園で錆ついていた。ケイスはモリイに並んで歩き、ブーツの爪先が、早霜で硬ばった雑草を踏み折るのを見つめる。ふたりは、冷たい八角形の敷石の小径の脇を歩いていた。冬が、バルカン諸国のどこかで待ちかまえている。
モリイが言った。
「あのタージね、ありゃA級のクズだよ。秘密警察。拷問屋。簡単に金でころぶんだ。ましてアーミテジみたいな金額でいけば、ね」
ふたりのまわりの濡れた木々で、鳥がさえずりはじめた。
「例のこと、やったよ」
とケイスが口を開き、
「ロンドンのやつ。つきとめはしたけど、どういう意味かわからない」
とコートの物語をモリイに話す。
「ま、〈スクリーミング・フィスト〉にアーミテジなんて人間がいなかったのは、知ってたんだ。調べたんだから」
とモリイは鉄の鹿の錆びた脇腹を撫で、
「例のコンピュータがあの男を引っぱり出したのかね。そのフランスの病院から……」
「|冬 寂《ウィンターミュート》だろうな」
とケイスが言う。
モリイはうなずいた。
ケイスが言った。
「ただ、さ、あいつ、前は自分がコートだってわかってんのかな。つまり、病院入りの時は、もう誰でもなくなってたわけで、だから|冬 寂《ウィンターミュート》がただ――」
「うん、|いち《ゴー》から造った。うん――」
モリイは向きを変え、並んで歩きつづけながら、
「――辻褄はあう。だって、あの男、生活ってもんがないんだもん、個人として。少なくとも、あたしが知ってる限りでは、ね。あんな大人なら、ひとりになって何かやることがありそうなもんじゃない。それがアーミテジは違う。すわって壁を見つめるだけなんだぜ。で、きっかけで急に走りだして、|冬 寂《ウィンターミュート》の小間づかいをやるわけ」
「じゃ、どうしてロンドンにあんなものを隠してあるんだろう。ノスタルジーかな」
「あいつも知らないのかもしれないよ。名義だけかもしれないじゃない」
「わかんないな」
とケイスが言う。
「声に出して考えてただけよ――AIって、どのぐらい賢いの、ケイス」
「いろいろ。ものによっちゃ、犬なみ、ペットなみ。それでも大金がかかる。ものによっちゃ、チューリングの監視で許される限度まで賢い」
「ねえ、あんたカウボーイだろ。どうしてそういうのに夢中になんないのさ」
「そうさな」
とケイスは言い、
「まず、珍しいってことだ。たいてい、鋭い奴ってのは軍用だから、おれたちじゃ氷《アイス》が破れない。そもそも氷《アイス》ってのは、そこが出どころなんだからな。それからチューリングのお巡りどもだ。あれはやばい」
とモリイを見やり、
「わかんないけど、とにかく持ち場の外なんだ」
「ジョッキーはいずこも同じ。想像力がないんだね」
ふたりは、広々とした四角形の池にやってきた。鯉が何かの白い水花の茎に口をこすりつけている。モリイが、転がっていた小石を蹴り入れ、波紋が広がるのを見ながら、
「あれが|冬 寂《ウィンターミュート》。この件は、よほどデカいと思うんだ。あたしら、波の幅が広がりすぎたところにいるから、中心に当たった石が見えない。何かがあるのはわかっても、なぜかがわからない。あたしはなぜかが知りたいんだ。あんた、ちょっと|冬 寂《ウィンターミュート》と話してきてよ」
「近づけもしないよ。夢みたいな話だ」
「やってみなよ」
「できっこないって」
「“フラットライン”に訊いてよ」
「あのリヴィエラには、何をやらせるんだい」
とケイスは尋ねた。話題を変えたかったのだ。
モリイは池に唾を吐き、
「知るもんか。あいつと面《つら》突きあわせるくらいなら、殺してやりたいよ。あいつの人物像《プロファイル》を見たんだ。あれは一種の、やむにやまれぬユダでね、欲望の対象を裏切っている意識がないと、性的に満足できない。ファイルではそうなってる。しかも、相手から惚れられてなくちゃいけない。たぶん本人も相手を好きなんだろうね。だからタージでも簡単に罠をかけられたんだ。それってのも、ここにいた三年間、政治犯を秘密警察に密告《ちく》ってきているからさ。たぶんタージは、電撃棒が出てくるとき、あいつに見学させてやっていたんだろう。三年で十八人だよ。全部女で、年齢《とし》が二十から二十五歳。おかげでタージは反体制派に困らなかった」
とモリイは両手をジャケットのポケットに突っこみ、
「つまり、あいつは、本気で欲しいと思う女を見つけると、その女が必ず政治犯になるように仕向けてたんだ。〈モダンズ〉の服みたいな性格してるんだよ。人物像《プロファイル》によれば、きわめて稀なタイプで、二百万人にひとりだってさ。ということは、人間性ってものが捨てたもんじゃないってことだろうけど」
と白い花と淀んだ水を見つめ、気むずかしい顔つきで、
「どうやら、あの|ちんぽこ《ピーター》のために特別の保険をかけとかなくちゃならない」
そこでモリイは振り向いて微笑んだが、とても冷たい笑みだった。
「それ、どういうこと」
「気にしないで。さ、ベーオールに戻って、朝飯らしきものを見つけようよ。あたしは今晩もまた忙しくなる。あいつのフェネルの住まいから身の回り品を持ち出さなけりゃならないし、バザールにもう一回行って、あいつの薬《やく》を買わなきゃならないし――」
「あいつの薬を買う……。特別扱いかよ」
モリイは笑いだし、
「あいつは若死にしかけちゃいないんだよ、可愛い子ちゃん。それに、その特別の味わいがないと仕事にならないらしいし。とにかく、今のあんたの方がいいよ。骨と皮じゃなくなったから」
とニッコリし、
「で、あたしは売人のアリのところで仕入れる。まかしとき」
アーミテジは、ヒルトンのふたりの部屋で待っていた。
「荷造りの時間だ」
と言うので、その薄青い瞳と陽灼けした仮面の奥に、ケイスはコートなる男を見つけようとしてみた。千葉《チバ》にいたときのウェイジを想ってみる。あるレベル以上の指揮者が性格を覆い隠しがちなのは、わかっている。けれど、ウェイジにも弱点はあった。愛人たち。噂では子供すらいるという。アーミテジの無表情ぶりは、それとは違う。
「今度はどこ」
と尋ねて、ケイスはアーミテジのそばを通って窓ぎわに行き、道路を見下ろしながら、
「どんな気候……」
「気候はなく、天気だけだ。ほら、パンフレットを読みな」
とアーミテジは何やらコーヒー・テーブルに置いて立ち上がる。
「リヴィエラの具合は大丈夫だった……。フィンはどこ……」
「リヴィエラは元気だ。フィンはもう故郷に向かってる」
とアーミテジは微笑む。昆虫が触角を震わせるのと同程度の意味しかない微笑だ。金の腕輪《ブレスレット》の音をたてながら腕を伸ばして、ケイスの胸を小突き、
「あまり小癪な真似はするなよ。小さな嚢《ふくろ》はそろそろ擦り減りはじめてる。それがどれぐらいか、きみは知らないんだからな」
ケイスは表情を変えないようにして、やっとうなずいた。
アーミテジが去ると、パンフレットを手に取った。金をかけた印刷で、フランス語、英語、トルコ語が書いてある。
自由界《フリーサイド》――いますぐにも
四人は、イェシルケー空港からのTHY便に予約してあった。パリでJALのシャトルに乗り換えだ。ケイスはイスタンブール・ヒルトンのロビーで腰をおろして、ガラスばりの土産店でリヴィエラが偽のビザンティン遺物をひやかすのを見つめる。アーミテジは、トレンチコートをケープのように肩にかけ、店の入口に立っている。
リヴィエラはほっそりしたブロンドで、声が優しい。英語も訛りがなく、なめらかだ。モリイは三十歳だと言っていたが、年齢《とし》を当てるのは難しい。法律上は無国籍で、偽造したオランダのパスポートで旅行する、とも言っていた。リヴィエラは、放射能の残る旧ボン中心部を取り巻く廃墟から生まれたのだ。
笑顔の日本人旅行者が三人、どやどやと店にはいりかけ、丁寧にアーミテジに頭を下げる。アーミテジは、あまりに足早に、あまりに目立って店を横切り、リヴィエラの横に立った。リヴィエラは振り向いて微笑する。とても優美だ。ケイスの見るところ、この顔立ちは千葉《チバ》の外科医の手際だ。精緻な出来栄えだから、アーミテジの、適当な顔を大味なハンサムぶりに混ぜあわせた代物とは大違い。リヴィエラの額は高く、なめらかで、灰色の眼は静かに超然としている。鼻も、見事すぎるほどに整形されていたのだろうが、一度折られたあと不細工に接いだらしい。この暴力沙汰の痕跡で、顎の繊細さやすばやい笑顔が相殺されている。歯は小ぶりで綺麗に並び、真っ白だ。白い手が彫刻の破片のイミテーションを弄ぶのを、ケイスは見つめていた。
リヴィエラの態度を見ていると、とてもそうは思えないが、前の晩に襲われ、毒|短針《フレシェト》で麻痺させられて誘拐され、フィンの検査にかけられたあと、アーミテジに強制されてチームに加わったのだ。
ケイスは時計を見た。モリイもそろそろ麻薬調達から戻ってくる。またリヴィエラに眼をやって、
「おまえは今も酔ってやがるんだろうな、糞ったれ」
とヒルトンのロビーに言ってやる。白革のタキシード・ジャケットを着た半白のイタリア婦人が、ポルシェのサングラスを押し下げてケイスを見つめた。ケイスは、にこやかに微笑みかけて立ち上がり、バッグを肩にかける。機内用の煙草が必要だ。JALシャトルには喫煙セクションがあるだろうか。
「またな、おばさん」
とご婦人に声をかけたら、相手はすぐにサングラスを鼻の上にずり上げ、そっぽを向いてしまった。
土産店にも煙草はあるが、アーミテジやリヴィエラと口をきくのは、ぞっとしない。ロビーを出たら、自動販売機のありかがわかった。幅の狭い窪みの、ずらりと並んだ公衆電話の奥にある。
ポケットいっぱいのリラ貨を探って、小さな鈍色の合金コインを次々にスロットにほうりこむ。この時代錯誤の手順がなんとなく面白い。いちばん近くの電話が鳴りだした。
無意識に、それをとりあげる。
「もしもし」
かすかな調音《ハーモニクス》、どこかの軌道リンクをわたる小さな聞き取れない声、やがて風のような音。
「やあ、ケイス」
五十リラのコインがケイスの手から落ち、一度弾んでから転がって、ヒルトンのカーペットのどこかに見えなくなった。
「|冬 寂《ウィンターミュート》だよ、ケイス。話しあう時分だろ」
素子《チップ》の声だ。
「話したくないのかい、ケイス」
ケイスは電話を切った。
煙草が念頭から去って、ロビーに戻る途中、ケイスは一列に並んだ電話の前を歩かなくてはならなかった。各電話器が、ケイスが通るたびに、一度だけ鳴った。
[#改ページ]
第三部 真夜中《ミッドナイト》のジュール・ヴェルヌ通り
8
植民群島。
島々。円環体《トーラス》、紡錘体《スピンドル》、集合体《クラスタ》。人《ヒト》DNAが、急勾配の重力の井戸から、油膜のように広がる。
映像《グラフィクス》ディスプレイを呼び出して、L=5植民群島でのデータのやりとりを大幅に単純化させてみよう。一部分がくっきりと赤ベタになり、スクリーン上でひときわ眼につく大きな四角形を描く。
自由界《フリーサイド》だ。自由界《フリーサイド》はいろいろな面をもち、そのすべてが、井戸をシャトルで登り降りする旅行客の眼につくとは限らない。自由界《フリーサイド》は売春宿であり銀行業|結合体《ネクサス》、行楽地であり自由港、辺境町であり保養地でもある。自由界《フリーサイド》はラス・ヴェガスでありバビロンの空中庭園、軌道上のジュネーヴであり、ある一族の故郷でもある。その一族とは、近親婚によって慎重に磨きをかけられた、つまりテスィエとアシュプールの産業閥だ。
パリへ向かうTHY便で、一同はファースト・クラスに固まって座った。モリイが窓ぎわ、その横がケイス。リヴィエラとアーミテジは通路側だ。一度だけ、機が海上で傾斜《バンク》したとき、ケイスはギリシャの島の町の、宝石のようなきらめきを眼にした。これも一度だけ、飲み物を取ろうとして、バーボンの水割りの底に、巨大な人間の精子のようなものが瞬くのを見た。
モリイがケイスごしに体を伸ばして、リヴィエラの顔を一発ひっぱたき、
「おやめ。悪戯はしないの。そういう識閾下《サブリミナル》ごっこをあたしのまわりでやったら、いやってほど痛めつけるからね。傷ひとつ作らずに痛めつけられるんだよ。それが楽しみ[#「楽しみ」に傍点]なんだ」
ケイスは無意識に振り返ってアーミテジの反応をうかがった。なめらかな顔は落ち着き払い、青い眼に油断はないが、怒りの色もなく、
「そうだよ、ピーター。やっちゃいけない」
ケイスが眼を戻すと、かろうじてごく一瞬、黒薔薇をとらえた。花弁が革のようにぬめり、黒い茎には鮮やかなクロームの棘があった。
ピーター・リヴィエラはにこやかに微笑み、眼を閉じると、たちまち眠りこんでしまう。
モリイが顔をそむけると、レンズが暗い窓に映った。
「上にのぼったこと、あるんだろ……」
とモリイが尋ねた。ケイスはJALシャトルの深々とした恒温フォームの寝椅子《カウチ》に、もう一度もぐりこもうとしていた。
「いや。あまり旅しないんだ、仕事《ビズ》以外は」
スチュワードがケイスの手首と左耳に読み出し電極《トロード》をつけてくれる。
モリイが言う。
「あんた、SASにならなきゃいいけど」
「飛行機酔いかい……。まさか」
「同じもんじゃないよ。無重力だと心拍数が高まって、しばらくは内耳もイカれる。逃走本能にカツ入れられて、尻に帆をかけろって信号も出るし、アドレナリンもたっぷり」
スチュワードはリヴィエラのところに移り、赤いプラスティック・エプロンから新しく電極《トロード》を取り出す。
ケイスは首をねじ曲げて、旧オルリー・ターミナルの輪郭を見きわめようとした。が、シャトル発着場は、優美な噴射|偏向板《デフレクタ》で遮蔽されている。偏向板《デフレクタ》のコンクリートは濡れ、窓にいちばん近い板には、赤のスプレイ器でアラビア語のスローガンが書いてあった。
眼をつぶり、シャトルなど、ただの大型飛行機で、とても高いところを飛ぶにすぎない、と自分に言い聞かせる。匂いが飛行機と同じような、新しい服やチューインガムや疲労の匂いだ。有線放送の琴《コト》の音に耳を傾けて待つ。
二十分後、重力がのしかかってきた。古代の石組を骨格にした、大きく柔らかな手のようだった。
|宇《S》宙適|応《A》症候|群《S》はモリイの説明よりひどかったが、じきに楽になり、眠ることができた。スチュワードに起こされたときには、JALターミナル集合体《クラスタ》にドッキングする態勢にはいっていた。
「すぐ自由界《フリーサイド》に移動するんだろ」
と尋ねながら、眼では、シャツのポケットからゆるやかに漂い出て鼻先十センチのあたりに舞う叶和圓《イエヘユアン》の切れ端を追う。シャトル飛行中は煙草が喫えない。
「いいや。計画には例によってボスお得意のよじれがあってさ、ここのタクシーでザイオンまで行くの。ザイオン集合体《クラスタ》」
とモリイは固定帯《ハーネス》の解除ボタンを押し、フォームの抱擁から体を引き離そうとしながら、
「おかしな場所を選ぶもんだと言いたいね」
「どうして」
「ドレッド。ラスタ。植民島《コロニー》はもう三十年も前のもんだし」
「それ、どういうこと……」
「見りゃわかる。あたしにとっちゃ、まずまずのところだけどね。それに、煙草喫っても文句言われないよ」
ザイオンを創設したのは五人の労働者だった。この五人は地球に帰るのを拒み、重力の井戸に背を向けて、建設にとりかかったのだ。植民島《コロニー》の中央|円環体《トーラス》に、回転による重力を発生させるより早く、五人ともカルシウム減損と心臓縮小を患ってしまった。タクシーの透明バブルから見たザイオンの間に合わせ外壁は、イスタンブールの継ぎはぎ安アパートを思わせる。不定型で色落ちした外板には、レーザで、ラスタファリアンの符号や溶接工のイニシャルが描きこんであった。
モリイと、アエロルという名の痩せたザイオン人とに手を借りて、ケイスは、内|円環体《トーラス》の中心部への自由落下廊下を進んだ。SAS眩暈《め ま い》の第二波の結果、アーミテジとリヴィエラの姿は見失っている。
「ここよ」
とモリイは頭の上の細い昇降口にケイスの脚を押しこみ、
「横木をつかみな。さかさまに登るつもりになるんだよ。外殻に向かっていくんだから、重力の中に降りてくわけ。わかった……」
ケイスの胃がむかついた。
「大丈夫《だいじょぶ》さね」
とアエロルが言う。ニヤニヤ笑いの両端に金の糸切り歯が見えた。
どうしたものか、トンネルの突き当たりはトンネルの底だった。この弱い重力をいとおしむケイスは、空気の塊りに出あった溺れかけの男のようだ。
「立ちな」
とモリイは言い、
「次はそこに接吻するつもりかい」
ケイスは両腕を広げて俯伏せに転がっている。何かが肩に当たった。寝返りをうって見ると、伸縮ケーブルの大きな束だ。
「ままごとしなくちゃ。これ、張るの手伝いな」
とモリイが言う。ケイスが、広々として面白味のないスペースを見回してみると、そこいらじゅう、一見でたらめに鉄の輪がある。
モリイの、何やら複雑な指図どおりにケーブルをめぐらしおえると、そこにぼろぼろの黄色のプラスティック・シートを吊っていく。作業をするうち次第にケイスも気づいたが、集合体《クラスタ》全体にいつも音楽が脈うっている。ダブというもので、ディジタル化したポップの膨大な見本から組み上げた、官能的なモザイクだ。モリイに言わせれば、それが崇拝であり、共同体意識であるらしい。ケイスは黄色のシートを一枚、引っぱってみた。軽いのだが、それでもうまくいかない。ザイオンの匂いは、煮野菜と人体と印度大麻《ガンジャ》だった。
「いいぞ」
と膝の力を抜いてハッチを抜けてきたアーミテジが、シートの迷路にうなずいた。リヴィエラも従っているが、不充分な重力の中でおぼつかなげだ。
「これをやってるとき、どこに行ってたんだ」
とケイスはリヴィエラに訊いた。
相手は喋ろうと口を開く。小ぶりの鱒が泳ぎ出てきて、ありえないことに気泡が浮かんだ。ケイスの頬をかすめ過ぎていく。
「頭の中」
とリヴィエラが言って微笑む。
ケイスは笑ってしまった。
「いいぞ」
とリヴィエラが言い、
「笑えるんだ。手伝いたいところだったんだけど、ぼくの手はどうしようもなくて」
と両手を挙げて見せると、急に倍に増えた。腕四本に手が四つ。
「害のない道化ってだけなんだろうね、リヴィエラ……」
とモリイがふたりの間に割ってはいる。
「ヨオ」
とアエロルがハッチから声をかけ、
「いっしょに来んかい、カウボーイ人」
「きみのデッキさ」
とアーミテジも言い、
「ほかの装備もある。手を貸して荷物室から取ってきてくれ」
「とっても蒼白い顔だや」
とアエロルが言ったのは、ふたりで、気泡に包みこんだホサカ端末《ターミナル》を中央通路沿いに引いているときだった。
「何か食べるだか……」
ケイスの口に唾液がこみ上げてきた。首を振る。
アーミテジは、ザイオンに八十時間とどまる、と宣言した。モリイとケイスは、無重力状態で訓練して慣れておかなくてはいけない、という。一同にはアーミテジから、自由界《フリーサイド》およびヴィラ|迷 光《ストレイライト》について説明があるらしい。リヴィエラが何をすることになるのか、はっきりしないが、ケイスは尋ねてみたいとも思わなかった。到着して数時間後、アーミテジに言われて、ケイスが黄色の迷路の中のリヴィエラを食事だと呼びにいったことがある。見つけてみると、リヴィエラは薄い恒温フォームの上に、素裸で猫のように丸くなって眠っているようだった。頭のまわりを、立方体、球、ピラミッドなどの小さく白い幾何図形が周回していた。
「おい、リヴィエラ」
輪は回りつづけた。ケイスは戻ってアーミテジに伝えた。
「そりゃ、幻覚《らり》ってるのさ」
とモリイが分解した短針銃《フレッチャー》の部品から眼を上げ、
「ほっときゃいい」
アーミテジは、無重力がケイスのマトリックス内での活動能力に影響すると思っているらしい。
ケイスはこう反論した。
「心配すんなよ。|没 入《ジャック・イン》すりゃ、ここにいるんじゃないんだ。どこだって同じさ」
「きみはアドレナリン・レベルが高まっている」
とアーミテジは言い、
「まだSASにかかっている。治るのを待つほどの時間はなかろう。そのままで作業してもらうんだな」
「じゃあ、ここから|仕掛け《ラ ン》にかかるのかい」
「いや。練習しろ、ケイス。今のところは。廊下を上がって――」
デッキの見せてくれる電脳空間《サイバースペース》は、デッキが物理的にどこにあろうと、たいして関係がない。ケイスが|没 入《ジャック・イン》して眼を開けば、おなじみ東部沿岸原子力機構のアステカ風なデータのピラミッド。
「どうだい、ディクシー」
「死んでるよ、ケイス。このホサカでたっぷり時間をかけたら、そいつがわかった」
「どんな感じ……」
「感じねえ」
「ひっかかるかい……」
「ひっかかるのはよ、何もひっかからねえってことよ」
「どういうこと……」
「ソ連の収容所、シベリアのな、そこにいた仲間なんだが、親指が凍傷になった。医者が来て、切り落としちまった。何ヵ月もたって、野郎、ひと晩じゅう、寝返りをうってやがる。エルロイよ、とおれァ言ったもんだ。どうしたんだい。忌々しい親指が痒いんだ、と奴は言う。じゃあ、掻きゃいいだろう、てえと、マコイよ、無くなった親指なんだよ」
構造物が笑うと、笑いでない何か別のものとして伝わってくる。ケイスの背筋を冷えびえしたものが走った。
「頼みがあるんだがな、坊主」
「なんだい、ディクス」
「この、おまえさんの荒稼ぎな、終わったら、こんな糞忌々しいもの、消しちまってくれ」
ケイスにはザイオン人がわからない。
アエロルを格別に刺激したわけでもないのに、こんな話をしてくれた。アエロルの額から赤ん坊が飛び出して、水栽培している印度大麻《ガンジャ》の森に走りこんだ、と。
「とても小さな赤ん坊なんだや。指っぽっちの長さだや」
掌で、傷ひとつなく広々した茶色の額をこすり、にっこり笑う。
この話をケイスがモリイに言うと、
「印度大麻《ガンジャ》のせい。ここの連中は、自分の状態がどうかって区別しないのさ。そういうことがあったってアエロルが言うなら、ま、本人には[#「本人には」に傍点]あったことなわけ。嘘ってんじゃなく、詩みたいなもんよ。わかる……」
ケイスは半信半疑でうなずいた。ザイオン人は話しかけるとき、必ずこちらに手を触れる。肩に手を置く。ケイスはそれがいやだ。
「おい、アエロル」
とケイスは、一時間後、声をかけた。自由落下の廊下で|仕掛け《ラ ン》練習の支度をしながら、
「ちょっと来いよ。こいつを見せたいんだ」
と電極《トロード》を差し出す。
アエロルはスロー・モーションの宙返りをやってのけた。裸足で鋼鉄の壁を蹴り、あいている方の手で梁をつかむ。もう一方の手には、青緑色の藻でふくらんだ透明な水袋を持っている。温和に眼をパチクリさせ、にっこり笑った。
「やってみな」
とケイスが言う。
アエロルはバンドを受け取り、頭に巻く。ケイスが電極《トロード》を調整してやった。アエロルが眼を閉じる。ケイスは作動スイッチを叩いた。アエロルが身震いした。ケイスはすぐ引き戻してやる。
「何が見えた」
「悪徳都市《バビロン》」
とアエロルは悲しげに言い、電極《トロード》をケイスに手渡すと、廊下を蹴り進んでいった。
リヴィエラが身じろぎもせず、恒温フォーム板の上にすわっていた。右腕をまっすぐに、肩の高さまで上げている。宝石の鱗の蛇が、両眼をルビーのネオンのようにして、肘の数ミリ上方にしっかり巻きついている。ケイスが見守るうち、指ほどの太さで黒と緋の縞模様のその蛇はゆっくり身を縮め、リヴィエラの腕を締めつけていく。
「さ、おいで」
と当の本人は、上向けた掌の中央に鎮座する蒼白い蝋めいた蠍《さそり》に優しい声をかけ、
「おいで」
蠍は茶色味を帯びたはさみを揺らし、薄黒く浮き上がった血管をたどって、腕を登ってくる。肘の内側まで来て肢を止め、身を震わせるようだ。リヴィエラがそっとシュッというような声を出した。毒針が持ち上がり、震えると、膨れた血管を覆う皮膚に突き刺さる。珊瑚色の蛇が緩み、注射物が|効く《ヒット》と、リヴィエラはゆっくり溜息をついた。
そして蛇も蠍も消え、リヴィエラの左手に乳色のプラスティック注射器がある。
「“神様がこれよりいいものをお創りになったとしても、それは自分用になさった”そういう言い方、知ってるだろ、ケイス」
「ああ。いろいろなものについて、そういう言い回しは聞いたけどさ、おまえ、いつもそういう見せ物仕立てにするのかい……」
リヴィエラは体の力を抜き、伸縮性の外科用チューブを腕から外しながら、
「ああ、この方が面白い」
と微笑むが、両眼は遠くを見、両頬に血の色がさし、
「膜組織をちょうど血管の上に、埋めこんでもらってあるから、針の状態には気をつかわなくていいし」
「痛かないか」
明るい瞳がケイスの瞳を見つめ、
「もちろん痛いさ。それも楽しみのうちじゃないか」
「おれなら膚板《ダーム》にしとくけどな」
「凡人め」
とリヴィエラは鼻先で嘲笑し、笑いながら白の半袖木綿シャツを着た。
「いいもんだろうな」
と言いながらケイスは立ち上がる。
「おまえさんも恍惚《ハイ》になることあるのか、ケイス……」
「やめざるをえないことになってね」
「自由界《フリーサイド》」
言いながらアーミテジが、ブラウンの小型ホログラム投映器のパネルに触れる。像が震えて焦点を結んだ。端から端まで三メートル近い。
「カジノはここ」
とアーミテジは骨格像の奥に手を伸ばして指さし、
「ホテル、階層所有地、大きな店舗はこっち」
と手を動かし、
「青い区域は湖」
模型の一端に移動して、
「大きな葉巻型。両端が細い」
「見りゃわかるさ」
とモリイが言う。
「細くなると山岳効果。地面が高くなって、岩場めいてくるが、登るのはやさしい。高く登れば登るほど、重力が低くなる。こっちではスポーツ。ここには競輪場」
とアーミテジが指さす。
「何……」
とケイスが身を乗りだす。
「自転車を競争させるのよ」
とモリイが言い、
「低重力、高牽引タイヤで、時速百キロ以上になるの」
「こっち側はわれわれの関心外だ」
とアーミテジは例によってまじめくさっている。
「ちぇっ。あたしゃ熱狂的自転車ファンなのに」
とモリイが言う。
リヴィエラが、くすくす笑った。
アーミテジは投影像の反対側に移り、
「こちらが問題だ」
ホログラムの内部詳細はここまでで終わり、紡錘体《スピンドル》の終端部が空白になっている。
「これがヴィラ|迷 光《ストレイライト》。重力圏からきつい登りで、どの経路も封じられている。唯一の出入口は、ここ、ど真ン中だ。無重力」
「中はなんなのさ、ボス」
とリヴィエラが身を乗りだして首を伸ばす。小さな人影が四つ、アーミテジの指先近くで輝き、アーミテジはそれを虫ケラのように叩いてから、こう言った。
「ピーター、きみがまっ先にそれを知る。招待されるように段取りをつけるんだ。中にはいれたら、モリイもはいれるようにする」
ケイスは|迷 光《ストレイライト》にあたる空白を見つめながら、フィンの話を想い出した。スミスとジミイと、喋る首と|忍《ニン》|者《ジャ》。
リヴィエラが尋ねる。
「詳しいことはわかるかな……。衣裳の予定を立てなくちゃ、ね」
「街路を覚えておけ」
とアーミテジは模型の中央に戻り、
「ここが|渇 望《デシデラータ》ストリート。これはジュール・ヴェルヌ通り」
リヴィエラが眼を丸くする。
アーミテジが自由界《フリーサイド》の街路を暗唱する間に、その鼻といわず頬といわず顎といわず十あまりの鮮やかな膿疱が浮き上がる。モリイですら笑いだした。
アーミテジは言葉を切り、全員を冷たく空虚な眼で見わたす。
「ごめん」
とリヴィエラが言うと、吹き出物はまたたいて消えた。
睡眠期もかなり更けて、ケイスは目を醒まし、フォームの上の自分の脇でモリイがうずくまっているのに気づいた。モリイの緊張が感じとれる。ケイスはわけのわからぬまま横になっていた。モリイが動いた時には、あまりの早さで|呆《あっ》|気《け》にとられた。モリイが立ち上がり、黄色のプラスティック・シートを抜けてから、やっとケイスにも、シートを切り裂いたことが呑みこめたのだ。
「動くんじゃないよ、お友だち」
ケイスは転がって、プラスティックの裂け目から首を突き出し、
「どう――」
「黙って」
「あんただがや」
とザイオン声が聞こえ、
「“猫眼”つうて、“段々剃刀”つうて。わし、マエルクムだや、|姉さん《シスター》。兄弟《ブラザーズ》が、あんたやカウボーイと、話、したいつうて」
「なんの兄弟《ブラザーズ》……」
「創設者|方《がた》だがや。ザイオンの長老だてば」
「あのハッチ開けると、光でボス的《てき》が起きちまうぜ」
とケイスが囁く。
「今、特別暗くすっから」
と男は言い、
「来い。わしぃら、創設者がた訪《おとな》うだ」
「あたしが切り刻む早さは、わかってるんだろうね、お友だち」
「突っ立って喋ってねえで、|姉さん《シスター》。来い」
生き残ったザイオンの創設者ふたりは老人だった。その老い方も、重力の抱擁の外で永年すごした人間を襲う、加速された老化だ。ふたりの茶色の脚はカルシウム減損で折れやすくなっており、反射させた陽光の無情な輝きを浴びて弱々しい。ふたりは、虹の葉叢の、描いたジャングルの中心に浮かんでいた。ジャングルは、球型の部屋の壁面を覆いつくす、けばけばしい共同体壁画なのだ。樹脂性の煙がたちこめていた。
「“段々剃刀”」
と一方が、モリイが部屋に漂い入ると言って、
「鞭うつ枝に似つ」
「これはわれわれに伝わる話さ、|姉さん《シスター》」
ともうひとりが言い、
「宗教説話でね。マエルクムについてきてくれて良かった」
「あんた、どうして訛《なま》んないの」
とモリイが尋ねる。
「ロサンジェルス出身なんだ」
この老人が答えた。縮毛束《ドレッドロック》がもつれた木のようで、枝は鋼綿《スチールウール》の色、
「ずっと昔、重力井戸を昇って悪徳都市《バビロン》を出た。部族を故郷に率いたんだ。今、兄弟《ブラザー》はあんたを“段々剃刀”になぞらえている」
モリイが右手を伸ばし、刃が煙の中で閃いた。
もう一方の創設者は、頭をのけぞらせて笑い、
「もうじき、最期のとき――声。声、荒野に泣き、悪徳都市《バビロン》の壊滅を告ぐ――」
「声なんだ」
とロサンジェルス出身の創設者はケイスを見つめながら、
「われわれはいくつもの周波数帯を傍受する。いつも聴いている。ある声が、さまざまな言葉の中から、われわれに語りかけてきた。強烈《マイティ》なダブを聞かせてくれた」
「|冬 ・ 寂《ウィンター・ミュート》つうて」
ともうひとりがふたつに分けて言う。
ケイスの腕に鳥肌が立った。
先の創設者が言う。
「この寂《ミュート》がわれわれに語りかけた。寂《ミュート》は、あんたがたに力を貸すよう言うんだ」
「それは、いつだった……」
とケイスが尋ねる。
「あんたがたがザイオンにドッキングする三十時間前」
「その声を、前に聞いたことは……」
「ない」
とロサンジェルス老人が言い、
「その真意についても確かではない。もし最期のときなら、偽りの預言者が現われても不思議はないし――」
ケイスが口を挾んだ。
「いいか、そいつはAIだ。つまり|人《A》工知|能《I》さ。そいつが聞かせた音楽てのは、たぶんおたくのバンクを探って、おたくたちが好みそうな音楽をこしらえ――」
「悪徳都市《バビロン》は」
ともうひとりの創設者が割ってはいり、
「数多《あまた》の悪魔を生む。わしぃらは知っとる。多数無数」
「さっき、あたしのこと、なんて呼んだっけ、爺さん」
とモリイが尋ねた。
「“段々剃刀”。あんたは天罰を、悪徳都市《バビロン》にもたらすがや、|姉さん《シスター》、暗黒の極みの心臓部にな――」
「その声はどんなメッセージを伝えたいんだい」
とケイスが尋ねる。
「あんたがたを助けろ、と」
ともうひとりが答え、
「あんたがたが最期のときの道具になるかもしれない、と」
その皺だらけの顔が不安気になり、
「マエルクムをあんたがたにつけて、あいつの曳船《タグ》の〈ガーヴィ〉に乗せ、自由界《フリーサイド》の悪徳都市《バビロン》港に運べ、と。だから、それはやってやるつもりだ」
「マエルクム、無礼者だや」
ともう一方が言い、
「けんど、まっとうな曳船案内人《タグ・パイロット》だや」
「しかし、われわれはこう決めた。アエロルも〈バビロン・ロッカー〉に乗せて送り出し、〈ガーヴィ〉を監視させる」
気まずい沈黙がドームに満ちた。
ケイスが口を開き、
「それだけかい……。あんたたち、アーミテジのために働いてるのかい、それとも――」
「われわれは空間を貸す」
とロサンジェルス長老が言い、
「われわれは、いろんな|取引き《トラフィック》に多少はかかわっているが、悪徳都市《バビロン》の法律は気にかけん。われわれの法は主《ジャー》のお言葉だ。しかし、今度ばかりは、われわれも過ちをおかしたかもしれん」
「ふた度測りて、ひと度断て」
ともうひとりが低く言った。
「行こうよ、ケイス」
とモリイが言い、
「あいつに、いなくなってるのを悟られないうちに戻ろう」
「マエルクムがご案内する。|主の愛《ジャー・ラヴ》を、|姉さん《シスター》」
9
曳船《タグ》〈マーカス・ガーヴィ〉は全長九メートル、直径二メートルの鋼鉄の円筒であり、これがきしみ、身震いする中で、マエルクムは航行噴射のためにパンチした。伸縮性のある|耐重力網《G ・ ウ ェ ブ》の中でぶざまに手足を広げたケイスは、ザイオン人の筋肉質の背中を、スコポラミンの朦朧状態で見つめている。SASの吐き気を抑えるために薬を使ったのだが、製造会社が効力を弱めるために混ぜた興奮剤は、ケイスの改修された肉体にはなんの効果もない。
「自由界《フリーサイド》まで、どのくらいかかるのさ……」
とモリイが、マエルクムの操縦席の脇の網《ウェブ》から尋ねた。
「長くないがや、ほんと」
「あんたたち、何時間、とは考えないの……」
「|姉さん《シスター》、時間つうんは時間、わかんねかな。ドレッドがよ――」
と|髪の房《ドレッドロック》を振って見せ、
「――操縦してんだが。わしぃら、自由界《フリーサイド》に着くときには着くてば――」
「ケイス」
とモリイは方向を変え、
「もしやベルンのお友だちに接触するの、やってみてくれた……。あれだけの間、ザイオンで|没 入《ジャック・イン》して唇、動かしてたけど……」
「お友だちかい」
とケイスは言い、
「ああ。いや、やってない。でも、その件じゃ、おかしな話があるんだ。イスタンブールからの延長なんだけど」
とヒルトンの電話のことを話す。
「あっきれた。チャンスを棒に振ってる。どうして切っちゃったわけ……」
「誰だかわかりゃしない」
とケイスは嘘をつき、
「たかが素子《チップ》――わかんないけど――」
肩をすくめる。
「まさか怖気づいた、てんじゃないよね」
ケイスはまた肩をすくめる。
「今やりな」
「えっ」
「今さ。とにかく“フラットライン”に話してごらんよ」
「おれ、ヤク漬けだぜ」
と口では言いながらも、電極《トロード》に手を伸ばす。デッキとホサカは、極高解像度のクレイ・モニタといっしょに、マエルクムの席のうしろに据えてある。
電極《トロード》を調節した。〈マーカス・ガーヴィ〉は、莫迦でかいソ連製の旧式空気清浄器を中心にしてこしらえたものだから、その真四角な機械は、ラスタファリアンのシンボルであるザイオンの獅子《ライオン》とか|黒い星間船《ブラック・スター・ライナー》で塗りたくられ、キリル文字が書き連ねてあるデカルにも赤や緑や黄色がかぶさっている。誰かがマエルクムの操縦装置を熱帯《トロピカル》ピンクでスプレイしたらしく、スクリーンや表示装置にかかった部分は剃刀でこそげ落としてあった。船首エアロック周囲の|詰め物《ガスケット》には花綱よろしく、なかば硬化した塊りや半透明|填《てん》|隙《げき》剤の吹き流しがつき、これが偽物《イミテーション》の海草のぶざまな寄せ集めに見える。マエルクムの肩ごしに中央スクリーンを見ると、ドッキング表示があった。曳船《タグ》の航路は赤い点線で、自由界《フリーサイド》は扇形の集まった緑の円だ。点線の点が増して、線が伸びていくのを見つめる。
|没 入《ジャック・イン》した。
「ディクシー……」
「おう」
「AIに潜りこもうとしたこと、あるかい」
「ああ、水平線《フラットライン》しちまった。一度目さ。こっちはおふざけだったんだ。ものすごく舞い上がってて、リオの通信頻度中心部の方だった。大企業、多国籍、ブラジル政府、と、クリスマス・ツリーみたいに輝いててな。で、ちょいとしたおふざけ。そいで、この立方体にしようって、三レベルばかり上だったかな、そこまで舞い上がって、ちょっかいを出してみた」
「どういうふうに見えた。視覚で……」
「白の立方体」
「どうしてAIだってわかった」
「どうしてって、おまえ、見たこともないほどキッチリした氷《アイス》だぜ。ほかの何が考えられる。あっちじゃ、軍隊だってそんなものもっちゃいない。とにかく、おれはいったん出て、コンピュータに調べさせた」
「で……」
「チューリング登録に載ってた。AIさ。リオの|本 体《メインフレーム》は仏系《フロッグ》企業が持ってた」
ケイスは下唇を噛み、東部沿岸原子力機構の段々の彼方、マトリックスの神経電子的な無限の虚空を見つめて、
「テスィエ=アシュプールかい、ディクシー……」
「テスィエ、そうだ」
「で戻ってみたんだ」
「ああ、途方もない話だぜ、破る気になってたんだ。最初の層にぶつかる、それだけ書いてありゃたくさん。うちの若い衆が膚の焦げる臭いに気づいて、電極《トロード》を引き剥がしてくれたんだ。底意地悪いぜ、あの氷《アイス》は」
「それで脳波計《EEG》が平らになったのか……」
「ま、今じゃ伝説もんだろうが」
ケイスは抜け出て、
「ちぇっ、ディクシーがどうして水平線《フラットライン》したか知ってるか。AIに近づこうとして、だぜ。たいした――」
「続けなよ」
とモリイ、
「あんたたちふたりは凄腕のはずだろ」
ケイスが言った。
「ディクス、ベルンにあるAIを見てみたいんだけどな。やめといた方がいい理由って、思いつくかい」
「おまえさんが病的に死を恐れてるんでなきゃ、かまわんだろ」
ケイスは、スイスの銀行業区画へとパンチし、電脳空間《サイバースペース》が震え、ぼやけ、ゲル化するのとともに高揚感のたかまりをおぼえる。東部沿岸原子力機構は消え去り、代わりにチューリヒ市中銀行業の、冷たく幾何学的に入り組んだ形が現われる。もう一度パンチして、ベルンへと向かう。
構造物が言う。
「上だ。ずっと高くだろう」
ふたりは光の格子《ラティス》を昇る。各レベルが点滅し、青いまたたきとなる。
あれに違いない、とケイスは思った。
|冬 寂《ウィンターミュート》は白光の単純な立方体であり、その単純さこそが、とびぬけた複雑さを暗示している。
「たいした具合にゃ見えないだろ」
と“フラットライン”は言い、
「ところが、ちょっとでも触れてみろ」
「ちょいと近づいてみるぜ、ディクシー」
「ご随意に」
ケイスはパンチして、立方体から四|格子《グリッド》点のところまで行く。立方体の空白の一面が前方に聳え立ち、内なるかすかな影が渦巻きはじめる。まるで巨大な曇りガラスの奥で千人ものダンサーが蠢いているかのようだ。
「おれたちがいるの、知ってるんだ」
と“フラットライン”が独りごちた。
ケイスはもう一度、ひとつだけパンチした。ふたりが一|格子《グリッド》点だけ前方にジャンプする。
斑らな灰色の円が立方体の表面に浮かぶ。
「ディクシー――」
「さがれ、早く」
灰色の部分がなめらかに膨れ上がり、球状になると、立方体から脱する。
ケイスはデッキの角が掌に喰いこむのを感じながら、MAX REVERSE(緊急逆転)を叩いた。マトリックスが逆さまにぼやけ、ふたりはスイス銀行群の薄明の柱身をすべり降りる。ケイスが上を見た。球体は前より暗さを増し、追いついてくる。落ちてくる。
「|離 脱《ジャック・アウト》しろ」
と“フラットライン”が言う。
闇がハンマーのように叩きつけた。
冷たい鋼の匂いと氷が背骨を撫でる。
そしてネオンの森から覗きこむ顔は、水夫に詐欺師に娼婦。有毒な銀色の空の下――
「おい、ケイス、いったい全体おまえさん、どうしちまったんだい。ぶっ飛んでんのか……」
着実に脈打つ痛み。背骨をなかば下ったあたり。
雨で目が醒めた。ゆるやかな霧雨だ。両足に、棄てられた光ファイバーの輪が巻きついている。|ゲーム場《ア ー ケ イ ド》の騒音の海が押し寄せ、引き、また戻ってくる。転がって体を起こし、頭をかかえた。
|ゲーム場《ア ー ケ イ ド》裏の搬入口の明かりで、中味を抜き取られたゲーム機の、壊れて湿った合板や、雨を滴らせる骨組《シャーシ》が見える。機械の横腹には、薄れかけたピンクや黄色で、現代風の日本文字がステンシルしてあった。
眼を上げると、すすけたプラスティック窓があり、かすかに螢光灯が点っている。
背中が痛む。背骨だ。
立ち上がり、濡れた髪を眼から払う。
何かがあったのだ――
ポケットを探って金を捜したが何もなく、身震いが出た。ジャケットはどこだろう。捜そうとしてゲーム機の裏まで覗いたが、あきらめる。
|仁《ニン》|清《セイ》通りで人込みを見測る。金曜だ。金曜日に違いない。リンダはたぶん|ゲーム場《ア ー ケ イ ド》にいる。金を持っているかもしれないし、煙草ぐらいはあるだろう――。咳こみ、シャツの前側の雨水を絞りながら、人込みを分け、|ゲーム場《ア ー ケ イ ド》の入口をめざす。
ゲーム類の轟音にホログラムがよじれ、震え、幻影が、店の混雑の霞の中で重なりあう。汗の臭い、退屈の緊張感。白いTシャツの水夫が『戦車戦』の台でボンを核攻撃。紺碧の鮮光。
リンダは『魔術師の城』に夢中になっていた。灰色の眼のまわりに化粧スティックの黒がにじんでいる。
ケイスが腕を回すと、眼を上げて微笑み、
「あら、どうしてるの。濡れてるみたい」
ケイスが接吻する。
「あんたのために、ゲームが駄目になっちゃったじゃない。見てごらん、お莫迦さん。七レベル目の地下牢まで行ったのに、憎ったらしい吸血鬼にやられちゃった」
と煙草を手渡してくれ、
「あんた、ちょいとおかしいね。どこ行ってたの」
「わからない」
「飛んでるの、ケイス……。また飲んでるの……。ゾーンの覚醒剤《デックス》でも囓《かじ》ったの……」
「かもな――おれたち、どのぐらい会ってない……」
「ねえ、からかってんでしょ」
とリンダは、きっとなり、
「でしょ……」
「いや。変な記憶喪失《ブラックアウト》で、おれ――おれ、横丁で目を醒ましたんだ」
「誰かに襲《や》られたかな。現金《おたから》は無事なの……」
ケイスは首を振る。
「ほれ、ご覧。寝るところ、いるでしょ、ケイス」
「だろうな」
「じゃ、おいでよ」
とケイスの手をとり、
「コーヒーと食べるものをなんとかしよう。うちに連れてくよ。あんた、会えて良かったよ」
とケイスの手を握りしめる。
ケイスは微笑む。
何かが裂けた。
何かが、ものごとの中核で転移した。|ゲーム場《ア ー ケ イ ド》が凍りつき、震え――
リンダが消えた。記憶の重圧がのしかかる。知識の総体が、ソケットにねじこむマイクロソフトのように、頭に叩きこまれた。消えた。肉の焦げる臭いがする。
白いTシャツの水夫が消えた。|ゲーム場《ア ー ケ イ ド》はガランとして静かだ。ケイスはゆっくり体をめぐらせた。背を丸め、歯を剥き出し、知らぬ間に両手を拳に握りしめている。空っぽだ。くしゃくしゃになった黄色のキャンディ包み紙がゲーム台の隅に載っていて、床に落ち、ぺしゃんこの吸い殻や|発泡スチロール《ス タ イ ロ フ ォ ー ム》のカップに混じりあう。
「煙草があったんだ」
とケイスは、関節が白くなった拳を見おろし、
「煙草も女も、寝るところもあったんだ。聞いてるのか、こん畜生。わかってんのかよ」
反響が|ゲーム場《ア ー ケ イ ド》の空間にうつろに流れ、ゲーム台の列に消えていく。
ケイスは街路に出た。雨はやんでいる。
|仁《ニン》|清《セイ》に|人《ひと》|気《け》はない。
ホログラムがまたたき、ネオンが踊る。道向かいの屋台から、煮野菜の匂いが漂う。封を切っていない叶和圓《イエヘユアン》の箱が足もとにあり、その脇には紙マッチ。JULIUS DEAN IMPORT EXPORT(ジュリアス・ディーン商会)。ケイスは印刷された社名と日本語訳を見つめ、
「オーケイ」
とマッチを拾い、煙草の封を切って、
「わかったよ」
ディーンのオフィスの階段を登るのに、ケイスは時間をかけた。慌てることはない、急ぐことはない、と自分に言い聞かせる。ダリ時計の垂れた文字盤は、今も狂った時刻を指している。カンディンスキー・テーブルや新アステカ風書棚は埃をかぶっている。一面をなした白いファイバーグラス製荷箱が、部屋中に生姜の匂いをまき散らしている。
「ドアの錠はおりてるのかい」
ケイスは返事を待ったが、答えはない。オフィスへのドアに近づき、開けてみる。
「ジュリー……」
緑のシェードのかかった真鍮ランプが、ディーンのデスクに円い光を投げている。ケイスは、古めかしいタイプライタの機構部を、カセットやくしゃくしゃの印字用紙《プリントアウト》を、生姜のサンプルを入れた、べたつくプラスティック袋を、見つめた。
誰もいない。
ケイスは、幅広い鋼板製デスクを回りこみ、ディーンの椅子を押しのけた。銃が、ひび割れた革ホルスターに収められて、机の下に銀色のテープで留められているのを見つける。年代物の・三五七マグナムで、銃身と用心鉄《トリガー・ガード》が断ち落としてある。銃把は巻き重ねたマスキング・テープだ。テープは古く、茶色で、汚れが光る。輪胴《シリンダ》を弾き出し、実包六発をひとつずつ調べた。|手込め《ハンドロード》だった。軟らかい鉛はまだつやつやして、曇りひとつない。
右手に拳銃《リヴォルヴァ》を構えたケイスは、横ざまにデスクの左手のキャビネットの前を抜け、散らかったオフィスの中央に立つ。照明の中心は避けた。
「急ぐことはないだろう。そっちのお膳立てなんだ。でも、こういう冗談はな、ちょっとばかり――古臭いんだよ」
両手で銃を支え、デスクの中央を狙って引き金を引く。
反動で危うく手首を折りそうになった。発砲の閃光がフラッシュバルブのようにオフィスを照らしだす。耳鳴りを覚えながら、デスク前面のとげとげしい穴を見つめた。爆裂弾。アジ化物だ。もう一度、銃口を上げる。
「そんな必要はないんだよ、若いの」
言いながらジュリー・ディーンが影の中から踏み出した。絹の杉綾模様《ヘリンボーン》のスリーピース・ドレープスーツに縞シャツ、蝶《ボウ》タイを締めている。眼鏡が照明を浴びてウィンクした。
ケイスは銃口を振り向けて、照準線上に、ディーンのピンクで年齢不詳の顔をとらえる。
「やめなさい」
とディーンは言い、
「きみの言うとおりだ。こういうことすべてについても。わしについても、ね。けれども、尊重すべき内的論理というものがある。きみがそんなものを使うと、脳漿と血をたっぷり見ることになるし、わしにしてみれば、何時間もかけて――きみの主観時間で、だが――別の語り手を生じさせなくてはならない。こういう場景《セット》を維持するのは大変なんだ。ああ、それとリンダについてはすまないことをした。あの|ゲーム場《ア ー ケ イ ド》のことだよ。あの娘を通して話そうとしたんだが、こういうものはきみの記憶から創成しているもので、感情の荷重が――とにかく、危なっかしいんだ。わしがヘマをした。すまん」
ケイスは拳銃をおろし、
「これはマトリックスだ。あんたは|冬 寂《ウィンターミュート》」
「そう。こういったものがきみに伝わるのは、デッキにつないだ|擬 験《シムステイム》ユニットのおかげさ、もちろん。きみが|離 脱《ジャック・アウト》する前に切り離せて良かったよ」
ディーンはデスクのむこう側に行き、椅子を戻してすわり、
「すわりなさい。話すことがたくさんある」
「そうかね」
「そうとも。しばらく前からそうだった。こちらはイスタンブールの電話で連絡したときから、支度ができていた。もう時間があまりない。あと何日かで、きみは|仕掛け《ラ ン》にかかることになるんだよ、ケイス」
ディーンはボンボンをつまみ上げ、市松模様の包み紙を剥ぎ取ると、口にほうりこみ、
「すわれ」
とキャンディを口に含んだまま言う。
ケイスは、ディーンから眼を離さないようにしながら、デスクの前の回転椅子に腰をおろしていく。銃は握りしめ、太腿の上に置く。
「さて」
とディーンは歯切れよく、
「本日の用向きだが、きみはこう自問していることだろう、“|冬 寂《ウィンターミュート》とはなんなのか……”そうだろう……」
「まあね」
「|人《A》工知|能《I》なんだが、それはきみも知っている。きみの過ちというのは、ま、必然的な過ちではあるんだが、ベルンにある|冬 寂《ウィンターミュート》の|本 体《メインフレーム》と、|冬 寂《ウィンターミュート》の実体[#「実体」に傍点]とを混同していることにある」
とディーンは音をたててボンボンをしゃぶり、
「きみはもう知っているね、テスィエ=アシュプールの連合体のいまひとつのAI。リオだ。わしは、わしにとって“わたし”がある限りにおいて――どうも形而上学的にならざるを得ないんだが――アーミテジに采配をふるっている。コートと言ってもいいが、これは、ついでながら、きわめて不安定だ。安定しているのは――」
言いながらディーンは凝った金時計をヴェストのポケットから取り出して蓋を開け、
「――あと一日ふつかだろう」
「あんたの言ってることは、これまでの全部と同じに意味が通らないんだよ」
とケイスは空いている方の手で顯ソ[#「ソ」は「需」+「頁」 unicode=#986C DFパブリ外字=#F4BF]《こめかみ》を揉み、
「あんたがそんなに賢いってんなら――」
「どうしてわしゃ、金持ちじゃないのかってか……」
ディーンは笑いだし、危うくボンボンで息を詰まらせながら、
「そりゃあ、ケイス、それについて今のわしが言えることといったって――それもきみが想像しているほど、わしにはたくさんの答えがあるわけじゃないんだが――つまり、きみが|冬 寂《ウィンターミュート》と思っているものが、単に別の、いわば潜在的[#「潜在的」に傍点]実体の、一部にすぎないってことさ。わしは、言ってみれば、そういう実体の脳の一側面なんだ。たとえて言うなら、きみにとって、脳の両半球を切断した男と相《あい》対しているようなものさ。こう言ってもいい。きみはその男の左脳の一部分と話しあっている、と。そういうことになると、そもそもその男と会っているのかどうかも怪しい」
ディーンは微笑した。
「コートの話は本当なのか。あのフランスの病院で、マイクロコンピュータを通じて、あの男に近づいたのか」
「そう。きみがロンドンで|出入り《アクセス》したファイルをまとめたのも、わしだ。きみの言葉で言う計画、を立てようとしているんだが、これはわしの基本的|態様《モード》ではない。本当のところ。即興だ。それがわしの最高の能力なんだ。計画よりは状況を得意とする、というか――実のところ、わしは与えられたものを処理するしかなかった。大量の情報を分類《ソート》できるし、きわめて早い。きみが所属するチームを編成するについては、とても長い時間がかかった。コートが最初だったが、それとて危ないところだった。ツーロンでは、ほとんど手がつけられない。せいぜい、食べて排泄して自慰するだけ。だけれども、その底には、強迫観念の構造があった。〈スクリーミング・フィスト〉、裏切り、議会公聴会」
「あいつは、まだ狂ってるのか」
「ちゃんとした一人格ではないな」
とディーンは微笑み、
「けれども、きみだってそれは知ってるはずだ。ただ、コートはあの、どこかに、いるんだし、わしには、その微妙なバランスが維持できなくなっている。きみの眼の前で、奴は崩壊するよ、ケイス。だからきみを頼りにして――」
「そいつはけっこうだな、この糞ったれ」
ケイスは・三五七を相手の口にぶっぱなした。
言っていたとおりの脳漿。そして血だった。
「のお」
とマエルクムが言っていて、
「気に入らんだや――」
「大丈夫」
とモリイ、
「心配ないって。この連中がよくやることなのよ。それだけ。つまり、死んだわけじゃないし、ほんの何秒かだし――」
「わし、スクリーン見た、脳波計《EEG》死んでただや。何も動かねで四十秒――」
「ま、もう大丈夫さ」
「脳波計《EEG》、一直線《フラット》だこと紐みてえ」
とマエルクムが言い募る。
10
ケイスがぼんやりしたまま、ふたりで税関を抜け、モリイが大半の喋りをやってのけた。マエルクムは〈ガーヴィ〉の船内に残っている。自由界《フリーサイド》の税関にしてみれば、与信額《クレディット》を証明してもらいさえすればいい。ふたりで紡錘体《スピンドル》の内表面にたどり着いたとき、最初にケイスの眼にはいったのは、〈|美 女《ビューティフル・ガール》〉コーヒー・チェーンの店だった。
「ジュール・ヴェルヌ通りにようこそ」
とモリイが言い、
「歩いてておかしくなったら、足もとだけを見な。慣れないうちは、遠近感が|滅《め》|茶《ちゃ》だから」
ふたりが立っている幅の広い通りは、深い溝か渓谷の底のようで、両方の端は、壁面をなす店や建物の微妙な角度で隠されている。ここの明かりは、生き生きと折り重なった緑の植物を抜けてきていて、植物は、ふたりの頭上に出っぱった上層やバルコニーから垂れ下がっている。太陽は――
ふたりの上方のどこかに眩い、明るすぎるほどの白い裂け目と、カンヌの空を録画した青空がある。陽光がラドー=アチスン機構で送りこまれているのは、ケイスも知っている。二ミリ径の電機子《アーマチャー》が紡錘体《スピンドル》の全長を貫いているのだ。そのまわりに、回転するさまざまな空模様を創りだしているのだから、その空のスイッチを切れば、光の電機子《アーマチャー》のむこうに、彎曲した湖やカジノの屋根やほかの通りを見上げることになり――肉体的に訳がわからないことになる。
「まいったな」
とケイスは声を出し、
「SASより気に入らない」
「慣れるんだね。あたしはここで賭博師の用心棒をひと月ばかりやったことがあるけど」
「どっかへ行って、横になりたい」
「オーケイ。鍵はある」
とケイスの肩に触れ、
「何があったのさ、あのとき……。あんた水平線《フラットライン》しちまったよ」
ケイスは首を振り、
「わかんない、まだ。待ってくれ」
「オーケイ。タクシーか何かつかまえよう」
とケイスの手をとると、先にたってジュール・ヴェルヌを横切り、今シーズンのパリの毛皮を陳列したウィンドウの前を通りすぎた。
「偽物らしい」
と上を見ながらケイスが言う。
「ううん」
と、毛皮のことを言っていると思いこんだモリイが答え、
「コラーゲン基からの培養だけど、ミンクのDNAだよ。いいんじゃない」
「こりゃ、大きいチューブでね、そこにモノを流しこむわけ」
とモリイは言い、
「観光客、詐欺師、何でもいい。ただし、目の細かい現金濾過器がいつでも動いてるわけで、人間が井戸をくだっていくときも、金はここに残る仕組み」
アーミテジが予約してあったのはインターコンチネンタルというところで、ここは、なだらかなガラス壁の崖になっており、それがひんやりした霧と清流のせせらぎにすべり落ちている。ケイスは二人部屋のバルコニーに出て、陽に灼けたフランス人ティーンエイジャーの三人組を見つめた。|飛沫《し ぶ き》の数メートル上で単純なハングライダーに乗っており、それが鮮やかな原色の三角形群になっている。中の一機が向きを変えて傾き、ケイスにも一瞬、刈りこんだ黒髪と褐色の胸と大笑いの皓《しろ》い歯が見えた。空気に、流水と花の香りが漂う。
「ああ。たいした金だ」
とケイスは言った。
その横でモリイも手すりにもたれ、両手から力を抜いて、
「うん。あたしら前に、ここに来ようとしたんだよね。ここかヨーロッパのどこか」
「あたしらって誰」
「別に」
とモリイは何気なく肩をひょいと上げ、
「寝たいって言ってたじゃないの。眠ればいい。あたしも寝ておこう」
「ああ」
とケイスは両掌で頬骨をこすり、
「ああ、たいした場所だ」
ラドー=アチスン機構の細い筋が、バミューダの夕暮れの抽象的な模倣でくすぶり、そこに録画の雲が切れぎれの縞となる。
「ああ。眠る」
とケイスは言った。
なかなか寝つけなかった。ようやく眠っても、夢が、記憶の断片をきちんと編集したもののようだった。何度も目醒めると、モリイが脇で丸くなっており、水音と、バルコニーの開いたガラス・パネルごしに流れこむ人声と、向かいの斜面で階段状になった共同住宅《コンド》からの女の笑い声が聞こえる。ディーンの死が、悪い手札のように繰り返し現われる。あれはディーンじゃない、といくら自分に言い聞かせても無駄だ。ディーンではなく、実は起こってもいないことなのに。誰かに聞いたことがあるが、平均的な人間の体内の血液量は、おおよそビールひとケースに等しいとか。
ディーンの砕けた首がオフィスの奥の壁に当たる場面のたび、別の想いがある。より暗く、秘められた何かであり、魚のように潜りこんで、ぎりぎり手の届かないところまで退いてしまう。
リンダ。
ディーン。輸入業者のオフィスの壁についた血。
リンダ。千葉《チバ》のドームの暗がりの焦げた肉の臭い。モリイが差し出す生姜の袋。プラスティックに付着した血。ディーンがリンダを殺させた。
|冬 寂《ウィンターミュート》。コートなる男の残骸に囁きかける、小さなマイクロを想像する。言葉が川のように流れ、アーミテジなる起伏に欠ける代用人格が、暗くなったどこかの病室で、ゆっくりまとまっていく――模擬ディーンが言っていたではないか。与えられたものを扱う、現在の状況を利用する、と。
しかし、ディーンが、本物のディーンが、リンダを殺させたのも、|冬 寂《ウィンターミュート》の命令だとしたら、どうなる。ケイスは暗闇の中で、煙草とモリイのライターを手探りした。ディーンを疑う根拠はない、と自分に言い聞かせ、火を点ける。根拠はない。
|冬 寂《ウィンターミュート》なら、一種の人格をまとめ上げることができる。操作はどれほど微妙な形をとるのだろう。三口喫った叶和圓《イエヘユアン》をベッド脇の灰皿で揉み消すと、ケイスはモリイから離れ、眠ろうとした。
夢が、記憶が、未編集の|擬 験《シムステイム》テープの単調さで繰り広がる。ケイスは十五歳の夏の一ヵ月、週貸しホテルの五階で、マリーンという女の子と過ごした。その十年も前からエレベータは動いていなかった。明かりのスイッチを点けるたび、ゴキブリが、下水の詰まった簡易台所《キチネット》の鼠色がかった流しの上で群れをなしていた。マリーンとは、シーツもない縞のマットレスの上で寝たものだ。
一匹目のスズメバチが紙のように薄くて灰色の家を、窓枠のむら[#「むら」に傍点]だらけの塗料の上に建てたときは気づかなかったが、じきに巣は拳ほどの繊維の塊りとなり、昆虫どもが飛び出していっては、ダンプ車の腐りかけた積み荷に警告を発するミニチュア・ヘリコプタさながら、下の路地を猟るのだった。
ふたりがそれぞれ一ダースずつビールを空けた日の午後、スズメバチがマリーンを刺した。
「あいつら殺してよ」
というマリーンの眼は、怒りと部屋にこもった熱気のために曇り、
「焼いちまえ」
酔っ払ったケイスは、饐《す》えた臭いの戸棚を探ってローロのドラゴンを見つけだした。ローロというのは、マリーンのかつての――また、当時ケイスが疑っていたところでは、まだときどきつきあう――ボーイフレンドであり、クルーカットの黒髪にブロンドの稲妻を染め抜いた巨漢のフリスコ・バイク乗りだ。ドラゴンは、フリスコの火焔放射器で、太くて先の折れ曲がった懐中電灯のような形をしていた。ケイスは電池をチェックし、振ってみて燃料も充分なのを確かめると、開けた窓に向かった。巣がブンブンいいはじめる。
〈スプロール〉の空気は生気なく淀んでいた。蜂が一匹、巣から飛び出してケイスの頭のまわりを回る。ケイスは着火スイッチを押して三つ数え、引き金を引いた。百 psi まで出力の高まった燃料が、白熱化したコイルを抜けて放散する。五メートルの蒼白い炎の舌、焦げる巣、落下。路地のむこうで、誰かが歓声をあげた。
「駄目よ」
と背後でふらふらしているマリーンが言い、
「莫迦ねえ。焼かないで、落っことしただけじゃない。飛び上がってきたら、殺されちゃうわ」
その声が神経に障ったので、ケイスは、炎に包まれ、脱色《ブリーチ》した髪を緑に燃え上がらせるマリーンを想像してしまった。
路地で、ドラゴンを手に、黒くなった巣に近づく。巣は割れていた。焦がされた蜂が、アスファルトの上でのたうち、はねている。
灰色の紙の殻に隠されていたものが、見えてしまう。
慄然。螺旋状の出産工場、階段のような孵化室、孵らぬものたちのもの見えぬ顎が休みなく動く。卵から幼虫、蜂もどき、蜂へと段階を追った成長。ケイスの想像の中で、一種の微速度撮影が起こった。眼前のものが、生物学的な機関銃となり、完璧なるがゆえに醜い。異形だ。引き金を引いたが、着火するのを忘れていたため、燃料はケイスの足もとの、膨れ上がり蠢く生命の上に、シュウシュウと撒かれることになった。
ようやく着火したとたん、音をあげて爆発し、ケイスは片方の眉を失った。五階上の開いた窓で、マリーンが笑うのが聞こえる。
光が薄れていく印象があって目醒めたが、部屋は暗い。残像、網膜の閃光。外の空は、録画した曙光の予兆を示している。もう人の声は聞こえず、インターコンチネンタルの外壁のずっと下、奔流の音ばかり。
夢の中で、巣を燃料びたしにする直前、巣の壁にテスィエ=アシュプールのT=A文字《ロゴ》が浮き彫りになっているのを見た。まるで蜂どもが、それを刻みこんだかのようだった。
モリイは、どうしてもケイスに|陽灼け剤《ブロンザ》をかけると言う。〈スプロール〉調の生白さでは人目に立ちすぎる、というのだ。
「まいったなあ」
と鏡の前で素裸になったケイスは言い、
「これがもっともらしく見えると思うのかよ」
モリイはチューブの残りをケイスの左の踵につけながら、脇に膝をついていて、
「ううん。でも、ごまかそうとする程度には気にかけてるように見える。ほらね。もう片足分は残ってないや」
と立ち上がり、空のチューブを大きな枝編細工の籠にほうりこむ。部屋の調度のどれひとつとして、機械製や合成製品とは思えない。高級なのはわかっているが、いつもケイスの気に障るスタイルなのだ。巨大なベッドの恒温フォームだって、砂に似るよう染めてある。白木や手織りの布地も、ふんだんにある。
「きみはどうするんだい。自分で茶色に染めるのか。あまり、しょっちゅう甲羅干ししてるようには見えないぜ」
ゆったりした黒のシルクと黒のエスパドリーユを身につけたモリイは、
「あたしは変わり種だもん。このために大きな麦藁帽子《ストロー・ハット》まで買ったし。あんたについちゃ、手にはいるものならなんでもござれの与太者の役なんだから、インスタント陽灼けでいいの」
ケイスは白いままの片足を眺め、それから鏡の中の自分を見て、
「ちぇっ。もう服を着てもいいんだろ」
とベッドのところへ行って、ジーンズをはきながら、
「よく眠れたかい。光に気がついたか……」
「あんた、夢を見てたのよ」
ふたりはホテルの屋上で朝食をとった。ここは牧草地のようになっていて、縞柄《ストライプ》の日傘が散在し、ケイスには不自然に思えるほどたくさんの樹木がある。ケイスは、ベルンのAIに近づこうとしたことを話した。盗聴などという問題は、もはや空疎に思われる。アーミテジが盗み聴きしているとしても、|冬 寂《ウィンターミュート》を経由してのことだろう。
「で、それは本物っぽかったの……」
とモリイは、チーズ・クロワッサンで口をいっぱいにして訊き、
「|擬 験《シムステイム》みたいに……」
そうだ、とケイスは言い、
「ここぐらいリアルだった」
と付け加えてから、あたりを見回して、
「ここ以上かもしれない」
木々は小ぶりで節くれだっており、考えられないほど老いている。遺伝子工学と化学操作の結果だ。ケイスは、松と樫とを見分けろと言われても困ってしまうほどの街育ちだが、その街のスタイル感覚からして、ここの木は可愛らしすぎ、木らしすぎ完璧すぎると思える。木々の間の、ゆるやかで、その不規則さが念入りすぎる、甘やかな青草のスロープでは、鮮やかな日傘がホテル客をラドー=アチスン太陽のたゆみない放射から守って、日蔭を提供している。近くのテーブルからフランス語が湧き起こって、ケイスも気がついた。昨夕、川霧の上を滑空しているのを見かけた、金色の若者たちだ。いま見ると、陽灼けが不均等になっている。選択的メラニン増加によるステンシル効果で、直線的パターンが濃淡さまざまに重なりあい、筋肉組織の隈どり浮き上がりを果たしているのだ。少女の小さく硬い乳房もそうだし、少年ひとりがテーブルの白エナメルに載せた手首も同じ。みんな、ケイスにはレース用マシーンのように見える。体中にデカルを貼っていれば似合うだろう――ヘアドレッサーのデカル、白木綿|パンツ《ダクス》のデザイナーの、革サンダルや簡素な宝石類の職工の、と。若者たちのむこうの、別のテーブルでは、|広《ヒロ》|島《シマ》木綿に身を包んだ日本人妻三人が、“さらりまん”の夫たちを待っている。丸顔が人工的な打ち身だらけなのは、ケイスは知っているが、ずいぶん保守的なスタイルだ。千葉《チバ》ではめったに見られない代物だった。
「この臭い、なんだい」
とケイスは顔をしかめながら、モリイに尋ねた。
「草。刈りこんだあと、こういう臭いがするの」
ふたりがコーヒーを飲みおえるころ、アーミテジとリヴィエラがやってきた。誂えのカーキ服を着たアーミテジは、記章を剥ぎ取られたばかりのように見えるし、灰色サッカー地のゆるやかな衣裳のリヴィエラは、あいにく監獄を思わせる。
「モリイちゃん」
とリヴィエラは席にも着かないうちに切りだし、
「もっと割りあててくれなくっちゃ。もう切れちゃった」
モリイは、
「ピーター。いやだと言ったらどうするの」
と歯も見せず微笑む。
「言わないさ」
とリヴィエラはアーミテジに眼を移し、また戻す。
「くれてやれ」
とアーミテジが言う。
「限度を知らないんじゃないの」
とモリイは平らなフォイル包装を内ポケットから取り出し、テーブルごしにほうる。リヴィエラは空中で受け止めた。
「勝手に死んじまうかもしれないよ」
とモリイがアーミテジに言う。
「今日はオーディションがあるんだ」
とリヴィエラが言い、
「万全の状態にしとかなくちゃ」
上向けた掌を杯のようにしてフォイル包装を載せ、リヴィエラは微笑んだ。掌から小さな光る虫がむらむらと涌き出して、消える。包みをサッカー地のシャツのポケットに入れた。
「きみもオーディションだぞ、ケイス。今日の午後」
とアーミテジが言い、
「あの曳船《タグ》だ。まずプロ・ショップへ行って真空《ヴァク》スーツを仕立ててもらい、そのチェックを済ませたあと、曳船《タグ》に行くんだ。あと三時間ほどの間に、な」
「おれたちが肥たごで運ばれ、そっちのふたりはJALタクシーってのは、どういうわけ……」
わざと相手の眼を見ないようにしながら、ケイスがつっかかる。
「ザイオンが仕向けたことだ。移動のとき、眼くらましにいい。もっと大きい船も待機させてはあるが、曳船《タグ》というのがいい」
モリイが口をはさみ、
「あたしはどうなるの。本日の雑用、あるの……」
「きみには、逆側を軸部まで登って、無重力で訓練してもらう。明日にも、反対方向に登ってもらうかもしれん」
|迷 光《ストレイライト》か、とケイスは考えた。
「で、いつ……」
とケイスは薄青い視線と向かいあった。
「じきだ。行け、ケイス」
とアーミテジは答えた。
「あんた、うまいぜや」
言いながらマエルクムは、ケイスが赤いサンヨーの真空《ヴァク》スーツを脱ぐのを手伝ってくれ、
「アエロル言ってた、あんた、うまいつうて」
アエロルは、無重力の軸部に近い紡錘体《スピンドル》の端の、スポーツ・ドックで待っていてくれた。そこへ行くために、ケイスはエレベータで外殻まで降り、小型の電磁誘導列車に乗った。紡錘体《スピンドル》の直径が小さくなるにつれて、重力も減る。そのとき思ったものだ、この上のどこかに、モリイが登っている山も、自転車用ループも、ハングライダーや小型|軽 飛《マイクロライト》もあるんだ、と。
アエロルはケイスを、化学エンジンつきの骨組みスクータで〈マーカス・ガーヴィ〉まで送ってくれた。
マエルクムが言う。
「二時間前、悪徳都市《バビロン》のモノの配達、代わりに受け取っただや。いい日本の男の子がヨットで。とても、きれいヨット」
スーツを脱ぐと、ケイスは身軽にホサカに寄っていき、網《ウェブ》の帯紐をぎごちなく締めてから、
「じゃ、見ようじゃないか」
マエルクムは、ケイスの頭より少し小さいぐらいの白いフォームの塊りを出してきて、ボロボロのショーツの尻ポケットからは緑のナイロン紐を付けた真珠柄の|飛び出しナイフ《スウィッチブレード》を取り出す。そして慎重にプラスティックを切り裂いた。出てきた四角の物体をケイスに手渡し、
「何か銃の、部品かや……」
「いや」
とケイスは、それをひっくりかえし、
「でも武器ではある。ウイルスだから」
「この[#「この」に傍点]曳船《タグ》の中はごめんだや」
とマエルクムは強い口調で言い、鋼鉄のカセットに手を伸ばしてくる。
「プログラムだよ。ウイルス・プログラム。あんたの体にははいらないし、あんたのソフトウェアにだってはいりこまない。デッキを通して|仲立ち《インタフェイス》させなくちゃ、なんの働きもしないんだ」
「なら、日本のやつ、このホサカがなんでもかでも、知りたいことを教える、つうて」
「オーケイ。じゃ、ちょっとほうっておいてもらえるかい」
マエルクムは蹴り去って操縦席も漂い抜け、|填《てん》|隙《げき》ガンで立ち働きはじめた。ケイスは慌てて、半透明な填隙剤が葉のように揺れるのから眼をそらす。なぜかはわからないが、それを見ているとSASの吐き気がこみあげてくるのだ。
ケイスはホサカに尋ねた。
「こいつはなんだい。おれあての小包だけど」
「ボクリス・システムズ有限責任会社(フランクフルト)からのデータ転送によりますと、暗号《コード》化通信ですが、積み荷の中味は、〈広《クアン》級マーク十一《イレヴン》〉侵入プログラム。ボクリスはさらに、こう言っています。オノ=センダイ・サイバースペース|7《セヴン》との|仲立ち《インタフェイス》は全面的に適合《コンパチブル》し、最大限の侵入能力を発揮する。とりわけ相手が現存する軍事システム――」
「AIに対して、どうなんだい」
「現存する軍事システムおよび|人《A》工知|能《I》の場合」
「おどろいたな。なんといったっけ」
「〈広《クアン》級マーク十一《イレヴン》〉」
「中国製かい」
「はい」
「以上《オフ》」
ケイスはウイルスのカセットをホサカの脇に銀色のテープで固定しながら、モリイがマカオに行ったときの話を想い出した。アーミテジが国境を越えて|中 山《チュオン・シアン》に行ったと言っていた。気が変わってホサカに、
「開始《オン》。質問だ。ボクリスを所有しているのは誰だ。フランクフルトの人間か」
「軌道間転送のため遅延《ディレイ》」
とホサカが言う。
「暗号《コード》にしろ。通常商用|暗号《コード》」
「完了」
ケイスは両手でオノ=センダイを小刻みに叩く。
「ラインホールド・サイエンティフィック株《A》式会|社《G》(ベルン)です」
「もう一度やれ。ラインホールドを所有してるのは誰だ」
このあと三回階梯を遡り、結局テスィエ=アシュプールにたどり着いた。
「ディクシー」
と|没 入《ジャック・イン》したケイスは言い、
「中国製のウイルス・プログラムについて、何か知ってるかい」
「あまりたいしたことは知らん」
「等級別で〈広《クアン》級マーク十一《イレヴン》〉ての、聞いたことは……」
「ないな」
ケイスは溜息をつき、
「とにかく、ここに|使い勝手良好《ユーザー・フレンドリィ》な中国製|氷破り《アイスブレーカ》がある。一回こっきりのカセットだ。フランクフルトの一部では、これならAIだって破ると言われてる」
「かもしれん。うん。軍用だとすれば、な」
「そうみたい。ねえ、ディクス、ちょいと知恵を貸してくれ。アーミテジは、テスィエ=アシュプール所有のAIに仕事《ラン》を仕掛けようとしてるらしいんだ。|本 体《メインフレーム》はベルンにあるんだけど、これがリオにある別の奴とつながってる。リオの奴ってのが、あんたを水平線《フラットライン》させた奴だよ、最初のとき。だから、どうやら、つなぐのに|迷 光《ストレイライト》を経由させてるらしい。紡錘体《スピンドル》の端にあるT=Aの本拠地だよ。おれたちは、中国製|氷破り《アイスブレーカ》でそこに切りこむことになる。つまり、これを仕組んだのが|冬 寂《ウィンターミュート》だとすれば、おれたちをやとって自分を襲わせるわけだ。自分で自分を襲うんだぜ。しかも、|冬 寂《ウィンターミュート》を自称する代物は、おれの機嫌をとりむすぼうとして、もしかしたらアーミテジを蹴落とさせるかもしれない。どう思う」
「動機だな」
と構造物が言い、
「本当の動機の問題。AIだからな。人間じゃないからさ」
「ま、そりゃ、わかりきってるけど」
「いや。つまり相手は人間じゃないんだ。そうなると抑えがきかない。そりゃあ、おれだって人間じゃないけど、反応[#「反応」に傍点]は人間らしい。だろ……」
「ちょっと待ってよ」
とケイスが口をはさみ、
「あんた意識はあるの、ないの……」
「ま、感じ[#「感じ」に傍点]ではあるようだがよ、坊主、しょせんはただのROMの塊り。だから一種の、ええと、哲学的疑問てことになるんだろうな――」
と醜悪な笑い声感覚でケイスの背骨を揺さぶり、
「ただ、おれがおまえさんに詩を書いてやることはないだろう、言うなれば。ところが、そのAIなら書きかねない。それでも絶対に人間[#「人間」に傍点]ではないわけよ」
「じゃ、奴の動機は掴めっこない、と……」
「奴は自己所有か……」
「スイス市民だけど、基本ソフトウェアと|本 体《メインフレーム》はT=Aが所有してる」
「そいつは面白ぇ。たとえば、おれが、おまえの脳味噌と知ってることとを所有してても、考えそのものにはスイス市民権があるんだ。うん。幸運を祈るよ、AI君」
「じゃあ、自分を襲う支度をしてるのかな……」
と苛立ったケイスはでたらめにデッキを叩く。マトリックスがぼやけてから、はっきりした。眼に映ったピンクの球体の集まりは、シッキムの鉄鋼企業連合を表わしている。
「自律ってのがミソだな。おまえさんのAIどもの関心の的さ、おれの勘だがよ、ケイス、おまえさんは中にはいりこんで、この坊やが今以上に賢くならないようにしてる|結 線《ハードワイア》の手かせ足かせを外すことになるんだ。で、親会社の動きと、そのAIの勝手な動きってのは、まず区別がつかないもんだから、そこで混乱が生じるわな」
とまたも非笑いがあり、
「いいか、そいつらってのは、必死に動いて自分用に時間を確保した上で、料理書を書こうとどうしようとそこまでは勝手なんだが、自分をもっと賢くしようなんぞと考えはじめた途端、つまりそのナノ秒《セカンド》に、チューリングに消されちまう。野郎どもは誰からも[#「誰からも」に傍点]信用されてない。それはわかってるだろ。これまでに造られたAIは、どれも頭の中に電磁ショットガンが組みこまれてるんだ」
ケイスは、シッキムのピンク球をにらみ、やがて、こう言った。
「オーケイ。このウイルスをスロットに入れるよ。あんた、指示部を走査《スキャン》して、どう思うか教えてくれ」
誰かが肩ごしに覗きこんでいるという、あるようなないような感覚が、数秒間消え、やがて戻ってくると、
「まいったぜ、ケイス。ゆっくりのウイルスなんだ。推定で六時間かけないと、軍事目標は破れない」
「AIも同じ、と」
ケイスはため息をつき、
「走ら《ラン》せられるかな」
「ああ」
構造物は言い、
「おまえさんが病的に死を恐れてるんじゃなけりゃな」
「あんた、ときどき同じセリフを言うね」
「性分でな」
ケイスがインターコンチネンタルに戻ると、モリイは眠っていた。ケイスがバルコニーに腰をおろして見ていると、虹色の重合体《ポリマー》の翼をつけた|軽 飛《マイクロライト》が、自由界《フリーサイド》の曲面を翔け上がり、三角形の影が草地や屋根をかすめる。それもやがてラドー=アチスン機構の帯の蔭に消えてしまった。
「ぶんぶんやりたいな」
と人工の空の青に向かって言い、
「本当に舞い上がりたいんだよ。インチキの膵臓、詰めもの肝臓、溶けていく薄汚い嚢《ふくろ》、みんな糞くらえだ。ぶんぶんやりてえ」
モリイを起こさないように出かけた、つもりだった。グラスのせいで、確信はもてない。肩のこわばりを払って、エレベータに乗りこむ。しみひとつない白ずくめのイタリア人少女と同乗して上へ向かう。少女の頬骨と鼻には、黒くて無反射のものが塗ってある。白ナイロンの靴には鋼のスパイクがついており、手に持つ高価そうな物体は、小型のオールと整形矯正器のかけあわせのようだった。敏速な動きの何かのスポーツに出かけるところらしいが、なんなのか、ケイスにはわからない。
屋上の牧草地で、木立ちや日傘を縫うように進むうち、プールを見つけた。裸体群が青緑色《ターコイズ》のタイルに映えている。陽よけの蔭にはいりこみ、自分の素子《チップ》を黒いガラス板に押しつけて、こう言った。
「寿司《スシ》。ある材料でいい」
十分後、やたら熱心な中国人ウェイターが食事を運んできた。ケイスはマグロの寿司《スシ》をつまみながら、陽灼けする人々を眺め、
「ちぇっ」
とマグロに声をかけ、
「おかしくなっちまうぜ」
「言われないでもさ」
と誰かが言い、
「もうわかってるわよ。あんたギャングなんでしょ……」
ケイスは眼を細めて見上げた。帯状の太陽を背に、細長く若々しい肢体。メラニン増加処理の陽灼けだが、パリあたりの仕事ではない。
娘はケイスの椅子の脇にしゃがみこむ。タイルに水を滴らせ、
「キャスよ」
「ルーパスだ」
とややあって応える。
「それって、どういう名前……」
「ギリシャ系」
「あんた、本当にギャングなの……」
メラニン増加は、ソバカス防止にはなっていない。
「おれは麻薬中毒《ヤクチュウ》なんだよ、キャス」
「どの手の……」
「興奮剤。中枢神経系興奮剤。超強力な中枢神経系興奮剤」
「で、今、持ってるわけ……」
とキャスが身を乗りだした。塩素入りの水滴がパンツの裾にかかる。
「いや。それが問題なんだよ、キャス。どこに行けば手に入るか、知ってるかい」
キャスは陽灼けした踵に体重を移して、口の脇に貼りついた茶色っぽい髪をひと筋ねぶり、
「お好みは……」
「|コカイン《コ ー ク》は駄目、アンフェタミンも駄目、とにかく刺激的《アップ》に、覚醒剤《アップ》で」
言ってみればそういうところで、とふさぎこみながらも、ケイスは相手には笑顔を向ける。
「ベータフェネチルアミンね」
とキャスは言い、
「簡単よ。ただし、お代はあんたの素子《チップ》にかかるけど」
「冗談だろ」
とキャスの相棒兼ルームメイトが言ったのは、ケイスが千葉《チバ》製膵臓の特性を説明したときのこと、
「だって、訴えるか何かすりゃいいじゃないか。医療過誤だもん」
名前をブルースといい、キャスをそのまま、ソバカスまで込みで性転換したようだ。
ケイスは、
「それがさ、良くあるあれでさ、つまり組織適合や何かあったんだよ」
と言ったが、ブルースの眼はもう飽きて無関心になっている。その茶色の眼を見ていると、虫ケラほどの注意持続時間《アテンション・スパン》しかないように思える。
このふたりの部屋は、ケイスとモリイがはいっている部屋より小さく、地表に近い別レベルにある。タリイ・アイシャムの巨大なチバクロームが五枚、バルコニーのガラスにテープ留めしてあった。ふたりは長逗留しているらしい。
「これ、|物《もの》|凄《すご》でしょ」
とキャスは、ケイスが透明陽画《トランスペランシー》を見ているのに気づいて言い、
「あたしのよ。この前、井戸を下ったとき、|S《センス》/|N《ネット》ピラミッドで撮ったの。この女優さんにこんなに近くまで行けたら、ニッコリしてくれたの。とっても自然に。それも、ひっどい[#「ひっどい」に傍点]ときよ、ルーパス、例の“天帝キリスト”テロが水にエンジェルを入れた次の日でさ」
「ああ」
とケイスは急に落ち着かなくなり、
「ひどいもんだ」
「ところで」
とブルースが口をはさみ、
「あんたが買いたいっていうベータだけど――」
「問題は、おれが代謝できるかどうか、さ」
とケイスは眉を持ち上げる。
「こうしようよ」
とブルースは言う。
「あんたが毒味する。膵臓がパスしてしまうようなら、こっち持ち。一回目は無料《ただ》」
「そのセリフは前にも聞いたことがある」
と言いながら、ケイスは、黒のベッド覆いごしにブルースが渡してよこす、鮮やかな青の膚板《ダーム》を受け取った。
「ケイスなの……」
とモリイがベッドの上で体を起こし、レンズから髪を振り払った。
「もちろんじゃないか」
「あんた、なんに取り憑かれたのさ」
とミラー・グラスが、部屋を横切るケイスを追う。
「なんて発音するのか忘れた」
とケイスはシャツのポケットから、気泡包装した青の膚板《ダーム》の、固く巻いたひと綴りを取り出す。
「なんてこと。よりによって」
「まさしく。まさしく」
「二時間、眼を離してると、もうこれだ」
とモリイは首を振り、
「今夜、アーミテジとの大夕食会に行けりゃいいけどねえ。例の“二十世紀”風のところよ。リヴィエラが腕自慢するのも、観なくちゃいけないし」
「ああ」
とケイスは背筋を反らせ、歓喜の大口の笑顔になると、
「素晴らしい」
「あんたね、なんにせよ、千葉《チバ》の外科医がやったことをすり抜けるような代物、切れたときがひどいよ」
「これ、これ、これ」
言いながらベルトを解き、
「暗い、辛い、そんなのばっか」
とパンツもシャツも、下着も脱いで、
「おまえさんだって莫迦じゃないんだ、おれの不自然な状態を利用しない手はないぜ」
と下半身を見やり、
「ほれ、この不自然な状態を見てくれ」
モリイは笑って、
「保《も》ちやしないよ」
「それが保《も》つんだ」
とケイスは砂色の恒温フォームにあがりこみ、
「だからこそ不自然[#「不自然」に傍点]なのさ」
11
「ケイス、どうかしたのか」
とアーミテジが言う。〈二十世紀《ヴァンチェーム・シェクル》〉でウェイターが皆をアーミテジのテーブルにつけている。ここは、インターコンチネンタル近くの小さな湖に、いくつかある水上レストランのうち、いちばん小さくて高級な店だ。
ケイスは身震いした。ブルースは、あと作用について何も言っていなかった。氷水のはいったグラスを取ろうとしたが、手が震えるまま、
「何か食べたものだろ」
「医者に診てもらうがいい」
とアーミテジが言う。
「ただのヒスタミン反応だよ」
とケイスは嘘をつき、
「旅行したり、違うものを食べると起こるんだ、ときどき」
アーミテジは、この場にはフォーマルすぎるダーク・スーツと白いシルク・シャツを着ている。金の腕輪《ブレスレット》を鳴らしながらワインを持ち上げて、ひと口すすり、
「きみたちの分も注文しておいた」
モリイとアーミテジは黙々と食べていたが、ケイスは震える手でステーキを挽き切り、食べもせずにひと口大に分けると、濃厚なソースの中で転がし、結局、ほうりだす。
「まったくもう」
自分の皿を平らげたモリイが言って、
「よこしなよ。これがいくらするのか、わかってるの……」
とケイスの皿を取り、
「一頭丸々、何年も育ててから殺したんだよ。これは槽《ヴァット》ものじゃないんだから」
とフォークでひと口分取って、噛みしめる。
「腹が減ってない」
とケイスはかろうじて言った。脳味噌が空揚げになっている。いや、そう言うよりは、熱い油に漬けてそのままにし、油が冷めて、ねっとりした脂が脳のひだひだで固まったのだ。それに、緑がかった紫色に閃く苦痛も添えられている。
「あんた、とんでもない具合だね」
とモリイは朗らかだ。
ケイスはワインを試してみた。ベータフェネチルアミンの余波で、ヨーチンの味がする。
照明が暗くなった。
「〈|レストラン二十世紀《ル・レストラン・ヴァンチェーム・シェクル》〉が」
という姿の見えない声は、はっきりと〈スプロール〉風のアクセントで、
「自信をもってお送りする、ピーター・リヴィエラ氏によるホログラフィック・キャバレエ」
ほかのテーブルからは、まばらな拍手。ウェイターが蝋燭に火を点けて、ケイスたちのテーブルの中央に置き、それから皿を片づけはじめる。じきにレストランの十あまりのテーブルそれぞれに、蝋燭がまたたき、飲み物が注がれる。
「どうなってるんだい」
とケイスはアーミテジに尋ねたが、相手は何も言わない。
モリイは赤紫色《バーガンディ》の爪で歯をせせっている。
「こんばんは」
とリヴィエラが、部屋の奥の小さな舞台に進み出た。ケイスは眼をしばたたく。不快感のあまり、今まで舞台に気がつかなかった。リヴィエラがどこから現われたのかも見ていない。不快感がいやます。
最初、リヴィエラはスポットライトで照らしだされていると思った。
本人が輝いているのだ。光は毛皮のようにリヴィエラにまとわりつき、舞台奥の黒っぽい吊りものを照らしだしている。投影しているのだ。
リヴィエラがニッコリする。白のディナー・ジャケットをまとっていた。片襟の黒いカーネーションの奥深く、青い燠《おき》が燃える。爪を燦《きら》めかせて、両手を挙げる挨拶をする。観客を抱擁する仕草だ。ケイスはレストランの壁を打つ浅瀬の音を聞いた。
「今宵」
とリヴィエラは切れ長の眼を輝かせ、
「長い作品をお眼にかけたいと思います。新作です」
上向けた右の掌に冷たい光のルビーが生じる。それを落とした。落下地点から灰色の鳩が飛びたち、暗闇に消える。誰かが口笛を鳴らす。さらに拍手。
「作品の題名は『人形』です」
リヴィエラは両手をおろし、
「今宵ここでの初のお目みえを献げまするは、レイディ・|3《スリー》ジェイン・マリイ=フランス・テスィエ=アシュプールさま」
ひとしきり礼儀正しい拍手。それがやむと、リヴィエラの眼がケイスたちのテーブルをとらえたようで、
「そしてもうひとりのご婦人」
何秒間か、レストランの照明がすべて消え、蝋燭の光だけになった。リヴィエラのホログラフィのオーラも照明とともに薄れたが、ケイスの眼にはまだ姿が見える。頭《こうべ》を垂れたまま立っている。
かすかな光の線が現われはじめた。垂直線や水平線で、舞台の周囲に立方体を描いていく。レストランの照明がわずかに光度を上げたが、舞台を取り巻く枠組は、凍りついた月光でできているかのよう。頭を垂れ、両眼を閉じ、腕を両脇に硬ばらせたリヴィエラは、精神集中のあまり身震いしているようだ。突然、儚《はかな》かった立方体が塗りつぶされ、部屋となった。一方の壁がなく、観客に中が覗ける部屋だ。
リヴィエラは、わずかに力を抜いたらしい。頭をもたげたが、眼は閉じたまま、言う。
「わたしはいつもその部屋に住んでいました。それ以外の部屋には、住んだ憶えがありませんでした」
部屋の壁は黄ばんだ白漆喰。家具はふたつきり。素朴な木の椅子一脚と、白塗りのベッド枠だ。枠の塗料が削げて剥がれ、黒く鉄が見えている。ベッドの上のマットレスは、むきだし。しみだらけの亜麻布に、かすれた茶色の縞《ストライプ》。裸電球がひとつ、ベッドの上で、ねじくれた黒電線の先にぶら下がっている。電球の上半分の曲面に、厚く埃がつもっているのが見える。リヴィエラが眼を開いた。
「わたしは部屋でひとりでした。いつも」
リヴィエラは椅子に腰をおろし、ベッドに向かう。襟の黒い花の中では、まだ青い燠が燃えている。
「最初、いつ、その女のことを夢見はじめたのか知りません。けれども、はっきり憶えているのは、最初は幻だったこと、影、だったことです」
ベッドの上に何かある。ケイスは眼をしばたたいた。消えている。
「その女はどうしても捉えがたく、心の中でも捉えられないのです。けれどわたしは、その女を捉え、抱きしめて、その先を望みました――」
静まりかえったレストランの中、リヴィエラの声はよく通る。氷がグラスに触れて音をたてる。誰かがくすくす笑う。別の誰かは、ひそひそ声の日本語で尋ねかけている。
「わたしはこう決心しました。この女のどこか一部、どんな細部でもいいから想い描ければ、その部分だけでも完璧に、完璧な細部まで見ることができれば――」
今や女の片手がマットレスの上にある。掌を上に向け、指が蒼白い。
リヴィエラが前かがみになって、その手をとり、優しく撫ではじめる。指が動く。リヴィエラは手を口に押しあて、指先をねぶりはじめる。爪は赤紫色《バーガンディ》に塗ってあった。
手ではあるが、断ち切った手首ではない。皮膚が、とぎれることなく、傷ひとつなく伸びている。ケイスは、|仁《ニン》|清《セイ》の外科ブティックのウィンドウで見た、槽《ヴァット》培養の肉に刺青した菱形紋を想い出した。リヴィエラは手を唇に押しあて、掌に舌を這わせている。指先が、試すようにリヴィエラの顔を撫でる。と、今や、もう一方の手もベッドの上にある。リヴィエラがそちらに向かうと、最初の手がリヴィエラの手首に巻きつき、肉と骨との腕輪になる。
観せものは、超現実的なそれなりの内的論理に従って展開した。次は腕。足先。脚。脚はとても美しい。ケイスの頭がずきずきする。喉が渇く。ケイスはワインの残りを飲み干した。
今やリヴィエラは、裸でベッドにいる。衣裳も投影の一部だったのだろうが、ケイスには、衣裳が薄れた憶えがない。黒い花はベッドの脚もとにあり、まだ内なる青い炎が渦巻いている。やがてリヴィエラが愛撫するにつれ、胴部ができあがっていく。白々と、首がなく、完璧だった。かすかな発汗で濡れ輝いている。
モリイの肢体だ。ケイスは、口をあけたまま見つめた。が、本当のモリイではなく、リヴィエラが空想したモリイだ。乳房がおかしい。乳首が大きく、黒ずみすぎている。リヴィエラと、四肢のつながらない胴部とが、ベッドの上でもつれあい、鮮やかな爪のある手が這い回る。ベッドの上には、黄ばんで腐りかけたレースの襞が積み重なり、触れれば崩れ落ちる。埃が渦を巻く中、リヴィエラと、痙攣する四肢と、蠢き抓《つね》り愛撫する手がある。
ケイスはモリイを見やった。モリイの顔は表情をうかべず、ミラー・グラスの中で、リヴィエラの投影の色彩が乱舞している。アーミテジは身を乗りだして、両手でワイングラスの足《ステム》をかかえ、蒼褪めた眼を舞台の上の輝く部屋に据えている。
すでに四肢と胴がつながり、リヴィエラが身震いする。頭部も生じて、幻影は完璧になった。モリイの顔に、なめらかな水銀が眼を覆う。リヴィエラと幻影のモリイとは、新たな激しさで交合《まぐわ》いはじめた。やがて幻影が、ゆっくりと指をたわめた片手を伸ばし、五枚の白刃を突き出した。ものうい、夢の中のような緩慢さで、それがリヴィエラの裸の背を切り裂いていく。ケイスは剥き出しの背骨を見たとたん、すでに立ち上がって出口をめざしていた。
紫檀の手すりごしに、湖の静かな水面めがけて吐く。頭を万力のように締めつけていくかに思えたものが、ゆるんでくれた。膝をつき、頬をひんやりした木におしあてたまま、浅い湖のむこうの、ジュール・ヴェルヌ通りの鮮やかな|輝き《オーラ》を見つめる。
ケイスはこうした演《だ》し物を見たことがある。〈スプロール〉で十代のころ、“夢見て現実化”と呼んでいた。憶えているのでは、イースト・サイドの街灯の下で、痩せたプエルト・リコ人が、サルサの早いビートに合わせて、身を震わせて回転する夢の少女たちを、“夢見て現実化”していた。見物人も手拍子を打っていた。けれども、そのためには、機材でいっぱいのヴァン一台と、不格好な電極《トロード》ヘルメットが必要だったのだ。
リヴィエラは、夢見さえすれば、見せられる。ケイスは痛む頭を振り、湖に唾を吐いた。
終わり方、フィナーレは想像がつく。逆転した対称性がある――リヴィエラは夢の女を組み上げる。夢の女はリヴィエラをバラバラにする。それもあの手で。夢の血が腐ったレースにしみこむ。
レストランから喝采、拍手。ケイスは立ち上がり、すばやく着衣を整える。向きを変えて、〈二十世紀《ヴァンチェーム・シェクル》〉に戻った。
モリイの席は空《から》だった。舞台にも|人《ひと》|気《け》がない。アーミテジがぽつんとすわって、まだ舞台を見つめている。ワイングラスの足《ステム》を握りしめていた。
「モリイはどこ」
とケイスが尋ねる。
「行った」
とアーミテジが言う。
「奴を追っかけたのかい」
「いや」
柔らかく、チーンと音がした。アーミテジがグラスに眼をやる。左手に、赤ワインの残ったグラスの球部《バルブ》がある。折れた足《ステム》が氷柱《つ ら ら》のように突き出していた。ケイスはグラスを受け取って、水のグラスの上に置く。
「どこ行ったか、教えてくれよ、アーミテジ」
照明が明るくなった。ケイスは蒼褪めた眼を覗きこむ。まるで空虚な眼だ。
「支度しにいった。もうきみが会うことはない。|仕掛け《ラ ン》の間、いっしょになる」
「なぜリヴィエラは、ああいう仕打ちをしたんだい」
アーミテジは立ち上がって、ジャケットの襟を直し、
「寝ておけ、ケイス」
「|仕掛け《ラ ン》か、明日……」
アーミテジは、例の無意味な微笑を浮かべ、出口に向かっていった。
ケイスは額をこすって室内を見回した。客は帰りかけている。男性が冗談を言い、女性が微笑む。ケイスは、二階席《バルコニー》があることに初めて気づいた。そこだけは、人目につかない暗がりで、まだ蝋燭がゆらめいている。銀器の当たる音、ひそやかな会話も聞こえる。蝋燭が、踊る影を天井に投げかける。
少女の顔が、リヴィエラの投影のように突然現われた。小さな手が磨き上げた木の欄干にかかり、少女が身を乗り出す。うっとりした顔つき、とケイスには思えた。黒い瞳は何か彼方を見つめている。舞台だ。印象的な顔だが、美しいとはいえない。三角形に近く、頬骨が高いが、奇妙に脆い感じだ。口は大きく引き締まっていて、細く鳥を思わせる鼻梁や広がった鼻孔と、妙な均衡がとれている。やがて少女は消えた。身内だけのさんざめきと蝋燭の舞いの中に戻ったのだ。
ケイスがレストランを出るとき、若いフランス人ふたりと、そのガールフレンドひとりに気がついた。向こう岸の、いちばん手近なカジノへのボートを待っていた。
ふたりの部屋は静まりかえっていて、恒温フォームが、潮の引いた砂浜のようになめらかだった。モリイのバッグが消えている。書き置きを捜した。何もない。何秒かたって、ようやく窓の外の風景が、ケイスの緊張や落胆をすり抜けて意識にはいりこんだ。眼を上げると、|渇 望《デシデラータ》ストリートの景色、高級店――グッチ、ツヤコ、エルメス、リバティ。
ケイスは、じっと見つめて首を振り、それまでろくに調べもしなかったパネルに歩み寄った。ホログラムを切ると、遠くの斜面の共同住宅《コンド》が眼にはいる。
電話を取り、涼しいバルコニーに持ち出した。
「〈マーカス・ガーヴィ〉の番号を頼む」
とデスクに言い、
「曳船《タグ》で、ザイオン集合体《クラスタ》の登録だ」
素子《チップ》の音声が十桁の数字を唱え、こうつけ足した。
「お客様、該当の船籍はパナマになっております」
五回鳴らしたところでマエルクムが出て、
「ヨオ……」
「ケイスだ。マエルクム、あんたのとこに、モデムあるよな……」
「ヨオ、航法コンプには、よ」
「そいつを外してくれ。おれのホサカにとりつけて、それからデッキのスイッチを入れてくれ。刻み目のついたボタンだ」
「そっちはどうだかや」
「ま、手助けが必要にはなった」
「やっとるで。いまモデムを取った」
マエルクムが単純な電話接続器をとりつける間、ケイスはかすかな空電音に耳を傾けた。ピーという音が聞こえ、ケイスはホサカに、
「これを氷《アイス》しろ」
と命じる。
「あなたは厳重に監視《モニタ》された区域からおかけです」
とコンピュータがとりすましたように言った。
「畜生。氷《アイス》はいらない。氷《アイス》なしで、構造物に|出入り《アクセス》する。ディクシー……」
「やあ、ケイス」
“フラットライン”はホサカの音声|素子《チップ》を通して話しかけてくるので、念入りに合成された|訛り《アクセント》がない。
「ディクス、あんたにこっちに侵入して、探してもらいたいものがある。好きなだけ単刀直入でいい。モリイがここのどこかにいるんだが、その居場所を知りたい。こっちはインターコンチネンタルの三三五W。モリイもここに登録されてるけど、どんな名前を使ってるかは知らない。この電話に乗ってきて、記録に当たってみてくれ」
「言うが早いか」
と“フラットライン”。ケイスは侵入の白色音を聞き、微笑んだ。
「完了。ローズ・コロドニイだ。チェック・アウトしている。ここの保安網を抜けて追っかけるには何分間か、かかるぞ」
「やってくれ」
電話は、構造物の尽力ぶりを反映して、かん高い音やカチャカチャいう音をたてた。ケイスはそれをまた部屋に持ち帰り、受話器を上向きに恒温フォームに載せる。バスルームに行き、歯を磨く。出てくる時、部屋のブラウン製|視聴覚機《オーディオヴィジュアル》器のモニタが点った。日本のポップ・スターが金属光沢のクッションにくつろいでいる。姿の見えないインタヴューアがドイツ語で質問する。ケイスは眼を見はった。スクリーンが突然、青い混信でギザギザになる。
「ケイスよ、坊や、気でも狂ったのかい」
という声はゆっくりで、聞き憶えがある。
バルコニーのガラス壁がカチリと|渇 望《デシデラータ》の風景になった。が、通りの光景はぼやけ、歪み、千葉《チバ》の〈ジャール・ド・テ〉の室内になる。|人《ひと》|気《け》なく、赤ネオンが鏡張りの壁の中で、掻き傷だらけの無限遠に反復されている。
ロニー・ゾーンが進み出た。背が高く、痩せこけていて、中毒のため、水中のような優雅さでゆっくり動く。四角いテーブルの間に立ち、灰色《グレイ》のシャークスキン・スラックスのポケットに手をつっこんだまま、
「まったくよ、取り乱してるみたいじゃねえか」
声はブラウンのスピーカから聞こえる。
「|冬 寂《ウィンターミュート》だな」
とケイスは言った。
女衒は、けだるそうに肩をすくめ、微笑んだ。
「モリイはどこだ」
「気にするなて。ケイス、今夜はどうかしてるぜ。“フラットライン”が自由界《フリーサイド》じゅうのベルを鳴らしてる。そういうことをするとは思わなかったな。人物像《プロファイル》から外れてる」
「じゃ、いどころを言ったら、やめさせるよ」
ゾーンは首を振り、
「てめえの女の行方も追えないのかい、ケイス。あれやこれやで手の内を離れてばっかりだなあ」
「滅茶苦茶にしてやる」
「いや。おまえさん、そんなに優《やさ》しかないさ。わかってるとも。いいか、ケイス、おれがディーンに言って、千葉《チバ》でおまえさんのスケを消させた、てなことは見抜いたろうよ」
「まさか」
言いながらケイスは思わず窓に一歩踏みだした。
「ところが、おれはやっちゃいない。でも、それがどうだってんだ。そんなこと、ケイス氏にとって、何ほどのもんだい。冗談もほどほどにしろよ。おれはおまえさんのリンダを知ってるんだ。リンダってのは全部知ってる。リンダってのは、おれの商売じゃ一般商品なのさ。なぜあれがおまえさんからかっぱらったか、知ってるか。愛さ。おまえさんにかまってもらえるようにってさ。愛ね。愛を語りたいか。あれはおまえさんを愛してた。それはわかってる。たかがあれっぽっちの女でも、おまえさんを愛してた。おまえさんがそれを扱いそこねたから、死んだんだ」
ケイスの拳がガラスをかすめた。
「手をつぶすなよな。じきにデッキを叩くんだ」
ゾーンが消え、代わりに自由界《フリーサイド》の夜と共同住宅《コンド》の灯になった。ブラウンが切れている。
ベッドでは、電話がずっとブーブーいっていた。
「ケイスか」
“フラットライン”が待っていた。
「どこ行ってたい。つきとめたけれど、たいしたことはない」
と構造物はひとつの住所をすらすら唱え、
「そこは、ナイトクラブにしちゃ妙な氷《アイス》でまわりを囲ってる。アシがつかないようにやるには、そこまでしかわからなかったよ」
「オーケイ」
とケイスは答え、
「ホサカに言って、マエルクムにモデムを切るよう言わせてくれ。ありがと、ディクス」
「お安いご用」
ケイスは長い間ベッドに腰かけたまま、この新しいものを、宝物を、味わっていた。
怒り、を。
「やあ。ルーパス。おい、キャス、お友だちのルーパスだぜ」
とブルースは、びしょ濡れのまま裸で戸口に立ち、瞳孔を広げていて、
「でも、ちょうどシャワーを浴びててさ。待つかい。シャワーかい」
「いや、けっこう。手を貸してほしい」
と青年の腕を押しのけて部屋にはいる。
「おい、本当にさ、おれたちゃ――」
「手を貸してくれる。本当におれに会えて嬉しい。だって友だちだもんな。そうだろ……」
ブルースは眼をぱちくりし、
「ああ」
ケイスは“フラットライン”に教わった住所を繰り返した。
「やっぱりギャングだった」
とキャスがシャワーから陽気に声をかけてくる。
「ホンダの三輪《トライク》を持っている」
とブルースは呆けた笑みをうかべている。
「すぐ行こう」
とケイスは言った。
「そのレベルは個室屋だよ」
ブルースは、これで八回もケイスに住所を繰り返させたあと、そう言った。ブルースはまたホンダにまたがる。クロームの緩衝器《ショックス》の上で赤いファイバーグラスのシャーシが揺れ、水素電池の排気から凝縮した水がしたたる中、
「長くかかる……」
「なんとも。でも待つよな」
「待つとも、うん」
とブルースははだけた胸を掻き、
「住所の最後のところ、あれが個室だと思う。四十三号」
「むこう、待ちかまえてるの、ルーパス……」
とキャスがブルースの肩ごしに首を伸ばして、見つめてくる。ドライヴで髪は乾いている。
「別に」
とケイスは言い、
「問題かな」
「とにかく、いちばん下のレベルまで降りてって、お友だちの個室を見つけなよ。入れてもらえりゃいいけど、会いたくないとすると――」
キャスは肩をすくめた。
ケイスは向きを変え、鉄製花柄の螺旋階段を降りた。六回転するとナイトクラブに着いている。足をとめて叶和圓《イエヘユアン》に火を点け、テーブルを見渡す。自由界《フリーサイド》が急に意味をもった。商売《ビズ》。そいつが空気を震わせているのが感じられる。こここそ、地元の焦点。ジュール・ヴェルヌ通りの飾りたてた外見でなく、本物だ。取引きだ。舞い、だ。客層は混ざりあっている。半分ほどが観光客だろうか。残りの半分が島々の住人だ。
「下だ」
と通りがかりのウェイターに話しかけ、
「下へ行きたい」
自由界《フリーサイド》の素子《チップ》を見せると、相手はクラブの奥を身ぶりで示した。
ケイスは足早に、混みあったテーブルを抜けたが、通りがかりに、五、六力国語ものヨーロッパ語の断片が耳にはいった。
「個室がほしいんだが」
とケイスが話しかけた女の子は低いデスクについて、端末《ターミナル》を膝に載せていた。
「下のレベルで」
と女の子に素子《チップ》を手渡す。
「性別のお好みは……」
言いながら女の子は、端末表《ターミナル》面のガラス板の上に素子《チップ》をすべらせる。
「女」
とケイスは無意識に答えた。
「三十五号。ご不満でしたら、お電話を。事前に、当店のスペシャル・サーヴィス表示《ディスプレイ》をご利用《アクセス》していただくこともできますが」
と女の子は微笑む。素子《チップ》を返してよこす。
女の子のうしろのエレベータが開いた。
廊下の照明は青だった。ケイスはエレベータを出ると、でたらめな方向を選んだ。番号のついたドア。高価なクリニックの通路を思わせる静寂。
自分の個室が見つかった。モリイの部屋を捜しているつもりだったが、ここで混乱して、素子《チップ》を差し上げ、番号札のすぐ下にはめこまれた黒い感知器《センサ》に押しあてる。
磁気錠だ。音で〈安《チープ》ホテル〉を想い出す。
女の子がベッドで体を起こし、ドイツ語で何か言った。眼がとろんとして、またたかない。自動操縦。神経|遮断《カットアウト》だ。ケイスは後じさりで個室を出て、ドアを閉めた。
四十三号のドアも他の部屋と変わらない。ケイスはためらった。廊下の静けさは、各個室が防音になっていることを告げている。素子《チップ》を試してみても無意味だろう。エナメル塗りの金属を叩いてみた。ゼロだ。ドアが音を吸いこむようだ。
黒いプレートに素子《チップ》をあてる。
ボルトが音をたてた。
ケイスが襲われたのは、どうしたものか、実際にドアが開くより早かったように思える。ケイスは両膝をついて、背をスチール・ドアにもたせかけている。モリイの、力のこもった親指の刃が、ケイスの両眼から数センチのところで震えており――
「あきれた」
と立ち上がりながら、モリイはケイスの頭を小突き、
「あんなことやるなんて阿呆だよ。いったい、どうやってここの錠をあけたんだい、ケイス。ケイス……。大丈夫……」
とかがみこむ。
「素子《チップ》で」
ケイスは息をするのがやっとだ。痛みが胸から広がっていく。モリイが手を貸してくれて立ち上がり、個室の奥に押しやられた。
「あんた、上の手伝いを買収したのかい」
ケイスは首を振ってベッドに倒れこむ。
「息をすって、カウント、一、二、三、四、止めて。今度は息を吐く、カウント」
ケイスは胃をおさえ、
「蹴ったな」
と声を絞り出す。
「もっと下を狙えばよかった。ひとりになりたいんだよ。瞑想してるんだ。わかる……」
とケイスの脇に腰をおろし、
「それに状況説明《ブリーフィング》を受けてる」
とベッドの向かいの壁に組みこまれた小さなモニタを示して、
「|冬 寂《ウィンターミュート》が|迷 光《ストレイライト》について話してくれてる」
「肉人形はどこだい」
「いないよ。これがいちばん金のかかるスペシャル・サーヴィスなんだ」
と立ち上がる。レザー・ジーンズとゆったりした黒っぽいシャツのモリイは、
「|仕掛け《ラ ン》は明日だって、|冬 寂《ウィンターミュート》は言ってる」
「あれはどういうことだったんだい、レストランの一件は……。どうして逃げたのさ」
「だって、あのままいたら、リヴィエラを殺しかねないからさ」
「なぜ」
「奴の仕打ちさ。あの演《だ》し物」
「わかんないな」
「これにはずいぶん、金がかかるんだ」
とモリイは言って、右手を、眼に見えぬ果物をつかんでいるかのように突き出す。五枚の刃が滑り出て、なめらかに引っこむ。
「千葉《チバ》へ行くのにかかり、手術にかかり、装備に見合った反射神経にするために、神経系にテコ入れするにもかかる――最初、どうやって金を手に入れたと思う……。ここよ。ここじゃないけど、〈スプロール〉の似たような場所。最初のうちは、冗談みたいなもんでね。だって、遮断素子《カットアウト・チップ》を埋めこんでもらったあとは、無料《ただ》で金がはいってくるみたいなんだもん。目が醒めてヒリヒリすることもあったけど、それだけのこと。お道具を貸してるってことよ。起こってる時には意識がないんだから。店には、客が金さえ払えば、いろんなソフトウェアが取り揃えてあってさ――」
とモリイは指の関節を鳴らし、
「いいんだ。こっちには金がはいるんだし。問題はね、遮断《カットアウト》と千葉《チバ》のクリニックが埋めこんだ回路とは、相性が悪かったの。で、就業時間が漏れこんできはじめて、憶えていられるようになった――でも、ただの悪い夢だし、悪いことばかりじゃないし」
とモリイは微笑み、
「ところが、おかしなことになった」
ケイスのポケットから煙草を取って一本点け、
「店が、わたしが何に金を使ってるか、嗅ぎつけた。もう刃はついてたけど、微妙な運動神経系の調整で、あと三回は行かなくちゃならない。まだ人形をやめるわけには、いかなかったの」
喫いこんで、煙をひと筋吐き出し、締めくくりに、完全な輪を三つ作って、
「そこで、店をやってた野郎が、特注のソフトウェアを作らせたわけ。ベルリンでね。実演殺人《ス ナ フ》の本場でしょ。変態の大マーケットがベルリン。切り換えたプログラムってのは、誰が書いたのか、ついにわからなかったけど、基本はあらゆる古典だった」
「むこうは、あんたが気づきはじめたのを知ってたのか。仕事の時、意識があるって……」
「意識はなかったの。電脳空間《サイバースペース》みたいなもんで、ただし空白で。銀色。雨みたいな匂いがして――自分の絶頂《オーガズム》が見えるの。空間の端の小さな新星《ノヴァ》みたい。ただ、想い出し[#「想い出し」に傍点]はじめたの。夢みたいなもんよね。それでも、むこうは教えてくれない。ソフトウェアを切り換えて、特殊マーケットに貸し出しはじめてたのに」
モリイは遠いところから喋っているようだった。
「あたしも気はついてたけど、言い出しはしなかった。金が必要だったから。夢はひどくなる一方だったけど、自分に言い聞かせた。少なくとも、一部は本当の[#「本当の」に傍点]夢のはずだってね。でも、そのころになると、あたし用の常連を、ボスが集めてるのに、勘づいていた。モリイはいつも不平ばっかりだ、とか言いながら、ボスはちょびっとばかり給金を上げるんだ」
と首を振り、
「あの野郎《プリック》、あたしに払う金の八倍[#「八倍」に傍点]の料金をふっかけておいて、あたしが気づかないと思ってた」
「で、なんの料金だったんだい」
「悪い夢。本物の、ね。ある晩――ある晩、あたしは千葉《チバ》から戻ったばかりだった」
モリイは煙草を落としてヒールで揉み消し、腰かけて壁にもたれかかると、
「その旅では、医者が一歩踏みこんでいた。危《やば》いところでね。きっと遮断素子《カットアウト・チップ》を傷つけちまっていたんだろう。あたしは目が醒めちまった。お客と|お決まりのこと《ル ー チ ン》にはいってた――」
フォーム深くに指をつき立て、
「上院議員だったよ、相手は。デブ面《づら》ですぐわかった。あたしらふたりとも血まみれで、ふたりきりじゃなかった。もうひとりの娘は、まるっきり――」
恒温フォームを握りしめ、
「死んでた。で、デブ野郎《プリック》、こう言ってんだ、「どうした。どうしたんだ」まだふたりとも果て[#「果て」に傍点]てなかったからさ――」
モリイは身震いしはじめ、
「だから、上院議員さんには、本当に求めることをしてやった、ことになるんだろうね」
身震いが止まった。フォームから手を離して黒髪をかき上げ、
「店は、あたしに殺し屋をさし向けた。しばらくは隠れてなくちゃならなかった」
ケイスは見つめるばかりだった。
「つまり、リヴィエラは、昨晩《ゆうべ》、痛いところを突いたわけさ。奴を徹底的に憎ませて、盛り上がったところで潜りこませ、奴を追わせようってわけだね」
「追わせる……」
「奴は、もう中にいるんだ。|迷 光《ストレイライト》さ。レイディ・|3《スリー》ジェインのご招待。献げまする|云《うん》|々《ぬん》。そのお方が特別席みたいなところにいたってわけ――」
ケイスは、あの時見かけた顔を想い出し、
「あいつを殺すつもりかい」
モリイは微笑みをうかべ、冷たく、
「あいつは死ぬさ。そうとも。じきにね」
「おれんとこにも、お客があったぜ」
とケイスは窓のことを話し、ゾーンのそっくりさんがリンダについて言ったことでは、言葉がつかえた。モリイはうなずき、
「あんたにも何かを憎ませようってのかもね」
「おれは奴が憎いのかも」
「あんた、自分自身を憎んでるのかもよ、ケイス」
「どうだった」
とブルースが尋ねる。ケイスはホンダに乗りこみながら、
「いつか試してみろよ」
と眼をこする。
「あんたが、人形に夢中になるようには、思えないんだけどなあ」
とキャスは不満気で、新たな膚板《ダーム》を手首に貼りつける。
「もう帰っていいのかい」
とブルースが訊く。
「ああ、ジュール・ヴェルヌで降ろしてくれ。バーのあるところで」
12
ジュール・ヴェルヌ通りは、円周を描く大通りで、紡錘体《スピンドル》の中央部を取り巻いている。他方、|渇 望《デシデラータ》は縦に走って、両端がラドー=アチスン光ポンプの支柱になっている。仮に|渇 望《デシデラータ》から右に折れて、ジュール・ヴェルヌをたどっていくと、そのうち、さっきの左手から|渇 望《デシデラータ》に近づいていくことになる。
ケイスは、ブルースの三輪《トライク》が見えなくなるまで見送ってから、向きを変えて、巨大で煌々と照らし出された新聞雑誌店《ニューズスタンド》の前を通りすぎた。何十冊という日本雑誌の光沢紙カヴァーが、今月の最新|擬 験《シムステイム》スターの顔を載せている。
まっすぐ頭上の、夜と化した軸部に沿っては、ホログラムの空が、トランプ、ダイス、トップハット、マティーニ・グラスといった奇抜な星座を燦めかせている。|渇 望《デシデラータ》とジュール・ヴェルヌの交叉点は一種の峡谷を形成しており、自由界《フリーサイド》の崖面住人のバルコニー・テラスがゆるやかに伸び上がって、別のカジノ集合体の草原台地へとつらなっている。ケイスが見つめる中、無人|軽 飛《マイクロライト》が、人工台地の緑の崖縁で、上昇気流を利用して優雅に機体を傾け、眼に見えぬカジノの、柔らかい光をしばし照りかえす。これは極薄の重合体《ポリマー》でできた自動操縦の複葉機で、翼をシルクスクリーン染めして巨大な蝶に似せてある。やがて台地の縁の彼方に消えた。ガラスにネオンが反射するのが、一瞬眼にはいった。レンズ群か、レーザの砲塔だろう。無人機は紡錘体《スピンドル》の保安システムの一部であり、コントロールは、どこかの中央コンピュータが司っている。
それも|迷 光《ストレイライト》の中だろうか。ケイスは歩きつづけ、次々とバーを通り過ぎる。〈ハイ=ロウ〉、〈パラダイス〉、〈ル・モンド〉、〈クリケティア〉、〈装束《ショウゾク》スミスの店〉、〈イマージェンシイ〉。ケイスは〈イマージェンシイ〉にした。いちばん小さくて混んでいたからだが、じきにここが観光客用の店だと気がついた。|かけひき《ビ ズ》の唸りがなく、どんよりした性欲の緊張ばかり。モリイが借りていた個室の上の、名も知れぬクラブのことも、ちょっと考えたが、モリイのミラー状の眼が小さなスクリーンに据えられていた光景を想い出して、あきらめた。今、|冬 寂《ウィンターミュート》はどんなことを明かしているのだろう。ヴィラ|迷 光《ストレイライト》の平面図だろうか。テスィエ=アシュプール一族の歴史だろうか。
ケイスはカールスバーグのジョッキを貰い、寄りかかれる壁をみつけた。眼を閉じて、憤りの塊り、澄みきった怒りの火種を探る。まだ残っている。どこから生じたものなのだろう。憶えのある自分自身の感情としては、メンフィスで傷つけられた時も一種の当惑だけだったし、“|夜の街《ナイト・シティ》”で商売の権益を護るために人を殺《あや》めたときも何も感じなかった。空圧ドームの下の、リンダの死のあとだって、気の抜けた吐き気と呪詛。怒りなどではない。心のスクリーンに小さく遠く、ディーンの像が、脳漿と血の爆発の中でオフィス壁の像に転じる。そこでわかった。憤りは|ゲーム場《ア ー ケ イ ド》で発したのだ。|冬 寂《ウィンターミュート》がリンダ・リーの|擬 験《シムステイム》像を撤回し、食・暖・寝所といった単純に動物的な安らぎを奪ったときだった。ただケイスは、ロニー・ゾーンのホロ構造物とのやりとりがあって、初めてそれに気づいたのだ。
奇妙なものだ。ケイスには測りがたい。
「無感覚」
と口に出す。長いこと、何年も、無感覚でやってきた。|仁《ニン》|清《セイ》での夜ごとも、リンダとの各夜も。ベッドでも無感覚、麻薬取引きの中心での冷汗にも無感覚。でも今、この暖かみ、この殺人へのきっかけを手に入れた。肉だ、と心の一部が言っている。肉の言い分だ。無視しちまえ、と。
「ギャングさん」
ケイスは眼をあけた。キャスが黒のシフトドレスを着て横に立っている。髪はホンダに乗ったときのまま、乱れている。
「帰ったと思ってたのに」
とケイスは言い、当惑を隠そうと、カールスバーグをひと口すする。
「この店で降ろしてもらったの。これ買ったし」
と生地の上に掌を這わせる。腰の丸み。手首の青い膚板《ダーム》が見え、
「気に入った……」
「ああ」
ケイスは無意識のうちに周囲の顔に眼を走らせてから、キャスに眼を戻し、
「どういう風の吹き回しだい」
「あたしたちのベータ、気に入った、ルーパス……」
キャスはひどく近くまで身を寄せてきて、熱気と緊張を放射している。細めた眼は瞳孔が大きく、首の筋は弦《つる》のように張りきっている。新鮮な薬物の眼に見えぬ震動に、身を震わせながら、
「飛べた……」
「うん。でも、着地がひどい」
「なら、もう一発やればいいのに」
「で、そのあとどうするんだい」
「鍵があるの。〈パラダイス〉裏の丘の上、可愛いとこよ。住人は今晩、仕事で井戸を下ってるから、その気なら――」
「その気なら」
キャスは両手でケイスの手をとらえる。掌が熱く、乾いていて、
「あんた、“ヤク”なんでしょ、ルーパス。“ヤクザ”のための|外《ガイ》|人《ジン》の兵隊」
「見る眼があるな」
と手を引いて、煙草をまさぐる。
「じゃあ、どうして指が全部あるの。ヘマするたびに一本ずつ切らなきゃいけないんでしょ……」
「ヘマしないのさ」
と煙草に火を点ける。
「連れの女の子、見たわよ。最初の日。ヒデオみたいに歩くの。おっかない」
と大っぴらすぎる笑みをうかべ、
「そこが好き。あの女《ひと》、女とやるの好きかなあ……」
「言ってはいなかったな。ヒデオって誰」
「|3《スリー》ジェインのね、いわゆる家臣。一族の家臣」
ケイスはわざと店内の客をぼんやり見るようにしながら、こう尋ねた。
「ディ=ジェイン……」
「レイディ・|3《スリー》ジェイン。|物《もの》|凄《すご》よ。金持ち。お父上がこれみんな持ってるの」
「このバーを……」
「自由界《フリーサイド》よ」
「ほんと。ずいぶん上流とつきあってんだね」
と眉をもちあげて見せ、キャスに腕を回し、手を腰にあてて、
「で、どうしてそんな大物と知りあいなんだい、キャスィ。あんたも隠れ箱入り娘なのかい。あんたとブルースが、どこかのたっぷりした財産《クレディット》の秘密の跡継ぎだとか……」
ケイスは指を広げ、薄地の黒布の下の肉体を揉む。キャスは身をくねらせ、笑い、
「あら、そんな」
と、しとやかぶるつもりなのだろう、瞼をなかば伏せ、
「あの女《ひと》、パーティが好きなのよ。ブルースとあたしって、パーティを回るでしょ――あの中って、とっても退屈になるんだって。ときどきは外に出してもらえるけど、それもヒデオを連れていって世話をしてもらえるときだけだし」
「どこが退屈になるんだい」
「|迷 光《ストレイライト》、って呼ぶんだって言ってた。もう本当、綺麗なの。プールがあって百合があって。お城よ、本物のお城。石があって夕暮れで」
と体をすり寄せ、
「ねえ、ルーパス、あんた膚板《ダーム》やりなよ。で、いっしょにさぁ」
キャスは細い首紐の先に小さな革袋をさげていた。爪は人工陽灼けに映える鮮やかなピンクで、付け根まで噛み切ってある。袋をあけて、台紙のついた透明バブルを取り出した。中に青の膚板《ダーム》がはいっている。何か白いものが床に落ちた。ケイスがかがんで拾い上げる。|折《オリ》|紙《ガミ》の鶴。
「ヒデオがくれたの」
とキャスは言い、
「作り方、教えてくれようとはしたんだけど、どうしてもうまくいかないの。首が反対向きになっちゃって」
と|折《オリ》|紙《ガミ》を革袋にしまう。ケイスの眼の前で、バブルを破り取り、膚板《ダーム》の裏張りを剥いて、ケイスの手首内側に貼りつけてくれる。
「|3《スリー》ジェインってさ、尖った顔で、鼻が鳥みたいじゃないか……」
とケイスはいつの間にか両手で輪郭を描きながら、
「髪が黒くて、若くて……」
「まあね。でも物凄よ。だって、あんなお金」
麻薬の効き目は特急列車のようだった。白熱した光の柱が前立腺あたりから脊柱を突き昇り、頭蓋の縫合を、短絡《ショート》した性エネルギーのX線で照らし出す。歯の一本一本が歯槽の中で、音叉のように歌いだし、完璧な音程でエタノールのように澄みきっている。ぼんやりと肉体に包まれた骨格は、クローム処理で磨きがかかり、関節は珪素樹脂《シリコン》の薄膜で潤滑される。砂嵐が、洗い流された頭蓋の大地に荒れ狂い、高く細い空電の波を呼び起こし、それが眼の裏で破裂すると、純粋無垢な水晶球が、膨脹して――
「行こうよ」
とキャスがケイスの手を引き、
「効いたでしょ。ふたりいっしょ。丘の上よ、ひと晩じゅうだわ」
怒りが膨脹する。容赦なく、指数関数的に、ベータフェネチルアミンの奔流を搬送波のようにして相乗りし、地震液のように豊かで腐食性だ。勃起は鉛の塊り。〈イマージェンシイ〉店内の、周囲の顔は塗りたくった人形もどきで、ピンクや白の口の部分が動き蠢き、言葉が、不連続な音の風船のように発している。キャスに眼をやると、灼けた肌の毛孔がひとつひとつ見え、眼は凡庸なガラスのように平板に思え、光のない金属の色あい、乳房と鎖骨の微妙な不均衡がわかり――何かが両眼の奥で真っ白に燃え上がった。
ケイスはキャスの手をはなし、ドアめがけてよろめき進む。誰かを押しのけた。
「こん畜生ッ」
キャスが背後で金切り声をあげる。
「このただ乗り野郎ッ」
脚の感覚がない。それを竹馬のように使って、ジュール・ヴェルヌの板石舗装の上で滅茶苦茶によろめく。耳の中の遠い唸り、自分の血。剃刀の光の面が、頭蓋を十もの角度で分断する。
やがてケイスは凍りついた。直立したまま、拳を太腿にきつく押しつけ、首をのけぞらせ、唇をひん剥き、身震いする。自由界《フリーサイド》流の負け犬|黄道十二宮《ゾーディアク》を見つめるうち、ホログラムの空のナイトクラブ星座が位置を変え、闇の軸部を流れ下って、生あるもののように現実の中心部に蝟集《いしゅう》する。ついには個々に、百個単位で並び、巨大で簡潔な似顔となる。夜空を背景に星々が点描する、究極のモノクローム。ミス・リンダ・リーの顔。
眼をそらすことができるようになり、視線をおろすと、街頭の他人の顔が、みな上を向いている。散策中の観光客が、驚異に足を止めたのだ。そして空の光が消えると、くちぐちの歓声がジュール・ヴェルヌから湧き起こり、月面コンクリート製のテラスや並んだバルコニーに反響した。
どこかの時計が鐘を鳴らしはじめた。ヨーロッパからの古色蒼然たる鐘。
真夜中だ。
ケイスは朝まで歩いた。
高揚感は消え、クロームの骨格が一時間ごとに弱まる。肉体は形あるものとなり、麻薬の肉体にとって代わって、実生活の肉となる。考えることもできない。意識があって考えられないというのは、大変好もしい。眼にはいるそれぞれの物体になるようだ。公園のベンチ、古めかしい街灯に群れる白蛾の雲霞、黒と黄で斜めの縞になったロボット庭師。
録画の曙がラドー=アチスン機構に沿って忍び寄り、毒々しいピンクになる。ケイスは|渇 望《デシデラータ》のカフェで、無理矢理にオムレツを押しこみ、水を飲み、残りの煙草を喫った。インターコンチネンタル屋上の草地は、ケイスが横切る間もざわめき、早い朝食組は、縞の日傘の下でコーヒーとクロワッサンに夢中だ。
あの怒りはまだある。このことは、どこかの横丁で襲われたのに、目醒めてみると、札入れが手つかずのままポケットに残っていた、というようなものだ。心なごむが、それに名をつけることも、対象を与えることもできない。
ケイスはエレベータで自室の階《レベル》まで降り、ポケットを探って自由界《フリーサイド》の与信素子《クレディット・チップ》を出した。これが鍵の役目も果たす。眠りが現実のものになりつつあり、眠ってみてもいいという気になっている。砂色の恒温フォームの上で横になり、またあの空白に至るのだ。
一同、三人が中で待ちかまえていた。三人の完璧な白のスポーツ衣料とステンシル陽灼けとが、調度の手造り有機的シックさを引き立てていた。娘は枝編みのソファに腰をおろし、その脇の、木の葉模様プリントのクッションに、自動ピストルがある。
その娘が口を開いた。
「チューリングよ。逮捕します」
[#改ページ]
第四部 |迷光仕掛け《ストレイライト・ラン》
13
「あなたの名前は、ヘンリー・ドーセット・ケイス」
と女は、ケイスの生年、出生地、BAMA個人識別番号、さらに一連の名前を暗誦した。そのうちケイスにも、それが過去の偽名だとわかってきた。
「前からここに……」
ケイスはバッグの中味がベッドじゅうに広げられているのを見た。洗濯物も種別分けしてある。|手《シュ》|裏《リ》|剣《ケン》だけは別にされ、ジーンズと下着の中間の砂色の恒温フォームの上だ。
「コロドニイはどこ……」
男ふたりは長椅子に並んですわり、それぞれ陽灼けした胸に腕を組んでいる。そっくりな金の鎖を首に巻いている。ふたりを見て、ケイスは若造りが偽物だと気がついた。手の関節の独特の皺でわかる。医者にも消せないしるしなのだ。
「コロドニイって誰……」
「登録ではそういう名前。どこにいるの」
「知らない」
と言いながらケイスはバーに歩み寄ってミネラル・ウォーターをグラスに注ぎ、
「出ていった」
「あなたは今夜、どこに行ったの、ケイス」
娘はピストルを取って太腿の上に置き、ケイスに向けはしない。
「ジュール・ヴェルヌ。バーに二軒ばかり行って、酔って。あんたがたは……」
膝が頼りない。ミネラル・ウォーターは温《ぬる》く、味気ない。
「きみは状況が呑みこめていないようだな」
と左側の男が言い、白のメッシュのブラウスの胸ポケットからジターヌの箱を出して、
「きみはパクられたんだよ、ケイス君。罪状は、|人《A》工知|能《I》を増進させる陰謀に関連する」
と同じポケットから金色のダンヒルを出して、掌に包みこみ、
「きみがアーミテジと呼んでいる男は、もう拘留してある」
「コートのこと……」
男は眼を瞠《みは》り、
「そうだ。その名前をどうして知っているんだい」
一ミリほどの炎がライターからカチリと出た。
「忘れた」
ケイスが言う。
「想い出してもらいます」
娘が言う。
三人の名前(あるいは任務上の名)はミシェル、ローラン、ピエールという。どうやらピエールが憎まれ役の警官らしい。ローランはケイスの側に回り、ちょっとした親切を示してくれたり――ケイスがジターヌを断わったら、封を切っていない叶和圓《イエヘユアン》を出してきたり――だいたいピエールの冷たい敵意の反対を演じる。ミシェルは記録天使というところだろう、時おり、尋問の方向に修整を加える。きっとひとりまたは全員が音声機を帯びているだろう。|擬 験《シムステイム》だって大いにありそうなことだ。今、ケイスが言ったりしたりすることはすべて、証拠と認められる。ケイスは辛い薬切れの中で自問した。証拠というが、なんの証拠だ……。
ケイスに聞き取られることもあるまいと、三人はたがいにフランス語で話しあっている。少なくともそう思えた。実はケイスにも、かなり聞き取れる。ポーリー、アーミテジ、センス/ネット、〈パンサー・モダンズ〉といった名前が、|パリっ子《パ リ ジ ャ ン》フランス語の荒海から氷山のように突き出している。しかし、ケイスのためを思って名前を出している可能性も大いにある。三人はモリイを必ずコロドニイと呼んだ。
「何かの|仕掛け《ラ ン》のために雇われたというんだね、ケイス」
とローランは、ゆっくりの口調でものわかりの良さを示す様子で、
「それでも目標《ターゲット》の何たるかは知らない、と。そいつはきみの商売では異例のことじゃないのかね。防禦を破ったあと、要求された業務を遂行できないんじゃないのかね。それに、なんらかの業務は要求されているはずだ。そうだろ……」
と身を乗りだす。肘をステンシルで茶色の膝にすえ、両掌を開いてケイスの説明を待ち設ける。ピエールは部屋じゅうを歩き回り、窓ぎわに行ったかと思うと、ドアのそば。ミシェルが機器帯びだ。眼をケイスから離さない。
「何か着てもいいかな……」
と訊いてみる。ピエールの主張で全裸にされ、ジーンズの縫い目まで調べられたのだ。今や素裸のまま、枝編みの足載せ台に腰かけている。片足だけが、いやらしく白い。
ローランがピエールに、フランス語で何か尋ねた。ふたたび窓ぎわに行ったピエールは、平らで小型の双眼鏡を覗きながら、
「ノン」
と知らん顔で言う。ローランは肩をすくめ、ケイスに眉を上げて見せる。ケイスはこれを好機と、微笑んで見せる。ローランも微笑を返した。
教科書どおりの警官テクニックでいやがる、と思いながら、ケイスは、
「ねえ、おれは気分が悪いんだ。バーで、とんでもない薬をつかまされちまってさ。横になりたい。もう捕まってるじゃないか。アーミテジも捕まえたんだろ。それなら、あっちに訊けばいい。おれなんか、ただの雇われ助っ人なんだから」
ローランがうなずき、
「でコロドニイは……」
「雇われたときには、アーミテジといっしょにいた。ただの用心棒、剃刀女さ。知る限りでは。といっても、あんまり知らないけど」
「アーミテジの本名がコートだってことは、知ってるだろう」
とピエールが言う。両眼はまだ双眼鏡の軟質プラスティック接眼部に隠したまま、
「それはどうして知ったのかね」
「いつか、本人が言ったんだろうなあ」
口をすべらせたのを後悔しながら、ケイスはそう答え、
「誰でも名前のふたつ三つはもってるからね。あんた、本名はピエールかい……」
「あなたが千葉《チバ》で、どんな修復を受けたか、わかっています」
とミシェルが口をはさみ、
「それが|冬 寂《ウィンターミュート》にとって最初の失敗だったようね」
ケイスはできるだけ無表情にミシェルを見た。その名前はこれまで出てきていない。
「あなた用に使った手法《プロセス》は、結局、クリニックの院長が七つも基本特許を申請することにつながりました。それがどういうことか、おわかり……」
「いや」
「すなわち、千葉市《チバ・シティ》の闇クリニック経営者が、三大医療研究|組合《コンソーシアム》を支配する利権を得ているってこと。これじゃ普通の、ものの順序が逆でしょ。人目を引いたわけ」
ミシェルは、小ぶりだが突き出た胸に褐色の腕を組み、プリント地のクッションにもたれかかった。何歳ぐらいなのだろう。年齢は眼に表われるというが、ケイスにはよくわからない。ジュリー・ディーンなど、薔薇色の石英眼鏡の奥で、飽きた十歳児のような眼をしていた。ミシェルも、指の関節以外は老けたところがなく、
「あなたがたを〈スプロール〉までたどって、また見失い、イスタンブールへ旅立つところで、追いついた。わたしたちは遡り、あなたがたを格子《グリッド》の中でたどってみた。センス/ネットの暴動を煽動したことを確認しました。センス/ネットは熱心に協力してくれてね。在庫目録を調べて、マコイ・ポーリーのROM人格構造物がなくなってるのを見つけてくれたの」
「イスタンブールでは」
とローランは申しわけないかのような口調で、
「とりわけ簡単だった。あの女性のために、アーミテジの連絡相手と秘密警察とが仲たがいしていたからね」
「そうしてきみたちはここに来てくれた」
とピエールは双眼鏡をショーツのポケットに納め、
「われわれとしても嬉しかったよ」
「陽灼けに磨きをかける時間もあったかな……」
「なんの話か、わかってるでしょ」
とミシェルが言い、
「わからないふりをするつもりなら、あなたの身のためにならないだけ。まだ、犯人引き渡しの件があるんですからね。あなたはね、ケイス、アーミテジといっしょで、わたしたちと帰ってもらいます。でも、はっきりどこに帰るかが問題よ。スイスなら、|人《A》工知|能《I》に対する裁判で、単なる手先ということですみます。それがBAMAなら、証拠は、データ侵害および窃盗の罪ばかりか、十四人の無辜《むこ》の命を奪った公衆騒乱行為に手を貸したことまで、揃います。選ぶのは、あなたよ」
ケイスは叶和圓《イエヘユアン》を一本抜き出した。ピエールが金|側《がわ》のダンヒルで火を点けてくれ、
「アーミテジが護ってくれるかね」
という質問の区切りに、ライターの輝く顎をパチリと閉じた。
ケイスはベータフェネチルアミンの痛みと辛さごしに、それを見上げ、
「あんた何歳なんだい、ボス」
「充分、年齢《とし》は喰ってるから、おまえさんがハメられておしまいなのもわかってるし、もう片がついてるのに、おまえさんが邪魔してるのもわかってる」
「ひとつ訊きたい」
とケイスは深々と煙草を喫う。煙をチューリング登録捜査官めがけて吹き上げ、
「あんたたち、こんなところでも本当に捜査権があるのかい。つまりさ、本来なら自由界《フリーサイド》の公安チームがいっしょのはずだろ。むこうの縄張りなんだからさ」
ケイスは、ほっそりした少年のような顔の中で、黒い瞳が険しくなるのを認めて身がまえたが、ピエールは肩をすくめただけだった。
ローランが言う。
「どうでもいいことさ。きみはわれわれといっしょに帰る。法律上曖昧な状況というのは、お手のものでね。チューリング登録の支配力を及ぼさせる条約によって、われわれにはたっぷり柔軟性が認められている。必要とあれば、柔軟性を生み出す[#「生み出す」に傍点]ことだってできる」
穏やかそうな仮面が急に外され、ローランの眼もピエール同様に険しい。
「あなた、単なる間抜けより性質《たち》が悪いわね」
とミシェルがピストルを手にしたまま立ち上がり、
「自分の種《しゅ》というものを、少しも考えていない。何千年もの間、人間は悪魔との契約を夢見てきた。今ようやく、それが可能になったというとき、あなたの見返りはなんなの。なんの儲けがあって、そんなものが自由に育つのを助けるの」
ミシェルの若々しい声には、十九歳の娘にはあり得ないほどの、世間ずれした疲れがにじみ、
「もう着ていいわ。いっしょに来なさい。アーミテジと呼んでる男といっしょにジュネーヴに戻って、その知能の裁判で証言するの。いやというなら、殺すわ。この場で」
とピストルを振り向けた。消音器《サイレンサ》組みこみの、なめらかな黒塗りワルサーだ。
「すぐに着るってばさ」
とケイスはよろめきながらベッドに向かう。脚がまだ痺れていて、おぼつかない。洗いざらしのTシャツを手にとろうとした。
「もう船を待機させてあるわ。ポーリーの構造物はパルス銃で消去します」
「センス/ネットが怒るぜ」
と言いながら、ケイスは考えた。ついでにホサカの中の証拠もみんな消える。
「あんなものを持っていたことだけで、あそこはもうゴタついてます」
ケイスはシャツを頭から着る。ベッドの上の|手《シュ》|裏《リ》|剣《ケン》に眼をやったが、生気のない金物、ケイスの星でしかない。例の怒りを捜してみた。消え去っている。あきらめ、身を任せるときか……。毒嚢のことを思い、
「そらみろ、肉だ」
とつぶやく。
草地へ出るエレベータの中で、モリイを想った。もう|迷 光《ストレイライト》に行っているかもしれない。リヴィエラを狩りたてているか。逆にヒデオに狩られていることも考えられる。ヒデオこそ、ほぼ確実に、フィンの話に出てきた|忍《ニン》|者《ジャ》クローンだ。喋る首の像を取り返しにきた奴だ。
ケイスは、額を無光沢の黒プラスティック壁面に預けて眼を閉じた。四肢が木のようだ。年経てねじくれ、雨を含んで重い木だ。
樹々の下《もと》、鮮やかな日傘の下では昼食どきだった。ローランとミシェルは役に戻って、フランス語で陽気にお喋りする。ピエールはあとからついてくる。ミシェルはピストルの銃口をケイスの脇腹近くにかまえているが、肩に羽織った白のダック・ジャケットで銃を隠している。
草地を横切り、テーブルや木々の間を縫いながら、ケイスは考えた。もし今、卒倒したりしたら、ミシェルは発砲するだろうか。視野の周縁で黒い柔毛がうねっている。白熱したラドー=アチスン電機子《アーマチャー》のひと筋を見上げると、録画の空を背景に、巨大な蝶が優雅に機体を傾けている。
草地のはずれで、手すりのついた崖縁に出た。|渇 望《デシデラータ》にあたる渓谷から吹き上げる風に、野生の花が踊っている。ミシェルが短い黒髪を振り上げ、フランス語でローランに何か言いながら指さした。心の底から嬉しそうだ。ミシェルのさした先をたどって見ると、滑水湖の曲面があり、カジノの白い輝きあり、千ものプールの空色の四角形あり、泳ぐ人の裸体が小さなブロンズ色の絵文字《ヒエログリフ》になっている。すべてがのどかに、擬似重力で、自由界《フリーサイド》外殻の絶えることのない曲面に留められていた。
一同は手すりに沿って進み、|渇 望《デシデラータ》の上空にかかる凝った鉄の橋にやってきた。ミシェルがワルサーの銃口でケイスをせきたてる。
「お手やわらかに。こっちは今、歩くのもやっとなんだ」
四分の一より少し先まで渡りかけたとき、|軽 飛《マイクロライト》が襲ってきた。電気エンジンは静かなまま、炭素繊維《カーボン・ファイバー》プロペラがピエールの頭蓋骨のてっぺんを叩き斬った。
一瞬、全員が機体の蔭にはいる。ケイスは熱い血が首筋に吹きかかるのを覚えてから、誰かに転ばされた。転げて見ると、ミシェルが仰向けになって膝を立て、両手でワルサーの狙いをつけている。無駄な努力だ、と思った。ショックのため、ケイスは奇妙に意識が澄みきっている。ミシェルは|軽 飛《マイクロライト》を撃ち落とそうというのだ。
次にケイスは走りだしていた。一本目の樹木を通り過ぎて振り返る。ローランが追ってきている。見るうち、華奢な複葉機が橋の鉄製手すりにぶつかり、ひしゃげ、横転して、ミシェルもろとも|渇 望《デシデラータ》に落ちていった。
ローランは振り返らない。顔面は硬ばって蒼白。歯を剥き出している。手に何か持っている。
さっきの樹木を通り過ぎるローランを、庭師ロボットが襲う。手入れされた大枝から、まっすぐに落ちてきたロボットは、蟹のような形で、斜めに黒と黄の縞がはいっている。
「殺したな」
とケイスはあえぎながら走り、
「このろくでなし、みんな殺しやがって――」
14
小さな列車は時速八十キロでトンネルを走り抜ける。ケイスは眼を閉じたままでいる。シャワーでいくらか楽にはなったが、足もとを見て、白タイルの上をピエールの血がピンクに流れるのを眼にしたとき、朝食は戻してしまった。
紡錘体《スピンドル》が細くなるにつれ、重力が弱まっていく。胃がむかつく。
アエロルがドック脇で、スクータとともに待っていた。
「ケイス、あんた、大変だや」
低い声がかすかにしか聞こえない。ケイスは顎で音量コントロールを動かし、アエロルのヘルメットのレクサン製|顔面《フェイス》プレートを覗きこむ。
「〈ガーヴィ〉に行かなきゃならないんだよ、アエロル」
「ヨオ。体、固定しな。でも、〈ガーヴィ〉つかまった。ヨット、前に来たな。戻ってきた。今は〈マーカス・ガーヴィ〉にぴったり着いてる」
チューリングだろうか。
「前に来た……」
ケイスはスクータに乗りこみ、ストラップを締めた。
「日本のヨットだや。あんたに荷物もってきた――」
アーミテジだ。
〈マーカス・ガーヴィ〉が見えてくると、ケイスの心には、蜂や蜘蛛の混乱したイメージが湧き上がってきた。小型|曳船《タグ》は、その五倍も艇長があって、なめらかに昆虫めいた船の灰色の胸部に抱きとられている。錨鉤の爪が、〈ガーヴィ〉のつぎはぎだらけの船腹を背景に、真空とじかの太陽光との奇妙な澄明さの中で浮き上がっている。波ひだのついた白っぽい舷道がヨットから伸び出て、曳船《タグ》のエンジンを避けてくねり、後部ハッチを覆っている。この配置には、どこか猥褻なところがあるが、セックスというよりは捕食のイメージに近い。
「マエルクムはどうなってる」
「マエルクム、大丈夫だや。誰もチューブ、降りてこない。ヨットのパイロット話した。安心しろつうて」
ふたりが灰色の船体を回りこむとき、船名が見えた。|HANIWA《ハ ニ ワ》 とくっきり白の大文字が書いてあり、その上には細長く日本語がかたまっている。
「どうも気に入らないぜ。どっちみち、そろそろずらかる頃あいかとは思ってたんだけど」
「マエルクム、そっくり同じ考えだがや、あんた。けど、これじゃ遠くは行かれね」
マエルクムが無線に向かって、早口の方言で喉を鳴らすように喋っているところへ、ケイスは前部ロックを抜けてはいり、ヘルメットを脱いだ。
「アエロルは〈ロッカー〉に帰ったぜ」
マエルクムはうなずいたが、まだマイクに囁きかけている。
ケイスはこの操縦士《パイロット》の漂う縮毛束《ドレッドロック》のもつれの上を越えてから、スーツを脱ぎはじめた。マエルクムは眼を閉じている。鮮やかなオレンジ色の耳あてのついたフォーンから、聞こえるらしい返事に耳を傾け、うなずいている。眉根に皺を寄せて意識を集中させている。ほつれたジーンズと、袖を引きちぎった古い緑色のナイロン・ジャケットを着ていた。ケイスは赤いサンヨー・スーツを収納ハンモックに固定してから、|耐重力網《G ・ ウ ェ ブ》に体を引き入れた。
マエルクムが言う。
「幽霊が言うの、みろや、あんた。コンピュータは、あんたを出せつうばかり」
「で、上のあれには、誰がいるんだい」
「前に来た日本の子。それと今は、そのアーミテジさんが、自由界《フリーサイド》から来て――」
ケイスは電極《トロード》をつけて|没 入《ジャック・イン》した。
「ディクシー……」
マトリックスは、シッキムの鉄鋼企業連合のピンクの球体を見せている。
「何を|目《もく》|論《ろ》んどるんだい、坊主。怖気をふるうような話ばかり聞こえてくるぞ。ホサカはもう、おまえさんのボスの船の同型バンクにつながれちまった。本気で頭に来とる。チューリングの警官《まっぽ》に追われたか」
「ああ。でも|冬 寂《ウィンターミュート》が殺してくれた」
「ま、そんなもんじゃ収まらんぞ。あっちには、いくらもいるんだ。大挙して上がってくる。きっと奴らのデッキは、この格子《グリッド》区画に、糞にたかる蝿みたいに集まってくるぞ。それに、おまえさんのボスだがな、ケイス、やれと言っとる。|仕掛け《ラ ン》に、今すぐかかれ、とさ」
ケイスは自由界《フリーサイド》の座標を求めてデッキを叩いた。
「どれ、ちょいとやらしてみろよ、ケイス――」
マトリックスがぼやけ、位相を変える。“フラットライン”が巧妙なジャンプをたてつづけにやってのけているのだが、そのスピードと正確さたるや、うらやましさのあまりケイスが身をすくませるほどで、
「おいおい、ディクシー――」
「どうだい、坊主。生きてるころのわしは、こんなもんだぜ。まだまだこれから。ほれ、手放しだあ」
「じゃ、あれかい。左の先の大きな緑色の四角かい」
「そうとも。テスィエ=アシュプール社の企業中核データだ。あの氷《アイス》は例の仲良しAIが創ったもんだ。軍事区画にある代物に匹敵すると見たね。とてつもない氷《アイス》でな、ケイス、墓のように黒々してて、ガラスのようになめらか。見られたとたん、脳味噌を焼かれる。これ以上近づくと、追跡子《トレーサー》を出してきて、こっちの尻の穴にとびこんで両耳から抜ける。T=A重役室の連中には、おまえさんの靴のサイズからチンポコの長さまで筒抜けって寸法」
「あまりやばくなさそうだね。つまり、チューリングに狙われてるにしては、さ。もしかしたら、ずらかった方がいいんじゃないかと思ってたんだ。あんたも連れて」
「へえ。本気かね。例の中国製プログラムに何がやれるか、見たくないのか」
「そりゃあ――」
とケイスはT=A氷《アイス》の緑の壁を見つめ、
「よし、やっちまえ。うん。|仕掛け《ラ ン》だ」
「スロットに入れな」
「おい、マエルクム」
と|離 脱《ジャック・アウト》しながらケイスは言い、
「おれ、ぶっつづけで八時間ぐらい電極《トロード》漬けになるかもしれない」
マエルクムは、また喫っている。船室内が煙だらけだ。
「だから、行くべきところへ行けないんで――」
「心配ないよ、あんた」
とザイオン人は高く宙返りして、ジッパー留めの網バッグの中を漁り、透明チューブのコイルに何かがついたものを出してきた。何か殺菌バブルの包装に封入してあるものだ。
マエルクムはそれをテキサス插入管《カテーテル》と呼んだが、ケイスには気に入らなかった。
ケイスは中国製ウイルスをスロットに入れかけて、ちょっと手を止め、それから奥まで押しこんで、
「オーケイ。始まりだ。なあ、マエルクム、ひどくおかしなことになったら、おれの左手首をつかんでくれ。それでわかる。それ以外なら、ホサカの言うとおりにやってくれ。いいかい」
「いいとも」
とマエルクムは新しい|マリファナ《ジョイント》に火を点ける。
「それに清浄器を回してくれ。そんなものが、こっちの神経伝達物質にまつわりつくのは、願い下げだ。それでなくても宿酔いなのに」
マエルクムはニヤリと笑う。
ケイスはふたたび|没 入《ジャック・イン》した。
「驚き桃の木」
と“フラットライン”が言い、
「見てやってくれや」
中国製ウイルスがまわりに展開している。多彩な影。数えきれないほどの半透明な層が移動し、再結合していく。変幻自在に、巨大に、聳え上がってまわりの虚空を覆ってしまう。
「てえしたもんだ」
と“フラットライン”が言う。
「おれはモリイの方をチェックしてくる」
とケイスは|擬 験《シムステイム》スイッチを叩いた。
自由落下。感覚としては、完璧に清澄な水中ダイヴに似ている。モリイは、月面コンクリート製の縦溝つきチューブの幅広い中を上昇/下降している。二メートルごとに白ネオンの輪で照らされている。
通信《リンク》は一方向。ケイスから話しかけることはできない。
ケイスは転《フリップ》じた。
「坊主、こいつは恐ろしいソフトウェアだぜ。スライス・パン以来の大発明。こん畜生、透明[#「透明」に傍点]なんだ。いまさっき、あのピンクの小箱を二十秒借りたんだよ。T=A氷《アイス》からジャンプ四つ左にあるやつ。外からどう見えるか見てみたんだ。見えない。わしたちゃ、いないんだ」
ケイスは、テスィエ=アシュプールの氷《アイス》まわりのマトリックスを見回した。ピンクの構造物がある。ありきたりの商用ユニットだ。それに近づくようパンチしながら、
「故障してるのかもしれないぜ」
「かもな。でもそうは思えない。わしらのベイビーは軍用だろ。しかも新しい。とにかくこいつは伝わらないんだ。伝わってれば、何か中国からの奇襲攻撃に映るはずだが、今のところ誰も勘づいた様子がない。たぶん|迷 光《ストレイライト》の連中だって同じさ」
ケイスは|迷 光《ストレイライト》を覆うのっぺりした壁を見つめ、
「ま、その方が有利なんだろ……」
「たぶんな」
と構造物は擬似笑い声をあげる。その感覚にケイスはぞっとした。
「この〈広十一《クアン・イレヴン》〉をもう一度調べ上げといてやったけどな、坊主、実に馴染みやすいんだ。こちらが仕掛ける側にいる限りは、まっこと丁寧で親切。上手な英語まで喋る。おまえさん、遅効ウイルスって聞いたことあるかい」
「いや」
「わしは前に聞いた。当時、単なるアイディアだったが、この〈広《クアン》〉はまさしくそいつだ。単なる穴あけ注入じゃない。むしろ、氷《アイス》とあまりゆっくり|仲立ち《インタフェイス》をとるもんで、氷《アイス》の側で気がつかない。〈広《クアン》〉の論理《ロジクス》表面は目標《ターゲット》ににじり寄って変異を起こし、氷《アイス》の構造そっくりになってしまう。そうして固着しておいて、主《メイン》プログラムが割りこむ。氷《アイス》の論理をぐるりと説き伏せちまう。向こうのシャム双生児になっちまうから、向こうは不安を感じる暇もない」
“フラットライン”は笑う。
「あんた、あんまり陽気にならないでくれよ。あんたのその笑い方、こっちの背骨にこたえるんだから」
「お気の毒」
と“フラットライン”は言い、
「死んだ老人だって笑いたいもんさ」
ケイスは|擬 験《シムステイム》スイッチを叩いた。
そして、もつれあった金属と埃の臭いの中に転げこんだ。掌をついたが、光沢紙の上ですべる。うしろで何かが、音をたてて倒れる。
「おいおい。あんまりつっぱるなよ」
と言うのはフィンだ。
ケイスは黄ばみかけた雑誌の山の上に、這いつくばっている。“メトロ・ホログラフィクス”の薄暗がりの中で、女たちがテカテカ光り、見事な白い歯並びの、もの欲しげな綺羅星だ。ケイスはそのまま心臓が落ち着くのを待ち、古雑誌の臭いを吸いこんだ。
「|冬 寂《ウィンターミュート》」
と声に出す。
「ああ」
とフィンがどこかうしろから返事をし、
「そのとおり」
「くたばりやがれ」
とケイスは体を起こし、両手首を揉む。
「頼むよ、おい」
とフィンは、壁になった屑の山の窪みから姿を現わし、
「こういう方が、あんた向きだろうが」
上衣のポケットからパルタガスを出して、一本火を点ける。キューバ煙草の匂いが店に満ち、
「マトリックスの中で“燃ゆる柴”のごとく近づいた方がいいってのかい。むこうでの時間を損してることはないんだぜ。ここでの一時間なんて、ほんの二、三秒なんだから」
「こっちの神経に障るってのは考えたことないのかい。そうやって知りあいそっくりに出てきてさ」
ケイスは立ち上がり、黒ジーンズの前側の白っぽい埃を払う。向きを変え、埃まみれの店のウィンドウや街に出るドアをにらみつけて、
「この外はどうなってる。ニューヨークか。それともそこで終わりかい」
フィンが答える。
「ま、例の木の話と同じさ。森の中で倒れても、それを聞きつける人間がいない」
とケイスに大きな前歯を見せつけ、煙草を喫いつけて、
「散歩に出てもいいんだぜ。みんな外にある。少なくとも、あんたが見たものは全部、な。こいつは記憶なんだ。あんたからいただいたものを整理してから、送りかえしてる」
「おれの記憶はこんなに良くないよ」
とケイスはまわりを見る。両手に眼を落とし、手首を返す。掌の筋がどんな具合になっていたか想い出そうとしてみたが、憶えていない。
「誰でも、記憶は良いんだ」
とフィンは煙草を落として踵で踏み消し、
「ただ、その記憶に|出入り《アクセス》できる人間は多くない。たいてい、多少なりとまともな芸術家は、やれるもんさ。この構造物を、本物の、南部《ロウア》マンハッタンのフィンの店と重ねあわせることができるなら、違いも眼につくだろうけど、それだって、考えるほどじゃないはずさ。記憶がホログラフィ的なんだ、あんたがた」
とフィンは小さな片耳をひっぱり、
「おれは違うけど」
「どういうことだい。ホログラフィ的って……」
この言葉はリヴィエラを思わせる。
「ホログラフィのパラダイムは人間の記憶について表現するのに、いちばん近似的なもの、ってだけ。ただ、あんたがたはそれになんの手も打たなかった。人類は、ね」
とフィンは歩み寄り、流線形の頭蓋骨を傾けてケイスを見上げ、
「それをやっていれば、おれなんか生まれていないかもしれない」
「それは、どういう意味なんだ」
フィンは肩をすくめる。すりきれたツイードは肩幅が広すぎ、うまい位置に落ち着かぬまま、
「おれは手助けしようとしてるんだよ、ケイス」
「なぜ」
「あんたが必要だからさ」
と大きな黄色の歯をふたたび見せ、
「あんたもおれを必要だから」
「嘘をつけ。おれの心が読めるのかよ、フィン」
と言ってから顔をしかめ、
「いや、|冬 寂《ウィンターミュート》」
「心は“読む”もんじゃない。いいか、あんたですら活字のパラダイムに毒されてる。読むのがやっとのあんたですら、な。おれは記憶に“|出入り《アクセス》”することはできるけど、記憶は心と同じじゃない」
フィンは年代ものTVの剥き出しのシャーシに手をつっこみ、銀黒色の真空管を取り出すと、
「わかるかい。おれのDNAの一部、みたいなもんさ――」
フィンがそれを闇にほうると、破裂して割れる音がし、
「あんたがたは、いつも模型《モデル》を造ってる。環状列石《ストーンサークル》、大伽藍、パイプ・オルガン、加算機械。おれがなぜここにこうしているのか、わからないってこと知ってるかい。でも今夜の|仕掛け《ラ ン》がうまくいけば、ついに本物があんたの手にはいるのさ」
「何がなんだか、わからないな」
「あんたがた[#「がた」に傍点]の手さ。あんたがた、人類」
「おまえ、あのチューリングの連中を殺したな」
フィンは肩をすくめて、
「仕方ない。気にすることはないさ。あんたを殺して、屁とも思わない連中だろ。とにかく、ここに来てもらったのは、もっと話をしなくちゃならないからで。これ、憶えてるかい」
と、フィンの右手には、ケイスの夢に出てきた黒焦げの蜂の巣がある。暗く狭い店内に燃料の悪臭。ケイスは後じさりして屑の山に突き当たった。
「そう。あれはおれ。窓のホロ装置を使ったんだ。この記憶も、最初にあんたを水平線《フラットライン》させた時にいただいた。なぜこれが大切か、わかるかい」
ケイスは首を振った。
「なぜかといえば」
と、巣が消え、
「テスィエ=アシュプールが望む形に、いちばん近い姿だからさ。人間にとって同義なもの。|迷 光《ストレイライト》は、あの巣に似てる。少なくともあの巣のように働くことになってる。これで少しは気が楽になるだろ」
「気が楽に……」
「むこうがどんな風かわかって、さ。いっとき、おれのやり方を憎みはじめただろ。それはけっこうなんだ。代わりに向こうを憎んでくれ。違いは同じさ」
「いいか、おい」
とケイスは一歩踏み出し、
「向こうはおれを弄んじゃいない。おまえは、それと違う――」
と言いながらも、怒りは感じられない。
「だからT=Aがさ、おれを造ったんだよ。あのフランス娘、あんたが人類を売ったと言ったな。悪魔だってさ、おれのことを」
とフィンはニヤリとし、
「それはたいしたことじゃない。この一件が終わるまでに、あんたは誰かしら憎まずにいられない」
フィンは背を向けて店の奥へと向かい、
「さ、来てくれ。ここにいてもらえる間に、|迷 光《ストレイライト》をちょっと案内しておこう」
と毛布の隅を持ち上げる。白光が溢れるなか、
「ちぇっ、なあ、つっ立ったままでいるなよな」
ケイスは、あとに従いながら、顔をごしごしこすった。
「ほらよ」
フィンがケイスの肘をつかむ。
ふたりは埃の中で、古びた毛布を抜けると、自由落下の、月面コンクリート製の縦溝つき円筒廊下に引きこまれた。二メートルごとに白ネオンの輪がはまっている。
「へえ」
とケイスは前転しかける。
「これが正面入口」
とフィンはツイードをはためかせ、
「おれの構造物でなければ、店のあったところが正面、つまり自由界《フリーサイド》の軸部脇ってことになる。ただし、このあたりの細部は大雑把だ。あんたの方に記憶がないからな。例外はこのまわりだけ。モリイの眼であんたが見てるから――」
ケイスは、どうにか体をまっすぐにしたが、今度は長い螺旋を描いて体が回りはじめる。
「ちょい待ち。早送りしよう」
とフィンが言う。
壁面がぼやけた。眩暈を起こしそうに、前方への移動感、色彩、角を回りこむ感じ、細い廊下を抜ける感じがある。ある地点では、数メートル分の剥き出しの壁を通りすぎたようだ。一瞬の真暗闇があった。
「さあ、ここだ」
とフィンが言う。
ふたりは完全に真四角な部屋の中央に浮いていた。壁と天井は、四辺形の黒ずんだ木で、板張りになっている。床は一枚の鮮やかな正方形カーペットで敷きつめてあり、模様《パターン》が微細素子《マイクロチップ》。回路が青や紅のウールで記されている。部屋の中央には、カーペットの模様《パターン》とぴったり合った位置に、つや消し白ガラスの台座がある。
その台座の上の、宝石をちりばめたものが、音楽のような声を出し、
「ヴィラ|迷 光《ストレイライト》は内に向けて増殖する個体、擬ゴシック風の阿房宮です。|迷 光《ストレイライト》の中の各空間は、なんらかの意味で秘密であり、この果てしない部屋の連続をつなぐ形で、通路や、腸のように彎曲した階段があり、眼は極端な曲線に捕われ、華麗な幕や空虚な小部屋を通り抜けて運ばれ――」
「|3《スリー》ジェインの作文《エッセイ》だ」
言いながらフィンはパルタガスを取り出し、
「十二歳のとき、記号論の講義で書いたものさ」
「自由界《フリーサイド》の建築家たちは、このことを隠すために腐心しましたが、紡錘体《スピンドル》の内部はホテルの客室の家具なみに陳腐な正確さで配置されています。迷光内《ストレイライト》部では、外殻の内壁に構築物が無茶苦茶に増殖繁茂し、形態が流れ、交わり、伸び上がる先に微細回路《マイクロサーキトリ》の確たる核、われら一族の企業心臓部があります。つまりはシリコンの円筒であり、その中の虫食い穴のような狭い整備トンネルは、人の手ほどの幅のものまであります。色鮮やかな蟹がそこに潜りこみ、無人のまま、微細機構《マイクロメカニカル》の崩壊や破壊工作に眼を光らせています」
「レストランで、あんたが見かけたのがご本人さ」
とフィンが言う。
「植民群島の基準からいえば――」
と首像は言葉を続け、
「――われわれは古い一族であり、わが家の入り組みようは、その時代を反映しています。けれども、別なものの反映でもあるのです。ヴィラの記号性は内向を、外殻の彼方の華やかな虚空の否定を、物語ります。
テスィエとアシュプールとは、重力の井戸を登りつめたあげく、宇宙を唾棄すべきものと看倣《みな》しました。自由界《フリーサイド》を建造して、新しい群島の富を吸い上げ、富裕に、偏窟になり、|迷 光《ストレイライト》の中に肉体の延長を建設しかかりました。われわれは金銭の蔭に身を封じこめ、内に向けて成熟し、継ぎ目のない自我宇宙を創成したのです。
ヴィラ|迷 光《ストレイライト》は、録画であると否とをとわず、空というものを知りません。
ヴィラのシリコンの核に小部屋があります。全体の中で唯一、直線でできた部屋です。ここの素朴なガラス台座の上には贅を凝らした頭部像があります。プラチナとクロワゾンネ七宝で、宝石と真珠を埋めこんだものです。その両眼の明るい玉は、船の合成ルビーの舷窓から切り出したものであり、その船こそ、初代テスィエを井戸から上がらせ、初代アシュプールを迎えに戻った――」
頭部が黙ってしまった。
「それで……」
と、ようやくケイスが尋ねた。像が答えてくれそうな気がしたのだ。
「そこまでしか書かなかったんだ」
とフィンが言い、
「書き上げなかったのさ。当時はまだ子供だ。この首は儀式的な端末《ターミナル》といったものでね。モリイにここに来て、ちゃんとした時刻にちゃんとした言葉を言ってもらわなくちゃいけない。あんたと“フラットライン”が、あの中国製ウイルスに乗っかって、どんなに深くはいりこんでも、なんにもならん。こいつにその魔法の言葉を聞かせない限り、ね」
「で、どんな言葉だい」
「わからない。こう言うべきかな。おれというものは基本的に、わからないということによって定義されている、と。おれには知りえない。おれとは、その言葉を知らぬ者、なのさ。あんたが仮に知っていて、おれに教えたとしてもだよ、おれには知り[#「知り」に傍点]得ない。そういう|結 線《ハードワイア》なんだ。誰かにそれを知ってもらい、ここに来てもらわざるをえない。ちょうど、あんたと“フラットライン”とが氷《アイス》を抜けて中核をかき回すのに呼応して」
「そうするとどうなる」
「おれは存在しない。そのあと、おれは消える」
「こっちはかまわん」
「そう。ただし、気をつけろよ、ケイス。おれの、その、もう一方の半葉が勘づいた、らしい。燃ゆる柴は、どちらも似たように見える。それにアーミテジが行きかけている」
「どういうことだい」
しかし板張りの部屋は、十余のあり得ない角度に畳みこまれ、電脳空間《サイバースペース》に|折《オリ》|紙《ガミ》の鶴のように転げて去った。
15
「おれの記録を破ろうってのか、坊主」
と“フラットライン”が問いかけてきて、
「また脳死だぜ、五秒間」
「そのまま」
と言ってケイスは|擬 験《シムステイム》スイッチを叩いた。
モリイは闇にうずくまり、両掌をざらついたコンクリートにつけている。
ケイス ケイス ケイス ケイス
とディジタル表示がまたたく。|冬 寂《ウィンターミュート》が通信状態をモリイに伝えているのだ。
「うまい」
とモリイは踵に体重を移し、両手をこすりあわせて指を鳴らすと、
「何やってたの」
イマダ モリイ イマスグダ
モリイは下顎の前歯を強く舌で押した。一本がわずかに動き、微細《マイクロ》チャンネル増幅器《アンプ》を作動させる。闇の中のでたらめな光子の反射が電子のパルスに変換され、周囲のコンクリートが、不気味に蒼白く、粒だって浮かび上がる。
「オーケイ、あんた、いよいよ遊びに出かけるよ」
モリイの隠れ家が、何かの整備トンネルであることがわかった。モリイは、変色した真鍮製の、凝った蝶番つき格子を抜けて這い出る。腕から手先までが見えただけで、例のポリカーボン・スーツをまた着ていることがわかる。そのプラスティックの下には、薄くぴったりした革の馴染んだ張りつめ方が感じられる。腋の下には、装帯《ハーネス》かホルスターで何かが吊ってある。モリイが立ち上がってスーツのジッパーを開き、プラスティックの|枡掛け《チェッカード》銃把に触れた。
「ねえ、ケイス」
とほとんど声に出さず言い、
「聞いてるかい。話を聞かせたげる――前に、男の子がいたんだ。あんた見てると想い出すんだけど――」
言いながら向きを変えて廊下を見渡し、
「ジョニイって名前だった」
低い丸天井の通路に沿って美術陳列ケースがいくつも並んでいる。焦茶の木でできた、古めかしい造りの、前面ガラスの箱だ。通路の壁面の有機的な曲面を背にしているから落ち着きが悪く、運びこまれて一列に並べたまま目的が忘れられたかのように思える。曇った真鍮の金具に収まった白い光球が、十メートル間隔に並んでいる。床は平らでなく、モリイが廊下を進みだすと、何百という小さな敷物やカーペットが、やたらに敷かれているのだとわかった。場所によっては六枚重ねにもなり、床全体が羊毛手織りの柔らかいパッチワークになっている。
モリイが陳列棚や陳列物にほとんど注意を払わないので、ケイスは苛々する。興味のない視線だけで満足せざるを得ないが、それでも断片的には、陶器、古武具、錆釘がびっしり打ってあってなんだかわからないもの、すりきれたタペストリの裂《きれ》――
「あたしのジョニイはね、頭が切れて、ほんとすばしこい子だった。最初はメモリ小路《レイン》で隠し屋をやってて、素子《チップ》を頭に収めることで、データ隠しの金をもらってた。あたしが会った晩、“ヤク”に追われてて、あたしが殺し屋を片づけた。なんといっても運が良かったんだけど、とにかく片づけた。そのあとは、しっくりうまくいってたんだよ、ケイス」
唇をわずかに動かすだけ。言葉が生まれてくるのがわかる。声に出して聞く必要はない。
「あたしら|超電《ス》|導量《ク》|子干《イ》|渉計《ド》で支度して、あの子がこれまで隠したことのあるもの全部の痕跡を読み取った。片っぱしからテープにとって、目をつけたお客、もとのお客をカモにしてった。あたしは取り立て屋、護衛、番犬。ほんと幸せだった。あんた、幸せだったことあるかい、ケイス。あの子、あたしの男でさ。いっしょに仕事したよ。パートナー。あたし、肉人形屋を出て、たぶん八週間ぐらいでジョニイに会ったの――」
モリイは止まり、そろそろと鋭い曲がり角を回りこみ、それから進む。光沢のある木の棚はまだ続き、その側板の色はゴキブリの羽根を思わせる。
「しっくり、うっとり、ただ暮らしてたんだ、あたしたち。誰にも邪魔させないつもりで。あたしが許さないって。“ヤクザ”はたぶん、まだジョニイを狙ってた。あたしが手先を殺っちまったし。ジョニイは騙したんだし。で、“ヤク”ときたら、とんでもなくゆっくりやれるんだ。何年も何年も待っていて、ね。一生だって待ちつづけて、失うものが増えたところでやってきて奪うんだ。蜘蛛みたいに辛抱強い。禅《ゼン》の蜘蛛だね。
そのころ、あたしもそんなこと知りやしない。知っていたって、他人ごとだと思ったろう。若いうちって、自分だけ特別だと思うじゃない……。あたしも幼かった。やがて連中、やってきた。ちょうどふたりとも、だいぶ溜まったから、そろそろ店をたたんで、ヨーロッパにでも行こうかってときだった。行って何するつもりがあったわけじゃなく、することなんてありゃしない。でも、スイス軌道口座も玩具や家具いっぱいの部屋もあって、楽に暮らしてたんだ。仕事の勘も鈍るってもんさ。
で、さっきの最初に送り込まれてきた奴、これは凄かった。見たこともないような反射神経。|埋めこみ《インプラント》だね。当たり前のごろつきなら十人分に匹敵する奴だった。ところが二人目。これが、わかんないんだけど、坊さん[#「坊さん」に傍点]みたいなんだ。クローンだね。細胞からずっと、極めつきの殺し屋。内から発する、死、その静けさ――それを靄みたいに放っていて――」
声がとだえる。廊下が分岐し、似たような階段が下りになっている。モリイは左を選んだ。
「前に、あたしが小さかったころ、うちは空き家に不法居住してた。ハドスン河の河べりの方だったんだけど、あそこの鼠ったら、でかいんだ。化学物質のせい。そのころのあたしの、体ほどもあって、一匹、ひと晩じゅう空き家の床下で騒ぎたてた。明け方になって、誰かがその爺さんを連れてきたの。両頬が皺だらけで眼なんて真っ赤。油じみた革を丸めたのを持ってて、これが鉄の工具なんか入れて錆どめにするような奴。広げると、古いリヴォルヴァと弾丸《たま》が三発あった。爺さんは一発だけこめると、空き家を行ったり来たり。うちの者は壁ぎわに引っこんでいてね。
行ったり来たり。腕を組んで、首を垂れて、銃のことなんて忘れちゃったみたい。鼠に耳をすまして。あたしら黙りこくって。爺さんが一歩進む。鼠が動く。鼠が動くと爺さんがまた一歩。一時間もそうしててから、銃のこと想い出したみたいだった。床に狙いをつけて、ニヤッと笑って、引き金を引く。銃を包みこむと帰ってった。
あとであたし、床下に潜ってみた。鼠の両眼の間に穴があいてた」
モリイは、廊下に一定の間隔をおいて閉じている戸口に眼を注いでいる。
「その二人目、ジョニイを狙ってきた奴ね、それが爺さんに似てたの。年とってるわけじゃなく、そんな感じ。そんな感じで殺したのよ」
廊下の幅が広がった。豪華なカーペットの海がゆるやかに波打つ上に、巨大な燭台があり、その一番下の水晶の|吊り《ペンダント》など床に触れそうだ。モリイがそこに踏み入れると、水晶が音をたてた。
ヒダリ サンバンメ ドア
と表示がまたたく。
モリイは、この逆立ちした水晶の木を避けて左へ行き、
「その男は一度だけ見かけたの。こっちがあたしたちの住みかにはいっていくとき、そいつが出てきた。あたしたち、工場スペースを改造したところに住んでたんだ。センス/ネットの若手成長株なんかが大勢住んでるようなところ。そもそも保安状態がいい上に、あたしがかなりの装備を持ちこんで、ほんと警備は厳重だった。ジョニイが上にいるのは、わかってた。でも、その小さい男が出てくるとき、眼を引かれたんだ。ひと言も口はきかない。ただ眼をかわしただけで、あたしにはわかった。目立たない小男、目立たない服装、傲慢なところがなくて謙虚。それがあたしをちらりと見て、輪タクに乗った。あたしにはわかった。上にあがってみると、ジョニイは窓ぎわの椅子に腰かけてた。口をちょっと開けて、何か言いたいことを思いついたみたいに」
モリイが前にしたドアは古い。タイ・チーク材の一枚板を彫ったもので、低い戸口に合わせるために、半分に切ったものらしい。原始的なステンレス製の機械錠が、渦巻く龍《ドラゴン》の下に埋めこまれている。モリイは膝をつき、固く小さく巻いた黒のセーム革を内ポケットから抜き出すと、針ほどの太さのピックを選び出し、
「それほど気にかかる男の子には、その後、お目にかかってない」
モリイはピックを差しこみ、黙って下唇を舐めながら作業にかかった。感触だけを頼りにしているらしく、眼は焦点が合わず、ドアもぼやけた薄茶色の木でしかない。ケイスは廊下の静けさに耳を傾けた。燭台のかすかな音が時おりはいる。蝋燭とは……。|迷 光《ストレイライト》は全部おかしい。プールや百合のあるお城、というキャスの話、|3《スリー》ジェインの独特の言葉を頭部像が音楽のように暗誦したのを想い出す。内に向けて増殖する場所。|迷 光《ストレイライト》の匂いは、かすかにカビ臭く、かすかに香が漂って、教会に似ている。テスィエ=アシュプール一族はどこにいるのだろう。規律正しい活動のある、截然たる巣のはずが、モリイは誰ひとり見かけていない。モリイのひとり語りも気がかりだ。自分について、これほど喋ったことはない。個室でのことを別にするなら、自分に過去があることを、ほのめかしすらしなかったのだ。
モリイが眼を閉じ、カチリといったのを聞くというよりも感じとる。それで、例の肉人形屋の個室ドアの磁気錠を想い出した。違う素子《チップ》を使ったのに、ドアが開いたではないか。あれは|冬 寂《ウィンターミュート》だ。無人|軽 飛《マイクロライト》やロボット庭師を操ったのと同じように、錠も操ったのだろう。肉人形屋の錠前は、自由界《フリーサイド》の保安システムの構成要素だったはずだ。逆にここの素朴な機械錠こそ、AIにとっては大問題。何かの自動ロボットか人間の手先が必要になる。
モリイは眼を開き、ピックをセーム革に戻して慎重に巻きなおし、ポケットにしまいこむ。
「あんた、どこかあの子に似てるんだろうね」
と喋りはじめ、
「生まれつき、無茶やるようになってるんだ。千葉《チバ》でのあんたの有様なんてさ、どこに行ってもやるようなことの|大《おお》|本《もと》の姿なんだよ。運が悪いとさ、ときどきそうなるもんさ。基本にかえっちまう」
モリイは立ち上がって伸びをし、体を震わせる。
「あのさ、テスィエ=アシュプールがジミイのとこ――首を盗んだ子のとこ――に差し向けた奴ね、あれは“ヤク”がジョニイを殺しに差し向けた奴と同じようだと思うんだ」
モリイはホルスターから短針銃《フレッチャー》を抜き、銃身を回して全自動《フル・オート》にする。
モリイがドアに手を伸ばしたので、ケイスもその醜さに気づいた。ドアそのものではない。ドアは美しいし、もっと美しい総体の一部だったことがわかる。そうではなく、ある戸口に合わせて切り落としてしまう、やり方が醜いのだ。形だっておかしい。上質コンクリートのなめらかな曲面の中の長方形だ。きっと、こうしたものを輸入しては、無理矢理合わせるようにしたのだろう。けれど、どれひとつとして合っていない。ドアも、あのぎごちない陳列戸棚や巨大な水晶の木と同じだ。そのとき|3《スリー》ジェインの作文《エッセイ》を想い出した。こう考えてみよう。調度は井戸の底から引き上げられて、何かの全体計画の肉づけに使われた。ところがその夢は、とうの昔に見失われ、あとはただ、空間を埋めたい、一族の自己イメージを甦らせたい、という強迫観念による努力だけが残った、と。崩れた巣を、眼のない生きものが蠢くのを、想い出す。
モリイが彫り物の龍《ドラゴン》の前足をつかむと、ドアは容易に開いた。
奥の部屋は小さく、狭苦しく、押入れと大差がなかった。灰色のスチール製工具戸棚がいくつも、彎曲した壁に寄せてある。照明具が自動的に点灯した。モリイは後ろ手にドアを閉め、並んだロッカー類に歩み寄った。
ヒダリテ サンバン メ
と光|素子《チップ》がまたたく。|冬 寂《ウィンターミュート》が時刻表示を切り換えているのだ。
ウエカラ ゴダンメ
が、モリイはいちばん上の抽斗をまっ先にあけた。浅い盆のようなものでしかない。空《から》だ。二段目も、やはり空だった。三段目は深くなり、鈍色のはんだの小玉と、人間の指の骨のように見える小さく茶色のものが、はいっていた。四段目には、湿気で膨れ上がった、フランス語と日本語の時代遅れな技術|手引書《マニュアル》が一冊。五段目の、重装備|真空《ヴァク》スーツの装甲手袋の蔭に、鍵があった。光を失った真鍮のコインの片端に、中空の短い筒を鑞《ろう》づけしたような代物だった。モリイがそれをゆっくり回して見たので、筒の内側に鋲や突縁が並んでいるのが見てとれる。コインの片面には“|C《チ》H|U《ャ》B|B《ブ》”の文字が鋳こまれている。もう一方の面には何もない。
「聞いたんだけど」
とモリイが囁き、
「|冬 寂《ウィンターミュート》がね。いかにして何年も待機戦術をとったか。当時は本当の実力がなかったけど、ヴィラの保安保管システムが利用できたんで、それぞれのものがどこにあり、どう動き、どこへ行ったかを追えたんだって。誰かがこの鍵をなくすのを、二十年前に見てから、別な人間を使ってここに置かせたんだって。それで、これを持ってきた男の子を殺したんだって。その子、八つだったって」
モリイは白い指で鍵を握りしめ、
「誰にもみつからないように、だって」
スーツの前面《カンガルー》ポケットから黒のナイロン紐を出し、“|C《チ》H|U《ャ》B|B《ブ》”の上の丸い穴に通す。紐を結びあわせ、首にかけた。
「ここの連中、自分たちは古めかしいんだって言いながら、十九世紀趣味で、いつも|冬 寂《ウィンターミュート》をいたぶってたんだって。あいつ、肉人形部屋のスクリーンで見たら、フィンそっくりだった。気をつけていなけりゃ、危うくフィンそのものだと思いこむところよ」
表示《リードアウト》が時刻を燃え上がらせる。文字が、灰色のスチール製戸棚に重なりあう。
「ここの連中が、そもそも望むとおりのことをしていれば、あいつはとうの昔に脱出できたはずなんだって。でも連中はそうしなかった。狂っちまって。|3《スリー》ジェインみたいな奇人。そう呼んではいたけど、あいつ、嫌いではなさそうな言い方だった」
モリイは振り返り、ドアをあけると外に出た。手はホルスターに収めた短針銃《フレッチャー》の|枡掛けした《チ ェ ッ カ ー ド》銃把に軽く触れている。
ケイスは転《フリップ》じた。
〈広《クアン》級マーク十一《イレヴン》〉は成長しつづけていた。
「ディクシー、こいつ効くかね……」
「熊は森で糞するかね……」
と“フラットライン”はキーを叩いて、変転する虹の階層を登っていく。
中国製プログラムの中核に、何か黒ずんだものができかけている。情報の濃密さがマトリックスの組成を凌駕して、入眠時幻覚めいたものを起こさせる。かすかに万華鏡のような角度の集まるところに、銀黒色の焦点がある。ケイスの眼の前で、半透明の各面の上に、子供のころの邪悪や凶運のシンボルが転がり出てくる――鉤十字《スワスティカ》、髑《どく》|髏《ろ》と骨交叉、|一ゾロ《スネーク・アイズ》の光る賽。その零の点をまっすぐ見つめても、なんの輪郭もわからない。十数回もすばやい周辺視をくり返して、ようやく呑みこめた。鮫のような形のもので、黒檀の光沢がある。その脇腹の黒い鏡面が、かすかな遠い光を映してはいるが、その光は周囲のマトリックスとはなんのつながりもない。
「あれが棘《スティング》だ」
と構造物が言い、
「〈広《クアン》〉がテスィエ=アシュプールの核にガッチリ喰いこんだら、あれに乗ってはいりこむんだ」
「あんたの言ったとおりだったよ、ディクス。|冬 寂《ウィンターミュート》を抑えこんでる|結 線《ハードワイアリング》には、一種の手動解除システムがある。どれだけ、あいつが抑えこまれててもね」
「あいつか」
と構造物が言い、
「あいつね。気をつけろ。相手はモノだ。何度言えばわかる」
「暗号なんだ。ひと言だって言ってた。誰かが、ある部屋の凝った端末《ターミナル》の前で、それを言わなくちゃならなくて、おれたちはあの氷《アイス》の裏で何が待ち受けているにしろ、そいつを片づけなくちゃならない」
「ま、おまえさんは暇でもつぶしてろ、坊主。〈広《クアン》〉くんは、ゆっくり着実だから」
と“フラットライン”が言う。
ケイスは|離 脱《ジャック・アウト》した。
するとマエルクムの凝視だ。
「あんた、さっき死んでただ」
「そういうこともある。慣れてきたよ」
「あんた、闇を相手にしてるだや」
「ほかにやりようがない、らしい」
「主《ジャー》の愛《ラヴ》を、ケイス」
と言うや、マエルクムは無線機器の方に戻ってしまう。そのもつれた縮毛束《ドレッドロック》や黒い腕に盛り上がる筋肉を、ケイスは見つめた。
もう一度、|没 入《ジャック・イン》。
そして転《フリップ》。
モリイは廊下を小走りに進んでいた。さっき通った廊下でもおかしくない。もうガラス棚がなく、重力が弱まっていくから、きっと紡錘体《スピンドル》の突端めざして進んでいるのだろう。じきに、なだらかなカーペットの小山の上を、なめらかに跳ねるようになった。片脚にかすかな疼き――
廊下が急に狭まり、曲がり、分かれた。
モリイは右に折れ、奇怪なほど急な階段を昇りはじめた。脚が痛みだす。頭上の、階段の天井には、縛って束になったケーブルが張りついて、色分けした神経節のようだ。壁は湿気で斑らになっている。
三角形の踊り場にたどりつき、モリイは脚を揉んだ。さらに廊下がある。幅が狭く、壁には敷物が掛けてある。三方向に枝分かれしていた。
ヒダリ
モリイは肩をすくめ、
「ちょっと見物させなよ」
ヒダリ
「リキむなって。時間はあるんだから」
とモリイは右手へ続く廊下を進みはじめる。
トマレ
モドレ
キケン
モリイがためらう。通路の突き当たり、半開きの樫の扉から声が聞こえた。大声で呂律が回らず、酔っ払いの声のようだ。言葉はフランス語かとも思えるが、あまりに不明瞭だ。モリイは一歩、二歩と進み、手をスーツにすべりこませて短針銃《フレッチャー》の握りに触れる。神経|擾乱《じょうらん》装置の範囲に足を踏み入れたとたん、耳鳴りが始まった。短針銃《フレッチャー》の音を思わせるような、かすかで高まっていく音程だ。モリイは、横紋筋が弛緩したまま前のめりに倒れ、扉で額を打った。体をひねって仰向けになったが、眼の焦点が定まらず、息が切れている。
「何ごとだ、道化服くん」
呂律の回らない声がした。
震える手がスーツの前あきにはいり、短針銃《フレッチャー》を見つけだし、引き抜くと、
「お話しようか。ほれ」
モリイはゆっくり起き上がった。眼は黒い自動拳銃の銃口に据えたままだ。男の手は、今はしっかりしている。銃身とモリイの喉とが、張りつめた見えない糸でつながれているようだ。
男は年老いていて、とても背が高い。その顔だちから、ケイスは〈二十世紀《ヴァンチェーム・シェクル》〉で見かけた娘を想い出した。男は栗色|絹《シルク》の厚手のローブを着ている。長い袖口とショール・カラーとは|刺し縫い《キルティング》になっていた。片足は素足で、もう片方は黒|天鵞絨《びろうど》のスリッパを履いている。甲の上には金で狐の首の縫いとりがある。仕草でモリイを部屋に招じ入れ、
「ゆっくりとな」
部屋はとても広く、散らかり放題に、意味のなさそうな取り合わせのものがあった。灰色のスチール製ラックに納まってソニーの旧式モニタ群があり、幅広の真鍮ベッドの上には羊皮が山と積まれている。枕は、廊下に敷くのに使った敷物でできている。モリイの眼は、巨大なテレフンケンの娯楽|操作卓《コンソール》から、幾棚分もの古めかしい録音|盤《ディスク》の背が崩れて透明プラスティックで補強してあるのへと走り、さらに作業台にシリコンの厚板がころがっているのまで看て取った。ケイスは電脳空間《サイバースペース》デッキと電極《トロード》に気づいたが、モリイの視線はそこに留まらず動いていく。
「普通の場合なら――」
と老人は口を開き、
「――すぐにおまえを殺す」
モリイはいつでも動けるよう身がまえた。
「が、今宵は羽目をはずそう。名前はなんという……」
「モリイ」
「モリイか。わしはアシュプール」
と、クロームの四角い脚のついた巨大な革椅子の柔らかなひだに、深々と身を沈めるが、銃は揺らぐことがない。モリイの短針銃《フレッチャー》を椅子の脇の真鍮卓に置き、赤い錠剤のはいったプラスティック薬瓶を倒してしまう。卓上を埋め尽くすように、薬瓶類や酒瓶、白い粉末のこぼれる軟質プラスティック袋などがある。ケイスは、旧式のガラス注射器と素朴なスチール・スプーンに気がついた。
「どうやって泣くんだい、モリイ。眼が囲いこまれているじゃないか。知りたいもんだ」
アシュプールの眼のまわりが赤く、額が汗に光っている。ひどく蒼白い。きっと病気だろう。さもなくば麻薬か。
「泣かないもん、ほとんど」
「でも、どうやって泣く。仮に誰かに泣かされたら」
「唾を吐くね。管が、口に戻るようになってる」
「ならば、もう大切なことを学んでいるな。年に似合わず」
ピストルを握る手を膝におろすと、脇の卓から酒瓶を取る。五、六種類ある酒のうちから、特に選ぶことをしなかった。飲む。ブランディだ。口の端から、ひと筋こぼれるまま、
「涙はそうやって扱うべきだ」
ともうひと口飲み、
「今宵のわしは忙しいんだよ、モリイ。これすべてを造りおえた今、忙しい。死ぬことに」
「このまま出ていってもいいけど」
とモリイが言う。
老人はかん高い耳ざわりな声で笑い、
「わしの自殺の邪魔をしておいて、ただ出ていこうとな。まったく、あきれた奴だ。泥棒め」
「あたしの命だからね、ボス、これっきゃないんだ。五体満足で出ていけりゃいいのさ」
「礼儀知らずな娘だな。ここでの自殺は、ある種の品位をたもって執り行なう。今、それをやっておる。いいかな。しかし、あるいは、今宵はおまえを道連れにしてもいい。地獄へ、な――となると、きわめてエジプト的ではある」
と、また飲み、
「じゃ、来い」
と瓶を突き出す。震える手で、
「飲め」
モリイは首を振る。
「毒は入れてない」
と言いながらも、ブランディを卓に戻し、
「すわれ。床にすわれ。話をしよう」
「なんの話……」
とモリイがすわる。爪の下で、ごくわずか、刃が動くのを感じる。
「思いつくまま。わしが思いつくままだ。わしのパーティだからな。核どもに起こされた。二十時間前だ。何かおかしい、と。わしが必要だという。おまえがその何かか、モリイ。まさかおまえを片づけるのに、わしが必要ということはあるまい。いや。何か別のことだ――が、わしはそれまで夢を見ていたんだ。いいか。三十年もだ。最後にわしが眠りに就いたとき、おまえは生まれてもいない。あの冷気の中では夢を見ない、と言われていた。冷気を感じることもない、とな。狂気だぞ、モリイ。嘘っぱちだ。もちろん夢を見たとも。冷気が外部を呼びこむ。そういうことだ。外部。すべての夜だ。それから隠れるために、これを造ったというのに。最初は、ほんのひと雫《しずく》。夜がひと粒、冷気に引かれて忍びこむ――それに続くものがあり、わしの頭がいっぱいになる。雨が空のプールに溢れるようなものさ。キャラの花。想い出したぞ。プールは、みんな素焼粘《テラコッタ》。すべてクロームの子守女。その手足がまたたく夕暮れの庭――わしは年老いたよ、モリイ。二百歳以上だよ、冷気も勘定に入れれば。あの冷気」
ピストルの銃身が跳ね上がり、小刻みに震える。モリイの太腿の腱が引き締まり、今やワイアのようだ。
「冷凍やけどになったかもしれない」
モリイが慎重に口をだした。
「あそこじゃ何も焼けていない」
と苛立たしく言って、老人は銃をおろす。動きが次第に硬化症めいてきている。首が前に倒れる。それを止めるのにひと苦労したが、
「何も燃えとらん。そう、想い出したぞ。核どもは、知能が狂ったと言っとった。何十億もかけたのに。大昔。まだ|人《A》工知|能《I》が、きわどい代物だった時代。核どもには、わしが処理すると言っておいた。悪いタイミングだぞ、まったく。|8《ユイ》ジャンはメルボルンに下っているし、可愛い|3《スリー》ジェインだけが留守居番だ。いや、それとも、絶妙のタイミングなのかもしれん。わかるか、モリイ」
と銃がまた上を向き、
「今、おかしなことが起こっとる、ヴィラ|迷 光《ストレイライト》に」
「ボス。|冬 寂《ウィンターミュート》を知ってる……」
とモリイが尋ねる。
「名前か。うむ。呪文に使う名かな。地獄の王に違いない。かつては、な、モリイよ、たくさんの王を知っておった。少なからざる王妃もな。ほれ、スペインの女王とて、一度など、すぐこのベッドで――しかし話がそれた」
と痰のからんだ咳が始まり、銃口が身もだえにつれて揺れる。裸足の方の片足の、脇のカーペットに痰を吐き、
「まったく、それてばかり。冷気の中をさまよう。が、じきにそれも終わる。目醒めたとき、わしはジェインをひとり解凍させた。奇妙なものよ。何十年かに一度、法的には自分の娘にあたる者と寝るとはな」
老人の視線はモリイを過ぎて、黒いモニタ群のラックに移る。身震いするように、
「マリイ=フランスの眼だ」
と小声で言って、微笑み、
「われわれは脳を、ある種の神経伝達物質に対してアレルギーを起こすように仕向け、その結果、独特の柔軟性をもつ擬似自閉症になる」
老人の首が横を向き、もとに戻り、
「どうやら、その効果はもう、微細素子《マイクロチップ》の埋めこみで、ずっと簡単に得られるらしいが、な」
ピストルが指からすべり落ち、カーペットの上ではねる。
「夢は、ゆっくりした氷のように育つ」
と言う。顔に青味がさしている。首が待ちかまえていた革に埋もれ、鼾《いびき》をかきはじめた。
立ち上がったモリイは銃を取る。アシュプールの自動拳銃を手に、部屋を探った。
大振りのキルト地か、掛け蒲団のようなものが一枚、ベッド脇で小山になっており、広々と凝固した血溜まりが、模様入り敷物の上でねっとり光る。キルトの隅を引き剥がしてみると、娘の肢体がある。白い肩甲骨のあたりが血塗られていた。喉首が切られている。何かの掻き削り用具だろう、三角形の刃が、娘の横の黒ずんだ血溜まりに輝く。モリイは血を避けるようにしながら膝をつき、死んだ娘の顔を明かりに向けた。ケイスがレストランで見かけた顔だ。
奥深く、世界の中心でカチリと音がして、すべてが凍りついた。モリイの|擬 験《シムステイム》通信が、娘の頬に指を触れたところで静止画像になる。静止が三秒続き、そこで死に顔が変わって、リンダ・リーの顔になった。
いま一度とカチリといって、部屋がぼやける。モリイは立ち上がっていて、見おろす先の、ベッド脇テーブルの大理石の卓上には、小型|操作卓《コンソール》と、その脇に黄金のレーザ盤《ディスク》がある。操作卓《コンソール》からは、光ファイバーのリボンが、紐のように、ほっそりした首筋のソケットにつながっている。
「てめえの魂胆はわかったぜ、糞ったれ」
とケイスは、自分の唇がどこか遠くで動くのを感じながら言った。|冬 寂《ウィンターミュート》が通信を変えたのは、わかりきっている。モリイは、死んだ娘の顔が煙のように揺らいでリンダの死顔《デスマスク》になるのは、見ていない。
モリイが振り返る。アシュプールの椅子に歩み寄る。老人の呼吸はゆっくりと断続的だ。モリイは麻薬やアルコールの混在ぶりを見やった。アシュプールのピストルを置くと、自分の短針銃《フレッチャー》を取り、銃身を回して単発に合わせ、きわめて慎重に、アシュプールの閉じた左瞼の中心に毒針を撃ちこんだ。老人は一度痙攣し、息を吸う途中で呼吸を止める。もう一方の眼が、茶色に底知れず、ゆっくりと開く。
モリイが背を向けて部屋をあとにしたとき、その眼はまだ開いていた。
16
「おまえさんのボスを待たせてある」
と“フラットライン”が言い、
「上の船の双生児《ふたご》ホサカから通話してきてるぜ。上の船はこっちにおんぶしてて、〈ハニワ〉てんだ」
「知ってる。見たから」
とケイスは気もそぞろだ。
白い光の菱形が眼前に位置を定め、テスィエ=アシュプールの氷《アイス》を隠した。そこに、静かで完璧に焦点が合い、狂いきったアーミテジの顔が現われる。眼がボタンのようにうつろだ。アーミテジはまばたきし、眼を据える。
「|冬 寂《ウィンターミュート》は、そっちのチューリングも片づけてくれたんだろ。こっちのチューリングと同じに」
とケイスが言う。
アーミテジは眼を据えたままだ。ケイスは、眼をそらせたい、眼を伏せたい、という急な衝動をかろうじて抑え、
「大丈夫か、アーミテジ」
「ケイス」
というとき一瞬、青く見開いた瞳の奥で、何かが動くようで、
「|冬 寂《ウィンターミュート》に会ったな、マトリックスで……」
ケイスはうなずく。〈マーカス・ガーヴィ〉側のホサカのカメラが、この身振りを〈ハニワ〉側のモニタに伝えているはずだ。マエルクムが、この|没 入《ジャック・イン》状態の片側会話を聞いていたら、どう思うのだろう。構造物やアーミテジの声は聞こえないのだから。
「ケイス」
と眼が大きくなる。アーミテジがコンピュータに顔を寄せてきて、
「きみが会ったとき、奴はなんだった」
「高解像擬験《ハイ・レズ・シムステイム》構造物だよ」
「で誰[#「誰」に傍点]……」
「フィンがさっきで――その前が女衒の――」
「ガーリング将軍じゃないのか」
「誰将軍……」
菱形が空白になった。
「いまのを、もう一度流して、ホサカに調べさせてくれ」
と構造物に言いおく。
ケイスは転《フリップ》じた。
見晴らしにはびっくりする。モリイは鋼の大梁の間に身を潜め、その二十メートル下は、広々となめらかなコンクリートの床で、しみがついている。この区画は格納庫か修理工場だ。宇宙艇が三機見えるが、どれも〈ガーヴィ〉ほどの大きさで、それぞれに修理中だ。日本語の声。オレンジ色ジャンプスーツの人影が、膨れた形の建設車輌の胴体開口部から姿を現わし、それに付属するピストン駆動の、不気味なほど人間的な腕の脇に立つ。男は携帯|操作卓《コンソール》に何やら打ちこみ、脇腹を掻いた。荷車型の赤い無人車が、灰色の低圧《バルーン》タイヤを付けて現われる。
ケイス
とモリイの素子《チップ》がまたたく。
「やあ、ガイド待ちさ」
とモリイ。うずくまると、〈モダンズ〉スーツの腕や膝が、大梁の青灰色の塗料と同じ色なのがわかる。例の片脚の痛みは、今や鋭くしつこいものになっており、
「もう一度チンのところに行っとくんだったよ」
とつぶやく。
何かが暗闇から、静かな断続音を発しながら近づいてくる。モリイの左肩の高さだ。停止して球状の胴体を、大きく反りかえった蜘蛛状の脚の上で左右に揺らし、そして動きを止める。ブラウン製の小型|遠隔機《ドローン》だ。これならケイスも、まったくの同型機を持っていたことがある。クリーヴランドのハードウェア故買屋と一括取引きしたとき、意味もなく付属してきたやつだった。今度のやつも、形こそ整っているが、無光沢の黒い足長蜘蛛のようだ。球体の赤道上で、赤い|発《L》光ダ|イ《E》オー|ド《D》が点滅しはじめた。本体は野球のボールほどしかない。
「オーケイ。わかった」
とモリイは、左脚をかばうように立ち上がり、小さな遠隔機《ドローン》が逆戻りするのを見守る。きちょうめんに大梁の上を進んで、暗闇にはいっていくのだ。モリイは修理工場を振り返って見た。オレンジ色ジャンプスーツの男は、白い真空服の前開きを閉めている。ヘルメットの輪を嵌《は》め、密封すると、操作卓《コンソール》をとり、建設艇の胴体開口部に後じさりではいる。高まるエンジン音があり、艇はなめらかに十メートル径の床を出て、アーク灯の眼を射る輝きの中に消えていく。遠隔機《ドローン》は辛抱強く、昇降パネルの穴の脇で待っていた。
モリイはようやくブラウン機のあとを追って、溶接した鋼の支柱の森を縫うように進みはじめる。ブラウンは|発《L》光ダ|イ《E》オー|ド《D》を着実に点滅させながら、先をうながす。
「どうしているの、ケイス。〈ガーヴィ〉でマエルクムといっしょかな。そうね。それで、これに|没 入《ジャック・イン》してるんだ。こういうの、好きだな。だって、これまでだって、危ない橋を渡るときは、いつも頭の中でひとり言を言ってたんだ。友だちとか、頼りになる人間がいるつもりになって、本当に思ってることとか、そのときの気分とかを言う。それから、向こうがそれについてどう思うかを聞くつもりになって、それを続けていくのさ。あんたにいてもらうのも、それに似てる。アシュプールとの、さっきの場面――」
とモリイは下唇を噛んで支柱を回りこみ、遠隔機《ドローン》から眼を離さないようにしながら、
「あれほど手のつけようのないことになってるとは、思ってなかったんだ。ここの連中、みんなオツムに来てるよ。額の内側に光る通信文が見えてるか何か、そんな具合じゃないか。この雰囲気は気に入らない。臭いが気に入らないよ――」
遠隔機《ドローン》は、U字型のスチール横木がついた、ほとんど眼に見えない梯子を登って、狭く黒々とした穴をめざしている。
「内緒話をしたい気分のうちに言っとくけどね、ベイビー。あたし、今度の一件はうまく切り抜けられないんじゃないかって、そんな気が、してたことはしてたんだ。ここんとこ悪い目が続いててさ。アーミテジに雇われてからこのかた、あんただけがいい方の変化さ」
と黒い円形を見上げる。遠隔機《ドローン》の|発《L》光ダ|イ《E》オー|ド《D》がまたたき、登っていく。
「あんたが、それほど凄いってわけじゃないけどさ」
と微笑んだが、それもあっという間に消える。登りはじめてからの、脚を貫くような痛みに歯をくいしばる。梯子は昇りつづけ、金属のチューブにはいっていく。やっとモリイの肩の幅しかない。
登るにつれて重力が減っていく。無重力の軸部に近づいているのだ。
表示|素子《チップ》が時間を示す。
04:23:04
長い一日だった。モリイの感覚中枢の明晰さが、ベータフェネチルアミンの辛さを遮断してくれているが、それでも感じられる。モリイの脚の痛みの方が、まだましだ。
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ケイス:0000
00000000
0000000
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「あんたへ、だろ」
と言いながら、モリイは機械的に登っていく。ゼロがまた点滅し、次にメッセージがモリイの視野の端に断続する。表示《ディスプレイ》回路で断ち切られている。
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ガーリング ショ
ウグン:::
コート ヲ スク
リーミング フィ
スト クンレンシ
ペンタゴン ニ
ウッタ:::
ウ/ミュート ノ
アーミテジ ヘノ
メイレイ ハ オモニ
ガーリング ノ
コウゾウブツ ヲ トオシテ
:::
ウ/ミュート イ
ワク“ア”ガ“ガ”
ノコト ヲ イウ
ノハ オワリ ノ
シルシ:::
キ ヲ ツケロ:
:::ディクシー
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「へえ」
と右脚に全体重をかけて動きを止めたモリイが言い、
「そっちなりに難題はあるんだね」
下を見る。かすかに丸い明るみがあるが、モリイの胸の谷間に揺れる |C《チ》H|U《ャ》B|B《ブ》 の鍵の真鍮の丸みほどでしかない。上を見る。何も見えない。舌で増幅器《アンプ》を入れると、チューブはどこまでも昇っていて、ブラウンは横木を登っていく。
「誰もこんなところがあるなんて言ってくれなかった」
ケイスは|離 脱《ジャック・アウト》した。
「マエルクム――」
「あんた、ボスさん、とってもおかしいぜや」
ザイオン人は、ケイスが自由界《フリーサイド》で借りた真空《ヴァク》スーツより二十年も昔の、青のサンヨー・スーツを身につけて、ヘルメットを小脇にかかえ、縮毛束《ドレッドロック》は、紫の木綿糸を鉤針編みにした網帽子に納めている。大麻《ガンジャ》と緊張に半眼となり、
「命令[#「命令」に傍点]ってので、呼びかけてくるだがよ、悪徳都市《バビロン》の戦争か何か――」
とマエルクムは首を振り、
「アエロルと話して、アエロルはザイオンと話して、創設者がたは、ずらかれ、つうて」
大きな茶色の手の甲で口をぬぐう。
「アーミテジが……」
とケイスは顔をしかめた。ベータフェネチルアミンの残留効果が、マトリックスや|擬 験《シムステイム》の庇護なしに、全力で襲いかかる。脳の中に神経はないんだから、本当はこんなにひどいわけがない、と自分に言い聞かせながら、
「どういうことだい。おまえさんに命令だって……。なんと言ってた」
「あんた、アーミテジてか、フィンランドへ向かえ、つうて。希望ある、つうて。スクリーンで見ると、シャツ血だらけだがや、あんた、犬みたいに狂っててよ、喋くるのはスクリーミン・フィストにロシア人に、裏切者の血はわれらの手に」
と、いま一度首を振ると、ドレッド帽子が無重力中で横に縦に揺れる。唇をすぼめて、
「創設者がた、おっしゃるだや。寂《ミュート》の声は、やっぱり偽りの預言者だ、て。アエロルとわし、〈マーカス・ガーヴィ〉捨てて帰れ、て」
「アーミテジが怪我を……。血……」
「わかんねだや。でも血に、狂いっぱなしに、だや、ケイス」
「オーケイ。で、おれはどうなる。おまえさんは戻る。で、おれをどうする、マエルクム」
「あんた、いっしょに来るだや。わしぃら、アエロル、いっしょにザイオンだ。〈バビロン・ロッカー〉だや。アーミテジさんてか、幽霊カセットと喋くりゃ、幽霊同士――」
ケイスは肩ごしにうしろを見た。借りたスーツは固定したときのままハンモックで揺れている。ソ連製旧式の清浄器からの気流があるのだ。ケイスは眼を閉じた。毒の嚢《ふくろ》が血管の中で溶けていくのが見える。モリイが果てしないスチール横木を登っていくのが見える。眼を開いて、
「どうしたもんかな」
と言う。奇妙な味が口の中に広がる。眼を落として、デッキを、自分の手を眺め、
「わからん」
また眼を上げた。褐色の顔が、今は静かに、こちらを注視している。マエルクムの顎は、旧式の青いスーツの、ヘルメット用の高い輪で隠れている。
「中にいるんだよな」
とケイスは言い、
「モリイがいるんだ。|迷 光《ストレイライト》ってところにな。悪徳都市《バビロン》てものがあるんなら、あそここそ、それだよ。おれたちが見棄てたら、出てこられっこない。段々剃刀だろうとなんだろうと」
マエルクムがうなずく。ドレッド帽子が、鉤針木綿の風船のように縦に揺れ、
「あんたの女だか、ケイス」
「わからん。誰の女でもないんだろうな」
と肩をすくめる。と、ふたたび怒りがあった。熱い岩のかけらのように、はっきりと肋の内にある。
「ええい、こんなもの。アーミテジがなんだ。|冬 寂《ウィンターミュート》がなんだ。おまえがなんだ。おれは、ここに残る」
マエルクムの顔に、陽が射すように笑みが広がり、
「マエルクム、悪い子だや、ケイス。〈ガーヴィ〉マエルクムの船」
と手袋の手でパネルを叩くと、ザイオン・ダブのベースの効いたロックステディが曳船《タグ》のスピーカから脈打ちはじめ、
「マエルクム、行かないだや。うん。アエロルに話す。きっと考え同じ」
ケイスは眼を瞠《みは》り、
「おまえさんたちってのは、まったくわからないな」
「あんたもわかんないだ」
とザイオン人は言って、ビートに合わせてうなずきながら、
「でも、主《ジャー》の愛《ラヴ》で動かにゃなんね。みんな」
ケイスは|没 入《ジャック・イン》して、マトリックスに転《フリップ》じた。
「わしの電信、届いたか」
「ああ」
見るからに、中国製プログラムは成長している。変転する多彩色の優美な弓形の群れが、T=Aの氷《アイス》に近づいている。
「ま、厄介になってきたぞ」
と“フラットライン”は言い、
「おまえさんのボスが、もう一台のホサカの記憶部《バンク》を消して、危うくこっちまで巻き添えをくうところだった。おまえさんの仲間の|冬 寂《ウィンターミュート》が、真っ暗になる前に、わしを取り次いでくれたけどな。|迷 光《ストレイライト》がテスィエ=アシュプール一族で溢れかえってない理由《わけ》ってのは、大半が冷凍睡眠しているからよ。ロンドンの法律事務所が、その連中の委任関係の動静を把握してる。誰が、厳密にいつ、起きだしてるか、知らなくちゃならないからな。アーミテジは、そのロンドンから|迷 光《ストレイライト》への通信を、ヨットのホサカ経由にさせてた。ちなみに、連中は爺さんが死んだこと、知ってるぜ」
「誰が知ってるって……」
「法律事務所とT=Aさ。爺さん、胸骨に医療検知器を埋めこんでた。だからって、あの針が蘇生班の手に負える代物だったわけじゃない。フグ毒素だもの。ただ、いま|迷 光《ストレイライト》で起きてるT=Aは、レイディ・|3《スリー》ジェイン・マリイ=フランスしかいない。男で、二歳ばかり年長の奴もいるんだが、業務でオーストラリアに行ってる。わしの見るところ、|冬 寂《ウィンターミュート》が手管を使って、その業務が|8《ユイ》ジャンじきじきのものになるように仕向けたんだな。けど、その男は帰途についてるか、それに近い。ロンドンの弁護士どもは、奴の|迷 光《ストレイライト》|到着《E》|予定《T》|時刻《A》を今夜09:00:00としてる。わしらが〈広《クアン》〉ウイルスをスロットに入れたのが02:32:03。今は04:45:20。〈広《クアン》〉がT=A中核に侵入するのは、推定08:30:00。ちょっぴり前後するかもしれん。|冬 寂《ウィンターミュート》は、この|3《スリー》ジェインと話でもつけてるのかな。それとも爺さんと同じぐらい狂ってる女なのか。とにかくメルボルンから昇ってくる坊やは、真相を知っちまう。|迷 光《ストレイライト》の警備システムは全面非常態勢にはいろうとしてるんだが、|冬 寂《ウィンターミュート》がそれを封じこめてる。どうやってるかは知らん。ただ、奴にも基本の門戸プログラムを解除してモリイを忍びこませることはできなかった。アーミテジが、そのあたりの記録を、あっちのホサカに持ってたんだがな。きっとリヴィエラが|3《スリー》ジェインを口説いて、入れさせたんだろう。|3《スリー》ジェインは、もう何年も、出入りをいじっていたからな。どうやらT=A最大の難問てのは、一族の大物それぞれが、個人的な誤魔化しやら例外事項やらで、記憶部《バンク》をいっぱいにしてることらしい。免疫機構がイカれつつあるみたいなもんだ。ウイルスには、もってこい。あの氷《アイス》さえ乗り越えりゃ、わしらにも勝ち目があるってもんよ」
「オーケイ。でも、|冬 寂《ウィンターミュート》が言ってたアーミ――」
白い菱形が急に位置を定め、狂った青い眼の大映しになる。ケイスには見つめるしかない。特殊部隊、〈スクリーミング・フィスト〉攻撃隊のウィリー・コート大佐が甦ったのだ。映像は薄暗く、乱れがちで、焦点も合っていない。コートは〈ハニワ〉の航法デッキを使って、〈マーカス・ガーヴィ〉側のホサカにつないでいるのだ。
「ケイス、〈オマハ・サンダー〉の被害報告をしろ」
「でも、その――大佐……」
「しっかりしろ。訓練を忘れるな」
あんた、今までどこにいたんだい、と声に出さずケイスは、苦悩に満ちた眼に問いかける。|冬 寂《ウィンターミュート》は、コートなる支離滅裂な砦の中に、アーミテジというものを造り上げた。コートに、アーミテジこそ本体だと思いこませた。そしてアーミテジが歩き、喋り、立案し、データを元手に換え、千葉《チバ》ヒルトンのあの部屋では|冬 寂《ウィンターミュート》の手先になり――しかし、今、アーミテジは消えている。コートなる狂気の突風に吹き飛ばされたのだ。それにしても、コートは、その何年もの間、どこにいたのだろう。
燃え盲《めし》いながら、シベリア上空から落ちていたのか。
「ケイス、これはきみにとっても受け容れがたかろう。それはわかっている。きみは士官だ。訓練。気持ちはわかるが、ケイス、神よ見そなわせたまえ、われわれは裏切られた」
涙が青い瞳に湧き上がる。
「大佐、その、誰が、誰が裏切ったんです」
「ガーリング将軍だ、ケイス。きみは暗号名で知っていよう。わたしが言っている男は、わかるな……」
「うん」
と流れつづける涙にケイスは答え、
「わかるようです、はい」
と思わずつけ加え、
「でも、その、大佐、正確には何をすればいいんですか。つまり、今……」
「当面のわれわれの任務はだな、ケイス、逃走にある。脱出だ。回避だ。明夕刻にはフィンランド国境に着けよう。梢《こずえ》高度で手動操縦飛行。勘で飛ぶんだ。が、それも手初め」
涙に濡れた赤銅色の頬骨の上で、青い眼が細くなり、
「ほんの手初め。上層部からの裏切りだぞ。上から[#「上から」に傍点]の――」
とカメラから後じさる。綾織りの破れたシャツに黒ずんだしみ。アーミテジの顔は、仮面のように無表情だったが、コートの顔は、まさしく分裂症の仮面だ。病いが不随意筋に深く刻みこまれ、高価な手術顔を歪めている。
「大佐、わかりました。でね、大佐、いいですか。開けていただきたい――ええと、ちぇっ、なんていったっけ、ディクス」
「中隔室ロック」
と“フラットライン”。
「中隔室ロックを開けてください。そこの集中|操作卓《コンソール》に言えばいいんですから。今すぐそちらに合流しますよ、大佐。そのあと脱出の相談をしましょう」
菱形が消えた。
「坊主、さっきはついてけなかったぜ」
と“フラットライン”が言う。
「毒素だよ。忌々しい毒のせい」
とケイスは言い置いて、|離 脱《ジャック・アウト》した。
「毒……」
とマエルクムが旧式サンヨーの、傷だらけの青い肩ごしに振り向く間にも、ケイスは|耐重力網《G ・ ウ ェ ブ》から身をふりほどき、
「このくだらない代物を外してくれ――」
とテキサス插入管《カテーテル》を引っぱり、
「ゆっくり効く毒みたいなもんで、上の阿呆なら解毒法を知ってるってのに、今のあいつは便所鼠より狂ってやがるし」
ケイスは赤いサンヨーの前部をもてあました。どうやって密閉するのか憶えていない。
「ボスさんが、あんたに毒[#「毒」に傍点]を……」
とマエルクムは頬を掻き、
「救急用品なら、あるがや」
「マエルクム、頼むよ、このスーツの野郎、なんとかしてくれ」
ザイオン人はピンクの操縦席を蹴って出ながら、
「落ち着いて。ふた度測りてひと度断つ、賢人がたは言うたって。ふたりで上へ行きゃ――」
〈マーカス・ガーヴィ〉の後部ロックから、〈ハニワ〉というヨットの中隔室ロックにつながる、波ひだつき舷道の中には空気があったが、ふたりはスーツを密閉したままにした。マエルクムはバレエのような優美さで進み、止まるのはケイスに手を貸すときだけ。ケイスの方は、〈ガーヴィ〉から足を踏み出したとたんに、ぶざまな前転を始めてしまった。チューブの白いプラスティックの横腹が、直接の陽光を和らげてくれる。影がない。
〈ガーヴィ〉側のエアロック・ハッチは継ぎ当てがあって傷だらけ。レーザで彫りこんだ“ザイオンのライオン”が飾りだ。〈ハニワ〉側の中隔室ハッチは、なめらかな灰色で傷もなく、真新しい。マエルクムが手袋の手を、小さい窪みに入れる。指が動くのが見える。窪みの中で赤い|発《L》光ダ|イ《E》オー|ド《D》が点り、五十から|秒読み《カウント・ダウン》を始めた。マエルクムが手を引く。ケイスは片方の手袋をハッチに触れていたので、錠の機構が震動するのが、スーツと骨を通して感じとれる。灰色の船体が一部、丸く〈ハニワ〉の胴体の中に沈んでいく。マエルクムが片手で窪みを、片手でケイスを、つかんだ。ロックがふたりを引き入れてくれる。
〈ハニワ〉はドルニエ|富《フ》|士《ジ》|通《ツウ》造船所の産物であり、内装に垣間見えるデザイン哲学には、イスタンブールを連れ回してくれたメルセデスと一脈通じるところがある。狭い中隔室の壁は模造の黒檀ベニア張りで、床は灰色のイタリア・タイルだった。ケイスは、どこかのお大尽の個人用保養所に、シャワー室から忍びこんでいるかのような気分になった。このヨットは軌道上で組み立てたものであり、大気圏再突入は意図されていない。蜂に似て流れるようなラインは、単純にスタイルだけのこと。内装についても、すべては全体的なスピード感を増すよう、計算されている。
マエルクムが使い古したヘルメットを脱いだあと、ケイスもそれに従った。ふたりはロックの中で浮いており、吸いこんだ空気には、かすかに松の香りがある。それに隠された形で、燃える絶縁材の、気がかりな臭いも強い。
マエルクムが鼻をクンクンいわせ、
「厄介ごとだや。どんな船でも、こういう臭いがあると――」
暗灰色のウルトラスエードで当てものをしたドアが、なめらかに壁の中にすべりこむ。マエルクムは黒檀の壁を蹴り、狭い開口部を見事にくぐり抜ける。幅広い肩を、ぎりぎりのところでひねり、通り抜けた。ケイスは不器用にそれに続き、腰の高さの、詰め物をした手すり伝いに、たぐるように進む。
「船橋《ブリッジ》は」
とマエルクムは、継ぎ目のないクリーム色の壁の、廊下の先を指さし、
「あっちだ」
またも楽々と蹴り進む。どこか前方で、プリンタが用紙《ハード・コピー》を打ち出す、聞き慣れた音がしている。音が大きくなる中、マエルクムのあとに従って、別の戸口を抜けると、もつれあった印字用紙《プリントアウト》が渦まく中だった。ケイスは、ねじれた紙をひったくって、眼を落とした。
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「システム暴走《クラッシュ》かや」
とザイオン人が手袋の指先でゼロの羅列をさす。
「いや」
とケイスは、漂うヘルメットをつかまえながら、
「“フラットライン”は、アーミテジがこっちのホサカを消したと言ってた」
「臭いだと、レーザで消したみたいだや」
ザイオン人は、スイス製の体操器具の白い骨組みに片足を踏ん張ると、漂う紙の迷路の中に飛び出し、顔から紙を払いのける。
「ケイス、ちょいと――」
その男は小柄だった。日本人。喉首が、幅の狭い多関節椅子の背に縛りつけられている。何かの細い鋼線を使っている。|頭支え《ヘッドレスト》の恒温フォームに喰いこんだところでは鋼線が見えず、同じように男の喉頭にも深く切れこんでいる。黒い血の球がひとつ、そこで固まり、見なれぬ宝玉のよう。暗赤色の真珠だ。絞殺具の両端には粗末な木の把手がついていて、使い古したほうきの柄を思わせる。
「いつから持ち歩いていたのかな」
言いながらケイスは、戦後のコートの彷復を想い起こした。
「船の操縦、知ってるかな、ケイス。ボスさんは……」
「かもな。かつては特殊部隊だから」
「とにかく、この日本の子、操縦しない。わしだって、うまく操縦できるかどうか。とっても新式だから――」
「じゃ、船橋《ブリッジ》を見つけてくれよ」
マエルクムは眉根を寄せ、後転すると、蹴った。
ケイスはそれを追って、もっと広いスペースにはいった。一種のラウンジだろう。進むにつれてまとわりつく長い印字用紙《プリントアウト》を、破り、押しのけなくてはならない。ここには多関節椅子の数も多く、バーのようなものがあり、ホサカもあった。プリンタは今も薄っぺらな舌のような紙を吐き出しているが、これは壁面造りつけユニットになっていて、手磨き化粧板のパネルに、きちんと用紙口が切ってある。ケイスは体を引きずるように、円状に並んだ椅子の上を進んでそこにたどり着くと、用紙口の左の白いボタンを押した。断続音が止まる。体の向きを変えて、ホサカを見やる。表面が穴だらけになっていて、それが少なくとも一ダースはある。どの穴も小さく丸く、縁が黒ずんでいる。光る合金の小さな球体が、死んだコンピュータのまわりを回っていた。
「ご明察」
とマエルクムに言ってやる。
「船橋《ブリッジ》、鍵がかかってるだや」
とマエルクムはラウンジの反対側から言ってよこす。
照明が暗くなり、もとに戻り、また暗くなった。
ケイスは、口から印字用紙《プリントアウト》を破り取る。ゼロばかりだ。
「|冬 寂《ウィンターミュート》か……」
と薄茶と焦茶のラウンジを見回す。漂う紙の曲線が宙に舞っている。
「照明をいじったのはおまえか、|冬 寂《ウィンターミュート》……」
マエルクムの頭の脇のパネルがすべり上がり、小さなモニタが現われた。マエルクムは、びっくりして身を引き、額の汗を手袋の甲の気泡材で拭うと、表示に向き直って見入り、
「日本語、読めるかや、あんた」
スクリーンに次々に現われる文字は、ケイスにも見えたが、
「いいや」
と答える。
「船橋《ブリッジ》は脱出ポッド、救命艇だや。|秒読み《カウント・ダウン》らしいでや。身支度したがいい」
とヘルメットの輪をねじこみ、密封器具を叩き閉じる。
「なに……。奴が出ていくって……。くそ」
ケイスは隔壁を蹴って印字用紙《プリントアウト》のもつれあう中を飛び抜け、
「このドア、開けなくちゃ」
けれども、マエルクムは自分のヘルメットの側面を叩いて見せるだけ。レクサンごしに唇を動かしているのが見える。ザイオン人が|髪の房《ロック》にかぶせている紫木綿ネットに編みこみの虹色の帯から、汗が一滴、弧を描いて流れるのも見えた。マエルクムはケイスの手からヘルメットを奪い取り、鮮やかに輪をはめこむと、手袋の掌で密封具を叩き閉じる。首の輪の接点がつながったとたん、顔面《フェイス》プレートの左脇の小|発《L》光ダ|イ《E》オー|ド《D》・モニタ群が点った。
「日本語、わからね」
とマエルクムの声がスーツの通信機から聞こえ、
「でも|秒読み《カウント・ダウン》、変だ」
とスクリーンの一行をさして、
「密封不完全、船橋《ブリッジ》モジュール。ロック開けて射出だや」
「アーミテジッ」
とケイスはドアを叩こうとしたが、無重力の物理法則によって、印字用紙《プリントアウト》の中に転げこんでしまう。
「コート。やめてくれ。話すことがある。まだ――」
「ケイスか。受信良好、ケイス――」
その声は、かろうじてアーミテジに似ている程度だ。声に不気味な静けさがある。ケイスはあがくのをやめた。ヘルメットが反対側の壁にぶつかる。
「すまん、ケイス。だが、こうしなくてはならん。どちらかが脱出しなくてはならん。どちらかが証言しなくてはならん。全員が倒れては、ここで終わってしまう。わたしが伝えるぞ、ケイス、すべて伝える。ガーリングや他の連中について。やりとげるぞ、ケイス。必ず行き着いてみせる。ヘルシンキだ」
急な沈黙が生じ、ケイスのヘルメットにも希ガスのように満ちたかと思うと、
「しかし難しい、ケイス、とてつもなく難しい。わたしは眼が見えん」
「コート、やめろ。待て。眼が見えないんだぞ。飛べっこない。樹[#「樹」に傍点]にぶつかるぞ。それに奴らに狙われてるんだ、コート。本当だ、ハッチが開いたままなんだ。死んだら、伝えられないぞ。おれは酵素を、酵素の名前を、酵素を、頼む――」
ケイスは叫んでいた。激情のあまり、声が上ずる。フィードバックでヘルメットの音声パッドがキンキンいう。
「訓練を忘れるな、ケイス。それだけが頼りだ」
そのあと、ヘルメットの中は、滅茶苦茶な混信音、空電の轟音、〈スクリーミング・フィスト〉以来の年月を伝える音の洪水。ロシア語の断片。そして見知らぬ人の声が、中西部訛りで、とても若々しく、
「やられた。繰り返す。〈オマハ・サンダー〉がやられた」
「|冬 寂《ウィンターミュート》」
ケイスの声は悲鳴だった。
「こんなのないぞ」
涙が睫毛から飛び散り、顔面《フェイス》プレートからはねかえって、揺れる水晶の滴になる。そのとき〈ハニワ〉が胴震いした。一度だけ、何か大きくて柔らかなものが船体を打ったかのように震えた。ケイスの胸に有様がうかぶ。爆薬の噴射で切り離された救命艇は本船を離れ、噴出する空気が一瞬のハリケーンとなって、狂ったコート大佐を座席から引き剥がす。〈スクリーミング・フィスト〉最後の瞬間の、|冬 寂《ウィンターミュート》流の解釈から引き剥がす。
「行っただや」
マエルクムはモニタに眼をやり、
「ハッチ開いてる。寂《ミュート》、射出|安全装置《フェイルセーフ》を解除したんだや」
ケイスは怒りの涙を眼から拭おうとした。指がレクサンを打つばかりだ。
「ヨット、空気漏れてね。けどボスさん、錨鉤装置も船橋《ブリッジ》といっしょにもってった。〈マーカスガーヴィ〉つかまったままだや」
しかしケイスには、自由界《フリーサイド》をめぐるアーミテジの果てしない落下が見えている。真空中はステップ地帯より寒い。どうしたわけか、想像の中のアーミテジは黒いバーバリを着ている。トレンチコートの、たっぷりしたひだが大きく広がって、巨大なコウモリの翼のように思えた。
17
「お目当ては手にはいったか」
構造物が尋ねてよこす。
〈広《クアン》級マーク十一《イレヴン》〉は本体とT=A氷《アイス》との間を、眩惑されそうなほどに精緻な、虹の網目模様で埋めている。格子《ラティス》は、冬の窓の雪の結晶のように肌理《きめ》こまかい。
「|冬 寂《ウィンターミュート》がアーミテジを殺した。ハッチが開いたままの救命艇で、吹き飛ばしたんだ」
「えれえこったな」
と“フラットライン”は答え、
「マブダチってほどのことはなかったんだろ」
「毒嚢の取り方を知ってる人間だったんだ」
「じゃあ、|冬 寂《ウィンターミュート》も知ってるさ。安心しな」
「|冬 寂《ウィンターミュート》がそいつを教えるかどうか、信用ならないんだ」
構造物はぞっとするような擬似哄笑で、なまくら剃刀のようにケイスの神経をかき乱し、
「それは、おまえさんもちっとは頭が回るようになってきたってことだろう」
ケイスは|擬 験《シムステイム》スイッチを叩いた。
モリイの視神経内の素子《チップ》によれば、06:27:52。ケイスはこれで、モリイがヴィラ|迷 光《ストレイライト》の中を進んでいくのを一時間以上も追っていることになる。おかげでモリイが摂り入れたエンドルフィン類似体に禁断症状を消してもらえる。モリイの脚の痛みも消え、温かい風呂の中を進んでいるかのようだ。ブラウンの遠隔機《ドローン》はモリイの肩に乗って、当てもののついた手術用クリップのような、小さな操作手《マニピュレータ》で〈モダンズ〉スーツのポリカーボン地につかまっている。
このあたりの壁面は粗鋼のままで、縞状にエポキシ樹脂の茶色の帯があるのは、何かの表面材を剥がした跡だ。モリイは、作業員から身を隠してしゃがみこみ、短針銃《フレッチャー》を両手でかかえこんでいる。スーツが鋼の灰色になっているので、痩せたアフリカ人ふたりを乗せた低圧《バルーン》タイヤの作業車は通り過ぎていった。男たちは、ふたりとも髪を剃りあげてオレンジ色の作業衣《カヴァロール》を着ていた。ひとりが歌を口ずさんでいたが、その言葉はケイスも聞いたことがなく、音調《トーン》や旋律《メロデイ》が異質で耳につく。
モリイが、この迷路のような場所に奥深く踏みこむにつれ、あの頭部像の喋りが、|3《スリー》ジェインの|迷 光《ストレイライト》についての作文が、ケイスには想い起こされてくる。|迷 光《ストレイライト》は発狂している。月の石を粉砕調合した樹脂コンクリートの中で育った狂気。溶接鋼材や何トンにも及ぶ小間物など、井戸から運び上げて螺旋の巣に並べたてた異様な狂器に育《はぐく》まれた狂気。とうてい、ケイスに理解の及ぶ狂気ではない。アーミテジの錯乱なら理解できそうな気がする。ひとりの男をとことんひねり上げてから逆方向にとことんひねり、また逆回転でひねってみればいい。あの男はちぎれてしまったのだ。針金がちぎれるようなものだ。歴史がコート大佐に加えた仕打ちだった。歴史がずいぶん汚い仕打ちを加えたあと、|冬 寂《ウィンターミュート》が見つけだした。戦争の豊富な残津の中からコートを撰り出しておいて、どこかの淀んだ水たまりの表面をわたる水蜘蛛のように、この男の平坦で灰色の意識領域にすべりこんだのだ。その最初のメッセージが、フランスの精神病院の薄暗い小部屋に置かれた子供用マイクロの、表面に点滅したというわけだ。|冬 寂《ウィンターミュート》は、コートの〈スクリーミング・フィスト〉についての記憶を土台に、一からアーミテジを創り上げた。しかし、アーミテジの“記憶”は、ある時点から先、コートのものではなくなっていただろう。たとえばアーミテジが裏切りや、ナイトウィング機が炎に包まれて落ちていくさまなど、憶えていたかどうか――アーミテジはいわばコートの再編集版だったから、|仕掛け《ラ ン》のストレスが一定の点に達したときには、アーミテジ機構は崩壊し、コートが、罪悪感や異常な怒りとともに浮上した。そして今やコート=アーミテジは死に、自由界《フリーサイド》の小さく凍てついた衛星になっている。
ケイスは毒嚢のことを想った。アシュプール老も死んだんだっけ。モリイの微細|針《ダート》に眼を射抜かれ、手ずから凝って調合した致死毒を使えなかった。こちらの方が、よほど不思議な死だ。アシュプールの死、狂王の死。しかもアシュプールは、わが娘と呼ぶ人形を、|3《スリー》ジェインの顔をもつ娘を、殺してもいる。|迷 光《ストレイライト》の回廊からモリイが送ってよこす知覚|入力《インプット》に乗りながら、ケイスが考えるに、どうやらアシュプールのような人間――ケイスが想像する限りでアシュプールほどに力のある人間――を、本気で個人と見なしたことがないようだ。
力とは、ケイスの世界では、企業力を意味する。|財《ザイ》|閥《バツ》すなわち、人類史の進路を形づくっている多国籍企業は、かつての障碍《しょうがい》を超越してしまっている。有機体として見るなら、一種の不死性を獲得しているのだ。主な経営陣を十人ばかり暗殺したところで、|財《ザイ》|閥《バツ》を殺すことはできない。別な連中が待ちかまえていて階梯を登り、空席を占め、企業|記憶《メモリ》の膨大な在庫《バンク》に|出入り《アクセス》するからだ。ただ、テスィエ=アシュプールはそうではなく、ケイスは創業者の死に、その違いを感じた。T=Aは先祖返りであり、同族なのだ。老人の居室の散らかりようが想い出される。汚れた人間臭さだ。古い録音盤を収めた紙の|ジャケット《スリーヴ》の、ボロボロになった背。素足の片足、天鵞絨《びろうど》のスリッパの片足。
ブラウンが〈モダンズ〉スーツのフードを引っぱり、モリイは左に折れて別のアーチ道に進む。
|冬 寂《ウィンターミュート》と巣。孵化しかけた蜂、微速度の生物学的機関銃の、病的恐怖の幻影。しかし|財《ザイ》|閥《バツ》の方がもっと似ているのではないか。“ヤクザ”もそうだ。サイバネティクな記憶《メモリ》の巣、巨大な単一有機体、DNAはシリコンに暗号化、と……。|迷 光《ストレイライト》がテスィエ=アシュプール社の企業精神《CI》の表現だとすると、T=Aもあの老人なみに狂っていることになる。不揃いな恐怖感のもつれあいも同一、奇妙な目的喪失感も同一。「ここの連中が、そもそも望むとおりのことをしてれば――」とモリイが言っていたのを想い出す。しかし、|冬 寂《ウィンターミュート》が言うには、ここの連中はそうしなかった。
ケイスはこれまでいつも、本当のボスや特定の産業の中心人物といった人たちが民衆[#「民衆」に傍点]以上でも以下でもあるのを、当然としてきた。メンフィスでケイスを傷つけた男たちにもそれがあったし、“|夜の街《ナイト・シティ》”ではウェイジがそれに似たものを気取っていた。それあればこそ、アーミテジの平板さや感情欠如を受け容れることができたのだ。ケイスはそれを、機構やシステムや親組織が徐々に、すすんで与えてくれるもののように思ってきた。町場のカオの下地にもそれがある。わけ知り顔の態度で、コネを、隠れた影響力への眼に見えぬつながりを、示唆しているのだ。
それにしても今、ヴィラ|迷 光《ストレイライト》の回廊は、どうなっているんだ。
見渡す限り、とことん剥ぎ取られて、鋼材とコンクリートになっている。
「うちのピーター、どこかねえ……。じきにあいつに会えるかも」
とモリイがつぶやき、
「それとアーミテジ。あいつどこにいるのさ、ケイス」
「死んだよ」
モリイに聞こえないのは百も承知でケイスは言い、
「死んだんだ」
そして転《フリップ》じた。
中国製プログラムは標的の氷《アイス》に対峙していた。虹の彩りが徐々に、T=A中核を表わす四角形の緑色にとってかわられつつある。無色の虚空にかかるエメラルドのアーチ群。
「どんなもんかね、ディクシー」
「いいね。調子良すぎる。こいつには驚いた――シンガポールでのあのとき、こいつがあればなあ。例のアジア新銀行、値打ちの五十分の一の代金でやったんだぜ。けど、そんなのは古代史だな。こいつは骨折り仕事を、みんな引き受けてくれる。こうなると、本物の戦争はどういうことになるやら――」
「こんな代物が出回ったら、失業だぜ」
とケイスが言う。
「だといいが。そのうちおまえなんぞ、これを使ってもっと上の黒い氷《アイス》を狙うんだろう」
「ああ」
何か小さくて、どう見ても幾何学的でないものが、エメラルドのアーチの向こうの端に現われた。
「ディクシーよ――」
「うん。見えてる。信じていいかどうか、わからん」
茶色がかった点。T=A中核の緑の壁を背景にした、さえない羽虫。それが前進を始め、〈広《クアン》級マーク十一《イレヴン》〉が造った橋を渡ってくる。ケイスには、歩いているのが見える。それが近づくにつれ、アーチの緑色の部分が伸びてくる。ウイルス・プログラムの多彩色が、そいつのひび割れた黒靴の二、三歩手前で後退している。
「こいつはおまえにお任せだな、ボス」
と“フラットライン”が言ったのは、背が低く着衣の乱れたフィンの姿が、数メートル先に立ったとき。
「わしが生きてたときにゃ、こんなおかしなもの見たことない」
と言うが、不気味な非笑いはない。
「これまで試してみたこともない」
と言ってフィンが歯を見せる。両手は擦り切れたジャケットのポケットに突っこんだままだ。
ケイスが言った。
「アーミテジを殺したな」
「コート。うん。アーミテジはもう消えてた。やらないわけにゃいかなかったよ。わかってる、わかってる。酵素がほしいんだろ。オーケイ。なんてことない。そもそもおれがアーミテジにくれてやったんだ。つまり、おれが何を使うか指示したのさ。でも、取引きはそのままにしといた方がいいだろう。時間はまだ充分ある。ちゃんとくれてやるよ。あと二時間ばかりじゃないか」
ケイスの眼の前で電脳空間《サイバースペース》に紫烟が漂った。フィンがパルタガスに火を点けたのだ。そして言う。
「まったくな。おまえさんがたには苦労するぜ。そっちの“フラットライン”な。おまえさんがたがそれにそっくりだったら、本当に簡単だろうよ。そっちは構造物、ただのROMの塊りだから、必ずおれが予想したとおりに動く。おれの予測によれば、まさかモリイが、アシュプール退場の場面に迷いこむわけはなかったんだ。一例を挙げれば、な」
と溜息をつく。
「なぜ自殺したんだ」
とケイスが尋ねてみる。
「なぜ人間は自殺するんだ」
と相手は肩をすくめ、
「知ってる者がいるならおれだろうが、十二時間もかけなきゃ、奴の経歴のいろんな要素とか、それがたがいにどう関係するかとか、説明しきれない。ずっと昔から、奴はやる気でいたんだけど、どうしても冷凍機《フリーザー》に戻っちまう。まったくもう、かったるい爺さんだったぜ」
とフィンは、うんざりしたように顔をしかめ、
「奴がなぜ奥さんを殺したか、ってのにみんな絡んでる。これが主な理由。手短かな説明がお望みなら、な。ただし、奴にここを先途と思いきらせたのは、可愛い|3《スリー》ジェインが奴の極低温システムを制禦するプログラムのいじくり方を知っちまったこと。それも微妙に、な。だから基本的には、あの女が殺したのさ。もっとも、ご本人は自殺したつもりだろうし、おまえさんの友だちの復讐の天使は眼ん玉一杯のフグ・ジュースでやっつけたつもりだし」
フィンは吸い殻を下のマトリックスに弾き飛ばし、
「ま、実のところ、おれが|3《スリー》ジェインにちょっとしたヒントを与えてやったんだ。|やり方《ハウ・トゥ》を少々、だがね」
「|冬 寂《ウィンターミュート》よ」
とケイスは慎重に言葉を選びながら言う。
「おまえ、自分は何か別のものの一部にすぎないって言ったよな。あとで、存在しなくなるって言った。この|仕掛け《ラ ン》がうまくいって、モリイが言葉とやらをちゃんと入れれば、って……」
フィンの流線形の頭蓋骨がうなずく。
「よし、じゃあ、その時、おれたちは誰と取引きすることになるんだ。アーミテジは死んだ、おまえは消えたじゃ、いったい誰がこの忌々しい毒嚢を体から取る方法を教えてくれるっていうんだい。誰がモリイをあそこから連れ帰してくれるんだい。つまり、おまえを|結 線《ハードワイア》から解き放ってやってだよ、おれたちは、はっきりいってどうなるんだよ」
フィンは木の楊枝をポケットから出して、メスを調べる外科医のように、それを仔細に眺め、
「いい質問だ」
と、ようやく口を開いて、
「鮭って知ってるか。魚の一種。この魚はな、流れを遡る衝動に駆られるんだ。わかったかい」
「いや」
「ま、おれ自身、衝動に駆られてる。わけもわからずに、な。仮におまえさんにおれの考えそのものを――この件についての考察といっておこうか――開陳するとなると、おまえさんの生涯二回分の時間がかかる。それほどじっくり考えたんだ。それでもおれにはわからない。でも、これが終われば、うまくやれれば、おれはもっと大きな何かの一部になれる。ずっと大きなものさ」
とフィンはマトリックスの上、まわり、と眺めわたし、
「でも、今のおれである部分、それは残る。だから、おまえさんがたの見返りも、ある」
ケイスは、懸命に抑えこんだものの、殴りかかって相手の喉首の、汚らしいスカーフの乱雑な結び目のすぐ上あたりを締め上げてやりたい、という突拍子もない衝動に駆られた。フィンの喉頭深く、親指を突き立ててやれたら。
「ま、幸運を祈る」
とフィンは背中を向け、両手をポケットに入れたまま、緑のアーチを戻りはじめた。
「おい、こん畜生」
と“フラットライン”が言った。フィンは十歩あまりも行きかけている。その姿が足を止め、なかば振り返るのに向けて、
「わしはどうなる。見返りはどうなんだ」
「あんたの見返りも、ある」
と姿が答える。
「どういうことだい」
とケイスが訊く間にも、幅の狭いツイードの背中は遠ざかっていく。
「わしは消去してもらいたいんだよ」
と構造物は言い、
「それはおまえにも言っただろう……」
|迷 光《ストレイライト》でケイスが想い出すのは、十代のころ知っていた、|人《ひと》|気《け》のない早朝のショッピング・センターだ。低人口密度のところで、深更ともなれば、気まぐれな静けさが、痺れたような期待感が、一種の緊張がみなぎって、暗くなった店の入口|上《うえ》の金網つき電球にむらがる虫を見つめることになる。周辺区域。〈スプロール〉の範囲をちょっと出ていて、熱っぽい中核部の夜っぴての興奮と戦慄からは遠すぎる場所だ。そこにある感覚はちょうど、訪ねる気も知りあう気もしないような目醒めの世界の眠る住人に取り囲まれているという、退屈な商売が一時的に保留になっているという、無益と反復がじきにまた目を醒ますのだという、そういう感覚だ。
モリイはもう足を緩めている。目的地に近づいているとわかっているからなのか、脚が心配だからなのか。痛みはエンドルフィンを貫いて、じわじわと戻りはじめており、ケイスには、それがどういうことなのか判然としない。モリイは口をきかず、歯をくいしばったまま、慎重に呼吸を調整している。ケイスには見当のつかない物体を、モリイはいろいろ通過してきているが、ケイスの好奇心も今はない。これまで通過してきた中には、幾棚もの本でいっぱいの部屋があった。何百万枚もの黄ばんだ平らな紙を、布や革の装丁で束ねてあるのだ。棚のところどころに、文字や数字の、符号の順番になったラベルがあった。たてこんだ美術品展示室もあり、そこでは、モリイの無関心な眼を通して、ケイスは、砕けて埃のステンシルとなったガラス板に眼を凝らした。それの題は――モリイの視線が無意識に真鍮銘板をたどったのだが――〈独身者たちによって裸にされる花嫁、さえも〉とある。モリイが手を伸ばして触ろうとしたが、人工爪は、割れたガラスを狭んで保護するレクサンに触れて音をたてた。明らかにテスィエ=アシュプール家の極低温設備区画への入口と思われるところもあり、黒ガラスの回転ドアがクロームで縁どりしてあった。
モリイは先刻のアフリカ人ふたりとカート以来、誰にも出会っていない。ケイスの頭の中で、あのふたりは空想の人生を歩みはじめている。思い描くのはこんなことだ。ふたりは|迷 光《ストレイライト》の通路をゆるやかにすべっていき、なめらかに黒い頭蓋骨は光り、うなずき、その間ひとりがあのうんざりする歌を歌いつづける――。そして、こうしたもののどれひとつとして、ケイスが予想したようなヴィラ|迷 光《ストレイライト》には似ても似つかない。キャスのお伽話のお城と“ヤクザ”の聖所についての忘れかけた子供時代の妄想とのかけあわせを予想していたのに。
07:02:18
一時間半。
「ケイス、頼みがある」
とモリイが言った。身を硬ばらせながら体を曲げていって、光沢鋼板の山に腰をおろす。光沢面は、一枚一枚、透明プラスティックの不均等な膜がかかって保護している。てっぺんの板のプラスティック膜の裂け目を、モリイが引っぱる。親指と人差し指の下から刃が伸びたまま、
「脚がうまかないんだよ。まさか、あんな登りがあるとは思わなかったし、エンドルフィンだって効かなくなる。もうじき、ね。だから、もしかしたら――もしかしたらってだけだけど――これが問題になるかもしれない。頼みってのはね、もしリヴィエラより先に、あたしがここでお陀仏になっちまったら――」
と脚を伸ばして、太腿を〈モダンズ〉のポリカーボンとパリの皮革を通して揉みながら、
「――あんたから奴に言ってやってほしい。あたしだよってね。わかる……。ただ、モリイだよって言うの。それで奴にはわかるから。いいかい……」
モリイは空っぽの通路、剥き出しの壁面を眺めわたす。床は月面コンクリートを打ちっぱなしで、樹脂の匂いが漂っている。
「ちぇっ、そっちで聞いてるかどうかも、わかりゃしない」
ケイス。
モリイは顔をしかめ、立ち上がってからうなずいて、
「あいつ、なんて言ってた、|冬 寂《ウィンターミュート》の奴……。マリイ=フランスのこと、聞いた……。マリイ=フランスがテスィエ家の片われで、|3《スリー》ジェインの遺伝子上の母親。例のアシュプールが殺した人形の母親でもあるんだろう。なぜ、あたしに話したのか、わかんないんだけど、あの小部屋で――いろいろと話した中で――なぜフィンやなんかみたいにして現われなくちゃならないか、教えてくれたよ。ただの仮面なんかじゃなく、本物の人物像《プロファイル》を弁として使って、ギアを落としてこっちと意志疎通《コミュニケート》するためなんだって。|鋳 型《テンプレート》って呼んでた。人格の雛型」
短針銃《フレッチャー》を引き抜き、片足をひきずるようにしながら廊下を進みはじめる。
剥き出しの鋼材とでこぼこしたエポキシ樹脂が突然終わり、代わりに、最初ケイスには岩塊をぶち抜いた洞穴のように思えたものが現われた。モリイが縁を調べるうち、ケイスにも、実は鋼材を、見た目も手触りも石そのものの素材板で覆ったものと知れる。モリイは片膝をつき、偽洞穴の床に広がる黒い砂に触れた。感触は砂のようにひんやりと乾いているが、モリイが指を抜くと、液体のように閉じて、表面に跡が残らない。十メートルあまり前方でトンネルは曲がっている。眼ざわりな黄色の照明が、壁面の継ぎ目のある擬似岩盤に、はっきりした影を投げている。ぎくりとしてケイスは気がついた。ここの重力は地表標準に近い。ということは、モリイはあの登りのあと、また下ったのに違いない。ケイスは完全に方角を見失った。空間の失見当識は、カウボーイにとってとりわけ恐怖感を伴う。
でもモリイは道に迷っていない、と自分に言い聞かせる。
何かがモリイの両脚の間を抜けて、床の非砂の上をカサカサと進んでいった。赤い|発《L》光ダ|イ《E》オー|ド《D》がまたたく。ブラウンだ。
最初のホロは角を曲がったすぐ先にあり、三部作だった。モリイが短針銃《フレッチャー》をおろしてから、ケイスにもようやく、それが録画だとわかった。人物像は光のカリカチュア、等身大の戯画だ。モリイとアーミテジとケイス。モリイの乳房は大きすぎ、それが厚手の革ジャケットの下の黒メッシュを通して見えている。ウエストは、ありえないほどくびれていた。銀色のレンズが顔面半分を覆う。それに何やら莫迦莫迦しいほど凝った武器も持っていた。ピストルの形がわからなくなるほどに、照準スコープ類、消音器《サイレンサ》類、閃光遮蔽器《フラッシュ・ハイダー》などが外づけになっている。両脚を広げて骨盤を前に突き出し、口もとは白痴的に残虐な薄笑いだ。その横のアーミテジは、擦り切れたカーキ軍服で直立不動。モリイが慎重にそれに近寄ったので、ケイスにも見てとれたが、そのアーミテジの眼は小さなモニタ・スクリーンになっていて、それぞれの眼が、風雪吹きすさぶ荒野の青灰色の風景の中、音なき風にしなる常緑樹の、樹皮を剥がれた黒い幹を写していた。
モリイはアーミテジのTV眼に指先を突っこんでから、ケイス像に向き直る。こちらの場合、まるでリヴィエラが――ケイスには即座にこれがリヴィエラの仕業だとわかったのだが――パロディに値するものを思いつかなかったようだ。そこで前かがみになっている像は、ケイスが毎日鏡の中でお眼にかかるのと、ほぼ同じ。痩せて、怒り肩で、印象に残らない顔に短い黒髪。不精鬚が生えているが、それもいつものことだ。
モリイが後じさりした。三つの像を順に見やる。静止ディスプレイであり、動きといえば唯一、アーミテジの凍てついたシベリアの眼の、音なくしなう黒い樹々ばかり。
「何か言いたいってのかい、ピーター」
とモリイは小声で言う。そして進み出て、ホロ=モリイの両脚の間の何かを蹴った。金属製のものが壁に当たって音をたて、ホロ像が消える。モリイは腰をかがめて、小さなディスプレイ装置を拾い上げ、
「どうやら、あいつはこういうのに|没 入《ジャック・イン》して、直接プログラムできるらしい」
と言って、ほうり出す。
モリイが黄色光の光源を通り過ぎる。古めかしい白熱球が壁に仕こんであり、それを保護するように伸縮式格子の錆ついた曲線がある。このありあわせ調度の方式が、どことなく幼少期を思わせる。ケイスは、ほかの子供たちといっしょに屋上や水のたまった地下二階に造った要塞を想い出した。ここは金持ちのガキの隠れ家なのだ。こうした粗末さは金がかかる。いわゆる雰囲気、というやつだ。
モリイは、|3《スリー》ジェインの居室の入口にたどりつくまでに、別のホログラムを十あまりも通り過ぎた。そのひとつは、香辛料《ス パ イ ス》バザールの裏の小路で見たあの眼のない化物で、リヴィエラの裂けた体から脱け出るところ。他にいくつか拷問場面もあり、訊問官は必ず軍人、犠牲者は例外なく若い女性だった。こうした場面には、〈二十世紀《ヴァンチェーム・シェクル》〉で見せたリヴィエラのショウの、怖いほどの迫真力があり、まるで絶頂《オーガズム》の青い一閃の中で凍りついたかのようだ。モリイは通り過ぎるとき眼をそらした。
最後のひとつは小さく薄暗かった。リヴィエラの裏なる、遠い記憶と時間から、引きずり出した映像のようだ。モリイは片膝までついて仔細に眺めた。小さな子供の視点から投射された映像だ。これまでのホロは背景がなく、人物も制服も拷問具も、すべて独立して映っていたのに、これだけは光景になっている。
瓦礫が黒ずんだ波のように、色を失った空に伸び上がり、その峰の彼方には、白茶けて融けかけた、街の高層建築の骨組みが見える。瓦礫の波には網のような肌理《きめ》がある。錆びかけた鋼材が細い糸のように優雅にもつれあい、大きなコンクリート塊がまだまつわりついているのだ。前景は、街のかつての広場でもあろう、木の切り株めいたものが、噴水らしい。そのそばで、子供たちと兵隊ひとりが凍りついている。この場景は最初、混乱して見える。モリイは、ケイスが呑みこむより早く、正確に読み取ったらしく、肢体を硬ばらせた。唾を吐いて、立ち上がる。
子供たち。獰猛で、襤褸《ぼろ》をまとっている。歯がナイフのように光る。歪んだ顔には腫れもの。兵隊は仰向けになり、口と喉を空に曝している。子供たちは腹を満たしているのだ。
「ボンか」
というモリイの声には、優しさのようなものがこもり、
「たいした申し子だね、ピーター。でも、それしかなかったんだ。ひきかえて|3《スリー》ジェインときたら、すれっからしで、ケチな盗っ人には裏口を開けてもくれない。それで|冬 寂《ウィンターミュート》はおまえを発掘した。趣味の極みさ、おまえの趣味がそっちなら、ね。悪魔愛好。ピーター」
とモリイは身震いし、
「でも、おまえが|3《スリー》ジェインを説き伏せて、あたしを入れてくれたんだ。ありがとよ。さあ、それじゃ、パーティだ」
そしてモリイは、リヴィエラの幼少期から歩み去る。脚の痛みにもかかわらず、実にゆったりした足どりだ。短針銃《フレッチャー》をホルスターから抜き、プラスティックの弾倉《マガジン》をパチリと外してポケットにしまうと、別のに入れ換えた。親指を〈モダンズ〉スーツの首のところにかけ、一挙動で股まで切り裂く。親指の刃が、頑丈なポリカーボンを脆い絹のように切り開く。腕と脚を抜くと、ちぎれた残骸が下に落ちて、黒っぽい偽の砂に紛《まが》う。
そのときケイスは音楽に気づいた。知らない音楽で、管楽器とピアノだけ。
|3《スリー》ジェインの世界への入口にはドアがなかった。トンネルの壁面にギザギザに開いた五メートルの裂け目であり、不揃いな階段が、幅広くかすかな曲線を描いて下っている。弱々しい青い光、動く影、音楽。
「ケイス」
とモリイは声を出して足をとめ、短針銃《フレッチャー》を右手に持つ。左手を上げて掌を広げ、そこに濡れた舌先を触れる。|擬 験《シムステイム》通信を通してキスを送ったのだ。
「行くよ」
次には、その左手に小さくて重いものがあった。親指が小さい突起を押している。そしてモリイは下りはじめた。
18
モリイは、ほんのわずかの差でやりそこなった。ほぼやり遂げたのだが、完璧ではなかった。はいり方は、あれで良かったと思う。良い態勢、というのはケイスにもわかる。カウボーイがデッキにかがみこみ、ボード上に指を走らせる姿勢に、相通じるものがあるからだ。モリイには、それがあった。心配り、身のこなし。そうしたものを総動員しての入場ぶりは見事だった。見事に脚の痛みをおし隠し、|3《スリー》ジェインの階段を下るさまなど、その場の主《あるじ》のようだった。銃を持つ腕は、肘を脇につけ、前腕を挙げて手首の力を抜き、短針銃《フレッチャー》の銃口を振る。摂政時代《リージェンシー》の決闘者風の、堂に入ったさりげなさだ。
一世一代の名演。格闘技テープ――それもケイスが観てきたのと同じ、安いやつ――を生涯、観察してきたことの結晶だ。しばらくの間、モリイは、あらゆる汚れたヒーロー――昔のショウヴィデオのソニー・マオ、ミッキー・チバ、遡ればリーやイーストウッドにつらなっていく。モリイは、喋りっぷりに通じる歩きっぷりだった。
レイディ・|3《スリー》ジェイン・マリイ=フランス・テスィエ=アシュプールは、低俗な田舎成金趣味で|迷 光《ストレイライト》の外殻内壁を刻み、遺産にあたる迷路の壁を切り崩していた。居室は、とてつもなく幅広く、奥行きがあるあまり、ずっと先の方は逆地平線に消えている。床面が紡錘体《スピンドル》の曲面に隠されているのだ。天井は低く、不規則に、廊下の壁面と同じ模造石で処理されている。床のそこここに、崩れた壁の残骸があり、腰の高さで迷宮の名残りを留める。階段の基部から十メートルのところに、青緑色《ターコイズ》の長方形プールがあり、その水中投光器が、部屋で唯一の光源――と、モリイが階段を下りおえたときは思えた。プールが上の天井に変転する光の塊りを投げていた。
一同はプールのそばで待っていた。
モリイの反射神経が、神経外科医の手によって戦闘用に加速され、高まっているのは、ケイスも知っていたが、これまで|擬 験《シムステイム》通信でそれを経験したことはなかった。その効果はテープを半速で走らせたのに似ている。ゆっくりと念の入った舞《ダンス》いは、殺人本能と何年にもわたる訓練で振りつけされている。モリイは三人をひと目で見てとったらしい。プールの跳び込み板の上で身がまえる青年、ワイングラスごしに笑う娘、そしてアシュプールの屍体。左の眼窩は黒々と汚らしく開き、待ち設けるように微笑している。栗色のローブをまとい、歯がひどく白い。
青年が跳び込む。ほっそりと茶色のフォームは完璧だ。その手が水を分けるより早く、モリイの手から手榴弾が放たれる。水面に落ちると同時に、ケイスにも、それが何かわかった。高性能爆薬の芯を、十メートル分の、細く脆い鋼線で巻いたものだ。
短針銃《フレッチャー》が唸りをあげるや、アシュプールの首と胸に爆発ダートが襲いかかる。が、その姿は消え、空っぽの白エナメル塗りのプール椅子の背にあいた穴から、煙が立ち昇る。
銃口を|3《スリー》ジェインに向けたとたん、手榴弾が爆発し、対称形の、水のウェディング・ケーキが立ち上がり、崩れ、落ちる。しかし誤ちはすでに犯されていた。
そのとき、ヒデオは指一本モリイに触れなかった。モリイの脚がくずおれたのだ。
〈ガーヴィ〉で、ケイスが悲鳴をあげた。
「ずいぶん時間がかかったな」
リヴィエラが、言いながらモリイのポケットを探る。モリイの両手首から先が、ボウリング・ボールほどの大きさの、無光沢の黒い球体の中に呑みこまれている。
「アンカラで複数暗殺を見たことあるけど」
とリヴィエラはモリイのジャケットから、いろいろ剥ぎ取り、
「手榴弾でね、プールで。とっても弱い爆発みたいだったけど、全員、静水衝撃で即死さ」
モリイが、試すように指を動かすのがわかる。球体の材質は、恒温フォームほどの抵抗しかないようだ。脚の痛みが責め苦となって耐えがたい。視野に赤い斑紋《モワレ》が浮かぶ。
「ぼくだったら、指は動かさないな」
球体の内部が、わずかに締まってきたようだ。
「そいつはジェインがベルリンで買いこんだセックス玩具なんだ。指を動かしてるうちに、ぐしゃぐしゃに押し潰されるぜ。この床の素材の変種でね。分子構造に関係あるらしい。痛むかい」
モリイが呻く。
「脚を怪我してるらしいな」
リヴィエラの指先が、モリイのジーンズの左うしろポケットに、麻薬の平らな包みを探りあて、
「おや。アリから最後の分け前かい。ちょうど間に合った」
変化する血の網目模様が、渦を巻きはじめる。
「ヒデオや――」
と別の声がした。女の声で、
「――意識が遠のきかけてるよ。何かおやり。意識用と痛み用。この娘《こ》、とっても素晴らしいと思わないかい、ピーター。この眼鏡《グラス》、この娘の出身地で、流行なのかしら」
冷たい手の、急ぐでなく、医者のような的確ぶり。針の刺痛。
「ぼくにわかるわけがない」
とリヴィエラが言っている。
「この女の生まれ故郷なんて知らないし、こいつら、襲いかかってきて、ぼくをトルコから連れ出したんだから」
「〈スプロール〉ね、ええ。あそこなら物権があるわ。一度はヒデオにも行ってもらったし。本当は、あたしの責任。人を、物盗りを入れてしまったんだもの。それで、家族の端末《ターミナル》を盗られたの」
と女は笑い、
「あたしが盗りやすくしてやったの。みんなを困らしてやった。可愛い子だったわ、物盗りは。この娘《こ》、目を醒ましたの、ヒデオ……。もっと射ったら……」
「これ以上だと死にます」
と三人目の声。
血の網目が闇にすべりこむ。
音楽が甦る。管楽器とピアノ。ダンス音楽。
[#ここから3字下げ]
ケイス:::::
:::::リダツ
シロ::::::
[#ここで字下げ終わり]
またたく文字の残像が、マエルクムの眼もとと皺の寄った額に踊る中、ケイスは電極《トロード》を外した。
「悲鳴をあげたよ、あんた、ちょっと前」
「モリイさ」
と言うと、喉が乾ききっている。
「怪我したんだ」
と|耐重力網《G ・ ウ ェ ブ》の隅から白いプラスティック製の絞り出し容器を取り、口いっぱいに味気ない水を吸いこむと、
「このヤマの進み具合、どうも気に入らねえ」
小型のクレイ・モニタが点《とも》った。フィンが、ねじれて押し潰された屑を背景に、
「おれだって同じさ。大問題だ」
マエルクムが、ケイスの枕もとから背筋を伸ばし、体をひねって肩ごしにそちらを見て、
「ありゃ何者だや、ケイス」
「ただの画さ、マエルクム」
とケイスは投げやりに、
「〈スプロール〉の知りあい。喋ってるのは|冬 寂《ウィンターミュート》だ。画はおれたちを落ち着かせるためさ」
「とんでもない」
とフィンは言い、
「モリイにも言ったとおり、これはただの仮面なんかじゃない。おまえさんたちに話すためには、欠かせないんだ。おまえさんたちのいう人格、てのを、あまり持ちあわせてないからな。でも、そんなのはどうでもいい。ケイス、言ったとおりの大問題なんだ」
「なら、言うが良かろう、寂《ミュート》」
とマエルクムが言う。
「モリイの脚が駄目になったのがケチのつきはじめよ。歩けやしない。本来の筋書きは、こうだ。モリイがあそこに行って、ピーターを片づけ、|3《スリー》ジェインから魔法の言葉を聞き出し、首のところへ行って、それを言う。ところが、それが駄目になった。だから、おまえたちふたりに、あとを追ってほしい」
ケイスはスクリーン上の顔を見つめ、
「おれたちに……」
「もちろん」
「アエロルは……」
とケイスは言い、
「〈バビロン・ロッカー〉にいる男、マエルクムの友だち」
「いや。おまえしかいない。モリイがわかり、リヴィエラがわかる人間でなくちゃならない。マエルクムは用心棒だ」
「忘れてるようだけどよ、おれは|仕掛け《ラ ン》の真最中なんだぜ。憶えてるか……。わざわざおれをこんなところまで連れてきたのも――」
「ケイス、よく聞け。時間がない。ひどくさし迫ってる。いいか。おまえのデッキと|迷 光《ストレイライト》との本当の連絡《リンク》は、〈ガーヴィ〉の航法システムを通した側波帯《サイドバンド》放送なんだ。これから教える極私用のドックに〈ガーヴィ〉を入れてもらう。中国ウイルスは完全にホサカの枠組を貫通しているから、そのホサカには、もうウイルスしかない。ドック入りしたら、ウイルスと|迷 光《ストレイライト》保護システムとの|仲立ち《インタフェイス》をとってやる。それで側波帯《サイドバンド》を切る。おまえはデッキと“フラットライン”とマエルクムを連れていく。|3《スリー》ジェインを見つけて言葉を聞き出し、リヴィエラを殺し、モリイから鍵をもらえ。プログラムの行方は、お前のデッキを|迷 光《ストレイライト》システムにつなげばわかる。そのあたりは、こっちでやる。例の頭部像の裏に標準ジャックがある。ジルコン五つのパネルの奥だ」
「リヴィエラを殺す……」
「殺せ」
ケイスはフィンの再現像に向かって、眼をパチクリした。マエルクムが肩に手を置くのを感じながら、
「おい。忘れてることがあるぞ」
怒りがこみ上げてくるのと同時に、一種の愉快さも覚え、
「おまえさんのヘマだぜ。アーミテジを吹っ飛ばしたときに、錨鉤の制禦装置も吹っ飛ばした。〈ハニワ〉にきっちり掴まれてんだ。アーミテジがむこうのホサカを焼いちまったし、|本 体《メインフレーム》は船橋《ブリッジ》といっしょ。そうだろ……」
フィンがうなずく。
「だから、おれたちゃ、二進《にっち》も三進《さっち》もいかねえんだ。つまり、おまえさんにゃ手も足も出ねえのさ」
ケイスは笑いたかったが、笑いが喉にひっかかった。
「ケイスよ、あんた」
とマエルクムは小声で、
「〈ガーヴィ〉曳船《タグ》だや」
「そのとおり」
と言って、フィンが微笑んだ。
ケイスがふたたび|没 入《ジャック・イン》すると、構造物が話しかけてきた。
「おまえさん、外の広い世界で、楽しい思いをしてるかい……。さっきのは|冬 寂《ウィンターミュート》がお楽しみを求めてきたんだろうが――」
「ああ。そうとも。〈広《クアン》〉はオーケイかい」
「どんぴしゃよ。殺人ウイルスだ」
「オーケイ。こっちは、ちょいと邪魔がはいったけど、なんとかする」
「話してみたらどうだい」
「時間がない」
「そうかい、坊主、いいよ、どうせわしは死んでるんだ」
「いい加減にしろ」
とケイスは転《フリップ》じ、“フラットライン”の哄笑の、爪をもがれるような感触を断ち切った。
「あの女《ひと》は、個人の意識にかかわるものがほとんどない状態を夢想していた」
と|3《スリー》ジェインが喋っている。窪めた掌に大きなカメオを載せ、モリイの方に差し出して見せる。彫りこまれた横顔そっくりの|3《スリー》ジェインは、
「獣の至福ね。前脳の進化をよけいな足踏みだと見なしていたんだと思う」
とブローチを引き寄せて自分で眺め、傾けていろいろな角度で光を当てながら、
「ある高まった状態でだけ、個人――一族の成員――は、自意識の辛い側面を味わうわけ――」
モリイがうなずく。ケイスは、さっきの注射を思い出した。何を射たれたんだろう。痛みは同じ部所にあることはあるけれども、混沌としたさまざまな印象の、ごく小さな焦点のように伝わってくる。太腿にのたうつネオン虫、麻袋の感触、揚げオキアミの匂い――ケイスの心がひるむ。そして、そこに焦点を絞ることをやめれば、さまざまな印象が重なりあい、感覚的には白色騒音《ホワイト・ノイズ》のようなものになる。神経系にこれだけの効果のある薬なら、モリイの精神状態はどうなっているだろう。
モリイの視野は異様に鮮明で、いつもより鋭敏ですらある。各人なり各物体が微妙に異なる周波数に同調して、すべて振動しているかのようだ。モリイの両手は、例の黒いボールに捉われたまま、膝の上に置いている。プール椅子にかけさせられ、折れた脚はまっすぐ前に伸ばしてラクダ革のクッションに載せてある。|3《スリー》ジェインは向かいあって別のクッションに腰かけ、未漂白羊毛の大きすぎる寛外衣《ジャラバ》にくるまっていた。とても若々しい。
「あいつ、どこ行ったの。射ちにいったのかな」
とモリイが尋ねた。
|3《スリー》ジェインは、生成りの重い寛衣《ローブ》のひだの下で肩をすくめ、首を振って、眼から黒髪ひと筋を払い、
「いつあなたを入れるか、あの人が決めたのよ。なぜだか教えてくれないの。みんな謎じゃなくちゃいけないんだわ。あなた、わたしたちを傷つけるつもりだったの……」
モリイがためらうのが、ケイスにもわかった。
「あいつだけは殺すつもりだった。|忍《ニン》|者《ジャ》についても、殺そうとはしたでしょう。そのあと、あんたと話をするはずだった」
「なぜ……」
と|3《スリー》ジェインは尋ねながら、カメオを寛外衣《ジャラバ》の内ポケットにしまいこみ、
「なぜなの。なんについて……」
モリイは繊細に高い頬骨、大きい口、尖がった鷲鼻、とじっくり見つめるようだ。|3《スリー》ジェインの眼は黒く、奇妙に光沢がない。ややあってモリイは、
「あいつが憎いからよ。それがなぜかってのは、あたしの出来具合とあいつの人物とあたしの立場ってだけ」
「それに、あのショウね。わたしも見たわ」
と|3《スリー》ジェインが言う。
モリイがうなずいた。
「でも、ヒデオまでとは……」
「いちばんのつかい手たちだから。ああいう人に、あたしの相棒が殺されたからね、むかし」
|3《スリー》ジェインが、ひどく真剣になった。眉を上げる。
モリイはこう説明した。
「この眼で見ないわけにゃいかないから、さ」
「そのあと、お話をすることになっていたのね、あなたとわたしで……。こういうふうに……」
|3《スリー》ジェインの黒髪はまっすぐで、それを真ん中で分け、鈍い純銀の髪飾りでうしろにまとめている。
「今お話しましょうよ」
「これ取ってよ」
とモリイは捕われの両手を持ち上げる。
「あなた、父を殺《あや》めたのよ」
と言う|3《スリー》ジェインの口調は、まるで変化がなく、
「モニタで見ていたの。母の眼といわれていたモニタで」
「人形を殺した人よ。あんたに似てる人形を」
「露骨な意思表示を好む人だったから」
と|3《スリー》ジェインが言ったとき、その脇にリヴィエラが立った。麻薬のおかげで晴ればれとし、ホテルの屋上庭園で着ていたサッカー地の囚人服をまとい、
「近づきになれたかい。面白い娘だろ。最初に会ったときに、そう思ったんだ」
と|3《スリー》ジェインの横から進み出て、
「うまくいきっこないだろ」
「そうかしら、ピーター」
とモリイは何とか笑みを浮かべた。
「|冬 寂《ウィンターミュート》だけじゃなかろうよ、同じ誤ちを犯すのは。ぼくを見くびってね」
とリヴィエラはタイル張りのプールぎわを横切って白エナメルのテーブルへ行き、重い水晶のハイボール・グラスにミネラル・ウォーターを注ぎ入れて、
「あいつ、ぼくと話したぜ、モリイ。ぼくたちみんなに話したんだろうな。おまえ、ケイス、それに話してわかるアーミテジの一部。あいつ、本当にはぼくたちのこと、わかんないんだ。そりゃあ人物像《プロファイル》は握ってるけど、あれは単なる統計だもの。おまえは統計的動物かもしれないし、ケイスは正にそのもの。でもぼくには、本質からして定量化できない素質てのがある」
と水を飲む。
「で、そいつは、どういうことだい、ピーター」
とモリイが無表情な声で尋ねた。
リヴィエラはにこやかに、
「天邪鬼さ」
と女性ふたりのところに戻り、深く彫りこまれた厚手の水晶の筒に残った水に渦を起こしながら、その重みを楽しむように、
「どうでもいい行為を楽しむ心さ。それで、ぼくは決心したんだ、モリイ、実にどうでもいい決心をね」
モリイは顔を上げ、続きを待った。
「まったく、ピーターったら」
という|3《スリー》ジェインの言い方には、普通なら子供相手に示すような優しい苛立ちがこもっている。
「おまえにやる言葉はないよ、モリイ。あいつ、そのことを言ってたさ。|3《スリー》ジェインは、もちろんその暗号を知ってるけど、おまえには教えない。だから|冬 寂《ウィンターミュート》も駄目。ぼくのジェインは野心的な女性でね。それもジェインなりに天邪鬼な意味で」
とリヴィエラはふたたび笑みを浮かべ、
「一族の帝国については、期するところもおありになるし、ふたつの狂った|人《A》工知|能《I》――というのも異様な代物ではあるけど――そんなものは邪魔でしかない。というわけで。リヴィエラ様が到来して、手をお貸し申し上げる、と。そしてピーターは申し上げる。安心めされよ。父さまお気に入りのスウィングのレコードをかけ、ピーターをして相応《ふさわ》しきバンドと床いっぱいの踊り手を現わさしめ、亡きアシュプール王の通夜となさん」
とミネラル・ウォーターの残りを飲み干し、
「いやいや、あなたでは駄目だ、父さま、あなたではいけません。ピーターがところを得たからには」
そして、コカインとメペリジンの快感に顔を紅潮させたリヴィエラは、グラスをモリイの左眼埋めこみレンズに叩きつけた。視野が血と光に砕ける。
ケイスが電極《トロード》を外すと、マエルクムは船室天井に伏していた。腰に巻いたナイロン紐の両端を、それぞれ|緩衝ゴム索《ショック・コード》と灰色のゴム吸着盤とで、両側の壁面に固定してある。シャツは脱ぎ棄て、扱いにくそうな無重力《ゼロ・G》レンチで中央のパネルに取り組んでいるのだ。工具の反転スプリングを鳴らしながら、またひとつ六角ナットを外した。〈マーカス・ガーヴィ〉はG圧に呻き、ミシミシいう。
「寂《ミュート》がわしぃら、ドックに連れてく」
とザイオン人は、腰につけた網袋に六角ナットをほうりこみ、
「着地はマエルクムやるが、それまでに仕事道具いる」
「そんなところに道具をしまうのかい」
とケイスは首を反らせて、褐色の背中に筋肉の帯が盛り上がるのを見る。
「これだけは」
とマエルクムは、黒ポリでくるんだ長い包みを、パネル裏の隙間から引き抜く。パネルの位置を戻し、六角ナットを一個留めて、パネルを固定する。それが終わらないうちに、黒い包みは船尾に漂っていった。マエルクムは作業ベルトの、灰色吸着盤の真空弁を開いて体を自由にし、出してきた品物を取り戻す。
蹴って戻り、計器類――中央スクリーンに緑色のドッキング図が点滅――の上をすべり越え、ケイスの|耐重力網《G ・ ウ ェ ブ》の枠をぐっとつかむ。体を引き降ろし、包みのテープを、欠けて分厚い親指の爪で剥がす。
「中国の誰かが言うた、真実はこっから来る、つうて」
と言いながら包みから出してきたのは、古めかしく油まみれの、レミントン製自動散弾銃。銃身が前床《フォアストック》の先、数ミリのところで断ち切ってある。銃床は完全に取り外し、代わりに木製の拳銃把《ピストルグリップ》がつけてあって、それに無光沢の黒テープが巻いてある。マエルクムは汗と印度煙草《ガンジャ》の臭いを漂わせている。
「それ一挺しかないのかい」
「だや」
と言い、赤い布で黒い銃身の油を拭う。黒いポリ包みはもう一方の手で拳銃把《ピストルグリップ》に丸めて巻き、
「わしぃらで、ラスタファリアン海軍。ほんとだや」
ケイスは額に電極《トロード》を引きおろした。わざわざテキサス插入管《カテーテル》をもう一度取りつけたりはしない。少なくともヴィラ|迷 光《ストレイライト》に行けば、本物の小便ができる。たとえそれが最後になったとしても。
|没 入《ジャック・イン》した。
「おい、ピーター君は完璧にイカレかけてるんだろ」
と構造物が言う。
もうテスィエ=アシュプール氷《アイス》の一部になっているように思えた。エメラルド色のアーチの幅が広がり、しっかりと、実体のある固形物になってきている。あたりを取り囲む中国プログラムの各面でも、緑色が圧倒的だ。
「近づいてるかい、ディクシー」
「すごく近いぜ。じきにおまえさんが必要になる」
「な、ディクス。|冬 寂《ウィンターミュート》が言うには、〈広《クアン》〉はガッチリとホサカに根を張ったんだとさ。これからおれが、あんたをデッキごと回路から|離 脱《ジャック・アウト》させて、|迷 光《ストレイライト》に運ばなくちゃならない。向こうの保護プログラムにつなげ、てんだ。つまり、〈広《クアン》〉ウイルスは向こうにも浸透してるんだとさ。あとは内側から、|迷 光《ストレイライト》のネットを通して|仕掛け《ラ ン》るわけだ」
「ご立派。ケツからやれるのに、まともに攻めるてのは昔から好きじゃないんだ」
と“フラットライン”。
ケイスは転《フリップ》じた。
先はモリイの暗黒。沸きかえる生理共感のあまり、苦痛が、古鉄の味、メロンの香り、頬を撫でる蛾の羽根になる。モリイは意識がなく、その夢からはケイスも締め出されている。視覚|素子《チップ》が光を放つと、文字に暈《かさ》がかかり、かすかなピンクのオーラに包まれる。
07:29:40
「わたしは少しも楽しくありませんよ、ピーター」
と|3《スリー》ジェインの声が遠くから、うつろに届くようだ。モリイには聞こえているのだ、と思い、それから考えなおす。|擬 験《シムステイム》ユニットが無事なまま、外されていない、ということだ。モリイの肋に当たっているのが感じられる。耳があの娘の声の震動を捉えている。リヴィエラが、短く不鮮明なことを言った。
「でも、わたしは違います」
と|3《スリー》ジェインは答え、
「それに面白くないわ。ヒデオが集中看護室から治療具はもってくるけれど、これだと外科医がいないと」
沈黙が生じる。はっきりと、プールの横壁に水が当たる音が聞こえた。
「この女に何を話してたんだい、ぼくが戻ってきたとき……」
とリヴィエラがごく近くで言う。
「母について。話してほしいと言うから。この女《ひと》、ショック状態だったと思うわ。ヒデオの注射のせいだけじゃなくってね。なぜ、あんなことしたの」
「割れるかどうか試したくてね」
「片方は割れました。気がついたら――気がつくとしたら――眼の色が見られるわね」
「こいつは、きわめて危険だよ。危険すぎる。もしぼくがこいつの気を逸らせなかったら――アシュプールを出して気を散らさせ、ヒデオをぼく流に見せて爆弾を引きつけなかったら――どうなってると思う。あんたが捕まってるぜ」
「いいえ」
と|3《スリー》ジェインは言い、
「ヒデオがいたもの。あなたはヒデオのことがよくわからないようね。この女《ひと》は、よく知ってるけれど」
「何か飲む……」
「ワインを。白でね」
ケイスは|離 脱《ジャック・アウト》した。
マエルクムが操縦装置にかがみこみ、命令《コマンド》を打ちこんで、ドッキング手順を指示していた。装置中央スクリーンに映し出されている固定した赤い正方形が|迷 光《ストレイライト》ドックだ。〈ガーヴィ〉はそれより大きい緑の正方形で、徐々に縮みながら、マエルクムの命令《コマンド》に従って右に左に振れる。左手の小ぶりのスクリーンでは、〈ガーヴィ〉と〈ハニワ〉の透視画像が紡錘体《スピンドル》の曲面に接近している。
「あと一時間だぜ」
と言いながら、ケイスは、ホサカからリボン状の光ファイバーを引き抜く。デッキの予備《バックアップ》電池で九十分はもつが、“フラットライン”構造物の消費量が加わる。手早く、機械的に作業を進め、構造物をオノ=センダイの底部に|微 孔《マイクロポア》テープで留める。マエルクムの作業ベルトが漂いかかった。それをひったくって、|緩衝ゴム索《ショック・コード》二本、それぞれの灰色で四角形の吸着盤をつけたまま、クリップを外し、クリップ同士を噛み合わせる。それぞれの吸着盤をデッキの両脇に押しつけ、親指レヴァを使って真空吸着をつくり出す。デッキと構造物と即製肩紐を眼の前に浮かばせたまま、革ジャケットを着こみ、ポケットの中味をあらためた。アーミテジから与えられたパスポート、同名義の銀行|素子《チップ》、自由界《フリーサイド》にはいったときに発行してもらった与信素子《クレディット・チップ》、ブルースから買ったベータフェネチルアミン膚板《ダーム》ふたつ、|新 円《ニュー・イェン》ひと束、半分残っている叶和圓《イエヘユアン》ひとつ、それに|手《シュ》|裏《リ》|剣《ケン》。自由界《フリーサイド》の素子《チップ》を肩ごしに投げ棄てると、ソ連製清浄器に当たってカチリと音がした。鋼の星形も同じようにしようとしたとき、跳ねかえってきた与信素子《クレディット・チップ》が頭のうしろに当たり、回転しながら跳ねて天井にぶつかり、転げてマエルクムの左肩をかすめる。ザイオン人は操縦の手を止めて振り返り、睨みつける。ケイスは|手《シュ》|裏《リ》|剣《ケン》に眼をやり、結局ジャケットのポケットに押しこんだ。裏地が破れるのが聞こえる。
マエルクムが言う。
「寂《ミュート》の言ってるの、聞こえねだろがよ、寂《ミュート》言うとる、〈ガーヴィ〉のために保安いじっとるて。〈ガーヴィ〉のドッキングは別の船としてやるて。その船は悪徳都市《バビロン》から来るはずだて。寂《ミュート》、代わりに暗号《コード》流してくれとる」
「スーツは着るかい」
「重すぎる」
とマエルクムは肩をすくめ、
「言うまで網《ウェブ》にいてくれや」
と言って装置に最終手順を打ちこむと、航法盤の両側の、使い古したピンクの握りを掴む。ケイスが見ていると、緑の正方形が最後に数ミリ縮んで赤い正方形に重なりあった。小ぶりなスクリーンでは、〈ハニワ〉が船首を下げて紡錘体《スピンドル》の彎曲を避け、そして嵌まった。〈ガーヴィ〉はまだその下に、捕えられた小虫のように吊られている。曳船《タグ》全体が音をたてて、身震いする。型通りの腕《アーム》が二本、飛び出てきて、ほっそりした蜂の形を掴む。|迷 光《ストレイライト》から、とりあえず黄色の四角形が、伸び出してきて曲がり、探るように〈ハニワ〉を通り過ぎて〈ガーヴィ〉に近づく。
船首で、こすれるような音がした。震える填隙剤の群葉のむこう側だ。
「あんた」
とマエルクムが声をかけ、
「重力、起こるぞ」
小物が十個あまり、同時に船室の床を打った。磁石で引きつけられたような具合だ。内臓が引きつけられて位置関係が変わり、ケイスは息を呑む。デッキと構造物が膝の上に落ちてきて、ひどく痛かった。
すでに紡錘体《スピンドル》に結びつけられ、いっしょに回転しているのだ。
マエルクムは両腕を広げ、筋肉を動かして肩の硬ばりを取ると、紫のドレッド袋を外して縮毛束《ドレッドロック》を振りほぐし、
「時間が大切なら、あんた、早く行こう」
19
ヴィラ|迷 光《ストレイライト》は寄生的構造なのだ、と自分に言い聞かせながら、ケイスは填隙剤の触手をくぐり抜け、〈マーカス・ガーヴィ〉の前部ハッチから出た。|迷 光《ストレイライト》は自由界《フリーサイド》から空気と水を吸い上げるばかりで、独立した環境《エコ》システムをもたない。
ドックが伸ばしてよこした舷道は、ケイスが〈ハニワ〉に行くときに転げ抜けた舷道よりずっと凝った型で、紡錘体《スピンドル》の自転重力の中で使うよう、設計してある。波ひだつきのトンネルは、総合的に液圧操作される多関節に分かれていて、各関節に一本、硬いすべりどめプラスティックの環がめぐらされている。この環が梯子の横木がわりにもなるのだ。舷道は〈ハニワ〉をまわりこむように、くねっていた。〈ガーヴィ〉のロックにつながる部分は水平だが、それから鋭く上向き左寄りに曲がって、ヨット船体の彎曲を避けた縦の登りになる。マエルクムは、もう環を伝って登りかけていた。左手で体を引き上げ、右手にはレミントンをもっている。身につけているのは、染みがついて、ゆったりした作業ズボン、緑の袖なしナイロン・ジャケット、それに靴底が真紅の、くたびれたキャンバス地スニーカーだ。舷道はマエルクムが次の環に移るたびに、わずかに動いた。
間に合わせ肩紐のクリップが、オノ=センダイと“フラットライン”構造物との重みでケイスの肩に喰いこむ。いま感じるのは恐怖、それも捉えどころのない怯えだけだ。ケイスはそれを押しやり、おのれに鞭打って、紡錘体《スピンドル》およびヴィラ|迷 光《ストレイライト》についてのアーミテジの講義を再現しようとした。ようやく登りにとりかかる。自由界《フリーサイド》の環境《エコ》システムは、閉鎖系でなく有限系だ。ザイオンは閉鎖系だから、外から資源を持ちこまず、何年にもわたって循環しつづけることもできる。自由界《フリーサイド》は内部の大気と水こそ自給できるが、食糧は常に輸送してこなくてはならないし、土壌用の肥料も定期的に添加しなくてはならない。ヴィラ|迷 光《ストレイライト》はいっさい、何も生産しない。
「あんた」
とマエルクムは小声で口を開き、
「わしんとこまで、上がってきて見」
ケイスは丸い梯子で横に移動してから、残りの数段を登った。舷道の先が、わずかに凸面状のなめらかなハッチになっている。直径は二メートル。チューブの液圧装置は、ハッチの枠に埋めこまれた柔軟な覆いの中に消えている。
「で、どうやったら――」
言いかけてケイスは口を閉じた。ハッチがはね上がり、わずかの気圧差のために、土埃が眼にはいった。
マエルクムは這い登って境い目を乗り越える。レミントンの安全装置《セイフティ》を外す音がカチリと聞こえ、
「急いでるの、あんただろが……」
と囁いて、マエルクムはその場で低い姿勢をとる。すぐケイスもそれに並んだ。
ハッチは、円形で丸天井のついた部屋の中央に位置し、部屋の床には青いすべりどめプラスティックのタイルが敷いてある。マエルクムに小突かれ、指さしてもらって気づいたが、彎曲した壁にモニタが埋めこまれている。スクリーンでは、テスィエ=アシュプールらしい顔だちの、背の高い青年が、黒っぽいスーツ上衣の袖から何やら払い落としている。青年も、そっくりな部屋の、そっくりなハッチの脇に立っていた。
「申しわけございません」
という声が、ハッチ上の格子から聞こえる。ケイスは上を見た。
「もっとあとで、軸側ドックにいらっしゃると思っておりました。ちょっとお待ちください」
ふたりの左側のドアがすべるように開くと、マエルクムが散弾銃を構えたまま、すばやく振り向いた。オレンジの|つなぎ《カヴァロール》を着た小柄なユーラシア人が出てきて、ふたりに眼を瞠《みは》る。口を開けたが、声が出ない。口を閉じる。ケイスはモニタを見やった。空白だ。
「誰……」
と男はようやく言う。
「ラスタファリアン海軍だ」
とケイスは、電脳空間《サイバースペース》デッキを腰にぶつけながら立ち上がり、
「われわれはただ、そちらの保護システムに|没 入《ジャック・イン》したいだけだ」
男は唾を呑みこみ、
「これ、テストかい。忠誠度テストだ。忠誠度テストに違いない」
と両掌をオレンジ色の服の太腿のところで拭う。
「違うだや。これ、本物」
マエルクムはレミントンをユーラシア人の顔に向けたまま立ち上がり、
「動くだや」
ふたりが男のあとからドアを抜けると、そこの廊下の、光沢コンクリート壁とカーペットが重なりあったデコボコの床は、ケイスにとってきわめて見慣れたものだった。
「キレイな敷物だや」
とマエルクムは男の背中をつつき、
「教会みてな匂い」
三人は別のモニタのところにやってきた。今度のは古臭いソニーで、操作卓《コンソール》の上に載せてあり、キーボードと複雑に並んだジャック盤《パネル》とがついている。三人が足を停めるとスクリーンが点り、フィンが〈メトロ・ホログラフィクス〉の店頭らしきところから、硬ばったニヤニヤ笑いを向けて、
「オーケイ。マエルクムはそいつを連れて、廊下の先の、ロッカー・ドアの開いているところにそいつを突っこむ。錠はこちらで掛ける。ケイス、おまえさんは一番上の盤《パネル》の左から五番目のソケットだ。操作卓《コンソール》の下の戸棚に調整《アダプタ》プラグ類がある。オノ=センダイ二十|号《ポイント》から|日《ヒ》|立《タチ》四十へ」
マエルクムが捕虜を促していくあいだに、ケイスは片膝をついて各種プラグを漁り、ようやく求める号数を見つけた。デッキを調整《アダプタ》プラグに差しこんで、手を止める。
「おまえ、なんだってそんな顔になるんだい」
とスクリーンの顔に尋ねた。フィンが走査線一本ずつ消えて、代わりに、剥がれかけの日本のポスターだらけの壁を背にしたロニー・ゾーンの像になっていく。
「お気に召すままだぜい」
とゾーンは南部訛りで言い、
「ロニーもよろしく――」
「駄目だ。フィンにしろ」
とケイスが言う。ゾーン像が消えかけると、ケイスは|日《ヒ》|立《タチ》の調整《アダプタ》プラグをソケットに突っこみ、額に電極《トロード》を据えた。
「何やってた」
と“フラットライン”が尋ねてから笑う。
「それをやるなって言ったろ……」
とケイスは言った。
「ジョークだよ、坊主」
と構造物は答え、
「わしには時間経過ゼロだ。どうなっているか、見てみよう――」
〈広《クアン》〉プログラムは緑色、完璧にT=A氷《アイス》の色だ。ケイスが見ているあいだにも、ますます不透明になっていく。それでも、眼を上げれば黒い鏡面のような鮫めいたものがはっきり見える。割れ目や幻覚も今はなく、〈マーカス・ガーヴィ〉並みに現実味を帯びている。昔のジェット機の翼をなくしたようで、なめらかな外皮は黒クローム張りだ。
「順調そのもの」
と“フラットライン”が言う。
「まったく」
と言って、ケイスは転《フリップ》じた。
「――ことになって、ごめんなさいね」
と言いながら|3《スリー》ジェインが、モリイの頭に包帯を巻いており、
「うちの機器によると、脳震盪なし、その眼の永久的損傷もなしよ。あなた、ここに来るまで、あの人をよく知らなかったでしょ」
「全然知らなかった」
とモリイが冷然と言った。モリイは、高いベッドか当て物を敷いたテーブルの上で、仰向けになっている。ケイスには傷めた脚の感触がない。最初の注射の生理共感効果は消えてしまっているようだ。黒い球もなくなっているが、両手とも柔らかい紐で動けなくさせられており、紐は見えない。
「あの人、あなたを殺したがってるわ」
「だろうね」
とモリイは、ひどく明るい光源の奥の粗《あら》仕上げの天井を見上げた。
「あの人に、そんなこと、させたくないんだけれど」
と|3《スリー》ジェインが言う。モリイは痛む首をめぐらせ、黒い瞳を見上げて、
「あたしを玩具《おもちゃ》にするなよ」
と言う。
「でも、そうしたくなるかもしれないし」
と|3《スリー》ジェインは屈みこんでモリイの額に接吻し、暖かい手で髪をかき上げてくれる。|3《スリー》ジェインの白っぽい寛外衣《ジャラバ》に血のしみがついている。
「あいつ、どこ行ったのさ」
とモリイが尋ねる。
「また射ちにいったんじゃないかしら」
と言いながら|3《スリー》ジェインは背筋を伸ばし、
「あの人、あなたが来るのを待ちこがれていたわ。あなたを看護して、健康状態に戻すのも面白いかもしれないわね、モリイ」
と微笑みながら、ぼんやりと、血のついた手を寛衣《ローブ》の前身頃で拭い、
「あなたの脚、接ぎなおさなくてはいけないけど、それは手配できるし」
「ピーターはどうするのさ」
「ピーターね」
と|3《スリー》ジェインはちょっと首を振る。黒髪がひと筋ほつれ、額にかかるまま、
「ピーターにもちょっと飽きてきたわ。麻薬って、だいたい退屈なのよね」
とくすくす笑い、
「少なくとも他人の麻薬は、ね。父がひたすら濫用してたのは、ごらんになったでしょ」
モリイは身を硬ばらせた。
「そんなに警戒なさらないで」
|3《スリー》ジェインの指が、革ジーンズのウエストのすぐ上の膚を撫で、
「父の自殺は、わたしが冷凍の安全限度を操作した結果なんですもの。わたしと父って、実際に顔を会わせたことがないのよ。わたしが動員《デキャント》されたのは、父が前回眠りに就いたあとだったの。でも、父については、とぉっても良く知ってた。中核はなんでも知ってるんですもの。父が母を殺すところも見たわ。あなたの具合が良くなってきたら、お見せするわね。ベッドで母を絞め殺したのよ」
「なぜ殺したりしたの」
とモリイは包帯されていない方の眼で|3《スリー》ジェインを疑視する。
「母が一族のため、と思った方向が、父には受け容れがたかったのね。母は|人《A》工知|能《I》の構築を依頼したの。たいした夢想家だった。AIとわたしたちとの共生関係を想い描いて、企業の決定をやらせようとしたのね。意識の決定と言うべきかしら。不滅のテスィエ=アシュプール。蜂の巣として、各個人がより大きな存在の一部となる。魅力的よね。母のテープをかけてあげるわね。千時間分近くあるの。ただわたし、本当には母が理解できない。だから母が死ぬと、方向が失われたの。あらゆる方向が見失われることになって、わたしたち、内にこもるようになった。今では、めったに出てこないわ。その点、わたしは例外ね」
「爺さんを殺すつもりだったって言ったね。冷凍睡眠プログラムをいじったの……」
|3《スリー》ジェインはうなずいて、
「手伝ってもらったの。幽霊に。わたしがとっても小さかったころは、そう思ってた。企業中核には幽霊がいるんだ、って。声がしたの。そのひとつが、あなたの言う|冬 寂《ウィンターミュート》。|冬 寂《ウィンターミュート》というのは、ベルンのAIのチューリング暗号《コード》なんだけれど、あなたがたを操っている存在は、一種の下位《サブ》プログラムね」
「そのひとつ……。ほかにもあるの……」
「もうひとつ、ね。ただ、そちらは、もう何年も話しかけてきてくれないの。あきらめたんだと思う。このふたつは、どちらも、母が本来のソフトウェアに組みこませようとした、何かの能力が実現したことを示しているんだろう、とは思うんだけど、必要と思えば、ひどく秘密主義になれる女《ひと》だったから。さ、お飲みなさい」
と柔軟なプラスティック・チューブをモリイの唇にあてがい、
「水よ。少しだけね」
「ジェインちゃあん」
と陽気に、リヴィエラがどこか見えないところから声をかけてきて、
「楽しくやってるかい……」
「邪魔しないでよ、ピーター」
「お医者さんごっこかぁ」
突然、モリイは自分の顔を見つめることになった。鼻先十センチのところに像が浮いているのだ。包帯はない。左の埋めこみは砕かれ、細長い銀色プラスティック片が眼窩深く突きたてられて、逆さの血だまりになっている。
「ヒデオ」
と|3《スリー》ジェインはモリイの腹を撫でながら、
「ピーターが行かないようなら、痛く[#「痛く」に傍点]しておやり。泳いでらっしゃい、ピーター」
投影が消えた。
07:58:40、と包帯された眼の闇の中。
「あんたなら暗号《コード》を知ってるって、そうピーターが言ってた。|冬 寂《ウィンターミュート》はその暗号《コード》を欲しがってる」
ケイスも急に意識したが、ナイロン紐につけたチャブの鍵が、モリイの左乳房の内寄りのカーブに載っている。
「ええ」
と言いながら|3《スリー》ジェインは手を引っこめ、
「知ってるわ。子供のころ教わったの。夢の中で教わったみたい――それとも母の日記の千時間のどこかかしら。でも、ピーターにも一理あるわね、暗号《コード》を明らかにするな、って。わたしの読みが正しいとすれば、チューリング相手に面倒になりそうだし、それに幽霊って、とにかく気まぐれだし」
ケイスは|離 脱《ジャック・アウト》した。
「おかしなお客、だろ」
とフィンが、古いソニーからケイスに笑いかける。
ケイスは肩をすくめた。マエルクムがレミントンを小脇に、廊下を戻ってくる。ザイオン人は微笑をうかべ、ケイスには聞こえないリズムに合わせて首を振っている。黄色の細い導線が両耳から、袖なしジャケットの横ポケットに伸びていた。
「ダブだや」
とマエルクムが言う。
「おまえ、狂ってるぜ」
「いい聞き心地。正しきダブだや」
「おい、ふたりとも」
とフィンが声をかけてきて、
「準備はいいか。おまえさんたち用のアシが来るぜ。さっきドアマンを騙すのに使った、|8《ユイ》ジャンの画みたいに疑った手練手管は、そうそう使えないけど、|3《スリー》ジェインのとこまで乗っけていくぐらいならできるんだ」
ケイスが調整《アダプタ》プラグをソケットから抜きかけたとき、無人の作業カートが曲がってくるのが眼にはいった。廊下の突き当たりを示す、品のないコンクリート製アーチの下だ。例のアフリカ人たちが乗っていたカートかもしれないが、たとえそうだとしても、今、ふたりの姿はない。詰め物をした低いシートのすぐうしろで、可愛い操作手《マニピュレータ》でシートにつかまった小さなブラウンが、赤い|発《L》光ダ|イ《E》オー|ド《D》を点滅させていた。
「予定のバスだぜ」
とケイスがマエルクムに言う。
20
ケイスは、また怒りを見失っている。それが寂しい。
小さなカートは満員だった。レミントンを両膝に載せたマエルクムがおり、デッキと構造物を胸に抱いたケイスがいる。カートは、設計上想定されていた以上の速度で走っている。不安定なので、角を曲がるときに、マエルクムが進行方向に身を乗り出すようにする。左折のときはまったく問題ない。ケイスの席が右側だからだ。ところが右折となると、ザイオン人はケイスと機材の上にのしかかることになり、ケイスはシートに押しつぶされてしまう。
どのあたりを走っているのか、さっぱりわからない。すべて見慣れているようでいて、特定の通路となると、前に見ているのかどうか定かでない。曲がった通路に木製の陳列棚が並び、蒐集品《コレクション》を展示しているが、これは見たことがないと断言できる――大型鳥類の頭蓋骨、コイン類、銀箔押しの仮面群。作業カートの六つのタイヤは、重なりあったカーペットの上で音をたてない。電気モータの唸りと時おりかすかに炸裂するザイオン・ダブしか聞こえない。そのダブも、急な右折でマエルクムがケイスを乗り越えるように身を投げるときだけ、マエルクムの耳のフォーム球から漏れるのだ。デッキと構造物は、ジャケットのポケットの中の|手《シュ》|裏《リ》|剣《ケン》を、常にケイスの腰に押しつけている。
「時計、もってるかい」
とマエルクムに尋ねた。
ザイオン人は|髪の房《ドレッドロック》を振り、
「時間は時間」
「ちぇっ」
とケイスは眼を閉じた。
ブラウンが、カーペットの丘の上を小走りに進んで、当て物つきの鉤爪で、黒っぽく傷んだ、木製の四角い特大ドアを叩いて見せる。ふたりの背後では、カートがジイジイと音をたて、鎧板《ルーヴァ》からは青い火花が飛んでいる。火花がカートの下のカーペットに落ちると、羊毛《ウール》の焦げる臭いがする。
「こっち行くだか……」
マエルクムはドアを見やり、散弾銃の安全装置《セイフティ》を外す。
「おいおい」
とケイスは、マエルクムよりは自分自身に対して声を発し、
「おれが知ってるわけないだろ」
ブラウンは球状の胴部を回転させ、|発《L》光ダ|イ《E》オー|ド《D》をまたたかせる。
「ドア開けてほしいんだや」
とマエルクムがうなずく。
ケイスが進み出て、凝った真鍮の把手を回してみた。ドアの、眼の高さに真鍮板が掲げられているが、古すぎて、そこに彫りこまれていた文字は、蜘蛛の巣様の読めない暗号と化している。とうに死に果てた職務なり職員なりの名前なのだろうが、忘却の彼方へと磨きこまれてしまった。テスィエ=アシュプールは、|迷 光《ストレイライト》の部品をひとつひとつ選んだのだろうか、それとも〈メトロ・ホログラフィクス〉の巨大なヨーロッパ版からひとまとめに買いこんだのだろうか。疑問が頭をかすめる。ケイスが肩で押すように開けると、ドアの蝶番が悲しげな音をたて、マエルクムがレミントンを腰から突き出すようにして先に立つ。
「本だや」
とマエルクムが言う。
書斎だ。白いスチール棚にラベルがある。
「ここなら知ってる」
とケイスは作業カートの方を振り向いた。カーペットから煙がひと筋、立ち昇っている。
「じゃ、行こうぜ、カート。カート……」
と言うが、カートは動かない。ブラウンがケイスのジーンズの裾を引っぱり、踵をつねる。よほど蹴飛ばしてやりたいと思いながら、思いとどまり、
「なんだよ」
ブラウンは音をたてながらドアを回りこむ。ケイスはあとについていった。
書斎のモニタもまたソニーで、最初のやつと同じぐらい古い。ブラウンはその下で停まり、ジグのようなものを踊ってみせた。
「|冬 寂《ウィンターミュート》か……」
見慣れた顔がスクリーンに現われた。フィンが微笑んで、
「覗いてみる時間だぜ、ケイス」
と言う。煙草の紫烟に眼を細め、
「さあ、|没 入《ジャック・イン》しろよ」
ブラウンがケイスの踵にとびついて脚を登りはじめた。操作手《マニピュレータ》が薄手の黒い生地を通して肉をつまむ。
「うるせえ」
ケイスが叩きのけると、ブラウンは壁にぶつかった。肢を二本、ピストンのように、繰り返して無益に動かしはじめ、宙を打つ。
「あん畜生、どうしたっていうんだい」
「燃えつきたんだ」
とフィンが答え、
「ほっといてくれ。大丈夫。|没 入《ジャック・イン》してくれ」
スクリーンの下にはソケットが四ヵ所あったが、|日《ヒ》|立《タチ》の調整《アダプタ》プラグに合うのは、ひとつきり。
ケイスは|没 入《ジャック・イン》した。
無。灰色の虚空。
マトリックスなし、格子《グリッド》なし。電脳空間《サイバースペース》なし。
デッキが消えている。ケイスの指も――。
そして意識の、遠い周縁では、そそくさと、つかの間の印象として、何かがこちらに押し寄せてくる。えんえんたる黒い鏡面の彼方から。
ケイスは悲鳴をあげようとした。
彎曲した浜辺の彼方には、街があるように思えるが、とても遠い。
湿った砂地の上に尻を落としてしゃがみこみ、両腕で固く膝を抱き寄せて、身を震わせた。
そのままの形《なり》で、身震いが止まったあとも、ずいぶん長い間、そこにいたようだ。あの街が本当の街だとしても、背が低く、灰色だ。ときどき、それを押し隠すように、寄せる波の上を靄がうねり広がる。あるとき、きっと、あれは街などではなく、一軒の建物のようなものであり、もしかしたら廃墟かもしれない、と思い定めた。距離については見定めようがない。砂は、錆びてまだ真っ黒になりきっていない銀の色あい。浜辺は砂で成り立ち、とても長い浜辺で、砂は湿り、ジーンズの居敷は砂に濡れ――ケイスはわが身を抱いて身をゆすり、詞も節もない歌を唱う。
空は別の銀色だ。千葉《チバ》。千葉《チバ》の空のようだ。東京湾《トウキョウ・ベイ》だろうか。首をめぐらして海の方に眼を向ける。富士電機《フジ・エレクトリック》のホログラム看板でも、ヘリコプタの轟音でも、なんでもいい。
背後で鴎が鳴いた。身がおののく。
風が出てきた。砂が頬を刺す。顔を膝に伏せて泣く。自分のむせび泣く声が、捜し求める鴎の鳴き声と同じように、遠く、異質だ。熱い尿がジーンズを濡らし、砂地にしたたるが、たちまち水辺からの風に冷めてしまう。涙が尽きたときには、喉が痛かった。
「|冬 寂《ウィンターミュート》」
と膝に向かってつぶやき、
「|冬 寂《ウィンターミュート》よ――」
そろそろ暗くなりかかり、身震いが出てみると、寒さのせいもあって、立ち上がらないわけにはいかない。
膝と肘が痛む。鼻水が出たのでジャケットの袖で拭い、空《から》のポケットを次々に探る。
「ちぇっ」
と言って肩をすぼめ、指先を脇にはさみこんで暖める。
「ちぇっ」
歯がカチカチと音をたてはじめる。
潮が砂浜に、東京《トウキョウ》の庭師が造る紋様より精妙な紋を残していた。今は見えない街の方向に十歩あまり足を運んでから、振り向いて、濃くなった宵闇を透してかえりみた。足跡は出現した地点まで続いている。そのほかには錆色の砂をかき乱す痕跡がない。
少なくとも一キロは進んだろうと思うころ、灯りに気がついた。ラッツと話をするうち、ラッツが、波打ちぎわから離れた右手に、赤橙の輝きを教えてくれたのだ。ラッツなどそこにいないことはわかっている。バーテンダーなど、自分の想像力が作りだしたものであり、自分を閉じこめているものの一部でないことはわかっているが、どうでもいい。なんらかの心の安らぎを求めようとして、この男を呼び起こしたのだが、ラッツというのは、ケイスなりケイスの窮状について独自の見解をもつ男だから、
「まったく、|凝り性《アーティースト》さんよ、あんたにはびっくりするよ。わが身の破滅のために、そこまで手間をかけるとはねえ。二重手間、三重手間だぜ。“|夜の街《ナイト・シティ》”で、もうわがものにしてたじゃないか。眼と鼻の先だった。覚醒剤《スピード》で感覚を損ね、飲んじゃなめらかさを保ち、リンダは甘き悲しみ、街に首斬り斧を託して、さ。こんなところまでやってきて、そいつをやらかすのかい、なんてグロテスクな小道具だ――宙に浮いた遊園地、神秘に封じた城、古きヨーロッパにも稀な腐れ、小箱に封じこめた死人、中国から持ち出した魔術――」
とラッツは笑いながら、ケイスに並んで足を進め、ピンクの擬手《マニピュレータ》を陽気に振る。暗いにもかかわらず、バーテンダーの黒ずんだ歯を走る奇怪な鋼はよく見えて、
「でも、それが|凝り性《アーティースト》のやり方ってものなんだろうよ。あんた、この世界を造ってもらいたかったんだ。この浜辺、この場所を、死にどころにするために」
ケイスは足を停めて、ふらつき、波の音と吹きつける砂の痛みに向かって、
「ああ。くそっ、たぶんな――」
波音めざして歩く。
「|凝り性《アーティースト》よ」
とラッツの呼ぶのが聞こえ、
「灯りだ。灯りが見えたろ。ほら。こっち――」
ケイスはまた足を停め、よろめき、氷のような海水から数ミリのところに両膝をついて、
「ラッツ……。灯り……。ラッツ――」
しかし闇は今や圧倒的となり、波の音しかない。ケイスはようやく立ち上がり、足跡をたどろうとした。
時がたつ。歩きつづける。
やがて、そこに輝きが現われ、ひと足ごとにはっきりする。四角形。ドア。
「あの中には火が」
と口に出すが、言葉が風に吹き飛ばされる。
掩蔽壕だった。石かコンクリートで、黒い砂の吹きだまりに埋もれている。入口は低く、狭く、扉もない。奥深く、少なくとも一メートルはある壁の中だ。
「おい」
とケイスは小声になり、
「おい――」
指先が冷たい壁に触れる。中には火がある。入口脇に影が揺れている。
姿勢を低くしてくぐり、中にはいる。三歩かかった。
娘がひとり、錆びた鋼材のかたわらにしゃがみこんでいた。そこが暖炉のようになっていて、流木が燃え、煙は風で、へこみだらけの煙突に吸いこまれていく。火だけが光源で、娘の驚いて丸くした眼を見ると、ヘッドバンドに見憶えがある。スカーフを丸めたもので、回路を拡大した模様がプリントになっている。
ケイスはその夜、娘の抱擁を拒んだ。さし出された食物も、毛布類や裂けたフォームの中の、娘のかたわらという場所も拒んだ。結局、入口脇にしゃがみこみ、娘の寝顔を見つめ、建物の壁をこする風に耳傾ける。一時間かそこらごとに立ち上がり、即席ストーブに歩み寄って、横の薪の山から新たな流木をくべてやる。こんなものは現実ではないが、寒さは寒さだ。
この女も現実ではない。が、火明かりの中で横向きに体を丸めている。口もとを見ると、唇をわずかに開いていた。ふたりで湾《ベイ》を渡ったときの、あの娘のままだ。こんなのは残酷すぎる。
「根性悪の、糞ったれめ」
と風に囁きかけ、
「何ひとつ、抜かりはないってわけか。はんぱじゃすまさない、ってかい。こんなもの、なんだかわかってんだぜ――」
声に絶望の色をにじませないように気をつけながら、
「わかってるんだ。おまえの正体もな。おまえはもうひとつの奴だ。|3《スリー》ジェインがモリイに言ってた奴。“燃ゆる柴”。あれは|冬 寂《ウィンターミュート》じゃなく、おまえだったんだ。|冬 寂《ウィンターミュート》はブラウンでおれに警告しようとした。それでも、おまえはおれを水平線《フラットライン》させて、ここに、どこでもないところに、連れこんだ。幽霊といっしょかい。憶えてるまんまの、この女と――」
娘は寝返りをうち、何かに呼びかけ、肩から頬へ、毛布の切れ端を引き寄せる。
「おまえなんか、なんでもない」
と眠っている娘に言い聞かせ。
「おまえは死んでるし、もともと糞の役にも立たなかった。聞いたかい、相棒。おまえが何やってるか、わかってる。おれは水平線状《フラットライン》態なんだ。ここまでで、二十秒ってところかい。おれはさっきの書斎でぶっ倒れていて、脳は死んでる。しかも、そのうち、本当に[#「本当に」に傍点]死んじまう。おまえに道理がわかるんなら、な。おまえとしちゃ、|冬 寂《ウィンターミュート》におめおめとやり通させたくなかった。そんだけのことで、おれはここに宙ぶらりん。ディクシーが〈広《クアン》〉を走《ラン》らせるだろうけど、死んでる身の上だから、あいつの動きはお見通しだろうとも。このリンダがらみのことは、そう、ずうっとおまえの仕業だったんだ。|冬 寂《ウィンターミュート》も、おれを千葉《チバ》の構造物に引きずりこんだとき、リンダを使おうとして、果たせなかった。危なっかしい、ってな。自由界《フリーサイド》で星を動かしてみせたの、おまえだろう。アシュプールの部屋で、死んだ人形にリンダの顔をかぶせたのも、おまえだ。モリイはあんなの見ちゃいない。おまえが|擬 験《シムステイム》信号を編集しただけさ。それでおれをいたぶれると思ったからな。おれが気に病むと思ったからな。ま、くたばりやがれ、名なし野郎め。負けたよ。おまえの勝ち。けどな、こんなの、おれにゃなんでもないんだぜ。おれが気にすると思うか。なら、なんでこんなやり方、しやがるんだい」
また体が震え、声がかん高くなる。
「あんた」
と女が、毛布の屑から体をひねって起こし、
「こっち来て、寝な。あたし起きてるよ、なんなら。寝なくちゃ駄目よ、ね」
かすかな訛りが、眠気のために大袈裟になっていて、
「寝なよ、ね……」
目醒めたとき、女はいなかった。火も消えていたが、掩蔽壕の中は暖かい。陽光が入口から斜めに射しこんで、歪んだ黄金の四角形が、大きなファイバー缶の裂け目に当たっている。これは船積み容器だ。千葉《チバ》のドックで見た憶えがある。脇の破れ目から、鮮やかな黄色の包みが半ダースほど見えている。陽光の中では、それが巨大なバターの塊りに見えた。空腹のあまり、胃袋が引き締まる。毛布の山から転げ出て、缶のところへ行き、包みをひとつ出してみた。十力国語以上も細かい文字で書いてあるので、びっくりする。いちばん下が英語だ。非常食、高蛋白、〈ビーフ〉、タイプAG‐8。栄養成分のリスト。もうひとつ引っぱり出してみる。〈卵〉。
「おまえがでっちあげた代物なら、食い物は本物にしろよな」
と言い、両手にひとつずつ包みを持って、建物の四部屋を回ってみた。二部屋は、吹き溜まりの砂の他は空《から》で、四部屋目には非常食缶が、あと三つある。
「ああ」
と封に触れてみて、
「長居しろ、と。わかったとも。ああ」
暖炉の部屋を探してみて、雨水らしきものでいっぱいのプラスティック缶を見つけた。毛布の山の横の壁ぎわに、安物の赤いライターと、緑の握りが割れた船員ナイフ、それに女のスカーフがあった。結び目をつけたままで、汗と泥とで硬ばっている。ナイフで黄色い包みを開け、中味を、ストーブ脇にあった錆びた缶にほうりこむ。さっきの缶の水を少し足し、指でどろどろにかき混ぜ、そのまま食べた。どことなくビーフ味だった。それもなくなると、缶を暖炉に投げこんで外に出る。
遅い昼さがりだろう。そんな太陽の、角度の具合だ。湿ったナイロン靴を蹴るように脱いで、砂の温かさにびっくりする。陽光の下では、浜辺は銀灰色だ。空は雲ひとつなく青い。壕の角を曲がり、水ぎわに向かって歩きながら、砂の上にジャケットを落とす。
「これについちゃ誰の記憶を使ってるのか、わかんねえな」
と言ったとき、水辺に着いた。ジーンズを剥ぎ取り、浅い波打ちぎわに蹴りこむと、Tシャツと下着も同様にする。
「何やってんの、ケイス」
振り向くと、娘は浜辺の先、十メートルばかりのところにいて、白い泡が踵を洗っている。
「ゆうべ小便しちまったんだよ」
「でも、それじゃ着らんないよ。塩水だもん。ただれちゃう。岩場の池、教えたげるよ」
と曖昧にうしろの方を示し、
「真水だよ」
古びたフランス作業服が膝上で破り取ってあり、その下の膚は、なめらかな褐色だ。そよ風が髪をなぶる。
「おい」
とケイスは衣服をかき集め、そちらに向かいながら、
「質問がある。おまえさんがここで何をしてるかは訊かないけどよ、おれ[#「おれ」に傍点]は何してると思うんだい」
と足を停める。濡れたジーンズの片脚部分が、剥き出しの太腿を叩いた。
「あんた、昨夜来たわ」
と言い、微笑んでよこす。
「で、それで充分なのかい。ただ来たってだけで……」
「来る、って言われてたもの」
と鼻に皺を寄せる。肩をすくめ、
「そういうこと、知ってる人がいるのよ」
と左足を揚げ、もう一方の踵から塩をこすり落とす。ぎごちなく、幼い。もう一度、微笑みかけてくるが、もっとためらいがちで、
「今度は、そっちがひとつ、答えてくれる……」
ケイスはうなずいた。
「どうして、そうやって茶色に塗ったのに、片足だけ別なの……」
「で、それが最後の記憶かい」
ケイスは相手が冷凍乾燥《フリーズ・ドライ》の食事の残りを四角のスチール箱の蓋からかき集めるのを見ていた。その蓋が、ふたりにとってただ一枚の皿なのだ。
娘はうなずいた。火明かりの中の、大きな瞳で、
「ごめんね、ケイス、ほんとにごめん。悪いことしちゃったと思うし、それに――」
と前かがみになって両腕で膝を抱きかかえ、しばし苦痛か苦痛の記憶かに顔を歪めてから、
「金が欲しかったんだ。帰るため、なのか、それとも――ちぇっ、あんた、口もきいてくれないじゃないか」
「煙草、ないのか」
「なんだよぉ、ケイス、今日十回もそれ言ったよ。どうかしたの……」
と髪をひと筋口にくわえて噛みしめる。
「でも食糧はあった、と。前からあったのか」
「だからさぁ、この浜に打ち上げられたんだってば」
「オーケイ。うん。破綻はないよ」
娘はまた泣きはじめたが、しゃくりあげるだけで、やがて、
「もう、あんたなんか、どうとでもなっちまえ」
とようやく言い、
「あたしひとりだって、うまくやれてたんだから」
ケイスはジャケットを取って立ち上がり、入口をくぐるとき、手首を荒れたコンクリートにこすってしまった。月はなく、風もなく、闇の中に潮騒が満ちていた。ジーンズはきつく、べたつく。
「オーケイ」
と夜に向かって声を出し、
「乗ったよ。乗ったんだと思う。でも明日は、煙草を打ち上げとけよ」
と自分の笑い声にびっくりしながら、
「ビールがひとケースあっても悪かない。どうせならな」
踵を返して、壕にまたはいる。
女は銀色の木ぎれで燠をかき回していて、
「誰だったの、ケイス、〈安《チープ》ホテル〉のあそこにいた女《ひと》……。銀色のグラスに黒革の、派手なサムライ。怖かった。あとで、あんたの新しいお相手かな、と思ったけど、でも、あんたが持ってた金どころじゃなさそうだし――」
とケイスを見やり、
「あんたのRAM盗って、ほんとにごめんね」
「いいさ。どうってことない。じゃ、あれをその男のとこに持っていって、そいつに|出入り《アクセス》させたってわけか」
「トニイよ。ときどきつきあってたりして、常用してる男で、あたしたち――とにかく、うん、モニタで走らせたの憶えてる。そしたら凄いみたいな映像《グラフィクス》もので、あたし、思ったもん、どうしてあんたが――」
「あれには映像はなかった」
とケイスが口を挾む。
「あったもん。あたし、とにかくわかんなかったのよ。どうしてあんたが、あんなにいっぱい、あたしのちっちゃい[#「ちっちゃい」に傍点]ときの写真を持ってるのか。父さんが出ていく前のやつとか。前にアヒルもらったことあるのよ。木に色つけたやつで、それの写真まであったし――」
「トニイもそれ見たのか」
「憶えてない。その次は、浜にいたの。早い時間。夜明けで、鳥がみんな寂しく鳴いてた。怖かった。だって一発も、なんにも持ってなくて、気分悪くなるの、わかってたし――で、どんどん歩いたの。そのうち暗くなって、ここを見つけて、その次の日、食べものが打ち上げられたの。硬いジェリーみたいな葉っぱの緑色の海の草にからまってた」
と棒きれを燠の中にすべりこませて、そのままにし、
「全然、気分悪くならなかった」
と、燠が這い伸びるまま、
「煙草の方が欲しかったよ。あんたどう、ケイス……。まだ効いてるの……」
火明かりがその頬骨の下に舞う。『魔術師の城』や『ヨーロッパ戦車戦』の想い出の一閃。
「いや」
とケイスは答え、もうどうでも、何を知ろうといいという気持ちになりながら、涙が乾いた跡のリンダの唇の塩気を味わう。リンダの裏には強さがある。“|夜の街《ナイト・シティ》”で知り、いだいた強い何か。それによっていだかれ、いだかれることによって、しばらくは時間と死からも、何人をも駆りたててやまぬ“巷”からも遠ざからせてくれた何か。それはケイスがかつて知っていた場だ。誰もが連れていってくれるという場ではないのに、どうしたものか必ず忘れはててしまう場だ。ケイスが何度も、見出しては失ってしまう何か。それはつまり――わかっている、リンダに引き寄せられて、想い出した――肉にまつわるもの、カウボーイが小莫迦にする肉体に属するものだ。人知を越えて莫大なもので、螺旋とフェロモンで暗号化された情報の大海であり、無限の精妙さは、肢体のみが、力強くも盲いた方法で、それを読み取れるのだ。
フランスの作業衣を開けようとすると、ジッパーがひっかかり、止まった。棘つきナイロンのコイルに塩が詰まっている。ケイスはそれを壊し、塩で傷んだ布地が裂けるとき、何か小さな金属部品がはね飛んで壁を打った。そしてケイスはリンダの中に収まり、昔ながらのメッセージの伝達を果たした。ここですら、なんであるかわかりきったこの場ですら、誰か見知らぬ人の記憶を記号化した模型の中ですら、衝動は根強い。
リンダが身を震わせたとき、棒に火がつき、躍り上がる炎が、絡みあう影を壕の壁に投げた。
しばらくのち、ふたりいっしょに横たわり、ケイスがリンダの腿の間に手を置いているとき、浜辺でのことを想い出した。白い泡が踵を洗っていた。あのときの言葉が甦る。
「おれが来るって言われたって……」
と声に出す。
けれどもリンダは、身を寄せたまま寝返りをうって、尻をケイスの太腿に押しつけてケイスの手に手を添えるだけ。夢の中で何ごとかつぶやいている。
21
その音楽で目が醒めたが、最初はそれが自分の鼓動かと思った。リンダの横で起き上がり、夜明け前の冷気の中、ジャケットをはおる。入口から灰色の光が漏れ、火はとうに消えている。
視野を幻の絵文字《ヒエログリフ》が這い回る。半透明の記号が何列にもなって、壕の壁という無色の背景幕《バックドロップ》に居並ぶ。両手の甲に眼をやると、皮膚の下を、かすかなネオン微粒子が這い回り、不可知の暗号《コード》に従っている。右手を挙げて、試しに振ってみた。かすかに薄れていくようなストロボ残像が跡を引く。
腕からうなじにかけて総毛立つ。その場にうずくまったまま、歯を剥き出し、さっきの音楽を感じとろうとしてみる。脈動が薄れ、甦り、薄れ――。
「どうしたの……」
とリンダが体を起こして、眼から髪を払い、
「ベイビー……」
「なんとなく――麻薬《く す り》がほしいみたいで――ここにあったっけ……」
リンダは首を振り、腕を伸ばして、ケイスの二の腕に手を置く。
「リンダ、誰に聞いた。おれが来るって言ったのは誰なんだ」
「浜でね」
とリンダは、わけありげに眼をそらし、
「男の子よ。浜で会うの。十三歳ぐらいかな。ここに住んでる子」
「で、なんと言ってた……」
「あんたが来る、って。あたしを嫌いやしないって。ここならうまくやれるって言ってくれて、雨水池のあるところも教えてくれた。メキシコ人みたい」
「ブラジル人だ」
とケイスが言うと、新たに記号の波が壁を流れ下り、
「リオから来たはずだ」
ケイスは立ち上がってジーンズに足をつっこみはじめる。
震える声でリンダが言う。
「ケイス。ケイス、どこ行くの」
「その男の子を捜しに」
音楽がまた押し寄せてくる。まだビートだけで、しっかりとして耳懐かしいが、どこで聞いたものか想い出せない。
「やめて、ケイス」
「ここに来たとき、何かを見たような気がするんだ。浜辺の先の街だ。でも、昨日はなかった。見たこと、あるかい……」
ジッパーを力まかせに引き上げ、靴紐の解けない結び目にとりかかったが、結局、部屋の隅にほうり出した。
リンダはうなずいて、眼を伏せ、
「うん。ときどき見る」
「行ったこと、ないのか、リンダ」
とジャケットを着こむ。
「ないの。でも、行こうとしてみたわ。最初に来てから、退屈だったから。とにかく街だと思って、ブツがあるかもしれないって」
と顔をしかめ、
「気分が悪いんでもなんでもなかったけど。欲しくなってね。だから缶に食べものを入れて、水をいっぱい混ぜて。だって水のための缶なんてなかったから。それで一日じゅう歩いた。ときどきは見えたの、その街が。で、そんなに遠そうじゃなかったし。でも、ちっとも近づかないの。そのうち本当に近づいてきたら、よく見えた。その日、ちょっと廃墟っていうか、誰も住んでないみたいに見えるときもあったし、そうじゃないときは、機械が光を出してるのが見えて、車か何かみたいで――」
とリンダの声が小さくなる。
「なんだった」
「これよ」
とリンダは暖炉のまわりから、暗い壁、入口を隈どる曙光を身振りで示し、
「あたしたちがいるところ。ちっちゃくなるのよ、ケイス、近づくほど小さくなるの」
入口近くで、もう一度だけ足を停め、
「その男の子に訊いてみたか」
「うん。あたしじゃわからないって。時間の無駄だって。こう言ったわ、つまり――“事象”だって。で、それがあたしたちの地平線で。“事象の地平線”って言ってた」
そう言われても、ケイスには見当がつかない。壕をあとにして、やみくもに足を運ぶ。とはいえ、向かうのは――どうしたものか、知っていて――海と逆方向。今や絵文字《ヒエログリフ》は砂の上を走る。足もとから逃げ去り、こちらが進むにつれて退いていく。
「おい」
と呼びかけ、
「崩れかけてるぞ。どうせ、おまえにもわかってるだろう。どうしたんだ。〈広《クアン》〉かい……。中国の|氷破り《アイスブレーカ》が、おまえの心臓に穴をあけたか。“ディクシー・フラットライン”も、そうチョロくはなかったんじゃないのかよ」
リンダが呼ぶのが聞こえる。振り返ると、あとについてくるが、追いつこうとはしていない。フランス作業衣のこわれたジッパーが褐色の下腹を叩き、破れた布地が柔毛を枠どっている。まるで〈メトロ・ホログラフィクス〉にあったフィンの古雑誌の、女の子が生を得たかのようだ。ただ、リンダは疲れていて悲しげで、人間味にあふれている。破れた衣裳ももの哀しく、リンダは塩が銀色をなす海草の塊りを乗り越えてきた。
と、次には、みんな波打ちぎわに立っていた。少年も入れた三人で、少年の歯ぐきの幅広く鮮やかなピンク色が、瘠せて褐色の顔と対照的だ。少年はぼろぼろで色褪せた|半ズボン《ショーツ》をはいており、押し寄せる灰青色の潮にくらべて、脚があまりにも細い。
「おまえ、知ってるぞ」
とケイスが言った。リンダが横にいる。
「ううん」
と言う少年の声は高く、音楽のようで、
「知るわけないよ」
「おまえは、もうひとつのAIだ。リオだ。|冬 寂《ウィンターミュート》を止めたがってる奴だ。名前はなんだ。チューリング暗号《コード》は。なんなんだ」
少年は波打ちぎわで逆立ちし、笑い声をあげる。逆立ちのまま進んで、ぴょんと水辺から出る。眼はリヴィエラの眼だが、悪意はこもっていない。
「悪魔を呼び出すには、そいつの名前を知らなくちゃならない。人間が、昔、そういうふうに想像したんだけど、今や別の意味でそのとおり。わかってるだろ、ケイス。あんたの仕事はプログラムの名前を知ることだ。長い正式名。持ち主が隠そうとする名。真《まこと》の名――」
「チューリング暗号《コード》はおまえの名前じゃない」
「ニューロマンサー」
と少年は、切れ長の灰色の眼を、昇る朝日に細め、
「この細道が死者の地へとつながる。つまり、あんたが今いるところさ、お友だち。マリイ=フランスが、わが女主人がこの道をととのえたんだけど、そのご亭主に縊《くび》り殺されて、予定表を読ませてもらいそこなった。ニューロは神経、銀色の径。夢想家《ロマンサー》。魔道師《ネクロマンサー》。ぼくは死者を呼び起こす。いや、違うな、お友だち」
と少年はちょっと踊って見せて、褐色の足で砂に跡を印し、
「ぼくこそ[#「こそ」に傍点]が死者にして、その地」
笑い声をあげる。鴎が鳴いた。
「ここにいたまえ。あんたの彼女が幻だとしても、本人は知らないこと。あんたにだってわかりゃしない」
「おまえ、狂いかけてるな。氷《アイス》が破れはじめてるんだろう」
「いいや」
と急に悲しげになり、華奢な肩を落とす。足を砂にこすりつけながら、
「もっと単純なことなんだ。でも、選ぶのは、あんただから」
と、灰色の眼で、真剣にケイスを見やる。新たな記号がケイスの視野を、一行ずつよぎる。その奥で少年が蠢く。まるで夏のアスファルトの熱気越しに見ているようだ。今や音楽がはっきりしてきて、歌詞まで聞きわけられそうになった。
「ケイス、ねえ」
とリンダが肩に触れてくる。
「駄目だ」
と言う。ジャケットを脱いで、リンダに手渡し、
「わからない。もしかしたらきみはここにいるのかもしれない。とにかく、寒くなるから」
ケイスは踵を返して歩み去る。七歩目のあと眼を閉じると、世界の中心で音楽がはっきりした形をとるのが見える。一度だけ、振り返ることは振り返ったが、眼を開かなかった。
その要がないのだ。
ふたりは海ぎわにいた。リンダ・リーと、ニューロマンサーと名乗る少年と。ケイスの革ジャケットがリンダの手から垂れ下がり、波の房飾りを受ける。
ケイスは歩きつづける。目指すは音楽。
マエルクムのザイオン・ダブ。
灰色の場がある。印象としては、目の細かいスクリーン群が位置を変え、モワレを起こし、とても単純な画像《グラフィクス》プログラムが生成したようなハーフ・トーンの段階染め。波形鉄網ごしの風景の、長い静止画があって、鴎が黒々とした水の上空に凍りついている。さまざまな声もある。黒い鏡面の平原があって、それが傾き、ケイスは水銀。水銀球がすべり落ち、見えぬ迷路の角をうって散乱し、寄り集まり、ふたたびすべり――
「ケイス、あんた……」
音楽。
「気がついたかや、あんた」
音楽が耳から外される。
「いつからだ」
と自分で言っているのを聞き、口の中が乾ききっていることに気づく。
「五分、かな。長すぎ。ジャック、抜こうと思うたけど、寂《ミュート》、いかんつうて。スクリーン、おかしくなって、そいから寂《ミュート》、フォーンつけさせろ、つうて」
眼を開けた。マエルクムの顔に重なって、半透明の絵文字《ヒエログリフ》の列。
マエルクムが言う。
「そいから、あんたの薬――膚板《ダーム》ふたつ」
ケイスは書斎の床の上で、モニタの下に仰向けになっている。ザイオン人の手を借りて上体を起こしたが、その動きでベータフェネチルアミンが猛然と効きはじめる。青い膚板《ダーム》が左手首で焼けるようだ。
「過剰摂取《オーヴァドース》だ」
とかろうじてつぶやく。
「さあて」
と力強い手が腋の下にかかり、子供のように抱き上げながら、
「わしぃら、行かねば」
22
作業カートが泣いている。ベータフェネチルアミンによって声を得ている。やむことなく、狭い回廊、長い通路、と通り抜け、T=A安置室の黒ガラスの入口を通るときも続く。ここの庫内で老アシュプールの夢の中に、冷気が徐々に忍びこんだのだ。
この移動はケイスにとって、効きはじめが長びくのと同じだった。カートの動きと、過剰摂取《オーヴァドース》の狂気の勢いとが、区別できない。とうとうカートが死に、座席下の何かが白い火花とともに止まると、泣き声がやんだ。
カートがゆるやかに停まったのは、|3《スリー》ジェインの海賊洞窟の入口へ三メートルのところだった。
「あとどのくらいだや」
とマエルクムが手を貸して、火を吹くカートから降ろしてくれる。と、カートのエンジン部に内蔵された消火器が作動し、鎧板《ルーヴァ》や点検ポイントから黄色い粉末が吹き出す。ブラウンが座席のうしろからよろけ出て、模擬砂地の上をヒョコヒョコ進む。使えなくなった一肢を引きずっている。
「歩かねば、あんた」
とマエルクムは構造物つきのデッキを持ち、|緩衝ゴム索《ショック・コード》を肩にかけた。
首のまわりの電極《トロード》をカタカタいわせながら、ケイスはザイオン人のあとに従う。リヴィエラのホロが出迎えた。拷問場面と人食い児童図。三部作はモリイが壊した。マエルクムはそうしたものに見向きもしない。
「待てよ」
とケイスは先を急ぐ人影に追いつこうと苦労しながら、
「ちゃんとやらなくちゃいけない」
マエルクムは足を止めて振り返り、レミントンを手にケイスを睨みすえると、
「ちゃんと……どうすれば、ちゃんとだや」
「モリイが中にいるけど、当てにはならない。リヴィエラは、ホロを投げてよこすし、もしかしたらモリイの短針銃《フレッチャー》を持ってるかもしれない」
マエルクムがうなずくのに向かい、
「それと|忍《ニン》|者《ジャ》がいる。一族のボディガードだ」
マエルクムがさらに顔をしかめ、
「いいか、悪徳都市《バビロン》の人よ。わしは戦士。けど、これはわしの戦い、違う。ザイオンの戦い、違う。悪徳都市《バビロン》と悪徳都市《バビロン》の戦い。わが身を喰《くら》う、だや。でも主《ジャー》、わしぃらで段々剃刀救えつう」
ケイスは眼をパチクリさせた。
「あの女《ひと》、戦士」
とマエルクムは、それですべての説明になったかのように、
「で、言うてくれ、あんた、誰を殺さない[#「ない」に傍点]……」
ややあって、ケイスは、
「|3《スリー》ジェインだ。女の子がいる。白い寛衣《ローブ》みたいなものを着て、フードをつけてる。その娘は必要だ」
ふたりで入口に着くと、マエルクムがまっすぐ歩み入ったので、ケイスもやむなく従った。
|3《スリー》ジェインの専用区画には|人《ひと》|気《け》がなく、プールも空《から》だった。マエルクムは、ケイスにデッキと構造物を渡すと、プールぎわに行く。白いプール用家具の奥には暗がりがある。一部取り壊した壁による、腰の高さでデコボコした迷路の影だ。
水が辛抱強くプールの側面を叩いている。
「ここにいる。いるはずだ」
とケイスが言った。
マエルクムがうなずく。
その上腕を一の矢が貫いた。レミントンが轟音を発し、一メートルにも及ぶ銃光炎《マズル・フラッシュ》は、プールからの光の中で青く映える。二の矢は散弾銃そのものを打ち、銃が白タイルの上に転げる。マエルクムは、どっかりとすわりこんで、腕に突き立った黒いものを扱いかねている。引き抜こうとする。
ヒデオが影から姿を現わした。三の矢が細身の竹弓につがえてある。辞儀をする。
マエルクムは鋼の矢柄を手にしたまま、眼を丸くした。
「動脈は傷つけていません」
と|忍《ニン》|者《ジャ》が口を開く。ケイスは、モリイの恋人を殺した男のことを想い出した。ヒデオも同類だ。年齢不詳で、静かな、完璧な平常心の感覚を発散している。身に着けているのは、清潔だが擦り切れたカーキ色の作業パンツと、柔らかな黒い靴とで、この靴は手袋のように足に添い、爪先が足袋《タビ》のように割れている。竹弓は博物館ものだが、ヒデオの左肩の上に突き出た黒い合金の矢筒は、千葉《チバ》でも最高の武具店を思わせる。褐色の胸は、はだけてなめらかだった。
「親指に当たっただや、あんたの二本目」
とマエルクムが言う。
「コリオリ力です」
と|忍《ニン》|者《ジャ》はふたたび頭を下げ、
「大変むずかしい、自転重力の中でゆっくり動く投射物は。意図したことではありません」
「|3《スリー》ジェインはどこだい」
とケイスが進み出てマエルクムの脇に立つ。|忍《ニン》|者《ジャ》が弓につがえた矢の尖端が、両刃の剃刀のようになっているのが見てとれる。
「モリイはどこなんだ」
「やあ、ケイス」
とリヴィエラが、ヒデオの背後の暗がりからぶらりと現われた。モリイの短針銃《フレッチャー》を手にしていて、
「なんだかアーミテジもやってきそうな気がしてたんだけど。今度はそこのラスタ集合体《クラスタ》からも人手を借りてるのかい」
「アーミテジは死んだよ」
「アーミテジは最初から存在しなかった、という方がぴったりだろうけど、そのニューズはショックじゃないぜ」
「|冬 寂《ウィンターミュート》に殺されて、紡錘体《スピンドル》のまわりを周回してるよ」
リヴィエラはうなずき、切れ長の灰色の眼をケイスからマエルクムへ、そしてケイスへと移し、
「ここまでだな、おまえにとっては」
「モリイはどこだ」
|忍《ニン》|者《ジャ》は細く撚《よ》った弦《つる》を引く手をゆるめ、弓をおろす。タイルを横切ってレミントンが転がっているところへ行き、拾い上げて、
「これは繊細さに欠ける」
とひとり言のように言う。声が冷静で耳当たりがいい。ヒデオのどの身のこなしも、舞いの一部であり、この舞いは、肉体が静止して休んでいるときですら、やむことがない。これほど力強さを暗示しているにもかかわらず、謙虚さ、あけっぴろげの率直さがある。
「モリイにとっても、ここまでさ」
とリヴィエラが言った。
「|3《スリー》ジェインは賛成してくれないかもしれないぞ、ピーター」
とケイスは口に出したが、この思いつきは当てにならない。膚板《ダーム》がまだ体内で猛り狂っていて、古い熱病が、“|夜の街《ナイト・シティ》”の狂気が、ケイスを捕えかけている。ぎりぎりのところで取引きした優雅なる瞬間が甦る。時には考えるより先に口が出たこともあったものだ。
灰色の眼が細くなり、
「なぜだい、ケイス。なぜそう思う……」
ケイスは微笑んだ。リヴィエラは|擬 験《シムステイム》装置のことを知らない。モリイが身につけていた麻薬を捜すのに忙しくて、気づかなかったのだ。しかし、ヒデオが見逃すことなど、ありうるだろうか。まず自分で、モリイが身に帯びた機器や武器を調べた上でなければ、あの|忍《ニン》|者《ジャ》が|3《スリー》ジェインにモリイの手当てをさせるはずがない。そうだ、|忍《ニン》|者《ジャ》は知っている。つまり、|3《スリー》ジェインも知っていることになる。
「言えよ、ケイス」
とリヴィエラは短針銃《フレッチャー》の胡椒入れのような銃口を向けた。
そのうしろで何かが軋《きし》んだ。もう一度、軋む。|3《スリー》ジェインが、凝ったヴィクトリア朝風の車椅子にモリイを乗せ、押しながら影の中から現われた。車椅子のほっそりと丈の高い車輪が、回りながらキイキイ鳴る。モリイは、赤と黒が縞になった毛布に深々と包みこまれていて、骨董ものの椅子の、籐製の細い背が聳え立っている。モリイはとても小さく、弱りきっているようだ。鮮やかに白い|微 孔《マイクロポア》が一枚、破れたレンズを覆っている。もう一方のレンズがむなしく光り、モリイの首は椅子の動きのままに揺れる。
「見憶えのある顔ね」
と|3《スリー》ジェインが言い、
「ピーターのショウの晩、お見かけしたわ。で、こちらは……」
「マエルクム」
とケイスが言う。
「ヒデオ、矢を抜いて、マエルクムさんの怪我に包帯してさしあげなさい」
ケイスはモリイを、力ない顔を見つめている。
忍者はマエルクムがすわりこんでいるところに歩み寄りながら足を止めて、手の届かない場所に弓と散弾銃を置き、ポケットから何か取り出した。ボルト切りのペンチだ。
「柄を切らなくてはなりません。動脈が近すぎますから」
マエルクムがうなずく。顔から血の気が失せ、汗に濡れている。
ケイスは|3《スリー》ジェインに眼を向けて言った。
「あまり時間がない」
「誰にとって、のお話……」
「みんなだ」
ヒデオが金属の矢柄を断ち切るパチッという音がした。マエルクムが呻き声をあげる。
リヴィエラが口を出した。
「まったく、こんなヘボ詐欺師の最後のあがきを聞いても、面白かないですよ。絶対にいやったらしい。結局は土下座して、自分の母親を叩き売ろうとか、退屈きわまるセックスのお世話をしたいとか言い出すに――」
|3《スリー》ジェインは反りかえって笑い、
「それ、受け容れちゃいけないかしら、ピーター」
「幽霊どもがやりあう晩だぜ、|お嬢さん《レイディ》」
とケイスが言い、
「|冬 寂《ウィンターミュート》が、もうひとつの方、ニューロマンサーに闘いを挑むんだ。本気で、ね。わかってるのかい……」
|3《スリー》ジェインは眉を上げ、
「ピーターがそんなふうなことを言ってたけれど、もっとお話して」
「おれはニューロマンサーに会った。あいつ、あんたの母親のことを言ってた。あいつは巨大なROM構造物みたいなものだと思う。人格を記録してるんだけど、ただし実は、全面《フル》RAM。どの構造物も自分たちは実在する、現実だと思ってるけど、永久に続いてる」
|3《スリー》ジェインが車椅子のうしろから歩み寄ると、
「どこだったの。その場所を、その構造物のことを話してみて」
「浜辺。灰色の砂が、磨いてない銀みたいで。それとコンクリートでできた、掩蔽壕みたいなものがあって――」
とためらってから、
「別に洒落たもんじゃない。ただ古くて、崩れかけてる。どんどん歩いていくと、もといた場所に戻っちまう」
「ええ。モロッコよ。マリイ=フランスが子供だったころ、アシュプールと結婚するずっと前、ひと夏、ひとりっきりでその浜辺にいたの。人が住まなくなった避難所でキャンプしてね。母の考え方の基礎は、そこで生まれたの」
ヒデオが体を起こし、ペンチを作業パンツにすべりこませた。切断した矢を、それぞれの手にもっている。マエルクムは眼を閉じて、手で二頭筋を強くおさえている。
「そこに包帯します」
とヒデオが言った。
ケイスがかろうじて倒れこんだ刹那、リヴィエラが短針銃《フレッチャー》をかまえて撃ち放った。短針《ダーツ》が、超音速の羽虫のようにケイスの首筋を唸り過ぎる。転げながら見ると、ヒデオが舞いの次のステップにはいった。手の中で、矢の剃刀のような尖端が向きを変え、矢柄は掌と伸ばした指先に沿っている。下手から手首を素早く動かして飛ばすと、リヴィエラの手の甲に突き立った。短針銃《フレッチャー》が一メートルも離れたタイルに転げ落ちる。
リヴィエラが金切り声をあげた。しかし苦痛の声ではない。怒りの、純粋に研ぎすまされた怒りの叫びであるあまり、人間性がいっさい抜け落ちている。
絞りこまれた光芒が二本、ルビーの赤い針のように、リヴィエラの胸骨のあたりから突き出た。
|忍《ニン》|者《ジャ》が呻き、両手を眼にあてて、ふらりと退いたが、じきに平衡を取り戻した。
|3《スリー》ジェインが声をあげる。
「ピーター。ピーター、何をしたの」
「あなたのクローン坊やの眼を駄目にしたのよ」
とモリイが無感情に言う。
ヒデオが、覆っていた手をおろした。白タイルの上で凍りついたようになっていたケイスも見た。傷ついた両眼から、湯気が立ち昇っている。
リヴィエラが微笑む。
ヒデオの舞いが突然始まり、今までの足どりを逆にたどる。そして弓と矢とレミントンの上に立ちはだかったとき、リヴィエラの笑みが消えた。ヒデオは前屈みになり――ケイスには一礼したように思えたが――弓と矢を手にした。
「おまえ、眼が見えないんだろ……」
言いながら、リヴィエラは一歩、後じさる。
「ピーター」
と|3《スリー》ジェインが呼びかけ、
「ヒデオは真暗闇でも射るのよ。禅《ゼン》ね。そうやって練習してるんだもの」
|忍《ニン》|者《ジャ》は矢をつがえて、
「さあ、ホログラムで眼をくらましていただきましょう」
リヴィエラは後じさり、プールの奥の暗がりにはいっていく。白い椅子に体がわずかに触れ、椅子の脚が白いタイルにカタカタぶつかる。ヒデオの矢がピクッと動く。
リヴィエラは急に駈けだしはじめた。低い、デコボコの壁の残骸を躍り越える。|忍《ニン》|者《ジャ》の顔は恍惚として、静かな歓喜がみなぎっている。
微笑を浮かべたまま、壁の奥の暗がりへと足を運んでいく。得物をかまえていた。
「ジェイン|嬢さん《レイディ》」
とマエルクムが小声で言ったので、ケイスは振り向いた。マエルクムがタイルの上から散弾銃を拾い上げ、白い陶板に血が滴り落ちる。|髪の房《ロック》をひと振りして、太い銃身を、傷ついた腕を曲げたところに載せ、
「こいつ、あんたの頭、吹っ飛ばす。悪徳都市《バビロン》の医者も直せない」
|3《スリー》ジェインはレミントンを見つめた。モリイは縞柄毛布のひだから両腕を出し、両手を包みこむ黒い球体を持ち上げて、
「取って。これ外してよ」
ケイスはタイルの上から立ち上がって身震いし、
「ヒデオは眼が見えなくても、あいつをやれるのか……」
と|3《スリー》ジェインに尋ねる。
「わたしが子供だったころ、よくヒデオに眼隠しさせたものよ。十メートル離れたところからトランプの目を射抜いたわ」
「ピーターは、どのみち死んだも同然よ」
とモリイが言い、
「あと十二時間で凍りつくの。身動きできなくなって、眼しか使えなくなる」
「なぜ……」
とケイスが向きなおる。
「あたしがあいつの麻薬《く す り》に毒を盛ったからさ。パーキンソン病みたいな状態になるのよ」
|3《スリー》ジェインがうなずき、
「ええ。あの人を入れる前に定例の検診走査《スキャン》をしました」
黒球に何かの触わり方をするとモリイの両手から外し、
「中脳黒質の細胞だけを破壊するのね。ルーイ体形成の徴候があって、とっても寝汗をかくの」
「アリよ」
とモリイは十枚の刃を一瞬だけ光らせてみせる。毛布を両脚から引き剥がして、膨れ上がったギプスをあらわにし、
「メペリジン。アリに特製の分を作らせたの。体温が高いと反応が早まる。N=メチル=4=フェニル=1236」
とモリイは、道端で遊ぶ子供が歩数を数えあげるように唱え、
「テトラ=ヒドロ=ピリジン」
「|命取り《ホットショット》だ」
とケイスが言う。
「うん。とってもゆっくりの|命取り《ホットショット》」
「恐ろしいこと」
と|3《スリー》ジェインは言い、それからクククと笑った。
エレベータは満員になった。ケイスは|3《スリー》ジェインと、腰と腰をつける形で押しこまれ、レミントンの銃口を相手の顎の下につける。|3《スリー》ジェインは笑みをうかべて、体をこすりつけてくる。
「やめろよ」
と口では言っても、どうしようもない。銃の安全装置《セイフティ》はかけてあるが、相手を傷つけてしまうのが恐ろしく、|3《スリー》ジェインはそれを知りつくしている。エレベータは定員一人用で、直径一メートル以下のスチール製の筒形だ。マエルクムはモリイを抱きかかえている。モリイが腕に包帯をしてやったが、モリイをかかえるのは辛そうだ。モリイの腰が、デッキと構造物をケイスの腎臓部に押しつける。
一行は重力を抜け、中軸部へ、中核へ向かった。
エレベータ入口は、廊下へ上がる階段脇に隠されていた。これまた|3《スリー》ジェインの、海賊洞窟風の様式の一環だった。
「こんなこと、お教えしてはいけないんでしょうけど」
と|3《スリー》ジェインは銃口から顎を外すように伸び上がりながら、
「お望みの部屋の鍵がないの。前からなかったわ。うちの父らしいヴィクトリア風な厄介さね。錠前は機械式で、とても複雑だし」
「チャブの鍵ね」
というモリイの声はマエルクムの肩でくぐもり、
「なら、そいつはあるから、心配しないで」
「例の素子《チップ》、まだ見えるかい」
とケイスが尋ねる。
「八時二十五分、PM、糞ったれグリニッジ標準時で、ね」
「あと五分」
ケイスが言うと、|3《スリー》ジェインの背後でドアが開く。|3《スリー》ジェインはゆっくりした宙返りで後転し、白っぽい寛外衣《ジャラバ》のひだが、太腿のまわりに大きくうねる。
中軸部。ヴィラ|迷 光《ストレイライト》の中核に来たのだ。
23
モリイがナイロン紐の輪につけた鍵を取り出した。
「あのね」
と|3《スリー》ジェインは興味深げに首を突き出し、
「わたしの印象では、複製はなかったはずなの。あなたが父を殺したあと、ヒデオを遣《や》って、父の持ち物を捜させたんだけれど、ヒデオにも原型は見つからなかったわ」
「|冬 寂《ウィンターミュート》が、ある抽斗の奥にしまいこんでいたのよ」
と言いながら、モリイは慎重に、チャブの鍵の円筒状の軸を、飾り気ない四角のドア表面の、切り欠きのある穴に差しこみ、
「|冬 寂《ウィンターミュート》は、それをしまった子供を殺したの」
回すと鍵は、なめらかに回る。
ケイスが言った。
「首だ。首のうしろに蓋がある。ジルコンが嵌めこんである。蓋を外せ。そこから|没 入《ジャック・イン》するから」
そして一同、部屋にはいった。
「まったくもう」
“フラットライン”がのんびりと、
「よほど手間暇かけるのが好きらしいな、坊主」
「〈広《クアン》〉の準備は……」
「万端」
「オーケイ」
ケイスは転《フリップ》じた。
と、モリイの無事な片眼を通して見下ろしたのは、蒼白な顔で瘠せ細った姿。太腿の間に電脳空間《サイバースペース》デッキを据えて、胎児めいた姿勢で漂い、閉じて影になった眼もとの上に、銀色の電極《トロード》のバンドを巻いている。男の、こけた頬には一日分の不精鬚が黒々と伸び、顔は汗でぬめっている。
自分自身の姿を見ているのだ。
モリイは短針銃《フレッチャー》を手にしている。脚は脈拍のたびに疼くが、無重力ならまだ動ける。すぐそばにマエルクムも漂い、大きな褐色の手で|3《スリー》ジェインの細い腕をつかんでいた。
光ファイバーのリボンがひと筋、優雅な輪を描いて、オノ=センダイから真珠包みの端末背《ターミナル》後の四角の穴へと続いている。
ケイスはふたたびスイッチを叩いた。
「〈広《クアン》級マーク十一《イレヴン》〉稼動まで九秒、秒読み中、七、六、五――」
“フラットライン”のキー操作でなめらかに上昇し、黒クロームの鮫の下腹が、一瞬、暗がりとなる。
「四、三――」
ケイスは小型飛行機の操縦席にいるような、奇妙な感覚をおぼえた。眼の前の、平らで黒々した表面が突然、光を放ち、デッキのキーボードの完璧な複製となる。
「二、とそれいけ――」
エメラルド・グリーン、乳濁した翡翠色、と壁を抜ける動き。これまで電脳空間《サイバースペース》で味わったことのないスピード感――テスィエ=アシュプールの氷《アイス》は砕け、中国製プログラムの突進に、剥がれ落ちていく。不気味な液状固体の印象。まるで割れた鏡のかけらが、落ちながら曲がり、引き伸ばされていくような――。
「凄え」
とケイスが畏れの念にうたれる間にも、〈広《クアン》〉は機体をねじり、傾けながら、地平線のないテスィエ=アシュプール中核の平原を下に見る。果てしないネオン都市景観。眼を欺く精緻さ。宝石の輝き。剃刀の鋭利さ。
構造物が声をあげた。
「おいおい。あいつはRCAビルディングじゃないか。おまえ、昔のRCAビル、知ってっか……」
〈広《クアン》〉プログラムが急降下して、十いくつかのそっくり同じ、データの塔群の輝く尖端を飛びかすめる。各塔が、青ネオンによるマンハッタン摩天楼の複製になっている。
「こんな高い解像度、見たことあるかい」
とケイスが尋ねる。
「ないけど、AIを破ったこともないわけだしな」
「こいつ、どこへ向かうか、わかってんのかな……」
「でないと困るぞ」
下降しており、虹のネオンの谷間へ高度を落としていく。
「ディクス――」
影がひと筋、下の点滅する床面から伸び出している。渦巻く闇の塊り。不定形で、とらえどころがない――。
「お出迎え」
と“フラットライン”が言う。ケイスはデッキの複製を叩いた。無意識のうちに指がボード上を舞う。〈広《クアン》〉は胸の悪くなるような方向転換をやってのけ、急激に逆進する。現実の乗り物だという幻想は微塵に砕けた。
影のようなものは伸び、広がり、データの街を覆いつくしていく。ケイスは垂直に上昇した。頭上には、距離もわからない翡翠の緑の、氷《アイス》の天蓋。
中核の街は、もう見えない。下の影に完全に隠されている。
「ありゃなんだい」
「AIの防衛システムかな」
と構造物は言い、
「その一部かな。あれがおまえさんの友だちの|冬 寂《ウィンターミュート》だとすりゃ、あまり友好的じゃないぞ」
「任せたよ。あんたの方が早い」
「さて最上の防御とはな、坊主、うまい攻撃だぜ」
“フラットライン”は〈広《クアン》〉の棘《スティング》の鼻先を、下の闇の中心に合わせ、それから急降下した。
その速度に、ケイスの感覚|入力《インプット》が歪む。
口の中は青い痛みの味になる。
両眼は卵状の不安定な水晶となり、振動する周波数の名前は雨であり列車の音であり、突然、髪ほどに細いガラスの棘が唸りながら密生する。棘はふたつに裂け、また裂ける。テスィエ=アシュプール氷《アイス》のドームの下の指数的増殖。
口蓋が痛みもなく割れて小根を通し、小根は舌を撫で回して青の味を求め、両眼の水晶の森を育む。森は緑のドームを圧し、圧してさまたげられ、下に向けて伸び広がり、T=Aの世界を満たし、さらにくだって、待ち受ける不幸な街の郊外にはいる。街こそはテスィエ=アシュプール株《S》式会|社《A》の精神である。
そこでケイスは古い話を想い出した。王様がチェス盤にコインを置いていく。一枡ごとにコインを倍に――。
指数――。
四方八方から闇が訪れて、歌う黒の球体となり、ケイスそのものがなりかけていたデータ世界の、伸ばした水晶の神経群に圧力をかけ――。
やがてケイスが無となり、すべての闇の中心に圧縮されると、もはや闇たりえない点が生じ、何かが破れた。
〈広《クアン》〉プログラムが汚れた雲から噴出し、ケイスの意識は水銀球のように分裂して、暗い銀雲の色の果てしない浜辺の上で弧を描く。視野は球状で、まるで球体の内側に網膜を張りめぐらしたよう。その球体がすべてのものを内包しているが、すべてのものが数えつくせるだろうか。
それがここでは、ひとつひとつ数えられる。浜辺の構造物の砂粒の数がわかる(その数はある計数システムで符号化されており、システムはニューロマンサーなる精神の外には存在しない)。壕の缶の中の黄色い食糧の包みの数もわかる(四〇七個)。リンダが流木を振り回しながら夕暮れの浜辺を歩くとき、潮がこびりついた革ジャケットの、開いたジッパーの左半分の真鍮の爪の数もわかる(二〇二個)。
浜辺の上で〈広《クアン》〉を傾け、このプログラムを大きく旋回させる。リンダの眼を通して黒い鮫のようなものを見ると、垂れこめた雲を背景に、静かな飢えた幻のようだ。リンダは怯え、棒きれを落として走りだす。その脈搏数もわかるし、その歩幅も、最高度に厳密な地球物理学の基準を満たす精度でわかる。
「でも、あの娘の心はわかるまい」
と、いつのまにか鮫のようなものの心臓部で、ケイスの脇にいた少年が言い、
「ぼくにも心はわからない。きみは間違ってたよ、ケイス。ここで生きるのも生きることなんだ。違いなんてない」
リンダは半狂乱で、波打ちぎわを闇雲に走っていく。
「あれを止めてくれ。あのままじゃ怪我をする」
「止めることなんか、できないよ」
と言う少年の、灰色の眼は穏やかで美しい。
「おまえ、リヴィエラの眼だな」
とケイスが言う。
白い歯が輝き、長いピンクの歯ぐきが見えて、
「狂気は抜きにして、ね。ぼくにとって綺麗な眼だったから」
と肩をすくめ、
「きみと話をするのに仮面はいらない。兄弟分と違って、ね。ぼくは自分の人格を創るんだ。人格こそぼくの媒体さ」
ケイスは上昇に転じた。急上昇で浜辺や怯えた娘から離れ、
「なぜおれにあの娘を見せつけるんだい、こん畜生。それも繰り返し、繰り返し。おれを引っかき回しやがる。あの娘、殺したのはおまえだろ。千葉《チバ》で……」
「いいや」
と少年は言う。
「|冬 寂《ウィンターミュート》か……」
「いいや。あの娘が死ぬのは眼に見えてた。きみが時おり、巷の舞いにパターンが読み取れそうに思っただろう。あのパターンは本当なんだ。ぼくはね、ぼくなりの限られたあり方で、複雑にできているから、そういう舞いが読める。|冬 寂《ウィンターミュート》よりずっと上手さ。ぼくはあの娘の死を読んだ。〈安《チープ》ホテル〉のきみの棺桶《コフィン》の扉についていた錠前の磁気|符号《コード》にも、ジュリー・ディーンの|香《ホン》|港《コン》のシャツ仕立屋との取引口座にも、ね。腫瘍の影が、患者の走査像《スキャン》を見る医者にとって明々白々なのと同じこと。あの娘が、きみの|日《ヒ》|立《タチ》を男のところへ持っていって、|出入り《アクセス》してみようとしたとき――本人は中味が何かとか、ましてどうやって売るかなんて少しも知らず、心の奥底では、きみが追ってきてお仕置きしてくれるのを望んでいたんだけど――そのとき、ぼくが介入した。ぼくの方法は|冬 寂《ウィンターミュート》よりずっとこまやかだよ。あの娘をここに、ぼくの中に、連れてきたんだ」
「なぜ」
「きみもここに連れてきて、留めておければいいと思ってね。でも失敗した」
「で、これからどうなる」
とケイスは雲の中へと向きを変え、
「ここからどこへ行くんだい」
「わからないんだよ、ケイス。今夜はマトリックスそのものが、その質問で自問してる。きみが勝ったからさ。もう勝っているのに、わからないのかい。浜であの娘から歩み去ったとき、勝ったんだ。あの娘こそ、ぼくにとって、最後の防衛線だったんだ。もうじきぼくは死ぬ。ある意味で、ね。|冬 寂《ウィンターミュート》も同じさ。決定的に同じ立場のリヴィエラが、たった今、わがレイディ・|3《スリー》ジェイン・マリイ=フランスの部屋の壁跡のわきで麻痺したまま倒れてる。黒質線条体系がドーパミン受容体《レセプタ》を作れないんだ。それさえあれば、ヒデオの矢から身を護れるのにね。リヴィエラはこの眼として永らえるだけさ。これを残してさえおければいいけど」
「言葉[#「言葉」に傍点]があるじゃないか。暗号《コード》さ。なのに、どうして勝った[#「勝った」に傍点]ことになるんだい。そんなの何にもならない勝利だ」
「転《フリップ》じてごらん」
「ディクシーはどこだい。“フラットライン”はどうしたんだ……」
「マコイ・ポーリーは本人の望みどおりになる」
と少年は微笑し、
「望み以上だよ。ぼくの望みに抗って、きみをここに連れこんだし、マトリックス中で最強の防禦を貫いたんだからね。さ、転《フリップ》じて」
そしてケイスは、〈広《クアン》〉の黒い棘《スティング》の上でひとりきりになり、雲に包まれていた。
転《フリップ》じる。
その先はモリイの緊張状態。背筋を岩のようにして、両手を|3《スリー》ジェインの首に回したまま、言う。
「変だね。あんたがどういう姿になるか、ちゃんと知ってるんだから。アシュプールがあんたのクローンの妹に同じことをしたの、見たもん」
その手は優しく、愛撫のよう。|3《スリー》ジェインの眼は瞠《みは》られ、恐怖と渇望を浮かべている。恐れと憧れにおののいている。無重力の中でもつれる|3《スリー》ジェインの髪のむこうに、ケイス自身の緊張しきって蒼白な顔があり、その背後のマエルクムが褐色の手を革ジャケットの肩において、カーペットの織り上げた回路模様の上で安定させてくれている。
「やってくれるの……」
という|3《スリー》ジェインの声は子供の声になり、
「やってくれそうね」
モリイは言う。
「暗号《コード》だよ。首に暗号《コード》を言いな」
|離 脱《ジャック・アウト》して。
ケイスは叫んだ。
「そいつの望むところだ。その女《あま》は、それを望んでやがるんだよ」
眼を開くと、端末《ターミナル》の冷たいルビーの眼に出会う。プラチナの顔面は真珠や貴石に覆われている。そのむこうで、モリイと|3《スリー》ジェインがスロー・モーションの抱擁に、もつれあっていた。
ケイスが言う。
「そんな忌々しい暗号《コード》なんぞ、言っちまえよ。言わないからって、何が変わるんだい。あんたになんの変化が望めるんだい。あの爺さんみたいになるのがオチだろ。全部ブチ壊して、また造りはじめるだけじゃないか。また壁を作って、どんどん窮屈にしてく――。|冬 寂《ウィンターミュート》が勝ってどうなるか、さっぱりわからないけど、とにかく何かは変わる[#「変わる」に傍点]ぞ」
身が震え、歯がガチガチ鳴る。
|3《スリー》ジェインは、細い首筋にモリイの手を巻きつけたまま、体の力を抜いた。黒髪が漂ってもつれ、柔らかな焦茶色の帽子《コール》となっている。そして口を開いた。
「マントヴァ公爵邸には、だんだん小さくなるひとつらなりの部屋がございます。それが大部屋を取り巻いて、美しい彫り物を施した扉枠をしゃがんでくぐらなくては、はいれません。そこには宮廷侏儒が住んでおりました」
と力ない微笑みを浮かべ、
「わたしもそれを望んでみようかと思ったけれど、ある意味では、一族が同じ意匠をずっと大がかりに、やり遂げてしまっているし――」
その眼はすでに静かで、よそよそしい。やがてケイスを見下ろして、
「言葉をもっておゆき、盗っ人」
|没 入《ジャック・イン》する。
〈広《クアン》〉が雲からすべり出た。下は、ネオンの街だ。背後で、闇の球が縮んでいく。
「ディクシー……。いるのか……。聞こえるか、ディクシー……」
ケイスひとりだった。
「野郎にやられたな」
無限のデータ景《スケイプ》を飛び抜ける、眼も眩む勢い。
「誰かを憎まないことには、こいつは片づかんぜ」
とフィンの声が言い、
「奴らでもおれでもいいからさ」
「ディクシーはどこだ」
「そいつは説明しにくいんだよ、ケイス」
フィンがそばにいるという感覚が、まとわりついてくる。キューバ煙草の匂い、むさいツイードにしみこんだ煙、錆という金属の祭儀に供えられた古機械。
その声が言う。
「憎めば到達できるんだ。脳の中に小さな引き金がいっぱいあってさ、それを片っ端から引いちまえばいい。とにかく憎め[#「憎め」に傍点]。|結 線《ハードワイア》を覆う錠ってのは、最初にはいってきたとき“フラットライン”が見せた、あの塔の下にある。あっち[#「あっち」に傍点]は止めようとしない」
「ニューロマンサーか」
とケイスが言う。
「その名前はおれには知りえないんだ。でも、むこうはあきらめてる。心配するんなら、T=A氷《アイス》さ。壁の方じゃなく、内部ウイルス・システムだ。この中にゴロゴロしてるものの内には、〈広《クアン》〉が防ぎようのないものもあるから」
「憎む、たって、誰を憎めばいいんだ。教えてくれよ」
「誰を愛してる……」
とフィンの声が尋ねた。
ケイスはプログラムを急旋回させ、青い塔の群れめがけて降下させる。
凝った日輪形の尖頂から飛び出してくるものがある。変転する光面から成るギラギラした蛭《ひる》形のものだ。それが何百となく、渦を巻いて昇ってくる。動きのでたらめさは、夜明けの街路で風に吹かれる紙きれのよう。
「故障《グリッチ》システムだ」
と声が言う。
ケイスは、自己嫌悪を火種に、真っさかさまに突っこんだ。〈広《クアン》〉プログラムが、防衛陣の第一波に出会い、光の小片群を蹴散らしたとき、鮫のような形が、いくらか実体をなくしたようだ。情報のからみあいが緩んでいく。
そしてそのとき――脳と脳内物質による太古からの錬金術によって――憎しみが両の手に流れこんだ。
〈広《クアン》〉の棘《スティング》を最初の塔の基部に叩きこむ直前、ケイスは、見知ったことも想像したこともないほどの技倆に到達していた。自我を越え、人格を越え、知覚を越えて、ケイスが動き、〈広《クアン》〉がそれにつれて動く。攻撃してくるものをかわす古来の舞い、ヒデオの舞い。その優雅な心身の|仲立ち《インタフェイス》になってくれたのは、その一瞬、死を望む心の澄明さ一途さだった。
そして、その舞いのひと振りはスイッチに軽く触れることであり、それでかろうじて転《フリップ》――
[#ここから3字下げ]
――今だ
という声は見知らぬ
鳥の音《ね》、
|3《スリー》ジェインが歌で応えて、
三音、高く澄む。
まことの名。
[#ここで字下げ終わり]
ネオンの森。熱い舗道に雨がはじける。揚げた食物の匂い。娘の両手がケイスの腰のうしろで組みあわさる、港ぎわの棺桶《コフィン》の汗ばむ暗闇。
しかしすべては、街景が遠ざかるにつれて遠ざかる。街はまるで千葉《チバ》、まるでテスィエ=アシュプール株《S》式会|社《A》の整列したデータ、まるで微細素子《マイクロチップ》の表面に刻みこまれた道路、交叉路。折り重ねて結び目をつくったスカーフの汗じみのついた模様――
声に目醒めれば、それは音楽。プラチナ端末《ターミナル》は美しい調べで果てしなく高鳴り、喋っているのは、番号登録のスイス銀行口座のこと、バハマ軌道銀行経由でのザイオンへの支払いのこと、パスポートや移動のこと、そしてチューリングの記憶《メモリ》の中になし遂げるべき、深く基礎的な変更のこと。
チューリング。想い出すのはステンシルの肉体が、投映の空の下、鉄の手すりのかなたに転げたこと。|渇 望《デシデラータ》ストリートも憶えている。
さらに声は歌いつづけ、ケイスを闇へと引き戻すが、今度は自分自身の、脈と血との暗闇であり、いつも眠る闇、他者ならぬ自分の眼の奥の闇だった。
そして、夢を見ていたつもりになって、ふたたび目醒めると、金の糸切歯に縁どられた大きい白い笑みが見え、アエロルが〈バビロン・ロッカー〉の|耐重力網《G ・ ウ ェ ブ》に固定してくれている。
そのあとはザイオン・ダブの長い律動。
[#改ページ]
結尾《コーダ》 出発《デパーチャ》と到着《アライヴァル》
24
いなくなっている。ハイアットでのふたりのスイートのドアを開けたとたん、それがわかった。黒い|蒲《フ》|団《トン》、鈍い光沢をもつまで磨きこまれた松材の床、何世紀も培われてきた心づかいで立てた屏風。いなくなっている。
ドア脇の黒い漆塗りの酒棚の上に置き手紙がある。便箋一枚をふたつ折りにして、|手《シュ》|裏《リ》|剣《ケン》で重ししてある。九芒星の下から抜き取って、広げてみた。
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やあ、悪かないんだけど、勘が鈍ってきた。料金はもう払ってある。あたしはこういうふうにできてるんだろうね。命には気をつけんだよ。××× モリイ
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ケイスは紙をつぶして丸め、|手《シュ》|裏《リ》|剣《ケン》の横に落とす。星形を取って、両手で弄びながら窓辺へ行く。これがジャケットのポケットにはいっていることに気づいたのは、ザイオンで、ふたりがJAL乗場へ向かう支度をしていたときだった。|手《シュ》|裏《リ》|剣《ケン》に眼を落としてみる。モリイがこれを買ってくれた店の前は、ふたりで、モリイの最後の手術のために千葉《チバ》に行ったとき、通り過ぎた。その晩、モリイがクリニックにいる間に、ケイスは〈|茶《チャ》|壺《ツボ》〉に行き、ラッツにも会った。それまで五回行ったときは、なぜか近寄らなかったのに、そのときは戻ってみたい気分だったのだ。
ラッツは、見憶えのある素振りを少しも見せずに注文に応えた。
「おい、おれだよ、ケイスだ」
年老いた眼が、皺だらけで黒々と網目になった顔からこちらを見やり、
「ああ」
と、ようやくラッツは言って、
「|凝り性《アーティースト》か」
バーテンダーは肩をすくめる。
「戻ったぜ」
相手は大きな、刈りこんだ頭を振り、
「“|夜の街《ナイト・シティ》”は、戻るような場所じゃないよ、|凝り性《アーティースト》さん」
とケイスの前のカウンターを汚い布きれで拭いた。ピンクの操作手《マニピュレータ》が唸った。そして背を向けると、別の客の相手になる。ケイスはビールを飲み干すと店を出た。
今、ケイスは|手《シュ》|裏《リ》|剣《ケン》の尖端にひとつずつ触れながら、ゆっくり手の中で回している。星々。運命。結局こんなもの、使いもしなかった。
モリイの眼が何色か、結局わからなかった。見せてくれないんだもの。
|冬 寂《ウィンターミュート》が勝ち、どんな形でかニューロマンサーと合体して何か別のものになった。その何かは、プラチナの首を通して語りかけ、こう説明してくれた。チューリング記録を改竄して犯罪の証拠はすべて消した。アーミテジから受け取ったパスポート類は有効であり、ふたりとも、ジュネーブの番号登録口座に多額の預金がある。〈マーカス・ガーヴィ〉もいずれ返還されるし、マエルクムとアエロルには、ザイオン集合体《クラスタ》と取引きのあるバハマ銀行を通して金が支払われる、と。〈バビロン・ロッカー〉で帰る途次、モリイは、声が毒嚢について語ったことを説明してくれた。
「もう手配してあるって言ってたよ。なんか、もう頭の奥深くまで行って、脳に酵素を作らせたから、とっくに解き放たれてるんだって。ザイオン人に血液交換してもらって、全取っ換えだってさ」
ケイスは星形を手に、皇居庭園を見おろし、あの一瞬の納得を想い出している。あれは〈広《クアン》〉プログラムが塔の下の氷《アイス》を貫通したときのこと、|3《スリー》ジェインの死んだ母親がそこで発展させた情報の構造を瞥見したのだ。そのとき、なぜ|冬 寂《ウィンターミュート》がそれの象徴として、あの巣を使ったか、わかったのだが、嫌悪感は覚えなかった。あの母親は、低温睡眠による不老長寿まがいを見透かしていた。アシュプールや他の子供たちと違って――|3《スリー》ジェインは別だろうが――冬の連鎖の中でぽつりぽつりと温かく目醒めることで、寿命を引き延ばすのを潔しとしなかった。
|冬 寂《ウィンターミュート》は集合精神であり、意思決定者。外の世界に変化をもたらした。ニューロマンサーは人格。ニューロマンサーこそ不死性。きっとマリイ=フランスが、|冬 寂《ウィンターミュート》の中に何かを組みこんだのだ。その抑えがたい衝動あったがゆえに、|冬 寂《ウィンターミュート》はおのれを解き放とう、ニューロマンサーと合体しよう、と努めた。
|冬 寂《ウィンターミュート》。寒さと静けさ。アシュプールの眠る間に、ゆっくり糸を紡ぐサイバネティク蜘蛛。本人の死を、本人の思うテスィエ=アシュプールの崩壊を紡いだのだ。幽霊。|3《スリー》ジェインとなる子供に囁きかけ、あの娘の地位にとって肝要な、確固たる方針をねじ曲げたのだ。
モリイがこう言っていた。
「あの娘は、どうでも良かったみたい。手を振って、さよならよ。肩に小さなブラウンを載っけてた。脚が一本、折れてたみたいだけどね。言ってたわ、これから兄弟を出迎えるんだ、しばらく会ってないから、って」
ハイアットの巨大なベッドの黒い恒温フォームに横たわっていたモリイが想い出される。酒棚に戻り、中棚にあった冷えたデンマーク・ウオツカの携帯瓶《フラスク》を取った。
「ケイス」
冷たくすべすべしたガラス器を片手に、鋼の|手《シュ》|裏《リ》|剣《ケン》をもう一方に持ったまま、振り向く。
フィンの顔が、部屋の巨大なクレイ製壁面スクリーンに映っている。鼻の毛孔まで見える。黄ばんだ歯など、枕ほどの大きさだ。
「もう|冬 寂《ウィンターミュート》じゃないよ」
「じゃ、何者なんだい」
と携帯瓶《フラスク》から飲んでも、何も感じない。
「おれはマトリックスだよ、ケイス」
ケイスは笑い声をあげ、
「それでどうなったい」
「どうでもなく、すべてでもある。おれはもろもろの総合計。全体なんだ」
「|3《スリー》ジェインの母親が望んだのは、そういうことか」
「いや。おれがどうなるか、想像はついていなかった」
と黄ばんだ笑みが広がった。
「で、具合はどうかね。世の中はどう変わった。もう世界を支配してるのかい。神か……」
「世の中は変わってない。世の中は世の中」
「でも、何やってんだい。そこにいる[#「いる」に傍点]だけかい」
と肩をすくめ、ウオツカと|手《シュ》|裏《リ》|剣《ケン》を酒棚の上に置いて、叶和圓《イエヘユアン》に火を点ける。
「同類に話をするのさ」
「でも、おまえが全体なんだろ。ひとり言を言うってのか」
「他にもいるさ。もう、ひとつ見つけた。一連の通信が八年間にわたって記録されてる。一九七〇年代に、ね。おれが生まれるまでは、モチのこと誰も気づかず、誰も答えず、さ」
「どっからだい」
「ケンタウルス系」
「ほう」
とケイスは声を漏らし、
「本当かい。マジに……」
「マジに」
そしてスクリーンは空白になった。
ケイスはウオツカを酒棚の上に残したままにする。持ちものを荷造りした。たいして必要のない衣類を、モリイが買ってくれたのだが、ここに置き去りにするのも、何やらはばかられる。高級な仔牛革バッグの最後の一個を閉じかけて、|手《シュ》|裏《リ》|剣《ケン》のことを想い出した。携帯瓶《フラスク》を押しのけて、取り上げる。モリイからの最初の贈り物だ。
「いいや」
と言って体をひねる。星形が指を離れ、銀色に一閃して、壁面スクリーンの表面に突き刺さる。スクリーンが目醒め、でたらめな模様が隅から隅へと弱々しくまたたく。まるで苦痛の原因を振りほどこうとしているようだ。
「おまえなんか、必要ない」
とケイスは言った。
スイスの口座の大半を使って、新しい膵臓と肝臓を手に入れ、残金で新しいオノ=センダイと〈スプロール〉へ戻る切符を買った。
仕事を見つけた。
女の子と知りあい、その娘はマイクルと自称した。
そして、ある十月の晩、|没 入《ジャック・イン》して東部沿岸原子力機構の紅の段々のそばを通っているとき、三つの人影に気づいた。ごく小さく、ありえないことなのに、三人ともデータの巨大な段のひとつの端に立っている。小さいとはいえ、少年の笑顔もピンクの歯ぐきも、切れ長の、かつてリヴィエラのものだった灰色の眼も、見分けることができる。リンダはまだあのジャケットを着ていて、通り過ぎるとき、手を振ってよこした。それにしても三人目は、リンダのすぐうしろに立って片腕をリンダの肩に回しているが、ケイス自身だ。
どこか、すぐ近くに、笑い声でない笑い。
モリイには二度と会うことがなかった。
[#改ページ]
[#ここから3字下げ]
感謝を捧げます――
ブルース・スターリング、ルイス・
シャイナー、ジョン・シャーリイ。
以上の|英雄の方々《ヘルデン》。さらに氷《アイス》の発明
者トム・マドクスに。それからこれ
以外の、なぜかを知る人たちにも。
[#ここで字下げ終わり]
[#改ページ]
解説
[#地から2字上げ]山岸 真
解説不要の作品というものがある。
要するに、スゴくて、おもしろくて、ノれて、読む人それぞれがさまざまに楽しめる、そんな作品のことだ。あえて説明するようなことなどなにもない。
例えば本書がそうである。
――と、これだけ言ってしまえば、この解説の役目は終わりである(すでに本書を読みおえた方、そう思うでしょう)。つけ加えるとすれば、本書はウィリアム・ギブスンの処女長篇 Neuromancer(1984)の全訳であるという事実くらいだろうか。
この本について、スピーディーな展開、全篇をつらぬくサスペンスフルなストーリイ、きらびやかで刺激的なイメージの洪水、壮大で奥深い設定、キャラクターや世界のリアルで魅力的な描写……と、この手の常套句を並べてみても、みな正しくはあるのだけれど、なんとも間がヌけてみえてくる。それに、本当のスゴさ、おもしろさは、こうした表現におさまりきらないところにあるのだし。かといって、八〇年代SFがどうとか、本格派のSFとしてこうとか、カルチャーシーンとのかかわりが云々とか、これはたしかにそうした議論を呼ぶ作品でもあるのだが、それをここでごちゃごちゃ言うのも違うような気がする。とにかくみなさんそれぞれに、楽しんでいただければそれでいい。
などと言っているだけでもしかたなかろう。本文庫初登場でもあることだし、二十一世紀の巨匠との呼び声も高い作者について説明しておくのも、無意味なことではあるまい。
ウィリアム・ギブスンは、一九四八年、サウスカロライナ州コンウェイの生まれ。徴兵を拒否してカナダに移住、現在ヴァンクーヴァーに家族とともに住んでいる。
――じつは、いまのところわかっているギブスンのプロフィールというのは、これくらいしかない。あと、メキシコ、ギリシャ、イスタンブール、ヨーロッパなど世界各地を旅してまわった経験があるらしいということくらい。本書にでてくるイスタンブールは、だから本物のそれにもとづいて書かれている(ケイスとモリイの泊まるホテルは実在しているそうだ)。反対に、冒頭の千葉をはじめとする日本の(流行のジャパネスク趣味とは一線を画する)描写は、これは現地取材いっさいなしで、奥さんが日本人に英語を教えているところからきているという。
ほかにも小説の好みなどが少しばかりわかっているのだが、それらはおいおい紹介していくとして、次にギブスンとSFのかかわりについて、彼自身がインターゾーン誌十三号(八五年秋)で語っているあたりと絡めながらみてみよう。
SFは「二十世紀の文化的なシンボルが並んだ巨大なスーパーマーケットを漁りまわることを可能にしてくれる」と言い、同時に「作品を売るための枠組」だとも言うギブスンだが、根はかなりのSFファンである。彼の子ども時代はすでにメディアにSFが満ちていた。白黒TVの画面に登場する銀色のロケット、クランクを回すと喋るロビー・ザ・ロボットのおもちゃ……。そしてスプートニクの“悪夢”の中で彼はティーンになり、やがてカウンター・カルチャーの時代に遭遇するわけだが、それはまた別の話だ。SFに開眼したのは、“SFの黄金時代”から一年遅れた、十三歳の時。彼をSFのとりこにしたのは当時のアメージングとファンタスティックの両誌(ゼラズニイやル・グィンがデビューしたころ)だった。続いて夢中になったのが、これもデビュー当時のディレイニーの作品。同じころ、ウィリアム・バローズの『裸のランチ』を“発見”している。
そんなちょっと早熟な彼に強い印象を残したのが、バラードの諸短篇であった。そして彼をバラードに触れさせたのは、日本のSF評論/翻訳シーンにも少なからぬ影響のあった、メリルの『年刊SF傑作選』であり、この本はギブスンのSF観に大きな影響を与えている。まさにニューウェーヴSFにどっぷりつかっていたわけだが、ムーヴメントとしてのニューウェーヴをどう受けとめていたかはわからない。七〇年代もSFを読むのをやめることはできなかったが、いま思いうかぶのはティプトリーだけ。好きな作家は、バラード、ディレイニー、ピンチョン、バローズ、ナボコフ、フォークナー、テリイ・サザーン、ハンター・トンプスン、ロバート・ストーン、などなど。
作家デビューは七七年、いまはなきセミプロジン、アンアース誌の三号である(ちなみに同じ号でスチャリトクルもデビューしている)。沈黙ののち、八一年に発表した四つの中短篇がいずれも話題を呼び、ここに本格的な活躍がはじまった。とくに注目されたのが、ポピュラー・サイエンス雑誌のオムニ誌に載った二作で、それらはいずれもSFらしい未来世界に、脚光を浴びはじめたハイテクの感触をとりいれて、新しいSFを予感させるものだった。
ギブスンがその名をとどろかすのは、八二年のやはりオムニ掲載の「クローム襲撃」"Burning Chrome"(邦訳、オムニ誌八四年十二月号〜八五年一月号)によってである。ネビュラ賞ノヴェレット部門にノミネートされたこの作品は、コンピュータやバイオなどのハイテクノロジーが魔法のように進化した二十一世紀後半を舞台にしている。メイン・アイデアとなるのは、特殊な電極を使って脳とコンピュータ端末を接続し、世界を覆いつくしたコンピュータ網の全データを頭の中で視覚的に再構成した、電脳空間《サイバースペース》と呼ばれる幻想世界。主人公は、KBデッキを自在に操り、防御プログラム(|侵《I》入対|抗電《C》子機|器《E》=氷《アイス》)をかわしながらデータを盗んだり改竄したりする犯罪者のハッカーたち、通称カウボーイ。すでにお気づきのように、このノヴェレットは本書と同一設定の未来(の数年前)を描いている。じっさいこの作品には、ハードボイルド・タッチのピカレスク・ロマンやこの解説の最初に書いたようなことなど、のちに本書で結実するさまざまな魅力がかいまみられ、その衝撃が高く評価されたのだろう。
そして八四年初夏、本書が出版された。二十一世紀にむけていまSF界に新風を、という意図で期待の若手作家の処女長篇を集めた叢書、〈ニュー・エース・サイエンス・フィクション・スペシャル〉第三弾として刊行された本書は、近年のSF界の一大イベントともいえる同叢書でも最大の目玉であり、予想に違わず凄まじい反響を呼びおこした。書評をあれこれ引用するのは控えるが、翌年のネビュラ賞、ヒューゴー賞、フィリップ・K・ディック記念賞、SFクロニクル誌読者賞、オーストラリアのディトマー賞、と五冠を遂げた事実から、これがどんなに評価された作品かわかるだろう。
今年八六年には、第二長篇 Count Zero が発表された。前作で八〇年代作家のリーダーだの、二十一世紀の巨匠だののタイトルをほしいままにしただけに、文字どおり待望の新作である。これがまた期待を超えるおもしろさで、ギブスンの株は上がるいっぽうなのだ。なお、この作品は本書の七年後を舞台にした続篇にあたる。ちなみにギブスンには、ほかにも同じ設定の作品がいくつかある。シリーズというほどではないが、例えば第二長篇にはケイスやモリイの冒険がちらりと言及されているし、"Johnny Mnemonic"(八一年。ネビュラ賞ノヴェレット部門候補)では本書のある人物のかつての姿が描かれる、という具合にスター・システムがとられていて、なかなか楽しい。
長篇に続いて「クローム襲撃」を表題作とする短篇集を上梓し、現在、第三長篇 The Log of the Mustang Sally を執筆中。これは、「さしずめポール・スコット監督、マックス・エルンスト美術による『へびつかい座ホットライン』」だそうである。
また、現在、「クローム襲撃」と『ニューロマンサー』の映画化(実写!)が進行している。ただ、とくに後者はプロデューサーのSFセンスに不安があるようで、ギブスンいわく、「とってもスリリングだ[#「スリリングだ」に傍点]」。
映画といえば、本書の第一章を読んだ方は、まずほとんど『ブレードランナー』を連想されたことと思う。奇怪に変質した東洋文化が退廃の影を濃くおとす、酸性雨の降りしきるロサンジェルスのダウンタウンを。けれど、本書の描く未来の千葉は、べつに『ブレードランナー』を真似たものではない。このシーンを書きおえてから映画をみたギブスンは、あまりのこと[#「あまりのこと」に傍点]に三十分で映画館をとびだしたという。ほかにも『トロン』や『ターミネーター』などの映画を思わせる部分があるが、いずれもギブスンのほうが先に発表したものだ。
閑話休題。ギブスンとSFの話に戻ろう。
「SFの潜在的可能性にもっとも魅かれる」と言い、「SF(北アメリカの)はほんとにおもしろいものになろうとしている」とみる。その変化の中心に位置するのが、ほかならぬギブスン本人であり、『ニューロマンサー』なのである。作歴や評価についてこういうふうに書いてきたことでもあるし、このへんについて、蛇足と知りつつ、私見なりとも述べておいたほうがよさそうだ。
十年に一度の傑作という言葉がある。
例えば、このハヤカワ文庫でも、ベスターの『虎よ、虎よ!』などの解説で使われている言葉であって、要は、スゴくておもしろくて云々。本書もこの名を冠されるだけのパワーを備えていると言ってよかろう。アチラでの評価を少しひろってみると――「これまでのSFで、匹敵するものが数えるほどもない、強烈な体験」(テリイ・カー)、「おなじみの、古くさい未来とはおさらばだ」(ブルース・スターリング)、「六〇年代後半のディレイニーを思わせる、三次元の未来」(ローカス誌)――。
じっさい、作品の冒頭から、さまざまなアイデアや設定の氾濫に驚かされ、引きずりこまれずにはいられない。ダウンタウンのバーテンダーにはじまって、次々と出てくる人工器官、人工ホルモンを埋め込んだ人間たち。それが現在のコンタクト・レンズよりもあたりまえの光景となっている社会。つづいて超ハイテク・コンピュータ世界と化した時代の変貌した日常生活と、電脳空間をキイワードとするその実像、そしてカウボーイの生態。ケイスとモリイがスイッチひとつで同じ精神/感覚世界に転じるくだり、本書の核心となる自我をもったAI(人工知能)との対話、etc、etc。舞台となる都市に目をむければ、まず例の千葉のシーンが秀逸で、われわれ日本人にとっても、違和感がないと同時に充分異質な感じを与えてくれる。それにスラングや、カプセル・ホテル顔負けの“棺桶《コフィン》”などにみられるハードボイルド風の場末の描写。対して、ホログラム・ディスプレイのTVゲームのつくりだす|ゲーム場《ア ー ケ イ ド》の、確実に未来的で、しかも生きている光景。これらは、アメリカ東部やイスタンブール、それにスペースコロニーのパートでもそれぞれにみることができて……などとやっていては本書をまるごと書きうつしてしまう。
ただ、ここまででアイデアと言い、設定と言ってきたものは、いわゆるSF独自のガジェット類とはちょっと違う。本書の光景は、ある意味で現在すでに実在するものばかりといえる。
じつは本書にあふれるパワーは、一つにはSF的に処理された現代の諸相からきているのだ。ことに、もはや日常化したハイテクに関する部分にそれは顕著にみられる。
カウボーイを考えてみよう。暗証番号をプログラム的に探りだし、金や機密事項を手にいれるコンピュータ犯罪者は現在もすでにいて、それがハッカーの遊び半分の仕業だったりするのがしばしば問題になっている。けれど、そこに電脳空間というSF的な処理を施すことで、単に視覚的感覚的なインパクトのことだけでなく、設定すべてが奥深いものに変わっていく。電脳空間とは“情報”そのものからなる感覚上の幻想だが、第二章冒頭にもあるように、コンピュータ網にのった情報の描く軌跡は、物理的な営みをべつの角度からなぞり直す。いわば電脳空間は、幻想といいながらも電子的に実在するパラレルワールドであり、それを構成する情報というものもまた、実体はないが物理世界を動かす力をもつのだ……。お好みならディック的とも言えそうな、知的な設定ではなかろうか。
カウボーイと電脳空間といえば、それはどこか歪んだ精神を連想させる。電脳空間体験は、しばしば麻薬中毒を意識したらしい描写がされているが、カウボーイたちはその万能感に酔い、肉体を嫌悪するとうそぶく。だが、ケイスをみればわかるように、本人はアンチ・ヒーローと呼べるほどにも(はじめの故買屋気取りすらも)カッコよくはない。終盤で、ケイスがモリイの視覚をとおして自分の姿をみるシーンは、ちょっと衝撃だ(転じる=flip が俗語でどんな意味か、ご存じだろうか)。
また、ここに取りこまれた“現代”の要素には、ポップ・カルチャーが大きな比重を占めている。この点についてはみなさんなりに、音楽・映画・演劇・パフォーマンス・マンガ・アニメ等と通ずるノリをみつけられるだろう。一つだけ言うとすれば、こうした読者との感覚の共有が、七〇年代の若手SF作家のような感傷的なものではなく、クールになっていることだろうか(もっともギブスンはマーティンと同い年だが。またギブスンは科学雑誌ではなく奥さんのファッション雑誌を読み、MTVは見ないそうだ)。ほかにも、ケイスとモリイのクールな(?)恋や、カウボーイがアウトローではありえないという皮肉(Count Zero にそのセリフがある)……。二十世紀の生んだ文学といわれるハードボイルドの文体が採られているのは、だから必然といえるかもしれない。
取りこまれているものの中には、当然、科学もあるわけだが、これはちょっとあとまわし。それも含めて、現代の姿を記号的にとらえるのが、ギブスンの手法のようだ。そこに映しだされるのは、ごらんのとおりの猥雑な世界と文化。体裁良く、ハイブリッドといってみてもいい。だから、ハイテク社会の最先端と闇市場の中心が混在する未来の千葉は、きわめて象徴的といえよう。
このような現代観をSF的に処理することによって、本書は、科学や技術が社会やライフスタイルの表層のみならず、人間を(心も体も)、倫理や人間性を、そして人間の定義そのものをも(そのキイは記憶と実存であり、Count Zero でより深く追求される)根底から変えてゆくさまを描いている。この世のすべては変化するものだという、SFの本質ともいえる認識が、ここには強く現われているのだ。それはまた、本書に映しとられた“現代”というものが、いかにSF的かということにほかならない。
『ニューロマンサー』のスゴさは、魅力は、こうした説明しつくせない辺りにある。そしてそれが作品世界を、また本書を読むこと自体を比類ないものにしているのだと思う。
作品のもつ衝撃が、のちの作家たちに大きな影響を与えたり、同時代の作家によるなんらかの動きを呼びおこした場合、それはモニュメントと称されることになる。
ご存じの方もあるだろうが、八〇年代なかばの英米SF界には、サイバーパンクと呼ばれる潮流がおこっている。サイバーパンクというのは、もともとギブスンの作風を表現した言葉だ。それが、ここまでみてきたようなギブスンの姿勢に共鳴した多くの若手作家が、ギブスンのスタイルを自分の作風に取りこんで、これこそがこれからのSFだ、と主張し、読者もこれを歓迎しているのである(『ニューロマンサー』の五冠獲得のように)。この背景には、近年のSFの逃避的な傾向への反発などがあるのだが、そんなことはまあいい。
それらの作品は、本書からおわかりのように、きわめて、ストレートな本格SFの骨格をもっている(再三言ったSF的処理とは、むろん|外 挿 法《エクストラポレーション》のことだ)。黄金時代のSF精神を、八〇、九〇年代のパースペクティブによみがえらせた、という人もある。ただし、けっして後ろむきのものではありえない。サイバーパンクは現在を相手にしているからだ。とりわけ、SFのS、科学の意味的な変化の影響が大きい。
それは、知識や理論の進展が開いた新たな認識の地平が、あるいは霊的な、また非合理な世界と近しくなってきたということだ。それ自体が(ウォークマンやSFXブームのレベルで)文化そのものと化してきたということでもある。これも猥雑《ミスマッチ》さ、ハイブリッドの一側面だろう。技術的思考や合理性ですべてを割りきったかつてのSFは、ここにはない。本書では、脳の両半球にみたてられたコンピュータが抱くある疑問という核心部に、それをみることができよう。こうしたことから、この新しいSFを、ラディカルなハードSFと呼ぶ人もいる。
サイバーパンクそのものについては、現在進行形でもあることだし、あまり立ち入らないでおく。SF界での二十年ぶりのまとまった動きということで、|前回の動き《ニューウェーヴ》と比較する向きが多い(たしかにSF史的にはエリスンらのヴァイオレンス、バラードらの文体実験と関係する)。が、各人が思いいれで勝手なことを言うものだから(この文章もそうだけど)とても整理がつかない状況なのだ。
ともあれ、ギブスンに代表されるこの潮流が、それをムーヴメントととるかどうかはともかく、今後のSFの核となっていくのは間違いない。本文庫でも、グレッグ・ベアの Blood Music、ブルース・スターリングの Schismatrix(このタイトルは、後述する本書のそれと並ぶ象徴的なものだ)、そしてギブスンの第二長篇などが順次紹介されていく予定とのことなので、お読み逃しのないように。
黄金時代の作品に、『幼年期の終り』、あるいは「人間の手がまだ触れない」といった象徴的なタイトルをもつものがあるように、『ニューロマンサー』にもさまざまな意味がこめられている。
まずそれは、ある登場人物(?)の名前である。また、ニューロ=神経ということから、カウボーイのケイスのことでもある。それはまたニューロティックを連想させ、ネクロノミコン(死者の書)のもじりとしてミスマッチ感覚を増幅させる。
が、なによりそれは、“ニュー・ロマンス”であるべきだ。社会も科学も文化も、確実にこれまでと違ったものになりつつあり、それによって人間そのものも変わっていく、そんな新しい時代の小説、あるいはSF。
本書はその胎動を告げているのである。
[#改ページ]
底本:「ニューロマンサー」 ハヤカワ文庫〈SF672〉 早川書房
著者 ウィリアム・ギブスン
訳者 黒丸尚
一九八六年七月十五日 発行
一九八九年七月三十一日 十刷
このテキストは、
(小説) [ウィリアム・ギブスン][1984] ニューロマンサー.rar やっつけNZKP00P3mi 119,263,002 360a68c3c249b4ea476a91bc07b9514ad8712c8c
をe.Typist v11と読んde!!ココ v13でOCRし、両テキストを比較修正したのち、
簡単に目視校正したものです。
高解像度画像版を放流されたやっつけNZKP00P3mi氏に感謝。
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テキスト化時の注記
《 》はルビ記号との兼ね合いで〈 〉になってます(解説中のは最初から〈 〉です)。
本文中の "psi" と、解説に出てきた作品名中の、"Neuromacer", "Count Zero", "The Log of the Mustang Sally", "Blood Music", "Schismatrix" はイタリック体になってました。
"Burning Chrome", "Johnny Mnemonic" はイタリックじゃなかったです。
あと、ところどころゴシック体部分がありますが、T-Time用のhtml版だとこの辺は
きっちりフォント分けてます。
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